魔法先生ツインズ+1 (スターゲイザー)
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第一章 運命編
第1話 ツインズ+1、来たる


意見や質問などありましたら宜しくお願いします。


 

 イギリスはウェールズのペンブルック州にある、のどかな田舎町にその建物はあった。緑に囲まれた静かで穏やかな街の一画に、一般人には知られずにある教育機関がある。歴史を感じさせる格調高き伝統的な建築物。その中心に聳える講堂の中でローブを着た人達が集まって慌ただしく動いていた。

 

「遂に彼らが卒業ですか」

「感慨深いものがありますね」

 

 作業する人達の中で壇上から遠い場所にいる大人二人が感慨深げに準備が勧められる会場を眺める。慌ただしく彼らと同じローブを纏った人達が急ピッチで設営を行なっているのは、これから行われる卒業式の準備の為であった。

 彼らは自分の担当分の準備が終わったので開始まで少し時間があり、卒業式を間近に控えていることもあって感傷に突き動かされて駄弁っていた。

 

「どうですかそこら辺、一昨年の担任としてなにか一言」

「ようやくという気持ちもありますし、もうという気持ちもあります。苦労させられましたがそれだけの甲斐はありました。特に二年前の各魔法学校対抗戦は盛り上がりましたよね。あの三人が中心になってここ十年は遠ざかっていた優勝トロフィーを手にした時はもう」

 

 ぐっと当時のことを思い出して今年卒業する生徒たちの一昨年の担任は拳をギュッと握った。

 

「特にアメリカのジョンソン魔法学校との激戦は歴史に残るやつでした。あの時からでしたっけ? あの三人に渾名がついたのって」

「間違いなくあの時からです。言い得て妙な渾名って思いましたよ」

 

 駄弁る彼らと同じように自分が担当する作業を終わらせた一人が近づいてきた。

 

「魔法学校対抗戦で優勝したのって、教職員揃って万歳三唱したやつでしょ。ほら、あそこに飾ってある」

 

 と、作業をしながら話を聞いていたのか言いながら指差した先には一つのトロフィーがあった。

 指差した先に飾られたトロフィーは飾ることを決めた人間の気持ちを反映するように目立つ場所に置かれていて、輝かしい功績を称えるようにステンドグラスから入った太陽の光に反射して燦然と輝いている。

 黄金に輝いているトロフィーを見る三人の顔は揃ってにやけていた。

 

「こう見ると誇らしいですけど、私はその後の校長先生が喜びすぎて逝きかけた印象が強すぎて」

「自分もです。みんな優勝を喜びすぎて気づかなくて、ドネットさんが蘇生処置しなかったら危なかったって」

 

 あはははは、と乾いた笑みを漏らした三人は噂をしていた当人が近づいてくるのを見て口を噤んだ。

 

「ちょっとそこの三人。サボらないで下さい」

 

 校長の秘書兼パートナーであるドネット・マクギネスは腰に手を当てて、サボって雑談している三人を視線だけで咎めた。美人なのだが実はアラフォー独身のドネットは高嶺の華扱いされている才女である。普段は優しいのだが怒ると怖いのが偶に傷という女性であった。

 

「ドネットさん、ちゃんと自分の作業は終わらせてます」

「空いた時間に感傷に浸るぐらいは許して下さいよ」

「トラブルメーカーたちの被害を遭わされた被害者の会の最後の会合なんです。見逃して下さい」

「気持ちは分かりますが、他の人の作業はまだ終わっていないんですから端の方でやって下さい。ハッキリ言いますが邪魔です」

 

 ご尤もとドネットの言に頷いた三人は、周りから手伝えコールを送られるのを敢えて無視して会場の端へと行くことにした。

 すると、そこには先客がいた。

 

「おや、先生と司書もサボりですか?」

 

 う~んう~ん、と眉間に皺を寄せて紙とペンを手にした教師と腕を組んでいた司書は乱入者に顔を上げた。

 

「違います。卒業生に贈る言葉を考えてるんですよ」

「儂は付き合いじゃ。向こうの準備を手伝うには老骨に肉体労働はキツイからの」

 

 送辞を考えている教師はともかく、矍鑠としている司書はサボりだなと教師たちは思った。

 

「送辞を今考えてって遅くないですか? そういうのって事前に決めておくものじゃ」

「そうなんですけど、この前起こった山火事の後始末とこの卒業式に向けた準備で時間なんて取れませんでした」

「ああ、卒業試験でやったアレですか」

「あれは凄かったのう。学校の裏庭の森を焼いた火は図書室からもよう見えたわい」

「最後までやってくれましたよ。お蔭で送辞を考える時間も本当に無くて」

「ご苦労様」

 

 最後の犠牲者に全員が慰めの言葉をかけつつ、自分にお鉢が回って来ないことにホッとしていた。

 

「そういえば司書もなにかありますか? 今期の卒業生に対して」

「儂か?」

 

 ズーンと肩を落として沈み込んでいる今年の担任から視線を外した一昨年の担任は司書に話題を向けた。

 

「ほら、ここにいるのって今期の卒業生に振り回された被害者の会じゃないですか。司書にも何かエピソードはないかなって」

 

 司書は思い出すように視線を中空に向けて、次の瞬間には長い長い溜息を漏らした。

 

「あるわい、山ほどにな。あの三人は生徒の入室が禁じられている禁呪書庫侵入の常習者じゃぞ。儂がどれだけ侵入されないように策を弄したことか」

 

 年に似合わない哀愁を漂わせて司書は眉を下げた。

 

「大変でしたね」

「昼夜関係なく侵入してくるから大変なんてものじゃないわい。まあ、最近はあれだけ骨のある子も珍しかったがの。楽しかったのは否定せんわい」

 

 前年度の担任に言いながら満足そうに、そしてどこか寂しげに司書は微笑んだ。

 

「と、司書は言ってますが今年の担任としては彼らのことはどう思っています?」

 

 どれだけ苦労したかを老人らしく延々と前年度の担任に語る司書らを無視して、一昨年の担任と最初から一緒にいた教師が今年度の担任に嘴を向けた。

 

「僕も苦労させられたなんてものじゃありませんよ。彼らが仕出かした悪戯の為にどれだけ校長や他の教師に頭を下げたことか」

「の割には嬉しそうじゃないか、君」

 

 今年度の担任が身振り手振りを交えて強い口調で語りながらも口元が綻んでいるのを一昨年の担任は見逃さなかった。

 

「仕方ないじゃないですか。あの二人が入学してから毎日がお祭りのようでした。色んな騒ぎがありましたけど思い返してみると楽しかったと思えるんです。よく手間のかかる子ほど可愛いって言いますけど、良くも悪くも彼らのお蔭で楽しかったのは事実ですから」

 

 視線を準備が終わりつつある会場に向けた今年度の担任は、卒業生よりも先に会場入りして用意された席についていく在学生を捉えていた。

 

「連日の型破り。規則の違反。挙げれば枚挙に暇がありません。でも、彼らは迷惑をかけることがあっても人を傷つけたり悲しませたりすることは決してやりませんでした。何時だって巻き起こす騒動は皆を笑わせてくれましたし、泣いている人がいたら手を差し伸べ、落ち込んでいる子がいたら励ましています。彼らは僕の誇りです」

「いなくなると思うと寂しくなるな」

「本当に」

 

 たった数年だったが楽しかった時間を思い起こして、その時間が二度と戻って来ないことに郷愁を抱きつつも、教師達と司書の目には喜びがあった。学生達はここで育ち、巣立っていく雛鳥である。雛鳥たちが幼い翼で大きな世界に旅立っていくことを喜びこそすれ、悲しむことなどありえない。今が羽ばたきの時であることは何年も教師をやっていれば分かる。

 

「先生たちもそろそろ準備して下さい。もう直ぐ卒業式が始まりますよ」

 

 大の大人の男達が揃って今日巣立っていく若鳥達を見送る親鳥の気分にいたところへ、現場指揮を執っていたドネットがやってきて告げる。

 

「あ、送辞出来てない」

「ドンマイ」

「アドリブでどうにかなるさ」

「そんなぁ」

 

 ゾロゾロと移動しながら泣き言を漏らす今年度の担任を皆で笑いつつ、司書も含めて全員が所定の位置につく。

 この日の為に来ていた来賓が会場入りし、卒業生の家族達も次々と入って来る。数分かけて全員が所定の位置につき、最初はざわついていた在校生たちも周りの大人達の厳かな空気に触発されたように静かになっていく。

 そして遂に卒業式が始まる。

 腹に響く様な鐘の音の直後、大聖堂を思わせる大広間の入り口がゆっくりと開けられていく。

 外から入る光で扉の向こうにいる人物の姿は影になって見えない。

 先頭にいるのは影になって見間違えない特徴的なシルエットをした、このメルディアナ魔法学校校長。が、今回の主役は彼ではない。その後ろにいる小さな影たちだ。

 

「来たぞ。我らがメルディアナ魔法学校が誇る黄金三人組(ゴールデン・トリオ)人間台風(ヒューマノイドサイクロン)雷小僧(サンダーボーイ)火の玉少女(ファイヤーガール)のご登場だ」

 

 誰かが小さな声で言った。校長の後ろを歩くのは、人間台風(ヒューマノイドサイクロン)と言われた今年度の主席である赤髪に小さな丸眼鏡をした線の細い少年。次いで歩くのは太陽に輝く短い金髪を天に逆立てた、見るからに運動が得意と分かる体格をした雷小僧(サンダーボーイ)。三人目は頭の左右で髪を纏めた生気に溢れた勝ち気な目をした火の玉少女(ファイヤーガール)

 メルディアナ魔法学校のトラブルメーカーこと、黄金三人組(ゴールデン・トリオ)は足音も高く会場へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 一つの儀式が執り行われていた。今日はメルディアナ魔法学校にある大聖堂を思わせる広間で卒業式を行っており、そこには厳粛な空気が張り詰めている。

 頭までローブにスッポリと覆われ、杖を持った大勢の者達が見守る中で、ローブにトンガリ帽子と言う如何にも魔法使いな格好をした少年少女達が数人いる。そんな少年少女の彼らから見て、正面の少し高くなった演台の向こうにいるのは、この場所の責任者である校長。この場で最も多くの視線を集めているその人物は、背後のガラス越しに差し込む光によって、その威厳をより高めているかのようであった。

 魔法を以って人知れず社会に貢献する人物を目指す子供たちが、この地を出立しようとしていた。今年度の卒業生の数は六人、男の子は深い緑色のローブ、女の子は紺色のローブに三角帽と、それぞれ新米魔法使いらしさを匂わす服装で顔に緊張を滲ませて立っている。

 

「卒業証書授与、この七年間よくがんばってきた。だが、これからの修行が本番だ。気を抜くでないぞ」

 

 低く、それでいて良く通る声が反響しながら講堂中に響き渡り、少年少女達に僅かな緊張が走る。胸の下まで伸びた立派な白髭に、年季の入った豪奢なローブという高位の魔法使い然としたメルディアナ魔法学校校長が、壇上の下に並ぶ今年度の卒業生達に祝福の言葉を贈っていた。

 いよいよ明かされる彼らの未来への第一歩。立派な魔法使い(マギステル・マギ)になるべくこれから修行を始める彼らに取って、この時は緊張の一瞬なのだろう。

 これから巣立っていく教え子達へ、人生の先輩としての訓示が述べられる。卒業式開始と同時に続いていた訓辞がようやく終わり、ついに卒業証書の授与に移る。いよいよ始まる卒業証書の授与。講堂に静かな緊張が走る。

 

「これより卒業証書の授与を行う。メルディアナ魔法学校卒業生代表! ネギ・スプリングフィールド! 前へ」

「ハイ!」

 

 電球は使われず、明かりは蝋燭のみで照らされている薄暗いホールの中に、少年少女達の中で真ん中にいた幼い顔つきの如何にも魔法使いチックな白いローブを頭まで被った赤毛の少年ネギ・スプリングフィールドの声が響き渡る。

 ネギ・スプリングフィールドと呼ばれた少年は芯の通る声で返事をしてから、ゆっくりと前に踏み出す。壇上へと進み出て校長から手渡される卒業証書、それを両手でしっかりと受け取り、返礼をして壇上から元の位置に戻る。

 

「次に、アンナ・ユーリエウナ・ココロウァ君」

「はい!」

 

 先ほどの少年と同じ様な赤毛の元気のいい少女が次に呼ばれて前に出る。同様に卒業証書を受け取り一礼してから元の場所へと戻る。

 同様に次々と卒業生の名前が呼ばれ、壇上に上って卒業証書を受け取って戻っていく。

 

「うぅっ…………ネギ、アーニャ、アスカも立派になって」

 

 堂々とした足取りで校長の前まで歩み、「おめでとう」という祝福の言葉とともに卒業証書を渡されるネギとアーニャの姿に、二人の姉貴分であるネカネ・スプリングフィールドが二人の成長を感じ取ったのか感極まって、口元を押さえて泣いていた。

 

「これこれネカネ。あの子達の折角の晴れ舞台に泣くもんじゃないわい」

「ですけど、スタンさん。あの子達が無事に卒業出来るなんて、うぅ」

 

 隣にいた老人スタンは泣き止みそうにないネカネにハンカチを渡しながらも彼もまた晴れやかに孫分達の晴れ姿に目を細めた。

 四人目が終わって残り二人となったところで、ネギはふと隣にいる双子の弟を見た。特に意図した行動があったわけではない。どんな事にも怖気づくということを知らない双子の弟だがこういう厳かな式が心底苦手なのにも関わらず、静かにしていることが気になったのだった。

 視線を向けると当の本人が目を開けて立ったまま器用に寝ていた。分かりにくいが双子の兄であるネギには寝ているのがはっきりと分かった。

 

「……っ!?」

 

 心配は案の定だった。思わず双子の弟に視線を向けたネギは驚きながらもなんとか驚愕の叫びだけは上げるのを抑えることに成功した。

 アスカを挟んで反対側にいる幼馴染のアーニャに背中から手を回して知らせる。すると、迷惑そうにネギを見たアーニャも隣にいるアスカの状態に気づいて驚愕の相を作った。

 

《なんで寝てんのよ、このボケアスカは!》

《知らないよ。どうしよう、アーニャ》

 

 厳かな式が続いているので下手に口に出して喋ることは出来ない。出来るのは念話を使っての会話だけだった。

 

《どうするったって起こすしかないでしょ》

《下手に起こしたら暴れない?》

《卒業証書を受け取らなきゃなんないでしょうが。てか、あんたは自分の双子の弟のことどう思ってのよ》

《えと、その場のノリと勢いで生きるバカ》

《なにげに酷いわね、アンタ。て、もう時間無いじゃない》

 

 アーニャは双子の兄であるネギのアスカへの評価にげんなりとするが、5人目が卒業証書を受け取って戻って来ていたので雑談を止めて策を考えなければならなかった。

 

《どうする?》

《起こすしかないでしょ》

《方法よ方法。この状況で起こす方法なんて限られるじゃない》

《うーん》

 

 結構焦っているので良い手段が思いつかない。考え込む二人を校長や教師たちが凄い目で見ているのだが気づいていなかった。なんの防御策も施されずに焦って繋いだ念話が周りに筒抜けになっていたのだ。

 卒業生や在校生は下を向いてクスクスと笑い、来賓は微笑ましい物を見るように三人を眺めていたりした。

 

「最後に、アスカ・スプリングフィールド君」

 

 長い髭で隠れている唇の端をヒクヒクと震わせた校長は、怒りと情けなさやらがない交ぜになった強い口調で呼んだ。

 遂に呼ばれてしまった双子の弟にネギとアーニャが取れる手段は少なかった。二人は自分が起こさなければと使命感に駆られて、全く同時に肘をアスカの両脇に叩き込む。くはっ、と息を漏らしたアスカは一瞬で目覚め、口を大きく開けた。

 

「はい! 寝てません! ちゃんと授業を聞いてます!」

 

 普段の様子が垣間見える叫びに、会場にいる全員がこけた。

 

「あれ?」

 

 あちゃー、と天を仰いだネギと手で顔を覆ったアーニャの間で一人首を傾げたアスカは壇上にいる校長を見た。笑いを堪えている大半と違って、壇上で一人はっきりと怒りを湛えている校長を見たアスカは決心を固めた目をした。

 

「廊下で立ってた方がいいですか?」

「馬鹿なことを言っとらんとさっさと卒業証書を取りに来んか!」

 

 一人勝手に頷いて動こうとした孫に校長が真っ先にしたことは、持っている杖を大馬鹿者に投げつけることであった。

 杖がアスカの額に命中してカコーンと良い音が講堂に鳴り響いた。直後、講堂を爆笑が覆った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 卒業式が終わった直後、場所は変わって講堂につながる外廊下に少年少女達がワイワイと騒ぎながら歩いていた。湿っぽく終わらず、笑いのままに終わった卒業式。だが、一人の少年にとっては苦難の始まりであった。

 

「酷いなスタンのじっちゃんも。なにも殴らなくたって」 

「馬鹿もん、一発ですんで有難いと思わんか。もう恥ずかしくて仕方なかったわい。顔から火が出ると思ったぞ。もう一発いっておこうか」

 

 今まさに拳骨を振り下ろされた頭を痛そうに擦るアスカに、スタンは怒りが収まらんとばかりにもう一発いかんとばかりに意気込む。

 

「まあまあ、スタンさんも落ち着いて」

 

 校長に投げつけられた杖が命中した額を赤く腫らし、更にスタンからも愛を注入されて涙目になっている双子の弟を守ろうとするようにネギが間に入って取り成そうとした。だが、矛先はアスカだけにあらず。咎める視線はネギにも向けられた。

 

「お前もじゃ、ネギ。普段から甘いからアスカがつけあがるんじゃ。お前も愛の一発いっておくか?」

「もう、アスカも卒業式に寝たら駄目だよ」

「裏切ったな、ネギめ」

 

 あっさりと手の平を返してスタン側に回ったネギを恨めしげに睨むアスカ。だが、悪いのはアスカなのと直情傾向で口が回らないので言い返す言葉が出て来ない。ふふん、と勝ち誇るネギと言い返せず悔しそうなアスカ。兄弟仲は良好のようであった。

 

「二人ともつまんないことやってないで卒業証書は開けた?」

 

 双子より一歳年上のアーニャは時々二人を自然と見下す。それを二人の前では年上振りたいだけだと知っているネカネは子供達のやり取りを微笑ましげに眺めている。知らぬは本人だけであった。

 

「開けるってなんで? 卒業証書って卒業しましたって書いてあるだけじゃないの?」

 

 敗色濃厚な兄弟喧嘩を避けたアスカが首を捻る。本当に理解できてないアスカにアーニャは聞き間違いかと耳をかっぽじりたくなった。

 

「あんた馬鹿? 卒業した後の修行の場所と内容が書いてあるって授業で言ってたじゃないの」

「寝てて知らなかった。へぇ、そんな書いてあるんだ」

「ん? じゃあアスカは卒業した後はどうするつもりだったのさ」

「武者修行でもしようかなって。親父もしてたらしいしさ。強い相手と戦ってみたかったのに」

 

 ネギの問いに不平不満そうに唇を尖らせたアスカにネカネとスタンは震撼した。

 この子はやると、偶に訪れるタカミチ・T・高畑相手に幾度も戦いを挑むバトルマニアなところがあるアスカなら本気で卒業後は武者修行をするつもりだったのと悟る。

 

「三人で一斉に開けましょう」

「いいよ」

「強い相手と戦える修行でありますように」

「「「せーの」」」

 

 どうかまともな修行内容でありますようにと祈る二人が上から見下ろす中で、三人は向かい合って一斉に卒業証書を縛っている紐を解いて開いた。

 

「……お」

 

 開いた最初は右端に卒業年月日と名前だけが書かれている真っ白な卒業証書だったが、徐々にインクが滲み出るように光る文字が浮かび上がっていく。

 

< 日本で教師をする >

< 日本で教師をする >

< 日本で生徒をする >

 

 上からネギ・アーニャ・アスカの順である。三人と一人は浮かび上がってきた文章が信じられず、疲れているのかなと目元を解してから念のためもう一度読み返すが、やはり文字に変化はない。裏返して、角度を変えて、折り曲げてみたりしたが浮かび上がってきた文字は変わらなかった。

 スタンだけは面白そうに笑っていることに少年少女は気付かなかった。

 

「「「「ええ――――っ!!??」」」」

 

 四人の驚きの声が唱和して放たれて廊下にいた他の卒業生やその家族、在校生たちが思わず肩を驚かせる程度には大きかった。

 

「何事じゃ、騒々しい」

 

 丁度、タイミング良く。まるで計ったかのように校長が現れた。

 

「校長先生! アスカが生徒っていうのはともかく、ネギとアーニャが先生ってどういう事ですか!?」

 

 何時ものお淑やかな姿を脱ぎ捨てて、ネカネは二人から借りた卒業証書を校長に向かって突きつけた。

 

「ほう……「先生」か……」

 

 詰め寄られている校長は怖い形相になっているネカネから努めて顔を逸らしながら、豊かに伸ばした髭を触りつつ手渡されたネギとアーニャの卒業証書を見つめる。

 

「何かの間違いなのではないですか? 十歳で先生など無理です!」

「俺もまた生徒なんてメンドイ。魔法世界で拳闘士とかにしてよ」

「アスカは黙ってなさい! 今は私が話してるのよ!」

「は~い」

 

 詰め寄るネカネの後ろで頭の後ろで腕を組んだアスカが不満を漏らしたがネカネの形相に渋々と引き下がった。

 

「しかし課題に関しては、卒業証書に書いてあるのなら決まった事じゃ。❘立派な魔法使い《マギステル・マギ》になるためにはがんばって修行してくるしかないのう」

「あ、ああ……」

 

 既に決定事項と断言されてネカネは今にも倒れそうな様子で頭を抱えている。彼女にとって、二人は大切な妹弟でまだ十歳だから異国の地で教師など心配で堪らない。

 ましてや一番のトラブルメーカーであるアスカも異国に渡るのだ。魔法学校で一番苦労していた彼女がこの事態に抱える心労は察して然るべき。

 

「ふむ、安心せい。修行先の学園長はワシの友人じゃからの。ま、頑張りなさい。それにネカネ。お前さんにも日本に渡ってもらうぞ」

「え? 私も?」

 

 今にも倒れそうだったネカネは意外な提案に目を瞬かせた。

 教師や生徒なんて面倒だと思ったが、お目付け役がいなくて好き勝手に出来ると思ってハイタッチをしていた三人は思わぬ風向きに動きを止めた。

 

「この三人を修行の為とはいえ、野放しに出来るわけが無かろう。お目付け役は必要じゃよ」

「スタンの言う通りじゃ。というか、手綱を失くした猛獣共ほど手に負えんものはない。任せたぞ、ネカネ」

「ハイ! 三人の子とは私に任せて下さい!」

「「「ぶーぶー」」」

 

 ネカネがぐっと校長の言葉に頷いて元気な声で返事を上げる後ろで、結局は修行といっても環境が変わるだけだと気づいてしまった三人は非難轟々の嵐だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこは雑踏と喧騒に支配された建物の内部。多くの人々は重量のありそうなスーツケースや旅行鞄を持ち、軽い外出感覚で居るわけではないと判断できるが独特の騒々しさがある。行き交う人々の会話もあるが、独特のタービン音も聴こえる。まるで広範囲に撒き散らすかのような、独特の騒音。自動四輪や自動二輪のエンジン音では無い。これはもっと大きな機械――――――乗り物の作動音。

 行き交う人々は、そんな騒音を気にも留めていない。まるで聴こえて当然と思っているかのような、そんな態度。

 建物内部に所狭しと人が居るが、皆それぞれ目的を持って歩いている。一つはこの建物内部に入り込んで行く者。もう一つはこの建物内部から出て行こうとする者達の二種類。其々が、全く別のベクトルを持って動いている。

 この建物は接続している。出て行こうとする者と、入って行こうとする者。この二つを接続するためだけの存在。此処は謂わば端末。ターミナルであった。

 大きな旅行鞄を押している観光客やスーツケースを抱えたビジネスマンに混じって、子供に見える、というか子供が三人歩いていた。

 その顔は揃ったように奇妙なほど晴れ晴れしている。

 それには理由があった。

 

「残念だったよね、ネカネ姉さんも」

「変わりの人の都合が悪くて一緒にいけないなんて、タイミングが悪いわよね」

「これで羽目が外せるってもんだ、うんうん」

 

 ニシシ、と三人で顔を近づけて笑い合う。会話は聞こえない距離だが近くにいるこれから旅行に行くらしい老夫婦が微笑ましい物を見るように三人を眺めていた。

 本当ならネカネも一緒に日本に行くはずだったのだが仕事の引継ぎが上手くいかず、代わりの人が見つかるまでメルディアナ魔法学校を離れられない。

 月単位でネカネの渡航が遅れるので好き勝手出来ると三人は喜んでいた。

 

「あ、ネカネ姉さんが戻って来た」

 

 無駄に高性能な感覚器官を持っているアスカが人混みの向こうにいるネカネの姿を感じ取った。

 言った数秒後に搭乗手続きをしていたネカネがチケット片手に戻って来た。

 

「手続きは終わったから…………アーニャが持っててね」

「うん。このボケ双子に持たして失くしたら大変だもんね」

「「えー」」

 

 ネカネがアーニャにチケットを纏めて渡したのを不満に思った双子が唇を尖らせる。

 

「なに? なんか文句あるかしら」

「ありません、サー」

「私は女なんだからマムでしょ。私は男っぽいって言いたいわけ?」

「「ノー、マム!!」」

 

 凄みをかけたアーニャに、最初はやる気のなかった双子は直立不動で敬礼する。

 何時もの通りの調子の三人にネカネは笑みを零しつつも、自分が一緒に行けないことに大きな不安を感じていた。

 

「本当に大丈夫、三人とも? ネギは三食きっちりとってしっかりと寝なさいよ。アスカは誰構わず喧嘩を吹っかけたら駄目なんだからね。アーニャも拳で物事を解決しちゃだめよ」

「信用ないなぁ」

「俺ってそんなに喧嘩吹っかけてる?」

「私はそんなに野蛮じゃないもん」

 

 不安だった。返って来た返答が物凄くネカネを不安にさせた。

 

 << ○○○○○便に御搭乗のお客様はCゲートより搭乗してください >>

 

 搭乗を呼びかけるアナウンスが流れたので、切り替えの早さでは歴代魔法学校一という有難くない称号を冠された三人は、あっさりとネカネの不安を横にやってそれぞれに荷物を抱えた。

 

「ネカネお姉ちゃんもスタンさんやみんなに宜しく言っといて」

「酒を飲み過ぎないようにともね」

「俺達は俺達で上手くやるからさ。心配しないでいいって」

 

 そそくさとネカネの前に並んだ三人は最初から言うべきことを決めていたのだろう、笑顔で言い切った。

 

「分かったわ。くれぐれも、くれぐれも無茶だけは絶対にしないように」

 

 これだけはと強く念を押したネカネは、旅立つ三人を順に抱きしめて言い含める。

 

「じゃ」

「「「行ってきます!」」」

 

 ネギが音頭を取って、三人で声を合わせる。

 事前に何度も言い含めたように搭乗口へといく三人をネカネは何時までも見守っていた。

 

「飛行機に乗るの始めてだから緊張してきた」

「実は僕も」

「情けないわね、アンタ達」

「そういうアーニャだって顔が強張ってる」

「うっ」

 

 大きな荷物を預けて身軽になった三人は喋りながら飛行機を目指して歩く。

 魔法使いの隠れ里で育った三人は海外に出たことはない。なので飛行機に乗るのも初めて。緊張は隠しきれない。

 

「日本に行ったら天麩羅に寿司、刺身を食べてみたいな」

「俺は京都に行って近衛詠春と戦ってみたい。行っちゃ駄目なのか?」

「食べ物はいいけど、京都にはいけないわよ。行くのは麻帆良学園都市なんだから」

「麻帆良に強い奴いるかなぁ」

「タカミチもいるんだから大丈夫だよ。僕は蔵書が山ほどあるっていう図書館島に行ってみたい」

「アンタ達、即物的すぎるわよ」

 

 アスカは純粋に欲に忠実であり、ネギは実現可能な範囲での欲を優先するのアーニャはお姉さん振って「このお子様たちは」と腰に手を当てて言いながらも楽しさを隠しきれていなかった。

 

「浮かれて私達の目的を忘れていないでしょね」

 

 先を歩くアーニャが振り返りながらの発言に、ネギとアスカは顔を見合わせた。

 

「勿論。俺達の目的はなんたって最強になって英雄の親父を見つけることと」

「強くなって村を襲った悪魔を倒して石化を解かせることなんだから」

「忘れてないならいいわ。なんたって」

 

 一度区切ったアーニャは立ち止って拳を握り、腕を真上に突き出した。ネギとアスカもそれに倣う。

 

「私達に」「僕達に」「俺達に」

「「「出来ない事なんてない!!」」」

 

 子供が囚われる幻想と言われようとも、困難な道を選んだ三人は拳を掲げあって六年前からの誓いを新たにした。

 ネカネが見送る中で三人が乗る飛行機は日本へ向けて飛び立って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 麻帆良学園都市は、明治中期に創設され、幼等部から大学部までのあらゆる学術機関が集まってできた都市。これらの学術機関を総称して「麻帆良学園」と呼ぶ。一帯には各学校が複数ずつ存在し、大学部の研究所なども同じ敷地内にあるため、敷地面積はとても広い。年度初めには迷子が出るとのこと。元々魔法使い達によって建設されたと考えられており現在も学園長・近衛近右衛門を始めとして多くの魔法使いが教師・生徒として在籍し、修行や学園の治安維持に従事している。

 

「はむ」

 

 東京から埼玉に麻帆良学園都市に向かっている電車の中で、座席に座るアンナ・ユーリエウナ・ココロウァは欠伸を噛み殺した。

 

「一人だけ座って欠伸を掻かないでよ、アーニャ。僕達まで眠くなってきたじゃないか」

「仕方ないじゃない。欠伸は人間の生理よ。勝手に出るんだから止められるわけないじゃない」

 

 移り欠伸とでもいうべきか。堪えたネギと違って盛大に大口を開けて欠伸を掻くアスカの横で手摺で体を支えるネギの文句に、見るんじゃないわよと口ほどに語る眼光を放ちながら踏ん反り変えるアーニャ。

 アーニャの眼光に負けてあっさりと視線を外したネギの横でアスカが目の端に浮かんでいた涙を拭う。

 

「漫画とかテレビで知ってたけど時差ボケって本当にあったんだ」

「本当だよね。夜になっても全然寝られなかったもん」

 

 目をしょぼつかせるアスカに同意したアーニャも昨夜のことを思い出していた。

 真っ先に思い浮かんだのは食べた物である。三人はまだ十歳が一人と数えで十歳が二人。色気よりも食い気であった。

 

「昨日、食べた天麩羅はおいしかったわよね」

「変わった味だったけどあれは上手かった」

「また食べに行こうよ。今度は寿司がいいな」

「「賛成」」

 

 あれが食べたい、これが食べたいと話していると揺れている電車内で天井から吊り下がる吊り輪や手摺も持たずに二本の足だけで体を支えているアスカが鼻を掻いていた。

 

「どうかした?」

 

 鼻が痒いにしてはずっと掻いているアスカに、座っていて正面にいるアーニャが問いかけた。

 直後、曲がり角にでも差し掛かったのか車内が僅かに傾き、中にいる乗客が傾いた方向に寄っていく。特に手摺や吊り革を持てずに体を支えられない乗客が動く。

 

「あうう~」

 

 あっさりと乗客の流れに巻き込まれたネギが悲鳴を上げる。反対にアスカは車体が傾く寸前に体を前掲させて傾きとは逆の方向、つまりはアーニャに近づくことで難を回避していた。

 

「何? あの子達?」

「外国人?」

 

 そんな会話が周りで起こっていることを完全に意識の外に追いやっているアスカはゆっくりと口を開いた。

 

「ここ、臭い」

 

 アスカが齎した一言に、ピシリと車内の空気が凍った。

 

「え? そう?」

 

 くんくん、と車内の空気を嗅いだアーニャにはアスカが言うほどに臭いとは思えなかったようだった。

 

「うん。これはあれだ。ネカネ姉さんも使った化粧とかの臭い」

「つまり、ケバイと」

 

 匂いの原因を言ったアスカに、ネギがもっと分かりやすく一言で纏めてしまった。

 

「ああ……あんたって犬並みの嗅覚してるもんね。そりゃ、これだけ女が集まってたら盛大に匂うでしょうよ」

 

 この目の前にいる腐れ縁の金髪の少年が匂いといった五感を感じ取る能力が常人を優に超えていることを良く知っているアーニャは、女の身として子供とはいえども「臭い」とは言われたくないので口にはしなかった。

 アスカはネカネが化粧を覚え始めた当初は近づきもしなかったし、ここ二年ぐらいでようやく慣れたのだがこれだけの集団が集まれば我慢の限度を超えるのも仕方ない。だが、それでもアーニャは未だ若輩な子供と言えども一言申さぬぬわけにはいかない。

 

「空気を読みなさい」

「?」

「分かんないって首を捻ってんじゃないわよ。ネギもよ。常から言っているけどアンタ達にはデリカシーってものがないのかしら」

 

 毎度のことながら理解していない馬鹿兄弟にアーニャは深い溜息を漏らした。何度も何度も懇々と言い聞かせた話をこのような周りの目があるところでする気にもなれない。

 アーニャにはこの電車に乗っているのは中学生から高校生ぐらいの年代に見えた。それぐらいの年代になれば化粧の一つや二つはするだろうし、学校の校則で禁止されていようともナチュラルメイクの一つや二つはしているだろう。この車両だけでも二十人以上の学生が乗っていれば犬並みの嗅覚を持っているアスカなら、一人一人は程度が低くても集団となれば匂いも大きくもなって耐えられなくても仕方ない。

 

「周りに謝んなさい。アスカだけじゃないわよ、ネギも」

 

 二人の「臭い」「ケバイ」発言を気にしている人数が座っているアーニャの視界から見える大半の人間であることから、面倒事と乙女心の両面から判断して二人に指示を出す。

 

「なんで?」

「いいから謝れつってんでしょうが」

 

 筋の通らないことには意地でも頭を下げることを良しとしない兄弟を代表して、アスカが少しきつい目で問いかけたが返ってきたのは問答無用の座った目であった。

 

(どうする?)

(謝っといた方が無難なんじゃないか。ご機嫌を損ねられるのは困る)

 

 念話ではなく視線でアイコンタクトを交わした兄弟は、揃って後ろを振り返った。

 

「「ごめんなさい?」」

 

 謝る理由を当人が分かっていないので謝罪は何故か疑問形であった。

 車内にいる女学生達は兄弟と顔を合せられない。というか、三人がいる場所を中心としてエアポケットのように空間が開いていた。狭い車内なのにギュウギュウ詰めになりながら距離を開けようとする女性達を見て顔を見合わせて首を捻り合う兄弟に溜息を吐くアーニャ。

 

『次は――――麻帆良学園中央駅―――――』

 

 特定の人間だけが気まずい空間を打ち破ったのは車内アナウンスだった。体感で緩やかに速度が落ちていき完全に止まる。駅についたようだ。

 アーニャ達がいる場所とは反対側の扉が開いて女生徒達が沈黙のまま我先にと飛び出して行き、数秒で瞬く間に誰もいなくなった車両に取り残される三人。

 

「なにをあんなに焦ってたんだろ?」

「時間がやばくて遅刻しそうだとか」

「馬っ鹿みたい。行くわよ、アンタ達」

 

 女生徒達が足早に社内から出て行った理由を理解できていない兄弟に悪態をつきつつ、膝に抱えていたリュックサックを背負ったアーニャが動く。遅れて兄弟も付いて歩き、三人は自動改札機を通って麻帆良の街へと足を踏み出した。

 

「ここが、麻帆良か……」

「本当にここは日本なのかしら? 街並みが明らかに異国情緒に溢れすぎなんですけど」

 

 はぁ~、と息を吐き出して目の前に広がる麻帆良学園都市の光景に少し圧倒されているアスカに次いで、アーニャが誰に聞かせるでもなく呟く。二人の麻帆良での第一声だった。

 

「木造建築じゃないんだ」

「あんたは何時の時代の街並みを想像してんのよ。まさか侍が刀を以て蔓延してるとか想像してんじゃないでしょうね」

 

 ふと漏らしたネギの言葉を聞き咎めたアーニャの問い詰めに、ネギは汗を垂らして顔を逸らした。誤魔化すのが苦手な少年である。

 

「まさか図星だったなんて」

「ほら、ネギって変なとこで夢見がちだから」

「いいじゃないか、別に」

 

 絶句したアーニャにフォローになっていないフォローをするアスカ。不貞腐れたネギはふんと強く鼻息を出して一人で歩き出した。

 

「そういえば誰が迎えに来るんだっけ?」

 

 大きなリュックを背負っているネギの背中で目立つ杖を見つつ、少女の分の荷物も持っているアスカが隣を歩くアーニャに聞いた。

 

「高畑さんよ。あんた、話聞いてないんじゃないの」

「忘れてただけだって。でも、タカミチか」

「会って即戦いたいってナシだからね」

「え~」

「駄目ッたら駄目。馬鹿の一つ覚えみたいに戦いのことばっか考えてんじゃないわよ。これだからバトルジャンキーって奴は」

 

 無精髭に眼鏡をかけた三十代後半ぐらいの年齢のスーツを着た男性の姿を探しつつ、迎えが来ることなんて忘れて一人で歩いているネギの後ろを二人で歩く。

 一分ほど歩いて誰の姿も見えないことに流石にネギとアーニャの二人は焦りを覚え始めていた。

 

『学園生徒のみなさん、こちらは生活指導委員会です。今週は遅刻者0週間、始業ベルまで十分を切りました。急ぎましょう。今週遅刻した人には当委員会よりイエローカードが進呈されます。余裕を持った登校を…………』

「遅刻!?」

 

 突如として鳴り響いたアナウンスに破天荒な行動が多いながらも優等生気質なところがあるアーニャが体をビクリと震わせた。逆にマイペースを地で行くスプリングフィールド兄弟はやるべきことやしたいことがあれば授業を平気でサボるので焦るどころか眉一つ動かしていない。

 

「行くわよ! 遅刻なんて許されないわ!」

「メンドイ」

「いいよ、もう。ゆっくり行こ」

「あぁっ!」

「ごめんなさい。俺達が間違ってました」

「遅刻は駄目だよね」

 

 本音がダダ漏れな二人をメンチで負かしたアーニャの主導で三人は走り出した。

 三人とも見習いといえども魔法使いの端くれ。運動神経が切れているネギを頭の中身が切れているアスカが背負いつつ、ただ前だけを目指す。魔力で身体強化なんてことが出来るので、見た目以上の能力を発揮できる三人は瞬く間に先を行く最後尾へと追いついた。

 

「イェイ!」

「やっほう!」

 

 体を動かしているだけで楽しいタイプのアスカの気持ちを、逆に机上でこそ喜びを発揮できるタイプなのでネギは永遠に理解できそうになかった。とはいえ、アスカに背負われていても風を切って突き進む感触が嫌いなわけじゃない。アスカが叫びを上げるのに便乗して声を出してしまうのはもはや癖みたいなものだ。

 

「どこへ行くの?」

「この街で一番偉い人の所! 話をつけられるでしょ!」

 

 二人が目的もなしに走っていると思ったネギだが、何も考えていないのは走りながら笑っているアスカだけで並走しているアーニャはしっかりと考えていたようだった。バイクの二人乗りをしながら肉まんを売る者やインラインスケートなどを履いて路面電車につかまっている者等を瞬く間に追い越す。

 

「当の一番偉い人はどこにいるのさ」

「あ」

「その辺の人に聞いたら分かるって。誰か知ってるだろ」

 

 考えているようでどこか抜けているのがアーニャである。意外にその穴を埋めるのが直感で動いているアスカなのだから人生とは分からないものである。

 

「じゃあ、あの人に聞いてみよう」

 

 自分の荷物とネギ+荷物を背負いながらも余裕綽々のアスカはすぐ先を走っている二人の少女に目を付けた。

 目をつけられた少女―――――神楽坂明日菜は少し焦っていた。

 

「やばい、寝過ごしたー!!」

「あははは、にしても明日菜足速いよねー。私コレやのに」

 

 他の生徒を次々に追い抜く速度で疾走しながら息を乱す事無く叫ぶ明日菜に、並走する近衛木乃香は笑って地面を滑るローラスケートを指差す。彼女達は息を乱すことなくそのハイスピードの走りの中で会話していた。

 

「悪かったわね、体力バカで。ん?」

 

 運動神経しか取り得がないと馬鹿にされた気がするので、幾ら事実とはいえ不貞腐れて返事をする明日菜だったが巻いているマフラーがふわっと浮き、自身の左横に風の流れを感じた。

 自然の風ではなかったので何かと首を左横に向けると、何時の間にか見るからにここにいるべきではない年齢の少年少女がいた。正確には明日菜の視界は視線の高さにいる少年の顔が入り、次いで下げた視界に前に自身の荷物を抱え背中に少年を背負っている金髪の青い目をした子供に驚いた。

 自分も体力馬鹿の自覚はあるのだが、金髪の少年のように線が細そうとはいえ同年代の人間を荷物付きで背負うことは出来るかは試してみなければならない。

 明日菜の下げた視線と少年――――アスカの上げた視線が交わる。

 

(懐かしい……?)

 

 視線を合わせた瞬間、『懐かしい』と脈絡もなく感じた。これらが見詰め合った時間は二、三秒にも満たなかったが二人の初対面に抱いた相手への感想だった。

 

「あの――――あなた失恋の相が出てますよ」

 

 オッドアイとブルーの瞳から発せられる視線が混じり合い、不思議な郷愁を覚えた明日菜を現実に引き戻したのは背負われている少年――――ネギの失言だった。

 

「え"……」

 

 空気が凍った。明日菜の隣にいる木乃香とアスカの隣にいるアーニャは感じ取った。

 

「な……し……しつ……って」

 

 言葉を飲み込み、足を止めた明日菜に吊られて全員が止まる。

 そして明日菜が爆発する前にアーニャが飛んだ。

 

「アスカ!」

「ん?」

 

 アーニャの叫びに疑問形ながらも反応したアスカは背負っているネギを如何なる動きによってか真上に放り投げた。

 事態を飲み込めないネギは投げられるままに空中を漂い、重力に従って落下する。

 頭を下にして落下していくネギの真下に潜り込んだアーニャは、顔を寄せて肩にネギの首を乗せて両手を真上に伸ばして両腿を掴んだ。

 

「あれはまさか筋肉バスター!?」

 

 往年の漫画で披露した伝説の技に、近くを通りかかったプロレス研究会の大学生が驚愕した。

 

「アーニャバスター!」

 

 逃れようのないままアーニャはネギを背負ったまま地面に激突。ボキボキ、と何かが砕ける音が聞こえた。

 両腿を掴んでいた手を離したことでネギがゆっくりと仰向けに倒れる。

 

「何時も言ってるでしょ。乙女心を読めって。これはその報いよ」

「……ぼ、僕…………男なんだから、乙女心なんて……分から」

「死ね」

 

 ポンポンとお尻についた砂を払ったアーニャは、痛みで動けずに虫の息で弱々と反論したネギの鳩尾に踵を落してフィニッシュを下す。捕らえられた獲物が首を絞められて上げる断末魔の叫びのようなものを上げて、上がっていた手がパタリと落ちた。

 獲物を仕留めたアーニャは腐った汚物を見るようにネギを見た後、一瞬で表情を申し訳なさそうに変えて明日菜を見た。

 

「ごめんなさいね。この馬鹿はこっちでシメといたから」

「死んでないの?」

「大丈夫、ああ見えてもネギは頑丈だから。少ししたら目を覚ますわ」

 

 そこらで落ちていた木の枝でつんつんとネギが死んだかを確認しているかのように動作をしているアスカと、ピクリとも動かないネギに明日菜は怒りの向けどころを失っていた。

 上げた手を所在なさげに下ろしながら、この三人はやばいと明日菜の本能が警鐘を鳴らしている。動物的直感に優れている明日菜は『触らぬ神に祟りなし』という言葉を理解していなくても実践して突っ込まなかった。

 そんな明日菜の横でアーニャは人柄で接しやすいと判断した木乃香に向き直っている。

 

「ちょっと聞きたいんだけどいい?」

「ええよ。なんでも聞いて」

「ここってどこなの? 駅から当てもなく走ったから場所が分からなくなっちゃって」

「ここは女子校エリアやよ。三人とも初等部の子やろ? 初等部があるんは前の駅やで」

「私達は生徒じゃないわよ。アスカは別だけど」

 

 なにやら仲良さげに話している木乃香とアーニャの話に割り込み辛いものを感じた明日菜は、とりあえずアスカにネギの無事を確かめることにした。

 

「大丈夫なの、その子?」

「平気平気。アーニャの鉄拳制裁は慣れてるから直ぐに目を覚ますはず」

 

 枝でつつくのにも飽きたのか、明日菜の方を振り向いたアスカの瞳にまた明日菜は不思議な郷愁を覚えた。

 眼の前の少年と会ったことはない。だが、彼に似た誰かに会ったことがあるような既視感。我知らずに注視していた明日菜は立ち上がったアスカの胸元から零れた細いながらも頑丈そうな鎖に繋がれた水晶のアクセサリーに目を奪われた。

 

『アスナ』

「痛っ」

 

 バックに夕焼けがある誰かのシルエットが脳裏を過った明日菜だったが、突然走った頭痛に一度は湧き上がったイメージが薄闇と消えていった。

 

「?」

 

 なにか大事なことを思い出しかけたことに明日菜は首を捻った。数秒後には思い出しかけたことすらも手の平か零れ落ちる砂のように抜け落ちていったことも忘れてしまう。一度零れ落ちた何かは元に戻らない。

 首を捻っている明日菜に木乃香が顔を向ける。

 

「明日菜ぁ、高畑先生がどこにいるか知っている?」

「え? 高畑先生がどうしたの?」

「この子達って高畑先生と待ち合わせしてたみたいやねん。今どこにいるか知ってる?」

「今日は出勤するって聞いたから多分職員室にいると思うけど」

 

 この珍妙なコントをした三人の子供が高畑にどのような用があるのかと内心で首を捻りながら、聞かれたことにそのまま答える。

 

「おーい」

 

 直後、頭上から少年の高い声と違う喉太い大人の男性の声が掛かった。五人以外の声の主は女子中等部校舎の二階の窓から五人を見下ろしていて、その声にびっくりした明日菜は上を見上げた。

 そこにはスーツ姿に眼鏡と短い白髪と顎には無精ヒゲを生やして、左手中指に指輪をした三十代後半ぐらいの男性がいる。

 

「高畑先生!? お、おはよーございま……!」

「おはよーございまーす」

 

 自分達の担任の姿を見つけて明日菜はしおらしく、木乃香は普段通りに挨拶する。この明日菜の反応を見れば大抵の人はどういう感情を持っているのか理解できるだろう。

 

「ははん、もしかして明日菜って」

「アーニャちゃんの考えてる通りや。初対面の人もバレるなんてほんまに明日菜は分かりやすいな」

 

 案の定、アーニャにも悟られていた。何時の間にか明日菜の名前を教えている辺り木乃香は確信犯的な要素が多分にある。当然、二人がなんのことを言っているのかとアスカは首を捻っていたが。

 

「おー、久しぶりタカミチーッ」

 

 彼女達の朝の挨拶に続いてアスカも当然のように、しかも一回り以上年上なのに敬語もなしに彼女達の担任に声を掛けた。

 

「!?……っし、知り合い…………!?」

 

 誰でも明らかな年の差があるのにフランクに交わされた事に明日菜は酷く驚いて思い切り下がった。

 明日菜の大好きな男性を下の名前で呼ぶなど単なる知り合いではないし、久しぶりということは知り合いなのか、と思考がこんがらがった末に更に爆弾発言が思い人より投下された。

 

「ようこそ麻帆良学園へ。歓迎するよ」

 

 明日菜の驚きなど知らぬ高畑は葉巻が似合うニヒルな笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 下りて来た高畑が先導して向かった先は学園長室。成り行きで三人に付いて行った明日菜は道中で伝えられた情報に知ることとなった。

 

「学園長先生、こんな子供達が先生って一体どういうことなんですか? しかも私達のクラスを担当するって」

 

 責任者である学園長と対面した開口一番、明日菜が机まで詰め寄って静かに問うた。

 

「まあまあ明日菜ちゃんや。なるほどのぉ、修行のために日本に…………そりゃ大変な課題をもろうたのぉ」

 

 見事に明日菜の言葉を聞いていなかったのかの如くスルーして話し始める学園長。激情ではないといっても瞳の奥に棘を隠した明日菜をスルーするとは学園長は良い根性している、と気絶したネギを引き摺ってきたアスカに変な方向に感心を覚えさせるものだった。

 取りあえず、いい加減にネギを起こさないとネギの背中に回って両肩を持ち、ぐっと力を入れる。

 

「はぅ」

 

 気絶していたネギは口の奥から息を吐き出し、ゆっくりと目を開けた。

 

「あれ、ここどこ? なんか体が痛い」

 

 立ち上がって節々が痛む体を擦りながら首を捻るネギ。

 

「急に倒れてびっくりしたわよ。体が痛いのは倒れた時に打ったのじゃない。ねぇ、アスカ」

「…………時差ボケで疲れてたんだろ。来る日を間違えたぐらいだし」

「一日早かったんだって、急いで損しちゃった」

「うーん、そうなのかな」

 

 思いきり話を逸らしたアーニャに強い視線で同意を求められたアスカは渋々と追従する。イマイチ納得がいってなさそうなネギだったが二人がそういうならそうなのだろうと納得せざるをえなかった。

 こいつら誤魔化しやがったと明日菜が震撼し、木乃香がポヤポヤと逆に他人に考えを読ませない笑みで二人を見る。

 

「しかし、ネギ君とアーニャ君は教育実習と言う事になるかのう。今日から三月までじゃ………」

「俺は?」

「アスカ君は明日菜ちゃんたちと同じクラスじゃ。話は良く聞いておる。ちゃんと勉学に励むのじゃぞ」

 

 げぇ、と学園長から顔を背けて今にも吐きそうなアスカに勉強嫌いの同類を見つけた明日菜は少し受け入れる方に心が傾いたりもした。

 

「ところで、ネギ君とアスカ君には彼女はおるのか? どうじゃな、うちの孫娘なぞ?」

「ややわ、じいちゃん。うちにはまだ早いえ」

 

 木乃香がどこからか出した金槌でガスッと学園長の頭に突っ込みを入れる。ダクダクと学園長の頭から血が流れてるのだけど誰も気にしない。過剰ツッコミはウェールズ組は何時もの事なのでそれが彼らの芸風なのだと理解し、当たり前の風景として認識した。

 

「ちょっと待ってくださいってば! いきなり高畑先生と変わって担任だなんて!!」

「いや、そこまでは言っておらんよ。ネギ君とアーニャ君はあくまで高畑君の補佐。高畑君は出張が多いからの。名義上の担任はあくまで前のままじゃ」

「あ、それなら……」

 

 明日菜としては高畑が担任から降りる事を気にしていたわけだが、別に今までと変わりないのならそれでいいかと天秤が急速に傾いてしまった。

 

「フォフォフォ。この修行は恐らく大変じゃぞ。駄目だったら故郷に帰らねばならん。二度とチャンスはないがその覚悟があるのじゃな?」

 

 頭から血をダクダク流しながらも、結局最後まで明日菜をスルーして話を纏めようとする学園長。

 視線を向けられた三人は顔を見合わせ、直ぐに満面の笑みを浮かべた。

 

「「「やります!」」」

「いい返事じゃ。若者はこれぐらい元気がなくてはの」

 

 ふぉふぉふぉと笑った学園長は長い髭を擦りながら、少年少女の元気な姿に好々爺の如く目を細める。

 

「うむ、本来ならば明日からじゃが、顔見せだけはやっておこうかの。指導教員のしずな先生を紹介しよう。しずな君」

「はい」

 

 学園長の言葉にその声と共に扉が開き、入り口から1人の女性が入ってきた。

 その人はメガネをかけ、パッと見ただけで母性溢れるといえそうな女性でネギがそっちを向くとその大きな胸に顔を埋めた。

 

「む"」

「あら、ごめんなさい」

 

 タイミング良くしずなの胸に振り向いたネギの顔が挟まれた。グッドなタイミングに実は狙ってやったんじゃないかと思われるほどだった。狙ってやったとしたらタイミングを合わせて振り向いたネギか、振り向いただけで胸に顔が埋まるような近距離まで近づいたしずなか。

 少なくともネギと同じ事を大人がやればビンタは間違いないだろう。狙ってやっていたらそれはそれで問題だが。

 

「分からない事があったら彼女に聞くといい」

「源しずなよ。よろしくね」

「あ、ハイ……」

 

 ウィンクしながら笑顔でそう言うしずなにネギは惚けていた。大人の魅力に誑かされたらしい。そんなネギを見てペッと唾を吐き捨てるアーニャと少し羨ましそうなアスカ。学園長もネギが羨ましかったのだが孫娘の手前上は意地でも顔には出さなかった。

 そんなこんなで、学園長との話も終わり教室へ向かうことに。

 

「そうそうもう一つ、このかとアスナちゃん。出会ったのも何かの縁じゃ。しばらく三人をお前達の部屋に泊めてもらえんかの。まだ住むとこが決まっとらんのじゃよ」

「え……」

「ん~、うちは別にええよ」

 

 学園長から告げられた言葉に予想もしていなかった明日菜がふと声を漏らした。木乃香は少し考える素振りを見せてから了承した。彼女にとっては近所の年下の子を預かる感覚に似ていた。

 

「もうっ! そんな何から何まで学園長っ!?」

 

 明日菜は自分の預かり知らないところで勝手に決められるのは恩があるといっても不快だった。何でもかんでも勝手に決められれば世話になっているといっても不機嫌にもなろう。

 

「本当は彼らの保護者も一緒に来るはずじゃったんだが都合が悪くなって月単位で遅れることになっての。何分、それが分かったのが数日までは手の施しようがないのじゃ。住居はあっても子供達だけで住まわせるわけにはいかんし、急すぎて他に頼むことも出来ん。なんとか引き受けてもらえんか?」

「う……」

 

 険を明らかにして詰め寄って抗議する明日菜を学園長はやんわりと説得する。

 ただでさえ子育ては大人でも難しいのに多感な女子中学生に任せるのは如何なものか、との意見も当然ある。学園長が強権を発揮すれば多少の無理は聞く。孫娘である木乃香の部屋なら子供三人ぐらいは入るだろうと楽観し、明日菜らには悪いとは思うが強権を発動して軋轢を作ることもない。

 

「俺達は野宿でも構わないけどな。慣れてるし」

「タカミチと一緒にキャンプとかやったよね。三人で眺めた夜空は綺麗だった」

「私は嫌よ。一日二日はともかく一ヶ月も野宿なんて」

 

 聞きわけが良いというか無駄にバイタリティに溢れている前者二人はともかく、嫌がっていて女の子のアーニャを野宿させることは明日菜も気が咎める。同室の木乃香が許可を出しており、保護者である学園長の頼みはやはり断り難い。結論として、明日菜は肩を落として受け入れざるをえなかった。

 

「分かりました。でも、うちの部屋に三人も入るかしら?」

「そうやな。二人なら大丈夫やけど、三人はちょっと微妙やね」

 

 明日菜達の部屋は普通の二人部屋に比べれば大きい方だが一番広いクラス委員長である雪広あやかの部屋に比べれば狭い。そもそもあやかの部屋は三人部屋で二人部屋の明日菜達の部屋と比べるのは間違いかもしれないが、子供とはいえども三人も足して五人で寝食を共に出来るかは微妙だった。

 

「なら、私は別で入れてくれる部屋を探すわ。この二人を別々の部屋にしたらどんなことになるか分かったものじゃないし」

 

 三人は無理でも二人なら何とかなるだろうと、アーニャの案でスプリングフィールド兄弟が明日菜達の部屋に居候することが決まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホームルームの時間が迫っているので先に教室に向かった明日菜達が退出した学園長室に入室者が一人。

 一度部屋を出て麻帆良女子中等部を男用に変えた制服を見に纏ったアスカ・スプリングフィールドの姿に、アンナ・ユーリエウナ・ココロウァは珍しいことに幼馴染を見て驚いたように目を丸くした。

 

「へぇ、ネギもそうだけどネクタイ姿が意外と似合ってるじゃない」

「意外とってなんだよ」

「馬子に衣装ってことよ。意味は後で辞書でも引いて調べなさい」

 

 隣にいる特注したスーツ姿に身を包んでいるネギ・スプリングフィールドは忌憚がなさすぎるアーニャに文句を言うが、おしゃまな女の子に口で勝つのは天才少年でも難しい。1言えば10の文句が返って来ることは今までの経験から分かっているので、それ以上の追及はせずに大人しく引き下がる。ネギ少年は大人なのだ。

 

「どうかのう? 下をスカートからズボンに変えただけで基本は女子用の制服をそのまま使っておるのじゃが、なにか不具合とかはあるかの?」

 

 学園長席に座ったままの学園長が頷きつつ問いかける。

 

「ん、むぅ。首が鬱陶しい」

「ネクタイに慣れてないんでしょうね。最初は違和感を感じるでしょうけど直に慣れるわ」

 

 注目の的であるアスカは首周りをしきりに気にしているが、源しずなは言いつつ袖や裾を気にする。

 上半身は女子の物と変わらないブレザーに、下はチェックのスカートがズボンに代わっただけの特別に作られた男子用の制服全体の状態を確認する。変なところがないことを確認して学園長に問題ないことを示す。

 当のアスカは直に慣れると言われてもネクタイが気に入らないのか外しだした。

 

「苦しいからネクタイ入らない」

「あっ、こら」

 

 アーニャが注意する間もなくあっさりとネクタイを外したアスカは次いでボタンも上二つを開けて鎖骨が見えるぐらいに開く。

 

「ふぅ、さっぱり」

「じゃないわよ」

「あてっ」

 

 ぽいっとネクタイを放り捨てて満足げに頷いたアスカの頭をどつくアーニャ。

 部屋の隅に投げ捨てられたネクタイをネギが律儀にも取りに行く。

 

「悪いが校則でネクタイはしてもらわんとならん。外すのはなしじゃ」

「え~」

「ほら、アスカ」

 

 露骨に嫌そうな顔をするアスカに拾ったネクタイを渡したネギは双子の弟の性格上、このようなきっちりとした体裁を取る必要がある物を身に着けるのを嫌がることを知っているので笑顔であった。

 人が苦しんでいるのを喜んでいるネギに後で仕返ししてやると心に決めたアスカは受け取ったネクタイを手の中で弄ぶ。

 

「別にいいじゃん。校則なんて破る為にあるんだからさ」

「そういうわけにもいかないのよ。それに校則は守る為にあるのよ」

 

 心底面倒そうに呟いたアスカに注意するしずなを見て学園長はウェールズにいる旧友の校長の教育方針を疑いたくなった。この三人の悪評というか異名は十分に理解したつもりだったが甘かったことを自覚する。

 

「今度は自分でネクタイ結べる?」

「やるよ。やるから大丈夫だって」

 

 元から世話焼きの気質があるしずなは着替えも手伝っていた。今までネクタイを結んだことのないアスカが仕方なくつけ出したのを見て手を出したそうだった。

 しずながいい加減に手を出すかと動き出す前にアーニャが足を踏み出した。

 

「しっかり結びなさいよ。こら、そんな巻き方したら」

「初めてなんだから仕方ないだろ」

「私がやってあげるから貸しなさい。もう、ネギといいアンタ達兄弟は私がいないと駄目なんだから」

 

 ネクタイを結び慣れてない誰もが通る道を順当に進み出していたアスカをアーニャが止める。

 ネクタイの結び方の正しい手順なんて一回で覚えられないアスカは文句を言いつつ悪戦苦闘していることは誰の目にも明らか。直ぐに見ていられなくなったアーニャがネクタイを奪い取り、グチグチと言いながらも慣れた仕草でちゃっちゃと結んでいく。

 

(慣れておるの)

(きっとこの時の為に練習したんですよ。あの楽しそうな笑顔を見たら一目瞭然じゃないですか)

 

 念話や言葉を使わなくても目だけで会話をした学園長としずなは目を細めた。

 ネギと同じく特注のスーツ姿のアーニャはネクタイではなく細いリボンである。アーニャの家族がどうなったかを知っている学園長は彼女の周りにネクタイを習慣的に結ぶ男がいないことを知っているので、スプリングフィールド兄弟の為に練習したのだと分かった。

 しずなはアーニャの環境を知らないが女心は学園長の何百倍も理解している。このような雑事に疎い兄弟の為に何度も練習したことは直ぐに察しがついた。

 

「はい、これでいいわ。うん、我ながら完璧」

 

 瞬く間にネクタイを結び終えたアーニャは一歩下がって出来栄えに満足する。

 だが、当のアスカはやはりネクタイで首が絞めつけられるのが気に食わないのか不満そうだった。その様子を見ていたネギはふと思いついたように口を開いた。

 

「苦しいなら緩めたら?」

「あ、この馬鹿っ」

 

 アーニャが咎める視線をネギに送るがもう遅い。成程、と頷いたアスカはアーニャの気持ちなどあっさりと振り解いてネクタイを緩める。

 

「外さなきゃいいんだろ」

 

 先程と同じように第二ボタンまで開けてその下までネクタイを下ろす。もはやネクタイは付けているだけの風情になってしまった。

 

「そういうもんじゃないでしょうが! ネギも余計なことを言わない!」

「そうは言っても堅苦しいのが嫌いなアスカだよ? あのままじゃ、直に暴走してたって」

「う!? そうだけどさ……」

 

 ネギの言い分も尤もな部分があったのでアーニャは途端に勢いを失くした。

 色んな面でフリーダムなアスカに変に強制しても、溜め込んだエネルギーを盛大に暴走させることは過去の経験からアーニャも良く知っている。

 バトルマニアなのと天然以外は至って普通なアスカも、こと拘りに対しては異様なほどの執着を見せる。怒りや憤りといった感情がないようなこういう手合いが意外に暴走したら惨事を引き起こすのだ。

 主に火消しを自分とネギでやってきたアーニャは両者を天秤にかけて急速に受容に傾いていた。

 窺うようにこの街の最高意思決定を司る学園長を見る。

 

「まあ、いいじゃろ。おいおい慣れていけばよい」

 

 アスカは勝手に自己解釈しているが校則では着用を義務付けられているだけではない。首元まできっちりと締めろとまでは言わないが見苦しくない程度が望ましい。学園長の目から見てもアスカが本気で嫌がっているのは良く解ったので、慣れていないからこその行動であると考えて寛容的に受け入れることを決めた。

 後々に改めていけばいいと教育者としての面を面に出した学園長は頷いた。

 

「それじゃ、準備が出来たところで教室に行きましょうか」

 

 そうしてしずなに連れられて学園長室を出て行く三人を見送った学園長は顎髭を擦った。

 

「うむ、成人女性にスーツ姿の少年少女と制服を着崩した少年。見事なほど意味不明な集団じゃな」

 

 自分で決めたことながら三人を牽引しているしずなとも相まって摩訶不思議な一行にひっそりと笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 始業の時間まで後数分というところで教室の扉が開けられて、友人と喋っていてまだ席についていなかった何人かが入り口に目を向けた。

 

「なんだ、明日菜か」

「なんだってなによ、失礼ね。て、何してんのよ、アンタ達」

 

 教卓付近で本当に中学生かと疑いたくなる鳴滝姉妹となにかの作業をしていた春日美空は来訪者に固まらせていた緊張を糸を解す。なんだ扱いをされた明日菜は後ろに木乃香を控えさせたまま、何故か水の入ったバケツを持っている美空に訝し気な視線を向けた。

 

「朝倉から明日来るっていう新任教師がもう来てるって聞いて悪戯の準備」

「なのだ」

「今回は自信作なんだよ」

 

 ニヒヒ、と美空は一緒に準備をしている鳴滝姉妹と笑い合って作業を続ける。

 

「怪我のない程度にしときなさいよ」

「了~解」

 

 本当にこいつは解ってるのだろうかと思いつつ、明日菜は悪戯に巻き込まれないように足下を気にしつつ教室に入った。後ろの木乃香に同じ場所を通るように言いながら横を通り過ぎる。

 明日菜達の席は教卓の前の列の真ん中辺り。一つの机を二人で使うので廊下側の木乃香と同じ通路を使うと通行が面倒になる。少し距離がかかるが教卓の前を通って窓際の列の朝倉和美と教卓前の列の雪広あやかの席の間を通るのが何時もの明日菜の行動だった。

 この日は明日菜は何時もの行動をした自分の間違いを悔やむことになる。

 

「ちょっと、明日菜。新任の先生と会ったんだって?」

 

 通りかかったところでデジタルカメラが普及し始めているにも関わらず、一眼レフを持っている朝倉和美に声をかけられて足を止める。

 

「情報早いわね。会ったけど」

「噂では美形だって話だったけど本当?」

「美形…………ではあったわね、確かに。この後、来るって話だから好きに聞いたら」

「マジ? ようし、やる気出て来た。最初に会ったアンタらの話も貴重だから後で聞かせてね」

 

 食いついてくる距離分だけ和美から引きつつ、「子供だけど」とは心の中で呟いた明日菜は適当に頷いて隣を通って自分の席を目指す。

 鞄を机に置いて席に座り、入っている教科書らを適当に机の中に入れる。その行動の乱雑さから通路を挟んで席にいる柿崎美沙は後ろの席の早乙女ハルナとのお喋りを中断した。

 

「どうしたの明日菜? なんかご機嫌斜めじゃん」

「ちょっとね」

「もしかして今日はアレの日かな?」

「違うわよ!」

 

 手の届かないところで色んなところが決まってしまったフラストレーションを抱えていて、もしかしたら高畑と接する機会が減るのではないかとアンニュイな気分でいたところではハルナのデリカシーのない発言を適当にあしらうことも出来ずに叫んだ。

 明日菜の後ろの席で読書をしていた綾瀬夕映が顔を上げる程度には大きな声だった。

 

「明日菜な、朝から色んなことがあったからちょっとナーバスなってんねん」

「ナーバスってもしかして高畑先生関連? また出張とか」

「高畑先生関連は当たらずとも遠からずやな。全くの無関係ではないんやけど、今日はちょっと違うねん」

「まき絵と並んで能天気な明日菜がナーバスって珍し。しかも高畑先生関連じゃないなんて」

 

 うんうんと訳知り顔で口を出しながら重く頷く木乃香の近くで「私って何時も高畑先生で悩んでるのかしら?」と明日菜が落ち込んでいたりいなかったり。最初から話す気の少なかった気持ちが皆無に落ち込んだ明日菜はホームルームが始まるまで不貞寝を決め込むことにした。

 明日菜が不貞寝を決め込んだ頃、ナーバスにさせている当の子供三人組は2-Aの教室の近くまで来ていた。

 

「はい、これクラス名簿」

 

 しずなからクラス名簿を受け取っているネギをアーニャが不満に睨む。

 

「未だに納得いかないわ。ネギの方が立場が上なんて」

「成績順で決まったんだから仕方ないじゃん」

「僕にはどうしてアーニャがそこまで上に立ちたがるのが理解できないよ」

「納得がいかないのよ。ボケネギのクセに私の上に立とうなんて一億飛んで二千万年早いわ」

 

 腕を組んで鼻息をボヒューと漏らし、どこまでも唯我独尊なアーニャにスプリングフィールド兄弟は諦めたように息をついた。

 アーニャが上に立ちたがるのは今に始まったことでもなし、年上の挟持を保ちたいだけだと一方的に納得して兄弟が矛を収めるのが常である。もう慣れの領域であった。

 

「仲いいわね、あなた達」

 

 微笑ましさすら覚える三人のやり取りにしずなはおっとりと笑った。

 

「伊達にこのボケ兄弟が生まれた時から付き合ってませんから」

「そんなに昔からだっけ?」

「叔父さんの話だと、アーニャがあまりに元気すぎてアーニャのおばさんが育児疲れした時に叔母さんが代わりに面倒見てた頃からの付き合いらしいから間違ってないと思う」

 

 鼻をピクピクさせて「私がこの二人の面倒見て上げてんのよ」と自慢げだったアーニャの鼻っ柱は、首を傾げたアスカの問いに答えたネギにぽっきりと折られた。

 

「このボケネギが!」

「本当のことじゃないか!」

 

 知らない人の前で見栄を張りたい年頃であったアーニャは見事に鼻っ柱を叩き折ってくれたネギを強襲する。ネギも何時もやられてばかりではない。掴みかかって来たアーニャに負けじと頭の両端に伸びる髪を掴んだ。頬と髪を引っ張り合う二人の横でアスカが、ふわぁっと欠伸を漏らした。じゃれ合いをしながらも足は止めないことにしずなは楽しそうな子達だと笑わずにはいられなかった。 

 

「さあ、ついたわよ」

 

 しずなが目的地である教室の前で足を止めながら言うと、ピタリと掴み合いをしていたネギとアーニャが動きを止めた。そして二人してギクシャクとした動きで教室に向かい合う。

 

「ほら、ここがあなた達のクラスよ」

 

 じゃれ合いをしていたのは緊張を解す為だったのかと得心したしずなは、二人の様子を微笑ましく感じながら窓の向こうを指し示す。

 

「げっ……い、いっぱい……」

 

 学校なのだから一杯いるのは仕方ないが現実を直視して気後れしてしまったようで、ネギはやっていく自信が薄れたのか俯いてしまった。アーニャも同様である。全員自分より年上の人の顔と名前を見たら気後れするのが普通の反応だろう。魔法学校では一学年十人にも満たないから余計に多く感じるのかもしれない。

 

「早くみんなの顔と名前を覚えられるといいわね」

「はうっ……」

 

 追い打ちをかけられて実はこう見えてプレッシャーに弱いアーニャがよろけた。

 

「あ……う…………ちょ、ちょっとキンチョーしてきた」

「わ、私も。緊張を解すには手の平に人って漢字を書いて呑み込めばいいのよね」

「人、人と」

「呑み込む…………って、これでどうやって緊張が解れるのかしら?」

「さあ?」

 

 手の平に人を書いては呑み込んでいたが些細な疑問にぶち当たってしまい、緊張していたはずなのにネギとアーニャは二人で顔を見合わせて首を捻り合う。

 

「馬鹿じゃん。いいから、さっさと行こうぜ」

 

 転入生として心配なんて欠片もしていない超ウルトラマイペースのアスカが二人の状況を端的に表現しながら、しずなが止める間もなく教室へと入って行く。

 ノックすらせず、中にいるのが女生徒で自分が男であることなんて欠片もない気にしない堂々たる仕草で扉を全開に開いた。

 

「あ」

 

 後ろにいたネギやアーニャにはアスカが扉を開いた直後、上から黒板消しが落ちて来るのが見えた。スパーンと開かれた扉に生徒たちが驚きの目を向ける中で、黒板消しは重力に従って真下にいるアスカの頭に向かって落ちていく。この悪戯を仕掛けた美空達が会心の笑みを浮かべるぐらいに避けようのないタイミング。

 

「なんだこれ?」

 

 後少しで頭に落ちる前にアスカの右腕が霞み、気が付いた時には黒板消しは掴まれていた。

 頭の上から黒板消しが降ってきたことに首を捻るアスカが更に一歩踏み出すと、足元の縄が引っ掛かった。足元でなにかが引っ掛かった感触にアスカが下を見下ろした瞬間に、ミスリードさせたこの瞬間を待っていたとばかりに水の入っているバケツが落ちて来た。

 

「あん?」

 

 下を見たままアスカは左手を上に上げてバケツを受け止め、追い打ちをかけるように教室入り口の天井に仕掛けられた先が吸盤になった矢が次々と飛来する。

 左手はバケツを持っているので塞がれており、アスカは仕方なく黒板消しを持っている右手で矢を掴んでいく。合計三本飛来する矢を、親指と人差し指で黒板消しで掴みながら人差し指から小指の間に一本ずつ掴むという妙技で。その間、一度も足を止めることなく。

 

「あらあら」

 

 遂に教壇に辿り着いたアスカに罠が全部発動したことを感じ取ったしずなは感心しながら後ろの二人を連れて進む。

 黒板消しを置き、教壇にバケツと吸盤付き矢三本を乗せたアスカの後から壇に上ったしずなは、披露された妙技に口を開けて唖然としている大半の生徒たちを前にして嫣然と微笑んだ。

 

「新しい先生とお友達に手荒い歓迎ね。自分から名乗り出るなら罪は軽いわよ?」

 

 男を魅了せずにはいられない笑みなのに威圧すら感じさせるしずなに、美空と鳴滝姉妹は十三階段を上げる死刑囚の面持ちで立ち上がるのだった。

 しずなより放課後の裏庭の雑草抜きを命じられ、しくしくと涙を流しながら座って悪戯三人組を誰も気にすることなく、生徒たちの全意識は壇上に向けられていた。

 

「ええとあ………あの……。ボク………ボク………今日から、いや正確には明日からですけど、この学校で教師をやることになりましたネギ・スプリングフィールドです。3学期の間だけですけど、よろしくお願いします」

「同じくアンナ・ユーリエウナ・ココロウァです。私達は主に出張などで不在になる高畑先生の補佐をすることになります。何分、若輩者ですがどうかよろしくお願いします」

「アスカ・スプリングフィールド。生徒なんで適当によろしく」

 

 緊張しながらも言うべきことはしっかりと伝えたネギ、外面用に仮面をしっかりと被って猫被りモードなアーニャ。前者二人に比べて言う通り適当な自己紹介をするアスカであった。挨拶一つとっても性格が滲み出る物である。

 

「なによ、その挨拶は」

「僕も流石にどうかと思う」

「いいじゃん。俺の挨拶なんだから勝手にさせろ」

 

 アスカの挨拶の適当さに小声で二人が注意するが当の本人は全く気にしない。こういう性格なことは思い知らされているが、この風雲児の学生生活が心配になった保護者の二人だった。

 保護者二人がマイペース過ぎる被保護者に溜息をついた瞬間、最初は呆然と壇上に視線を向ける生徒達の時間が動き出した。

 

「「「「「「「「「「「キャアアアッ! か、かわいいいーーーーーっ!」」」」」」」」」」」

 

 学校を揺らすかのような大歓声と共に生徒達は立ち上がって一斉に立ち上がりあっという間に三人を殺到して囲み、もみくちゃにしはじめる。完全に愛玩動物扱いだった。

 

「何歳なの~~?」「えうっ!? 僕達は数えで十歳でアーニャが十歳です」「どっから来たの!?何人!?」「ウェールズの山奥よ」「ウェールズってどこ?」「イギリスの片田舎って言ったら分かるかしら」「今どこに住んでるの!?」「ええい! 鬱陶しい!」

 

 生徒達から矢継ぎ早に告げられる質問にネギは困りながらも、次の質問を上げられてもアーニャは余裕を以て答えていく。纏わりつく生徒たちに特にもみくちゃにされているアスカも流石に生徒に怪我をさせるわけにはいかないので無理矢理に振り解くことも出来ず、言葉では逆らないながらも下手な動きが出来ず翻弄されていた。

 

「ねえ、君ってば頭いいの!?」

「い、一応大学卒業程度の語学力は」

「スゴ――イ!!」

「わわ―――」

「変なところ触らないでったら!」

 

 ネギは今もハルナの中学生らしからぬ胸に抱きしめられ、可愛いもの好きの何人かに捕まったアーニャは全身をかい繰り回されていた。

 

「こんなかわいい子もらっちゃっていいの!?」

「こらこら上げたんじゃないのよ。食べちゃダメ」

 

 美沙・円・桜子他数名に集られたアスカは悲鳴すら上げることもなくあちこちから手を伸ばされてしっちゃかめっちゃかに弄繰り回され、遂に我慢の限界が訪れた。

 

「…………い……い……加減に離れろ!」

 

 ドンと床を強く踏み切って地震が襲ったのかと勘違いするほどの揺れを引き起こし、纏わりつく生徒たちを引き剥がす。どんなに運動神経が切れていようとも踏鞴を踏む程度の揺れに生徒は目をパチクリとさせて動きを止めた。

 

「はいはい、みんな。時間も押してるし、授業しますよ」

 

 その間隙を見逃さずに手を叩いて注目を集めたしずなは、次いで新任教師と乱れた制服を直しているアスカを見た。

 

「ネギ先生とアーニャ先生、お願いします。アスカ君の席は廊下側の席の一番後ろ、エヴァンジェリンさんの隣だから」

「エヴァンジェリン?」

 

 ぞろぞろと自分の席へと動き出した生徒の中で取り残されていたアスカは、しずなに示された席にいる一人の少女に目を向けた。

 記憶に引っ掛かるものがあるのか首を捻りながら指定された席へと向かって歩き出す。件の少女―――――エヴァンジェリンは、先程までのくだらない騒ぎに興味がなかったのか机に伏せて寝ていたがアスカが近づいていくと顔を上げた。

 交わる視線。徐々に近づいていく距離。

 四番目の古菲の席の横を通り過ぎると前の席にいる絡繰茶々丸が腰を浮かしかけたのをエヴァンジェリンは静止した。

 相手の出方が分からず、これだけの衆人環視の中で取れる行動の少なさがあったからだ。スプリングフィールドの血族という相手が相手であるだけにエヴァンジェリンは慎重策を取った。つまりは様子を見ようとしたのである。

 

「今日の授業は高畑先生よりプリントを預かっています」

「これでアンタ達の今の実力を見せてもらうわよ」

 

 アスカはそのまま五番目の不平を漏らす明石祐奈の席を通り過ぎ、六番目の席の廊下側に座っているエヴァンジェリンとなんの障害物のない二メートルもない距離で向かい合う。

 ジロジロとした遠慮のない視線でエヴァンジェリンを見たアスカは途端に気の抜けた顔で口を開いた。

 

「ダークエヴァンジェルかと思ったらただのガキか」

「お前もガキだろうが!」

 

 期待外れとばかりに小声で呟かれた言葉に反応して、思わず机の上に置かれていた筆箱を掴んでアスカの顔面に投げつけたエヴァンジェリンは悪くないはずだった。

 



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第2話 俺と僕と私は魔法使い

 終業のチャイムが鳴り響く中、教師という初めての経験と見知らぬ環境に心身ともに疲れながらネギとアーニャは校舎を出た。放課後は朝の大混雑とは違って下校する生徒の姿がちらほらと見えるのみだ。何処かに行く宛てもなく、人の通りの少ないベンチに並んで座る。

 

「ふ――、やっと一段落だ」

「流石に疲れたわね」

 

 荷物を下ろして今日の出来事を思い出しながらリュックから水筒を取り出して飲んでいるネギの横で首を鳴らすアーニャ。

 

「プリントの結果はどうだった?」

「見てみる? 凄いわよ。見た時から規格外なクラスかと思ったら成績まで極端だったわ」

 

 アーニャは言いながら取り出したプリントの束を広げた。水筒を下ろし、横からプリントの点数を見たネギは苦い野菜を食べたかのように渋くした。

 

「うわぁ。出来てる人は完璧だけど出来てない人は酷い」

 

 分かりやすいように点数順に並べられたプリントの端と端を見比べると点数差は一目瞭然。

 

「時間もあったから二学期以前の成績を見せてもらったけど、もう極端すぎるわこのクラス」

 

 プリントの束を広げているアーニャは手元を周りに見えないようにしながら魔法を展開し、なんともいえない表情をするアーニャに顔を寄せたネギは眉間に何重もの皺を作る。二人の気持ちは同じだった。悪い方向に。

 

「学年トップクラスが何人もいるのに最下位近くが五人もいる」

「逆にバランスがいいっていえばそれまでだけど、24もクラスがあるんだから普通はもう少しバラつかせないかしら」

 

 今後の展望の先行きさ不透明にネギとアーニャはガックリと肩を落とした。

 

「なんたってアスカもいるからね」

 

 ネギの声でアーニャが顔を上げれば、一緒に来た当のアスカはブレザーの上を脱いでYシャツの袖を肘まで捲り上げてイメージトレーニングをしていた。

 二人の悩みなんて考えもしていないだろうアスカは、ボクシングのシャドーのように拳を振るっていたがイメージトレーニングの相手は恒例の高畑らしく、直ぐに防戦一方になって回避行動ばかりが増えていく。

 

「同年代と比べてもバカなのにあれでよくネギと一緒に飛び級出来たわよね」

「アスカの場合は実技が抜群だったから。後、テストの山勘が冴えすぎて点だけは取れたから運良く」

「なにその羨ましいの」

 

 アスカの山勘は魔法学校では有名だったのが兄弟に負けじと必死に勉強していたアーニャは知らなかったようだ。普段は勉強できないのにテストの点数は良かったことに不審を覚えていたが、長年の謎は解けて万々歳とは言えない。ネギ達に置いていかれないようにアーニャがどれだけ努力してきたことか。

 学生最大の最難関を突破する都合の良い能力を持っているアスカに嫉妬の視線を向けた。 

 

「で、どうする? 下位陣のこの点数と成績は早めにテコ入れしておいた方がいいと思うけど」

「高畑先生が偶に小テストをして、あまりにも得点の低い生徒に放課後に居残り授業をしていたからそれを継続したらいいわ。これがしずな先生に貰った居残りリスト」

 

 アスカ関連のことでは切り替えが早いアーニャは、準備よく鞄から取り出した顔写真入りのリストを取り出してネギに渡した。

 渡されたリストをパラパラと捲ったネギは予想通りのメンバーに頷く。

 

「成績下位五人組とプラスアルファか」

「その成績下位五人組をバカレンジャーなんて呼んでるらしいわよ」

「アーニャは情報早いなぁ」

 

 水筒を片付けてクラス名簿を取り出し、渡された顔写真入りのリストと成績表の三つを照合していたネギは行動が早いアーニャに感嘆する。

 

「クラスにずっといたアンタと違って私は英語の授業以外はフリーだったから色々と動いてたのよ。新任だからみんな親切に教えてくれたお蔭ね」

 

 言葉は殊勝ながらも「私を敬え」とばかりに鼻をピクピクと震わせるアーニャに、面倒だからネギは突っ込まずにさっさと話を進めることにした。

 

「居残り授業のメンバーはバカレンジャーとアスカは外せないとして」

「後、何人かも加えておきましょうか。そうね、500位以下のこの四人がいいかしら」

「合わせて十人か。ちょっと多くない?」

 

 十人を二人で見るのは苦しくないかと思うネギに対して先を見ているアーニャの意見は対立するとまではいかなくて少し異なる。

 

「少しずつクラスの意識を変えていかないと意味ないじゃない。無理そうなら次回からはバカレンジャーとアスカだけにすればいいし。実習生だからって赤点をとるような生徒がいると困るじゃない」

 

 クラスに溶け込もうとするネギと、教師と話をして内情を調べて来たアーニャでは根本から意識が違う。この場合はどちらが間違っているというわけでもない。

 

「大変よね、教師って」

「本当」

 

 考えなければいけないこと、しなければいけないことが多すぎて二人は疲れたようにため息を吐いた。視線の先ではイメージトレーニング相手の高畑に殴られたのか、首を大きく振ったアスカがゆっくりと地面に倒れていく。

 Yシャツのままでアスファルトの地面に背中から倒れた瞬間にアーニャが口を大きく開けた。

 

「ああ!? なにやってんのよボケアスカ! 誰が洗うと思ってんのよアンタは!」

 

 ネギがあっと思った時には隣のアーニャが立ち上がり、怒声に息を荒げている横になったままアスカが顔だけをこちらへと向けた。ドシドシと足音がしそうなほど強い足取りでアスカを説教しに行ったアーニャの背中を見送ったネギは、一人で息をひっそりと吐いた。二人のことは意識からあっさりと弾き出し、別のことを考える。悩みは教師としてだけではない。他にも懸念はあった。

 

「まさか父さんが退治した闇の福音が生きてたなんて」

 

 ホームルーム直後にアスカが引き起こしたごたごたで、退治されたはずのクラス内に闇の大魔法使いの存在を知ったネギは頭を抱えた。超高位魔法使い身近に、それも自分が教える生徒の中にいるなんて想像もしていなかった。想定外の事態に強いアスカとは反対に弱いネギは悩みの中にあった。

 

「生きてるってことは父さんは退治しなかった。生徒として通ってるってことは最低でも学園長は知ってるってことだよね」

 

 うーん、と唸りながら明かされていない情報に頭を働かせる。エヴァンジェリンを退治しなかったことも、学園側が何らかの意図を以て生徒として通わせていることもネギとしては本音を言えばどうでもいい。問題はエヴァンジェリンがスプリングフィールド兄弟に向ける殺気混じりの視線にあった。

 

「なんか僕まで睨まれてるし、絶対父さん何かやったな」

 

 アスカだけなら初対面でのいざこざから理解出来るものの、碌に会話すらしていないネギまで廊下ですれ違った時に殺気混じりの視線を受ける道理はない。

 

「毎度毎度アンタは懲りるってことを知らないの!」

 

 腕を組んで首を捻るネギの視線の先では、アスファルトの上で正座させられて仁王立ちしたアーニャにガミガミと説教されていた。やれ、何時も何時も汚して誰が洗濯すると思っているのだとか、普段から考えて行動する癖を身に付けろだとか、もはや今回の一件には関係のない説教に突入しているが、ネギは全くこれっぽっちもアスカを助ける気にはならない。下手に助けを出せば今度はネギの方に嘴が来ると分かっている経験からだった。

 

「本人に問い質すか、学園長に助けを求めるか」

 

 エヴァンジェリンには魔力を殆ど感じなかったので、もし戦うことになっても三人なら負けはないと思うが下手なリスクは取らない方が賢明と、言いながらネギは後者の選択を選ぶことに決めた。

 

「あ~、酷い目にあった」

 

 説教が終わったらしくブレザーを肩に背負ったアスカが首をコキコキと鳴らしながらネギの下へとやってくる。そういうことを言うから後ろにいる般若顔のアーニャを怒らせるのだと分かっていない双子の弟に、深く長い溜息を吐きながら直した水筒を取り出して放り投げる。

 「サンキュ」と言いながら危なげなくキャッチしたアスカは、イメージトレーニングで喉が渇いていたのだろう水筒を傾けてゴクゴクと呑み込む。環境や状況が変わろうとも何時も通りのアスカの姿に逆に安心感を覚えたらしいアーニャも怒りを収めたようだった。

 

「まどろっこしいことを考えてそうな面してんな。エヴァンジェリンのことだろ?」

 

 水筒の中身を呑み込んだアスカは手の中で空瓶を弄びながら悪戯っぽい笑みを浮かべた。双子の弟の勘の良さは今に始まったことでもないので、ネギは自分がまどっろこしいことを考えている面をしているのかと顔を触りながらも素直に頷いた。

 

「下手の考え休むに似たり。ネギは顔に出やすいぞ」

「アスカが難しいことを言ってる?!」

 

 カラカラと笑いながら忠告してくるアスカだったがネギは別のことに震撼していた。

 

「お前は誰だ! アスカのニセモノだな! 本物をどこにやった!」

 

 脊髄反射で生きているアスカが諺やらを知っているがはずがない。ネギは即座に目の前にいるのは偽物だと断定した。

 

「どうせどっかで聞きかじったことを言ってるだけでしょ」

「そうとも言うな!」

 

 立ち上がって指を突きつけるネギに呆れるアーニャの横で貶されたアスカは何故か笑っていた。難しいことを言えるはずがないと自分でも理解しているらしい。

 

「折角、強い奴が近くにいるんだから俺達の目的の為に利用してやろうぜ」

「利用って具体的には?」

()るか、教えを乞うかに決まってるじゃないか」

「決まっているじゃないわよ、このアンポンタンが」

「なぁ、世に名だたる大魔法使い様なんだ。当たって砕けろとは言わねぇが聞く分にはタダなんだから利用しなきゃ勿体ないだろ」

 

 うむ、とネギは無駄に自信満々のアスカの意見に黙考した。論理的ではないが悪いアイデアではないと結論付ける。リスクはあるが、どんなことであっても大なり小なりのリスクはあるものだ。学園長に助けを求めたとしても望んだ通りの結果が得られるとは限らない。で、あるながらば自分達の目的を達成するために最善と思える行動を取るのが当然のこと。

 

「悪くないアイデアだと思う。駄目なら学園長に助けを求めればいいし、アーニャはどう?」

「いいんじゃない。確か六百年は生きてるんでしょ。味方になってくれればこれほど頼もしい相手もいないわ。対立すらなら怖い相手だけど、悶着起こっても逃げ場があるなら私も文句は言わない」

「なら、決まりだな。善は急げだ。早速()りに行こうぜ」

 

 妙にアスカが「当たって砕けろ」「善は急げ」などの諺を使おうとするのは、今学期一杯で定年退職予定の国語の老年教師が言っていたことを真似しているのだ。どうも意味合いとフレーズが気に入ったらしい。

 拳を握って戦う気満々のアスカに教えを乞う気があるのかどうか、そこはかとない不安を覚えたネギだったが、その時になれば自分とアーニャで止めるしかないと諦めて立ち上がった。

 

「この時間だともう家に帰ってるんじゃないかしら。家知ってるの?」

 

 広場にいれば下校する生徒たちの姿も見えたので何時までも学校にいるとは限らない。

 時間はもう夕方。部活動をやっていないとすれば既に帰宅していても不思議はない。

 

「知らねぇ。これから調べたらいいだろ」

「思い付きで行動してるからアスカって計画性ないよね」

 

 提案者のくせして能天気なアスカに、三人で並んで歩きながら嘆息するネギ。

 

「生徒の家って教えて貰えるのかしら?」

「良く授業をサボってみたいだから家庭訪問をするって理由をつければ大丈夫だと思う。やる気のある新任教師の行動だと見えるように努力しないといけないけど」

「出来んの?」

「多分」

「大丈夫だって。いざとなれば俺に任せろ」

「その根拠のない自信にあやかりたいよ」

 

 小首を傾げたアーニャに自信なさげに顔を下げるネギとは反対にどこまでもアスカは自信満々だった。

 

「ん?」

 

 学校に戻る為に鐘を鳴らす女子普通科付属礼拝堂を通り過ぎて、西欧文化の流れを汲んだ石像を中心に置いた広場に到着した時、ふいにアスカが何かに気づいたように顔を動かした。アスカの動きに吊られて視線の先を見た二人は、今まさに階段を下りようとしている一人の少女を見つけた。

 

「あれ……あれは27番の宮崎のどかさんだったかな」

「たくさん本持って危ないわね」

 

 見覚えのある少女にクラス名簿を取り出して確認するネギ。その横でアーニャが不安を帯びた顔をした。

 三人の視線の先で宮崎のどかは手すりの無い階段を大量の本を持ってヨロヨロフラフラと危なっかしく階段を下り始めた。

 

「ん? あれ、あいつは」

 

 階段を下りるのどかと広場にいる三人の対角線上で、両者を視界に入れる位置にペットボトルが入った袋を持った神楽坂明日菜がいた。

 

「あっ」

「!! やっぱし!」

 

 三人の危惧通り、足を踏み外したらしく大きく本が散らばり姿勢を崩したのどかが階段の外側に落ちた。手摺がないので十メートル近い高さから真っ逆さまに落ちていく。

 

「アスカ!」

 

 アーニャが隣にいるアスカの顔を見ずに大声を上げた。その前に既にアスカは踏み込んでいて、のどかが階段の外側に落ちた瞬間には体が前へと動いていた。

 肩に乗っけていたブレザーを置き去りにして、普通の人には一瞬にも思える時間でのどかまでの距離をぐんぐん縮めるアスカだったが、同時に致命的なまでの事実にも気が付いてしまった。

 

(間に合わない!)

 

 広場のアスカ達がいた場所とのどかが落ちた階段まではかなりの距離がある。しかものどかは数冊の本を抱えたままなので重量によって落下速度が速い。のどかが落ちた瞬間には動き出したといっても常人ならば絶対に間に合わないタイミングであったが、覆すのが魔法使いたる彼らならば可能である。

 制約によって全力を封じられていても、オリンピックの金メダリストよりも遥かに速い速度で駆けられても、間に合わないものは間に合わない。それはのどかの危機に気づいで走り出そうとした明日菜も同様だった。

 

風よ(ウェンテ)!」

 

 アスカが走り出したようにネギが咄嗟に手に取った杖が集中と同時に先端の布が解けていき、魔法を発動して風を生み出した。駆けるアスカの足先を文字通り風が走り抜け、のどかが落下す真下から上昇気流となって彼女の落下スピードを遅らせる。

 これを好機と見て更にアスカの駆ける速度が増したが、どうしても後一歩分の距離が足りない――――――と、考えていたアスカの背中に一条の炎の矢がぶち当たった。アーニャが無詠唱で放った魔法の射手・火の一矢である。 

 

「だあああああああああああっっっっ!!」

 

 最後の助力を得て体を前進させたアスカはのどかを見事に受け止めた。肩とスカートの下の剥き出しの太腿を抱き留め、走る勢いを止める為に足を踏ん張ってブレーキをかける。

 靴裏で地面に二筋の轍を数メートルも作りながら、ようやく停止する。

 

「あっちぃいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!!!!」

 

 助けたのどかを地面に下ろして膝をついたアスカが痛みに悶える。完全に意識外にあった背中に魔法の射手・火の一矢を受けた背中は、恒常的な障壁を張っていないアスカでは被弾した箇所のYシャツが燃えて軽度の火傷を負うことは避けられない。

 土下座の近い姿勢で震えるアスカの近くで、のどかは落ちた精神的衝撃で気絶しているのか目を閉じたまま起き上がらない。 そこへようやく追いついたネギがのどかが気絶していることを確認して治癒魔法をかける。

 

「緊急事態だから仕方ないけど、やりすぎだよ」

 

 アーニャ、とゆっくりと足音を立てて近づいてい来る下手人の名前を呼ぼうと治癒魔法をかけながら振り返ったネギの顔は、そこにいるはずのない人間がいて絶句した。

 

「あ……アンタ達……」

 

 ここにいてはらならない神楽坂明日菜は火傷を癒したネギの手と痛みが引いて顔を上げたアスカ達の前で、タイミングが良いのか悪いのか驚愕の色を浮かべながら立っていた。

 

「あ……いや、あの……その」

 

 明日菜の後ろにいるアーニャが天を仰いで「あちゃー」と手で顔を覆っているのはともかく、当事者であるアスカが「これはマズった」と少しも気にした様子がないのは、どうやって状況を打開するべきか全開で頭脳を働かせているネギの癪に障ったが現実はどうしようも出来なかった。

 

「ぅ……うぅ」

 

 ネギと明日菜は互いに動かなくなったまま見つめ合いが続いていたが、気が付いたらしいのどかの声が状況を動かす。動いた明日菜がアスカの襟首を掴み、反対の手でネギを抱えて走り出した。

 明日菜に見られたことでまだ固まっていたネギは上手く抵抗することが出来ず、アスカは色々と諦めた風情で攫われて行ってしまった。

 

「あ~あ、どうしましょう」

「せ……先生?」

 

 アーニャは視界外にいたお蔭で気付かなかったらしい。明日菜によって連れられた二人を見送って、のどかが起きたのを見ながらこちらもどうしようかと悪知恵を働かせなければならないアーニャだった。

 子供二人を抱えて全力疾走するという力技を成し遂げた明日菜は、木々が生い茂る場所で二人を放した。

 

「子供が教師なんておかしいと思ったけど、ああああんた達は超能力者だったのね!!」

「い、いやちがっ」

 

 放り出されてゴロゴロと転がって木にぶつかりがながらも律儀に答えるネギと、受け身を取ってYシャツの背中部分を肩越しに見ているアスカの二人を見比べ、明日菜は前者を詰問することに決めた。押しに弱そうなのはどう見てもネギの方である。

 

「誤魔化したって駄目よ。目撃したわよ。現行犯よ!! 答えなさい。みんなを操って何が目的よ!」

「あうう~~~っ」

 

 明日菜はネギのコートの襟元を掴んで感情が高ぶってきたのか涙目で詰問する。

 

「白状なさい。超能力者なのね!」

「ボ、ボク達は魔法使いで……」

「どっちだって同じよ!!」

 

 ネギを振り回して白状させようとした時に、明日菜は吐かれた言葉に重大な事実が潜んでいることに気が付いた。

 

「え、魔法使い?」

 

 Yシャツの背中側の真ん中に開いた穴の端から焼け焦げた部分を毟っていたアスカは、うっかり漏らしたネギの失言にポカンと口を開けている明日菜に色々と諦めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 前後不覚になったネギや、もうすっかり諦めて不貞寝モードになったアスカではなく、後から来たアーニャが明日菜への説明を行なっていた。

 

「つまり、アンタ達は魔法使いの卵だってこと?」

 

 あまり頭の良い方ではない明日菜は難しい話をされても分からない。込み入った話もあってこんがらがりながらもなんとか要点だけを捉えていた。

 

「見習い魔法使いの方でもいいわよ。一人前って認められるのは修行を終えた後だから」

「へぇ、魔法を使えたら魔法使いってわけじゃないんだ」

 

 感心した様子で頷いた明日菜の直ぐ横で似たような髪型をしているアーニャの髪の毛が揺れる。

 

「でも、なんで魔法使いの修行で教師とか生徒をやってるの? 修行ってファンタジー的に考えて竜を倒すとか、金銀財宝を見つけるとかじゃないの」

 

 校外から下駄箱に入って靴を履き代えながらの明日菜の問いにアーニャは鼻を鳴らした。

 

「漫画とかの読み過ぎよ、明日菜」

 

 先に靴を履き代えたアーニャは歩みを進め、髪を靡かせながら笑う。

 

「現代の魔法使いは普通の人達に混じって生活してるわ。この修行も魔法の世界から離れて普通の人の中で暮らす術を見に付けろってことでしょ。それでなんで教師なのかは理解に苦しむけどね」

 

 明日菜が足を進めれば二人の身長は大きいので簡単にアーニャに追いつく。追いついた後は足を進めるスピードを緩めなければならないが苦痛に感じるほどではない。ガサツに見られることの多い明日菜だが気の利かせられる女なのだ。

 

「じゃあ、もし今回みたいに魔法がバレちゃったらどうするの?」

「普通なら今は仮免期間中みたいなものだから強制送還。酷い時は刑務所行きかしら」

「え"」

「勿論、明日菜は私達の未来の為に黙っていてくれるわよね。ねぇ、あ・す・な」

 

 絶句した明日菜の前に出たアーニャは嫣然と笑って近づき、明日菜の名を呼びながら顔を近づける。小悪魔的な魅力を全開するアーニャが脅しをかけているのだと気づいた明日菜は唾をゴックンと呑み込んだ。その呑み込む音がいやに大きく響いた気がして羞恥を覚えたが、足を止めた明日菜の後ろでネギが一度解かれたはずの杖の布を解き、アスカが拳を握ってポキポキと骨を鳴らしていることに気が付いて戦慄した。

 前にはアーニャ、後ろにはネギとアスカ。三人とも魔法使いで、明日菜には助けることの出来なかったのどかを助ける能力を持っている。抗える状況ではなかった。

 

「…………勿論、黙っているに決まってるじゃない! もうやだな、アーニャちゃんは」

 

 アハハハハ、と頭を掻いて虚ろに笑う明日菜は全力でヒヨッた。理不尽な暴力には抗うタイプであっても敗色濃厚な戦いに身を投じる猪ではない。彼らの未来の為と言い訳をして、明日菜は反抗心を心のドブの底へと押し込めた。

 神楽坂明日菜十四歳、魔法使いに身も心も屈した瞬間であった。

 

「平和的な手段で解決して嬉しいわ。ねぇ、アンタ達」

「うん、良かったぁ」

「え~」

「そこのボケアスカは黙ってなさい。なんで残念そうなのよ」

 

 普通に安心してるネギと違って暴れるられることを期待していたアスカに突っ込みを入れつつ、アーニャは無理矢理に明日菜を手を握って友好をアピールする。握手するアーニャの笑顔の背後に悪魔を見た明日菜は抵抗も出来なかった。振り回される任せて握手を続ける。

 

「で、アンタ達ってどんな魔法を使えるの?」

 

 歩みを再開した三人に明日菜は先の恐怖を忘れる為に問いかけた。純粋な興味が混じっていたことは否定できないが。

 問いかけにアーニャは顎に手を当てた。

 

「修行中の身だからあんまり多くないわよ。特にアスカなんて数えるほどだし、私も平均よりちょっと多い程度。ネギはアホみたいに多いけどアイツは例外中の例外。参考にはならないわね」

「惚れ薬とかないの?」

「あるけど、持っているだけで犯罪よ。人の心を操る魔法とか薬品系は常識的に考えて禁止されるに決まってるじゃない」

 

 先を歩く二人の後ろで、ネギがアスカの背中のYシャツの空き具合に気が付いてちょっかいを出していた。

 背中をつぅと擦すられた実はくすぐったがりのアスカが身を悶えさせ、ちょっかいを出したネギに頭に拳骨を落していた。

 

「ううっ…………お金のなる木とかないの!?」

「意味わかんないわよ。金のなる木はともかくとして、特定の国のお金がなる木なんてあったら逆に引くわ」

 

 拳骨を落されたネギは頭を擦りながら「何時までも背中の開いたYシャツを着ているのはマズいよ」と真っ当な意見を出していた。それもそうだと頷いたアスカだがどこに制服を貰いに行けばいいのかと首を捻り、二人で取りあえず事務室に行くことを決めてとっとと離れて行った。

 あっという間に姿が見えなくなった二人を見送ったアーニャ達は階段の踊り場に到着した。

 踊り場の窓から夕陽が照らし出され、世界は一時だけ幻想染みた世界へと移り変わる。

 

「魔法だからって万能じゃないわ。死んだ人を生き返らせることなんて出来ないし、過去へと戻ることも出来ない」

 

 言ったアーニャの顔が夕陽に照らされて、逆光になって明日菜からはよく見えなかった。一瞬だけ見えた表情はどこかアーニャらしくないものに見えた気がしたが見間違いだと気にしなかった。

 

「これはうちの学校の校長先生が言ってたことなんだけど」

 

 一度言葉を切ったアーニャの顔は笑っていた。

 

「『儂らの魔法は万能じゃない。僅かな勇気が本当の魔法』。高畑先生を振り向かせたいなら魔法なんて物に頼らず、自分で告白することね。魔法で好きになってもらっても嬉しくないでしょ?」 

 

 生意気でこまっしゃくれた少女は悪戯っぽく笑っている。高畑に振り向いてほしいがそれが魔法であったならばやはり自分は悩むことになるだろう。明日菜は胸を突かれた思いだった。

 

「アーニャちゃんって本当に魔法使いみたい」

「馬鹿ね。私は元から魔法使いよ」

 

 どうしようもなく胸の奥から笑いが込み上げて来て、アーニャと二人で笑い合った。

 

「アーニャちゃんにはいないの? 好きな人とか」

「いないわ。今はやることがあるから恋愛なんてしてる暇なんてないし」

「さっきの二人とかどうなの。幼馴染なんでしょ?」

「あの二人が恋愛対象になるわけじゃない。ガキよガキ。どんだけ頭良かろうが、どんだけ運動神経が良かろうが、あの二人だけは絶対にないわ」

 

 幼き頃に淡い想いを抱きもしたが、今ではそれは小さな子供の過ちだったと自覚しているアーニャは言わなかった。

 

「どうなってるの?」

「さあ?」

 

 仲良く話をする二人を、運良く早く制服を入手できたネギとアスカが物陰から覗きながら顔を見合わせていた。団子のように上下に並んで顔を出す二人は全然隠れていない。真っ先にアーニャが気づいた。

 

「あ、こらアスカ。またネクタイちゃんとしてないじゃない」

「げっ」

「ほら、逃げないの」

 

 見咎めたアーニャが足早に上っていた階段を下りて来るから逃げようとしたアスカの襟首をネギがしっかりと捕まえる。彼我の身体能力差なら十分に振り解けるが逃げたところで意味はないと知っているアスカは大人しくアーニャに捕まってネクタイを締められる。当然、出来た後には緩めるが。

 

「仲いいわね」

 

 ギャーギャーと集まって姦しい三人を明日菜は微笑ましく思えて笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギャーギャーと言い合う三人を先導しつつ、明日菜は2-Aの教室へと辿り着いた。

 

「ほら、アンタ達で開けなさい」

 

 うっかりと自分で開けそうになった明日菜は寸前で留まって、後ろにいる三人組に問いかけた。

 自分で開ければいいのに譲った明日菜に不審も露わにするネギとアーニャだったが、こういう時に決まって真っ先に行動するアスカが気にせず朝のようにスパーンと扉を開けてしまった。

 

『ようこそネギ先生&アーニャ先生&アスカ君――――ッ!!』

 

 開けた瞬間、中からクラッカーが幾つもならされて巻き上がった紙吹雪や紙テープがアスカの髪の毛や肩に舞い降りる。

 

「さあさあ、主役達は真ん中に行った行った」

 

 朝倉和美が言いながらアスカの背中を押し、雪広あやかと那波千鶴がネギとアーニャの手を引っ張ってクラスの中心へと座らせる。

 ポカンとしている前者二人は為すがままだった。

 

「ふ~ん、明日菜は私達を連れて来る役だったのね」

 

 二人と違ってクラスの人間の性格を同性として感じ取っていたアーニャは大凡の流れを掴んだ。

 椎名桜子に紙コップを渡されて和泉亜子にジュースを注がれているネギと、超鈴音と四葉五月から特製肉まんを振る舞われて食べているアスカを見て、クラス全体の準備の良さから状況を推察したアーニャは近衛木乃香に問いかけた。

 

「本当はうちらが呼びに行く予定やったんやけど、のどかが先生らに会ったて聞いて明日菜も一緒にいるいうから頼んでん」

「私達の為にご苦労なことだわ。ありがとうと言っておくわ」

「ふふ、どう致しまして」

 

 改めてクラス全体を見渡したアーニャは、エヴァンジェリンを始めとして何人かの姿がないことに気が付いた。

 

「全員がいるわけじゃないのね」

「こういう場が苦手な子もどうしてもおるからな。勘弁したってや」

「気にしてないわ。こういう会を開いてくれただけも感謝しないと罰が当たるもの。文句を言うつもりはないわよ」

 

 騒がしいネギやアスカのいる席周辺に比べれば、木乃香と話していることもあってアーニャの周りはまだ静かな方だった。

 性格的なものをいえばアーニャも騒がしい場の方が好みだが、だからといって静かな場が嫌いというわけでもない。木乃香が話し上手で聞き上手なこともあって思い外、会話は楽しく感じていた。

 

「ん?」

 

 他愛もないことを木乃香に加えて綾瀬夕映や早乙女ハルナも交えて話していたアーニャは、話している三人以外に見られていることに気づいて首を巡らせた。他人の視線や気配に逸早く気づくのはアスカの専売特許だが、今回は自分に向けられたこともあってアーニャも気づいた。

 巡らせた顔の先でアーニャを見ていたのは、何故か片手に木刀のようなものを持っている鋭い目をした少女だった。顔を向けると少女は自然と一度は合った視線をずらされた。歓迎会の主役に注目が集まるのは当然。勘違いと言ってしまえばそれまでだが見ていただけというには少女の視線には感情が籠り過ぎていた。

 アーニャには以前にも似たような視線を向けられた記憶があった。魔法学校時代に顔だけは良いネギとアスカと親しくしていたアーニャに向けられていた嫉妬。少女に向けられた視線にはそれに似た感じがあった。

 

「どうしたの?」

 

 ハルナに声をかけられて、木刀を持った少女に嫉妬に近い感情を向けられる理由が分からなかったアーニャは顔を戻した。

 

「ねぇ、あの子って」

 

 クラス名簿はネギが持っているので、接する時間が短かったアーニャでは生徒全員の顔と名前の一致が出来ない方が多い。このような場では以外に周りの目を気にするアーニャではクラス名簿を広げるなんてことは出来なかっただろうが。

 

「あの子って…………せっ、桜咲さんがどうかしたん?」

「どうってわけじゃないけど」

 

 逆に木乃香に問われて答える言葉を持たなかったアーニャは窮した。まさか嫉妬に似た視線を向けられてなんでだろうとは聞けない。アーニャの勘違いかもしれないし、間違えていたら恥ずかしい。

 

「桜咲さんが木刀を持ってるのは剣道部だからですよ。寡黙な人ですが無暗に暴力を振るうタイプではないので安心して下さい」

「そうなの? 良かったわ。就任直後で問題児発覚なんて洒落にならないから」

 

 どうして先程、木乃香は刹那の事を呼ぶ時に詰まったのかと別方向の思考に飛んでいたアーニャは、気を利かせたつもりで実は勘違いしている夕映に問題のない返答を返す。

 ふと、クラス名簿の刹那の欄になにか気になることが書いてあったことを思い出したアーニャは、今夜の寝宿について考えなければならないこともあって宮崎のどかから何かを受け取っているネギを見た。

 

「ネギ! 鞄持ってこっちに来なさい!」

 

 のどかから何かを渡されて戸惑っているネギは渡りに船とばかりに席を立ち、足早に鞄を持ってアーニャの下へと困惑も露わに詰め寄る。

 

「ちょっとアーニャ。宮崎さんに何を言ったのさ。なんか僕が彼女を助けたことになってて図書券をお礼だって渡されたんだけど」

「顔が近い…………ああ、そういえば言ってなかったけどアンタが助けたことにしたんだっけ」

「助けたのは僕達三人でじゃないか。なんで僕一人が助けたことになってるんだよ」

 

 周りに話せない話だったので顔を寄せて来たネギを手で遠ざけつつ、ごめんごめんと適当に謝るアーニャだった。

 

「私はネギ()助けたって言っただけで、他に助けた人物がいないなんて言ってないわ。彼女が勝手に勘違いしてるのよ。アンタが助けたのも事実だし、本当のことを言えないんだから黙って感謝を受け取っておきなさい」

「だからなんで僕なんだよ。アーニャでもアスカでもいいじゃないか」

「アスカは下手うちそうだから却下。私も面倒。アンタ達は明日菜に拉致されてたし、残った私がどう伝えようが勝手でしょが。文句があるなら明日菜に言いなさい。それよりいいからクラス名簿」

 

 さっさと寄越せと手を差しだすアーニャに言いたいことの百や二千はあったが、やがてネギは諦めて鞄を差し出した。クラス名簿を取り出して渡さなかったのはせめてもの意趣返しである。結局、クラス名簿を取り出したアーニャが用済みとばかりに鞄を放り捨てたことで逆に意趣返しされたが。

 

「神鳴流ね。流石に同地同名の武門があるわけないわよね。なら、決まりね」

 

 仲いいね、と言ってくるハルナらに、あいつらは私の奴隷兼下僕と返しつつ、今夜の寝宿の当てを決めたアーニャは立ち上がった。

 アーニャが立ち上がって桜咲刹那に近寄っていくのを見たアスカは、肉まんを呑み込んで次のを貰う。ブラックホールに消えていくが如くことに面白がって勧めて来る柿崎美沙・釘宮円・椎名桜子から受け取った肉まんを口一杯に頬張っていた。

 

「良い食べっぷりアル」

 

 刹那に何かを話しかけているアーニャを見ていたアスカは、不意に話しかけられて顔を上げた。顔を上げた先にいたのはエキゾチックな肌をした片言気味の日本語を放つ少女――――古菲である。

 二人の視線が混じり合った瞬間、口の中の肉まんをごくりと呑み込んだアスカが椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。

 

「な、なに?」

 

 近くにいた明石祐奈、大河内アキラ、佐々木まき絵の三人が思わず何かあったと思う態度の急変。その間にもアスカは古菲と視線を合わせ続ける。

 一秒か、十秒か。それとももっと長くか。実際には短い時間だったがそれで十分だった。二人が相手のことを理解するのは。

 

「「友よ!」」

 

 手を差し出して二人は固く固く握り合った。なにか二人だけで通じ合うものがあったらしい。

 置いてけぼりをくらった周りを視線の中心で、甘い意味では断じてない近い距離で椅子に並んで座った二人はなにやら熱く語り合っていた。近くにいた長瀬楓がうんうんと何度も頷きながら話に相槌を打っていることが余計に周りの置いてけぼり感を強くした。

 

「あれだけ二人とも近いのにラブ臭がしないのよね。それどころか熱血スポコン漫画のライバル的な空気を感じるわ」

 

 他者の恋愛感情に反応する頭のアホ毛をしなびらせながら、そんなことを言う早乙女ハルナがいたりいなかったり。アスカは何時も通りだな、と恐らくバトルマニア的な同類が見つかってしまったことに軽く戦慄するネギ。

 アーニャが置いていったクラス名簿を放り捨てられた鞄を取ってくれたザジ・レイニーデイにお礼を言いながら直したところで、近くに古くからの知り合いが座っていることに気が付いた。

 

「やあ、ネギ君お疲れ様」

「タカミチ、しずな先生も」

 

 生徒達が盛り上がっているところを邪魔しないクラスの中心から離れた場所にいる高畑としずな。ネギは二人で並んで座っている席へと向かった。一番後ろの端の席にいる二人の対面の席に座ると、早速とばかりに高畑がコップにジュースを注いでくれる。

 高畑達が飲んでいるのと同じオレンジジュースだった。流石に学生がいる場で酒は用意されていなかったようだ。

 

「ありがとう。僕も入れるよ」

「いいよ。この場は君達が主役なんだ。初日で疲れているだろうから気にしなくていい」

 

 お返しとして注ぎ返そうとしたらやんわりと手で押し留められた。気を使ってくれるなら有難く受け取っておこうとネギは自分のジュースを飲んだ。

 座って一息ついたところでしずながネギを労わるように見た。

 

「クラスの方はどうだった? いい子達ばかりでしょ」

「はい、みなさん元気一杯で困ってしまうぐらいです」

「ははは、元気印が取り柄のクラスだからね。大変だとは思うけどよろしく頼むよ」

 

 しずなの笑顔の問いかけに、授業態度や休み時間の様子がクラスのあり方を大体推察したネギは苦笑を浮かべつつも悪い印象は持っていないことを努めながら返した。正直な感想に高畑が笑う。その顔を見てネギはアーニャ達と三人で話していた懸案事項の一つをここで解決しようと決めた。

 立ち上がり、高畑の下へ行ってその袖を引っ張りながら耳元で囁く。

 

「聞きたいことがあるんだけどいいかな?」

 

 周りに聞かれては困るとネギに雰囲気から悟ったのだろう。高畑はネギに引かれるままに教室の隅へと行く。

 

「なんだい? もしかして魔法関係のことかな?」

「違うよ。実はエヴァンジェリンさんの家がどこか教えてほしいんだ」

「エヴァの?」

 

 本来なら敵対していても不思議ではない超高位魔法使いの名前を略称で呼んでいることから、高畑がエヴァンジェリンとかなり親しい間柄にあることは察することが出来た。

 訝しげながらも疑問ではなく疑念の声音に、ネギ達がエヴァンジェリンに接することが望ましくない事態であることもまた同様に感じ取った。

 

「うん、彼女ってよく授業をサボっているみたいだから家庭訪問をしてなにか理由があるか探ってみようと思って」

 

 部屋の隅に行ってもネギ達が注目されないのは、視線を合わせた瞬間に同類を見つけあったアスカと古菲が廊下に出て試合を始めてしまったからだ。

 あの馬鹿弟は、と思いながらも表向きの理由で裏などないと表明しながらネギは高畑の表情を窺う。

 

「初日で良くそこまで調べたね。気付くとしたらもう少し後だと思ってたのに」

 

 感心した様子の高畑の表情からそれ以外の感情も考えも読み取れない。こういうのは本来ならアーニャの役目のように思えるが彼女はアスカに負けず劣らず直情傾向にある。二人とも腹の探り合いには向いていない人間なのでネギがやるしかない。

 

「アーニャがやってくれたんだ。クラス内に問題があるなら早めに取り掛かるに越したことはないからね」

 

 若輩者のネギに比べて相手は大人で、幾百の戦場を渡り歩いている猛者である。容易く読み取らせてくれるほど生易しい相手ではなかった。敗北感を感じても悲観はしない。

 学園側に属する高畑にこちらの目的を話しておくことはデメリットにはなりえないが、エヴァンジェリンの交渉のカードの為にも黙っておいても損にはならない。秘密で話をしに行ったというのは相手の機嫌を上げる可能性もある。目的の為には手段を選ばないのがネギであった。

 

「分かった。彼女の家は奥まった区画にあるから口頭で伝えるよりも地図を書いた方がいいだろう。ちょっと待ってて」

 

 そう言って高畑は近くにいた村上夏美に声をかけ、借りたペンと紙でスラスラと地図を書いていく。

 

「一報は入れておくから、頑張ってくれ」

 

 あっさりと地図を渡しながら言う高畑の意図を、ネギは最後まで推し量ることが出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 歓迎会も盛り上がつつも終わった後、ネギ達は女子寮へと帰る生徒たちは違う方向へと歩いていた。

 

「アーニャの部屋は出席番号15番桜咲刹那さんの所に決まったんだ」

「ええ、同室者も関係者らしいから気兼ねしなくていいわ」

 

 暗い夜道を怖がることなく歩く小学校中学年の子供数人は一般人の目かすれば奇異にも映るだろうが、この三人は魔法使いであるので平然と進み続ける。

 

「彼女、やっぱり神鳴流の遣い手らしいわよ」

「マジで? 近衛詠春が使ってたあの」

「そっ。詳しい話を聞く時間はなかったけど、木乃香の護衛の為にこっちに派遣されたんだって言ってたわ」

 

 頭の後ろで腕を組みながら歩いていたアスカが動物の耳がピンと立ったであろうとリアクションをするのに一々突っ込む気のないアーニャは、川の上にかかった橋を渡りながら人を寄せ付かせない鳥のように警戒心の強い刹那とのことを思い出していた。

 

「木乃香さんの護衛ってなんで?」

「アンタ、馬鹿ぁ? 木乃香って関東魔法協会理事の一人の学園長の孫で、関西呪術協会の長の娘でもあるのよ。日本を二分する二大勢力に関わりのある重要人物に護衛の一人や二人付けるのは当たり前でしょうが」

 

 ご尤も、と問うたネギは納得した。何故か罵倒されたような気もしたが大人しく納得することにしたネギだった。

 

「木乃香の魔力って俺達超えてるし、そんな重要人物の孫にして娘ならえらいサラブレットじゃねえの」

 

 父親である近衛詠春は魔法世界の英雄の一人でもあるのだから、似たような立場にいるのにあっさりと異国に送り出されたネギとアスカとでは凄い違いである。

 

「父さんは魔法世界の英雄で有名人、爺ちゃんは魔法学校の校長でイギリス魔法協会の理事の一人なのにこの違いはなんなんだろう」

 

 言葉はともかくとして、特に気にした風でもないネギがアスカと笑い合う。メルディアナ魔法学校は悪い場所ではないが、彼らの才に対して世界が狭すぎた。広い世界に足を踏み出したのに制約がつくのは面白くないと考える二人である。この双子は、とアーニャは考えながらも護衛が付いている姿が想像できなくて、無言で足を進めることにした。

 

「そろそろ着くんじゃないの? あまり遅い時間に帰ると色んな所に迷惑がかかし」

「タカミチの地図によると、もう着くはずだと思うけど…………あっ、あそこかな?」

 

 高畑に書いてもらった地図に目を落していたネギが指し示した先には、吸血鬼の居城というには不似合いなログハウスだった。

 

「普通だな」

「吸血鬼だから墓場とかに住んでるのかと思ったけど」

「馬鹿ね。郷に入っては郷に従えなんて諺がある日本で暮らしてるんだから、墓場なんてありえないでしょうが」

 

 前者二人は素直な感想を漏らし、アーニャだけは違うように見えて実は内心で同じことを思っていたりする。

 

「うし。さあ、行くぞ」

 

 心の準備なぞ、なんのその。流石に怖気づいた様子で足を止めたネギとアーニャを置いて、アスカは逆に足早にログハウスへと歩いて行ってしまう。変わらず折れず曲がらずのアスカの背中に溜息を吐きながらも勇気づけられた二人も後を追う。

 玄関前に立ち止まったアスカはドアノブを捻った。

 

「あ、鍵かかってねぇや」

 

 カチャリとあっさり開いたドアに頓着せず、アスカはログハウス内に足を踏み入れた。

 

「誰かいませんか――」

 

 暗闇の所為でベルが分からず、遠慮の欠片も無いアスカの後ろにつきつつ呼びかけたのはネギ。さっさと室内に入ってしまったアスカに呆れつつ追従したアーニャと共に絶句した。

 ログハウス内は外観はともかく内装こそはおどろしい物であると想像をまたもや裏切り、ソファーやテーブルの上に人形が散乱している実にファンシーな装いである。想像を悉く覆す光景の連続に感性が麻痺してしまったようだった。

 

「うわぁ、人形で一杯」

 

 ネギが言うようにエヴァンジェリン邸はちょっとした人形屋敷だった。

 目の前に人形、テーブルの上にも、並べられたソファの上にも、床の上にも、タンスの上テレビの上にも、とにかく大小様々なたくさんの可愛らしい人形たちが思い思いに座って所狭しと飾られているので、まるで大量のぬいぐるみを詰め込んだ玩具箱のようである。壁面には大きな暖炉が備えられており、その中の炭と置かれた薪が、それがただの飾りではなく実際に使用されていることがわかる。

 よく整理された食器に、整えられた調度品。居間に据えられた木製のテーブルには真っ白なテーブルクロスがかけられ、四脚の椅子がそれぞれ並べられている。その内の二つの上にも、他と比べて少しだけ大きい人形が腰掛けられていた。

 しかし、人形が雑多にあっても何らかの均衡が保たれているのか、不思議と散らかっているという印象は受けない。態とそう配置しているのが分かる、その証拠に人が動く生活動線は十分以上に確保している上、目に騒がしくない様な配置がされているのかもしれない。

 トントントン、と誰かが階段を下りて来る足音に三人は揃って顔を上げた。

 

「――――これは皆様、ようこそいらっしゃいました」

 

 階段を下りて来たのは黒と白のツートンカラーのメイド服を着た絡繰茶々丸。それもそこらの量販店で売っているような安物ではない。一見しただけでも上質な生地を使っていることがよくわかる。縫い目をしっかりとしており袖口やスカートの裾のフリルなどには、細かな意匠が施されている。オーダーメイド………………それも一級の技術を持った職人が手ずからに作った職人芸によって編まれたメイド服であろう。

 

「家庭訪問に来たのだけれど、ドアが開いてたから勝手に入らせてもらったわ。エヴァンジェリンはいるかしら?」

「こちらにいらっしゃいます。どうぞ、マスターがお待ちです」

 

 不法侵入を釈明すらしないアーニャに茶々丸は気にした様子もなく、三人を主の下へと案内すべく先を立って歩き出した。

 階段を上って二階に来た三人を待っていたのは童姿の魔王がソファーの上でふんぞり返っていた。

 

「よく来たな、先生達」

「お邪魔しています。エヴャンジェリンさん」

 

 長いプラチナブロンドの髪が印象的なこの家の主たる少女――――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。

 確かに見かけは普通の少女に違いない。彼女はネギが担任を勤めるクラスの一員だが、クラスの中でも鳴滝姉妹に次ぐ背の低い方。数えで十歳であるネギとアスカとほぼ同じ背丈であるという事は、女子中学生――それも中学三年生――となれば、かなり低いと言えるだろう。実際、クラスの大半はネギ達よりも頭一つ以上高い者で占められていたのだから。しかし、彼女がその見かけを大きく裏切る内面の持ち主である事を、目を見れば良く解った。

 「童姿の闇の魔王」「悪しき音信」「禍音の使徒」「闇の福音」と呼ばれる多額の賞金を懸けられた魔法使い。ナギが15年前に封印した間違いなく世界最高の位にいる存在。そんな様々な異名で語られる少女はぬいぐるみ達に抱きしめられるように、ソファに全身を預けていた。

 

「さて、就任直後で家庭訪問とは何事だ? 鍵が開いているからといって勝手に入って来る不作法者も同行していることも気になる。さあ、答えろ」

 

 一般的な吸血鬼の住処のイメージとは天地ほどかけ離れたファンシーさに、思わず警戒心が緩んだところに抉り込むように言葉のボディブローが放たれた。

 キッ、と原因であるアスカを睨んだネギとアーニャだったが当の本人はそっぽを向いて口笛を吹いていた。

 

「お願いがあって来ました。教師としてではなく魔法使いとしてです」

 

 茶々丸の勧めに従ってエヴァンジェリンの対面に配置されたソファーに腰掛けた三人を代表してネギは早速、本題を話し出した。

 

「頼む相手が間違っているのではないか?」

「いいえ、僕達が頼みに来たのは闇の福音と呼ばれる大魔法使いであるエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルさん。あなたで間違いありません」

「ほぅ、兄の方は弟と違って礼儀を弁えているようだ」

 

 と、エヴァンジェリンが見た先では頼みに来たのにソファーにふんぞり返って足を組んでいるアスカの姿。隣に座るアーニャが肘で突いているが、対峙している相手が相手だけに勢いは弱かった。

 

「ところで」

 

 お願いがあって訪ねて来たにも関わらず、無駄に態度の大きいアスカに唇の端をヒクつかせたエヴァンジェリンの前でネギが思いついたように口を開いた。

 

「どうして闇の福音ともあろうお人が中学生なんかしてるんですか?」

「お前達の父親が登校地獄というふざけた呪いを私に掛けたからだろうが!!」

 

 エヴァンジェリンは勘違いをしていた。ネギは確かに礼儀は弁えている。だが、本質はアスカと何ら変わらない。オブラートというか、礼儀を慇懃の上に巻いているだけに過ぎない。

 一度噴き出した怒りは止まらない。

 

「十五年だぞ十五年! サウザンドマスターに敗れて以来、魔力も極限まで封じられ、十五年もあの教室で日本の能天気な女子中学生と一緒にお勉強させられてるんだよ!!」

「え………そんな………僕、知らな……ゲホ、ゴホッ」

 

 よほど屈辱だったのか金髪の女性は腕をワナワナと震わせ、キッと目を鋭くしてネギの胸倉を掴み上げて理不尽な怒りをぶつける。理不尽とも呼べる憤りをぶつけられたネギは困惑して必須に弁解するも、怒髪天になったエヴァンジェリンの怒りは止まりそうにもなかった

 助けを求めようとアスカとアーニャを見たが絶望した。

 

「登校地獄って学生を無理矢理学校に通わせるアレか?」

「サボってたアスカに校長先生がかけたやつでしょ。でも、あれって十五年も持続するはずがないけど」

「親父がそれだけ出鱈目だってことじゃねえの」

「変な方向に突き抜けすぎでしょ、アンタの父親は」

「俺に言われたってしゃあねぇべ。文句なら親父に言えよ親父に」

 

 ネギから顔を背け、人によっては睦言を囁き合っているかのような距離で顔を突きあわせて二人にはネギを助ける気なんて更々なさそうだった。

 そうしている間にエヴァンジェリンは更にヒートしていく。

 

「三年経てば解きに来るとか言いながらナギは来なかった。しかも十年前に奴が死んでせいでこの呪いは未だに解けん。この馬鹿げた呪いを解くには、奴の血縁たるお前達の血が大量に必要なんだ。だが、なのに……っ!!」

 

 くっ、と歯を食い縛ったエヴァンジェリンの口元には吸血鬼の特徴の一つでもある尖った犬歯が普通の人と変わらなかった。

 

「魔力だけじゃなくて吸血鬼としての能力も封じられているわけね。血を吸えなければ意味なんかないわけか」

 

 締め上げられている横にいたアーニャが頷くと、テーブルに湯気を上げるティーカップが置かれた。次いでアーニャ、ネギと同じ種類のカップが置かれ、エヴァンジェリンが座っていたソファーの後ろに下がったのはメイド服の少女――――絡繰茶々丸だった。

 

「はい。今のマスターは満月にならなければ普通の人間と変わりありません」

「茶々丸!? 敵を前にして迂闊に情報を漏らすやつがあるか!」

 

 ネギをソファーに押し付け、茶々丸を振り返りながら怒鳴ったエヴァンジェリンが掴みかかろうとした。だが、その動きを止めたのは何気ないアスカの一言だった。

 

「親父は生きてんだから待ってりゃいいじゃん」

「なん……だと……?」

「親父は生きてるって言ってんだよ、なあ」

「世間的には十年前に死んだということになっていますが僕達は六年前に会っています。その時に受け取ったこの杖と」

「これが証拠だ」

 

 ネギが六年前に父から受け取った杖を机の上に置き、アスカが同じときに受け取った水晶のアクセサリーを首から外さずに指で持ち上げる。

 

「寄越せ!」

 

 首に巻いたままのアクセサリーよりも取りやすい杖を奪ったエヴァンジェリンは、暗黒に満たされた世界で見つけた一筋の光に希望を託すように奪い取った杖を見聞する。

 手に取って杖を触り、角度を変え、極小の魔力であったが流して調子を窺う。

 

「確かにナギの杖だ。そんな…………奴が………サウザンドマスターが生きているだと?」 

「六年前の時点では間違いなく」

 

 生まれた希望が費えるのを見たくなくて目を逸らしながらも絶望したくないと思っている。だけど、今度こそは、と希望から目の奥が揺れているのを自覚しながらも、エヴァンジェリンは信じられないように問いかける。

 エヴァンジェリンは十五年前にナギの杖を見て知っている。

 極大な魔力を誇ったナギの杖は魔法発動媒体として極上。魔法世界では知らぬ者のいない有名人なので、まほネットにレプリカが幾つも出回っているが本物と遜色ない物を今までエヴァンジェリンでも見たことが無い。

 そしてアスカの着けているアクセサリーは記憶を掘り返せばナギが着けていた物と酷似していた。

 魔法剣士であるナギは杖を手放して徒手空拳で戦うことも多いから、杖とは別に常に身に付けられるタイプの最高級の魔法発動媒体を所持していたことも知っている。

 これほどの物的証拠。疑う余地はあるが鼻から信じない理由も、またない。

 

「フ……フフ、ハハハハ、そうか奴は生きているか。そいつはユカイだ。ハ………殺しても死なんような奴だとは思っていたが、そうかあのバカ。まあまだ生きていると決まった訳じゃないがな」

 

 いきなりエヴァンジェリンは思い切り笑いだした。

 前後の話しを知らない人間がこの場面だけを聞いたら狂ってるとか思いそうだな、と見当違いのことをネギは思った。だが、仕方のないことかもしれないと同時に考えた。二人の間に何があったかをネギ達は知らないが十五年の間にあった思いはそれほどに強く、そして重い。

 

「嬉しそうね、エヴァンジェリン」

「ハイ。ここまで嬉しそうなマスターは初めて見ました」

 

 エヴァンジェリンが笑いっぱなしなので、アーニャが茶々丸に話しかけると機械仕掛けだけど何処と無く嬉しそうに見えた。それが本当に人間らしく見えたのでアスカは一瞬であったが見惚れてしまった。

 充分に堪能してから笑いの衝動を抑えたエヴァンジェリンは機嫌の良い顔で足を組んだ。

 

「今の私が気分が良い。言え。貴様らのお願いとやらも内容次第では聞いてやらんでもない」

 

 ここからが本番だと腰を据え、ネギは気持ちを新たにして口を開いた。

 

「僕達を弟子にして下さい」

「何? 私の弟子にだと? アホか貴様」

 

 居住まいを正したネギが弟子にしてくれと言うと返ってきたのはエヴァンジェリンの呆れたような言葉だった。

 

「戦い方などタカミチにでも習えば良かろう。お前達は知り合いらしいじゃないか、そっちに頼むのが普通だろう。私は十五年もこの地に封印してくれたサウザンドマスターに恨みがある。その息子達であるお前らの血を吸えば呪いも解けるのだ。ナギのことも呪いを解いた後に探せばいいのだからな。つまり、私は呪いを解くために貴様らといずれ敵になる」

 

 と、ここで言葉を切ったエヴァンジェリンは一息ついた。

 

「だいたい私は弟子など取らんし面倒くさい」

 

 言っていることは最もなのだが、最後が一番の本音っぽいのは何故だろうか。

 

「敵対関係にあるのは承知の上で来ました」

 

 最後の言葉は聞かなかったことにしてネギは話を進めた。

 

「タイプの似ているアスカはともかく、魔法使いとしての位階を上げるならタカミチは向いていません」

「確かにあいつは生まれつき呪文詠唱ができない体質だ。なにより戦士タイプのタカミチに魔法使いの指導は出来んな」

「そうです。それにタカミチは海外に行ってることが多いと聞きました。時間を十分に取れないのであれば、一時の指導を受けるならともかく師とするには忙しすぎる人ですから」

 

 ネギの声音に若干の申し訳なさが混じっているのは、少ない時間ながらも戦い方を教えてくれた師である高畑に対する罪悪感か。

 

「代価として血を望むなら日常生活に支障がない範囲なら提供も出来ます。どうかお願いします」

「悪名高い悪の魔法使いの薫陶を受けようとも構わないのか?」

 

 誰かに弟子入りを志願する多くの人は、まず自信を失くしている。だから志願するのだが、習得においては謙虚さは都合がいい。ただ発揮する時には邪魔になるが。

 謙虚さを表に出してエヴァンジェリンを持ち上げるその言動は嫌いではない。

 

「構わねぇさ。俺達は強くならなきゃいけねぇ。親父がいる場所に辿り着くまでの力が」

「父さんに並ぶ超高位魔法使いであるエヴァンジェリン以上に優れるだろう師はいそうにありませんから」

 

 謙虚と不遜を垣間見せるネギとアスカの心意気と、その強さを求める背景がナギにあることを察したエヴァンジェリンの琴線を刺激する。あくまでも本気の様子を見せる真剣な表情の嘗ての想い人の息子達の言葉に、ピクリとエヴァンジェリンの鼻が動いた。褒められて悪い気がする人はいないだろう。それも想い人の面影を持つネギがいるなら尚更。

 

(条件は悪くない)

 

 エヴァンジェリンは示された好条件に、表面上は足を組んで紅茶を一口飲みながら思考する。

 どうやらネギ達の目的は強くなってナギを探し出すことにあるようだと当たりをつけ、それは例え呪いから解放されたとしても元高額賞金首で真祖の吸血鬼であることから制約の多いエヴァンジェリンには魅力的に映った。

 微量ながらもナギをも上回りかねない魔力量を誇る二人の血液が大した苦労もなく手に入れられるかもしれないと判れば心が揺れずにはいられない。

 

「宜しくお願いします! 弟子入りを認めて頂けるなら、出来る限りなんでもします!!」

 

 なんでもする、というネギの無防備な一言にいい響きを感じ取って思わずエヴァンジェリンの口の端がニヤリと吊り上ってしまう。土下座までしかねない勢いのネギを見つつ、ソファにもたれ掛って足を組み直す。

 

「ふふふ………そうかそうか、本気だな?」

「はいっ!」

 

 エヴァンジェリンを言葉の限りに煽てるネギ。

 その横でどこか浮かない表情のアーニャに気になったエヴァンジェリンだったが、ここで今までとは違う笑みを浮かべる。

 

「ふん、よかろう。そこまで言うならな。ただし! 忘れているようだが、私は悪い魔法使いだ。悪い魔法使いにモノを頼む時はそれなりの代償が必要だぞ?」

 

 「よかろう」と言われて思わず顔を綻ばせるネギだが、次のエヴァンジェリンの言葉でその顔が不安そうに歪む。

 

「まずは足を舐めろ。我が下僕として永遠の忠誠を誓え。話はそれからだ」

 

 己の失策を悟ったアーニャが何かを言う前に、エヴァンジェリンの見た目の年齢相応の小さな足が緩やかに動き、スカートの裾から伸びる白く細い太ももがゆっくりと露になり、ネギの前に差し出され、見下ろして笑みを浮かべて一言言い放つ。

 くくくっと漏れるエヴァンジェリンの笑い声に、ネギの顔も引き攣っている。まさかのアダルトな要求にアーニャの顔も引き攣っていた。

 ふわぁ、とアスカが欠伸をする声が馬鹿みたいに響いた。

 



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第3話 うっかり娘、爆誕

 

 放課後、暖かな春の日差しの中で窓の外に桜が舞い散るのが見える教室前の廊下、壮年のスーツを着てポケットに両手を入れた男性と鈴の髪飾りをつけたツインテールの少女が向き合っていた。

 少女――――神楽坂明日菜の後ろには、まだあどけない笑顔を浮かべた少年二人がハートマークが大量に付いて、何故か煙を上げる奇妙なバケツを持っている。明日菜は頬を赤らめて俯いており、目の前の男性を見ないことから余程鈍感でなければ恋をしていると誰でも気付くだろう。

 少々カップル、と言うには年齢の差が気になる二人だが、明日菜の瞳に浮かぶ陶然とした熱は間違いなく恋する乙女のそれだった。何故か窓は閉まっているのに廊下にも桜が舞っているのは突っ込んではいけないのかもしれない。

 

「高畑先生…………あの、おいしいお茶が入ったんですが飲んでいただけませんか?」

 

 そう言って明日菜は壮年の男性――――タカミチ・T・高畑に両手に持っていた湯気を立ててハートマークに「ホレ」と書かれたコップを差し出した。 なんじゃそれ、と突っ込める人間がこの場にいないことが悔やまれる。

 

「ふふ、コレはホレ薬だろ? こんなもの必要ないさ」

 

 高畑は目を閉じ、右手でスッとコップを取り上げて年上の魅力を全面に出し、ニヒルに笑って少女に答える。妙に格好をつけすぎでなければ決まるのが高畑という男の魅力なのであるが、絶対に本人が言わなさそうなシュチエーションだと明日菜は何故か気が付かなかった。

 

「え……どういうことですか……?」

 

 コップを取り上げられた明日菜は空いた両手を胸の前に持ってきて、高畑の笑顔にハートを打ち抜かれながら言葉の意味を問うた。何時の間にか後ろにいた筈の少年達がいなくなっているが、心を打ち抜かれた明日菜は気付いていない。

 

「はっはっはっはっ。何故なら元々、僕は君の事を愛しているからさ」

「ええっ!?」

 

 腕を広げて笑いながら少女の問いに答える高畑の言葉に驚きの声を上げて、先程よりも頬を赤らめる明日菜。そしていつの間にかいなくなった少年達と同じように高畑が持っていたコップが無くなっているのにも明日菜は気付かない。恋は盲目とはよく言ったものである。

 

「あ……」

 

 高畑は一歩、明日菜に近寄って左手をそっと伸ばして頬に添える。この動作が示すものはたった一つ――――キスだけだ。こんなシュチエーションを何度も夢見た明日菜に分からぬはずがない。

 

「明日菜君、目を瞑ってくれるかい」

 

 桜が二人の間を舞いちり、高畑は明日菜にキスをしようとぐぐっと顔を寄せていく。

 

「は、はい、高畑先生」

 

 憧れの人にキスをされると悟った明日菜は、早鐘のように鼓動を鳴らす心臓が高畑に聞こえるんじゃないかと思いながら、目を瞑ってその時を待つ。だが、何時まで経っても唇が降りて来ることはなかった。何故なら―――――これは現実ではないのだから。

 現実に高畑が明日菜にキスしようとすることはなく、さっきまでのは最初から最後まで彼女が見ていた夢である。

 

「私も先生のことが……」

 

 現実の明日菜は寝相が悪いのかうつ伏せの姿勢だった。パジャマの上着は前のボタンが全部開いて、寝る時には下着をつけていない胸が見えている。しかも、パジャマのズポンが太股ぐらいまでに擦り下りて、下着が露出している。殆ど半裸と大差ない有様だった。

 

「高畑セン……セ……」

 

 夢の影響か恋の相手である担任の名前を口にしながら、唇を突き出してキスをしようとする。そこで本来なら相手もいないので枕か布団にキスするだけで済むのだが、今回に限り違った。何故かそこにネギがいて明日菜に抱きしめられており、明日菜が右手でネギの頭を押さえてその額にキスをしていた。

 夢の影響であれ、明日菜がネギに圧し掛かっているようにも見えた。

 

「んん……」

 

 明日菜の抱きしめる腕が苦しいのか、またはキスをされる感触に違和感を感じているのかどちらか分からないが、寝ながら苦しそうな声を漏らす。

 

「……!?」

 

 そのネギの声に明日菜はピクピクと瞼を震わせてゆっくりと目を開けて、目の前のネギを寝起き特有の動きの鈍い頭で認識した。

 

「キャ――――ッ!?」

 

 ネギが自分の布団にいることに気付いた明日菜は、早朝の麻帆良学園女子寮に響き渡るほどの大声で悲鳴が上げた。その声にようやくネギが目を開ける。

 

「ちょっ、ちょっとあんた。何で私のベッドで寝てるのよっ!」

 

 明日菜は飛び上がって起きて電気を付けると、前がはだけて胸が露出してズボンがズレて下着が見えている格好に気付いて、涙目で目の前の少年を睨みながら毛布で体を隠す。

 

「えう………お姉ちゃ……あ!?」

 

 明日菜の声で目を覚まして甘えるような声を出しながら姿勢を起こして、左手で目を擦ってどうしたのかと姉を呼んで、涙目で自分を睨みながら毛布で体を隠す明日菜を見て、ようやく自分が姉と一緒に寝たのではないことに気付いた。

 そして自分の悪癖が目の前の少女に被害を与えたことにもまた。

 

「ア、アスナさん!? すすす、すいません! 僕、何時もお姉ちゃんと一緒に寝てたのでつい……」

「な、何よそれ!? 自分の布団があるんだからそこで寝てなさいよ!」

「ごめんなさい!」

 

 ネギは慌てて手を振りながら謝り、明日菜は人の布団に勝手に入っていい理由にもならない。ネギの子供らしい言い訳を聞きながら叫び返す。まだ何か言っているネギの言葉を無視してふと自身の足元の時計に目をやると、時刻は既に五時を指していた。

 

「わっ!! もう五時じゃない。……………行ってくるね、木乃香ぁ――っ!」

 

 寝過ごした事に気付いた明日菜は二段ベッドを降り、ドタバタと急いで着替えてネギの問いかけの声を無視し、途中で起きて来た寝ぼけ眼の木乃香に声を掛けていく。

 

「アスナさん、どこへ?」

「バイト!」

 

 ネギの問いに答ながらバイト先に向かって慌しく部屋を出て行った。

 

「ネギ君。朝御飯作ってあげるよ。目玉焼きとスクランブルエッグ、どっちがええ?」

 

 寝起きのしょぼついた目を擦りながら起き上がった木乃香は欠伸を一つした。頬を叩いて気分を入れ替え、寝巻きのままでマイエプロンを付けながらネギに聞く。

 

「あ、じゃあ目玉焼きで」

 

 そんな事は露知らずに後ろ髪に寝ている時は外しているゴムを括りながら少しの間だけ考えて、スクランブルエッグと違って食べたことがない目玉焼きを選択する。

 

「了解~」

 

 ネギが考えている間に木乃香はまだ眠いのか目を擦りながら冷蔵庫から卵を取り出して、返答を聞いて料理に取り掛かる。それを横目に見ながらネギはようやく日が昇り始めたが、まだ暗い窓の外の麻帆良市を窓から見つめ、昨日の出来事を振り返る。

 

(そうだった………。僕、先生をやるために日本の麻帆良学園って所に来て、昨日は明日菜さんと木乃香さんの部屋に泊めてもらったんだった)

 

 ネギは昨日の事を思い出して溜息をつく。気合を入れるように握り拳を作って頑張ろうと心に決めたのだった。そうしている間に朝食を作り終えた木乃香がテーブルに皿を並べる。

 

「出来上がったでぇ。アスカ君はどうしようか、まだ寝かしとく?」

「アスカならこの時間は」

 

 木乃香がロフトにいるアスカの寝顔を見ようと上がるも、既にそこには綺麗に畳まれて誰もいなくなった布団があるだけだった。

 

 

 

 

 

「じゃ、行ってきます!」

「よろしくね、明日菜ちゃん」

 

 なんとか時間ギリギリにバイトに間に合った明日菜は、中学生に上がってから雇ってくれている毎朝新聞の事業所で今日の配達分の新聞を受け取り、出かけようとしているところであった。最初は辛かった早朝に起きるのも慣れてしまえばなんのその。勤続二年になる明日菜に事業所の所長一家も優しくしてくれるので仕事場としては最高だった。

 

「ちょっと、アンタ。大山君が風邪で起きれないって」

 

 鳥が目覚めで鳴いている中、他の人が自転車やバイクで次々に事業所を出発していくのに続こうとした明日菜は、所長一家の会話を耳にして進みかけていた足を止めた。

 

「あちゃー、流行ってるからな。替えのバイトもいないってのにどうすんだ」

「私が代わりに行きますよ」

 

 何時も良くしてくれてバイト代まで優遇してくれる所長一家が困っているなら言わざるをえない。

 恩返しのつもりで言った提案だったが、所長一家は顔を渋くした。だが、インフルエンザや風邪が流行っている時期だけに所長一家も現場に出ているので代替要員はいない。

 先に折れたのは所長一家の方だった。

 

「いや、でも凄い量だよ。平気かい? 明日菜ちゃん中学生だし、女の子だしよ」 

「大丈夫です。私、体力だけは自信ありますから任せて下さい」

 

 休みの人の分の荷物を持って指を立てた明日菜は、少しでも所長一家の為になれば心配を振り払うために笑顔で親指を立て、時間もないので足早に走り出した。

 

「とと……やっぱちょっと重かったかな」

 

 少し走った明日菜は両肩にズシリと圧し掛かる新聞の束の重さに体をよろめかせながら、張り切って仕事を受け持ったことを若干後悔していた。

 普段の担当区分に足して追加分も回らなければならないので、この重さは想定以上といわざるをえない。体力は大丈夫だとしても、この重さでは速度が出せないので時間以内に回りきれない恐れがある。

 

「今更、無理って言うのもな」

 

 言ったことを翻したくはないし、信じてくれた所長一家の為に報いたいとも思う。だが、仕事をこなせなければもっと意味がない。携帯は持って来ていないので連絡は出来ない。戻るとなれば更に時間を取られてしまう。このまま無理をしてリスクを取るか、戻って相談するか。社会人としてなら正しいのは後者だ。しかし、明日菜はまだ子供で恩義に報いたいという気持ちを捨てきれない。

 どちらも選ぶことが出来ず、流れのままに進んでいた明日菜は後ろから軽快な足音が近づいているのに気が付いた。

 重い荷物を背負っていても明日菜の走る速度はかなり早い。老齢のランナーが叶う速度ではなく生半可な競技系の部活の生徒よりもまだ早い。

 

「あれ、明日菜じゃん」

 

 追いつかれまいと考えていた明日菜は名前を呼ばれて、呼んだ相手が直ぐに隣に並んだことに目を丸くした。

 

「アスカ」

 

 目を丸くして見た先にいるのは金色の短い髪の毛が逆立っているアスカ・スプリングフィールドである。

 黒いジャージに身を包んだアスカは、自転車には及ばないもののかなりの速度で走っている明日菜に余裕を以て並走してきた。

 

「なにやってんのよ」

「走ってる。朝のランニングは日課だからな。そっちこそなにやってんだ? 荷物運びか?」

「バイトよ。新聞配達のバイト。知らないの?」

「今まで寮暮らしだったから新聞なんてよほどの物好き以外は読まねぇ。へぇ、これが新聞配達か」

 

 何故か感心したように明日菜を眺めるアスカの遠慮のない視線に恥ずかしくなった。

 着替えるのが面倒なので制服の短いスカートなので太腿が露出している。見られているのはあくまで新聞紙が入ったバックであって、アスカの視線からは色事やそういう風な感じは欠片もないが、こうもぶしつけに見られると羞恥も覚える。

 アスカはやがて興味が薄れたのか、視線を明日菜の顔に戻した。

 

「こんな朝からバイトなんてご苦労なことで」

「同じように走ってるアンタに言われたくないわよ。もしかして毎日走ってるの?」

「よほどのことがなけりゃな」

 

 継続は力なり、という言葉を明日菜は不意に思い出した。誇るでもなく当然のことのように言ったアスカが昨日の歓迎会の時に古菲のガチでバトルして引き分けに終わったのだから、その力は明日菜では計り知ることが出来ない。

 感心を覚えていると、当のアスカは隣で首を捻っていた。

 

「やっぱ俺も始めてこっちに緊張してんのかね。真っ暗な内に目が覚めちまってよ。ずっと走ってんだが、ここはどこだ?」

 

 話を信じるならかなりの時間を走っていることになる。直ぐに脱落すると思ったアスカだったが百メートルを走ってもまだまだ余裕そうだった。結構な汗を掻いてそれなりに息は弾んでいるが、まだまだ余力を残していそうだ。それどころか明日菜の方が荷物もあって少し辛い。

 

「何時から走ってんのよ」

「最低でも一時間以上。適当に走ってるから時間も分かんねぇや」

 

 二月の寒い時期もあって外は寒い。朝ともなれば肌も切るような冷たさである。その中で頬を伝って流れて行く汗を見れば、アスカが運動を始めた時間が十分やそこらでないことは頭の悪い明日菜でも分かった。もしかして道に迷って帰れないだけではないかと思いもしたが、ツッコミをわざわざ入れるほど狭量ではなかった。

 私って良い人、と自画自賛していた明日菜に伸びる手が一つ。

 

「重そうじゃないか。手伝ってやるよ」

「そんな、いいわよ」

「これも一宿一飯の恩義ってやつだ。重さがあった方がいい鍛錬になるから気にすんなって」

「あ、もう」

 

 言っている間に新聞紙の束が入ったバックの一つを奪われ、肩にかけてしまった。今日休みになった人の分が入ったバックなので自分の担当区分を優先しているから一つも消費できていない。正直ありがたい面もあったので、奪い返す手は伸びかけたところで彷徨う。

 新聞紙は一つならともかく数があればかなりの重量になる。初心者ならよろけるところなのに何も荷物を持っていないかのようにアスカは走っていた。大丈夫かな、と並走しながら揺るがない走り姿を見て、安心して任せようという気持ちになった。

 

「一宿一飯の恩義って難しい言葉を知ってるわね」

 

 走って配るなんてやっているのは明日菜ぐらいで、同じような勤労学生であっても自転車を使う。それほどに荷物を持って走るのはしんどいことなのだ。何件かの家に新聞を配った明日菜は、予定の時間内に間に合わせるためにかなりの速度で数百メートルを走ったにも関わらず、規則正しい息を吸って吐くアスカの体力に驚きながら話しかけた。

 

「国語の恩田先生の言葉ってなんか胸に来るものがあんだよ。妙に使いたくなるっていうか」

 

 定年間近の国語教師は授業の中で諺や古語を引用することがあり、昨日もそんなことを言っていたことを思い出した明日菜は外国人には感じる物があるのだろうと気にしないことにした。正確には一ヶ月ぐらい寝食を共にするので「一宿一飯の恩義」では正しくないのだが、昨夜の夕食と泊まったことだけを考えれば間違いでもない。

 

「それよりもアンタの兄貴の寝相。あれはどういうことよ」

「あの寝ている時の抱き付き癖のことか。もしかして被害にあったか?」

 

 朝に起きた時の痴態を思い出して意地で顔には出さなかった明日菜とは反対に、アスカは何が面白いのかクツクツと楽しそうに笑った。

 

「あったわよ。起きたらあんな……っ!!」

 

 ギリッ、と起きた時の恥ずかしさを思い出して明日菜は歯を食い縛った。裸を見られるにしても心の準備があるのとないのとでは全然違う。今回は準備なんて欠片も出来ていないので怒りは大きかった。

 怒りの熱に押されたように顔を逸らしたアスカだったが、普通なら逃げ出してもおかしくない怒気を発する明日菜から距離を取ることもなく口を開いた。

 

「俺達はずっと姉ちゃんと暮らしてたんだが、一時期あることがあって姉ちゃんは誰かが傍にいなきゃ寝られない様になってな。俺とアーニャがどんくさかったネギを押し付けたんだ。暫くすれば収まったんだが今度はネギが誰かと一緒じゃないと寝られなくなっちまってな」

 

 当時のことを思い出したのか、彼にとっては笑い事らしく心底楽しそうな笑みで続ける。

 

「しかも、なんでか人肌を求めてるみたいで服を脱がすんだよ、アイツ」

「なにその迷惑な癖」

「そうだろ。何度姉さんが面白いことになったか。そのくせして男には絶対抱き付かないし」

 

 近くの家のポストに新聞紙を入れつつ、頷くアスカの横で典型的な優等生という感じがしていた担任補佐の異性に対する傍迷惑な癖に顔を引き攣らせた明日菜だった。

 

「解決策はないの? あるんでしょ、言いなさい」

「あるにはあるが完全に力技だぞ。っていうかその様子からしてかなり悲惨な被害にあったか」

「いいから言いなさい」

 

 へいへい、と明日菜に迫られながらも受け取った新聞紙を手近な家のポストに入れるアスカは魔法学校時代のことを思い出す。

 

「一番良いのはネギが寝たら布団ごと縛ることだ。ネカネ姉さんは何時もそうしてた」 

「でも、昨日は様子から見て、あいつってバイトがあるから早く寝る私より遅く起きてたのよね。ガキの癖に。そういうアンタは早いわよね。ご飯食べたら直ぐに寝っちゃたし」

「ネギは夜型だからな。俺は腹が一杯になったら眠くなんだよ。しゃあねえじゃん」

 

 仏頂面になったアスカは早寝早起きがガキっぽいと感じているでようで、そのことを気にしているようだった。

 

「縛るのが無理なら後は物理的に遠い部屋で寝ることだな。でも、寝ぼけて後を追いかけることもあるから注意が必要だぞ」

「あそこは私の部屋だし、無理なことに変わりないじゃない。はぁ、木乃香にでも頼もうかしら」

 

 ふと気が付けば明日菜の手持ちの新聞はすっからかんになっていた。喋りながら配っている間に全部配り終えたのだ。何時もよりかなり早い。空模様を見ればまだ太陽は上がっていない。空の彼方に端っこぐらいは見えるが、まだ朝と呼ばれる時間にはまだまだ時間がかかりそうだった。

 

「そっちは終わったんなら次はこっちか。もうちょいスピード上げね?」

「へぇ、言うじゃない。いいわ、やってやろうじゃない」

 

 負けず嫌いの気がある明日菜はアスカの挑発に簡単に乗った。

 

「じゃ、行くぞ」

「あ、ずるいっ」

 

 先にスピードを上げたアスカに追いつかんと明日菜も遅れながら足を速めた。

 

「ははは、追いついてみろよ」

 

 ぐんぐんとスピードを上げていくアスカに負けてやるものかと明日菜も足の回転を上げていったのだった。

 

 

 

 

 

 猛スピードで競争しながら新聞を配っていく少年少女を巡回中の警官が目撃してから十数分後。張り切り過ぎてフラフラの明日菜が部屋の玄関を開けて転がり込んだ。

 

「うぅ……負けた。十歳の子供に体力で負けたぁ」

「俺、大勝利」

 

 何事かと玄関に慌ててやってきた木乃香とネギの前で、四つん這いになって敗北感に打ちひしがれる明日菜とVサインで勝利をアピールするアスカがいた。

 

「朝っぱらかなにやってるの二人とも」

「元気やなぁ」

 

 太陽がようやくしっかりと顔を出した時間帯なのに全力運動をしてきた二人に突っ込みを入れたネギは決して悪くない。感心している木乃香がおかしいのだと、ネギは自分の常識を守ろうと心に決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふがっ」

 

 布団の中で微睡んでいたアンナ・ユーリエウナ・ココロウァは、乙女としてはどうかと思う声を上げて目を覚ました。

 変な声が出てしまった口を咄嗟に抑え、見慣れていない天井を気恥ずかしさから睨み付ける。木目が人の顔を作ったりする魔法学校の寮とは違う無地の天井に内心で「ここはどこだっけ?」と理解が及ばずに首を捻って、誰も先の変な声を聞いていないことを願って体を起こした。

 アーニャの願いは何時だって叶わない。

 体を起こした視線の先に、床に敷いたアーニャの布団の足下辺りを今まさに通り抜けようとしていた制服姿の桜咲刹那がいた。

 

「刹那、なにやってのよ」

 

 刹那がこちらに顔を背けていることに不審を感じて問うた。

 問いを放った瞬間に顔を精一杯背けている刹那が肩を一瞬震わせたのを見逃さなかったアーニャは、先程自分が放った変な声を聴いたのだと察した。

 

「聞いたわね、アンタ」

「…………いえ、聞いていません」

 

 同室の龍宮真名がまだ寝ているので二人の声は極小さなものだった。

 問いではなく断定のアーニャに対して、反応が遅れた刹那は否定するも既に時は遅し。

 

「覚悟なさい。乙女の秘密を知った女郎にはきっと報いが下るわ。私が下す、私からの罰がね」

 

 立ち上がり、パジャマを豪快に脱ぎながらアーニャの瞳は怒りに満ちていた。

 

「理不尽です」

 

 はだけられた下着をつけるほどもでない胸に視線を送ってしまった刹那は、自分のことでもないのに逆に羞恥を覚えながらも言い返す。

 

「私が法で私が裁判官よ。愚民は大人しく敬い、ひれ伏しない」

 

 パジャマのズボンも躊躇いなく脱いだアーニャはパンツ一枚になりながら、枕の上に置いておいた愛用のジャージを手に取る。カーテンの向こうが側から太陽の光が室内に零れ落ち、微かな光源に照らされたアーニャの肌が刹那には異様に艶めかしく映った。

 刹那の視線の先で幻想的な光景が繰り広げられている。

 

「いい? 私が正しいと言えばなんだって正しいの。刹那は最も聞いてはならない物を聞いたのだから罰は受けるべきよ」

「そんな」

 

 真っ白なスポーツ用の汗を良く吸うシャツを纏ったアーニャに、一瞬でも幼い少女の裸身に欲情にも近い感情を抱いてしまった自分が信じられなくて話を良く聞いていなかった。話を良く聞いていないので抗弁する声には力が無い。

 

「条件次第では罰を与えないで上げてもいいわよ」

 

 分かっているのか分かっていないのか、蠱惑的に笑ったアーニャはシャツを纏って赤いジャージズボンを履く。

 

「条件、とは?」

 

 最早、刹那はアーニャの言いなりだった。アーニャの言い分は言いがかりに過ぎず、変な声を聞いてしまった罪悪感はあれど普段の刹那なら一顧だにしなかっただろう。良くも悪くもアンナ・ユーリエウナ・ココロウァという少女の空気が刹那を従わせていたのだ。

 

「まずはさっきのことを誰にも言わないこと。そして、私の訓練に付き合って」

 

 最後に上のジャージを羽織ったアーニャは今度は挑戦的に勇ましく笑った。

 

「一人でやるよりも相手がいる方がやりやすいしね」

 

 日本式に布団をしっかりと畳んだアーニャは少し恥ずかしげに顔を逸らしながら早口に言った。

 今までの流れは刹那にそれを頼むものであると分かって、思いを通す為に相手を脅すような真似をする少女の素直じゃない言動の数々がおかしく思えて笑いが込み上げて来た。

 

「アーニャさんって素直じゃないって言われませんか」

「何か言った?」

 

 本音を言うと、目だけは笑っていない物凄くイイ笑顔を向けて来るアーニャに刹那は必死に首を横に振った。

 

「まあ、いいわ。ところで神鳴流って本当にそんな長い刀が必要になるの?」

 

 二人で並んで部屋の入り口に向かって歩き始め出したところで、アーニャは刹那が持つ得物に着目した。刹那の身の丈の半分を超える武器は刀という領域を超えて、武器に関しては門外漢なアーニャにしても振り回しがし難いと感じたからの問いだった。

 

「これは正確には刀ではなく野太刀です。神鳴流は魔物や怨霊を退治する剣の流派。図体のデカイ魔物と戦うことから、これぐらいの得物の大きさが必要だったのです」

 

 靴を履くアーニャに手に持つ野太刀を示しながら、この夕凪を与えられた意味を反芻する。いくら同年代や数世代上にも負けなかった刹那といえど、長から直々に愛刀を譲られるほど実力が無条件で認められたわけではない。与えられたお役目が重要であるからこその信頼の証であり、木乃香を身命に賭して守るという証明なのである。

 

「じゃあ、神鳴流の人はみんなその野太刀ってやつを使ってるんだ」

「神鳴流は武器を選ばず。体術も豊富にあり、野太刀でなくても敗北はありえません」

 

 む、とアーニャの言葉に若干の侮りを感じ取った刹那はムキになって反論する。

 

「勘違いしているみたいだけど違うわよ。ネギ達のお父さんと同じ団体にいた近衛詠春が二十年前のビデオメモリーで同じ武器を使っていたから気になっただけよ」

 

 決してアーニャは神鳴流や刹那を侮ったわけではなく、純粋な疑問といった個人的な感情故である。

 同じく靴を履いていた刹那は、柔らかい否定に自身の勘違いに気づいて顔を紅くするよりも先に気になる単語があった。

 

「ビデオメモリーとは? そもそもネギ先生達のお父様と長が同じ団体にいたというのも初耳なのですが」

「刹那って情報に疎いのね。それともこっちじゃそんなに有名じゃないのかしら」

 

 首を捻ったアーニャは別段気にすることでもないと気持ちを切り替えた。

 

「魔法世界のことは知ってるわね。魔法世界で起こった二十年前での戦争の時に一緒の団体にいたみたいよ。ビデオメモリーは戦後に発売されたドキュメンタリー映像」

 

 見たい、と刹那は真剣に思った。現在は現役最強の座を刹那の師であり神鳴流の歴史の中でも一、二を争うほど強いと謳われている青山鶴子に譲ったが、当時は旧姓青山詠春こそが当代最強であったと言われている。

 刹那が知っている近衛詠春は、命の恩人であり木乃香の父である。知り合った時には関西呪術協会の長に就任して現場には出なくなっていたので、鍛錬する姿なら見たことがあっても実戦で剣を振っている姿は一度も見たことが無い。

 先達が戦っている姿はそれだけ刺激になり、この上ない参考になる。見たいという欲求は抑えきれないと、欲求が顔に出たのかアーニャが自身の顔の前で手を振る。

 

「残念だけどこっちに持って来てないから見れないわよ」

「なんで持って来てないんですか!」

 

 期待を裏切られた刹那は小声で詰問するという器用なことをしていた。ドアノブに手をかけたアーニャは悪びれもせずに肩を竦めた。アーニャには責められる謂れはなかったからだ。

 

「しょうがないじゃない。ネギとアスカは持って来たがったけど、あのビデオメモリーを見るには魔法具である映写機が必要で、こっちにその設備があるとは思えなかったんだから仕方ないじゃない」

「映写機ごと持ってくるとか、やりようはいくらでもあったでしょ」

「どんだけ嵩張ると思ってるのよ。それに映写機は学校の備品なんだから持ち出せなかったのよ」

 

 刹那の言い分は映画を見る為に映画館から映写機を持って来いと言っているようなものだ。見たい。とてつもなく見たいが自分が理不尽なことを言っていると分かってしまったので、如何な刹那も大いに納得のいかないものがあったが納得せざるをえなかった。

 残念だと肩をガックリと落とした刹那に苦笑したアーニャが握っていたドアノブを回して押す。

 開いたドアから光が零れる。天窓がガラス戸なので朝日に照らされて明るい廊下を光に慣れていない目を細めて足を踏み出した。

 

「学園長に映写機があるか聞いてみるからそんなに肩を落とさないの。あれば一ヶ月後にお姉ちゃんが来る時にビデオメモリーを持って来てくれるように頼んであげるから」

「本当ですかっ!」

 

 餌を与えられた犬の如く顔を喜色満面にした刹那はアーニャの後を追って廊下へと出て行く。

 ゆっくりと締められていくドア。

 パタン、と小さな音を立てて締められたドアの内側で、刹那が上段を使っている二段ベットの下段で布団に包まっていた龍宮真名は目を開けた。

 本人達は静かにしているつもりでも寝ている人間を十分に起こすだけの会話をしていれば真名が起きるのも当然。だが、実は今回はあまりそのことは関係ない。

 学生という傍らで副業として傭兵をやっている真名の眠りは、慣れない人間が近くにいると警戒心が先に立って深くない。物音を立てれば直ぐに起きてしまう。一種の職業病みたいなものだ。

 刹那が起き出した頃から目が覚めていた真名は、寝たふりをして二人の会話を聞いていた。

 

「年下に言いように振り回され過ぎだぞ、刹那」

 

 最初から最後まで手綱を握られていた級友の情けなさに苦笑を浮かべながら、本来の起きる時間までまだ暫くあることもあって二度寝を敢行する真名だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 左手にチョークと右手に教科書を持ったネギが英文を読みながら教壇を生徒達から見て左から右へと歩いていく。

 

「~~~、~~~~~~~~、~~~~~、~~~~~~~~~」

 

 スラスラと本文を読むネギに生徒達は学力の高さに感心していた。よく考えれば母国語なのだから上手くて当然なのだが、立場があるといっても見た目は彼女らよりも年下なのだ。感心の一つや二つはする。

 

「何書いてんのアーニャちゃん?」

 

 窓際にいるアーニャも同じように教科書を持っているが、それは空席の机の上に置かれていた。名前はあるのに人物を誰も見たことがない出席番号1番相坂さよの席の前で椅子に座って、机に置かれた教科書を時折見つつ手元の手帳に何かを書き込んでいた。

 アーニャが教科書を置いている机を使っている朝倉和美などは、手帳に何を書きこんでいるのかが気になって仕方がなかった。

 

「黙って授業を受けなさい。後、私は先生。次、ちゃん付けしたらアンタにだけ課題出すわよ」

「分かった。分かったから勘弁して」

 

 と、ネギが廊下側に行った時を見計らってアーニャに小声で声をかけるも、けんもほろほろに追い払われた和美は空席の相坂さよの後ろの席である村上夏美の方を窺う。

 視線を向けた夏美も首を横に振った。和美と同じく位置的にアーニャの手元は見えないようだった。

 

(駄目かぁ)

 

 気になる。分からないとなったらどうしても気になって仕方がなかった。報道部に所属して「麻帆良のパパラッチ」なんて自称するぐらいに、和美は人が隠し事をすると知りたくなる性分である。その秘密が他人に明かしてはならない類いの物であるなら胸の裡に秘めることはするが、解き明かさないという選択肢は和美の中ではない。

 どうやってでも覗き見てやると密かに考えを練っていた和美に、数メートルも離れていないアーニャが気づかぬはずがない。ギラギラとした目をアーニャに向けすぎであった。そんな目で見られれば赤ん坊でも気づく。

 

《和美が授業を聞いていないわ。懲らしめてあげなさい》

 

 念話なんて便利なものがあるので周りに気づかれずにネギを呼び、和美が授業に集中していないことを教える。

 

「では、次を朝倉さん読んで下さい」

「えっ……あ、はい。え~と」

 

 意識の埒外にあったネギから英文の翻訳を指名された和美は慌てて立ち上がりながら教科書を持つが、授業を聞いていなかったのでどこを読めばいいのか分からない。

 和美の成績は七百人以上いる中で百位以内の二桁の位置にいる。多少、授業を聞いていなかったところで成績に影響はないにしても今現在の苦境は打破してくれない。まさか正直に授業を聞いていなかったなんて言えない。だが、分からないのに何時までももたついていることも不自然だ。

 クラスの全員が和美の頭の良さを知っている。このレベルで躓くなんてことはありえないことは知っているので、誰かがそのことを突っ込めば忽ち和美の立場は悪くなる。

 どうするどうする、と背中に冷や汗を掻いて内心で混乱していた和美を助けてくれたのは意外な人物だった。

 

「75ページの下から2行」

 

 和美を見ることなくポツリとアーニャが呟いた。まるで独り言のようだが頭が良い和美は直ぐにそれがネギが読むように言った箇所であると当たりをつけた。読む場所さえ分かれば後は問題はない。和美の学力なら教科書レベルの英文を訳すぐらいなら出来る。

 

「私の庭にゴミを捨てたのはあなたかしらジョージ? 違う、ミランダ。これはゴミじゃない、俺が君に宛てたラブレターだ。どうして君は俺の気持ちを理解しようとしてくれない? 当然じゃない。私は貴方のような下級の人間じゃないわ。私に人間として認めてもらいたいならそれなりの立場になりなさい」

「はい、ありがとうございます。座って貰って構いません」

 

 ゆっくりと翻訳しながら読み切った和美は、笑顔のネギに何故かプレッシャーを感じながら席に座った。

 

「この章ではスラム街の人間であるジョージが高音の花であるミランダに恋をし、彼女に認められる男になろうと決意するお話でした。それでは皆さん、次はテキスト76ページを開いてください。次の章である苦難編に入ります」

 

 息を吐いて肩の荷を下ろした和美の周りでは教科書を捲る音が続いた。

 パラパラとページを開く音が教室に満ちる。和美も遅れじと次のページへと教科書を捲った。ネギは全体を見渡して全員が開き終ったのを確認し、再び英文を歩きながら読む。

 

「~~~~~~~~~~~、~~~~~、~~~~、~~~~~~~~~.」

 

 初日はプリントだけで主導する授業はしなかったので、今日が実質のネギの初授業だった。

 大半の生徒がネギとアーニャががどんな授業をするのかという、そういった好奇の視線を向けていたが時間の経過と共にそんな余裕もなくなりつつあった。

 

「それでは長瀬楓さん。この章の序盤で面接官にスラム街の出身であることを指摘され、本当に働けるのかと揶揄されたジョージの気持ちになったつもりで答えて下さい」

「ござっ!?」

「勿論、英文でお願いします」

 

 ネギはスパルタであった。分かろうが分からなかろうが問答無用で指名してくる。頭の良い悪いも関係なく満遍なくである。

 教科書の内容を一辺通りにやるのではない。生徒に授業を聞かせるだけではなく考えることもさせるやり方だった。

 指名された楓の学力はお世辞を言っても高い物ではない。それどころかクラス内でも格段に悪い部類に入る。そんな彼女に教科書内の話の中で登場人物の心情を英語に直して話せとは無理がある。

 答えに窮した楓に助け舟を出したのはまたアーニャだった。

 

「楓、ジョージの目的はなに? 日本語で構わないから答えて」

 

 立ち上がったアーニャが長身の楓を下から見上げるように見つめる、

 

「ミランダに認められる男になる、でござろう」

 

 テストの点数が悪くても楓は頭の回転が遅いわけではない。先の話から頭の中で状況を整理し、纏めて推測するだけの能力は十分に持っている。

 

「ええ、そうよ。この場合はそのまま答えればいいの。単語が分からなければネギに聞きなさい。後は単語を並べて文章にすればいいわ。質問に答えないほどネギも鬼じゃないから」

 

 言いたいことを言い切ってアーニャは座った。

 楓は少し悩んだ様子だったが、やがて分からない単語をポツリポツリと聞いていく。ネギはそれに答える。

 最後にはちゃんとした文章にして言い切り、疲れたように席に座った。

 

「面接官に認められ、これでジョージも仕事を得ることが出来ました。ですが、ジョージが大変なのはこれからです。部下をいびる上司の下に配属され、同僚は周りの足を引っ張ることしか考えていない。向上心豊かで環境に恵まれた他の同期達を押し退けて上に上がる為には進み続けるしかありません」

 

 そこで一度言葉を止めたネギは、息を吸い込んだ。

 

「ミランダに認められたい一心で仕事をこなしたジョージに遂に大口の仕事が舞い込んできました。ですが、直属の上司と同僚は敵ばかり。失敗すれば即クビが宣告され、元のスラム街に戻らざるをえなくなるジョージが取った乾坤一擲の作戦が次に記されています。さて、次は誰に訳してもらいましょうか」

 

 クラス全体を見渡したネギと視線を合わせられるのは極少数だった。

 成績が良く、英語の訳も分かる成績上位者の超やあやか等はネギに視線を向けられても、答えられる自信があるので視線を外さない。反対に自身の学力に自信の無い者や、ネギが言った英語を訳す事ができない生徒はネギが視線を向けると、顔ごと視線を外して目を合わせようとしない。

 全体的に後者の視線を外す生徒が多いのが、如実にクラスの学力を表していた。まさか視線を合わせた生徒と外した生徒のリストをアーニャが手帳に書き込んでいるとは思いもしまい。

 

《誰に当てようか?》

《絶対に視線を合わせないようにしてるまき絵か、私には無理ですってアピールしてる古菲ってのも面白いわね》

 

 ネギから視線を逸らす生徒の中で、特に度合いが酷い二人。

 斜め下を向いて絶対にネギと目を合わせないようにしているまき絵と、クルクルと手の中でペンを回して必死に当てられないようにしている古菲にアーニャの視線が止まったようだった。

 

《二人に一回当ててるから、不公平感を失くすためにまだ当ててない人がいいと思う》

《となると、教科書をガン見してる夕映か、当てられたら絶対に答えられないって顔をしている刹那か》

 

 授業時間はもう半分以上経過している。先の調子で既にクラスの半数を当てているので指名できる人員は限られる。

 

《その前に当てる人がいるでしょ》

《アスカの奇行に巻き込まれてたみたいだから少しは見逃してあげたいんだけど》

《不公平感を失くすんでしょ。個人的な感情で判断しない》

 

 う~ん、とクラスの真ん中より少し後ろで机に伏せている少女を見遣ったネギは、迷いを捨てきれていなかったようだったがアーニャの指摘に心を決めたようだった。

 

「次は明日菜さんにお願いします。明日菜さん?」

 

 呼びかけても反応があらず、明日菜が寝ていることに今気づいたかのように演技しながらネギは机の間を通って席へと向かう。

 

「明日菜さん、明日菜さん起きて下さい」

 

 神楽坂明日菜は教科書を立てて壁にしながら爆睡していた。ネギが近くで呼びかけても起きず、朝から運動をして疲れていることを知っている木乃香が隣で苦笑している。

 強めに肩を揺らすと、瞼が痙攣してゆっくりと開いていく。左右で色違いの瞳は見ていて美しいと素直にネギは思う。父譲りらしい茶系の瞳の色をしているネギは、良く晴れた空の色のような瞳をしているアスカの目を見るのが好きだった。明日菜の目はアスカに負けず劣らず見ていて飽きない。

 

「なぁにぃよぉ…………眠いんだからぁもう少し寝かせてぇ」

「授業中なんですから、そういうわけにはいきません」

 

 魔法学校でアスカに体力勝負で張り合った者達と同じ末路を晒している明日菜に同情の気持ちはあれど、何時までも特別扱いは出来ない。起きたようで起きていない明日菜の肩を強く揺さぶり、意地でも寝ようとするのを止める。

 寝起きの虎ほど危険な物はない。熟睡していたところを邪魔された明日菜はネギの手を払い、また元の姿勢に戻る。

 

「明日菜ってば、よほど眠いみたいね。バイトでそんなに疲れたの?」

 

 通路を挟んで隣の席に座る美沙が半ば意固地になっているようにも見える明日菜に呆れた視線を向ける。

 

「バイトでアスカ君と勝負して体力負けしたみたいやねん。ヘトヘトで帰って来て、それからずっとこんな調子でな」

 

 困ったわぁ、と頬に手を当てた木乃香の発言に何人かが廊下側最後尾の席にいるアスカを見た。

 アスカは背筋を真っ直ぐに伸ばして支給されたばかりの教科書を両手に持っていた。その目は真っ直ぐに教科書を見ている。もしも授業姿勢を評価するとしたら満点を与えられるほど見事な態度であった。

 この事態にも動じず、一心不乱に教科書を見つめているアスカに大半が天は二物を与えないのだと思ったが幼馴染の二人だけは違った。

 

「あのアホは」

 

 立ち上がったアーニャが視線も鋭くアスカを睨み、足音を可能な限り決して教室の後ろへと回る。

 アスカの後ろに来たアーニャは持っている教科書を振り上げた。

 

「寝てんじゃないわよボケアスカ!」

「あがっ!?」

 

 振り上げた手を下ろして教科書の角で首の付け根を殴打すると、キチリとした姿勢だった目が飛び出そうな奇妙な声がアスカの口から出た。

 アスカは殴られた首の付け根を両手で押さえ、「ぬぉぉぉ――っ」と痛みに悶える。

 

「痛ってぇな! なにしやがる!」

「無駄に良い姿勢で授業中に堂々と寝るんじゃないわよ! 目を開けて寝るなんて芸が懲りすぎなのよ!」

 

 痛みで若干涙目なアスカは振り返りつつ叫んだが、アーニャの怒りの方が遥かに上だった。叩いた当人の方こそ頭が痛いとばかりに眉間を抑え、アスカを睨み付ける。

 

「ようやく先生たちの気持ちが分かったわ。厄介な生徒を受け持つとこんな気持ちになっていたって」

「当時は面倒事がなくて良いと思ったけど立場が変わると感じることも違うもんだね」

 

 近くにやってきたネギがアーニャの気持ちに強く深く同意して頷く。

 食う・寝る・戦うの三原則で生きているアスカが魔法学校の授業をまとも聞いていられるはずがない。しかし、如何なアスカといえども毎回毎回サボれるわけがない。教師陣によって捕獲され、強制的に授業を受けなければならなかった時もあった。

 そこでアスカは如何に時間を有意義に使えるかを考えた。まともに授業を受ける気がないところがアスカらしい。

 最初に閃いたのが寝ることだったが、それも直ぐに頓挫する。机の上に被さっていれば寝ていることは丸分かり。

 アスカは考えた。無駄に熱を入れて考えた。

 如何に教師の目を欺いて寝るかを主眼に置いて、もっと別のことに頭を費やせと言いたくなる思考の末に導き出した答えが、この無駄に良い姿勢で目を開けながら寝ることであった。

 話しかければ起き、悪意(起こす気)を持って近づいても起きる。もはや芸の領域の技術を手に入れたアスカに気づかれずに近づけるのはネギとアーニャのみ。一体、どれだけの教師が授業中に堂々と寝るアスカに煮え湯を飲まされてきたか。アーニャ達は自分達が教師の立場になって始めて彼らの気持ちを理解できたのである。

 

「いいこと? 私達の授業で寝ることは許さないから覚悟しておきなさい」

「ぐっ、分かった」

 

 鼻先に指を突きつけられたアスカには否と言える権利は与えられてはいない。アスカは苦渋を呑み込んで頷くしかなかった。

 頷きを得たアーニャは勝ち誇った顔で悠然と席を離れる。だが、流石のアーニャもこの後にアスカの「授業聞いた振り」が様々なバリエーションを生み出して悪戦苦闘されることになるとは、まだこの時は欠片も予想していなかった。

 

「明日菜の代わりにアンタが答えなさい。テキストは76ページ。ジョージが取った乾坤一擲の作戦とは何?」

「そんなの決まってるじゃないか」

 

 教科書を見ることなく、何故かアスかは腕を組んでふんぞり返りながら自信満々だった。

 

「全員と戦って敵をけちらした、だ」

「この脳内お天気バトルマニアが!」

「がふっ!?」

 

 話を聞いていないので分かるはずがないと予想していたネギの想像通りの答えが返され、思わず手に持っていたチョークを投げつけた。チョークにはネギの激情を示すように風の精霊が纏わりつき、完全に油断していたアスカの額に直撃した。

 直撃したチョークが粉々に砕けるほどの威力に流石のアスカも堪えたようで、打った額を両手で押さえながら机に伏せた。

 

「はん」

 

 無様な姿を曝すアスカを横で鼻で笑ったのはエヴァンジェリン。

 

「それに明日菜も」

 

 紳士たれと自身を戒めているネギでは元より女性に強く出られないことを知っているアーニャは、この騒ぎにもまだ寝ている明日菜の席まで来て耳元に口を近づけた。明日菜を揺り動かす言葉を既にアーニャは知っている。

 

「起きないと高畑先生にアンタが子供っぽいクマパンを履いていることをバラすわよ」

「な……っ!?」

 

 囁かれた言葉は睡眠を続けて鈍っていた明日菜の脳を一瞬で覚醒させた。椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった明日菜は脳は覚醒しても思考が付いていっていないので、状況を呑み込むまでに時間を要した。

 

「ア、アアアアーニャちゃん一体何を言っているのでございますでありますですわよ!?」

「言語が崩壊してるで、明日菜」

 

 状況を呑み込んでも明日菜の脳は回っていなかったようだった。普段はぽややんとしていながらも関西出身だからツッコムところは突っ込む木乃香が明日菜の状態を的確に表現している。

 

「同じことだけど、もう一度言うわ。授業中に寝てんじゃないわよ。また寝たら今言ったことを実行に移すからね」

 

 正論であった。正論であるが故に明日菜は反論できない。直後、丸伸びしたチャイムが鳴り響いて、ネギは続けようとした授業をここで一端止めることにした。

 

「今日はここまでとします。ジョージの作戦については次の授業までの宿題とします。誰かに当てますのでしっかりと予習しておいて下さい」

 

 教壇に戻ったネギは教科書とクラス名簿をトントンと整えて言い切る。

 クラスのなんともいえない空気を感じ取りながら、去る前に言わねばならないことがあった。

 

「今日の放課後は以前から行っていた居残り授業を僕達が引き継いで行います。今から言う人は参加するように」

「神楽坂明日菜、佐々木まき絵――――」

 

 アーニャに名前を言われて居残り授業への参加を強制された者達の悲哀の声が木霊した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は放課後。部活に向かう者や友達と遊びに向かう者が散乱する中で教室に残っている者達がいた。

 

「十点満点の小テストです。八点以上取れるまで帰れませんから頑張って下さい」

 

 教壇に立つネギから見て中央の列を開け、廊下側にバカレンジャーと呼ばれる神楽坂明日菜、佐々木まき絵、長瀬楓、綾瀬夕映、古菲が座っている。反対に窓側には桜咲刹那、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル、アスカ・スプリングフィールド、絡繰茶々丸、ザジ・レイニーデイが二人ずつ座っていた。

 

「なんで私が居残り授業などに参加せねばならん」

 

 バカグリーンと表札が置かれた机の上でふんぞり返っていたエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、不名誉な渾名に顔を紅潮させていた。隣に座る異国の少女の正体を知っている桜咲刹那としては気が気ではなかったが、気持ちとしてはエヴァンジェリンと同じだった。

 

「成績が悪いからよ。このバカレンジャー予備軍共」

 

 クラス内での蔑称でもあり、ある意味で愛称でもある渾名を付けられた刹那は、バカホワイトと書かれた表札を手に取って肩を落とした。

 バカレンジャーの面々の前にはそれぞれレッド・ピンク・ブラック・ブルー・イエローの表札が置かれており、アーニャによってバカレンジャー予備軍と言われた面々の前にも、エヴァンジェリンと刹那の所為の前にグリーンとホワイトの表札が置かれているように、アスカの前にはゴールド、ザジの前にはパープル、茶々丸の前にはグレーが置かれていた。

 

「そのへんてこな渾名をつけるな。私は成績が悪いのではない。やる気がないだけだ」

「一番性質が悪いわよ。言われたくなかったら結果を出しなさいバカグリーン」

「ぬぅっ」

 

 言い返していたエヴァンジェリンが口詰まった。十五年も中学校生活を繰り返してきて授業など聞き飽きていたので頻繁にサボっていたが、十五年もあれば授業内容はガラリと変わる。授業内容は時の経過と共に多少なりとも変わり、何年も頻繁にサボってやる気など欠片もなかったエヴァンジェリンの頭の中から色々と抜け落ちていた。

 エヴァンジェリンは憎たらしいアーニャから視線を手元に落した。居残り授業の課題である小テストは依然として空欄を埋め切れていない。

 

「あの、私達はどうして予備軍扱いなのでしょうか?」

 

 友達を待っているハルナ・のどか・木乃香の中で特に木乃香の視線を気にしながら、おずおずと刹那は手を上げた。

 

「簡単よ。バカレンジャーに近い五人、もしくはバカレンジャーになってもおかしくない人だからよ」

 

 アーニャに指摘されて刹那は残されたメンバーを改めてみる。そして納得してしまった。

 メンバーを見てみれば内実にも納得がいってしまう。バカレンジャー予備軍扱いされて気にしているのはエヴァンジェリンと刹那のみだけで、ザジと茶々丸は黙々と小テストを行っていた。

 

「出来ました」

 

 真っ先に小テストを終わらせたのは茶々丸だった。

 

「えっ、もうですか!?」

 

 始まったのはつい先ほど。全問を埋めるにしても即答しなければ不可能な速さだった。渡された小テストを教壇で採点したネギは更に驚く結果となった。

 

「満点、合格です。最初だから基礎問題にしましたけど、これでどうしてテストの成績が悪いんですか?」

「文章から作者の心情を把握するような問題は苦手ですが、このレベルのテストならば問題ありません。普段のテストではマスターに合わせていましたので」

「なにっ!?」

 

 従者の鏡とも言える茶々丸であったが、まさか自身に合わせる為にテストの成績が振るわなかったことを初めて知ったエヴァンジェリンは仰天した。名高い真祖の吸血鬼の面目が、まさか己が従者に潰されるとは思っていなかったエヴァンジェリンにクリティカルヒットしたようである。

 せめて二番は譲ってなるものかと一念発起したエヴァンジェリンは薄れた記憶の知識を必死に掘り返し、ペンを持っていないもう片方の手で髪の毛を掻き毟りながら小テストに向き合う。

 全員が小テストに集中したのを確認したネギは、ホッと一息をついた。

 

「あの、ネギ先生…………」

「え……あ、はいっ!」

 

 気を抜いていた時なので、第三者に話しかけられたので思わず大きな声が出てしまった。

 ネギが呼ばれた声の方を向くと、三人の女の子が立っていた。

 

「スミマセン。ネギ先生、朝の授業について質問が」

 

 一人は居候させてもらっている部屋の住人である近衛木乃香。もう一人が昨日魔法で助けた少女――――宮崎のどかであることにも気が付いた。 何か言おうとしていた様子ののどかの横から、三人の中で残った一人である最も体格が良い早乙女ハルナがネギに声を掛けてきた。

 

「はいはい、いいですよ。えと……14番早乙女ハルナさん」

「あ、私じゃなくてこっちの子なんですけど」

「は、はい」

 

 両脇のハルナと木乃香に背を押されて、三人の真ん中にいるのどかがおずおずと一歩前に踏み出した。実は初授業を終えて上手くできたか自信が無かったので他人の評価が気になっていたのだ。そんな自信があるとは言えない授業でも質問をしに来てくれた事がネギには嬉しかった。

 彼女達の質問に答える為、ネギはのどかに視線を集中した。

 

「…………あれ?」

「え?」

 

 質問する為に顔を近づけてきたのどかの髪型を見て、ネギはある変化に気がつく。よく見れば、髪で隠されていたのどかの眼が以前よりもはっきり見えていた。

 

「宮崎さん、髪型変えたんですね。似合ってますよ」

 

 ネギがのどかの髪型の変化に気付いて褒める。ナチュラルに褒めるネギの将来は絶対に女たらしだとアーニャは後方からテストを行っている面々を見ながら思った。

 

「でしょでしょ!? かわいーと思うでしょ!?」

 

 ハルナがテンション高く喋りながら木乃香と二人でのどかの前髪を分けて、隠されていた素顔を披露した。中にあったのどかの可愛らしい顔は驚いて目を見開き、みるみる顔が赤くなっていく。

 

「えっ……あ……」

「この子かわいーのに顔出さないのよねー」

 

 ただでさえ恥ずかしがりやののどかは、ネギという少し意識している異性に隠していた素顔を見られ、顔を真っ赤に染めて走り去ってしまう。

 

「あ!? 宮崎さん」

「あん。ちょっとのどか! ゴメンネ、せんせ!」

「あ……」

 

 そしてハルナも走り去ってしまったのどかを追う為、ネギを置いて行ってしまった。

 ネギにはどうしてのどかが走り去ってしまったのかが解らず、質問をしにやって来た当人が走り去ってしまって途方に暮れるしかなかった。恋や思春期の特有の心の揺れを感じ取れないのは数えで十歳では仕方のないことだろう。

 のどかの行動に驚いたネギは、残った木乃香に理由を聞こうと顔を向けた。

 

「行ってもうたな。気にせんといてな、ネギ君。のどかも恥ずかしがってるだけやから」

「はぁ、質問はいいんでしょうか?」

「また聞きに来るやろうから、ええと思うで」

 

 ニコニコとした木乃香の笑顔の意味を理解できないネギは首を捻った。

 

「出来ましたです」

「あ、はい…………綾瀬夕映さん、九点。合格です。普段からこれぐらい頑張って下さい」

「勉強嫌いです。それでは私はのどかの後を追いますです」

 

 と、採点している時からソワソワしていて落ち着かない様子だった夕映は鞄を持って慌ただしく教室を出て行った。言う通り、のどかの後を追いに行ったのだろう。昨日の歓迎会の時も夕映とのどか、ハルナは一緒に行動していたから仲が良いのだろうと心のメモに記しておく。

 

「別に勉強なんて出来なくてもエスカレーター式で高校までは行けるんだからいいじゃない」

 

 グチグチと言いながらも明日菜は必死に小テストを行っていた。

 アーニャにサボったりすれば高畑にクマパンのことをバラすと脅されてはやるしかないのだった。

 

 

 

 

 

 三番目になったが、めでたく目標得点を取ってエヴァンジェリンが茶々丸を連れて出て行き、ザジが続き、バカレンジャーの殆どもいなくなった教室。

 

「もういいわよ。私は馬鹿なんだから」

 

 回数分の小テストを机の上に広げ、机の上に伏せて盛大に泣き言を漏らしていた。後少しで二桁に上る小テストを繰り返した明日菜は元から対して持っていなかった自信を喪失していた。

 

「……………」

 

 明日菜よりは点数はいいが、英語は本当に苦手らしく努力は実っていなかった。

 同じように小テストを繰り返している刹那はバカホワイトの異名通り、全身を真っ白に煤けさせていた。

 

「なんでアンタまで残ってんの」

「日本の英語の勉強って分かりにくいんだよ」

 

 英語圏の生まれのくせして未だに合格点に届かないアスカだが、こちらはどちらかというと頭や知識よりも別に問題があるようだった。頭の後ろで腕を組んでペンを咥え、欠伸までしている姿にはやる気は欠片も見えない。

 

「ん~」

 

 これ以上ないほどに丁寧にじっくりと教え、いい加減にやりようがなくなったネギが困り果てていると廊下側の窓が開いた。

 

「おーい、調子はどうだいネギ君」

 

 開かれた窓から顔を出したのは担任であるタカミチ・T・高畑であった。

 高畑を見た瞬間、アーニャの脳裏に天恵が降って来た。

 

「ねぇ、アスカ」

「ん?」

 

 アスカに呼びかけると当の本人は机の上に足を乗せていた。行儀の悪さに口の端をひくつかせたアーニャだったが彼女にはとっておきの秘策がある。物凄く他人任せだが。

 

「高畑先生が満点とったら今度戦ってくれるって」

「なにっ!?」

「おいおい、勝手に人を景品にしないでくれ」

 

 実に他人任せな秘策だったが高畑は注意を入れながらも否定はしなかった。

 アスカの目の色が変わった。茫洋としていた目の奥に確かな意思の光が輝き、机に乗せていた足を下ろして咥えていたペンで小テストに取りかかり始めた。アスカの底力というか、欲に対しては忠実で底知れない力を発揮するので、極上のご褒美を用意すれば後は勝手にゴールまで突っ走るだろうことは良く知っている。

 

「バトルマニアはこれでいいとして」

 

 最終手段を使ったことにネギが呆れているのを無視しながら、木乃香に勉強を教えられて身を限界まで縮こませている刹那に意識を移す。

 

「どう見ても木乃香が原因よね。木乃香、ちょっとこっちに来て明日菜の方を手伝って」

「? はいな」

 

 まだ付き合いが一日程度しかないので良く解らないが、刹那は木乃香が近くにいると舞い上がってしまうらしい。となれば刹那に物を教えるのに現状では木乃香は不適格ということになる・

 原因である木乃香は呼べば思いのほか簡単に釣り出されて、刹那が傍で見ていれば分かるほど安心していた。本当にこの二人はなんなのだろうか、と疑問に思いながら木乃香に高畑への伝言を頼む。

 伝言を伝えに行った木乃香の背中を見送り、アーニャは代わりに刹那の下へ向かう。

 

「なぁなぁ、高畑先生。明日菜に言ってほしいことがあるんやけど」

 

 高畑の下へやってきた木乃香は耳元でアーニャからの伝言を伝えた。

 そんなことでいいのか、と聞いてくる高畑に頷きつつ、前の席に座ってアーニャに教わっている刹那に切なげな視線を送る木乃香であった。

 

「明日菜君」

「たっ……た、高畑先生。これはその」

 

 教室内に足を踏み入れて明日菜の席までやってきた高畑は机の上に広げられた小テストの山を見て苦笑を浮かべた。明日菜が英語が出来ないことは良く知っているので今更特別になにかを思うことはないが、それでも自分が担当している教科だけに気にもする。取りあえず今はアーニャから伝えられたらしい木乃香に聞いた伝言を言うために口を開いた。

 

「君が満点を取ってくれると僕はとても嬉しい。頑張ってくれ」

「は、はい!」

 

 甘く囁くように言えというアドバイスを忠実に守ると明日菜のやる気メーターが限界を天元突破した。

 三人が合格点を取るにはそれほど長い時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 居残り授業が長引いて駅を降りた時には外はもう真っ暗だった。

 

「もう、真っ暗じゃない」

 

 電車から降りて改札機を通ったアーニャが学校を出た時にはまだ夕焼けが残っていた空が真っ暗になっていることに気づいた。

 

「こっちは星が見えないんですね」

 

 ぽつり、と駅から女子寮に向かっている道中でネギが夜空を見上げて呟いた。その言葉に勉強で疲れながらも明日菜も同じように都市の灯りで星が見えない空を見る。

 

「イギリスは違うの?」

「田舎ですから空気も汚染されていないので満点の星空です。だから、僕達にとっては星が見えない空は本当に不思議です」

「ええなぁ。うちも小さい頃は良く見てたんやけど、最近は見渡す限りの星空ってないわ」

 

 最後まで残ったメンバーは全員が女子寮住まいである。刹那だけは離れようとしたが、アーニャに教師権限で逃げたら課題満載と言い含められてしまっては逃げるに逃げられなかった。理由あって木乃香に近づけないのでこれだけの近距離はかなりマズい。

 この事態を解決したのはアスカだった。

 最後の三人の中で一番初めに満点を取って高畑と戦える権利を手に入れてご満悦のアスカは、刹那にとっては運良く神鳴流のことを聞いて来て、ネギやアーニャが気を利かせたことで集団から少し離れた位置で歩くことが出来た。

 

「アーニャって、ああいう人を動かすことだけは昔から得意だよね」

「人聞きが悪いことを言うわね、ネギ。私ほど純情で可憐でお淑やかな子はいないわ」

「何言ってるのさ。僕達がどれだけ苦労したと思ってるんだよ」

 

 真っ当に勉強させたいネギとしてはアーニャのやり方は邪道も邪道すぎる。ネギなりの理想を持ってはいるがアーニャのやり方も効率という点では正しい。問題はアーニャの、困ると人を動かして解決を図ろうとする悪癖にあった。

 

「二年前の学校対抗戦の時もアーニャの作戦の所為で滅茶苦茶になっちゃうし、卒業試験も参加者を利用した所為で裏の森が焼けて大問題になったじゃないか」

「うっ」

 

 記憶にも新しい騒動の数々を上げたネギの指摘に、傲岸不遜を地で行くようなアーニャであっても罪の意識はあったのか、抗弁しようとせず口を噤んだ。直ぐに気を取り直したように胸を張ったが。

 

「結果的には上手くいってるじゃない。誰もがネギみたいな天才じゃないのよ」

「僕は天才なんかじゃない」

「あら、世界的に見ても難しいと言われる日本語を片手間で三週間でマスターしたのはどこのどなたでしったけ」

 

 あっという間に言い負かされてしまった。ネギではアーニャに口で勝つことは難しい。

 アーニャは教師の勉強の為に地元の学校で見学をさせてもらうなどしながらだったので、日本語を完全に習得したのは渡航ギリギリだったりする。

 

「確かこの近くに郵便ポストがあったわよね」

 

 ネギを言い負かしたアーニャは勝ち誇るも長続きはせず、そわそわとした仕草で鞄を触りながら明日菜に聞いた。

 

「ポストなんてその辺に一杯あるじゃない」

「明日菜、それはちょっと不親切やて。ポストやったらそこの角を曲がった直ぐのとこにあるで」

 

 朝の運動で体が、居残り授業で頭を酷使してフラフラと歩く明日菜が投げやりに答える。適当すぎる明日菜の返答に注意を入れながら、彼女を支えながら歩く木乃香がポストがある場所を説明する。

 ありがとう、と珍しく素直に礼を言ったアーニャは鞄から手紙を二通取り出して足早に去ろうとした。

 

「あ、アーニャちゃん。それってエアメールちゃうん」

「そうだけど、それがどうかしたの?」

「やったらポストは無理やわ。エアメールって郵便局で手続きしないと遅れへんて聞いたことがあるわ」

 

 げ、と郵便局に行かなければならないことに面倒そうに顔を顰めたアーニャは無念そうに手紙を鞄に直した。

 

「お姉ちゃんに?」

「と、ナナリーにね」

 

 ネギは手紙を送る相手に予想がついていたのか驚きはしなかった。

 

「ナナリー?」

「私達の同期よ。ナナリー・ミルケイン。今はハワイで占い師をやっているはず」

「アーニャちゃんはその子と仲ええみたいやな」

 

 そのナナリーの名を呼ぶ時に込められた親愛の情がアーニャが相手をどう思っているかを明日菜と木乃香に雄弁に語っていた。

 

「うちの学校は生徒が少なかったら同性で同い年はナナリーだけだったのよ。そりゃ、仲良くもなるわ」

 

 と、素っ気ない言い方をしていても言葉の端々に喜びがあるのだからアーニャは素直ではないと二人は思った。

 

「青い髪の毛の、何時もアーニャの背中に隠れてた引っ込み思案の子だったけ。僕は、あんまり話をした記憶ないな」

「そういえば、あの子は男が苦手だったからアンタと碌に話をしたことなかったわね」

 

 記憶を掘り返していたネギは首を捻っていたが理由を聞けば納得もする。そういえば、ナナリーと今日ネギに授業のことを質問してきた宮崎のどかは彼女と反応が似ていたと思い出した。

 

「お姉ちゃんが来るまでは住所が分からないってことで手紙を出すのを諦めてたけど、学園長が私達宛ての荷物を一括で受け取って渡してくれるって言ってくれたから早速出そうと思ったのよ」

「仲が良いのは知ってたけど、連絡を取り合うのには早くない?」

「あんなに引っ込み思案な子が客商売みたいな占い師をやってるのよ。上手くやれてるか気になって仕方がないの」

 

 アスカやネギに対しては絞めるところ以外は放任気味なところがあるアーニャが、まるで子供を余所にやった母親のようにナナリーの心配をしていた。お母さんみたいや、と木乃香は思いもしたが口には出さなかった。

 

「食の細い子なのに、ちゃんとご飯を食べてるかしら。もう、なんだって卒業後の課題がハワイで占い師なのよ。最低でもハワイじゃなくて日本にしなさいよ」

 

 心配を始めたら際限なく気になって来るのか、徐々にアーニャは落ち着きを失くしていった。ぶつぶつと呟きながら、決まって既に動き出している事態にまで文句を言い出したアーニャを止められる者はいない。

 

「アーニャ、まるで母親みたいだよ」

「うっさいわねボケネギが!」

 

 木乃香が思ったことを口に出してしまったネギに、まさしく子供の心配をする母親の如き心情だったアーニャは簡単にキレた。余計な言葉を言ったネギに鉄拳制裁を下さんと拳を振り上げた。これは何時ものことなのだが、この時はアーニャの感情は激していた。

 アーニャの得意属性は「火」である。そして彼女には一つだけ欠点があった。

 火の特性は「烈火」という文字の如く感情の変化に作用されることがある。つまり、術者当人の感情に反応して時に意に反して現象が発現しうることがあるのだ。アーニャはこの傾向が人の何倍も大きい。精霊との感応能力が高いのか、それとも単純に魔力の制御が緩いのか。アーニャの渾名である火の玉少女(ファイヤーガール)は、時に感情によって自身が放つ現象を制御しきれない彼女を皮肉った一面もあった。

 

「あ……」

 

 ネギは恒常的に魔法障壁を張っている。肉体派であるアスカに比べて知性派であるネギの体の耐久力は低い。その面を補うために魔法障壁を張っているのだ。

 恒常的に張っているといっても常時障壁を展開し続けたら魔力が持たない。この魔法障壁は悪意による攻撃や術者に危険が迫っていると判断したら自動的に展開されるタイプだった。そしてここでアーニャへと目を移すと、その拳はネギに当たる数センチで不自然に止まっている。それだけならばアーニャが途中で手を止めていると勘違いする。その拳が燃え盛り、ネギが張っている障壁を可視化さえしていなければだ。

 

「……っ!?」

 

 現実を認識したアーニャは一瞬で拳から火を消し、ネギも障壁を解いた。そして必死な形相で二人で辺りを見渡した。

 真っ先に目に入ったのは固まっている明日菜と木乃香。そして後方に少し離れた所で目を剥いている刹那とのほほんとしているアスカ。その他には人の姿は見えず、ネギが探索魔法で周囲に人がいないかを徹底的に探る。

 数秒して、ネギは安心したように杖に縋りつきながら長い溜息を吐いた。

 

「良かったあ。近くには人の反応はない。どうやら誰にも見られずにすんだらしい」

「まさかこんなところで魔法がバレて強制送還なんて洒落にならないものね。この場にいるのが事情を知っている明日菜と関係者の木乃香で良かったわ」

 

 探索魔法の結果にネギは額に浮かんだ冷や汗を拭い、アーニャは安心しながら未だに固まっている明日菜と木乃香たちを見る。

 

「アーニャ、まだ感情で魔法が出ちゃう癖治ってないの?」

「悪かったわよ。魔力の制御はちゃんと出来てるはずなのに、なんか出ちゃうのよ」

 

 ネギに謝ったアーニャは、普段は制御できている炎を薄らと拳に纏わせたり消したりしながら、未だに固まっている明日菜と木乃香を完全に安心しきった目で見る。

 

「明日菜には昨日バレっちゃたっし、木乃香は最初からこちら側だもんね。失敗失敗。こちら側の人間だけと思ってすっかり安心しちゃってたわ」

「あ……あなたたちは!!」

「なに、どうしたの?」

 

 理解していないアーニャに詰め寄った刹那は彼女達の致命的な勘違いに気づいた。

 

「アーニャちゃんの手が燃えてた? ネギ君の前にも薄い壁があったし。今のが魔法?」

 

 信じられない物を見てしまったように目を見開いている木乃香の、魔法らに関わっている人間ならありえない反応に遅まきながらもアーニャやネギも自分達が勘違いしていることに気が付いた。

 

「お嬢様は何もご存じではないんです…………」

「え……、もしかして……………………私、またやっちゃった?」

 

 アスカが見上げた夜空で流れ星が彼方から此方へと落ちて行った。

 




実はアスカの魔法の始動キーを全く考えていませんでした。どうしよう。


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第4話 先生は大変です

 

 昼休み。それは勉学に勤しむ学生にとっては授業という名の牢獄から開放され、学校の中で暫しの間、自由を満喫する事が出来る数少ない遊び時である。それはここ、麻帆良学園でも例外ではない。

 広大な敷地を誇る中等部から大学部まで含めた女子学部の中庭では、昼食を取ったり、談笑をしたり、遊戯を行ったりと数多くの生徒達で溢れている。様々な行動で昼休みを謳歌する学生の中には2-Aの生徒達もいて亜子、アキラ、まき絵、裕奈の4人は、食後の運動に落とさないようにするだけの簡易バレーボールをしていた。

 

「ねー、ネギ君達が来て五日経ったけど、みんなは三人の事どう思う?」

 

 順番通りに回ってきたバレーボールを器用におでこで返しながら、脈絡無く亜子は他のクラスメイト達にそう尋ねた。

 

「ん………いいんじゃないかな? 子供先生って侮ってたけどちゃんと授業してたし」

 

 サッカー部のマネージャーをしている亜子がヘディングで回したボールはアキラへと渡り、やってきたボールを更に返しつつ、アキラはそう答えた。

 

「そうだね。二人とも教育実習生として授業も頑張ってるしね。出来ればもう少し優しくしてくれると私としてはありがたいにゃー」

「そうだよー」

 

 アキラの意見に賛成した裕奈が弱音を吐き、クラスの中で成績がかなり悪いまき絵が追従する。

 

「アスカ君は超フリーダムやね。ほら、あそこで寝てる」

 

 アキラからまき絵に渡り、まき絵から渡って一巡してきたボールをトスしてアキラに回した亜子は、中庭の端の木陰で寝ているアスカを指差した。

 木乃香が作った弁当を食べて、木陰で有意義にもシエスタを敢行している。特定の分野以外では緩み切っている表情で分かりにくいが、アスカの顔もネギと同様に十分に見れた顔である。寝ていれば天使とは正にこのことで、噂の少年を五日経ってもまだ見たことのない女生徒数人が遠くから眺めていた。他にも気になるのか、周辺で時折視線を向ける者達もいる。

 

「女ばっかで気まずいかなとって思ってけど全然そんなことなかった」

「気にしなさすぎるから逆にこっちが気を使ったしにゃー」

「体育の授業でさっさと教室で着替えて行っちゃったもんね。遠慮が無さ過ぎるからこっちが待ってから着替えるって感じになっちゃてるよ」

 

 また順番にトスを回しながら会話を続ける。

 アスカは性差など欠片も気にしていないのか、女子がいようが平気で着替えるし、目の前でふざけた祐奈が脱ぐふりをした時も平然としていた。

 

「スタイルに自信なくしたにゃー。最近は自信あったのに」

「祐奈でそうやったらうちらはどうしてらええの」

「あれ、私も?」

 

 前の席で話す機会の多い祐奈などはふざけて誘惑などしてみたが微塵も相手にされず、現在進行形で急速成長中の胸に自信を喪失かけていた。ついこの前まで平均並みだった祐奈の急成長に置いて行かれた亜子は気落ちしていた。亜子に同類扱いされているまき絵は首を捻っていたが。

 

「明日菜は体力勝負で負けたって話だし、古ちゃんも最初以外は勝ったり負けたりしてるって言ってた」

「勉強はともかく運動は出来るんだよね」

 

 アキラのトスがコースを外れたのを足で蹴り上げた亜子は数日前の体育の授業の事を思い出していた。これはバカレンジャーの大半にも共通していることだが頭の悪い面々は逆に運動面に優れていることが多い。アスカもその典型だった。

 

「運動が苦手なネギ先生と正反対だってアーニャ先生が言ってたよ」

 

 アーニャは生徒全員とまんべんなく話をしていて、まき絵がトスを上げつつ聞いた話を披露する。

 

「エヴァンジェリンさんと一緒に授業をサボって屋上で寝てたのを新田先生に見つかったぐらいやしな」

「二人でバケツを持って廊下で立たされていたのはちょっと笑っちゃったよ。仲良いにゃー、あの二人」

 

 まき絵からのトスを受けてレシーブでボールを上げた祐奈は数日前の珍事を思い出して笑った。

 

「そういえばこの前、街で長谷川が不良に絡まれてたのを助けたって神楽坂さんが言ってた」

 

 まき絵からのトスをレシーブで受ける姿勢を作ったアキラは次にボールを渡す相手を探す。

 

「うちも美沙達と偶々、その時そこにいたんやけど凄かったで。何人もいたのに全然負けなかったから。ドラマ見てるみたいやった」

「だから、千雨ちゃんとも話してたんだ。でも、なんで教室でいきなり殴られたんだろ?」

「また何かしたんじゃない。アスカ君って天然なところあるし」

 

 会話は続いたがパスは続かずにボールは、ぼふっと音をたてて芝生の上に落下したが、元々時間潰しの様な物なので気にせず話題を変えて話が続行される。

 

「ウチら来年は高校受験やし、やっぱり子供が先生じゃ、ちょっと頼りなくない? 高畑先生は二人が来てから偶にしか顔を出さないし」

 

 しゃがんで落ちたボールを拾い再び空中に放って、亜子が少し不安そうに言った。

 

「受験てあんた、私たち大学までエスカレーターじゃん」

 

 不安気な亜子にお気楽な調子で裕奈がそう返した。確かに麻帆良学園は大学までエスカレーター式ではあるが、学園内には多くの学校がある為、成績によって通える高校、大学がある程度選別される為、このメンバー内でも成績の良い生徒と、成績の悪い生徒は違う学校に進学する可能性が高いのだが、言っている本人はそこまで深く考えていない。

 

「やっぱネギ君やアーニャちゃんは十歳だし、大人の高畑先生と違って悩み事なんて相談できないよねー。逆に私達が聞いてあげないと」

 

 高畑のような大人の男性ならばいざ知らず、例えどれだけネギやアーニャが精神的に大人で頼りになったとしても、感情が抑制をかけて相談しようと言う気にはならない。

 

「アーニャ先生なら『アンタ達如きに聞く程度ならしずな先生に聞くわよ』って言いそうだけど」

 

 ご尤もなアキラの意見に想像が出来てしまった亜子のトスが乱れた。

 

「もう、ちゃんとトス上げてよね」

 

 ころころと転がっていくボールを追いかけていくまき絵。そしてまき絵が追いかけるボールは、誰かの足に当たって停止した。

 

「ちょっと、あなた達?」

「え?」

 

 頭上から、声がしたのでまき絵はボールから視線を上げると、そこには女子高生の一団が腕を組んでまき絵を見下ろしていた。

 

「「「あ………、あなた達は……!!」」」

 

 騒動を予感させる生徒達とは別に、ネギ達は職員室にいた。昼休みの職員室で大半の先生が昼食を終えてリラックスした雰囲気が流れる中、隣同士の席のネギとアーニャは仕事の話をしていた。

 

「学期末試験まで後一ヶ月ぐらいしかないのに、このままで大丈夫なのかな」

「ペースは悪くないはずよ。生徒達もやる気を見せてくれてるし、現状はこのままでいいと私は思う」

 

 主となって授業をするネギは不安を口にするが、調整役のアーニャが現状維持を認める。

 

「しずな先生はどう思いますか? 今はここまで来てて、今週中にはここまで終わらせようと思ってるんですけど。このペースで学期末の試験に間に合いますか?」

 

 アーニャだけでは頼りなかったのか、ここはやはり本職に聞くのが望ましいと判断してネギはアーニャとは反対隣りにいる源しずなに聞いた。

 食後のお茶を飲んでいたしずなは、ネギが言った範囲を見て頷いた。

 

「ええ、十分に間に合うと思いますよ。二人とも、もう十分に先生とやっていけそうな感じですね」

「いえ、まだまだです。何もかもが思考錯誤ですから」

「先生なんて皆そんなものですよ」

 

 しずなの褒め言葉を否定したアーニャだったが、ふと魔法学校の先生方もそうだったのかと考えた。ここでこうやって頭を悩ませていることがその答えのような気がした。

 

「当面はこのペースを維持して、寮で私は刹那を」

「僕が明日菜さんとアスカを個人的に勉強を教える形をとっていれば多少なりとも今後の展望が開ける、開けたらいいな、開いてほしい」

 

 最初は自信を持っていたネギが最後に行くほどに自信を喪失して行った。寮での勉強具合はあまりよろしくないらしい。

 

「何事も積み重ねよ。一朝一夕で全てが上手くいくなら先生なんていらないわ」

 

 そう言いながらアーニャが座りながら背伸びをすると、ゴキッと身体の骨がなった。存外に教師生活は精神的にだけではなく、肉体的にも負担を覚えているようだった。

 身体の違和感がなくなったので、机に置いていた水筒のカップに口を付けてお茶を飲む。

 ネギが午後からの授業内容の見直しを行っている横で、アーニャがお茶を飲んでのんびりしている最中、職員室の扉が勢いよく開かれた。

 

「うわあああ~~ん。先生~!!」

「ネギ先生~、アーニャ先生~~っ!」

 

 職員室中の教師の視線が扉に集中し、大声と共に亜子とまき絵が職員室に泣きながら入って来た。

 

「………はい?」

 

 ネギは驚き、呼ばれたのでアーニャがつい零した返事と言うか疑問の声に、二人は慌てた様子でこちらにやってくる。

 

「こ、校内で暴行が……!」

「見てください、この傷ッ! 助けて先生っ!」

 

 かなりパニックに陥っており、目には涙を溜めて額や手の甲に負った小さな傷を見せてくる。

 

「え、ええ!? そんなひどいことを、誰が……!?」

「何があったの?」

 

 単純なネギが憤慨している横で、アーニャは慌てず騒がずに何があったのかとまき絵よりかは落ち着いている亜子に話を聞いていた。

 

 

 

 

 

 中庭には裕奈、アキラと対峙するウルスラ女学院の一団の姿があったが、ネギとアーニャの姿はまだない。まだ到着していないのだ。

 ネギ達よりも先に到着する者がいた。

 

「いい加減におよしなさい。おばサマ方!!」

「ぶ!!?」

 

 制服から見てウルスラ女子高等学校の生徒の一人が、裕奈をその場から退けようと襟首を持ってずるずると引っ張っている時に、あやかの言葉と共に明日菜が力任せに投げて高速で飛来したバレーボールが後頭部を直撃した為に出た悲鳴である。

 

「な、何だとコラァ!!」

 

 年頃の女子高生としては言われたくない言葉を言われた為に、不穏当な言葉を吐いて高等部の学生達はボールが飛んできた方向に、憤怒に染まった視線を向ける。

 場の雰囲気が加速度的に悪くなっていく。

 

「「アスナ、いいんちょ!!」」

 

 高等部の学生達が視線を向けた先には明日菜とあやかが立っており、その姿を見た裕奈、アキラがその名を呼んだ。その後ろには、シエスタを途中で起こされて木乃香に腕を引っ張られてやってきたアスカが欠伸をしていた。

 

「ここは何時も2-Aの乙女が使っている場所です。高等部の年増の方々はお引き取り願えます? あまり運動するとお体にも毒でしょうし、おばサマには……」

 

 あやかは手にバレーボールを持ち、右手を口元に当ててそう言う背後には百合の花でも咲き乱れそうな優雅さで、神経を逆撫でるように挑発する。

 年若さを強調する発言に、高等部の学生達の頭に血が上り、全員がはっきりと見える青筋をピキピキと立てた。

 

「なっ、何ですって~!?」

 

 高等部の学生達の彼女たちは十分若いのだが、これぐらいの年代で一歳の違いは大きい。

 

「とにかく皆さんは帰ってください。先輩だからって力で追い出すなんて、ちょっとひどいんじゃないですか!?」

 

 続いた明日菜の言葉は敬語で、それは至極真っ当な事で正論なのだが、前のボールを投げるのとあやかの暴言さえなければ、まだよかったのだが相手もそれでは収まらない。

 

「ふん、言うじゃない。ミルク臭い子供のくせに。知っているわよ? 神楽坂明日菜と雪広あやかね。中等部のくせに色々出しゃばって有名らしいけど……先輩の言うことにはおとなしく従うことね。子供は子供らしく隅で遊んでなさい、神楽坂明日菜」

 

 高等部の学生達のリーダー格の子供、という言葉に明日菜がカチンと頭に来たのが誰でも分かることだった。

 

「そうそう確か貴方達のクラスの担任は可愛い子供達だったわね。可愛い男の子もいるっていうし、両方とも私たちに譲らない?」

 

 正確には担任補佐なのだが勘違いしているらしい女子高生の言葉に、ブチンと真性ショタコン雪広あやかがキレたのが隣にいた明日菜には分かった。

 

「誰が譲りますか、この産業廃棄物ババァッ共が!!」

「今時、先輩風吹かせて物事通そうなんて頭悪いでしょ、あんた達!!」

「なによやる気、このガキーっ!」

 

 ウルスラ側の激昂にも堂々とした態度の明日菜とあやかだが、相手側の挑発にあっさりと沸点を越える。

 女達の叫び声にビックリしたらしいアスカが目をパチクリと明けた。

 

「喧嘩か!」

「なんで嬉しそうなん?」

 

 喜色満面で飛び出したアスカの背中に木乃香は声をかけたが、当の本人は今まさに飛んだところだった。言葉通り、アスカは地を蹴って空を飛んだのである。

 

「俺も混ぜろ――っ!」

「ぐえっ?!」

「アスカ!?」

 

 取っ組み合いの喧嘩が始まろうとしたところで、横合いからリーダーの女子高生の脇腹に飛び蹴りが決まった。明日菜に掴みかかろうとしたリーダーは見事に吹っ飛ばされ、味方に激突して倒れる。

 痛みに呻きながら立ち上がったリーダーは軍隊を指揮する指揮官のように勇ましく吠えた。

 

「よ、よくも……子供だからって容赦はしません。やっておしまい!」

「おら、かかって来いや!」

 

 さっきまで寝ぼけ眼だったアスカは突然の乱入に唖然とする周りのことなど知らず、啖呵を切って向かってくる女子高生グループに突撃して行った。

 

「あぁ…………地獄だ」

 

 まき絵と亜子に連れられて中庭にやってきたネギ達が見たのは一つの惨劇の現場だった。

 

「助けて!」

 

 最初は子供と侮っていた女子高生達が悲鳴を上げて逃げ惑う。

 流石のアスカも手加減しているのか女子高生も目立った怪我はしていないが、転んで汚れたりスカートが乱れてパンツが丸見え状態になっている状態である。部外者になってしまった明日菜達が気の毒に思ってしまう状況だった。

 逃げ惑うグループの中で果敢にアスカに挑み続けている、ある意味でこの地獄を作りだしているリーダーも髪の毛が乱れに乱れ、首元のネクタイが解けていてかなりの状態だった。

 

「負ける、もんですか!」

 

 それでも年上としての挟持があるのか、意地としても退かずアスカに向かって行った。

 向かって来られるアスカは彼女らのあまりの歯応えのなさに既にやる気を失っており、シエスタを途中で中断したこともあって眠そうだった。

 アスカは戦うのが好きであっても弱い者虐めをするのは好まない。突撃してくるリーダーをあっさりと避けて、残していた足でリーダーの足を引っ掛ける。

 

「キャーッ!」

 

 向かってくるリーダーを転がせ、それに巻き込まれたグループの一人が悲鳴を上げる。さっきからこれの連続であった。

 人が激突してくるのはかなり痛い。死屍累々となった彼女達をこうした原因の半分はリーダーの無謀な突撃にあった。

 

「どういう状況なの?」

 

 ある意味で惨状になっている現場を一目見たアーニャは、聞いていた話よりも意味不明なことになっているので、近くにいた刹那の腕を掴んでいる木乃香に問いかけた。

 

「委員長が向こうを年増扱いして挑発して、向こうもこっちを子供扱いして、大好きなネギ君を寄越せって言われた委員長がキレたところにアスカ君が乱入したんやけど、強すぎたみたいやな。あっという間に向こう側が戦意喪失したんやけど、あっちのリーダーさんが諦めてなくて今みたいなった、かなぁ」

「良く解る説明をありがとう」

 

 簡潔に纏めて説明してくれた木乃香に礼を言いながら、乱入しながらこの事態をどうしたらいいものかと味方を巻き込んで倒れながらも立ち上がってくるリーダーに困って頭を掻いているアスカへとアーニャは走った。

 十分な助走を取ってからアスカまで数メートルの距離で踏み切る。全ての怒りと事態のアホらしさを込めて、元凶へとぶつける為にアーニャは飛んだ。

 

「ようは全部アンタの所為かこのボケアスカ!」

「ひでぶっ!?」

 

 見事な飛び蹴り――――アーニャドロップバスターキックが後頭部に決まったアスカが変な奇声を上げて道の脇にある葉のオブジェへと突っ込んで行った。

 

「何時も何時も騒ぎを大きくする無自覚トラブルメーカはそこで頭を冷やしなさい」

 

 頭から突っ込んで行って足だけが見えているというアスカに、二人目の乱入を果たしたアーニャは飛び蹴りから着地しながら鼻を鳴らした。そして周りを見渡して場の空気を掌握したことを予想通りだと確信する。

 

「もう昼休みも終わるから教室に戻りなさい。文句があるなら私が聞くわ。授業に遅れるわよ!」

 

 なんともいえない空気の現場が立ち直る前に、アーニャはさっさと締めにかかった。更に視線をちょっとずらして、高畑がやってくるのを教えられれば高校生たちの腹は決まった。

 

「英子、このままじゃ不味いって」

「…………ふんっ、アンタ達覚えておきなさい」

 

 納得のいっていない様子で戻っていく高等部の生徒達。今後も何かいちゃもんつけて来る可能性は高そうだ、とアーニャは心のメモに記しておく。後で彼女達の事を調べておこうと心に決める。

 高等部の生徒達を見送ると、オブジェに上半身を突っ込ませたまま動かないアスカを気にしている2-Aの生徒達が残っていた。

 

「雪広さん」

 

 アーニャとは別口で話を聞いていたネギがあやかに声をかけた。

 

「僕達のことを想ってくれるのは嬉しいですけど、ボールをぶつけたりするのは良くないです」

「ネギ先生……」

「わざと体にボールをぶつけてしまっては、始まりがどうであろうとそれはただの暴力でしかありません。ですが、その思いは尊いものです。今回は間違えましたけど、次は間違い得ないように心において生かしてください」

「はい。以後、気を付けます」

 

 俯いているあやかに語りかけて、励ますように背中をポンと叩いて促す。

 

「さあ、皆さんも教室に戻りましょう」

 

 先導して歩き出したネギに遅れて動き出した皆の視線の先では、アーニャによって足を引っ張り出されて上半身を見せたアスカであった。気絶しているのか、ぐったりとしたまま動かない。ちょっとやり過ぎたかと思ったアーニャは気にしないことにしたらしく、アスカの足を持った引きずり出した。

 アーニャが動き出したので吊られて動き出した明日菜は、彼らが初日に気絶したネギを引き摺って校長室に向かったのを思い出して顔を引き攣らせた。ネギが全く双子の弟のことを気にしていないのといい、この三人は互いの扱いがゾンザイすぎる。これで関係が険悪かと思えばそうでもなく、隙を見せるのが悪いと考えている節すらあった。

 

「ああ、それとあやか」

 

 ガン、ゴンとあちこちに気絶しているアスカをぶつけながら引き摺っているアーニャを極力見ないようにしている生徒達。余計な騒ぎを引き起こしたアスカに壮絶な怒りを抱いているアーニャに余計な茶々を入れられるほど勇気のある者はその場にいなかった。

 

「はい、何でございましょうか?」

 

 人が立ててはいけない音を立てて引き摺られているアスカを助けるために勇気を振り絞って声をかけるべきかと思案していたあやかは、なにかを思い出しように話しかけてきたアーニャに話のとっかかり見い出した。

 

「さっき高等部の人達に年増とか言ってたらしいけど、アンタ達も後一年ちょっとで同じ立場でしょ。私から見たらどっちもどっちなんだけど」

 

 世界が凍った、と言わんばかりにその場にいた全員(理解して苦笑している高畑と何のことか分かっていないネギと引き摺られているアスカを除いて)が固まった。

 

「それとあの場に私以外の女の先生がいたら、一体どんな反応をするでしょうね」

 

 あやかがだらだらと冷や汗を掻き、他の生徒達はそんな彼女を気の毒そうに見ている。

 

「挑発するなら、もう少し周りや自分達に被害がいかない言葉を選んだ方がいいわよ」

「…………たった今、骨身に染みて理解しましたわ」

 

 校舎に入って教師陣と別れて、教室に向かうあやかの後ろ姿は、とても沈んでいたとだけ言っておこう。

 放置されてボロボロになったアスカをどうしようかと頭を悩ませる面々と合わせて、とても奇妙なメンバーであったことは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生徒達と別れて職員室に戻り、ネギ達は学年主任である新田に騒ぎが収拾した事を伝えた。

 

「高畑先生、さっきの彼女たちのこと知ってますか?」

「ああ、ウルスラの子達のことなら知っているよ」

 

 新田への報告をネギに任せたアーニャが高畑に問題を起こした生徒を知っているかと聞くと、まだ麻帆良に来て五日目のアーニャ達は知らなかったが彼女らは特定の分野で有名人らしくクラスと名前を教えてもらった。

 教えてもらった情報を元にプライバシーに引っ掛からない程度に調べる。スリーサイズとかを調べたわけではないので得た情報は、リーダーの子がドッチボール部に所属していて関東大会で優勝している事と担任の名前ぐらい。

 

「ネギ先生、アーニャ先生、申し訳ありませんが体育の先生が急用で帰られてしまったので 代わりに監督してくれませんか?」

 

 丁度二人とも五時間目は授業がないので空いている。新田もそれが分かっているから頼んだのだろう。時間の空いている二人に断る理由はない。

 

「あ、はい。分かりました」

「少し遅れますけど構いませんか?」

「別に構いませんよ。それではお願いします」

 

 新田の頼みにネギは直ぐに頷いたが、アーニャは万が一の事を考えて、急ぎ高等部への電話番号を調べておきたいので遅れる事を言うが、それでもOKが出た。学校が違えば校舎も違うのであれば電話番号も当然違うので調べないといけない。

 

「じゃあ、行ってきます」

 

 二人で授業内容を聞き、ネギは一足早く自習を行う屋上へ向かった。アーニャも高等部の電話番号を調べてから少し遅れて職員室を出た。で、階段を登って屋上の前まで来たのだが…………さて、目の前の状況を何と言ったらいいかと内心で首を捻ったアーニャだった。

 

「あんた達の方がガキじゃないのよ―――っ!」

「やる気!? かかって来なさいよこの中坊―――!!」

「ネギ先生をお放しなさ―い!!」

 

 屋上特設コートの入り口で2-A生徒達の後ろに立ち、昼休みのように取っ組み合いに発展しかけている彼女達の様子を伺う。

 

「一体、何があったの?」

「高等部の生徒が自習で先に来ていて、同じバレーボールということでダブルブッキングしてしまったようです」

「で、ネギ先生が彼女達に捕まってしまったということさ」

 

 一番近くにいた刹那に聞き、刹那の横にいた真名が後を引き継いだ。

 何時か仕返しに来ると思っていたが、高等部の生徒達はアーニャの思惑よりも早く動いたようだ。と言うか、何で捕まってるのかとネギに突っ込みたいアーニャであった。

 

「痛ぇっ……。なんでこんなにあっちこっち痛いんだ?」

 

 アーニャの後ろから階段の昇って来たアスカが痛む全身に首を捻りながら聞いてきたがアーニャは無視した。

 

「遅刻よ」

「仕方ないだろ。気が付いたら保健室で寝てたんだ。なんで俺は寝てたんだ?」

「知らないわ。どうせ昼寝して起きないから誰かが気を利かせて運んでくれたんじゃないの」

「そうか?」

 

 納得がいっていないらしいアスカはしきりに首を捻っていたがアーニャは知らぬ存ぜぬを貫き通した。分からないなら分からないでいいか、と気にしないことにしたらしいアスカを横目で見た刹那は一人で震撼していた。

 昼休みの話は教室で一杯されていたので経緯は刹那も知っている。アスカがしたこともアーニャがしたことも知っているので、知らぬ存ぜぬを貫き通して罪の意識を欠片も感じさせないアーニャの面の皮の厚さに一人で震えていた。

 

「あ、あの!!」

 

 高等部の生徒の一人に抱き締められたままのネギが、中学生組と高校生組の間に流れる不穏な空気を感じ取ったのか大きな声を上げる。

 

「…………で、ではこうしたらどうでしょう? 両クラス対抗でスポーツで争って勝負を決めるんです。爽やかに汗を流せばいがみ合いもなくなると思うんですけど」

「いいわよ、面白いじゃない。私たち高等部が負けたら大人しくこのコートを出て行くし、今後昼休みもあんた達の邪魔はしないわ。それでどう?」

 

 ポカンとしていた女子高生達は、正当性は本来中学生組みにあるのに、ネギの案に乗って高圧的に出てきた。

 

「そ、そんなこと言ったって年齢も体格も全然違うじゃん!!」

 

 バレーボールだと体格の差が諸に出るからな。幾らこちらに中学生とは思えない身長の生徒がいるとしても、平均的に見たらトントンだから不利。

 

「ふん、確かにバレーではちょっと相手にならないわね。じゃあ、ハンデを上げるわ。種目は…………ドッチボールでどう? こっちは全部で十一人、そっちは倍の二十二人で掛かって来ていいわよ。ただし、私たちが勝ったらネギ先生を教生として譲ってもらうわ。いいわね?」

「な……!」

「え~~~~~~っ!?」

「…………!」

 

 ネギを譲れ発言にあやかやまき絵、のどか等のネギ大好き人間が抗議の声を上げる。

 

「始めからこれが狙いかしらね」

「なにがですか?」

「あいつらの狙いは最初からドッチボールをやることにあるんじゃないかって話」

 

 ドッチボールを競技として選んできたことに、アーニャは理解できなかったらしい刹那を無視して一人で黙考した。

 しかも、このコートの広さでは倍に増えても逃げる範囲が狭くなるだけで、足枷にしかならないのは分かっている筈だ。中学生と馬鹿にしながらもその中学生相手にズルをするとは、やっていることはかなりせこい。放っておけば明日菜辺りが挑発に乗って人数差を理解しないまま条件を認めてしまいそうなことが分かったので、アーニャは人垣を掻き分けて前に進んだ。

 

「分かっ」

「待った!」

 

 予想通り認めかけた明日菜の言葉を途中で遮る。

 睨んでくる高等部の生徒達を無視して、胸を張ってアーニャは彼女達の前に出た。

 

「二十二人もいらないわ。こっちは一人で十分よ」

「なんですってっ!?」

「こんな狭いコートで大人数がいても動きにくくなるだけじゃない。小狡い手を使ってくる卑怯者の相手は一人で十分って言ったのよ」

 

 胸に前で腕を組んで傲岸不遜に笑ったアーニャの前で高校生組が怒りを露わにしたが、ハンデを与えると言いながら真実を言い当てられて一瞬怯んだ。

 

「ちょっとアーニャちゃん。そんなこと言って大丈夫なの?」

「流石に一人は無理やで」

 

 高校生組と因縁のある明日菜が言い、木乃香が心配してくる。他の2-Aの生徒も同様のようだった。

 

「大丈夫よ」

 

 だが、アーニャには秘策があった。負けない秘策が。

 

「…………言うじゃない。そこまで言うなら十一対一でどこまでやれるか見せてもらおうじゃない。誰が出るのかしら? 神楽坂明日菜? それとも雪広あやかかしら。まさかあなたなんて言わないわよね」

 

 真っ先に復帰したリーダーが獰猛に笑いながら挑発する。

 アーニャは安い挑発するリーダーを鼻で笑った。そして後ろにいるこういう勝負事には無類の強さを発揮する男が呼ぶ。

 

「アスカ」

「おう、なんか良く解んねぇけど荒事なら任せろ」

 

 アーニャが自分を含めた三人ではなくアスカの名を呼ぶと、当の本人は戦いと知ってやる気満々で出て来た。

 

「あなた……!」

 

 進み出たアスカに鋭い視線を向ける者がいた。昼休みの騒ぎで足蹴りされ、翻弄されたリーダーである。

 

「ここで会ったが百年目。昼休みの借りはここで返してくれるわ!」

「アンタ、誰?」

 

 ポーズを取って指まで指したリーダーの視線の先でアスカは首を捻っていた。本当に分からないらしい。後頭部をアーニャに蹴られて記憶が完全に飛んでいるようだった。そんなことを知らないリーダーは自分のことを覚える値しない人物であると認識されていて、屈辱にアスカを指したままの指を震わさせた。

 

「…………ここまで私を虚仮にしてくれたのは貴方が始めてだわ。私達はドッチボール関西大会優勝チームなのよ。泣いたって許してあげないんだから!」

 

 指先だけではなく全身を震わせたリーダーは、ちょっと涙目になりながら宣戦布告をして去って行った。

 言いたいことだけを言って去って行くリーダーの背中を見送ったアスカは更に首を捻った。

 

「なんなんだ、一体?」

「いいから、アンタも位置につきない。ゲームが開始したら投げられたボールを落さずに相手にぶつけたらいいから。くれぐれも怪我だけはさせないように」

「了解」

 

 納得しなくても戦うことが出来ることを知っているアスカは戦いに赴いていった。色々としっちゃかめっちゃかになってしまった現状を纏めようとネギもアーニャとは別に動く。

 

「皆さんは壁側に寄って下さい。あ、綾瀬さん、宮崎さん。申し訳有りませんが審判をお願いできますか?」

「は、はい」 

「分かりましたです」

 

 生徒達をコート外へと誘導し、審判の事を思い出して夕映とのどかへとお願いすると快く承諾してくれたことに笑顔を浮かべる。

 高校生組が制服を脱ぎ去ってユニフォーム姿になり準備が終わった。茶々丸がどこからか持ってきた花火を持って打ち上げ、それが合図となって試合が始まった。

 

「茶々丸、そんな物どこから取り出したんだ?」

「これはお約束、と言うものです。マスター」

 

 横で制服から着替えてすらいないエヴァンジェリンが茶々丸に尋ねるが、返ってきた言葉は意味不明である。様式美という奴だろうか。努めて気にしないことにしたエヴァンジェリンは、のどか達と一緒に審判の場所にいるネギを残して即製の観客席を見て口の端を上げた。

 

「ご苦労だったな、アーニャ先生(・・)

「先生が当て擦りにしか聞こえないわよ」

 

 やってくる場所を間違えたと顔を顰めたアーニャは、薄らと笑いながらからかってくるエヴァンジェリンから逃げたと思われたくなくて移動することは出来なかった。

 万全の観戦体勢のエヴァンジェリンの横に座ってポケットから携帯とメモを取り出し、メモの電話番号に電話を掛ける。

 

「~~先生ですか? 実はそちらのクラスの生徒が……」

 

 数回のコールの後に電話に出た相手に用件を伝えると、慌てた様子で謝罪と共に電話が切れた。一連の行動を見ていたエヴァンジェリンが心底楽しそう笑う。

 

「くくく、中々に手口が悪辣だな」

「使えるものは使う主義だから。でないと勿体無いでしょ?」

「違いない」

 

 その間にも目の前の状況は動いている。

 始まった試合は一方的だった。数の差は一目瞭然。たった一人で戦い、外野の人員すらいないのでは圧倒的になって当然かと思えば然にあらず。

 

「まあ、順当な結果でしょ」

 

 切った携帯電話をポケットに直しながら嘯くアーニャに集まる戦慄の眼差し。

 試合は一方的だった。数で勝る高校生をたった一人のアスカが圧倒していたのである。

 

「運動能力の違いは、どのスポーツでも大きいというわけだ」

 

 順当すぎて面白くないとばかりの言い方のエヴァンジェリンにアーニャも頷く。

 外野を経由して素早くボールを回しても、アスカの目はボールから離れない。太陽を背にして投げようとも同じだ。

 向かってくるボールを正面からキャッチし、軽く投げた球が剛速球となって高校生の一人に当たる。投げて来る剛速球を風船を受け止めるように片手でいともあっさりと捕球する敵が相手では、如何に関東大会優勝チームであっても旗色が悪い。

 

「この間は大変だったそうじゃないか。爺に聞いたぞ。近衛木乃香に魔法をバラしたんだってな。私と()り合う前に不戦勝になるかと思ったぞ」

 

 中学生組から声援を受けながら早くも半数を撃破したアスカを見ながら、エヴァンジェリンはふと思い出したようにアーニャを見ずに言った。

 

「なんで知ってるのよ」

「爺とは囲碁仲間だが試合の途中でポロッと零した。見事な土下座だったらしいじゃないか」

「あの耄碌爺が……っ!?」

 

 くくく、とこれ以上ない愉悦を感じさせる笑みのエヴァンジェリンに、傍で見ている茶々丸に分かるほどアーニャの顔が引き攣っていた。

 

「父親や祖父が組織の重鎮だからといって近衛木乃香も関係者だと勘違いしたのは無理からぬ話だが早計だったな。奴は父親の意向でこっち関係の話は教えられていない」

「聞いたわよ。聞かされてれば対処のしようもあったものの」

「言い訳はするな。同室の神楽坂明日菜が知らなかったことを考えれば察しはついたはずだ。事前に爺に確認しておけば良かっただけの話。バレてしまった今となっては後の祭りにしかならんが」

 

 学園長に責任転嫁しようとしたアーニャの言い分を言い訳と切って捨てた。

 先のスポーツをすることで両者を諌めようとしたネギの詰めの甘さがあったがフォローしたアーニャも肝心なところで抜けている。子供といえばそれまでだが、敵にも近い相手の不始末を笑わざるえないのがエヴァンジェリンという少女の悪徳だった。

 そこでエヴァンジェリンは視線をアーニャから横にずらした。

 

「ま、当の本人にとってはこの結果は喜ばしいことのようだがな」

「私もまさかこんな結果になるとは思いもしなかったわ。魔法バレして感謝されるなんてね」

 

 二人の視線の先では木乃香が刹那に攻勢をかけていた。

 別に何かの勝負をしているわけではない。魔法を理由にして護衛でありながらも直近に近づかなかったことを知らされた木乃香が感動して、実は他の理由があるのだとは今更口が裂けても言えない刹那は迫られるに任せるしかない。

 逃げようとすれば木乃香が「うちが嫌いなん?」と泣くのだから、刹那個人の理由では大義がなく足を留めさせられている。何時の間にか「離れる=嫌い」という図式を作り上げられた刹那に逃げ場はない。

 中学進学と同時に麻帆良に来た刹那に、一度完璧に懐まで潜り込んできた木乃香を振り解ける気概も度胸も無い。事情を知った明日菜は木乃香の味方で、言わなくても本当のことを知っている真名は面白がって笑って見ているだけ。刹那に逃げ場はなかった。今も木乃香に捕まって、おろおろと動揺している姿が丸分かりだった。

 

「木乃香には感謝してるわよ。理由はどうあれ、私達のことを庇ってくれたんだから」

「神楽坂明日菜にも、だろ。宮崎のどかにバレた件に対して学園の設備不備を指摘したそうじゃないか」

「お蔭で強制送還も罰もないんだから、二人には足を向けて寝られないわ」

 

 言いながらも、明日菜と木乃香に迫られてやむなく受け入れたように見えた学園長の真意をアーニャは見抜けていない。魔法使いの掟は身内の懇願程度で許されるほど生易しい物ではないのだ。特に魔女狩りの悲劇が色濃く刻まれている旧世界の魔法協会が定めた掟は絶対遵守が基本。

 明日菜にバレたのは学園設備の不備が招き、木乃香には成人か十八歳に頃には明かされると決められていたことということで、今回は学園長が一存で握り潰したようだが果たして彼の望みがなんであるかは欠片すらアーニャには見えない。

 

(それだけの価値があの二人にあるってことでしょうけど)

 

 英雄の息子であるネギとアスカ。あの双子に関わりがあるのは間違いないとアーニャは断定する。英雄に関わりのあるエヴァンジェリンに仲間の娘である木乃香もいるのだ。疑いは濃い。

 

(私は精々がオマケでしょうけど、今回のことはこちらにもメリットがあるから黙っているのが吉か)

 

 アーニャ自身には何の後ろ盾も碌な力もない。そのことを理解しながら口を噤むことを選んだ。

 

「お、決着が着くか」

 

 エヴァンジェリンの言葉に顔を上げれば、試合は最後の一人を当てて勝利した瞬間だった。

 

「やった―――ッ!」

「勝った――ッ!!」

「バ、バカな……」

「私たちが負けるなんて……」

 

 まき絵や裕奈が勝ち鬨の声を上げ、負けた高等部の生徒達は地面にへたり込み落ち込んでいる。最後に当てられて俯いていたリーダー格の少女が何かを言おうと口を開いた瞬間、突然屋上のドアを開けた主を見て声を詰まらせた。

 

「コラァア、お前達。何をやっとるかあああぁぁぁ!!」

「「「ヒィィ!」」」

 

 やってきたのは彼女達の担任の先生で、怒り心頭の怒声に身を竦ませる高等部の生徒達。2-Aの生徒も比較的気の弱い数人の生徒が、巻き添えをくらって竦んでいる。

 事情を理解できない2-Aの生徒達は混乱している。ただ一人、事情を知っているエヴァンジェリンだけが一人腹を抱えて爆笑していた。

 

「済みません、アーニャ先生。私の生徒が迷惑を掛けてしまって」

「いえ、先生の所為ではありませんよ。ですが、またこんなことがあると困るのでくれぐれもご指導を願いします」

 

 急いでやってきたのか、息を切らしてペコペコと頭を下げて謝ってくる彼女達の担任の先生に、アーニャは次はないと釘を指すのを忘れない。

 慌てて頷いた担任の先生はリーダー格の少女を捕まえ、他の生徒達を連れて屋上から去って行った。連れて行った教師の様子を見ればそのまま説教に意向するのだろうと容易く予想できた。同じように予想できた生徒たちも「南無………」と言わんばかりの表情で手を合わせていた。

 

「さあ、邪魔者はいなくなったわよ。授業を始めましょう」

 

 出て行った人たちを見送って生徒達に振り返ってにこやかに微笑んで言うアーニャに恐怖を感じて、皆は恐れるように必死に頷く。

 

「ははは、怖がられてやんの」

「自業自得だよ」

 

 今回の立役者であるアスカが上機嫌に笑い、根回しが良さそうで詰めの甘いアーニャに呆れるネギがいた。

 

「私、頑張ったじゃない。みんなの為に頑張ったじゃない。なのに、この扱いはなんなのよ」

 

 怖がられていることを自覚して傷ついたアーニャは座り込んで地面に「の」の字を書く。流石に気が咎めた少女達がアーニャをよいしょして復活するまでに後数分の時間が必要だった。

 



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第5話 挑め、期末試験

夜勤明けで帰って来て直ぐの投稿。これから寝ます。


 

 暖かな陽気が昼食後でお腹が一杯になって生徒達が甘美なる誘惑である睡魔と戦っている頃、学園長室に二つの人影があった。

 

「そうか。なかなかうまくやっとるのか、ネギ君とアーニャ君は」

「はい、学園長先生。生徒達と打ち解けていますし、授業内容も申し分ありません。二人共とても10歳とは思えません。この分なら指導教員の私としても合格点を出してもいいと思っていますが………」

 

 学園長室にて、ネギとアーニャの指導教員であるしずなが学園長に二人の報告をしていた。

 ネギとアーニャが麻帆良学園に赴任して見てきたことを学園長に伝えている。最後に言葉を濁した理由を知っていながら学園長は笑みを崩さない。

 

「フォフォフォそうか、結構結構。では四月からは正式な教員として採用できるかのう。アスカ君の方はどうじゃ?」

「彼の場合は学園長の方が良くご存じでしょう」

「そうじゃの。教師からの苦情や物を壊されたと被害が出ておる。が、それを上回るほどに皆に好かれているようじゃな」

「どうか憎めないところがありますから彼には」

 

 噂の当人が今この瞬間に学園長室の外でくしゃみをしたのが聞こえて二人で笑い合う。

 

「問題はあるが破天荒な所が魅力と言うものもおる。彼は暫く現状維持じゃな。報告、ご苦労じゃった、しずな先生。おや? どこじゃ?」

 

 しずなからの評価を聞き、学園長は白く長い髭を片手で弄りながら、好々爺然とした笑みでコクコクと頷き、立ち上がってしずな先生と握手を交わしながら何故か狙ったように豊満な胸に顔を埋めた。

 

「上ですわ、学園長先生」

 

 しずなは何時もの穏やかな表情のまま、自身の胸に顔を埋めたままの学園長の長い頭に手加減抜きの拳を落とした。セクハラ爺への鉄拳が振り落とされる。

 

「ただし、もう一つ」

 

 学園長は殴られた額から血を流しながらふらふらと席に戻り、何事も無かった様に左手の人差し指を立て片目を開けてしずなに告げる。

 

「は?」

 

 殴られたことにも、殴った方にも反応が薄いのはこれが常態と成ったからか。

 

「彼らにはもう一つ、課題をクリアしてもらおうかの。なに、未来ある若者には苦難を与えろじゃ」

 

 しずなは退出を命じられ、学園長は廊下に待っている三人に入室を命じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 学園長室の帰り。教室へと戻る帰り道でネギ達は他のクラスの様子を窺っていた。

 

「他のクラスの人達はピリピリしてるね」

「学期末が近いもの。呑気にしてるのはうちのクラスだけよ」

 

 通り掛った時に見えるクラス全てでホームルーム前の開いた時間にも関わらず、切羽詰った顔でガリガリとシャーペンを動かしたり、ピリピリとした雰囲気で友人に教え請う生徒の姿を見て自分達のクラスの違いに憮然となった。

 

「テストはもう来週の月曜からなのに」

 

 他の生徒達とは違って暢気にしている2-Aの状況に余裕があり過ぎる生徒達に肩を落とした。

 

「エスカレーター式だからって怠け過ぎなのよ。ずっと学年最下位でも気にしないんだから弊害もあったもんだわ」

 

 どうせ教師をやるのなら真面目な者が多いクラスの方が良かったという考えが脳裏を過ったが、二人の後ろを歩きながら大きく欠伸をするアスカも同じクラスに入ると思うと今の方が良かったと思えてしまうアーニャだった。

 

「あのお花みたいなトロフィーが学年トップになったクラスに貰えるんだよね。欲しいなぁ」

 

 ふとネギが足を止めたクラスにある花の形をしたトロフィーを物欲しそうに見る。そんなネギを横目に、後方から知っている気配がやって来るのを感じてアスカは後ろを振り返った。

 やってきたのは白いセーターに紺のスカートの大人の魅力あふれるしずなで手に二つの手紙のような物を持っており、珍しくどこか焦っているような感じが見受けられた。

 

「ネギ先生、アーニャ先生、それとアスカ君」

「どうしたんですか?」

「学園長先生が渡し忘れたからって貴方達にって…………」

 

 アーニャがその深刻な顔に何かあったのかと聞くと、手に持っている封がされた手紙を三人に差し出した。

 

「え、何ですか。深刻な顔して」

 

 どうしたのかと聞いているネギを置いておいて、アーニャは嫌な予感を感じて先に渡された白いしゃれっ気も何も無い手紙を受け取って繁々と眺める。

 裏は蝋で留めてあり、蝋には学園の校章が押されていて表には『アンナ・ユーリエウナ・ココロウァ 教育実習生 最終課題』と書いてある。

 

「最終課題ですか……」

「えっ!? 最終課題!?」

 

 アーニャの言葉を聞いたネギも急いでしずなから手紙を受け取る。興味のなさそうだったアスカも一番最後に手紙を受け取った。

 ネギが手紙を持って目を牛乳のピンゾコのようにぐるぐると回しているのを見るに、どんな課題なのかと考えているのだろう。

 

「ドラゴン退治なら喜んでやるぞ、俺は」

「そんなの望むのはアンタだけでしょうが。普通に考えてこの世界にそんなドラゴンがいるわけないじゃない」

「じゃあ、攻撃魔法二百個習得とか」

「見習いに出来ることじゃないでしょ、ネギ。身の程を知りなさ…………アンタなら何時かやるかもしれないわね」

 

 一瞬でも二人の意見に同調しなかったわけではないが、教師という役職とこの時期を考えれば精々期末で2-Aを最下位脱出ぐらいしか思いつかないアーニャだった。

 アーニャが封を指で破りながら中の便箋を取り出して目を通す。それにはこう書かれていた。

 

『  アーニャ君へ

 

 次の期末テストで2-Aが最下位を脱出できたら、実現可能なことを叶えてあげる                   

 

 麻帆良学園学園長 近衛近右衛門 』

 

 ネギは丁寧に封を切り、アーニャに少し遅れて中の便箋を取り出して目を丸くする。

 

『  ネギ君へ

 

 次の期末テストで2-Aが最下位を脱出できたら、申請していた図書館島にある魔法書の一部閲覧を許可してあげる                   

 

 麻帆良学園学園長 近衛近右衛門 』

 

 アスカはビリビリと乱暴に封を破り捨てて、一番最後に便箋を取り出して闘志に燃えた。

 

『  アスカ君へ

 

 次の期末テストで2-Aが最下位を脱出できたら、近衛詠春と戦わせてあげる                   

 

 麻帆良学園学園長 近衛近右衛門 』

 

 後者のやる気が地球を突破して宇宙にまで到達したのをしずなは目撃した。

 

「やるよ、アスカ!」

「応! やってやるぜ!」

 

 やる気を全身から分かるほど漲らせる腕を組み合った二人を見たアーニャは一人で静かに溜息を吐くのだった。学園長は実によく二人の気質を見抜いて利用しようとしていた。他人から見れば課題に他に書き方は無かったのだろうか。あまりにも軽すぎる。なんとも軽いノリの文章ではあるが、内容は決して軽くない。そして最も二人が望んでいるものを与えてくれようとしていた。だが、同時に自分にとっても悪い条件ではないと認めざるをえない。脳をフル回転させて考える。もう、グイングインと蒸気が上がるほど猛烈に。

 

「頑張ってね」

 

 学園長は2-Aが今のクラスになってから2年間、ずっと最下位を取り続けている事を理解しているアーニャの肩を軽く叩くしずな。

 2-Aの生徒達は決して頭が悪い生徒の集まりというわけではない。通称『バカレンジャー』と不名誉極まりない呼び名で呼ばれる5人は最下位を競っていると言っても、クラスには学年1、2位がいるので、学年最下位になるのは一重に真面目に勉強する人が少ないためだ。

 クラスの大半が無駄に楽天的で成績に興味がなく、試験前でも切羽詰って勉強する人は少ないので全体的に平均点が低い。もちろん勉強が一番大事だとは思わないが、幾ら何でもこれはないんじゃないかと思っても無理は無い。

 

「ネギを旗印としてなんとかやってみます」

 

 クラスのマスコットであるネギの進退が関わってくれば、生徒達もやる気を出す可能性があるので一概に無理だとは思わないが、一体どんな意図を持ってこんな試験を出したんだろうかとアーニャは訝しげに内心で首を捻った。

 

(高畑先生のことはいいのかしら?)

 

 現状、2-Aの担任はネギとアーニャで兼任しているようなものだと周りは認識している。その中で例え最下位を脱出した場合、本職の教師である高畑でもできなかったことを教育実習生が出来てしまえば、高畑の教師としての適正が問われるのではなかろうかとの懸念がアーニャにはあった。

 

「やるぞ――――っ!」

「ファイト・オー!」

 

 完全に二人が熱血モードに突入しているのを見たアーニャは、まず落ち着かせるべく鉄拳制裁を下す為に袖を捲り上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「皆さん聞いてください! 今日のHRは大・勉強会にしたいと思います。次の期末テストはもうすぐそこに迫ってきています!」

 

 頭に大きなたん瘤を作って教室に入って来た二人に注目が集まるのもそこそこに、教壇に上がったネギは高らかに言った。

 いつにも増して張り切りながら勉強会の開催を宣言するもネギの張り切りようとは対照的にクラスの喧騒は一瞬にして沈黙へと変わってしまった。クラスの大半は、「で、何をどうするの?」といった空気が占めている。しかし、その空気を打ち破る歴戦の猛者が一人。

 

「勉強あるのみ!」 

 

 サボりと居眠りの常習者であるアスカが額に鉢巻なんぞを巻いて、期末試験の教科の教科書を机の上に置いてネギに負けず劣らずのやる気を示せば事態は変わる。

 

「二人の背中にやる気の炎が見えるようだわ」

 

 二人の今の状態を的確に表現した明日菜は、たん瘤が出来ていることからどこかで頭を打ったかと考えた。

 突然の宣言に騒ぐ生徒達の中で、あやか一人だけが「お二人とも、素晴らしいご提案ですわ」とハートマークを振舞っているのが印象的だ。あやかの隠された本音が分かってしまった数名の生徒が騒然としたクラスの中で溜息をもらしてしまうのは何故だろうか。自分に正直なことを突っ込むべきか。

 

「はーい♪ 提案提案」

「はい! 椎名さん!」

 

 無駄にカリスマすら発しだしたネギは手を上げた桜子の名前を呼ぶ。

 しかし、立ち上がった桜子の笑顔に不審なものを感じたのは二人のやる気に置いてけぼりの感があるアーニャだけだろうか。何故か嫌な予感がした。

 

「では!! お題は『英単語野球拳』がいーと思いまーすっ!!」

 

 その桜子のあまりの言葉を聞いた明日菜は、豪快な音を立てて机に頭を打ち付けた。あまりにも強く打ち付けた肉体的ダメージと不意打ちの一撃に明日菜のライフが一気に低下した。

 

「おお~~~~っ」「あはは、それだーっ」

「なっ、ちょっ!? 皆さん!?」

 

 明日菜は誰かが否定してくれると願ったが、それを聞いた生徒の半分が声や態度で賛成を表明する。周りが意見に賛成してはしゃぎ立てて、止めようとしたあやかの言葉を聞く生徒はいない。

 ノリが良かったり、負けても別に構わないと思っている生徒達が賛成している中で、表立って『英単語野球拳』を否定しているのはあやかぐらいだ。それも人数差に負けて結局『英単語野球拳』をやる流れになってしまっている。

 

「え、と、椎名さん。『英単語野球拳』って何ですか?」

 

 聞き覚えの無い単語が何なのかしばらく考えていたネギ。隣にいるアーニャも首を傾げている。

 名前的に考えて英単語が関わる勉強法かと思ったが、分からないまま生徒の自主性に任せて採用するのは不味いと考えて素直に訊ねた。

 ネギはまだ2-Aというものを理解できていなかった。2-Aの人間で自分から勉強をしようとする真面目な人間は少数派である。特に悪ノリをしてしまう傾向が多い。『英単語野球拳』を提案した椎名桜子や了承した生徒達を考えれば分かるというもの。

 こればかりは接した時間が多い方が理解出来てしまうのは当然。まだ一ヶ月も経っていない二人に生徒達の性格とクラスの特色を完璧に理解しろとは言えない。なので、分からないままで放置せずに素直に聞いたのは英断。何もせずに採用するようだったら止めようと考えていた明日菜も様子を見ようと引き下がった。

 

「英単語を答えられなかった人が脱いでいくんだよ。野球拳だもん」

「……………」

 

 桜子の説明を聞いたネギの顔は何というべきか。口を大きく開けて目の焦点は合わず、分かり易い唖然とした表情だった。 

 

「え、と…………ドンマイ?」

 

 そこまで常識で2-Aの面々に期待していないのとやる気がネギほどではないアーニャの方が復活は早かった。近づいてネギの肩に手をかけて励ましたのが悪かったのか。傍目に分かるほどネギが落ち込んだ。

 濃い陰影を背負って、教室の隅に向かって三角座りを始めてしまった。

 ネギは桜子を信頼したからこそ『英単語野球拳』を選択肢に入れたわけで、裏切られたといえなくもない心情を計ることは余人には出来ない。流石に今のネギの様子を見て『英単語野球拳』をしようとするほど生徒達も人の心が判らぬはずがない。

 

「え~、あ~、プリントを持ってきたのでそれをやってもらいます。構わないわよね、ネギ」

「…………あ、うん。お願い」

 

 まだショックが抜け切っていないようで、三角座りをしたまま壁を見つめて顔を向けすらしない。

 ネギのあまりの落ち込みようにクラスの空気も比例して重くなる。未だ教師として未熟な身なれど、一生懸命な姿を見せるネギがどれだけの情熱を持っているか知らぬはずがない。アーニャは自分はこんな役ばかりだと思いながら重くなった空気を変えるためテスト対策用に作って持ってきたプリントを見せる。他の教科の先生方にネギと二人で頭を下げて作った代物である。

 アーニャにはこれ以上の言葉をネギにかけられず、許可は貰ったのでさっさと配ってやってもらい、HRが終わる前に答えのプリントを配り終わった時に終了のチャイムが鳴る。

 

「桜子、来なさい。新田先生に説教してもらうわ」

「流石にネギ君に悪いことしちゃったかなぁ。後で謝っておかないと」

 

 桜子もネギのあまりの落ち込みように罪悪感を抱いていた。肩を落として教室を去っていくネギの後姿には年に似合わぬ哀愁が漂っていて、まともな感性の者ならば同情を持ってしまうほどに。

 発端となった桜子には、プリントをやっている間や今も級友達の若干の非難の視線が向いていた。若干なのは同意した生徒もいたので我が身を振り返っていたから。

 

「なら、私が言いたいことも分かるわよね? もし、『英単語野球拳』なんてやってることが外部にバレたら貴女だけじゃなく、みんなや私達にも責任が降りかかってくるのよ」

 

 万が一、こんなことをしていることが表に出れば、生徒達は退学、アスカやネギには管理責任を問われて実習資格を剥奪も在り得る。

 自分の処罰自体にそれほどの興味のないアーニャだが、一ヶ月麻帆良に滞在して愛着も涌いているから余程の理由がない限り離れる気はないし、生徒達やネギに何らかの処罰が下されるのも避けたい。

 桜子が頷くのを確認して、

 

「行動に移す前に止めたからいいけど、もっとよく考えてから行動しなさい」

 

 周りにも言い聞かせるように言う。この言葉はアーニャの本心だ。このクラスは特に後先考えずに行動する生徒が多いが、それは麻帆良だからこそ許されている面も多いし、麻帆良を出てから問題を起こしても遅いのだからそれを理解して欲しい。

 

「新田先生には事情は説明しておくから存分に怒られてきなさい」

「う……! 出来ればそれは……」

 

 謝罪と反省の気持ちはあるが進んで「鬼の新田」の説教を食らいたくはない。なんとか回避しようとするも、そうは問屋が下ろさない。

 

「因果応報。今回はそれだけのことをしようとしたのよ。流石に見過ごせないわ。大人しく怒られてきなさい」

「はい……」

 

 肩を落とす桜子をクラスメイト達は気の毒に見ている中、申し訳ないが新田に事情を説明して怒ってもらおうと決める。アーニャ達では怒っても年下な分だけ反発心を招く恐れもあるので新田の方が生徒のためになる。

 こういう何でも楽しめることはいいことではあるが、やっていい事と悪い事は区別はつけて欲しいから社会に出る前に分からせておくべきだろう。

 

「よっしゃぁ! 帰って勉強すんべ!」

「アスカは平常運転ねぇ」

 

 物凄い集中力で休み時間まで勉強していたアスカの、ある意味では普段とは変わらないマイペース振りに癒された明日菜とクラスメイト達であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕食後、部屋に戻って来てからも勉強熱が冷めないアスカに巻き込まれ、異様な熱意を見せて明日からの授業のカリキュラムを組むネギに教えてもらった勉強で疲れた頭を冷やすために、明日菜は大浴場『涼風』に入っていた。

 珍しく木乃香はおらず、なにやら祖父である学園長の下へ行っているらしく、この場にはいなかった。

 明日菜と同じように今まで試験勉強をしていたのだろう、ふやけた頭をしたバカレンジャー全員が『涼風』に勢ぞろいしていた。

 

「明日菜、明日菜。大変や~」

「な~に~? こ~の~か」

 

 そう叫びながら同じ図書館島探検部の夕映、ハルナ、のどかと一緒に木乃香が大浴場『涼風』に駆け込んできて、湯船に浸かりながら試験勉強で疲れた頭と体を癒して茹蛸のように茹っていた明日菜が振り返って延び延びの声で聞いた。

 

「お、ちょうどバカレンジャー揃っとるな。反省会か? 実はな、噂なんやけど次の期末で最下位を取ったクラスは解散なんやて!」

「えーっ! 最下位のクラスは解散~!?」

 

 木乃香から噂の内容を聞き驚いた明日菜は湯船から思わず立ち上がる。バカレンジャーのレッドとも呼ばれ、クラスの順位を下に引っ張っている自覚があるだけにその話題は看過出来なかった。

 

「で、でも、そんな無茶なコト……」

「ウチの学校はクラス替えなしのハズだよ」

 

 麻帆良はクラス替えなどないから、そんな噂は信じられないと消極的に明日菜たちは反論する。

 

「詳しいコトわからんのやけど、何かおじ…………学園長が本気で怒っとるらしいんや。ほら、うちらずっと最下位やし」

 

 二年間も最下位ならおかしいことではないと彼女たちの頭脳でも理解できた。そんなことは普通はあり得ないと事実も、普段の学園長を知っているのであり得ることだと考えてしまう。一般常識よりも重い学園長の奇行の数々が木乃香の荒唐無稽な話に説得力を持たせる。

 

「そのうえ特に悪かった人は留年!!どころか小学校からやり直しとか……!!」

「え!?」

 

 しかし、嘘をつかない木乃香の言葉と万年最下位という事実が噂の信憑性を高め、あり得るかもと不安に思ったところで、木乃香の言葉を継いだハルナの言葉に固まるバカレンジャー五人。バカレンジャーの脳裏にはランドセルを背負ってみんな仲良く集団登校する絵が浮かんでいる。

 

「ちょ、ちょっと待ってよーッ!」

「そんなの嘘よーっ!」

 

 想像もしたくない未来に悲鳴を上げる明日菜達。否定の言葉を発する明日菜とまき絵だが、明日菜の脳裏にはHRでネギが言っていた「大変な事」とはコレの事ではないかと考える。ネギとアスカが異様なやる気を見せていたのも気になる。

 騒ぎを聞きつけて、風呂にいたほかの生徒達もぞくぞくと集まってくる。

 

「今のクラスけっこう面白いしバラバラになんのイヤやわー、明日菜ー」

 

 と、木乃香が自分に対しても当てはまると思って、湯船に浸かりながら心配そうに明日菜を見る。

 

「んー」

「ま、まずいね。はっきり言ってクラスの足引っ張ってるのは私たち五人だし……」

「今から死ぬ気で勉強しても月曜には間に合わないアル」

 

 まき絵がおろおろと楓に向かってどうしようとうろたえて、古菲も今から必死に勉強しても間に合わないと深刻な表情を浮かべる。

 何とかしたいと考えていても唯でさえ勉強が苦手な上に、もうテストまで残り数日と時間が無いのである。と、いってもほかに手が無いのもまた事実。こうしている間にも時間は無常に過ぎていく。

 学年トップクラスが三人もいるのに2-Aが最下位を突っ走っているのは、自分たち成績下位組みが原因だと二年もあれば頭の悪い彼女達でも理解できてしまう。誰かに責められたことがあるわけではなくても自然と理解できてしまったのだ。

 自室でアスカと共に行われるネギの勉強会で明日菜も最近は少し成績が上がっているが、平均点には遠く及ばない。それにクラスで自分が一番足引っ張ってる自覚があるため必死に考える。

 ネギ達なら頭がよくなる魔法を知ってるかもと思った明日菜だったが、さっきまでの熱意を見せていたネギを考えるに難しそうだし、アーニャに至ってはそんなことを許しもしないだろう。こと勉学において妥協という言葉を知らないからそんなことをしたらどんな目に合うか。考えるだけで恐ろしい。

 

「ここはやはり…………『アレ』を探すしかないかもです……」

 

 もはや手はない。そんな状況で夕映がぽつりと呟いたその一言にバカレンジャーだけでなく、そこにいた全員の視線が一斉に彼女に集まる。

 

「夕映!? アレってまさか……」

 

 なにか心当たりがあるのか、ハルナが夕映に驚きを含めた視線を向ける。

 

「何かいい方法があるの!?」

 

 夕映の発言に続いてハルナも意味深な言葉を言うので、この壊滅的な状況を打破できるならと藁にもすがる気持ちで明日菜は夕映に問いかける。

 

「『図書館島』は知っていますよね? 我が図書館探検部の活動の場ですが」

「う、うん」

「一応ね。あの湖に浮いているでっかい建物でしょ? 結構危険な所だって聞くけど」

 

 同じバカレンジャーの四人に向き合い、夕映の図書館島を知っているかと問いに、同室の木乃香が図書館探検部なので話を聞いた事がある明日菜が答える。勉強嫌いとは言わなくても頭が悪いので微妙に苦手意識があってあまり頻繁に利用はしなくても話は聞いている。

 

「実はその最深部に読めば頭が良くなるという『魔法の本』があるらしいのです」

 

 一同はその突拍子もない単語に驚きの表情を浮かべるが、魔法と聞いてこんな反応をするのは当たり前である。魔法などという御伽噺の中にしか存在しないものが、実在すると夕映が言い切るのだから。楓だけは夕映の飲んでいる「抹茶コーラ」に驚いているが。

 

「まあ大方出来のいい参考書の類だとは思うのですが、それでも手に入れば強力な武器になります」

 

 夕映も魔法があるとは信じておらず、試験まで残り数日となった段階で焦った自分たちではそのようなものがあればラッキーぐらいの認識を持っていた。

 

「もー夕映ってば、アレは単なる都市伝説だし」

「ウチのクラスも変な人たち多いけどさすがに魔法なんてこの世に存在しないよねー」

「あー、アスナはそーゆーの全然信じないんだっけ」

 

 シーンと一同は沈黙する。皆、魔法の本が信じられなかったのだ。その沈黙をのどかが破り、まき絵も2-Aを引き合いに出して魔法の存在を否定し、ハルナが明日菜を見て夕映の話を笑い飛ばす。

 

「いや……待って…………」

 

 みんなが笑いながら思い思いのことを言う中、明日菜はその話を完全に否定できなかった。

 ネギ達という魔法使いがいるのだから、もしかしたら本当に魔法の本があってもおかしくないと明日菜は考えた。同じように魔法を知った木乃香に視線を向ければ彼女も頷いた。

 魔法が現実にあると知ってしまった二人は魔法の本が実在する可能性が高いことを認めざるをえない。これ以上皆に迷惑は掛けられない。手段を選んでいる時間はない。故に僅かな可能性にも賭けてみようという思考に明日菜はなった。例えその存在が魔法でなくとも、夕映の言う通り勉強が捗る参考書なら力になる。

 

「明日菜、どうするん?」

 

 考え込んでしまい黙った明日菜に木乃香が尋ねる。

 彼女もまた図書館島探検部の一員。木乃香は魔法の本なんて物が本当にあるのか、知りたいという欲求を抑えきれなかった。木乃香は魔法の実在を伝えられても、他のことはまだ何も知らされてないのだ。純粋な好奇心が木乃香を迷わせ、同類の明日菜に判断を委ねた。

 

「もう一度、小学生なんて嫌」

 

 ニ度、小学生をやっている自分を想像してしまった明日菜は決断した。

 決断した明日菜はくるりと皆の方を振り向くと満面の笑顔で力強く宣言した。

 

「行こう! 図書館島へ!」

 

 こうして、図書館島へ行くことが決定した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 紆余曲折があったが、今晩早速図書館島に行く事に決めたバカレンジャー+図書館探検部所属の木乃香、地上連絡係ののどかとハルナ。行くと決めたのなら善は急げとばかりに、割とさくさく話が決まり八人は速攻で寮に戻り支度を始めた。

 

「図書館島に魔法の本を探しに行くだって?」

 

 時刻はまだ八時前だったのと試験勉強の為に起きていたアスカに話を振った明日菜は頷いた。

 

「そ。一緒に行かない?」

 

 誘いながら明日菜の中では打算があった。図書館島探検部のメンバーが何人かいるが、これから向かう場所は中学生部員は立ち入り禁止で危険なトラップがあるとかで、楓や古菲を信用していないとは言わないが魔法使いがいてくれるのは何かと心強い。

 学校での出来事然りで、反対される可能性が高い生真面目なネギとこういう手合いを嫌いそうなアーニャを除外すると残っているのがアスカだったいう理屈であった。

 

「面白そうだな。乗った」

 

 数秒の黙考の後に、笑みと共に頷いたアスカに楽観的過ぎることに一抹の不安を覚えながらも明日菜達は図書館島に向かった。

 

「水、冷たっ!」

「この裏手に私達図書館探検部しか知らない秘密の入り口があるです」

 

 図書館島の裏手から侵入するには周りが水に浸かった場所を通る必要があり、まだ春には少し早い時期もあって靴に染み込んでくる水は冷たい。

 

「これが図書館島…………」

 

 バカレンジャーのように頭が悪い人間はあまり図書館島には近寄らない傾向があるらしい。

 

「でも……大丈夫かな―。下の階は中学生部員立ち入り禁止で危険なトラップとかあるらしいけど……」

「なんで図書館にそんなものが………」

 

 図書館探検部なら下の階は未熟な中学生部員立ち入り禁止で危険なトラップがあることを知っている。当然、所属していない者が知るはずもなく、ただ島になるぐらいに大きいだけの図書館という印象を持っていた、普段図書館島によりつかない生徒にとって驚きの事実であった。

 この中では一番大きい楓よりも更に大きいドアが音を立てて開いていく。

 

「この図書館は明治の中ごろ、学園創立と共に建設された世界でも最大規模の図書館です。二度の大戦の戦火を避けるべく世界各地から貴重書が集められ、蔵書の増加に伴い地下に向かって改築が繰り返され、今ではもはや全貌を知るものはいません。そこでその調査を行うために麻帆良大学の提唱で発足したのが―――」

 

 夕映が図書館島の解説をしながら、薄暗いレンガ造りの螺旋階段を七つの人影がゆっくりと降りてゆく。夜の図書館に怯えるまき絵、楽しげな古菲やアスカなど、反応はそれぞれだ。

 

「我々『図書館探検部』なのです!」

 

 中を進みながら説明をしていた夕映が一際大きな木製のドアを押しながら最後の言葉を紡ぐ。

 

「中・高・大、合同サークルなんや♪」

 

 どこか弾んだ声の夕映の言葉を引き継ぎ、木乃香が合同サークルであることを告げる。

 ドアを開けて視界が開けると、かなり広いホールがあり、中世のダンスホールを思わせるような階段が遠くに見える。果てが見えないような広大なフロアには何故か樹木があちこちに生えており、その合間に本棚が群れるように林立するように立っている。

 

「うあ~~~っ」

 

 明日菜がその威容に感心したような声を上げ、図書館島探検部である木乃香と夕映以外も似たような反応を示した。

 一体どうやって本を取り出すのか分からない高さの本棚がまるで壁のように立ちはだかっており、数多ある本棚には世界にこれほど本があったのかと思う程に見渡す限りの本がある。しかも驚くことにほとんどの本棚が固定されているようには見えない。今にもこちらに倒れてきそうで恐ろしいことこの上ない。

 至る所に梯子やら階段やらが無目的にかけられている為、更に混沌とした様相を示していた。

 

「ゲームの迷宮みたいアルね」

 

 本棚の間から響く風が竜の唸り声のように響く地下。これで最下層に本当に隠された財宝を守る門番の竜でもいれば古菲の言う通りゲームそのものである。

 

「ここが図書館島地下三階…………。私達中学生が入っていいのはここまでです」

「へ~、なんでまた?」

 

 表層の一階ぐらいなら木乃香に付き合って入ったことはあっても地下は明日菜にとって完全に未知の領域。中学生が入っていいのが地下三階までの基準が分からない。

 

「論より証拠です」

 

 奇怪な名前のパックジュースを飲みながら夕映が本棚に歩み寄り、中にある一冊の本を無造作に引っ張った。すると、カチッという音と共に、本棚の隙間から一本の仕掛け矢が射線から退避していた夕映の横を抜けて、無防備な明日菜目掛けて飛んでいく。

 

「うひゃ!?」

 

 警戒していたなら持ち前の並外れた反射神経を発揮して避けることも出来たが、説明を聞いていて無防備だった。

 あわや、矢の鋼鉄の鏃が明日菜を貫通するかと思われたその瞬間、傍に居たアスカが難なく仕掛け矢を手で受け止めそのままパキッと折る。

 

「貴重書狙いの盗掘者を避けるために、罠がたくさん仕掛けられていますから気をつけてくださいね」

 

 夕映が淡々として、学校の図書館にそんな物を作っていいいのかと突っ込みたくなるとんでもないことを、さらりと言ってのける。

 

「うそー!」

「って、危ないわね?! 死ぬわよ、それー! ホンモノ!?」

 

 その話にまき絵が驚愕の叫びを上げ、真剣に命の危機を回避できた明日菜は半分涙目になりながら突っ込みを入れる。

 現にアスカが仕掛け矢を止めなければ明日菜の頭に風穴が開いていたかもしれない。そんなものが学園の中にあるとは明日菜の埒外であった。

 

「へぇ、うちの学校の禁呪書庫よりしっかりしてんじゃん」

 

 木乃香がわざとトラップを作動させて防いでいるアスカがふと漏らした言葉を聞き逃さなかった。

 

「やっぱり魔法学校ってそんなんがあるんや」

「ああ、ネギが入りたがってアーニャが良く手引きしてた」

「アスカ君は?」

「忍び込むのに付き合って中で寝てた。本に囲まれると眠たくなる体質なんだ俺」

「今と変わらんやん」

「違いねぇ」

 

 二人で笑い合っているがアスカがわざと罠を作動させているので矢が射られたり盥が落ちたりと危険が降りかかっていた。明日菜は気が気ではなかったがアスカが発動したトラップを見もせずに全て防いでいるのでしまいには気にしないことにした。全てに一々反応していたら最後まで持たない。

 

「ねぇ、夕映ちゃん。後どれくらい歩くの?」

「はい。内緒で部室から持ってきた地図によると、今いるのはここで………地下十一階まで降り、地下道を進んだ先に目的の本があるようです。往復でおよそ四時間。今はまだ夜の七時ですから…………」

 

 詳しい目的地までの距離を知らないまき絵の問いに、夕映は荷物から地図を取り出して開いて分かり易く指で指し示しながら説明する。

 

「ちゃんと帰って寝れるねー。良かった、明日も授業あるし」

 

 夕映の説明に明日も授業があるので、まき絵は徹夜せずに済んだとほっとした表情でコメントを入れる。

 

「よし……私も、試験でバイト休みだし。手に入れるわよ「魔法の本」!!」

「やっぱりココ怖いよーやめた方が……」

「大丈夫、ベテランのウチらに任しときー」

「遠足気分アルねー。にょほほ♪」

「んー♪」

「では、出発です!」

「「「「「「「「「「お――――っ!」」」」」」」」

 

 そんなやり取りがあったりしたが、気を取り直して一行は図書館島の深部へと進み始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 女子寮の自室で教師から直々に勉強を教われるという羨ましくないポジションにいる桜咲刹那は泣きそうな顔でノートに向き合っていた。正確には当人の望みとは関係なく向き合わされていた。

 

「いい。他の成績はまともなんだから刹那は頭が悪いわけじゃないの。日本人特有なのかもしれないけど英語の基本が出来ていないのよ」

 

 全部屋共通の机に向かい合っている刹那が開いているノートは英語の物だった。

 刹那は大半の日本人が抱く英語に対して苦手意識を持っている。育ちからして人間は日本人しかいない山奥なので、外の環境を知る術が限られていた刹那は麻帆良に来た当初英語の授業の壁にぶち当たった。

 最初のイメージが悪かったのか、心の奥深くに苦手意識が根付いてしまって、ぶっちゃけると中学一年生のレベルで止まってしまっている。そこから改善されていないのだから成績が振るわないのも当然だった。

 

「英語は所詮単語の羅列でしかないわ。日本語の方が遥かに難しいのよ。私だけじゃない、これは世界の共通認識」

 

 アーニャによる勉強会は居候してから数日して始まった。刹那は当然、文句を言った。だが、双子相手に身に着けた上から目線に、下っ端根性が骨の髄まで染みついている刹那には抗えなかった。

 一つの言葉を吐いたら百の言葉が返って来る相手に口で勝てるほど口達者でもない。木乃香の為、自身の鍛錬の為、と言い訳を作ろうともアーニャの弁論の前には張り子の虎も同然である。

 

「確かにそうだ。私も同じことを聞いたことがある」

 

 刹那の隣の机で同じように勉強する真名は何カ国語を使い分けるマルチリンガルである。その中には英語も入っており、真名自身決して頭も悪くない。それどころか、学年の上位とまではいかなくても本気を出せば簡単に成績を上げられる卑怯者であった。

 苦手な距離はないと豪語するだけあって、全教科に隙は無い。その中でも英語は大の得意だと嘯く女郎である。思わず「裏切り者!」と叫んだ刹那は悪くないはずだった。

 

『目立つのは私の信条に反する』

 

 と、どうして本気でやらないのかと理由を問うた刹那へ訳の分からないことを言って雲に巻いた真名である。英語で満点は取れるが目立ちたくない。成績も同様でクラスの中で埋没するのが望ましいのだそうだ。

 事実、真名の成績は学年トップの超鈴音らや底辺のバカレンジャーとは違って、クラスで丁度中間ぐらいをキープしている。純粋な実力でバカレンジャー予備軍扱いされている刹那とはえらい違いだ。

 

「真名のことはいいから。春休みに木乃香と一緒に京都に報告に行くんでしょ。赤点とって独りだけ置いてけぼりにはなるのは都合が悪いんじゃないの?」

 

 目の前の元凶が何を言っているのかと一瞬殺気を放ちかけた刹那だが、結果として木乃香が喜んでいるのでは怒りも窄んでいく。

 刹那は知らなかったが木乃香に魔法のことを話すのは以前から決められていたことらしかった。成人か十八歳までには話す予定で、家と本人の資質的に話さない選択肢はなかったと。今回は、それが若干前倒しにされただけで誰も責められいない。寧ろ本人が喜んでいるので良かったという風潮すらある。

 刹那が魔法がバレてはいけないことを理由にして近づけなかったと勘違いしている木乃香に真実を話せる勇気などないことは心苦しいが、泣いてまで喜んでくれた大切な人を振り払えるほどの気概も強さもない。

 離れたいが離れられない。それが今の刹那の心境だった。

 関西呪術協会がある場所は木乃香の生まれ故郷である。だが、嘗て政争に巻き込まれる可能性あるからと麻帆良に預けられたのだ。何があるか分からない関西呪術協会に単身で向かわせるほど刹那も耄碌していない。この時期にこのタイミングでまさか京都に帰るなどとは想像だにしていなかった刹那は、既に関西呪術協会には話が通っていて迎え入れる姿勢が出来ていると聞かされれば意地でも付いて行かないわけにはいかない。

 

「頑張ります」

「その意気よ。じゃ、次はこの文を訳してもらいましょうか」

 

 赤点を取って春休みを補習で潰さない為に張り切ったやる気が鼻から溜息となって抜けていく。英文の壁は、まだまだ今まで戦ったどんな敵よりも高く刹那の前に立ちふさがっていた。

 

「ん?」

 

 刹那が羨むほどスラスラとアーニャが出した問題を解いていた真名が何かに気づいたように顔を上げた。

 その直後だった。部屋の扉がノックもされずに開いたのは。

 

「アーニャ!」

 

 さっきまでシャワーでも浴びていたのか、濡れた髪も渇いていないまま部屋に転がり込んできたのはネギだった。

 

「なによ。こんな時間に騒々しいわね」

「ここここここれ」

「紙っきれ? こんなものがどうし」

 

 動揺も著しい幼馴染が差し出した紙を受け取ったアーニャの言葉が止まった。直後、紙切れを握りつぶして全身が火に包まれる。比喩ではなく本物の火である。アーニャの激情に精霊が反応したのだ。

 

「あの、ボケどもが!」

 

 この時のアーニャの顔を見れなかったのは刹那にとっても真名にとっても幸いだったのだろう。目撃してしまったネギが凶悪殺人者を前にした一般人のように尻餅をつきながら震えて怯えていたのだから。

 ちなみにアーニャが紙切れに書かれたのは『ちょっと図書館島で魔法の本を探して来ます。朝までには帰るので心配しないで下さい。明日菜・木乃香・アスカ』と書かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 元気一杯に出立した一行はその後、本棚から落ちたまき絵がリボンを手足のごとく操って戻るが、誤って罠を発動させてしまい、落ちてきた身長の十倍はあるだろう巨大な本棚を一撃で蹴り飛ばす古菲。本棚は古菲が蹴り飛ばしたが、楓が落ちてくる数十冊に及ぶ本を落ち着いた感じで回収。

 異常とも言える運動神経の持ち主が数人いるので、大学の図書館島探検部もびっくりの驚異的なスピードで全行程の半分ほどを踏破。

 予定していた休憩地点で休憩してまた目的地を目指していた。その途中でアスカは体に走った突然の寒気に身を震わせた。

 

「なにか嫌な感じがするな……」

「どうかしたの?」

「う~ん、竜の逆鱗に触れてしまったような気がする」

 

 第六感か、単純に偶に訪れる虫の知らせに似た悪い予感か。

 感じた悪寒から碌でもないことを予感しながらアスカは問いかけて来た明日菜に笑いかけて足を進めた。決してちょっとでも現実を先送りしようとする気持ちがなかったわけではない。

 湖を渡り、本棚をロッククライマーの如く道具を使って降りて、這わなければ進めないほど狭い通路を通る。ここまで来ると人外魔境と言いたいほどの様相を呈しており、本当に図書館なのか疑わしくなってくる。

 その果てにRPGのラスボスのような部屋に一行は辿り着いた。狭い穴から躍り出た一行は、ただただその威風に圧倒されている。

 

「す、す、凄すぎるーっ!? こんなのアリー!?」

「私こーゆーの見たことあるよ、弟のゲームで♪」

「ラスボスの間アル!」

「魔法の本の安置室です。とうとう着きましたね」

「こ、こんな場所が学校の地下に……ハハハ」

 

 皆が驚嘆の声を上げる中、夕映は拳を握り締めて達成感をしみじみと感じている。

 夕映の横では明日菜が、非常識さに冷や汗を垂らして空笑いを浮かべていた。はたしてもっとも現実的な反応をしているのは誰だろうか。魔法のことを知っていたし、もしかしたら魔法の本もあるのじゃないかと考えていたがこれは予想外だった。

 

「見て! あそこに本が!?」

 

 それぞれの反応の中、まき絵が祭壇に祭られた本のようなものを発見して指差す。

 

「あ、あそこに何かそれっぽい本があるよ!」

「確かに分かり易い感じに置かれています! 間違いありません。あれが魔法の本です!!」

 

 まき絵が指差した先にある安置されている本。それっぽい現代に出来た祭壇らしき台座の上に開かれた本の光景は、ここに来るまでに疲労していた少女達の眼には紛れもない本物の「魔法の本」に見えた。

 

「あれって本物なん?」

「っぽいけど、俺には分かんねぇ。こういうのはネギの領分だからな」

 

 木乃香が魔法使いであるアスカに小声で尋ねるが返って来た返答は頼りない物だった。

 

「やった――!!」

「これで最下位脱出よ!!」

 

 そこにいたアスカ・明日菜・木乃香以外の全員が感嘆の声をあげる。あるかどうかも疑わしかった魔法の書が、本物らしいとわかると各々の目の色が変わった。そもそも彼女たちが探しに来たのは『魔法書』なのだ。どんなものであれ、頭が良くなるならなんでも構わない。

 

「一番ノリある♪」

「あーあたしも!」

「あ、みんな待って!!」

 

 誰が号令を掛けるでもなく、コレまでの苦労が報われたと歓声をあげながら本に向かって一目散に駆け出していた。唯一、魔法の本が無くても成績の良いこととバカレンジャーほど運動神経のよくない木乃香だけが数歩出遅れた。しかし、彼女達は失念していた。こんなゲームのような場所で簡単に宝が手に入るはずがないと。

 

「キャーッ!」

 

 歓声が悲鳴に変かり、祭壇へと続く石橋が中央からぱっくりと二つに分かれて、追いかけた木乃香とアスカも纏めて全員落ちた。アスカ・楓・古菲の三人は何事もなかったかのように着地したが、幸運な事に落とし穴にはほとんど落差がなかったので受け身も取れなかった者も含めて全員に大きな怪我もないようだ。

 

「コレって……?」

「ツ、ツイスターゲーム?」

 

 上部に『☆英単語ツイスター☆』と書かれており、平仮名の描かれた円が無数に並んでいる変な文様の石版の上に落ちたようだ。明日菜とまき絵が足元の石版を見て、呆然とした声を上げる。

 ツイスターとは、アメリカのとある会社が発売している体を使ったゲームである。スピナーと呼ばれる、ルーレットのような指示板によって示された手や足を、シートの上に示された4色(赤・青・黄・緑)の○印の上に置いて行き、出来るだけ倒れない様にするゲームである。形としては大分違うがそれでもツイスターゲームであることには変わりなかった。

 

「フォッフォッフォ……」

 

 足元を不思議そうに見つめる一行に、突然しわがれた老人の声が頭の上から降ってきた。飾りとした感じで立っていた筈の石像が突如動き出した。

 

「この本が欲しくばわしの質問に答えるのじゃ、フォフォフォ♪」

 

 皆一斉に頭上を振り仰ぐと、そこには巨大な石像が二体、自分達を押し潰さんばかりに迫っていた。

 

「ななな、石像が動いたーっ!?」

「いやーん!」

「…………!?」

「おおおお!?」

 

 魔法書の左右にあったゴーレムの一体が動き、明日菜達の驚愕の叫びが部屋に響き渡る。まき絵が「あわわわ」と言い、ガクガクと震えて怯えるのも無理はない。

 驚く一行を余所に石像は勝手に話を進める。

 

「―――――では第一問。DIFFICULTの日本語訳は」

「ええ――――!?」「何ソレ――――!?」

 

 参加者たちは突然動き出した石像の言葉を聞いてパニックに陥っていた。しかも、頭の良い木乃香が石版に上がろうとすると、石像が威嚇して邪魔をする。

 木乃香と同じように石板に上がっていなかったアスカはジッと石像を見ている。

 

「み、みんな、落ち着いて!! 落ち着いて「DIFFICULT」の訳をツイスターゲームの要領で踏むのよ!」

「そうやで、流れ的にちゃんと問題に答えれば罠は解けるはずや!」

 

 石像の行動の意味するところを動物的直感で直ぐに理解した明日菜がすかさず全員を落ち着かせて指示を飛ばし、ゲームに参加できない木乃香がみんなの奮起を促す。

 

「ええーっ、そんなこと言っても」

「「ディフィコロト」よ。え~と…………」

 

 基礎的な英単語にも、四苦八苦なまき絵に聞かれて最近の勉強の成果からいいところまでいくが、それ以上に踏み込めない。

 

「ちなみに教えたら失格じゃぞ」

 

 思わず答えを教えようとした木乃香を石像が遮る。

 主にというか、片方しか喋らない石像を見ていたアスカは何かに気づいたように口を開いた。

 

「なにやってんの学園長?」

「「「「「「「は?」」」」」」」

 

 と、突然変なことを言い出したアスカに石像も含めて全員の頭の上に疑問符がついた。

 

「え、何言ってんのアスカ」 

「いや、声は変えてるけど喋り方が完璧に学園長だからこんなところで何やってんのかなって」

 

 全員の疑問を代表して明日菜が問えば、アスカは何がおかしいのか全くこれっぽちも分かっていない顔でぶっちゃけた。

 改めてアスカを言ったことを考えて全員が固まっている石像を見る。

 

「そう言えばフォフォフォとか、じゃって学園長が良く使ってますです」

「まさか本当に学園長なの?」

「ということは、これは麻帆良工学部が作り上げたロボットアルか。学園長なら権限を使って動かすことぐらいはどうにでも出来そうアル」

「良く出来てるでござるな」

 

 バカレンジャー+αの視線が「石像=学園長」の確定させて疑わしげな視線で見つめる。

 疑われた石像は器用にも汗を掻いて固まっていた。

 

「お爺ちゃん」

 

 ビクリ、と静かな怒りを込めた木乃香の呼びかけに石像が震えた。その反応こそが、石像が学園長・近衛近右衛門であることを何よりも雄弁に証明していた。

 木乃香の優秀な頭脳がここに至るまでの道程を作り上げる。元々、明日菜達が図書館島に来たのは木乃香が聞いた期末で最下位を取ったクラスは解散という噂が原因だった。しかも特に成績が悪かった者は留年だけに留まらず、小学生からやり直しと来ている。現代日本の教育制度では、どんなに成績が悪かろうと中学で留年はない。当然ながら小学生からやり直しなど出来るはずもない。

 

「大っ嫌い!」

 

 いーっ、と歯を見せて石像に言い捨てると踵を返した。

 

「帰ろ、みんな」 

「そうですね。学園長がいるなら魔法の本は所詮デマだったというわけですから」

 

 木乃香の後を追って一番意欲的だった明日菜が皆を促し、魔法の本があるという言い出した夕映が動き出したこの場の趨勢は決まった。肩を落として元来た道を戻っていく。

 床に開いた穴から部屋を出て行き、動かなくなった石像と共に残ったアスカは首を捻った。

 

「なんでみんな帰ったんだ? 魔法の本はあるのに」

 

 シクシク、と泣き出した石像を鬱陶しく思いながら、放つ魔力から本物らしい安置されている魔法の本を前にして首を傾げていた空気をどこまでも読まないアスカの姿があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 明日菜達が図書館島に侵入した翌日、朝の教室に委員長あやかの叫びが木霊していた。

 

「何ですって!? 2-Aが最下位脱出しないとネギ先生達がクビに――っ!? ど、どーしてそんな大事な事言わなかったんですの桜子さん!!」

 

 HR前の他のクラスでは一分一秒が惜しいとばかりに勉強に励む中、2-Aではちゃんと席に座っている人間すら稀である。

 

「あぶぶぶっ、だって偶々新田先生が話しているのを立ち聞きしただけだから本当のことか分からなかったし~」

「クビだって、ネギ先生達が」

「む………」

「それはかわいそうやな~」

 

 教室中にあやかの詰問の声が響き渡り、桜子の話に耳を傾けていたクラスメイト達が最下位だとクビという事実に騒然となる。

 あやかに詰め寄られてユサユサと揺すられている桜子は、立ち聞きしただけで真実かどうか分からないと話すことでようやく離してもらえた。それぞれが反応を返す中、エヴァンジェリンは二人がこの地を離れるのは良いことではないので、今回に限り真面目にやるかと考え、茶々丸にもそれを後で伝えるかと思いついた。

 

「とにかくみなさん! テストまでちゃんと勉強して最下位脱出ですわよ。 その辺の普段真面目にやってない方々も」

 

 自他共に認めるネギ贔屓筆頭の委員長は早速、普段真面目にやってないクラスメイトに発破をかけてまわる。

 

「げ……」

「仕方ないなあ……」

 

 引き気味の千雨は少し嫌そうな声を出し、円は渋々気にやる気を出す。

 

「問題は明日菜さん達(バカレンジャー)ですわね。取り合えずテストに出て頂いて0点さえ取らなければ………」

「そう言えばさあ委員長、バカレンジャーはどうするの? まだ来てないみたいだけど」

「あれ~ほんとだ。HR前なのにね」

 

 ちょうどその時、教室のドアが開き何故か薄暗い雰囲気を醸し出している八人組を引き連れたアーニャと、ボロボロになって気絶してるらしいアスカの足を引き摺るネギが入ってきた。

 その八人組の様子と嘗てない王者の覇気を撒き散らすアーニャとイラツキを隠せていないネギに教室にいた全員が固まる。

 

「全員、着席」

 

 必要最小限のアーニャの言葉に、全員が何かを言う事もなく全速力で自分の席に座る。葬式のように静かな教室の中、粛々とHRが始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 期末試験から一週間経ち、運命を決める結果発表の日がやってきた。

 試験後、試験結果を表示する巨大スクリーンがある入口ホールには多くの生徒達が溢れ返り、落ち着かない雰囲気がそこかしこから感じられる。だが、そんな中で普段ならテストのことなど気にもとめない筈の2-Aが尋常ではない様子でスクリーンの前を陣取っていた。

 そのただならぬ気配に他所のクラスは近づくことも出来ず、少し距離を取って何事かと見守っている。だが、2-Aの生徒達はそれらに意識を割く余裕は全く無かった。彼女達の視線はこの場所に来た当初から何も表示されていないスクリーンを食い入るように見つめており、一切の私語がない。

 やがてテストの集計が終わり、アナウンスが流れて緊張の渦が高まっていく。

 

『2年生の学年平均点は75.9点でした! では第二学年のクラス成績を良い順に発表しましょう!』

 

 マイクとスピーカーを通してホール内に響いた声を聞き、そこに集まった生徒達はいよいよかと喉を鳴らす。

 

『な、なんと第一位は! 万年最下位の二年A組! 平均点は83.8点です!』

「「「「「「「「「「うおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ~~~~~~~~」」」」」」」」」」

 

 放送部員の司会の下、栄えある第一位が読み上げられた瞬間、2-Aが号泣と共に雄叫びを上げ、生徒数人が崩れ落ちる。

 

「良かった、良かったよ~」

「うう…………ぐすっ…………う………」

 

 万年最下位のクラスがトップに上がった事もだが、この2-Aの行動に他のクラスの生徒達から奇異の視線が向くが全員が気にすることもなく、思い思いの感情を爆発させる。中には言葉に成らず、嗚咽を漏らし続ける者もいた。

 何故ここまでの状態になったかというと、図書館島侵入の翌日から始まったアーニャ主導の下、寮の一室で行われた地獄の勉強会が原因である。

 HRで学園長から唆されたとは言え、バカレンジャー+αが読むだけで頭が良くなる「魔法の本」を求めて図書館島に入り、デマだと分かって引き返してきたことを教えられた。そんなに成績が良くなりたいなら教えてあげようと勉強会が開かれることになったのだ。出席は任意だが半ば強制なようなもので参加せざるをえない。アーニャとネギの怒りはそれほどまでに凄かったのだ。

 誰もが机にかじりついて勉強する。特に原因であるバカレンジャーと図書館島探検部ののめり込みようは凄まじかった。

 睡眠すらも削って勉強する様は狂気すら感じさせ、テストを寝不足で全員が血走った目で受けたので担当した教師が驚いていた。

 死ぬほどの勉強の結果としてその苦労は報われたので、歓喜を爆発させていたのだ。尚も成績発表は続いているが彼女達の耳には入ってなく、ただただ地獄から帰って来れた事を喜んでいる。だが、一部の生徒にはそれも許されなかった。

 

「…………神楽坂、近衛、綾瀬、長瀬、佐々木、古菲、宮崎、早乙女、アスカ君」

 

 突如騒がしいホールに決して大きくはないのに声が響き、2-Aの生徒どころか他の生徒の言葉すら奪ってしまった。

 司会が異様なプレッシャーを浴びて冷や汗を浮かべながらもプロ根性を発揮して成績発表を続ける。群集の最後尾から人々がモーゼの如く割れ、コツコツと靴音をさせながら一人の教師が現れた。学年主任の新田である。

 その後ろにはネギとアーニャが控えていたが、新田が醸し出す空気が恐ろしすぎて誰も見えていなかった。

 「鬼の新田」と呼ばれるほどの新田の顔は、この時は何の表情も浮かんでいない。そのことで周囲は本気で新田が怒っていると思った。

 新田に名前を呼ばれた生徒達は心では逃げたいと思いながら体が動かず、九人を残して他の2-Aの生徒達が巻き込まれる事を嫌って傍を離れる。新田が武道派ですら気圧されるプレッシャーを辺りに振りまきながら九人の前で静止するのを、周りは成績発表よりも注視していた。

 

「直ぐに生徒指導室に来なさい」

「「「「「「「「「「…………はい」」」」」」」」」」

 

 新田の拒否権の無い言葉全員が返事と同じく頷く。

 新田が先頭に立って歩き、その後を十三階段を登る死刑囚のように死相が出ている九人がついて行った。最後尾をまるで逃げないように見張るようにネギとアーニャがつく。後の地獄を想像し残った2-Aの生徒全員が胸で十字を切り、彼等の無事を祈った。後に2-Aの生徒達だけでなく、事件の概要を知った生徒達は一つの事を重く胸に誓った。

 

『どんなことがあっても鬼の新田だけは本気で怒らせてはいけない』

 

 この後に麻帆良学園都市に試験後出来た標語であったそうな。

 



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第6話 いざ、京都へ

副題:ラブストーリーは突然に


 春休みに突入して数日。ネギ達の姿は大宮駅にあった。

 大宮駅構内は、早朝ということもあって家から遠い会社に向かう勤労サラリーマンといった例外を除いて人影はそう多くない。その中にネギはアスカ達と共に午前7時という早い時間に麻帆良学園都市から離れた大宮駅にやってきていた。

 

「じゃ、全員いるしホームに行きましょうか」

 

 アーニャはネギとアスカ、明日菜・刹那・木乃香とこの旅行に参加している面々の顔を確かめて促したが一歩も動こうとしない。

 

「どうしたん?」

「私に日本の交通事情が分かるわけじゃない。アンタ達が先導してよ」

 

 木乃香が聞けばアーニャは恥ずかしさから僅かに朱に染めた顔を逸らす。

 

「それで良く麻帆良まで来れたわね」

 

 他力本願なアーニャを笑わなかった明日菜はよく子供だけで世界で最も複雑と言われる関東の電車を乗り継いで来られたものだと感心した。

 

「色んな人に聞いてやっとです。苦労しました」

「何度か迷ったけどな」

「いいから、さっさと行くわよ。さぁ、明日菜」

「はいはい」

 

 当時の苦労を思い出して強く頷くネギ、今となっては良い笑い話だと言わんばかりに気にしないアスカ。

 自分ばかりが恥ずかしがって話を進めたがっているアーニャに可愛いさを感じつつ、明日菜が先導してホームを目指す。

 

『JR新幹線、あさま506号。まもなく発車致します』

 

 駅構内にアナウンスが鳴り響く。明日菜達は無事に新幹線に乗り込んで、時間になり新幹線は大宮駅を出発した。途中、東京駅でひかり213号に乗り換えた後は目的地の京都駅につくまで悠々自適。それぞれが旅行の醍醐味の一つの移動時間を満喫中である。

 

「そういえば、なんで木乃香の実家に行くの?」

 

 三人掛けの席を反転させて、ウェールズ組と麻帆良組で別れて座っていた窓際の席で明日菜が目の前のアーニャからトランプの札を一枚抜き取りながら言った。ババ抜きをしているのだが引いた札では合わなかったらしく、一瞬眉を顰める。

 

「うちが魔法を知ったことを報告に行くんや。明日菜に言わんかったけ?」

 

 順番が回って来た木乃香が明日菜から札を抜き取ると、手持ちの札と合ったらしく抜き出した札と手持ちの札を抜き出して膝の上に置く。真ん中に捨て場など作れないので、札が合ったら各人の膝の上に置く決まりになっているのだ。

 

「聞いてないわよ。木乃香の実家に行くって聞いただけで、アンタがいなくなっちゃうとご飯がないから無理やりにでも付いてきたんじゃないの」

「そこは自分で作りなさいよ」

「木乃香のごはんが美味しいのが悪いのよ。学食じゃ、肥えちゃった舌が満足できないの」

 

 今度は通路側にいる刹那が木乃香の札を取り、こちらも手持ちの札と合ったらしい。膝の上に合った二枚を置いて、前の席にいるアスカへと手札を差し出す。

 

「確かに木乃香の飯は上手い。直にネカネ姉さんが来るのに満足できるのかって不安が出来るぐらいには上手い」

「お姉ちゃんって料理は得意じゃないからね」

 

 遊びであろうと勝負は勝負。勝つために刹那の表情を見ながらカードを選びながら言うアスカにネギも同意する。

 彼らの従兄であるネカネ・スプリングフィールドは良妻賢母の見本のような人物だが、ただ一点料理だけは得意ではないのだ。得意ではないだけで苦手ではないのだが、料理上手な木乃香と比べると流石に一段も二段も味は劣る。

 数日中に日本へやってくるネカネの下へ引っ越しが決まっているアスカ達にとって、食生活のレベルが落ちるのは成長期で良く食べるだけに死活問題だった。

 

「アンタ達がそんなことを言ってたってお姉ちゃんに言うわよ」

 

 ポーカーフェイスが苦手な刹那から見事に当たりを引いたアスカが悠々と膝に札を置いて、手札をアーニャに向けた瞬間に固まった。

 

「「ごめんなさい。後生だから言わないで下さい」」

「分かればよろし」

 

 二人で頭を下げた瞬間にアスカの手札を盗み見たアーニャは見事に掠め取る。合ったカードを捨てつつ、今度はネギの方を向いた。

 

「アンタ達のお姉さんって怖い人なの?」

 

 怯えている二人の様子から明日菜の脳裏では夜叉のような女の人が連想されていた。

 

「や、止めてお姉ちゃん。そんなところに太い棒は入らないよぉ。出すところで入れる所じゃないからぁ」

「爪の間にそんな器具は入らないってぇっ」

 

 ガクガクブルブル、と蹲って怯えている二人を見て、怖いお姉さんなんやなぁと呑気に言える木乃香が凄いと思った刹那だった。

 

「普段はおっとりした優しい人よ。でも、怒る時は本当に怖い」

 

 アーニャですら怯える人に明日菜の中では夜叉よりも恐ろしい人物像が膨らんでいく。本人が知れば本当に怒りそうなレベルであるとだけは記しておこう。

 

「ま、お姉ちゃんが来る前にこっちの用事を終わらせられそうなのは正直助かるわ。私の不注意で魔法がバレたなんて知られたらどんな折檻が待っているか」

 

 折檻を想像したのか、ブルリと全身を震わせたアーニャは窓の外に流れて行く景色をチラリと見た。

 

「怖いっていえば新田先生も怖かったわねぇ」

「俺は鬼の新田の真価を始めて知った」

 

 堪えていなさそうな木乃香は別にして、新田の説教を一身に受けた明日菜とアスカが煤けていた。

 

「補習と無料奉仕ですんで良かったじゃないか」

「この旅行以外は春休みが殆ど完全に潰れてるのによくそんなことが言えるな」

「自業自得よ」

 

 ネギとアスカの間で睨み合いが生まれかけたが、アーニャがバッサリと切って捨てたことでネギの勝利が認められた。

 

「ですが、今回の一件では学園長も関わっていたということで大事にならずにすんで良かったではありませんか」

 

 順番が回って来たので悔しがるアスカにババを引かせようと小狡いことを考えた刹那が伸びてきた手に、ピコンと出した該当のカードを近づける。しかし、アスカは刹那の策などに引っかからず、該当のカードの横のを取った。

 

「今回の一件で図書館島の警備や鍵のチェック管理体制も強化されることになったみたいやけどな」

「私としては木乃香に土下座までして必死に事情を説明する学園長の姿の方が印象に残ってるけどね」

 

 安易に魔法関係に近づかない為に試したという学園長の言い分を、深夜に寮を抜け出して進入禁止の区画へと入り込んだ負い目があった木乃香は受け入れた。本当なら学園長の方が立場は上のはずなのに、木乃香の方が上に立っているように見えたアーニャの目は決して節穴ではない。

 

「お、俺一番上がり」

 

 刹那の手札から一枚抜き取ったアスカがぶっちぎりの勝ち名乗りを上げる。

 

「もう、ですか。早いですね」

「アスカはこういうゲームでは無類の強さを誇りますから。負けたの見たことあったけ?」

「ないわね。無駄に強いんだから」

「なんとでも言え。最下位には驕ってもらうから頑張れ」

 

 ぬぬぬ、と悔しがる年少組はやる気を漲らせた。

 アスカが一抜けしたので次のアーニャは手札が減らず、ネギのを抜き取らなければならなかった。ネギの残りカードは五枚。全員が残りそれぐらいなので、アスカだけが早く上がり過ぎなのだ。ババ抜きのような一種勘も働かせるゲームでは無駄に鋭すぎる。今までのこういうゲームで一度もアスカに勝てた試しがないネギとアーニャだった。

 

「ほら、さっさと引いて」

 

 ああでもない、こうでもないと手を左右に彷徨わせていたアーニャを揺さぶるようにネギは真ん中の一枚を飛び出さしながら言った。これは罠か、とアーニャは心理作戦に出ているネギのやり口に厭らしさを感じつつ、選ぶべきか選ばざるかで迷う。

 

「ええい、ままよ」

 

 乗ってやろうじゃない、と真ん中の飛び出している一枚に飛びついたのだった。抜き取っていくと手札で口元を隠していたネギが笑みを浮かんでいるのが見えた。しまったと思った瞬間にはもうカードを抜き取ってしまっていた。

 ゆっくりと手を引きながら抜き取ったカードを見たアーニャの顔を引き攣った。

 

「ぐっ」

 

 ババだった。アーニャはネギの手の平で踊らされたのだ。

 

「アーニャは懲りないよね、昔っから。考えすぎて失敗する」

「うっさい」

 

 何時も何時も三人でゲームをすると、最下位になるのは大抵がアーニャだった。

 アスカはぶっちぎりのトップで、何時も二人は最下位争いをするがこういうゲームではネギの方が一枚上手である。ネカネが参加した時はアーニャを気遣ってくれるがそれも屈辱だったりする。

 怒りと屈辱に打ち震えるアーニャを置いてゲームは続いていく。

 

「あ、うちも上がりや」

「僕も」

 

 三順ほどして木乃香が上がり、次いでネギも上がった。

 

「残るは三人」

 

 ババを手放したアーニャは残る面子を見る。手札の枚数はアーニャと刹那が二枚ずつ、明日菜が三枚と明らかにババを持っているのが誰か分かる枚数であった。

 

「次は刹那さんの番ね」

 

 ババを持っていると思われる明日菜が刹那に手札を差し出す。

 刹那は迷いながらも右端のを取った。その顔が引き攣る。

 

「よし、ババは刹那さんに行ったわ」

「明日菜、そういうのを言うのは禁止やで」

 

 笑顔満面の明日菜が言うのをやんわりと木乃香が苦言を呈する。

 懲りた様子のない明日菜は適当の頷きつつ、ババをアーニャに押し付けようとしている刹那の拙い手口を見遣った。

 一巡後、勝敗は決した。

 

「え―――お弁当」

「お姉さん! こっちに駅弁よろしく」

 

 アスカが喜び勇んで後ろの車両からやってきたカートを押す売り子に早速注文する。

 

「あまり高くないので」

「ん~、この幕の内弁当で」

 

 やってきたカートから喜び勇んだアスカは何種類かある弁当を悩ましげに見て、懐事情が決して裕福なわけではない刹那の無言の懇願を無視し、よりにもよって一番高いのを選んだ。

 

「朝ごはんしっかり食べたのに、まだ食べんの?」

「頭使って腹減ったんだよ。これも勝者の特権」

 

 今にも涎を垂らさんばかりのアスカの健啖振りを知っていても体重が気になるお年頃の明日菜が言うも、当の本人は今が成長期だと言わんばかりに気にしなかった。

 

「千円なります」

「よろしく」

 

 得意満面の笑みで支払いを求めて来るアスカに悔しさを感じつつ、これも最下位になった者の宿命と諦めた刹那は財布を取り出して千円札を差し出した。

 

「毎度ぉ、おおきに」

 

 刹那が差し出した札を受け取った販売員は変わったイントネーションで言いながらカートを押して前の車両へと言った。

 

「あのお姉さん同郷なんやろうか」

「分かりません」

 

 明日菜のような例外を除いてバイトが出来ない女子中学生の一人である刹那に千円の出費は痛い。

 販売員の話し方のイントネーションから京都出身であることを訝しんだ木乃香に、刹那は実際には体感で殆ど分からないぐらいしか減っていない財布に頼りなさを失くしていたので返答は素っ気なかった。

 刹那の様子を見た木乃香は、幕の内弁当の封を開けているアスカがこちらを見ていないのを確認して財布を取り出して千円札を取り出して刹那に渡す。

 

「お嬢様」

「ええから受け取って。お爺ちゃんからお小遣いって大目に貰ってんねん」

 

 渡された千円札に目を丸くした刹那に木乃香は笑いかける。そのまま刹那の肩に頭を乗せた木乃香が嬉しそうに目を閉じるのを見たアーニャは真正面にいる明日菜と目を合わせた。

 

(木乃香って百合の気があるの?)

(ないはずだけど、刹那さん限定で今までのこともあってその反動が来てるみたい)

 

 アイコンタクトで会話をしている念話いらずの二人のずらした視線の先では桃色の空間を撒き散らす木乃香と刹那の二人。二人に百合の疑惑が立った瞬間だった。

 

「うわっ」

 

 ネギの驚いたような声に桃色空間の二人とアーニャ達が視線の下を辿った。

 視線の下であるアスカが今開けた弁当の箱の中身。本来ならば幕ノ内弁当の鮮やか具材とご飯が乗っているべき場所には別の存在が鎮座していた。

 緑色で妙な滑りを持った皮膚、愛らしくピョンピョコ跳ねる仕草だが一部女性に嫌われるカエルが「ゲコゲコ」と鳴いているのが見えた。

 

「カ、カエル~~~~~!?」

 

 がさつに見えても実は女の子らしく両生類が苦手な明日菜が思わず叫んだ瞬間、グシャと何かが潰れる音が車両に響いた。発生源は力一杯の拳を握り締めたアスカが拳を叩き下ろしてカエルを叩き潰した音であった。

 

「この恨み……」

 

 弁当箱ごと圧殺されたカエルが刹那以外では読めない文字が刻まれた紙へと変化する。

 先のカエルが陰陽道の一つである式神だと看破した刹那だが、怒りに打ち震えるアスカを目の前にして真実を告げる勇気はなかった。

 

「晴らさでおくべきか!」

 

 怒りで逆立っている髪の先で紫電をバチバチとさせながらアスカは宣言した。

 

「やっすい恨みね」

「たかがゲームで勝利して人のお金で買った景品を駄目にされたぐらいで大袈裟な」

 

 実にしょうもない理由で怒りに打ち震えるアスカを酷評したアーニャとネギに同意する明日菜であった。

 

「あ、お姉さん弁当大至急でよろしゅう」

 

 丁度通りかかった別の販売員に弁当を木乃香が注文することで、あっさりと怒りを収めた安い男であるアスカであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 珍事はあったもののその後は何事もなく京都駅に辿り着いた新幹線から降りた一行は一路観光と洒落込んでいた。これは京都の文化に興味あったネギの発案で、昼過ぎに関西呪術協会の総本山へ着けばいいのに朝早くから新幹線に乗ったのもこれが理由である。

 まず向かったのは京都駅からほど近く、京都を代表する歴史的建造物として選ばれたのは清水寺であった。

 今や国内外を問わず名が知れ渡ったユネスコ世界遺産にも登録されている寺院なので、毎年多くの学生達が修学旅行で訪れる場所であり、現代において修学旅行先にこの場所を選ぶのはもはや定番となりつつある。なので「京都」の代名詞として生徒に触れさせるにはもってこいの古刹であった。もっとも秋には紅葉の名所として知られる場所であったが、三月という春休みのシーズンだけあって人の気配は多い。

 本堂に差し掛かる頃にはネギの興奮は最高潮に到達していた。

 

「素晴らしい! これが京都!」

 

 快晴の青空の下で本堂から見える見晴らしの良い景色に、ネギの絶叫が京都の街へと響く。

 

「これが夢にまで見た彼の有名な清水の舞台!!」

 

 天気は良く、新緑に彩られた山には、命の躍動する生き生きとした魅力がある。風がそよぐと辺りの木々の枝がサワサワと音を奏で歩くものたちの心を和ませるのだが、完全に御上りさんよろしくとなったネギのはしゃぐ声が色々と台無しにしていた。

 

「なにネギのあのテンション」

「ネギは歴史マニアだからこういう年月を感じさせるのが大好きなのよ。定年退職した恩田先生から京都に行くなら清水寺は欠かせないって聞いた時から張り切ってたから」

 

 緩い喋り方で昼寝製造機と渾名された学期末で定年退職した恩田先生がこういうのが好きだったことを思い出した明日菜は、件の教諭から妙にシンパシー染みた物を感じ取っていたアスカへと視線を移した。

 

「なぁなぁ、本当にここから飛び降りても死なないのか」

「らしいけど、試しちゃ駄目よ。面倒事は引き起こさないで」

 

 身長の関係で欄干にぶら下がりながら首を出して真下を眺めるアスカの襟元をアーニャが掴んでいなければ本当に試していたことだろう。アーニャちゃんナイス、と明日菜は思った。

 

「ずっと山奥で暮らしてたから地元やのに来たことなかったわ」

「そうですね。でも、今私達は一緒に来られました」

「うん、こんなに嬉しいことはないで」

 

 寄り添いながら感慨深げに語り合う木乃香と刹那の様子に、既に熟年夫婦の空気が混ざっていることを感じ取った明日菜は唇の端を引き攣らせた。突っ込みが足りない、と京都の街並を見下ろしながら思った明日菜であった。

 高所故に眺めは絶景であったりする。清水寺の周囲に生い茂っている緑の数々の向こう側に、京都の街並みが全て見渡せる。その向こうには同じく緑に包まれた山々も連なり、抜けるような青空と囀る鳥の声、サワサワと風が木を揺らす音が、より一層の趣を添えていた。

 

「そうや、確かここから先に進むと、恋占いで女性に大人気の地主神社があるはずやで。明日菜もやってみたら?」

 

 木乃香しては何とはなしに口にしただけだったのだが、恋占いというフレーズが、明日菜に衝撃を走らせた。

 

「そ、そこまで言うなら仕方ないわね。行ってあげようじゃないの」

「誰もそこまで言ってないわよ」

 

 いきなりそわそわとし出した明日菜の妄言をアーニャが切って捨てたが当の本人には聞こえていないようだった。

 

「ちなみにな、そこの石段を下ると有名な『音羽の滝』もあるで。あの三筋水は飲むと、それぞれ健康・学業・縁結びが成就するとか」

「縁結び!? さあ、行くわよみんな――!」

 

 続いた下に縁結びの神社があるという木乃香の言葉に、明日菜は外聞も気にせずに一行を先導し出した。まだ神社仏閣に未練たらたらのネギをアスカが引き摺りつつ、音羽の滝に向かって歩く。

 

「木で作った古い建物ってのが凄くイイ」

「ネギって結構ジジイ趣味よね」

「今に始まったことじゃないだろ」

 

 魔法具のアンティーク物の収集癖といい、アスカに襟首を掴まれて引きずられながら恍惚とした声で呟くネギにアーニャは呆れていた。

 ゆっくりと石畳を進みながら、風情ある鳥居を通って石畳を上がって縁結びの神で有名な地主神社に着く。

 

「目を瞑ってこの意志からあの石まで辿り着ければ恋が成就するらしいわ」

「ちょっと十メートルくらいはない!?」

「簡単に出来たら意味はないってことやで」

 

 注連縄を張られた岩が十メートル程の間隔を開けて置かれた『恋占いの石』があった。木乃香の言うことは尤もだと感じ取った明日菜が意気込む。

 

「行くわ」

「頑張って下さい」

 

 色気よりも食い気の方が先行している子供三人組が食い物屋に突撃して行ったのを尻目に、刹那の応援を背に受けた明日菜が目を閉じて歩き出した。

 目を閉じてしまうと世界は真っ暗に閉ざされてしまう。日の光が瞼を通して感じられるが自分から視界を閉じたので一寸先も見えやしない。もしかしたら見当違いの方向を歩いていて、壁にぶつかるかもしれないと思って自然と両手が前方を探るように伸びる。

 一歩、二歩と足を進めながら明日菜は真っ直ぐ歩けているかどうか不安で仕方なかった。

 

「明日菜、右に曲がっとるで」

「左に方向修正して下さい」

 

 このままでは辿り着けないと思った木乃香達のアドバイスに従って軌道を修正する。今の明日菜にとっては木乃香達の声が頼りだった。

 

「ちゃうちゃう、左に行き過ぎや」

「そうです。直りました。そのまま真っ直ぐ」

 

 恋占いの石に辿り着くために人にアドバイスを受けた時には人の助けを借りて恋が成就すると言われている。元より明日菜の味方である木乃香は常日頃からアドバイスをしているし、これからは刹那もその仲間入りを果たすだろう。

 二人のアドバイスに従って明日菜の足はようやく岩と岩の中間にまで辿り着いた。そこで異変が起こった。

 

「!? きゃあっ!?」

 

 踏み出した足が地面を踏み抜いて体を傾いていくのを感じた明日菜は悲鳴を上げた。

 咄嗟に目を開けた明日菜の目に見えたのは、地面に開いた穴とその底にいる新幹線にいたのと同じ両生類の大軍。完全にバランスを崩して如何な明日菜といえど、穴に落ちるのは避けられないタイミング。

 待ち受けるゲコゲコと鳴き喚くカエルの集団に、明日菜は一度は開いた瞼をまた強く閉じた。

 

(高畑先生!)

 

 助けを求めたのは愛しい人の姿だった。だが、高畑はこの場にいない。海外に出張すると前日に出発を見送ったばかりである。早めに海外から戻って来たとしても京都の観光地にいるはずがなかった。刹那が飛び出したが間に合わない。

 チャレンジを微笑ましく見守っていた観光客は驚く間もなく、明日菜が穴に落ちて行く見ているしかなかった。しかし、その運命は覆される。

 

「?」

 

 衝撃は訪れなかった。カエルの滑った肌が体に触れることもない明日菜は片手が引っ張られている感触に訝しがりながら、目を開けると穴の底で両生類達がゲコゲコと鳴いている。彼我の距離はまだいくらかあった。

 誰かが手を引っ張ってくれたお蔭で明日菜は穴の底に落ちずにすんだようだった。

 

「大丈夫か、明日菜」

 

 声の主を明日菜は知っていた。良く知っていた。一ヶ月以上共に住んでいる者の声を明日菜が聞き間違えるわけがない。落ちないように引っ張ってくれている手は明日菜より小さくても力強かった。

 

「アスカ、いいから持ち上げて!」

 

 目前にカエルがいる状況は精神的によろしくない。明日菜はアスカに引っ張り上げてもらうように頼んだ。

 

「へいへい」

「きゃっ」

 

 掴んでいる手は片手だった。何時ものように緩んだ声で簡単に引っ張り上げられた手の思わぬ力強さに、あっという間に穴から引き揚げられた明日菜はカエルの恐怖と穴に落ちたショックで腰砕けになって、そのまま引っ張られるままに倒れ込む。

 

「なにやってんだよ、ったく」

 

 倒れ込むかと思われた体を支えたのは、またアスカだった。

 掴んだままの手を持ちながら、明日菜の背をもう反対の方の手で支える。明日菜の体は地面から少し離れた所で支えられ、背というよりは腰辺りに手を回されていることで、まるでダンスの一シーンのような格好になってしまった。

 身長差の所為で近くなった互いの距離に、明日菜は間近に見るアスカの顔にポッと顔を赤らめた。

 

『お~』

 

 危機に陥った少女を救った素早さと鮮やかな手並み、そして刺激的な体勢へと移行するのを見た観客達が揃って歓声を上げて拍手する。三十㎝以上ある身長差の所為で姉弟にしか見えないはずなのに、ドラマの一シーンのような光景に誰もが二人は恋人であると錯覚した。

 これで最後に二人がキスでもすれば万々歳で終わるが生憎と明日菜の好きな人はアスカではなく、アスカにそのような空気を感じ取れとは無理がある。

 

「ほれ、起きれるか」

「え、あ、うん、大丈夫」

 

 あっさりと顔を離して明日菜を立たせたアスカの空気ブレイカー振りに、期待していた場の空気が霧散した。顔を真っ赤にして未だ忘我の境地のまま頷いた明日菜に、場は完全に流れて行ってしまった。

 ラブストーリーが始まる気配がないことを確認した観客達は散って行く。

 

「しかし、危ないな。誰だこんなところに穴を掘ったのは」

「そ、そうよね。誰がやったのかしら」

 

 まだ心臓がドキドキバクバクと鳴り響いているのを感じながら明日菜の視線はアスカの柔らかそうな唇に釘付けであった。その様子を後ろから見ていた木乃香がニヤリと笑ったのを隣にいた刹那は見逃さなかった。

 

「明日菜ぁ、顔真っ赤やで」

「うるさい」

 

 明日菜はもう一度儀式にチャレンジはしなかった。それが全てだった。ちょっと惜しかったなとか、ドキッとなんかしてないとか、あの唇を味わってみたかったわけじゃない、とか心中で言い聞かせながら明日菜は真っ赤になった顔をそれ以上見られないように彼方を見た。

 ニシシ、と面白い物を見たとばかりに笑って明日菜をからかう木乃香には同調できなかった刹那だったが、先のアスカの動きには驚嘆していた。間違いなくアスカは刹那よりも遠くにいた。にも関わらず、早く反応して明日菜の下へ辿り着いた素早さに驚く。

 穴の縁から底を見下ろし、拾った石を投げて式のカエルにぶつけて紙に戻しているアスカを見る。年下と思って侮っていた面もあるが、能力は未だに未知数であると認めざるをえなかった。急務として刹那には別で考えることがあった。

 

(この式、やはり関西呪術協会の手の者か)

 

 新幹線のみならず、この場所でも手を出してきたことを考えれば確定で間違いない。やっていることが悪戯レベルなのはこちらをイラつかせるのが目的なのか、それとも別の目的があるのか。一兵卒が精々な刹那には読み切れなかった。

 騒ぎを聞きつけて戻って来たネギとアーニャを見ながら、どうすべきかを考える刹那だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新幹線に続いて二度目の悪戯が関西呪術協会の息がかかった手の者の仕業であるとの刹那の意見に、ネギ達は観光を切り上げて先に木乃香の家がある総本山へと向かうことにした。

 関西呪術協会の本山は、嵐山は桜や紅葉の名所である嵐山より少し離れた地点にあって清水寺から歩いていくにはかなり遠い。タクシーで行くには途中で襲われる危険性を考えると避けたい。最も人の目に付く交通手段はバスか電車。バスの交通網はそんなに大きくは無い。消去法で電車を選んで目的地を目指すことにした。

 昼時だったので途中で昼食を取り、昼も少し過ぎたぐらいの時間になった。道中予想された妨害もなく一行は無事に関西呪術協会の本山の入り口に辿り着いた。

 

「ここが関西呪術協会の本山か、でっけぇ」

「伏見神社に似てるかも」

 

 鳥居が何個も連なっている長い階段の下で、アスカとガイドブックを手にしたネギはその階段を見上げ、それぞれ感想を漏らす。

 関西呪術協会の本山の入り口は、如何にもといった様子だった。短い石段の先には大きな門が立っており、門の脇にある石碑に刻まれた名は『炫毘古社』と書かれている。

 小高い山が丸々敷地らしく、鳥居の後ろには鬱葱と生い茂った森を横断するように石畳の階段が伸びており、まるで人目から隠されているかの様になだらかな石畳の階段が終わるとひたすら奥へと道が続いている。その道を跨ぐように竹薮に囲まれた無数の朱色の鳥居で形作られたトンネルは、思わず吸い込まれてしまいそうに深く、長く、どこか別の世界へと繋がっているかと錯覚してしまうほどだ。辺りに人気は無く、風が吹く度にごおごおと不気味な音が辺りに響き渡る。

 興味本位で入ることが憚れるほどに、目の前の土地は異様な雰囲気を醸し出していた。一般人を寄せ付けないように人払いの結界が張られているためだ。それだけでなく妖怪悪霊の類を侵入させないための結界も張られている。

 

「うわー、何か出そうね」

「そんなことないで。十何年も暮らしててうちは全然魔法に気づかんかったし」

 

 おどろおどろしい光景に、ちょっと怯えていた明日菜。生まれ故郷故に悪く思われたくない木乃香が反論するも、現実は彼女をそういう異常や異形を彼女の父親である近衛詠春が近づかせないようにしていたと知っている刹那は苦笑した。

 

「行こうぜ」

 

 関西呪術協会も組織である以上は一枚岩ではない。新幹線や恋占いの石で妨害してきた術者もここに属する陰陽師と考えていている刹那が注意の一言も発する前にアスカが足を踏み出した。

 

「ちょっと待って下さい。途中で妨害もあったのですから、もう少し周囲を警戒しながらですね」

 

 足を踏み出したアスカを追いかけて刹那が走る。今の日本はアメリカの文化だけに留まらず、多種多様な文化が流れ込んでいる。裏の世界では魔法使いが分かりやすい凡例だった。

 西の関西と東の関東を二分した互いの組織の仲は決して良くない。

 古きを尊ぶ日本の文化を継承しようとする一派が関西呪術協会にもいて『東の魔法使い』を嫌っている。最近は和平の風潮が広まっているが、和平を求めている現在の長に対する対抗勢力は必然的に『東の魔法使い』を嫌っている。

 魔法使いであるアスカ達が木乃香を連れて訪問することは関西呪術協会内にも広まっていることが推測される。先の妨害の事を考えれば警戒して進んだ方が良いと刹那は言いたかった。

 

「この中なら周りの一般人の目はありません。襲撃に絶好の場所です。注意してしすぎることはありません」

 

 一般人に対してその存在を隠匿している関西呪術協会としては、白昼堂々と襲撃して、その姿を衆目に晒すと言うのはあまり褒められた事ではない。しかし、ここならば総本山の人払いの結界があるため、一般人の目を気にする事なく襲撃を仕掛ける事ができる。

 

「分かってるって」

 

 そう思ってアスカを注意するが当の本人の足は止まらない。本当に分かっているのかと言いたくなる衝動を抑えた刹那が静止するもアスカはどんどんと先へ進んでいく。

 

「なら、もっとゆっくり」

「大丈夫だって。襲撃があっても俺がぶっ倒すから」

 

 と、言いながらも自信満々な笑みを浮かべるアスカの足はさっさと進み続ける。

 吊られて動き出した一行の中でネギが刹那に顔を向けた。

 

「無駄ですって。アスカは襲撃があることを望んでるんですから逆効果ですよ」

 

 きちんと掃き清められた鳥居のある入り口を見つめるネギは神妙に頷くと、慎重な足取りで竹林の石段を進んでいくが台詞には半ば諦めが籠っていた。

 

「普段ならもう少し警戒ぐらいはするのに、私達がちょっと離れていた間になんか怒ってない?」

「うん、怒ってるかは微妙だけど行き場のない感情をぶつける相手を探しているみたいな感じがする」

 

 アーニャと首を捻り合っているネギの台詞に、刹那の目は自然と恋占いの石でトラップに嵌った明日菜を見た。二人の会話が聞こえてなかったらしい明日菜は刹那に見られて、何で自分に視線を向けられたのか分かっていない様子だったっが木乃香はバッチリと聞いていたようだ。

 

「愛されてるなぁ、明日菜」

「なんのことよ」

 

 少し猫なで声になっている木乃香を気持ち悪がった明日菜は更に首を捻っていた。

 

「二人とも互いに脈ありそうや」

「変にかき回さないで下さいよ、お嬢様」

「は~い」

 

 ズンズンと先を進むアスカに遅れないように足を進めながら、親友の恋模様に新たな波乱が訪れていることを喜ぶ木乃香を見て溜息を漏らした刹那だった。

 

 

 

 

 

 十分ぐらい緩やかな石段を登って幾つもの鳥居を潜り抜けたところで、黙って歩いていることに飽きた明日菜は思いついたように口を開いた。

 

「そういえば、木乃香の親ってどんな人なの?」

「なんやの、突然急に」

 

 その話は家族のいない孤児らしい明日菜のことを慮った木乃香が口に出すこともなかった話題で、明日菜も特段聞くこともなかったことだった。

 

「襲撃もないし、暇だなって」

 

 緊張感がないなと二人の会話を最後尾で聞いていて思った刹那だったが、予想された襲撃がないことに肩透かしを感を食らっているのは同じだった。

 

「んとな、お母様はうちを生んだ時に産後の肥立ちが悪かったらしくて死んでしもっとたらしいねん」

「…………ごめん、聞いちゃいけない事だった」

「ええよ。赤ん坊ことだったからよう知らんし、元々体の弱い人やったから覚悟してうちを生んだって話やから。この写真があればどれだけ愛してくれたか十分に分かる」

 

 項垂れた明日菜の頭を良い子良い子とばかりに頭を撫でた木乃香は、持っている鞄から一枚の写真を取り出した。

 明日菜に差し出された写真には、黒髪の女性が腕の中に赤ん坊を抱いて慈愛の瞳を向けている。その女性と赤ん坊を眼鏡を付けた優男風の男性が見つめていた。

 

「木乃香に似てる」

「うちが、お母様に似てんねん」

 

 クスッと、笑った木乃香につられる様に明日菜もまた笑みを浮かべた。そしてふと明日菜は、先頭を歩くアスカとその後ろを歩くネギが父親を探しているのだと以前に聞いたことを思い出し、二人の母親はどんな人なのだろうと疑問に思った。

 聞いてみようかと明日菜が口を開いたところで、アスカが前振りも無く突然立ち止まった。

 

「おかしい」

 

 習って足を止めた残りの五人の内、半分はアスカの言いたいことに気が付いたようだ。

 立ち止まって辺りを探っているアスカに変わってネギが刹那を見た。

 

「刹那さん、入り口から本山まではこんなにも歩くんですか?」

「本山までは結構な距離を歩かないといけないのですが、流石にこれはおかしいです。もっと変化があるはずです」

 

 行けども行けども本山にたどり着く様子が無く、延々と竹林に挟まれた石畳の通路が続いているのだ。どれだけ抜けている人間でも可笑しいと思う。

 子供の足といっても、十分近く歩いて目的地が欠片も見えないのはおかしい。襲撃者がいないか気を取られていたが、普通に考えてそんな不便すぎる土地に関西の魔法関係の総本山があるとは考えられない。

 

「景色が代わり映えしなさすぎるのよね。同じ場所を歩かされてるんじゃないかしら」

「そうなの? 全然気づかなかった」

「うちも」

 

 どっぷりとそちら関係に身を浸しているネギ達の間では違和感が強かったが、最近知ったばかりの二人にはそうでもないらしい。

 ネギ達はこの状況に一種の推測を立てた。推測を証明する手段をどうするか考えていたところで、アスカが一人で足を進めて行った。

 

「ちょっと待っててくれ。先を見てくる。三人は辺りの警戒と二人の護衛を」

「なら、私が」

「待ちなさい、刹那。これは流石におかしいわ。何かの罠かもしれない。そんな状況で護衛のあなたが木乃香から離れてどうするの」

 

 己の職分を全うしろとアーニャが諌めるが、もしかしたら内輪の問題かもしれないのに魔法使いである三人を巻き込むことは刹那には出来なかった。元より一人で抱え込む気質のある刹那は誰かに任せるよりも自分で行動した方が楽なのだ。

 

「ですが、私の方がここの土地勘があります。偵察なら私の方が適任のはずです」

「確かにそうね。でも、私達はあなたの力を知らない。反対にアスカのことは良く知っているわ。その上で言うわ。アスカに任せない」

 

 譲れない思いで睨み合う二人の後ろから、おずおずとネギが首を出した。

 

「あの、二人とも。アスカ行っちゃたけど」

「「え」」

 

 ネギが言う通り、睨み合っていた二人が視線を前に向けると鳥居の奥に進んでいるアスカの背中が随分と遠くなっていた。

 

「二人とも喧嘩はメっやで」

 

 木乃香の締めの言葉が場の空気を緩くした事実は否めないと苦笑を浮かべる明日菜。

 

「木乃香、二人は別に喧嘩してたわけじゃ」

「喧嘩してたのか?」

「きゃっ」

 

 木乃香に話しかけた明日菜は突如として後ろから湧いて出てきたように現れたアスカの声に飛び上がった。以外に女の子らしい可愛い悲鳴だった。

 

「あ、あれ!? 何でアスカが後ろから!?」

 

 心臓を飛び上がれながら振り返った先には前に向かって歩いていったはずのアスカの姿。

 前に向かって歩いて行ったはずのアスカが何故か真後ろにいるこの不思議と、触れるか触れないかぐらいの急接近に明日菜はパニックに陥った。

 

「前に来てたアスカが後ろに現れた。ネギ、上と後ろと横を試してみて」

 

 明日菜と違ってアスカの背後からの登場に驚くどころか半ば予想していたアーニャは腕を組んで何かを考えているネギを見る。

 視線を向けられたネギは頷き、杖に巻いていた包帯を解いて構えた。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル 風精召喚!!」

「本当の魔法やぁ」

「うわぁ」

 

 ネギが呪文を唱え切ると、周囲にネギの姿を取った風の中位精霊が四体現れた。身近な魔法使い達は三人とも碌に魔法を見せてくないので、間近で始めて見るファンタジーに木乃香だけではなく明日菜も目を輝かせた。

 

「行け!」

 

 ネギの命令に従い、集団を中心に散り散りになって四方へ飛び去る風精達。

 行く末を眺めているネギ達の視線の先で一定の距離で風精達が消え、向きを真反対に変えて出現する。風精は自分達が元来た道を逆走していることに気づいたかのように急ブレーキをかけた。

 

「やっぱり、一定空間内でループしてる」

 

 此処に至ってネギは自分達が罠に嵌ったことに気づいて役割を終えた風精を解いた。役目を終えて解かれた風精が風と成って消えていくのを木乃香が名残惜しげに見つめていた。

 

「無限回廊の魔法の類じゃないかしら」

「恐らく無間方処の咒法と呼ばれる種類の呪術です。私達がいるのは大体半径五百メートル程の半球状のループ型結界の内部。つまり、この千本鳥居に閉じ込められてしまっています」

 

 似たような魔法を知識として知っていたアーニャに、該当する呪術を知っていた刹那が訂正・補足する。

 説明する刹那の声音に、一段と重い響きが含まれる。無限回廊、即ち永久ループの呪法はどれだけ進もうとも永遠に同じ場所を回り続けるという破る術がなければ出られない質の悪いものだ。

 

「前に進むのも駄目、後ろに戻るのも駄目、横に行くのも駄目、上も駄目だとすると完全に手詰まりか」

 

 辺りを見渡したアスカが事態ほどには困ったように見えない軽い声が呟いた。その声に呼応するかのように、周囲の竹が風に撫でられ不気味に騒めいた。そんな一行を高みから見下ろす影が二つ。

 

「へへへっ、あっさり罠にかかったわ」

 

 竹林の影に隠れて一行を監視していた学ラン姿の少年は笑った。

 少年は笑いを収め、少し不満げに隣にいる着物を着崩した女を見た。

 

「罠にかけんのはええけど、なんでわざわざこんな面倒くさいことしなあかんねん」

「これも奴ら魔法使いへの嫌がらせや。小太郎は黙って従い」

 

 悪戯で満足している隣の女性の懐の狭さに、これでも恩人で家族になってくれた人なので協力せざるをえない世知辛さを感じつつ少年――――犬上小太郎は本音を喋ることを厭わない。小太郎は退かず媚びず省みない性格だった。

 

「正面からガツンといけばええやん。新幹線の時や神社でのことといい、千草姉ちゃんは一々やることがまどろっこしいわ」

「アホやな。表だって問題起こすのはマズいやないか。うちにも立場っちゅうもんがあんねん」

「十分、問題起こしてると思うけどな俺は」

「うっさい」

 

 ボカリ、と千草と呼ばれた女性に脳天に拳骨を落されて痛みに震えた小太郎は理不尽さに世を呪った。

 

「気を込めて殴るんは止めてぇな。頭が割れるわ」

「あんさんの石頭が悪いねん。気を込めんかったらこっちの拳が壊れるわ」

「俺の頭が割れるのはええんかい」

「か弱い乙女の拳で割れるわけないやん」

 

 理不尽な理由で殴ったことを反省もしていない千草を見た小太郎は、「俺は大人や。こんなことで怒らへん」と心の中で何度も自分に言い聞かせることで込み上げた怒りを抑える。昨今の女性上位が世論に押される男の気持ちが良く解った小太郎だったが、牙を剥いても勝てるビジョンが浮かばない相手には挑まない主義だった。

 千草の料理は上手く、野良犬生活には二度と戻れそうにない小太郎には言うことを聞くしか道は残されていなかった。それが胃袋を掴まれたている養われ人の辛いところである。

 

「うちはアリバイ作りするから、アンタは適当な時間で術を解きや。くれぐれもうちがアリバイを作れるまで待ってからやで」

「はいはい」

「はい、は一回」

「は~い」

 

 呼び出した蜘蛛の式神に乗って離れて行く女性を見送った小太郎は、まだ痛む脳天を擦りながら罠に嵌められた一行を見下ろした。

 その時、一行の中でこちらを見上げている一人と目が合った。

 

「強そうな奴がおるやんけ。思ったより遊べそうやんか」

 

 どこかの誰かと似ている精神構造をしている少年の頭からは、先の女性からの言いつけがあっさりと抜け落ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その場に何時までも留まっている訳にはいかず、少し進むと鳥居の脇に時代劇に出てくるような和風作りの茶屋と自動販売機があった。明らかに怪しく罠かもしれないが、気を張りながら歩いて疲れている木乃香のことを慮って一行は一休みすることにした。

 

「ふぅー、一息ついた」

 

 縁台に座って自動販売機で買ったジュースに口をつけながら明日菜もようやく一息つけた。

 

「これはちょっとマズイわね」

「とにかく、まずは現状を把握してなんとか打破する方法を考えませんと」

「これって脱出するには結界の基点を破壊するしかないのかな」

 

 自販機があったので椅子に腰掛け、飲み物を買って飲みながら作戦会議を始めるネギとアーニャと刹那。西洋魔法、陰陽術の違いはあれど、結界を作る際には基点となる場所がある事に変わりはない。まずはその場所を探す事から始めようと考える。

 こういう場合、関わったばかりの明日菜と木乃香は話に加われない。黙って話の推移を見守るしかなかった。そこでふと明日菜は三人の話に加わっていないアスカが竹林の方を見ていることに気が付いた。

 

「でも、何処に基点があるんだろう……」

 

 ネギが言ったように問題はそこだった。半径五百メートル程ということは直径一kmになる。鳥居や柱、竹といった雑多にある中から基点を的確に探し出すのは不可能に近い。

 

「やっぱり、一番怪しい鳥居に基点があるんじゃないの」

「他にもないと壊すしかないのかな。壊したこと、後で謝ったら許してくれるといいけど」

「流石に長もそこまで非情な方ではありません。非常手段として認めて頂けるように私も掛け合いますので大丈夫です」

 

 周囲を見渡しながらアーニャが一番高そうな可能性を指摘すると、他に思いつかないネギが刹那の言葉に安心して鳥居を探ろうと足を運ぶ。

 

「おっと、そこまでにしといてもらうで」

 

 鳥居を探るというネギの行動を遮るように、その少年は唐突に現れた。年の頃はネギ達より少し上か、同じくらいといったところであろうか。頭にはニット帽を被って納まりきらずに溢れた髪を後ろで結んでおり、前を開いた学生服に身を包み、学ランの下には白いTシャツを着ている。

 

「生憎やけど此処から直ぐに出られるのは困るんや。つう事でちょっと遊んでやるわ」

 

 そう言って茶屋の屋根の上から飛び降りた少年は、鳥居がある通路に着地して拳を胸元に翳した。

 

「ようやく出て来たと思ったらやる気満々じゃねぇの、おい。罠仕掛けて高みの見物をしてた奴が偉そうだぞ」

 

 足を踏み出しネギを追い抜かして、好戦的に歪む唇をしたアスカは少年の存在に気づいていたのだと明日菜は分かった。恐らく、アスカのさっきの視線の先にはこの少年がいたのだ。

 

「はん、強い奴がいたら戦わないとあかんやろ、西洋魔術師。それに偉そうなのはお前の方や」

 

 二人は互いだけを見ていた。互いだけにしか眼中がなかった。同時に歩き、一足の間合いにまで距離を詰めたところで立ち止まる。

 

「おい、テメェの名前は」

「そっちはどうやねん」

 

 譲らない。どっちも譲らなかった。動作・口調共に相手への挑発を止めない。不倶戴天の敵であり、勝たなければならないライバルであると認識しているかのようだった。

 二人を見たネギが危機感を露わにした。

 

「ここは危ないです。下がりましょう」

「そうよ、珍しくアスカがマジだわ。巻き込まれた洒落にならない被害が出るわよ」

 

 鳥居の方に向いていた足を茶屋に戻したに言われるがままに明日菜達は下がらざるをえなかった。

 刹那としては関西呪術協会からの刺客と思しき少年の相手をアスカ一人に任せるのには気が引けたが、アーニャに強引に引っ張られてしまう。

 五人が下がった直後に、ピンと張りつめられていた糸が限界を迎えた。

 

「アスカ・スプリングフィールド」

「犬上小太郎」

 

 二人は同時に自身の名前を言い合い、膝を軽く曲げて腰を落した。

 

「「テメェを倒す敵の名前だ。憶えておきやがれ!!」」

 

 開戦の号砲を高らかに鳴らして、後に終生のライバルとなるアスカ・スプリングフィールドと犬上小太郎の戦いの幕が切って落とされた。

 飛び出したのは二人同時である。地面を勢いよく蹴りつけて、真っ直ぐに相手へと向かう。

 

「!?」

「へっ」

 

 初撃は、魔法使いであるはずなのに全く同時に飛び出したことに意表をつかれた小太郎の頬に拳をヒットさせたアスカに上がった。魔法使いは後衛でちまちまと攻撃するだけしか能がない臆病者だと思っていた小太郎に絶大な隙が生じたのだ。アスカはその隙を突いた。

 

「これで!」

 

 始まったばかりの戦いに早くも決着をつけんと、魔法を知っているだけで一般人と何も変わらない明日菜と木乃香の目にも分かるほどの強力な魔力の輝きが、振り上げたアスカの拳に灯る。

 可視化されるほどの強力な魔力に、頬を殴られて体勢を崩している小太郎はこのままでは自分が敗北すると予感した。

 回避は不可能。生半可な防御では持ちこたえられず、体勢を立て直す暇もない。

 小太郎は早くも切り札を切るべく、学生服のポケットに入っている数枚の呪符に気を通した。同時に、鉄腕の如き固められたアスカの拳打が放たれる。

 

「ハッ! 効かんわ、そんなん!」

 

 凄まじい突風がぶつかってニット帽を弾き飛ばしたが小太郎は無事だった。

 

「ちっ、障壁かなんかか」

「護りの呪符や。西洋魔術師と一緒にすんなや」

 

 衝撃で互いの距離を開けながら小太郎は体勢を立て直す。アスカも直ぐに追撃はしてこなかった。

 懐の感触から護りの呪符が全ておしゃかになったことを自覚しながら、殴られてジンジンと痛む頬に手を添えた。先の一撃で口を切ったのか、口の中が不快な錆びた匂いと味で一杯になり、ペッと口内に溜まった不快なモノを唾と一緒に血を吐き棄てる。

 僅かな粘性のある真っ赤な血が小さな音を立てて地面を跳ねた。吐き出す際に口元に流れた血を拭った小太郎が笑う。

 

「見立ては間違ってやなかった。お前は強い。やけどな」

 

 油断は確かにあった。だが、それよりも目の前の西洋魔術師が強いことを小太郎は認めざるをえなかった。 

 

「俺の方がもっと強い!」

 

 先に倍する速さで接近する小太郎にアスカの反応が遅れる。

 

「もらったぁっ!」

「ぐぅ!」

 

 アスカが咄嗟に反応して上げた防御の腕を掻い潜って左頬を強く打ち抜く。衝撃が貫いて、アスカが咄嗟に張った障壁も突破されて視界が急転し、石畳に勢いよくバウンドして右半身を強かにぶつける。

 

「へへっ、どや障壁抜いたで。今のは効いたやろ」

 

 歯を食いしばって立ち上がるアスカに小太郎は嘲笑を向けた。

 小太郎が千草の誘いに乗ったのは、西洋魔法使い相手に思う存分暴れたいという願いがあったからだ。いけ好かない西洋魔法使いを倒す事もそうだが、闘いを、特に強敵との闘いを渇望してやまない小太郎に願ってもないことだ。

 

「ハハハ、やっぱ西洋魔術師はアカンな、弱弱やチビ助」

「言ってくれるじゃねぇか、チビ犬が」

 

 その言葉が耳に届くと同時に、口元の血を拭っていたアスカは眉を吊り上げて怒りも露わに小太郎を見る。

 

「テメェ程度に負けるほど、俺は弱かねぇぞ!」

「弱い奴は俺に負けろやぁ!」

 

 共に入れた攻撃は一撃ずつ。相手を打ち負かす為にまた同時に二人は踏み込んだ。

 

「驚いた」

 

 目の前でバトル漫画のような展開が光景されている中で、ネギがぽつりと漏らした一言に明日菜も同意した。

 魔法使いは信じられない力を持っていると、初日にのどかを助けた手並みから予測していたが目の前で繰り広げられる戦いはそれ以上の衝撃を明日菜に与えていた。

 動体視力にはかなりの自信があった明日菜の目でも半分も攻防を捉えきれない。運動は苦手ではないが明日菜ほどに人間離れしていない木乃香などは、戦う二人の残影しか捉えきれていないようだった。

 

「まさか同年代でアスカとここまで互角に戦える奴がいるなんて初めて見たわ」

「そこっ!? 違うでしょ! ここは人間の動きを超えた戦いをしている二人に驚くところでしょ!」

 

 アーニャがしみじみと呟いた言葉に明日菜は突っ込まずにはいられなかった。

 

「なにを驚いているのよ」

「え!? ここで呆れられるのは私っておかしくない!?」

 

 分かっていないとばかりに呆れられて明日菜はもう一杯一杯だった。

 

「明日菜さん明日菜さん。僕達って魔法使いですよ? 普通の人間を超える力ぐらいは持ってますよ。ま、あの二人は異常ですけど」

 

 ネギは二人の戦いを意地でも見過ごさないとばかりに、目を皿のようにして明日菜を見ずに言った。

 移動しながらの乱打戦を行っている戦いは、ほぼ互角だった。魔法使いであるネギの目を以てしても全てを捉えることが出来ない。前衛系ではないので得意ではないと言ってしまえばそれまでだが、ネギが求めている境地を思えばそうも言ってられない。目の前の戦いから何かを得ようと必死だった。

 

「魔法使いってネギ君みたいに杖持って魔法で戦うもんなんちゃうの? 思いっ切り肉弾戦してるように見えるんけど、魔法使いってみんなあんなんなん?」

「あれは魔法剣士っていう分類のタイプです。普通の魔法使いは遠・中距離タイプですよ」

 

 大体戦闘スタイルは二つに分かれる。「相手が近寄れないようにして、遠・中距離の魔法で弾幕を張って撃墜」か、「自分自身の体に魔力等を付加して、身体を強化しての肉弾戦」だ。

 そしてネギのスタイルは前者の「魔法使い」で「魔法」を使用しての遠距離攻撃が基本だ。これは、呪文を詠唱する為にある程度の距離を稼がなくてはならないが故の「魔法使い」の戦い方として半ば必然的なものだ。詰まるところ。言い換えれば遠距離攻撃を凌がれ、呪文を唱える間もなく距離を詰められ、近距離攻撃を仕掛けられた場合、成す術が無くなってしまうのが「魔法使い」の弱点。その為に、前衛として「従者」の助けが必要不可欠になる。

 逆にアスカと小太郎のスタイルは見ての通り後者の「魔法剣士」タイプで近距離攻撃が基本だ。「魔法剣士」は近づいてなんぼのスタイルなので、ファンタジーに夢を持っているらしい木乃香の希望に添えるはずがない。

 

「狗神!」

 

 小太郎が叫ぶと足下から無数に狗を象った影が出現してアスカへと向かって駆ける。

 

「この程度でやれると思ったか!」

 

 左右から迫りくる狗神の群れを、アスカは足を止めて両手の裏拳で一体ずつ叩き潰し、前方への鋭い前蹴りで更に一体蹴り飛ばす。続いて背後に回りこんだ一体を見もせずに殴り飛ばして、時間差攻撃を仕掛けようとした残りの三体を力を溜めた拳の一撃で纏めて粉砕する。

 追撃を仕掛けようとした小太郎の出鼻を挫く瞬く間の出来事だった。

 

「強い強いでアスカ!」

「お前もな小太郎!」

 

 犬歯を剥き出しにして歓喜の声を上げる小太郎に、アスカもまた面白そうに笑いながらも止めていた足を進めて小太郎へと真っ直ぐに突っ込んで行く。二人の口角は吊り上がっている。闘いを愉しんでいるのだ。

 

「凄い……」

 

 本来なら止めるべき立場であるはずの刹那は目の前で繰り広げられる戦いに魅せられていた。

 正直に言えば二人の実力は刹那にまだまだ及ばない。

 二人とも我流の気が強すぎて、動きに粗が多すぎる。だが、目の前の二人は戦っている間にどんどんレベルを上げている。戦闘スタイルが近く、実力が近い者の同士との戦いで引き上げられているのだ。

 小太郎の、あの犬耳や狗神を使ったことから狗族とのハーフであることは察しがつく。妖怪やその類は総じて人間よりも基本能力が高い。犬上小太郎の能力の高さは半妖故との推察はついても、現在進行形で渡り合っているアスカの理由にはならない。

 

「がっ」

「ぐっ」

 

 互いの拳が顎に入って顔が跳ね上がる。

 しかし、次の瞬間にはそれすらも攻撃の予備動作であったかのように全力で相手に頭突きを叩きつけた。全く同時の頭突きに、見ているこちらが痛くなりそうな音が響いて、流石に効いたようでフラフラと二人の距離が開いた。

 

「痛ぇな!」

「こっちこそ痛いわ!」

 

 目の端に涙を浮かべながらも二人は戦いを止めようとしない。

 戦いを見ていて、刹那には一つだけ腑に落ちないことがあった。

 

「アスカさんは魔法を使わないのですか?」

 

 小太郎が狗神を使っているのに対して、アスカはさっきから距離が離れても一度も遠・中距離の魔法を一度も使っていない。離れてもその場合は必ず距離を詰めて、肉弾での攻撃を行っている。世間一般のスタイルとして認知されている魔法使いのスタイルとしては異例ではあるが、そもそも身体強化以外の魔法を使わないことの方が異様だった。

 

「使わないんじゃなくて使えないのよ」

「は?」

「アスカって遠・中距離の魔法が苦手で、発動までに時間がかかるんです。多分、小太郎君相手には致命的な遅れになるから敢えて使わないんだと思います」

「ようは使えないってことじゃない」

「言葉の意味が違うよ」

「日本語って難しいわ」

 

 アーニャの発言に目を丸くした刹那に補足するように、ネギが詳しい理由を説明する。近距離でしか攻撃オプションがないアスカと、たった今棒手裏剣を取り出して放ったように小太郎とでは手段に差がある。

 

「それじゃ、このままだと負けるんじゃ」

「助けに入った方がええんとちゃうの?」

「いえ、それはありえませんし必要ありません」

 

 不吉な予感に身を震わせた明日菜と木乃香の発言を、ネギは揺るがない自信を持って否定した。

 

「よく僕は天才だなんて言われますけど、本当の天才はあそこにいるアスカの方です」

「少なくとも私はアスカが同年代に負けるビジョンは思い描けそうにないわ」

 

 五人の視線の先では、足払いをかけた小太郎の一撃を自分から飛んで躱したアスカが手近にあった鳥居を蹴って防御の上から殴り飛ばしたところだった。

 

「ぬうっ」

 

 殴り飛ばした勢いもそのままに、アスカが猛攻を仕掛けんと迫る。迎え撃たんと小太郎が狗神を放つが、地面と平行になるほど身を沈めたアスカに躱された。

 このままでは小太郎の足に激突するかと思われたアスカが石畳に両手を突き、急ブレーキがかかった反動で足裏が跳ね上がった。足裏が向かう先は小太郎の顔である。大したダメージはないが顔を襲った衝撃によって小太郎の視界が一瞬だけ塞がれた。

 

「く……」

 

 視界を塞がれようとも気配でアスカの居場所を察知した小太郎は、倒立から腕だけでジャンプして落ちて来た踵落しを躱した。だが、次いで腹筋だけで体を折って放たれた拳までは避けることは出来なかった。

 首が横に捻られ、ようやく開いた視界にアスカの姿はない。やられる、と小太郎が思った瞬間に衝撃が走った。開いている小太郎の胴体に深々とアスカのボディーブローが突き刺さった。

 

「がっ、あ……かは……!」

 

 気を集中してある程度のダメージは緩和できたが、衝撃までは殺しきれずに小太郎の横隔膜に激しい衝撃が走って肺から根こそぎ空気が抜ける。

 アスカが先の一撃で身体が浮いた小太郎に向けて、空中にいるままギシギシと鳴らせた拳を間髪入れずに振り下ろした。容赦無く降り注いだアスカの拳により、小太郎はその身体を石畳を砕きながら沈み込ませた。

 

「…………俺、大勝利」

 

 砕かれた石畳に沈み込んだ小太郎を見下ろして、割とズタボロなアスカが手を上げて勝利宣言を上げる。

 

「ほらね」

 

 ネギが明日菜らを見るが、特に明日菜などは血を流して顔を腫らしたアスカを見て涙ぐんでいた。

 勝利に酔うように息を吐いてネギ達の下へ向かうアスカと、アスカの下へ涙ぐみながら向かう明日菜。アスカの前にやってきた明日菜は迸る感情を叩きつけた。

 

「この馬鹿っ! 勝つんならもっと早く勝ちなさいよ」

「小太郎は結構強いんだぞ。無茶言うなって」

「無茶も言うわよ。もう、ボロボロじゃないの」

 

 歩み寄って来るアスカに誰よりも早く駆け寄った明日菜は、流れている血を取り出したハンカチで拭う。

 

「痛ぇって。これぐらい舐めてれば治る。ネギ、いいから治癒魔法かけてくれよ」

「舐めてれば治るんでしょ。僕、いらないよね」

「お、おいって。じゃ、アーニャ」

「私ってば京都まで長旅で、ちょっと疲れちゃったみたい。今魔法は使えそうにないわ」

「なんだってんだよ、二人とも」

「こら、こっち向きなさい」

「へいへい。分かったから泣くなって。俺は大丈夫だからさ」

 

 ネギとアーニャにそっぽ向かれたアスカは、明日菜に言われて仕方なく血に塗れた顔を向けて拭かれるままに任せた。

 

「泣いてなんかないわよ!」

「イデェッ! もっと優しくしてくれ」

「あ、ごめん」

 

 ポロリと流れた涙に対する気恥ずかしさから手の動きが荒れ、痛がったアスカの言うことを素直に聞いた明日菜は赤ん坊を触るように優しく血が流れる傷を拭いていく。

 愛情すら感じさせる優しい手際を見た木乃香は深く頷いた。

 

「ん~、本当に脈ありそうやな。これは少し意外や」

「ですね。どこで意識したんでしょ」

「さっきの恋占いの石の時かな? にしては意識が早いし、土壌事態は前からあったんかもしれん」

 

 明日菜の変貌に驚きつつも、二人は事態を温かく見守ることにした。

 

「ま……待てやぁッ!!」

 

 突如として響き渡った怒声に、全員が振り返る。石畳に埋もれてもう動けないはずの小太郎がよろよろとしながらも懸命に立ち上がろうとしていた。

 戦意が消えていない小太郎の目に、勝利が確定したと思っていたネギとアーニャは眼を見張った。

 

「た……ただの人間にここまでやられたのは初めてや…………さっきのは……取り消すで…………アスカ……スプリングフィールド。だが……まだや! まだ俺は終わらへんで!!」

 

 小太郎が一言喋るたびに回りの空気が渦巻き、それに伴うかのように小太郎の姿がどんどん変わっていく。

 脱ぎ捨てられた学生服が舞い、シャツは小太郎自身の手で引き裂かれる。その下から現れたのは白銀の体毛で覆われた細く引き締まった獣の如き肉体。爪は伸び、黒髪は伸びて体毛同様白銀に染まり、髪に隠れていた獣耳は鋭角的な成長を遂げた。腕が太く、長くなっていき、足の形も獣の脚へと変化し、臀部からは犬や狐のような尻尾が垂れ下がる。その様は正に童話に聞く狼男と呼ぶべき姿で、放たれる力も先程よりも増していた。

 

「獣化!! 変身した?」

「がぁあああっ!!」

 

 驚く周りを余所に変化を終えると、雄たけびと共に獣人と化した小太郎はアスカに向けて拳を振るった。アスカは慌てて明日菜を突き飛ばすことは出来たが、格段にスピードを増していた一撃を避けることは出来なかった。

 

「がぁっ」

 

 アスカが殴り飛ばされ、何かの石碑にぶち当たってその身体が見えなくなった。突き飛ばされて距離が開いたはずの余波だけで明日菜の体が軽く宙に浮いていた。これほどの一撃を体に受けたアスカのことを思った明日菜の背に戦慄が奔った。

 だが、その戦慄を押し潰すほどの怒りが明日菜を支配した。相手が子供であるとか、自分を容易く殺せる相手だとかは関係ない。

 

「この……!」

 

 目の前の相手をぶん殴らなくては気が済まないこの激情の正体を、明日菜はまだ知らない。

 

「止めろ!」  

「…………っ!?」

 

 拳を振り上げた明日菜を静止する声。明日菜の眼前には小太郎の拳が止まっていた。声に止まったのか、それとも自分で止めたのか。もし、明日菜が振り上げた拳を止めなければ、後少し声が放たれるのが遅ければ、明日菜の顔は潰れていてもおかしくなかった。

 

「こっからが本番だろ。部外者に手を出してんじゃねぇよ」

 

 瓦礫を押し退けたアスカが体を起こした。その身体は傷ついているが、立ち上がった体にはまだ戦闘能力が残っている。へん、と笑った小太郎は明日菜を見て頭を下げた。

 

「悪ぃ姉ちゃん。つい、反応してもうた」

「下がっててくれ。ここは俺達の戦いの場所だ」

「あ……」

 

 痛む体を引き摺って小太郎の前に立ったアスカにかけられる言葉はなかった。明日菜は部外者だった。手を出す理由も、口を挟む理由も存在しないと思い知らされる。足が下がる。部外者と思い知らされた足は明日菜の意志に反して動いていた。

 

「明日菜さん」

「大丈夫、アンタ?」

 

 ふらふらと足が下がった明日菜を受け止めたのはネギとアーニャだった。

 

「下がるわよ。この戦いに私達が出来ることは何もないわ」

「アーニャちゃん」

「悔しくても我慢しなさい。我慢してるのがアンタだけなんて思わないで」

 

 アーニャの唇から血が流れていた。戦いの余波に巻き込まれたわけではない。自身で唇を噛み切った証だった。

 アーニャの視線の先で、戦っている二人は違う世界を作り上げていた。

 

「格好いいじゃねぇか、おい。それがお前のもう一つの姿か」

「はん、今まで誰にも見せたことのない奥の手や。存分に味わえ」

 

 遠かった。さっきまであんなに近くにいたアスカの姿が随分と遠くに見えた。自分はどうしてこんな遠い所にいるのだろう、と明日菜は思った。

 

「あれって狼男やんな。あれが小太郎君の本当の姿なんか」

「あれは彼が持つ狗族としての側面を表に出しただけでしょう。妖怪としての側面を面に出すことは消耗が激しいなどのリスクを背負う代わりに莫大な力を得ます。今までの彼と同じと思わない方がいいです」

 

 私のように、とは刹那は口には出さなかった。刹那は小太郎が羨ましかった。妖怪としての側面の姿を見たアスカは動揺の欠片も見せていない。それどころか格好良いと賞賛すらしてくれる。そんな相手に出会える幸運が刹那には羨ましくて仕方がなかった。

 

「やっぱお前は最高や、アスカ! だからこそ俺はお前に勝ちたい!」

 

 さっきは僅かな僅差でアスカが勝利したが、二人の力はほぼ拮抗していた。そこへ小太郎が獣人としての側面を面に出して能力を倍加させた相手に対して、アスカが勝てる道理はない。

 

「オラ、オラッ! 反撃してみんかい!!」

「ぐっ!」

 

 見えて反応出来ていても小太郎の動きに対応できず、展開している魔法障壁が衝撃を緩和してダメージを抑えているものの、拳のラッシュから逃げることができない。

 

「これはちょっとまずいかな」

 

 さして焦っていなさそうなネギに怒りをぶつけかけた明日菜だったが、目の前の戦いから視線を逸らすことは出来ない。

 風切り音が唸るように周囲に響き、幾つもの打撃音が明日菜の耳に入ってくる。アスカを殴り飛ばして岩に叩きつけると小太郎は彼の服を乱暴に引っつかみ、容赦ない拳打の嵐を見舞う。

 拳がアスカを捉える度に血が撒き散り、石畳を赤く染め上げていく。気によって強化された膂力が生み出す一撃一撃の破壊力は、容易く岩壁をも砕く程だ。それは魔力と変わらない。そして獣人になった小太郎の攻撃力は先の比ではない。 

 

「オラァァアアアア!!」

 

 小太郎は、攻撃の反動で背中を浮かせたアスカを鋭い回し蹴りで岩に貼り付ける。その衝撃にアスカの肺から強制的に空気を排出させ、もはや彼には意味の無い呻き声を出すしか出来ないでいた。もはやサンドバック状態だ。

 

「あ……う……」

 

 無数の打撃から蹴りへと繋がり、岩に背中をぶつけて意識を朦朧とさせるアスカを眼前に捉え、ここで決めるためにトドメの一撃を食らわせるべく小太郎は右腕を振りかぶる。

 

「勝ったで!! とどめぇ!!」

「アスカ!!」

 

 明日菜の悲鳴が響く中で、小太郎の大地を揺るがす力強い踏み込みで振るわれたトドメの一撃がアスカの顔面に肉薄する。意識が途切れかけたアスカは明日菜の声に反応したように自分から体を倒すことで、なんとかこの一撃を間一髪で躱した。

 

「っつは……」

 

 背後で岩を砕いた衝撃が背中を殴打しながらも、衝撃を利用して距離を取る。

 距離を取ったが立っていられなくて片膝をついた。小太郎は追撃に移らず、悠然とアスカを見下ろした。

 

「俺の勝ちや」

 

 高らかに小太郎が言い放つ。それは奇しくも先のアスカの勝利宣言の焼き写しのようである。ただし、違いを一つ上げるのならば見下ろされる者と見下ろす者が逆転していた。アスカもそれを理解しているので、悔しげに声を漏らす。

 

「…………やべぇ。このままじゃ、勝てる気がしねぇ」

「なんやと?」

 

 まるでまだ奥の手を隠しているようなアスカの発言に小太郎は訝しんだ。

 瞬間、ネギが持っている杖の先を揺らした。

 

「ネギ、頼む」

「分かった」

「なんや、今更加勢か」

 

 アスカが視線を向けたのはネギだった。

 ネギが歩み寄って来るのを見た小太郎は失望も露わにする。ここまで一対一の勝負であったのに負けそうになったら加勢を擁するなど、男と思えない所業に怒りすら込み上げていた。

 

「勘違いすんなって。戦うのは俺だけだ」

 

 小太郎の気持ちをこの場の誰よりも理解しているのはアスカだ。

 否定しながら近づいてくるネギを見て、痛む体を押して立ち上がり服の袖を捲り上げた。捲り上げられた右手の二の腕には、黒い線がぐるりと巻き付くように描かれている。刺青やその類の物ではない。これは制約。アスカにかけられたとある制約を課す為に縛られた鎖だった。

 

「底を見せていないのがそっちだけなんて思わない方がいいわよ」

 

 ネギが杖の先をアスカの二の腕に近づけていくのを見ながら、アーニャは高らかに言った。

 少年少女の余裕の証を今こそ解き放つ。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル 制約の黒い糸よ ネギ・スプリングフィールドの名において汝が鎖を解き放つ」

「開」

 

 ネギが魔法を唱え、アスカが開錠の合言葉を口にすると変化が訪れた。アスカの両手と両足の間を繋ぐ鎖のような可視化され、一瞬の後に破壊された。

 

「うおっ!?」

 

 小太郎は思わず驚いた顔を上げた。鎖が破壊されたアスカの全身からバチバチと電気が放出され、この事態を予測していたネギは障壁を張りながら距離を取ったが小太郎はそうはいかなかった。

 小太郎の全身を静電気が弾けたような衝撃が襲い、直ぐにそれを発した原因であるアスカを見た。

 

「成程、それがお前の本気ってわけかい」

 

 アスカから発せられる魔力が倍化したことに、獰猛に笑った小太郎は目の前の男が生涯のライバルになることを予感した。

 

「俺って魔力制御が下手でよ。普段からネギに封じて貰ってんだ」

 

 バチバチと全身から紫電を撒き散らせるアスカは、調子を確かめるように拳を握ったり開いたりを繰り返す。

 

「これがネギ君達に余裕があったわけなんや」

「ええ、あの制約によってアスカの魔力は半分に抑えられ、同時に負荷もかけていたんです。一種の魔力養成ギブスみたいなもんです。あれを解いたアスカは強いですよ、今までとは桁違いに」

「ハンデをつけて戦っていたというのですか、アレで」

 

 刹那は今度こそ本当に戦慄を隠せなかった。今のアスカが放つ魔力は十全にして完璧。放たれる圧力は先の比ではない。先程の動きにこれだけの圧力が加われば、間違いなく数倍の戦闘力を発揮するだろう。まだ自分には及ばないなど、とんでもない。年下の子供に既に超えられているかもしれなかった。

 

「奥の手が使えるなら事前に使えばいいじゃない」

「そういうわけにもいかないのよ。さっき言ってたでしょ。アスカは魔力制御が下手なの。自分で自分の全開を抑えきれないからネギが封印しているのよ。下手な相手に全力でやったら殺しかねないわ。あの状態じゃ、手加減なんて出来ないのよアイツ」

 

 不満そうな明日菜にアーニャは仕方ないのだと鼻から息を吐いた。その目は決着をつけようとしている二人へと向けられていた。

 

「次で決着をつけようぜ」

「お互いに限界のようやしな、ええで」

 

 双方共にダメージが深く、互いに放てるのは後一撃のみ。単純なダメージならアスカの方が大きく、火事場の根性で無理に変身した小太郎にも無理が祟っていた。相手の状態を理解しているからこそ、二人は後一歩の距離まで歩み寄った。

 

「手加減なしの一撃や」

「恨みっこなしの一撃だ」

 

 同時に腰を落し、必殺のフィニッシュブローを放たんと拳に力を集める。

 

「雷華――」

 

 アスカは戦闘の中で攻撃魔法を放てない魔法使いとしては見習い以下の未熟者だ。未熟者だからこそ、自分に出来ることと出来ないことを弁えている。

 戦いに関することは別にして、アスカは魔法使いにも関わらず魔法が得意ではない。魔法学校で教わる唯一の攻撃魔法である魔法の射手すら思うように十全に扱うことが出来ない未熟者だ。誘導や追尾は下手だし、発動して一定時間待機させておくことも出来ない。発射の遅さも致命的で、まともにに出来たのは打撃に乗せて放つことだけだ。だからこそ、たった一つ出来たたことを極めた。

 魔法の射手・雷の一矢を拳に乗せることだけ。何度も何度も繰り返し、本来ならば乗せる本数を増やすことで威力を上げるという不文律を覆して、至高の一を作り上げた。己の愚直さを貫き通し、遂には師の背中に追いついた男の技。普段はテレて口が裂けても絶対に言わない男への憧れが、この技には込められていた。

 

「狗音――」

 

 小太郎の狗神は物心ついた時から共に在った盟友であり半身である。

 物心ついた時、小太郎には親がいなかった。捨てられたのか、それとも放逐されたのか。少なくとも数年前にとある人に出会うまでは、小太郎の世界は自分と狗神達かそれ以外で二分されていた。

 自分と共にあるのは狗神達だけ。幼き頃に魂の奥底まで刻み込まれた認識は、大切と思える家族が出来ても変わっていないのかもしれない。狗神達と共にある自分に敗北はない。究極の多の前に、他の全ては雑多な小へと成り下がる。

 

「――――豪殺拳!!」

「――――爆砕拳!!」

 

 雷華豪殺拳(至高の一)狗音爆砕拳(究極の多)がぶつかり合って全てを呑み込んだ。

 二人の激突地点を中心として数メートルが閃光に包まれ 衝撃が吹き荒れてネギ達がいる場所にも瞬く間に到達する。

 

「ネギ!」

「任せて!」

「私も!」

 

 ネギ・アーニャ・刹那が一般人と大差ない二人の前に出て障壁や護符を張った。打撃技とは思えない衝撃がぶち当たった三人が張った防御が軋ませる。

 

「きゃあっ」

 

 耳を劈くような金属音のような嫌な音が辺りに反響して響き渡り、粉塵が舞い上がって辺りを覆い尽くす。明日菜と木乃香は耳障りな音に慌てて耳を押さえて咄嗟の反応で目を閉じた。

 

「ふぅ」

 

 数秒後、ネギが安心したように息を漏らしたのが合図だった。

 三人が同時に防御を解き、「風よ」と辺りを覆い尽くしている粉塵をネギが吹き払った。

 

「へへ……」

 

 風が吹いて木の葉が舞った後に立っていたのは、たった一人だった。

 二人が最後の一撃を放った辺り数メートルが石畳を破壊しつくして素の地面を抉ってクレーターを作っている。そのクレーターの底で一人は倒れ、一人は立っていた。

 

「やっぱ俺の勝ちってな」

「…………今回は、負けを認めたる」

 

 ズタズタのボロボロだったが、地に伏している小太郎と違ってアスカは立っていた。

 

「また()ろうぜ、小太郎」

「言うたな。その言葉、覚えとれよ。次は負けへん」

「はっ、次も勝つのは俺だ」

 

 勝者は敗者に手を貸さない。

 敗者も勝者に手を求めない。

 対等である為に、対等であるからこそ、手を伸ばすなんてありえない。

 

「ぁ……」

 

 見ているだけしか出来なかった神楽坂明日菜は、幼くとも誰よりも誇り高い二人の姿に体に震えが走るのを抑えきれなかった。その身体を、その心を、視線に先にいる少年が掴んで離さない。

 あそこへ行きたい、あそこへ追いつきたい、あそこへ並びたい。自分を見てほしい。自分を知ってほしい。自分に触れてほしい。でも、明日菜にはあそこへ行ける手段が、まだ(・・)なかった。

 




始動キーのまともな案が出ないとか、どれだけアスカは脳筋なんだ。

小太郎、特に千草は性格は変わっていませんが色々と弄りまくっています。原作通りと思わない方がいいかと。


ぶっちゃけエヴァンジェリンは闇の魔法無くても強いよね?
ありでナギやラカンと同クラスだとしたらそれはそれで矛盾が。なしでも同クラスならぶっちぎりの最強キャラになる。


未だに始動キーが決まりません。案を一杯頂いたのですが、どうにもしっくっりとこなくて、まだ決まらない。どうしよう……


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第7話 関西呪術協会

キャラ崩壊あり。


 

 和風情緒溢れる石畳の道は関西呪術協会総本山へ続く道であり、何も知らない一般人の通る道ではない。それにも関わらず歩いている者達がいるとすれば必然的に関係者となる。その道を歩く男女の一団がいた。麻帆良からやって来たメンバーである。

 犬上小太郎との激闘によって負傷を負ったアスカ・スプリングフィールドの疲労と怪我は、未だ見習い魔法使いのレベルを超えない治癒魔法しか使えないネギやアーニャでは癒し切れない。なのに、進んでいるのは背負って歩いてもらっているからだ。

 

「歩けないなんて情けねぇよ、俺」

 

 小さな子供のように神楽坂明日菜に背負われたアスカは、微かに揺れる振動にすら痛みで顔を顰めても強気な姿勢を尚も崩さなかった。

 

「いいから、怪我人は大人しくしてなさい」

「うぇい」

「よろしい」

 

 妙に機嫌の良い明日菜は終始笑顔のままで背負ったアスカを揺らさないように歩く。

 

「ふふん。女に諌められるなんて情けないのう、アスカ」

「同じ状態のテメェが舐めた口きいてんじゃねぇよ、ま・け・い・ぬ君」

 

 明日菜に背負われたアスカのように、刹那に背負ってもらっている小太郎。明日菜と刹那は隣同士を歩いていたので、必然的に両者の背に背負われている二人の距離も近い。売り言葉に買い言葉で、小太郎は眉間にぶっとい青筋を立てた。

 

「なんやとオラぁ!」

「やんのかコラぁ!」

 

 口を合せれば噛み合うような二人は、怪我で碌に歩けもしないのに目の前の相手に喧嘩を売ることは忘れなかった。

 

「うるさいわねぇ。黙ってられないのかしら」

 

 先を歩く幼少組二人の耳にまで響く後ろからの言い合いに、アーニャが顔を顰める。

 

「はは、元気なことはいいことじゃないか」

「それはもう少し平気そうな顔をしてから言いなさい、ネギ。顔が盛大に引き攣ってるわよ」

「え、嘘」

「嘘よ。なに、もしかしてアスカが取られたと思って妬いてんの?」

「そそそそそそんなことないじゃあーりませんじゃあーりませんか」

「何語よ、それ」

 

 刹那と明日菜を二人に取られて実はちょっと嫉妬していたりした木乃香が二人の会話に癒されていたりいなかったり。

 ゴチン、と何か重い物が二つぐらい落ちた音が聞こえたが振り返らなかった。

 

「耳元で喚かないで下さい」

「次やったら落とすわよ」

「落してから言うなよ。俺ら怪我人だぞ」

「自業自得です」

「鬼や、姉ちゃん達鬼や」

 

 近くででがなり立てられた耳を抑えながら言う刹那と明日菜に、石畳に落されて痛みやらなんやらで悶えていたアスカの横で小太郎が「これやから関東もんは…………女はみんな鬼やったな」と悟りを開いたような顔で言い直していた。

 静かになった暴君達を改めて明日菜達は背負い直す。

 

「言い換えるわ。次もやったら落とすわよ」

「おいおい、言い換えればいいてもんじゃないだろ」

「シャラップ」

 

 ポツリと言った明日菜の言葉を暴君達は聞き逃さなかった。抗弁しても下手な英単語で切った明日菜に聞く気はなかったが。

 

「お前も苦労してるんやな」

 

 名前も知らないが背負っている女達がアスカ関連であることは知っている小太郎は、こんな女達に囲まれた日常を送っているアスカに同情の視線を送った。

 

「この女所帯での肩身の狭さがお前にも分かるか」

「分かる分かるで。うちでも姉ちゃんの権力が大きいし発言権も巨大すぎて、俺は犬小屋で暮らしているような気分や」

「犬小屋って……ぷっ」

「笑ったな! 今、笑ったな!」

 

 同士であることを理解しあったところで、いきなり苦労同盟は決裂した。今も小太郎の頭の上にある犬耳を見て、アスカは我慢しようとも出来ずに噴き出した。咄嗟にアスカは口元を抑えたが小太郎は見逃さない。

 

「や、だって犬小屋って……ぷくくく、ピッタリだとか決して思ってないから」

「なら、そのニヤケ面止めぇ!」

 

 喧嘩友達という単語がピッタリと似合う二人に明日菜は特大の爆弾を準備した。

 

「落すわよ」

「「はい、黙ります」」

 

 明日菜の一言で今度こそ石像のように黙ることを決意した暴君達は、揃って言いながら女の背中に丸まった。もう一度、石畳に落ちて痛みに悶えたくはなかったのだ。この瞬間から二人は長いものには巻かれる主義となって暴君を引退したのだった。口論ばかりで仲が悪そうに見えても、その実は二人とも気が合ってしょうがないのかもしれない。

 

「全くもう」

 

 と、困ったように言いながらも明日菜の表情は笑っていた。年相応に怒って笑って話すアスカに物凄く親近感が湧いたなんて口が裂けても言わなかったが、その表情がなによりも雄弁に隣にいる刹那に伝えているのだと気づかない辺りが明日菜らしい。

 

「あ! 見えて来たわよ。あれが入り口じゃないの?」

 

 森の中に開かれた石畳の道を抜けると、見えてきたのは歴史と人の想念の積み重なりがあり、宮殿の門のような煌びやかさはないが、重厚さと荘厳さを十二分に持つ木造建ての和風の門。門だけでも城や大きな神社のような、かなり大掛かりな造りのものだ。その奥に見える範囲でも何棟もの建物が建ち並び、大きな鳥居まである。構造から見てまだ見えない奥の方もかなり広そうだ。

 

「うわー、何か雰囲気がある」

 

 アーニャが指差した門を見て、歴史マニアの琴線に触れたネギが感動の声を上げた。

 もっとよく近くで見ようと、我知らずにネギの足は進んでいた。

 

「ああー!! ちょっと待ちなさい……!! 目的地の前で待ち伏せが定石ってもんでしょうが! 警戒しなさいよ!」

 

 アーニャは不用心なネギを守る為に拳を握って慌てて後を追う。木乃香が先行した二人を追って走って、当のネギは門の直前で立ち止まったために止まることが出来ずに向こう側まで躍り出てしまった。

 

「なんで一人だけ立ち止まってんのよ!?」

 

 門の向こう側にはアーニャの想像を良い面で反した展開が待ち構えていた。

 

「「「「「「「「「「お帰りなさいませ木乃香お嬢様―ッ」」」」」」」」」

 

 門の内側はまさに別世界だった。既に京都付近でも散ってしまった桜がそよ風に吹かれ舞い踊り、石畳は綺麗に整えられ、正面には朱色の鳥居。その先には神社の拝殿を思わせる建造物。その全てに手入れが施されていて、外と内の格差がとても広い。そして両側に並んだ十人前後の巫女服を着た女性達が、ポカンとしているアーニャの後ろからやってきた木乃香に向かって深々と頭を下げていた。

 

「うわぁ、やっぱり古いと肌触りからして違う」

 

 ネギはまだ門の外で巫女ではなく門の方に見惚れている。

 

「へ?」

 

 ずらっと両脇に並んだ巫女装束の女性達に想像していたのとはまるで違った盛大な歓迎に、心の準備が出来ていなかったアーニャは目が点になった。よくよく考えれば予想通りなのだが、アスカが小太郎と戦ったことが思ったよりも引き摺っているのか直ぐには目の前の光景を受け止め切れなかった。

 

「みんな~、ただいまぁ」

 

 巫女達に頭を下げられている木乃香は気後れすることなく笑顔で受け止めている。彼女にとってこれが割と当たり前の光景なのだろう。

 

「うっひゃ~~~、コレみんな木乃香のお屋敷の人なんか。家広いな」

「委員長さん並のお嬢様だったんですね」

 

 通路を抜けて本堂へと入るその道すがらに並ぶ巫女達。余りにも豪勢な展開にスプリングフィールド兄弟は驚いていた。春休み直後に訪れた委員長こと雪広あやかの家で多少は大きな家には慣れているとはいえ、和風の屋敷はまた別の凄みがあった。

 

「へ~、ここが木乃香の実家か」

 

 明日菜は予め説明を受けていたので驚くことはなかったが、興味深そうに周りを見回す。見る者が見れば東洋的な思想に基づいて厳密に計算され尽くした聖域といった感のある敷地であると気付くが、そんな知識のない明日菜に分かる筈もない。

 

「明日菜………ウチの実家おっきくてひいた?」

 

 そんな辺りを見渡す明日菜に、木乃香は気を悪くしたんじゃないかと心配して恐る恐る尋ねる。いかに郊外とはいえ、京都にこれ程広大な屋敷を持つなど金だけ有れば出来る様な事ではない。

 

「ううんっ、ちょっとビックリしたけどね」

 

 確かに少しは驚いたもののあやかの家で慣れている、と多少は面食らったものの明日菜は笑って答える。

 

「良かったぁ」

 

 心底安心したように笑って瞳の端に涙すら浮かべた木乃香に、刹那はそっと寄り添って手を握った。家の事情で刹那が距離を取るという行為に及んで、ちょっとショックだった木乃香は、中学からずっと一緒だった明日菜まで距離を取るのではないかと気になっていたのだ。今は刹那とも昔の関係に近づけても、家の事を知ったら離れるのではないかという恐怖があったが、明日菜の言葉と自分から触れてくれた刹那に木乃香も安心したように笑みを見せた。

 

「金がありそうな家やな」

「アンタ、色々と台無しよ」

 

 折角、良い話で終わりそうなところで俗物的な感想を正直に口に出した小太郎に、ようやく復活したアーニャは突っ込まずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスカ達の治療を先に行い、使用人に本殿らしき建物の中へと案内されるままに入っていくと、辿り着いたのは数十メートル四方はある大広間。大広間には屋敷の中であろうと気にする事もなく、桜の花びらが宙を舞っており、微かに香木の香が漂う。天井は格天井で奥には御簾が掛けられている。側面にいる者達が奏でる和楽器の音色が流れ、風流の中に厳格な雰囲気を作り出す。

 大広間にも十数人の巫女がいて正座で待機する者が座り構え、正面の祭壇の脇には矢筒と和弓を携えた者が立ち構えており、まるで時代劇のワンシーンを思い出させるような雰囲気である。側面では琴・小太鼓・篳篥などを演奏して、大広間の造りや巫女姿の女性達や楽器のせいでネギ達は平安時代にタイムスリップしたように感じられた。

 大広間の中央には七枚の座布団が置かれている。前に四つ、後ろに三つが敷かれていた。前列に左からアスカ、ネギ、アーニャ、木乃香。後列に左から小太郎、明日菜、刹那。

 

「なんでお前までいんだよ」

「知らんがな。流れに任せたら座っとってん」

 

 治癒を受けて見た目の傷は全開しているアスカと、何故か同席している小太郎も一緒に座布団の上に座って、段から降りてくるだろう西の長を待っていた。

 

「部外者じゃん。ていうか反逆者だろ」

「ちゃうわい。俺はそう…………戦士や!」

「良いのが思いつかなくて適当に言っただけだろ」

「うん」

 

 周りの巫女達が笑ったので顔を紅く染めて身を縮めた小太郎だった。

 まもなく、正面の祭壇の御簾のかかった階段から誰かが降りてきた。ゆっくりと、一段一段足を踏みしめるたびに木がきしむ音が聞こえる。西の長その人だろう。

 

「お待たせ致しました」

 

 顔を表した男は皆を目にすると、柔らかく微笑む。

 

「ようこそ、明日菜君。木乃香のクラスメイトの皆さん、そして先生方」

 

 その人物は、四十過ぎの神社の神主のような格好をした男性であった。眼鏡の下からは柔和な色を湛えた瞳が覗いており、その温和な人となりを良く表している。お世辞にも美形とはいえず、長身なのと心労によるものか顔色が悪いので誰もが「ひょろ長い」と言った印象を受け、心なしか実年齢よりも老けて見えている。

 近衛詠春。二十年前の魔法世界での大戦を終結に導いた紅き翼の一員で旧姓、青山詠春。剣技では右に並ぶ者はいないとまで言われたサムライマスターの異名を持つ神鳴流剣士である。彼こそが関西呪術協会の長でもあり、木乃香の父である近衛詠春その人だ。多少、不健康そうな印象を受ける痩せた表情でありながら、一組織の頂点に立つ人物だけがもつことのできる鋭くも柔和な雰囲気によって、人に決して悪い印象だけは与えることはない。

 普通の人は細面に眼鏡をかけ、服装以外は特に目立ったところもない優しそうな中年男性だと思うだろう。

 

「やっべぇ、見た瞬間に鳥肌立った」

「強いわ、あのおっさん。あれで全盛期より衰えとるとか洒落にならんで」

 

 近衛詠春を見たアスカと小太郎は上げかけた腰をゆっくりと下ろす。戦人の雰囲気で立ち振る舞いに一切の隙が見当たらない。詠春の身のこなしや風格から佳境な戦線を乗り越えてきた人物なのだと分からされる。長と成った今は政治的部分に重さを置かなければならなくなった影響で色褪せてしまっても、未熟な二人には足下すら見えない遥かな高みにいる。それほどの戦士を前にして二人は身震いを隠せなかった。しかし、その身振るいは決して恐れからではない。

 

「…………()りてぇ」

「さっき戦ったばかりじゃないか。今は止めてよ。やるなら後で」

「分かってるって」

 

 ネギが諌めなければならないほど、アスカは心の底から嘗て父と同じ場所に立っていた目の前の男に挑戦したくて堪らなかった。

 

「遺伝子って不思議よね」

「確かに」

 

 何故あの祖父である学園長や父である詠春から、木乃香のような可愛い子が生まれるとは世の中摩訶不思議である。余程、母親の遺伝を引き継いでいるのだろうと考え、明日菜とアーニャは勝手に頷いた。

 

「お父様~♪ お久しぶりや~!!」

「ははは、これこれ木乃香」

 

 木乃香は久しぶりの親子の再会に感極まったらしく、微かに涙も滲ませて嬉しそうに詠春に思い切り飛びついて抱きつく。詠春も皆の前という事もあって少々苦笑い気味だが、久方振りに会う愛娘を優しく抱きとめた。

 そんな中、明日菜はストライクゾーンど真ん中の渋い中年の筈なのに、前のような激しい衝動が湧き上がってこない自分に頭を捻っていた。昂ぶりはするが通常の思考を妨げるほどのものではない。

 

「?????」

 

 明日菜の頭の中を疑問符が蝶のように幾つも乱舞していた。

 

「あの…………長」

 

 木乃香と詠春の感動の対面を見ていたアーニャは再会の抱擁が終わったのを見計らい、失礼と思いながらも親子の会話の間に口を挟む。

 

「申し訳ありませんでした! お嬢さんに魔法をバラしてしまったのは私です!」

「僕もです。大変申し訳ありませんでした!」

 

 二人に歩み寄って膝をつき、両手を床について勢いよく頭を下げた。今回の件に関わっているネギも、アーニャに倣うように歩み寄って土下座を行う。

 怒られ、処罰を受けても当然と頭を上げられない二人に歩み寄った詠春が手を伸ばして肩を掴んだ。

 

「いいのですよ。顔を上げて下さい」

 

 それでも慚愧の念に駆られて顔を上げられない二人に詠春は優しく微笑んだ。

 

「木乃香には普通の女の子として生活してもらいたいと秘密にしてきましたが、いずれにせよこうなる日は来たのかもしれません。今回の一件で刹那君とも仲直りしたようですし、二人が気にすることはありません」

「そうや、二人のお蔭でうちはせっちゃんと昔みたいに戻れたんやもん。そんなに気にされたら逆にこっちが悪いわぁ。ほら、顔を上げてぇな」

「木乃香……」

「木乃香さん……」

「ありがとう、うちに魔法を教えてくれて。二人のお蔭や」

 

 顔を上げた二人に木乃香は優しく微笑んだ。太陽のような笑顔とはまた違う。野原に咲く一輪の花のような向けられた者を自然と笑顔にする優しい表情だった。

 

「なんやえらい場違いな感じや」

「俺も」

「私も」

 

 感動して涙ぐんでいる刹那や前にいる四人の感動の渦から取り残された小太郎・アスカ・明日菜は、場違い感に身を小さくするのであった。

 

「少し早いですが夕食を用意させてもらっています。折角のご客人です。盛大に歓迎致しますよ」

「「メシ!?」」

「アンタ達、実は仲良いでしょ」

 

 詠春の提案に、明日菜は同時に腹を鳴らして声を揃えて喜色満面になった元暴君達に突っ込むのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋を移して宴会場。今度は畳敷きの広間で、やはり広い。関西呪術協会の長である詠春の催した歓迎の宴は、それはそれは盛大なものだった。

 宴会場として設置された場には大きな机が並べられ、大量の高価な色とりどりの山海の美味、珍味の料理が所狭しと机に置かれていた。それらは全て食欲をそそるいい匂いをしており、戦って空腹だった少年二人と悩みから解放された少年少女のテンションは高く、巫女さん達も一緒になってのドンチャン騒ぎだ。

 

「どや、俺の舞は!」

「なってねぇ! この俺のダンスを見習え!」

 

 小太郎は日の丸の描かれた扇子を持った巫女達と楽しげに舞い踊り、何時の間にか侍女達の奏でる楽器達は厳粛な囃子から明るいテンポの戯曲に取って代わっているのにノッてアスカのダンスが繰り広げられる。

 ちゃんと皿がある机からは離れて踊っている二人だが目の前でやられたアーニャには堪ったものではない。

 

「食事の席で埃を立てるんじゃないわよ!」

 

 伊勢海老を美味しく味わっていたアーニャは、尻尾を口の端から出しながらフライングラリアットで二人の首を纏めて刈り取った。

 

「アーニャだって埃立ててるじゃないか!」

「私はアンタ達を止める為に仕方なくやってんのよ!」

「負けんで!」

「「なにすんだコラ!」」

 

 フライングラリアットを挑戦と受け取った小太郎がアーニャに躍りかかり、巻き込まれたアスカも合わせて三人が畳の上でプロレスをし始めた。そんな中で、両脇を巫女さんに固められてお酌されているネギは身動きがとれないでいた。

 

「ささ、先生。グィッとどうぞ」

「え? え?」

「良い呑みっぷりです。お注ぎします」

「は、はぁ」

 

 こんな状況の経験などないネギは、初めての宴会で上司に酒を勧められて断ることができない新入社員のように、促されるたびに一気飲みをして器を空けては注ぎ込まれるという無限ループに突入してどんどん飲まされていた。このペースで行けばネギが潰されるのは時間の問題だろう。

 

「ねえ、木乃香。これってお酒じゃないの?」

「らいじょーぶ」

 

 宴会が酣になってくると巫女達が飲んでいるのか漂い始めたアルコール臭によって、明日菜は自分が飲んでいる飲み物もお酒のような気がして木乃香に問いかける。

 明日菜は真面目とは言い切れなくても、真っ直ぐな性格なので宴会だからと言って中学生の身で自分から飲酒しようとは思わない。視線の先でプロレスごっこをする三人の顔が顔を真っ赤になっていて、巫女達に呑まされているネギは酔っぱらっているように見えるし、木乃香の返答も呂律が回っていない。

 

「お酒とちゃうよ~♪」

「すみません。お水と交換で」

 

 明らかに怪しいので明日菜は二人のコップを取り上げて、丁度配膳を行なっていた巫女さんに別の飲み物との交換を頼んだ。そこに宴を中座して部屋を出ていた刹那が戻ってきた。

 

「刹那君」

「こ、これは長! 私のような者にお声を!!」

 

 部屋に戻ってきても騒ぎの輪の中に入らず、これからのことで考える事が多すぎて浮かない顔をしていた刹那の下に、詠春が近づいて刹那に声をかけた。

 長に声を掛けられ、考え事をしていて反応が遅れた刹那は慌てて片膝をついて頭を下げる。

 

「ハハ、そうかしこまらずにいてください。昔からそうですね君は………この二年間、木乃香の護衛をありがとうございます。私の個人的な頼みに応え、よく頑張ってくれました。苦労をかけましたね」

 

 声を掛けられて慌てて畏まる刹那を、詠春はやんわりとそれを止める。責任感の強く真面目な刹那が気負い過ぎないようにする意味も込め、長は自分の責任を確認する。

 詠春は刹那が出自をコンプレックスとしてしまい、麻帆良に行く頃には周りと壁を作っていた事を思い返す。

 木乃香の安全を守るためとはいえ、魔法使いの拠点である麻帆良に行くなど良い顔をする者などそうは居ない。それを刹那は裏切り者扱いされると分かっていながら受け、木乃香に知られること無く勤めてくれた。

 詠春は一人の娘の父としてはもっと助けたかったが、西の長としての立場がそれを許さない。応援を送る事も出来ない中、刹那は本当に良くやってくれたと思っている。麻帆良に護衛として向かっていった時には木乃香と触れることで、刹那のその壁を溶かせればと思うもそれは叶わなかったが、最近は木乃香との旧交が再び温められて来たと聞いていた。それ以外にも以前に比べて大分、壁が感じられなくなっている。

 

「ハッ………このちゃん………いえ、お嬢様の護衛は元より私の望みなれば…………勿体無いお言葉です。しかし、申し訳ありません。結局、お嬢様に『こちら側』のことを………」

 

 長にそう言われるが、だからといって刹那は姿勢を崩す訳にはいかず、一転して表情を曇らせた。結果として失敗だったと思っている刹那は項垂れて頭を下げている。彼女としては木乃香を完全な平穏に置きたかったが、自分の過失ではないと言っても責任を感じてしまうのは責任感の強い刹那だからだろう。

 

「構わないと言いました。気が利くのは君の良いところではありますが、気に病み過ぎるのが悪いところでもあります」

 

 幼い頃から知る、良くも悪くも刀の様に真っ直ぐな刹那に詠春は笑いかけた。

 ようやく顔を上げた刹那から視線を移して明日菜に介抱されている木乃香を見た。

 

「これからも木乃香のことをよろしく頼みます。それがあの子の願いでもありますから」

「はっ、私の身命に賭して必ず」

 

 そこまで大袈裟に考えなくとも良いと詠春は思いもしたが、決意の深い刹那の覚悟に水を差すこともないと考えて口に出すことはなかった。

 次にどちらかが口を開く前に、二人の間に闖入者が紛れ込んできた。

 

「長~、勝負だぁ」

「俺も混ぜろぉ」

「おやおや」

 

 フラフラと千鳥足で向かってくる少年二人に詠春は苦笑を浮かべた。

 料理に含まれている酒分や場の雰囲気で酔っ払っている少年達が振り上げる拳を簡単に受け止めて、人生を全力で楽しんでいる二人に目を細めた。

 

「逃げるなぁ、小太郎ぉ」

「離せぇ、暴力女ぁ」

「誰が暴力女よぉ」

 

 アーニャに絡まれた小太郎が二人一緒に畳に倒れ込んだ。そのまま二人でゴロゴロ、ゴロゴロと畳の上を転がる。本人達としては戦っているつもりらしい。

 

「勝負勝負ぅ」

「ええ、後でしますよ」

 

 駄々っ子のように袴を引っ張って来るアスカの頭を、詠春は自然と撫でた。最早勝負を挑んでいるというよりじゃれついてくるに等しいアスカと接していると、木乃香が幼い頃に死別した妻との間に息子が出来ていればこんな感情を抱いただろうかと少しばかりの感傷を抱いた。

 女の子として生まれてきた木乃香が悪いわけではない。むしろばっち来いの気持ちなので文句の欠片も無い。しかし、男親としては息子と一緒に遊んで、叶うならば自身の剣を伝えたいという思いがある。今となっては永遠に叶わない願いではあるが、腐れ縁の友人の息子が甘えるようにしがみついてくる様は詠春の父性を刺激した。

 詠春は衝動に駆られてアスカを抱き上げた。

 

「んにゃう?」

 

 昼寝していた猫が突然飼い主に抱き上げられたような素っ頓狂な声を上げたアスカは、抱き上げられても嫌がってはいなかった。それどころか楽しそうに笑っていた。酔っていて正しい状況判断が出来ないのかもしれないが、迂闊な行動をしたと思った詠春の前で満面の笑みを見せられたら魅せられてしまう。

 小太郎との戦いを遠見で見ていたが実力も申し分ない。眼の前の子がナギのように人を惹きつけずにはいられない魂の持ち主であると、詠春は嘗ての経験とこの二十年で得た老獪さで行動に出る。

 

「アスカ君、木乃香と結婚して婿に来ませんか。いえ、来なさい」

「お父様!? いきなりアスカ君を抱き上げて何言うてんの!」

 

 ガタン、と実は注目されていた詠春から発せられた聞き捨てならない台詞に、木乃香が酔いではない理由で顔を真っ赤にして立ち上がった。

 

「確かにアスカ君は大きくなったらカッコよくなりそうやけど、うちはまだ十四でアスカはまだ十歳にもなってないのに将来のパートナー決めるなんて早すぎやで」

「有望株には早めに手を出しておくものですよ、木乃香」

「ほ、本気や…………趣味で見合いを勧めて来るお爺ちゃんとは違う本気の目や」

 

 極間近というか隣から漂ってくる冷気に震撼しながら勇気を振り絞った木乃香は、お見合いを勧めて来るのが半ば趣味と本気と書いてマジと読めそうなぐらいな目をした父に続く言葉を奪われた。

 

「木乃香?」

「ひぃっ、そのハイライトのなくなった目は止めてぇな明日菜!? せっちゃん! せっちゃ――――んっ!!」

 

 ピシリと持っているグラスに罅を入れた明日菜のオッドアイから光が消えて腐臭すら漂ってきそうな雰囲気に、木乃香は腰を抜かしながらも親友に助けを求めた。

 

「ごめん、このちゃん。うちには助けられそうにない」

 

 今の明日菜に関わることは死を意味すると感じ取った刹那は、助けを求めて来る木乃香を泣く泣く見捨てて周りを見た。酔い潰れかけているネギは巫女達に完全に玩具にされている。アーニャと小太郎はニャーニャーワンワンと猫化犬化して畳を転げまくっている。動けるのは自分だけだと色々と諦めた刹那が詠春を諌めなければならなかった。

 

「長、本気なのですか?」

「娘もいいのですが息子も欲しいと思っていたのです。妻を亡くして叶うことはないと諦めていたのですが、ならば気に入った子を婿にすれば義息子が出来ると今気づきました。アスカ君、うちに婿に来ませんか?」

「にゅこてつおいか?」

 

 婿って強いか、と言いたかったようである。アスカは婿の意味を分かっていないようだ。

 

「強くなれますよ。婿になれば私が神鳴流の全てを教えます」

「長っ!?」

 

 正気かと疑った刹那の目から見ても詠春の目は本気だった。当のアスカは眠いのか目をしょぼつかせ、もはや呂律すら怪しくなっていたので酔いが早く回りやすい体質なのかもしれない。

 

「どうですか?」

 

 九割九分九厘ぐらい本気な詠春の問いかけに返って来ること言葉はなかった。小太郎との戦いの疲労もあったのだろう。詠春の腕の中で規則正しい寝息を漏らしてアスカは瞼を閉じていた。

 

「おや、寝てしまいましたか。君、私の部屋に彼の布団を」

 

 近くにいた巫女に言いつけ、詠春は脇を抱えて持ち上げていたアスカの体を腕の中に抱え直した。元より親バカの気があった詠春の琴線に触れたらしいアスカを、既に息子扱いして自身の寝所に寝かせる気満々だった。

 腕の中で寝ているアスカが胸元を掴んだので、傍から見ても分かるほどに詠春は顔をだらしなく緩める。

 

「この状況、一体どうすれば……」

 

 周りの混沌具合に刹那はどうしようも出来なかった。明日菜に詰め寄られている木乃香、アスカと同じように眠り出したアーニャを煩わしげに払いのけて起き上がった小太郎、数人の巫女に人形宜しく次々と抱き抱えられているネギ、眠ってしまったアスカを自身の部屋に連れて行こうとする詠春。

 諦めの境地に達した刹那を救ったのは外部の人間だった。今まさに詠春が開けようとした障子が外から開けられた。

 

「なにしてはりますの、長」

 

 障子を開けたのは黒髪長身の袴を着た女性だった。着物を着ていれば外国人が思い描く古き日本女性を体現しているが今は袴姿だった。

 袴姿の女性は目の前でアスカを抱き抱えたまま固まっている詠春を呆れた視線で見ている。

 

「いや、これは」

「鶴子様!?」

 

 目を盛大に泳がせて言い訳を口にしようとした詠春の言葉に被せるように、現れた女性のことを良く知っていた刹那が仰天しながら名前を呼んだ。

 女性は、聞こえた声に目の前の詠春から刹那に視線を移して少し驚いたように目を瞬かせる。

 

「覚えのある気配を感じるなぁ思うたら刹那やないか。元気にしとったか」

 

 女性――――神鳴流の宗家である青山の娘である青山鶴子の問いに刹那は喜色を露わに頷いた。

 

「は、はい。ですが、どうして鶴子様が本山に? ご結婚されて現役から退いたはずでは」

 

 将来を嘱望されながらも何年も前に突如として結婚して現役を退いたことは刹那も良く知っている。鶴子の結婚式には一時的な弟子であった刹那も参加させてもらったのだ。分からぬはずがない。家庭に入ってからは本山にまで足を運ばなかった鶴子がやってきた。そこにはなにか理由があるはずと刹那は考えた。

 

「もしや、なにか」

「あったちゅうたら、あったんやけど今回のは別件や。気にせんでええ」

 

 気を揉んだ刹那の前で、厳しさと優しさの両方を備えた目で見て来る鶴子の言葉に安心した。現役を引退しても現在の神鳴流最強の看板を背負っている鶴子が動かなければならないほど事態など、想像するだけでも刹那の心胆を寒からしめる。

 

「関東から来た一行ってお嬢様と刹那達のことやったんやな」

「はい、そうですが……」

 

 何かを確かめるように頷いた鶴子の障子で隠れている右手側が何故か騒がしくなった。良く見れば外からの光で障子が透けて、鶴子の手の先に人の影が映っている。人影は逃げようとでもするように暴れてるが、恐らく手の位置的に首元を掴まれているのだろう果たせていなかった。掴んでいるのは神鳴流最強の戦士。片手だけで大半の相手を抑え込める化け物なのだ。

 

「来るまでに何回か妨害受けたそうやないか」

「ええ、殆どはただの悪戯だったのですが、本山への入り口で無間方処の咒法に嵌められた時は少し焦りました」

「ほほぅ」

 

 ギクギク、といった擬音が聞こえそうなぐらい障子の影に映った人影が固まった。

 人影の反応で刹那も鶴子が何を言いたいのか、大体の察しがついた。刹那が半分だけ開いている障子を開けきると、想像した通りの光景が広がっていた。

 

「――――どういうことや、千草」

 

 剣鬼と時に噂される鶴子の視線に晒されて、千草と呼ばれた女性――――天ヶ崎千草は力の限り首を横に振った。

 

「うちにはなんのことか分かりませんなぁ。鶴子姉さんも引退して目が曇ったんとちゃうか」

 

 目元を大きく覆う丸眼鏡をかけて流れるような黒髪を首の後ろで纏め、バニーガールのように胸元から背中まで露出して着崩した着物を纏った千草は目を盛大に泳がせながらもしらばっくれた。

 

「ここまできて、まだしらばっくれる気かいな」

「しらばっくれるもなにも、なんのことやらさっぱり。心当たりの欠片もありやしませんわ」

 

 後衛の陰陽師である千草は、圧倒的な威圧感で詰問してくる鶴子に負けじと腹に力を入れて答えた。

 

「認める気はないっちゅうことか」

「知らんことを認めるもなにもありませんわ。うちには人に秘するものはなにもありやしません」

 

 刹那の目には、千草が目を盛大に泳がせて冷や汗をダラダラと垂らして全身を震わせているので強がりが見え見えだった。だが、それでも鶴子の威圧感を前にして嘘を貫き通そうとしている千草の勇気に尊敬すら覚えた。

 鶴子の弟子である刹那は何度か彼女を怒らせたことがある。普通の人が抱くような怒りであっても鶴子の場合は威圧感が半端ではないのだ。怒らせて恐怖で失禁したことすらある刹那の魂には、鶴子に反抗の意志すら湧き上がらない絶対服従が刻み付けられている。

 嘘を貫き通そうとしている千草の行為は墓場に自分から喜んで突っ込んで行くようなものだったが、だからこそ自分には出来ないことをやってのけている人に尊敬の念を覚えずにはいられなかった。

 

「あ、千草姉ちゃん。さっき俺がバラしてもうたから隠そうとしたって無駄やで」

「小太郎ぉおおおおおおおおお!!」

 

 酔いが回るのが早ければ、抜けるのも早いのか。周りの少年少女達が潰れていく中で、小太郎は一人で皿の上の掃除を行なっていた。蟹の足を折って身を取り出していた身内(小太郎)の裏切りに千草は絶叫する。

 

「なんでやねん! 普通はそこは身内を庇うもんやろ!」

「くそっ、取れへんな。せやかて、遠見の術で全部見てた言われたら庇えるもんも庇えへんやん。お、ええのがあった」

 

 上手く身を取り出せずに悪戦苦闘していた小太郎は、蟹フォークが置いてあるのを見つけて手を伸ばした。

 身内の危機よりも食い気を優先する小太郎にカッとなって、理不尽にも鉄拳制裁を加えようとした千草を止めたのは後ろから肩を掴んだ鶴子の手だった。

 

「アンタが魔法使いへの嫌がらせの為に色々と動いてたのも、その子を利用してアリバイ工作をしようとしてたのを全部知ってるんやで。よう、こんな小狡い手を考えつくもんや」

「ひっ、ひ……ひっ……肩が、肩が砕けるぅ!?」

「大丈夫や。人間の骨はこの程度で砕けるほど柔やあらへん」

 

 ギシギシ、と万力のような力で掴まれた肩の骨が軋む音を立てる。人間の壊し方を良く知っている鶴子は、折れないギリギリの力で千草の肩を握り締める。やられる千草には堪ってものではなく、痛みに悶えようとするがそれすらも掴まれた手に抑え込まれていた。

 

「あ、あのー、出来ればその辺で」

 

 と、千草に助け舟を出したのは木乃香を気絶に追い込んだ明日菜であった。人が壊れる限界ギリギリで説教する鶴子の恐怖を知っている刹那は勇者を見るように明日菜を見た。

 

「ええんか? あんさんも被害にあったらしいやん。どうせやったら一発殴っとく?」

「いえ、結構です。大した被害でもなかったので」

 

 掴んだままの肩はそのままに、もう片方の手で千草の頭を固定して殴りやすいにした鶴子のバイオレンスな提案を明日菜は丁寧に謝辞した。

 成人の女性が本気の涙目でいるのを見れば殴る気があったとしても失せる。迷惑はしたが悪い事ばかりではなかったのは確かなので、僅かにあった小さな憤りもこの状況を見れば窄んで許してやろうと寛大な気持ちになっていた。

 

「この心の広いお人に感謝しときや」

 

 微妙に表情を変化させる明日菜の様子になにかを感じ取ったのか、鶴子は千草をポイッと捨てながら言い捨てた。

 

「うう、おおきに。あんさんはうちの命の恩人や」

「そんな大袈裟な」

 

 あんまりな扱いの中で差し伸べられた手を両手でしっかりと握った千草の涙ながらの感謝に、己が為したことを神鳴流剣士が知れば畏怖の目を向けてくることに明日菜は気付かなかった。それほどに鶴子の怒りを収めたことは凄い事なのだと刹那は良く知っている。

 何時の間にかアスカを連れていなくなっていた詠春がホクホク顔で戻って来たのを見て、再び神鳴流剣士に別の意味で恐れられる剣鬼の顔になった鶴子からそっと視線を逸らして溜息を吐いた刹那だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 子供達が眠りについて暫く経った時刻。関西呪術協会の重役は本山にある屋敷の奥まった一室に集まっていた。

 

「…………遅い」

 

 年配の男性が多い中で袴姿の女性が感情を感じさせない声で呟いた。女性――――青山鶴子の呟きに何十年も関西呪術協会の一員として過ごし、幹部として辣腕を振るってきた男達が揃って体を恐怖で震わせた。

 部屋の両脇に一列に並んだ中で、部屋の奥側の列の最後尾に坐した鶴子に大の男達が怯えていた。特に隣に座っている頭頂部が薄くなっている五十代ぐらいの幹部など、鶴子から放たれる威圧感に脂汗すら垂らしている。隣に座っている幹部の頭皮に順調にダメージを与えていることなど露とも知らない鶴子は、室内にいるただ一人の例外を見た。

 

「なあ、千草。長はなんでこんなに遅いんや?」

 

 幹部連中に囲まれて委縮して身を縮めていた天ヶ崎千草は、よりにもよって室内の存在感を一人で独占する鶴子に話しかけられれば黙っていることは出来ない。若手のホープなんて言われていても所詮は下っ端の身。世知辛い身分に千草は心の中で涙した。

 

「さあ、この会合のことを知らないとかでは」

「んな訳あるかいな。全員を集めたのは長本人やで」

「うちに言われましても」

 

 鶴子に連行された立場にある千草に自由行動など許されてはいなかったし、詠春と話したことなど今まで片手の数で数える程度しかない彼女に長の行動など分かるはずもない。その話した内容にしても長と一組織員としてなので、鶴子に問われたところで千草に答えられるわけがなかった。

 このまま鶴子の威圧感が増していけば隣にいる幹部の髪の毛が全滅するかと思われたが、廊下の向こうからトントンと規則正しい足音が聞こえて来たことで幹部の殆どがホッとした顔をした。千草も同じ気持ちだったので、詠春が到着すれば威圧感もマシになるだろうと肩から力を抜く。

 廊下を歩く人物は部屋の前で立ち止まり、室内にいる鶴子以外の全員の希望の目と共に障子を開いた。

 

「いや~、みなさん。すみません、お待たせしました」

 

 障子を開けたのは長である近衛詠春その人であった。問題はない。なにも問題はないはずだったが、自分で召集した幹部会に遅れたにも関わらず、緊張感の欠片も無い緩み切った表情をしていた。

 

「長、自分で呼び出しておいて遅刻ですか」

 

 鶴子から発せられる威圧感が更に増した。もはや物理的な圧力すら感じさせる威圧感は、流石は剣鬼と噂されるだけあると部外者ならば頷けるが、それだけの威圧感に身近に晒されている幹部達には堪ったものではない。特に隣にいる髪の薄い幹部は引き攣った顔して、その頭部から風も吹いていないのに失ってはいけないものが飛んでいく。同じように引き攣りながらも大半が男の集団は大切な物(髪の毛)を失っていく幹部に心の内で手を合わせた。

 

「子供の笑顔は天使とは良く言ったものですね。存分に堪能させて頂きました。やはりアスカ君には木乃香の婿になってもらわなければ」

 

 正に至福の時を堪能してきたかのように上気させた詠春は、鶴子の威圧感など毛ほども感じていなさそうだった。鶴子の方が実力は上と見られていたが実は詠春の方が上回っていたかといえばそうでもないだろう。ただ単純に親バカの範囲を広げただけの詠春は鶴子の威圧感を受け流しているのだ。

 

「お、長…………で、出来れば幹部を招集した理由を、教えて頂きたいのですが。主に私達の為に」

 

 鶴子から一番遠い席にいて最も被害が薄い最年長の幹部が詠春に話しかけた。

 

「む、それもそうですね。さっさと雑事を終わらせて寝顔の鑑賞に戻らなくては」

 

 長の次に権力を持っている幹部に言われて、仕事モードに気持ちを切り替えた詠春は自身の席へと向かった。

 最高権力者である詠春の席は当然ながら上座である。部屋の両脇に一列ずつ並んで座っている幹部達の上座側の真ん中の席に座った詠春は、向かい合うように座っている千草の顔を自然と見た。

 次いで視線を集まった幹部達に向け、鶴子の威圧感によってバーコードぐらいはあった頭頂部の髪の毛が数えられる程度になっていることに首を捻って、また千草に顔を向けた。

 

「まずは急な呼び出しにも関わらず、集まってもらった皆さんには感謝を」

 

 胡坐を掻いて座布団に座っている膝の上で両の手の平を組み合わせた詠春は、先程の緩んだ表情などなかったかのように薄く笑った。

 

「こんな時間です。さっさと本題に入りましょう。今回、集まってもらったのは他でもありません。既に予想されている方もいると思いますが、天ヶ崎千草の処遇について。詳細は鶴子君の方から」

 

 ゆっくりと話しながら詠春は幹部全員の顔を見て、最後に真意を感じさせない表情で真正面にいる千草に視線を止めた。続きは事情を良く知る鶴子に任された。

 

「木乃香お嬢様を連れた魔法使いを含む一行に対する複数の妨害工作が見られています。新幹線内での式神発動、京都地主神社で工作、本山入口通路での呪法の設置。いずれも被害は軽微ですが、主導・及び実行犯がそこにいる天ヶ崎千草です」

「なんと……」

 

 鶴子の報告に幹部の一人が信じられんとばかりに目を剥いて千草を見た。

 

「天ヶ崎千草。貴様は一連の行為を自分がしたと認めるのか?」

「…………認めます」

 

 雲の上のような存在である幹部連中に囲まれて生きた心地がしない千草は、証拠を鶴子に握られて身内(小太郎)にすら裏切られているので幹部の詰問に大人しく犯行を認めた。

 

「理由は? やっているのは子供の悪戯レベル。こんなことをした理由はなんだ?」

 

 出来る限り身を縮めて台風一過をやり過ごそうとしている千草に対する詰問は止まらない。

 

「魔法使いに対する嫌がらせです。奴らのテリトリーは東です。西に来て大きな顔をされるのは我慢なりません」

「気持ちは分からなくとも…………ゴホン、だからといってこんなことをする理由にはならん。これでは我ら関西呪術協会のいい面汚しだ」

 

 魔法使い嫌いの急先鋒である幹部の一人が千草に同調しかけたが、失言をしていることに気づいて咳払いをして逆に糾弾する。自身の失言を、千草を糾弾することで掻き消そうとしたのだ。

 そんな幹部を冷やりとした視線で見つめた詠春は、正座をして膝の上に置いた拳を強く握っている千草にやはり感情の読めない目を向けた。

 

「幸いにも相手方は今回のことを気にはしておられません。ですが、やはりこちらも示しはつけなければならないでしょう」

「ええ、確かに」

「関西呪術協会として罰を与えることで、関東からの批判を躱そうというわけですか」

 

 組み合わせた両手の平の上で親指を組み替えた詠春は今までと違う凄みのある笑みを浮かべた。

 

「それだけではありません。今回の魔法使いも伴った木乃香達の受け入れは組織として決定したことです。その決定に反して動いた彼女の行動は決して許されて良いものではありません」

 

 優しげな目元はそのままに、痩せこけた中年男の風情の欠片など存在しない風格を醸し出す詠春に幹部の誰もが呑まれた。

 周囲の輪を重んじる詠春の厳しすぎる判断に、下の方にまで噂が轟いていた人情派の長らしからぬ断定を受けた千草は生きた心地がしなかった。

 

「どのような処罰がいいですかな」

「被害の程度でいえば謹慎が適当かと」

「いや、周囲に与えた影響を考慮すれば協会からの除名も已む無しでは」

「下手をすれば両組織の戦争の発端になったのかもしれんのだぞ。除名では足りん」

「では、除名の後に国外追放ならば」

 

 与えられる処罰がどんどん重くなっていくことに、目の前で話し合いが為されている千草の顔色が加速度的に悪化していく。思わず助けを求められる立場ではないのに、旧知の間柄である鶴子へと懇願の視線を送った。

 視線を向けられた鶴子は気付きながらも黙殺し、見捨てられたと思った千草は泣きそうな顔で己が拳を見下ろした。

 

「それまで」

 

 パンパン、と詠春は手を叩いて広大になり過ぎた処罰を論じている幹部達を黙らせた。

 

「一連の騒ぎは我が娘の帰省に伴うもの。彼女の処罰は私に決めさせて頂きたいのですが、いかがでしょうか?」

 

 幹部達は詠春の伺いに顔を見合わせ、一瞬の内に視線の中に込められた各々の思惑や各派閥のあれやこれやが交錯した。最終的には長である詠春の意見を受け入れ、全員が頷きを返したがこういう面倒事が嫌いな鶴子は目を瞑って黙したままだった。

 

「皆さんの賛成も得られたことですし…………では、天ヶ崎千草に処分を言い渡す」

 

 気の良い中年男性と長としての風格を醸し出すという矛盾を同居させた詠春に、千草は閻魔大王に天国か地獄かの判決を下される死者のような気分で頭を垂れた。

 

「処分の前に一つだけ。君は最近、教員免許を取得したと聞きましたが相違ありませんか?」

「え、あ、はい。高校生の時に預かった子が人間と妖怪のハーフでして、耳を隠せへんので普通の学校に通えませんのです。せめて家で勉強を見てやろう思いまして大学を教育学部にしてそのまま」

 

 関係ないと思われることを聞いてくる詠春に内心で大いに首を捻った千草は正直に答えた。

 除名や国外追放になれば小太郎をどうしようかと遅まきながらに気が付いた。

 

「狗族の少年のことですね。良い心掛けです」

「いえ、そんな。うちはどんな処罰でも甘んじて受けます。ですが、小太郎はうちが強制的に引き込んだんです。どうか平にご容赦を」

 

 自分がしたことの不始末ならば自分で償うのが道理である。小太郎は千草が引き込んだようなものだ。強制的か望んでかは実際のところ違うのだが、まだ年若く将来のある小太郎の安否は守らねばならなかった。

 今更そんなことを思うのは筋違いなのかもしれないが、憎たらしいところがあっても両親を亡くしてから孤独だった千草のただ一人の家族を守らねばならなかった。千草は今ようやく自分が仕出かした事の、事の大きさを実感したのであった。

 

「小太郎君には貴女と同じ罰を受けてもらいます」

「そんな! どうかどうかご勘弁を」

「なりません」

 

 縋りつくような必死さを見せる千草の懇願を、しかし詠春は一辺の甘さすらも垣間見せることなく無表情のままに切り捨てる。穏やかな笑みがトレードマークとでもいうべき長の、今までとは真反対の非情な一面に幹部達は恐ろしげに見ていることしか出来なかった。ただ一人、瞼を閉じて黙した青山鶴子を除いて。

 

「改めて処分を言い渡す。天ヶ崎千草、犬上小太郎の両名を関東魔法協会麻帆良学園都市に留学とする」

「は?」

「既に先方とも話がついています。新学期からとのことです。それと木乃香に陰陽師として色々と教えてあげて下さい。頑張って下さい、天ヶ崎先生(・・)

 

 二重の意味で先生(・・)と呼ばれた千草は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、頭の中から一時的に小太郎のことが消えた。

 予想外も予想外過ぎる処罰に、幹部達ですら同じような顔をしていた。ブチ壊れた部屋の緊張感を潜り抜けるように、立ち上がった詠春が歩み寄って千草の前までやってきた片膝をついた。

 

「木乃香とアスカ君の仲を深めさせるには刹那君では少々心許ない。彼女では木乃香に逆らえませんからね。留学生としてくれぐれも、本当にくれぐれもよろしくお願いしますよ」

 

 本音と建前が逆になっている詠春に肩を掴まれた千草は色々なことを諦めた。

 

 

 

 

 

 心神耗弱状態に陥った千草を、呼んだ巫女達に連れて行かせて介抱を任せた詠春は幹部を招集した本当の議題に集中した。

 

「国外に逃亡した形跡があり、ですか」

「はい、『ひな』を持って」

 

 鶴子が本山を訪れた本当の理由である、とある調査報告に幹部の誰もが沈鬱に俯いた。そして幹部の一人が顔を上げ、鋭い視線で鶴子を睨んだ。

 

「由々しき事態であるぞ。神鳴流全剣士を絶滅の際にまで追いやられたという逸話を持っている妖刀『ひな』が持ち出されるなど。しかも、それを為したのは神鳴流の技を使う剣士というではないか。もし猛威を振るわれればどれほどの被害が出るか想像も出来ん」

 

 幹部は恐ろしき災厄を招いてしまったかのように鶴子を糾弾する。

 

「『ひな』の管理は神鳴流が行っていたはず。管理体制はどうなっているのだ」

「お言葉ですが、件のひなは研修用として関西呪術協会へ預けられていた時に奪われとります。管理体制の是非を問うならば神鳴流だけではないんでは?」

 

 糾弾に冷静に返した鶴子に別の幹部が激昂した。

 

「貴様! 言うにことかいて、こちらの不備であると言うのか!」

「そこまでは言うとりません。ですが、神鳴流に責任の全てを押し付けるんはおかしいのではないかと言いたいだけです」

 

 鶴子と幹部連中の舌戦に詠春は黙したまま何も言わなかったが、穏やかながらも強い口調で言い切った鶴子の言葉の直後に口を開いた。

 

「ひなの警備を行っていた神鳴流剣士二名を殺害、陰陽師一人が重傷。下手人は相当な手練れです。名前は…………月詠と言いましたか」

 

 渡された資料に張られている写真に写る木乃香とそう年が変わらない幼い子供が為した凶行に、詠春は眼鏡の奥の目を細めた。

 

「重傷を負った陰陽師は?」

「命は取り留めました。ですが、陰陽師として復帰することは不可能だと治癒術士より報告が上がっています」

「そうですか……」

 

 死者達に冥福を祈り、陰陽師の今後も考えねばならないと考えた詠春は、必ず下手人を捕まえると心に決めて深く黙祷していた。

 資料を作成したこの中では若い方の幹部は眼鏡をクイッと上げて報告を行う。

 

「下手人に親や親類係累はなし。天涯孤独の身です。分かっているのは、新興の時坂家に召使えられていたことだけです。また、その扱いは褒められたものではなかったようだとも」

「またあの時坂か」

「当代になってから大人しくなったもののの、能力も功績も評価するが家を興した先代の頃から黒い噂が多すぎる」

 

 この場にはいない、まだ年若い当代の時坂家当主の顔を思い浮かべた何人かの幹部達が顔を顰めた。

 

「報告では、住んでいる住居が神鳴流の鍛錬所が近く良く見学に訪れていたと。下手人の境遇を噂で知っていた師範が彼女を不憫に思って許可したようです」

 

 過去に神鳴流とコンビを組んで実戦に出ていた幹部の一人が状況のおかしさに気が付いた。

 師範が許可したのはあくまで見学までだと報告書にも記載されている。それは他の門下生からの証言でも明らか。にも関わらず、月詠は神鳴流を使ったのだという。

 

「まさか見取り稽古で技を覚えたというのか」

「俄かに信じ難いことですが、それ以外には考えられません」

 

 見取り稽古とは、直接教わるのではなく相手の技や呼吸やタイミング、動きなどなどを見て盗むことである。稽古の一つとしてどこにでもある変わったものではないが、正規の訓練を一度も受けずに技を盗んだ子供に誰もが震撼していた。

 

「だが、『ひな』の持ち運びは師範クラスが行う規定になっているはず。見取り稽古で覚えただけの俄かに殺されるはずが」

「殺害された神鳴流剣士二名はその鍛錬所の師範と師範代です。陰陽師の話によれば顔見知りであることを利用して近づいてきたところで真っ先に師範が殺され、予想外の事態に動揺した二人の隙を突いて凶行に及んだのとことです」

 

 顔見知りを利用しての犯行だとしても、見取り稽古で学んだだけの未熟者に殺されるほど神鳴流の師範は弱くない。誰もが同じ思いで次の報告を聞く。

 

「それとですが、もう一つ。陰陽師の話によれば下手人は弐の太刀を使ったとも」

「馬鹿な! 弐の太刀は宗家である青山家の人間か、宗家ゆかりの者にしか伝承されない決まりがあるはず」

 

 弐の太刀とは、敵との間に障害物があっても障害物を傷つけずに敵だけを攻撃することができる技。どのような障壁も鎧も突破する強力な技である。あまりにも強力故に限られた人間しか伝えられない技を、正規の訓練を受けていない下手人が使ったのだとすれば背後には神鳴流の影があると想像した幹部も多かった。

 

「あの鍛錬所は宗家の人間も出入りしとります。見て覚えたんでしょう。行為はともかく凄まじい剣才の持ち主です。単純な剣の才だけなれば、並ぶ者はいまへんかもしれませんな」

「鶴子君にも、ですか?」

「かも、しれまへんな。後々の禍根に至る前に引退したうちがしゃしゃり出てまで仕留めたかったんですが叶いませんでした」

 

 歴代の神鳴流においても一、二を争う鶴子をも上回るやもしれない才能の持ち主。それほどの才の持ち主が、ただの剣士に神鳴流を滅ぼすほどの力を与えた『ひな』を持ち出した。奇襲とはいえ師範と師範代を殺した恐るべき実力を秘めている月詠が『ひな』を持ち出したことで、現役を引退したはずの鶴子が動かなければならなければならなかった。だが、動くのが遅すぎたのか後一歩というところで国外逃亡を許し、月詠の行方はようとしれない。

 

「一体、何を思って行動しているのか、この少年(・・)は」

 

 闇が深まっていく部屋の中で、月詠の写真を見下ろして詠春はひっそりと口の中で呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ネギが目を覚ました時―――――そこは見知らぬ部屋だった。洋風独特の無機質な天井ではなく、木目調の飾り板が張られた暖かな天井であったからだ。

 静寂の中、居間の壁時計の秒針が動く硬質な音が響く。不規則な木目の並んだ天井に、和風建築特有の木の匂い、畳の上に敷かれた布団――――さして広くもない部屋にある調度品は全て和風な趣をしていた。

 

「ここは?」

 

 ぼやけた視界を拭いながら、目覚め切っていない頭で半身を起こして辺りを見回す。間違ってもウェールズにある自分の家ではない。かといって女子寮の明日菜達の部屋でもない。

 現在地を把握できずに呟き、自分は何でこんな所にいるのだろうと記憶を模索すると昨夜のことを思い出した。障子越しに見える日の光から考えて既に昨日の出来事だ。ネギには寝かされていた部屋に見覚えがないので、あのまま酔い潰れてしまって誰かが此処にまで運んでくれたのだろう。

 

「後でお礼言わなきゃ」

 

 寝過ぎによる脳の奥辺りに鈍痛を覚えながら、寝癖であちこちが跳ねている髪の毛を直しつつ起き出した。

 ネギが寝ていた部屋には他にも布団が二つあった。子供用のサイズの布団から考えてアスカとアーニャか、それとも小太郎用か。その二つともが綺麗に畳まれ、触った感じでは熱が冷めきっていて、少なくとも布団の主は十分以上前に起き出している可能性が高い。

 

「みんなどこにいるんだろ」

 

 人を探そうと至って障子を開け、屋敷の廊下を歩き出した。まだ朝も早いということは、アスカや高畑としたキャンプで太陽の昇り位置で時間を把握する術を知っていたネギには分かった。本山内部には巫女さん達に案内してもらったので現在地もどこへ向かえば人に会えるかも分からない。急ぐことでもないので、桜が咲き誇る庭園を眺めながらのんびりと廊下を歩く。

 当てもなく歩いていると廊下の先から複数の人の足音が聞こえて来た。音の発生源である曲がり角から真っ先に姿を現したのは関西呪術協会の長である近衛詠春その人であった。

 

「長さん」

「ネギ君、起きていたのかね? ちょうど良かった。今、起こしに行こうと思っていたところだよ」

 

 木刀を片手に持った詠春は、昨日の初対面時とは打って変わって爽やかな笑みを浮かべていた。

 

「やっと起きたの。相変わらず寝坊助ね」

「仕方ないわよ。あんな状態だったんだもの」

 

 詠春の後ろから姿を見せたアーニャと明日菜が寝癖で針山になっているネギの頭を笑ったり呆れたりしていた。

 三人の後ろからもガヤガヤと人の気配が複数。

 

「刹那、お嬢様の護衛にかまけて腕が上がったとらんで」

「申し訳ありません」

「まあまあ、勘弁したってや鶴子さん」

 

 詠春と同じように木刀を持った鶴子に注意を受けて身を縮込ませている刹那は何故かボロボロだった。寝起きで頭が回っていないネギが首を捻っていると、木乃香が刹那のフォローをしていた。そして、最後尾に肩を貸し合ったこれまたボロボロな少年二人が現れた。

 

「アスカ」

「ん? よう、ネギ」

 

 この中で一番ボロボロな有様をしているアスカは、ネギには理解できない事柄ながらも非常に満足そうであった。ニコニコと笑っている姿はボロボロな風体と相まって異様にも映るが、魔法学校時代から高畑と会う度に似たような状況になっていたので今更驚くこともない。

 

「皆さん、揃ってどうかしたんですか?」

 

 このメンバーがいる理由が解らずにネギは首を傾げた。改めて記憶を模索してみるが該当する用件はない。というか、成人女性に見覚えのなかったネギにはもっと分からなかった。

 ネギの問いに足を止めた詠春が道の脇に体を開きながら後ろを振り返って苦笑した。

 

「アスカ君からの申し出で試合をしていてね。今はその帰りだよ」

「ああ、あの」

 

 ようやく回り出した頭の中が詠春が言った意味を理解して、ネギは頷きと共に得心した。

 学期末に学年クラス最下位を回避するご褒美としてアスカに提示された条件。それが詠春との試合であった。大方、早くに就寝して目覚めたアスカが詠春に戦いを挑んだのだろうことは、生まれてからずっと傍にいるネギには容易に想像がついた。

 

「すみません。うちの愚弟がこんな朝早くからご迷惑をおかけしまして」

「ネギ、それは私も言ったわ」

 

 ここは謝るべきところだと今までの経験から深く頭を下げて謝辞を表明したが、アーニャに先を越されていたようだ。

 

「いえいえ、こちらとしても有意義な時間を過ごさせてもらいました」

 

 アスカに負けず劣らずの満面の笑みを見せる詠春は謝罪は良いと顔の前で手を振った。その詠春を恨めしげに見るのはアスカに肩を借りる小太郎だった。

 

「このおっさん洒落にならんで。アスカはともかく俺には容赦ナシや。差別や差別」

「小太郎の扱いは悪かったものね」

「差別ではありません。これは区別です。強くするために厳しくと天ヶ崎君から頼まれましたから手加減なんて出来ません」

「まったくお父様は」

 

 このメンバーの中でもかなりボロボロな小太郎を哀れに思ってか、明日菜が同意する一方でアーニャが横から治癒魔法をかける。後ろでどこからか取り出したハンマーで父を殴打する木乃香がいた。

 治癒魔法で一人で立てるようになった小太郎から離れたアスカが鼻息も荒くネギに近くやって来た。その手には詠春や鶴子、刹那と同じく木刀が握られていた。

 

「やっぱ親父と同じ場所に立ってた詠春は強かったぞ」

「そんなに?」

「昨日枷を外してからかけ直してないから全力で行ったのに一発も当てられなかったんだぞ。マジで強ぇ」

 

 そういえばと昨日のことを思い出して、取りあえず封印をかけておこうと杖で呪文を唱えながら話を聞いたネギは改めて父がいる場所の果てしなさを知ったようような気分だった。

 誰よりも身近でアスカを見てきたネギは、双子の弟の底すら見えない戦闘センスを知っている。正に戦うために生まれてきたようなアスカが全力で挑んで歯も立たない詠春の強さと、同じ場所にいる父の背中の遠さを改めて自覚する。

 

「そんなことはありませんよ。アスカ君なら厳しい修練と多くの実戦を経験すれば十年、早ければ五年もすれば私など追い越すでしょう。私が保証します」

「うちもそう思うわ。単純な才能ならこの中でも段違いのようやしな」

 

 アスカを絶賛する詠春と鶴子に、アーニャと刹那が目を剥き、明日菜と木乃香はよく解っていないような顔だった。

 褒められて鼻高々といったアスカに小太郎が噛みついた。

 

「負けんで」

「へん、負け犬君はほざていな」

「言ったな。ここで再戦や!」

「止めなさいってば」

 

 狭い廊下で何人もいる関わらず、やる気満々になっている二人に明日菜が拳骨を下ろした。出遅れた形になったアーニャが振り上げた拳のやりどころを失っていた。

 

「……………」

 

 アスカならばそう遠くない何時かに父の背中に届き得ると明言されたようで、起こされることなく寝かされていたネギは仲間外れになったような気分で面白くなった。

 我知らずに仏頂面になっていたネギに何かを感じとったのか、明日菜に叩かれた頭を抑えていたアスカが良いことを思いついたように木刀を肩に担いだ。

 

「俺ってば詠春に剣も教えて貰ったぞ。どうだ、羨ましいだろ」

「羨ましくない」

「教えて貰ったって剣の握り方とか振り方とか基本的なことだけじゃない」

 

 自慢げに借りたらしい木刀を見せびらかしてくるアスカに不機嫌になったネギが言うと、アーニャがフォローを入れるように言った。

 

「鶴子と刹那が使うのを見てたから技も使えるもんね」

「馬鹿ね。見ただけで使えるわけないじゃない」

「言ったな、見てろよ。確かこんな感じで」

 

 得意げな顔だったアスカは見栄を張りたいのか、アーニャの言葉に庭園側に向き直って木刀を振りかぶった。

 

「神鳴流――――」

 

 アスカが振りかぶった木刀に気の輝きが灯っていることに気づいたのは詠春と鶴子の二人だけだった。

 

「斬空閃!!」

 

 振るわれた木刀の軌跡に沿うように気の斬撃が飛んだ。アスカの気合に比例すように極太で巨大な気の斬撃は、上段から振り下ろされたこともあって縦一文字に直進していく。

 真っ先に被害にあったのは華麗な花を咲かす一つの桜の木だった。桜の木を包丁で豆腐を切るように切り裂き、障害物などないかのように直進する気の斬撃は次々と気を切り裂き、やがてはアスカの正面に見えていた屋敷を捉える。

 前に進むたびに巨大になっていく気の斬撃は、この時には既に屋敷の屋根付近にまで到達していた。各屋敷に防御結界でも仕込まれているのか、屋敷に触れる前に一瞬の停滞を引き起こしたが鏡が割れるような音と共に、先程の切り裂かれた桜の木のように気の斬撃が通過して行った。

 その先にはまた別の屋敷があって、一つが二つ、二つが三つ、三つが四つと、途中で悲鳴と怒号とを巻き上げながら、やがて気の斬撃はアスカ達の視界の及ばないところにまで達して消失する。

 

「……………」

 

 自分で成したことながら本当に技が出るとは及びもしていなかったアスカは、固まってしまった周りの空気と巻き込まれたらしい辺りから聞こえる怒号にバケツ一杯に溜められるのではないかと思うほどの冷や汗を流した。

 木刀を振り下ろした姿勢から振り返って、あんぐりと口を開けた一同を見たアスカは混乱の極致にありながら口を開いた。

 

「どうだ!」

「どうだ、じゃないわよ! この救いようのないド級のボケアスカが!!」

「あべしっ!?」

 

 アホなことをしてアホなことを叫んだアスカに向かって、炎を纏ったアーニャが殴り掛かった。

 アーニャにタコ殴りにされるアスカを見て、何故かさっきのことは許せそうになったネギは被害に顔を青から白へと顔色を変じている詠春に向け、ジャンプして膝と両手と頭を廊下につけながら愚弟が仕出かしたことを詫びる為に土下座を敢行したのだった。

 兄とは、弟の不始末を詫びねばならない辛い立場にあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あっ、タバコあかん」

 

 洋装に着替えた詠春が待ち合わせ場所である関西呪術協会の入り口でタバコを吸おうとすると、木乃香が駆け寄ってタバコを取り上げようとする。木乃香がタバコを嫌いというよりも、詠春の身体を思ってである。

 

「木乃香、今だけは、この一本だけは吸わせて下さい。現実を忘れる為に」

 

 何時もなら吸いたいなら避ければいいのでタバコをあっさり手放すと詠春だったが今回だけはそれを固辞した。立場から来るストレスで時々吸って癖になっていたが、木乃香が傍にいてくれる方が彼には良く効くもアスカが仕出かしたことの後始末を思い出すだけで胃がキリキリと痛むのを和らげるには煙草に逃げるしかない。

 

「しゃあないな。今回だけやで」

 

 アスカが放った斬空閃によって奇跡的に怪我人や死傷者は出なかったが、器物が損壊されたり結界呪具が壊れたりと損害は大きい。なんとかアスカに責任が回らないように朝っぱらから動き回っていた父の気持ちを慮って、今吸っている一本だけはと木乃香も許した。

 時刻は既に夕方。空は傾き始めていた。朝から動き続けた詠春は、それだけ頑張ったのである。

 煙草を吸いきった詠春は携帯灰皿に吸殻を捨てた。

 

「行きましょう。案内します」

「本当に父さんの別荘があるんですか?」

「ええ、この奥にあります」

 

 ナギの別荘がここ京都にあり、詠春が管理を任されていたと聞かされたネギは行きたいと珍しく駄々を捏ねた。朝の一件でかなり忙しい立場にあった詠春は、この時間を作る為に物凄く頑張ったことは言うまでもない。

 総本山から現地までは少し歩くので、ネギと詠春が先頭でその後は数人ずつの纏まりになって話をしながら一行は進んでいく。この中に小太郎はいない。別件で朝の時点で千草に連れて行かれている。

 別荘に向かう道すがらネギは詠春の横に並ぶと、気になっていた事を質問した。

 

「長さん、今回のことは……」

「大丈夫です。私達の管理不行届が原因と皆も解ってくれましたから君達に苦情がいくことはありません。年若い魔法使いの少年が見様見真似で神鳴流の技を使ったと知って、皆も納得してくれましたから」

 

 言い難そうに切り出してくるネギに詠春は疲れた笑みを見せながらも、安心させるように伝えた。この一件の裏で、ある妖刀を奪った下手人のとあることに対する信憑性が増したとして色々とあったことは詠春も伝えなかった。伝える必要もない。

 

「当のアスカ君が深く反省してますから、誰も責めはしません」

 

 この不始末を仕出かしたアスカはアーニャによって焼き達磨状態にされて謝罪行脚をしたことは記憶に新しい。今も最後尾で、「私は救いようのないド級のボケアスカです」とプラカードを持たされている。

 

「ほら、あの三階建ての狭い建物がそうですよ。十年の間に草木が茂ってしまいましたが、中は綺麗なものです」

 

 目的地に到着したので立ち止まり、詠春は右手の草木が茂り白い壁がほとんど見えなくなった天文台付きの家を示した。その建物は、敷地面積そのものは小さいが三階建てほどの高さがあり、外観はコンクリートそのままで、所々に窓があるようだが、十年の年月で自由に生い茂る草木によって隠されてしまっている。その所為で何処か隠れ家じみた様相を呈している。

 建物そのものは、コンクリートむき出しの武骨な外観の三階建ての建物だったが、屋根の一部分には金属製の半球が被さっており、本格的な天文台があるのが特徴的だった。個人の建物であれほどの設備をつけるとはかなりの趣味のようだ。下からはよく見えないが開閉可能らしく、星でも見ていたのだろうか。

 一言で言うなら天文台が備え付けられている洋風建築の一軒家。それが魔法界の英雄ナギ・スプリングフィールドの別荘だった。様々な理由で、彼らはこの家の内部に思いを馳せる。

 

「京都だからもっと和風かと思った」

 

 明日菜は京都にある隠れ家と言うことで、和風の屋敷をイメージしていたのだが、意外にもそこに建っていたのは、鉄筋コンクリート製の建造物であった。

 アーニャは中がキレイだと言う割には外の草木を放置しすぎではないかと首を傾げ、天文台なんて目立つものがあることに更に首を傾げる。天文台なんて本格的な施設を個人で所有しているのだから天文学に興味があるのかと、スタンから聞いていた事前の情報と合わない人物像と比較して重ねて疑問符を抱く。

 

「どうぞ、皆さん」

 

 詠春はポケットから鍵をとりだし、鍵穴に差し込んで玄関の鍵を開ける。扉を開けて彼らを招きいれた。

 詠春に促されてきょろきょろと、辺りを見渡しながら高鳴る興奮を抑えきれないネギを先頭に奥にある入口へと向かっていく。ネギを先頭にぞろぞろと中に入り、ドアを支えていた詠春は最後になった。

 

「わ―――」

 

 中に入っていくと其処は最後に主が去った時の姿のままで、皆が興味深げに見てネギの歓声が高い天井に吸い込まれていった。

 京都にありながら西洋風だった建物はモダンな内装が際立ち、中に入れば整頓されており中々に良いセンスをしていると伺える。間取りそのものは詠春が言ったように内部は綺麗なままで狭い三階建てだった。

 一階から三階までの中心に吹き抜けがある構造で、個室や区切られた部屋はほとんど存在しなかった。窓から入る光が明るく柔らかい雰囲気を演出しており、明かりをつけなくても十分明るい。吹き抜けになっているエリアの一面の壁には、天井まで届く巨大な本棚が据え付けられている。本棚の両側を挟む様に二階と三階が作られているが、各階層の天井は結構高い。

 不自然なほどに壁の少ない家は、空を飛べないと利用し難い造りになっており、魔法使いの隠れ家だったと納得させるものがある。梯子はあるが下から数段分にしか届かない。梯子が届かない場所にまで本が置いてあるのは、恐らく本棚の裏側にある階段側からも取れる様になっているからだろう。それならそっち側からも取れる様にしておくべきであろうがそこまで手が回らなかったのか。

 大量の本に囲まれたそこはまさに本好きにとってはこんな所に住みたいと思わせる佇まいだ。

 

「彼が最後に訪れた時のままにしてあります」

「ここに……昔、父さんが……」

 

 詠春の言葉に感動したように言葉を漏らすネギ。彼の持つサウザンドマスターの痕跡は、六年前の僅かな記憶と杖、その他はスタンから伝え聞いた話位。しかし、ココには確かにナギ・スプリングフィールドの過ごした月日が残っていた。

 目を輝かせて父が住んでいた家を見て回ったり、少しでも父の事を知るために、願わくば彼の足跡の手掛かりを得る為に本を調べたりしている。貯蔵された魔術書の量、それだけでネギは自分の父親の功績を感じているようだった。

 明日菜達もたくさんある本を興味深げに見て回っているし、アスカはナギが使っていたであろう家具などを手にとって見ている。アーニャは棚を見上げたまま、立ち位置を奥にずらしていく。

 

「英語にラテン語、こっちはギリシア語かしら」

 

 ざっとタイトルを眺めていくと様々な言語で書かれた魔法書がずらりと並べられていた。適当に手に取った本には難解な魔法理論や、アーニャが未だ踏み入れた事の無い魔法世界についての記述が書かれている。

 家具を触るのに飽きたらしいアスカがアーニャの真似をするように隣に並んで視線を動かす。

 

「変ね。聞いた話と人物像が合わない」

「何がだ?」

「アンタ達のお父さんって魔法学校中退で勉強嫌いだって話じゃない。スタンお爺ちゃんや高畑先生も進んで勉強するタイプじゃないってネギを見て良く言ってたのに、こんなに本が一杯あるなんておかしいと思わない?」

「俺と同じで本に囲まれたら眠たくなるらしいから、確かにアーニャの言う通りだ」

 

 アーニャの視線の先を追ったアスカに答えながら、事前に把握した人物像からはとても勉強をする人間には思えずに首を捻った。天文台の事といい、まるで何か目的(・・・・)があるかのような感じがアーニャは見受けられた。

 

「何かがあったんだろ。節を曲げてまでも成し遂げなきゃならない何かが」

 

 世界最強と呼ばれた男が世間的に死んだことになっているということは、それだけの何かがあったということ。ネギもアスカもそこに気づいているからこそ、自身の力を高めようとしている。

 

「どうですか、ネギ君?」

「見たいものや調べたいものがたくさんあって、時間がないのが残念です」

 

 三階の一室で資料を見ていたネギの所に詠春が登ってきて尋ねる。いろいろと探してみるが、如何せん本の量が多く、滞在期間中に調べ尽くすには時間が足りない。

 

「ハハ、またいつでも来ていいですよ。カギをお渡ししますので」

「あの……長さん……父さんのこと聞いていいですか」

 

 少し微笑んでここの資料について軽く話した後に本以上に知りたい事、ナギのことを教えてほしいと詠春に頼む。

 

「…………ふむ、そうですね。みんなこっちへ…………アスカ君と明日菜君も。あなた達にも色々話しておいた方がいいでしょう」

 

 ネギからの言葉も半ば予想していたため大した反応も見せず、詠春は顎に手を当てどの辺りからどの辺りまでを話すかを考える。

 少し考えて下にいる者達にも声を掛けた。

 声に応えてアスカ達二人と、明日菜達三人が何かと三階に上ってくる。

 

「この写真は?」

 

 面子が揃った所で詠春が指し示したデスク前のアクリル製のスタンドに収められていた一枚の写真を見て、アスカが疑問の声を上げる。

 

「サウザンドマスターの戦友たち…………黒い服が私です」

「戦友?」

「ええ、二十年前の写真です」 

 

 みんなが写真に目を移すと、写っているのはネギと同じ赤毛の少年―――――ナギ・スプリングフィールドを中央に六人の男が写っていた。

 今、皆の傍にいる近衛詠春、旧姓青山詠春の若かりし頃の姿もある。他にもタバコくわえたスーツ姿のガトウ・カグラ・ヴァンデンバーグ。褐色の肌で巨大な剣を持っているジャック・ラカン。ローブ姿の男性とも女性ともとれるアルビレオ・イマ。ナギに頭に手を置かれている十歳ぐらいの子供、ゼクト。

 

「私の隣に居るのが十五歳のナギ。サウザンドマスターです」

「……父さん」

「……親父か」

 

 写真の中心にいるナギは幼さが残っているにも関らず、このメンバーの中心的存在だと分かる。顔がそっくりなネギに比べるとナギのほうは野性味が入っている。ネギが優等性タイプだとすると、こちらは人に憎まれない悪ガキタイプといった感じだろうか。

 ネギの見た目とアスカの中身を合せればナギになるのかもしれない、と詠春はふと思った。

 

「わひゃー。これ父様っ! わかーい♪」

 

 木乃香が覗き込んだのに続いて、他のメンバーもその写真に群がっていく。

 

「え……」

 

 木乃香達と一緒に写真を見ていた明日菜が不自然に動きを止めた。そしてまるで夢でも見ているかのように目がぼんやりとなる。

 

「明日菜さん? どうかしました?」

 

 刹那は他の者ほど熱心に写真を見ていなかったので明日菜の様子がおかしい事に気付き、気になって思わず声をかける

 

「え? ううん、何も」

 

 写真の中の人物を見た明日菜の頭の中に何かが浮かびかけたが、刹那に声を掛けられて霧散する。夢から覚めたような気持ちになって焦りが生まれた。何でもないと答えるが何かが明日菜の頭に引っかかり、その後も不思議そうな表情を浮かべていた。

 

「私はかつての大戦で、まだ少年だったナギと共に戦った戦友でした………」

 

 一段落ついたところで、詠春の話が始まった。語りが始まると皆は自然と口を閉じる。その話によるとナギがサウザンドマスターと呼ばれるようになった英雄の話。そこで成した数々の活躍により彼は英雄、サウザンドマスターと呼ばれることになったという。

 その後も詠春の話は続くが締めは残念な事に兄弟の望んだものではなかった。

 

「しかし………彼は十年前、突然、姿を消す……………彼の最後の足取り、彼がどうなったかを知る者はいません。ただし公式の記録では1993年死亡。それ以上の事は私にも……すいません二人とも」

 

 詠春は申し訳なさそうにそう言って一息つき、情報を求めてきたネギとアスカの方へ向いて申し訳なさそうな表情で詫びる。

 

「い、いえ、そんな………ありがとうございます、長さん」

 

 詠春の謝罪にネギはお礼を言い、手摺を掴み改めて部屋を見渡す。ネギの顔は曇らない。その後に彼は父に会っているのだから。

 詠春に礼を言うとネギはアスカと並んで手すりに凭れる。

 

「結局、手掛かりなしか」

「ううん。そんなことないよ父さんの部屋を見れただけでも来た甲斐があった」

「違いねぇ」

 

 そして兄弟たちは顔を見合わせて笑い合った。

 吹き抜けになった空間を眺める。壁の一面を占める本棚。父の情報はなかったからアスカとネギは少し残念そうな色を浮かべているもののそこに絶望はなかった。残念と思ってはいるけど諦めてはいない。

 もしかしたらこの場所に父が嘗ていたのだと思えば、今後のやる気が見えて来る。

 

「やることは何も変わらない。強くなって親父を探し出す」

 

 アスカは言ってネギに拳を突き出した。

 ネギも拳を握って突き出し、軽くコンと当てた。

 

「強くなろう」

「ああ」

 

 ネギの意気込みにアスカも頷く。

 兄弟だけのやる気のサインの合図を交わす二人を、アーニャは寂しげに見つめるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二泊三日の滞在を終え、詠春や鶴子ら(三日目に訪れた鶴子の妹である素子)に見送られて京都駅から新幹線に乗った一行は、乗り込んで十分もしない内に寝息が聞こえ出した。それから数十分たった今では旅の疲れが出て麻帆良組が眠りにつき、行きのような騒がしさは無い。

 

「やれやれ、三人とも寝ちゃったか」

 

 行きと同じく三人席を回転させて窓側に座ったアーニャは、前に座る明日菜・木乃香・刹那の三人が中央の木乃香に凭れかかるようにして寝たのを見て笑った。

 

「ほんと、アスカの所為で大変な旅行になっちゃったわ」

 

 寝ている三人を起こさないように気を利かせて声を顰めながらも隣に座るアスカを咎めるという器用なことをする。

 

「仕方ねぇだろ。俺だってまさか出来るとは思わなかった」

「流石はバグ」

「なんだ、バグって?」

「千雨さんに教えて貰ったんだ。アスカみたいなのをそう言うんだって。意味は教えてくれなかったけど」

「どうせ碌な事じゃないでしょ」

 

 意味も分からずに千雨から聞いたネギはアスカと顔を見合わせて首を捻った。

 コンピュータ関係の言葉らしいが、こういうのはウェールズで刑に服しているもう一人の仲間が詳しいのでアーニャにも分からない。分かるとすれば、コスプレ癖とネットアイドルであることを知られてから周りの目が無い時に限定して遠慮のない千雨の悪口だということだけだ。

 

「そういえば、なにか長に貰ってなかった?」

「ああ、あれか」

 

 駅で詠春からネギに手渡されていたのを思い出したアーニャが言うと、アスカが網棚に乗せてある荷物を見る。

 

「長さんが父さんの手掛かりだってくれたんだ」

「なんなんだろうな」

 

 早く中身を見てみたいという欲を隠そうとしないアスカに笑ったネギは、小さく欠伸を漏らした。つられる様にアスカも大きく口を開けて欠伸を掻く。昨夜はアスカだけでなくネギも参加して夜遅くまで詠春の自室でナギとの思い出話を聞いていたので寝るのが遅かった。

 朝は朝で鶴子の妹である素子がやってきて、強者に反応してバトルマニアの気が反省を超えて再燃したアスカに巻き込まれたネギも戦った。年下に負けるなとばかりに刹那も超人達のバトルに引き込まれていったのを、アーニャと明日菜は合唱して見送ったものである。

 

「いいわよ、アンタ達は寝てても。私は起きてるから」

「じゃあ、遠慮なく」

「ごめん、ぼくも限界」

 

 許しを得た二人はあっという間に寝入って、規則正しい寝息を立てた。

 みんなが寝てしまったので一人で起きとかなければならないアーニャは高速で流れて行く窓の外を眺めた。

 

「バカ……」

 

 さっさと寝た双子に悪態をつき、一言ではとても言えない感情をアーニャは抱いていた。

 

「私はアンタ達みたいに強くなれないのよ」

 

 その言葉はまるで、将来双子と別れる道を暗示しているようでもあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハワイのとある町のストリートで一人の少女が泣きそうな顔で俯いていた。天然でウェーブの入った長い茶髪の髪の毛を垂らした少女は、顔を上げることも出来ない。原因は少女の目の前の人物にあった。

 

「ちょっとアンタ! この間の占い全然当たらなかったわよっ!」

 

 少し年がいった女性は怒鳴り、少女が座っている前に置かれている水晶が置かれた机をバンと強く叩いた。

 少女は人の怒りに敏感だった。怒りを向けられるだけで身が竦んで何も出来なくなる。以前ならば、少女の危機をどこからか感じ取ってかけつけてくれた男の子も、怒りを示す者に理論立てて反論してくれる男の子も、彼らと一緒に自分を救ってくれた少女はいない。今は一人で、孤独に奮えてることしか少女には出来なかった。

 

「なにか言ったらどうだい!」

 

 恐怖と情けなさで貝のように口を閉じている少女に、尚も女性の怒りは収まらない。少女はただ歯を食い縛って耐えることしか出来ない。

 

「ちっ、そんな的外れな占いしか出来ないならさっさと辞めちまいな!」

 

 何も言い返そうとしない少女に最後に吐き捨てて、女性は怒りを示すように足音も去って行く。

 女性の怒り具合を近くで見ていた少年二人が、慌てて道を譲るほどの様子だった。

 怒りを発していた女性がいなくなっても少女は目元に涙が流れないように歯を食い縛り続けた。

 

『卒業したんだからその直ぐに泣く癖も直しなさいよ』

 

 思い出すのは先に修行先に向かうためにウェールズを立たなければならないことが分かって、空港まで見送りに来てくれた親友の言葉だった。今の少女の心の支えは過去にしかなかった。

 

「やーい、嘘つき占い師」

「嘘つきはどっかに行っちゃえ」

 

 同年代ぐらいの少年達に馬鹿にされても、少女は泣かなかった。泣かないことだけが少女に残されたただ一つの意地だった。でも、意地を持っても辛いことに変わりはない。占い道具を片付けて逃げるようにストリートから去った。

 向かうのは居候先の魔法使いの屋敷。だが、そこに向かって歩いているはずの少女の足取りは軽快なものとはいかなかった。

 足取りも重く辿り着いた先にあったのは、ハワイには不釣り合いな洋風の豪奢な屋敷である。

 

「…………失礼します」

 

 何度も躊躇いを覚えながらも、二ヶ月以上経っても未だに慣れない屋敷の扉を開く。

 開いて真っ先に見えたのは、外観に似合った豪奢な内装だった。魔法使いの家系の生まれといっても一般家庭と生活レベルが変わらない少女にとっては、違和感どころか肌に合わない感じが甚だしい内装だった。

 

「……………」

 

 扉と称するのが相応しい玄関を開けたホールにはメイドの恰好をした女性が掃除を行なっていた。玄関から入って来たナナリーを見ると一瞬だけ手を止めたが、やがて興味を失ったかのように掃除の手を再開する。

 屋敷の主人が受け入れた見習い魔法使いに失望していることから、少女に対する風当たりは悪いどころかまるで存在しないかのように無視されていた。外では罵倒され、居候させてもらっている家ではいない者として扱われる。少女の心は限界だった。

 そんな少女に屋敷で話しかけるのはたった一人。その一人が階段の上に立っていた。

 

「あら、出来損ないの魔法使いじゃないの。今日もお早いお帰りね」

「…………お嬢様」

 

 階段の半ばで見下ろす同じく伸ばした茶髪にウェーブをかけたこの屋敷の娘に、同年代にも関わらず少女は畏まった。お嬢様に嫌味を言われているのは慣れている。

 

「相も変わらず暗い子。なんでこんな子が私と似ているのかしら」

 

 どうやらお嬢様は初対面時から少女のことが気に入らないらしく、ことあるごとに罵倒してくる。

 髪型や同年代なので体格が似るのは仕方ないが、顔立ちまでどこか似通ってしまうことで同族嫌悪にも似た感情を抱いているようだと少女は考えた。

 

「さっさとお国に帰ってほしいものだわ。あなたの陰気な顔を見ているとこっちまで気が滅入ってくる」

 

 この屋敷で唯一少女に話しかけてくる相手であるが、罵倒と無視のどちらが嫌かで比べるのはナンセンス。

 

「すみません。体調が優れないので失礼させてもらいます」

 

 少女は顔を伏せてお嬢様の顔を見ないようにしながら横を通り過ぎようとした。だが、階段の途中で立ち止まっているお嬢様は横を通り過ぎようとした少女の手を掴んだ。

 

「待ちなさいよ。このあたしが話しかけてあげているのにその態度はないんじゃないの」

「本当に体調が悪いんです。お願いですから手を離して下さい」

 

 頑として顔すら見せない拒絶に、お嬢様の目の奥の感情が揺れたが少女は気付かない。

 

「なら、日本から送られて来たっていうこのエアメールはいらないわね」

「え?」

 

 少女が顔を上げた先には、お嬢様が取り出した手紙があった。

 裏側になっているので宛名は見えないが送り主の名前は見えた。「アンナ・ユーリエウナ・ココロウァ」「ネギ・スプリングフィールド」「アスカ・スプリングフィールド」と三人分の名前が書かれた奇妙な手紙は、少女がそれだけを心の支えにしていた大切な人達からの贈り物だった。

 

「一ヶ月も前に届いたこのエアメールを隠していたお父様から掠め取って来たのに、あんたはいらないのね」

 

 この屋敷の主がスプリングフィールド兄弟の受け入れを望んでいたことは、後になって目の前のこのお嬢様から知らされた。当初から少女への風当たりがきつかったのは目的の人物が来なかったことなのだと知ったのは、この地に来てから一ヶ月も後になってからだった。

 無理からぬ話だと、少女はお嬢様に言われてから強く思う。この十年で最高の成績で卒業したネギと成績最低ながらも抜群の戦闘センスのアスカ。この二人と比較してなんの特徴も無い自分が来て、屋敷の主人はさぞ落胆しただろうと申し訳なくすら感じていた。

 

「いります。下さいっ」

 

 少女の常にない強い語気に驚いたお嬢様は言われるがままにエアメールを差し出す。そして自分が少女の命令に従ってしまったことに耳を紅くして、顔を逸らした。

 

「ふん、確かに渡したから。うちの家名を穢すことだけはしないでよ」

 

 今までの言葉の裏を返せばお嬢様の言葉の意味も変わってくるのに、多方面から追い詰められている少女は気付かなかった。

 優雅に髪の毛を後ろに払って階段を降りて行くお嬢様の去り際の言葉に傷つきながら、少女は唯一の繋がりである手紙を持って与えられた二階の部屋を目指した。

 少女に与えられた部屋は二階の角部屋。本来ならば物置として使用されていた部屋を、急遽少女の部屋として改装された部屋である。自室の部屋のドアの前で、ここでもまた少女は重い溜息を漏らしてドアノブに手をかけた。

 ギィッと立てつけの悪い音と共に開いたドアの向こうから埃っぽい空気が漂ってきて少女は咽た。屋敷が綺麗に掃除されているだけに喉に来た。

 

「ゲホゲホ」

 

 開いた先の部屋は陰気だった。窓がなく換気していないのと、外の世界との関わりを極力失くしたい少女がドアを開けておくことはしないので空気も澱んでいて埃っぽい。 

 急造の電気スイッチを押してドアを閉めたが、天井から繋がっているランプの灯りは決して十分ではない。魔法で灯りを灯すぐらいならば少女でも出来るが、屋敷の主より使用を禁じられては従うしかない。

 

「アーニャからの手紙」

 

 何時もなら少女が足を伸ばして寝られて、脇に荷物を置くぐらいのスペースしか無い部屋に陰鬱な気分になるところだったが今日だけは違った。

 開けた形跡のあるエアメールから中の便箋を取り出した。薄暗い灯りでは読み難いが、読まないという選択肢はない。

 

『拝啓、ナナリー・ミルケイン様』

 

 少女――――ナナリーは、おしゃまな性格の親友アーニャに似合わない固い文言に顔を綻ばせた。改まって手紙を書くことに戸惑い、何度も何度も書き直した跡が僅かに残っている。ナナリーのことを思って頑張ってくれただけで嬉しかった。

 

『私達が日本に来て一日目が過ぎようとしている時にこの手紙を書いてます。そちらはハワイとのことですが、いかがお過ごしでしょうか』

 

 悪い事ばかりだが、こうやってアーニャと手紙を読むだけでハワイに来たなにもかもが些末なことのように思えた。今この時のこと限りだとしてもナナリーにはそれが全てだった。

 

『ボケ双子どもは相変わらずです。何時もの通りに騒動に巻き込まれ、私が火消しをしています。教師も大変で、早くも魔法学校時代が懐かしいです』

「私もあの頃に戻りたいよ」

 

 あの頃は宝石のように輝いていた、とナナリーは過去に思いを馳せた。懐かしいと書いているアーニャと戻りたいと願っているナナリーとでは想いが違うと分かっていても。

 

『過去を懐かしがるのはここまでにして、この手紙を書くことで未来に目を向けて行きたいと思います。ナナリーも同じ気持ちでいてくれた嬉しいかな』

 

 最後だけ言葉を崩したのはアーニャの茶目っ気か。過去に縋っているナナリーは同じ気持ちになることが出来ず、アーニャの手紙を読み続けた。

 

『そちらも大変だと思いますが、こちらも頑張っていきます。お互いに成長した姿でまた会えることを願って筆を置かせてもらいます。どうかお元気で』

 

 書いた主の性格を現す様に短い文章は、そこで終わっていた。豆電球の淡い灯りに照らされた下で何度も何度も手紙を読み返す。

 飽きるほどに、穴が開くかと思うほどに、何度も何度も読み返したナナリーは、やがて手紙を胸元に抱きしめた。

 

「アーニャ……」

 

 この手紙を読んだら頑張らざるをえない。

 せめて勇気が出るように手紙を胸に抱えることでナナリーは過去に縋り続けた。

 

「でも、辛いよ」

 

 未来に目を向けることが出来なくて、アーニャは昔から思い続けている少年の背中を思い浮かべた。何時だって危機をどこからか感じ取って駆けつけてくれた、ナナリーにとってのヒーロー。

 

「助けて、アスカ君…………」

 

 孤独に震える少女の傍に、太陽の輝きを持つヒーローはいなかった。

 




始動キー……。


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第8話 新学期パニック

『きゃあっ』

 

 とある少女が夕暮れに染まる町を歩いていると、突然吹いた風に長めのスカートが捲くられて悲鳴と共にスカートを抑えた。だが、直ぐ横を中学生ぐらいの男子二人が横を通りかかったのに見向きもしない。このぐらいの年齢なら老女のスカートであっても思わず視線が移ってしまうはずなのに、だ。

 

『うう…………』

 

 皆の周りに悪い子じゃないけどちょっと目立たないと言うか、存在感がないと言うか。いるのかいないのか分からない子っていないだろうか。大体いるだろう、クラスに一人くらいそういう子って。実は少女もそういうタイプの一人だった。

 なにせ…………幽霊だから。

 仕方ないと言えば仕方ないかもしれない。幽霊だから。

 少女―――――相坂さよは地縛霊を始めて60余年になる。だけど、幽霊の才能が余りないらしくてイマイチ存在感がないって言うか、あんまり気付いてもらない。あまりにも存在感がなさすぎて、どんな御払い師や霊能者にも見えない筋金入りである。

 

『ひっ………誰ですか!?』

 

 それに、カタンと机が鳴るだけで驚くぐらいにとっても怖がりで夜の学校は何か出そうで怖すぎるという理由で、最近は朝まで近所のコンビニやファミレスで過ごしたりしている。幽霊なのに夜の学校が怖いとはこれ如何に。地縛霊なのに学校の近くなら出歩けるという摩訶不思議。深夜のコンビニって何か安心しますよね、とは本人談。

 幽霊としても駄目駄目だと感じている彼女は、只今彼氏ならぬ友達募集中。本人としても相手を怖がらせるだけで、駄目だとは分かっている。性格は暗いし幽霊だし…………と考えながら、いくら幽霊でも何年も話し相手がいないとちょっと寂しかったりする。

 

『明日から新学期か』

 

 薄暗い教室である。窓の外は太陽が沈んでいき日没が近い。人気のない寂し気な明日から3-Aになる教室で、本来なら誰もいない学び舎に声ならぬ声が響く。

 

『誰か私に気づいてお友達になってくれないかな……?』

 

 寂くて変わりのない日常に小さな変化。夜の教室で一人呟く彼女の運命の分かれ道が迫る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 春休みも終わって新学期になり、始業式とか諸々あったわけだがこれといって語るべき事もないので省く。

 京都から留学生として派遣された天ヶ崎千草は、2-A改め3-Aの担任を受け持つ事となった。そして初っ端から口の端を引き攣らせていた。

 

「3年!」「A組!!」『ネギ先生~っ! あ~~んど アーニャ先生ーっ!』

 

 鳴滝姉妹が昨日の夕方に再放送していた金○先生のマネをし、新学期最初の日と言う事もあってか異常な位にテンションの高すぎる生徒達が追従する。

 学年が上がってもクラス替えは一切行われていない。使用する教室も全く同じなので教室のプレートが取り替えられるだけだが、それでもお祭りのように盛り上がれるA組の生徒達のバイタリティには驚かされるというか、呆れるというか。クラスの後方にツッコミを内心でしている千雨と夕映が呆れ返っているが、千草以外に他に気づいた人はいないようだ。

 

「他のクラスの迷惑になるから、もう少し静かにしいや」

『はーい、天ヶ崎先生もよろしくお願いします!』

 

 騒いで新田に怒られるのは新任なのに担任を任された千草である、注意を促すと、生徒達も了承してくれたようで声を小さくして返事が返って来る。以外に素直な生徒にホッとした面もあったが、クラスの面々の多国籍振りと上と下の見た目の差の激しさに内心では動揺しまくりであった。

 

「引き続き担任補佐を任されたネギ・スプリングフィールドです。改めましてよろしくお願いします」

「同じくアンナ・ユーリエウナ・ココロウァよ。これから来年の三月まで一年間よろしく」

 

 しかも同じく教壇に上っているのが子供先生二人ときている。みんながそんなネギ達をニコニコと嬉しそうに笑っている中、特にあやかなどは余程ネギが続けてこのクラスに関わるのが嬉しいのかハートを撒き散らしている。

 学期末の二ヶ月をほぼ二人だけでクラスを纏めていたと聞けば、子供だけにクラス運営を任せる学園長の頭の中を覗きたい気分である。こういう利己的な面が自分は教師に向いていないのではないか、と千草は不意に思った。だが、こうなっては向き不向きは関係ない。

 教室を見渡して欠席がいないことを確認して、ネギが前の学期に持っていた通信簿に出席をつけて内心で溜息を吐いた。

 しかも事態はそれだけに留まらないのだ。教壇に上っているのは四人なのだ。後一人が挨拶していない。その最後の一人がしずしずと前に出た。

 

「副担任を任されましたネカネ・スプリングフィールドです。何人かと春休みの間に面識がありますが、どうか弟妹共々宜しくお願いします」

 

 今度こそ極め付けである。まさかの兄弟妹の保護者の登場であった。教室真ん中の最後尾で眼鏡をかけた少女が額を机に打ち付け、状況の信じられなさに打ち震えているのに同意したい千草だった。

 

「まずは――」

 

 何故かチョークを取り出したネカネは、その大人しげな所作とは裏腹に手裏剣を投げるような体勢に移行した。

 

「そこの居眠り生徒は目を覚ましなさいっ!」

「――っ!?」

 

 神速の速さで投げつけられたチョークは、目を開けて普通に話を聞いている様子だったアスカに向けて投げられて見事に命中した。

 チョークが当たったとは思えない音を三度響かせた直後、当たった張本人――――アスカ・スプリングフィールドは仰向けで床に倒れた。

 

「……い、痛ぇ!? 怪物の敵襲か!?」

「誰が怪物よ」

「おぎゃんさら!?」

 

 床に倒れたアスカが痛みに呻きつつ起き上がりながらの発言に眉をキュッと顰めたネカネから第二弾が放たれ、見事に命中した。

 倒れたアスカは、次は起きて来なかった。隣の席のエヴァンジェリンが床を見るとアスカは額を抑えて痛みに悶えていた。

 その運動能力と武力で武道四天王と並び称されていたアスカをたった二発でノックアウトしたネカネ。鍛えているアスカを直ぐに起き上がれなくさせるほどのチョークを投げたネカネの技量にクラスの殆どが震撼した。

 

「私がいる限り、サボリや授業中の居眠りは許しませんから皆さんもそのつもりで」

 

 ニッコリと微笑みつつ、どうやってか一瞬の内にさっきまでなかったはずの全ての指の間にチョークを挟んだネカネに、逆らう気概がある者はこの瞬間にいなくなった。エヴァンジェリンでさえ、封印が解ける僅かな間なのだからサボリや居眠りは自重しようと心に決めたほどだった。

 アスカが数発でノックダウンするほどのチョークを、今はひ弱な肉体で受けることは死を意味する。挟持より安全を取った真祖の吸血鬼であった。

 

「では、後はどうぞ天ヶ崎先生」

「この凍った空気をどうせえってちゅうねん」

 

 お前こそ担任やれよと突っ込みたかったが、ネカネは教員免許を持っていないので(これはネギとアーニャも同じだが)、文句を学園長室で既に却下されたことなので千草は今度こそ溜息を表に出しつつ気を引き締めた。

 

「今学期から担任を任されることになった天ヶ崎千草や。よろしゅう頼む」

 

 先のネカネのお蔭でクラスが静まり返っていることを喜ぶべきか恐れるべきか。千草は努めて気にしないことにして話を進めた。

 

「早速やけど、決めなあかんことがある」

 

 スーツに慣れていないながらも生来の度胸の良さを発揮する千草が完璧に教師に見えたことは、彼女にとっての不幸だろうか。

 

「4月22日にハワイへの修学旅行を控えてるのに、このクラスだけ班が決まってないらしいやんか。新学期恒例の身体測定やけど、他のクラスの先生方が気を使って最後の順番にしてくれたんやから感謝するように」

 

 麻帆良学園において、中等部の修学旅行は他の学校と違い三年生の春に行われる。普通の学校では修学旅行は二年生の時に行うのだが、麻帆良学園はエスカレーター式学校なので特別に受験のために時間を割く必要がなく、外部の学校を受験する生徒以外は高等部への進学は決まっているため三年の時期に行っても何の問題もない。また小等部や高等部の修学旅行と重ならないように4月という時節となる。

 もし、受験が重視されていれば新任の子供先生が三年の担任に選ばれることなどなかった筈だろう。それと中等部だけでも人数が多いので、クラスごとに数箇所の目的地から選択する方式が取られている。

 そんな中で目的地の候補は京都かハワイに絞られた。

 修学旅行の定番である京都が残された理由は幾つかある。3-Aには留学生、帰国子女が多く担任補佐、副担任補佐の先生も外国人ということで日本の観光名所である古都京都と奈良が選ばれたのだ。

 順当に行けば京都が選ばれる可能性が高かったが、ここは担任権限を使った千草が強制的に変えたのだ。

 

(なにが悲しゅうて出た所に戻らなあかんねん)

 

 という身も蓋もない理由でハワイに決定したことを生徒達は知らない。その裏で、ネギ達が春休みの間に京都に行ったことを知った生徒達が、ならハワイにしようと軽い気持ちで変遷したことを千草は知らなかったりする。更に更にその裏でアーニャが親友に会いに行く為に生徒達に裏工作をしてハワイを選ばさせたことは、ネカネだけが知っていたりする。

 

「今から各自で六人一組の作るように。班員構成は自由。身体測定までに決まらんかったら出席番号順やからな。はい開始」

 

 わー、と予告も無く始めたことなので生徒達が慌ただしく動く。

 全体的に仲の良いクラスであっても個々人で繋がりや仲の良さに差がある。あまり喋らないクラスメイトと折角の修学旅行を共にするのは、後々の思い出に残すのはあまりよろしくない。

 各自が仲の良い旧友と班を作ろうと、3-Aの教室は一斉に慌ただしくなった。

 

「やれやれ」

「ご苦労様です」

 

 せわしない女学生達の様子に在りし日の自分を思い起こしかけた千草は溜息と共に感傷を吐き出し、その様子が分からなくもないネカネが微笑を浮かべつつ労った。

 労ってくるネカネを上から下まで見た千草は一つの感想を抱いた。

 

「アンタ、スーツが壊滅的に似合わんな」

「そうですか? 私としてはまあまあかなと思うんですけど」

 

 年齢のこともあるだろうが、意外に様になっているネギを除けばアーニャとネカネはスーツに着られているような印象を受けた。今もくるりと回ってスーツの様子を確かめるネカネなど、高校卒業前で就職活動をするために買ったばかりの新品に腕を通したばかりだという印象そのものだ。

 年的に二十を超えたか超えてないかぐらいらしいので、日本人の常識が叩き込まれている千草には違和感の塊でしかなかった。近くにいたネギもアーニャも千草の意見に頷いているのだから、千草の見立てもあながち間違っていない。

 

「でも、なんでお姉ちゃんも教師なの?」

「しかも私達より立場上だし」

 

 純粋な疑問を浮かべるネギに対し、アーニャはお姉ちゃんが自分達よりも立場が上なことに若干の嫉妬の視線を向けていた。

 

「私としてはどんな仕事でも良かったんだけど、学園長がどうせなら教師をやってみないかって仰ってくれたの。あなた達のことも気になってたし、丁度良いかなって引き受けたの」

 

 そんな軽い理由で教師を引き受けるな、学園長も与えるな、と色々な方面に突っ込みたい突っ込みたい気持ちを無理矢理に封じ込めた千草は、最近増えた溜息をまた漏らした。ネギ達と関わってから不幸続きな千草だった。

 にこにことご機嫌なネカネから千草に顔を向けたネギが口を開いた。

 

「小太郎君はどうしたんですか? 一緒に暮らしてるって聞きましたけど彼もこっちに?」

「まだや。これが隠せんで、向こうに足止めや。来たがってたし、直に来るやろ」

「あの犬も来るの」

 

 耳元を指し示す千草に納得した様子のネギだったが、その横でアーニャは顔を顰めていた。どうもアーニャは小太郎がいるとアスカが悪乗りして被害が大きくなるので来てほしくないらしい。

 

「小太郎君って、アスカに似ているっていう?」

「外見じゃなくて中身がだけど」

 

 人物だけは聞いていたネカネに如何に二人の中身が似ているかを熱弁するべきかとアーニャが口を開いたところで、教室最後尾でアスカが首を起こした。

 

「くそ……、無駄に痛ぇ」

「自業自得だ。第一印象は後に響く。最初ぐらいは起きておくものだぞ」

「知るか、んなこと」

 

 椅子を支えにしてどうにか起き上がったアスカに、十五年の中学生生活を送って来たエヴァンジェリンがアドバイスするも今のアスカに受け入れる度量があるはずもない。

 腫れて赤くなっている額を擦りながら、ガクガクと震える膝を支えながら苦労して椅子に座る。はふー、と息を吐いたアスカは慌ただしく教室内に動き回る生徒達に今更気が付いた。

 

「なに騒いでんだ、みんな?」

 

 首を捻るアスカの横でエヴァンジェリンは周りの生徒達を気に入らなさそうに頬杖をつきながら見ていた。

 

「修学旅行の班決めだと。新担任にいいつけだ。早く行かないとお前も乗り遅れるぞ」

「エヴァはいいのか?」

「私はどうせ呪いの所為で行けん。班など、どうでもいい」

 

 班決めではなく修学旅行に行けないことを悔しがっているエヴァンジェリンはアスカの問いに機嫌悪そうに答えた。

 ふ~ん、と対して興味なさそうに隣に座る少年に更にイラツキが増す。

 

「大体、どうしてハワイなのだ。修学旅行といえば普通は京都だろ」

 

 あまりクラスに積極的に関わらないエヴァンジェリンでも、修学旅行先選定の段階で京都行きが圧倒的多数を占めていたことを知っていた。茶々丸は自分の傍にいて行けないので、超や葉加瀬辺りにお土産でも頼む気持ちだったのだがハワイでは風情がなさすぎる。

 何時の間にか修学旅行先がハワイになっていることが気に入らなかったようだった。

 

「俺達が春休みの間に京都に行ってたからじゃねぇの」

「なに?」

「アーニャが自分から吹聴して回ってたから、なら京都は止めてハワイみたいな感じになってんじゃないか」

 

 な、と同意を求められたところで、アスカ達が春休みの京都に行っていたこともアーニャが吹聴して回っていたこともエヴァンジェリンには全くの初耳だった。

 

「聞いていないぞ、私は」

「言う必要ないだろ。敵みたいなもんだろ俺達」

 

 そう返されてはエヴァンジェリンにはぐぅの音も返せない。弟子入りを求めて来たアスカ達を試すために一戦やらかすことを決めたのは彼女自身であったのだから。

 アスカは不思議なほど馬が合った(不良学生として)ので行動を共にすることはあっても、裏の関係では半ば敵みたいなものである。ネギとアーニャに至っては教師と生徒に過ぎず、一々近況を報告する仲でもない。

 教室にあまり居たがらないエヴァンジェリンはクラスの噂には疎い。アーニャはそこを分かった上で行動していたのだ。

 

「今からでも京都に変えろ。京都のどこかにはナギの奴が一時期住んでいた家があるはずだ。そこになにか手掛かりが」

「別荘には行ったし、詠春から手掛かりっぽいやつももらったぞ」

 

 せめてもの情報を出せば既に行った後の手に入れた後であった。勝負の後に勿体ぶりながら披露しようと考えていたネタをあっさりと先回りされて、ちょっと泣きそうになったエヴァンジェリンだった。

 

「アスカ、一緒の班になろ」

 

 葛藤を抱えていたエヴァンジェリンは明日菜の声に顔を上げた。そこにいたのは春休み後からグッとアスカと距離が近くなっている神楽坂明日菜。その後ろに満面の笑みを浮かべる近衛木乃香と苦笑を浮かべる桜咲刹那という対照的なコンビがいた。

 

「俺でいいのか? 図書館島探検部の三人と組むんじゃねぇの」

「あの三人と組んじゃうとアスカと組めなくなっちゃうから、ゴメンって謝って来た」

 

 アスカが視線を動かすと、ニヨニヨと気持ち悪い笑みを浮かべて頭の上の触覚染みた二本のアホ毛をピンと逆立てた早乙女ハルナがいた。

 

「ラブ臭よ。強烈なラブ臭がするわ。まさか女子校でラブロマンなんて夢がありすぎじゃない」

「なにを言ってるのですかハルナ」

「変なこと言っちゃ駄目だよ」

 

 興奮したチンパンジーの如きハルナを諌める綾瀬夕映と宮崎のどかを見たアスカは首を傾げつつ、正面の明日菜を見た。

 

「あの三人が納得してんなら俺はいいぞ」

「じゃあ、後二人ね」

 

 背景にお花畑が咲きそうな明日菜の様子に、そういう回路が錆び付いているようなエヴァンジェリンも流石に気が付いた。

 

「二人二人ね…………お、丁度いい二人組がいた」

「ん?」

 

 どうやって聞き出すかと思考を巡らせていたエヴァンジェリンは、アスカが良いことを思いついたばかりに自身を見ていることに気が付いた。

 

「エヴァと茶々丸、丁度二人じゃんか。お前ら俺の班に決定な」

 

 自身と前の席にいた茶々丸を指差しながらのアスカの決定に、当然のことながらエヴァンジェリンは不快を露わにした。

 

「勝手に決めるな。そもそも私達は修学旅行に行かん」

「いいのですかアスカさん、二人は」

「俺が決めた。行く行かない関係なしで、どうせ班員になってくれる奴もいねぇんだ。大人しく従っとけ」

「…………好きにしろ」

 

 アーニャから事のあらましを軽く聞いていた刹那が言いかけるが、上から封じるようにアスカは封殺した。傍若無人なアスカの決定に逆らうか怒るかすると思われたエヴァンジェリンは意外なほどあっさりと了承した。

 

「これで六人揃ったなぁ。茶々丸さんもよろしく」

「こちらこそ、よろしくお願いします木乃香さん」

 

 天然な木乃香とロボット故の規定通りにしか動けない茶々丸が挨拶し合ったりしていたが、このやり取りに疑問符を抱いていたのは刹那だけではなかった。

 

「どうしたのエヴァちゃん? やけに素直じゃない」

「エヴァちゃん言うな。…………こっちにとって都合が良いだけだ」

 

 明日菜に言い返したエヴァンジェリンだが理由は言わなかった。単純に後になって余り者同士で班を組むのが、行かないとしても恥ずかしいと言えるはずもなかった。

 班が決まらなくて千草が出席番号順に班を作ると言い出したらクラス中の批判が向けられない。小娘の批判ぐらいどうということはないが、自分から下らないことで問題を起こして注目を浴びることは避けたい。

 アスカの命令口調は気に入らなくても都合が良いのは事実だった。

 

「ふん、礼は言わんぞ」

「気にすることでもねぇ」

 

 明日菜が不審に感じるほど、二人の間に流れる空気は陰険ではないが明るいものでもなかった。極自然と隣にいることを許し合っている空気という感じだが、そこまで明日菜に分かるはずもない。この二人に何かあるのだろうかと、後で事情を知っていそうな刹那を問い質そうと心に決めた明日菜だった。

 木乃香と二人掛かりになれば、刹那は木乃香に隠し事をしていたこともあって詰問されると申し出を断れないことを明日菜は知っていた。

 

「大体、班が決まったようですね」

 

 明日菜に問い質される未来を感じ取ったのか、体をブルリと震わせた刹那は辺りを見渡しつつ呟いた。

 刹那の言う通り、教室の中は六人毎に固まっていた。

 雪広あやか、那波千鶴、長谷川千雨、朝倉和美、村上夏美、ザジ・レイニーデイ。

 柿崎美沙、椎名桜子、釘宮円、春日美空、鳴滝風香、鳴滝史伽。

 超鈴音、葉加瀬聡美、四葉五月、長瀬楓、古菲、龍宮真名。

 大河内アキラ、和泉亜子、明石祐奈、佐々木まき絵、綾瀬夕映、宮崎のどか、早乙女ハルナ。

 神楽坂明日菜、近衛木乃香、桜咲刹那、アスカ・スプリングフィールド、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル、絡繰茶々丸。

 一組だけ六人を超えているが、アスカも入っての人数だとそうなるので仕方ない。

 

「良かった。これならなんとかなりそう」

 

 心配された図書館島組三人も、同じバカレンジャーがいるまき絵がいる班なら問題なさそうだと明日菜は安心した。

 アキラや亜子にしても性格的にいえば大人しい方なのでのどかと衝突することもない。ハルナと祐奈はクラスを盛り上げるタイプでよく一緒に騒いでいるの仲も悪くない。順当な班員構成に明日菜はホッと胸を撫で下ろした。

 折角の修学旅行なので班員構成に問題があるようなら責任を取って行動しなければと思っていたのだが、そうせずにすみそうだ。

 これで決まりかとクラスの空気が固まりかけた中でアスカが動いた。

 

「相坂がまだ決まってないじゃないか。お~い、相坂」

 

 クラスの大半がアスカの突然の呼びかけに疑問符を浮かべ、誰のことだったのかと記憶を掘り返した。

 

『え? わ、私のこと見えるんですか?!』

「普通に見えるけど?」

 

 普通に見て会話していることだけなのに、慌てて飛んできた(誤字に非ず)さよがどうして驚いているのか分からず頭を捻るアスカ。

 

「アスカ、誰と話してるの?」

 

 近くにいた明日菜が誰もいない虚空に向かって一人で話しているアスカに気付いた。

 

「ん? ここにいる相坂に……」

 

 アスカとしては普通に見えて、普通に話しが出来て、ネギに見せてもらった名簿にも載っていたので全員が知っているものだと考えていた。

 

「どこ?」

「いやだから、ここに」

 

 丁度、さよがいるところに指を向けながらも、ようやく周りが明日菜と同じように自分に訝しげな視線を向けていることが分かった。

 

『あ、あの私って存在感なくてどんなお祓い師や霊能者にも見えなかったみたいで」

 

 さよの言葉を吟味してアスカもようやく答えに辿り着いた。よく見れば、彼女は地に足をつかないどころか根本的に足がない。なんとなく頭の左右の上辺りに人魂らしきものがあるような気がする。

 

「へぇ、つまりは幽霊ってことか。始めて見たな」

「「「「「「「「「「は?」」」」」」」」」」

 

 状況と見聞からさよの存在について推測が立ったので口に出すと、クラス全員の声が見事に唱和した。

 

「そう言えばウチの教室に出るって噂は昔からあったなぁ。ここ数年は全然なかったようやけど」

 

 アスカの推測を裏付けるように木乃香が噂を思い出すように顎に手を当てながら呟く。

 

『はい! 正確には地縛霊です!』

「地縛霊か。成る程、だから誰も見えてなかったのか。なんかのゲームかと思ってた」

 

 ようやく自分が見えて話せる人と出会えて興奮気味のさよが若干の訂正を加え、驚愕の事実を前に腕を組んで「これで納得がいった」とばかりに頷いているアスカ。

 周りはといえば、目が点になっていた。

 

「「「「「「「「「「ええっ~!!」」」」」」」」」」

「『ん?』」

 

 直後、驚天動地の大騒ぎになっていた。

 騒ぎ出した級友達が理解できずに頭を捻る二人の姿があり、アスカの新学期初日は今までの人生と同じように波乱に満ちた幕開けを迎えた。

 

「こら! 静かにしなさい」

「皆さんもう少し声を落して」

「もう嫌や、このクラス」

「まあまあ」

 

 幽霊騒ぎに爆発したクラスを沈める為に渦中のアスカに向けて突撃して行った子供先生とは裏腹に、こんな騒ぎに耐性のない千草は早くも上手くやっていく自信を無くして教壇に伏していた。

 そんな千草を慰めるネカネには動じた様子がない。流石はアスカの従姉弟だと騒ぎから抜け出したエヴァンジェリンは嬉し泣きしているさよを見ながら思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(あれ? ここ、どこ?)

 

 神楽坂明日菜は夢を見ていた。

 

「ん……」

 

 体は仰向けになっていた。眠っていたのだから当然だと、その時は思う。とはいえ、初めはそれが夢とは分からなかった。

 目は開いていて、最初に目に飛び込んできたのは満天の星空。こんな場所に来た記憶は無く、コレほどまでに綺麗な光景ならば記憶に残っているはず。となれば、やっとこれが夢だと理解した。

 今のところ、別段悪夢と言うわけではない。そんな時は、いつも早く目が覚めないかと念じるものだけれど、もうしばらく眺めていてもいいと思う。そう、夢とはドラマを見るような第三者の視点から見る感じと似ていた。

 

(砂漠?)

 

 今いる平らな岩の向こうは夜のために判別はしづらいものの砂の海、砂漠のように見えた。

 近くで、パチパチと何かの弾ける音が聞こえる。焚き火の中で木が爆ぜる音だろう。人の営みを感じさせる明るさと暖かさに上半身を起こしてそちらを見ると、そこに、灰色のスーツを来た男が座っていた。

 焚き火を眺めながら煙草を吸う彼の顔は、赤く染まっている。何かを考えている様子であったが、明日菜が出した声に気付いたらしく、彼はこちらに視線を向けた。自分の好みである渋い顔の彼は、同じく好みの渋い声を発した。

 

「よお、起きたか嬢ちゃん」

 

 自分好みドストライクの相手が直ぐ傍にいることに驚きつつ誰だろうと内心で首を捻ったつもりだったのだが、それに反して体は動かない。精神と肉体がそれぞれ別行動をとっている感じで、不思議な気分に襲われた。

 夢なので思い通りに動かないと言ってしまえばそれまでであるが、どうしても惜しい気がした。そう、何故かどうしても惜しい気がしたのだ。

 

「顔、洗うならあっちだ」

 

 渋い男性が咥えタバコのまま指差したのは、直ぐ近くにあった顔が洗える水場がある所。

 

「うん」

(あ、ちょっと何処行くのよ。もうちょっと見させてってばオジサマを!?)

 

 夢の中の明日菜は素直に頷き、脳内の明日菜の想いとは裏腹に男性の言葉に従って移動する。どうしてか懐かしい気がする彼の顔をもう少し見たかったけれど、体は勝手に水場へと向かうも何故か視点がいつもより低い気がする。

 向かった先には浅い水場があった。水を掬おうと膝をついた時に、夢の中の自分をはっきり見ることができた。

 

(ん? これ、私? 小さい頃の……私……?)

 

 水面に映ったのは、あまり昔の自分の姿というのは記憶に残っていないものだが、今と同じツインテールをした毎日見ている自分を幼くしたような姿だった。

 幼い時の自分、愛想の欠片もなかったころの自分が、そこにいた。着ている服は小学生の頃の制服に似た、上と下が一体化した服。今と違うのは鈴のついた髪留めがついていないことだろうか。

 

(キレイな星空……。何で私、こんな所にいるんだろ)

 

 水場で顔を洗った小さな明日菜は満点の星空を眺めていた。記憶にない出来事に混乱していたのもあるだろう。地上に光が少ないからか、麻帆良で見るそれより星の数はかなり多く感じる。

 

「帰ったぜー」

 

そろそろ夜明け前。空が白く、明るく。1日の始まりの光に照らされていく中で彼はやってきた。

 

「おっと、早かったな」 

「ネズミみたいなのが三匹取れた」

「みたいのって…………食うのかソレ?」

 

 遠くで、先程の渋い男性とは若い男性の声が響いた。徐々に朝日に塗り潰されていく夜空を見上げていた明日菜が視線を下ろすと、焚き火の側でその二人が何やら話しているのが見える。

 

「お♪ お早いお目覚めだな」

(あれ―――――私……この人、知ってる………)

 

 ネズミらしい生き物の尻尾を持ってプラーンとさせて食えるかどうか悩んでいる渋い男性は別にして、朝日の逆行で時間的に朝食を探しに行っていたらしい男性の表情は窺えないがどんな服装なのかは分かった。黒のインナーに、白いロングコートである。

 

「オハヨー、ナギ」

(でも、ちょっと待ってよ。何で私が知ってるの?)

 

 その彼がこちらに近づいてきたので、その顔をちゃんと見ることができた。ぼんやりと目をこすっていたけれど、顔をはっきり見た自分は何がどうなっているか、全くと言っていいほど分からない。だって、その顔は、あの家にあった写真立ての中でしか見たことがないはずなのだ。それに幼い自分の口から親しみのある慣れた口調で出た目の前の男性の名前を口にしたことが関係していることを表している。

 

「向こうの空見てみな、アスナ。夜明けがキレイだぜ」

 

 そう、まるでネギを大人にしてワイルドな成分を混ぜたような男―――――ネギとアスカの実父であるナギ・スプリングフィールドが自分に向かって笑みを浮かべていた。

 そこで、夢は途切れる。そしてその時にはもう、まるでまだ真実を知るときではないと謂わんばかりに夢の内容はぼやけてしまっていた。後に残ったのは一つ、可笑しな夢だという印象だけだった。

 

「ん、変な夢」

 

 心地の良い温もりだった。陽の光をたっぷりと吸った布団の中――――そこは、人にとって最も身近な楽園だ。柔らかな熱に包まれれば、誰もが少しだけ自分に甘くなる。神楽坂明日菜は、己の意識をまどろみに浮かべていた。

 睡眠と覚醒の狭間でぼんやりと見慣れた自室の天井を見上げて、ゆっくりと身体を起こしながら癖でロフトを見る。

 

「…………そっか、アスカ達はもういないんだっけ」

 

 ネギとアスカが寝泊まりしていたロフトには誰もいない。思わず癖で見てしまってから肩を落とす。

 

「今日は日曜日か……」

 

 幸い、今日は日曜日。お昼近くまで寝過ごしてしまっても罰は当たらないはずだ。うーん、と腕を伸ばして身体の筋を伸ばす。寝起きだと言うことを差し引いても、身体の芯に重さがこびりついているような気がする。

 思ったよりも寝過ぎて逆に疲れてしまったようだった。

 

「よしっ! 今日も元気にいきますか。まずは刹那さんを問い詰めないと」

 

 疲れた体に気合を入れるように声を出し、立ち上がる。

 

「でも、その前に昼ご飯を食べないとね」

 

 起きてから自己主張を繰り返して鳴らしまくるお腹を頬を紅くして押さえ、誰に言うでもなく言い訳のように呟くのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 茶道部の部活動で学校に出て来た帰り。エヴァンジェリンは久しぶりの有意義な時間を過ごしてご満足であった。やはり自分は日本文化が好きなのだと自覚し、よりにもよってハワイ行きを推進したアスカ達に恨み骨髄である。推進したのはあくまでアーニャであって、なにもしていないネギとアスカは冤罪である。

 

「おーい、エヴァ」

 

 今度の決戦でどうやって料理してくれようかと考えていると、小走りの高畑に呼び止められて足を止める。

 

「何か用か、仕事はしているぞ」

「学園長がお呼びだ。一人で来いってさ」

 

 高畑が下っ端のようにメッセンジャーなのは他の人間では無視されると知っているからだろう。学園側の思惑を計りかねるエヴァンジェリンとしてはトップである学園長の呼び出しなら応じないわけにもいかない。

 

「―――――分かった。直ぐ行くと伝えろ。茶々丸、直ぐに戻る。必ず人目のあるところを歩くんだぞ」

 

 自分が離れて茶々丸を一人にすることに一抹の不安はあったが、アスカ達にはそんなことしないだろうと判断して高畑と一緒に学園長室に向かうことにした。

 

「何の話だよ? また悪さじゃないだろうな」

「万が一でも坊や共が襲ってこない様に気をつけろって話だ。この件は爺にも話が通ってるはずだが」

 

 まさか聞いていないことはあるまい、と続けると高畑は苦笑を浮かべた。

 

「アーニャ君なら闇討ちもあるだろうけど、アスカ君がいるなら襲ってくることはまずないよ。良くも悪くも彼は一本木が入ってるから」

 

 断言する高畑にエヴァンジェリンも気持ちは分かった。

 

「親子だからから奴は特にナギと良く似ている。忌々しいほどにな」

「僕も時たま話をしたりしているとナギと接しているような気分になる時がある。おっと、ネギ君にはこのことは内緒にしてくれ。彼はこのことを気にしているから」

「ふん、わざわざ言うものか」

 

 ふと、エヴァンジェリンは横を歩く男がネギ達と昔からの付き合いであることに思い出した。ネギらの話を統計すればウェールズまで良く訪れていたらしく、アスカと良く戦っていたと。

 

「お前の目から見てどうなんだ、アイツらは」

 

 さっきまで聞く気もなかったのに、エヴァンジェリンは衝動的に高畑に聞いていた。

 聞いてから失言だと気づいて口を閉じたが全てはもう遅い。吐き出した言葉は戻らない。

 

「強いよ。一度だけだけど負けたこともある」

「本気でやってか?」

「本気…………ではなかったけど文句のつけようがないぐらい完敗はした。エヴァも気をつけた方がいい。彼らの牙は油断していると君をも食い破りかねない」

 

 信じられない気持ちが言葉にありありと込められているのを感じ取ったのだろう。高畑は負けたことをまるで誇るように胸を張って、力の差が開き過ぎている弱者には油断することの多いエヴァンジェリンに注意した。

 

「ふん、負けたのは貴様が未熟なだけだ」

「それを言われると痛いけど、注意だけはした方がいい。彼らは、強いよ。その拳も心も」

 

 負けたのは嘘でも虚飾でもない真実だと、高畑は言い含めて足を止めたエヴァンジェリンのことにも気づかず歩き出した。

 直ぐに足を踏み出したエヴァンジェリンの裡にあったのは戦意だった。

 

「私は負けん。例え誰が敵であっても」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エヴァンジェリンと別れた後、茶々丸は脇に木や草といった緑が青々と生い茂った川沿いの道を、片手に沢山の缶詰が入っているレジ袋を提げて一定の速さで歩いていた。その茶々丸を見る三つの影。

 

「茶々丸が一人になったわ。チャンス! 一気にシメるわよ!」

「んなことしねぇって」

「今回は偵察だけだってあれほど自分で言い含めてたじゃないか……」

「折角のチャンスなのよ! 見逃さない手はないわ!」

「はいはい、気づかれるから大人しくな」

「ふがふがっ」

 

 茶々丸の25メートル後方の草むらの中に隠れている中で、尾行している目的を忘れて飛び出そうとするアーニャを羽交い絞めにするアスカ。

 アーニャの目的の為なら道理だって引っ込ませるバイタリティには感心するが、目的と手段をはき違えていることに頭痛を感じたネギの三人が茶々丸を尾行している。目的は戦力的に未知数な茶々丸の偵察である。

 これを言い出したのはアーニャなのに、二人に散々偵察と言い含めておきながら飛び出そうとする当たりイイ根性をしている。

 

「うぇ~ん! アタシの、アタシの風船が~」

 

 茶々丸が進む先に大きな木の下で泣いている、まだ小学校低学年ほどの小さな少女がいた。買い物袋を片手に持った茶々丸はその女の子の前で足を止め、風船が木に引っ掛かっているのを見て、背中の一部が文字通り開いてブースターのようなものを生やして飛び上がり、その風船を掴んで降りてくる。風船を掴むときに木に頭をぶつけていたのだが、どうやら痛みはあまり感じていないようだ。

「ありがとー! おねえちゃん!」

 

 空を飛んで風船を取ってくれた茶々丸に少女は嬉しそうに礼を言いながら元気に手を振って走り去り、また茶々丸も少女が見えなくなるまで手を振り返していた。

 その後も大きな道路を横断する為の歩道橋の階段で、苦労していたお婆さんを背中におぶって反対側まで渡り、人気があるのか幼稚園の子供達が囃し立てている。更に進むと、子ネコが入った箱がどぶ川に流されているのを見て自分の身を省みず川に飛び込んで救出、戻ってきた茶々丸の元に集まって来た人たちの拍手を一身に浴びていた様子から町の人気者と言うのが良く分かる。

 そして現在は、救助した子ネコを頭の上に乗せたまま人気の少ない教会に集まる猫たちに、聖母のような優しい笑みを浮かべた茶々丸が餌をやっている真っ最中だった。

 尾行していた一行は茶々丸の行動に感動し、ロボットであることには驚いたがこんないい人ならネギも変な行動はしないだろうと楽観視した。

 

「いい人だ」

「ああ」

「ちょ………ちょっと待ちなさい! ほら、ここなら人目もないし、チャンスよ! 心を鬼にして、一丁ポカーっと!」

 

 茶々丸の行動を隠れて見ていたネギとアスカは素直に感激して、やはり目先の欲に囚われたアーニャの意見は採用しなかった。

 真っ先にアスカが茶々丸の前へと姿を見せた。

 

「…………こんにちはアスカさん。一人になる所を狙われましたか、油断しました。でも、お相手はいたします」

 

 二人は向かい合い、茶々丸はアスカとその後ろにネギとアーニャがいるのを見て此処での戦闘が避けられないと後頭部のネジ回しを外す。

 茶々丸の近くにいたネコ達は二人の間に流れる剣呑な雰囲気を感じて離れて行った。

 

「俺も餌をやっていいか?」

 

 戦意を見せた茶々丸に向かって歩きながら、アスカは戦意を無いことを示す様に手を上げて近づいた。

 

「あ、僕も」

「ちょっと、アンタ達!」

「アーニャも猫に餌をやりたくないの?」

「…………ちょっと、やりたい」

 

 続いたネギを止めようとしたアーニャだったが、こちらも情に絆されたのと猫の愛らしさに屈服した。

 困惑している茶々丸から餌を受け取って怯えている猫たちにやっているアスカ達のところへ、ちょこちょこと嬉しげな歩き方で向かって行くのだった。

 血に拠って呪われた因果が足音を鳴らして迫ってきているのに、猫に笑いながら餌をやる三人の姿は呑気そのものだった。

 

「理解できません」

 

 論理的ではない行動をする三人を茶々丸は理解できずに困惑した視線で見つめるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「聞いたわよ! エヴァちゃん!」

「ぶなっ」

 

 学園長との話し合いの後で、どこかに行った茶々丸が戻ってくるまで弁当を食べて屋上で有意義にシエスタを敢行していたエヴァンジェリンは、屋上に通じるドアを開けて開口一番に人の名前を大声で呼ぶ大馬鹿者の声に目を覚ました。

 

「騒々しい。なんのようだ神楽坂明日菜」

「アンタが真祖の吸血鬼なんだって刹那さんから聞いたのよ。しかもアスカ達と戦うってどういうことよ!」

 

 不機嫌な顔を向けるも親猫が子猫を守るかのように気勢を上げる明日菜に、面白い物を見つけたかのように顔を綻ばせた。邪悪な方向に。

 

「やけに坊や達のことを気にかけるじゃないか、ええ」

「!?」

「子供は嫌いじゃなかったのか? それとも心を奪われたか坊やに」

 

 揶揄するように問いかけられた明日菜は体を硬直させた。そして次いで顔を真っ赤に紅潮させた。

 

「わ、私はアスカに心を奪われたりなんか」

「私は『坊や』としか言っていないぞ。なんだ、アスカの方か」

 

 言質を取られた明日菜は言葉に詰まった。何かを言えば失言をしてしまうような気がして言葉を封じるために口を閉じることを選んだが、その所作こそが己が気持ちを雄弁に物語っているとエヴァンジェリンには丸分かりだった。

 

「ま、分からなくもない」

「え?」

 

 更なる追及をしようとしたエヴァンジェリンだったが、口から出たのは別の言葉だった。

 

「アスカは性格や考え方が英雄と呼ばれた父親そっくりだ。ああいうタイプの人間は否応なく人を惹きつける。お前が惹かれたのは無理からぬ話だ」

 

 在りしのナギに救われた時に引かれた腕を見下ろして自嘲した。魔法使いだからと恐れられ、遠ざけられた村が悪魔に襲われても「朝飯前の運動だ」と言って駆けて行った背中、子供を人質にされて悪魔に戦うことを禁じられても屈しなかった気高き心、最後には悪魔を倒して恐れられた村人達に感謝を向けられて満面の笑みになった顔。今でも覚えている。今でも忘れない。そんなナギにアスカは似ていた。そっと手を差し伸ばして相手を掬い上げる。そんなところが。

 

「だが、これは忠告だ。あいつは止めておけ」

「アンタにそんなことを言われる筋合いはない」

「これでも六百年は生きてるんだ。年長者からの老婆心と思って受け取っておけ。アイツとお前では住む世界が違う」

 

 ズキッと明日菜の心が痛んだ。実態もない心が痛むなんてありえないのに、明日菜は確かに心が痛んだ。以前にも京都で同じことを思ったからだ。

 

「アイツらが追っているのは英雄と呼ばれた父親だ。その為に力を得るために手段は選ばん。そして強くなっていくことだろう。ここにいるのはその通過点にすぎん」

 

 魔法使いのアスカ達と一般人の明日菜は住む世界が違う。今は少しだけ二つの道が重なっているが、直に別れることは前を見続けているアスカを見ていれば嫌でも分かる。今にも飛び出しそうな明日菜に刹那は懇切丁寧に説明してくれたことが、今になってその意味を理解させる。

 

「そんな……でも……。それとアンタとアスカ達が戦う理由にはならないわ」

 

 明日菜は逃げた。考えることを、未来を見据えることを拒否することで時間を先に伸ばそうとした。

 

「それは心外だな。私は吸血鬼という名の悪であり、坊や達は英雄の息子という名の正義だ。敵として出会ったならば戦うのが必然であろう」

 

 我が意を得たりと、したり顔で言い募る言葉を前に明日菜は言葉を返すことが出来なかった。

 エヴァンジェリンは今は解けたといっても指名手配されるほどの凶悪な賞金首だったのだ。本人もまた、「悪」を標榜しており、世間的に「正義」の看板を掲げられている英雄のその息子がそちらの分類に類されるのは自明の理。

 今までが異常で、本来なら敵対している状態が正常。正しい、エヴァンジェリンの言うことはどうしようもないほどに正論だった。

 

「今までが異常だったのさ。私達の関係は仲良しこよしでいられるものじゃない」

 

 望まぬ封印をされている者と、その封印を施した者の係累。確かにエヴァンジェリンの言う通り。敵対して当然の関係が今まで続いてきたのが不思議なくらい。一度変わってしまえば二度とは戻れぬ関係。

 小さな可能性に掛けて少しでもこの先へと進むことを回避したかった明日菜の望みは呆気なく崩れ落ちた。

 

「私は封印を解きたい。その為には坊や達の血がどうしても必要だ。安全など考慮出来ぬほどにな」

 

 エヴァンジェリンを十五年間も学園に縛り続けていた『登校地獄』を解くには、どちらか一人を致死量に及ぶほどの血を吸う必要がある。両方だとしても相当量の血を吸うことになる。

 

「坊や達は自分達の身を守りたい。血を望む私と敵対する理由としては十分だろう?」 

 

 向こうから求めて来た、最も安全で確実な策でエヴァンジェリンの十五年分の鬱憤を晴らす最善の方法。

 同世代では世界でも屈指の実力を持っていることを考えれば上等と言える。単純に世界最高の一角に名を並べるであろうエヴァンジェリンに対するには無謀過ぎるだけ。世界の過半数が同様なのだからネギ達に問題があるわけじゃない。

 

「分かんないわよ、私には」

 

 明日菜にはどうやったってエヴァンジェリンの気持ちも、無謀にも戦いを挑むアスカ達の気持ちも解らない。まるで理解できることこそが資格のようで、分からないことが悔しかった。

 

「分からないままでいい。部外者に過ぎない貴様が首を突っ込んでいい世界ではない。去れ。そして普通の世界で生きて普通の相手と結ばれ、子供を産んで年老いて死ね。それが普通の人間が生きるべき世界だ。部外者がこれ以上、首を突っ込むな」

 

 残酷とも思える言葉だけを残してエヴァンジェリンは俯いて拳を握っている明日菜の横を通り過ぎた。

 

「4月15日の午後20時に麻帆良大橋だ。学園都市がメンテのために停電になる。わざわざ停電の日に出かけるような酔狂な奴も少ないだろう。結界を張れば万に一つの可能性もなくなる。来れば貴様の命の保証はしない。それでも来るというなら覚悟しろ」

 

 通り過ぎた後ろで明日菜が振り向いたのに気づいてもエヴァンジェリンは前を向いて進み続けた。

 屋上のドアをそこにいた茶々丸が締める音がまるで世界を隔てる音のように思えてエヴァンジェリンは眉を顰めた。

 

「年は取りたくないものだな。説教臭くなってたまらん」

 

 エヴァンジェリンはそう言って自嘲した。茶々丸には分からぬ理由でエヴァンジェリンは疲れたようにため息を吐いた。

 

「―――――しかし良いのですか、マスター。あの様子では万が一にも戦いの場に来かねません。学園側から責任を求められるのはマスターとしても不本意なのでは……」

「おい、勘違いするなよ茶々丸。私は神楽坂明日菜のことなどどうでもいい」

 

 主の不可解な行動に苦言を呈そうとした茶々丸に対してエヴァンジェリンは唇を歪ませた。

 

「諦めをつけさせてやるのも年長者の務めだ。この程度で諦めるようなその程度の想いだったいうことだ」

 

 エヴァンジェリンは視線だけを動かして従者を見る。

 

「不満か?」

「…………いえ」

 

 揶揄するような言葉に、初めて茶々丸の表情がほんの僅かだけ揺れた。

 あまりにも端的過ぎる言葉。茶々丸も何をとは聞かない。端的過ぎる言葉であろうと二人は欠けている単語を知っているのだから。

 

「言ってみろ。怒りはしない」

 

 機械の肉体を持つガイノイドである茶々丸の場合、微妙な感情を表す表情は把握しづらい。エヴァンジェリンにそれが分かるのは己が従者のことを知らいでかという思いから彼女の表情を観察する癖がついているから。

 まるで母が子の他愛のない隠し事を聞き出すような温もりを持って重ねて問いかけると、微かな逡巡の後、茶々丸は口を開いた。

 

「不満…………はありません。ただ――――」

「ただ?」

 

 言いづらそうに戸惑った茶々丸に先を促す。

 

「マスターのご意向が、私には理解しかねます」

「―――――ふむ」

 

 暫し黙考するような態度を見せてから、エヴァンジェリンは語りだす。

 

「言いたいことは分かる。だがな、結果がどうなろうとどちらにしても私の手間は変わらん。ならば経過を楽しんでも構わんだろう?」

 

 言いながら彼女が浮かべたのは苦笑とかそういうものではない。自身の掌の上で脚本通りに踊る愚者を見るような、そんな笑み。

 

「私には…………分かりません」

 

 得々と語る主を見つめ、唇を震わせて、小さく、ゆっくりと言葉を紡いだ茶々丸はそれきり言葉を続けられずに沈黙してしまった。

 エヴァンジェリンは黙ってしまった彼女を静かに見つめる。その眼差しには、紛れもなく愛情に類するものが宿っていた。

 

「迷うがいい。悩むがいい。その経験がお前の心を成長させる」 

「……………………イエス、マスター。御意のままに」

 

 戸惑いながらも従順に、茶々丸は頷く。その人形染みた返事と対照的に困惑を宿した表情とのギャップは、殊の外エヴァンジェリンを満足させるものだった。

 

「む」

 

 ご満悦だったエヴァンジェリンの気分を邪魔するように感覚に引っ掛かるものがあった。

 

「何か来たな。結界を超えた者がいる。学園都市に入り込んだか」

 

 これも仕事だとエヴァンジェリンは勤労意欲もないままに歩き出した。

 屋上と違って階段は暗かった。その闇に向かって進むように階段を降りて行く。

 

『光に生きてみろ』

 

 まだナギとの約束は果たされそうになかった。

 

「私の光はお前自身だったんだよ、ナギ。お前がいなかったらどうやって光に生きろというんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ネギは女子寮から引っ越して新たな住居となったログハウスに慣れだしてきたにも関わらず、眉間に皺を寄せていた。何故そんなにもネギが眉間に皺を寄せているかというと、それはもちろん彼女の生徒であるエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルについてである。

 決戦を数日後に控えて作戦を練っていたが、上手い勝ち筋が見えていなかったのだ。

 こういうことに関してアスカは意外なほどに役に立たない。アスカは突発的な事態に対応する能力はピカ一なのだが、一から作戦を立てるということはとてつもなく下手なのだ。結局は行き当たりばったりでどうにかなってしまう面もある所為だが。

 

「どうしよう………」

 

 もう何度目か分からない溜め息を吐くネギを見て、流石に哀れに思ったアスカが声を掛けようとするが、それよりも早く声をかける人がいた。

 

「景気の悪そうな顔してるじゃんか、大将。助けがいるかい?」

「だ、誰!?」

 

 悩み悶えるネギは突如どこからか聞こえてきた自分以外の声に慌て、俯かせていた顔を上げて辺りを見渡しても人は見当たらず、そこには影も形もない。

 

「そこじゃねぇよ、兄貴。下だよ下」

 

 自分の足下から聞こえてくる声に見下ろすと、いつの間にかネギの足元に一匹のオコジョが鎮座していた。

 

「あ―――――カ、カモくーん!」

「おうよ!!ネギの兄貴、恩を返しに来たぜ!!」

 

 そこにいたのはネギが昔ウェールズで罠に掛かっていた所を助けた、古くからの知り合いであるオコジョ妖精のアルベール・カモミールがいた。ちんけな友情を躱し合う一人と一匹を見つめる千草の頭の中は不満で一杯だった。

 

「なんであんさんらは、当たり前の顔してうちの家で寛いでるんや」

 

 憤り他、色々な感情がミックスされた顔で言った千草はエプロンをつけて食器を洗っていた。

 

「千草さんのご飯美味しすぎるのがいけないんです」

 

 千草が洗った食器を受け取って布巾で拭いたネカネが隣のアーニャへと渡す。

 食器を受け取ったアーニャが食器棚へと直すのを見たアスカは、ネカネの言う通りだと頷いた。

 

「ネカネ姉さんの飯は千草ほど上手くねぇからな。しゃあねぇべ」

「千草の料理って本当に美味しい。木乃香にも負けてないわ」

 

 ソファーに座ってテレビを見ていたアスカは早くも眠いのか、言いながら大きな欠伸をする。

 美味しいご飯を食べられてご満悦なアーニャがアスカに追従するのを聞いて、千草は額に青筋が浮かんだのを自覚した。

 

「百歩譲って飯食いに来るのは許そう。百歩譲ってや」

「そんなに強調しなくても」

「百歩譲ってや! でも、なんで寝る以外はずっとうちにいんねん!アンタらには隣に立派な家があるやないか!!」

 

 不満そうなアーニャに繰り返して指差した窓の向こうにあるログハウスは、千草が小太郎と暮らすためだけの広さしかないので隣の方が四人で暮らす分だけ会って倍近い大きさの差がある。

 

「しかもなんで隣やねん! 窓から手を伸ばしたら届く距離に隣家があるっておかしいやろ」

「小太郎君が来るまで千草さん一人じゃないですか。きっと学園長が寂しくない様に気をつかってくれたんですよ」

「いらん気遣いや! うちは家ぐらい大人しく過ごしたいねん。その隣に真祖の吸血鬼の家があるとか、どう考えても面倒な奴らは一ヵ所に纏めておこうって腹やないか」

 

 あまりの扱いにシクシクと泣き出した千草に自前のエプロンを身に纏っているネカネは手を拭いて、年上の女性の肩に手を置いた。

 

「私は嬉しいです。今までお姉さんっていなかったから、千草さんがお姉さんみたいに思えて」

 

 月日向のような笑みを浮かべているネカネに絶賛傷心中の千草の心が傾いた。

 

「なぁ、小太郎って何時来んの?」

「アスカは黙ってて」

「はい」

 

 傾いた瞬間にネカネから放たれたフォークがアスカの髪の毛を貸すめて壁に埋まったので、そんな気持ちは跡形もなく消え去った。

 そんな四人のことを視界と思考から弾き出したネギは、カモに当面のことを話していた。

 

「――――――――という訳なんだ」

 

 ネギは正直にカモに向かって包み隠さず話した。

 この家には魔法関係者しかいないので普通に話せた。エヴァンジェリンの事、呪いの事、戦うことも全てを話した。

 

「く、国へ帰らせましていただきます」

「コラ」

 

 その説明を受けたオコジョ妖精であるカモの顔色はどんどん悪くなり、600万ドルの賞金首だと知った時にはどこから取り出したのか帽子とカバンを持って何処かに行こうするが、アーニャに尻尾を掴まれた。

 

「ちゃんと刑期を終えて出てきたのは評価するけど、また同じことやったら丸焼きにしてアスカに食わせるから覚悟しておきなさい。逃げるのも許さないから」

「御慈悲を――――っ! 俺っちはちゃんと改心してまっさから丸焼きと食うのはご勘弁を」

「食っていいのか?」

「ひぃぃぃぃぃぃっ!?」

 

 嘗てのネギがカモを助けた時に丸焼きにして食うと言い出したアスカが登場したことで、昔のトラウマを思い出してカモが前後不覚に陥っていた。本人(本獣?)が下着泥棒をしているのでアーニャに一切の情はない。乙女の下着を盗む不届き者は須らく極刑なのである。

 暫く立って落ち着き、ようやくカモは来日の目的を切り出した。

 

「パートナ選びっすよ。特にお二人はポテンシャルは高いんすから身内とだけじゃなくて、もっと広く相手を求めていいはずっす。ほら、この名簿に運命の相手がいるかもしれないっすよ」

 

 名簿を前にして小さな足で指し示したのが『出席番号8番神楽坂明日菜』であったことは、運命の皮肉だろうか。

 

「うう、また変なのが増えとる」

「まあまあ」

 

 カモの登場に完膚無きまでに打ちひしがれた千草を慰めるネカネ。ついこの前も似たようなやり取りを目撃した気がしたアーニャは思い出せずに首を捻った。

 




ネカネさんは天然です。そしてうちの千草さんは大体こんな感じ。


アーニャやネギには見えなくて、アスカにだけさよが見えるのには魔法使い以外に理由があります。分かった人は凄い。


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第9話 灯火

一身上の都合(明日夜勤なので)で今日投稿しました。


 

 突き刺すような冷たい空気に、月が鮮やかに映えている。細く鋭い日本刀のような三日月だ。月の光こそ弱いものの、学園都市が放つ光に照らされ、夜空はさほど暗くはない。

 

『こちらは放送部です。これより学園内は停電となります。学園生徒の皆さんは極力外出を控えるようにしてください。繰り返します…………』

 

 あちこちにあるスピーカーから麻帆良全体に響いているだろう声が、停電の始まりが近いことを告げる。

 

「始まるか」

 

 世界樹の根元に腰を下ろしていたアスカが閉じていた瞼を開いた。

 立ち上がったアスカの視界の先では、何時もならばまだ街中に明かりが灯っている時間帯にも関わらず、この日の麻帆良学園は少々異なる雰囲気に包まれていた。

 麻帆良全域に、重い闇が垂れ込めている。年に二度、機械の大規模メンテナンスのために行われるこの麻帆良大停電は街中から光を奪い、そこに住む人々に普段とは異なる細やかな興奮と恐怖を与えていた。

 人々とは違う緊張感を感じ取っていたアーニャは立ち上がったアスカを見つめる。

 

「時間よ。準備はいい?」

「勿論」

 

 アーニャの若干震えた呼びかけに瞑想していたネギが頷いたが、その背や全身には魔法具が重量過多と呼べるほどに纏っていた。そんなネギをアスカが呆れた視線で見つつ、歩み寄って背負っている鞄から姿を覗かせている剣をポイッと放り捨てた。

 

「アホか。重装備過ぎだ」

「あ、止めてってら」

「エヴァンジェリン相手に生半可な装備は重しになるだけだ。使い慣れた杖以外置いて行け」

 

 多種多様の剣や杖、試験管やアンティークの銃を身につけ、予備まで持って覚悟を決めていたネギから装備を引っ剥がされていく。

 ネギが装備を剥がす手を止めようとするが力で叶うはずもなく、アーニャに助けを求めても、こと戦いにおいてはアスカの意見はこの三人の中では絶対である。アスカがいらないと言うならそれが正しいと無視した。

 

「折角持ってきたのに」

 

 マントと父の杖以外の全てを剥がされたネギは不満たらたらでありがながらも、アスカの意見が最もなこともあって装備を取り返そうとはしなかった。名残惜しそうに見てはいたが。実際はただ使って見たかっただけなのかもしれない。

 理想的な戦闘状態である適度な緊張感を維持しているアスカと違って、指を咥えそうなネギの様子にアーニャの過度な緊張は僅かながらも解れた。

 

「感謝はしないわよ」

 

 この中で最もエヴァンジェリンを恐れているのはアーニャだ。逆に恐れていないのはアスカ。ネギはその中間ぐらいか。この双子は気を回し過ぎるところがあるのでアーニャの為を思った行動か。

 

「やっぱり持ってちゃ駄目かな?」

「駄目」

 

 やはり気の所為かとアーニャは少しはあった感動を心のゴミ箱に投げ捨てるのであった。

 

「んじゃ、何時ものやついくぞ」

 

 ようやく諦めたネギを連れて三人で円陣を組んだアスカが拳を握り、腕を真上に突き出した。ネギとアーニャもそれに倣う。

 

「俺達に」「僕達に」「私達に」

「「「出来ない事なんてない!!」」」

 

 乗り越えるべき困難に挑むために、三人は拳を掲げあって戦意も高らかに叫ぶ。

 確実に増した戦意の中で拳を下ろしたアーニャは、ふとオコジョ妖精のカモがいないことに気が付いた。

 

「そういえばカモは?」

「どっかで油売ってんだろ。その内に顔を出すさ」

 

 と、噂されていたカモの姿は何故か女子寮の明日菜達の部屋にあった。

 

「なんか不気味な空やね」

(どうしたら……なにか、なにか!)

 

 もう直ぐにアスカ達がエヴァンジェリンと戦う。何とかしなければという危機感がベッドに蹲っている明日菜は木乃香の言葉に応えられないほどの焦燥を得ていた。

 

「お困りかい、姉さん」

「誰!?」

「俺っちはオコジョ妖精のアルベール・カモミール。ネギの兄貴たちの仲間だ。姉さんに話があってきた」

 

 ベッドの柵によじ登っているオコジョは、明日菜の顔を見遣った。

 

「兄貴達がやばい。下手したら死ぬかもしれねぇんだ。手を貸しちゃくれねぇか」

 

 カモの意図せず放った一言が、厳重に閉じられた記憶の壁をこじ開けられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 嵐の前触れを思わせる重い音を轟かせて風が夜闇を走る。誰もが停電のため外出を控える中、街の中央に聳え立つ時計塔の屋根の上に一人の人影があった。

 屋根の上に立つのは真祖の吸血鬼エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。常に行動を共にする茶々丸は学園側が結界を途中で張り直さないようにシステムを掌握てからの合流になるので今はいない。

 

「こうして見ると狭いものだな」

 

 闇の眷属であるエヴァンジェリンには暗闇の中でも学園の境界である今宵の決戦場である橋の影まで見えていた。今なら魔法で簡単にそこまで飛べる距離だが、十五年前からその先へ行くことができない。だが、その時はまだ今ほどには辛くはなかった。

 

『卒業する頃にはまた帰って来るからさ、光に生きてみろ。その時、お前の呪いも解いてやる』

 

 思い出すのはサウザントマスターによって呪いを掛けられ、この地に連れられてきた時のことだった。不貞腐れているエヴァンジェリンに苦笑しながらサウザントマスターが言った言葉は、今でもついさっきのことのようにはっきりと覚えている。

 三年経ち、卒業しても呪いを解きには来なかった。もしかして忘れているのかとも不安に思ったが、きっと来てくれるとサウザントマスターを信じた。

 五年経って死んだという噂を聞いて、そんなはずはないと否定した。

 九年経って、三度目の卒業式をボイコットしながら、サウザントマスターには二度と会えないのだと絶望した。

 十二年経って、五度目の入学式では茶々丸という従者ができ、今までとは変わったメンバーではあったが、心がどんどん朽ちていくのを感じた。

 真祖の吸血鬼である我が身は老いも死もない。このまま縛られたまま麻帆良という箱庭の中で永久に飼い殺しされる。そんな思いを常に抱き続けていた時、暗闇の中に一条の光明が差した。

 

『サウザンドマスターの息子達が麻帆良に来る』

 

 サウザントマスターが生きている事を知った時には天にも昇る気持ちだった。

 

「鈍ッタナ、御主人」

「悪いか、チャチャゼロ」

「サア、ナ」

 

 屋根の上に立つもう一人の影にして、エヴァンジェリンの初代従者であるチャチャゼロは良いとも悪いとも言わなかった。チャチャゼロが突きつけるのは何時だって事実のみ。

 

「弱クハナッタ。ナギノ野郎ニ出会ッテカラ、ズット」

「かもしれん」

 

 感傷を抱きつつ、エヴァンジェリンはその時間を待つ。久方ぶりの一人と一体となったことに不思議なむず痒さを感じながら瞼を閉じた。

 

『こちらは放送部です。これより学園内は停電となります。学園生徒の皆さんは極力外出を控えるようにしてください。繰り返します…………』

 

 思考している時にアナウンスが流れ、始まった停電と共に戻った莫大な魔力が全身へと駆け巡る。

 長年失っていた物を取り戻した充足感を感じ、久しぶりに甦った懐かしの感覚に笑みを浮かべながら開いた瞼の下で輝く黄金の瞳で自分の手の平を見つめる。

 

「ふむ。まあ、満月でもないし、この程度だろうな。やはり直ぐには全盛期とまではいかんか」

 

 十五年もの長い間、ほとんど魔力を封印されていたのでいきなり魔力が戻ったことで幾分か持て余し、その扱いきれない分が大気へと垂れ流されている。その垂れ流している魔力だけで見習い魔法使いレベルなら腰を抜かし、何もしなくても許しを乞うだろう。

 

「まぁ、その辺りは直に慣れるだろう」

 

 見習い魔法使いとしては目を見張るレベルにあるとはいえ、アスカ達が相手ならば多少魔力を持て余すぐらいはハンデにすらならない。少し戦えばすぐに当時の感覚を思い出すだろうと考え、ばさりと漆黒のマントを広げて飛び上がり、闇の中に沈む麻帆良を見る。

 夜こそが自分の時間という自分のような吸血鬼でも、暗いとそんな風に感じ入ってしまい闇に不気味さを感じて、そのおかしさに自嘲して笑う。自分は闇の種族、太陽が輝く昼ではなく暗黒に沈む夜を生き場にして、死なず老いず時間を呼吸しない種族のはず。なのに、そこまで自分は光の下に慣れてしまっていたのかと自嘲は苦笑に変わる。

 この戦いは彼女のナギに対する八つ当たりでしかない。終わった時、どんな形であれ気持ちに決着をつけなければならない。自身が望んで始めた戦いだ。終わらせるのもまた自身の役目。いまは戦いだけに集中し、難しいことは考えずにこれから始まるであろう、甘美にして殺伐たる時間に胸をときめかせながら空を飛ぶ。

 

「では、始めようか!」

 

 これより僅かな時間、最強の悪の魔法使いが甦る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな事をエヴァンジェリンが思っているとは露知らず、アスカ達は決戦場である麻帆良大橋に向かっていた。学園都市内の全体メンテナンスによる停電の時間は夜八時から深夜十二時まで、科学に頼った現代において実質的に都市機能の麻痺である。麻帆良大橋は念のため、学園長の手で人払いや防音の結界が張られており、周りを気にすることなく存分に戦える環境を作り出されている。舞台は既に整っており、後は役者を残すのみとなった。

 停電の為、明かり一つ無い道を歩いていると巨大な魔力が三人を貫いた。

 

「えっ!? これって……魔力!?」

「分からねぇけどかなりの大物だ……これがエヴァンジェリンの力……」

「えぇっ!? そんなまさかここまでの魔力をしてたっていうの」

 

 空間を震撼させるほどの予想を遥かに上回る魔力を前にして、狼狽を隠せずネギとアーニャは揃って右往左往している。アスカですら冷や汗が止まらない重圧。ただ余波として放たれているだけの魔力ですら正しく桁が違う。

 

「行くぞ」

 

 肌がビリビリと震える発生源へとアスカが足を踏み出す。その背中に安心を持って、ネギとアーニャも続いた。

 

「エヴァンジェリン!」

 

 アスカ達が麻帆良大橋の入り口に到着した時には、見る限り誰もいなかった。ネギはてっきり待ち構えているとばかり思っていただけに少々意表を突かれたが、もしかしたら罠かもしれないと、杖を握り締める。何時もなら絶大な安心感を与えてくれる父の杖もこの時ばかりは頼りなく感じた。

 

「いないの?」

 

 アスカの呼びかけに返事はなく、アーニャが周囲を見回しても僅かな月明かりしか光源がないために魔力を消して隠れでもされたら、目視しか捜す手段がなく見つけるのは難しい。やはり相手の出方を待つしかないのかとネギが声を上げようとした時だった、

 

「…………ここだよ、坊や達」

「「「っ!?」」」

 

 神経を張り巡らせていた状態だったから唐突に背後から響いたその声に橋の入り口に立った三人の足は凍りついたように止まった。エヴァンジェリンの声は呟いた程度の声の大きさだったのだが、その声はどんな大声よりも三人の耳に響いた。

 咄嗟に先程まで自分がいた筈の背後へと振り向くと、そこには空に浮かんで三人を見下ろすエヴァンジェリンと茶々丸、そして見覚えのない小さな人形の姿があった。

 

「ようこそ、我が主催の恐怖劇へ。勇敢な戦士たちを歓迎しよう」

「いらっしゃいませ」

「ヒヒヒ」

 

 薄い笑みを浮かべたエヴァンジェリンの後ろで茶々丸がメイド服を着て頭を下げ、人形――――エヴァンジェリンの初代従者であるチャチャゼロは体長を超える巨大な鉈染みた剣を持っていた。その剣が魔力を帯びた魔剣であることは魔法具コレクターであるネギには分かった。

 

「お招きに預かりまして光栄って答えた方がいいか。悪いがマナーなんてものにはとんと疎くてね。不作法を晒すかもしんねぇぞ」 

 

 今まで戦った誰よりも強いプレッシャーの持ち主を間近にして、口を開くことが出来ないネギやアーニャの代わりに応えたアスカですら余裕はない。エヴァンジェリンの姿を見た時から冷や汗が後から後から流れて行く。

 

「今の私は気分が良い。多少の不作法も許そう」

 

 エヴァンジェリンから発せられる魔力は邪悪にして妖艶。姿形は前と変わらぬながらも、男のみならず女をも取り込まずにはいられない魔性を振り撒いていた。気を一瞬でも抜けば膝を屈して永遠の忠誠を誓ってしまいそうになるのを堪えなければならなかった。

 

「なら、礼としてテメェをぶっ倒させてもらう!」

 

 魔性に呑み込まれまいと、アスカの全身から魔力が迸った。今回は事前に枷を外しての掛け値なしの全力。手加減して勝てる相手ではないことを良く知っている。単純な魔力総量ならエヴァンジェリンにも劣らぬはずなのに、圧力はエヴァンジェリンと比べればかなり落ちる。単純な制御能力の差であった。そのことを理解しながらもアスカは最強に戦いを挑む。

 

「気合を入れろよテメェら!」

「私に指図するなっての!」

「そうだ!」

 

 アスカに言い返しながらも二人は気合を入れた。最大の魔力量を誇るアスカと、ほぼ変わらないネギ。大分下がってアーニャの魔力。三人が戦意を魔力の迸りから挫けずに向かってくる気なのを感じ取ったエヴァンジェリンは、それでこそと薄い笑みを浮かべた。

 

「チャチャゼロ、貴様はアスカをやれ」

「ドイツダ?」

「金髪の方です」

 

 茶々丸が指差したアスカを見たチャチャゼロは、目の奥に得物を前にした肉食獣のような獰猛な輝きを宿す。持っていた鉈のような巨大な魔剣を肩に担ぎ直した。

 

「アイツカ、イイゼ。アノ中デハ一番歯応エガアリソウダ」

 

 アスカとチャチャゼロの視線が混じり合って火花を散らし合う。ここ百年でマシな部類な目をしているアスカにチャチャゼロの嗜虐心は粟立った。

 

「茶々丸はアーニャの小娘だ」

「了解です」

 

 茶々丸に相対するはアーニャ。機械ゆえの冷めた感情の感じられない視線がアーニャを貫いた。

 

「私はネギの坊やをやる。二人とも、私の従者として敗北は許さん。必ず勝て」

「誰ニ言ッテンダ」

「イエス・マスター」

 

 それぞれに相対する相手は決まった。エヴァンジェリンの声が聞こえていたアスカ達もそれぞれが相対する相手を睨む。その中でエヴァンジェリンは己が相対するネギを高みから見下ろした。

 

「さっさと勝負を決めて、坊や達の血を存分に吸わしてもらおう」

「そうはさせません。僕が勝たしてもらいます」

 

 エヴァンジェリンが宣言した言葉を跳ね除けるように、相対者であるネギは十メートル先にいる真祖の吸血鬼を睨み返しながらハッキリと抵抗の意を表した。怯えがないわけではない。今も立ち向かうことに膝が震え、恐怖で噛み合わない歯がガタガタと鳴っている。それでも戦うのは一人ではないと、ネギはなけなしの勇気を振り絞った。

 

「精々、抗って見せろ!」

 

 前衛であるアスカとチャチャゼロが同時に飛び出すのを見ながらエヴァンジェリンの心は躍った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カモの一言が放った影響は甚大だった。

 

「死ぬ? アスカ達が?」

 

 もしかしたらアスカ達が死ぬのではないかという思いが心的外傷による記憶再生のフラッシュバックを引き起こす。

 記憶の扉がこじ開けられたとのと同時に、ズキンと鋭い痛みが脳天を突き抜けた。思い出すことを拒んでいるかのように、頭が脈打つように痛む。身体が震えていた。

 

「お、おい姉さん!?」

 

 痛みが酷くてカモの声が聞こえない。

 世界は急速に暗くなり、内側から何かが染みだしてくる。開いた記憶の扉から、神楽坂明日菜には存在しえない記憶が染み出す。

 心の最深部に押し込められていた記憶が掘り起こされる。多量の記憶が湯水の如く溢れ出してきた。目の前に拡がり、やがて視界は記憶の映像に埋め尽くされていく。

 

『――――よぉタカミチ、火ぃくれねぇか。最後の一服……って奴だぜ』

 

 再生された記憶には、どこか高畑に似た壮年の男性が口から血を吐き、腹にも穴が空いているのか多量の血を流して岩場に凭れていた。その顔は泣いている自分を安心させるためにか笑顔だが、体から流れた血は致死量近くまで達しており死相が浮かんでいる。

 

『あー、うめぇ』

 

 右肩の部分が破れ、あちこちに汚れや煤が付いたワイシャツを着た若い男が煙草に火を点けると、壮年の男性は味を良く味わうように深く吸い込み、端から血を垂らした唇から紫煙を吐き出す。

 

「……ぁ……」

 

 明日菜の顔は苦悶で歪み、口からは声にならない言葉が紡ぎ出される。

 アスナはこの煙草の臭いが嫌いだった。明日菜はこの煙草の臭いが好きだった。その違いがどこから来るのか、アスナではない明日菜には分からない。

 

『さあ、行けや。ここは俺が何とかしとくから』

 

 鳩尾付近からワイシャツを紅く染め、それでも止まらずに流れ続ける血はズボンを伝って地面を朱に染める。

 

『…………何だよ、嬢ちゃん。泣いてんのかい? 涙見せるのは…………初めてだな』

 

 全身を瘧のように震わせ、会話の合間合間に血混じりの堰を吐きながらも痛みは欠片も見せない。大量に浮かんだ脂汗がなければ痛みを我慢していることにも気づかなかっただろう。

 

『へへ……嬉しいねぇ』

『師匠……』

 

 「タカミチ」と呼ばれた青年には分かっている。壮年の男性の顔色は青を通り越して真っ白になっている。流れ出た血液の量は致死量に達し、もはや師が助かることはない。もう、どんな名医も高名な治癒術士の魔法も彼の命を救ってくれないだろうと、理解してしまった。

 

『タカミチ……記憶のコトだけどよ。俺のトコだけ念入りに消してくれねぇか』

『な、何言ってんスか師匠!』

 

 タカミチは、師である男のあまりの言葉に叫んだ。師の今際の際の遺言であると分かっていても叫ばずにはいられなかった。

 

『これからの嬢ちゃんには必要ないモンだ』

 

 男はそれでも、頼むとタカミチに視線を送った。

 末期の言葉を拒否できるほど二人が積み重ねてきた信頼関係は薄くなく、また男の言葉に僅かなりとも共感を覚えてしまったタカミチの絶望だった。

 

『やだ……ナギもいなくなって……おじさんまで……やだ』

 

 小さなアスナは己の手で死に行くだけの男の手を握り締めた。その目元から涙を流しながら。

 ふわりと、頭の上に重さを感じた。男の手が、アスナの頭を優しく撫でる。弱々しく駄々を捏ねる少女の頭に手を乗せ、口の端から血を流しながらも男は笑っていた。

 それは封印されて忘れ去られた記憶の数々――――。堰を切るかのような勢いで押し寄せて来る情報の洪水に、処理しきれなくなった脳が加熱していく。頭痛は悪化の一途を辿り、口唇が歪んだ。

 

「ああっ……」

 

 明日菜は得体の知れない記憶に翻弄され、溺れていく彼女の口から小さな悲鳴が漏れる。怖気を感じて身震いをする。冷水に足を浸したかのような悪寒が全身に伝播して、体がカタカタと震え始めた。もはや表出してくる記憶を堰き止める術はない。封印された記憶が現実味を帯び、映像となって脳内に展開していく。

 

「ガトウ、さん……」

「姉さん!?」

 

 パシッ、と頬を叩かれた衝撃が明日菜を現世に引き戻す。

 

「大丈夫かい? すまねぇ。様子がおかしかったから、つい叩いちまった」

「……………ありがとう。ごめん、ちょっと眩暈がしたみたい」

 

 頭を振るとまだ眩暈がする。

 先程まで何かを見ていたような気がするし、大切なことを思い出そうとした気がする。今はその全てが夢幻のように遠い。だけど、たった一つだけ覚えていることがあった。

 

『幸せになりな、嬢ちゃん。あんたにはその権利がある』

 

 それは今にも途切れそうなほどの弱々しい声音である。だがその声は間違いなく明日菜の心に響いていた。魂が揺さぶられ、全身が打ち震える。声に秘められた切なる願いが痛いほどに伝わってきた。

 明日菜には声の主が誰かは解らない。だが耳にしたことがあるような気がした。どこで聞いたのかは憶えてなかったが、望郷の念に駆られるかのような懐かしさが漂っている。

 

「今度は私が護る。誰も失わせなんてしない」

 

 その言葉に集約された感情に突き動かされて明日菜は動き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地上戦をするアスカ達と違って、ネギとエヴァンジェリンの戦いの場は空中だった。

 

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック!」

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル!」

 

 二つの始動キーが絡み合うように、唱和しながら夜空に響く。

 

「食らえ、魔法の射手・氷の29矢!」

「風の精霊97人! 魔法の射手、連弾・風の97矢!」

 

 氷と風、異なる属性の29と37の魔力の矢が二人の間で花火のような光と音を轟かせてぶつかり合う。

 的確なコントロールがなされたエヴァンジェリンの魔法の矢を、三倍のネギが放った魔法の矢が空中で激突し合って相殺する。同じ魔法にも関わらず三倍の数の差があってようやく互角ということは、それだけ彼我の魔法使いの格の差を現していた。そしてエヴァンジェリンはまだ実力の百分の一も出していない。

 

「ハハッ!! 中々やるじゃないか! だが、詠唱に時間が掛かり過ぎだぞ!! リク・ラク・ラ・ラック・ライラック。闇の精霊37柱!」

 

 空を飛びながら、初手の段階で既に一杯一杯のネギとは違い、言葉にも表情にも余裕がありありと見えるエヴァンジェリンが、ある意味アドバイスとも取れる事を言いながら次の魔法の詠唱に入った。

 楽しそうに上空を飛びながら笑い声を上げるエヴァに対して、ネギの表情は必死そのものだ。実戦経験が、潜り抜けた修羅場が、修練に費やしてきた時間が圧倒的に違う。ネギとて魔法の矢の術式は体に染み付いたと言っても、十年と六百年という生きた年月の時間の差がそのまま錬度の差となる。

 

「くっ!? ラ、ラス・テル・マ・スキル・マギステル! 風の精霊101柱!」

 

 ネギの膨大な魔力は魔法学校でも比肩する者などほとんどいなかった。いたとしても校長などの数人の魔法教師だけで、魔法の撃ち合いで自身が負けたことは殆どない。

 

(す、凄い力。だ、駄目………打ち負ける)

 

 初めての経験でこのままでは負けると考えてしまったら、魔力発生の基点となっている右腕がガクガクと震え始めた。

 

(まだだ! 父さんは、アスカはこんな程度で逃げない!)

 

 諦めが胸中に漂うが、父とアスカならこんな程度で逃げないと、今までで最大の気迫を放つ心の言葉を持って恐怖を打ち払った。自身の体、後のことなど考えずに限界を超える程に魔力を注ぎ込む。

 

「えぇいっ!!」

 

 目一杯の魔力を杖に注ぎこんで詠唱を唱えきる。

 

「魔法の射手、連弾・闇の37矢!」

「魔法の射手、連弾・風の101矢!」

 

 倍近くに膨れ上がった精霊の数に驚くも、今度も素早く詠唱を完了させ、エヴァンジェリンに遅れる事無く魔法の射手を撃ち出した。

 さっきを超える数の矢が召喚され、再び宙でぶつかり合う。高威力の属性の魔法同士は相殺し、派手な爆煙をあげる。だが、エヴァンジェリンほどに数を増やせなかったネギの魔法の矢は幾本か突破してネギを掠める。しかも、相殺した魔法の射手の余波が、威力で劣ったネギに襲い掛かってきた。

 ただでさえ慣れない魔法戦闘、それも圧倒的強者との戦いで精神もすり減らし、更に無茶をした所為でネギは盛大に息を乱して膝から崩れ落ち、地に手をついた。

 

「はぁ、はぁ……」

「アハハ、いいぞ! よくついて来たな!!」

 

 ネギは地に着いていた手を離して片膝をつき、息を整えているが体に力が入らない。疲労で額には汗が浮かび、心臓は早鐘を打ったようにガンガンと鳴り響いていて、とても戦いを続けられる状態でない事は誰が見ても明らかであったが、体は動かなくとも闘志は今だ健在と眼だけが戦う意思を示していた。

 

(強い! これが父さんと同じ領域にいる人の力!!)

 

 魔法の衝突が生んだ余波の風を腕で顔を庇いながら、ネギは改めてエヴァンジェリンの恐ろしさを確認していた。

 まともに魔法を打ち合ったのは先程のたったの二回、それも初歩の魔法である魔法の射手だ。しかし、一矢に込められた魔力の純度は、それだけで相手の実力を伝えてくる。エヴァンジェリンの精緻にして大胆な術式の構成と、無限とも思えるほどの強大な魔力。既に限界ギリギリの自分とは違い、エヴァンジェリンは今も余裕に満ち満ちている。

 未だにネギが無傷でいられるのは、一重にエヴァンジェリンの戯れにすぎない。エヴァンジェリンは余裕を以って、ネギは必死を以って対峙する。

 

「やるじゃないか、坊や。まさか相殺されるとは思わなかったぞ。だが、まだ決着はついていないぞ」

 

 十五年ぶりの呪いという戒めからの解放が、魔法使いとしての戦いが、久しく忘れかけていた戦場の高揚がエヴァンジェリンの体内を駆け巡っていた。

 どれだけ力の差を感じさせようとも些かの戦意の衰えも見せず、必死で喰らいついてくるネギを称賛する。街にまで届きそうな程よく通る声で笑いつつ、ネギの評価を殊更に高め、エヴァンジェリンは次の一手を打つ。

 

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック。氷の精霊74頭。集い来りて敵を切り裂け、食らえッ! 魔法の射手、連弾・氷の74矢!」

 

 笑みを浮かべたエヴァンジェリンは魔法を放った。このままでは不味いと思ったネギは咄嗟に杖に跨り大地を蹴って杖に乗り、斜め上に飛び上がって避ける。

 避けられたことで急に目標を失った氷の矢はその殆どが大地を抉ったが、残った二十本の矢は直角に近い角度で急上昇しネギの後を追う。

 

「くっ! ラス・テル マ・スキル マギステル 風の精霊199人! 集い来たりて敵を穿て 魔法の射手、連弾・風の199矢!」

 

 ネギは追ってくる魔法の矢を見て、杖に乗りながら後ろを向いて呪文を唱え切った。飛びながらの狙撃ではあるため精度は悪いと考え、数を撃てば当たる論理で大量に撃つことにより、魔法の射手を全て撃ち落とす事に成功した。

 そしてネギは上昇から角度を変えてエヴァンジェリンを見る。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル 風精召喚!! 剣を執る戦友!!」

 

 ネギの詠唱と共に、周りに白色に統一され、それぞれが何かしらの得物を所持しているネギを模ったモノが八体出現した。

 

「分身! いや、風の中位精霊による複製か」

 

 エヴァンジェリンはネギを見上げ、詠唱を聞いただけでその分身じみた術の正体を看破した。

 剣を執る戦友とはその名の通り、今回の場合は風の中位精霊を呼び出すためのもので難度的にはそこまで難しいものではない。本来ならばこれは決して十歳の見習い魔法使いが扱えるような魔法でもなく、また八体を同時に使役するなど甚だ不可能である事もまた事実である。

 

「行って!!」

 

 唯一実体を持つ本体であるネギが精霊たちに命令を下し、その指先がエヴァンジェリンを指した瞬間、八体の精霊が彼女の包囲を開始した。

 精霊たちは各々の軌道を描いて瞬く間に包囲して、執拗にその得物を向けて振るって捕縛しようとする得物に当たれば風で捕縛されるので、捕縛しようとするネギの作戦などお見通しなエヴァンジェリンは上昇と下降を繰り返して避け続ける。

 

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック 氷の精霊8頭!! 集い来りて敵を切り裂け 魔法の射手・連弾・氷の8矢!!」

 

 回避行動を続けながら詠唱を唱え、近づいてきた精霊達に向けて氷の魔法射手でそれぞれ迎撃していく。

 ネギが風精一体に込めた魔力は、エヴァンジェリンが放った氷の一矢と比べると莫大であったはずだ。風精に込められた魔力と比較すればネギの方が遥かに大きいのに、最小限の魔力でいとも簡単に屠る。

 

「これが闇の福音の実力!? だけど、僕だって」

 

 呆気なくやられたがネギの中ではそれも想定の範囲内。迎撃された剣を執る戦友を目くらましにしつつ急加速し、エヴァンジェリンの側面へと回りこんで詠唱する。

 

大気の拳(エーテル・フィスト)!」

 

 ネギが作戦通りに側面に回りこんで魔法を放つ。魔法使いの格など関係のなくさせる込められるだけの魔力で放たれた、複数の風の拳がエヴァンジェリンに襲い掛かる。

 潤沢な魔力で放たれた大気の拳に気づいていたエヴァンジェリンは真正面から策も何もなく突っ込んで行った。

 

「その程度で私をやれると思ったか!」

「そんな!? ぐっ………ラス・テル・マ・スキル……!!」

 

 エヴァンジェリンは障壁によるゴリ押しで大気の拳を突破して距離を詰めて来る。

 ネギは追撃で唱えようとしていた中位魔法から、即座に取るべき手段を選択する。

 

「風花・風障壁!!!」

 

 ネギを護るように風の壁が攻撃を阻む。小柄ながらも異常な攻撃力と尋常ならざる力を持つであろう真祖の吸血鬼の攻撃を、物理的な損害から身を守ることができる風花・風障壁ならば凌げると判断した。

 

「慌てず防御壁を張れたのは褒めてやるが、それは最善手ではないぞ。確かに風障壁は10tトラックの衝突すら防ぎきれる優れた対物理防御魔法だが――――」

 

 見習いで出来る咄嗟の判断ではない。しかし、当のエヴァンジェリンはこの程度では満足しない。更に距離を詰めて、両手に魔力を漲らせる。

 視認できるほどの魔力を迸らせて、無謀にも風の壁に両手を突っ込んだ。

 

「効果は一瞬。連続しようも不可能という弱点があることを忘れるな。そして、何事にも例外があるということもな!」

 

 そして力任せに風の壁を、両開きの扉をこじ開けるように切り裂いた。その気になればトラックとの正面衝突も無傷で済ませる事ができるほどの物理的に破壊する事が出来ないはずの魔法障壁。しかし、それは理論上の話で、力量差によっては力尽くで突破される事も有り得ることである。エヴァンジェリンがやったのはまさにそれ。

 

「そんな風障壁を素手で!?」

 

 力尽くで切り拓かれる風障壁。魔法力による身体能力強化の賜物と言えよう。常識に捉われていてはエヴァンジェリンのような規格外に出会った時にこのような目に合うという実例を身を以って体感する。

 風花・風障壁が切り裂かれた瞬間、エヴァンジェリンの足がネギを蹴飛ばした。

 

「ぐわっっ!?」

 

 咄嗟に張った障壁を何枚も突破され、口の端から血を吐き出しながら吹き飛ぶネギ。しかし、やられているばかりではない。そのまま全速力で橋の向こう側へと飛んでいく。

 

「あの方向だと…………学園の外に逃げる気とは思えないから何らかの罠でも仕込んでいるか」

 

 エヴァンジェリンはすぐには追いかけず、ネギの向かった方向を確認し、眼下の戦いの状況を確認する。

 

「ほぼ互角か。茶々丸はともかくチャチャゼロめ、楽しんでるな」

 

 久方ぶりの戦闘と相まってチャチャゼロが本気を出さずに遊んでいることは、同じようにネギで遊んでいるエヴァンジェリンには直ぐに分かった。

 

「人のことは言えんか」

 

 身に纏う外套を蝙蝠の羽のように大きく広げ、我が物顔で夜空を進む。十五年分の鬱憤を吐き出すかのように大きく外套を羽ばたかせてネギを追いかける。

 急加速をして三秒で一心不乱に空を飛び続けていたネギを射程圏に捉えた。

 

「氷爆!」

 

 エヴァンジェリンによって作り出された氷の爆弾がネギの左後方で爆発し、凍気と爆風が同時にネギに襲い掛かる。

 

「あぐうっ!」

 

 咄嗟に伸ばした手の先で障壁を展開し、最低限地面に叩きつけられることだけは回避したが左半身の所々が氷付けになってしまった。

 

「ハハハ、どうした逃げるだけか? もっとも呪文を唱える隙もないだろうがな!」

 

 凍った体の箇所もそのままにすぐさま態勢を立て直し、再び今までと同じ方向へ飛び出した。その先には今日の為にネギが張った罠がある。

 ネギは自分が魔法使いとしての力量で大きく劣っているのを自覚しているので敵わない事など百も承知だった。勝つために罠の一つや二つは用意している。

 

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック 来たれ氷精 大気に満ちよ。白夜の国の凍土と氷河を こおる大地!」

「わ――ッ!」

 

 一つ一つの氷が全長五メートルを楽に越すその氷山を間一髪で避けたネギだが、無理な動きをした代償に杖から放り投げられて、何度も跳ねながら悲鳴を上げて橋の上を転がる。

 手加減したとはいえ自分の魔法を避けたことに僅かに賞賛の眼差しを向けながら、橋に降り立ったエヴァンジェリンはネギの企みを看破した。

 

「ふ………なるほどな。この橋は学園都市の端だ。私は呪いで外には出られないから、ピンチになれば学園外へ逃げれば良い、か。意外にせこい作戦じゃないか。え? 先生」

 

 地面に這い蹲るネギを見て、エヴァンジェリンが腕を振るうとこおる大地が消え去る。

 真っ直ぐ過ぎたネギが多少なりとも努力した事を認めて歩を進めていく。ぐぅ、と唸りながらネギは近づいてくるエヴァンジェリンを、悔しげな表情でただ見ているだけのようではあるが、如何せん顔に出過ぎだった。

 真っ直ぐ過ぎる性格が仇になっていた。腹芸や罠を仕組むには性格的に難しかったのかもしれない。こういう罠はアーニャやカモの領分で、生真面目で気負いすぎるネギには少し早かったようだ。

 エヴァンジェリンにはネギの態度と間の地面から僅かに漏れる魔力で、何処に罠があるのかは分かっているが、それもまた一興だと気にせず進む。ネギは息を呑んでエヴァンジェリンがその場所へと足を踏み込むその時を待った。

 

「これは……!」

 

 その場所に一歩踏み入れた途端、アスファルトに刻まれた術式が起動する。

 これは陣が敷かれた上に、対象が足を踏み入れた時に発動する、対象を絡め取る結界。魔法円が浮かび上がり、そこから伸びる幾重もの光の縄がエヴァンジェリンの身体に巻きついて自由を奪っていく。

 罠に嵌った当のエヴァンジェリンは逃げ出そうという気配はなく、最初は驚いていたが僅かに感嘆の声音を漏らすなど落ち着いたものである。

 

「ほぉ、捕縛結界か。よく考えたな」

「や、やったー! 引っかかりましたね、エヴァンジェリンさん!」 

 

 完全にエヴァンジェリンが結界に捕らえられた事を確認すると、ネギはガッツポーズをして喜びを全身で表現し始めた。

 自分が張った捕縛結界ならば破られないと自信を持っていた。だが、ネギは極限に至りし魔法使いを知らない。破られるとしても時間がかかり、無防備な姿を晒しているのだから負けを認めると考えていた。 

 止めも刺さずに、そうしているのはネギがまだ十歳にも満たない少年であるが故に仕方のないことかもしれない。これが試合で審判でもいればネギの勝利が確定したであろうが、この戦いは試合でもなければ審判もいない。勝敗の判定は最後に立っていた者によって決まる。

 

「もう動けませんよ、エヴァンジェリンさん。これで僕の勝ちです! さぁ、大人しく観念して負けを認めて下さい!」

 

 ネギはこの時のために夕方に設置しておいた切り札である捕縛結界が上手くいったことに喜びながら自信満々に勝利を宣言して、今までの緊張が解き離れたようなハイテンションでエヴァンジェリンに捲くし立てる。

 

「やるなぁ、ぼうや。感心したよ。ふ、あは、アハハハ!」

 

 紡ぎだされた最初の言葉は罠に嵌めた事への純粋な賞賛。今まで未熟ばかりが露呈していたが、こと数えで十歳の少年が本気でないといっても伝説の相手に戦い、罠に嵌める知略を見せ付けた。

 束縛する捕縛結界を見ても、ネギが才気溢れる少年であり、魔法使いとして前途有望だと彼女自身も認める。しかし、後に続いた笑い声はさっさと止めを刺さないネギの甘さへの嘲笑。確かに真っ直ぐ過ぎた少年が罠を張り、自分を一瞬でも追い込んだ手際、見事と言えよう。

 年齢からの未熟か、人間としての未熟か、或いは己の力への過信か、極限に至った魔法使いに対する認識不足か、ここで直ぐにトドメを刺さなかったのは致命的であった。

 

「な、何が可笑しいんですか!? ご存知のように、その結界に捕らえられたら簡単には抜け出せないんですよ!」

 

 称賛と嘲笑。そのどちらにも、敗北を認めるような色は欠片も混じっていなかった。

 ネギにはエヴァンジェリンが理解できない。惜しむらくは、エヴァンジェリンの戦士としての実力を把握しきれなかったこと。

 

「坊や。貴様、まさかこの程度の罠で私が屈すると本気で思っているのか? サウザントマスターに負けたとはいえ、私は最強クラスの魔法使いだぞ?」

「え?」

 

 込められた嘲笑には気付かずとも、正の感情で笑われたことでない事を悟ったネギは問うが返って来た言葉を理解する前にエヴァンジェリンの身体から魔力の濁流が迸り、体を押さえつけている鎖がギシギシと軋む。ネギは自分で最大にして最後の勝機の時を失ってしまったのだ。

 

「私はエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。最強の『悪の魔法使い』だ!!」

 

 言葉の後に力のままパキンッ、とガラスが割れる様な硬質の音を響かせて鎖を引き千切った。

 

「……あ……」

 

 常識外れの力技を目にしたネギは唖然とするばかりで声にならない声が自然と零れ落ちる。そんな常識外れを成すのがエヴァンジェリンであり、英雄と言われたナギである。ネギはそれを実地で実感させられた。

 

「そ、そんな……っく!」

 

 内心で卑怯だと感情的な批判を浴びせながらも、再び捕らえようと詠唱を始めようとしたネギだったが、何時の間にか体を夜目ではほとんど見えない糸で拘束されていた。

 

「あ……っ!」

 

 拘束されてほとんど動けないネギに、近づいてきたエヴァンジェリンは簡単に杖を取り上げた。魔法使いは特殊な事がない限り、杖がなければ魔法が使えなくなる。糸で拘束されていることも合わせて既に死に体と言っていいだろう。

 

「フン、奴の杖か」

 

 ネギから奪い取った杖を、過去を連想させる忌々しさと郷愁から思い起こす僅かな懐かしさを混ぜた目で見つめること数秒。

 

「ああっ!?」

 

 ポーン、と子供が興味の失せた玩具を放る様に、或いは過去の未練を断ち切るように橋の下に広がる湖へ無造作に投げ捨てた。戦闘において敵の戦力を減らすのは常套手段。彼女がそれを成すのに果たして何を思ったのか。

 エヴァンジェリンの行動に杖の持ち主のネギは元より、遠くから見ていた学園長や高畑にさえその行動は予想外の事で、放物線を描いていく杖をただ呆然と見届けるだけだった。

 

「エヴァンジェリンさん! あ、あれは僕の何よりも大切な杖、あれがないと僕は…………」

 

 いま自身が口にした通り、自分が何よりも大切にしている杖を投げ捨てられて、ネギは完全にただの十歳の少年と成り果てる。

 父の杖を奪われたことで急速に戦意を失っていく。あの杖は六年前からどんなに寂しい時、辛い時でも共にあり続けた心の支柱であった。

 策はいとも簡単に打ち破られ、杖は奪われて失ってしまった。心の支柱を失ったネギの肉体からみるみる内に覇気が抜けていき、目から闘志の光が消えた。残ったのは戦う意思を無くした小さな子供だけ。 

 杖を投げ捨てた本人であるエヴァンジェリンは、杖がないだけで闘う意欲を失った情けない姿に苛立ちを感じていた。それと同時に自身がネギにサウザントマスターの影を重ねていたことにも気付かざるを得なかった。

 目の前にいる子供はただの十歳にも満たない見習い魔法使いにしか過ぎないのだと。ナギと同じ気概をネギにまで求めたのは間違いなのだと。

 

「あうっ!?」

 

 パシンッ、と乾いた音がネギの頬から響いた。苛立ちが限界に達したエヴァンジェリンの平手打ちが、ネギの頬を殴打したのだ。打たれた衝撃でネギの眼鏡が音を立てて橋の上に転がっていく。

 

「一度戦いを挑んだ男が簡単に諦めるな、馬鹿者! この程度でもう負けを認めるというのか!? お前の親父ならばこの程度の苦境、笑って乗り越えたものだぞ! アスカでも立ち向かおうとしただろうよ!」

 

 苛立ちから指を突きつけてエヴァンジェリンはネギを罵倒する。

 これが見習い魔法使いだとしてもサウザントマスターの息子がこんなものでどうするのだと、そんな思いが表面に出てきた。あの誰にも屈しなかった男の息子が、啖呵を切って来た双子の弟がいるのに、こいつだけがこんなにも弱いことを認められない。

 

「あ、ぅ……」

 

 ネギはエヴァンジェリンに気圧されたように力なく、糸に拘束されまま項垂れる。

 

「はっ! 所詮、奴の息子といえどこの程度か。最早血を吸う価値もない。いや、サウザントマスターや、兄がこの程度ならアスカも同様だということか」

 

 ネギの怯えた視線を受けて、ふと感情を荒げている自分に気づいたエヴァンジェリンは、冷静さを取り戻した後、改めてネギへの正しい評価を口にした。

 ネギも自分達の実力が違うのは初めから分かっていた。その差を埋めるための策を用意したとは言っても、負けるかもしれないという思いは少なからずあった。だが、エヴァンジェリンを罠に掛けた時に勝ったと慢心せず、止めを刺していれば結果は変わっていたかもしれない。今更にそんな思いがネギの胸中に広がるが、後の祭りであった。

 

「ちっ、これぐらいでもう心が折れたか。存外に脆かったな」

 

 ナギならば決して諦めず、例えどんな窮地に陥ようとも常に勝利を渇望し、そして勝ち取ってきた筈だ。そもそもこの考え自体がネギを見ていないのかもしれないが、今更変えるつもりも無い。元々大してネギに期待していたわけではないが、それでもやはりナギの息子がこの程度と言うことには一抹の失望を感じずにはいられない。

 糸を解いてネギの拘束を解き、踵を返した後ろで地面に落ちた音を無視して、ゆっくりと空を飛んでネギから離れていく。

 ネギは見逃された事に安堵の息を漏らすが、未熟な自分と違い尊敬する父をアスカを侮辱されることは何よりも許せなかった。

 

『お前の親父ならばこの程度の苦境、笑って乗り越えたものだぞ! アスカでも立ち向かおうとしただろうよ』

 

 エヴァンジェリンに言われた言葉が蘇って記憶にある父の姿が思い浮かぶ。ネギが絶望した時に現れ、どれだけの悪魔の群れに囲まれようとも負けなかった圧倒的な力を披露した背中。アスカには最初から分かっていたのだろう、エヴァンジェリンの巨大さを、強さを。それでも誰にも弱音を吐くことなく立ち向かおうとしていた。

 

『サウザントマスターや、双子の兄がこの程度ならアスカも同様だということか』

 

 その心底の失望を感じさせる言葉が、ネギの心に漂っていた暗い気持ちを吹き飛ばしていく。父への思いは、ネギ自身の中にあるどんな思いよりも優先される。双子の弟への侮辱は、父への思いに匹敵するほどの意志の強さをネギに与える。

 

「…………訂正してください」

 

 恐怖は怒りへ、諦めは闘志へ、ただ想いだけが折れていた心を繋ぎ合せ、伏せていた体を起こさせる原動力となった。震える体を鼓舞して立ち上がり、唯一残っていた子供用練習杖をポケットから取り出し、去って行くエヴァンジェリンの後姿を見据える。

 

「僕のことを言われるのはいい…………見ての通り、こんなにも情けない男です。でも、二人は、二人のことだけは訂正してください!」

 

 躊躇は一瞬、不安を吹き飛ばすように杖を掲げ、全身から放出した魔力が風となって竜巻を引き起こす。

 

「ぬっ、まだやる気が残っていたか」

 

 ネギから発生した風に体を煽られるも、エヴァンジェリンはすぐに体勢を立て直す。立ち直ったとしても戦力差は歴然、ゆっくり待てばいいとエヴァンジェリンは気楽に考える。心が折れたまま無様な抵抗を繰り返すのか、それとも……………。

 

「…………ふん」

 

 空中にいるため物理的にも、そして心情的にもネギを見下しながら、エヴァンジェリンは尊大に腕を組み、立ち上がった『魔法使い』を見やる。

 ネギの方は、まだ表情に緊張が見受けられ、足もガチガチに固まっていた。情けなくも震え、目は今にも逃げ出したいと叫んでいるのが見て取れた。決して恐怖を克服したわけではないが、二人への思いがネギの体を支えていた。

 それでも立ち上がったネギを、かつての愛しい仇敵の姿に重ね、エヴァンジェリンはキッと目を細めて見据える。

 確かにナギよりも圧倒的に弱い。アスカよりも遥かに弱い。自身よりも天と地ほどの差があるほどに弱い。その姿を見れば、恐ろしくて、怖くて、みっともなく逃げ出したいことは、どんな惨めな姿になっても許しを乞いたいことは分かった。

 痛い思いをしたくない、怖い思いに合いたくない。だけど、逃げ出さない。恐怖に抗い、命の危険に立ち向かって見せた。生まれたての小鹿のように全身を恐怖で震わしているいまのネギの姿は情けないだろう。だが、エヴァンジェリンは笑う気にはならない。

 どんな情けない姿でも抗って見せたのだ、このエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルに。伝説に、闇の福音に、真祖の吸血鬼に。

 果たしてこの学園に本気となった自身に抗って見せようという気概のある者が何人いるだろうか。どんな動機であろうと、どうやっても勝てない力の差を理解した上で折れた心を抱えて抗う者を笑うことなど出来ようか。

 

「よく立った。ネギ・スプリングフィールド。先程までとは打って変わって、随分と良い顔をするようになったじゃないか。正直、見違えたぞ」

 

 ネギの行動を褒め、賞賛するようにエヴァンジェリンは言葉を紡ぐ。

 

「だがな、私にさっきの言葉を訂正させたいのなら実力でしてみせろ!」

 

 彼女は今こそ『ネギ・スプリングフィールド』という人間を認めた。自身が戦うに値する人間だと、『ナギ・スプリングフィールドの息子』としてではなく、『ネギ・スプリングフィールド』としてその存在を認めたのだ。

 封印を解く供物ではなく、この場において伝説の吸血鬼を前にしてネギは勇気を示し、いまなお立ち向かおうとしている。

 

「……はいっ!」

 

 言葉を放つエヴァンジェリンの姿は少女の姿をしていても、そこにいるのは何者にも媚びぬ覇者の風格を備えた最強の魔法使いだ。エヴァンジェリンの呼びかけに、ネギは圧倒されながらも、今までとは打って変わり強い意思を持って踏みとどまって叫び返した。

 自らの意思をはっきりと乗せた言葉で戦いの開幕を迎え入れたネギは、この勇気を与えてくれた父と弟に感謝の念を抱いた。

 辺りから音が消え去り、嵐の前の静けさを思わせる刹那の静寂が辺りを押し包む。子供用練習杖はエヴァンジェリンに投げ捨てられた父の杖に比べれば余りにも頼りないが、我侭は言っていられない。戦意は十分。勝機は薄く。だが、諦めなかったネギの下へとアーニャを抱えたアスカが滑り込んできた。

 

「良く言ったっ!」

 

 ネギの前で着地したアスカはボロボロだった。服のあちこちが切り裂かれ、チャチャゼロによって付けられた切り傷が全身を覆っている。

 

「言うじゃない、ネギの癖に」

 

 アーニャの身なりも酷いものだった。茶々丸に殴られたのか頬を大きく腫らし、立ち上がった立ち姿もどこかぎこちない。

 

「二人とも……」

「良い啖呵だったぜ。こっちまで聞こえて来た」

「そうよ。私の名前がなかったのは剛腹だったけどネギにしては上等なこと言うじゃない」

 

 ネギは二人と比べて怪我は殆どない。怪我の具合を見るだけでどれほどの激戦を行ってきたかが分かった。一番酷い怪我を追いながらも退く気など一切アスカはネギを横目で見た。

 

「やっぱエヴャは強かったか」

「うん、僕じゃ手も足も出ない」

 

 アスカの問いに答えながら、ネギは戦意も高くエヴァンジェリンと合流した向こうの従者二人を見据えた。

 

「茶々丸もあれは卑怯だわ。なによロケットパンチって」

 

 頬を殴られたのはそれなのか、向こうの陣営で若干申し訳なさそうに頬を撫でているアーニャを茶々丸が見ていた。

 

「そっちの方は勝てそう?」

「無理。完全に遊ばれてる。ちっこいくせに洒落にならねぇ強さだ」

「アスカがお手上げなら私達はどうにもならないわよ」

 

 この三人の最高戦力は文句なしでアスカだ。そのアスカが相対する敵を倒せないとなれば、当初の予定は大幅に狂ってしまう。

 警戒しながらも敵の前で作戦会議をしている三人に呆れを感じつつ、エヴァンジェリンは己が従者達を見た。

 

「どうだ、アイツらは?」

 

 ご機嫌なチャチャゼロを見れば分かるが敢えて聞いた。

 

「ヤルゼ、アノ金髪。他ノ二人モ見テタガ単体戦闘能力ハ、アノ中デハ最高ダロ。ダケド、マダマダナッチャイネ」

 

 チャチャゼロはエヴァンジェリンの最初の従者として、最も苛烈な時代を共に生きて来た。そのチャチャゼロの目から見ても才覚を感じさせるアスカだが、まだまだ未熟と断じる。

 

「アーニャさんは型破りなところがあります。信じられない攻撃をしてきました」

 

 服のあちこちを焦げさせた茶々丸は静かに己の所見を述べる。少なくとも、身に宿す魔力の量で言えば、ネギとアスカは自分と肩を並べる事ができる事をエヴァンジェリンは少しの苛立ちと共に認め、従者から聞いた話も合わせて三人の評価を大幅に改めた。

 

(自分ならば、三人をどう育てる?)

 

 心の強さを見せたネギ、初代従者に才能を認めさせたアスカ、茶々丸を驚かせた意外性のアーニャ。

 これだけの才能、自分で育成というのもしてみたくなったエヴァンジェリンである。いまの未熟さなど自身が鍛えれば簡単に叩き直せる。

 

「それもこの戦いの決着次第だ」

 

 奇しくも最初と同じ位置関係になった両組は戦意を高めて、再度の激突に備える。

 何かの切っ掛けでいつ崩れてもおかしく均衡を崩したのは、第三者の存在だった。

 

「こら、待ちなさい――っ!」 

 

 この戦いの最大のイレギュラーが紛れ込んで来た。

 



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第10話 ネギ+アスカ=?

 停電になった女子寮内を桜咲刹那は飛ぶように走っていた。一歩一歩が大きすぎて半ば半分飛んで目的の部屋に到着した刹那は、片手に携帯を持ちながらドアを開けた。

 

「お嬢様!」

 

 ドアを開けた先の部屋は停電中なので当然のことながら暗かった。室内にいるべき人間は二人でなければいけないのに、刹那が見つけたのは一人だけだった。

 

「せっちゃん」

 

 灯りもない室内で布団に包まっていた木乃香は、入って来た刹那がダイニングで携帯を開いた灯りで顔が見えたことに安心したようだった。

 布団から出て来て縋りついてきた木乃香をしっかりと受け止める。

 

「大丈夫ですか、お嬢様」

「明日菜が急に飛び出してって怖なってな。呼んで迷惑やった?」

「何時でも遠慮なく呼んでくださって結構です。寧ろ、呼んでください」

 

 ぎゅ、と強く抱き付いてくる木乃香に緩んだ顔をした刹那を見れば同室の真名も失望すること間違いなし。既に知っていて諦めているかもしれないが。

 

「明日菜さんはどうされたんですか?」

「分からんねん。布団のところで誰かと話してみてたみたいやねんけど誰も部屋には入ってきてないし、止める前にあっという間にどっかに行ってしもうてん」

「まさか……」

 

 刹那には心当たりがあった。この部屋に来る前にネギ達の知り合いというオコジョ妖精が助力を求めて来て、気持ち的には助けたいがアーニャから事前に助太刀無用と止められていたので断っていたのだ。

 一般人の明日菜にも同様に助力を求めに来たようだ。様子からして助力に応えて行ったのだろう。

 

「なにか知ってんの?」

「いえ、分かりません」

 

 刹那にはそうとしか言いようがなかった。

 

「やっぱアスカ君達のところに行ったんやろうか」

 

 刹那の表情の僅かな変化から明日菜の行き先を悟った木乃香は心配そうに窓の向こうを見た。月明かりを取り入れる為に開けられているカーテンのお蔭で、外の様子が良く見えた。

 

「恐らく」

 

 頷いた刹那にはアーニャに止められている以外に助太刀に行けない理由があった。それは木乃香も同じやった。

 

「大丈夫やろか。千草先生に止められてなかったらうちも行けたのに」

「天ヶ崎先生はお嬢様の身を案じておられるのです。自重して下さい」

「歯痒いなぁ。うちの立場なんてお父様やお爺ちゃんの血縁ってだけやのに」

 

 この新学期から関東魔法協会の支部の一つがある麻帆良学園都市に関西呪術協会から留学生としてやってきた天ヶ崎千草。彼女が麻帆良に送られれてきたのは、木乃香が己の立場と魔法を知ったことから家庭教師としての一面もある。

 半月で授業は始まっていて、彼女の家に出入りする木乃香に付き添っていた刹那は同じように千草の家に出入りしていたアスカ達がエヴァンジェリンと戦うのを聞いてしまったのである。明日菜に詰問されて割とあっさりとゲロッてしまったのは刹那の迂闊であった。

 

『エヴァンジェリン達の戦いに首突っ込んだら呪いかけるから。うんと苦しむようなやつな。女の尊厳奪う方向の』

 

 陰陽師の先生である千草に禁じられ、齧っただけの刹那では本職が本気で呪いをかけてきたら跳ね返すことは難しい。やると言ったらやる女であることは普通の教師生活や陰陽師の先生として見て来た刹那では逆らいようがない。普段はおっとりしている木乃香ですら逆らおうとはしないのだから大概である。

 あれで特定の人物には実は押しが弱いようだ。アスカとかネカネとか。特にネカネ。天然すぎて手に負えないらしい。

 

「無事に帰って来れる様に応援しましょう。今の私達に出来るのは、それだけです」

「みんなが無事に帰ってきますように」

 

 みんなが無事に帰ってくるように木乃香は胸の前で手の平を組んで祈りを捧げた。無宗教なので神には祈らない。戦いに赴いた年下の友達達と親友にこそ、木乃香は祈るのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突如として現れたイレギュラーは、ここには来てはいけない人間だった。

 

「明日菜!?」

 

 橋の向こうから駆けて来る明日菜の姿にアスカが驚愕の声を上げた。

 

「やはり来たか、神楽坂明日菜――――茶々丸」

「申し訳ありません、明日菜さん」

 

 前に敵がいるにも関わらず、後ろを振り向いて明日菜がやってくるのを見たエヴァンジェリンは表情を崩し、一瞬で元に戻しながら茶々丸の名を呼ぶ。

 茶々丸は主の意を汲んで、明日菜を迎撃するために前に出て進路を塞いた。妨害を予測していた明日菜は肩に乗っているカモを信頼して更に加速する。

 

「カモ!」

「合点だ! 俺っちの力を見せてやるぜ! オコジョフラーッシュ!!」

「目晦まし!?」

「ゴメン、茶々丸さん」

 

 カモは叫びと共に手に持つマグネシウムをライターで燃やして化学反応で発生した即席の閃光弾を炸裂させた。即席の閃光弾はカメラのストロボよりも激しい光を生みだし、茶々丸のセンサーを僅かの間とはいえ狂わせ、その動きを止めさせた。

 茶々丸の横を明日菜は駆け抜けた。莫大な生徒数を誇る麻帆良学園都市の中で女子中等部一、二を誇る明日菜の健脚は瞬く間にエヴァンジェリンへと近づいていく。

 今のエヴァンジェリンに近づくのは自殺行為。それが分かっているからこそ動き出そうとしたアスカの前に立ち塞がる敵――――チャチャゼロ。

 

「そこをどけ!」

「サセネェッテ言ッテンダロ」

 

 真っ先に飛び出そうとしたアスカの進路を塞ぎ、かつアーニャとネギに持っていた大剣を投げつけることで牽制するチャチャゼロを確認したエヴァンジェリンは、迫る明日菜を見据える。

 十メートル、九メートル八メートル、七メートル、六メートルと徐々に近づいて来る明日菜を見据え続ける。

 瞬く間にエヴァンジェリンならば一足の間合いにまで踏み込んだ明日菜。そして距離をゼロにして、マイナスになろうともエヴァンジェリンは手を出さなかった。

 

「それが貴様の選んだ選択か」

 

 隣を通り過ぎた時、明日菜は確かにエヴァンジェリンの声を聞いた。

 

「下がれ、チャチャゼロ」

「御主人モ甘クナッタモンダ」 

「早くしろ」

「ヘイヘイ」

 

 妨害をしていたチャチャゼロが文句を言いながら下がったことで、明日菜の進路を塞ぐ者はいなくなった。

 

「兄貴! 時間が欲しい。障壁を」

「事情を説明してよ。ラス・テル・マ・スキル・マギステル 逆巻け春の嵐 我らに風の加護を 風花旋風・風障壁!!」

 

 カモの求めに応じて、状況を理解するために時間が必要と判断したネギは竜巻のような風の障壁を作った。もしかしたらエヴァンジェリンなら突破してくるかもしれないが、先程の様子を見てそれはないとネギは直感した。

 竜巻の周辺は激しい気流が流れており危険だが、その内部は台風の目のように静かである。しかし、雷の少年の怒りはそれどころではなかった。

 

「カモ! なんで明日菜を巻き込んだ!」

「く、苦し……」

 

 明日菜と共にやってきたカモを見た瞬間に全てを悟ったアスカの怒り様は、幼き頃からずっと一緒にいるネギですら見たことがなかったものだった。

 カモの首を絞めて詰問するアスカの怒り様に、ネギもアーニャも止められなかった。

 

「待って。切っ掛けはカモかも知れないけど、ここに来たのは私の意志なの。責めないで上げて」

 

 アスカの手を止めたのは明日菜だった。

 流石に明日菜の懇願に、アスカも今にもカモを縊り殺しそうな手を緩めた。アスカから逃げたカモはネギの体をよじ登って肩で息を吐く。

 

「はぁ~、殺されるかと思った」

「カモ君が明日菜さんを連れて来るからだよ。アスカじゃないけど、なんで連れて来たの?」

 

 気持ちの上では分からないまでもないネギがカモに非難の視線を込めながら問うた。絞り上げられた毛は短い手足では整えられないので、舌でやっていたカモはネギの問いに顔を上げた。

 

「戦力が足らねぇんだろ。関係者って話の何人かに当たってヒットしたのが明日菜姉さんだけだったんだ。話に聞いてたの以外にも強いのが何人かいたけど、関係者かどうか分かんなかったから姉さんに頼んだんだ」

「だからって明日菜を連れて来ることはないじゃない」

「自分達だけでやろうとするのは兄貴達の悪い癖だぜ。アーニャの姉さんだって変わらねぇ。三人で勝たないなら他から戦力を持ってくるのは常套手段。遥かな格上に挑もうっていうのに余裕を残すのはおかしいんじゃないか?」

 

 問うたアーニャにだけではない。カモはネギとアスカにも言っていた。助言者・知恵者として、目標としているナギに届くには三人の実力はまだまだで、こんなところで足を止めたくなければ明日菜を巻き込んでも進めと言っているのだ。

 己の役割を熟知しているカモの言葉は少年少女にとっては辛辣ですらあった

 

「テメェ……」

 

 言い返したいが言い返すだけの材料の言葉が見つからないアスカを見た明日菜が前に出た。

 

「私はアスカを助けたい」

 

 圧倒的に強いアスカに言うのは間違っていると、明日菜も分かっている。

 しかし、明日菜はこのままじゃいけないような気がした。このままでは置いていかれそうな……………そんな気がしてならない。それが嫌だ。傍にいたい。それを表に出さず、だけど明確な意思を持って願い出た。

 今も明日菜には覚悟も意志もないかもしれない。そう、胸にあるのは大事な人を喪ってしまって抱えた欠落だけだ。そしてその欠落からさえもずっと目を逸らして生きてきた。だけど何時までそうして生きる事はできないのだという予感がする。

 ここで置いていかれたら何もできない。それが自らを脅迫するように締め付けてくる。何故かは分からない。分からないけど、何も出来ないままなんて嫌だから。

 何も出来なかったから誰かが傷ついた。あの時だって、あの時のこととは何のことなのか? そのことには考えが至っていないが一種の強迫観念に似た何かが追い詰める。それが明日菜を動かす。今、動かなければ自分は後悔すると。

 

「私、頭が悪いから上手く言えないんだけど決めたの。このまま見て見ぬ振りをすれば、きっと後悔すると思う。私にはみんなみたいな戦う力は無いけど………後悔だけはしたくない! だから例えアスカが止めても関わっていくよ」

 

 明日菜の目には強い意志が宿っている。その目を見てアスカは止めても無駄だと悟ってしまった。

 

「ああ、もう!」

 

 頭をガシガシと乱暴に掻いたアスカがやがて諦めたようにため息を吐いた。

 アスカに溜息を吐かせたのは、その人生において明日菜が始めてであることは彼女は知らない。

 

「…………分かった。正直助かるのは事実だ」

「アスカ!?」

「認めろ。俺達は弱い。明日菜を巻き込まなきゃ進めない程にな」

 

 下を向いて大きく息を吐いたアスカは、アスカは拳を強く握って気持ちを切り替えるようにネギに言った。

 

「ちくしょう、強くなりてぇ」

 

 竜巻の向こうにいる強さの具現であるエヴァンジェリンを見つめるアスカの眼差しに、ネギもアーニャもそれ以上は何も言えるはずがなかった。

 話が纏まったとみたカモが時間を確認しながら小さな口を開いた。

 

「決まったなら仮契約だ。明日菜の姉さんにも戦う力が必要だ。魔力量からいって二人のどっちがする?」

 

 風花旋風・風障壁の持続時間も残り短い。話を進めるためにカモはネギとアスカを見た。

 

「「………………」」

 

 まさかの話に二人は顔を見合わせ、自分からネギが引いた。ネギ少年は、明日菜とアスカのやり取りを見て何も感じぬほど鈍感ではなかったのだ。

 

「んじゃ、行くぜ」

 

 なんのことか意味が分からない明日菜を放置して、アスカが前に出たのを見たカモはどこからか取り出したチョークらしき物で地面に魔法陣をあっという間に書き上げていく。自分を中心に複雑な魔法陣を秒単位で描いていくカモに明日菜が感嘆の息を漏らす。

 

「うしっ、完成!」

「おお、凄い早業っ」

 

 一分も経たずに書き上げられた魔法陣に一人だけの拍手が巻き起こる。その拍手は途中でアスカに遮られることになる。

 

「ま、あれだ。狗に噛まれたと思って諦めてくれ」

「えっ……んむ!?」

 

 頭を掻いて魔法陣に入って来たアスカが明日菜の首を掴んで引き下げ、近づいてきた顔に自分の顔を寄せて口づけをした。

 

仮契約(パクティオー)!!」

 

 二人が唇を合わせたのを確認したカモの声と同時に、魔法陣が光り輝いて一瞬でもネギ達の目を眩ませるほどの光を放つ。数秒して、消えていく魔法陣の光に合わせるようにアスカは唇を離した。

 

「ぁ……」

 

 恍惚の面持ちで流れ込んでくる何かに身を任せていた明日菜は、離れて行く唇を追おうとして状況に気づいて恥じらいに顔を紅くした。

 京都で思った通り、アスカの唇は思いの外柔らかくてキスの気持ちに良さにちょっと濡れてしまった明日菜であった。どこが濡れたのかは明日菜一生の秘密である。

 

「カモ、カード」

「へい」

 

 唇を抑えてプルプルと震える明日菜を頑として見ないアスカはカモからカードを受け取った。『傷ついた戦士』と称号が書かれている、身の丈ほどの大剣を持って軽鎧に身を包んで快活そうに微笑む明日菜の姿がプリントされたカードを見るともなしに見つめるアスカ。

 

「なによ、アイツったら」

「照れてるだけだよ。ほら、耳まで真っ赤」

 

 乙女の唇を了解もなく奪っておいて素っ気ないアスカの態度に気を悪くしたアーニャだったが、ネギの指摘を確認するために見ればその通りだったので納得した。

 アスカの耳が先まで真っ赤になっていて素っ気ない態度が照れ隠しだと気づいた明日菜は、もっと顔を紅くした。正直、キスをした相手と面と向かって顔を見れる度胸はない。

 

「もう風障壁が解ける。明日菜のフォローはカモに任せるぞ」

「姉さんを引き込んだのは俺っちだ。責任は持つさ」

 

 言ってカモが明日菜の肩に飛び乗るのを見たアスカは、次にネギを見て耳を触った。

 

「ネギ、あれをやるぞ」

「分かった」

 

 ネギが頷くのと同時に、風障壁が解けて竜巻に包まれていた風景が元に戻る。

 

「ふん、出て来たか」

 

 退屈そうに待っていたエヴァンジェリンは腕組みを解いた。

 

「ふふっ……どうした、お姉ちゃんが助けに来てくれてホッと一息か?」

「ほざけ」

 

 鼻息も荒く言い返したアスカはカモから受け取ったカードを前に掲げた。

 アスカが持つカードが仮契約をした証であることを知っているエヴァンジェリンは、後ろでオコジョ妖精から助言を受けている明日菜を見遣った。

 

「馬鹿者が」

「マスター?」

「なんでもない」

 

 チャチャゼロは何も言わない。甘くなった主人に言うべき言葉を、戦いの中で吐くなんてことは絶対にしない。

 

「契約執行無制限!! アスカの従者『神楽坂明日菜』」

 

 明日菜の体にアスカの白い魔力光が宿る。

 

「…………温かい」

 

 従者となって他者の魔力を身体に受けると、こそばいというか大なり小なりの違和感がある。羽毛で肌を軽く触られているような感覚がして落ち着かなかったが、同時にアスカに守られているような安心感を明日菜に与えた。

 アスカの行動はそれだけに留まらない。取り出したのは別のカード。ネギと契約した仮契約カードを。

 

「アデアット」

 

 アスカの両耳に真珠のようなアクセサリーがついた耳飾り――――銀のイヤリングが出現する。

 自己強化型のアーティファクトかと警戒したがアスカはそのイヤリングの片方を外してネギに向かって投げた。

 

「行くぜ、ネギ!」

「うん!」

 

 イヤリングを受け取ったネギは言いながら、アスカが着けている方とは逆の耳につけた。

 

「「合体っ!」」

 

 瞬間、まるで磁石に引かれた砂鉄のように二人の体が引き寄せられた。接触すると明日菜達が仮契約した時以上の光が辺りを覆った。

 光が晴れた時、そこにいたは一人の少年だった。ネギとアスカの両方の髪型や髪の色、雰囲気が混じり合って一つようになった男は、知性と野生という矛盾した要素が同居した静かな瞳でエヴァンジェリンを見ている。

 

「誰だ、お前は?」

 

 ゴクリ、とエヴァンジェリンは唾を呑み込んだ。件の男から発せられる魔力はネギようでアスカのようでもあり、どちらでもあってそのどちらでもない感じがする。

 摩訶不思議な現象に明日菜は瞬きを繰り返した。しかも、明らかに供給される魔力が跳ね上がって、体が羽毛のように軽い。全能感すら抱いて現れた少年を見る。

 

「…………俺は、ネギでもアスカでもない。そのどちらでもあって、どちらでもない存在。貴様を倒す者だ」

 

 声も二人の声が同時に聞こえるようで、違うような感じ。なのに、不思議と姿にフィットした声だった。

 

「『ネスカ』よ! 二人の名前を足して『ネスカ』! 二人が合体したら高畑先生を倒すぐらい凄っい強くなってるんだから!!」

「そうだぜ! アスカの兄貴のアーティファクト『絆の銀』で合体した二人の魔力は数倍に跳ねあがってんだ! それだけじゃねぇ。アスカの兄貴の戦闘センスと近接能力、ネギの兄貴の知能と遠距離能力が合わさった最強の戦士だ。真祖の吸血鬼にだって負けるはずがねぇ!」

「ほぅ、最強とはまた吠える」

 

 問うたネスカの後ろから首を出したアーニャがその名を叫び、明日菜の肩口に隠れながらのカモの興味深い話を聞いたエヴァンジェリンの顔に凶悪な笑みが浮かんだ。今もビリビリと放たれる『ネギ+アスカ=ネスカ』と呼ばれた男から放たれる桁違いの魔力に肌が震える。

 

「この合体は強力だが長くは続かない。時間切れが来る前に、さっさとやろう」

 

 ネスカは両手を握って拳を作って軽く腰を落すと、中心にして空気の圧力が生まれ、膨大な魔力の生み出す圧力が体内のみならず周囲にも漏れ出した。無色無形の波動。まるで突風だ。辺りが竜巻が起こったかのように大気が荒れ狂う。

 大気を荒れ狂わせ、大気摩擦で雷を生み出すほどのエネルギーに、さしものエヴァンジェリンは目を見開いた。

 

「……ふ……ふふ……ふふふふ……あははははははははは!!」

 

 ただ力を解放しただけでこの圧力。エヴァンジェリンは、ネスカの秘めた力のレベルに眼を見開いて笑う。単純な魔力の総量だけでもエヴァンジェリンの五倍。在り得ぬほどの力の上昇に、歓喜に身が震える。

 

「ヤベェ…………下ガレ、茶々丸。御主人ガマジモードダ」

「了解、姉さん」

 

 エヴァンジェリンの様子から危険を悟ったチャチャゼロの忠告に茶々丸が従って下がった直後だった。本気を出しうる相手だと判断したエヴァンジェリンを中心としてブリザードが吹き荒れ、近くにいるだけで骨まで凍えそうになる。ただの雪風ではない。地上の永久凍土を凌ぐ冷たさで、冥府に吹き荒れる風だ。

 

「川が凍って行く……!?」

 

 明日菜は橋下の川が真っ白な氷の塊になっていくのを驚愕の眼差しで見つめる。エヴァンジェリンを中心として川や橋が突如として凍り付いていく。誰の影響か考える必要もない。あまりにも信じがたい変化だったが、どうしようもなく現実の光景だった。

 

「っ…………ははははははは」

 

 全てが凍り付いた世界で、女王が愉快そうに笑う。体の底から湧いてくるものを一切留めずに、猛々しい笑い声として放出しているようにも思えた。氷の如き声音はそれ故に恐ろしく、如何なる者も膝を折らずにはおかぬ禍々しい響きさえ秘めている。

 

「ネスカといったか。貴様を本気で戦えるに値する男と認めてやろう」

 

 笑いを収めて目の前の敵に観察の目を注ぐ。

 ぞわっ、と見据えられて声が放たれただけで背筋が泡立つようなプレッシャーを浴びて、直接見られたわけでもないのにアーニャの全身に鳥肌が立った。

 

「なによ、この力は」

 

 氷の女王と化した吸血鬼の力が分からぬはずもない。未熟な魔法使いであれば、力の一端の放射だけで当てられて死んでしまいかねない絶後の領域。緊張に強張ったアーニャの頬を冷たい汗が一筋流れ落ちてすぐさま凍り付く。鼻の頭から頬へと白い冷気が滑り、鼻孔の粘膜を痺れさせた。

 

「ありえねぇ。こんなのは予想外だぜ」

 

 カモにとってエヴァンジェリンがここまでの力を隠しているとは考えていなかった。今のエヴァンジェリンは全てが凶器、そんな雰囲気である。だがそれ以上に解き放たれている激烈なプレッシャーの方が凶悪だ。ただそこに在るだけで気圧される。少しでも気を緩めれば戦うことなく勝敗は決してしまうだろう。オコジョ妖精としての本能が逃げろと警告を発している。力に物を言わせて蹂躙し、嬲り、慰み物にされるのは確かだ。

 アーニャ達が無事でいられるのは、ネスカが防波堤となってエヴァンジェリンから放たれる威圧感と雹風を跳ねのけているから。ネスカがいなければ既に失神しているか、下手をすれば恐怖で自ら死を選ぶかしているかもしれなかった。

 

「面白い。最強と謳われたその実力。打ち砕くに足るものだ」

「それは重畳。打ち砕けるものか、存分にその身で学ぶがいい」

 

 二人の会話は、長い時間を経た師弟のそれにも似ていた。しかし、最も異なるのは、その二人を繋ぐ意志であろう。相手を打倒せねばおけぬという、そういう決意の現れであった。

 怯える二人と一匹と違って、獰猛な笑みを浮かべて雹風を跳ね除けるネスカにますます楽しそうにエヴァンジェリンは笑う。少なくとも今のエヴァンジェリンと向き合って戦意を挫けないだけで、彼女にとっては珍しい事であった。

 

「場所を変えよう。ここだと周りを巻き込みかねない」

 

 己に牙剥くものに胸が躍る。闇夜に咆えるその咆哮は、獲物の枠にとらわれぬ、敵と認識できる者と出会えたことへの喜びの声。ふわりと杖もなしに浮かび上がったネスカが橋から凍った川の上に行くのを追いかける。

 麻帆良大橋から十分にとった二人は十メートルの距離を取って向かい合う。ピンと空間に緊張感が張りつめた。どちらも動かない。常人だとショック死しかねない対峙に、それを楽しむようにエヴァンジェリンの唇がユルリと綻んだ。

 

「行くぞ。私が生徒だという事は忘れ、本気で来るがいい」

「御託はいい。かかって来い、エヴァンジェリン」

「貴様も全力で来い。直ぐに終わってはつまらんからな」

 

 己の全てをぶつけようと思ったネスカの宣戦布告に返ってきたのは、どこまでも猛々しいエヴァンジェリンの王者の笑みだった。

 

「では、始めようか。形式に則って名乗らせてもらおう」

 

 言い放った直後、身に纏う威圧感が増してプレッシャーとなって襲ってくるのをネスカは感じ取った。ネスカが対峙するは姿形こそ十歳程度の少女だが、無邪気で可愛い女の子には見えない。そのように非力でも、人畜無害でもない。魔法世界にその名を轟かせる悪の魔法使い。ナマハゲ扱いされる「闇の福音」。

 

「我が名はエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。不死の吸血鬼なり」

 

 決闘の作法とはまず己が名を名乗ってから始めるのが礼儀であった。そこにいるだけで世界を凍りつかせる氷神の女王となったエヴァンジェリンが、己が名を名乗る。今のエヴァンジェリンに余計な構えは必要ない。氷の女王として君臨するだけでいい。王とは君臨するからこそ王なのだから。

 静かな闘志を総身に滾らせたまま、華奢な矮躯を威容と錯覚させるほどの気迫は、やがて輝く魔力を伴って、彼女の全身を包み込む。

 

「今の俺に性はない。ネスカ、ただのネスカだ」

 

 ネスカの全身が風で覆われて雷が纏わりつく。屈められた肉体がこれから発射する弾丸の弾を思わせる。全身の筋肉が収縮して、今にも飛び出しそうにスタートの時を待っていた。

 エヴァンジェリンとは対照的に、静かなほど魔力が全身に行き渡せて他者を威圧せんばかりの充足振りを見せる。

 

「いざ――」

 

 二人の超上の戦士の闘気が音もなく張り詰め、鬩ぎ合う。感受性の強い者ならば、その気迫に当てられただけでも実際の攻撃に等しいショックを受け、心臓麻痺を起こしていたかもしれない。感受性の低い者でも全身の細胞が必殺の予感に竦み、息どころか脈すらも滞らせるほどであっただろう。

 

「尋常に――」

 

 二人の間で空気が軋む。限界ギリギリまで膨らんだ風船みたいに、強烈な敵意が世界さえも変質させる。

 指一つ動かせば心臓が止まってもおかしくない凄絶なる前哨戦。殺意と殺意が絡まって、互いを蜘蛛の巣のように繋ぎ止めていく。その殺意の戦意には、互いの持つ力という鋭い針さえも混ざっている。迂闊に触れればそれだけで致命傷となる毒針だと誰でも分かる。

 

「「――――勝負!!」」

 

 小さな身体に<力>を漲らせた全身で雄叫びを上げて、声と共に両者が雷と氷を放出しながら突進して一気に距離を詰める。ほぼ中間地点で互いの意志をぶつけ合うかのように正面から激突して凄絶な爆光を散らす。

 アスカが雷と風が迸る右の拳を、エヴァンジェリンが氷を纏う左の拳で受け止めている。

 二人はどちらともが戦闘の主導権を奪うべく相手の拳を押し返そうとしているが、力は拮抗し、交え合う拳の向こから凄まじい閃光が麻帆良の空を彩った。最終ラウンドが始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 電気が消えたログハウスの家。三軒並んだ最も端のログハウスの窓から顔を出したネカネは耳を澄ました。

 

「もう、戦いは始まったんでしょうか」

 

 戦いの音が聞こえるかと耳を澄ましたが、聞こえるのは風の音のみ。不安になって室内でテーブルの上に今日勝って来たばかりの蝋燭に火を点けている天ヶ崎千草を見る。

 

「知らんがな。てか、なんであんさんはうちの家におんねん」

「こんな真っ暗の中に家で一人でいたら寂しいじゃないですか」 

「うちはあんさんがおらん方がええわ」

 

 大分この一行に毒されて諦めの境地になってきた千草は、ぼんやりとネカネが開けている窓から入って来る風に揺れる蝋燭の火を見つめた。

 

「そんなこと言わないで下さい。アスカ達のクラスに幽霊がいたって話で、家にやってきたら怖いんです」

「魔法使いやのに幽霊怖いってなんやねん」

 

 魔法使いでは幽霊は珍しいのか、と思いつつも力のない突っ込みを入れる。

 陰陽師なんて昔から悪霊とか悪鬼とかと戦う職業なので、千草は世間の女性のように幽霊を怖がることはしない。高校などではネカネのように頼りにされて、夏の風物詩である肝試しで意中の相手がいない同性に縋りつかれた物である。そう考えると、今と随分変わっていないような気がして地味にへこんだ千草だった。

 

「心配やったら一緒に行ったらよかったやん」

 

 その方が清々する、とまでは流石の千草も言わなかった。本当なら教師はこの停電の時間は学園内の見回りをするのだが、新任であることとこの地域を任された本当の意味を知っている千草は家から一歩も出ずにボーッとしていた。

 

「邪魔だから来んなってアスカに言われちゃいまして」

 

 てへ、と舌を出したネカネは可愛くなくもない。

 

「来んな、来るなよ、絶対だからなって、これは実は私に来てほしんでしょうか?」

「あの子は一日に一度はボケなあかん体質やから、多分言うてみただけやろ」

 

 ネタ提供は早乙女や明石辺りかな、と半月付き合って大体のクラスの面子の性格を読み切った千草は、うずうずとしてドアに向かおうとしたネカネの襟首を掴んだ。

 えー、と不満そうなネカネを引き摺ってダイニングに座らせる。

 

「しかし、アンタの弟妹は変な子やな。うちやったら大金積まれたって闇の福音と戦いたくなんてないわ」

 

 魔力開放状態のエヴァンジェリンと戦ってくる、と言ったアスカの熱を思わず測った千草は、聞いた当時の混乱と今でも理解できない心情に疑念を口にした。

 

「あの子達、というかアスカとネギだけですけど、二人には強くならないといけない理由があるんです。今回の戦うのもそれが理由の一つなんですよ」

 

 少ししんみりとした様子のネカネの表情は、蝋燭の火に照らされた儚げに見えた。

 いらんことを聞いたと、蝋燭の火だけが照らす暗闇の中だと口が軽くなってしまうことを自覚した千草だった。

 

「あ、長い昔話はどうでもええから端折って端折って」

 

 こんな暗い部屋で暗いと分かる話をされるのは気が滅入る。しかも、明らかに長そうな話をしそうな雰囲気をネカネが醸し出しているので、千草は巻きでお願いしますと頼んだ。

 

「…………千草さんにはわびさびが足りないと思います」

「まさか外国人にそんなことを言われるとは思いもせんかったわ」

 

 少し傷ついたネカネの切り返しに千草は胸を抑えた。半月も一緒にいて大分慣れたので直ぐに持ち直したが。

 

「五十字ぐらい纏めるか、五・七・五でもええで」

 

 無茶振りをして、実は聞く気のない千草だった。

 顎に手を当てたネカネは暫し考えるように風で揺れる蝋燭の火を眺めつつ口を開く。

 

「六年前に父・出会って助けられ・憧れました。小さなつは見逃して下さい」

「よう、纏めたな」

 

 まさか冗談で言った俳句バージョンで纏めて来るとは予想の範囲外過ぎて震撼した千草だった。

 逆にその短い単語から悟れとネカネの目から逃れるように顔を逸らしても纏わりついて来て、教師になって初めてというほどに頭を必死に回転させる。

 

「確かあの二人の父親って魔法世界の英雄やったな。十年前に行方不明になって死亡扱いになってるとか」

「ええ」

「ということは、実は生きてた父親に六年前に助けられてから憧れてるってところか」

 

 分かるとしたらそれぐらいだ。六年前に助けられるような何かがあったことは想像に難くない。が、千草は聞かない。

 

「今日の試合の結果で、高名な魔法使いであるエヴァンジェリンさんに弟子入りさせてもらうかが決まるんです。ナギさんに追いつくんだって、頑張って背中を追っている最中なんです」

「ふ~ん、ならアーニャの方はどうなん?」

「あの子はまた別で……」

「まあ、言い難いなら別に聞かんよ」

 

 仲の良さそうな三人組にも色々あるんだな、と思うだけで、人の家庭に首を突っ込むのは野暮と考えている千草は無理に問い質さなかった。

 十分に巻き込まれつつある気もするが、最後の一線は守ろうと必死な千草である。

 ふと、思いついたように開きっぱなしの窓の向こうから外を見て、今日来たばかりの子犬のことを思い出した。

 

「そういや、小太郎が遅れて出て行ったけど、何しに行ったんやろうな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ネスカの視線の先でエヴァンジェリンは凄まじい勢いを得て荒れ狂っていた。彼女が跳ぶだけで地面が砕け、動くだけで風が割れた。一撃の重みは地球上に存在するあらゆる生物を凌駕し、動きの鋭さは如何なる想像の生物を超える。

 拳を、蹴りを、刃を交わす。大気を切り裂き、互いの魔力の煌めきが線となって空間に傷を刻む。対峙する二人は目まぐるしくお互いの位置を入れ替えながら移動を繰り返し、今は空中数百メートルの位置にいた。

 

「「…………ッ!」」

 

 お互いに無言。己が決めたことを成すべく体を動かすことのみに集中する。

 

「「っ!」」

 

 拳戟が交錯して、気合の咆哮が衝突する。互いに防御した腕の向こう側に険しい顔がある。気合いのぶつかり合いが空気の密度を変化させ、視界を歪ませる。

 戦況は、今のところ見た目は互角。

 経験と技量ではエヴァンジェリンが、魔力量による性能と手数でネスカがそれぞれ勝っている。だが、あくまで戦況に注視した状況である。二人の状態には明らかに差異があった。エヴァンジェリンの経験を、五倍もの魔力の差で切り抜けているが、何度となく交差し合う度にネスカの服が切り裂かれ破れ血飛沫が舞う。

 天秤がゆっくりと傾くようにネスカが劣勢に追い込まれていく。傷つくのは常にネスカの側で、エヴァンジェリンには一度たりとも有効な攻撃を加えられなかった。

 

「――――」

 

 顔を上げて身構える。先に次の行動に移るのが早かったのはネスカの方だった。

 拳を握り締めたネスカが弾丸となって走った。渾身の右ストレートというより、それはもう拳からぶつかっていくタックルみたいなものだった。超絶的なスピードと体重がそのまま破壊力になって、余裕を見せつけるように立っているエヴァンジェリンの鳩尾にめり込む―――――

 

「狙いはいい。何の躊躇もなく必殺の一撃を繰り出すのもまだいい」

「――――っ!?」

 

 拳に返る手応えがあった。腹を深々と抉っているにも関わらず、エヴァンジェリンには効いた様子がない。

 

「が、殺気が出過ぎるのは防ぎやすいぞ」 

 

 唐突に背後に沸いた気配にネスカは即座に振り返る。振り返った瞬間、左頬に強烈な右フックを受けた。氷を極限にまで固めたような感触が頬に残り、冷たい感触が心臓にまで走って、首が千切れる飛びそうなほどの衝撃に意識が遠退きかける。

 傾斜する身体を気力で支え、先程まで前だった背後を見た。

 背後にはネスカの拳が腹部に食い込んでいたエヴァンジェリンが瞬く間に色を失って氷柱と化し、拳がめり込んだ部分を起点に全体に罅が広がっていく奇妙な光景を。氷で作られた虚像、フェイクだ。

 間もなくネスカはこの絡繰りを理解した。実に単純、背後に倒れているのは偽物で、今ネスカを殴りつけた少女こそ、本物のエヴァンジェリンであるという答え。目と鼻の先の距離で戦いながら敵に入れ替わった瞬間を気づかせぬ妙技に、戦闘の最中であっても感嘆せずにはいられない。

 

「こうやって攻撃を読まれ、逆に利用されもする」

 

 エヴァンジェリンは右腕を戻す勢いのままに、回転を活かして腹部を抉り上げるようなアッパー気味を見舞う。体勢が崩れるのを気力で支えるのが精一杯だったネスカに回避や防御が出来るはずもない。

 無防備な腹部に小さな、されど絶大な破壊力を有した拳が深々と食い込み、ネスカの身体はくの字に折れ曲がる。

 

「――げ、っは――」

 

 鋼鉄にも勝る今のエヴァンジェリンの拳は、天然で最も高い物質であるダイヤモンドすら飴細工のように砕くことだろう。胃の中身どころか打たれた部分が千切れて消し飛んでしまったかのような振動が走る。痛みすらも越えて突き抜ける衝撃が下から突き上げる。

 

「利用されれば絶大な隙を生む」

 

 そこへエヴァンジェリンが短い呼気と共に拳から先が凍り付いた右腕を突き出し、撃ち放たれた拳銃の弾のように右頬に向かって発射された。ネスカは凄まじい速度で吹き飛び、眼下の氷河にめり込んだ。

 

「……うっ、く……」

 

 口から洩れる微かな呻きが、ネスカの生存を伝える。だが、ダメージが深すぎて氷河にめり込んだまま直ぐには動けそうになかった。

 絶好の隙を見せるネスカだがエヴァンジェリンは追撃をしなかった。ゆっくりと氷河へと降りて来る彼女の眼は前ではなく手元を見下ろしている。その手は氷が削れて一ミリ程度だけ地肌が見えていた。

 

「完全に防ぐのは難しいと見てダメージ軽減に務めた手際、今のには及第点をやろう。こんな状況に陥っている時点で合格点にはまだまだ遠いがな」

 

 あの一瞬で回避も防御も不可能と見たネスカは、少しでもダメージを和らげるために攻撃を受ける右頬にピンポイントに風を生み出した。エヴァンジェリンは自ら風に手を突っ込むように攻撃したのだ。その場凌ぎの風に氷を削り切るだけの威力はなく、氷が突き破ったが従来ほどの破壊力はなかった。まだネスカの首が折れていないのはそのお蔭だった。

 土壇場の機転で命を拾ったネスカに対するエヴァンジェリンの評価は辛い。

 

「それはどうも!!」

 

 ダメージを回復して氷河から抜け出たネスカの姿が掻き消えた。何重にもフェイントをかけて、間近に迫ってからの瞬動で視界の外からの強襲。

 エヴァンジェリンはネスカを見ていない。これは決まるかと思われたが。

 

「!?」

 

 一撃必殺の光景を脳裏に思い描いていたネスカの視界が不意に回転した。この至近距離から最高速のチータを凌ぐ速さで繰り出した一撃を、エヴァンジェリンのマタドールめいた紙一重の動きでいともあっさりと躱され、しかも伸ばしていた腕を搦め取られた。

 

「空?」

 

 如何なる妙技か、腕に羽毛が触れたと感じた瞬間には宙を舞っていた。視界が空を向いて始めて自分が投げ飛ばされていることに気がついた。心技体が高位次元で融合された技は達人の名に恥じない技量を示す。

 

「くっ?!」

 

 このままでは無様に顔を地面に付ける。その瞬間にネスカの敗北が決定する。それだけはならないと体を丸めて回転する。更に捻りも加えてエヴァンジェリンの背後を見るように両手を地面に着いて着地した。

 エヴァンジェリンが無様に背中を取らせるはずがないとのネスカの予測は正しかった。膝を伸ばす前からもう振り返りかけている。次の行動はこのままではエヴァンジェリンに先手を譲ることになる。

 回転を増したことで体は僅かに前のめりに。体重は氷河に着いた両手にかかっている。これは次の行動へ移るための布石。如何なる体勢になろうとも次の行動の先手を奪われると戦闘センスから導き出したネスカが出した答えは回避。四肢に力を込めて後方に跳躍。エヴァンジェリンから距離を空けようとした。ところが、五足は必要な距離を空けて着地したネスカの直ぐ目の前に、何時の間にかエヴァンジェリンが迫っていた。この行動すらもエヴァンジェリンは織り込み済みだったようだ。

 

「下策だぞ。もっと距離を取るか逆に攻撃に出るのが賢い選択だ。下手な距離は追撃の憂き目に合うと知れ」

 

 深く踏み込みながら鋭く右足を振り抜く。無造作かつ強烈な前蹴りが、ネスカの胴体を捉えた。

 

「ぐっ……!」

 

 ネスカの体が再度宙を飛ぶ。今度は宙を舞うのではなく、平行に滑空して砲弾のように飛ぶ。

 

「――ぐはッ! なんて馬鹿力……!?」

 

 数百メートルを一瞬で踏破して、氷河の上をゴムのボールか何かのように跳ね転がる。左の手で大地を叩いて勢いを殺し、そのままバネ仕掛けの人形のように無理矢理に身を起こす。

 

「失礼だぞ、こんな可憐な少女を捕まえて馬鹿力などと」

 

 身を起こしたネスカ目掛けて、間にあったネスカが削った氷河の欠片を気にもせず、飛来する金髪の悪魔エヴァンジェリン。障壁で自動的に弾き飛ばしてくれるといっても全く臆さない心根は驚嘆に値する。

 

「こんなことが出来る奴がほざくな!」

 

 皮肉を返しながら間一髪でその場を飛び退いた。直後、魔力が篭った蹴りで粉砕された氷河が爆砕する。多数の氷塊と氷の粉塵が舞い上がり、二人の視界を覆い隠す。瓦礫に巻き込まれないように距離を取ったネスカ目掛けて、粉塵を縫って氷の塊が飛んできた。時間差を考えてエヴァンジェリンが投げたと考えるのが自然か。

 避ける間もなく直撃した。防御したといってもかなり強烈な衝撃だった。経験したことはないが、生身でトラックにでも轢かれたら同じ感覚を味わえるかもしれない。今回は障壁で遮られたことで大半の威力を削がれたことで衝撃程度で済んだ。

 己に当たった氷塊が砕け、視界が戻る。粉塵も晴れてきたが、見えた物に思わずギョッとしてしまう。浮遊術で宙を浮くエヴァンジェリンの周りに浮かぶのはネスカの身長以上の大きさで二メートル、三メートルはありそうな氷塊の数々。魔力反応などは感じないので、氷塊に僅かに食い込む跡とエヴァンジェリンの持つ人形遣いの技能から岩石を浮かべているのは『糸』と予測した。

 

「ほらほら、次が行くぞ!」

 

 それらを行使して次々と宙を舞う岩石は凄まじい風切り音を立てて飛んでくる。間近に迫る氷塊は工事現場で見かけるクレーン車、あれが解体用の鉄球を振り回すような感じに思えた。防御もなく受けたところでダメージは殆どない。しかし、受けた衝撃で僅かな隙が生まれかねず、エヴァンジェリン相手では絶大な隙となりえる。

 ネスカが取った行動は回避と粉砕。平原を駆ける豹の如く走り、跳んで、避け続ける。鋼のように堅牢な肉体で氷塊を敢えて受け止め、逆に粉砕する。常人が当たれば容易く命を奪われる凶弾が実は石灰石製だと言わんばかりにあっけなく砕け散った。

 氷原で戦うのは不利だと、ネスカは大きく飛び上がって上昇する。

 

「ふふふ、誇るがいい。今の私とここまでやり合える奴は世界中を探してもそうはいないぞ」

 

 ネスカの後を追いながら、自分と対峙してここまで保つ魔法使いは数えるほどだとエヴァンジェリンの本心からの賞賛をする。

 

「やり合えるだけで負ける気は更々ないと、そう言いたいんだろ」

「傲慢になってこその最強だ」

 

 雲に突入し、視界が利かなくなる。ゾクッと身体が消えた瞬間、上空から近づいて来る気配を感じてネスカは顔を上げる。白一色に包まれた世界が直に元の色を取り戻した時にはエヴァンジェリンが急接近していた。

 逃げようもなく捕縛される。エヴァンジェリンがネスカを振り回した。細腕に似合わない吸血鬼の怪力だ。反撃の隙を窺うどころではない。目まぐるしく視界が回転し、衝撃に耐えるので精一杯。最後に一際力強く吹き飛ばされた。

 肉体への衝撃もさることながら、雲が弾き飛んで見上げる先にいるエヴァンジェリンとの厳然とした力の差が横たわっていることに慄然とせずにはいられない。

 

「だが、これも座興よ。少しは言葉で戯れるか」

 

 と、言葉で言いながらも全身から凍り付くような魔力を発してネスカを圧そうとする。

 

「ぬんっ!」

 

 負けじとネスカも全身から魔力を発して弾き返す。氷風と雷風が二人の中間点で勢力を奪い合うかのように、行ったり来たりを繰り返す。

 

「見事と言おう。例えアーティファクトの力であったとしても、若輩の身でありながらこれだけの強さを身に着けたことは賞賛に値する。先の前言は撤回しよう」

「謝罪は無いのか?」

 

 エヴァンジェリンが空中で腕を組んでいるだけ。なのに、存在するだけで世界を凍らせていく。今のエヴァンジェリンを語るには氷結の女神で十分。神話に登場する氷神が彼女であると言われても信じられよう。

 

「謝らせたいのなら私を這い蹲らせて見せろ。私に勝たずに命令するなど片腹痛いわ」

 

 前言撤回が最低限の譲歩のライン。傲岸不遜にどこまでもエヴァンジェリンは女王として君臨する。この場合ならば氷神としてか。

 

「改めて言おう。見事だ。この私がここまで手放しに賞賛することは滅多にないのだ。光栄に思うがいい」

 

 力比べを楽しむように互いの境界線でぶつかり合う氷風と雷風の趨勢を楽しそうに見遣り、視線をネスカの両耳で絶え間なく揺れている銀のイヤリングへと移す。

 

「絆の銀か。さしずめ、装着者を合体させて能力を強化・付加するタイプのアーティファクトと見た。能力の上がり具合から考えて、装着者達の相性や能力が近いほど上げ幅も大きい。違うか?」

「……………」

「双子という最も近い存在。戦闘適性が近接と遠近と別れていることも相まって、一人の時よりも遥かに戦闘力が上昇している。成程、大言を吐くだけの要素はあった」

 

 的確に見切られたことにネスカは沈黙を以て肯定する。

 エヴァンジェリンと違って、パッと見で分かるほど青筋を浮かべて力を溢れ出すネスカとの対比がより鮮明に浮き彫りに出る。時間をかければ、これだけで勝敗を決することも出来るがエヴァンジェリンの求める決着のつけ方ではない。

 

「力比べも面白いが、このまま決まっては面白みに欠ける」

 

 フッ、とエヴァンジェリンは自らの知識欲に一定の満足を与えると、言葉通り力比べを行っていた魔力放出を抑えた。当然、ネスカの雷風が迫るが闘牛士のように華麗に躱し、離れていた距離を真正面から詰めて来た。

 まさかの真正面からの特攻に、ネスカが力の放出を抑えた時には既に近づかれていた。迎え撃つしかない。

 

「勝手すぎるっ!」

 

 エヴァンジェリンの氷そのものの拳を迎撃するように、雷を纏った拳で迎え撃つ。

 

「それが私というものだ!」

 

 刀を持っているなら鍔迫り合いというべき最中にも、互いに寸余の間合いに適応した技の応酬がなされ、小さな衝突が火花となって二人を飾る。

 攻防が数十打を数えたところで、これでは埒が明かないと同時に考えた二人は一度その場を離れ、今度は遠間に対応した魔法の射手が放たれ、お互いに牽制をし合う。

 

「受けて見せろ!」

「やってみせる!」

 

 通常ならば回避できない一撃――――知覚すらできないそれをネスカは受ける。アスカが持っている直感能力をネギが頭脳が補強して、致命の一撃すら受けることを可能とする。だが、それまでだ。

 耐え切れずに吹き飛ばされて瓦礫の一つに着地し、踏み潰して跳ぶ。

 何度目かも分からない衝突。乱れ飛ぶ閃光。勢いのままに絡み合いながら吹っ飛び、その中で繰り広げられる火花散る応酬。繰り返し、繰り返し、そして繰り返す。

 

「っ、行くぞ!」

「来い、ネスカ!」

 

 ネスカの高速機動がトップスピードに乗り、エヴァンジェリンはあと一歩追いきれないので魔法の射手で牽制しつつ細かく攻撃を入れていた。

 人の頭程度しかなかった氷の矢は空気中の水分を吸収して、それらを瞬時に凍らせ、あっという間に巨大な氷塊の矢へと姿を変えていく。しかし、轟音を伴って飛ぶ氷塊の矢よりもトップスピードに乗ったネスカの方が早い。

 

「ちっ、向こうの方が早いか」

 

 氷塊の矢を、予め軌道を先読みしているように避けるネスカの背中にエヴァンジェリンは舌打ちをした。

 ネスカが天翔け、空中でステップを刻む。時にアクロバティックな曲芸飛行。時に最高速度を振り絞る全力飛行。様々な技巧を駆使して、エヴァンジェリンの攻撃を回避。音速を躱す異常な速さ。まさに神速と言おうか―――――単純なスピードではネスカが上だろう。

 距離が開くかといえばそうでもない。エヴァンジェリンが大威力魔法を使おうとすると、まるで予知していたように距離を詰めて来るのだ。

 遠距離では勝ち目がないことを悟っているネスカの素早い機動と回避機動がそれを許さず、遠間に離れきることをさせずに近・中距離の状況が続いていた。

 エヴァンジェリンの戦闘スタイルは「魔法使い」である。しかし、強くなってくればこの分け方もあまり関係がなくなってくる。得意なのが遠距離だからといって決して近・中距離が苦手だということはない。

 エヴァンジェリンにはネスカが未だ及ばない経験によって裏打ちされた熟達と練達は、近・中距離でもネスカを圧倒していた。確かに単発の大技ならば一瞬だけ圧倒出来るかもしれない。しかし、それで勝てるほど甘い相手でないことも、今のネスカには理解できていた。

 

「一点突破する」

 

 ネスカは両手をしっかりと握りこむと、自ら向かってくる氷塊の雨へと突っ込んで行った。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル 風の精霊512人 集い来たりて…………魔法の射手 連弾・雷の512矢!!」

 

 放った魔法の射手が開けた間隙に飛びこんでいく。しかし、氷塊の雨の前に512程度では足りない。それでも怯まずにネスカは飛びこんで行った。

 自ら突っ込んだことで相対的に感じる物凄い速さで迫り来る氷塊を次々と打ち砕いていく。その度にガツンガツンと、全身に衝撃が走った。常人ならば………………魔法使いですらその一つすらまともに打ち砕くことなど出来ないだろう。

 もう少しで氷塊の矢の群れを突破しようとしたネスカの背に鳥肌が立った。ゾワリと戦慄が走り上を見上げた時、エヴァンジェリンは斜め上、前方の障害を打ち払って突き進むことに邁進していたネスカでは到達するのにワンクッション必要な位置にいた。

 

「目の前の事だけに気を取られていると直ぐに終わるぞ。もっと周りに気を配れ」

 

 紫色の燐光を放つ手を振るうと、空に広がった膜が一斉に波紋を広げた。ネスカが破壊した魔法の射手とは呼べない巨大な氷塊の矢の残骸が大気中の水分を付加して、空を埋め尽くさんばかりの氷晶の弾丸が形成される。

 二流は環境の変化に対応できない。一流は、それに逆らわない。そして、超一流は、それを利用する。いくら超高位魔法使いであろうとも環境を存分に使うのを見れば反則としか言いようがない。

 

「抗ってみせろよ、小僧。私を失望させてくれるな」

 

 何百何千という超高圧の氷晶の弾丸が、上空から爆発するように打ち下ろされた。元より前進に全力を込めていたので急角度の方向転換は出来ない。ならば発想の転換とばかりに愚直に突き進む。

 全身に雷風を纏って氷晶の雨の中を舞うように踊り狂う。進行方向にある氷晶の弾丸を拳で当たるを幸いと言わんばかりに超えていく。

 

「強い! これが闇の福音の実力……っ」

「まだまだこんなものではないぞ」

 

 砕けきれなかった氷晶の弾丸が身体を傷つける。全身に傷を負いながらも氷晶の弾丸を突破した先に、先回りしていたエヴァンジェリンが回り込んでいた。

 

「ちっ」

 

 舌打ちをしたところで事態は好転しないと分かっていてもしてしまう矛盾。再三の攻撃によって止まれるはずもなく、かといって弾き飛ばそうとするネスカの思惑通りに進むはずもない。放たれようとしている蹴りの動作を前にして、一か八かの賭けの行動に勝敗を託せるほど無謀でもなかった。

 

「ぐあっ」

 

 腕を掲げて辛うじて間に合った防御であったがダメージは大きい。全力で前方に突き進んだ運動エネルギーと今のエヴァンジェリンの攻撃力が合わさって、蹴りを受けた腕が捥げていないのが不思議なくらいだった。

 

「どうしたっ! ここは貴様の距離だろう!」

 

 エヴァンジェリンの叱咤が後ろ向きに空中を滑空しながら聞く。強大過ぎる存在感が全方位から押し寄せ、汗みずくの肌を冷たく刺激する。

 敵を見失うな。食らいつけ。追われる側ではなく、追う側に回らなければ勝ち目はない。ネスカは遠距離が本分であるはずのエヴァンジェリンを得意な距離なのに仕留めることができない。戦況を有利に進めるどころか少しでも気を抜けば負ける、と肌で感じていたからこそ、距離を離さず必死に食らいつく。

 二人の速度差が絶対的なものではなく、戦術で覆せる速度差であることも感じ取っていた。

 

「言われなくてもっ!」

 

 ネスカは空中を蹴ってエヴァンジェリンに向かって飛び掛かろうとした。

 当のエヴァンジェリンは空中で止まり、ネスカに向けて開いていた手の平を今まさに閉じようとしていた。その動作の意味が解らず、止まっているよりはマシだと判断しかけたネスカの背筋に盛大な悪寒が走り抜ける。

 

「っ!?」

 

 悪寒に従って急制動をかける。進みかけていた慣性を無理矢理に止めたことで、全身と停止に振り回された内臓がシェイクされる。腹の底から湧き上がった衝動を呑み込んだところで、エヴァンジェリンが手の平をグッと握った。すると空中の水分が瞬時に凍結して氷の矢を無数に生み出す。エヴァンジェリンまでの二十数メールまでを、ネスカを中心として形成される密集した包囲網。

 

「この網の中を超えて来られるか?」

 

 蟻が抜け出す隙間もないほど埋め尽くされたネスカに向けて嘯き、一度頭上に差し上げた手を大きく振るった。

 絶対の包囲網を形成する氷の矢達が一斉に動き出す。直接的に空中を駆け巡りながら、途中で鋭く方向を変えて前後左右上下、四方八方からネスカに襲い掛かった。凄まじい速度と威力を内に秘めた氷の矢に、障壁や防御など必死の行動の甲斐もなく、殆ど一瞬にして中心にいるネスカへと殺到する。

 逃げるでもなく受けるでもなく、全身に雷を纏ったネスカは足を止めて顔の前で腕をクロスさせた。

 

「はぁっ!!」

 

 気合一閃。全身から魔力を噴き出して乱気流を発生させ、氷の矢を打ち砕く。

 砕かれた氷の矢から生まれた噴煙が辺りを覆った。もうもうと舞う氷の細かい欠片を振り払いながら、粉塵の向こうにいるエヴァンジェリンを睨みつける。

 キィィン、と粉塵の向こうから間近で聞いたら耳が痛くなるような音が微かに聞こえた。はっ、と上空に気配を感じてそちらを見やると、粉塵を切り裂く紫色の魔力刃を纏った手刀を振り下ろすエヴァンジェリンの姿。

 

(なんだ……?)

 

 魔力刃を受け止めるために防御の構えを取ろうとしたネスカの脳裏に最大限の警鐘が鳴り響く。魔力刃が撒き散らす冷気が背筋に怖気を誘う。頭では受けようと考えていても鳴り響く警鐘に従って体が勝手に回避動作をした。

 斬、と魔力刃を纏った手刀が振り下ろされるのを飛び退いて躱す。整合性の取れない回避でははやり動きが鈍い。体勢を崩してしまった。そこに突きを打ち込まれる。右にも左にも前にも動けない。仕方なく後ろへ。背中から倒れこむようにして逃げる。

 氷原に仰向けに倒れたネスカと、手刀を突き出した格好のエヴァンジェリン。

 ネスカは倒れた体勢から足を繰り出した。ブラジルの格闘技カポエラのような、下からの蹴り技だった。狙いはエヴァンジェリンが手刀を繰り出した腕の肘。ここを砕くことが出来れば―――――その願いも虚しく咄嗟に腕を上げられてこの蹴りを外された。

 そしてすかさず、切り下ろしの一刀。慌てて無様にも氷に塗れながら横に転がり、避けた勢いのまま立ち上がるネスカ。

 

「断罪の剣か!」

 

 見たものは深々と地面を抉りながらも、突き刺さるのではなく地面を消し飛ばした跡。それだけでエヴァンジェリンの魔力刃の正体を看破した。

 

「正解だ。そして受けずに避けたのもな」

 

 断罪の剣――――ラテン語で「死刑を執り行う剣」を意味する言葉。物質を固体、液体から気体へと無理やりに相転移させることによって攻撃する魔法。エヴァンジェリンほど高位の術者でなければ、これ程の魔法を使いこなすことはできない。

 生物であれば魔法抵抗に失敗した時点で気化されてしまう魔法。無策のままで受けるには分が悪過ぎた。

 

「やるじゃないか、ほんとに………ここまで楽しめるとは正直思わなかったぞ。だが、この程度で終わっては詰まらん。私をもっと楽しませてくれよ?」

 

 間違いなく賞賛の笑みを浮かべたエヴァンジェリンの紫色の魔力刃を纏った手に注目していたネスカは悪寒を感じて飛び退いた。刹那、エヴァンジェリンが前に出た。動いた素振りもないのに、一瞬前までいた位置からネスカがたった今までいた場所を薙ぎ払うように手が振るわれる。

 

「くっ」

 

 ネスカの身体が、本能的に危険を察知して動く。単純な技だったが、単純なだけにネスカは完全に間合いを見切ることができなかった。うっすらと頬に薄赤い斜めの筋が浮かび上がる。

 

「このぉオオオオオオ!」

 

 ネスカも負けていなかった。瞬時に右手に生み出した風の剣を上段から振り下ろした。

 これは避けられたが、エヴァンジェリンが僅かに姿勢を乱した隙をついて、ネスカの右膝が相手の腹部目掛けて跳ね上がっていた。腕をクロスして防ごうとしたエヴァンジェリンは、しかし予想を超えるネスカのパワーに、そのまま後方へと吹っ飛ばされる。

 

「パワーは奴の方が上。忌々しいが認めるしかあるまい。しかし、戦いとはパワーだけで決まるものではない」

 

 そのままトンボを切って勢いを殺しながら、エヴァンジェリンはネスカに向けて無詠唱で魔法の射手・氷の17矢を放った。

 ネスカは魔法の射手・氷の17矢を横っ飛びで躱すと右手に魔力を集中し、エヴァンジェリンに向かって突撃する。

 

「うおおおおおおおお!」

「チッ」

 

 エヴァンジェリンは舌打ちすると、虚空瞬動で空を蹴ってネスカの攻撃を躱して距離を取った。

 

「ふっ」

 

 ネスカは鋭い呼気と共にエヴァンジェリンの追って宙を飛ぶ。早口で口の中で詠唱を唱えると、ネスカの姿は幾重にも連なる複製を作りだした。

 

「風で光の屈折を変えてオリジナルと遜色のない16体の風精を瞬く間に生み出すか。ネギ坊や単体よりも処理能力が上がっているが、なんとも芸が細かいことだ」

 

 目で追えない速さではなかったにも関わらず、エヴァンジェリンは即座に見破った。中堅なら確実に、上位の者でも高速戦闘中という条件下ならば偽物に引っ掛かるであろう完成度。ここにいるのは六百年の長きを生き、世界の最上位に位置する魔法使い。術の綻び、空気を切り裂く音加減、幾多の戦場を渡り歩いた経験から、どれが本物かエヴァンジェリンは一目で見抜く。

 偽物に踊らされず、本物のネスカに過たず肘打ちを咬ます。

 

「ぐわっ」

 

 ネスカの身体がくの字に折れて吹っ飛ばされると同時に風精が消し飛んだ。弾丸の勢いで吹っ飛ばされたネスカを追ったエヴァンジェリンが上空に掲げた右手に氷が収束して行く。

 氷神の戦槌――――巨大な氷塊を作り出し、相手にぶつけて攻撃する魔法氷塊を作り出し、操るというのは低温を扱う魔法としては単純なものであり扱う質量が大きいという点を除いて、さほど高位な法ではない。だが、決して無詠唱で発動できる魔法ではない。断罪の剣と同じく無詠唱で発動している時点でエヴァンジェリンの技量が窺える。

 

「それ、行くぞ!」

 

 未だに肘撃ちで吹っ飛ばされて滑空を続けるネスカに向けて、吸血鬼の怪力に任せて思いっきり投げつけた。

 

「っ?!」

 

 氷神の戦槌は、扱う質量が大きいという点を除いて、さほど高威力な魔法ではない。しかし、これだけの質量に押し潰されれば無事ではすまない。

氷石が自分に向かってくるのに気付いたネスカは、慌てて虚空瞬動で大きく右に弾んでそれを躱した。

 氷塊はギリギリでネスカの眼の前を通り抜けるも、エヴァンジェリンがネスカの体勢が崩れたところを狙って加速した。氷石を避けるために姿勢を崩したネスカは、完全にそれを躱すことができなかった。出来たのは少しでも致命打を避けようと体を捻ることだけ。

 

「ぐっ……」

 

 エヴァンジェリンの魔力が篭った拳が僅かに肩に掠め、ネスカは堪らず吹っ飛んでいた。と、空中を疾走するエヴァンジェリンに向かって飛来する魔法の射手があった。ただ避けたのではなく、ネスカは攻撃を受ける前に魔法の射手・風の37矢を放っていたのだ。

 

「……ふん」

 

 素早く目を動かしてその存在に気付いたものの、エヴァンジェリンは魔法の射手を躱そうとすらしなかった。なぜなら躱す必要などなかったからである。魔法の射手は、まるで見えない壁に阻まれたようにネスカに命中する寸前、全て出力を上げた障壁に弾き飛ばされた。

 

「チィッ!」

 

 体勢を整えてその光景を目にしたネスカは何度目かの舌打ちをした。牽制のつもりで放った魔法の射手だが、躱す素振りもないのでは放った意味すらなかった。

 

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック! 氷の精霊1024頭 集い来たりて敵を切り裂け」

 

 何時の間に接近していたのか、エヴァンジェリンが詠唱すると周囲に氷の刃が幾つも現れる。

 

「魔法の射手・連弾・氷の1024矢――ッ!!」

 

 エヴァンジェリンがまるで軍団を指揮する将軍のように腕をネスカに向けて詠唱を終えると、標的に向かって魔法によって生み出された氷の矢が飛来する。

 魔法の射手は攻撃魔法としては最も基本的な技である。単純な、攻撃呪文としては初歩の初歩、最も簡易なそれでさえ、突き詰めれば絶大な破壊力を持つ。否、むしろ単純過ぎる程にシンプルな術であるからこそ、スペックの高さを活かせるのだ。

 基本の攻撃魔法でありながら予測のつかない動きでネスカを狙い、1024もの魔法の矢が鋭利な氷の刃となってで切り裂こうとまさに雨の如く降り注ぐ。

 

「風盾――ッ!」

 

 全ては躱しきれないと見るや、ネスカは蜂の巣になる寸前に突き出した掌から素早く風の盾を張った。音速に近い速さで殺到する無数の氷の矢は、その風に触れるや、一瞬の内に削り取られる。

 4分の1がネスカに襲い掛かり、残りが辺りを覆い尽くす。穿ちに来る氷の雨に対処する方法は一刻も早く去ってくれるようにと祈ることだけだった。

 

「ホラホラ、次行くぞ! 魔法の射手・連弾・氷の199矢、魔法の射手・連弾・闇の101矢、魔法の射手・連弾・氷の59矢、魔法の射手・連弾・闇の179矢、魔法の射手・連弾・氷の214矢、魔法の射手・連弾・闇の151矢!!」

 

 エヴァンジェリンの攻撃は際限のない雨だった。基本攻撃魔法とはいえ、ここまでくれば大魔法と変わらない。

 降り注ぐ氷弾は爆撃と何が違おう。その一撃一撃が必殺の威力を持つ魔法を、エヴァンジェリンは詠唱・無詠唱と氷・闇の別属性を織り交ぜて矢継ぎ早に、それこそ雨のように繰り出していく。それがどれほど桁外れなのか、曲がりなりにも魔法を使える以上、ネスカにだって理解できる。

 

「っ……!」

 

 これは受け切れぬと判断したネスカは、あらゆる方向から異なる軌道で迫る魔法の射手に対し、魔力を纏った双拳で的確に弾き、時には紙一重の機動で回避しながら空を疾走する。一切の容赦も情けも無い、殺す気で放たれる魔法の射手の弾幕は最早、嵐の時に振る雨の如く降り注ぐ。

 

「なんて反則っ!」

 

 逃げても逃げても追ってくるほどの優れた誘導性はなくても十分に脅威になる数が飛来してくる。例えるなら弾切れのない何丁ものガトリングガンに狙われているようなものだ。それも砲身が存在しないのでどこからどこへ弾が発射されるのか分からないという素敵仕様。エヴァンジェリンの背後にある数十のガトリンガンが無造作に自分に撃たれるのを想像すれば分かり易いだろう。

 まるで網の目のように激しく襲い掛かる氷と闇の光条の群れ、その悉くを鋭角的な動きで躱していく。ネスカは弾き、躱した魔法の矢が雲を抉り、凍らせて砕けていく。理不尽ではない最早反則の域に抗い続ける。

 ネスカほどの高速機動と神憑り染みた直感による回避能力があれば、捌き方はいくらでもある。だが、この数でなければの話で、どんなことにも限度がある。今は必死になって避けなければならない。

 ネスカはエヴァンジェリンが戦闘功者であることを一時的に失念していた。幾ら不意をついたからといって魔法の射手が牽制以上の意味があるはずがない。

 

「氷爆!!」

「っっ……!?」

 

 間髪を入れずにエヴァンジェリンは疾走するネスカの進行方向に現われて立て直させる暇を与えず、尚も大量の氷を出現、爆発させて攻め立てる。彼女の意図に気付いた時には時は既に遅く、ネスカは至近距離で発生した凍気と爆風で数メートル先まで吹き飛ばされた。

 防御した腕側の半身に霜が積もっている。一度握られた主導権を取り返すのは難しく、致命傷を負わぬようにするのが精一杯だった。

 

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック!! 来たれ氷精 大気に満ちよ 白夜の国の凍土と氷河を!! こおる大地!!」

 

 エヴァンジェリンが叫んで指先を向けるや、前方の地面を直線状に凍結させ、ネスカの回避方向に一斉に何本もの巨大で鋭い氷柱が出現した。敵を攻撃する呪文で地面にいる敵の足を凍結させ身動きを封じることも出来るので、飛べない者には避ける手段すらない。

 間一髪、ネスカはその攻撃を逃れて跳び退るが、氷柱はそれを追いかけて次々と立ち上がる。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル 地を穿つ一陣の風 我が手に宿りて敵を撃て 風の鉄槌(ストライク・エア)!!」

 

 完全に避けることは出来ないと判断したネスカは、瞬時に先のエヴァンジェリンとの戦いでネギが使おうとした中位魔法を追いかけて来る氷柱に放って打ち砕く。

 状況は明らかに劣勢だった。単純な戦力だけを見れば、多彩な技と戦術や経験をもつエヴァンジェリンに明らかに押されていて攻勢に回る余裕など欠片もない。

 

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック!!」

 

 直上から降りて来たエヴァンジェリンが詠唱をしながらネスカを左足で蹴り落とした。

 

「契約に従い 我に従え 氷の女王 来たれとこしえの闇!」

 

 真っ逆さまに氷原に墜落したネスカを見下ろしてエヴァンジェリンは詠唱を完遂させる。

 

「えいえんのひょうが!!」

 

 魔法名が告げられる。詠唱から広範囲をほぼ絶対零度(-273.15℃)にし、対象を凍結させる高等呪文。足から着地したネスカに取れる手段は少ない。止めるのは不可能、範囲外に逃げるには遅すぎる。取れる手段―――――それは全力で防ぐしかない。 

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル 逆巻け春の嵐 我らに風の加護を 風花旋風・風障壁!!」

 

 直径十数メートルにも及ぶ竜巻が出現する。しかし、その竜巻すらも無駄だとばかりに150フィート四方の空間を凍り付かせていく。

 これで勝負は決したかと思われた。が、エヴァンジェリンは容赦などしない。

 

「全ての命ある者に等しき死を。其は、安らぎ也」

 

 凡人ならば既に勝負は決まっていると言い、更なる追い討ちを重ねる彼女を罵倒するだろう。彼女が行おうとしているのは、数多の敵を殲滅してきたコンビネーション。低温空間を発生させる「えいえんのひょうが」の後に、極低温において凍結した対象を完全に粉砕する「おわるせかい」。

 

「おわるせかい」

 氷漬けになった各場所に罅が入り、竜巻の中心部にいるであろうネスカをも巻き込んで派手な爆発も無くぼろぼろと崩れ落ちていく。

 今度こそ勝負は決まったと思われた。効果範囲から逃げる時間は無く、今のエヴァンジェリンのコンビネーション魔法を完全に受けきることは高位魔法使いでも不可能だろう。

 受けてはならない。避けきるか、そもそも発動させる前に止めるべきな威力。それを真っ向から受けたネスカが生きているかどうかすらも怪しい。数多の強敵達を抵抗も許さずに屠った絶技。防ぐことなどありえない。

 

「……………ほぅ」

 

 だが、ネスカは見事に耐え切って見せた。勿論、決して無事とは言えない。服は破れ身体には無数の凍傷やそれによる裂傷。髪には霜が纏わりつき、凍傷やそれ以前に受けた裂傷があっても血が流れないのは凍りついたためか。

 防御の為に限界まで力を振り絞ったのだろう。息を大きく乱している。エヴァンジェリンの五倍もあった魔力も、その大半を失ってしまっていた。しかし、それでもエヴァンジェリンの得意とするコンビネーション魔法を防ぎきったのだ。それを見届けたエヴァンジェリンの声に混じるのは紛れもない賞賛の笑み。

 

「これだ! 戦いは簡単に終わってしまって面白くない」

 

 本気モードになった自分に向かってくる敵の存在は、彼女に久方ぶりの感情を伴わない興奮を呼んだ。熱くも寒くもない。ただフラットに伸びる連続。エスカレートした戦意の波に、彼女は長い吐息をついた。

 

「魂を奮わせろ! 考えることを怠るな! 全身を駆動させろ!!

 

 爆煙が薄らと晴れてきたところで二人は相手を睨みつけて相対した。また、二人は同時に飛び出して衝突する。

 

「そうだもっとだ! もっと私を楽しませろ! 魂の奥までこの私を感じさせてみろ!!」

 

 凍てついた双眸に幾つも凝縮された感情の中、そこに他者に対するサディスティック的な歓喜が支配していた。

 戦いの中、エヴァンジェリンは楽しくて堪らないと哄笑し続けた。

 

 

 

 

 

 戦争映画の一場面に取り込まれたのかと思った。アーニャは二人の戦いを見ながら、自分では生涯をかけても辿り着けない領域にいる幼馴染を見つめ続けた。

 一進一退の攻防。ネスカは致命傷こそ負ってはいないものの、無数の傷から流れる血で体は深紅に染まっている。その身体から噴出する血がまるで紅蓮の炎が噴き出しているかのように見えた。

 

「御主人モズルイゼ。一人ダケ愉シミヤガッテ。俺モ混ゼヤガレ」

 

 橋の欄干の上で、アーニャの隣にいるチャチャゼロは人形なので表情はピクリとも動かないが嫉妬にも似た感情を声に乗せていた。

 

「アンタは戦わないの? 私と」

 

 少し離れたところでチャンバラを繰り返す茶々丸と明日菜と比べて、二人は戦っていない。チャチャゼロには戦意すらなかった。

 

「弱イ奴ニ興味ハナイ。御主人達ノ戦イヲ見テイタ方ガ遥カニ有意義ダ」

 

 アーニャには興味すらないと、チャチャゼロはハッキリと言った。

 否定しないアーニャを意識にすら引っかけていないチャチャゼロが見ている先で白色の光軸が再び走り、空の上で閃光を雲越しに照らし出すや、今度は紫色の光軸がパッと膨れ上がるのが見えた。

 雷鳴に似た腹の底に響く重低音に続いて、風船を外側から一気に押しつぶしたような破裂音が轟き渡る。破裂音の正体は雲を穿って大きな穴を空けながら、全身に闇色の空に映える鮮烈な光を纏って背中から落下するネスカだった。

 目立つ光の持ち主であるネスカの姿をアーニャは網膜に焼き付けた。

 光の塊は雹風を引いて闇夜を滑り、地面へと落下してゆく。雹風を振り払うように光の塊が輝きを増し、天から堕ちて来た幾条もの氷乱の竜巻を放たれた雷が迎え撃った。

 両方の途方もないエネルギーが衝突したことで生まれた閃光にアーニャは思わず目を腕で覆った。

 

「アア、勿体ナイ。御主人トコレダケ戦エル奴ト、モット戦ッテオクンダッタ」

 

 隣から聞こえて来たチャチャゼロの声に、アーニャは目を覆った腕を外した。

 光によってまだ霞んで見える空一杯に、光芒が開いては帯となって乱舞する。時に上昇下降を繰り返し、時にすれ違って、時にはよじれるほど複雑に絡み合う。もはやそれは人が生み出しているとは思えない領域外の光景であった。 

 戦闘機同士が互いの射界に相手を捉えようとするドッグファイトめいた追撃戦が続く。二人は空気を切り裂き、光を交差させ、そして磁石で同じ極を近づけたように弾かれ、また接近する。白と紫のリボンを空中に形成しつつ、遠く離れたアーニャの視界からも一旦大きく外れながらも、直ぐにまた戻って唐突に動きを止めた。

 紫の光から幾重もの氷乱の暴風が吹き荒れ、白の光から雷の閃光が吐き出される。両者が激突すると世界が二色に染め上げられたような閃光が走る。

 アーニャは、ブルッと身体を震わせた。目の前の神話の如き光景を見て震えが止まらないことは間違いなかった。

 激しい攻防を繰り返しながら数㎞の距離を行き来する二つの光。遠く離れているからこそ視認できる神話の戦いのような光景を見て、彼女の胸に去来するものは、その闘いを見た誰もが抱くだろうものとは大きくかけ離れていた。

 

「遠いわよ……」

 

 アーニャは拳を握り締めて横向きに雷が走っているように見える空を注視した。

 

「どうして、私はこんなにも弱いのよ。どうして、私にはネギ達みたいな才能がないの…………どうして、どうしてなのよ」

 

 じゃれ合うように、会話をするように、光の乱舞は留まることを知らないかのように動き続ける。

 確かに威圧感に満ちているが他者を拒絶するような空気ではない。どこか戯れるように戦い続ける二人が生み出す空気は見ている側に高揚を生んだ。だが、自分は決してあそこに行けないのだとアーニャは遠い世界を見つめて嘆いた。

 




ようやく出て来たアスカのアーティファクト(ネギとキスしたのだろうか?)

・『絆の銀』(元ネタ:ドラゴンボールのポタラ)

アーティファクトを呼び出した時にアスカの両耳に銀のイヤリングが現れ、片方を外して他人がつけて「合体」と叫ぶと融合する。
装着者同士が合体して能力をアップする。装着者同士の相性などが良ければ能力の上り幅が大きい。
融合は本人の意思によって解除可能。また時間制限もあり。
初使用はエヴァンジェリンと戦う一年前。相手は高畑。油断しきっていたところに合体に動揺したところをノックアウト。

アーニャのアーティファクトは何でしょうか?
小太郎が仮契約したとしたらアーティファクトは己の力を増す増幅系がいいかもしれない。


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第11話 光をこの手に

アスカのアーティファクトに悪い評価つかなくてなによりです。

さて、今話を読む時はサイヤ人編の悟空とベジータがフュージョンして、ゴジータになってフリーザに挑んでいるぐらいの気持ちでどうぞ(ゲス顔



 

 瞬動で距離を詰めて怒涛とも言える連打を続けるネスカの攻撃を軽々と余裕を以て捌き、時に痛恨の一撃を叩きこみながらエヴァンジェリンは思う。

 

(―――――これほど、とは。まだ未熟な二人が合体してこの強さ。単体で高位に至った二人が合体すれば一体どれほどの強さになるのか)

 

 ゾクゾク、と自分で描いた想像にエヴァンジェリンの背筋は粟立った。

 十の攻撃を捌きながら五の反撃を叩き込み、百の牽制を読み切って逆に罠にかけながら別の事を考える余裕があった。

 

(侮っていたつもりはなかったが……………つくづくこちらの予想を上回ってくれる。だが、だからこそ面白い)

 

 この一瞬の隙が命取りになる緊張感。全身をゾクゾクと駆け抜ける興奮。楽しい、そう感じさせるに足る戦いというのは、本当に何年ぶりだろうか。テンションのボルテージは上がる一方だ。

 

「これを受け切れるか!」

 

 中空の空気がギシギシと固まり、氷柱を生み出した。ネスカ目がけて降り注ごうとする。

 

「受け切ってみせる! ラス・テル・マ・スキル・マギステル 闇夜切り裂く一条の光 我が手に宿りて敵を喰らえ 白き雷!!」

 

 叫ぶと、ネスカの手の平か生まれた激しい雷撃が氷柱へと命中する。水晶が割れるみたいに、氷の礫は雷撃に焼かれて壊れる。だが、バラバラに砕けた氷柱は消えなかった。細かい針状となってネスカに襲い掛かった。

 腕を頭上に掲げたが、突き刺さった氷の針がネスカを無残な針鼠にした。白き雷の残滓が、それをゆっくりと溶かして流れる血と共に身体を伝い落ちた。

 

「ちっくしょうが」

 

 ネスカが牙を剥き、全身に魔力を纏った。全身に突き立ったままの氷がキラキラと結晶となって消えていく。

 

「まさかこの程度で諦めるなんて言ってくれるなよ!」

「舐めるな!!」

 

 ネスカ意識は常にないほど冴えている―――――自分の五感の他に、別の誰かが加わっているかのように。空間を支配し、敵の動きを全て読み取れる。

 視界の中で迫るエヴァンジェリンがスローモーションに見えたかと思うと、心臓の音が聞こえるほどに集中力が高まる。意識が周囲に拡散して、視覚だけではなく五感全てがドンドン広がっていく。

 ネスカは先程から、ある種のトランス状態にあると言ってもよかった。それが、自身よりも遥か上の強さを持つ相手と戦っていることで脳が脳内麻薬を過剰に分泌されて極度の興奮状態を引き起こしたのか分からないが、理性的な思考よりも本能的な反射の側により多く反映されていた。

 だからといって、ネスカの意識が本能の陰に隠れて休眠しているわけではない。彼の理性は冷静に戦いを見つめていた。だが、そこは透明で強固なガラスの壁で隔てられているように戦場の傍ではない。肉体から遊離したように己と敵の戦いを見下ろしている。余計な何もかもを排除し、今の自分に辿り着けるとは思えない遥かな高みへと至ろうとしていた。魂が至高の瞬間にまで昇り詰めていく。

 

「ここに来て更なる成長を見せるか!」

 

 戦っているエヴァンジェリンだからこそ分かる。間違いなくネスカは今少しずつではあるが強くなって、一方的にやられていたのが少しずつやり返せるようになってきている。

 己の全てを賭してでもなお上の相手と戦うには、今の自分を超えるしかない。歴戦の勇士であるエヴァンジェリンの戦い方を模倣し、取り込み、自分のものとして組み込んで新しい戦い方を生み出してゆく。

 面白い。何と面白い。戦っている間に強くなるなどフィクションのような世界の出来事を彼女は今まさに目の前で目撃していた。音が聞こえる。エヴァンジェリンやナギがいる領域に確実に一歩ずつ歩み寄っている足音が。

 

「私について来れるか、ネスカ!」

 

 今のネスカはエヴァンジェリン・A・K・マグダウェルが、伝説の真祖の吸血鬼が本気を出すには実力が全然足りていない。だが、十合後はどうだ、百合後は、千合後ならどうだ。

 

「―――――ついて来れるか、じゃない」

 

 避けられなかった攻撃が避けられるようになり、防げなかった攻撃に耐えられるようになり、当てられなかった攻撃も当てられるようになってきている。徐々に思考と感覚が研ぎ澄まされ、代わりに余計な動作が無くなって行き、繰り出す攻撃は必然にも近いシンプルなものへと昇華されてゆく。

 

「直ぐに追い越してやる! ノロノロしてたら置いてくぞ――――っ!!」

 

 吼えたネスカの右脚が強かにエヴァンジェリンの腹部を打ち据えて弾き飛ばすも、氷の女神そのものである彼女にダメージらしいダメージを与えるには至っていない。

 

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック 集え氷の精霊 槍もて迅雨となりて 敵を貫け」

 

 それでも衝撃までは殺しきれずにピンボールの球のように吹っ飛ばされたエヴァンジェリンは、くるくると回って体を制動して氷壁に着地。両腕を振り上げたと同時に、辺りの冷気が急激に強まり、彼女の周りにキラキラと輝く光の結晶のようなものが無数に出現した。

 

「氷槍弾雨!!」

 

 ダイヤモンドダストは寄り集まると、氷の槍の形を成した。氷で出来た数え切れぬほどの槍が得物に凶暴な牙を突き立てんと待ちわびている。それはその一つ一つが山を穿ち、川を裂き、天を突くエネルギーを備えていた。

 

「小僧が良くも吼えた。その言葉が大言壮語と成り果てないことを祈るんだな!!」

 

 どこまでも余裕を見せつけるように増えていく氷槍を背にしてエヴァンジェリンは冷然と笑う。

 やはりナギの息子だ。土壇場の気迫が良く似ている。どんなに絶望的な状況でも、根性で覆せてしまえそうな気迫。スプリングフィールドの血が喚起する気性が真っ直ぐにエヴァンジェリンを貫く。

 伝わってくる腹の底を震わせずにはいられない闘志が、女にしか分からない子宮の震えとなってエヴァンジェリンを歓喜させる。

 

「大言壮語か、その身を以って味わえ! ラス・テル・マ・スキル・マギステル 影の地 統ぶる者スカサハの我が手に授けん 三十の棘もつ愛しき槍を」

 

 姿勢制御を放棄して慣性のまま跳びながら迎え撃たんと、ネスカの背後に空気の引き裂ける音を立てながら驚くべき密度と圧力を持つ雷の槍が出現した。

 

「雷の投擲!!」

 

 どんどん大きさを増していく雷の槍から迸る雷によって周囲が圧力でビリビリと震える。空気を普通に感じ取る能力があれば、それがどれだけの威力を持つか、見ただけでハッキリと分かる。それほどの術だった。

 ただでさえ、脅威の威力を発揮しそうな雷の槍が更なる増大を見せた。際限なく魔力を込められ、ブルブルと小刻みに震えると、轟音と共に身の丈を遥かに超えて麻帆良大橋を覆い尽くすほどの大槍へと成長する。

 量ではなく質で勝るといわんばかりの巨大さの雷の投擲の切っ先を、エヴァンジェリンの周りを囲い込んでいる氷槍弾雨へと向けた。

 

「「行け!」」

 

 巨大な雷の投擲と、数えることすら億劫になる氷槍弾雨が同時に放たれた。

 中間点で激突したと同時に、ふわっとした感覚が周囲の空間を包んだ。氷と雷の槍の全てが溶解し、爆発せしめた。もし、誰かがいれば穏やか過ぎて、直後に隕石が衝突したような途方もない衝撃が来るまでそれが爆圧であることなど気付かなかったほどであろう。

 

「「!」」

 

 互いの魔法は相殺された。衝突した周囲数㎞が爆炎に覆われ、爆風に押されるように更に距離が空く。相殺した爆発だけで周囲の物を根こそぎ吹き飛ばし、空間に悲鳴を上げさせながら煙を割って二つの影が飛び出した。

 次々と轟く爆音が消えぬ間に二人とも動いている。氷結を撒き散らすエヴァンジェリンとほんのりと白く輝く流星となったネスカが急迫し、二人の右拳が間近で大砲が着弾したような音と共に衝突した。

 

「うううううぁぁぁぁぁっっっ!!」

 

 右腕を前に出せば、自然と反対側の腕が後ろに下がっている。その勢いと溜めた力を活かし、ネスカが喉から雄叫びを迸出しながら左手をエヴァンジェリンの胴部に向けて突き出した。 

 

「ぬうっ!」

 

 エヴァンジェリンは左手で受けた攻撃によって痺れるほどの衝撃を堪えて外に弾き飛ばして、引き戻した右腕を畳みながら捻った回転力で増した肘をネスカの側頭部に叩き込もうとする。ネスカは急速に体を後退させ、この攻撃を逃れた。

 そのまま爆発的に光量を噴射させて弾丸のようにエヴァンジェリンの下へと舞い上がった。そのまま螺旋を描くように周りを旋回する。と、ネスカが一周もしない内にエヴァンジェリンが後を追いかけ、接近してきた。

 空中を疾走する二人の光は、まるで白と紫の尾を引いた二つの流星が縺れ合いながらダンスを踊っているかのようだった。二つの流線が交差する度に、激しい轟音が響き、派手な閃光が散る。それが二度、三度、繰り返された時、流星が正面から激突しあった。これまでにない轟音によって世界が揺れるように空気が激震する。

 数瞬、二つの流星は力が拮抗したかのように空中で静止したが、互いに腕を動かした直後、爆発の煽りを食らったかのように左右に吹っ飛んだ。その左右に別れた二つの流星が互いにそうすることを分かっていたかのように旋回させ、再び正面から突進しあう。激突は必至だった。

 

「はあああああああああっっ!」

「うおおおおおおおおおっっ!」

 

 そして、二つの拳がぶつかり合った。拳の間から衝突したエネルギーに耐え切れぬかのように周辺にスパークが四散する。ギリギリと押し合いながら相手を睨みつけるかのように顔をにじり寄せた。

 拳が、肘が、脚が、膝が、頭突きが、氷が、雷が、ありとあらゆる攻撃を交し合いながら時に掠め、時に弾き合う。一撃一撃に思いを込め、まるで対話するように攻撃を交し合う。

 舞踏会のような戦いにも終わりがやってくる。特にネスカの方はボロボロである。服は殆ど原型を留めておらず、傷だらけで残りエネルギーも少ない。

 加速度的に消耗を重ねる精神でも支えきれぬほどに限界が迫っているのを感じる。高速戦闘の最中で呼吸をすることすら辛くなってきた。体中の筋肉が軋み、骨が筋の一本一本が軋みながら悲鳴を上げている。肉体が限界を超えて急激な熱に浮かされて、視界が揺れ出した。

 ネスカの体感時間では遥かに時間が経っている。合体の限界時間も近い。

 

(次が最後……!)

 

 これ以上の時間の浪費は許されない。残エネルギーを考えれば許されるのは一撃のみ。ネスカは大きく後方に跳んで距離を取った。

 

「――――決着を望むか」

 

 一瞬にして離れたのは距離にして約一㎞。それだけの間合いを離され、エヴァンジェリンは瞬時にネスカの狙いを悟る。間合いはエヴァンジェリンが得意とする遠距離戦の距離だった。

 敢えて自分から不利な距離を望んだということは、ネスカが求めているのは次なる一撃での決着。最大の力での衝突。それでなにもかも決しようとしている。ならば自身にできる迎撃手段は一つだけ。最大の攻撃には、最大の攻撃を以って応えるのみ。

 

「エヴァァァァアア…………………!!!!!」

 

 半身になったネスカの姿勢が両腕を抱えた状態で定まる。最低限の止血と防御の為に要する魔力すら使い、体に残る力その全てをかき集め、ただひたすらに光を高め続ける

 

「―――――来るがいい、ネスカ――――!」

 

 体内から発せられ、そして体外へと発せられる。胸の前で手を合わせるという自然な動きが、エヴァンジェリンの強固な意志力によって、ここまで眩く、胸を打つほどの美しさを備える。

 距離を取ったネスカ、意図を悟ったエヴァンジェリン。二人はほぼ同時に、集中に入って詠唱を開始した。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル! 来たれ雷精、風の精!」

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック! 来たれ氷精、闇の精!」

 

 必勝の覚悟を決めて唱え始めたネスカの詠唱を聞き、瞬時に放たれる魔法を看破したエヴァンジェリンは驚きながらも詠唱を紡いだ。

 それは呼び出す属性の差はあれど、間違いなく同種の呪文。エヴァンジェリンの唱える呪文が、今の自分が使える最強の魔法と属性は違えど同じ魔法であることに気付いたネスカは驚きを隠せない。だが、萎えそうになる心を叱咤して呪文を唱え、術式を編む。

 

「雷を纏いて吹きすさべ、南洋の嵐!」

「闇を従え吹雪け、常世の吹雪!」

 

 全く同じ速度と調子で、二人の詠唱は紡がれていく。それぞれの手に、今までとは比べ物にならない魔力が集まり始めた。

 ネスカの足下に風が渦巻き、魔力が収束する右手は放電が起き始め、対するエヴァンジェリンは周りの温度が急低下し、吹雪のような冷徹さをもって手の中で渦巻いていく。両者のあまりに強すぎるエネルギーに、周囲の空間が歪む。

 水面に浮かべた絵の具がかき回され、排水溝に吸い込まれてゆくようだった。二人を中心とする空間が光の屈折率を変更したように歪む。一秒の後に襲い来るであろう敵が放つ光の波動を断ち切らんと魔法が展開される。

 互いの攻撃の吼え声が大気を渦巻かせ、轟かせていく。ただ一点に収束し、今にも解放されようと荒れ狂う。

 爆発的な、いや、それすらも生ぬるい光の本流が迸り、空を覆う。圧縮と膨張を繰り返しながら、今か今かと撃ち出されるのに耐えかねた空間の絶叫。空間が捻じ曲がり、それはまるで世界の終わりに歌う引き金の祝詞。

 破滅的な力の渦に、空間が戦慄き、大気が咆吼する。力の一端にでも触れれば跡形もなくなる絶対的な死の予感を前にして、なお戦士は引かず、眼前の死を更なる死で殺し尽くさんとばかりに、ただただ力を絞り出す。

 そして、解き放たれる前の一瞬の静寂。極限に高まった一対の業。苛烈なる光はそのままに不思議なほど空間に静寂が満ちた。まるで今から起こる出来事に備えるように。

 風雷の精霊と吹雪の精霊が、それぞれの手に集まる。そして、二人は同時に魔力を溜めた手を振りかぶる。

 

「――――雷の」

「――――闇の」

 

 拳銃の撃鉄が落ちるように魔法の名前が唱じられ、今か今かと待ちかねたエネルギーが解放される。

 

「暴風――――――!!!!!!!!!」

「吹雪――――――!!!!!!!!!」

 

 光が跳ねた。解き放たれた膨大すぎるエネルギーの激流は、何もかもの存在を許してはおかぬというように事象の全てを粉砕しながら迸る。それらが通る空気は奔騰し、荒れ狂い、もし間に形成すものがあったとしても悉く融解するだろう。

 そして触れる物を例外なく呑み込む雷の暴風と闇の吹雪という相反する力同士が激突した。

 激突した爆音は小さかった、というよりアーニャの耳が轟音の大半を拒否したのかもしれない。或いは、爆発の一瞬、気を失っていたのだとしても否定する気にはなれなかった。

 耳を弄する轟音、眼も開けていられない閃光、一瞬で吹き飛ばされそうになるほどに吹き荒れる烈風。世界を染め上げる二つの閃光が、己以外の光は要らぬと牙を剥き出しにして鬩ぎ合う。

 光が拮抗し、互いを喰らいあう。荒れ狂う閃光と灼熱。互いを力のみで押し合い、空間に境界線を作り上げる。鬩ぎ合うのは光と闇であり闇と光。雷霆の台風と漆黒の氷嵐。光は全てを呑み込み、膨大な熱と極寒の氷と矛盾した圧倒的な衝撃をばら撒き、渦を巻いてその場の全てを壊し尽くし、そして吹き飛ばす。

 

「きゃっ!?」

 

 轟音と光の眩しさに、茶々丸と戦っていた明日菜が悲鳴を上げた。

 吹き荒れる烈風は瓦礫を薙ぎ払い、ぶつかり合う閃火は爆発する太陽となって目蓋を焼く。閃光が視界を焼き、目前にある自身の手すらも分からなくなる。光も熱も区別できぬほどの、圧倒的なエネルギーが腕で目元を覆っても傍観者達の瞼の裏で弾ける。感じられるのは圧力だけだ。

 

「オ~、タマヤ~」

 

 これほどの凶事に巻き込まれているのに、呑気な口調で花火が上がったようにチャチャゼロは無邪気には笑う

 世界を二つに割るのではないか、と危惧するほどの拮抗した両者の奔流。僅か数瞬の拮抗は、永遠の戦いのようにも思われた。だがしかし、拮抗は数瞬で終わりを告げた。

 

「ガ―――――!」

 

 伸ばした右腕に伝わるその感触に、全てが宿っている。叩きつけられる剥き出しの力。エヴァンジェリンの魔法に押される勢いによってネスカの突き出した右腕がブレる。

 

「グ……ああ―――!」  

 

 押される。押される。押され続ける。なんとしても耐えなければならなかった。まだ止めるわけにはいかない。両者の光は未だギリギリのラインで拮抗している。ここで力を抜けば、一気に突破される。

 

「く……ぉ、あ……っ!」

 

 堪らず吼える。跳ね回る右腕を左手で必死に押さえつける。

 

「これに持ち堪えるとはな……驚きだぞっ!!」

 

 崖の淵で耐え凌いでいるネスカとは対照的に、エヴァンジェリンにはかなりの余裕が見て取れた。

 

「だが、これで終わりだ!」

 

 抗えることに驚きを示しつつ、末尾に混めた叫びと共に更なる力を込める。

 

「づ……………! あ、あ、あ―――――!」

 

 増大する力が奇跡ともいえるバランスで何とか拮抗していたエネルギーが急速にネスカの方へと傾く。

 徐々に勝利の天秤がエヴァンジェリンに傾くのと同時に、無数の氷片が混ざった凍れる風がネスカの方へ吹雪いて来た。生身で喰らえば生き物は無残に切り刻まれる。しかも、瞬く間に凍りつく。なのにネスカの全身を襲っているのは冷気ではなく灼熱感だった。余波でしかない冷気に晒された身体が、超低温を火傷のような痛みとして認識したのだろう。

 まさしく魔性の風。余波だけで世界が凍りつく。凄まじい氷結地獄。直撃を受けたら、きっと魂も残らない。

 

「―――――!」

 

 ガタガタと震える唇の端から泡が吹き零れる。今、ネスカの肉体は氷結させられる寸前だった。骨まで震えるどころではない。骨すらも凍りつきそうな冷気。余波だけでも容易く人を屠らん冷気に、それでも歯を食い縛り、力を注ぐの止めない。

 全身の皮膚の内側を凄まじい熱が蠢いている。ぞりぞりと皮膚と肉の間を鱗で削りながら、骨を啄ばみ、神経の一本ずつを舐め上げて毒を注ぎ込んで益々膨れ上がる毒蛇のよう。左腕も、左腕を押さえている右腕も、踏ん張っている両足も、抑えきれずにがくがくと大きく痙攣している。

 

「ぎ―――――あ、あア、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア―――――!」

 

 眼球が裏返りかけて意識が途切れるのを必死で引き止めるために、骨から脳髄までその感覚に冒されそうに鳴りながら吼えた。骨と筋肉を直接削ぐような熱と体内と体外の痛み、悶絶すら出来ぬ感覚に自分が失われていく恐怖を追い返さんと絶叫する。

 

「お前は良くやったよ。この私にここまでの戦いをした。誇るがいい。貴様の名は未来永劫、忘れはせん」

 

 だが、それもここまでだとエヴァンジェリン(強者)は言う。

 

「これでフィナーレだ!」

 

 エヴァンジェリンの左手に、無詠唱で生み出された別の闇の吹雪が生まれる。その数三つ。一つ一つは詠唱した物よりも威力も規模も遥かに劣るが、三つを合計すれば上回る。一つでも拮抗することが出来なくなっているのに、三つも受けることは出来ない。放たれればネスカの敗北は決まってしまう。

 エヴァンジェリンは目の前のことに集中していた。当然だ。彼女であってもネスカが放つ雷の暴風を受ければ無事では済まない。そして僅かであっても拮抗しているので意識を逸らすことなどありえない。

 

「小太郎!」

 

 この時を待っていたアーニャは唯一つの勝機を引き寄せるべく、事前に打っていた布石を今こそ動かす。

 

「狗神!」

「!?」

 

 エヴァンジェリンは背後から何かが近づき、しかし超絶の二つの魔法のパワーの余波だけで爆発するまで存在に気づかなかった。

 麻帆良大橋の上に立つ学ラン姿の少年から放たれた狗神は、結果として碌なダメージを与えられず、近づくだけで余波のエネルギーで消滅したに過ぎない。それでもエヴァンジェリンの意表を突くには十分だった。

 圧倒的強者であるが故の傲慢。その唯一の隙が生まれる時を見守るアーニャは待っていた。自身の想いも絶望も全て押し込め、アーニャは仮契約カードを取り出す。

 

「アデアット! 女王の冠よ、我が能力を主人へと貸し与えよ!」

 

 召喚されたアーティファクトはアーニャの頭に出現し、叫びに合わせて冠の中央にある宝玉が輝いた。

 アーニャのアーティファクトの効果が発動する。

 女王の冠は、被った者の能力を主人へと与えるという変わったアーティファクト。この場合の主人とは仮契約をしたネギであり、現在はアスカと合体しているネスカである。アーニャの能力、魔法適性と魔力がネスカへと貸し与えられる。

 

「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――――――ッッッッ!!!!」

 

 激痛に魂まで犯されながらも、アーニャから力が流れ込んでくるのを察したネスカは文字通り全てをかなぐり捨てた。魂すらも絞り作りして、己が身すらも顧みずにエネルギーを出し切る。

 雷の暴風にアーニャから借り受けた弱い火が混ざり、各々の属性が混ざって勢いを増していく。火によって風が勢いを増し、煽られた風が雷を生み出す。増殖していく雷同士が弾け合って火を強めていく。三つの属性は増幅し合って力を高める。僅かでも、一瞬でも意識を後ろに割いたエヴァンジェリンが増大したパワーに気づいた時には全てが遅い。

 

「しま……っ!?」

 

 世界を二つに割るのではないかと危惧するほどの拮抗した両者の奔流は、唐突に終わりを告げた。雷と火を纏う暴風は【雷火の嵐】となって傾いていた天秤を破壊して、闇の吹雪を呑み込んで世界を眩いばかりの閃光に染め上げた。閃光は、世界を沸騰させて色褪せた世界をそのまま洗い流す。 

 眩い閃光が綾なすと、右手を掲げて防御をするエヴァンジェリンの全身を揺さぶる衝撃が襲った。やがて光は明度を失い、世界は元の暗闇を取り戻す。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 

 息も絶え絶えに爆煙の向こうを見つめるネスカには、もう魔力が微かにしか残されておらず、戦闘能力は皆無にも等しい。

 あの雷火の嵐に呑み込まれては、如何な真祖の吸血鬼といえど無事ですむはずがない。勝敗は決したと、命令されて奇襲をした小太郎も、茶々丸との戦いを一旦止めた明日菜も、狙い通りに行って会心の笑みを浮かべるアーニャも疑わなかった。

 

「オイオイ、コノ程度デ御主人ガヤラレルヨウナラ今頃生キテチャイネェヨ。ヨク見ロ」

「え?」

 

 主人の敗北に慌ても騒ぎもしないチャチャゼロが言った呟きがアーニャの耳に届いた。

 爆煙が晴れていく。

 

「…………見事、見事と言う他あるまい」

 

 爆煙が晴れて先に、エヴァンジェリンは無傷でそこにいた。いや、無傷ではない。雷火の嵐を受け止めたであろう右手の手の平が焼け爛れている。だが、それだけだ。全力の全力、これ以上はない会心の状況で放たれたネスカ最強の魔法を受けて、たったそれだけの傷しか負わせることが出来なかった。

 やっとのことで与えたその負傷すらも瞬く間に治って行く。真祖の吸血鬼が持つ回復力は僅か数秒の時間で元の肌を取り戻す。

 

「ば、バカな…………た……大して、き、効いていないだと!?」

 

 目を見開いて震撼する。この戦いが始まって初めてネスカは戦慄していた。

 足元ぐらいには近づいたと思っていた。しかし、それはネスカの驕りであった。実際には足下どころか、その影すらも見えてなどいなかった。

 

「ほ、本気ではなかったというのか?」

「本気ではあった。本気で遊んでいたとも。兎がじゃれついてきた程度で獅子が死に物狂いになるわけがなかろう」

 

 本気は本気でも、ネスカとエヴァンジェリンとでは意味が違った。エヴァンジェリンは狼狽も深いネスカから視線を外し、麻帆良大橋の上で呆然とする犬上小太郎を見る。

 

「部外者の助太刀は予想外ではあった。横入りは剛腹だがあわやと思うスリルはあったぞ。褒めてやろう。一瞬とはいえ、この私を焦らせたのだ。誇るがいい」

 

 勝利を確信していたアーニャの、築き上げた全てが津波に流れて行ってしまったような顔へと視線を移す。そして最後に飛んでいることすら出来なくなって、麻帆良大橋に着地して膝から崩れ落ち、地に手をつくネスカを悠然と見下ろす。

 圧倒的強者との戦いで精神もすり減らし、更に無茶をした所為で制限時間を迎えた合体すらも解ける。

 

「「あ」」

 

 合体が解けた二人は地に伏した。限界まで力を使い果たした二人に、もう戦う力は一片も残っていないかった。

 

「ま、まだだ。俺は誰にも負けられねぇんだ」

 

 直ぐには起き上がれないネギの横で、アスカが体を起こした。盛大に息を乱して震える全身であっても片膝をつき、息を整えているが体に力が入らない。疲労で額には汗が浮かび、心臓は早鐘を打ったようにガンガンと鳴り響いていて、とても戦いを続けられる状態でない事は誰が見ても明らかであった。だが、体は動かなくとも闘志は今だ健在と、眼だけが戦う意思を示していた。

 尚も足掻こうとする魂の輝きに、エヴァンジェリンは笑みを深めた。

 

「そこそこは楽しめたよ、坊や達。血を吸いはしないが、今はただ自身の未熟を理解し、世界の広さを知れ。そして最強と呼ばれる者の力を知るがいい」

 

 エヴァンジェリンの手に再び闇の吹雪の塊が幾つも浮かび上がる。

 

「ち、ちくしょう……」

 

 立ち上がることすら出来ないアスカ、起き上がることすら出来ないネギ、せめて二人を守ろうと飛び出したアーニャと明日菜、代わりに戦おうと飛び降りた小太郎。その誰よりも早く、エヴァンジェリンは闇の吹雪を放とうとして――――。

 

「……!? いけない、マスター! 戻って!!」

 

 茶々丸が何かに気づいてエヴァンジェリンに呼びかけたが既に遅い。橋塔部に鎮座していた大型電飾が乾いた音と共に発光して今にも闇の吹雪を放とうとしてエヴァンジェリンを照らし出す。

 

「な……なに!?」

 

 次いで橋の電飾に次々と電気が灯って行くのを見たエヴァンジェリンは、己がミスを悟る。

 エヴァンジェリンの全開状態には制限があった。まるで舞踏会に出席したシンデレラの魔法が午前0時になったら解けるのと同じように、暗闇に沈んでいた麻帆良学園都市に電気が戻ると共にエヴァンジェリンに何かが繋がった。

 

「マスター!」

「きゃんっ!」

 

 エヴァンジェリンを光が撃った。同時に闇の吹雪が霧散する。光はエヴァンジェリンを呑み込み、彼女の中にあった魔力という名の全能感を奪い去る。

 吸血鬼の能力すらも失って、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルに与えられた運命は、人の身に墜とされながら空に憧れて飛んだイカロスが太陽の熱に炙られて翼を失うが如く地に落ちて行くことだけ。

 

「ど、どうしたの!?」

「停電の復旧でマスターへの封印が復活したのです! 魔力がなくなればマスターはただの子供! このままでは氷の湖へ!」

 

 明日菜の問いに律儀に答えながら茶々丸は背部スラスターを吹かせて、主の下へ馳せ参じようとする。

 しかし、それよりも早く動いた者がいた。

 

「エヴァ!」

「!?」

 

 茶々丸よりも早くアスカが橋より身を躍らせた。

 

杖よ(メア・ウイルガ)!」

 

 そして一拍遅れてアーニャとネギが続く。

 

 

 

 

 

 轟々と風が逆しまに叩きつける中、背中に風が鞭となって食い込んでいくような痛みが走る。

 身体が落下していくのが分かる。目を見開いた先には空があった。星々を煌めかせる空をとても綺麗だと思った。橋の下はエヴァンジェリンの魔力によって氷結している。魔力を失って普通の十歳児と変わらないエヴァンジェリンが百数十メートル以上の高さから落ちれば、潰れたトマトのように死ぬしかない。

 地面は確実に迫りつつある。エヴァンジェリンは覚悟するようにすっと瞼を下ろした。

 ひどく身が軽くなっていた。報われない想いは終わり、後は何も感じなくなる。悲しむことも、苦しむことも、痛むこともない。空はどこまでも広がっていて、都市の光によって星が塗り潰されていく。光から遠ざかって落下していく感覚はひどく頼りないもので、永遠にどこでもない場所へ落ちていくのではないかと思われた。

 

「ああ……!」

 

 声が出てしまう。恐ろしさよりも心細さが強かった。

 

(嫌だ) 

 

 死の諦念に冷たく閉ざされかけたエヴァンジェリンの胸に一点だけ熱い灯火があった。それは意識しまいと目を閉じていたエヴァンジェリンの心にも強く輝いて、あっという間に胸を染め上げてしまう。

 

「……助けて」

 

 呟きは自然と唇から漏れた。

 ごおごお、と耳に風が流れていく音がする。落ちていく。夢破れて、どこまでも堕ちていく。しかし、空気を体で切り裂いて生まれる風の轟音が自分の声すらも耳に届けない。

 

「助けて」

 

 ただ、内臓が吐きそうなぐらい熱かった。グチャグチャと熱が蜷局を巻いて、内側から燃えてしまいそうだった。グツグツと煮え滾って腸から溶けていく感覚が恐ろしくてたまらない。口を開くごとに吐息の変わりに炎が噴き出しているような錯覚を覚える。 

 ごおごお、と風の音がする。でも、感覚は無い。熱と音だけだ。自分が上空何メートルにいて地面とどれだけの距離があるのかが分からない。恐怖だけがエヴァンジェリンを染め上げる。

 

「助けてっ」

 

 何て自分は虫がいいのだろう、とエヴァンジェリンは思った。多くの命を奪ってきて、助けてもらう価値なんて自分にはないと決めたはずなのに、最後の最期には助けを求めてしまうのだ。

 

「助けてっ、ナギ」

 

 何度も呟きながら、遂には観念するようにギュッと力強く目を閉じた。

 

「助けてっ、――――ナギっ!!!!」

 

 墜落していくエヴァンジェリンは、身の内にある光の方へ必死で手を伸ばした。

 

「エヴァっ!!」

 

 応える声に瞼を引き剥がす勢いで目を開いたエヴァンジェリンの目に、助けを求めた者の息子――――アスカ・スプリングフィールドの姿が見えた。

 

「――――手をっ!」

 

 魔力を使い果たして立つことすら出来なかったアスカが、喉も裂けよと叫びながらひたすらに手を伸ばしている。

 

「手を伸ばせ!」

 

 今まさに消えんとする蝋燭の輝きであったが、エヴァンジェリンにとっては絶えず求めていた光だった。温もりを求めずにはいられない手だった。

 

「来いっ!!」

 

 気がつくと、震える手がアスカの方へ伸びていた。

 

「くっ」

 

 どうしようもない落下の最中で、少しずつ二人の距離が近づいていく。

 秒が切り刻まれる。刹那が永遠に引き伸ばされる。果てしなく緩慢になった時間の中で、世界は二人だけのものだった。

 互いの指が、互いを求めて彷徨い、擦れ合う。アスカは落ちていくエヴァンジェリンに向かって、身を捩って伸ばされた手を何度目かの挑戦で遂に掴んだ。強く、強く、ありったけの力を込めて握った。

 

「……あああ…………あああああああああああっ!」

 

 アスカは吠えながら渾身の力でエヴァンジェリンを己が手の内に引き寄せた。

 引き寄せたエヴァンジェリンの体を両手で抱き抱え、無為に落ちるしかない状況で地面に落ちる衝突に耐えるように目を閉じた。一瞬、無重力状態のような浮遊感がしたが、次の瞬間には凄まじい勢いで落下していく。アスカが浮遊術を発動させたが魔力が足りない。

 二人で空から零れ落ちていく。アスカ一人なら落下速度を落とすことが出来るかもしれない。それでもこの手は離さない。離してはならないと自分に言い聞かせ、アスカは腕の中の温もりを全身で抱きすくめた。

 破滅の時、少年と少女は抱き合っていた。エヴァンジェリンはアスカの血の入り混じった匂いしかしないシャツの胸を、手が親を求める子のように縋るように捕まえていた。

 落下時特有の血も凍る感覚が身を包み、みるみる内に地面が近づいて来るのが分かる。凍り付いている地上に叩きつけられれば骨は砕け、内臓は破裂し、これだけの高所から落ちているのだから二人揃って原型も残さず確実に死ぬ。

 共に墜落しながら、エヴァンジェリンは抱いてくれるアスカの向こうにある遠くどこまでも高い夜空を見た。星は見えない。光からは遠ざかって行く。でも、この身を包んでくれる温もりがあれば、もう何も恐れるものはなかった。

 

「諦めるのは早ぇ。俺達は一人じゃない」

 

 残酷な運命に愛されたエヴァンジェリンを救ったのは人だった。投げ捨てたように見えたが実際には橋の裏に糸で吊るされていた杖を呼んで跨ったネギとアーニャが、氷原に落ちる前に二人の体を受け止める。

 

「くっ……!!」

 

 杖を操って二人分の落下速度を受け止めたネギのこめかみに浮かび上がっていた青筋から血を噴いた。同時に魔力切れと気力の限界で意識をプッツリと落とす。

 

「もう、限界」

 

 アーティファクトで能力委譲を行なったアーニャにも魔力は大して残っていない。四人分の体重を支える一瞬の静止と浮遊が精々。四人揃って落ちかけたところへ、スラスターを吹かした茶々丸が纏めて受け止めた。

 機械仕掛けの肉体の茶々丸だからこそ、魔力切れの心配もなく強大な力を持って四人を抱えたまま氷原へと降りる。

 

「マスター、良かった」

 

 茶々丸は表情を崩し、飛び降りることが出来ずに橋の上から見ていた明日菜はホッと息を漏らした。魔力切れやらで四人とも氷原に横になったところで、エヴァンジェリンは隣で今にも死にそうな顔をしているアスカを見た。

 エヴァンジェリンは己の迂闊さを悔いてはいたが、この失策は戦士として許されざれるミスであるので大人しく受け入れていた。

 

「私も驕ったな。闇の福音という綽名に溺れすぎたようだ」

 

 戦闘のために有効な真理は、基本的に相手を打倒しようとする強い意思にある。強い意志がなければ、ここぞという時に瞬発力は発揮できない。

 勝機の万全たる期して初めて戦いは勝つのであって、気力とか偶然による勝利などは早々あるものではない。相手が強者であるならば、その対処の仕方、作戦を立案して望まなければならない。力押しの戦いなぞは、よほどの力の差があってこそ成り立つ。それでも戦闘では、圧倒的な力の差が原因で墓穴を掘ることもある。「矛」と「盾」、その言葉が生んだ「矛盾」という概念こそ、戦闘の本質をついている。

 

「強かった。流石は真祖の吸血鬼。桁違いの力だった」

「よせ、勝者にかけられる賞賛などいらん。今の私は敗者に過ぎん。制限時間を忘れて熱中するなど情けない」

 

 エヴァンジェリンは何時でも彼女自身という王国を支配する女王だった。だが、今は影を帯びてひどく儚かった。

 

「俺は勝ったなんて思っちゃいない。あのまま戦っていたら万に一つの勝ち目すらなかった」

「謙遜するな。結果的に勝利を求めて勝ち取ったのお前達の手柄だ。誇るがいい。この私を敗者にしたのだ」

「違う。誰がなんと言おうとエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは敗者なんかじゃない」

 

 六百年を生きた真祖の吸血鬼。魔法世界では闇の福音・人形使い・不死の魔法使い・悪しき音信・禍音の使徒・童姿の闇の魔王などの様々な異名を持ち恐れられているだけの実力を我が身を感じた。本気でなかったとも戦った肌身が直感と共に悟らせている。

 

「現実を見ろ。お前の勝ちだ」

「本気で戦っていない相手に勝ったなんて法螺は吹けない」

 

 今のアスカでは仰ぎ見るだけで、とても頂点を見ることは叶わない。歴然とした差に愕然とした想いを抱けども、遥か彼方の高峰にいる姿に憧憬と尊敬を覚えずにはいられない。そんな彼女が自らを敗者に貶めることを許せるはずもない。

 

「これだけは絶対に譲らない」

「この頑固者め」

「褒め言葉をどうも」

「褒めてない」

 

 そして顔を見合わせて二人で笑い合う。

 

「気安くなったものだ。初めて会った時は警戒心剥き出しだったものを」

「そっちこそ。今にも飛び掛かりそうな野獣の目をしていた癖に」

 

 言葉のあちこちに相手をからかう意図を織り交ぜていても詰まることはない。始めて会った時のことを思えば、会話にジョークを混ぜられるほど随分とフレンドリーになったものだと懐古せずにはいられない。

 全力でぶつけあって、でも後々の遺恨にならないような決着の着き方だったから、今まで間を隔てていた心の壁が大分薄くなったように互いに感じていた。今までに溜まりきっていた互いへの愚痴をこの時とばかりに突き合う。

 

「さて、負けるのは何年ぶりだったか。ここ百年はなかったことだぞ」 

 

 いい加減に喋り疲れたところでエヴァンジェリンは過去を思い出すように言った。

 

「紅き翼とは戦わなかったのか?」

 

 魔法世界で英雄とも呼ばれている紅き翼とナマハゲ扱いされているエヴァンジェリンの相性が良いとは思わなかった。

 英雄とは正しさの象徴、正しいからこそ民意を得て英雄と呼ばれるのだ。逆にエヴァンジェリンは物語の中なら英雄に討たれる役回り。両者が出会えば戦いになっても不思議ではなかった。故にこその問い。

 

「じゃれ合い程度ならしたかもしれんが本気で戦ったことはないな。奴らとは不思議と馬が合った」

 

 もう十五年以上前のことを今のことようにエヴァンジェリンは正確に思い出せる。

 

「どちらが強い?」

「負けるとは言わんが確実に勝てるとも言えんな。奴らはそれぞれに尖った強さを持っていた。やってみないと勝敗は分からんが、それでも勝つのは私だ」

 

 ナギという太陽のような光に出会い、いずれも劣らぬ輝きを持つ者達との交流は楽しかったと断言できる。エヴァンジェリンにとって自分の正体を知っても恐れず臆さず、けれど敵意を持たなかった奴らは六百年を生きてきて極少数だった。

 怖いもの知らずではない。弱いからこその諦めでもない。強者に縋ろうとする卑屈さもない。同格で同じ立場に立ち、対等でいられる力を持った者達との交流は初めてだったと言っていい。幾分、想い人であったナギというフィルターを通した事や、数百年来の付き合いのあるアルビレオがいたことは関係していたかもしれないが。

 

「まだ遠いか」

 

 果てまでの道は見えず、高峰を仰ぎ見ることしか出来ない。それがどうしようもなくアスカには悔しかった。

 

「…………何故、私を助けた? 私達は敵のはずだ。命を賭けて助ける理由なんてないはずだ」

 

 エヴァンジェリンには分からなかった。あれだけの戦いをして、敵対関係にあったエヴァンジェリンを救う算段なんてないはずなのに命を賭けてまで行動した理由が分からなかった。

 

「うるせぇ。体が勝手に動いたんだ。理由なんてない」

「嘘をつくな」

「嘘ついたってしゃねえだろうが」

 

 隣にいるアスカは疲労でもう口を開いているのも辛そうだった。だが、エヴァンジェリンには信じられない。信じられるわけがなかった。

 

「脊髄反射で生きてるアスカが理由ありきで行動するわけないじゃない」

 

 更なる言葉を重ねようとしたエヴァンジェリンを封じるように、アスカの隣で横になっていたアーニャがようやく動かせるようになった体を起こしながら言った。

 

「危ないと思ったから体が勝手に動いた。大方そんなところでしょ。理由なんて期待しない方がいいわよ」 

 

 エヴァンジェリンは繋がれたままのアスカの手に意識を集中する。決して離すまいと握られた手は温かくて、それ以上の否定の言葉を口にすることは出来なかった。

 握られた手に力が込められた。視線をアスカの顔に向けると彼は笑っていた。

 

「親父のことなら心配すんな。時間がかかっても必ず見つけ出す」

 

 穏やかに、しかし力強く宣言したのは僅か十歳ばかりの少年。少年から男になろうとする者だけが持つ、澄み切った熱情があった。

 笑うアスカの顔にエヴァンジェリンは光を見い出した気がした。錯覚なのかもしれない。でも、もう一度だけならば信じられるような輝きだった。他の誰にも負けないアスカだけの光。

 

「眩しいな。本当にお前の光は眩しい」

 

 光を発する気質は終ぞエヴァンジェリンには得られなかった資質だ。彼女は何時までも待ち続ける。エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは彼女にとっての光であるナギ・スプリングフィールドを待ち続ける。永遠を生きられるから、彼女は待ち続ける。傷つきたくないから、諦めてしまいたくないから、追うのではなく待つ側でいたいと望む。一瞬でもナギという光に照らされたエヴァンジェリンの弱さだった。

 

「違う。光は誰だって持ってる」

「いいや、私にはない。だから正直に言うなら少し羨ましい」

 

 自らが光となって誰かを照らすことは出来なかった彼女の本音だった。

 今までの彼女の人生は酷いものだった。善人では生きることは出来ず、きっと悪人にならなければ途中で狂っていたことだろう。人が当然と持つ心の光を捨てなければならない世界を生きて来た。無条件で守ってくれる親も、頼れる友もいない。生きる為に殺し、殺すために生きると錯覚するような時代を生き抜き、遂には人を殺しても何も感じない化け物へと堕ちた。

 やがてはそんな自分にも慣れて気にならなくなる。時間とは残酷で優しいのだと誰かが言っていたがその通りだ。女と子供を殺さないと決めたのは、本当の外道にならない為の一種の防波堤のようなものなのかもしれなかった。

 闇に生きる自分でも照らしてくれるナギが放つ光は心地良い。麻薬と一緒だ。一度知ってしまったら止められない中毒が光にはある。裏表なく良い意味で子供のまま大人に成ったようなナギと一緒にいれば、自分も救われるのだと錯覚した。英雄なのに人の輪の中で過ごしていられるナギが羨ましかったのだ。

 

「エヴァにだって光はある。この十五年の間、悪さをしていないじゃないか」

「十五年の間だけだ。私はお前達とは違う。あまりにも人を殺し、手を血に染めすぎた。もはや取り返しのつかんほどに。今更、光を求められんよ」

 

 全身を瘧のように震わせながらも肘を立てて体を起こしたアスカに驚きながらも、エヴァンジェリンは達観した笑みを浮かべる。

 

「私は悪の魔法使いだ。積み上げて来た多くの屍達の怨讐を前にしても誇ろう、私は闇の福音であると」

 

 人に害為す己が光であることは絶対に在り得ない。ならば、自分は人に仇名す悪であろうと名乗った。後悔はない。後悔なんて段階は当の昔に飛び越えている。

 

「じゃあ、どうして十五年も待ち続けた?」

「…………」

 

 答えられなかった。答えは分かっているのにエヴァンジェリンにはどうしても答えることが出来なかった。

 

「エヴァほどの魔法使いなら呪いだって解くことは出来たはずだ。なのに、待ち続けたのはナギ・スプリングフィールドを信じていたからじゃないのか」

 

 真に悪の魔法使いを標榜するなら人を、ナギを信じて待ち続けることはない。信じたのだ、ナギ・スプリングフィールドという男の言葉を。世間的には死んだとされていた男をずっと待ち続けた。

 エヴァンジェリンほどの超高位魔法使いであるならば、呪いを解くことだって出来たはずだ。少女染みた感傷だとしても、いじらしいとは言うまい。誇りを穢すことは決して出来ない。六百年の長きに渡り、孤独であっても生き抜いてきたのは彼女自身の力があってこそだ。最も辛い時代を自我を失わずに、決定的な人としての領域を最後まで乗り越えなかったのは彼女の強さ。

 

「悪の魔法使いだからとか、吸血鬼だからとか、そんな理由で救われたらいけないとか絶対にないはずだ」

 

 アスカの言葉は単なる綺麗事だ。残酷な現実に通じるはずもない。

 改めて、自分の事を再確認する。何のことはない。アスカ・スプリングフィールドが戦ってきたのは、けして勇敢だからでも善良だからでもなかった。我儘だからだ。自分の納得のいかない結果に、どうしても従えないからだ。

 現実はそんな行動を許容しないと分かっていても自分の言うことを嘘にしないためにこそ、アスカは馬鹿みたいな行動を繰り返している。

 

「求めてもいいんだ。願ってもいいんだ。じゃなきゃ、救われなさすぎる」

 

 小僧のアスカにエヴァンジェリンは絶対に理解できない。六百年だ。六百年の時を生きていないアスカにエヴァンジェリンの何が判ろう。例え同じ年数を生きようとも時代や辿って来た経緯が変われば、それどころか他人である以上は同じように生きようとも完全な理解はありえない。

 それでもアスカは願わずにはいられない。アスカが成りたいのは悪を倒す掃除屋ではない。悪をも救って見せる存在、全てを救うヒーロー。見果てぬ幻想そのものだ。アスカは信じたいのだ。この世に存在する全てを救うヒーローがいるのだと、悪でも救われてもいいのだと思いたいのだ。

 

『俺の息子達に手は出させねぇぞ!』

 

 あの日見た父の背中に追いつくために、アスカはエヴァンジェリンに手を差し伸べなければならない。

 

「何度でも言うが私は悪い悪い悪の魔法使いだ」

「…………」

 

 エヴァンジェリンの言葉をアスカは否定しない。彼女の生きて来た時間のどこを切り取っても、自身と他者の悲鳴と苦痛と涙に記憶は彩られている。

 

『――――光に生きてみろ』

 

 頭を撫でてくれたナギの言葉がエヴァンジェリンの中で木霊する。

 不死者であることも、悪の魔法使いであることにも、疑問も後悔もない。今更変えようとも思わないし、変えられるとも思っていない。なのに、脳裏に思い浮かぶ男の笑顔はどうしようもなく心の奥を疼かせる。

 

「五万と悪事を働いてきた。お前のような優しさは好ましいものだし、長き生の中では有難いと思うこともあったが、それだけでは割り切れぬものがあることを知れ」

「それでも俺が嫌なんだ。我慢できない」

 

 エゴイズムを全開にして、残酷な世界を受け入れられない子供のようにアスカは駄々を捏ねる。

 戦うとは即ち抗うこと。短い人生ながらも戦うことを選んだアスカ・スプリングフィールドは決断する。分かっていても、恥知らずでも、アスカは手を差し伸ばした。そうせずにはいられない。

 

「約束する」

 

 アスカにエヴァンジェリンは救えない。心の細波を起こせても変えることは出来ない。十にも満たないまだ何も知らない子供が六百年を生きた少女を救えるはずがない。当たり前で、分かりきっていたことだ。

 

「親父を見つけ出してエヴァの下に連れて来る」

 

 アスカにエヴァンジェリンを救えないなら、救える者を連れて来る。彼女の心身を縛る者、嘗ての英雄を此処へ。自分に出来ないのは剛腹だが。

 

「呪いの解呪にも全力を尽くす」

「お前はこの闇の福音を世界に解き放つと言うのか。そんなことをすれば将来に大きな禍根を残すぞ」

「悪を為さないと信じている」

 

 幸福が約束されない世界がないこの世で、他に何を言えるだろう。

 

「誰かに危害を加えたのなら俺が君を討とう。被害者たちに誠心誠意謝り、罪の代価に俺の死を望むならば代わりに命を捧げよう。それぐらいの覚悟もなしにこんな大それたことは言わない」

「この私を信じるというのか?」

「信じる。十五年の間、親父を待ち続けたエヴァなら信じられると思ったんだ」

「馬鹿め、それすらも私の策略かもしれんのだぞ」

「思わない」

 

 エヴァンジェリンは悪徳を積んでいても邪悪ではないと信じた。信じていたかった。エヴァンジェリンが十五年間もナギを求め続けたことは紛れもない光であると証明するために。

 

「闇の福音じゃない。不死の吸血鬼でもない。悪の魔法使いでもない。ただのエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルを信じる」

 

 どこまでもアスカは突き進む。助けて上げたいなどといった上から見た気持ちではない。ただ、見たかっただけである。きっと綺麗な、エヴァンジェリンの笑顔を。

 

「奇態な奴め」

 

 エヴァンジェリンは悪態をつきつつも、握っている手に力を込めた。触れている手は温かく、人肌の温もりはどうしようもない感傷を抱かせる。

 十五年の月日の中でナギの温もりは遠い思い出の中。でも、きっとこんな温もりであっただろうことは分かった。

 積み上げて来た罪は数知れず、築き上げてきた屍は数知れず、この手を突き放すべきなのか。答えを知る者はおらず、この場には手を握り合う二人しかいない。

 

「お前達親子は風のように自由に生き、風のように気ままに振る舞い、……………風のように、何時の間にか私の心深くに入り込んで来る。嫌になるぐらいに」

 

 信用に対する対価は信用でしか返せないことを知っていた。短いといっても共にいた時間がある。嘘はないと分かってしまう。ナギも、ネギも、アスカも、それぞれ生き方も在り方も違っても根元で繋がっている。流石は親子だと賞賛してしまうほどに。

 

「私は不死者だ。お前達が死ぬまで待ち続けよう」

 

 どんなに願っても想いは叶えられなくて、エヴァンジェリンの想いは何時だって届かなかった。幾つもの悲しいことがあった。辛いことがあった。苦しいことがあった。寂しい別れも一杯あった。だけど今、手の届く距離に受け入れてくれる光がある。

 エヴァンジェリンはこの十五年の間に弱くなったのかもしれない。甘くなったのかもしれない。それでも、彼女自身は今この想いを愛おしそうに抱きしめた。

 

「アスカ」

「エヴァ」

 

 相手の名前を呼ぶ。繋がった手が温もりを伝えてくれる。

 戦いながら触れ合って心をぶつけ合い、分かり合って名前を呼んで、言葉を交わして、温もりを伝え合う。二人は出逢って、少しずつ分かりあい、戦いながら触れ合って、伝え合って分かり合っていく。

 

「修学旅行にも行けるようにする。俺達に出来ないことはない。出来ないことは…………」

 

 ネギと同じく限界を超えて意識を保てなくなったのだろう。そこで言葉を途切れさせて、アスカの瞼は閉じた。

 規則正しい寝息を漏らすアスカの寝顔を見たエヴァンジェリンは、胸になにかが込み上げてくるのを自覚した。

 

「ナギは約束を守れなかった。でも」

 

 お前達が来てくれた、とエヴァンジェリンは胸の中で独白した。

 約束は果たされていない。それでも、エヴァンジェリンは今だけは寂しくはなかった。意識を失っても決して離さぬとばかりに繋がれた手から伝う温もりが今はとても愛おしい。

 

「お前は馬鹿だ。救いようのない馬鹿だよ」

 

 笑みの混じった言葉は眠っているアスカには届かない。負傷も疲労も治癒魔法で如何様にでも出来るが、傷ついた心身を癒すのに最良の方法は結局、眠ることなのだ。次の戦いに備えて、戦士は傷を癒すために静かに眠る。

 

「そんな馬鹿に親子二代に渡って振り回される私も同類か」

 

 少しだけ、本当に少しだけでもエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが救われたのかどうかは本人しか知る由はない。唯一つだけ言えることは、エヴァンジェリンは笑っていた。綺麗な、本当に美しい笑顔だった。それだけでアスカ・スプリングフィールドが人生を賭けられると思った笑みだった。

 

「あの、私達はどうすれば」

「今大事なところみたいなんだから放っておきなさい」

 

 気絶したネギを引っ張って二人っきりにしたアーニャと茶々丸がそんな会話をしたとかしていないとか。

 禍音は鳴らない。この時の世界には福音が満ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「俺たち完全に蚊帳の外やん」

 

 上から降りて来た小太郎が隣に降り立って並んで眼下を見下ろしながらの一言に、明日菜は深く同意した。

 明日菜の肩の上でカモは煙草に火をつける。

 

「上手くいったんからいいじゃねぇか。これも一つのハッピーエンドってな」

 

 カカカ、と笑うカモに明日菜は表情を暗くした。

 

「私って、いなくてもどうにかなったんじゃないの」

「そうでもないでさ。明日菜の姉さんがいてくれたからこそ、兄貴達は合体が出来たんだ。姉さんがいなきゃ、どっちの道じり貧。ま、エヴァンジェリンの実力が桁違い過ぎて同じ結果になったかもしれねぇが、姉さんがいなくても良かったことはならねぇよ」

 

 肩の上で恰好をつけながら煙草を吸っているカモの言葉に明日菜は容易く頷くことは出来なかった。茶々丸の相手をしていたが、彼女は明日菜の身を案じていると分かるほど積極的な攻撃はしてこなかった。戦力になれたと実感がない状況では、カモの慰めを受ける気にもなれない。

 

「それよか、なんやね。あの二人が合体したあれは」

 

 落ち込んでいる明日菜の気持ちなど知ったことではない小太郎は、事情を知っているカモを睨み付けた。

 

「麻帆良に来て早々、あのチビジャリに合図をしたら敵を攻撃しろって脅されるし、アスカとネギが合体しよるし、しかも、戦うのは真祖の吸血鬼とか意味が分からんわ」

 

 カモは小太郎を見ながら肺一杯にニコチンがたっぷりと詰まったガスを吸い込んで吐き出す。

 

「アスカの兄貴の『絆の銀』の効果だぜ。二人の装着者を合体させて能力を倍増させるアーティファクト。装着者同士の相性や力が近ければ近いほど莫大な力を得ることが出来る。二人が持つ最大に最後の切り札だ。ちなみにネスカってネーミングは俺っちが付けさせてもらったんだ」

 

 一度だけとはいえ、油断しきった高畑に土をつけた切り札。双子というこの世で最高の相性を持つ二人が合体して生まれたネスカですらエヴァンジェリンの足下にすら届いていないことに、三人の願いを知るカモは煙草の煙を吐き出しながら果てしなき頂きの高さを再確認する。

 

「ネスカ、やと。まだまだ先があるやないか」

 

 小太郎はブルリと体を震わせる。互いに底を見せ合ったと思ったアスカにはまだ先があったことに、武者震いにも似た震えが体を襲っていた。

 ネスカの力は隠形で身を隠しながら橋の上からずっと見ていた。もし、エヴァンジェリンではなく小太郎がネスカの相手であったなら恐らく傷一つつけることも出来ないだろう。或いは手を使わず足だけでもあしらわれることも出来たかも知れない。合体によって飛躍的に能力を向上させたネスカの力はそれほどのものだった。そのネスカを歯牙にもかけないエヴァンジェリンの底力。

 

「本当、世界は広いで」

 

 井の中しか知らなかった小太郎は世界の広さを思い知り、今は苦渋を耐え凌ぐ。

 そんな小太郎の横で、近づけたようで実際には互いの距離の遠さを思い知らされた明日菜が眼下で動かないアスカ達を思う。

 

「まだまだ遠いな……」

 

 戦える武器も力も手に入れて、少しは近づけたと思った。なのに、アスカからの魔力供給が途切れた明日菜に橋の下に降りる手段すらもない。借り物の力と与えられた力では、この距離は永遠に埋まらないのだと明日菜は知った。

 明日菜の呟きを肩の上で聞いてしまったカモは空を見上げた。

 世界は、耳が痛くなるほどの静けさだった。ありとあらゆる喧騒が絶え、砲声や人の声ばかりか、鳥や虫の泣き声も一切聴こえない。少し欠けた十六夜の月が蒼く世界を浮き立たせている。普段の街からは考え難いほどに月は蒼く澄んでいて、何かの啓示を与えているようでもあった。

 




弱いネギとアスカが合体したところで(サイヤ人編の悟空とベジータが合体したところで)、エヴァンジェリン(フリーザ)に勝てるわけないじゃないか、という内容でした。

ちなみに、小太郎のことを知っているのはアーニャのみ。アスカとネギだけではなくカモも知りません。
もし、小太郎のことをカモが知っていたら明日菜は待ちぼうけ。明日菜vs茶々丸が小太郎vs茶々丸になっていました




以下、その夜の後に


エヴァ「結界諸々とご苦労だった、ジジイ」
学園長「スッキリした顔をしおって」
エヴァ「まあ、な」
学園長「だが、この氷河を解くまでは帰さんからの」
エヴァ「え!?」

そしてエヴァンジェリンは居残りを命じられたのである。





次回 「バースデー・パニック」

舞台は原宿。そこで起きる事件とは果たして。


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第12話 バースデー・トラブル

閑話的なお話。


 

 修学旅行直前の週末、この街中を修学旅行に持っていくものを買い込むために3-Aの生徒三人が歩いていた。

 

「やっほ―――っ! 良い天気♪」

 

 活気溢れる原宿の街に、前髪をヘアピンで止めた椎名桜子が背筋を伸ばしながら、底抜けに明るい一際元気な声を放つ。まるで山彦を発生させようとしているような声はビル風にも負けずに周囲に散り、雑踏の音に紛れてすぐに消える。桜子の隣には同じくチアリーダーの二人、ジーパン姿の釘宮円と、キャップを被った柿崎美砂の姿もあった。普段から行動を共にすることの多い三人で修学旅行の為の買い物に来たのだ。

 

「ん―、ホント」

 

 桜子の言葉に、美砂もこういった天気が良い日はそうないだろうと同意して頷き、無言だが一緒に歩いている円も同じ気持ちだ。

 

「ほにゃらば、早速カラオケ行くよ――っ♪ 九時間耐久♪」

「よ――っし! 歌っちゃうよぉ、いくらでも!」

「こらこら違うでしょ。今日は明後日からの修学旅行に自由行動日で着る服を探しに来たんでしょ。予算も少ないんだから何時もみたいにテキトーに遊んでると…………」

 

 修学旅行だからといって事前に買出しをする必要はないと思うのはずぼらな男子だけで、女子ならばオシャレに気合を入れるのは当然の事である。四泊五日の旅行中には何度か班別の自由行動の機会があり、その時には私服行動も認められているので、この機に乗じて服を新調しようと思うのは、オシャレに熱心な女子中学生には当たり前の事で、中には下着にまで気合を入れる者もいるだろう。買い物だけなら麻帆良の中で十分に事足りるが、例え同じ品が置いてあったとしても、それぞれ街の空気が違う。普段と違う空気に触れることは、退屈が最大の敵の一つである少女たちにとって必要なことであった。

 あまりの気持ちの良さに目的を忘れて暴走しかけている友人達を止める為に円が真顔で突っ込む。

 

「ゴーヤクレープ一丁♪」

「あ、私もー」

「話し聞け―――ッ! そこの馬鹿二人!! もう怒った! 私も食べるっ!」

 

 最早遊ぶ気満々の二人には馬耳東風で全く話を聞かず、ブツブツ言う円を放って何時の間にか近場のクレープ屋に飛びつき、買い食いを始める始末。

 結局全く話を聞かない二人に切れた円も交えて、冗談で頼んだゴーヤクレープの苦さに驚き、ウィンドウショッピングで可愛い 服を見つけて騒ぎ、ナンパしてくる男を一刀両断しながら何時もの通り遊び始める。

 

「あ―ん、楽しい。私達普段は麻帆良の外に出ないからね―」

 

 麻帆良であれば大抵の買い物や娯楽があるので、このような機会でもなければ都市の外に出ることがない。今時の少女らしい言動のまま町を歩く三人は「女三人寄れば姦しい」と言う諺をそのまま体現するように、そのままワイワイと雑談を交えつつ順調に資金を減らしていく。当初の目的が頭の中に残っているのか怪しい。

 

「――――ん?」

 

 賑やかに街を歩く彼女達だったが、美砂が視界の中に留まったある一行を見て動きを止めた。

 

「どしたの、柿崎?」

 

 不思議そうに彼女を見た円がその視線の先を見ると、ピシリと彼女も固まった。

 

「ち、ちょっとあれ、アスカ君と木乃香じゃない!?」

「ホントだ―…………こんなところで何やってんだろ」

 

 驚いた三人だが、思わずアスカと木乃香に見つからないように、道端で新聞を立ち読みしているサラリーマンらしきスーツを着た男性の後ろに隠れて身を潜める。

 流石に迷惑そうにしていた男性に謝りながらそこを離れ、改めて電信柱と大きめのマスコットの裏に隠れて二人を視界に納める。三人の視界の先には私服姿の木乃香とアスカが楽しそうに話しながら洋服を選んでいた。

 

「なな、コレなんかどやろ、アスカ君」

「いいんじゃないか。木乃香に良く似合ってると思うぞ」

「あんもー、アスカ君たらちゃうてー」

 

 手に取った一着の服を両手に広げ、似合うかどうかを聞いてアスカが似合うと褒めた途端、木乃香の顔が嬉しそうに綻ぶ。その光景は人種の違いがなければ仲の良い姉弟と見えなくもないが、年長者を敬うことを知らない無駄にアスカの態度がふてぶてしい所為で、まるでデートのような様相をみせる二人に三人は一様に顔を付き合わせる。

 

「「「これって、もしかしてデートじゃないの…………?」」」

 

 三人共同じ事を思ったのか揃ってその単語を口にし、頭をつき合わせて事の真偽を話し合う。

 

「で、でもアスカ君十歳だし…………ちょっと姉弟感覚で買い物に来ただけじゃ」

「姉弟感覚で、わざわざ原宿までは出てくる?」

「最近、アスカ君は明日菜と怪しいところがあるし、ここ数日はエヴァちゃんが熱視線を送ってたじゃない」

「あ―わわわ、たた大変かも―! 女子校で男子生徒と付き合ったら木乃香でも退学になるんじゃ」

 

 驚きで天元突破した桜子が飛躍した言葉を口にしたので、色々と三人の頭の中に浮かんでくる恋愛模様を妄想しつつ、ワーワーギャーギャーと騒ぐ。

 

「と、とにかく当局に連絡しなくちゃ!!」

 

 妙にリアルにアスカが木乃香を押し倒すシーンを想像してしまった三人は、流石にそれは色々とマズイと美砂が携帯電話を取り出して電話をかける。

 

「ととっ、当局って!? 職員室!?」

「バカ! んなとこ連絡したら、即退学でしょ! 明日菜には連絡できないから木乃香の百合百合な相手の桜咲さんでしょ!」

「それはそれでマズいような」

 

 先程の驚きが残っているのかまたぶっ飛んだことを考えた桜子に返しつつ、実はこちらも混乱している美沙が電話をかけた相手は桜咲刹那らしい。美沙の中で木乃香の相手は刹那で、しかも二人は百合な関係だと認知されていることに一足早く冷静さを取り戻した円が首を捻ったが既に遅い。

 

『はい、桜咲です。どうかしましたか、柿崎さん』

「桜咲さん。いい、落ち着いて聞いてね。今、私達原宿にいるんだけど、なんと木乃香とアスカ君がデートしてるのを目撃しちゃったのよ!」

『………………』

 

 興奮しっぱなしの美沙は電話口に出た刹那に一気呵成に用件を伝えきった。しかし、予想した返事は返ってこないことに首を捻る。

 

『お二人が原宿に行かれていることは聞いています。それがどうかしたのですか?』

「へ?」

 

 これは修羅場かと思われた美沙の思惑を裏切って、いたく平然と返されたので逆に目が点になった。

 更に言葉を重ねる気配が電話口の向こうからドンドンとドアを叩くような音が聞こえた。

 

『こら、刹那! 何時までトイレでサボってるんや! 課題増やすで!』

『ひ!? 勘弁して下さい千草さん。これ以上は無理ですって』

 

 どうやらトイレに入って電話を受けたらしい刹那は、同じ部屋にいるらしい担任の天ヶ崎千草に急かされていた。

 

『千草姉ちゃん、俺腹減った』

『そこの肉でも食っとき!』

『生やんこれ』

『ああもう、焼くからちょっと待っとき! 刹那はさっさと戻ってやらんかい。うちだって偶の休日ぐらいは羽根を伸ばしたいのに、長の命令を聞かないあかん立場なんやで。はよ、向こうから出された』

『ちょ!? 今電話中です。それ以上は禁句です!!』

 

 と、ドタバタと騒がしい音の後に美沙には分からない理由で電話は切られた。恐らく禁句という言葉から美沙には聞かれたくない言葉を続けようとした刹那が電話を切ったのだろう。

 

「どうだったの?」

「う~ん、桜咲さんは知ってたみたい。天ヶ崎先生に課題出されてるみたいで怯えてた。電話を受けたのもトイレでみたい」

 

 首を捻って電話が切れた携帯を持った美沙は円の問いに答える。

 

「話を聞いている限りだと面白キャラになってきたよね、桜咲さんて」

「三学期というかアスカ君達が来てからだっけ。桜咲さんと木乃香が仲良くなってきたのって」

 

 美沙の携帯に耳を当てて通話を聞いていた桜子の感慨に、円も刹那の変化が起きたのがアスカ達が来てからだということを考える。その話の流れで美沙は、席も近いこともあって話すことの明日菜から以前に聞いた話を思い出した。

 

「ちょこっと聞いた話だけど、元々木乃香と桜咲さんって幼馴染だったんだって明日菜が前に言ってた。家のことや木乃香が麻帆良に来たことで疎遠になってたけど、アーニャ先生が桜咲さんの部屋で居候した関係で仲直りしたんだって」

「想い人を追いかけて麻帆良まで来るなんて桜咲さんもやるね」

「私は腐ってるアンタの考えの方がやると思う」

 

 うんうんと一人で頷く桜子に一人でそっと突っ込む円。桜子はどうしても木乃香と刹那が出来ている百合な関係にあることにしたいらしい。女子校なのでそういう同性間の恋愛もあるらしいことは小耳に挟んだことのある円であったが、3-Aの面々にはそういう毛はないと思っているので二人を擁護する意見を出す。

 

「あっ、二人が動き出した! 早くつけないと!」

 

 その間に二人は洋服屋を離れ、何も袋を持ってない事から服は買わなかったようで美沙が二人を急かして後を追うのだった。

 当然のことながらドタバタと後を追ってくる三人のことは当然のことながらアスカには大分前からバレていた。

 

「なにやってんだ、あの三人は」

「どうかしたん?」

「なんでもない。それより悪いな。折角の休日を潰しちまって」

 

 聞いてくる木乃香にアスカは若干申し訳なさげに頭を掻いた。珍しいアスカの態度に木乃香は笑みを深める。

 

「ええよ。うちも明日菜の誕生日プレゼント買わなって思ってたところやし」

「付き合わせてることには変わりねぇんだ。なんか知んねぇがアーニャ達から金貰ったし、今日は好きなもん奢ってやるよ」

「おっ、気前がええな」

「今の俺はちょっとした小金持ちだからな。遠慮しなくていい」

 

 木乃香としてもタイミングの良い誘いで、お嬢様といえど与えられる小遣いは一般家庭と変わらないので奢りの言葉に揺らぐものがあった。

 祖父の近衛近右衛門は孫に甘い部類に入るが、茶化すことはあっても躾け関係においては厳格な部類であった。裕福な家柄なのだからもう少しお小遣いを上げてくれてもいいのではないかと思いもするが、下手に抗弁するとお小遣いカットもありうるのが木乃香の悩みの種である。

 ふぅ、と溜息を漏らした木乃香にアスカは首を捻りつつ、気になっていることがあるのか口を開いた。

 

「刹那はどうしたんだ? 最近はずっと一緒にいるのに、今日はいないなんて珍しい」

「待ち合わせ場所に向かってる途中で千草先生に捕まってしもうてな。事情を話すとせっちゃんだけ陰陽術の課題やって連れてかれてもうてん」

「神鳴流って陰陽術も使えんのか?」

 

 そこで木乃香の分の課題はないのかと聞かない辺りがアスカらしい。目を輝かせて聞いてくるのは戦闘にどう関わってくるのかを考えているのだろうと、アスカの性格を読み切りつつある木乃香は突っ込みはしなかった。突っ込まれても返す言葉に困ったことだろうが。

 

(まさかお父様がうちとアスカ君をくっ付けるために、こういう時の為に千草先生に課題を持たせてせっちゃんを引き止めてるなんてとても言えん)

 

 自身の父が嬉々として動いていることなど、巻き込まれているとはいえ娘である木乃香の口から言えることではない。内心では覆いに冷や汗を掻きながら、曖昧に笑ってまだ新米だから分からないとしらばっくれるしかなかった。

 

「全然関わってないからそこら辺分かんねぇんだけど、陰陽師の修行はどうなんだ? 進歩してんのか」

 

 有難いことに木乃香が突かれたら痛い所には触れずにアスカの方から話題を変えてくれた。

 ほっ、と安堵の息を吐きつつも木乃香は肩を落とした。

 

「それがさっぱりやねん。魔力も気も全然感じ取れへんから初っ端から躓いてて、先に知識だけは詰め込んどるって状態や」

 

 一ヶ月近い時間が経過してもまともな成果を上げられないことに木乃香はさっきの安堵とは違う重い息を吐く。

 

「こういうのは普通は小さい頃から自然と覚えるもんだから、時間かかんのはしゃあねぇだろ。魔法学校にもいたぞ。そういう奴」

 

 教師役の千草が困った感じで悩んでいたのを気に病んでいた木乃香を慰めるように頷いたアスカは、魔法学校時代のことを思い出しているのか目を細めた。

 

「アスカ君の時はどうやったん?」

「俺は…………確か貰ったばかりの杖を適当に振ったら凄い火が出来たな。出会い頭に知り合いの爺さんを燃やしちまって、殺す気かってえらい怒られた」

「ああ、うん。アスカ君やもんな」

 

 幼き頃からアスカの常識外れ振りは尋常ではなかったようだ。現在の麻帆良学園都市で常識で縛ってはいけない男№1の称号を得ているアスカの所業に、聞くのではなかったと初歩の初歩で躓いている木乃香は遠い目をした。

 もし、これでネギやアーニャも似たようなことをしていたら精神崩壊するので、それ以上は聞かないことにした木乃香だった。

 

「そういえば、ネギ君とアーニャちゃんは? 今日来れなかったんは教師の仕事なんか?」

 

 アスカを誘えばネギとアーニャが、ネギとアーニャのどちらかを誘えばその残り二人がと、こちらこそ三人で行動することの多い一行なのでアスカを誘えば残りの二人がもれなくついてくると考えていた木乃香だった。

 

「そうとも言えるし、違うとも言える。二人はネカネ姉さんと恐山ってとこに行ってる。夕方には帰って来るって言ってたぞ」

「恐山に?」

「さよも修学旅行に行きたいらしくて、恐山には地縛霊を取り付けて移動できる藁人形があるらしいから取りに行くんだと」

 

 成程、と木乃香は頷いた。恐山は地蔵信仰を背景にした死者への供養の場として知られていて、高野山・比叡山と並んで「日本三大霊山」と宣伝されている。口寄せを行う巫女で巫の一種であるイタコが恐山にいると学んだので、千草から何も話を聞いていないので関東魔法協会の伝手を頼って手に入れた情報なのだろうと納得した。

 

「うちも陰陽師になれたらさよちゃん見えるんやろか」

 

 クラスメイトなのだから見えて喋れるようになりたいと少し愚痴ってしまう木乃香だった。

 

「さあ? 刹那やネギでもよほど目を凝らさないと薄ぼんやりと見えないらしいし、クラスで存在をハッキリ見えてるの俺とエヴァともう一人ぐらい怪しいのがいるぐらいだからな。ま、頑張れ」

 

 隣の席の朝倉和美も存在のならば悪寒として感じることぐらいは出来るらしいが、エヴァンジェリンのことを知るまで木乃香の中では見えて喋れるとなるとアスカのみに限られていた。

 幼い頃に刹那も離れて一人だった時が長かった所為で友達はみんな仲良くが心情の木乃香としては、是非とも仲良くなりたいのだが見えず聞こえずでは間に誰かが入ってもらわなければ会話すらなりたたい。苦痛とまではいかないがまどっろこしいことは事実なので、なんとか自分で見て話してみたい木乃香だった。

 

「うう、自分は見えるからってアスカ君は薄情や」

「つってもな、なんで俺に見えてネギやアーニャには見えないのかサッパリ分かんねぇから、一端になれたからって見えるとは確約出来ねぇよ」

 

 出来ることは出来る、出来ないことは出来ないとハッキリと言うアスカに泣き真似をして同情を引こうとした木乃香は諦めた。

 ふと、さよの話題からエヴァンジェリンのことが出て来て、彼女とアスカ達が戦ったことを連想した。

 

「エヴァちゃんと戦って聞いたんやけど、やっぱ強かった?」

 

 聞くと、アスカは驚いたように目を丸くした。珍しい顔だなと木乃香は、普段は何が来ても泰然自若として受け入れるアスカの驚いた顔を見て思った。

 次いで、アスカはニヤリと嬉しそうに笑った。

 

「ああ、強かった」

「アスカ君よりも?」

「もっとずっとな。手も足も出なかったし、足元にすら届いちゃいねぇ。世界はまだまだ広かったぜ」

「の割には悔しそうに見えへんけど」

「そりゃ悔しいさ。でも、だからって何時までも立ち止まっている理由にはならねぇ。俺はもっともっと強くなる。強くなれると思ってる」

 

 拳を握って決意表明をするアスカの姿は、木乃香から見ても後を引き摺っているように見えなかった。

 

「あんだけ強いエヴァが弟子入りを認めてくれたんだ。対価は高かったけどよ」

「対価? お金とか?」

「いや、俺とネギの血。修学旅行に行きたいから血を寄越せって凄く吸われた」

 

 スプリングフィールド親子とエヴァンジェリンの諍いには、自身に課せられた陰陽術の勉強もあってあまり首を突っ込まなかった木乃香は首を捻った。

 そこで、ぐ~とアスカのお腹が鳴る音が響いた。 

 

「そろそろ昼だけど、どうするよ」

 

 原宿は日曜で人も多く、ショウケースからも活気が溢れているようで、その混沌とした力強さと洗練されたお洒落さが鬩ぎ合うこの街はとても新鮮なものだった。こんなにも沢山の人を見るのは生まれて初めてかもしれない、と周囲の人波を見ながらアスカは思った。それとも以前にも見たことがあるだろうか。考えたが、直ぐにどうでもよくなって考えることを止めた。

 

「明日菜の分は作って来たし、どっかで食べよ」

「ふ~ん」

 

 明日菜の話題になると、アスカは傍目で分かるほど様子がおかしくなった。木乃香の目がキュピーンと光る。

 

「明日菜のこと、気になんの?」

「そういうわけじゃなねぇんだけど、エヴァと戦った後からなんか考え込んでるみたいだからさ」

 

 それを気になるのではないかという野暮な突っ込みは、同じことを思っていた木乃香もしなかった。実際、明日菜は停電日に飛び出して行ってから思案していることが増えていて木乃香も気にしていたところだった。

 

「心当たりあるん?」

「あるような、ないような。多分、これのことじゃないか」

 

 原因が夜の停電の間であることは間違いない。その場にいたはずのアスカは微妙な顔をしながら一枚のカードを取り出した。そこには左手全体に肩当てと篭手を付け、洋装を纏って大剣を背中に掲げた明日菜が勇ましい笑みと共に映っている。

 

「ひゃー、明日菜の絵が綺麗に描かれてある♪ ええなぁ」

 

 占い研部長でタロットカードのような仮契約カードに木乃香の目が輝いた。

 

「仮契約カードって言ってな。仮契約の仕方に問題があったんじゃないかと俺は思うわけだ」

「仕方って?」

「一番簡単な方法がキスだ。他は物凄い手間と時間がかかる」

「キス?」

「またの名を口づけとも言うな。やっぱ不意打ちはマズかったかね」

 

 その単語がまさかの目の前の人物から放たれるとは思いもせず、木乃香は目を点にして唸るアスカを見つめるのであった。

 そして記憶を思い返す。少なくとも明日菜は後悔といった後ろ向きの感情を抱えているとは見えず、どちらかといえば内向きな思考に囚われていたと二年以上を共に過ごす木乃香は考えている。

 この話題は慎重に事を運ばなければならないと悟った木乃香は話題を逸らすために視線を動かした。

 

「これなんてどうやろか? 明日菜に似合うと思うんやけど」

「うーん………悪くないが、少し早い気がしねぇか? 口紅なんてネカネ姉さんも17、8ぐらいからし付けてなかったぞ。明日菜もそうでけど木乃香も美人なんだからそのままで充分だって」

「ややわぁ、照れるなー」

 

 服屋を出て目に付いた次の店に入り、目に付いた木乃香が指差す物は口紅だが、中学三年生では少し早い気がしたアスカは思った事を素直に言いながらも自覚なく褒め、美人だと褒められた木乃香は頬を赤く染めて照れる。

 当のアスカは照れる木乃香ではなく店外を見ていた。

 

(なにやってんだか………)

 

 刹那の代わりの護衛も兼ねているので辺りへの警戒も怠る事なく、何だかんだで服屋を出て歩いている途中で後ろから覚えのある気配と視線を感じたアスカは、自分のクラスの生徒のものだと感づいていたが危険もないだろうと無視する事にした。

 

「身に付ける物ならイヤリングとかなんだろうけど、明日菜はしてないから髪留めやリボン………は不味いか」

「明日菜がつけてる髪留めは想い人からの贈り物やからな。気が利くな、アスカ君も」

「こういうことはアーニャがやたらとうるさいかったからな。嫌でも身に着ける」

 

 口紅が売っている店から離れてアスカが何を買うべきかで髪留めやリボンでもと考えるが、明日菜がしている髪留めがどういう物なのかを思い出して除外して別の店に向かう。

 

「あ~、これなんかええかもな」

 

 幾つかの店を回り、そう言って木乃香が手に取ったのは今の流行りからは外れているが明日菜が好きな曲が流れているオルゴール。

 

「オルゴールか? 明日菜の趣味とは思えんが」

「これに明日菜の好きな曲が入ってんねん。どうかな?」

 

 オルゴールが明日菜の趣味とは思えなかったアスカが否定的な意見を出すが、木乃香の話を聞いてそう言えばとそうだと思い出す。

 値札を見ると中学生のお小遣いくらいでは厳しいものがあるが、一番今まででピンときた物のようで木乃香も悩んでいる。

 

「いいんじゃねぇか。高いなら俺も出すし、二人からのプレゼントということにしたらいいだろ」

「ええの?」

 

 折衷案と言うことでアスカもお金を出す事を伝えると修学旅行前なので全額を一人で支払うことに悩んでいた木乃香にとって在り難い話ではあるが、値段が値段だけに躊躇してしまう。

 

「一緒に住んでいた頃に世話になったお返しってことにしといてくれ」

「うん。ありがとな、アスカ君」

 

 笑うアスカに、木乃香は受け入れる理由を作ってくれた心遣いに感謝する。そんなどこの甘酸っぱい青春を謳歌しているのかと突っ込みたくなるような二人を見て、後をつけていた三人が砂糖を吐いていたのだがあまり関係の無い話である。

 それから費用を折半してオルゴールを買い、綺麗に包装されてアスカが持って歩く。

 

「…………ん?」

 

 そろそろ昼かなという時間、どこかでお昼御飯を食べようかと店を探していた時に、アスカがシャッターの閉まった店の前で露天を開いているアクセサリー屋に目を留めた。アクセサリー屋が並べている商品の一つに目線が釘付けになったようだった。

 アスカが露天に近づいていく。珍しい様子のアスカが気になって木乃香も付き従って露店の前に出た。

 

「いらっしゃい! おぉ、坊ちゃん、嬢ちゃんは恋人かい?」

 

 店を開いていた少しチャライ雰囲気はあるが、中々に男気のある若い男性がにこやかに笑って二人を迎え入れた。

 

「まさか、こんな麗しいお嬢様と一緒に歩けだけで幸せなのに恋人なんておこがましい」

「おや、そりゃ俺の目利きも外れたか」

 

 簡単に流したアスカは別にして、木乃香は言葉を理解する一瞬の間をおいて頬を赤く染める。そんな木乃香を見て笑う男性とアスカ。

 二人にからかわれた木乃香が膨れるのも無理は無かった。その様子ですら男性とアスカに微笑を浮かばせるほど可愛らしいものであったのは秘密である。

 

「こりゃ参った。少年、ご立腹のお嬢様のためになにか買って行くといい。サービスしとくぜ」

 

 男性の口の上手いチャライ雰囲気とは違い、並べられている商品の作りはかなりの上質であった。

 

「へぇ、お勧めとかはあるのか?」

「これなんてどうだい。お奨めだぜ」

 

 芝居がかった男性の商業精神に満ちた進めに敢えて乗ったアスカがお気に入りはあるかと問い、初めから決めていたように並べていた商品から一つのペアリングを差し出した。二つのシルバーの指輪は、宝石も付いていない簡素なデザインだが人の目を惹きつけて止まない不思議な引力を持っている。

 

「ほわぁ…………こっちのペンダント、綺麗や」 

 

 アスカがペアリングを見ている横で、木乃香はペアリングの近くあった細工が流麗なペンダントを大層気に入ったようだった。 

 

「おい、これって」

 

 木乃香が商品に見入っている横で、アスカが明らかに他と毛並みが違うペアリングを指差した。

 

「兄ちゃん、これだろ。知り合いから貰ったやつなんだ。安くするから頼むから黙っててくれよ」

 

 露天商は指先に魔力を灯らせて、自分が同世界の住人であることを示してアスカを近寄らせる。指一本分伸ばせば触れるぐらい距離に寄ったアスカの耳元に露天商が口を近づける。

 

「くれた知り合いの話じゃ、これは装着者の指に合わせて大きさが変わるだけの代物だ。他にも色々と機能があるらしいけどよ、一般の奴に売るわけにもいかねぇし、頼むから引き取ってくれよ」

「つってもな」

「姉ちゃんが欲しがってるペンダントには防御の力もあるんだ。一緒に買ってくれたら出血大サービスするから頼む」

 

 懇願するように両手を合わせて懇願してくる露天商の男にアスカは疑わしい視線を向けた。木乃香が魅入っているのと合わせても財布の中身を傷めるほどの値段にはならない。アスカの決断は早かった。

 

「じゃあ、それとこれを買おう」

「毎度あり♪ 御馳走様お二人さん」

 

 そんな二人をクスクスと眺めながら、男性はアスカからお金を受け取りながら後半部分を誰にも聞こえないような声でこんな事を呟いていた。全てアスカの耳には聞こえていたのだが、薮蛇になりそうなので突っ込むことは無かった。

 ペンダントは木乃香が、ペアリングはアスカがぞれぞれ受け取る。

 木乃香は受け取ったペンダントを大事そうに鞄に入れ、丁度昼の時間になったので近くの喫茶店に入った。

 

 

 

 

 

 露天商の男はアスカ達が去った後、あっという間に広げていた露店を片付けると路地裏に来ていた。人の通りが無い路地裏は陰鬱な空気が漂っているが男は気にした風も無く進む。そして奥まったところで足を止めた。

 

「やれやれ、ナギの息子は勘が鋭すぎていけませんね」

 

 先ほどまでアスカと話していた口調ではなく、そもそも声すらも明らかに変わっている。

 

「極東の姫君か魔法世界の姫君か、どちらの手に渡るにしてもみなさん過保護ですよ。ま、引き受ける私も私ですが」

 

 くつくつと笑った露天商の男の姿が変わる。どこにでもいる若者風情の姿がローブを全身に纏った物語に出て来そうな魔法使いの姿に。

 

「おっと、人形ではこれ以上の稼働は難しいですか。ふふ、それでは良いご加護を」

 

 そしてローブの人影はその場から跡形もなく消えた。

 全てを見ていた野良猫がニャーと不思議そうに鳴いた時には、もう誰もいなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二人の後を追って喫茶店に入り、木乃香が頼んでウェイトレスが持ってきたジュースを見た美砂はニヤッと笑って携帯を取り出して電話をかけた。今度の相手である神楽坂明日菜は、女子寮のロビーで昼食を取っていたところであったが盛大に飲んでいたお茶を噴き出した。

 

「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ」

 

 盛大に気管に入った明日菜が咽る足下に落ちた携帯には、美沙から送られて来た写真メールが映っていた。ウェイトレスが気を利かせたのか二人の間にジュースを置いて、二本の内の一本に木乃香が口をつけた瞬間という、何とも誤解を招きかねないタイミングで撮影して撮った写真である。

 

「どうしましたの、明日菜さん。そんなにお咽になって」

 

 と、これまた何故かタイミング良く通りかかった雪広あやかが盛大に咽ている明日菜の下へやってきた。

 咽ている明日菜の背中を甲斐甲斐しく擦ってあげながら、落としている携帯を拾おうと腰を屈めたところで動きを止まった。その目は開かれている携帯の画面を注視していた。そしてその写真の送り先が柿崎美沙であることを知ると、自分の携帯で美沙に連絡を取った。

 

「何ですのこれは~~~~~っ!」

『ひあっ!』

 

 美砂が突然携帯から響き渡ったあやかの大声に目を白黒させながらも、携帯を落とさなかったのは幸運と言える。

 

「3-Aクラス委員長として命じます! 不純異性交遊は絶・対・厳・禁! 断固阻止ですわ!! 学校に知られればネギ先生の立場が危うくなります!!」

 

 物凄く私利私欲な内容に電話の向こうで美沙はドン引きだった。

 

「柿崎さん、釘宮さん、桜子さん! あの二人が必要以上に接近しないように見張っててください!」

『え~~!?』

『そんなぁ~。応援するのが私達の役目なのに~~~』

 

 クラス委員長としてのあやかの命令に、チアリーダーとして二人の恋を応援する事を考えていたところなので不平不満を口にする桜子と美砂、円は何も言ってはいないがやはり不満そうな顔をしているだろうことは容易く想像がついた。ここら辺はお祭り好きの3-Aの気質が濃く出ているので、伊達に二年と少しの間あやかもクラス委員長をしているわけではない。

 明日菜の携帯で憤怒の表情を撮って円の携帯に送る。

 

「よ・ろ・し・いですわね!?」

『はふっ! り、了解いいんちょ!!』

「わたくしも直ぐに向かいます。それまではよろしくお願いしますわ」

 

 声の調子から円が美沙に携帯を見せたことを確認して、あやかも現場に向かう事を伝えて電話を切る。

 そして、ふと背中を擦ったままの明日菜が何も言わないことに気が付いて視線を落して唇の端を引き攣らせた。

 

「ねぇ、委員長……」

「は、はいぃぃぃ!?」

 

 能面のような無表情になっている明日菜に、あやかは盛大に膝ががくついた。在りしの情動が薄かったのとは違って、溢れ出る激情を無理矢理に押さえつけているが故の無表情。良くも悪くも直情的な明日菜を知るだけにあやかは恐怖心を感じていた。

 

「私も連れてってくれるわよね」

 

 疑問形ではなく命令されているような気持ちになったあやかだったが、今の明日菜に否と言えるほど気は強く持てていなかった。

 

 

 

 

 

「もう仕方ないなぁ」

「じゃあ正体がばれないように……」

 

 半ば脅されたとはいえ、お祭り好きであり恋愛話が大の好みである女子中学生としてはあやかに命令されたと言う大義名分もできたので、困ったと言いながらもその顔は緩んでおり、言うが早いが三人はパーティーグッズ売り場に駆け込んで着替える。

 

「「「チアリーダーの名に賭けて!いいんちょの私利私欲を応援よ!」」」

 

 数分後、一世代前に流行ったコギャルの如くセーラー服に身を包んで顔黒にした美砂と桜子、そして何故か一人だけ学ラン姿の円の姿があった。

 こうして勘違いしたチアリーダー三人娘による、デート妨害大作戦が始まったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼食後、千草からの課題も終わっただろうと考えて刹那に合流するか電話で聞いてみたのだが、まだ終わっていないということで、その後も二人で遊ぶことになった。明日菜へのプレゼントはもう決まっているのだが、二人は目に付く店があれば覗き込み、何も買わず出てくるのを繰り返して今は立ち止まってショーウィンドウの中を覗き込む。

 

「なー、アスカ君。これなんかどやろ?」

「ペアルックは恥ずかしくないか。明日菜は嫌がるだろ」

「そん時はせっちゃんに着てもらうもん」

「あ~、頼まれたら刹那は断らんだろうが」

 

 二人が見ているのはデザインがほとんど同じなペアルックの洋服のようで、肩から太もも辺りまでのマネキンに着せられている。当然、アスカが着るはずもない。木乃香は同室で仲も良い明日菜や幼馴染で急接近中の刹那に着せようと考えているが流石に嫌がるだろう、最終的には押し切られるだろうが。

 

「あーっ! コレいいなー、買ってー釘男君!」

「ははは分ったよ。おーい店員さんこれ一組!」

「うひゃあ!」

 

 いきなりセーラー服を着た女子校生と昔風の学ランと学帽を着たカップルらしき二人組みが、木乃香を突き飛ばす。

 

「おっと……」

 

 木乃香の隣りにいたアスカが突き飛ばされたのを受け止めている間に、カップルらしき二人組みは会計を済ませ、またダッシュで走り去って行った。気配と変装しても二人組みが誰か分かっているので、行動が理解できないから疑問符を浮かべながらも、別の店で商品を見ていると、また別のセーラー服を着た女子校生に先に買われてしまった。

 

(何をやりたいんだ、あの三人は…………)

 

 先程から買う気はないのだが妨害してくる美砂、桜子、円の行動に、もうプレゼントは買い終えているので特別支障は無いのだが、元気でも有り余っているのだろうか、とその奇行の理由を考えるが如何も理解なくて首を捻るアスカだった。

 三人娘はデート妨害大作戦を開始したのだが、直ぐに暗礁に乗り上げている。その原因は言わずもがな。

 

「ねぇ美砂。これ面白いけどお金かかるよ~」

「後でいいんちょに請求すればいいでしょ。それより次いくよ!」

 

 最初は上手くいっていたのだが、何故か途中から二人が見ているのは一点物やブランド物ばかりで必然的に彼女達が横から無理矢理に奪って買うのでかなり財布を直撃している。

 そして三人は全く気付いていなかったが、二人とも敢えてそういう店の商品を見ているだけで何も買う様子がない。

 基本的にいろんな商品を見て談笑しているだけだし、横から突き飛ばして商品を奪う時もアスカがさり気なく木乃香の手を引いて避けていることに気がついていない。それで余計に二人の間ににこやかな雰囲気が流れているので、デートを邪魔するつもりが本末転倒になっていた。

 そんなある意味均衡状態を破ったのはアスカだった。装飾品の店に入って商品を色々見ていた木乃香に声をかけたかと思うと一人で離れていく。

 アスカが離れた後も暫くは商品を物色していた木乃香だが、個人的に気に入った物があったのか手を伸ばす。

 

「あ、木乃香が動いた?!」

「あー! コレコレ下さい!!」

 

 まず桜子が言葉を発して、条件反射的に美砂が妨害のために木乃香を突き飛ばして横取りし、これでお札がなくなってしまうことに心の汗を流しながらお金を支払う。

 

「痛っ!?」

 

 今日何度目とも知れない妨害に合ったが、さっきまで手を引いて避けてくれたアスカがいないので突き飛ばされてしまった木乃香はもんどりうって倒れる。

 

「大丈夫か、木乃香!?」

 

 そこにトイレに行く為離れていたアスカが戻ってきて倒れている木乃香を心配そうに覗きこむ。

 

「痛っ、あかんわ。足捻ってもうたかも」

 

 木乃香は立ち上がろうとするが、足首に怪我をしたのか一人で立つことができず、アスカの方に倒れこんでしまう。

 簡単な触診をして怪我の具合を確認し、捻挫ではないことを確認しながらしばし考える。

 

「仕方ない。もうプレゼントは購入出来た事だし……………木乃香、少し我慢しろよ」

 

 木乃香に荷物を預けて一言入れて肩を支えながら腰を落として両膝を抱えて木乃香を抱きかかえる。日頃から異常といえる程に鍛えているアスカにとって、女の子一人を抱えることなど造作もなく容易いことだった。

 

「ひゃっ!」

 

 突然に生まれた浮遊感に木乃香は驚きの声を上げ、その意味を理解したと同時に顔所か全身を真っ赤にして恥ずかしがってしまう。その体勢は女の子が一度は憧れる世に言う『お姫様抱っこ』である。流石に憧れてはいても衆人環視の中でやられれば羞恥の感情が先に来てしまうのは無理からぬ事だ。

 隠れている三人が大慌てになっているが、二人には関係の無い話である。

 

「何処か休めるところに行くか」

「う、うん」

 

 ポーッと顔を真っ赤に染めた木乃香を抱えたままアスカは、周りの賞賛、奇異、嫉妬の視線を受けながらショッピング街を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

 すっかり傾いた太陽に照らされて辺り一面は夕焼けの色に染められていた。ショッピング街をお姫様抱っこしながら抜け、アスカが木乃香を治療できる場所として見つけたのは国立代々木競技場第一体育館前の階段で、人気もなく傾斜の緩やかな階段で腰を落ち着けて休むのにもうってつけと考えたからだ。

 階段の一番下の段に腰掛けさせて木乃香の前に座り、足の状態を確認する。小さい頃から山を走り回っていたアスカはともかく、一緒についてくるネギは運動が得意ではなく良く転んでいた。その所為で簡単な状態なら把握することが出来るようになっていた。

 

「うん、大したことはないな。しばらくしたら歩けるだろ」

 

 捻挫や打撲ではなく足を捻ったことに一時的な痛みだと結論付けたアスカは立ち上がった。

 夕陽に照らされて二人っきりというシチュエーション的にキスでもするのかとエキサイトしている三人の声が全てアスカに聞こえていた。いい加減に注意ぐらいはするかと考えたアスカだったが、突然振り返って別の方向を見る。

 

「コラ――――ッ!! お待ちなさい――ッ!!」

「あれー? いいんちょにアスナまで」

「そうだな」

 

 アスカが見ている道の向こうから、どうも怒り心頭という顔をしているあやかと完全無表情の明日菜が凄いスピードで走ってきたのだ。汗をかいて息を切らしているあやかと息を全く乱していない明日菜を見て、体力というか運動神経の差が出ているなと、アスカはそんなことを考えていた。

 

「どうしたんや、二人ともそんなに慌てて?」

「ハァ…………ハァ…………私達は…………その…………」

 

 と、木乃香が二人に朗らかに問うが、息を乱したあやかが明らかに様子の違う二人に勘違いしたのではないかと考え、ばつが悪そうに口篭る。木乃香の笑みが若干黒かった所為でもある。

 

「あちゃー。もしかしてバレてたんか?」

「違うんじゃねぇか。そこの草むらに隠れている三人が原因だろ。いい加減に出てこい」

 

 明日菜にバレたのかと思った木乃香の言葉に、大体の予測がついているアスカが最初から隠れている場所に向けて声を掛ける。

 

「「「はぅ!?」」」

 

 気付かれているとは思っていなかった三人は驚きの声を上げ、茂みを掻き分けて気まずそうに出てくる。恐らく彼女達が話が拗れた根源だと予想をつけているアスカは美砂、桜子、円に向き直る。

 

「で、何でずっと尾けてきてたんだ?」

「「「ばれてるっ!?」」」

 

 アスカが溜息をつきつつ言うと三人はギクリと身体を震わせ、あやか、明日菜、木乃香の三人に見つめられて口を開かない訳にもいかず、代表して美砂が口を開いた。

 

「えっと、何時から気付いてたの?」

「最初から。というかあれで変装していたつもりだったことに逆に驚くぞ」

 

 本当は気配できちんと分かっていたのだが、実際に変装と呼べるものでもなかったがアスカは、そんなことを臆面にも出さずに、嘘はついていないが全て真実を言ったわけでもなく、端折ったものを伝える。

 

「「「そんな今までの苦労は一体…………!?」」」

 

 三人娘は最初から変装を見破られていたことに気付き、膝をついて項垂れる。

 

「どないする? 流石にこの様子やと、黙っているのは無理そうやけど」

「こうなったら、仕方ねぇだろ」

 

 木乃香は計画が失敗してしまった事を残念がりながらも、確かにここで無理に隠すのは不自然すぎるから渡すとしたら今しかないだろうと考える。明日菜とあやかは、『やはり二人は付き合っていた?!』等と考え、それを伝えられるのかと目に見えて狼狽え始める。

 慌てている二人の反応を特に気にせず、木乃香は手に持っていた紙袋からラッピングされた小さな箱を取り出し、明日菜に差し出した。

 

「ハイ、明日菜。一日早いけど4月21日の誕生日、おめでとう」

「右に同じく」

 

 と、そこで二人の買い物の目的が明かされ、木乃香からプレゼントである明日菜の好きな曲が入っているオルゴールが渡され、アスカもまた言いながら露店で買って別の店でラッピングしてもらったプレゼントを差し出す。

 

「……へ?」

「「「……………」」」

 

 あやか、桜子、美砂、円は木乃香の余りに予想外の言葉に目が点になり、あやかも一文字出す事が精一杯。突然の事で呆気にとられて包みを受け取ったまま硬直している明日菜も同じで、本人もすっかり忘れていたことだった。

 

「今日は朝からずっとアスカ君とプレゼントを選んでたんや。今日は二十日やから明日渡す予定やったんやけど、中身は明日菜の好きな曲のオルゴールやで」

 

 木乃香がアスカが同行した理由を説明しすると、ようやくあやか達は彼らの目的を理解する。即ち『デート』などではなく、『明日菜へのプレゼント探しのお買い物』だったのだ。あやかも「そういえば………」と明日が明日菜の誕生日であることを思い出したて椎名がポンと腕を叩く。

 

「ああ――――ッ!! そうそう! 私達もプレゼントあるよ、明日菜!」

 

 呆然とまだ理解が追いついていない明日菜に、三人娘は直ぐに立ち直り、尾行中に横取りするように買った色々な物を明日菜に渡していく。自分達の事を誤魔化すように、妨害した時に購入した品物をどんどん渡す三人に明日菜もようやく理解する。

 

「あ……ありがとう、アスカ、木乃香、みんな…………こんないきなり…………わ、私…………私、嬉しいよっ」

 

 呆けた状態から回復した明日菜は、余りの感激に少しどもりながら、同時に目尻に嬉しさで涙を浮かべて懸命に言葉を紡ぐ。アスカと木乃香は、そんな彼女を見てとりあえず結果オーライいうことで満足気な笑みを浮かべた。

 本来ならここで一件落着のはずなのだが、そんな雰囲気の中、気まずそうにしているのはチアリーディング三人娘である。

 

「いやー良かった良かった」

「ちょっとあなた方」

 

 こそこそ逃げようとする今回の騒動の原因とも言える三人娘に、あやかはソレを許さずに声を掛ける。

 声を掛けられた三人はギクリッという擬音が似合いそうな感じで足を止め、誤魔化すような笑みを浮かべて振り向いた。

 

「い、いや~ ごめんね、いいんちょ。勘違いだったみたいね♪」

「全く、あなた方はいつもいつも人騒がせなんですからー!!」

 

 声を掛けられたことでギクッと反応して引きつった笑顔で振り返る美砂達に、あやかが怒鳴る。

 

「まあまあ、委員長。落ち着いてや。美沙達は既に罰を受けてんねんから」

「罰ってどういうことですの?」

 

 木乃香が間に入って取り成すが、あやかにしてみれば罰を受けているとは思えず、三人娘にしても心当たりはない。理由はアスカが語った。

 

「最初から尾行や妨害に気付いていたって言っただろ。つまり、途中で妨害に気付いてからはわざと高い物とかを見て買わせてたんだよ。ちなみに発案は木乃香な」

「そうやで、うちには尾行なんて分からんかったけど面白いように引っ掛かってくれたから、もうほとんどお金残ってないとちゃうか」

「「「嘘―――――!!!!」」」

 

 二人の告白に、自分達が二人の手の平で踊らされて財布を空にしてしまったことを知った三人娘は絶叫を上げて膝から崩れ落ちた。アスカと木乃香は「大成功!」と笑いながらハイタッチを交わし、あやかは少し気の毒ではあるが自業自得と考え、明日菜はいい物を貰って喜んでいいのか判断をしかねている。

 

「ええい、もう自棄だぁ。せっかくだしこのままいいんちょの奢りでカラオケ行って明日菜の誕生会やろーよ!!」

「おーー!! いいねソレ」

 

 少しは落ち込んだ彼女達だが、そこはそれお祭り好きな3-Aの一員なので直ぐに立ち直り、自棄といいながらあやかの奢りだと言っている時点で十分に余裕を残している。あやかは三人に対してまだ文句はあるが、明日菜の誕生会については賛成のようで前向きな姿勢を示している。木乃香はそんな彼女達の様子を苦笑交じりに見ていた。

 歩き出した全員の後ろで明日菜の荷物を半分持ったアスカは、小さな声で彼女に話しかけた。

 

「ああ、俺のプレゼントだけどペアリングだから」

「え?」

「魔法具らしくてさ。装着者の指に合わせて大きさが変わるらしいぞ。誕生日おめでとう」

 

 それだけ言ってアスカは足を速めて美沙達の話に混じりに行ってしまった。立ち止まった明日菜は、アスカから渡されたプレゼント――――ペアリングが包まれている包装紙を見下ろした。

 神楽坂明日菜の中で何かが変わって行く。

 




次回より修学旅行編。


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第二章 宿命編
第13話 一日目


修学旅行編開始。

R-15、残酷・グロ描写あり。


 

 アスカ・スプリングフィールドの朝は無意味に早い。一番鳥が朝を告げる前に眼を覚まして覚醒している。しかし、その日の朝は彼よりも早く起きている者がいた。

 

「クックック、アハハハハ、アーッハッハッハ!」

 

 アスカ達の家の前で高笑いしている馬鹿が一人。人の家の前で修学旅行が楽しみで寝れなかったのか目元に隈を作ったエヴァンジェリン(推定六百歳でも見た目十歳)が、変なテンションで仁王立ちして高笑いをしている。幼女とも言える小学生に見える外見のエヴァンジェリンが中等部の制服に身を包み、腕を組んで高笑いする姿はとてもシュールであった。

 

「なにやってんだ、エヴァ」

「そうよ、今何時だと思ってるのよ。まだ五時にもなってないじゃない」

 

 そろそろ起きる時間だったのでアスカはそれほど苦にはなっていないが、何時もならまだ夢の中にいる時間帯に高笑いで起こされたアーニャなどは凄い目つきをしていた。

 

「何を言っている。折角の修学旅行なんだぞ。寝ていられるか。お前達の血で修学旅行の間だけ呪いの精霊をだまくらかせたんだ。ああ、十五年ぶりの外の世界♪」

 

 スプリングフィールド兄弟+アーニャにエヴァンジェリンが出した弟子入り条件は、あれだけ勿体ぶったくせに結局は修学旅行に行くのに協力しろというものだった。ある場所で血を限界まで吸って回復し、また血を吸ってを繰り返して、一時的に呪いをだまくらかして学園長に修学旅行行きを認めさせたエヴァンジェリンだった。

 

「しかし、よく学園長が認めたわね」

「そこはあれだ。アホみたいな数のギアスを受けてやっとだ。今回ばかりは私も折れる気はないからな」

 

 学園長が根負けするまで延々と頼み続けたのだろう。この喜びようを見れば学園長の苦労も浮かばれるだろうか。

 

「ナギが力任せに呪いをかけた所為で呪いの精霊をだまくらかすのに別荘の秘宝級の財宝を振り撒くことになったが後悔はない」

 

 自信満々に頷く真祖の吸血鬼に、彼女の従者達はそれぞれ真反対の反応を見せた。

 

「モウ、好キニシテクレ」

「こんなにもお喜びになるマスターは初めてです」

 

 エヴァンジェリンのはっちゃけぶりに、チャチャゼロは真祖の威厳は何処に行ったのやらと呆れかえっていて、茶々丸は感無量とばかりに感動している。

 ツッコミを入れるべきなのかとアスカとアーニャは悩んで―――――テンションの高さについていけなさそうなので止めた。

 

「強力な呪いの精霊を騙し続ける為、複雑かつ高度な儀式魔法の上、学園長自らが一時間の一回『エヴァンジェリン(マスター)のハワイ行きは学業の一環である』という書類にハンコを押し続けなければなりません。魔法や変わり身などは使えませんので重労働になるかと」

「学業の一環である修学旅行に沿った行動しかできんし、魔力も完全に封印されている。今の私は完全に中学生だ。だから、なにかあっても巻き込むなよ」

「なんもねぇって」

 

 アスカが答えたが少しアーニャは心配だった。スプリングフィールド兄弟と遠出すると事件に巻き込まれるのは、ほぼ確定しているから少し不安を覚えた。魔法学校の時だけでも思い当たる節が何個か……。

 しかし、四泊五日の修学旅行の間、ずっと一時間に一回はハンコを押さないとなる学園長の苦労を忍ぶ方が大きかった。

 

「ネギ坊やともう一人の先生はどうした? まさかまだ寝ているのではないんだろうな」

 

 エヴァンジェリンにとっては十五年ぶりの外界へのお出掛けなので、行けることが分かってからはずっとこのハイテンションだ。

 

「お生憎様。あの二人は眠りが深いからアンタの騒音みたいな笑い声でも起きないわよ」

 

 特にネギは起きる気が無いと無意識に魔法で遮音結界や防御障壁まで使うので、昔のアーニャは目覚ましの音だけは結界や障壁をすり抜けるようにするように強要したものである。

 ネカネの場合は既定の時間になったから勝手に起きるアスカに似たタイプで それまでは岩が振ろうが槍が振ろうが絶対に起きない。そんなネカネでも起きるネギの寝癖は推して知るべし。

 

「いいから起こせ。始発で行く約束だったはずだ」

「そんな約束したっけ?」

「さあ?」

 

 始発にしたってまだ随分と早いが、言われたアスカには約束に心当たりがなくて首を捻った。アスカに聞かれたアーニャも理解できずに同じように首を捻った。二人がとぼけているわけではなく、本気で分からない風情にさしものエヴァンジェリンも焦った。

 

「ま、待て!? 昨日の昼休みに約束したではないか!!」

「昼休み…………昼休みねぇ」

「ほら、二人で茶々丸の弁当を食べた後に約束しただろ」

「う~ん」

 

 必死に迫るエヴァンジェリンに対してアスカは約束を思い出せずにいるようだった。

 血相を変えるエヴァンジェリンの様子に嘘はなさそうなので、アスカも首を捻ったり眉間を叩いて思い出そうしているがなにも出て来ないようだ。アスカの普段のテストの成績が悪いのは覚える気がないだけで、必要ならばネギに迫る頭の回転力と記憶力を持っている彼がこれだけ必死になっても思い出せないとなると、残されたのはたった一つ。

 

「もしかして言った時には昼寝してたんじゃない?」

「昼寝? ん、なにか思い出してきた」

「本当か?!」

「ガキニ振リ回サレルコレガ俺ノ御主人カト思ウト泣ケテクルゼ」

「姉さん」

 

 アーニャの言葉を取っ掛かりとして頭の中から何かを掴んだらしいアスカに喜色満面になるエヴァンジェリン。主人のあまりの威厳のなさに長年の相棒であるチャチャゼロはひっそりと涙を流し、そんな姉を慰める茶々丸。

 

「というか、私は二人が一緒にお弁当を食べたってところが気になるんだけど。茶々丸は一緒にいたの?」

「いえ、事前にマスターから一人で食べたいからと頼まれた二人前のお弁当をお渡しして私は教室に」

 

 茶々丸からの情報に、アーニャは白い目でアスカに迫るエヴァンジェリンを見つめた。

 

「エヴァンジェリンってネギ達のお父さんが好きだったんじゃ」

「惚レッポイッテコッタロ。ケッ、悪ノ魔法使イノ誇リハ何処ニ行ッタヨ」

「幸せそうなマスターです」

 

 ほっこりとして母親のような慈愛に満ちた茶々丸と違って、アーニャと特にチャチャゼロは荒んだ眼をした。

 

「なんであんなおたんこなすにみんな惚れるのかしら?」

「ナギノ野郎ミタイニアノ坊主モ無自覚ニ周リヲ惚レサセルタイプカヨ」

「ええ、私の親友もなんでかアスカが好きなんだって。分からないわ」

 

 そういえばナナリーは元気かしら、とアスカファンクラブ第一号だった親友がいるハワイの方向を見ながらふと思ったアーニャだった。

 ネギファンクラブと合わせて何故か名誉会長として崇められていたアーニャは、二人の昔の話や写真を売りまくって荒稼ぎした物である。荒稼ぎし過ぎて校長に見つかってメルディアナ魔法学校の全トイレ清掃をさせられたり、アスカらから奢らされたのは良い思い出なのか悪い思い出なのか。

 

「悪い思い出に決まってるじゃない」

「どうかしたのですか?」

「青春の過ちについてちょっとね」

 

 人に語れるほどの誇れる内容ではないので、聞いてくる茶々丸からそっと顔を逸らすアーニャだった。

 逸らした視線の先でアスカが記憶の掘り出し作業をしていた。

 

「なにかエヴァンジェリンが言ってたな。確か一緒に……」

「うんうん」

「シャツを着ようって。なんでだ?」

 

 始発に乗ろうをどう聞き間違えればシャツを着ようになるのか。意味が分からないアーニャだった。

 ようは寝ぼけていたのだろうとは分かるが、エヴァンジェリンの様子を見るに相当楽しみにしていたのだろう。ちょっと可哀想かなと、十五年も中学生をやっていると聞いた時に次いで思った瞬間だった。

 

「あ、あ、」

「あ?」

 

 虫が入りそうな口を開けたエヴァンジェリンが途切れ途切れに言おうとしている言葉を読み取ろうとアスカが繰り返すが、それは全くの逆効果である。

 プチン、と堪忍袋の緒が切れたエヴァンジェリンが大口を開けて叫びを上げた。

 

「阿保かぁあああああああああああああ!!」

「アンタがアホや!!!!!!! 今何時やと思ってんねん!!」

 

 アスカの目の前で、スプリングフィールドの血族+アーニャの住む家の隣の窓がガッと開き、中から怒り心頭の形相の天ヶ崎千草が全力投球で投げた時計がエヴァンジェリンの後頭部に直撃した。

 

「ぐはっ」

「あ」

 

 割と危ない倒れ方をしたエヴァンジェリンを危なげなく抱きしめるアスカ。

 

「ふんっ」

 

 うるさい元凶を仕留めて窓を締めようとする千草の後ろにあったベッドで寝こけている小太郎の姿をアーニャは見た。一瞬だが間違いない。

 

「あいつったら性格に似合わずに千草と一緒に寝てるのね。これは後で弄れる材料になるわ」

 

 けけけ、とチャチャゼロも面白げになるほどの悪女の笑みを浮かべたアーニャだったが、視線をアスカ達に向けると途端にテンションダウンした。

 

「この一場面だけ見たら感動的なシーンなのにね。実際は朝早くから騒いで隣人に時計をぶつけられて気絶したのを支えてる図だからリアクションに困るわ」

 

 仰向けになっているエヴァンジェリンが地に倒れないように肩を支えているアスカ。これでキスでもすれば物語もフィナーレだろうが、こうなっている原因を考えると途端にくだらなくなってくる。

 エヴァンジェリンが旅行鞄を背負っているので手を離しても大丈夫と気が付いたアスカは、さっさと手を離して立ち上がった。

 

「んじゃ、走りに行ってくる」

「行ってらっしゃい」

 

 と、あっという間に走りに行ってしまったので、放置されたこのメンバーをどうするか考えたアーニャは、色々と面倒くさくなった。寝起きなので考えるのが億劫になったと言ってもいい。

 

「取りあえず、家に上がる?」

 

 他に言うことを思いつかないアーニャだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハワイにある豪邸。本来ならば華美過ぎて、一般の感性を持つ者ならば眉を顰め、そして部屋を彩る調度品の金額の高さに尻込みをしていることだろう。その一室を今は最高級品のマホガニーの机と椅子に座る壮年の男以外は不釣り合いな屈強な男達で埋め尽くされていた。

 

「これで本当に大丈夫なのかね?」

「ええ、オッケンワインさん。我ら飢狼騎士団にお任せ下さい。どんな敵が来ようとも守ってみせます」

 

 組んだ手の下に口元を隠した壮年の男の焦りを滲ませた問いに、最も位が高いと分かる甲冑を見に纏った金髪の男が顔を向けた。飢狼のシンボルが描かれた甲冑を纏った騎士団は壮年の男―――――オッケンワインを安心させるように、男臭い笑みを浮かべて首肯した。

 

「アメリカ魔法協会の切り札である名も高き飢狼騎士団団長の君までが護衛の任についてくれたのだ。信用していないわけではない。だが――」

 

 本当に大丈夫かと思ってしまう相手が敵なのだ。地元ハワイの名士にして魔法使いとして過去に有名を馳せたオッケンワインといえども焦りを覚える。

 

「大丈夫です。あの闇の福音が来ようとも我らの防御は鉄壁です。守ってみせますよよ、貴女もお嬢さんも」

「なら、よいが」

 

 飢狼騎士団はアメリカ魔法協会が誇る最強の騎士団である。魔法世界との交流も活発なアメリカが最強を謳うだけあって、その実力は折り紙付き。本国の騎士団にもひけを取らない強者揃いとの評判もある。それでもオッケンワインは不安だった。

 

「正体不明の敵に御息女を狙われているのです。心配されるのは当然です」

 

 オッケンワインの不安を汲み取って騎士団が揃って甲冑を鳴らす。飢狼の牙をモチーフにした二股の槍――――イエス・キリストを貫いたロンギヌスの槍のレプリカを掲げる騎士団数名の姿は頼り甲斐のあるものだった。ようやく強張っていたオッケンワインの表情が若干緩む。

 そこで騎士団全員が部屋の入り口を見た。遅れてオッケンワインも部屋に近づいてくる複数の気配に気が付く。近づいてくる気配の一つが自分に近しい者であることに気が付いて、オッケンワインは既に厳戒態勢を解いている騎士団を見て自分が衰えていることを自覚する。

 騎士団各個人の能力は優れているが若い時の自分の方が優れていると自負している。だが、オッケンワインの全盛期は遥か昔。衰えは仕方ないとしてもプライドの高いオッケンワインに容易く認められることでなかった。

 

「お父様!」

 

 部屋の扉が勢いよく開いて、気を利かせて道を開けた騎士団の間を縫って走り寄ってきた愛娘を抱き寄せる。茶色のウェーブがかかった髪は亡き妻譲りのもので、ここ最近特に美しく成長していく娘の姿を見る度にスプリングフィールド兄弟を受け入れることが出来なかったことを悔やむ。

 飢狼騎士団を招き入れたように、アメリカだけでなく魔法世界にも手や耳が存在しているオッケンワインには、英雄ナギ・スプリングフィールドの兄の子供ということになっている双子が戸籍を改竄されていることを知ることが出来る能力を持っていた。特A級として扱われている情報を得るために散財したが後悔はない。オッケンワインはプライドの高い男であるが、必要であることには労力を惜しまない優れた能力の持ち主であった。故にこそ、彼一代でここまでオッケンワインの家を大きくすることが出来たのだ。魔法世界との交渉の為の、そして英雄の血を入れることで家の拡大を狙っているオッケンワインの目論見は何者かの手によって阻まれた。よりにもよって代わりにやってきたのが愛娘に似ていることがオッケンワインの神経を逆撫でした。

 

「…………様! お父様ったら!」

「おお、どうしたエミリア」

「聞いて下さい、お父様。この人達ったらあれはしてはいけないこれはしてはいけないって五月蠅いんですの。もう窮屈で仕方がありませんわ」

 

 考え事をしていたオッケンワインの前で愛娘のエミリアはプクリと可愛らしく頬を膨らませた。本人としては怒っているつもりなのかもしれないが、愛らしさしか感じさせない。

 

「分かっておくれ、私のエミリア。お前に危機が迫っている。彼らはその為の護衛なのだ。少々の窮屈さは我慢してくれ」

 

 自他共に厳しいオッケンワインも娘の前では形無しで、なんとか宥めて部屋から出すだけでも長い時間が必要だった。

 

「ふぅ、すまんな。我儘娘で」

「いえ」

 

 己の職務を弁えている騎士団の団長は無駄な言葉を吐かなかった。オッケンワインはもっと娘の自慢がしたかったようだが職務に忠実過ぎる団長を面白くない男と捉え、また高い椅子に座って時間を待つ。

 これまた高い壁掛け時計が鳴らす秒針の音だけが室内に木霊する。

 

「…………時間だ」

 

 そして全ては反転する。部屋を照らしていた電気が一斉に消えた。

 

「珍しい、停電か?」

「護衛形態!!」

 

 座っていたオッケンワインが驚いて疑問符を上げるのと、騎士団団長が予め決められた陣形を取る為に叫んだのは同時だった。そして何かが暗闇の中で閃き、辺りに水っぽいものが巻き散らされるのもまた。

 

「ぁ……」

「何だ! 何があった!?」

 

 誰かが消えそうな呟きを発した後に、ドスンと人が倒れるような音と共に同じ現象が次々と相次ぐ。何人もの手練がいるのに何かをしたと思われる下手人の気配一つ無い。何かが可笑しいと気付いた者達の一人が危険ではあったが灯りの魔法を、倒れる音が響いた場所に放った。

 

「ひ――――っ!」

 

 灯り魔法によって照らされた光景に誰かが喉の奥で悲鳴を上げる。そこには騎士団の精鋭が、首を掻き切られたり、頭からなにか重い物で叩き潰されたように右半身と左半身で別れていたり、眉間をなにかで撃ち抜かれていたりして絶命していた。

 先程、自分達に掛かった水っぽいものが血であることに気付き、まだ入団して日が浅い新人の一人がパニックを引き起こした。その瞬間には胴体に穴が開いたのは幸運か不運か。

 正体不明の何者か達によって命を刈られ、部屋にいる人間がどんどん減っていく。その中で騎士団団長と幹部数名がオッケンワインを中心に置いて守ろうと背中を向けて円陣を組んだ。

 普通の相手ならこれで十分だったが今回は相手が悪すぎた。騎士団は次々とその数を減らしていき、遂には団長ただ一人だけになってしまった。

 

「イヤアアアアアアアア!!」

 

 団長は気配一つ無い下手人を燻り出すために、このままでは埒が明かないと考えて持っているロンギヌスレプリカに魔力を注ぎ込む。魔力が込められた槍はその能力を発揮し、如何なる防御障壁をも貫く絶対の武器となって近づいてくる刺客へと振るわれた。

 

「がッ!―――ヒュ―――」

 

 しかし、槍に手応えはなく、それどころか喉仏に衝撃を受けて猛烈な勢いで後ろに流れていく。

 吹き飛ばされて窓を突き破って下へと落ちて行く。その喉仏には小刀ようなものが突き刺さっており、団長の意識は霞んだ声と共に暗闇に沈んだ。団長は不思議そうな顔をして死んでおり、自分がどうやって殺されたかに気付くことはなかっただろう。

 カーテンを閉めていた窓が破られたことで、色の異なる月の光が部屋に入り込む。

 

「こ、こん、な――――ば、馬鹿な……………ぁあぁッ!?」

 

 月の光で照らされた広間を見たオッケンワインが信じられないと悲鳴に似た声を上げる。部屋は血の海だった。床は赤黒く染まり、吸収しきれなかった血液が血溜まりとなって点在している。壁と天井はペンキで塗ったかのように赤一色で彩られ、しかもあちこちにミンチ状の肉片が飛び散っていた。

 生きとし生ける者全てが死に絶え、死の大地をイメージさせるような死骸しかない。正に死が充満する地獄のような光景だった。かつて人であった者達がその身から血を流して、力尽き……………一人の例外もなく完全に絶命している。

 鉄の匂い、血の香り、肉の臭い、死のニオイ。全てが綯い混ざった、喩えようもなく濃厚なソレが部屋にたゆたう闇を侵していた。まるで巨大なミキサーで人間を粉砕したかのような凄惨な状況である。窓から差し込んでくる月光か、その血肉をより生々しく見せていた。

 そして人の肉の臭いが生々しく残る室内にオッケンワイン以外に生きて動く者達が五人もいた。これだけの惨事に逸早く机の下に隠れたオッケンワインですら多少の血を浴びたというのに、この惨事を生み出した五人の衣類や肌に血がついた形跡はない。

 

「ば――ばけ、も――」

 

 オッケンワインは一歩足りとも動けず、広間の死体達の中で立っている五人の集団を見て譫言のように呟く。地獄。それは、そこにあるソレラは、そう呼ぶに相応しい。いや、そうとしか呼べないものだった。

 この地獄の中にいてすら五人の集団は異様だった。地獄が似合うからこその異常。

 まず目が行くのは娘と同じぐらいの年齢の少年だった。感情の起伏が感じられないまるで人形のようだった。

 次はゴスロリと世間で言われている衣類を纏った子供である。片手に太刀を握ることから団長を殺した小刀を持っていたのはこの子と思われる。

 三人目は妙齢の女性だった。肉感的ともいえる肉体を白いジャケットと黒いインナーで包んで銃を持っている。

 四人目はハルバートという槍斧の基準から見ても更に巨大な武器を纏った男。筋骨隆々な肉体が振るうハルバートを受ければ人を引き裂くことが出来るだろう。

 そして最後の一人。

 この五人目こそが尤もな異常だった。年齢はオッケンワインよりも一回りは上の男であったが、放つ圧力は魔法世界の大戦にも参加した彼が知る誰よりも禍々しい。 

 

「ま、待て、待て待て待ってくれッ。金なら幾らでもやる! だから助けてくれ!!」

 

 オッケンワインの心は折れた。目の前の五人組が地獄を作り上げたと確信できたのは、五人全員の全身から放射されている気配が熱気ではなく、皮膚を刺す冷気にも似た不吉な死の匂いであったからだ。

 濃厚すぎる血や臓物の匂いもあって曖昧な世界において、五人目の男の紅い眼だけが爛々と輝いていた。

 オッケンワインは経験から一瞬で理解してしまった。自身を見る眼が屠殺場で精肉される豚を見るような眼だと。人間を人間と認識せず、空気を吸うように平然と凄惨に殺す人外化生の眼だと――――。

 自身の惨たらしい末路を悟った彼は必死に命乞いをし、一筋の望みに賭ける。

 

「い、命だけはッ!!」

 

 必死の願いは空しく、壮年の男は直立の姿勢のまま足元から吊り上げられるように前方に跳躍して、間にあった騎士団の死体を飛び越えてオッケンワインの頭部を掴む。

 

「……………?」

 

 直ぐに殺されると思ったオッケンワインは、閉じていた眼を恐る恐る開くと、其処には皺が浮き始めた手が自身の頭を掴んで立っているだけ。

 これだけ近くにいるのに壮年の男の顔の輪郭がハッキリとしない。変わらず紅い眼だけが強すぎる印象を男に与えた。

 オッケンワインが感じたのは幾多の戦いを経て克服したと、慣れたと思っていた死への恐怖。唇から尾を引く涎。間断なく動く口は酸素を求める肺の欲求に応え続けており、それは生きている証。心臓は過剰労働への不満をあげ続けている。しかし、縋りつかれた壮年の男にはそれらの言葉を聞き届けはしない

 涙が視界を遮り、鼻水が呼吸を妨げるが、それをどうこうすることもできない。考えるのは如何に助かるか、ただそれだけ。だが、それは無駄に終わる。死ね、と隠そうともしない溢れんばかりの邪気を内包した眼が無言で呪詛を吐く。

 

「…………っ!」

 

 生物としての生存本能が恐怖となってオッケンワインの心を抉り、情けない悲鳴を上げさせようとしたが出来なかった。

 

「――――――ァガッ」

 

 再度、命乞いをしようとして唐突に感じた痛みで、できなくなる。最初は窮屈な感じを覚え、次第に壮年の男の手がオッケンワインの頭を締め付けていく。

 手が頭蓋骨をギリギリと締め付け、オッケンワインは痛みから逃れようともがくがビクともしない。十秒程、そんな事をしていた壮年の男が眼を細めた次の瞬間………。

 

「グギャアアあああアァアあああアアァ――――――!?」

 

 奇怪な悲鳴と共に、壮年の男は実に呆気なくオッケンワインの頭を握り潰した。頭部が柘榴のように破裂して最早、原型を留めていないオッケンワインの体はゆっくりと崩れ落ちる。頭部に当る部分からは血以外に脳漿らしきものが流れ出す。

 現場を見ていない人間がこの死体だけを見たら一体如何なる鈍器を用いればこうなるのか、と考えるだろう。しかし、在り得ない事を成し遂げた壮年の男は全くの無手であり、右手は血や脳漿らしきもので酷く汚れていた。壮年の男はそれを見ても何も感じた様子もなく、腕を振るって簡単に汚れを落とす。何故か頭を潰されたはずのオッケンワインは、畳の上に転がる眼球でその光景を見ていた。

 オッケンワインが最後に見たのは、眼球だけで世界を見ていた自分を踏み潰そうとする壮年の男の靴の裏だった。眼球を踏み潰された瞬間、地獄の時は巻き戻される。

 

「――――夢は、見れたかね?」

「ハッ!?」

 

 オッケンワインが次に自意識を取り戻した時、地獄は巻き戻されていた。全てが元通り。血塗れの部屋で、化け物の五人に囲まれている。

 

「ご当主…………そろそろ、御決断をしてほしいものですな。我々の要求に従ってもらいたい」

「う、………がぁ………ぐ」

 

 思い出す。同じ会話をさっきもして断ったからこそ、先程の頭を握りつぶされて眼球を踏み潰された幻覚を見せられた。オッケンワインには壮年の男が如何なる魔法を用いて幻術にかけたのか見当もつかない。そもそも死を原体験させるような幻術をかけられる魔法を知らなかった。

 

「こんなことまでしてまで……………300万の賞金首である闇の魔法使いゲイル・キングスほどの男が私の娘になんのようだ」

 

 オッケンワインの声が震える。今の彼を支えるのは娘を守るという親心だけだった。

 

「このハワイの地の神話に登場する四大神。その一柱であるカネの子孫である君の娘を渡したまえ」

「なにが、なにが望みだ……」

 

 エミリアが神の子孫などとは眉唾としか思えない。だが、これだけの惨状を引き起こす集団が確信を持っていなければ行動するはずがない。であるならば、エミリアを神の子孫と仮定するとするならば、アメリカ魔法協会の傘下の一魔法使いの家の生まれであるオッケンワインではなく、地元の人間であるエミリアの母からの繋がりであるとしか可能性は無い。しかし、今となっては仮定にも可能性にも意味はない。

 

「君が知ることはない。娘を差し出すか、奪われるか。どちらかだけだ」

 

 自分からか、そうでないかの選択肢を与えられたオッケンワインには、どちらの選択肢も選べるはずがなかった。だが、このままでは奪われるだけ。

 与えられた残酷な運命の前に屈するしかなかったオッケンワインに、追い詰められた脳裏に天恵の如くアイデアが閃いた。地獄に仏ではなく悪魔の如きアイデアを、しかし娘を守ろうとする父親にとっては天から降りて来た蜘蛛の糸だった。

 

「…………分かった。娘を差し出す」

 

 遂にオッケンワインは悪魔の選択を選んでしまった。

 

「君が懸命な選択をしたことに感謝しよう」

「こっちだ」

 

 悪名高き闇の魔法使いに感謝されても嬉しくなどない。オッケンワインは歪な笑みを浮かべるゲイルの紅い目から逃れたくて、足早に部屋を出ようとした。ニヤニヤと笑う男、黙している女、ニコニコと無邪気な子供、眉一本動かすことのない少年。悪魔よりも邪なこの五人から一刻も解放されたくて、オッケンワインは悪魔になることを選んだ。

 

 

 

 

 

 二階の角部屋の自室で、ナナリーは恐怖に震えていた。豪邸の主であるオッケンワインから今夜は部屋から一切出るなと厳命されていたから膝を抱え、数日前にエミリアから渡された修学旅行でハワイを訪れるという内容が書かれたアーニャからの手紙を胸に抱えるように抱きしめることで恐怖を紛らわそうとする。

 男の悲鳴や怒号、それらが聞こえなくなって久しい。時間の感覚は既になく、一秒が無限に長いかのように錯覚する。

 

「アーニャ……」

 

 恐ろしい。なにがあったのか分からない。なにが起きているかも分からない。ただ、こうして膝を抱えていることしかナナリーには出来ない。だが、残酷な運命を指名されたナナリーに救いはない。

 部屋のドアが急に前触れもなく開けられた。

 

「お館様」

 

 全身をビクリと震わせたナナリーだったが、ドアを開けたの豪邸の主であるオッケンワインだと分かると体から力を抜いた。

 オッケンワインはナナリーを無視はしても暴力を振るったりはしない。

 なにがあったのか分からないが大丈夫だと安心したナナリーの前で、オッケンワインは歪に笑った。まるで物語に出てくる悪魔のような歪な笑みを浮かべるオッケンワインに、ナナリーの全身が粟立った。

 

「さあ、おいでエミリア(・・・・)

 

 間違えるはずのない娘の名前を呼んだ手を伸ばしたオッケンワインの姿は、ナナリーの目には人ではなく異形の悪魔にしか見えなかった。

 固まったナナリーの腕を掴んだオッケンワインは胸の中に抱き留めた。

 

「これもエミリアの為なんだ。代わりをやってくれなければ君の家族を殺す」

 

 異形は異形の言葉を発し、理解したナナリーの頭にオッケンワインは魔法をかけた。急速な眠気を感じて睡魔の底に落ちて行くナナリーには抗う術はない。

 

「アスカ君……」

 

 ナナリーは悪魔によって地獄へと墜とされていく。救ってくれるヒーローはどこにもいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 成田空港を出発して七時間近く。飛行機の中でも大いに騒ぎまくった3-Aの生徒達は、八つあるハワイ諸島の一つであるオアフ島のホノルル国際空港へと降り立った。出入国ゲートを通り抜けた神楽坂明日菜は、飛行機の中で座り続けたことで固くなっている筋肉を解していた。

 

「流石に七時間も座りっ放しは辛かったわね」

「うちもよう眠れんかったし、時差ボケが辛いわ。せっちゃんはずるい。一人で寝ちゃうし」

「すみません」

 

 明日菜の隣を歩く木乃香は、時差ボケ解消の為に飛行機内で寝ることになっていたが座りながら寝ることは出来なかったらしく、眠そうに目元を擦っていた。木乃香とは反対に休息するのも戦士の努めと理解している刹那は十分に寝ており、頬を膨らませた木乃香を心配しながらも苦笑した。

 木乃香は苦笑した刹那から近くにいた年下の先生へと顔を向けた。

 

「アーニャちゃんらは日本に来た時はそんなことなかったん?」

「時差ボケは万国共通、直に慣れるわ。こういうのは一日もあれば順応出来るものよ」

「僕はアスカやアーニャみたいに直ぐには慣れなかったけどね」

「あら、それは嫌みかしら」

「まさか」

 

 木乃香の質問を皮切りに何故か睨み合いに移行してしまったアーニャとネギ。皮肉を織り交ぜるアーニャと少しばかりの妬みがあったネギの間でバチバチと弾ける火花に、木乃香がおろおろと二人の間で右往左往する。密接な関係の対人経験が貧弱な刹那も木乃香の後ろで目を泳がせる。動いたのは最後の一人。

 

「はいはい、折角の修学旅行なんだから喧嘩しないの」

 

 火花を散らす両者の間に立った明日菜がメンチを切り合う二人の頭を抑えて遠ざける。

 ネギとアーニャも通常のじゃれ合いだったので大人しく引き下がる。そしてそこにいる全員がふと疑問に思った。何時もならこの集団の中心にいるか、中心でなくてもなんらかの形で関わるはずのアスカがなんの反応もしない。

 

「どうしたの、アスカ?」

 

 当のアスカは集団の後ろからボ~とした顔で歩いている。声をかけた明日菜にも気づかず、集団を追い越して歩いて行く。

 夏季や冬季の観光シーズンに直撃していないとはいえ、空港のゲート付近は相当の人でごった返している。主要産業が観光であることを考えると、ここから人が途絶えることはハワイ諸島のシステムの他意を意味すると言っても過言ではない。人混みは全体的に幾つかのグループに分けられる。明日菜達のような観光客、仕事で来ているビジネスマン、首からカードを下げているのは火山か熱帯魚の研究者だろうか。欧米系そのままの人種のアスカが人混みに紛れると、子供という最大の特徴を持っていようと探し出すのは容易ではない。

 

「アスカ!」

「お、おう。どうしたネギ? そんな大きな声を出して」

「声かけても反応しないアスカが悪いんじゃないか」

「どこだ、ここ?」

 

 追いかけたネギが肩に手をかけながら耳元で呼びかけたことで、ようやく反応したアスカは自分が今いる場所も理解していないのか辺りを見回していた。

 

「オアフ島のホノルル空港よ。本当にどうしたの。飛行機に乗ってから変よ」

「変って、おい」

 

 変扱いされたアスカは気に入らない様に憮然としたが他の面々も同じ思いだった。

 

「何時もとは様子が違うんいうのはうちも賛成や」

「私も同感です」

「話しかけても上の空。飛行機の中でも寝ずになにか考えてたじゃない」

 

 木乃香・刹那・明日菜と怒涛の三連撃にアスカはよろめいた。

 

「なにかって何よ」

「アスカに考え事は向かないんだから相談してよ」

「俺だって考え事の一つや二つはするんだい」

 

 更にアーニャ・ネギからも追撃が入って、アスカは膝をついて床に「の」の字を書いた。

 イジケてしまったアスカに困った顔を見合わせた五人に近づく一人の影。

 

「なにやってんねん、アスカ」

 

 「の」の字を書いていた床に陰が差し込み、アスカが顔を上げた先には犬上小太郎がいた。小太郎を見たアスカは首を捻った。

 

「女子中の修学旅行なのになんでいんだ、小太郎?」

「ほんまにアカンわ、こいつ」

 

 本気で分かっていないアスカに小太郎は一瞬の停滞も見せずに匙を投げた。

 匙を投げつけられたネギは、どうしようかコイツとアスカを見ながらも双子の弟を見捨てずに口を開く。

 

「小太郎君まだ麻帆良に来たばかりだから学校が決まってなくて、家に一人で置いておくことも出来ないから特別に許可が出たって集合した時に新田先生が言ってたじゃないか」

「そうだっけ?」

 

 うんうん、と頷いている小太郎の横で懇切丁寧にしているネギに、やはり覚えていないのかアスカは首を捻っていた。

 その時、ポーンと電子音が鳴り響いた。空港の各所に設置されているアナウンス用のスピーカーからだ。明日菜らは揃って顔を上げたが、続いて流れる流ちょうな女性の英語を聞いて眉を顰めなかったのはウェールズ組の三人だけだった。

 

「なんて言ってるんや?」

「ゲート付近では立ち止まらずに進んでください、だと」

「アスカって英語分かんのか!?」

「俺は英語が生活圏の人間だぞ。分かって当然だろうが」

 

 小太郎の問いに答えたのはアスカだった。驚愕する小太郎にアスカは怒るでもなく呆れていた。

 

「よく考えればアスカも日本語が出来るんだから頭良いわよね」

 

 日本語しか喋れない明日菜のちょっとした嫉妬からの発言だった。明日菜の発言にネギとアーニャはクスリと笑い、アスカは明らかに顔を逸らして遠くを見つめている。

 

「アスカは日本語は喋れませんよ」

「勿論、書くことも読むこともね」

 

 事情を良く知っていそうな二人の含む発言に、麻帆良組と小太郎は遠くを見つめているアスカに視線を向けた。

 

「え、それでは普段のあれは」

「数少ないアスカが使える魔法で誤魔化してるの。日本語って難しいからそっちを覚える方が手っ取り早かったのよ」

 

 グサグサ、とアスカの体に刺さりそうなほどの視線の矢が方々から向けられる。

 

「翻訳魔法って便利なんだ」

「ようはイカサマじゃない」

「そうとも言うな」

 

 ダラダラと冷や汗を垂らしたアスカは、もう開き直ることにしたのか胸を張ってふんぞり返った。

 

「ええんちゃう。うちも英語は話せるほどじゃないし、アスカ君がいてくれたらハワイ観光に心強いやん」

 

 と、木乃香がアスカを通訳することに暗に示しつつ纏め上げたことでゴタゴタは解決した。しかし、根本的なことがまだ解決していない。代表してネギが口を開いた。

 

「で、何を考えてたの?」

「ん~、どうもずっと誰かに呼ばれてるような気がしてな。気になってしょうがない」

「誰かって誰やねん」

「それが分からねぇから考えてんだよ」

 

 感が触り続けているのか、首の後ろ側を擦りつつアスカはあっさりと答えたがハッキリとしない呼び主に苛立っているようだった。小太郎以下、麻帆良組は訳が分からない様子だったがネギとアーニャは深刻な面持ちに変わった。

 

「また厄介事なの?」

「修学旅行まで来て事件に巻き込まれるのは嫌だなぁ」

 

 若干、諦めが入っていたネギは小太郎+麻帆良組から視線を向けられて説明するために過去のことを思い出した。

 

「アスカがこういうことを言う時って大概事件に巻き込まれる前触れなんです」

「「「「え~」」」」

 

 早くも事件の前触れは少年少女達の頭の上を掠めていたことを知る由もない。

 

「コラァ、お前達! 何時までも喋ってないで早く集合せんか!」

「「「「「「「は、はい!!」」」」」」」

 

 その前に新田の大声に足を速めなければいけなかった一行だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホノルル空港からホテルへ移動して荷物を預けた後、3-Aは一般には公開されていないプライベートビーチへとやってきた。

 空はどこまでも蒼く、海もまた、それを映したかのように蒼い。漂う雲がなければ、その境界線が定かではない程に両者は渾然と溶け合っている。空の青さは、俗説で信じられているように海の色を反射しているためではなく、大気中に含まれる酸素や窒素の分子、塵や水蒸気といった微小物質に波長の近い青色の可視光線が反射して散乱するためだ。サンゴ礁の海が鮮やかなコバルトブルーの色を発している。熱帯性の植物が浜辺を彩り、白い砂浜がカレンダーに反して夏を主張していた。

 雪広財閥や負けず劣らずの那波家の御令嬢がいる3-Aに貸し切られているのでビーチに人の影はない。学園都市の大口の出資者である二つの家に学園側が配慮した形か。

 

「「「「海だ――――っ!!」」」」

「海、白い砂浜! と、きたら海水浴しかないじゃあ、ありませんか!」

 

 砂浜に鳴り響く歓喜の絶叫。歓声を挙げながら青い海と白い砂浜が広がる他に誰もいない貸し切りのビーチに飛び込む少女達。どこに行こうとも元気印の麻帆良学園中等部の3-Aの生徒であることは変わらないらしい。

 日本では味わえないこのリゾートは南国の特権。おいそれと来れる場所ではないので全員が楽しく遊んでいるようだ。

 

「行くぞ小太郎!」

「おう!」

 

 少女達の最前線を走るのは我らが突撃小僧アスカ・スプリングフィールドと犬上小太郎であった。

 

「元気だな、二人とも」

 

 教師なので二人ほどにははっちゃけることが出来ないネギは、水着の上にパーカーを着て最後尾をネカネや千草、新田といった他の教師達と歩く。一緒に混じりたいという本心を隠しきれずに顔に出ているネギを見た新田は苦笑した。

 

「ネギ先生も行っても構いませんよ」

「でも、僕も先生ですし」

 

 持ち前の責任感から仕事を引き受けようとするネギに、新田は唇が笑みの形になるのを抑え切れなかった。

 

「先生である前に子供です。天ヶ崎先生もスプリングフィールド先生も多少の羽目は大目に見ます。あなた達も楽しんで来て下さい」

「しかし、新田先生。それは」

「貴方達が全てを背負うことはありません。その為に私がいるのですから」

 

 熱気が籠る海岸に来ながらもスーツの上着を脱いで軽装になってもキチリとした服装のままの新田は、眼鏡を外してポケットから出した眼鏡拭きでレンズを拭く。

 

「こういう役は私のように偏屈で頑固な年経た教師の仕事です。貴方達若い者がそこまで肩肘を張る必要はありません」

 

 どこか静かな威圧感を感じる言葉に、千草は呆けたように新田を見ることしか出来なかった。誰も好き好んで自分から苦労を背負い込もうとは思わない。決して人気があるわけでもないが、千草はそこに教師としてあろうとし続ける姿を垣間見た。

 

「アーニャ先生も友達の所へ行ってるんです。ネギ先生も楽しんで来るといい」

「ありがとうございます!」

 

 ネギは純粋に感謝の気持ちで揃って頭を下げる。この人は間違いなく教師であり、そして自分経ちにとって間違いなく尊敬できる人であると思ったからだ。

 

「怪我だけはしないようにね」

「うん」

 

 ネカネに見送られながらアスカ達に合流するためにネギは走り始めた。

 ネギの小さな背中が3-Aの生徒に呑み込まれてもみくちゃにされる様子を、その場に立ち止まって新田は優しい笑みで見送った。

 

「あかん、ちょっとドキッとした」

 

 新田の優しい笑みと視線に込められた慈愛を感じ取って、うっかり胸をトキめかせてしまった千草は顔を逸らした。その逸らした顔の先にいたネカネが口を開く。

 

「千草さんってオジサン趣味だったんですね。知りませんでした」

 

 ネカネの指摘に、恥ずかしさから千草が金切り声を上げるまで後数秒。ビーチバレー、遠泳、貝殻集め、砂遊びなどやっていることはバラバラだが海に集まったクラスの面々は楽しそうに遊んでいるその頃。

 

「あ~、暑い。流石は常夏の楽園だわ」

 

 海へとはしゃぎながら飛び込んでいく級友達を、スポーティーな水着を纏った神楽坂明日菜は呆れたように見ていた。

 

「みんな、元気やわぁ」

「その最たる者がアスカさんと小太郎君ですが」

 

 三人の視線の先で遠泳に挑戦しているアスカと小太郎は、誰も見えないぐらいの距離になってからは海の上を走るという超人的な行動に移っていた。刹那でも気で視力を強化しなければ肉眼では見えない距離なので、今いる場所がプライベートビーチであることを考えれば目撃者はいないと踏んだのだろう。

 

「あの二人。海の上を走ってない?」

「良く見えますね明日菜さん」

「豆粒ぐらいだけど辛うじては。刹那さんがそう言うってことは本当に海の上を走ってるのね、あの二人は」

「え、そうなん? うちには全然見えん」

 

 よほど目が良くなければ見えないはずだが明日菜は二人の姿を捉えているらしい。隣の木乃香が目を細めて見ようとしているが影すらも分からないらしい。数百メートルも先にいる二人の姿を捉えられる明日菜の視力の方が異常なのだ。

 

「ふん、誰も彼も、たかがハワイに来ただけで浮かれおって」

 

 フリフリの可愛らしい水着を着てパラソルの下でサマーベットに横になりながら、斜め後ろにロボット特有の関節の継ぎ目を隠すために全身を覆うダイバースーツのような水着を纏った茶々丸を従えているエヴァンジェリン。

 横になりながらトロピカルジュースを飲んで茶々丸に持たせているエヴァンジェリンを明日菜は白い目で見た。

 

「アンタだけには誰にも言われたくないと思うわよ、エヴァちゃん」

「だから、私をちゃん付けするな」

 

 浮かれていることを否定しないのは本人に自覚があるのか。これでは真祖の吸血鬼も形無しだと思った明日菜は悪くない。

 

「全力で楽しんでるわね」

「十五年振りの外なんだ。楽しんでなにが悪い」

「悪いなんて言ってないわよ。さよちゃんもそう思うわよね」

「皆さんが楽しければ私も嬉しいです」

 

 サイドテーブルに座っている人形は、ネギ達が恐山で手に入れた藁人形から作った人型で相坂さよが憑りついている。何分即席なので自立移動も出来ず、話しか出来ないがエヴァンジェリン同様に麻帆良の外に出れて本人は至ってご満悦な様子だった。

 

「ほら、さよちゃんもこう言ってるじゃない」

「さよは私と同じく外に出て浮かれているんだ。鵜呑みにするな」

 

 エヴァンジェリンはアスカに近づいて行くようになってから、必然的に明日菜との会話も多くなっている。じゃれ合いのような会話を続ける二人を木乃香は温かく見守っていた。

 刹那はといえば、大胆な木乃香の水着に視線が釘付けになっていた。体の前面(胸の谷間部分にスペードの形をした穴有り)と腰回りは水着は覆っているが、脇腹から背中全域にかけては隠すものは何もない。下にしても食い込みというか角度が激しく、大人しい木乃香の性格を考えれば大冒険な水着に刹那の気持ちは揺れ動きまくりである。

 

(駄目だよ、このちゃん。その水着、大胆すぎるよ)

 

 思わず内心ながらも昔の呼び方で木乃香を呼んでしまうほどに刹那は動揺していた。

 

「せっちゃん、顔赤いで」

「え!?」

「うん? どうしたん?」

 

 エヴァンジェリンから視線を振り向いて顔を向けて聞いてきた木乃香に、刹那の頭の中ではサーカス団がダンスを踊っていた。

 

「いえ、お嬢様! 別になんでも……」

「顔真っ赤やで。風でも引いたんちゃんうの」

「こ、これは熱いからです!」

 

 近づいてくる木乃香の顔を見れず、何故か胸の部分にあるスペード型に開いている素肌を見てしまう刹那。

 

「ん?」

「熱いからです!」

「ハワイやし、ここはビーチやで。暑いのは当然やん」

「私の煩悩が熱いのです!」

「?」

 

 木乃香には刹那が何を言いたいのかが分からなかった。

 木乃香が刹那の珍妙な発言に首を捻っている頃、水の中で遊んでいた鳴滝姉妹はビーチボールで朝倉や柿崎と遊んでいたが、ふと目に飛び込んで来たモノに呆然となった。それは、あまりにも大きなものだった。

 

「ちづるってやっぱり…………」

「おっぱい、大きいです」

「ま、奴がクラス№1だかんな」

 

 鳴滝姉妹が自分たちの平地と比べてボソリと呟いた事に、律儀にフォローを入れる№3の巨乳をもつ朝倉。彼女がフォローしてもあまり大きな効果はなく、逆に嫌味だった。

 

「あう――――っ!!」

 

 そこへ、まき絵や亜子、ハルナやのどかに追いかけられて逃げてきたネギがやってきた。

 

「もが!?」

「あらあら?」

「千鶴さ――――んっ!?」

 

 かなり際どい水着を着ている面々は多いが、特に千鶴の推定90cm以上のナイスバディの水着姿である。その谷間に少女達の包囲網から逃げたネギがすっぽりと収まっていた。

 

「ち、ち、千鶴さん! ネギ先生を胸の谷間に挟みこんで何を――――っ!?」

「いえ、これは先生の方から。あら、大変抜けませんわ」

 

 千鶴はあやかに否定しながら、柔らかいマシュマロみたいな感触に混乱しているネギがもがく所為で余計に抜けないので困ったように笑った。千鶴の苦笑が喜んでいるように見えたあやかの脳裏に天恵の如く雷撃が落ちた。

 

(はっ、まさか今まで興味ないふりをしておいて、その豊満かつ母性的なボディでネギ先生を悩殺しようと…………!?)

 

 特にネギの頭を落ち着かせようと撫でている辺りがあやかに妄想を抱かせた。

 

「そうはさせま――」

 

 せん、と言おうとしたあやかの背後に近づく二つの影。二つの影が同時に伸ばした右手と左手があやかのお腹に食い込む。

 

「ほふぅ!?」

 

 図々しくも花の乙女のどてっ腹に拳を叩き込んだ下手人二人は揃って海面から顔を出した。

 

「あ…………悪ぃ………」

「わざとじゃねぇんだ」

 

 水着姿のアスカと小太郎は勝負の勢いでぶつかってしまい、直ぐに気が付いて起き上がりながら謝ったが時既に遅し。

 

「キャ―――! いいんちょしっかり――!?」

 

 偶々、近くにいた夏美が見た時には海面にうつ伏せになりながら末期の如くピクピクと震えていた。

 

「一体何なんですの、貴方方は!?」

 

 数分後、浅瀬に移動してなんとか現世に復活したあやかが水面を勢いよく叩き、上がった海水を頭から被ったアスカと小太郎は正座をしていた。

 

「前方をしっかりと見て泳いで下さいまし! 朝に食べたお食事が口からピュルッと飛び出るところでしたわ!」

「まあまあ、あやか落ち着いて」

 

 無事に千鶴おっぱい包囲から抜け出したネギがまき絵達に連行されたこともあって、薄らと眼に涙を浮かべて怒り心頭なあやかを千鶴が取り成す。

 

「そうだよ、委員長。アスカ君も小太郎君も謝ってるじゃない」

「ですが……」

「二人もこうやって正座までして謝ってるし、前方不注意って言うならあやかも周りに気を配らないと、ね」

「むぅ、仕方有りませんわね。二人共、以後気を付けるように」

 

 浅瀬とはいえ、貝殻もあるので正座の座り心地は良くない。二人を擁護する夏美と千鶴に自分が悪いことをしているような気分になって、年上らしく諌める言葉と共に解放する。

 解放されたアスカと小太郎は目を輝かせ、立ち上がった。

 

「よっしゃ、次はあっちの島まで競争や」

「今度は負けねぇぞ」

「反省しなさいな、お二人とも!」

 

 わー、と反省の欠片もない態度で小太郎が指差した島に向けて泳ぎ始めた二人の背中に、近くに流れていたビーチボールで叩き落とすあやかだった。

 

「うぐぐぐ、………ネギ先生との二人っきりのパラダイスが」

 

 ネギを奪われ、はしゃぎまわる者達を見ながら雪広あやかは青空へ顔を向けて嘆く。目の前には白い砂浜に青く澄んだ美しい海があったのにあやかの気持ちはどんよりと濁り気味だった。

 

「もう、あやかの望み通りの展開になるわけがないじゃない」

「辛辣だね、ちづ姉」

 

 困った子だと言わんばかりに頬に手を当てている千鶴の腹黒さに、二人の家柄が同じぐらいで幼馴染の関係にあることを知っている夏美はそっと溜息を漏らすのであった。

 はしゃぎ回る元気一杯のクラスメイト達の輪から外れた龍宮真名は、もう一人と共に広い砂浜を散歩していた。

 

「真名はみんなと一緒に遊ばないでござるか」

 

 隣を歩く長瀬楓は喧騒から離れて行く真名へと話しかけた。

 

「あれほどはしゃぐような性格でもない。お前の方こそいいのか楓」

「にんにん。鳴滝姉妹から一緒にいると自分が惨めになるから離れてほしいと頼まれたでござる。なんででござろうな」

「双子にも小さくとも女としてのプライドがあるということだ。察してやれ」

 

 長身で胸もでかく、運動が得意なので手足も引き締まっている楓とこういう水着になる場所で一緒にいることは、普段は同年代なのに姉と慕っている鳴滝姉妹にとってもやりきれないものがあるのだろう。

 分かっているような分かっていないような。人に感情を読ませにくい表情が常の楓に真名は適当に言った。楓の条件はそのまま真名にも当てはまるからだ。いや、一部は凌駕すらしていると言ってもいい。

 

「察したからこそ、こうやって真名に付き合っているのでござるよ」

「私は付き合ってほしいなどとは言っていないが」

「一人で散歩というのも味気なかろう。というか拙者が寂しいので付き合えでござる」

「勝手だな、お前は」

 

 と言いつつも、真名は楓を邪険にはしない。折角の修学旅行なので一人になるのもどうかと思うので、こうやって散歩の道連れがいるのは悪いことではなかった。

 

「ところで」

 

 一歩も足を止めず、それもクラスで最も背の高い二人が歩幅も大きく歩いているので3-Aが上げる喧騒は既に遠い。その時になって楓が突然、真名の胸元を見た。正確には胸元に吊るされている勾玉型のペンダントを見ている。

 

「そのペンダントは誰かからの贈り物でござるか? 真名の趣味とは思えぬが」

「これか?」

 

 言って真名はペンダントを指で弾いた。

 

「男からの贈り物、と言ったらお前は笑うか?」

 

 少し遠い目をして水平線の向こうを僅かに目を細めて見ながらの真名の言葉に楓は自分が地雷を踏んだことを悟った。

 

「笑うわけないでござる。大事な物なのでござろう」

「…………今は亡き男からの、な」

 

 ハッキリ言いきって気を使ってくれる楓に、真名はらしくないと自分を笑った。

 

「私も修学旅行で舞い上がっているな。こんな話をするのはらしくない」

「誰にだってそういう気分の時はあるでござるよ」

 

 事実を受け止め、深くは聞かない楓だからこそ話したのだと真名は自分の中で完結させた。或いは誰かに話したかったのかと考えて苦笑し、水平線から浜辺の向こう側を見た真名は凍り付いた。苦笑を浮かべていた真名の視界に、ここにいてはならない人がいたのだ。その人は真名が自分を認識したと分かると、ゆっくりと歩み寄って来る。

 

「真名?」

 

 楓の問いに真名は凍り付いたまま答えることが出来なかった。例え一瞬でも視界の先にいる人物から視界を逸らすことが出来ない。やがて楓も近づいてくる人物が真名に緊張を強いていると分かると、体の先に力を入れた。

 弾丸の女。それが近づいてくる中東系の女を見た楓の率直な感想だった。人を無機物に例えるのはおかしいと思いつつも、的確な表現だと自身で納得ししてしまう不思議な女が二人から少しの距離を置いて立ち止まった。

 

「久しぶり、マナ」

「…………なんのようだ、ナーデ」

 

 楓に立ち入れる雰囲気ではなかった。真名の知り合いらしいナーデと呼ばれた女は、肉感的ともいえる肉体を白いジャケットと黒いインナーで包んでいた。常夏の砂浜には暑い恰好であるはずだが汗を一つも掻いていない。

 

「あら、お師匠様に冷たい子だこと」

「嘗ての、だ。私が知るナーデレフ・アシュラフはコウキと共に死んだ」

「今は極悪指名手配犯って?」

 

 ナーデレフ・アシュラフと呼ばれた女は、気取った言い方をした真名がおかしかったのかくつくつと笑った。

 そして笑いを収めたナーデは太陽を見上げた。

 

「コウキが死んだのもこんな暑い日だったかしら」

「もう、二年も前の話だ」

「たった、二年よ」

 

 コウキという名前の誰かが二人の間にいて、その人物が二年前に死んだらしいことは話から楓にも推測できた。だが、二人の間では時間の認識が異なるようだった。

 

「まだコウキが忘れらないのか」

「それはマナも同じでしょ。聞いてるわよ。仕事で出会った引き受け手のない子供達の為にお金を稼いでいるって」

「『子供達に笑顔を』。それがコウキの願いだ」

「ほら、マナもコウキを忘れちゃいない。拾われた命だからってコウキの理想に身を捧げる必要なんてないのに」

「私が自分で決めて選んだことだ。ナーデにとやかく言われる筋合いはない」

 

 たった一人の人間がいなくなったことで生まれた歪。それが今の二人の関係を作りだしてしまったのか。目の前で繰り広げられる言葉のやり合いからしか楓には推測することは出来なかった。

 

「止めましょう。二年前の繰り返しになるだけだわ」

 

 先に折れたのはナーデの方だった。真名はまだまだ言い足りないようであったが、それ以上は口にしなかった。もっと気になることを問わねばならなかった。

 

「ナーデ、何故二年前に姿を消したのに今更になって私の前に現れた?」

「あなたに会いに来た…………って言ったら信じる?」

「信じない。ナーデがコウキ以外の人間を信用していないと私は知っている。二年前に四音階の組み鈴を脱退したことからも明らかだ」

 

 憎しみすら籠った視線で見つめられたナーデは否定も肯定もしなかった。ナーデは視線を真名から外して浜辺の方を見る。

 

「麻帆良女子中等部3-Aだったかしら。あなたが所属しているのは」

「それがどうした」

「ただの確認よ。そこにアスカ・スプリングフィールドという少年はいるかしら?」

「いるが…………彼になんのようだ」

「言ったでしょ、ただの確認」

 

 真名のみならず楓も知る名前が出て来た。意図を読もうとする真名に、しかしナーデは意図を読ませない。

 

「彼女が求めたヒーローがここにいる。これも運命なのかしら。もしくは出来の悪い物語なのか」

 

 全てを嘲笑うかのようにナーデは苦笑する。ただの苦笑が世を呪っているようで、楓の背に鳥肌が立った。冷や汗が流れて行く感覚が気持ち悪い。

 

「なんのようだと聞いているんだ!」

 

 常に冷静な彼女には似合わぬ激昂と共に銃を取り出そうとした真名の眉間にピタリと押し付けられる鋼の感触。

 

「くっ」

「スナイパーが冷静さを失っては意味がないと何度も言ったはずよ。アルカナである頃を考えれば人としては進歩していても、スナイパーとしては落第点」

 

 抜く手どころか取り出した拳銃を真名の額に押し付ける行程すら離れた楓に見えなかった手際で、ナーデは言葉通り冷徹とも言える眼差しを愚かな弟子へと向けていた。

 頭を撃ち抜ける体勢にされた真名は、本気の目をしているナーデにこれだけは聞かなければならなかった。

 

「何が目的だ?」

「コウキの蘇生。二年前から私の目的はなにも変わっていない」

「死んだ! コウキは、もう死んだんだ!」

「だから生き返らせるの。その鍵は手に入れたわ」

「馬鹿な! 死者は生き返らない。不老不死がいようとも生命の不文律を覆すことは出来ない」

「悪魔や神すら存在するこの世界に不可能などない…………って、二年前に同じ構図でこうやってやり合ったわね」

 

 二年前もまた真名はこうやって四音階の組み鈴を抜けようとしたナーデの前に立ちふさがった。今ここでこうして対峙していることを考えれれば、その結果は言うまでもない。

 

「私はあの頃とは違う」

「いいえ、私の目にはどれだけ体が成長してもなにも変わっていないマナ・アルカナしかいないわ」

 

 銃口を向けられた者と向ける者。弟子であった者と師であった者が対峙する。

 二年前と同じ構図。だが、ここにはもう一人いた。

 

「拙者がいるでござる!」

 

 瞬動でナーデの背後に回った楓の蹴撃が後頭部へと伸びる。

 

「この程度で」

「そうでもないさ」

 

 銃を持っていない方の手で楓を見ずに後頭部へと迫る蹴りを防御したが、視線は外さずとも意識は背後の楓と分割されている。突きつけられていた銃口を避けながら魔法で拳銃を握った真名の行動に先んじるには集中力が足りなかった。

 

「マナこそ私を舐め過ぎよ」

 

 真名と同じく魔法でもう片方の手で銃を握りながら、圧倒的な速さで真名と楓の顔面を撃ち抜く。

 顔を傾けることで銃弾を躱す二人だが、圧倒的な速さに震撼する。 身体能力ではない。弛まぬ鍛錬と潜り抜けた実戦が昇華させた一切の無駄のない動きが、まるで途中の動作を省いたかのような神速を体現している。

 ナーデは動き続ける。

 

「ぐっ」

「はっ」

 

 飛び上がりながら開いた足が真名と楓を防御の上から吹き飛ばす。靴の中に鉛でも入っているのか信じられない重さに二人が耐えきれない。瞬時に体勢を整えたが追撃は避けられないはずだが、ナーデは動かなかった。

 その手に転移魔法符を握ったナーデの足下が光る。

 

「私はコウキを生き返らせる。阻むというなら私を殺しに来なさい、マナ」

 

 言いたいことだけを言って、ナーデは二人の視界から消え去った。

 一秒、二秒…………十秒経ってもなにも起きないことに楓はナーデが去ったことを確認し、息を吐いた。

 

「強い御仁でござったな」

「私の師匠だ。弱いはずがない」

 

 楓と同じように今まで止めていた分の息を吐いた真名は胸元に手を伸ばした。豊満とも言える胸元から一枚の紙を取り出す。

 

「それは?」

「置き土産だ」

「まさか、あのやり取りの中で?」

「ああ」

「信じられぬ御仁でござるな」

 

 常は閉じているように見える両目を開いて信じられぬという感情を隠しきれない楓に同意しつつ、真名は折りたたまれている紙片を広げた。

 

「なんと?」

「どこかの住所と、アスカ・スプリングフィールドへと書かれている」

「どうするでござるか」

 

 楓の問いに真名は答えなかった。目的を阻むなら自分を殺しに来いと言ったナーデに渡された紙片を真名は握り潰した。

 




エヴァがギャグキャラ化。

敵オリキャラその一

名 前:ゲイル・キングス
年 齢;年齢五十ぐらいに見える
職 業;魔法使い、幻術を使うのか?
人間性:ヤバそうな人
備 考:魔法世界で指名手配中、三百万の賞金首。
戦闘力;1050(推定)



敵オリキャラその二

名 前:ナーデレフ・アシュラフ
年 齢;二十代後半
職 業;傭兵、スナイパー
人間性:一途過ぎた人、または愛の重い人
備 考:龍宮コウキのパートナーで真名の師。目的は死んだコウキの蘇生らしい。指名手配犯。
戦闘力;1500以上



注;修学旅行での敵の強さは全員アスカと同レベルかそれ以上。





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第14話 正逆

 

 

 

 

 このハワイに来ているのは、他のクラスとの希望が重ならなかったので3-Aのみ。

 日本国内ならまだしも親しみ深いハワイといえど海外である。麻帆良女子中等部で最も問題を起こしやすいと考えられている3-A。しかも、担任と副担任はまだ新人。補佐が二人ついているが、こちらも二ヶ月早いだけでまだ新人の領域で更に子供。満場一致で学年主任の新田の同行が学年会議で決まったのであった。

 女性教師に女生徒ばかりなのだから新田よりも源しずなの方が良いのではないかとの意見はあったが、やはり3-Aを抑えられるとしたら新田という意見が大勢を締めた結果である。

 海水浴行く少し前、チェックインしたばかりのホテルで新田は早速困った事態に陥っていた。

 

「お願いします! 行かせて下さい!」

 

 3-Aの生徒達が渡された鍵を持って部屋に向かったのを見送った後、アーニャは荷物をネギに任せて新田に直談判していた。

 

「生徒達が海水浴に出ている時間だけでいいんです。昔の友達がこの近くに住んでいて、この機会を逃したら何時になるか」

 

 集団行動が原則である修学旅行において不躾で、先生として最低の選択であることはアーニャも重々承知している。

 その上で譲れない気持ちが彼女の中にはあった。

 

「しかしだな。仮にも教師たるものが独自行動をするのを認めろというのは」

 

 当然のことながら新田はアーニャの希望を受け入れられずに渋い顔をした。

 そんな新田の後ろから新田の分の荷物を置いてきたネカネ・スプリングフィールドと天ヶ崎千草が現れた。

 

「どないしはりました?」

「アーニャがなにか粗相でも?」

「いや、そういうわけではないんだが」

 

 新任とはいえ、和洋の美人二人に問われた新田は困ったように頭の後ろを掻いた。

 男の性として美人の女に弱いというのがある。新田も御多分に洩れず、普通よりかはマシであっても弱かった。特に美人で若いネカネと千草の二人に同時に話しかけられると目のやり場に困る。

 

「私が海水浴の間だけ友達に会いに行かして欲しいってお願いしてるとこ」

 

 新田がどういうべきか困っているとアーニャが先に言ってしまった。

 

「友達ってナナリーちゃん?」

「手紙をくれたんだけどおかしくて、様子だけでも確かめさせてほしいの」

 

 ん、と差し出されたエアメールをを受け取ったネカネは、中に入れられている便箋を取り出して読み出した。

 横から千草が覗き込んだが英語で書かれているのを見てあっさりと止めた。

 千草の英語能力は学生時分で止まっている。辞書もなしに手紙の英文を訳せるほど達者ではない。

 英語圏のネカネは当然ながら手紙を読むのは苦にならない。最後まで読み切って便箋をエアメールに直す。

 

「私も頑張りますって書いてるあるだけで、あの子にしては前向き過ぎる文章だけど」

 

 ナナリーと面識の深いネカネは内容に若干の不審を覚えながらもアーニャにエアメールを返した。

 

「それって二週間前に届いた手紙なの。それまでに何通も出してるのに、来た手紙には最初に出した内容に対する返事しか書かれてないのよ。どう考えてもおかしいわ」

「確かに変ね。あの子なら届いた手紙にはきっちりと返事を毎回書くはず。もしかして手紙をちゃんと渡されていないのかしら?」

 

 アーニャの言い分を聞けばネカネも納得した。

 そして同時に懸念もあった。

 ハワイで占い師をやる場合に受け入れるホームステイにも似たやり方をする家こそがナナリーが居候しているところである。

 著名な魔法使いが主である家は、スプリングフィールド兄弟の受け入れを強引に進めようとしていたとネカネは校長から聞いたことがあった。

 二人が英雄ナギの息子であることは魔法学校でも知る者は片手の指ほどにもない。どこから情報が漏れたのかと校長が憤っていたことはまだ記憶にも新しかった。他にも魔法世界からの強引な勧誘もあったと聞いている。

 望んだ者が来なかったこと。手紙から感じられる不審と合わせるとネカネもナナリーの身が心配になってきた。

 

「あの新田先生、知っている子なんです。私からもお願いします。様子を見るだけでも」

「ええんちゃいます。一クラスに教師が五人もいるわけやし、一人ぐらいならいなくても」

「新田先生!」

「ん、むぅ……」

 

 一度心配になると坂を転げ落ちるように不安が増していくのか、ネカネの縋りつきと援護に入った千草、更には詰め寄って来たアーニャに新田はどんどんと追い詰められていく。

 女性というのは同性同士での纏まりが男に比べて非常に強い。女子中勤めで痛感していたつもりだが、成人二人と少女一人に追い詰められた新田は苦悩した。

 はっ、と周りを見ればホテルのロビー中の人間が注目している。

 変な噂を立てられることはないだろうが、生徒達が戻って来る前には片をつけなければならなかった。

 

「…………分かりました。いいでしょう」

「ありがとうございます!」

「ただし、生徒達が海水浴中の間だけです。一秒でも遅れることは許しませんよ」

「はい!」

 

 結局はアーニャの熱意に折れる形で新田は提案を受け入れるのであった。

 嬉しさのあまり抱き付いてくるアーニャに、これで良かったと思ってしまった新田も既に毒されてしまったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 以上の経緯で海水浴に行く面々を見送ったアーニャは、エアメールに記載されている住所へ向かうためにホノルル市の公営バスに乗り込んだ。

 ホテルの人にエアメールの住所を見せて、どこの路線に乗ってどこの停留所で降りればいいかを熱心に聞いたので間違えることもない。念の為に紙にも書いたので、これで間違えることがあればアーニャの責任である。

 一路、ナナリーが居候している家に向かったアーニャは途中で何度も間違えそうになりながらも、街外れにある目的地に到着した。

 

「でっかい家ねぇ」

 

 単純な規模なら雪広あやかや近衛木乃香の実家の方が遥かに大きいが、それ以外でなら目の前に聳え立っている屋敷が一番かもしれないと、首を上げなければ屋根が見えないことに嫌気を覚えていた。

 骨の髄まで小市民であるアーニャは、あやかや木乃香のような文字通りの規模が違う金持ちには何も思わなくても、手が届きそうな感じの屋敷だと思うところが出来てしまうようだ。

 内心はともあく、目的はあくまでナナリーの様子を見に来ただけだと自分に言い聞かせて玄関に向かった。

 

「ゴメンください」

 

 チャイムが無駄に高い所にあったので、これは背の低い私に対する嫌みかと思ったアーニャはドアをノックしながら呼びかける。

 ノックと呼び掛けに反応があったのは数秒後だった。

 

「当家に何用でしょうか?」

 

 ドアも開けずに応対してくる家の人間に、外観のこともあってアーニャの好感度はだだ下がりだった。

 しかし、目的を忘れてはならないと首を振って気合を入れる。

 

「そちらでお世話になっているナナリーの学校時代の友達です。近くに来たので寄らせて頂きました。ナナリーは御在宅でしょうか」

「そのような者はこの家にはおりません」

「え、でも」

「お帰り下さい」

 

 スゲも無い返答だった。

 アーニャが聞き返す間もない。咄嗟にドアに耳を近づけると応対した人間が足早に去って行くのが聞こえた。

 

「ちょっと! ナナリーはこの家にいるって分かってのよ!」

 

 明らかにおかしい応対の対応にイラついたアーニャは乱暴にドアを何度も叩く。

 

「ここを開けなさいってば!」

 

 アーニャの手が痛くなるほどにドアを叩きまくっていると、やがて観念したのかドアが少しだけ開いた。

 ドアの隙間から顔を覗かせたのはメイド服姿の女性だった。

 

「ナナリーは――」

 

 どこにいる、と呼びかけかけたアーニャの言葉は遮られた。真正面から吹っかけられたバケツに入った水によって。

 水をかけられるほどの不作法を働いた覚えはないアーニャは避けることが出来ず、受けるしか出来なかった。

 

「お去り下さい。当家にはそのような者はおりません」

 

 と、言いたいことだけを言ってまたドアを締めた。

 

「な、な、な、な、な、なななんなのよ――――――――っ!!!!」

 

 怒髪天をつくとは正にこのことか。

 確かにドアをノックしまくったのは迷惑をかけたかもしれないが、注意の一言もなく水をかけられるほどではなかったはずだ。

 流石にまたドアを叩きまくって同じ目にあったり、ドアを壊してまで侵入するのは気が引けたアーニャは引き下がるしかなかった。

 

「ふん」

 

 他の家から離れたところに屋敷はあったので、体全体に炎を纏って服や髪に染みついた水分を蒸発させたアーニャは鼻息も荒く屋敷を出た。

 最後にこの性悪な家を頭に刻み付けてやると思って振り返りながら上の方を見ると、殆どの窓には昼間にも関わらず全てカーテンが閉まっていて首を捻った。

 魔法使いは一般世界にその存在を秘匿するべしという不文律はあるが、昼にカーテンを閉めて中の様子が見えない様にするのはおかしい。

 

「あ」

 

 順繰りに屋敷の窓を見ていたアーニャは、閉まっているカーテンの隙間からこちらを見ている人影を見た。

 

「ナナリー!」

 

 呼びかけるとその人影は驚いたように引っ込んでしまった。

 カーテンは完全に締められ、暫く見ていたが開く気配はない。

 

「今のってナナリーよね?」

 

 一瞬であったし、遠目であったこともあってアーニャはこちらを見ていた人物がナナリーに似た風体だったような気がした。

 しかし、ならば彼女がアーニャから身を隠す理由が分からない。

 さっきのメイドの様子から屋敷の中に入れてくれるとは思えず、アーニャは渋々ながらも出て行くしかなかった。

 屋敷からバスの停留所まではかなりの距離がある。

 来るときはイラついた距離も考え事をするには適した距離である。

 暑い中をスーツの上を脱いで手に持ちながら歩いていると、前の方から地元の人間らしき中年の女性が歩いて来てる。

 アーニャが来た方向に向かっているので、もしかして屋敷の人間かとも思ったが服装はシックなのであのような豪邸に住んでいる人間には見えなかった。この先になんのようかと思っていると中年女性はアーニャの目前で止まった。

 

「あんたかい。あの豪邸に向かった物好きってのは」

「物好きで悪かったわね」

 

 失礼な物言いの相手には失礼な物言いを返すことを信条としているアーニャは、中年女性に嫌みを返した。

 

「いや、嫌味じゃないんだよ。もしかしてアンタはあのポンコツ占い師の知り合いかい?」

「ポンコツ占い師ってナナリーのこと?」

 

 失礼を通り越して無礼な中年女性にはっきりとアーニャは怒りを抱いた。

 誰だって親友のことを貶されて喜ぶ者はいない。

 

「そうじゃなくて、取りあえずナナリーの知り合いなんだね」

「ええ、そうよ」

「じゃあ、ナナリーがどうなったか知らないかい? この前は虫の居所が悪くて辛く当たっちまったんだで謝ろうかと思ったのに、今日に限って何時ものストリートにいないんだよ」

「なんですって?」

 

 経緯は分からないがナナリーに不逞を働くわけではなく純粋にお礼を言いたいのだと分かったアーニャは、今日に限っていないという発言に眉を顰めた。

 

「暮らしているっていう屋敷の近くで不審な集団がいたとか、叫び声を聞いたなんて話があったから心配で様子を来たんだよ」

「それ何時!?」

「噂じゃ昨日の夜って話だよ」

 

 屋敷の人間の様子がおかしいのと中年女性の話が符合する。

 中年女性はナナリーがあの豪邸に住んでいることを知っていた。なのに、豪邸の住人はナナリーなどいないと言った。

 彼女が聞いた噂は真実で、ナナリーは何らかの事件に巻き込まれたのだと仮定すれば外聞を気にする主人ならば秘密にするかもしれない。

 あくまでアーニャの推測だ。だが、ジッとしていることは出来なかった。

 

「ありがとう、おばさん。あの屋敷に行ってもナナリーはいないって追い返されるだけよ。後のことは私に任せて」

「いいのかい?」

「ええ、ナナリーは私の親友だもの」

 

 アーニャに動かない理由はなかった。

 

 

 

 

 

 ビーチにとんぼ返りしたアーニャは、こういう厄介事には無類の強さを発揮するアスカとネギ、何故か付いてきた明日菜達と共に再び豪邸へとやってきた。

 

「趣味の悪い屋敷だな」

 

 アーニャと同じ感想を抱いたらしいアスカは、豪邸を見て不快そうに眉を顰めた。

 

「で、どうするのアーニャ?」

 

 アスカほど明らさまではないが、見ていて楽しい家ではないと判断を下したネギは今後の行動をアーニャに問うた。

 

「決まってるじゃない――――強行突破よ」

「「「は?」」」

「んじゃ、行くぞ」

 

 聞かれたアーニャは据わった目でアスカに命令を下した。別名で処刑宣告ともいう。

 まさかの野蛮な手段に明日菜達が驚いている横で意気揚々と足を踏み出したアスカは、玄関の前に一度立ち止まって息を深く吸い込んだ。

 

「頼もう!」 

 

 ハルナか祐奈辺りに仕込まれた知識なのか、ノックすることなく前蹴りで豪快にドアを蹴り破ったアスカは土足で屋敷に侵入していく。

 アスカの後ろをやれやれと慣れた仕草でネギが追従し、「行くわよ」と明日菜達を促したアーニャも後を追っていく。

 遅れて屋敷に入った明日菜達は豪華絢爛な家具に魅入られつつも進む。

 

「ナナリーはどこだ」

「そのような者は本邸には……」

 

 曲がり角の向こうにいるらしいアスカの声が聞こえ、応対する者が答えた瞬間、ゾンッとなにかがめり込む音が響いた。

 慌てて明日菜達が足を速めて曲がり角の先を見ると、腰を抜かしてへたり込むメイドの頭上の壁にめり込んだアスカの拳。

 

「もう一度聞く。ナナリーはどこだ」

 

 子供なので小さな拳といえど、拳が丸々壁にめり込むほどの一撃が生身に当たればどうなるか考えるまでもない。

 少なくともメイドは想像力が欠如した愚か者ではなかった。

 

「だ、旦那様の命令でい、言えません」

 

 胸倉を掴まれ、拳を今まさに振るわんとしているアスカを前にして、それでも職務を全うしようとするところは評価すべきか。

 

「じゃあ、もういい」

「あ」

 

 話す気はないと判断したアスカは拳を握っていた手を解いて、胸元を握っていた手を引いて前に傾けられたメイドの首に手刀を下ろした。

 あっさりと気を失ったメイドを丁寧に床に寝かしたアスカが立ち上がる。

 

「次行くぞ。これだけ大きければメイドの数も多いはずだ。一人ぐらい話すだろ」

「もしくは当の旦那さまが出てくるのは待つってわけか。気の長い話だね」

「いいさ。何時かはゴールに辿り着く」

 

 ネギは恐怖に晒されながらも命令を守ったメイドに賞賛の眼差しを向け、アスカは次の標的を探して歩き出した。

 その背中を見送った明日菜は間近にいるアーニャを見た。

 

「ちょっと、いいのアレ?」

「いいのよ。来る時に言ったように真っ向からだと入れてさえくれないし、先に喧嘩を売ったのは向こうよ。こういうことにはアスカは無敵だし、連れて来た甲斐があったわ」

 

 やる気というか復讐に燃えているアーニャに止まる気はなさそうだった。

 

「あいつって殴るって決めたら男女差別しないから紳士気取っているネギよりは頼りになるわ。ネギはネギで今回は止める気もないみたいだし」

 

 不法侵入しながらも周りを気にしないアスカの為に周囲を警戒しているネギの背中にも、やる気が漲っていることを確認したアーニャはほくそ笑んだ。

 明日菜達は顔を見合わせ、止まる気もなく止められそうにもないので三人の後ろを付いていくしかなかった。

 何人かの職務意識の高いメイドを気絶させ、当主に聞けと言うメイドに案内させた部屋をまたもやアスカは蹴破った。

 

「おい、ナナリーはど、こ……だ………?」

 

 と、行き込んで当主がいるらしい部屋に乗り込んだアスカだったが、執務机らしき椅子に座っていた人間が転げ落ちたことに驚いた。

 

「ひ、ひぃ…………く、来るな………来な、いで」

 

 当主らしき男は、少し前には壮年の男のダンディーな魅力を振り撒いていただろう容姿を盛大に崩し、血らしき汚れと思われるシャツを着たまま子供のように部屋の隅まで逃げて怯えていた。

 部屋の中程に進んだアスカに続いて明日菜達も入ると、当主の男性は頭を抱えて全身を震わせ滑稽なほどに怯える。

 

「なんなの、一体?」

「アスカがドアを蹴破ったけど、ここまで怯えるのは変ね」

 

 あまりの様子のおかしさにネギだけでなく、意欲に燃えていたアーニャですら不審を覚えていた。

 

「なあ、あいつの服に付いてる赤い染みって血じゃないのか?」

「そうよ」

 

 当主らしき男の衣服に付いている赤い染みらしきものが血ではないかというアスカの推測を肯定したのは、部屋の入り口に立つウェーブしている茶髪の少女だった。

 事前に振り返ったアスカと刹那に遅れて振り返ったアーニャの目には一瞬ではあったが、探しているナナリー・ミルケインに見えた。

 

「ナナリーっ…………って違うわね」

「似てて、お生憎様。いえ、あの子にとっては迷惑な話でしょうけど。私はこの家の娘エミリア・オッケンワイン。そこで震えているのが私の父よ」

 

 髪型や顔の造形はナナリーに似てなくもないが、高飛車な雰囲気は似ても似つかない。少女はナナリーよりも背が高く二、三歳は年上なので知らない者ならともかく、親しいアーニャが見間違えるはずがない。

 鼻をピクピクとさせて室内の臭いを嗅いだアスカは異変に気付いた。

 

「昨日、この部屋で何があった? 尋常じゃない血の臭いが残ってるぞ」

「血の臭いなんてする?」

「全然」

「私も」

「アスカは犬並みに嗅覚が鋭いですから、何日も経っているならともかく直ぐには痕跡は消せません」

 

 首を捻って頭を捻りあう明日菜達だったがネギの言葉に黙らざるをえない。

 部屋の入り口に立つエミリアはアスカの発言に目を鋭くした。

 

「良く解るわね」

 

 エミリアは部屋を足を踏み入れて、アスカに負けぬほど傲岸不遜に立つ。

 

「昨日、この屋敷に襲撃があったのよ。目的は私らしいけど、そこの当主はナナリーを代わりにしたの。事前に誘拐予告があったからお父様が呼んだ飢狼騎士団が守ってたけど全滅。血の臭いはその所為でしょうね」

「なんですって!?」

「飢狼騎士団ってアメリカ魔法協会が誇る最強集団って噂の。そこが全滅……」

 

 アーニャはナナリーが誘拐されたことに怒り、ネギは飢狼騎士団のことを知っていたので全滅したことを聞いて襲撃者の実力に愕然とした。

 そんな中でアスカだけは変わらない。

 

「ナナリーはどこだ」

「分からないわ。探させているけど見つからないの」

 

 問うたアスカはエミリアと名乗った少女を見た。

 腕を組んだエミリアの手が力を込め過ぎているのが目の良いアスカには分かった。

 嘘はないと判断したアスカの行動は早い。

 

「なら、ここにはもう用はない。なにか分かったら教えろ。ネギ、彼女に俺達のホテルと連絡先を」

 

 部屋の隅で怯えている当主とエミリアを見遣ったアスカは、もう用はないと部屋を出ようとした。

 部屋を出ようとしたアスカを手を広げたエミリアが遮った。

 

「待って」

「どけ。邪魔だ」

 

 普段のとぼけた口調でもエヴァンジェリンを前にした力の籠った口調でもない。冷徹とすら取れる口調で言い放ち、エミリアをどけようとアスカは手を伸ばした。

 

「お願い、待って」

 

 横にどけようとするアスカの手にエミリアは縋りついた。その声は泣きそうに震えていた。

 流石に泣きそうな少女を力尽くでどけるのは気が引けたのか、縋りつかれたアスカは躊躇った。

 次の行動をどうするか考えているアスカに、エミリアは手を掴んで俯いたまま口を開いた。

 

「あの子はあなたの何?」

「友達だ」

 

 アスカは一瞬の停滞もなくエミリアの問いに即答する。

 予想もしていない速さの返答にエミリアが顔を上げる。

 

「飢狼騎士団を全滅させたほどの相手なのよ。当主の証言から犯人グループのリーダーは300万の賞金首である闇の魔法使いゲイル・キングス。あなた達にどうにか出来る相手じゃないわ」

「誰が敵かなんて関係ない。ナナリーは友達で、今危険に晒されている。助けなきゃいけない」

 

 腕を抱えたエミリアは振り解こうとするアスカにしがみ付いた。

 

「勝てっこないわ。著名な魔法使いだったお父様があんな状態になっちゃう相手なのよ。勝てるわけないじゃない」

「勝つ必要はない。ナナリーを助けたら直ぐに逃げる」

「助けて、くれるの?」

 

 神様はいないと知りつつも懇願することしか出来ぬ少女の瞳が潤み、震えていた。

 

「助ける」

 

 二言はない、と心の底からの意志を明確に感じるアスカの声音にエミリアは我慢に我慢を重ねていた心が決壊した。

 決壊した心から溢れ出した感情がエミリアの瞳から溢れ出す涙となって現れる。

 

「お願い! あの子を、ナナリーを助けて! 私の所為であの子が攫われたの!」

 

 アスカの胸元に縋りついたエミリアは喚いた。

 

「妹だと思ってた! ずっと素直になれなかったけど、あの子が心配だった! 今度こそ、今度こそちゃんと接するから私にもう一度だけチャンスをちょうだい!!」

 

 胸元に縋りつくエミリアをアスカは振り払わなかった。それどころか泣くエミリアの頭をそっと優しく撫でた。

 

「お願い、ナナリーを助けて!!」

 

 その絶叫は真実の祈り。悪魔が自らの命を引き換えにすれば助かるのだと言われれば、躊躇いもせず差し出す今まで応える者がいなかった願い。だけど、今はここにヒーローはいた。

 

「大丈夫だ。俺に任せろ」

「うっ……ううっ……うえぇえんっ……!!」

 

 エミリアの頬を新たな一筋の涙が伝うと同時に口から小さな嗚咽が漏れる。まるでそれが合図だったかのように、噛み締めていた唇の隙間から嗚咽が漏れ出し、小さな肩を震わせて只管に嗚咽を繰り返す。

 まだ幼い現実を受け止められない脆弱な心。存在しない希望を求め続けたエミリアの願いを受け止めたアスカの背中は明日菜には誰よりも大きく見えた。

 ひとしきり泣いて落ち着いたエミリアは、同年代の少年に縋りついて泣いたことを恥ずかしがりながらアスカから離れた。

 

「なに一人で恰好つけてんのよ。ナナリーを助けるのは私よ」

「違うよ、僕だ」

 

 アーニャが名乗りを上げ、やる気に燃えたネギも続く。

 

「ま、俺達に任せとけ」

 

 三人がいれば出来ない事なんてないと、誰よりも自分達が信じているからこそ出せる魂の輝きを明日菜は眩しそうに見つめた。

 三人の誓いを眩しそうに見ている明日菜と感動している木乃香の後ろで刹那はまだ冷静に事態を見ていた。

 刹那とて、エミリアの涙ながらの訴えに心を揺り動かされなかったわけではない。

 刹那の中では優先順位が決まっている。人に順位を付けるなんて間違っていると分かっていても、きっと木乃香か明日菜を選べと言われれば刹那は前者を取る。

 ナナリーという少女を攫ったのは、ネギが言ったことをそのまま信用すればアメリカ魔法協会で最強と謳われる集団を苦もなく惨殺した三百万の賞金首とその仲間。戦うのではなく救い出すだけというがそこまで上手くいくものか。

 

(本当にこれで良いのだろうか?)

 

 不安は消えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 徐々に日が傾き夕暮れへと差し掛かる頃、遊び疲れた内数人がテラスでのんびりとビーチチェアに座って、トロピカル色満載の飲み物を飲みながら会話を楽しんでいる。

 普段ならばリゾート客で賑わうであろうこの場所も今日は貸し切り。まだ遊んでいる者もいるが、潮騒に音に掻き消されて静かなものだ。

 

「最近の男子は情けないってゆーか、カッコ悪いってゆーか、元気ないところはあるよ」

「まーねー」

 

 交わされる年頃の女の子の会話。

 最初は他愛ない話だったが、女の子だから異性に興味を持つのは当然で、話は何時しか身近な男子の物足りなさに話題が移っていた。

 

「やっぱり男は戦ってないとね。夢に向かってさ」

 

 早乙女ハルナが笑いながら、男とはこうあるべきと何を根拠にしているかは分からないが、とにかく自信満々に言い切る。

 

「目標………夢か………」

 

 ハルナの笑いながら冗談のような口調とは反対に大河内アキラは比較的真面目に反芻するように呟き、自分の周囲にそんな男子がいるかなと考えているのか、それとも自分の夢でも考えているのだろうか。

 

「てことは、付き合うなら年上ってことかにゃー」

「でも先輩とか兄貴も将来何になりたいとかわからんとか、よー言―てたけど………………まぁ、その点、アスカ君やネギ君は元気があってええと思うよ」

 

 明石裕奈が独特の語尾で一つの可能性を話すも和泉亜子が家族と身近な男子の事を言う。

 

「お♪ 亜子もやっとネギくんの良さをわかったかなー」

 

 嬉しそうに反応したのはクラスでも有名なネギ好き人間である佐々木まき絵がネギの評価が上がった事を喜んでいた。

 

「てゆーても二人とも十歳やし…………」

 

 まき絵のように熱中していない亜子は引き気味のようだ。

 普通に考えて十歳にならない二人に対して十四歳と年頃の彼女たちが恋心を抱くのは難しい。一部例外はあるが。

 

「まあねー。年下ってゆーのがネックかも」

「そっかなー。今は子供だけど、一応社会人だよー」

 

 年下というだけで敬遠するのをまき絵は不服そうに言う。

 その場にいる全員の視線が自動的に揃って少し離れた席でのどかとあやかと談笑するネギと、桟橋の端っこで足を下ろして並んで座っているアスカとエヴァンジェリンと明日菜へと向けられる。

 日が沈み始めた空、そしてそれを反射する海は昼とはまた違った美しさを見せる。太陽が今まさに水平線に差し掛かっており、光も更に赤くなっていった。潮の香りを孕んだ風を頬に受けながら沈みゆく夕日に照らされて姿は子供とも大人とも違う色気を感じて、僅かに顔を赤らめる少女達。

 

「年下も良くない?」

「確かに」 

 

 余韻の残る少女達は一様に頷くのであった。

 

「こらぁ! サボってないでバーベキューの準備を手伝いなさい!!」

 

 怒り心頭といった様子のアーニャに、少女達とアスカ達は慌てて立ち上がるのだった。

 

 

 

 

 

 日が沈めばバーベキュー。当たり前のことだが昼の海とは、まったく印象の違う世界がそこにあった。

 焼け付く鉄板のようだった砂浜は今は冷たく、澄んだライトブルーの海は濃紺にその色を染めて、見ているだけで飲み込まれそうな威圧感と共にそこにある。

 昼間に目一杯遊んだので御飯を催促するお腹の音が引っ切り無しに鳴り響き、口の中で溢れ出す唾液が止まらない。

 空腹に負けて誰もが一斉に食い物に群がった。

 

「このトウモロコシおいしいですね」

「せやな。絶妙な焼き加減、ほど良い甘さが美味しさを引き出しとるわ」

 

 よく焼けたトウモロコシに齧り付きながらのネカネの言葉に千草も頷く。

 

「こっちの肉も焼けたぞ」

「どうぞ」

「野菜ももっと食べるよろシ」

 

 Tシャツを肩まで捲り上げた新田と超包子の四葉五月と超鈴音が次々と焼いた肉と野菜を捌いていく。何人かの生徒が交代で下拵えが事前にされた食材を網に乗せているので流れが途切れることはない。

 焼く係も交代制で、次はネギと談笑している雪広あやかと那波千鶴、村上夏美の三人となっていた。

 皆でワイワイとバーベキューを食する中で、端っこで話をしていたアスカとエヴァンジェリン。

 

「ゲイル・キングスか。やはり知らんな。茶々丸はどうだ?」

 

 食欲を刺激する肉の焼ける美味しそうな匂いを嗅ぎつつ、串に刺さった肉を噛み切ったエヴァンジェリンは首を横に振った。

 食事を取る必要のない茶々丸は主であるエヴァンジェリンの分の取り皿を持ちつつ、頭の中にあるコンピュータで検索をかける。

 

「データに該当有り」

「話せ」

「はい、主にヨーロッパを拠点として活動する高額賞金首の一人です。魔法使いと目されていますが目撃者が皆無ですので戦闘スタイルは不明。一説には数百人が暮らす町を一夜にして壊滅させたとの情報もあります」

「目撃者がいたとしても消すタイプか。仲間の情報は?」

「二十年前から少年を伴っています。現在も共に行動しているという情報もあります。名前はフォン・ブラウン、得物はハルバートなので戦士タイプかと。町を壊滅させた一件にはこの人物も関わっているものと思われます」

 

 茶々丸から情報を聞いたアスカは噛んだ歯の間で行儀悪く串をプラプラとさせつつ、闇夜で見えない水平線を見つめていた。

 

「アメリカ魔法協会所属の飢狼騎士団を殲滅した者達が今回の敵か。全く貴様らは騒動が好きだな」

「好きで巻き込まれてるんじゃない」

「友達を助けるために首を突っ込もうとしている男の台詞ではないぞ」

 

 分が悪くなって桟橋に置いていたジュースを手に取ってお茶を濁すアスカを見たエヴァンジェリンはひっそりと笑う。

 しかし、直ぐに笑みを引っ込め、真剣な表情になった。

 

「敵の戦力は未知数。分かるのはリーダーの名前だけ。危険が多すぎる。今回は手を退け」

「そういうわけにもいかない。もう決めたことだからな」

「目撃者を消すような相手だ。私のように慈悲を与えてくれる相手ではないのだぞ」

 

 春先に戦ったエヴァンジェリンは、生かしたまま血を吸わねばならなかったので元からアスカ達を殺すつもりはなかった。だが、今回の相手は阻んだ飢狼騎士団十数人を惨殺している。

 噂とはいえ、数百人が暮らしていた町を壊滅させた男がいるのだ。慈悲など期待するだけ無駄だとエヴァンジェリンは忠告していた。

 

「心配してくれるのはありがたいけど、ナナリーと昔に約束したんだ。守るってな」

 

 顔を上げて串を吹いたアスカは、重力に従って降りて来た串を人差し指と中指でキャッチしながら笑う。

 

「約束は守るもんだろ」

 

 な、と同意を求められるとエヴァンジェリンは抗弁しにくい。

 ナギが呪いを解きにくるという約束を信じてエヴァンジェリンは十五年も待ち続けた。だからというわけではないが、エヴァンジェリンは約束を重んじる。よほどの理由が無い限り、約束を破ることを認める気は無い。故に、約束を守ろうとするアスカに抗弁する言葉は出しにくい。

 

「百歩譲って助けに行くのは認めてやろう」

 

 エヴァンジェリンにとっては、ナナリー・ミルケインという少女がどうなっても心底どうでもいい。

 テレビのニュースに事故の犠牲者に感情移入が出来ない様に、知り合いの知り合いに気を回せるほど博愛主義でもない。

 知り合いが、アスカが自ら危険に身を投じるとなれば話は変わって来る。

 

「私ほどではないとはいえ、敵は高額賞金首だ。爺を通してタカミチを呼んだ。奴が来るまで下手な行動はとるな」

「タカミチは魔法世界に出張に行ってんだろ。よく連絡が取れたな」

「メルディアナが頑張ったそうです。修行先での把握が甘かったと責任もありましたので」

「爺さんも苦労したろうに」

 

 祖父の苦労を慮るわけでもないだろうが、イギリスがある方向を見たアスカは黙祷を捧げた。

 呑気な反応をするアスカに、エヴァンジェリンは静かに告げる。

 

「奴がここに来るまで三日はかかる。それまで待て」

「待てない」

「待てと言ってるんだ!」

 

 聞き分けのないアスカにエヴァンジェリンはいい加減に堪忍袋の緒が切れた。

 大声にバーベキューをしたクラスの面々が顔を向けるほどだったが、エヴァンジェリンが本気の睨みを利かせると物の見事に全員が顔を逸らした。

 ふん、と鼻を鳴らして声のトーンを落とす。

 

「確かにお前達の実力は大抵の相手ならば圧勝できるだろう。だが、同時にお前達程度では敵わぬ相手もまた大勢いることも理解しろ。今回の敵は情報が少なすぎる。軽挙妄動は慎め」

「悪い。それでも俺は待てない」

「この……っ!」

 

 諭すように言うもアスカは聞き届けない。余計に頑迷な表情になって固辞するだけだった。

 分からずやに腕を振り上げたエヴァンジェリンだったが、当のアスカが受け入れるようにガードもしない姿を見れば怒りの向き所を失う。

 

「悪いとは思ってる。心配してくれるのも有難い。でも」

 

 アスカは拳を握っていた。

 エヴァンジェリンにぶつける為ではない。己の誓いを再確認するためだ。

 

「これは昔に決めたことだ。今もきっとナナリーは俺を待っている。敵が強いからって変えるつもりは、ない」

 

 どんな理不尽が待っていようとも、どんな巨大な敵が待っていようとも、そのぎっちりと握られた拳のように行動を定めているアスカは己の意志を変えるつもりがない。

 きっと死ぬその時もアスカは拳を握っているだろうと、他人であるエヴァンジェリンにさえそう思える眼差し。

 

「…………お前達親子は本当に良く似ている」

 

 先に折れたのはエヴァンジェリンの方だった。

 

「親父にか?」

「ああ、奴も決して譲れぬ時に同じ目をしていた。私と戦った時もネギ坊やも同じだったな」

「そっか」

 

 へへ、とアスカは父と同じ目をしていたと言われて照れくさそうに笑って鼻を擦る。

 年相応な姿に和むものを感じたエヴァンジェリンは、ゴホンとこちらも照れ隠しに咳払いをして思考を動かす。

 

「奴らの目的であるカネの水とは聞いたことがないが。茶々丸」

 

 知識でも並みの魔法使いなど歯牙にもかけないエヴァンジェリンであっても聞いたことのない単語。

 主の意向を感じ取った茶々丸はネットに繋いでデータを検索する。

 

「データに検索有り。ハワイの神話に出てくる四大神であるカネが生み出したと言われる死んだ人を蘇らせることが出来る水であり、生者ならば不老不死を齎す水とも言われています」

「また始皇帝の同類か」

 

 可能性の段階ではあるが敵の目的が数多の権力者が求めた不老不死かもしれないとなると、途端にエヴァンジェリンは不機嫌になった。

 

「不老不死に成りたがる者は多いが成ってみればこんなものは永劫に解けぬ呪縛だと思い知る。成りたがる者の気が知れん」

「そういや、エヴァも不老不死だっけ。吸血鬼になったら俺もそれだけ強くなれるもんなのかね」

「確かに強くなれるだろうが、こんなものは呪いだ」

 

 吸血鬼というものは一種の呪詛として存在を定義づけられる。例えばアンデッドならば魂の奥底に刻まれた呪が、被術者に死後の安寧すらも許さない。儀式でとはいえ、人を吸血鬼化させるほどの呪詛ならば、肉体を消滅させただけで解呪できるとは限らない。

 永遠に生きるとは、永遠に狂い続けることと同義である。怒り、哀しさ、後悔、絶望、人を壊してしまうものなんていくらでもあるのに、永遠の寿命を持ったら、ずっと正気でいられる可能性はゼロである。

 おかしくなる機会は幾らでもあるから、一度狂えば命ある限り狂いっぱなし。これが永遠という名の呪い。如何なる非業の死、如何なる不慮の最後、如何なる無念の末路を迎えようとも永遠の生を宿命付けられるよりも幸いである。永遠という言葉の意味をよくよく考えてみるといい。永遠という言葉の重みを、よくよく知るといい。

 死もまた一つの救いの形であると成ってから気づく。

 

「私が吸血鬼になったのは十歳の頃だが、当時は神を呪ってこんな姿にした男への復讐をしたものだ。この姿で生きていく力を得るまでの数十年が最もきつかった。最初の頃は吸血鬼らしい弱点も残っていたしな」

 

 自分の胸に積もった想いを、エヴァンジェリンは素直に告白していた。

 

「楽しいと感じる時はある。けど、それも長い人生からしたら一瞬だ。必ず別れは来る」

 

 過去には身を焦がした熱情ですらやがては失われ、気づいたところでもう手に届くところにないのだという唐突な喪失感。終われず、何時までも道を歩かされるのは地獄と変わりない。

 この世は地獄だと言った者がいるが正にその通り。終わりのない吸血鬼であるエヴァンジェリンにとってこの世こそが終端だった。

 

「不老不死なんて想像するほど良いもんじゃない。それでもお前は吸血鬼に成りたいのか?」

「…………」

 

 アスカは答えなかった。

 想いが深ければ深いほど到底、誰にも理解はしてもらえないだろうという恐れが先に立って、人は沈黙を金とするのだ。その決意を秘することがエネルギーの源となるか。秘すること、その行為が制約だから。

 

「一つだけ言わせてくれ」

「なんだ?」

「別に吸血鬼に成りたいなんて思ってことはないぞ」 

「は?」

 

 アスカの性格から考えて想定していた返答とは全く違った返答に、エヴァンジェリンは思わず馬鹿になったように疑問符を上げてしまった。

 当のアスカを見れば、自己語りをしたエヴァンジェリンから心もち視線を逸らしながら、体が動けば気まずそうに頬を掻きたそうな雰囲気だった。

 

「いや、さっき吸血鬼になったら云々と言っていたではないか」

「強くなれるならってだけで、ぶっちゃけ不老不死はどうでもいい。ああでも、戦うには便利かなとは思ったけど、なまじ死なないから防御を怠りそうか。じゃあ、やっぱいいや」

 

 なんとも軽い仕草で吸血鬼に成ることを諦めたアスカ。やっぱいいやで済ませてしまえるような一大事ではないのに最後まで軽かった。

 

「始皇帝を始め多くの権力者が欲した不老不死を捨てる理由が軽すぎるぞ貴様!」

「て言われてもな」

 

 とんと興味のなさそうなアスカに、エヴァンジェリンは深い溜息を吐いた。

 横髪を払いのけて、逆に笑顔を浮かべる。

 

「お前はきっとそのままの方がいい」

 

 言っている意味が分からないと動けば頭を捻っていただろうアスカに、このように変な方向に純粋なのは逆に笑いを指そう。

 

「人生に苦労するだろうがな」

「どんと来いだ」

 

 戦っている時、抗っている時、アスカは何時もより自分の存在を実感できる。闘志を燃やしている時こそ充実してしまうなんて、どこかまともではないのだろう。

 時代が違ったら、もしくは生まれる家が違ったら、アスカは世界を騒がす大悪党だったかもしれない。それとも、体制に反旗を翻すテロリストだろうか。それでもきっと、どんなアスカであっても助けを求めている誰かの為に戦っていることは間違いない。だからこそ、恐れることなく堂々と歩むことが出来る。

 どれだけ苦難の道であってもアスカは自らの意志でこの道を選んだ。そのことに後悔はない。どれだけの苦難が立ち塞がっても、迷いはしても絶対に足を止めない。それだけがアスカの誇りだった。

 

「しっかし、誘拐犯がどこにいるのかが分からなくちゃどうしようもねぇんだよな」

 

 と、色々と決意を込めながらも動こうにも動きようがない状況に情けない表情を浮かべたアスカは、そのまま後ろ向きに倒れ込んだ。

 頭の後ろで腕を組んで夜空を見上げるアスカを、エヴァンジェリンが実力行使までして止めないのはここに理由があった。

 本当ならば今にも飛んで行きたいところだが目的地が分からないのでは意味がない。歯噛みをするようにして焦っているアスカを見たエヴァンジェリンは安心していた。

 でも、エヴァンジェリンの願いは何時だって叶わない。

 

「当てならある」

 

 言ったのはバーベキューの食べ物を食していない様子の真名だった。

 

「わぉ、絶景」

 

 水着の上にパーカーを羽織った真名を真下から見上げたアスカは下手くそな口笛を吹いた。

 横になったアスカの視線では、学年平均を遥かに凌駕するスタイルの中でも特に目立つ胸が遮って真名の顔が見えない。股下デルタのほど良い肉付きが異性に興味の薄いアスカすら引き寄せる魅力を放っている。

 

「む」

 

 露骨な反応を示したアスカに真名は暗がりで分かりにくいが僅かに頬を染め、自慢しているのかと内心で怒り満載で般若顔になっているエヴァンジェリンから離れる意味もあって五歩ほど後退する。

 

「君が欲しい物はここにある」

 

 十分な距離を取ってから一定距離以上は近づかずに、そこから名残惜しげに体を起こしたアスカに向かって紙きれを投げた。

 風に流されそうな紙切れは奇妙なほど真っ直ぐにアスカの手元へと伸びて来る。

 闇夜に淡く照らされた松明だけは見えにくい紙切れをアスカは捕まえる。素の能力で飛んでいる蠅を箸で捕まえることの出来るアスカには容易い芸当だった。

 アスカが紙片を開くと、どこかの住所と「アスカ・スプリングフィールドへ」と書かれていた。

 

「これをどこで?」

 

 真名が近くで二人の話を聞いていたのは分かっていたので、ならばこれはそれに纏わる話と考えるのが自然。

 つまりは、誘拐犯が潜伏されていると目される住所である。

 

「昔馴染みが持ってきた。今の君には必要だろう」

「龍宮真名、貴様……っ!?」

 

 怒りを見せるエヴァンジェリンに真名は固い表情のまま何も言わなかった。

 背を向け、盛り上がりを見せるクラスメイトの下へ歩き始める。

 

「詳しい事情は知らん。だが、健闘を祈る」

 

 それだけを言い残して、背中に拒絶だけを残して真名は去っていた。

 目を丸くしたアスカの疑問とエヴァンジェリンの怒りだけを置いて。

 

「これは行かねぇわけにもいかねぇだろ」

「だが、それが誘拐犯の現在地とは限らん。そも、何故龍宮真名が知っているというのだ。昔馴染みが持ってきたというのも怪しすぎる。思惑が分からん以上は下手に動くのは愚策だ」

「手掛かりすらない状況で可能性があるなら十分だ。悪い」

 

 止めようとするエヴァンジェリンを振り切るようにアスカは立ち上がった。

 

「じっとしてることなんて俺には出来そうにない。行くだけ行ってみる。無理そうなら直ぐに引き返すさ」

 

 真名と同じように歩き出したアスカの背中がやけに遠く見えた。

 手を伸ばしても届かない。まるで悪夢で見る遠ざかってゆくナギの背中のようだった。

 

「心配すんなって。直ぐにナナリーを連れて帰って来る」

 

 アスカは顔だけを振り向いて笑って言ったのだった。

 エヴァンジェリンは一歩も動けないまま見送ることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホテルの屋上で、エヴァンジェリンは茶々丸と共に真名に渡された住所に向かったアスカ達を待っていた。

 

「遅い」

「まだ一時間も経っておりません、マスター」

 

 アスカ達がホテルを出てから一時間も経っていない。

 屋上に着いた瞬間から貧乏ゆすりをしたり、あちこち歩き回ったりと落ち着きのないエヴァンジェリンに冷静な茶々丸は告げた。

 

「エヴァちゃん。ちょっとは落ち着いてくれない。こっちまで移りそう」

「うちも正直、勘弁してほしいなと思う」

 

 エヴァンジェリンと同じく行くことが出来ず、もしくは同行を拒否された木乃香と明日菜がエヴァンジェリンに言った。

 落ち着きがないのは彼女らも同じだったがエヴァンジェリンは比ではない。遮蔽物のない屋上なので、落ち着きのないエヴァンジェリンはどうやっても視界に入ってしまうので気になって仕方がないようだった。

 

「知るか。文句があるなら部屋で待ってろ」

「千草先生に無理言うて身代わりの札を遣わしてもろうたのに、今更戻るなんて無理やって」

「エヴァちゃんも同じことをしてもらってるのに、もう忘れちゃったの」

「忘れてはいない」

 

 注意を受けた文句に言い返すが、実際にはアスカ達が心配で忘れていたのでそれ以上の反論は出来なかった。

 

「まあまあ、姉さん方。ここはペット扱いで空輸されたのにホテルで忘れられてた俺っちの顔に免じて落ち着きましょうや」

 

 険悪なムードが立ち込め始めた三人の間を取り持ったのは、飼い主扱いになっているネギにすら忘れ去られてゲージに入れられたままホテルにずっと残されていたアルベール・カモミールである。

 実際のところ、アーニャはカモの存在に気づいていたのだがナナリーのこともあったし、海水浴を楽しんでいる生徒の為に下着泥棒の前科がある獣を野放しには出来なかったのである。ネギ・アスカ・ネカネは素で忘れていたのは余談である。

 カモの定位置にもなってきた明日菜の肩の上から放たれた自虐とも取れる取り成しで三人は矛を収める。

 

「ちっ」

 

 矛を収めながら盛大な舌打ちを忘れないエヴァンジェリンに、温厚な木乃香の表情にも怒りにも似た感情が走ったが長い息と共に吐き出した。

 

「集団転移魔法符を用意した顔に免じてこの場にいることは許してやる。だが、これ以上、何か言うなら問答無用で叩き出すから覚悟しておけ」

 

 そうなった場合、実力行使を行うのは茶々丸になるのだがエヴァンジェリンはそのことは一言も言わずに顔を逸らした。

 べー、とエヴァンジェリンが見ていないことを良いことに明日菜は舌を出す。

 茶々丸は今のは主が悪いと明日菜の不躾な行動は見ないことにした。

 

「なあ、しゅうだんてんいまほうふってなんなん?」

「私も気になってた。ネギに渡してたけど、なにか意味があるの?」

「お前達知らないでここにいたのか」

「茶々丸さんがここに戻って来るって教えてくれたから」

 

 二人が理由も知らずに屋上に来ていたのかと呆れていたエヴァンジェリンだったが、その行動の原因が従者である茶々丸にあると知って白い目を向けた。

 

「おい、茶々丸」

「お二人にアスカさん達が何時戻って来るのかと聞かれましたので、戻って来るとしたらマスターがいる場所と申し上げただけです」

「そこはもう少し気を…………いや、やっぱりいい」

 

 気を使えと言いたかったエヴァンジェリンも、純粋に聞かれたから答えただけだろう茶々丸を責めるのは間違いと気づいた。

 誰にも言わないでおくべきなら口止めをしておくべきで、感情の情緒がまだまだ子供レベルの茶々丸に求めるのは酷なことであったからだ。

 

「姉さん達は魔法を知ったのは最近だったんだっけか。じゃ、一丁説明するか」

 

 明日菜の肩から屋上の床に降り立ったカモは、片手にチョークを取り出す。

 小さい体ながらもチョークで床に大きく絵を描いていく。

 

(ゲート)っていう転移魔法を誰でも使えるように呪符化したのが転移魔法符だ。普通はこの手の魔法は専用の施設を使うのが一般的で、個人で使えるとしたら一握りの超高位魔法使い…………エヴァンジェリンなら使えるんじゃねぇか?」

「当然だ。私なら目的の相手がどれだけ離れていようともそいつの影に転移できる」

「ていう、まあこういう例外は横に置いておくとしてだ」

 

 普通の人間が想像する一般的な魔法使いの姿に×印を書いて、横に書いたデフォルメしたエヴァンジェリンの姿に〇をしたカモは、これも魔法なのか一瞬でチョークの跡を消す。

 

「超高位魔法使いでなくても普通の魔法使いでも空間転移が使えるようにしたのが転移魔法符ってわけだ。使い手次第で目視している範囲までから、とんでもない遠距離に転移できるって優れもんだ」

 

 普通の一般魔法使いの絵に一枚の紙が追加され、少し離れた場所に同じ姿が描かれた。転移をしたということを現したいようだ。

 

「へぇ、便利じゃない」

「だから、値段も張ってよ。一枚日本円で八十万もするんだぜ」

「は、八十万……結構するのね」

「うちの着物ぐらいやね」

 

 転移魔法符は便利な分あってお金もかかる。

 どれだけのバイトをしなければならないのかと新聞配達の時間数を計算しかけた明日菜と違って、お嬢様である木乃香のスケールは大きすぎた。

 生まれた家の差に明日菜が内心で忸怩たる思いを抱いたりもする。

 

「集団転移魔法符は字面から分かるように、個人でしか使用できない転移魔法符を集団で使えるようにした代物だ。値は張るが集団で行動する時には重宝するぜ」

 

 今度は先のエヴァンジェリンのようにデフォルメされたアスカ達の姿が描かれ、集まったアスカ達の間から上に伸びた手に握られた呪符が発動した描写と転移した姿が描かれる。

 何気に凝った趣向に明日菜達どころかエヴァンジェリンですら感心の声を上げた。

 

「ちなみにその集団転移魔法符は幾らなの?」

「聞きてぇのか?」

「…………止めとく」

「うちはちょっと聞きたい」

「止めて木乃香。これ以上は私の心を折らないで」

 

 お嬢様の木乃香とは違って、勤労学生の明日菜にはスケールの大きすぎる金額の話であった。

 聞いているだけで心が挫けるのに、集団転移魔法符の値段を木乃香が笑って受け流してしまったら明日菜は再起不能に陥るかもしれない。

 悲壮な明日菜の顔に残念とばかりに木乃香は聞く気を抑えた。元よりアーニャらから出世払いを約束されているといっても、溜め込んでいた財産を全て使い尽くして集団転移魔法符を買ったカモに言えるはずがない。

 二重の意味でショックを受けずに済んだカモと明日菜に、エヴァンジェリンは鼻を鳴らした。

 

「普通の転移魔法符と違って集団転移魔法符には転移の為の目印が必要になる。転移魔法符を使おうと転移には目的地のイメージが必要だからな。集団ともなればイメージは合致しない。その為の目印がこれだ」

 

 言ってエヴァンジェリンが取り出したのは、ネギが受け取った集団転移魔法の対となる呪符であった。

 

「坊や達四人と刹那。いや、助け出したとしたら五人か。そんなのがいきなり部屋に転移してきたらどうなるのか想像ぐらいは出来るだろ」

「この広い屋上ならば問題ないとマスターは考えられ、決して一番にアスカさんを迎えたいというわけではないと何度も」

「このボケロボ!? いきなり何を言い出すか!」

「マスターが言ったことでは?」

「ぐっ」

 

 無垢な表情で首を傾げる茶々丸に、彼女の首元に飛び上がってしがみ付いたエヴァンジェリンの胸に図星の矢が突き刺さった。

 どうもエヴァンジェリンと共にアスカと一緒に過ごしている所為で、変な影響を受けてしまったようだ。

 背中に突き刺さる明日菜と木乃香から疑念の視線の眼差しに、エヴァンジェリンは茶々丸の首元から降りてゴホンと咳払いをする。

 

「ま、まあ、アスカ達が戻って来るとしたらこの屋上だ。お前達も大人しく待つように」

 

 心持ち明日菜達の視線から顔を逸らしながら言うエヴァンジェリンの姿を見たら、最近とみに主人が真祖の吸血鬼の誇りをどこかに放り投げていることを嘆いているチャチャゼロは身を投げたかもしれない。

 だが、チャチャゼロは誰もいないホテルの部屋で、魔力を封印されているエヴァンジェリンに影響もあって身動きが出来ず、調度品の一つとして半ば放置されているのであった。

 主人の堕落した姿を見るよりは窓からの夜景を楽しんでいる方が百倍有意義と判断したチャチャゼロの選択は正しかったようだ。

 

「せっちゃん大丈夫やろか」

 

 会話が途切れた中で、始めから戦うことを前提としていない木乃香はアスカ達と共に向かった刹那の身を案じた。

 

「アスカとネギ、アーニャちゃんと小太郎がいるんだから大丈夫よ、きっと」

「なんたって切り札の絆の銀があるんだぜ。あれを使ってネスカになれば戦闘力は数倍になる。生半可な相手には負けやしないさ」

「だと、いいがな」

「ちょっと不吉なこと言わないでよ」

「五月蠅い」

 

 既知の魔法関係者は少ないがアスカ達が強いのは、その世界に片足だけでも踏み出した明日菜であっても分かる。

 文句を言った明日菜だが、傲岸不遜が常のエヴァンジェリンのらしくもない不安を露わにする顔を見ては何も言えなくなった。

 持っている集団転移魔法符が反応しないかと見ているエヴァンジェリンから不安が伝染した明日菜は、思わず茶々丸に懇願ともいえる視線を向けた。

 

「大丈夫、よね?」

「…………分かりません」

 

 期待していた返事ではなかった。それが余計に不安を煽った。

 五人の強さを信じたからこそ送り出せた明日菜は、居ても立っても居られない気持ちになってきた。

 その時、ガチャリと屋上に続くドアが開いた。

 明日菜の心臓がビクリと跳ね上がる。

 

「あら、お邪魔しちゃったかしら」

 

 現れたのは呑気な面持ちで現れたのはネカネだった。

 何時ものような、日常のアスカに似た力の抜けた自然体の笑みは、この時も変わらなかった。

 この場合はアスカの方がネカネに似ているのか。

 

「ネカネ姐さん、驚かせないでくれ。心臓が止まると思ったぜ」

「うちも。まだドキドキが止まらんわ」

 

 一瞬息が止まった明日菜と同じように、大きく息を吐いたカモや胸に手を当てた木乃香が口々に言った。

 

「心臓が止まっても大丈夫よ。これでも私、ライフセーバーの資格を持ってるから」

 

 何故にライフセーバーの資格を持っていたら心臓が止まっても大丈夫なのか。エヴァンジェリンも含めて全員が内心で首を捻っていると、ネカネの後ろから千草が現れた。

 

「なんでライフセーバーの資格なんか持ってんねん」

「アスカ達って良く怪我するんですよ。だから、資格を持っておこうって」

「だからなんでライフセーバーやねん。相変わらずあんさんの思考は訳が分からんわ」

 

 ニコニコと変わらずの笑顔のネカネのある意味での底知れなさに千草は、慣れた感じのある長い溜息を吐いたのであった。

 諦めきった様子から普段から二人の会話はこのような感じであるらしい。

 

「ネカネの姐さんは平常運転だな」

「前からこうだったの?」

「始めて会った時はこうでもなかったんだが、兄貴達の相手を長年している間にエキセントリック化してきて天然まで磨きがかかっちまったんだよ。本当、なんでこうなっちまったんだか」

「あらあら、カモ君ったら人聞きの悪いことを言って」

「ひぃぃいいいいいいいいいいいい!?」

 

 昔を思い出して哀愁を漂わせていたカモの尻尾を掠めるように飛んで行ったのは銀のフォーク。何かを振り切った体勢のネカネの姿を見れば誰が投げたかは察しがつく。

 首の後ろに回り込んで震えながら身を縮めるカモの姿は、こそばゆいことこの上ない明日菜にしても哀れを誘うものであった。

 

「あの、ネカネさん?」

「なにかしら、明日菜さん。ところでカモ君を渡してくれる? 久しぶりに折檻しないと」

「いえ、なんでもありません。ささ、お代官様こちらに」

「姉さん!? 俺っちを売るなんてアンタには地獄が待ってんぜだから助けて下さいお願いします!!」

「ごめん、カモ。人にはね、恩オコジョを売ってでも生きなければならない時があるのよ」

 

 何故か陰影がついたネカネの顔に途轍もない圧迫感を感じ取った明日菜は、首の後ろにいる生贄を悪鬼へと差し出して身の保身を図ろうとした。

 差し出されたカモは許されない裏切りをした明日菜を罵倒しながらも、途中から助けを求める懇願に変わっていた。

 ネカネ(悪鬼)を前にして、恩人ならぬ恩オコジョを売り渡した明日菜はひっそりと涙を拭った。

 

「きょ、去勢だけは……」

 

 ネカネに手渡されたカモは、悪鬼が持っている銀色に輝くフォークに玉を縮こまらせた。

 カモの哀願によってネカネの顔を覆っている陰影が濃くなった。

 

「さよなら、カモ君。これから貴女はカモちゃんになるの」

「いやぁああああああああああああああああああああああああああっっっっ!!!!!!!!!!!」

 

 汚らしい悲鳴が鳴り響いた。

 見ていられなくて明日菜が顔を逸らした先で、千草が木乃香に話しかけていた。

 

「あんま夜更かししたらあかんで。若い時は良くても年行ってから肌に来るさかいな」

「千草先生の経験談なん?」

「失礼な。この玉のお肌をよう見てみ。人に自慢できるほどやで」

「ほんまや。ピッチピチ」

「これでも気遣ってねん。知り合いに夜遅くまで鍛錬してる人がいてな。うちの一回り上やねんけど、もうお肌の曲り角に」

「うちも知ってる人なん?」

「麻帆良におるし、名前ぐらいは知ってるんちゃうか」

 

 こちらはこちらで女同士のかしましい話に突入していた。

 最初は千草が長の娘である木乃香にへりくだっていたらしいが、木乃香の性格が性格なのでさっさと地を見せたと刹那に聞いていた明日菜は、この人も大概変わり者だなと本人が聞いたらガチで泣きそうなことを考えていた。

 その時、ネカネと千草との会話に入らなかったエヴァンジェリンが顔を上げた。

 

「来た!」

 

 全員が一斉に声を発したエヴァンジェリンの方を見た。

 エヴァンジェリンが持つ集団転移魔法符が薄く光り、十メートルほど先の床に半径五メートルほどの光の五芒星が浮き上がった。

 一際大きな光を放つ五芒星に明日菜達の目は焼かれた。

 

「きゃっ」

 

 咄嗟に腕を掲げたが口から出る悲鳴は抑えられなかった。

 まるで突然こちらに見たライトを直視してしまったように目が眩んだ明日菜達は、寸瞬して視界を取り戻す。

 そこには期待していた通りの姿はなかった。

 サイドポニーの少女の右肩近くが切り裂かれ、そこから大量の血が流れていた。

 白のTシャツを着た犬耳の少年はあちこちに何かで穿たれた跡があった。

 常ならば杖を持っている少年は、大事な物のはずなのに今は床に転がしていた。何故ならば、その腕に血塗れの双子の弟を抱き抱えていたから。

 少女達と女達はそれを見てしまった。

 

「見たらあかん!」

「……ぁ……」

 

 それの惨たらしさに逸早く気付いた千草が視界を遮るも、その行動は既に遅く木乃香は全てを見てしまった。

 青のシャツを着ていた少年の全身は紅に染まっている。

 左肩から右脇腹まで走っている刀で切り裂かれたような跡は、木乃香の位置からでは少年の内側にある内臓さえも見るほどに深かった。

 意識を失って口から血を垂らし、倒れている体の下には流れ落ちた血が海といえるほどに広がり、今も出血が続いてその範囲を広げている。血を流し過ぎて真っ白になった顔色は最早、死体と言われても信じてしまいそうだった。

 その体の持ち主は、数時間前まで共にいたアスカ・スプリングフィールドである。

 

「ああぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――――――――っ!!!!!」

「っ!…………姉さん、落ち着いてくだせぇ!!」

 

 木乃香と同じように明日菜がパニックを起こしかけていた。気づいたカモが必死に声をかける。

 

「なにがあった!? アーニャの小娘は!?」

「…………僕達は失敗したんです。アーニャは」

 

 喚くよりも早く走り寄ったエヴァンジェリンが問い質すと、アスカの血で服を染めているネギが言葉を詰まらせた。

 

「いやあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――――――――――――っ!!!!!!!!!!」

 

 木乃香は現実を認めることが出来ず、周囲に叫び声を響き渡らせた。

 

「アーニャは敵に捕まりました」

 

 事態は最悪の結末へと堕ちて行った。

 

 

 

 

 




敵キャラその3(オリ、ではない)

名 前:月詠
年 齢;13,4
職 業;剣士(二刀流)
人間性:刀に魅入られた人
備 考:神鳴流の技を使うが教えを受けたことはない。時坂家で過ごしていた。天涯孤独。
戦闘力;1500以上


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第15話 誤算と失敗と

 

 

 

 

 悲鳴を上げた木乃香の叫びが響き渡る屋上で最も最初に平静を取り戻したのは、アスカと一番関係性の薄い天ヶ崎千草であった。

 

「どきぃ!」

 

 右往左往するばかりのエヴァンジェリンを突き飛ばした千草は、ネギが抱えている意識のないアスカの傍に片膝をつけた。

 薄手のスーツの胸ポケットから呪符を取り出して傷部分に押し付ける。

 千草が気を送り込んだ呪符が光り、出血の勢いが弱まったがそれ以上の効果は見られない。

 

「あかん。うちの回復用の呪符やとここまでの傷を治すことは出来ん」

「そんな!?」

「吸血鬼! アンタ、治癒魔法は!」

「わっ……わわ、私は不死身だから治癒系の魔法は苦手なんだよ」

 

 苦渋を滲ませた千草にネギが叫びを上げるが、彼女はそんなことには拘わずにエヴァンジェリンを強い視線と共に詰問する。

 狼狽えるばかりのエヴァンジェリンの返答に舌打ちする。

 エヴァンジェリンは不老不死の吸血鬼なので、自分自身の傷は簡単に再生できる。昔には仲間といったものもごく少数ながらいたが過ごした時間は短い。なので、治癒系魔法は習得はしているものの得手とはしていない。

 精々が魔法学校卒業しているネギ達よりはマシという程度しかない。

 

「ちっ、血が止まらん」

 

 血に濡れるのにも構わず新たな治癒用呪符を取り出して発動するが、やはり効果は薄い。

 治癒を専門とした陰陽師ではない千草が作った呪符では、ここまでの即死していないのが不思議なほどの大怪我に使っても効果は薄い。

 このままでは遠くない時間に出血死するのは目に見えていた。

 ネギは駄目、エヴァンジェリンも駄目と頭を高速で働かせた千草は視線を巡らせて、呆然自失とした様子で尻餅をついているネカネを見た。

 身内がこれほどの状態なので呆然自失になっても無理はないが、今は猫の手でも借りたい。

 

「お姉ちゃん!」

 

 千草の考えを読み取ったネギが、茶々丸がアスカを抱えてくれているのを任せてネカネの下へ走る。

 ネカネの下へ走ったネギは改めて彼女の顔を見てギョッとした。

 顔色を失って、目にも光が無い。六年前の故郷が滅びた直後のような危険な状態だった。

 だが、今はアスカの方が先決である。アスカの血に染まっている手を振り上げた。

 

「ごめん、お姉ちゃん!」 

「痛っ」

 

 ネギは力一杯にネカネの頬を張った。

 張られたネカネは痛みに我を取り戻して、改めてアスカの惨状を目撃する。

 

「ア、アスカ……」

「お姉ちゃんは治癒魔法が得意でしょ! 早く、アスカが死んじゃうよ!」

 

 死ぬ、というネギの言葉がまだ顔色が悪いネカネを動かした。

 腕を引っ張るネギの手が血に塗れ、張られた頬も血が付着している。アスカのことを思えば自失している暇はなかった。

 ネギに引っ張られるままに立ち上がってアスカの下へ辿り着いたネカネは、自身の杖を呼び出して固く握る。

 

「治癒魔法と干渉を起こしたら大変です。合図をしたら呪符を剥がして下さい」

「分かった」

 

 呪符に気を送り続けている千草はネカネの方を見ずに頷いた。

 この人がここにいて良かったと内心で思ったネカネは杖を手に精神集中する。

 

「行きます」

 

 合図に千草は呪符を剥がした。

 間髪入れずにネカネは詠唱を開始する。

 

「リシ・トル・キ・ラトレ 汝が為にユピテル王の力をここに 大治癒!!」

 

 温かい光がアスカを覆う。

 ネカネの中位治癒魔法によって、半ば失われていた顔色がみるみる血色を取り戻す。だからといって、一気に回復するわけではないが十分な助けになったのは間違いない。

 六年前のことがあってからネカネは治癒魔法を極めようと修練を続けて来た。

 だが、ネカネには治癒魔法の適性は低かったようだ。ネギやアスカもそうなのだから、スプリングフィールドの家系には遺伝的に治癒系統を不得手としているのかもしれない。

 どれだけ努力しても高位の魔法は習得できない。彼女が修得できたのは魔法学校でも習う治癒(クーラ)よりも一段階上の中級治癒魔法のみ。何かの手助けになればとアスカに治癒魔法をかけ続ける。

 

「くっ」

 

 ネカネの治癒魔法では技量が足りないのか、一度は止まった出血が光が消えるとともに溢れ出す。

 

「リシ・トル・キ・ラトレ 汝が為にユピテル王の力をここに 大治癒!!」

 

 再度、中位治癒魔法をかけ続ける。

 何度でも、例え自身の命が尽きようともネカネは治癒魔法をかけ続けるだろう。

 必死というよりも鬼気迫る背中を、ネギ達は祈るように見ることしか出来なかった。

 

「どうするどうする」

 

 ネカネの横で経過を見ていた千草は最悪の事態に陥ろうとしている中で思考する。

 このままでは幾らネカネが幾ら治癒魔法をかけ続けようともアスカは助からない。既に流れた血は出血死に相当する量は流れていて、まだ死んでいないのは偏にアスカの強靭的な生命力の賜物に過ぎない。

 ネカネの治癒魔法であっても最期の時間を先延ばしにしているだけ。いずれは魔力が尽きてアスカに残された時は失われるだろう。それどころかネカネも命すら振り絞って治癒魔法をかけ続けかねない。

 その前に止めたとしても恐らくネカネはアスカが死んだ後を追いかねない。ネギもそこまでいかなくても精神を崩壊させない。それほどにアスカ・スプリングフィールドは彼らの支柱なのだ。

 他に手はないかと辺りを見渡した千草の目は明日菜と手を握り合っている木乃香と、明日菜の肩の上で二人を落ち着かせているオコジョ妖精で止まった。

 脳裏に走るのは陰陽師としての適正を知る為に行った幾つかの検査で出た結果の一つと、停電の夜にネカネから聞いた仮契約のこと。

 この選択を選べば留学を終えて京都に戻っても昇進への道を捨てることになる。

 

「生徒が死ぬて時に四の五の言うてられへん」

 

 一瞬、新田の背中が脳裏を過った千草の中で、逡巡が一瞬ならば行動に移すのも早かった。

 立ち上がった千草は木乃香の下へ走った。

 

「オコジョ妖精、仮契約には対象の潜在力を引き出す効果があるて話やけど間違いないか」

「あ、ああ」

「なら、お嬢様」

 

 困惑している二人と一匹を置いて、千草は木乃香を名前ではなく敢えて敬称で呼んだ。

 

「このままやったらアスカは死ぬ」

「そんな!? どうにかならないの!」

「話は最後まで聞き」

 

 途中で口を挟んできた明日菜を視線で黙らせた千草は、改めて木乃香を見る。

 

「あの子を救える可能性があるのはアンタだけや。ええか、勘違いしたらあかんで。あくまで可能性や」

「うちならアスカ君を助けられるん?」

「この中では一番お嬢様が可能性が高い。でも、その代わりにもう京都に戻られへんようになるかもしれん」

 

 一応は関西呪術協会の長の娘なのだ。関東魔法協会と融和の道を歩んでいるが、西洋の技術で魔法使いと契約するなど御法度である。

 場合にはよっては提案した千草共々に破門される恐れもある。

 木乃香は千草の嘘のない目に一瞬気圧されたが直ぐに唇を引き締めた。

 

「かまへん。お父様は怒るかもしれんけど、アスカ君が死なんなら」

 

 うちはやる、と木乃香は迷いを微かに覗かせながらも言い切った。

 千草は眩しい物を見るように木乃香を見つめた。

 後先を考えないで済む無謀さ、失ってはらない物の為に大切な物を捨てる勇気。実際のところ、失った物の大切さを直面した時、木乃香は後悔するかもしれない。それでも、今この時だけは後悔することはないだろう。

 大人になって、社会人になった千草にはない若さの暴走であり、二度と取り戻せぬ青臭さであった。

 

「なら、ええ。時間はないから手短に言うで…………アスカとキスせえ」

「キス!?」

「そや。細かい説明をしている暇はないで。ネカネも限界や。早せえ」

 

 千草に接吻をしろと言われた木乃香は事情を呑み込めずにいるものの、隣にいる明日菜を見た。

 

「お願い、木乃香。アスカを助けて」

「うん、明日菜」

 

 一瞬明日菜の表情に走った細波。それでも彼女は木乃香の手を握って頼んだ。

 親友のお願いを真摯に受け止めた木乃香は走ってアスカの下へ向かう。

 そこでは尋常ではない汗を流して魔力を振り絞っているネカネと、彼女を支えているネギ、アスカを抱えている茶々丸、見ていることしか出来ないエヴァンジェリン、そして倒れているアスカの周りに魔法陣を描いているカモがいた。

 一心不乱に治癒魔法を使い続けるネカネ以外の面々が希望を込めて木乃香を見た。

 膝をついた木乃香は、どいた茶々丸からアスカの頭を支えた。

 

「アスカ君、しっかり……」

 

 血が溢れているアスカの口へと木乃香は自らの口を落した。

 二人の口が重なった瞬間、木乃香の体から柔らかな淡い光が溢れ、特にアスカの身体を集中して包み込んだ。

 

「っ! こ、これは!」

 

 千草が想定以上の光に気付いて声を上げるが、木乃香から放たれた柔らかな光が、その場に居た全ての者の目を貫いた。

 近衛木乃香は、極東最大級の魔力保持者である。その潜在能力を持ってすれば、例え単なる感情の爆発であっても何らかの効果を発揮することは不思議ではない。

 今回は仮契約というベクトルに導かれて、確実に歩み寄っていたアスカの死の運命を覆す。

 効果はそれだけに収まらず、傷を負っていた小太郎や刹那にも現れた。

 

「うんっ」

 

 光が二人の体を覆い、負っていた傷を癒していく。

 アスカに比べれば傷の浅い刹那は右肩から痛みが消えたので、確認すると傷が消えていた。

 

「傷が……ない」

「俺もや」

 

 時間を逆戻しにするように傷が癒えた二人は不思議そうな顔をして立ち上がり、未だに光を放ち続けている木乃香を見た。

 アスカの方も大詰めだった。

 千草の想定を遥かに超える癒しの力が働いて、真祖の真祖の吸血鬼並みのスピードで傷が元通りになっていく。

 だが、瀕死の重傷者を一瞬で完治させるほどの治癒能力。きちんと術式を整えて施される『魔法』であっても難しい効果を、強引な力技とも言える方法で発揮した木乃香は、代償として潜在する魔力の急激な放出は心身ともに大きな負担を掛け、意識はなくなっていないが体から力が抜けてペタンと尻餅をつく。

 木乃香からアスカの頭を受け取った茶々丸は、膝枕をしながら手を傷一つないアスカの胸に当て、もう片方を口元に近づけた。

 

「脈拍・呼吸共に正常。もう大丈夫です」

「良かったぁ」

 

 茶々丸が表情を緩めながら言った途端に、ネギは腰砕けになったように尻餅をついた。

 

 

 

 

 

 場所をホテルの屋上から千草達女性教師の部屋と移したネギ達一行。男部屋でないのは万が一にも新田が訪問する可能性があるかからで、この部屋ならば下手に人が来ることも無い。

 シングルベッドの一つに寝かされているアスカにはまだ意識は戻っていない。

 血を流し過ぎていることもあって本当ならば病院に運び込みたいところだが今は傷一つないのと傷を負った理由を説明できない。なので千草の造血符を張って様子を見ている状態だった。

 木乃香も力技による魔力の引き出しに違うベッドを使い、魔力の使いすぎてネカネが最後のベッドを使っていた。

 

「なにがあった? 答えろ、坊や」

 

 部屋にある数少ない椅子に座ったエヴァンジェリンは機嫌も悪くネギに問いかけた。

 当のネギはアスカが寝ているベッドの足下の床に直接腰かけて顔を上げない。

 

「答えろと言ってるんだ!」

「マスター、落ち着いて下さい」

「アスカが死にかけて、これで落ち着けというのか!」

「今は休んでおられます。ですから、落ち着いて下さいと申し上げているのです。それでは何も言えません」

 

 怒りに駆られたエヴァンジェリンが答えないネギに掴みかかろうとするが、その手を茶々丸が押さえつける。

 目を覚まさないアスカを見ながらの発言に、さしものエヴァンジェリンも口を噤んだ。

 椅子に荒っぽく座る。

 

「ねぇ、ネギ。本当に一体何があったの? 刹那さんも」

 

 黙っていた明日菜が問うがネギも刹那もなにも答えない。

 なにも答えない二人ではなく、あちこちに穴が開いた服のまま小太郎が口を開いた。

 

「俺達は間違ったんや。敵が強すぎた。アスカは途中で引き返そうとしたのに、俺達が押し切ったんや」

 

 そして強い後悔と共に小太郎はこの数十分前のことを語り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バーベキューで龍宮真名から敵のアジトの情報を得たアスカ達一行は、オアフ島の市街地から遠く離れた外れに来ていた。

 辺りに民家のない寂しい場所に立つ掘立小屋が目的の住所である。

 

「住所の場所はここで間違いないんか?」

 

 協力を求められた小太郎は二つ返事で応えて同行していた。今も多数の椰子の実が成っている木で身を隠しながら目標の場所を見据える。

 

「他に人が隠れそうな場所もないし、結界も張られていない。あそこで間違いないわ」

「近所の人の話だと浜辺の管理人さんが偶に使ってた小屋で、その人が亡くなってからは古いから全然使ってないんだって」

「隠れるには絶好の場所というわけですか」

 

 やる気満々なアーニャ、情報収取をして戻って来たネギ、野太刀を手にした刹那。

 一行の目は掘立小屋に集中していた。ただ一人を除いて。

 ホテルを出た時はアーニャよりもやる気に満ちていたのに、この場所に近づいていくごとに無言になったアスカは、何かが気になるようで先程からソワソワと落ち着かない様子で歩き回っていた。

 

「どうしたの、アスカ? らしくないけど」

「ん? ああ」

 

 気になって問いかけたネギに、アスカは曖昧に笑った。

 しきりに首の後ろを触りながら言い難そうに口を開いた。

 

「なあ、引き返そうって言ったらどうする?」

「ちょっと、いきなり何を言い出すのよ」

「そうやで。こんなところまで来て」

「だよな」

 

 アーニャと小太郎が言った間にもアスカの足は落ち着きなく動いている。

 その所作からネギは嫌な感じを読み取った。

 

「なにか感じるの?」

「違和感つうか、こう首の後ろを撫でるような嫌な感覚がさっきから止まらねぇ。あそこはヤバい」

 

 言う通り首を後ろをしきりに触りながら、目も落ち着きなく彷徨っている。

 これほどのアスカを一回しか見たことがないネギは、今すぐにでもナナリーを助けるべきだとは思うが一抹の不安を覚えた。

 こういう時のアスカの勘は良く当たる。

 六年前の故郷が襲撃を受ける直前も似たようなことを言っていたので、ここはアスカの勘を信じて戻るべきかと考えたが同時にここまで来て戻るべきなのかと逡巡も覚えた。

 その逡巡がこの先の未来を決定づける。

 

「何言ってんのよ。ここまで来て戻れるわけないじゃない。ナナリーが待ってるって言ったのはアスカよ」

「でもな」

「怖気づいた奴はここで待っとったらええねん。俺は行くで」

 

 そう言って小太郎は一歩を踏み出した。後を追って椰子の木からアーニャも出た。

 親友としてナナリーを一刻も早く助け出したいアーニャの気持ちと、アスカにライバル心を持っている小太郎の気持ち。どちらも分かるだけにネギは二人を止めることは出来なかった。

 

「二人が行ってしまいますが、どうするのですか?」

「………………こうなっちまったら仕方ねぇ。止めて聞くとも思えないし、俺の心配が杞憂だってこともある。二人を追うぞ」

 

 刹那の問いに悩んだアスカだったが追う決断をした。

 二人を追うためにアスカ達も椰子の木を出て、気配を消しながら進む。

 

「アデアット」

 

 遮蔽物に身を隠しながら進んでいると、隣からアーティファクトを呼び出す声が聞こえたネギはアスカを見た。

 そちらを向くと同時に飛んできた銀のイヤリング――――アスカのアーティファクトである『絆の絆』を受け止める。

 

「付けとけ」

「え、でも」

「嫌な予感が増してやがる。万が一の時は合体するぞ」

 

 ゴクリ、とネギはアスカの腕に浮かんだ鳥肌を見て喉を鳴らした。

 

「刹那はアーニャのフォローを。俺達は小太郎の方に回る。なにかあったら周りを見捨ててでも逃げろ、いいな」

「分かりました」

 

 ネギとは挟んで反対方向にいる刹那の方を向いたアスカの首筋に浮かんだ汗が、この先にある危険を物語っていた。

 心臓が痛くなるような緊張感の中で、ゆっくりと掘立小屋に近づいていた一行。

 後少しで五十メートルまで距離を縮めようとした正にその時、アスカが愕然とした声を上げた。

 

「この距離で気づかれただと!? やばい、逃げろ!!」

 

 アスカの叫びに驚いて足を止めた一行。

 前方を進んでいたアーニャと小太郎が振り向いた瞬間、掘立小屋から強力な気配が五つ湧き上がった。

 ゾクリ、と心胆を寒しめる圧倒的と言うにも生温い気配に呑み込まれた一行の中で、アスカだけが次の行動に移ることが出来た。

 

「合体!」

 

 アーティファクトの効果を発動させたアスカと状況を理解できていないネギが強制的に合体する。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル 来たれ雷精、風の精 雷を纏いて吹きすさべ、南洋の嵐!」

 

 最強の一撃を放つべく、一瞬で臨界に達した魔力が合体したネスカの両手の間に集まる。

 ネスカ最大の魔法が放たれると思われる場所にはナナリーがいると思われる掘立小屋があった。

 

「なにやってのよ!? あそこにはナナリーが!」

 

 ネスカが何をしようとしているのかを悟ったアーニャが止めようとするが既に遅い。風雷の精霊を押し込めたアスカはその手を振りかぶっていた。

 

「雷の暴風――――――!!!!!!!!!」

 

 ネスカから解き放たれた膨大すぎるエネルギーの激流は、何もかもの存在を許してはおかぬというように事象の全てを粉砕しながら迸る。それらが通る空気は奔騰し、荒れ狂い、もし間に形成すものがあったとしても悉く融解するだろう。

 掘立小屋に向かって走る一条の矢となった雷の暴風は、間にあった椰子の木を一瞬で消滅させて直進する。

 このままでは掘立小屋すら呑み込んでしまうと思われた雷の暴風だが、直前に見えない壁に当たったように斜め上方へと弾かれた。

 

「なに!?」

 

 魔力も気も感じなかった。障壁のような何かに最大最強の魔法を弾かれたネスカが驚愕の叫びを上げる。

 

「来ます!」

 

 この時になって刹那にもアスカが何を感じ取ったのかを悟った。

 刹那が言って小太郎が構えた直後、掘立小屋が内側からの圧力によって押し出されたように粉砕された。

 壁や天井が内側から弾き飛ばされ、その破片に紛れるように飛び出した影が二つ。

 その内の一つが刹那に向かってきた。

 

「えーい!」

 

 飛び出した人影は先行しているアーニャのフォローに行こうとした刹那の跳躍の軌道に合わせるように、両手に持った二刀を構えてそのまま突っ込んでくる。

 

「くっ」

 

 辛うじて反応した刹那は慌てて防御の為にその脚を停めざるを得なくなり、刀と刀が衝突して金属がぶつかり合う甲高い音が響く。

 刹那は刀同士で反発しあって離れ、体勢を崩しながらも素早くバックステップを踏んで現れた第三者から間合いを取る。

 相手は空中からの勢いを殺しきれずにゴロゴロと地を転がり、服についた埃を払いながらゆっくり立ち上がる。

 刹那の視線の先にいたのは、眼鏡をかけた子供の姿だった。フリルやレースの飾りがついたゴシックスタイルのピンク色のワンピースに鍔広の白い帽子。そして眼鏡を掛けた愛らしい容姿とは裏腹に両手には太刀と小太刀が握られていた。

 刹那はぶつかり合った時に、目の前の人物の剣筋に愕然としていた。

 

「何故、貴様が神鳴流を使える!?」

 

 自分の太刀筋と似通った一撃を感じて刹那は驚愕を禁じえない。

 

「どうもぅ、月詠言います。お初に」

「お前は、神鳴流剣士なのか………?」

 

 斬りかかった月詠は鍔迫り合いをしながら間延びした声で自己紹介する。刹那は目の前の妙に間延びした喋りをする人物が本当に同門という事が信じれなくなって思わず聞き返す。

 

「技を使えるだけですぅ。神鳴流剣士いうんはちょっと違いますなぁ」

 

 一度離れて間延びした口調で挨拶をするところを見れば、両手に持っている太刀と小太刀を抜きにしても想像していた神鳴流剣士と著しく違う容貌に刹那は戸惑いを覚える。

 

「見たとこ神鳴流の方みたいやけど、追っ手やないみたいやな。これも仕事なんで本気で行かせてもらいますわ。一つお手柔らかに――――」

 

 そう言うと同時に、笑みを浮かべたまま月詠は刹那に斬り掛かった。

 予想通り、魔物相手用の長い野太刀を使う刹那は対人用の二刀を使う月詠相手ではやはり相性が悪い。刹那が持っている夕凪は、月詠の小柄な体格に比べてかなり大振りな野太刀なので小太刀のスピードに追いつけないのだ。

 刃渡りの短い二本の刀を使い、死角を突くように刀を繰り出し対人に特化した月詠の連戟は、刹那にとってやり慣れていない戦闘スタイルの相手であった。

 

「え~い、やぁ、たぁ、とぉ~」

 

 どこか間の抜けた掛け声だが、その剣筋はそれに似合わぬほどに速く苛烈で、刹那は攻めるどころか防戦に追い込まれて焦りを隠せない。

 刹那の野太刀と月詠の二刀が火花を散らし、風を断ちながら左右から、突き、袈裟、唐竹、逆袈裟、払い、切上、虚実を交え、緩急をつけながら剣と殺意を交し合う。

 間合いを詰め寄られて本来の距離を取れないので野太刀を思うように振り回すことが出来ず、更に手数の差で刹那は押される。

 

(い、意外に見た目と違ってできる…………まずいぞ!!)

 

 特殊な出自と確固たる目的を持っていた刹那は同年代でも飛び抜けた力を持ち、それなりに神鳴流内で名が知られていた。弱ければ幾ら幼い頃の知己であっても護衛に選ばれる筈もなく、本人もそれなりの力があることを自負している。

 二刀流や刹那と互角に以上に渡り合う技量の持ち主ならば、京都にいた頃に耳に入ってもおかしくない。だが、月詠という名を刹那はついぞ聞いたことが無い。

 

「ざーんーがーんーけーん!」

「くっ」

 

 間延びした声だが奥義の威力も申し分なく、刹那は飛び退いて何とか避けたが右肩を斬られた。

 

「綺麗な赤い血ですな。ん? 普通の人間にしては味が美味しすぎる」

 

 噴き出した血が飛んで顔を汚し、頬をついた血を伸ばした舌で舐め取った月詠はニタリと嗤った。

 

「お姉さん、ただの人間と違いますな」

「言うな!」

 

 怒りのままに刹那は月詠に斬りかかった。

 しかし、怒りのままに振るった夕凪は月詠に掠りもしない。それどころか的確に反撃されて刹那ばかりに傷が増えていく。

 流れは完全に月詠に傾いている。月詠に剣士としての実力で劣っていることを刹那は認めなければならなかった。

 

 

 

 

 

「刹那!」

 

 小太郎のフォローに行くどころか逆にフォローを必要としている刹那にネスカは叫んだ。

 だが、よそ見をしていられるのはそこまでだった。

 ネスカの前にも白髪の学生服をした少年が音もなく忍び寄っている。

 眼前に出現した人物はネスカが放った拳を蠅でも払うようにあっさりと逸らすと、がら空きの腹に手を添える。

 

「がっ……ふっ!?」

 

 次の瞬間にはネスカの身体は揺るがされ、外面ではなく内面に損傷を与える打撃によって口から大量の血を吐き出した。

 だが、この程度で怯むネスカではない。間近にいる少年に向かって拳を振り上げる。

 

「野郎っ!」

「これでまだ動くんだ」

 

 白髪の少年は僅かに上体を逸らすだけでネスカの拳を躱す。

 

「でも、僕を相手にするには君では役不足だよ」

 

 先の一撃で行動不能にさせるだけのダメージを与えたのに、攻撃してきたネスカに若干の驚きを持って見るも、自身には取るに足らない相手だと判断しながら蹴り飛ばす。

 防御されたことに頓着せず、呪文を唱える。

 詠唱が完成した白髪の少年は自身を中心に白い煙を発生させた。

 

風よ(ウェンテ)!」 

 

 直接攻撃系ならば、こんな近距離ではどんな効果であってもも避けきれないと判断したネスカは、煙を吹き飛ばす風を生み出して踏み出した。

 踏み出した勢いのまま風によって開いた煙の中を突っ切って攻めを選ぶ。

 自身への被害を省みない特攻。奇しくもネスカの選択は最も正しい行動を取っていた。

 

「へぇ、石化の煙と分かったのかな」

 

 今度は白髪の少年も表情こそ変わらないが驚く番だった。

 反応の早いネスカを確実に捕らえ、かつ広がりやすい煙で石化させるつもりだったのだ。まさかその煙の中を突っ切るとは蛮勇が過ぎる。

 煙を突っ切って自身に迫ってくる影にフェイトは僅かに目を見開いた次の瞬間、肉を打つ打撃音が響いた。

 

「……が……あはっ…………」

 

 煙を突っ切って来たネスカに白髪の少年は確かに驚いた。それでも一瞬驚きの表情を浮かべても直ぐに気を取り直し、放たれた一撃を冷静に捌いてカウンターでネスカの腹に肘を入れていた。

 

「驚かされたけど、それだけだ。君は弱い」

 

 ネスカの失敗を挙げれば、不意打ちにも近い状況でありながらも彼我の戦力が大きすぎたこと、たったそれだけのことだった。

 

「ぐ、あぅ……」

 

 白髪の少年の足元でネスカは打たれた腹を押さえて蹲って呻く。カウンターという事もあって、そのダメージは大きく直ぐには動けそうにない。

 蹲ったネスカにトドメを刺そうと白髪の少年が魔力の籠った手を振り上げた。

 

「…………っ!」

 

 ネスカとてエヴァンジェリンの戦いに何も学ばなかったわけではない。

 蹲っていたネスカの姿が解ける。風精で作った偽物であった。

 煙を突破すると見せかけて風精を囮にして、本物は白髪の少年の背後に回って拳に雷を溜めていた。

 

「雷華豪殺拳!!」

 

 アスカの最強の技をネスカの能力で放つ。オリジナルを遥かに凌駕する完璧な一撃。

 

「甘い、見えているよ」

 

 しかし、白髪の少年はそれを予め知っていたかのように反応して、ネスカの渾身の一撃を半身になることで容易く躱す。

 標的を失った空を抉るに留まった。

 抉られた空気が戻るよりも早く、拳撃を躱した白髪の少年の弾丸のような右拳によるカウンターを放つ。

 決めるつもりの一撃を躱され、逆にカウンターを貰ったネスカは、ガンッという人間の肉体で生まれる音だとは思えない重低音と共に弾き飛ばされて地面を削りながら背後にあった大きな木の幹に叩き付けられた。

 木をへし折って更にその後ろの木の幹へ。それらを五度ほど続けてようやく止まった。

 

「あ"……かはっ……う"……」

 

 背中を強かに打ち付け、肺の空気が全て逃げる。たったの一撃で余りの衝撃に呼吸もままならず、反撃しようにもまるで身体がいうことを聞いてくれない。

 ネスカは僅か数合のやり取りで、白髪の少年との間に埋めようのない実力差を感じ取っていた。それでもこの状況で敵に弱みを見せるわけにはいかず、痛む体を制御して立ち上がろうとする。

 

「まだやる気かい? 勝負は既に見えているだろう」

「だからってやられるわけにはいかないんだ!」

 

 叫んで、ネスカは魔力を振り絞って気勢を上げた。

 

 

 

 

 

 仲間が危機に陥っている分かっても小太郎は振り向くことすら出来なかった。

 

「くっ、なんやねんこれは!?」

 

 狗神を前面に押し出して防御しながら気を体の前面に集中するが、放射状に広がる弾幕に足を止められていた。

 少しでも防御を緩めれば突破されることに危機感を抱いている小太郎は、一歩でも動くことが出来ない。全力で防御しているにも関わらず、まるでゴム弾を撃ちつけられているように全身が殴打されているのだ。

 一瞬でも力を抜けば、その瞬間に小太郎の体は蜂の巣になるだろう。

 故に動けない。動いた時が小太郎の死ぬ時だ。

 

「よく持ち堪える」

 

 崩壊した掘立小屋で間断なくマガジンを入れ替えながら五十メートル以上離れた小太郎を封殺し続けるナーデレフ・アシュラフは、僅かばかりの感嘆を滲ませながらその手は止まらない。

 ナーデの少し後ろで、ハルバートの刃先を地面につけた筋骨隆々の男が鎧を鳴らしながら大きな息を吐いていた。

 

「ふぃいいい、久々に全力で展開すると疲れるぜ」

「よくやった、フォン」

「へへ、ボスの為なら水の中、火の中。こんな程度どうってことないぜ」

 

 フォン・ブラウンの肩を軽く叩いたゲイル・キングスは目を細めて五十メートル先を見た。

 ナーデに行動を抑えられている小太郎、刹那も月詠に圧倒されている

 

「邪魔者は予想していたがこの程度か」

「さっきの雷の暴風は中々だったけどよ。パワーだけだな、ありゃ。けっ、フェイトに言いように遊ばれてやがる」

 

 最後に白髪の少年――――フェイト・アーウェンルンクスと戦っているネスカに視線を向けた二人は、取るに足らない敵だと興味を失った。

 

「大事の前の小事だが、ここに来るまでの動きが早い割に質が低い」

「仕方ないぜ、ボス。俺達が強すぎんだ。でも、雑魚が多いと萎えるぜ」

「それがお前の悪い所だ、フォン。慢心は過ぎれば敗北を招くぞ」

「いけ好かない奴らだが、この程度の敵に負けませんて」

 

 と、二人が喋っている間に戦況が動いた。

 襲撃者の中で最も力の大きいネスカがフェイトに潰されながらも風精を呼び出し続けている。

 

「なんだ、ありゃ」

 

 十が百、百が千と魔力が続く限りの多重召喚。呼び出された半分がフェイトに襲い掛かる。

 流石のフェイトも風精を無尽蔵に作りだすネスカの傍にいてはマズいと判断して、一端距離を取りながら向かってくる分を両手に握った黒曜の剣で次々に迎撃していく。

 残りの風精は刹那に襲い掛かっていた月詠に突撃して行った。

 

「ほう、一人だけまともな者がいたようだ」

 

 風精を召喚し続けながらネスカが小太郎の前面に立った。

 目に見えるほどの風の障壁が立ち上がり、ナーデの銃撃を防御する。

 動けるようになった小太郎を下がらせ、風精を次々と惨殺している月詠から離れることが出来た刹那も同じように動く。

 

「逆に一人、愚か者も混じっていたようだ」

 

 ゲイルは戦いの行方を無視して、動くに動けなくなったアーニャに向けて闇の魔法の射手を放った。

 

「きゃっ」

 

 もう少しというところで掘立小屋の壁の瓦礫を破壊されたアーニャの姿が晒される。

 隠れる物がなくなったアーニャはゲイルたちを見た。見てしまった。

 

 

 

 

 

「きゃあああああああああああああああああああああっっっっ!?」

 

 突如として戦場に響き渡ったアーニャの悲鳴に、逃げの一手を打とうとしていたネスカ達の意識が割かれた。

 悲鳴の聞こえた方へ視線を向けるとハルバートを持った若い男に意識を失っているらしいアーニャが捕まえられているところだった。

 意識の分割は体の硬直を招いた。その一瞬の隙をフェイトは見逃さない。

 

「逃がさないよ」

 

 黒曜剣を持ったフェイトがネスカへと迫る。

 

「とどめ」

 

 振りかぶった剣を止めることは出来ない。回避も不可能だ。風精を苦もなく斬り捨てていたことから防御してもたかが知れている。

 合体状態での負傷は、合体を解いても二人に降りかかる。故にネスカは合体を解いた。

 

「アスカ!?」

 

 合体を解かれたネギはフェイトの攻撃の射線上から外れる。

 二人に別れたネスカに驚きながらもフェイトの攻撃は止まらない。その場に留まらずをえなかったアスカを切り裂かんと黒曜剣が振り下ろされた。

 

「うぉおおおおおおおおおおおっっ!!」

 

 閃光が二人の姿を覆い隠したので、ネギにはアスカが何をしたのかは分からなかった。

 一瞬の閃光の後、アスカがネギの方へと弾き飛ばされて来た。

 

「あ……アスカ!!」

 

 運良く受け止めることが出来たネギはその状態を見てとった。

 左肩から右脇腹まで走っている切り裂かれたような跡。敵がどうなったかを確認するよりもその背中に迫る二つの気配。

 

「ネギ!」

「ネギ先生!」

「僕に掴まって下さい!」

 

 捕まったアーニャを助けることは出来ないと判断したネギは二人に言いながら、ポケットに入れていた集団転移魔法を発動させた。

 

 

 

 

 

「失態だぜ、フェイト。敵を逃がしてんじゃねぇよ」

 

 襲撃者が逃げたのを確認したフォン・ブラウンは、戻って来たフェイトに早速文句を言った。

 フォンは仕事で最近知り合ったフェイトのことが気に入らないようで、事あるごとに突っかかっている。それはゲイルがフェイトに大きな信頼を預けていることに対する不満がそうさせているのだろう。

 

「そう言わんといてぇな、フォンはん。襲撃者達は結構やりましたで」

 

 黙ったままのフェイトの代わりというわけではないが、ニコニコと笑ってご機嫌な月詠が弁明する。

 

「テメェには言ってねぇよ」

「ええやん。うふふ」

「相変わらず気持ち悪りぃな。こっちによるな、しっしっ」

 

 不自然なほどにご機嫌な月詠を見て、気持ち悪そうにフォンは体を引いた。

 

「面白い人に会えましてん。まさかこんなところであんな人に出会えるとは思いもしまへんでした。あの人の血の味。ふふ、ふふふふふふふふ」

 

 完全にイッてしまっている月詠に黙しているナーデすらも、こっそりと距離を取った。

 

「フェイト、何故だ」

 

 フォンと違ってゲイルは言葉少なに尋ねた。

 貴様なら苦もなく殺せただろうと言外に滲ませたゲイルに、フェイトは口の端に垂れていた血を拭った。

 

「反撃を受けて出来なかった。それだけだよ」

「ほぅ、貴様がか」

 

 感嘆しているゲイルの足下にオッケンワイン家から連れ去った少女とは別の少女を見たフェイトは目を細めた。

 

「どうするの、その子?」

「記憶を読み取る。襲撃者の目的と素性も知れよう。フォン」

「ほいさ」

 

 獲物のハルバートを置いたフォンは、意識を完全に失っているアーニャの頭を掴んで瞼を閉じた。

 

「超能力って言ってましたったけ。変わってますな。これで記憶を探れるんやから面白いわ」

「しっ」

 

 まだまだご機嫌で呑気な月詠を黙らせたフェイトは、自分よりも少し遅れてこの一行に合流しながらも関わろうとしないナーデを見た。

 元より仲間関係にあるといっても他人に対して興味を持たないので直ぐにフェイトは撃った銃の手入れを行なっているナーデからフォンに視線を戻した。

 

「へぇ、こいつの連れはあの英雄様の子供らしいぜ。他にはワーウルフに神鳴流ときたか。豪勢なこって」

「英雄……」

 

 と、フォンの呟きを聞いたフェイトの脳裏に一人の男が浮かび上がった。

 相対した金髪の少年の眼差しがその男のと重なる。

 

「サウザンドマスター」

「そうだ。良く解ったな」

「なんとなくね」

 

 ならば、合点がいったとフェイトはあの激突の瞬間を思い出す。

 

(彼は如何なる防御も回避も不可能と悟って、全魔力を込めて反撃に出てきた。反撃することで防御に変えた一瞬の閃きと戦闘センス、そしてあくことなき闘争心。英雄の血というやつも馬鹿には出来ないね)

 

 実力の差が大きいのでフェイトが競り勝って重傷を与えたが、その代価として拳を頬に入れられた。

 

「顔を殴られたのはナギ・スプリングフィールドに次いで二度目だ。この報いは大きいよ」

 

 与えた傷は大きいだろうが死にはしないと不思議な確信を得ていたフェイトは、本人も知らない間に薄く笑った。

 

 

 

 

 




敵オリキャラその4

名 前:フォン・ブラウン
年 齢;23
職 業;騎士、ハルバート使い、念動力者
人間性:ゲイルに絶対の忠誠を誓っている人。他はゴミ屑
備 考:二十年前にゲイルに拾われてから一緒に行動している。ゲイルに対する気持ちは人というより神様に信仰を捧げているようなレベル
戦闘力;1500



敵キャラその5

名 前:フェイト・アーウェンルンクス
年 齢;見た目10歳ぐらい
職 業;魔法使い
人間性:情動が薄い。人形みたい
備 考:ナギのことを知っているらしい
戦闘力;10000



フェイト一人だけレベル違い過ぎ


次回

「二日目」

少年達は体勢を立て直す。今は雌伏の時。


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第16話 二日目

 

 

 

 

 アスカ・スプリングフィールドは乱暴者である。それは自分も認める魔法学校での評価だった。

 自分が気の利かない粗忽者であることは幼馴染に何度も言われたことであり、十分に自覚していた。何時も考えが足りないだの、脊髄反射で動いてばかりだの、思う通りに生きて来たのだから変えようもない。

 魔法学校に入学したばっかりなのに、なまじ腕っぷしが強いこともあって上級生からも目をつけられていた。喧嘩になれば言葉よりも先に手が出るから友達も中々出来ない。

 アスカ自身、気に入らないことははっきりと言う性質で、年上だからって偉そうにしている上級生を認めることが出来ない。

 この日も最上級生達と喧嘩して、しかし二回りは違う体格の差でズタボロに負けて帰ってスタンに怒られたばかりである。

 

「分かんねぇよ、俺には」

 

 少し前に故郷が攻撃を受けて、生き残りは自身を含めても僅か数人。アスカは父のように自分が強ければ何かできたと考える。

 しかし、授業で学んだ魔法は暴発しっぱなしのアスカには魔法使いとしての才能はないようだ。ならばと腕っぷしを鍛えようとするが手っ取り早い喧嘩を吹っ掛けるが戦績は芳しくない。

 ネカネは泣いてばっかっで、スタンは何時もしかめっ面をしている。ネギは自分のことばかりで、アーニャもネギの傍にいることで精神安定を得ている。

 

「なにが正しい怒りを持てだ。訳分かんねぇよ。力は力じゃねぇのかよ」

 

 スタンが口を酸っぱくして言う小難しいことがアスカには分からない。

 諭すスタンに反発して家を飛び出して当てもなく彷徨っているところだった。

 ネギ達の所に行く気にはなれなかった。

 魔法の才能があるらしく今も勉学に励んでいるであろうネギの邪魔をするのは気が引けた。恐らく嫉妬もあるだろう。進んで関わる気にはなれなかった。

 

「ん?」

 

 居場所も無くて魔法学校の裏庭に来たアスカは、そこに先客がいるのに気が付いた。

 

「なにやってんだアイツら」

 

 アスカよりも少しだけ体格の良い少年数人と同じぐらいの少女が一人。

 少年少女に見覚えは無いのでアスカと同じ新入生ではなく、ましてや何時も喧嘩を吹っ掛けている体格の良い最上級生達でもない。

 一年か二年上の学年の先輩であろう少年達は同級生らしい少女の髪の毛を引っ張っていた。

 

「や、止めて」

「引っ張り甲斐のある髪をしてるナナリーが悪いんだよ」

「そうだそうだ」

 

 ナナリーと呼ばれた少女は性格的に他者に強く出ることが出来ないのか、一人の男の子に髪を引っ張られて痛いはずなのに静止の声は弱々しかった。逆に静止の声が弱いからこそ少年達は少女をからかう手に熱が入る。悪循環であった。

 校内ならば先生か他の生徒が静止に入るのだろうが、ここは人の気配の少ない裏庭である。誰も止めるべきものなどいない。

 

「バッカじゃねぇの。こんなところで花壇なんか作ってんじゃねぇよ」

「そこは踏まないでっ。お花さん達が」

「お花さんだってよ」

 

 ギャハハハハハ、と品のない笑い声を上げた少年達は、花壇に土足で足を踏み入れて綺麗に咲き誇っていた花を無惨にも踏み潰す。

 少女は泣きべそを掻いて止めようとするが、数人の少年達がブロックしているので果たせていない。

 子供といえど男と女の力の差はある。人数差もあってはナナリーに出来ることは届かない手を伸ばすことだけだった。

 

「虐めかよ。見てるだけで、ムカついてきた」

 

 物陰から見たアスカは胸の奥にムカムカとした何かが込み上げてくるのを感じた。

 そのムカムカは足を止めて見ているだけの自分に対してであり、少女を泣かしている少年達の行いであり、誰も助けに来ない現実から来ていた。

 胸の奥に込み上げるムカムカに急かされるようにアスカは物陰から足を踏み出した。

 一気に少年達へと向けて疾走する。

 

「止めろっ!!」

 

 そして少年達がこちらに振り向いた瞬間に踏み切ってジャンプ。

 

「うわっ!?」

 

 率先して花壇を踏み荒す少年の土手っぱらに飛び蹴りをくらわしたアスカは、次の標的に向けて拳を握った。

 

「なんだお前は!」

 

 飛び蹴りを食らわせたのが自分達よりも小さな子供だと分かった少年達が怒りの眼差しを向けてくる。

 一対多。多勢に無勢の状況である。

 何時も喧嘩している上級生達相手なら少しは臆したのに、この時のアスカの心は燃えていた。

 

「女泣かして喜んでんじぇねぇよ! そこに直りやがれ!」

 

 

 

 

 

「覚えてろよ!」

「へん、大したことない奴らだ。おととい来やがれ」

 

 何度も殴られても怯まなかったアスカに根負けして逃げていく少年達。その背中に顔をぱんぱんに腫らしたアスカは中指を立てて見送った。

 少年達の姿が見えなくなるまでそのポーズでいたが、やがてズキズキと痛む全身に耐え切れなくなって腰を下ろした。

 

「大丈夫ですか?」

 

 呆然と見ていたナナリーは腰を下ろしたアスカに駆け寄った。

 

「どうってことない。こんなのは唾をつけときゃ治る」

 

 直ぐには立ち上がれないアスカはそれでも意地を張った。

 実際には殴られた頬は痛いし、蹴られた脇腹は動かすだけで泣きたくなるほどに痛い。

 故郷が滅んでからも、これだけは失くしていない意地がアスカを強気にさせていた。

 

「助けてくれて、ありがとうございます」

 

 苛めっ子を殴り飛ばしたアスカは、虐められていた当人からお礼を言われて目を丸くした。

 粗忽者で乱暴者であったアスカは今まで人にお礼を言われたことがなかった。

 

「なんだよ、いきなり」

「助けてもらったらお礼を言いなさいってお母さんが」

「俺はあいつらが気に入らなかったから喧嘩を売っただけだ。お前のことを助けようと思ったわけじゃない。だから礼もいらない」

「じゃあ、私が勝手に助けてもらったってお礼を言っていることにしておいて下さい」

 

 ナナリーが手を伸ばして腫れているアスカの頬に触った。

 痛い、と少し思ったがひんやりとした手は思いの外心地良く直ぐに振り払う気にはならなかった。

 

「変な奴」

 

 泣きべそを掻いていた奴が今は笑ってるなんておかしいの、とこの時のアスカは思った。

 ひんやりとした手が離れたことに惜しさを感じたアスカだが、意地でも顔には出さなかった。

 照れくさくて視線を荒らされた花壇に向けた。

 

「なんだってあんな目にあってたんだ?」

「あの人達、何時も私に意地悪してくるんです。花壇も荒らされちゃって」

 

 ナナリーはすっかり荒らされてしまった花壇を悲しげに見つめた。

 その表情に、またアスカの胸の中でムカムカが込み上げて来た。

 

「あいつらにやり返せばいいだろ。俺ならそうする」

「私じゃ、そんなこと出来ません」

「意気地のない奴」

「すみません」

「謝るな。俺が虐めてるみたいじゃないか」

「ごめんなさい」

「だから……」

 

 このままでは延々と会話がループするだけだと悟ったアスカは、後頭部を掻いて立ち上がった。

 少しフラついたが根性で倒れない。

 

「よし、決めた」

 

 元よりアスカは考えることが苦手だ。さっさと思考を放棄して行動を決める。

 

「お前は俺が守ってやる。また虐められたら俺を呼べ。直ぐに駆けつけてやるから」

 

 それで全て万事解決だと、アスカは笑いながら親指で自分の胸を指し示しながらナナリーに告げた。

 ナナリーは突然そんなことを言い出したアスカを呆然とした目で見たが、目の端に涙を浮かべると薄らと笑った。

 

「ありがとうございます」

 

 アスカはこれほど真っ向から感謝の念を向けられることに慣れていなく、照れくさくなって顔を逸らした。 

 そして拳を見下ろす。

 誰かを傷つけるのではなく、誰かを救うために拳は使えるのだと知った瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 修学旅行二日目の朝。麻帆良女子中等部3-Aの面々が宿泊するホテルの三人部屋で、一人の少女が細々とした声で何かに向かって話し掛けていた。

 

「あ…………あの―――」

 

 その声の主は出席番号27番宮崎のどか。

 彼女が話し掛けているのは、画用紙に書かれて切り抜かれて二頭身ほどに可愛らしくデフォルメされているが、赤い髪に実用性の無さそうな丸眼鏡を掛けたスーツを着た少年。つまり好意を寄せる副担任―――――ネギ・スプリングフィールドの姿が、絵は土台に突き刺さった固定された針金に貼り付けられてみょんみょんと揺れている。紙の横には「パル作」と書かれた紙が付けられていることから考えて早乙女ハルナが自作した物である。

 

「ネギ先生――」

『ハイ、何ですか――?』

 

 横にピョンピョン動いているネギの顔が書かれた紙に、まるで教会で礼拝しているかのように、両膝を突いてのどかは話しかけていた。

 絵なので当然帰ってくるのはネギの声ではなく、マネした自分の声である。傍から見ると一人遊びのようだが、彼女にはこれをするちゃんとした理由が存在している。

 そもそもの始りは二月初頭の、ネギが修行のために教師をするため麻帆良にやってきた日にまで遡る。

 放課後にネギ達の歓迎会があるので図書委員の仕事を早く終わらせるために本を何冊を運んでいた時のことであった。彼女の非力な力では15冊を纏めて運ぶのは大変で、傍目から見てもフラフラとして危なかった。

 そして広場の手すりの無い階段を下りている時に足を踏み外してしまった。

 そこから先は落ちる恐怖で眼を瞑ってしまったのどかには定かではない。もしかしたら若干とはいえ意識を失っていたのかもしれない。

 取りえず気がついた時には自分はネギに抱えられて怪我一つない。どうやらネギに助けられたらしいことは直ぐに分かった。助けてくれた礼を言おうとしたら当のネギはアスカと一緒に何故か明日菜に連れ去られてしまったが歓迎会でお礼と図書券と渡すことが出来た。

 その後ののどかの気持ちが周りに促された面があるのは否めない。

 なにしろ彼女たちが通っているのは女子中学校だ。異性との関わりなど家族や教師などといった限定的なものになるので囃し立てるのは当然と言えた。

 彼女の親友二人も、恥ずかしがり屋で何時も前髪で目を隠しているような引っ込み思案な性格ののどかの常ならぬ積極的な行動をここぞとばかりに応援した。

 初めて好意を持った異性、と言えば聞こえはいいが最初から異性に向ける好きといったものではなかった。彼女の中の想いが変わっていったのは、時々自分たちよりも年上なのだと思うくらいに頼りがいのある大人びた顔をすることに気がついて頃からだろうか。

 普段はみんなが言うように子供っぽくて可愛いのだけれど、ネギが自分たちにない目標を持ってそれを目指して何時も前を見ているからだと分かった時、彼女の想いは淡く実り始めた。

 それだけで勇気を貰えるから本当は遠くから眺めているだけで満足だった。でも、今日こそは自分の気持ちを伝えてみようと想った。

 

「よろ……よろしけれべ、き、今日の自由行動――――…………私達と一緒にまげ……まご……もご」

 

 元来の恥かしがり屋であるため、彼女はネギを本日の自由行動の同伴者として誘うために事前に声を掛ける予行練習をしていた。

 しかし、上手く話せずに口が回らないので間違ってしまい、結果は芳しくは無い。練習なのに噛み噛みで絵を前にした練習でさえこの惨状。これでは本番など出来るはずもない。

 

「その…………私達と一緒に回りませんかー? 回りませんでしょうかー」

 

 修学旅行二日目は真珠湾へ行く事になっており、ネギに自由行動を一緒に周らないかと誘う練習をしたことで、最初、絵なのに緊張して何もいえなかった状態に比べれば格段にマシになってきている。

 折角の修学旅行なので今日こそは一緒に歩いて色々と話したりして仲良くなりたいのだ。

 

「のどかー朝食だよー」

「大ホールに集合です」

 

 練習していたのどかの耳にふすまを開けて入ってきた綾瀬夕映と早乙女ハルナ、同じ図書館探検部という部活に入っているのもあって気心知れた友人達の声が届く。

 

『はい、いーですよー宮崎のどかさん』

「よ…………よ~し~」

 

 一応練習で言えるようになったのどかは、ネギの声真似をして自分に気合を入れる。

 戦場に出る若武者の様に髪を後ろで短く結い上げ、身支度を整えて数多のライバルがいる大広間という名の恋の戦場へと赴いた。

 

 

 

 

 

 朝御飯の時間。教師合わせて四十人近い人間が一同に会するため、場には広さが求められた。他にも泊まっている客がいるのでホテル側が用意したのは結婚式などで使われる大ホールである。

 しかし、生徒達はその大ホールの入り口で立ち往生していた。

 遅れて大ホールにやってきたのどかは、僅かに開いたドアの隙間から中を除くクラスメイト達の姿に首を捻った。

 

「どうしたの?」

「中に入れないのです」

「何か中かでやってるみたい」

 

 問われた夕映はクラスで身長が低い方ののどかよりも更に低いので、背伸びしているが人垣の上から中の様子を覗き見ることが出来ない。

 夕映よりも二十㎝以上高いハルナがジャンプをすると、二人のコンプレックスを刺激すように胸も揺れるが中での様子を見ることが出来たようだ。

 

「あんなのは脂肪の塊に過ぎないのです」

 

 うんうん、と頷いたのどかの方がほぼ平坦な夕映に比べればまだある。

 おっぱいというほどもない自身の胸を見下ろした夕映は、自分にはまだ未来があるとあらぬ方向を見ながら自身を慰めるのであった。

 

「お代わり!」

「は、はいぃいいいいいいいいいい!!」

 

 物凄く聞き覚えのある叫びと同時にガシャンと皿の上に皿を置いたような音が人垣の向こうから聞こえて来た。

 直後、成人女性の悲哀混じりの嘆きが聞こえて、大ホール入り口の前からクラスメイト達が慌てた様子でどいた。

 

「あわわわわわわわわわわわわ」

 

 巻き込まれる様に壁際に寄ったのどか達の目の前を、大ホールの中から出て来たウェイトレスが涙目で走り去って行く。

 唖然としたクラスメイト達と同じ気持ちだったのどか達の耳に別の声が聞こえた。

 

「「アスカぁあああああああああああああああああああああ!!!!」」

「明日菜とエヴァちゃんじゃない。どうしたの?」

「「ぁあああああああああああああああああああああ!!!!」」」

 

 やってきた明日菜とエヴァンジェリンにハルナが声をかけるも、当の本人は気付いた様子もなくドップラー効果だけを残して大ホールに突撃して行った。

 

「何事なのでしょうか?」

「さあ?」

 

 夕映とハルナが首を捻っているが事態はそれだけに留まらない。

 地響きのような足音が連続する。

 

「今度はネギ先生に木乃香さんも」

 

 鬼の如き険しい形相で、先程の明日菜とエヴァンジェリンのように叫びはしないものの大ホールに突入していった。

 首を捻り合うクラスメイト達と同様だったのどかが視線をずらすと、四人がやってきた方向の角からゆっくりと歩いてくる天ヶ崎千草が現れた。

 

「ほら、なにやってんねん。さっさと朝ご飯食べんで」

 

 後ろにネカネと刹那が付いて歩いていた千草は、入り口の前で立ち往生している生徒達を見遣って手をパンパンと叩いて大ホールに押し込んだのであった。

 困惑していた生徒達は促されるままに大ホールへと入る。そこにあったのは異常な世界だった。

 七、八人で使うテーブルに山積みにされている皿達。

 皿に残った汁などから料理が乗せられていただろう皿の数は、軽く五人前には達しているだろうか。

 

「アスカぁ」

「この馬鹿者が」

「無事で良かったぁ」

「うう、アスカ君ぅ」

 

 最初から席に座って料理を消化したであろう人物に縋りつく明日菜・エヴァンジェリン・ネギ・木乃香。

 これだけでも十分に異様な光景なのだが、縋りつかれている当人の手と口は絶え間なく動いていた。

 

「肉だ! 肉が足りねぇぞ!」

 

 顔色は悪いのに詰め込まれたであろう腹だけは異様に膨らんでいるアスカ・スプリングフィールドの叫びが大ホールに響き渡った。

 読書家で多数の本を読んでいる宮崎のどかでも状況を理解することは叶わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二日目はパールハーバー見学である。

 アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島にある入り江の一つであり、湾内にはアメリカ海軍の軍事拠点などが置かれていて、日本では伝統的に「真珠湾」と呼ばれている場所である。

 日本人ならば太平洋戦争緒戦である真珠湾攻撃を思い起こし、映画化もされている所でもあった。

 

「真珠湾はハワイでも人気の観光スポットですが、その代表は真珠湾攻撃で撃沈された戦艦アリゾナ号の上に建つこのアリゾナ記念館なのです」

 

 アボガドメロンという意味の分からないパックジュースを飲んでいる夕映の説明に感心する一同の視線は、バスを降りてから目の前にある白い建物に集中していた。

 

「鞄を持ってきた馬鹿はおらんやろうな? カメラやちょっとした筆記用具などを除きバッグなどの持ち込みは一切禁止なんやから持って来てたらチョップな」

 

 担任らしく生徒達の前に出ながらの千草の発言である。

 フランクながらも容赦のなさで全員を見渡してバック類を持っている者がいないことを確認した千草は、後ろにいるネカネに合図を送った。

 

「各班の班長は前に。整理券を渡しておくから失くさんようにな。失くしたら混雑している時やったら1時間位待つことになるさかい気をつけや」

「班長はみんなの分も責任を持って管理してね」

 

 言われるがままに前に出た班長はネカネから班員分の整理券を受け取って行く。

 班長が整理券を受け取って下がるのを脇で見ていた新田は、要領の良すぎる千草に自分がいる必要があったのかと小さな疑問に囚われていた。

 

「昼食の時に集まる以外は基本自由行動や。やけど気だけはつけるように。ここはアメリカやから日本語は通用せん。国が変われば常識も違う。立ち入り禁止区域もあるさかい、下手をしたらお縄につくこともあるんやから。特にクラスの賑やか担当。関係ない振りをしてるアンタらやで」

 

 特定の生徒に注意を入れつつ、千草は腕時計を現在時間を確認する。

 

「ルールと時間を守って楽しみ。面倒は起こさんようにな。ほな、三時間後にまたここに集まるように」

 

 散々注意だけをしながらもなんとも軽い言葉に肩透かしを食らった生徒達が動き出す。

 

「あ、あの……」

 

 そんな中、朝に食べた食事がどこに入っているのか、何時も通りの腹のまま欠伸をしている双子の弟を時折見ていたネギに緊張気味に近づく生徒。親友達の発破により、ネギを誘おうとしている宮崎のどかだ。

 普段は顔を隠してしまっている前髪も、後ろでポニーテールに結んでいるので素顔が丸見えの為に真っ赤になっているのがよく分かる。

 

「ネギくーん!! 今日ウチの班と一緒に見学しよー!!」

 

 のどかが自分なりにかなりの勇気を振り絞り、小さいながらもネギに声を掛けた途端、横からまき絵が大声で誘いながらネギに抱きついてしまったため、遮ぎられる形となった。

 

「わー!!」

 

 魔力で身体強化しているとはいえ十歳の子供の体では十四歳の体を抱きとめる力が足りず、まき絵のタックルというか抱きつきにネギの体が大きく傾く。

 

「ちょっ、まき絵さん! ネギ先生はウチの三班と見学を!!」

「あ、何よー!! 私が先に誘ったのにー!!」

「ずる―い! だったら僕の班もー!!」

 

 まき絵を押し退けてあやかと鳴滝風香もネギに迫り、一瞬で辺りが大騒ぎになる。

 激しい押し問答にネギはあわあわと慌てるだけで役に立たず、普段なら制止する他の教師はその場にはいなく、彼女たちの争いは激化していくばかり。抱きしめ、引っ張り、触り、摩り、と収拾がつかない状態へと発展していく。

 ネギを中心とした騒動の後ろでのどかは懸命に声を絞り出しているが、如何せん彼女の前方に居る三人は声も動きも大きく、彼女の想い人までその声は届かなかった。

 気付けばこの騒ぎを聞きつけた殆どの班の人間が集合し、結果のどかは押されて人混みの外の方に追いやられてしまっていたいた。

 

「あ、あの、ネギ先生!!…………よ、よろしければ、今日の自由行動……私達と一緒に周りませんかー!?」

 

 最早誰が何を言っているのか解らない喧騒の中、のどかが勇気を振り絞り、必死の決意で叫ぶと同時に辺りが静まり返る。

 ネギの奪い合いをしていたあやか達も普段大人しいのどかが声を張り上げた事でピタッと止まるが、そんな周囲の反応を当の本人には気にする余裕は無い。

 

「宮崎さん……」

 

 声の主がのどかとネギも分かり、一緒に行って問題はないかと考え込む。

 元よりどうしようかと考えていた誘いを受けて断る理由はない。

 

「行って来れば?」

「アスカ……」

「俺はかったるいから一抜け。食ったら眠くなってきた」

 

 と、周りを憚ることなくまた大きな欠伸をしたアスカは通りを外れて草むらに横になった。

 

「じゃあ、私も」

「うむ、班員を一人にするわけにもいくまい。我らも休むとしよう」

「アホか。教師の目の前で堂々とサボリ宣言するんやない」

 

 アスカに倣おうと草むらに突入しようとする明日菜とエヴァンジェリン。その襟首を後ろから掴む者がいた。スーツを若干着崩している天ヶ崎千草である。

 

「六班にはうちがついたるさかい。ほら、はよ行くで」

「「え~」」

「黙らんかい。桜咲と近衛も来んかい」

「でも」

「そこのサボリはネカネに任しとき」

 

 ネカネは木陰で横になっているアスカの傍に腰を下ろして手を振って見送っていた。

 気で強化された腕力を如何なく発揮して、破けそうなほど襟首を引っ張られて息が出来ない二人の抵抗など気にもせず、千草は困惑している木乃香と刹那を連れて眼前の施設へと入っていた。

 その全てを見ていたネギは思案気な表情を一瞬だけ浮かべ、横になって目を閉じているアスカに視線を移してから決断した。

 

「分かりました、宮崎さん。今日は僕、宮崎さんがいる五班と一緒に回ります」

『おー!!』

 

 普段は大人しく引っ込み思案、おどおどした印象が強かったのどかがネギをゲットしたことに一部始終見ていた他の生徒もこの結果に驚く。

 積極的な行動に周囲の人間は驚きながらも彼女の成功を祝福し、のどかは喜びに笑顔を綻ばせるのであった。

 

 

 

 

 

 生徒達がいなくなった通りの脇。木陰で横になっていたアスカは、瞼を開くことすらも億劫な様子で気だるげな様子で隣で腰を下ろすネカネを見た。

 

「行かなくて良かったのか?」

「無理をして皆を元気づけようとしている馬鹿な弟を労わるのも姉の役目でしょ」

 

 よっこいしょ、と若干おばさん臭い台詞と共にネカネは身動きできないアスカの頭を持ち上げて膝枕を行う。

 アスカは逆らわなかった。逆らうだけの体力すら残っていなかった。

 今までは周りの目もあった気を張っていたようだが、ここにいるのはネカネだけ。気を抜いたアスカは血が足りていないのか、よく見れば顔色はかなり悪い。

 昨夜の戦闘で負った傷は癒えども、失った体力と血までは治癒されていないようだ。

 子供達は気が付かなかったようだが、ネカネや千草は気付いていた。

 

「馬鹿ね。バカを演じてまで平気な振りをして。本当は起き上がることも出来ないのに」

「仕方ないだろ。起きたら全員泣きそうな顔してたんだ。こういう時に意地張らなきゃ男じゃねぇ」

「そういうところが馬鹿って言ってるのよ。しんどいならしんどいって言ってくれた方がこっちの気も楽だわ」

 

 この馬鹿な弟は、と言葉は辛辣ながらも頭を撫でる手はどこまで優しかった。

 無理をしたこともあって、しんどいのだろう。脂汗が浮いた額の汗を取り出したハンカチで拭う。

 

「大変ね、ヒーロー役も」

 

 何時もその背中に期待を背負ってきた。

 何時もその背中に希望を背負ってきた。

 何時もその背名に荷物を背負ってきた。

 こうやってしんどい時に弱気になることも許されない弟を何時も見て来たネカネに出来ることは、せめてもの慰めだけだった。

 その慰めこそが最もアスカを救っているのだと、ネカネは気付かない。

 

「自分でやるって決めたんだ。やらねぇと」

「勝てそう?」

 

 アスカは問いに対して思案するように口を閉じた。

 

「舐めてた。いや、驕ってたか。同じメンバーじゃ無理だ。戦力が足りない」

 

 ナナリーを助けたらエミリアの手で日本に逃げる算段になっていたが考えが甘かったということだろう。

 あわよくば敵を倒してしまえれば最高だったが、そこまで上手くいくとは流石にアスカ達も達観していなかった。アスカが敵を惹きつけて敵の目をナナリーや3-Aから遠ざける為に一人で逃げる算段をつけていたのが、結局は過小評価して報いを受けることになった。

 

「高畑さんがいても?」

「ああ。合体してネスカで戦っても手も足も出なかった奴にタカミチが当たったとしても、敵は後四人もいる。絶対的に戦力が足りない。最低でもエヴァに加勢してもらわねぇとときつい」

 

 ふぅ、とこうやって喋っているだけでも負担になるのか、アスカは僅かに辛そうに息を漏らした。

 

「新田先生がアーニャの不在に納得してくれたのは助かったけど」

「友達に引き止められて帰れないっていうのを表面上は納得してくれたようだけど、あれは絶対に何かあるって確信してる顔だったわね」

「エミリアにまで協力してもらったのにな。わざわざ魔法で声をかけてアーニャ役とナナリー役までやってな」

「嘘は駄目ってことよ」

「面倒事ばかりだ。敵もアジトを変えてるだろうし、振り出しどころかマイナスだ」

 

 敵も一度見つかったアジトに何時までも留まってはいないだろう。

 無作為に探すにしてもオアフ島に留まっているかも分からない。不審者がいなかったか地元住民に聞くにしても、観光客だらけなのだから見覚えのない部外者だらけ。話を聞く意義は薄い。

 敵の所在は分からず、アーニャも捕まったのではない収支はマイナスである。

 

「仮契約カードは失効されちゃいねぇからアーニャが生きてるのは確実だ。早いこと動きたいがやっぱ戦力がな。学園長に連絡は?」

「ええ、してあるわ。でも、この修学旅行の為にかけたギアスを解くのと魔力を封印している結界だけを解くのには二日はかかるとの話よ」

「間に合うかは微妙か」

 

 片目だけを開けたアスカの視線の先を追ったネカネは眉尻を下げた。

 良く晴れた青空が映し出しているのは薄らと見える月である。

 

「誘拐犯はナナリー…………というよりエミリアさんだったかしら。生きたまま連れて行ったのだから何かの儀式に使うはず。そういう儀式に月の満ち欠けは重要だものね」

「二日後が満月。タカミチもエヴァも微妙となると、また無茶する羽目になるか」

 

 その発言にアスカの頭を撫でていたネカネの手が凍るように止まった。

 

「悪い、何時も心配をかけて。でも、止められねぇんだ」

 

 しんどいにも関わらず、この弟は人の心配ばかりをする。だからこそ、ネカネは三人とは違って戦う力を一切求めなかった。

 三人の帰って来る場所になる為に、こうやって傷ついた羽を休める場所になる為に。

 

「ナナリーちゃんの為に?」

「ああ」

 

 アスカは即答する。

 

「彼女が好きだから?」

 

 次の質問にアスカは即答しなかった。

 思案するように視線を彷徨わせたアスカはゆっくりと口を開いた。

 

「多分、違うと思う」

 

 真っ直ぐと向けられた視線の先には風に揺れる木の葉と空を流れていく雲。だが、真に見ているのは過去である。

 

「彼女が今のアスカを作った切っ掛けだから戦うってことね」

 

 裡にある思いを言葉にしようとしていたアスカの内心を見透かしたような言葉。

 

「実はネカネ姉さんが全部お見通しなんじゃないかって思う今日この頃」

「姉は弟のことならなんでも分かるの。アスカの身長も体重も、始めて立って歩いた時も、最初に話した言葉も覚えてるわ」

 

 ふふふ、とネカネの満面の笑みに震撼するアスカだった。

 

「最後におねしょしたのもよ。あれは――」

「わわあああああああああああああああ!? いきなり何を言うか!?」

「ふふ、冗談よ」

「ネカネ姉さんの言葉ほど信用できないものを知らないぞ、俺は」

 

 ゼーハー、と体調不良の最中で大声を出したことで息を盛大に乱しながらアスカは、大きく息を吸い込んでまた吐いた。

 

「お姉ちゃんは最強なの」

「弟には、だろ」

 

 そして二人で笑い合う。

 また立ち上がる為に、前に進むために、六年前から始まった二人だけの約束事。

 一頻り笑ったアスカは小さく口を開けた。

 

「恥を忍んだんだ。これで流せよ、小太郎」

 

 風が吹いて葉が舞った。

 答える声はなかった。気配だけが遠ざかって行く。

 

「誰も彼も意地っ張りね」

「違いねぇ」

「アナタもよ。今は体を休めなさい」

「へ~い」

 

 本当に限界らしいアスカが未だに他人を気遣っている現状でネカネに他に何が言えよう。

 

 

 

 

 

 アリゾナ博物館まで行くには船が必要になる。船が出発するまで時間があるので3-Aはビジターセンターを訪れていた。

 センター内はある程度の自由行動が認められているとはいえ、班行動が鉄則。となれば同じ班にいる佐々木まき絵にものどか同様にチャンスが回って来る。そして奥手なのどかと違ってまき絵には積極性があった。つまり、のどかの策は失敗とまでは言わないが成功とも言えなかった。

 

「ネギ君♪」

 

 ネギから引っ付いて離れないまき絵にのどかは誤算を知ったのである。

 ここでまき絵に倣ってネギに触れられない辺り、引っ込み思案の性格が出ていた。

 まき絵に引っ付かれているネギが浮かない顔をしていることだけがのどかにとっては救いだろうか。

 

「のどかのどか」

 

 順路に従って展示物を見ていた一行の後方を歩いていたのどかに、前から下がって来たハルナが声をかけた。

 横に並んだハルナを見るのどかの視界に、少し離れた所にいる名残り惜しげに後ろを何度も振り返ろうとしている六班の尻を叩いている天ヶ崎千草の姿が目に入った。

 

「ネギ君を誘ったのは良くやったって思ったけど、まきちゃんに漁夫の利を取られちゃったわね」

「…………ハルナが難しいことを言ったです!?」

「夕映、アンタは驚くところが違う」

 

 と、ホテルでのやりとりを改めて彼女達は褒め称えたら何故か戦慄している夕映にチョップの突っ込みを入れたハルナは、改めて落ち込み気味の入ったのどかを見る。

 

「私はネギ先生の傍に入れるだけで十分だから……」

 

 のどかは先を歩くネギの背中を見つめ、頬を赤く染めて満足気な笑みを浮かべる。

 古来より「恋は盲目」な物であると先人達は言うが、のどかの場合はまき絵のように無鉄砲になった方が良さそうだとハルナは結論付けた。

 

「バカァッ!!」

「はふう!?」

 

 ハルナがのどかの前で両手を叩くという、細かい芸をしつつ怒鳴る。

 ハルナは自分の両手を叩いただけなので、顔には何の痕跡も残ってなく、のどかには何ともない筈が思わず頬を押さえてしまうのはびっくりしたからだろう。打たれた振りをしたのは左の頬のはずなのに右の頬を押さえている辺り、実は余裕があるのかもしれない。

 二人の直ぐ傍に夕映も佇んでいる。が、ハルナの悪い癖が発揮されていることを悟り嫌な予感を感じた。

 

「この程度で満足してどーすんのよ!! ここから先が押し所でしょっ!!」

 

 イマイチ締まらない空間だったが、ハルナは直ぐに真面目な表情になりのどかにグイッと顔を近付けながら説明する。

 

「―――――告るのよ、のどか。今日、ネギ先生に想いを告白するのよ」

「………え~~~~!? そ、そんなの無理だよぅー!!」

 

 ハルナによって落とされた爆弾にのどかもそこまでは予定どころか、想像もしていなかったので悲鳴を上げて驚くのも無理もない。

 幾らホテルで同行する約束を取り付けれたと言っても、そこまでの勇気は持てないようだ。誘えた現状に満足してそれ以上踏み込めないのだ。

 

「無理じゃないわよ。いい。修学旅行は男子も女子も浮き立つもの。麻帆良恋愛研究会の調査では修学旅行期間中の告白成功率は87%を超えるのよ」

「ははははちじゅうなな?」

「しかもここで恋人になれば最終日の班別完全自由行動日は二人っきりのラブラブデートも……!」

「ファイトです、のどか」

 

 しかし、狼狽するのどかにハルナは反論を許さない勢いで言葉を並べて丸め込もうとする。

 二人について来た夕映も二人の接点を増やすべきだと判断して励ましの声を掛けたのと、恋人になれればデートを出来ると言う認識をのどかに与えた事が決定的となった。

 

「よし、みんなにも話して協力してもらおう!! 夕映、ネギ先生とのどかを二人っきりにするわよ!!」

「ラジャです」

「あっ、ちょっまだ心の準備が―………」

 

 それでも簡単に決心なんて付くはずもなくもじもじと身をくねらせたのどかの多少は傾いてきた反応を出す。それを見て、ここは強引にセッティングした方がいいと判断する二人はのどかに背を向けて一目散に駆け出す。

 引っ込み思案なのどかに対してハルナのように引っ張っていくタイプの人間が傍にいることは、彼女にとっての幸運か不運か。

 慌てた様子で、駆け出した二人の行動を止めようとするのどか。でも、スイッチが入った二人をのどかが止められるわけもなく、伸ばされた手は誰も掴むことはない。

 顔を真っ赤にしながら遅れて暴走気味の二人を追うのどかであった。

 だが、のどかの行動は遅きに逸していた。のどかが追いついた時には既に班員の説得は終わっていたのである。

 

「任せて」

「のどか頑張ってたもん。うちも協力する」

「まき絵には悪いけど、今回は勇気を出した本屋ちゃんの味方しないとね」

 

 女なのに一々心意気が男らしいと評判のアキラが頷き、最近失恋したばかりの亜子が胸の前で両手の拳を握り、反対するかと思われた祐奈も親指を立てて賛成を表明した。

 結果として言い方は悪いが邪魔者になっているまき絵をどうやってネギから遠ざけるかを話し始めた五人に、のどかは事態が自分の手から離れているのを自覚せねばならなかった。

 

「全く、こんな時だってのにパルと夕映ちゃんは何を考えているのかしら」

 

 足早に去っていた三人に呆れを滲ませた明日菜が呟く。

 足を止めていた三人の会話は真後ろに来ていた明日菜達には丸聞こえだった。

 

「まあまあ」

 

 呆れている明日菜を宥めるのは木乃香である。

 エヴァンジェリンはさよの人形を持った茶々丸と勝手にビジターセンターを回っている。

 ビジターセンター内に入って暫くすると千草は他の班の様子を見に行っており、散々釘をさされたので外にいるアスカの所へ戻ることは出来ない。呪いが込められた呪符を背中に貼られていては命令に逆らうことは出来ない。

 早速命令に反しようとしたエヴァンジェリンが哀れにも呪いの被害者になったのを見ては大人しくするのみ。

 

「彼女らにとっては普通の修学旅行なのですから」

「でもさ」

「明日菜、聞き分けないのはあかんで」

 

 刹那もハルナ達の擁護に回り、それでも納得しない明日菜に木乃香はメッとばかりに指を突きつけた。

 他はともかく木乃香には強気に出れない明日菜も矛を収めるしかない。

 

「………………大丈夫かしら、アスカ」

 

 アスカがいる外の方向を見つめて、若干湿った声で呟いた明日菜に木乃香も刹那も口を噤んだ。

 

「お嬢様のお蔭で傷は完治してます。心配はいらないでしょう」

「せっちゃん」

 

 本当に自分の力でアスカの傷が癒えているのか元気な姿を見ても安心出来なかった木乃香の瞳が潤む。

 

「木乃香! ちょっと手伝ってよ!」

「あ、うん」

 

 そこで更なる協力を募っていたハルナに呼ばれて木乃香は前へ進む。足を止めた明日菜を残して。

 

「明日菜さん……」

 

 自分の強さにある程度の自負を持っていた刹那は力不足を思い知らされたが、そこまで深刻に考えていない。裏に関わる者としてもう気持ちの切り替えはできている。

 深刻なのは誰が見ても明日菜だ。刹那のように気持ちを切り替えることができず、まだ表面上は普通を装っているが、その心中は焦りや無力感に苛まれている。

 つい数日前まで、神楽坂明日菜は普通の女子中学生に過ぎなかった。

 アスカ達の存在が彼女を非日常へと誘う切っ掛けとなった。それが運命なのか誰かが望んだものであるかなどは明日菜には判断はつかなかったが、それでも普通でも少し変わった日常が続いてく筈だった。この修学旅行でアスカ達の知り合いが誘拐などされなければ。

 

「ねぇ、私、どうしたらいいんだろ…………やっぱり関わらない方が良かったのかな。なにもできないことがこんなにも辛いなんて思わなかった」

 

 アスカもネギも刹那ですら一敗地に塗れた敵に、新参者の明日菜が立ち迎える道理はない。

 どうにかしよう、どうにかしたいと思いながら何も出来無いばかりか、足を引っ張るだけかもしれない。そんな思いが明日菜を支配していた。

 

「それは私にも判断は付きません。正直なところ私は自分のことで手一杯で、明日菜さんの事まで手が回りそうにないのです。というより、その、むしろ…………すいません」

 

 言いにくそうに言葉を紡ぎ、最後に謝る刹那を目にして自分は足手纏いにしか過ぎないのだと理解して、明日菜は肩を落とす。

 命の奪い合いに発展するかもしれない戦いに身を投じるには余りにも力が足りず、腕力にはそれなりの自信があるものの、まともな実戦経験が本気で戦っていない茶々丸としかない明日菜度など何の役にも立たない事ぐらい誰に言われなくとも分かっている。

 

「何も明日菜さんが戦う必要はないんです。穏やかでいることに何の負い目も感じなくていい筈です」

「分かってる、分かってるけど……………っ!」

 

 刹那も幼い頃から木乃香を守りたい一心で、恐らく自分などには想像も浮かばないような厳しい鍛錬に励んで来たと前に聞き、他の皆も明日菜など歯牙にかけないほど強いのだ。

 それでも事情を知りつつも守るどころか守られ、何もできない自分が不甲斐なく何よりも腹立たしい。

「今回のこともあります。裏の世界に関わらずに済むのならば、それでも良いんじゃないですか」

 

 それは刹那の半妖としての生まれから出てきた言葉でもある。木乃香にしろアスカ達にしろ生まれの関係上、その世界に身を置くしかない。

 でも、明日菜は違う。仮契約を切れば、このまま普通の世界に生きていくことができる立場にある。

 

 自分から関わったり、巻き込まれたりしなければ一生を平穏無事に過ごせる。それが本来あるべきだった彼女の未来だと刹那は思っていた。

 ファンタジーだの何だのと言おうとしても、それが魔法使いといっても人である以上は色々な違いがあってぶつかり合うこともあると理解している。自分は足手纏いに過ぎず、みんな自分よりも強いのだから任せてしまえばいい。それを理性では理解しているが、感情が認めようとしない。

 皆が戦っているのに座して待つことなど自分にはできない。無力なことが情けなかった。

 俯いて拳を握り締める明日菜を刹那は心配そうに見ているが、お互いに何かを言える状態ではなく 二人の間にしばらくの間に沈黙が続く。

 

「せっちゃーん、明日菜ー!」

 

 その時、木乃香が戻ってきて、心配させないために明日菜は無理にでも元気を出す。

 ビジターセンターを出てアリゾナ記念館に向かうために船に乗り込んだ明日菜達の目の前をのどかが走って通過して行った。

 

「今の本屋ちゃんよね」

「そうやね、何を急いでたんやろ」

「泣いていた様にも見えましたが……」

 

 こちらに気付いた様子もなく走り去ったのどかが気になり、三人はのどかの後を追った。

 鈍そうな見た目と違って幾ら図書館島探検部で鍛えられているといっても、運動能力に優れた明日菜や刹那に勝るはずのないのどかはあっさりと補足された。

 息切れしながら何故かポロポロと涙を流しているので何かあったのかと思って、千草が班行動を無視させてくれたので話を聞く体制を作る。

 

「どうしたの、本屋ちゃん」

 

 真珠湾の沈んだ戦艦アリゾナ号の上に建つ建てられた慰霊塔であるアリゾナ記念館の入り口にあったベンチで、隣に座った明日菜はのどかを見た。

 泣いているのどかを座らせて落ち着いた後に経緯を聞くと、彼女なりに頑張ってネギに告白しようしたが、空回りしてしまう自分が情けなくて逃げてしまったらしい。

 流石に告白しようとしたのを知られるのは恥ずかしくて、のどかはもじもじしているがどうしようもない。

 

「成る程、告白しようとして」

「は、はい――――――いえ、しようとしたんですけど、私トロイので失敗してしまって」

「のどかは十分頑張ったって」

 

 明日菜とはのどかを挟んで反対に座った木乃香の励ましを受けても再度落ち込むのどか。

 ベンチの近くに立った刹那は多少の驚きと、やはり無理かという気持ちを持つ。

 朝の行動を知っているとはいえ、流石に一足飛びにそこまでいけるほど勢いはないだろうと考えていたのだが、途中で止めたとはいえ驚きだった。

 

「でも、ネギ先生は四歳以上下の十歳の子供では? どうして……?」

「そ、それはですね、ネギ先生は――――」

 

 どうしてネギが好きなのか気になった刹那は、あまり話した事のないのどかに積極的に問いかけた。それは明日菜達も同感だ。

 少し呆気に取られたような表情を浮かべたのどかは一瞬だけ考え込んで視線を湖に向ける。

 そして少し俯き、顔を赤らめて恥ずかしがりながらもはっきりと今の自分の想いを紡ぎ始めた。

 

「普段は皆が言うように子供っぽくてカワイイですけど。時々私よりも年上なんじゃないかな―って思うくらい、頼りがいのある大人びた表情をするときがあるんです」

 

 のどかは羞恥心と恐怖心をゴクリと唾と共に胸の中に押し込んで、思いを言葉にする。 

 

「多分ネギ先生が私にはない目標を持ってて。それを目指していつも前を見ているからだと思います。本当は、遠くから眺めてるだけで満足なんです。それだけで私、勇気をもらえるから。でも今日は自分の気持ちを伝えてみようかと思って」

 

 喋りながらのどかは、ネギの好きなところを思い浮かべて段々と声が大きく自然と笑顔になっていく。

 のどかも自分がどれほど恥ずかしい事を言っているかも痛感して煙も出そうなほどに真っ赤にして俯いてしまう。

 聞いた刹那としてもこの、勇気を持って自分の事を語るという事は方向性は違っても他人事ではないから少し落ち着きを失くす。

 のどかはそこで言葉を切るが、チラリと明日菜が見た彼女の目には確かな『想い』があった。

 だからだろう、嫉妬にも似た感情を覚えたのは。

 

「あ、ありがとうございます。聞いてもらって決心がつきました。これから告白して来ます」

 

 純粋な、あまりにも純粋な言葉と気持ちに憧憬を抱いたのははたして誰か。

 

「―――――そう、ですか」

 

 のどかの覚悟の篭った言葉を聞いた刹那は、想いの輝きに眩しそうに目を細めて沈黙する。その思いを知る者はいない。

 木乃香も明日菜もそれぞれに思うことがあったから。

 

「私如きでは手伝いもできませんが……………頑張ってください」

「はい!!」

 

 彼女の勇気が自分にもあれば、とのどかの背中を見送った刹那は思った。

 

『お姉さん、ただの人間と違いますな』

 

 呪いのように耳の奥に月詠の声がへばりついていた刹那は、勇気が欲しいと切に願った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………ほい、取材終了っと。やれやれ、こんなんじゃ記事にもなんないよ。ま、皆が知ったら騒ぐだろうし、この件は秘密にしといてやるか。ゆっくり進む恋もあるさね」

 

 ネギへの告白騒ぎの取材を行っていた朝倉和美は、のどかの目の届かないところで隠して録音していたボイスレコーダーを停めて巻き戻し、先程の録音しておいた会話を消去する。

 ネギへの恋愛事情を記事に載せることに誘惑を感じないわけではないが、そんな記事を載せてしまえばただでさえ引っ込み思案なのどかの小さな恋は終わってしまう。

 さっきの可愛いのどかの様子を思い出して、自分もまた多感な年頃を生きる少女として、そんなことを断固として許すことは出来ない。パパラッチを自称していようと人を傷つけるのは本意ではないのだから。

 

「しっかし、ウチのクラスは平和だね」

 

 妹の恋を見守るお姉さんのような気分になりながらも、デジカメを取り出して修学旅行で取り溜めた映像の数々を見ると物足りなさを感じる。人を傷つけるのが本意ではなくてもパパラッチとしての性が蠢いて止まない。

 

「アスカ君は話題に事欠かなかったんだけどな。う~ん、ネギ君はトラブルを起こさない。アーニャちゃんが行ってるっていう家のことを聞いてみるか」

 

 喧嘩や器物破損を起こしたりと、アスカは何かと騒動を引き起こすので学園報道部としてはネタに事欠かなかった。あまりネタの出ないネギにも話題を期待したのだが、流石に一人の少女の小さな恋を踏み潰すことは出来ない。

 

「何か血沸き肉踊る大スクープでも転がってないもんかね」

 

 当てもなく愛用のデジカメを持ってホテル内を徘徊しながら特ダネを探すが、そう簡単にスクープが転がっているはずもない。

 

「おっと、ネギ先生じゃん。丁度良いところに」

 

 階段を下りていると、ホテルのロビーをフラフラと歩いている小さな人影を見つけた。スーツを着こんでフラフラとした今にも倒れそうな足取の彼は件の子供先生―――――ネギ・スプリングフィールドに間違いない。

 

「あらー、悩んじゃってるなー。十歳の少年には告白は、ちょっとショッキングだったかな?」

 

 横顔からも思い悩んでいる様子が簡単に見て取れた。肩を悄然と落としながらやつれているような気がするネギを見て、和美も少し心配になってきた。インタビューするにしても十歳の少年には告白された一大事を受け止めきれていない様子がはっきりしていた。

 

「あ」

 

 どうするか決められないまま声を掛けるタイミングを逸して、進行方向からネギの行く先を視線で辿った和美はロビー中から畏怖の目を向けられている少年がソファーに座っていることに気が付いた。

 

「おい、ネギ。死にそうな顔してどうした?」

「あ、アスカ」

 

 アメリカサイズのハンバーガーの十二個目を食べていたアスカは、真後ろを通ろうとしたネギの首だけを後ろに傾けて呼び止めた。

 

「ちょっと、相談があるんだけどいいかな?」

 

 バクリ、と大きくハンバーガーに食らいついたアスカに向けてネギは懇願した。

 

「いいぞ。腹ごなしにちょっと歩くか」

 

 と、手に持っていたのを一口で食べきり、中身を失った空袋をロビーの端にあるゴミ箱に投げ入れたアスカは、机の上に残っていた最後の一個を持って立ち上がった。

 和美は兄弟の会話を始めてしまった二人の間に割って入ることが出来ず、何となくでホテルの外へ出て行くのを追う。

 これが、彼女にとって人生の転機になるであろう大スクープとの出会いになるのだった。

 二人は後を追う和美に気づかないまま、ホテルの裏口から裏通りへと出て行く。

 話を聞いて頷いていたアスカと悄然と歩くネギの前を、生まれて一年も経っていないだろう子犬が横切って道のど真ん中に座り込んで毛繕いを始めた。

 二人は特に気にすることも無く、裏通りから表通りに出ようと子犬に背を向けて歩き出した。

 そして二人が十数メートルも進んで、英語を話せるわけではない和美がホテルを出てまで後を追うべきかと裏口の近くで逡巡している時だった。

 

「お、おい兄貴達! アレ!」

 

 ネギの肩でふと後ろを振り向いたカモが道のど真ん中で毛繕いをしている子犬と、その後ろから子犬に気付いた様子のないホテル内にあるレストランの食材を配送しに来たであろう車が走ってくるのに気づいて声を上げた。

 

「え……? あ!」

 

 ネギがカモの声に気づいて状況を理解した時、既にのっぴきならない程に切迫していた。

 

「こ……子犬が!?」

 

 思わず声を出した朝倉だが、残念ながら彼女の位置から子犬まで走る時間と車が猫を轢くまでを比較すると圧倒的に後者が早い。

 もっと遠いネギ達の位置からでは当然間に合わない。

 未来は子犬の死が確定されている。

 

「ちぃっ!?」

 

 反転したアスカが自身の体調不良も理解せぬまま飛び出さねば。

 

「あっ!」

 

 和美がどうにも出来ない状況に絶望しかけたと同時に、アスカが一息の躊躇も見せずに一足で子犬の下へと滑り込んだ――――車の前へと身体を投げ出して。

 アスカが突然現れたことで車が急ブレーキをかけたが遅すぎた。それほどスピードを出していなくても車は慣性の法則に従って急には止まれない。

 

(し、死んだ――!? アスカ君――!?)

 

 離れていたはずのアスカが瞬間移動染みた速さで現れたことよりも、車の前に自分から飛び出すという突飛な行動に硬直した和美。

 彼女の眼には、車の前に体を曝したまま子犬を庇うように抱きしめたアスカの姿が映る。

 あの車のスピードなら当たり所さえ悪くなければ死ぬことはないだろう。運が良ければ掠り傷で済むかもしれない。だが、この時の和美には我が身を躊躇なく投げ出したアスカが轢かれれば死ぬ光景しか予測できなかった。

 予測した未来に手に持っていたデジカメに力が入って、シャッターが連続で下ろされていることに気づいていなかった。

 世界がスローモーションになったかのような錯覚の中で、遥か離れたネギだけが動いていた。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル 風花・風障壁!!」

 

 双子の弟に訪れる死に抗う魔法を唱える。すると、放たれた魔法は車を吹き飛ばした。まるで新体操の選手のように一回転しながらアスカの頭上を通過して、そこまで計算されていたのか車は一回転して地響きを立てながら綺麗に着地する。

 

「運転手さん、大丈夫ですか?」

「あ、あれー? 今?」

 

 轢きかけたのとは別の少年に問いかけられても、起こった現実を受け止めきれない運転手は目を見開いて震える手でハンドルを握ることしか出来なかった。

 取りあえず、轢きかけた少年が無事なことだけはハッキリしていた。目の前で起こった不可思議な出来事も、人身事故を起こしかけた我が身を振り返れば目を瞑るには十分な材料だった。

 この時の記憶を忘れてしまおうと、少年に言葉を返した運転手は逃げるように車を出して走り去っていった。

 

「サンキュー。助かった」

「僕が助けなくても自分で避けられた癖に」

 

 助けた子犬が頬を舐めて来るのに笑いながらのアスカの発言に、ネギは自分に自信をつけさせるために下手な演技をした双子の弟を責めた。

 

「自信はついたろ」

「ついたけど、寿命が縮まるようなことは今後止めて」

「了解」

 

 子犬を放したアスカに拳を伸ばしたネギは、コンと笑いながら当てられて叶わないなと思う。

 

「おい、もう行けって」

「ワンワン」

 

 命を救われた子犬はアスカに懐いたのか、放されても傍を離れようとはしなかった。

 もっと構ってとばかりにアスカの周りを飛び跳ねる。

 

「しゃあねぇ。レストランで飯でも貰ってやるから食ったら母ちゃんの所に帰れよ」

「ワン!」

 

 飯、の一言に耳と尻尾をピンと立たせた子犬は器用にもアスカの体を伝って頭の上に乗った。

 

「はは、ご飯に釣られるなんてアスカみたい」

「はははは、良し犬。飯食いに行くぞ。こんな恩を忘れた失礼な野郎は置いてな」

「ワゥ~ン」

「そうかそうか。お前もそう思うか」

「ちょっと待ってよアスカ」

「知らん」

「ワン」

 

 プンプン、と背中を怒らせたアスカに同調するように頭の上に乗ったまま尻尾を振った犬はホテルへと戻って来る。その背中を不用意な一言で怒らせたことに気が付いていないネギが追いかける。

 

(なっ……なぁにぃ――っ!?)

 

 アスカが車の前に飛び出したのとは別種の意味で言葉が出なかった。ネギが起こしたであろう目の前で起こった奇想天外な光景を目の前にして、完全に硬直していてもパパラッチの習性故か物影に素早く身を隠す。

 

(な、ななな…………い、今のは~~~~!? あ、合気道!?)

 

 二人と一匹がホテルに入って行くのを見ながら、自分で言っていて合気道で説明できる事象を超えていた。

 

(き……きき、来たぞーーーー!! 超特大スクープゥ~~~~!!!!)

 

 デジカメにはアスカが飛び出してから、ネギが杖を振ると車が吹き飛ぶまでの連続した映像が確かに記録されていた。連写機能のついたデジカメを愛用している自分にキスをしたいぐらいに興奮していた。デジカメを見下ろす彼女をその場に残ったカモが見ているとも知らずに。

 

 

 

 

 

 修学旅行二日目もいよいよ夕方から夜に変わろうとしていた頃、和美は忍び足でホテルの中まで戻ってダッシュでトイレへと閉じ籠もった。

 便座に座りこみ、自分が手に入れたスクープに興奮を抑えきれずにいた。

 

(超能力者!? 宇宙からきた正義の味方!? 人間界に修行に来た魔女っ子・男の子版!? 荒唐無稽だけどこれが一番状況証拠と一致するかも……)

 

 デジカメの映像にはネギが掲げた杖の先から放たれた力場に弾き飛ばされたように吹っ飛ぶ車がハッキリと映っている。

 荒唐無稽でも、若干十歳と言う年齢でありながら麻帆良学園に赴任してきたという不自然な経歴を考えれば納得がいく。そうなると学園上層部も何らかの関わりがあると考えれば、ジャーナリスト魂が嘗てない程に燃え滾って徐々に興奮のボルテージを上げていく。

 しかし、証拠として手に持つ映像だけでは薄い。これがフィルム型の写真なら偽造は不可能だがデジカメだと証拠能力は極端に下がる。多数に捏造、偽造だと言い張られれば少数派の自分が負けるのは分かりきっている。

 何しろ自分もこの手に証拠があっても信じ切れていない部分がある。自分を信じるには本人に証言を吐かせるのが手っ取り早い。 

 

「世界の度肝を抜かすスクープまで後一歩!! よし、こうなったら」

「ちょいっと待ってくれないか、姉さん」

「わひゃあっ!!」

 

 一気にテンションを上げた和美の声に被せるように直上かけられた声に、まさか誰かに聞かれているとは思えずに腰を抜かすほど驚いた。

 

「なに奴!?」

 

 大袈裟なほどに狼狽しながら辺りを見渡すも、トイレなので当然の如く四方は壁に遮られている。

 

「こっち、こっち。上だ」

 

 声の主に言うことに従って顔を上げる。

 

「まさか目撃者がいるとは思わなかったぜ。念のために後を尾けて正解だったな」

「お、オコジョが喋っている?」

 

 和美が見上げた先、ドアに上に四肢をついてやけに人間臭い仕草で深い息を吐くオコジョがいた。

 

「混乱は分かるが聞きたいこともあるだろ。ここは人が来るかもしれねぇから場所を変えようぜ」 

 

 事態を受け入れきれない和美を悠然と見下ろしつつ、オコジョ―――――アルベール・カモミールは告げたのであった。聞きたいことが山程ある和美に、カモの誘いを断る理由などありはしなかった。

 

 

 

 

 

 カモはトイレからホテルの中庭に場所を移して、抱えている厄介事等で悩む主を目にして独断で和美に接触を図っていた。

 

「―――――ていう訳でして、今の兄貴には他の事に目を向けている余裕はないんでさ」

 

 写真で魔法を使う瞬間の映像を握られていたので、和美に特に修学旅行の間だけでも関わらないでいてもらうように説得していた。

 トイレでの熱狂振りを見るに、有り余る熱意を武器にしてネギに迫るのは予測出来た。デジカメなので言い逃れを図ればいいかもしれないが、あの熱狂振りで迫られでもしたらネギの一杯一杯の精神が決壊しかねない。

 

「今は、ってことは後ならいいわけね」

 

 目前で頭を下げて頼み込んでくるカモに、和美は渋い顔をして返す。

 

「ああ、修学旅行後なら何時でも構わないぜ。出来れば兄貴のスケジュールを確認してからにしてほしいがな」

 

 この件に関して引くわけにはいかない和美にとって、カモの介入は決して望ましいものではなかった。

 だが、今のネギがかなり一杯一杯なのは分かっているので理解は示していた。ある程度の情報を齎されたことも要因の一つだった。

 ネギが魔法使いで、魔法学校の卒業課題として麻帆良に来たこと、この修学旅行で魔法に関わるゴタゴタが発生していること。

 和美は確たる証拠のない、後で幾らでも言い逃れが出来る材料だけを与えられていることは分かっていたが、下手な行動は命取りになることを報道部の経験から知っている。

 

(本当なら兄貴達や学園側に報告すべきなんだが…………)

 

 カモの心中では目まぐるしく思考が働いていた。わざわざ女子トイレまで和美の跡を尾けて入ったのは、僅かに残ったスケベ心の名残か。

 それはそれとして、ネギは和美に魔法を使うところを見られて証拠も揃っている。魔法がバレたといっても過言ではない状況だった。状況的に子犬とアスカを助けるには魔法を使うしかなく情状酌量の余地はあると見ている。

 カモの中で最も正しい選択は、ネギ達が納得する結末だ。

 最も簡単な選択肢としては和美の記憶を消してもらうことだろう。状況を説明すればネカネ達もカモの選択を認めて手を貸してくれると思う。

 しかし、もしネギがこのことを知ってしまえば、自分の所為で生徒の記憶を消してしまったと傷つくだろう。学園に連絡したとしても状況は同じ。かといってネギに伝えるかといっても、現状で手一杯の状態で対処できるとは思えない。

 高畑が合流してエヴァンジェリンの呪いが解けて参戦してれくれれば事態も解決するはず。

 告白の件も、遅くとも数日中に何らかの結論が出るはずだ。

 結局の所、後回しにしているだけだが修学旅行が終わった後に全てを話す。何らかの責があったとしても全て自分が引き受ける。そのためには修学旅行の間だけでも目の前の少女に行動を自粛してもらわなければならない。

 

「それじゃあ、黙っておくからカモ君のでいいし魔法を見せてもらえないかな? ネギ君の時はよく分からなかったからさ。ちゃんと見てみたいんだ」

 

 オコジョが喋る光景も補填する一助となるがどうせならハッキリと、この目で見てみたい。

 和美も小さい頃は誰もが思うように魔法を使いたいと思っていた時があった。大きくなるに連れて魔法が存在しないことを理解したが、目の前で見て欲求を満たしたい。

 

「俺っちの?」 

 

 和美の提案に困ったのはカモの方だった。

 オコジョ妖精の魔法はサポート系が大半を占める。「人の好意を測る事が出来る」のように、目の前の少女の希望を叶えられるだけの魔法を使えるかといえば答えは否。口止め料を兼ねるなら希望を叶えなければ納得してくれない。

 

(念話妨害とかはそもそも人に見せられる物じゃねぇしな……)

 

 中庭で人がいないといっても目立つものは避けたい。魔法と判断し易く、でも目の前の少女が納得できるだけの地味すぎない魔法を考えるために脳裏で列挙しては却下していく。

 幾つかの候補を挙げて、一つの魔法を思いつく。

 

「分かった。言っておくけど地味だとか後になって文句は言いっこなしだぜ」

「いいよ、期待してるからね♪」

 

 仕方なさ気に肩を竦めながらの答えると、口笛を吹かんばかりにご機嫌になった和美が歓声を上げる。

 了承を得たカモが取り出したチョークらしき物で地面に魔法陣をあっという間に書き上げていく。複雑な魔法陣を秒単位で描いていくカモに和美が感嘆の息を漏らす。

 

「うしっ、完成!」

「おお、凄い早業っ」

 

 一分も経たずに書き上げられた魔法陣に一人だけの拍手が巻き起こる。

 

「これからするのは仮契約っていう儀式で、本当なら二人必要なんだが実演するだけだから発動だけで勘弁してくれよ。そもそも仮契約っていうのは――――」

 

 簡略に仮契約のシステムについて説明する。

 

「OK、OK。早く始めて」

 

 カモの説明をちゃんと聞いているのか怪しい和美が魔法陣の脇に立って今か今かと急かす。

 

「契約!!」

 

 理解自体は求めていなかったので要求に従って魔法陣を発動させる。

 

「眩し!」

 

 カモの声と同時に魔法陣が光り輝き、一瞬でも和美の目を眩ませるほどの光を放つ。直ぐに視力も戻ったが、何で光っているのか分からないので珍しげに光に手を翳していた。

 

「あ~……」

 

 あまり長時間やるとバレる可能性があるので、三秒程度で流していた魔力を閉じると光も合わせて消えた。

 消えた光を追うように魔法陣の上に手をやっていた和美が気の抜けたような声を漏らす。

 

「満足していただけたかい、姉さん」

 

 煙草を取り出して口に咥えて火を点けつつ和美の様子を見て満足してもらえたと確信を得ていた。敢えて問いかけたのは確認の意味と、未だに夢現にいる彼女を現世に戻す意味を込めて。

 

「うん。いや~、いい物を見せてもらったから話を聞くのは修学旅行が終わるまで待つよ」

 

 何かトリックがあるように見えなかったので和美も十分に満足していた。直ぐにネギに話を聞けないのは不満だが、修学旅行さえ終われば時間が幾らでもある。修学旅行の間ぐらいは待つのはわけなかった。

 

「俺っちも兄貴の下へ帰らないとならねぇ。そろそろお暇するぜ」

 

 和美に返事に頷きを返し、自分で書いた魔法陣を後足で土を掛けて消す。

 

「私も戻るよ。修学旅行が終わったら覚悟しておいてね」

「お手柔らかに頼みますぜ」

 

 和美も話が終わったなら中庭にいる用はない。カモを肩に乗せて喋りながら旅館へと戻っていく。残された地面の魔法陣から微かな光が発せられると気づくことなく。

 

「あ、そうだ姉さんにちょっと頼みがあるんだが構わねぇかい?」

 

 カモは策謀し続ける。それが苦難の道を歩むと決めた少年達を補佐すると決めた自らの役割であるから。

 

 

 

 

 



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第17話 とある悲劇

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なにが目的なのよ、アンタ達は」

 

 別のアジトに移って暫くすると起きた少女――――アーニャに問われたフェイト・アーウェンルンクスは、声が聞こえた方へと顔を向けた。

 ゲイルの姿はない。前のアジトに肝心な忘れ物をした為に取りに戻っているところだった。

 予想よりも遥かに速い目覚めに驚きつつもフェイトは顔に出さない。

 

「なに、とは?」

「目的よ、目的。人を誘拐してまでなにがしたいのかって」

「さあ、僕は雇われの身だから詳しくは知らない」

 

 フェイトが正直に答えたらアーニャは呆れたような顔をした。

 

「雇われたからって人を攫うなんて最低」

 

 フェイトの視線の先にいる少女の全身には魔法的な拘束が為されている。

 どうして捕まっているのにそこまでふてぶてしくいられるのか不思議でならないフェイトだった。

 

「君、自分が捕まってるってこと分かってる?」

「分かってるわよ。こんな状態で分からなかったらよほどの馬鹿じゃない」

「普通はもう少し怯えるものなんじゃないかな? あの子は違ったよ」

「怯えたって状況は何も変わらないわよ。私は愚鈍じゃないの。建設的にアンタ達の目的を探った方が賢明だわ。それと」

 

 あの子のことをアンタ達が語るのは吐き気がするから辞めて、と言われればフェイトは口を閉じざるをえない。

 だから、本当に賢明な人間ならそもそも捕まったりはしないとフェイトは思いはしたが口には出さなかった。

 僅かな会話だけでアーニャがああ言えばこう言う、フェイトが今まで出会ったことのないタイプの人間だと分かったからだ。

 

「詳しくなくてもこの際いいから、目的を吐きなさい」

「いいよ」

「え、本当に?」

「君が言えって言ったんじゃないか」

「言ってみただけで本当に言うとは思ってなかったもの」

「君は…………別に答えるなって言われてるわけでもないし、僕の知っている範囲なら教えてあげるよ」

 

 怒るよりも呆れる気持ちにされる少女の気持ちは一生分かりそうになかった。反対にアーニャからもフェイトの気持ちは一生分かりそうにないが。

 

「僕と月詠…………さっきまでいたゴスロリっていうんだけ? を着ていた子のことは覚えてるよね」 

「ええ、刃物に舌なめずりしてた子でしょ。友達は選んだ方が良いわよ」

「彼はこの間会ったばかりの同業者だよ。友達じゃない。彼も僕と同じくゲイルに雇われてるんだよ」

 

 どうもアーニャと喋っていると一々話が脱線することに脱力しつつも訂正することを忘れないフェイトだった。

 誰も好き好んで太刀についていた襲撃者の血を好んで舐める異常者の身内と思われたくない。

 

「ん? 彼じゃなくて彼女じゃないの?」

「あんな服着てるけど、彼で合ってる」

「…………OK、OK。そういう趣味なのね。私は器が大きいから差別はしないわ。で、ゲイルってのは、あの紅い眼をしたおっさんでしょ。私に喜色悪い幻術を見せた」

 

 度量の大きさを見せようと大きく頷いていたアーニャは、捕まった時に魅せられた幻術に背筋が粟立ったのか体をブルリと震わせた。

 

「彼の魔眼は厄介だからね。君は目的を探る為に生かさないといけなかったら、まだマシな方だと思うよ。下手をすれば精神が壊されてもおかしくないから」

「じゃあ、オッケンワインの当主があんな状態になったのも」

「そう、彼の魔眼の幻術によるものだよ」

 

 聞いたアーニャはかけられた幻術を思い出したのか、盛大に顔を顰めた。

 その表情に興味を覚えたフェイトの口は自然と動いていた。

 

「君はどんな幻術をかけられたんだい?」

「…………アンタも大概根性悪いわね」

「そうかい? 純粋な興味だから答えたくないなら言わなくてもいいけど」

 

 言った通りフェイトは答えなさそうなアーニャから視線を外して殺風景なアジトを見渡した。

 アジトといっても前回と大して規模は変わらない小屋である。

 唯一あるベッドを、先程までアーニャが起こそうとしていたオッケンワイン家から攫ってきた少女が魔法で眠らされたまま横になっている。

 その足元にナーデレフ・アシュラフが座って銃の手入れをしている。

 月詠は存在自体が物騒だからと小屋の外に出され、暇を持て余していたフォン・ブラウンと殺し合いをしている。

 

「うっさいわね、外」

 

 アーニャと気持ちは同じなのでフェイトは何も言わなかった。

 狂笑やら爆音が小屋の中にまで響いてくるので五月蠅いことこの上ない。

 これでもフェイトが消音結界を張っているが外に向けて大半の為、内側はどうしても甘くなる。超高位魔法使いであるフェイトを以てしても出来ないことはやはりある。

 

「一人は嫌なの」

 

 ぽつりとアーニャは囁くように言った。

 

「置いて行かれるのは嫌。嫌なの」

 

 外の音に掻き消される小さな声で、俯いて漏らす少女の泣き事にフェイトはやはり何も言わなかった。

 フェイトにとってアーニャは、重なることのない道で偶然に交差しただけの相手に過ぎない。アーニャが何を思って、どのような幻術をかけられたとしてもこの一時はそう長く続くことはない。だからこそ、アーニャもフェイトに愚痴を零せたのかもしれない。

 

「僕達の目的が知りたいと君は言ったね」

 

 アーニャから感じられる空気を不快とフェイトが思ったのかは定かではない。が、彼が進んで話題を変えたのは間違いない。

 

「ゲイルとフォン、そこのナーデの目的はカネの水にあるらしい」

 

 銃の手入れをしていたナーデがフェイトに視線を向けたが、興味を失ったのかはたまた別の理由かは余人に分からないがまた手元に目を落した。

 一瞬向けられた視線に殺気にも似た何かを感じ取ったが、フェイトは気にもしなかった。

 

「カネの水って?」

「さあ。永遠の命を得られるだとか、死者を生き返らせられるだとかって話の水らしいよ」

「凄い水じゃない。なのに、アンタは興味がなさそうね」

 

 僕は永遠を生きられるから、とは馬鹿にされそうなので、僅かな会話だけでアーニャの人となりを理解しつつあったはフェイトは言わなかった。どう考えても藪蛇になりそうになかった。

 

「じゃあ、アンタの目的はやっぱりお金?」

「いや……」

 

 金銭はあって困る物ではない。が、目的かと言われたフェイトは答えに窮した。

 真実を言うべきかとフェイトにしては珍しく逡巡したが、アーニャの連れが誰の関係者であることを考えてやがて口を開いた。

 

「僕の目的はある人物を探し出すこと」

 

 紅い髪をした人物がフェイトの脳裏を占めた。

 

「人物って?」

「ナギ・スプリングフィールド」

 

 言うとアーニャは喉の奥でヒクッと引き攣ったような呼吸音を漏らした。

 狙った通りの反応を示したアーニャに若干ながらのやり返した感を得たフェイトはそんな自分に不審を覚えた。

 自らを神の人形と定義しているフェイトが、特別な立場の身内というだけの少女をやり込めただけで愉悦を覚えるなどあるはずがない。なのに、愉悦を覚えてしまった自分自身にフェイトは内心で困惑した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 修学旅行の二日目の夜。静かだったホテルは五月蠅いほどに騒動が息巻いていた。

 教師も部屋の中で大人しくしている者まで取り締まるつもりはない。仲間とのせっかくの旅行だ、そこまで干渉するのは無粋というものであろう。

 だが、部屋に戻った彼女達はホテル中に響き渡るほど騒ぎ捲くる。盛り上がるのは大いに結構だが、彼女達がいるのは決して、広野の一軒家ではなく、公共の宿。学園長が手を回していてもホテル側の迷惑になる。となれば………。

 

「コラァ、3-Aいいかげんにしなさい!!」

 

 騒ぎ捲くる3-Aの生達を一喝の下で廊下に出した学園広域生活指導員の新田は烈火の如く怒り、朝まで自分の班部屋からの退出禁止、更に出ているところを見つかればロビーで朝まで正座させるとまで言い渡される。

 みんな不満があったが新田の横にいる千草が頭を痛そうに抑えているのを見ては流石にばつが悪く不満を口に出せない。

 先生方が去っていく際、皆の中に燻りが残っていることは教師陣の目には明らかだった。どう考えても静かな夜を過ごせるとは思えない状況は目に見えていた。

 皆一様に新田からの叱責をもらえばその場はしょぼんとするが、本音はもっと遊びたいと思っている。そこに彼女達とは別行動を取っていた和美がふらりと現れ、とあるゲームをしないかと提案した。

 当初、あやかは当然委員長として断固反対の姿勢をとったが、周りに圧倒されて負けてしまった。

 そして彼女達はゲームのために騒ぐ事無く、静かに時間になるまで時を待つ。

 退室禁止にしたから今夜はもう何も起こらない、と新田以外の引率の先生は、そう考えていた。実際、目に余るようなドンチャン騒ぎは表向きだけは成りを潜めているからだ。

 しかし、少女達は息を殺し、各々の部屋の中で枕を寄せ合ってテレビにかじりついていた。

 そして時間が近くなり、3-Aのそれぞれの班のテレビには彼女達に取って見慣れたクラスメイトの顔が映し出される。

 

「それじゃ、修学旅行特別企画!!『3-A最強は誰だ! 問答無用の頂上決戦!!』始めるよー!!」

 

 夜の九時に各班の部屋の中にあるテレビから、テンションの高い朝倉和美の熱の入った実況が部屋に響く。イベントの開始を今か今かと待ち望み、画面を食い入るように見つめていた非参加者達は抑えた声で歓声を上げる。

 何時も以上のテンションの高さを見せながら、和美は今回の企画のルール説明を始める。

 

「参加者は我こそはという強者のみ! 既に参加者の一人が中庭にいるぞ!」

 

 その瞬間、テレビ画面が上下三つずつ、計六つに分割され、ライトアップされている中庭の映像が映し出された。無駄に凝っているが、その信じがたい技術の高さもまた3-Aたる由縁の一つなのかもしれない。

 画面の一つに中庭を歩く金髪の少年の姿が映っていた。

 

「さて、誰が最初にアスカ君に勝負を挑むか! 実況は報道部、朝倉がお送りします!! では、スタート!!」

 

 ゲームの開始を告げた和美は、マイクのスイッチを切ってパンパンと軽く叩いて音が漏れていないことを確認して近くの棚に置く。

 超らの協力で設置したテレビ類がある部屋で、今回の片棒というより主犯に視線を向けた。

 

「アスカ君に何の事情も話してないけど良かったの?」

「構わねぇだろ。アスカの兄貴も分かってくれる」

 

 和美の懸念は、空き部屋を勝手に利用していることもあって煙草の煙はマズイと考えて咥えているだけのカモには届かない。

 

「刹那の姉さんと龍宮の姉さんが出てくんなかったがそれは高望みだ。お仕置きは覚悟の上。今は少しでも足掻いておかねぇとな」

 

 

 

 

 

「う、うぅ――――ッッッ!!?!?」

 

 カモに中庭に呼び出されたアスカは、麻帆良女子中等部の男版のジャージに包まれた背をぞくぞくと這い上がる冷たい悪寒が走り抜ける。思わず立ち止まって辺りを見渡す。

 

「まさか風邪か? いや、そういうのとはまた違うような気が。それに中庭全体にギスギスというか、まるで戦場のような雰囲気が漂っている……………何故?」

 

 ホテル中が肉食獣を放したようにピリピリしている。それは敵意とも違うが、明らかに『正のベクトル』ではない異様な気配で、無視するには余りにも不気味すぎた。

 

 歩きながら視線を生い茂っている中庭の木々に向けると、あちこちに隠しカメラが設置されていた。元々あったものではなく誰かが取り付けた物だ。何かをしているのが丸分かりである。

 カメラは和美とカモが今夜の中継のために取り付けたものなのだが、アスカはそんな事知る由もない。一応目立たない位置に取り付けられてはいても、時間の経過と共に回復しているアスカの五感は誤魔化せなかったようだ。

 何となく姿が映るのは不味い気がしたのでカメラに映らないように死角に回ろうとしたが、至る所に仕掛けられていたのでそれも叶わなかった。

 

「なんなんだよ、全く」

 

 上空から見下ろせば三角形になっているホテルの真ん中は吹き抜けになっていて中庭は広い。夜であっても自然を楽しめるようにとライトで照らされた中庭は昼のように明るい。

 先程の悪寒もあってこれは早めに部屋に戻った方が良さそうだと判断したアスカは出口を目指して歩く。

 悪寒を感じたのが丁度中庭の中心付近にいたこともあって、出口に歩を進めて伸びている木の枝を避けたところで、首の後ろに鳥肌が立った。

 

「――っ!?」

 

 前後に現れた気配と、続いて生まれた首に走った危機感に従い、脱力して身を下げることで避ける。

 下がった頭の上を手が二本通過するのを見ながら、そのまま流れるような動作で重心を斜め後ろに下げ、弛んだ膝に力を入れて後ろに飛ぶ。

 顔が地面につきそうになるぐらい低い姿勢で回りながら、足から着地して更に一歩、大きく後方に飛びながら顔を上げると、先程までアスカがいた地点に人の姿が二つ。

 

「今のを避けるとは思わなかったアル!」

「やるでござるな、ニンニン」

 

 攻撃を躱わされたことで何かのスイッチが入ったのか、やけに生き生きとした目をした古菲とやたらと嬉しそうな楓の姿。

 真相は簡単。気配を殺して木の幹に隠れていた古菲と、上の葉に紛れていた楓が降りてきて、アスカの首を狙ったのだ。

 二人の力だと首が胴体と生き別れになるかもしれないのに、避けなかったらどうするつもりだったんだろうか。最早、口に出すまでもないような強烈な予感に、だがアスカは何時ものように笑った。

 

「一応聞くが、何の真似だ?」

 

 既に得意の八卦掌の構えを取った古菲と、その隣りに悠然と立つ楓に無駄と思いつつも問いかける。

 

「3-A最強は誰かっていう朝倉発案のゲームアル。最近、試合をしていなかったから勝負を、と」

 

 古菲の即答を聞いて顎に手を当てつつ、楓に真偽を確かめるために視線を向けると物凄く嬉しそうな顔をして頷かれた。

 

「らしいっていえばらしいか」

 

 昨晩のことは知らないが3-Aらしく騒がしかったとネカネに聞いていたアスカは納得を深めつつ、薄らと笑みを浮かべた。

 

「いいぜ。丁度、体がどこまで動くか知りたいと思っていたところだ」

 

 肩慣らしとばかりにコキコキと骨を鳴らしながら好戦的な笑みを浮かべたアスカの懐に疾風の如く飛びこんだ者がいた。

 

「隙ありアル!」 

 

 楓の横を飛び出した古菲が素早い動きで、一瞬でアスカの懐へ入り込んで拳を突き出した。

 まだ戦闘準備をしていなかったアスカ。二人の間では戦うことが決まった時から既に勝負は始まっている。油断している方が悪いと暗黙の了解が出来上がっていた。

 

「隙なんてねぇよ」

 

 古菲の動きに気づいていないと思われたアスカは、見もせずにまるでそこに収まるのが当然だというように広げた掌に拳が収まった。

 古菲も防がれるのを予測していたのか、連続で蹴りを含めての連続攻撃する。

 

「ハイィ!」

「残念」

 

 しかし、確実な一打は入らずに彼女の攻撃を簡単に受け、捌き、避けきるアスカ。

 余裕を持って攻撃を捌くアスカと必死な表情で攻撃を繰り出す古菲。そこには誰が見ても明らかな実力差があった。

 彼女は後ろへ跳び、仕切り直す。

 

「全て避けるアル、か。自信喪失するアルよ」

 

 曲がりなりにも中国武術研究会の部長であり、前年で「ウルティマホラ」で優勝した彼女が一撃も浴びせられずに悔しそうに顔を歪める姿を誰が想像できようか。

 

「ふむ……」

 

 当のアスカは自然と動いていた体の状態をチェックするように拳を閉じたり開いたりを繰り返す。

 

「まだまだアルよ! というより、そっちも攻撃するアル!」

「分かってるよ。大体、体が回復していることも分かった。こっちも行くぜ」

 

 大きく息を吐きながらアスカが構えを取った。

 拳を軽く握り、足を開いて腰を落した姿勢は構えというには大仰なものであったが、古菲は圧倒されるものを感じた。

 最後に試合を行ってから一ヶ月程度しか経っていないにも関わらず、先程の攻防を全てあっさりとシャットダウンされてしまったことから開いてしまった実力差を実感してしまった。

 

「……………」

 

 古菲の得意とする拳法は形意拳と八卦掌。後はミーハーで八極拳と心意六合拳を少しばかり齧っている。形意拳と八卦掌得意というだけあって古菲が取った構えに隙はなく防御に攻撃、どちらも効率的にできるいい構えだ。

 強敵手が弱くなりこそすれ、強くなるのは大歓迎。にも関わらず、古菲の背に流れる冷たい汗の意味は。

 

「来ないならこっちから行くアル!!」

 

 そう言って今度も先手を取って地を蹴り、アスカに向かい一直線に飛び込んでいく古菲。その勢いを利用した拳が顔面目掛けて飛んで行く。

 これを喰らったら一溜まりもないと思う。

 踏み込みから打ち込みまで速さが先程よりも段違いに速い。なのに、アスカは首を僅かに傾ける事によってこの攻撃を簡単に躱す。

 楓が見守る中、果敢に攻める古菲。

 

「ちっ」

 

 攻撃した直後の隙がある自分に攻撃してこないアスカに苛立って古菲にしては珍しく舌打ちして、先程以上の連撃を繰り出す。

 これでもかと何度も何度も古菲が攻撃をけしかけるが、アスカはそれを手による捌きと体移動することによって悉くを回避する。

 

「いいねいいね、背筋にビンビンと来る攻撃だ」

 

 必死に、本当に必死に攻撃を続ける古菲。攻撃してこないのではカウンターも意味がなく、小技では防御を突破できないからと単発の大技をしても無駄なことが分かる。

 攻撃を簡単に払われた古菲は、バク転して態勢を立て直すと今度は中国拳法の八極拳の秘伝である箭疾歩でアスカの懐に入り込もうとする。

 

「だが、足りねぇ。アイツはもっと早く鋭かった」

 

 箭疾歩は構えの状態から僅か一歩で敵へと近づく歩法で、敵の距離感などを狂わし、勢いのついた強力な突きを繰り出すものだが横に回りこまれたアスカによって突きは空を切った。

 

「はぁ、はぁ、なんで攻撃、しないアル」

「ちと思うところがあってよ。気にすんな。それよりももっとその中国拳法を見せろ」

 

 体力には自信のあった古菲だが、自分だけが攻撃をしている状態が長く続いて肉体的にも精神的にも疲れが見えた。攻めてもすべて防がれてしまうのだ。それぐらい力の差は歴然としていた。

 それでも諦めずに踏み込み、更に技を含めての連続攻撃。

 残りの体力を考えずにピッチを最大限に上げたせいか、それとも己よりも実力が上になってしまったアスカに引っ張られるように動きに鋭さが増しているからか定かではないが、事実アスカは避けるよりも攻撃を捌く回数が増えてきた。そして、遂にガードを抉じ開けたのか隙が生まれる。

 

「そこアル!!」

 

 古菲の必殺の一撃―――――と見せかけて途中で止める。

 フェイントに引っ掛かってアスカの両腕が上がった。腕が上がったことで体の中心部の防御が開いた。始めて出来たアスカの隙。

 ここだけが勝機と古菲は自分の体を縮め固めながら肘を体の中心に立て、上がった腕の下に潜りこみながらそのまま踏み込みと同時に肘鉄を繰り出す。

 

「はぁぁ!!」

 

 八極拳、八大招の一つ硬開門である。八大招は相手の動きに対するカウンターの動きの一つのことで、硬開門は相手の攻撃を逸らしながら打撃を加える一連の動きの事である。

 アスカの腕は上に上がっており、防御は不可能。避けられる距離ではない。これで決まるはずだった。

 

「な!?」

 

 古菲は驚いた。確かに当たったはずなのにアスカは存在しなかった。

 

「フッ」

「!?」

 

 息吹が古菲の耳の直ぐ近くで聞こえた。

 アスカの動きは、風に揺れる木の葉のように澱みがなかった。古菲に耳に息吹の音が聞こえると同時に、深く踏み込んだ左足が払われる。

 同時に古菲の背後の空間にごく自然に入り込み、指で服の裾を引っ張り、踵の後ろを踏んづけて残った足で軽く浮いたままの古菲の軸足を払う。まだ左足が宙に浮いたままの古菲は、払われたことで崩れた体勢を立て直そうとした動きと後押しされた勢いのまま、激しく地面に叩きつけられた。

 無様に尻餅をついたまま、古菲は信じられないという面持ちでアスカを見る。アスカは必要最小限のポイントを押さえるだけで相手の重心を崩してみせたのだ。その技の鮮やかさは、まさしく魔法染みていた。

 尻餅ついた所で目の前には拳。つい受け身で腕を使ってしまったので受けることは出来ない。実際に完敗だったので、彼女もこれ以上続けようとはしない。

 

「うし、俺の勝ち」

「……………………降参アル。何時のまにここまでの」

 

 一ヶ月前までの戦績は互角だったはずだ。なのに、たった一ヶ月で二人の間には果てしない差が広がっていることを古菲も認めなければならなかった。

 

「やっぱりアスカは強いアル」

「また戦ろうぜ」

 

 差し伸ばされたアスカの腕に掴まり立ち上がると古菲はニッコリと気持ち良く笑う。

 

「じゃ、次は二人で来るか」

 

 うずうずとした様子でバックステップをしながらアスカは古菲と楓の二人を視界に収める。

 二人掛かりでかかって来いと言われた楓も流石にカチンと来た。

 

「もしや、拙者も加わって来いと言っているのでござるかな?」

「おうさ。もう少し動きたいんだ。俺を退屈させてくれるなよ」

 

 敢えて挑発と分かる言葉を繰り出しているアスカに、楓はそこに込められた飽くなき強さへの探求心を読み取って笑みを浮かべた。

 古菲と視線を交わし合い、場は一気に緊迫し始める。

 高まって行く緊張感にアスカも面持ちを変えて身体を僅かに曲げる。

 

「ハイィッッ!!」

 

 まず先手を取ったのは古菲。楓に一歩先んじて屈んだような構えから頭を一切浮かせる事なく、獲物に飛び掛る肉食動物のように一気に踏み込む。

 そして踏み込みの勢いを乗せて、アスカの胴体掛けて右の崩拳を放つ。成人男性すら容易く昏倒させる威力を持つそれはさながら弾丸のように放たれ、アスカは僅かに体を左に開きつつ突きを払って内側に捌く。

 攻撃を捌いた後、古菲の直ぐ後ろにいた楓の攻撃を避けるために頭一つ分だけ身を屈め、首を刈り取らんばかりのハイキックをアスカの髪の毛を掠める程の紙一重の距離で避ける。

 しかし、楓の攻撃を避けた次の瞬間には、払われた瞬間に体を捻って回転した古菲の左の拳が、アスカの身体を起こそうとボディーブローに近い形で迫っていた。普通なら完全に視界の外から飛んできた拳だが、アスカは楓の攻撃を避けながらも古菲から目を放していない。

 古菲のアスカの腹を狙った拳を掌で受け止め、屈んだ姿勢のままのサイドステップで木に寄ろうとする。木を背負うのは好ましい事ではないだろうが、それでもこの二人の挟撃を受けるよりはマシだと判断したためだ。

 

「ハイッ!」

「はあっ!」

 

 そうはさせないと楓が壁際に先回りして防ぎ、古菲が繋いで拳打、蹴撃と矢継ぎ早に攻撃を仕掛ける。顎、こめかみ、水月、脾腹、膝、足の甲、一般人なら一発でも貰えば動けなくなりそうな暴力の嵐をアスカは避け、時には捌く事でやり過ごしていく。

 

「ははっ!」

 

 猛攻に晒されながらも楽しくて堪らないとばかりにアスカは笑う。

 

(全く、理不尽アル。二対一で圧倒できないとは)

 

 攻撃を続けながら古菲は心の中で呟く。

 先ほどのように余裕の表情ではなく、少しずつ追い詰めているが笑みは変わらない。

 決して侮っていた訳ではないが、圧倒できていない以上、先程見せた実力はまだ一端でしかなかったようだ。だが、それが面白い。

 

「倒す!」

 

 その為には徹底的に追い詰めて、これ以上ない隙を作る必要がある。その思いの下、古菲の攻め手はより苛烈さを増していく。

 

「おおっ!? こりゃまずいか」

 

 手数をある程度まで抑え、速さと正確性を高めた拳を上下に打ち分け、楓と協力してアスカの意識を全身に散らしていく。

 下段に放たれた右突きを上半身を後ろに逸らしながら捌くアスカ。そうして突き出された腹部に目掛けて、古菲の左拳が最短距離を通って振るわれた。体勢が後ろに傾いている以上、アスカは後ろに下がって避けるしかない。

 

「はっ! せいっ、りゃあっ!!」

「せあぁっ!!」

「むっ!」

 

 後ろに下がったところに踏み込んできた楓の繰り出した膝蹴りを受け止めた所為で、アスカの体が浮き上がる。その瞬間、アスカは己が罠に絡めとられたことを直感した。

 

「しまっ―――」

「―――ハッ!」

 

 楓の攻撃に一瞬だけ古菲から意識を離したことによって生まれた隙。ズンッ、と床を踏み抜く勢いで古菲の足が振り下ろされ、浮いたアスカを越すような勢いで踏み込む。活歩と呼ばれる強大な突進力を誇る八極拳の歩法だ。

 そこから放たれるのは、突進の力をそのまま力に変える肘打ち。一見、何の変哲もないただの突きに見えるが、その実、恐るべき威力が込められている。左肘を突き出すように体全身を捻り、古菲の持てる力の全てが集約された一撃がアスカの鳩尾目掛けて迫る。

 これで詰みだという事実を前にしても、一切気を抜かずに古菲は必殺を込めて肘をアスカに打ち込んだ。

 

「…………え?」

 

 古菲の目の前で吹き飛ばされた筈のアスカは、少しの間だけ空を飛んで空中で見事な後ろ宙返りをし、まるで何事もなかったかのように着地した。着地したアスカは目立ったダメージもなくしっかりと立っており、最適のチャンスと渾身の一撃を受け止められ古菲の目が大きく見開かれる。

 呆然とする古菲を余所に、二人の近くで客観的な視点から見ていた楓にはアスカが何をしたのかが大体分かった。

避ける事も捌くことも不可能と判断したアスカは足に瞬時に気を集めて中空で後ろに飛んだのだ。しかし、それだけでは殆どダメージがないのは説明できないが。

 

「虚空瞬動でござるか」

「――――ハァ、…………ふぅ。残念、違う。攻撃を受けた瞬間、力を抜いただけだ」

 

 空中で瞬動、即ち虚空瞬動をしたと楓は予想するもアスカは息を吐きながら否定する。

 生身だけでは耐えられないと判断したアスカは、打撃を受ける際に極限まで脱力して、風に揺れる柳のように逆らわずに自ら吹き飛ぶ事で大半の威力を殺したのだ。

 

「消力……。まさか私の技を」

「ああ、前に使ってたのを見てたから真似させてもらった。流石に完全にダメージは消せなかったが、使えるなコレ」

 

 古来より中国武術では高級技とされる消力。古菲がアスカに見せたことのある技である。

 

 以前に古菲はアスカの打撃を消力で無力化したことがあった。その時のことを覚えていたアスカは真似したのである。

 見様見真似で消力を成功させて耐えたわけだが、それでも完全に威力を殺すことができず、身体の芯にダメージが入っている。ノーダメージに見えるのはいま追撃されるとノックアウトされるのでやせ我慢しているだけだ。

 

「真似が出来るような技では…………信じられぬ才でござるな」

「それでこそ、アスカアル」

「へへ、戦いはこれからだ。まさかこの程度で止めるとは頼むから言わないでくれよ」

 

 言われて古菲と楓は顔を見合わせ、戦意も十分と示すために構えを取った。

 まだまだやる気十分な二人に笑みを見せたアスカも腰を落す。

 更なる戦いの火蓋が切って落とされる。

 

「待て」

 

 と、思われたが彼らではない第三者の声が落ちそうだった火蓋を止めた。

 

「エヴァ」

「私も混ぜろ」

 

 威風堂々と現れたのは茶々丸を背後に控えさせたエヴァンジェリンである。

 戦いに混ざろうとしているエヴァンジェリンにアスカが言うべき言葉は一つ。

 

「いいぜ。エヴァとも一度やりたいと思ってたんだ」

「お二方の相手は私が」

 

 アスカの横を通った茶々丸は未だ臨戦態勢のままの楓と古菲の前に立つ。

 

「茶々丸が私達とやるアルか?」

「主の意向を邪魔させないのが従者たる私の務め。データベースには各種格闘技のデータがインプットされています。お二人に退屈はさせないかと」

「これはこれで面白そうでござる」

 

 言いながら腰を下ろして腕を上げた茶々丸の構えは堂の入ったものだった。

 それもまた良しと判断した楓につられる様に、楓からも距離を取った古菲は二人を視界に入れながら構えた。

 

「では、始めようか」

 

 エヴァンジェリンが言い放った直後、身に纏う威圧感が増してプレッシャーとなって襲ってくるのをアスカは感じ取った。

 アスカが対峙するは姿形こそ十歳程度の少女だが、無邪気で可愛い女の子には見えない。そのように非力でも、人畜無害でもない。魔法世界にその名を轟かせる悪の魔法使い。ナマハゲ扱いされる「闇の福音」。

 魔力が殆ど使えないからって甘く見るな、とアスカは他でもない自分自身に言い聞かせる。

 

「シッ!」

 

 後ろで三人が激突したのを耳にしながらもアスカは踏み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中庭で繰り広げられる戦いは朝倉和美の情報基地を通して各部屋のテレビで六つに分割された画面で流されていた。

 分割された画面の一つであっても、そこらのアクション映画よりも迫力のある攻防に、各部屋は大いに盛り上る。

 中国武術研究会の部長を務め沢山の大会で優勝を収めた古菲や、同じ武道四天王と呼ばれている楓の猛攻を捌き切った事や、乱入してきたエヴァンジェリンと茶々丸も合わせてバトルロワイヤルの様相を呈し始めた戦い。

 思いがけない本格的なバトル。エンターテイメントとしては上々であり、下手なドラマよりよほど面白い。 思わず別口でトトカルチョを組んで欲しいと思わせるほどのものだった。

 その中にあって同室の楓と古菲がいないので一人で観戦している龍宮真名だけは違う観点から戦いを見ていた。

 

「ナーデはアスカ君のことをヒーローと言っていた。そして昨夜の彼らは恐らく天ヶ崎先生が作った偽物だろう。今日の様子からしてなにかがあったとも思われる」

 

 灯りが消され、テレビの光だけが部屋を照らす中で真名の意識は別にあった。

 

「馬鹿が。最初から何かが起こっていると分かっていたはずだ」

 

 ヒーロー。瞬く間にクラスに馴染み、エヴァンジェリンすらも虜にした魅力の持ち主。アスカに期待を覚えなかったといえば嘘になる。 

 

「ナーデの目的はコウキの復活。だが、そんなことが許されるはずがない」

 

 ならば、ナーデが言ったように彼女を殺すかと考えた真名は首を横に振った。

 狂気の闇に墜ちたナーデを止めるには確かに殺す以外の道はない。しかし、幼き真名をコウキと共に救ってくれたナーデを殺せるはずがない。

 

「それでも、ナーデを止めるのは私の役目だ」

 

 他の誰でもない同じ男を愛した女であるからこそ、止める役目は真名以外にありえない。

 決心は固めた。決意は出来た。

 

「だが、私にナーデを止めることが出来るのか?」

 

 師であり今も先を行くであろうナーデを力尽くで止められるビジョンを思い描けなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 犬上小太郎は目も開けずにうるさい周辺の騒音に眉を顰めた。

 

「うるさいのう」

 

 だが、特になにをするでもなく再び睡魔に身を任せた。

 小太郎が寝ている枝の木の近くでアスカ達の戦いが繰り広げられていたのである。小太郎は気付かなかった。

 

「シッ!」

 

 開始の合図を発せられた陸上のスプリンターの如く、一足の間合いを詰めてアスカが走る。

 文字通りの一歩で縮まっていた距離を一気に踏破したアスカが固めていた右拳を、構えを取っていないエヴァンジェリンのがら空きの顔面に向かって躊躇なく放った。

 

「女の顔面を容赦なく狙うか」

 

 フェミニストを気取る紳士ではないと証明するように迫る拳を前に、感心したようにエヴァンジェリンが笑う。笑いながら握り込んでいた右手の人差し指を弾くように伸ばした。

 なにかが肩に引っ掛かったかと思うと、ぴんと弾ける音が間近で聞こえ、張りを失った何かが生き物のように目前を舞った。

 

(糸?)

 

 光を反射して、至極細い何かがアスカの視界を過ぎった。

 糸に一瞬だけアスカの意識は引き寄せられ、放った拳が避けられたと気づくのが僅かに遅れた。拳を避けたエヴァンジェリンが右手の手の平を広げた視線を取られたことも次の行動を遅らせた要因の一つだった。

 

「悪くないが、正しくもない」

 

 次の瞬間、別の糸がアスカの胴体に絡みついた。

 飛び上がって千切ろうとして、風にも千切れそうな細さでありながらその糸は跳躍を塞き止める。

 エヴァンジェリンは続けざまに右足を軸にして左の足払いを放つ。上半身の攻防に気を取られていたアスカは反応が遅れた。両足が刈られ、アスカの身体が前に傾く。そこを足払いの勢いのままに左回転して、ポケットから取り出して遠心力が付加された鉄扇が襲う。

 

「――――がっ!?」

 

 脇腹を抉る。その中にある内臓さえ破裂しそうな重い一撃――――アスカの意識が一瞬だけ遠退きかける。

 地に足がついていないため、アスカの身体は横に吹き飛ぶ。エヴァンジェリンは追いかけた。広げた右手を前に出し、左手は鉄扇の先端をアスカに向けて後ろに引いた。突きの体勢で地を駆ける。

 吹き飛ぶアスカと身体が並んだ。―――――アスカは苦悶に歪みながらもエヴァンジェリンを見ている。

 エヴァンジェリンは追い越して、身体を向けて横から飛来したアスカの身体の中心に、渾身の力で上から鉄扇を突き落とす。

 次に来る結果を予想したアスカの顔に、先程よりも濃い苦悶の表情が浮かぶ。目が見開かれ、歯を食い縛り、悲鳴すらも忘れて――――エヴァンジェリンが放った鉄扇が、アスカの下っ腹に突き刺さった。

 貫通する衝撃が、内臓を抉る。一点に集中して貫通した衝撃によって吹き飛ばされるようなことはなく、まるで打ち倒される大木のようにゆっくりと落下する。

 しかし、直ぐにアスカはバネ仕掛けの人形のように立ち上がって距離を取る。

 

「痛つつ」

 

 立ち上がったアスカだが、それぞれの手で打たれた下っ腹と脇腹を押さえて苦悶の表情を浮かべていた。

 

「防御していたか。頑丈な奴め」

「それでも痛いことは痛いっての」

 

 攻撃をした感触で必殺の威力を確信できていなかったエヴァンジェリンは、鉄を打ったような手応えの残る手をプラプラと揺らめかせながらアスカを見る。

 アスカにしても咄嗟の防御が間に合ったのと、攻撃を受けたのが空中であったからこそ必殺にならなかったことを理解している。気を抜けば嘔吐しそうな内臓の痙攣を堪えているだけでも精一杯だった。

 何度か深い息を吸って吐くと繰り返すことで嘔吐感を抑え込む。痛みはジンジンと広がっているが我慢できないほどではない。

 

「糸か。もう同じ手には引っかからない」

 

 糸の正体は既に看過出来ていた。エヴァンジェリンの技能である『人形遣い』の能力のことはネスカで戦った時に経験してあるので頭の中に叩き込んである。次はこのような罠には引っかからない自信があった。

 

「どうかな?」

 

 アスカが踏み込んだ瞬間、エヴァンジェリンが僅かに下がった。条件反射的に離れた距離を埋める為に踏み切る足に力を入れる。それすらも罠だと気づくことなく。

 

「!」

 

 下がった分だけより前に踏み込み、ほんの一瞬だけ間合いを外したことで目算がずれた隙を衝いて、エヴァンジェリンは攻撃の為に伸ばされた腕の内側に掻い潜りその手を掴んで投げた。

 

(ぬっ!)

 

 投げられているのを察したアスカは、浮いた足を跳ね上げて抱え込んでエヴァンジェリンの懐側に掴まれている手を力任せに強引に外す。

 投げられて極められた左腕に僅かな鈍痛を感じながら、アスカは右手で地面を掴み後転の要領で足を振り上げる。

 拘束を外すための回転が強すぎたのか、きりもみしながらアスカの身体は何度も地面の上を転がってザザッと滑るも、何事も無かったように立ち上がる。

 エヴァンジェリンは追撃せず、殆ど動かずにアスカの様子をじっと観察して油断なく構える。

 

「…………魔力が無かろうが強い奴は強いか」

 

 アスカはそう呟くと、しっかりとした足取りで無造作に前に出た。

 近くで楓達が戦っているのを視界に入れたアスカは不用意に突っ込むような愚を犯さず、右半身に構えたまま地面滑るようなすり足で時計回りに動きながら様子を窺った。

 

「魔力を使えないのに凄い技術だ。流石は闇の福音と褒め称えた方がいいか」

「ふん、百年程前に日本を訪れた時にチンチクリンなおっさんに習った体術だ」

 

 純粋に敬意が籠った賞賛に気を良くしたエヴァンジェリンは、鉄扇を開いて扇面に描かれた日の丸を揺らめかせて笑う。

 

「以来、一世紀の間に暇潰しに研鑽を積んでいた。魔力を失ってから存外にも役立っている。何事にも手を出しておくものだな」

 

 一世紀も研鑽を積んでいた、という言葉にアスカは羨ましさを感じないでもない。

 寿命が制限されている者にとっては羨ましい限りの特権で研鑽を重ねたことを意味している。それだけの時間があればアスカにも極められるのだろうかとの疑問が浮かび上がるも詮無きことだと忘れることにした。

 現在のエヴァンジェリンは魔力が封じられて吸血鬼特有の怪力はないといっても、鍛え上げられた武術の腕は如何なく発揮されているので、同じように素の状態のアスカでは突破口が掴みにくい。下手な攻撃は命取りといえた。

 様子を見るのは主義ではない。考えるよりも行動するのがアスカである。

 

「ウダウタ悩むよりも真っ直ぐに突き進んでみなってね!」

 

 踏みしめた足が地面を蹴る音を合図にアスカは駆け出した。木々の間に張り巡らされていた糸を避けるように、直線ではなく緩やかな弧を描くように迂回して。しかし彼がエヴァンジェリンの元に到着する時間は、先の直進に要した時間とほぼ同じ。――――速度が上がっていた。

 

「速い」

 

 前にいたはずのアスカがエヴァンジェリンから見て右横から攻めてくる。

 封印状態で常人よりかはマシなぐらいの能力しかないエヴァンジェリンでは、アスカの動きを目だけでは補足しきれない。

 

「が、見えているぞ」

 

 エヴァンジェリンの視界にアスカの姿は映っていない。しかし、強者になれば視覚のみで動きを補足しているわけではない。聴覚によって相手の足音を、触覚によって風の流れを、経験によって動きの予測を―――――そして第六感で魔力や気を感じ取り、全ての感覚を鋭敏にして相手の動きを捉えているのだ。

 エヴァンジェリンは顔をアスカに向けることなく左に跳ねる。距離を離す間に向き直り、視界にアスカを移す。

 地面に両足を着け、反動を付けて前へ。左を突き出して隙だらけのアスカ目掛けて、エヴァンジェリンは畳んだ状態の鉄扇を突き出す。

 アスカは突き出した左手の勢いを殺さぬまま、くるっと独楽のように左手を追いかけるように回転。遠心力を乗せた右手の裏拳で、迫る鉄扇を弾いて軌道を逸らす。そのまま鉄扇を辿るようにエヴァンジェリンに接近し、下段から膝を突き上げる。

 鉄扇を突き出したエヴァンジェリンにその一撃を防ぐ手立ては無い。ならば躱すしかないのだが鉄扇を持っていない方の手の小指を僅かに曲げる。

 これでアスカの足下にあった糸が足を取らせるはず。なのに、アスカはまるで直上から自分を見ているかのように、足首に絡まりかけていたが避けた。

 

「ちっ」

 

 舌打ちをしたエヴァンジェリンは鉄扇を引き戻しつつ、バックステップ。しかし、ジャージのホックが僅かに間に合わずに弾け飛ぶ。これでもアスカが絡まりかけていた糸を避けていなければ直撃していただろう。

 膝を振り上げているのでアスカも直ぐに追撃が出来ず、二人の距離が離れた。

 鉄扇を持っていると対応できない攻撃があるのでエヴァンジェリンはポケットに直した。今は攻撃力よりも手の万能性が必要だと判断した結果だった。

 直後、同時に踏み込んだ二人の狭間で、腕が、肘が、指が、膝が、足の甲が、行き交う。時には掴もうとする五指の先だけで押し合い、流れを取ろうと激突する。

 打たせない、取らせない、組ませない。言葉だけを聞くと防戦だけをしているようにも聞こえるが、実際には数多の技の応酬と相手の動きの読み合いが繰り返されていた。

 至近距離から打ち出された何発もの突きを全て捌き、頭部を狙ったエヴァンジェリンの肘撃ちを受け止めた。横っ腹を狙ったアスカの膝を受け止めたエヴァンジェリンが接近する。

 が、運動能力で遥かに勝るアスカの次の行動の方が早かった。

 

「む……!」

 

 迫る右ストレート。これを何とか間に合った左腕で防御するも、元々の身体能力の差は如何ともし難く、軽々と吹っ飛ばされた。

 強すぎる一撃に体が泳ぐの自覚したエヴァンジェリンは、その場で体勢を整えるのを放棄して空中で後転宙返りをして足から着地するも、一撃を受けた腕の痺れは取れていない。

 

(基礎身体能力が違いすぎる)

 

 こと打撃においてはアスカの方が勝っていた。基礎身体能力で劣るエヴァンジェリンよりも、一定距離内では予知の如く反応するアスカの行動の方が数倍は速い。

 エヴァンジェリンがほぼ魔力封印状態にあってアスカが身体強化を用いないことで、より互いの肉体の力の差が明確なっていた。

 真祖の吸血鬼として衰えない変わりに成長もしない体。吸血鬼になる以前はただの少女に過ぎなかった彼女の身体能力など、そうなるように鍛え上げられてきたアスカと比べること自体が問題なほどの差。

 更にナギを彷彿とさせるような攻撃に対して予知の如き精度で反応する勘。近接戦闘なれば成程先手を打つように動き、身体能力の差もあってかけ離れた技量を埋めていた。

 

「だが、能力の差が戦力の絶対的な差と思うな!」

 

 アスカが右拳打を放ったと同時に左腕で払いながらエヴァンジェリンが踏み込んで来た。

 今までの攻撃から考えればあまりにも稚拙な大上段からの右手刀。訝しげながらも払われた腕を上げて受けたアスカだったが、脇に減り込む当て身の痛みに自らの過ちに気がついた。

 

「くっ」

 

 過ちの代価のように肺から強制的に息が放出される。

 抜けた酸素がアスカの脳から思考の時間を奪い、生まれた絶好の機会にエヴァンジェリンは手刀を放った右手で受け止められた手の手首を掴む。そしてそのまま手首を持った左腕を回して捻り体重をかけた。

 手首と肘、肩と極まって容易には抜け出すことが出来ない。

 

「イッ!?」

 

 ミシィッ、と極められた手首の骨が鳴る音が響き、一瞬遅れて鈍痛が巻き起こる。思わずアスカは痛みの呻きを漏らした。

 手首は大きな力を出せる箇所ではないので両手で極められてしまえば抵抗できるものではない。無理をすれば折られてしまう。頭の理解よりも即座に動いた体が極められた方向に逆らわずに自ら投げられて力を逃がす。

 自分から跳んだ勢いで極められた腕を外し、宙にある状態からサッカーで言うオーバーヘッドキック染みた蹴りを直上から後頭部目掛けて叩き込んだ。

 極めていた腕を外した段階で攻撃を予感していたのかエヴァンジェリンは危なげなく受け止めたが、それでも不自然な体勢でありながら身体能力に任せたパワーの蹴りに非力な肉体では耐えられず、数歩パワーに押されてたたらを踏んだ。

 エヴァンジェリンが体勢を立て直した時にはアスカも着地しており、更に着地と同時に後方宙返り一回捻りをして距離を取って正対した。

 

「折るつもりだったんだが見事と言っておこう」

 

 エヴァンジェリンは手首を折るつもりで極めたが即座に飛んだアスカに、的確な判断に紛れもない賞賛の声をかけた。

 

「それはどうも」

 

 後少しでも飛ぶのが遅れていたら折られていたことを御くびにも出さず、痛む手首を擦りながら平静とした顔で返す。

 また、両者は殆ど同時に踏み込み、攻防を繰り返す。

 時には身体を重ね、時に身体を崩し、打撃技から掴み技、投げ技、立ち技関節まで、なんのタイムラグもなくスムーズに移行する。足運び、繰り出される一撃、回避動作。一の動作に十の意味と十の偽がかけられていた何もかもが高次元過ぎて理解が及ばない。武道に関わりがなくても舞うように動く二人の戦いに、テレビで観戦している観客達は歓声を上げていることだろう。

 

(腕を取られた!?)

 

 アスカの攻撃を見切って数ミリ単位の距離まで下がって避けたエヴァンジェリン。攻撃のために伸びた動作が戻ると共に踏み込み、右腕を持たれて回り込まれた。踏み込み等が全て一連の動作として成り立っていた。

 エヴァンジェリンの左腕が肩に近い上腕を下から巻き取るように抱え込み、右腕が前腕を長つけるように持っていた。柔道で言えば一本背負いの形に近い。

 アスカが投げられないように背負われる前に腰を捻って技を外そうとして、

 

「!!」

 

 エヴァンジェリンもまた更に体を捻って、連動するように上腕を抱え込んでいた左腕は前腕へと下がって掴み、右腕を外してアスカの顔面へと遠心力で破壊力を増した肘撃ちを叩き込んだ。掴まれた右腕は離されていないので避けることも出来ない。

 

「はっ!!」

 

 攻撃はそれだけでは終わらない。前腕を掴んでいた左腕だけで投げた。

 片手、それも不完全な握りでは完璧な投げにはならず、アスカは投げられても足から着地することが出来た。それも肘撃ちに自分から当たりに行って額で受けなければK.Oしていた可能性もある。

 しかし、肘撃ちによるダメージは抜けておらず、グラグラと揺れる視界を頭に活を入れて無理やり痛みと衝撃で元に戻した。映らなくなった古いテレビを直す右斜め45°方式である。

 

「痛いだろうがっ!!」

「こっちの方が痛いわっ!!」

 

 撃ち合った肘と額を紅くしながら手が届く距離での差し合いが再開された。投げかと思えば打撃、打撃かと思えば関節、関節かと思えば投げと瞬く間に切り替わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「楽しそう、二人とも」

 

 ホテルの自室で優れた武技に見惚れていた刹那は、発せられた声の発生源である明日菜を見た。

 歓声を上げている木乃香も明日菜とは反対側の隣にいるが、誰もが戦いに見入っている

 戦いを重ねる間にもエヴァンジェリンの技からは長年溜まっていた錆が抜け落ちていく。幾ら打撃で勝っているといってもアスカも投げでは五歩も十歩も劣っている。

 気を抜けば一気に勝負を決められる状況において、投げを警戒して今一歩踏み込めていなかった。互いに起死回生の一打を打てず、戦況は硬直状態に陥っていた。

 二人は何十合と鬩ぎ合う。一挙手一投足が舞のように洗練されている。一歩間違えれば致命傷を負いかねない――――目を背けたくなるような暴力の激突だというのに、鬩ぎ合いは目が離せないほどに美しかった。

 

「本当に楽しそう」

 

 どこか切なげに戦いを見つめる明日菜に、刹那はかけられる言葉がなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 戦いは佳境に突入していた。

 何時の間にか二つの戦いの距離は近くなり、アスカVS楓VS古菲VSエヴァンジェリン&茶々丸という変則的なものになっていた。取りあえず目の前の相手を殴っておけば良いと考えた前者三人の所為である。

 古菲と拳打を交えながらも、茶々丸は楓とエヴァンジェリンを同時に相手にしているアスカを見た。

 目の前の強敵と戦いながらの余所見に、論理と矛盾した意識活動が顕在化するのを感じていた。

 起動して数年だが、茶々丸は奉仕活動の過程で数々の個性的な人々と触れ合ってきた。量子コンピュータを思考中枢に採用している茶々丸は、従来のデジタルコンピュータと異なり、矛盾や曖昧さというカオス的要素を許容して物事を判断できる。

 

(アスカさん)

 

 メモリ内からアスカの映像を取り出す。その厳重にかけられたロックは、それが茶々丸がその映像に対してどれ程執着しているかを表していた。

 戦うことを楽しんでいるアスカは笑っている。

 なのにアスカと戦うことを嫌がっている自分のロボットにあるまじき矛盾を抱え、思考が堂々巡りになる。計算不能というのは機械としては恥ずべき事態なのだが、何故かそれを快く思っている部分がある。期待している、と言い換えてもいい。

 

(私は、壊れてしまったのでしょうか………)

 

 マスターが望むならと分かっていても、アスカと過ごすこの時間が長く続いて欲しい、とも思った。幾らエラーチェックを掛けても発見されたエラーはゼロ。戦闘を続けながら茶々丸は何度もエラーチェックを繰り返す。

 アスカの体が楓に蹴り飛ばされて木の幹に激突した。

 その木の枝には昨夜から悶々としたものを抱えていた犬上小太郎が寝ていた。

 

「んなっ!?」

 

 振動は木を揺らし、枝の上で寝ていた小太郎を起こすだけでは留まらなかった。

 それほど太い枝でもなかったので衝撃で折れ、小太郎の体はあっさりと落ちた。

 

「あ?」

 

 狼狽した声にアスカは幹に打ちつけた背中の痛みに眉を顰めながらも顔を上げた。

 小太郎が落ちているのを見て取ったアスカは、『なんでこいつはこんなところにいるんだ?』と意識の隅で思いながらも焦らずに回避行動を取る。か弱い女ならともかく、まかり間違ってもライバル視している男を受け止めるような趣味を持ち合わせていなかったからだ。

 無様に落ちたら笑ってやろうと考え、慌てず騒がず冷静に数歩分移動する。その下がった場所に虚空瞬動で移動していた小太郎が落ちてくるとは考えずに。

 小太郎にしてもまかり間違ってもアスカに助けられる気はとんとなかったのである。体勢回復よりもまず優先したのが落下位置の移動という辺りが性格が出ていた。

 

「「あ」」

 

 二人の声が重なった。

 小太郎を地球の重力が引きずり落とし、アスカに覆いかぶさるように落ちていく。互いの視線がやけにがっちりと重なるのを、二人は自覚する。

 既に彼我の距離は一メートルをとっくの昔に切っている。

 だが、この程度ならば二人とも十分に行動に移せる距離だった。

 互いの距離を離す為に行動に移った二人。

 

「くっ」

 

 しかし、バックステップをしようとしたアスカの背中に古菲の攻撃を受けた茶々丸がぶつかった。

 

「え」

 

 目の前の小太郎から距離を離すことだけを優先していたアスカは、背後から迫っていた茶々丸に気が付かなかった。茶々丸が無機物であるので気配を発していなかったことにも気が付かなかった原因はあるが。

 ドン、と体重差もあって思いきり押される形になったアスカは吹っ飛ぶ形になり――――。

 

「「―――――っ?!」」

 

 結果的にせよ、空中にあった小太郎を押し倒す形になったアスカの唇が、丁度良い場所にあった柔らかい部位に密着してしまったのである。

 奇しくも二人が唇をくっ付けてしまったのは夕方、和美に魔法を見せるためにカモが仮契約の魔法陣を書いた場所であった。

 土をかけて消したつもりになっていた仮契約はその効果を失っていなかった。

 キス、という儀式を行うことで契約は成された。

 

「あ」

 

 二人がキスしてしまったその様子を、監視カメラを通して見ていたカモの口から火の点いていない煙草が零れ落ち、真横に仮契約カードが現れた。

 

 

 

 

 

 その時、ホテルの複数の部屋で窓が割れるかと思うほどの歓声が沸いた。

 

 

 

 

 

 中庭の空気が凍りついていた。まるで物質化して凍り付いてしまったような状態に陥ってしまった錯覚に陥るほどの固まりよう。

 全員の視線が地面で折り重なって倒れているアスカと小太郎に向けられていた。

 

「「「「………………」」」」

 

 エヴァンジェリンですら一言も発することが出来ない空気の中で、当の一番固まっていた二人の距離がようやく離れた。

 もし、テレビで観戦していたなら離れた二人の唇の間に繋がる薄い糸が見えたことだろう。勢いあまってナニまで入ってしまったかは敢えて語るまい。

 

「……………クククク……………アハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!」

「アハハハアアハハハアハハハアハハハアハハハアハハハアハハハアハハハアハハハアハハハアハハハアハハハ!!!!」

 

 ゆっくりと立ち上がったアスカが哄笑し、続くように小太郎が奇妙な笑い声と哄笑がミックスしたような叫びを上げる。

 皆が固まるがその声は徐々に小さくなり、やがて消えた。

 

「「殺す……」」」

 

 静まり返った中庭に二人が漏らした呟きだけが響く。

 

「ア、アスカ?」

 

 明らかに様子のおかしいアスカ達に、代表してエヴァンジェリンが恐る恐る話しかける。

 

「「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!!!!!!!!!!」」

 

 瞳から光沢が消えて表情の無い二人は、同時に監視カメラの方を向くと笑顔でたった一言。

 

「「……アハ……♪」」

 

 その口はニタァ、と三日月の形に開き、身体からはどす黒い暗黒のオーラを放っていたと現場を目撃していた少女達は後に語る。

 

『アーメン…』

 

 ゆらゆらと不気味に身体を揺らしながら中庭から去っていく二人を見て、テレビで観戦していた者達は和美に訪れる地獄を思い、胸の前で十字を切って冥福を祈ったという。

 その日、クラスメイト達はテレビの電源を落して布団にもぐりこんで固く耳を閉ざしていたという。

 教師が呆気にとられるほど静まり返ったホテルに和美とカモの絶叫だけが何時までも響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 和美主催のゲームに騒ぐ級友達から離れて部屋を抜け出した二人の少女。ホテル内を見回りしている教師に見つからないように進む宮崎のどかと綾瀬夕映。

 

「ゆ、ゆ、ゆえ――――」

「ネギ先生は私の知る中でも最もマトモな部類に入る男性です。アスカさんや犬上君のような乱暴者よりも、のどかに似合うのはネギ先生のような知的なタイプです。あなたの選択は間違っていないと断言しますよ」

 

 夕食後にネギからのどかに告白の返事をするから裏庭に来て欲しいと呼び出しを受けていたのだ。本当ならのどか一人が呼び出されたのだが、心配になった夕映が付いて来たのである。

 呼び出しにしても明日の早朝だったのに、わざわざネギに会って今日に変更させたのは一刻も早く答えをのどかに伝えさせるため。

 

「ゆ……ゆえ……」

 

 親友の励ましにのどかの胸が熱くなる。

 

「さあ、行くですよのどか」 

「うん!」

 

 廊下の角から先を見て教師がいないことを確認している夕映の言葉に強い返事を返す。

 途中でクラスメイトが泊まっている部屋から歓声が上がったりして、騒ぎすぎに生徒に注意をする新田と千草の怒号が響き渡る中を二人の少女達が進む。

 ドアを開けて少女達が目的地に着いた時、既にネギは待っていた。

 

「ほら、のどか……」

 

 ある程度近づいたところで足を止めた親友の背中を押す。

 

「あ、ネギ先生」

「……宮崎さん……」

 

 直ぐ近くにいた人を見て、少し距離を置いてお互いに見詰め合う。顔を見合わせた途端、告白したされた二人は気まずそうな表情で向かい合う。

 

「あの……お昼のことなんですけど…………」

「えっ……い、いえ―――あのことはいいんです…………聞いてもらえただけで―――」

「すいません……宮崎さん…………ぼ、僕……まだ誰かを好きになるとか…………よく分からなくて」

 

 慌てまくるのどかは答えを聞くのが怖いので止めようとするが、ネギの方も止まらない。

 ネギは今の正直な自分の想いを口にするが、中学校の教師をしているとはいえ、彼はまだ数えで十歳の子供なのだ。確かに知能面では大人顔負けではあっても、昔から魔法に傾倒し過ぎた事もあって情緒面では同年代に圧倒的に劣る。つまり、ネギは初恋どころか異性に興味すら抱いたことがなかったのだ。

 それは相談を受けたアスカも同様らしく、具体的なアドバイスを貰うことは残念ながら出来なかった。貰えたのは助言だけ。

 

『助けたのはネギだけじゃないってのは言って向こうも承知しているなら、断ったら相手を傷つけるとか教師と生徒とかそういうことを考えるんじゃなくて、思ったことを純粋に伝えるのが一番いいと俺は思う』

 

 立場や相手の気持ちになってしか考えていなかったネギにとってアスカの助言は目に鱗だった。

 それからネギは必死に考えた。自分がのどかをどう思っているか、立場や相手の気持ちを考える前に自分の心に問いかけた。上手く形になっているとは言い難いが告白に対する返事は決まった。

 

「いえっ……もちろん宮崎さんのコトは好きです。で、でも僕、クラスの皆さんのコトも好きだし、いいんちょさんやクラスの皆さん、そういう好きで……あ、それに、その、やっぱり教師と生徒だし…………」

「い、いえ……あの、そんな、先生――」

 

 のどかは自身の考えが纏まっていないのか、時々詰まりながらに思いつくままに話しているネギを止めようと声を掛けるが、一杯一杯で彼女の声は聞こえていないようだ。

 

(そうですね。まだ十歳なのですからこれが普通でしょう。私は何焦っていたのでしょうか)

 

 それを聞いていた夕映は、自分が先走ったのだと悟って反省する。しどろもどろになりながら答えるネギを見て、如何に教師をしていようが十歳の子供に過ぎないのだとようやく理解できたのだ。

 

「だから僕、宮崎さんにちゃんとしたお返事できないんですけど……その……――あの、と、友達から……お友達から始めませんか?」

 

 ネギは俯きながら話していた顔を上げてまっすぐとのどかを正面から見据えて、意を決して自分の気持ちをのどかに告げた。

 真っ赤な顔でのどかにマジメに話すネギに夕映はネギの言い分に納得している。のどかも今のネギにはこれが精一杯の返事であろうと思い、嫌われていないとことは分かったので、返事は保留という形だが今はこれで十分。

 

「はいっ♪」

 

 ネギの言葉にのどかは充分に満足できる答えなので、まず一歩ネギとの距離が近付いた事が嬉しくて満面の笑みを浮かべていた。

 夕映もホッと一息し、片手に持った超神水という何の味がするのか非常に気になるジュースを飲み始める。

 

「えーとじゃあ、戻りましょうか」

 

 幾らハワイが温暖な気候だといっても夜は少し肌寒い。人に知られないように密会場所を屋上に選んだが少し失敗だったかもしれない。

 

「は、はい」

 

 そう言って歩き出すネギ。のどか達もそれについて行くが、そこで夕映は一計を案じてのどかの足に自分の足を差し出して引っ掛ける。勿論、そうなれば決して運動神経が良いとはいえないのどかはバランスを崩し、ネギのいる方向に倒れ込む。

 

「あっ!?」

 

 このままでは倒れそうなのどかに気付いたネギは支えようとするが、元より運動神経が良いわけではないので一緒に倒れ込んでしまう。

 結果としてのどかがネギに馬乗りになるような形で地に倒れ伏す。夕映としては抱き合って良い雰囲気なればぐらいの行動だったが棚から牡丹餅だった。

 

「あっ………すすすす、すいませっ……!!」

「い、いえ、あのこちらこそ……」

 

 慌てて離れて真っ赤になり謝るのどかと、同じように真っ赤になりつつフォローするネギ。

 

「ほら、何時までやってるですか。早く戻るですよ」

 

 微笑ましい二人を夕映は促したのだった。

 二人と別れ、そしてネギが自室に戻るとそこには地獄絵図が…………。

 

 

 

 

 



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第18話 三日目

一度消してしまってあぼーんしちゃった話です。
出来るだけ思い出して作りましたがちょっと不安。


 目的の島に行く船を見つけられなかった高畑がハワイの海を文字通り飛んで向かっている頃、日本の空の下では二人が押し問答をしていた。

 

「まだうちは飛行機に乗れないんですか」

「パスポートが出来てないんですから」

 

 成田空港の一角。民間人が入り込めない一室で桜咲刹那から連絡を受けた青山鶴子は近衛詠春に噛みついていた。

 長椅子に座っている詠春を立っている鶴子が問い詰めている形である。

 

「なんでこんな遅いねん。非常時やねんから後でええやないですか」

「本当なら一週間かかるのをかなりの無理を言って一時間でやってもらってるんですから、そんな無茶言わないで下さい。日本は法治国家なんですから法を無視するわけにはいかないんですよ」

「子供が教師をやってるのになにを今更」

 

 なんとか今にも飛び出しそうな鶴子を押さえつけている詠春だったが旗色は悪そうだった。

 詠春だって正直に言えば鶴子と同じ思いだが、彼には関西呪術協会の長という立場があって問題行動を起こせば即醜聞に繋がる。

 最近は何故か妙に組織内で評価されている詠春だったが好んで自分の評判は落としたくなどない。

 

「神鳴流の問題は神鳴流が肩をつけなあかんのは長も分かっとるはずや」

 

 痛いところを突かれた詠春は口を噤んだ。

 組織といっても表の世界の法律を適用できない場面が多々あるので独自のルールがある。

 罪には報いを。部下や仲間の仕出かした事には身内で対処する風習がある。どちらかといえば任侠の世界に近いものだろう。

 

「分かっています。今は関西呪術協会の長とはいえ、私も神鳴流の人間です。貴女の気持ちは良く解ります」

 

 月詠は神鳴流の人間ではないが、起こった問題は神鳴流が関わっているので鶴子の言葉はあながち間違いではない。実際には神鳴流も含めた関西授受教会の問題なのだが、この一件を任されているのが鶴子なので下手な口出しは状況を悪化させない。

 

「だからこそ、こうやって私まで出向いて急いでもらっているのですから無茶を言わないで下さい」

 

 刹那のことは詠春も気にかけている。しかも現地には木乃香や婿候補のアスカや知り合いになった少年少女達がいるのだ。鶴子よりも詠春の方が居ても立っても居られない気持ちである。それでもジッと待っていられるのは、今行動を起こしたところで余計に時間が遅れると分かっているからだ。

 

「すまんかった。言いすぎたわ」

「気持ちは同じです。構いませんよ」

 

 握り締め過ぎて血の気を失っている手を見れば鶴子だって詠春の気持ちが分からないわけではない。伊達に長い付き合いではない。

 

「うちもどうやら刹那のことが心配らしいわ。あれでも目をかけとった子やからな。あかんな年取ると」

「君にそう言われると年上の私はどうしたらいいんですか」

「知らんがな」

 

 思いの外、筋が良かった愛弟子がよりにもよって海外で追っていた月詠と戦ったと聞いて鶴子も動揺していたらしい。大きく息を吸って、焦燥と共に吐き出す。

 自分も年を取ったものだと諦観を覚えながら、それだけの所作で平静を取り戻す鶴子の相変わらずの精神制御の高さに詠春が内心で感心していた。

 

「しかし、実際のところこれで本当に間に合うんかいな。聞いた話やと敵は月詠含めて結構の使い手らしいやん」

「それに関しては心配ありません。今頃、タカミチ君が現地に到着している頃でしょうし、なによりも限定的ではありますがエヴァンジェリンの封印解除も行われる予定です。彼ら二人なら大丈夫でしょう」

「エヴァンジェリンってあの闇の福音かいな。タカミチってのは悠久の風のやろ。えらい豪勢な援軍やな」

 

 援軍を送る側が過保護なのか、それともそれだけの相手だと学園長が判断したのか。どちらにせよ、傍目には過剰戦力ともいえる二人が援軍となったわけである。

 

「その援軍であっても勝てるかどうか分からない敵です。特にゲイル・キングスは」

「知り合いなん?」

「思い出したくもない唾棄すべき男です。あの男だけは死んでも許せそうにありません」

「長がそこまで人を嫌うのは珍しいやん」

 

 最近イメージが変わってきているが、温厚で知られている詠春がこうまで嫌悪も隠さずに吐き捨てたことに鶴子は驚いた。

 温厚が皮を着て生きているような詠春がこれほど明確に人を嫌うのは珍しい。同じ家の生まれで長い付き合いの鶴子でも目の前の男が蛇蝎の如く吐き捨てるのを始めて見た。

 

「ゲイルの所業を知れば誰もが同じことを思います。私も行けるならあの頭を断ち割ってやるものを」

 

 これ以上は話すのも思い出すのも嫌とばかりに詠春は口を閉じた。

 口を開き続けていると愛刀を持って鶴子に同行しかねないと自覚していたからだ。

 関西呪術協会の長として勝手な行動は取れない。立場に相応しい態度を求められる。こういう時は昔のように自由に動き回れた紅き翼の頃を懐かしく思う詠春だった。

 

「ゲイルの対策は紅き翼で散々話し合っています。種さえ分かってしまえば容易い相手ですから、今のタカミチ君なら私の分も戦ってくれるでしょう。出来なければ後で折檻ですが」

 

 大戦期のことにしても純粋な実力ならば紅き翼には遠く及ばなかったゲイルである。今の高畑のレベルならば、種も割れているのでよほどのことがない限りゲイルに負けることはないと詠春は考える。

 この時、海の上を駆けている高畑が悪寒を感じたのは寒さが原因ではないだろう。

 

「ところで、長」

「はい?」

 

 ふふふ、と昏い笑みを浮かべてた詠春は鶴子に呼ばれてあっさりと素に戻った。

 どうもアスカと出会ってからキャラが変わり過ぎている昔馴染みに乾いた心証を抱きつつ、刹那に電話で聞いたことを思い出す。

 

「木乃香お嬢様がアスカと西洋術式で契約を交わしてしまったらしいで。どないしはりますの?」

 

 契約の仕方がキスだったことには首を捻った鶴子だったが、粘膜接触による契約は別段珍しいことではない。

 アスカの年齢が気になるが木乃香の14歳ならばキスの一つや二つはしているものだと考えながら、親バカで知られる詠春がどのような反応をするのかを楽しみにしながら見遣る。

 しかし、当の詠春はケロッとした顔をしていた。

 

「契約? ああ、恐らく仮契約でしょう。なんか問題でも?」

「…………一応、あれでも木乃香お嬢様は後継者候補なんやから、まだ完全な和解のなっていない関東魔法協会の人間とその仮契約をちゅうんをするのは不味いんとちゃうか?」

 

 逆に問われて鶴子の方が困った。

 木乃香は関西呪術協会の長である詠春の娘である。血筋が重要な意味を持つ古い体制が残っている組織では血縁が後を継ぐのも珍しくない。本人には莫大な魔力が潜在能力も十分。学び始めがかなり遅いが麻帆良に送った天ヶ崎千草から信じられない速度で上達していると報告も入っている。資質は十分ということだろう。

 幹部会でも木乃香が次期長候補に挙げられていることを知っていた鶴子は苦言を呈するつもりで言ったのだった。

 

「何も問題なしです。逆にアスカ君をこちらに引き込める良い口実になります」

 

 これはもう駄目だ、と無駄に良い笑顔でサムズアップする詠春を見て鶴子は思ったのだった。

 

「と言っても私は木乃香に後を継がせる気は全くこれっぽちもありませんから杞憂です」

「そうなんか?」

「あの子には古臭い体勢の組織は…………親の意向の所為で隠し事をせざるをえない刹那君と仲直り出来なかったようなことにならないように、組織に縛り付けられないようにしてあげたいんです」

 

 苦笑と共に告げた言葉は驚きの内容だった。

 詠春は木乃香を関西呪術協会の長にする気は全くないようである。組織のトップになった己が身を振り返っているのか、その顔には重い物を背負って生きざるをえない男の哀愁があった。

 

「『どんな鳥かごにも囚われず、どこまでも地の果てまでも己が翼で飛び立って欲しい』。昔、馬鹿な親友が子供に名付けた名前のように、木乃香には自由でいてほしい」

 

 言って詠春は苦笑した。

 

「これも親の意向になってしまいますがね」

「ええんちゃいます。子にこうなってほしいああなってほしいと願うのは親の特権やろ」

「そうでしょうか……」

 

 自信なさげに苦笑を深める詠春の横顔は父親のそれだった。

 

「ん、来たようやな」

「ですね」

 

 話をして時間を潰していた二人は部屋に急いだ様子で近づいてくる気配を感じ取っていた。

 座っていた詠春が立ち上がり、突然鶴子に向かって深く頭を下げる。

 

「子供達を、お願いします」

「…………分かりました。任せといて下さい」

 

 どれだけ苦渋の判断で頼んだのだろうか。立場に共に行けない我が身を恨みながらの言葉には切実な想いが込められていた。一人だけ行ける鶴子が頷かないわけにはいかない。

 何時もの服装、何時もの武装で鶴子はハワイに向かって行った。

 

「皆さん…………木乃香、無事に帰って来てくれ」

 

 詠春は空港のロビーから鶴子が乗った飛行機がハワイに向けて飛び立って行く姿を何時までも見送っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三日目の朝食の場所は変わらず、ホテルの大ホールである。

 とある人物たちの所為で決して雰囲気の良くない中での食事だった。

 

「ふん」

「けっ」

 

 大ホールの真ん中でアスカ・スプリングフィールドと犬上小太郎は、互いの顔を絶対に見ない様にやけ食いのように食事をする。

 不機嫌も露わに次々と食べ物を口に放り込む二人の周囲はエアポケットが出来たように空間が開いていた。雰囲気が良くない原因は言わずもがな、この二人の所為である。

 理由は3-A全員が知っていたが、近くで二人を見ているネギは首を捻った。

 

「たかがキスぐらいで大袈裟な」

「「ああんっ!」」

「ひぃっ!? ごめんなさい!!」

 

 デリカシーのなさでは定評のあるネギが不用意な一言を放って、二人に睨まれてすごすごと下がる。

 震えて怯えているネギを優しく迎え入れているのは宮崎のどかだった。のどかの隣で綾瀬夕映と早乙女ハルナが良くやったとばかりにサムズアップしているのは余談である。

 昨夜、アスカと小太郎の間に何があったかを知っている3-Aの生徒達は苦笑と共に見遣るのであった。

 比較的アスカ達に近い位置で食事をする神楽坂明日菜もまた苦笑を浮かべながら食事を口に運ぶ。

 

「もう、二人の所為で御飯が美味しくないわ」

 

 言いつつも、明日菜の口元は笑みの形になっていた。その目はバクバクと昨日よりも格段に顔色が良くなって普通の健康状態に戻っているアスカに向けられている。

 

「アスカ君が元気になって嬉しいんやな。素直やないんやから明日菜は」

「ですね」

「ちょっと二人とも!?」

 

 世間で言うツンデレを分かりやすく表現する旧友に笑ってしまう木乃香と思わず頷いてしまう刹那。

 正確に心を突き刺す指摘に顔を真っ赤にする明日菜を見た刹那は、それでも余裕を見せて笑っていられる木乃香の懐の深さに感銘を受けていたのだった。真に恐ろしいのは刹那の木乃香限定の曇った目かも知れない。

 どれだけ言っても暖簾に腕押しな木乃香に徒労感を覚えた明日菜は深い溜息を吐く。

 その三人の様子を見ていたのは雪広あやかが班長の班であった。

 

「桜咲さん、恐ろしい子」

「何言ってんの委員長?」

「なんでででしょう。言わなければならない気がしたので」

「あやかったら、訳の分からないことを言って。駄目じゃない、めっ」

 

 やっぱ馬鹿ばっかだな、と斜に構えた所のある長谷川千雨は、劇画調チックに驚愕している委員長こと雪広あやかと突っ込みを入れる村上夏美、小さな子供を叱るような仕草をする那波千鶴の三人から視線を逸らしたのだった。

 

「私の台詞が誰かに取られたような気がするです」

 

 と、綾瀬夕映が何時ものようにレモンオレンジという混ぜていいのかと首を傾げたくなる名称のパックジュースを飲んでいた。

 夕映の台詞を取ったとは知る由もない千雨の逸らした視線の先で、アスカが朝から豪快にも肉に被りついた。見ていることに気づいたらしく千雨の方に顔を向ける。

 

「っ!?」

 

 視線がかち合った千雨は何故か頬が火照るのを感じて顔ごとアスカから逸らすのだった。

 

「待てや……」 

 

 隣のアスカが視線を動かしたのでつい釣られて同じ方向を見た小太郎は、近くにいた明日菜と彼女から少し離れた所でのどかとぎこちない様子で話すネギの姿を視界に捉えて重大な事実に気づいてしまった。

 記憶を思い返すと、やはり間違いない。

 小太郎が麻帆良学園都市に到着した日の夜に行われていた戦い。その中でアスカと明日菜がした契約の儀式。そしてアスカが使ったアーティファクトがどうやって手に入れられるか。

 

「お前、ネギとも接吻しとるやないか!?」

 

 仮契約をするにはキスしかないと誤解している小太郎が叫びを上げた瞬間、大ホールの空気は昨夜に続いて凍り続いた。

 今度も爆発は早かった。

 アスカが静止する暇もないあっという間の出来事だった。

 勿論、大人しくじっとしているわけがなかったが、小太郎でさえ唖然とする速さで一瞬の内に集まって来た生徒達によってアスカは身動きが果たせなかったのである。

 

「は、離せ……っ!」

「なんで僕まで……っ」

 

 誰かの手によってネギも集団に巻き込まれ、カップリング相手と目されるアスカに押し付けられる。

 二人が図らずとも抱き合ったしまったことが更なる暴発を引き起こす。

 

「え、もしかして二人ってそういう関係?」

「双子の禁断関係って…………燃える!!」

「そうなると性格的にアスカ君が攻め?」

「小太郎君も性格的には攻めじゃない。意外に受けかもよ」

「アスカ君総受けのまさかのネギ君の攻め!?」

「明日菜やエヴァンジェリンさんと仲良いみたいだし、アスカ君って両刀使いじゃないのかな」

「楓姉、両刀使いってなに?」

「なに?」

「にんにん、お主達が知らなくても良い事でござるよ」

 

 爆発した3-Aは混乱の深め、小太郎の発言もあって特にアスカにとって不名誉な噂が一瞬にして広がって行く。

 これはホテル側の迷惑になると判断した新田が止めるよりも早く千草が動いた、

 

「アンタらいい加減に」

「だぁ――――っ!! は・な・れ・ろぉ――――っ!!」

 

 注意しようとした千草よりも更に早く、殴ると決めれば男女平等パンチが繰りだせるアスカが我慢の限界を迎えて生徒達を力尽くで振り解いた。

 怪我をさせないように力加減しながらの振り解きは、アスカなりに級友達のことを考えて事なのだろう。全員を痛みも感じずに振り解くことは出来ず、床に倒れた時に悲鳴を上げる者もいたが流石にアスカといえどもそこまでは不可能だったようだ。

 醜聞が原因とはいえ、生徒達だけに全面的な非はない。倒れている明石祐奈にまず起こそうと手を伸ばそうとした。

 そこでアスカは風を切る音が聞こえてそちらに顔を向けた。

 直後、ガチンと奇妙な音が響いた。

 

「にゃにだ!?」

 

 何かが飛んで来たので歯で噛んで受け取めたアスカは、飛んできたのがフォークであることに気が付いた。

 物凄く嫌な予感がして視線を噛んで受け止めているフォークから飛んできた方向に目を向けて固まった。

 

「あらあら、アスカったら。女の子に乱暴するなんて。そんな子に育てた覚えはないのに不良さんになっちゃって」

「ふぉかいだ!」

 

 顔に陰影を濃く刻んだネカネが言いながら投げて来たフォークを手で受け止めたアスカは、正確に目を狙ってくるのに冷や汗を浮かべていた。

 誤解だと弁明するが、当のネカネはアスカが大人しく罰を受ける気がないと勝手に判断して、どうやってかさっきまではなかったはずの両手の指の間にフォークを挟んでいた。

 

「不良になって女の子に乱暴する弟を更生させるのは姉の役目よ!」

「にょわっ?!」

「粛正されなさいアスカ!!」

 

 乱れ撃ちとはこのことか。ネカネが腕を振る度に銀色の閃光が走る。

 魔力で身体強化でもしているのか、フォークの進撃速度は並ではない。運動が苦手な者達には影すらも見させず、正に閃光の如くアスカを襲う。

 

「ふぉっふぁっ!? へっすぅ!? ちょんわ!?」

 

 手首を軽く捻るだけでフォークを再装填して弾切れを見せる気配ないネカネにアスカは良く受ける。

 避けたら生徒に当たる。万が一でもそれを許せば悪鬼から魔神へとジョブチェンジするネカネの逆鱗に触れるわけにいかず、必死に全身でフォークを受け止めるアスカであった。

 カンフー映画のようなアクションに生徒達が盛り上がる中でネギはというと、こちらはこちらで窮地に陥っていた。

 

「さあ、ネギ先生。今の内にわたくしとめくるめく官能の世界へと。アスカさんの身体など忘れさせてみせます」

「僕だけなんで何時もこんな役なの!?」

「ネギ先生!」

「邪魔はさせませんわ、のどかさん!」

「行かせません!」

 

 ネギの貞操を本人だけが密やかに狙っていると思っているあやかにのどかが果敢に挑む。

 背景に魔王城に幽閉された王女ネギと助けに来た勇者のどか、それを阻もうとする魔王あやかの幻影が映り出しそうな二者の気合の入れようである。こちらはこちらでギャラリーが盛り上がっていた。

 盛り上がっていない数少ない例外である村上夏美は隣の那波千鶴を見る。

 

「委員長は修学旅行でも全然変わらないね、ちづ姉」

「小さい頃から好きな事には全力投球な子だから。変わらないわ、あやかは」

「へぇ、ちょっと昔の姿とか見てみたいかも」

「そんなに見たいなら実家に写真があるから送ってもらいましょうか?」

「いいよ。そんな悪いし」

 

 夏美は同室のあやかの幼い頃の写真を持っているという千鶴の提案に心揺らぐものを感じたが、気心の知れている相手といってもかける手間と迷惑を考えて顔の前で右手を振った。

 千鶴とあやかの家が大財閥で二人が小さい頃からの幼馴染であることを知っていたので驚くことはなかったが、どちらかといえば千鶴の小さな頃の方が気になった夏美だった。写真を見て自分がどのような反応をするのか分からなかったので、逆鱗に触れる前に回避する選択を選べたのはあやかほどではないが長く傍にいた経験か。

 しかし、惨劇を回避したはずの夏美の隣で千鶴はネギをシャリシャリと擦っていた。

 

「え、どうしてネギを両手に持ってるの? というかどこから出したのそれ?」

「誰かに悪口を言われた気がしたのだけど」

「気の所為だよ気の所為!」

 

 黒いオーラを纏って『ゴゴゴ』と周囲の空間を震わせる謎のプレッシャーに晒されて尻が変な感じに疼いて精一杯宥める夏美の姿が見られた。

 

「騒がしい奴らだ。もっと静かに食事できんのか」

「これが3-Aです、マスター」

 

 このような騒がしい状況で普通に食事しているエヴァンジェリンこそ、逆にこの騒がしい空間では異様に映ることに千雨は頭痛を覚えたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新田の大喝によって諌められ、千草の説教を受けたアスカ達は部屋に戻っていた。

 

「納得いかない」

 

 額にネカネが投げたフォークの刺さった痕が深々と残るアスカは、ベッドの端に座ってポケットに両手を入れながら足をぶらぶらとさせていた。

 

「俺、被害者じゃん。カモには踊らされるし、変な疑いはかけられるし、ネカネ姉さんは年々叔母さんに似てくるし」

 

 言っている間にどんどん雰囲気が暗くなっていくアスカ。明日菜が慰めようかと口を開くよりも早く、ネギが口を開いた。

 

「キスとかも?」

「それは忘れろ」

「あがっ!?」

 

 デリカシーと空気の読めなさ具合で定評のあるネギがやはりいらないことを言ってアスカに粛清された。

 昨夜のこともあってアスカを頑として見ようとしなかった小太郎がベッドから転げ落ちるネギを見て不可解さに気づく。

 

「どうやった今?」

「ふふん」

 

 アスカはポケットに手を入れたままでネギの声を聞いてすぐに顔を向けた小太郎の目には攻撃動作が見えなかった。

 ポケットから手を出してネギを殴ったのだとしても、小太郎の目ならば戻す前に見れたはずである。

 当のアスカは自慢げに鼻を高々とさせているだけで答える気はなさそうだ。

 

「無音拳。タカミチの技を真似たか」

「言うなよ」

 

 あっさりと真相をバラしてしまったエヴァンジェリンにアスカの高く伸びていた鼻がポキリと折れた。

 

「無音拳?」

「学園№2の男が使う技だ。大分前から親交があったと聞くし、技を盗んだのだろうよ」

「悪かったな。その通りだよ畜生」

 

 まだ高畑と会ったことのない小太郎は当然無音拳のことも知らなかった。首を捻ったところでエヴァンジェリンが説明し、不貞腐れたアスカは片手をポケットから出した。

 もう片方の手を見たエヴァンジェリンは皮肉気に唇を吊り上げた。

 

「一発放っただけで腕が使い物にならなくなるようではまだまだだがな」

「うぐっ」

 

 出さないのではなくポケットから出せない震える手を指差されたアスカは図星を指されて顔を逸らした。

 そんなアスカを救ったのは部屋に入って来た刹那だった。

 

「あの、私が何か?」

 

 部屋に入ると同時に全員から注目された刹那は自分が何かをしたのかと咄嗟に考えたが流石に違うかと苦笑した。

 

「どこに電話かけたん?」

「鶴子さんに。敵の一人が神鳴流を使っていたので何か知っているのではないかと」

 

 鶴子、という名前と神鳴流から一人の人物を連想したエヴァンジェリンが反応した。

 

「鶴子とは、もしかして神鳴流の剣鬼と呼ばれたあの青山鶴子のことか?」

「はい。どうやら月詠は神鳴流の門下ではないようなのですが関わりがあるようで今日中にこちらに来ると連絡がありました」

「そうか……」

 

 エヴァンジェリンは麻帆良に十五年も縛り付けられてきた。その間にナギと関係のある人間は大体洗っている。

 ナギが所属していた紅き翼に神鳴流の青山詠春――――現在は結婚して近衛詠春――――もいたので神鳴流のことは調べていた。詠春を差し置いて神鳴流の歴代№1か2とまで呼ばれている青山鶴子のことは知っていた。

 今は引退したと聞いていた剣客が海外まで足を運ぶ月詠の価値を考えるエヴァンジェリンであった。

 

「なんや元気ないな、せっちゃん」

「…………なんでもっと早く連絡してこないのかと怒られました」

 

 少し煤けた刹那が一日遅れで連絡したのは、負けたことを知られるとどのような仕打ちになるかと恐れた為であったが口にすることはなかった。

 代わりに別方向から口撃が来た。

 

「敵の神鳴流使いって刹那が負けた奴だよな」

「ぐっ」

 

 アスカの何気ない一言に、刹那の心に幻影の太刀と小太刀が突き刺さる。

 

「こ、小太郎さんが封殺されたのは銃士でしたね」

「ぬあっ」

 

 自分だけではすまさないとばかりに刹那も攻撃し、銃弾に蜂の巣にされたように小太郎の体が震えた。

 

「そ、それを言うたらアスカなんてネギと合体してネスカになったのに、魔法は弾かれるわ、ボコボコにされるとるやないか。しかもそれぞれ別々の相手」

「うおっ」

 

 小太郎の切り返しの一撃がアスカの心にクリティカルヒットする。

 三人が三人ともノックアウトである。

 

「止めなさい。みっともない」

「自分達の傷を抉り合ってもしゃあないやん」

 

 もう十分に傷を抉り合って三人は呆れた様子の明日菜と諌める木乃香から一斉に顔を逸らすのだった。みっともなさは自覚していたらしい。

 そこへベッドの下で倒れていたネギが目を覚ました。

 

「いたた。なんで僕、ベッドから落ちてるの?」

 

 撃たれた頭を抑えて転げ落ちたベッドに手を置いて体を支えて身を起こしたネギは首を捻っていた。

 状況を理解していない様子のネギを見たアスカは邪悪に嗤った。

 

「どうしたんだネギ、急にベッドから落ちて。もしかして体調でも悪いのか?」

「そんなことはないんだけど…………。どうしたのアスカ? 人の心配するなんて気持ち悪いんだけど」

「人聞きの悪い。これでもネギを心配してんだよ。ほら、手貸せって」

「う、うん、ありがとう」

 

 明らかに不審な態度の双子の弟に不審を抱きながらもネギは促されるままに手を伸ばして。

 アスカはこのまま勢いと言葉で乗り切ろうとネギをベッドに引き上げる。

 

「大丈夫か? ベッドから落ちた時、凄い音がしたぞ」

「頭の横がちょっと痛い。あ、小さいけどたん瘤出来ている」

「冷やした方がいいな。ほら、氷持って来るから横になってろって」

 

 甲斐甲斐しくネギの世話を焼くアスカに集まる視線の数々。

 部屋に備え付けられている冷蔵庫から氷を取り出して、ネギが横になって頭の下にタオルを敷いてたん瘤が出来ているとこに当てているのを見た明日菜が立ち上がり、歩み寄りながら拳を振り上げる。

 

「あいたっ」

 

 アスカに悪気はあったのか、明日菜が近づいて拳を振り下ろしても避けようとはしなかった。

 大人しく拳を受けたアスカはネギのたん瘤を冷やしながら明日菜を見上げる。

 

「嘘つくんじゃないの。カモに変な影響受けてるんじゃないの」

「呼びましたかい、明日菜の姉さん」

「うわっ、ボロ雑巾が動いた!?」

 

 さてこれから説教を始めようかという時になって、話題に上げた当オコジョが反応したことに明日菜は驚いてしまった。

 

「ボロ雑巾って酷いですぜ。俺っちだって好き好んでミンチになってたわけじゃないのに」

 

 ボロ雑巾――――カモは鳥籠の中で身を起こすと立ち上がって前足を伸ばすと、器用にもかけらていた鍵を外して外に出る。

 ベッドサイドに降り立ったカモは包帯塗れの自分の体を見下ろし、これまた器用にも包帯を外すと体を丸めて舌で白い毛並みを毛づくろいする。

 おかしな光景ではないのに物凄い違和感が感じていたのは明日菜だけではなかった。日常でのイメージは大切である。

 

「まだ生きとったんかいな小動物」

「ちっ、ネギさえ邪魔に入らなければ息の根を止められたのに」

 

 忌々しげな小太郎と吐き捨てるアスカ。

 カモをボロ雑巾にした張本人達は真剣に殺す気であった。ネギが涙交じりに静止に入り、一晩中治癒魔法をかけていなければ今頃黄泉路を渡っていたことだろう。

 名目上の主であるネギとしては親友を殺されかけて良い気はしない。

 

「二人ともいい加減にしなよ。物事には限度があるんだから」

「じゃあ、お前が小太郎とキスしろよ」

「じゃあ、お前がアスカとキスしろや」

「失言だった」

 

 たん瘤も小さな物だったので冷やすと痛みもマシになったので起き上がりながら注意するも、返って来たほぼ異口同音の返事に失言を悟るのだった。

 ネギだって偶然とはいえ、小太郎やアスカとキスするなど想像だけでも嫌であった。特にのどかに告白されて意識するようになった今この時は特に。

 男三人の間で空気が統一され、取りあえずカモをもう一度締めとくかと結論が出されるのは早かった。

 

「ちょ、ちょっとなんなんすか? あれはわざとじゃないって何度も言ったじゃないですかい。ネギの兄貴……」

「ごめんカモ君。僕にはどうしようもないよ。君が悪いんだ。僕を裏切った君が」

 

 ゆらりと立ち上がったアスカと小太郎に危機感を煽られたカモがネギに助けを求めるも、あっさりと見捨てられた。

 このままで昨日の惨劇の再現になるかと思われたが、それよりも早く部屋のドアが開いた。

 

「お久。昨日振り」

「おお! 和美の姉さんじゃねぇか!!」

 

 ドアを開けたのは朝倉和美であった。

 地獄に仏というタイミングで現れた和美の下へと走り寄って、体を伝ってその肩の上に上る。

 

「良くあれで生きてたね、カモ君」

「この不肖カモ。生命力だけならゴキブリにも負けねぇって自負してるオコジョ妖精だぜ。あの程度、おちゃのこさいさいだぜ。三途の川を渡りかけて親父とお袋に蹴り帰されちまったけどな」

 

 昨夜の屠殺現場にいた和美はトラウマになって寝れなかったので怪我一つなくケロリとしているカモに感心したのだが、よりにもよって女の子が嫌いな物ランキングの中で高い方のゴキブリに自分を例えたのだから嫌そうな目で肩の上にいるオコジョ妖精を見ていた。

 しかし、ここで振り払うことは目的の上では出来ず、自分で墓穴を掘ったことに気づかないオコジョを極力意識しないようにするのだった。

 

「で、ネギが魔法を使っているのを見られてカモがフォローしたのはいいとして」

「いいんかな?」

「当人たちが良いって言ってんだからいいんじゃない。じゃないと話が進まないでしょ」

 

 いい加減に話を進めようとした明日菜に木乃香が混ぜ返そうとするが、気にせずに進める。

 麻帆良に戻った僕はオコジョなんだ、とベッドに伏せて泣くネギを放置して勧めなけれ本当に話が進まない。エヴァンジェリンが笑っているのも茶々丸が心配でオロオロしているのにも突っ込まないったら突っ込まないのだ。

 

「百歩譲ってそのフォローの為に見せた仮契約陣を消しきれなかったのはいいわ」

「良くないぞ」

「万死に値するで。今からでもぶっ殺したい気分や」

「やるか?」

「やらなあかんやろ。俺達の名誉の為に」

「ひぃっ!?」

「後にして。さっきから話が全然進んでないじゃない」

 

 話が進まないのは明日菜が余計なことを言うからじゃないか、と刹那は思いもしたがそれこそ話が進まなくなるので口を挟まなかった。

 

「なんで『3-A最強は誰だ! 問答無用の頂上決戦!!』とかいうゲームをしたのよ」

「必要だから。アーニャちゃんが捕まってんでしょ? 戦力は大きい方がいいじゃない」

 

 ニヤリと笑った和美は振り返り、開かれたままのドアから二人の人影が部屋に入る。

 

「龍宮、楓」

 

 入って来た龍宮真名と長瀬楓の姿を見た刹那は目を丸くするも、直ぐに頷いた。

 

「この二人なら大丈夫です。龍宮とは偶に仕事を一緒にしますし、楓の実力も保証できます。戦力としては十分です」

「でも、無関係の二人を巻き込むわけには」

 

 二人の実力の一端を知る刹那が太鼓判を押すが、今回の一件に関わりの薄い二人を巻き込むことに対してネギが難色を示した。

 

「あながち無関係というわけでもござらんよ」

「そうだろう。敵と通じているなどと言い出さねばな」

 

 ネギの言葉に対する反論を口にした楓だったが、本気の殺意を向けて来るエヴァンジェリンには閉口したようだった。

 その殺気を向けられた真名は、普段からクールな彼女にしては珍しく躊躇いを含みながら口を開いた。

 

「提供された情報を伝えはしたが、誓って私は君達の敵じゃない」

 

 エヴァンジェリンは疑わしそうだったが、それほど真名を疑っている様子はなかった。どちらかというとその情報の入手元を知りたい様子だった。

 

「いいぜ、信じる」

「いいのか?」

「ああ、真名も友達(ダチ)だからな」

「…………ありがとう」

 

 真名の情報を信じて敵のアジトを襲撃したばかりに死にかけたアスカはあっさりと真名の主張を認めた。それだけに留まらず、歩み寄って手を伸ばす。

 握手を求められると分かった真名は訝しげにしながらも、信頼しかない眼差しに礼を言いながら握手を持って答えた。

 

「武道四天王の三人が揃ってるのにくーふぇは呼ばんの?」

「あ、それは私も龍宮と長瀬を呼んでて古菲を呼んでないのは変じゃないかって気になってた」

 

 面々を見渡した木乃香は不思議そうに問いかけた。

 真名と楓を呼んだ当人である和美も同じ意見なのか、昨日のゲームの影の主催者であるカモを見た。

 

「悪いがあの姉さんは実力不足だ。そうだろ、アスカの兄貴」

「ああ」

「え、どういうこと? 古菲は昨日のゲームを見る限りアスカよりは弱いかもしれなけど十分強いじゃない」

 

 実力不足だと言われても信じられない明日菜が辺りを見渡すも、呼ばれた二人と同じ疑問を抱えている木乃香と和美は除外するとしても他の反応は芳しくなかった。

 

「僕は古菲さんのことは良く解らないのでアスカが決めたことなら支持します」

「俺も見てたわけちゃうからな。決めたのはアスカや」

 

 近接系ではないネギと昨夜のゲームを見ていたわけではない小太郎は判断権をアスカに預けていたようだ。

 明日菜が残りの三人を見るとアスカが頭を掻いた。

 

「表の世界で見れば古菲は十分に強いと思うぜ。だがな、俺達が戦おうとしているのは裏の世界の話だ」

「古菲は満足に気を操れていません。今のままでは明日菜さんよりマシ程度の戦力にしかならないでしょ」

「早い話が足手纏いだ」

 

 アスカ・刹那と続いて、エヴァンジェリンが半分以上素人の明日菜でも分かるような簡単な結論を出した。

 きついと思わなくもないが強いアスカですら一敗地に塗れる相手が敵なのだから仕方ないのかと自分を割りきる明日菜だった。

 そこへ『プルルルルルルル』とホテル備え付けの電話の鳴る音が響いた。

 

「僕が出ます」

 

 ここはネギ達男子の部屋なので、千草やネカネは理解があるが常識的に考えて女子がいるのは不味いので出る人間が限られる。

 咄嗟に反応して受話器を取りかけた木乃香を遮ってネギが電話に出た。

 ホテルのフロントからのようで、数言話すと電話を切った。

 受話器を置いたネギが見たのはアスカだった。

 

「フロントからエミリアさんが来てて、アスカに降りて来いって」

 

 事態は次なる事態へと移行する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 襲撃を警戒して何度目かのアジト替えを行い、少女誘拐から三日目の朝を迎えたゲイル一行。

 

「標的が動き出したか」

 

 壁に凭れかかって片膝を立てて腕の内に愛銃を抱きしめるように眠っていたナーデレフ・アシュラフは、ゲイル・キングスの喜色混じりの声に反応して瞼を開いた。

 同じように眠っていた面々も同時に目を覚ましたようだった。

 眠っていようとも意識の端が覚醒していたナーデは眠気の欠片もない目で、罅割れている窓から差し込む朝日を見る。

 ふと、コウキが死んだ日もこのような朝日が差す室内にで目覚めたと益体もつかないことを思い出した。

 

「準備はどうか、ナーデ」

「私をその名で呼ぶなと言ったはずだぞ」

 

 過去を想っていようとも看過できないゲイルの名前の呼び方に、ナーデは熟練過ぎて過程を吹っ飛ばしたように錯覚するほどの速さで愛銃の銃口を向ける。

 

「貴様、ボスになにを……っ!」

「構わん、フォン。すまなかったアシュラフ」

「…………それでいい。だが、次はない」

「気をつけよう」

 

 敬愛するゲイルに銃口を向けて今にも撃とうとしているナーデにフォンはいきり立った。

 ナーデが愛称で呼ぶことを許した人間は少ない。そしてゲイルはその中にいない。それだけで殺す理由としては十分であったが、直ぐに謝罪したゲイルにナーデも銃口を下ろした。釘を指すことも忘れない。

 

「ああん、殺り合いませんの。残念ですぅ」

「君ね」

 

 月詠の異常振りは今に始まったことではないので、気に入らないとばかりに眉を顰めたフォンと違ってナーデは気にも止めなかった。

 この面子の間でゲイルとフォンの間以外に仲間意識など皆無なことは始めから分かりきっていたことで、ナーデはここにいる名目上は仲間を誰一人として信用も信頼もしていない。

 それぞれ目的の為に一時的に同行しているだけで、本来ならば殺し合いをしていてもおかしくない間柄だ。

 ゲイルのやり方もフォンの信仰も月詠の狂人振りもフェイトの人形振りもなにもかもが気に入らない。

 

『お姉さん』

 

 だからというわけではないだろう。攫った少女の話を聞いたのは。

 だからというわけではないだろう。少女が話すヒーローの下へ昔馴染みを通してアジトの情報を流したのは。

 

(感傷だ)

 

 少女に罪悪感を持ったことも、久方ぶりに話した普通の少女に絆されて気が付けば二年間から自分の手が血に塗れていることも、既に何もかもが遅い。

 現れたヒーローは紛い物で、本当にいるのなら何故二年前にコウキを助けてくれなかったのかと憎む。

 

「我が願いが成就する時が来た。さあ、行こうではないか、約束の地へと我らを誘う踊らされているだけの愚者達を嗤いに」

 

 そこにいるだけで闇を生み出すゲイルから視線を外して再び窓を見る。

 朝日に照らされたベッドの上で魔法具によって縛られ眠らされ続けているナナリーとアーニャ。そして影の中にいるゲイル達。ナーデはその間で半分だけ光に照らされていた。

 仄暗い闇の底から見上げた昏い瞳で見た朝日はとても眩しすぎて見れた物ではなかった。今のナーデは二年前と違って闇の中に安息を得るようになっていた。

 もはや戻ることは叶わない道を進んでいる己が所業を思い出してナーデは過去に逃げる。

 

(コウキ…………マナ…………)

 

 思い出の中の二人は笑顔だった。笑顔だったことがナーデを苦しめる。

 この二年間と同じように闇の中で光を求めて彷徨い続ける。歩み道の先に救いがあると信じて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一階に一人で降りて来たアスカはロビーを見回してエミリアの姿を見つけ出して近づいていく。

 

「よ、一昨日ぶり」

 

 ソファーに座って優雅にミルク入りのコーヒーを飲んでいたエミリアは顔を上げた。

 飲みかけのコーヒーカップを近くの机の上に置いたエミリアは組んでいた足を解きながら、座ったままアスカを見上げた。

 

「ん?」

 

 可及的速やかに得た情報を伝えるべきだと分かっていても、一昨日に泣いて縋りついたこともあってエミリアの頬に朱が散った。

 プライドだけは一流を飛び越えて超一流に達しているエミリアとしては、情けない姿を見せてしまったことに対する恥ずかしさがあった。

 アスカを直視できずに視線を逸らしかけたが意地だけで元に戻す。

 

「遅いわ。私が来たんだからもっと早く来なさい」

「十分に急いで来たつうの」

「来る前から待ってるぐらいの気概を見せないよ」

「無茶言うな」

 

 対面の椅子に腰を下ろしたアスカに、恥ずかしさから語気や言い方がきつくなっているのを指摘されて自覚したエミリアは軽く咳払いをする。

 

「あなた一人?」

「他の奴らには待っててもらってるつもりだったんだが」

 

 あの日屋敷にいた面々も同席すると思っていたエミリアが周りを見ながら言うと、アスカは困った顔をしながらロビーの角に顔を向けた。

 すると、慌てた様子で顔を引っ込める者達が十数人。

 

「出歯亀がいるのは許せ」

「偉そうね。アンタとこの身内じゃないの」

「身内つってもクラスメイトってだけだ。結局は他人だからな。人のやることにまで責任は持てねぇ」

 

 投げやりに答えつつ、生徒達に呆れているのはアスカも同じなのだろう。隠れているつもりで隠れ切れていない生徒達からエミリアに視線を戻した。

 こちらの居住まいを正さずにはいられない強い意志の籠った目にエミリアの背筋は粟立った。

 父がスプリングフィールド兄弟を家に招きたいという気持ちは遂にエミリアには分からなかった。だが、このアスカの目を見ると認識を変えざるをえない。

 こういう目を持つ者が英雄となるのだろう。

 こういう目をする者が英雄となっていくのだろう。

 エミリアは自らがこれから英雄となっていく者の始まりを目撃しているのではないかと思った。

 

「ナナリーを誘拐した敵の目的地が分かったわ」

「へぇ」

 

 ニヤリと笑うアスカに引き込まれる物を感じたエミリアは努めて自分を戒めた。

 弱さを見せるのは一度で十分。エミリアは一度は解いた足を再び組む。

 

「場所は?」

「北西ハワイ諸島の一つよ。無人島だと思われてたけど、人がいるらしいわ。お母様の遺品から生まれを特定したの」

「島か。飛んで行くしかないか」

「そんなことしなくてもうちが船を出すわ。敵にバレるリスクを考えればそっちの方が無難よ」

 

 それもそうか、と納得したアスカは敵に発見される恐れがあることまで考えを回していなかったのか頷いた。

 北西ハワイ諸島ってどこだろうかと、地図など頭に入っていないアスカは思いもしたが口に出さなかった。偶には空気を読むこともあるのである。

 

「船の準備は出来てるのか?」

「何時でも出発できるわ。ただし」

 

 なら早速、と腰を上げたアスカを静止したエミリアは最近とみに膨らんでいる胸の下で腕を組む。

 

「私も連れて行きなさい」

「は?」

 

 予め決めていたことを伝えると、アスカは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。

 始めてアスカに勝てた気分になれたエミリアは、更に言い募る。

 

「昨日、お父様が死んだの」

「この前の様子からして自殺か」

「ええ、窓から飛び降りて。即死だったわ」

 

 思えば襲撃を受けた夜に当主の心は壊れたのだろう。アスカが見た時は既に様子がおかしかった。

 当主は善人とまでは言わなくても根っからの悪人というわけでもなかった。利に聡く、どこまでも人間な人だった。そんな彼にエミリアが死ぬと分かってナナリーを身代りにしたことは致命的だったのだろう。

 ことに娘に似ていたことが決定だったのか。もはや、故人である当主の考えは分からない。死人に口はないのだから。

 

「それとお前を連れて行くのとどう関係があるんだ? 言っちゃ悪いが戦力になりそうにない奴を連れて行く気はないぞ」

 

 共に行くメンバーは既に決まっている。そのメンバーと比べるとエミリアの立ち振る舞いから察する戦闘力はガクンと落ちる。戦闘専門の魔法使いではない足手纏いを抱えて戦えるほど甘い敵ではないことは、死にかけたアスカが一番良く知っている。

 

「私だって自分の分は弁えてるから戦わせろなんて言わないわ。でも立場上、任せっきりっていうわけにはいかないの」

「いいじゃねか、任せてしまえば。え~と、そうだ。適材適所ってやつだ」

「だからそういうわけにもいかないの。こっちにも事情があるんだから」

 

 こいつ馬鹿ね、と言葉を考えていたアスカの性格を見抜いたエミリアは溜息を吐きつつ、頭が痛い問題を思い出して今度は違う意味で溜息を吐く。

 

「先代が死んでから親戚連中が遺産を寄越せってうるさいのよ。今回の件を解決すれば連中を黙らせるには十分な材料になるわ」

 

 オッケンワインの家は先代が一人で名家にのし上げた様なものである。

 成り上がりなんて揶揄されている面もあるが、その財力はアメリカ魔法協会でも屈指。財力に群がって来る親戚を先代は忌避していた。

 先代の死に乗じて財産を狙って群がって来る親戚たち。たった数日の間に自称親戚まで現れている中で、連中を黙らせるには高額賞金首であるゲイル・キングスを捕まえるか倒すほどの功績が必要になる。

 エミリアは自らが戦闘を得手としているわけではないことを知っており、己の分を弁えている。

 

「同行はしても戦いには手は出さないわ。大人しく後ろに下がってる。誓ってもいい」

「そんな都合の良い話があると思ってるのか?」

「駄目なら場所は教えない」

「お前な」

「悪い話ではないと思うわよ。特定できたのは島だけ。そこで暮らす人にカネの水がどこにあるのか聞くのに、村出身の身内がいる私がいれば楽になるはずよ」

「むぅ」

 

 旗色が悪くなってきた状況にアスカは唸りを漏らした。

 現状、敵の目的地を知っているのはアスカの目の前にいるエミリアのみ。しかも、その場所にしても大きな括りであって厳密には正確ではない。

 死者を蘇らせるほどの水の在処を地元住民達が理由があるといっても外来者であるアスカ達に素直に教えてくれるとは思えない。母が地元住民であるエミリアがいてくれた方が相手を安心させる一助になるのは間違いない。

 相手に先行してその場所を破壊してしまえば敵の目的を挫けると考えたアスカは、大きなため息を吐いて了承するしかなかった。

 

「分かった。でも、戦いには絶対に参加するなよ」

「その前に逃げるわ」

 

 胸を張って言うことでもないとも思いもしたがアスカも突っ込みはしなかった。

 

「うし、善は急げだ。早速行くか」

 

 膝をポンと叩いたアスカが立ち上がったところで動きを止めた。

 

「しまった。今が修学旅行中なのをすっかり忘れてた」

 

 視線の先には見つかったと思って角に隠れる生徒達。今は修学旅行中である。三日目の予定は全体行動で、班別の自由行動が許されているのは四日目と五日目である。

 アスカ達だけ別行動など許されるはずがない。

 

「どうするの? 手伝いが必要なら手を貸すけど」

「つってもな…………」

 

 生徒が多数行方不明になれば学校の責任問題になりかねないことは無鉄砲なアスカにも分かる。

 千草やネカネに協力してもらえれば一時はなんとかなっても、やはり人数が多いので露見する可能性は高い。

 

「しゃあない。ちょっと待っててくれ」

 

 悩んで最適な答えを出せるような頭の良さを持っていないと自負しているアスカは考えることを放棄して、エミリアにそれだけ言って歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほれ、小太郎」

 

 アスカが去り、教師としての仕事があるネギが続き、真名と楓やエヴァンジェリンらが自分の部屋に戻った直後にカモからカードを投げられた小太郎は見ることもこともなく飛来するそれを掴む。

 

「これは…………アスカらが持っとった仮契約カードってやつか」

「ああ。昨日のやつのな。おっと、本当に他意はなかったんだって」

「分かっとるわ」

 

 昨夜の悪夢を思い出して体が勝手に動いて上がった拳を解きつつ、背筋に走った悪寒を忘れようと頭を振る。

 カモには小太郎に纏わる計略はなかったのは百も承知である。

 エヴァンジェリン戦後に顔を合わせたが、アスカとなら波長がピッタリと合うのだがカモはどちらかといえば合わないタイプの相手なので挨拶程度で積極的に話はしていない。

 小太郎は実生活でも正面から向かい合うことを好む。なので、回りくどい事や細かい性格の持ち主とはどうにも合わないのだ。こういう面はアスカも同じなのだろうが、アスカの場合はネギと兄弟ということもあって耐性があるのだろう。

 

「なんて書いてあるんやこれ」

 

 カードをヒラヒラとさせながら小太郎はカモに問うた。

 

「細かいことは省くが、アーティファクトは『繋がれざる首輪』。称号は『誇り高き狼』だな。洒落てる称号じゃねぇか」

「大層な名前やの」

「称号なんてそんなもんさ」

 

 狼と付いたのは小太郎が狗族のハーフだからだろうが、誇り高いは余計だと思った小太郎は背中が痒くなった。

 

「じゃあ、アスカの称号はなんやねん」

「アスカの兄貴の? え~と、『比翼の英雄』だな。な、大差なんてねぇだろ」

 

 主が持つマスターカードと従者が持つコピーカード以外に自分で持つ分も用意しているのか、カモはどこに直していたかアスカの仮契約カードを取り出しながら言った。

 まだ部屋に残っていた明日菜は自分のカードに描かれた『傷だらけの戦士』と書かれているのを見ながら、アスカの称号について考えた。

 

「比翼、って比翼の鳥とかのあの?」

「さあ? カードに称号をつけてるのは俺っちとは違う種族の精霊だから、どういう意味なのかはこっちが解釈するしかねぇ。アーニャの姉さんの『張り子の女王』とか、どういう基準で称号がついてんのかも分かんねぇからな」

 

 言われてみれば自分が『傷だらけの戦士』なんて物騒な称号を与えられているので、成程と頷いた明日菜もそれ以上の追及はしなかった。

 明日菜のカードを羨ましそうに見ている木乃香。

 

「うちやったらどんな称号付くんやろ」

「お嬢様も仮契約をしたのでは?」

「そうやん。ナイス、せっちゃん。カモ君、うちのカードは?」

「あ、そういえばそうだったな。すまねぇな、木乃香の姉さん。バタバタしてたんで渡すのを忘れてた」

 

 どのような称号だろうかと想像を膨らませていた木乃香の横で言った刹那の言葉で、一昨日の夜に緊急事態とはいえアスカと仮契約をしていることに今更気が付いた。

 カモも事態が事態だっただけにすっかりと忘れていて、これまたどこから出したのか木乃香の仮契約カードを出した。

 

「これがうちのカードやねんな」

「称号は『癒しなす姫君』。ピッタリじゃねぇか」

 

 渡されたカードを受け取った木乃香は感動した様子で、カモの声も聞こえていない様子だった。

 制服姿で大剣を持っている明日菜のカードと違って、木乃香のは神職が切るような和服を着て扇子を両手に持っている。

 

「木乃香のは私のと違って制服じゃないのね」

「絵柄の変更は申し込めば出来るぜ。アーティファクト召喚の呪文を唱える時に予め特定の衣装を登録しておけば、召喚時にその衣装に瞬時に着替えることも出来るからな」

「便利ですね」

 

 西洋の魔法文化には疎かった刹那も仮契約後の便利なシステムに感心しているようだった。

 嬉しそうな木乃香と自分の衣装の変更を考えている明日菜。そして純粋に感心している刹那を見遣ったカモは、一つの考えに辿り着く。

 

「ションベン行ってくるわ」

 

 カモが動くよりも早く小太郎が動いた。

 このままここにいては面倒事に巻き込まれると動物的な直感で察した小太郎は、明日菜に部屋のカードキーを投げ渡すと止める暇もなく部屋を出て行った。

 

「どうしたんだろ?」

「そんなにおしっこしたかったんかな」

 

 小太郎同様に嫌な予感を悪寒付きで感じていた刹那も動いた。

 

「私も、ちょっと……」

「待ちな」

 

 流石に小太郎のようにトイレと言うには女性として出来ないが適当な言葉が思いつかず、言葉を濁しながら退出しようとした刹那の前に回り込んだカモ。

 

「木乃香の姉さんと仮契約しな」

「え?」

 

 まさかの発言に刹那の頭の中は真っ白になった。

 

「アスカの兄貴が会ってるっていう子から情報が齎されれば状況はそろそろ動くだろ。使える引き出しは多い方が良い。仮契約ならリスクも少ねぇ。もう一度言うぜ、仮契約をしな」

「しかし……」

「関西呪術協会の話は千草の姐さんに聞いた。もうアスカの兄貴と契約しちまったんだ。身内であるアンタとしたところで問題にはなりやしねぇ」

 

 今までのおちゃらけた面のあるカモではない。ここにいるは拙い少年少女達と共に険しい道を歩むと決めた賢者である。

 相手の逃げ道を塞ぎ、己が望む答えを言わせようとする知恵者の策略の前に刹那は追い込まれるのみだ。

 

「うちはええよ」

「お、お嬢様!?」

 

 どうやって断ろうと考えていた刹那と違って木乃香の方は実にあっさりとしていた。

 既にカモが木乃香に根回ししていると知らない刹那は滑稽なほどに動揺した。

 

「し、しかしですねお嬢様!? 女の子同士でキスなんて」

「うちはせっちゃんやったらええんやけど」

「いえ、やはり節度は守らないとっ!」

 

 絶賛混乱中の気持ちが良く解る明日菜であったが、女子中なので同性同士でキスなんて話は良く聞いていたので、その延長と思えば気にはならない。

 同じ立場になったらとまでは考えない明日菜だった。

 

「準備はいいぜ」

「何時のまに」

「巧遅は拙速に如かず、が俺っちの性分だから行動は早くだ」

 

 二人の様子を見ていた明日菜にも気づかぬ速度で仮契約の準備を終えたカモは、当事者達を急かす。

 

「せっちゃん。ほら、早よ」

「ですがお嬢様……」

 

 中心にして描かれた仮契約の陣が光り輝いている中で、待つように顎を上げて瞼を閉じている木乃香を前にしても勇気が出ない刹那。

 これで戦闘モードになったら目つきも変わって勇ましくなるのだから人は分からない。明日菜は内心でそんな感想を抱きながら、そっと刹那の背中を押すのであった。

 

「あ」

仮契約(パクティオー)!!」

 

 なんとなく小太郎が部屋を出たのはこうなることをどこかで予測していたのだろうと考えながら、二人が口づけするのを見る明日菜であった。

 

「む……ふむ、ん……く……」

「ん……」

「おーい、いい加減に戻って来ーい」

 

 仮契約は無事に終わったのに何時までもキスをしている二人。しかもちょっと息遣いが艶めかしい。

 蚊帳の外に置かれている明日菜は突っ込まざるをえなかった。

 

「ぷあっ、く、苦しいですお嬢様」

「あや、ごめん」

 

 明日菜の突っ込みに反応したのか、それとも満足したのか。木乃香から離れると刹那はキスをしている間は息を止めていたのか、大きく息を乱していた。反対に木乃香は落ち着いたものである。

 

「明日菜の姐さん。あの二人は出来てんのか?」

「う~ん」

 

 定位置の肩の上に飛び乗って来たカモの質問に答える言葉を持たなかった明日菜である。

 どう答えたものかと、顔を真っ赤にしている刹那と余裕のある木乃香を見ながら考えていた明日菜は、コンコンと部屋のドアがノックされたのをこれ幸いと思考放棄した。

 

「はいは~い、今出ます」

「あっ、姉さん」

 

 カモが何かを言おうとしたが、もう百合が舞い散る空間に一秒でも長居したくなかった明日菜は、事前の取り決めで訪問者が来ても応対しないようにとの決まりも忘れてドアを開けてしまった。

 魔法関係者ではない生徒の前では喋ることが出来ないカモは動物の振りをしなけれならなかった。

 

「どうも、明日菜サン」

「超」

 

 ドアを開けた先にいたのはクラスメイトの超鈴音であった。

 超は少年達の部屋であるにも関わらず、明日菜がいることに驚いた様子も見せず、部屋の様子を一瞥して幻の百合の花が咲き誇っていることに首を捻りながら、また明日菜を見た。

 

「あ、ごめん。アスカ達に用ならアイツら今いないのよ」

 

 ここにきて明日菜もようやく己が失策を悟る。

 この部屋はアスカ達の部屋。明日菜達女子は入室禁止がルールとして定められている。

 応対するべきではなかったと後悔するのは後の祭りであったが、ドアを開けてしまったものは仕方ない。責任は忘れさせた刹那達に押し付ける気満々だった。

 

「問題ないネ。用があるのは明日菜サンにだから」

「私に?」

 

 言ってはなんだが明日菜は超とそこまで親しいわけではない。

 明日菜と超との接点はそこまでない。超は同じ中華系の古菲や、頭の良い葉加瀬や超包子を経営している関係から四葉五月と親しい。クラスメイトなので挨拶や世間話をするが、今まで超個人が明日菜に用があったということはとんとない。

 珍しいことに明日菜は顔を乗り出した。

 その肩からカモが飛び降りる。女子中学生の内緒話に興味はあるが、下手に首を突っ込み過ぎるとネカネからどのような折檻が待っているか分かったものではない。

 戦略撤退である。断じて逃げたのではない。

 

「いいかナ」

「いいけど、なに?」

 

 カモの背を視線で追っていた明日菜は超へと顔を向ける。その耳元に顔を寄せた超は内緒話をするように小さな声で爆弾を落す。

 

「アスカサン達に動きがあっタ。直ぐにでも動くようだヨ。アーニャサンを助けるためニ」

 

 最初、明日菜は超が何を言っているのか分からなかった。

 次第にその言っている意味が脳内に浸透してくると、目の前にいる超から距離を取ろうとした。

 その前に超の手が伸びて明日菜の動きを封じる。

 

「私は敵ではないヨ。落ち着いてほしイ」

「なんでアンタがアーニャちゃんのことを知ってるのよ、超!」

 

 明日菜が言葉を吐く前に腕を引っ張って室外に引き摺り出し、中に声が聞こえない様にドアを閉めた超はニヤリと笑う。

 反抗しようとするが、明日菜がいくら力を入れても超の手は離れない。

 

「エヴァンジェリンのことは知っているだろウ。その従者である茶々丸を作ったのは誰だと思っていル」

「知らないわよ」

「知らないのカ」

 

 ガクリ、とまさか知らないとは思っていなかったらしく超の手から力が抜けた。

 その隙に掴まれていた腕を振り解く。

 

「茶々丸を作ったのは私と葉加瀬ヨ。つまり、私も魔法関係者。だから、そう喧嘩腰にならないでほしイ」

「証拠は?」

 

 疑り深い明日菜に超はやれやれとばかりに肩を竦めた。

 

「アスカさんとのキスの味はどうだたカ?」

 

 ニヤリと笑いながら放たれた特大の爆弾は、明日菜の全身を即座に真っ赤に焼いたのだった。

 

「ファーストキスの相手が一昨日の夜に別の女とキスした感想は? 更に昨日には小太郎ト。大人気だナ、アスカサンは」

「…………もう、いいわ。どこで見てたのよ」

「茶々丸のメモリーを見させてもらったネ。それに昨夜の監視カメラの映像も誰が用意したと思ってるネ。超科学に不可能はないヨ」

 

 明言はしなかったが監視カメラの映像でもちょろまかしたのだろうと推測した明日菜は握っていた拳を解いた。

 百パーセントの警戒を解いたわけではないが、敵である可能性は低い。乙女の秘密を盗み見た罪の報いはいずれ与えるが。

 

「帰ってもいいかナ? なにか悪寒がするのだガ」

「駄目よ。逃がさないわ」

 

 今度はガシリと超の両肩を捕まえた明日菜は、肩を砕かんばかりの力で締め上げる。

 

「忘れなさい。いいわね」

「了解、了解ヨ。だから、力を抜いてほしいネ」

 

 涙目で懇願する超に溜飲が下がった明日菜は掴んでいた肩から力を抜いて話した。

 

「こんなのがご先祖様とハ」

「なんか言った?」

「いや、なにも言ってないヨ」

 

 超が口の中で呟いた言葉は明日菜の良く聞こえる耳を持ってしても聞こえなかった。

 問うと超は無駄に良い笑顔で答える。

 

「で、用件ってなによ」

 

 何かを安心している超に首を捻りながら明日菜は、どうにも自分の周りには脱線したがるものが多いと思いながら用件を問うた。

 

「アスカサンの後を追いたくはないカ?」

 

 スイッチが切り替わるように表情を別種の笑顔に変えた超の発言に、明日菜はまたしても固まった。

 明日菜は自らの力不足を悔いている。そしてアスカの傍にいたいともまた思っている。

 自分は従者なのだから、アスカの傍にいなければならないと胸の中にある感情に名前をつけるのを拒みながら。

 

「無理よ。アスカは連れてってくれない」

「私が手を貸すヨ」

 

 追うと、連れて行く。この二つの言葉の意味に気が付かない明日菜は、手の平で上手く転がってくれた獲物を見るような超の笑みに気づかない。

 

 

 

 

 

「では、幸運を祈るヨ」

 

 超は閉まって行くドアの向こうで全身を覆うレインコートのような物を持った明日菜を見送った。

 バタン、と閉じたドアのこちら側で誰も見ていないことを良い事に大きなため息を漏らす。

 

「やれやれ、御先祖様は本当はあのような感じだったのカ。私も記憶を美化していたということカ」

 

 潰されかけた肩を労わりつつ、次の目的地へと向かって歩き出す。

 次の目的地はそれほど遠くない。そもそもこの階は3-Aで貸し切っているようなもので、クラスメイトに用があるなら大した手間はかからない。

 目的の部屋に到着した超は、明日菜を呼び出したようにドアをノックして目的の人物を呼ぶ。

 性格か、呼ばれた人物は直ぐにドアを開けてくれた。

 

「超さん、どうかしたんですか?」

「どうも、のどかサン。おや、ハルナサンがいないようだガ」

 

 ドアを開けた宮崎のどかと、部屋の中にいるのが綾瀬夕映だけであることを確認した超はわざとらしく聞いた。

 

「ハルナは昨日も遅くまで起きてたから眠気覚ましにシャワー浴びてるです」

「そうカ。それは都合が良イ」

 

 パイナップルパンプキンという訳の分からないジュースを飲んでいる夕映の返答に笑みを浮かべながら頷いた超は、改めて困惑している様子ののどかを見る。

 

「のどかサン、ネギ先生の秘密を知りたくはないカ?」

 

 超鈴音は笑い続ける。未来を引き寄せる為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お願いします!」

 

 新田は困惑していた。

 寂しい一人部屋に一度戻って今日の予定を確認して、時間は大分早いが集合場所に移動しようとした矢先にアスカの訪問を受けた。

 訪問自体は別になんでもない。問題はその内容にあった。

 

「君は何を言っているのか分かっているのかね? 集団行動が原則の修学旅行で他の生徒も連れて別行動がしたいなど、しかもその理由は言えないときている」

「不躾なお願いだとは分かっています。それでも必要なことなんです」

 

 新田は困惑している。目の前で土下座をして頼み込んで来る金髪の少年に困惑していた。

 

「それはアーニャ君が戻って来ないことと関係しているのかね」

「……………」

 

 沈黙は時に言葉よりも雄弁に事実を伝える。

 

「お願いします。行かせて下さい」

 

 アスカはそれしか言わない。先ほどから延々とループしている話に新田は頭の痛さを覚えながら、目上の相手であろうと自分が間違っていないと決めたら決して頭を下げようとしない少年の頑迷さを思い出す。

 アスカは問題児である。

 喧嘩は日常茶飯事。物を壊すこともあるし、諍いは耐えない。だが、その喧嘩も諍いも他人の為であることが少年をただの問題児とは違う見方をさせる。

 

「どうせ止めても行くのだろう。行ってきたまえ」

 

 虐めを許さず、弱者を虐げる者を許さず、その拳は何時だって誰かの為に振るわれる。偶に自分の欲求に従う時もあるが、相手も同意している時が大半だ。

 真っ先に飛び出し、戦ってきた少年を時に叱って来た新田は、アスカが止めて聞くような性格であることを承知している。

 

「真っ先に動く君のことだ。他の誰かに任せることは出来ないと考えているのだろう」

 

 アスカが新田の下へ来たのはスジを通す為であって、止まることはない。止めても勝手に飛び出していくことだろう。新田に残された選択肢は送り出すことだけだ。

 アスカに背中を向け、窓際によって外の風景を眺める。

 

「ただし、戻ってくる時は必ずアーニャ君も連れてくるのだぞ」

「必ず」

「こちらのことは心配しなくていい。これでも柔道有段者だ。生徒達のことは守ってみせる」

「ありがとうございます!」

 

 頭を強く床に擦りつけ、飛ぶように部屋を出て行ったアスカを見ることなく新田は天高くある流れて行く雲の間を飛ぶ鳥達を見つめる。

 

「神戸の時もそうだったが、子供は何時だって大人の想像を超えて羽ばたいていくものだな。これだから教師は辞めれん」

 

 麻帆良学園都市に赴任する前に働いていた学校で強く印象に残っている生徒のことを思い出して笑みを深めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホテルの裏口で、一緒に行けないネカネは弟たちの見送りに来ていた。

 

「怪我だけはしないでね。みんな無事に帰って来て」

「確約は出来ねぇ。ま、なんとかするさ」

 

 アスカの根拠のない自信は今に始まったことではないが、ネカネが今欲しいのは確たる言葉である。

 

「最善は尽くすよ、僕達も」

「はい」

 

 ネカネの不安は消せなくても、証明なんて出来ないネギも刹那も自分に出来るだけのことをするだけだ。

 

「無茶はせんようにな」

「ああ」

 

 何時もしているように無造作に頭に乗せた手で撫でられた小太郎は、頬を紅く染めながら頷いた。

 

「私も封印が解け次第すぐに向かう。それまでは頼んだぞ、茶々丸」

「イエス・マスター」

 

 エヴァンジェリンと茶々丸の主従。学園長を急かしているが、直ぐには難しいとしか返事は返ってこない。かなりの無理をさせて時間の短縮を図っても同行できないエヴァンジェリンは従者である茶々丸の同行を決めた。

 

「準備はいいでござるか真名」

「…………ああ」

 

 真名の反応が鈍いことに楓は僅かに眉尻を下げた。

 カモの提案を呑んで、決心のついていない真名を引き込んだのは楓だ。いざとなれば守らなければならないと決意を固める。

 

「準備はいい?」

「何時でもいいぜ」

 

 エミリアの問いに頷いたアスカは何時もの軽装だった。

 持っているのは仮契約カードとナギに貰った魔法発動媒体だけ。何時ものアスカの戦闘スタイルであった。

 

「明日菜の姉さん達は見送りは来てねぇんですかい? 来ると思ってたんすけど」

 

 最近は定位置だった明日菜の肩の上ではなくネギの肩の上で辺りを見渡したカモは、見送りのメンバーがエヴァンジェリンと成人教師の二人だけであることに不信感を覚えていた。

 明日菜の様子から付いてくる可能性も考えていたので、逆にいないとどうしたのかと思う。

 

「見送ると未練が残るからって部屋に戻りました」

「そうすっか」

 

 エヴァンジェリンに抱えられたさよの言葉は納得のいく返答だったが、納得のいかない面もあった。だが、この場にいないのでは疑う要素もない。カモは明日菜達のことを意識から除外した。

 

「じゃ、行ってくる」

 

 アスカの言葉が引き金だった。

 戦いに赴く者と待つ者の間で明確なラインが引かれる。

 性格的にも能力的にも戦いには向かないネカネは何時だって待つ側であった。アーニャが敵に捕らわれ、アスカ達が敵に赴くのように足が震えて何も出来ない自分が情けなく感じる。

 

「大丈夫だって」

 

 知らずに下がっていた視線がアスカの声で上がる。

 そこにあったのは、あの日に見たナギに似た強い意志を宿したアスカの眼。

 ネギの後ろで怯えていた子供が一端の目をしていた。

 

「でも……」

 

 成長を喜ぶべきなのだろう。しかし、これから戦いに赴く身内を笑って送り出せるほど、ネカネは達観していない。一昨日に死にかけた事実は消えないのだから。

 

「アーニャもナナリーも助ける。俺達も死なねぇ。信じろ」

 

 嘗ての何時か。石像となった村の人々の前で発した少年の誓い。不可能を覆す為の言霊をここに新たに誓い直す。

 

「俺に出来ない事なんてない」

 

 

 

 

 




本作には渡界機は存在しません。超の来歴も変わっています。当然その目的も。


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第19話 約束の島

 

 

 

「「おぇえええええええええええええええっっっ!!」」

 

 微妙に荒れた海を進むボロい漁船に汚らしい叫びが響き渡った。

 エンジン音と船に当たる海水の音で紛れて吐瀉物が海に落ちる音は聞こえないだろうが、嘔吐の声は隠せようはずもない。

 揺れる漁船に同乗する犬上小太郎は漂ってくる吐瀉物の臭いに顔を顰めた。こういう時は嗅覚の良すぎる自分の鼻が嫌になる。

 

「おい、そこのゲロ野郎二人。汚いから去ねや」

 

 鼻を抓みながら吐瀉物の臭いの元となる二人に向けて、嫌悪感丸出しの表情で顔を見ることも無く吐き捨てた。

 どんな心の広い聖人君子でも怒りを覚える小太郎の言葉に、言われた二人――――アスカとネギはむっとしたような顔になった。

 

「船に乗ったの初めてなんだ。船酔いしても仕方ないじゃないか」

 

 小太郎に対してライバル心剥き出しのアスカは特に吐き気が強く自発的に口も開くことが出来ないので、代わりのようにネギが発言した。吐くか吐かないかというレベルの微妙に小さな声だったが。

 

「俺やって船乗ったんは始めてやぞ」

「知らないよ。こういうのって体質じゃないの」

 

 納得のいっていない小太郎にネギが文句を言いつつ、それとなく距離を取っていた小太郎は顔を逸らした。

 

「おろおろおろおろおろおろ」

「大丈夫ですか、アスカさん」

「うぇぇぇぇっ」

 

 最も船酔いがきついアスカは船の縁から常時顔を出して胃液まで吐いているような状態なので、同じように吐いているネギと二人の背中を同時に擦っている茶々丸以外は誰も近づかなかった。

 流石のアスカも嘔吐の連続には参ったようで泣きが入っていた。勝ち気なアスカにしては珍しい様子が茶々丸の記憶ドライブに蓄積されていっているのは彼女のみの秘密である。

 船尾付近のアスカ達と違って、エミリアは船首に立って未だ見えない目的の島を見据えていた。

 

「私は吐かない私は吐かない私は吐かない私は吐かない私は吐かない」

 

 風に当たることでもらいゲロを必死に堪えているようだった。

 実は顔を真っ青にしているエミリアの後ろ姿を知る由もない乗組員達。

 

「あの、大丈夫ですか?」

 

 近くにいてエミリアの声を聞いてしまった刹那は、放っておくわけにもいかないので胸元にかけられたペンダントを弄りつつ聞いた。 

 木乃香に渡されたペンダントを首にかけているのだが、普段からアクセサリーなど身に付けないものだから気になって仕方ないようであった。

 

「大丈夫よ。大丈夫に決まってるじゃない」

 

 他人の目には人一倍どこから百倍は気を使うエミリアは、他人の目があると分かると一瞬で顔色を元に戻すと強がって見せた。

 先代当主の死亡で今やオッケンワインの家門を背負わなければならなくなったエミリアは、もはや他人に弱みを見せられるような身分ではなくなった。

 

「どう見ても大丈夫に見えねぇがね」

 

 ゲロの臭いを嫌ったのだろうか。刹那の肩に乗っているカモはひっそりと笑う。

 

「せめてもう少しまともな船でも良かったのでは?」

「敵がどこで網を張ってるか分からないんだから、これぐらいの方が良いのよ」

 

 家のことについて木乃香の幼い頃を知っている刹那は多少の理解がある。努めて少女の様子を気にしない様にして問うも、返って来た返答は納得できるような出来ないような微妙なものだった。

 

「このままでは戦う前から消耗して本末転倒のような気が。今にも沈みそうな船でなければこれほど揺れなかったでしょうし」

「むぅ……」

 

 上に立つ者の空気を纏うエミリアに自然と下手に出る丁稚根性を無意識に発揮している刹那の意見も最もであった。

 若干波が荒いといってもまともな船なら大して苦にならないレベルだ。船がボロすぎて、エミリアも船酔いとまではいかないまでもとても快適な船旅とはいかなかった。

 

「あの二人を見てたら流石に間違いを認めざるをえないわね。漁師から船を買い上げるんじゃなくて自前のを呼び出すべきだったわ」

 

 エミリアの視線は船尾で今も嘔吐しているであろう二人を見ていた。

 プライドの高いエミリアが間違いを認めるのは珍しい。もしも彼女のことを良く知っている者が驚嘆するだろう。

 船首で話をしている二人の姿を視界に収められる操縦室で操舵桿を握る龍宮真名は、後方から聞こえるネギらの口論とアスカの嘔吐の声に眉一つ動かさなかった。

 

「船の操縦も出来るなんて真名は器用でござるな」

 

 同じように操縦室にいる長瀬楓の感心した様子には流石に苦笑を浮かべた。

 

「昔取った杵柄というやつだ。他にも小型なら飛行機も運転できるぞ」

「ほぅ、免許は?」

「あるわけないだろ。無免許運転だ」

 

 その時、世界は凍った。

 感心していた様子だった楓はくわっとばかりに片目を開け、世界の時が止まったように動くことはなかった。

 高い海に打ち上げてバウンドした船内の衝撃で我を取り戻し、ギクシャクとした様子で口を開いた楓は、もう片方の目もゆっくりと開ける。

 

「無免許?」

「ああ、実は運転も見様見真似でやってる」

 

 どうして楓がそんなことを聞くのか分かっていない様子の真名は正直に答えた。

 途端に顔を真っ青にした楓に始めて真名はこの日初めての笑みを浮かべた。

 

「まあ全て嘘だがな」

「うぁいっ!?」

「嘘だ」

「どっちでござるか!?」

 

 自然体で揺るぎない楓の嘗てない動揺に満足した真名は一人でホクホクとしながら見えて来た目標の島に目を向けるのであった。

 船首に近い場所に身を潜めている部外者が二人もいることに誰も気が付かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 正規の教えを受けたわけではない真名の運転で漁港などない島に船を止めるのはかなり難しい。

 しかし、そこは魔法使いやらの異能集団である。

 島から少し離れた場所に錨をおろして船が流れないようにして、各自の手段で島へと上陸したのである。

 刹那等の武闘派は瞬動やらを使い、ネギら魔法使いは杖を使って飛行するという一般人には不可能な方法。船酔いでネギとアスカが海に墜落するアクシデントはあったものの、茶々丸に引き上げられて島への上陸は無事に成功した。

 問題は漁船に乗っているメンバーに異能を持たない者達が紛れ込んでいたことにあった。

 

「どうしよう本屋ちゃん。みんな行っちゃったわよ」

 

 全身を覆うレインコートの頭の部分だけを外した神楽坂明日菜は、隣で同じようなレインコートを着ている宮崎のどかを見た。

 

「私に言われても……」

 

 数十メートル離れた陸地を見るのどかの顔にも不安の色が濃い。

 というか、そもそもアスカ達が空を飛んだことにこそ驚いているのだが明日菜が平然としているので聞くに聞けずにいた。

 

「私は超さんの言うことに従っただけなので。それにどうしてネギ先生達はこの島に?」

「んぅ……」

 

 のどかの事情の知らなさ具合は、事態の中心にはいないが知れる位置にあった明日菜と比べても雲泥の差がある。

 問われてしまうとカモのように口も上手くないので器用に騙くらかせない。

 木乃香に黙って超の口車に乗ったわけだが、今頃心配しているかもしれないと今更ながらに思い至る。

 

「なにか事情があるんじゃない」

「そうでしょうか」

「そうよ。間違いないわ。私の勘を信じなさい」

 

 結局は勢いと根拠のない自信で押し切ることにした明日菜であった。

 のどかは普通よりも気が弱い方なので明日菜がそうだと言ってしまえば疑念を捨てることは出来なくとも表面上は認めるしかない。

 明日菜だってその場の勢いに流されて蛮行に及んでしまった自覚が遅まきながらも芽生えていたのであった。

 現状維持か打破か。明日菜としては現状打破の方を選択したいのだが、自分一人で決められることでもない。

 

「本屋ちゃん、岸まで泳げる? 私なら行けそうだけど」

「無理ですよ、私じゃ……」

 

 眉尻を下げたのどかに強要することは出来なかった。

 岸辺まではかなりの距離がある。水着なんてないのだから水を吸って重くなった服を着て泳ぎ切る自信もない。いくら図書館島探検部で見た目通りのトロさはないとしても体力自慢の明日菜と比べればやはり劣る。

 

「これからどうしましょう? アスカさん達と一緒に島の方に行った魚みたいに私も泳げたら良かったんですが」

 

 のどかに聞かれても明日菜は答えられなかった。

 どんぶらこどんぶらこと揺れるボロ船で波に揺られるしかなかった明日菜とのどかであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 陸地に降り立って船酔いも直ったアスカだが、星回りかそれとも与えられた運命なのか災難に恵まれているらしい。

 

「去れ」

 

 島で出会った最初の人物に、目前に槍を突きつけられながら敵意も満々に言われればどんな聖人君子であろうとも良い気はしない。

 当然のことながらアスカ達一行の全員が機嫌を害していた。

 パッと見でそうと分からないのは元から表情が動きにくい茶々丸を例外として比較的大人な面々で、アスカや小太郎などは諸に感情が顔に出ていた。

 

「ジャングルみたいな森を超えてやって来た私達に開口一番『去れ』はないのでは?」

「知らぬ」

 

 槍を持った集団に周囲を囲まれながら、エミリアは突破口を探るように慎重に言葉を選んでいた。

 こういう役目は形は違えど始めからエミリアがやることになっていたのだが、まさか槍を突きつけられるとは想定の上をいっている。

 逆らいそうなアスカと小太郎は、茶々丸と刹那に口を押えられているのを意識の外に押しやりながら、リーダー格らしい偉丈夫を見据える。

 

「故あって訪れた客人に槍を突きつけるのは礼儀に反しませんか」

「知らぬと言った。島外の者どもは去れ」

 

 取りつく暇もないとはこのことか。

 会話の切っ掛けを掴もうとするエミリアに対して、リーダー格の偉丈夫は言葉少なに目的だけを告げる。

 エミリアに代わって前に出るのはネギ。

 

「あの、話だけでも聞いてもらえませんか? 人の命がかかってるんです……………駄目と言うわけですか」

 

 エミリアだけでは厳しいと判断したネギが擁護するも返って来るのは無言の敵意と槍の穂先のみ。両手を上げて自分に敵意がないことを示しつつ、穂先に押される様に下がるネギであった。

 反応がエミリアの時よりも悪すぎるので大人しく彼女に任せて下がることに決めた。決して槍が怖かったわけではないと内心で言い訳するネギであった。

 

「話だけでも聞いてもらえませんか?」

「島外の者は去れと言ったはずだ」

「この島に恐るべき力を持つ者達がやってくるとしてもですか?」

「我ら守り人がいれば恐れるに足りん」

 

 流石にエミリアも自らを守り人と称する者達の頑迷さにはほとほと困り果てて来た。

 守り人達には会話をしようという気持ちが全く感じられず、言葉で納得させるのは難しいのではないかと思い始めていた。

 いい加減にじれったくなったアスカが茶々丸の抑えから脱出する。

 

「無理だな」

「何?」

「奴らは強い。てめぇらじゃ無理だって言ってんだよ」

 

 抑えから抜け出したアスカは、なにを思ったのかいきなり挑発を始めた。

 アンタ何やってんのよ、とばかりにムンクの叫びそのもののポーズになったエミリアは内心で叫んでいたが、一度出した言葉はもう戻らない。

 当のアスカは中指なんて立ててエミリアの内心の思いなど知る気もないようだ。

 

「ここでこうしていても始まるまい」

「追い返されたら元も子もないでござるからな」

「だからといって力尽くは」

「ええやん。この方が手っ取り早くてええわ」

 

 援軍の立場の真名と楓が真っ先にアスカの意見に賛成する。

 刹那は慎重案を押すが小太郎も賛成派に回るとなると、残るはネギと茶々丸のみ。カモは相手が魔法関係者と確定しているわけではないので口を出す気はなさそうだった。

 

「僕もアスカの意見に賛成です。言葉で聞いてくれるようには思えませんし」

「私はどちらでも。両者が大きなケガさえしなければ」

 

 間近で槍を突きつけられたネギは悩みながらも相手の性格を読み切った上で賛成し、茶々丸は両方の選択肢を支持しない。カモは止めても無駄だと無言で諦めムード。

 賛成多数でアスカの意見が支持されたのを見て取ったリーダー格の男は、直ぐに帰ると思っていた一行がやる気なのを察知して殺気だった。

 

「貴様ら……!?」

(これ)で決めようぜ。俺が勝ったら話を聞く。負けたら大人しく帰る。分かりやすいだろ?」

 

 立てていた中指を収め、拳の形にしたアスカに激昂しかけた守り人達も困惑したようにお互いの顔を見合わせている。

 リーダー格の男すらも惑うように持っている槍の穂先を僅かに揺らしていた。

 

「良かろう。相手になってやる」

 

 リーダー格の男に如何なる考えで戦う結論に至ったのか、エミリアには分からない。

 傍観者になるしかないネギもエミリアと気持ちは同じだった。

 

「大丈夫なのかな?」

「大丈夫やろ。あっちはそんなに強なさそうやし」

「そういう意味じゃないんだけど」

 

 ネギと違って小太郎は左程心配はしていないようだった。

 前衛系の戦闘能力の多寡を上手く察知できないのはネギの専門が魔法使いスタイルだからこそで、他の面々は前衛系だけあってどっしりと構えている。

 ネギとしては初対面で槍を突きつけられているのでぶちのめすのは構わないのだが、勝ったとしても無事に話を聞いてくれるのかの方が不安であった。

 ネギ達が下がって、アスカとリーダー格の男が向かい合う形になったところで、横合いの草むらが動いた。

 

「待て」

 

 と、草むらを掻き分けて現れたのは守り人達とは違う空気を纏った格式高い老人であった。

 顔や露出している手の皺などから八十は超えているであろうと推測されるが、歩くのに杖は使っているが足元はしっかりしていた。

 後ろにも別の守り人を従えていることから権力者の一人なのだろうとエミリアは考えた。

 

「これから面白くなるところなんだ。邪魔しないでくれないか、婆さん」

「ば……っ!?」

 

 真剣勝負をしようというところで水を差されたアスカにとっては邪魔者でしかないのだから、どんな権力者であっても扱いは邪険になる。

 邪険といっても年上を敬わない何時もの態度なのだが守り人達――――特にリーダー格の男は絶句していた。

 次いで怒りで一気に顔が真っ赤になっていく。日焼けしているのか、元からなのか肌が黒い方なので顔が紅潮しているのは分かり難いが表情を見れば怒っていることは間違いなかった。

 

「き、き、貴様!? 大婆様になんという口の利き方を!?」

「これが何時も通りなんだが」

「許せん! ここで斬ってくれようぞ!」

「いいぜ。来いや!」

 

 徐々にヒートアップしていく二人。

 槍を構えるリーダー格の男と拳を構えたアスカ。

 これは仮にアスカが勝てたとしても話を聞いてもらうのは無理なのではないかとエミリアが諦観を覚え始めていたら、大婆と呼ばれたご老人がくわりと目を見開いた。

 

「なにをやっておるかナル!」

 

 アスカら年少組よりは若干大きい体からは信じられない大喝が森の中に響き渡った。

 音響兵器染みた大声はまだ離れた方だったネギ達は耳を抑えるだけですんだが、かなり近い位置にいたリーダー格の男――――ナルとアスカの被害は大きかった。

 耳を抑える暇もなく音響兵器の大声が直撃して脳を揺らす。

 

「がっ!?」

「ぬっ!?」

 

 完全に目の前の相手と戦う気になっていた二人は苦痛の呻きを漏らして、強打を受けたボクサーのように頭を揺らしたのであった。

 倒れないように堪えたが震えている膝は隠しようがない。

 

「お、お………大婆様。い、いきなりなにを……」

「黙らっしゃい。坊主は坊主らしく言うことを聞いてればええ」

「痛っ」

 

 足音も高く雑草を踏みしめながら膝を震えさせているナルに近づいた大婆は持っている杖でバコンと頭を叩いた。ナルよりも早く音響兵器からのダメージから回復したアスカが「痛そう」と思うほどに豪快な音が響いた。

 大婆は頭を抑えて痛みに悶えているナルから視線を外し、少し離れたところで状況を眺めていたエミリアを見た。

 

「ミリアの子か。良く似ておる。名はなんという?」

 

 その体に今まで生きて来た年輪を感じさせながら、また同時に他者にその内心を悟らせない表情と声で問うた。

 

「エミリアです。あなたは母のことを知っているのですか?」

「知ってるもなにも儂の孫さね。不肖がつくが」

 

 エミリアを観察した大婆は大仰に溜息を吐いた。

 

「あの子は小さな頃から島の外に憧れておった。小さな島さ。無理からぬことであったが誰もがやがて慣れる。だが、ミリアだけは違った」

 

 エミリアを通して孫を見ているのか、僅かな郷愁を覗かせた大婆は目を細める。

 

「どうやってか島の外に出よった。行動力があり過ぎるというのも問題というわけさ」

「お母様はそれはもう元気な方でしたから」

 

 エミリアも大婆と同意見なのか深く頷いた。

 同意を得られた大婆はエミリアから視線をずらして同行者全員の顔を見る。

 

「逝ったのか、あの子が」

 

 エミリアが母を連れずにこの島に来た時点で予想はしていたのだろう。大婆は驚くことなくミリアの死を受け止めた。

 杖を持っていない方の手で顔を覆い、数秒動かなかったのは哀しみを表に出すまいとした気丈さからだとエミリアは直感した。

 完全に蚊帳の外に置かされたアスカ達と守り人達は見ているしかなかった。

 

「安らかに逝けたかい?」

「はい。最後の時まで笑っていました」

「なら、良い」

 

 しんみりとした空気を纏った大婆はくるりと身を翻した。

 

「付いて来な。ひ孫が折角来たんだ。話ぐらいは聞いてやろう」

「大婆様!? 島外の者を村に入れるなど規律に違反します!」

「儂が決めたんだ。従いな、ナル」

「しかし!」

「大老たる儂が決め、従えと言ったぞ、ナル・ディエンバー。お前は儂の決定に逆らうのかい?」

「くっ…………失礼します! 行くぞ、お前達!!」

 

 納得のいっていないナルは、憤懣やるせないといった風情で仲間達を連れて去って行った。

 

「すまないね。ナルはミリアと逆でこの島のことしか見えていない。悪い子じゃないんだが頭が固くて叶わん」

 

 島の中が世界の全てであるナルの価値観は狭い。大婆はそれを知って改めさせたいところだが、島外の人間が紛れ込む可能性は万に一つぐらい。ゆっくりと時間をかけて矯正しようと考えていたところでの訪問者である。

 まったく、とばかりに溜息を吐いている大婆は、手が掛かる子は可愛いとばかりに去っていくナルの背中を温かい目で見送るのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「くそっ! 大婆様はなんだってあんな奴らを村に入れるんだ……」

 

 仲間達とも別れたナルは村外れの森の中で一人で鬱屈していた。

 例え村の最高権力者である大婆が認めようともナルは納得していなかった。

 

「エミリアという者はこの島にいた者の子供かもしれないが、島の外に出た大罪人の娘ではないか」

 

 島外の者を受け入れることは大罪。島外に出ることも罪として罰せられる。

 

「大婆様も大婆様だ。それは私も結界を超えて上陸できるのが島の人間だけだと知っているが、他の島外の者まで村に入れるなどとなにを考えておられるのか」

 

 木を叩いたナルは頑迷なまでに島の規律を守ろうとしていた。

 この島に生まれ、育ってきたナルにとって規律は絶対。守って当然で、守らない者には相応の報いが下ると考えているのだ。

 

「ならば、報いはをえないといけない」

 

 低い声がナルの耳に届いた。

 はっ、と振り向いたナルの前には壮年の男がいた。その足元には村の古参の一人が血みどろになっている小さな子供を抱えて倒れている。

 

「その命を以て、我が願いを果たしたまえ」

 

 壮年の男――――ゲイル・キングスは、足下の影から出した仲間四人と人質二人を連れてニヤリと歪に唇を歪めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ナルがゲイル一行と出会った正にその時、ホノルル国際空港に降り立った飛行機から一人の男がハワイの地を踏んでいた。

 

「やっと着いた」

 

 顎髭にスーツを纏ったタカミチ・T・高畑は彼にしては珍しく衆目の中でネクタイを緩めながら一息をついた。

 

「かなり無理したし、流石に五時間で完全回復とはいかないか」

 

 魔法世界での仕事を最速で終わらせた疲労は重い。一番近かったゲートがアメリカ本土にあったのでそこから飛行機でハワイで来たわけだが、一日半も時間を短縮させたのにはかなりの負担が肉体に圧し掛かっている。五時間程度のフライトでは足を伸ばしせて休めたわけではないので疲労は澱のように体の底に溜まっている状態だ。

 半日もベッドで横になれば治せるレベルである。それでも一日分の時間は稼げているので高畑は安心していた。

 

「ホテルの電話番号は分からないから携帯にかけるとして、どっちにかけたものか…………」

 

 携帯を手に空港内を歩きながら思考する。

 高畑がかける選択肢は二つ。担任の千草か副担任のネカネである。

 学園長に連絡をしたのは千草だが、高畑は以前からネカネと親交があった。

 電話をかけやすいのはネカネであるが、立場を考えるなら担任の千草に連絡するのが妥当であると判断して短縮ダイヤルに登録されている電話番号にかける。

 

「あ、天ヶ崎先生ですか? 高畑です」

 

 三コールほどして出た千草に高畑はにこやかに名乗る。

 高畑とて男であるので美人には弱い。仕事で出会う相手には色仕掛けで罠に嵌めようとする輩もいるので注意するのだが千草は違う。関西呪術協会から交流の目的で留学している立場なので、若さ故の過ちで過去にとんでもない相手に引っ掛かったこともある高畑が肩肘を張り過ぎなくても付き合える女性は珍しいのだ。

 ネカネも千草と立場は同じなのだが、やはりネギ達と同様に六年前からの親交があるので気分的には親戚の妹と接しているようなものなので、美人であっても引き込まれることは殆どない。

 こんなことだから初対面の時にその場にいた源しずなにきつい視線で見られることになったのだ。

 

「え、もう出発した?」

 

 修学旅行で海外に来ていることもある生徒達の近況もそこそこに攫われた少女や敵に捕まったアーニャのことをネギに聞こうとした高畑は絶句した。アスカではなくネギに話を聞くと決めていてる辺り、双子のことを良く理解してる。

 それはともかく、高畑が学園長を介して聞いていた話では当初の到着予定である明日に行動することになっていたはずである。

 攫われる予定だったエミリア・オッケンワインから新情報で一足先に戦いの舞台になるかもしれない場所に出向いたと聞けば絶句もしたくなる。

 

「分かりました。僕の携帯に目的地の場所を送ってください。直ぐに現地に向かいます」

 

 既に出発してしまったアスカ達を責めたところで状況は何も変わらない。寧ろ無駄に時間を消費するだけで益はない。ならば、早々に行動に移した方が賢明である。

 電話を切った高畑は状況の不透明さに長い息を吐いた。

 ネギ達――――特にアスカのアーティファクトである絆の銀による合体でネスカになった強さは、手加減していたとはいえエヴァンジェリンともそこそこの戦いをしたことは当人から聞いていた。高畑が油断していたとしても土を付けられた時と比べても格段に強くなっていることだろうことは間違いない。

 しかし、そのネスカでさえも圧倒する敵がいて、アスカが木乃香のお蔭で九死に一生を得たという。

 そして高畑の中には学園長から話を聞いてからネスカでは危ういことを知っていた。

 

「急ごう。あのゲイル・キングスが相手だとすると彼らだけでは危ない。ナギでも倒すことが出来ずに逃げられた敵なのだから」

 

 大戦期に紅き翼の前に敵として立ちはだかった男のことを思い出して顔を顰めた。

 記憶にある中でも特に悪辣なタイプであったゲイルにアスカ達や3-Aの精鋭でも挑んで危ないだろうことは、高畑の焦燥を煽る一因となっている。

 アスカ達の実力を信じていないわけではないが流石に相手が悪すぎる。

 数分後に携帯に送ってもらった地図を元に現地に向かおうと空港から出た高畑は、強い陽射しに一瞬だけ眩んで目を細めた。

 

「しまった……」

 

 南国特有の熱さにではない。もっと致命的なことに高畑はようやく気が付いて足を止めた。

 見上げた空には太陽が燦々と輝いてて雲はどこまでも流れて行く。鳥が右から左に流れていくのを見るともなしに眺めていた高畑は苦渋を滲ませながら口を開く。

 

「どうやって島まで行こう…………。ハワイにツテなんてないし、飛んで行くしかないのか」

 

 目的の島までの交通手段がないことに気が付いた高畑は、幸先の悪さに重く長い溜息をつくのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスカ達一行は全員が村の中に入れたわけではなかった。同行を認められたのは母が島の人間であったエミリアと「馬鹿っぽいから認めてやる」と何故か許されたアスカだけだった。

 村にエミリアと共に案内されたアスカは、村人達のどこか困惑した視線を受けながら村で一番大きな大婆の家に入り、今度は彼自身が困っていた。

 

「そうかい、あの子は病で」

「三年前のことです。最後に「ああ、楽しかった」と笑って逝きました」

「ミリアらしいね、本当に」

 

 当初は同行が認められた理由に納得がいってなかったアスカだが、話が完全に内輪になっていて明らかな疎外感を感じていた。

 これでは皆と同じように留守番をしていた方が気が楽だったに違いないと思い始めていた。出された飲み物も不味くはないが上手くもないので、好んで口を付ける気にもなれない。

 有り体に言って、アスカは退屈していた。

 

「で、そっちの子が婿かい?」

「は?」

 

 エミリアはまさかの話の方向転換に間抜けな面を晒した。

 ひ孫が人生で汚点となる変顔を晒したことなど知る由もない大婆は、家の壁を見ていて話を聞いていないアスカとエミリアを見比べながら一人で頷く。

 

「な、な、な、な、な、な、ななななななななななななんでそんな話をいきなり!?」

「儂もこの歳さね。島の外に出る体力はない。小さな島さね。楽しみなんて孫やひ孫が結婚してひ孫や玄孫をこの腕で抱くしかないじゃないか」

 

 ナル相手に厳しく言っていた面影なんて欠片も残さずに気の良いお婆さんになった大婆に動揺しまくるエミリアであった。当のアスカは土で出来た壁に感心したように見ていて話を全く聞いていなかったりする。

 

「とまあ、関係のない話はここまでにして」

「その関係のない話をし始めたのは曾祖母様です」

「いいさね。老い先短い老人の楽しみを奪わんでおくれ」

 

 カカカ、と大きく口を開けて笑う大婆には強気に出れない者を感じたエミリアだった。理由は考えるまでもない。

 

「…………どうもお母様と話している気分になりますわ」

「そう言ってくれるのは有難いね。ミリアは血縁の中で儂に一番似とると言われとったが子供を産んでも変わらんようで何よりさ」

 

 日本で言うお茶の飲み物を口に含んだ大婆は嬉しげに笑った。

 

「いい加減に外の連中も我慢の限界さね。ここからは建前で話しゃならん」

「ようやく本題か」

 

 よっこらせ、と退屈過ぎて寝ていたアスカが体を起こして胡坐を掻く。

 割と本気で寝ていたので呆れた視線を向けられようともなんのその。面の厚さだけなら既に世界最高クラスのアスカは気にしなかった。

 

「いいから早く本題に入ろうぜ」

「全く、これだから近頃の若いもんは」

 

 などとブツブツと言いながらも怒らないのは物怖じしないアスカを認めているかだろうかと想像するエミリアだった。

 

「カネの水だったか。はっきりいって、そんな物はこの世に存在しない」

「存在しない? ゲイル・キングスは確信して動いているようだぞ」

「今は、の」

 

 まさかの発言にエミリアだけでなくアスカも眉を顰めたが、言い難そうに口を開いた大婆の発言に顔全体を歪めた。

 

「まさか生贄を捧げると水が湧き出してくるなんてパターンか」

「そのまさかさね。忌々しいことにこんなアホな話を信じている馬鹿がいたとは」

 

 沈鬱な表情を浮かべる大婆にアスカもエミリアも言える言葉はない。

 

「水が湧き出る場所は? 知っている者は?」

「言わん。知ってる者も今となっては少ない。儂を含めて年寄り数人じゃろう。全員に一生口外しないように厳命しておる。漏れる心配はなかろう」

 

 だとしても安心すべきではないとエミリアは自分を戒める。その油断が、その慢心こそが前当主に隙を生んだのだと考えているから。

 そこでアスカが家の壁を見て目を細めた。

 

「…………おかしい。外の気配が騒がしい気がする」

 

 慌てた様子で言ってアスカが立ち上がった瞬間だった。

 

「隔離結界を張っていたのによく気づいたね。でも、君では役不足だ」

「がっ!?」

 

 エミリアと大婆が立ち上がるよりも早く、声変わりの終わっていない少年の声が室内に響き、直後に壁をぶち抜いて飛んできた石の槍が直撃して吹き飛ばされたアスカが背中から壁に激突して外へと押し出された。

 

「アスカ!?」

「ここが大婆様と呼ばれる家で間違いないかな」

 

 エミリアが壁の向こうに消えたアスカを呼んだ時には既に白髪の少年――――フェイト・アーウェンルンクスが室内に侵入していた。

 次いでドアを破壊してゲイル・キングスが入って来る。

 ゲイルは紅い眼を炯々と輝かせて室内を睥睨する。

 

「エミリア・オッケンワイン嬢もいるとは、これは手間が省けて良い」

 

 ゲイルの紅い眼で見つめられたエミリアは全身が金縛りで縛られたかのように動かなくなった。

 

「な、なにを……」

「我がひ孫に何用じゃ! どうやってこの島に入ったこの下劣者め!」

 

 戦う前から勝てる相手ではないと直感したエミリアの声を遮るように、大婆は威勢も高く杖を向けながらゲイルを睨み付けた。

 立ち上がっている膝が震えていることは間近にいるエミリアに分かった。それでも食いついたのはエミリアの為か。

 

「この島に入るには島の人間でなければ不可能な結界が張られている。しかも、ご丁寧に島の人間の心に害意や敵意があれば入れないというオプション付きで。誰が作ったシステムかは知らぬが見事と言っておこう」

 

 大婆の激昂など毛の先ほども脅威に感じていなさそうなゲイルは歪に笑う。

 

「エミリア嬢、貴女は実によく踊ってくれたものだ」

「まさかあなたたちは最初から私じゃなくてナナリーを攫って、私が自分の意志でこの島に来るように仕向けたというの!?」

「然り。当主…………今は先代であったか、彼と君は実に私の願い通りに動いてくれた。監視されていることにも気が付かず、私が捏造したヒントを無事に見つけて島に自分から向かってくれた」

「お母様の手記もあなたが作った物だと……っ」

「想定通りに私達をこの約束の島へ迎え入れてくれて感謝している。礼を言わせてもらおう」

 

 エミリアは自らの動きも前当主の姦計も全てがゲイルの手の平の上だと悟る。

 

「予想外を上げるとすればこのご老人の口の堅さぐらいか」

 

 ゲイルは後ろ手に持っていたモノを前方に放り投げた。

 放り投げられたモノは人であった。

 

「ウォーイェン!? カコル!?」

 

 もはや息をしていない老人と子供。祖父と孫であろうか。

 孫を守るように抱きしめた老人の背中には大きな穴が開いていた。ゲイルの拳大ほどの大きさの穴は老人を貫いて孫にも致命傷を与えたか。

 大婆の反応から村人らしい人達の無惨な姿にエミリアは血の気を失った。

 

「子供は好奇心旺盛でいかない。この島にない物を見せれば容易くこちら側へと来てくれた。後は生贄の地を知るであろう人間を呼び出させたわけだが、そのご老人は孫の命よりも秘密を守ることを良しとした。記憶を読ませんとプロテクトを張っていたのには感心するが、さて貴女はどうかな?」

「きゃっ」

「エミリア……っ!?」

「生贄の地を吐くか、ひ孫の命を失うか、この場で決めて頂きたい。下劣者故、作法が成っていないことは見逃してくれたまえ」

 

 ウォーイェンとカコルに起こった悲劇に憤る暇もない。動いたフェイトによって捕まったエミリアを見た大婆は選択を迫られる。

 

「どうせお前達はエミリアを生贄に差し出すのだろう。儂は何も言わぬ。すまぬ、エミリア」

 

 生贄というほどなのだから贄として捧げられればエミリアに待っているのは死のみ。結末が同じならば秘密を守る方を選ぶ。

 フェイトに捕まったエミリアは喋らない様に口を抑えられながらも頷いた。エミリアも状況が分からぬほど愚かな娘ではない。だが、ゲイル達はその上を行く。

 

「頑迷だ。外の状況を見れば気も変わろう」

 

 ゲイルはフェイトに視線を向け、彼の意を受け取ったフェイトは腕を軽く振った。

 傍目には軽く振っただけにしか見えない動作によって家が壊れる。まるでフェイトの動作に従うように壁が吹っ飛び、一瞬にして家は土台だけを残して消滅する。

 そして見えた家の外の光景に腕で顔を庇っていた大婆と身動きできないエミリアは絶句した。

 

「皆の者……!?」

 

 そう広くはない村であった。その村の人間がたった三人の人間によって広場に集められている。

 ハルバートを肩に背負って鎧を纏った若い男、太刀と小太刀を血に濡らせたまだ年若い子供、最後に暗い目をして銃を両手に持つ妙齢の女。

 抵抗したのだろう村の若い衆の数人が無惨な姿で倒れている。ピクリとも動かないことから既に息はなさそうだった。

 

「んん!? んんあ!!」

「うるさいよ。眠っているといい」

 

 叫び声を上げているエミリアを煩わしく思ったフェイトがエミリアを眠らせる。

 ぐったりとしたエミリアを見て取ったゲイルは改めて大婆を見る。

 

「我らの本気は分かってくれよう。改めて問う。村人全員とこの場でのひ孫の命を代価として生贄の地を吐かれよ。言うまで目の前で村人を一人ずつ殺す。言わなければ大切な命を散らすこととなるぞ」

「くっ」

 

 大婆は今度は即答できなかった。

 この小さな島では村は一つだけ。人数も少ない村だから全員が家族のようなものだ。失って平気な顔が出来るほど大婆は厚顔無恥ではない。しかし、それでも大婆は選択を迫られる。

 村人の命とエミリアの命、そして先祖代々守り続けて来たエルら守り人としての役目。どちらも捨てるには重すぎた。

 大婆が決断を下すよりも早く動いた者がいた。

 

「させるかっ!」

 

 フェイトの石の槍によって家の外に弾き飛ばされていたアスカである。

 神速の動きで飛び出した先にいるのはエミリア。雷を纏った手刀を突き出し、このままいけばエミリアの胸を狙い過たず貫くことだろう。

 

「本気?」

 

 エミリアは神に捧げる贄である。生贄の地でその命を散らせるのであって、このような村で失っていいものではない。フェイクにしては攻撃に殺意が籠り過ぎであり、フェイトはエミリアを守らなければならなかった。

 

「ぐっ」

 

 エミリアまでもう少しという距離でアスカは見えない壁に阻まれた。

 フェイトを中心として展開されている曼荼羅のような魔法障壁に前に、どれだけ力を入れても手刀は前に進まない。

 魔法陣が具象化するほどの障壁は、前衛型なので防御が薄くなりがちのアスカの目には同じ人間とは思えないほどの隔絶した魔法の腕。

 一ミリも前進しない手刀にアスカは一瞬で見切りをつけた。

 突破できる気がしない障壁を前にして何時までも押し問答を続けさせてくれるほど、フェイトが生易しい相手でないことはネスカで戦った時に理解している。倍以上の戦闘能力を持っているネスカで圧倒された相手に一瞬でも隙を晒して無事でいられると思うほどアスカも楽観的ではなかった。

 

「判断だけは中々だね。後一秒留まっていたら石にしたものを」

 

 片目を不自然に光らせたフェイトは、退避しながら大婆を抱えて下がるアスカの即断を評価した。

 もし、一瞬でも判断が遅ければ石化の邪眼が放たれ、アスカの全身は石と化していたことだろう。アスカが意図した行為ではないがに生贄の地を問うていることもあって大婆はこの場の重要人物である。抱えられた大婆が邪魔で追撃が出来なかった。

 

(最悪の事態か……)

 

 アスカは心中で舌打ちをした。

 戦いに向けてコンディションをMAXに上げていく身体とは裏腹に心はどこまでも冷えていく。

 

(捕まるぐらいなら殺してくれって約束は守れそうにない)

 

 エミリアから出発前に無理矢理に結ばされた約束を果たせなかったことに、安心と後悔を抱きながら奥歯を噛んで敵を凝視する。

 

「「――――――」」

 

 アスカとフェイトは、互いを見詰め合ったまま、少しの距離を置いて対峙する。

 アスカはフェイトを見つめていた。フェイトも微動だにせず視線を返している。僅かも視線を逸らさずに。

 視線を交し合ったのは、一瞬だったかもしれないし十秒はあったかもしれない。時間の問題ではなかった。視線を合わせたという事実だけが重要で、互いの何を読み取れたわけでもないし、読み取れる何かがあったわけでもない。

 それでもほんの数秒間、視線を合わせただけで痛感していた。

 

「「気に入らない」」

 

 零れた呟きは双方に同じく。互いの拒絶はハッキリと交差する。互いに呟き程度の声音そのものは届かなくとも、言葉を紡いだ口の動きで読み取ったのか二人が放ち、互いに受けた印象には恐らく相違などなく。

 嫌悪感とは違う。ただ、絶対的に決定的に絶望的なまでに、自分達は相容れないと、そう感じた。抱いた感想に、当人達も訳が分からない。

 直接言葉を交わしたわけでもないというのに。ましてや、互いにそう感じたなどと、なぜ自分は思っているのか。

 微塵も揺らがない瞳は、まるで相手を射殺さんばかりに尖る。たった一つの答えを求めようと収束されていこうとしたその時にゲイルが口を開いた。

 

「ご老人、邪魔者が入ったがもう一度だけ問う。生贄の地はどこだ?」

 

 大婆は何も言えない。アスカも何も出来ない。

 直ぐに答えなかったことがゲイルの気に障ったのか。

 

「残念だ。本当に、残念で仕方ない」

 

 沈鬱そうに天を仰いだゲイルは月詠を見た。

 

「あは♪」

「がっ?!」

 

 その視線をこれから行う行為への了承と認識した月詠は、嗤いながら常人には見えないほどの速度で太刀を振るった。すると、月詠の直ぐ傍にいた村人の首筋が斬られ、頸動脈を切断されたのか噴水のように血が噴き出した。

 村人は斬られた首筋を抑えるも、間欠泉のように噴き出す血は手から溢れ出して流れて行く。

 

「ああ、この噴き出す血の甘さの美味しさは格別や。次は誰えすえ?」

「騒ぎやがった奴にしろ」

 

 他の村人達が突然の凶行に悲鳴を上げようとしたが、血が滴る太刀を持って狂気に愉悦する月詠と騒げば殺すと殺気を漲らせて睥睨するフォンに黙らされる。

 悲鳴の一つでも上げれば次は自分だと誰もが直感したのだ。

 

「まずは一人目。勇み足も含めれば何人目だったか」

「テメェら……っ!?」

 

 失血死した村人を見たゲイルが惨状を嘲笑う。アスカが憤るが向こうにはエミリアやナナリーとアーニャ、村人達も捕まっているので下手な行動は出来なかった。

 大婆も血の気を失った顔で死んだ村人を見つめる。

 

「ご老人、これで話す気になったか?」

「……っ」

「まだ犠牲が足りない様子と見える。はたして何人の屍を積み上げれば納得してくれるものか。悲しい事だ」

 

 大婆は再度の問いに内心の葛藤を現す様に持っている杖を軋むほどに握り締めた。

 その様子を眺めたゲイルは溜息と共にまた月詠を見る。

 その視線を殺人許可と認識した月詠は今度の犠牲者を、先程首筋を斬られた村人の家族であろうか。まだ年若い母子を見た。

 

「次はアンタらですえ」

 

 嬉々とした表情で次の標的へと太刀と小太刀を振り上げた。

 我が身を省みることも無く子供を助けようと武器の前に身を投げ出した母親の姿がアスカのトラウマを呼び起こす。

 

『逃げなさい。お前達はこれから村の出口まで振り返らず走るんだ。出来るな?』

『駄目でしょ、諦めたら』

 

 火に炙られて焼けるように熱い風と共に思い越される。あの時と同じように見ていることしか出来なかったアスカの中で何かがキレた。

 

「止めろ――っ!!」

 

 規格外の魔力を発してアスカの体がその場から消える。全魔力を足裏に集中して、かつ完全に制御するという離れ業を成し遂げていた。音すらも超えてアスカは疾走する。

 

「吹っ飛べ!」

「!?」

 

 月詠が火事場の馬鹿力を発揮しているアスカに気づいた時には全てが遅い。

 音速を超えた勢いのまま一切の減速をせず、月詠をショルダータックルで吹っ飛ばす。

 着地したアスカは世界を掴む。ピタリと止まり、運動エネルギーの全てを月詠にぶつけて吹き飛ばして次の標的であるフォンを見据える。

 

「魔力の暴走(オーバードライブ)。にも関わらず、この精密さ。流石は彼の息子ということか」

 

 エミリアを抱えるフェイトはアスカの体から紫電が走るのを見逃さない。

 アスカは確かに数えるほどにしか魔法を使えない。だが、こと精霊との感応力は歴代でもトップクラスとのお墨付きを貰っている。眼の前の凶行に対して感情を爆発させたアスカに雷の精霊達はその力を存分に分け与える。

 

「うらぁあっ!!」

 

 近くの家の壁に激突して貫いていく月詠を放っておいて、真正面からフォンへと突撃するアスカ。

 本来ならば愚行であるはずのその行為は、肉体を活性化させている雷の精霊の力によって限界を遥かに超えて音すらも置き去りにする。

 

「まずっ……!?」

 

 フォンも取るに足らなかった少年が脅威となって迫ることに危機感を募らせ、己が持つ能力である念動力で壁を作りだす。魔力で作った障壁とはまた違う生半可な力では超えられない念動力の壁を、この時のキレたアスカは明確に感じ取った。

 

「邪魔だ!!」

「ぐぉっ!?」

 

 動作の大きい雷華豪殺拳を普通の拳撃と同じモーションで繰り出したアスカは、念動力の壁を真正面から粉砕してフォンが纏う鎧を殴打する。

 魔法的効果の高い鎧を一方的に粉砕して膝をつかせたフォンを一時的に無力化しながら、残る敵へと意識を移そうと体が硬直したその刹那に銃声が轟いた。

 

「がっ!?」

 

 強い力で肩を押されたようにアスカはもんどりうって倒れた。

 倒れ込んだアスカの姿を見据えたナーデは愛銃の銃口を上げる。その目は仕留めた標的を冷たい目で見据えていた。

 唇の端から血を垂らしながら膝を上げたフォンは、憤怒の表情で動けずに呻くアスカを見下ろす。

 

「このガキが…………よくも!」

「ぐっ」

 

 フォンは乱暴に口びりの端から垂れる血を拭い、アスカの頭を踏みしめて地に押し付けている。

 家を何棟も壊した月詠も、多少のダメージは負っているもののしっかりとした足取りで戻って来た。

 

「うふふ、こんな魂が震えるようなプレゼントを貰ったらお返ししないわけにはいきまへんな」

 

 眉間を流れて行く血を人差し指で拭って舐め取った月詠は、本当に楽しそうにフォンに踏みつけられているアスカへと歩み寄って行く。

 

「次の犠牲者は勇敢な少年になりそうだぞ、ご老人」

「ま、待て……」

「話す気になったか?」

 

 蛮行を止める気もないゲイルを大婆が弱々しい語気ながらも静止する。

 アスカはこの島の人間ではない。今回の一件に知人が巻き込まれたから関わっただけの部外者だ。老人の頑固さの所為で死んでいいはずがない。

 それを言えば村人も同じだが、この村の人間は須らく守り人である。幼子も戦えない女であっても変わりない。例え村人全員の命を犠牲にしても大婆は口を開ける気は無かった。アスカだけは例外だったのである。

 その心の内ではアスカを建前として村人を守りたい心が隠されていることに大婆は気が付かない。

 震える手で村から見える大きな山を指差した。

 

「あのナマカ山の…………麓に、大洞窟がある。その奥に」

 

 躊躇いと後悔と安堵という矛盾を抱えて大婆は自らの代で秘密を暴いてしまったことに、失意の淵に落ちて両手で顔を覆った。

 

「よろしい…………フォン、月詠」

「ちっ」

「ええ~、殺っときましょうや」

「下がれ。約束は守らねばならん」

「ぶ~」

 

 ゲイルの命令には絶対服従のフォンは舌打ちしながらも踏みつけていたアスカを解放する。反対に月詠は如何にも不満そうな様子であったが再度の駄目押しに根負けした形で下がる。

 大婆は急いで母子とアスカの下へ向かった。

 踏みつけられた時に傷つけられたのか頭から出血しているアスカの様子を確かめようと腰を屈めた。

 

「確認した。言った場所に祭壇はあるようだ」

 

 足元の影から闇としか表現できないナニカがゲイルに纏わりつき、それがまた影に戻って行くとゲイルは始めて表情を変えた。

 その表情を表現するなら『愉悦』であろうか。

 

「その者達は好きにするがいい。道連れは多ければ多いほど良かろう」

 

 エミリアが囚われたままだが、それ以前に捕まっていたナナリーとアーニャも村人達の近くに放置されている。ゲイル一行と村人とアスカ達は綺麗に分断された形になっていた。

 

「これは細やかばかりの礼である。全員で黄泉路へと旅立つと良い…………フォン」

「はい!」

 

 唇を歪めて愉悦を現すゲイルの命令にフォンは嬉々として従う。

 念動力を全開にして天頂から地面へと叩きつける。例えその間に村人達がいようとも関係なく。

 

「さらば、我が望みの為に死した者達よ。君達の尊い犠牲は未来永劫、忘れはしない」

 

 砂煙が巻き起こり、視界が判然としないがゲイルの周囲はまるで砂煙すら彼を厭うように近づかなかった。

 

「ん?」

 

 地響きが辺りを震わせる中で、フォンは変な手応えに首を捻ったが直ぐに気の所為だと忘れることにした。

 人の命を屁とも思わないゲイルと、行ったフォンを見たフェイトは人形のようだと良く揶揄される顔を忌々しい物を見るように歪めていた。

 

「君のやり方は気に入らないよ、ゲイル」

 

 元より向かってくる敵以外の命を奪うことには賛成していないフェイトは、こうやって静かな島で穏やかに暮らす人々を無差別殺すことを良しとはしない。

 ぽつりと零したフェイトをゲイルは身長差の関係から見下ろす。

 

「ならば何故止めなかった」

 

 眠らせたエミリアをフォンが奪い取られながらもフェイトは静かに予感する。

 

「貰った金額分の働きはするさ。その子を祭壇へ連れていくまでは協力する………………だけど、その後は抜けさせてもらう。そういう契約だっただろう?」

「良かろう。好きにするがいい」

 

 生まれて十数年しか経っていないフェイトは、この目の前の男は生かしておいてはいけないとハッキリと感じ取った。

 所属する組織から主の情報を知るゲイルの抹殺命令が出ていて、この仕事に同行していたのもその一環であったが、フェイトは始めて人に殺意を覚えた。

 

(ゲイル、僕は僕の勝手な理由で君を殺す)

 

 殺意が籠ったフェイトの視線を受けてもゲイルは愉悦を深くするのみであった。

 大婆が示した場所に向かうために踵を返した一行に続こうとしたフェイトは、もう一度砂煙が晴れていないアスカ達がいた場所に目を向けた。

 

「アスカといったか。恐らく君も来るだろうね」

 

 フェイトはフォンの念動力に押し潰されたはずのアスカが再び向かってくると確信している。

 ゲイル達は見逃したようだが、村人達が念動力に押し潰される前に飛びこんできた人影を見ていた。

 角度的に村人達が邪魔になってゲイル達からの位置では飛びこんできた人影は見えなかったようだが、少し離れた場所にいたフェイトにはばっちりと見えていた。だが、敢えて言わない。

 

「来るといい。このまま終わっては僕もつまらない」

 

 人形たる身にありえない感情が生まれたことすらも自覚せず、フェイトはゲイル達の後を追って歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハワイから遠く離れた日本の地。

 麻帆良学園理事長にして関東魔法協会の理事も務める近衛近右衛門は、数年振りとなる苦境を迎えていた。

 

『超を通して茶々丸から連絡が入った。状況が動き、戦いが起こるだろう。猶予はもうないぞ』

 

 エヴァンジェリンからそんな連絡が入ったのはもう何時間前だったか。

 

「だからのぅ、幾ら儂だって無い袖は振れんよ」

『私がやれと言っているのだ。犬の如く喜び勇んでやってみせろ』

「老骨に優しくない奴じゃ」

 

 何時もの学園長室の座り心地だけは良い椅子に深く腰掛けつつ、ハワイから国際電話をかけてきているエヴァンジェリンの相変わらずの横暴さに苦笑を漏らした。

 それだけアスカ達を大切に思っているのだろうと、今年に入ってからのエヴァンジェリンの変容に微笑ましさを抱く。

 

『私よりも若いやつが何を言っている』

「エヴァと比べれば誰もが若いだろうに。自分の年を考えい」

『知るか』

 

 エヴァンジェリンにも分からないことではないだろうが、焦りが無駄な指摘を生んでいるのだろうかと学園長は益体もつかないことを考える。

 

「早く後進に託して隠居生活を送りたいもんじゃわい。老人虐待じゃぞ、この扱いは」

『貴様の都合など知ったことか』

 

 目元に重く圧し掛かる疲れに、本当にもう自分は若くないのだと年を実感する。

 学園長が冗談交じりとはいえ愚痴を言える相手はかなり少ない。

 学園都市トップの表の立場と協会理事という裏の立場。人に羨まれる立場ではあるが同時に妬まれることも多々あるので、本音を言える相手や心の裡を明かせる相手は貴重なのである。

 年が上で立場に縛られないエヴァンジェリンのような者は本当に少ない。

 

「ギアスを変更するのは大変なんじゃぞ。併せてお主の魔力封印も解かねばならぬのだからどうしても時間がかかる。それは分かっていよう?」

『だからこそ、こうやって催促してるのだろうが。つべこべ言わずに手と頭を動かせ』

「やりがいのない奴じゃのう」 

 

 見知った仲の気安さであっても寝る間も惜しんで作業を続けている学園長に向けられたのは言動による作業の強制である。気遣いの欠片も無いエヴァンジェリンに疲れもあってやる気メーターがガリガリと削られていく学園長だった。

 

「なんとか不眠不休で予定よりも5、6時間分は省略してるんじゃぞ。もう少し労わってとくれ」

『爺の弱音など聞く気は無い』

 

 自己強制証文(セルフギアス・スクロール)―――――権謀術数の入り乱れる魔法社会において、決して違約しようのない取り決めを結ぶ時にのみ用いられる、もっとも容赦ない呪術契約の一つである。

 自らの血と魔力を用いて術者本人にかけられる強制(ギアス)の呪いは、原理上、如何なる手段を用いても解除不可能な効力を持つ。最上級のものともなれば決して後戻りの効かない危険な術だ。この証文を差し出した上での交渉は、差し出した者にとっては事実上、最大限の譲歩を意味する。悪魔と召喚者も同じで、交わされた強制(ギアス)は解除不可能な呪いによって術者の自由意志の一部を放棄することを既に決定付けられている。

 その強制(ギアス)を掛けた術者である学園長自身であっても改変するのは容易ではない。

 交わされた契約はエヴァンジェリンと関東魔法協会の間である。今回のエヴァンジェリンの封印解放は学園長の独断で行われるので、契約精霊に悟れない様に慎重に慎重を重ねなければならない。

 超高位魔法使いである学園長であっても容易なことではない。神経を摩耗させ、疲労が積み重なっていた。

 

『時間が無いのはこっちも同じだ。神楽坂明日菜や宮崎のどかまでいなくなってるし、アイツらは退かずに勝手に戦おうとしてるし、爺は作業が遅いし、なにをやっているのだ貴様らは』

「十把一絡げは酷くないかの。儂、頑張ってるのに」

『いいからさっとやれ。いいな』

 

 言いたいことだけ言ってガチャンと電話は切られた。

 ツーツー、と不通音を鳴らす受話器を顔の前で見下ろした学園長は、管理職の世知辛さを双肩に深々と背負いながら深く重い溜息を漏らす。

 肉体と精神のダブル疲労でダンベルのように重く感じる受話器を戻してまた作業に戻る。

 

「急がなければならないのは分かってるんじゃが」

 

 結んだギアスは途中で変更や解除を受け入れるようなシステムになっていない。

 関東魔法協会は国外のハワイの問題に首を突っ込むアスカに良い顔をしていない。はっきり言うと迷惑がっているとすら言ってもいい。

 関東魔法協会としての立場は不干渉。学園長もそれが正しいと思う。

 余所は余所、うちはうちと言うが、余所様の問題に手を出すのはこの業界では御法度なのだ。アスカのように余所に首を出すのは好かれない。

 学園長に出来るのは自分が動かせる戦力――――魔法世界にいる高畑と封印状態にあるエヴァンジェリンを送り出すことだった、

 かなり高畑に無理をして魔法世界から戻って来てもらい、現地に向かってもらったが間に合うかは微妙。エヴァンジェリンは学園長の働き次第である。

 

「もう少しなんじゃが、後数時間はかかるぞい」

 

 それもかなり頑張って死に物狂いになってである。アスカ達が死線を彷徨う戦いをすると知っていても物理的な時間を短縮できるほど、結んだギアスは生易しいものではない。

 闇の福音が麻帆良学園都市を出て悪事を働かない様に用意されたギアスは超高位魔法使いである学園長を以てしても与しにくい。

 立ち塞がる壁の高さに責任感の強い学園長は疲労から眩暈すら覚えた。

 

「お疲れのご様子で。私がお手伝いしましょうか?」

 

 先程まで学園長しかいなかった学園長室に白いローブの男―――――とある理由で図書館島の地下で静養している「紅き翼」の一員、アルビレオ・イマが姿を現れ、何時もの通り本音や本心をまるで見せない信用しにくい笑顔を浮かべていた。

 

「珍しいのぅ。お主が地下から出てくるとは」

「友人の息子が窮地に陥っていると聞いてジッとしてはいられませんよ」

 

 アスカとネギの父、ナギ・スプリングフィールドがリーダーの「紅き翼(アラルブラ)」の一員であり、両世界において間違いなく最強クラスの存在。

 「紅き翼」で生存が確認されている人間は存外に少ない。

 ガトウ・カグラ・ヴァンデンバーグは死亡。ナギ・スプリングフィールドは行方不明だが公的には死亡とされている。

 フィリウス・ゼクトは大戦時に亡くなったと言われている。ジャック・ラカンは生きていることは目撃情報から確かだが所在ははっきりとしない。

 生存と居場所が確認されているのは関西呪術協会の長をしている近衛詠春、麻帆良に所属しているタカミチ・T・高畑の二人しかいない。メガロメセンブリアの元老院議員の一人で、オスティア総督のクルト・ゲーデルは敢えて除外しておく。

 大半が死亡、もしくは行方不明という中で同じく生死不明だったアルビレオ・イマの存在。果たしてそれが意味するものとは一体。

 

「お主が手伝ってくれるなら百人力じゃ。直ぐに取り掛かろうぞ」

「ええ」

 

 戦いの地、ハワイから遠く離れた極東の地でも別の戦いが繰り広げられていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふん、使えない奴め」

 

 麻帆良の学園長に国際電話をかけていた携帯電話を放り投げたエヴァンジェリン・A・K・マグタウェルは、真っ平らな胸の下で腕を組みながら不機嫌そうに吐き捨てた。

 エヴァンジェリンが投げ捨てた携帯電話を危なげに受け取った天ヶ崎千草は生徒の尊大な態度に眼鏡の奥の目を細めた。

 

「他人の目があるところで女の子が足を組むんやない。スカートが捲り上がって下着が見えとるで」

「見たければ勝手に見ろ。私は気にしない」

 

 当面は現状維持が継続されてしまうことが確定してしまって不機嫌なお姫様は、足を組んだことでスカートが捲り上がって黒いアダルティーなパンツが見えても気にする気はないようだ。

 いくら二人がいる場所が他人の目が付き難いホテルの自室だとしても、年頃の少女が異性に下着を見られるような恰好をするべきではない。六百歳も生きているエヴァンジェリンを年頃の少女という扱いにするのは疑問だが、見た目は十歳頃の少女にしか見えないのだから千草の指摘は間違ってはいない。

 何時もならば従者である絡繰茶々丸が言われなくても自然と主のスカートを直したりするのだが、今は別件で離れているのでエヴァンジェリンのスカートは捲れ上がったままである。

 

「あんさん、実は絡繰がおらんと生活不適合者なんちゃうか」

 

 携帯をスーツの胸ポケットに直しながら仕方なく立ち上がった千草がエヴァンジェリンの捲れ上がっているスカートを直す。

 身の回りのことは茶々丸がやってくれているので反論のしようがないエヴァンジェリンは、口をへの字にして無言を貫いた。

 茶々丸は機械である。携帯だって碌に使えないエヴァンジェリンは従者でありながら茶々丸が壊れれば直すには他人に頼るしかない。好きに行動させていたら家事を覚え、世話を焼くようになってしまったのはエヴァンジェリンが無精だからか。

 

「図星かいな」

「何とでも言え。私のことはいい。それよりも超鈴音のことはどうなんだ? 奴が神楽坂明日菜や宮崎のどかを唆したのだろう」

「ネカネが聞きに言っとる。こういうのはあっちの方が向いとるからな」

「呼びました?」

 

 分が悪いこともあって話を変えた矢先に当のネカネの登場である。

 魔力が封じられていようが感覚器官は衰えていないエヴァンジェリン。単純に視界の先でドアが開いて来るのが見えた千草はネカネの登場に驚くことはなかった。

 驚く姿が見たかったわけではないが大した反応を見せてくれない二人に内心で残念がっているネカネが対角線上の椅子に座る。

 

「超から話は聞けたのか?」

 

 エヴァンジェリンは聞く前から懐疑的だった。

 

「一応は」

「含むがあるな。煙にでも巻かれたか」

「そうなんか?」

 

 千草が聞くとネカネは曖昧に笑った。苦笑したのかもしれない。

 偶に身内に対してエキセントリックになる以外は楚々とした天然キャラ系美人のネカネにしては珍しい表情であった。

 

「話を聞けば一応の納得は出来るんですけど、ちょっと荒唐無稽で」

 

 人差し指を立てて頬に当てて悩むネカネの姿は可愛く見える。二十歳を過ぎたか過ぎないかぐらいなのにあざとい仕草が似合う女である。

 何時だったか女三人で昼食を食べていた時にネカネが席を外している間に言ったアーニャの言葉を思い出す。

 

『見た目に騙されて言い寄って来る男もいたけど、ネカネ姉さんって天然だから気づかないのよね。しかも年々、叔母さんそっくりなっていくし。私は十年後も今と大して変わらないんじゃないかって不安になる時があるわ。叔母さんも大概見た目と実年齢が合わない人だったから』

 

 二十歳を超えてから十代とは違うのだと年を実感し始めた千草は目の前の天然娘の将来が心配になった旨を話すと、アーニャは実感を込めて頷いたのである。

 

『いざとなったらアスカが嫁に貰うだろうから心配なんていらないわよ』

 

 従姉弟なのにいいかと聞いても、アーニャは小揺るぎしなかった。

 

『強烈なシスコンとブラコンだから大丈夫でしょ。ネギもその気配はあるけど、ネカネ姉さんの天然を受け止めきれないし』

 

 チョーク投げやらフォーク投げを思い出した千草は考えることを止めた。考えると大参事になりそうだったから。

 意識を現実に戻すとネカネの話を聞いていたエヴァンジェリンが驚愕も露わにしていた。

 

「アスカ達が向かった島には神が張った侵入者を阻む結界があって、神楽坂明日菜にはその結界を無効化することが出来る魔法無効化能力保持者だと? 本気で言っているのかそれは」

「私も同じことを思ったけど超さんの目は嘘を言ってなかったわ」

「簡単に信じられるか、そんな与太話を」

 

 嘘と断定は出来ないと言うネカネに対してエヴァンジェリンは足を組み直した。

 

「不老不死や死者を生き返らせるほどの水がある場所だ。侵入者を阻む結界があるのは納得できる。結界を張ったのが神だというのも信憑性はともかく可能性の一つとして認めてやらんでもない」 

 

 今よりもまだ神秘の色が濃かった時代に生まれたエヴァンジェリンは、実際にその眼で神を見たことはないが痕跡があるので存在を否定しなかった。なにより現実に魔界があって悪魔がいるぐらいなのだから神や天使がいてもおかしくない。

 

「だが、あの神楽坂明日菜が魔法世界でもその存在が数例しか確認されていない魔法無効化能力保持者だと? 法螺を吹くのも大概にしろ」

「ネカネに言うてもしゃあないやろ」

「なら超に直接言ってやる」

 

 言ってエヴァンジェリンは立ち上がった。

 有言実行。超に直接言う気なのだろう。

 

「どうしますか?」

「ん~、タイミング良くこのオアフ島にテロ予告まであったしな。あの子やったら何か知っているかもしれんし、聞くべきなんやろうけど」

 

 ドシドシと足音を立てて部屋を出て行ったエヴァンジェリンの背中を見送り、千草は追いかけるべきか悩むのだった。

 

 

 

 

 

 

 テロ予告があったので予定が変更になって缶詰めにされていることを良いことにホテル中で遊び回っているクラスメイト達とは違って、超達の部屋は至って静かだった。

 超が班長を務める部屋にいるのは三人のみ。班長の超と相棒の葉加瀬、そして出て行ったネカネと入れ替わりで同室の真名と楓の姿がないのでやってきた古菲である。

 

「超さん」

「どうしたヨ、葉加瀬」

 

 手元のPDAを見下ろしていた超は対面のベッドに腰を下ろした葉加瀬の呼びかけに顔を上げた。

 

「あれで良かったんですか? エヴァンジェリンさんが聞いたら納得しないと思いますけど」

「嘘はついてないヨ」

「どうやってそんなことを知ったんだって聞かれるんじゃ」

 

 先程までいたネカネとの会話を近くで聞いていた葉加瀬は心配するが超は緩やかに笑うのみである。

 

「納得はしないだろウ。というかあれで納得する者がいたらよほどの馬鹿ヨ」

「案外アスカさんは納得しそうですよ。『お前がそう言うなら信じる』って」

「フフ、かもしれないネ」

 

 これから乗り込んでくるかもしれないエヴァンジェリンを和やかな空気で待ちつつ、部屋の隅っこで暇だからと腕立てをしていた古菲は輪に入らず、一人考え込んでいた。最初、ロボット関係の話をして古菲に話を聞く気を失くさせている辺り超は外道かもしれない。

 

(アスカは強かったアル)

 

 昨夜の戦いを思い出し、火照る体を持て余すかのように腕立てを繰り返す。

 僅かな期間で自分の技をも取り込んで強くなっていくアスカとの次の対戦に胸を躍らせる。

 麻帆良に来て以来、彼女を満足させる輩はいなかった。確かに周りには数人自分より強い奴がいたが、例えば刹那は剣士、真名はガンナー、楓は忍者とタイプが違う。

 アスカは真っ向から戦ってくれた。四月に来た小太郎も真っ向から戦うタイプだが女は殴らないと明言しているので対象外。

 古菲には自ら課した掟がある。格闘家として、武道の名門古家の跡取りとして自分より強い者を婿とし、負けを認めた者にのみ唇を許すと。

 古菲とて勉学はともかく武道においては馬鹿ではない。アスカとの力の差は歴然。楓といった他人も一緒に戦ったことで言い訳が出来るが、正真正銘の敗北。もはや言い訳の余地はない。

 強さに関しては申し分ないが年齢がネックになっている。しかし、その成長性は底すら見えず、中国武術を瞬く間に取り込んでいく才は古菲から見ても天井知らず。更に子供らしくヒョロヒョロに見えて攻撃を打ち込んだ体は思ったよりもガッシリしていた。

 

(あれ? 年齢以外は問題ないアルか?)

 

 突き当たった事実に一人で紅くなった頬を押さえて悶え出した。

 強いからといって好ましくは思っていても、決してアスカに惚れたわけではないと断言できる。

 古菲の家は武道の名門で幼いころから武術を嗜んできた。

 名門ともなれば相手が選り取りみどりというわけにはいかない。本人が自ら課した「自分より強い者を婿とし、負けを認めた者にのみ唇を許す」というように、場合によっては自分よりも強いが嫌いな相手、という可能性もある。

 今はアスカに対して恋愛感情に至っていないだけでこれからもそうならないとは限らない。簡潔に言ってしまえばアスカを『婿候補』として古菲の頭の中にインプットされてしまったのである。

 

「あうぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」

 

 腕立ての体勢から床の上を転がって一人で悶える古菲に葉加瀬が声をかけようとした瞬間だった。

 

「超!」

 

 ドアを蹴破るような勢いで部屋に入って来たエヴァンジェリンは勝手知ったる我が家のような図々しさで乗り込み、超と葉加瀬が座っている椅子まで足音を立てて近づいた。

 近くで足を止めた女王様は超を見下ろして腰に手を当てて見下ろす。身長差が三十㎝もあるので超が座ってもいないとエヴァンジェリンは見下ろせなかったりする。その見下ろすにしても超が座っている椅子が高めなので殆ど目線に差がなかったりするが。

 怒気を滲ませるエヴァンジェリンを相手に、自慢にもならないが人の機微には鈍感だと自負している葉加瀬や、古菲すら気圧される。

 

「やあ、エヴァンジェリン。何用カ?」

 

 しかし、その中にあっても超は悠然とエヴァンジェリンに問うた。訪室した理由も怒気を露わにしている理由も分かっているにも関わらずだ。

 

「分かっているくせに聞くとは馬鹿の真似事か、超、貴様らしくもない」

「何も言わずに気持ちを察してもらおうというのは傲慢ヨ。例えどれだけ察しのつく男であっても、ネ」

「貴様……っ」

「思い当りがあるのなら改めるべきネ。言葉とは相手がいてこそ伝えられるものなのだかラ」

 

 ナギのことか、それともアスカのことか。誰かを明言はしていないが揶揄されていると感じたエヴァンジェリンから殺気が漏れ出すが、続く超のどこか哀しみを滲ませた言葉に怒りを抑えた。

 

「貴様にもどうしようもない別れがあったのか?」

 

 気がつけばエヴァンジェリンは不覚とも取れる疑問を口にしていた。

 葉加瀬と古菲も気になったのだろう。二人は超に視線を集中させた。

 

「あったヨ。だからこそ、私はここにいル。もう一度出会うために」

 

 誰に、とは三人も尋ねなかった。

 エヴァンジェリンにとっては気にはなりはしても身内でない相手に根掘り葉掘り聞く気は無かった。超に最も身近な葉加瀬が知っているのか知らないかは、顔を見なかったのでエヴァンジェリンには分からなかった。

 

「まあ、いい。単刀直入に聞く…………貴様は一体なにを知っている?」

 

 エヴァンジェリンが言葉通りに納得したのかは余人には分からない。それよりも超がネカネに言ったことが事実かどうかを重視しているようで、嘘は許さないとばかりに睨み付ける。

 

「私は知ていることしか知らないヨ、と言ても納得はしてくれないだろうナ」

「当然だ。戯言をほざく前に答えろ」

 

 封印されていようとも超高位魔法使いの名に恥じない威圧感であった。直接向けられたわけではない葉加瀬や古菲ですら体を震わせ唇を引き攣らせていた。

 にも関わらず、平静そのものの超は何時ものようにおどけるように笑っていた。

 

「未来を知ている」

「ほざくな、と私は言ったぞ」

「嘘つきの自覚はあるがこれは嘘ではないヨ。茶々丸に会ったら聞いてみるといいネ。私の言ったことが事実かどうカ」

 

 こいつ、とエヴァンジェリンは始めて超の本当の姿を見たかのように目を瞠った。

 見知った誰かに似ている強い瞳の輝きに気圧されかけたエヴァンジェリンは、吸血鬼状態ではないので尖っていない歯を噛み締めて座ったままの超を見下ろし続ける。

 

「信じることは出来んな。お前達が茶々丸を作ったのだ。何らかの方法で茶々丸が見知ったことを知る方法がないとは言い切れん。ハイテクに疎い私では見破れんのだからな」

「茶々丸のことは否定はしないヨ。事実、そういう機能はあるネ。では、そうだナ」

 

 疑うべき理由があるからこそ信じることが出来ないと言うエヴァンジェリンに、超は手近に置いてあった鞄に手を伸ばして一つの小瓶を取り出した。

 

「なんだそれは」

「貴女が今最も欲しいと願う力を一時的にでも取り戻せる薬、とでも言えば分かてくれるかナ」

 

 ピクリ、とエヴァンジェリンは超が持つ薬を見て反応した。

 反応してしまったエヴァンジェリンを見て超は更なる笑みを浮かべ、悪魔が無知な人間に取引を持ち掛けるように小瓶を掲げる。

 

「テロ予告まで偽装したのは皆が帰ってくると信じてのことネ。だが、このまま待ていては間に合わなくなル。敵はそれほどに強大ヨ」

 

 過去も未来も見通す目で超はエヴァンジェリンではな場所を見ながら立ち上がり、ゆっくりと小瓶を差し出す。

 

「信じる信じないは貴女の自由ヨ。選ぶネ。私の手を取るカ、取らないカ」

 

 手を取るか、取らないか。その選択を前にして、エヴァンジェリンは決断を求められる。

 

「決まっている」

 

 エヴァンジェリンの手は動いた。

 

 

 

 

 




島には島外の人間が入れない結界有り。アスカ達が入れたのは血族であるエミリアがいたから(隠れていたゲイル達も同じ)
さあ、どうやってエヴァンジェリン達は島に入れるのか。

1.結界を力尽くで破る
2.結界が破れるのを待つ
3.結界を魔法で解く

A.正解はこの中にありません


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第20話 挑む者

 

 

 村がゲイル一行の襲撃を受ける少し前。大婆に村に入れてもらえなかったネギ達は、村から離れた森の中で待ちぼうけをくらっていた。

 舗装なんてされていない獣道の中で待つことを強いられた中で最初に我慢の限界を迎えたのは犬上小太郎であった。

 

「遅い」

 

 森のど真ん中にある大岩の上で胡坐を掻いて座っていた小太郎は、イライラとした感情を隠しもせずに吐き出した。

 同じ思いを抱いても一行の面々は自制心に長けているので、不機嫌そうな小太郎の呟きに言葉を返す者はいなかった。ただ一人の例外を除いて。

 

「黙っててくれないか、さっきから何度も何度も。こっちまで移って来る」

「おい、兄貴」

 

 黙って瞑想し、時折瞼を開いて大きく溜息を吐いてはまた瞑想を繰り返していたネギは小太郎に文句を言った。

 カモが諌めようとするが口に出した言葉は戻らない。言われた小太郎は待ちぼうけを食らってイラついていたところなのでカチンときた。

 

「おい、ガキ」

「誰がガキだよ。僕と君は同い年じゃないか」

「ガキにガキつって何が悪いねん。口だけはよう回る奴やな。俺に舐め取った口を聞いとったらシバくぞ」

「やれるものならやってみろよ」

「ちょ、二人とも待てって」

 

 売り言葉に買い言葉。カモが止めようとするが二人は既に臨戦態勢。

 

「喧嘩売るいうんか。退屈しとったところや。喜んで買ったる」

「吹っ掛けて来たのは君の方じゃないか。人聞きの悪いことは言わないでくれないか」

 

 論理派と直感派は昔から仲が悪いと言ったのは誰か。この二人はアスカがいないと相性が悪いようで、直ぐに一触即発の状況になってしまった。

 拳を握り締めると小太郎と、杖を持って立ち上がったネギが睨み合う。その間に入ったのは茶々丸と刹那だった。

 

「お二人とも喧嘩しないで下さい」

「こんな所で問題を起こせば島から追い出されます。矛を収めて下さい」

 

 小太郎には刹那が、ネギには茶々丸がそれぞれ抑えにかかる。

 二人ともが小太郎とネギよりも上位の実力を持っているので力尽くで離される。相手の言葉が頭にキタだけで本気で諍いをしたわけではないのでされるがままに任せる。

 

「元気でござるな、二人とも」

「今の状況を見て呑気でいられるお前が凄いと思うよ、私は」

「平常心でござるよ平常心」

 

 やんちゃな子供を眺める老人のような雰囲気を醸し出す楓に、こいつは大物だなと思った真名は単純に何も考えていないだけではないかと勘繰った。限りなくどうでもいいことなので直ぐに忘却したが。

 小太郎とネギは互いのことなんて見たくないとばかりに背を向ける。

 

「「ふん」」

 

 同族嫌悪の逆。対極過ぎて馬が合わないのか。この二人は両方に理解のあるアーニャか耐性のあるアスカがいないと衝突してしまうようだ。

 話を逸らす意味も込めて茶々丸が先のネギの行動を思い返しながら口を開いた。

 

「先程、何度も溜息を吐かれていたようですが」

「頭の中で敵との戦闘をシュミレーションしていたんです。完璧とは言いませんが、ぶっつけ本番で戦うよりかはマシと思って。ですけど」

「結果は思わしくないというわけですか」

 

 コクリ、と頷いたネギに背中を向けていた小太郎は犬耳をピクリと震わせた。だが、何も言うことなく悔しげに唇を噛んだ。

 小太郎の表情を見れる位置にいた刹那は少年の気持ちが手に取るにように分かった。

 悔しいのだろう。敵と戦った中には刹那と小太郎も含まれる。楓と真名を含んだ上でシュミレーションをしたとしても戦闘結果が芳しくないのは容易に察しが付く。それほどに敵は強大なのだ。

 真名と楓の二人には微笑ましいものに見えるのだろう。口を出さずに見守っていたが、真名が何かに気づいたように顔を別方向に向けた。

 

「誰かが近づいてくる」

「敵でござるか?」

「分からん。だが、こっちに向かっていることは確かだ」

 

 暗くなった雰囲気を払ったのは静かに立ち上がった真名の一言だった。

 次いで立ち上がった楓が真名の前に出て敵に備える。

 

「これって血の臭いとちゃうんか?」

「なんでそんな臭いが?」

 

 狗族と人間のハーフである小太郎の嗅覚は近づいてくる方向から漂ってくる臭いをかぎ取って眉を顰めた。

 ネギが杖を持って一番後ろに下がり、茶々丸がその前に立つ。小太郎と共に二人の前に立った刹那は、ガサリと生い茂っている草むらが鳴ったと同時に夕凪に手をかけて抜こうとした。

 

「全員待て。様子がおかしい」

 

 刹那の抜刀を静止したのはまた真名の一言だった。

 その言葉が証明されたのは草むらから現れた人影にあった。

 

「ナルさん!?」

 

 現れた全身血みどろのナル・ディエンバーを茶々丸の影から見たネギは、守り人達のリーダーのあまりの姿にそれ以上の言葉を失った。

 次いで助けなければと踏み出したところで茶々丸に静止される。

 

「落ち着いて下さい。彼が敵でないという保証はありません」

「でもあんなに血が!?」

「擬態ってことを考えや。さっきのことを思い出せ」

 

 茶々丸だけでなく小太郎にまで諌められ、さっきのナルの不満に満ちた様子を思い出したネギは改めてその姿を見る。

 一番前で警戒する楓と真名に武器を向けられても気づいた様子もなく、フラついた足取りで歩いている。刹那が表情を読み取ろうとしているが、血と俯き加減でいることで顔が見えない。

 辛うじて見える口元は微かに動いていて、声は聞こえないが何かを呟いているようだった。

 

「あれが擬態とは思えません。ナルさん!」

「あ、ネギ先生!?」

 

 茶々丸の脇を抜け、止めようとした刹那の横を通り過ぎたネギは一路ナルを目指す。

 静止を呼びかける楓と真名の前に立って、ゆっくりとナルへと歩み寄って行く。

 

「ナルさん、なにがあったんですか?」

 

 最低限の警戒をしながら呼びかける。

 後ろの楓達も何時でも攻撃できるように武器を構えたまま、推移を見守る。

 呼びかけるとナルはネギへと倒れ込んできた。

 罠か、とネギも一瞬疑ったがナルを受け止める。体重差や身長差があるので殆ど押し潰されるようなものだが、魔力で身体強化をしてなんとか持ちこたえる。

 結果として近くなった顔の距離。ネギの耳は間近から発せられたナルの言葉を聞き届けた。

 

「村に…………敵が……大婆様、に…………」

 

 そこまで言ってナルは気を失ったのか、体から完全に力が抜ける。

 

「村に、敵」

 

 その言葉でネギが連想したのはゲイル・キングスであった。

 明晰なネギの頭脳は、このタイミングの良すぎる敵の襲来に瞬時に答えへと辿り着く。

 

「まさか僕達は後をつけられた?」

 

 考えられる限り最悪のシナリオだった。

 ならばナルの怪我も納得がいく。島外の者を嫌うナルがゲイル達を快く受け入れるはずがない。なんらかの理由で出会って戦って負った負傷なのだろう。

 

「アスカ達が危ない!」

「先行くで!」

 

 同じ危機感を抱いた小太郎が真っ先に飛び出した。

 真名の隣を通ってネギを追い越し、村を目指して走り出す。

 

「あ、待って!」

 

 アスカに認められている小太郎をライバル視しているネギも負けじと続こうとしたが、傷を負っているナルに圧し掛かられている現状では迂闊に除けることも出来ずに歯噛みする。

 ネギが治癒魔法を苦手としていることは初日の夜のことで分かっているので、刹那は懐から千草に貰った治癒符を取り出した。

 

「彼は私が。この治癒符を使って下さい」

「手伝います」

 

 手伝いを申し出た茶々丸と共に刹那はネギに圧し掛かるように倒れ込んでいるナルの体を協力して抱える。

 気絶している成人男性の体はかなり重い。機械の体を持つ茶々丸と気を扱える刹那なら支えるのは難しいことではない。

 

「すみません。後はお願いします」

 

 ネギもナルを横にどかすのを手伝い、地面に置いていた杖に跨って小太郎を追った。

 

「龍宮と楓は…………もう行ったか。一言ぐらい声をかけて行けばいいものを」

 

 ネギを見送った刹那は茶々丸にナルの体を支えてもらいながら傷口にペタペタと治癒符を張りながら辺りを見渡して、真名と楓の姿がないことに気づいて気に入らげに僅かに眉を顰めた。

 一刻を争う事態に既になっている状況で急ぐのは当然だが、仲間なのだから勝手に行動するのは止めてほしいと思う刹那だった。

 冷静で慌てない刹那の対応に茶々丸は過去のデータから検証する。

 

「変わりましたね、刹那さん。以前は抜き身の刀のような鋭さがありましたが、鞘に収まったような安心感があります」

「え、そうでしょうか?」

「はい。木乃香さんと仲直りしたお蔭でしょうか」

 

 鈍ったということだろうか、と刹那は思いもしたが違うとは言えなかった。

 刹那自身も明日菜とも仲良くなって木乃香のことだけを考えていた頃とはだいぶ変わってしまったと自覚していた。それが良い事なのか悪い事なのかは刹那にも分からない。

 だが、少なくとも鶴子からは麻帆良に渡ってからの二年間の間に年月分の成長はしていても、想定以上ではなかったと言われている。変な言い方になるが尖っている間は木乃香を気にし過ぎて修行に身が入っていなかったのか。

 春休みに鶴子と素子に課せられた生と死の境界を行き来する地獄のスパルタを乗り越えた時の方が、この二年間よりも強くなった実感がある。その事実を鑑みれば茶々丸の言葉もあながち否定は出来ない。

 大の大人が昔の不良時代を他人の口から身内に説明された恥ずかしさに襲われ、結局はYesともNoとも言えずに口をまごつかせたまま治癒符をペタペタと張り続けるのであった。

 

 

 

 

 

 村までもう少しというところで木の影に隠れる形で留まっている小太郎を見つけたネギ。

 

「小太郎君!」

「シッ、声が大きい」

 

 乗っていた杖から飛び降りて、魔法を使って着地したネギは直ぐ近くなのに村に入ろうとしない小太郎に声をかけるも、即座に口の前に人差し指を当てて抑えろと返事が返って来た。

 

「拙者達の行動の方が遅かったようでござる。敵は既に村に入り込んでいるようでござる」

 

 真名と共にネギよりも先んじて到着していた楓が木の枝の上から村の様子を観察しながら苦渋の表情を浮かべていた。

 小太郎が身を隠す木の枝はネギが一緒になっても隠れるほどの幹の大きさだが、小太郎とは反対側から村の様子を見ようとしても木で遮られている。微かな隙間から様子は窺えるが家の壁程度しか見えない。

 

「ナーデ……」

 

 別の木に隠れて銃のスコープを覗いている真名がポツリと漏らした、彼女らしからぬ弱々しげな声にそちらに向きかけたネギは村から轟いた爆音に意識を移した。

 爆音の発生源である衝撃波は村外れにいるネギ達の所に届き、風圧に木の影から出ている顔の前に腕を掲げる。

 衝撃波は一瞬で通り過ぎたが、本当の衝撃は上げていた腕を下ろした先にあった。

 

「ゲイル・キングス……っ!?」

 

 衝撃波の発生源。内側から爆発したように壁が無くなった家に立つ男であるゲイル・キングスにネギは歯噛みする。

 ネギのいる位置からは背中しか見えないが世界を闇に染め上げるような存在は一度見たら忘れようのない男である。その存在を唾棄すれど間違えることなどありえない。

 

「不味い。エミリア殿が敵の手に落ちたようでござる」

 

 はっ、と楓の言葉にネギがゲイルの背中から視線を動かすと、白髪の少年に囚われているエミリアと少し離れた場所に佇んでいる大婆の姿を捉えた。

 いるべきはずの人間がいないことにネギは焦りを持ちながら目を動かし続ける。

 

「アスカの姿が見えへんな。もしかしてやられたんか?」

「まさかアスカが」

「今の状況になる前に壁が壊された音が聞こえたでござる。恐らくどちらかに攻撃を受けて家の外に弾き飛ばされたのでござろう」

 

 倒された可能性は消えないがアスカが死んだと決まったわけではない。

 見える範囲にアスカの姿がないことに不安は感じるが、信じるしかないと心の中で決めて状況を見守る。

 

「どうしますか? 行きますか?」

 

 ネギは判断に窮して周りに問うた。

 実戦経験ではこの中では一番下であろうことは薄々感づいていたので、生徒や敵視している相手に聞くのは内心で思うところはあったが、急場に自身のプライドを優先するような愚かな真似はしない。

 

「状況を見るに厳しいでござるな。エミリア殿は人質に取られ、他にも多数の村人が包囲されているでござる。刹那や茶々丸殿も合流すれば数的有利はこちらにあるでござるが、正直向こうの実力は拙者の想像以上であった」

 

 上の方の木の枝に乗っている楓を見上げれば、彼女にしては平静を欠いているようだった。その頬に流れているのは冷や汗だろうか。

 冷や汗を掻いているのは楓だけではない。真名も小太郎も、そしてネギもこれだけの距離が開いているにも関わらず、冷や汗が止まらない。

 ガサガサ、と後方から響く草の根にネギは大袈裟にビクついた。

 慌てて杖を向けると、キョトンとした表情の茶々丸が草を掻き分けて現れた。

 

「状況は?」

 

 茶々丸の後ろから現れた刹那が言葉少なに問いかけるのが適切であるのに場違いな気持ちになるのは何故だろうか。

 杖を下ろしたネギに倣うように、構えを解いて武器をそれぞれが下ろす。

 

「ナルさんは大丈夫なんですか?」

「出来る限りの治療はしてきました。眼も覚まされ、自分は放っておいて良いと仰られたので申し訳ありませんが置いて来ました」

 

 刹那の後ろに続く人影がないことから大体の予想はついていたネギは、少しだけナルのことを考えたが直ぐに頭から追い出した。自分で大丈夫と言ったのだから、どうにかなっても本人の問題である。

 ネギ達が考えるべきは問題は直ぐ傍にあった。

 今度はネギが二人に状況を伝えようとした正にその時だった。

 

「させるかっ!」

 

 聞き覚えが物凄くある声が聞こえて、話をしようとしていたネギは振り返っていた顔を大急ぎで元に戻した。

 後ろを振り返った視線の先で雷光が走り、雷光の先で別の光がまた瞬いたと思ったらアスカが現れた。

 獣が敵を見つけたような獰猛な顔を見せるアスカに目立った怪我は見られない。ネギはひとまず双子の弟の安否だけは分かって一息を吐くも、状況は多少の好転は見せているものの最悪から一歩分だけマシになった程度でしかない。

 

「あっ!?」

 

 何を話してるんでしょうか、と聞こうとしたネギよりも早く木の枝に乗っている楓が動揺した声を上げた。

 スコープを覗いている真名、ネギと同じ光景を見ているはずの小太郎も舌打ちをした。

 

「どうしたの?」

「…………村人が一人殺された。あの野郎、やりやがった」

「え」

「落ち着いて下さい、ネギ先生」

 

 小太郎が尖っている八重歯を剥き出しにして憤りながらの発言に、事実を受け止めきれなかったネギは呆然として普通に声を出してしまった。それを混乱の前兆と判断した茶々丸がネギの口を押える。

 ネギは顔色を青くして茶々丸の拘束を振り解くことが出来なかった。

 他の面々が表面上落ち着いているのは、血の臭いや肉眼で既に犠牲者が出ていることで半ば覚悟が出来てしまっているからか。

 少ししてネギが動揺を表面上とはいえ、落ち着けて茶々丸に拘束を解いてもらおうとしたところで再びアスカの叫びが響き渡った。

 

「止めろ――っ!!」

 

 ネギらがいる場所からでも見えた噴き出すアスカの魔力。

 直後、轟音が連続してネギが飛び出しかけたが未だに茶々丸に拘束されたままでは果たせない。

 

「…………駄目だ。一人を弾き飛ばしたがもう一人に押さえつけられた………………あの状態のアスカに当てるとは。腕は衰えていないか」

「どうするでござる? このままではアスカが」

「待ちぃ。様子が変や」

 

 と、刹那が手を放してくれない茶々丸に一声かけてくれたお蔭で解放されたネギの感に触るものがあった。嫌な予感と言い換えてもいい。

 

「行きます!」

「ネギ先生!?」

 

 もう待てなかった。ネギは杖に跨って飛び出す。

 茶々丸が止めようと手を伸ばすがもう遅い。唯一反応した小太郎が並走するのを横目に見ながら飛ぶ。

 木々の群れを抜けて村人達の後ろに出ると、直上から目に見えない何かが落ちてくるのを感じ取った。

 

「アデアット!」

 

 アーティファクトを呼び出して首輪を装着した小太郎とのアイコンタクトは一瞬。それだけでネギは自分が何をするべきかを悟る。

 

「風よ!」

「狗よ!」

 

 ネギが魔法を、小太郎が狗神を無数に放つ。

 風がネギが掲げた手の進行方向に沿って無差別に広がる。地面はコンクリートを固めたアスファルトではないので、風に煽られて砂煙が大量に発生する。それだけに留まらず、村人達の足下から吹き上がった突風が念動力とぶつかる。

 その砂煙の中を狗神が疾走し、村人の足下に到達するとその体を地面に広げる。数十人ほどの村人の足下全てに広がるとその体を呑み込んでいく。

 全ては瞬く間の間に起こった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゲイル達が去ったというのに一向に砂煙が晴れない。

 数秒、長くても十秒程度しか留まらないはずの砂煙が滞留している状況は異常であった。

 

「…………助かったネギ」

「心配かけないでよ、もう」

 

 ネスカ最大魔法である雷の暴風すら逸らしたフォンの念動力で押し潰されたはずのアスカ。砂煙を割って風で念動力を防いだネギが相変わらずの弟に苦笑を漏らす。

 ネギの後ろから小太郎も現れる。

 

「俺にはなんもなしかいな」

「小太郎にも感謝してるって。愛してるって言ってやろうか」

「止めぃ。キモイわ」

 

 苦笑したアスカは本気で嫌な顔をする小太郎から視線を外して、半身を影に沈めた村人達に目を向けた。

 

「良く間に合ったな、あのタイミングで」

 

 砂煙がネギが生み出した風によって晴れる。

 村人達は未だに下半身が影に沈んでいる者も多く困惑は深そうだが、既に亡くなっていた者はともかく念動力によって怪我をした者はいなさそうだった。

 

「ナルさんが僕達に知らせてくれたんだ。間に合ったのはあの人のお蔭だよ」

「あいつが」

 

 いがみ合っていた男の意外な殊勲に表情を綻ばせたアスカの視線の先に、ネギ達の後を追ってきた楓達の姿があった。

 知り合いの名が出て来て大婆は伏せていた顔を上げた。

 

「…………ナルは無事なのか?」

「怪我はされていましたが私達に自分を置いてここに向かえと言ったのは彼です。可能な限り治療は行ったので無事かと」

 

 村の歴史と共に隠し続けてきた秘密を暴かざるをえなかった大婆は憔悴も深い顔ながらも、茶々丸の返答に僅かながら救われたように頷いた。

 

「そうかい。アンタらがいて助かったよ」

「助かってなんていない!」

「…………マリエ」

 

 大婆の言葉を否定しながら立ち上がったのは、先程月詠に殺されかけた母子の女性だった。

 マリエと呼ばれた女性は恐怖で気を失っている子供を抱き抱えたまま、小太郎が生み出していた影が消えて地面に膝を付いているアスカを睨み付けた。

 

「そいつらが結界が張ってあるこの島にアイツらを連れて来たんでしょ!」

「マリエ……」

 

 行き場のない怒りと、大切な人を無惨にも殺された憎しみが責め立てる。

 諌めようとした大婆を静止して、立ち上がったアスカは無言のまま非難を受け止める。

 

「なんで私達がこんな目に合わないといけないの?」

「そうだ! 島外の問題を持ち込んだお前達が悪い!」

「返してよ。あの人を返してよ!!」

 

 マリエを始まりとした村人達の悪意をアスカは唇の端を噛んで一身に受ける。

 村の平和な日常を冒したのはアスカ達の存在が原因であることは事実。非難は尤もで、殺された者もいるので謝って許されることではない。黙って耐えることだけがアスカに出来ることだけだった。

 

「出て行け……」

「出て行け」

「出て行け!」「出て行け!」「出て行け!」「出て行け!」「出て行け!」「出て行け!」「出て行け!」「出て行け!」「出て行け!」

 

 罵倒をされても耐える。耐えるしかない。

 言い返そうとした小太郎をアスカは手で抑え、一歩も退かずに耐え続ける。罪だと、受けるべき罰だと言わんばかりの態度が余計に村人達の気持ちを逆撫でするとしても。

 

「止めぃ――――――――っ!!!!」

 

 村人達の暴走を止めたのは大婆だった。

 今は遠く離れたであろうゲイル達にも聞こえそうなほどの大声。だが、村の長たる大婆の一声は、それこそ魔法のように村人達の時を止めた。

 その場にいた全員の視線を集めた大婆は焦燥も深い表情のまま、持っている杖でカツンと地面を叩いた。

 

「そやつらを村に招き入れたのは儂さね。責があるとすれば大老たる儂にある」

「なにを言いますか大婆様!?」

「そうですぞ。島外の者を庇うとは」

「庇うのではなく事実さね。この方々は巻き込まれただけで、関わる筋合もないのに手助けをして下さっておるんだ。感謝こそすれ、非難する理由はないさね」

 

 疲れたように息を漏らしながら犠牲となった者達の無惨な姿に目を向けた大婆の目に宿った悲しみに、赤ん坊の頃から面倒を見てもらって下の世話すらされた経験の多い村人達に強い反論は吐けない。

 悪戯をして親を泣かせた子供が二度と悪いことを誓うように、大切な人の悲しみは時に悪意よりも心を挫けさせる。

 

「すまないね。村の者が迷惑をかけた」

 

 謝罪にアスカは首を横に振ることで答える。

 エミリアに情報提供されたとはいえ、この島に来る決断をしたのはアスカである。平和な島に乱を持ち込んだと責任を背負う背中は、謝るのも礼を言うのも筋違いだと戒めていてネギにかける言葉を失わせる。

 

「俺は行く」

 

 決意だけを滲ませてアスカは言った。

 

「そうかい。帰るといい。短い付き合いだったが達者でな」

「ああ」

 

 言葉少なにアスカは身を翻した。その足はゲイル達が向かったナマカ山を向いていた。

 大婆もアスカが行こうとしているのが村の出口ではなくナマfカ山であることに気づく。

 

「どこへ行く? お主達が来たのは反対側であろう」

「忘れ物があってな。約束を果たさなきゃなんねぇ」

 

 足を止めたアスカ。だが、その目も足もナマカ山に向いたまま振り返りはしない。

 背中から迸るのは自身に対する怒りか。

 

「ナナリーは助けたかもしれない。でもな、そこにエミリアがいなきゃ駄目だろ。こんな結末を俺は認めない。認めたら俺の魂が穢れる。行かなきゃなんねぇんだ」

 

 強い語気で言い切ったアスカに止まる気がないのは短い付き合いでもある大婆にも分かった。

 歩き出したアスカに内心で笑ったネギは、意識がないアーニャとナナリーに付けられている魔法具を解除しながら近くにいた茶々丸の顔を見上げた。

 

「アーニャとナナリーさんを僕達が乗って来た船に運んでもらっていいですか?」 

「分かりました。直ぐに戻りますのでどうかご無事で」

 

 最短距離を行く為に空を飛べ、子供とはいえ二人を抱えられる茶々丸に頼んだネギは崩れているアーニャの髪の毛を整えて立ち上がり、アスカの肩に手を置く。戦うのは一人ではない、背負うのは一人ではないと伝えるために。

 茶々丸が意識のない二人を抱えて旅立った後に、小太郎が刹那が楓が真名が続く。

 

「ついてくんなよ。これは俺の拘りだ。みんなを巻き込むつもりはない――――――死ぬぞ」

 

 そうやってアスカが喋るのは、自分を後戻りさせないためだった。逃げたかった。今でも逃げ出したい。当たり前だ。けれど、逃げるよりもっと怖いことがあった。

 

「覚悟の上、だよ」

「俺を舐めんな。敵が強いからって逃げるような腰抜けとちゃわう」

「貴方を止められないのと同じように、貴方も私たちを止めることは出来ません。こっちは勝手についていくだけですから」

 

 刹那の見たことのない穏やかな笑みに、腹の底がジンワリと温かくなのが感じられた。気恥ずかしいような、後戻りできなくなるような複雑な気分を味わいながらアスカは皆に目をやった。 

 嘗てない強大な敵との戦いに赴こうしている少年少女達に訊いた。

 

「本当にいいんだな?」

 

 愚問だ、と真名と楓の雰囲気が言葉よりも先に言っていた。

 

「ここで背を向けたら一生後悔することになるような気がするでござる。この選択の結果がどんなものであっても受け入れるござるよ」

 

 アスカは否定しようと思った。だが、それを否定するのは間違っている気がする。代わりに真名が、そっと囁いた。

 

「戦いに赴くのなら道ずれは多い方が良い。なに、私にも戦うべき理由がある。君は君の道を行くといい」

 

 言い切った黒色の瞳は、まるで天宮を支える不動の石だった。

 真名は大きな戦いを目前に控えながら、その気配は凪のように静かだった。穏やかに微笑んでさえいる。余裕――――があるわけではないだろう。彼女はこの場にいる誰よりも多く修羅場を経験している。もしかしたらアスカよりも。このような危機的な状況でも凪を保っていられるだけの胆力を身につけているのだ。

 

「何故じゃ、何故そこまでしてくれる? エミリアはお主らとそんなにも親しかったのか」

「ぶっちゃけて言えば昨日今日顔を合わせた程度の仲しかねぇ。でもな、それでも戦う理由はここにある」

 

 大婆の声に顔だけ振り返ったアスカは、拳を握り締めて一語一語噛み締めるかのように言葉を紡いだ。大婆へ向けてというより、内なる自分自身に対する決意の言葉だったのかもしれない。

 

「死にに行くようなものさね。エミリアのことはええ。お前達だけでも逃げな」

「もう誰も見捨てないって決めた。エミリアを見捨てたら俺が俺でなくなる。止まれねぇよ」

 

 信念というのは貫かなければならないものではない。何があっても貫きたいと思う強い気持ちのことを言うのだ。

 

「じゃあな、婆さん。忠告感謝する。生きてたら、また会おうぜ」

 

 その遺言とも取れる言葉だけを残して、大婆と村人達の見ている先でアスカ達はナマカ山へと向かって行ったのだった。

 村人達も大婆もその背中を見送ることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 両肩にそれぞれアーニャとナナリーを抱え、腰部分と両足裏のバーニアを全開にして空を飛ぶ茶々丸。

 

「センサーに感なし。目的地まで後数十秒」

 

 備え付けられている感知系の電子機器を稼働して敵性存在を警戒しながらも全力飛行は止まらない。

 目論み通りエミリアを奪取して、大婆から生贄の地であるナスカ山のことを聞き出していたゲイル一行が今更茶々丸らを狙うとは考えにくいが、警戒し過ぎるに越したことはない。

 茶々丸が抱える二人がまた敵に捕まるようなことがあれば戦況は、最悪の一歩手前を通り越して絶望へと堕ちる。

 与えられた任務に基づき、飛行を続ける茶々丸のセンサーが程なく目的地である乗って来たボロい漁船を捉えた。

 

「船上に熱源反応? それも二つ……」

 

 ガイノイドであり、機械的な感覚器官で人間よりも遥かに早く情報を察知できる茶々丸はセンサーに二つの熱源反応をキャッチした。それも目的である船の上に、である。

 敵かと思ったがその可能性は低い。言っては悪いが既にアーニャとナナリーに人質としての価値は薄い。数的優位に立っていようとも純粋な実力で上回るゲイル一行が今更人質を取ろうとするとも考えに難い。考え難いだけで皆無ではないので茶々丸も警戒していたわけで、敵二人に先回りされている可能性もないわけではない。

 敵性存在か、それとも別の相手か。茶々丸がセンサーの感度を上げてデータと照合するのは当然の流れだった。

 

「データベースにヒット有り。神楽坂明日菜と宮崎のどか…………何故?」

 

 熱量の大きさ、感度を上げたセンサーで捉えた各種データの数々が熱源の正体を正確に言い当てていた。

 正体が判明すれば、何故ここにいないはずの人間が二人もいるのだと茶々丸の電子脳が答えを導き出せずに熱を上げる。

 明日菜はともかく一般人ののどかがいることから最初から船に乗っていたと予想するが、ならばどうして自分達は密航者の存在に気づかなかったのかと新たな謎が生まれる。

 

「聞けば分かることです」

 

 と、幾万通りの方策が電子脳で導き出され、その殆どが不可能として斜線を引かれたが最終的には当人達に聞けば分かると結論付ける。

 これでも茶々丸なりに混乱しているのかもしれない。

 もう少しで人間の目でも目視できる距離に船と茶々丸が近づくと、バーニアが発する音もあるのだろうが明日菜が早くも気づいたようだった。 

 

「信じられない五感です、明日菜さん」

 

 茶々丸の拡大された視線の先で明日菜が隣ののどかの肩を叩いて頭上を指差している。

 試しに茶々丸が軌道を変えるも、明日菜が指し示す指先は外れない。きちんと目視出来ている証拠だった。

 明日菜ほど五感が優れてないのどかは信じられない様子だったが、やがて茶々丸が彼女にも目視できる距離まで近づくと驚いた顔をしていた。

 おかしいのは明日菜だと結論付けた茶々丸は、前進する勢いを徐々に弱めてボロ漁船の上空からゆっくりと降りて行く。

 

「茶々丸さん!」

 

 意識のない二人を慮って安全運転で降りて来た茶々丸に真っ先に声をかけたのは明日菜だった。

 しかし、茶々丸は明日菜に答えることなく両肩に抱えていたアーニャとナナリーを床にそっと置く。

 

「大丈夫なの、二人は?」

 

 どうして敵に捕まったはずの二人が茶々丸が連れていたのかは分からないが、明日菜にとっては身の安否の方が重要である。

 

「魔法か魔法具によって眠らされているものと推察されます。怪我もありませんから自然と効果が切れるのを待つか、効果を解除することが出来れば自然と目を覚ますでしょう」

 

 それよりも、と問いながら膝を曲げて二人にそっと触れた明日菜に茶々丸はハッキリと怒りの混じった目を向けた。

 明日菜が二人に触れた瞬間、アーニャとナナリーの瞼がピクリと震えたことに茶々丸は気付かない。

 

「確認の為に聞きますが、お二人が密航できたのは超の手引きですか?」

「そ、そうよ」

 

 物静かで冷静沈着。悪い言い方をすれば感情を表に出さない。というのが茶々丸のクラス内でのイメージである。

 そんな茶々丸が怒気を滲ませて詰問してくるのに、密航したことに対する後ろめたさがあった明日菜はどもりながらも頷き、足元に置いてあったレインコートを拾い上げた。

 

「このレインコートを着れば一流の達人や茶々丸さんの電子機器にも引っかからないって貸してくれたの」

「………………」

 

 発せられる威圧感に竦みながらも答えた明日菜。だが、茶々丸は言葉を返さない。眉尻を顰めての攻撃的な沈黙だった。

 明日菜はゴクリと唾を飲み込む。乾いた喉に張り付いた唾液の感触がぎこちない。

 

(やはり超が…………。しかし、何のために二人を?)

 

 実際には創造主の一人である超鈴音の思惑が分からなくて、過去のデータから類似する思考パターンを割り出そうとするも果たせない。機械故の論理的な思考に囚われた茶々丸の限界だった。

 のどかに聞かなかったのは、彼女が「茶々丸さん、飛んでた…………。え? え? え? ロボットなの!?」と耳の突起や頭の後ろのゼンマイに各関節の異常さに今更ながらパニックに陥っていて聞ける雰囲気ではなかった。

 

「二人を助け出せたってことは勝ったってこと? どうなのよ、茶々丸さん」

「…………その前に聞かせて下さい。どうしてお二人は超の手伝いがあったといってもこの船に乗り込んだのですか?」

 

 質問に対して別の関係のない質問を被せることは失礼に値するだろうがこの時の茶々丸は構わなかった。

 二人なら超の目的を聞いているかもしれないと考えての問いだった。

 

「私はみんなが心配だったから……」

「わ、私は超さんがネギ先生の秘密を知りたいなら明日菜さんに付いて行けってそれで」

「事情は、分かりました」

 

 結局、超の目的は何一つ分からずじまいであることだけが分かって、茶々丸が感じ取った感情は人間でいえば落胆にも近いものだった。

 

「ど、どうして手引きしたのが超さんだって分かったんですか? もしかしてなにか不味かったでしょうか?」

「そのような発明品を開発できるのは超か葉加瀬ぐらいなものです。このような行為に出るとしたら超の可能性の方が高いと、それだけのことです」

 

 目の前で魔法関係の話をしといて今更だが、のどかは過去係累を幾ら遡っても魔法や異能とは全く関係のない至極真っ当な一般人のはずである。遅まきながらその事実に気づいて、割と焦っている茶々丸だった。

 明日菜に目をやれば彼女もどうしたものかと困惑した様子であった。もしかしたら茶々丸が来るまでに一問答あったのかもしれない。

 

「あの、ネギ先生達はどうしたんですか?」

「いえその、えと……」

 

 困惑しながらも嘘は許さない強い眼差しで問われたら黙っているわけにはいかない。茶々丸が二年と少しの間に構築してきた性格は、これほどに必死に問われたら否とは言えないものになっていた。

 上手い誤魔化しもできなくて口ごもる。こういう時、製造されてから二年と少ししかない経験の浅さが足を引っ張る。

 

「明日菜さん。あなたは今回のことがどれほどの大変なことか理解しているはずです。なのに何故こんなことをしたのですか?」

 

 と、のどかが言ったことを聞かなかったことにして、誰がどう見ても責任転嫁としか思えない状況を作り出す。

 論理的ではない思考に困惑したのは、言われた明日菜ではなく言った茶々丸当人の方だった。

 

(私は何を……?)

 

 困惑は強く、どこかにエラーが発生しているのかとチェックしても異常はどこにもない。

 一度吐き出した言葉は二度と戻ることはない。

 それでも茶々丸が選んだのは謝罪ではなく更なる詰問だった。

 

「明日菜さん」

 

 茶々丸に強い口調で詰問された明日菜が毅然とした表情で顔を上げた瞬間だった。

 島が爆音で揺れた。

 

「「「!?」」」

 

 島の中心部に聳え立つナマカ山の辺りから火山が噴火したような爆音が轟いて、その衝撃は島から数百メートル離れた船すらも揺らした。

 島の方向からやってくる衝撃が高い波を生み出して船を揺らし、堪えることが出来た茶々丸と咄嗟に近くの船首を掴めた明日菜と違ってのどかは立っていられずに倒れ込んだ。

 

「のどかちゃん!?」

「下手に動かさないで下さい。頭を打っている可能性もあります」

 

 衝撃は一回のみで波は何度もやってくるが茶々丸と明日菜ならば耐えられない程ではない。倒れ込んだまま起き上がらないのどかに駆け寄った明日菜を静止した茶々丸は、ゆっくりと頭部を持ち上げて触った感触を確かめる。

 

「感触からどうやら頭は打っていないようです。あの大きな音と倒れ込む際に頭を揺らしたことで気を失ったのでしょう」

 

 大事に至ってはいなさそうなので安心しながら、これはこれで都合の良い展開であると茶々丸は判断する。

 のどかが気絶している間に事態を収め、全員で口裏を合わせてしまえば気が強い方ではない彼女ならば追及することも出来ないと考えた。

 解決したわけではないがのどかの状況は好転しているので、この案件に使っているメモリを他に振り分ける。

 先の爆音と衝撃で可能性が高いのはアスカ達の行動を考えれば決まっている。

 

「もう戦いが始まってしまっている」

「え?」

 

 自分が戻る前に始まってしまった戦いに焦りを覚えた茶々丸は迂闊にも明日菜の前で口を滑らせてしまった。

 

「三人をお願いしますっ!」

「ちょ、ちょっと待って私も!」

「お願いしますと言いました!!」

 

 語気も荒く、背中と足裏のバーニアを全開にして船上から飛び上がる。目指すは戦いの舞台になっているだろうナマカ山である。辺りを警戒せずにバーニアに食わせて加速装置であるブースターを作動させて、ナマカ山へと向かおうとする。

 しかし、後少しで島の空域に入ろうとした瞬間、茶々丸は見えない壁に弾かれたように弾き返された。

 

「これは…………概念結界!? それも今までにない高度な術式」

 

 衝撃によるダメージを出しながら、機械で魔法的な事象を解析するために備え付けられている目を通した茶々丸の視界には、島全体を覆う巨大な結界を目撃する。

 超や葉加瀬の手によって、エヴァンジェリンの知識をデータベースにインプットされているにも限らず、欠片も解析できない結界を前に茶々丸は腕を差し出した。

 

「解析できない程度で諦めるわけにはいきません。マスターに任されているのです。侵入を拒むタイプの結界と推定。結界解除プログラム始動」

 

 茶々丸の内でモーター音が駆動する。

 0と1の世界で概念結界を解析しようと全ての機能が集約される。この時代ではありえないオーバーテクノロジーと六百年を生きるエヴァンジェリンの知識を融合された科学と魔法の融合。その全能力が目の前の結界を破壊せんと挑む。

 

「!?」

 

 しかし、結果は無残なものだった。

 結界を破ろうとした反作用か、茶々丸は弾かれた。神に挑んだ哀れな人間を憐れむように全能力を傾けていた茶々丸は墜落する。

 

「茶々丸さん!」

「大丈夫です、明日菜さん」

 

 かなりの距離を弾き飛ばされて船の上に落ちて来た茶々丸を受け止めようと腕を広げた明日菜だったが、その前に茶々丸はバーニアを吹いて体勢を立て直す。

 

「感謝を。気持ちだけ、ありがとうございます」

「ああ、うん」

 

 一瞬だけバーニアを吹かして船上に危なげなく着地した茶々丸を前にして、受け止めようとした明日菜の腕は向き所を失う。

 感謝されようがどこかスッキリしない気分で上げていた腕を下ろす。

 

「でも、どうしたの? いきなり空中で止まってたけど」

「この島には侵入者を阻む結界があるようです。一度出てしまったので入れなくなってしまいました」

「ん? アスカ達は普通に入ってたじゃない」

「恐らく島の人間、もしくはその血縁が一緒の時には結界は解除されると推定されます。それ以外の方法での突破は容易ではないでしょう」

 

 茶々丸は改めて島の結界を仰ぎ見る。

 結界を張った術者は現代ではありえぬほどの力量のようで、ただでは弾かれずに末端とはいえ解析に成功していたのに先程から術式が更に変化している。解析されたことに反応して術式が変化するような術式が組み込まれているのか。

 

「エヴァちゃんなら」

「マスターでも、です。結界を張った者は、この分野ではマスターを遥かに上回る技量を持っています。地脈の力を組み上げているので、正攻法もそれ以外の方法でも破るのは無理かと」

 

 これほどの結界で守られた伝承ならば信憑性も湧くだろう、と明日菜に語りながら結界破壊の方法を模索している茶々丸は、与えられた任務をこなす為の最適解を求め続ける。

 アスカらのような直感など存在しない茶々丸は思考し続けるしかない。そして論理で動く者は直感で動く人間の行動を予測できない。

 

我は汝が一部なり(シム・トゥア・パルス)、アスカ・スプリングフィールド!」 

 

 明日菜は魔法使いと仮契約を結んだ者が契約者の魔法使いから魔力を借り受ける呪文を唱えると、アスカから借り受ける白い魔力の光が全身を覆い、閃光のように船首を蹴って飛び出した。

 明日菜が唱えたのは、カモに事前に聞いていた魔法使いからの魔力供給ではなく、従者から主の魔力を引き出す魔法であった。

 魔法使いが眠りについていたり意識を失っていたりした場合、魔法使い自信が呪文を唱えて魔力を貸し与えることは出来なくなってしまう。しかし、そのような場合も、魔法使いと仮契約を結んだ者は、魔法使いの身を守らねばならず、そのために、自ら魔法使いから魔力を引き出す呪文がこれである。しかしながら、魔法使い自身が自ら魔力をコントロールするのとは異なり、その魔力運用には無駄が多い。

 それはともかく。

 力の使い方を、アスナは知っている。

 力の使い方を、明日菜は知らない。

 明日菜は自分ならばこの力を使えると信じれた。

 

「壁なんてものは叩き続ければ壊れるものよ! アデアット!!」 

 

 明日菜には目の前の結界は自分が叩けば壊れるという不思議な確信があった。

 確信のままにアーティファクト『ハマノツルギ』を呼び出すと、大剣(・・)を両手に握って一歩目の踏み出して何十メートルも跳躍する。

 眼の前の結界など、己の前には紙屑同然だとアスナは知っている。

 眼の前の結界など、己の前には紙屑同然だと明日菜は知らない。

 明日菜は自分にはこの結界を破壊することが出来ると確信していた。

 

「はぁああああああああああああああ――――――――っっっっ!!」

 

 雄叫びと共に背の後ろに回していた大剣を目前に迫っていた結界へと叩きつけた。

 結界はまるでガラス細工のように甲高い音を立てて壊れる。

 

「やった!」

 

 超高位魔法使いであるエヴァンジェリンですら破壊できないはずの結界をいとも容易く崩した明日菜は、己が為した偉業がどれほどの意味を持つかを知る由もなく空を飛ぶ術を持たないので呆気なく海に落ちた。

 

「明日菜さん…………一体、あなたは。いえ、今考えることではありません。この事態を活かさなければ」

 

 三人を残していくことに不安はあれど、明日菜こそが状況を好転させるキーパーソンになるのではないかと機械にあるまじき予感を覚えながら、バーニアを吹いて空へと飛び上がった。

 

「ん、ぅ……」

 

 茶々丸が飛び立った直後、揺れた船上でアーニャの瞼がゆっくりと開かれていくことに気づく者はいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ナマカ山の麓から続く大洞窟。入り口を遮るように現れた門番に始まり、立ち塞がる神獣や妖精・精霊を除けて辿り着いたのは何もない空洞だった。

 

「ここが祭壇……」

「……………」

「何もないように見えますえ。つまらないです」

 

 目的地に辿り着いた中で呆れ以外の感情を表しているのはゲイルだけだった。

 黙したまま周囲をそれとなく警戒するナーデは置いておき、真っ向から感情を表に出した月詠とまではいかなくてもフェイトもあまりの何もなさに呆れているようだった。

 三人とは違ってフォンは、生贄の地をくまなく探し、普通の学校の体育館よりも遥かに大きい空間の中で目立つ、ただ一つだけ異質な穴を見つけた。

 

「違うとすればこれぐらいか」

 

 遥か頭上で開いている穴から漏れる太陽の光が地上の穴へと降りていて、光に照らされているはずなのに穴の底は見えない。

 

「月の魔力が満ちる時、光の道が出来る。そこへ生贄を捧げることで水が湧き出す。伝承通りだ」

 

 どちらかといえば感情を表情に表すことのなかったゲイルが喜悦も露わにしながら語る。

 

「じゃあ、夜まで待たなあきまへんの? 退屈やしませんかアシュラフはん」

「もう何年も待ったのだから数時間ぐらいどうってことない」

「うちは退屈ですわ。そうや、フォンさん。ちょっと殺し合いません?」

「しねぇよ。お前と殺り合うとしつこいからもうしねぇ」

「フェイトはんは?」

「僕もパス」

「みんないけずやわぁ」

 

 暇潰しで殺し合いを提案してくる月詠にゲイル以外の全員が閉口する。

 相変わらずフェイトは傍からでは感情が読み難いが、月詠から少しだけ距離を取っていることから好き好んで殺し合いをするつもりはないのだろう。

 フォンは以前に付き合わされたので、もうコリゴリだと言わんばかりに獲物のハルバートと肩に担いでいるエミリアを抱え直す。

 ナーデなどは関わる気がないと言わんばかりに態度。

 誰も相手をしてくれないことに頬をプクゥと膨らませた月詠にゲイルが笑いかけた。

 

「それほどに殺し合いがしたければ外で待っているといい。直に獲物が自分から現れよう」

「ん~、ほんまでっか? 一般人が来たってうちの渇きは治りませんで」

「先の村にいた英雄の息子の仲間がいるだろう。人数だけは多少いたのだ。退屈を紛らわすぐらいは出来よう」

 

 その言葉の最中にゲイルがフェイトを見たのは、彼がアスカ達をわざと見逃したことを見抜いているのか。計略を立てて人を欺くことには人一倍長けている男なので、フェイトは表情一つ動かすことなく受け止める。

 全てを抜いた上で試しているのか、ゲイルは特に追及することなくフェイトから視線を外す。

 

「そら、来たぞ。そう時間もかかるまい」

 

 隠す気がないのか、それともゲイルが張っていた警戒網に引っ掛かって隠れて行動することが出来なかったのか。

 どちらにせよ、弱くとも敵と断定できる者達がやってきて万が一にも祭壇を破壊されればゲイルの願いは叶わない。

 

「夜が満ちるまでにはまだ時間がある。この祭壇を壊されるわけにはいかん。各自、迎撃に当たれ」

「了解!」

「…………ああ」

「了~解です♪」

「分かった」

 

 この仕事の最後の命令を下したゲイルは、各々が返事をして大洞窟の外に向かうのを見ながら邪悪に唇を歪めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ナマカ山を目指していたアスカ達一行にも大洞窟から出ようとしているフェイト達の強大な気配を捉える。

 かなりの距離があるがゲイル達は気配を隠す気など更々ないように大きい。魔法を使わなくとも感知能力が高いアスカには十分に感じ取れる距離と気配の大きさだった。

 

「奴らの気配だ!」

 

 先頭を走っていたアスカが並走しているか若干後ろを疾走している仲間達に警告する。

 この場に決死の思いで戦いに来たのだから仲間達も既に覚悟は出来ている。それでも敵の存在を告げられて心や表情に一瞬の細波が走る。

 

「テメェら覚悟を決めろよ! もう直ぐだ!」

 

 後ろを振り返ることなくアスカが叫ぶ。

 鼓舞するように放たれた叫びは仲間の動揺を感じ取ったのか。グンとスピードを上げて並走していたネギと小太郎の前に出た背中はそれ以上の言葉を語らなかった。

 どのような顔をしているのか、どのような気持ちを抱いているのか、後ろにいるネギに推し量ることは出来ない。

 推察することに意味はないと分かっていても、一度は殺されかけた相手にまた挑める精神を前にすると双子の兄であるネギですら理解できない面がある。

 

(昔から無鉄砲なところはあったけど…………何時も通りか。六年前もキレて悪魔を殴り飛ばしたぐらいだし)

 

 小さい頃から死ぬと確定した戦いに身を投じるような男だったろうかと考えて、可能な限り思い出したくもない六年前にアスカの行動が蘇って来て直ぐにその考えを否定する。

 あの時の状況と今の状況と、はたしてどちらが悪いのだろうかと戦いを前にして現実逃避にも似た思考を脳裏を過る。

 

「ボケっとすんなネギ!」

「わ、分かってるよ!」

 

 前を向いていても後ろには気を配っているのか、アスカの叫びにネギは動揺しながらも強い声で言い返した。

 戦いを前にして意識を別に向けるなど言語道断。戦闘には慣れているが殺し合いには慣れていないネギを見た小太郎は顔を逸らした。

 

「ぷくく」

「笑うな!」

 

 悪いのは自分であると自覚はあるが小太郎に笑われると納得できないものがあるのか、怒髪天を突かんとばかりに気勢を上げるネギ。

 

「二人ともこんな時に止めて下さい」

「戦いを前に余裕があるのは良い事でござるが、余裕がありすぎるのも問題でござるよ」

 

 喧嘩腰で睨み合う二人を止めようとする刹那と諌めようとする楓。

 そんな四人を最後尾で眺めていた真名は静かに二年前も握っていた愛銃をその手に持って我関せず。意識は完全に戦いに向いていた。

 村から出立した時は打って変わってチームワークの欠片も無い五人に、一人杖に乗って疾走するネギの肩の上で快適な空の旅を満喫しているはずのカモが前足を上げた。

 

「緊張を解すのはいいけどよ。アスカの兄貴が焦れて一人で突撃してるぜ」

「ああ!?」

「何時の間に!?」

 

 ネギと刹那が慌ててもアスカは大分離れた前方を驀進していた。何時もならこういう場で積極的にムードをぶち壊すのはアスカなのに役を取られて不貞腐れているのかもしれない。

 遅れている一行の中で小太郎が真っ先に飛び出したことがネギの神経を逆撫でする。今回の戦いでアスカの相棒を努めるのが自分ではなく小太郎であることが特に。

 

「小太郎君!」

 

 それでもこれまでずっとアスカの相棒をやってきたネギだからこそ小太郎に言わなければならないことがあった。

 

「なんやねん」

 

 名前を呼ばれた小太郎は嫌々ながらも走るスピードを緩めることなく顔だけを横にやってきたネギに向ける。何気に世話焼きなところがある刹那などはハラハラとした様子でまた喧嘩をするのではないかと二人を見ていたりする。

 

「アスカを頼む」

 

 心底からうざったいという感情を表情に乗せて放たれた言葉に返ってきた言葉は小太郎の予想の範囲外だった。

 互いに性格が合わないこともあって嫌みの一つでも言われるのかと思ったらまさかの「アスカを頼む」なんて信頼全開の言葉を向けられたのだ。耳にアスカのアーティファクトである『絆の銀』を付けた小太郎は動揺した。

 

「今回は剛腹で信じられなくてありえなくて最悪で最低なことに、君がアスカの相棒を僕の代わりに務めることになってる」

「失礼なやっちゃの。つか、どんだけアスカのこと好きやねん」

「家族が好きで何が悪い」

「…………俺が悪かったからそんな怖いすんなって。人間、スマイルが一番やぞ」

 

 笑って笑って、とネギの琴線に触るワード第一位の『家族』に触れてしまって気圧されてしまった小太郎は下手に出るしかない。

 ヒヨッた小太郎の態度に満足したのか、一瞬で感情を素に戻したネギは改めて表情を引き締める。

 

「アスカを頼む」

「そこで戻すんかい」

「今回は君がアスカのパートナーだ」

 

 魔法に頼りきりで六感で気配を感じ取る能力が低いネギでも敵を感じ取れる距離まで近づいている。流石にこれ以上は無駄話をしている余裕も無いので呆れている小太郎を無視して話を進めるネギだった。

 

「本当なら認めたくないけど、アスカが()一番強くなれるパートナーは君だ。僕じゃない」

 

 殊更に「今」を強調しているところにネギの気持ちが出ているのを、後ろで聞いていた刹那は感じ取った。

 刹那は朝の会話を思い出す。

 

『この中で一番強いのはアスカとネギ坊やが合体したネスカだ』

 

 この島に来る前に、この面子の最強戦力であると言ったのは全員を知りネスカと戦ったエヴァンジェリンである。

 

『私を上回る魔力にネギ坊やの魔法とアスカの近接能力が合わさり、遠中近と苦手な距離はない。逆に言えば特化した能力や距離がなくて没個性になりがちだが、そこは二人の特性が上手く噛み合っている。今の二人が合体したところで極大の魔力による力押しでは本物(・・)には勝てんがな』

 

 エヴァンジェリンが言った本物――――フェイト・アーウェンルンクスにネスカでは勝てないことは、ネギもアスカもその身で十分に分かってしまった。

 アスカのアーティファクト『絆の銀』は他人に譲渡は出来ない。片方は必ずアスカに限られ、ネギ以上に相性の良い者はいない。どうやってもネスカ以上の戦士は生まれえないのだ。だが、相性が良ければ足し算どころか乗算以上の効果を生むアーティファクトを使用しないなどありえない。

 そしてネギ以外に白羽の矢が立ったのが小太郎だった。 

 

「アスカと良く似た単純で直情的な性格。これは理知的な僕にはとても真似出来そうにない。羨ましいぐらいだよ」

「なあ、楓姉ちゃん。俺は貶されとるんか?」

「ネギ坊主は偶に素で毒を吐くでござるからな」

 

 殴ってええかこいつ、と小太郎の同意を求める言葉に否定も肯定もしていない楓に、上手い躱し方だなと内心感心したのは刹那だけである。

 

「なんといっても君のアーティファクト『繋がれざる首輪』の能力強化の効果が大きい。認めたくないけど君に託すしかない」

「ネギ……」

「恥を忍んで頼む。アスカを君に任せる」

 

 強い眼、強い言葉で言い切ったネギに小太郎は今までの蟠りが解けていくのを感じ取った。

 

「男にここまで言われて応えな男やないで。アスカのことは任せろや、ネギ」

 

 和解のアクションだと言わんばかりに小太郎は並走するネギに向けて拳を突き出す。

 小太郎からの歩み寄りにネギもまた拳を以て答える。

 

「勝とう」

「当然や。俺は負けるつもりで戦う気はないで」

 

 ゴツン、と痛みすら感じる強さで拳をぶつけ合った二人の大分前で、自分を巡っての小っ恥ずかしいやり取りをされたアスカの耳は林檎のように真っ赤なのを真名だけは見逃さなかった。

 

「…………いた!!」

 

 それから少し走って、遂にアスカ達は大洞窟の前に陣取る敵の姿を捉えた。

 事前に決めていたようにネギが詠唱を唱える。

 

風よ(ウェンテ)!!」

 

 直進するネギの直線状に風が吹き荒れ、疾走するアスカ達の姿を隠して大洞窟前の空間が砂塵で埋め尽くされる。

 

「小癪なんだよ!!」

 

 視界を覆い尽くす砂塵を鬱陶しく思ったフォンが獲物のハルバートを振るい、その風圧で砂塵を払いのけようとした直後に飛びこんでくる十数の気配。

 敵のなんらかの術や魔法であることは間違いない。視界を遮る砂塵を払うために獲物を振るうことは、同時に自分の隙に繋がりかねない。フォンが躊躇った一瞬に動いた人影があった。

 

「入れ食いですわぁ」

 

 ゆらりと月詠が動くと仲間であるはずのフェイト達が回避行動に移った。念動力で十数の気配を纏めて叩き潰そうとしていたフォンも続かざるをえない。

 フェイトらの回避行動の意味が分かっていないのか、飛びこんできた十数の気配は構わず直進する。回避の「か」の気配もない。

 

「神鳴流奥義…………二刀・百烈桜華斬」

 

 動き出しは緩やかだった。しかし、二刀を以て再現された神鳴流の奥義は、その緩やかな動き出しとは違って苛烈な剣閃を無数に放ち、十数の気配を一瞬で寸断する。

 寸断した中に実体が混じっていないことは斬った感触で分かった月詠だったが落胆はしなかった。

 

「月詠ぃっ!!」

「ああ、センパイやぁ」

 

 自分と同じはぐれ者である刹那が掻き回された砂塵を割って向かってきたのを受け止めれば落胆など覚えるはずもない。

 体格差と技後硬直で気の練りが甘い月詠は、刹那の体当たりにも近い打ち込みを二刀で受け止めて飛ばされるに敢えて任せた。

 

「ちっ、月詠!」

「お主の相手は拙者でござる!!」

「私達も混ぜてもらおうかしらマナ!」

「やってやるナーデ!」

 

 月詠が刹那と共にこの場から離れて行くことを感じ取ったフォンに複数の分身で体当たりを仕掛ける楓。

 月詠達とは反対方向に弾き飛ばされたフォン達を追って示し合わせたようにナーデと真名が後を追う。

 

「残ったのは僕だけか」

「いいや、お前もこの場から離れてもらうぜ!」

「俺達に倒されるためにや!!」

「君達程度では無理だよ」

 

 気配と声からゲイル一行の中でただ一人残ったと感じ取ったフェイトは、愚かにも声を放つ二人がいる方角へ向けて片手を掲げる。二人の作戦はフェイトには幼稚すぎた。

 フェイトが障壁突破・石の槍を放てば間違いなく二人を貫く。しかし………。

 

「来れ地の精 花の精 夢誘う花纏いて蒼空の下、駆け抜けよ 一陣の嵐 春の嵐!!」

 

 砂塵を抉り取るように旋風が自らへと直進していた。

 幼稚すぎる策だと思って離れた場所で詠唱していたネギの気配探知を怠ったフェイトの油断だった。

 フェイトは放とうとしてた障壁突破・石の槍をキャンセルして障壁に力を注ぐ。直後、凄まじい轟音を立てて春の嵐が強化した障壁にぶち当たった。

 

「くっ、無駄に魔力を込めて…………!」

 

 片手で受けきろうとしたフェイトに咄嗟に両手を使わせるほどに込められた魔力は甚大。魔力を全て注ぎ込んだのではないかと思うほどに、普通の春の嵐よりも強力であった。

 しかし、もう少しで春の嵐が途切れると、徐々に障壁にかかる圧力が減っていることから察することが出来た。

 

「確かに俺達は一人一人は弱い。でもな、力を合わせればどうだ!!」

 

 なのに、障壁を突破しようと轟音を発する中で信じられない声がフェイトの耳に届いた。

 信じられないことに春の嵐の中からアスカと小太郎が特攻していた。なのに、その身には春の嵐の影響は殆どない。中級魔法ではあるが中心部を直進しながら、二人が服が切り裂かれ肌に多少の裂傷を負うだけに留められるのは信じられないほどのネギの制御能力であってこそ。

 

「「合体!!」」

 

 小太郎と共に突撃していくアスカの姿が重なる。

 春の嵐が掻き消え、砂塵が掻き回されて余計に悪くなっている視界の中で光る一条の光。

 

「よっしゃ――――っっ!!」

「!?」

 

 ネスカとはまた別の気配にフェイトもまた一瞬の驚きを得る。

 

「アスカと小太郎が合体してアスタロウや! 以後、お見知りおきおってな!!」

 

 目の前のアスタロウと自らを称した存在から魔力と気が同時に発現されて、フェイトは十年振りの隙を生み出してしまう。

 アスタロウはその隙を逃さない。右手に力を集めて障壁に叩きつけた。

 

「!?」

 

 堅牢を誇る魔法障壁が「アスカ+小太郎=アスタロウ」の一撃によって罅が入った。莫大な魔力を込められた春の嵐とアスタロウの全力の一撃によって障壁が限界を超えようとしているのだ。ネギの春の嵐があってこそだが、その拳の一撃の威力は中級魔法にも匹敵するということか。

 アスタロウの実力では罅など入るはずがない。そうタカを括っていたフェイトの表情に小波のような感情が走った。

 

「いっけぇぇえええええええええええええ!!!!」

 

 障壁はまだ持ち堪えている。それでも受けた防御を揺るがされるほどの衝撃にフェイトの足は宙に浮く。

 

「ネギ!」

「任せて!!」

 

 小太郎のアーティファクトである『繋がれざる首輪』の効果を全開にして、能力を倍加させたアスタロウはフェイトの体を直上に弾き飛ばす。その眼下で遮る者のいなくなった大洞窟に単身侵入するネギをサポートする。

 アスタロウがフェイトを弾き飛ばした距離はナマカ山の中腹にまで及ぶが、何時までも無防備にやられてくれるはずがない。

 

「あああああああああああああっ!!!!」

 

 アスタロウが全身から更なる光を迸らせて力を込めると障壁の罅が次々と広がり連鎖していく。

 そして遂には――――。

 全力を込めた拳は難攻不落の障壁を突破した。これでフェイトとアスタロウの間に遮るものは何もない。アスタロウの顔に勝機を確信した笑みが広がって―――――直ぐに愕然とした表情に変わった。

 

「―――――――成る程、僅かな実戦経験で驚く程の成長だね。アスタロウといったっけ。見事だよ」 

 

 拳はフェイトの顔面を捉えるはずだった。その前に掲げられた掌さえなければ。

 全力を込めた拳を小さな子供が殴りかかってきたのを受けるようにあっさりと止められていた。

 

「だが、今の君では僕に遠く及ばない」 

 

 そんなことはフェイトの言われるまでもなく分かっていた。

 倒せなくても一撃を入れて僅かな時間稼ぎをするため。なのに、これほどあっさりと止められるとは。

 

「やってくれたね。分散されたか。だが、僕の仕事は終わっている」

 

 言いながら膝蹴りをアスタロウの鳩尾に叩き込み、回り込んで後頭部に裏拳を叩きこんでナマカ山にめり込ませたフェイトは、誰もいなくなった大洞窟の入り口を見遣る。

 

「がはっ、ぐっ……。ふざけんやないで!」

 

 めり込んだ体を起こしながらアスタロウは戦意も高く宙を浮くフェイトを睨み付ける。

 見た目が小太郎と混ざったようでも、アスカの時と何一つ変わらないその眼がフェイトの脳裏に何も果たせなかった英雄を想起させる。

 

「その眼は不快だ。彼を思い出させる」

「うっせぇ。人のことなんか知るかいな」

「他人の評価などどうでもいいとばかりの、そういうところが特にだ。君を見ているだけで僕の中で気持ち悪い何かが込み上げてくる」

 

 フェイトは全身に魔力を纏い、冷たい目で苛烈に山腹に立つアスタロウを見て胸に手を当てた。

 

「こっちだって同じや。テメェだけは最初から気に入らんかったんや!!」

「同感だ。僕も君が気に入らない」

 

 指を指して気勢を上げるアスタロウを見下ろしたフェイトは自分の感情に納得が言ったように、胸に当てていた手を外した。

 同意が得たかったわけではないアスタロウは、気になっていた事柄を尋ねる為に口を開いた。

 

「お前、名前はなんていうや?」

「今更仲良くでもしたいのかい? 残念だけど僕にはその気がこれっぽちもない」

「違うわい。ぶっ倒した相手の名前ぐらいは知っとくのが最低限の礼儀やろ」

「…………弱い奴ほどよく吠えると言うが本当だったようだね。だが、良いだろう。君だって自分を殺した相手の名前が分からないんじゃ、困るだろうからね」

 

 互いに戦闘の気運を高めながら、フェイトは同時にある種の昂りが自分の中に生まれつつあるのを感じ取った。

 

「僕の名は……」

 

 何と名乗るべきかと一瞬フェイトは逡巡した。

 主より与えられた名か、それとも自分で名づけた名か。

 逡巡は一瞬だった、目の前の男は十年前の英雄とは違う。だからこそ、自分もまた十年前の僅かとはいえ英雄に期待した過去との決別を図る為に名乗る前は決まった。

 

「フェイト・アーウェンルンクスだ!!」

 

 不思議な高揚を胸にフェイトはアスタロウへと飛び掛かったのだった。

 

 

 

 

 




エヴァンジェリン 到着予定・翌日(日本で学園長が頑張っており、ホテル内で待機中)
高畑 到着予定・数時間から数十分先(海の上を疾走中)
鶴子 到着予定・9時間後(ハワイ行きの飛行機の中)

結界破壊方法 A.明日菜の魔法無効化能力による結界破壊でした。
そして早めのアルビレオ・イマの登場。戦闘には関わりませんが彼のお蔭でエヴァンジェリンが間に合うかも。
もし、明日菜が結界を破壊しなかったら高畑とエヴァンジェリンが間に合っても結界を前にして立往生する羽目になってました。

アーニャも目覚め、なにか行動を起こすかも。
のどかはこのまま気絶。魔法に関わったようで知らないような立ち位置です。



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第21話 代価の天秤

 

 フォン・ブラウンの最も古い記憶は業火の中に一人で佇んでいるものだった。

 

『父さん!』

 

 業火に包まれているのは村か町か街か。フォンの記憶の中ではそこそこ大きな場所だったと覚えているが、何分子供目線の記憶なので当てになるかどうか疑わしい。仮にフォンが暮らしていたのが町と仮定すると業火に包まれているのは何故か。

 この頃の記憶の殆どが残っていないフォンには皆目見当もつかない。大人になった今ならば調べることも出来たがしなかった。フォンには意味のないことだったからだ。

 

『父さん! 父さん!!』

 

 思い出せるのは業火に包まれる町。そしてその只中で唯一の肉親を呼ぶ自分。空に走る稲妻、振り降りてくる大剣、突如として割れた雲、圧殺された山、と奇妙なことはいくらでもあったはずなのに、フォンが覚えているのはそんな小さなものだけだった。

 

『生き残りか』

 

 怯え、泣いていたフォンの前に現れたのは一人の男。業火の中で尚も絢爛と輝く紅き瞳を持つゲイル・キングスとの出会いがフォンの運命を変えた。

 

『少年、死にたくなければ私と共に来るがいい』

 

 不思議な親近感に突き動かされ、フォンは先に歩き出したゲイルの後を追ったのである。

 それがフォンの最大の過ちだったと気づくのは、二十年も経ってからになる。

 

 

 

 

 

 時は流れ、ハワイの地でオッケンワインの家を襲撃したその夜。誘拐してきたナナリー・ミルケインを他の仲間に任せて再びオッケンワイン家に戻り、島への偽りの手掛かりを残してきたその帰り道で、二十年の時を経て大きく成長したフォンは自分よりも背が低くなったゲイルを見下ろした。

 

「ナーデレフ・アシュラフは裏切る」

 

 弾丸の女、ナーデレフ・アシュラフ。仲間ではあるが腹に一物を抱えているのは他の者も同じ。だが、ゲイルは不思議な確信と共に言い切った。フォンはゲイルの言葉を疑わない。

 

「奴は非情になろうとしてなりきれない甘い女だ。遅かれ早かれ必ず我らを裏切る」

 

 気持ちの上では見上げているつもりの気持ちのフォンは、ゲイルの言葉を一言一句も聞き逃さぬように耳を澄ませた。

 

「裏切る前に殺しますか?」

「あの戦闘力は魅力的だ。それに下手に反抗されては痛手を被る。今はまだ様子を見るとしよう」

 

 今までそうやってきたから、フォンはゲイルの言葉に意を挟まない。視線の先で闇の中でも煌々と光る紅い眼を持つゲイルに内心で陶酔しながら、続く言葉を待つ。

 

「だが、肝心な時に裏切られては困るのもまた事実。機を見なければならない。しかし、奴は私達を、特に私を警戒している。相当の修羅場を潜っている女だ。そう簡単に隙は晒さんだろう」

「なら、俺が」

「任せる」

 

 二十年の時を共に過ごしたフォンがゲイルに向ける気持ちは、時に神であり、時に父であり、時に盟友であり、時に上司である。どれにせよ敬愛と信仰が入り混じった酷く複雑な感情であった。

 絶対の信頼こそが命取りになると知らぬまま、フォンにゲイルを疑う気持ちは微塵もない。

 

「フォンとの付き合いも、もう二十年になるか」

 

 ふと、ゲイルは今まさに思いついたように言った。

 

「はい。あなたに拾われてからそんなになりますか…………懐かしいものです」

「ふ、あの小さな子供が私が見上げるまでに成長したのだ。月日が経つのは早い。力で私を超えるのも近いか」

「似合わないことを仰らないで下さい。俺などまだまだです」

 

 フォンには母親がいなかった。父親は屈強な戦士で男手一つで育ててくれた。二十年前の魔法世界は戦争の最中だったので、片親などさして珍しい事ではなかった。

 孤児などいくらでもいたし、片親とはいえ親と家があったフォンは当時の時代を考えれば恵まれた方だったのだろう。その父とも二十年前に別れたきりである。流石のフォンも肉親のことだけは気になって調べたことがあるが、二十年前のあの時に行方不明、死体が見つかっていないだけで事実上は死亡扱いになっているようだった。

 もしかしたらフォンは記憶に薄らとある父の面影をゲイルに重ねているのかもしれない。

 

「私も年を取った。このままでは現役でいられる時間もそう長くはないだろう」

 

 精神面は歳を重ねるほどに円熟している。だが、肉体だけはそうはいかなかった。月日が経つほどに肉体は衰えていく。ゲイルに始めて会った時は二十代後半の父と同じ頃の年代で、衰えるには早いかもしれないが魔眼がなんらかの影響を肉体に与えているのかもしれないとフォンは考えていた。

 

「その為のカネの水です。不老不死となればゲイル・キングスは何時までも不滅となります」

 

 ゲイルが衰えを見せ始めたのはここ数年だった。フォンにはそれがどうしても我慢できなかった。神の衰えを許容できるはずがない。

 

「そうだったな。頼りになるのはお前だけだ、フォン」

 

 ゲイルは口元を笑みの形にしてフォンを見る。

 ドクン、とフォンは紅い眼で見られて心臓を大きく跳ねさせた。多くの者がゲイルの魔眼に魅入られると恐怖を感じるようだが、フォンだけは不思議な落ち着きと高揚を覚える。それこそがゲイルに対する自身の気持ちの現れと信頼の証なのだとフォンは何時も誇りに感じる。

 

「本当に、頼りにしている」

 

 ニヤリ、と嗤ったゲイルの笑みに気づかぬままフォンは哀れにも人形のように踊り続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フォン・ブラウンに何度目かの突撃を仕掛けた長瀬楓は、無形の壁によって弾き飛ばされながら敵の強さを垣間見、その身で体感していた。

 

「流石に強いでござるな……っ!」

 

 木の幹に足を付けて弾き飛ばされた衝撃を殺した楓は、即座にその幹から跳躍して離脱する。直後、楓が足をつけた木は幹から寸断される。形がなく色もない刃によって切り裂かれた木の上半分が地に落ちて大きな音を立てた。轟音を気にすることも無く、楓は木の間を駆動し続ける。

 一息の間に右の横合いから飛び出して拳を突き出すが、フォンがハルバートをくるりと柄を回したことで穂先とは逆の石突きが急回転してあっさりと腕を弾かれる。

 

「フッ!」

 

 分身の攻撃を弾いたハルバートの急回転を活かして、巧みな捌きで柄を動かして穂先を楓のお腹に当て、鋭い呼気と共に弾き飛ばした。

 

「ッ!?」

 

 分身とはいえこれほど簡単に倒されるとは考えていなかったのか、一瞬だけ本体の動きが鈍る。その出来た時間にフォンは本体へと向き直っている。気配を消そうが、死角から迫ろうが、実力で勝るフォンの感覚から逃れることはできない。後ろから気配を消して接近している本体の楓も見ずに察知していた。

 

「忍!」

 

 フォンが振り返る頃には楓も既に正気に戻っており、右手の指を口の前に立てて何事かを呟いた瞬間、楓の姿は増えて十六人になっていた。

 眼の前に現れた十六人に増えた楓を前にして、フォンはこの身だけではいずれ手数で追い込まれてしまうと即座に結論を出した。0コンマ数秒で対抗策を練り上げる。

 

「纏めて吹き飛べっ!」

 

 柄を両手で強く握り、穂先に念動力を纏わせて横薙ぎに振るう。十六の分身と本体の区別などどうでもいいとばかりに、全てを迎え撃たんと念動力が、振るわれたハルバートの軌道上に広がって行く。

 

「な?! くっ」

 

 分身同様に動揺した本体の楓もまた辛うじて胸の前で腕をクロスして受けるが、耐えられずに自分の分身達と一緒に吹き飛ばされる。

 本体の楓が吹き飛ばされ、分身達が消失する。楓は攻撃を意志を忘れずに手に気弾を生み出してフォンに向かって投げた。

 気弾は弱すぎて避けるにも値しなかったのか、フォンの鎧に当たってカツンと乾いた音を立てる。鉄壁を誇っていたフォンに攻撃を当てられたことに楓は目を瞠る。

 

(もしかして、攻撃と防御の同時にあの不可思議な力を発動することが出来ないのではござらんか)

 

 衝撃は軽かったのだろう。少しフォンがよろめいた程度である。しかし、そこに楓は突破口を見つけた。

 

「大したことないくせに足だけはすばしっこい」

 

 無形の衝撃波を放った張本人であるフォンは、この場に来てから一歩も動いておらず、煩わしげに得物のハルバートを肩に担ぎ直す。

 

「この場所も悪いな。俺には不利だ」

 

 いくら筋骨隆々なフォンでも両手で持って始めて使えるようなハルバートを片手で握りながら、今の一撃で根元から吹き飛ばされた木々を見渡す。

 人の手なんて欠片も入っていない森の中がバトルフィールドなので、強大なハルバートは振るうだけでも木にぶつかる。もう何度も振るっているのでフォンがいる場所から半径十数メートルが伐採されているが、武器に対して不向きなバトルフィールドである。

 

「が、地形が不利なぐらいでお前程度に負ける気はしないがな」

 

 ガチャリ、と纏っている鎧を鳴らし、真っ向勝負を避けて死角から攻撃を仕掛けてくる敵の力量を見抜いて一人ごちる。

 悠々と待ち構えるフォンの姿を、分身達が消失した際に発生した煙に紛れて隠れた木の幹から覗き見た楓は死線の緊張に冷たい汗を額から流す。

 

「話以上、でござる」

 

 止まっていた息を大きく吐き出し、そしてまた息を吸い込む。心臓が大きく高鳴り、耳元で流れる血流の音すら響いているようでひどく落ち着かない。

 

「鉄壁の防御に強力な攻撃。隙がないでござるな」

 

 唯一の救いは戦う楓に竦みや怯えがないことであろうか。突破口もなくはない。

 

「攻撃と防御の隙間。はたさて、どうやって崩すか」

 

 真正面からの特攻は却下。言ってて情けないが楓に敵の防御を突破するほどのパワーはない。攻撃もまた同様だ。丈夫な方ではあるがハルバートと無形の力を耐えられるとは思えない。

 

「探りを入れてみるでござるか」

 

 影分身を四体生み出して四方に散らせ、本体は動くことなく推移を見守る。

 

「来たかっ!」

 

 本体の楓が見守る中で分身四体に前後左右から挟撃を受けるフォンが吠えた。

 フォンがハルバートの穂先を地面に打ち立てると、その衝撃が広がるように無形の球体がフォンの体を包み込んだ。

 

「「「「忍!」」」」

 

 分身達が揃って結界破壊の術を作動させ、掌底を四方から畳み込んで無形の球体を破壊する。

 ガラスが割れるような音が響いて結界が壊れ、結界破壊を行なった掌底とは反対の手を振りかぶった分身達は気を漲らせる。

 

「四つ身分身、朧十字」

 

 本体が技の名前を呟いたが、楓渾身の技が放たれることはなかった。

 

「弱い」

 

 結界を破壊させたのは囮だったのか。分身達を楓にとっては謎の力でその空間で固定して動けなくさせたフォンは、ハルバートを持っていない手の平を握った。すると分身達はまるで空間が握り潰されたかのように潰れた。

 

「凄まじいでござるな。手に負えん。これでは隙間を狙えるかどうか。今度は言葉で揺さぶりをかけてみるでござるか」

 

 その全てを隠れて見ていた楓は、攻撃の重みが本体とほぼ変わらない分身達の総攻撃を受けても小揺るぎもしないフォンに震撼する。攻防の能力のみならず、自分よりも弱い相手に油断もしていないことが特に。

 

「お主には女人に対して手加減をしようという気にならんのでござるか」

 

 特殊な忍術を使い、声を反響させて隠れている場所がばれない様に留意しつつ、言葉による揺さぶりをかける。

 

「手加減など知らん。戦いの場に立てば誰もが平等。女扱いしてほしいなら服脱いでアピールでもしてろ」

「ぬ」

 

 鎧を着てハルバートを持っているので騎士道精神でも持っているのではないかと期待したが、まこと言う通りなので言い返せない楓だった。

 

「戦場で性の差などない。その言葉には大いに賛成でござる」

 

 ならばと矛先を変える。

 

「だが、子供を生贄にするなどと人道に反する。間違っているとは思わないのでござるか」

「思わないな。人道などどうでもいいし、他人の命に興味もない。俺はボスの命令に従うのみ。ボスこそが絶対だ」

 

 揺さぶりをかけた楓の眼下で言い切ったフォンはハルバートを両手に強く握った。

 狂信とでもいうべき信頼に対して言葉での揺さぶりは損にはなれど得にはならないと判断した楓だったが、それでも言わなければならないことがあった。

 

「絶対とは、人が人に向けて良い感情ではござらん。そんなものは決して忠義ではない!」

 

 木の影から手裏剣を投げつける。合計八の手裏剣は、時には正面から、時には孤を描きつつ横から、時には木を迂回しつつ背後からフォンへと迫る。

 

「お前の言葉など知らぬ存ぜぬどうでもいい」

 

 八つの手裏剣はフォンの体に触れることはなかった。体の周囲に展開された念動力によって堰き止められ、見えない蜘蛛の巣に搦め取られたように空中に静止していた。

 更に手裏剣が投擲される。今度は斜め下から、上から、先に倍する十六の手裏剣が飛来する。

 

「ボスは誰よりも正しい。ボスの望みは俺の望み。邪魔をするものは皆、殺す。今まで俺はそうしてきた。そしてこれからもそうするのみ」

 

 しかし、今度もまた止められる。先の八つの手裏剣のように見えない壁に阻まれる様に静止する。

 だが、今度の手裏剣には先程とは違う。手裏剣には糸が付けられていて、その先には爆符と呼ばれる起爆札があった。

 

「お主には出来ないでござる。ここで今までの罪の報いを受けるでござるのだから」

 

 カチリ、と音が鳴った。投げ込まれたのは火種。

 火種はゆっくりと爆符に舞い降り、盛大な爆発を引き起こした。一枚目が起爆し、その爆発に反応して二枚目が、三枚目が…………と、連鎖して一瞬で爆符はその効果を示す。

 フォンのいた場所を起点として十数メートルを呑み込む巨大な爆発。

 

「その爆符は特別製でござる。これならば」

 

 フォンがいた場所を爆心地として濛々たる黒煙は天空高く舞い上がり、島外からでも良く見えることだろう。間一髪で逃げ延びた楓は、爆風によってあちこちを焦げさせながら振り返る。

 

「…………今、なにかしたか?」

「なっ」

 

 平然とした声が響いた直後、黒煙が一瞬で晴れる。風もなく時間を飛ばしたように消えた黒煙が一点に収束していた。

 黒煙が晴れた先、周辺を爆発によって抉り飛ばしながら中心地で平然と立つフォンに傷はない。傷どころか鎧に煤すらついていなかった。

 

「ボスに鍛え上げられたこの力。お前程度の力で突破することは叶わん」

 

 掲げた手の平の上で留めていた黒煙の固まりを楓に向かって投げつける。

 物理法則を無視した不可思議な軌道で楓の下へと飛来した黒煙がその固まりを解いた。念動力によって圧縮された黒煙が解放され、楓を一瞬で包んだ。

 

「煙幕のつもりでござるか!」

「お前の物を返しただけだ。親に言われなかったか。『人の物を盗るな』とな」

 

 瞬く間に周囲に広がる黒煙を厭うように、離脱しようとしたその刹那。横合いからなにが飛んできた。

 

「ごふっ」

 

 楓の脇腹を殴打したそれは太い丸太だった。風切音すらなく飛来した丸太は先の爆符によって出来たものか、フォンが斬りおとしたものか。そんな埒もない思考が痛みに呻く楓の脳内に走り、戦士としての本能がフォンの攻撃がこれだけで終わるはずがないと体を動かさせる。

 

「ほう、今のはよく避けた」

 

 体を捻らせて開いた空間に、先が尖った丸太が通り過ぎて行く。また風切音はしなかった。

 本能に理性が追い付き、動きを止めることへの危機感に急かされて虚空瞬動を繰り返すと、ボッと黒煙を抉って次々と丸太が楓が一瞬前にいた空間を通り過ぎて行く。丸太の飛来はそれだけに留まらない。時に孤を描き、時に間を遮る木を貫き、時に頭上から雨の如く振り降り、時には下から抉るように振り上がり、時には物理法則を無視して横殴りに突進してくる。

 判断が僅かでも遅れれば丸太は楓の肉体を貫くことだろう。自分でも良く避けれていると思うほどに、この時の楓の回避動作は神懸っていた。

 

「いい加減にうっとうしい。これで沈め」

 

 念動力で丸太を投擲することで風切音すら発生させずに攻撃していたフォンは、ハルバートを振り上げ――――緩やかな動作で振り下ろした。

 

「え?」

 

 殺気を感じた。物理的な威圧感とでも言うべきか。

 空が落ちてくる、と考える前に本能で動いていた楓はそう感じ取って空中で動きを止めた。止めてしまった。見上げたところでそこには空があるだけだ。なのに見上げた空が落ちてくるような錯覚は余計に強くなる。

 

「!?」 

 

 突如としてガクンと天井にぶつかってしまったように楓の体は衝撃に揺れた。

 そのまま真下に叩き落とされる―――――のではなく、天井が下に落ちていくようにぶつかった背中側から圧迫感を感じた楓は虚空瞬動で離脱しようとした。だが、抜けられない。一歩で数メートル、二歩で十数メートルと距離を稼いでいるはずなのに背中の圧迫感は消えない。地面への距離が着々と近づいていく。

 三歩、四歩でようやく圧迫感から逃れることに成功する。成功したはずだった。寸でのところで間に合わなかったと見るべきか、足一本を犠牲にすることで離脱したとするべきか。飛んできた木が体に当たる。

 退避に全力を注いでいたのと、圧迫感によって地面が近づいていたことと、木がぶつかったことで着地が上手くいくはずがなかった。勢いのままに地面に倒れ込んで何度も無様に転げ回る。数メートルを転がってようやく止まった楓の全身は土まみれでで、気で全身を覆っていようとカバーしきれなかったことで細かい傷が出来ていた。

 切れた額から流れた血が眉間を流れて行く。

 

「なんと……」

 

 楓は絶句した。全身の痛みすらも感じぬほどに見えた光景に驚愕していた。

 地面から首だけを起こしただけの楓と、戦い始めてから一歩も動いていないフォンとの距離は二十メートル以上はある。互いの間にはなにもなかった。二人が戦っていたのは森の中である。断じて更地ではなかった。にも拘らず、フォンを中心にして放射状に広がった念動力によって地面に深く根ざしていた木を根こそぎ吹き飛ばしたのだ。

 敵を前にして何時までも地に伏せてはいられない。

 

「がっ、ぁ……」

 

 体を起こそうとした楓は全身に痛みが走って呻く。木が当たった衝撃でどこかの骨が折れたか、罅が入ったのか。痛みは確実に楓の集中を乱すだけの威力を持っていた。

 痛みによって唯一上回っていた機動力を奪われた楓が絶望する中で、当のフォンは戦闘が始まった開始位置から一歩も動いていない。一歩、たった一歩すら動かすことが出来ない実力差。

 

「弱い。弱すぎる。この程度で俺と戦うなど片腹痛いわ。そのくせ無駄に時間だけをかけさせる」

 

 手応えがなさすぎて苛立っているように、下ろしていたハルバートを肩に担ぎ直したフォンは、なんとか立ち上がろうとしている楓を傲然と見下した。

 これは勝てそうにない、と楓は全身に走る痛みに死への覚悟を定めた。本気にすらさせることが出来ない確たる実力差を前にして出来ることなど、惨めな足掻きだけかもしれない。

 

「仲間達が今も戦っている。弱かろうが拙者も簡単にはやられるわけにはいかんのでござる。付き合ってもらうでござるよ。拙者の命が尽きるその時まで」

 

 それでも楓は良いのだと立ち上がる。勝てないと分かっていても、死ぬと分かっていても、為すべきことの為に命を賭けられる強さが楓にはあった。

 その強さを他人は羨むだろう。

 その強さを身内は悲しむだろう。

 命を他人の為に投げ出せるのは長所であり短所でもある。救われる他人にとっては救いであり、他人の為に命を捨てる楓を身内は悲しむ。

 

「反吐が出る」

 

 自己犠牲にも似た楓の強がりを気に入らんとフォンが顔を歪ませた。

 怒りにも似た表情でハルバートの柄を握ったフォンの頭は、冷静に戦いだけではない領域にも動いていた。眼の前の楓を殺すことは当然として、遠く離れた場所で静かに戦う真名とナーデの気配を探る。

 

「これを利用できるか?」

 

 小さな声でポツリと呟いたフォンの言葉が微かに聞こえても楓にはなんのことか分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仲間の決死の行動で大洞窟に飛びこんだネギだが全てが予定通りというわけにはいかなかった。エミリア・オッケンワインの無事を確認次第に先制攻撃を仕掛けるつもりだった。敵を一人一殺する戦術を出したのはネギである。戦力的に油断などすることなど出来なかったし、慢心などしていなかったと断言できる。惜しむらくはネギにゲイルの情報がなかったこと。

 

「体が……動かない……?」

 

 杖に乗って最速で大洞窟深部に到達したネギだったが、エミリアの無事を確認して先制攻撃を仕掛けようとした直後、自身の体が動かないことに気付いた。留まっているのはマズイと力を入れているのに、体はゲイルの血のように不吉な紅い眼に魅入られたように動かなかった。

 

「ぐあっ」

 

 魔力すらも思い通りに操れなくなったネギは杖から転げ落ちて、突進そのままに勢いで地を無様に転がる。何回転も地面を転がって少なくない傷を負いながらも、ネギの目は魅入られたようにゲイルの紅い眼から不自然なほどに逸らせない。

 手足に力を入れるが、一向に動かない。どんなにもがこうとも、身体は動かない。むしろ入れれば入れるほど固まっていく気がする。意識の端で同じように地面に投げされたカモの体が動かないことを感じ取る。どうやら気絶してしまったようだ。

 

「鼠が潜り込んで来るとは、奴らも使えぬものよ」

 

 紅い眼の輝きがネギの視界を覆っていくのと合わせるように、体が麻痺していく。歯を食い縛って、とにかく全身に力を込めても指先はぴくりとも動かない。もはや神経という神経が、がっちりとゲイルの視線に絡め取られている。

 ゲイルは赤く染まる目を輝かせながらゆっくりとネギに歩み寄り、手を伸ばして髪の毛が掴まれる。頭を持ち上げられたと理解したのは、目の前に紅い眼があったから。

 

「賢そうな顔をしている。私の知っている忌まわしい者に似ているが、奴は愚かではあったが貴様のように間抜けではなかった」

 

 その言葉と同時にネギの視界が途切れた。手足の感覚はとうに無く、視覚さえ無くなった。

 気がつけばネギの眼前に広がるのは白と黒の色しかない異様な空間。とてもこの世のモノとは思えない未知なる異界。光も射さない闇の牢獄に閉じ込められ、十字型の石柱に磔にされ、両手足を固定されて身動きが取れない。声も出ない。

 

「貴様の顔が歪むのは心地良い。奴への意趣返しも兼ねて地獄を見せてやろう」

 

 誰もいなかったはずの空間に突如現れたゲイル。しかしそれは一人だけではなく、その周りには数えることすら無駄と言わんばかりに数十人、数百人のありとあらゆる凶器を持った無数のゲイルの姿があった。全てのゲイルがネギに向かって凶器を向け、構える。数百人から凶器を向けられる恐怖は筆舌にし難い。

 

『我が遊戯にて無数の死を経験するといい。怖かろう。恐ろしかろう。これほどの死はまたとないチャンス。存分に楽しむが良い』

 

 ゲイル達が一斉に発声し、語り掛けていく。数百の人間が同時に声を出して、同じ言葉を寸瞬も狂わずに合わせる異様さ。同一人物だとしても聞かされているネギからすれば異様を通り越して異常である。

 そして闇の中で一際ギラリと光る刺殺隊の存在は恐怖を通り越した絶望をネギに齎す。

 異様な光景、異様な事実、異様な世界。なにもかもが異様な空間において正気を保つことは難しい。あの凶器に貫かれる。きっと痛いだろうことは簡単に察しがつき、恐怖から人前でもあられもなく泣き喚きたい。だが、それでもネギは戦うと決めたのだ。

 

「怖くなんてない。恐ろしくなんてない。これはただの幻術だ。ここでの死が現実に影響を及ぼすことは、ない」

「良くぞ吠えた。奴の息子よ」

 

 近くにいた一人のゲイルが凶器を持っていない反対の手でネギの髪を掴み、顔を引き上げた。

 炯々と光る紅い眼がネギを射抜く。

 

「屈伏し、隷属し、平伏せよ。さすればその命、助けてやらんでもない」

 

 高度な幻術は時に現実を侵食する。禁呪書庫に忍び込んだことで見習い魔法使いの領域を遥かに超えた知識を有しているネギにはそれが分かってしまう。しかし、それでも尚とネギは吠えた。

 

「お前に屈服するぐらいなら地獄に堕ちる方がマシだ。どんな痛みでも………………耐え切って見せる!!!!」

 

 拘束された状況で囁かれる解放への甘美な誘惑にも怯むことなく言い切った。ネギの決意に対するゲイルの返答はなく、凶器を持っていない片手を上げてまるでなにかの合図のように下ろすだけ。

 ネギは自らに向かってくる刃を挑むように見つめるだけだった。

 

 

 

 

 

 刺され、穿たれ、抉られ、痛みに喘ぎ、叫び、悶絶した。何度も死んでは元に戻り、また処刑が繰り返される。

 数十まで数えた地獄は百を超えたところで発狂してしまったのか、ネギも数えることを止めてしまった。

 

「……はっ!?」

 

 気がついた時には、体が雑草が生い茂る場所に横たわっていた。

 雑草に身を横たわらせながら見えたのは月だった。澄んだ夜空に青月のかかる、美しい宵である。

 絹雲は月光を受けて青く照り、凪いだ中天に浮いている。静かな月明かりは深緑の根元にも青白い影を落としていた。重なり合う木々の枝葉が、複数の影を落としている。光と影が斑になって、どこまでも続いて世界を覆っているような錯覚を与える。

 

「…………?」

 

 一瞬、ネギは状況が理解できなかったが直ぐに己が現状を把握した。

 辺りを覆い隠すようにして繁っている木々が開けた――――――有り体に言うならば一種の広場のような所にいた。

 深い新緑の葉をつけた枝々が天を覆うようにしているお陰で昼ですら薄暗い周囲と違い、夜空を彩る宝石箱の中身を撒き散らしたような星々や月が煌々と輝く様を充分に見て取れる場所になっている。 地上では周囲を遮るようにしている木々のお蔭か、未だ冷たさを残す風は枝を微かに揺らし、葉を少しばかりざわめかせる程度にしかふいていない。が、高空では話が違うらしい。空の高みで吹き荒ぶ風が、夜空にたゆたう捉えどころのない雲たちを思うままに弄び、千切り、押し流している。そうして風に弄ばれる雲たちが、ときたま天然自然の広場に差し込むささやかな、陽光にはけして持ち得ぬ柔らかみと冷たさを同時に備えた月明かりや星明りに強弱をつけていた。

 

「……フゥ……」

 

 木々に繁る青葉を揺らす季節から考えると聊か冷たすぎる風に、疲労の極地にある身体を一撫でされて、ネギは呻きとも溜息ともつかぬものを口から漏らす。

 じっとしていると倒れそうになるので空を見上げる。どれぐらいの間、空を見ていたのか分からない。

 

「…………?」

 

 ふと、近くで不自然に木の葉が舞い上がった。ある予感を感じてそちらに目を向けると、そこにはさっきまでいなかった、目立つ金髪以外は上から下までの夜の闇に沈みそうな漆黒で統一された服を着た少年―――――アスカ・スプリングフィールドが立っていた。

 

「ネギ」

 

 無表情のままアスカは僅かに腰を落とす。その途端、アスカの全身から、凄まじいまでの量の魔力が右手に向って集中していくのが分かる。

 アスカは鉤爪のように指先を曲げた右手の手首を左手で掴む。

 左手を添えられたアスカの右手が、空気の引き裂ける音を発した。それは、目に見えるまでに高められ、一点に集約された魔力そのものだった。ぼうっと光り始め、さらに小さな稲光のような閃光が、周囲に纏わりつくように広がっていく。

 魔力が、殺気が、アスカから放たれる全てがネギの存在を否定するように発せられる。

 

「アスカ!? 何を!?」

 

 ネギの叫びはアスカには届かない。 

 

「――――オッ!」

 

 臨戦態勢をとるとアスカは少しの間、まるで決意を固めるように目を閉じてまた開く。チリチリと空気の弾ける音を響かせながら紫電の走る右手を構える。

 

「オア――――――アアアアアアアアアッ!」

「――――アスカ!?」

 

 疾走するアスカの口から叫びとなって迸る。後方に引いて構えた右手には、いまやはっきりと輝いて見える高密度の魔力が雷光を発していた。

 ネギの痙攣するような内臓の動悸が、どうしようもない衝動となって肺を震わせる。状況が分からない。どうしてアスカが自分を攻撃してくるのか。それでも即座に取るべき手段を選択する。 

 

「風花・風障壁!!!」

 

 攻撃を阻まんとネギを護るように風の壁が生み出そうとする。しかし、雷属性で肉体の神経系の速度を活性化させて圧倒的なスピードを出すアスカの方が早かった。

 

「邪魔をするな!」

 

 一瞬とも思える時間でネギまでの距離を縮めたアスカは、如何なる刃物より鋭利な刃と化した右手で展開途中の風花・風障壁を貫く。身内が殺しに来る動揺もあって魔力の練りが甘かった風花・風障壁はさしたる抵抗もできず、拍子抜けするほど呆気なく貫かれた。

 一瞬の遅滞だけを押してアスカは最後の一歩を跳んだ。

 

「なっ?!」

 

 早すぎる。身内が自分を殺そうとすることへの動揺、状況が理解できない動揺、アスカの成長に追いつけない動揺。理由は幾らでもあっただろう。魔法学校時代なら確実に留めることが出来たはずの防御だった。

 雷に輝く手が突き出る。正確に心臓を狙って突っ込んで来るアスカの雷によって光る手を、現実感がなくてネギは他人事のように感じて見返すだけで、その時の全てがスローモーションになって見えていた。

 肉に食い込み、骨を切り裂き、そして突き抜ける感触があった。

 

「ガハッ!!」

 

 アスカの右手は正確にネギの心臓を貫き、強すぎる雷属性が心臓周辺の臓器を焼いたのも明確に感じ取った。

 心臓に近かった左肺をも潰し、ネギの口から大量の血が吐き出される。鮮血が飛び散り、ネギから溢れた真紅の液体がアスカの金髪に掛かって斑に染めていく。

 

「死ね」

 

 最初から一貫して変わらない無表情のアスカは双子の兄に致死の一撃を与えたとは思えぬ程に無感動に呟き、右手を抜いて崩れ落ちるネギの体を放り捨てた。

 

「ゲホッ!! ゴホッ!!」

 

 咳き込む音と共に溢れかえる真紅。堰を隠すように口元を抑えるが、それで押さえられるわけでもなく荒い息遣いと、溢れ出る水音。地から見上げたアスカの顔を彩るすべての表情が今まで通り鮮烈な色で飾る。濁った瞳の奥は晴れやかに輝き決して光を失わない。

 ネギの意識はまた途切れた。

 

 

 

 

 

 

 気が付いた時、ネギは大人の男に圧し掛かられて首を絞められていた。

 

「ナギィィィ、貴様がああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 

 男の目は既に正気を失っており、目の焦点は合ってなく口からは涎が飛び散っている。薬物か何かをやっているのか理由は判らないがどう見ても正気には見えず、その所為でネギをナギと混同してしまっているのか。

 

「がっ……はっ、ぐぇ……っ!」

 

 男は顔を憎しみに染め、ネギは強い力で首を絞められ苦悶の声が零れた。

 

「貴様さえいなければあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

「っ……あ……あ…………ぁ……」

 

 首を絞められているため呼吸ができず、ネギの意識は徐々に薄れていく。

 

「死ね、死ねええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!」

 

 自分自身を完全に意思の力でコントロールできる人間というのは少ない。いっそ、いないと言ってしまった方が現実的だろう。

 自分は他人の言いなりになんかならないと信じている強い意志の持ち主でさえ、何かの切っ掛けで心に隙が生まれ、それまで考えもしなかった異常な行動を取ってしまうことがある。ことに本能、と呼ばれるものは意思でどうにかなるものではない。それが本人の意思に反するものだとしても。

 脳に行き渡るはずの酸素が不足して、ネギの意識は既に殆ど失っているに近い。口の端からは泡が吹き出し始めた。

 生存本能が意志を無視して体を動かす。無意識に右手に風を纏い、更に力を込めるために近づいていた男の首のある場所に意図せず拳を放った。

 

「がはっ………ごほっ、ごほっ……ハッハッ、ハァハァ……」

 

 拳を放った衝撃で男の体が僅かに浮いたことで直ぐに圧し掛かる体の下から抜け出して起き上がり、犬のように舌を出し空気を貪った。下を向いて空気を貪っていると上から何か液体が降りかかるが、視界が回復していないため見えない。やがて、呼吸も安定してきて視界も戻ってきた。

 薄れた意識の中で右手に初めて感じるそれは重く、深く、熱く……いうならば『生命』そのもの触れた手応えだった。どくん、とネギの心臓が軋んだ。気付いてはいけない。それが何か気付いてしまえば―――――――――自分は壊れる。そんな予感がした。

 

「―――――っ!」

 

 クリアになってきた己の手にヌメリを伴った奇妙な感触を感じた。その生暖かい感触にどくん、と更に心臓が軋む。薄れていた意識が正常に戻っていく。僅かな感覚から精神が乱れて思考が途絶する。

 まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、まさか――――――。

 薄れていた意識が完全にはっきりとして、そこで男が何もしてこないのを疑問に思い、さっきので気絶したのかと下げていた視線を上げると眼前の衝撃的な光景を目前して固まった。

 

「――――え?」

 

 それを見た瞬間、ネギの思考回路は信号を失った。頭の中が空白で満たされ、時間が止まり、絶句する。何が起こった、と自問するが、答えは精神を覆う深い霧によって隠され見つからない。

 ネギの視覚器官は間違いなくその光景を捉えていたのだが、精神を司る部分がその答えの算出を拒絶したのである。だが、確かに見た。嘘だと思いたかった。男は気絶なんてしていなかった。男は…………死んでいた。

 眼前の男は地面に膝をつき、腕をだらんと下に垂らして焦点の合わぬ瞳を宙に向けたまま、空を仰いでいた。そこまではいい。だが、首にはバックリと穴が開き、今もそこから血が噴水の如く吹き出している。先程かかった液体は男の血だった。目の前にいたためネギの体に今も降りかかり続け血に塗れていく。

 生存本能が意図せず放った雷を纏った拳が首に当り、そこで爆発したのだ。喉の付近が穴が開きそこから中身も見えている。どう見ても致命傷で流した血は致死量を越えており、既に絶命している。ビクビクと痙攣を繰り返し、首から飛び散って自身にもかかっている血の色彩に、起きた事実を認識してしまった。

 

(死んで、る?)

 

 首の前半分が半ばから千切れ、どんな奇跡が起きようとも目の前の男が既に死んでいることは分かった。

 変えようのない事実を認識した時、足元の全てが崩れ落ちていく様な、今まで忘れていたモノに圧し潰される様な、二度と自身が今まで居た場所に帰れないと思い、まるで自分が潰れながら奈落に落ちていくように感じた。

 常人なら目を背けてしまう死体の有様を見て、ゆっくりと認識してそう思った瞬間、音を立ててネギの感じる世界が壊れていく。

 母なる大地が地震の如く揺れている。その振動は尋常ではなく今にも地面が割れて落ちてしまいそう。悠久なる空に遍く空気が重たい。星の荷重が重く伸し掛かって今にもこの身体は押し潰れてしまいそう。

 世界に垣根なく広がる風が冷たい。熱を失った風に吹かれていると今にも心臓が凍りついてしまいそう。世界は何も変わってはいない。全てネギの錯覚だ。しかし、その押し寄せる錯覚はネギの中では真実のものと成りかけていて、今にも心を打ち砕いてしまいそう。全身に力が入らない。

 既にネギの目に、光は映っていない。ただ、ただ―――――目の前の死体となった男の姿だけが目に入っていた。ネギはそれを認識できない。人を殺したという現実を受け止めきれず、精神は緩やかに崩壊を始めていた。

 最初に鼻についていた血の臭いが消え、僅かに口に入った血の味を感じなくなった。続いて地と接している感覚が消え、風が鳴らす葉の擦れ合う音が聞こえなくなった。

 降りかかった血が頭部から目元を伝って涙のように流れる。

 

「ゴメン、なさい……」

 

 その謝罪は誰に向けてなのか。殺した相手か、未だ見ぬ両親か、それとも自分の身を案じてくれているだろう誰かにか。本人にも分からぬまま、心が砕ける音が聞こえると共に視界が閉じる。

 

 

 

 

 

「…………暗いな」

 

 地下への階段を見つめ、隣のアスカが囁いたのをネギは耳にする。アーニャが何者かに誘拐されたとの報を受け、アスカと二人で誘拐犯の居場所を察知して忍び込んだところである。

 住人は現代的ではないのか屋敷には電球などの照明器具が一切無かった。あるのは壁に立掛けられた蝋燭だけで現代的な物がほとんどない。当然、地下には一筋の光も無い。ここに来るまでに様々な動物が綯い交ぜになった――――ちぐはずなカタチをした生き物が次々と襲い掛かってきた。ネギはアスカと協力して撃退しながらここまで辿り着いた。

 手分けして捜索したが、人の姿はなく、アスカが地下への入り口を見つけた。

 

「行くぞ」

 

 敢えてアスカが言葉を出したことを切っ掛けとして、ネギも遅れて一歩を踏み出して階段を下りていく。こんなところにも分厚いカーペットが敷き詰めてあるので、足元が妙にフワフワとして頼りない。階段を下りているので、まるで果てしない闇の底に落ちていくような錯覚に襲われた。

 階段を下りるまで拍子抜けするほど襲撃などはなく下りきると大きな扉があった。

 

「この奥に……」

 

 ネギの前に立つアスカが扉に手を当てて慎重に力を込めていく。鈍く軋みながらも、扉は徐々に開かれていった。

 照明の炎が扉の隙間に潜り込み、地下室を明るく照らし出す。意外に広く、壁が十数メートルの奥行きがあった。明かりがあるのに、そこだけ暗黒に閉ざされているかのように暗く陰って……それでも、この場所に合う如何にもな白衣を着て背を丸めている老人の姿だけは、切り抜かれたようにハッキリと鮮明に映り出た。

 好々爺な笑みを浮かべている姿からは、孫と一緒にいれば微笑ましい光景に映ったであろう。だが、様々な器具や魔法陣に取り囲まれ、巨大なフラスコが幾つも乱立する暗く狭い場所にいてはそんなイメージを持つことすら出来ない。

 

「おい! アーニャはどこだ!! ここに連れて来られたのは分かっているんだ!」

 

 現実感のない世界でポツンと立っていた老人は、叫びにふと気がついた様子でアスカを見遣って、そして、やや笑顔を顰めつつ首を傾げた。

 

「ん、突然に人の家に入って来て何のことかな?」

 

 まるで身に覚えのない突飛な質問に困惑する老人――――公園とかならまともな反応でも、場所が場所だけに、そんな如何にも真っ当な反応には異常さだけが際立つ。

 大きく一歩、アスカが歩み出る。部屋の不気味さに父から貰った杖を強く抱きしめたネギもまた、老人に近づくために一歩ずつ確実に進む。が、前を進んでいたアスカの歩みが急に止まって、ネギの歩みも直ぐに止められた。

 どうして足を止めたのかと訝しんでアスカの背中から視線を外したネギは息を呑んだ。

 

「うッ!?」

 

 内部を見たネギが思わず呻きを漏らすのは無理もない。誰もが目の前に広がる陰惨な光景に絶句しただろう。

 

「これは、一体?」

 

 ネギよりは落ち着いている様子のアスカが辺りを見渡す。

 部屋の両脇に設けられた檻の中には、白骨化した爬虫類、哺乳類は言うに及ばず、人骨も見てとれる。問題はその横に並べられたガラスケースにあった。大凡、人の原型をとどめていない『何か』がガラスケースの中でホルマリン漬けにされている。単眼のサイクプロス、腕が腹の部分から一本余分についた三本腕のスリー・アームドなどと、まるで子供が書いた下手な怪物の絵を実体化させた様である。

 それらがずらりと視界の果てまで並んでおり、生の宿らない瞳で『彼ら』はこちらを恨めしそうに睨んでいる様にも感じられた。

 

「ここで、一体なにをしていたッ!?」

 

 正視に耐えうる『彼ら』の出迎えは、アスカに少なくない衝撃を与えて叫んだ程である。ネギにも、この光景は我慢ならないものだった。

 

「…………ア……ネ…………カ………ギ……」

 

 聞こえた声に問い詰めようと近づいていたアスカの足がピタリと止まる。声の発信源は老人の後ろ、光に遮られた暗い闇に隠れるようにその存在がそこにいた。かつて自分をそう呼んだ少女の気配と、その存在の気配が重なる。

あり得ない。あり得ない。あり得ない。あり得ない。あり得ない。あり得ない。あり得ない。あり得ない。あり得ない。あり得ないそこにいるのはアーニャとは似ても似つかない、赤い体毛を纏った四肢を地面につけて座る大型の獣しかいないのに。

 同じ色の瞳と不思議と適合する部分が多い。首に密集して生える長い鬣があることからライオンに近い印象を強く与える。そこに人であるアーニャと重なる部分など瞳と髪の毛の色しかないのに、何故か獣の姿が重なてしまったネギは絶句した。

 

「ああ、困ったな。流石にコレを見られては言い逃れようも無いか」

 

 ネギの視線が老人の後ろにいる存在に釘付けになる。耳に誇らしげなまでに穏やかな声が届いて斬り捨てたくなった。

 

「凄いだろう? これが私の研究成果である人間と獣の合成――――合成獣(キメラ)だ」

 

 仰げば、そこにはとても楽しげに嬉しげに、ニコニコと笑う老人の異様。まるでちょっとした失敗を照れて恥じるように、老人は顔を赤らめて………あまりにも晴れやかな笑顔を浮かべて言った。

 

「…………アー、ニャ」

 

 紡がれた言葉は、たった一言。護ろうとして護れなかった少女の名前。それだけで老人は全てを察したようだった。

 

「アーニャ? ああ、確か実験体の娘の名か。それを救い出すためにここまで来たと? 残念だが一寸遅かったな」

 

 ネギを嘲るように、老人は唇の端に笑いを刻む。その笑みが、これが単純な狂気ゆえの行為ではなく、明白なる理性と悪意が渦巻いているという事実を表している。ブラックホールを閉じ込めた宝石のように虚ろに輝きを放つ瞳が相手を射抜く。

 

「っ!」

 

 その言葉に、頭を思いっきり殴られたような衝撃が走る。世界が足下から崩れていくような感覚。ついで、噴火のように腹の下から沸きあがってきた怒りにネギは身を震わせる。

 

「いや、そろそろ実験に人間を使おうと思っていたところに、森の中で一人でいるところを見つけた時には運命を感じたよ」

 

 ネギは目の前に立つアスカの体が震えるのを感じ取る。

 

「実験中も助けを求めるように誰かの名前を叫んで喧しかったな。『アスカ』とか『ネギ』とか」

 

 老人は二人の反応を楽しむように、そして嬲るように言葉を続ける。

 

「あの娘は、私の実験体となることで自らの命に価値を与えた。実に良くやってくれたよ。彼女の存在は私の研究の一部となり礎となってくれた」

 

 今まで二人を嬲る以外に何の感情も覗かせなかった老人がかすかに口調を変えた。真摯ともいえる口調が他人からすれば根拠のない理由でも、彼が本気でそう思っていることを窺わせる。

 

「ふ……ふざ、け………るなっ……!」

 

 その言葉を聞き、ネギはアーニャがただ生贄などという下らないものになるために、これまで生きてきたなどと言われたことに人生で最大の怒りを抱いた。

 何故、アーニャがそんな目に遭わなければならなかったのか。こんな男の身勝手な欲望の為に。価値がそれだけしかないのだと語る厚かましさは絶対に許すことはできなかった。

 

「ふん、やはり理解できんか。やはり凡人には私の崇高な研究は理解できないか。私を学会から追放した愚か者達と同じようにな」

 

 怒りを露にするネギに老人はつまらなそうに舌打ちする。

 

「は、何を怒ることがある? 医学に代表されるように人類の進歩は無用の人体実験の賜物だろう。ましてやこれほど短時間にこの場所に辿り着けたのなら君も魔法使いなのだろう。本来、魔法使いは『立派な魔法使い』よりも、私のように万物を司る『法』に背くものである『魔の法』を使うからこその『魔法使い』なのだよ」

 

 老人のある種の悪意の究極ともいうべき言葉が、衝撃となってネギの心を揺さぶる。

 

「目の前に可能性があったからこそ試した。例えそれが禁忌であると知っていても試さずにはいられなかった!」

 

 他人と話すのは久しぶりなのか、老人は徐々に興が乗ってテンションが上がってきたようだった。

 自己の欲望を満たすために、人間はあらゆる苦難を克服してきた。たとえ次元の障壁が立ちはだかろうとも、必要とあらば必ずそれを打ち破る。それによって、他者が被る被害のことなど気にも留めずに。欲望の全肯定―――善きにつけ悪しきにつけ、それが種の方向性だと老人は主張した。

 

「人間を使って初めての実験だったが大成功だ。まさか私も最初に上手くいくとは思わなかったよ。まさに私のために生まれてきてくれたようなものだ」

 

 既に老人の眼に在るのは正気はなく狂気のみ。人の道を外れた外道と成り果てている。

 本当の意味で彼の研究が世界に必要とされているのなら、どこかしらの組織との繋がりがある。それが悪意によるつながりにしろ、利用できるものなら利用しているだろう。だが、彼にはそれがない完全な独り善がり。待っているのは、世界に見捨てられ、妄執の果てに狂った老人は片田舎の洋館に引き篭り、周りを巻き込んだ破綻のみ。

 

「………………」

 

 朗々と自分が成したことを自慢するように語り続ける老人を前に、ネギにはたった一つの感情しかなかった。

 何故。何故。何故。ネギの中で、ざらりとした何かが猛然と膨れ上がった。いつもなら、どんなに意志が猛り、精神が疼こうとも、届かなかった心の奥の更に最深部にまで届いた。

 猛り燃え上がる意思に、焼けつく心に、真っ直ぐ呼応して脈打つ血の胎動。ネギの存在という根底で、今にも溢れ出しそうに煮え立つ感覚がある。それはネギ自身の精神を食い尽くすかと思えるほどにドス黒く、ドロドロとした感覚を放つものだったが、ネギはあえて抑えるつもりはなかった。

 それは今までにもそこにあったけど、理性の氷壁を溶かすほどに熱く燃えることはなかった。今はそれがネギ自身にはどうしようもないほどに熱く、激しく、グラグラと激しい火炎を上げて渦巻いている。

 今、この時のネギの感情を確かに表すもの。それは明確にして冷徹なる意思。そこにいる存在を絶対に赦さぬと、心の底から研ぎ澄ました殺意。頭の芯と腹の底から激しく煮え立ち、どうしようもなく込み上げる不快なる嫌悪感。

 

「御託はそれだけか」

 

 ぽつり、とアスカが言葉を漏らすのをネギは辛うじて聞き届けた。

 

「―――――殺して、やる」

 

 言葉の形をとった憎悪と怒りの情念が、ネギから発せられた。

 そこで記憶は途切れた。記憶が断線する。

 

「――――――――――」

 

 ぐちり、と何かを踏んだ。柔らかでぬるぬるとした、たまらない感触を足裏に覚えてネギは慄然と立ち竦んだ。

 時間の感覚が飛んでいる。朦朧とした視界に、うすらぼんやりと何かが映った。

 息が、止まった。いいや、肺ごと機能を停止して、ネギは大きく咽かえった。

 目の前に広がるのは黒と赤。世界はその二色だけに描き分けられている。無邪気な子供がインク入りの水風船でも投げ合ったように、壁も地面もありとあらゆる場所がアカイロに染められて、そのアカイロが乾いた場所から流れている。

 爆心地にも似たアカイロの中央に―――――妙にぶよぶよした物体が浮いていた。紅い血溜まり―――――そこに倒れ付す血に染まった白衣を羽織った老人の姿。

 赤く鮮やかな色彩と、黒く沈んだ濁り。生きながらに切り開かれた人体というものは、かくもビクビクと脈打つものなのか。零れ出た紅色と、引きずり出した朱色と、赤黒い色彩が視界を埋め尽くしていく。

 開いたドアから入ってくる風が吹くたびに小さな波が立って、周囲に金臭いような生臭いような――――独特な匂いを撒き散らす。鋭利な刃物で切り裂かれたような傷が全身にあり、衣服はズタズタに引き裂かれて真っ赤に染まっている。破れた衣服から覗く傷口からは肉と内臓が露出して、天井から照らされた電球の光に照らされ白く瑞々しく輝いている。

 それと対照的なのが目だった。痛み、恐怖、驚愕で男の顔は歪んでいて、今にも断末魔の叫びが聞こえそう。そして零れ落ちそうなまでに見開かれた眼球―――――そこにはもう光は無い。濁った汚水でさえ光を受ければ煌くというのに、男の目は光を受けても虚ろなまま――――これ以上は無いというぐらいに死んでいるという証。

 

「殺した。憎かったから、生かしてはいけないと思ったから殺した」

 

 これは間違いなく殺人であり、ネギは絶対に老人の存在を許せないと思い、生かしておけぬと思い、激しく強い殺意をもって殺害した。一人殺せば、後は何人殺しても積み上げた数字でしかない。0と1とで分けた袂は、二度とは戻らない。それでも殺意を持ってか、そうでないことでは天と地の差がある。ネギは言い訳のしようのない正真正銘の『人殺し』に成り下がった。

 朱に染まった地獄の中で一人で立ち尽くす。

 そう、地獄の中で立っているのはネギだけだ。

 老人の周囲に先程までガラスケースに入っていた単眼のサイクプロスや三本腕のスリー・アームドの死骸も散らばっている。暴虐のアスカとネギに抗するためにガラスケースから出したが、いくら手傷を負わせても二人は止まらず蹴散らした。

 だが、問題は前衛のアスカが傷を負いすぎたことにあった。

 

「アス、カ?」

 

 ネギもまた身体中には致命傷とまではいかなくても、服はズタズタで血が流れ続けている。しかし、その視線の先には地に倒れ、動かなくなったアスカの姿があった。

 そして―――――

 

「ア、スカ……ネ、ギ……」

 

 今、目の前でかつては少女だったモノが死に行く姿に、己は本当に無力で無価値な存在なのだと気づかされる。

 単眼のサイクプロスや三本腕のスリー・アームドも戦わせた老人がアーニャをそのままにしておく理由がない。目測の大きさから200キロはあるだろう巨体が跳躍して前肢でネギを引き倒し、噛みついて仕留めようとした。

 彼我の体重差は半分どころか数倍はある。押し倒されればそれだけで圧死は確実。その凶悪に光る牙で噛み付けばネギは簡単に死ぬだろう。

 生存本能に従って行動したネギが選択したのは迎撃。相手がアーニャということを頭が理解する前に身体は、圧し掛かる獣の口に風の弾丸を突っ込んだ。寸でのところで頭が追いついて止めたから即死には至っていないものの致命傷には違いない。

 ゆっくりと、その瞼が閉じた。もう開かない。

 

「ああああああああああああああああ……………いあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああっ!!!!」

 

 何時も三人でいたのにたった一人残ってしまった悔恨に泣くことも出来ない深い悲しみの底で、自分自身への憎悪を声に込めて絶叫する。

 ネギの眼から赤い涙が流れ落ちる。全身に被った返り血の一部が流す涙のように見えた―――――ネギ自身の涙は既に枯れ果てたように流れなかった。

 

 

 

 

 

 気がつくと、何時の間にかネギは一寸先も見えない真っ暗闇の中を歩いていた。前後左右全てが闇。自分の体さえも、手を目の前まで持ってこないと確認できない程である。状況が分からず、目視で判断出来ないとなれば音に頼るしかない。

 

「誰かいないのっ!」

 

 耳を澄ましてもなにも聞こえないので、足を止めて出来る限りの大声で叫んでみた。

 暫く待っても返事は返ってこない。これだけの闇にいて気配も感じなかったことから大して期待もしていなかったが、誰もいないという現実を直視させられて肩を落として落胆した。

 首を動かして辺りの様子を窺っても、やはりなにもないし誰もいない。ただひたすら闇だけが広がっているばかりだ。普通ならどんな暗がりの中にいても、時間が経てば徐々に暗さに目がある程度慣れてくるものである。少しすれば暗闇にも目が慣れてくるはずなのに、一向にその気配がない。どう考えてもこの闇は普通ではなかった。

 

《―――――!!》

 

 誰かの声が脳裏に響く。だけど、それが誰か分からない。何を言っているのかが分からない。どうして―――――――――そんなにも必死なのかが分からない。

 

『人殺し』

 

 困ったように頭を掻いていたネギは、突然、背後から囁くような声が聞こえてきて慌てて振り返った。しかし、誰もいない。闇の中で視界が悪いのだとしても、周囲数メートルの気配を感じとれるので誰かがいれば直ぐに分かる。だからこそ、周囲に人がいないと分かる。

 

『人殺し』

 

 声の気配の位置を見極めようと集中していると、また聞こえてきた。今度は先程とはちょうど逆方向からだ。まったく感知できなかったことに慌てて振り返るが、やはりそこには闇が広がるだけで誰もいなかった。やはり周囲に人の気配はない。

 

「いったい誰だ! いるなら出て来い!」

 

 声の主はネギに気配を悟らせない者。真っ向から叩き潰せるだけの実力者が、こんな嬲るようなやり方をすることに薄気味悪さを感じて大声を出した。

 

『お前は人殺しだ』

 

 暗がりの中からそれなりの高齢だと思われる白衣を着た老人が現れ、右手でネギを指差した。

 

「ひっ!?」

 

 ネギはその一瞬で今までの惨劇を思い出す。アーニャが誘拐され、アスカと共に潜り込んだ屋敷の地下室での惨劇。老人の登場があまりにも突然だったため、ネギは指差された手に押されるようにフラフラと後退った。

 

『そうだ。お前は人殺しだ』

 

 今度は背後から耳元で囁くような声がした。背中にくっついて近距離から囁かなければいけない近さに心底から驚きながら慌てて振り返る。

 そこにいたのは、大人の男。あの日を再現するように首元から血を溢れさせていた。

 

「うわっ!?」

 

 咄嗟に手を伸ばして突き飛ばそうとしたネギに触れられるのを嫌うように身を翻した男は闇の中にスゥッと溶けて消えた。伸ばした手がなにも掴めずに空を切る。

 

『そうよ。ネギは私を殺したんだもんね』

 

 続いて大型の獣と人間の姿のアーニャが断罪するように非難する。

 

「アーニャ!?」

『どうして私を殺したの?』

 

 失ってしまった少女はネギの驚きなど知らぬと、冷たい目で静かな声で問いかける。

 

「違う。僕は殺したくなんかなかったんだ」

『言い訳はいいわ。ネギが私を殺した事実は変わらないんだから』

 

 ネギの答えが間違っていると断ずるように、アーニャは囚人服の男と同じように身を翻した。闇に同化するように遠ざかっていく。

 

「待って!」

 

 遠ざかっていくアーニャに話を聞いてもらいたくて追いかけようとすると、いきなり別の人間が現れた。

 金髪の短い毛を逆立てたアスカ。

 

「あ、スカ」

 

 アスカは腰を屈めて鼻先ギリギリのところまで、ぬっと顔を突き出してきた。

 アーニャを追いかけようとしたのと、死者が目の前に現れるありえぬ現象が重なって、アスカが近づいてきたのから離れるように無様にも尻餅をついた。

 

『無様だ。お前にはその恰好が良く似合ってる』

 

 アスカは尻餅をついたネギを見下ろした状態で、暗い目をこちらへ向けている。

 

『人殺しのネギ・スプリングフィールドにはお似合いの恰好だ』

 

 あちこちから血を流したアスカがネギを見下ろして暗い哂いを響かせる。

 アスカの笑いが発端となって、周りから爆笑が起こった。

 見るとネギは見知った顔に取り囲まれていた。

 大人の男、白衣の老人、アーニャ、アスカの四人が、ネカネが、スタンが、明日菜が、木乃香が、のどかが、他にも麻帆良で出会っで交流を深めた人々が、ウェールズにいる校長や先生や友達達が、村の人々が、これまでネギが知り合った全ての人達が『人殺し』と連呼しながら、周りを回って哂い続ける。現れては消え、消えては現れる。

 みんなのそんな声を聞きたくなくて見たくなくて、尻餅をついたまま立ち上がるよりも固く両手で耳を塞いで強く目を閉じる。

 

「あ、ぁ…………あああああああああああああああああああああああああああああ!」

 

 ネギは叫んだ。喉の奥から、あらん限りの声で叫んだ。

 ネギの心は壊れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 超大型台風が招来したかのように吹き荒れる暴風の最中で、ゲイル・キングスは己が失策を悟る。

 

「獅子の子もまた獅子。こんな単純なことも見抜けないとは逸ったか、私も」

 

 ゲイルは今も脳裏に強く残る鮮烈とした紅の髪の男を想起させる顔を持つ暴風を生み出し続ける人物――――ネギ・スプリングフィールドを見遣って表情を顰めた。

 

「草食獣の皮を被った眠れる獅子を起こしてしまったか」

 

 ゲイルは魔眼でネギを幻術に嵌めた。この魔眼で幻術に嵌められて無事だったものは誰一人の例外なく精神崩壊に至り、自ら死を選ぶ。ゲイルは自らの魔眼に自信を持っていたし、ネギを幻術に嵌めて勝利を確信していた。

 予想外を上げるとすればネギの精神的な弱さであり、内心で抱える闇の深さであった。

 

「自死に至るよりも敵を打倒せんとするその意志。狂気と言わんとなんとする」

 

 子供に魔眼で幻術に嵌めたことのないゲイルの経験のなさであり、ネギの心の奥底に眠る狂気に気づかなかった落ち度でもある。

 

「ゥォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ――――――――!!!!」

 

 獣の如き叫びを上げるネギに呼応するかのように暴風はその威力を更に増す。

 丈夫であるはずの大洞窟が暴風に削られ、ナマカ山が揺らいでいる。このまま風の威力が高まり続ければ大洞窟の崩落どころか山自体が崩れ落ちることもありえた。

 

「流石や奴の息子といったところか。凄まじい魔力だ」

 

 目を開けていることすら困難になる風の中で、ゲイルは暴風によって削られて飛んでいる岩石を己が目的の為に守らざるをえないエミリア・オッケンワインを背後に抱えながら動けずにいた。

 

「魔力放出に釣られて風の精霊がこうまで集まる。奴は雷も使っていたが風の属性も備えていた。親子とはこうまで似るものか」

 

 風速いくらか。台風など目にもならない狂風の中では如何な魔法使いといえども移動することすら困難であった。

 

「忌々しい。親子二代に渡って我が前に立ち塞がるとは」

 

 これが大洞窟のような限定空間ではなく、開かれた外の空間であったならばゲイルにもやりようはあっただろう。エミリアという足手纏いと抱え、閉鎖空間内で今のネギの相手をするのは難しい。

 魔力の暴走(オーバードライブ)。ネギの魔力容量は、普通の魔法使いの優に数十人分に迫る。未だ未熟ゆえに使いこなせていないが、魔力容量はトレーニング等では大きくすることが出来ない天賦の才である。魔法使いにとって魔力が大きいことはそれだけで優れた証明になるのだ。

 例えば同じ魔法の射手を放ったとしても、構成や術式が同じであるならば優劣を競うのは込められた魔力である。実際には構成や術式が同じであることは天文学的な確率であっても、同一人物でもなければ合致することはまずないので、魔法の優劣を決めるのは必ずしも魔力ではない。

 魔力に恵まれなくても弛まぬ努力と修練で大成した魔法使いは多い。だが、そうであっても魔力容量が大きければそれだけ絶大なアドバンテージになる。

 魔力容量が十と百ほどの違いがある魔法使いが、自身の魔力容量に対して一割の魔力を魔法の射手に込めて撃ち合った場合、十倍の魔力に勝る構成と術式がなければならない。そんなのは、よほどの隔絶した技量差がなければ意味を為さない。

 哀しいことに魔法使いとは生まれの時点で差が生まれてしまうのだ。魔力容量というどうしようもない差が。

 

「どうする? 今の私ではこの風を突破する力はない」

 

 魔眼に絶大な自信を持っていたが故の過ち。致死性の幻術を見せてしまったことでネギは自分で精神状態を回復することはまずない。

 しかし、外部から刺激を与えるにしても今の(・・)ゲイルの状態では、ネギに近寄ることが出来ない。近づかずに刺激を与えるのがベストであるが、幻術にかけた張本人であるゲイルの刺激では精神状態が回復するどころか余計に暴走を助長しかねない。

 

「このまま魔力切れを待つか、一か八か博打を打つべきか」

 

 今のネギは中級魔法を常に放ち続けているようなものだ。風の威力が上がり続ければそれだけ魔力の消費も大きくなる。どれだけの莫大な魔力容量を持っていようとも長時間、今の状態は続かない。魔力切れまで大洞窟が、ナマカ山が持つかということを度外視すれば最高の選択であろう。

 楽観的予測で待つことを選ぶことは出来ない。

 ゲイルが何年か振りに焦りを覚えている中、新たな乱入者が現れる。

 

「ネギ先生!!」

 

 機械仕掛けの人形である絡繰茶々丸がバーニアと加速装置であるブースターを全開にして風を切って現れた。

 誰にとっての助けか。

 誰にとっての救いか。

 まだ答えの天秤は揺れている。

 




流れ

数百ゲイルによる殺害→アスカによって殺される→男に殺されかけて殺す(正当防衛)→アーニャ+白衣の老人殺害(憎しみで)→以上の全ての人に罪を責められる。

いきなり精神死しそうなネギ君でした。
 


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第22話 勝者と敗者

注意;月詠関連はオリジナル設定です。今話はそれを理解した上でお読み下さい。


 

 

 

 

 

「ネギ先生!!」

 

 ビシャン、と大洞窟に響き渡る程の大きな音を立ててネギの頬が張られた音が鳴った。

 

「ぇ、ぁ……」

「大丈夫ですか、ネギ先生」

 

 ネギの頬を張った張本人――――絡繰茶々丸は反応の鈍いネギを心配するように眉を下げる。

 

「どうして茶々丸さんがここに? 船に行ったんじゃ……」

 

 彼の中では時間の流れが飛んでいた。ネギからすれば目の前に茶々丸が存在するのは青天の霹靂であった。

 

「覚えていないのですか?」

「何をですか?」

 

 暴走が収まったことでネギが巻き起こしていた暴風が綺麗さっぱり消えてなくなっている。大洞窟内の荒れ様は酷いものだったがネギの中では異変の範疇に入っていないようだった。

 

(忘れている、というのですか)

 

 ネギの精神は自分を守る為に幻術で見た世界を忘却していた。大洞窟内での荒れ様に気づいていないのも、侵入時からの記憶を忘却しているからなのか。

 

「茶番を見せてくれる」

「ゲイル・キングス!」

 

 苛立ちも露わにするゲイルにネギが振り返りながら吠える。

 

「獅子は己が牙の凶暴性を忘れ、再び眠りについた。そんな茶番が認められるものか」

 

 ゲイルの状態は酷いものだった。

 大洞窟の壁や天井の岩石が暴風によって剥がれ、乱れ飛んでいた直撃を幾度も受けたのだろう。ゲイルはその身に少なくない傷を負っていた。ネギの暴走に巻き込まれ、計らずともエミリア・オッケンワインを守らされたことで逃げることも出来ず、暴風の只中に長時間留めておかれた負債は大きい。

 

「その小僧の狂気も理解した。次はこのようなヘマはしない」

「させません」

 

 再び魔眼を発動させようとしたゲイルに向かって茶々丸が突進する。

 ブースターは威力がありすぎるのが。バーニアを全開に吹かしたその速度は高位魔法使いの瞬動に匹敵する。

 

「その程度で…………ぬっ!?」

 

 愚かにもゲイルと目線を合わせて直進してくる茶々丸を嘲弄しようとしたゲイルに動揺が走る。

 

「はっ」

「ぐぬぅ!?」

 

 攻撃アクションを起こさなかったのを良いことに、茶々丸の拳が咄嗟に掲げて防御したゲイルの腕に当たる。

 ゲイルはその金属的な感触に驚きを覚えつつも、足元から闇の衝撃波を発生させて追撃しようとする茶々丸から逃れる。

 

「この感触。貴様、人間ではないな!」

「あなたのその紅い眼は魔眼のようですが、私はガイノイドです。魔眼など効きません」

 

 言いつつ茶々丸の左眼が光る。

 対象ロックのホーミングレーザーが唸り、一瞬前に飛び退いたゲイルがいた場所を焼き切る。

 

「ネギ先生、ゲイル・キングスの目は魔眼です。決して見てはいけません」

「あ、はい」

 

 両腕を剣と銃に変換してゲイルに躍りかかった茶々丸の勢いに押され、ネギは言われた通りに目を見ない為に瞼を閉じた。

 世界が暗闇に閉ざされるがゲイルの澱んだ魔力の気配は感じぬはずがない。

 茶々丸の電子脳とネギの頭脳は同じ答えを導き出す。

 

「私がネギ先生の目となります。指示した場所に魔法を」

「分かりました!」

 

 茶々丸はネギの頭の良さを知っている。

 ネギは茶々丸の電子脳の性能を知っている。

 茶々丸ならば後ろを振り返ることなくネギの場所から見たゲイルの位置を移動しながらでも即座に割り出せる。

 ネギならば茶々丸の指示に寸分違えることなく魔法を放てる頭脳がある。

 

「させん!」

「相手は私です」

 

 結果としてネギは動きを封じられるが、茶々丸がゲイルにネギへ攻撃させない。

 茶々丸は数合渡り合っただけで確信した。

 

「理由は分かりませんが近接戦は不得手と見ました。その隙を突かせてもらいます」

 

 典型的な魔法使いタイプであるのか、情報の蓄積が甘い茶々丸には判断がつかない。だが、茶々丸程度の壁を突破できずにいる状態を見れば自ずと予想がつく。

 

大気の拳(エーテル・フィスト)!」

「ぬぅおっ」

 

 声に出すことなく指示を出したのは念話であろうか。ネギが放った大気の拳が、ゲイルが展開した闇の障壁にぶち当たって衝撃に揺れる。

 

「いかん、このままでは……」

 

 全盛期の百分の一近い実力しか発揮できない今のゲイルでは二人に勝てない。いや、それどころか負ける。

 

《なにをやっているのだフォン! 今すぐに戻って来い!》

 

 最も信頼する腹心にして部下であるフォン・ブラウンを念話で呼びつける。

 

「隙です」

「ぐっ」

 

 障壁破壊の加護が付けられているのか、瞬動並みのスピードで近づいた茶々丸が振るった剣は闇の障壁を切り裂く。更に斬りつけた勢いを加算して回し蹴りを放ち、ゲイルを蹴り飛ばした。

 大洞窟の壁に強かに打ちつけられたゲイルが顔を上げると、そこにはネギが唱えた風精がいた。

 

「行け!」

 

 ゲイルは絶体絶命の窮地に陥っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ナーデレフ・アシュラフとマナ・アルカナの類似点。

 一つ、両親の顔を知らぬこと。

 二つ、戦地でゲリラに拾われたこと。

 三つ、与えられた武器が銃であること。

 四つ、四音階の組み鈴に攻撃を仕掛けたこと。

 五つ、龍宮コウキに救われたこと。

 六つ、同じ男を愛したこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 戦闘をしていると自然破壊をしている楓とフォンの戦いと異なり、真名とナーデの戦いは静かな戦いだった。

 銃弾を発射すれば発射音でかなりの音が出る。

 静かなところならば数㎞離れた所からで発射音は聞き取れる。にも関わらず静かなのは、二人がまだ一発も撃っていないからだ。

 時間とは違って戦況には何の変化もない。変わったのは二人が流す汗と漏らす息の量。

 

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ」

 

 真名は木の幹に背中を預けて息を乱しながら、中・長距離専用の武器であるスナイパーライフルを抱えてナーデの位置を探る。

 顔を濡らす汗を煩わしく思いながら戦闘衣の袖で拭う。

 

「以前よりも更に強くなっている。相変わらずの化け物め」 

「化け物扱いは酷くないかしら」

 

 まるで耳元で囁かれたようにナーデの声が届く。

 一瞬ビクリと跳ねた心臓を押さえつけ、真名は冷静さを装うように間を置いて答える。

 

「…………姿も見せずに声だけを届けるとは、性根は悪くなったようだ」

「これは木霊法っていって遠くにいる人間の耳に直接声を届ける技法なの。日本で仕事をした時に便利だったから習得したのよ」

 

 くつくつ、と笑い声させて耳元で聞かされた真名の機嫌は良くない。

 

「嫌みを言えるようになったのは成長かしら。あんなに純粋に私達の後ろを付いて回って可愛らしかったのに」

 

 更なる反論をしようと口を開いたところで、機先を制するようにナーデが言った。

 口では勝てないと早々に真名は諦める。

 小さな頃を知られているだけに、どうしても真名の方が分が悪い。元より弁が立つ方ではない真名では、目上の立場に当たる人間にナーデのような言い方をされると反論はし辛い。

 

「この二年何をしていたんだ」

「何も。戦って殺して奪って、そんなことばかりしていたわ」

 

 四音階の組み鈴を脱退した後に何をしていたのか、真名には分からない。今語ったのはその一片だろう。

 

「最低だな」

 

 真名は絶対にナーデの二年間を肯定しない。絶対に肯定してやらない。

 二人の道は二年前の時点で別れた。

 選んだのはナーデで、別れさせられたのは真名の方だ。自分で選んでその道を進んだナーデを肯定なんてしないし――――同情なんてしてやらない。

 

「ええ、全く」

 

 ナーデだって同情されても困るから軽い口調で返してきているようだった。

 寧ろ喜んでいるのかもしれない。同情されたら折れるから。

 

「もう止めなさい。マナでは私には勝てない」

 

 姿を見せることも無く明瞭に声だけを届けるナーデ。未だ一発を銃を撃ち交わさないでも疲労を覚えている真名と比べるとその力量の差は歴然。

 

「この二年、戦い続けた私と普通の世界に身を置いたあなた。二年前の時点でも負けたのに勝てると本気で思っているの?」

 

 力量の差があろうとも真名には負けられない理由がある。

 

「だからどうした。たかが力量で劣るからといって臆すような女に見えるか」

「出会ったことから生意気だったものね。私のコウキを殺そうとするし」

「それはナーデも同じだろう。聞いているぞ。お前も同じことをしたと」

「…………龍宮夫妻ね。あの二人はお喋りなんだから」

 

 ピリピリとした錆び付くような空気の中で交わされるのは懐かしさすら感じる和やかな空気。

 昔話を交えつつ、真名は同じ場所に留まる事をせずに移動する。

 

「甘い」

「ぐっ」

 

 これはと思える木を見つけて滑り込もうとした刹那、耳元で恋を囁くように甘い声が聞こえてると同時に放たれた銃弾が真名の二の腕を掠めた。

 痛みというよりも驚きで声を上げてしまい、持っていたスナイパーライフルを落してしまう。

 スナイパーライフルを落すよりも身を隠すことを優先した真名は、脇の下から現れた二挺の拳銃に目を向けず、慣れた動作で空中にある間に掴み取ると同時に撃たれた方向へと発砲した。

 拳銃の名はデザートイーグル。世界最強とも謳われる自動式拳銃である。

 本来片手では扱いきれないと言われるデザートイーグルを易々と使いこなし、真名は精密な射撃で一切の容赦は無く、正確にナーデの居場所を導き出して連射する。

 流石にライフル弾よりは威力が低い。が、真名はそれを物量で補う。反撃を試みるかもしれない相手の行動を弾丸で規制し、銃弾の暴風を吹き荒ばせた。

 

「残念、外れ」

「なっ!? ぐあっ……!?」

 

 銃弾の嵐を掻い潜るように一発の銃弾が先程二の腕を掠ったのとは反対の腕を浅く傷つけていく。

 

「舐めるな!」

 

 銃弾を撃っている方向から銃弾がやってくるという矛盾。

 真名が狙っている場所に包囲網レベルで銃弾を撃っているのに、その場所から動くことなく逆に当ててくる技量。まるでマジックでもかけられたような気分になって、弾倉を異空から出して装填し直して更なる銃弾を浴びせかける。

 

「無駄よ。自覚しなさい。マナでは私に勝てない」

「っ!? 私は、龍宮、真名、だ!!」

 

 今度は二発の銃弾が真名の両足を掠る。

 四肢を正確に掠める銃弾。狙ってやっているとしか思えない攻撃の仕方に真名は侮られていると感じた。だが、だからといって抗弁できるだけの実力を示せていない。

 

「あら、下がるの?」

「うるさい」

「生意気だこと」

 

 当初の予定通りに木の幹に全身を隠す。

 効果のない弾幕を張ったところで無駄だと自覚して、戦術を練り直す為に間を置く必要があったのだ。

 

「隠れても無駄。私に死角はない」 

 

 真名の耳に奇妙な音が消えた。

 弾丸の発射音が聞こえた後にガラス同士が擦れ合うような音が一瞬だけ聞こえた直後、真名の左足に痛みが走った。

 痛みに呻いて左足を抑えると血がべっとりと掌に付いていた。

 

「馬鹿な。正面から弾が来るなど」

「言ったでしょ。私に死角なんてないって。木に隠れた程度で防げるとは思わないで」

 

 幸いというのも変だが弾丸は足の肉の一部を抉っただけだ。治癒符を取り出して傷口に張り付ける。

 治癒符の効果は優れた治癒術士に遠く及ばない。ハワイでこのような戦闘をすることなど想定していないので符のランクは低い。精々が痛み止めと少々の止血程度。撃たれた左足はもう不用意に動かすことは出来ないだろう。

 

「だが、見えたぞ。死角を死角にしない方法」

 

 負傷に似合うだけの成果はあったと真名は痛みで脂汗を流しながら笑う。

 

「跳弾。それも弾速の遅い弾に当てて角度を変えたな」

 

 ガラス同士が擦れ合うような音がその正体。弾速の違う銃をほぼ同時に撃ち、遅い弾を早い弾が弾くことでありえない角度に撃ち込んでいる。

 装甲板や壁・岩などに当たって跳ねさせる普通の跳弾ならば真名にも可能だが、銃弾同士を当てて跳弾を引き起こす技術は真名にはない。自分が撃った弾丸を寸分狂わず、狙った場所に当てる為に角度を調整する技術は神域。二年前よりも遥かに強くなっている。

 

「正解だけど、分かったところで防ぐ術のないマナには止めようがないでしょ。虚勢を張るのはいいけど、根拠のないものほど無様なものはないわよ」

 

 自分は二年前と比べて変わったのだろうかと真名は胸の裡で反芻する。

 ナーデと別れてから肉体は大きく成長した。それに比して心も成長したのかと問われると疑問符が付く。

 この二年、日常と非日常の狭間を行ったり来たりをしていた真名にはそこまでの自信を持てなかった。だが、それでもと真名は考える。

 

「虚勢でもなにもないよりはマシだ」

「あら、素直ね。二年前なら無駄に意地を張っていたのに」

「私も変わったんだ。もう子供じゃない」

 

 意地を張っていることを認める。その上で、二年前と違うことを示す。

 

「コウキは死に、ナーデもいなくなった。私も変わらざるをえなかった」

 

 二人と離れたことで守られるだけだったマナ・アルカナは変わった。

 一人息子を喪った龍宮夫妻に引き取られ、龍宮真名と名前を変えた。名前が変わったところでその者の本質は変わらないのかもしれない。それでも変わる切っ掛けとしては十分だ。

 生温い日常の中で真名は弱くなったかもしれない。だが、それでもと真名は吠える。

 

「二年だ。もう二年も経ったんだ。人が変わるには十分の時間だったんだよ、ナーデ」

「…………かもしれないわね。私は止まり、あなはた進み続けた」

 

 決して取り戻せない時間の流れを感じ取ったのかもしれない。ナーデの言葉にはどこか哀愁にも似たような感情が感じられた。

 

「私は変わらない。変わるわけにはいかない。二年も経てば人は変わる。変わってしまった世界で蘇ったコウキが一人になってしまう。私にはそれが認められない」

 

 二人の女は同じ男を愛した。なのにこうまで違う道を行く。

 マナ・アルカナは弱い自分を受け入れて変わることを選び、龍宮真名となった。

 ナーデレフ・アシュラフはコウキに執着して変わることを拒んだ。

 未来へと進み続ける者と、過去を追い求める者。

 どちらが正しいかなど全てを見通せる神にだって分かるはずがない。分かるとしたら、それはきっと二人が慕った龍宮コウキ以外にはいない。

 

「勝つ。コウキの願いを果たす為に」

「勝ってみせる。コウキを蘇らせるために」

 

 男の生き様を愛した女と、男の命を愛した女の戦いは、どこか物哀しい。

 想いのベクトルが前か後ろかの違いだけで、その本質が同じであるからか。

 

「そのデザートイーグルの残弾も一発ずつでしょ。動かない足で私に勝てるとでも?」

 

 弾丸が貫通した真名の左足では、無理をしても走るどころか歩くことも出来ない。

 両手が使えれば銃が使えるが実力で劣る真名から機動力が無くなれば戦術から多くの選択肢が消される。

 

「戦い様は幾らだってある」

 

 真名は凭れていた木から離れ、その途上で左手に持っていたデザートイーグルを上空に投げて地にうつ伏せに寝そべるような姿勢に移行する。

 右手に残ったデザートイーグルを両手で構え、狙いを見据える。

 その銃口はナーデがいると目される場所ではなく、地面を向いていた。

 

「一体どこを狙って……」

 

 困惑したナーデの言葉は一瞬の後に発射音に掻き消される。

 発射音は二度、鳴り響く。

 

「ぐっ」

 

 続いて漏らされたナーデの声には苦痛の色があった。

 真名が狙っていた地面とは全く関係のない方向の木の影から肩を抑えたナーデが現れた。

 傷はそれほど深くはない。だが、この戦いにおいて圧倒的な優位を誇ったナーデに傷を与えたことに意味がある。

 

「器用なことをするわね」

 

 姿を現したナーデはニヤリと笑った真名と対峙する。

 

「落したスナイパーライフルに当てて空中に撥ね上げ、持ち替えて撃ったもう一発を銃身に当てて跳弾させる。あなたがしたことも大概、人のことを化け物扱い出来ないわよ」

 

 ナーデがチラリと見た視線の先には、真名が落としたスナイパーライフルが落ちており、その銃身は歪んでいた。

 最初に撃った一発を銃床に当てて銃身を撥ね上げさせ、宙に投げていたもう一丁のデザートイーグルに持ち替えて、金属部分である銃身に銃弾を当てて跳弾させる。言葉にすれば容易いが十分な神業である。

 ニヤリと己が為したことを全て見透かされ、必勝を期したにも関わらず致命傷を与えられなかったことに焦りを覚えながらも真名は笑う。

 

「あの時と似たような形になったわね」

 

 見下ろすナーデと傷を負って地に伏す真名。奇しくも二年前に別れた時と同じ構図であると語る。

 

「いいや、二年前は傷一つつけることが出来なかった。これが今の私だ。龍宮真名の力だ」

 

 二年前、マナ・アルカナでは傷をつけることすらも出来ずに敗れた。今回もまた敗れるだろう。それでも二年前とは違うのだと、その身に刻み付けることに成功した。

 泣いて縋ることしか出来なかった守られるだけの弱い子供はもういないのだと、その証明が出来た。

 

「……………」

 

 二年前と同じ構図だからこそ、過去ではなく現在を突きつけられたナーデは苦々しい顔で真名を見下ろした。

 その内心でどのような考えや感情が渦巻いているのか、動かすことが出来ない左足を地につけてナーデを見上げる真名には分からない。

 

「それでも私はコウキを生き返らせたい」

 

 二年前も使っていた愛銃の銃口を真名へと向ける。

 逃れようのない時の流れを見せつけられてもナーデは止まることが出来ない。これで止まれるような二年前の時点で止まっている。止まれないからこそ、この二年があるのだから。

 

「させない。私の命がある限り、止めてみせる」

 

 真名にだって戦う理由がある。

 本音を言えばこの島に来るまで、否、この戦いが始まるまでは迷っていた。

 真名だってコウキが生き返るのなら嬉しい。ナーデの気持ちが良く解るからこそ、迷っていたのだ。

 それでも止めようとするのは。

 

「『子供達に笑顔を』――――コウキの願いだ。その願いが侵されようとしているのに私が戦わない理由はない」

 

 ナーデがコウキを生き返らせる為に二年間を過ごしたように、真名もまたコウキの願いを果たす為に二年間を過ごした。

 

「マナ……」

 

 どこも似ていないのにコウキと同じ輝きを宿した瞳に射竦められたナーデの銃口がぶれる。

 迷いか、逡巡か、惑いか。

 銃口と同じようにぶれるナーデの瞳に真名は希望を見た。

 

「もう止めよう。私がいる。コウキの代わりにはなれないけど、私がいる」

「駄目よ。コウキを生き返らせようとどれだけの命を奪ったかを知らないからそんなことを言えるのよ。情報を得るためにどんな卑怯なこともしたわ。コウキも知ったら軽蔑するぐらいのことを」

 

 差し伸べられた救済を拒絶するようにナーデは首を横に振った。

 

「軽蔑なんてしない」

「軽蔑するわ。私は罪を重ねすぎた」

 

 ずっと大人に見えたナーデの子供ような仕草に、真名は己の未熟さを知る。

 コウキとナーデとマナ、三人は何時も一緒だった。だけど、マナには分からなかった繋がりが二人にはあった。そのことに嫉妬を覚えもしたし、コウキと仮契約を交わしていたナーデに妬みの感情を向けて、我儘を言って困らせたこともある。

 マナ・アルカナは子供だった。ナーデレフ・アシュラフと悲しみを共有できない程に、子供だったのだ。

 

「ナーデの罪は私の罪だ。私達は同じ人のパートナーじゃないか」

 

 何時も肌身離さず持ち歩いている仮契約カードを取り出す。

 主であるコウキが死んでから失効された仮契約カード。ナーデも自分と同じように持っていると真名には不思議な確信があった。

 ナーデは血に濡れた手を胸元に当てた。そこに仮契約カードがあるのだろう。

 捨てられなかった絆。繋がっている絆。確かに大切な物はそこにある。

 

「悲しみも罪も一緒に背負わせてくれ。私達は一人じゃない」

 

 手を差し伸べる。

 差し伸べられた手を見遣ってはっきりと表情を歪めたナーデを見た真名は、二年前はこんな簡単なことも出来なかったのだと思い知る。泣いて縋るだけで、ナーデのことを思いやることが出来なかった二年前の自分を罵倒したいぐらいだ。

 

「私は……」

 

 ナーデの手がゆっくりと動く。

 世界は残酷だ。この世は楽園ではないからこそ、大切にしていたものを奪われ、喪い、悲嘆にくれる。やり直してなんて出来なくて、重ねた罪は決して消えない。それでもこうやって手を差し伸べられるからこそ世界は地獄ではないと思える。

 しかし、地獄ではなくても世界が残酷であることに変わりはない。

 

「やはり裏切るか」

 

 小さく呟くような男の声が二人の耳朶を震わせた。

 

「マナ!」

 

 その声を聞いて動いたのはナーデだった。真名は動けなかった。足を負傷していたから。

 ドン、と突き飛ばされた真名は見た。

 真名を突き飛ばしたその背中に突き刺さるハルバートを。

 

「ナーデ!?」

 

 強い力で突き飛ばされた真名は地面を何回転も転がってようやく止まり、動かない左足を引き摺りながらうつ伏せに倒れ込んだナーデへと駆け寄ろうとした。

 

「邪魔をするな」

 

 また同じ男の声が聞こえ、真名は不可思議な力で吹き飛ばされた。

 魔力も気も感じられない力で吹き飛ばされた真名は近くの木に背中から叩きつけられ、少量ではあるが血を吐いた。

 ザン、と雑草を踏みしめる音が地に落ちた真名の耳に届く。

 痛みに呻きながらも音が聞こえた方向に顔を向ける。そこには鎧姿の男が厳しい面持ちで立っていた。

 

「フォン…………、何故あなたが、ここに」

 

 ハルバート背中を深々と貫かれて口から大量の血を溢れ出しながら、ナーデは視線の先にいる男の名を呼んだ。

 

「裏切り者の抹殺。それ以外にあるまい」

 

 ガシャガシャ、と鎧を鳴らしながらナーデに歩み寄ったフォンは冷たい声で断じた。

 

「うっ、ぐぁ……」

 

 ナーデの腰を踏みつけ、痛みに呻く彼女の声を無視して深々と体に食い込んでいるハルバートの柄を握った。

 既にナーデは重傷。刃は貫通はしていないが体内の臓器に食い込んでいることだろう。下手に抜けばそれだけで死ぬ。今の状態のまま早急に優れた治癒術士――――近衛木乃香の下へ連れて行けば助かる。

 彼女の治癒能力を聞いていた真名が動かない理由はない。

 

「止めろ!」

「邪魔をするなと言ったはずだ」

 

 新たな得物を呼び出して止めようとした真名を、またしてもフォンは封じる。

 手を向けることなく、視線を向けるだけその場に縛り付けるその能力。魔力でもなく気でもないとすれば、真名の知識にあるのは一つだけだった

 

「サイコキネシス――――っ!?」

 

 念動力に行動を縛り付けられた真名はギリギリと銃を持つ手が捻じられていくのを感じ取った。

 

「真名……っ」

「まだ他人の心配をする余裕があるのか」

 

 握った柄を押し込み、ナーデの言葉を封じる。

 

「やはりボスの言った通りだった。お前は必ず裏切ると」

「狙って……いたと…………いうの、この時を?」

「ああ、隙あらば殺せと命を受けていた。思いの外、簡単に隙を見つけることが出来た」

 

 更なる血を口から溢れさせるナーデを酷薄に見下ろしたフォンは冷酷に瞳を輝かせる。

 

「ボスからの伝言だ。『ナーデ、貴様は本当に良くやってくれた』だ。良かったな、ボスに認められてあの世に行くがいい。運が良ければ想い人に会えるかもしれないぞ。まあ、地獄に堕ちる女に会いに来るような酔狂な男はいないだろうがな」

 

 ナーデ、と呼ぶなと脅した意趣返しを込めて嘲弄したフォンは柄に力を入れようとして、途中でピタリと動きを止めた。

 

「ボス?」

 

 手を耳に当ててしまうという念話を受けた者が咄嗟にやってしまう行動を取ったフォンの顔には焦りがあった。

 

「どうされたのですか、ボス! ボス!?」

 

 フォンが「ボス」と呼ぶのはゲイル・キングス以外にいない。

 一方的に話して念話は切れたのか、応答を呼びかけても答える声はなかったようだった。

 

「ちっ」

 

 フォンは一瞬で状況を判断し、乗っていたナーデの腰から足を下ろした。

 

「死ぬのが伸びたな」

 

 それだけを言い残してハルバートを持って浮かび上がった。当然、ハルバートを抜かれたナーデの背中からは血がどっと溢れる。

 魔力や気ではなく念動力を使っての浮遊をしたフォンはナーデを一顧だにすることなく、重力に逆らって空気を全く揺らさずにあっという間にその場からいなくなった。ゲイルの下へ向かったのだろう。

 真名を縛り付けていた念動力をフォンが解いたのか、それとも単純に距離が離れたことで効果範囲から離れたか。真名にとってはどうでもいい問題だった。

 

「ナーデ! ナーデ!」

 

 負傷した足では上手く歩くことが出来ない。左足を引き摺って虫の息のナーデの下へ駆け寄った。

 

「ナーデ……」

「ふふ、嗤っちゃうでしょ。こんな最後なんて。仮にも仲間だった奴に殺されるなんて当然の報いかしら」

 

 もうどうやっても助からないと悟ってしまった真名と違って、ナーデの言葉は殊更に明るかった。

 傷口が背中だから抱え上げることも出来なくて、嗤ったナーデの顔に何度も見て来た死相が浮かんでいることが分かってしまった真名の顔が泣きそうに歪んだ。

 

「死なせない……! 死なせてたまるものか!!」

 

 手持ちの治癒符を全て取り出し、効果など度外視してナーデの背中に張り付けようとする。だが、その手はナーデ本人によって阻まれた。

 

「無駄よ。分かるでしょ」

 

 血の気を失い、真っ青になっていた唇を染める鮮血から草が掠れたような、濁ったような声が放たれる。

 今にも存在さえ掻き消えそうなほど痛々しいのに、ナーデの存在は真名には余りにも大きく見える。

 

「でも……!」

「私は死ぬ。それはもう変えられない現実なのよ」

 

 口元も全身も血で染めながらナーデの表情は変に明るい。

 ナーデの視線は夢見のように宙を彷徨い、口元に半笑いのような曖昧な笑みを浮かべて喋るたびに口から一滴、一滴と血が落ちて地を紅く染めていく。

 

「…………ごめんね。あなたに私まで看取らせることになるなんて」

「ナーデ……!」

 

 コウキを看取ったのも真名だった。そしてまた一人、大切な人を看取れと現実は真名に迫る。

 傍観することしか出来ない真名は、微々たる物でも血を止めるために傷口を抑えて泣きそうな顔をする。

 現実を認めようが認めまいが真名に残る選択肢は少ない。

 

「まだだ! 近衛の治癒術なら瀕死だろうと助かる。直ぐにホテルに戻れば……」

 

 直ぐにホテルに戻るには転移しかない。だが、高位魔法である転移を銃士である真名が使えるはずがない。となれば残るのは転移魔法符のみ。

 しかし、真名は転移魔法符を持っていない。

 

「直ぐにネギ先生の下へ行けば…………。いや、それよりも刹那が持っている治癒符を使えば治るかも」

 

 二人とも今も戦っている可能性が高い。

 転移魔法符を持つネギは敵の首魁と相対しており、真名が持つ物よりも遥かに高等な治癒符を持っていた刹那だって負傷したナル・ディエンバーに使用したはずだろうから治癒符が残っているかどうか。

 どの案も即座に実行できない。現実は代えられない。真名を取り囲む世界はこんなにも残酷だ。

 

「ねぇ、マナ。そこにいる? ゴホッ!! もう目が見えないの」

「…………いる。ここにいるぞ」

 

 言葉の途中でナーデの口を塞ぐように溢れる鮮血。それを気にするでもなくナーデは双眸から一筋の涙を零しながら続ける。

 失われた血液と比例するように霞む目は、真名に失われた血の量と反比例して命が減っていくような感覚を与える。

 まだ生きているのが不思議なぐらいナーデが流した血は既に致死量を超えている。五感に影響が出たということは最期は近い。

 

「私はコウキのいるところに行けるかしら」

「きっと行ける。ナーデはずっと頑張って来たんだ。コウキも待っていてくれているさ」

 

 確約なんて出来なくても、真名は断言した。

 人が死んだどうなるのか、生きている真名には分からない。それでも全てをかなぐり捨てて愛しい人を追い求めたナーデがコウキと違う場所に行くというのは理不尽に過ぎる。せめて死後ぐらいは安らかに過ごしてさせてあげたい。

 ナーデの目が見えないことを良いことに顔をクシャクシャに歪めた真名の言葉にはそんな気持ちが込められていた。

 

「嘘が下手な子」

 

 ナーデには真名の嘘は簡単に見破られていた。

 もし、ナーデがコウキの命ではなく願いを尊重していれば……………こんな事にはならなかっただろう。だが、もはやifはない。

 これが結果であり、結末である。必死にやってきたこの結果に後悔していない。寧ろ、最も親しい者の腕の中で死ねるのだ。終わり方としては十分に上等なものだと血を失い過ぎて薄れてきた意識の中でナーデには思える。

 

「そんなに自分を責めないで」

「だって、こんなこんな結末!」

 

 真名を知るものがこの場にいたら驚愕するだろう。普段は大人びている真名が子供のように駄々を捏ねているのだから。

 自分を強く抱きしめる真名の頬にナーデの震える左手が触れる。

 

「あなたは私のようにはなったら駄目よ」

 

 闇に堕ちた自分とは違う光の道を歩む子に祝福を。

 今も考えることは同じ。どうか汚れないでそのままでいて欲しい。貴方には光り輝く道が似合うからとナーデは言葉に込めた。もう思いの丈を全ては話すことも出来なくなっていたから。

 

「ふふ……幻覚かしら。コウキが…………迎えにくれた……」

 

 ナーデは和やかな表情になった。その表情の変化に真名は吸い込まれるようにナーデの顔に自分を顔を近づけていった。

 

「……待って、コウキ…………今、…………行く……でも…………マナが」

「ナーデ!」

 

 言葉と共にどんどんナーデの目から光が薄れていき、言葉が途切れ途切れになっていく。

 また自分の前から大切な人がいなくなる。その恐怖から引き止めるようと真名が声を掛けるも、ナーデは壊れた笛のような音が空気を揺らして呼吸を繰り返すだけ。

 真名の世界は残酷だ。また大切な人を失っていく。

 

「マナ…………を…………置いて………………な……い」

 

 言葉が聞こえていないかのように言葉を繰り出すナーデを前に、真名は自身が出来る事はもはやなにもなく、最後を看取ることしか出来ないことを悟った。 悟らざるをえなかった。

 

「大丈夫。私は大丈夫だから――――もういい。ありがとう、ナーデ。コウキと一緒に行け」

 

 悟った現実を前に真名は歯を食い縛った。何故ならナーデに心配をかけたくなかったから、安らかに眠ってほしかったから。虚勢であろうとも通すべきものがある。かなりの血が流れ、体の感覚が薄れてきたナーデの耳に、その秋の落日を思わせるような穏やかな言葉ははっきりと聞こえた。

 

「そう…………真名……………バイバイ………………」

 

 他の誰にも聴こえない。傍にいた真名の耳にだけ辛うじて聴こえた言葉。本当に安心したように言葉を呟く。

 ナーデは薄れてきた意識の中で縛られ続けた思いから解放され、薄く笑みを浮かべて静かに目を細めるようにして頷いた。

 それが本当に最期だった。真名の頬に添えられていたナーデの左手が離れて地に落ちる。最後の痙攣を見せて彼女の体中から力が抜けたのが、真名には分かった。

 世界の不条理に翻弄され続けたナーデレフ・アシュラフは、真名の腕の中で眠るように息を引き取った。その顔には、苦悶の表情は無く笑みを浮かべ、どこまでも穏やかで幸せそうだった。彼女は報われた、と真名はそう信じる。それでも―――――。

 

「ぐっ!」

 

 歯をきつく、強く、血が出るまで食いしばった。舌に感じる血の味だけが真名に冷静さを与えてくれる。覚ましてくれる。全てを――――憤りすら。

 全ての感情が消えたような気になった。昼なのに、視界から深紅の色は消えはしない。

 

「あ…………は、あはははははは」

 

 唐突に笑いの衝動が沸きあがって来た。身体のどこから出てきたのか分からない、意思のない笑い声のようなものが響いた瞬間、心が真っ白になった。何かが音を立てて崩れていった。

 

「―――――は、はははっ、はははははは!」

 

 馬鹿げていた。今更何を恐れることがあるというのか。本当に今更な事を自覚して真名は壊れたように笑う。

 忍耐という名の鋼で編まれた檻の中に押さえ込んでいた激情が虚空に消えるシャボン玉の様にあっさりと弾けていく。それは嵐の前の静けさの様な刹那の空白。

 ゆっくりと白い思考の中にゆっくりと染み渡る哀惜が、感情を激しく揺さぶりながら真名の胸に溢れ、自責、呵責、喪失感、怒り、やるせなさ、悔恨、その全てが激しく渦巻いていく。

 笑っているように自らを罵倒しているような哂い声が、辺りのひっそりとした空気に溶け込むようにして響いていく。 生と死の境界線があやふやになってくる。どこからが死なのか、どこまでが生なのか。首が離れていれば死、肌がまだ黄色ければ生。もう、どうでもよくなってくる。

 思い出があった。ちゃんと、今でも生きている温かさがあった。忘れようのない、彼女の体温が直ぐ近くにあってくれた。生気を失い、どんどん冷たくなっていくナーデの体の熱を少しでも留めるように強く強く抱きしめていた。

 誰にも奪わせぬように抱きしめながら、こんな結末しか生み出せない自分を呪い続けるように哂い続けた

 何時までそうしていただろうか。既に真名が接触していた部分以外、ナーデの体が冷たくなるほどの時間は経過していた。

 不意に真名は笑みを止めて、空を見上げた。

 

「泣けない。こんなにも胸が張り裂けそうなほど哀しいのに泣けないよ」 

 

 どうしようもなく悲しい時、人は泣く。泣いて涙と一緒に悲しみを流す。悲しみをそのままにしておくと、心が壊れてしまうから。

 悲しいのに、まるで泣き方を忘れてしまったかのように涙が出てこない。苦しい時にも悲しい時にも、涙の代わりに歯を食い縛ってきた。あまりの哀しさに涙を流す器官が壊れてしまったかのように。

 

「真名……」

「あっ……」

 

 フォンと戦って足止めすら出来なかった全身傷だらけの楓が真名をを包む込むように抱きしめ、母が我が子を子寝かしつける時のように背中を優しく撫でる。

 温かい感触に真名は気の抜けたように声を上げて、弱弱しい力で離れようとする。

 

「すまぬ……。すまぬでござるっ」

 

 楓はより強く抱きしめる腕に力を入れる。

 

「――ぁ、」

 

 深い悔恨と後悔に苛まれた声に、それ以上の抵抗は出来ず何も言えなかった。決して離さないという意思が込められた行為と自身を労わる言葉に、真名の中に再び衝動が沸き起こる。安心したのか、何なのかは分からない。

 今度は自分から抱きしめて、楓の胸の中で泣く変わりに思いのぶちまけるように叫び続ける。

 楓も叶うならより違う言葉で慰めてやりたかった。だが、それは出来ずに無言で抱く腕に力を込める。

 

(拙者に何が言えるでござるか!)

 

 フォンを止めることが出来なかった楓に泣く資格なんてない。

 唇を噛み切り、血を流すほどに強い憤りの中で自らを傷つける。ズキリと響いた痛覚は、歯が皮膚を裂いた痛みか、それともなにも出来なかった無力感か、どちらであるにせよ、そんな生温い刺激で何が紛れるわけもない。

 何時まで二人はそうしていただろうか。

 

「―――――もう、大丈夫だ」

 

 やがて真名は楓の腕の中で身じろぎして、立ち上がった。

 背中を見せて立ち上がったのでどのような表情をしているのかが分からない。でも、今の真名に戦えるはずがなかった。

 

「真名」

「行こう。まだみんな戦ってる」

「真名……!」

 

 二度目の諌める言葉は叫びになっていた。

 大切な人を目の前の喪ったのだ。それでも戦える者はいるだろうが、楓の見るところでは真名はそうではない。あの涙と叫びはたったあれだけで癒えるような傷ではないのだから止めなければならない。

 

「ナーデが!…………死んだんだ。せめて、仇を討たせてくれ」

「それは復讐でござるか?」

「そうだ、といったら行かせてくれるか」

「死にに行くわけではないでござるな」

「私は死ねない。大丈夫だと言ってしまったから当分その予定はないぞ」

 

 振り返った真名の顔は逆光になって楓には見えない。

 間に合わなかった負い目が、止め切れなかった負い目が、楓の目を曇らせる。

 

「拙者も一緒に行くでござる」

 

 それでも、と今すぐにでも気絶したい痛みに喘ぎながら言えたのは砂浜で感じた友情からか。

 

「――――ありがとう」

 

 その時、確かに真名は楓の言葉に安心して笑ったのだと確信できたからまだ戦うことが出来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗い部屋、暗い声、暗い気配。様々な器具や五芒星や六芒星など数多の魔法陣に取り囲まれ、魔導書や禁術書が辺り構わず散乱しており、窓一つないことで陽の光が差し込まない部屋は暗いという以外のイメージを持つことすら出来ない。

 

「目は開いているが、もう起きているのか?」

 

 暗い部屋にいるのは一人ではないようだ。誰かが部屋にいるもう一人の誰かへと話しかけている。

 その光景を覚えている。恨みを憎しみを憎悪を覚えている。でも、口から声が出ることはなかった。口を開くことは出来ても声帯はまだその機能を知らぬかのように声は出ない。代わりに出たのは気泡だった。

 

「誕生の瞬間から意識はあるはずですが、まだ自意識と呼べるものにまでは覚醒していません。もう暫くの時間が必要となるでしょう」

 

 ゴポリ、と口から気泡を吐き出した検体を白衣を着た初老の男はにこやかに見つめながら告げる。

 初老の男と話しているのは烏の面を付けた男であった。まだ若いであろうその男からはこの部屋の暗い雰囲気に似合う独特のオーラを放っていた。

 

「当初の予定では覚醒を果たしているであろう」

「それは検体№665であります。こちらは検体№666。まあ、こちらも予定よりも遅れておりますが許容範囲内でございます」

 

 №666と呼ばれた検体は口を塞ぐ救命マスクにも似た器具に口元を覆い隠されながら、再びゴポリと小さな気泡を吐き出した。

 僅かに開かれた目は何も映し出してはいない。目の前にいる男二人も、男達の瞳の中に映る大型のシリンダーのような入れ物の中で揺蕩っている自分の姿も。

 

「666…………また随分と増えたものだ」

 

 烏面の男は見ているだけでも不快と、視線を外して検体№666の右横へとずらしていく。

 ずらりと並ぶガラスケースの山。大型のシリンダーの中の朽ちるに任せられてる生の宿らない瞳をこちらを見る失敗作達。余人であれば発狂しかねない光景である。

 

「そちらのは№660から№665でございます。特に№665は成功に近かったのですが、精神の定着が弱かったようです。数日前に覚醒したのですが、そのまま精神崩壊。まこと残念でございますが、この失敗によって№666の完成に役立ちました」

 

 ニヤニヤ、と命を弄ぶ初老の男は自らの作品を誇るように笑みながら語る。人の形をした生命体がその命を生まれたと同時に終えたにも関わらず、にこやかに語るその精神性。尋常な人間であれば傍に近寄っただけで吐き気を催す邪気を、烏面の男は無感動に眺める。

 

「これほどに必要だったのか? 失敗作の処分だけでも費用は嵩むのだぞ」

「仕方有りませぬ。■■■■■の■■■■の作成など、いくら■■■が付着した剣が残っていたとしても無茶があります。しかも■■の■■も同時に行うとなれば、普通は不可能でありますぞ」

「出来るのは自分だけと言いたいのだろう」

「それはもう」

 

 初老の男の眼に在るのは正気はなく狂気のみ。人の道を外れた外道と成り果てている。自分もまた同類であるので烏面の男は気にしなかった。

 

「■■■の目を逃れて■■を手に入れるのに随分と苦労したのだ。もう元に場所に戻した以上、二度目はない。やってもらわなければ困るぞ」

「分かっております。ご当主には感謝しかございません」

 

 無茶であると言っているのに聞かぬ烏面の男に初老の男は困ったように髪の毛の薄い頭を掻いた。

 

「学会を追放され、行き場を失くしていた私に研究の場を与えて下さったこのご恩は決して忘れません」

 

 感謝を示す様に深々と下げられた初老の男の薄い頭を見る烏面の男の目は冷たい。

 

「世事は良い。嘘を真のように言う輩の戯言を聞く気は無い」

「お見通しでありましたか」

「分からいでか」

 

 無駄話をしている、と烏面の男が思ったのかは定かではない。が、この部屋にいるのは彼にとっても好ましいことはないようだ。顔色が僅かに悪い。

 

「経緯などどうでもいい」

 

 初老の男の愉悦などどうでもいい烏面の男は切って捨てるが幾分の躊躇いも含めて、完成体と評された№666を見上げる。

 

「しかし、六百六十六で完成とは」

「新約聖書のヨハネの黙示録に記載されている獣の数字。お気になさりますかな」

「この業界であれば数字は大きな意味を持つ。偶然と切って捨てるには些か嵌り過ぎというものよ」

 

 生者とは思えないガラスのような伽藍同の瞳でこちらを見返す№666の懸念を裡に抱え、しかし烏面の男は止まらない。この程度で止まるようなら彼は此処にはいない。

 

「我ら時坂は未だ新興の一族に過ぎぬ。先代の為したことを続け、我が代を以て上に立たねばならん。その為には貴様にはしっかりと働いてもらうぞ」 

 

 その眼は野心に燃えていた。その全てを検体№666――――半年後から月詠と呼ばれる者は産声を上げる代わりに見ていたのだった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 剣は嘘をつかない。武器に思考はない。そこに善悪の判断はない。善行を為すのも悪行を犯すのも武器を操る使い手自身である。ならば剣とは己自身の善悪を、心の在り方を映す鏡でしかなく、戦闘行為そのものも己の悪徳、または善徳を証明する作業でしかない。

 相手を打ち倒すためにどれだけの努力を重ねてきたか。寝食を惜しむように精進し、剣技のことを考えてきたか。生涯がどれだけ多く剣の一振りを研ぎ澄ませるために費やしてきたか。その所差が、結果が、刹那の内に判決されるのが戦闘行為というものである。少なくとも桜崎刹那にとって、戦闘行為というのはそういうものであった。

 

「ぐはっ」

 

 振るった夕凪を柔らかい歩法で潜り抜け、横を通り過ぎる間際に振るった太刀が刹那を切り裂く。傷自体は浅い。薄皮の奥を僅かに切り裂いただけで戦闘行為に支障はない。

 

「月詠!」

 

 侮られている、と刹那は感じ取る。感じ取れぬはずがない。

 

「やっぱ先輩の血はええ味がしますわ」

 

 刹那が振り返った先、少し離れた所で背中を向けたままの月詠は振り返ることすらせずに小刀についた血を舐め取っている。先程からこの連続だ。どれだけ斬りかかろうとも月詠は刹那に僅かな傷を与えて流れる血を舐め取るばかり。

 

「次は肉の味を確かめてみましょか」

 

 ぐるりと気味悪く首だけを振り返らせた月詠は、ニタリと気味の悪い笑みを浮かべて体をくるりと回転させた。フリルの付いたスカートが舞い上がり、刹那よりも細い太腿が垣間見える。

 一瞬でも見惚れてしまった自分を恥じて、刹那は夕凪を振り上げた。

 

「斬空閃!」

「斬空閃、二連」

 

 縦一文字に地面を抉りながら進んでいた刹那が放った斬空閃は、月詠が放った十字の斬空閃に切り裂かれる。文字通り切り裂かれるという言葉が適していた。

 斬空閃の大きさは刹那の方が大きい。にも拘らず、僅かな拮抗すらなく刹那の斬空閃は内側から食い破られる様に切り裂かれる。

 

「また……!?」

 

 これで技を破られるのは何度目であろうか。斬空閃とぶつかって多少は威力が速度が弱まっている斬空閃二連を避けた刹那は歯噛みする。

 

「先輩は放つ技の気の練りが甘いんですわ。人よりも大きなポテンシャルを持ってるのに宝の持ち腐れですえ」

 

 刹那が避ける方向を予測していたのか、先回りしていた月詠は言葉を放ちながら太刀を叩きつける。

 

「なにを!」

「半妖であろうともその半分は人よりもポテンシャルが高い妖怪のものです。器の大きさは人の比やありません。流石に純正には劣りますがな」

「さっきから何を言っているんだ!」

 

 叩きつけられた太刀を軽々と跳ね返し、やり返すがあっさりと防御される。余裕を見せつけられているようで刹那の頭に血が上る。他人に触られたくないところを無遠慮に手を伸ばされているから特に。

 

「分からんはずがありませんやろ。この血、この力はとても唯人に出せるもんやあらしまへんで」

 

 今度は太刀を振り上げる。だが、それすらも刹那は容易く受け止める。ギシリと拮抗する両者の得物。下から力を掛ける月詠と抗う刹那の瞳が近距離で火花を散らす。

 

「見えます。見えますで、うちには。先輩が隠している秘密が」

「私は何も隠してなどいない!」

 

 力で押し返した刹那は夕凪に更なる気を込める。神鳴流奥義の一つ、一振りで岩をも真っ二つに斬る斬岩剣が放たれる。

 

「――――背中の翼。白くて綺麗やないですか」

 

 最も力が乗る前に夕凪を横から払われ、技は不発となる。

 斬岩剣を破った月詠はにこやかな笑みを浮かべて刹那から距離を取る。まるで今の言葉の反応を見るかのように殊更にゆっくりと。

 

「図星みたいやな。分かりやすい反応ですえ、先輩」

 

 追撃をかけなかったこともそうであるが、それよりも斬岩剣を簡単に払わせるなど動揺が技に現れていた。

 

「き、さ、まぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 未熟だった頃を除いて他人に、敵に隠し通してきた秘密を知られたことはなかった刹那が平静を失うのは早かった。

 吠えながら夕凪を振り上げて怒りに任せて突進する姿は、速いが直線的で動きも大振りなので読みやすい。優れた身体能力に任せた攻撃、技量で上回る月詠には避けるのも容易いが敢えてしない。

 

「これだけでムキになるなんて、先輩は恥ずかしがり屋さんやな」

 

 ギン、ギン、ギン、と技も何もないただ振り回しているだけの攻撃を簡単に捌く。子供が木の棒で遊んでいたように、だが力と速さはその限りではない刹那の大上段からの振り下ろしを簡単に躱した月詠は、斜め前に踏み出しながら避けて後ろ脚を円を描くように体を回転させる。

 

「ほい」

「がっ、く……」

 

 そのまま横を通り過ぎるかと思われたが置き土産のように太刀の柄を刹那のこめかみに叩き込む。

 軽く叩きこまれたようなふざけた声とは裏腹に、こめかみに太刀の柄を食らった刹那は苦痛の呻きを上げて倒れ込んだ。

 

「でも、猪の如く突進したって勝てやしませんで。勿論、武器の所為にしてもあかんで」

 

 打たれたこめかみから血を流しながら蹲る刹那に対して、まるで師が弟子に教えるように諭す。

 対人戦では小回りが利かない野太刀は不利。神鳴流とは人よりも巨大な力を持つ魔を払うための剣技。その為にはより大きな力を発揮できるように武器を大きくする必要があった。その為の野太刀である。

 頭を打たれたことで脳震盪を起こしているのだろう。直ぐに立ち上がれない様子の刹那を見下ろした月詠は別種の意味で呻きを漏らした。

 

「んぅ」

 

 月詠は何かを取り戻す様に自分の額を小太刀の柄でコンコンと叩く。

 

「全く忌々しい。生まれでいらんものを背負わされると面倒ですわ」

 

 脳震盪で揺れる視界の中で見る月詠の姿は歪んで見える。でも、何故かその時に見えた月詠の表情には共感を覚えた。共感してしまった自分を、刹那は否定する。

 

「知る、ものか……! さっきから勝手なことをペラペラと」

「まあ、そうですわな。似合わんことをしてる自覚はあります。それも含めてってのは分かってもらえへんと思うけど」

 

 震える膝で立ち上がった刹那の前で、緩やかに瞼を開いた月詠の瞳がはっきりと変わる。スイッチが切り替わるように、血を好み殺戮を楽しむ鬼の如き眼へと。

 

「講義はここまでや。これからは殺し合いをしましょ。これ以上、過去に追いかけられるのは互いに不快やろ」

 

 月詠の瞳に走った一抹の寂寥感を刹那は見逃さなかった。

 見逃さなかったからといって何か変わるわけではない。二人の間にある技量差は覆しようが無く、このまま戦えば刹那の敗北となるだろう。

 

「負けない、私は」

 

 負けられないと刹那は震える膝を叱咤して月詠を睨み付ける。

 月詠の変化、自身の弱さ、秘密、過去、全てを心の奥底に沈めて夕凪を構える。

 月詠が両手に太刀と小太刀を携えた構えた。途端に刹那の肌に鳥肌が立つような殺気が発せられた。殺気に抗おうと殆ど裏返らんばかりの声で叫んだ。

 

「負けられないんだ、私は!」

 

 二人の間合いがじりっと迫る。空気が糸を巻くように引き絞られ、端から耐え切れずに裂けていく。

 

「行きますえ」

 

 ゆらり、と何気ないしぐさで太刀を振りかぶった直後、いきなり月詠がするすると間合いを踏み込んで詰めてきた。まるで影が滑るような、気配のない動き。その気配同様の空気を掻き乱すような粗暴さとは対極の、洗練された身のこなしだった。細かな駆け引き、フェイント、複雑なテクニック。そんなものとは無縁の直線的な踏み込みから、始動の読みづらい、そして十分に重く速い、つまり申し分なく鋭い右に持つ太刀で神速の唐竹割りの一閃を見舞った。

 真っ直ぐ切り下ろすシンプルな太刀筋。ただ、これが速い。とにかく速い。閃光の速さで接近してくる。無音・無風で稲妻のような斬撃が、刹那の右肩に喰いこむ様に放たれた。例えて言うならば、アマチュアボクサーがボクシングの世界ランカーに本気のジャブを打たれたようなものだ。しかも、軽い拳と違って必殺の一刀である。

 

「?!」

 

 気付いた時には眼前に迫っていたこれを、半ば本能的な反応で体が動いた。速球投手のピンボールを避けるような動作で刹那は大きく横に飛び退いて、どうにか避けることで身を守る。しかし、月詠はぴったりとそれを追いかけてきた。斬り払った太刀を戻さず、そのまま回転力を活かして太刀でまたも横薙ぎに逃げる刹那を追いかけるように繰り出す。

 これもギリギリで躱した刹那の背筋を、死の恐怖が駆け上る。斜めの斬撃から切り替えして横薙ぎの斬撃まで、完全な一挙動。刹那の動きを完全に見切った上での連続攻撃だった。

 だが、その程度で臆するようならば戦いの場になど出て気はしない。刹那は鋭く、月詠は獰猛に、お互いを睨みつける。

 迫る月詠に向けて刹那が切り上げる斬撃を放った直後、鈍く響いた激突音。二つの刃がぶつかり、共に弾かれた。 

 伸びきった腕と武器を引き戻すと、次の瞬間に二人の神鳴流はどちらからともなく打ち込んだ。熾烈な剣のぶつかり合いが始まった。

 

「シャァァァァァッッッッ!」

「ハァアアアアアアアアア!」

 

 刃と刃が擦れ、火花を散らす。その火花で互いの動きのほんの一瞬ずつだけだが網膜に残像する。どちらも、一瞬たりとも留まってはいなかった。踏み込み、斬り合い、鍔ぜり合う。刹那は鋼のぶつかる音の隙間で問いかける。

 

「何故だ! 何故これほどの力が、才能が有りながら魔に堕ちた月詠……!!」

 

 鶴子に聞いた話。実際に戦って見た感触。その全てが月詠の力を物語っていた。故に叫ばずにはいられなかった。

 

「うちにとって『闘う』ていうんは『生きる』ということと同意義やから」

 

 剣撃の狭間で遠く聞こえる月詠の声からは、あらゆる感情の色が失われていた。怒りも憎しみも悲しみも遠く、ただ恐ろしく静かに刹那を見つめていた。見つめているのは、過去であったか、未来でったか、それとも現在であったか。

 

「闘っている時だけは、生きていると実感出来るんや。それ以外の間は死んでる。分かるやろう、うちにとって闘いこそが全て」

 

 失われていた感情に熱が籠り始める。

 

「ああ、闘うのが好きや。殺し合うのがなによりも好きや」

 

 剣もまた変わる。苛烈に、情熱的に、だがどこか冷めた不可思議な感情が込められて刹那を圧倒する。

 

「それこそがうちに与えられた宿命。『ひな』に見初められてもうた運命や」

「何を!」

「先輩には分かりやしませんやろ。いや、もしかしたら理解は出来るかもしれへんな…………人は生まれを変えられへんのやから」

 

 冷静さをかなぐり捨てて詰問する刹那に、月詠が答える。

 片方が剣を打ち込む。もう片方がそれを剣で防ぐ。片方が剣をねじ込む、叩き込む。もう片方がそれを剣で弾く、凌ぐ。剣と剣が幾度となくぶつかり合い、弾け飛び、火花を散らし、優位を競う。それは闘争の原点ともいうべき、原始的なぶつかり合いだった。

 

「アハハハハハハハッ」

 

 月詠は、声を上げて笑いながら戦っていた。あたかも、彼女にとって戦闘することが悦楽そのものであるかのように。

 どちらの剣が力強いか、どちらの剣が速いか、どちらの剣が鋭いか―――――。そうした部分で競う勝負。柔と剛で言えば、分かり易い『剛』の勝負。だが、勿論これだけが剣術ではない。二人は神鳴流剣士。気を振りまいて、風が飛び、雷が振り降り、気の花びらが舞う。

 

「斬鉄閃!」

「斬鉄閃二連」

 

 螺旋状に気を放つ剣技を放つタイミングさえ同じ。ただし、月詠は横合いに走りながら、刹那はその場に立ったままで。

 月詠はここで今まで使わなかった小太刀を振り下ろした。曲線状に放っての斬空閃が刹那に目がけて放たれる。刹那は素早く避け、今まで彼女の立っていた背後の木へと斬空閃がぶつかり、始めからなんの障害もなかったように切り裂いた。

 

「楽しいですけど、他にも獲物がたんといますさかい、もう終わらせましょ」

 

 回避場所に先回りされていた刹那の目前で光が瞬いた。月詠が振るった二刀がその軌跡を描いた数は十六。

 

「あ」

 

 血飛沫が上がる。その発生源は切り裂かれた刹那の体である。十六連の斬撃によって四肢と胴体を切り裂かれた刹那の体から力が抜ける。

 

「先輩は決して勝てやしません。神鳴流を最も知るのはうちなんやから」

 

 膝を付き、その頭を地面に落とした刹那の前で月詠は両刀を振るう。血を払われた二刀の輝きが不思議と倒れた刹那の目を惹く。

 

「剣に魅入られ、剣に魅せられた我が人生。どんな皮肉か二度目を経験しとりますが、為すことは何も変わりやしません。前のことは記録としてしか覚えとらんけど、うちには剣が全て。闘争こそが我が故郷。切って斬るのみ」

 

 憂いを湛えたその瞳に魅入られる。殺人を楽しむ人格と別の人格、子供のような大人のような、その内面に大きな矛盾を抱えた瞳。壊れてしまって救われなかった心は鏡を見ているようで。

 

『こんな……こんな白い翼があるから!!』

 

 何時かの自分の言葉を思い出す。何時かの自分の姿を思い出す。何時かの自分に手を差し伸べてくれた人を思い出す。

 

「お前が…………何を願おうが、私の知ったことじゃない」

 

 地に手を着いて体を起こす。力を入れるだけで血が溢れ出すが胸にある思いが体を留めさせない。

 

「私はお前が嫌いだ」

 

 立ち上がって夕凪を構える。共感を抱かせることが、その技術に僅かなりとも尊敬を抱いてしまうことが認められなくて反発する。

 

「先輩のような人は今まで近くにはおらへんかったから、うちは先輩のことけっこう好きやで。それでも殺すんや。殺すことでしかうちは生を実感できひん。生きるためにうちは先輩を殺す。その血の滾りでうちを愛して!」

 

 夕凪を構えた刹那に答えるように月詠もまた二刀を掲げる。次が最後と言葉を交わさなくても互いに理解しあった。

 

「「神鳴流奥義――――」」

 

 月詠が掲げた二刀に紫電が走る。刹那の夕凪にもまた同じ紫電が光った。

 

「「――――極大雷鳴剣!!」」

 

 奇しくも互いに放った技のタイミングから、技の末尾まで同じであった。しかし、結果は違った。

 同じ技、同じタイミングで放たれた極大雷鳴剣は二人の中心で炸裂した。技の威力、冴え、その全てにおいて月詠の極大雷鳴剣が上回っている。夕凪を弾き飛ばされ、刹那の体に相殺しきれなかった月詠の極大雷鳴剣が当たる。

 

「ぐぁああああああああ!!」

 

 雷に焼かれる肉体。その痛みに刹那は絶叫する。

 

「さよなら、先輩」

 

 トドメ、と伸ばされた小太刀の一刀が刹那の喉を突き刺してその命を奪う――――はずであった。

 

「なっ」

 

 刹那の胸元で突如として光り輝いたペンダントが雷を払い、小太刀を受け止めている。

 光に小太刀を押し留められた月詠の驚愕の隙間に、刹那はスカートのポケットに入れていたアーティファクトが熱を持っているのを感じ取って、無意識の内に「アデアット」と唱えていた。

 

「剣の神・建御雷!!」

 

 「翼ある剣士」と称号が書かれた仮契約カードが今まで以上に輝き、身の丈を超える巨大な石剣が刹那の手に収まっていた。既にエネルギーは臨界に高まっており、今にも爆発しそうに紫電を撒き散らしている。

 彼女のアーティファクトはアスカの『絆の銀』のような特殊な能力なんてない、ごく単純なアーティファクトである。ただ、基本の能力が刹那に合致していて、契約者が木乃香であるからこそ敵対する相手に脅威を振り撒く。

 

「月詠ぃいいいいいいいいいいいいいい!!!!」

 

 契約者の魔力を充填して雷属性に変化する剣が下から斜め上に振り上げられた。

 魔力を充填して放つので気の遣い手である刹那は神鳴流の技を使えない。魔力と気は反発する性質を持っているからだ。ただ、アーティファクトである建御雷の雷に方向性を与えるだけ。雷を得手とする神鳴流の遣い手である刹那自身の特性に合わさって、脅威を感じさせる威力を解き放つ。

 

「がぁあああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 これしかないというタイミングで放たれた至近距離からの雷撃が今度は月詠の体を焼く。

 刹那は巻き込まれない様に後ろに跳び退り、先の極大雷鳴剣と今までの攻撃のダメージが重くて膝を付く。

 

『せっちゃん。これお守り代わりに付けてって』

 

 ホテルを出る前に木乃香から渡されたペンダントが、刹那の胸元でパキリとその役目を終えて砕け落ちる。

 

「私一人では勝てなかった。ありがとう、このちゃん」

 

 木乃香から渡されたペンダントに守護の力がなければ、仮契約をしていなければ、負けていたのは刹那の方だった。

 どうして木乃香が守護の力を持つペンダントを持っていたのかは分からないが、祖父である学園長が裏の世界に関わった孫娘に用心に持たせたのだろうと考え、後で壊してしまったことを謝らなければと心に決める。

 感謝も同時に伝えなければならない。仮契約カードが熱を持っていたのは木乃香がずっと魔力を注ぎ続けてくれていたのだろう。誰かの助けがあったとしても素人よりは大分マシという程度でしかない木乃香にはどれだけの苦労であったか。

 

「私の、私達の勝ちだ」

 

 この勝利は刹那一人のものではない。木乃香がいて始めて到達した勝利。刹那は誇るように建御雷を握る。

 

「…………負けましたなぁ」

「なっ」

 

 小さく掠れた声が刹那の耳朶を震わし、慌てて顔を上げた。そして絶句する。

 

「お、とこ……?」

 

 刹那のアーティファクトである剣の神・建御雷の雷によって焼き尽くされたその全身は酷いものだった。咄嗟に気を全身を覆うように展開したことで即死は免れたかもしれないが、木乃香の魔力が存分に込められた雷によって生きているのが不思議なほどの重度の火傷を負っている。だが、問題はそこではない。服も焼かれ、剥き出しになった上半身にこそ驚きがあった。

 

「うちは自分が女やなんて一言でも言った覚えはありませんで、先輩」

 

 月詠の年齢は刹那と同じか、一つか二つ下ぐらい。にもかかわらず、その胸は女性的な膨らみをしていなかった。平らな、それどころか男性特有の筋肉が火傷をした肌に浮いていた。

 

「骨身に染みるほどの良い一撃でしたわ。これほどの痛みは久しぶりですえ。死んだ時以来ですわ」

「死んだ時? 何を言って……」

 

 刹那の中で疑念が膨れ上がる。思えば月詠にはおかしなところが多すぎた。

 鶴子に聞いた話では神鳴流の技を見ただけで模倣し、その出自すら怪しい。妖刀ひなを奪ったその目的すらも定かではない。あまりにも謎が多すぎる。

 

『神鳴流を最も知るのはうちなんやから』

『どんな皮肉か二度目を経験しとりますが、為すことは何も変わりやしません。前のことは薄ぼんやりとしか覚えとらんけど』

『死んだ時以来ですわ』

 

 この戦いで月詠が漏らした数々の言葉を思い出す。

 

(おかしい。まるで一度死んで生き返ったような言い方だ。それに神鳴流を自分が最も知るというのもおかしい。月詠は神鳴流を見たことしかないはずだ)

 

 ぐるぐると情報が頭の中で錯綜する。

 刹那は頭が良いわけではない。勉学の意味ではない。勉学も良くはないがこの場合は頭の回り具合である。刹那ではこの答えを導き出せない。

 

「―――――――――最初に目が覚めたのは暗い部屋でしたわ」

 

 火傷の苦痛に呻きながら楽しげに月詠は語る。

 

「頭の中に巡る知らない誰かの生まれてから死ぬまでの記憶。いや、実感がない分だけ記録いうんでしょうな。斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って…………………………そんな記録ばかりがうちの中にあるんですわ」

 

 クツクツ、と何が楽しいのか笑う月詠が今は恐ろしい。

 生まれたその瞬間から別人の記憶を、それも斬ってばかりの記録を見せ続けられた人はどうなるのか。その実例が目の前で嗤う。

 

「お前は…………誰だ?」

 

 人の闇を凝縮したようなその笑みが刹那の中に流れる妖の面を惹きつけて止まぬからこそ、このままでは人間性を剥ぎ取られるような恐怖があった。それでも問わずにはいられなかった。

 

「青山です。下の名は忘れてしまいましたわ」

 

 青山。神鳴流宗家の名。一度死んで、自らが最も神鳴流を知ると語る者。

 

「ば、馬鹿な?! 宗家で未成年は素子様のみ。貴様などは」

 

 鶴子の弟子であった刹那が気づかないはずがない。彼女の家族構成は家に招かれたこともあるので良く知っており、月詠のような子供がいるはずがない。

 刹那の動揺を、ニタリと火傷で覆われた顔で哂う月詠。存在しないはずの子供、その子供がいるのには理由が必要となる。その秘密を明らかにする。

 

「クローン計画。神鳴流が管理する妖刀ひなに残された『初代』青山のDNAからクローニングされて生み出された666番目の検体。それがうちです」

 

 妖刀ひな。それは昔、この刀を手にした剣士でもないただの男によって全神鳴流剣士を絶滅の際まで追い詰められた妖刀である。男を止めたのは既に老齢で現役を引退していた初代青山。腹をひなに貫かれながらも男の首を撥ねたのだ。その時に負った傷が元で初代は死亡。

 死んで終わったはずの男を現代に蘇らえて続かせたのは二人の男の狂気。

 

「時坂が何の為に初代青山を蘇らせようとしたのかは分かりません。体だけやなくて記憶も定着させようとして失敗したみたいやけど」

 

 青山鶴子は神鳴流の歴史の中で一、二位を争う実力があると言われている。だが、その論争の中では神鳴流を興した初代青山の名が必ず挙げられる。それほどの剣士だったのだ初代青山は。

 月詠に才能があったわけではない。与えられた情報を見れば直ぐに分かる、神鳴流の創始者がその技を使えて当たり前なのだから。

 

「今より怪異が蔓延っていた昔の方が神鳴流の質も高かった。彼らを滅ぼしかけたひなをうちが振るえばどれだけ殺せるんやろうな。ま、時坂がうちにひなを盗ませたんはその力を制御して関西呪術協会を乗っ取ろうとしたのか、今となっては意味もないことですわな」

 

 自分のことなのに他人事のように語る月詠。刹那にはその神経が理解できない。

 

「先輩には感謝しとります。先輩のお蔭で時坂が仕込んだ仕掛けが壊れてくれた」

「仕掛け?」

「あいつらもうちのことは信用しとらんかったみたいで、監視みたいなことをしてたらしいですわ。命令にも逆らえへんかったし。でも、それがさっきの雷撃で壊れた。これでうちは自由、感謝しかありませんわ」

 

 全身に大火傷を負って生きているだけでも不思議なぐらいなのに、それを行なった相手に感謝を捧げるその精神性を垣間見て刹那は確信した。

 

「お前は壊れている……っ!」

「かも、しれませんな」

 

 にへら、と月詠はピエロのような張り付いた笑みを浮かべた。

 

「父もなく母もなく、試験管の中で生まれたうちは本当に人間て呼べますの? 初代青山の剣を魅せられ続けたうちがまともでいられると思いますの? 妖刀と呼ばれる『ひな』に見初められたうちが正気を保っていられると考えたんですか?」

 

 人間の定義とは何か。はたして人と同じ姿形をしていれば同じ人と言えるのか。剣に魅せられ、剣に魅入られた月詠ははたして人なのか、刹那には分からない。だが、どうしようもなく月詠を恐ろしいと感じた。

 木乃香との繋がりである建御雷がとても頼りなく思える。刹那の全身は恐怖で震えていた。

 殺されるのではなく月詠の闇に喰われる。刹那の妖としての部分が目の前にいる化生に反応して疼く。それがどうしようもなく怖い。

 

「おっと」

 

 喰われる、と刹那が感じ取ったところで月詠は眩暈がしたかのように体を揺らした。

 

「これはヤバいですわ。流石にこのままでは死んでしまいますな」 

 

 火傷だらけの全身を見渡し、いっそ無邪気に自分の死を予測した月詠は僅かに考える仕草を浮かべると、なんとか焼け残っていたスカートのポケットから一枚の札を取り出した。それが転移魔法符であることは実物を数日前に見たことのある刹那には分かった。

 

「ま、待て!」

 

 月詠はこのまま去ってくれるようだった。ならば、大人しく見送るのが正しい選択。月詠に恐怖を抱いた刹那はもう戦えないのだから。

 

「なんで」

 

 何を問おうとしているのか。刹那にも分からなかった。でも、何かを聞かなければならないはずだった。

 

「なんで男なのに女装をしていたんだ」

 

 しかし、口から出たのは本心とは全く関係のない質問だった。

 

「なんでって…………うちは青山やなく月詠ですから」

 

 自分で青山と名乗っておきながら答えになっていない。でも、それが答えのような気がした。

 

「また会いましょう、先輩。次こそ殺してあげます」

 

 そして月詠はいなくなった。

 或いは詠春に出会わなければ、或いは鶴子に見い出されなければ、或いは木乃香に救われなければ、月詠のようになってしまったのではないかと思った刹那の裡に大きく広い疵だけを深々と残して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぐはっ」

 

 ネギの魔法の射手に吹き飛ばされたゲイル・キングスが大洞窟の壁に激突する。

 茶々丸の存在を近くに感じながら、何時でも詠唱できるように頭の中で次に放つ魔法をピックアップしながら父から貰った杖を構える。

 

「このままでは勝てんな」

 

 ガラリ、と苦痛の呻きと共に瓦礫をどける音が響く。

 聞こえる苦痛の呻き、油断なく構えているであろう茶々丸が地を踏みしめる音を聞きながらネギは胸に湧いた感覚に戸惑いを覚えた。

 ネギの戸惑いをお見通しかのように唇の端から垂れる血を拭いながらゲイルが立ち上がる。

 

「楽しかろう。上に立っていた者を叩き落とす極上の気分は、どんな美酒で早々は味わえん。と言っても、子供に酒の話など分からぬか」

「ぼ、僕は楽しくなんかない」

「嘘だな」

 

 子供、という単語に自分に言われていると判断したネギは、一瞬でも胸の裡に沸いた感情を言い当てられた動揺した。

 

「恥じることはない。己の強さに酔い、鍛え上げた力で弱者を甚振って喜びを覚えるのは人の性だ。どんな聖人君子であろうとも人の性は消せん」

「そんなあなたの理屈なんて……!」

「この世に力ほど純粋で単純な法は無い。生物は須らく弱肉強食、万物不変の理だ。その理に反するのは人のみ。知性だ理性だなどと理屈をつけて目を背けたところで現実は代えられん」

 

 目を開けていなくても笑い声が聞こえなくても、ゲイルの声の調子から嗤っていると分かった。

 

「そこで、だ。提案がある」

 

 一度切って言葉に溜を作るゲイルに攻撃を仕掛けられなかった。

 茶々丸がこちらを窺ってくるような気配があるが、何故かこの時のネギはゲイルの提案を聞こうという気になっていた。それこそがネギを動揺させ、話を聞く気にさせたゲイルの話術とも知らずに。

 

「私の仲間にならないか?」

「え?」

「私に協力すれば死者を蘇らせ、不老不死となれる水を手に入れられるのだ。悪い話ではあるまい」

 

 敵わぬとみての懐柔であろうか。戦おうとする気配も見せず、ゲイルはいっそ不気味なほどに問いかける。

 

「今、必要にならなくとも不慮の死というのもある。死者を蘇らせることも可能な水を手元に置いておくのは得にはなっても決して損にはなるまい」

 

 魅力的な提案であった。一瞬とはいえ、六年前に村を滅ぼされて人の命は儚いのだと知っているネギの心が揺らぐ程度には。

 即座の否定が出来ないネギの代わりと言うわけではないだろうが、茶々丸が一歩前に出る。

 

「その為にエミリアさんを犠牲にしろと?」

「犠牲にもならん。カネの水を飲ませれば蘇る。村の人間も同様だ。死に意味はなくなる」

 

 本当に死者を蘇らせられるのならエミリアを生贄に捧げようとも、湧き出した水を飲ませれば生き返ることが出来る。犠牲にもならないのだと言うゲイルの言葉は的を射ていた。ゲイルの言うことが真実だとすればだ。

 

「…………あなたが私達を生かしておくという保証はありません。そもそも信用なりません。今までの自分の行いを振り返りなさい下郎」

 

 一瞬でも揺らいだネギと違って茶々丸は辛辣なほどの言葉を返す。

 

「所詮は機械。交渉するだけ無駄であったか」

 

 クックックッ、と笑ったゲイルの気配が再び剣呑な物へと変わる。

 

「ネギ先生、行けますか?」

「大丈夫です。心配をお掛けしてすみません」

「いいえ、奴が言っているように私は機械です。マスターより先生達を守り、敵を撃ち倒せと命令を受けています。私は私に与えられた存在証明を果たすのみです」

 

 マスターであるエヴァンジェリンの命令を順守する。茶々丸の行動は全てそれに直結している。故に彼女は敵から交渉を持ち掛けられようとも揺らぐことなく対処できる。機械であるが故の長所であり―――――短所でもあった。命令に忠実過ぎて柔軟性がない。

 裏を読むことがないから、敵の思惑を読み切れない。

 

「ボス!」

 

 三人以外の声が大洞窟の中に響き渡る。

 ネギはその声に目を開けてしまった。

 

「御無事ですか!」

「ああ、フォン。良くぞ、良くぞ間に合ってくれた」

 

 現れたのはフォン・ブラウン。鎧に血を付着させた彼は魔力も気も感じられない不思議な力でゲイルの近くに降り立つと、彼の無事を確認すると深い安堵の息を吐いた。

 

「目を閉じて下さい。魔眼に魅入られます」

 

 フォンから自然とゲイルの姿を視界に入れてしまったネギの目を茶々丸が塞ぐ。

 効かない茶々丸はともかく、ネギは魔眼対策としてずっと目を閉じていなくてはいけない。だが、僅かとはいえゲイルの姿を見てしまったネギの気持ちは複雑だった。

 ゲイルは右腕を失っていた。茶々丸が斬り落したのだろう。他にも決して浅からぬ傷が複数。アスカのように一度敵と決めれば完膚なきまでに倒しきれないネギから戦意が薄れるのは当然と言えた。

 

「その様子ではナーデレフ・アシュラフは始末しきれなかったか」

「ええ。ですが、あの傷ならば助からないでしょう。雑魚二人を見逃してしまったのは痛いですが」

「構わん。良くやってくれたフォン」

「はっ」

 

 ガチャリ、と大きな音がした。フォンが動いたことで鎧が鳴ったのだ。目を閉じているネギには見えないがフォンはゲイルの前に片膝をついていた。まるでその姿は主に忠誠を誓う騎士の姿のようだと目を開けていれば思ったことだろう。

 

「このままでは私は殺されていたことだろう。本当に良くやって来てくれた」

「当然のことをしたまでです」

 

 ネギにその気はなくても茶々丸の攻撃全てが致死を狙っていた。時間稼ぎも限界だったところを考えば大袈裟な言葉ではない。それでもフォンは勿体言葉をかけらたように頭を下げ続けていた。

 

「奴らにこの報いは与えんとな」

「それは俺に任せて下さい。あの二人程度なら大して時間はかかりません」

 

 来るか、とどうやってもフォンに隙を見い出せず、攻撃を仕掛けられなかった茶々丸は身構えた。

 膝を上げ、ゲイルを守るように前に立ったフォンはゲイルに向けていたのとは真逆の苛烈な瞳でネギと茶々丸を見る。

 

「貴様らはただでは殺さん。地獄の苦しみを味わって死んで行け」

 

 勝てないだろう、とネギは静かに予感する。ゲイルには魔眼以外に目立った特徴はなく、その魔眼が効かない茶々丸という天敵がいたからこそ戦況は優位に運べていた。フォンにはそのような弱点はない。少なくともまだ分かっていない。

 数の上では二対二だが、フォンの参入でネギ達の不利は決定づけられた。それでもやるのだと心を奮い立たせていたところだった。

 

「させないよ」

 

 声の直後、ネギの魔力を大きく上回る巨大なパワーが走り、ゲイル達へとぶつかる。轟音が響き渡った。

 

「何者だ!?」

 

 ネスカの雷の暴風を弾き飛ばしたように謎の力で受けたのだろうフォンの鎧には罅が入っていた。パワーを受け止めきれなかったのだ。

 カツカツ、と先の攻撃を放った張本人がゆっくりと現れる。馴染みのある気配にネギは魔眼対策に閉じていた目を思わず開いた。

 

「正義の味方、かな」

 

 狙ったような憎たらしいほどの絶好のタイミングで現れた男が軽く告げるのを聞いて、ネギは全身の肌が粟立つのを感じ取った。

 

「――――タカミチ!」

 

 くたびれたスーツを着て咥え煙草を吹かしながらポケットに手を入れている男――――タカミチ・T・高畑の名をネギは喜色を込めて叫んだ。

 




フォン「戦闘力1500だと? 俺はまだ三割しか力を出していないぞ」と、フォン・ブラウンは申しております。

ナーデは最期に「マナ」ではなく「真名」と呼んでいます。


今話のテーマは以下の二つ。

問1.大切な人を喪った者は、その大切な人を取り戻す為に身内だった者を殺せるか?

問2.無機物に魔眼は効果を発揮するのか?



勝ったのに勝った気がしないせっちゃんの回。改めて言いますが月詠関連はオリジナル設定です。
月詠が刹那の翼を見えるのは、アスカにさよが見えるのと同じ理由です(クローンではありません)


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第23話 乾坤一擲

ひっそりと更新。


 

 

 

 

「素晴らしい」

 

 今とは違って若々しい肉体を持った遥か遠い過去の日々の中のゲイル・キングスは、目の前の存在に思わず心底から平伏しそうになりながら賛辞を捧げた。

 

「死しても尚、不滅であるその魂。羨まずにはいられない」

 

 ゲイルは凡人だった。生まれは貴族だが優れた才覚は持っておらず、ただ血を次代に繋いでいくだけの男になるはずだった。

 その運命が変わったのはゲイルが当主を務める家の領地が戦争に巻き込まれたこと。

 どうしてそこまで戦火が広がったのか、定かではない。凡人であるゲイルは狼狽えるばかりで対策を打ち立てることが出来なかった。

 凡人は凡人なりに動いたが、やがて戦火は領地全てを呑み込み、ゲイルが気づいた時には既に手遅れだった。

 家を失い、領地を焼かれ、助けを請う身内を見捨て、縋って来る領民を振り解き、邪魔をする者を殺し、その身一つで逃げ出したゲイルには何も残っていないはずだった。

 

「もう一度言わせてもらおう。素晴らしいと」

 

 ゲイルは凡人だった。だが、彼が一つだけ他人と違ったのはその精神性にあった。

 他人を見捨ててでも生きようとする生き汚さ。生きることに対する執念の強さは他人の比ではなかった。

 

「欲しい。その魂の輝きが。永遠に消えぬ光が」

 

 ゲイルは後に自分が物凄く運が良い男だと嘯くことになる。他人からすれば不運だと言われるような結末であろうと、この時のゲイルは歓喜の渦にいた。

 

「寄越せ! その法を!!」

 

 ゲイルは凡人だった。凡人であるからこそ、超常に魅いられてしまった哀れな男だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 固まっていた、崩れていた、土がひっくり返っていた。破片が散っていた。風が轟々と唸りを上げ、その闘いは死闘と呼ぶに相応しい苛烈なものだった。だが、その実、ネギの目の前で繰り広げられるのは一方的なものだった。

 

「ぬぐあっ……!」

 

 苦痛の呻きが大洞窟に響き渡るよりも早くより大きく大砲を発射したような音が覆い尽くした。

 呻きを発したフォン・ブラウンが片膝を付く。

 纏っていた鎧の左の肩当てを失くし、ハルバートの柄を真ん中から折られたフォンは右目を塞ぐように垂れる血に煩わしさを感じているのろうか。もう片方の左眼で忌々しげに視線の先にいる男――――タカミチ・T・高畑を睨み付ける。

 

「おのれ……」

 

 フォンが歯を食い縛って立ち上がろうとするが、膝が震えて力が入らない。

 製造段階から魔法によって防御加護が施された鎧はオーダーメイドの最高級品。にも関わらず、今の鎧は損傷も激しく施された防御加護も発揮されるかどうかも怪しい。

 

「無理はするな、フォン」

「ボス……」

 

 傷だらけのフォンが無理して立ち上がろうとするのを後ろにいたゲイル・キングスが止めた。

 ゲイルは魔眼対策に目を瞑ったままの高畑を見る。

 

「流石はタカミチ・T・高畑。AAAの実力に偽りはない。否、寧ろ低すぎる評価である」

「…………ゲイル・キングス」

 

 惜しみない賞賛を向けるゲイルの言葉を、高畑は心底気持ち悪いとばかりに表情を歪めた。

 

「ほぅ、名高い男に知られているとは私も株が上がったか」

 

 口元を綻ばせずに言ったゲイルが言葉の通りに喜んでいるわけではないだろう。

 僅かに目を細めたその厳しい目つきは、突然の名だたる強者の登場に苛立っているとすらいっていい。魔眼対策で敵である高畑達は目を閉じていて効果がなくて見れた茶々丸では、そこまでの感情の機微を読み取ることは出来なかったが。

 

「僕を覚えていない、か。それも仕方ない。あの時、子供でナギさん達の後ろにいることしか出来なかった。でも、今なら」

 

 ポツリと静かに漏らした高畑の拳に力が籠る。

 高畑の全身から魔力が目に見える濃度で収束されていく。ゲイルはどんどん威圧を高めていく高畑を訝しげに見る。

 

「貴様と似た男とどこかで会ったことがある気がする。貴様ほどの有名人に会っていれば覚えているはずだが」

 

 問うたゲイルはジロジロと高畑の顔を見て、全身を眺める。

 高畑は黙したままその質問には答えなかった。答える必要性を感じなかったのかもしれない。もしくは、応えるべき言葉を探していたのかもしれない。

 十分な間をもって高畑の口が開かれる。

 

「アルザッヘル。貴様も覚えはあるだろう」

「…………そうか。どこかで見たことがある戦闘スタイルと思えばあのスーツの男の弟子か。成程、ならば納得がいった」

 

 アルザッヘル、という高畑が言った単語から連想する人物に思い至ったゲイルが嗤う。

 聞き覚えのある単語にフォンが表情を変えた。

 

「俺の住んでいた町?」

 

 フォンが二十年前まで住んでいた滅ぼされた町。何故そんな町が話題に上がるのかが分からなかった。だが、フォンの中で知ってはいけないのだとばかりに警鐘が鳴り始めた。

 フォンの様子を気にもせず、ゲイルは高畑の後ろの壁際に茶々丸といるネギを見た。

 

「サウザンドマスターの息子に紅き翼の弟子、そして私とフェイト…………運命を信じていなくても皮肉は感じてしまうな」

 

 その呟きは続く高畑の声に押し潰されて誰の耳に入らなかった。

 

「2145人」

 

 押し殺したような声で言った直後、眼に見えていた魔力が突然掻き消えた。まるであまりの怒りに魔力が怯えたかのようで。

 流石のゲイルも高畑から視線を外すわけにはいかなかった。

 

「貴様の欲の為に殺された人達の人数だ」

「なんのとこか分からんな」

「心当たりが多すぎて、か」

 

 ビリビリと大洞窟の空気が震える。

 高畑から発せられる威圧感は物理的な圧力を以て大洞窟を軋ませる。

 

「タカミチが怒ってる。あんなに怒ってるの始めて見た」

 

 広い大洞窟の隅っこで展開している防御所壁の中で茶々丸と共に退避していたネギは、魔眼対策で瞼を開くことは出来ないが高畑から放散される威圧の余波だけで体がどうしようもなく震えていた。

 

「二十年越しの決着を、紅き翼に代わってアルザッヘルの住人2145人の仇を、僕が討たせてもらう」

 

 ネギを支える茶々丸の視線の先で、高畑はポケットに手を入れるという師から受け継いだ独特の戦闘スタイルのままで宣言する。

 

「出来るかな。今の疲れ切っている貴様に」

 

 対するゲイルにはおかしなことに余裕があった。

 自分は茶々丸によって右手を失い、負った傷はこの中で一番多く深い。部下のフォンもゲイルが「疲れ切っている」と称した高畑に鎧袖一触されている。尚も余裕を失わうその理由が傍観者となった茶々丸には分からない。

 

「さしずめ、小僧共を助けるためによほどの無理をしたと見える。今は全力の何割だ?」

「貴様ら程度に負けるほど弱っちゃいない」

 

 若い頃のような礼儀の欠片もない口調で言ったのはそれだけゲイルがしてきたことが許せないのだろう。殆どの人に対して敬語で接する高畑が怒りを剥き出しにする姿は五年来の付き合いになるネギだって聞いたことが無い。

 

「無理をすることはない。あのスーツの男の弟子ならばあの究極技法『咸卦法』の遣い手であろう。疲れすぎて使えないのではないかね、究極技法を」

「関係ない。貴様ら程度、纏めて倒してやる」

 

 ポケットの中で拳が強く握り締められる。

 目が開けてれば殺気混じりの獰猛な視線を向けているであろう高畑に、ゲイルを敬愛するフォンが黙っているはずがない。

 

「ボス、お逃げ下さい。ここは俺がなんとしてしても死守します」

 

 痛む体を押して立ち上がりながらゲイルの前に出るフォン。目の前の強敵とゲイルの縁に不審を覚えながらも主を守ることは当然と、戦っていた楓が言っていた『忠義』そのもののを態度を取る。

 どうしてフォンの生まれ故郷であるアルザッヘルのことを高畑が知っているのか、滅びた街にゲイルがなんらかの関わりがあるのか。分からない事ばかりである。だが、それでも今は戦う。二十年も共にいた絆は伊達ではないのだ。

 このまま戦えば間違いなく敗れるのはフォンであろう。それでもゲイルが逃げるぐらいの時間は稼げる。それぐらいの自信と力がフォンにはあった。

 

「無理だな」

 

 悲壮とも思える決意に冷や水が浴びせられる。浴びせたのは守ろうとしているゲイルだった。

 

「ボス!」

「疲れ切っていようとも奴が私の記憶にある男の弟子ならば本気の半分も出していない。それに奴には私を逃がそうという気が無い。背中を向ければその隙をついてくるだろう」

「ですが」

「お前一人では勝てない」

 

 二人で戦っても同じだ、とフォンを押し留めたゲイルの足下で影が蠢く。

 

「しかし、このままでは」

 

 現状維持に意味はない。現状打破もまた出来ない。タカミチ・T・高畑という男は強大な壁となって二人の前に立ち塞がる。ネギと茶々丸にとっては頼りになる壁であっても、ゲイルとフォンにとっては自分達を殺しに来る危険な壁なのだ。

 

「今の奴程度ならば問題ない」

 

 ならば、ゲイルのこの不思議な自信の理由は何なのか。高畑にも茶々丸にも分からない。ゲイルの自信の理由が分からければ迂闊は行動は出来ない。

 

「なにか良い手が」

「ある。予定よりも速いが、予想外のファクターが現れたのだ。これも仕方あるまい」

 

 流石はボス、と喜び勇んで目だけを後ろにいるゲイルに向けたフォンの中に希望が芽生えた。

 その希望は次の瞬間に打ち砕かれる。

 

「二十年育てし贄よ、その役目を果たしたまえ」

 

 フォンは理解できなかった。見ているものも、聞こえているものも、感じているものも、全てが信じられなかった。

 

「え?」

 

 どうしてフォンの目に天井が映っているのか、どうしてフォンの耳に肉を切り裂いた音が聞こえたのか、どうして首から下の感触が無くなっているのか。意味が分からなかった。

 クルクルと回る視界。その中に唖然とした顔の茶々丸と何が起こったのか理解していないネギに厳しい面持ちの高畑、そして―――――――――嗤っているゲイルと、その前にある首から上を失ったフォンの肉体。

 

(俺の身体?)

 

 フォンの視界はクルクルと回っているのに、体が地面の上から動いていないこの矛盾。簡単なことだ。何故ならばフォンの首が宙を舞っているだけなのだから。

 ゲイルの振り抜かれた手には血が付いていた。そしてフォンの首から上は宙を舞っている。つまり、ゲイルがフォンの首を切り落としたとか考えられない。

 ドン、と舞っていたフォンの首が地面に落ち、跳ねることなくゲイルの足下を転がる。

 地からゲイルを見上げたフォンはまだ生きていた。偶然ではない。念動力者としての力が傷口を抑えて生かしているのだ。だが、それも所詮は時間稼ぎ。

 

「…………な……ん、で…………?」

「こうすることは二十年前から決まっていたことだ。何故も何もない。是非もなしというわけだ」

 

 どうして自分は首を刎ねられたのか分かっていないフォンに、ゲイルは笑っていた。嗤っていた。哂っていた。

 

「老いた体で永遠の命を手に入れて何の意味がある。若く力強い肉体で手に入れてこそ意味があるのだぞ。貴様を育てたのは私の次の体とする為だ。でなければ貴様のようなガキを二十年も育てはせん。予定ではカネの水が湧いてからのはずだったが、別に構うまい。多少、予定が早まっただけだ。結末はどうせ変わらん」

 

 ゲイルの足下から生まれた闇がフォンの肉体を這いずり回り、ゲイルの体もまた首から下を闇に覆われる。その状態で歩を進めたゲイルとフォンの体を覆う闇がくっつく。

 

「貰うぞ、その身体」

 

 頭部だけのフォンに抵抗など出来るはずもない。まるで闇に喰われる二つの肉体が一つになり、絞りかすのようなミイラが放り出された。先ほどまでゲイルの肉体だった物だ。

 闇が晴れる。しかし、底に沈殿しているかのように洞窟内は暗い。

 

「ふははははははは! 素晴らしい素晴らしいぞ!」

 

 魔力の渦が生まれる。発生源はゲイルだ。だが、ゲイルではない。

 茶々丸に斬られたはずの腕が何故か存在しており、しかもその肉体は筋骨隆々としていて、とても以前のような萎れたとまではいかなくても見た目相応の体とは全然違う。

 ゲイルの声で、ゲイルの顔で、だがゲイルではない体を持つ誰か。

 

「また体を奪ったのか、二十年前のように」

 

 押し殺したような声を上げたのは高畑だった。

 歓喜の哄笑を上げていたゲイルが笑みを浮かべたまま、何時の間にか足下に這わせていた闇の鎖に囚われている高畑へと視線を下ろした。

 

「くくっ、今の貴様は面白い顔をしているなタカミチ・T・高畑。あの時の紅き翼の奴らと全く同じ顔だ」

「ああ、そうだろうさゲイル・キングス。今の僕は貴様をぶちのめしたくて仕方がない」

「サウザンドマスターと同じようによくもほざく」

 

 話をする二人を見上げるフォンは同じ光景を二十年前にも見たことがあった。ずっと昔に忘れていたその光景をありえないと、夢だと忘れることにしたことが再現されて記憶が呼び起こされる。

 

「………お、や……じ……?」

 

 二十年前もフォンはこうやって地から見上げていた。

 紅き翼に追い詰められて街に逃げ込んだゲイルが凶行に及んだ中で、フォンを守ろうとして立ち塞がった父が同じようにして闇に呑み込まれていく光景を。そして遅れてやってきた街を燃やす赤い火と同じ紅い髪の男が激昂しているのを。

 

「ようやく思い出したか、フォン。このまま思い出さずに死なれてはつまらんと思っていたところだ」

 

 邪悪が凝縮される。目を瞑っているネギには世界は暗黒だ。なのに、よくないものが集まっていると感じるのは、放たれる声に感じられる気配にとてつもない邪悪性が込められているからに過ぎない。目を閉じているからこそ、肌と第六感が感じやすくさせているのか。

 

「三百年以上生きていては魂の劣化が肉体にまで作用されて老化が早い。が、我が魂との共鳴率が優れていたのか、スペアとしてフォンを傍に置いていたが二十年も持ったのは僥倖だった。貴様の父の肉体は思いの外、優れていたのだ。誇って良い。このゲイル・キングスが認めてやろう」

 

 邪悪の固まりが何かを喋っている。フォンには理解できない言語で、理解できないことを懇々と。

 

「大義ご苦労だった。我が肉体よ、苦しまずに逝かせてやろう。輪廻で父と再会できることを祈っているぞ」

 

 言葉面だけはどこまでも優しく、だけどどこまでも空々しい言葉だけを並べてゲイルは振り上げた足で、何故そんなことをするのか理解できていないフォンの頭部を踏み潰した。

 グシャ、と果実を高いところから落としたような音が洞窟内に響き、その生々しさにネギは震えた。

 

「き、さま……っ!」

 

 ドン、と無形の縛りを解くような圧が洞窟内に広がる。

 拘束していた闇の鎖を振り解いた高畑の怒りがゲイルの生まれ変わった全身を貫く。

 若々しさに溢れる肉体の調子を確かめるように笑ったゲイルは、「何をそんなに怒っている?」と分かっていることを楽しげに問うた。

 

「ゲイル・キングス、貴様は存在してはならない男だ。ただ生きたいが為にどれだけの命を奪ってきたっ!」

 

 ゲイルは巧妙であった。表だって動こうとはせず、闇へ闇へと渡り歩いてきた。その所業は闇の福音と恐れられたエヴァンジェリンが為してきた悪事よりもよほど悪辣な物だった。

 滅ぼされた街、肉体を奪われた者達、ゲイルの楽しみだけに利用された被害者達。

 フォン・ブラウンもまたゲイルに利用された哀れな道化に過ぎない。例え彼自身が冒した罪がどうであっても、肉体を奪われ、その価値観すらもぶち壊されて殺される謂れはなかったはずだと高畑は憤る。

 

「ただ、生きたいと願う我が望みはそれほどまでに間違っているか?」

「そうやって何度も奪って来たんだろう。そうやって何人もの人生を壊してきたんだろう。貴様の悪徳、決して許せるものじゃない」

 

 高畑はポケットの中で拳を握る。このような男を決して許さない為に高畑の拳はあるのだから。

 弱った時のゲイルの闇の鎖を瞬時には振り解けないぐらい弱っていても、やることは何一つ変わっていない。ゲイルを叩きのめす。ただ、それだけだ。

 

「この世に生を受けた者ならば誰もが抱く渇望を、貴様は悪徳と評するか。それこそが傲慢というものだ」

「ゲイル、貴様のそれ(・・)が余人が抱くものとは根本的に違うことは貴様自身が良く解っているだろう。破綻者の理屈を常人と一緒にするな。反吐が出る」

「貴様に常人を語られるのは解せぬが、破綻者であることは否定はせぬ。他者の肉体を奪わねば生き続けること叶わぬこの命。だからこそ、より生きたいと望むのは生物としての本能。吸血鬼が血を望むように、人が生きるために数多の生物を屠殺して食らうように、私もまた他者の命を奪わなければ生きていけないのだ」

「本能だろうが生きていく上で外れてはいけない道を進んでしまった者が生きられるほど世界は優しくはない。貴様に生きる資格などない」

「傲慢ここに極まれりと言ったところか。他者に資格を問わねば生きてはならぬほど世界は狭量ではない。生きとし生けるもの、全てを受け入れるのが世界というものだ」

 

 二人の間で火花が散るという表現が最も正しい。殺伐とするどころか、他者の存在を否定し拒絶し、なかったことにするかのような喋りは蚊帳の外に置かれたネギの神経をも刺激する。

 今までのそれらが全て序章に過ぎなかったのだと示すかの如く、発せられる殺気がネギを怯えさせ全身を震えさせる。

 ふわり、とフォンの肉体を奪ったことで念動力まで手に入れたのか、魔力や気を使わずに宙に浮かび上がったゲイルと、全身から魔力を放散する高畑によって洞窟内が微細に振動する。

 

「あの時、ナギさんが言った言葉をもう一度貴様に言ってやる」

 

 言いながらも高畑は己が敗北を予感していた。

 連絡が入って魔法世界での仕事をハイペースで終わらし、ゆっくりと休めない飛行機でハワイについてから休まずに飛んできたのだ。ゲイル・フォンの二人相手に圧倒したものの疲労はピークに達しており、実力は8割も出せていないだろう。

 今のゲイルは高畑が全開状態で勝負が分からない相手だ。これだけ疲労していて、相手は全開状態なのだ。勝てる要素が一つもない。だが、退く気は一切ない。生徒達が、ネギ達が戦っているのに疲れているからなんて理由で下がる気は高畑に一切なかった。なによりも許しても許しきれない敵が目の前にいる。

 

「ぶっとばしてやるよ、この糞野郎」

 

 凶行を止められなかった二十年前のナギがゲイルにそうしたように、手の甲を相手に向けて中指だけを立て突き上げる。

 

「消えろ、英雄の弟子よ」

 

 高畑の分かりやすい挑発に敢えて乗ったゲイルは、空間を捻じ曲げながら突撃したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それはフォン・ブラウンから肉体を奪ったゲイル・キングスと高畑が激突する少し前。

 

「茶々丸君、ネギ君を連れて逃げろ」

 

 もはや立ち入れる領域ではなくなった戦いを前にして動くに動けくなっていた茶々丸に高畑はゲイルから視線を外さずに言った。

 

「何故です?」

「君達の安全が保障できない。これからこの場は死闘になる」

 

 二対一でも圧倒した男が言う言葉ではない。が、合理的な思考しか出来ない茶々丸には逆らう理由もない。即座に退却を選択する。

 茶々丸と違って、年の離れた友人を見捨てるなんて選択肢をネギが選べるはずがない。 

 

「タカミチ、僕も……」

「後はお願いします」

 

 残ると言いかけたネギを制して茶々丸はバーニアを吹かして動き出した。

 状況を理解していないネギを捕まえて浮かび上がり、旋回して全速力で洞窟内から脱出を試みる。

 

「茶々丸さん!?」

「御自愛下さい。既に戦いは私達ではどうにもならない領域です」

「でも!」

「あの場にいるということは足手纏いになります。それでも構わないのですか?」

 

 と、言われればネギも反論は出来ない。ゲイルから大分離れたことは気配から察していたのでもうその瞼は開いていたがぐうの音も出なくて唸る。

 

「出口です」

 

 そうしている間に瞬く間に洞窟の出口に到着した。

 外に出ると薄暗い中と明るい外のギャップに目が眩むかと思われたが、実際に外に出たネギの眼はそんなことはなかった。

 

「暗い? まさかもう夜に?」

「いえ、まだそのような時間ではありません」

 

 空が暗いのだ。時刻はまだ昼過ぎのはずで、外はまだ太陽が光っている時間帯だ。

 太陽が雲に隠れたのではない。突如として夜になったかのように空が昏い。夜よりも尚も昏い深淵が空を覆っていた。

 

「これは…………魔法です! 闇系統の魔法で空を覆っているんです」

 

 メルディアナ魔法学校卒の三人の中で最も魔法に造詣の深いネギは、その昏い空の秘密に直ぐに気が付いた。伊達に十年に一度の天才とは謳われていない。

 

「では、ゲイル・キングスが?」

「恐らく」

「でも、どうしてこんなことを」

 

 他にこれほどの芸当をやれるものがいるはずもない。茶々丸に肯定を返しながら、ネギは今までの状況を脳裏に組み立てていく。

 

「儀式は夜にならないと出来ない。それは太陽が出ていて明るい時間帯では月の魔力が弱いからだ。でも、こうやってここら一体の上空だけでも暗くしてしまえばその限りじゃない」

 

 そして直ぐに重大な事実に気が付く。

 

「まずい……!? 今からでも儀式を行える! 茶々丸さん戻っ」

 

 て、と続けようとしたネギの横を高速で通り過ぎる一陣の風。

 微かだがネギの動体視力にも映ったのは、箒に乗った二人の少女の姿。

 

「アーニャさん?」

 

 茶々丸の目に搭載されている高解像度カメラは、箒の先に座っていた少女が船に置いてきたアンナ・ユーリエウナ・ココロウァとナナリー・ミルケインであることを捉えた。

 意識がない二人がこの場所にやって来るその理由。考えずとも分かる。

 

「あの爆弾娘はまた、茶々丸さん!」

「了解です」

 

 自分たち以上の足手纏いが二人が来た道を行ったのに放っておくわけにはいかない。

 ネギが風の魔法で急制動をかけ、茶々丸はバーニアだけでなくブースターも全開に吹かして今まで来た道を逆戻りするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空をどこまでも駆け上がる二つの光。

 数秒の間に地上は遥か遠く、激突は際限なく高度を増していく。一瞬の内に幾度となく衝突する。その様を見れるものがいればピンボールを連想しただろう。尤も、ぶつかり合う両者は肉眼で捉えられるものではない。

 常人の目では辛うじて衝突が判る程度の、人の身では不可視な化け物達が織りなす遊戯。縦横無尽、上下左右から闘う両者に重力の縛りはない。瞬間移動するように最大推力をもって、アスタロウがフェイトに、フェイトがアスタロウに向かって一直線に突進する。

 

「うおおおっっっっっ!」

「はあああっっっっっ!」

 

 傍から見れば彗星と彗星が正面からぶつかりあうような光景であった。

 互いに道を譲らずに激突した二つの彗星は、一度離れあったものの、旋回し、螺旋を描き、縺れ合うようにして移動していく。飛燕の如き動きで距離を縮めながら中距離攻撃を放ち合い、螺旋軌道でそれを回避する。

 二条の光跡が交差する度、己の生命エネルギーを燃焼するような閃光が散った。

 やがて二つの彗星は、回転しながら一つの恒星となり、凄まじい量の光を放散する。戦意を力へと変え、その中心で二人の力が激突しているかのように。

 

「おおおっ!」

 

 進行方向に先回りして、自らを奮い立たせるように吠えてアスタロウは両手を頭上で組むと、フェイトの後頭部を目掛け腕を振り下ろした。

 しかしその一撃は空しく空を切り、逆に閃光のような速さで、下顎を掌で跳ね上げられてしまった。一瞬、意識が弾けた。アスタロウの身体が寸瞬の間、呆然と宙に浮く。

 続けて剛腕から放たれた拳が真正面からアスタロウに襲い掛かった。

 避けることは出来ず、辛うじて両腕を交差させて守りの姿勢を取ったが、爆風のような衝撃に、アスタロウは体ごと吹っ飛ばされてしまった。

 垂直に跳んでいたアスタロウの軌跡が直角に変化する。

 攻撃を受けた防御した手の痛みを堪えながらナマカ山の頂上に着地する。アスタロウは口の中に溜まった血を吐き捨てる。

 ベチャリと吐き出した血の塊に顔を顰め、攻撃を放った直後で直ぐの追撃を選択しなかったフェイトが少し離れた所に降り立つのを視界に収める。

 

「やっぱ、強えな」

 

 目元に垂れて来た血を拭い、その傷を作った張本人であるフェイトを睨み付ける。

 

「君は弱い。予想以上にね」

「それは失礼しましたってんだ」

 

 動かなくても全身あちこちが痛いし、フェイトはがそんなことを言ってくるで機嫌が急降下の一途を辿ったアスタロウは舌を出して皮肉で返す。

 アスタロウの失礼な物言いと態度にフェイトのこめかみにピキリと青筋が浮いた。

 

「野蛮な人は品性まで下劣なのかもね。おっと、すまない。つい、本音が口から。いけないね、正直者は嘘をつけないようだ。謝るよ」

 

 今度はアスタロウのこめかみにビギンと既に受かんでいた青筋から血が僅かに吹き出した。

 

「汚い言葉が口から出るやなんて、お前の方がよほど下劣やんけ」

「君ほどじゃない」

「自分も下劣やって認めとるぞ、それ」

「だから言ってるだろ。君ほどじゃないって」

 

 この低レベルな言い合いを他人が見れば呆れただろうが、両者から発せられる力は目の前の存在を許さぬばかりに苛烈に荒れ狂っている。

 放散される殺気は心臓の弱い者なら止まりかねないほど。空間が軋みかねない威圧の余波か、遠く離れた上空を飛んでいた鳥が海に向かって真っ逆さまに落ちて行く。

 

「休憩はもういいのかい?」

「テメェ……」

 

 分かっていたのか、と静かに乱れていた息を整えていたアスタロウは問わずに舐められていると憤る。

 アスカは、小太郎は、敵に侮られることを最も嫌う。合体したアスタロウが憤るのは性格を考えれば当然である。

 

「ぶっ潰す」

「出来るかな、君程度で」

 

 臨界は近い。アスタロウの体力も十全とまではいかなくても戦闘可能なまでには回復しており、再度の戦いの気運は高まり続けている。

 二人が発する殺気か、はたまた別の原因かで墜落して行く鳥が海に落ちたのが合図だった。

 

「行くで!」

 

 その声と同時に、アスタロウの姿が消えた―――――ここで対峙しているのがフェイトでなければそうとしか映らなかったかもしれない。

 音すらも置き去りにして、身を低くしたアスタロウが疾走する。迫って来るアスタロウをフェイトは無感情に見つめる。

 突き出される拳を、フェイトは円運動に巻き込んでいく。

 しかし、合気であれ中国武術の化頸であれ、素人目にはいかに超常的な現象に見えようとも、物理的な技術であることに変わりはない。梃子の原理を使っても、まだ相手の力の方が大きければ、効果を発することは出来ないのだ。

 拳法を扱う者のパンチとは、ただ腕の力にのみによって放たれるものではない。大地を踏む両足の力に、腰の回転、肩の捻りを相乗し、まさしく全身の瞬発力を総動員して拳面へと集積させるのである。この原理を極めた者ならば、最終的に肩から先の運動が果たす効果などに比べれば微々たるものなのだ。必要とあらば拳を標的に密着させたまま、腕以外の部位の『勁』だけで十分な打撃力を発揮することも不可能ではない。――――――俗に『寸勁』と呼ばれる絶技である。

 

「無駄に力だけはある」

 

 フェイトからすれば未熟な技術と収束が足りない力である。合体したところで力量の差は覆せない。それでも尚、アスタロウがフェイトに思い通りにさせないのは。

 

「「「「「グルァアアアアアアアアアアアアアアア!」」」」」

 

 紫電を撒き散らしながらフェイトに襲い掛かる狗神達の存在であった。

 速度だけならばアスタロウも凌駕する五匹の狗神は、その体を弾丸として次々とフェイトへと突っ込んで行く。速度によって乗算された衝撃はまともに当たればフェイトですら危ない。ことにアスタロウが攻撃を仕掛けている中では。

 回避行動を限定するように飛びこんで来る狗神を叩き潰すとアスタロウの突きの軌道を変える余裕はなくなる。舌打ちしながら避ける。

 フェイトは邪魔な狗神に拳を放って消滅させながら、斜め前に踏み込んで突きの軌道から身体を逃がし、更にアスタロウの背後に回り込む。

 傍目には渾身の突きを躱され、無防備な後姿。その膝裏に足を乗せ、思い切り踏み下ろそうとするが、気付かれて避けられた。

 

「シッ――!」

 

 フェイトの顔面目掛けて、振り向き様の遠心力が存分に込められてフック気味のアスタロウの拳が伸びる。

 一瞬の出来事、激突による衝突音が響き渡る。フェイトが左手で、アスタロウの拳を受け止めた音が。

 

「足元がお留守だよ」

 

 フェイトが言って拳を受け流し、攻撃の直後の瞬きにも満たない隙と硬直を狙って左脚でアスタロウの足を払う。

 アスタロウの体が宙を浮く。

 空中で水平の姿勢になったその脇腹に、アスタロウの拳を握って引きつつ足を払っても止まらずに体を回転させていたフェイトが脇腹に遠心力充分の肘を叩き込んだ。

 アスタロウは脇腹に肘を入れられる前に自らの肘で防御することに成功。更に肘を動かして威力を逸らす。だが、攻撃の威力に押されるように空中にあるアスタロウの体が流れる。

 流されたアスタロウの体がフェイトの回転に巻き込まれるように前方へ流れていく。

 流れた上体の上から回転したフェイトの足が伸ばされる。アスタロウの頭へとフェイトは影から出て来た狗神を殴り飛ばしながら足を断頭台のギロチンの如く振り下ろす。

 

「――――ちっ」 

 

 アスタロウは舌打ちと共に、その表情に焦りを滲ませた。狗神が殴り飛ばされたことで出来た時間で拳を放ったが、振り下ろされた蹴りによって弾き飛ばされた。今度こそ空中で不自由な姿を晒していると分かっているからこそ焦る。 

 

「そらっ……!」

 

 それを見逃すフェイトではない。

 足下の影から奇襲を仕掛けた狗神を踏み潰しながら踏み込んで軽くジャンプ。丁度いい高さにあったアスタロウの顔面に、膝蹴りを突き刺そうとした。その膝は辛うじて間に合ったクロスした両手で受け止められた。

 アスタロウの両手にはまるで思いっきり振りかぶった恐ろしく重い鉄塊を叩きつけられたような感触が残り、押し付けられた鼻から血が飛ぶ。空中で受けたことで蹴られた勢いのままに飛んで威力を殺すことが出来た。

 くるりと後方に流れた勢いのまま回転し、足から着地する。だが、体勢は万全ではない。

 体勢が崩れているチャンスをフェイトが黙って見ているはずがなく、音もなく着地してアスタロウに接近していく。

 

「狗神!」

 

 狗神を今度は十匹放ち、来るのを迎え撃つように右拳を構えてフェイトの顔面を狙った。

 

「千刃黒曜剣」 

 

 ぽつりとフェイトが魔法名を口にすると、その背後に幾重の黒曜の剣が出現し、迫る狗神達を串刺しにする。

 単身で向かってくるフェイトの最短コースを通る攻撃はアスタロウの目から見てもあまりにも雑。当然、これはただのフェイントで、本命は、それに次いで放った横から腹に抉りこむような左の拳―――――でもなく、死角から仕掛ける左足の足払いである。

 上半身に意識を向けさせて本命の足元を狙った二重のフェイント。フェイントを見透かして防御されなければ、フェイントがフェイントでなくなるので気づこうが気づきまいが関係ない。

 どちらにしてもアスタロウは二重のフェイントと隠された本命の攻撃に気付いた。最初の囮は最小限の動きで頬に擦過傷のような傷だけを残して掠らせ、腹を抉りこむような攻撃は肘でブロックしている。足払いに至ってはポイントをずらされて耐えられて逆にフェイトの体勢が崩れた。

 

「雷華……!」

 

 崩れた体勢を立て直そうとしているフェイトにアスカ最強の技である雷華豪殺拳を放とうとしたアスタロウの眼前塞ぐ壁。突如として出現した視界を塞ぐ壁の正体はフェイトの右手の平。

 二重のフェイントも読まさせ、この一撃を撃ち込むための布石。気が付いた時には、雷華豪殺拳を放とうと開いていた右胸をトンと突き飛ばされた。

 ドクンと肺が弾んだ。

 

「ぐはっ」

 

 軽く押しただけに見えた掌打は外部よりも内部への破壊を目的とした凄まじい一撃だった。ズシンと体の芯まで砕くような衝撃を浴びて、アスタロウは大きく仰け反って血煙を吐いた。内部でダイナマイトが炸裂したような気分だった。

 フェイトの攻撃は終わらない。アスタロウの喉元目掛けて伸ばした拳で突きを放つ。喉を潰すつもりの素早く真っ直ぐな突きだった。

 回避の為に、アスタロウは背中から倒れ込む。そして、真上に足を跳ね上げた。

 空を突いたフェイトの手。その伸びきった右手の肘を破壊せんと蹴りを叩きつけた。しかし、体勢が不十分な上に、手の三倍の力を持つと言われる足でも小揺るぎもしない。

 仰向けに寝転ぶ体勢になっていたアスタロウの腹に、フェイトが振り上げた踵を振り下ろす。

 みっともない姿だが悪寒に従って一足飛びに転がって避けた瞬間、地面が割れた。

 飛び上がって惨状を見たアスタロウは避けて正解だったと確信した。踏みしめた『ズシン!』ではなく、踏み抜いた『バコンッ!』という音と共に踏み抜かれて陥没していたのだから。

 

「甘い」

 

 フェイトの猛攻は止まらない。地面を踏み抜いた足を軸足にして転がるアスタロウの腹を蹴り飛ばす。

 腹に諸に入って唾と血混じりのを盛大に吐き散らしながら蹴り飛ばされたアスタロウの体がナマカ山の山頂から飛び出す。

 山頂から転がり落ちていくアスタロウを追撃するフェイト。

 山腹を転がり落ちながら足を立たせて滑るアスタロウに向かってフェイトが脚撃を放つ。

 

「しゃんなろうが!」

 

 始めから分かっていたことだが彼我の力の差を考えれば無謀な戦いである。蹴りを受け止めたが二撃目の蹴りが脇腹を抉り込む。

 血の塊を吐き出しながらアスタロウは自分の胸に静かな情熱が生まれていることに気付いた。

 

「負けない。俺は誰にも負けられないんや!」

「いいや、君は僕に負ける」

 

 拳が衝き上って顎を撥ね上げられながら、内臓の痛みに耐えながら負けたくないという思いを強くした。心臓の下がびりびりと痺れ、息が詰まる。

 踏み込みの一歩と裂帛の気合は、彼我共に同時。

 上のフェイトが後足で山腹を蹴り、跳ぶ。爪先を床に突き立てるようにして、それを軸に身体を回転させた。頭を標的としたハイキックが伸びる。衝撃が走った。

 

「くっ」

 

 肉体が衝突した打撃音ではなく金属同士が当たったような金属音が鳴り響き、受け止めようとしたアスタロウの身体が更に後方に弾ける。

 上下に揺れて、力無く、沈むかに思えた――――が、それは違うと冷静にフェイトは目を光らせた。目を閉じてすらいないことは、自分に突き刺さる視線がこちらを観察していることから感じ取れた。

 フェイトは拳を握って滑り降りているアスタロウへと向けて踏み込んだ。

 躊躇も一切ないフェイトの行動にアスタロウの反応は一瞬遅れた。だがそれでも拳の一撃を起き上がりざまに腕で受け止め、体捌きで逸らした。半回転して肘打ちを飛ばす。

 フェイトは悠々と腕を上げて防ぐ。

 お互い回転はそれで留まらず、勢いのままもう一回転して再び顔を合わせるタイミングで攻撃を放つ。アスタロウは拳で胴を狙い、フェイトはその腕を取り込むかのように両手を伸ばしてきた。

 咄嗟にアスタロウが拳を引いたために互いが空振りに終わり、回転軸も傾いて二人とも体勢を崩して間合いが離れた。

 そこで地上に到達し、二人は同時に木が乱立する地帯へと足を踏み入れた。

 

「解せないね」

「何がや」

 

 木々の間を高速で移動しながらも互いの位置は目を瞑っても気配で察知できる。その最中でフェイトが漏らした言葉にアスタロウは反応して声を返してしまった。

 失敗だと気づいたが後の祭り。後は開き直って次の言葉を待つ。当然足は止めずに動き続ける。

 

「どうして君が、君達がそこまで彼女達に執着するのかと思ってね。ちょっと不思議に思っただけだよ」

 

 本当に不思議そうに、風を切る音の最中にフェイトはそんな言葉を漏らしていた。

 

「ダチを守ろうとして何が悪い」

「だが、君達全員の友達というわけではないだろう。理由としては薄いね」

「………………」

「力の差が分からないほど未熟でもないだろう。なのに、命を賭けてまで戦う理由は何?」

 

 事実であるからアスタロウは言葉を返さなかった。

 ナナリーの友達はアスカ・ネギ・アーニャの三人だけ。真名と楓は何らかの事情があり、別問題。小太郎と刹那には命を賭けてまで戦う理由はない。

 

「んなことも分からんのか、お前は」

 

 どちらからともなく足を止めて相手の様子を窺う。

 アスタロウは一休みだとばかりに木の背中を凭れさせ、足からは力を抜かずにいつでも動ける状態を維持する。

 

「ダチがそれでも戦うって決めたんや。男なら付き合わんでどうする」

「そんな感情は僕にはどうにも理解できそうにないよ」

 

 男のロマンチズムを理解できないなんてお前は男じゃない、と言いかけたアスタロウはもっと良い言葉を思いついて、ニヤッと笑って爆弾を落す。

 

「お前、友達いなさそうやもんな」

「む」

 

 図星を刺されたのか、フェイトの硬質な表情が僅かにムッとしたものに変わった。

 

「やーい、この友達が一人もいない根暗野郎」

「友達は多ければ良いってものじゃない」

「いないよりは絶対ええに決まっとるやないか」

「ああ言えばこう言う。弱いくせに口だけは一人前のようだ」

「は?」 

 

 今度はアスタロウの表情が一変する。

 強さを求め、人一倍そちらの方面のプライドが高いアスカと小太郎が合体したアスタロウなので、弱いと貶められるのは勘弁ならないようだ。

 

「やっぱ、お前はぶっ潰す」

「聞き飽きたよ、それは」

 

 同時に木の影から飛び出して衝突する二人。生まれた衝撃波に木を根元から吹き飛ばしながら戦いは続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高畑は地面の土を舐めさせられていた。

 

「ぐ……くそ……」

 

 洞窟内は戦闘の影響もあって、最初の趣を一切残していない。荘厳だった広間は今は見る影もなく荒れ狂い、地面を削り取った茨の螺旋が斑模様を描いていた。同じ場所であるとは信じられないほどの荒れようだった。

 周辺同様に高畑の状況も酷いものだった

 額からは多量の出血、上半身の服は跡も残さず無くなり傷だらけ、左手は肘から先が歪な方向に折れ曲がり、右足は足首が折れているのか力が入っていない。右手と左足だけで不恰好ながらもようやく立ち上がったところだ。とても戦える状態ではない。

 高畑をここまで追い込んだ張本人。フォン・ブラウンの体を奪ったゲイル・キングスには筋骨隆々の肉体に目立った傷などは見受けられない。鎧が完全に砕けて上半身が剥き出しになっていることを除けば、通常通りと思ってしまうほどの壮健さを見せている。

 傷一つ無い者と傷だらけの者。強者と弱者。勝者と敗者。誰が見ても勝敗は分かりきっていた。

 

「中々に歯ごたえがあったぞ、タカミチ・T・高畑。誇るが良い。貴様はこの肉体になって最初に奪う命としては誠に上等であった」

 

 ゲイルはこれだけの惨状にありながら勝者の余裕を振り撒き、尚も戦意を失わない高畑を賞賛した。

 

「くっ……」

 

 気に入らない言い方であっても今の高畑には歯噛みする以外に出来る事はない。

 全開状態の高畑ならばここまで圧倒されるはずがない。せめて全身を支配する瘧のような疲れさえなければ、もう少し足掻けたはずだ。なのに、この低たらくな有様。歯痒さを覚える。

 

「そろそろ終わらせよう。準備も終わる」

 

 ゲイルの喜びが籠もった声に背筋が逆立つのと、腹にダンプカーの重量を一点に集めてぶつけたような衝撃が来るのは同時だった。

 血を吐き出しながら吹き飛ばされ、洞窟の壁に激突する。体が半分めり込んだが、やがて地面に落ちて転がる。

 うつ伏せの状態で何度も咳き込み、血を吐き出す。肋骨が何本も持っていかれた。

 

「アアア……ァ……」

 

 それでも戦う意思を消さずに動こうとする高畑の右足を何時の間に近づいたのか膝の上をゲイルが踏み躙った。骨と腱が切れる音が聞こえた。

 

「がぁっ……」

 

 小さな悲鳴と共に血泡を吐き出して、高畑は全身を苛む痛みに脳髄を掻き回されながらも背中越しにゲイルを見上げた。

 

「これだけやられて戦意を失わぬのは流石と言っておこう」

 

 ゲイルが屈む気配を察知して残った右腕で攻撃しようとしたが踏み躙られていた右足を抉られて力が抜ける。そこへ首の後ろを万力のような力で掴まれ、抱え上げられる。

 高畑の首を掴んでいるものに実体はない。フォンの肉体を奪った時に得た念動力だ。先の腹の一撃も念動力によるものだ。

 

「……く……そぉ……ァァッ!」

 

 吐息よりも薄い罵声を吐き出したが直後、声無き悲鳴に変わる。右腕が剛腕によって力任せに折られたのだ。

 

「この指がいかんな、こっちもだ。このまま全部いっておくか」

 

 折った右腕の手首を掴みながら五本の指を次々と割り箸を割るようにパキパキと折っていく。

 

「グゥッ……ウゥッ……ウ……」

 

 親指から小指まで残らずありえない方向に曲がった後には、血の混じった泡を吹き出して意識があるのが不幸なほどの有様だった。  

 

「つまらん、もっと苦しみの悲鳴を上げぬのか。しかし、いい加減に遊ぶにも厭きてきたところだ。終わらせるのは簡単だが、このまま我が望みが果たされるところを見届ける見物人がいないのは興が削がれる」

 

 途端にゲイルの遥か後ろで、念動力でエミリア・オッケンワインの肉体が宙に浮かび上がり移動する。

 その向かう先に、洞窟の天井から一条の光が降りていた。

 

「我が魔法によってこの島は夜と変わらない状況にある。これ以上の不確定要素はいらぬ。儀式を始めよう」

 

 人一人がようやく通り抜けられるような井戸道のような隙間の上でエミリアの体が止まった。

 なんとかしようと足掻く高畑は急速に近づいてくる気配に気づいた。だが、表情に出すわけにはいかなかった。

 

「よく見ておけ。私が永遠の命を得るところを」

 

 地べたを這いずる高畑を心底楽しそうに見遣ったゲイルが中空に浮かぶエミリアへと視線を戻す。

 

「贄の乙女の血と命を以て、現れ出でよ。カネ神が生み出し水よ」

 

 言った直後、エミリアの体を中空に固定していた念動力が消える。

 固定していた念動力が消えればどうなるか、答えは簡単である。支えを失ったエミリアは隙間へと落ちて行く。その瞬間であった。

 

「エミリアさん!」

 

 甲高い叫びが洞窟内に響き渡る。

 高畑を動けなくし、歓喜の瞬間であったため外界への注意が疎かになっていたゲイルが振り返ろうとした正にその時、四肢を砕かれて動けないはずの高畑が背筋を使って上半身を起こした。

 肋骨が折れているのにそんなことをするから無茶苦茶痛い。無事な左足で立ち上がり、激痛の中にあっても魔力で無理矢理折れている左腕を強引に動かしてポケットに入れて出した。

 

「…………これが最後の一撃だ。食らっておけ!!!!」

「なっ!?」

 

 正真正銘最後の豪殺居合い拳を放ち、油断しきっていたゲイルは間近でこの一撃を受けてしまった。

 しかし、今のゲイルは満足ではない豪殺居合い拳にダメージを受けるようなレベルにはいない。が、次の行動への遅延と吹き飛ばされることは抑えようがなかった。

 

「ナナリー行くわよ!!」

「はい!」

 

 箒をしっかりと掴んで操縦するアーニャの叫びに、後ろで彼女の腰にしがみ付いているナナリーが答える。

 

「「女は根性!!」」

 

 訳の分からない叫びと共にエミリアが落ちた隙間に彼女達は飛びこんで行ったのだった。

 

 

 

 

 



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第24話 運命を超えろ

以前までの話を纏めました。


 

 

 

 

 明日菜と茶々丸が船から離れた少し後まで時間は巻き戻る。

 意識がないと思われていたアンナ・ユーリエウナ・ココロウァとナナリー・ミルケインは棒上の人になっていた。ようは取り出した箒に乗っているのである。

 前に座り箒を操っているアーニャは轟々と耳元を風が鳴り響く音が木霊する中で後ろに座っているナナリーの様子を見た。

 

「本当に良かったの? ナナリーだけでも船に残ってても良かったのに」

「大丈夫、アーニャが一緒だから」

「調子いいんだから」

 

 固い表情ながらも言葉を発したことにひとまずは安心したアーニャである。

 

「でも、本当に良いの? この島に漂うきな臭い空気は戦いによるものよ。アナタにそこに入って行く覚悟はある?」

 

 アスカやネギと長いこと一緒に過ごしていたからか、アーニャは戦いをしているきな臭いを嗅ぎ取る力があった。その力が今まで嗅ぎ取ったどの戦いよりも陰惨で巨大なものになると言っている。

 アーニャですら尻込みするどころか引き返したいところのなのに、実技が優秀ではなかったナナリーが飛びこむなど以ての外だ。

 

「行く」

 

 引き返してくれれば、と見込みを込めて言った説得に返ってきたのは震えているが確かな言葉だった。

 

「下手な覚悟なら死ぬわよ」

「わ、分かってる。分かってるけど、アスカ君が戦ってくれてるのに一人で待つなんて出来ない。私にも出来ることがあるはず」

 

 本音は絶対に前者だろ、と思わくもないが怯えているのだろうが絶対に退く気は無いと断固とした決意にツッコミは控えた。

 ナナリーにその決意を抱かせたアスカのことを思う。

 

(絶対にアスカは退かないわよね)

 

 アスカの性格を良く熟知しているアーニャは自分が攫われた後の行動をほぼ正確にシュミレートしていた。

 アスカ・スプリングフィールドは日常においては、特定の分野を除いて怠惰を絵に書いたような少年である。ある側面、つまりは非日常に置いてはその限りではない。非日常では日常での怠惰が反転するのだ。だからといって勤勉になるわけではないが。

 

「アーニャちゃん、あそこ」

 

 戦いに関して負けず嫌いなアスカのことを考えて苦い顔をしていたアーニャの肩を後ろからナナリーが揺らし、進行方向からずれた方を指さした。

 アーニャが指差した方向を見ると、信じられない速度で走る少女とその肩に乗る一匹のオコジョがいた。

 

「明日菜! カモ!」

「アーニャちゃん!?」

 

 箒を操作して進行方向を合わせながら呼びかけると神楽坂明日菜とアルベール・カモミールは驚いた表情を浮かべた。

 

「「なんでここに!?」」

 

 アーニャと明日菜は異口同音の言葉を放った。

 進み続けている二人の目が交差し合う。アイコンタクトと言うには短すぎる時間で二人は互いの目的を悟った。目的の全てを理解したわけではない。特にアーニャ達はこのような島にいるのかも理解できていないのだ。

 進みを緩め、止まったと同時に箒から降りる。

 相対するは明日菜の肩の上から地面に降り立ったカモである。明日菜とナナリーは横で待機。

 

「カモ、説明!」

 

 時間が無いことはあちこちでぶつかり合う魔力と気が物語っているので、アーニャはもっとも事情を知っているであろうカモに説明を求めた。明日菜でないところが相手を見ていた。

 カモが口を開く。

 要約すれば、簡単な物だ。ナナリーとアーニャが囚われていることを是としなかったアスカが行動し、皆がそれに付いてきた。この島に来たことは結局は敵の手の平の上で、敵の目的であるエミリアが攫われ、退く気が無いアスカ達は戦いに突入した。

 実力で劣るのに連携されては勝ち目がない、各個撃破と言えば聞こえはいいが、ようは行き当たりばったりである。

 ネギと共に敵の首魁と対峙したカモは暴走したネギの風に吹き飛ばされて突入した洞窟の天井に僅かに開いていた穴から外に放り出され、軽い体だったことが災いしてかなり上空まで飛ばされて落ちた所に偶々走っていた明日菜に助けられたとのことだ。

 カモのことはともかく、大体はアーニャの想像通り。想像通り過ぎて笑えない。アーニャの後ろでナナリーが顔を赤くしたり青くしたりして、急激な血流の変化に貧血を起こしたようで「へぅ」なんて言いながら明日菜に凭れかかった。

 

「この馬っ鹿!! なんで阿呆兄弟を止めないのよ!!」

 

 アスカは真正面に進み、障害物があれば破壊してでも直進する。ネギは多少はマシだが大して差はない。

 無謀であり、暴走の結果にアーニャは怒鳴らずにはいられなかった。だが、カモは大声に眉を顰めただけで冷ややかな目でアーニャを見つめていた。

 

「俺っちの言葉で止まるほどあの二人は生易しくはねぇぜ。本当ならこれは姉さんの役目だ」

「っ……そうだけど」

「兄貴達は頑固だ。筋金入りのな。残念だが俺っちの言葉は聞いても引かねぇ時は絶対に引かねぇ。止めるには力尽くでなくちゃならない。そういう意味であの二人を止められるのはアーニャの姉さんだけだ。そのことを分かっていながら敵にむざむざ捕まった責は大きいぜ」

 

 アーニャはカモの論理を認めざるをえなかった。

 カモは決して感情で論理を揺らしたりしない。が、逆に論理を聞き入れない状態のアスカとネギを説得することもまた出来ないのだ。

 敵の目的がエミリアであると分からない中ではカモの論理も完璧ではない。確実性のない疑念だけで止まってくれるほどアスカとネギの行動力は容易くはない。

 今まではアーニャが静止してきた。感情で行動を決める側にいるアーニャは二人ほど頑固ではないので、感情に流され過ぎずに暴走する二人を止めることが出来るのだ。

 

「俺っちのミスは確かだ。寧ろこっちの方の責が大きい。後で責めは十分に受ける。が、それも全員が生きて帰ってからだ」

「ええ、そうね。なにか策はあるの?」

「あるっちゃ、ある。可能性だがな」

 

 そこでカモは二人の話に口を挟めずにいた明日菜の顔を見上げた。

 

「明日菜が?」

 

 超の手引きで船に密航していた、と聞いたアーニャは明日菜に何かあるとは思えず、訝しげに眉を顰めた。

 明日菜が魔法の世界に片足を突っ込んだのはエヴァンジェリンと戦っている時だ。アスカと仮契約し、アーティファクトと魔力供給による能力の強化が出来るが、素人に毛が生えたレベルの明日菜がいたところで大勢に影響は全くない。寧ろ、足手纏いでマイナスでしかないはずだった。

 

「言っただろ、可能性だって。見てな」

 

 言いようとは違って自信を覗かせるカモは確信を持っているようであった。

 アーニャとナナリーが見ている中で、口の中で素早く何かを唱えたカモの指先に魔力の光が灯った。その指先は明日菜へと向けられている。

 

「何?」

 

 指先の光はやがて消えた。指先を向けられた明日菜が訝しげに見つめるがアーニャは表情を驚愕に染めていた。

 

「…………どういうこと、カモ。今、あなたは何の魔法を明日菜に使ったの?」

「睡眠魔法だ。快眠後でも爆睡しちまう強力な、な」

「ありえないわ。そんな魔法を向けられて明日菜が無事なはずがない」

「二人とも見たはずだぜ。俺っちの魔法が消された瞬間を」

 

 見習いとはいえ、魔法使いであるアーニャは見ていた。明日菜にかけられた魔法が掻き消えるその瞬間を。 

 魔法である。カモは明日菜に向けて何らかの魔法を使った。なのに、明日菜には何の影響もない。普通ならばありえない。

 可能性として考えられるのは明日菜が纏う魔力がカモよりも遥かに高い事だが、アスカの魔力を纏っているといっても明日菜自身の魔力は少ない。カモが使った睡眠魔法を弾くことは出来ない。であるならば、魔力ではなく別の要因。

 

「魔法無効化能力じゃないかと、俺っちは見てる」

「まさか…………魔法世界で実在が確認されたのは数例だけなのよ。こんな身近にいるはずがないわ」

「なら、試してみな。軽い攻撃系魔法でいい。俺っちはもうやってみたぜ」

「いいわ。試してやろうじゃないの」

 

 魔法使いの天敵。魔法無効化能力は魔法学校の教科書にも載っているが三千年近いと言われている魔法世界の歴史で、たった数人しか保持していた記録のない能力に遭遇するなど信じられるはずがないと、アーニャはもっと言葉を重ねたかったが売り言葉に買い言葉である。

 ナナリーが気が付いた時にはもう遅い。アーニャは既に詠唱を終えていた。

 

「「あ」」

 

 火の粉よりマシ程度とはいえ素人同然に向かって魔法を使ってしまったアーニャと止めることが出来なかったナナリー二人の声が重なった。

 だが、その声は直ぐに驚愕に染まる。

 

「ちょっと、止めてよ…………って、どうしたの?」

 

 降りかかる火の粉を明日菜が厭うように払った。それだけでアーニャの魔法が掻き消えたのだ。アスカの魔力に弾かれたのではない。文字通り、掻き消されたのだ。

 この異常を為した明日菜本人に自覚はなさそうだ。

 

「成程ね。色々と思うところはあるけど納得は言ったわ」

「納得が言ったら話を先に進めるぜ」

 

 頭が痛いとばかりに額に手を当てているアーニャに同感だとカモも頷く。

 

「あちこちで戦っちゃいるが戦力はこっちの方が下だ。まともに戦っても勝機は薄い」

「でしょうね。で、どうするの?」

 

 明日菜を使った策も含めてと、言葉に込めて言うとカモが口を開く。

 

「明日菜の姉さんの能力、魔法無効化能力も確実じゃない。そもそも未だ可能性の段階だ。本当なら大人しくしてほしいとこなんだが」

「引く気は無いわよ、私は」

「てな感じだ。魔法が効かねぇから俺っちには止められねぇ」

 

 小動物なので魔法を封じられたカモの戦闘能力はこの中で断トツで最弱である。明日菜は絶対に引く気が無いのでカモにはどうにも出来ない。

 

「明日菜の姉さんだけじゃねぇ、二人にも聞くぜ――――――命を賭ける覚悟はあるかい?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カモがアーニャ達に求めたのは、ゲイル達の目的である儀式の邪魔をすることである。戦え、とは一言も言わなかったがそれとは別種の問題があった。どうやって儀式を邪魔するかである。

 その答えをアーニャは持たず、「成る様に成れよ」と行き当たりばったりでいくしかなかった。

 運良く儀式場がある大洞窟内に侵入して、運悪くエミリアが穴に落とされているところだったのは僥倖であった。どうやって儀式を邪魔すればいいのか、一目瞭然であったのだから。

 儀式の邪魔をするのと、エミリアを助けるために穴に飛びこんだアーニャとエミリアを間欠泉のような水が二人を襲う。

 

「確かに命を賭けるって言ったけど――――――これはないでしょ!!」

 

 二人分の障壁で防御しているが、それでも抑えきれずに水が全身を襲う。

 

「アーニャ!!」

「分かってるわよ! アンタも魔力を振り絞りなさい!!」

 

 微かに聞こえたナナリーの声に自分の声すらも聞こえない激しい水の音の中で叫び返しながらも、アーニャは一時も前進を止めなかった。

 アーニャの、彼女達の胸にあるのはただ一つの想い。

 

「女は命を賭けられて黙っていられるほど生易しくはないのよ!!」

 

 アーニャは知っていた。今必要なのは小賢しさや知識ではなくアスカのような前へ前へと進み続ける愚直さであると。水なぞ何するものぞ、とばかりにアーニャは愚直に前進する。

 その気概は後ろにいるナナリーにも届く。

 

「エミリアさん!!」

 

 アスカに泣いて縋って助けてほしいと言ってくれた少女に報いるために、その眼は水流に塞がれようと閉じられることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスタロウとフェイトの戦いは、その結末が戦う前から決まっている。この世には隔絶した実力差というものがあり、容易に覆せるような奇蹟など起こりえない。

 

「ぐっ……が、ぜらっ! じぇ、ぎぃっ………ぬあっ」

 

 一撃、二撃と決まり、三撃、四撃とアスタロウの体に突き刺さる拳や足。奮戦はしている。力量差を考えればよく戦っているだろうが定まっている結末は変わらない。

 木々の固まりが伐採され、根こそぎ吹っ飛ばされたことで広場のようになっている中心にフェイトはただ一人で立つ。

 

「本来なら反発する気と魔力を上手く併用し続けるのは器用だとは思うよ。そこまで両方の力を使いこなしているのは殆ど見たことが無い。だけど、それまでだ。慣れてしまえばどうってことない」

 

 障壁は魔力で、肉体の防御は気を、攻撃は魔力と気を使い分ける。確かに器用ではある。が、器用であるだけで他に感想は浮かばないというのがフェイトの考えだった。

 当然だ。魔力の扱いにしろ、気の扱いにしろ、全く体系の違う力なのだ。普通はどちらか一本に絞って鍛える。両方鍛えるのは全くの無駄とはいかないが、器用貧乏にしかならない。それが世界の現状だ。

 

「これが変えられない運命だ。ナギも君にも、運命を打ち破ることは決して叶わない」

 

 傷一つなく、それどころかその制服のような服にただ一つの汚れすらなくフェイトは当たり前の如く王者のように君臨する。それこそ決して変えられないその名の如く運命を冠するように。

 

「うっせえ、タコ。運命だなんだのは打ち破る為にあんだよ」

 

 伐採されまくった木の欠片に埋もれるように沈んでいたアスタロウがのっそりと体を起こす。

 その身体は傷がないところを探す方が難しい。アスタロウがのっそりとしていたのは素早く動けなかったからだ。

 

「その有様でよく吠える。犬そのものだね」

「犬とちゃうわ。狗や」

 

 膝に手をついて体を起こそうとするが、それすらも苦難なのか動作が遅い。

 ようやく立ち上がったアスタロウは死に体である。

 

「どうにも君の相手をしていると調子が狂う」

 

 首を横に振ったフェイトは困惑しているようだった。アスタロウにとっては本当にどうでもいいことだが。

 直ぐに気を取り直したフェイトは地面に手をついて身の丈を遥かに超える大剣を手にする。地面から大剣が生まれるなんて奇々怪々な現象だが、どうやらフェイトは地属性の魔法使いらしく難なく行っていた。見立て通り、流石は超高位魔法使いと言ったところか。

 

「ならば、証明したまえ。僕に傷一つ付けられない時点で運命を打破しようなどと片腹痛い」

「上等! やってやらぁ!!」

 

 石で出来た大剣を持ち、嘯いたフェイトに一矢報いんとアスタロウは片足を前に出して腰を落した。

 腰溜めに構えられた右拳に紫電が狗神が集う。

 アスカ最強の技である雷華豪殺拳と小太郎最強の技である狗音爆砕拳の合わせ技。

 

「行くで……!」

 

 と言ったアスタロウの背後から飛び出す無数の影。

 狗神ではない。全てがアスタロウと同じ背格好と姿をした分身である。その全てが雷華豪殺拳か狗音爆砕拳を放つ準備を整えてフェイトに飛び掛かる。

 

「分身? これならさっきの方が速かった。しかも人型だから動きも読みやすい」

 

 その数にして十五体。だが、その数に比べて速度は雷を纏った狗神に遥かに劣る。

 音速を突破していなければ、機動もまた愚直である。

 

「はっ」

 

 軽く息を吐き出すような掛け声で大剣を振るうフェイト。

 大剣ゆえに大振りの一撃は空間を切り裂くように震わせ、一薙ぎで風を切って先頭を走っていた五体の分身を上半身と下半身の二つに別れさせる。

 

「次」

 

 流れ作業の言いながら振るわれた間隙に飛びこもうとしている三体を、力尽くで軌道を捻って更に両断する。

 

「数だけは多い」

「それはどうも!」

「褒めてない」

 

 俊足で飛びこんできた二体を蹴り飛ばし、背中を向けたところにやってきた一体を大剣から離した片手で肘打ちを食らわせる。

 残るは四体。だが、流石にここまで連続で攻撃を加えられると綻びがでる。十六人もいる相手と違ってフェイトは一人しかいないのだ。

 

「「「精々、褒めてみろや!」」」

 

 肘打ちの回転力のまま大剣を振るったが、これは体の分身がその身を挺して止める。

 衝撃で二体が消え、一体がなんとか消えずに大剣を拘束する。残った分身の内、最後の一体が左手に狗神を纏って直進する。

 

「狗音爆砕拳!!」

 

 狙いはフェイトではなく大剣であった。

 放たれた狗音爆砕拳をまともに食らった大剣はその根元からボキリとあっさりと折れる。この攻撃の所為で大剣を抑えていた分身が消えてしまったが瑣末である。狗音爆砕拳を放った分身はそのままフェイトにしがみ付いていたからだ。動きを封じるために。

 タイミングを計ったように飛びこんで来る影。右手に紫電と狗神を纏わせたアスタロウである。

 

「雷狗――――」

 

 狗神に雷を纏わせることが出来るのは既に実証済みである。

 魔力と気は反発し、併用は出来てもそこまでの制御は出来ないアスタロウでは本当の意味で雷華豪殺拳と狗音爆砕拳を同時に放つことは出来ない。狗神を使役する上で確実に気を使う以上、雷華豪殺拳もまた気を使用しなければならない。

 

『いいかい、アスカ君。神鳴流には雷の技がある。雷鳴剣と言ってね。雷と相性の良い君なら或いは直ぐにでも使えるようになるかもしれない』

 

 京都で近衛詠春が言った言葉がヒントだった。

 アスカは京都から帰って来てから隙を見つけては神鳴流の練習をしていたのである。気の扱いが未熟なのと純粋な技量不足で碌に技を放つことは出来ないが、気の扱いに秀でた小太郎と合体してこの問題の一部は解決している。制御なんて出来ないたった一発きりのギャンブルだが、雷華豪殺拳並の雷を纏うことは出来る。

 

「――――爆殺拳!!」

 

 分身の上から今放てる最大の技である雷狗爆殺拳を左拳でぶちかます。

 フェイトは分身に拘束されて動けないはず。だが、超高位魔法使いに常識は通用しない。

 

「稚拙だ。あまりにも稚拙すぎる」

 

 肉体を突き破った感触が届いているはずのアスタロウの手には硬質な感触。例えるなら石を砕いたかのような。それも当然、アスタロウの左拳は再生した大剣を砕いたところで止まっている。

 しかし、それはアスタロウも織り込み済み。

 

「ならもう一発喰らっとけ!」

 

 左を戻しながら、本命の右拳に溜められた雷狗爆殺拳を放つ。

 

「稚拙だと言った」

 

 バチチチ、と耳を弄する甲高い音が鳴った。

 アスタロウの渾身の一撃は障壁を最大展開したフェイトの掌に受け止められていた。

 

「期待外れだよ。もう死にたまえ」

 

 失望したことを隠そうともせず、受け止めていた拳を引く。

 

「ちくしょう……!」

 

 今度こそ打つ手はなかった。引き寄せる力に抗うことも出来ず、その頬に諸に拳がめり込んだ。

 

「なんてな」

「本命はこっちだ!」

 

 頬に拳がめり込んだアスタロウが消し飛んだ。分身である。

 本体はフェイトの背後に回り込んでいる。伐採されまくった木の欠片に埋もれるように沈んでいた時から既に分身と入れ替わっており、本体は迂回しながら背後に回っていたのだ。

 無防備に背中を曝すフェイトへと、今度こそ左拳に溜められた本命の雷狗爆殺拳が放たれる。

 まともに決まればエヴァンジェリンが張っている障壁であろうとも突破することが出来るであろう雷狗爆殺拳は、確かに障壁を突破してフェイトの体に突き刺さった。そのフェイトの体が瞬く間に色を失わなければ、アスタロウであってもそう思っただろう。

 石人形、と真下から呟くような声が漏れた。

 

「言ったはずだよ、稚拙だと」

 

 石人形が砕けると同時に、地面を割ってフェイトが現れた。何時の間に石人形を作りだしたのか、何時の間に入れ替わっていたのか、アスタロウには全然わからなかった。

 フェイトは、地面を突き破ったその勢いのままに拳でアスタロウの顎を撥ね上げ、体を捻って無防備な腹に回転蹴りを叩き込む。

 力を失って吹き飛ぶアスタロウの身体。その身体に指先を向けながらフェイトが詠唱を開始する。

 

「ヴィシュ・タル リ・シュタル ヴァンゲイト 小さき王 八つ足の蜥蜴 邪眼の主よ その光、我が手に宿し 災いなる眼差しで射よ」

 

 詠唱が続き、後は魔法名が唱えられようとしたところでフェイトが向けていた指先が淡く広がる。アスタロウは気絶しているのか、それとも諦めたのか、空中で動かない。もしくは動けないのか。

 

「アスカ!」

 

 そこへ聞こえてはならない声がアスタロウの耳朶を震わせた。

 アスタロウが、アスカが聞き間違えるはずのない神楽坂明日菜の声を。

 

「石化の邪眼」

「明日菜!?」

 

 空中で体を起こしたアスタロウが既に魔法名は唱えられている。

 フェイトの指先から光線が放たれ、超速で走り込んだ明日菜がその射線を遮る。

 アスタロウは間に合わない。フェイトは間に割って明日菜のことを気にもしない。そのまま二人とも石化させるつもりだ。

 間に割り込んだ明日菜は、両手にアーティファクトのハマノツルギを手にして怯まない。怯む気配すらない。

 

「魔法がなんだっていうのよ!」 

 

 詠唱していたことから明日菜は魔法と判断し、こんな近距離ではどんな効果でも避けきれない。ならば、光線を浴びながらも踏み出した勢いのまま明日菜は傲然と突っ込んで攻めを選んだ。

 自身への被害を省みない特攻。奇しくも明日菜の選択は本人の勇気に関係なく最も正しい行動を取っていた。

 両手を交差して光線から顔を庇うも、光線を浴びた部分の着ている服がビキビキと音を立てて石化していく。パキャアンという音と共に石になった服が砕けて明日菜は半裸になってしまうが、肉体の方は無事である。

 半裸になって羞恥を覚えるよりも先に敵を倒そうという意気が勝り、敵に踏み込む。

 

「何っ、レジストしたっ!?」

 

 今度はフェイトが表情こそ変わらないが驚く番だった。アスタロウと違ってフェイトは明日菜の接近に気が付いていた。だが、気配も消さずに真正直にやってきた時点で実力が知れている。

 確実に捕らえ、かつ確実にアスタロウを巻き込んで石化させるつもりだったのだ。なのに、光線は服を石化したのに肉体は何ともない。この驚きが魔法を中断させる。

 突っ切って自身に迫ってくる影にフェイトは僅かに目を見開いた次の瞬間、ハマノツルギが振るわれた。

 

「やぁあああああああああ――――――っ!!」

 

 振り方も動きも素人くさい。そのくせしてスピードだけは一線級なのだから戸惑いだけが増える。が、その力は恐るべくことはない。石化の邪眼がレジストされたのも服に魔法的効果があったか、アーティファクトの物であると考えた。

 障壁で十分に耐えられると判断したフェイトは目の前の少女の能力と、動きを見せているアスタロウに意識を配分した。

 

「――っ?!」

 

 その次の瞬間に起こった現象は、フェイトに生まれて初めてとも思える驚愕の相を浮かばせた。

 

「障壁が!?」

 

 ガラスのような音を立てて、その音のように軽い音と共にフェイトの曼荼羅のような障壁がいとも簡単に明日菜のハマノツルギによって砕かれる。

 取るに足らないと思った少女が為した全てが信じられない。フェイトに生まれた隙をアスタロウは見逃さなかった。否、それ以前に明日菜が飛び出した時点で行動を起こしていた。

 制限時間内であれば合体状態を任意で解除することが出来る。想いが一つのアスタロウは自ら合体を解除していた。

 分離した二人の位置関係は、小太郎が下でアスカが上。この状態に意図はない。ないが、アイコンタクトもなしにさっきまで同一人物だった二人は次の行動を以心伝心していた。

 

「――行けや!」

「応さ――っ!」

 

 小太郎が差し出した足に乗っかったアスカは、互いに蹴り合ってその反動で体をフェイトに飛ばす。

 石化の邪眼をレジストされ、障壁を破砕された動揺でフェイトはアスカへの反応が僅かに遅れる。その隙をアスカは存分に利用した。

 

「喰らえ!!」

 

 技も何もない。右拳を障壁を失って動揺しているフェイトの頬に叩き込んだ。

 弾かれる顔、急転する視界、口から迸る白い血、現状を理解できない思考、全てが合致したフェイトの中で何かがキレた。

 

「よくも…………やってくれたね!!」

 

 澄ましていた表情を憤怒で頬を紅く染めたフェイトが、遥かに実力で劣るアスカに二度目の拳を入れられたことに激昂して拳を放った。

 

「!?」

 

 アスカの目の前から閃光が迫る。それがフェイトの放った拳なのだと、アスカ・スプリングフィールドという人間を容易く殺せる一撃なのだと、見えもしないのに直感した。

 脳裏に今までの走馬灯がカラカラと巡る。迫る死に―――――――――――アスカは勝利を確信して笑った。

 

「へっ、言ったろ。運命は殴り飛ばすものだってよ。なあ、エヴァンジェリン」

「――――ああ、よくやった」

 

 アスカの命を刈り取る死神の鎌は存在しない第三者の手によって防がれた。 

 

「っ――――!?」

 

 突如、フェイトの影から現れた第三者の小さな手が今にもアスカを撃ち殺そうと伸ばした腕を掴んでいた。

 華奢な腕からは想像もつかない万力のような力によって掴まれたフェイトの腕はピクリとも動かない。

 

「よくもアスカを痛めつけてくれたな、若造。お返しだ!」

 

 フェイトの耳にその言葉が届くと同時に、転移してきた人物の莫大な魔力を纏ったもう片方の拳が少年を襲う。一瞬の内に文字通りのソレが起こり、その細い腕から考えられない威力をもって再展開された障壁ごと殴り飛ばされ、フェイトを風にさらわれた紙切れのように弾き飛ばした。

 

「ふんっ」 

 

 バサバサッと音が響き、コウモリが背後に集って一枚のマントとなって少女の身体を包み込む。

 

「エ、エヴァちゃん!?」

 

 石化して砕けた上半身の服が無くなって腕で胸を隠しながら倒れ込んだアスカの下に駆け寄っていた明日菜は、まさかの少女の登場に驚く。

 アスカに迫る死神を力尽くで捻じ伏せた少女―――――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、壇上の役者の様に優雅な仕草で振り向くと不適な笑みを浮かべる。

 

「遅えぇぞ」

「事前に言ってあっただろう」

「直前過ぎんだよ。走馬灯が脳裏を過ったぞ」

 

 アスカの顔にも同じ笑みがあった。最大最強にして、アスカの知る限りで最も強い父と肩を並べる魔法使いの救援は万の術者の助けにも勝る救いであった。

 

「エヴァという名前と金髪に蝙蝠、そうか君が真祖の吸血鬼『闇の福音』か」

 

 ガラリ、と数十メートルの轍を作って止まったフェイトがゆっくりと立ち上がった。

 流石にエヴァンジェリンの一撃を無防備に受けたのはダメージが大きいのか、その膝は少しだけ揺れている。

 

「ほぅ、生きていたか。もやしのような見た目と違って存外にしぶといではないか。褒めてやろう」

 

 己が全力を防いで生きているというのに、エヴァンジェリンは敵に向かって平然と言い切った。

 

「褒美代わりだ。未熟者を相手にしてはつまらなかろう。次は私が直々に相手をしてやる。この闇の福音の手にかかって死ねるのだ。黄泉路で自慢できるぞ。そら、喜んで死んで行け」

 

 マントを翻し、エヴァンジェリンはご満悦の笑みを浮かべて呟くのを、その真意を見透かそうとするようにフェイトは静かに眺めたが結論は早く出たようだ。素人の明日菜にでも分かるぐらい体から緊張感を抜いた。

 

「止めておくよ。君相手では流石に分が悪い。何よりも今回の仕事で闇の福音の相手をするのは割が合わない。今回は退かせてもらう」

 

 フェイトの足下に魔法陣が浮かび上がる。エヴァンジェリンの眼はそれが転移魔法の陣であることを見破った。

 足手纏いを二人も抱えて自分と戦おうとはしないとエヴァンジェリン側の状況を読み切り、悠々と転移準備を整えたフェイトは最後に明日菜に抱えて貰わなければ体を起こすことも出来ないアスカを見た。

 

「この一撃の報いは必ず返す」

 

 頬を指差して最後にそれだけを言い残して、フェイトは転移魔法を使ってこの場から姿を消した。

 一秒、二秒、三秒…………十秒を超えたところでフェイトが完全にこの場から転移したことを確認したエヴァンジェリンは、張り詰めていた空気が破裂したように重く長い溜息を吐いた。

 

「逃げてくれたか」

 

 同時にエヴァンジェリンを覆っていた全能感とでもいうべき魔力が残らず消え去る。

 

「一時的とは良く言ったものだ。本当に数十秒しか持たないではないか」

 

 これで超に借りが出来た、と思ってアスカ達の方を見ようとした瞬間だった。

 ぶわり、とエヴァンジェリンに再び魔力と言う名の全能感が戻る。呪いが一時的に解除されたのだ。今度のは学園側の干渉によるものであると同時に感じ取る。 

 あまりの遅さとタイミングの悪さ眉を顰めた。

 

「……おそ……」

 

 もう数十秒早ければフェイトを逃がす必要もなかったのに、と内心で思わずにいられなかったエヴァンジェリンが嘆息を漏らすのも至極当然の話であった。

 何時切れるか分からない薬の効果に怯えてフェイトを誘導する必要もなくなったのだ。だが、フェイトがいなくなってから呪いが解けるのでは興醒めもいいところである。しかも超に借りまで出来ている。

 溜息やら嘆息が漏れるのは仕方ない。仕方ないが。

 

「敵を追っ払った最大の功労者の私を労わらずに桃色空間を作るなそこの二人!!」

 

 ズビシと振り返って指を指した。その指の先にはキョトンとした顔のアスカと明日菜。

 ボロボロだがないよりかはマシだろう、とそっぽを向きながら自分の服を脱いで差し出すアスカと頬を真っ赤にしながら受け取る明日菜の二人に突っ込みを入れるのだった。

 

「おーい、誰か俺の心配をしてえな」

 

 アスカが一撃を加える為の最大の功労者であった小太郎は、足を蹴り合った反発のまま体勢を整えることも出来ず転がり、かなり離れた木の幹に尻からぶつかって逆さまのまま文句を言うが、ギャーギャーと騒ぐ当の三人が気付いた様子がない。

 

「俺ってこんな役やねんな。モテへんのって辛いわ」

 

 三角関係のような状態のアスカと変わりたいかと言えばノーサンキューだが、せめて天地がひっくり返っている状態を直してくれる相手がいてもいいのではないかと思う小太郎だった。

 

「小太郎は男にモテたかったのか?」

「ちゃうわ! …………って、いたんか小動物」

 

 黄昏ていた小太郎を笑ったのは、何時の間に来たのかアルベール・カモミールであった。

 カモは頭に出来ている自身の頭部にも匹敵するタンコブを痛そうに擦る。

 

「色々あって明日菜の姉さんと一緒に来たんでさ。まぁ、こっちの思惑をあっさりと飛び越えられちまったがな」

 

 これはその代償さ、とタンコブを擦ってカモは言いながらもどこか安堵しているようでもあった。

 人型ではないから分かり難いが、別れた数十分の間にやつれているように見えた。小太郎達とはまた違う種類の戦いをカモもまた潜り抜けたのだろうと分かる。 

 一つの戦いを終えたのだから小太郎も張り詰めていた糸が緩んだのだろう。存在に気づいていない、または忘れている三人に代わって気の利いた労いの一つもかけてやろうと言葉を探したその時だった。

 

「なんや? 地面が揺れてる……」

 

 頭が地面に触れているので小太郎は始め地震が起こっているのかと思った。

 

「うわっ!?」

 

 その声を上げたのはカモか、それともアスカ達三人の誰かか。大きく揺れる地面に翻弄される小太郎には分からない。

 永遠とも思える刹那に地震は収まり、全ての感覚が停止し、消失し、ざらりとした何かが猛然と膨れ上がっていく。

 それは小太郎の精神を食い尽くすかと思えるほどの、強大で底知れない気配を放つものだったが、それを敢えて抑えるつもりはないかのような広がり方。単純な力の総量で言えばネスカですらも遥かに上回る。

 

「ここから直ぐに離れろ」

 

 唯一立っていたエヴァンジェリンが厳しい面持ちでナマカ山を睨み付け、その身体が影の中に沈んでいく。

 誰も後を追おうとはしなかった。行っても足手纏いにしかならないと分かっていたのである。

 

「村に戻ろう」

 

 己の力不足を悟ったアスカが発した押し殺した言葉に誰も否とは言わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 永遠の命を得る。それがゲイル・キングスの目的であった。その為に肉体を奪い、生き続けて来た。

 遂に永遠の命を得る手段をもう少しで手に入れるところまで来たが老いた体で永遠を生きても何の意味がない。その為の若いフォンの肉体を奪い、この瞬間に辿り着いたのだ。なのに、宿願の成就を前にして儀式の邪魔を許した。

 捨て置いた二人の少女――――アーニャとナナリーに足元を掬われたのだ。この宿願を何百年と求め続けたゲイルが我慢できるはずがない。

 邪魔をした高畑を直ぐにでも誅殺し、穴に飛び込んだ少女二人を引き摺り上げて八つ裂きする。

 怒りのままに行動しようとしたゲイルの一歩目は永遠に先へと進まなかった。

 

「――ッ!?」 

 

 不意にゾクリと血が凍るような戦慄を覚えて、ゲイルは目を限界まで見開いた。

 洞窟の入り口から流れる風が触れる肌の感覚すら途切れ、一切の音が辺り完全に消えて静寂が溢れる。

 呼吸が死んだ。理由もなく、感情が一気に失せた。全身の五感が、まるで現実から逃げていくように薄れる。胃袋に重圧が落ち、呼吸が乱れ、心臓が暴れ回り、頭の奥がチリチリと火花みたいな痛みを発して思考が止まる。

 穴の奥から発せられる何かにゲイルの体が支配されていく。ゲイルだけではない。虫の息であった高畑でさえ、一様に心臓を鷲掴みにされたように凍りつき、背筋を粟立たせる。

 

「な、なんなのだ!?」

 

 ようやく発したゲイルの叫びに呼応するように、穴から一気に水が噴き出した。

 殺意。あたかも世界そのものが敵に回ったかのような、全方位から迫る威圧感。肌を叩く水の音がやけに耳に響いた。空気が押し潰すように圧し掛かり、死神の鎌を首筋に当てられたような、そんな凍てついた恐怖を囚われていたゲイルは感じていた。

 誰も動かなかった。否、動けなかった。ゲイルの頭に上っていた血が、一気に首から抜けていくような、ぞっとする感覚――――――――身体を震わせてその気配の方向を視線で探ろうとして、まるで周囲の重力が十倍に膨れ上がったような威圧に射竦められた。

 その気配は吹き上がる自ら発せられていた。

 

「水が気配を持つなど…………っ!?」

 

 ありえない、と叫びかけたゲイルの口が塞がれた。

 水である。噴き出した水が、地面に落ちた水が、天井を叩いた水が、全方位からゲイルへと襲い掛かる。

 

「アアアアアアアアアアァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッツ!!」

 

 限界まで眼を見開いたゲイルの、この世とも思えない雄叫びとも思える叫喚が迸る。

 それもそのはずである。穴という穴から侵入してくる水によって己が犯されていくのだ。

 生娘が汚されるのとはまた違う凌辱。奪われていく。今まで犯して奪ってきたゲイルの全てが、自身の肉体を捨て去っても守り続けてきた己が犯されていくのだ。

 目から鼻から口から、穴が無ければ切り裂いて穿って作り、フォンの肉体を持つゲイルはその肉体も魂も浸食していく。

 

「タカミチ!」

 

 もしもエヴァンジェリンが現れ、直ぐに影の転移魔法でこの場を離れなかったら高畑もまた同じ目に合っていただろう。

 ゲイル以外、誰もいなくなった大洞窟に己を失った哀れな存在が産声を上げる。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■―――――――!!!!!!!!」

 

 フォンの肉体を持ったその存在は、怒りのままに狂乱の叫びを上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 疲労が濃くて足の遅い少年二人を気づかないながら走っていた明日菜は、突如として背後のナマカ山から轟いた爆音に驚いて足を止めて振り返った。

 振り返って見えたのはナマカ山の頂上から吹き出す水である。一瞬噴火かとも思ったが、清流な輝きはマグマではないと直ぐに看破出来た。

 同じように足を止めて振り返ったアスカと小太郎は、近づいてくる気配に首を巡らせた。

 

「アスカ!」

 

 やってきたのは杖に乗ったネギと横を並走する茶々丸。そしてそれぞれ別方向から傷を負っている龍宮真名・長瀬楓・桜咲刹那の三名である。

 傷を負いながらも無事に合流できたことを喜び、一声かけようとしたアスカの口を閉じさせたのは、ナマカ山頂上に出現した巨大な気配であった。

 遠目からでは姿はハッキリと見えない。だが、この島を圧して余りあるほどの気配の持ち主であるとその場にいた誰もが直感した。

 

「な、何これ?」

 

 経験したことのない気配の強大さに、かなり距離が離れているにも関わらず、明日菜は肌を泡立たせて鳥肌が立った腕を摩ったり、体を震わせていた。他の者達もまた動くことすら出来なかった。

 内包するとんでもない力を感じてゾクリと、アスカの身体を震わせる……………………いや、この震えは、恐怖の為だけではない。

 孤独と絶望と憎悪、あの存在が放つ想念が世界に満ちていく。怒りであった。これを感じるだけで常人は視力を失い、体の弱い者は倒れてしまう。

 ここにいるのは、天と闇を従える暗黒の支配者。

 ここにいるのは、闇と冥府の王。

 ここにいるのは、天と地と統べる神。

 ここにいるのは、生と死を審判する死神の中の死神である。

 全開状態のエヴァンジェリンすらも上回る威圧感。誰もが戦う前から死を予感した。

 

「神じゃ。カネ神が降臨されたのじゃ」

「婆さん」

 

 何時の間に現れたのか、大婆の声に小太郎が思わずギクリと息を飲み込んだ。ネギ達も同じであった絶句した。唯一反応したアスカは、自分達が村の近くにいることに今更ながらに気が付いた。

 

「カネ神がお怒りであられる。我らはもう終わりじゃ」

 

 涙を流す大婆の言葉を証明するように天空に水球が生み出された。

 突如として大地が出現したかのように、この島を覆い尽くすと思われるほど巨大な黒色の水球が存在していた。

 そして島を覆い隠してあまりある体積で押し潰さんばかりに水球が滴り落ちて来る。天罰の如き水球に抗える者などいない。アスカの影から現れ、タカミチを放り捨てて飛び上がったエヴァンジェリンを除いて。

 

「来たれ氷精、闇の精 闇を従え吹けよ常夜の氷雪――――――――闇の吹雪!!」

 

 冷徹さをもって手で渦巻いていた吹雪の精霊が、エヴァンジェリンが放った魔法名と共にこの世に顕現する。

 膨大過ぎる吹雪の奔流は何もかもを打ち払わずにはおかぬというように、事象の全てを粉砕しながら迸る。

 その魔力の冴え、術式の精密さ、あらゆる領域で停電時にネスカと戦った時の比ではない。即ち、エヴァンジェリンが放つ掛け値なしの全力の魔法であった。

 吹雪の氷乱が、訪れる破滅を砕かんと空気分子を焼き払いながら地上から降り上がる。何もかもを微塵と化す吹雪が、極度の気温の変化により間の空気で水蒸気爆発を起こしながら直進して――――。

 街一つ容易く消滅させてしまえるほどの魔法が解き放たれ、島に堕ちて来ていた巨大な水球を跡も残さないほどに粉々に砕いた。言わずもがなその余波は凄まじかった。

 島を覆い尽くすほど巨大な水球が爆発した。エヴァンジェリンが放った闇の吹雪は水の球体を内側から食い破り呑み込む。太陽の光に乱反射して照らされる辺り一面には氷風が吹き荒れる。

 下にいるアスカ達を爆発音と、氷風の冷気と砕き切れなかった水の奔流が襲った。お伽噺の大洪水のような、地を呑み込まずにはいられない神罰だった

 

「くっ――!」

 

 水流が収まっても膨大な威圧は引かなかった。余波によって大気は荒れ狂い、しかも尚も連続して発せられる爆発にアスカは目を開けていられずに閉じてしまった。

 他の誰もが我が身を守ることすら危うい状況で、エヴァンジェリンは飢狼の如く連続して攻撃を仕掛けてくるカネ神の相手をしなければならなかった。

 一瞬ごとに起こる全てのことが、致命的に自分の命を抉ろうと追いかけてくる。それを振り切るために、エヴァンジェリンの意識はどこまでも冴えていった。全て、発生する事象の必ず一歩先を行く。その急速な加速の中で舞い続ける。

 力を爆発させ、高め、練り上げ、高密度化させていく。二人の周囲の空気に混入した塵が体外に零れ出る余波で吹き飛ぶ。

 接近し、遠ざかり、それらを繰り返し、衝突すれば、そこから生じた衝撃波だけで周囲の空間に互い以外の如何なる存在を許さずに破壊していく。

 水が生み出され、凍らされ、砕かれ、結晶となって地に振り降りる。

 

「おお……」

 

 誰が上げた感嘆の声であろうか。無理からぬことだと、自分が想像だにしないレベルで戦っているエヴァンジェリンを見上げたアスカは思った。

 一撃で大河を引き裂き、山を砕ける領域にいる二者が戦っている。

 空間が、世界が、耐え切れぬように不自然に鳴動する。現代においてこれほどの力が集まること自体が、既に異常な事態であった。

 もはや神話にさえ匹敵する超常なる力の激突。幾重にも颶風渦巻く戦場は、一観客に落とされた少年少女達の安全を保障しない。

 

「これがエヴァンジェリンの力。ああ……」

 

 アスカはブルッと身体を震わせた。目の前の神話の如き光景を見て震えが止まらないことは間違いなかった。

 羨ましい、と誰もが恐怖に慄く中でアスカだけが感じていることは正反対だった。

 他者を威圧する空気に満ち満ち、鍛え上げられた錬鉄の武威を如何なく発揮できる戦い。あの場に自分がいないことこそをアスカは悔やむ。

 激しい攻防を繰り返しながら数㎞の距離を行き来する二つの光。遠く離れているからこそ視認できる神話の戦いのような光景を見て、アスカの胸に去来するものは、その闘いを見た誰もが抱くだろうものとは大きくかけ離れていた。

 

「俺も戦いたい」

 

 どうして自分はあそこにいないのかと自問し、弱いからだと気づいたアスカは愛しい人にそっぽを向かれたように嘆いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どれだけの時間が経っただろうか。エヴァンジェリンとカネ神の戦いは海へと移行しているが、その被害は更に広がっているように思えた。

 時間の感覚はとうにない。嵐が過ぎるのを身を縮めてただ待つようにしていた中で、四肢を砕かれた高畑がネギに回復を魔法を受けながら顔を上げた。

 

「圧倒的な物量と力の差がある。このままではエヴァは負ける。エヴァが得意とするのは氷属性であり、彼女が吸血鬼だからこそ、ここまで戦えている。あの相手は紅き翼でも単体では不可能だ」

 

 高畑の言葉を誰も否定しなかった。それほどにカネ神の攻撃は苛烈に強烈に留まる事を知らない。

 海に囲まれた島の上という条件も不利であった。カネ神は生命の根源になる要素をつかさどる神である。水が豊富な場所は圧倒的に有利であり、カネ神も辺りの海から水を引き上げて攻撃している。

 今もまたエヴァンジェリンは水の槍によって身を砕かれ、再生しているところであった。

 エヴァンジェリンもただやられているわけではなく、水の制御を奪って凍らせて自分の物としている。だが、地力が違うのだ。3の水を奪っている間に、10の水を操られては如何なエヴァンジェリンといえでも劣勢は避けられない。

 

「ジリ貧だな。このままじゃ、いずれ負けるぜ」

 

 冷静な意見を出したのはカモ。

 その頭脳では如何に勝利の道筋を見つけ出さんと駆動している。そして幾つかのウィークポイントを見つけた。それは高畑も同じであった。

 

「カネ神は怒りで我を忘れているのか、力の使い方が大雑把だ。百の力で十しか操れていない。だからこそ、エヴァも戦えているとも言える」

「今だけだ。あれだけの力を使っているのに疲れる気配どころか底も見えねぇ。避けず、受けず、圧倒的な力に任せてねじ伏せてやがる」

「文字通り、桁が違うか」

 

 一人と一匹の会話にネギの内心を諦めが覆う。

 全員があまねく疲労し、エヴァンジェリンの援護が出来そうな高畑は戦える状況ではない。下手にネギ達が手を出そうとも、エヴァンジェリンの足手纏いにしかならない。

 ネギは助けを求めるようにアスカを見た。

 或いは、この時にネギがアスカを見たのは彼の中にある双子の弟への甘えであり、コイツならば何か手があるのではないかと思わせる期待の現れであった。

 だが、その期待と甘えはアスカの表情に浮かぶ異質さに押し潰された。

 

(え……?)

 

 喜悦である。愉悦である。絶望の最中に人が浮かべていい表情ではない。

 希望があるわけではない。一発逆転の方策が浮かんでいるわけでもない。このアスカの表情が示すのは自分よりも強者と出会った時の物であることを双子の兄であるネギは良く知っている。

 余人が見れば気が狂ったかと思われるだろう。だが、ネギだけは、この時のネギだけは一人だけ絶望に沈まぬアスカを見て救われた。そしてその耳で光る銀の輝きが天恵を齎す。

 

「ある。あった!」

 

 ネギが打てる最後の一手が詳らかにされる。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 両者の高純度に高められたパワーが一撃ごとに鬩ぎ合って火花を散らした。一つの火花が消えぬ内に、更なる火花が三つ、いや六つ、六つから十二の火花が散った。瞬く間にそれらの火花は数十に上り、更に加速度的に増えていく。大型の花火を超える火花を起こしているのが人型だと誰が思おう。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――――――――――――――ッ!!!!」

 

 フォンの肉体を器とするカネ神と称された存在は咆哮を上げる。

 怒りである。憎しみである。憎悪である。

 眠っていたのか、生きていなかったのか、何もかもが分からない中で魂とでも呼ぶべきものに不純物が混ざっている不快感に怒りだけが増していく。

 独りになりたい。自分の物は自分だけの物というのは程度の差はあれ、誰でも持ちうる想いであるが、この存在を侵しているのは根源にへばり付かれていることへの不快感である。

 目覚めた瞬間から不快で、剥がしたくても根源にへばり付かれていてはどうしようもない。身体が重い。動き難い。消えてなくなれと願っても離れない。不快で不快で仕方ない。

 

「この――っ!!」

 

 目の前の存在もまた煩わしくて鬱陶しい。

 大した力もないのに無駄にしぶとくて、何度も肉体を粉々にしているのに一向に死なない。

 憎しみに支配された思考では考えることは出来ない。鬱陶しいという思考は怒りに転化され、余計に鈍化していく悪循環。

 目の前の存在がいなくならない限り、現状維持が続く――――――――――はずであった。一発の銃声が轟音の最中に鳴り響き、カネ神の右胸を弾丸が当たらなければ。

 痛みはない。そのようなものを感じる感覚器官は存在しない。あくまでフォンの肉体は器であってその存在の本当の肉体ではないのだから。

 

「?! ■■■■■■■■■■――――――っ!?」

 

 それでも驚きはあった。今まで戦っていた金髪の童が距離を開け、欠損した肉体を復元するのを許す程度には動揺していた。

 水を貫き、数多の防御が施されている器に到達されたのだ。根源にへばり付かれている不快感は消えないまでも、怒りが一瞬止まる程度には驚いた。だからこそ、一方的な蹂躙とはいえ多大な力によって上空に積乱雲が生まれおり、そこに杖に乗った少年がいることにも気づかない。

 カネ神が硬直したのは一秒にも満たない。だが、杖に乗った少年――――ネギにはそれだけで十分だった。既にネギ最大最強の魔法の準備は出来ている。

 この魔法は正式な体系のものではなく、環境操作系のものを意図的に攻撃に転化した――――つまりは、独力で放つことが出来ない魔法である。

 ネギ達がメルディアナ魔法学校の禁呪書庫に忍び込み会得したその魔法が齎す効果は、表の世界でも広く名が知られている。

 

「行っけぇええええええええええええっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」

 

 ダウンバースト。ある種の下降気流に過ぎないそれが、ネギの禁呪指定環境操作系魔法によって圧縮されて空気の弾丸となって振り降りる。

 

「■■■■■■■■■■ッ!?」

 

 知恵などない、思考も出来ないカネ神にダウンバーストを避けることは叶わない。その存在に避けるという選択肢すらないのだ。

 上空から海へと真っ逆さまに落とされたカネ神を唖然として見下ろしたエヴァンジェリンの下へ、アスカを抱えた楓が虚空瞬動でやってきた。

 

「何をやっているこの馬鹿――」

「真・雷光剣っっっっっっっっ!!!!!!」

 

 エヴァンジェリンが一瞬の思考の隙間から回復し、無謀な行動を取っている者達へ罵声を浴びせようとしたところで、今度は刹那の叫びが届き、天から雷が落ちたような轟音が生まれた。

 雷はカネ神が落ちた海上へと振り降りた。傍目からでも強い雷が辺り一帯を呑み込んで、あまりの強さに海水が蒸発した蒸気が湧き上がる。

 

「二度は言わない。これを付けろ」

 

 楓から離れたアスカが浮遊術で宙を飛びながら、勢いがつき過ぎてエヴァンジェリンに抱き付いてしまい、その耳で囁いた。

 アスカの温もりにエヴァンジェリンは思わず赤面してしまったが、その手に握らされたアスカのアーティファクト――――絆の銀に目を瞠った。

 絆の銀の効果が頭に浮かび、それが自分に手渡された意味を一瞬で理解した。

 

「賭けか。だが、これしかないか」

「ああ」

「いいのか? 私が使うと最悪、人に戻れなくなるぞ」

 

 絆の銀のデメリットをエヴァンジェリンはカモから聞いていた。

 絆の銀は装着者を一体化させる。相手が同じ人間であれば問題ないが、人外となると弊害が起きる。特に人外特有の特殊能力――――狗神化、吸血鬼の再生能力――――を使うとどのようなことがアスカの身に起こるのか予測が出来ないのだ。

 そしてエヴァンジェリンには、まだ使っていないとっておきの秘奥がある。合体した状態で使ってしまうとアスカが人から逸脱してしまうかもしれない危険性がある。

 

「全部、生き残ってからだ。俺だけじゃない。みんなだ。後のことは後で考える」

 

 その言葉が実にアスカらしいと思えたエヴァンジェリンは、その耳に絆の銀を装着するのであった。

 

 

 

 

 

 遂に鬱陶しい風と雷がようやく止んで、カネ神は咆哮を上げた。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■ッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!」

 

 怒りは更に増している。

 ダメージは殆どない。精々が少し驚かされたぐらいである。が、鬱陶しい。一切合財が鬱陶しい。カネ神は更なる怒りに呑み込まれて咆哮を上げ続ける。

 

「ギャーギャーと五月蠅いぞ、貴様。このアヴァン様の耳が穢れるではないか」

 

 ふと、海上で咆哮を上げていたカネ神は直上から聞こえた声に怒りを向ける矛先を向けることにした。

 今度こそ殺し尽くすと決意し、顔を上げるとそこにいたのは先程まで邪魔だった存在とは少し形が変わっていた。

 風にたなびく髪の毛はなにも変わっていない。身長が僅かに伸び、体型が目に見えて雌雄が変わったことだろうか。あと一つ、明確に変わったところを上げるとするならば目だ。

 先程までは必死さがあった目の色が変わり、傲岸不遜にしてどこまでも広がり続ける青空のように澄んでいるという矛盾した要素を兼ね備えた蒼い瞳だった。

 

「散々やってくれた礼だ。見せてやろう、闇の福音の秘奥を」

 

 気配が違う。魂が違う。不可思議な違和感にカネ神は行動を遅らせた。

 その間にアヴァン――――アスカとエヴァンジェリンが合体した――――は、大技を放つために溜めをするように腰を深く落として右手を上に翳した。

 深く息を吐きながら眼を細めた。ふわりと、艶やかな長い金髪が逆立った。

 

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック」

 

 始動キーを唱えるアヴァンの両腕に歪な紋様が浮かび上がる。闇に染まったように黒くなった腕に走る紋様は血管のように脈動していた。

 

「集え氷の精霊 槍もて迅雨となりて敵を貫け 氷槍弾雨、固定。来れ虚空の雷 薙ぎ払え 雷の斧、固定」

 

 絶望の言霊が大気を震わせ、世界を凍えさせ轟かせる。

 魔法名が唱えらえると同時に解き放たれるべき魔力がアヴァンの両の手の平の上に留まり続ける。

 

「双腕掌握」

 

 よりにもよってアヴァンは、手の平大に圧縮した魔力球を迷わずに一気に握り潰した。

 握り潰したその魔力を自らの胸に押し当てて、体ではなく魂と同化させる。途端にアヴァンが内包する力は数倍、数十倍にまで上昇する。

 

「術式兵装・氷雷華人」

 

 ゆらりと長い髪を払ったその外見に大きな変化はない。が、そのことが逆に恐ろしい。

 

「これが闇の魔法だ」

 

 敵に仇名す攻撃魔術を敢えて自らの肉体に取り込み、霊体にまで融合する。術者の肉体と魂を食らわせてそれを代償に常人に倍する力を得ようという狂気の技。闇の眷属の膨大な魔力を前提とした技法の為に並みの人間には扱えない禁呪。

 

「分かるか。分かるだろう、仮にも神と呼ばれる存在ならば、このアヴァン様の恐ろしさが」

 

 氷の如き声音はそれ故に恐ろしく、如何なる者も膝を折らずにはおかぬ禍々しい響きさえ秘めていた。

 

「っ…………■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!!!!」

「温いぞ」

「■■!?」

 

 愉悦を浮かべる目の前に存在へと憎悪に狂ったカネ神は突撃しようとした鼻先が蹴られた。一瞬で移動したアヴァンが蹴りを放ったのだ。

 その一瞬の後、ぼっと空気が凝縮したような音が鳴った。音が遅れて届く―――――アヴァンの速さは音をも凌駕していた。

 大気中を物体が超高速で移動するとき、正面の空気は引き裂かれ、逆に背後の空間には真空を残すソニック・ウェイブを発生させていた。アヴァンが通った道筋は抉れた水面が証明していた。

 

「教授してやろう。これこそ氷雷華人の効果の一つ、体内の電気信号の加速だ」

 

 跳ね上がった後頭部に、先程まで前にいたアヴァンが超速で移動して肘を叩き込む。

 ほぼ同時に、その背中へと反対の手で拳を放って下から掬い上げるようなアッパーによって斜め上に弾き飛ばす。

 アヴァンは拳を戻しざま、一瞬にして上空数十メートルの高さにまで跳ね跳んだカネ神を追いかけるように、水面を爆発させて破壊しながら宙に舞い上がった。その全身から迸る紫白色の光の燐光が残像を引き、アヴァンのシルエットをオーラの如く浮き立たせる。

 

「加速された電気信号によって肉体、思考共に生物の領域を超える。が、本来ならば肉体が持つはずがない。それを可能にするのがもう一つの効果、肉体の凍結」

 

 言いながらカネ神を追い抜いて頭上から破壊的な一撃を見舞った。カネ神はかろうじて掲げた両手で頭部の一撃は防いだものの、今度は直角に地面に向かって急降下を始める。

 カネ神が触れたアスカの肉体は氷のように冷たく、そして固かった。

 

「本来ならばそんな状態になれば指一本動かすこと叶わない。効果の一つである電気信号によって無理やり肉体を動かし、少し動くだけで崩壊する肉体を吸血鬼の再生能力で復元する」

 

 電気信号を極限まで加速されているアヴァンの感覚では、ゆっくりと落下していくカネ神に次々と攻撃を放つ。

 エヴァンジェリンである時と比べても比較にならないほど威力とスピードの増した拳で、カネ神の顔といわず、胴体といわず、滅茶苦茶な勢いで叩き込まれていった。

 

「認めよう、カネ神。貴様の力はこのアヴァンを以てしても届かない。この攻撃もまたダメージにはならんだろう。だがな、だからといって私は負ける気がせん」

 

 殴られ蹴られる度にボールのように跳ね回るカネ神だが、そのダメージは少ない。未だ力の差ははっきりとしている。

 

「力の差が勝負における絶対なファクターではないと教えてやる。感謝しろよ、神」

「■■■■■■■――――ッッ!!」

 

 カネ神が咆哮を上げて水を生成し、槍として放つが空を切る。

 カネ神の視界のどこにもその姿を認めることが出来ない。確実に捉えたはずなのに何の手応えもなかった。そこには残滓のように空気が纏わりつき、消えていくのみである。アヴァンの欠片など微塵もなかった。

 

「敢えて言おう」

 

 カネ神の全身に正面から凄まじい力が叩き付けられた。殆ど水平の体勢で飛んでいたカネ神の身体が立ち上がり、強引に後ろに圧し戻される。

 

「どれほど強大な力であろうとも、当たらなけばどうということはないと」

 

 カネ神を襲ったのは音速を突破した時、裂かれた大気が生み出した衝撃波だった。音速を超えて動く。人型が為したことにカネ神の怒りに狂った思考が、らしからぬ戦慄を覚えさせる。

 その戦慄を忘れるかのように「■■■■■■■■■■■■――――――!!!!」と、更なる咆哮を上げて生み出した水龍を生み出した。

 だが、水龍の動きは遅すぎて稲妻の如き速さのアヴァンを捉えることが出来ない。

 咢で噛んだと思ったらその空間から消えており、水龍は残影の跡を追って体を旋回させ、連続で幾つかの水のブレスを連射する。しかし、そのブレスは的外れな場所を貫くだけであり、高速で動き回るアスカを捉えることは出来なかった。

 そこにいたはずのアヴァンの姿がない。消えたのだ。瞬間移動したなどという冗談はない。高速で移動しているに過ぎないが、瞬時に加速して静止する、その動きは消えたとしか表現のしようのないものだった。目で追いきれないだけではなく、気配そのものの移動が感知しきれないのだ。

 

「突破できないか。ふん、このままでは負けるのは俺と、貴様はそう思うか?」

 

 我が身を超音速の砲弾に変えたアヴァンの攻撃であってもカネ神の守りを抜くことは出来ない。この時のアヴァンのスピードは音速を超えており、超々高速の突進が大気の壁を突き破った衝撃波がカネ神を木の葉のように吹き飛ばすが、それでもダメージは本当に微々たるものでしかない。

 術式兵装・氷雷華人の発動中は肉体制御に比重を掛け過ぎて、強化の割にパワーは寧ろ下がっている。

 カネ神が空中で急制動をかけると側面に光が走る。そこで初めて蹴りを放ったが、アヴァンはまた残影を残して姿を消した。直後、カネ神は背中から衝撃を受ける。

 

「怒りも薄れてきたようだな。いや、私に純化してきたか。ああ、冷静になられると益々、私の勝機がなくなっていくと貴様は思うか?」

 

 吹き飛ばされながら視界の端に蹴りを放ったらしい姿勢のアヴァンの姿が一瞬だけ留まり、また消える。

 死角に潜りこんだアヴァンが冷たい波動を背中に叩きつける。カネ神は感知しえた気配に意識を凝らして、体勢を整えるよりも先に水刃を振り返りながら放つ。だが、やはりそれは空を切って、代わりに何時の間に近づいたのか防御を掻い潜って拳が腹に当たった。しかし、やはり威力が足りない。

 正面にいるアヴァンに向けて拳を放つも既にそこにはいない。幼い子供に紙を鉛筆を渡して出鱈目な線を書かせたような、紫白色の光の燐光が目を疑いたくなるほどの目まぐるしい動きの軌跡を描く。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■ッッッッ!!!!!!!!!!!」

 

 叫びは獣のように。が、圧倒的な速度の差は覆られない。

 紫白色の光輝を放つアヴァンに、殴られ、打たれ、突き落とされ、蹴り上げられる。一撃一撃が放たれるごとに衝撃波が生まれ、カネ神の身体は碌に姿勢を保つことも出来ず、箱に投げ入れたピンボールの如く彼方此方跳ね回っていた。

 カネ神は自らがナマカ山の直上へと追いやられていることに気が付かない。

 

「全ての答えを此処に見せよう」

 

 全ては此処へと帰結する。

 アヴァンはカネ神をナマカ山へと叩き落とす準備を全て終えていた。

 

「眠れ、神よ」

 

 だが、同時にアヴァンの時間も此処までである。

 合体が解除される。弾き飛ばされたのはエヴァンジェリンであった。

 

「な……!?」 

 

 任意ではなく、限界によるものである。元より疲労していたアスカ、カネ神に追い込まれていたエヴァンジェリン、そして魂を侵す闇の魔法によって絆の銀の効果が発揮できる時間は極短いものになっていた。

 二人もまたそれを理解し、しかしアスカはそのまま強行することにした。

 

「このまま行けぇえええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!」

 

 体ごとカネ神にぶつかり、残っていた全力を推進力へと変える。

 その口から魔力の限界によって大量の血を迸らせながら、生命力を力へと変えて決して離さぬとばかりにカネ神の胴体を捕まえてナマカ山へと落ちて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこには何もなかった。無、虚無、何もない空白。光はない。闇もない。自分だけが存在する空虚。

 重ね合わせるもの、溶け合うもの、何一つとしてない。そこは何もない空間だった。全てが無で塗り潰されていた。敢えて近いものがあるとすれば闇だろうか。だが、それすらも便座上でしかない。

 エミリア・オッケンワインがいる場所は、果てしなく何もない。ただそれだけの空間にすぎなかった。どっちを向いても、闇だった。前も、後ろも、上も、下も、右も、左も、現在も、未来も、そして、過去すらも。まるで黒い水の中にいるみたいだった。

 何もないところだ。だが、ある意味でここには全てがあるのかもしれない。

 争いも憎しみも存在しない。そもそも個人という意味すら失われている。個にして群、群にして個。そうした多くの意味が寄り集まった場所なのだ。

 生と死の境界。人の世と死後の世界の間をたゆたう虚ろなる根の国。黄泉平坂とも呼ばれる狭間の世界かもしれない。

 威圧も孤独も無い。体温と同じ生暖かさを持つ空虚。温もりを不快と思うのであれば、そこは確かに居心地の悪いところだった。恐ろしく一方的で、しかし、決まった流れの無い、閉鎖された無限の空間。幾億の星を散りばめた宇宙の常闇。無限、という言葉を体現する唯一の存在。人の力では、このスケールは計り知れない。

 希望すらもこの深淵は、そんな可能性すら呑み下してしまう。どこまで行ってもなにもない底なしの闇をもって、飛び出すより先に人を萎縮させてしまう。無限というだけで、この空間にはなにもない。他に出会える知的生命体はいない。

 意識が白濁していた。それが嘗ては自我の欠片であったことすら、今のエミリアだったモノには分からなかった。

 自我が散り散りになって、まるで自分がバラバラに砕け散ったみたいだ。水に垂らされた一滴の墨汁のように、エミリアは拡散していく。他者はおろか己の存在すら定かではない真っ黒な世界に、身を溶け込ませて世界と一体となっているような感覚に耽溺していた。

 意識だけだからこそ存在し続けられる場所にいるエミリアは、次第に思考も磨滅して微かに残っていた自我も曖昧になり、夢見るように空間を漂う。

 星の海を惑星が永劫回帰するだけのようなこの深閑としたこの場所に、もはや外界との接点はなく、以前の出来事はともすれば遠い異世界のように感じられる。

 争いもなければ、飢え、痛み、乾き、嘆き、あらゆる負の源流もない。負がない代わりに、人々の営み、歓び、愛、あらゆる生の源流もない。あるのは永遠の安定。そして静謐。完全なる平安とは、このような世界を指しているのかもしれない、と。ただし、このような平安が幸福と呼べるかどうかは甚だ疑問であったが少なくとも不幸ではないのだろう。

 その思考も直ぐにあやふやになっていく。自分の身体の輪郭が、感覚が思い出せない。

 自分が生きているのか死んでいるのかさえも判然とせず、思考を試みている自分自身の存在すらあやふやだった。徐々に自分という概念すらも忘れていく。だが、同時に満たされてもいる。ありとあらゆるものの存在を感じ、完全な世界として認識することが出来た。

 不思議な感覚だった。脈絡ある思考が纏まらない。エミリアを取り巻く世界ではなく、彼女自身の精神の方が、混濁し、意味性を失っているらしい。世界と自己とを隔てる壁が存在せず、酷く曖昧だった。自我を強く保たねば世界の中に溶けてしまうだろう。

 次第にそれにも疲れた。この空間で自己を保ち続けることは、たった一人で世界に相対するに等しい。

 エミリアは自らが終わるまでの時を、心静かに待つしかない。動けないまま、ただ緩慢に時が過ぎていく。

 たゆたっていた。たゆたっていた。たゆたっていた。どこまでも広大な空間の只中で、包まれていた。酔夢にも似た安心感。しかし、そうしていられのは、この時までだった。

 

『――――エミリアさん――――!』

 

 その名前が、空間に漂うだけだったエミリアだったモノの中に、名前が泡のように浮かぶ。

 懐かしい気配だった。とても身近な誰かだったような気がする。その誰かと共に一緒に過ごしていた。それでも、気配が誰かは思い出せない。思考すら続かず、何故か寂しさのようなものが染みてきた。

 

『起っきなさい、この馬鹿!!』

 

 再び空間に響く声。今度は別の声だった。

 すると声が合図だったように、突然なにかがつながるのが分かる。

 肉体があるわけではなく、意識上―――――肉体という名の器に注がれるべき精神という名の入れ物が突然生まれたとでもいうか、あるはずのものに感覚が繋がったのか。

 あやふやだった自分が一つに纏まっていき、霧が晴れるように、すぅと意識がクリアになっていく。

 次々と接続されて、まず蘇るのは、寒気だった。痺れるような悪寒の中、身悶えする。

 緩慢な思考が、最初の言葉を紡いだ。

 

(エミリア・オッケンワイン………自分の名前)

 

 真っ先に思い出した自分の名前。だけど、他には何も思い出せない。

 そんなことよりも寒い。つながった精神の熱が奪われてゆく。自分という存在が虚無に飲み込まれてゆくのが分かる。無駄だ、なにをやっても。

 誰かの温もりも、誰かの願いも、誰かとの約束も、多くの想いが今のエミリアには届かない。思い出せない。ひどく寒い。引き寄せる自分の指先すら見えない。

 どれほどの月日が流れたのか。それもこれも、今となっては、幾星霜を隔てた追憶の夢。

 なにやら煩瑣な成り行きがあった気がする。大切だったなにか、守りたかったはずのなにか、虚無は精神があろうとも心を犯していく。予め決まった結末があるのに、なにをしたところで―――――

 

『やれやれ、仕方ないわねこの愛娘は。相変わらず寝坊助さんなんだから』

 

 自分しかいない虚空に声が流れる。自分の内側に宿る思惟。自分という存在を形作るものから発せられた声。

 声が光になる。そう、光あれ、と原初の創造主は言った。言葉が光を生む。思考が現象を認識する。知性の存在が、茫漠として在るだけの空間を世界と認識し得る。人の人たる優しさが、世界に意義を与える。

 仄暗い空間が光に溢れ、エミリアを守るように包む。

 

(……どう……して………)

 

 そうなることでエミリアの意識はようやく己を取り戻すことが出来た。自分の身に何が起きているのかも理解した。

 

(…ここ……は…)

 

 窺えるものは、ただ認識不能の暗闇のみ。自身の精神以外に他には何もない。指先から、少しずつ感覚が消えていく。自分がバラバラに千切れていく。暗く冷たい闇の底へと落ちていく。

 

『帰れ、エミリア。お前には待ってくれている者がいる』

 

 別の光が生まれた。内から生じた温かな波動が凍えた虚無を払ってゆく。知っている声、だけど知らない声。ずっと共に在り続けた人。

 エミリアは目の前に広がる光に向かって手を伸ばす。

 眩い光が人の形になり、伸ばした手を握り返す人肌の温もりを伝える手のひら。

 

「エミリアさん!!」

 

 伸ばした手を掴んだのは暗闇に突如として現れたナナリー・ミルケイン。ナナリーの手を掴んで支えているのはアーニャだ。

 

『幸せになりなさい。あの子と共にね』

 

 それが母の声であり、寂しそうに笑う父の声でもあり、急速に気配が遠ざかっていくのを感じた。

 彼女の中で、沢山の声がした。

 懐かしい声、悲しげな声、古い声、新しい声、敵の、味方の、死に行く者の、子供の、大人の声。その全てがエミリアに笑いかけ、多くの人々を伴って去っていく。

 刹那の中をエミリアは探した。そして見つけた。

 

「成るよ! 必ず幸せになるから!!」

 

 その声が届いたのか、寄り添うに二つの光は穏やかに瞬いた。

 収束していく光の中で自身の身体が構築されていくの感じながら、エミリアはナナリーの手を強く掴んだ。

 世界が収束していく。まるであるべきものがあるべき場所へと帰って行くように

 向こうの世界に戻らないといけないのに、今のままでは届かない。でも、それでも不安はなかった。エミリアは、ナナリーは、そしてアーニャの三人はお節介なヒーローがいることを知っている。

 

「待たせたな!!」

 

 そうして現れたアスカの姿は、まごうことなきヒーローそのものだった。

 

 

 

 

 

 

 アスカがカネ神と共にナマカ山に落ちた直後、再び噴火のように湧き出した水が島に振り降りる。

 今度はしとしとと優しく振り降りる黄金に輝く雨。地面に落ちても積もることもなく消えて行った。

 黄金の雨に濡れた明日菜達が、村の住人達が驚きの声を上げた。

 四肢を砕かれていた高畑は治った傷に驚きながらも立ち上がる。他の者も驚きに大差はあれど、雨が触れる先から傷が癒えていく。

 

「傷が治って行く……」

「癒しじゃ。カネ神が怒りを沈め為された恵みの雨じゃ」

 

 傷を負っていない明日菜が黄金の雪のように揺らめいて落ちたそれを手の平に受けるが水は残らない。まるで幻想のように消え失せていた。

 黄金の雨は何時までも止まない。

 これが無害な物だと気づいた村の者達が手に欠片を取って、驚愕の声を上げた。死んで動かない者達が次々とその身を起こしたからだ。

 

「死者すらも蘇らせるカネの水じゃ」

 

 はっ、とした様子の真名が癒えた傷を有難ることもなく突如として走り出した。その後を追って走り出す。

 

「だが、幾らカネの水であろうとも生きようとする気力のない者を蘇らせることは叶わん」

 

 死を受け入れたナーデレフ・アシュラフが蘇ることがないと真名が知るのは、そう時間はかからなかった。

 真名は二度の絶望を味わうことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ナマカ山から転移魔法でオアフ島に戻って来たフェイトは、ゲイルが用意していた隠れアジトの一つに足を踏み入れようとした。

 何のことはない。撤退するために彼自身の荷物を回収に来たのだ。

 誰もいないと思ったアジトに人の気配を感じたフェイトは一瞬足を止め、その気配に覚えがあることに気が付いて止めていた足を進めた。

 灯りを点けていないのでアジトの中は暗い。初級魔法で灯りを点けた。

 

「何をやってるの、月詠?」

「あれまぁ、フェイトはんや。生きてたんですなぁ」

 

 アジトのど真ん中にでんと置かれている机に腰かけている月詠は、にへらと笑ってフェイトの方へと振り向いた。

 その上半身は裸でなだらかな裸身を晒しつつ、そこから視線を視線を外したフェイトは辺りに散乱している治療薬を見た。

 

「負けたの?」

「そうなんですぅ。先輩にやられちゃいました。あ、治療薬は全部遣わしてもろうたんでないですよ」

「僕には必要ないから構わない」

 

 自分よりは弱いがそこそこに強い月詠のことを戦いの面では信頼していたので少し驚いたフェイトは、頬の傷を指差されたことに不快を露わにした。

 あまり触れられたくない話題なので、早々に話を変えることにした。

 

「負けた割にはご機嫌だね」

「先輩はうちの裡を傷つけてくれましたから」

「良く解らないが」

「うちだけが分かってたらええんです。と、そういえばゲイルはんはどうなったんですかぁ?」

「さあ? 勝ったんなら生きてるだろうし、負けたのなら死んでるだろう。僕はもう興味がない」

 

 そうは言ったがフェイトはゲイルの敗北を確信していた。

 アスカが自分以外に負けることを許さないという気持ちが大半を占めていると彼は気付かない。だからこそ、殺すと宣言したゲイルを放っているのだ。

 

「うちとしては先輩に死なれたら困るわぁ」

「気になるなら戻れば?」

「もう転移魔法符がないんですわ。独力ではよう行って戻って来ないんです」

 

 フェイトが気にすることではないの荷物を纏めることにした。

 元よりフェイトの荷物は大したことが無いので纏めるのに時間はかからない。

 月詠との縁もここまでと考えたところで、少しその戦闘能力が勿体ないことに気が付いた。月詠は完成していない。これからもっともっと強くなるだろう。その戦闘能力は放っておくには惜しい。

 

「君も来るかい? 当てがないなら、だけど」

「勧誘ですか?」

「そう思ってもらって構わない。君の望む修羅と闘争を提供しよう」

 

 唐突だったかと思いもしたが、うーんと顎に手を当てて考えている月詠を見るともなしに眺める。

 

「条件があります」

 

 直ぐに呑むと判断したが、月詠が何が楽しいのかニコニコと笑いながら提案した。

 聞こう、と頷きを返すと月詠は口を三日月のように歪めた。その脇には黒い刀身の長刀が置かれていた。

 

「うちの生まれた場所、時坂を滅ぼすのを手伝って下さい。協力だけで構いません。手を下すのは自分でやりますから」

 

 その提案にフェイトは少し悩み、Yesと返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 テロ予告があったとして3-Aはホテルに缶詰めになっていた。その中で新田はただ一人でホテル前に立つ。

 アスカは何も言わなかった。が、争いごとを気配を確かに感じたのである。守ると誓ったのだ。生徒を、アスカ達がいないこの場所を守る為に新田は立つ。朝からもう何時間もピクリとも動かずに曇り空の中で仁王立ちを続ける。

 

「新田先生」

「ネカネ先生か。どうしたかね」

 

 背後から声をかけてきたのは生徒達のことを任せているネカネだった。

 振り返りはしない。ただ一身に帰って来る者達を待つ。そう決めた。

 

「どうした、ではありません。朝からずっと飲まず食わずで、休まないと倒れちゃいますよ」

 

 茶目っ気を覗かせたネカネは見た目以上に美しかった。石像とは違った生きている躍動感が彼女を引き立たせる。

 

「これでも柔道の段位を持っている。この程度でどうにかなるほど柔ではないさ。生徒達はどうかね?」

「不満たらたらですが、それなりに楽しくやっているようです」

「ならばよかった。どこでも楽しさを見つけられるのは子供の特権だが、3-Aは色々と規格外だったから心配していたところだ」

 

 数時間前に千草も同じように報告してくれたことを思い出し、心配をかけているのは自分だと気づいて苦笑を浮かべた。

 

「すまない。迷惑をかけているのは私の方だったか」

「いえ、そんなことありません。寧ろ弟達が面倒をかけて申し訳なく思っています」

「面倒だなどと思ったことはないよ。楽しい子らだからね」

「良くも悪くも、ですよね」

「そうともいうかな」

 

 と、二人で苦笑を交わす。

 

「もう戻りたまえ。3-Aの相手は天ヶ崎先生一人だけでは大変だ」

「私も待ちます。弟と妹のことですから。実は落ち着きがないからって追い出されちゃって」

 

 そう言われてしまったら新田に返す言葉が難しい。公人としてではなく私人としている者を追い払うには理屈が難しい。

 どうやって返すかと考えていると、一陣の風が吹いた。

 優しく、そして穏やかな風は新田の視界を一瞬だけ塞がせ、再び開いた時、流れた視界の先、通りの向こうから複数の人影が現れた。

 ネギがいた。アーニャがいた。小太郎がいた。明日菜がいた。刹那がいた。真名がいた。楓がいた。茶々丸がいた。エヴァンジェリンがいた。高畑がいた。見知らぬ少女が二人いた。そして、アスカがいた。

 無事である。全員生きて、楓の背に乗っているアスカを除いて全員が自分の足で歩いていた。

 

「アスカ! ネギ! アーニャ! みんな!!」

 

 隣から涙を浮かべたネカネが飛び出した。

 曇った空の一部が晴れ、空いた場所から太陽の光が降り注ぐ。太陽の光に照らされた面々の中で、新田に気づいたアスカがゆっくりと手を上げた。

 

「よくぞ、よくぞ無事に帰って来た……!」

 

 満面の笑みを浮かべてピースサインをするアスカの姿は、涙に濡れた新田の視界の薄らとしか見えなかった。

 戦いを終えて帰って来た戦士達を迎えるべく、新田もまた足を踏み出したのだった。

 

 

 

 

 



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第25話 さよならは言わない

 

 

 

 

 滾り落ちるというに相応しい強烈な陽光が照りつける。そよそよと涼しい風も何のその、何もかもが白く焼き尽くされて傲慢なほどの光の圧に拉がれていた。

 空港のエントランスにいて窓ガラスの向こうから注がれる陽光に照らされた天ヶ崎千草は、常夏の楽園に相応しき眩しさに目を窄めた。

 そんな千草の横に並んだネカネは、しっかりと陽光に当たらない様に注意しながら口を開いた。

 

「千草先生、そのままだと日焼けして――――――――――シミになりますよ」

 

 こいつ何時か殺すと、最近とみに遠慮がなくなってきたネカネにでこピンを放つ。

 魔力で防御する辺りは強かだが甘い。こっちだって気を使ってるので、放ったでこピンは近くにいた者が思わず見るほど大きな音を上げた。「あいたっ!?」と顎が上がってがら空きの喉にチョップを入れようかと思ったが、流石にそれはやり過ぎかと自重する。

 

「痛いですぅ」

「ええ気味や」

 

 涙目で真っ赤になった額を擦るネカネに溜飲が下がった千草は、粛々と出国準備を進めている生徒達へと振り返った。

 三日目にテロ騒ぎがあったが、何も起こらなかったということで四日目には鬱憤を晴らすかのように遊び狂った生徒達は、まだまだ遊び足りないとばかりにその表情は生き生きとしている。

 

「ガキは元気やのう。羨ましいぐらいや」

「そういうことを言うから」

「んん? なんやネカネ」

「なんでもありませんよ、勿論」

 

 またぞろ余計な言葉を捻り出そうとしたネカネを威嚇すると笑顔で回避されてしまった。次言ったら全力全開ぶっ放しをするつもりで気のオーラを漂わせたのが日和らせてしまったようだ。

 別にネカネをへこましたいわけではないので千草も早々に話題の切り替えを図ることにした。

 

「出国準備は終わったんか?」

「もう少しかかりそうです。やはりテロ騒ぎの影響で出入国の制限がかけられているようで」

「まぁ、しゃあないか。なんも起こらんかったとはいえ、テロ予告なんてものがあったんやしな」

 

 千草が辺りを見渡せばガードマンらしき堅い制服を着ている者が数人散見している。

 

「予定より早く来といて正解やったな」

 

 テロ騒ぎによって封鎖されていた空港は厳戒態勢を解かれたことで出国ラッシュを迎えていた。皆予想はしていたのか混乱はないが荷物チェックやら来歴チェックで時間がかかり、出国の人数も多いので税関を通るのに時間が莫大にかかっている。

 麻帆良生は修学旅行で訪れているので身分のチェックはまだ緩い方だ。でなければ三十人を超える麻帆良生が飛行機に乗れるのは何時間先になっていたことか。

 

「観光業が盛んな国ですから、テロが起こったら生命線を切られるようなものなんでしょう。この警戒態勢も仕方有りません」

「こっちに煽りが来てんのが叶んわ」

「まあまあ」

 

 観光地であるハワイではテロが起こると収入に大きな打撃を被る。観光を目玉にしているのに危険があると知れば誰も来ようとはしない。となれば、住人よりも多い観光客が落としていく金が入らなくなり、生活が立ちいかなくなる。

 理解はしても並んで待つということが嫌いな千草の機嫌はあまりよろしくない。

 結局、テロ自体は予告のみで事件が起こることはなかったが、数日しか経っていない間は警戒態勢は続くだろう。千草がつらつらとそんなことを考えていると、順番待ちの生徒達の中にいる桜咲刹那の姿を見つけた。

 

「辛気臭い顔しとんの、刹那は」

「戻って来てからずっとあんな感じですよね。なにかあったんでしょうか?」

「鶴子姉さんが来て早々にとんぼ返りしたのとは関係なさそうやし、戦いの中でなにかあったんちゃうか」

 

 特に気にした風のない刹那へのぞんざいな扱いにネカネは苦笑を浮かべた。

 嫌いとかではなく寧ろ好意的なのだが、どうも千草は仲良くなればなるほど遠慮が無くなるタイプのようだ。実際は面倒見も良いのだが、人に誤解を与えやすいタイプなのは間違いない。

 

「もう、千草さんはツンデレなんだから」

「…………うちにはあんさんが時たま何を言ってんのかが分からんようになるわ」

「どうかしました?」

「こっちのことや。気にせんでいい」

 

 頭痛がしそうで千草は頭を振りかけたが、変な慣れもあって我慢できてしまった。

 ネカネの相手をしているとどうしても疲れてしまう。それはスプリングフィールド兄弟とその幼馴染も含まれるのだが。そう考えると千草の癒しは残った一人、養い子の犬上小太郎だけになる。

 当の小太郎はこの修学旅行で仲良くなったらしい村上夏美と那波千鶴と何やら楽しそうに話している。話している内容までは距離があるので聞こえないが、小太郎と夏美が意地を張り合ったり、千鶴の怒りの琴線に触れて揃って震えたりと仲良くしているようだ。

 良くも悪くも可愛がってきた小太郎が子離れしていくような気分であまり心穏やかにはいられないが、成長を喜ぶべきことなのだろうと心にチクチクと刺さる針を見ない様に心掛ける。

 

「それよりも気になるんは」

 

 視線を少しずらして木乃香と何やら楽しそうに話している神楽坂明日菜を見る。

 

「神楽坂が魔法無効化能力保持者っていうのがな。いや、カモの言うことを信じひんわけやないけど」

「普通の少女だと思ってた子が実は凄いお姫様だったみたいな感じですもんね」

 

 ネカネはどっかずれてる、と思った千草はきっと悪くない。

 

「あんま驚いとらんようやな」

 

 返答はずれているがどこか納得も滲ませているネカネは落ち着いたものである。カモに明日菜の能力の話を聞かされた時も多少の驚きはあれど平静を保っていた。

 

「驚いてますよ。でも、考えてみれば明日菜ちゃんの立ち位置っておかしいって思って」

「立ち位置?」

「木乃香ちゃんと同じ部屋だったり、高畑さんが保護者だったり、一時期とはいえネギとアスカと同居したり…………一般人にしては特殊し過ぎるんじゃないかって」

「言われてみればそうやな…………」

 

 一つ一つ分けてならともかく、全てが合わさると明日菜の立ち位置は特殊であった。ネカネが言ったことを吟味した千草は納得を覚えて頷いた。同時に記憶を回想する。

 

『姐さんの伝手で明日菜の姉さんのことを調べてもらえねぇか』

 

 千草の伝手を使って神楽坂明日菜の身元・出身などあらゆることを調べてほしいと言ったカモの言葉を思い出す。

 

『どういった経緯で知り合ったにせよ、明日菜の姉さんは高畑の旦那の庇護下にある。学園長も格段に目をかけてるしな。関東魔法協会と、学園長と繋がりのあるメルディアナには頼れねぇ。俺っちも独自のルートで探るつもりだが、姐さんも頼みたい』

 

 ようは明日菜周りには偉い人が多いので、関西出身の千草ならその枠の外から調べられるはずだから頼めないかという話だ。

 明日菜本人は頭は良くないが人望もある方だし、木乃香にも近く信用に置けるが、逆に近くにいるからこそその身元を明らかにもしないといけないとその時の千草は考えた。

 だが、教師稼業や木乃香への裏方面での授業で空いた時間ならと返してしまったのは早計だったかもしれない。十分に超過勤務である。

 

「ああもう、ほんまに長いわ」

 

 いい加減にネカネと話すのにも飽きて来た千草は遅々として進まない出国準備に髪を掻き上げた。

 

「でも、私達があれこれ言うのは間違っていると思いますけど」

「うっ」

 

 こんな事態を引き起こした遠因は自分達にあることを良く知っている千草はネカネの突っ込みに口を噤み、そして長く深い溜息を吐いた。

 

「お蔭で助かったんやから文句言えへんのがな」

 

 テロ予告なんて大それたことをやってくれた超鈴音を見ると、隣に並ぶ龍宮真名とにこやかに話しをしている。

 二人の組み合わせが珍しい事と、超と比べて真名の方は逆に表情が固いことに首を捻るが仲良くしていることは良いことなのだから気にしないことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうカ、そうカ、ようやく決心を固めてくれたようデ、私も嬉しいネ」

 

 何がそんなに嬉しいのかと、真名は思いはしたが思考を口に出すことはなかった。

 ニコニコと笑みながら隣に立つ少女の来歴を真名は知らない。いや、知る者が麻帆良学園都市にいるかも怪しいと見ている。中国からの留学生という触れ込みで麻帆良に現れた超鈴音は異常だった。

 経歴は全て調べれば偽造と分かる物で、二年以上を同じクラスで過ごして一度たりともその内奥に近づけたと感じたことが無い。

 従来の遥かな先を行く科学力と年に似合わぬ能力の数々。裏に関わる前から魔法を知っている素振りを見せながら、魔法の世界と何の関係性も持ち合わせていない。にも拘らず、エヴァンジェリンと葉加瀬の協力があったとしても数年で科学と魔法を融合させ、絡繰茶々丸を生み出したその能力。まだ十四歳の少女が持ち得ていい能力ではなく、また持つはずがないのだ。

 それでも構わないと真名は思う。

 

「しかし、本当にいいのかナ。前にも言たが私に協力するということハ、成功してモ失敗してモ麻帆良に留まることハ恐らく出来ないヨ」

「構わない。世界を変えるのだろう? 私のことなど気にせず、お前はお前の望むようにすればいい」

 

 私もまた望むようにするだけなのだから、と心の裡にだけ呟くが、超はお見通しだと言わんばかりに目を細めた。

 そして足を進め、真名の前に立ち振り返って正対する。

 

「私は世界を変えル。その為に友と戦う覚悟はあるカ?」

「友、だと?」

「クラスメイトと、あの島で共に戦った戦友達と………………なによりも、自分の為に死地へと赴いてくれた楓さんと戦えるのかと聞いているのだヨ」

「………………」

 

 答えは沈黙であった。

 そこまで考えてはいなかったと言えば嘘になる。想定はした。が、そこまでだ。果たして真名の為に命を賭けてまでくれた楓と戦うことが出来るのか。ましてや斃すなどと。

 

「ところで、真名サン。強くなりたくはないカ」

 

 生じた心の隙間を縫うように超が言葉を発する。

 魂を代価として願望を叶えると誘惑してくる悪魔のように。

 

「ああ、当然だ」

 

 真名に選択肢はない。

 強ければナーデを止めることが出来た。強ければナーデを一人で孤独な道を歩ませずに済んだ。強ければ、コウキを死なせずに済んだ。

 所詮はあり得たかもしれない可能性だ。だが、可能性だからこそ求めてしまうのは人の性か。

 

「これヲ。連絡すれば戦う場所を用意してくれるだろウ。既に話は通してあル」

 

 そう言って渡されたのはどこかの名刺だった。

 

民間軍事会社(PMC)だと?」

「世界でも屈指の規模を誇るガングニール。少しツテがあってネ。おっと、手間賃はいらないヨ」

「ガングニールの名は私も知っている。その悪名もな。随分と用意周到で、手回しが良いことだ」

「それだけ真名サンを必要としているのだヨ、私は」

 

 一枚剥がせば何があるのか分からない、薄っぺらい笑顔で内心を悟らせない超を真名は信用しない。

 

「これだけは聞かせろ、超」

「何かナ?」

 

 本心を覗かせない笑顔を向けて来る超の内奥を暴くように目に力を込めて口を開いた。

 

「お前は何の為に世界を変えようしている?」

 

 この不意の問いは予想外だったのか、超は意表を突かれたように目を丸くした。

 そして道化師のマスクのように張り付いた笑みを浮かべる。

 

「勿論、皆の為に決まっているヨ」

 

 結局、超は最後まで本心を明かすことはなかったのだと真名は悟っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うだー」

 

 出国準備待ちをする麻帆良生達から少し離れた椅子の背凭れにぐったりとその身を凭れさせているアスカ・スプリングフィールドの口から気の抜けた声が漏れていた。

 傍にいるのは双子の兄であるネギと幼馴染のアーニャ、そして見送りに来たナナリーとエミリアの四人であった。

 

「大丈夫、アスカ君?」

「優しいのはナナリーだけだ、本当に」

 

 気遣う言葉にほろりと来た様子のアスカが残る三人を咎めるように見る。

 

「昨日、十分に人をこき使ってくれたじゃないか」

「無理したんだから当然よ、当然」

「わ、私は心配なんかしないんだから!」

 

 ネギ・アーニャ・エミリアの三者三様の返答であった。

 戦いの翌日に一人グロッキーになっていたアスカの世話をしたのはネギである。小太郎はさっさと逃げたので、動けないことを良いことにあれやこれやと動かされたネギの優しさは一日で無くなったので呆れ気味である。

 アーニャは自分でとった行動の結果だろうと突き放していた。無理をし過ぎるアスカに心配を分からせようと言う意味もあるのか。

 エミリアはただのツンデレである。

 

「ナナリー、本当に一緒に日本に来ないのか? 割と切実に」

 

 優しくない面々にマジな顔で提案してくるアスカにナナリーは苦笑を返した。

 

「うん、エミリアさんと頑張るって決めたから」

 

 ナナリーに頷きかけられて隣に立つエミリアは頬を染めていたりするがアスカ達は気にしない。

 

「そっか、ナナリーさんが来てくれればアスカの暴走も抑えられると思ったんだけど」

「逆に張り切りし過ぎて危ないんじゃない? 過去の前例から考えて」

「…………お前ら、俺をなんだと思ってやがる」

「「トラブルメーカー」」

「そ、そんなことないよ! アスカ君は騒動に愛されてるだけなんだから」

「それって褒めてるの?」

 

 やはりネギとアーニャはアスカには優しくないようだ。ナナリーも間違ってはいないがどこかずれており、エミリアの突っ込みは的を射ていた。

 ハワイでのアスカの行動を未だに容認していないアーニャと、長い者に巻かれたネギの攻勢は留まるところを知らない。アスカも皆を巻き込んだ責を感じているので大人しく受ける。グチグチと言うぐらいなので我慢できている面もあるが。

 一通りアスカをへこませたアーニャは改めて気づいたようにエミリアを見た。

 

「見送りは有難いけどアンタの家、結構ヤバかったんじゃないの? 離れて大丈夫なの?」

 

 嘴を向けられたエミリアは苦笑と自嘲が入り混じった笑みを浮かべた。

 今回の事件で狂って自殺した前オッケンワイン当主。彼が築き上げた財産に群がってエミリアが知りもしない親戚が大挙して押し寄せて来ていたことは周知の事実であった。

 

「私と家を維持する分だけを残して多少の散財はしたけど、有名な高畑さんや色んな人が手を貸してくれたからお蔭様でなんとかなったわ」

 

 魔法世界では有名人である高畑と彼を通じて関西呪術協会の近衛詠春。関東魔法協会の近衛近右衛門とメルディアナ魔法学校校長らの後ろ盾は金目当ての有象無象を追い払う力が十分にあった。

 本当の親戚には今回のこともあって縁を切るつもりで手切れ金代わりにして渡したので、エミリアの下に残ったのは数年分の生活費と家の維持費ぐらいである。

 

「でも、本当に良いの? 賞金殆ど貰っちゃって」

 

 ゲイル・キングス他数名を討伐した賞金は莫大である。その殆どをアスカらはエミリアに渡していた。

 生活費と維持費は確保していても不意の出費は必ずあるのでお金はあって困るものではない。助かると言えば助かるのだが…………。

 

「いいのよ。使い道なんて殆どないし」

「僕、買いたい魔導具があったんだけど」

「俺は特にないな」

「ほら、こんな風に趣味に走るか、物欲がないかしかないんだから。必要な面々には渡してあるから問題なしよ」

「でも……」

 

 傭兵である真名や忍者である楓に幾らかと、アーニャが個人的な理由(断じて着服ではない)で少々分け前を貰ったぐらいで十分なのである。未だに納得いってなさそうなエミリアを説得する材料をアーニャは持っていた。

 

「ナナリーと二人でやって行くんでしょ? お金はあった方がいいわよ」

「む……分かった。これは貸しにしておくわ」

 

 スプリングフィールド兄弟は二人のやり取りを聞いて、素直じゃないなと感想を抱いたが懸命にも口に出すことはなかった。

 

 << 大変長らくお待たせしました。○○○○○便に御搭乗のお客様は2番ゲートより搭乗してください >>

「みんな! 搭乗時間だって!!」

 

 搭乗を呼びかけるアナウンスが流れ、明日菜がアスカ達に呼びかける。それは別れの合図でもあった。

 

「もう、行っちゃうの?」

「ああ」

 

 哀しげに問いかけたナナリーにアスカは振り返って、エミリアが驚くほどにあっさりと頷いてみせた。

 ナナリーを助けるために命を賭けることすら厭わなかったのに、もし声をかけなかったら振り返ることなく去って行っただろうアスカの行動が理解できないと、エミリアの表情が物語っていた。

 しかし、ナナリーは全てを分かった上でアスカに向けて口を開いた。

 

「もっと話したいことがある。もっと一緒にいたい。これでさよならなんて寂しいよ」

「俺も寂しい。でもな、さよならなんかじゃないさ」

 

 アスカは未練はないと振り返り背中を向けた。少しだけ、その声が震えている気がした。

 

「また何か会ったら俺を呼べ。地の果てだって駆けつける」

 

 片手を上げて、その手を握る。

 

「俺達は同じ空の下で生きてるんだ。望めば何時だって会うことは出来るさ。だから」

 

 言うべき言葉はさよならなんかじゃないと繰り返す。

 その言葉を最後にアスカは歩き始めた。

 遠ざかって行くその背中に、ナナリーは胸を突かれた。何も言えなければ、何かを言わなければならない衝動が込み上がって来た。

 

「今度は! もっと強くなるから! もう大丈夫だから! 私は一人じゃないから!!」

 

 ナナリーは何時までもアスカにアーニャにネギに寄りかかってばかりで、魔法学校を卒業しても何も変わらなかった自分が嫌いだった。

 そんな自分を変えようと微かながらも戦いの場にいた。絶対に引けない状況というものを知った。

 意地だった。願いだった。望みだった。

 だけど、ナナリーは見てしまった、知ってしまった。

 ナナリーは空高く飛ぶ鳥(アスカ)に付いていけない。彼女はどこまでも凡人で平凡な少女でしかなかったから、もうあの時のように戦場に向かうことは出来ないと知ってしまった。

 その力を持っている明日菜を、エヴァンジェリンがアスカに向ける視線を、そしてアスカが一人の少女に向ける視線を見てしまった。

 

「次に会うまでに一人で立てるように強くなるから!!」

 

 大声を出して空港中の人に注目されても構わなかった。

 

「元気で!!」

 

 全身の力を使い果たすつもりで、全てに向けて届け響けと力の限りにナナリーは叫んだ。

 

「ああ、また会う日まで――――――」

 

 顔だけ振り返ったアスカの安心した表情を目に焼き付け、二人は別れる。

 アスカの後を追うようにネギがナナリーの肩を、アーニャが背中を軽く叩いて去って行く。

 三人が離れて行く光景に自分一人だけが取り残される恐怖に心だけが前進するも、足は石像のようにその場から動かなかった。体は知っていたのだ。今の自分が為すべきことは三人に依存することではなく、自分の力で強くなることだと。

 

「あ………う、くっ………う、ああ………」

 

 何時の間にか涙が溢れ出していた。涙に霞んでいた景色が、さらに淡く滲んでいった。

 

「ナナリー……」

 

 傍にいてくれるエミリアの労わるような手が温かい。

 脳裏に浮かぶのは魔法学校時代で何時も目の前にあった背中だった。その背中を見ることに満足していた自分を変える為にナナリーは初恋にケリを付ける。

 

「さようなら、私の初恋。さようなら、私だけのヒーロー」

 

 ナナリーは天高く飛び立って行く飛行機に乗る初恋の人に別れを告げた。

 次に会う時は隣に立てるように頑張ろうと胸に秘めたナナリーの視線の先で、飛行機は日本へと向けてその翼を広げて飛び立った。

 

 

 

 

 




次回から悪魔編です


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第三章 悪魔編
第26話 言えない言葉


悪魔編開始です


 春の寒気も去り、風も温み始めた五月も末。麗らかな午後。爽やかな陽気が道行く人の気分を高揚させる。外出日和とはこういう日の事を言うのだろうと万人が認める天気である。

 修学旅行から帰ってきた翌日は部活も修学旅行後で疲れているだろうということで休みだ。生徒たちは興奮冷めあらぬと遊んだり、疲れた体を癒すために休んだりと理由は違っても皆それぞれ疲れを癒すことには違いない。

 夕方になりかける前の街は学校帰りの生徒、買い物帰りの親子連れ、若い大学生同士のカップル、自宅へと帰路を急ぐサラリーマン等の通り行く人々で溢れかえっていた。

 お喋りに夢中になって周りの事など見えていない者、学校が終わって遊びに行くのだろう私服姿の生徒達が笑いあいながら歩いてゆくのが見えた。スーパーの袋を持った買い物帰りらしいベビーカーを押す若い女性が一人、立ち尽くす傍らを行き過ぎるのを見てアーニャは笑顔を浮かべた。

 

「帰って来たわね」

「うん。この光景を見ると、ようやく平穏が戻って来たって感じがするよ」

「俺はもっと寝たい」

「「黙れ」」

 

 ゴン、とそれぞれの程度の差こそあれど一様に平和そうな顔をしている者達がいる通りに殴打音が響いた。

 近くにいた何人かが見ると二人に拳骨を入れられたアスカが頭を抑えて悶えていた。

 有名人三人のコントは見慣れているのか、直ぐに視線を外して日常へと帰って行った。

 

「もう、学園長に修学旅行の件の報告とお礼をしに行かなくちゃいけないのに、アスカがさっさと寝ちゃうから今日になったんだよ」

「反省しなさい、反省を」

「二人とも家に帰ったら直ぐに寝たってネカネ姉さんが言ってたぞ」

「「気の所為()!」」

 

 非日常ではリーダーと言って良かったのに、日常生活の中でのアスカのヒエラルキーは低いようだ。

 教師には残った後始末の雑務があれど翌日が休みであることを考えれば気は楽であるが、家に直行して一人で休んだアスカに対する二人の恨みは大きい。

 

「早く行きましょう。学園長が待ってるわ」

 

 さっさと気持ちを切り替えた――――またの名を責任をアスカに押し付けたとも言う――――アーニャが先頭を切って足を速めた。

 流石に全部の責任を押し付けるのには罪悪感があったのか、ネギがまだ痛むらしい頭を擦っているアスカの手を引っ張ってアーニャの後を追う。

 何時もの三人のパターンである。

 三人の姿はあっという間に人混みの向こうへ消えていった。

 

 

 

 

 

 麻帆良学園学園長室。修学旅行の疲れがあってか、家に帰ってから爆睡して起きたのが昼過ぎの三人は学園長室に出頭して報告を行った。

 

「以上が、修学旅行での報告です」

「うむ。ごくろうじゃった」

 

 しっかりと昼食を取って一休みしてからやってきた三人を近衛近右衛門は優しい瞳で見つめる。 

 

「ハワイでは本当によくやってくれたのう。高額賞金首相手に被害がゼロですむとは思わんかったわい。よくやってくれた」

 

 孫が大事を果たして帰って来て一安心したといった感じに髭を撫で付けながら答えた。

 手放しで褒めながら好々爺とばかりに目を細めて笑った学園長は、今度は労わる様に声を緩める。

 

「本当にご苦労じゃったな」

 

 よほどの心労を溜めこんでいたのだろう。一気に老け込んだように枯れた声で学園長は言う。

 エヴァンジェリンの一時的な封印からの解放の為に上層部との折衝に時間を取られ、大人として、責任者として、現場の采配を全て押し付けてしまった苦労を労わる。

 

「自分達で決めたことですから。寧ろ、僕達の個人的事情の為に生徒を巻き込み、危険に晒したこと誠に申し訳ありませんでした」

「「「すみませんでした」」」

 

 労いの声に返すネギは苦笑を浮かべ、捕まったアーニャは自責もあって、何故か部屋の隅を見ているアスカと三人で揃って頭を下げて謝罪する。

 

「よいよい。結果良ければ良しとは言えんが、友の為に命を賭けた子供らを責めはせんよ。寧ろ、何も出来なかった儂らにこそ責を負わねばならん」

 

 学園長の声は常と変わらず、本当にそう思っていると分かるものであった。

 

「用件は以上じゃ。後の事は儂らに任せて君達も休むといい」

 

 いい加減に疲れている三人にもしっかりと疲れた体を休めてもらいたいと純粋な好意だった。

 報告は定型の物であるが、関東魔法協会の戦力である高畑を派遣したこともあって報告の形式は必要となる。事務書類は学園長の手でどうにかなるがこういう形での報告はどうしても必要だった。組織はそうしなければ回らないが故に。

 

「「失礼しましました」」

「うむ、ゆっくりと休んでくれ」

 

 礼儀正しく頭を下げたネギ・アーニャと気もそぞろなアスカが条件反射で頭を下げる。

 部屋の隅が気になる様子のアスカの背中をネギが押して、アーニャがドアを開いてあっという間に三人は部屋を出て行った。アスカがこれ以上、醜態を曝さない内に撤退することにしたようだ。

 そんな三人を微笑ましそうに見送った学園長は、一人仕事を再開するのだった。

 

「ふぉっふぉっふぉっふぉっ、若人よのう…………さて、何用かのう、アルビレオ」

 

 アスカ達がいなくなった学園長室の端へと話しかけた。

 すると、影の忽然と白いローブを纏った人物――――アルビレオ・イマが姿を現した。

 

「アーウェンルンクスの名を持つ者の行方。調査結果が出たのでしょう。聞きに来ました」

 

 本音や本心をまるで見せない信用しにくい笑顔ではないアルビレオに学園長の眉がピクリと動く。

 

「耳が速いのぅ」

「趣味ですからと何時もなら答えるでしょうが、今回ばかりは事が事なのでね」

 

 アルビレオは柔和な彼らしくもなく、どこか睨み付けるような視線で学園長を見ていた。

 

「アスナ姫、か」

 

 学園長の言葉に言わずもがなとばかりに返答はない。

 寧ろ、更に視線がきつくなった。

 

「彼のアーウェンルクスに彼女の存在を知られたとあっては、大人しく地下に引きこもってなどいられませんよ。高畑君が追ったのでしょう、結果は?」

「逃げられたよ。高畑君が追っているが、恐らく無駄であろう」

「そう、ですか……」

 

 アルビレオは瞑目して沈思する。

 簡単に負けを認める気はないが、こと年数で言えばアルビレオの方が遥かに上回る。その思考は如何な老獪な学園長といえども読み切れない。

 

「防衛体制の強化の図らねばならんな」

 

 学園長の呟きにもアルビレオは何も言わなかった。

 

 

 

 

 廊下の窓から見上げた空はすでに深い蒼に、外の陽は徐々に傾き始めて夕闇が迫ってきていた。

 周囲に生徒の姿は無く、校舎の向こう側、グラウンドや体育館の方から部活動の喧騒が僅かに届くのみ。

 報告も終わって家に帰る為に下駄箱に向かおうと三人で廊下を歩いていたアーニャは何時もの学校とは違う世界に目を奪われた。

 虚空から視線を戻せば、校内と校外とを隔てる境界線。それはあたかも日常と非日常の境界なのだとでもいうように人のいない道が続くのみ。それら現実の事象が、どこか遠く希薄に感じられたのは錯覚だろうか。

 どうにも落ち着かなかった。世界が暗くなり始めた夕暮れの静寂は、どうしようもなく孤独を感じさせる。

 どこか落ち着かない気分になったアーニャの視界に、にゅっとアスカの顔が入って来て「どうした?」と尋ねる。

 

「わ!? もう、急に顔を近づけないでよ」

「だからって人の顔を殴るか、普通」

 

 驚きに咄嗟に出てしまった拳に殴られたアスカは世の無常さを儚んだ。

 

「今のはアーニャが悪いよ。でも、どうしたの? ぼーっとしちゃって」

 

 ネギの指摘は最もであった。

 

「ん、なんでもないわよ。ちょっとセンチメンタルな気持ちになっただけだから」

 

 謝るタイミングを逃してしまってアーニャがアスカの顔を見れないでいると、ネギとアスカは「アーニャがセンチメンタルだと?!」と揃って驚愕を露わにしていた。

 

「色気より食い気。男よりも男らしいと評判のアーニャがそんな馬鹿な!?」

「どうせ明日から働きたくないと思ってんだろ」

「違いない!」

「おいコラ、なによその言いぐさは」

 

 ネギは動揺し過ぎてテンションが高いし、逆にアスカは普通過ぎてムカッときたアーニャは必殺技であるフレイムナックルを発動する時が来たと右腕を掲げた。

 後は炎を纏って殴るだけというところで他人の姿が見えて踏み止まった。

 流石にアーニャも学校の中で魔法を使う気はなく、家でお仕置きをするとして今は単なる脅しのつもりだったので引っ込みは早い。

 粛正から逃れてホッとしている二人を無視して、廊下の向こうから見覚えのある姿が近づいているの見て片眉を上げた。

 

「あれ? どうかしたの木乃香。今日は休みなのに制服まで着て」

 

 人影の正体は親交の深い近衛木乃香。何時もふんわりと笑っているイメージのある彼女が珍しく慌てた様子で、走って来るのを見かけて訝しがりながらもアーニャが声を掛けた。

 

「あ、うん。ちょっとお爺ちゃんに用があって学校に来てん。序でやから部活にも顔を出したんや」

「木乃香って確か占い研究会だったわよね」

「うん。修学旅行やったし、部長やから顔ぐらい出そうと思っってん。そしたらエンジェルさんやろうって話になってな。でも、始めたらみんな様子がおかしくなって職員室にいる天ヶ崎先生を呼びに来てん」

 

 返した声も、表情も、何時もどおり軟らかい。しかし、アーニャには、その奥に宿る切実さを見逃しはしなかった。

 なのだが、その前に確かめたいことがある。

 

「天ヶ崎先生なら職員室にいると思うけど…………エンジェルさんって何?」

 

 アーニャの後ろで同じように話を聞いていたネギとアスカも同じ疑問を持っているのか、頷いた。

 

「う~ん、イギリスにはエンジェルさんはないんやろか」

 

 ちょっとしたカルチャーショックを受けながらも木乃香は「エンジェルさん」を説明するために口を開いた。

 

「エンジェルさんはな、コックリさんの変形で別名でキューピッドさんとも呼ばれている占いや」

 

 木乃香は自身の知識を思い返しつつ、間違えない様に頭の中で整理しつつ話す。

 コックリさんとは、西洋の「テーブル・ターニング」に起源を持つ占いの一種。机に乗せた人の手がひとりでに動く現象は心霊現象だと古くから信じられているが、科学的な見方では意識に関係なく体が動くオートマティスムの一種と見られている。

 日本では通常、狐の霊を呼び出す行為(降霊術)と信じられており、そのため狐狗狸さんといわれる。机の上に「はい、いいえ、鳥居、男、女、五十音表」を記入した紙を置き、その紙の上に硬貨(主に十円硬貨)を置いて参加者全員の人差し指を添えていく。全員が力を抜いて「コックリさん、コックリさん、おいでください」と呼びかけると硬貨が動く。

 エンジェルさんは世に星の数ほどある、コックリさんの亜流の一つである。

 紙に「あ」から「ん」の文字をハート型に書き、ハートの真ん中にイエスとノーを書く。十円玉をイエスとノーの真ん中に置い

てエンジェルさんを呼び出し、質問に答えてもらうというもの。

 コックリさんが狐の霊を呼び出すのと違い、エンジェルさんは文字通りに天使を呼び出す―――――というが、もちろん天使のような高位存在が素人の召喚に応えることなどあり得ない。そもそも天使の実在は確認されてすらいないので、やってくるとしても低級な動物霊が精々である。

 コックリさんにしろ、エンジェルさんにしろ、可愛らしい名前がついているが、基本的に性質の悪い霊を呼ぶのが普通なので良いことに繋がらない。場合によってはドラッグなどよりもよほど危険な遊びであるというのが、木乃香から話を聞いたアーニャの感想である。

 

「何やってるのよ、日本の女学生は。頭おかしんじゃないの」

 

 エンジェルさんのことは知らなくても、西洋ではポピュラーな『悪魔憑き』と重ね合わせてどういうモノか推測できたアーニャはからしてみれば何をやっているのかという想いしか抱けないが、思春期の少女がオカルトに興味を持つことは珍しくないようだ。

 

「場所は?」

「占い研究会の部室」

「じゃあ、私達が様子を見て来るから木乃香は天ヶ崎先生を呼んできて」

「うん」

 

 アーニャが勝手に話を進めているが、ネギもアスカも向かうことに異論はない。職員室に向かった木乃香と別れて足早に占い研究会の部室へと向かう。

 

「ここね。へぇ、木乃香ったら結界術を使えるようになったのね」

 

 現場である占い研究部の部室に辿り着くと、部屋の扉に張られている呪符に感嘆しつつ中に入る為に剥がして迷わずドアを開ける。

 そして、それと対面した。

 麻帆良学園女子中等部の制服を着た、おそらくは体型から見て一年生であろう女子や二年生、三年生――――の姿を借りた、モノたちが三人。机の上に乗って、侵入者であるアーニャ達を見下ろしていたり、地面から見上げている。人の形をしていながら、共通した四つん這いの姿勢が驚くほど様になっている。

 あまりに典型的な事例を目の当たりにして、アーニャは思わず嘆息して手で顔を覆いたくなった。

 

「ネギ、どう見る?」

 

 先頭切って部屋に入ったが、アーニャはそれ以上は踏み込もうとせずにネギに場所を譲った。

 ネギは少女らを見ながら顎に手を当てて考えているようだが、直ぐに結論が出たようだ。

 

「動物霊を呼び出して憑かれたんだろうね」

「どうにか出来る?」

「対霊用の魔法とかはあるけど、大きな怪我をさせずに退治できるほど僕は習熟してない。アーニャは?」

「ネギでも駄目となると私も一緒だし、アスカは…………聞くだけ無駄か」

「おい。まあ、そうだけどさ」

「こういうのは教会のエクソシストの領分だからね。一応僕らって見習いの身分だから出来なくても無理もないよ」

 

 魔法にも数は少ないが対霊用の物があるが、霊の相手は教会のエクソシストが相手をすると相場が決まっているのと直接的な戦闘力を求めて攻撃性を重視し過ぎたネギは習得していない。アーニャもそうだし、数えるほどしか魔法を覚えていないアスカも同様だ。

 

「救いかどうかはともかく、憑いている霊は底辺に近いみたいだからちょっとショックを与えれば勝手に離れると思うけど」

「つまり?」

「魔法を使うとダメージが大きいから殴って追い出す」

「ようは俺の出番ってわけだな」

 

 解すように肩を回して骨をボキボキと鳴らし、好戦的な笑みを浮かべたアスカが前に出る。

 相手はたかが低級霊が憑依した女子中学生。肉弾戦に限定すればこの年齢ではありえない強さのアスカの相手ではない。教室という限られた空間なのもプラスに働いてくれている。

 これだけの好条件もあって、男女平等に殴れるアスカの敵ではない。

 

「ちょっとのショックでいいんだから、手加減しなさいよ」

「分かってるよ」

「ケガさせたら駄目だからね」

「了解」

 

 アーニャとネギの注意に適当に返事をしながら敵達を見据える。

 その間に一度剥がしてしまった呪符は使えないので、ネギがこの部屋に改めて結界を張る。

 

「先に謝っておくぜ。悪ぃな」

 

 謝りながらも真ん中の机に四つん這いになっている女子生徒に疾風のような勢いで突っ込み、鳩尾に突進の勢いを乗せた掌底を叩き込んだ。

 会心の一撃。手応えで衝撃が胃を突き抜けて、背中まで徹ったことが分かる。

 残る二人が、左右から挟みこむようにアスカに迫った。

 アスカは迷わずに右に踏み込んで大振りの動きを躱し、伸ばされた腕を取って一本背負い。女生徒は動物霊憑きとはいえ、素人なので受身も取れず背中から落下した。勿論、怪我をしないように机を避けて、後に引かないように手加減はしているといっても、このダメージでは直ぐには動けない。

 背中を向けたアスカに、最後の一人が襲いかかる。

 アスカは振り向きもせず、後ろ向きのままで女生徒に向かって軽く跳躍した。

 接触する寸前に地に足をつき、身体を九十度捻りつつ肘を突き出す。後足の蹴り出しで最後の加速を加え、運動エネルギーを右肘に集中させて鳩尾を突き上げた。強烈な反動。ほとんど必殺の手応えだった。撃たれた女生徒の身体は十センチほど浮き上がり、空気の抜けるような音を口から漏らして糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

 

「ぬぅ、俺もまだまだだ」

 

 アスカは最後の一撃で女生徒が想定よりも浮き上がったことに眉を顰めた。

 修学旅行で戦ったフェイトの動きを取り込んだ攻撃であったが、フェイトならば十センチも浮き上がらせなかっただろうし、もっと的確かつ無駄な動きがしたはずだと猛省する。

 今の限界を知り、次に生かすことを決意して倒れたまま呻いて起き上がれない女生徒たちを見る。

 怪我をしないように、後に引かないように手加減はしてあるので女生徒たちの怪我の心配はあまりしていなかった。

 

「さてと、後は任せた」

「うん」

 

 女子生徒のことを気にしなければネギが覚えた習熟していない対霊魔法が使える。アスカに言われる前から本命が動き出したのを確信して、ネギが準備を始める。

 倒れている女生徒の身体に、半透明の何かが起き上がっている。

 女生徒たちに憑依していた雑霊たちが身体を突き抜ける衝撃を受けて、危険を感じて逃げ出そうとしているのだ。

 後はネギが対霊魔法を放つだけで終わりという段階で、見ているだけだったアーニャは小さな疑問を覚えた。

 占い研究会は普段から人が少ないのか、憑かれた女子生徒たち以外に部室には他に人気はない。殆どが幽霊部員らしいことは以前に木乃香から聞いていた。

 

(どうして木乃香には何の影響もなかったのかしら?)

 

 何故他の生徒には霊が憑いて木乃香だけ影響がないのか疑問に思ってしまった。

 この疑問が致命的な隙になると気付いたのは次の瞬間のことである。ネギが対霊魔法を放つよりも早く、浮かび上がっていた霊たちは女子生徒たちの身体に戻って、まさに獣そのままの動きで飛び掛ってきた。

 

「しまっ」

 

 最も危険なアスカと入り口近くにいたアーニャ、そして職員室に行ったが千草がいなくて戻ってきてドアを開け、覗き込むように教室を窺っていた木乃香に、三人それぞれが。

 アスカとアーニャは簡単に撃退したが、武道の心得のない木乃香に抵抗できるはずがない。咄嗟に防御策を使えるほどの技術もまだ木乃香は習得していなかった。

 

「きゃあ!?」

 

 防ぐ暇も木乃香に注意を促す暇もなかった。部室を覗き込んでいた木乃香は、一番近くにいたアーニャが止める間もなくひとたまりもなく一年生の少女に押し倒される。そして―――。

 

「は?」

 

 一年生の少女は予想に反して木乃香に噛みつきも引っかきもしなかった。逆に木乃香の身体の上であらゆる動きを止め、次の瞬間、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

 それはアスカとアーニャに弾き飛ばされた二人の少女達も同様だった。

 

「「「――――――うわぁ」」」

 

 心底嫌そうな顔で、アーニャ達三人は呻いた。肉眼では見えないモノが三人にははっきりと見えていたのだ。即ち――――少女達に憑いていた霊が纏めて木乃香に乗り移った光景が。

 直後、教室を満たしていた妖気ともいうべきものが爆発的に密度を跳ね上げた。点いていた蛍光灯の光が急速に明度を落とし、明滅して―――――消えた。

 教室が闇に落ちていく。照明が消えただけでは到底足りない。粘るような質感を持った暗闇。その根源が『何』かは、もはや言うまでもない。意識を無くして覆いかぶさる少女達を乱暴に押し退け、木乃香はゆっくりと顔を上げた。金色に異常に光る縦に裂けた瞳孔が射抜くようにアーニャ達を睨む。

 

「あぁ……」

 

 起き抜けを思わせるとろんとした口調で、木乃香は恍惚な声を出した。

 俯いていた顔が徐々に上がっていき、表情が露になる。

 笑っていた。微かにほころんだ口元。上気した頬。金色の瞳は甘く潤んで揺れている。あたかもそれは、宗教的な法悦。もしくはある種の薬物を服用することによる多幸感に浸っているようで――――。人あらざる淫蕩な表情。中学生にはあるまじき色気は性に疎いアーニャ達すらも引き込みかけるほど。

 

「アーニャちゃん。うちな、なんや知らんけど無茶苦茶気持ちええんや」

「…………最悪」

 

 アーニャには、それだけの言葉で木乃香に何があったのか理解できた。故に片手で顔を覆って吐き出した言葉には強い諦観の念が込められていた。真っ直ぐに木乃香を見ていると同性であっても我を失いそうで少し間を置きたいのもあった。

 

「どうすんだよ」

「どうしよう……」

「どうしようかしらね」

 

 三人は揃って諦念を感じていた。

 木乃香は今、明らかにまともではない。こうなっては、尋ねたところで理解できる答えが返ってくるとは思えなかった。向こう側の世界に旅立ってしまった人間と、悠長にコミュニケーションを試みている場合でもない。

 アーニャは木乃香から注意を逸らさぬまま、目だけを動かして周囲に視線を巡らせる。現在地は校舎の最端で隣りは空き教室で三階、近くに人の気配はない。それでも出来る限り速やかに、かつ穏便に片をつけなければならない。

 

「大人しく捕まる気はない?」

 

 無駄を承知で聞いてみた。

 幸せそうな笑みもそのままに、木乃香は答える。

 

「そんな気はないで。こんな力があるんやから、使わな勿体無いやん」

 

 ある意味では正論で、だけど迷惑な意思を放つ木乃香の満面に広がる恍惚を宿す至福の表情。仏像のそれを思わせる透徹しすぎたアルカイックスマイルを見れば、力に溺れているのが良く分かる。

 魔力酔い、いや、この場合は力酔いとでもいうのだろうか。なまじ極東一の膨大な魔力があるが故に、その奔流の如き力に抗しきれず、理性が押し流されてしまっているのだ。

 

「なんというか、いい具合に飛んでるな」

 

 放たれる力の余波は、常人ならば一秒さえも生き延びることさえ叶わない圧力を生み出しているが、ネギが二重三重の結界を張ってくれたお蔭でアーニャはなんとか立っていられる。

 当然のように受け流して呑気な感想を垂れ流すアスカとは違うのだ。

 チラリとネギを見たアーニャはギョッとした。結界を張っているネギが冷や汗を浮かべていたのだ。

 

「ヤバい。このままだと結界が負ける」

「嘘!?」

「流石は極東一の魔力だよ。素人に毛の生えた程度の木乃香さんでも後先考えずに力を発しているから何時か力負けするかも」

 

 今の木乃香は正気を失い、後先は全く考えていない。己が身を顧みることもなく、まさに捨て身で力を振るっているのだ。いや、捨て身という概念もない。ただ本能のままに暴れるだけの存在になってしまった。だからこそ、洗練されたネギと拮抗している、拮抗してしまっている。

 何年も鍛えてきたネギが目覚めたばかりの木乃香を力押しで抑え切れないなどということは屈辱以外の何物でもない。幾ら相手が悪霊に取り付かれた極東最大の魔力保持者だとしても、木乃香程度の術者に全力を尽くさなければならない事態が来るとは露とも思ってはいなかった焦りが表情に浮かんでいた。

 その力の強さは結界を張っているネギをも上回るのか。

 

「良くても現状維持が精一杯。僕が少しでも結界から力を抜いたら――――――どうなるか、分かってるよね?」

 

 極東最大の魔力の持ち主とはいえ、その使い方が稚拙な少女では悪霊が乗り移ろうとも完全な制御など出来るはずもない。つまり垂れ流しの状態に近いのだが、例えるなら後先考えずのフルパワーでタンクから蛇口を捻て水を放出しているようなもの。

 当然、どんな大きなタンクでも上限がある。後先考えずに蛇口を全開に捻れば、勢いは凄くても出る時間は必然的に短くなる。どれだけ莫大な魔力であろうとも有限である以上は何時か必ず尽きる。

 しかし、完全に制御できていないとはいえ常にフルパワーの状態にあるということは、抑える方にもかなりの力を必要とすることになる。

 少しでもネギが結界の力を抜けば、木乃香から溢れだしている魔力というか妖気というか―――――どちらでもいいが――――は外部に影響を及ぼして、最悪の場合は辺りを巻き込んで爆発することもあり得ることは容易に想像がついた。

 

「さて、どうしましょうか」

 

 こうなった理由に大凡の推測が立っているのでアーニャに表面上の動揺はない。

 ネギも同様だが、例外がいる。

 

「なんで木乃香に霊が憑いたらこんなにパワーアップしてるんだ?」

 

 アスカである。

 勉強が足らないと溜息を漏らしたアーニャは、説明大好きのネギに余裕がないことから代役を買って出た。

 

「まず第一として、なんで一緒に儀式をやったのにあの子達には憑いて、木乃香には霊が憑かなかったか分かる?」

「さあ」

「この魔力の恩恵があったからよ。鍛えられていないといっても莫大な魔力は漏れ出した分だけで天然の障壁となるわ。それがエンジェルさんをやって霊が憑かなかった原因で、直接接触で障壁をすり抜けて乗り移ったというわけよ」

 

 そもそも木乃香の魔力に惹かれて霊達がやってきた可能性は高いが、流石にそれは推測なのと木乃香のことを思って口に出すことはなかった。

 

「妖気が強大になったのも木乃香の魔力故でしょうね。驚く要素は少ないわ。問題はどうやって木乃香の中から霊を出すかだけど」

「同じ方法じゃダメなのか?」

「馬鹿ね。これだけの力があったら結びつきが強くなってるはずだわ。ちょっとショックを与えた程度だと多分駄目。それこそ大怪我をするぐらいじゃないと多分無理だと思う」

 

 憑依された人間は代わってもアスカの成すべきことに変わりはないが、問題は木乃香から発せられる力にあった。

 木乃香の魔力によって結びつきが強くなり、先の少女達のような弱いショックでは効果が薄そう。唯一の対霊魔法が使えるネギが結界に専念していては手が出せない。

 

「どうする? このままだとジリ貧。木乃香の命も危ないぞ」

「分かってるわよ……」

 

 こうしている間にも取り憑いた霊は木乃香に負担をかけ続けている。霊もネギ達に対抗するために少しでも制御しようと動かず集中しているお陰で、余計にこの均衡を崩すわけにはいかない。結界を突破されればどんな被害が出るか分かったものではない。

 解決策を模索する間も、外に漏れないように張った結界を軋ませ、外圧に耐えかねて蛍光灯が割れる。結界に力を注ぐネギの額から流れた汗が顎を伝い、地面へと落ちた。

 

「ん? これは……」

 

 その時、何かを感じたのかアスカは意識を一瞬目の前の木乃香から外した。

 

「刹那が来るぞ」

 

 アスカの発言からアーニャの脳裏で連想ゲームのようにこの場を切り抜ける策が思い浮かぶ。

 

「 …………確か神鳴流は魔物や怨霊を退治する剣の流派だったわよね。神鳴流の遣い手の刹那なら木乃香もどうにか出来るはず。ネギ!」

「無茶を言うなぁ。一部の結界を解くからアーニャも手伝って」

「どうすればいいの?」

「僕は結界の一部を解除するから時間稼ぎをして」

 

 刹那を通せと暗に言うアーニャに表情を歪めつつも、その眼には決心を宿した意思が感じ取れた。

 ネギは反対にアーニャに注文しつつ備える。

 

「来た!」

「ええい!!」

 

 アスカの声で待望の待ち人が来たことを悟り、アーニャがネギに比べると遥かに弱い結界を木乃香の近くに張り、ネギは部屋の入り口だけ結界を解除する。

 その瞬間だった。

 

「お嬢様!!」

 

 その手に持つ夕凪を使って力尽くでドアを破って現われたのは木乃香の護衛である桜咲刹那。どこかで監視していたのか、結界を察知したのか、それとも幼馴染として直感で危機を察したのか分からないが、危機を感じてやってきたなのは間違いない。

 理由はともかく、突然の刹那の登場に動揺したのは木乃香の中にいる霊であり、刹那の存在は木乃香の心を揺らす。そして憑依している霊は、どうしても木乃香の影響を受けてしまう。

 刹那が現れて動揺して弱まった瞬間にはネギは結界を張り直していた。

 

「ちょうど良いところに来たわ、刹那」

「え? あれ、どうしてアーニャ先生達が……」

 

 いざ夕凪を持って勇んだ刹那だったが、何故かいるアスカ達や木乃香のおかしい状況に目を白黒していた。事情を知らずとも木乃香の危機に突っ込んできたようだ。

 

「細かい事情説明は後回しよ。私達じゃ、木乃香を助けられないわ。刹那、アンタの神鳴流の技で木乃香に取り憑いた霊を斬りなさい」

 

 悠々と話をしている暇はないとぶった切ったアーニャは、簡潔に状況を伝えつつ木乃香を指差した。

 事情は分からないながらも必要とされているのが自分の神鳴流の技だと理解した刹那だが、その足は一歩も前に進むことはなかった。

 アーニャが不審を覚えて彼女を見る。

 

「どうしたの? アンタの主の危機よ。スパッといきなさい」

「…………ん」

「え? なんて?」

「………出来ません。私には……………………出来ないんです」

 

 一瞬、アーニャは何を言われたのかが理解できないようだった。

 

「はぁ? 神鳴流は退魔の剣術なんでしょ。アンタはそこそこの腕らしいし、出来ないわけが」

「出来ないんです私には! 斬魔剣は――――使えないんです」

 

 神鳴流奥義である斬魔剣。霊体を滅ぼす神鳴流の真骨頂とも言える技であるが、刹那はその技が使えないと泣きそうな顔で叫んだ。その手は夕凪の柄が折れそうなほど強く握り締められ、目の端には涙すら浮かんでいた。

 

(半妖だから魔を斬る斬魔剣を使えるはずがない)

 

 刹那は一度たりとも斬魔剣が使えたことはない。それは己が魔に属する半妖であるからと認識してた。

 なんらかの事情があるようだと察したアーニャだったが、頼みの綱の刹那がこの調子では木乃香を救うことは…………。

 

「俺がやる」

 

 万策尽きたと思われた中でアスカが一歩を踏み出した。

 

「ちょっとアスカ。何を勝手に」

「斬魔剣なら京都で詠春のおっさんに見せてもらった。多分、やれるはずだ」

 

 アーニャは止めようとするがアスカが自信を持って言い切ったので迷った。

 だが、斬魔剣を使うと宣言したアスカを、信じられない物を見るような目で刹那が見た。

 

「多分って…………剣もなしにどうやって」

「そりゃこれでだ」

 

 言ってアスカは両腕を掲げて深く息を吸って、吐く。

 一行程の深呼吸で全身の力を活性化させているのが傍目からでも分かった次の瞬間だった。

 ぐにゃり、と生まれた光で手首から先の輪郭が歪んだ。アスカの手首を包む薄い光が、光の進路を掻き乱す。

 

「おお、やれば出来るもんだな」

 

 暗い部屋に、まるで太陽が生まれたような光が生まれた。魔力の緻密な制御によって成されたそれに、木乃香(に取り憑いた雑魚霊の集合体)は怯えたように一歩下がる。

 しかし、怯えたことが許せないように、木乃香は取り憑かれた影響で腐ったような澱んだ瞳でアスカを見つめ、邪魔者を排除せんと逆に緩んだ攻勢を決しようと魔力が跳ね上がった。

 

「くっ」

 

 ネギの苦鳴が漏れる。

 近くにいたアーニャも重圧に押し負けて二歩、三歩と下がる。

 残った気勢で張り合うネギだが、現状では不利。木乃香の身も心配だ。もうアスカに賭けるしかない。

 

「ええい、もう行っちゃいなさいアスカ!!」

「応!」

 

 アーニャの叱咤に応えてアスカが波動を突っ切って踏み込む。

 闇を突っ切って太陽が進軍する。その背中があまりにも眩しすぎて、自分には到底成れない姿に刹那は見ていられなかった。

 

「はぁっ!」

 

 霊に操られて肉体のリミッターを外された人間に、生半可な格闘技などは何の役にも立たない。だが、アスカからしてみれば力は強くても動きがまるでなってない。隙だらけでがら空きの木乃香の胴体に容易く渾身の両の掌―――――掌打を叩き込んだ。

 掌を通じて、光輝が木乃香の身体に注ぎ込まれる。全身を光り輝かせながら、木乃香は電撃でも浴びたように身を仰け反らせた。

 

(ぎいいいいいいいいいいいいいいいいいっっ!!)

 

 空気を震わせることなく、脳裏にだけ聞こえる悲鳴を上げて、雑霊を抵抗も許さずに消滅していく。

 

「お嬢様!」

「――――ふぅ」

 

 雑霊を完全に消滅させたことを確認して、三人は倒れこんだ木乃香を抱きとめる刹那を傍目に軽く息をついた。

 

「名付けて斬魔拳ってな」

「読みは一緒じゃないの」

「いいんだよ。意味が伝われば」

 

 新たな技に鼻高々のアスカだったが、刹那は抱き留めた木乃香の容態を確認して震撼した。

 あれだけの魔力で殴ったにも関わらず、木乃香に傷一つないのだ。

 斬魔剣を再現したアスカだが、その効果は宗家青山家縁の者にしか伝承されていない【斬魔剣 弐の太刀】と全く同じ効果を及ぼしていることに気づいていない。憑かれた人間には影響を及ぼさず、その背後にいる霊を滅ぼすことを主眼としたために辿り着いたことで、まさかそんなことに成っているとは気づかなかったのだ。

 幾ら斬魔剣を見たことがあると言っても、独力で弐の太刀に至るその才を始めて刹那は恐ろしいと思った。

 

「……ぅ………うん、あれ、せっちゃん?」

「ご無事ですか? お嬢様」

 

 力を使い果たして疲れているのだろう、どこか力のない目を開けた木乃香は自分を抱き上げる刹那の名を呼ぶ。木乃香が無事なことに安心した刹那も何時もより柔らかい口調で語りかける。

 その心の中でどす黒い感情が走っているのを隠す様に、顔を伏せていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋の布団で寝ていた明日菜の耳に、静かな室内に響く、トントンと包丁で野菜か何かを刻む音が聞こえた。

 眼を開けるとまだ視界が滲んでいる。

 

(あ、そっか。風邪引いたんだっけ)

 

 修学旅行の疲れが出たのか、覚えている限りでは始めて風邪を引いてダウンしてしまったことを思い出した。

 瞬きを繰り返すとぼんやりとしていた視界が徐々に明確になっていく。枕元に置いている時計を見れば、時刻は夜と呼べる時間帯だった。長いこと寝ていたためか瞼が少し腫れぼったい。

 その間もリズミカルな音は止むことなく、野菜か何かを刻んでいる者が包丁慣れしていることを如実に物語っていた。

 気になって首を巡らし、二段のベッドの柵の隙間から台所を見ると、自分よりも小さい金髪の少年―――――アスカ・スプリングフィールドが料理をしていた。

 

「後は溶き卵を入れて……っと」

 

 あらかじめ冷蔵庫から出していたのか、近くに置いてあったボウルから卵を持って片手で鍋に叩いて器用に割ると、手早く溶いて鍋に流し込んだ。最後に塩と醤油で味を調える。

 

「うし、完成」  

 

 卵雑炊が完成して部屋においしそうな匂いが漂って、風邪を引いて食欲の失せている明日菜のお腹が「ぐ~」と鳴った。

 

「ん、起きたか」

「おいしそうな匂いがしたから……くしゅんっ」 

 

 お腹が鳴った小さな音も聞こえたのか振り向いたアスカが笑顔を向けてくるので、じっと見ていたのが恥ずかしくなって料理が完成してから起きたのだと嘘をついてしまった。

 神様が嘘をついた罰とでも言うように、可愛らしいクシャミが零れる。

 

「熱、下がったか?」 

 

 何時の間に近づいていたのか、片手に卵雑炊が入った鍋を抱えたアスカがベッドの梯子を上って近づいていた。あっと思う暇もなく前髪を掻き上げられて、おでこ同士をくっ付けられていた。

 アスカの印象に残る綺麗な蒼い瞳が、明日菜の視界一杯に入ってきた。

 その瞳の中に自分が映っているのが見えた。熱を測っているだけだと直ぐに分かったが、それでもどうしようもなく胸が高鳴る。

 距離が近い。少しでも顔を動かせばキスできそうな距離。そんな距離を気にした様子も無く蒼の目を細めて笑うアスカ。

 この海のように、空のように包み込んでくる蒼の色が明日菜はとても好きだった。その色味は不思議なことに、時に薄くなったり、濃密になったり、それが混ざり合ったりして決して一定ではないのだった。

 まるで宝石のような蒼の瞳に見つめられることに奇妙な安心を覚えて、全身からぐったりと力が抜けた―――――――ところで現在の状態に気づいた。

 

「ちょっ、ちょっと」

 

 弛緩した肉体とは別に、意識は汗を掻いていたこともあって思春期の少女らしく突然のアスカの行動を恥ずかしがる。明日菜の頬に風邪とは違う種類の赤さが生まれた。

 

「うん、大分熱も下がってみたいだな。もう大丈夫だろう」 

 

 少しでも首を動かせばキスが出来そうな距離を気にした様子もなく、熱が下がったことに安堵して純粋な笑顔を向けるアスカに余計に顔に熱が集まる。年下でも異性にこれだけの近づかれた経験は高畑ともない。流石に恥ずかしくなってしまう。

 

「じゃ、じゃあもう起きても良いよね」

 

 だからというわけでもないが、明日菜は照れ隠しに体を起こそうとした。

 自分でも分かるほどに声が裏返っていたがアスカは気にしなかったようだ。ふと見下ろしたベッド柵を掴むアスカの手には拳ダコがあった。

 

「まだ熱はあるから今日は寝てろ」

 

 照れ隠しもあって起きようと起こした体を抑えられる。それどころか明日菜の気持ちを見透かしたように微笑んですらいた。

 

「え? ほら、もう熱も下がったから大丈夫よ」

 

 再び氷枕に頭を下ろすも熱特有の気だるさもしんどさもない。さっきのクシャミもあれだけで風邪らしい症状は何もなかった。

 

「熱が下がっても風邪のウィルスはまだ体の中に残ってるかもしれないだろ。昔のネギとおんなじこと言うなって。今日一日は大人しく寝てろ」

 

 明日菜の様子がおかしいのか少し笑ってそう言うと、笑顔で目を細めているアスカに少しホッとする。

 偶に蒼の瞳はここじゃないどこかを見ている時がある。そういう時は何時も空を見ていた。そんなアスカを見ているのは嫌だった。

 ただ遠くを見ているのではないと、何故か分かった。まるで別の世界のように感じて話しかけれない。遠すぎたからそれがどこへ向けられたものだったのか、それすら分からない。聞くのが怖い気もしていた。

 踏み込むことで今の関係を壊すことが怖かった。世間話なら気楽に出来るのに、肝心なことになると何故だか気が引けてしまって、ずっと踏み込めないままでいる。

 何か話をと思って話題を探すと同室の木乃香の姿が見えなかった。

 

「木乃香は……姿が見えないけど」

「体調が悪くて他の部屋で休んでる。おっと、起きるなって。刹那が見てるから大丈夫だ」

 

 起きようとしたところを指一本で戻される。

 全く力を入れている様子はないのに明日菜は抵抗も出来ず氷枕に再び頭を下ろす。

 

「本当に大丈夫なの? もしかして私の風邪が移ったんじゃ」

「違うって。修学旅行の疲れが出たらしいぞ。今日は刹那と一緒に千草の家に止まるってよ」

「そっか。…………そう言えばなんでアスカがいるの? いてくれて嬉しいけど」

「薬を持っている木乃香に話を聞いて、代わったんだ。俺は馬鹿だから風邪を引かないからな」

「自慢することじゃないでしょ、それ」

 

 自信満々に胸を張って自分は馬鹿です宣言をしたアスカに、クスクスと笑いつつ、アスカがいる理由と木乃香がいない理由に納得が言った。

 まだあまり頭は働かないようで、言われたことを素直に信じた。まさか真顔で嘘を言っているとは思わない。

 本当は夕方のエンジェルさん騒ぎで動物霊を払っても木乃香の体調が戻らず、千草の家で安静にしているとは夢にも想像できないだろう。

 

「ごめん、ありがとう、来てくれて」

「いいって。謝ることじゃない。病人は養生してろ。なんならもっと我が侭を言っても良いぞ」

 

 そんなことを露とも知らない明日菜は二人に面倒を掛けていることを気にして謝罪と感謝とするが、アスカは見ている方が嬉しくなりそうな笑みで応えた。

 

「それじゃあ一つだけ、いい?」 

 

 アスカの表情を見ていると、それが単なるリップサービスではなく、本心から言っていることが分かり、明日菜は何だか嬉しくなってしまった。

 熱が出ていて普段は強気な精神が参っているのだろう。明日菜はらしくもなくやってほしいことがあった。

 きゅるるる…………と、可愛い音が鳴った。

 二人が顔を合わせ、直ぐにある一点に視線を一致させた。明日菜のお腹が鳴ったのだ。

 明日菜は視線をアスカが持っているお盆の上に乗っている鍋にチラリと目を向け、

 

「しんどいから御飯、食べさせてほしいなぁって」

 

 自分でも驚く程の甘えるような声で頼んだ。

 明日菜には小さな頃の記憶がない。当然、両親との思い出もない。

 思い出せるのは保護者の高畑と麻帆良に来てからのことだけ。当然、両親のことも知らないし、甘えた記憶もない。

 風邪を引いた自分が優しい母親が看病してくれるなんて、もしかしたら長年の夢だったのかもしれない。色々と違うが配役は似たような感じで。

 

「……………」

 

 アスカも思わぬ要求に、よもやこんな甘え方をされようとは考えていなかったので一瞬だけ固まった。が、まあいいかとお盆に載せていたレンゲで雑炊を掬って、熱そうなのでフウフウと息を吹きかけてある程度冷ましてから明日菜の口元に伸ばす。

 

「ほら、あーん」

「あーん」

 

 明日菜は嬉しそうに言われた通り口を開けて雑炊を口に含む。

 

「美味し」

 

 ちょっと舌足らずに微笑んでから、そこでようやく自分が言った言葉、現在の状況を垣間見えてさっきのおでこを合わせた時以上に顔を赤くした。

 

(あたしったら何をしているのよ――ッ!!)

 

 ここに至ってようやくバカップルでもしないような行為であることに気づいて心中で叫んだ。咄嗟に心中だけで口から出さなかったのは、雑炊が美味しかったのと恥ずかしさが極まったからである。

 明日菜は、ついアスカから顔を背けてしまう。恥ずかしさでやたらと頬が火照っていた。

 

「どうした?」

「な、なんでもない」

「ふうん?」

 

 どもった明日菜に不思議そうな声を上げたアスカは今の状況に対して気にしていないらしい。

 普段ずっと一緒にいてもこんな風にはならないのに、どうして今日に限って妙に意識してしまうのか。それでも行為自体には安心感が強く、止める気がしない。「あーん」される度に、「あーん」と食べる食事はつつがなく進む。

 

「おいしいね、この雑炊。木乃香の味付けとは違うみたいだけど」

 

 変わった味付けだが、明日菜の好みにピッタリと嵌る不思議な美味しさに頬が落ちそうだった。

 

「ああ、俺が作ったからな」

「え」

「だから、俺が一から作った。材料は冷蔵庫のを勝手に使わせてもらったぞ」

 

 衝撃の事実に頬ではなく目が見開かれた。

 木乃香が用意して途中から作ったのだと思ったのだが、完全に一からアスカが作ったとは夢にも思っていなかった。

 

「アスカが、作ったの?」

「そうだって言ってるじゃないか」

 

 混乱しつつもレンゲを差し出されると美味しくて口を開けて食べてしまう。

 雑炊をしっかりと噛んで呑み込みながらも、実はアスカは料理が上手いんじゃないかという疑念が脳裏を支配する。

 

「俺が作れるのはこれだけだけどな」

「そうなの?」

 

 辛うじて女の挟持は守れた。

 普段の料理は木乃香に任せっきりだが、明日菜だって女の子。二つや三つぐらいの料理は作れる。どんぐりの背比べはあったが。

 

「誰に教えて貰ったの?」

「ネカネ姉さんのお母さん…………つまりは俺とネギの叔母さんなんだが、分かりやすく言うとネカネ姉さんを百倍パワーアップさせたような人だ」

 

 ネカネとの関わりが深いので、その言葉だけで明日菜にもその叔母さんのイメージが簡単に作り上げることが出来た。

 

「その想像の十倍は超える人だぞ」

「そうなんだ……」

 

 言われてイメージの十倍を想像して、ちょっと引いた。

 うんうん、と明日菜の様子に我が意を得たりと頷いたアスカは過去を想い出す様に少し遠い目をした。

 

「これを最初に作ってくれたのは、俺とネギが真冬の池に落ちて四十度の熱を出してぶっ倒れた時でな」

「ちょっと待った」

 

 聞き捨て慣れない言葉が聞こえて明日菜は思わず話を遮った。

 

「なんで真冬の池に落ちるのよ」

 

 普通は避ける場所のはずである。いくらアスカに考えが足りなくてもネギがいるならそんな場所には行かないはずである。

 

「当時は二人してヒーローごっこに嵌ってて、池の近くの木に登って降りられなくなった近所の黒猫を助けるために上ったはいいが、細い枝だったから二人分と猫の重みで折れて落ちた」

「猫も?」

「いや、俺の体を足場にして一人だけ逃げやがってあの畜生が……………と、まあそんなこんなで二人して池に落ちて風邪を引いたわけだ」

 

 一人ではなく一匹では、と明日菜は思ったが突っ込まなかった。

 

「二人して四十度の熱を出して何も食べられなくて、そんな時に叔母さんが作ってくれたのがこの雑炊でな。元はお袋から教えてもらったらしいんだ」

「お母さんから?」

「雑炊って日本の料理だろ。詠春のおっさんが親父が一時期京都にいたってのは春休みの時に言ってただろ。その時、多分お袋も一緒にいたんだろな」

 

 父親のことはよく聞いたが、母親のことは明日菜も初耳だった。

 よくよく考えればイギリスにいるネカネの母が雑炊を作れることに、アスカが作ったことに疑問を覚えなければならなかった。本当に明日菜の頭は全然働いていないようだ。

 

「お母さんって、どんな人?」

「さあ、どんな人なんだろうな」

 

 疑問に疑問を返されて明日菜の頭の中を疑問符が支配する。

 

「え? どうして知らないの?」

「どうしてって、名前も知らないから答えようがない」

 

 一瞬明日菜の脳裏が真っ白になった。

 凍った明日菜の表情を解す様にアスカは苦笑に似た笑みを浮かべた。

 

「なんか事情があるらしい。大人になったら教えてくれるって話なんだが、親父を探すのはお袋のことを聞く目的もある。女々しいかもしれないが親のことだからな。知りたいんだ」

「そうだったんだ……」

 

 そう言われれば明日菜に言える言葉は殆どない。

 踏み込んではいけない領域に口を出してしまった後悔に我知らずに涙が浮かんでくる。熱で感情のブレーキが効かないようだ。

 

「泣くなって」

「だって……」

「ったく」

 

 レンゲを置いて開いた手で少し乱暴に目じりに浮かんだ涙が拭われる。

 

「明日菜が気に病むことねぇって。ほら、これで最後だ」

 

 差し出されたレンゲを前に迷いつつも、雑炊の美味しさが明日菜を陥落させる。

 雑炊の鍋は綺麗に空になった。

 

「まだ熱があるから寝とけよ」

 

 最後までベッドの梯子から食事を食べさせてアスカがそのままカラになった鍋を乗せたお盆を片手に降りようとしていたのを、明日菜は裾をくいっと引っ張って止めた。

 

「もう一つお願い聞いてもらってもいい?」

 

 どうした、と視線を向けてくるアスカの眼に恥ずかしさを覚えながら、どうせなら毒を食らわば皿まで。

 まだやってもらいたいことがあった。黙って続きを促すアスカの眼から視線をずらして答える。

 

「寝るまで手を握ってで」

 

 卵雑炊を食べてお腹が一杯になって眠くなってきた。でも、一人でいるのは少し寂しい。誰かに傍にいてもらいたかった。

 聞いたアスカの顔が、鳩が豆鉄砲を食らったようになったのをずらしていた視界の端っこに捉えて、恥ずかしさで死ぬ思いを味わった。さっきから年下に頼むことではないと自覚していても止められなかった。

 自分の心臓が張り裂けるほどの音を鳴らしているのが静かになった室内に響いているのではないかと錯覚を覚えるほどだった。

 

「分かった。危ないから盆だけは置かせてくれ」

「うん」

 

 アスカは少し笑って王女様の願いを聞き届けた。

 握っていた裾を離してアスカがお盆を下ろしに梯子を全く体重を感じさせない足取りで、踊るようにすっと降りていく。足音一つしなかった。

 

「ほら」

「ありがとう、アスカ」

 

 お盆をテーブルに置いて、体重を感じさせない動作でベッドの柵に腰を乗せて手を握ってくれたアスカにお礼を言う。

 

「えへへ」

 

 手を握ってもらうと、途端に今まで我慢していたものが噴出してくるかのように自分の顔がだらしなく緩むのを感じた。

 少年の手は思ったよりも柔らかくなく幼い頃に握った高畑のようにゴツゴツとしていた。温かく力強い手の平と。擦り切れて硬くなった拳と、しかし、少年の繊細さを感じさせる細い指。

 子供ではない男の手の感触に少しドキドキと高鳴る心臓。なんだか暖かな気持ちになりながら、明日菜はアスカの手をギュッと握り締める。人肌を感じ取ったからか先程よりも強い眠気が急速に襲ってきた。

 

(何時までもこんな時間が続けばいいのに)

 

 ものの一分も経たない内に眠りの世界に本格的に落ちかけていた明日菜の頭を優しい手が撫でてくれた。握ってくれている手と、頭を撫でる優しさに、今までにないほど安らかに眠りに落ちていった。

 外は冷たい風の吹く冬の空だ。だが、明日菜の傍には温かい仄かな温もりがあった。

 

 

 

 

 

 寝入った明日菜の寝顔を見下ろすアスカの表情は穏やかだった、その手が離れるまでは。

 

「明日菜……」

 

 起こさないように小さな声で呟かれた名前にどのような意味が込められているのか。

 

「もう、決めないとな」

 

 静かに囁かれた言葉を聞く者はいない。もしも、聞いた者がいればどこか不吉な予感を覚えたことだろう。

 明日菜が起きないことを確認してアスカは音も立てずにベッドから飛び降りて着地し、ドアへと向けて歩く。

 部屋の入り口の電灯のスイッチのところで足を止めたアスカは振り返って寝ている明日菜を見る。

 ベットの柵が邪魔で顔がしっかりと見えないが、まるで心に焼き付けるように見たアスカは辛い気持ちを押し隠すように瞼を閉じた。

 

「俺は戦いの道を行く。明日菜は――」

 

 その先の言葉は小さく、パチリと電灯のスイッチの音に掻き消されて部屋には響かなかった。

 真っ暗になった部屋で、アスカの両腕がある辺りに禍々しい紋様が浮かび上がったが、移動してドアが開かれて外の光が差し込むと残光だけを残す様に消え去った。

 

「むにゃむにゃ…………アスカぁ…………」

 

 一人、部屋で夢でも見ているのか寝言を漏らした明日菜はアスカの決断に気づいていない。

 



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第27話 転換

 修学旅行から数日が経ち、そろそろ春の残滓も薄れてきた今日この頃。

 四月も終わりに近づいて五月病だとかいうものが発祥する月が間近に迫っていた。

 

「…………はぁ~~」

 

 朝のジョギングをしながら佐々木まき絵は、心の底から憂鬱そうな溜息を朝の大気へと吐き出した。

 何時もの明るさは鳴りを潜め、仄かに漏れ出る暗鬱なオーラが彼女の表情を曇らせて見せる。

 ちょっと(かなり)成績は悪いけど運動神経抜群の元気一杯スポーツ少女が普段の元気印らしくないほど憂鬱そうな溜息を漏らすかというと、五月病とは全く関係ない。先日、偶然にも新体操部の顧問が同僚の源しずなと話していた内容にショックを受けたまま早朝まで引き摺っているのだ。

 

「子供っぽいかかぁ。私に何が足りないんだろ」

 

 好きなものはネギ。でもそれ以上に大好きなものは新体操と公言する彼女である。五歳の頃からやっているから結構自信を持っていて、勉強や他のことはともかく新体操なら誰にも負けないと思っていた。

 思い出すのは昨日の出来事。顧問の二ノ宮がいる中等部にある生徒数に比例するような大きな体育館の中にある体育教官室を訪れた時だった。

 

「しずなが体育教官室(こっち)に来るなんて珍しいわね?」

 

 新体操部の顧問である二ノ宮は珍しく来たしずなと共にコーヒーを飲んでいた。彼女は二ノ宮と同じく中等部を担当することもあって数年来の友人であるが体育系の顧問でなければ体育教官室に来ることは滅多にない。

 その後話題は噂の子供先生達などの話題を経て、話しこみながらも二ノ宮が見ていた去年の新体操部の大会のビデオに話の種が向けられた。

 

「あら? まき絵ちゃんね。去年の大会のビデオ?」

 

 しずなも以前は現3-Aが二年の頃の副担任であったのでビデオに写った少女―――――佐々木まき絵が映っていたので気になり問いかけた。

 

「日曜日に部内で夏の大会の選抜テストやるの。その参考にね」

 

 丁度、ビデオではリボンの演技をしているまき絵の姿が映っていた。しずなの言う通り、去年の大会のビデオで夏の大会の選抜テストがあるため、顧問として出場テストを選ぶ身として準備をしていたのだ。

 

「まき絵ちゃん部活頑張ってるものね。どうなの? 彼女は」

 

 あまり新体操のことは詳しくないなりにビデオ越しでも彼女の演技に感心するしずな。だが、二ノ宮はその言葉を聞いて少し難しそうな顔をして口を開く。

 

「まき絵か……正直、まき絵は大会ダメかもな~」

 

 そこにまさしく最悪というタイミングで開いていた体育教官室の扉を通って声をかけようとしたまき絵。前の時間に居眠りをして全国大会優勝の夢を見て有頂天になっていたまき絵は二ノ宮の率直な考察を聞いてしまって「ステーン」とズッコけた。

 彼女の話によればまき絵は、技術は正確、運動神経は抜群、練習も熱心と非の打ち所のないのだが、長所である明るさと単純なところが逆に仇になって短所になっていると言うのだ。良く言うと天真爛漫。悪く言うと中学三年生でありながら子供っぽいというか、彼女から見ると小学生の演技に見えてしまうのだ。その所為で素質はあるのに今イチ壁を突き抜けられていない。

 しずなとしては厳しい意見に感じるがまき絵の普段からすると彼女の言っていることも多少なりとも理解できる。バカレンジャーの一角に数えられるほどに勉強が出来ず、そのことに焦りもせずに暢気にすごしているのを見れば納得も出来てしまう。

 

「あの……まき絵……」

 

 顧問の言葉の一つ一つがまき絵の頭に重くのし上がってゆき、途中で競争して傍にいた亜子の声すらも耳に入らず、

 

「うわあああ~~~~~ん!」

「まき絵――――っ!?」

 

 ポロポロと涙を流しながらその場を逃げるように走り去るまき絵、自身の最も得意とするものを否定された現実が受け入れられなくて、その晩は一晩中泣いて過ごした。

 朝になっても落ち込みは変わらず、気分を変えるために自主トレでランニングをしていたのだが効果は薄そうだった。

 自分の性格が子供っぽいのは何となく分かっていた。そして一朝一夕で変えられないだろうとも感じている自分がいる。今すぐ得る必要があっても、方法が分からない以上はどうにもならない。技術が足りないのなら練習を増やして覚えて行けばいいが、子供っぽいことを変えるために何が足りないのかが分からなかった。

 

「胸が大きくなれば大人っぽくなれるかな」

 

 クラス内でも胸が大きい子は落ち着いている子が多い。まき絵基準で一部の例外はあるが「胸が大きい=大人っぽい」が符合する。

 自分の胸がクラス内で大きくないことも相まって胸があれば大人っぽくなれるのではないかと真剣に悩む。

 

「ん? あ、アスカ君だ」

 

 胸を大きくすることこそが大人への近道かと考えながら走っていると、一応の目的地である世界樹広場前まで来たので足を止めて息を整えていたらどこからか判別できない音が聞こえた。

 見に行くと手摺の小さな幅の上で何かの型を行うように拳を突き出したりして動くアスカの姿を見つけた。

 ようやく陽も昇り始めた早朝の時間帯、ただ一人黙々と型の練習を行うアスカの姿があった。朝日が広場を照らす中で真摯な表情で練武を続ける姿は、飛び散る汗が光を弾き、虹にも似た光彩を辺りに散らして少し幻想的な気配を辺りに振り撒いていた。

 

「――――ふっ」

 

 一通りの型をやり終えたのか、アスカは動きを止めて吹き出る汗もそのままに息を整えている。

 整え終えた息を深く吸い、吐いたアスカは腰を軽く落として拳を構え、そちらに憎い敵でもいるかの如く眼光鋭く見つめる。彼方を見つめて構えたアスカに自分が相対したわけではないのに、余波だけで威圧されてまき絵の身体が震える。

 虚空の敵を見据えて、ゆっくりと構えた拳を突き出した。

 最初はゆっくりと徐々にスピードを上げて、今度は型も何もない演武が始まった。

 やがてはまき絵の見ている先で手足が霞んでいく。

 

「ぜあっ!」

 

 ラストとばかりに叫び一発。拳を振り抜くと空気を切り裂いた音が遅れて耳に届く。

 破裂した空気が元に戻る。

 真冬でもないのにアスカの汗が気化して全身から蒸気が浮かび上がっていた。

 昇って行く太陽の光に照らされたアスカの姿は、まき絵の目には犯しべからざる神聖なもののように思えた。

 

「なんか用か、まき絵」

 

 顎からポタポタと滴り落ちる汗を手で拭ったアスカが手摺から飛び降りて振り返り、震えていたまき絵を訝しげに見ていた。

 

「朝のジョギングか? 以外だな、そういうところは物臭に見えたのに」

 

 滴り落ちる汗の量は長い時間、身を入れて体を動かした証拠でもある。はたしてまき絵は新体操にここまでの情熱を傾けたことがあったかと自問する。

 

「どうして、そんなに頑張れるの?」

「ん?」

 

 まき絵は静かに舞った演舞の踊りを待って放散される熱に浮かされるように問いかけた。

 

「しんどいはずなのに、もしかしたら誰も認めてくれないかもしれないのに、なんで頑張れるの?」

「なんでって……」

 

 そんなことを考えもしなかったように瞼を瞬くアスカに、まき絵の心に闇が忍び寄る。

 

「ウルティマホラみたいな格闘大会に出て優勝するとか、あるでしょ」

「別に、そういうのじゃねぇな。興味ない」

 

 別段、大会に出る気とかはないと言い切ったアスカはまき絵の言葉を否定し、手を振って付いた汗を振り払った。

 上がって行く朝日に照らされながら落ちる汗がキラキラと輝いてまき絵の目を幻惑する。

 

「じゃあ、どうして」

「う~ん」

 

 再度の問いを重ねるまき絵に困惑したのか、アスカは困ったように左手で後頭部を掻きながら仕方なさ気に自分が強くなった理由を考えているように見えた。

 暫くああでもないこうでもないと考えていたアスカは、ふと何かを閃いたように息を呑むような静かな声で呟いてまき絵と視線を合わせた。

 

「強くなりたいってのはあるけど、他人と競い合いたいとか全然ない。つか、どうでもいい」

「なに、それ」

 

 答えになっていない返答に馬鹿にされたように感じたまき絵は面持ちを僅かに鋭くした。アスカもそれを察したように、「まだある」と苦笑しながら手で制した。

 この時、アスカが浮かべた表情は先程までと同じ苦笑なのに、一切の言葉を遮らせるだけの表情だった。苦笑を浮かべているのに、どこか違う世界で生きているように見えたことも留まった理由の一つかもしれない。

 

「理由は上手く説明できないんだけどさ。まあ、こういうのは自分が分かってればいいんだよ」

「自分が?」

「他人にああだこうだ言われたからって自分が自分であることは変えられねぇだろ。極論、自分が分かってれば他人の言うことは二の次で良いってことだ」

 

 顧問の言葉に沈んで努力を始めたが、はたしてその方向性は合っているのかと悩んでいるまき絵には理解できない理屈だった。

 

「よく分かんないよ」

「俺にまき絵の悩みが分かる訳なんてねぇだろってつうことさ。まき絵にだって俺の悩みは分かんねぇと一緒でな。他人は他人、自分は自分…………なんで俺はこんならしくない話をしてんだ?」

 

 カラカラと笑うアスカは悩みなんて一欠けらもないようだが、アスカにはアスカで何かを悩んでいるのだろうか、まき絵には分からなかった。

 笑いを収めて真面目な顔になったアスカは、自分がどうしてこんな哲学を語っているのかと首を捻り出した。

 

「他人は他人、自分は自分か……」

 

 まき絵の好きなネギもそうだが、アスカもまき絵が知る弟といった普通の男の子とは全く違う異質な存在だった。

 二人とも弱音は全然吐かないし、安直に他人を当てにもしない。どんなことにも尻込みせず率先して行動する。まき絵のイメージだけではなく、世間一般の常識からも乖離していた。

 今、自分が抱える問題を目の前の少年に聞いてみたくなった。

 

「ねぇ、私って子供っぽい?」

「ああ」

 

 一大決心をして問いかけてみれば、肯定を返されてまき絵の心臓に特大の針が突き刺さった。

 ショックでフラフラと体が揺れる。

 

「いいじゃねぇか、ガキっぽくて。俺達はまだガキだ。ガキがガキっぽくて何が悪い。一年経てば勝手に年食うんだから急いで大人にならなくたっていい」

 

 一種の開き直りとも言える暴論だったが、子供に見られることを忌避していたまき絵とは違った別の視点からの言葉だった。

 

「で、そんなことを聞いてくるってことは誰かに子供っぽいって言われたか」

「う……」

「図星か」

 

 当てずっぽうだったのか、喉の奥で唸ったまき絵を見たアスカは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。

 もうまき絵は観念して全部を話してしまうことにした。

 

「私、新体操部なんだけど、演技が『子供っぽい』って先生が」

 

 まき絵の声は話すどんどん小さくなっていく。それどころか涙すら浮かんできた。

 直接言われたわけではなく、教師同士の会話からたまたま聞こえてしまったためかまき絵のショックは大きかった。

 何時も元気なまき絵が表情を暗くして涙を目に湛えている。普段の彼女はまさしく天真爛漫。そんな彼女の落ち込みように、周りも心配せざるを得ないだろう。だが、アスカは慌てた様子も見せなかった。

 

「まき絵の演技、見せてくれよ」

「え―――っ、でも…………」

「でないと判断も出来ない。見て判断してやるよ、子供っぽいかどうか」

 

 完全に自信を失くしたまき絵は、人に自分の演技を見せる気にはならない。しかしアスカの言いようを前にすると即座に断れなかった。

 そしてアスカはそれ以上、何も言うことなく手摺に腰を下ろして観戦の体勢に入ってしまった。

 

「う……じゃ、じゃあ…ちょっとだけね。コホン」

 

 アスカとは二ヶ月以上の付き合いである。こうなってしまっては他人の言うことを聞かないことを知っているまき絵は、最初は躊躇した様子だったが、やがてモジモジとしながらも常に持ち歩いているリボンをポケットから取り出し演技を始めようとする。

 リボンを手にまき絵がアスファルトの地面を蹴った。

 そこから始まったのは素人目にも伸び伸びと動くまき絵。流れるように体を動かし、その体の周りを風に乗り輪舞を刻むリボンが回る。途中からまき絵も演技にのめり込んで楽しそうに体を動かし、リボンが体の上や横でまるで生き物のように動く。

 やがて舞いが終わる。

 アスファルトの上に、静かに着地して最後にポーズを決めてまき絵の演技は終了した。恥じらいを見せるまき絵は、日の光よりも紅く染まった顔で、恐る恐る問う。

 

「えと……こ、こんなカンジなんだけど………」

「いいんじゃねぇの」

 

 少し恥ずかしいのかリボンをいじりながら少々自信なさげにまき絵が尋ねると、いっそ淡泊なほどの口調でアスカが拍手を送る。

 

「褒められてる気がしないんだけど」

「新体操なんて見たことも聞いたこともないんだ。素人から見ても優れてるってのは一目で分かったが、ただまあ……」

 

 少し間を置いたアスカは先程の演技を思い出す様に目を細めた。

 

「まき絵らしいってのは感じたな」

「私らしい?」

「素直で真っ直ぐて、何事にも一生懸命なまき絵の心が良く現れてた。俺は良かったと思うぞ、今の」

 

 べた褒めの言葉にまき絵の頬に朱が走った。

 

「でも先生は子供っぽいって」

 

 やはりまき絵はそこが引っ掛かってしまう。

 

「なんだったらアーニャに聞いてみればいい。あいつも先生なんだ。なんか気の利いたことの一つでも言うだろ、多分」

「アーニャちゃんに?」

「ああ、ネギは俺と似たようなことしか言わないだろうからな」

 

 いい加減に相手をするのが疲れたと、アスカの態度は前面に出ていた。

 騒動時以外は表情と同じく緩いアスカがここまで相談に乗ってくれただけでも十分と思うことにした。別視点からの意見は参考になったし、更に違う視点を持っているだろうアーニャと話をすればまた何か違うのだろうかとまき絵は考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よし、修学旅行も終わったし、今日からまた頑張ろう」

 

 快晴の空の下、四泊五日の修学旅行後の休みを挟んだ実に一週間ぶりの久しぶりの学校に向けて路面電車や走る生徒達に囲まれながらも、父親からもらった杖を背負ったネギは意気込みを包み隠さずその小さな体で現しながら走る。

 アスカは遥か後方でのんびりと歩いているので、並走するのはアーニャ一人だけだった。

 

「直ぐ中間テストよね。憂鬱だわ」

「初っ端からテンションを下げるようなこと言わないでよ」

「事実よ。何時までも修学旅行気分を引っ張らないでよね。また最下位にならないようにテスト対策をしないと」

 

 盛り上げたテンションがアーニャによって現実を見せられ、瞬く間に下がって行く。

 が、アーニャの言うこともまた事実。教師の二人は考えざるをえない現実なので、文句を言う資格は子供であってもない。

 

「目標は最低でも最下位にならないこと。修学旅行で色々とあって遅れてる授業計画の見積もりも早くしないと」

「あ~う~」

「唸ったって何も出やしないわよ」

 

 こういう時はやはり男よりも女よりも現実的なのか、アーニャの方が先を見ていてネギは初っ端の意欲を挫かれてから回復できていない。当人の性格の違いもあるかもしれないが。

 

「そういえばカモは? 帰ってから姿を見ないけど」

 

 この話題ではネギのテンションが上がらないと察したアーニャは話題の転換と合わせ、修学旅行から戻ってから全然姿を見ないオコジョ妖精のことを聞いた。

 

「調べ物があるって僕も知らないんだ。麻帆良にいるとは思うんだけど」

「昔みたいに悪さしてないといいけどね」

「流石にそれはないって」

「罪は消えないのよ」

 

 女の恨みは怖い、とカモが出会った当初に起こした下着ドロのことを未だに根に持っているアーニャに、内心で震撼するネギであった。

 この話題は禁句だと判断し、話題を変えようとするも直ぐには思い浮かばない。

 

「ケンカだケンカ!!」

「部長に五十枚!!」

 

 そんなネギの悩みを振り払うように、聞こえてきた声が一瞬で霧散した。

 

「あれ? あれは……」

 

 騒がしいと思い、気になって声のした方に視線をやるとなにやら人だかりが目に付いた。

 ネギがいる場所はグラウンドと校舎を分けるように建てられている路面電車の通路のために作られた石段の上。登校する学生と事故が起きないように比較的高めに作られているので必然、人だかりの場所を見下ろす形となる。そんな高めに作られている石段のおかげで、どんな騒ぎが起きているのか、ネギのいる場所からはよく見えた。

 そこには推定五十人超の大勢に囲まれた一人の少女がいた。

 随分とガラが悪く不良っぽく制服を着崩したのや、逆に空手着を着た者、剣道の胴着を着た者などの武道家らしき者が多数といった千差万別の人間が揃っていた。共通しているのは格闘技を得意としてそうなことと、皆それぞれ殺気立っていることだが、当の少女は怯えるでもなくいたって涼しい顔だ。

 ネギは彼女を知っていた。

 その少女とは――――――

 

「くーふぇさん!?」

 

 出席番号12番古菲。成績は芳しくなく、バカレンジャーの一人でバカイエロー。日本語を覚えるので精一杯なためと言っているが、目下のところ格闘技にしか興味がない様子。反面、スポーツ全般に強い。

 騒ぎの中心である威圧されそうな人数に囲まれても余裕の笑みを浮かべている古菲の状況に当然ネギは慌てる。生徒を想うネギにとっては、例え本人が余裕の笑みを浮かべていても心配せずにはいられない。

 

「た、た、大変!? く、くーふぇさんが何か悪そうな人達に囲まれて~!?」

「アレは何時もの事にござるよ」

「あら、楓じゃない」

「にんにん、おはようでござる」

「おはよう」

 

 あわわと慌てるネギに、ひょっこりとどこからかなんの脈絡もなく沸いて来た長瀬楓が説明する。着ている制服と持っている鞄から登校途中らしく騒ぎを見つけたか聞きつけたのか。

 ネギと違ってアーニャに動揺はない。修学旅行で古菲と楓の実力を知っているのでどうということはないと分かっているのだ。

 

「「「「「今日こそ勝たせてもらうぞ、中武研部長、古菲!!」」」」」

 

 古菲が構える前に、囲んでいた連中が一斉に飛び掛って合図すらせず乱闘が始まった。 が、そんな会話が終わる頃には古菲は挑戦者たちを一蹴していた。四方から繰り出される攻撃を受け流しつつ、一人一人確実に「ドカバキズガッガッガッポカスカバキッ」という擬音と共に沈めていく。

 

「古は学園の格闘大会で優勝しているから、ああして挑戦者が後を断たないのでござるよ」

「この場合は古菲が強すぎるのかしら、それとも相手が弱すぎるのかしら」

「前者だと思うでござるよ。流石に古菲を普通に分類するのは相手が可哀想でござる」

「楓も?」

「それはどういう意味でござるか」

「さあね。私は分かりきったことは聞かない主義なの」

 

 古菲は麻帆良学園都市で毎年秋に催される大格闘大会「ウルティマホラ」の2002年度チャンピオンであり、麻帆良中の格闘技系の部活動者達から憧れられ慕われる存在である。そのためか毎朝、男子学生の挑戦者が後を絶たない。戦いに勝つことより強敵と全力で戦うことを望む性格。

 そう解説をし始めた楓と言葉を交わすアーニャと違って、ネギは圧倒的な数をものともせず一人、又一人と沈めて行く古菲の姿を呆然と見ていた。ネギは古菲の実力を見たことがなかったのだ。

 

「弱いアルネ。さぁ、もっと強い奴は居ないアルか?」

 

 瞬殺、死屍累々、という単語が似合いそうな圧倒的な力の差が其処に具現化された。順当に沈められた五十人近くいた挑戦者は暫く動けそうになく、このままでは遅刻確定だろう。

 

「ネギ坊主にアーニャ、ついでに楓もニーツァオ!」

「おはようございます、くーふぇさん」

「おはよう、朝から頑張るわね」

 

 周りが歓声や拍手をする中、騒ぎの元であった場所へと歩を進めたネギとアーニャ。

 楓はにこやかに挨拶を返し、後ろを振り返った。

 

「ま、まだじゃぁ!菲部長!!」

 

 どうやらKOしきれてなかったらしい「麻帆高空手愛好会」と書かれたシャツを着た学ラン、ツンツンヘアーの男が立ち上がって殴りかかってきた。

 男が古菲に殴りかかったそのライン上にはネギがいた。意識が半分飛んでいる所為か、それともネギが小さすぎて気付かなかったのか。

 

「うひゃあ!?」

 

 遅まきながらネギも気づくも既に男は腕を振りかぶっており、魔法を使っても避けることは難しい。障壁を張れば防げるが一般人が多くいる場所でそんな不自然な現象を起こすわけにもいかない。

 大人しく攻撃を受けるしかないネギが悲鳴を上げる。

 

「なにやってんだ」

 

 聞き覚えのあり過ぎる声が聞こえてネギが閉じていた瞼を開くと、何時の間にやってきたのか平常時の常である寝ぼけ眼をしたアスカがツンツンヘアーの男の拳を手の平で受け止めていた。

 

「おい、人に殴り掛かる時はしっかりと相手を見ろよ」

 

 受け止めた拳を放り出すと、力を入れた様子はなかったのにツンツンヘア―の男の体が一瞬浮いた。

 それだけで彼我の力の強さを明確に感じ取ったツンツンヘア―の男は情けない悲鳴を上げて逃げて行った。

 

「ったく」

「ありがとう、アスカ」

「ネギもちゃんと周りを見ないといらない怪我するぞ」

「気をつけるよ」 

 

 一瞬だけ鋭くなった目をまた寝ぼけ眼に戻したアスカが礼を言うネギに言いつつ、大きな欠伸をした。相変わらず日常では締まらない男である。

 

「隙有りアル!」

「おとといこい」

 

 一息の間に右の横合いから飛び出して来た古菲が衝いてきた右の拳を、アスカは欠伸をしつつ左手で内側から弾く。

 気を抜いているようでもアスカの感覚から逃れることはできない。

 古菲の攻撃を弾いた左手とほぼ同時に密着するほどの距離に踏み込む。両者が接触するほどの距離から右手を伸ばして手の平をお腹に当てる。

 寸止めで攻撃を終わらせられた古菲は両手を上げて降参を示した。

 

「うぬぅ…………アスカはまた強くなったアルな」

「当然。俺は一日一時間一分一秒で強くなる男だぞ」

「何時まで女の子のお腹に触ってんのよこの変態!」

「痛っ」

 

 ふふん、と鼻高々のアスカに長い鼻はアーニャによって折られるのであった。

 

「ふふ、面白いやりとりでござるな」

「そんな和やかなものじゃないですよ」

 

 やり取りを黙って見ていた楓は楽しそうに呟き、ネギは疲れたように溜息を吐いたのだった。

 

――――――――キーンコーンカーンコーン

 

 響き渡る始業の時間を告げるチャイムの音。

 

「あ」

 

 もっとも早く現状に気づいたのは、やはりというかネギだった。

 腕に嵌めている腕時計を見下ろして時刻は既に始業時間を示していて固まった。

 五人の周りに人はいない。誰もが学生なのだから始業時間が迫っている中でオチオチとコントを見ている暇はない。やり取りに気にはなったが放っておいて各自学校に向かったのだ。

 

「急ぐか」

「走れば十分に間に合うアル」

「にんにん」

 

 慌てるネギとアーニャと違って体育会系三人は言いつつ素早くダッシュをする。瞬く間に見えなくなるその背中に置いて行かれたネギとアーニャは。

 

「「遅刻だ~~~っ!?」」

 

 と、叫びながら慌てて学校へ向かったのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 麻帆良学園女子中等部三年A組、今日の最後の授業は担任教師であるネギによる英語の時間であった。

 修学旅行後で気合の入っているネギはしっかりと授業を行い、問題なく進んでいる。

 

「では―――――次の所を……四葉さん」

 

 当てられた四葉五月が英文を読み終えたところで、丸伸びしたチャイムが鳴り響いた。

 

「それじゃあ今日はここまで。宿題は次の授業までにやっておいて下さいね」

 

 間延びしたチャイムが鳴り授業が終って、ネギが授業の終了を宣言してアーニャと共に教室を出て行く。

 途端に静かだった教室は世界が変わったかのように騒がしさを取り戻す。

 早々と部活に向かうか帰るかで帰り支度をする者、帰る前にトイレに行くのか何も持たずに教室を出て行く者、隣近所の友人と話をしている者、十人十色の中で教科書類を鞄の中に入れた龍宮真名は、何故かジャグリングをしている最後尾のザジ・レイニーデイの後ろを通って足早に教室を出ようとした。

 

「真名」

 

 その真名を呼び止めたのは長瀬楓であった。

 まるでこの先には行かせないとばかりに前を遮り、何時ものように穏やかな表情の中に微かな緊張を滲ませていた。

 

「修学旅行でテロ騒ぎがあったでござろう。その穴埋めにこれから皆でボーリングに行かないかという話が出てるでござる。真名もどうでござるか」

 

 修学旅行の三日目はテロ騒ぎで殆どの生徒がホテルから出ることが出来なかった。その鬱憤を晴らすために計画されたのだと楓は語る。

 しかし、真名の表情は小動もしなかった。

 一度は止めた足を再び進めた。

 

「私はいいからお前達だけで行けばいい」

「そう言わずに」

 

 横を通り抜けようとした真名の腕を楓が掴んだ。

 体格は殆ど変らないながらも、単純な身体能力では楓の方が真名よりも上。力尽くで掴まれては真名も止まらざるをえない。

 

「興味ないと言ってるんだ。手を離せ」

「皆が行くのでござるから、遠慮することはないでござるよ」

 

 にこやかに笑む楓と違って前だけを見据える真名の表情に感情は感じられない。

 行く気はないが、楓の手は無理やりにでもない限り離しそうにない。

 

「離せ」

「っ!?」

「…………その気持ちだけは有難く思う。すまない」 

 

 一瞬だけ本気の殺気を向けられた楓は思わず手を離し、それで真名は自分が何をしたのかを悟って、微かに顔を傾けて気持ちに対してだけ謝った。

 真名は強くならなければならないと自分を戒めていた。言ったように気持ちは有難いとは思っても、クラスメイトとの交流などは煩わしいものでしかない。

 

「真名……」

 

 背後で楓がどのような表情を浮かべているのか、どのような感情を抱いているのか。何時もの真名ならば察せれたそんな簡単な事すらも、今の真名には確認出来る余裕はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 放課後の麻帆良学園都市内にあるボーリング場「TORI BOWL」に何故かアーニャの姿はあった。正確にはアーニャ他数名と3-Aの殆どである。ボーリング場だというのに仕事上がりでスーツから着替えてもいない。本人としてははっきりといって場違いに感じていた。

 

「せめて着替える時間ぐらいは欲しかったわね」

 

 熱気に盛り上がっているボーリング場では、スーツではイマイチに熱気に乗りきれない。どうやらアーニャの中ではスーツを着ているか着ていないかで社会人としてのスイッチが切り替わるようだ。それでも学校という限定空間の中でなら教師という建て前を持って意図的に忘れることも出来るのだが、ボーリング場という共用空間にいるとそうもいかない。

 来ていないのは、こういう遊びに興味の無さそうなエヴァンジェリンの主従と真名、後は他に用事のあった生徒ぐらいだろうか。フロアの半分を貸切っているといっても過言ではない。

 見渡せば数レーンは麻帆良学園女子中等学校の制服を着た騒がしい少女達が大量にいて占拠している。

 そしてその少女達の中に男は子供三人。女に縁のない世の男共ならば嫉妬のあまり藁人形に五寸釘を打ちつけるところであろう。

 

「どうだ、ストライクだ!」

「俺もやで!」

 

 張り合ってボーリングを楽しんでいるアスカと小太郎はどうでもいい。本当に心底どうでもいいとアーニャは溜息を吐いた。

 

「むむ、難しい」 

「難しいですぅ」

 

 運動が苦手なメンバーで固められたグループの中で、投げ方から力の入れ方まで考え込み過ぎて変なことになっているネギと、ネギと同じようにボーリングは得意ではなさそうな宮崎のどかの二人が微妙に甘酸っぱい空気を作ってるのもどうでもいいと思い込む。でないとやっていられない。

 

「良いわよね、みんな単純で」

 

 現実逃避気味に呟いているアーニャのいる場所からは、ボーリングをしている生徒達の後ろなので先ほどから短いスカートから見えてはいけないものが見えてしまいそうでハラハラしていた。

 ここが千草の家ならば、最近彼女の家で飲むようになって好きになった緑茶が欲しくなるだろうという時に、再び軽快な音が鳴り響き古菲が投げたボールが見事に10本ピンを全て倒す。つまりストライク。

 

「うおおっ。すげっ、7連続ストライク!!」

 

 裕奈と亜子が適当なフォームで脅威の連続ストライクを取った古菲に驚く。

 

「負けんで!」

「一番は俺だ!」

 

 古菲の連続ストライクに触発されて、小太郎とアスカが同じようにボールを転がしてストライクを取る。

 二、三度やるだけで簡単にストライクが取れるようになった二人が妬ましいと感じる年頃のアーニャだった。パッと見では見様見真似で適当に投げているのにストライクを取れるのだから体育会系は中々に理不尽である。

 

「うち、全然ダメやわ~~。21点やし」

 

 完全に観戦モードのアーニャの隣に、投げ終わった木乃香が苦笑して座りながら自分の成績のボードを見て悲鳴を上げた。その下の方にアーニャの得点が表示されていた。木乃香よりも下である。

 

「アーニャちゃんはウチと同じでダメダメやな~」

「アスカ達みたいにちょっと見てやっただけで簡単に連続でストライクを取れる方がおかしいのよ。私はおかしくない」

 

 自己防衛の呪文みたいに、もう一度「私はおかしくない」と繰り返しても虚しいだけである。

 「あはは」と笑っていた木乃香は寂しそうに辺りを見たのを、暗黒モードに突入しかけていても見逃さなかったアーニャはその原因を知っていた。

 木乃香の周りには大体明日菜か刹那のどっちかがいる。

 頭はともかく運動神経は抜群に良い明日菜はアスカらとトップグループで楽しんでいるのでともかくとして、刹那の姿はボーリング場のどこにもなかった。

 

「刹那は、来なかったの?」

「……うん。剣の修行するからって」

 

 昨日は会わなかったが今日の刹那は明らかに精彩を欠いていた。この間の『エンジェルさん』のことで何か思うことがあるのだろうかとアーニャは考えたが、推測に過ぎないので口には出さなかった。

 

「修学旅行の終わりの頃から、なんか避けられてるような気がすんねん。うち、なんかしたかな」 

 

 事情を聞けば、何時もなら話をする時は相手の目をハッキリと見て話すのに、今日はどこか視点が曖昧で瞳の周辺を彷徨っている感じで、雰囲気も寄せ付けないとまでは言わないが距離を置いているように思えると。

 本当に僅かな距離。それがどうしても気になった。避けているわけでもなく、気持ち的にどこか一線を引かれているようで気になっていた木乃香の目に涙が浮かぶ。

 寂しそうに、そして悲しそうに表情を歪める木乃香から視線を外して周りの様子を観察した。

 どうやらみんなボーリングに熱中してこちらに注意を払ってはいないようだ。話をするにしても首を突っ込んできやすい彼女らがいては出来るものも出来ないので好都合だった。

 

「私の主観だけど、木乃香は何もしてないわ。刹那は自分のことで何か思うところがあるんだと思う」

「自分のことで?」

「剣の修行をするってちゃんと言ったんでしょ。前と違ってちゃんと話をしてるんだから気に病むことはないわ」

 

 刹那は何かを隠している、と早い段階でアーニャは気付いていた。そしてその秘密が今回の件に関係しているのではないかと漠然とした予感があった。

 

「私も出来るだけ力を貸すからそんな顔しないの。美人が台無しよ」

「アーニャちゃん……」

「アスカとネギも、明日菜だって私達の味方よ。ネカネ姉さんも千草先生も小太郎もこっちについてくれるわ。刹那に逃げ場なんてないわよ」

 

 ウィンクをすると木乃香はようやく笑ってくれた。

 

「似合ってへんで、ウィンク」

「うるさいわね、分かってるわよ」

 

 話して気分転換にはなったのだろう。木乃香は顔を洗ってくると言ってこの場を離れていった。

 思ったよりも重くなった話に溜息を吐き終わり、顔を上げると何時の間に来たのか近くにまき絵が立っていて物問いた気に見ていた。

 

「なに、まき絵?」

 

 自分に用があるのだろうことは目を見れば分かったので、面倒事は早くに済ませるに限ると問うた。

 

「アーニャちゃんは大人だよね」

「いきなりなに」

「木乃香の相談に乗って励まして…………私には出来ないと思って」

 

 勝手に言って勝手に落ち込み始めたまき絵にアーニャは頭痛を覚え始めた。何が楽しくて遊びに来てストレスを感じなければいけないのかと理不尽を感じていた。

 

「私が言ったことなんて誰にでも出来ることよ。まき絵にだって出来るわ」

「出来ないよ、私には」

「もっと周りを良く見て考えて、そういうことが当たり前になってくれば自然と視野も広がるわ。私はそう教わって、大人に近づこうとしているだけよ」

 

 アーニャは完璧超人でも天才でもない。当たり前の話だがやったことのないものまで最初から完璧に熟せるはずもない。

 人間は大別して三つに分かれる。

 言われずに出来るのが『天才』。言われたら出来るのは『優秀』。言われても出来ない『凡人』。

 よく自分には才能無いとか向いてないとか言っている人間がいるが、それでも言われたら大抵のことは出来るようになるものである。実は十分『優秀』な奴が多かったりするものだ。逆に何も言われずに出来る真性の『天才』っていうのはそんなに居ないのだが。

 本当に才能が無くて向いてない者は言われても出来ない。何故だと聞かれても理屈ではないのだろう。そもそも理屈が分かっていれば苦労はしない。

 アーニャは『天才』ではない。かといってこの分類では『凡人』とも言えない。

 だから、能力や資質には先天的な差があっても平等なまでに不平等な現実に嘆く暇があるのなら出来るまで繰り返すしか無いと、割と早い段階で学んだ。秀でた才能を持たないにも関わらず強くなるしかなかった彼女に出来るのは反復だけ。

 繰り返していけば何時か実る事もある。成就が遅い事は多々あれど、完全に無理なんて状況は実はそんなに多く無い。並外れた才能に恵まれずとも『人』と『能力』には恵まれたのか、多くの師から学んできた。

 

「大人に近づく、か」

「大人は大人として生まれるのではなく子供から少しずつ大人になって行くって、お爺ちゃんの受け売りだけどね。実践してるつもりよ。まだまだだけど」

 

 アーニャの言葉に思うところがあったのか、まき絵は言葉の意味を刷り込むように繰り返した。

 悩みに答えが出たのか、それとも指針が出来たのか。

 まき絵はスッキリとした表情で「ありがとう」と言って離れて行った。

 結局、アーニャにはなんのことか分からなかったが、当人が納得したのならいいかと自分に言い聞かせ、頭を動かすよりは良いだろうとボーリングをしようかと腰を浮かせかけたところに「アーニャちゃん」と再びかけられる声。

 

「今度は何! って明日菜じゃない」

「何ってこっちの台詞よ。もしかしてご機嫌ななめ?」

「そういうわけじゃないんだけど、まあ色々とあるのよ」

 

 やってきたのは明日菜だった。

 また相談かと思うと神経が逆立ってしまったようで、一瞬の激発を無関係の明日菜に向けたことを恥じるように顔を逸らした。

 明日菜も気になったようだが、特に聞いてこなかったことは助かったのかとどうか。

 明日菜が隣に座って、他愛もない世間話をしていると満を持して明日菜が核心を切り出した。

 

「────修行?」

「就学旅行の時に痛感したの。従者としてやっていくなら強くならないといけないって」

 

 ハワイで戦ってみて一つ間違えれば取り返しがつかない事もあることを理解し、人よりも体力があるって言っても戦いの中じゃそんな事全然関係無いことを分かった上で戦い方を教えて欲しい、と相応の決心が込められた瞳を向けられると真摯に応えなければならない気持ちになる。

 

「止めておいた方がいいと思うけど」

 

 アーニャとしてはお勧めは出来ない。

 現時点でも主従の力の差は歴然で、アスカの才能は桁外れだ。追従できるとしたら別方面の才能があるネギぐらいだと魔法学校時代に気づいている。

 エヴァンジェリンに師事して今後ももっと強くなっていくだろう。明日菜にも才能がないとは思わないがアスカほどではないはず。この差は恐らく変わらない。寧ろもっと広がって行く一方となるだろう。

 

「また何も出来ないなんて嫌なの」

 

 そう言われれば、アーニャは弱い。

 スプリングフィールド兄弟の並外れた才能に何時か置いて行かれるかもれない恐怖に怯えていたアーニャであるからこそ、同じ想いを抱く明日菜を否定することは出来ない。

 自分から首を突っ込むかそうではないかは別にして、従者である明日菜が自分である程度の戦闘を潜り抜けられるようにすることは必要なのかもしれない。

 ふと、アーニャの脳裏にある考えが過った。

 

(エンジェルさんで木乃香の魔力が不安定になっていて早急に制御しないと危ないって千草は言ってたわよね。確かエヴァンジェリンの手を借りるとも)

 

 先日のエンジェルさんの時に霊に取り憑かれ、魔力を多量に放出した所為で木乃香の中の安全弁が緩んでいるとの診断が下された。今は魔術具で抑えられているが、木乃香の魔力容量は巨大だ。早急に制御能力を身に着ける為、超高位魔法使いであるエヴァンジェリンが指導する話が出ていたのを思い出す。

 木乃香がエヴァンジェリンの所に顔を出すとなれば絶対に千草は刹那を付ける。

 

(明日菜の教師役を刹那にすればいいのよ。明日菜のアーティファクトって大剣でしょ。神鳴流が扱う野太刀も大きいし、二人は仲も良いから適役じゃない)

 

 神鳴流は魔物や怨霊を退治する退魔師の一族に受け継がれる剣の流派。長大な野太刀を駆使した一刀流の技が多いが、小太刀を併用した二刀の使い手も登場する。また「神鳴流は武器を選ばず」とされ、剣術以外の体術でも攻撃力は落ちない。

 素人の明日菜に学ばせるには格好の流派であると、この考えが後の厄介な事に結びつくと知らずに考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは不機嫌だった。その不機嫌さを表情と態度に出さない程度には。

 

「…………よく来た。まあ、上がれ」

 

 やってきた客に家主であるエヴァンジェリンは尊大に言った。

 エヴァンジェリンの不機嫌な原因は「お邪魔します」と言った客の中にいる。

 スプリングフィールド兄弟とアーニャは問題ない。彼女自身が招いた客である。

 木乃香に関しても千草経由で詠春と学園長から話が通っているので問題はない。数日前に頼まれたことだが、修行において回復役が傍にいることはプラスの要素に働くので教えるのは面倒ではあるが受け入れないほどではない。

 木乃香の護衛として付いてきた刹那も予想の範疇である。ここ数日は離れ気味であるが今までを思えば、木乃香の行くところには刹那がいることは自明の理。木乃香が絡まなければ物静かなタイプなので、少なくとも害になりはしない。

 

「よろしくね、エヴァちゃん」

 

 問題は、不遜にも吸血鬼の真祖であるエヴァンジェリンに小さな子供に言うように言い方をする神楽坂明日菜にあった。

 アーニャに頼まれたことではあるが早まったと思わないでもない。

 当初の予定の三人が五人になれば、一人二人増えたところで大したことはあるまいと考えた数時間前の自分を呪おうとして、益にもならないので思考を遥か彼方にうっちゃることにした。

 思考の切り替えは長いことを生きていると慣れによって簡単に出来る。明日菜の扱いは木乃香の修行の間は空く刹那に任せるつもりなので、面倒なことは考えずに話を進めるに限る。

 

「まずは二階へ来い。始める前に話すことがある」

 

 二階に上がって全員を座らせたエヴァンジェリンは、茶々丸に用意させておいたボードの前に立って何かを書き始める。

 

「では、始めるか」

 

 エヴァンジェリンは眼鏡を掛けて小さいながらも女教師を気取り、真剣な目を向けてくるスプリングフィールド兄弟とアーニャ、木乃香を向かい合うように座らせて笑みを浮かべていた。

 意外と教師と言うか、我ながら物を教える職が向いているのかもしれないと自画自賛する。途中経過に問題はあっても、格好はともかく引き受けた以上は本気でやるのがエヴァンジェリンである。

 

「先生、ボードに何が書いてあるのか読めません」

「私も」

「うちも」

 

 シュタッとノリ良く手を上げたのは明日菜。続いたのは刹那と木乃香。

 ボードに書かれているのは日本語と違う言語で、三人には辛うじて文字としか判別できなかった。

 

「俺も読めん」

「ラテン語なのだ、ほぼ素人の二人と呪術士系の刹那が読めないのはいいとして――――――アスカ、お前が読めないのは問題ではないか」

 

 何故か自信満々に手を上げたアスカにエヴァンジェリンは確実にげんなりとしていた。

 ラテン語は魔法を習う上で欠かせない言語で、魔法学校で確実に学んでいるはずである。見習い魔法使いとはいえ、現役の魔法使いが読めないのはおかしいのだ。

 

「アスカも読めないわけじゃないんですけど……」

「エヴァンジェリンの字が達筆過ぎるのよ。綺麗な字って逆に読み難いから文字を形で覚えているアスカじゃ、読めないはずだわ」

「ぬぅ」

 

 ラテン語が読める二人にそう言われては、エヴァンジェリンも唸るしかない。

 字が上手過ぎるのが原因だとするならば不満やらも抑えられると自己完結し、多数が読めなくとも口頭で説明してしまえばいいと話を続けることにした。

 

「アスカ達三人の魔力容量は強大だ。トレーニングなどでは強化し難い、言わば天賦の才。ラッキーだったと思え」

 

 話を進めるエヴァンジェリンにネギ達は視線で言葉を交わし、触らぬ神に祟りなしと触れないことにした。

 

「それは努力とか訓練とか、そういうのは関係ないの?」

 

 アーニャに引き込まれた明日菜が疑問に思ったのか、何となく疑わしげにエヴァンジェリンを見上げる。

 

「なくはないさ。どんな才能があろうと、それを仰する制御力がなければ、いざ解放しても無駄が目立つだけだしな。例えばネギも見習いという観点から見れば中々だが、私から見れば及第点も与えられん」

 

 エヴァンジェリンは言いながら、ネギを指差す。指差されたネギは落ち込んだが。

 およそ、曲がりなりにも魔法と名のつくものを扱える人間ならば、他の魔法使いが魔法を使った時に魔力や術式というものが感じることが出来る――――――――その構成の精度や込められた魔力から、ある程度の相手の力量を把握することが出来る。

 もっとも、ネギの目から見たら、エヴァンジェリンが扱う魔法の術式は、自分の物とは次元が違いすぎて教えられても理解すらも出来ないが。

 

「だがそれにしても、先天的な魔力の大きさというのは重要だ。こればかりは、そうだな……………………例えば身長なんかと同じでどんなに頑張っても、天賦のもの以上にはできない。ある程度には、成長させることはできてもな」

 

 子供から大人に経るまでに年を取っていけばある程度は成長する。が、持って生まれた天凛以上には絶対に増やすことは出来ない。魔力量によって一回の魔法で使える魔力も変わって来るのであれば、恵まれた資質はそれだけで魔法使いの技量を左右する秤になりうる。

 

「が、何事にも例外というのは存在するものだ」

 

 と言ってエヴァンジェリンが見たのはアスカである。言われた当人は何のことかさっぱり理解できずに首を捻っていた。

 

「アーティファクトである『絆の銀』の副次効果だろう。出会った頃よりも魔力が上がっている。合体によって魔力を受け入れる器が広がっているのだろうな」

「そうなのか」

 

 普通なら学会に出して研究するような話なのにアスカの返事は淡泊だった。

 エヴァンジェリンがそのことに気づいたのは必然である。

 魔の者であり人間ではない存在と合体した悪影響はないかと観察していたからこそ気付けた。

 元よりエヴァンジェリンは『絆の銀』を全面的に信用などしていなかったのだ。落とし穴はどこにだって必ずあると思っていたら案の上であった。アスカの腕にある見えざる紋様を彼女だけが知っていた。

 

「合体以外にも効果あったんだ」

「暢気すぎるわよ、ネギ」

「でも、アーニャ。魔法使いにとって魔力が上がるのは良いことじゃないの?」

 

 理論派であり、生まれながらに莫大な魔力を持っていたネギには理解しにくいのかもしれない。普通の魔法使いレベルの才能と資質しか持たないアーニャには理解できない思考回路だった。

 

「いい? さっき、エヴァンジェリンが魔力量は天賦の物以上に出来ないって言ったでしょ。アスカはそれをしてるのよ。アーティファクトの効果と言っても異常なの。他に身体にどんな悪影響が出てるか分からないわ」

 

 どのような方法を試しても大して魔力量を上げれなかった自分とは違い、とアーニャは内心で一人ごちた。

 

「なんともないぞ、俺は。魔力が上がってる実感もないし」

「それはそうだろう、アスカ。お前の魔力の扱い方は最大か最少のどちらか。扱えているとはとても言えた物ではない」

 

 アスカの性格を熟知しているつもりのエヴァンジェリンは密かな頭痛を覚えつつも、脱線している話を戻すべく三人が作り上げる奇妙な雰囲気に切り込んだ。この秘密を誰かに語るつもりは彼女にはなかったから。

 

「アスカはまず自らの莫大な魔力を制御、使いこなさなければならない。その為には『精神力の強化』。或いは『術の効率化』が必要になってくる。どっちも修行だな。これはお前達にも言えることだ」

 

 白いチョークで黒板をカンっと軽く叩いて、黒板に図として魔力が大きいだけでは何の意味もないと説明するエヴァンジェリン。

 

「ちなみに『魔力』を扱うためには主に精神力、『気』を扱うためには主に体力といったところだ。気と魔力は相応の練習がなければ相反するだけだ。特に近衛木乃香から魔力供給を受ける刹那は覚えておけ」

 

 そこで一旦言葉を止め、刹那が頷いたのを確認したエヴァンジェリンは木乃香に向き直る。眼鏡を外し、真剣な目で言葉を紡ぐ。

 

「それと近衛木乃香。貴様には千草から通して詠春からの伝言がある」

「父さまから?」

「ああ、魔法についてもいろいろと教えてやってほしいとのことだ。理由は知っての通りだ」

 

 面倒くさいだなんて思いつつも報酬を貰っている以上は下手に手も抜けない。「面倒くさい」なんていう本音を小声でぶつぶつと呟いているが。

 

「うちは魔力量が多いて言われたけど、具体的にどれぐらいなん?」

「む」

 

 木乃香の問いにエヴァンジェリンは気を害したように流麗な眉毛を顰めた。彼女にはあまり触れられたくない質問らしい。

 言うべきか言わざるべきかと視線を流して、やがて諦めように視線をとある人物に定めた。

 

「単純にこの中で潜在魔力量が高いのはアスカだ。近衛木乃香、お前はその次になる」

 

 エヴァンジェリンはまず初めにアスカを見た。次いで、その視線を木乃香に向けた。

 アスカの方が魔力量が多いと知らされた木乃香は残念そうに眉尻を下げた。

 

「二番目かぁ。一番やないんやな」

「…………何も知らないって凄いわよね」

「分かるか、アーニャ」

「ええ」

 

 木乃香の呑気な反応に遠い目をしたアーニャは、苦い物を呑み込んだように苦み走った表情を浮かべるエヴァンジェリンと気持ちを共有する。

 

「いいか、近衛木乃香。貴様の魔力量は極東一と言われている。分かるか? 数億に及ぶ極東の中で一番ということは、貴様の魔力量は世界でも有数のものなのだ」

「でも、アスカ君よりは下なんやよね」

「それはそうだが、比べる対象としてアスカは間違っているぞ」

「じゃあ、エヴァちゃんやネギ君達とはどれぐらいの差があるんやろ」

 

 無邪気な木乃香の質問。突っ込まれたくない話題にエヴァンジェリンの頬が若干引き攣った。

 

「貴様に数段劣ってネギが、更にその下が私だ。だが、お前達は自分の魔力を全く扱えていない。真っ向から魔力勝負をすれば、アスカが相手だろうが私が絶対に勝つ」

「つまり、エヴァちゃんが一番魔力低いってこと?」

 

 傍から聞いていれば言い訳染みた論理を正確に論破する明日菜。自分と関係のない話に退屈にそうにしていた者とは思えない突っ込みであった。

 

「魔力が一番低いのは私よ。それも断トツにね」

 

 自嘲するように、歪んだ笑みでアーニャは自分を卑下した。エヴァンジェリンは否定しなかった。

 

「そうなん?」

「ええ、伊達に『平均的な魔力量の女』なんて呼ばれてないわ。そうね。分かりやすく言うなら木乃香は私が数十人、下手をすれば百人以上いてようやく同じぐらいの魔力になるんじゃないかしら」

 

 木乃香の疑問に普通に笑って胸を張るアーニャ。その内心と今までの努力を知るネギとアスカは何も言わない。言えるはずがない。

 見抜いたエヴァンジェリン以外に知られることなく、アーニャは木乃香に顔を向けて説明を続ける。

 

「気をつけなさい。人並み外れた魔力なんてものは自衛能力がないと危ないわよ」

「怖いこと言わんといてえなぁ…………って、なんで目を逸らすんアスカ君、ネギ君。しかもせっちゃんまで」

 

 脅しとも取れるアーニャの凄みに最初はにこやかに笑っていた木乃香だったが、裏方面の人間が次々と目を逸らしているので不安を感じるようになっていた。

 

「便利な魔力タンク」

「儀式の生贄」

「「その末路は……」」

「ちょっとお二人とも、不吉なことを言わないで下さい! 本当のことですけど」

「だって」

「なぁ」

 

 ネギとアスカの絶妙な合いの手に、流石に温厚な刹那も立ち上がって物申した。

 当の二人は「何を当たり前のことを」とばかりに顔を見合わせるだけで、あり得る可能性を口にしただけで特段気にした様子もない。 

 

「煽るな貴様ら。話が進まん」

 

 イマイチ危機感の足りない木乃香にいい気味だと楽しみながら眺めていたエヴァンジェリンが止めに入るも、その理由が話が進まないことに呆れたのだから救われない。

 

「便利な魔力タンクだとか、生贄になるのを回避するために自衛の手段を手に入れるのだ…………ええい、メソメソするな!」

「トドメを刺したの、エヴァちゃんよ」

 

 衝撃の事実に母が守ってやると言わんばかりに涙目の木乃香を胸に抱えた刹那の目にイラつき、いらない一言を口にした明日菜を睨んで怯ませるのであった。

 ゴホン、と咳払いをして空気を元に戻す。

 

「これからの修行の方向性を決める為に自分の戦いのスタイルを選択してもらう」

「戦いのスタイル、ですか?」

「まぁ、既に決まっているようなものだがな。簡単に言おう」

 

 エヴァンジェリンが指を二本立てて挙げた進むべき道は二つ。それは『魔法使い』と『魔法剣士』であると。

 ゲームの話のようだが、これは魔法使いの戦闘スタイルを大きく二つに分けるための、便宜上の言葉である。

 魔法使いの戦闘スタイルは、大きく分けて二つ。前衛における戦いを仲間に任せ、自らは後方から強力な魔法を放つ『魔法使い』タイプと、自らも前衛に出て戦う『魔法剣士』に分かれると説明した。

 ネギが魔法使いタイプかと言えばそうでもない。

 単純な話、杖を持っているといってもネギはどちらにもなっていない未熟な魔法使いだということだ。

 魔法世界を別にして、魔法が一般に知られていない旧世界では杖を持って歩くなんて怪しすぎる。一流ともなれば別の魔法発動媒体を持っている。

 話しを聞いていたネギがふと気になった事を尋ねたように口を開いた。

 

「一つ聞いてもいいですか?」

「何だ?」

「父さんは、サウザンドマスターのスタイルは?」

 

 やはりと言うべきか、ナギの戦闘スタイルを聞いてきたことにエヴァンジェリンは笑った。

 

「フッ、言うと思ったよ」

 

 フッと笑みを浮かべるエヴァだが、それには苦笑の意味も込められていた。

 この二つのタイプの分類自体が、強い魔法使いになればなるほど、意味がなくなっていくと言う事だ。サウザンドマスターのタイプを聞いたところで、今のネギにあまり意味は無い。本来、未熟な魔法使いを育てるための指針であり、それがそのまま戦闘スタイルの話として使われているだけに過ぎないのだから。

 

「私の戦いを見れば分かるように強くなってくれば、この分け方はあまり関係なくなってくる。が、敢えて言うなら奴のスタイルは『魔法剣士』、それも従者を必要としないほど強力な、だ」

 

 それを聞いたネギは「やっぱり」と頷き、どこか納得した表情をしている。子供の頃に、一度だけ父の戦いを見ているので、その姿を今の話に当て嵌めて考えているのだろう。

 『魔法使い』を目指すからと言って白兵戦をしてはいけないと言うわけではない。『魔法剣士』が速度ではなく威力重視の魔法を使ってはいけないわけでもない。後衛で砲台となるのが役目である『魔法使い』と言っても、危険に晒される事だってある。そのような時のために、自分の身は自分で守れるぐらいの自衛手段を身に付けておくに越した事はない。『魔法剣士』もそうだ。白兵戦の技術しか持っていなければ、おのずと射程が短くなっていき、距離を取られてしまうと何もできなくなってしまう。その為に遠くを狙い撃つための重火力の魔法を隠し持っている事はさほど珍しい話でもなかった。

 

「で、どうするのだ? 決めたのか」

「考えるまでもないわね」

「俺が魔法剣士で」

「僕が魔法使いと」

 

 何故かアーニャが偉そうに胸を張っていたりしたが、現在の戦闘スタイルが決まっているアスカとネギに迷いはなかった。

 

「しっかし、魔法使いに戦闘スタイルがあるなんて初めて知ったな」

「仕方あるまい。魔法学校とは未熟者以下の卵達が魔法使いとしての基礎を学ぶための場所だ。そもそも戦闘だけに特化した魔法使いの方が少ないのだから、学校で戦闘者としてのスタイルを教えるはずがない」

「納得。ネギが覚えた戦闘用魔法の大半も授業で覚えたものじゃないしね」

 

 戦闘スタイルがあることに感心しているアスカに説明しているエヴァンジェリンの言に、アーニャは深い納得と共に頷いた。

 魔法学校卒業組の三人の中で最も覚えている魔法が多いネギにしても、殆どが禁呪書庫に侵入して血の滲むような思いをして独学で身に着けたものだ。魔法学校はあくまで学び舎であり、戦闘者を育成する場所ではないのだから。

 

「近衛木乃香は魔力の扱いに慣れることだ。私に任されているのはそれまでに過ぎん」

「うちにはせんとうすたいるとかはええの?」

「何故肝心なところが棒読みなのだ? まぁ、そもそも戦闘なんて柄ではないだろ」

「確かに木乃香が戦うなんてシュールな図よね」

 

 何か納得いっていない様子の木乃香はともかく全員の脳裏に、明日菜が言う通り木乃香がポワポワとした様子で戦闘をしている姿を想像して「ないな」と共通の見解を持ったのであった。

 

「神楽坂明日菜の面倒は刹那、お前が見ろ。私は知らん」

 

 投げっ放しとしか聞こえない言い方であるが、事前に話しは通っていたので刹那は頷き、言い方が気に入らないと顔に書いてある明日菜も殊更に文句を言いはしなかった。

 エヴァンジェリンの性格を考えれば、文句を言って機嫌を損ないでもしたら追い出されかねないことは明日菜も良く解っているので無駄に波風を立てようしない。この中で立場的にいる必然性が薄いのは明日菜なのだから。

 

「では、次に目標を決めてもらう」

「目標?」

「目的地も決めずに歩き出す馬鹿はいない。各々で決めておけ」

「俺達はもう決まってるぞ」

「ほう……」

 

 ネギと視線を噛み合わせたアスカが不敵に笑ったのを見て、エヴァンジェリンはナギと言うのだろうと推測した。

 スプリングフィールド兄弟のことを良く知っていれば難しい答えではない。

 

「ドラゴンを斃せるぐらいにだ」

「は?」

「まずはそれぐらい強くなりたいよね」

 

 予想の斜め上を飛び越えて地球を突破するぐらいにありえない決意表明だった。

 エヴァンジェリンは自分の耳を疑い、アーニャ以外の全員が唖然としているのを見てとって聞き間違いではないと確信が持てた。

 

「待て。過程が飛んでいるぞ。何故、いきなりドラゴンが出て来た」

「学園の地下にいて、アイツがいると親父の手掛かりが手に入れられないんだ」

「だから待てと言っているだろう。結果を言うな。過程を言え、過程を。お前達には周知のことでも私にはさっぱり意味が分からん」

 

 頭痛を覚え始めたエヴァンジェリンはいい加減に付き合っていられないと、アーニャを見て説明を求めた。

 指名されたアーニャは仕方なさそうに事情を説明し始める。

 

「――――――――つまりは、京都で詠春から受け取った地図が麻帆良の地下を描いたもので、そこにナギの手掛かりがあるらしいから行ってみたらドラゴンが門番をしていただと」

「嘘のようだけど本当よ」

 

 この目で見たのに信じたくはないけど、と本音を覗かせてアーニャは嘆息した。

 エヴァンジェリンも麻帆良の摩訶不思議さには呆れていたが、まさか地下に門番をしているとは想像も出来なかった。

 

「そのドラゴンは魔法障壁を持っていて、低位魔法を弾いてしまうんです。地下を壊さないようにしようと思うと高位魔法は使えないですし」

「倒せないならネギが囮になって誘導して、離れた隙に突破しようとしたら『斃さないと扉は開きません』なんてアナウンスが流れたんだよ」

 

 能天気にその時の話をするスプリングフィールド兄弟と、その内容にエヴァンジェリンは修行前から不貞寝したくなった。

 

「前振りが長かったが早速修行を始める。地下へ来い」

 

 やけになったエヴァンジェリンはさっきの話を横にうっちゃり、笑顔で地下へと誘った。それがまるで地獄への切符を差し出してくる死神のようだと、言った当人と茶々丸以外の全員が思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスカの視界360度、辺りを見渡せば遠間に見えるのは水平線だけという奇妙な場所。恐らくはどこかの屋上中央。まるで中世ヨーロッパの城の庭にあるような白い円盤型の屋根のある建物や、何故か椰子の木があるものの、それはさておき、アスカの表情は苦悶に満ち満ちていた。

 

「ぬぐううううううううううううう!!」

 

 辺りにアスカ・の叫びというか呻き声が響き渡っていた。

 それもそのはず、なんとアスカは指一本で逆立ちしていた――――エヴァンジェリンが作り出した氷柱の針山の尖がり上に。その状態で既に一時間以上も魔力を収束して身体を何とか支えているが全身は汗びっしょりで、支えている筋肉はプルプルと末期の如く震えている。

 

「もう、へばったのか。情けない奴だ」

 

 アスカの苦痛に満ちた呻き声が響き渡る。もはや限外寸前というアスカを前にしてエヴァンジェリンは他人行儀な感じどころか遠慮も呵責も無い。

 

「一…………時間…………も……こんな…………こと、を……して、れば…………充分、だろっ!」

「強くなりたいと言ったのはお前だろう? お前が強くなるにはこれが一番手っ取り早い」

 

 汗をダラダラと流し、掛かっている負荷でやばい感じに身体が震えだしてきたので堪えかねたアスカが叫ぶも、エヴァンジェリンはしたり顔で語る。

 

「アスカの最大の欠点は強大な魔力がありながらも全く活かせていないことだ。お前の魔力ならば全身の身体強化と針先への一点集中を必要な分だけ行っていれば、丸一日やっていても余裕なはず。苦しいのはそれだけ無駄が多い証明だ」

 

 長時間姿勢を維持したければ魔力の放出を限界まで抑え、かつ長時間安定させるという二重の作業を行わなければならない。大容量のエネルギーというのはえてして制御が難しいので、出来なければ針がアスカの身体を串刺しにして文字通り身体に穴が空く事態が待っている。

 

「こう、もっと…………マシな、方法が…………ある、だろ!!」

「喚いてないでそのまま後、三時間続けろ。まあ、途中で指を変えるぐらい許してやる」

 

 今もアスカの人差し指から放出している魔力が針先が刺さらないように全体重を支えていて、既に限界間近だというのにエヴァンジェリンは無茶を言う。

 

「言っとくが、サボったり、落ちたら地獄を見ると思え。自動人形に見張らせているから直ぐに私に伝わるからな」

 

 エヴァンジェリンの背後にいた茶々丸に似ている自動人形が一礼する。

 この自動人形は茶々丸よりも更に表情に乏しく、まさしく人形そのものといった風情でアスカを見ている。この場合は監視していると言った方が正しいか。

 

「あ、悪魔め!」

「良く言われた物だ」

 

 逃げ場を失くされ、当のエヴァンジェリンはアスカが苦しんでいるのを見て明らかに喜んでいる。アスカが叫ぶのは無理はなく、何度も言われ慣れているエヴァンジェリンは鼻で笑うのみだった。

 

「この程度でヘコたれるのか。お前の思いはその程度か?」

 

 傍目にはイジメのように受け取れるが、エヴァンジェリン曰く『これくらい当然だ』と何事も無いような表情でアスカに発破を掛ける。

 

「くっ…………だからってこんなのを三時間もやってられるか!!」

 

 下剋上とばかりに氷柱の針山の上で跳躍した。

 元よりアスカは手っ取り早く最短コースを進むのが好きで、長い時間をかけて何かをするのが嫌いなのだ。

 即断即決、結果は直ぐに知らないと我慢に出来ない性格。こんなだから好きなことは継続出来ても試験勉強は一夜漬けで、しかもそれでなんとかなってしまうのだから始末が悪い。

 

「その気概や良し。一時間は持った褒美だ。いいモノを見せてやろう」

 

 言われたことだけを唯々諾々と従うような弟子を取る気はエヴァンジェリンにない。修行の内容を理解し、どう活かせるかを考えられなければ遣り甲斐がない。

 元よりアスカが大人しく従うとは思っていないエヴァンジェリンは、予想通りに反逆を敢行したことにそうこなくてはと唇の端を吊り上げて笑みを浮かべる。

 序盤ではエヴァンジェリンの楽しみが少ない。魔力を以って暴れられる事こそが、彼女にとっては重要なのだ。

 

「手加減してやる。耐えてみろ」

 

 宙に飛び上がったものの、先の一時間で疲労が頂点に達しているアスカの隙は大きい。こちらに向かって降りてくるアスカを迎え撃つように自ら飛んで接近する。

 接近に反応して防御しようとした右手を掴んで開いた胴体に己の右手を当てる。この攻撃自体に威力は無い。真価はこれから明らかになる。

 エヴァンジェリンが掌底をアスカの胴体に入れると同時にポッポッと腕の周囲に光が起こる。

 

「うばぁお――っ!?」

 

 無詠唱による雷の魔法の射手を叩き込んで、バチィッと何かが弾けたようにアスカが体が悲鳴と共に吹き飛ぶ。

 攻撃を仕掛けようとしたところに不意の接近で詠唱時間ゼロの魔法で追撃。アスカは成す術もなくその攻撃を食らってしまう。

 威力そのものは怪我をしないように手加減されているので大した事はないのだが、如何せん速いため防御したり反撃を狙う暇が無い。後、「雷」の魔法の射手なので付加効果で痺れる。

 

「リク・ラクラ・ラック・ライラック 来れ、虚空の雷、薙ぎ払え」

 

 しかも、大締めはここからが本番だと詠唱しながら両手に紫電を纏わせるエヴァンジェリン。当然、狙いは弾き飛ばされて落下中のアスカ。

 さっきまでのただの打撃と無詠唱の一撃に過ぎず、最後はやはり詠唱魔法による追撃。

 しかし、先程の雷の魔法の射手で体が痺れて目下落下中のアスかには、対処しようにも体勢を立て直す時間すら与えられていない。出来る事があるとすれば、不完全でも魔法障壁を張って身を守るぐらいだ。

 

「雷の斧ッ!!!」

 

 短い詠唱の後に放たれる力ある言葉と共に放たれた雷の精霊は、魔法名と同じく巨大な雷の斧となって、その刃をアスカ目掛けて容赦なく振り下ろした。

 

「あぼぉおおおおおお―――――っ!?」

 

 荒ぶる力は容易く障壁を突き破って、アスカの身体を貫いていく。

 この時、アスカは身を以って理解した。本人も言った通り無論手加減はされたものだがそれでも威力は中々であり、不完全な魔法障壁で身を守ったはいいが、仮に完全な障壁であったとしても、これは防ぎ切る事が出来ないと。

 ポトリと氷柱が無い場所に落ちて、全然歯が立たないってことを改めて実感するアスカ。それほどまでに実力差がある。未熟な自身にも分かる事実を体をビリビリと痺れさせながら理解した。

 

「今のが決めとしてそれなりに有効な雷系の上位古代語魔法だ」

 

 音も無く静かに空に浮かぶエヴァンジェリンの姿からは、強者故の絶対の余裕が感じられた。

 

「ううぅ、しび、しびれる~~~~~」

 

 怪我させないといっても雷系特有の付加価値である痺れまでは逃れられず、体を起こすどころか満足に動かすことも出来ずに震えた声を漏らす。

 

「ちなみに、これはナギが好んで使った連携でもある。覚えておいて損はないぞ」

 

 氷と闇の精霊の力を借りた魔法が専門である事を差し引いても、まだまだ強い魔法が使えるはずのエヴァンジェリンが雷の斧を使ったのはアスカに見せるため。

 かく言うエヴァンジェリンは、あまりこのような連携を使わない。先程行ったように使えはするが。

 

「え……親父が」

 

 痛みと痺れに打ちひしがれながらも「ナギ」というワードが出てきて反応を示すアスカ。やはり父に由来する魔法と言うのはそれだけで彼にとっては無条件に興味を抱くものになるようであった。

 流石は英雄と呼ばれる男が好んで使った連携であるだけあって、距離を詰めての白兵戦と無詠唱の魔法の射手で体勢を崩させ、相手が満足に防御できない隙を突いて、中の上程度の威力だが詠唱の早いタイプの上位古代語魔法。シンプルだが効果的な戦法である。

 ならば、それを容易く、それも得意でもない系統の魔法を軽々と行使するエヴァンジェリンの力量の高さにアスカは内心で震撼する。伝説とまで言われた「闇の福音」の実力の高さをマジマジと思い知らされた。

 あれほど動き回ったというのに、エヴァンジェリンには着衣のわずかな乱れすら見られない。それだけ無駄のない動きでアスカを一蹴したということだろう。

 

「もし、この針山の上でチャチャゼロと戦えるまでになったなら他のことも教えてやる。ナギが好んだ連携や魔法をな」

 

 餌は撒かれた。後は獲物が罠にかかるのを待つだけ。

 

「…………分かった。やる」

「ならば、やれ。反抗したから二時間追加だ」

「ってことは五時間もかよ!?」

 

 三時間に二時間を足すと五時間。増えた時間に目玉が飛び出しかけているアスカだが、やると言ったのは彼自身である。

 言った言葉は曲げないのが信条であるアスカに出来ることはただ一つ。

 

「ぬぐぅおおおおおおおおお――――――――――っっ!!」

「私は少し離れる。後は任せた」

「分かりました。マスター」

 

 汚い絶叫にあっさりと背を向けたエヴァンジェリンは、自動人形に見張りを任せるとさっさとアスカの前から立ち去ってしまった。自動人形の返事を聞く間もなく、聞く気もないのかもしれないが、既に目的地が定まっているのか迷いのない足取りで歩いていく。

 

 

 

 

 

 エヴァンジェリンが階段を下りて開けたホールのような場所に着いた時、自身の従者であるチャチャゼロが対峙していた桜咲刹那が持っている夕凪を弾き飛ばしたところだった。

 くるくると舞った夕凪が自身の前の床に突き刺さるのを横目に一人と一体へと視線を戻す。

 

「――、」

 

 片手に自分の身長ほどもある刃物を持って刹那の懐に潜り込んでいるチャチャゼロと、獲物を弾き飛ばされてしまって唖然とした顔の刹那。

 次の攻撃に移ろうとしているチャチャゼロの前に、刹那が距離を取ろうと瞬動で数メートルを一瞬でバックステップした。これでチャチャゼロの攻撃は空振りして獲物を失ったといっても刹那は体勢を整えられる筈だった。

 

「くっ――」

 

 しかし、一足でバックステップして体勢を整えようとしていた刹那の視界の中に突然出現した異物。

 それが刹那の後退と同じく前進していたチャチャゼロが振り下ろしている刃物。視界一杯に映る刃物に我が目を疑うような表情で凝視して何かを言いかけて言葉が止まった。

 

「勝負アリダナ」

 

 床に足をつけたチャチャゼロが今も刹那の視界に残影として残っている刃物を肩に担ぎ、面白なげに告げた。

 刹那は自分とは桁違いの実力というものを思い知らせた。視界を埋められたあの一瞬、チャチャゼロにその気があれば、刹那は瞬時に艶やかな鮮血の花を咲かせていたのだから。

 

「参りました。降参です」

 

 完全に戦意を挫かれ、刹那は崩れ落ちるように膝を折って呻くように負けを認めた。

 

「どういう状況だ、これは?」

 

 刹那とチャチャゼロが勝負をしたのは分かるが先程到着して途中の経過を知らないので状況を掴めない。

 なので、近くで息も絶え絶えでホールの床に横たわってグロッキー状態の、年頃の乙女として「ちょっとどうよ?」と突っ込みたい状態の神楽坂明日菜の横腹を軽く蹴った。

 

「グェ……! それが人にモノを聞く態度!?」

 

 蹴られて痛かったのか、これまた乙女らしくない悲鳴を上げながら起き上がり、明日菜が蹴った張本人であるエヴァンジェリンに詰め寄る。

 

「あ……!」

 

 しかし、精神とは裏腹に肉体は突然の動きを拒否するように足が縺れる。

 普段ならまだしも疲れ切った肉体ではここから立て直すことが出来そうにない。そんな彼女が倒れる先にいたのはエヴァンジェリン。そもそも彼女に向かっていこうとしたのだから前向きに倒れれば彼女に覆いかぶさるような形になるのは当然。

 

(受け止めて!)

 

 ここで彼女に避けられたら明日菜は冷たく固い床に「ビターン!!」と漫画の如く張り付いてしまう。それを避けるために彼女は眼力(念話は使えず、突然のことで声が出なかった)で思いの限りに懇願した。

 

「―――――だが、断る」

 

 しかし、そこはサドとして定評のあるエヴァンジェリン。助けを求める明日菜の心の嘆願が届いていながらも無情にも拒否して、無駄に闘牛士(マタドール)が闘牛を避けるように格好良く、社交界でダンスを踊るように軽やかにステップを踏んで、明日菜の落下予想地点から華麗にも回避して見せた。

 結果、懇願が聞き届けられなかった明日菜を受け止めるものはなく、漫画の如き描写と共に地面に張り付いて痛そうな音を立てた。 

 

「あべしっ!」

 

 と、同時にこれまた乙女としてどうかという断末魔の悲鳴(?)を上げた。彼女は昨日、北斗の拳を見たに違いない。次は「ひでぶ」か「たわば」だろう。きっと明日菜なら期待に応えてくれる。

 

「やらないわよ!!」

「何を言っている?」

「いや、なんとなく叫ばないといけない気がして」

 

 何やら電波を受信したらしい明日菜に突っ込みを入れる明日菜。問いかけるエヴァンジェリンに自分でも突然叫んだ理解が出来ずに首を捻っていた。

 

「…………って、そうじゃなくて何で避けるのよ! 痛いじゃないっ!」

 

 このままでは話題を転換されて流されてしまうと悟った明日菜が再度、エヴァンジェリンに詰め寄る。今度は先程の二の舞にはならないように上半身だけ。つまり、体を起こした状態で近くにいた彼女に掴みかかったのだ。

 流石にスカートを掴まれてしまっては避けて「ひでぶ」か「たわば」状態にさせることが出来ず、ちょっと残念だったエヴァンジェリン。ちなみに明日菜に怪我はなく、ちょっと打ったらしい鼻の頭が赤いだけ。あれだけ勢い良く顔面を強打したはずなのに鼻血も出ていない。

 

「知らん、そっちが勝手に倒れ掛かって来たんだろうが」

 

 見る限りエヴァンジェリンに罪悪感は一ミクロンの欠片もない。今も隙あらば明日菜の手を振り解こうと虎視眈々と狙っている。そこまで「ひでぶ」「たわば」が見たいのか。

 

「エヴァちゃんが人の脇腹を蹴るからでしょうがっ」

 

 流石にこれ以上の醜態は晒せんと執念染みた想いでエヴァンジェリンのスカートは意地でも離さない。今、離されたら間違いなく、「ひでぶ」「たわば」状態になってしまうからだ。

 

「人の進行方向に偶々いて出した足に当たっただけだ。他意はない」

「どう見てもワザとでしょうが!」

 

 悪びれた様子も無く、それどころか「こいつ何、言ってんだ?」って的な眼で見られたら誰だって怒る。然しものエヴァンジェリンも明日菜の勢いに押されたのか、それとも流石に悪いと思ったのか少しだけ熟考して頷き、

 

「――――――――気のせいだ」  

「こいつ、悪びれた様子もなしに―――!!」

 

 微かな明日菜の希望をも打ち砕く大魔王が如き知らん振りを披露して見せた。明日菜の「憎しみで人が殺せたら!!」と心の叫びが響き渡った。

 

「ククク…………ああ、スッキリした」

「―――――(返事がない。屍のようだ)」

 

 数分間、同じやり取りを繰り返した(エヴァンジェリンがボケ、明日菜が突っ込み)後、吸血鬼なのに血も吸わずにお肌ツヤツヤとなったエヴァンジェリンと、彼女に突っ込みを入れ続けてまるで血を吸われたようにツッコミ疲れてダウンした明日菜の姿があった。

 

「これは突っ込みを入れるべきでしょうか?」

「ケケケ」

 

 刹那にどこぞの関西人の魂が宿ったのか、漫才の相方がボケた時に入れる「ツッコミ」をするべきかと手刀の形にした手をウズウズと揺らしていた。

 チャチャゼロは笑っているだけで突っ込みはしなかった。

 

「――――――――つまり、そこの馬鹿が基礎鍛錬と素振りだけダウンして」

「誰が馬鹿よ!!」

「で、暇を持て余していたチャチャゼロが試合を申し込んだという訳か」

 

 話を聞いたエヴァンジェリンは、明日菜の突っ込みを無視して納得した。

 

「しかし、チャチャゼロよ。よく寸止めで我慢して殺し合いにしなかったな」

「コレデモ御主人ノコトヲ考エテンダゼ。ウッカリ殺シチマッタラ面倒ダロウ?」

「だから寸止めなわけか」

 

 血を見るのが大好きなキリングドールなりに主人のことを思いやったように見えるが、チャチャゼロに限ってそうではないことをエヴァンジェリンは良く理解している。

 寸止めでなければ今の刹那が相手ではうっかりとやり過ぎてしまうから予防線を張ったのだ。

 チャチャゼロも十五年の退屈で、一時の快楽よりも楽しい時を少しでも長引かせれる方法を選んだに過ぎない。

 

「武器を選ばずと言っても、神鳴流は古来から自分よりも大きい魔を調伏するための流派。まだまだ未熟な刹那では遥かに体格で下回り技術で上回るチャチャゼロに懐に潜り込まれたら厳しいか」

「ソノ通リダゼ。才能モ実力モアルンダロウガ詰メモ心モ甘インダヨ、コイツ」

 

 神鳴流は退魔剣術と言われるだけあり、人間を超える力を体躯と異能を持つ魑魅魍魎の類との戦闘を想定した対人外剣技である。

 木乃香の父、近衛詠春のように人相手でも変わらない実力を発揮する者がいるのとは対照に、未熟な者は退魔に特化してしまう傾向がある。勿論、これは若輩に見られる典型的な事例であり、なにも刹那が珍しいわけじゃない。

 それどころか対人であっても刹那は十分に強い。

 ただ相手が悪かった。チャチャゼロは実力で上回り、刹那がこれだけの小さな相手にしたのは初めて。やり難い相手なのだ。

 

「次いでだ、チャチャゼロ。刹那はお前が揉んでやれ」

「オ、イイノカ」

「は?」

 

 嫌な笑みを浮かべながら自分を見るエヴァンジェリンとギラリと刃物を輝かせるチャチャゼロを見て、刹那の背筋がゾゾゾと這い上がるものを感じ取った。

 

「今度は寸止めではなく実戦形式でな。でなければ強くなれん。殺さない程度に遊んでやれ」

「オ、ラッキー。直グニ壊レテクレルナヨ」

 

 チャチャゼロが刃物をグルグルを回す。何故か刹那には、自分の目の前で腹をすかした肉食獣が「待て」をさせられた風景が思い浮かんだと後に木乃香に語ったそうな。

 生贄一名様ご案内。

 何故か刹那の脳裏にそんなフレーズが浮かび、近くに未だ虫の息で倒れている明日菜が手招きしている気がした。歯応えのある相手と戦ってハッスルするチャチャゼロの猛攻を捌く刹那が絶叫を迸らせるまで数分後。

 

「ごめんね、刹那さん。骨は拾うから」

 

 師匠の刹那がチャチャゼロと鍛錬している間のしばらくは怠けても問題ないと明日菜は自己完結して、寝ても茶々丸がどうにかしてくれるだろうと瞳を閉じた。刹那の悲鳴をBGMに明日菜の意識は闇に沈んでいった。

 

 

 

 

 

 チャチャゼロに刹那という玩具を与えたエヴァンジェリンは書庫へとやってきた。

 そこにいるのは三人と一体。

 

「ん……むぅ……ん?」

 

 書庫の入り口で、坐禅を組んで頭を捻っているのは近衛木乃香。

 魔力を感じ取り、意のままに操ることを教える方法なんて実はない。普通は魔力なんてものは幼少の頃から感覚で操っていて慣れていくものである。

 

「あ、エヴァちゃん」

 

 書庫の入り口で足を止めていたエヴァンジェリンに木乃香が気付くが、物音や気配で気付けるようでは集中力が足らないと内心で評価を下す。

 

「その様子では未だに魔力を感じれてすらいないようだな」

 

 エンジェルさん事件から身に着けている魔力抑えのブレスレットが問題なく機能していることを確かめ、これがあるから余計に時間がかかるだろうと予測を出す。

 

「そうなんよ。魔力ってどうやって感じたらええの?」

「それは呼吸の仕方を聞いているのと同じだぞ。多分に感覚が占める。仮に言葉で伝えたとしても分かるものではあるまい」

「だからこその坐禅なんやろ。でも、こんなんでホンマに魔力を操れるようになるんやろか」

 

 坐禅なんて一般でもやっていることをして本当に効果があるのかと木乃香は疑ってかかっているようだ。

 

「この場所は俗世よりも魔力――――正確には大気中に満ちるマナが遥かに濃い作りになっている。外よりも遥かに魔力を感じ取り、操りやすい環境になっている。これで出来なければ諦めろ。坐禅なのは特に意味はない。集中できればそれでいいのだ。もっと集中できるポーズがあるならそっちをしても構わん」

「なんかうちだけ適当ちゃう?」

 

 ようは一人で勝手にやれと言われている等しいことに、馬鹿ではない木乃香は当然ながら気付く。

 

「魔力を感じるなんてのは初歩の初歩ですらない。出来て当たり前のことを改まって教えられるのはそういう専門の者に頼め」

「う~」

「唸っても何も解決せんぞ。さっさと魔力ぐらい感じて見せろ」

「…………エヴァちゃんのイケズ」

「あ、なんか言ったか」

「何も言ってないですぅ」

 

 本当は聞こえていたが、敢えて聞こえない振りをする。弟子のガス抜きの為に多少は見逃してやらなければな、と広い心で見逃してやったエヴァンジェリンであった。

 もう数日、なんの進歩もなければ別の方策を考えようと思案しながら書庫の奥へと足を進める。

 エヴァンジェリンが長い間に溜め込んだ魔導書やらが収められているだけあって、下手な学校の図書室よりも蔵書数の多い書庫である。

 幾つもある本棚を横目に進んでいると、一つの本棚の前に何冊もの本を抱えた茶々丸を見つけた。 

 

「マスター」

「茶々丸、あの二人はどこにいる」

「奥の方に」

「案内しろ」

 

 「イエス、マスター」と何時ものように頷いた茶々丸も自動人形と比べれば随分と表情豊かになったものだと感心した。

 先に立って歩き出した茶々丸の後に付き、残った二人――――本に埋もれたネギとアーニャの下へ辿り着くのは直ぐだった。

 学校の机よりも遥かに大きい大テーブルの上に山積みにされた蔵書に埋もれるように二人の姿はあった。

 

「おい、お前達」

 

 近くによって二人とも反応しない。

 これが本当の集中している姿だと先程の木乃香と比べ、一人で納得しながら口を開いた。

 

「ん? どうかしたの、エヴァ」

「いや、様子を見に来ただけだが…………物の見事にのめり込んでいるな」

 

 が、声をかけて反応したアーニャだけでネギは魔導書から顔を上げすらしない。

 それだけ集中しているのは良い事だが状況による。

 

「ちょっと、ネギ」

「うん」

「駄目だわ、これは」

 

 機嫌が降下したエヴァンジェリンに気づかれない様に小さな声でアーニャが肘で反応を促すが、当のネギは自動反応したような返事だけしてやはり顔を上げようともしない。

 魔法学校時代、禁呪書庫に忍び込んだ時と同じだとアーニャはあっさりと匙を投げた。

 

「まあ、いい。それだけ集中してるということだからな。話は後で出来る」

 

 前から覗き込むとエヴァンジェリンが与えた宿題の範囲をもう少しで終わりそうだ。無視されてあまり機嫌がよろしくなさそうなエヴァンジェリンだが、折角集中しているのを邪魔しては何の意味もない。折檻は後ですればいいのだから。

 

「ん? 貴様は違うことをしているのか?」

「折角これだけの魔導書があるんだからちょっと調べ物をね。あんまり芳しくはないけど」

「ほぅ、調べ物ね」

 

 視線をずらしてアーニャが積み上げたのだろう本の山を見ると、特定の分野に偏りが見られた。積み上げられている山の上の本を手に取り、タイトルを見れば「石」の属性に関する魔導書だった。

 他にも多少の違いはあっても、「石」に纏わる論文や魔導書ばかり。

 

「なんだ、身内に石化している奴でもいるのか」

 

 なんて適当に言った言葉が確信を突いたなんて、言ってから気づく。

 

「そうよ。アンタは知らないの? 永久石化を解く方法を」

「あるぞ」

 

 軽く言った直後、アーニャが喉の奥で声を引き攣らせたのをエヴァンジェリンは見逃さなかったし、聞き逃さなかった。

 アーニャは小さく息を吸って吐いた。

 一度下げた顔を上げた時には緊張を残しながらも平静と言えるだけの状態に持ち直したのを見て、アーニャの評価を一段上げる。

 

(惜しいな。これでもう少し才能があれば)

 

 一流の魔法使い――――高位魔法使いの位階に上がれただろうにと、生きとし生けるもの全てに平等などあり得ないと分かっていても目の前の少女に天が与えた素質に文句を言いたくなった。

 

「その方法って?」

 

 惜しんでも現実は変わらない。アーニャの問いに応えるために思考を巡らせる。

 

「永久石化とは解けぬからこそ永久の名が付く。例外があるとすれば」

 

 そこで言葉を切り、書庫入り口で今も魔力を感じ取る集中をしているだろう木乃香の姿を思い浮べる。

 

「治癒に特化した近衛木乃香が世界屈指の治癒術士に成ることが出来れば、或いは永久石化も解けるかもしれん」

「あくまで可能性の上では、でしょ」

「だが、最も可能性は高い」

「その可能性も小さな物じゃない。賭けるにはリスクが大きすぎるわ」

「0ではないのだ。それだけで十分だろう」

「って言ってもねぇ……」

 

 イマイチ乗り気ではない様子のアーニャ。ふむ、と思案を重ねたエヴァンジェリンは脳裏に五百年前のことが過った。

 

「もう一つあったな」

 

 この六百年でエヴャァンジェリンが最も死を覚悟した出来事。

 

「今は失われた神聖魔法。対象となる相手を取り込み、対応する生贄(・・)の魂を代償にあらゆる状態異常を改善する禁術だ。あれならば永久石化であろうとも元に戻る可能性がある」

 

 その神聖魔法の原理を参考にして十年の歳月を費やして完成させたのがエヴァンジェリンの固有技法『闇の魔法(マギア・エレベア)』である。

 

「遺失したんなら意味ないじゃない。変な期待を持たせないでよ」

「そうでもない。確かこの書庫のどこかにその神聖魔法の前段階を記した魔導書がどこかにあるはずだ」

「え!? なんでもっと早く言わないよ!!」

「あ、おい」

 

 そしてアーニャはエヴァンジェリンが止めるよりも早く走り出した。

 ネギがいたが魔導書に集中し過ぎて聞いておらず、上げた手が摑まえる相手を失って彷徨うのを視界に収めて、言おうとした言葉は聞く相手もいないまま呟かれる。

 

「一度見ただけの魔法式をうろ覚えで書いたやつで、肝心な本番部分は全くの白紙なんだが」

 

 エヴァンジェリンの予想外はアーニャの執念とネギの優秀さであると、この時はまだ知る由もなかった。

 



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第28話 アスカの休日

 気がつくとアスカ・スプリングフィールドは一寸先も見えない真っ暗闇の中を歩いていた。

 前後左右全てが闇。自分の体さえも、手を目の前まで持ってこないと確認できない程である。状況が分からず、目視で判断出来ないとなれば音に頼るしかない。

 

「誰かいないのかっ!」

 

 耳を澄ましてもなにも聞こえないので、足を止めて出来る限りの大声で叫んでみた。

 暫く待っても返事は返ってこない。これだけの闇にいて気配も感じなかったことから大して期待もしていなかったが、誰もいないという現実を直視させられて肩を落として落胆した。

 首を動かして辺りの様子を窺っても、やはりなにもないし誰もいない。ただひたすら闇だけが広がっているばかりだ。

 普通ならどんな暗がりの中にいても、時間が経てば徐々に暗さに目がある程度慣れてくるものである。アスカならば十秒もあれば慣れてるはずなのに、一向にその気配がない。どう考えてもこの闇は普通ではなかった。

 

「■■■」

 

 困ったように頭を掻いていたアスカは、突然、背後から囁くような声が聞こえてきたことに最大級の警鐘が体に走った。

 

「誰だ!?」

 

 悪寒に心身を支配されそうになりながら振り返ってもそこには誰もいない。

 闇の中で視界が悪いのだとしても、周囲数メートルの気配を感じとれるので誰かがいれば直ぐに分かる。だからこそ、周囲に人がいないと分かる。

 しかし、先程の声は近距離から聞こえた。それも底知れない悪意を隠そうともせずに。

 

「■■■」

 

 声の気配の位置を見極めようと集中していると、また聞こえてきた。今度は先程とはちょうど逆方向からだ。

 まったく感知できなかったことに慌てて振り返るが、やはりそこには闇が広がるだけで誰もいなかった。やはり周囲に人の気配はない。

 

「いったい誰だ! いるなら出て来い!」

 

 声の主はアスカに気配を悟らせないほどの実力者。真っ向から叩き潰せるだけの実力者が、こんな嬲るようなやり方をすることに薄気味悪さを感じて大声を出した。

 

「■■■」

「そこか!」

 

 今度こそ聞き間違いはない。背筋に走る悪寒のままに全開に魔力を迸らせて、背後にいる声の主へと拳を振り切った。

 敵である。敵のはずであった。でなければこんな悪寒は抱かぬし、抱きようはずがない。

 拳は放たれた。敵を打ち砕き、感じていた悪寒はあっさりと消え去る。

 

「あ?」

 

 自分でもおかしいと感じる声が口から勝手に漏れる。

 手応えがないのだ。正確には軽すぎると言い換えてもいい。何故ならアスカの拳は、敵の――――ウェールズにいるはずのスタンの老体のど真ん中を貫いていたから。

 

「な……ぜ……」

 

 何故、と問われようともアスカに答えようがない。アスカこそ、この疑問に対する答えを持っていないのだから。だが、スタンの肉体を貫いた感触が今もある。当然だ。アスカの腕はスタンの肉体を貫いているのだから。

 貫いた時に飛び散った血がアスカの手や服を汚している。

 生暖かいものが頬にも付いている。血は頬にも飛び散っている。血の生臭さが、血の温かさが気持ち悪い。

 

「……………」

 

 スタンは何かを言おうとして、口から溢れる血によって言葉を紡ぐことは出来なかった。

 固まったアスカの目の前で力の無くなったスタンが崩れ落ち、ヌルリと手に内臓の感触を残して、やけにゆっくりと地に倒れていく

 体の真ん中に穴の開いたスタンの体を見下ろしたアスカは、血を吸って重みを増した服が罪の重さを表しているようだと心の何処かでそんなことを思った。そして初めて自分の周りを見渡した。そこで初めてここが先程のように真っ黒な空間ではないことに気付く。

 火災が起きたのか辺り一面に火が灯り、そこには斬りつけられた死体、焼かれた死体、何かに押しつぶされた死体、目立った外傷はないがピクリとも動かない死体。他にはアスカの周りに何もなく、死体と火しかなかった。この光景に似たものを、かつて見たことがある。

 悪魔の襲撃によって滅ぼされた故郷の光景に似ているのだ。自分が、ネギ達がいろんなものを失ったあの悲劇の場所に。

 そう思ってしまったアスカは、目の前の死体達の顔に幾つかに見覚えを感じて目を向ける―――――目の前の死体は、いや死体達はネカネやアーニャ、ネギ、村の住人達だった

 それを認識したアスカは、何かが心を侵していくのをを感じた。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」

 

 闇を灯す暗闇の火の中に、何かが哂いを響かせる。

 その笑いが発端となって、周りから爆笑が起こった。

 見るとアスカは見知った顔に取り囲まれていた。

 ネギが、アーニャが、ネカネが、他にも麻帆良に来て出会っで交流を深めた人々が、ハワイにいるナナリーやエミリアが、これまでアスカが知り合った全ての人達が『人殺し』と連呼しながら、アスカの周りを回って哂い続ける。現れては消え、消えては現れる。

 みんなのそんな声を聞きたくなくて見たくなくて、尻餅をついたまま立ち上がるよりも固く両手で耳を塞いで強く目を閉じる。

 

「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 アスカはその光景に、事実に耐えられず、血に染まり燃え続ける大地でただ一人、夜とは違う本当の暗黒の空に向けて声の限りに絶叫した。

 耳は塞いでいるのに声は消えてくれない。嘲笑は止まない。

 

「ああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 せめて自分の声で聞こえない様にしようとしても、嘲笑はアスカの耳に入って来る。心が壊れそうだった。

 

 

 

 

 

 何時の間にかアスカは、黄土色に染められた世界の果てまで何もないと錯覚するほどの荒れ果てた荒野に蹲っていた。

 夢か現か、或いはこの世かあの世なのかも分からないひどくあやふやな世界。死んだ風に砂埃が舞い、荒野の向こうに夕焼けの色に染まる太陽が沈む様は、幻想的な儚さなを感じさせた。

 生命の息吹を感じることが出来ない荒野を、一人の少女――――――――――神楽坂明日菜が歩いている。

 何故、彼女を待っているのか。何故、自分がこんな所にいるのか、何故、自分から彼女の下へ行かないのか。幾つもの疑念は脳裏に過ぎった瞬間に消えていた。

 直後、真下から魔風とでも呼ぶべき風がアスカの全身に吹き付けてきた。強すぎる風に目を閉じたがアスカが瞼を開いた時、目に映ったのは自分と明日菜の間を阻むように奈落へと突く巨大なグランドキャニオンにあるような断崖であった。

 断崖の闇は深く、底が知れない。足を踏み外せばどこまでも落ちてしまう根源的な恐怖を呼び覚ます。魔風はそこから吹き付けてきていた。

 真っ直ぐにアスカを見つめて歩みを進める明日菜には、先にある地面の断崖に気付いた様子がない。

 

(こっちに来るな!)

 

 一心に自分だけを見つめて近づいてくる明日菜を静止しようとしたアスカだが、発したはずの声は口から出ることはなく音にならなかった。 声が出せないならと、アスカは身振りで手振りで懸命に訴えた。だが見えていないのか明日菜の歩みは止まらなかった。

 ならばと、アスカは断崖を飛び越えて、手を広げて自分の身体で遮り明日菜の歩みを止めようとした。

 

(え……!?)

 

 まるで最初からアスカなど存在しないように無視して、明日菜が前を阻んだ自身の身体を通り過ぎていった。

 最初から存在しないように肉体を通り過ぎていく明日菜に驚いている暇はない。アスカの直ぐ後ろの足下には地面がない。止めるために肩を掴もうとしたが、アスカの手は明日菜に触れることが出来ず、スッとすり抜けてしまった。勢い余って地面に膝をついてしまう。

 明日菜が断崖へと真っ直ぐに向かって行く。

 

(待ってくれ!!)

 

 彼女を追おうと膝をついたまま手を伸ばしながら叫んだ。だが叫びは声にはならず、歩みを止めない明日菜が断崖へと進み行く。止めようもないまま明日菜は断崖へと落ちていった。

 断崖へと落ちていく明日菜が顔だけをアスカへと向けた。

 

「闘いしか呼ばない化け物のクセにどうして私達の前に現われたの?」

 

 活発な表情を憎しみ染めて言い放った言葉と断崖の向こうに背中が視界から消えていくのを見て、夢と現の狭間でアスカは絶叫した。

 

「―――――ッ!」

 

 声無き絶叫と共にアスカの瞼が僅かに動いた。眼を覚ましたのだ。

 それは自分の意思で動かしているとは思えないほど僅かなものだった。殆ど痙攣にも近い感覚で、ゆっくりと瞼が開く。目覚める時に似ている。思考は曖昧で上手く何ものにも焦点を合わせられない。数秒は視界がハッキリしないのか、何度か瞬きを繰り返してようやく目の先にあるものが天井であると認識する。

 激しい頭痛と嫌悪感、虚脱感。全身の骨が抜き取られたみたいに気怠くて瞼を開くのにも随分と時間と努力を要した。

 

「……俺、は……」

 

 目覚めた時、アスカの全身は滝のような汗で濡れていた。喉には血の味。

 ベッドに寝転がったまま、何度か無意味に瞬きを繰り返す。夢から覚めた直後のような曖昧な思考に戸惑う。記憶に断絶があって状況が理解できない。 

 ここがどこなのか、直ぐ分からなかった。或いは見覚えがあっても、その視覚情報を脳が直ぐには認識できなかったのかもしれない。室内の明かりは消えていたが、カーテンの隙間から差し込む月明かりのお陰で真っ暗ではなかった。

 傾けた視界に映るのは、仄暗い室内と隣のベットで寝ているネギ。暗くとも直ぐに夜目が聞いて見慣れた家の光景に心を撫で下ろした。

 

「またこの夢か。毎日毎日、なんだってんだ」

 

 やっと夢だと気がつくと、おもむろに呟いた。全身に滝のような汗が流れていて、汗を吸った服が重りを縛り付けたように重量を増している。嫌な汗で全身びっしょりになっていたが、全く気にならなかった。

 心臓は早鐘のように鼓動を刻み、血流の流れを早められた全身の血管が浮き上がっていた。

 しばらくジッとしていると、早鐘を打っていた心臓も鼓動を緩めてきた。水分を吸った服の重さはどうしようもないが汗を引いてきた。だけど、気持ちだけは元には戻りはしなかった。

 

「ちくしょう……」

 

 答えの返ってくるはずのない問いに眼を瞑った。まるで理不尽な世界が、そうすれば彼の前からなくなってしまうのではと、願っているかのようだ。

 まだ夜も深まったばかりの時間帯だが再び寝られる気はしなかった。まだまだ朝陽は昇らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はえ? 今日は修行禁止?」

 

 毎朝の如く千草の家で朝食を食べていたアスカは、日本人でもないのに無駄に綺麗な箸使いで白ご飯を口に運んでいたところに千草から齎された話に目を白黒とさせた。

 

「朝早うから絡繰が訪ねて来てな」

 

 六人が座ってもまだ余裕のある大テーブルで家長席に座っている千草が、食事の合間に面倒臭そうに頷いた。

 本当に面倒くさいとアスカが築地市場で買ってきた魚を解しつつ考える。

 麻帆良学園から築地市場まで車でも一時間近く掛かるはずで、アスカはどうやって行って帰って来たのか考えるだけでも頭が痛くなる。またどこぞで変な噂が立っているのか、とても怖くて調べられそうにない。

 

「なんでまた」

「別荘の調整や、言うとっとな。誰かさんが四六時中、使ってる所為で碌に整備も出来んてな」

 

 『別荘』を使い過ぎている自覚があるのか、アスカは喉の奥で唸りはするものの抗弁はしなかった。暇さえあれば『別荘』を使うアスカを危惧した千草とネカネの策略とも知らず。

 

「骨董品は扱いに気をつけなあかんやろ。これからは別荘を使う時間を減らすか、丸一日全く使わん日を作るか、明日までに決めときや」

「ぬぅ……」

「まぁ、仕方ないんじゃないの。諦めたら」

 

 納得がいってなさそうなアスカを宥めるのは、実はあまり箸の扱いが上手くないアーニャである。

 己がやりたいことは他人に幾ら言われたところで変えようとしないアスカであっても、身内の言うことには渋々ながらも従う。千草の言に直ぐに従わなかったのはまだそこまでの仲の良さではないということか。

 食事が終わり、最近は修行漬けだったので別荘使用禁止を言い渡されて途端にやることを無くしたアスカは散歩に出かけた。

 姉としてはもっと普通のことをして遊んだりしてほしいネカネは洗い終えた食器を布巾で拭きながら悩む。

 

「散歩じゃなくて、小太郎君と一緒に遊びに行けばいいのに」

 

 小学校の友達と遊ぶと出かけて行った小太郎のように同年代と遊んでほしいのである。

 

「アスカがいると体力勝負になるからって嫌がられてるみたいや」

「あら、そうなんですか」

「家にも親から苦情が来とったからの。無理に連れて行けとはよう言わんわ」

「手加減が出来ない物ね、アスカって。しかも負けず嫌いだし」

 

 千草が頭の痛い出来事を思い出して頭が痛いとばかりに溜息を漏らし、拭き終わった食器を受け取って棚に直していくアーニャが「子供なのよ」と斜に構えた言い方をする。

 

「あんな性格だから融通も効かないし、魔法学校でも同年代とか年齢の近い男子には結構敬遠されてたわよ」

「逆に女の子からは凄い慕われたわよね。その所為で男の子に嫌われたてたってのもあるけど」

「…………情景が簡単に目に浮かぶようやわ。あれだけ融通が利かん人間も珍しいで。もっと最初はまともやと思ってたんやけどな」

 

 アスカと性格が似ていると良く言われる小太郎はそこら辺を上手く調整できる。逆にアスカの場合は好かれる人間には好意的に接されるが、逆に好かれない人間には徹底的に嫌われる。そしてなによりもアスカ自身が他人に興味がないことが最たる原因なのだろう。

 似て非なるネギも同様の傾向にあるが、二人とも後者の方が少ないのは人徳なのか、それとも人柄なのか。

 

「それにしても最近のは異常よ。まるで何かに急き立てられてみたい」

 

 修学旅行から戻って来て、エヴァンジェリンの師事の下で修業を始めてからは常軌を逸し始めているとアーニャは語る。

 

「夢見が悪かったって本人は言ってるけど……」

「だからて、暇を持て余してからって走って築地市場にいくのは間違ってるやろ」

「アスカは限度を知らないから」

「やり過ぎちゃうのよ。その所為で学校対抗でも張りきっちゃって怪我人を出してしまうぐらいで」

 

 アスカのことを話していたはずなのに、どうしてか魔法学校での苦労話に突入してしまう。

 最近のアスカの異変に三人で話し合っているが、何故か途中で話が脱線してしまっていた。話すのが好きな女が集まれば姦しいと言うが、話題もどんどんずれて行ってしまうものらしい。

 そうこうしている内に皿洗いと片づけを終えた時に天ヶ崎家の玄関を開けてネギがやってきた。 

 

「おはよう」

 

 ノックもなしに人の家にやってきたのに第一声が朝の挨拶であることに、スプリングフィールド一家+アーニャが天ヶ崎家に慣れてしまったことが良く解る。

 挨拶を返しつつ、ネカネが勝手知ったる我が家のように紅茶のセットを用意するのを見ながらその思いを強くする。

 何時もの席に座り、ネカネが淹れた紅茶を飲みながらネギは机の上に置いた本を広げた。

 

「また夜更かししてたの? ちゃんと寝ないと駄目じゃない」

 

 ネカネは行儀が悪いと本を取り上げて遠ざけながらネギに注意する。

 

「文句なら急かすアーニャに言ってよ。遺失した魔法を再現しろなんて無茶なのに」

「必要な事なんだから文句言わない。それにアンタも楽しんでるじゃない。さぁ、片付かないから早く食べちゃって」

 

 アスカの時と同じくネギも納得いっていない様子ながらも従い、紅茶の後に出された朝食を優先して食べ始めた。子供達の中でやはりアーニャの発言力は大きいようだった。

 

「なんだかんだでうちもこの光景に馴染んでしまったんやな」

 

 自分で淹れた緑茶に舌鼓を打ちながら、今更ながらの諦観に長い溜息を漏らしたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やることもなく麻帆良都市内をブラブラと歩いていたアスカがハプニングに出くわしてしまうのは宿命であろうか。

 

「あ、あの…………ごめんなさい。困るんです」

 

 学園都市で休日ということもあって学生が多い道端で、3-Aに在籍している運動部四人組は高校生ぐらいの四人組に声を掛けられていた。

 

「いーじゃん、どうせヒマしてんだろう? オレらと付き合えよ」

「だからさー、絶対に退屈はさせないからさー。いいクラブ知ってんだよ。そこなら顔パスで入れるからさー」

「な、行こうぜ。女だけで遊んでてもつまんねーだろ?」

「アイドルとかモデルなんかもよく来るんだぜ? 俺もそっちの知り合い多いから、なんなら紹介しても……」

 

 言い寄られている女性四人が目配せを交し合っている間も、軽薄そうな男達は、軽薄な口調で、軽薄な台詞を垂れ流していた。

 顔立ちは整っているのだが、その痴的な言動からは、品性の欠片も見出すことは出来ない。要するに、ナンパである。

 ナンパ自体はよくあることだった。日常茶飯事と言ってもいい。タイプは違えど、彼女たちはいずれも際立った美少女であるので、比較的によくあることだった。

 

「ナンパでしたら他を当たってください」

 

 軽薄そうで手前勝手な物言いに、運動部四人組の一人――――大河内アキラはうんざりしたように表情を曇らせながら告げた。

 

「そうそう私たちは用事があるんだから付き合えないのよ」

 

 リーダー格らしき少年にアキラは毅然とした態度で言い返し、横に並んだ明石裕奈が続けた。その後ろでは和泉亜子、佐々木まき絵が心配そうに様子を伺っている。アキラと裕奈が前に出て、亜子とまき絵が二人の背中に隠れている形だ。

 

「確かナンパってやつか」

 

 それを若干遠くから目撃したアスカは呟く。

 はっきり言って、若さ故に血気盛んそうな男共と真面目そうな少女たちでは釣り合いが取れるように見えない。

 アキラと祐奈の背中に隠れる形の和泉亜子と佐々木まき絵はナンパ男達を怖がっている感じを受ける。男の四人組はどちらかというと不良っぽいし、同人数とは囲まれれば怖がりもする。

 

「ガタガタ言わずに一緒に来いっつってんだろ!!」

「痛っ」

 

 律儀に受け答えしたのがかえって不味かったのか、リーダー格らしき少年は急に荒々しい顔つきになって一番に近くいたアキラの腕を掴んだ。が、

 

「誘うのはいいけどよ。手荒なのは歓迎しねぇな、おい」

「痛ぇ! イテテテテテ……!」

 

 荒事の予感を感じ取ったアスカはアキラと不良少年の間に移動し、痣が出来そうなほどに強引に掴んだ腕を捻り上げていた。

 アスカは改めて四人組と運動部四人組とを交互に観察した。

 四人はいかにも軟派な遊び人風で、ファッションには気を遣っているらしいが、知性や品性は感じられない。対する運動部四人組は文字通りスポーツ少女然としており、相手としてはどう見ても彼らとはジャンルが違う。ナンパする相手を間違えているとしか思えない。

 

「なあ、アキラ。困ってるか?」

「うん、さっきからしつこく誘われて………困ってたの」

「つうわけだ。ナンパなら他に行け」

 

 アキラの、というより女性陣の意向を伝えて手を離したアスカだが、ちっぽけなプライドを踏み躙られてナンパ男たちの顔が怒りに歪んだ。まさか自分よりもかなり年下の子供に虚仮に(彼ら主観)されて黙っていられるほど人間が出来ていない。

 

「ああ~ん? ガキに用はねぇんだよ、引っ込めバカ!」

 

 彼らにはせせら笑っているように見えるアスカを睨み、男たちは次々と拳を固めて殴りかかる。少し殴れば簡単に退散するだろうという思惑があった。

 一番近くにいたボクシングを真似た構えをした長髪の少年が右ストレートを打ち込んできた。

 生意気なガキだと思い、舐めきっているパンチだった。相手をするのが羊の皮を被ったライオンだと気づけなかったのは哀れと言える。

 アスカは腰の入っていないヘナチョコパンチを片手で蝿を叩くように右に弾くと、左半身に変化しながら密着し、真下から突き上げる掌底のアッパーを相手の顎にぶち当てた。

 ヘラヘラ笑っていた口がガンと噛み合わされ、脳天まで衝撃が突き抜ける。完全に顎が上がったところに胸に突き蹴りを入れると、不良少年の身体は真後ろにいて反射的に支えようとした仲間の幸運な二人もろとも吹っ飛んだ。

 瞬きをする間の出来事だった。通りにいる他の学生や通行人が驚いて立ち止まる。

 唯一、巻き込まれた二人とは違って射線上から回避した運の悪い不良少年は、当然の如く突き飛ばされただけだと勘違いしているので攻撃を仕掛ける。しかし、攻撃が届く直前、アスカはそっと避けて男の射線から逃れる。

 男の拳は、その身体ごとアスカの横をすり抜けていく。まず拳が、続いて頭から突っ込むように上半身が、そして下半身は―――通り抜けられなかった。アスカがさりげなくその場に残しておいた足で男の足を払ったのだ。

 

「ぐえっ!?」

 

 受身も取れず、男は豪快に転倒する。そこにアスカは音もなく歩み寄り、身を起こしかけた男の顎先を靴の先端で蹴り抜いた。

 

「――――っ!?」

 

 男は声にならない悲鳴を上げ、白目を剥いてぶっ倒れる。

 アスカの打撃があまりにも素早いため、突き飛ばされただけだと勘違いした仲間の少年二人は、すぐに起き上がって反撃に出ようとしたが、長髪の少年が陸揚げされたタコのようにぐったりとして動かないことに気付いて青褪め、無事だった少年が倒される光景を見て血の気を失った。目の前で起きたことが信じられなかったのもあるが、二人にぶつかった少年といま倒された少年が白目を剥いて完全に気絶していたからである。

 

「「う、うわぁぁぁぁぁぁ!?」」

 

 いくら身の程知らずとはいえ、少年たちも流石に目の前の相手がただの子供でないことを悟った様子だった。残りの少年二人は気絶している少年たちを放って逃げ出した。

 

「さて、怪我はないか」

 

 星が瞬きそうなぐらい無駄に爽やかな笑顔で振り返って問いかけるアスカの姿に、

 

「大丈夫だけど、普通はこっちが聞く台詞じゃないかな」

「「「うん、うん」」」

 

 年上の男たちを片手で捻ったアスカを見て感心するも、亜子のもっともな意見に残りの三人が頷く。

 

「俺が普通なわけないだろ」

「自分で言っちゃおしまいだよ」

「違いない」

 

 普通とは縁遠いのだと自分で言ってまき絵が茶々を入れたが、当の本人は闊達として笑うばかりである。

 

「今日は一人?」

「ネギ君やアーニャちゃんか明日菜達と一緒にいること多いのに、今日は誰もいないんだね」

「やることないんで散歩中だ。他の奴らは――」

 

 何故か近くに寄るとアスカの頭を撫でたがるアキラは聞きつつ、肌触りの良い金髪を触ろうとするが避けられてしまい、ちょっと寂しそうだった。

 アキラにとっては丁度良い高さにアスカの頭があって、髪に触りたがるのを苦笑と共に眺めていた亜子は、騒動があったら火消しにやってくるネギとアーニャ、もしくは明日菜達が何時まで経っても現れないことに当たりを見渡していた。

 一人であることを伝えようとしたアスカが何かに気付いたように後ろを振り返った。

 そこには逃げたナンパ男たちが通りの向こうから仲間らしき格好をした男達を数人連れてやってきていたからだ。

 

「あ! あのガキです。荒田さん」

「こいつ?」

 

 と、荒田と呼ばれた男はアスカを指差した。

 自分自身の腕を頼りにしている者と、数を頼りに威張っている卑怯者との間には、対峙した時に受ける印象からして歴然とした差があるのだ。この荒田という男はその中間ぐらいの微妙な感じだが。

 

「こんなガキにビビッて逃げ出したのか、お前ら」

「だって、なんか格闘技をやってるみたいで強いんすよ」

「チョー生意気なんですよ、このガキ。礼儀を教えてやってください、荒田さん!」

 

 口々にそう応える男たちは、ついさっきアスカに撃退された名も無きナンパ君一号、二号(仮称)だった。

 どうやら、けんもほろほろに追い払われたことを根に持って、助っ人を呼んできたらしい。―――――「自分には出来ないから助けを呼ぶ」普通ならいい話のはずなのに、これがナンパをして撃退された末なので凄まじく情けない話だった。

 

「おい、ガキ! 大人の話に子供が首を突っ込むんじゃねぇ。格闘技をやっているらしいがきっちり侘びを入れてもらうぜ?」

「―――――」

 

 あまりにも典型的な展開と現れた人物に、アスカは心底呆れたといった感情を全く隠していない視線で男たちを見据えた。冷ややかな視線に、先程やられたナンパ君一号、二号は後退ったが荒田は怯まずにその視線を受け止める。

 

「そんな目で睨んだって無駄だぜ! 荒田さんはレスリングをやってるんだからな!」

「やっちゃってください! 荒田さん!」

 

 荒田の後ろに隠れながら、一号、二号が囃し立てた。虎の威を借る狐そのままの二人は無視して、アスカは荒田だけをじっと見つめる。

 言うだけあって、それなりの修練は積んでいるようだ。着ている革ジャンの下に薄いタンクトップを着ているだけなので、筋肉の盛り上がりがはっきりと分かる。格闘用に鍛え上げられている肉体だった。

 

「お前らは下がっててくれ。こいつらは俺に用があるみたいだからな」

 

 先程までの男たちと違い、筋骨隆々の男が現われたことでアキラ達にも動揺が広まった。が、アスカには動揺の欠片一つなく、少女たちを下がらせようとする。

 

「ちょっと待って! あんな大男に勝てるわけないじゃない」

「そうやで、いま高畑先生を呼んだから!」

 

 当然、祐奈と亜子もアスカを止めようとする。

 荒田は二メートル近くの身長で、古菲にも勝ったことがあって確かに強いのだろうがこの場にいる面々の中で一番小さなアスカが勝てるとはとても思えなかった。人間、見た目で強さを図ってしまうものである。

 逸早く亜子が携帯で高畑に連絡をつけるも駆けつけるには今暫くの時間がかかるだろう。

 

「大丈夫だって。心配すんな、直ぐに終わらせる」

 

 少女たちの制止を笑って抑え、大丈夫だと念押ししてから荒田と呼ばれた男に歩み寄る。

 アスカの笑みに頼もしさと自信を感じた少女たちは、不安ながらも大人しく待っていることにした。もちろん、何かあったらアキラは飛び出す気満々だったが。

 

「ガキのくせに粋がってるから、こういう目に合うんだぜ。もう年上には逆らおうとするんじゃねえぞ」

 

 荒田は見た目で歩み寄ってきたアスカを舐めきっているので無造作に手を伸ばし、軽く小突こうとした。

 幾ら不良でも子供相手に本気を出す気も、真面目にやる気もない。小突けば直ぐに終わるだろうと、想像していた。普通の子供が明らかに年上、もはや大人といってもいい体格に殴られればそうなるだろう。相手がアスカでなければ、だが。

 手が頭に触れようとした瞬間、アスカはするりと足を踏み出す。

 半身になって前に出る動作が、同時に荒田の腕を躱す動作となった。伸びている手を左手で外側に弾きながら、手首を掴み、肩越しに引き込むと同時に荒田の懐に滑り込んだ。ジーンズの股を掴んで、荒田の巨体を背中に担ぎ上げる。荒田の視界がグルリと一回転した。

 

「―――――なっ!?」

 

 巨体が宙で綺麗な弧を描き、固い地面に叩きつけられると周りで見ていた全ての考えを裏切り、アスカは荒田を足から着地させた。

 床は畳ではないのだ。当たり所が悪ければ死ぬかもしれない。単純にリスクを考えて足から着地させたのだ。

 変わらずにいるのはアスカだけで、誰もが信じられない光景を眼にして唖然としていた。元か現役かは分からないがレスラーといっても信じられる体格をした巨漢をいとも簡単に投げる子供がいると誰が想像できるのか。

 

「粋がってた割には大したことないな。所詮は見た目だけが」

 

 彼我の実力差が分かれば自分から引くだろうと考えたのだが、いらない一言を言ってしまうのがアスカの悪い癖だった。

 

「……クソッ!」

 

 いくらなんでも紛れで子供が自分の巨体を投げられるとは荒田も思っていない。今度は本気でアスカに挑みに掛かった。アスカは掴みかかってくる手の下を体格差を活かして掻い潜ると、タンクトップの胸元を掴んで背負い投げを決める。

 

「この野郎、舐めやがってっ!」

 

 今度もまた足から着地したことで、舐められていると感じた荒田は吼えて三度襲い掛かった。

 三回が四回になり、四回が五回に増えたところで結果は変わらない。

 投げられては足から着地し、挑んでは投げられてを繰り返す。それは異様な光景だった。身長では五十cm以上は高く、体重ではおそらく五倍の差がありそうな荒田がアスカに子ども扱いされているのである。

 

「何やってんですか、荒田さん!?」

「そうですよ! そんなガキ如き何時もの調子でやっちゃって下さいよ!」

「うっせぇ!」

 

 情けない姿にナンパ一号、二号が発破をかけるも、荒田は目の前の少年の実力が想像を超えていることを実感し始めていた。

 

「なあ、もう止めないか?」

「ぬかせぇぇ!!」

 

 ここで引いては今まで築き上げた面子が崩れるとあって必死の形相の荒田に対して、アスカは余裕たっぷりだが相手をするのに飽きたとばかりに欠伸をしながら提案する。

 意地になった荒田が勢いをつけて挑むも結果は変わらない。

 

「聞く気なしか。しょうがねぇ、とっとと終わらせるか」

 

 完全に頭に血が上ってこちらの話を碌に聞いていないことを悟る。それどころか逆に火に油を注いでいるだけだと嘆息して、掴みかかって来た荒田の手から逃れながら踏み込みつつ後方に回り込む。

 

「くっそ―――!」

「秘伝奥義千年殺しぃぃぃぃぃ!!!!!」

 

 叫びながら振り返ろうとした荒田は、直ぐ真後ろから聞こえてきたアスカの声に猛烈な嫌な予感を感じて身体を凍りつかせた。

 

「ぐふぉあ!!!!!」

 

 身構える暇も無かった。なにかの衝撃が後ろから下腹部を貫き、荒田は突き上げた熱い衝撃に喚きながら宙を飛んでいた。

 

「この技だけは…………使いたくなかった」

 

 両手の人差し指と中指を突き出して組み、大きく前方に突き出した姿勢で、アスカは憂慮を秘めた表情でぼそりと呟いた。

 派手なカンチョウーを奥義と呼ぶべきかどうかは別にして、その一撃で宙を舞った荒田は、どしゃりと地面に突っ伏してプルプルと尻を抑えて起き上がれない。

 

「ふ……また、つまらぬ物を突いてしまった」

 

 フッと指先に息を吹きかけ、格好をつけるアスカだが周りの目はしらけ切っていた。

 本人が意図したわけではないがアスカの道化染みた仕草と被害者(荒田)の痴態もあって、先程まであった子供が大人をあしらうという異様な光景を誰もが忘れていた。

 

「ひ、ひぃっ……」

「荒田さぁん……」

 

 地面に横になって尻を抑えて痙攣している荒田を見て、完全に裏返った情けない声で残った男たちが悲鳴を上げた。

 

「さっさと連れて行け。通行人の邪魔だ」

「「ヒィィィィィィィィ―――――!!」」

 

 アスカが名も無きナンパ君一号、二号(仮称)を見て言うと、怯えながらすっかり伸びている仲間三人を引き摺って逃げていく。

 

「ふぅ………」

 

 溜息を吐いて肩を落としたアスカは、拍手の音に顔を上げた。運動部四人組が少し控え目に手を叩いている。

 

「凄いニャ~。最後がアレだったけどニャ~」

「本当に、最後がアレだったけど」

「ホンマや、最後がアレやったけど」

「だよね、最後がアレだと」

 

 次々と感心しながらも、最後の奥義と言いながら結局はただの浣腸だったことに突っ込みを入れていく。

 

「でも、凄かったで。あんな大男をポンポンと投げとったし」

「本当、見掛け倒しだったわね」

 

 自分たちよりも小さなアスカがあれだけ簡単に投げられると、荒田は実は見掛け倒しで大したことのないように彼女たちには見えた。

 

「お~い、君たち大丈夫かい!」

 

 そこに連絡を受けた高畑が駆けつけた。もうナンパ男たちはいないが連絡を受けて僅か数分で辿り着いたのだから必死さが窺い知れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長谷川千雨の趣味にパソコンは欠かせない。

 問題は昨晩に中学入学と同時に親に買ってもらったパソコンが遂にご臨終を迎えたことだった。ネット中毒の自覚があった千雨は、買った当時からして中古だったパソコンを早々に買い替えることにしたのは自然の流れである。 

 早速とばかりに休日を利用して電気屋でパソコンを購入し、宅配を頼んだので千雨はホクホクの思いで帰宅の途についていた。

 両耳につけたイヤホンから好きな音楽を聞きつつ、買ったばかりのパソコンのことを思い出す。

 

「やっぱ麻帆良の方が都市外よりも性能が良いんだよな」

 

 普通を標榜している千雨は桁外れの面々や出来事が多い麻帆良のことが好きではなかった。しかしそれでもこれから愛用することもあってパソコンの性能が上なのは素直に嬉しい。

 何故かクラスにいる人型ロボットに思うところはあれども、今まで性能の低いパソコンを使っていただけに期待は大きい。

 

「収入の当てがあるとしても、暫くは飯のランクとコスプレの頻度を減らさないとな」

 

 ネットアイドルをしていて、アフィリエイトで収入もあったので金の方も問題ない。暫くは節制を強いられるが、それもネットアイドルを続けていれば改善する。

 新しいパソコンに夢を馳せつつ、大通りを外れた路地へと入った。休日ということもあって人が多く、人間不信の気がある千雨は人が少ない方が落ち着くのだ。

 大型のトラックがようやく一台通れる路地に足を踏み入れ、我知らずに緊張していたのだろう周りに目を向ける余裕が出来た。

 

「我ながら地味な格好だ」

 

 路地にあるショーウインドーに自分の姿が映り、自分で選んだ格好ながらも苦笑を浮かべた。

 年頃の女子中学生にしては珍しい丸眼鏡をつけて首の後ろで髪を括った、決して目立つどころか周囲に埋没するスタイル。服装も髪型や丸眼鏡に違和感が出ない様に大人しめなものを選んだ。

 

「やっぱこの眼鏡ぐらいは、もう少しまともな物に変えるべきか…………。金もないし、やっぱこのままでいいか」

 

 視力の補正や遮光など機能を目的としていない伊達眼鏡を押し上げて考えるがパソコンを買った直後で先立つ物がない。仕方ないと歩き出した。

 この伊達眼鏡をしているのも、普段からお祭り好きで常識外れのクラスメイト達と一線を画して周りと同一視されたくない為の物。年齢詐欺かと訴えたく面々ばかりで、化粧もしていないのに綺麗な者が多いのだ。ネットアイドル時は別として、冷静になると見た目に自信のない千雨はコンプレックスを抱えていた。

 何度もナンパをされたことがあると言うクラスメイトと違って千雨には縁がないのだから。

 

「きゃっ!?」

 

 人がいないのだからと道の端に寄らずに歩いていると、後ろから肩を引っ張られて誰かの腕の中に抱えられてつい女の子らしい悲鳴を上げてしまった。いきなり何者かに抱きかかえられた場合の反応としては至って普通のものだろう。

 

(抱えられてる?! なんで! どうして!!)

 

 引き寄せられたところまで分かるが、そうする理由に事情を理解していない千雨にはさっぱり検討がつかずに咄嗟に思いついたのが、

 

(変態か!!)

 

 という至極最もなもので、彼女が取った行動も女性が取る行動で在り来たりなものだった。相手を確かめることもせず、千雨は言葉と共に腕を振るった。

 

「この変態が!!」

 

 自身を抱えている者の横っ面に綺麗に決まるビンタ。

 千雨を抱えていることもあって避けられなかったこともあって力一杯、振られた腕は正確に頬を打ち抜く。

 

「痛っ!」

 

 女の力とはいえ頬を全力で張られた当人は、それでもバランスを崩したりしなかったのは流石というべきか。

 ビンタを放った衝撃で千雨の耳からイヤホンが外れ、さっきまでは聞こえなかったエンジン音と自分がいた場所の近くを車が通り過ぎていくの見てようやく自分の状況を理解した。

 

(もしかして変態とかじゃなくて助けてくれた?)

 

 自分を引き寄せたのはイヤホンで音楽を聴いていて車が迫ってくるのに気づいていなかったから助けるためであった。もしかしたら車に体を引っかけられて怪我をしたかもしれない。助けてくれた恩人に自分がしたことは、助けてもらったことを反故にするようなビンタ。

 

「ご、ごめんなさい!」

 

 下ろされた千雨が真っ先にしたのは頭を深く下げての命に恩人に対して謝罪。いまだに助けてくれた相手が誰かを確認していないのは彼女が慌てていたからだろう。

 

「次から殴る相手は確認しろよ」

 

 聞こえてきた声に千雨は心の中で頭を捻った。

 変態という先入観があって、千雨を抱えたのは年上の大人の男と考えていた。なのに聞こえてきた声は声変わりをした男性の言葉ではなく、かといって高い女性の声でもない。

 断定はできないが未成熟な子供の声で、しかも聞き覚えがあるような気がした。それも毎日聞いているような……………。

 

「ア、アスカ、アスカ・スプリングフィールド!!」

「おうよ」

 

 動揺した所為か思わずフルネームで名前を言う千雨を前に、ビンタをされて赤くなった頬に手を当てたアスカが困ったような苦笑いを浮かべていた。

 

 

 

 

 

 助けてもらったのは事実。丁度、昼時なこともあって千雨はアスカに昼ご飯を奢ることで落ち着いた。

 

「お~、食った食った」

「ちくしょう、遠慮せずに食いやがって」

 

 小柄な見た目に似合わず大食漢なアスカと共に店から出て来た千雨は恨み節を漏らす。

 

「遠慮してこの店にしただろ。何をグチグチ言ってんだか」

「何が遠慮しただ! もうこの店に来れないだろうが!!」

「なら、金を払った方が良かったのか?」

「う!? それは……」

 

 二人が出て来た店の表にはデカデカと「時間内に超特盛巨大ラーメンを食せたら無料、賞金一万円」と書かれたポスターが張られている。アスカはこれに挑戦し、見事にクリアしたのだが店主の恨みがましい顔を思い出して文句を言っていたのだ。

 しかし、食べられなかったら1万円を払わなければならず、優に十人前はありそうな超特盛巨大ラーメンを綺麗に平らげたアスカにご飯を奢ると考えるとゾッとする。

 少なくとも奢るつもりの食事代は無料になったことを喜ぶべきなのだが、良くこの店を利用していた千雨は二度と来れないことが残念でならない。

 

「賞金も貰ったんだ。これで遊びに行こうぜ」

 

 当のアスカは千雨の懊悩など知ったことではないとばかりに提案してくる。

 諸々で謝罪は既になっている。むしろ千雨の方が弁償してぐらいの気持ちのところで、賞金一万円で遊びに行こうという提案は千雨の琴線を大いに擽った。

 パソコンは後日発送で、次の休みまで届くことはない。コスプレ関連も今はすることがなく、寮に帰っても勉強ぐらいしかすることがないので遊びに行くのは悪い選択ではない。

 

「いいけど、どこに行くんだ?」

「知らん。そっちで考えてくれ」

「誘っといてそれか!」

「遊び方なんて知らないからな」

 

 なんて計画性のない男かと思うが、天才少年なのだから世俗に溢れたガキのように遊び方も知らないのかもと思い直す。

 巷のイメージにある天才とはあまりにもアスカはかけ離れているが、これでも飛び級をしているぐらいなのだ。事実、勉強はかなり出来る。噂では山勘が物凄く当たるなんて話だが。

 

「私だってそんなに知ってるわけじゃないぞ」

「友達いなさそうだもんだ」

「と、友達のひ、一人や二人ぐらいいるに決まってんだろ」

「あ、そうか。俺が友達だから一人はいたな。悪い悪い」

 

 いらない一言を言ったりするが、こちらが赤面するようなことをサラリと言ってのけるところが始末に負えない。

 頬が赤くなるのを自覚しながら、こちらの異変を理解できていない馬鹿男は千雨を不審げに見つめて来る。

 

「ん? 眼鏡はどうした」

「ラーメンの湯気で曇るから外したんだよ」

 

 ポケットに入れてあるが、再度付ける気にはなれない。首の後ろで括っていた髪も、暑くなって後頭部の高い位置で一つに纏めた髪型――――ポニーテール――――にしているので、アスカと二人でいても千雨だと気づく人間は稀だろう。変装だと思えば眼鏡がない違和感も気にならない。

 

『眼鏡無い方が美人だぞ』

 

 ネギとアーニャと、偶々部屋を訪れてネットアイドルがバレた時に言われた言葉がリフレインする。

 

「ぬぅ」

 

 こいつは将来女の敵になるのではないかと懸念を抱いてアスカを見ていると、何かに気づいたように千雨の腕を引いた。

 今度は抱き抱えるのではなく背後へと流された千雨は、直ぐ近くに一台のバンと数台のバイクがやってきた止まったのを見て強い厄介事の臭いをかぎ取った。

 合計十数人の黄色と黒を基調にした悪趣味なストリートファッションに身を固めた少年たちが降りてきた時は、またぞろ厄介事がと内心で叫ぶ。

 

「黒木さん、見つけやした。この金髪のガキですぜ!」

 

 バイクに乗っていた少年が呼びかけると、バンのドアが開いて、金髪のオールバックにした大柄な男が現れた。眉は薄く、顔色は日焼けしたようにドス黒い。まだ二十歳前に見えるが、赤いシャツの胸を肌蹴て金のネックレスを光らせているあたり、不良を通り越して既に立派なチンピラの域に達している。

 アスカの顔をしげしげと見つめた黒木は、合点がいかないという顔で周りの不良たちに尋ねた。

 

「おい、お前らこんなガキに痛い目に合わされたってのか?」

「本当ッスよ、黒木さん! 荒田さんもコイツにヤラれたんすよ、このガキをナメちゃいけねぇ」

 

 リーダー格らしき黒田という男に、一人の少年が説明し、他にも何人かが口々に文句を並べ立てる。

 

「……………………ああ、どこかで見たと思ったらさっきのナンパ君一号、二号とその他か」

 

 集団の何人かに見たことがあるような気がして頭を捻っていたアスカは、レスラー崩れのことは覚えていたので連鎖的に他のメンバーも思い出した。

 

「「「「「誰がナンパ君一号、二号とその他か」」」」」

 

 上に向けた掌にポンとしているアスカに、名前すら出てこなかった者と、そうそうに逃げ出してその他扱いされた少年たちが纏めて突っ込みを入れる。タイミングがあっているので仲はいいらしい。

 

「ア、アスカ……」

 

 自分たちが十数人ものの不良たちに囲まれており、周りは助けを求める視線を向けても進んで関わりにはなりたくない。中には携帯などで隠れて警察に連絡しているらしき人はいるが、見ているだけで助けに入る気はないようで孤立無援であることに気付き、恐怖に顔を青褪めて近くにいる知り合ったばかりのアスカの服を掴む。

 この場面において一切の動揺も見せないアスカの方が異常なのだ。

 

「坊主。お前、自分の立場ってやつがよく分かってねえようだな。こいつらに怪我をさせてくれたワビは、きっちり入れてもらわねえとな!」

「詫びって悪いのは嫌がる中学生をナンパして、断られたからって強制手段に出ようとしたのはそっちだ。こっちはそれを止めただけで、喧嘩を売ってきたのはそっちだぞ」

 

 アスカは心底呆れたように言って、それが真実だと察することが出来た見物人も軽蔑するような視線を少年たちに向ける。

 

「子供一人相手に数を集めないとまともに口も聞けないなんて格好悪すぎだろ」

 

 流石に付け足した言葉は言い過ぎたと思って、直ぐに口を閉じたが時既に遅し。

 

「テメェ……! ガキだと思って優しくしてやればつけあがりやがって!」

 

 黒木の顔色がみるみる紅に染まった。子供に言われたことが、多少は自覚があったのか指摘されたのは屈辱だったらしい。黒木は発情した猪のように鼻息を荒げ、唇を歪めて部下に命じた。取り合えず周りの見物人やアスカと千雨は「いや、全然優しくしてない」と同じ事を思った。

 公道にて突如始まった決闘騒ぎに、道行く人々は安全な所へ避難しつつも、安全地帯に収まると、その決闘の観戦を始めた。騒ぎの起こりやすい麻帆良ならではの肝の据わり様である。

 

「構うこたぁねえ…………このガキに大人の厳しさを教えてやれ!!」

 

 不良たちは待ってましたとばかりに歓声を上げて殺到した。

 

「下がってろ、千雨」

 

 話をしながらも千雨が握っていた服の裾を離させて、少しずつ距離を空けていったアスカ。

 完全に頭に血が上ってこちらの話を碌に聞いていないことを悟る。それどころか逆に火に油を注いでいるだけだと嘆息して、一人目の懐に入り込み、畳んだ左腕をコンパクトに振り抜く。

 アスカの掌底が、男の三日月―――――耳たぶの下にある下顎骨の尖った部分―――――にめり込んだ。問答無用で全力で放てば、容易く下顎が顔から千切れ飛ぶが手加減しているのでそんなことにはならない。

 男の身体が、錐揉みしながら宙を舞ってあまり華麗ではない三回転半(トリプルアクセル)を決め――――当然の如く着地に失敗して、どしゃりと地面に倒れた。

 

「クッ、この化け物が!」

「よく言われる」

 

 数分後には黒木を含めて全員が簡単に倒され、アスカは傷一つ負っていない。息一つ、汗すらも流していないアスカを見て黒木がそう言いたくなるのも分かる。

 

「お前たち、何時までそうやってる気だ! さっさと立て」

 

 変に根性があるのか黒木の命令に少年たちがフラつきながら立ち上がり、怒りに狂った眼差しをアスカに向けた。パチッという乾いた音と共に黒木の手にナイフが現れる。ナイフを持っていない者は、バンから木刀やバットや特殊警棒を持ち出してきた。

 素手では敵わないと悟った彼らは各々取り出した武器を構える。

 

「いい加減に諦めたらどうだ? この上さらに恥の上塗り状態になりたいのか」

 

 凶器を出してきた少年たちに周りが悲鳴を上げる中で、アスカは恐れ気も見せず、逆に嗜めるような口調で忠告してきた。そのいっそ不適とも取れる態度に、真っ先にナイフを取り出した黒木以外は戦慄を覚えて二の足を踏む。

 刃物の弱点は主に二つある。一つは持った方も大きなストレスを負うことだ。躊躇なく刺せる人間はそうはいない。これみよがしに出した時点で素人であることは明白だ。

 

「くっくっくっくっ……」

 

 しかし、当の黒木は気にしないのか、鈍いのか、はたまたナイフを持ったことで余裕に満ちた笑みを浮かべ、ナイフを持つ手に力を込める。

 

「死んだぜ、お前? 俺にナイフを抜かせて無事だった奴は、今まで誰もいねぇんだからなぁっ!」

「―――――」

 

 黒木の言葉に、アスカは醒めた眼差しで周囲をざっと見渡した。当たり前のことではあるが、彼らは休日の人通りの多い通りのど真ん中で騒動を起こしているので注目の的になっている。

 

「こんな衆人環視の中でナイフなんか出した時点で警察の御用になるだけのような気がするが、ましてや殺人予告とは」

「う、うるせぇっ!」

 

 格好よく決めたつもりが冷静なツッコミを入れられ、黒木は顔を真っ赤にして怒鳴った。締まらないことこの上ない。

 

「ちょ、ちょっと黒木さんやり過ぎですって!」

「そうですよ! 何もそこまで……」

 

 頼んだ張本人であるナンパ君一号、二号も得物を持ち出した黒木達に及び腰になって止めようとした。

 

「下らねぇことを吐かしてんじぇねぇっ! お前ら武器持ってんだ、ビビんじゃねぞ! 行けっ!!」

 

 止めようとしたナンパ君一号、二号を殴り飛ばした黒木によってハッパをかけられた少年たちは奇声を発し、自分を奮い立たせてアスカに向っていった。

 

「はぁ~、ったく……」

 

 アスカは横に回り込もうとする相手に向かって突進し、思いっきり振り被ってきた木刀を避け、がら空きになったところにすかさず鞭のようなミドルキックを食らわせる。「グエッ」と呻いて膝が折れて下がった少年の顎を肘で搗ち上げて意識を飛ばさせ、あっさりと一人目をKO。

 木刀にしろ、バットにしろ、素人が攻撃する時は必ず振り上げる。この下がってしまえば殆ど攻撃を貰ってしまうので、懐に飛び込んでしまえば隙だらけになることが多い。

 

「面倒くさい」

 

 左右から同時に攻撃してきた四人に対し、アスカは距離に応じてそれぞれ一人目が落とした木刀を拾っての突き、後ろ回し蹴り、裏拳、フックで応戦した。急所に当てて一撃で相手を昏倒させ、これで合計五人を倒したことになる。

 

「ヒュッ」

 

 一人の少年が突き出したナイフを避けて、引き戻す瞬間を逃さず、アスカはその切っ先を右手の二本の指で挟んだ。瞬間、ナイフは空中に固定されたように停止し、ナイフを引こうとした少年の身体の方がアスカの方に倒れるように引き寄せられる。アスカは空いている左腕を素早く倒れ込むような形の男の首に上から回し、頚動脈を押さえて落とす。息を漏らすように吐いて気を失った。

 続けて木刀を振り被った少年の攻撃を避けつつ、その太腿に下段蹴りを放つ、それだけで少年は木刀を落として崩れ落ち、足を押さえて動くことができない。

 

「グアァ……あ、足が……」

 

 アスカは徐々に千雨から不良達を引き離しながら、少しでも千雨に意識をやって人質に取ろうとする素振りを見せた者から真っ先に沈ませていく。

 後ろに守る対象がいるので、向ってくる者だけを倒し、決して千雨の下には行かせないようにしていた。人質に取られる可能性があるのもそうだが、自分事の所為で巻き込んだのでこれ以上の迷惑は掛けたくない。

 

「クソッ、なんて野郎だ!!」

 

 さっきと違って武器を持っていて五分も経っていないのに数を半分に減らされ、それを見た黒木は愕然とする。そうしている間も一人、二人と仲間の人数は碌にアスカに触れることすらできずに減っていくばかりである。

 絶対的な強さを見せ付けるアスカだが、十人近くに囲まれていても自分一人なら問題ないが、後ろに守る者がいることや万が一を考えて周りにも被害が出ないように気を配っているため、一人一人の行動全てを読み取ることは難しい。

 事実、一人で逃げるつもりなのかバンに乗り込んだ黒木の存在を意識の端から外してしまった。

 周りに借り物の力を見せ付ける小物というのは根の方まで性質が悪く、こんな輩に対して絶対にやってはならない事がある。追い詰め過ぎてはいけないのだ。

 

「アスカぁ! 危ない――――!!」

 

 状況の変化についていけずに虚ろな眼でアスカの戦う姿を追っていた千雨は、バンに乗って一人で逃げるものと思っていた黒木が再び出てきたのを見て、突然大声を上げる。

 千雨の叫びを聞いたアスカは黒木の方を向いた。

 

「死ねや、ガキがぁぁ!」

 

 狂気染みた黒木の声が響き渡った瞬間―――――アスカの視界に、人魂のような白い光の玉が飛び込んできた。『バンッ!!』と花火が爆発したような銃声が轟き、アスカは吹っ飛ぶように力なく仰向けに倒れた。

 

「きゃあああああぁぁ―――――――っ!!」

 

 千雨の悲鳴が高く響き、一人の少年が女の子を守って不良たちをバッタバッタと倒す軽快なドラマ見ていい感じだったのに、刃物やバットなどの凶器を持ち出しただけでなく、拳銃という殺傷能力の高い武器を撃ったことでパニックを起こした。

 千雨が悲鳴を上げ、それがきっかけとなって周囲は騒然となり、巻き込まれないようにバラバラに散っていく。

 

「ガキ――て、てめが悪いんだぞ! 俺を怒らせやがって!!」

 

 数秒後、周りには誰もいなくなった通りで、流石に黒木の仲間もその場で凍りつき、壊れかけの人形のようにぎこちなく首を回して撃った本人を見た。

 黒木は土気色の顔にダラダラと脂汗を垂らし、犬のように口を開けて息を荒げている。前に突き出した両手には、先端から白い煙を上げるオートマチック式の拳銃が握られていた。

 

「流石に喧嘩に飛び道具はやりすぎだろう」

『へ……?』

 

 何事もなくむくりと起き上がったアスカに両目をまん丸に見開いた黒木は、パッパッと服についた埃を払うような仕草を見せられて呆けたような声を上げる。それは隠れて見ていたギャラリー、思わず腰を抜かしてしまった千雨、凍り付いていた少年たちも同様で、撃たれて倒れていたはずの少年が何時の間に立ち上がって動いたのかを見れなかった。

 アスカの無事な様子を見て、周囲の人間の中には「もしかしたら明後日の方向に撃ったのか?」と、撃った直後の黒木の様子から考える者も少なからずいた。

 

(ふぅ……間一髪。正直に言えば危なかったが)

 

 だが、周囲の考えとは別に弾丸の照準は間違いなくアスカを捉えていた。あの瞬間、即座に身体強化を施し、顔面に来た弾丸を間一髪で指の合間に挟んで止めたのである。

 倒れる動作の間に弾丸を指で弾いて近くの街路樹にめり込ませた動作を見た人間はいなかったので、初めからどこか別の場所に撃ったと周囲の人間は思ったのである。

 

(油断大敵か。周りに被害が出る前にさっさと決める)

 

 止めたといえ、無事なアスカの姿を見て恐怖に駆られて流れ弾で周りに被害が不味いので、撃たれた振りをして倒れただけである。まあ、拳銃を素手で捉えるなんて普通はできないので、何らかの理由で誤魔化すことには変わらないが。

 そして全員が呆けた次の瞬間、そうとは知らない者たちには瞬間移動したように感じられる速さで彼我の距離を一気に詰めたアスカが黒木を背後を取る。

 

「グガ――ッ!!」

 

 呆けた黒木の腕を、腕返しの要領で関節を極めながら腕を捻って拳銃を奪い、右肩を軸にして一回転して背中から地面に叩きつけた。

 

「おら、お前らのリーダーはもう終わりだ。武器を捨てろ」

 

 少年たちも流石に拳銃を持ち出して撃ち、そのリーダーがやられたのとで戦意を失ったらしく、次々に武器を落として座り込んでいる。

 それを見遣ったアスカは黒木を見下ろし、極めている腕に力を込める。

 

「さて、どこでこれ(拳銃)を手に入れたのか吐いてもらおうか」

「誰が言う……………痛ぇ! 痛ぇって!! 分かった、言うから力を緩めてくれ!!」

 

 腕を極めたまま問いに答えるように力を入れていくと、ギリギリと骨や関節が鳴るほどなのでよほど痛いのかあっさりと降参した。

 アスカは入手経路にフムフムと頷きつつ、警察のパトカーのサイレンが聞こえてきたので説明が面倒だな、と現実逃避気味に考えていた。

 

 

 

 

 

 警察署でアスカと千雨の二人がやっと事情聴取から解放されたのは、昼の災難から時間も経って夕方過ぎだった。

 

「もう、来んじゃねぇぞ悪ガキ」

 

 見送りは定年間近らしい中年刑事一人。しかも口が悪い。

 

「俺は何もしてねぇだろうが。クソ刑事」

「お前がなんかやると俺が後始末させられんだよ。糞が、最初に連続で関わっただけでお前の担当にされちまっただろうが」

「仕事が増えて万々歳じゃねぇか」

「俺はもう直ぐで定年なんだぞ。最後ぐらいはしんみりとさせろ。少しは自嘲しろ」

「問題事が向こうからやってくるんだから知るか」

 

 アスカはこの中年と刑事と顔見知りどころか悪態を付き合う仲らしい。

 

「またな、クソ刑事」

「けっ、二度と来んな! 塩持って来い塩をっ」

 

 背後を振り返って叫ぶ中年刑事に笑いつつ警察署を出るアスカの後ろを千雨も付いて行った。

 

「ご協力ありがとうございました」

 

 警察署の入り口に立っている警官が苦笑いと共に敬礼し、署内に戻っていく。

 千雨は完全に巻き込まれただけ、アスカは喧嘩のお礼参りを撃退しただけで正当防衛が認められた。そもそもアスカの絶妙な手加減で少年たちには怪我一つないことも大きく、未成年者が拳銃を撃ったということで今まで時間がかかったが純粋な被害者ということで二人は認められた。

 ナンパ君一号、二号も武器を持ち出した黒木達を止めようとしたことから、保護観察で済んで反省しているようである。

 何気に被害者、人を助けて、第一発見者などと麻帆良に来て数ヶ月で何度も警察署を訪れているアスカと一部職員が顔見知りになっているのも大きかった。さっきの中年刑事のようにアスカを見た瞬間に「ああ、またか」と思ったらしい。

 ちなみに少年たちは今もなお拘留中、特に銃刀法違反の黒木は現行犯逮捕されている。

 警察の事情聴取の後、迎えに来た高畑が待っている駐車場へ行く途中で堪えきれなくなった千雨がガバッと顔を上げ、血走った目をアスカに向けた。

 

「―――――何なんだよ、お前は! あの人数を苦もなく倒せる強さといい、拳銃を持った相手を楽々と制圧するとかありえねーだろっ!!」

 

 十人近くの大人と変わらない男たちに囲まれ、暴力の中にいればその場で恐慌を起こしたとしても無理はなかった。一介の女子中学生にしては今までよくもった方だろう。溜まりに溜まった鬱憤を吐き出すのは仕方ない。

 

「なんでって言われてもな。これが俺だと応えるしかない」

 

 もはや常態になったとはいえ、毎度毎度こういうことがあれば嫌気も差す。しかし、かといって目の前の厄介事を投げ出すわけにもいかない。目の前で傷つき、助けを求める人がいて、それに応える意思と成せる力があるのなら応えたい。

 

「巻き込んでしまった千雨には悪いと思っている。ごめん」

 

 だが、そのことと完全に巻き込まれただけの千雨には関係のないこと。被害者は千雨だけで、別の意味ではアスカも加害者と大差はない。自分の厄介事に巻き込んだことをアスカは深々と頭を下げて謝罪の意を伝える。

 

「お、おい―――」 

 

 これに慌てたのは糾弾していたはずの千雨の方で、ここまで素直に認めて謝罪されると反応に困る。頭を下げ続けるアスカを前に頭をかいたり、無意味に手を動かしたり、目が助けを求めるように辺りを見渡す。

 

「ああ、もう! なんだってこんなことに!!」

 

 小学生ぐらいの男の子に頭を下げさせている女子中学生。シュールな光景だった。

 いくら夕方で人通りが少ないとはいえ、完全に途絶えたわけではない。なので、周りの人が自分たちを指差してヒソヒソしているのが見えて羞恥心が湧き上がってくる。

 少なくともアスカは嘘を言っておらず、紳士に対応してくれている。それにあの乱闘の中でもアスカが自分を守りながら闘っていたのは、どんな状況でも千雨の視界の中にアスカの背中があり、誰かに遮られることもなかったから分かっている。

 

「分か――」

「んじゃ、俺はもう帰るわ。良く考えたら家で昼を食べるつもりだったのに何の連絡も入れてねぇや。ネカネ姉さん、怒ってないだろうな。やぺやぺ」

 

 羞恥心が限界を迎え、明後日の方向を向いて謝罪を受け入れようと言葉を発している途中で、何かに気付いたような仕草をしたアスカが早口で言った。

 

「――――って、もういねぇし!」

 

 視線を前に戻すと何時の間にかアスカの姿はなかった。

 夜の闇に千雨の叫びが響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 家に帰る為、千雨の前から姿を消したアスカは、壁を蹴って近くの家の屋根の上に登り、そのまま走り出した。

 家の屋根から屋根へと移り、風を切り裂いて最短距離を疾走する。

 

「やっぱ連絡もなかったのはマズったな」

 

 携帯電話なんて持っていないので念話で連絡を取っておけば良かったと後悔するが後の祭り。

 早く家に帰って大人しく頭を下げるしかないと、走る速度を更に上げる。

 と、鼻先を通り過ぎる風の中に、肌を粟立たせるような冴えた冷気が一筋、微かに混じった。

 

(…………!?)

 

 奇妙な胸騒ぎを感じて、アスカは思わずマンションの屋上で足を止めていた。

 

「――――なんだ……?」

 

 アスカの研ぎ澄まされた感覚に何かが引っ掛かった。何か―――首筋を冷たい手で撫でられたような戦慄が、ふいに彼の裡を駆け抜けたのだ。気のせいと片付けるにはあまり確固たる不安が、胸の奥に居座って動かない。

 その場に留まり、感覚を全開にするとアスカの耳に、くぐもった微かな声を捉えた。それが女性の声だと気付くが早いか、屋上の縁に足をかけて眼下を見下ろし、気配の在り処を確認すると一瞬の遅滞もなく行動を開始した。

 

 

 

 

 

 麻帆良学園都市にある、とあるマンションの一室。

 長らく干していないらしい湿っぽいベッドの上に、ウルスラ女学院の制服を着た少女が後ろ手に縛られ、声を上げないように猿轡をされた状態で転がされていた。

 部屋には他に、そのベッドを取り囲むようにして数人の男たちがいた。人目で真っ当な職業についていない人種だと判る獣染みた危険な雰囲気を発散している者ばかりである。

 左右からベッドにレンズを向けている二台のビデオカメラが、これから少女の身に降りかかる非情な現実を無残に示していた。

 

「ボス、今回は中々の上玉じゃないですか」

「ああ、実に運が良い」

 

 下卑な笑い声が響く中で少女は怯えるように瞳を涙で濡らして身じろぎした。

 皺一つない見る者に上品さを感じさせる制服を着た姿は人目見るだけで格式の高い環境で育てられたものだと分かる。彼女は帰宅途中に彼らに背後から薬を嗅がされて眠らされ誘拐されたのだ。

 

「売る前に少し味見させてもらえやせんか?」

「ふむ……」

 

 ある意味で決まった言葉を繰り返し、それはまるで舞台で決められた台詞を喋っているかのよう。

 男達が情欲に染まった眼で少女を見下ろす。好色に染まった眼で全身を舐めるように一瞥された少女の背に最大級の悪寒が走り抜ける。

 

「お前たちには悪いがこういうのは最初じゃないと良いのが撮れないからな。諦めろ」

「そんなぁ」

 

 しかし、リーダーだけは標準よりも整った少女の容姿に惹かれることなく、一切の情欲の欠片もなしであくまでビジネスライクに応える。提案を突っぱねられた部下は残念そうに肩を落とした。

 リーダーはそんな部下を見て、柔らかく微笑んだ。

 

「そう、しょげるな。壊れるまでされたら困るがほどほどなら文句は言わんから撮影が終わったら好きにしろ」

「ありがとうございやす、ボス!」

 

 苦笑を浮かべて囚われた少女にとっては悪夢としか思えない決定を下した。

 

「よし、始めろ……」

 

 その場を仕切っているらしい強面のサングラス男が命じると、男優役なのだろう半裸の男が二人、ベッドの上に上がって少女の身体に触った。少女は自由な足をバタつかせて激しく抵抗するが、大人の男二人に押さえつけられ、両足を左右に大きく広げた状態でロープで固定されてしまう。

 

「いや……いやぁ! お願い……帰して!!」

 

 少女は己の運命を悟ったかのように叫び声を上げた。

 準備が整ったので猿轡を外された少女は涙声で訴えながら身を捩るが、それは男たちの嗜虐心をさらに煽るだけだった。しかし、どこに逃げるのか。逃げる場所などなかった。助けてくれる人もいない。密室した環境。

 ただ残酷に真綿で首を絞めるかのように、残酷な運命が人間という形で襲い来る。これから熟れていく成熟していない肢体に男達の指が這った。

 

「構うこたねぇ……どうせガキなんて一発やっちまえば大人しくなる。それに派手に抵抗してくれた方が本物っぽいって良く売れるしな」

 

 ねちゃりと音がしそうなほどにおぞましく男の一人が笑みを浮かべる。口が開かれて、唾液に濡れた歯が剥き出しになる。それが余計に少女におぞましさを誘った。

 

「それに有名女子校のハメ撮りだ。高く売れるぜ」

「いやぁあああああああああ―――――っ!!!!」

 

 ゲラゲラと笑いながら男優の一人が少女に馬乗りになり、ブラウスを力任せに引き裂いて隠されていた下着を露出させて、羞恥に顔を紅潮させながらも必死に首を振るのを見ながら愉悦に浸る男。

 

「だが、あんまり喚かれると興が冷める。もう一度猿轡を嵌めろ」

「了解です」

 

 敏感な胸を荒っぽく鷲掴みされて少女は悲鳴を上げる。もう一人の男がナイフでスカートを切り裂き、下着に指をかけると、少女はそれだけはどうしても我慢できずに狂ったように暴れだした。

 

「助けて!! 誰か!!」

 

 再度猿轡を嵌められようとして助けの叫びを上げて、必死に身体をよじらせながら迫る男達の手から逃れようとする。

 

「誰か!」

「このガキが!」

「……誰か助けて!!」

 

 いい加減に苛立って来たのか馬乗りになった男が猿轡を拒み続ける少女の髪を掴んで、顔を殴りつけようとしたその時――――救いの主は現れた。

 カーテンが閉められた窓が突然外から割られて何者かが部屋に侵入してきたのだ。

 粉砕された窓ガラスが降り落ちるその場所に、金髪の少年が現れた。

 

「な………なんで子供(ガキ)がここに居やがる?」

 

 リーダーである強面のサングラスの男は女優となる少女よりも更に若い少年の登場に困惑していた。サングラスの男だけではなく、部屋にいる全員が同様だった。

 

「偶々、通りかかった正義の味方だ」

 

 サングラスの男の疑問は至極もっともで、さっきまで男達がしようとしていたことを考えるならあまりにもギャップがあり過ぎる。

 どう見ても自分を助けることが出来るとは思えない少年に、救助が来たのかと希望の光が見えかけていた少女の心が絶望に染まる。

 

「少女の危機をとても見過ごすことはできない。さあ、そうそうに観念した方が怪我をしないですむぞ?」

「ブ、ブッ殺せ!」

 

 薄暗い中でも不適に笑いながら言う少年に舐められたと考えて切れたサングラスの男の命令に、男優役とカメラマン役の計四人が、取り出したナイフとスタンガンを手に同時に襲い掛かった。

 少女が少年に助けを求めるように頼む暇もなく、少女は確定された未来に目を閉じて背ける。

 が、『ブォン!!』という部屋の中を駆け抜けた烈風に目を開くと、ポトポトと男達が持っていた凶器が床に落ちていた。

 

「「「「あげぇっ」」」」

 

 四人の男達は揃って股間を抑え、自分で口の中のどこかを切ったのか血の混じったピンク色の泡を吹いて悶絶していた

 かなりの威力で蹴られたそれは、普通なら靴の爪先と骨盤に挟まれ、睾丸が一溜まりもなく叩き潰された。

 

「男として死ね」

 

 アスカは地獄の番人とばかりに告げる。

 四人を瞬殺したアスカは、次はお前だとばかりに残ったサングラスの男を睨み付ける。

 

「な、なんだ!? てめぇ………何しやがった!!」

 

 倒れているのに断続的に痙攣している仲間達を見て信じられないような光景を見て叫びを上げる。リーダーの男には何が何だか分からなかった。少年の姿が一瞬だけ霞んだと思った瞬間には自分以外の全員が倒れていたのだから。

 

「様子から見てあんた達はこんなことするのは初めてじゃなさそうだから、こんなことが二度と出来ないようにしただけだ。分かり易く言うと―――――男として死んでもらった」

 

 何をしたのか見えなかったサングラスの男の問いに、男からすれば実に恐ろしいことをしたのに簡単にアスカは答えた。リーダーの男は、ようやく目の前にいる少年が化け物だと理解した。

 

「はははっ! 死にやがれ化け物が!!」

 

 窓際の机に駆け寄って引き出しから拳銃を掴み出すと、銃口を少年に向ける。

 そんな男に、アスカはその場で両腕を組んだまま、落ち着いていた。

 男は引き金を引き、轟く銃声に思わぬアスカの強さに再度希望を持った少女が悲鳴を上げる。しかし、弾丸は壁に孔を穿っただけで、そこにアスカはいない。既にその瞬間には、サングラスの男の全身は石と化していた。

 どうやって移動したのか自分の目前に立ったアスカの拳が男に突き刺さっていた。一瞬で衝撃が脳にまで達して全身を硬直させた。

 

「相手が悪かったな。まあ、自分の悪行を呪え」

 

 少年がそれだけ言うと拳を更に押し込んだ。その瞬間、サングラス男の意識が焼き切れた。

 床に転がって白目を剥いて口から止めどなく泡を吐きながら、末期の如くの痙攣を繰り返す男を見下ろしたアスカは、ベッドの上にいる少女の身体を縛っているロープを解いてやった。

 アスカは、自分の服を脱いでかけてやり、まだ事態がよく呑み込めていない顔の少女に優しく微笑みかけた。

 

「もう大丈夫だ。安心していい。よく頑張ったな」

「あ、ありがとう………ございます………うぇ………」

 

 目の前の少年に助けられたことは未だに信じがたいものがあるが、少年の暖かい笑顔に自分はもう安全なのだと実感して、礼を言いながら嗚咽を漏らす。

 アスカは突入する前に呼んだ警察のパトカーのサイレンが聞こえるまで、襲われかけた恐怖や助かった安堵等いろいろな感情から泣き出した少女が安心するように背中を撫で続けた。

 

「…………また帰るのが遅くなりそうだな」

 

 腹が減ってきたから取調室でカツ丼を奢ってもらおうと、テレビドラマから得た知識に惑わされながら小さく呟くのだった。

 

 

 

 

 

 その数時間後、男たちが所属していた組織は、その末端に至るまで何者かに壊滅状態に追い込まれ、逃れようのない証拠と共に警察に突き出された。ちなみに、この半年で麻帆良でとある少年の周囲で問題を起こしたやのつく組織や不良と呼ばれる人間が捕まったり、こてんぱんにされた影響で治安が良くなっているのはもっと余談である。

 

 

 

 

 

 この数日後にアスカに助けられた女子生徒が学校で友人である高音・D・グッドマンに、この話を嬉々として話すのはもっと余談である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 麻帆良学園都市はその名の通り、学生の為の都市である。つまり、都市内にある飲食店などは基本的に学生向けであり、大人向けの店というのは実は少ない。少ないと言っても皆無ではないが学生向けの店に比べれば数はかなり少ない。

 その理由として、第一には大人よりも子供の方が人数が多いことが挙げられる。つまり、大人向けの店では利益が上げ難いのだ。

 麻帆良学園本校女子中等部だけでも、例えば明日菜達の学年はAからSまでの24クラスに737名が在籍している。全学年がほぼ同様とすると合計で二千二百名以上が在籍するマンモス校となる。同じ中学でも男子中東部や大学付属の中学校もあり、下は幼稚園から上は大学まで考えれば、生徒数だけでも生半可な町を凌駕している。他に類を見ない超マンモス学園、それが麻帆良学園都市である。

 世間的に大人として見られる20歳は四年生大学の半分に達してから。各学園の教師等の大人を足したとしても一つの学校にようやく届く数にしかならないだろう。なので、他の都市と違って麻帆良学園都市はどうしても子供を中心にして考えねばならない必要があった。

 生徒の非行を助長する可能性のあるタバコの自動販売機は皆無。専用の、それも生徒が来ないような片隅の販売店でしか売っていない。

 大人の憩いの場である飲み屋も立地条件がかなり限られる。寮から各学園までの通学路は当たり前の如く御法度。小等部から高等部までの学園から離れた大学部の近くに集中しているのはそういう事情があった。

 このことから必然的に大人世代と子供世代の棲み分けがされており、子供が行くなら繁華街、大人が行くなら大学部の近くとなっている。

 そして今日もまた大学部の近くにある屋台に多くの人が集まっていた。

 昔ながらのおでんの屋台は酒も出て、大学部の近くにあることから小等部や中等部の教師がよく飲みに来る馴染みの店だった。

 学祭で有名になった「超包子」のように特別上手いわけではないが長年変わらない安定した味に訪れる常連客は多い。先輩が後輩を連れて来て、後輩がまた更に後輩を連れて来て………………と、一種のスパイラルを形成して伝統のようになっている。

 おでん屋の店主が開店すると、どこからか客が机と椅子を持ってきて即席の席を作ってしまう。バイタリティが並外れている麻帆良の人々は大人でもあっても同じらしい。

 周りの屋台もおでん屋に便乗してこの場所に店を開けるようになり、この一帯は屋台の集合場所みたいなもので、中心点に席があって喜びはしても誰も気にしない。

 おでん屋の店主も諦めているのか何も言うことなく、今日もまた大人達の憩いの場は開かれる。

 しかし、人が集まれば諍いは起きる。特にこれほどのバイタリティを有する麻帆良の人々は毎日のようになにかしらの騒動を起こす。

 

「何だとてめえコラ!」

「ああ!? 何か文句あんのか!」

 

 ガタンガタンと乱暴に椅子を蹴倒す音が続けて響く。

 和やかに酒を飲んでいた大学生や、生徒に対する悩みを相談し合っていた教師達の眼が一斉に、物騒な怒鳴り声を喚き散らす音の発生源に向けられる。

 けして多くない客の彼・彼女の視線の先では、なにやら厳つい男性の集まりが二派に分かれて威嚇し合っていた。

 巻き込まれることを嫌って近くにいた者達が早々に退散している。それでも遠くに場所を移しただけで、観戦して酒の肴にしようとしているのだからイイ度胸をしている。

 そんなほぼ全員が観戦者になろうとしていた中で奇妙な一団がいた。

 屋台に座っている男が三人、正確には男性が二人に少年が一人。この場に子供がいること事態が明らかな奇妙であったが周りに気にしている者はいない。少年のことを皆は良く知っているのだから。

 

「まったく、また彼らか。本当に毎度毎度飽きないな」

 

 少年と青年に挟まれた真ん中に座るのは壮年の男性。少年の父親と言われれば信じてしまう年齢差のある男性の名は新田。学園広域生活指導員で生徒からは「鬼の新田」と呼ばれるほど規則に厳しく、恐れられている教師である。

 今は普段生徒を叱っている時のような顔をしておらず、騒ぎを起こした大学生達を迷惑そうにビールを口に運びながら見ていた。 

 

「工科大と魔帆大の格闘団体は昔から仲が悪いですからね。この間の体育祭でも揉めてたらしいですよ」

「だからといって、こう何度も騒ぎを起こされるのは困る。店主、ビールのお代りを」

 

 優男然とした瀬流彦の説明に憮然とした様子で、飲み干したビールの代わりを注いでもらう。

 

「源先生も残念ですよね。来れば良かったのに」

 

 中等部の女性教員源しずなのバスト99cmという巨乳を思い出して、瀬流彦は心底残念そうに肩を落とす。

 穏やかな気性で男をたててくれる源は瀬流彦の好みのどストライクなのだ。偶に学園長のセクハラに鉄槌を下しているがそこがまたいい。高畑に気がありそうなのが少し気にくわないが。

 

「仕事が残っていたのでは仕方あるまい。今回は他の先生方も都合が悪い分だけ我々で楽しもう」

 

 自他共に厳しい新田だがこういう酒の席では堅苦しいことを言わない。店主に注がれたビールの泡が零れないように慌てて吸っている新田は、少し絡み酒の気があるが陽気で奢ってくれたりと気前がいいので、瀬流彦としては一緒に酒を飲むのは嫌いではない。特にこの自分の半分以下の少年が腹を空かしているところに出くわしたのは運が良かった。

 新田は子供がいると見栄を張るので必ず奢ってくれる。給料日前で財布の中が寂しい時だったので便乗する気満々である。

 

「そうですね」

 

 唇の上に僅かに泡を付けたままの新田が差し出したコップに自分の差し出して、チンと合わせる。

 気分が良くなって自分のコップに入っているビールを一気に飲む。

 

「おお、いい飲みっぷりだね。店主、ビールを貸してくれ」

 

 若者が自分に付き合ってくれるのが嬉しいのか、新田は店主に頼んでビールの瓶を受け取る。

 

「さぁ、どうだねもう一杯」

「あ、すみません。じゃあいただきます」

 

 自分で注ぐのかと思っていたが、これは後でお返しをしないといけないな、と思いながら空になったコップにビールを注いでもらう。

 まだ夜は長いから抑え目にと考えながら注いでもらったビールをチビチビと飲んでいて、新田を挟んで自分の反対側に座っている少年がやけに静かなことに気がついた。

 あのクソ刑事はカツ丼も出してくれなかったから美味い匂いに引き寄せられたやってきた少年の名はアスカ・スプリングフィールド。名物である子供先生の片割れの兄弟にして、女子中に通う男子生徒という変わり種である。

 彼は新田が自分の奢りだと言ったら喜び勇んでおでんを食べていたはずである。もうお腹一杯になったかと思ったが、いくらなんでも静かすぎる。

 体の小さいアスカは反対側にいる自分からでは新田の体に隠れて姿が見えない。どうしたのかと少し体を反らして、新田の背中側から見ようとしたまさにその時だった。

 

「打撃が寝技に劣るってぇのかダボがぁ!」

「上等だコラァ! ルール無しの路上で勝負だ!」

 

 この場にいる以上は酒を飲んでいるのだろう。威嚇し合っている両陣営共に顔が赤く、今まではどちらが優れているかを口で言い合っていたが段々と態度が荒くなりエスカレートしている。実力行使に出そうな雰囲気だ。

 アスカを見ようとした瀬流彦の意識もそちらに移った。

 

「む、これは止めないとまずいか」

 

 酒を飲んでいても教師としての勤めを忘れていない新田は、少し酔っぱらいながらも状況を正しく理解していた。

 

「怪我でもされたら困りますしね。でも、どうします? 新田先生でもあの人数は少し厳しくないですか」

「かといって放っておくわけにもいかないでしょ。なに、荒くれ者の相手には慣れていますから」

 

 新田としても普段なら多少の喧嘩も容認しているが、両者共に酒を飲んでいてはどんな間違いが起きるか分からない。瀬流彦の言う通り、あの人数を、それも格闘団体の大学生数人を相手にするのは無理がある。だが、だからといって乱闘になって周りの人に被害がいったり彼らが怪我をするのを容認することは出来ない。

 スーツの上着を脱いで、ネクタイを外して戦闘態勢を整えようとしたまさにその時だった。

 ヒィック、と隣にいたアスカが大きくしゃっくりした。そして新田に先んじて立ち上がった。

 

「どうかしたのかな、アスカ君?」

 

 アスカが突然立ち上がって身体を急にぐにゃりと揺らすのを見て、様子がおかしいことに気付いた新田が問いかけた。

 新田の声に伏せられていた顔が上げられ、とろんと細められたその目からは、理性と呼ばれる類のものが綺麗に吹っ飛んでいた。

 

「あア?」

 

 それはアスカの声だったが、アスカの発した言葉とは思えなかった。新田に向けられた目は、眠たげに細められてはいたが、完全に坐っていて――――そう、ちょうど凶暴な酔っ払いに似た――――いや、そのもの目つきになっていた。

 

「まさか、アスカ君も酒を飲んだんじゃ」

 

 視線と態度、顔が赤らんでいることから酒を飲んで酔っ払っていると察した瀬流彦がアスカの席にあったコップが空になっているの気づき、状況を推察する。

 

「あ~、一杯だけなんだが飲ませちゃまずかったすか?」

 

 新田とは逆隣りのアスカの隣にいた大学生院生らしき私服を来た男がすまなそうに頭を掻いた。

 世間では親が子供に酒を飲ませるということもある。彼としてはこの場にいる珍しい子供に戯れに勧めてみたぐらいの気持ちだったのだ。嫌がるなら無理に飲ませる気もなかったのだが、意外に一杯丸々飲んでしまったので逆に困った。少し酔っぱらったみたいだがアルコール中毒にはなっていなさそうで安心していたところだった。

 

「喧嘩かぁ? 俺も混ぜろ~」

 

 そうこうしている内に、ゆるりとアスカの身体が揺らいだ。

 決して素早い動きではなかったが、子供に酒を飲ませた男に注意しようとして意識を逸らしてしまった新田や瀬流彦が止める間もなく、恐ろしく無駄のない身のこなしで喧嘩を仕掛けている者達の間に入っていく。

 

「ひっ!?」

 

 まったく強さを感じさせないにも関わらず、喧嘩をしていた者達は、何故かアスカの姿に内心震え上がっていた。酔っぱらっていても奇跡的に働いた第六感が危険のアラートを全開にして鳴らしたのだ。

 もっとも直感が冴えていた一人が、相手が子供と分かっていても反射的に目の前のアスカに向かって拳を繰り出す。

 

「ほわちゃぁ~」

 

 アスカは避ける素振りさえ見せなかった。ただ、男の拳が当たる寸前、最低限の動きで身体を捻り、腕を使って攻撃をいなす。

 

「む、やるな」

「にゃるらるはぶなぺた~」

 

 反射的とはいえ、子供に簡単に攻撃を避けられたことに腹を立てた男は唸り声を上げながら、再び襲いかかるが、やはり同じだった。アスカは身体をぐにゃぐにゃと捻るだけで、途中から加わった他の者たちの攻撃も全て弾き飛ばし、やり過ごしていた。

 

「なんら、ぜーんいんたーいしたこと、ないぞー」

 

 と、アスカの坐った目が攻撃を全てやり過ごされて息を荒げる者たちを見て、にぃっと口元が吊り上った。

 

「……………………なんか止めなくてもいいような気がしてきました」

「私も同感だ」

 

 完全にアスカに振り回されている格闘団体に、止めるべく飛び出しかけていた新田とは瀬流彦は途中で止めて観戦者になっていた。

 

「そういえば、この前の体育祭の時に開催されたウルティマホラで優勝者したのって中学生でしたよね。彼と同じクラスの古菲さん」

「ん? それがどうかしたのかね」

「いや、僕もまた聞きなんですけどウルティマホラで優勝した古菲さんよりもアスカ君の方が強いって話を小耳に挟みまして」

 

 酔拳とでもいうのか、骨がないような動きで周りを囲む翻弄するアスカの姿を眺めながら瀬流彦が現実逃避気味に話す内容に、新田としては大学生も出場したウルティマホラに女子中学生が優勝したというだけでも驚きなのに、更に年下の少年にそんな噂があること自体が驚きだった。

 

「あ、それは俺も聞いたな。不良グループを一人であっという間に倒したとか、拳銃も避けたとかで出場してたら優勝間違いなしってトトカルチョしてた友達が言っていた。拳銃は冗談だろうけど、確かに噂通り強いよな。お、あの囲みを抜けるか」

 

 アスカに酒を勧めた張本人である大学院生らしき男が一人で大学生数人を翻弄するアスカを肴に酒を飲みながら話す内容に、新田は眉間に皺を寄せて返す言葉がなかった。この騒ぎで一気に酔いが抜けてしまった。

 

「高畑先生は生徒が事件に巻き込まれたとかで警察にいるらしいですし、どうしましょうかあれ」

「む……」

 

 瀬流彦の言葉に何も言えずに、新田は困ったように腕を組むしかなかった。

 酔いは醒めたとはいえ、あの乱闘の中に飛び込むのは広域生活指導員である新田でも危険極まりない。この事態を収められそうなのは、新田と同じ広域指導員で不良達に「死の眼鏡」「笑う死神」などと呼ばれて恐れられている高畑ぐらいしかいない。

 しかし、当の高畑は警察署にいるらしく、簡単に呼ぶことは出来ない。いてほしい時にいてくれない男ものだと内心憤る。

 新田と瀬流彦が解決策を見つけられずにいると転機が訪れた―――――――悪い方の。

 ズドン、とまるで地面が揺れたような重い音がした。 皆が地面から衝撃を感じて発生源を見ると、何時の間に移動したのか男たちの後ろにある街路樹の根元に立っていたアスカが回し蹴りを放った姿勢で静止していた。成人男性二人分の腰の太さぐらいの街路樹の幹がメキメキと音を立てて、横倒しに倒れるのを見て、全員の口がアングリと開いた。

 

「な……なんで、ありえん…………」

 

 誰かがそう言うも、街路樹がドスンと倒れた強烈な衝撃が皆の足元に響いてくる。

 攻撃が当たらなくて堪忍袋の緒が切れかけていた格闘団体の大学生達から瞬く間に熱は失せ、水を打ったように静まり返る。

 

「あーれー、まちがえっちゃった。まーだまだぁーつぎいくーぞー」

 

 ひぃっくとしゃくりながら、アスカは楽しげに、歌うような調子で言いながら嗤う。無自覚の悪魔の如く。

 

「ひぃっ…………ひっく……」

 

 男の一人がアスカが成した破壊の痕跡に腰を抜かして尻餅をついた。

 危ない足取りで確実に一歩ずつ近づいて来るアスカに誰も動けない。男達は身の危険を感じているのに、蛇に睨まれた蛙の如く動けない。分かっているのだ。今のアスカの前で下手な動きを見せて気を引いたら真っ先に標的になると。

 

「この――」

 

 だが、助けの手というものは確実に用意されている。特にこのような喜劇の場であれば必ず。

 

「――――――馬鹿たれがぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 

 酔いも覚めるような鬼女が何時の間にかアスカの背後に忍び寄っていて拳骨を真上から叩き落とした。

 

「あふんっ」

 

 ゴチン、と半端のない音が広場に響き渡り、酔っぱらっていたアスカは微妙に色っぽい声を漏らして崩れ落ちた。

 その頭には漫画のように大きなたん瘤があり、叩き落とされた拳骨の強さを物語っていた。

 猛威を振るっていた酔っ払いアスカを苦もなく沈めた鬼女――――後ろにアーニャとネカネを従えた天ヶ崎千草は、流れた黒髪を払いのけて今日は休みの日なので私服らしい着物を揺らす。

 

「まったく、あれほど酒は飲むなと言ってるのに。誰よ、アスカに酒を飲ませたのは」

 

 周りがアスカの心配をしてしまうほど頭から落ちたように見えたのに、アーニャは地面に沈んでいるアスカを心配するような素振りを欠片も見せずに周りを睨む。飲ませた張本人である大学院生らしき男はこそこそと逃げていた。三十六計逃げるが勝ちを選んだようだ。

 口振りから以前にも似たような事例があったと周りで聞いていた者達は考えた。

 

「あら、新田先生じゃないですか」

 

 地面に沈んでいるアスカの首根っこを掴んで引きずりながら、新田を見つけたネカネが近づいて来る。

 前から掴んでいるの、あの掴み方ではアスカの首が締まっている気がするのだが新田も流石に突っ込めなかった。

 

「すみません、御迷惑をおかけしまして。」

「い、いや、こちらこそ何も出来なくて申し訳ない」

「愚弟には強くきつく厳しく言いつけておきますので。前にお酒を飲んで家を壊した時にあれほど酒を飲むなと教え込んだというのに、まだまだ足りなかったようね」

 

 なにやら物騒な言葉とドロドロとした粘着質なオーラがネカネから湧き出るに従って、ギリギリと力が入ってアスカが割と危険な痙攣をしているのだが、女性陣は誰も気にした風はなかった。アーニャなんて蹴りを入れてる有様である。

 新田の体も余波で震えていた。条件反射で反応してしまうほどオーラを浴びて肉体が怯えているようだった。

 

「私からもお楽しみのところをお邪魔してすみません。直ぐに撤収しますので」

 

 直接的な迷惑を被っていた大学サークルの方に謝っていた千草が合流した。

 ここでアスカの為を思って引き止めるか、それとも見なかった振りをするか。それが問題だ。

 

「ええ、お元気で。アスカ君にもよろしく伝えて下さい」

 

 新田が選んだのは後者だった。毒々しいオーラに日和ったと言ってもいい。それぐらい女性陣が怖かったのだ。

 

(すまない、アスカ君。今度、君の為に秘蔵のお菓子を上げるから許してくれ)

 

 連れて行く、ではなく連行されていくという言葉が似合う四人を見送る新田は心中でアスカに謝り、お中元で貰ったが勿体なくて食べずにしまっておいたとっておきを今度送ろうと心に決めた。

 姿が見えなくなるまでその場にいた全員が無言で見送った。そしてさっきまでの光景を忘れようと、皆がそそくさと酒を飲み始めた。

 

「おい、打撃もやるな」

「ふ、寝技も中々凄いぜ」

 

 酒鬼の恐怖を共に生き抜いた格闘団体の間に仲間意識が生まれて固い握手を交わして、同じ席で酒を酌み交わしていた。後日、彼らの団体は合併して打撃と寝技を融合させた新団体に生まれ変わったという。

 

「千草さんとネカネさん――――可憐だ」

「え!?」

 

 自分も今見たことは忘れて酒を飲もうと考えた新田は、皆が元に戻った中で去っていた二人が消えた方向を見つめていた瀬流彦が恋する乙女のように頬を上気させて零した言葉に絶句した。

 アスカにしたサドなところが彼の好みのどストライクだったらしい。

 ちなみに、翌日に現れたアスカに怖々話を聞いた新田は更に絶句した。なんと、彼の中には昨日の放課後から後の記憶がなかったのだ。あまりのも恐ろしすぎて追及できず、彼はこの事実を墓まで持っていくことに決めた。

 



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第29話 忍び寄る足音

 

 召喚された時は何時も不思議な感触を覚える。何度も行ってきたことが慣れることはない感触に惑いつつも表情には出さない。その程度には慣れたということだろうかと自問しつつ、ゆっくりと瞼を開く。

 

「召喚に従い、参上した」

 

 悪魔といえど雇用主には下手にである。この場合の雇用主は召喚者であり、目の前の立つ少年に他ならない。

 跪いたまま顔だけを上げると、過去の召喚者とは似ても似つかない風体に悪魔は眉を顰めた。

 

「これは珍しい。今回の召喚者は可愛らしい少年のようだ」

「…………悪魔なのに口が減らないね」

「失礼。久方振りの召喚で舞い上がっていたようだ。気を悪くしてしまったのなら謝ろう」

 

 深く一礼する。相手が見た目とは裏腹に生物としての格が上と認めた上での謝辞であり、召喚者を敬う為のポーズでもある。

 

「まあ、いいよ。仕事を頼みたいんだけど」

 

 召喚者も悪魔の性質などはご存じなのだろう。深くは突っ込みはせず、早々に召喚した目的に映った。

 指を伸ばして悪魔の額に触れて来る。すると、召喚者の記憶が流れ込んできた。

 

「彼女の能力を確かめてほしいんだ」

 

 ピタリと召喚者の記憶が特定の人物を視界に映したところで止めた。

 

「これはこれは、可愛らしい少女だ。活発そうで、こういう少女が悲哀に沈むところを見たいものだが」

「あくまで確認だけにして。使い物にならないと困るんだ」

「仰せのままに。ところで、召喚者の記憶に出て来た人物の中に気になる者がいるのだが」

 

 所詮、悪魔は召喚され使役されるだけの存在。召喚者の命令に逆らうことはありえず、召喚された悪魔もそのことを込みで承諾しているのだ。

 少女よりも若い金髪の少年は、悪魔の記憶にある在りし日の過去を呼び起こす。

 

「言うと思ったよ。多分、君の考えている通りだと思う」

「今回の召喚主は良く調べてらっしゃる。同時に底意地の悪い方のようだ」

 

 頷いた召喚主に、悪魔は隠しもせずにほくそ笑んだ。 

 

「これでも苦労したんだけどね。()の過去を調べ、該当する悪魔達を調べるのは」

 

 ()と言った時に召喚主の人形染みた表情に走った感情の細波に、苦労したと言った言葉とは裏腹の熱を感じ取った悪魔は喜びで笑いたくなった。

 

「強そうなお人ですやん。その悪魔さんは斬ったら駄目ですの?」

 

 部屋の暗がりの中から召喚主と悪魔以外の声が響いた。

 

「君は自分の得物を使えるようになりなよ」

「斬った方が調子が良くなるんですよ」

「彼は仕事があるから駄目。他に呼んだ悪魔にして」

「弱いの斬っても張り合いがないんや。その御方やったら」

「駄目なものは駄目」

「ケチ~」

 

 妖気とでもいうべき気配を放つもう一人の人物は、悪魔の前に姿を現すことなく召喚主に諌められて下がったようだ。

 もう一人の人物の気配が探知外まで遠ざかったのを確認した悪魔は面白いとばかりに破顔した。

 

「いやはや、面白い方を飼っておられるようだ」

「面倒なだけだよ。それに別に飼ってるわけじゃない。ただの仕事上のパートナーだから」

 

 狂犬と一緒にされることを嫌ったのか、口調だけは言葉通りに捉えられるがやはり感情が籠っていない。

 こういう人形のような召喚主が感情を爆発させたらどうなるか、見てみたいものであると悪魔は内心で考えながら本題が切りだされるのを待った。

 

「目標の子は日本の麻帆良都市学園にいる。君はこれからそこへ向かい、これで彼女の能力を確かめてもらいたい。確認が終わったら後は好きにしていいよ。出来るかい?」

 

 渡されたのは魔法的な力が込められたペンダントだった。生憎と専門ではない悪魔にはどのような力があるのかは分からないが。

 

「無論と答えておきましょう。しかし、よろしいので? 御身の記憶を見た限りでは少女の周りには実力者が多い様子。場合によっては召喚主が気にしている少年と闘うかもしれませんが」

「…………終わったら好きにしていいって言ったよね。なんで僕に聞くのかな?」

「いえ、ならばいいのです」

 

 自分の感情すら分かっていない様子の召喚主が面白いと悪魔は笑いを漏らす。

 これだから長生きは止められず、これから向かう地で待っている少年のことを思うと愉快で堪らない。人間で言えばアドレナリンが大量に溢れ出ているような上機嫌になっていた。

 

「ところで、何故私だったのです? あの地に遣わされた悪魔は私以外にもいたはずですが」

「それなら大した理由はないよ。六年前に召喚された悪魔の中で、名前が分かったのが君だけだったんだよ」

「はて、私の記憶が確かならば前回の召喚の時に召喚主はいなかったと思いますが」

「苦労したと言ったろ。メガロに保管されていた資料を忍びこんで読んだんだよ。そこで君の名前を見つけた。特定の悪魔を召喚する時は情報があった方が呼びやすいからね。まぁ、もっとはっきりとした理由を挙げるなら――――」

 

 暗に自分を選んだ召喚主の理由を聞かせろと聞いている等しい言葉に、召喚者の少年――――フェイト・アーウェンルンクスは彼らしからぬ仕草で鼻を鳴らした。

 

「――――単なる嫌がらせだからね」

 

 そして悪魔は、過去からの来訪者は麻帆良学園都市へと向けて動き出す。

 春から夏にかけて穏やかな温かさが次第に熱を帯びてゆく時期。時間は穏やかに過ぎていく。静けさの中で小さな不安を棘のように撒き散らしながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 麻帆良学園女子中等部三年A組、今日の最後の授業は担任教師であるネギによる英語の時間になる、なるのだが。

 

「で、では―――――次の所を……和泉さん」

 

 ネギの状態はふらつき、頬がこけている。はっきり言って尋常ではない。

 指名された亜子が立って指定された英文を朗読しているが、果たしてネギの耳に入っているのだろうか。

 

「ネギ先生……」

 

 3-Aネギ大好き'sのトップ数人の中に入る宮崎のどかは授業もそっちのけでネギの心配ばかりしていた。心配をしているのはほぼクラス全員に言えることだが。

 

「ネギ君、疲れてるっていうかなんかゲッソリとヤツれてない?」

「遅い五月病か?」

「気の早い夏バテとかー」

 

 教壇でフラフラするネギの様子に様々な憶測が飛び交う。教室全体でやっているものだから、個人の声は潜めても全体ではさざ波のように聞こえてしまう。でも、疲れているネギにはそれにすら注意が及んでいないようだ。

 アーニャはアーニャで注意力が散漫で、見事なまでに目を開けて寝ているアスカに気づいてすらいない。

 幸か不幸かフラフラしていてもネギはしっかりと授業を行い、授業そのものについては問題なく進んでしまった。どれだけ授業を聞いていたのか物凄く怪しいのだが。

 丸伸びしたチャイムが鳴り響いた。

 

「それじゃあ今日はここまでに~……」

 

 間延びしたチャイムが鳴り授業が終って、ネギが授業の終了を宣言して頭を下げ、フラフラと偶に黒板や壁にぶつかりそうになりがら、アーニャに引っ張られる様にして教室を出て行く。

 何時もならそこでクラスが騒がしくなるのだが、今回はネギ達の様子がおかしいことで少し違った。

 あやかを始めとして彼を心配するもの多数。普通の人間でよほど嫌いでなければ心配するのも当然で、中には行動を起こす者がいた。ふらふらと蛇行運転しながら廊下を歩くネギの後を、建物の角からこっそり覗いていた綾瀬夕映、宮崎のどか、古菲が追う。

 

「ネギ先生達が何かを隠していると、のどかはそう思うのですね」

 

 ここ数日、ネギの様子がおかしいことに気付いたのどかが夕映に相談したことがこの行動の発端である。

 宮崎のどかには二人の親友が居る。早乙女ハルナ、綾瀬夕映の両名である。とりわけその二人の内、夕映とは格別に親しかった。

 

「う、うん。修学旅行の時も何かあったはずだし」

「それは私も気になっていたのです」

 

 職員室に入った二人が出てくるのを待つ二人は、修学旅行の出来事を思い出す。

 

「何人かがホテルから姿を消していました。私達は知り合いに会いに行ったアーニャさんと連絡が取れなくなり、格闘系の人達が様子を見に行って帰れなくなったと聞きました。ですが、のどかの話を聞けば全く違うことになります」

 

 ネギが来る前は前髪で眼を隠すという髪型で人との接触、特に異性に対しては男性恐怖症なのでないかと噂されるぐらいに引っ込み思案だったのどか。のどかが先生であるネギ・スプリングフィールドに想いを寄せていることは、それの程度に関してはともかくとしてクラスの全員が知っている事実である。

 

「どういうことアルか?」

「彼らは船に乗ってどこかの島に行った、とのどかが教えてくれました。つまり、あの日の行動として私達に伝えられた物は偽りということになります」

 

 勉強をしないだけで頭の回転の速さはクラスでも屈指の夕映が立てた推測に付いていけない古菲は、まだ詳しく理解できていないようだ。のどかだって理解できているわけではない。ただ、現実として自分の目で見た物が、与えらえた情報と食い違うのは認めざるをえない。

 

「島に向かったメンバーの中にアーニャさんの姿はなかったとのことです。ですが、帰って来た時にはいた。逆説的ですが、アーニャさんはその島にいたということになります」

「ん~、実際にその島でアーニャがいたのを見ていたのではないアルか?」

「どうしてか気を失ってて、気が付いたら帰って来てたんです」

「島で何があったのか見ていたら確定だったんですが……」

 

 それが残念でならないと、夕映は悔しがっていた。

 何かがあったのは確かなのに、唯一現場にいたのどかが気を失っていて見ていないのだ。知的探求心の塊である夕映は大層、惜しんでいた。

 

「しかも、のどかと一緒に密航した明日菜さんが彼らと関係を深めていて、この半月でネギ先生らの異変。明日菜さんも何らの関係があるはずですが、本人聞いてみましたがはぐらされるばかりです」

 

 のどかに相談を受けた夕映が原因を究明するために動くのは自明の理であった。だが、のどかと途中まで行動を共にしていた明日菜にははぐらかされてしまい、更に問い詰めようとしても逃げられる。

 退屈な日常に無い物を求めていて知的欲求に取り憑かれた彼女の欲望は、のどかから与えられた好機に物の見事に食いついた。

 

「これは現場を抑えるしかありません。で、聞き込みをしたわけですが」

「聞かれても私には分からないアル」

「だとしても一緒に来られても困るのです」

 

 夕映が最初に取った行動は聞き込み。あの日にいなかった面々に近い同じ格闘系の古菲から始めたのだが彼女も何も知らず、暇だからと同行することになったのは良い事なのか悪い事なのか。

 選ぶ人を間違えたと思い、情報通の和美のところに最初から行けば良かったのだ。彼女から有益な情報も手に入れられたのだから。

 

「朝倉さんから、明日菜さん達がエヴァンジェリンさんの家に頻繁に通っているという情報を手に入れました。何やってるか突き止めるですよ、のどか」

「う、うん」

 

 情報通の和美に確認すると明日菜らは放課後にエヴァンジェリンの家を訪れて一、二時間程経ってから女子寮へと戻っていることを聞いた。エヴァンジェリンの家の直ぐ傍にネギらの家があり、彼女も修学旅行の時にいなかったメンバーの一人なので何らかの関係があると夕映は推測した。

 今までの情報を統合して考えると、エヴァンジェリンの所へと行ったことであれだけ疲労する原因があると思われる。で、気になったので皆で尾行してみようという話になったのだ。

 コソコソとみんなでネギとアーニャを追いかけていた時、噂をしていたら何とやらでアスカと一緒にいるエヴァンジェリンと落ち合った。何やら四人で話しているので会話を聞こうと首を伸ばすが、流石に距離が遠すぎて聞こえない。

 

「むぅ、聞こえないです。古菲はどうですか?」

「距離がありすぎて無理アル。近づこうにも後少しでも踏み込めば間違いなくバレるアル」

「あの、五十メートル近くありますけど、これでも駄目なんですか」

「最近のアスカは異常アル。この前なんて百メートル離れてたのに視線を向けただけで反応したから、これぐらいの距離の方が無難アル」

「…………どこの原始人ですか、アスカさんは」

 

 ネギとアーニャの二人は注意力散漫なのもあって割と近くで尾行できたのだが、アスカが合流したとなればあまり近くには寄れないので、この為に用意していた双眼鏡を取り出して観察する。

 当然、双眼鏡を使わなければ顔が良く見えない距離で声が聞こえるはずもない。

 

「な~に怪しいことやってんの三人とも」

 

 突如として柱の角からネギ達を隠れて見ていた三人の後ろから声がかかる。

 

「あ、朝倉さ!?」

「しっ、のどか! 大きな声を出したら気づかれます」

 

 声をかけてきたのは情報をくれた朝倉和美である。しかし、このタイミングで話しかけられるとは思っておらず、のどかが驚いて大きな声を出しかけたのを隣にいた夕映が慌てて口を押える。

 当の和美は何が楽しいのか、ニヤニヤと笑っている。

 

「向こう動き出したよ。放っておいていいの?」

「そんなわけないでしょ。行きますよ」

「ちょっと待った」

 

 そうしている間にもネギ達はエヴァンジェリンと何か話しながら、学校の玄関を抜けて街に出ていく。夕映の先導で後を追おうとするが、その前を和美が塞ぐ。

 

「もしかして邪魔をする気ですか」

「いやいや、古菲がいるのにそんなことしないって」

「なら、目的はなんです?」

 

 夕映はあくまで頭の回転が速いだけで、腹芸を出来るほどではない。和美に腹芸を仕掛けられても勝ち目はなさそうなので、ネギ達を見失う前に妨害をする目的を問うた。

 

「一枚、写真を撮らせてくれたら通してあげるよ」

「写真?」

「アンティークのを買ったばかりで試し撮りをさせてほしいのよ」

 

 そう言って和美が取り出したのは彼女にしては珍しいポラロイドカメラだった。

 どきそうにない和美。古菲がいるのだから力尽くで突破することは珍しくないが、それは最後の手段である。こうやって考えていること自体、無駄な時間である。写真の一枚ぐらい試し撮りをされても困ることはない。

 

「分かりました。ですが、急いで下さい」

「はいよ」

 

 ニヤニヤと笑みを浮かべたまま、パシャリとシャッター音が下りた。

 ジ―ッとポラロイドカメラから写真が現れる。

 

「では、行かせてもらいます」

 

 その写真を見届けることなく、夕映の先導で三人は先を行ったネギ達を追いかけんと小走りで向かう。

 三人を見届けることなく現像された写真の方に注目していた和美は、最初はキョトンとした表情だったが徐々に楽しそうなそれに変わっていった。

 

「これは面白くなりそうだね。私も行こっかね」

 

 持っている写真には差し出された腕に噛みついているエヴァンジェリンと、その光景を物陰から覗き見ている夕映達三人の姿が映っていた。

 こんな楽しそうな光景がこれから見れるのだと楽しそうに笑い、どうやってか持っていたポラロイドカメラを一枚のカードに変えて先に行った三人の後を追った。

 

「これでは尾行にならないです」

「まーまー、気にしない気にしない。バレナイって」

「あ、雨アル!」

 

 四人で喋りながらではとても尾行とは言えない。事実、建物の影に身を隠して後を追う四人がいる道路の反対側から指を差す子供の純粋な瞳が眩しい。母親の犯罪者を見たような対応に気づかなかったことは幸運か。

 

「お………あの家がエヴァンジェリンさんの家ですか? 四人で入っていく―――――」

 

 途中から雨が降ったことでずぶ濡れになりながらも見つからないように藪に身を潜めて夕映が言った。

 振り始めた雨にネギとアーニャが折り畳み傘を取り出して、男と女で別れて相合傘になっていたり、道中に色んな苦労はあったものの、どうにか目的地まで尾行出来たらしく、街外れにある一軒の木造りのログハウスへと二人で消えていった。

 

「しかし、毎日通ってヤツれるってことは、こりゃアレかなー」

 

 仕草で顎に手を当てて、和美が親父染みた想像したのか笑みを浮かべて何か重々しい感じで口を開いた。

 

「ドレですか?」

 

 ボケ役は揃っていてもイマイチ突っ込み役が不在の為か会話が回りにくいので、仕方なく突っ込み役に回らざるをえない夕映が問いかけた。

 

「いやー、そりゃ大きな声ではあまり言えないよーな、マル秘のアレ」

 

 和美は夕映の問いかけに、ピシッと指を立てて勿体付けて答える。

 

「そ、そんなはずありません!」

 

 真っ先に反応したネギに恋するのどかが和美に迫る。その顔は火照っていた。耳年増らしく何が言いたいかを察したようだ。案外、同人誌を作るためのハルナの資料を見せられたのかもしれない。

 

「コラコラー、何を考えているのですかっ!?」

 

 本来ならばこういう突っ込み役はハルナにでも任せたいところだが、肝心の彼女は修羅場に陥っている同人誌への追い込みのためにいない。

 和美が何を言いたいのかを理解しても引っ込み思案ののどかでは突っ込めず、古菲は何のことか見当がつかずに首を傾げていた。となると残るのは夕映のみ。和美の暴走を止めるために顔を紅くしながらも突っ込むのだった。

 

「ゴ、ゴメンゴメン、冗談だって」

 

 流石に真剣にネギに告白までしたのどか相手にこれ以上、茶化すのは不味いと悟った和美は素直に謝る。

 

「あれ? 誰もいないアルよ?」

 

 ネギ達の姿が完全にログハウスに消えたのを確認して、四人は雨の中を水溜りを蹴飛ばしながら走って近づき、窓から中を覗き込む。

 

「おかしいなー。確かに二人で家に入ったのに」

「お風呂にもトイレにもいないアルよ」

 

 サラサラと降っていた雨が本格的になり始めてきた。夏のように雨に濡れたからといって大丈夫な季節ではない。体も冷えてきたから、このままでは風邪を引いてしまいかねない。

 チャイムを鳴らしてもドアをノックしても誰も返事をしないため仕方なく、悪いと思ったが無断で逃げ込むようにエヴァンジェリンの家に忍び込んだ。

 傍目には犯罪だがクラスメイトだからと許されると考えている部分があった。雨宿りだと言い訳も忘れない。

 しかし、四人が先に入っていくのを見たのにおかしい。誰もいない。確かに四人ともが家に入るのを見たのに、ロビー、キッチン、寝所。果ては風呂やトイレまで探し回ったが、家の中は神隠しでも起きたのかと思うほど静かだった。

 

「み、みなさん、こっちへ~~っ」

「何かあったの?」

 

 手分けして家捜ししていた時、のどかと夕映が地下室で何かを見つけたみたいで、二人を呼びに来た。地下へ降りる途中、山のように置かれた人形が怖かったのは内緒である。実は夕映が最初に見つけた時、ちょっとチビッたのは秘密である。

 地下へ続く階段の奥にあったのは大きな扉。そこを開けると、夕映がスポットライトを浴びている台座の上に乗った大きいボトルシップみたいなものを覗き込んでいた。そのガラスと思しき球体の中には、塔のミニチュアが入っていた。

 それを指差して、のどかがこの中にネギがいるのを見たって言う。

 

「え!? どーゆーことアルか?」

「ですから、小さいネギ先生が――――」 

「ん?」

 

 後からやってきた古菲が夕映に聞いていると和美はどこからか「カチッ」とした音に気がついて辺りを見渡す。

 

「おっ?」

 

 足元に魔法陣が浮かび上がり、和美の姿が消失した。まるでどこかに飛ばされたみたいに。

 

「……ほぇ?」

「あ……」

 

 和美と同じように「カチッ」と音が鳴り、古菲、のどか、夕映の順に足元に魔法陣が浮かんでその姿を消失させた。残ったのは大きいボトルシップだけで少女達の姿はどこにも無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四人の少女達が謎のボトルシップらしきものを発見し、その姿を消失させた丁度その頃、二人の少女が下校の途についていた。

 一人は赤毛に耳を隠す程度のショートヘアとそばかすの少女。もう一人は腰まであるロングヘア、もう一人の少女と同年代と思えない身長とプロポーションを持っている女の子。彼女達と同じ三年A組の生徒である那波千鶴と村上夏美。インパクトの大きい外見を持つ者が多いA組の中で、あまり目立たない子と一際目立つ子の組み合わせだ。

 突然の雨であったが千鶴がしっかりと鞄に折り畳み傘を携帯していたお陰で事なきを得て、二人で一つの傘を差して川沿いの道を女子寮に向かって歩いている。

 

「ネギ先生、大丈夫かなー」

「風邪かしらねぇ。心配だわ」

 

 二人の話題はここ数日、調子の悪そうなネギのこと。

 千鶴は普段、麻帆良学園都市内の保育園で保母としてボランティアをしている。普段から子供を見慣れている彼女には、その理由までは分からなくとも、ネギの僅かな変化も見逃さなかった。

 元より心身ともに母性的な少女だ。普段からネギとアーニャの事を保護者のような目で見ていたのだろう。勿論、その対象にアスカも入っている。麻帆良広しといえど、アスカをただの子ども扱い出来る女子中学生は彼女だけだろう。

 

「あら?」

 

 雨が振っているといってもこのまま何事もなく帰るはずだった中で、千鶴が何かに気付いて視線を動かした。

 

「こんにちわ、お嬢さん方」

 

 雨が降っている中で傘もささず、帽子を被って薄汚れたコートを着ている四十代から五十代くらいの老境に入った男が道のど真ん中に立っていた。

 明らかに不審な人物に、千鶴と夏美の全身に緊張が走る。

 男の服装は異様だった。まだ暑い時期にも関わらずコートなんて着て、雨が降っているのに傘も差さないで濡れるに任せている。どう見ても不審人物であった。

 

「そんなに緊張しなくても何もしない。少し聞きたいことがあるだけなのでね」

「聞きたいことですか?」

 

 敵意はないし、何もする気はないと両手を上げてその場から動かずに問いかけてくる男に、千鶴は十分な距離を取ったまま問い返した。

 

「イスタンブールから仕事で来たばかりでね。イスタンブルールは分かるかね? トルコのことだよ。流石にトルコの場所が分からないとお手上げだが」

「はぁ……」

「仕事で来たのだが道に迷ってしまったようでね。良かったら道を教えて頂きたいのだが」

 

 生返事をした夏美の横で千鶴の中で、目の前の相手は危険であると警鐘が最大限に鳴り響いていた。

 多少危ない人や近寄らない方が良い人はある程度幼い頃から感じることが出来た。もしかしたらこの感受性が千鶴の精神を大人の領域まで引き上げたのかもしれない。その感受性が言っているのだ、目の前の男は今までに会った誰よりも危険だと。

 

「どこへ行きたいのですか?」

 

 問いかけながらも、目の前の男を止められる人物を脳内で弾き出す。

 警察は駄目だ。目の前の男は千鶴が知る範囲では犯罪を犯しておらず、ただ危険だと感じたからでは動いてはくれまい。それに警察ではこの男を止められるとは思えない。

 国家権力では駄目ならば腕っぷしに自慢のある者しかいないが、果たしてこの男を止められるのか。それこそ人外染みた強さがある高畑ぐらいしか思いつかないが、高畑は出張で麻帆良にいない。

 

「この都市で最も偉い者がいる場所へ」

「近衛学園長へですか?」

「ああ、仕事をする前に話しを通しておこうと思ってね」

 

 話の内容はそれほどおかしいところはないのに、こうやって話をしているだけで心が汚染されていくようだ。夏美も千鶴の反応のおかしさに気づいて、背中に隠れてしまっている。

 

「失礼でなければ、用件をお聞きしても?」

 

 かくいう千鶴も剥き出しの膝が震えだした。夏美がいなければ逃げ出しているか、へたり込んでいるかしているだろう。

 

「君のような美人なら喜んで教えたいところだが、残念ながら守秘義務があって答えられない。すまないね」

「いえ……」

「ところで、そろそろ近衛学園長がどちらにいるか教えてもらってもいいかね」

「私達は学生でするので学園長室がどこにあるかまでは…………」

 

 学園長室は千鶴達が通う女子中等部の校舎の中にあるが、しらばっくれことにした。こんな不審人物を招き入れるわけにはいかない。

 

「やれやれ、どうやら嫌われてしまったようだ」

 

 男には千鶴の思惑など簡単にお見通しのようだったが効いた風はない。

 

「貴方がどちら様か知りませんが、この雨の中で傘も差さず、名乗りもしない方を親切になど出来ません」

「ち、ちづ姉!」

 

 この言い方では気分を害し、手を出してくるかもしれないが千鶴は気丈に接する。

 オロオロする夏美を尻目に得体のしれない老人を前にしても気丈な態度で接する千鶴。隣にいる夏美が怯えきっているのとは対照的に、千鶴は男の非紳士的な行為を正面から指摘した。

 

「おや、これは失礼お嬢さん。婦人に対して名乗りもしなかったのは私の落ち度だ」

 

 意外にも、素直に受け入れて謝罪する男。

 危険性を察知しているのに平常通りの言葉遣いで話を続けている時点でかなり胆が据わっている。意外そうに、面白そうに千鶴を見ている。

 こういった状況ではたいていの場合、今の夏美のような態度をとられる老人にとっては非常に興味深い反応であり、老人は思わず笑みを浮かべた。雨に濡れるのも気にせずに帽子を取ると、慈愛に満ちた視線で千鶴を見る、

 

「私はヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマン伯爵。伯爵などと言ってはいるが、没落貴族でね。今はしがない雇われの身だよ」 

 

 取った帽子を胸元に掲げ、軽く優雅に一礼して名乗りを上げた。

 没落貴族だとしてもその動作は堂に入っており、雪広あやかという正真正銘の雪広財閥のお嬢様が間近にいる夏美の目でも伯爵と名乗っても何の違和感はなかった。

 

「そうだ。美しいお嬢さん達、何か願いごとはないかね。今ならサービス期間中につき、先着三つまで格安でお受けするが」

「…………? 願い事? 間に合っていますわ」

「そうかね、残念だ」

 

 千鶴に対して願い事はないかと尋ねてみるが、はっきりと拒絶された。 しかし、男――――ヘルマンは気にした風もなく笑い、くるりと身を翻した。

 

「気丈なお嬢さんだ。私を相手にこのような反応ができる人間は非常に珍しい。()といい、君のことも大変気に入った。その勇気に免じて、一度だけ嘘を見逃そう。それと忠告を一つ」

 

 恐怖を覚えているのは震えている手を見れば分かる。それでも逃げなかった勇気はヘルマンの興味を十分に引くものであった。まるで塩の像と化したかのように恐怖に打ち震える夏美こそが普通であり、千鶴のような反応を見せる人間は極稀だ。

 

「今宵はきっと嵐となろう。今日は早く帰りたまえ。では、息災を祈っているよ」

 

 そう言ってヘルマンは千鶴達の前から姿を消した。千鶴達の心にどうしようもない影だけを残して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エヴァンジェリンの家から姿を消した四人の少女達は、気がついたら見たことのない場所に立っていた。

 上を向けば青い空に白い雲。下を向けば小さな砂辺もあれば辺り一面の海もある。おまけに煌く陽光まで完備されており、まるで南国のプライベートビーチを思わせる。

 辺り一面の水平線。今いる彼女たちがいる場所は海に浮かぶように作られている白亜の建物から伸びる手摺もない橋に?がった円筒状の塔の上。白い石畳に書かれた五芒星が描かれており、彼女たちはそこに立っていた。

 

「どうなってるアルか?」

「へ?」

 

 辺りを不思議そうに見渡しながら困惑を露にする古菲とのどか。

 

「何か見覚えがあるね」

「そうですね、どうやら先程のミニチュアと同じ場所のようです」 

 

 その中で和美は何となく見覚えがあるような気がして、夕映が彼女の言葉からヒントを得て見えている風景が自分たちが先程あったボトルシップの中にあった場所にいることが分かった。

 

「じゃあ、さっきのネギ先生も……」

「多分、本人であると推測されるです」

 

 どうやら彼女の話によればここはあのミニチュアの中であるらしく、さっきのどかが見たネギらしい人物も本人であると推測できた。夕映は相変わらずの鉄面皮ようだが自分の意見を述べる姿は興奮しているようだった。そしてその意見は恐らく合っているであろう。

 のどかの疑問を解消する大きなヒント。否、もはや答えは目の前にある。ここまで大規模な事が出来ることに好奇心が更に刺激されて大きな瞳に歓喜を湛えていた。

 そういうわけで少女たちは、恐らくネギがいるであろう白い石畳の橋の向こうに見える場所に建っている白亜の宮殿に向けて、橋を渡るために歩を進めて行った。

 

「うわっ、こんな高い橋に手摺ないし!」

「わははははっ、滅茶苦茶高いアルね~」

 

 手摺がないことに驚いたものの臆した様子のない和美と、何とかは高いとこが好きとでもいうのか楽しそうな古菲を先頭に一行は進む。

 

「ゆ、夕映~」

「大丈夫ですよ、のどか。非日常な出来事は胸躍る思いです。学校のつまらない授業などよりも余程、楽しいですよ」

 

 例えるなら高層ビルと高層ビルとの間に渡された少し丈夫な板の様な物でしかない。心臓が止まりかねない景観が丸見えなのである。しかも、高さに比した程ではないが、少なからず風が吹いていた。

 

「って、ゆえっちも膝震えてるけど――――」

「これは武者震い、ということにして下さい。お願いですから」

 

 生まれたての小鹿みたいに震えている夕映の膝を全員見なかったことにするらしくコメントは差し控えた。怖いのは皆同じだったからだ。しかし武者震いとは、日本語とはこういう時には便利である。

 色々あったが、突然の突風が吹くことも無くどうにか橋を渡り切った。

 そして白亜の宮殿に辿り着くと階段が見えた。階段を抜き足差し足で降っていくと、突如仄かな明かりが漏れる扉のちょうど壁際で先頭に立つ和美の動きが止まる。掌を上にして静止のジェスチャーをかける。ちなみに万が一、何かあった場合に外に伝えるために古菲は残っているのでいない。

 和美に続いていたのどかと夕映も揃って歩を止める。そして和美が聞き耳を立てているのを見習って耳を欹てる。すると何やら話し声が聞こえてきた。

 

「も、もう限界ですよ。これ以上は――――――」

「少し休めば回復する、若いんだからな」

 

 一体、何が限界なのか、と三人が共通の疑問を抱いた。そして何故休めば回復するのか、とも。

 彼女たちは言葉の断片から推測するより他にない。推測するに当たって変な方向に思考が回るので三人の体温は異常なほどの上昇を開始する。直ぐに色事に意識が傾いてしまうほど十四歳は多感な時期である。つまり、エロに興味を持つのは男ばかりではないということだ。

 

「あっ、ダメです」

「いいから早く出せ。ふふ、流石に若いだけあって旺盛だ」

 

 艶のあるエヴァンジェリンの声と、怯えたようなネギの声、声に合わせて小さい衣擦れの音が耳に届く。一体何を出すというのだろうか、耳年増である夕映も顔面が体温の上昇と伴って紅く染まっていく。しかし問題はそれだけに留まらなかった。

 

「ダ、ダメですよ。エヴァンジェリンさん」

「痛くはせんよ。ほら、寧ろ気持ちいいだろ?」

「う……ぁ……」

 

 どう考えても淫靡に聞こえる内容に、年頃の少女達の脳裏にはネギを尾行する時に和美がふざけて話した18禁な映像が流れていた。特にのどかの顔は完熟トマトのように真っ赤に熟れて「あわわわわわわわ」と言いながらガクガクと震えだし、彼女よりかは震度は小さいもの夕映も同様に頭は完全にオーバーヒート。

 限界に達した少女たちはその声の主たちを止めるべく彼らの前に顔を晒した。

 

「「「何をやっ…………て……?」」」

 

 物陰から飛び出した少女たちの声の勢いが急速になくなっていく。彼女たちの眼前に広がっていたのは淫靡さとは懸け離れていた光景だった。

 

「ん?」

「エ、エヴァンジェリンさん、そそそ、それ以上は~~~」

 

 二人が並んで座っていて、血を吸われて今も顔を少々歪めて懇願するネギと、その腕に噛み付いて血を吸う子供が御飯を口に運んでいる時に声をかけられたような顔のエヴァンジェリン。

 

「…………何だ、お前達」

「え、と……………………何やってるのですか?」

 

 エヴァンジェリンはネギの腕から口を離して突然、現われた少女達に問いかける。

 末だにダメージが抜け切らないのどかを除いて、まだダメージが少しはマシな夕映が代表してそもそもの疑問を口に出す。エヴァンジェリンの問いには答えていない。

 

「授業料に血を吸わせて貰っているだけだよ。献血程度のな。多少魔力を補充せんと稽古もつけれんし…………」

 

 不法侵入を咎める前にこうしてネギの血を吸っている経緯を素直に説明するエヴァンジェリンも、もしかしたら現われた少女達を前に混乱していたかもしれない。

 

「「ええ~~~?!!」」

 

 血を吸っているとか、魔力とか、分からないことばかりで二人は怒号のような悲鳴を白亜の宮殿内に鳴り響かせた。

 

「何事っ!!」

「どうしたんやっ!」

「危険です! お嬢様、下がってください!!」

 

 すわ、敵襲かと思って真っ先にアーティファクトのハリセンを片手に駆けつけた明日菜。明日菜に若干遅れて木乃香、刹那と続き、刹那が先に着いた木乃香を庇って後ろに下がらせ、鞘から抜き放った夕凪を構えた。

 

「「「えっ?!」」」

「「「あ」」」

 

 現われるはずのない三人が現われて困惑の声を上げるのどかと夕映。先程の声の主が敵襲ではなくて夕映達だと分かって間抜けな声を上げるのだった。

 

「ぷくくくっ…………最高っ!!」

 

 写真でこの光景を見ていたのである程度の察しがついていた和美は、一人で壁を叩いて襲ってくる笑いを必死に堪えていた。

 

「これはどういう状況アルか?」

 

 夕映達の声に急いで階段を飛ぶようにして下りてきた古菲が見たものは、ハリセンと刀を構えたまま固まった明日菜と刹那、その後ろに庇われた木乃香と、正対して口をポカンと開けたのどかと夕映、一人で爆笑している和美の姿だった。

 状況が混沌とし過ぎていて、さっぱり意味が分からない。

 

「知らん。私に聞くな」 

 

 なんとなく上げた疑問の声に答えたのはエヴァンジェリンだったが、彼女も事情が分かるはずもないのでにべも無く斬り捨てた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 針山と称するしか出来ない空間に、二つの小さな影が動き回っていた。

 

「ケケケ、コッチダゼ」

「逃げんな!」

「鬼サンコッチ、ダ」

 

 針山の一つに着地し、尚も移動し続けるのは片言で話す自動人形であるチャチャゼロである。その後ろをアスカ・スプリングフィールドが追う形であった。

 アスカは裸足で氷で出来たらしい氷の氷山の一つに爪先で着地すると、チャチャゼロを追ってまた飛ぶ。

 

「浮遊術ハ使ッテナイダロウナ」

「見りゃ分かんだろうが。使ってねぇよ」

 

 先を進むチャチャゼロは後ろを振り返りつつ確かめるが、言う通りアスカは空を飛べる浮遊術を使っていないようだ。この戦いの約束事の一つとして浮遊術を使っていないことになっているので、真面目に守っているようで何よりだ。

 

「ソレッ」

「っ!?」

 

 チャチャゼロが転進して、その手に持っている鉈のような刃物で追ってきたアスカに斬りかかった。

 斬りかかられたアスカは慌てず身を逸らして斬撃を避け、お返しとばかりに借りた魔剣を切り上げる。

 

「ハンッ、温イゼ」

 

 チャチャゼロはさっき斬りかかった手とは逆に持っている鉈を振り、重さを利用して下から上がって来る魔剣を避けて。回避の為に振った動作を次の攻撃へと続ける。

 

「そっちがな!」

 

 横合いからやってくる刃を魔力を収束させた太腿で受け止め、同じく魔剣を持っていない手を拳の形にしてチャチャゼロに放つ。

 この一撃を鉈で受け止めた二人の距離が開く。

 

「ヒャッハァッァァァァァァァァァ!!」

「ハァアアアアアアアアアアアッ!!」

 

 互いに奇声を上げながら、氷の氷山の上を舞踏の如く舞う。そんな奇怪な光景を目撃したアーニャは、目の周りに隈を作りながらどんよりとした視線を向けた。

 

「どこの戦闘民族よ、アンタら」

 

 トイレに行ったら奇声が聞こえるから来てみれば、なんともコメントに困る光景にアーニャは吐き捨てざるをえなかった。

 遺失魔法の再現を任せていたネギが本格的にエヴァンジェリンの師事を受け始めた所為で、その作業をアーニャがやっているのだが一向に捗らない。たった一人で散逸していた部分を再現して見せたネギの頭脳と、前までは針山で倒立することすら苦難していたのに今では戦闘が出来るまでになっているアスカの才能に嫉妬する。

 

「アンナ様、こちらにおいででしたか」

「ん? ああ、自動人形の」

 

 寝不足と作業の進みなさ具合にイラついていたところに背後から声がかかった。

 振り返った先に立っていたのは、エヴァンジェリンが付けてくれた自動人形。チャチャゼロから続いている茶々シリーズで、主であるエヴァンジェリンの魔力が封印されているので別荘の管理を任せている個体の一体。見た目はどことなく茶々丸に似ているが――――茶々丸が似ているのかもしれないが――――茶々丸と違って感情を僅かとも感じさせないその姿は少し苦手だった。

 

「マスターがお呼びです」

「エヴァが? 私だけ?」

「アスカ様もとのことです」

 

 エヴァンジェリンが別荘にいる者を突然呼び出すことは珍しくない。しかし、アスカとアーニャを同時に呼び出したことは今まで一度もない。アーニャの中で嫌な想像が膨らむ。

 

「…………もしかして、なにかあったの?」

「存じ上げません。マスターからお二人を至急連れてこいとの命令です」

 

 茶々丸なら用件ぐらい聞いてくるぐらいはするが、自動人形は主であるエヴァンジェリンの命令に従いすぎて融通が全く利かない。不便とまではいかないが、どうにも気持ちの面で良い気はしない。

 

「直ぐに行くからちょっと待って」

「承知しました」

 

 自動人形が大人しく引き下がるのを見て一安心する。

 ごねると実力行使で命令を執行しようとするので、本当に融通が利かないのだ。あまり待たせてもくれないので、今も戦っている一人と一体に視線を向ける。

 

「どうやってあれを止めよう……」

 

 アーニャが止めるにはレベルにはかなり厳しい領域で戦っているので、即座に方策が思い浮かばなかった。

 寝不足で考えが纏まらず、取りあえず全部燃やそうと思い立つまで後数分。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここは私が造った『別荘』だ。ちょっと前に少しだけ使ったがそれ以来放っていたが、坊や達の修行のために再び掘り出して来た」

 

 来てしまったものはしょうがないが人の家への不法侵入に対する罰だけ(茶々丸の鋼鉄の腕による拳骨によって四人の頭の上に漫画のような大きなタンコブを作っていた)はしっかり与え、エヴァンジェリンがこの場所の説明を行っていた。

 

「へー、こんなモノ造ってしまうとは魔法使いとは凄いアルねー」

 

 ヒリヒリするタンコブを痛そうに摩りながらもキョロキョロと辺りを見渡す古菲。一連の魔法関連の話を聞いても直ぐに復帰する辺り、理解しているのかしていないのか怪しいものである。

 

「全く…………勝手に入って来おって一応言っておくがな。この別荘は一日単位でしか利用出来ないようになってるから、お前達も丸一日ここから出れんからな」

 

 エヴァンジェリンは全く懲りた様子のない古菲に腰に手を当てて呆れた表情を浮かべ、同じような様子の他の少女達にも向かって言葉を続ける。

 

「「「「ええ―――――?!」」」」

 

 暴露された衝撃の真実に侵入者たる四人の少女たちは揃って驚愕の声を上げた。

 この『別荘』の主であるエヴァンジェリンは勿論、利用者であるネギ、明日菜、刹那、木乃香に驚きの色はない。利用する前に事前の説明を受け、それを理解した上でここにいるのだから驚く理由はない。

 

「じゃ、明日まで出れないアルか?!」

「聞いてないよっ!」

「明日の授業どうするのですか―――――っ!」

「…………!」

 

 順に古菲、和美、夕映、のどかと続けざまに、まるで親鳥から餌を貰う雛の如くエヴァンジェリンに向かって囀る。

 そもそも不法侵入者である彼女たちに事前の説明など出来るはずもなく、それで責められたとしても自業自得としか言いようがないが人間というものは他人に責任を転嫁する生き物である。

 

「ああ、もううるさいな。安心しろ。日本の昔話に『浦島太郎』ってのがあったろ。ここはそれの逆だ」

 

 ビーチクパーチク囀る少女達を鬱陶しげに見やり、説明するためか何時か見た教師スタイル(眼鏡+差し棒+黒板)を茶々丸に用意させた。

 エヴァンジェリンが説明しながら黒板に書いたのはネギの一日のタイムスケジュール。

 朝の睡眠から古菲との朝練、朝食を取ってから学校に行き、放課後になったら最近入ったエヴァンジェリンとの修行の項目が追加されている。そこに更に横に追加されたもう一日分のタイムスケジュール。違うのは睡眠からは魔法勉強、基礎訓練、実践訓練などの修行一色に染められた一日。

 

「ここで一日過ごしても外では一時間しか経過していない。これを利用してこいつらには毎日丸一日たっぷり修行してもらっている」

 

 書き記された図を見てエヴァンジェリンの説明を纏めると、通常の学校もあるタイムスケジュールの中にあるエヴァンジェリンとの修行の間にもう一日別荘内で過ごしているということだ。

 ちなみに一日の仕上げに実戦稽古を行っているが5~15分ぐらいしか持たない。というか、それ以上はまだ無理。

 

「ということはネギ先生は仕事をした後に、もう1日ここで修行したということですか?」

「教職の合間にちまちま修行しててもラチがあかないからな」

 

 爛々とした目で問いかける夕映を訝しげに思いながらも問いに正直な考えを返す。

 

「てコトはネギ坊主、一日が二日アルか!?」

「いえ、最初はそうでしたけど今は僕がお願いして三日にしてもらっています」

「時間が増えるのは私にとっては都合がいいがな」

 

 古菲の驚きに更に上乗せするようにはにかんだ笑みを浮かべながらぶっちゃけてしまったネギ。強くなりたかったネギがエヴァンジェリンに無理を言って頼んだのだ。

 

「「「ふええ~~~~~!?」」」

 

 ネギの周りに集まった三人が衝撃の事実に驚きの声を上げる中で、彼、彼女たちから少し離れた場所から眺めていた和美は、腕を組みながらネギの学校でのヤツれ具合は当然だと納得した。

 

(丸二日もぶっ続けで修行した後に血まで吸われたらヤツれもするわな、そりゃ。しっかし、別荘か。魔法ってのは凄いね)

 

 事前に魔法のことを知っていた和美は改めて魔法の凄さを思い知った。

 燦々と輝く太陽はまるで南国。広い海はコバルトブルーで綺麗な色をしている。この場所での一日は外の一時間ということを知ったら、あまりのデタラメ具合に溜息を漏らすばかりだった。そこで同じように彼女たちの輪に入っていなかった明日菜たちが眼に入り、「はて、なら彼女たちはどうなのか?」と疑問に思った。

 

「そういえば明日菜たちはどうして?」

「木乃香がエヴァちゃんに弟子入りしているのよ。その繋がりでね」

 

 近づいて問いかけてきた和美に最初から用意していたように明日菜が答える。何時かは聞かれると分かっていたので返答に澱みはない。 

 

「それじゃ刹那さんお願い」

 

 話はここまでと打ちきり、明日菜は刹那に呼びかけながらハリセンを構えた。

 

「こちらこそよろしくお願いします。」

 

 刹那も一礼して持っていた木刀を構える。そして明日菜が打ち込みを始めた。素人ゆえに無軌道な太刀筋だが、刹那はそれをきっちりと見極めて捌いて時々、明日菜に対してアドバイスをしていた。

 木乃香はそんな二人を見守っている。

 ただ剣を打ち合わせる簡単なものだが、素直にアドバイスを受けるので明日菜の上達は早く、センスもいいのだろう動きが見る見るうちに精錬されていく。

 

「明日菜さんは桜咲さんに剣道を習ってるんですか?」

「剣道っていうか」

 

 ちゃっかりとネギの隣を確保しつつ、突如として始まったチャンバラにのどかは気になって訊ねた。

 打ち合わせながら会話をするといった他に意識を割くことは難しいようで明日菜の剣筋が乱れて行く。それでも止めないのは、まだ始めたばかりなのと剣だけでなく余所にも意識を配るようにしているから。

 

「よっ、はっ、わっ!」

「やはりなかなか筋がいいですよ、アスナさん」

 

 空がうっすらと暗くなっていく時間帯にハリセンと木刀がぶつかりあう音が鳴り響く。

 刹那の言うように明日菜の元々の運動能力に加えて、刹那には師としての才能もあるか一般人のレベルからすれば上等と呼べるものであった。のどかの方に意識を割きつつであることを考えれば中々の動きである。

 

「でも、何でイキナリ?」

「私は修学旅行で何も出来なかったらっ!」

 

 和美もそれが気になって聞いてみた。

 最後にいいのが入りかけて語尾が強くなったが、上手く説明できていない。彼女の中にも上手く形になっていないのかもしれない。

 

「ええい!」

 

 両手でハリセンを振り回すアスナ。その動きは初心者には到底見えなかった。傍目から見ても刹那の方が技量は上だが、まだ粗い面が目立つもののなかなかに様になっている。

 

「ふ~ん」

 

 明日菜の返答に納得したわけではないが踏み込みづらい雰囲気を感じ取って、それ以上の追求はしなかった。

 修学旅行の時のことは、ほぼ傍観者であった和美にはかなり大変だったとしか聞かされておらず、明日菜の無力感は分からない。

 次の木乃香の方に視線を向けると、

 

「うちはな、魔力が暴走して危ないって言われて頑張って魔法を習ってねん」

「では、木乃香さんは魔法を使えるのですか?」

「それがまだやねん。ようやく魔力を感じ取れるようになったところで、先はまだ長いわ」

 

 本当に大変やわ~、とポヤポヤとした笑顔で言われたもんだから夕映も困った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エヴァンジェリンの別荘は今までにない数の来客を迎えていた。

 吸血鬼の別荘、と言葉にすると物騒極まりないが、そこは思いのほか清々しい空気に満ちていて集まった少女達の騒がしい声が響いていた。

 ネギの体調不良を心配した一部生徒たちが原因はエヴァンジェリンにあると考えに至り、色んな経緯を辿って彼女の住んでいる家に押しかけた。そして地下にあるボトルミニチュアの形をした『別荘』を見つけてしまい、中に入ってしまったのだった。別荘の主からしっかりとお叱りを賜り、今は―――――

 

「ん~~♪ 何時も思うけど茶々丸さん達の作った御飯って美味しい!」

 

 太陽が地平線に半ば沈み。何時もの食堂ではなく。塔の上に設けられたテラスで取る事になった。そこで開かれた夕食会のなかで明日菜の歓声が上がった。

 別荘は一回入ると二十四時間、つまり丸一日は出ることが出来ない。

 だからといって不法侵入をした四人の御飯を用意する義務は、この別荘の主であるエヴァンジェリンにはない。というか、なんでそこまで面倒を見なければならないと詰め寄って来た古菲や和美に対する返答である。

 流石に明日菜達も不法侵入した彼女達を擁護することが出来ず、ネギはエヴァンジェリンの威圧に屈したために助けの手はない。

 これ見よがしエヴァンジェリンが秘蔵の食料を出して他の子たちに歓声を上げさせるのだから性質が悪い。水分だけは取らして貰えるのが空きっ腹を刺激する。

 

「クク、良き哉、良き哉。お前達、そんなに飯が食いたいか?」

 

 ワインが入ったグラスを片手に、おいしそうな匂いや食べ続ける明日菜たちを見てダラダラと涎を垂らす古菲や眼がギラギラとした和美や夕映、諦めた様子ののどかを楽しそうに見ながら話しかけた。

 返事がどうかなど、飢えた獣が目の前で食べ頃な獲物を用意されたような目が全てを物語っていた。

 目の前であれだけ豪華な食事の数々に諦めた様子を見せていたのどかでさえ、普段は草食動物のような否好戦的な視線から肉食動物のようなギラギラとした輝きをチラチラと見せていた。

 

「まずは足を舐めろ。さすれば貴様達の望みを叶えてやらんでもない」

 

 黒のニーソックスに包まれた小さな足が緩やかに動き、スカートの裾から伸びる白く細い太腿がゆっくりと露になる。ワイングラスを片手に持ちながら少女達の前に組んだ足を差し出して女王様然とした笑みを浮かべる。

 少女達の顔に揃って激震が走る。

 まず料理を食べられる明日菜達はエヴァンジェリンのドSな提案にドン引き。そこまでしなくても御飯ぐらい上げれば良いのにと思っていた。

 反対に不法侵入した夕映達といえば、『別荘』に入ったことで外との時間にズレが生じているが体感時間ではちょうど夕食時、普段なら寮で御飯を美味しく食べている時間帯。胃は空腹を教えるように鳴り響き、目の前で美味しそうな匂いを振り撒く料理が消費されていくのを見れば口の中で唾液が溢れて止まらない。 

 

「もう我慢出来ないアル! プライドなんて空腹に比べれば安いものアル!」

 

 少女達の中でも運動系の古菲は消費カロリーが多い。空腹度で言えば断トツで、人間として手放してはならないプライドを捨ててまでエヴァンジェリンの提案の乗ろうと身を乗り出した。

 

「古ーちゃん、早まっちゃ駄目よ!」

「その一線を踏み越えたら人としていけません!」

「そうですよ、それは流石に不味いです!」

 

 級友であり戦友を押し留めようと、今にもエヴァンジェリンの足を舐めようとしている古菲を必死に止める。

 近くで繰り広げられる人間としての尊厳を掛けた一幕と、足掻く少女達を楽しそうに眺めるエヴァンジェリンの対比に、明日菜達の顔が引き攣っていた。流石にここは止めるべきだろうかと目で相談する。

 それよりも先に、エヴァンジェリンがダメ押しの一打を入れてしまう。

 

「ほれほれ、早くせんと止めてしまうぞ」

「止めるなアル!」  

 

 目の前でゆらゆらと揺れるエヴァンジェリンの足こそが食料と言わんばかりに、古菲の目が血走っていた。あまりにも空腹に成り過ぎて正気を失いかけているのか、拘束する夕映達を実力行使に振り払いそうな雰囲気を出し始めた。

 これには明日菜達も誰かが怪我をする前に止めるべきだと判断して、力押しで止められそうな明日菜と刹那が立ち上がって――――――――――彼女達の機先を制するように横を通り抜けた人物を見て安心したように座り込んだ。冷めるので止めていた食事を再開する。

 

「まずはニーソを脱がせよ。だが、手は使うなよ。犬のように全部口で――――」

「何をやっとるか」 

 

 目の前で繰り広げられる醜い人間劇にご満悦な笑みを浮かべてダメ押しの命令を言いかけたが、何時の間にか隣りにいたチリチリパーマのアスカが額にデコピンを食らわした。

 

「へぶぅ!?」

 

 余程、デコピンの威力が強かったのかエヴァンジェリンは変な悲鳴を上げる。そしてヒットした額からは威力が強かったのかシュウシュウと煙が上がっていた。

 エヴァンジェリンの手から中身の入ったワイングラスが宙を飛びかける前に、アスカの後ろで湯気を出す物体が乗ったカートを押して来た茶々丸が腕を飛ばして――――ロケットパンチで――――で見事にキャッチ。中身も零すことなく受け止めた。

 

「あああアスカ、何をする!! というか何時の間に来た!!」

 

 デコピンで後ろに跳ね飛んでソファに後頭部を打ち付けてフリーズしていたエヴァンジェリンは、起き上がり拳のように戻りながら叫んだ。

 

「呼んだのはお前だろうが」

「いや、そうなんだが。そこで冷静に返されてもな」

「ケケケ」

 

 天然なのか、狙ってやっているのか分からない。まだ痛むのか紅くなっている額をスリスリと摩りながら言い募るエヴァンジェリンは悔しそうに唸る。アスカの頭の上でこちらもチリチリパーマになっているチャチャゼロが嗤っているのが癪に障る。

 

「ところでなんで焦げてるんだ?」

「アーニャの野郎が俺達を止める為に魔法の矢を撃ってな」

「あの小娘の得意な属性は火だったな。成程、火炙りになったか」

 

 だから揃ってチリチリパーマになっているのだな、と愉快な姿が見れたのでさっきの忘れてやるかと内心で考えたエヴァンジェリンだったが、

 

「いや、うっかり迎撃したら魔剣が爆発した」

「は?」

「アホミタイナ魔力ヲ込メルカラ暴発シチマッタンダヨ、御主人」

 

 ほれとばかりに差し出された、柄だけになった魔剣をしげしげと眺めたエヴァンジェリンは「またか」と顔を歪めた。

 

「これで何本目だ? 程度が低いとはいえ、市場に流せばかなりの金額になるのだぞ。もっと大事に扱え」

 

 木乃香よりも魔力量が上で、人類でもトップクラスの魔力量のアスカが扱える武器は少ない。しかも魔力コントロールが出来るようになったので0から100まで出力を一瞬で上げれる様になったことで、かなりの強度がないと武器自体が耐えられずに自壊してしまう。

 

「つってもな」

「アスカの馬鹿みたいな魔力を一身に受けられる武器は少ないのだぞ。伝説級でもなければな。流石の私もそこまでのは持っていない」

「俺にも親父の杖みたいな武器があればな……」

「あれは例外だ。武器は私の方でも探しておく」

 

 無手でも戦えるアスカだが折角詠春に神鳴流を習ったのだ。使わないのは勿体ない。使える武器があればだが。

 ふと、周りが静かなことに気づいたエヴァンジェリンは柄だけになってしまった魔剣を近くにいた自動人形に預けて周りを見て固まった。

 

「……って、茶々丸?! 何をやっている!」

 

 アスカと話していたエヴァンジェリンは茶々丸の行動を見咎めて叫んだ。

 

「マスターの命令通り作っていた賄い料理を皆さんに」 

 

 最初からマスターであるエヴァンジェリンに命じられて作っていた賄い料理を振舞っているだけなので、茶々丸はその通りに答えた。

 

「飯~~っ!」

 

 出された簡単な賄い料理に古菲が奇声を上げて齧り付く。他の子たちも古菲のように奇声は上げなかったものの獣の如く飛びついた。

 

「それは後でだと言っただろ! あ、貴様ら命令をこなしていないのに食べるんじゃない! ってこら神楽坂明日菜に刹那! 邪魔をするな!」 

「もうエヴァちゃん、照れない照れない」

「まあまあ、良いじゃないですか。それぐらいなら」

 

 言う事を聞いても同じものを食べさせるとは一言も言っていない。足を舐めても食べれるのは半分にも満たない、少ない賄い料理だけ。

 主の意識がアスカに向いていたので渡しても問題ないと判断した茶々丸の行動は、当然エヴァンジェリンの意図したものとは懸け離れている。でないと、足を舐めても賄い料理しか食べれない絶望を味わわせられない。

 しかし、半分にも満たないが一応腹の足しにはなる賄い料理を獣の如く食う少女達にエヴァンジェリンの静止は届かない。力尽くで静止しようとして明日菜と刹那に羽交い絞めにされて直ぐには振り解けない。

 

「馬鹿ばっかだな」

「なんでちょっと自慢そうなのよアンタは」

 

 一瞬にして喜劇と成り果てた眼前の光景に何故か胸を張っているアスカの頭を叩いたアーニャは、状況の混沌さと厄介さに気づいて深い溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

 結局、エヴァンジェリンの静止も虚しく賄い料理全てが夕映達の胃の中へと消えた。賄い料理でも十分に美味しいので茶々丸の好意で用意されていた御代わりまで食べ尽くし、満腹に満たされた夕映達とは反対に一人だけ打ちひしがれるエヴァンジェリンの姿があった。

 夕食会も終わり、それぞれの余暇を楽しんでいる中、宴会場の端で何やら息込んだ夕映がネギに迫っていた。そして出てきた言葉はネギにとって大破壊のものである。

 

「ネギ先生、私も魔法使いになれないものでしょうか?」

 

 ネギが魔法使いである、という事は既に自明の理。魔法という存在さえ知ってしまえば、十歳で先生になれるなどネギ達の身辺は怪しすぎる。

 ネギが困って周りを見ても、苦労を分かち合ってくれるアスカとアーニャはいない。汗を掻いたから流してくると風呂に行ったアスカと、見れた顔ではないので別の風呂に向かったアーニャを恨んだネギであった。

 

「ええっ、魔法使いに!?」

 

 その突拍子もない発言に、ネギはしばらくその意味が分からず数秒後、同時に驚いていた。ネギは一瞬呆然として、事の重大さに気がついた。

 

「やはり、無理ですか? 一般人ではダメ、とか?」

「いえっ…………必ずしもそうではないですが」

 

 殊勝な心がけにネギは言葉を濁すが、そこにぐいっと夕映が踏み込んでくる。

 

「では、是非!」

 

 洪水のように交わされる二人の会話。巻き込みたくないとなんとか断ろうとするネギであったか、情熱的な上に一応、理論にも筋が通っている夕映を断りきれないネギ。横から突けば簡単に崩れる理論ではあったが。

 

「ダメですよっ。無関係なあなた達生徒を危険な目に合わせる訳にはいきません」

 

 非日常のリスクはどこの世界でも変わりない。例えるならヤクザや裏社会と同じだ。非日常や裏と名がついている時点で表の世間に誇れるものではないのだから。魔法使い事態は陰ながらの社会貢献が金科玉条といってもだ。

 

「ええ、ですから危険と冒険に満ちた『ファンタジーな世界』に足を踏み入れる決意は既に固めています」

「でも……」

 

 ネギの静止に対して綾瀬さん達の決意は固く、決意の言葉を言っている。

 煮え切らないネギの態度に業を煮やした夕映は、対象を変えてネギの魔法の師エヴァンジェリンに次なる目標を定めた。目標を定めた夕映の行動は速かった。一目散にエヴァンジェリンの下へ向かい、自説を語る。

 

「――――――――――という訳なのですが」

 

 何故、魔法使いは自身たちの存在を秘密にしなければならないのか理由が気になるも、もっと気になることがゴロゴロとあった。

 まず会話や状況から推察するにエヴァンジェリンはかなり強力な魔法使い。更に学園の不思議……………広大な地底図書室や動く石像、巨大な世界樹。これらの不思議は全て「魔法使い」が麻帆良学園を造ったと考えれば非常に納得がいく。

 推論すると世界中にかなりの規模の魔法使いの社会が存在することになる。夕映は図書館島や学園の秘密、魔法使いのことが知りたい。ここまで来て習わない手はない。

 

「なに、魔法を私に教えろと?」

 

 イライラを発散するように酒をがぶ飲みした甲斐もあって、ホロ酔い加減になって機嫌が戻ってきたところを邪魔されて少しご機嫌斜めになったみたいだ。

 思案気に高価そうな透明度の高いグラスに入った酒を傾けて揺ら揺らと波立つのを見ている彼女の考えは読み取れない。だが、どう好意的に見ても夕映の願いを肯定的でいるとは考え難い。

 

「やはり駄目ですか? 一般人には魔法を教えることは出来ないということですか?」 

「いや、一般人云々よりもただ単に貴様に魔法を教えるのが面倒なだけだ」

 

 更に言い募る夕映に対するエヴァンジェリンの返答は極あっさりとした単純で明快な理由だったので、夕映は口をペケ印にして唖然とした表情になった。

 

「他の奴らみたいに一般人が関わって来ることを否定せん。肯定もせんがな。正直に言えば一切合切どうでもいい」

 

 他の魔法使いとは違って一般人が係わってくること事態を別段否定しない。ぶっちゃけどうでもいいというのが感想だ。だからこそ、夕映やのどかが係わってくることに関して思うこともなく、自分の迷惑にさえならなければどうでもよかった。

 事実、エヴァンジェリンとしてはただでさえ時間がないのにこれ以上の弟子を取ることは不可能だった。それにそもそも教えを請いに来た夕映に彼女の食指が働かない。

 

「ならば、何故」

「はっきり言うが、貴様如きに時間を割いてまで教えてやる魅力を感じん。それに尽きる。つまらんのだ」

 

 例えばアスカ。他の追随を許さない圧倒的な戦闘才能。ナギに良く似ていることからも将来が楽しみだ。

 例えばネギ。溢れんばかりの才能と遺失魔法を一部とはいえ再現したその頭脳は、エヴァンジェリンを実に満足させてくれるだろう。

 例えば木乃香。ネギ程の才能は感じられないが、極東最大の魔力等の資質は一級品。仕事の一環として戯れ、暇つぶしとしては上等であろう。

 翻ってエヴァンジェリンは目の前に立つ少女を見た。

 秀でた素質や変わった精神性を持つ者ではない。これで興味を引く動機でもあれば別だったが、彼女の感覚では「つまらん」で終わってしまう。

 

「どうしても教えてほしかったら」

 

 しかし、眼の輝きが尋常ではない夕映を相手にしないために、エヴァンジェリンは溜息混じりに指をある人物――――――――ネギへと向けた。

 

「向こうに先生がいるんだからそっちに頼め。魔法先生にな」

 

 そう言われると夕映たちはさして反論せずにその自分の下へと向かい。エヴァンジェリンに言われたことをそのまま伝える。

 

「あの、いいんでしょうか。マスター」

 

 流石にエヴァンジェリンが自分に押し付けられたとあっては、ネギも理由もなく断ることは難しい。

 

「勝手にしろ。どうなっても私は知らんがな。いっそクラス全員にバラしゃーいいんだ」

 

 今現在、ネギ達が麻帆良に現われてから魔法を知ることになった生徒は増加傾向にある。このペースでいけば全員が知ることになってもおかしくはない。

 特に当事者であるネギ達はまだまだ子供で、魔法を知った生徒達中学生は好奇心やら幼い正義感やらで何かをしようとする。その好意を無碍に拒絶することはきっとネギには出来ない。

 何だかんだと言って許容してしまうのがネギだ。付いて来た者を振り払うことが出来ない。それが、危ない。生徒達が魔法を知ること自体は問題ないかもしれないが、不必要な危険に巻き込む可能性を大きくすることにはやはり不安を感じずにはいられない。

 これらをエヴァンジェリンは全てを分かった上で言っている。変わってきたといっても彼女の本質は『闇の福音』と呼ばれた頃のままなのだから、自分から飛び込んだ者の面倒まで見る気はない。

 

「まあ『別荘』は外よりも魔力が充実してるから素人でも案外ポッと使えるかも知しれんぞ?」

 

 この言葉が切っ掛けとするように、夕映の眼にギラつく炎が大きくなるのが見えた。背後でのどかが静止しようとしているが届いてはいなかった。

 

「ネギ先生、お願いします!」

 

 ずいっと体を近づけて迫る夕映に、不承不承にネギが諦めたように息を吐くまで後数分。 

 

「ではこの杖を振りながらこう唱えてください。プラクテ・ビギ・ナル、火よ灯れ」

 

 ネギはどこからか練習用の三十センチほどの初心者用の杖(星型、惑星型、月型、羽型が先についた)を何本か用意して自ら実演するために、月型の飾りが先についた杖を手に取った。

 「プラクテ・ビギ・ナル」と言うのは、自分専用の始動キーを持たぬ初心者の魔法使いのための仮の魔法始動キーだ。

 本来、魔法使いは、自分専用の『始動キー』と呼ばれる呪文を持ち、魔法を詠唱する際は最初にそれを唱えるものなのだが、この魔法のように誰もが共通の始動キーを用いて行使する魔法も少なからず存在している。それは、魔法を学ぶための練習用の魔法、或いは日常生活に密着した目的を持つ誰もが使う魔法。こうした魔法は最初から誰もが共通の始動キーを唱えて発動するように呪文が構成されているのだ。

 『火よ灯れ』の魔法は、料理や夜の灯り等、かつては日常生活でも頻繁に使われていたコモンスペルの一つだ。実用性が失われ、実際に使われる事こそ少なくなったが、今でも魔法学校や身内に最初に習う魔法である事に変わりは無い。

 ネギが杖を振って呪文を唱えると杖の先に小さな炎が現れた。杖の先に火を灯すだけのなんとも地味な魔法であるが、一般人である少女達から見ればそれだけでも凄い光景だ。二人はその様子を見て感心しておぉーっと拍手が上がる。

 

「ま、こんなのよりライターを使った方が早いんですけど初心者用の呪文ですね」

 

 この魔法は練習用の魔法なのだ。

 現代では昔より科学技術が進み、大抵のことは魔法を習得するより圧倒的に早いし使う人間を選ばない。昔の人間が見れば今の技術も十分に魔法染みていると言える証拠だった。

 魔法世界でも昔は火打ち石の代わりに使われていたそうだが、使う人がいなくなったわけではないが今は魔法界にもライターがあるので実用的な魔法ではなくなってしまった。

 

「お、何々? 面白そうなことやってるねえ」

「私も混ぜるアル!」

 

 和美や古菲も混じって杖を片手に呪文を唱えるが上手くいかない。

 

「プラクテ・ビギ・ナル、火よ灯れ!」

 

 ネギに聞いた事を念頭に息を一つ吐き、意識を集中して呪文を唱えた。

 魔力とは、空気、水、その他全て万物に宿るエネルギーを息を吸うように体内に取り込み、杖の一点に集中するイメージで火を灯す。

 

「まあまあ、普通は何ヶ月も練習しないと」

 

 和美や古菲が笑っているように張り切って唱えた夕映の杖の先には何の変化もない。初心者がいきなり火を灯せるはずがないのでネギが慰めるように言う。

 幾らエヴァンジェリンの話で、この『別荘』の中では魔力が溢れているといっても素人が最初から上手くいくはずもない。

 

「プラクテ・ビギ・ナル―――――って何かハズカシイねコレ」

 

 途中参加の和美がふざける様に杖をくるくる振る。当然魔法は発動しない。魔力をちゃんと扱ってなければ、これでは呪文はただの言葉になる。真剣に取り組んでいるのどかや夕映でさえ無理なのだ、杖を振る程度では魔法は起きるはずがない。

 

「そう言えば、明日菜たちは出来るの? コレ」

 

 和美は杖を振っていてふと気になって、食後の憩いの時間を過ごしていた明日菜たちに問いかけた。

 

「私は無理。そもそも魔法使いの修行なんてしてないし」

「私は出来ます。ラン」

 

 明日菜が即答し、彼女の隣に座っていた刹那の指先に火が生まれる。西洋とは違う詠唱(?)なので陰陽術か。

 

「よし、ウチもがんばる!」

 

 そう言って木乃香が気合を「ムンっ」と入れて取り出した初心者用の杖を振り回しだした。

 この杖はアーニャから貰ったものである。この様子に明日菜と刹那は顔を見合わせて苦笑してしまった。頑張っているが、未だに魔法のマの字も扱えていないのが木乃香の現状なのだ。

 

「あれ、木乃香は魔法を使えないの?」

 

 他の二人は承知の事実のようだが、和美は魔法使いの修行をしている木乃香ならてっきり楽勝かと思っていた。

 

「感じ取れても魔力を扱うってことが出来んくてな。火も灯せへんねん」

 

 頑張って杖を振り回していたが自分に掛けられた問いに手を休め、しょんぼりとした様子で答えた。

 本来、魔法使いの修行と言うものは時間が掛かる。それも当然で、元々きちんと認識される事の少ない魔力と言うモノを、しっかり感じ取れるようにならなければならないのだから時間が掛らない筈が無い。 実際、これだけ魔力の濃度の高い別荘に居てかなりの時間がかかってようやく木乃香も感じ取ることが出来た。ようやく操る段階に来たところなのだ。

 実際、如何に基礎的な魔法とは言え、その感覚が掴めない内は簡単に発動するものではない。一度しっかり感覚を掴めれば、その先は論理的な構成の解釈と基本的な呪文の記憶が魔法習得における大きな比重を占める様になる。

 

「あれ? でも、この前に私に回復魔法かけてくれなかったけ?」

 

 指先すらも動けないほど疲労している時に回復魔法をかけてもらったことがあったので疑問に思った明日菜が疑問を振った。

 

「じゃあ、魔法使えてるじゃん」

「それがな、どういうわけか他はサッパリやのに回復魔法だけは治れ~って思ったら上手くいくねん。エヴァちゃんやネギ君は感覚でやってるから魔法を使えてるわけじゃないって」

 

 和美の言葉に否定を連ねながら大変やわ、と困り顔を浮かべる。

 鍛錬のし過ぎで疲労困憊だった明日菜を心配した時に魔法が始めて発動して嬉しかった。その後に明日菜を心配する気持ちに反応した魔力によるゴリ押しで効率が悪すぎると駄目だしをされてしまった。自分でも魔力の流れはサッパリで、どうやって発動しているのか良く分かっていない。

 

「それだけお嬢様が治癒に大きな適正を示している証拠です。きっと一角の治癒術師になれるでしょう」

 

 修学旅行の折に木乃香が見せた資質から考えて刹那の言う事も広大な話ではない。本人が努力を怠らなければ莫大な魔力も合わせてそれだけの可能性を秘めている。

 

「ありがとう、せっちゃん。うち、頑張るわ!」

 

 刹那の応援に鼓舞にされた木乃香も、夕映やのどかと一緒になって練習を続けている。

 そこに風呂を浴びてサッパリした風情のアスカとアーニャが戻って来た。

 

「よくやるわね」

「いいんじゃねぇの、頑張るのは」

「まあいいけどね…………取りあえず、人ん家に不法侵入した理由を聞こうじゃないの」

 

 最初は呆れていたアーニャだったが、横に立って肩にタオルを引っかけているアスカが引くぐらいのおどろおどろしいオーラを漂わせ、楽しげにしている面々へと突撃して行った。

 

「骨は拾ってやるから、安心して死んで来い」

 

 取りあえず彼女らの冥福を祈っておくことにしたアスカだった。

 

 

 

 

 

「―――――つまり、学校でネギの様子がおかしかったから後を尾行して来たと」

「「「……はい」」」

 

 自身はテラスにあった椅子に座り、被告人たる綾瀬夕映、宮崎のどか、古菲を石畳の上に直に正座させたアーニャ。その後ろにはネギの姿があった。アスカの姿はない。興味がないと言って、チャチャゼロとどこかに行ってしまった。

 

「和美はなんで? アンタ、魔法知ってるんだから止めなさいよ」

 

 同じように石畳座って、魔法を知っていて止めなければならない朝倉和美に対するアーニャの風当たりは強かった。

 これは失敗したかと背中に冷や汗を流しながら、和美は精一杯の虚勢を張ってカードと取り出した。

 

「私はこれを見て止められないと分かったのよ」

「仮契約カード…………それは写真よね。ん?」

「あ、僕とマスターだ」

 

 和美が持つ仮契約カードを苦々しい顔で見たアーニャの隣で、ネギが写真を見ていた。その写真には夕映達が踏み込む寸前の、ネギとエヴァンジェリンが吸血している場面が撮られていた。

 

「違う違う。これが私のアーティファクト『ミライカメラ』の効果なのよ」

「…………そういうことね。『ミライカメラ』は未来視が出来るアーティファクト。どうせ夕映達を撮って面白そうだからって付いてきたんでしょ」

「正解」

 

 疑問符が話している当人達以外の脳裏に浮かんだ。

 

「朝倉って誰かと仮契約してたの?」

 

 明日菜が口に出したように、そんな話は魔法を知っている面々も知らない。ただ一人、苦い物を盛大に食べたような表情をしているアーニャ以外は。

 

「もしかしてアーニャちゃんと?」

「…………そうよ。なんか文句あるの」

 

 木乃香が恐る恐る問いかけるが、返って来たのは恐ろしい形相だった。慌てて口を閉じる。

 八つ当たりになっていると自覚しているアーニャは深い溜息を吐いて、憤りを吐き出し、気分を平静へと戻す。慣れた物で、通常に戻ったアーニャは渋々口を開いた。

 

「和美のアーティファクト『ミライカメラ』はカメラで映した人物の未来が見れるのよ」

「凄いアーティファクトですね」

「そうでもないよ。色々と制約とかも多いしね」

 

 未来視が出来るなら凄いと素直に感心した様子の刹那に、自分のアーティファクトだから説明役を交代した和美が苦笑と共に続ける。

 

「被写体に事前に撮影の許可を貰わないとシャッターも押せないのよ」

「だからあの時、試し撮りさせろなんて言ったのですね」

 

 ここに来る前に校舎で話しかけた時に頼んできたことを思い出した夕映はあまり良い気持ちは抱いていないようだ。

 

「そうそう、ごめんね騙す形になっちゃって」

「いいのですが、あまりいい気分ではないです」

「とまあ、撮られる相手からしたら良い思いを抱かれ難いしね。騙して撮るにも昨今見ず知らずの人に写真を撮られるのは嫌だろうし」

 

 これがまず第一と区切り、和美は苦笑を深めた。

 

「なんとか撮ったからって見たい時間は選べない。数分後から数日後まで誤差があるしね。他にも自分は撮れないし、撮った写真は見た人の主観によって変わるから、血塗れで倒れている写真が転倒してトマトジュースを溢しているだけかも分からないし」

「使えるんだか使えないんだか分からんアーティファクトやな」

 

 撮った写真も主観によって解釈が変わるのであれば、物によっては振り回されかねないアーティファクトに木乃香も呆れ気味だった。

 

「使い道がないわけじゃないのよ。今回みたいにネギ君が吸血されている場所に夕映っち達が隠れて見ているなんて、魔法バレしているって確信できたから付いて来たみたいに、写真の結果は変えられないけど、そこに関わるかを私自身は選べるから。まぁ、その写真通りの光景が起きるまでは口外することも、誰にも見せることも出来ないから止めようがないのも本当」

「つまり、和美が付いてこなくても結果は変わらないと?」

「多分ね」

 

 使いようによっては強力にもなるが、何時も使えるわけではないので使い様にも迷うアーティファクトといいうことかと全員が理解する。

 

「和美のことは納得したわ。じゃ、次に」

 

 和美から次に向けられた視線の先にいるのは夕映。

 

「夕映は魔法を習いたいと、そう言いたいのね」

「はい、そうです」 

 

 アーニャから迸る威圧は留まることを知らず、威圧に晒された夕映は涙目となって大人しく聞かれたことに答えていた。

 

「まあ、不法侵入に関しては家主から許可が出ているから問題にはしないけど」

 

 エヴァンジェリン曰く、「どうでもいい」のだそうだ。料理を作るのも世話をするのも彼女ではなく、従者達なので迷惑さえならなければ問題ないのだそうだ。

 

「「「ふぅ~」」」 

 

 あからさまに安堵した表情で息をつく少女達を、組んだ腕の指先をトントンと忙しなく動かして神経質な様子を見せるアーニャ。

 

「で、何で魔法を習いたいの?」

 

 他の少女達から視線を外し、残った夕映へと眼力が集中する。

 聞かれた夕映はソレに若干臆した様子を見せたものの真剣な表情で口を開いた。

 

「知ってしまった、からでは理由になりませんですか? 危険と冒険に満ちた『ファンタジーな世界』。胸が躍るものです。学校の授業のように退屈ではなく御伽噺のような非日常。私もそんな世界が見てみたいのです」

 

 澱みなく答える夕映の言葉を聞いた瞬間、アーニャは自分でも良く分からない感情に囚われて体を硬直させた。

 夕映の性格を考えるなら十分に納得できる答えだった。別に怒りや悲しみや嫌悪を感じている訳じゃない。なんといったらいいのか。月は遠くから見るから綺麗に見えるだけ、近くで見たら白いデコボコだらけ神秘さなど欠片もないと、彼女が抱いている幻想もそんなものだ。何となくそんなことがアーニャの頭に浮かんだ。

 

「まあ、いいんじゃない。好きにすればって………………なによ、全員揃って狐に化かされた様な顔して」

 

 あっさりと認めてしまったアーニャに、今までの問答は何だとその場にいた全員があんぐりと口を開け呆然としている。

 予想外の返事が返って来たからだろうが、アーニャの口からはまだ全てが語られたわけではない。

 本題はこれから。

 

「時期的には今は中途半端だから、一学期を終えてからで七~九月か…………欧州圏の魔法学校なら丁度いいか。英語の読み書きと会話は出来ないだろうから詰め込みでやったとして、ラテン語とかギリシャ語も出来ないと魔導書とか読めないし、色々と困るわよね。日本に魔法学校があれば楽なんだけど、あるのかしら? いや、そもそもこの年齢で受け入れてくれるのかしら? 受け入れてもらえると仮定して…………」

「あの……一体、何の話を?」

 

 ブツブツと呟き、一人で考えを纏めているアーニャの言葉を聞きつつ、何やら彼女の考えとは外れたところにまで考えが及んでいるのを察して当人である夕映が困惑気味に口を突っ込んだ。

 

「何って魔法学校に通うんでしょ? 一応、立場は見習いだから紹介状とか書けないけど、そこまで魔法に興味があるのなら伝手を頼るぐらいは先生としてはやってやろうって思ったんじゃない」 

 

 祖父であるメルディアナの校長やここの学園長に頼ってもいい。本人が魔法の事を知ってこれだけの熱意を持っているなら無碍にはしないだろう。秘匿の問題もこちらに引っ張りこんでしまえば意味をなさない。

 

「ち、ちょっと待って下さいっ!!」

 

 ようやくさっきから何を言いたいのかを察して、早速とばかりに行動を開始しようとしたアーニャを慌てて静止する。夕映達とアーニャの間に明確な認識の違いがあることに気が付いたのだ。

 

「魔法を習いたいなら魔法学校に通うのが手っ取り早いと思うんだけど?」

 

 アーニャの純粋な疑問だった。そして正論だった。

 

「あのそうじゃなくて、私はネギ先生に教えて貰うことが決まっているのです」

「僕は少しだけ手解きはしましたけど、まだ教えるとは言ってませんよ」

 

 確かにネギは「火よ灯れ」のやり方は教えたが、一度も教えるとは言っていない。

 

「な!?」

 

 もうネギの弟子でいる気になっていた夕映にとっては裏切りに等しい一言であった。

 

「あのね、ネギだけじゃなくて私達の身分は見習い魔法使い…………まだ一人前とは認められていないのよ。ちゃんとした学校に通って免許を持った教師に習った方がタメになるでしょうが」

 

 学校と名がつくだけあって教師は教育課程を経ているので、見習いよりも確実に信頼できる。麻帆良で教員免許もないのに教師やっているアーニャの台詞ではないが。 

 

「ぐっ……」

 

 切って返すように返って来る正論を前に夕映が沈黙する。

 

「うん、それがいいと思います。僕はまだ見習いですし、ちゃんとした先生に習った方がいいですよ」

 

 アーニャの言に同意するようにネギも続く。

 ネギが夕映を教えるということは、言うならば美術学校を卒業したばかりの人間に家で教えを乞うのと変わらない。勿論、人に教えた経験はなく、免許も持っていない。そんな人間に習うか、ちゃんとした勉学に励む場所で免許を持った人間に習うか、どちらがいいのかと聞いているのだ。

 これ以上ないほどの正論。

 

「でも、アーニャ。魔法学校に編入試験とかあったけ?」

「う~ん、入学した時に試験を受けた記憶はないけど、編入はどうだったか記憶にないしな。校長先生に聞いてみないと」

 

 そもそも、ネギ達が卒業した魔法学校は、麻帆良の初等部のようなものだ。つまり小学校。流石に二人が混ざると………………意外と大丈夫かもしれない、と並んでいる姿を想像して思ってしまった。

 

「確かに、魔法は一年やそこらで身につけることの出来る物ではないから、本格的に学びたいならその選択肢が最も妥当だな」

 

 二人の言う事も分かるとエヴァンジェリンが納得の姿勢を出したことで場の雰囲気が変わる。

 そも、麻帆良にいる魔法生徒は大体九割が魔法学校卒業生で研修のために来ている。あと残りは親の都合などでだ。魔法生徒に指導する魔法先生もいるにはいるが、全くの素人を一から教える時間的余裕はないだろう。彼ら、彼女らにも普通の生活があるのだから。

 

「はっ!? ですが、木乃香さんや明日菜さんたちはどうなりますか!? 同じ素人だったはずなのに魔法学校に行かずに習っているではないですか!」

「木乃香の場合は多分に政治的な問題とかが絡んでくるから詳しくは言えんが、諸々の理由で魔法学校に通えない。そもそも神楽坂明日菜は魔法を習っているわけじゃないからな。お前達とは前提が違う」

「ぬっ……」

 

 木乃香たちのこと気付いた夕映がそこに突っ込みを入れるも、冷静すぎるエヴァンジェリンの返答に呻き声を漏らした。

 関西呪術協会の長の娘である木乃香が魔法学校に行くには政治的問題があり、明日菜はそもそも魔法を習っていないので対象外。それでも知的好奇心に燃える夕映はきっと諦めないだろう。

 

「夕映、あなたはこっちのことを何も知らないのよ」

 

 囁くように、嘆くように、悔いるようにアーニャは言った。

 

「アンタが言っているのは結局の所、表の世界にいる人間がこちらに幻想を抱いているにすぎないわ。物語みたいに綺麗な世界じゃないのよ、こっちは」

 

 魔法のことを良く知らないから、、自身が知らぬ未知溢れる世界の都合の良い分だけを見ている。この『別荘』のように、自然ではありえない力を目にしたことが悪影響を与えた理由の一端でもあろう。

 この世界の醜さも、おぞましさも、何一つ見ることなく平穏に過ごせること以上の幸運を彼女たちは知らない。

 

(恵まれているからといって幸福とは限らないのが人間の難しさなのかもね)

 

 恵まれているからこそ夕映のように退屈を感じるのかもしれないし、もっと上を求めてしまうのかもしれない。

 世界はそこに人がある限り欲から、悪からは切り離せないのだと思い知らせるために、アーニャは禁忌の箱を開く。 

 

「見せてあげるわ。極端ではあるけど、魔法のもう一つの側面を。明日菜達も見なさい」

 

 ネギはひっそりと瞼を下ろした。そうすることで見たくない物から目を塞ぐように。

 

 

 

 

 

 一人、離れていたアスカが呼ばれた。

 テラスにやってきたアスカは、アーニャの顔を見た途端にこれから何かをするのかを悟り、表情を引き締めた。

 

「始めるのか」

「ええ、当初の予定とは違ったけどね。本当にいいのね?」

「ああ」

 

 問いに言葉少なに応えたアスカの顔が見ていられなくてアーニャは顔を逸らした。

 これから行うことにはテラスでは狭く、一定の広さが必要になるので大きなホールへと移る。その道中、アスカの表情は彼にしては珍しく凍り付いたように動かない。

 

「ふん、ヤツの生存している事をこの目でしっかりと再確認しておくか」

 

 話だけは聞いていたが実際に自分の目で見るのも悪くない、とこれから行われることに期待しているエヴァンジェリンの呟きを敢えてアーニャは聞こえていない振りをする。

 先にホールに向かったネギが石畳の上にチョークで大き目の複雑怪奇な魔法陣を描いていた。

 

「ネギはこっちに、アスカは私の隣に座れ」

「俺はいい。見てる」

「そうか。なら、後は適当に座れ」

 

 と言って、アスカは魔法陣から離れて座り込んだ。意地でも動きそうにないのを見ると、特に追及はしなかった。

 エヴァンジェリンとネギが車座になって魔法陣の上に円になって座り込む。術者であるネギを基準に時計回りに、エヴァンジェリン→明日菜→和美→アーニャ→刹那→木乃香→古菲→のどか→ネギの順番に輪になって座った面々。

 座り方はそれぞれ、胡坐を掻いて下着丸見えの女の子としてちょっとどうよって言いたいエヴァンジェリン。普通に女の子座りが多い面々の中で異端だった。

 

「皆さん、手を繋いでください」

「待て、ぼーや。私がやろう」

 

 これから使う魔法のために膝立ちなろうとしたネギを静止してエヴァンジェリンが行うと宣言する。よほど過去が気になるらしい。 

 

「えっ、えぇっ?!」

 

 隣りに座っておきながら好きな人と手を繋ぐことに躊躇いと恥じらいを見せたのどかが驚いた声を上げる。

 

「ナニをしているのですか、のどか。急いでください」

「う、うん……」

 

 既に全員が手を繋ぎ終わっており、 夕映に急かされた恐る恐るネギの手を掴んで、

 

「ひゃ~……!」

「のどかさん!」

 

 今にも気絶しそうなほど顔を真っ赤にして叫び声を上げた。手を繋いだネギが声を掛けているも本人は何故のどかが顔を紅くしているのかは理解していない様子。心配はしても気づけない鈍感ここに極まれり。

 

「よし、準備出来たな。では、行くぞ。スプリングフィールド兄弟の過去へと」

 

 全員の準備が整ったのを確認し、楽しげに開始を宣言する。

 

「先に言っておくが、これから行うのは対象の意識を術者の記憶として体験せしめる魔法だ。記憶だから干渉は出来んし、ただ見ていることしか出来ん」

 

 今回は記憶を見せる対象がネギとアスカでありながら、魔法を行使するのはエヴァンジェリンという形を取っている。

 記憶を覗く魔法は、読心術の上級魔法に当たる。高位になればなるほど距離を離して覗けるが、どれほど高位であっても精神という物は繊細でいて頑丈なもの。表層意識ならばともかくそれ以上の深度になれば、そう記憶を見るなどと言う行為ならば了解を得なければプロテクトが係り覗けない。

 これだけの人数を参加させるにはネギには無理。何人も額をゴツンと擦る必要があり、どう考えても不可能だ。

 それをエヴァンジェリンが魔法だけを行うことで、ネギの記憶を繋いだ手を通して見せることで可能にした。ちなみに記憶を見れない茶々丸はチャチャゼロと共に待機するしかないので、外界にて待っている。

 

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック ムーサ達の母、ムネーモシュネーよ」

 

 ムネーモシュネーとは、古代ギリシアで、ずばり記憶の意であり、学芸の女神ムーサたちの母である。

 そもそも、過去というものは、映像や音声のような形で直に近くすることは出来ない。映像や音声は、常に、現在において、知覚されるものである。従って、過去そのものを映像や音声として体験することは、本来、不可能なはずなのである。かように見ることも触れることも叶わない過去というものを、ある何らかの形で存在せしめているのが、記憶であり、即ち、人間の精神なのである。

 

「彼の下へと、我らを誘え――――――――」

 

 エヴァンジェリンの詠唱に合わせて、魔法陣が光を放つ。視界が全て光に染まった。

 



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第30話 記憶の旅路

 

 数日前、アスカはネギとアーニャに向けて言った。

 

「■■■との、■■■を破棄する」

 

 突然のアスカの提案にネギとアーニャは目を剥いた。何故、アスカがそんな話をしたのかが分からず、その旨を問いかけるとアスカは自身の胸元を掴みながら苦しげに口を開いた。

 

「俺とネギは、■■の■■だ。忘れちゃいねぇだろ、六年前になにがあったか」

「忘れてなんかない。忘れてなんかないけど、どうして今になって」

「…………ずっと、考えた。これで良いのかって、このままで良いのかって」

 

 アスカの表情が歪む。言う通り、ずっと考え続けてきたのだろう。その苦労を知らなかったネギとアーニャは沈鬱に目を伏せた。

 

「今でもこれで正しいのかなんて分からない。でも、間違いじゃないはずだ」

「でも、■■■さんの気持ちはどうなるの? アスカを思って■■■してくれたのに」

 

 ネギの脳裏に思い浮かぶのはエヴァンジェリンとの戦いだった。

 あの時、■■■が来てくれなければじり貧だった。もしかしたらいなくてもどうにかなったかもしれないが、結果論にせよ■■■のお蔭で死中に活を求めることが出来た。その恩は大きい。

 

「ネギ、忘れるな。俺達は何を望み、何を目指しているのか」

「父さん……」

「そうだ。サウザンドマスター、大戦の英雄…………そんな親父の背中を目指しているのに、寄り道をしている余裕があるのか?」

 

 寄り道、とアスカは称した。そのことがアーニャの堪忍袋の緒を切った。

 

「…………アンタ、■■■のことが寄り道だって言うの!? ふざけんじゃないわよ!! アイツが何の為に強くなろうとしてるのか考えたことがあるの!!」

「あるさ! だから■■■を破棄するって言ってんだ!!」

 

 アーニャの怒声を掻き消すより大きな声で叫びつつ、アスカは痛みに耐えるように拳を強く握った。

 そして静かな口調で語り出す。

 

「俺は親父を追うことを止められない。そして親父の後を追っていれば、修学旅行の時よりももっと大きな戦いをすると思う。■■■は優しいから、きっと付いてくる。そして傷つくだろう。そうなってからじゃ、遅いんだ」

 

 父であるナギは死んでない。六年前のことでアスカとネギは確信していて、姿を現すことが出来ない事情があるのだと推測している。大戦の英雄であり、世界トップクラスの強者であるナギがそのような状況に陥っているのだ。きっとナギを追う中でアスカ達も大きな闘争の渦に巻き込まれる。

 二人は自分達だけならば例え戦いの中で死のうとも、そういう道を選んだのだから覚悟は出来ている。自分達だけならば、だ。

 

「僕は分かるよ。僕も同じ気持ちだから」

「そんなのアンタ達の身勝手じゃない」

「身勝手で良い。それでも■■■が傷つかなくて済むなら」

「はん、男の美学だって言いたいわけ? 下らないわ、下らなさ過ぎて反吐が出る」

 

 男の下らないプライドに女を振り回すなと吐き捨てたアーニャに、アスカが口を開いた。

 

「なんと言われてもいい。親父のことは俺とネギの問題だ。他の誰も巻き込むわけにはいかない。だから、頼むアーニャ」

「僕からも頼むよ。アーニャとの約束――――村の人達の石化は必ず解く。君まで僕達の事情に付き合わなくていい」

 

 最後通牒であり、アーニャが秘めていた弱さを突く言葉であった。

 外から差し込む満月の輝きが三人を優しく照らし出し、彼らの淡い影を作り出していた。まるで影が世界を侵食するように勢力を伸ばす。

 月光は兄弟だけを照らしてアーニャにだけ当たらず、影がまるでその姿を隠すように覆い隠した。

 

「卑怯よ、アンタ達は……」

 

 何時かは言わねばならない言葉を向こうが言ってくれたことに助かったと思ってしまったアーニャもまた卑怯者だった。

 その時、影に隠れたアーニャがどのような表情をしていたのか二人も、当人も知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 浮き上がるような高揚感が包み、閉じた目蓋の下にも光が溢れる。突き刺さるような光ではなかったので身を任せた。

 

「あれ? これって雪……」

 

 朝倉和美が鼻先に舞い降りた雪に気付いて眼を開けると、周囲にはネギ達以外には見知らぬ街並みが広がっていた。

 

「ここは……」

 

 思わずといった感じで桜咲刹那が呟く。

 空からは緩やかに雪が舞い降り、積もっていく街並みは誰にとっても美しい物に見えた。自然が広がる田舎の風景は何処か羨ましく思える。

 

『六年前、僕達の住んでた小さな山間の村です』

 

 どこからかネギの声が頭に鳴り響き、テレパシーのようなもので聞こえてくる。

 

「ネギ坊主?」

 

 不意に聞こえてきた声に、古菲が空を見上げる。

 

『ウェールズにある片田舎にある小さな村。一見どこにでもあるような村です。ある一点のみ普通とは異なっている箇所があるとすれば、村の大半の人間が魔法使い、もしくはその関係者であるという事です。ですが、この村は』

「今はもう滅んでいるわ」

 

 ネギに続くように先程と同様の格好をしたアーニャが服を着ていない裸の明日菜の隣りで呟く。 

 

「……………………なんで私達、裸なのよ」

 

 空を見上げる皆と違って一人だけアーニャの方を振り向いた明日菜は必然、みんながいる方向を見ることになった。

 それでアーニャとエヴァンジェリン以外の異変に気がついた。何故ならば二人以外の全員が雪が降る寒空の下、街中で誰がいるか分からないにも係わらず、服どころか下着すら着ていなかったのだから。

 

「きゃ……」

 

 明日菜の発言に自分の状態に気付いた宮崎のどかが小さく悲鳴を上げると、町中で身体を丸めてしゃがみ込んだ。他の少女達も同様に、局部を両手を使って隠したりしていた。桜咲刹那は木乃香を後ろに庇うという忠犬っぷりを披露。

 周りに視線を向け、自身もまた全裸と気づいて、思わず胸と股間を手で隠しながら術者たるエヴァンジェリンを睨む。不思議なことに寒さは感じないが、雪の降りしきる何処かの街中で裸で立ち尽くしているなんて状況では無理もない。

 

「こういう仕様だ。仕方あるまい」

 

 全身が白く輪郭が薄らとぼやけた姿はまるで幽霊のような体だった。頭から煙のようなもの伸びており、それは空高くまで続いている。どうやら意識と体を繋ぐ糸のようなものらしい。

 全裸とはいえ、実際には姿がぼんやりと霞んで細部まで確認出来ないと気付いたからか、それぞれが羞恥を感じながらも魔法と目の前の光景からの興味で周囲に視線を向けた。

 

「せっちゃん~、どうにかならんの?」

「魔法では私にはどうにも…………」

 

 如何に木乃香に聞かれても、アーニャとエヴァンジェリンだけ服を着ているのは魔法によるものなので刹那には如何ともし難かった。

 

「あ……あれは、ネカネ先生とネギ先生では?」

 

 輪郭しか分からないと判っていてもしゃがみ込んだままののどかを起こそうとしていた綾瀬夕映が目敏く見つけた。 道の向こう側から夕映達と同年代の頃らしきネカネと、彼女と手を繋いで歩く幼いネギがやってくる。

 

「ネギ先生、可愛い……」

 

 好きな人の幼い姿に目をとろかせたのどかが思わずといった様子で呟いた。

 道の真ん中に立っていた夕映達は触れることは出来ないと分かっていても、普段の習性から道を明け渡す。何やら楽しそうに喋っていたネカネが、夕映達の前を通りかかったところで後ろを振り返った。

 

『アスカ、雪だるまを作るのはいいけど遅れないでね!』

『は~い』

 

 明日菜達が見た先にあった大きな雪の塊が返事をした。小さな子供がすっぽりと隠れるような雪の塊の後ろから声が聞こえて、ひょっこりと金髪の少年が顔を覗かせた。

 

「うわぁ、アスカ小っさい」

 

 雪の塊から顔を出したアスカが、ネカネの呼びかけに答えて明日菜達の前にやってきた。その身長はネカネと手を繋いでいるネギと大差ない。今と変わらないやんちゃそうな顔に明日菜は眉尻を落とした。

 

『どうどう? これで雪ダルマ作れる?』

 

 家からここまで雪を転がして大きくしてきたからか、それとも雪ダルマを作れることに興奮しているのか、小さな少年の頬は火照っていた。

 

『ええ、作れるわよ。続きはご飯を食べてからにしましょう。ほら、髪の毛に雪がついてる』

 

 聞いてくるアスカに柔和に笑ったネカネが手を伸ばして弟分の髪の毛に付いた雪を優しく払う。雪が冷たいのか、ネカネの手だけではなく自身でもブルブルと頭を振るっているアスカにネギが問いかけた。 

 

『どんな雪ダルマを作るの?』

『うんと大っきいの!』

『アスカ、ネギは大きさじゃなくてどんな形とかを聞いてるのよ』

 

 大きさだけを考えていて形を考えていなかったのか、アスカはうんうんと考え始めた。しかし、直ぐに答えを見つけたのか、右手を上げて人差し指を立てた。

 

『お父さんが僕達を見つけられるぐらいにすっごい大きなやつ!』

 

 形ではなく大きさになっているが、得意満面の笑みを浮かべているアスカに突っ込むのは野暮というものだろう。傍から見ていた明日菜達などは微笑ましげに見守っていた。

 

『アスカだけ、ずるい』

 

 その中で一人だけ不満そうにしているのがいた。ネギである。

 

『じゃ、一緒にやろう。二人でやればひゃくにんりきだ!』

『うん!』

 

 不満もなんのその。誰かが言った言葉を意味もなくそのまま口に出しているだけのアスカに嬉しげに頷いた。

 今にも戻って雪ダルマ作成を再開しようとしているアスカとネギの手をネカネが掴む。

 

『大きな雪ダルマを作るのはいいけど、先にご飯を食べないとね』

『『え~』』

『お腹空いたでしょ。雪ダルマは逃げないわよ』

 

 意気揚々と動き始めたところを止められて不満そうな弟分達を嗜めて、二人の手を繋いだネカネが歩き出す。

 お腹が空いていたのもあって、二人は雪ダルマは後にしようと目だけで合図を交わしていた。

 

『ねぇ、ネカネお姉ちゃん。お父さんとお母さんのお話聞かせて』

『僕も聞きたい!』

 

 料理屋まではまだ少し歩く。ネカネは二人の期待の籠った眼差しを受け、視線を少し中空を彷徨わせて口を開いた。

 

『二人のお母さんに私も会ったことがないの。お父さん達が会っちゃ駄目って言ってね』

 

 記憶を思い返すように、その時に感じたことを振り返ってネカネは言葉を紡ぐ。

 

『ナギさん…………二人のお父さんは太陽な人だったわ。そこにいるだけでみんなの心を温かくしてくれるような、そんな人だったわ。ナギさんの奥さんだから、きっと二人のお母さんもいい人よ』

 

 何度も聞いているのに、始めて聞いたように嬉しげな様子の二人にネカネの口も快調さを増す。

 

『ナギさんには、この村には殆ど子供はいなかったから私も可愛がってくれたわ。よく肩に乗せてくれたりしてね』

『いいな~』

『妬かないの。あなた達がまだ生まれる前の話なんだから。二人のこともお願いされたのよ。これから生まれてくる子達と仲良くしてくれって』

 

 羨ましそうに頬を膨らませたアスカに言って、あなた達のことを大事に思っていたのよと伝える。

 

『それとねあなた達のお父さんは、とっても有名なヒーローなのよ。そうね………スーパーマンみたいな人』

『スーパーマン?』

 

 雪が舞い降りて視界を僅かに遮る中、ネギが聞き覚えのない単語に首を傾げた。

 三歳過ぎの子供にはまだスーパーマンは分からないかと苦笑したネカネは、分かりやすい単語を選びながら説明する。

 

『そう、誰もがピンチになったらどこからともなく現れて、必ず助けてくれるのよ』

『お父さんはスーパーマン?』

『お父さんはヒーロー?』

 

 アスカとネギが顔を見合わせ、テレビで見たヒーロー物の超人とナギの人物像が合致していく。

 

『今もどこかで誰かを助けてるの?』

『っ…………ええ、きっとね』

 

 アスカの疑問にネカネは詰まった。そして真実を言えなくてぼかした言葉を口にした。

 ネカネの返答に手を繋いでない方の手を振り回したアスカが、良いことを思いついたばかりにニッカリと笑った。

 

『じゃあ、僕もヒーローになる!』

『アスカ、どうしたの急に?』

『ヒーローになってみんなを助けたら、どこかで同じようにみんなを助けてるお父さんと会えるはずだよね。だから僕もヒーローになる!』

『あっ、アスカだけずるい! 僕だってヒーローになるもん! ずるいアスカは成れないよ!』

『えぇ!? 僕だって成れるもん!!』

『成れないったら成れないもん!!』

『成れるったら成れるもん!!』

 

 ネカネと手を繋ぎつつも間に挟んでネギとアスカが言い合いを始めてしまった。

 

「可愛ええな……。なんか癒されるわ」

「はは、気持ちは分かります」

 

 雪が降りしきる中で言い合いを続ける少年二人の姿に木乃香はほんわかとした雰囲気を更に増し、その横で主の可愛い物を好きを知っている刹那は苦笑を浮かべつつも幸福な家族の肖像を眩しげに見つめた。

 ヒーローに成れる成れないで言い合いを続ける二人に困ったネカネがどう説得しようか悩んでいると、近くの路地から、まるで待っていたかのようなタイミングで一人の少女が現れた。

 

『あんた達バカね! 死んだ人には会えないのよ。サウザンドマスターの子供なのに、そんなことも分からないのかしら』

 

 現れた少女――――アンナ・ユーリエウナ・ココロウァがふんぞり返って二人を笑った。

 

「アーニャちゃんも小さいわね」

「ガキの頃なんだから当然でしょ」

「ふん、生意気そうな面は今と変わらんな」

「うっさいわね」

 

 隣にいる少女の幼き頃の姿に顔を向けた明日菜の視線の先で、当の少女は世界全てが気に喰わないとばかりに表情を歪めていた。エヴァンジェリンの揶揄に対する反論も今までのような力はない。

 

「アーニャ先生、耳真っ赤」

「のどか、ここは触れないのが正しいリアクションですよ」

「なんでアルか?」

「そりゃ、小さな頃をみんなに見られるなんて恥ずかしいじゃない。カメラが使えてたら貴重な一枚が撮れたのに、残念」

「うっさいって言っているでしょこのアンポンタン共!!」

 

 次々にチクチクと言葉とリアクションの針を刺されて爆発したアーニャが大噴火した。どうやら単に恥ずかしがっていただけのようだ。

 

『死んだって?』

『…………』

 

 もう直ぐ三歳という幼すぎる年齢のネギでは、『死』という概念はまだ理解できていない。身内や家族に不幸があったりしなければ理解しろと言うのも無理な話。普通はこの年頃ではそれでも理解出来ないものではあるが。

 ネギの純粋な疑問に、傍目から見ても父に憧れていると分かるので、どう言ったらいいものかと困った顔になったネカネも直ぐには答えられない。

 

『もう、会えないってことよ』

 

 二人から見つめられても上手い言葉が見つからず、ネカネにはそう答えるしかなかった。他に上手い言葉が浮かばなかった。

 

『ガキでお子ちゃまな二人には分かんないみたいだけど、ヒーローになったって死んでるお父さんには会えないわよ』

『そんなことない! お父さんは死んでない!』

 

 アスカがアーニャの言葉にムッとして言い返した

 

『あんた、バカね「死ぬ」のイミわかってないでしょう!!』

『バカはアーニャーだ! ヒーローは死なない!』

『だからアンタは馬鹿なのよ! 物語と現実を混同してんじゃないわよ!!』

 

 ネカネどころかネギも置き去りにして二人はギャーギャー、キーキーと言い争いを始めてしまった。

 頑なに自説を曲げないアスカに先に疲れて折れたのはアーニャの方だった。

 

『まぁ、いいわ。私は大人だもの。そうそう、ハイコレ。あんたにあげるわ。あんたにも』

 

 散々二人で言い合って疲れたのか、納得したのか分からないがアーニャがアスカとネギに、先端に星型がついた子供が魔法使いごっこをするような小さな杖を渡してきた。

 

『コレは?』

『初心者用の練習杖。私はもういらないからあげるわ。あんた達も来年から学校来るんでしょ。生きてた頃のお父さんみたくなりたかったら、ちょっとは練習しておきなさい』

 

 アーニャは既に魔法学校に入学しており、二人は来年から魔法学校へと行くことになっている。その為に彼女のか、他の誰かが使っていたお古なのかは分からないが、それでも好意で渡してくれたのは間違いない。

 

「素直じゃないな」

「素直じゃないわね」

「素直ちゃうな」

「素直ではないですね」

「素直じゃないです」

「素直になりましょうよ」

「素直が一番アル」

「素直になれないツンデレよね」

「うっさいわ!!」

 

 全員の意志が統一された瞬間だった。

 

『プラクテ・ビギ・ナル 火よ灯れってやったら杖の先に小さな火が出るから、魔法学校に行くまでにこれぐらいは出来るようになっておきなさい。じゃあね』

 

 記憶のアーニャはアドバイスを言って、何かを言われる前に素早く踵を返して走って自分の家に帰って行った。

 アーニャから受け取った杖を手にしたアスカとネギは物は試しにと構えた。まず先に動いたのはネギ。

 

『プラクテ・ビギ・ナル 火よ灯れ。えいっ』

 

 ぶんっとネギが杖を振った先から火花が散った。

 

『わっ、なんか出た』

『最初から出るなんてネギは凄いわね』

『ようし、次は僕の番だ』

 

 一発目に火ではないが何らかの現象が出ることは稀であることを知っているネカネは言葉以上に驚き、その隣に立っているアスカが次は自分の番だと気合を入れた。

 

『プラクテ・ビギ・ナル!』

 

 大きな声と大きな動作に反応するように、その小さな体から莫大な魔力が溢れ出す。まだ半人前にも成らない未熟者でも分かる異常にネカネが一瞬絶句する。

 

『まっ』

『なんじゃ、この真昼間に騒々しい』

 

 ネカネがアスカを止めようとしたところで、アーニャが帰って行った通りの角の向こうから、人が想像する典型的な魔法使い(老人+ロープにとんがり帽子)の格好をしたスタンが現れた。

 現れたスタンに気を取られ、ネカネの反応が一瞬遅れる。

 

『火よ灯れ!!』

 

 詠唱が唱えられた途端、アスカが持つ杖の先から豪炎が溢れ出た。スタンの声に反応したのはネカネだけではない。ネギもそっちを向いたし、また詠唱を唱えていたアスカも反応した。

 首が動き、体が反応し、杖の先も動いた。動いた杖の先はスタンを向いていた。

 

『うわっちゃぁああああああああああああ?!!!!!!!!!』

 

 豪炎はスタンの顔に伸び、悲鳴が轟く。魔法使い見習いですらないアスカの魔力は長続きしない。豪炎は一瞬で消え、スタンの顔を舐めるだけで終わった。

 とんがり帽子を被っていたことと生えた髭が顔を覆っているので、剥き出しの肌の部分は少ない。豪炎はそれらを焼いて行って残ったものは。 

 

『わ、儂の髭が』

 

 火傷はしなかったが自慢の髭を襲った惨劇にスタンは動揺を隠せなかった。

 

『スタンさんのお髭さんがチリチリに…………ぷっ』

 

 とんがり帽子はこんがりと焼け、密かなスタンの髭は見事なまえにチリチリパーマと化していた。その姿は普段を良く知るが故にネギは笑いの衝動を堪え切れなかった。ネカネも同様である。

 

『ナイスパーマ』

『………………人を殺す気か!! この、馬っ鹿ぁ者がぁああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!』

『うぎゃんっ!?』

 

 いらぬ一言を言って人を怒らせるのはこの時から変わっていないのか、怒髪天をついたスタンの拳骨がアスカの脳天に振り下ろされ、ガツンと痛そうな音が響いた。

 

「明日菜の誕生日プレゼントを買いに行った時に言うとったんは、これやったんやな」

 

 しみじみと木乃香は呟き、アスカの破天荒はこの頃から始まっていたのだと場面が変わるのを眺めながら笑っていた。

 

 

 

 

 

 今度の場面にネカネはいない。ネカネは地元から離れた学校で寮生活をしており、偶の休みにしか帰って来ないのだ。

 どこかの部屋の中でアスカとネギが二人で並んで椅子に座り、グリグリとクレヨンで画用紙に下手糞な子供らしい絵を描いていた。写真ですら見たことのない父の姿を想像だけで書いているようだ。

 

「おじさんの家の離れを借りて、たった二人で暮らしているアルか」

 

 古菲の声には驚きが込められていた。

 ネカネがいるのだから一緒に暮らしているのとだと思っていたが、周りの大人の力があったとしても家の中には二人しかいないのだ。大半が親がいる少女達にはとても寂しい物に見えた。

 

『どうやったらヒーローに成れるんだろう』

 

 ネギが隣のアスカに言い、可愛らしく首を捻った。聞かれたアスカは空に浮かぶ太陽と辛うじて人と分かる絵か顔を上げて、うんうんと考えた。

 

『困ってる人を助ける?』

『そんなのでヒーローに成れるのかな』

 

 今度は二人で悩み出した。誰かのポーズの真似なのか、腕を組んで揃って首を傾げている。

 先に答えを出したのはアスカの方らしく、見ている少女達にはっきりと分かるぐらい表情が変わった。

 

『いっぱい、いっぱい、助けてたらヒーローになれる!』

 

 単純に考えるのが面倒になったのか、はたまた一人でだけではなく多く助ければヒーローに成れると結論に至ったのかは不明だが、元気一杯に宣言する姿に微笑ましさを少女達は覚えるのだった。

 場面はまた切り替わる。

 村の中で人助けを探して奔走する幼き兄弟の姿。

 

「魔法使いといっても普通ですね」

「同じ人間なのだ。魔法世界ならばまだしも旧世界ならば、生活の場で科学が魔法に代わるだけで大した差が生まれるはずもない。お前は幻想を見過ぎだ」

 

 魔法使いの村なのだからもっと非日常的な生活を予測していた夕映の考えを裏切る様に、寒村そのものの暮らしが繰り広げられていた。

 エヴァンジェリンの言う通り、生活の場に魔法が混じっていても期待していたような血沸き肉躍るようなファンタジーはない。火を点けるのに魔法で灯したり、屋根の雪解けをするために梯子を使って昇るのではなく箒に乗って飛んだり、多少の違いはあれども少女達の暮らしと大きな差はなかった。

 

『うんしょ、うんしょ』

『どう、じっちゃん?』

『気持ちええぞ。良い塩梅んじゃ。おお、ネギよもう少し下を頼む』

 

 とある家でネギとアスカに肩を叩いてもらっているスタンの眉尻は下がりに下がりまくっていた。

 他にも犬の散歩、屋根から下ろした雪避け、店員と一緒に店番、お手伝いのetc。どこの家も人も少年達の申し出を邪険にせず、幼い二人でも出来ることを考えて頼んでいた。

 

「良いところですね。温かみがあって、みんな優しくて」

 

 のどかは見ているだけで心が癒されていくのを感じて微笑んだ。

 誰もが笑顔で、誰もが優しくて、誰もが温かい。都会の隣人の顔すらも知らないような冷たさとは違う、地域ぐるみでの交流があると見ていれば分かる。

 二人で暮らしている家も直ぐ近くに叔父家族(ネカネ一家)の家があって、叔母が何くれとなく世話を焼いてくれている。

 

「ネカネ先生ってお母さん似なんやね。そっくりやわ」

「私が聞いた話とは少し違う感じがするけど……」

 

 木乃香の見ている先で、ネカネが成長すればこうなるという見本そのままのネカネの母――――叔母が何くれと双子の世話を焼いていた。少し前にアスカからこの叔母がネカネの百倍パワーアップさせたような人だと聞いていたのに、視線の先にいる人はとても穏やかそうな人でとてもエキセントリックには見えない。

 場面がまた変わる。

 今度は湖畔というには少し大きい池の畔に二人の少年は空を見上げて立っていた。正確には空ではなく、少年達と空の間にある木の枝の上に乗っているものだ。

 

「猫、ですね」

「木に登ったはいいが下りられなくなったのだろうよ。くだらん。降りられなくなるなら最初から登らなければいいものを」

「習性なのだからどうしようもありませんよ」

 

 同じものを見ようと見上げれば、少年達の視線の先にいたのは黒猫であった。エヴァンジェリンは猫が嫌いなのか妙に辛辣だ。応対した刹那も困ったように苦笑している。

 

「あ、アスカ君が動くよ」

 

 和美が指差した先でアスカがおっかなびっくり、木に登り始めた。

 大人を呼んでくるなりすればいいのに、出っ張りや取っ掛かりが多いのでアスカが小さい体で齷齪しながらも昇って行く。何時落ちるか分からない危なっかしい行為に下で待っているネギだけではなく、少女達もドキドキハラハラしていた。

 この頃から運動神経が良かったのか、アスカは一度もバランスを崩すことなく高い枝の上で蹲っている黒猫のところに辿り着く。問題は別のところにあった。黒猫は人懐っこいのか、近寄って来たアスカに反応して身を起こしたのだ。

 アスカがその枝に乗っていることもあって、不用心な行動によって物凄く揺れて細い枝なのでポッキリと折れた。しかもよりにもよってアスカが乗っている後ろで。枝が折れれば一人と一匹を支える物は何もなくなり、仲良く落ちて行く。

 

「あ?!」

 

 思わずといった様子で刹那が声を上げる。

 記憶だと分かっていても反応して少女達の視線の先で、黒猫は一緒に落ちていたアスカの頭の上に脚を乗せたと思ったら足場にして飛んだ。

 

『アスカを踏み台にしたっ!?』

 

 この頃からネギは天然だったのか、言っていることは的を射ているのだが驚くところが変だ。それはともかく、この頃のアスカに空を飛べるはずもなく池に真っ逆さま。いっそ芸というほど見事に頭から入水すると大きな水柱を上げた。

 慌てた様子で――――恐らく助けるつもりなのだろうが――――何故かネギも池に飛び込んだのだった。

 場面が暗転し、突然切り替わる。

 

「これは溺れたな」

 

 エヴァンジェリンが語るべくもなく、切り替わった場面でアスカとネギが同じベットで顔を赤くしてしんどそうに寝ていれば大体の予想はつく。

 

『ネギが溺れたって本当ですか、お父様!?』

 

 二人の住居である離れの小屋に飛び込んできたのは、彼らの年の離れた従姉ネカネだ。

 

『ああ、ネカネ。大丈夫だよ。40度の熱を出してぶっ倒れるがね』

 

 叔父は叔母が少年達の額の上に乗せていた濡れタオルを交換しているのを横目に見つつ、少し困ったように微笑みながら応えた。

 心配性の気があるネカネが急遽呼び戻された事からも、二人の容態がどれほど悪かったかは推して知るべしである。

 

『すまん、うちのミーヤが木に登ったのを助けようとしたようでな』

『レコルズさん』

『これで許してくれとは言わんが、うちの治療薬を使ってくれ。効果は保証する』

『そんな…………戴けませんよ、こんな高価な治療薬』

『せめてもの詫びだ、頼む』

 

 黒猫――――ミーヤの主である薬屋の主人が頭を下げて治療薬を無理矢理にネカネに渡す。

 渡されたネカネは困って両親の顔を仰ぎ見るが、仕方なさそうに頷いたのを見て返さずに貰うことにした。

 

『冬の湖に飛び込むなんて何を考えておる。フツーの人間なら死んどるぞい。全く、ペットを助ける為とはいえ無茶をするところは父親そっくりじゃ』

 

 暗くなりかけた雰囲気をスタンの軽口が晴らす。軽口を言いつつもスタンの顔は苦々かったりするが。

 スタンは熱で苦しそうな二人からネカネの父――――叔父へと視線を移した。

 

『この二人が最近、ヒーローごっこなるものをしているのは、親の愛を早く受けたいと思う子供の気持ちだと気づいておるじゃろ。この子達に必要なのは親の愛だと分かっておろう』

『何を言いたいのです?』

『一緒に暮らしてやれと今更言わねば分からんか? 出来れば儂が、と言いたいところが婆さんが逝っちまってからは男一人暮らしじゃから、子供達と暮らすのは教育的によろしくないのが無念じゃ』

 

 叔父は口をへの字に曲げて沈黙をもって返答とした。

 

『分かってはいる。分かってはいるが……』

 

 兄弟の扱いは魔法界の二大国の内の一つ、メガロメセンブリアでは深度Aクラスの情報とされている。村では周知の事実だが、外に漏れないように口外出来ないようにする暗示がかけられている。村の住人が外に出ると認識を阻害する魔法をかけられているぐらい、二人の扱いは慎重かつ厳重になっている。

 個人的な感情、家長としての勤め、周りからの目、と様々な要素に叔父は答えを出せないようだった。

 

『必要ありません。今から私がこの家で暮らしますから、あなたは一人で暮らして下さいね』

 

 その中で答えたのは叔父ではなく、叔母の方だった。しかも、爆弾をいきなり落とす。

 全員がギョッとした表情でその言葉の意味を理解して振り返ると、台所で何かをしていた叔母がお盆に乗った鍋を手ににっこりと笑っていた。いっそ、清々しいと感じるほどに。

 

『ネカネは学校で普段いませんし、大人と子供二人のどちらを優先するかなんて考えなくても分かりますよね?』

 

 にこやかながらも言葉の端々に自分の旦那に対する攻撃的な意思が感じられた。

 

『幸い、この離れなら私が移っても十分な広さがありますから問題はありませんね。どうせならあなたに出て行ってもらってあの子達を家に移しましょうか』

『お、おい…………いきなり、何を』

『ずっと考えていたことです。あなたのやり方にはもう我慢の限界です。気に入らないというなら離婚します』

『り、離婚!?』

 

 第二の爆弾が投下された。

 真冬の湖に落ちて風邪を引いた二人の面会に来ていた村の人達は、突如として始まった修羅場に戦々恐々と部屋の隅に固まっていた。例外はこの事態にもネギとアスカのことを心配してベットから離れないネカネぐらい。

 

『そんな大袈裟な』

『この子達に最も必要なのは親です。一番懐いているネカネもまだ子供です。親の役目をやれというのは酷でしょう。ナギさん達がいない以上、その役目を曲りなりにも出来るのはずっと一緒だった私達だけです』

 

 私は絶対に譲りません、と絶対の意志を宿した口調で言い切ると、固まっていた表情をゆっくりと和らげた。

 

『あなたがナギさんにコンプレックスを抱いていることも、私達のことを考えてくれていることも重々承知の上です』

『…………私にそんなつもりは』

『私が愛した人ですもの。あなたの優しさは良く知っています。けれど、大人の都合を子供に押し付けないで下さい』

 

 厳しさと優しさを同居させて、ささくれ立った心を宥めるように叔母は優しく告げる。

 叔父にとって年の離れた自分の弟―――――ナギ・スプリングフィールドは色んな意味を持っていた。魔力は強大だったが物覚えが悪く、その癖して自分と違って溢れんばかりの才能に満ちていた。

 魔法学校を中退して家を飛び出し、気がつけば魔法世界に渡って「英雄」だなんて呼ばれるようになって、ナギが育った村ということで元々は静かで小さな村だったのに慕った余所者が多く住み着き始めた。

 変わってしまった弟、激変した環境、いらぬ醜聞。男としての嫉妬もあったかもしれない。魔法使いとしての憧憬もあったかもしれない。厄介ごとをばかりを持ってくる憎悪もあったかもしれない。

 村の者は殆ど知らないが彼はナギの妻が、兄弟二人の母親が誰かを知っている。彼女が魔法世界においてどれだけの意味を持つかも。

 彼もまた妻と娘を持つ男として家族を危険に晒すわけにはいかない。だが、今となっては行方の分からぬ世間では死んだことになっている弟の息子達を放り出すことも出来ない。弟の息子である兄弟と一緒に住めず、家の離れを貸すのが彼なりの精一杯の妥協案だった。

 

『私は幾つになってもあの馬鹿に振り回され続けるのか』

『楽しくなるならいいじゃないですか』

『そこが憎たらしいのだがな』

 

 手で目元を覆った叔父は気持ちを切り替えるように大きく深呼吸をした。

 

『分かった。この子達と一緒に住もう』

 

 おお、と村人達のどよめきが唱和する。三年近く村人が幾ら言っても翻意しなかったのに奥方の鶴の一言で一発とは、流石はこの村一の「嫁に尻に敷かれている男№1」の称号を受けているだけあった。

 

『良かった。でも……決断が遅れたお仕置きは必要よね?』

 

 喜んだ奥方だったが、持っていたお盆をネカネに渡すと何故か袖を捲り上げて宣言した。叔父の顔からいっきに色が抜け落ちる。

 

『ぎゃあああああああああああああああああああああああああっ?!!!!!!!!!!!!』

 

 寒村に叔父の悲鳴が轟き響く。

 この時に何があったのかを聞かれても村人達は顔を青くするだけで決して口にすることはなかったが、ネカネが母の所業を感心したように見ていたと後にスタンは魔法学校に上がって暫くしてから兄弟達に語ったそうな。

 

「確かにネカネ先生の百倍エキセントリックだわ」

 

 明日菜は風邪を引いた時にアスカから聞いた話は真実だったのだと目の前の光景を見て確信した。

 また場面が変わる。

 雪が降りしきる中、スプリングフィールド一家はバスの停留所に来ていた。ネカネがウェールズの魔法学校へと戻るので、その見送りである。熱が下がったネギとアスカも一緒だった。叔母は過保護なのか、寒空に薄着で出歩いたらまた風邪を引くと買い込んできた厚物の衣類を兄弟に着せている。

 

『女の子はネカネで十分だから、男の子も育ててみたかったのよね。ずっとネカネが羨ましくて羨ましくて』

『その被害が私の小遣いを直撃してるんだが』

『あなたったら、そんなにこの子達が嫌いなの』

『くっ、また卑怯な言い方を』

 

 夫婦間の力関係が如実に窺える会話であった。多数決の論理を味方につけ、子供達に不安そうに見上げられては叔父も反論が出来ない。一緒に暮らし始めて数日だが、諦めがついたこともあって関わり方を変えると子供達の反応も変わって懐いてくれるようなったことで、親心から嫌われたくないと思うようになっていた。

 ネカネは兄弟を中心に置いて手を繋いですっかりと仲良くなった家族に少しの寂しさを感じていたが、母が兄弟の傍にいてくれる安心感の方が強かった。

 

『暫くしたら直ぐに戻って来るからお母さんの言うことを聞いて元気にしてるのよ、ネギ、アスカ』

『『うん。行ってらっしゃい』』

 

 家族に見送られながらネカネがバスに乗り込む。そして発車したバスの最後部座席から見えなくなるまで何時までも兄弟に向って手を振っていた。勿論、恋人と無理遣り離されたような顔を浮かべていたネカネがいたことはスルーすべきである。

 

『帰るか』

 

 バスが見えなくなるまで見送った一行は叔父の声が合図となって歩き出した。間に兄弟を挟んで手を繋ぎながら歩く叔父と母の姿は、どこから見ても普通の家族にしか見えない。

 少し歩くと叔父と手を繋いでいたアスカが顔を上げた。

 

『叔父さん、叔父さん、また肩車して』

『あ、うむ、分かった』

 

 トイレに行きたいが熱が下がりきっていなくてまともに歩けなかったアスカを、少しふざけて肩車をしたらいたく気に入ってしまったようだった。周りにいる大人に肩車をしてもらったことがないので、視点が随分と高くなって移動するのは楽しいらしい。

 叔父としては甘えられることに慣れていないので提案にどもりつつも、頷いて膝を雪に着けてアスカを肩に乗せた。

 

『どうだ、アスカ。高いだろう』

 

 アスカの足が首から胸にかけて伸び、その足首を手で固定する。首の後ろにアスカの全体重がかかっているのだが、叔父にはさして苦にもならなかった。

 

『高い高い!』

 

 キャハハハハ、と大きく笑うアスカの足をしっかりと掴んで転げ落ちたりしないように固定していていると、直ぐ近くから視線を感じた。

 羨ましそうな視線の主はネギであった。

 

『ネギもしてやろう、おいで』

『…………いいの?』

『構わん。アスカ、ちょっと移動するぞ。手は離すな。ほら、ネギはこっちに』

 

 欲しい物は欲しいと言うアスカと比べると引っ込み思案なところがあるネギ。二人の性格は前から分かっているので、苦笑しつつもアスカを片肩に移して手を離さない様に言いつつ、妻に手伝ってもらいつつネギをアスカが乗っているのとは反対の肩に乗せる。

 流石に三歳児とはいえ、二人分を両肩にそれぞれ乗せて立ち上がろうとすると、最近とみに年を感じるようになった肉体に堪えた。それでも子供達がワクワクとして期待の目を向けてくるのには答えないわけにはいかない。

 

『ど、どうだ……っ。高いか?』

『『高い!』』

 

 返って来た返事は十分に満足するほど喜色に満ちていた。気合を入れて立ち上がった甲斐があったというものだ。

 

『楽しそうね。私も乗せてもらおうかしら』

『お前まで乗せられるわけないだろう…………私の肩が埋まっている意味だからな。変な意味はないぞ』

『念を押されると違う意味があるように聞こえるけど、子供達が楽しそうだから見逃してあげる』

 

 この時ほど子供達の存在を嬉しく思ったことはないと、翌日に兄弟の様子を見に来たスタンに語ったそうな。

 夫が実は世話好きなことをしっている叔母は上機嫌になりながら、肩車に大喜びの子供達の姿に嬉しそうに目を細めた。

 

『今日の晩御飯は何にしようかしら。あなた達、何かリクエストはある?』

 

 言われた少年達は叔父の肩の上で頭越しに顔を見合わせた。それだけで意見は一致したようだ。

 

『『お母さんの料理!!』』

『あらあら、ハンバーグとかじゃなくていいの?』

『ハンバーグよりもお母さんの料理が良い!』

『昨日もその前もそうだったのに飽きない?』

『美味しかったから飽きない!』

 

 風邪を引いた時に食べた見たこともない料理が二人の母から教わったものだと教えてからは、毎日リクエストしてくるのは困ったものだ。

 

『そんなに好きなら作り方、覚えてみる?』

 

 冗談でもあったが少しは本気の提案でもあった。

 娘のネカネは器用だが料理の腕はあまりよろしくない。不味くはならないのだが、上手いとも感じない絶妙な味わいなのだ。同じレシピ、同じ手順で何故こうも味が変わって来るのか不思議である。

 

『僕、やる!』

 

 ネギは子供らしく刃物が怖いようで逡巡している。逆に向こう見ずなところがあるアスカが真っ先に手を上げた。

 

『じゃあ、早速今日からやってみましょうか』

『うん!』

 

 これはこれで新しい家族の形なのだろうと、幼い子供二人分の重量に齷齪している夫を見ながら思うのだった。

 

 

 

 

 

「これは本当に普通になってきましたね」

 

 夕映が言う通り、場面が変わるが幸せな家庭の日常を覗き見ているようで悪いことをしている気分になってくる。

 

「本題はこれからよ」 

 

 今まで黙っていたずっと黙っていたアーニャが言いつつ、空を見上げる。アーニャの行動に吊られる様に空を見上げた少女達は変化に気づいた。

 

「あれ、雪……」

 

 上空に浮遊した状態で雪の積もる村を眺める少女達。それはこの記憶の物語がクライマックスに近づいていることを示していた。

 

「もう春も近いのに雪か。随分長いこと記憶に付き合っているな」

 

 舞い降りた雪に手を伸ばすエヴァンジェリンの言葉に実感するように皆で長い間、ネギの記憶を見続け、春が近いというのに振り続ける雪景色に魅入る。記憶の中の時節は巡り、もうすぐ春というところ。それでも山間の村には雪が降る。

 そして、奇しくもネカネが村に戻った丁度その日、事件は起きる。

 

『おぅ、お二人さん。買い物かい』

『『お遣い!』』

『そうかいそうかい。ご苦労なこった。サービスだ。これも持って来な』

『サンキュー、おっちゃん』

『また来いよ』

 

 頼んだ量よりも多めを渡されてネギは困惑するがアスカの方は貰える物は貰う主義のようで、さっさと渡された品物を鞄に詰めていた。

 店員に見送られて住居兼店舗から出て、ネギは買い物のリストと買った物の比較を行う。

 

『人参とピーマンは買ったから、これで忘れ物はないかな』

『今日のご飯はなんだろう』

『叔母さんは楽しみにしてなさいって言ったけど』

 

 少し口調が荒くなってきたアスカ。一体、誰の真似をしているのかと叔母が気にしていることを考えながら、ネギは渡された紙に書かれている品物に抜けはないことをもう一度確認する。

 二人で手を繋いで歩きつつ、買い物を頼まれたリストはネギが持ち、買った物はアスカが持つ役割である。

 

『家に帰ったら何しようか。魔法の練習でもする?』

『でも、家の中でやっちゃ駄目って言われたぞ』

『それはアスカだけだよ。加減を知らないんだから天井を焦がしちゃったじゃないか』

『あ、そっか。んじゃ、どうしよう。叔母さんの手伝いでもするか?』

『僕は別に禁止されないんだけど』

『ネギだけ抜け駆けするのはずるいから手伝いで決まり』

『え~』

 

 帰宅の途につく少年達とすれ違ったりする村人達の視線は優しい。大人と一緒に住むようになって前よりも元気が上がったし、笑顔を見せることも増えた。ただそれだけで彼らにとっては嬉しいのだ。

 

『おい、何だアレ!』

 

 突如、近くで聞こえた大声に二人の少年の体がビクリと跳ね上がる。

 自分達が何かをしたのかと慌てた少年達だが、近くの大人の視線がこちらではなく別の方向だと気づき、視線の方向である空の彼方を見た。

 

「始まる」

 

 ポツリと地獄の底を覗いてしまったような低い声でアーニャが呟いたのを聞き届けたのは明日菜だけだった。何を、と問いかけた口は、あまりにも冷たすぎるアーニャの瞳を垣間見て凍り付いた。

 

『空に黒い点?』

『鳥さんかな?』

 

 空の果てに浮かぶ無数の黒点が見えた。徐々に近づいて黒点が翼をはためかせる鳥に見えて、鳥の大群なんて珍しいこともあるものだと二人は暢気に考えていた。

 

『あれは…………馬鹿な?! どうして悪魔が!?』

『え?』

 

 だが、そんな暢気な考えは別に、最初に声を上げた村人が近づいてきた黒点の正体を見破って驚きの声を露にするまでだった。そして二人が平常を保っていられたのもここまでだった。

 突如、空に閃光が走ったと同時に間近で生じた轟音と衝撃。誰かの悲鳴と崩れ行く家。

 

『『うわぁあああああああっ?!!!!』』

 

 村に降り立った異形は村を破壊し始め、奇襲によって崩れていた体勢を整えた村人達と戦闘を開始しても、なにがなんだか分からないアスカとネギは混乱して蹲り、悲鳴を上げるだけ。

 

「なんなのですかこれは!?」

 

 焼け落ちていく家々の向かって投げかけられた夕映の叫びに答えるものはない。脳裏に響くネギの声はなく、知るアーニャもまた黙して語ることなく沈黙していた。

 爆音と閃光が連続し、逃げることも出来ずに伏せ続ける少年達は怯えていて動けそうにない。

 何時までそうしていただろうが。そんな中で突如として聞こえる地を踏みしめる音。

 

「な……何よ。何なの、こいつら……」

 

 家を踏みしめ、異形の者達がそこに立っていた。

 異変はそれだけに留まらない。何かが地面から這い上がって来た異形が増えて和美が後ずさる。その数、数百か数千にも及ぶかというほどの人間に近い者もいるが大半が異形。醜悪さと恐ろしさが同居した外見は誰もが『悪魔』と呼ぶそれ。その全てが少年達の前に現れ、彼らの視線は全て少年達に集まっていた。

 少年達は異形達から向けられる殺気に身動きすら取ることが出来ず、目を見開き、身体が竦み、額から大粒の汗を流して震えている。

 

「悪魔……」

 

 この世ならざる存在の総称を知る刹那が和美の疑問に対する答えを呟く。

 

「ど、どうなっているアルか!!」

「あわわちっちゃいネギ先生がやられちゃいます!!」

「アスカ君!」

「逃げてっ逃げるですよッ!」

 

 古菲、のどか、和美、夕映が慌てながらも呼びかけるも答える声はなく、記憶でしかない光景には少女達の叫びは届かない。

 目の前を覆い尽くすように広がる炎の壁。懐かしい家々を燃やし、草木を灰にして思い出を焼き尽くす。それは火事とかそういった生易しいものではない。文字通りの悪魔の侵略であった。か弱く戦う力を持たない少年達には逃げる術すらもない。

 

『子供達を守れ!!』

 

 そこへ空中戦力を迎撃していた大人の一団が現れ、戦列を組んで杖を悪魔達に向けた。

 

『『『『『魔法の射手・連弾・雷の三矢!』』』』』

 

 前列の五人が詠唱をしなくても放てる魔法の射手を連打する。

 その間に後列に控えた一人が中位魔法の詠唱を唱えている。

 

『この村がそんじょそこらと比べられては困る。私達を斃したければ軍隊の一個大隊でも持って来い』

『止めて下さいよ。そこっ! そう言うと本当になっちゃいますよ』

 

 即席の部隊の隊長になったらしい、さっき兄弟が買い物をしてサービスしてくれた中年の店員は自信を持って言い放った。その横で店員の横の店で働くパン屋のまだ若い主人は、会話の途中で横合いから突撃して来ようとした悪魔を氷の矢で串刺しにしていた。

 突然、映画の中の戦争に放り込まれたような中で苛烈に笑っている男達の普段とはあまりに違う姿に、守られている子供達が怯えていた。

 

『ほら、怖い顔してるから子供達が怯えてますよ』

『なに? ぬぅ……』

 

 日常とはかけ離れた姿に怯えている子供達を目の当たりにした店員は、少し傷つきながら深呼吸をして表情を勤めて柔らかくしようとする。

 

『すまんな、怖がらせて。もう、大丈夫だ。立てるか?』

『う、うん』

『流石、男の子だ。ネギも頑張れ』

 

 強がって立ち上がったアスカと遅れながらも続いたネギを褒めつつ、店員は周りの状況の確認を怠らない。

 

『雷の斧!』

 

 前列が張っている弾幕の隙間に中位魔法が放たれた。

 雷の斧はその魔法名通りに斧と化して悪魔の群れに突き刺さり、盛大な爆発を上げる。成果は大きいが悪魔の数が多いので、全然減ったような気がしない。

 

『ちっ、無駄に数だけ揃えているか。ここも危険だ! パン屋、子供達を避難させろ!』

 

 中位魔法の戦果を確認した店員の決断は早かった。この中で最も若く、強いパン屋の主人に子供達を連れて逃げるように叫んだ。

 

『俺が抜けて大丈夫っすか?』

『舐めるな。若造一人抜けたところで戦力は全く減らん』

『んだ、パン屋の。残る儂らよりもお主が任された仕事の方が重要なのだぞ』

『そうやってしゃっきりせんから、嫁の貰い手もないしな』

『『『『『違いない!』』』』』

『アンタら酷いな?!』

 

 パン屋は独身らしい。しかもイジラれキャラのようだ。

 請われた家の壁を防壁として、足元の家の壁だった木の板を踏みしめて現れた下級悪魔を無詠唱の魔法の射手で迎撃しながらも村人達の様子に迷いはない。

 そうしている間にスプリングフィールド夫妻がやってきた。

 

『無事か、お前達!』

『怪我はない?』

『叔父さん!』

『叔母さん』

 

 やってきたスプリングフィールド夫妻は、防衛体制がしっかりとしていることを確認して、飛びついて来て震えている兄弟の様子に確認する。怪我などはしておらず、突然の火事場に恐怖を抱いているが、村人達がわざと馬鹿をやってくれたお蔭で緊張も大分解れていることに安堵した。

 叔父は子供の無事を確認して飛びついて来たアスカを妻に任せて、近寄って来ようとした悪魔達を牽制していると店員がやってきた。

 

『状況はどうなんだ?』

『最悪だ。空からやってきた羽付きに気を取られて他の悪魔の侵入を許した。敵の総数は分からん。各所で迎撃しているが、この数では何時まで持ち堪えられるか』

 

 芳しくない報告に店員は顔を顰めた。

 

『これだけの数だ。悪魔を召喚した奴はよほどの術者でなければ死んでいるだろう。そしてこんな大規模なことをこの村にやるとしたら』

『最悪の想定が実現したというわけか……っ!』

 

 彼らの目に映る光景は何時もの平穏な村の姿ではない。紅く彩られて燃え盛る村、見えた光景は地獄絵図だった。

 温かい熱風が吹いた。アスカの被っていたとんがり帽子が、後方に立っていた明日菜の体をすり抜けていく。

 

「…………っ!」

 

 ギリッとアーニャの歯を強く噛み締める音が豪炎に掻き消される。

 燃え上がる赤い炎が、村を飲みこんでいた。

 六年前の時点では十四年前、つまり1983年頃に魔法世界の大戦はナギらの活躍によって終結を迎えたものの、火種は常に燻り続けていた。その火種の火が、魔法使いの世界で英雄とまで評されたナギ・スプリングフィールドの縁者を狙うのは理不尽ではあるが、当然のことと言えた。

 普通に考えて、こんな小さな村を襲撃したところでメリットがある者はいないだろう。おそらく、村人の誰か、或いは『千の呪文の男』に恨みを持つ者の仕業に違いない。この村にはナギを慕って移り住んできたクセのある者が多いのでそちらを狙った可能性もある。

 その村が焼けている。如いて言うならば――――――――――地獄だった。

 今まで何の異常もなく平和に暮らしてきた場所が火の海に包まれる光景を想像してみるといい。これからも続いてく場所が無残にも滅んでいく光景を眼にしてまともでいられる人間の方が少ない。

 

『!?』

 

 確かな防衛網を築いて陣営を構築していた大人の一人が驚愕の声を上げた。巨神のように巨大で、体中に紋様が付いてあり、巨大な羽と凶悪な牙と角が生えていた悪魔が前に出て来たのだ。

 

『中位悪魔も動き出したか…………この場は私達に任せて子供達を連れて逃げろ!』

『し、しかし』

『貴様はその子達の親をやっているのだろう! 子供を守らなくて何が親だ!』

 

 自身も成人したとはいえ、子を持つ店員は吠えて背中を向けた。

 

『行け。親ならばその勤めを果たせ』

『すまない……っ!』

 

 その場の全員の意志を背中に灯し、凛々しくも促す店員の言葉に叔父は謝りつつ、妻に目配せして走り出した。

 

『おら、気張れ! ここからは一歩も通すな!!』

 

 喉太い声や甲高い声が唱和する。

 爆炎と閃光と轟音は何時までも鳴りやむことはなかった。

 叔母にネギと共に抱えられているアスカの耳に、叫び声や怒号が幾重にも折り重なって聞こえていた。

 

『邪魔を、するな!!』

 

 叔父は村の出口に一直線に向かっている。その途中で現れた悪魔に応戦し、念話で子供達の位置が伝えられた村人達がフォローに現れる。今もまた叔父の無詠唱の魔法の射手で攻撃の取っ掛かりを潰された悪魔に、アスカ達が偶に利用する料理屋の夫婦がお玉と鍋で襲い掛かっていた。

 

『叔母さん、みんなが……っ!?』

 

 村が燃え落ちる光景は正に地獄絵図。ちらほらと村人が石となっているのが見える。

 どこかを指刺したり、何かに向けて杖を掲げている。だけど、この異常事態の中、誰一人として指一本、髪の毛ひとつ動かさない。服の裾ひとつ揺るぎもしない。先程まで動いていた村人達が石像になっていた。その様子を見てしまったネギの表情は絶望に沈んでいた。

 嘘だ、嘘だ、嘘だ。何度も心の中で目の前の出来事を否定しようとするのだけど、どんなに火の粉を被ろうとも、何一つ状況は変わらない。

 暮らしてきた村は何故か炎上し、知り合いや住人達と『ソックリ』な石像がそこかしこに立ち並ぶ。石像達の表情は険しく、必死になって村を守ろうとして戦ったことがわかる。

 

「酷い…………どうして、こんな」

 

 このことに気づいた木乃香が口を覆う。

 紅蓮の猛火が天を焼き焦がし、猛る咆哮が大地を打ち砕き、触れるもの全てを誘拐する炎に村が染め上げられていく。先程まで動いていた村人が今まさに石化していて、現在進行形で村が燃え落ちていく光景は正に地獄絵図。生まれ故郷が滅んでいく様は当時三才の子供の心にどれだけの傷を与えたのか、十四歳の少女達ですら目を背けたくなるほどのものだった。必死で心を保たなければ精神を保っていられない。

 しかし、この程度のことはまだ序の口だった。

 

『猫?』

『レコルズさんのところのペットね』

『助けないと』

 

 アスカの口から出た言葉と意思は自然に表に現れた。

 進行方向に見覚えのある黒い猫が道を横切ろうとしていた。気づいたアスカの声に反応した叔母も気づき、表情を厳しくした。叔父も同様だ。

 

『残念だが、助けることは出来ん』

『どうして!?』

『私達の手はお前達を守るだけで手一杯だ』

 

 言っている間に、あっという間に黒猫の横を通り過ぎてしまった。

 このような状況にあっても他者を思いやれる優しさは天性のものと言えよう。例え優しさが命取りになるとしても。命取りになると分かっているからこそ、大人達は小さな命を見捨てる。だが、その結果は最悪の光景を子供達に見せることになる。

 

『あ』

 

 レコルズの家の黒猫を見捨てて十歩行ったところで、通り過ぎた通路に火炎が噴き出した。

 誰かの魔法か、悪魔の仕業か。届く熱波が肌を焼こうと服を揺らす。熱さに咄嗟に閉じてしまった瞳をゆっくりと開く。

 

「ひぃ……」

 

 見ないように目を閉じても肌で感じる惨状に引き攣った声を漏らしたのは誰だったか。のどかが消しようのない音だけで強烈な眩暈と嘔吐感に口を抑えた。

 視界の先にあるモノを見て熱いなんてこれっぽっちも感じない。そんなことよりも目の前の光景に目が釘付けになった。

 一瞬で燃やし尽くされて炭化した小さな身体が横たわっていた。

 

『……う……あ、あぁ……』

 

 恐怖と混乱、嫌悪に支配されたアスカは、自分でも気付かない内に微かな呻きを発していた。荒い息を吐きながら叔母の肩を握り締め、その目は幻を見ているかのように焼死体を捕らえて離さない。強く握り締められた手は爪を立て、強烈な握力で突き刺されたそこには薄く血が滲んでいた。

 

『うっ……うぅえっ……ぇぇぇ』

 

 ついに背筋から競り上がるような嘔吐感にアスカは、叔母の腕の中で胃のモノを吐き出した。死んでいたという過去形ではない。目の前で死んだのだ。さっきまで生きていたモノが。

 

『くっ、遅すぎた…………忘れなさい、私達ではどうにも出来なかったわ』

 

 両手で少年達を抱えている為に動作が遅れ、見せるべきではない物を見てしまったアスカに叔母は言い聞かせるように言った。吐瀉物が服を汚そうが気にしない。

 

『いかん!?』

 

 叔母は更にアスカに声をかけようとして叔父の焦った声に前を見た。進行方向に異形の悪魔が立ちはだかっている。間に壁となるものはない。二人は足を止めた。

 太い足に長い腕。背からはコウモリのような翼が生えており、頭は人間とはかけ離れていて頭から角のようなものが生えている。感じられる力は下位や中位の比ではない。向こうもこちらの存在を認識して近づいてくる。悪魔は四人の方を向いて、にやりと嘲る様に狩られるだけの獲物を見て笑う。

 

『下位や中位どころではない。よりにもよって上級悪魔がいるなど……っ!?』

 

 大人二人の肌を通して感じる力は下級悪魔どころか中位悪魔の比でもない。出会ったことが無い二人にもはっきりと分かる。近づいてくるのは上級悪魔だ。

 悪魔が放つ今まで感じたこともない圧倒的な力に、大人二人の頭の中から逃げるという選択肢が抜け落ちていた。この世に生きとし生ける生物としての直感が自分はここで死ぬのだと、どうしようもなく悟らされる。

 この上級悪魔のプレッシャーは、感受性の高い子供達にどんな結果を及ぼすかを直ぐに認識することになる。

 

『あ……ああ…………』

 

 ネギの口から呆けた声が漏れる。アスカも同様だ。

 心が屈しようとも生存本能が頭の中で警鐘を鳴らす。悪魔のプレッシャーによって絶望に満たされた肉体は一歩も動くことが出来ず、生きたいと望む本能が起こす行動は震え。

 恐怖で漏らしたのかズボンが濡れているような感じがする。気持ち悪いとは思わなかった。今はただこの恐怖から逃れたい。目の前の存在と対峙しているよりは逃れられるなら死ぬことすらも安らぎのように思えて恐怖を覚えなかった。

 

『……っ!』

 

 触れている手から子供達の震えを感じ取った叔母は、嬲るように一歩一歩確実に近づいてくる悪魔のプレッシャーに呑み込まれていた自分を取り戻した。

 目の前の悪魔から目を離し、懐の子供達に向けると滑稽なほどに震えて涙を流していた。口は半開きで瞳に光はない。怯えている。絶望している。諦めてしまっている。当然だ。自分もさっきから震えが止まらない。相対しているだけで絶望に心が満たされようとしている。

 

『あなた』

『ああ、分かってる』

 

 気が付いたら自然と夫に呼びかけていた言葉に返って来た力強い返答に、自然とどうするか心が定まった。

 許せなかった。目の前にいる悪魔にではない。子供達にこんな顔をさせて諦めようとしてしまった自分達が許せない。

 彼らは子供達をゆっくりと下ろす。

 

『いい、ここからはあなた達二人で逃げなさい。出来るわね?』

 

 言い聞かせるように言えば機械的に頷いてくれた。内容を理解できているとは思えないが言う通りに動いてくれればそれでいい。

 

『で、でも』

『子供は親の言うことを聞いておきなさい」

 

 ようやく理性が戻りかけてきたアスカが逡巡を見せるが叔父が高圧的に言うことで黙らせる。悪印象を与えたくはないが、子供達をみすみす死なせるわけにはいかない。

 これは意地だ。ちっぽけで薄っぺらな大人の意地だ。親としての挟持を守るために。

 

『ここを出たらあなた達のお爺ちゃん――――メルディアナの校長を頼りなさい。あの人ならあなた達を守ってくれるわ』

『さあ、行きなさい! 走れ!!』

 

 言いながら背中を思いっきり叩いて、悪魔が近づいて来ているのとは別の方向に追いやる。頭の中が一色に染まっていた兄弟は叩かれた手に押されるように背中を見せて走り出した。

 

『すまない、君まで付き合わせてしまった』

『いいのよ。病める時も健やかなる時も一緒でしょ』

『私の人生最良の出来事は君を妻に持てたことだと今更ながらに思うよ』

『あら、ネカネが生まれたことだと思ってたわ』

 

 決して追わせないと断固たる決意を胸に二人は杖を構えた。

 目の前には先程の悪魔の姿。戦力差など比較することも出来ないほど離れている。天と地なんてレベルじゃない。強さの上限すら見えない相手に無謀にも抗うと決める。

 

『『私達の子供達が逃げる時間を稼がせてもらうぞ化け物!!』』

 

 戦う理由は唯一つ。勝機がないと分かっていても子供達を逃がす時間を稼ぐために、二人は全身に魔力を纏って哀れな愚者に嘲りの笑みを浮かべる悪魔に突進する。

 

 

 

 

 

 

 ネギとアスカはどれだけ走っただろうか。体感では何百メートルも走ったような気がするが実際には五十メートル程度しか離れていない。幼き身の体力など大したことはない。この異常による緊張と火災によって頭が酸欠を起こしてフラついた。

 

『あ!?』

 

 そこでアスカはようやく自分が叱咤に従って離れたことに気がついた。

 あの悪魔は存在するだけでアスカの精神を恐怖で侵し尽くし呑み込んだ。あの場にいた誰にもどうにか出来る相手ではない。なのに、叔父と叔母はアスカ達が逃げる時間を稼ぐために足止めをする気だ。代償として絶対に助からない。それが分かった上で行動した。

 

『戻ろう』

『で、でも逃げろって』

 

 ネギの言う通り、それこそが叔父と叔母の気持ちを無駄にしない最善の行動だ。二人が逃げ切らなければ勇気と決断を無駄にする。簡単に納得出来るような悩みはしない。

 

『分かってる。分かっているけど!』

『待ってよ!』

 

 アスカの体が動いた。前へではない。後ろへ、来た道を戻るために。無駄にすると分かっていても見捨てられない。一人で置いて行かれては叶わないとネギも付いてくる。

 

「そんな…………」

 

 見えた光景に、のどかが泣き出しそうな口を振るえる手で覆った。

 背中だ。決して行かせないと意思の詰まった誰よりも大きく見える叔父の背中があった。ネギ達を守ると決めた誰よりも優しい叔母の背中があった。だけど、二人の背中はピクリとも動かない。何故ならその体は色を失くして置物となっていたから。ついさっきまで話し、動いてた人が一瞬にして物言わぬ塊と化していた。

 

『ん? 戻ってきたのか』

 

 叔父と叔母の前に立つ悪魔が変わらぬ様子で喋った。

 

『差し詰め、見捨てられなくて戻ってきたというところか。だが、少しばかり遅かったな。見ての通り石となっているよ』

 

 チラリと石となった夫妻を見て、次に少年達を見下ろすように見つめて冷静に状況を伝える。その口調が何よりもアスカを刺激しているとも知らず。

 

『中々に覇気を見せてくれたよ。才も実力も皆無だが輝くような意思だけは目を見張るものがあった。子を守ろうとする親の力を見せてもらった。しかし、君達が戻ってしまったということは彼らは何がしたかったのだろうな。はは、無駄な犠牲だったいうわけだ。哀れだね』

 

 悪魔の侮辱に、特に義理堅い明日菜や刹那が過去であることも忘れてキレかけた瞬間、

 

『あああああああああああああああああああああああああああああッッッッ!!!!』

 

 アスカが獣のような叫びを上げ、身体に納まりきらずに溢れ出した感情に呼応するように、全身から白色の魔力を暴風のように振り撒く。

 

『な、何!?』

 

 アスカから噴出した魔力が近くの家々の残骸を吹き飛ばす。その威圧に怯んだようにネギが叫んだ。

 

「オーバードライブだ」

 

 突然のアスカの豹変に狼狽を露わにした幼いネギの疑問に答えるように、現実のエヴァンジェリンが現象の説明をする。。

 

「オ、オーバードラ……!?」

「魔力の暴走。アスカの最大魔力は英雄と呼ばれたナギや極東最大と言われる近衛木乃香を上回る。幼さ故に百分の一も使いこなせんだろうが、一気に解放されれば並みの悪魔程度ならば倒すだろう」

 

 聞き覚えのない単語に問い返しかけた古菲の機先を制するように言い募る。

 

「それなら大丈夫よね!」

「そんな力押しが通用するのは雑魚だけだ。奴は違う」

 

 安心しようとした明日菜を否定して、獣のように叫んで悪魔に飛び掛かっているアスカをエヴァンジェリンは哀れなものを見るように見つめた。

 

『凄まじい魔力だ。しかし、動きが直線的すぎる』

 

 悪魔にとってみれば鴨がネギを背負って来たようなもの。激情に支配されて真っ直ぐに跳びかかってくる哀れな少年に向かって、カウンターを決めるように強烈なパンチを放った。

 

「危ない!」

 

 明日菜が気づいて叫びを上げたが夢の光景に届くはずも無い。避けようのないタイミングで少年を木っ端微塵するほどの威力が籠もった上級悪魔の拳が放たれているのだから。

 

「きゃあ!」

 

 待ち受ける悲劇に反射的に眼を覆った少女達に耳に不思議な音が響いた。

 

『ほぅ』

 

 上級悪魔は僅かに目を見張った。アスカは悪魔の一撃を弾いたのだ。振りかぶった腕とは反対の手で防御する。たかだか三歳と少しの子供がかなり手を抜いたとはいえ、上級の悪魔の一撃を弾くなどありえない。莫大な魔力があったとしてもだ。

 怒りに狂っているようでも、悪魔の一撃を弾くだけの戦闘センスは生まれ持っての物か。

 

『ぐおっ……』

 

 未熟なれど膨大な魔力を頼りにした魔力の暴走(オーバードライブ)の恩恵による強烈な一撃が悪魔の顔に減り込む。大砲を放ったような轟音の後に小さな少年に殴られたとは思えぬ勢いで吹っ飛ぶ悪魔。

 

「やった!」

 

 少女達の歓喜が重なる。その間にも石像の間を通ってアスカが追撃の拳を振り上げながら飛ぶ。

 

「奇跡は続かん」

『良い一撃だが、力があっても闇雲に突っ込んでは返り討ちに合うだけだぞ!』

『!?』

 

 追撃の拳が当たるかと思われたが着地した悪魔の拳が雷の雷光のように動く。

 横から一撃を受けたアスカの体が一瞬にして宙へ舞い上がる。受け身を取ることも出来ず、未だ崩れていなかった家の壁にまともに叩きつけられた。叩き付けられた壁は衝撃で崩れて突き抜け、勢い余って破片と共に幼きアスカの体は地面に落ちる。

 

『がはっ……はっ……!』

 

 アスカの口から血が漏れる。ぶつかった衝撃で上手く呼吸が出来ないのか呻き声が漏れている。直ぐに動くことが出来ないのか瓦礫をどけようとする気配がない。

 

魔力の暴走(オーバードライブ)で間欠泉のように噴出していた魔力が天然の障壁の役目を果たし、咄嗟に防御したのは流石というところだろうが盾にした右手と肋骨は折れたな」

『アスカ!?』

 

 エヴァンジェリンの解説の合間を縫うように、幼いネギがアスカに駆け寄った。魔力で身体能力を強化できない今のネギではアスカの体の上に乗っている小さな瓦礫を除けることしか出来ない。

 

『この年齢で、手を抜いたとはいえ私の一撃を弾いた戦闘センス。何よりも計り知れぬポテンシャルと潜在能力――――――本当に残念だ。後二十年、いや十年もあれば一角の戦士にも、或いはあのサウザンドマスターをも超えるほどの戦士に成れたろうに』

 

 その上級悪魔の言葉は、幼きアスカ達の確実な死を意味していた。

 死刑宣告に涙で顔をぐちゃぐちゃにしたネギがアスカを守ろうと両腕を横に広げてその前に立った。

 

『アスカに手を出すな!』

『ふふ、この私の前に立ち塞がってまで兄弟を守ろうとするか、少年』

 

 金髪の少年だけではない。この赤髪の少年の勇気はどうだ。垣間見せたのは片鱗に過ぎなくても実に悪魔の食指を刺激する。実に面白い。思いがけず標的に最大級の好意を感じているらしい自分に気づいて彼は笑った。

 

『本当に依頼人は酷なことをする。私の楽しみを奪うとは、今ほど自身が契約を履行することしか出来ない悪魔であることを厭うたことはない』

 

 実に惜しい。ただ殺してしまうには惜しいと感じている。出来る事なら少年達が一人前になるところをこの眼で確かめたい。そうしたら、きっと心行くまで殺し合えるだろうにと、どこまでも悪魔らしく自分の楽しみだけを求める。

 

『こんな依頼でなければ将来を見てみたかったが、本当に残念だがここで私に出会った不運を恨みたまえ』

 

 なんと実に呆気なく死刑を宣告することか。

 

『若輩なれど戦士達が無残に散るのは見たくない。我が最強の一撃で跡形もなく消してやろう。私が君達に送るせめてもの手向けだ』

 

 悪魔は少年達に近づき、おもむろにその大きな腕を振り被った。キィィィィィン、と悪魔の振り被った拳が発行して音を立てる。先ほどのアスカの魔力の暴走(オーバードライブ)とは違い、恐ろしい程の魔力が収束して制御されている。放たれれば幼き少年達の体は悪魔の言葉通り跡形も残らないだろう。

 

「奴らは死なない。何だ、どのような奇蹟が起こる」

 

 現代のアスカ達が無事であることを考えるならここで何らかのファクターが介入する、とエヴァンジェリンは考える。彼女の考えは正しかった。

 本来ならここで幼い子供の命は終わったことだろう。この絶望的状況を打破するにはそれこそ奇跡が必要なほど。でも、起こりえないはずの奇跡は起こった。

 

「「「「「っ!?」」」」」

 

 少女達が声を張り上げた次の瞬間、耳を刺すような音がその場に響き、しかし無惨な光景は繰り広げられなかった。ぶつかったのは悪魔の拳と抗う術を持たず、ただ震えることしか出来ないネギの前に守るように立ち塞がった背中の人物の掌。

 ネギ達を木っ端微塵に打ち砕く悪魔の拳が一人の男の手によって止められた。どこからともなく現れたその男性はフードの付いた白いローブを着込み、手には現在のネギが何時も持っているものと同じ長尺の杖。

 

『テメェ……』

 

 白いローブを身にまとった一人の華奢な男性と掌の間で何かが弾ける様な音と、ギシッと力を込めた悪魔の肉が軋む音が響く。男性の足元が人間離れした悪魔の膂力を示すように地面に沈む。

 

「な、ギ……」

 

 エヴァンジェリンはそのシーンの絵を食い入るように見た。これが、ネギが父親が生きていると言っている根拠なのだろう。この記憶が本当なら探し人が生きている可能性が出てくる。エヴァンジェリンはそう思ってさらにネギの過去に集中する。

 

『人の息子達に何やってんだオラァアアアアアアアアッッッ!!!!』

 

 悪魔の左拳を右手の魔法障壁で受け止めた男性の腕の先で「バチィッ」と雷が弾けた。雷系の魔法、それも無詠唱で発動した『魔法の射手』だ。しかし、悪魔は弾かれただけだ。致命傷どころか怪我もしていない。が、多少なりとも動きが停止する、それが例え悪魔でも。そこへ更に追撃の一撃。

 

『来たれ、虚空の雷、薙ぎ払え!―――――雷の斧!! ぶっ飛びやがれ!!!!』

 

 そしてその青年は距離の開いた悪魔を前にして呪文を詠唱して雷の斧を発動。この魔法の効果範囲は、さほど大きくないが、詠唱が短く、雷撃の発生が俊敏。故に、近距離から中距離の対象を殲滅するのには、極めて有効である。

 

『ぬおっ!?』

 

 振り下ろされるは文字通り稲妻の斧。否、成したことは斧というよりギロチン染みていた。一撃で悪魔が雷撃の斧で縦に真っ二つにされた。

 一瞬にしてネギを殺そうとした巨体の悪魔を雷の斧が叩き切った。極簡単にあっさりと、二撃で敗れて消えていく悪魔。当然であろう、上位古代語魔法を、防御も出来ずに直撃したのだから。

 

「す、凄い……」

 

 恐ろしげに夕映は白ローブの男が放った魔法の結果を目撃する。男性の方は無傷、息など乱れてはいない。代わりに羽織っている純白のコートが雷の斧が発生した衝撃波によって乱れる様に靡く。

 当時のネギの頭はこの急激な展開に付いていけていない。腰が抜け、意識が朦朧としているアスカの体を抱えて男性の後姿を見ている。

 半ば放心気味のネギを置いて、戦場は最終局面を迎える。

 瓦礫を踏みしめる音が連鎖し、絶望に絶望が重なる。現れたのは、恐らく僅かに召喚されたであろう爵位級の上位悪魔の一体。その後に続くのは、村を襲った大小、形も様々な異形の者達。

 アスカの行動によってか、青年の行為にか、気が付けば辺りには悪魔が集結していて、これは村の反抗が既に収束に向かっていることを示していた。涙と鼻水と煤で顔面をぐちゃぐちゃにしたネギだけでなく、意識が朦朧としているアスカにも希望はなかった。

 

『大丈夫だ』

 

 多勢に無勢。人の身では抗しきれない悪魔の集団を前にして、男は子供達の前に君臨する。

 

『お前らに指一本触れさせやしねぇ。安心して待ってな』

『あ……』

 

 ただ背中だけを見せて、喰われるだけの戦場に似つかわしくない穏やかな声はネギの心の琴線を刺激する。

 ネギがその心の衝動の意味を問う暇はなかった。爵位級の上位悪魔が片手を上げたのだ。

 上位悪魔の合図に呼応するように、視界に映る殆どの悪魔が男性に向かって一斉に襲い掛かる。その数、十や二十ではきかない。百や二百、もしかしたら千に達しているかもしれない。

 恐らく立っているだけの男性の恐るべき実力を察知したのだろう。質では勝てぬならば、量で責めようと考えるのは戦術として正しい。

 前方を埋め尽くすような数の悪魔。例え一体一体が雑魚だとしても数が揃えば恐るべき力となる。凡百の魔法使いならば抵抗する間もなく、一流の魔法使いでも僅かな抵抗の後に数の暴力を前に押し切られるだろう。

 

『あっ、危な――っ』

 

 ネギが危惧の叫びを上げかけるが意味はない。ここにいるのは世界的に見ても数少ない例外。

 

『オラァァァアアアアアア!! 俺の息子達に手は出させねぇぞ!』

 

 我先にと先走って来た悪魔一体の腹部をアッパーのように突き上げて殴る。無造作に上げられたアッパーに突き上げられた悪魔に追い討ちをかけるように蹴り飛ばした。

 単純に見えるが、身体強化を施されたその威力は凄まじいの一言で、蹴られた悪魔は有り得ないほど「く」の字に吹き飛び、後から来た群れに激突して前方180度全てに衝撃が広がり、一時的に侵攻を阻む。

 涙が流れる続ける幼いネギの後ろで、青年の圧倒的な強さに少女達が唖然とした顔を晒す。

 

『来たれ雷精、風の精! 雷を纏いて吹けよ南洋の嵐!』

 

 詠唱と同時に高まる魔力と男性の右腕に迸る雷。男性は攻撃の手を緩めない。先程の雷の斧を用いた連携攻撃が対個人用。大群に向けてこれから放つのは、即ち大技でなければならない。ネスカの最大の切り札であり、強力な旋風と稲妻を発生させ、敵を殲滅する攻撃魔法。かのローマの神々の王、ユピテルの武器とされる稲妻。

 

『――――雷の暴風!!!』

 

 だが、威力は文字通りネスカとは桁が違った。本当にネスカが以前に使ったものと同じ魔法なのかと疑ってしまう威力の雷の暴風が、黒い軍勢を喰らい尽くした。雷を纏った竜巻が魔族の群を一瞬で呑み込み、既に廃墟同然となっていた村を縦断して、射線の向こうにあった森を薙ぎ払って向こうの山に着弾して大穴を開けてしまった。

 

「「「「「「「きゃあああっ!?」」」」」」」

 

 何kmも離れた場所に着弾しながらの衝撃波が、男性の後ろにいて守られていたネギとアスカや少女達をも吹き飛ばしそうなほどに吹き荒れる。そこから始まる一方的な戦い。雷の暴風で粗方の敵を排除した後の掃討戦。

 数の暴力という量だけが持つ力を失った悪魔達を、常軌を逸した力で殴り蹴り飛ばしてゆく青年。放たれた拳で数体の悪魔が吹き飛び、蹴り一発で空を舞う。圧倒的という言葉すら生温いと感じさせる魔力の奔流が敵を薙ぎ払う。腕を振るうと十の悪魔が宙を舞い。蹴りを放つと二十の悪魔が吹き飛ぶ光景はまさしく独壇場、圧倒的。数の論理も戦略、戦術、悪魔の知恵でも彼一人にまったく無意味だったのだ。まさに虐殺と言っていいほどの力の差を見せつけながら男は戦い続ける。

 そして数分後、無数の悪魔達の屍の上で男性は最後に残った一体の悪魔の首を掴んで持ち上げていた。

 

『ソウカ…………貴様…………アノ…………』

 

 この周囲で残す悪魔はこの一体のみ。それも男性に首を締め上げられて風前の灯だった。 己が首に込められる力を前に最早、戦う力どころか振り払う力すらない悪魔に死は避けられない。

 

『フ……コノ力の差…………ドチラガ化ケ物カワカランナ…………』

 

 男性の正体に気付いた悪魔は、絶対の真理ですら物量すらも正攻法で捻じ伏せる程の力の差に、瀕死に近いはずの口元が大きく釣りあがった。男性に向けてニィィと皮肉るように邪気まみれの笑みを零す。

 これが気に障ったのか、それともこれ以上付き合う気はないのか、男性が締め上げた悪魔の首の骨をそのまま握り潰した。

 骨が砕ける音が幼いネギの耳にも聞こえる。幼いネギの体が震える。あの絶対的に感じた悪魔の軍勢を一瞬で蹴散らした相手だ。恐怖を感じてしまうのは無理もない話しだ。のどか等こちらの世界に踏み入って時間の短い人間たちもヒッと息を詰め悲鳴を殺している。違うと言えば、エヴァンジェリン、刹那ぐらいだろうか。

 

「………………」

 

 男性が捕まえた悪魔の首を躊躇なく圧し折ったのを見てエヴァンジェリンは誰にも聞こえない声で誰かの名を呟いた。自分は放っておきながら、息子の危機に颯爽と現れた姿は間違うことなくエヴァンジェリンの捜し求めている男だった。

 

「せっちゃん…………」

 

 木乃香は刹那の手を強く握って顔を青くしながらもジッと見ていた。

 

「こりゃ凄いねぇ」

 

 和美は魔法使いの戦いというものを初めて見た。今まで見たのは精々補助的なものが殆どで、幸か不幸か本格的な攻撃魔法を一度も見ていなかった。

 圧倒的とすら生温い力の差。悪魔が言ったようにどちらが化け物なのか分からなかった。それまでの穏やかさが嘘の様なバイオレンスな状況に、怯え慌てていたのどかも、急激に展開される光景に一言も無い。悪魔の首が圧し折られるシーンで気絶しなかったことが不思議だった。

 

「こんな…………こんなことが…………」

 

 夕映の顔にも怯えが貼り付いている。

 正面を埋め尽くしていた異形の怪物たちが、圧し折られ、砕かれ、焼かれ、瞬く間にただ地に横たわる骸と化して行く。彼女が望んだたった一人で大群を圧倒する『ファンタジー』な光景そのままだ。だが、『ファンタジー』は『ファンタジー』の中でこそ面白さがある。現実に出てきてしまえば血が飛び散る狂気の出来事でしかないのだから。彼女の中で魔法に対する幻想は既に半ばから砕けていた。

 

「強い、強すぎる」 

 

 裏の世界を生きてきた刹那ですら木乃香の手を握りながらその圧倒的な強さには呆然と眺めているしかなかった。

 

『ネギ! アスカ!』

 

 悪魔を殲滅した男の背中を見つめていたネギは、自分達を呼ぶ聞き覚えのある声にそちらを向くと、通路の向こうからスタンとネカネが走って向かってくるところだった。

 ネカネはネギとアスカの下へと駆け寄って屈み、その身体を抱きしめた。

 

『フゥ……無事ね、ネギ』

『お、お姉ちゃん……』

『アスカは怪我をしてるのね。リシ・トル・キ・ラトレ 汝が為にユピテル王の力をここに 大治癒』

 

 ネカネの中位治癒魔法によって、半ば失われていたアスカの顔色がみるみる血色を取り戻す。だからといって、一気に回復するわけではないが、十分な助けになったのは間違いない。そしてスタンはこちらに向かってくる、フードを目深に被った悪魔よりも恐ろしい魔法使いの男を睨み付けていた。

 

『何故じゃ、何故今更になって現れた!? 答えろ――』

 

 風が吹いて魔法使いの男のフードが頭から離れる。 

 露わになった魔法使いの男の髪は村を燃やす火の色によるものではなくネギと同じ紅。戦闘によって負傷を負ったのか、頭部から左眼を通って顎まで流れる血を流しながらも確かに此処にいる。

 

『答えろ、ナギ!!』

 

 災厄の日、ネギとアスカの父ナギ・スプリングフィールドは生まれ故郷へと帰還したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 燃え盛る炎の中、現れたナギはその場にいる全員を村から連れ出した。 

 雪の舞う草原、男性によって村を一望できる場所に四人は連れてこられた。アスカの意識は失われており、目覚める気配はない。

 

『すまない、来るのが遅すぎた……』

 

 村から離れた丘に移動したナギは燃え盛る村を見つめて、未だに炎に飲み込まれているその在り様に僅かに頭を垂れる。謝罪の言葉は静かで、深い悔恨が感じられた。

 

『帰ってきたのは良い。この子達を助けたのはお前だ。だが、タイミングが良すぎる。ナギ、お前は何を知った? いや、それはいい。今まで何をやっていた』

『…………すまねぇ、スタンのおっさん。詳しくは言えねぇんだ。ただ、俺は――』

 

 燃えゆく村を見下ろしたその横顔は、悪魔の群れを一掃した男とは思えないほど弱々しく見えた。

 

『――――――勝てなかった。失敗したんだ』

 

 振り返って言ったナギに、スタンはそれ以上の言葉を口にすることが出来なかった。傲岸不遜、自信が服を着ているとまで言われた男がそこまで言ったのだ。それ以上の言葉が直ぐには出て来ない。

 

『お父さん、なの?』

 

 ネギにはそんなこと関係ない。父の名を持つ男に近づいて声をかけていた。

 

「本当にお二人のお父さんなんですか?」

 

 のどかの言葉は正鵠を射ていた。

 ネギが先程見た強さやフードから垣間見える髪の色である人物が父であるナギ・スプリングフィールドを連想するのは必然だった。

 

『…………お前。そうか、お前がネギか』

 

 ナギは近寄って来たネギに一瞬驚いたようだが、その様子に何か感じることがあったみたいで、自分と同じ髪の色の少年が何者なのかに気がついたように自らに言い聞かせるように小さく言葉を呟く。

 そう言ってゆっくりと、まるでネギを刺激しないように優しく一歩ずつ距離を縮める。一歩、また一歩と近付くナギ。足を止めない。ネギは目の前にいる人間が本当に父なのか信じられなくて、ぎゅっと目を瞑った。

 

『怪我、ないか?』

『う、うん』

『そうか。すまねぇな、来るのが遅れちまって』

 

 そっと壊れ物を扱うように優しく頭の上に手を置いて、くしゃっと大きな手が彼の頭を撫でたのだ。手つきは無骨で、けれどしっかりと温かくて。

 

『あっちの金髪はアスカか。今、三歳ぐらいか。二人とも大きくなったな……』

 

 泣きそうに震えた声で、明らかに親愛の情が込められた言葉にネギは父の顔を始めて間近で見た。

 自分が父に生き写しだというぐらいに似ていると顔は、喜びに溢れてネギを見下ろしている。この人が自分の父なんて実感は全然ないけれど、ネカネ母子を見れば分かるように成程親子とは似るものなのだろうと考える。

 

『悪いな、怖い目に合わせちまって』

 

 グリグリと力加減を知らないのか、頭を撫でる手が少し痛い。悪魔を苦も無く屠った手ではあるけれど、その手はとても温かった。

 

『何も残せなかった俺達を許してくれとは言わねぇ。憎んで、嫌って当然だ。俺達は親としての務めを果たせなかったんだからな』

 

 痛みよりも何よりも、その手の温かさはネギにとって何物にも耐えがたく失い難い。

 

『お前達にこの杖と、このペンダントを形見として渡す。これでも魔法発動媒体としては最高級品だ。本当ならもっとマシな物が何かあったら良かったんだがな。こんなものしかなくて勘弁してくれよ』

『あうっ』

 

 如何にも名案を思いついたとばかりに、男は持っていた杖をネギに手渡した。

 差し出されたナギの長尺の杖を受け取るネギ。だが、三歳の子供が持つにはあまりに大きすぎるその杖を受け取ってよろけてしまう。

 

『ははは、少し大きすぎたか…………くっ、もう時間がない』

『え』

 

 ネギが精一杯杖を持つ様子にナギはやや苦笑して見ていたが、苦しげに表情を歪めると立ち上がった。

 

『この馬鹿者が! またこの子らを置いていく気か!?』

『悪い、スタンのおっさん。ここに来るのにもアイツらにかなりの無理をさしてんだ。俺にはどうしようも出来ねぇ』

 

 スタンが駆け寄ろうとするが、顔を向けたナギの苦しそうな表情に足を止めた。

 

『この子達のことを、頼む』

『っ、……大人になっても馬鹿なところは変わっておらんのか。ああ、任せておけ! お前とは違ってまともな大人にしてみせるわい!』

『なら、安心だ』

 

 言葉通り、苦痛を堪える中でも安心したように微笑み、そして傍にいるとネギの頭を軽く撫で、ネカネに抱えられているアスカの傍へとやってきた。

 

『まったく、無茶しやがって。もう危ないことはすんじゃねぇぞ、アスカ』

 

 俺が言えたことじゃねぇか、と苦笑して息子の金髪を撫でたナギは、アスカを抱えているネカネへと顔を向けた。

 

『ネカネも迷惑じゃなければ二人の面倒を見てやってくれ。アイツの面影があるアスカにはネギよりも多くの苦労があるかもしれねぇが』

『は、はい。でも……』

『すまねぇが、何も教えてやれねぇんだ。悪いな』

 

 ネカネに答えつつ、意識を失って瞼を閉じているアスカの口から垂れる血を拭い取って、首にペンダントをかける。

 名残惜しげに立ち上がったナギは、ネギとアスカを同時に視界に収めて名残惜しそうに目を細めた。

 

『大きくなれよ。俺よりも、アイツよりも。ずっとずっと大きな男に』

『お父さん?』

 

 ネギの声に答えずにナギは空に浮かい、どんどんその姿が遠ざかっていく。

 宙に浮いたナギはネギから徐々に遠ざかっていく。幼い思考でも別れだと分かったのだろう、ネギは遠ざかっていく父を必死になって追いかける。けれどナギも速度が出てきたのか追いつくことは出来そうにない。

 

『こんな事言えた義理じゃねぇが、二人で喧嘩せずに元気に育て。幸せにな!』

 

 ネギは遠ざかっていく父の姿を必死に追った。だが、いくら走っても追いつけず、ついには転んでしまう。言葉だけを残して男性は雪の降る空に消えていった。一瞬空から視線を逸らしたそこにはもう父の姿はどこにもなかった。

 

『お父さぁ――っん!!』

 

 ネギは雪降る空に叫んだ。後に残されたネギは、ただひたすらに泣き声を空に上げていた。おそらくは声が嗄れるまで。どれだけ叫んでも彼の姿はどこにも存在せず、残されたのは数えきれない悲しみに打ちひしがれる本当に幼い少年がただ一人だった。

 

『あああん! ああ……!』

 

 草原に膝をつき天を仰ぎ大きな声で、燃える村の光に照らされる夜の帳が落ち始めた雪雲が覆う空に溶け消えた父を呼ぶネギ。慰める者もなく、ただネギの泣き声だけが響いている。

 

「この三日後にネギ達は救助されたわ。他に生存者はなし。私が合流したのもこの時ね」

 

 幼いネギの泣き声が響く中で、今まで黙って見ていたアーニャが言葉を紡ぐ。

 

「村を失った私達はメルディアナ魔法学校の近くの魔法使いの街に移り住むことになったわ。元々、ネギもアスカもメルディアナに入学が決まってたし、それが少し早まっただけ」

 

 その言葉とともに、景色は別の山間の街へと移り変わった。

 

「そして二人は魔法学校に入学した。入学した後、ネギは分かりやすく言えば本の虫ね。図書館に籠って来る日も来る日も勉強勉強」

 

 男子寮の管理人になったスタンや卒業してメルディアナに就職したネカネに心配されながら、あの日以前の無邪気さを何処かに閉じ込めてしまったネギが、年相応に遊ぶ事も無く、ただひたすらに魔法の勉強に打ち込んでいた。

 

「アスカはどうしたの? 姿が見えないけど」

 

 明日菜の疑問は最もで、ネギの記憶の中にはアーニャはよく登場するものの反対にアスカの姿は少ない。

 

「ああ、それは……」

『けっ…………生意気な餓鬼だ。身の程を知れってんだ』

 

 場面が何時の間にか変わっていた。

 

「なんていうか、手の付けられない暴れん坊? 誰彼構わず喧嘩を吹っ掛けては負けてたわね。まあ、相手は何歳も上の上級生で、自分よりも弱いのには絶対に手は出さなかったけど」

 

 周りの建物が死角となって人目につきにくい場所で、人が来ないような裏庭でアスカが体中に痣を作って地に伏していた。

 

『弱いくせに粋がるからだ。今度からは相手を見て喧嘩を売れよ』

 

 アスカは野良犬が野垂れ死んだような格好で地面に倒れていた。その様子を、彼よりも幾分年上で体格のいい数人の子供が見下ろしていたが彼らも傷だらけだった。

 場面はまた切り替わる。

 図書館に籠って勉強をしているのは変わらないが、時間が少し経過しているようでネギの服装が少し変わっている。

 しかし、今回の異変はこれだけではなかった。

 図書館の扉が外から勢いよく開けられ、蹴り開けたらしいアスカが注意してくる司書の言葉を無視してずんずんと進む。そしてネギを見つけるとにんまりと笑った。

 

『ネギ! 何時までこんな暗いとこにいるんだ。ほら、出て来いよ』

『えっ、ちょっと待』

『待たない!!』

 

 アスカは嫌がったネギの動作も声も気にせずに、力任せに引っ張っていく。

 薄暗い図書館から引っ張り出されたネギは外の眩しさに目を細めた。すると、そこに見知らぬ少女が立っているのに気が付いた。

 

『彼女は?』

『ダチになったばっかのナナリーだ』

『ナナリー・ミルケインです』

『あ、どうも。ネギ・スプリングフィールドです』

 

 自己紹介されてネギも条件反射で返してしまう。

 

『ちょっと、アスカ!』

 

 そこへ更に聞き慣れた声がネギの耳に入った。最近ずっとネギと一緒にいたアーニャである。

 機嫌が悪そうな様子で、ズンズンと肩を怒らせながら図書館の前で屯しているネギ達の下へとやってくる。

 

『ナナリーになんか変なことしてんじゃないわよね。最近、一緒にいるそうじゃない』

『変なことなんてしてねぇって。ダチになったんだから別に一緒にいたっていいじゃねぇか』

『大有りよ。不良と喧嘩ばっかりしてるから口が汚くなって。移ったらどうするのよ。後、ナナリーはアンタよりも一歳上なのよ。さんを付けなさい、さんを』

『あ、あのアーニャちゃん、私は気にしてないから』

『つうわけで問題なしだ』

『アンタはもう少し気にしなさい!』

 

 ドガンと振り上げられた拳が無暗に偉そうなアスカの脳天を飛び上がって打ち据える。

 おおぅ、と打たれた頭にタンコブを作りながら呻いているアスカを、ネギは信じられないような物を見る目をしていた。この数ヶ月、ネギは閉鎖的であったが、アスカも方向性は違うが似たような物だった。心に抱える焦燥が内向きか外向きかの違いでしかない。それが以前とは違う、だけど負の感じではなくなっている。

 ネギに縋るように同行していたアーニャも同じだ。アスカを殴ってはいるが、負の感情は感じられない。

 

『一体、何があったの?』

 

 色んな意味を込めて問うと、蹲ってたん瘤を擦っていたアスカがシュタッと立ち上がり、ニンマリと笑った。

 

『いい加減にウジウジと悩むのを止めたんだ。男なら後ろじゃなくて前を向かないとな』

『…………全部、ナナリーの受け売りのくせして、よくもまあいけしゃあしゃあと』

『問題ねぇ!』

 

 胸の前で腕を組んで、闊達と笑うアスカは本当に別人のようだった。

 取りあえず、アスカが変わったのは始めて会ったナナリーのお蔭らしい。しかし、いくら見ても少し気の小さい少女に見えない。

 

『よし、行くぞ』

 

 変遷の過程を知らないので、首を捻りまくっているネギを前にアスカが宣言した。

 

『行くってどこへ?』

『村のみんなの所だ。ナナリーが知ってた』

『え? ほ、本当なの? スタンのお爺ちゃんもネカネ姉さんも教えてくれなかったのに』

 

 真っ先に石化のことを調べて分かったことがある。石は燃えない。村は焼き尽くされてしまったが、石となった叔父や叔母は言い方は変だが無事に残っているはずである。なのに、未だに姿を現さないということは魔法が解けていないということ。ならば、どこかに安置されているはずだが、ネギが聞いても誰も教えてくれなかった。

 明日菜たちのように、14歳と世間では子供と見られても大人だと反発できる年齢ではない。このネギの年齢は誰が見ても小さな子供だ。真実が何処にあれ、聞かせられる様な状況ではないのだろうと、彼女たちは皆気が付いた。

 

『う、うん。大分前にお父さん達が近くの空き家に何かを運んでいるのを見たの。多分、アスカ君達が言っているのじゃないかと思って』

『つうわけで、善は急げだ。急いで向かうぞ』

 

 そういう話ならネギも否はない。

 場面がまた変わる。

 今度はどこか暗い一室のようだった。地下に向かっているのか、階段を下りている。ナナリーの姿はない。会話から表で見張りをしているようだ。単に暗い地下室に降りるのを怖がったのかもしれない。

 螺旋階段を下りた先に扉があった。その扉には鍵がかけられていないのか、アスカが押すと簡単に開いた。

 

『あった』

 

 開かれた扉の向こうには幾つもの石像があった。叔父夫婦だけではなく、多くの村人が石像と化していた。アーニャの両親もいたし、村全体が家族のような物だったから知っている姿は幾らでもある。

 

『ママ! パパ!』

 

 アーニャが両親の石像を見つけて飛び出した。呼びかけるが、当然返ってくる声はない。彼らは石となっているから。

 

『みんな』

 

 あの日、あの場所で別れたままの状態である叔父夫婦や村人達の石像を前に、アスカは暫しの間、思いを凝らすように瞑目した。

 アスカと同じようにしようとして、ネギは石像の数が少ないと気付いた。逃がしてくれた店員やパン屋の石像が無い。他にも利用していた料理屋の夫妻、レコルズ家の男の姿も見当たらない。

 

『アスカ……』

『あれだけの規模だ。みんながみんな、石像にされたわけじゃない。あそこで死んだ人もいるはずだ』

 

 アスカは予想していたようにネギの疑問に答えた。或いは、アスカは一人で先に此処に来たのかもしれない。この事実に突き当たり、一人で悩んで答えを出したからこそ変わらざるをえなかったのかしれない。

 

『俺達の命はみんなに生かされた』

『……うん』

『正直、俺は自分にそんな価値があるとは思えない。でも』

 

 その先は言葉にはならなかった。ならなくてもネギには十分に良く解った。ネギもまた村人達に生かされたのだから、それだけの価値があったのだと示さなけれならない。

 ネギは浮かんだ涙を振り払い、石像を見据える。

 

『僕達がやらないといけないのはこの石化を解くことだ。まだ解けていないってことは、多分永久石化だと思う』

『永久石化?』

『土系統の魔法で、石化が半永久的なもので神格の力を以ってしなければ解除できないから禁術指定されてるぐらい危険なやつ』

『じゃあ、どうやっても解けないのか……』

『そう、なるね』

 

 石化のことは真っ先に調べた。ネギの知識が間違っているならいいのだが、神格の力なんてどうやって使えるのか分からない。だからこそ、未だに石化を解かれていないのだろう。

 諦めがネギを支配しかけていたところで、アスカは胸元のペンダントを視界に入れて決然として顔を上げた。

 

『いいや、出来る。信じるんだ、出来ない事なんてないって!』

 

 余人が聞けば、子供の戯言だと言うだろう。それでも、とアスカは吠える。

 

『そうだ……出来ない事なんてないんだ』

 

 ネギがアスカの言葉を反芻するように呟く。少しでも心を守ろうとする逃避が生み出した想いかもしれない。

 寝る度に見る、ついさっきのことのように感じる故郷が滅びる夢。何時も魘されて飛び起きる。その度に思う。例えどうにも出来なかったとしても、何か出来たのではないのかと。だが、そう考えなければ心が持たなかった。何かに感情をむけなければ生き場のない感情は心に留まるだけだ。そうなれば何時かはあっさりと砕け散る。耐え切れず溢れ出て壊れる。

 

『ああ、きっと石化だって解ける。俺に出来ない事なんてない!』

『僕にだって出来ない事なんてない!』

 

 諦めを振り飛ばす様に、今後待ち受ける困難を笑い飛ばす様に、少年達は宣言する。

 

『私だって出来るわよ! ママとパパを元に戻すんだから!』

 

 アーニャも合流して「出来る出来る」と唱和する。

 

『ここに誓おう。必ずみんなの石化を解くって! 俺達に出来ない事なんてないんだから!!』

 

 アスカが拳を握り、腕を真上に突き出した。ネギとアーニャもそれに倣い、拳をぶつける。子供が囚われる幻想と言われようとも、困難な道を選んだ三人は拳を掲げあって誓いかけた。

 ここが三人の苦難の始まり。その始まりは決意に満ちていた。

 

 

 

 

 

 起点であるネギの意志に従って、皆の意識が浮上していく。

 現実に戻ると繋いでいた手を解いた。長い夢を見ていたようで明日菜の頭はフラついたので抑える。他のみんなも同じで、平気そうなのは起点となったネギと術者のエヴァンジェリンを除き、魔法使いのエヴァンジェリンぐらいだ。

 

「終わったか」

 

 円を組んで座っていた少女達とは違って夢の魔法に入っていなかったアスカが、終了を確認して膝に手を当てて立ち上がった。

 

「ううっ……三人にそんな過去があるなんて知らなかったよ……」

「ネギ先生……」

 

 もうみんな涙目になっている。のどかは言うに及ばず、夕映、明日菜、古菲、和美、木乃香も。刹那でさえ涙こそ流さないものの悲しい表情をしている。例外はエヴァンジェリンのように自制している者か、厳しい表情をしているアーニャとネギぐらいなものだ。

 

「なあ、なんで俺達の故郷は襲われたんだと思う?」

 

 そこへ水に石を落として波紋を生み出すようにアスカが言葉を投げかけた。

 

「それは……スタンさんが言ってましたけど、村の誰かに恨みがある者の仕業じゃないんですか」

「ああ、俺達も最初はそう思った。でも、違った」

 

 夕映の返答をアスカは否定する。その後をネギが引き継ぐ。

 

「召喚された大量の下位悪魔。中には中位悪魔や数少ないですが、並の術者では呼び出すことすら出来ない上級悪魔がいました。つまり、村を襲った犯人にはかなりの組織力があることになります」

 

 先程見た記憶を思い返せば、成程魔法使いでもあれだけの悪魔を召喚するのは難しいのだろう。どれだけ難しいのかは分からないが、魔法使いの二人がそう言うのならば、そうなのだろうと納得する。

 これだけの推測が出されればエヴァンジェリンには答えを簡単に導き出せる。

 

「それだけの組織力があるのならば、こんなまどろっこしい手を使わない。暗殺者を雇った方が遥かに簡単だ」

「確かに……」

「どっちにしても物騒な話やな」

 

 エヴァンジェリンの推測に刹那が頷き、明るくない話に木乃香が眉を顰める。

 物騒な話であることを認めつつ、ネギは自分達で組み立てた推論を詳らかにする。

 

「なのに、そうしなかったのは、集まれば軍隊の一個大隊にも負けない村から標的が出ないから。厳重に守られ、そして村の外に出たことが無い人間。更に狙われる理由があるのは」

「――――英雄の息子である俺達だけだ」

 

 腕を組んだアスカが無表情に言った。

 それはどんな責め苦だろうか。村人達はアスカ達を守る為に戦い、幾人ものが帰らぬ人となって、死ななくても石像と化して今も暗い地下にいる。元々の村が襲われた原因が自分達であると疑いながら生きていく辛さは想像すらも出来ない。

 

「村を襲った犯人は捕まってない。組織も特定されていない。なら、またあんなことがあるかもしれない」

「何が言いたいのですか?」

「魔法が危険なんて言わない。関わることを否定はしない。但し、俺達に関することは別だ」

 

 夕映が問うが、アスカは答えずに組んでいた腕を解いて雰囲気を、表情を変えて厳かに口を開いた

 

「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル」

 

 始動キーと分かる文言に全員の身体に悪寒が走る。

 今までアスカは明日菜達の前で始動キーを口にしたことが無い。実戦で使える魔法は無詠唱で行使できるほど習熟しており、始動キーを唱えなければならない魔法は実戦では使用できないからだ。

 つまり、アスカが始動キーを唱えるということは、この別荘での修業で、その欠点を克服したことに他ならない。

 

「戦いの歌」

 

 魔法名が唱えられると同時にアスカの体を魔力が覆う。以前のようなバケツの中身をぶちまけた様な統制のないものではなく、制御された魔力は清流の如き穏やかさを以て留まる。

 アスカの中で何かが切り変わった事を頭が理解しなくても身体が、本能が理解していた。本能に突き動かされるように全員が立ち上がって距離を取る。

 

「何を……っ!?」

 

 刹那は詰問しながら夕凪を抜き放った。古菲は武術の構えを取り、明日菜は困惑したように立ち尽くす。反対にアスカの背後には、ネギとアーニャが付いた。

 

「今は偶々同じ場所にいるが、俺達は違う世界の人間だ。だから各々が自分の世界に戻ろうって話だ。この中にいるだろう、関わっているのにその必然性のない奴が」

「それは私の仮契約カード!?」

 

 言いつつ、アスカはポケットから一枚のカードを取り出した。そのカードには大剣を持った明日菜が描かれていた。コピーカードを持っている明日菜が己の姿が描かれたマスターカードに気づかないはずがない。

 アスカは明日菜との仮契約カードを掲げ、重苦しく口を開いた。

 

「仮契約を、解除する。自分の世界へ戻れ、神楽坂明日菜」

 

 まるで許されざる罪を神に懺悔するようにアスカは言ったのだった。

 




・第16話 バースデー・トラブルにて『「俺は…………確か貰ったばかりの杖を適当に振ったら凄い火が出来たな。出会い頭に知り合いの爺さんを燃やしちまって、殺す気かってえらい怒られた」』

伏線回収。


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第31話 鈴は鳴らない

 

 対峙するのは、麻帆良生達と魔法使い達。エヴァンジェリンは戦えない夕映達を連れて下がった。彼女に手を出す気はないようだ。何かを話すとしたら仮契約の破棄を言い出したアスカと、現在はまだ従者の明日菜しかいない。

 

「「………………」」

 

 なのに、どちらも口を開かない。沈黙がまるで底意地の悪い妖精のように二人の間に忍び寄り、立ちふさがって、じっと何かが起こるのを待ち構えていた。何か、とても居心地の悪い出来事が。傷つけ合う言葉の飛び交うような出来事が。

 どちらも子供だった。どちらも相手が最初の一撃を加えるのを待ち構えていた。

 

「なんで…………なにも言わないのよ」

 

 最初に口を開いたのは、それでも明日菜の方だった。気がつけば、明日菜はポツリと言葉が口をついていたのだ。

 そこにいるのは、怯えるように、恐れるように、今にも逃げ出したい思いを懸命に捻じ伏せているかのように、どこまでも悲痛な様子で身を竦め立ち尽くすしかない少女。僅かに肩を上下させている明日菜は無心にアスカの瞳を見つめる。

 明日菜の頭はモヤモヤとしたもので一杯だった。アスカが仮契約破棄を言い出してから、ずっとこうだ。どれだけ考えても解決しない。時間が経っても解決しない。まるで答えのない問題を解けと言われたように、何時までも何時までも思考は空転を続けるばかりだった。

 

「必要ないからだ」

「嘘よ! あるでしょ! もっと言うことが」

 

 焦燥と恐怖ばかりが明日菜の胸を満たしていく。表情が歪む。

 

「嘘じゃない。嘘をついて何になるんだ」

「理由を言いなさいよ、理由を! いきなり仮契約を破棄するなんて言われても訳分かんないわよ!!」

「理由は言っただろ。俺達は、俺はこれから戦いの人生を歩む。お前は必要ない。いや、関係ない」

 

 四月にエヴァンジェリンに言われたことが明日菜の頭を過る。

 住む世界が違うのだと言われ、明日菜はその時は何も答られなかった。そして今またその問いを突き付けられている。

 

「どうしてそんなこと言うの? 今まで一緒にやって来れたじゃない」

 

 何故このままでいられないのか、皆で一緒の未来を夢見て、一緒に闘って行けるはずだったのに何故と明日菜は思いよ届けとばかりにアスカを見つめる。

 

「今まで? ああ、助けにはなったさ。だけど、俺にお前はもう必要ない。俺は強くなった」

 

 癇癪を起したように言い募る明日菜を前にしてもアスカは平然として、そのあまりの言いように少女達の顔に怒りが浮かぶ。

 

「何を言うアルか!?」

 

 言いように我慢ならなかった古菲が飛び出した。

 一直線に神速とも言える速度でアスカに向かう。が、遥かに後に動いたアスカの方が更に速い。

 

「遅い」

 

 両者の中間点で深く身を沈めたアスカが、腰を落として下から左手の掌底で古菲の顎を搗ち上げるように打ち抜いた。

 衝撃が脳を貫いた古菲に意識があるかどうか怪しい中、アスカの動きは止まらない。腰を落とした姿勢のまま右手を地につき、顔が上に跳ね上がった古菲の足を刈り取る。

 足払いによって両足を刈り取られ、古菲の体が後方に流れるように宙に浮いて天を仰いで地面に平行になった。そうしている間にも、一息にも満たない間に立ち上がったアスカが宙に浮いた古菲に向かって腕を振り被った腕を勢いよく下ろした。

 

「ぜぁ!」

 

 まるで爆弾でも爆発したかのような爆音と振動が辺りに響き渡る。訪れる惨劇に目を閉じていた少女たちは、爆音と振動が収まった頃にそろそろと目を開ける。そこにあった惨状は少女達が想像したものとは違って凄惨なものではなかった。だが、与えた衝撃という点ではそれを上回っていたかもしれない。

 殴られて潰れたと思われたはずの古菲に目立った外傷もなく、無事である。何故ならアスカの拳は古菲の顔の直ぐ横のアスファルトを打ち砕いていたからだ。打ち砕いていた、という表現は正しく、叩きつけた手はアスファルトの地面を陥没して腕の中程まで埋もれて捲くれ上がり、放射状に罅割れが十メートル近くまで広がっていて彼女たちの足元にまで及んでいる。

 

「う……」

 

 シュウウウウ、と風の音なのか、それともアスカの手が放つ音のなのか定かではないが、耳元から聞こえてくる音に、地面に叩きつけられた衝撃で意識がはっきりした古菲は目を見開いて茫然自失のまま、呻き声とも取れる言葉を発する。

 古菲の記憶は欠損している。だから、気がついた時のはアスカを殴り終えてからだ。その後の展開については何一つ理解できていない。

 

「あぁ……」

 

 分かったのは、理解できたのは、三ヵ月前には互角だったアスカが、自分を遥かに超えた位置に到達しているということだけ。認めなければならない。アスカは強くなったと。古菲ではどうやっても止めることは出来ないのだと。

 

「次はお前か、刹那」

 

 アスカは完全に戦意を消失した古菲から離れ、夕凪を構える刹那を見る。

 

「何故ですか?! 何故こんな……!?」

「それをお前が言うのか、刹那。近くにいたとはいえ、木乃香から離れたお前が」

「でも、こんなやり方じゃなくても!」

「中途半端にはしない。心残りがないように徹底的にしなければ意味がない」

 

 そうなのだ。刹那はアスカの行動に納得してしまっている。その行動原理が大切な人を慮っていると分かるから、自分が同じ行動をしたから、分からないはずがない。

 

「私は、私には…………何が正しいのか分かりません」

 

 きっぱりと離れる方が良いのか、今のような中途半端な関係を続けるのか、刹那には決心がつかない。だから、アスカが向かってきてもただ立っていることしか出来ない。夕凪の切っ先は刹那の動揺を現す様に揺れていた。

 

「優しいな、刹那は」

 

 厳しい表情を浮かべていたアスカがフッと一瞬だけ笑って言った。それが決定打だった。刹那の戦意が折れた。

 

「すみません、明日菜さん」

 

 夕凪の切っ先を下ろす。刹那は、もう戦えない。こんなグラグラと揺れた気持ちのまま戦えるはずがない。

 

「気にしないで、刹那さん」

 

 明日菜は刹那を責めはしなかった。彼女の中には明日菜には分からない葛藤があるのだろうし、やはりこれは自分の問題なのだ。

 足を踏み出す、アスカに向けて。アスカに触りたい。体温を感じ取りたい。ここで別れれば、二度と会うことが出来なくなるようなそんな焦りと不安が身体を動かした。

 

「やらせない…………契約破棄なんてやらせないんだからっ!」

 

 叫びながら、明日菜はアーティファクトを呼び出して構え、アスカの顔を見据えた。

 アスカが黙っているのを良いことに、明日菜は更に畳み掛ける。

 

「私は、アスカに傍にいてほしい」

 

 少年へ上手く伝える言葉が見つからず、明日菜は生のままの気持ちをぶつけていた。

 

「無理だ」

 

 ここが正念場だと更に何かを言おうとした明日菜を封じるように、アスカは言った。即答だった。だけど、アスカは頑なに明日菜と目を合わせようとしない。

 心に負い目を抱いている人は、頑なまでに相手の眼を見て話そうとしない。これは単に印象であるし、根拠があるわけではないが少なくとも大半の人間が罪悪感から相手の眼を見れない。アスカには負い目があった。

 

「無理じゃない!」

 

 明日菜はアスカの顔を見据えた。そこにあるのは厳しい表情の中に隠された僅かな動揺。

 

「それが出来たなら、始めからこんな話をしない。俺達はどうしようもなく住む世界が違う。一緒にはいられないんだ」

 

 気勢に圧倒されていたアスカは萎えそうな膝に力を込め、震える拳を気づかれないようにきつく握って拒絶の膜を張って明日菜を見つめ返した。

 ここで崩れてしまっては全ての苦労が水の泡。痛みも苦しみも無に帰してしまう。背を張り、足を突っ張り、逸らしていた眼を合わせて虚勢を張らなければならない。それは心を覆う脆いガラスの反射でしかなかった。照らされるものがなければ中が透けて見えてしまう。衝撃を加えれば簡単に砕けてしまう…………迷いがある。全てを覆い隠して虚勢を張った。

 

「俺には戦うことしか出来ない」

「そんなことは……」

「違うんだよ。俺達は一緒にいていい関係になれやしない。近くにいるのは間違ってる」

 

 全部を伝え終えるより早く、きっぱりと言って言葉を途中で遮った。硬い顔と声に突き飛ばされ、明日菜は身体がよろめくのを感じた。

 月光が差し込み、地に消しようのない影を作る。その影の中に身を置くアスカと、月光の下で光に曝される明日菜。その光景がひどく象徴的だった。とても近くにあるのに、あったはずなのに、けして交わらない何かを示すような光景だった。

 

「理解してほしい…………とは言わない。許して欲しいとも言わない。恨んでくれても構わない」

 

 どこか寂しそうに、困ったように微苦笑したアスカが囁くように告げる。

 もはや、アスカ・スプリングフィールドのこれより先のことは神楽坂明日菜には関係しないことだと。魔法使いではない、ただ力を手に入れただけの一般人に過ぎない明日菜には踏み込めない領域なのだと。堂々と、あるべき未練も哀しみも振り捨てるように言い放った。

 何か、明日菜は言おうとした。なのに、喉が震えるだけだった。凄まじい喪失感だけが、少女の内側に吹き荒れていた。体中から力が抜けて、ただ虚脱感だけが明日菜を打ちのめした。

 アスカの言ったことは事実だ。そう、終わったのだ。神楽坂明日菜がアスカ・スプリングフィールドと関わる時間は、ここで終わりを迎えたのである。それはどうしようもない事実。

 神楽坂明日菜が裏に踏み込んだのは、アスカを守りたかったから。その為に仮契約をして、刹那に戦う術を学んだ。だけど、どこまでいっても他人でしかないアスカが自ら離れ拒絶されては、日常を捨てでも追いかけるだけの理由が神楽坂明日菜にはない。

 

「忘れてしまえ、俺の事なんて」

 

 アスカは、本人の意志の下とはいえ明日菜を巻き込んでしまった罪悪感を抱いていた。

 

「私は!」

 

 情動に突き動かされて明日菜は大声を出した。だが、その後が続かない。ただ無為に音を連ねるだけの言葉はもどかしいばかりで焦りだけを積み上げていく。もっと多くを伝えたいのに、一緒にいたいと伝えたいだけなのに、自分自身に戸惑い、驚き、恐れに打ち克てない。

 

「いや、いや、こんなのなんて……」

 

 やりきれない想いが嗚咽となって迸り血を吐くような明日菜の求めに、アスカは答えられる言葉を持たなかった。

 ただ、震えている声が泣きそうになっているように思えた。いや、泣いているのかもしれない。女の子を泣かすな、と何時かスタンが言っていたが、それでも揺るがせてはならないことがあった。

 

「もう俺には関わらない方がいい」

 

 縋る眼差しも、そこに映ることを拒否している自分の弱さも受け止めきれず、きっと醜くなっているに違いない顔を俯けたまま、砂を噛む思いで目を伏せる。

 明日菜の目に、アスカは今どう見えているのだろうと思った。腹の底がキリキリと痛んだ。もう演技も出来ない。これ以上、自分を偽れやしない。

 

「明日菜には血生臭い闘争よりも、ごく当たり前の日常の方が似合う。眩い光の下にいる方が似合ってる」

 

 きっと、それはアスカの本心であった。

 彼女は生きる喜びをその全身に輝かせていた。ずっとずっと腕の中に抱いて、どんなことからも守ってやりたかった。

 涙が込み上げる。が、流すものか。ここで泣き、明日菜に答えてはいけない。情に流されれば自分が良くても、残される者に傷を残す。自分のように闇に生きる人間が日向を生きる彼女たちと肩を並べて笑い合ってはいけないのだ。

 決別するためにハマノツルギへと手を伸ばした。

 

「いや!」

 

 明日菜はアスカの手から避けようとハマノツルギを振るった。

 咄嗟の反応だった。ただし、その振るわれた先にアスカの体がなければ。 

 

「あ……!?」

 

 明日菜が気づいても、もう遅い。そしてアスカはハマノツルギを避けなかった。それどころかあらゆる防御を解いたのである。

 

「ぐっ」

 

 振るわれたハマノツルギはアスカの頭部を打ち払った。何の防御をしなかったアスカは殴られた頭部から大量の出血を迸らせる。

 アーティファクトを出せば無意識にアスカから魔力を引き出せるようになっていた明日菜の一撃は、一般人なら十分に昏倒させる威力を持っている。その一撃で強かに打ちすえられたアスカの頭から噴き出した血が、金の髪の毛を瞬く間に紅く染めて地面に赤い雨を降らせる。

 

「わ、私……」

「分かってる。明日菜には人は傷つけられない」

 

 自分の為したことに怯えた明日菜の前で、崩れ落ちそうな体に鞭を打ってアスカは自身の血がついたハマノツルギを取り上げた。

 重しが無くなったように明日菜が膝を付く。

 

「だから、余計にこんな物は、あっちゃけいないんだ」

 

 ハマノツルギを取り上げてカードに戻して、彼女の目の前で破り捨てた。

 既に仮契約破棄の申請は成されているので、後はカードを破ればいいだけだった。破られたカードは、始めからそんな物は存在しない様にアスカの手から消え去る。

 

「これで契約は破棄された。もう明日菜は従者じゃなくなった」

 

 親に置き去りにされた子供のような表情を浮かべる明日菜から顔を背けた。

 

「同時に俺と関わる理由もなくなった。当たり前の日常に、戦いなんて関係ない光の下に帰れ」

 

 ここで気の効いた言葉でも言えればいいのだが、他に言葉がなかった。

 自分はなぜここにいたのだろう。なぜここに来てしまったのだろう。こんな想いをするぐらいなら出会わなければよかった。そんな想いが沸き起こるも、楽しかった日々を思い起こせば消えてなくなる。こんな選択しかできない自分に、泣き出したいような後悔に駆られ、アスカは拳を握り締めて、引き返せない道と再三浮かび上がった言葉を胸中に刻んで身を翻して歩こうとした。

 

「ごめん」

 

 突然、胸の奥からせり上げた感情が、彼の声を詰まらせた。この世界は、もう二度と返らない。振り払ったのは自分で、拒絶したのもまた自分だ。

 言った方も、言われた方も、あまりに情けない言葉。たかが音の連なりでしかないのに、大事な何かを失い、もうそれは取り戻せないのだという喪失感が拡がってゆく。

 

「なんで謝るのよぉ!」

 

 明日菜の発した悲痛な声が、胸から背中まで突き通るようだった。

 この少女が危険な世界に踏み込むことに何故か嫌悪を感じている。それは理屈じゃなく、ごく自然に込み上がってくる感情だった。まだ夢の中にいるように、足元がふわふわと落ち着かない。それでも動かなければと歩き出すと、背中に投げつけられた声があった。

 

「行かないで!」

 

 悲鳴に近い声が上がり、柔らかな感触が腰を包み込んだのはその時だった。

 

「行っちゃ駄目……………。傍にいて」

 

 明日菜が声と同時に飛びつき、必死にしがみついてきた。

 思いも寄らぬ重さに驚き、足が動かなくなるのを自覚したアスカの腰に手を回し、背中に顔を押し付けた明日菜の表情は窺えなかった。

 ふわっと柔らかな体臭が鼻腔を擽り、女の体臭は男と違って不思議と甘いのだな、と場違いな感慨に囚われた。

 時間がまるで止まっている感じられた。掴まれた背中から伝わる温もり、明日菜の鼓動と、自分の鼓動、それだけが生きている証だった。二人きりの、閉ざされた小さな世界。

 息を詰めて明日菜の手に怖れるように触れた。指先で触れたその温かさ。自分にはない女の柔らかな感触に、密着している柔らかな肉体に激しい欲情を感じた。魅力的な肢体を組み敷いて、無茶苦茶にしたいような、今までに感じたことのない強烈な衝動だった。

 今まで感じたことのない別種の罪悪感を噛み締めてから、生身を熱を放つ手をやんわりと引き剥がす。

 

「さよなら。もう二度と会うこともないだろう」

 

 今度こそ、ここまでと線を引く声だった。

 息をする度、わけも分からず涙が滲みそうだった。だからこそ、アスカは動けなくなる前に足を前に進めた。

 明日菜が耐えきれなくなったように声を殺して泣き出した。その涙をアスカには止めらなかった。彼女の心を殴って泣かせたアスカ自身だからだ。

 お互いに長い時間を共有してしまった。その間に行き交った温かいものが、二人を癒着させていたからこそ引き剥がした傷口が血を流す。道を定めようとアスカは超人に成れるわけではない。アスカは、能力が足らないただの若造だ。大人に成れない子供なのだ。

 アスカは胸の重さから逃れるように息を吐いた。常夏に設定されている別荘の中なのに、ひどく冷たい空気が漏れた。

 

「これが…………お前のためなんだ」

 

 息が喉奥に詰まって嗚咽の如く、グッと拳を握り締める。大切な物を守るように、守れるように、その拳にありったけの力を込めて握り込む。感情を抑制できず、力を入れ過ぎて血を滴り落としながらも歩みは止めない。

 痛みが、揺らいでいた自分を叱咤する。

 本当は明日菜の為だなんていうのは嘘であり口から出たのは欺瞞である。本当は失うことに耐えられないだけ。アスカが弱いから突き放すのだから。

 笑って、楽しそうで、同じ空の下で生きているのなら別に隣りにいるのが自分でなくても構わない。全ては、そう――――――明日菜が笑っていられる世界を作るために。どのような手段を用いようと、例え彼女たちに憎まれ怨まれようと。例え彼女達が―――――明日菜が自分に笑いかけなくなったとしても。

 明日菜が笑っていられるならば決して諦めないと誓った。今度こそ奪われないために。生きていてくれるだけでいい。

 同じ道は歩めない。ならば、今必要なのは明日菜と同じ道に進むための努力ではない。目の前の事実を受け入れる強さだ。それでも構わないと、ただ戦い続けることが出来る強さだ。

 

「アスカァァアアアアアアアア――――――ッ!!!!」

 

 これでお別れ。それでいい。自分の名を叫ぶ明日菜の声からアスカは自分の未練を断ち切るように、前方に視線を定める。

 それでも抑えがたい衝動が、嗚咽となって漏れかけて唇を噛み、肩を震わせる。

 しかし、アスカは泣かなかった。いや、違う。自分が泣くのは卑怯で絶対に許されないことだと分かっていたから泣かなかった。だからこそ、拳から地面に血を滴り落としながら、更に噛み過ぎた唇が無惨に血を滲ませても気にしなかった。

 

「さよなら」

 

 自ら捨てた居場所と人を背にして、声を殺して未練を振り捨てるように歩みを進めた。

 足取りは重いし、気分はもっと重い。周りから向けられる視線に込められた様々な感情が、重すぎて堪らない。それでも、一人で歩くアスカは誰にもそれを預けることもできず、元より預けるわけにもいかず、ただ、その荷重を堪えながら歩き続けるしかない。

 最後までアスカは一度も振り返らなかった。この決別こそ必然だったというように、顧みることはなかった――――鈴の音はもう聞こえない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「各々、考えることもあろう。もう少しで別荘に入って丸一日経つ。部屋に帰って一人で考えるのも良かろう」

 

 ただ想い人の生存を知るだけのつもりが随分と重くなってしまったと考えていたエヴァンジェリンの言葉に反対する者はいなかった。

 アスカの決別や、突きつけられた現実があまりにも衝撃的過ぎて考えなければいけないことが多すぎる。部屋の布団の中で一人静かに考えたいと思っている者は多かった。

 重い足取りを引き摺って別荘を出て、エヴァンジェリンのログハウスのドアを開けると外は生憎の大雨。見上げた空から降る雨に和美は物憂げに口を開いた。

 

「雨、強くなってるね」

 

 ここに来る前はまだ雨足も弱かったのだが、別荘に入っている間に本降りに変わったようだ。実際には一時間なのだが、別荘で一日過ごしたせいで、雨が止んでいないことに違和感を覚える。

 空にかかる雨雲は切れ間がなく、満遍なく空を覆っている。その雲から降ってくる雨も絶え間がない。遠間では雷が鳴り響き、もしかしたら嵐が近づいているのかもしれない。まるで彼女たちのこれからを案じているような嫌な天気だった。

 

「…………エヴァちゃんは知っていたの?」

 

 ひっそりと明日菜が聞いてきた。

 暗いなと考え、仕方ないとも思ったエヴァンジェリンは努めて普段通りを装いつつ口を開いた。

 

「信じられんだろうが、知らなかった。何かを企んでいたのは薄々気づいていたがな」

 

 見たくもない物を見せられ、気にしないといけないことに面倒を覚えつつ、言葉を選ぶ自分にエヴァンジェリンは驚いた。あのメンバーでの一ヶ月近くの別荘での修業はエヴァンジェリンも楽しんでいたようだ。

 

「教師の二人は知らんが、あれだけ言ったアスカはもう学校に行く気もないだろう。或いはもう退学届を出しているのかもしれん」

「そう……」

 

 明日菜はそれだけ言って光のない眼で、先に別荘を出て自宅に帰ったらしいアスカがいるスプリングフィールド一家の家を見る。

 

「明日菜……」

 

 傍に木乃香が付いているが、果たして明日菜の目に入っているのか。

 自殺でもしかねない明日菜にエヴァンジェリンは溜息を吐きつつ、面倒臭げに口を開いた。

 

「当たり前のことではあるが、誰だって殴られれば殴り返す。魔法を使って誰かに攻撃を仕掛けたとする―――――――当然、そうなれば相手も黙ってはいない。魔法というのは強力な武器だ。生身の人間が持つ戦闘能力としては、紛れもなく最強のものだ」

 

 エヴァンジェリンは捲くし立てるように言いながら、同時に聞こえているか分からない虚しさも覚えていた。それでも口は止まらなかった。

 

「戦いは汚い、恐ろしいものだ。怪我をしたり、辛い思いをしたりするだけじゃない。戦いの中で、人は憎しみや、後悔や、恐怖や、様々な醜いものに出会う。酷ければ人は実に呆気なく死ぬ。命を危険に晒すというのはな、そうするしか他に仕方がない者だけがやることだ。そうではない奴が首を突っ込むのは、ただのお遊びだ。おふざけだ」

「そんな―――――」

 

 抗弁しかける明日菜を、エヴァンジェリンは一瞥で制止した。

 

「私のような吸血鬼でない限り死ねば終わりだ。一回だけで、やり直しはない。危険なことに関わらないで済むのならば、それでいいのではないか?」

「……………」

 

 明日菜は顔を伏せ、何も答えない。答える言葉を持たないのかもしれない、結論を出してしまうのが嫌なのかもしれない。少なくとも、エヴァンジェリンには関係のないことだ。

 

「これは貴様にも当て嵌まるのだぞ、宮崎のどか」

 

 エヴァンジェリンが視線を向けたのは宮崎のどか。  

 

「ネギのことはこの機会に諦めろ。お前とは根本的に住む世界が違う。どうやっても違う人生を歩むしかないんだよ」

「ちょっと、いきなり何を言うのですか!?」

 

 憐れみすら込めて言うエヴァンジェリンの視線の先にいるのどかの体が震える。彼女が何かを言いかけるよりも先に親友の気持ちを誰よりも知っている夕映が食って掛かった。だが、食って掛かられた張本人は口を開くのを止めない。

 

「事実だ。見ただろう、あの記憶を。ネギが憧れているサウザンドマスターのいる世界は加減も容赦も情けも無い。ただ弱い奴から順番に善も悪も平等に死ぬ、そんな世界だ。アイツらは自ら望んでその世界へと行こうとしている」

 

 エヴァンジェリンはずっと表情を変えない。悪びれる様子もなにもない。のどかの出す結論に興味がないように、本当にさっき言った通りのただの忠告だと示し続けている。

 黙って聞く古菲にはほんの少しだけ理解できるものがあった。戦いにおいて、逃げ道や安全地帯、ましてや紳士のマナーなど存在しない。全く同じ条件をわざわざ揃え、勝敗の確率を五分に調整した上で戦う行為はスポーツでしかない。名門武術家の子として生まれた古菲には理解できる部分があった。

 

「それは貴方達の論理です! 私達は――――」

 

 それだけでは納得出来る訳が無い。そんな生まれや目的で育まれた愛を否定するなど、彼女達の感覚ではあまりにも前時代的過ぎた。

 

「だが、その論理が支配する世界に望んで踏み込んできたのはお前達だ」

 

 エヴァンジェリンは嘲りすら向けず、ただ淡々と告げた。少年少女の目には、淡々と告げるエヴァンジェリンの姿が何倍にも膨れ上がったように感じた。勿論、目の錯覚に過ぎない。現実には体は膨らんでいないし、威圧感を発しているのでもない。ただ少年少女が気圧されているだけだ。

 

「綾瀬夕映の言うように前時代的なところがある魔法世界ならいざしらず、この世界では本来なら魔法に関わる限り自分で危ないことに飛び込まない限りそこまで危険なことはない。魔法を使えても平凡に暮らしている奴は山ほどはいる。だがな、アイツら兄弟はこの例外に属している。何時、六年前のようなことが起きないなんて保証はない」

 

 例外になるのは英雄の息子だから、どうしても兄弟には厄介事が付いて回る。六年前然り、エヴァンジェリン然り、修学旅行然り。

 

「アスカが何度も言っていただろう、生きている世界が違うってな」

 

 他人であるエヴァンジェリンにアスカ達の考えが分かるはずもない。それでも彼女が言うことは状況証拠に過ぎないにしても可能性は高かった。

 

「良く考えろ宮崎のどか。ネギの過去を知って、それでも好きであるのならば私は止めはしないさ。ただ、その道が一般と比べて遥かに困難であることは理解しておけ」 

 

 何も言えないのどかから視線を外し、全員が何も言えないのを確認した。

 

「宮崎のどかだけではない。お前達もこれからどうするか、良く考えて結論を出せ」

 

 裏に関係している刹那だけはエヴァンジェリンの言いように厳しいな、と周りには聞こえない程度の声量で呟いていた。それだけを言い捨てて彼女は、どうしようもない悩みだけを少女達に残して去って行った。

 別荘を出ても何も解決出来ていなく、悩みも晴れていない。懊悩の時はこれからだった。 

 

「「「「「「「……………お邪魔しました」」」」」」」

 

 風雨は勢いを増しており、傘を開いていても寮に戻る頃にはずぶ濡れだろう。元気のない別れの挨拶をした少女達は、雨から逃れるようにして走り去って行った。走り去るのをエヴァンジェリンだけが見つめていた。

 

「ん?」

 

 何かを感じ取ったのかエヴァンジェリンは彼方を見つめるも、気のせいかと思って踵を返してログハウスに帰って行った。

 

 

 

 

 

 エヴァンジェリンの別荘は草木も眠る丑三つ時の真夜中の闇が訪れていた。聞こえるのは寄せては返す波の音だけ。アーニャはテラスの端に座って宙に足を下ろしていた。テラスには真夜中ということもあって他に人間はいない。別荘には彼女以外に人はいないのと夜中だけあってしんと静まりかえっている。

 後ろを振り返れば大理石を中心とした、高級感漂わせる石造りの小さな宮殿。もちろん様式は西洋風である。一個人の持つ別荘の造りにしてはあまりに大がかりで、手が込んでいる。ちょっと見ると王宮のような雰囲気も持っているような気がする。

 アーニャの眼は水平線の彼方へと向けられ、見上げた空には月が蒼く輝き、小波の音だけが届いてきた。それを見下ろせる場所から、ただ海を見ていた。

 顔は窺えない。闇に染まる表情から感情を窺う事は不可能だった。彼女を照らすのは別荘の中でも唯一燦然と光る月だけ。アーニャが思い出すのは、少し前にこの別荘で起きた出来事。

 

「アーニャ」

 

 己を呼ぶ声が掛かる前からアーニャは振り返った。さっきまで辺りには人影一つなく気配も感じ取れなかったが、今のこの別荘に出入りする者は殆どいない。それが出来るのは主である真祖の吸血鬼しかしない。

 

「何よ、こんな夜中に」

「フフ、吸血鬼には今からが活動時間だろう?」

「確かにね」

 

 己が声を掛ける前から振り返ったアーニャに特に反応も示さず、エヴァンジェリンはただ静かに佇んでいた。小さく笑うエヴァンジェリンにアーニャも同じく笑みを浮かべる。

 

「ねぇ、アスカがしたことをどう思う?」

 

 口から零れ落ちた言葉は隣りに座ったエヴァンジェリン向けたものでもなく、ただの自己の想いを吐き出しただけ。

 

「そうだな。納得も出来るし、理解もする。あまり見ていて気持ちの良いものではなかったが」

 

 それを分かった上でエヴァンジェリンは首肯して自らの考えを述べた。

 

「アスカの才能は飛び抜けている。だが、その才能があっては生温いアイツらと共に生きることは出来んだろうな。アスカもまたナギと同じく英雄の素質を持つが故に」

「アンタは才能で生き方を決めた方がいいっての?」

「そこまでは言わん、素質に沿った生業を選ぶというのが、必ずしも幸せなことだとは限らん。才能というのはある一線を超えるとそいつの意志や感情なんぞお構いなしに人生の筋道を決めてしまうからな。これは才能に限ったことではなく、生まれや育ちも含まれる」

 

 或いは吸血鬼にされた自分のようにとは、エヴァンジェリンも口にしなかった。

 

「アスカには戦いの才能が有り、資質が有り、本人もまたそれを望んでいる。何時かはこうなるだろうと思っていたよ。あの二人は始めから見ている世界が違ったのだからな。今までは偶々見ている方向が一致して、神楽坂明日菜の存在をアスカが許容していたからこそ続いていた関係だ。そのアスカが拒絶すれば、こうなることは見えていた」

 

 アーニャは言葉を返さなかった。

 無言の時が続き、寄せては返す小波の音だけが連続する。先に焦れたのはアーニャの方だった。

 

「聞かないの?」

「聞いて欲しいのか?」

 

 アーニャはそれだけを聞いた。が、主語がないにも係わらず、エヴァンジェリンは何が言いたいのかを分かっているのだろう。逆に問い返してきた。

 自分は聞いて欲しいのか、と自問したアーニャは結局、答えが出ずに口を閉じた。

 

「「………………」」

 

 お互いに何も語らずにただ水平線の彼方を眺める。

 

「分かっていたのよ、持っている物が違うって。ずっと前から」

 

 ポツリと、アーニャの口から独白の言葉が零れ落ちた。

 

「魔法学校に入学して一年も経たない内に二人は頭角を現し始めていたわ。あっという間に飛び級して同じ学年になった時、私は恐怖したわ、このままじゃ置いていかれるって」

 

 下ろしていた足を抱え込んで三角座りになっても、その時の感情を思い出した体の震えは収まらない。

 

「死に物狂いで努力したわ。先生に教えを乞うて、先輩に頭を下げて、吸収できるものは貪欲に飲み込んできた。でも、そうすればするほど恐怖は増して行ったわ。それだけやっても、あの二人には勝てないんだもの」

 

 どれだけ知識を詰め込んでも、ネギはアーニャの努力を嘲笑うかのように一歩も二歩も先を歩んでいる。

 どれだけ戦い方を身体に叩き込んでも、アスカの天性の勘の前には全く通用しなかった。

 知識ではネギに勝てず、戦闘でもアスカには及ばない。アーニャは次第に追い詰められていった。

 

「勝てないなら、せめて足手纏いにならないように色んな分野に手を出しもした。その甲斐もあってなんとか食らいつくことが出来ていた」

 

 知でも武で及ばないのなら他の分野で。作戦を練り、方々に伝手を作って柔軟な思考を身に着けようとした。二人とも真っ直ぐに突き進もうとするから、時にブレーキに、時にハンドルとなることで自らの必要性を獲得することに成功した。しかし、残酷な現実は代えられない。

 

「でも、私には二人ほどの才能はない。何時かは置いて行かれる。今がそうよ。私はもう足手纏いになってる」

 

 もはや、戦闘ではアーニャは足手纏いになると修学旅行で実感したことだ。今後も戦闘能力を高めていく二人に対して足を引っ張ることしか出来ないだろう。身に着けた力も所詮は生兵法であり中途半端。

 

「このアーティファクトが出てきた時も助かったと思った。その時点でもう私は自分の限界が見えていたから」

 

 懐から出したのは仮契約カード。そのアーティファクトは『女王の冠』。被った者の能力を主人へと与えるという変わったアーティファクト。この場合の主人とは仮契約をしたネギであり、アーニャの能力と魔法適性と魔力がネギへと貸し与えられる。

 

「ねぇ、私はアスカ達にみたいに強く成れるかしら?」

「…………お前は素質も才能も凡百と変わらん。死ぬほど鍛錬しても一流の魔法使いに成れれば儲けものだろう」

「はっきり言うわね」

「私は嘘が嫌いだ」

 

 エヴァンジェリンの師事をアーニャも一度だけ受けて、その時点で互いに分かってしまった。アーニャの能力はどうやっても壁を超えられないのだと。

 一流かぁ、と少し嬉しそうに笑ったアーニャは全てを分かった上で口を開く。

 

「きっと私はそこまでには到達しないと思う」

「強くなろうとする熱意が欠けるから、か」

「やっぱり分かる?」

「お前はそこまで修行に熱心ではなかったからな。それよりも神聖魔法の復活にこそ情熱を燃やしていた」

 

 アーニャの目的はアスカ達と違って強くなることよりも別にあったから、家族や身近な人にも何時かは誰かが気付くと思っていた。それがまさか魔法学校の歴史の教科書に悪い意味で載っているエヴァンジェリンだとは思いもしなかった。

 人生、何があるか分からないと苦笑したアーニャは大人しく白状することにした。

 

「私の目的は村のみんなの――――パパとママの石化を解くことよ」

 

 我ながら子供っぽい理由なのだ。大っぴらに言うことは出来ない。何しろ故郷が襲撃を受けたのは六年前。その頃のアーニャは四歳だったか五歳の時分。もう両親と過ごした記憶も曖昧だった。それでも抱きしめてくれた温かさを、名前を呼ばれる愛おしさは忘れていない。だが、今は良くても十年後はどうだ、二十年後は。両親の年を超えてしまったらどうなるのか。

 

「あの誓いも私は便乗しただけ。自分で解こうなんてさっぱり考えもしなかった。私はあの二人に縋って生きて来た」

 

 そういう意味では図書館に籠るネギは絶好の相手だった。その頃は学校を卒業したばかりで仕事を覚えなければならなかったネカネや、男子寮の寮長になったばかりのスタンは忙しくてバタバタしていた。アスカは喧嘩ばかりで、ネギは放っておけば自分のことを何もしないからアーニャが面倒を見なければならなかったから都合が良かった。

 アスカが立ち直って、ネギが引っ張られて、アーニャが付いて行って。

 暴走しがちなアスカを引き止め、止まりそうなネギの尻を蹴っ飛ばしていられた魔法学校時代はアーニャにとって幸福の時間だった。

 

「でも、二人には石化を解く以外にも目的があった」

「ナギを見つけることだな」

「そう。その為には強くなる必要があった。英雄とまで呼ばれた人が姿を消さなければならなかったのだもの。強くなることは絶対条件だった。でも」

「お前にはナギを見つける理由も、強くなる理由もないか」

 

 アーニャにとってナギは幼馴染の父親という以上の意味がない。協力する気にはなっても人生を捧げてまで探す情熱は持てない。だからこそ、アーニャは強くなることに死に物狂いになれない。特に石化を解く方法への片道を見つけてしまったから。

 

「少し前に二人に言われたの。これは自分達の問題だって、こっちの事情に付き合わなくていいって」

「ナギが挑んだ世界の闇の闇。そこへ挑もうとしているのならば分からなくもない。他の奴は分かるとしても、お前もとは少し意外だったな」

「だから、自分達の問題なんでしょ」

 

 アーニャだけではなく、スプリングフィールド兄弟は他の誰も自分達の旅に同行させるつもりが無い。それこそ人生を預けるつもりぐらいにならないと受け入れてもくれないことは奇しくも明日菜が証明してしまった。

 

「そう遠くない未来にアスカも私の手を離れて行くだろう。その時、私はどうするのだろうな」

 

 置いて行かれるのは、呪いでこの地を離れられないエヴァンジェリンも同じだ。アスカ達が麻帆良を離れるまでに呪いが解かれる可能性は低い。専門の研究をしていないのでそれは当然なのだが。

 

「そんなに早く?」

「二人とも十年以内に確実に一流の上の高位魔法使いの更に上、超高位魔法使いになれるだろうよ。それだけの素質があり、本人達もまたそれを望んでいる」

 

 単純な潜在魔力量、色んな才能があって飽くなき向上心もある。その二人が超高位魔法使いの師事を受けているのだ。当然といえば当然と言える。

 分かっていたことでも他人に改めて指摘されて心に来るものがあったのか、アーニャは僅かに眉を寄せて視線を海へと戻した。

 

「…………明日菜、どうするんでしょうね」

「どうするかは本人次第だろう」

「ん、聞いてくれてありがとう。少し楽になったわ。ありがとう」

「ふん、私が自分の為にやったことだ。それに話を聞いたのは横でお前が勝手に喋っているのが聞こえただけだ」

 

 アーニャは話したことで心の蟠りを少し解消できて横にいる微笑みながら礼を言うと、頬を少しだけ紅くしながら顔を逸らした。

 

「笑うなっ!」

 

 照れているエヴァンジェリンが面白くて、最初に抱いていたイメージを変えるぐらいに可愛くて、アーニャはクツクツと口の中で含み笑いを漏らす。エヴァンジェリンの返す反応がまた面白くて今度は大きな声で笑い出す。

 

「全く……」

 

 流石のエヴァンジェリンも、落ち込んでいたはずのアーニャの大笑いに怒るよりも先に気勢を削がれてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エヴァンジェリンのログハウスから女子寮まで濡れてきた面々は何を話すでもなく、それぞれが思案に耽りながら別れた。一度部屋に戻ったのどかと夕映は濡れた服を着替え、冷えた体を暖めるために着替えを持って大浴場を目指している。

 

「ゆえー……………これからどうするー?」

「そう、ですね。正直、あれを見るとどうしても躊躇してしまいます」

 

 記憶の中で見た二人の父であるナギが圧倒的というのもおこがましい力で悪魔を蹂躙する光景。人が死に村人が石化する悲劇。『ファンタジー』では誤魔化せないほどのリアリティを自分達は実感させられたのだ。

 きっと二人が特別に酷いことがあったのは間違いない。エヴァンジェリンもアスカ達が特別だと言っていた。

 

「ですが」

 

 綾瀬夕映は知識欲が旺盛な人間である。危険だと分かっても、今まで欠片も知らなかった世界を垣間見たことで欲が乾く。

 夕映が抱いていた『ファンタジー』への憧れは現実に起きた事実と、その被害者達の未だ克服されぬ傷の前には砂上の楼閣の如く崩れ去っていた。それでも興味自体は消えず、だからこそ悩んでいた。

 

「それでも知りたいという欲求を抑えきれないのです」

 

 判別できない感情を抱えたままの夕映は歩きながら天井を仰ぎ、片手で目元を覆った。

 今でも記憶で見た恐怖も戸惑いも思い出せる。でも、喉元を過ぎればなんとやら。考える時間があって、一度は強く動いた感情も常に内から膨れ上がる欲求を何時まで押さえておくことが出来るか。

 好奇心の赴くままに人の過去を見て苦しんでいるのは因果応報なのかもしれない。

 

「夕映……」

 

 悲嘆にくれる夕映にのどかはかける言葉を持たない。

 のどかもまた自分もまた絵本の出来事のような世界に憧れを持っていた。映画などとは違う、幸せな情景が崩れ落ちる映像を見たことで彼女の中には魔法が怖いというイメージが根付いている。

 アスカ達を逃がすために石化したスプリングフィールド夫妻、死んだらしい村人達、苦もなく悪魔を蹂躙して鬼神の如き力を見せたナギ。小さな子供達の為に命を賭した者達の行動に、親子の再会と別れに、全てがあまりにも鮮烈過ぎて素直に感動できなかった。

 

「のどかは…………のどかはどうするのですか?」

「え……?」

 

 手を下ろし、顔を自身に向けた夕映の突然の問いが理解できなくて疑問の声を上げる。

 

「ネギ先生は向こうの世界の住人です。今後もきっとあのような危険な世界に身を置き続けるでしょう。いえ、それが当たり前なのです」

 

 そもそも、ネギ達が麻帆良に来たのも魔法学校の卒業課題の一環だと聞いていた。魔法使いの一族として生まれ、父親が英雄と呼ばれる程の子供が普通の世界に生きられるとはとても思えない。例えば六年前の光景も起きる可能性がある。既に起きた時点で次がないとは言い切れないのだから。

 あのアスカの強引な行動は批難されるべきものだが、明日菜の身を守る観点から考えればこれ以上ないほどの選択なのだと今更に思い知る。

 

「のどかの気持ちは知っています。ですが、ネギ先生についていくということは一生を添い遂げるぐらいの覚悟が必要になってくると思うのです。エヴァンジェリンさんはそう言いたかったのだと思うです」

 

 魔法の世界と何の係わりを持っていないのどかでは、着いて行くことは出来ないと感じた。もしかしたら同じようなこと、似たことが起きるかもしれない。そんな恐怖を常に抱えていくにはそれだけの気持ちが必要になる。

 夕映ものどかもネギという接点があるからこそ魔法に関わっていられる。それはつまり、ネギとの接点が切れれば自動的に魔法とも縁が切れることを意味していた。

 

「………………」

 

 一生を添い遂げる=結婚というイメージにのどかが頬を赤らめると、夕映が何が言いたいかを理解して同時に青くする。

 のどかがネギと関わっていくには魔法は切っても切れない関係にある。ネギと関わらないことを決めたのなら自動的に魔法との縁も切れるが、魔法と関わらずにネギとの繋がりを維持することは不可能と言ってもいいのだとようやく気づいた。

 あの時、別荘にいた面子の中で止むを得ない事情で関わらざるしかなかった人たちとは違う。好奇心や興味から覗き込んだ人とも違う。のどかだけは、違う選択肢を求められる。即ち、このままネギの傍にいるか離れるか、魔法と関わるか関わらないかを意味している。ネギを諦める(関わらない)か、(魔法と関わる)かを。

 

「ゆえー……」

 

 言葉に詰まるのどか。

 魔法の世界のことは別にして、間違いなくネギやアスカの周りは危険に溢れている。六年前然り、修学旅行然り。前例がある以上、これからも二人の傍で危険なことが起こり得る可能性は十二分にある。可能性の話でしかないけれど、好き好んで傷つきたくはない。だけど、初めて好きになった男の子のことを他の要因で諦めきれるわけも無く。

 

「私は」

 

 魔法と関わるか否か、ネギと関わり続けるか否か。夕映ものどかも、どちらを取るか選択することなんて今直ぐには出来そうになかった。

 意気消沈したまま大浴場を目指していると、進行方向にある目前のドアが開き、着替えらしい物を入れたハンドバックを持った和美が出てきた。

 

「あれ? 夕映っちと宮崎じゃん。あんたらもお風呂?」

 

 こんな時間に荷物を持って揃って出歩いていることから推測した和美の慧眼は当たっている。同じようにエヴァンジェリンのログハウスから濡れて帰ってきて、濡れた服を着替えて鞄を持っていたら予測することはそう難しいことではない。

 

「朝倉さん、ちょうどいい所に」

 

 二人だけでは答えが出ないところにタイミング良く現われた和美。彼女もまた夕映より魔法のことを知ったのは早いが、似たような立場にいることを聞いてクラスでも大人な考えが出来る少女でもあるので聞いておきたいことがあった。

 

「ん、なに?」

「実は――」

 

 問いかけながらも何を聞かれるのか大体予測はついているのだろう。夕映の良く纏められた話を聞いても驚きを表に出すことはなかった。

 

「――――――――それで、朝倉さんはどう思っているのか聞きたいと」

「ん~、正直ちょっと思うトコはあるよ」

 

 夕映の問いに和美は荷物を持っていない反対の手で頬を掻きながら苦笑いで答える。

 和美は修学旅行の時点で既に忠告は受けていた。着いて行かなかった島で何があったのかを聞いているので安堵している面もある。ネギの記憶もアスカの決意も考えさせることばかりだ。

 

「でも、これが性分かな。今更、関わらないっていうのも難しいのよね。じゃなきゃ、麻帆良のパパラッチなんて呼ばれてないよ」

 

 好奇心が強いのは昔から、それゆえに真実を追い求める性質であり、だからこそ新聞部に所属して欲を満たして来た。今更、引く事も受け入れ難い。何より、自身の好奇心がそれを許すまい。ここで引いたところで何時か我慢の限界が来るのは分かりきっている。

 

「何時、あんなことがあるか分からないんですよ」

 

 夕映の顔に浮かぶのは恐怖。言いながらもまるで自分に言っているように感じながらも、和美は既に自分の答えを見つけてしまっている。

 

「そん時はそん時かな。流石にこれ以上は踏み込もうとは思わないけどね。やっぱり我が身は可愛いし」

 

 頬を掻いていた手を顔の横で振って、重すぎる彼女らの問いにあっけらかんと答える。

 人間生きていれば死ぬこともあるし、まさに早いか遅いかだけの違いだけで、自分が興味の向くままに首を突っ込んだ結果、そういう目にあったとしても、それは言ってしまえば自業自得。しかし、だからといって好き好んで死んだり酷い目に合う気はない。

 情報を集めて危険度を測る。どこの記者もやっている極当たり前のことをするだけ。そのためには魔法と関わっていくことは避けられないが、「当事者」と言う立ち位置は彼女の望む所ではない。二人の記憶で見た六年前の悲劇の犯人が未だに捕まっていないことは想像がついた。英雄である父親の影響も多い。

 

「私はこれ以上、二人には近づかない。既に近づき過ぎかな。一生徒と教師、生徒同士以上の関係にならない」

 

 魔法に関わりつつ、二人の傍にはこれ以上は近寄らない。出来るなら皆からもう少し離れた安全圏に退避したい。それが別荘から帰ってきた和美が決めた決断だった。

 ネギやアスカが周りから父の影響で注意を集め、利用しようとしている者もいることも簡単に想像がつく。このまま踏み込み続ければ、自身の認識はともかくとして周りが部外者と認識してくれるかは不透明だ。村ごと滅ぼした相手がいるぐらいだから自分を人質に取ったりすることもやるかもしれない。下手をしなくても、かなりの確率で強制的に関係者と看做される。 引き返せるのは、多分、兄弟と明確な関わりがない今の時点がギリギリだろう。

 

「…………アーニャちゃんは別だけど」

 

 和美は近くの二人には聞こえない小さな声で呟いた。ジャーナリストならではの観察眼のお蔭か、エヴァンジェリンと同じく彼女もまたアーニャと兄弟の間にある溝に気が付いていた。

 袂を別つのかどうかは分からない。三人の関係を思うならば喜ばしいことではないが、魔法の世界とのパイプを一本は残しておかなければならない。

 

「ほら、早く風呂に入っちゃおう。冷えたままでいると風邪引くよ」

 

 大人とも取れる和美の割り切りに悩みだす夕映とのどかの背中を押しながら大浴場へと目指しかけたところで、夕映はとあることに気が付いた。

 

「朝倉さん、風呂に行く前にやってもらいたいことがあるのですが」

「うん? なにを?」

「ミライカメラとかいったやつです。限定的ながらも末来を見ることが出来るというなら、今の私達になんらかの助けになるかもしれません」

「撮っても二人には見れないし、どんな映像が映っているかも教えられないよ」

「だとしても写真を見た朝倉さんの反応から、なんらかの予測は立てられます。今は少しでも指針が欲しいんです」

「私からもお願いします」

 

 二人に頼まれ、和美は暫し考えた。『ミライカメラ』の発動条件は既に整っているし、本人が望むのならば撮影しても問題ないのではないかと思考が脳裏を占めていく。

 和美は年頃の女の子で、のどかの恋心を知っているから応援してあげたいと思っている。二人が悩んでいるのは見れば分かる。その懊悩に答えを出すために少しでも助けになるのならば。

 

「いいよ。でも、カードは部屋にあるからお風呂の後にする?」

「いえ、迷惑でなければ先に。のどかはそれでいいですか?」

「うん。いいですか、朝倉さん」

「OK。じゃ、行こっか」

 

 善は急げとばかりに、三人は行先を入浴場から和美の自室へと切り替えて歩き出した。

 

 

 

 

 

 そんな三人を盗み見する影。人が潜むには狭すぎるその隙間に、それはいた。

 

『どうかね?』

「見つけたゼ。馬鹿面を晒して呑気にしてやがル」

 

 和美達が歩く廊下の天井裏に、一般にスライムと呼ばれる存在が潜んでいた。数は三体。不定形、いずれも形状は一定ではなく、流動的だ。不定形ながらそれらの出す声は女声だった。性別があるとすれば女か。

 スライムといえばゲームなどでは最弱扱いされるが、現実ではそんなことはなく魔法使いの間では厄介な相手とされる悪魔の眷族だ。何せ実体がなく打撃系が通用せず、単発の魔法の射手程度では致命傷になり得ない。

 無色の液体がプルンとした身体を寄せ合いながら、天井に空いている微かな隙間から廊下を歩く三人を見ていた。眼下の三人は、一つの部屋に入って一人が二人にカメラを向けているが自分達を見つめるスライムの存在に全く気付いていない。

 

『よろしい。それではそちらから片付けよう』

 

 その三つの影に声が響く。

 

「捕まえればいいのデスカ?」

 

 念話という魔法を通じて届いた声にそのスライム達は、答えながらスライムたちは姿を変えていく。徐々に人に近いような輪郭を作っていく姿は定型の形を持たないスライムならではであった。

 

『囚われのお姫様が多い方がヒーローも燃えるだろう?』

「知らないデス」

『そういうものだよ、彼らのような人種は』

 

 念話の主が言うことが理解できないと各々が思っているスライム達が見下ろしている先で、小柄な二人だけが何故か先に部屋を出て行ってしまった。

 

「二人と一人が別れたゼ。両方捕らえるカ?」

『ぬ? そうしたいところだが、この敵地で君達が別れるのは危険だ。あまり時間をかけるのも好ましくない。二人の方だけで構わない』

 

 隠密作戦中であることをスライム達も理解しているので、不満を覚えつつも頷いた。

 

『よろしい。すらむぃとぷりんははその二人を、あめ子は私の手伝いをしてくれたまえ』

「ラジャ」

『学園側とハイ・デイライトウォーカーに気づかれぬように』

 

 ハイ・デイライトウォーカーとは夜間だけでなく昼間でも動き回れる吸血鬼のこと。麻帆良にいるハイ・デイライトウォーカーはただ一人。つまりはエヴァンジェリンのことだ。

 三つの影は誰にも気づかれぬまま、その場から立ち去った。部屋にただ一人残った標的ではなくなった朝倉和美を残して。

 

「……っ?!」

 

 少しして和美もまた部屋から出た。その様子は何かに追い立てられるように、何かを伝えたいのに声が出ないような、強い焦燥を露わにしていた。

 誰もいなくなった部屋にヒラヒラと撮影された写真が舞い落ちる。

 一瞬だけ裸の夕映とのどか見えない壁を叩いているような画像を映したが、床に舞い降りた写真には何も写されてはいない。使用者がいなくなったことで制限がかかり、画像が消えたのだ。

 

 

 

 

 

 スライムの念話の相手は、女子寮のすぐ外にいた。住人の殆どが学生と教職員である学園都市の通りには現在人気はまったくない。夜間となった学園内の殆どの学校は定時制を除き終了してしまい、雷が鳴り響く雨という天候もあって外を出歩こうと思う人間は存在しなかった。そう『人間』はだ。

 そんな雷雨が降りしきる中に『彼』は傘も差さずにずぶ濡れになりながらも静かに立っていた。

 

「三十分後に結界を落とすと、君はそう言うのかね? 自分でも言うのもなんだが私はこれでも元は伯爵の位階にいた者。この都市にいる者の安全は保証できかねるが…………」

 

 『彼』の近くに人影はない。にも拘らず、そこに人がいるかのように喋っていた『彼』は、内容程には気にした風のない声で会話を続ける。

 

「成程、広域結界を張る準備は既に整っているわけか。準備が良い。いや、なにも当て擦っているわけではない。寧ろ君達に感謝しているぐらいだ。戦うなら全力を出せた方が楽しいに決まっている。但し――」

 

 雨の中に消えていく『彼』の声にハッキリと喜悦が混じった。その喜悦は尋常のものではなく、普通の人が感じ取ればそれだけで精神が犯されてしまいそうな、狂人者そのものだった。

 

「我らの戦いには介入しないで頂きたい。それを守ってもらえるなら、プリンセスや召喚主にどんな思惑があろうとも好きにしてもらって構わないと言っているのですよ」

 

 プリンセスと呼ばれた相手は、何も言わなかったのだろう。『彼』はプリンセスと呼ばれた相手の反応にクツクツと笑い、「プリンセスといえど、百にも届かぬ小娘にはもう少し優しくすべきだったかな」と、楽しそうな表情とは裏腹の言葉を紡ぐ。

 

「…………では、始めるか」

 

 外の天気は雨が今も降りしきっていた。時折遠くで雷が光り、暗闇を一瞬のみ照らし出す。帽子を被り、薄汚れたコートを着ている四十代から五十代くらいの老境に入った彼はどこまでも楽しげに呟いた。

 

「ふふふ、あれから六年か。君はどれだけ強くなったのかな」

 

 この時期にコートという季節感のない格好をした男が示す『君』とは一体誰なのかは分からなくても、歪んだ口元を見れば碌でもないことだけは確かだった。

 

「私を失望させてくれるなよ」

 

 雷が光る中、麻帆良の女子寮に危機が訪れようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋に備え付けられているバスルームから出て来た木乃香は、濡れた髪の毛をバスタオルで拭きながら室内を見渡した。麻帆良学園女子中等部は原則として全寮制となっている。そのため、ほぼ全員(エヴァンジェリン&茶々丸のように例外がいる)が学生寮で生活していて各部屋は二~三人毎に割り当てられており、キッチン、トイレ、バスルームを完備しておりリビング兼寝室は一部屋で、そこに二段ベッドや学習机、応接セットなどが置かれることになる。

 学生寮としては破格な条件の中で、明日菜と木乃香の部屋はロフトが付いていて他の部屋よりも少しだけ広く陽当たりも良いので恵まれている。しかし、 昼には温かい陽光が差し込んで照らす部屋も、今は一人の少女が放つ暗い空気によってライトの灯りすら陰っているように木乃香には見えた。暗い空気を放つ当の本人は二段ベットの上段にある自分の布団に包まっている。

 

「明日菜、そのまま寝ると風邪引くで。シャワーでもいいから温まらんと」

「いい」

「少し前に…………なんでもない。ごめんな、寝てるところ」

 

 春過ぎで温かくなってきたとはいえ、雨に濡れた体はかなり冷えている。修学旅行後に木乃香の記憶にある限り、出会ってから始めて始めて明日菜が風邪を引いていたことが記憶に新しくて善意のつもりで言いかけたところで、彼女の看病をアスカがしていたことを思い出して口を噤んだ。だが、それだけであっても木乃香が何を言おうとしたのか分かったのだろう。明日菜の周りの空気が目に見えて重たくなった。

 

「あ、そうや。濡れた服、洗濯してくるな」

 

 悼まれなくなって髪を拭き終わったバスタオルと濡れた衣類を入れた籠を持ち、洗濯をする為に部屋を出た木乃香は深い溜息を吐いた。

 

(どないしよう……)

 

 発端はアスカの行動である。であるならば、彼らと同じ立場に立つネカネに頼ることは出来ないだろう。昔から親交があったという高畑は微妙だが、こちら方面での話を面と向かってしたことのない木乃香では二の足を踏む。

 

(あれで高畑先生も明日菜を溺愛しとるから変なことにならんとも限らんし)

 

 明日菜から向ける愛情よりも、高畑から向ける愛情の方が勝っていることを間近で見てきた木乃香は危惧を捨てきれない。その愛情は高畑自身にも定まっていないのか細かいところまでは分からないが、とても大切に想っていることは間違いない。だからこそ、今の明日菜の状況を高畑が知った場合、どのような行動に出るのか予想がつかない。

 

(普段怒らん人がキレると危ないっちゅうしな)

 

 明日菜とは中学に入ってからだが、高畑は父の知り合いということで出会いは早く、付き合いはかなり長い。特別親しいわけではなかったが、温和そのものな高畑が本気で怒った姿を一度も見たことが無い。精々が不良相手にハッスルしてるぐらいだが、それだって一般人の領域から見れば大概な物。

 

(アスカ君と高畑先生が本気で戦ったらどうなるかなんて、想像するだけで嫌になるわ)

 

 明日菜の手を振り払ったアスカと明日菜を大事に想っている高畑が戦った姿を想像して、愉快な結末にならないことに気づいて考えを捨てることにした。

 洗濯機が置いてある部屋は共用になっていて、木乃香は何台もある洗濯機から無作為に一台を選んでセットする。スタートボタンを押して、終わったら取りに来ることにして憂鬱だが部屋へと踵を戻す。

 

(ネカネさんはあかん、高畑先生も無理やろ。お爺ちゃんは最後の手段にするとして)

 

 指を折って候補メンバーを外していく。祖父の近右衛門が出なければならないような事態となれば、それこそ最後の最後。出来ればその前になんとかしたいところだが。

 

(残るとしたら千草先生ぐらいやけど、明日菜がこっちに来ることを良く思っとらんからな)

 

 というよりも一般人が関わって来ることが気に入らないそうなのだ。

 当たり前のことだが、裏の世界の技術も一朝一夕で手に入れられるものではない。大半が幼い頃から習得・習熟に励んできている。プロ意識までとは言わないが、ズブの素人に無遠慮に踏み荒されるのは許容し難い物がある。

 

(どうしたら正解やっていうのが分からんのが辛いわ)

 

 自室に辿り着き、部屋のドアにコツンと額を付けて沈思する。

 

(アスカ君が間違っているのか、それとも正しいんか…………うちには分からへん)

 

 明日菜の気持ちを考えれば前者、身の安全を考えれば後者である。木乃香の考えだけで正否を判定することはとても出来ないし、その資格もない。ほぼ同じ時期に裏の世界に足を踏み入れたのに、木乃香が許容されて明日菜が拒絶されるのは生まれや能力が大半を占めているのだから。

 木乃香は雨にも濡れなかった仮契約カードをポケットから取り出した。

 

(癒しなす姫君、か。体の傷は癒せても心の傷は治せへんのにな)

 

 明日菜に見つからない様に仮契約カードをポケットの奥に直して直ぐには取りだせない様にしながら、エヴァンジェリンや千草から聞いた話を思い出す。魔法や呪術といってもそこまで万能ではないらいしい。精神干渉系の技術もあるが治すとなれば現実世界と大差はないようだ。

 一瞬、頭を過った六年前に負ったはずのアスカ達の心的外傷はどうなったのかと疑問を抱いたが、先に近くの親友からである。

 

「うん、うちだけでも元気出さな」

 

 気持ちを切り替えてドアを開けて部屋に入る。靴を脱いでスリッパに履き代え、ふと見上げた壁掛け時計が夕食の時間を示していることに気が付いた。

 別荘の入ると時間間隔が変な感じに狂ってしまうのが未だに慣れない。一時間で一日が経過すると日付の感覚も違ってくるので、木乃香はあまり別荘が好きにはなれなかった。

 

「明日菜、なんか食べたいものある?」

「いらない」

「お腹に入れな体に悪いで」

「今、食欲ないから。ごめん」

 

 明日菜に話しかけてみると意外に返答が返って来た。壁の方を向いたままだが寝てはいないようだ。しかし、人間っていうのは思い悩んでいようが生理現象として腹が減る。お腹が膨れれば気分もマシになるだろうと美味しい料理を作る決心を固める。

 勢い盛んに冷蔵庫を開けると木乃香の想定以上に物がなかった。

 

「帰りに買い物出来ひんかったかし、あんま材料ないかぁ」

 

 最近はアスカ達と千草の家で夕飯のご相伴に預かっていたので、素材は鮮度が命と買い溜めしないこともあってこのような突発的な事態に困ってしまう。

 

「少ない材料でもうちは負けへん」

 

 美味しい料理を作って明日菜を吊ろうと心に決め、いざ戦場へ向かわんとマイエプロンに手を伸ばしたところで鳴り響く来客を示す部屋のベルの音。

 

「ん? 誰やろ。はいはい~、今出ます」

 

 態々部屋にまで訊ねてくるのは珍しい。それもこんな時間には滅多にない。大半のクラスメイトならチャイムなんて鳴らさずに傍若無人に入ってくるはず。

 玄関のベルが鳴り、マイエプロンに手を伸ばしていた木乃香は尋ねてきた人を確認するために玄関に向かって歩く。

 

「…………? …………どなたですか?」

 

 こんな時間なので内錠をかけて、問いかけながらドアを開く。

 内錠をかけていることで開けられるスペースは決まっており、開いた隙間からは立派な髭を蓄えたシルクハットを被って黒いコートに身を包んだ独特の髪型の初老の男性がびしょ濡れでそこに立っている。木乃香の見かけない人だった。

 ここは女子寮なので男性は易々と中には入れてもらえない。両入り口には、談話室もかねたエントランスが設けられている。肉親が何かのようで尋ねてきた時もそこで話をするのだ。

 呼び鈴の応対に出た木乃香は、覗き窓から見た相手に不信感を抱かずにはいられなかった。 どういう用があるのか、どういった関係なのかと思う前に、何より女子寮にいてはならない成人の男という誰が見ても怪しいと感じる状況だったからだ。

 こんな時間、それもこんな荒れた天気の日に外部から訪問者が来るとは思えない。訪問者を不審に思って何時でもドアを閉められるように気をやっていると、ドアの向こうに立つ老人が口を開いた。

 

「失礼、お嬢さん。こんな夜分に申し訳ない」

「何の用ですか?」

 

 雨の中の来訪者である老人の紳士的な口ぶりにも警戒を緩めない木乃香。服装や雰囲気からいわゆる変質者といった感じは見られないものの、男子禁制の女子寮に突然訪問して来たのだから当然と言えよう。

 ドアを開ける時も内鍵は外さず、何時でもドアを閉められるように気をやっていると向こうに立つ老人が口を開いた。

 

「いえ、なに…………お嬢さん方に用がありましてね」

 

 そんな木乃香の問いに対し、帽子を取って胸元に下げた老紳士が品の良い笑みを浮かべて一輪の白いバラを取り出した。 

 

「お近づきの証に花を一輪どうぞ」

 

 やってきた老人が帽子を取ってみると、不審者とは違った身なりの整った初老の紳士という感じでさわやかな笑みを浮かべ、ドアの隙間から差し入れられた白いバラの花を差し出してきたものだから、一瞬だけ木乃香も思わず不審を忘れてしまった。

 

「え? あ……?」

 

 しかし、異変はすぐに訪れる。差し出された白いバラの匂いを嗅いだと同時に急に眩暈を感じ、意識が遠くなっていくと思ったら、ふらっと崩れ落ちて気を失い玄関に倒れ付した。本人には自分がどうなったか、把握する時間すらなかったことだろう。

 

「代価は君たち自身だがね」

 

 木乃香が倒れたのを確認すると、老人は内鍵を摘まみそのまま捻り潰し、金属製のチェーンが飴細工でも扱うかのように簡単に音を立てて破壊される。

 

「木乃香?」

 

 どさ、という音と、バキンという音が聞こえてきてベットに横になっていても寝付けなかった明日菜が反応した。不審に思って布団を除けて、ベットから飛び降りる。

 

「やあ、君がカグラザカアスナ君かな」

 

 玄関に向かおうとする前に、そう言って真っ黒な服を着て黒いコートを羽織り、取っていた帽子を被り直しながら黒い帽子を右手で押さえた初老の男が水を滴らせてリビングに現われた。雨に打たれたのか、びしょびしょで黒さを増したインバネスを来た老人がベットから降りたばかりの明日菜を見据える。

 

「誰よアンタは!! 木乃香をどうした!」

 

 木乃香が玄関に向かったことも、何かを話している声も聞こえていた。男が現れ、木乃香の姿は明日菜のいる場所からは見えなくて立ち上がって叫んだ。

 

「私の名はヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマン。コノカ嬢のことは心配はない。ただ眠ってもらっただけだよ」

 

 男――――ヘルマンは視線を明日菜に向けて口端を少しだけ上げて眼で笑った。

 木乃香の姿が見えない以上、安全を確認することが出来ない。少なくともヘルマンの言葉を信じて先程の音から推測するに即危険ということまではないと考えるべきか。

 

「コノエコノカには傷一つ付けてはいない。倒れた時のことまでは保証できないがね」

 

 クツクツ、と何が楽しいのか笑うヘルマンに明日菜は激昂しかけたが、目の前にいる得体のしれない人物と現実離れした状況に頭の一部が麻痺したように冷静さを取り戻す。遅すぎたとしてもだ。

 明日菜が冷静さを取り戻す前にヘルマンの足は前に出ていた。

 間にある机を飛び越えて一足で迫るヘルマン。距離があったことで軌道は読みやすく、狙いも考えも丸分かり。だから、避けるのは簡単で。予想外だったのは相手も明日菜の行動を読んでいたのでただの格好の的でしかなかったことだった。

 ヘルマンが着地しながら放った拳が急に軌道を変えて来る。魔法のように思えたそれはなんてことはない。元からフック気味に放たれていたので、腰と軸足の捻りによって軌道を変えられた拳が無防備な明日菜へと迫る。

 

「アデアッ……!?」

 

条件反射でアーティファクトを呼び出して状況の打開を図ろうとするが、当のカードはアスカによって破棄されている。カードを求めた手は空を切り、頼った分だけ生じた心の隙が次の行動を遅らせる。

 

「がっ……」

 

 ヘルマンのボディブローが横っ飛びをして中途半端な体勢の明日菜の無防備な脇腹に入り、壁際まで吹っ飛ばされた。

 

「――――――――ハッ……うぅ、い、痛い」

 

 衝撃で意識が飛びかけたが、体中の痛みで急速に引き戻される。受けた衝撃の影響も覚めないまま、グラグラと揺らぐ視線の先には拳から蒸気のようなものを舞い上がらせたヘルマンがいる。明日菜には状況が理解できない。突然現れ、木乃香を眠らせて襲ってくる理由が分からない。

 

「アーティファクトを出すかと思ったが…………」

 

 振るった拳の感触から魔力強化も行っていないことを察したヘルマンは訝しげな表情を隠しもせずに明日菜の苦悶に満ちた顔を見下ろす。

 人を傷つけたのに何の呵責も感じていないどころか、結果に対して考察すらしている。今まで明日菜の傍にいたことのないタイプだ。

 喧嘩はしたことがあっても平和な日常を生きてきた明日菜は当たり前の如く、殆ど戦闘などした事などない。仮契約を破棄され、攻撃手段も持っていない明日菜。事態が理解できないまでもヘルマンから暴力の気配を感じ取り、他者を傷つけることへの迷いの無さと容赦の無さによって心が容易く折れかける。

 

「ふむ、戦う気概は持てぬか。異能はあっても只の小娘ということか」

 

 期待外れだと思っていることを隠しもせず、ヘルマンは視線を明日菜から部屋の入り口へと向けた。

 

「伯爵」

 

 現れたのはあめ子であった。しかし、その身体は人型をしていない。宙に浮かんだ水で出来た球体の内側に気を失っている木乃香を保持しながらやってくる姿は奇怪そのものである。球体の上部に眼鏡をかけた女の子の顔があるからこそ余計に異様な光景であった。

 

「……こ、の……か!?」

「動かないでもらおう」

「ぐっ」

 

 親友の姿に心を震わせた明日菜が起き上がろうとするのをヘルマンが踏みつけて留める。頭を踏まれた明日菜は起き上がろうとして果たせず、未だ収まらぬ脇腹の痛みもあって苦悶に喘ぐことしか出来ない。

 

「目標は確保した。次は……」

 

 現在進行形で明日菜を苦しめていることを気にも留めないヘルマンは何かを言いかけて言葉を切った。眼光を鋭くして、しかし口元は楽しくなったとばかりに笑みの形となっていた。ヘルマンの顔を唯一見れるあめ子がその変化に気づいた。

 

「どうしまシタ?」

「極東の姫君の騎士が来たようだ。お相手をしなければ紳士として失礼だろう」

 

 少女を足蹴にしながら紳士などとどの口でほざくのかとあめ子は思いもしたが、笑いはしても他のどんな感情も抱き得ない。彼女もまた魔物の一種であるからに。

 ほどなくして荒々しい足音と共に騎士が現れる。

 

「お嬢様!」

 

 抜き身の刀を手にドアを蹴破って部屋に侵入したのは桜咲刹那その人であった。

 自室にて精神統一をしていたところ、胸騒ぎを感じてやってきた刹那が見た物は水球に囚われている親友の木乃香とヘルマンに踏まれている明日菜であった。

 

「陳腐な台詞で申し訳ないが」

 

 敵が何か言っているがどうでもいい。主君を救い出す為に動き出そうとした刹那をヘルマンが止める。

 

「――――動けば人質達の命は保証しない」

「あぐっ」

「明日菜さん!?」

 

 強く踏まれた痛みに明日菜が呻き声を上げ、脅されれば激昂した刹那といえど手は出せない。

 

「卑怯な」

「悪とはそういうものだろう?」

 

 第一歩を踏み出すことなく動きを止め、嘲笑を浮かべるヘルマンを忌々しげに睨みつけるしかない。

 

「姫の騎士は理性的で忠義者だ。状況も良く理解している」

 

 これみよがしに明日菜を踏みつける足に力を込めて苦痛の呻きを上げさせ、何時でも殺せるのだとアピールしながら言う言葉ではない。

 

「こういう時、人質を取られたらどうするべきか。改めて言わなくても君ならば分かってくれよう」

「貴様……っ!?」

「囚われのお姫様は多い方が栄える。では、君にも一緒に来て頂くことにしようかな」

 

 抗しえないと分かっているヘルマンの余裕は全く変わらない。ヘルマンは目を細め、刹那を視界に収める。その眼はどこまでも酷薄に見据えていた。

 女子寮の外は益々雨の勢いが増し、近くで雷が落ちたのか稲光が光った。まるでこれからを暗示するように嵐のような天気はまだまだ荒れそうな雰囲気を見せていた。この日、明日菜の髪飾りの鈴は一度も鳴らなかった。

 



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第32話 過去からの来訪者

 

 和美の部屋を出て大浴場に向かう夕映達の足取りは軽くない。

 

「結局、何も分からなかったね」

「残念ですが、元より当てになれば良しと考えていたことです。朝倉さんに手間をかけさせてしまいました」

「後でお礼をしないと。何が良いかな?」

「また後で本人に聞いてみましょう――――へくしっ」

 

 寄り道をした所為で濡れた体が更に冷えたのか、夕映はクシャミをした。年頃の乙女として幸いにも鼻水は出なくて良かったが、悪寒が走ったのかブルリと体を震わせる。

 

「急ごう、夕映。お風呂に入って体の芯から温まらないと風邪引いちゃうよ」

「ですね」

 

 悪寒も直ぐに引いたが、このままでは本当に風邪を引いてしまうと自覚した夕映はのどかの言葉に頷き、二人は足早に大浴場に向かう。

 麻帆良女子寮が誇る大浴場『涼風』に着いた時、大浴場は殆ど三-Aの生徒で貸し切りの状態に近かった。

 

「よー二人とも。帰り遅かったじゃん……………………どうしたの、なんか辛気臭い顔して?」

「何でもないです」

「うん、なんでもないから」

「そう? ならいいけど………」

 

 脱衣所で締め切り間近でも流石に年頃の女子中学生として風呂に入りに来て服を脱いでいたハルナと遭遇し、普段はちゃらんぽらんでも察しの良いところにあるハルナに辛気臭い訝しまれるも答えられることではない。適当に濁しつつ服を脱いで大浴場に繋がる引き戸を開ける。

 中に入ると、更に大勢のクラスメイト達の姿があった。風香・史伽の鳴滝姉妹にまき絵・裕奈・アキラ・亜子の運動部の面々も居る。少し離れたところに千雨や美空、美砂・桜子・円のチアガール三人組、超・葉加瀬・五月の超一味の姿もあった。

 各部屋にシャワールームがある寮にわざわざ造られているだけあって、熱帯の樹木まで植えられて『ジャングル風呂』と言ったところだ。部屋に風呂があるにも関わらず、こちらを愛用する者が多いのも頷ける話である。

 他の学年、クラスの者達の姿はまばらだ。皆数人のグループで浴場内に散り散りになっており、入り口付近は三年A組の生徒が占拠している状態だ。  

 

「塗るだけで、そう身・美白・引きしめ・潤い効果!! 一人でもお手軽全身パック『ぬるぬる君X』!! 蜂蜜のようにとろりとしたリッチな触感があなたのお肌を即座に大美人に!!」

 

 悩み捲くる三人の耳に裕奈の宣伝文句の大音量が浴室内を響き渡った声が聞こえた。思わず風呂にいる全員がそちらの方を向いたが興味を示したのは三-Aの生徒だけで、他のクラスや学年の生徒達は騒ぎが起こる前にそそくさと風呂から出て行った。

 ハルナは興味を引かれたの祐奈らの方に向かったが、夕映とのどかも一緒になって騒ぐ気にはなれず、掛け湯をして湯船に脚を入れる。

 気落ち状態なのを隠せないので離れた所に行こうとすると、奥まったところに先客がいた。

 

「古菲さん?」

 

 口元まで湯に沈んでいる褐色肌の少女――――古菲は夕映の呼びかけに視線を向けはしたが、その場から動こうとはしなかった。

 

「横、失礼します」

 

 普段と違う様子に困惑した夕映の隣をのどかが通り過ぎ、古菲の隣に座った。

 古菲は嫌がりはしなかったが夕映同様にのどかの行動に驚いたように目をパチクリとさせていた。自分だけ立っていても仕方なく、遅ればせながらも夕映も先に座ったのどかの隣に座る。

 三人は並んで座っているがそこに会話はない。

 沈黙を破ったのは、チャプンと湯の中から浮かび上がった古菲の握られた拳だった。

 

「私はこれでも自分が強い人間だと思てたアル。でも、今日その自負が打ち砕かれたアル」

 

 アスカに突っかかり、成す術もなく一蹴されたことを言っているのだろう。

 

「素質が違うのは最初に手合せした時から感じてたアルが、ああも一方的にやられると自信喪失アル」

「素質、ですか? 才能ではなく」

「さあ、アスカのことは良く解らないアル」

 

 キョトンとしたのは夕映とのどかの方であった。

 二人の目にはアスカと古菲のやり取りが見えなかったが、勝敗が決した以上は才能はアスカにあると考えていたのだ。

 

「そこら辺、アスカはちぐはぐアル。言えるのは戦闘者としての素質がズバ抜けているとしか」

 

 夕映達はそこら辺の理解が出来ないので首を捻った。

 古菲も理解されると思っていなかったのか、苦笑するだけで詳しいことを説明しようとはしなかった。自分達には理解できないが、そうなのだろうと考えることにした夕映は次の話題を振った。

 

「古菲さんはこれからどうするんですか?」

「これから……」

 

 夕映の問いに古菲は考えもしなかったかのように目を瞬かせた。

 古菲は何かを言おうと口を開いた。

 

「お、おい。ちょっと待てよ。マジで何かこの水、からみついてくるぞ!?」

 

 突然の大声に三人は発信者を見た。

 大浴場の端っこにいる夕映達と違って真ん中辺りにいる長谷川千雨が声の主だった。教室では物静かで大人しい彼女が、らしくもなく狼狽している。

 

「おわっちょっと待て、お前! そこはシャレにならねぇって!?」

 

 明らかな異常に真っ先に気付いた千雨が立ち上がって浴槽から抜け出そうとするも、湯が纏わりついて果たせず、変なところを触るのを感じて真面目に貞操の危機を感じ取って大きな叫びを上げた。

 

「きゃあ!?」「何、コレ?!」「いやあ~ん! ぬるぬる~~~ッ!?」

 

 千雨と同様に円・桜子にも被害が及び、ぬるぬる嫌いのまき絵は体を丸めて涙を漏らす。湯の中に「クスクス」「キャハハハ」という女の子のような笑い声にも気づかず。

 

「キャー!」「キャー!」「いやー!」「バッ……ちょっ……」

 

 彼女たちの反応が面白かったのか被害は千雨・まき絵・桜子・円の四人に集中していた。

 

「何をやっているのですか、一体」

 

 被害は主に四人の周辺にだけで起きている所為で他の少女達には遊んでいるようにしか見えず、夕映が呆れるのも無理はなかった。水中から迫る魔の手から逃れられる最後のチャンスだとも気づかず。この大浴場にいるのは人だけではないのだから。

 直後、背後から湯が巨大なドーム状になり、夕映達を包み込み。偶然、真っ先に気付いたのどかの驚愕を飲み込み、水中へと引っ張り込まれる。

 

(こっ…………これは!?)

 

 それがなんなのか確かめる時間すらなく、少女達はぬるぬるした何かに浴槽の底へ引きずり込まれた。夕映が襲われたと状況を理解した時には既に手遅れ。この中で唯一打開出来る可能性を持っていた武道派の古菲はタイミング悪く、引きずり込まれた瞬間に息を吐き出していた所為で早々に溺れて戦力にはならない。

 

(!?)

 

 よく見れば彼女たちの体に纏わり着く小さい女の子たちが浴槽の中を泳いでいるのが分かっただろう。それを示すように、夕映の目の前にせせら笑う少女の顔が浮かび上がる。

 目前にはあどけない笑みながら感情を移さない眼の小さな少女の姿。明らかに透明で、こんな生き物が他に存在するはずがない。少女が笑みを強くした瞬間、そこで夕映の意識は途切れた。

 

「あれ? ゆえー、のどかー?」

 

 ハルナが「湯船に入ると、先に湯船に入っている親友二人や古菲の姿が無い。片手にタオルを引っ掛けて名を呼ぶハルナの声に答えられる者は残念ながらいなかった。

 最後に少女達が吐き出した気泡が湯船を沸き立たせたがハルナが気付くことはなかった。誰に気付かれることなく少女達は連れ去られてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天ヶ崎千草は不機嫌である。過去形ではなく現在進行形で不機嫌なのであった。アスカが頭から血を流して雨に降られてずぶ濡れで天ヶ崎邸にやって来た時は、前後不覚になりかけたネカネに比べれば千草はまだ冷静だったが千草も心底驚いたものである。

 

「どうなんや、アスカの容態は」

 

 幼い頃からのコンプレックスである鋭い目つきが、今も自室で寝ているであろうアスカがいる部屋の方向へと向けられている。

 

「ネカネ姉ちゃんが言うには寝てるだけやって。しゃあないんちゃうか。最近は悪夢ばかり見てあまり寝ていなかったようやかなら」

「人に心配かけといて呑気に寝てるわけかいな。まあ、頭打っとるみたいやし変化があったら救急車呼ばなあかんか」

「千草姉ちゃん、目つきが怖いって」

「うっさいわ」

 

 アスカらの部屋を見る目つきが剣呑になっているのを、近くの椅子に反対向きに座って観戦している小太郎に指摘されて自覚したが改める気はなかった。

 千草は室内着である和服の裾を直しつつ、一人だけフローロングの床の正座をしているネギを見下ろした。

 

「正座をしているじゃなくて、させられているのを間違いだと思うんですけど」

「黙らっしゃい、この共犯者が。後、人の心を読まんといてくれるか」

「思いっきり考えてることが顔に出てるって、姉ちゃん」

 

 殴られはしなかったが雰囲気が凶悪な千草に、文句を言ったネギは射すくめられたように身を縮める。

 外では問題児達に振り回されがちな千草も天ヶ崎邸では家長であり、絶対者なのである。行儀を悪くすれば怒られ、門限までに帰らなければ食事にはありつけない。手のつけられない悪童だった小太郎を真人間とまではいかなくても通っている、小学校に溶け込むまでに矯正した手腕はスプリングフィールド一家にも十分に通用していた。

 

「共犯者って言い過ぎじゃありません?」

「侵害やって言いたいんか? 女の子を泣かせて苦しめた片棒を担いだ自覚がないんやったら………………分かってるやろうな」

 

 ドスの聞いた脅しそのものの言い方に、ネギも首を竦めて何度も頷くことしか出来なかった。

 

「分かってへんかったら地獄フルコースやったところやが、自覚をしてるんなら勘弁したろ」

 

 ひぃぃぃぃぃぃっ、と地獄フルコースが何なのかを知らなかったネギだったが、近くにいた小太郎が椅子から転び落ちながら蹲ってしまっては首を捻ることも出来ない。耳を伏せ、尻尾を股の間に入れて震えている姿はどう好意的に見ても怯えていた。

 ネカネの折檻と似たようなものなのだろうと、背中に多大な冷や汗を掻きながら断じて突っ込むまいとネギも心に誓う。この辺がネカネと波長が合うのだろうなと益体もつかない考えを必死に心中だけに収める。バレたら二の舞になるのは過去の経験から知っていた。ネギは過去から学ぶ男なのである。

 

「当のアスカがあんな調子やし、ネギばかりを責める気もないけどな。もうちょい遣り様というか、せめてうちらに相談の一つぐらいはしてほしかったわ」

 

 小太郎のことを気にもせず、千草が愚痴る。

 

「すみません。でも、僕達は間違ったことはしていません」

 

 褒められたことではないと分かっていても、悩んで苦しんで迷って傷つきながらも選んだアスカの決断をネギが否定できるはずがない。

 

「間違っとるとは言わんよ。うちは一般人がこっちに関わるのは反対や、但し相手が明日菜やなかったらな」

「意外やな。姉ちゃんは明日菜姉ちゃんがこっちに来るのは反対やと思ってたわ」

「復活速いね、小太郎君。それはともかく僕も同じように感じてました」

 

 慣れているのか直ぐに復活した小太郎が真っ先に意見を口にした姿は、哀しくもトラウマが常習化してしまった者特有の行動だった。自らもそうであるから努めて突っ込み過ぎないように注意したネギは、この姉達は弟妹を折檻することが趣味なのかと頭の一部で考えながら小太郎の意見に同意する。

 

「魔法無効化能力」

 

 ポツリと千草が漏らした単語に反応したのはネギだけだった。

 

「その様子やとネギはアーニャから聞いとるようやな」

「明日菜さんにその能力があると。ですが本当に」

「分かったんは修学旅行の時やけどな。確かめるのは止めときや。これ以上、秘密を知る者が増えるのはようない」

 

 今更ながらに気が付いたことだが、アスカ達は三人だけで完結してしまっている部分があることに千草も気付く。幼少期からの経緯を鑑みれば無理もない話ではあっても物事には良い面と悪い面が必ず存在する。今回は悪い面が前面に出た形である。

 

「何も魔法無効化能力やから明日菜が例外ってわけやない。だから、そんな睨まんでもええやろ。ちゃんと説明したる」 

 

 明日菜の能力を悪用する気なのかとネギの視線が鋭くなったのを制しつつ、どれだけ大人びていようとも子供の限界を超えれていないことを改めて千草は実感する。年を経ることだけが大人の条件ではないことを知っているが、年を経なければ成熟出来ないこともまたあるのだと目の前に少年教師の存在によって学んだ。

 

「魔法無効化能力――――大したもんや。希少にして貴重、あらゆる魔法使いの天敵にして、使いようによっては世界すらも滅ぼしかねんと言われた能力や。悪用されたらとんでもない」

 

 教師生活で千草も人に物を理解させるのに必要な手順を学んでいた。今回もその手順に乗っ取って話を進める。

 

「歴代の能力保持者は例外なく実験動物か、その能力を時の権力者達に死ぬまで利用されてきた。どんな目から見ても幸福とは言い難いやろ」

「だから、僕達は余人に知られる前に明日菜さんをこっちの世界から遠ざけようとしたんです」

「まず土台の前提から間違ってんねん。もうな、明日菜の能力はこのメンバー以外――――フェイト・アーウェンルンクスに知られてる」

「え!?」

 

 やはりこの事実をネギは知らなかったのだと、驚いている様子から千草は判断する。あの場にいた小太郎は明日菜が魔法無効化能力であると知らないはずで、ならば後から知ったアスカはどうなのだろうか。

 

「アスカは分かった上で拒絶したのか、分かっていなくても拒絶したのかが問題やな」

 

 と言いつつも、千草はそのこと自体は大して気にしていなかった。

 

「戦闘の最中やったし、そのフェイトいうんが、エヴァンジェリンも直後に現れたこともあって明日菜の能力のことを覚えてるとは限らん。やけど、前提が変われば考えも変わるやろ」

「いや、でも……しかし…………」

 

 今の動揺具合を見れば、少なくともアーニャとネギは余人が明日菜の能力を知らないと考えていたからこそアスカの決断に乗った面が大きいと分かる。

 政治の話まで子供にする気のない千草は、これでこの件に対する楔は打ち込んだと納得したはずだが表情は冴えない。

 

「問題はアスカや」

 

 決断の主導を握っているアスカ。最近の明らかな修行への傾倒は、戦闘ジャンキーなのは明白だったので元よりその気があったのだから絶好の機会と場を与えられれば理解できなくもない。ただそれが度を越していただけで。

 

「最低で半年やったか。周りよりも年くってどうすんねや。生き急ぎ過ぎてんねん」

 

 半年――――アスカが別荘を使用したことによって生じた外界との時間差である。この日数は決して無視できるものではないが、これでも抑制した結果なのだ。

 年を経ることを抑えることは吸血鬼のような不老にでもならない限り不可能である。時間を巻き戻すことは神ならざる人の身には出来ない事なのだから。

 

「一度、アスカと腹を割って話をしなあかんか。小太郎、向こうに行ってアスカが起きたら連れてきい」

「いつ起きるか分からんのに傍についてろっていうんか?」

「こういう問題は時間が空くとこんがらがってくんねん。頭を打ってるから様子を見なあかんけど、本当やったら叩き起こしたいぐらいなんや」

 

 言葉尻も強く言い切った千草。この中で最も千草に近い関係であるから彼女の焦燥を鈍感ながらも感じ取り、小太郎はそれ以上の言葉を紡ぐことを止めた。「分かった」と告げて立ち上がり、ネギと千草の視線を背中に受けながら小太郎はアスカ達の部屋へと消えて行った。

 

「…………風が出てきたような」

 

 与えられた情報、己らの決断に対して思索を深めていたネギは、ふとした拍子に零れ落ちたように聞こえた千草の呟きに知らずに下りていた顔を上げた。

 千草はもうネギを見ていなかった。その視線はカーテンに遮られた窓の向こうに向けられている。風が出て来たのか、窓がガタガタと音を立てパシパシと聞こえるのは雨粒が当たっているからだろうか。徐々に増していく音が風の勢力が増していくことを示している。

 

「嵐になるかもしれんな」

 

 不吉な予言とも取れる千草の囁きにネギが痩身を震わせた正にその時だった。突如としてドアが開いた。アスカ達のいる部屋のドアではなく玄関である。

 

「朝倉?」

 

 玄関に背を向けて正座していたネギよりも早く、千草が乱暴に天ヶ崎邸に入って来た人物の名を口にした。

 振り返ったネギは目を丸くした。よほど急いでいたのか、床に四肢をつけて息を荒げている。傘も持たずに来たのか、雨に濡れた服が年の割に豊満なスタイルにピタリと張り付いていた。高校生や大学生でも通用するスタイルがそんな状態にあっては、見方によっては淫靡に感じるものだが和美が上げた悲壮な表情が否定する。

 

「………! っ、!?……!!」

 

 天ヶ崎邸に躍り込んで四肢を床に付けていた和美が何かを言った。言葉は発せられていないが何かを言おうとしている。

 

「何を……」

「待ち、ネギ」

 

 問おうとしたネギを千草が止めた。その意味を問おうとしたネギは改めて和美の姿から、息が荒れて言葉が発せられないのではなく発することそのものが出来ないのだと気づいた。

 

「何や? 何を言いたいねん朝倉」

 

 大人の対応とでも言うべきか。言葉が出ないことに焦りを表に出していた和美が、穏やかに微笑んで近寄って来る千草の言葉に目に見えて落ち着きを取り戻していく。

 

「っ、ぁ……!」

 

 それでも言葉が出て来ない。まるで何かに邪魔をされているように。この現象を引き起こす要因としてネギの脳裏に一枚のカードが浮かび上がる。

 

「まさかアーティファクトによる制限?」

 

 和美のアーティファクト『ミライカメラ』には得た情報を他者に伝えることが出来なくなる制限がかかっている。具体的にどのような制限がかかるのかをネギも知らなかったが、伝える手段の一つである言葉そのものを出ない様にすることなのだと和美の反応から推測する。

 ネギ達の背後で再び別のドアが開く。

 

「なんだ騒々しい」

 

 今度こそ現れたアスカはふらつくのか片手で頭を抑えつつ、玄関付近にいる和美を見て目を丸くした。その後ろにはネカネと小太郎の姿もある。

 アスカの姿を視界に収めた和美の反応は劇的だった。フラフラの足で立ち上がり、和美の様子と存在に困惑しているアスカの下へ歩いて行こうとして果たせなかった。途中で膝がガクリと崩れ、倒れ込む。

 和美の異変にアスカの反応は早かった。

 

「おっと」

 

 軽い声と共にアスカは和美を受け止めていた。目の前にいたはずのアスカが何時の間にか移動していることにネカネが目を丸くしていた。そして小太郎はといえば、和美に意識を割かれていたとはいえ、目の前にいたはずのアスカの挙動を見逃した。

 

(俺が、見逃したやと?)

 

 意識を別に割いていても目前の挙動を見逃すなどありえない。それをしたということはそれだけアスカの動きが小太郎の知覚を超えたということ。

 この一ヶ月、アスカが真祖の吸血鬼であるエヴァンジェリンから師事を受けていたことは小太郎も知っている。負けじと今までのなんとなくではなく自らも地獄のような鍛錬を積んでいた。出来たばかりの友達の誘いを断り、アスカが一時間で一日を過ごせる特別な場所にいようとも負けないだけの鍛錬を。

 

「っ! ……!?」

「ネギ説明」

 

 和美が頑張って何かを伝えようとしているが理解することを一瞬で放棄したアスカが近くにいたネギに説明を求めるその背中を、小太郎はありえてはいけない事実に気づいてしまっていた。ぐらり、と何かが傾き、ゆっくりと暗黒の坂を転がり始めたかのような衝撃に立ち尽くす。

 

「多分、ミライカメラによくないことが映ったんだと思う。僕達の所に来たということは魔法絡みのことだと思うけど」

 

 推測は出来ても原因までは流石に特定できないと、説明役のネギも困惑していた。

 ネギの言葉を千草が引き継ぐ 

 

「時間から考えて一度は女子寮に戻ったんやったら刹那の方に頼む方が速いやろ。わざわざここに来るには遠すぎる」

「…………または刹那さんも巻き込まれて助けを求められないのだとしたら」

「嫌な推測やな、あり得るだけに」

 

 言い難そうに口を開いたネカネの推測に、千草は世界一苦い物を食べたかのように顔を顰めた。

 アスカに縋りついている和美の反応を見れば、推測が当たっていることが分かってしまう。

 千草は選択を迫られる。迎撃か、防衛か――――――――――それとも別の方法か。いずれにしても時間はない。取れる方法も限られてくる。

 

「ここは麻帆良や。危険があるかもしれんからって勝手に動くわけにはいかん」

「では、どうするんですか?」 

「まずは学園長への連絡やな。これはうちがやる」

 

 というよりも、こういう報告事は事態を理解しており、年長者の方が望ましいから自分がやることになると千草は心の嘆息する。修学旅行といい、東西交流の為に留学して来た千草が関わることでない。それでもやることはやらねばならないと思うのは性分だろうか。

 

「朝倉のアーティファクトの能力を説明すれば、最低限の確認はしてくれるやろ。時期とメンバーからして何かが起こるのは女子寮やし、確認しに行った方がええな。ネギと小太郎はうちについてき。朝倉のことは頼むで、ネカネ」

「俺も行く」

「怪我人は来るなっちゅうても、その顔は無理をしてでも来るやろ、アスカ。ついてくんのはええけど、目の届く場所で大人しくしきや」

 

 方針は決まった。アスカが女子寮に向かうことにネカネは良い顔をしないが、千草が言うように無理をするぐらいなら周りに人がいる方が良いと判断して差し出して来た和美を受け取った。

 ネカネに支えられている和美が何度目かも分からない数の口を開けた。

 

「………っ、み………皆を助けて!」

 

 言葉が出た。アーティファクトの制限が解除された意味を認識するよりもアスカが急に顔を玄関に向けた。釣られて全員が玄関を見て、一瞬外で降りしきる雨が地面を叩く音が室内を支配する。

 

「え……?」

 

 ドクン、ドクンと何故か高まる心臓の音が雨の音を掻き消す様にネギの耳に木霊する。

 半開きの扉が外から吹いた風に押される様にゆっくりと開く。開かれた扉。その扉の遥か向こうに人がいた。人の現在地は天ヶ崎邸からさほど離れていない場所だ。それこそ五十メートルの位置に立っている。

 天ヶ崎邸は隣のスプリングフィールド邸やエヴァンジェリン邸と同じく街外れの郊外にある。滅多に人が訪れる場所ではなく、こんな時間と天気で誰もいない通路の真ん中に傘も差さずに佇む人影があった。

 雨で詳細ははっきりしないが、誰かがいると感じるのは人が直感的に察する気配から。

 人影はゆっくりと水溜りを踏みしめながら歩いてくる、天ヶ崎邸を目指して。何故、向かってくるのか誰にも分からなかったが天ヶ崎邸にいる全員が直感した。人影は天ヶ崎邸に用があるのだと。

 一歩ずつ確実に近づいてきていることで強い雨に遮られて見えなかった人影の詳細がはっきりとしてくる。黒いロングコートを身に纏い、鍔広の帽子を目深に被っている。かなり高身長の男性だ。間違いなく180㎝以上の長身、下手したらこの中では一番背の低いネギの倍はあるかもしれない。

 

(体が…………動かない)

 

 もしかしたら自分達になど用はなく、ただ歩いているだけだと思いたいネギだったが、防衛本能は何らかの行動を移そうとするとするが体は意思に反してピクリとも動いてくれない。そこから一歩として動くことが出来ない。

 男性が放つ異様な雰囲気、只者ではない事が一目で理解出来たために、動かない肉体とは別にネギの意識は自然と戦闘態勢へと移行する。

 

「やあ」

 

 無関係であってほしいというネギの小さな願いは叶えられることなく、男性は天ヶ崎邸の数メートル手前で歩みを止めた。帽子のお陰で表情を窺う事が出来ないが、見える髭を蓄えた口元をニヤリと笑みの形に歪に歪めて喜悦の感情に染まっていることだけは分かった。

 敵、だと全身が発した警報にネギが身を委ねるよりも早くその横を通って、もしくは前にいた人物が爆発するように床を蹴って跳ねるように飛び出した。飛び出したのは二人――――アスカと小太郎である。

 

「疾っ!」

 

 小太郎よりも玄関に近かったアスカが先に天ヶ崎邸を飛び出し、右手を振り上げて男に飛び掛かった。距離の違いはあるにせよ、同時に飛び出した小太郎を大きく引き離して老人の懐に一気に踏み込んだアスカは振りかぶった拳を放つ。

 近くで雷が落ちたかというほどの重低音が雨の音を消し去る。アスカの目の前を雨粒が落ちて行く。

 

「そら、こちらも行くぞ」

 

 拳を老人は身動ぎ一つせずに受け止めて薄く笑い、カウンターの要領で右ストレートを放つ。この一撃をアスカは持ち前の反射神経で反応し、左手で右ストレートを受け流した。言い様からして相手が自分のことを舐めているように見受けられる間に次の手を仕掛けようとする。

 

「ぐっ!?」

 

 しかし、それよりも早く男が瞬きもしない間に放った左の拳が咄嗟に傾けた頬の横を通過する。威力はそれほどでもなく擦過傷が出来た痛みに顔を顰める程度。アスカの眼は男が構えるのを捉えている。相手の体勢を崩しつつ、男は本命の右拳を構えていた。

 本命に備えようにも、次いで放たれたジャブとでも言うべき左の追撃がバランスを崩す。

 男の攻撃は一発に終わらず、素早い左の連打。アスカは手だけで捌き切り、拳を右手の掌で受け止める。パン、と気持ちが良いとさえ思える音を響かせる男のパンチに、アスカは自らの失策を悟った。本命の右拳への備えを怠ったのである。

 

「良い反応だ――――だが、こっちもあるぞ」

 

 下から掬い上げるように放たれる右アッパーの射線上に辛うじて腕を割り込ませる。来ると分かっていながらも防ぐことしか出来なかった重い一撃によって身体を衝撃が貫き、体が宙に浮く。

 

「しまっ」

 

 無防備な体を晒してしまうことを悔やむ暇もなく、ぎゅるっと男が右足を起点に回る。

 冷静に宙に浮くアスカを観察し、回転力を付加された回し蹴りをアスカの防御した腕ごと蹴り飛ばした。空中であったこともあり勢いを殺すこともできずに蹴り飛ばされる。

 アスカの眼前を通過した雨粒が地面へとようやく落ちる。

 

「「「「「「次は俺や!!」」」」」」

 

 蹴り飛ばされたアスカと入れ替わるように無数に増えた小太郎が男に向かって突っ込む。

 

「おお、それが影分身という東洋の神秘かね」

 

 男の表情が驚愕に彩られたのは、向かってきた小太郎が六人に増えたという点。なんと小太郎は空中で六人に分裂したのだ。多角方向からの攻撃、六人の小太郎を相手にしても男は揺るがない。

 

「しかし、所詮はそれだけだ。数が増えようが君の強さは変わらない」

 

 入れ代わり立ち代り、自身に向かって上段の蹴りや顎狙いの突き、左から蹴り、右からフック、正面から打撃の嵐が繰り出されても冷静に捌いている。

 通常の分身と違い、全てがある程度本物に近い能力を持った実体である。その分身体が一斉に襲い掛かっては普通なら対処が出来るはずがない。男の腕が二つしかない以上、全ての攻撃を捌き切ることは不可能。

 不可能を可能にするとしたら、それは男の実力が小太郎を遥かに上回る時だけ。

 

「マジックショーがやりたいのならば、相応の場所でやりたまえ」

 

 男の左手が消えた。同時に五体の分身が掻き消え、残った一体が殴打されたように体を揺らす。

 

「君が本体か」

「ぐあっ!?」

 

 さっきのアスカと同じく空中に身を曝した小太郎へと男が放った右ストレートが鳩尾に決まった。

 殴り飛ばされた小太郎を、先に蹴り飛ばされて天ヶ崎邸のロフトに足から着地していたアスカが受け止める。

 

「きゃああ!?」

 

 突然、始まった暴力劇に驚く暇も無く、部屋の奥にいる和美の口から悲鳴が上がる。彼女を真っ白な顔色のネカネが奥の部屋へと引っ張っていく。

 

「無事か、小太郎」

「ちっ。強いわ、このおっさん」

 

 先の一撃をなんともなさそうなアスカから下りて、唇の端から流れる血を拭いながら小太郎も認めずにはいられなかった。

 男は小太郎の評価に帽子の鍔を微かに上げて、楽しそうにニヤリと笑った。

 

「うむ、素晴らしい。二人とも幼さの割に非常に筋がいい。私も楽しめたよ」

 

 構えを取ることもなく立っている男は、帽子の鍔越しに二人を明らかな格下相手と見ていた。

 

「なんやって?」

「待ちい、小太郎」

 

 こちらを簡単に倒せると思っている傲慢、子供扱いされた苛立ち、負けず嫌いな小太郎はヘルマンの言いようにカチンとさせられて、更に向かって行こうとしたところを千草が止める。

 玄関から出て来た千草は二人の後ろに立ち、男を見据える。ネカネと和美は玄関を出る時に部屋の奥に下がらせた。ネギは二人を守る最終防衛ラインで、千草の背に隠れるようにして携帯電話で学園長に連絡を入れてもらっている。千草がするべきことは、この男の目的を明らかにすること。

 

「こんな辺鄙な場所に何の用や、爺さん。この子らが喧嘩を売ったのは悪い思うけど、初対面にしてはえらいやることが物騒やないか」

「これは失礼した。私も些か興奮していたようだ。無礼は謝ろう」

「謝らんでええから去ねや。うちらは忙しいねん。喧嘩の相手が欲しかったら他を探し」

 

 これ以上は言うことはないと千草は胸の下で組んだ腕が振るえない様に強く握り、小太郎を抑えてくれているアスカに感謝していた。

 

「そうはいかない。こちらにも事情があってね」

「なんでうちらがあんさんの事情に付き合わなあかんねん」

 

 このまま引き下がってくれれば恩の字。しかし、千草の頭脳はその可能性が限りなく低いことを予測していた。和美の緊急の訪問と合わせるように現れた男、両者を結び付けるのは容易い。

 

「君達の生徒六人を誘拐させてもらった、と言えば私の事情に付き合ってくれるかね」

 

 最悪の推測が当たってしまったことに、予想を立てていても千草は表情を顰めるのを止めることが出来なかった。背後のネギが動揺したのが分かり、視線の先の男に和服の袖でネギが見えないようにするために両腕をゆっくりと開いて大袈裟なリアクションを取る。アスカが僅かに目を見開いただけで抑えていられるのは不思議だったが、今は目の前の誘拐犯の方を優先する。

 

「…………何が目的や? 身代金か? なんにしろ中学生を誘拐するやなんて最低やな」

「そんな俗な物ではないよ。私はこう見えても召喚された悪魔でね。雇われの身であるからして仕事は選べない」

「はん、望んだ仕事やない言う割には楽しそうやないけ」

「悪魔であるから他者が苦しんでいるところを見るのは何よりの喜びなのだよ。性分は消せないものだ」

 

 クツクツ、と笑って言われても嫌々やっているようには見えない。千草は男が自分の嫌いなタイプであることを認識して、心底から関わり合いになりたくないという感情で目付きが鋭くなるのが自覚できた。

 男は千草が機嫌を害しているのを感じ取り、笑みを収めて少年達を順に見ていく。

 

「さて、戯言はここまでにしておこうか。ふざけ過ぎて女性を怒らせるのは紳士足り得ない」

「子供を攫っといてどの口が紳士なんてほざいとんのや」

 

 ニヤリと男は笑って応えず、視線をずらして注意深く観察する眼を向けて来るアスカで止めた。

 

「お前は、誰だ?」

 

 アスカは今も痺れるのだろうか、攻撃を防御した腕の掌を何度も握ったり開いたりしながら記憶を思い返す様に眉尻をきつくし、男を睨み付けながら問いかけた。その問いに男は傍から見ても分かるほど喜悦を露わにする。

 

「問われたのならば名乗ろう」

 

 雨の中であっても気にせずに帽子を取った男が優雅に一礼する。露わになった顔は、年の方は定かではないが白に染まった髪と髭も相まって外見は高年齢に見える。しかし、老人といってもその体つきはガッシリとしており、動作に老いを感じさせない。

 

「我が名はヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマン伯爵。伯爵などと言ってるが没落貴族でね。まあ、これは今は関係ない。簡潔に言おう――――私は、君達の敵だ」

 

 顔を上げた男――――ヘルマンは帽子を被り直すことで表情を隠し、その真意を欠片も覗かせない。

 

「今から三十分後、学園中央の巨木の下にあるステージにて待つ。要求は大したことはない。人質を無事返して欲しくば、スプリングフィールド兄弟のみで来て、私を一勝負と行い、見事に打倒して見せ給え」

 

 言いながらも男の足下から粘性の高い水のような液体が絡み付くように伸びる。

 

「そうそう、人質の身を案じるなら助けを請うのも控えるのが賢明だと思うがね」

「あっ、待ちぃ!」

 

 一瞬の動揺の隙をついて、そう言い残すと一方的な要求に戸惑いと怒りを感じる千草達の前で、巻きあがった水は男を下に引っ張るように、足元にあった水溜りへと消えて行った。

 千草の制止の言葉はその場には届かずに水溜りだけが残った。

 

「くっ……」

 

 相手の言葉に動揺を誘われたとはいえ、何もできなかった千草は歯噛みする。まだ男の言うことが真実だという確証は無いので、事実を確認するために急いで少女達がいるはずの女子寮へ向けて向かおうと考え…………。

 

『成程のう。敵の目的はそういうことじゃったか』

 

 千草の背後から聞き覚えのある声がした。振り返ってもそこにいるのは嗄れ声の持ち主ではなく、まだ声変わりもしていないネギしかいない。千草とてネギが発した声とは思っていない。そもそも声自体が違う。声の発生源はネギが持つ携帯電話である。

 

「その言い方やと、そっちでもなんか起きとんのか学園長」

『面倒事じゃよ、格別のな』

 

 千草の問いに電話の主――――近衛近右衛門は疲れたように電話の向こうで深い溜息を吐いた。

 雨の音にも負けずに不思議と鮮明に声が聞こえるのは何らかの魔法を使っているからだろう。違和感を感じさせない自然さは学園長の魔法の腕が非凡であることを示していた。

 

『少し前に先程の声の男――――ヘルマンは儂の目の前に現れ、木乃香を人質に取ったとわざわざ宣言に来おったよ。さっき言ったようにアスカ君とネギ君以外が所定の場所に現れた場合、そして儂が学園長室から一歩でも動けば人質達の命の保証はしないとな』

「他にもなんか言われたんとちゃうか? 学園長ほどのお人が何の策も打たんわけがない」

 

 疲れた口振りから放たれる学園長の言葉は現在進行形で異変が起き続けていることを示していた。千草はその辺を突いてみた。

 

『…………封魔の瓶という物を麻帆良学園のあちこちに仕掛けられた。発見された封魔の瓶の中には低位とはいえ魔物が封印されており、何時封印が解けてもおかしくない状況にされておる』

「つまり、人質は女生徒六人だけではなく、この麻帆良学園にいる全員だと?』

 

 学園長が開示した情報に、聡いネギはその意味を逸早く気づいて戦慄した。

 ただの人間には低位とはいえ、魔物は十分な脅威である。あちこちに仕掛けられたというなら一つや二つではないはず。麻帆良学園のあちこちに仕掛けたというなら広範囲に渡り、麻帆良学園都市にいる全ての人間が無自覚の人質となる。

 

『現在、回収に成功したのが五つ。間に合わずに封印が解けたのは一つ。そっちは被害が出る前に再封印と出現した魔物の討伐に成功しておるが、正直こちらも人手が足らん状況じゃ。手を貸すことは申し訳ないが出来ん』

 

 ヘルマンが親切に封魔の瓶を置いてある場所を教えてくれるはずもなく、探す労力と回収と再封印の手間で人がかかる。どれだけの数があるかも分からず、目の前の事案に全力を注がなければ犠牲者が出る。

 たった六人と学園都市全ての住民の命。トップたる学園長がどちらを選ばなければならないかは自明の理。

 

「アイツの目的は何か知らないが、俺達との勝負を望んでるなら乗ってやる」

 

 命の天秤を左右する者――――ヘルマンとの対決をアスカは望むところだと胸張って請け負った。

 

「僕達がみんなを助けます」

 

 アスカに並び立つは双翼たるネギの役目。呼び出した父の杖を手に握り、決意も高く宣言する。

 

『すまんが、頼むぞい』

 

 言葉少な気に学園長は通話を切った。直後、通話が遮断されたように何も聞こえなくなった。もしかしたら敵によって学園長室に何らかの魔法的処置が行われたのかもしれない。

 

「行くぞ、ネギ」

「うん」

「おいおい、俺を忘れとんやないで。あの野郎には舐められた仇を返さなあかんのやからな」

 

 たった二人で敵地に向かおうとするアスカ達を、小太郎が止める。彼もまたこの事態にふんぞり返っていられるほど呑気な性格をしていない。彼らしく義憤に燃えていた。

 小太郎の参戦表明にネギが嬉しいような困ったような複雑な表情を浮かべる。

 

「でも、あの悪魔は僕達だけで来いって」

「そこはやり様や。うちに案がある。奴さんは三十分後っていう作戦の時間をくれたんや。直にアーニャとエヴァンジェリンも別荘から出てくる。時間は有効に使おうやないか」

 

 悪魔と同じ土俵に上がる必要はない。千草は悪魔よりも悪魔らしい笑みを浮かべて、逸る少年達を天ヶ崎邸へと押し込む。

 長い夜は、まだまだ始まったばかりなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 学園中央にある世界樹が雄大な姿を見せている広場。残り三ヵ月を切った学園祭『麻帆良祭』に向けて、大学部にあるライブなどに使われる野外ステージには、雨が絶え間なく降り続いていた。

 降りしきる風雨と遠くで鳴り響く雷の稲光によって満たされた空間で、囚われていた一人の少女が不意に目を覚ました。

 

「ん、アレ? ここは?」

 

 囚われた一人の少女―――――神楽坂明日菜の瞼がゆっくりと開く。混濁していた意識が覚醒し始め、妙に重い瞼を擦ろうと手を動かそうとするが動かない。顔を顰めてぼやける視界が正常に戻ると、状況を把握するより先にそれが目に入った。

 

「ここって、学祭で使う大学部にあるステージ?」

 

 眼を覚ました明日菜が周囲を見渡すと目の前に広がる見覚えのある光景が広がる。

 学祭当日のライブの時には満員になるだろう客席は、学祭前である時期・夜中といってもいい時間・風雷雨が降りしきる悪天候、これだけの状況が重なっては誰もいるはずがない。

 激しく降る雨が地面を叩くが辺りに響き渡るステージ上で、明日菜は目を覚ました。両腕は頭上の屋根から伸びたツルのようなものに拘束されているが、何時までも悠長に観察している場合ではない事に気づいた。

 

「…………って、きゃああ――――っ!! なな何よこの格好は――――っ!」

 

 まだ五月も中旬から下旬にかけた時期は、夏が近づいているといっても薄着でいるには寒い季節。

 幾ら外にいるといっても屋根のあるステージ上にいて雨に濡れていないのに、妙に風や地面に跳ねた雨が体に直接当たる気がして見下ろすと、ビスチェと呼ばれるようなものだろうか。要するに明日菜の主観ではエッチな下着を着させられていた。記憶にない、金持ちのお嬢さんの下着を着させられた自分の格好に気付いて声を上げる。しかも、なぜか首からはペンダントがかけられている。

 状況を理解できずに混乱冷めあらぬ彼女に、笑い声を浮かべながら老紳士が姿を現した。

 

「ハッハッハ、お目覚めかね、お嬢さん」

「誰!?」

 

 恥ずかしさから薄らと眼の端に涙を浮かべながら隣から声が聞こえてきて、明日菜がそっちを向くと目の前には初老の紳士が立っていた。

 黒の長いコートを着て、黒の手袋、黒のブーツと全身黒一色。黒のつばの広い帽子をかぶった老人が、女子寮に侵入して明日菜をねじ伏せたヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマン伯爵がそこにいる。

 

「囚われのお姫様がパジャマ姿では雰囲気も出ないかと思ってね。少し趣向を凝らさせてもらったよ」

「そんな趣向はいらんわこのエロジジィ――ッ!」

「ろも"っ」

 

 喋り方・表情・動作の全てが紳士然としている癖にやっていることは、ただのエロ爺。圧倒的な力でねじ伏せ、人を攫った者がやることではない。明日菜が透明の蔦のような物に両手を上から固定されているのを利用し、羞恥から来る激怒に身を任せて勢いをつけつつヘルマンの顔面を力の限り蹴り飛ばした。

 両手が使えない状態ながら何とか自由の効く足でヘルマンの頬に強烈なキックをお見舞いする明日菜は、『囚われの姫君』で収まるには元気がありすぎるようであった。

 

「いやいや、最近の若者は軟弱になったと聞いていたが、彼らの仲間は生きが良いのが多くて嬉しいね」

 

 羞恥の収まりがつかずに追撃を加えようとした明日菜の動きが止まった。口調、表情共に柔らかいものがあるのだが、目だけが冷やかで自分を観察していることに気付いたからだ。

 気取って楽しそうに笑みを浮かべて言いながら、グローブに包まれた右手で折れて血が流れ落ちている鼻をゴキゴキと治すのを見て明日菜は声を無くした。無意識に気が込められていた蹴りは、避けも躱しもしなかったヘルマンの鼻を容易く折った。普段の明日菜なら泣いて謝罪する場面だが別の感情を抱いていた。

 

「なによ、アンタ。なんなのよ」

 

 恐ろしい、怖い、と。普通の人間であるならば痛みに泣き叫ぶか、成した明日菜を罵倒するか、表現の違いはあれど本質は似通ってくる。なのに、ヘルマンが表した感情はその何とも違う。それが恐ろしいと、怖いと熱した明日菜の感情を一気に冷まし、逆に冷静にさせてしまうものだった。

 気がつくと明日菜は小刻みに震えていた。本能的な恐怖に支配され、足が竦んでいる。

 

「ふふ、勘の鋭い子だ。好みだよ、君のような子は」

 

 明日菜が自らを警戒していることを見て取るとヘルマンは笑みを深める。それにより目つきも優しげなものに変わったのだが、明日菜は警戒を解くことはできなかった。逆に恐ろしいと、恐怖に震える心胆を押さえつける。

 不安がるように鼓動は速度を増し首筋の辺りを伝う雨とは違った冷汗が止まらない。分からない。なんだ、この気持ち悪い感覚は。修学旅行で僅かなりとも感じ取った実戦の空気とも違う。背筋をヌメヌメと蛞蝓が這い回るような異様な雰囲気。その雰囲気の名に至るよりも早く、明日菜を呼ぶ声がした。

 

「明日菜―――ッ!」「明日菜さん!!」

「!?」

「ああ、彼女達は私が用意した観客だよ」

 

 警戒心を露にヘルマンを睨んでいた明日菜は自分の背後、学祭で使うステージの奥の方から自分を呼ぶ聞き覚えのある声が聞こえ、拘束されている体を捻って後ろに振り向いた。

 

「こっちこっち、明日菜―――!」

 

 後ろから聞こえた声に振り返ると、半球状・半透明な物体が幾つか鎮座しており、中に見知った顔が閉じ込められていた。最も大きい水玉の中には、部屋にいた時の格好そのまま近衛木乃香や何故か裸の綾瀬夕映・古菲・宮崎のどかの姿がある。

 

「コラ―、エロ男爵!!」

「ここから出すアルヨー!」

 

 水らしき球体のドームの中でその壁を叩いている木乃香。物知らずにもヘルマンを罵倒しているのは上から夕映と古菲。

 

「みんな!?」

「彼女らは全て招待させてもらった。囚われの姫は多い方が映えるのでね」

 

 自分程には拘束されていないようだが同じように捕まったらしい級友達の姿に首だけを後ろに向けて叫ぶ。何故か木乃香以外はみんな全裸だったが。

 

「刹那さん!?」

 

 木乃香たちから少し離れたところで正反対の場所に、水球に入れられた見覚えのある級友の姿を見ると絶句した。

 木乃香達から見て向かって左側に、危険視されているのか水球の中で手足を縛られた刹那が浮かんでいた。意識が無いのか、眠らされたのか分からないが、目を硬く閉じた状態でピクリとも微動だにしない。

 

「退魔師の少女は危険なので眠ってもらっている。怪我一つさせていないから安心してくれたまえ」

 

 真ん中には水球のドームの中に服を着た木乃香と裸の古菲・夕映・のどかの四人。向かって左側に意識はないが普通の格好をしているものの両手足を縛られた刹那。自分も含めれば六人の少女達が捕まったということになる。

 明日菜には懸命に状況を冷静に分析しようと試みるも、事態を正確に飲み込めというほうが無理だろう。

 自分の腕を拘束している水の蔦はどれだけ力を込めようとも解けない。この面子の中で最強戦力である刹那は眠らされており、例え目覚めたとしても厳重に拘束されているので戦力にはなりそうにない。他に戦力になりそうなのは自分を除けば古菲ぐらいだろうが、言いたくは無いが武術と身体能力を発揮できない今の状態では他の少女達と大差ない。

 目の前にいる黒服の老人が放つ人ならざる雰囲気は紛うことなき強大な敵であることを予感させた。これが示すものはつまり、自分達だけで逃げることはほぼ不可能だということ。

 

「そ、そっちのみんなは何で素っ裸なの?」

 

 余裕を見せるヘルマンの笑みに腹立たしさを感じながらも脱出の為の糸口にと、木乃香以外が裸の理由を問いかけた。

 

「風呂場で襲われたんです!」

「文句はそのおっさんに言うアル!!」

 

 入浴場で攫われたというなら、明日菜をパジャマから下着に着替えさせるぐらいならば彼女達に何か着せた方が良かったのではないだろうかと疑問が脳裏を過る。

 

「流石に彼女達の服までは用意できなくてね。勘弁してくれたまえ」

 

 明日菜みたいに下着みたいなのを用意できたら着せたのだろうか。疑問は絶えない。

 

「なーなー、そこのおチビちゃん達!」

「こ、ここから出して―――」

「一般人が興味半分に足を突っ込むからこーゆー目に遭うンダゼ」

 

 膝をついて水球の壁を叩く木乃香とのどかは自分達を見張る三人の少女達相手に懇願するも、少女達がヘルマンよりも組しやすいと見たスライム達こそが水牢を作ったのであり、それに応えることなどするはずも無く、一見して可愛らしい見た目の彼女たちの返答はやはり辛酸なものであった。

 

「あうぅ」

「ム……」

 

 丸眼鏡をかけたあめ子、勝気そうなすらむぃに溶かして喰われないだけ在り難いのだと次々に脅され、大浴場に行く前に危惧していた通りの展開の正鵠を射た発言に言い返せずに夕映とのどかが押し黙る。

 

「ま、この水牢を中から破るには「すらむぃ、余計なことは言わなくてもいい」―――分かったヨ」

 

 三人のスライム少女たちが作った特製水牢。内からでは物理攻撃によって破られることはまずない強度がある。これを中から破るには、強力な魔法を用いらねばならない。

 彼女たちを嘲って中から出られる手段を言いかけたすらむぃをヘルマンが遮る。流石に言い過ぎた自覚があるのかすらむぃも大人しく頷いて木乃香達の傍から離れていく。最後の一体、長すぎる髪を床に垂らしたぷりんは最後まで無言だった。

 

「こんなことして、何が目的なのよ!」

「なに、大したことではない。仕事でね。『学園の調査』が主な目的だが…………」

 

 ここまで持って回る老人に激昂する明日菜だが、ヘルマンは特に隠し立てせず、事も無げに答えて白日の下へと曝け出した。

 

「『アスカ・スプリングフィールド』と『ネギ・スプリングフィールド』、そして君……………………『カグラザカアスナ』が今後どの程度の脅威となるかの調査も、依頼内容に含まれている」

「え…………わ、私!? ど、どういうことよ!!」

 

 木乃香も囚われている事からまた京都の時のように木乃香を狙った敵かと思っていた明日菜だったが思いもよらない言葉に驚く。『英雄の息子』に襲い掛かる脅威を知ったばかりなのでネギやアスカなら納得出来なくも無い。

 あくまで一般人である自分が脅威などと何を言っているのだ、と自らの名が出たことに明日菜は混乱した。ヘルマンの言葉に明日菜は戸惑うばかり。

 

「ふむ、来たようだ」

 

 彼女の戸惑いが手に取るように分かるヘルマンは説明を続けようとせず、ふと上空を見上げた。

 明日菜も釣られてヘルマンが見上げた先に雨雲を見上げると、強化をしなくても異常な視力を誇る彼女の視線の先に杖に跨ったネギと、生身で飛ぶアスカが一緒にこちらへ向かってくるのが見えた。

 

「ただ―――――ネギ君とアスカ君に対して個人的な思い入れがあるが、特にアスカ君には思うところがあってね。あの年齢では私を一瞬とはいえ欺いた技術と咄嗟の判断力を見せた。あの時からどれだけ使える(・・・)少年に成長したかは私自身、非常に楽しみだ」

「え……?」

 

 言葉尻からネギとアスカ―――――明らかにアスカと何かがあった台詞を聞いて明日菜の視線が下がって再びヘルマンを捉える。

 彼女の目には左手で軽く帽子をヘルマンの後姿しか見えなかったが、発する雰囲気が「嬉」に近いことは察しがついた。だが、それは長年会えなかった友と再会を喜ぶような感じではない。最も別の異なる何か。明日菜の中で目の前の老人とアスカを絶対に会わせてはいけないと嫌な予感が広がり始めていた。

 

「いた!! あそこだ!!」

 

 杖に跨って空を飛んで指定した戦いの場所へと向かっていたネギとアスカは、上空からヘルマンと明日菜の姿を確認した。

 降りしきる雨やステージの屋根で遮られて後ろの少女達までは確認できないが、ヘルマンと明日菜の姿だけは遠目ながらも確認できた。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル 風の精霊17人 縛鎖となって敵を捕らえろ!」

 

 二人の姿を視認したネギは、隣を飛ぶアスカと視線を合わせて先制攻撃だとばかりに魔法の詠唱を開始する。

 間違っても明日菜を傷つけないように、その魔法は攻撃ではなく捕縛を目的としたもの。

 

「魔法の射手・戒めの風矢!!」

 

 明日菜の場所からでもネギの魔法がヘルマンに向けて飛んでくるのが見えた。

 弱ければ捕縛の魔法にかかり、強いのならばなんらかの対処をする。

 牽制を第一に、対処の仕方の一つをとっても千差万別。アスカが何もしないのはヘルマンの対応から実力を図り、少しでも敵の情報を得ようとしているのだろうとヘルマンは当たりをつけた。

 時間の指定をして待っていると告げただけで、攻撃をしてはならないと言っていない。

 

「捕縛系の魔法で私の反応を見ようというのか。思いきりの良い選択だ」

 

 唇を笑みの形にして慌てず騒がず一歩も動かずに、敢えて放たれた魔法の迎撃はせず右手を前に翳した。

 

「まずはその選択を挫くことから始めようか」

 

 たったそれだけ、後少しでヘルマンに当たると思われたネギの魔法が何かの壁に消されるように掻き消えた。

 

「!? あうっ!」

 

 それと同時に明日菜の首にかけられたペンダントが光り輝いて、彼女に少しだけ電気が走ったみたいな痛みを与える。

 

「弾かれた!?」

「いや、何かに掻き消されたっぽいな」

 

 他の誰にも分からない明日菜自身にしか分からない痛みに顔を顰めていると、どういう訳か魔法の射手だけがまるで何事もなかったかのように掻き消えることに驚愕しつつ、二人がステージから離れた客席に着地した。

 

「みんなを返してください!」

 

 ステージの周りにある円状に配置された客席の一番上に降り立ったネギが叫んだ。

 隣のアスカは、彼らしくもない冷静さで囚われた少女達を見る。

 ステージ中央に囚われている明日菜ばかりに目がいくが、背後にも別の方法で囚われる少女達の姿が目に入った。ただ中にいる人間の意識はあるようで、水牢の壁を必死に叩いて助けを呼んでいる。

 

「ようこそ、私が主催した恐怖劇(グラン・ギニョール)へ来てくれた。歓迎するよ、アスカ君、ネギ君」

 

 囚われた少女達の前に立つヘルマンが悠然と一礼する。

 

「来たくて来たわけじゃない。こんなことをする目的はなんだ?」

 

 声に怒りを隠しきれていないアスカが一歩前に出て、ヘルマンに向かって真意を問いつめる。

 ネギは叫びを上げかけたところでアスカの横顔が視界に入ったことで、自らが頭に血を上らせていることに気が付いた。

 責任感の強い性分であるために、人質にされている木乃香達を見て、自分達が巻き込んでしまったという気持ちと守ってあげられなかったという不甲斐なさを感じていた。この状況で冷静さを失うのは致命的。

 交渉はアスカに任せることにして、ネギは状況の把握に努めた。

 

「いや、手荒な真似をして悪かった、アスカ君。人質でも取らねば、この平和な時代と場所で悪魔たる私が君達と闘う場を作れなくてね」

 

 悠然と構えてステージから場所からネギを見上げ、窘めるような口調で言葉を返すヘルマンは「全く以て情けない限りだ」と続ける。

 

「私はただ、君達の実力が知りたいだけだ。私を倒すことが出来たら彼女達は返す、条件はそれだけだ」

「む……」

「簡単なものだろう。勝者は得て、敗者は失う。世の鉄則だ」

 

 真意を話す気はないと暗に告げて、ヘルマンはアスカを見据えた。

 

「これ以上、話すことは無い。聞きたければ私を倒し、屈伏させてみたまえ」

「………………いいだろう、やってやる」

 

 条件は本当に至極単純。これ以上シンプルな解決法は無い。

 小難しいことを考えることを放棄したように見えるアスカは提示された条件に渋々ながらに頷いた。

 

「ネギ」

「分かってる。フォローは任せて」

 

 二人のバトルスタイルは確立されており、ペアを組んで戦う時はアスカが前衛・ネギが後衛を担う。

 既定の事実に頷きながら杖を構えたネギを見たアスカは、大きくジャンプして観客席の中段に着地する。

 

「来いよ」

「残念ながらこちらは既に動いているよ」

 

 特に構えを取るでもなく言ったアスカに、ヘルマンはグローブのつけた左手の親指と中指を弾いて何かの合図を出した。合図に呼応するように、足元の水溜りから突如として少女の姿をした三人組が現れてアスカに襲い掛かる。

 背後からすらむぃとあめ子が背後から迫り、二人に気を取られた瞬間に足下に現れた長い髪のぷりんがスライムの特性を活かし、腕を長く伸ばして足を搦め取ろうとする。

 

「しゃらくせぇ!!」

 

 アスカはその場で前転宙返りをして、ぷりんの接触とすらむぃとあめ子の強烈なキックを躱す。

 下げた頭の後ろを通過して足が前にきたところで踵落しの要領で、蹴りを放った直後のすらむぃとあめ子の背中を蹴り飛ばす。

 

「「うおっ!?」」

 

 すらむぃとあめ子は背中を襲った蹴りに最下段まで蹴飛ばされ、遅れてぷりんもやってきた。こちらはネギが放った低空からの魔法の射手に受けたことによるものだ。

 蹴り飛ばしてからアスカはスライム三人娘の存在に気づいたように目を瞬かせた。

 

「なんだ、アイツら?」

「スライムじゃないの。四肢が伸びてたし」

「イメージと全然違うじゃないか。スライムってのは、こうタマネギっぽい形のやつだろ」

「ゲームと現実を一緒にしたら駄目だよ」

 

 アスカが思い描いているのはゲームに出てくるような典型的なタイプで、ネギは苦笑しながら訂正する。かくいうネギも魔物図鑑で見聞きしただけでなので、軟体動物染みた少女達とイメージとの違いにちょっと驚いていた。

 

「で、どう? 戦える?」

「軟体動物っぽいだけだ。手応えは大したことない」

「女の子っぽい外見だからって聞きたかったんだけど、ま、いっか」

 

 完全に戦闘モードに入っているアスカに、聞きたかったことの本質がずれていたが戦えるならば問題ない。元より殴ると決めれば男女平等に殴り飛ばすアスカである。気にしたところで仕方ないと気持ちを新たにして杖を構える。

 

「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル 戦いの歌!」

 

 反撃とばかりに最下段から飛んで向かってくる三体のスライムを見遣り、アスカが【戦いの歌】という魔法を発動させた。

 【戦いの歌】は魔法使いが白兵戦に臨む際に使用される完成度の高い魔法。魔法使いの体は、持続性の高い対物魔法障壁によって保護され、また、筋肉の収縮力は、パワー・スピード・筋持久力の全てにおいて、飛躍的に向上する。そして、こういった超人的な筋肉の収縮による術者自らの肉体の破壊(肉離れや捻挫、腱の断裂など)を防ぐため、筋や腱の伸張力もまた高められる。また、筋の運動を支配する神経系の興奮が適度に高められ、運動における術者の反応速度が極めて高くなる。

 

「おお!」

 

 迎え撃つとばかりに飛んだアスカは、先頭にいたメガネをかけたあめ子に強烈な右ストレートを叩きこんで、後ろにいたロングヘアーのぷりんもろとも後方に吹き飛ばした。

 残ったすらむぃが空中で身を切り返して、攻撃を放ったばかりのアスカを強襲する。

「見えてんぜ」

 

 スライムの特性を活かして鞭のように撓らせて放たれた左腕の攻撃を受け流し、形を崩して振るわれた右腕の攻撃を左手で冷静に受ける。

 

「お」

 

 受けた右手が変形しながら左手に絡みついていくのを見ても焦らず、冷静に右掌打を顔に放って追撃を狙っていたすらむぃの狙いを阻んだ。

 

「アバ!?」

 

 掌打事態に大した打撃力は無かったようだが、無詠唱による雷の魔法の射手が込められていて、バチィッと何かが弾けたようにすらむぃの体が悲鳴と共に吹き飛ぶ。

 

「へっ、一矢の魔法の射手しか撃てないような奴の魔法なんて効かなイッ」

 

 定型を持たないスライムは魔法の射手程度では何ともない。

 スライムは、元々アメーバ状の決まった形を持たない生物なので、物理的なダメージは効果が無い。斬り裂こうが、叩き、すり潰しても直ぐにつながるのであまり意味はない。即座に斬られた分がつながる。

 幾ら実体がないといっても、それにだって程度というものがある。己を構成する全てが消滅しても存在できるなら真祖の吸血鬼並みに危険視されている。スライムが危険視されていないのは一定のダメージを受ければ破壊されることが周知されているから。例えば炎系魔法による蒸発等、魔法を使えば意外と簡単に倒すことが出来るのだ、スライムは。

 アスカはスライムの特性を知らないし、理解しているわけではない。だが、どうすれば倒せるかを本能で感じ取る。

 

「古いぜ、その情報――――――フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル」

 

 すらむぃは、というよりヘルマン達はアスカ達の情報を調べていたのだろう。確かにアスカは魔法の射手、それも一矢しか使えない未熟者だった。しかし、もうその情報は過去の物である。

 

「来れ、虚空の雷、薙ぎ払え」

「ゲッ!?」

 

 奏でられる詠唱は雷系の上位古代語魔法のもの。すらむぃもこれから放たれる魔法が自分に当たればどうなるか理解して回避動作に移ろうとするが、雷の魔法特性によって痺れていて果たせない。

 

「助け――」

 

 ぷりんとあめ子に助けを求めようと、動く目だけを仲間に向けるとそこにいたのはネギが放った『紫炎の捕らえ手』によって身動きが取れなくなっている仲間の姿。

 親玉であるヘルマンはスライム三人娘達が劣勢になろうとも焦りの表情は無く、冷静に二人の実力を見極めようとする冷淡な眼だけがあった。

 

「雷の斧ッ!!!」

 

 魔法名が唱えられると、すらむぃの命を刈り取る巨大な雷の斧が振り下ろされる。

 すらむぃが最後に見たものは、視界を一杯に染める死神の刃だった。

 

「すらむぃ!」

 

 降っている雨を集めて内側から『紫炎の捕らえ手』を破ろうとしていたあめ子が、すらむぃの危機に咄嗟に叫びながら飛び出そうとしたが既に時は遅し。

 雷の斧がすらむぃを襲い覆い隠した直後、この夜で最も大きな爆発とガラスが割れるような音が響き渡った。

 圧する爆発によってすらむぃの存在を誰も確認出来ない。

 余波によって蒸発した雨の水蒸気にによって視界が遮られる。風はないが雨によって粉塵が晴れるのは通常よりも早い。回避不可能な状態だったすらむぃの安否が気になるあめ子とぷりんにとって、その僅かな時間こそがどんな時よりも長い時間だった。

 雨で洗い流されるように粉塵が晴れていく。粉塵が晴れた先には何もなかった。

 断末魔の声すら上げられずにすらむぃは跡形もなく消滅した。後に残るのは余波によって蒸発した雨の水蒸気だけ。勿論、核を完全に破壊された以上は再生など不可能。驚くほど呆気なく消滅した。

 

「――――――炎を纏いて吹きすさべ東洋の嵐」

 

 すらむぃの死を悲しむ暇もなく、ぷりんとあめ子にも死の気配が迫っていた。

 ネギが二体に向けて杖を向けている。既に魔法の詠唱は済んでいた。

 

「炎の暴風っ!!」

「クソッ!?」

「逃げるです!!」

 

 ネギが放った『雷の暴風』と同系統の魔法である炎熱の大嵐が、その牙も露わに二体に襲い掛かる。

 二体は仲間の死を悲しむ間もなく、檻のように捕らえている『紫炎の捕らえ手』に自ら突っ込んで場合によっては核を直撃する可能性があっても囲いから脱出する選択を選ぶ。

 水分で出来ている肉体が蒸発し、体面積を著しく減少させられたことを憤れはしない。炎の暴風は紫炎の捕らえ手を呑み込み、直進して観客席に着弾してダイナマイトが爆発したかのような衝撃を辺りに散らせる。

 スライム二体はダメージが大きく、炎の暴風が着弾した衝撃がステージに広がっている中で動ける者はいない――――アスカを除いて。

 

「――――来るかね」

 

 一直線に向かってくるアスカに対するように、ヘルマンが右手右足を前に少し腰を落として構えを取るのを敵意の視線で見据える。

 後少しでヘルマンの間合いに入るというところで、アスカが頭を斜めに傾けた。炎の暴風を放った後に直ぐに別の詠唱を始めていたネギの次なる一手が魔法名が唱えられる。

 

「紅き焔!」

「ぬ……」

 

 ヘルマンがネギが放つ紅き焔に気を取られた瞬間、アスカがギリギリまで残していた上体を動かして一気に側面に滑り込む。ヘルマンの視界からは、アスカの姿が消えたかのように映っただろう。一連の動きは水が流れ落ちるように自然に成された。

 

「あくまで人質の奪還を優先するか」

 

 ヘルマンの脇を通り抜けようとしたアスカの背筋に悪寒が走る。

 防御の構えを取る訳でもなく、寧ろこれを待っていたかのように無防備に紅き焔を無視してアスカに向けて拳を振り上げているのを感じて横っ飛びをして、ヘルマンを見る。

 あの場にいたら攻撃を受けたと感じ取った直感は直後に証明される。避けた場所を光が抜けて行った。その直後、紅き焔がヘルマンを直撃する。

 

「ひゃっ…………ああああっっ!!」

 

 紅き焔がヘルマンに着弾すると同時に、両手を頭上から下りる長い水の蔓で拘束された明日菜の胸元で光り輝くペンダント。またもやペンダントが光り、先程までとは違う強力な衝撃が襲って苦悶の表情を浮かべる。

 

「明日菜!?」

 

 両手を縛られて状態で明日菜が身を捩り苦しんでいる。上がった悲鳴にヘルマンから距離を取っていたアスカが叫ぶ。

 明日菜の首にかけられているペンダントが強烈な光を出して輝いていた。

 攻撃魔法の影響を受けた様子のないヘルマンは何か行動しようという素振りを見せない。まるで何かを確かめる様に目の前で壁にぶち当たったように掻き消されていく紅き焔の経過を観察している。

 そして最初から何もなかったように紅き焔は消えた。

 

「紅き焔が掻き消された?」

 

 弾かれるのではなく、消しゴムで消される様に消えた現象はネギにそう悟らせるのに十分であった。苦しそうだが明日菜の悲鳴も止んでいる。

 

「実験は成功のようだね。放出型の呪文に対しては有効だ」

 

 茫然としてしまいそうになるネギとアスカの意識を引き上げたのは皮肉にもヘルマンであった。

 並び立って驚愕する少年二人にヘルマンは口の端を吊り上げた。防がれる、弾かれる、ではなく「消される」という事に少年達は驚いていた。

 

「マジックキャンセル…………魔法無効化能力という奴だよ」

 

 ぽつりと、ヘルマンが呟いた言葉。 その言葉に聞き覚えがあったアスカとネギの顔が驚愕に染まる。アーニャから聞いた明日菜の能力だったのだから。

 だが、ネギはそれだけで全てに納得したわけではない。魔法無効化が明日菜の能力ならヘルマンはただ利用しているだけで、必ずどこかに手品の種があるはず。

 

(あのペンダントか……)

 

 明日菜の肢体を観察して最初に注目したのは豪勢な下着で、次に注目したのは胸元にあるペンダントペンダントだった。記憶を思い返せば魔法が掻き消される度に光り輝いてた……………ような気がする。

 明日菜の叫び声と苦悶の表情ばかりが印象に残っていてペンダントの印象が薄い。が、取りあえず下着とペンダントは合わないのでどう見ても怪しいと結論を出した。

 

「一般人のはずのカグラザカアスナ嬢、彼女が何故か持つ魔法無効化能力。極めて希少かつ、極めて危険な能力だ。今回は、我々が逆用させてもらった」

 

 今まで一歩も動いていなかったヘルマンが、まるで自慢するかのように苦しむ明日菜の下へ歩み寄ってペンダントを毟り取って笑う。

 

「さて…………そろそろ、私も混じらせてもらうとしよう。まさかこれで終わりではあるまい?」

 

 一歩踏み出したヘルマンに反応して、アスカがネギの前へと下がる。遂に敵の実働部隊のリーダーであり、上位悪魔のヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマンが動く。

 戦闘態勢を整えたヘルマンを見てネギの背筋に悪寒が走り抜ける。ヘルマンの全身には明確な殺意が宿っていた。

 ネギは持っている杖をギュッと強く握りしめると、気後れしないようにヘルマンを睨み付ける。自分に言い聞かせるように「大丈夫」と何度も何度も口の中で呟いた。だが心を蝕む悪夢にも似た恐怖心は、簡単には払拭できない。

 

「この一帯には外部の者が侵入出来ないように結界を張らせて頂いた。全力で戦って大騒ぎしても周囲に気づかれることはないよ」

 

 それはつまり、周囲に気兼ねすることなく戦えると同時に救援が来ないことを意味していた。

 

「取りあえずは見事だと言っておこう。すらむぃを苦もなく一閃し、ぷりんとあめ子を一蹴するとは、以前に会った時とは別人のようだ」

 

 パチパチと気の抜けたような拍手。発信源はヘルマンである。

 ヘルマンは凄惨な笑みを浮かべると、狂気で彩られた目で特にアスカを熱く見つめた。その声は冷や水のような冷たさで、直接視線を向けられたわけでもないのにネギを震え上がらせた。

 

「俺はお前と会ったことはない…………はずだ」

「うん? いや、そうだね。確かに今の私では分からなくても無理はないか」

 

 眉根を寄せて言ったアスカだが確信はないようだった。当のヘルマンは、疑問に返答を返すことなく一人で納得するように頷く。

 ヘルマンの前に戻ったあめ子が、仲間を殺されて呪い殺しそうな眼でアスカを睨んでいた。

 普段は無口なぷりんも表面上は分かり難いが目に暗い炎を燃やしていた。しかし、すらむぃを瞬殺したアスカと魔法使いとして優れた技量を持つネギらの底知れぬ実力を前にして迂闊に飛び出せない。それでも隙あらば何時でも飛び出せるように身構えていた。

 

「説明したいのは山々だが、今はしがない雇われの身であってね。私の仕事は、この麻帆良学園都市の調査、そして君達兄弟とカグラザカアスナの情報収集だ。依頼人より情報を手に入れ次第、直ぐに送るようにとの命令を受けている」

 

 ヘルマンはそう言うなり、懐に手を入れて掌ほどの大きさの水晶玉を取り出した。

 

「先に仕事を完遂させてもらおう」

 

 ヘルマンが手に持つ水晶球を握り潰した。同時にカッと眩い光がぷりん(・・・)を包み込む。

 

「すらむぃの仇!」 

 

 アスカの意識がヘルマンが手に持つ水晶玉にあるのを隙と見て、背後からの閃光で眼が眩むはずだと考えたあめ子が飛び出した。ぷりんの体が光に包まれているとも知らず。

 

「させるか!」

 

 水晶球で何をするつもりなのかは分からない。それでも自分達にとってプラスになるものではないと察知したアスカは、閃光に焼かれて眼が眩みながらも気配だけを頼りに飛び出す。

 ネギは冒険に出ることが出来ず、防御を選択して自分の前に障壁を最大で展開して突進したアスカの前にも風の防御膜を作る。

 

「伯爵! ナニヲ……」

 

 無口なぷりんも自分の中から魔力が抜き出されるのを感じて叫ぶ。あめ子もぷりんもこんなことをするとは聞いていない。飛び出したあめ子は背後にいるぷりんの状態に気づいていない。

 

「これは依頼者から渡された、命を代償とすることで発動する転移魔法具でね。すまないが君の命を使わせてもらう」

 

 ぷりんを構成していた全てが消滅していくのを見届けることなく、言いながら力を込めた一撃を放つ。標的は後ろで拘束されて動けない少女達。

 人の肉体など粉々に出来そうな拳から放たれる光弾を、囚われてる少女達には防ぐ術は無い。しかし、そこにステージの死角から超人的な速さで飛び出した現れた人影が防ぐ。

 

「やはり現れたか!」 

 

 結界を破って侵入したのはアスカだけではない。

 光弾を防いだ人影――――――犬上小太郎は受け切れずに跳ね飛ばされ、遅れた現れた千草が作った猿型の式神――――猿鬼に受け止められる。囚われている人質の救出の為に奇襲をかけるつもりだったのに、隙を見つける前に炙り出されてしまった。

 熊型の式神である熊鬼が刹那の下へと向かう。

 

「あ……あぁ……」

 

 ぷりんの体から魔力が抜け落ちて、形を成していた水が型から零れるように崩れていく。 

 

「間に合え!」

 

 この場にいる気配の一つが急速に薄れていくことに強烈な悪寒を抱いたアスカが叫びながら、進路上にいるあめ子ごと屠らんと右手に紫電を走らせる。

 あめ子がすらむぃと同程度なら、無詠唱の魔法の射手を収束させて拳に乗せた一撃の前には壁の役目すらも果たせずに突破できるはずだった。

 

「そうはさせんよ! 悪魔パンチ!!」

 

 囚われている少女達に攻撃を放って小太郎が防いだのを、ぷりんの時と同様に最後まで見届けることなく、ヘルマンが振り返りざまレーザー砲のような悪魔パンチをアスカに放った。間にいるあめ子がいるにも関わらず。

 

「!?」

 

 まさか仲間がいるにも関わらず攻撃をするとは想定していなかったので、視界が回復したばかりのアスカは咄嗟に大きく回避行動を取らされる。

 

「……ぁ」

 

 自分に迫る巨大な気配を感じて咄嗟に回避行動を取ったアスカを見て、あめ子は背後から迫るヘルマンの攻撃に気付いたが手遅れだった。何故、自分が攻撃をされているのか分からないといった表情のあめ子を、ヘルマンが放った悪魔パンチは一瞬の間に飲み込んだ。

 あめ子を呑み込んで直進し、咄嗟に受けることよりも回避を選んだネギがさっきまでいた場所を貫く。

 

「くそっ!」

 

 一度攻撃を回避したことで、回避動作によって取られた時間の遅れは致命的だった。アスカがぷりんの元に辿り着いた時にはそこに何もない。転移が一歩だけ早く成功したのだ。 

 

「ふふ、残念だったが転移は成功した。予想通り、侵入者も現れてくれた」

 

 二秒にも満たない攻防は仲間を仲間とも思えぬ攻撃によってヘルマンに軍配が上がった。

 もう明日菜には用はないとばかりにその場で跳躍して観客席の頂上に着地し、ぷりんがいなくなった場所で拳を握り締めるアスカを嘲笑うように哂う。

 

「ちっ、全部仕組んでたっていうんかい」

「招いた時にいた君達だ。来ると予想していたからこそ、慌てなかったに過ぎない。事実、私は君達の存在を感知できていなかった」

「まんまと炙りだされたことかいな」

 

 式神に人質の少女を助けさせた千草がステージ脇から現れて歯噛みする。与えてはいけない情報が敵の手に渡る。考え得る中で厄介なことだった。

 

「この……っ!」

 

 全てのスライム達が死んだことで、水球や水の蔦も形を成さなくなり、崩れ落ちた。明日菜は解放されると、千草の下へと走る。

 

「さしずめ、私の隙を伺って人質を奪還する作戦のようだったが――――――最早、人質に意味はない。好きにするといいさ」

 

 人質だった少女達が解放されたが、ヘルマンはその瞳でじっくりと吟味するようにアスカだけを見つめて完全に意識の外から外していた。

 

「強くなったな、アスカ君。本当に、あの時とは段違いだ」

「貴様のことなどどうでもいい。さっさと倒させてもらう」

 

 睨みつつ、言葉通り全身から戦意を漲らせてヘルマンに跳びかかろうとしたアスカだったが、次の一言で凍りついたように固まった。

 

「六年前はただ震えて守られているだけの君が、それをバネにしてこんなに強くなったのだからあの夫婦に感謝しなければならないかな」

 

 帽子のつばで隠れていた目の鋭さを増してヘルマンは言い放った。それは長年浮かび上がらなかった情景を脳内でチリチリと引き起こすものだった。

 

「え……」

 

 それだけで今にも飛び出そうとしてアスカの全身が固まる。世界の時が止まった様に感じられた。記憶の奥底にある六年前に感じた感覚によって体が震え出す。何故、ヘルマンが六年前のことを知っているのかという疑問はある。

 

「ああ、分からないかね? 君に会ったのもよく覚えているよ。私もあの時、あの村にいたのだからな」

 

 興奮しているのか饒舌なヘルマンの表情は、極上の獲物を前にした狩猟者のようであり、鮮やかな食虫花が毒を滴らせるかのような、おぞましくも禍々しい笑みであった。

 

「一瞬とはいえ驚かされたのだ。君に貰った一撃は今でも衝撃として残っている。あっという間にサウザンドマスターに一蹴されてしまったがね」

 

 一端、深く帽子を被って一瞬顔を見せないようにして楽しげに笑いながら帽子を脱いだ。帽子に隠された顔が再び全員の前に現れた瞬間、そこにあったのは違うものだった。

 

「……!? え……」

 

 捻れた一対の角が伸びる、どこからどう見ても人の顔ではない異形に明日菜は小さく声を漏らす。

 

「改めて自己紹介しよう。私の名はヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマン。六年前の冬の日、君達の村を滅ぼした悪魔だ」 

 

 まるでショータイムのように帽子を下ろしたヘルマンの顔。事実、彼にとっては楽しい楽しい娯楽の時間だ。子供の心の闇を穿り返そうが娯楽の一種に過ぎない。

 帽子を取り去った後にあったのは人間ではなく悪魔の頭。老紳士は、人間の真似をするのを止めて本性を曝け出した。

 

「はっはっは、喜んでもらえたかな。いい顔だよ、二人とも。その表情だ。いやぁ今時、ワシが悪魔じゃーと出て行っても若い者には笑われたりしてしまうからねぇ。これだけでもこの街に来た甲斐があったというものだよ」

 

 長く捻じ曲がった二本の角に、仮面を思わせる硬質な卵の殻のような漆黒の顔。瞳がないはずなのに、両目の部分は淡い光を放っている。

 

「……ッ!!」

 

 その姿を見ただけで、六年前のフラッシュバックにネギの呼吸と心臓が一瞬確実に止まって全身が凍りついた。

 

(あ、アイツは――――)

 

  深い恐怖と絶望を思い出して心臓が不規則な動悸を繰り返し、汗が噴出して瞳孔が一気に開いていく。ネギ・スプリングフィールドの肺が変な風に動く。息を吸っているのか吐いているのかも分からなくなる。それほどまでに頭がグチャグチャに混乱していた。

 明日菜達にも、その顔に若干見覚えがあった。それはネギとアスカの過去を見た時だ。視線だけでアスカを見るも、明確な反応は見えない。それがどうしようもなく不安だった。だが、視力の良い者なら分かったかもしれない。彼の両手の指先が、ほんの僅かに、しかし不自然に震えている事に。

 ヘルマンは右手で帽子を胸元に抱えたまま、割れた口から笑い声が出ている。

 

「あ…………あなたは…………」

 

 その顔を見たネギは息を呑み、呼吸さえも忘れたかのようにじっと見つめている。下ろした帽子の向こうにあった顔は、初老の老紳士といった顔ではなく彼の記憶に焼きつけられたあの夜の悪夢。その象徴的な存在。

 

「そうだ。私は君の仇でもある、ネギ君。ふふ、また再会できるとは、運命の女神がいるのなら感謝しなければな」

 

 ネギが浮かべる顔を見て、今の悪魔化して分かり難いヘルマンの表情が分かり易いように変化した。嘲笑、嘲り、何でもいい、負の感情が凝縮された狂気を感じさせる笑み。 

 当事者本人だったのだからネギは当然知っているはずだ。 虫が這い上がってくるような感覚が脳を埋め尽くし、身体が思うように動かない。ネギの目に、今はハッキリとヘルマンの背後に燃えさかる村の情景が浮かび上がっていた。

 

「お前が…………あの時の悪魔、か?」

 

 ヘルマンの一言一言に、巨大すぎる感情に逆にフラットになってしまったアスカの声が問いかける。

 

「断言しよう、アスカ君。君が会ったのも私だ。私が―――――君の仇だ」

 

 狂笑を浮かべた悪魔は言いながら帽子を再び被り直した。すると、悪魔の頭は消えて、再び一見温和そうな老紳士の顔に戻る。ただその表情はどこまでも冷ややかでその目には、何物よりも冷たく、心の闇を暴く冷徹な光があった。

 

「――――――――」

 

 アスカの顔から全ての表情が消えた。微かに取り繕っていた表面上の感情さえも消え去り、残った仮面染みた無表情がヘルマンを捉える。

 ヘルマンに顔を向けたまま、アスカは一秒間だけ目を閉じた。敵の前でありながら眼を閉じるなど愚の骨頂。それこそ相手がまさに一生物の恋をしたかのように恋焦がれていた相手だとしても。

 

「あの日、召喚された者達の中でも極僅かにいた伯爵級の上位悪魔の一人。君達の叔父さんや村の仲間を石にして村を壊滅させたのも、この私だ」

 

 人のトラウマを暴くことに対して何ら呵責を覚えておらず、それどころか薄く笑みを浮かべている悪魔。

 

「私を殺したサウザンドマスターと同じコンビネーションを身に着けたのだな。私に対する復讐の為かね。ならば光景と言っておこう。この身に鍛えた刃が届くか試してみるかね?」

 

 ネギの心音が上がり、全身から汗が噴き出ている。今までずっとナギを追い求めることで目を逸らし、封じ込めていた感情が、増幅され、理性という殻を破ろうとしていた。

 

「ネ…………ネギ先生?」

 

 のどかは思わず言葉を失った。見れば、静かに瞳を閉じたアスカと違ってネギの様子が明らかにおかしい。

 記憶がフラッシュバックする。あの日のことが鮮明に映し出された。他のことが何も考えられない。

 今のネギにとって、アスカのことも、明日菜ら少女の存在もも些細なことに成り下がっていた。下手に数時間前にその情景を他人に伝えただけに、その光景がいつも以上に鮮明に思い描ける。

 六年前、ネギ達が住んでいた村を襲った悪魔。目の前には自分の村人を石に変えた仇がいる。体の震えは収まるどころかどんどん増していき、さっきまで早鐘みたいに打っていた心臓がリズムを変えて、独特の血液の流れを作り始めた。

 溢れだす悲しみが、怒りが、憎しみが、一つに縒り合されて鋭い槍となって彼の中にあった理性と制御能力を貫き殺す。それらの感情に呼応するようにサウザンドマスター譲りの膨大な魔力が止めどなく溢れ出て、体に力が漲っていく。怒りに身を任せ、悪魔の前に飛び出そうとしたその時。

 

「ネギ、落ち着け」

 

 肩に置かれたアスカの手とかけられた声がネギを現世に押し留めた。

 怒りのままに振り返ったネギは唖然とした。

 

「六年か。長かったのか、短かったのか」

 

 笑っていた。アスカは笑っていたのだ。

 笑いながら前に出て口遊む。

 

「叔母さんも」

『いい、ここからはあなた達二人で逃げなさい。出来るわね?』

 

 怯えたアスカ達を宥める為に、優しく頭を撫でてくれたあの手を忘れていない。

 

『さあ、行きなさい! 走れ!!』

「叔父さんも」

 

 勝てないと分かっていながらも、悪魔に立ちはだかったあの背中を今でもハッキリと覚えている。

 

「村のみんなを…………何もかも…………」

 

 あの時の記憶が脳裏で再生させる。煮え滾るような血が体中を流れて沸騰するような感覚と、ドクドクと、耳に聞こえる血流の音が聴覚を支配する。体を巡る煮え滾る血。鉄の匂いが、味が、嗅覚を、味覚を支配する。ある意味で今のアスカを形作る契機となった事件。六年前―――――弱さは時として罪であると思い知り、色々なモノを失った日。

 

「みんなを石化させたなら知ってるはずだ――――――答えろ、石化した人達を元に戻す方法を」

 

 アスカがヘルマンに向けて静かに吠える。

 想いの激しさは、彼自身の肉体を超えて、雨に、風に、空へと伝わっていた。今までアスカが積み重ねてきた感情の代わりとばかりに空が泣いて終わることはない。風がようやく激情の向ける先を場所を見つけた歓喜を示すように猛り狂って大気を鳴かせる。

 

「答えると思っているのかね?」

 

 アスカの内側に収まりきらずに外界に漏れ出た力を感じ取って愉快になりながらも、挑発するように愉悦する。激発の声、怒りの瞳、この世界のあらゆるものを目の前の自分ごと否定しようとするアスカの瞳に喜悦が止まらない。

 

「言わないんなら吐かせるまでだ」

「出来るかな、君程度の力で」

「その為に鍛えた力だ。出来ないはずがない」

 

 ばちっ、と鋭い火花が空中で弾けた。バチバチと夜の森が激しく光を放ち、それらの火花は互いにつながって忽ち波のように広がっていった。雨の粒達が火花の波に触れて、あちこちで蒸発し始める。鼓膜を焦がすような甲高い金切り音がせり上がってくる。

 今までとは比べ物にならないほど、アスカの戦意が跳ね上がった。戦意に反応した統制された魔力によって大気が耐えられないと火花を震わせる。

 

「く……ぅ……」

 

 途端に押し寄せる戦意の奔流にその場にいる全員が息を飲み、心臓を握り締められるような恐怖を感じ取った。暴力的ともいえる圧迫感に押されてしまう程に全身から圧倒的な気配が吹き上がった。

 誰も動けない。指先を動かす関節の音すら、瞬きの立てる音すら心臓ですら止まってくれと願うほどに怖れた。特に他の鈍い者たちと違い、実力者である―――――いや、中途半端な実力を持つ古菲は大きく息を喘がせる。

 

(身じろぎ一つ出来ないアル。こんなところに後一分もいたら、こっちが参ってしまうアルよ)

 

 盾にする者がいない古菲と明日菜がこのように剥き出しの殺気を叩きつけられて正気を保っていられるのは、持ち前の精神力故。それがなければ殺気を浴びた瞬間に発狂していたかもしれない。それでも手で触ることさえ出来そうなアスカとヘルマンの発する凄まじい圧力に、古菲の精神は次第に圧倒されつつあった。

 言葉通り、後一分も殺気に晒されれば自ら自死を選びかねない。そんな状況であった。

 

「――――下がるで」

 

 二人の圧力に脂汗を掻きながらも、少女達の前に壁として立った千草がそう言った。それだけで少女達を支配していた過度の緊張からほんの僅かだけ解き放った。

 

「さっさと全員を連れて行け。今は一分一秒でも惜しい」

 

 視線を向けることなく、アスカは千草に言った。

 

「当初の予定通り全員でかかった方が確実や、って言うても聞きそうにないな」

「悪い」

 

 アスカの体からは湯気が立ち上っている。もしかしたら、その気迫で雨が体に触れぬ内に蒸気と化しているのかも知れない。それほどまでに今のアスカが放つ気迫は途方もなかった。

 

「ネギ。アレ(・・)を完成させるのにどれだけの時間がかかる」

 

 アレ、と固有名詞を言うこともなく向けた問いに、ネギはその意味を理解して生まれた感情を押し殺して奥歯を強く噛んだ。

 

「っ!? …………9割出来てるから一時間もあれば」

「この戦いが終わるまでに完成させろ」

 

 言い捨てて前に出たアスカの横に並ぶ人影が一つ。犬上小太郎であった。 

 

「まだ虚仮にされた分を返してないんや。俺もやるで」

 

 移動してアスカの横に並んだ小太郎が意気揚々に自分の拳と掌を合わせる。

 

「小太郎、お前も下がれ」

「なん、やと?」

「お前も下がれ、と言ったんだ」

 

 アスカは小太郎を見ることもなく止めた。その眼は一心不乱にヘルマンを見ている。一人で戦うという姿勢を前面に出し、決して小太郎を見ることはない。

 

「これは俺の戦いだ」

 

 だからお前は必要ない、とその背中が言葉よりも悠然に物語っていた。

 小太郎を置き去りにして更に一歩、アスカが前に進む。その背中が小太郎にとって今はとても遠い。

 

「なにやっとんねん、小太郎。行くで」

「…………ああ」

 

 唯人の身体能力しか持っていない少女達を熊鬼と猿鬼で抱えて大跳躍しながら、寂しそうな背中をする小太郎に千草は言った。

 答えた小太郎の声は小さかったが、確かな返事に千草は物哀しくなった。

 小太郎は理解してしまっている、アスカの気持ちを。理解しているからこそ、踏み込めない。

 

「友達やのにな……」

 

 友達だからこそ、小太郎は引き下がることしか出来なかった。

 少年少女達が去った直後、アスカの魔力が爆発した。

 

「くっ!?」

「「「「「「きゃっ!」」」」」」

「「うわあぁっ!」」

 

 衝撃波にも等しい力圧を浴びて、皆を抱えて跳躍していた式神の身体の構成が揺らぐ。何とか整えたが必死にステージから離れていく。

 京都で小太郎と戦った時の勢いのままに垂れ流すような魔力とは違う。精錬され、熟成され、芳醇と成った魔力が高まり続ける戦意と共に臨界を超えて物理現象となって現われたのだ。

 

「ふ…………ふふはははは、興味深い。実に興味深い。そこまで力をつけたか。あの時の少年がここまで力をつけると誰に分かろうか! これほど愉快なことはない!この時を待ちかねたぞ、少年!」

 

 アスカの魔力が吹き荒れるステージに一人残ったヘルマンは、自らが育てた戦士を前にして喜悦を抑えきれずに大きな笑い声を上げる。

 学園結界の中では高位の魔物・妖怪の類は動けない。ヘルマンほどにもなれば、自ら魔力を限界にまで押さえつければかなり動きが阻害されるものの動けないことはない。そんな状態でありながらも威圧だけで圧倒したのだから驚きだ。

 このまま真っ当に戦えば、恐らくアスカが勝つ。だが、ヘルマンの顔に焦りはない。何故ならば彼には秘策があった。

 

「時間だ」

 

 『学園結界』が落ちる。何の脈絡もなく、ヘルマンの力を抑えつけていた『学園結界』が突然、落ちた。途端、軽くなるヘルマンの体。

 麻帆良学園都市には高位の魔物・妖怪の行動を押さえる『学園結界』が張られている。低・中位なら周りに被害を及ぼさずに対峙することが出来る。だが、高位になればそれも難しく、また倒せる人材も少ない。『学園結界』はヘルマンの力を半分以下にまで下げていた。その縛りが解けた。

 

「君の内に秘める力はその程度ではあるまい。もっともっと見せてくれ!」

 

 最早、少女達やネギに一切の興味を失ったヘルマンは、奇妙に含みを持たせた言い方をして身構えると同時に体から凄まじい勢いで魔力を噴出させた。

 まるでヘルマンが本気を出すのに合わせたように落ちた『学園結界』によって彼を縛る鎖はない。鎖から解き放たれた猛獣が目の前の獲物に食らいつくかのような鬼気がヘルマンから放出される。その威圧感は先程の比ではない。比べることすら烏滸がましい程の力。

 アスカだけの力だけではなくヘルマンから発せられる魔力が衝突し、削って喰らい合い、時に反発することによってステージが嵐の如き風が吹き荒れる。両者の唸りを上げる力に呼応して、発生した衝撃波が風となって轟々と渦巻く。一転して収束に向かう力は、恐ろしい密度に肉体に凝縮され、今にも爆発せんと時を待つ。

 

「さあ、あの時の続きをしようか、アスカ・スプリングフィールド!」

 

 名を呼ばわれたアスカ・スプリングフィールドが返答するように厳しい視線をヘルマンに向けた。

 遂に出会ってしまった因縁の二人の行方は、ぶつかる以外にありえない。

 

「ここで潰えろっ!」

 

 先にアスカの方が爆ぜた。空気を切り裂いて砲弾となったアスカが一直線にヘルマンへと跳ぶ。

 

「来たまえ、アスカ君!」

 

 ヘルマンは獲物を目の前にした狩人のような顔でニヤリと笑い、翼をはためかせて空中を飛んだ。直後、二人の激突を覆い尽くすように雷が落ち、稲光が周囲を照らすと同時に轟く轟音が衝突を覆い隠した。

 

「だ、だめ……」

 

 それは『直感』ですらなかった。もっと原始的な動物としての本能に似た何かを神楽坂明日菜は感じていた。

 開始された激闘を阻む者はいない。それでも尚、そんなことよりも強く感じることがあった。

 

(駄目……あの二人が戦ってはいけない)

 

 何かが致命的に狂ってしまう。身動きできない状況にありながらそんな予感に苛まれていた。

 



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第33話 哂う悪魔

 

 何千もの激しい雨粒が身体にぶつかっては砕けて散っていった。たった数歩先の空間すら怪しいほどの、激しい雨が降っていた。

 ネギと小太郎、千草によって連れて来られた少女達は先客であったエヴァンジェリン・茶々丸・アーニャがいる世界樹の枝まで連れて来られた。

 風呂場で襲われた為、裸や下着姿だったので楓と茶々丸から渡されたバスタオルを体に巻いた姿のままの明日菜は、ただ眼下で行われる戦いを目にして驚愕に息を呑んでいた。

 

「凄い風、台風みたい」

 

 大人が何十人も手をつないでようやく囲める世界樹が根から揺らぐほどの激しい風が吹いていた。

 一瞬として留まることのない雷光が世界を断続的に映し出して、一際強く紫電が空を翔けて一瞬の後にこの夜で一番大きい雷鳴が轟いた。思わず少女達は体を竦める。目は閉じない。視線は轟々となり続ける風雨の中、空に向かって咆哮を続ける眼下の戦いに向けられていた。

 

「ぬんっ!」

「オラァ!」

 

 眼下で繰り広げられる戦いの度外れた凄まじさ。ただの己の体を武器とするだけの一対一の武人の対決という原始的な戦闘でしかないはずなのに、迸るエネルギー量が違う。

 幾度となく肉体という人知を超えた武器が交差することによって踏みしめる足が路面を穿つ。ただ拳と拳が打ち合うだけで、これほどの破壊的な力の奔流が吹き荒れることなど有り得ない。回避した一撃の風圧が客席の下段から最上段までを抉る。

 超高速の攻撃は、もはや常人よりも遥かに優れた動体視力を持つ明日菜でも補足しきれない。真っ向切っての力と力のぶつかり合い。ただ、激突し相克しあう二人の余波を見届けることしか叶わない。

 同じように観戦している級友達が見守る中で、常識を置き去りにした戦いに恐怖を抱いているのとは違って、神楽坂明日菜だけはよく知らないドラマを画面越しに眺めているような変な感じを味わっていた。

 地に足が着いていないような気がする。目の前で起こっていることを、頭では理解は出来るけど手で触れることは出来ない。だから周りで起こっていることが全て夢のように感じがして現実感がない。

 でも、不意に思う。どのようなことなら現実なのだろうか。アスカが戦う姿を目にして、神楽坂明日菜だけが別の思考をしていた。

 

(なら、現実って何?)

 

 上位悪魔として莫大な力を有するヘルマンと、ただの人間であるアスカでは圧倒的に身体能力が違うはず。なのに、アスカはヘルマンと闘うに値する力を有していた。

 両者は殆ど肉眼から消える速さで真正面から突っ込むと、全身の筋肉と力を一気に膨張させて相手に向けて拳を叩きつける。

 

「ぜぁっ!」

「フッ!」

 

 抉られて吹き飛んだ客席が、まるでアルミホイルの一片のように異常な形に歪んで軽がると宙を舞い、次の瞬間に戦闘の余波を浴びて粉々に吹き飛んでいく。

 戦闘の余波を食らったステージは、惨憺たる破壊の爪痕が刻まれていた。ステージは既に瓦礫の山と化しており、客席は畑の畝のように掘り返されている。戦場となった一角だけが、まるで直下型の大地震やハリケーンに見舞われ過のような有様だった。

 アスカとヘルマンの対決は、拮抗したまま続いていた。

 風が唸る。この世界の物理法則にあるまじき狼藉に、大気がヒステリーを起こして絶叫している。荒れ狂うハリケーンの直中にあるかのように、大学部にある学祭で使うステージがいま容赦なく蹂躙され、破壊されつつあった。

 たった二人のヒトガタが白兵戦を演じているだけで、ステージが簡単に崩壊していくのだ。人と悪魔の戦い。あくまで個人の戦いでありながら次元を超えた戦いをしている。

 そんな惨状の直中に、アスカとヘルマンは、両者ともあれだけの動きをしながら疲弊の色はなく、未だ掠り傷一つ負わないままに対峙していた。

 

「悪魔パンチ!」

 

 黒い拳から溢れる魔力は砲弾と化してアスカへと撃ち出された。

 全力の状態で放つ悪魔パンチは、『学園結界』で抑えられていた時とは文字通り桁が違った。抑えつけていた魔力が解放された一撃は威力・速さ・魔力が桁違いに跳ね上がって、以前に放っていたのがピストルの弾ぐらいに思えるほどに強大であった。

 

「っ!」

 

 アスカは自身の体を完全に覆い尽くすほどの一撃を半身になって反れて避け、瞬時に足に魔力を集中して地面のアスファルトを蹴りつける。高速移動術である瞬動と呼ばれる技法で、十メートル近い間があったヘルマンとの距離を瞬間移動したと錯覚するほどに一瞬で詰める。

 悪魔パンチを放って伸びている右腕を掻い潜り、深く踏み込みながら顎目掛けて右拳を打ち上げる。

 ヘルマンは残った左の掌で受け止めつつ、アスカの後頭部目掛けて伸びた右腕を曲げて肘を落とす。これをアスカは見もせずに気配だけで察知したのか、左の掌を回して受け止める。

 両手が塞がっているのは両者とも同じ。この近距離で二人には体格差から攻撃オプションが若干だけ異なった。ヘルマンの胸元までしかないアスカの身長。

 

「がっ」

 

 丁度いいところにあったアスカの腹にヘルマンの膝が食い込む。アスカの口から押し出されるように空気が漏れる。

 

「シッ!」

 

 ヘルマンがくの字に折れ曲がったアスカから一ステップだけ下がり、左拳による高速のジャブを放つ。

 アスカには成す術もなく受ける選択肢しか残されていないと思われたが、滞空状態で無数のジャブを全て避け切った。自分から後方に流れて倒立、後に跳躍。後転跳びを連続で行いながら回避したのだ。

 地面を穿つジャブは人間形態に放った悪魔パンチと大差ない。壮絶な粉砕音、一瞬にして地面に亀裂が迸り、鱗の様に罅割れる。アスファルトの地面が砕け、割れた硝子の様に弾け飛び、小型の隕石もかくやというクレーターが出来上がっていく。

 ヘルマンの視界が土煙で覆われてアスカを見失う。爆風が如く周囲を包み、瞬く間に視界が塞がれる。

 

「―――――闇夜切り裂く一条の光、我が手に宿りて敵を喰らえ」

 

 土煙を割って来たのは予想外のモノだった。

 

「白き雷っ!」

 

 土煙を割った向こうに見えたのは己を飲み込まんと迫る強力な電撃。直径二メートルを優に超えるそれは、雨を蒸発させながらヘルマンに迫る。

 

「悪魔アッパ―ッ!」

 

 迫り来る雷を収束させた下から掬い上げるように悪魔アッパーで打ち上げた。振り上げられた拳は、拳の軌跡に沿うように衝撃波を残して牽制も兼ねていた。弾き飛ばされた白き雷はヘルマンの頭上を飛び越えて地面で大爆発を起こす。

 白き雷が地面で大爆発を起こす前に、悪魔アッパーの衝撃を避けて掻い潜る影が一つ。

 

「ぐふっ」

 

 悪魔アッパーを放って空いていた脇腹に何時の間に忍び寄ったのか、地面をしっかりと踏み締めたアスカの崩拳が食い込む。それまで如何なる時でも余裕ある態度を崩さなかった紳士の顔が、初めて純粋な苦痛に歪んだ。

 しかし、直ぐにアッパーを放った右腕を戻し様に腰を捻り、存分に体重を乗せた左をアスカに叩き込んだ。ヘルマンに比べて体重の軽いアスカは何とか間に合った腕で防御しようとも軽々と吹き飛ばされた。

 

「いいね、素晴らしい。これだよ、これが見たかったのだよ。それでこそサウザンドマスターの息子だ!!!」

 

 痛むに呻くことなく、猿のように体を回転させて観客席に足から着地して、一拍も置くことなく向かってくるアスカに喜悦を抑えられないとばかりに叫ぶ。

 

「故郷を滅ぼした私が、君の大切な人を奪った私が憎いだろう。さあ、君の憎むべき敵はここにいるぞ」

「さっきから、ごちゃごちゃと……っ!」

 

 全力で殴りつけるのと、明確な殺意をもって打ち抜くのとでは、意味合いも結果もまるで違う。前者によって相手が死ぬのは不幸な偶然だが、後者による殺害はただの必然だ。

 

「戦う理由は常に自分だけのものだ、そうでなくてはいけない。『怒り』『憎しみ』『復讐心』などは特にいい。誰もが全霊で戦える。或いはもう少し健全に言って、『強くなる喜び』でもいいね」

 

 己を縛る一切を断ち切り、ただ一つのために行う姿のなんと美しいことか。 追いつかれ、またも拳撃を食らっている最中でも、ヘルマンは笑みを崩さなかった。

 

「君が戦うのは仲間の為か? 一般人の彼女たちを巻き込んでしまったという責任感か? 助けなければという義務感? どれも違う。人質を解放した時点で殆どの条件から外れる。何よりも皆と協力した方が私を斃せる可能性が高いにも関わらず、そうしなかった」

 

 ヘルマンの饒舌は続き、一つ一つの言葉がアスカを追い込もうとする。

 

「怒りだ。君の目には怒りだけで憎しみが無い。憎悪故に私を斃そうというのではない」

 

 ヘルマンが地を蹴って飛び出した。凄まじい速度で一足の間合いを燕の如き俊敏さで瞬時にアスカとの距離を詰める。

 アスカはヘルマンの動きの全てを視認して、頭蓋骨を粉砕しようとする拳を空中で体を捻って捌いた。

 ヘルマンは右の拳が躱された瞬間、腰の回転を殺さずに運動エネルギーを左足に移した。拳を放つ際に体重をかけた軸足である右足に重心を移す反動で左足を跳ね上げ、アスカの視界の死角から後ろ回し蹴りで米神を狙う。しかし、アスカはそれが見えているかのように、軽く頭を反らした。左足の踵が数ミリの差で目の前を通り過ぎる。

 

「だからどうした!」

 

 観客席を穿った悪魔パンチによって爆発音によって他の音が掻き消されているのに、ヘルマンの声だけは不思議とアスカの耳へと届く。

 答えるようにアスカが口を大きく開いて、喉の奥から怒りの咆哮を吐き出しながら拳を振るった。が、アスカの攻撃よりも速くヘルマンは無数のジャブを放った。

 

「!!」 

 

 瞬きの間に放たれた拳は、数にして二十に及んだ。その全てがアスカ目掛けて襲いかかってきた。

 散弾銃のようにして扇状に広がる弾幕に対して、アスカは空中で虚空瞬動をして思い切り横へ跳び、地面に伏せるように身を沈めることで何とか回避に成功する。彼の背後では観客席の最上段にあった無数の柱が薙ぎ倒され、超大型台風が直撃したように射線上の観客席が吹き飛んでいく。

 アスカは敢えて立ち上がらず、地面に四肢を貼り付けると、そのまま獣のようにヘルマンへと飛び掛かった。彼我の距離は数メートル。これだけの近距離ならば、立ち上がる等のモーションを省いた方が不意を突ける。

 

「隠されれば意地でも引き出してみたくなるのが悪魔というものでね!」

 

 この程度で不意を突けるほどヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマンは甘くない。今まで手技だけだったヘルマンが飛び掛ってきたアスカの僅かな体勢の崩れを見逃さず、足首を支点にするように勢い良く身を回した。

 カウンターでアスカの顔面を横合いからハンマーを打ちつけたように右足で蹴り飛ばす。アスカの視界が左側へと急速に移動する。

 

「悪魔パンチ!!」

 

 背中を向けて隙だらけで飛んでいくアスカに向けて、レーザー砲のように収束させた手加減なしの悪魔パンチを放つ。

 

「が、ああ!!」

 

 背後から迫る力の波動に、咄嗟に全力で背中に障壁を展開するが一点に凝縮させた悪魔パンチの方が遥かに上だった。背中で爆弾が爆発したような衝撃と痛みに、口の端から血を散らしながら蹴り飛ばされた勢いに過剰して観客席へと突っ込んだ。

 

「く、そ!」

 

 防御に全力を注いだことで観客席に突っ込んだことへの対策は出来ていない。全身に幾つもの傷を作りながらも続くヘルマンの拳撃によって痛みに呻くことすら許されない。

 上に飛び上がることで収束させていない極大の光弾が、先程までアスカがいた観客席跡に激突すると同時に爆発し、その煽りを喰らったアスカの体が揺らぐ。

 ヘルマンの攻撃はまだ終わらない。

 ミサイルをガトリングガンで連射したような破壊の嵐が巻き起こる。アッパーやフックの縦や横の動きも織り交ぜた縦横無尽な拳撃が残っていた柱や観客席が吹き飛ばし、アスファルトが捲れ上がっていく。

 

「!!」

 

 背筋に走った悪寒に従って咄嗟に背中を反らし、空中で上半身だけを後ろへ下げる。直後、目の前を光弾が突き抜け、鼻先の皮膚が僅かに削り取られた。

 背後の直前に吹っ飛んでいた観客席の欠片を塵も残さず粉砕する。

 突進してくるヘルマンをアスカは迎え撃つ。

 打ち合わされる拳と拳、蹴りと蹴り。その一撃一撃が、中位の古代語魔法に匹敵する破壊力を秘めた攻防を繰り返す。

 

「隠してなんかいねぇよ!」

「そう、君には隠している感じがしない。それが不思議だ。あんなことがあったのに君からは全く憎悪を感じない。ありえないことだよ、それは」

 

 ヘルマンは興味深そうに頷いて次々と光る拳撃を打ちながら轟音を立ててステージを破壊していく。

 

「知るか! ごちゃごちゃと…………うぜぇっ!!」

 

 基礎能力は上級悪魔のヘルマンの方が上であると感じ取ったアスカは馬鹿正直に打ち合わない。拳を弾いたと同時に小刻みに足を使い、ヘルマンの死角から死角に渡って一方的に鋭い拳を振るっていく。

 両拳からヘルマンに勝るとも劣らない高速の拳撃が襲い掛かって、拳の弾幕がぶつかると大気を夥しい震動が満たす。殆どの連打をバックステップしながらヘルマンは捌く。回転を重視している所為で一撃一撃は軽く、当たっても致命傷には程遠いが確実にアスカの体力と集中力を奪っていた。

 苦しい吐息がアスカから漏れる。

 

「隠された本性を暴いた時、どうなるか楽しみだ」

 

 側面の死角から蛇のように拳の軌道を変化させた一撃への対応が僅かに遅れた。

 

「くあぁぁっ!?」

 

 ハンマーのような拳に打ちすえられ、苦痛の声が上がる。

 痛みに、動きを乱したところへ更に別方向の死角から拳が襲い掛かる。痛みに喘ぐアスカには防御も回避も間に合わせることが出来なかった。

 先程の一撃とは反対側から入った拳が脇腹に食い込む。嫌な音を立て、めり込んだ拳によってアスカの体を軽々と吹き飛ばした。

 攻撃の衝撃に肺の空気を押し出され、吹き飛ばされながら喘ごうとした瞬間、跳躍して回り込んでヘルマンが力を溜めた左腕を振りかぶっていた。

 何の防御もなく受ければ塵も残さず消し飛ばしそうな一撃を、予期していたとでも言うようにアスカは身を翻して躱す。完全な死角からの奇襲の上に先の攻撃の苦痛による集中力の低下もあったはず。

 少なからず必撃を期して放たれた一撃を事もなげに躱されて、ヘルマンの余裕の表情に初めて揺れた。だが、直ぐに今までを上回る喜悦を浮かべる。

 

「そうだ! 私が見たいのは平和に耽溺した子供ではない。闘争こそを故郷とするアスカ・スプリングフィールドだ!」

「うおおおおおっ!」

 

 アスカが吠えた。それと同時に心から願った。あの悪魔を倒せる力を。今こそ、今こそ誰にも負けない力が欲しい。自分の運命と呼ぶものすら断ち切ることが出来るほどに、強い力を。自分が自分でなくなってもいい。だけど、倒すべき敵だけは、この命に代えても倒さねばならない。

 アスカの願いに呼応するかのように両腕に紋様が浮かび上がり、淡い輝きを漏らし続ける。

 

「もっとだ! もっと見せてくれ! 君の可能性を! 君の全てを私に見せてくれ!」

 

 そんな死闘の只中にあって、心底の喜悦を以って哄笑しながら昂奮したヘルマンは、陶酔した口調で言葉を紡いでいく。怒りに満ちたアスカの心を爆発させるための憎悪の火種をくべ続ける。

 

 

 

 

 

 攻撃の最中、ヘルマンの構えが左右をスイッチしたり、様々なスタイルへと次々と変わる。 そこから放たれる速射砲の如きパンチの連射。一撃で勝負をつける強打。アスカの防御の隙間を縫うような奇打。拳は届かぬとも魔力の乗った拳圧が飛ぶ。

 流石にアスカも全てを回避・捌くことが出来ずに何発か貰ってしまうが、それでも戦闘に響くようなダメージには至っていない。だが、確実にダメージが蓄積していく。

 

「弱い! 君は弱いな! 憎しみが弱いからだ。憎しみの力は殺意の力、殺意の力は復讐の力。まだまだ憎しみが足らんぞ少年!!」

 

 ヘルマンから発せられる狂気。狂気が世界を埋め尽くす。

 それはヘルマンの全身に満ちた猛毒だ。彼の体内から溢れ出した狂気の汚泥は世界を浸食し、侵略し、陥落させていく。そこには正気など存在しない。存在を赦されない。この世界にあって正気は全て狂気に塗りつぶされていく。

 

「うるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」

 

 対峙するアスカにも狂気が伝染してくる。

 輝く、輝く、輝く。淡い輝きでしかなかった腕の紋様が、今はハッキリと知覚できるほどに絢爛に燃える。

 

「死ねぇぇぇぇぇぇぇっ!!」

 

 目の前の敵への激しい怒り、怒りの導火線に火を点けた。腕の紋様を起爆剤として生まれた暗い情念をそのままにアスカは敵を見据え、感情を叩きつける。

 どこか躊躇していた自分の内側から噴き出す力に身を任せる。それを理解してもなお、アスカは止まらず、戦いを止められなかった。意味があるはずもないこの戦いが、何時終わるのか、彼自身分からない。それは体が粉々に砕け散る時なのかもしれない。

 ヘルマンに向かって、アスカは大きく踏み込んだ。

 

「力を求め、殺意に満ち満ちている目………………いい! いいね、それを待っていた!!」

「あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 すれ違うようしてヘルマンの横を通過したアスカが更に気迫を滾らせ、力学をぶち破って反転して虚空瞬動をする。

 

「その調子だ! それでなくてはならん!」

 

 肌にビリビリと響く気迫が更に高まるのを感じてヘルマンは楽しくて仕方がない。振り返っても防御が間に合わず、拳を腹部に打ち込まれながらやり返す。

 

「もっとだ! もっと強くなって私を倒してみたまえ!!」

 

 理屈は分からなくても腕の紋様の輝きが増すごとにアスカの力を増していく。予想を超えて強くなっていく姿はヘルマンの望んだものだ。これが楽しくてならない。

 

「があぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 アスカの耳にはもうヘルマンの声しか聞こえていない。心を埋め尽くすものは、ドス黒く燃える暗い感情のみ。

 もはや何も考えてはいない。耳にただ戦闘本能に任す。怒りに身を任す。目の前に敵。アスカを地獄に追い落とした張本人。それだけだ。ヘルマンをこの手で倒す。他にどんな意味がある。言葉はない。ただ咆哮だけがある。

 激突する化け物たちによって再現されるは神話の戦い。だが、これは化け物と英雄の戦いではない。英雄のいない化け物同士の戦いである。

 活目せよ、この戦いを。

 

 

 

 

 

「あの手の紋様、闇の魔法の物か…………やはり、こうなったか」

 

 尋常ではないアスカの様子と腕にある紋様の正体を見抜いたエヴァンジェリンは呟くだけで何もしなかった。

 

「そのまま闇に呑まれてしまうのか、アスカ」

 

 かなり近くで雷が落ちているらしく、音がひどく大きい。風も激しくなっていた。

 

「う……あ……」

 

 明日菜の口から、堪えようのない恐怖の呻きが漏れた

 刹那から筋が良いと褒められて、自分でも分かるほど腕が上達していた。「私って凄いんじゃない」などと思っていた。しかし、そんな優越感みたいな感情はアスカの戦闘を見て「住んでいる世界が違う」と感じてしまう。

 余程、両者の魔力が高ぶっているからか、突風のように風が巻き起こっていた。

 やがて風は逆巻き、強風から旋風、そして烈風に、さらに勢いを増して竜巻にまで―――――ごく短時間で力を強めた羽風は、気づけば渦巻く竜巻となって吹き荒れていた。

 二人の戦いを邪魔しないようにステージを中心にして覆うように竜巻が巻き上がる。

 戦闘場所だけを範囲に収め、他には殆ど被害を与えずに猛威は止まらない。周りに被害を与えていないことが、感情を高ぶらせながらも魔力の制御を怠っていない証拠である。

 竜巻で上空の雨雲が更に刺激されて雷の勢いが更に増していく。

 

「これが、魔法」

 

 魔法使いとは、それに類する者とはここまで出来る者なのか。そう思わせる光景は夕映の皮膚をビリビリと刺激し、鳩尾を直接殴りつけられた様な嘔吐感に襲われる。口の中はカサカサに乾き、それとは裏腹に額と背中には冷や汗が止めどなく流れる。

 アスカとヘルマンから発せられる凄まじいばかりの狂気と殺意。

 空を見上げれば、勢いを増していく雷・雨・風。二人はただ戦っているだけで天気にまで干渉しているのだ。それも余波だけで。

 たった一人の人間と悪魔の戦闘の余波でそのような真似が可能であると、いったい誰が考えただろうか。特に人間であるはずのアスカは魔法使いの基準からしても突き抜けすぎた次元にある。

 勿論、彼女たちが知らないだけでアスカと同じことを、それよりも更に強大なことをやってのける者は世界には確実にいる。

 例えばネギとアスカの父であり、サウザンドマスターの異名を持つナギ・スプリングフィールド。

 例えば彼女らの直ぐ傍にいる、六百年の長き時を生きて来た闇の福音エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。

 例えば近衛木乃香の父であり、ナギと同じ『紅き翼』に所属していた若かりし頃の近衛詠春。

 例えば神楽坂明日菜を幼少時から面倒見ており、『紅き翼』の一人、タカミチ・T・高畑。

 例えば関東魔法協会の理事を勤め麻帆良学園理事長であり、学園最強の魔法使いである近衛近右衛門。

 彼女たちが知るだけでアスカと同じ領域、もしくはそれ以上の『バケモノ』たちがこれだけいる。だけど、そんなことを知らない彼、彼女達にはアスカが同じ人間ではなく、『化け物』であるとしか見えなかった。

 凄まじい雷光と雷鳴が二人の頭上で炸裂する中、吹き荒れる風と降りしきる雨の勢いに比例するように戦いは激しさを増していく。戦闘の激しさを風の唸りと雷鳴、豪雨が激しく大地を打つ音で掻き消していた。

 

「これが……これが、今のアスカの力なんか」

 

 更に荒れていく天気を見て、震える声で、小太郎は誰に言うともなく呟いた。だが、その認識さえも甘かったことを次の瞬間に思い知る。ただでさえ非常識な力が、更なる高まりを見せたのだ。

 空で瞬く白光が闇夜を照らし、際限なく増幅する上昇気流は頭上にある雷雲の活動を更に活発にさせて、天の雷と地の戦闘で轟く轟音の二重奏は魔獣の咆哮にも似ていた。雷の閃光が辺りを照らし、雷轟が耳を潰さんとばかりに鳴り響く。世界の終末かと錯覚するほどに異常で、異様な光景だった。

 

「俺が一緒に戦ったって足手纏いやないか」

 

 小太郎は目の前で繰り広げられる戦いに、特にアスカの戦いぶりに眼を奪われていた。

 まるで神話の再現のような激突。その脅威と驚愕を、いま目の当たりにしていた。アスカの穿つ雷が天を裂き、ヘルマンが放つ荒れ狂う波濤が大地を砕く。かつて想像だにしなかった領域の世界を、小太郎は瞬きする隙すら見出せずに注視するしかなかった。

 

「この術式を変えて、魔法陣を書き換える。後は……」

 

 誰もが戦いに注視する中にあって、ネギだけは瞼を閉じて黙考する。

 その脳裏には常人ならば発狂するだろう速度で数多の計算式が計算され、一つの形へと到達しようとしていた。ネギにはアスカの戦闘センスも、小太郎のような実戦経験もなければ、アーニャのように機転を利かすことも出来ない。

 ネギが出来るのは考えることだけだ。考えて考えて、考え抜くことしか出来ない。

 

「六年待ったのは、アスカだけじゃない」

 

 戦いも、ネギの作業も、その全てをアーニャは見ていることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 観客の気持ちは関係なく戦闘は続いており、両者共に無傷といかず、所々に血を流していた。だが、拮抗していた状況が遂に動いた。

 人の身体など豆腐も同然に砕く一撃を、アスカは斜め前に踏み出すことで躱した。下手な大砲よりも強力な一撃を掻い潜って懐に潜り込む。時間が経つごとにキレを増していくアスカの動きが、ヘルマンの予測を初めて超えた。

 

「ッ!!」

 

 身体が触れ合うほどの距離に近づかれたヘルマンに攻撃オプションはない。ヘルマンの耳に風を切る音が響いた。音の正体は当然アスカの攻撃だ。

 

「ぬ……」

 

 米神を狙う一撃から咄嗟に顔を守るように左腕を上げたが鈍い音と共に手首の下に直撃する。人体の構造上どうしても脆い所に攻撃を受け、ヘルマンの顔が苦痛に歪む。

 アスカの攻撃はまだ終わっていない。ヘルマンが気がついた時には拳が脇腹に接していた。

 

「ぐ……ぬぅ……っ」

 

 太鼓を叩いたような腹の底に響く轟音が鳴る。突き抜けた衝撃が接触点から背中を通り抜けて炸裂した。。

 膝を叩き込んだ瞬間に二人に降り注ぐ雨が十数メートル単位で弾き飛んだ。これから降りかかる雨も、既に落ちていた雨も、全てが攻撃を加えた箇所の方に弾け飛んだ。

 

「まだまだ!」

 

 が、悪魔であるからかヘルマンにはこれほどの一撃でも致命傷になり得なかった。アスカの後頭部をしぶとくも狙って右肘を振り下ろす。

 

「――――――影の地、統ぶる者、スカサハの我が手に授けん。三十の棘もつ、愛しき槍を」

 

 後頭部という見えない死角であり、大気を切り裂くその威力は当たれば人間の頭など柘榴を潰したようにして吹き飛ばすだろう。

 完全に死角をついた攻撃だったが、アスカには背後であろうと死角は死角足りえない。

 

「雷の投擲!!」

 

 左前方に踏み出して腰を落として肘を避けると魔法名を唱えて雷の槍を硬く握り、ヘルマンの顔面目掛けて打ち放つ。が、ほぼゼロ距離に関わらず、超反応を見せたヘルマンは顔面に伸びてきている雷の投擲を、その手で内側から外側へと大きく払った。

 軌道をずらされ、放たれた雷の投擲はヘルマンの頭部に生えている捻じれた角の片方を抉り取る結果となる。

 ヘルマンならば避けるとアスカは信じていた。そして避けた結果として体勢が万全なのはありえないとも。

 

「避けたな?」

 

 雷の投擲を放った手でヘルマンの服を掴みながら、足を後足で纏めて刈り取った。柔道で言う大内刈りが見事に決まり、ヘルマンの身体が上下に反転する。

 

「ぜあっ!」

 

 足を刈り取った足の勢いに逆らわず倒立して宙を蹴り、頭から落ちるヘルマンの顎に全体重を込めた掌底を打ち下ろした。虚空瞬動をして威力を倍増して振り抜き、頭頂から地面に叩きつける。

 ヘルマンが叩きつけられた箇所はコンクリートの罅割れ程度で済んだが、本当の被害はそんなものではない。貫くことを目的とした一撃は衝撃を通し、地表に現われた表立っての被害とは裏腹にヘルマンの頭部を突きぬけ、接触していたコンクリートを通して地層に致命的なダメージを与えていた。

 もし、この戦闘が終わった後に修繕する際は地面の下から行わなければならない。誰も脆くなった地層が崩れて地盤沈下に巻き込まれたくはないだろうから。

 

「ちぃっ」

 

 そんな一撃を与えたにも係わらず、アスカの表情は勝ち誇ったそれではなく、寧ろ忌々しいとばかりに舌打ちをした。アスカの手に頭蓋骨を砕いた感触はない。まさか悪魔だからといって頭蓋骨がないとは思えない。

 致命傷を与えていないことを直感で悟り、頭だけで倒立をするようなヘルマンの腹部へと追撃を放とうとする。

 それよりも速く、ヘルマンが地面に倒れた状態のままでショートレンジの拳を打ち放った。

 

「な……!」

 

 肉を殴打する鈍い音と共にアスカの体がくの字に曲がる。鳩尾を中心として真上に浮いた。重たい空気が喉奥まで迫る。足が五十センチは地面から浮き上がる。

 威力よりも速度を優先したことで一撃必殺の威力はないが、攻撃を中断させて起き上がり、飛び退って一度間合いを取るだけの時間を獲得した。

 ヘルマンが素早く起き上がるのを見て、悪魔の耐久力の理不尽さを呪った。

 

「ここで決めさせてもらう!」

 

 だが、起き上がるために出来た隙をアスカが見逃すはずもない。取った間合いを一足飛びに詰める。

 成長というより進化と呼ぶべき速さで強くなっているアスカだが、自らの総合力がまだヘルマンに及ばないのを自覚している。戦い続けていれば何時かは追いつくかもしれないが、その前に負けるのは分かっている。ヘルマンが予測を修正してしまう前に、勝負の流れを引き込んで決着をつける。

 

「……っ」

 

 間一髪、起き上がる姿勢のまま飛び退いたヘルマンの鼻先を、轟然と相手の頭部を狙って振り上げられたアスカの右上段の蹴り上げが掠め過ぎる。続けて右足を下げる時にその反動でもう一方の足を振り上げて、もう一度放たれた追い討ちの左上段の蹴り上げも、ヘルマンの首を刈るには至らなかった。

 古菲から盗んだ中国武術の八極拳の一つ、連環腿が空を切るのみに至ったのは、偏にヘルマンの反応速度の速さ故だ。耐久力といい、反応速度といい、人のそれを遥かに凌駕している。

 アスカが先程まで左前だった構えを突然踏み換え、反転させた。その足が内側からヘルマンの前足に絡みつく。鮮やかな鎖歩の足捌きによって、ヘルマンはまんまと体勢を崩された。

 

「雷華――」

 

 握っていた拳を更に強く握り締める。他の事にも使える万能な人間の手を、ただ一つの武器へと変えて、遠目からでも感じられる強い魔力が集める。夜に太陽が現れたような輝きを右手に以て必撃と為さん。

 放つは最強の技である雷華豪殺拳。今のアスカの力量で放てば如何な上級悪魔と言えども只では済まない。

 

「ぬぅっ!!?」

 

 転倒を免れようと踏み止まれば、間違いなくアスカのカウンターが来る。だが後ろに反った重心はもう取り戻しようもない。ならば、活路は唯一。打たれる前に攻撃するのみ。

 ヘルマンにあるのは攻撃のみ。迫るアスカ、焦りもない、怯えもない、ただ眼前の敵を打ち抜く一念だけがある。

 

「!?」

 

 先に切り札を切ったのはヘルマン。

 ヘルマンは薄ら笑いを浮かべて口を開く。口の奥には、不気味な光が集まっていた。

 ヘルマンは石化の呪法の主。その石化方法をアスカは勿論、ネギらも知らない。なのに、アスカはその光に触れたら叔父夫婦と同じ末路になるのだと直感した。

 悪魔の口からは、もう発射寸前の石化の魔法。ヘルマンの石化の魔法の方が間違いなくアスカの攻撃が決まるよりも早い。攻撃の途中で回避は間に合わない。

 

「ア、アスカッ!!」

 

 叫んだのは一体誰か。世界樹の枝の上から伸ばすその手は当然、遥か眼下で一人戦うアスカには届かない。

 ヘルマンから解き放たれた閃光が狙い過たず、避けようもなくアスカを飲み込んだ。

 

 

 

 

 

 解き放たれた閃光。受けるなど無意味、回避することは不可能な状況。アスカが石化したことは覆しようのない事実でありながらヘルマンは翼をはためかせて、空へと浮かび上がっていた。

 

「え……」

 

 そんな声を上げたのは誰だったか。

 迫り来る現実を見たくなくて目を瞑った明日菜がゆるゆると閉じていた瞼を開くと、まず視界に入ったのはネギの杖であった。巨大な世界樹の枝の上で片膝をつくようにして黙考していたはずのネギが杖を眼下へと向けている。

 視線をネギの杖の先に向けると、そこにはヘルマン――――正確にはさっきまでアスカがいた場所を指し示していた。

 

「今のに間に合ったんちゅうんか?」

 

 らしくもない驚愕を露わにした小太郎の言葉に、遅れながらに明日菜もその意味に気づく。

 

「アスカ!」

 

 視線を更にその先へと移すと、何かに跳ね飛ばされたように観客席にめり込んでいるアスカがいた。よほど勢いよくめり込んだのか、雨でも消しきれぬほどの噴煙が薄く漂っていた。

 噴煙の向こうにいるアスカは無事のようだった。明日菜が見る限りではその体に石となった様子はない。

 空中からアスカの無事を見て取ったヘルマンは、世界樹の枝の上で杖を向けるネギに視線を移して悪魔状態で分かりにくいがハッキリと驚愕を現していた。

 

「あの一瞬でアスカ君を風で押し飛ばすとは…………。的確な状況判断能力とかなりの魔法展開速度だ」

 

 絶好の気に放たれた一手を破られてもヘルマンは少しも気落ちなどしていなかった。

 その答えは晴れていく噴煙の先にあった。

 

「しかし、完全には間に合わなかったようだ」

「あ!?」

 

 遠目の明日菜からでもはっきりと見えた。アスカの左手の手首から先が石と化していたのである。ネギの神業ともいうべき魔法発動を以てしても完全な回避には至らなかったようだ。

 

「やれやれ、私が意図したこととはいえ、このような中途半端な結果になろうとは………………まあ、いい。次はネギ君で遊ぶとしようか」

 

 勝敗は決したと、ヘルマンはようやくめり込んでいた観客席から体を起こしたアスカから視線を外して、世界樹の枝の上で杖を戻して再び黙考に入っているネギへと興味を移したその時だった。

 

「!?」

 

 鋭い、刃のような殺気がヘルマンに向けられた。

 本能的に危険を直感したヘルマンは身構え、殺気の発信源がアスカであることを確認すると落胆したように肩を落とした。

 

「何かね。そのような状態でまだやろうというのか」

「ああ、そうだ、勝手に終わらしてんじゃねぇよ」

「そうは言うが私の石化を受けた以上、君の末路は決まっている。見たまえ、石化の範囲が広がっているだろう」

 

 ヘルマンは指差して、既に固まっている手首から先だけではなく、徐々に体の中心部分に向かって石化の範囲を広げていくのを指摘する、

 

「やがて石化は全身に回り、戦うどころか君は永遠に物言わぬ石像と化す。最後に戦った礼儀だ。何か言い残すことがあるならば聞こう」

「だから、勝手に人を終わらるなって言ってんだ! このぐらい……っ!」

 

 言った直後、アスカの全身から魔力が放出された。

 近くにいたヘルマンが圧されるほどの膨大な放出量。その全てが石化した左腕に流し込まれる。

 

「ガ――ッ!?」

 

 左腕を抑えたアスカの口から苦痛の呻きが漏れた。

 

「まさか魔力を通して無理やりに石化を吹き飛ばそうというのかね? 無駄だ。既に君の左腕は石と化している。魔力を流そうとしても逆流してくるだけだ」

 

 ヘルマンの言う通りだった。腕に伝わるその感触に、全てが宿っている。

 腕中の神経や筋肉、血管が耐えられないと叫びを上げていた。叩きつけている剥き出しの魔力が、行き先を失ってまだ石化をしていない腕の中を踊り狂っているのだ。その代償としてアスカの顔は激しい苦痛に塗れていた。

 アスカの突き出した左腕がブレ、弾け散りかねない左腕の痙攣を右手で必死に押さえつける。

 顔色が蒼白を通り越し、白蝋そのものに染まるほどの激烈な痛み。

 

「グ……ああ―――!」  

 

 袋一杯に詰めた刃物が内側から突き出るといったどころではない熱と痛みが左腕を襲っていた。

 信じ難い痛みだった。例えるなら爪と指の合間に他人の腕一本が丸ごと捻じ込まれているようなものだ。神経を直接火鉢で掻き混ぜるかのような、もはや痛みとも熱とも呼べぬ根源的な感覚だった。

 左手を辿って神経は焼け落ち、脳は爛れ、身体中の内臓という内臓が全て炎を上げていく。

 腕の神経と骨の間で、内圧が凶暴に膨れ上がり、一刻も早く解放しなければ逆にアスカを内側から破裂させんばかりに荒れ狂っている。腕の中にいる何かによって肉を噛み、骨を潰されているような錯覚すら覚える。

 時間をかければかけるほど、その錯覚は現実味を増して、もはや自分の身体と炎の区別さえつかない程になっていた。

 目の前が眩む。視界の端がぼやけてきた。食い縛った歯の隙間から白い泡が吹き零れ、少年の苦痛の程を示した。

 

「く……ぉ、あ………っ!」

 

 堪らず吼える。跳ね回る左腕と、左肩から体内に撃ち出される弾丸。薬の副作用のように反発する魔力はザクザクと左腕から体内に進入して内部で跳弾し、消しゴムをかけるようにアスカの中身を傷つけていく。

 容赦なく肉体を激痛が貪り、脳も内臓も何もかも握りつぶし、塗り潰していくようだった。

 

「よくもやる。無駄だと言ってるだろうに」

「うるせぇ! 誰が無駄だって決めた! お前なんかが俺の限界を決めるな!」

 

 呆れと共に吐き出されたため息に、激発したアスカは末尾に込めた叫びと共に更なる力を込める。

 痛みがあるのは神経が通っている証拠。痛みがアスカを世界へと留まらせてくれるのだ。

 

「づ……………! あ、あ、あ―――――!」

 

 増大する魔力に比例するように増していく痛みに唇の端から泡が吹き零れる。

 痛みは左腕だけではない。全身の皮膚の内側を凄まじい熱が蠢いている。ぞりぞりと皮膚と肉の間を鱗で削りながら、骨を啄ばみ、神経の一本ずつを舐め上げて毒を注ぎ込んで益々膨れ上がる毒蛇のよう。左腕も、左腕を押さえている右腕も、踏ん張っている両足も、抑えきれずにがくがくと大きく痙攣している。

 眼球が裏返りかけ、意識が途切れるのを必死で引き止めるために出来ることはたった一つ。

 

「ぎ―――――あ、あア、アアアアアアアアアアアアアアアアアア―――――!」

 

 骨から脳髄までその感覚に冒されそうに鳴りながら吼えた。骨と筋肉を直接削ぐような熱と体内と体外の痛み、悶絶すら出来ぬ感覚に自分が失われていく恐怖を追い返さんと絶叫する。

 

「ガアアアアアアアアアアアア―――――――ッッッッ!!!!」

 

 獣の如き叫びの直後、何かが壊れる音が響いた。

 左手の指先に激痛が走り、循環して帰ってきた魔力が眼球を焦がし、脳を焼く。それが意味することは唯一つ

 

「一か八かの博打をまさか成功させるとは……」

 

 降りて来て羽を消したヘルマンが唇の端を僅かに上げた。その眼は元の肌色を取り戻したアスカの左腕に向けられている。

 

「この麻帆良ならば優れた治癒術士もいるだろう。世界でもトップクラスの君の魔力ならば、魔力抵抗によって石化する速度も遅い。仲間に私の足止めをさせ、逃げれば命を賭けてまで無謀な挑戦をする必要はなかった」

 

 敢えて言わなかった最適行動をヘルマンが口にしたのは、彼にとってもアスカの行動が予想外だったからか。

 視線の先で石化を力尽くで破るために全精力を振り絞り、大きく息を乱しているアスカがいる。

 

「ヘルマン、お前を倒すのは…………俺だ。他の誰かじゃない」

「そんなに息を乱して、よくも大言壮語を吐く」

 

 そんな馬鹿は嫌いではないがね、と心中で呟き、見極めるようにアスカを観察する。

 

「石化を力尽くで破ったことは称賛するが、石化を受ければ致命であることに変わりはない。破るために随分と魔力を消費している。それでもまだ私を倒そうというのかね?」

 

 返答は無言であった。目は口ほどに物を言う。言葉よりも何よりも、貴様を打倒するという決して揺るがぬ瞳が雄弁に答えていた。

 

「よかろう。ならば、死力を尽くして我が首を取りに来たまえ」

 

 この戦いが終わる時は、どちらかの命が尽きるのだと、互いの認識が一致する。

 

「まだまだこれからだ。もっともっともっと――――――命果てるまで私を楽しませてくれ!」

 

 アスカはそれに答えることなく、乱れた息を整えると腰を落とす。

 

「ぉおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

 馬鹿正直に真正面から雷光を伴って最高速度で突撃してくるアスカにヘルマンの反応が遅れた。アスカがヘルマンに組み付いて、そのままスピードを緩めずにステージへと叩きつける。

 ヘルマンもやられっぱなしではない。アスカを蹴り飛ばし、直ぐに立ち上がって左ジャブを連打して高速光線を放つ。しかし、鋭角的な動きで光線の群れを避けるアスカには当たらない。

 これでは意味がない、と最後のジャブを放って飛び立って、光線を避けた方向へと先回りしてアスカの腕を外側へと弾く。

 

「!」

 

 ニヤリとヘルマンが笑った直後、腕を弾いたことで開かれた体。無防備に晒されている腹に渾身の右ストレートを叩き込んだ。

 

「フ……ぬ?」

 

 勝ち誇りかけて、手応えが違うことに疑問を持つ前に認識の正しさは直ぐに証明された。

 ヘルマンの拳は人の肉体ではなく、アスカが足元にあった瓦礫を蹴り上げて壁としたのだ。当然、瓦礫は爆発したような激音と共に粉々に粉々に砕けたが、アスカに耐える力を入れる暇を与えていた。

 今度、ニヤリと笑ったのはアスカの方だった。

 

「オラァッ!」 

 

 耐え切ったアスカの拳が、怒涛の如くヘルマンの顔面に襲い掛かった。

 

「ぐっ」

 

 突然の肉弾戦に、ヘルマンは即応しきれなかった。

 一秒で十発以上放たれた乱打が顔面を打ち据え、その度に異形の顔が上下左右に方向転換させられる。無論、それを甘受ばかりしているヘルマンではない。

 

「それっ!」

 

 鼻面に急進してきた拳を手の平で受け止めると、その腕を絡め取って一本背負いの要領でアスカを硬いアスファルトの地面に叩きつけた。

 

「ぬうっ!」

 

 追い討ちを駆けんとヘルマンが振り上げた脚を下ろすよりも早くアスカは動いていた。

 起き上がらずに腕を振り抜きざま、無詠唱で生み出した雷の投擲を真っ直ぐ向けて突き上げる。

 ヘルマンは仰け反るようにして、その切っ先から逃れようとしたが、皮膚一枚ほどの差で躱しきれなかった。腰から胸元までの服を一直線に切り裂いて肌に薄い縦一文字の傷が描かれる。

 ヘルマンはその損傷にかかずらうことなく、逆に右手に魔力を集中させて振り下ろした。

 アスカが後ろへ飛ぶように避ける。振り下ろされた右拳を中心に付近の地面が粉々に爆ぜる。アスカの行動の方が振り下ろされる右拳より半瞬ほど早かった。たったそれだけの差でアスカは命を拾った。

 

(――――!)

 

 しかし、爆砕した地面の破片を払いのけていた左手が爆煙を割って伸ばされた手によって掴み取られた。

 ぐい、と動作方向に引っ張られたことで抗うことも出来ずに、またもやアスカの身体は宙を舞っていた―――――前方に向かって円を描くように投げ飛ばされ、強大な力で背中から地面に叩き落されて息と血反吐が口から漏れ出る。

 

「…………っ!」

 

 背中を固い地面に強く打ったせいで、一瞬呼吸が止まる。悲鳴すら上げられない。しかし、そのまま掴んでいる腕を極めてトドメを刺そうとしているのを目にしては動かずにはいられない。

 

「ぐっ……!」

 

 ヘルマンは掴んでいるアスカの手から生じた雷撃に条件反射的に手を離してしまった。

 雷で弾きながらアスカが地面についた左手に力を集めて解放する。瞬動の要領で右方向へと回転しながら飛ぶ。

 本来ならば足を使うのを手で、しかも片手で行っているので姿勢は安定しない。しかし、緊急時の回避としては十分の距離を取れた―――――と安心した時には既にヘルマンの攻撃は始まっていた。

 両手両足をついて着地したアスカの上、ヘルマンが投げた砕けたアスファルトの欠片が落ちてくる。

 アスカは横っ跳びで、アスファルトの襲来を避けた。しかし、ヘルマンは次々と投げているのか、アスファルトが回避先に飛んでくる。横っ跳びのせいで体勢が悪い。もう躱すことは出来ない。

 

「このっ!」

 

 咄嗟に両腕を振るって、アスカは掌底で身長ほどの大きさのあるアスファルトを叩き割った。その間にヘルマンが疾風の如く近づいていた。

 アスカが向かってくるヘルマンに向かって何かを投げた。振るわれたのは何の力もないアスファルト。掌底で叩き割った時に欠片を手にしていたのだ。

 小さな欠片といえど、目の前に飛んで来れば視界の一部を覆い隠す。条件反射でアスファルトの欠片を払いのける。

 

「なっ……しまっ……!」

 

 ヘルマンが失策を思うより速く、腹に一撃が叩き込まれた。突きか蹴りか、ヘルマンにはそれすら分からぬほどに重い一撃だった。

 よほどの勢いを以て放たれた一撃なのか、破壊的な反作用を齎してヘルマンの体が勢いよく後方へ飛ぶ。

 

「今ッ!」

 

 向こうは体勢が悪く、こちらの一撃を受けた直後。アスカの好機であった。

 右手に収束した魔法の射手を纏い、紫電を帯びながら一直線にヘルマンへ向けて飛ぶ。不可避の一撃。なのに、ヘルマンの顔から笑みは失せていない。ハッタリだと気にせずに突進するアスカ。

 後少しで、というところでアスカの目前からヘルマンの姿が掻き消えた。

 

「なに……ぐはっ!」

 

 ヘルマンに羽が生えたと思ったら掻き消え、刹那の後に腹から鈍い衝撃が走る。

 

「私には羽があるのだよ」

 

 羽をはばたかせ、虚空瞬動をして一回転することで攻撃を躱して、勢いのまま上を通るアスカを蹴り上げたのだ。

 遠心力を乗せた蹴りの衝撃は腹から背骨を伝って全身に広がり、アスカは目を剥いた。息が出来ずに喘いでいると、蹴られた勢いで上昇していた背後に回りこまれていた。ヘルマンの左手が、背中を殴打する。

 まるで十分に遠心力がついたハンマーを叩き込まれたような重い衝撃に、アスカは言葉も出せず、口の端から鮮血を撒き散らしながら上昇とは反対に急速に下降して地面に斜め上から叩き付けられた。

 殴打の衝撃は凄まじく地面を削りながらようやく止まる。

 蹴りと殴打と落下の衝撃。全身に広がる立て続けのダメージで身体が痺れ、目も霞んでいたが、アスカは立ち上がった。敢えて追撃に移らず、用心深く目元の血を拭ったヘルマンはジッと待っていた。 

 

「この程度で終わりではあるまい?」

「当然だ!」

「なら結構!」

 

 二人が同時に踏み出した瞬間、姿が消えた。アスカとヘルマン、二人の姿がかき消すように見えなくなった。それは二人の移動速度が速すぎて、そのように見えただけだ。瞬き一回にも満たない時間が過ぎた時には激突していた。

 もはや互いに惑わすことも、探り合うこともない。より速く、より重く、どちらも相手の一撃を凌駕する会心の一撃を追い求めて、交錯させる猛烈なる攻め技の応酬が繰り広げられる。

 絡み合うように鎬を削る力の余波によって発生した火花は、まさに百花繚乱の狂い咲き。人外のパワーとスピードで駆使される体躯の衝突は音速を超え、観測が意味を失う領域の瀬戸際で極限の冴えを競い合っていた。

 二人がぶつかった瞬間に起こった攻防は十合なのか百合なのか、それすらも肉眼では判別し切れなかった応酬を交わす。逆巻く烈風と生と死の錯綜。雷が奔り、火花が奔り、衝撃波が奔り、光線が奔る。頭上の雲の中を生き物のように轟音を伴った雷光が走り回っている。

 

「悪魔パンチ!!」

「雷華豪殺拳!!」

 

 十メートルの鉄板すら容易くくり貫きそうなヘルマンの拳を、アスカは集束・雷の三矢を拳に乗せて真っ向から迎え撃つ。

 

「ク、カッカッカッカッカッカッカッ」

 

 ヘルマンは必殺の一撃を防がれたことに、遠目からでも分かるほどはっきりと笑い声を漏らした。掠れるような声で、くぐもった嗤いを漏らしてくる。不気味で陰惨であったが、その声にあるのは一筋ではいかない強敵に出会えた歓喜だった。

 今まで以上に魔力を溜めた腕を放つのを、見せぬ速さで鮮やかに横薙ぎに振るった。

 これを上空に跳び上がる事で回避したアスカだが、固定されている観客席はそうはいかず、当たるも幸いに薙ぎ払われていく。二人の戦いによってなんとか原型を留めていたに過ぎなかった観客席が、ヘルマンの振るった一撃によって元がなんなのか分からないほどに破壊されてしまった。

 アスカを追って空中に飛び上がったヘルマンは、バッと背中の背中の羽を広げて怪鳥の如く舞う。

 

「!」

 

 追撃戦になるかと思われたが、ヘルマンは口を大きくガパッと開けて浴びたモノの悉くを石化する光線を放った。

 石化したか、と閃光によって思わず腕で眼を覆った誰もが思った。アスカは右手に集めた魔力で何もない空間を叩いた。さっきもやった虚空瞬動の応用で無理矢理に空中で軌道を変える。

 眩んだ眼が正常に戻って見ると、石化していないが体勢が崩れているアスカの姿があった。

 

「隙有りだ」

 

 直後、空高くより急降下して獲物を強襲する鷲の如く、蹴り落とすヘルマンの姿もまた同時に映る。

 追撃はさせぬと放たれた雷の投擲を避けながら、元が何か分からない様になっているステージ跡に落ちたアスカを嘲る。

 

「次は石化を破ることは出来ぬと避けるのは結構だが、隙を晒しては意味がないぞ?」

 

 互いの取るべき手段は承知の上。

 

「白い雷!!」

 

 アスカの中距離系魔法が放たれ、迎え撃つように石化光線が放たれる。攻撃の余波によって欠片程度には残っていたステージが廃墟どころか更地へと化していく。

 雷鳴が激しく轟いたのは、この時だった。

 

「住んでいる世界が…………違いすぎる………」

 

 遅ればせながらも眼を覚ました刹那は、眼下で起こるバケモノ達の戦闘を見て飛び出しそうなほど目を見開き、滑稽なくらいガタガタ震えていた。

 他の人質たちも歯の根が合わぬほど怯えきっている。血の気の失せた顔で、ただひたすら震えていた。普通人にすぎない彼らも、大いなる力の一端を感じているのだ。

 喉を鳴らし、刹那は思う。その程度しか認識できない者たちは幸せだ、と。

 この、全身を圧迫する<力>をもし、まともに感じ取れたら、とても無駄口など叩けないだろう。

 

『魔と戦うものは自らも魔と化さぬよう心せよ。お前が深き闇を覗き込む時、闇もまたお前を覗き込む』

 

 嘗て刹那は、師である青山鶴子にそう教えられたことがある。だが、それもまた力を求める者の一つの完成形。力のみを求め、守る者無き者の剣は確かに強い。守るための戦いは、ただ自分だけのための戦いより遥かに困難だ、と。

 鶴子の言葉を片時も忘れた事は無い。守るために戦う自分がそんな輩に負けるわけにはいかないと、当時の自分は強くなる決心した。それだけの修練と苦行を乗り越えて強くなった自負と自信がある。けれども、魔そのものと魔に堕ちようとしている者達の戦いを見る目は恐怖に濁り、足は竦み、心は容易く力に屈服する。

 濡れた髪と巻いたタオルが身体中にベッタリと張り付き、底なし沼のように彼女を絶望の底へと引きずり込もうとしている。鼓膜も度重なる轟音によって麻痺してノイズのような音しか拾えず、景色と同じようにぼやけた像しか捉えていない。

 まるで巨大な肉食の獣が目の前で吠えたてているよう錯覚を覚える。

 

「あ……?!」

 

 見ていられずに眼を伏せていた刹那は突然上がった明日菜の声に思わず顔を上げた。

 

 

 

 

 

 二人の戦いは佳境へと移っていた。上空数十メートルに空気を引き裂く拳という名の鈍器から、光が弾となって吹き荒れた。

 アスカは咄嗟に身を捻ったが、それでも脇腹を光が掠める。たったそれだけで、アスカの体が竹とんぼのように回転した。なんとか虚空瞬動の応用で四肢の先から魔力を放ってブレーキをかけることで落下を防いだが体勢の不利は否めない。また、この絶好の気をヘルマンが見逃すはずが無い。

 アスカが体勢を整えるよりも速く、ヘルマンがフックを放つと横薙ぎに光が走った。

 空気を引き裂いて迫る光を、地を滑るように燕のように掻い潜って紙一重で躱したアスカがヘルマンの攻撃を放った腕である右側に虚空瞬動で踏み込んだ。

 

「がっ!?」

 

 アスカの左肘がヘルマンの右脇腹に突き刺さった。そのまま脇の下を潜って体を入れ替え、ヘルマンの背中に肩の裏で体当たりしようとして、

 

「―――――!?」

 

 が、攻撃を耐え切ったヘルマンは素早く反応してターンしたので、死角に回り込むはずが既に攻撃アクションを止められずに躱されたため隙が出来た。

 そのままアスカが横を通り抜けるのをヘルマンは許しはしない。アスカ目掛けてトラックのタイヤのような膝が撥ね上がる。

 

「かっ……」

 

 避けることはできないので受けようとするも防御が間に合わず、アスカの腹にハンマーのような膝先がめり込んだ。二十階建ての建物の屋上からコンクリートで固められた地面に生肉を叩きつけたような音が響いた。

 鉄の塊に殴られたような感覚の後にバキバキと肋骨が砕ける音が響き、「かはっ」と血の混じった唾を吐きながら、突き上げられて身体をくの字に折ったアスカの視界の隅に、狂笑を浮かべたヘルマンが映る。

 

「くっ!」

 

 アスカは歯を食い縛り、痛みに耐えて追撃が来ない内に空中で体を回転させるのと同時に攻撃を繰り出した。

 拳を握って繰り出した左拳は、同じように拳を握り、限界まで魔力を通わせて待ち受けてから打ち下ろされた悪魔パンチで合わせられた。十分に力の乗っていないアスカの左拳と十分に力の乗った悪魔パンチでは勝敗は明らか。

 アスカの左拳が何本も骨の砕ける嫌な音と共に潰れた。

 

「ぬん―――ッ!」

 

 歪に歪んだ左拳の痛みに呻く間もなくヘルマンの巨大な手が視界を覆い、万力染みた凄まじい握力がアスカの頭を締め付けた。

 

「ぐわあああ―――――っ!!」

 

 頭蓋骨の軋む音とともに地が逆流し、頭の中にバチバチと火花が散る。

 アスカの苦痛の叫びに、ヘルマンの唇が一瞬おぞましい笑みの形に吊り上がった。視界をヘルマンの巨大な手で覆われているのに背筋に走った寒気。アスカの第六感に危険の信号を発するが、痛みで行動が遅れた。

 ヘルマンがアスカを掴んだままの腕を振り上げた。悪魔の身体能力にモノを言わせた腕力で振り回され、天地が入れ替わるような浮遊感を感じた直後、豪快に風を切りながらヘルマンが腕を振る。アスカを真下の地面に向かって投げたのだ。

 技でもなんでもない力任せの一撃だが、アスカは抵抗すら出来なかった。まともな悲鳴すら上げられずに凄まじい速度で一直線に落下してゆく。視界を横切る景色が、ただの色の帯となる。

 

「グハッ!?」

 

 隕石が墜落したような衝撃と共にアスカは背中から地面に叩きつけられた。

 全身がバラバラになったような衝撃に意識が遠のく。が、それも一瞬のことで、何かが上に圧し掛かってくるのを感じ取って腕を胸の前で交差させる。

 地面にめり込んだアスカに向けて、ヘルマンはその巨大な膝を叩き込んだ。アスカの主観では巨大な岩のようなヘルマンの膝が、咄嗟に胸の前で交差させた腕ごと胴体に食い込んだことによる激痛によって、意識が一瞬確実に別世界へと飛んだ。

 何かがバキバキと折れる音がやけに大きく響いて聞こえたので、どこかの骨が折れたのは間違いない。アスカの口から血が溢れた。沈み込んだヘルマンの膝は恐らく骨だけではなく、それに護られた器官をも叩き潰したか、折れた骨が傷つけたのか。

 仰向けに横たわり、踏みしめられたままで動くことが出来ない。荒い呼吸の度に口から鮮血が零れる。

 尋常ではない戦闘能力を持っていようが動けないほどの傷を負えば、ただの人と変わらなくなる。もはや戦うどころか起き上がることも怪しくなってきたアスカを、ヘルマンはそのまま手を伸ばして膝で腹を押さえつけたまま頭部を掴んで邪悪な笑みを浮かべて覆いかぶさる。

 

「まだだぞ、少年!」

 

 馬乗りになって太腿で胴体を挟み込み、アスカの自由を完全に封じる。

 空いた手で顔目掛けて連打を加える。僅かなガードの隙間を縫って拳を落としてゆく。腕で辛うじて急所は守っているが振るわれる拳の威力は脅威だった。連打の前には防御などそれほどの意味を持たない。防御しようとも上から押し潰そうとするからだ。

 リズムよく叩きつけると、アスカの顔が面白いように上下する。

 

「ぬははははははっ!」

 

 ヘルマンが高笑いを上げる。拳で肉体を殴打する鈍い音が、生肉をコンクリートに叩きつけたような生々しい音となって辺りに響き渡る。その度に地面が余震のように震え、そこそこ離れた場所にある世界樹が不気味に揺れる。

 

「ぐ、ぐぶっ」

 

 口からは血の泡を溢れさせながら防御の姿勢を取り続けたアスカの右手が、攻撃を繰り返すヘルマンの左手首を突然に掴んだ。

 

「今さらどうしようと言うのだ? 無駄なこと、を…………おぉ!?」

 

 そして体内の魔力を爆発させて、全身の防御を放棄してまで右手一本に集中した状態で力のままに握り潰した。

 魔力を右手に一点集中すれば、他の部分の守りが薄くなる。それこそ一発でも攻撃を受ければ顔が潰れたトマトのようになる危険性があった。多大なリスクを冒してまで行った賭けはアスカに味方した。ヘルマンの顔が激痛に歪み、アスカの指が楔のようにヘルマンの手首に深々と食い込み、皮膚を破って血を吹き出させていた。

 

「おおおおおあああああああっ!!」

 

 アスカは、痛みでほんの少しだけバランスを崩したヘルマンの腕を引っ張って前のめりにさせ、頭突きをして体を浮かさせた。

 跳ね上がる上半身。浮き上がった腰から足を引っ張り出し、胸板を蹴り上げて空中にまで跳ね飛ばした。更にバネ仕掛けの機械のように後転して跳び起きると同時に地面を蹴り、弾丸のようにヘルマンに向けて突進する。

 ヘルマンは飛び上がってきたアスカに向けて、カウンターで口から石化光線を吐く。

 だが、石化光線を予測していたアスカは産毛が掠めるほどの紙一重で躱した。髪の毛数本と服の端が石化したが、その程度では動きを阻害するには至らない。

 腫れ上がった瞼によって右眼が完全に塞がっている。鼻も血が詰まっているのか呼吸が出来ないし、何よりも鼻がついているかどうかも判らないほど感覚がない。砕かれた左拳はミミズが穿ってるような感覚がしてるし、一呼吸する度に内臓が異様に痛い。

 戦況が長引けば不利であり、ここが最大にして最後の好機と見た爆発的なパワーがアスカの身体を突き動かし、後のことなど知らぬと負担も考えずに、無意識に肉体限界ギリギリに留まっていた魔力の出力を上げる。

 

「ヘルマン!!」

 

 アスカの体から魔力が爆発した。それは一時ではあるが見ていたエヴァンジェリンが瞠目するほどのパワーで、上級悪魔であるヘルマンを凌駕していた。音速すら超えられそうな速度で、死を恐れない闘争本能だけの野獣が敵の懐に飛び込む。

 

「明日菜達のっ!!」

 

 アスカの右拳ががら空きになったヘルマンの鳩尾に突き刺さった。

 

「村のみんなのっ!!」

 

 上体を折ったヘルマンの急所という急所に、無数の拳打を、肘打ちを、蹴りを叩き込む。高解像度カメラでも残像しか映らないほどの猛烈なラッシュである。潰れた左拳も使い皮から骨が突き破ろうともお構いなしに拳撃を叩き込む。

 

「俺達を育ててくれたじっちゃんのっ!!」

 

 幾ら限界まで鍛え込んで超上の力で身体強化されているとはいえ、人間を遥かに凌駕する強靭な体組織を持つ悪魔の肉体を貫くには一撃では及ばない。ならば、一撃で及ばないのなら二倍の、二倍が効かないのなら十倍の、十倍が効かないなら百倍の攻撃を放てばいい。

 

「泣いていたネカネ姉さんのっ!!」

 

 百を越える打撃を浴びせたアスカの右腕が折れる音が、拳撃の合間に響く。

 ヘルマンの手首を潰した際に一点集中した魔力の負荷と、肉体許容量を超える出力で放つ拳撃によってまだ完成されていない骨が何度も攻撃を受け、強すぎる力と攻撃を放ち続ける負荷によって遂に限界を迎えてしまった。

 

「悲しんでいたアーニャのっ!!」

 

 血染めの叫びは折られた肋骨、潰れた左拳、折れた右手、食らった打撃によるダメージ等による痛みが全身を走った苦痛の呻きか、それとも際限なく昂揚し続ける殺意の発露であったか、彼自身にも判然としない。

 別に構わないと、痛みすら感じず忘我の域に到達しながらそう思った。

 

「苦しんでいたネギのっ!!」

 

 憎しみに染まっているようでアスカの意識はたった一つの意志の下に先鋭化していた。今この瞬間において己の全てを目の前の相手を打倒することだけに特化させて相手の急所を殴り、蹴り、突き、抉り、破壊する。

 

「みんなの思いをっ!!」

 

 もはやヘルマンを倒すという思考以外は千々に乱れ、意味のあることは考えられない。泣き喚く赤ん坊のように、只管に不快で苦しく痛くて気持ち悪かった。吐き気がする。頭がおかしくなりそうだ。否、そんな地点はとうに通り過ぎている。

 

「思い知れぇええええええええええええ――――――――――ッッッッ!!!!!!」

 

 嵐の如き内面を反映するように攻撃の回転が更に上がる。

 何も考えられない。思考能力は低下し、湧いてくるのは故郷が滅んだ記憶と悪意ある妄念、そして苛々と不快な思考だけだった。

 

「ぐおっ!」

 

 ヘルマンの胸板を両足で蹴り落とし、その身体を地面へと叩きつけた。

 

「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル!!」

 

 地面にめり込んだヘルマンを追うことなく、空中に留まったアスカが始動キーを高らかに謳う。

 

「来たれ雷精、風の精! 雷を纏いて吹けよ南洋の嵐!」

 

 肉体限界を超越した魔力がアスカの全身から放出され、骨折している右手を掲げた刹那、暗雲の空に蓄えられた巨大なエネルギーが引き寄せられるようにして雷が降った。

 天に走った雷は、あたかもアスカの感情の大きさを示す様に巨大な雷獣が通ったように見えた。

 雷光を受けたアスカの全身が稲光の閃光を湛えた。よく見ると、無数の激しい紫電が拳を始点にして渦巻いていた。

 

「きゃあっ」

 

 アスカに雷が落ちると、耳を劈くような金属音が辺りに反響して響き渡り、ヘルマン以外の両腕の自由な者は耳障りな音に慌てて耳を押さえた。

 

「――――――雷の暴風ッッッッ!!!!!!」

 

 幾百の紫電を散らしながら、アスカの残っていた全魔力が込められた雷の暴風が流星となって天空より放たれる。

 敵を撃滅せんと体を起こしたヘルマンの頭上へと一気に降り注いだ。輝く星空から落とされる一条の光――――――――それは神話にある「神の怒り」すら彷彿させた。

 

「グォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッ」

 

 耳を劈くような轟きと、目を覆わんばかりの閃きが一角を震わせる。一瞬、辺りが光と轟音に満たされた。明日菜たちの悲鳴を飲み込み、全てが白い闇に沈み、凄まじい破壊の力が辺りを駆け巡った。

 躱すとか、逃げるとか、そういったレベルの魔法ではなかった。ヘルマンのみならず、真下で雷の直撃を受けたステージ跡に隕石が落ちたかのような巨大なクレーターを作り、戦いの余波でボロボロになっていたが完全に瓦礫もなくなった。

 一個人に使うような魔法ではない。普通なら塵すらも残らないような威力。しかしアスカが相対するは悪魔、常人であるはずがない。

 

「私はまだ生きているぞ、少年!!」

 

 全ての魔力を防御に回した上で、羽で全面を覆ってヘルマンは見事に耐えきってみせた。羽の殆どを失い、残っていた角と四肢やあちこちを欠損させたヘルマンは既に死に体、戦える体ではないのにその眼だけはギラギラと戦意を放っていた。

 放たれた雷の暴風によって荒れている気流の中を、残った羽を使って狂念そのままに駆け上がっていく。

 互いに魔力を使い切った。ヘルマンの戦意は些かも衰えず、アスカは必勝を期して勝利を確信しているはずである。四肢やあちこちを失っていようとも、一撃だけならばヘルマンにはまだ石化能力がある。

 空に再び雷光が弾けた。

 

「――――お前なら、きっと耐えて来ると思っていた」

 

 雷光の発信源はアスカで、魔力は尽きているはずなのにその右腕から、先程とは比べ物にならない小さな紫電が迸っていた。

 

「げぇっ!?」

 

 ヘルマンは雷光を発しているのが魔力の力ではなく、気の力によるもの感じ取る。それが修学旅行でアーティファクト『絆の銀』によって小太郎と合体した際に学んだ気の操作方法。極限の状況で発動した魔力とは別の力をその手に宿し、小さな虚空瞬動をして驚愕しているヘルマンへと走る。

 折れた右腕に感覚はない。それでも向かってくる相手に叩きつけることぐらいは出来た。

 

「これで、最後だ――ッ!!」

 

 石化光線を放とうとしているヘルマンの顔へと 六年分の想いを込めて拳を叩き込む。

 

「がっ!?」

「いっけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ―――――――――ッッ!!!!」

 

 重力を味方につけて、アスカはヘルマンと共に地へと落下していった。

 数秒後、地面にぶつかった音が世界樹の枝の上にいる明日菜にも聞こえた。

 

「か、勝ったの?」

「そうみたいね」

 

 雨が降っていても雷の暴風の衝撃で巻き上がった噴煙が視界を遮っていた。明日菜が恐る恐る問いかけたのをアーニャが言葉少なく頷く。

 やがて白い霧が晴れ、再び視界が効くようになって初めて明日菜達が目にしたものは、破壊されつくして露出した地面のクレーターの横で仰向けにぐったりと横たわるヘルマンの姿だった。

 砂塵によって隠れた視線の先、クレーターの底でヘルマンは身体中を損傷して、口から血を流し、下半身は完全に消滅して人間界に限界し続けることができずに末端から少しずつ塵となっているものの、それでも生きていた。

 

「………………」

 

 仰向けに横たわったヘルマンの直ぐ近くで、のっそりとアスカがが体を起こした。 

 呼吸は乱れ、額から流れ落ちる水滴は、なにも雨によるものばかりではなかった。血と汗と泥に塗れ、戦闘のダメージと疲労は決して浅くはない。それでもアスカは五体満足で生きていた。

 

「負け、か。私も焼きが回ったかな」

 

 ヘルマンは痙攣し、ごぼごぼと音を立てて赤黒い血泡を吐いた。

 

「だが、後悔はない」

 

 そう、ヘルマンに後悔はない。悪魔の命は長い。目を瞑れば先ほどあったかのことのように六年前のことが思い出せる。

 あの日、目の前でただ震えていることしか出来なかった少年が復讐心を胸にここまで強くなり、遂には己を打倒するまでの強さを手に入れた。やるだけのことをやった。そして一人前の戦士に倒された結果であれば満足だと、充足感が体を満たす。

 

「見事だ。私を斃すまでに成長しているとは思わなかったよ」

 

 ヘルマンも素直に敗北を認めた。人間形態になったヘルマンは心からの賛嘆を込めて囁くように言う。

 両腕と下半身は既に消滅しており、残っているのは首から上と胴体のみ。それにしても所々を火傷に侵されて外傷も酷い。

 石化光線を出すことも出来ずに死に体であるにも関わらず、ヘルマンの体から覇気が消えていない。元伯爵として無様に足掻こうとせず、素直に敗北を認める姿勢が見て取れた。

 

「君の勝ちだ、アスカ君」

 

 世界樹から降りてきたネギとアーニャの姿を視界に捉え、ヘルマンは哂う。

 復讐者と悪魔の死闘は終った。勝利を掴みながら、その場にいる誰一人も勝鬨を挙げる者はいなかった。

 

「さぁ、私を殺したまえ。君にはそうする義務も権利もある」

 

 嵐もまたエネルギーを使い果たしたのか、次第に勢いを弱めていく。

 あれほど荒れ狂っていた風は鳴りを顰め、戦場となり破壊され荒れ果てたステージに残る死闘の空気を、微かに降り頻る雨が冷まし洗い流していくようだった。

 




開始「時点」のヘルマンの戦闘力を100とすると、アスカは大体60ぐらい。


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第34話 止まない雨

読む前に「第31話 転換」の最後辺りをお読みください。
独自設定の嵐です。


纏め一話の文字数が2万に達しないと、短いと思ってしまうのは色々とおかしい。


 

 四肢の殆どを欠損して尚もヘルマンの口は止まらない。

 

「今こそが君の待ち望んだ復讐の時だ。トドメを刺したまえ。でなければ私は魔界に戻るだけだぞ」

 

 末端から煙となって消えていくヘルマン。体を構成する魔力が霧散し、完全に消えたとき召喚を解かれ魔界に帰るだけとなるはずだった。

 

「さぁ、私を殺したまえ。君にはそうする義務も権利もある」 

 

 どこまで本気なのか、穏やかな微笑からは窺い知ることは出来ない。しかし、声音に込められた、惜しみのない賞賛の意思は確かに感じ取れた。

 

「……………………もう、沢山だ」

 

 一時の激情が抜けたように無表情になったアスカが、荒い息を吐きながら呟いた。

 

「アスカ……」

 

 傍にやってきたネギは見たことのない双子の弟の様子に、差し伸べかけた手を止めた。

 

「俺達は敵だった。だから戦って、勝敗は決した。なら、もういいだろう」

「では、憎き敵である私を見逃すというのかね? はっ、まさか今更に仏心が働いたなどと言わないでくれ」

「違う。そういうことじゃない」

 

 アスカが勝者とは思えぬ弱々しい押し殺すような声で吐き捨てる。

 アスカ達を逃がすために残った叔父夫妻と今も暗い地下室で物言わぬ石像となっている村人達を石化した張本人。ヘルマンは故郷を滅ぼした、憎んでも憎み切れない敵だ。だがそれでも。苦悶するヘルマンを目の当たりにすると、先程までが余計に憎しみに翻弄されていただけに更なる憎しみに身を委ねることはアスカの手に余った。

 自分が自分でなくなっていく恐怖が、目の前のヘルマンを討つことよりも上回ったのだ。

 

「ならば、そっちの二人はどうかね? アスカ君がこう言おうとも君達も当事者だ。私を殺す資格は十分にある」

 

 ヘルマンの矛先はネギとアーニャに向いた。殺害許可書をその当人から与えられた二人は傍目から見ても分かるほど大きく体を震わせた。

 先に躊躇いながらも口を開いたのはアーニャ。

 

「あの場にもいなかったし、戦ってもいない私がアンタをどうこうする気はないわ」

「ほう、それで本当に納得できるのかね? 君の両親を石化した私を生かすことに。今ならば弱い君でも苦も無く殺せることが出来るが」

 

 悪魔の囁きにアーニャは頭を振った。

 

「憎んだこともあるし、殴ってやりたいと思ったことはあるわ。でも、殺したいわけじゃない」

 

 ヘルマンは、話すことで己の中で結論付けた様子のアーニャからネギへと視線を移した。

 

「二人がこう言っている以上、僕もあなたを殺す気はありません。変わりに教えて下さい、村の住人にかけた石化を解く方法を」

 

 消えかけているヘルマンを問い詰める。六年間、ずっと追い求めてきた答えを。

 ヘルマンは聞かれることが分かっていた問いに対して不適な笑みを浮かべた。

 

「残念ながら石化はかけた本人である私の手を持ってしても解けない。だから『永久』石化などと大それたものがついているのだよ」

 

 そこで一端言葉を切り、視線をネギとアスカの二人に固定する。

 

「或いは君達クラスの魔力を持ち、治癒に対して抜群の適性を持つ者が修練して世界屈指の治癒術士になったのなら、今も治療の当てのないまま静かに眠っている村人達を治すことも可能かもしれない」

 

 そのような都合の良い人物がいるとは思えんがね、とヘルマンは愉悦交じりに問いに答えた。

 

「次です」

 

 一瞬、ネギは頭を過ぎった考えを振り払い、ヘルマンが消滅する前に次なる問いを出す。

 

「どうして僕達の村を襲ったですか? 目的は? 首謀者は誰です?」

 

 笑みを浮かべたまま答えずに変化のないヘルマンの表情に、ネギとアスカの脳裏を六年前の事がチラつく。

 

「残念ながら………………契約により答えることは出来ない」

 

 勿体ぶりながらも、返ってきた答えは三人の望むものではなかった。

 

「悪魔にとって召喚者との契約は絶対。それは上位悪魔である私であっても例外ではない。なにより、六年前の件は、召喚時に召喚者と交わしたに契約によって秘匿されている」

「ギアス、ですか」

「そうだ。答えたくても答えようがないのだよ」

 

  自らの血と魔力を用いて術者本人にかけられる|契約≪ギアス≫は、原理上、如何なる手段を用いても解除不可能の効力を持つ。

 最上級のものともなれば決して後戻りが効かない危険な術だ。悪魔と召喚者も同じで、交わされた|契約≪ギアス≫は術者の自由意志の一部を放棄することを既に決定付けられている。

 悪魔とはそういうものだと分かっていても手掛かりを目の前にして手に入れられないことに、ギリッとネギは歯を噛み砕きかねないほど噛み締めた。そして、その想いを振り払うように瞳を閉じて頭を振る。

 

「アーニャ、アスカを」

「アレが出来たの?」

「多分。確認する時間もないから始めよう」

 

 未だ体を起こしていただけのアスカをアーニャに任せたネギは、消えゆくヘルマンに一人で相対する。

 

「なにを……?」

 

 杖を構え、ネギが口の中で小さく呟いたのと同時に、消滅していくヘルマンの真下に血のように紅い魔法陣が浮かんだ。

 ヘルマンは呆気にとられた。始め、自分に何が起こったのか分からなかったのだ。

 

「これは、まさか再召喚か!?」

 

 笑みの形で固定されていたヘルマンの表情が魔法陣を見て驚愕に崩れた。

 さっきまでのヘルマンは肉体を構成する魔力が薄れていき、この世界における肉体の完全な消滅と同時に召喚を解かれて魔界へと帰る。暫しの休憩を経て再び復活するはずだった。

 ネギが展開したのは悪魔の召喚陣。これでは既に召喚されてこの世界にいるヘルマンを再召喚することは出来ない。だが、消滅するだけだったヘルマンをこの世界に留めることが出来る。

 

「まだ消えられると困るんです」

 

 誰に言うでもなく呟かれた言葉を吐いたネギの瞳に一抹の狂気が浮かぶ。

 

「石化を解除できないなら、その魂を使わせてもらいます」

 

 許されざる禁忌の向こう側に、決して届かなかったはずの願望が待ち受けると知ってしまった時、人は人であることを辞める。天意も知らぬ。神仏も知らぬ。道を踏み外した人が何を恐れるか。

 展開した魔法陣は、もしかしたらヘルマンを召喚出来るかもと思って覚えたものに過ぎない。本当に求めたものを得るための手段は手に入れている。

 ネギはポケットから古臭い小瓶を取り出して地面に置いた。

 

「封魔の瓶……」

 

 その小瓶が悪魔を封印するために用いる道具であることをヘルマンは良く知っている。

 

「使うか、アレを」

 

 誰もが何をするのか理解できていない中で、小瓶を見て唯一これから行われることが分かったエヴァンジェリンが呟いた。

 ネギが肉体を構成するだけの魔力を補充し終えたヘルマンへと一歩ずつ近づく。

 少年の眼差しの温度は、どこか手負いの獣染みた妄執の殺意に凍えていた。とてもではないが十歳の少年がしていい眼ではない。目を合わせたその直後に、ヘルマンは歓喜と狂喜、絶望と諦観という矛盾した感情の虜となった。

 

「ああ、残念だ。アスカ君だけではなく、もっと君とも戦ってみたかった」

 

 ネギが後悔を口にするへルマンへと後一歩の地点で止まり、詠唱を開始した。遥か昔に失われた魔法―――――――神聖魔法の詠唱を。

 

「血塗れて磨り減り、朽ち果てた旅路の果て、神々の原罪の果ての地で、世界に刻まれた刻印をここに現す」

 

 すぅ……と祈るように杖を掲げたネギの両腕が、小雨が降る中に不思議なほど響く詠唱と共に夜の薄闇でもはっきりと見える淡い燐光を放つ。

 

「この深き暗き怨讐を裡に希う」

 

 詠唱からネギが何をするか悟ったヘルマンは笑みを浮かべる。

 

「はっはっはっ……………まさかその魔法を習得していたか――――よかろう。君達が勝者だ。この身、この魂、好きにするがいい」

 

 近くにいたヘルマンには感じられた。ネギが詠唱を続けるごとに両手に集まる燐光が魔力や魔法といった全く違った気質の力が宿っていくのを。

 最も近い物を表現するなら浄化の力。だが、その本質は真逆。

 

「言葉は要らず、救いを求めず、許しも請わぬ」

「まさかアレをまた見ることになろうとはな」

 

 珍しく明らかな喜悦も高らかに笑いながら詠唱を続けるネギを凝視するエヴァンジェリン。

 

「マスターはアレを知っているんですか?」

 

 聞いたことのない祈りの文句。何をしているのか、何をしようとしているのか分からない茶々丸は彼女に恐る恐る問いかけた。

 

「遥か昔に失われた神聖魔法だ」

 

 問いかけてきた茶々丸の方を見ず、ネギから目を離さなかった脳裏に在りし日の記憶が蘇ってしまい、喜悦から一転して苦々しい顔をしながら答える。

 

「神聖魔法? ネギ先生が使っているような魔法とは違うのですか?」

 

 魔法の前に『神聖』とついて、知っている魔法使い達が普段使っている魔法との違いに夕映が真っ先に気が付いた。

 

「根本から違う。私達が使うのは謂わば精霊を使役する謂わば精霊魔法だ。神聖魔法はいるかもどうかも分からない神への信仰心の見返りに恩恵として使えるものだ。五百年前の時点で既に遣い手が途絶えていたがな」

 

 昔と違って現代は科学が進んだことで信仰心が薄くなっている。大昔のように一念に神を信ずることが難しくなっているといってもいい。

 エヴァンジェリンがまだ吸血鬼に成り立ての六百年前の時点ですら、使い手は数人程度しか残っていなかった。現代では遣い手が途絶えて久しく、口伝出来るものでもなかったので既に完全に滅んでいたと彼女も思っていた。

 

「だが、あれはその中でも異端中の異端。神への信仰心を必要としない唯一の神聖魔法」

 

 彼女が出くわした奴は「神官」と呼ばれていたが、家族を救うためにエヴァンジェリンに挑んできた。彼女の記憶の中でも最も自身に死の恐怖を与えた相手が使った、悪魔によって呪いに犯された家族を救うためにエヴァンジェリンを生贄にして発動する禁忌の魔法。その神聖魔法の原理を参考にして十年の歳月を費やして完成させたのがエヴァンジェリンの固有技法【闇の魔法】である。

 

「対象となる相手を取り込み、生贄とした魂を代償にあらゆる状態異常を改善する禁術だ。あれならば永久石化であろうとも元に戻る可能性がある」

 

 当時、エヴァンジェリンが標的とされたのには生贄とするには呪いをかけた者と同属の魂が必要になり、比較的存在が近かったからだ。

 六年前にネギ達の村の住人を石化したのは自分だとヘルマン自身が告白している。石化を行なった悪魔自身を組み込んで利用すれば成功の可能性は間違いなく上がる。代償として組み込まれたヘルマンは消滅するが、あの状態では逆らいようもない。 

 

「そんな失われた魔法をネギ先生がなんで?」

 

 500年前に遣い手がいなくなって久しい魔法を何故ネギが使えるのか。のどかが思った疑問を全員が共有していた。

 

「簡単だ。半分は私が教えたようなものだからな」

「半分?」

「そうだ、半分だけだ。なにぶん大昔の既に失われて等しい物だったから完璧な形では残していなかったんだよ」

 

 エヴァンジェリンにとって最も激動の時代だっただけに記憶も完全ではなく、闇の魔法作成のために必要だった部分以外は思い出す努力もしていなかった。長い時の中で頭から完全に抜け落ちていて、別荘の倉庫に術式を書いた書物を埃塗れになって探す羽目になったのは余談である。

 

「それをネギは現実時間で一か月そこらで復元してみせた。これは凄まじいことだぞ」

 

 少女達や小太郎にはピンとこないようだが、五百年以上前に廃れた魔法を半分でも復元できただけでも凄いことなのだ。

 誰も声を出せなかった。眼を逸らすことさえも勇気を必要とした。何も出来ず、ただ圧倒的な光景を眺めるしかなかった。

 

「せめて哀れに思うのなら我が切実なる怒りと憎悪の叫びを聞き届け、我が願いを叶え給え」

 

 ネギは少女達の想いに感じいることなく、詠唱は終わりに近づいていた。

 

「再召喚されたことで少しだけ私を縛っていた枷が緩まった。村を襲わせた者に関して最後に一つだけ伝えておこう」

 

 復讐の牙が喉に食い込み、後少しで噛み切ろうかという絶好のタイミングを狙ったかのようにヘルマンが唐突に口を開いた。

 

「怨念の成就こそが我が救い」

 

 この神聖魔法を使うのは膨大な魔力が必要になる。

 エヴァンジェリンが出くわした「神官」と呼ばれた遣い手が彼女を殺せなかったのは魔力不足が大きな原因だった。神聖魔法と呼ばれる中で唯一、神への信仰が必要としない禁呪はその分だけ生半可な遣い手では発動すら出来ないほどの魔力を必要とする危険な魔法であった。

 殆ど消耗していないネギの莫大な魔力が殆ど持っていかれるほどに。それだけの魔力を使う魔法故に、発動に際して周囲に烈風が渦巻いてヘルマンの声を外部にまで届けさせない。

 

「君達は自分の母親のことを知っているかね?」

「今更なにを……」

 

 ネギの少し後ろでアーニャに肩を借りながらも立つだけで疲労の色が濃いアスカの顔に隠しきれない動揺が走ったのをヘルマンは見逃さない。

 嫌な予感がする。聞いてはいけない気がする。しかし、ヘルマンは続ける。まるで矮小で浅ましい人間の精神を追い詰めることこそが、この世界で最も楽しめる娯楽であるかのように。

 

「彼の者の魂を以って、我が怨念は成就せり」

 

 幾何学模様の魔法陣がヘルマンを中心にして浮かび上がる。ネギの両腕の光とシンクロして光を増し、荘厳でありながら冷たいという矛盾したものだった。

 

「それが全ての答えだ。ふ……………………ふふははははははははは!!」

 

 普通なら死なない悪魔ですら殺す魔法を前にして、ヘルマンは最後の最後まで兄弟の傷を抉るのを忘れず、血泡をまき散らしながら狂ったように笑う。

 ネギの眼に隠し切れない憎しみの炎が浮かんだのが、哄笑を続けるヘルマンの最後の見た光景だった。

 

「――――――主の憐れみを我が手に(キリエ・エレイソン )――――――」

 

 その言葉を受けて、魔法陣の紋様が光を増して回転し、ヘルマンが光に包まれる。

 大きな体が光に包まれ、地面に置かれた小瓶に吸い込まれていく。幻想的でありながら破滅的な光景に誰もが見入る中で、光を全て吸い終えた封魔の瓶は自動的にコルクの蓋を閉めた。

 光が消えた後にヘルマンの姿はもはやどこにもない。

 

「…………………」

 

 何も言う事なくネギは、ヘルマンの魂が封じ込められた小瓶を黙って見下ろす。

 

「終わった、のか……」

 

 動こうとしないネギの背中から、未だ雨が降り続いている空を見上げたアスカは不思議と空虚だった。

 望みを果たしたはずなのに、高揚や喜びが全く湧いて来ない。一時の衝動が消え去った体の中が空っぽになって、何かを考えることも、感じることも出来ない。土砂降りの雨に打たれ、腹の中に抱えていたものを全部に綺麗に弾けて真っ白になったはずなのに、胸の中にあるのは闇のような真っ暗の虚脱感だけ。

 ただ、焦点の合わない眼で天を仰ぎ、不思議な気持ちで雨粒を見上げた。

 

「…………そうか………………そういうことかよ」

 

 ヘルマンの最後の言葉が耳から離れない。

 言った事を信じるならアスカの復讐はまだ終わっていない。そして、村襲撃に関する理由にも想像がついた、ついてしまった。知らなければ良かったなどと思わない。ヘルマンは兄弟に復讐相手はまだ残っていると、最期にどうやっても消えぬ呪いを残したのだ。

 

「どうして――」

 

 アスカは空を見上げ続けている。その頬を流れていく雨が涙のように明日菜には見えた。

 左拳は完全に砕け、皮を破って骨が幾つも見えている。あちこち服は破れ、雨でも流しきれない血を滴らせている顔色は死人のように青白く、血を流す唇は青褪めている。袖口から粘ついた滴が滴り落ちた。地面に、夜の黒とアスカから流れ落ちた血が混ざって奇怪な模様を形作った。

 アーニャに支えられることで立っているのがやっとのようにさえ見える天を仰ぐアスカの姿は、先程までの激闘や憎しみに染まった狂相が抜け落ちて、まるで生まれたばかりで捨てられた子猫のように無防備だった。

 

「明日菜、ちょっ――」

 

 明日菜は周りの静止を振り切って世界樹の枝から更地と化したステージ跡に飛び降りて、アスカの背中に向けて独り言のように呟いた。小太郎達も明日菜を追って次々にステージ跡に降り立つ。自分で降りれない者達は他者の手を借りて。

 

「アスカ!」

「…………明日菜?」

 

 明日菜の声に顔を下ろし、口の端から唾液の混じったドロリとした鮮血を垂らしながら振り返ったアスカの顔からは如何なる感情も窺えない。

 顔は無表情なのに、声は感情を感じさせないのに、聞いている明日菜の胸の奥に寒風を感じさせそうなくらい荒涼としている。まるで壊れた機械を故障に気づかず動かしているように、何かする度に傷を広げているような気がしてならないのだ。

 そして無表情の中にある瞳にも明日菜は深い衝撃を受けた。アスカの目とは思えぬほどの濁った瞳を真正面から見てしまって、思わずギョッとして後ずさる。視線が合うと胃の腑が押し下げられ、その場に座り込んでしまいそうな感覚を味わった。体中の関節から力が抜けるような気がした。

 

「明日菜」

 

 憎むべき敵もいなくなり、憑き物が落ちたようにアスカは無事な明日菜達を見て安心したように笑った。あれだけの激闘の後でヘルマンが末期に残した言葉もある中で、無意識に人の温もりを求めたのか、アスカは我知らずの内に潰れている左手を明日菜に向けて伸ばした。

 所々で骨が飛び出した異形の化け物の手のようになっている手が、明日菜の眼には全身を血に染め生気の失せた幽鬼の如き顔色も相まって人の死を運ぶ死神のようにも見えた。

 先程までの人の者とも思えぬ戦いや在り様、命を簡単に奪う行為への恐怖もあって精神と肉体は意志に反して行動してしまった。

 

「……や……!」

 

 そう叫んだ次の瞬間、人の死を運ぶ死神は消えて目の前には呆然と立ち尽くすアスカがいた。

 

「……ぁ……」

 

 明日菜の明らかな恐怖から来る拒絶に、ビクリとアスカが伸ばしかけていた手を止める。そして、ゆっくりと周りへと眼を向けた。

 周囲は何があったのか分からないぐらい完全に五十ートル単位で更地と化し、さっきまでヘルマンがいたクレーターだけが変化として残っていた。この場所を見て、ここが学祭で使うステージの跡だと思う者はいないだろう。

 明日菜が脅えているものは、他ならぬ自分自身。改めて体を見れば酷い有様だった。伸ばした手も皮から骨が飛び出していて人間の物とは思えない。明日菜の拒絶に納得してしまった。

 

「はは……」

 

 一瞬、本当に一瞬、物凄く辛そうな表情を浮かべ、何かを諦めたような吹っ切れた笑みをする。

 アスカは淡く笑う。そこからは如何なる感情も掴めない。喜ぶようにも嘲るようにも哀れむようにも楽しむようにも見えてしまう。喜怒哀楽の全てが混戦している笑み。

 

「ち、違う! 今のは…………」

 

 我に返った明日菜の頭は怖いくらいに頭がハッキリとした。取り返しのつかないことをしたのだと分かった。血の気が引くということがどういうことなのか、明日菜は生まれて初めて本当の意味で理解をした気がした。

 そんな明日菜の前で、彼はようやく動いた。目を伏せたのだ。まるで、動かない体の変わりに深く頭を下げるように。

 

「行こう、アーニャ」

「でも……」

「いいんだ」

 

 辛くて苦しい気持ちを呑み込むように視線をずらしたアスカは、一人では歩けないからアーニャを促した。

 アーニャは躊躇うように二人の間で視線を彷徨わせ、まるでここに自分のいる場所はなく言、葉を伝えなければならない相手はいないとでも言うように言葉を切ったアスカに従うことにしたようだ。

 ゆっくりと歩き出した二人がネギの前に出ると、ネギもまた後を追って歩き出した。

 去り行くアスカの背中を見て、明日菜は胸元でかけられたタオルをギュッと握った。胸が潰れるような痛みを感じたからだ。痛いのは身体ではなく心だった。肌で感じる物は怒りや憎しみのような単純な感情ではない。激しく、複雑で、矛盾している。明日菜が初めて経験する心の動きだった。その感情に名前を付けるとするなら『切なさ』であろうか。

 

「……あ……」

 

 彼女にしては珍しく言葉に詰まっていた。声を掛けようと思った。が、カラカラに乾いて鑢のようになった舌が上顎を擦るだけだった。

 

「アス――」

「来るな」

「っ!」

 

 凍てついた声が、恐怖を振り払ってようやく上げかけた明日菜の台詞を断ち切った。振り向いた顔に刻まれた無数の傷が、どうしようもなく痛ましい。

 

「怖いんだろ、俺が」

 

 そう言ったアスカの顔は泣きそうに見えた。だけど、頬に流れるのは透明で綺麗な雫じゃない。どこまでも紅い血の涙だった。血の涙が余計に先程の狂い様に似合ってアスカを怪物に見せる。

 

「そ、そんなこと」

 

 何の迷いもなく言い放たれた言葉に、明日菜は愕然とする。それでも止めようとした伸ばされた手の動きが躊躇する。行動こそが何よりもアスカの言葉が真実であると教えているとも気づかずに。

 明日菜は何も言えなかった。俯く明日菜の姿を見るアスカの瞳の奥に悲しい決意の光が宿った。

 

「良く分かっただろう。違うんだ、俺達は」

 

 懺悔であり、独り言であり、八つ当たりであり、負け犬の遠吠えでもあった。自分で自分の感情を把握し切れていない。そんなものに気を回す余裕がないほどに、アスカは追い詰められていた。

 その時、アスカは笑っていたのかもしれない。自分自身へと向けた歪んだ嗤いを。

 

「さようなら」 

 

 再び背中を向けたアスカには近付く事を許さないと言わんばかりに拒絶の意思が感じられ、その逡巡が明日菜の伸ばした腕を止めた刹那、それこそが両者の断絶を示す明確な『亀裂』となった。

 今まで必死に積み上げてきた何かが目の前で音を立てて崩れていった。

 

「アスカ! ごめんなさい、謝るから待って――」

 

 明日菜がアスカの背中に手を伸ばすも既に届かぬ場所まで去っており、手は弱々しく動きを止めた。走って追いかければ直ぐにでも追いつく。なのに、明日菜はそれをしなかった。足は凍りついたように動かない。彼の背中が放つ暗い暗い闇へ引きずり込まれるような錯覚を感じたからだ。

 その背中を目で追うことしか出来なかった明日菜の表情が歪む。もう一度声を掛けなかったことが大きな過ちだったような気がした。

 神楽坂明日菜も、他の誰もが三人の背中が見えなくなるまで動かなかった。

 雨に遮られて暗闇の中に三人の後姿が視界から消えると、張りつめていた糸が切れて倒れかけたのどかを受け止めた夕映の腰が抜けたようにへたり込んだ。

 

「何ですか、…………いったい何なんですか?」

 

 夕映は薄ら寒そうに気を失ったのどかの体を抱きしめながら身を震わせて呟く。その瞳からは雨以外の水が流れ落ちる。

 

「どうしろって言うのよ」

 

 明日菜は思わず泣き出した面々を見ながら思わず、泣き言が漏れた。もう何も言えない。空を見上げると視界一杯の灰色の雲。太陽がどこにあるのかも分からない空。

 彼女の瞼から透明が液体が零れる。頬から滴る涙は、雨と同化して明日菜の顔を濡らす。そんな彼女達をエヴァンジェリンと茶々丸が黙って見ていた。

 

「ああ、もう」

 

 そんな中で千草は肌に張り付く髪の毛を鬱陶しげに払いのけ、泣く少女たちにかける言葉がなくて困ったように深く長い溜息を吐いた。

 

「雨、止まんな」

 

 残された者達に平等に雨が降りしきる。体はすっかり冷え切ってしまっていた。降りしきる雨が彼女達の雨と混ざってどこか物悲しい雰囲気を作り出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 皆の前から姿を消した三人は、まだ野外ステージ跡から百メートルほど離れた場所にいた。降りしきる雨の中、アスカの怪我が重すぎて暗い夜の学園都市を這うような速度でしか進めないのだ。

 

「アスカ、しっかりしなさい!」

 

 アーニャが声をかけるが、二人に肩を借りて歩くアスカにはもう意識があるのかどうかも分からない。

 アスカとヘルマン、二人の激闘によって生まれた嵐による影響か外灯に光が灯されていない。雨雲によって星や月の光が遮られていることもあって彼の道を照らすものは何もない。それがまるで行く末を案じているようでアーニャの気に障る。

 

「か、はっ……!?」

 

 二人に引き摺られるようにして歩いていたアスカが血の塊を吐いた。ビシャッと地面の水溜りに落ちて音を立てる。

 

「まずいわね」

 

 アーニャはここまで弱ったアスカを見たのは初めてだった。

 弱った姿をネカネ以外の前では晒したことのないアスカの様子から、それだけ体力を失っているのだと実感して腹に冷たい戦慄が堕ちる。体力が尽きた時が恐らく最期だという気がした。

 

「ネギの杖に乗せて運ぶのは…………危険か」

「止めといた方がいいと思う。今のアスカじゃ、支えても何かの拍子に落ちかねないし、負担も大きい」

 

 嵐が去り雨の勢いも落としているがこんな日に好き好んで出歩く馬鹿もいない。傷だらけでボロボロのアスカの姿を一般人に見られないのは有り難い。

 

「これ以上、動かすのも危険だし…………僕が先に行って誰か連れて来るよ」

「分かったわ。出来ればネカネ姉さんか、最低でも大人の魔法使いを頼むわね」

 

 アスカを壁に靠れるようにして座らせ、ネギはネカネと和美がいる学園長室へと杖に乗って一目散に飛んで行った。その直後だった。

 

「ぐっ、げほっ、げほっ……」

 

 アスカの呼吸の調子がおかしい。水っぽい、咳き込む音が連続する。しかも、ヒューヒューと風船から空気が抜けていくような呼吸音が出てきた。

 

「ちょ、ちょっとアスカ……!?」

 

 雨に流されて気づかなかったが、アスカの体から流れ出た大量の血がアスファルトに広がっていくのを見たアーニャは、事態がもっと深刻であることに気が付いた。

 

「しっかりしなさいよ。目を開け――」

 

 アーニャが何かを言っているのが、朦朧とするアスカにはその内容は聞き取れない。

 抑えることすら出来ない口から重たい血が吐き出されて濁った水と混じっていく。倒れたアスファルトの上を流れ続ける雨は体液によく似た温度だった。体から流れ出た血がアスファルトに流れていくの見て、自分もそこへ溶けていきそうな気がした。

 

(どうして……)

 

 アスカは、雨に濡れた地面に沈みながら静かに思う。

 雨はまだ止みそうにない。もっとだ。もっと降れ。恨みも憎しみも何かも何もかも洗い流してしまわなければ、頭がどうにかなってしまいそうだった。

 

(どうして、こんなことになってしまったんだ)

 

 心が揺れる。グルグルと回って頭が滅茶苦茶になる。何一つ考えが纏まらない。

 先程までは脳にまで浸透するようだった痛みが飽和状態を超えて、逆に麻痺し始めている。思考の歯車が何個も外れてしまったように、考え事を纏めようとしてもボロボロと意識が零れていく。

 自分の周りの全てがガラガラと音を立てて崩れて何もかもが砕け、壊れて消えていってしまいそうな喪失感に浸されてしまう。

 

「――、――――! ―、―――ッ!!」

 

 調子の外れたマイクのように、誰かの声がグワングワンと頭蓋骨の内側を跳ね回っていた。

 寒かった。もう直ぐ夏だというのに寒くて寒くて、とても耐えられそうになかった。誰でもいいから温めて欲しかった。

 喉も渇いていた。なのに喉の奥から血が湧き上がってきて溺れるように窒息する。アスカは苦しみに喘ぎながら意識もせず水面に顔を出す魚のように空を見ようと、震えながら顔をゆっくりと天に向けた。

 暗い。何度も瞬きして眼を凝らすが天は分厚い灰色の雲に包まれ、空はどこにもなかった。微かに腕が何かを求めるように動く。

 

「………………空が、見えない」

 

 救いを求める意思を潰すように大粒の雨は降り続ける。

 微かに上がった腕が地に落ちてバシャリと小さな水音を鳴らして、アスカはピクリとも動かなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 3-Aの生徒の一人、超鈴音は無数のモニターに囲まれていた。

 彼女がいる部屋は壁という壁がモニターになっていて、普段は麻帆良学園都市内に設置されているカメラの映像を流したり、世界各地のテレビ放送、インターネットのホームページなど、あらゆる映像が切れ目なく映し出されている。だが、いま流されているのは一人の少年の復讐劇の末路。

 

「こうなったカ」

 

 部屋の中央に設置された椅子に彼女は、背筋を伸ばして腰掛けている。全身に心地良い緊張感がある。この部屋で椅子につくと、何時も感じることだ。

 そこには責任がある。おそらく神様が本当にいるならば、世界を創るのに緊張などしないだろう。

 神は責任を持たない。無邪気に遊ぶ子供のように、偶然に任せてサイコロを振るだけだ。だが、彼女は人が触れるべからずの時の流れに干渉する者として責任を感じ、その代価として緊張を感じる。もし、緊張しなくなったら人としての感性が終わってしまったということで死を択ばなければならない。そんな無神経な存在に成り下がったら存在する意味はないと常々思う。

 

「ふぅ……」

 

 静かに息を吐いてから、彼女の視線がゆったりと並んでいる二つのモニターに注がれる。

 一つは野外ステージで雨に濡れながら立ち尽くす少年少女達。もう一つは路地裏で、少女に呼びかけられているが動かない少年。注目しているのは後者。

 やがて空を飛んできたネギともう一人の大人が舞い降りる。

 

「あれは神多羅木先生。成程、風の遣い手が現地に急行し運んだ方が速いカ。学園長の考えかナ」

 

 ピクリとも動かないアスカを抱えた神多羅木があっという間に画面外へと消えて行った。

 杖の乗ったネギとアーニャも後を追うが、その速度は文字通り桁が違う。

 

「さて、こちらは」

 

 呟き、別の画面に目を向けると、麻帆良学園都市を覆う結界に電力を担っている発電室の映像が映し出される。

 

「成程、こうなていたのカ」

 

 超が仕掛けた学園側とは別口のカメラに映るのは、麻帆良女子中の制服を着た褐色がかった肌とグレーの髪を持つ少女の姿。彼女がヘルマンに協力して結界を落としたのだ。

 そして迷うことなくその場を離れ、どこかへと向かって行った。

 

「向かうのは世界樹の根元カ…………彼らとの繋がりを考えれば協力している可能性もあたガ、この時点でこれだけ動いていたとハ」

 

 そう周りに聞こえないように小声で呟く超鈴音の表情は、長年の疑問が解消された哲学者のような笑みが浮かんでいた。

 

「運命は果たしてどのような帰結を求めるのカ。知る時は近イ」

 

 我知らず強く掴んでいたフットレスから苦労して手を離して立ち上がる。

 軽やかな足取りで部屋を出て、直ぐ傍にあったエレベーターに乗ると迷わずにボタンに押す。

 微かな重力が超の体に圧し掛かり、階数が下がっていくのを見る。目的の階に止まって開いたドアの間を通って一本道を歩く。通路は一本道なので迷うことはまずありえない。天井や壁に電灯などなく、通路に血のような赤いライトが廊下を照らしている。

 

「我ながら趣味に走り過ぎたかナ」

 

 苦笑を浮かべる。自分で作っておきながら何時見ても不気味で人を威圧する廊下である。ドアにもこれまた同じように赤いライトが走っているので、世界を間違えたのかと錯覚する。

 通路の先に辿り着くと、ドアが自動的に開いた。重いドアが勝手に開くはずがない。自動認証システムが超の全身をスキャンして開かれたのだ。

 開かれたドアの向こうに、薄明りを放つパソコンの画面の前に座る小柄な人影がいた。

 ドアが開かれた音で誰かが部屋に入ったことは分かったはずなのに、人影は気付いた様子もなく残像が映りそうな速度でキーボードタッチを行なっていた。

 

「葉加瀬」

 

 肩に手を置いて、ようやく人影――――葉加瀬聡美は驚いたように顔を超に向けた。

 

「超さん、何時の間に?」

「今、来たとこヨ。集中するのはいいガ、詰め込み過ぎは体に毒ネ」

 

 言いつつ、観戦に熱中し過ぎて喉の渇きを覚えて、パソコンの横に置かれている葉加瀬専用のマグカップがあったので飲もうと手に取って口に運ぶ。

 淹れてからかなりの時間が経過しているようで冷めているようだが、喉の渇きを癒すには十分。しかし、コーヒーを一口だけ口に含んだ途端に超の顔が厳しい物に変わった。

 

「葉加瀬、コーヒーが胸焼けしそうなぐらい甘いのだガ」

 

 我知らず目付きが悪くなっている超が言うと、葉加瀬は何故かない胸を張っていた。

 

「うっかり徹夜しちゃいまして。頭を使って糖分が不足してるからシロップを一杯入れたんです」

 

 寝ていない者特有のハイテンションの葉加瀬に、超のこめかみに青筋が浮いた。

 

「物には限度て物があるネ。こんな砂糖水みたいなコーヒーが飲めるわけないヨ」

「飲めますよ、ほら」

 

 超が持っているカップを受け取った葉加瀬が一気に甘ったるいコーヒーを呑み込んだ。

 

「くぅ~、この目が覚める甘さが堪りません」

「私が悪かたかラ、元に戻てくレ」

 

 ニッコリと微笑む葉加瀬に超は色々と諦めた。この話を続けるとこちらの頭までおかしくなっていくような気がして話の転換を試みる。

 

「で、進捗状況ハ?」

「ちょっと待って下さいね」

 

 問うと葉加瀬はコーヒーを飲み干したマグカップを持ちながら、片手でありながら両手と遜色ないキーボードタッチを見せる。

 瞬く間にモニターが移り変わり、なんらかのグラフが表示される。

 

「進捗率89%――――誤差±2%以内で、予定通り進行中です」

「その割には浮かない顔をしてるヨ」

「私は科学に魂を売り渡したと自負しています。ですが、人としての尊厳まで捨てたつもりはありません」

 

 モニターを見る葉加瀬の表情は彼女らしくない物だった。

 

「ガングニールの手を借りるのは気が進まないカ? 民間軍事会社であろうとも使える物はなんでも使わないト」

「自分が甘いことは良く解っています、超さんの言ってることも。それでも納得できないものは納得できないです」

「なラ、ここで抜けるカ? 引くのもまた一つの勇気ある選択ヨ」

「いいえ」

 

 首を横に振った葉加瀬は、決然とした表情で超を見る。

 

「私たちが行うことは未来に必要なことなんでしょ? それに一度やると決めたことなんですから、ここまで関わっておいて今更そんなことは言いません」

 

 言い切った葉加瀬に超は内心で苦笑を浮かべた。

 損な性格をしているが、そういう考え方を超は嫌いではないのだ。

 

「可愛いナ、葉加瀬ハ」

「何を言い出すんですか、突然」

「思ったことを口に出したまでだヨ」

 

 分かっていなさそうな葉加瀬に今度こそ超ははっきりと苦笑を浮かべた。だが、直ぐに表情を元の真剣なものに戻し、どこかの誰かを彷彿とさせる挑戦的な眼差しを前方に向ける。

 

「ところで、アレ(・・)の仕上がり具合はどうネ?」

 

 超の向けられた視界の先、分厚い防弾ガラスの向こう側に巨大な影が鎮座し、なんらかの作業を行っているのか所々で火花が散っている。同じ物を見た葉加瀬は影の正体を知っており、窺わしげな視線を超に向けた。

 

「そちらも抜かりなく。寧ろあんな物を本当に使う気ですか? シュミレーションでは通常戦力だけでも麻帆良を制圧出来ると出ています。出す必要はないと思いますけど」

「シュミレーションはあくまで机上の物。いざという時の備えは常に必要ヨ」

「…………私には超さんがその時が来るのを待ち望んでいるように見えます」

「私が?」

「笑っていますから」

 

 言われて超は意表を突かれたような顔をして、手で自分の口元を触って確認した。

 

「かもしれないナ。私は見てみたイ、英雄が生まれる瞬間をこの眼で。その為なら望んで悪と成ろう」

 

 事実を認め、その上で超は高らかに宣言する。

 その宣言の中で、巨大な影は未だ生まれていない英雄と対峙する瞬間を待ちかねているように、暗闇の中で二つの眼を轟々と光らせた。

 




鋼鉄の竜って男のロマンだよね?

次回

「嵐の跡に残るもの」


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第35話 嵐の跡に残るもの

 

 目を覚ました時、神楽坂明日菜は服を着たまま床の上で横になっている自分を発見した。

 

「…………あれ? なんで私、床の上で寝てるの?」

 

 と、なんで床の上で寝ているのかと目を瞬かせながら、のろのろと身体を起こす。床の上で寝ていた所為か体の節々が痛い。

 フローリングの床にお尻をペタンとつけた女の子座りをして、やけに普段よりも思考の遅い頭で周りを見渡す。

 数ヶ月前にはネギやアスカと半ば同居の形で住んでいた女子寮にある木乃香と自分の部屋だった。ベットは直ぐ傍にあるのに、なんでまた床で寝ているのか。夜中にトイレに起きて寝ぼけたという可能性は、部屋着のままで寝巻きのパジャマに着替えていないことから、その線は薄そうだった。

 

「なんで?」

 

 窓越しに昨日の雨が不思議なほどに爽やかな朝日が差し込んでいた。綺麗好きな木乃香によってマメに掃除が行われているので綺麗な自室が朝日を浴びている。

 新しい朝だった。気持ちのいい朝だった。

 

「あ、カーテン開けっ放しだ」

 

 寝る時には必ず閉めるはずのカーテンも全開であることに気づいた。隙間が開いているとかじゃなくて窓の両脇で括ってある。パジャマに着替えるどころかカーテンを閉め忘れるなんて自分にも木乃香にも何かあったのか。

 視線を上にずらせばソファーの上で木乃香と刹那が抱きしめ合ったまま眠っている。

 

「なんで刹那さんもいるのかしら、しかも抱き合ったまま寝てる。やっぱりこの二人って百合じゃ――――――――もしかして二人のイケないところを見て眠らされたとか。で、二人は燃え上がったままそのまま朝まで寝てたとか…………ないわね。何を考えているのかしら」

 

 なんで別の部屋の住人である刹那がいるのか分からず、寝起き特有のはっきりとしない頭でぼんやりとしたまま昨日の夜を思い出そうとした。

 しかしそれより先に、ソファーの上で寝入っていた二人が転がって落ちてきた。

 

「わきゃっ」

 

 二人分の体重に落下の重力が加算された重みを受けて、年頃の乙女としてどうかと思う潰れた蛙のような声が口から漏れる。

 明日菜がクッションになったといってもどれだけ深い眠りに入っているのか、落ちたのに抱き合ったまま一向に起きない。二人分の体重が掛かっているのでちょっとやそっとでは動きそうにない。

 

「もう、重い!」  

 

 重さに耐えかねて、ソファー側にある手を床に突っ立てて身体を傾け背中の二人を落とす。明日菜の背中から転がり落ちた二人は近くにあったテーブルにガタンと当たり、揺れたテーブルに乗っていた携帯が落ちる。

 落ちた携帯が刹那の背中に一度当たって、明日菜の近くへとやってきた。

 

「まったく……」

 

 眉を顰めつつ、まだ半分眠ったままで近くにやってきた携帯を手に取り画面を開く。

 まだ午前六時。世間的には十分早い時間。バイトがない日はギリギリまで寝るので立派な早起きだった。

 

「んー」

 

 猫のような笑顔を浮かべて、横になったままで瑞々しい身体を思い切り伸ばした。全身に血が通いだす感覚が心地良い。と、伸びを終えて下ろした顔に湿った感覚を覚えてびっくりして目を丸くする。

 一瞬涎かと思ったが、さっきまで自分が横になって寝ていたちょうど頭を横にしていた辺りの床が大量に濡れている。コップの水でもひっくり返したぐらい量だ。いくらなんでも涎でこれほど濡れるはずがない。気味が悪いと思った瞬間、強烈な違和感を覚えた。

 

「なに?」

 

 呟いた瞬間、目元を触れば自分で唖然とするほど泣き腫らした跡があることに気がついた。自分の顔が生乾きの涙でぐしゃぐしゃになっていて、鏡で見れば目元がビックリするほど紅く腫れているだろう。

 

「な、なにこれ? 一体、私どうしたの?」

 

 もうすっかり目は覚めていた。寝起き特有の倦怠感もない。

 先程木乃香と刹那が重なって落ちてきたことで中断した昨日の夜の事を思い返そうとして、思い出した出来事にはっきりと痛みを伴う、刃物のような哀しみが明日菜を襲った。

 拒絶の声。届かなかった手、切れてしまった絆、追いかけなかった自分。

 

「……わ、たし……」

 

 堪える間もなく嗚咽が喉を突き上げ、堰を切ったように涙が溢れ出した。後悔ばかりが積み重なって激しさを増す嗚咽を抑えるために両手で口元を覆った。止めようもなく涙が頬を伝って床に落ちた。

 深い後悔が、これまでに経験したことがないほどの深い後悔が胸を満たしていた。同時に耐え難いほどの隙間が胸に空いていた。ぽっかりと、大きな穴が。

 

「…………アスカを、傷つけた…………守ってくれたのに……なのに、なのに私は……」

 

 声は不安定で、しゃっくりのようなものが混じっていた。嗚咽。あまりにも涙を零しすぎたせいで、横隔膜の制御がおかしくなっているのだ。

 壊れきって、吐き出し尽くして、狂いきって、何もかも無くしたアスカのSOSに応えることが出来なかった。

 あまりにも異形で異常で、どうしようもなくアスカが怖かったのだ。積もりに積もった憎しみを胸に歯を剥き出しにして、明日菜には一生及びもつかないような強さを無造作に振りまくアスカが、知っている優しいアスカがどこにもいなかったことが、どうしようもなく怖かったのだ。

 その恐怖が伸ばされた腕を拒絶させた。それこそがヘルマンの攻撃よりも、他の何よりもアスカの心を鋭利で冷たい刃で傷つけるのだと気づかずに。

 過程に問題があったとしてもアスカをあそこまで煽ったのはヘルマンであり、彼を倒すにはアスカも手段を選んでいる余裕はなかったのだと時間が経ってようやく理解に至る。

 あの時のアスカの状態を思い出す。

 左拳は完全に砕け、皮を破って骨が幾つも見えていた。右眼は腫れ上がって完全に塞がり、歪に歪んだ鼻を見るに折れていたかもしれない。歩くだけの自然な体を捻る動作にさせぎこちなさが見えたことか肋骨も折れていたのか。あちこち服は破れ、雨でも流しきれない血を滴らせている顔色は死人のように青白く、血を流す唇は青褪めて立っているのがやっとのようにさえ見えた。

 あの時の伸ばした手を逡巡させた時のアスカの顔を思い出す。

 一瞬、本当に一瞬、物凄く辛そうな表情を浮かべ、何かを諦めたような吹っ切れた笑みを浮かべた。アスカは淡く笑った。そこからは如何なる感情も掴めない。喜ぶようにも嘲るようにも哀れむようにも楽しむようにも見えてしまう。喜怒哀楽の全てが混戦している笑み。

 理由はどうあれ救い守った者達から畏怖と恐怖の視線を向けられ、拒絶同然の行動を示した明日菜を前に世界の終わりを直視したような顔で凍り付いていた。

 

『はは……』

 

 何かを諦めたような吹っ切れた笑みを思い出す。

 アスカの中で、狂っていた歯車が壊れた。張り詰めていたものが、切れて壊れかけの心と体が砕けた。その最後のトドメを、一番大きなダメージを与えて傷つけたのは他でもない神楽坂明日菜当人。

 

「……ごめん、なさい……ッ!!」

 

 声に無き慟哭に喉をつまらせながらも、ここにはいないアスカに詫びずにはいられなかった。届くこともないと知りつつ、罪の重さを知ってしまった少女は繰り返し懺悔した。

 

「……明日菜」

「……明日菜さん」

 

 寝ていた木乃香と刹那が間近の慟哭を聞き逃すはずも無く、睡魔の闇から目覚めていた。だが、二人には明日菜の慟哭を止めることはできない。彼女達もまた明日菜と同じくアスカを傷つけた。明日菜ほど明確な拒絶の行動を取らなかったが恐怖が顔に浮かんでいたのは間違いない。

 あの時、アスカは周囲へと眼をやっていた。なら、自分達がアスカへと向ける恐怖も感じ取ったに違いない。

 木乃香も刹那も、あの場所にいた誰もが明日菜と同罪だ。この罪は拭い難い。生きながら心臓を抉り出されたような苦痛に塗れた顔で啼く明日菜をどうやって慰めたらいいのか、そもそも何をどうしたらいいのかさえ分からない。

 彼女達に出来るのは昨日の夜のように、身体の中心にある大切な部分が奪われた哀しみの表情で、後悔と懺悔で泣いて詫び続ける明日菜の傍にいることだけ。

 

「……ごめんなさい…………ごめん、なさい…………ごめんなさい……ッ!!」

 

 明日菜の懺悔と後悔の声だけが響く室内の暗すぎる雰囲気とは裏腹に、カーテンの閉められていない外は昨日の嵐が嘘のような雲ひとつない快晴だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベッドに一人の少年―――――アスカ・スプリングフィールドが寝かされていた。近くには点滴用のパックがぶら下っており、ベッドを囲む医療機器が無味乾燥な機械音を放っている。全身にそれと分かるほどの包帯が巻かれ、呼吸器につながれている状態を見ればよほどの重体なのか。

 

「アスカ……」

 

 痛ましいアスカの姿を、ベット脇の丸椅子に座ったネカネ・スプリングフィールドが悲しげに見つめる。

 今までならばネカネがそんな表情を向ければ困ったような笑みを浮かべるアスカも、意識がない状態では電子機器が発する機械音にも反応しない。

 

「アナタは馬鹿よ。こんなになるまで戦って」

 

 続く言葉はない。ネギらからヘルマンが六年前に関係する悪魔で、アスカは文字通り死にそうになりながら戦ったのだと聞かされれば、学園長に守られていても怯えて震えることしか出来なかったネカネに言える言葉はない。

 嗚咽を堪えるように身を屈め、せめて流れ落ちる涙だけは見せまいとした。

 その震える小さな背中を少しだけ開いたドアの間から見たネギ・スプリングフィールドは、気づかれないようにそっとドアを閉じた。

 

「ネカネはどうや?」

 

 小さな声に振り返ったネギは、壁に背中を預けている天ヶ崎千草に二度首を横に振った。

 

「今はそっとしておいた方が良いと思います。僕らが近くにいると、きっと気を張ろうとするから」

「損な性分やな。いや、性格の方か」

「どっちもだと」

 

 言葉だけは軽くとも、声音と表情がネカネを心配していることを感じてネギは嬉しくなった。

 

「弟分が死にかければ、こうなるのも無理ないかもしれんな」

 

 千草の声には、自身が小太郎が同じようなことになった時を想像したのか、少し湿ったものだった。

 

「ネギ」

 

 千草とは別の声に名前を呼ばれて、ネギは声の聞こえた方を向いた。そこには一度アスカの服を取りに戻ったアンナ・ユーリエウナ・ココロウァと、修学旅行から姿を見ていなかったアルベール・カモミールに姿があった。

 アーニャの肩の上に乗っているカモを見る目が自然ときつくなる。

 

「暫くぶりでさ、ネギの兄貴」

「カモ君、今までどこに行ってたのさ」

「ちょっくら野暮用で魔法世界まで行ってたんだ」

 

 口調は何時も通りながらもカモの声はどこか沈んでいる。

 アーニャからアスカの衣類が入った袋を受け取った千草は、両者の様子を見てここは一人と一匹にした方が良いと考えた。アイコンタクトでアーニャもその意味に気づく。

 

「ちょっと離れるで」

「カモ、女同士で話すからアンタはネギの方に行きなさい」

「すまねぇな、気を使わせちまって」

 

 二人が連れ立って離れる途中でネギの肩の上に飛び乗ったカモは、間近で深々と頭を下げた。

 

「ここに来るまでの間にアーニャの姉貴に事情は聞いた。大変だったみてぇだな。こんな大事な時にいれなくてすまねぇ」

 

 真摯な謝罪である。深い後悔と懺悔の想いを感じて、元より八つ当たり染みた感情だったからネギの怒りは急速に萎んでいった。

 

「いいよ。カモ君のことだから魔法世界に行くことは必要なことだったんでしょ」

「ああ」

「なら、僕から言うことはないよ」

「ありがとう、ネギの兄貴」

 

 信頼のお返しだとばかりに頬に顔を寄せてきたカモの背を優しく撫でる。そうすることでささくれ立っていた心の一部が平静を取り戻していく。まるでそのことを察知したかのように、カモが動くのが分かった。

 体を離して、アスカがいる病室の方を向いたのを感じてネギもそちらを向く。

 

「アスカの兄貴の容体はどうなんだ?」

「酷いものだよ」

 

 カモの問いに、ネギは似つかわしくない深い溜息をついた。

 

「もし後少し治療を始めるのが遅かったら、もしアスカの生命力が弱かったら、手遅れになってたかもってお医者さんが言ってた」

「そんなにか……」

「折れた肋骨が肺に刺さって気道に溜まった血で呼吸も出来なかったみたいで、病院に着いた時には息をしてなかったんだ。治癒魔法だけじゃ間に合わないから外科手術も同時に行われたみたい。何度か心臓も止まって危ないところだったらしいけど、なんとか一命を取りとめて今は眠ってるよ」

 

 運んだ時のアスカは血の気を失って青褪めるどころか死人のような真っ白な顔色になっていて、ネギには手術中の記憶が全くない。それほどに気が気ではなかったのだろう。

 

「アスカを運んでくれた神多羅木先生のお蔭だよ。先生は僕よりも何倍も優れた風の使い手で、アーニャを後ろに乗せていたといっても全く追いつけなかったんだ」

「後でたんまりと礼を言わねぇとな」

「そうだね」

 

 少しおどけた口調のカモにネギも口角を緩める。

 

「ねぇ、カモ君。何しに魔法世界に行ってたの?」

 

 会話の続きがしたくて、気になっていたことを訊ねた。

 

「調べ物さ」

「調べ物? まほネットとかでは出来ないことなの?」

「俺っちは情報は自分の足と耳で得たものじゃないと信じれねぇ主義でさ。なにより調べていることを周りに知られたくなかったんだ」

 

 カモは煙草を取り出して吸おうとしたが、今いる場所が病院であることを思い出して渋々直した。

 

「なにか分かったの?」

「分からないってことが分かっただけさ」

 

 意味が分からなかったが、カモはそこに答えを得ているようでネギはそれ以上のことを突っ込んで聞くことはせずに、一人と一匹は静かにアスカがいる病室の前で佇んでいた。

 カモと共にいることがとても落ち着けることにネギは嬉しく思えた。

 

 

 

 

 

 外に出た千草とアーニャは中庭に来ていた。そこには昨夜から延々と拳を振るい続ける犬上小太郎の姿があった。

 汗だくで疲労によって動きに精彩を欠いている小太郎を、木の幹に隠れて覗き見している千草は顔を顰めた。

 

「まだやっとんたんかい。我武者羅なんもええけど、ええ加減にせな体壊すで」

 

 大方、アスカが自分よりも遥かに強くなっていることに焦りを覚えたのだろうと当たりをつけた千草だったが、隣にいるアーニャが物憂げな表情をしていることに気が付いた。

 

「でも私、少し小太郎の気持ち分かるかも」

「気持ちやて? アスカが強うなったことに焦ってるだけやろ」

「それもあるだろうけど、置いていかれるのってきっと嫌われることよりも辛いことだと思うの」

 

 アーニャは視線を取り付かれたように拳を振るい続ける小太郎に向ける。

 在りしの自分を、一生忘れることはないだろう過去の自分の姿に今の小太郎が重なる。

 

「小太郎とアスカって仲良いけど、お互いにコイツだけには負けたくないって思ってるところあるでしょ。対等であることに拘ってるっていうか」

「あるやろうな。小太郎は生まれで色々あって、同年代で同じ目線に立てる奴がいいひんかったんや。アスカと知り合ってからはほんまに楽しそうにしとるわ」

「一番の友達ってやつよね」

 

 二人の見解は一致していた。違うのはここから。

 

「アスカはヘルマンと一対一で戦うことに拘った。その気持ちを小太郎も理解していた。親友だもの、アスカの気持ちが分かったんだと思う。でも」

 

 この言葉を口から出すことに、勇気が必要だった。アーニャが結局、言えなかった言葉だったから。

 

「一緒に戦おう、って言って欲しかったんじゃないかな」

 

 千草は救い出した少女たちを連れて離脱する時にアスカの背中を見ていた物悲しげだった小太郎の姿を思い出した。

 

『友達やのにな……』

 

 千草はポツリと呟かれた小太郎の言葉に、どれだけの想いが込められていたのかを今更ながらに悟った。

 二人の視線の先で、終わらない演舞が何時までも続いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 嵐のような夜が明けてから早くも三日が経過していた。しかし、3-Aの少女達にとって一か月よりも長く感じる三日間であった。それは一人でいることを好む長谷川千雨であろうとも例外ではない。

 

(辛気臭せぇ)

 

 授業中だから静かなのは当たり前だが、クラス全体を覆っている重苦しい空気が時間の流れを間延びさせていた。

 ようやく鳴った終業のチャイムに授業を担当していた千草もどこか安堵しているようだった。

 

「今日はここまでや。日直」

「起立」

 

 いつもより覇気のない日直である釘宮円の声が教室に響く。

 授業が終わり、やっと終わったと生徒たちは喜色の笑みを浮かべながら立ち上がり、日直の号令に合わせて礼をするのが普通の学校ならばどこにでもある風景だろう。よほど酔狂な人間でなければ堅苦しい授業が終わって教師もいない休み時間に向けて背を伸ばす。

 

「礼」

 

 礼の後は次の時間の準備をしたり、友人と喋ったりと教室は途端に騒がしくなるのが常。この時間は六限目なので、掃除をしてから終礼となるので慌ただしくなるはずだが、この三日間は違う。

 

「暗いね」

 

 千草が教室を出て行って、掃除を始めた中で誰かがポツリと言った。

 なにが、とは誰も言わなかった。答える者はいない。言った者も誰かに応えてほしかったわけではない。悲しき確認だった。

 クラスのことで高畑や源といった多くの教師が知恵を振り絞っているが、事の発端から様々な策が取られたが最終的にアスカの回復を待つのが最善ということで落ち着くしかなかった。アスカが怪我したことを責任に感じているとなれば、アスカの回復が最も効く薬と考えたためだ。

 

(アスカさんが復帰できなければ今年はダメかもしれませんわね)

 

 どこか茫洋とした様子で掃除するクラスメイトを見て、あやかは深い溜息を吐いた。

 この調子では今年の学園祭を楽しむのは難しいだろうと思っていた。しかし、それが難しいことは嫌になるほど解っていた。また深く溜息を吐いて、最近の自分は溜息を吐いてばかりだなと気づいて余計に暗澹たる気持ちになった。

 溜息を漏らすあやかの姿を視界に捉えて、長谷川千雨は自分の担当である黒板を綺麗にして黒板消しを持って窓へと向かった。

 窓を開けて黒板消し2つ手にして叩き合わせ始めた千雨は、この雰囲気の原因である少年のことを思った。

 

「これも全部アスカの所為だ」

『それは少し言い過ぎじゃないですか』

 

 呟いた直後に耳元で囁くように聞こえて来た声に千雨の肩が大きく跳ねた。

 跳ね回る心臓の鼓動を五月蠅く感じながら、周りに不審に思われない様に顔だけを背後に向けた。予想通り、そこにいる薄く透けている黒いセーラー服を着た少女が見えていることに落胆しつつ、努めて口を開き過ぎないようにして言葉を紡ぐ。

 

「相坂、学校にいる間は話しかけてくるなって言っただろ」

『人の悪口は良くないと思います』

「聞けよ、人の話を」

 

 半透明の少女――――相坂さよは、「私、怒ってます」とばかりに頬を膨らませている。普通の人間なら怒りよりも先に可愛さが先に立つだろうが、相手が幽霊であることが頭に強く残り過ぎている千雨には何も感じなかった。

 なるべく何事もなかったように前に向き直り、パンパンと両手に持つ黒板消しを叩く。

 

『アスカさんは大怪我をまでしてみんなを守ったんですよ。感謝こそすれ、悪口は言うべきじゃありません』

「良いことしたって周りに心配をかけたら意味ないだろ…………分かったから、そんなに睨むな。私からしたら、誘拐犯と戦って相手が持っていた爆弾の爆発に巻き込まれたってのが信じられないだけだ」

 

 主犯が老年の男性で、誘拐犯達の目的が荒れた天気に乗じて明日菜と木乃香を誘拐して身代金を要求するつもりだったというのは、二人の保護者である学園長がかなりの資産家であることは有名な話だったからすんなりと信じることが出来た。犯人を目撃したのが、嘘なんかつかない那波千鶴と村上夏美であることも信じた理由の一つである。

 

「誘拐するのに爆弾を持っていたとか、身近でこんな事件が起こったってのがどうにもな」

『信じられないって…………入院してるんですよ。三日経つのに、まだ意識が戻ってないんですよ』

「怪我をしたことを疑ってるわけじゃないって。どうにも現実感がないだけだ」

 

 わざわざ窓の外に出て浮かびながら相対してくるさよに小さな声で言い訳する。

 さよは幽霊の特性を利用して数ある病院の中から治療中のアスカを見つけ出した。頼んでもないのに勝手に行動して報告して来た目の前の幽霊の涙ながらの抗弁に、千雨も強くは物を言えなかった。

 

『万が一でも神楽坂さんの耳に入ったら大変なことになります。十分に気をつけて下さい』

「…………ああ」

 

 千雨は誘拐犯に誘拐されたらしい明日菜を探すが、当たり前の如くその姿は見つからない。学校に出て来てはいるが、昼過ぎに体調不良ということで早退している。付き添った木乃香の話ではあまり寝れていないようだ。

 これでもまだ最初に比べればマシになった方だ。

 明日菜には怪我一つないが、アスカと一番仲の良かったのも彼女だ。気負い過ぎるのも無理はないだろう。学校に出て来れる様になっただけでも、普段は喧嘩していても心配していた雪広あやかが肩を撫で下ろしていた。

 学校に出て来ても目元が腫れぼったくて千雨はギョッとしたものだ。

 普段はあまり深く考えないというか、直感で動いている節があった明日菜が思い悩んでいるのはクラスの空気を更に重くしていた。何時もこの時期は高畑を麻帆良祭にどう誘うかで悩んでいるのに、別の事で頭が一杯らしい。何を考えているかは直ぐに分かる。アスカのことだ。

 元気印の明日菜だけではない。他にも事件に巻き込まれたり、目撃したらしい少女達がいるのだ。あれから歯車が狂ったかのように3-Aは変わってしまった。

 

『明日菜さんだけではありません。他の人にも聞かれたらどうなるか』

「分かってるよ、それぐらいは……」

 

 今のクラスの雰囲気は最低と言っていい。チームワークの良さだけはどのクラスよりも優れていた3-Aはどん底に落ちて、何時も陽気で笑顔が絶えなかったクラスには陰気な空気が漂っていた。

 確かに仕方がないのかもしれない。こんな時まで明るくしていられるほど少女達は強くはない。どれだけ周りに大人びていると思われても彼女達はまだ14年しか生きていない子供なのだ。目の前に悲劇に引き摺られてしまうのは当然だった。

 クラスの真っ先の火付け役である朝倉和美がこの件に関して何も言わないと明言しており、同じように事件の関係者で考え込むことが多くなった綾瀬夕映や宮崎のどかになったことで、親友である早乙女ハルナも騒がずに心配している。

 古菲も考え込んでいることが多く、そうなるとクラス全体の空気として盛り上がりに欠けてしまう。そういう雰囲気になれなかったのもある。 

 

「アスカに話したいことがあったんだけどな」

『話したいことって?』

「お前だよ、お前」

『どうしてアスカさんなんですか?』

「お前のことを最初から認識してたからな。幽霊が見えるなんてこと他の奴に相談できるか」

 

 相談内容は三日前の嵐の夜から幽霊に憑かれてしまったこの現状についてである。

 この異常事態を説明できるような知り合いがアスカしかいないことは、千雨にとって哀しい事実である。

 

「ったく、なんで幽霊なんて見えるようになったんだ?」

 

 三日前の時折鳴る雷と強い風や雨に不安を覚えて早めに布団に入っていたら、大きな地震の直後に目の前にいきなり宙に浮く幽霊が現れて千雨は少しチビった。泣き喚かなかったのは相坂さよの存在を知っていたことと、当の幽霊が嵐を怖がって大混乱に陥っていたからである。

 誰かと一緒にいたくて、でも誰も見えないし喋ることも出来ないから女子寮を彷徨っていた時に千雨が見えてしまったものだから懐かれてしまった。

 

『元から千雨さんには霊視の素質があって、あの夜の影響で開花したんじゃないかって』

「なんだよそれ。つか、誰がそんなこと言ったんだ?」

『え? あ、あはははははは』

「笑って誤魔化そうとするな」

『言えないんです。すみません』

 

 さよを睨み付けるが当の本人は笑うばかりで、誰から吹き込まれたのかを頑として話そうとしない。

 無理に聞き出そうとしても、生きている時間は同じでも六十年を幽霊と過ごしているだけあってさよの方が一枚上手で上手いように躱される。流石は亀の甲より年の功と思ったことは秘密である。

 

「どうしたの、千雨ちゃん?」

 

 さよとの話に熱中し過ぎて声をかけられるまで和美の存在に気が付かなかった千雨の心臓が再び跳ねる。気をつけて振り返ったつもりだが、実際にはギクシャクとした動きであることに本人だけが気づかない。

 

「どうしたって、なにがだ?」

「みんな掃除終わってるのにずっとやってるから」

「え?」

 

 周りを見渡せば、既に過半数が掃除を終えて教室からいなくなっている。

 手元を下ろせば、さよとの話に熱中し過ぎて黒板消しを叩いた時に出る粉が袖に付着していた。当然、黒板消しは綺麗なものである。

 まさか幽霊と話していたとは言えない。

 

「いや、あははははははは」

 

 さよと同じように笑って誤魔化すことしか出来ない。千雨は一つ、大人になった。

 窓の外から二人の対角線上にやってきたさよがそんな千雨を見て、彼女らしからぬ悪戯っ子のような笑みを浮かべた。

 

『千雨さん、朝倉さんは私のこと見えますよ』

「は?」

 

 言われて和美の方を見ると、当の彼女は何を当然のことを言ってるのだと首を捻っていた。

 

「あ」

 

 和美がさよの席の隣で過ごした所為で彼女の姿を見れる希少な人物であることを思い出すことに時間はかからなかった。千雨はまた一つ、大人になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスカの状態の報告の為に三日振りに学校にやってきたネギは、先程覗き見た3-Aの雰囲気の暗さに気を落としていた。

 

「はぁ……」

 

 その原因の一端が自分にもあるので、廊下を歩くネギの雰囲気はクラスにも負けず劣らず暗かった。

 

(ごめんなさい)

 

 ただ、心中で自分が迷惑をかけている人、全てに謝り続ける。一人で背負わせてしまったアスカに、傷つけた明日菜や皆に。

 カモのお蔭で安定はしたが、答えは出ていない。

 今の自分が教壇に立つべきではないと分かっている。多くの人が事情を知って休むように言ってくれた。その好意に甘えて、同じように休職しているアーニャとネカネの分まで一人で出ている千草に負担をかけている。

 

「アーニャは別荘に籠って、ネカネお姉ちゃんはアスカに付きっきり。どうしようか」

 

 よって対外的なことはネギがやらざるをえない。

 やることがある時はいいが、ふと手が空くと、どこまでも鬱屈してしまう。カモがいる時は安定しても一人になるとこうなってしまう。

 

「痛っ」

 

 鈍痛が脳にへばりついてた。鼓動に合わせて、ズキズキと疼く。世界はぼやけており、何もかもが曖昧だった。当然だ。この三日間、あまり寝ていない。

 寝たら悪夢を見てしまう。石化した村人達が呪うように助けを求めてくる夢、アスカが憎しみに囚われて戦い続ける夢、ヘルマンが悪魔の囁きを続ける夢。寝られない。寝ても直ぐに飛び起きる。そして拳を血が出るほど強く握り、ようやく自己を認識する。

 生きながら血肉が腐ってしまったように、力も入らずただ苦痛だけが身体に充満していた。

 

「……なんで、僕は……」

 

 罪からずっと目を背けていた事実が重く圧し掛かる。

 ヘルマンがアスカに言ったことは全てネギにも当て嵌まる。誰かを傷つける為に力を得ようとした自分がいることを認められなかった―――――――つい、この間までは。全て暴かれた。背けていた現実から、罪から。

 

(まるで虫だ)

 

 胸の奥で蠢く、矛盾の結晶。ザワザワと、ギシギシと自分を苛立たせる混濁の天秤。

 現在、ネギ・スプリングフィールドは戦っていた。必死になって、自分の人生最大の戦いを繰り広げていた。ただし、血みどろの死闘を繰り広げているわけではない。戦う相手に姿形はないのだ。即ち、ネギが戦っているのは、自分が六年の歳月に渡って築き上げてきた根幹だったからだ。

 何かの歯車が取り除かれた所為で、普段の思考が一切回らない。そんな感覚だった。根拠の問題ではない。長い時間をかけて考えれば突破口が見つかるとも思えない。単純に考えることに意味がない。まるで地平線に沈む太陽まで辿り着こうとして地上を走り続けるような間抜けさすら感じられる。

 何時までこうしているべきか。意味なんてあるのか。意味がなくてはいけないのか。

 ネギ自身、自分の感情を制御しきれていない。一箇所に纏まるはずの思考が、頭の端々へと散らばってしまっている。その断片のようなものが配線のショートで生まれる火花のように様々な意見を出すが、それらのランダムイメージに統一性はなく、掻き集めようとするおと必ず矛盾にぶつかってしまう。

 何かの切っ掛けがあれば大きく傾く。鋭く尖った杭の上に大きな板を乗せて立って辛うじてバランスを取っているようなものだ。板のどこに指を添えても、どこかの方向には倒れていく。なまじ危ういバランスを保ってしまっているからこそ、ネギは停滞しているのかもしれない。

 ふと、世界が歪んだ。それは目元に浮かんだ涙の仕業であり、湯水の如く溢れ出してくる。ネギは頬を伝う涙を拭おうともせず、ただひたすら自分を責め続けていた。考えたところで結論など出なかったが、そうせずにはいられなかった。自分を責め、傷つける方が気持ち的には楽だったのである。

 怒りと、罪悪感と、自己憐憫と、自分の馬鹿さ加減を棚に上げるなと責める冷静さが入り乱れて、頭が麻痺していた。

 

「―――――ネギ先生」

 

 そんな状態にあったから目の前に誰かが立っていて、自分に話しかけたのだと気づく時間がかかった。

 

「え、あ、新田先生」

 

 自己に沈んでいたネギが何時のかにか下げていた顔を上げると、そこに立っていたのは眼鏡をかけた壮年の教師―――――――学年主任の新田だった。

 新田は話しかけたにもかかわらず、話すことなく知らず涙を流し続けるネギをじっと見つめる。彼はネギを心配して様子を見ていたのだが、自己内罰の悪循環スパイラルに陥っていたネギはまたなにか悪いことをしたかと考えた。

 

「ふむ、ネギ先生。今夜、夕食でも一緒にいかかですかな?」

「は?」

 

 なにやら一人で納得してしまった新田の予想外の提案に、怒られると思っていたネギは間抜けな声を上げてしまった。

 しかし、そこは腐っても明晰な頭脳を持つネギ。あれからは碌に食事も喉を通らないので悪いが断ろうという決断に至るまで時間はかからなかった。

 

「すみません、僕は――」

 

 言いかけたところでネギのお腹が『ぐうぅぅぅぅぅぅ』と遠慮も情緒もない大きな音が鳴った。

 

「………………」

 

 人が人として生きている限り、どうやっても逃れられない宿命というものがある。その内の一つが空腹だ。

 胃袋というものは実に強情に出来ていて、そんな気分ではないからといくら頭が主張しても、どんなに辛い悩みを抱えていようとも、頑として言うことを聞こうとしない。

 悩みがあろうとも関係なしに時間が経って腹が減れば、ぐぅぐぅと遠慮も何もなしに騒ぎ始めるのだ。それはまるで人が生きて動いていれば空腹から逃れられないと暗に示すように。

 我慢というものを知らない自分の体が情けない。しかし、絶食を始めたところで何の解決にもならないことはまた事実だ。しかし、いくらなんでも、このタイミングでそれはないだろうと顔どころか耳まで真っ赤にしたネギは思う。

 

「体は正直なようだ。仕事が終わったら店に案内しよう。私の奢りだ」

 

 怒ったイメージが多い新田の笑顔を見せての純粋な好意を今のネギが断れるはずもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今のネギは休職中なので仕事はない。新田の仕事が終わるまで待つことになるかと思ったが、新田は直ぐに職員室の前の廊下で待っていたネギの元へとやってきた。

 

「待たせてすまない。行こうか」

「え、仕事はどうされたんですか?」

「急ぎのはないから、今日は早めに上がるつもりだったんだ。遅くなるといけないから行くとしよう」

 

 新田の言うことを素直に信じたネギは背中を押されるようにして新田と共に学校を出る。

 沈んでいく夕日を背に敢えて電車には乗らず、歩く新田の後を追うようにしてネギも歩いた。

 やがて太陽が完全に沈み、月明かりと街灯で照らされた道を二人で歩く。

 

「どこへ行くんですか?」

「超包子という、君のクラスの超君が経営している屋台があってね。そこだよ」

 

 子供のネギがスーツを着ているのが奇異がられるだけで、二人が並んで歩けば年の差から親子と不思議ではない。会話している様子を外様から見れば、仕事の親を迎えに来た子供が話しながら家に帰ろうとしているように見えただろう。

 

「超さんの?」

「ほら、あそこだ」

「わっ」

 

 新田が指差した方向を見たネギは、路面電車が屋台になっているので驚いた。

 近づいて周囲を見渡すと、置いてある簡易テーブルは殆ど埋まっているようだ。商売繁盛を物語るように、早朝に関わらず数多く外に出しているテーブルは客で一杯だった。

 ネギは空いている席を探したが丁度夕飯時という事と人気の店という事もあり、どこも空いていないようである。どうするのかと思って新田を見上げたが、彼は意に介することなく進んでしまうので慌てて後を追う。

 新田は人の間を通って路面電車の方に行ってしまうので、はぐれないようにネギからすれば十分に大きな背中を目印にして追う。

 向かう先の路面電車を新田の背中越しに見ると、改造して屋台のようにしているみたいだった。

 路面電車の屋台で、まるで待っていたかのようにクックコートを着た3-A出席番号30番四葉五月が立っていた。

 

「いらっしゃいませ、新田先生、ネギ先生」

「やぁどうも、さっちゃん。さぁ、ネギ君も」

 

 これだけ人の多いのに何故か都合よくカウンター席が二席だけ空いていることに疑問を感じたが、先に座った新田に勧められるままに席に座る。

 

「私は何時ものを頼む」

「はい」

 

 新田は常連なのか、それだけで五月には伝わったようだ。

 

「僕は――」

 

 何を食べるかと厨房上にかけられたメニューを見上げたネギの前に、湯気が立つ熱々のスープが満たされた器が差し出された。出したのは当然、五月だ。

 

「どうぞ、ネギ先生」

 

 けして声は大きくないが五月の声は不思議と通る。楽しそうに料理に舌鼓を打っている人の喧騒の中でも、周りには誰もいないかのようにスルリとネギに耳に入ってきた。

 

「サービスの特製スタミナスープです。元気出ますよ」

「あ、はい。ありがとうございます。でも、どうして僕にだけ?」

「ここ数日、あまり体調が良くないようでしたから、これを飲んで元気を出してください。何事にも体が資本、健康第一です」

 

 両手を胸の前に持ち上げて拳を握り笑顔を見せる五月に、ネギの心の底で沈殿していた何かが少しだけ晴れた。

 少し楽になっただけで劇的に何かが変わってわけではない。だけど、ここに来てもまだあった遠慮がスゥッと消えていく。

 

「色々あって大変かもしれませんが体を壊さないように無理だけは駄目です。大変そうですが、お仕事も頑張って下さい」

「………………はい、ありがとうございます」

 

 そこにいるだけで人を安心させる雰囲気が五月にはあった。3-Aでは目立たないが自立心という意味ではクラス一といってもいい。

 五月の優しい心遣いと励ましに素直に甘えることに決め、出された特製スタミナスープをレンゲで掬って口を付けた。スルリと口の中に入ってきたスープは、この数日の食事をインスタント食品で済ませていたネギの舌を潤すように流れていく。

 ゴクリと喉を鳴らして一口飲みこんだネギの口元が自然と笑みの形になる。

 

「おいしい」

「ありがとうございます」

 

 五臓六腑に染み渡るとはまさにこの事だと感じさせてくれた。ただのスープでここまで美味しいと感じさせたのは初めてだった。

 素直に思った感想を伝えると本当に嬉しそうに笑う五月を見て、こちらも理由もなく嬉しくなってくる。

 

「少しは元気、出ましたか?」

「え……あ、はい」

 

 気づかなかったが、何時の間にか出された特製スタミナスープは残り少なくなっている。思い悩んでいたのに卑しく感じ、恥ずかしくなってネギは顔を少し逸らした。

 その逸らした視線の先にいた人がネギを見た――――のではなく、厨房にいる五月を見る。

 

「こんばんは、さっちゃん。何時ものお願い」

 

 他の学校の先生や大学生らしい人達と五月が挨拶を交わしたたりするのをネギは呆然とした様子で眺める。

 

「やぁ。どうも、さっちゃん。席、空いてるー?」

 

 次々にやって来る先生達や学生達に嫌な顔一つせず笑顔で応対する五月に、ネギは感嘆の声を上げる。そうしている間にも新しく来た客達が次々に五月に声をかけていく。

 

「四葉さん、スゴイ人気あるんですね。先生や大学の人達まで」

 

 人の波が途切れたところで、ネギは我知らずといった様子で五月に話しかけていた。

 五月は一度たりとも料理の手を止めずにネギを見て優しく微笑んだ。

 

「私、将来自分のお店を持つのが夢なんです。そうやって、食べ物でみんなに元気をあげられたらなって」

「四葉さんなら絶対持てますよ! だって、こんなにおいしいんだもん!」

 

 とても優しく微笑んで自分の夢を語ってくれた五月に、ネギは素直な賞賛と共に五月の夢の成就を疑わない様子で答えを返す。

 カウンターに座り、五月を尊敬の眼差しで見ているネギの様子に少し前までの落ち込んでいた様子はない。彼女の夢の一端である「食べ物でみんなに元気をあげられた」というのは叶っている。まさに沈み切っていたネギを掬い上げたのだから。

 

「四葉さんはスゴイですね。将来の夢がしっかり決まってて………………毎日お料理をがんばってて……………」

「ネギ先生も、先生の仕事や色んなことを一杯頑張ってます」

 

 五月の言葉は優しいから、肯定してくれるから、ネギにとっては固く沈められた心の檻を突き崩す甘い毒となる。

 

「僕はダメなんです。アスカに頼り切って押し付けて、ずっと目を逸らして逃げていたんです。先生をやるための勉強も何もかも、全部全部、僕の昔の嫌な思い出から逃げるための、嘘の頑張りだったんです」

 

 だからだろう、五月の優しい空気はネギの心を包み込み、誰にも吐露できなかった心中を無意識に話し始めたのは。

 俯き吐露するネギに顔には苦しみに歪んでいた。その手は強く握られていた。

 きっとアスカのようにヘルマンに向かって行くことは出来なかっただろう。ネギはヘルマンが言ったことを認め、真実だと受け入れてしまっているのだから。

 もしかしたら誰かに聞いてほしかったのかもしれない。しかし、ネギはそうすれば他人を傷つけると臆病になっていた。嫌われることが怖かったのかもしれない。

 彼女の穏やかな雰囲気はネギの心の箍を緩める。きっとそれは残酷なことなのだろう。

 

「僕は最低の屑です。その所為でアスカに全部背負わせてしまった。なのに、僕はそれで助かったと思ってるんです。全部全部僕が悪いんです」

 

 隣でゆっくりとビールを飲んでいた新田は、涙をポロポロと流すネギが発した言葉に僅かに反応した。

 ネギの様子が変わったのがアスカが入院した日からであることを考え、その日の日中の二人の様子におかしな点はなかったので明かされた事実が正しいものではないと推測を立てた。だが、真実を暴けばいいものではないと彼の長い教師人生で培った勘が告げている。

 事態は彼が思っているよりも深刻だった。五月のお蔭でネギは抑えていた心の咎を吐露している。今は状況に任せることにした。

 

「いっぱいいっぱい考えました。でも、どうしたらいいのか分からないんです。なのに、傷つきたくないと偽善で自分を守ろとしている。そんな気持ちで先生やってたなんて…………みんなに………申し訳なくて…………」

 

 顔を覆うネギに周りが奇異の視線を向ける。

 新田は視線で周りに自制を求めた。

 有名人である新田のアイコンタクトに周りの人達は普段通りを演じる。なにか大切なことが起こると分かったからだ。耳を傾けはしない。ただ当たり前の状態を維持して、事態の解決を望むのみ。その役目を果たす人は既にいるのだから。

 彼らの好意に新田は深く深く感謝した。昨今は社会の不信が問題になっているが、世界はこんなにも優しくしてくれる。ネギにも知ってほしい。世界はこんなにも優しいのだと。

 

「みんなネギ先生が先生になってくれて良かったと思っています。私も先生と出会えてこうしてお話が出来て嬉しいです」

 

 優しさを伝える人はここにいる。もっとも相応しい幸福の化身のような人が。

 

「誰だって傷つきたくありません。辛いことから逃げたいと思います。完璧な人なんていません。私達は血と肉を持った人なんですから」

 

 顔を覆って告白するネギの肩に、そっと優しく置かれる五月の手。その温かな感触に顔を上げたネギの目に映ったのは、慈愛に溢れながらも力強い五月の眼差し。

 

「嘘の頑張りでも、偽善でも、今のネギ先生を形作っているものです、疎まないで、それでは悲しすぎます」

 

 記憶にある誰のものともどこか違う優しい目がネギを見ている。それだけで確かな安らぎを得ていた。

 

「確かにしてはいけないことをしたのかもしれません。どうしようもなく傷つけたのかもしれません。もう取り返しがつかないのかもしれません。それでも―――――」

 

 強く強く気持ちよ届け、と願って相手を見る。

 

「諦めたりしないで。あなたは此処にいるんです。ずっと止まっていても何も変わりません。悪いことをしたのなら精一杯謝る。変えたいと思ったのなら、これから変えていけばいいんです。私達は生きてるんですから」

 

 五月が言っているのは一般論に過ぎない。だけど、彼女よりも今のネギに言葉を心に響かせられる人はいない。

 

「――――――僕は、許されるんでしょうか? 変われるんでしょうか?」

 

 ネギには五月の言葉に導かれて確かな光明が見えた。

 

「それを決める私ではありません。ネギ先生自身ですよ」

「そう、そうですね」

 

 縋るような光明の先は五月には繋がっていない。彼女はただ一つの答えを示しただけだ。

 ただ、暗闇の中でもがき苦しみ続けていたネギにとってはなによりも救いだった。なにかが劇的に変わったわけじゃない。何も変わってはいない。心の中に整理がついただけだ。

 

「ネギ君」

 

 新田は心の整理をつけたネギに話しかけながら、大変な役目を任せてしまってすまないと五月に目配せで礼を言う。五月は気にした風もなく何時も通りの笑顔を返しただけだ。

 彼女には敵わないな、と新田は思いながらネギの顔を見る。ここに来る前とは全然違う。全ての悩みが晴れたわけではないがスッキリした顔をしている。

 

「君がどれだけ頑張ってきたかはよく分かっている。ここ数日、どうしようもない悩みを抱えていたこともね」

 

 ふと新田は自分がネギと同年代の頃はどうだったかと過去を回想した。

 全てを思い出せたわけではないが、彼のように思い悩んではいなかったのは間違いなく、大した悩みを持つこともなく日々をおかしく楽しく過ごしていたと思う。ネギにもそうあって欲しいというのは、新田の我儘でしかないのかもしれないと少し感傷的になった。

 

「君は子供だ。教師としてもまだまだ未熟だ。半人前にもなっていない。そんな君が失敗するのは当たり前だ。誰も君に完璧さなんて求めてはいない。失敗しろ、とは言わない。だけど、失敗を恐れてはいけない。失敗しなければ学べないこともある」

 

 子供であるネギを完全に同輩と見ることは出来ない。どれだけ能力があろうと、彼はまだ子供なのだ。そして教師としても、人間としてもまだまだ未熟である。

 教師として、大人として、先達がするべき役目を果たす。自らが未熟であった頃にしてもらったように次代へと継いでいくのだ。そうやって人は時代を続けてきたのだから。

 

「進み続けろよ、若者。立ち止まって辿ってきた道を振り返るのはいい。過去から学ぶこともある。しかし、そこで蹲ることだけはしてはいけない。それでは人としても教師としても成長しない」

 

 そこでフッと表情を緩めた。

 

「申し訳ないと思うなら心を入れ替えて向き合え」

 

 ネギの胸に手を伸ばして伸ばした人差し指で突きつける。

 

「教師とは言葉ではなく態度で示すものだ。歩み出した君を周りも分かってくれる」

 

 ネギの胸から手をどけてカウンター席に向き直り、呆然とした様子のネギを横目に置いていたコップを手に持つ。

 

「遅らせながら乾杯といこう」

「は、はい」

 

 新田の言葉にネギも慌ててコップを持つ。

 ビールと五月が用意してくれた水なので合わないこの上ないが、これは儀式だ。ネギが成長するための一歩。長い長い階段の一歩を登るための必要な儀式。

 

「「乾杯!」」

 

 ヘルマン襲撃から引き摺っていた気持ちの落ち込みからようやく本当の意味で立ち直り、心からの輝くような笑顔を浮かべる事が出来るようになったのだった。

 

 

 

 

 

 ゆっくりと出された食事を味わうように食べだしたネギから隠れて、新田と五月はこんな会話をしていた。

 

「さっちゃん、ネギ君には絶対に酒類は出さないようにしてくれ」

「どうしてですか?」

 

 新田に言われてなくても子供のネギに酒を出す気はない。

 

「いや、これはネカネ君に聞いた話なんだが彼は甘酒で酔っぱらったそうなんだ」

「はぁ……」

 

 別にそんなに深刻ぶるような話ではなのではないか、と五月は思ったが深くは突っ込まなかった。

 

「アスカ君は………………超ド級酒乱なんだ。昔、甘酒で酔っぱらって店を一件壊したことがあるらしい。私もあやうく彼が人を壊すところを見た。念には念を入れて、用心はしておいた方がいい」

 

 新田が見る限り、スプリングフィールド兄弟は真面目故に内に溜め込む性質があるように感じていた。こういうタイプは酒を飲ませて酔っ払わせ、タガの一つや二つ外して暴走させた方がいい。だが、双子の弟の酒乱+破壊魔振りを考えると、ネギに勧めるのも危険だと判断したのだ。 

 

「…………」

「本当だよ? 本当だからね! 信じてくれ!」

 

 とても信じられず、酔っ払いの戯言だと思って幸福の化身にはあるまじき白い目を向けられて、必死に説得しようとする珍しい新田の姿が「超包子」で見られた。

 今日も麻帆良は平和である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日のHR、今回の議題は麻帆良祭の催し物。教壇に立つのは休職明けのネギ。

 時期的にそろそろ決めなければ後の予定に響く真面目に取り組んでいる。みんな生き生きとしたネギが信じられず、普段なら騒ぎそうな議題なのに粛々と進んでいた。

 

「えーと………………同じ数の票がありますね。みんなのアイディアから僕が厳正に選考と抽選をした結果、3-Aの出し物を「お化け屋敷」に決めたいと思うのですが、ど…………どうでしょうか?」

 

 黒板には真面目に出されたアイデアが書かれており、多数決で決めることとなったがそれぞれ同数の票が集まってしまった。

 上から「大正カフェ」「演劇」「お化け屋敷」「占いの館」「中華飯店」「水着相撲」「ネコミミラゾクバー」とある。

 まず最後二つの「水着相撲」「ネコミミラゾクバー」は得票数が少ないので外された。

 残った「大正カフェ」「演劇」「お化け屋敷」「占いの館」「中華飯店」はまったく同数。出来るだけ各部活等でやるものとは被らないようにとネギは考えた。

 「中華飯店」は料理を超達がやっている「超包子」と被ってしまうので除外。「占いの館」は出来る人が偏るし、研究会で木乃香がするので同じくアウト。「演劇」も夏美が部活でやるので同じく。「大正カフェ」は良い線をいったが、どうせならみんなで一丸となってやれる「お化け屋敷」が良いのではないかとネギは考えた。

 

「「「「「「「いいんじゃない?」」」」」」」

 

 率先してクラスを盛り上げる鳴滝姉妹・まき絵・祐奈・和美・ハルナ・桜子が親指をグッと立て、他の者達も笑顔で反対の様子はない。

 後は担任である千草の決定次第。

 

「こいつらがこう言うとるんやし、ええんとちゃうか」

「………あ」

 

 何故か苦笑している千草の言葉に、ネギもようやく安堵する。

 ネギは先生としてちゃんとクラスの意見を纏め上げ、3-Aの出し物を「お化け屋敷」に決定させたのだった。これは他の誰でもない。誰の手助けなしにネギ自身がやり遂げた結果だ。

 

「よぉっし!!! そうと決まれば思いっきり怖い奴を!!! お化け屋敷ならお化け屋敷で、色々やりようはあるってもんよ♪」

「お――――っ♪」

「いや、それだけだとつまらんから、やっぱヌーディストお化け屋敷で!!」

「そ、それだ!!」

「それ、ネギ君脱がせっ!!」

「えええ~~!? 何でボク、あ、ちょっ、ダメッ!? あ―――――ッ!?」

 

 まだまだ十全にはいかないけど、変わっていけると、歩みを進めて行けると信じたい。

 

「頑張るぞ――――!!」

『お――――ぅ!!』

 

 こうして、学園全体と同じように停滞していた3-Aも麻帆良祭に向けて動き出したのだった。

 まだ一人の少年と少女を残したまま。

 




相坂さよが長谷川千雨に憑きました(誤字に非ず)

そして困った時の新田先生のご登場です。
描写していませんが、新田先生は超包子に連絡して五月に事情を説明し、席やら取ってもらっていました。

さっちゃん、マジ天使。
そして新田は気遣いの紳士。最後が決まらない辺り、彼らしい。

次回

「明日菜の理由」


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第36話 明日菜の理由

 

 どうして自分が大学部にあるライブなどに使われる野外ステージにいるのか、ヘルマンに囚われていた時と同じように水の蔦に拘束されているのか、神楽坂明日菜には何も分からなかった。

 辺りを見渡しても周りには誰もいない。ヘルマンもスライム娘達も、あの夜に同じように囚われていたはずの木乃香達の姿も無い。

 誰もいないステージに明日菜一人だけが立っていた。

 

「誰か、誰かいないの!」

 

 耳に届くのは雨の音だけで声に応えるものは無い。

 降りしきる風雨と遠くで鳴り響く雷の稲光は変わらないのに、まるで状況と明日菜だけが過去に戻ってしまったかのようだった。

 前後の脈絡が無い。思い出そうとしても記憶がぶつ切りになっていて、こうなる過程が記憶の中から欠落している。

 水の蔦に拘束された腕はどれだけ力を込めても外れず、どれだけ声を張り上げても誰も助けに来てくれない。

 いい加減に疲れて項垂れていた明日菜は、水を踏み締めて近づいてくる足音が聞こえた。

 

「足音? 助けが来てくれた!」

 

 助けが来てくれたと思って喜色を露にして、近づいてくる足音が聞こえる方角である観客席の最上段の向こうへと目をやった。

 やがて観客席の最上段の向こうから現れたのはアスカ・スプリングフィールド。

 彼は明日菜の姿を目にすると驚異的な跳躍力を発揮してステージ前に飛び降りて、猿のような身軽さで雨が地面を叩く音よりも静かに着地する。

 明日菜までの距離は五メートルもない。目の前といっていい距離にアスカ・スプリングフィールドが立っている。

 助けに来てくれたと思ってアスカに呼びかけようとした明日菜。だから気づかなかった。

 今のアスカが闇より深い黒を連想させ、氷よりも冷たい冷気を連想させるのか、何故こんなにも血の臭いを振りまいているのか、冷たい目をして自分に雷の槍を向けるのか。

 

「アス……!!」

 

 名前を呼んでいる途中で気がついた。唐突に先ほどまで何も持っていなかったアスカの手に正しく魔法のように雷の槍が現れ、標的の眉間に照準が合わせられている。

 後少しでも突き出されれば明日菜の眉間を射抜くだろう。

 貫かれれば人生と呼ばれるものを消し去り、肉体をただの肉の塊に変えてしまう。バチバチと弾ける紫電の音が、雨の中にあってひどく耳に響く。

 

(……、なんで?)

 

 疑問を覚えても、明日菜はアスカを止められなかった。次の行動が読めなかったからではない。読めていたとしても、そんな酷い予想通りに彼が動くとは思わなかったからだ。

 

「――――ッ!?」

 

 アスカから発せられる殺気には、躊躇も誇張も装飾に類する一切がなかった。

 戦闘を経験したことで少しは度胸がついたつもりでいたのだが、直に死神の鎌を突きつけられる恐怖は別物であり、その殺気が本気であることはどんなに鈍感な者でも気づかずにはいられなかった。

 一瞬で過去が走馬灯のように脳裏を過ぎる。

 拘束されていなければ腰を抜かしていただろうし、もし命乞いをしろと言われれば這い蹲って靴を舐めたかもしれない。殺意と共に向けられた雷の槍には、それだけの威力があった。

 こんな雷の槍が自分という人間をこの世から消してしまう、その理不尽さと無慈悲さが頭の芯を痺れさせ、死にたくないという以外の思考は一切働かなかった。

 命の危機に瀕して異常な集中力によって明日菜にはそこまで感じ取ってしまえる。僅かな刹那を永遠と思えるほどの時間が出来てしまっていた。

 

「……あ、ああ……あああ………」

 

 暑くもないのに汗を掻き、痺れにも似た怖気が全身を覆いつくして肌という肌を掻き回している。

 穂先を向けられた明日菜は喘ぐように短い呼吸を繰り返した。心肺機能を動かす脳の制御を拒絶している。肺は勝手にストライキを起こして呼吸をさせず、間違いなく一度止まった心臓は反発するように暴走し喉から飛び出しそうであった。

 咄嗟に確定された未来を見たくなくて目を閉じた直後、死にたくないという明日菜の想いとは裏腹に雷の槍は狙われた眉間を過たず正確に貫いた。

 

「は……っ」

 

 神楽坂明日菜には雷の槍が自分の眉間にめり込み、人体で最も固い頭蓋骨を貫いて脳味噌まで入り込む異様な感覚まで直に感じられた。

 即死しなければおかしいのだが、何故か明日菜には意識があった。

 何時の間にか水の蔦が外れていて、撥ね上がった頭部に引っ張られて体が背中から倒れ込むのが分かった。

 

「――――――――」

 

 幽体離脱して寝ている自分の体を見下ろしているような不思議な感覚と共に、どうして自分が殺されたのかが分からなくて、視線をアスカに向けて喉の奥から引き攣ったような声が漏れた。

 降りしきる雨の中で頭を貫いた獲物を持つのはアスカではない。紛れもなく神楽坂明日菜張本人。慌てて眉間を穿たれて地面に倒れ込んだ自分の姿を見ようとした。

 そこに倒れているのは神楽坂明日菜ではなかった。ハマノツルギで頭を貫かれているのは、確かに雷の槍を放ったはずのアスカ・スプリングフィールド。殺したのは自分で、殺されたのはアスカ。

 

「いやぁぁぁあああああああああああああああああああああああ――――!!!」

 

 目の前の覆しようのない事実を前にして明日菜は絶叫した。

 

 

 

 

 

 夜が深まり、まだまだ太陽が昇るには幾ばくかの時間を要する女子寮の一室で一人の少女が目を覚ました。

 普通にではなく悪夢に魘されて、悲鳴を上げて飛び跳ねるように明日菜が布団から飛び起きる。

 

「明日菜!?」

 

 同じ部屋の二段ベッドの下で寝ていた木乃香が明日菜の悲鳴に寝ていたところを起こされ、急いで布団を跳ね除けて彼女の様子を確かめようとした。

 部屋の灯りを点けて二段ベッドに備え付けられている木製の階段を登って目にしたものは、涙を流し全身を汗で濡らして震える明日菜の姿。

 

「はあ、はあ、はあ…………あれは夢?」

 

 自分の額に傷ががないことを確認するように手が触れる。

 湿っているのではなく濡れるほどの汗を全身から出して何かに脅えるように震えていたが、自分がいる場所が野外ステージではなく自分の部屋だと理解して、さっきまでの光景が夢なのだと理解を始めていた。

 

「大丈夫なん、明日菜?」

 

 尋常ではない汗を掻いて震えていた明日菜が落ち着いてきたのが分かったので、ベッド柵に手を付いた木乃香は心配げな様子で話しかける。

 

「…………うん、大丈夫。また夢見が悪かっただけだから」

 

 明日菜が言ったことは本人にとっては嘘などついていない事実だった。

 一週間も続く毎日のことであれば対応にも慣れてくるというもの。悪夢には決して慣れないくせに、こんなことには慣れていく自分が醜く思えた。

 

「こんな時間に起こしちゃってゴメン。汗掻いちゃったからシャワー浴びるわ」 

 

 何かを言われるよりも先に汗で濡れたパジャマを摘んで謝りながら、心配気な視線を振り切るように言って起き上がって階段を使わずに二段ベッドの上から飛び降りる。

 木乃香が階段を下りるよりも早く、着替えを持って部屋に備え付けられているシャワー室へと行ってしまった。 

 

「明日菜……」

 

 灯りの着いた、誰もいなくなった部屋の真ん中で木乃香は一人で親友を想う。

 いくら口で大丈夫と言われても血の気を失った顔色と艶を失った髪の毛では安心できる要素は欠片もなかった。だけど、事情を間近で知っているが故に下手な慰めを言う事が出来ず、また明日菜も同情されることを嫌がっていることに察しがついていたので何も出来なかった。

 

「あれからもう一週間も経つんやな」

 

 カーペットにお尻をつけて女の子座りをしながら壁に掛けられたカレンダーを見て、今更ながらに月日が流れていることに気がつく。

 一週間前に突如として麻帆良学園都市に現れた悪魔ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマンによって引き起こされた、明日菜を初めとして自身も深く関わった事件。明日菜、木乃香、刹那、のどか、夕映、古菲がヘルマンと彼の手下であるスライム三人娘によって拉致された。

 彼らの目的は、何者かの依頼による『麻帆良学園の調査』を主として『ネギ・スプリングフィールド』『アスカ・スプリングフィールド』『カグラザカアスナ』が今後どの程度の脅威となるかの調査も含まれていた。

 彼らによって誘拐された彼女達を助けるために、誘拐されたことを知ったアスカ達がやってきた。

 ヘルマンは自身がアスカとネギの故郷を滅ぼした張本人であり、彼らの大切な人達を石化した元凶。ヘルマンが正体を見せた直後だった、アスカの様子が激変したのは。別人と言ってしまった方が信じられた変化を見せた少年が抱えていた闇を木乃香達は知らなかった。

 その後のことについて正確なことは木乃香には分からなかった。敵同士であった彼らだけが認識していて、詳しい事実を木乃香が知らないこともあるのだろう。

 やってきた千草らによって別の場所に移された木乃香達が目にしたものは、人知を超えた超人の戦い。人でありながら人を超え、天変地異を引き起こす彼らの戦いは想像を超えていた。結果だけを言えば、神話のような闘争はアスカの勝利で終わった。

 アスカは恐怖を抱いた彼女達の前から去って行った。

 自由になったはずなのに明日菜は一晩中泣いてばかりだった。手を伸ばしたアスカを拒絶したことに親友である木乃香ですら見たことがないほどに取り乱している。

 

「まだ夜も明けへんか。考え事してたら眠気も飛んでしもうたわ」

 

 この一週間のことを振り返っていたら眠気が完全に吹っ飛んで眠れる気がしなくなってしまった。

 立ち上がって窓際によってカーテンを少しだけ開けて外を見ると。まだ暗く日の出の気配を見せていない。

 

「さて、明日菜が出てくる前に眠れへん時の定番のホットミルクを作っとこうかな――――って、あかんな。自分で上げたテンションに付いていけへん」

 

 言葉通りに無理矢理テンションを上げようとしても自分の言葉に付いていけなくて肩を落す。

 ネガティブになるよりはポジティブにいこうと努めて明るく振舞おうとしたが、夜中に起こされたことによる寝不足による低いテンションとあの事件から部屋に沈殿している暗い空気が逆に痛々しさを強調するだけだった。

 それでも明日菜が上がってくるまでに肩を落としたまま冷蔵庫から牛乳を取り出し、台所に置いていた小さな鍋に二人で飲む分だけ入れてコンロに弱火で火を点ける。

 うっかり離れるとあっという間に噴いて大惨事を引き起こすのは、この一週間の経験で分かっていた。洗って置いてあったコップを二個取って傍に置いておく。

 ギリギリで火が点いているレベルなので出来上がるには少し時間がかかる。

 早く寝たいのなら火を強くするところだが明日菜が出てくるにはもう少しばかり時が必要になってくる。きっと風呂場でも声を殺して泣いているのだろう。一度だけ遅すぎるので覗こうとして、微かな嗚咽を聞いてしまってからは待つことにしている。

 数分間、木乃香は茫洋と鍋を眺めながら、昼休憩に3-Aの委員長である雪広あやかと話した内容を思い出していた。

 

「いい加減に逃げるのは止めにせんとな」

 

 そう木乃香が自分の手の平を見ながら呟いたのと、泡が鍋肌に立って来るのと、明日菜が浴室から漏れ聞こえてくる水が流れる音が止まったのは殆ど同時だった。

 火を止めて出来上がったホットミルクをコップに移している時に、風呂場で泣いていたのか目元を紅く晴らして新しいパジャマに着替えた明日菜が出てきた。

 

「ホットミルク出来たで。飲もう」

「うん、ありがとう」

 

 振り返ってホットミルクが入ったコップを掲げる木乃香に明日菜は弱々しいが確かな笑顔を見せた。

 

「「………………」」

 

 移動して今となっては二人でいることが常態となった部屋でテーブルを挟んで座って向かい合う。

 暫くの間、無言でホットミルクをちびちびと啜る音だけが部屋に響く。

 無言の気まずい空気に最初に耐えられなかったのは木乃香を起こしてしまった責任を感じている明日菜の方だった。

 

「ねぇ…………アスカ、大丈夫かなぁ」

 

 ヘルマンの事件から次の日の前日の嵐を考えれば不思議なほど晴れ渡った日、学園長であり祖父の近右衛門から連絡が届いた――――アスカが昨夜に重傷を負って意識不明のまま病院に運び込まれたと。

 詳しくは聞かされていないが、アスカがヘルマンとの戦いで負った傷は大きかったはず。

 

「お祖父ちゃんは命に別状は無いって言うてたしな。後遺症とかの心配はないって」

「でも、何度も心臓が止まったって」

 

 外傷だけでも全身に数え切れない程の傷や各所の骨折は見て取れていた。特に酷かったのは皮から骨が突き出している左拳と、折れた肋骨が肺に突き刺さったことによる呼吸困難。治療中にも何度も心臓が止まって危なかったと聞いた時の明日菜の顔が今でも忘れられない。優れた治癒術師の努力の甲斐もあって何とか峠も越したと聞くまでは木乃香も生きた心地がしなかった。

 

「お医者さんや麻帆良で一番の治癒術師さんが頑張ってくれてるって。意識はまだ戻ってないけど」

 

 言い過ぎたと思った時には既に遅い。

 ズーンと影を背負って床に沈み込んでしまった明日菜を前にして、木乃香に出来ることは多くない。

 

(どうしたらええんやろうな。やけど、何時までもこのままっていうのも)

 

 明日菜のこともあって数日前に面会を申し込んでも祖父は許してくれなかった。

 怪我の状態のこともあっただろうし、木乃香達の間に流れる空気を察したこともあって面会は認められなかった。或いは、祖父は全ての事情を察していたのかもしれない。

 

(あの噂もお祖父ちゃんがなんかしたんやろうな)

 

 アスカの怪我は嵐に紛れて侵入した不審者達が生徒たち数人を拉致しようとしたのを撃退して、その際に持っていた爆弾に巻き込まれたものによる重症を負ったものとされている。真実でありながら肝心な部分だけをぼかした情報。恐らく祖父である学園長が何らかの策を打ったのだろう。

 3-Aの生徒達数人の様子がおかしいことが事情を知らない者達に情報の信憑性を高めさせた。

 普段のアスカの正義感に満ちた行動は麻帆良学園都市の殆どが知るものであり、実際に入院しているという情報も流れたこともあって誰も疑うものはいなかった。

 入院、事件の被害者らしい様子のおかしい数人の生徒達を抱えた3-A。敢えて深く詮索する者もいなかった。

 古菲は事件に巻き込まれて深く考え込んでいることが多い。古菲と似たような状態にあるのどかと夕映にハルナは周りよりも親友二人に目が向いていた。

 数人がこのような調子であったため、他の少女達も二の足を踏んでいた。

 ネギは元に戻ったことで以前の雰囲気に戻ってきているが、何かが欠けたような欠落感はどうしても拭えない。

 

「アスカ君が戻らんからやな」

 

 ポツリと呟いた一言は小さすぎてコップに目を落している明日菜には届かなかったようだった。

 祖父からは回復に向かっていると聞いているが面会は変わらず謝絶のままで、どんな状態なのか実際に目にしていないので様子が分からない。

 理由を聞いても祖父は難しい顔をしたまま答えてくれない。

 

「――――木乃香はアスカの事、どう思っているの?」 

 

 視線を手元のコップに落としたままの明日菜が呟いた言葉を、物思いに耽っていて危うく聞き逃しそうになった。

 

「どう、とは?」

 

 何を聞きたいのかは最初の問いだけで分かった。だけど、自分から口に出す気にはなれなくて逆に問いを返した。

 逆に問いかけられた明日菜は僅かに鼻じろんだような表情を浮かべて木乃香を見つめ、やがて諦めたように一つ息を吐いて再びコップに視線を落とした。

 

「怖くないのかってことよ」

 

 ボソボソ、と普段の明朗闊達な明日菜を知っている者なら別人かと思うほどに小さな声で問いの主題を明らかにする。

 木乃香はコップを持ち上げて口に運び、まだ温かいホットミルクを一口だけ口に含み嚥下しながら問われたアスカのことを考える。

 

「…………怖くないって言ったら嘘になるかもしれんけど、うちは怖くない」

 

 言い切った木乃香に逆に明日菜の方が怯んだ。

 

「明日菜の方こそ、怖いんやったらお爺ちゃんに記憶を消してもらえばええやん」

「記憶を消すなんて……」

「あんなことがあったんやし、消しても無理ないと思うで。それに別に全部忘れてしまったわけや無い。あの夜のことだけとか」

 

 一般に記憶消去といっても万能ではない。メリットしかないように見えても必ずデメリットは存在している。

 記憶消去の魔法は実際の所は記憶の封印でしかなく、切っ掛けがあればふとした拍子に記憶が蘇ってしまう可能性を孕んでいた。

 

「本当はな、記憶消去の魔法って魔法がバレた時に使うものじゃないんやって。本来は忘れてしまった方が良い出来事を治療目的で行うために開発された魔法やって」

 

 別に記憶の操作とは、魔法の秘匿のためだけに行うものではない。心のケアが必要だと判断した場合にも行う物である。

 暗示と言う意味でなら、科学的に解明されており、催眠療法として使われる事もある。

 心と身体はどちらかが失われれば必ずもう一方もバランスを崩し失われる。つまり、死だ。身体が死ねば、一瞬の死を。精神が死ねば、緩やかな死が待っている。

 大きな怪我をした時、身体の場合なら使い物にならなくなった腕を肩から切り落とすといった種類の処置というものがあり、末端を切り捨てる事によって本体を守り、命を繋げると言う方法がある。これは心にも当てはまり、今回のケースは心が負った傷を、その傷ごと消去してしまうのだ。

 だが、この魔法にも当然の如く限界は存在する。何でもかんでも消去したり変形させたり出来るわけではないのだ。

 その条件を大まかに言えば、記憶が新しいこと。そしてあまり情報量が多くないこととなる。行使者の力量によって許容範囲は上下するが、基本的にはそれが守られていないと改竄できない。たとえ出来てもそう遠くないうちに自己修復される。

 心を守るために魔法を行使すれば一時的な混乱はあるかもしれないが決定的な破滅は迎えない。

 

「明日菜も一度は思わんかったか? こんな思いをするなら忘れてしまった方がええて」 

「私はそんなこと……」

 

 一度も思っていない、と言いかけて明日菜は口を閉じた。

 アスカの絶大な力を目の当りにして瞼の裏に今も焼きついていて、眼を閉じればついさっきの出来事のように思い出せる。そこらにある物をまるで最初から存在しなかったかのように灰燼に帰し、人の想像の域を超えた戦闘を行う姿は圧倒的と言うにも愚かしい。その力を前にしては、自分などは吹けば跳ぶような卑小な存在でしかない。

 復讐に狂った姿は、正真正銘の悪魔であったヘルマンよりも普段の姿を知っている分だけ、あまりの変わりようを見せるアスカの方がずっと怖かった。 

 

「分かってるけど、どうしても記憶を消すことに対して納得が出来ないのよ」

 

 理性で理解は出来ても感情が納得できていないということか。

 この一週間の間にすっかり染み付いてしまった陰気な雰囲気を撒き散らす明日菜に、喋っている間に少しずつ冷めてきた残りのホットミルクを飲み干した木乃香は何かを決心したようにコップをテーブルに置く。

 昼休みに見た、深く深く頭を下げて頼むあやかの姿を思い出して、明日菜の親友として木乃香は自らが目を逸らし続けた傷を曝け出す決意を固めた。

 

「今日な、昼に委員長に言われてん。蚊帳の外にいる自分には何も出来ないから明日菜を助けてやってほしいって。だから明日菜、見てて」

 

 生温くなってきた一口も口を点けていないホットミルクに視線を落していた明日菜は、あやかのことが話題に出た時点で顔を上げていた。

 顔を上げた先ではコップを置いた木乃香がテーブルに置きっ放しになっていた、アーニャから貰った初心者用の杖を持っている。

 木乃香が何を見て欲しいのか分からなかったが直ぐに分かった。

 

「プラクテ・ビギ・ナル、火よ灯れ」

 

 別荘内ではどれだけ頑張っても出来なかったのに、集中するように眼を閉じて木乃香が杖を振って呪文を唱えると、いとも簡単に杖の先に小さな炎が現れる。

 杖の先に火を灯すだけのなんとも地味な魔法であるが、ずっと火を灯すことが出来なかったことを知っていた明日菜から見ればそれだけでも凄い光景だった。

 

「木乃香、あんた何時の間に魔法を使えるようになったのよ」

 

 暗い雰囲気も忘れて問いかける。

 

「初めて試してみたから、これはせっちゃんも知らんことやけどな」

 

 ずっと出来なかったことを出来るようになったというのに、火を灯し続ける杖先を見つめる木乃香に喜びの色は見られなかった。それどころか気がつきたくなかったことを分からされた寂寥感すら感じられた。

 

「うちが始めて魔法――――というか魔力を使ったんは、修学旅行でアスカ君の怪我を治した時や」

 

 杖の先に灯した火の向こうにあの日の光景が映っているかのように木乃香は見つめ続けている。

 

「修学旅行が終わってから魔法の勉強始めたけど、わりかし治癒魔法は感覚でいけるのに他は全然あかんかった。当然やな。うちは心の奥底で人を傷つける技術を学ぶことが怖がってたんや」

 

 言葉を示すように火が小さくなり、魔法を怖いと言った時には完全に消え去っていた。それどころか杖が少しずつ震えを大きくしていた。手から、全身から魔法に対しての怯えから来る震えだった。

 

「魔法を習っていればいずれうちもアスカ君を傷つけた、あんなことをした技術が使えるようになってしまうかもしれん。どこかでそう思ってたから最初の段階で躓いててん。自覚したらこの通り、今までの苦労がなんやってくらいにあっさり出来たわ」 

 

 目の前でどこか自虐的に笑って震える手を握り締める木乃香の姿に明日菜は何も言えなかった。

 明日菜は自分の頬が火照るのが分かった。涙が溢れようとするのが分かった。

 哀しいのではない。辛いのでもない。

 

(あたし、莫迦だ)

 

 生まれて初めて、彼女は心の底から己を恥じていたのである。

 悩み、苦しんでいるのは自分やネギ達だけではない。何かを悩んでいる古菲・夕映・のどかも、刹那も木乃香もみんなあの夜のことで抱えている。

 あやかにも謝らなければならない。喧嘩友達のようなものだが責任感の強い彼女に心配をかけた。

 もしかしたら木乃香や高畑以上に自分を理解してくれている。幼馴染というものは良くも悪くも肩肘を張らない存在でいい。彼女らには自分の弱いところも情けないところもみんな知られている。格好つけなくてもいい。気負わなくてもいい。それは幸せなことだ。

 

「ごめん、ごめんね木乃香ッ」

 

 明日菜は衝動に駆られてコップを置き、テーブルを回り込んで震える手を握り締める木乃香を抱きしめる。

 この一週間ずっと迷惑をかけぱっなしで自分のことだけしか省みなかった我が身を悔い、親友の気持ちに何一つ気づいてやれなかったことを謝り続ける。

 

「明日菜の所為やないねん。うちだって明日菜を慰めることで自分を許そうとしてたんや」

 

 言いかけた言葉を喉の奥で詰まり、嗚咽が漏れ出てくる。

 抱きしめてくる明日菜に返すように相手の体を強く強く抱きしめる。

 今の彼女達はどこかに歯車を落して何かが狂ってしまった機械のようなものだった。互いが互いを支えとする寄る辺として必要とすることで、少しずつ前に進もうとしていた。そうすることで、壊れきった歯車の一つが噛み合う。

 この夜、少女達は何かを変えるわけでもない小さな小さな一歩を踏み出した。それでも確かな一歩として何かが変わっていく。今はそう信じたい。でなければ、世界はあまりにも残酷すぎる。

 

「…………………」

 

 部屋の中から聞こえてくる啜り声が止んだのを察して、明日菜達の部屋のドアに背中を預けていた桜咲刹那は静かに息を吸って心の中に沈殿した何かと一緒に二酸化炭素を吐き出した。

 ドアに預けていた背中を離し、振り返って丁度背中に当たる部分に張ってあった符を剥がす。

 これは他言無用な会話をする時などに用いる音を外部に漏らさないようにする認識阻害の符。こんな夜更けに見張りをしている自分の姿を知られない為に張っていたものだ。

 

「明日からはもう必要ないか」

 

 寝静まっている女子寮内では小さな物音一つでも驚く程響く。ポツリと呟いた一言が誰に聞こえるのか、刹那の言葉はひどく小さなものだった。

 一週間前から夜に悪夢に飛び起きる明日菜の為に刹那の独断やっていること。

 術者である刹那には中の声が聞こえていたので、あの様子ならば明日からは必要ないだろう。

 自分も部屋に帰って寝ようと、どこか落ちた肩とこの二週間で寝不足が染み付いた鈍い頭で考えて部屋の前から去ろうと踵を返した直後。

 

『ありがとうな、せっちゃん』

 

 ふと、そんな念話が刹那の脳裏に響いた。続く言葉は無い。だけど、それだけで何を伝えたかったのか十分に理解できた。

 刹那は木乃香が自分がいると分かった上で先程の会話をしていたのだ。だから敢えて言葉を返すことなく、部屋に頭を深く深く下げる。そしてさっきまでどこか落ちていた肩は普段通りに元に戻り、顔にも覇気を取り戻して部屋へと帰って行った。

 彼女もまた小さな一歩を踏み出した一人だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゆっくりと自身の意識が回復し、ベッドに寝かせられているのに気付いた少年――――アスカ・スプリングフィールドが閉じていた瞼を開くと白い光が目の奥に刺さった。

 悲しい夢を見ていた気がする。

 身体を起こそうとして頭を上げて、鈍い痛みが全身に走る。痛みに目をぐっと瞑り、思わず顔を顰めた。

 

「つぅ……」

 

 ぽとんと柔らかく清潔な枕に頭が落ちる。視界に映るのは白い部屋。ちょっと痛みを堪えて首を動かして周りを見る。

 白い壁、白い天井、白いカーテン、何もかも清潔そうで味気ない部屋だ。病室の一室らしい。

 大部屋ではなく個室だった。建物自体はそれほど新しくはない。小さな部屋にドアからもっとも遠い場所に置いてあるベッドに寝かされていた。

 

「あら、気がついたのね」

 

 左の方から女性の声が聞こえた。アスカは寝たまま視線を向けると二十代後半ぐらいの看護師らしき女性が立っていた。

 声をかけられたことで見ていた夢が手の中から砂のように零れて落ちていく。数瞬後には何の夢を見ていたのかすら忘れてしまった。

 寝起きだからか、考えが纏まらない。

 取りあえず知らない相手なのと、相手が年上で看護師っぽい服装だから経緯を払わなければならないと回らない思考が働く。

 

「ここは、病院か?」

「ええ、あなたは一週間も眠り続けたのよ。待っててね、ドクターを呼んでくるから」

 

 窓から見える青い空には高く日が昇り、爽やかな風が開いた窓から入ってカーテンを揺らす。太陽の高さから見て静かな昼下がりだった。

 

「あ、はい」

 

 目を覚ました時、偶々いた看護師がアスカに端的に状況を説明して、慌しく医者を呼びに病室を出て行った。

 

「一体どうなってる?」

 

 看護師の話を聞くと、運び込まれて一週間も寝続けていたらしい。

 目は覚めたが相変わらず頭は働いてくれず、自分がそんなに長期間寝ていた実感が湧かない。意識がなかったので食事を食べれず、腕に繋がれた栄養補給用の点滴が流れていくのを何となく眺めていると直ぐに看護師が連れて来た医者が病室に入って来た。

 やってきた医者はまだ若そうだが、やり手の人間が持つ出来るオーラを纏った白衣の男性である。

 

「やあ、調子はどうだい?」

「頭がぼうっとしてるだけで悪くはないです。痛みも殆どないし」

 

 やってきた医者はアスカを見て優しく話しかけた。

 体を起こしたアスカはあちこちに小さな疼痛はあるものの、大抵の肉体的な痛みは我慢できるので日常生活に問題はなさそうだった。

 グチャグチャになったはずの左手も若干の動き難さはあっても手の形をしていたので、思ったことをそのまま伝える。

 

「そうかい? どれどれ……」

 

 言いつつ、医者はアスカに触れることなく見えない物を見るように目を窄めた。

 アスカは微かな魔力を感じて反応しかけたが、近くにいた看護師に止められた。どうやら検査の一環らしく、彼らは普通の医者ではなく魔法関連の人物であったようだ。

 全身に走るこそばゆい感覚に落ち着かなくて、モゾモゾと動くと医者の隣にいた看護師に窘められる。

 やがてその感覚も消え去り、医者は眼鏡を外す様に息を吐いた。

 

「殆どの傷が治ってる。一週間かそこらで治るはずはないのだが、凄まじい生命力だ」

「はぁ」

「一週間起きなかったのは治癒に専念するためだったのか。むぅ、普通の人間に出来ることではない。解剖して調べたいみたいな」

「何を言ってるんですか、先生」

「ぐはっ!?」

 

 物騒な台詞が出たような気がしたが取りあえず傷が治っているなら良いことだと、当の医者が看護師にぶっ飛ばされて壁にめり込んでいるのを見て何も聞こえず見えなかったことにしておいた。

 

「げほっ、ごほっ…………大事を取ってもう二、三日入院しておいた方が良い。合法的な検査なら問題あるまい」

 

 ぶっ飛ばされることに慣れているのか、見る間に治癒魔法で自分を癒しながらめり込んだ壁から出て言う医者の対応に、今直ぐ退院した方が体の為に良さそうだとアスカが決断するのに一秒もかからなかった。

 医者と看護師が揃って退室してから窓から自主退院しようとしたアスカの目論見は、入れ替わるようにやってきたネカネによって頓挫した。

 

「アスカ!」

 

 アスカが布団を捲ろうとしたところで病室に入って来たネカネは、無事な姿に感極まったように涙を流してベットに駆け寄って来た。

 

「本当に……無事、で……良かった!」

 

 開口一番ネカネは、負った怪我を気にして比較的無事だった右手を握りながら、顔を俯かせて感極まったように涙声で無事を喜ぶ。それだけでアスカもネカネに多大な心配をかけていたことを悟り、申し訳なく思った。

 輝くような金髪が輝きを失い、頬もしっかりと食事を取っていないからかコケている。寝れていないのか、目元の隈も凄い。余程の心労を溜めていたのだろう。

 

「心配をかけてごめん。もう大丈夫だから」

 

 握られている手を握り返して言葉で大丈夫だということを伝える。泣くほどに心配を掛けたのかと申し訳ない気持ちと、そこまで思ってくれることに少し嬉しくも感じていた。

 暫くの間、ネカネが落ち着くまで部屋には、すすり泣く声やアスカの落ち着かせようと若干、慌てた声が響く。

 

「そっか、一週間も寝てたのか」

 

 実感もなさそうに呟くアスカに、ネカネは不器用に高畑からの見舞い品であるリンゴの皮をナイフで向きながら聞く。

 

「皆さんに後でお礼と謝罪をしないといけないわよ」

「え~」

「色んな所にご迷惑をかけたから当然です」

 

 面倒臭いことが大嫌いなアスカは良い顔をしないものの、ネカネとしては当然の話である。

 この病院や休学、教職の休職をさせてくれたりと色々と便宜を図ってくれた学園長や、見舞いに来てくれた高畑を始めとして多くの人に心配をかけているのだ。まだ退院の話は出ていなくても全員に頭を下げて回らないといけないと考えていた。

 

「あのステージを壊したのはヘルマンだって」

「そういう話じゃありません」

 

 困ったことに、ネカネが切ったリンゴを食べるアスカには人に心配をかけたことに対する自覚が薄いのだ。

 危険に首を突っ込みたがる癖に自分の安全を度外視していることが、少し怖いとネカネは感じていた。何時か、アスカが突っ走ったまま帰って来ないような気がして。

 

「明日菜ちゃん、アスカを心配して泣いていたわよ」

 

 言った瞬間、アスカの表情が凍った。

 固まったのではなく凍った。

 凍らせたまま、呟かれた言葉は表情と同じく冷たかった。

 

「関係ない」

 

 自分には関係ないのか、もっとの別の理由かは少ない言葉と表情からでは察することは出来なかった。

 それでも踏み込むべきは今だとネカネは決心する。

 

「せめて顔だけでも見せてあげて。無事だって安心させてあげないと可哀想よ」

「関係ないって言ってるだろ!」

 

 ドン、と叫びと共に叩かれたベットが軋む。

 あまりの力に振動する床と漂う暴力ヘの気配に心胆が冷えていたが引くわけにはいかない。これでもネカネは怒っているのだ。

 

「なんで関係ないの? 明日菜ちゃんはアスカのことを心配してるのよ」

 

 その言葉にアスカは苛立ちを瞳に滲ませながら鼻を鳴らした。

 

「心配なんかしてねぇよ。俺を怖がってるだけだ。ネカネ姉さんは何があったかを知らないから」

「なにがあったかは聞いてるわ。明日菜ちゃんがどういう反応もしたかも」

「なら……!」

「あなたは本当に明日菜ちゃんがその反応だけが全てだと本当に思ってるの?」

 

 ぐっ、とアスカが続きの言葉を言い淀んだ。

 言い過ぎだと、彼女らを遠ざけている自覚が本人にも十分にある証拠だ。

 

「あんなに仲が良かったのに、どうして急に遠ざけようとしたの? 明日菜ちゃんの能力が分かったからにしても突然すぎるわ」

 

 それがずっと疑問だったのだ。魔法無効化能力は確かに希少で、使い方によってはとても危険な力だ。遠ざけようとしたアスカ達の配慮も分かる。

 しかし、前のアスカであったならここまで関わってしまった以上は本人の意志を確認し、それでも関わり続けるというなら意地でも守ろうとしたはずだ。その変化の原因が分からない。

 

「俺が弱いからだ」

「弱い? アスカは十分に強いわ」

「いいや、修学旅行で良くわかった。エミリアを守れず、フェイトにも敵の誰にも俺一人じゃ勝てなかった。ヘルマンにもそうだ。ネギの手助けがなけりゃ負けてた」

 

 顔の前に掲げた両の拳を強く握ったアスカは、睨み付けているその先に敵がいるかのようだった。

 ネカネが聞いた話では、フェイトなる人物はエヴァンジェリンをして自分と同格を言わしめ、ヘルマンは上級悪魔の一柱。そのような相手と戦い、生き残っている時点でアスカの実力は十分に証明されていると感じる。

 

「俺は強くならなくちゃいけない。強くなくちゃ、誰も守れない」

 

 続いた言葉に違和感を感じた。

 ずっと長いこと薄らと感じていたそれに手を伸ばす。

 

「どうしてそこまで強くなることに拘るの? 弱くていいじゃない。守れなくてもいいじゃない。あなたはまだ子供だもの。守られてもいいのよ」

「それでも!」

 

 噛みつくように叫びかけたアスカは、今いる場所が病院であることを思い出したように続く声を呑み込んだ。

 落ち着くように長く息を吐いて、布団に包まれた自分の膝を見下ろした。

 

「俺は、弱い俺を許せない」

 

 ポツリと呟かれた続きは言葉少ない。

 

「あの背中を覚えてる。もう駄目だと思って、諦めかけた時に現れた強い背中を」 

 

 ナギのことを言っているのだと直感した。

 

「親父みたいに強ければ、みんなを守れる。誰も傷つかなった。強ければ、あの時も誰もいなくならなかったはずなんだ」

「あの時のアスカは今よりももっと小さかったのよ。そんなことは不可能'よ」

「分かってるよ、そんなことは。それでも俺は」

 

 アスカは六年前のことを忘れていない。それどころか過去に囚われていた。

 

(ナギさん……英雄として、魔法使いとしての貴方には尊敬します。でも、親としての貴方には軽蔑します)

 

 彼らさえいればアスカだけではなく、ネギだってここまで苦しむことは無かった。

 英雄として魔法使いとしてのナギに、魔法学校に通う未熟な魔法使いの身としては素直に尊敬の念を抱く。

 きっと傍にいられなかったのも命を賭けるに値するだけの何かがあったのだろう。だが、二人の従姉として、姉としては軽蔑する。どんな理由があっても、どれだけ大切なことがあったとしても正しいことがあるはずがない。

 

(どうしてあんなタイミングで現れたんですか? もっと早く現れてくれれば、アスカ達はここまで苦しまずにすんだのに)

 

 後少しで命を奪われる瞬間の鮮烈過ぎる登場で、兄弟はその背中以外を見れなくなった。

 ネギはまだいい。少しでもナギと話をすることが出来たのだ。だが、アスカはそれすらも出来なかった。覚えているのは、悪魔を一蹴する強者の背中だけ。

 二人はまだ子供だ。その背中を求めぬはずがない。相手が父親であるなら当然のように。

 六年前に囚われたまま、逃れるように父の背中を目指している。

 父を探し、その背中を追い続ける選択をしたのは本人たちかもしれない。その所為で、二人は自分の夢を持てなくなってしまった。父のような偉大な魔法使いになりたい、父のように強くなりたい、なんて命を賭けてまで望んでる時点で、ただの子供でなくなってしまった。

 

「俺じゃ、明日菜を守れない。怖いんだ。何時か明日菜を、みんなを巻き込むんじゃないかって、叔父さん達のようになるんじゃないかって、怖いんだ」

 

 後悔、不快感、不満、嫉妬、劣等感、怨み、苦しみ、悲しみ、切なさ、怒り、諦め、絶望、憎悪、空虚、と有りと有らゆる感情がアスカの顔に浮かんでは消え、一時たりとも留まることなく変化し続けた。ネカネはアスカが六年間の間に抱えていた重い想いを垣間見た気がした。

 

「それでも、この手は私をみんなを守ってくれたわ。私達は今のアスカが好きよ」

 

 ネカネは腕を伸ばして、膝の上に置かれてきつく握られたアスカの手に触れた。

 この六年、アスカは先頭に立ってずっと進み続けて来た。ネギもアーニャは、その背中を追っていたに過ぎない。ただ前だけを見て、道なき道を踏破してきたアスカの苦しみをネカネは知らなかった。

 ネカネに出来ることは、傷と疲れを癒し労わることだけ。ずっと前から、飛ぶことに疲れたアスカの宿り木になると決めたのだから。

 

「――――ありがとう。守ってくれてありがとう、アスカ」

 

 握り締める。その手を力の限りに握る。

 逃さぬように、私は此処にいるよと、一人じゃないのだと教えるように、その程度では決してアスカが止まらないことは分かっていても強く強く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同時刻、明日菜の耳は轟々と流れていく風の音だけを捉えていた。

 

「確かにエヴァちゃんに鍛えてほしいって言ったのは私だけど――」

 

 吹雪が全てを暗く覆っていた。あちこちでささくれ立ち、列断面を荒々しく地面が隆起させているが、それを除けばどこまでも雪に覆われた地面が続き、その光景は人知を超えた世界だった。

 

「――――冬山はないでしょうにヒマラヤってどこよっていうか寒い!?」

 

 薄曇りの空だが、どこまでも銀世界が続いていることが分かる。風は肌が切れそうなほど冷たく、微細な雪の結晶が空気の中に詰まっているのではないかと思うほどだ。口を開けて呼吸をすると喉の奥まで凍ってしまいそうな気がする。

 

「こんな中で死ぬなって無理でしょあのロリババアはっていうか痛い!?」

 

 吹雪が神楽坂明日菜の身体を冷やしていく。横殴りの風に乗って運ばれる雪が彼女の髪を濡らす。

 雹風に身体をギリギリと苛まれ、服なんてあってないようなものでガタガタと全身が震える。

 

「誰がロリババアだ、あん?」

 

 自然の猛威の前には屈することしか出来ない無様な人を空中から見下ろすエヴァンジェリンの眉間にはっきりと浮かぶ青筋。

 明日菜の口から滑り落ちた「ロリババア」発言にお冠のようだ。

 

「む? まあ、いい」

 

 しかし、当の明日菜はそれどころではなく身を縮めて寒さを凌ごうとしていて、その姿を見れば溜飲が下がったようだった。

 

「私に鍛えてほしいなら貴様の意志を示して見せろ。手っ取り早く、死ななければそれで良しにしてやる。最も今のままでは三十分も持たないだろうがな」

 

 仮契約カードを失った明日菜がこんな極寒に生身でいれば程なく凍死する。それを分かった上でエヴァンジェリンは告げる。

 

「どうする? ここで止めるのも一つの手だが…………ふん、一丁前に意志だけは固いか」

 

 地上から意地でも引かぬと瞳が物語っているのを見届け、ポケットから小さな鐘を取り出して明日菜に向かって投げた。

 

「その鐘を鳴らせば助けに来てやる。但しそこで今までの話は全てナシだ。今後、一切私に頼るな」

「やるわよ、やってやるわよ!!」

「その心意気だ」

 

 そう言って笑い、エヴァンジェリンは遠ざかっていく。

 明日菜はその姿を見送ることなく、直ぐ近くに落ちた鐘を見た。

 これを鳴らせば助けてもらえる。だが、明日菜はその選択を選ぶわけにはいかない。

 

「やってやるわよ」

 

 もう涙も流しつくした。明日菜は何も掴まなかった指を、ジッと眺めた。

 何が正しいかも分からず、ぽつりと落ちた自分の影を眺める。

 

「やってやるわよ!!」

 

 失う物は何もないのだ。怖気づきそうな気持ちを叫びで吹き飛ばして歩き出した。

 せめて吹雪を避けなければ三十分も持ちそうになかったから、今の明日菜の心の行き先のように目的地も決めずに進むことしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神楽坂明日菜には夢も希望もない、なんてそんなことを言うとネガティブな人と思われるがこの場合、夢と希望の意味が違う。

 明日菜は基本的に楽天家だし、毎日がそこそこ楽しければそれでいいという性格をしている。強烈に何かが欲しいとか、素晴らしい理想があるだとか、そういうことが全くないのだ。

 周囲に特別なものを求めていたりはしなかった。毎日、それとなく学校へ行って、くだらないことを友達とお喋りして、そんな日々が胸を張って幸せだと断言できた。

 友人と毎日顔をつき合わせて適当に騒いで、何の目的も意味もなく、とりとめもなく過ぎていく日々が何よりも好きだった。

 早く保護者の高畑の庇護から抜け出して独り立ちをして、世話になった人達に恩返しがしたい。将来の夢といえば他人が聞いて微笑ましいその程度のものしかない。

 他人から見ればちっぽけな夢と希望でも、これまでは適当に生きてければそれなりに満足できた。

 だからそんな日々が何時までも続けばいいと思った。

 永遠に続くなんて、もちろん思っていない。ただ、中学にいる間ぐらいはそんな関係が続けばいいと心の中で願っていた。

 そして何時かは離れ離れになっても、何年かに一回くらいは偶に顔を合わせて、昔が懐かしいなんて思い出話にふけるような、そんな関係を続けていければ他に望むものなんて何もない。

 失われて初めてその大切さが分かると言うが本当だ。平和な日常が掛け替えのないものなのだと、明日菜は改めて思い知る。

 明日も今日も同じく東から太陽が昇り、自分も朝になったら目を覚ます――――――――そんな当たり前は実は確実なものであるという保証などどこにもないのだ。だが、現代の日本を生きる大多数の人間がなんの確証もなく、そんな明日が来るということを疑いもせずに生きている。なんとも平和で呑気な話だ。

 何時も傍にあるものは、永遠にそこにあるわけではない。そんなことは分かっていたつもりだ。でも、実際にいなくなって初めて失ったものの存在をはっきり感じることが出来るのであった。

 明日菜もまたそんな明日を信じていた身だ。だが、修学旅行、ヘルマンの襲撃、アスカからの否定を通して同じ明日を信じることは出来なくなった。変わらぬ日々が続いてほしいという明日菜の願いは叶わなかった。

 明日菜を取り巻く環境は否応なく変化している。ならば、彼女自身も変わらねばならない。周囲が停滞を赦さない以上、彼女自身が動かなければならない。

 

「はぁ……」

 

 なのに、今は雹風に塗れてもう一歩も動けない。

 ただの人でしかない明日菜が極寒の冬山にいること自体が土台無理な話だったのだ。希少な能力を持っていようが自然の猛威には何の役にも立たない。

 眠くて仕方がない。こんな氷原の中で眠ってはいけないと思っても睡魔が襲ってくる。抗えず、どんどん体の上に雪が積もっていく中で瞼を閉じた。

 

「……ぁ」

 

 全身を包む光を、感情を感じさせない目で明日菜はただ見ていた。意識が消えるような錯覚と共に遠い夢を幻視する。

 暗いトンネルをくぐり抜けるように閉ざされてしまっていた本人も知らない過去の記憶。

 朝焼けのなか、まだ幼い明日菜は港の埠頭に腰をかけていた。

 遠くには、エキゾチックな街並に囲まれた丸屋根の荘厳な建築物が見える。 港に停泊する船舶の多さを見ても、なかなか隆盛している街であることが窺い知れる。

 しかし、明日菜にはその街に関する記憶はない。どこか分からないし、行った記憶もない。そもそも……………。

 

『いいか? 左腕に魔力! 右腕に気……』

『左腕に魔力、右腕に……うわっ』

 聞こえてきた二人の男性の声に幼いアスナが振り返る。

 現在の明日菜好みの背広姿で低い声をした渋いおじさんに相対するのは、Yシャツにネクタイといった出で立ちの今よりずっと若いというか青臭さが抜けていないタカミチ。

 渋い男性の動作を真似するように胸の前に持ち上げていたタカミチの両手のひらの間から、火花が飛び散って集まっていた光が消失する。

 

『駄目だ駄目だ。いいか、タカミチ。自分を無にしろ。そんな調子じゃ習得するまでに後五年はかかるぞ』

『は、はい』

 

 名も知らぬ咥え煙草の男性の駄目出しにしょげるタカミチの姿など今からは想像も出来ない。

 明日菜の記憶に残るのは煙草を吸い、泰然自若として揺るがない姿ばかりだった。この映像の中だけで言うなら、髭といい、煙草といい、壮年の男性の方が今の高畑に似ている。

 いや、この映像が過去の出来事だとするならば高畑こそが壮年の男性に似ているのだろうか、と疑問が積み重なる。

 

『よぉ♪ 姫様は今日も元気か?』

 

 そこへ投げ掛けられた聞き覚えがないのにどこか懐かしいと感じる若い男の声。

 その声の主を今の明日菜は知らないが、彼こそネギとアスカの父にして巷ではサウザンドマスターと呼ばれた男――――ナギ・スプリングフィールドである。

 若かりし頃の木乃香の父親である近衛詠春と、ナギに良く似た白いローブ姿で男にしては長い髪を垂らす澄まし顔の男性の二人が、ナギの両側を固めている。

 

『あっ、ナギさん、皆さん、おはようございます!!』

『バーカ、タカミチ、さん付けはやめろっつってんだろ、ナギでいーっての』

 

 慌てて立ち上がり挨拶するタカミチに、ナギは呆れたような半笑いで答える。

 ナギ達三人がやって来るに伴い、集まってきた仲間たちを見て時間的に頃合かと修行を終わらせ「飯にすっか」と腰を上げる渋い男性。

 

『何やってたんだ』

『あ、いえっ、ガトウさんに少し修行を……』

 

 タカミチがナギの質問に答えている間、手持ち無沙汰の幼いアスナは、渋い男性――――ガトウやタカミチの真似をしてみる。特に何も考えず、ただ暇だったからという理由で。

 

『左腕に魔力………右腕に気…………』

『おおっ!?』

 

 幼いアスナの両手の間に光が生まれ、タカミチのように無様に四散することなく、渦巻いて固定された。

 

『……!?』

『はっはっは、抜かれたな、タカミチ君』

 

 それを見て驚きのあまり言葉すら発することも忘れてしまったように固まってしまっているタカミチの肩を、詠春が軽く叩いて愉快そうに言う。

 

『スゲースゲー、さすが姫様』

 

 珍しいものを見てはしゃぐ子供のように、ナギも感嘆していた。

 

『これなら将来、良い魔法使いの従者になれますね』

『ハハハ、嬢ちゃん。おじさんのパートナーになるかい?』

 

 ローブの男性が幼いアスナがしたことに驚きながらもその資質を見越し、その発言に乗っかったガトウが冗談めいた口調で問いかける。

 

『…………ナギでいい』

 

 問いかけに対して幼いアスナは今と違って感情の薄い目をしたまま否定するように首を横に振る。一同を品定めするように見渡して、ナギで止まった途端にそんな爆弾染みた発言を投下した。

 

『げ……』

『お……?』

 

 アスナの意外な発言にガトウとナギの声が同時に上がり、アスナの発言がツボに嵌ったフードの男性が顔を背けて笑っていた。

 

『いーぜ、いーぜ! アスナ、幾らでもおしめが取れたらな!!』

『なんであんたはそんな全方位にモテモテなんだ!』

『やっぱおっさんはダメか――――!』

『ククク』

『おしめしてない……』

『アスナちゃん、タバコ嫌いなんですよ師匠』

 

 ナギの破顔と共に爆笑が巻き起こり、詠春の嫉妬、ガトウの中年故の慟哭、ローブの男性の含み笑い、アスナの的外れな反論、タカミチのアスナがガトウをパートナーに選ばなかった理由を言ったりと確かな幸福な光景が展開されていた。

 明日菜の視界が白光で覆われた。 我を取り戻した時には、現在の14歳の肉体。

 だが、垣間見た記憶のように胸の前で手の平を向かい合わせていた両手の間には明日菜の身体に力を染み渡らせるような凄まじい力が循環していた。現実に意識を戻した光は、今、両手の間に生じているエネルギーの光だったのである。

 知らない記憶、知らない力、知らない過去。ハッキリと認識出来てたのはそこまでだ。鍵はまだ開いていない。存在しえない記憶は壁の向こうに追いやられ、疼きだけが心に残る。

 寒さを感じなくなって開かれた瞼の先では、変わらず雹風が吹き荒んでいる。

 

「これは……」

 

 立ち上がり、全身に薄く立ち上がるオーラのようなものを見る。

 

「私はこれを、咸卦法を知ってる?」

 

 足元からむず痒いような痺れが這い上がってくる。決して、寒さからくる凍傷の所為だけではない。

 ここに居てはいけないと急かされるように歩き出した。

 項垂れた顔が見ているのは、変わり映えのしない雪の地面ではなく落ちている自分の影である。自分の足がどこへ向いているのかすら分かっていなかった。

 早くどこかへ行かなければ。でも、どこへ行ったらいいのか分からずに彷徨い続ける。

 肉体をきつく縛り上げられたようで、ただ心だけが、ここ以外のどこかへ、どこでもいいから必死に駆け出そうとしている。そんな不安、居心地の悪さ。

 

「何これ。何か、すっごいバカっぽい」

 

 口の端が、勝手に笑み歪む。自分は何をしているのだろうか、気張って足掻いて何が出来たのだろうか。

 

「……………何で、こんなことになっちゃったんだろ……………」

 

 心から込み上げた疑念のままに、明日菜は空を仰ぐ。

 何時の間にか見覚えのない場所にまで辿り着いてた。雪で歩きづらいと言いながら、実際には随分と早足で抜けてきたようだ。ノロノロと歩き続けながらも、時間や距離の感覚がぼやけるほどに呆然としすぎていたのか。

 どうにか切り抜けなければ命すら危ういのでうんざりしながらも、明日菜は足掻きを再開した。

 

「こんなところにまで来て、こんな終わり方なんて………」

 

 どれだけ明日菜が頑張っても、血を吐くほどに努力してもアスカ・スプリングフィールドは喜ばない。それでも、明日菜は何かがしたいと思う。抱えているものを、少しでも軽くするために。

 神楽坂明日菜には詳しい事情なんて掴めない。何一つ聞かされていないのだから判断など出来る筈がない。

 アスカは人との距離に敏感なのだ。無理やり腕を掴んでしまえば振り解くようなことはしないだろうけれど、そうでなければさりげなく最適の距離を取ろうとする。

 

「どうして――」

 

 無謀をする気力が足りないことか、このような状況を打破できる器用さが足りないことか、或いはなんでもいいから都合の良い奇跡が足りないことか。

 次々と呪ってから、明日菜は歩を進める。

 朦朧とした意識のままで歩き続けると、頭に閃くものがあった。

 

―――――叫んでも無意味だ

―――――既にもう遅い

―――――ここから出たとしてどうするのか

―――――どのみち、会ってどうするつもりなのか

―――――着いて行きたいのか?

 

 はたと思いついてぴたりと動きを止める。一番肝心なことを考えていなかった。

 

(謝りたいとは思っていたけど、その先は?)

 

 両足を膝まで雪に覆われながら目をパチクリして、面食らったような心地だった。

 喉元に刃物でも突きつけられたように、動けなくなる。実際に体力を消耗して身動き取れず、足掻くための動機すら実は曖昧だった。

 時間もない。じわじわと思い出す。重苦しい寒気がある。

 

(着いて行きたいの? 一緒に)

 

 なんとはなしに、首を逸らす。

 視線を上げた先に今の自分の心境とは裏腹に、何時の間にか吹雪も止んでいて雲一つない青空が広がっていた。

 

(分からないんじゃない。怖いんだ)

 

 幾ら頭で考えたって駄目だ―――――どうせ答えなんて出やしない。考える振りをするのは詭弁と同じだ。まずは認めなければ進めない。

 拒絶が怖いだけだ。会おうとすればまた拒絶されるかもしれないから。

 祈りを込めて、負けないように、想いを抱きしめるように胸に両手を当てて、空を見上げていた目をそっと閉じて、裡に想いを馳せる。

 恐怖と正反対の気持ちを呼び起こす。きっと今この時も厳しい眼差しで敵を見据えて、ただ一人で戦おうするアスカの大きくなった広い背中。

 

「そうか」

 

 明日菜は自分がいつも叫んでばかりいたことに気付いた。

 見ているばかりだった。

 誰かに、きっと上手くいく方法を教えてもらって、正しいと思うところを指し示してもらわないと歩けない。

 気づくと自分は何時も誰かを見送る立場。

 期待するばかりで、祈って、願って、信じるだけ。動いても誰かの指し示した道を通るだけ。

 アスカにも、ただ自分のエゴで離れてほしくないと期待した。

 想っていれば上手くいくのだと、虫のいいことだけを考えていた。何故、何時もそうなのだろう。立ち止まって、何もしないで、声だけを上げて叫んだりするだけ。

 違う。それだけなら誰にでも出来る。自分には自分にしか出来ないことがある。

 

「そうか」

 

 また繰り返して、目を見開く。

 明日菜は呟いて口の端に苦い塩味を感じた―――――自覚せず、思い至った事実に泣いていたらしい。

 

「分からなかったのは、これだったんだ」

 

 少女は自分の気持ちを、その想いがヒトのなんという感情に値するかを理解していた。強く激しく狂おしく求める剥き出しの願望、ささやかな願い、何を犠牲にしても惜しくない程の剥き出しの欲望だった。

 あった。ずっとアスカと一緒にいたいという気持ちは、確かにこの胸にあった。今溢れ出す涙の温かさが、息も出来ないほどの歓喜がその証だ。

 失くしてなんかいなかった。また傷つけられることに怯えて、ずっと目を背けていただけ。それをやっと認めることが出来た。現実を見るべきだと、考えれば分かるはずだった―――――が、怖くて出来なかったのだ。

 

「ずっと目を背けて、ずっと見ない振りをして、一体何をしてきたのかしら」

 

 その答えに辿り着いた瞬間、明日菜の心は今までにないほど晴れ渡っていた。

 そう考えれば、あの態度も納得がいった。捨てられたんじゃない。蚊帳の外に――――いや、中に置かれたのだ。自分は外に戦いに向かっておきながら。

 答えに行き着くと無性に腹が立った。こんな大事なことに、中心人物である自分を輪の内側に隠して何とかしようだなんて。そんな優しさは――――馬鹿にしている。アスカが誰の目にも届かない場所で、孤独に終わってゆくことなど、明日菜には耐えられなかった。

 

「本当に私は馬鹿だよね」

 

 理屈はどうでもいい。

 

「会いたい。一緒にいたいよ」

 

 泣き笑いみたいな声で言いながら、手で顔を覆った。

 時には思いっきり泣くのもいいけれど、哀しみを涙に混ぜて全部捨てて、泣き終わったら歩き出すべきだ。

 泣いて、泣いて、何かが変わるのをずっと待っていても無意味で、涙と一緒に大切なものまで流して失ってしまう。

 それも少しの間だけだった。

 覆っていた手を下ろすと、露わになったオッドアイの瞳は嘗てない決意に満ちていた。

 

「……行か、ないと……」

 

 ぎゅ、と拳を握る。

 アスカは勘違いしている。どんな理由で守られているのだとしても、彼女はそこに埋没できないのだ。

 そこを抜け出せないと胸の高まりは何時も萎れてしまう。だから、勝ち取らねばならなかった。

 心配させているだけのただの我が儘だ。それでも多分間違っている一途さで、胸に手を当てて覚悟を決める。

 この気持ちを、どう受け止めるのだとしても。

 

「答えは出たか?」

 

 何時の間にか、背後にエヴァンジェリンが立っていた。

 明日菜は振り返り無言で首肯した後、僅かな怪訝な表情を作った。エヴァンジェリンの顔が真剣さを凝固させたように強張り、何かを訴えかけるようにな眼差しを明日菜に向けていたからだ。

 明日菜は次に続くエヴァンジェリンの言葉を待ち、そして彼女が口を開いた。

 

「何故、アイツに会いたい?」

 

 言いたいのはそんなことではない。だが、想いを形にして言葉にすることが出来ない。他に問いたいことはいくらでも出てくるが、どれ一つ形にはならず、結局、無難なことしか聞けなかった。

 

「何故って?」

 

 続く言葉が出なかった。意外な質問というのじゃなくて、本当に意味が分からなかったのだ。

 

「アイツはお前を拒絶した。また追いかけたところで結果は変わるまい」

 

 それはエヴァンジェリンに言われるまでもなく、明日菜も分かっていた。ふとした疑問であっても容赦なく心を抉る質問に明日菜は、睨むほど強くでもなく、相手を見やった。

 

「本心ではエヴァちゃんも追いかけたいんでしょ? 私と同じじゃない」

 

 帰ってきた言葉とは裏腹に明日菜の瞳には強い意志が見て取れた。とても当てもなく彷徨う旅人のような行動に出ようとしている瞳の輝きではない。一世一代の行動に出るために決意を固めた覚悟のような意志の光が分かる。

 言い返してきた言葉に、エヴァンジェリンは首を横に振る。

 

「そうだな。あいつと一緒に行けば退屈せずにすむだろう。だが、私には出来んさ。前よりかはマシといっても麻帆良に縛られていることに変わりない」

 

 アスカの後を追っていけば戦いの道を進んだとしても絆を育み、もしかしたらナギではなくアスカを求める日が来たかもしれない。だけど、自分が変わることが怖くて彼女はここに残ることを選んだ。

 

(そんなことは……)

 

 明日菜は、声に出さずに呟いた。この問題に関しては赤の他人に過ぎない彼女に分かるわけがないし、言えるはずもない。

 実際に、彼女の中で追いかける明確な理由があるわけでもなく、自身とエヴァンジェリンに違いがあるのかどうか―――――本当に殆ど違わないことだって、やはりあるのだろうから。

 惹かれていたのは確かなのに、その惹かれた心をどう表現したらいいのか、まるで見当もつかなかったのだ。

 だが、エヴァンジェリンの問いは、まだ明日菜の小さな針をぶれさせて存在を確認させる力があった。

 

(どうして…………私はアスカのどこに惹かれたんだろう)

 

 明日菜は考える。感情の理由を探るという、ひょっとしたら意味のないことを一生懸命にやる。

 

「ああ……」

 

 やがて答えに至って勝手に声が漏れた。

 

「だからよ」

「ぬ?」

 

 自分にしか聞こえないようにボソリと呟く。といってもエヴァンジェリンの耳には聞こえたようで困惑の色を示した。放った言葉には、思った以上の意味がある―――――自分の口から出た声音に、そんなことを意識した。

 そこまで思い至った時、明日菜は不思議な感覚を覚えた。

 きゅん、と小さな針で胸を突かれたような―――――痛いというよりも切ない。そしてちょっとだけ甘やかな感覚。

 初めて知る、とても不思議な感覚だった。胸の動機が止まらない。トクトクと高鳴っている。

 

(………………そう、なんだ)

 

 知らず知らずの内に、彼女は自分の胸に手を当てていた。

 端的に表現するアスカは馬鹿だ。他人の為に命を賭けて、いない人を探して人生を浪費している。

 アスカは優しい。困った人を見ると放っておけない。自分の身の安全も考えずに飛び出して助けようとする。要するに見た目通りに子供だったのだ。悪意を知らない子供のまま大人になってしまったかのようだった。

 誰かが泣いていたら、助けずにはいられない人。誰かが泣きそうになっていたら、それもやっぱり助けずにはいられない人。そしてその度に傷だらけになって、それでもやっぱり助けられて良かったと笑う人なのだ。

 見返りが欲しかったわけじゃない。誰かに評価してほしいとか、対価を受け取りたいとか、そんなつもりは全然ない。彼が人を助ける理由は自らの中にあったのだから。

 余人にはアスカの行動を理解することは不可能である。あらゆる人間は自らの為に行動する中で、平気で他人の為に死地に飛び込む。

 人によっては自殺願望があるのかと思う。だからといってアスカは自らを止めようとはしないだろう。

 身近に助けられる命があるかもしれないのに、指を咥えて眺めていられるほどお利口さんにはなれない。

 全世界でどれだけの命がたった今、危険に晒されていてその全てを救えると驕っているわけでもない。個人に出来ることは少ない。手も伸ばせるところまでしか届かない。

 でもアスカは精一杯手を伸ばして誰かを助けられたら、死にそうな目にあっても命一つを守れただけで良かったと笑うのだ。

 

(そうなんだ、私は――――)

 

 神楽坂明日菜という一人の少女は気付いた。今日、この日、この時、この瞬間、自分の内側にはこんなにも軽々と体裁を打ち破るほどの莫大な感情が眠っていることを。

 胸の裡で渦巻く不透明な感情の渦から浮かび上がってきたのは、その想いだった。

 

(――――――アスカのことが好きなんだ)

 

 気づいたら好きだった。失った時に、初めて好きだということに気付いた。

 好きになった理由は判らない。自分のことを助けてくれるからとか、そんな理由で好きになったんじゃない。

 泣いている誰かを見捨てられない。自分が傷つくことなんかよりも、誰かを助けられたという事実のことの方を大切にしている。その誰かを見捨てないでいられたこと、助けられる自分がいられたこと、そんなことを喜んでいる。そんな人だから好きになった。

 本当に自分でも信じられない。信じられないけど、どうやら認めなくてはいけないようだ。神楽坂明日菜は、あのアスカ・スプリングフィールドに好意を持ってしまっている。

 感情はどこからやってくるのか説明など出来ないし、理由を付けた途端に陳腐な嘘になる。未熟な言葉は、人の想いを綴るには小奇麗で、露骨で、断定的で、不自由すぎた。これが分からないままなら、どんなつもりでいようと、自分はアスカを追ったとしても途中で挫折していただろう。

 どうしようもなくアスカの傍に行きたい。

 雨の日のあの瞳の色は、どこか思い詰めているような輝きだったが、ただ思い詰めているのというのは違っていた。そのアスカの辛さのようなものが感じられた。明日菜の感じすぎではない。

 アスカの傍に行かなければと心が叫びを上げる。

 それが、倫理や理性や体面や世間体や恥や外聞までもが関係ない、ただただ自分自身を中心に据え置いた一つの意見こそが、まさしく神楽坂明日菜という人間の核なのだと。惨めで醜く我侭で駄々をこね―――――それでいてどこまでも素直な剥き出しの『人間』なのだと。

 

(きっと色んなことが変わっていく―――――私だけじゃなく、みんな)

 

 胸を押さえた明日菜はそれを感じていた。

 変化と戦い、かつ拒絶しないこと。それが自分たちを傷つけることを恐れて離れてしまったアスカに教えなかればならないことだったのだから。

 

「?」

 

 言葉の複雑さに、エヴァンジェリンが困惑するのが見て取れる。

 それを手助けも後押しもせず、突き放す心地で続ける。

 

「アスカもそう思っているかもしれないから、会いに行くの」

 

 明日菜は自らに言い聞かせるように、ゆっくりと言った。

 目の前の彼女がどう反応するのかなど気にしない。突き放すというのはそういうことだ。

 

「今までどうしてアスカが私達を拒絶したのか、ずっと考えてた」

 

 呟くと、エヴァンジェリンが僅かに顔を顰めるのが見えた。失望の色だ。彼女は話が逸れたと感じたのだろう。だが、明日菜は構わずに続ける。

 

「事情は大体だけど分かってる。でも、それがなくても私たちを置いて行ったでしょうね」

 

 思い返せば、アスカは何時だって周りと一線を引いていた。

 本当に大事な一線には身内以外誰も立ち入らせようとしなかった。そんなことは、ただの明日菜の思い込みかもしれない。

 目に見えない小さな溝。他者との間にある些細な違和感。

 

「そりゃ、止めようとして盛大に拒絶されたわよ。でも、どれだけ先送りにしても何時か似たような展開になったと思う」

 

 あの日の別れの情景を思い出して、言葉が途切れる。

 彼と自分たちの関係の全てが終わった日であり、違うものが始まった日でもある。無意識の内に拳を握り締めて明日菜は続けた。

 

「自分は―――――皆と違う自分が私たちを傷つけてしまうから一緒にいられないって思ってる。私には―――――そのことだけは、アスカの間違いだって言える。だって、私だって傷つけたんだから」

 

 明日菜の拒絶に耐えて、堪えて、揺れて、きっと辛かっただろう、傷ついただろう。それでも決意して明日菜の手を振り払った。静止に声にただの一度も振り返られなかった。

 

「殴ってでも理解させないといけないの。それが私がアスカを追いかける理由」

 

 少女の言葉には、何かを吐き出すような、どこか誇らしげな響きがあった。それが男というものの背中を追う恋する乙女だけが持つ強さなのだ。

 

「そりゃあ、足手まといだって分かる。でも、私だって手伝えることがあるでしょ」

 

 やっと、これだけ悩み続けてきたのか分かった。

 放っておけないからだ。強くて、凛として、とても怪我なんてしそうにないのに、アスカは何時だって砕けてしまいそうな危うさがあった。それが放っておけない。気になって仕方がない。だからどうしても追いかけたい。

 

「私はアスカに関わりたい。あんな別れで、いなくなられるのは嫌。会いたい。謝りたい。このままじゃ駄目なのよ」

 

 このまま全てを過去にしてしまうわけにはいかない。絶対に追わなければならない。何よりも詫びなければならない。

 悔しい。悲しいとか寂しいとか、そんなのじゃなくて悔しいのだ。腹が立って収まらなくなった。過去を恐ろしいと思わないはずもないけれど、深く心の底から理解できるはずもないのだけれど、それでも近くにいたいと思ったから。

 

「追いたい。行かないといけないの。もし傷ついているなら助けたい。それだけで私には十分な理由」

 

 言い切った。

 眼を閉じてその時のことを思い出して、素直な気持ちを口にして強く握り締めた拳から力を抜く。

 もはや誰と話していたかも、一瞬、忘れかけていた。

 声にも力が入りすぎていたかもしれない。少々ばつが悪くなって、エヴァンジェリンを見やる。だが、彼女もまた話など忘れているかのようにぼんやりと遠くを見つめていた。

 彼女がここにはいないアスカのことを考えているのは、想像できた。

 

「信じているんだな、アスカのことを」

 

 長い、沈黙とも思われる時間が過ぎてからエヴァンジェリンが重い口を開いた。

 

「伊達に好きになったわけじゃないわよ」

 

 真っ直ぐに、てらいなく少女は言う。

 気恥ずかしくなるぐらい純潔な言葉は、それだけで一つの力だ。エヴァンジェリンは息を止め、明日菜を正面から見やった。オッドアイの幻想的な瞳が、底に澄んだ光を湛えていた。

 

「そうか、そうだな」

 

 エヴァンジェリンは本当に久しぶりに力みの抜けた笑みを漏らした。

 気がつくと常識外れな真似を仕出かしているナギやアスカに惚れた女同士、どこか通じ合えるものがあった。 

 見上げた空は高く高く澄み渡り、目が覚めるような蒼穹の空。アスカの瞳の色。

 聞きたいこと、話したいことが沢山ある。落ち着いて向き合う時間を手に入れるために、いまはやれることを全部やってみせる。空を見上げた明日菜にはその思いが腹の底に固まっていた。

 




まずは明日菜のターン。持つべきは友人であり親友だよねというお話。

書いていて恥ずかしくなる今日この頃。

次回

「世界樹の下で」


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第37話 世界樹の下で

 

 イギリスのウェールズにある自然に囲まれた町から少し離れ、メルディアナ魔法学校を一望できる一際木に一人の老人――――スタンがやってきた。

 

「ここまで来るだけでも一苦労じゃの。年は取りたくないものじゃ」

 

 荒れた息と負担が大きい足に苦笑して木の根に座り込んで幹に体を預ける。

 上げた視線の先は雄大な自然には向けられていない。

 なにも自然を見るのに飽きたというわけではなかった。スタンにとっても、この清々しい空気の中で過ごすことは愛し子達がこの地を離れてからの数少ない楽しみであったが、今は単純に自然の中で過ごすよりも優先することがあったためである。

 優先事項は懐より取り出した一通の手紙――――――――久しぶりに届いたアンナ・ユーリエウナ・ココロウァからのエアメールにあった。

 

『スタンお爺ちゃん、お久しぶりです。ごめんね、前回から間が空いてしまって』

 

 この手紙は、魔法によって形成された一種のビデオレターのようなものだ。

 専用の道具にビデオを取るように自らの姿を映して録画すると、紙がビデオデッキのような役割を果たしてくれる魔法使いの世界では普通に普及している道具であった。

 魔力が無くても使えて便利ではあるが、最近では科学技術が発達して何時かは無用の長物になるのではないかと製造元は怯えているという噂もある。

 

『ちょっと面倒事があって………………なにから話せばいいかな』

 

 浮かび上がったアーニャの幻影は困ったように微笑んでいる。

 双子と違って然したる才もなく、コンプレックスを抱えていた優しい子が話すのを見つめる。

 

『最近は色々あったから、ちょっと余裕がなくて手紙を送れなくてごめんね』

 

 手紙からホログラムのように映し出されているアーニャが困ったように苦笑いし、また頭を下げて謝る。

 

「なになに、手紙どころか連絡一つ寄越さん双子に比べれば雲泥の差じゃよ」

 

 人に迷惑をかけても殆ど気にしないスプリングフィールド兄弟に比べれば、遅れようとも定期的に手紙を送ってくれるアーニャの方が百倍マシなのだ。

 スタンにとってみれば子供達は本当の孫のように大切に思っている。こうやって直接会えなくても連絡が取れるだけでも自然と笑みがこぼれるのは当然だろう。

 新しい環境に慣れるのは大変そうだが楽しそうな生活を送っているようで安心していた――――はずだったのに。

 

『五月の中旬ぐらいにアスカが悪魔と戦って大怪我をしました。学園側の治癒術士さんのお蔭で一週間で退院しちゃったけど』

「アスカめ、また無理しおったな。しかも、アーニャの言い方からして周りに心配をかけまいとして勝手に退院しおったか」

 

 シーンが変わり、ジャングルで黒髪の少年と闘っているアスカの姿に深い深い溜息を吐く。

 怪我人の自覚が足りないのではなく、心配性で過保護なところがあるネカネを心配させないためだろう。怪我したこと自体を聞いていないスタンとしては、こうやって秘密にされている方が心配するのだと分からないのだ。

 アスカは何時だって心配される方の人間だ。知らないところで大変な目にあって、怪我をして、それでも大丈夫だと笑っている。身内としては何時なにがあるのか分からないので心労を重ねるしかない。

 

『それで、なんだけど。アスカが戦った悪魔っていうのが六年前にみんなを石化した奴だったんだ。勿論、アスカが勝ったよ』

「なに?」

 

 奥歯に物が挟まったようにアーニャが言った言葉を一瞬理解できなくて固まった。

 そして理解できた瞬間、文字通り心臓が跳ねた。

 暴れ狂う心臓に手を当てたスタンは、自分が何に対して動揺しているのか分からなかった。

 アスカが戦った悪魔が六年前に両親を村の住人を石化した張本人であることか。それともその悪魔にアスカが勝利したことか。

 

『石化を解くための鍵は手に入れました。錠は探し出すか、それとも自分で作り出すしかない。時間がかかるかもしれないけど、必ずみんなを助けだして見せるよ』

 

 村の者達を救えるかもしれないと分かってもスタンに喜びはなかった。

 手に持つ封魔の瓶を見下ろして強く握っているアーニャがこちらを見て笑ったことがとても悲しく思えた。

 スタンも石化を解除する方法はないかと自分で調べている。

 村の住人を石像と化しているのは永久石化と呼ばれる現象である。石化は半永久的なもので、神格の力を以ってしなければ解除できない。鍵だけとはいえ、それだけの偉業を成し遂げるのにいったいどれだけのものを子供達は犠牲にしたのか。

 

『次に手紙を出すときは朗報を伝えられるように頑張ります。じゃあ、体に気をつけて』

 

 その言葉で手紙の再生は終わった。

 

「アーニャ…………無理をしてまで歩みを進めても、己が心を傷つけるだけなのじゃぞ」

 

 持っていた手紙を大事に便箋に仕舞ったスタンは、遠い異国の地にいる同じ空の下にいる子供達を想った。心からの願いを込めたその言葉は青く高く澄み渡る空へと吸い込まれていくのであった。

 そろそろ戻ろうと考えて立ち上がった途端、胸の奥に強烈な痛みが走った。

 

「ぐっ!?」

 

 息が出来ずに痛みが全身を支配しかけるが、魔力を通すことに無理矢理に活性化させて抑え込む。

 

「…………本当に、寄る年波には勝てんのぅ」

 

 長い長い息を吐いて終わりが見えてきた老人の言葉に、宙を舞う鳥が哀しげに鳴いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 学園祭前日の夕方、学園長に呼ばれたネギ・スプリングフィールドは首を捻りながら歩いていた。呼ばれた場所が学園長室ではなく、何故か世界樹前広場が待ち合わせ場所だからである。

 歩くネギの前後左右を様々な仮装をした生徒達が通り抜ける。

 和装洋装から始まり、鎧武者や着ぐるみ、妖怪や怪獣果てはロボットまで、統一性など欠片もなくどこの異世界に迷い込んだのかという様相を醸し出していた。

 

「う~ん、学園祭が明日になるとこの風景にも慣れてきたね」

「だよな。最初は変なのがゴロゴロしてたって慌ててたのに毎日見てたら感覚が麻痺したんじゃねぇか」

 

 しみじみと呟いたネギの言葉に肩に乗っているカモが感心やら呆れやらを滲ませる。

 ああいう仮装をしてるのは殆どが大学部の学生らしいが、何事にも一切手を抜かない麻帆良の人々はお祭騒ぎを行うに際して全力である。何のイベントをするのかと突っ込みたくなる仮装もあるが。

 どれだけ奇異な光景も毎日続けばそれが自然になる。限定的な光景と思えば奇異も受け入れられるというもの。これが邪神召喚の儀式の為だとかになれば話は変わるが、規模が桁違いでもお祭りであれば人は受け入れる。

 

「こら、ネギ――ッ!」

 

 待ち合わせの時間にまだ時間があるので、新田と「超包子」に行ってから肩の力を抜くようになったネギがのんびりと歩いていると誰かが声をかけてきた。

 ちょっと怒っている叫びにネギは身を縮めながら、かけられた声の方向が後ろからなので、歩く足を止めて振り返った。

 

「な、なにさ、アーニャ」

 

 ヘルマン戦以後、二週間ほどエヴァンジェリンの別荘に詰めていたが、ケロッとした表情で教職に復帰しているアーニャが胸の前で腕を組んで立っていた。

 その後ろでは苦笑している天ヶ崎千草とネカネ・スプリングフィールドの姿もある。

 

「なにさじゃないわよ。全員で呼ばれたのに一人で行くってどういうつもり?」

「そうだっけ?」

「…………まったく、このボケネギは」

 

 ネギに封魔の瓶を渡して石化の解除を頼んできた時のしおらしさは欠片もない。

 どうせなら普段もあんな感じなら良いのにと、懐かしい呼ばれ方をして思ったネギである。

 

「三人も学園長先生に?」

「アンタ、馬鹿ぁ? ネギだけが呼ばれるはずがないじゃない」

 

 馬鹿にされているが、それもそうだと変に納得してしまった。

 ネギ個人に用事がある場合よりも、同じ立場であるアーニャも共に呼ばれている場合の方が圧倒的に多い。

 その場合、ネカネと千草も呼ばれるとすれば3-A関連だが、それこそ学園長室でない理由が分からずに二人を見たネギの視線から察した千草が口を開く。

 

「クラスのことやないやろ。世界樹広場前いうんなら学園祭関連とちゃうか」

 

 どういうことですか、とネギが問うよりも早く 直ぐ近くでどよめきが聞こえて四人は騒がれている元を探して首を巡らす。

 どよめきの元は直ぐに見つかった。そこには飛行船を利用して建物の五階ぐらいの高さからブランコからブランコへと飛び移る空中ブランコを行う一人の少女の姿があった。

 

『麻帆良曲芸部「ナイトメアサーカス」開催は全日程全日午後六時半より!! チケットは大人千五百円! 学生割引千円です! よろしくお願いします!』

 

 飛行船からアナウンスの声が聞こえてくる。これも麻帆良曲芸部が行うイベントの一つのようだ。

 それがただのお遊びではなくプロ顔負けの本格的な物であると言う事は、目の前で行われている空中ブランコを見れば否が応にも理解出来る。歓声の多さから考えても曲芸部を見に行こうと考えた人は多いだろう。

 

「あれは……」

 

 遠目だが空中ブランコを行う少女の全身と顔が見れない程ではない。

 道化師のような帽子を頭に被り、露出度の高い水着のような衣装を身に着けている。褐色の肌にエキゾチックな雰囲気の少女。普段からしている目元の特徴的なメイクもそのままな少女に見覚えがる。

 

「あら、ザジちゃんね」

 

 普段は物静かを通り越して無口な少女の変わった登場の仕方に、意外そうな声を出したのはネカネである。

 ネカネの声が聞こえたのか、空中ブランコをしていた出席番号31番ザジ・レイニーデイがネギ達の存在に気づいたようだ。

 ブランコから飛び立ち、空中で何回も回転して観客をあっと言わせて軽やかにネギ達の目の前に着地する。みんなが思わず瞠目するほどの身の軽さだ。流石は曲芸部。

 

「ネギ先生もよろしければ、我がサーカスへどうぞ」

「あ、これはどうも」

 

 芝居がかった仕草で一礼して招待チケットを差し出しながら営業スマイルで笑うザジに、ネギは受け取りつつ反射的に頭を下げながら初めて喋ったりしたことや笑顔を見たことを驚いていた。

 

「先生方にも」

 

 ネギが驚いている間にザジはアーニャ達にもチケットを配ると、余計なことを喋ることなく驚異的な身体能力を見せて空中の梯子に飛び移った。

 やはり無口だ。必要な事以外喋らないのだろうか。再び『ナイトメアサーカス』の宣伝に戻って行った。

 

「本格的やな。どんな学園やねん、ここは」

 

 ザジを見送ってしばらく歩いて、巨大な門を見た千草がしみじみと呟く。その声の中に驚きだけでなく呆れの色も混じっていたのは気のせいではないだろう。

 

「日本のお祭りってこんなのじゃないの?」

「違うわ。ここが特別やねん」

「普通は学生がこんなに作らないと思うわよ、アーニャ」

「そういうことや」

 

 ネギも少しアーニャと似たような考えだったが、よくよく考えれば目の前にあるような『学祭門』を作るような学園祭は麻帆良だけだと気づいた。

 麻帆良大学土木建築研が主導になり、多くの有志の手伝いもあって造り上げられた学祭門。木製だがフランスの凱旋門をモチーフにして作られた技術は既に玄人に域に達している。こんな物を作れる学生が普通だったら世界がもっとアーティスティックになっている。

 

「噂には聞いとったけど、こんなん学生が作る規模やないで、ほんまに。どう考えても学園祭の規模を軽く超えてるやろ」

 

 見上げる学祭門は、一週間前にはなかったのだから麻帆良学園生のバイタリティを象徴しているモニュメントである。

 祭りというものにあまり縁のなかったウェールズ組に比べて、生粋の日本生まれの日本育ちである千草は目の前のモニュメントに開いた口が塞がらない気分だった。

 

「噂ってなんですか?」

 

 千草の呟きを聞いたネギは思わず問いかけていた。

 

「この麻帆良際は都市を上げての一大イベントや。日本には三大祭りっちゅうのがあってな。それに加えても良いんちゃうかって話や」

 

 広大な敷地に多数存在する学び舎の総力を挙げ、加えて有力財閥の協賛を得ているだけあって、最早一大テーマパークの様相を呈する程に大規模なものとなっていて、下手をすれば世界中のどの祭りよりも規模に限定すれば大きいのではないかと続く千草の台詞に、三人は感心すれば良いのか驚けば良いのか微妙な表情になる。

 

「まぁ、うちも一度ぐらいは参加したいと……」

 

 自分で作ってしまった微妙になった空気を変えようとした千草の顔から不意に感情が消えた。

 

「どうかしました?」

 

 周辺を警戒するように辺りを見渡した千草の豹変に、何事かと身を固くしたネカネが尋ねる。

 

「この辺だけ随分と静かやな。人っ子一人おらへん」

「そういえば………………この辺は誰もいないわね」

 

 辺りを見渡したアーニャが同意する。

 四人が今いるのは大通りから少し離れた世界樹広場前に繋がっている細道だが、夕方とはいえ学祭前日に見渡す限り誰もいない明らかに不自然だ。

 アーニャの同意にネギも遅まきながら気がついた。恐らく千草が言わなければもっと気づくのが遅かっただろう。

 

「これは人払いの結界だな。どうやら学園長はうちらに普通の奴らには聞かれたくない話をするらしいぜ」

 

 ネギの肩で前脚で立ち、なにかを感じるように鼻をヒクつかせたカモが断言する。

 ネギもその通りだろうと思ったので否定しなかった。

 大通りから一本道を隔てただけの細い通りは、表の往来が嘘のように鼠一匹の姿も見当たらなかった。目的地たる世界樹広場へ近づくほどに、その静けさは拍車が掛かる。

 ネギ達が世界樹前広場に着くにはそう時間はかからなかった。

 

「あれは?」

 

 世界樹の巨大な偉容をバックに、電灯が一定の間隔で立ち並んで幅広の階段とそれぞれを広大なフロアで区切っている。階段を登ったフロアの一つに複数の人影があった。

 夕焼けの逆光で影を落とした人影の一つが四人を見る。

 

「お、ようやく来おったか。頭を長くして待っとったぞ」

 

 ぬらりひょんのような異様な頭をして髭を揺らし、これで杖でも持って雲に乗っていれば仙人の出来上がりと噂される麻帆良学園理事長、近衛近右衛門が二人を待ち受けていた。

 更に同じ女子中等部の教師の瀬流彦、他にも多くの教師達やそれぞれの制服を着た生徒がいる。なにやらシスター服を着た一人はやけにネギ達の視界から隠れようとしているが。

 集団の前に進み出ながらネギとアーニャは、この状況の意味が分からず困惑する。反対に千草とネカネは何かを察したように肩から力を抜いた。

 

「あの、この方達は?」

 

 学園長がいて、呼ばれたのは自分達。更に人払いの結界が張られているとなれば、ここにいるのは魔法使いかそれに準ずる者であると推測できる。が、あくまでそれはネギの推測に過ぎないので説明される前に先に尋ねた。

 

「ここに集まっとる者達は、学園都市の各地に散らばる小・中・高・大学に常勤する魔法先生、及び魔法生徒じゃ。全員ではないがの」

 

 髭を撫でつつ、珍しく片目を開けつつ説明する。

 その中に知り合いがいないことに気づいて、ネギは首を捻った。

 

「あの、タカミチ…………高畑先生は?」

「サボりじゃ」

「ええっ!?」

「冗談じゃて。今は使い物にならないから呼んでないだけじゃよ」

 

 学園長のブラックなジョークに騙されたネギだったが、使い物にならないとはどういうことかと問いかけようとして、人の中から高畑より少し年上のベストを着た黒髪黒目で眼鏡をかけた男性が近くにやってきた。 

 

「君がネギ君か。娘の祐奈から話はよく聞いているよ。よろしく」

「祐奈…………って明石さんのお父さん!? えっ、ということは、もしかしてゆーなさんって魔法使いだったんですか!?」

 

 出された手を反射的に握り返しながら、目の前にいるのが副担任を務める明石祐奈の父であると知って驚愕した。

 父親が魔法使いであるならば、あのクラスの先導役の一人である明石祐奈が魔法使いである可能性が高いと、ネギの明晰な頭脳は瞬く間に解答を導き出した。

 

「はは、娘は魔法のことは知らないよ。くれぐれも秘密に頼む」

 

 柔和に笑って頭を下げながらも握られた手に痛いほどの力を込められての説得に、ネギの顔が引き攣る。

 これだけの愛情を幼少の頃から娘に注いでいたのならファザコンにもなろう、とネギは少し無理矢理に離してもらった手を後ろに回しながら思った。

 隣のアーニャは、娘の祐菜に魔法のことを黙っている教授に良い思いを抱いていないらしく、目つきを尖らせていた。

 

「理由は分かりませんが分かりました」

 

 アーニャが何かを言う前にネギは話を終わらせた、

 記録を思い出してみれば、確か明石家には母親がいない。正確には何年も前に亡くなっているはずだった。

 父が魔法使いであるならば娘もそうであると考えるのがネギの中では常識だったが、生徒とはいえ他人の間柄では家族の問題に口を挟む権利など持ち得ているはずがない。

 亡くなった母親との関連性があるとは思えないが父が子に魔法を教えないこともあるかと思い、下手な詮索をしないことが大人の対応と頷いておいた。

 ネギが先に答えてしまった為、アーニャは鬱憤が溜まるだろうが彼女とて何も知らぬ子供ではない。詮索しない分別を持っていた。

 

「さて、学園祭を前日に控えた忙しい時期じゃ。本題に入ろう」

 

 明石教授が下がったところで学園長が一歩前に進み出た。

 

「君達はこの世界樹がどういうものか知っておるか?」

 

 聞かれたネギとアーニャは顔を見合わせる。

 先のこともあってアーニャが答えることで意志が一致する。

 

「ギネス世界一の大きさを誇る大樹であり、強力な魔力を秘めた木であるとは聞いています」

「左様。もう少し説明しておこうか。諸君らも復習がてらに聞いておくように」

 

 学園長が提示したのは背後の世界樹。太く逞しい幹はごつごつした指のような根で土に食らいつき、重力に従って空を目指す緑の樹冠が風で揺すられて、生きているぞと訴えるように鳴いて太陽の欠片を地面に振り撒いていた。

 

「生徒達に世界樹と呼ばれとるこの樹じゃがな 正式名称は『神木・蟠桃』といって強力な魔力をその内に秘めておる。つまり『魔法の樹』じゃな。22年に一度の周期でその魔力は極大に達し樹の外へと溢れ、世界樹を中心とした六ヶ所の地点に魔力溜りを形成する。この広場もその一つじゃ」

 

 長くなったので一つ呼吸を挟み、皆に言葉が染み渡るのを待つ。

 

「この魔力は膨大じゃ。悪用されればどのような事態になるか予想も出来ん。本当は来年のはずだったんじゃが、異常気象の影響か一年早まってしまったのじゃよ。マジでマズイのは学祭最終日じゃが、今の段階から魔力溜りの警備を頼みたい」

 

 蟠桃といえば、中国で16世紀の明の時代に大成した伝奇小説『西遊記』に登場する、西王母の住む崑崙山にある桃の名称。三千年に一度だけ実を結ぶとされ、食すと不老長生が得られるという。『西遊記』は孫悟空を主役とする戯曲、小説本、民間伝承を繋ぎ合せて誕生した、謂わば孫悟空伝説の集大成。蟠桃を食べるのも孫悟空である。素材となった伝承には神話・民話であった物語も多い。

 

「今回僕達を呼んだのは警備に組み込むためですか?」

「そこまで人手は不足しとらんよ」

 

 学園長の話から呼び出した理由を推測したネギは直球で問いかけたが予想は外れた。深読みしすぎだと学園長は苦笑いを浮かべる。

 

「今回は注意喚起に過ぎん。知っているのと知らないのとでは大分違う。それに君達はまだ子供じゃ。最初の学園祭を存分に楽しむといい」

「私達が子供だから頼りにならないと、そう仰られるんですか」

「違うぞい。どんな魔法先生・魔法生徒でも初年度は学園祭を楽しむために警備から外し取る。なにも君達だけが例外ではないぞ。疑うなら後ろの彼らに聞いてみても構わん」

 

 アーニャの率直さを若さとして受け取った学園長は、微笑ましさを押し隠して説明する。

 

「…………言いすぎました。申し訳ありません」

 

 確認するように学園長の後ろにいる面々に顔向けて頷きが返って来たので、アーニャも恥ずかしげに一歩下がる。

 

「ネギ君も構わんかね?」

「はい」

 

 続けられた問いにネギは頷きを返した。

 その横からネカネが一歩前に出た。

 

「私達も同じと考えてよろしいんでしょうか?」

「勿論、存分に楽しんでもらって構わんよ」

「ありがとうございます」

 

 一礼するネカネの後ろで少し嬉しげな千草がいたが、どうやら彼女は殊の外学祭を楽しみにしていた様子であるし触れぬが華であった。

 アーニャがその姿を見て笑いかけようとしているのを止めるためにネギが行動しようとした正にその時。

 

「誰かに見られています」

 

 何故か箒を持った麻帆良学園本校女子中等学校の制服を着た少女が中空を見上げて言った。

 ネギには見覚えのないので体格から考えて二年生であろう。世界樹広場向かい側に立ち並ぶ建築群の更に上方を仰望している。

 そしてネギから見て一番右端にいたサングラスをかけて煙草を吸って髭面の男性教師――――アスカを病院に運んでくれた神多羅木先生――――が虚空へと腕を伸ばし、フィンガースナップ――――――属に言う指パッチン――――をすると、斜線上から無形の風の刃が放たれた。

 空気中を飛び散る乾いた音。一陣の刃が大気を斬り裂く。

 

「おお!?」

 

 ネギとカモが特定の動作に合わせて発動する無詠唱呪文の巧みさに驚愕する暇もあればこそ、不可視の風の刃は斬撃となって宙を飛んでいた機械を真っ二つに両断した。

 

「魔法の力は感じなかった。機械だな」

「生徒か、やるなー。人払いの魔法を抜いてくるとはウチの生徒達はあなどれないですからね」

「追います」

「深追いはせんでいいよ。こんなことが出来る生徒は限られとる」

 

 なにやらネギ達には預かり知らぬところでの了解が交わされており、状況を把握できぬまま物事は進んでいく。

 聖ウルスラ女子高等学校の制服を着た少女から女性に成りつつある金髪と、先の箒を持った女子中等部の子、更にたらこ唇と角刈りが特徴の眼鏡をかけた黒人男性が飛び立って行った。恐らく偵察者を捕縛しに行ったのだろう。

 

「さて…………予め配布しておいたシフト通りにパトロールに当たってくれ。魔法の使用に当たってはくれぐれも慎重に! よろしく頼むぞ!! 以上、解散!!」

 

 学園長は一度、偵察者追って行った三人の方角を見つめ、ネギ達や残りの魔法先生・魔法生徒を見渡して最後の訓示を述べた。

 そして集会はそのまま解散となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 屋上のテラスを利用して作られているオープンカフェに一人の客がいた。

 客はともかく、店員の一人も姿がないので屋上にいるのは男一人だけであった。

 中点をとうに過ぎても燦々と照り付ける太陽の光が降り注ぐカフェには男の他には誰もいない。疲れて一休みするにしても屋上のオープンカフェは利便が悪いのだろうか。

 このカフェがある屋上に上がるには室内を通過する必要があり、オーダーは事前に済ませて受け取るのでウェイターなどはいないのだ。

 誰もいないので気兼ねせず紫煙を曇らせる男――――タカミチ・T・高畑はとっくの昔に冷めたコーヒーに一口も口をつけることなく、難しい表情で虚空を見つめていた。その背後から忍び寄る人影があった。

 

「高畑先生」

 

 優しげなソプラノの声が耳に響いて高畑は驚きながら振り返ると、そこには二十代後半の眼鏡をかけた女性が立っていた。

 その女性のことを高畑は良く知っていた。

 

「しずな先生? どうしてここに」

「下から姿が見えたものですから、ご一緒しようと思って」

 

 言いつつ、しずなが静々とした動作でコーヒーを乗せたトレイを机に置いて斜め前の席に座った。

 斜め前に座っているので彼我の距離は近いが不思議なほど忌避感は湧かない。同期の教師で付き合いは長く、私的な繋がりもあったからこの距離感の方が逆に心地良い。

 

「また煙草を」

 

 しずなの視線が煙草に向いているのに気付き、不味い現場を見られた犯人のように高畑は顔を固まらせた。

 

「前から言ってますけど駄目です。体に悪いですよ」

「いや、これは」

 

 以前からしずなは高畑が煙草を吸っていると苦言を呈してくる。昨今の煙草の忌避ではなく純粋に吸っている高畑の体を思ってのことなので拒絶しづらい。

 

「駄目です。高畑先生がしていることは体が資本なんですからなにかある前に煙草は控えて下さい」

 

 体一つ分だけ開いた距離は手を伸ばせば届く。高畑は諌めるしずなの手を中途半端に上げた手で払いのけることも出来ず、煙草を取り上げられて灰皿に押し付けられる。

 何度も繰り返されている行為だからしずなの動作には慣れがあった。

 

「本数は減らしているんですが」

 

 煙草の火が完全に消えたことを確認したしずなが咎めるように高畑を見てきたので、咄嗟に言い訳のような言葉を口走ってしまった。

 

「減らすだけで止める気はないんでしょ?」

「これだけは死んでも止められそうにありません」

 

 言いながらも背広に入っている携帯を入れているのとは別の胸ポケットから煙草とライターを取り出しかけて止める。

 この一連の動作は既に癖として無意識レベルで行うようになってしまっているので、意識的に止めなければまた煙草を吸っていただろう。高畑がこの癖を止めるのは吸ってはいけない環境にいる時かしずなの前だけである。

 手持無沙汰な手がコーヒーカップを掴む。

 

「明日菜ちゃんの為にですか?」

 

 煙草を吸い出した理由が理由であるだけに、真相を知らないはずのしずなが言い当てたことに高畑の手が動揺を示すように揺らいだ。

 掴んだコーヒーカップが動揺度を表すようにソーサーに当たって甲高い音が鳴った。

 

「…………煙草が好きなだけです。もう立派なニコチン中毒者ですから」

「嘘が下手な人」

 

 笑おうとしたが笑えなかった。喉はヒクリとなるだけで言葉が出て来ず、笑みを浮かべようとした顔はピエロのような奇妙な表情になってしまう。

 コーヒーに口をつけるしずなを見て、即座に仮面を被り直す。

 

「そんなにも下手ですか? 自慢にもなりませんが、これでも職業柄で上手い方だと思っていたんですけど」

 

 本当に自慢にもならない、と高畑は仮面ではなく自身の顔で苦笑した。

 ハッタリも含めて多くの人間と渡り合ってきた中で嘘も方便として使ってきた。力だけではどうにもならない分野の修羅場も潜り抜けてきた高畑は自分の嘘が下手なわけがないと自負している。誇れることではないが必要以上の卑下は命に関わる。

 

「何年貴方だけを見続けていると思っているのですか。私を舐めないで下さい」

「ぐっ……」

 

 見方を変えれば告白そのものの発言をする真剣な表情のしずなに、高畑は顔を僅かに赤くして喉の奥で唸った。

 高畑とて何年も戦場で戦ってきた生粋の戦士である。ラブロマンスの一つや二つは経験してきている。一夏の恋ならぬ一夜のアバンチュールもあった。

 好意を向けられることに慣れていないわけではないが相手が悪い。

 

「愛しています。誰よりもずっと」

 

 真っ直ぐに真剣な眼差しで告げられるのはこれで何度目であったか、高畑はもう数えることを止めていた。

 

「何度も言いますが錯覚です。それに」

 

 僕に人に愛される資格はない、とは続けなかった。

 最初に言った時に返された言葉の怒涛は高畑を以てしても耐えられるものではなかった。今の精神状況でやられたら屈伏してしまう。なんとしても避けねばならなかった。

 

「私がサキュバスの先祖返りだからですか? だけど、違います。この気持ちは錯覚ではありません」

 

 キッパリと言い切るしずなに高畑は首を横に振った。

 

「先祖返りの能力は制御できていると聞いています。錯覚だというのは別のことです」

 

 高畑は教師になって直ぐのことを思い出した。

 

「しずな先生を助けたのは確かに僕なのかもしれません。ですが、偶々僕がそこにいただけで他の誰かでも出来ました」 

「仮定に意味はありません。現実として救ってくれたのは貴方です」

 

 しずなは麻帆良外の人間で、教師として赴任してきた外来者であった。だが、赴任当初から男の精が欲しくなるという異変を抱えていた。

 後に分かったことだが世界樹の魔力の影響で、父方の祖父の先祖にサキュバスがいて先祖返りを引き起こしていたのだ。先祖には今まで男しか生まれてこなかったらしく影響が出たのはしずなが初めてらしい。

 同期で同じ麻帆良女子中等部にいて親しくしていた高畑が異変に気づき対処した。内容に関しては二人とも誰にも話さなかったが、しずなは先祖返りの能力を完全に制御していて一般人として生きることを望んだので、魔法のことを知りながらも普通の生活をしている。

 

「救ったのが僕だからってだけで勘違いしているんです。刷り込みみたいなものですよ。それが錯覚だと言わずになんといえばいいのか」

 

 強い口調で否定した高畑の目の前でしずなは首を横に振る。

 

「ずっと高畑先生を見てきました。教師として高畑先生、魔法使いとしての高畑さん、男としてのタカミチさんを」

 

 膝の上に置いた手がしっかりと握られ、震えているのが高畑の目からは見えていたが何も言えなかった。言えるはずがなかった。

 大人であっても容易く本心を伝えられるはずがない。否、大人であるからこそ色んな柵が囲んでいて本当の気持ちを伝えることに臆病になっていく。

 だから、高畑は仮面を被ることにした。

 教師としての仮面、魔法使いとしての仮面、男としての仮面を。仮面を被る方が楽だったから。

 

「生徒と笑い合っている時も、悪いことをした子達を怒っている時も、一人で煙草を曇らせている時も、ずっと見てきました」

 

 嘘は社会で生きていく為の処世術である。高畑もまた大人になるに連れて身につけた。望むと望まぬに関わらず。

 社会の歯車として生きることを選んだのだ。大切な人を、喪った人との約束を守る為に。

 

「子供っぽい一面も、大人としての一面も、ずっとずっと見て来たんです」

 

 タカミチ・T・高畑は英雄にはなれなかった。憧れた人達には届かなかった。見たくない事実であり、避けようのない現実であった。

 歯車になることが悪い事だとは思わなかった。力が足りないから他所から持ってくればいい。個人でやれることには限界がある。言い訳かもしれなくても高畑は自分の出来るだけのことをやってきた。

 

「私もこの気持ちを疑いました。刷り込みじゃないかって、勘違いじゃないかって。でも、違ったんです」

「僕は貴女に愛されるような上等な人間じゃない。そんな資格が、ない」

 

 九年前から高畑の生き方は決まってしまってる。

 師を守れず、アスナを絶望させた罪は重い。

 一生涯かけて明日菜を守る。その誓いの為に犯した罪は数知れず、殺した人数は数知れず、狂わせた人生は数えきれない。

 高畑は大人になったのだ。大人にならざるをえなかったのだ。

 

「忘れて下さい。僕のことなんか忘れて、もっと良い人を探して下さい。きっとしずな先生なら見つかります」

 

 チクリ、と自分で言った言葉に高畑はナイフが刺さったような痛みを胸に覚えた。

 想われて嬉しくないわけじゃない。どれだけしずなの笑顔に助けられてきたか、どれだけしずなの存在が助けになってきたか、言えるはずがない。

 言ってしまったら高畑は折れてしまう。だから、言えない。

 

「私は助けてくれたのが高畑先生で良かったと今では思っています。この人で良かった。この人だから良かったって。高畑さんじゃないと駄目なんです。高畑さんじゃないと嫌なんです」

 

 熱を込められた真摯な言葉は高畑を内奥を揺らす。

 嘗てこれだけ高畑に恋情をぶつけてきた者はいなかった。しずなに対して少なからず恋情を抱いているからこそ反骨心は湧いてこない。

 受け入れてしまえと心の中で悪魔が囁く。

 

『タカミチ、後は頼んだぜ』

 

 傾きかけた心の天秤を、今際の際に託されたガトウの言葉が引き止める。

 

「駄目、なんです。僕は師匠と、ガトウさんと約束したんです」

「明日菜さんを守る、とですか」

「っ、……ええ。ですから」

 

 気持ちを受け入れることは出来ないと高畑は視線を下げて、しずなを直視できないまま告げた。

 

「それは男としてですか? 父としてですか?」

「……………」

 

 明日菜をどう思っているかなど今まで深く考えたことはなかった高畑は問いに対して即応できず、沈黙を選んだ。

 守り、危険から遠ざけることを重要として、自身の裡から溢れ出る気持ちを認識することはなかった。

 改めて高畑は自分が明日菜をどう思っているかを探る。

 

「この間まで、彼女はまだまだ子供だと思っていました。気が付いた時にはすっかり女の子になっていました。本当に気が付かない間に」

 

 明日菜が中学生になって寮に入るまでは一緒に暮らしていた小学生の頃の印象が強い。

 記憶が無くなって生まれたはずの感情を失ったが、雪広あやかを始めとして多くの人と交流を重ねていくことで今の人格を作り上げていった。

 良く笑い、良く怒り、良く泣き、良く悲しむ。

 煙草を吸ってほしいとガトウを求める言葉にどれほど高畑が泣きそうになったことか、きっと明日菜は知らない。

 ガトウの願い通りに幸せに生きている明日菜を見ているだけで高畑は幸せだった。

 罪悪感があったのかもしれない。約束があったのかもしれない。それでも高畑は幸福の只中にいた。この幸福を護る為ならどれだけ罪に穢れても構わなかった。

 

「好意を向けてくれていたことは嬉しく思っていました。ですが、異性としてそのような対象で見たことはありません。例えるならそう、騎士になりたかったのかもしれません、僕は。明日菜君の騎士に」

 

 年齢差もあって恋愛対象として見ることは出来なかった。明日菜の父親というならば師のガトウ・カグラ・ヴァンデンバーグその人であろう。

 男としてではない。父親としてでもない。世界の悪意を押し付けられたアリカを救ったナギのように、高畑は明日菜を護る騎士になりたかったのかもしれない。

 曲りなりにも明日菜を護って来たと思っている。その挟持はあった。

 だが、何時かは明日菜を護れなくなる日が来る。それが恐ろしかった。

 時間は過ぎていく。どんな時も変わらず、淡々と、粛々と、残酷なほど等質に流れていく。

 咸卦法習得のために別荘を長期間使ったので戸籍年齢よりも何年も年を取っている。肉体の絶頂期はとうに超えて、今はいかに維持するかを気にしなければならない。

 明日菜はこれからも生きていく。だけど、高畑は何時までも明日菜の騎士ではいられない。これから咲き誇る花の傍に朽ちていくだけの木がいることはありえない。

 代わりが必要だった。高畑の代わりに明日菜を護る騎士が。

 

「もうお役御免かもしれませんが」

 

 望んだ相手ではあるはずだった。だけど、その時になって自分が選ばれないかもしれない可能性に高畑は絶望している。

 

「女の子は男の人の理解を超えてあっという間に大人になっていきます」

 

 しずなは高畑から自然をずらして屋上のテラスから階下の表通りを見下ろした。

 そこにいたのは明日菜だった。

 最近は何時も一緒にいる刹那と木乃香と何故か仮装して、途中で合流したらしいクラスメイト数名と楽しそうに談笑しながら歩いている。

 

「泣いたまま蹲っているほど彼女も子供じゃないんです」

 

 アスカと明日菜を引き合わせれば、何時かはこうなるかもしれないと予想していていたのに、なにもしなかった。

 保護者を気取っていても、少女の苦境をどうにも出来ない自身こそを高畑は疎んでいる。けれどあんなにも苦しんでいる明日菜を救ってやれるのはアスカだけなのだ。それがどうしようもなく悔しい。

 

「何時までも子供は子供のままではありません。明日菜ちゃんは傍にいる人を自分で選べるようになってきているんです。彼女の成長を喜ぶべきことではないですか?」

 

 言葉を受けて高畑も眼下を見下ろした。

 明日菜は笑っている。皆に囲まれて笑っている。高畑が知る感情が欠落した表情でも、ガトウの死に泣きはらした顔でもない。

 選ばれるのではない。高畑が選ぶ時が来たのだ。

 過去と約束にみっともなくしがみ付く亡霊となるか、それ以外になるのか。

 

「僕は……」

 

 高畑は選択を迫られていたが答えは出せなかった。

 人生の支柱となっていた命題を簡単に変えられるほど、容易い選択ではないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 学園祭の開始を後半日後に控え、麻帆良学園都市は朝から活気づいて、夕方になっても通りの慌ただしさは減るこなくどんどん増えていた。

 通りには大小様々なテントが張られ、その中で、外で生徒達が忙しそうに最後に準備と仕上げに追われていた。予行練習なのか、焼きそばやたこ焼きの匂いが周囲に漂っている。ペンキの匂いもする。未だ未完成の看板が道の端に置かれ、その周りで生徒がしゃがみ込んで完成を急いでいた。

 あちこちのスピーカーからは大音量のBGMが流れ、乱立する出店では呼び子の黄色い声がお客を誘っている。

 

「く~、前夜祭行きたいな~」

「でも、私達もどっかで寝ないとヤバイよね」

 

 出店で食べ物を食べたり、叫び声をあげて射撃に興奮していたりと盛り上がっている周りを寝ぼけ眼で見やって、疲れた顔に笑みを浮かべているのは明石裕奈だ。普段は立ち振る舞いの全てから「元気」という文字が零れてくるような少女であったが今は減じている。

 

「確かにもうフラフラや」

 

 熱気が湯気になりそうなほどの人混みの中で祐奈の意見に同意したのは同じように寝ぼけ眼を擦っている和泉亜子。イントネーションが標準語と少し違って喋り方も関西弁で、他人より少し色が薄い髪と目の少女。

 

「前夜祭か睡眠のどっちにするか迷いどころだ」

 

 準備で前日から殆ど徹夜していて、二時間ほど気絶するように仮眠をとったのだが、頭にはいまだに眠気が靄となって燻っていた。けれど、その気怠さも前夜祭を前にして揺らいでしまう。

 

「寝ないと倒れるって」

 

 顎に手を当てながら真剣に悩む祐奈に、亜子は若干の呆れを滲ませて苦言を呈しながらも気持ちが分からないでもなかった。

 

「お風呂も入りたいね」

 

 横に並んで歩く二人の後ろで女子中学生の平均的な亜子の身長よりも頭一つ分高い大河内アキラが薄く微笑みながら見守っている。話に加わらないのは寡黙な性格がだからであるが、人の世話を焼くのが好きな優しい性格の持ち主。

 作業の最終的な追い上げを熱中してやったため、前夜祭と睡眠、どちらを選ぶにしても一度サッパリしたいというのが彼女の気持ちだった。

 

「え~、折角の前夜祭なのに」

「本番は明日なんだから無理しない」

「せやで。倒れたら元も子もないし」

 

 愚図る祐奈を説得するアキラに追従した亜子だったが、彼女だって前夜祭を楽しみたいという気持ちはある。

 辺りを見渡してみれば、準備で大慌ての学園内は派手派手しく飾り立てられた一種の異空間としか表現できない空間と化していた。

 日常と比べると正しく異界と称せるような状態で、思春期の少年少女の創造性と若者特有のバイタリティをあらん限りに無駄遣いして、壁という壁に宣伝ポスターを貼ってオブジェを設え奇妙な仮装で歩き回る。

 衣装や仮装も所々が補修されているのが手作り感を演出していて、出来そこないの異世界というか、なんとも形容しがたい奇妙な景色を形成していた。

 

「お? そこのイケメンな少年達! 前夜祭チケットが後僅かだよ! 買って行かないか!」

 

 聞こえて来たその内容に吊られて亜子は声の主を追った。

 三月に卒業した先輩に告白して振られてからは傷心で、努めて異性に興味を持たない様にしていたが亜子も年頃の少女である。顔が全てとは言わないが、美形がいるとすれば見てみたい衝動に駆られる。

 少しドキドキとしながら見ると、声の主はチケット販売を行っている売り子で、どこかの商魂逞しい学生だろう。話しかけているのは、前を通りかかっている二人の人物。

 

「わわ? カッコイイ――ッ」

「う……本当だ」

 

 亜子の視線を追った祐奈とアキラの言葉が、少年達のことを物語っていた。

 

「スポーツ系とちょいワル系か」

 

 ファザコンで有名な祐奈が感心したような声で批評しているが、的を射ていると亜子は少年達に見惚れながら思った。

 見惚れている間に、少年達は一つの屋台の前で足を止めた。

 その屋台ではカラフルな看板の下にヘラや菜箸を使って器用に食べ物を作っている、頭に鉢巻を巻いた男子生徒数人の姿があった。

 

「さぁさぁ、たこ焼き、お好み焼き、焼きそば、なんでもあるから買って行ってよ!」

 

 じゅうじゅうと焼ける良い音と、焦げたような焼けたような香ばしい匂い、そして陽気な呼びかけの声が響き渡る中で、祐奈がちょいワル系と称した黒髪の少年が隣にいる全身からダルそうな空気を漂わせているもう一人に話しかけている。

 なんらかの決着がついたのか、黒髪の少年が屋台の前に進み出た。

 

「焼きそば、二つ頼むわ」

 

 黒髪の少年が注文している。

 声変わりの途中なのか、まだ成人男性のような低さはなく子供と大人の微妙な時期であることが分かる。

 

「同い年か、少し下ぐらいかな」

 

 出来上がった焼きそばを受け取って、通行の邪魔にならないように通りの隅によって待っていた金髪の少年の下へと向かう黒髪の少年を視線で追っているとアキラが何ともなしに呟いた。

 二人の少年の身長は亜子より高く、アキラと比べると低く、祐奈と同じか少し上ぐらい。黒髪の少年の声の具合と身長から自分達よりも年上である可能性は低いだろう。

 

「ん? あれあれ、どうしたのかな亜子さん。目がハートになってますよ」

「へ?」

 

 祐奈に言われて思わず目に手をやるが、当たり前だが見えるはずがない。それどころか目がハートになるはずがない。

 

「亜子って面食いだったんだ」

「まぁ、分からないでもないよ。ほら、周りの女子連中みんな見てるもん」

「ち、違うて?! 変なこと言わんといてぇな!」

「で、亜子さん的にはどっちが好みなのかニャー」

「だから違うってば!」

 

 祐奈は絶好のからかいのネタを手に入れたとばかりにニタニタと笑っていて、亜子は以外に図星だったのか少年達をチラチラと見ながらも抗弁するも力が弱い。

 アキラはエキサイトする二人を困りつつ、あっという間に焼きそばを食べて去って行く少年達の背中を見送りながら首を捻った。

 

「でもあの二人、どこかで見たことがあるような……」

 

 

 

 

 

「なぁ、いい加減に機嫌直せや。焼きそば、奢ったったやないか」

「別に食いたかったわけじゃねぇし」

 

 と言いつつも、爪楊枝を咥えながら歩く金髪の少年の顔は腹が膨れて満足そうであった。

 食べておいて感謝の一つもない相手に黒髪の少年は眉を顰めた。

 

「じゃあ、焼きそば代返せや」

「金持ってねぇよ、小太郎。残念だったな」

「くっ、後で請求したるからな、アスカ」

 

 せせら笑う金髪の少年――――アスカ・スプリングフィールドに、黒髪の少年――――犬上小太郎はしっかりと心のメモ帳にさっきの焼きそばの代金を請求することを誓う。

 

「小さい奴め。それぐらい奢れ」

 

 喜怒哀楽の昂ぶりを感じさせる心地よい空気があった。あくまで楽しく、みんなで仲良く盛り上がれる祭りが。その中でアスカだけが不満そうな表情を浮かべている。そのことが小太郎には許せないようだ。

 

「始めから奢りやと言うとるやろが。そう言うんならその不満そうな面を止めればええねん」

「俺を別荘から連れ出したのはお前だろ」

「お前だけ残るのは許せん。それに吸血鬼もいい加減に出てけって言うとったやないか」

 

 ここに来るまでの経緯を思い出して、不満そうな面から仏頂面に代わったアスカは鼻を鳴らした。

 

「たかだか二年ぐらい別荘を使っただけで」

「そうは言うけど、こっちでは一ヶ月しか経ってないんやで。このペースやとあっという間に年食ってしまうわ」

「強くなれるなんら俺は構わねぇ」

 

 花畑のようにあちこちに並んだ出店、企画の舞台、大声で呼びかけ合い、準備をしている大勢の生徒達。みんなで精一杯に準備して、たった数日で終わってしまう夢の時間を演出する。その無駄で、馬鹿らしくて、けれど素敵な刹那。多くの人達が待ち望んでいた乱痴騒ぎを目前に控えて猛っていた。

 だけど、騒がしくも楽しそうな人達の中でアスカだけが別世界の人間のように馴染めない。

 

「だから吸血鬼に叩き出されんねん」

 

 なにかに追い立てられるように修行に没頭して、周りと隔絶した時間の流れを生きようとするアスカを懸念したエヴァンジェリンの行動を小太郎は理解していた。

 そんなアスカに付き合っている小太郎も同罪かもしれないが。

 

『麻帆良祭当日まで、後16時間です。各イベントサークルの責任者は本日19時に学祭実行委員会本部へ……………』

 

 アナウンスが流れる中を二人は無人の野を行くかの如く進む。

 目的地はない。

 別荘を追い出され、当てもなく歩き続けるアスカに付き合って小太郎も彷徨う。

 別荘でこの二年を共に過ごしながらも、体だけが強くなって心は少しも進展していないアスカに付き合うのも、親友の自分の役目であるかのように。

 

「ん?」

 

 なにかが落ちてくるような音が耳に入ってきて、二人は揃って顔を上げた。

 上げた視界を何かがよぎって落ちてきた。

 

「おっと!?」

 

 落ちてきたのが人だということに気づき、咄嗟な反応としてアスカの腕がその人を受け止める。

 かなりの高所、それも隣接している建物の上から落ちてきたような圧力を、受け止めた瞬間に膝を曲げて感じながら肉体が反応して無意識の内に魔力強化を施す。素の身体能力では五階の建物から落ちた人を体重+重力込みで受け止めることは無理だと感じての反応であった。

 魔力強化を施された身体能力ならば、それほどの重さであっても受け止めるのに支障はない。羽毛の如く受け止めた相手が誰なのかと見下ろして驚愕した。

 

「おや、誰かと思ったらアスカさんではないか。丁度良かった、助けてくれないか。私、怪しい奴らに追われてるネ」

 

 アスカの腕の中にいたのは出席番号19番超鈴音。

 言葉通り誰かから逃げてきたのを示すように僅かに息を荒げている。顔には汗が滲んでおり、元級友として、文武両道であることを知っているのでこれだけ疲れた姿を見るのはアスカにとっても意外であった。

 彼女とさして交流がない小太郎は、超がこの二年で二人の身長は二十㎝以上伸びている今のアスカを分かったことに驚いた。

 人相は変わっていないだろうが、成長して子供っぽさが抜けてきているはずなのに少しの迷いもなく当てて見せた彼女に問い質すよりも、言ったその内容に気を取られる。

 

「追われている?」

 

 この麻帆良で怪しい奴らに追われているという超の言葉が俄かには信じ難く、アスカと小太郎は周囲を見渡して気配を探る。

 

「なんか来るで。数は十ってところやろう」

 

 すると、超が落ちたらしい建物の上からこの場所に近づいて来る複数の気配を感じ取った。幾つかの魔力反応から、魔法使いかそれに準ずる者に追われていると推測する。

 

「やるか?」

「いや、ここは逃げた方がいいだろ」

「よし、先行するわ」

 

 状況は分からないが超の言葉に嘘はないと判断した。全てを話しているとは思えないけど、状況を把握するためにも人がいない場所に移動した方がいい。

 アスカの考えに同調した小太郎が、走り出して道を掻き分けていく。

 

「行くぞ、捕まっていろ!」

 

 アスカは超に言いながらお姫様抱っこのまま、後を追って走り出す。

 先行する小太郎が脇道を通り抜けて、近くの路地裏の入る。

 路地裏を通り抜けることなく待っていた小太郎の下に辿り着いたアスカは、人の眼に入っていないことを確認してから認識阻害の魔法で自分達を覆う。

 直後、小太郎が飛び上がって狭い路地の壁を蹴り上げる。

 爪先が壁に着地した瞬間、逆の足で更に壁を蹴り、また跳躍する。

その動作を何度も続けて繰り返すことで、重力に従って落ちることなく登りきる。十数メートルはある建物の天辺にまで駆け上った。普通の人には出来ない跳躍力と俊敏さだ。

 最後に強く壁を蹴って反対側の建物の屋根に上がる。身体強化をして登っているといっても中国雑技団もビックリな芸当であった。

 

「うぉ~、凄いネ!」

「俺達も行くから手を離すなよ」

 

 感心している超に言って、アスカも同じようにして小太郎の後を追う。

 辺りを警戒しながら待っている小太郎の下に辿り着くと、なんともなしに腕の中の超を見下ろした。

 

「?」

 

 普通の人間にはとても出来ない動きに振り回されているのにも関わらず、見られることが理解できていないように逆に見返された。

 この異常事態にも関わらず、動揺した様子が欠片も見当たらない。そこが逆に不自然過ぎた。

 

「来るネ!」

 

 超の声によって、ゆっくりと思索に耽る暇は与えられなかった。

 

「ちっ」

 

 覆面の黒装束の姿をした集団が近づいて来るのを見て、舌打ちをして背中を向けて屋根の上を走り出した。

 

「なんやねん、アレは!?」

「超を追ってるんだろう」

「そういうことやなくてな!」

 

 軽々と建物の間の境目を飛び越え、別の建物の屋根に降り立った小太郎が振り返りながら問いかけるが、超を抱えたアスカだって分かるはずもない。

 

「実は私、悪い魔法使いに追われてるネ。助けてほしいヨ」

「悪い魔法使いやて?」

「向こうが使ってるのは西洋魔術だけどな……」

 

 窮地の姫よろしく涙目で縋る超に二人の少年は懐疑的だった。

 数多の魔法使いがいる麻帆良学園都市に悪の魔法使いが入り込み、魔法使いではない超を追いかけ回す理由に見当がつかなかったからだ。

 

『どうする?』

 

 と、二人はアイコンタクトを交わすが、情報が一方的で少なすぎて答えは出ない。

 

「取り合えず、逃げとこか」

「だな」

 

 面倒事は御免で、超は知らない仲でもないから後でどうとでもなると考えた二人は逃げるスピードを上げた。

 風に揺られてアスカの胸の前で魔法発動媒体である水晶のアクセサリーが揺れる。

 自分の目の前で揺れる水晶のアクセサリーに、超は瞳をどこか嬉しげに細めた。その手は自らの胸元に添えられていた。

 

「屋根から出てきたおった!?」

 

 飛んだ進行方向にある屋根から壁を透過するように現れた覆面の黒装束軍団に驚く小太郎の後ろで、アスカは少しずつ追っ手の正体に気づき始めていた。伊達に二年の間にエヴァンジェリンから無理やりに薫陶を受けてはいない。

 あれは西洋魔術の中であまりポピュラーな系統ではない影の使い魔の一種。

 

「ひゃー」

 

 追われているというのに緊張感のない超を斜め上に放り投げて、超を狙って手を伸ばす覆面の黒装束四体をすれ違いざまにそれぞれ一撃の下に叩きのめす。

 

「俺の方が斃した数は多いで」

 

 六体を斃した小太郎が自慢げにしているが、アスカは自分が斃した屋根に落ちた覆面の黒装束四体が滲みだすようにして消えていくのを見ていたので聞いていなかった。

 黒装束が跡形もなく消えて、自らの推測の正しさを確信していく。

 

「大丈夫か?」

「アイ、サンキュネ」

 

 相手の正体と修学旅行での超の魔法関係への関わりよう、推測を重ねた上で結論を出す。

 

「小太郎、一端撒くぞ」

「ええけど、アイツらどうすんねん」

「会ってみるさ」

 

 放り投げた超を危なげなくキャッチしてまた走り出す。今度は身体強化をバリバリに施して、覆面の黒装束もついて来れない速度で。

 

「飛ばすからしっかりと捕まってろよ!」

「おー」

 

 超の安全を慮って言ったのだが当の本人は人の腕の中で借りてきた猫のように寛いでいて、思わず力が抜けて屋根から足を踏み外しそうになったアスカであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 通りから離れて人のいない広場に立つアスカの前に、たらこ唇と角刈りが特徴の眼鏡をかけた黒人男性と聖ウルスラ女子高等学校の制服を着た金髪女性、そして箒を持った女子中等部の子がやってきた。

 小太郎と超の姿はない。いるのはアスカ一人だけ。

 

「誰かと思えば君か、アスカ君」

 

 向かい合うアスカの前に誰もいないことを確認した黒人男性は眉を顰めた。

 

「よく俺だって分かったな、ガンドルフィーニ先生。結構、変わったと思うんだが」

「正直、当てずっぽうだったが、大きくなろうとも魔力の気配は変わらんよ」

 

 ガンドルフィーニは眼鏡の位置を整えて、改めてアスカを見る。

 互いを見知っているように話している二人には既に面識があった。

 ガンドルフィーニは麻帆良女子中等部の教師ではない。なのに、なぜ面識があるかといえば、新田がいる飲み会に何度もアスカは潜り込んでいる。その才に彼は周りにアスカを紹介する。その時にガンドルフィーニと簡単な挨拶程度だが会話を交わしている。

 ガンドルフィーニにとってみればアスカは印象深いので忘れようがない。アスカからしたらその他大勢で印象が薄いかもしれないが記憶に残っていた。

 

「随分と大きくなっていることを聞きたいが、その前に………………どういうつもりかね。何故君が問題児で要注意生徒の超鈴音を庇っているんだ?」

 

 アスカが成長していることに対しての困惑が大きいようだが、自分の仕事を優先することにしたようだ。

 

「同級生が襲われていたら助けるのは当然のことじゃないか」

「何!? 超鈴音が同級生? 君が?」

 

 ガンドルフィーニは超を危険人物と言いながらも、どこのクラスにいて同級生が誰かまでは認識していなかったらしい。

 

「そうか、どこぞのゴロツキの魔法使いが学園内に侵入したかと肝を冷やしたぞ」

 

 手を顎に当てて、ガンドルフィーニは言葉通り安心したように深く息を吐いた。

 

「彼女達は?」

 

 ガンドルフィーニには面識があるが、彼の後ろに控えている二人の少女については会ったことがないので訊ねた。

 

「私が担当する魔法生徒、っと言って分かるかな?」

「なんとなく」

「説明が早くて助かる。これもなにかの縁だ。彼女達を紹介しておこう」

 

 学園都市の各地に散らばる小・中・高・大学に常時勤務する魔法先生の、ガンドルフィーニはその一人である。

 「魔法オヤジ」「魔法少女」が都市伝説化していることは、ガンドルフィーニなどの真面目と呼ばれる者達には頭の痛いことではあったが、アスカが手持ちの情報から推察してくれているので少し安心していた。実際には、字面から判断したに過ぎないのだが。

 これで都市伝説から予測されていたら情けなさすぎて泣けてくる。

 そんな内心を押し隠して、ガンドルフィーニは箒を持った女子中等部の少女に目で促した。

 促された少女が一歩前に出る。

 

「初めましてっていうのも変ですけど、麻帆良学園女子中等学校2-Dの佐倉愛衣です。実は何度か廊下ですれ違ったことがあるんですよ」

 

 ペコリと一礼する愛衣に失礼だったが彼女のことをアスカは覚えていなかった。

 在籍している3-Aと同じ校舎内で見かけることはあったとしても、すれ違ったぐらいの人間を全て覚えているほどアスカは酔狂ではなかった。

 

「悪い、覚えてない」

 

 アスカが唯一の男子生徒として目立っていて愛衣が知っていても、反対の立場からすれば無理もない。しかし、愛衣がアスカを知っているのはそういう理由ではなかった。

 

「昔、魔法学校対抗戦でも顔を合わせたんですけど、覚えていませんか?」

「魔法学校対抗戦?」

 

 記憶野が刺激される。決してアスカは記憶力が低いわけではない。寧ろ、一度覚えたことは忘れないタイプだ。

 改めて愛衣のことを見る。

 2-Dという話だから、彼女が魔法学校対抗戦に出たのは二年以上の前の話のはず。

 その時のことを思い出したアスカは、目の前の少女に似た相手が対戦校の中にいたことを思い出した。

 

「もしかして、ジョンソン魔法学校のファイアーダンサーか?」

「そうですけど、その呼び名は止めて下さい」

 

 自分のことを覚えていてくれたので嬉しさにハニカミながら笑う愛衣を前にして、アスカの目が意表を突かれたように丸くなった。

 

「おや、もしかして二人は知り合いだったのかい」

 

 楽しそうな愛衣と何故か苦み走ったような表情になったアスカが旧知らしいことに気づいたガンドルフィーニが口を挟んできた。

 

「知り合いというか、火炙りにされた仲というか」

「変なことを言わないで下さい。三人がかりで攻撃してきたのはそっちじゃないですか」

「トラップを仕掛けて人を火達磨にしといて良く言うな。同じ魔法属性のアーニャが気づいてネギが助けてくれなかった死んでたぞ、俺」

 

 両手で箒を持って喋り方などから、大人しく控え目そうな性格が簡単に想像できる愛衣が事前に作っていた罠に嵌って死にそうな目にあったアスカは、当時のことを思い出してこっそりと距離を取る。

 

「優勝したのはメルディアナだからいいじゃないですか」

 

 愛衣はまだ話したい言い足りない様子だったが、アスカの方にトラウマがあるのかジリジリと開いていく距離にガンドルフィーニは紹介を続けることにした。

 

「次に彼女は……」

「高音・D・グッドマンです」

 

 紹介しようとしたガンドルフィーニの機先を制して、自らの名を名乗った聖ウルスラ女子高等学校の制服を着た高音・D・グッドマンは大股で一歩で二歩分だけ前に進んだ。

 そのまま歩を止めることなくアスカの前に進み出ると手を伸ばした。

 

「あなたのお噂はかねがね窺っていました。お会いできて嬉しいです」

「は、はぁ……」

 

 高音の動作が握手を求めていると思って、自らも手を伸ばすと両手で握られて困惑したのも束の間、高々会ったぐらいでこの喜びよう。アスカは困惑するばかりである。

 

「私達、人間世界に生きる魔法使いの使命は世の為・人の為にその力を使うこと。その実現の為に無私の心で打ちこまねばなりません」

 

 なにやら内心を熱心に語り出した高音に差し出した手を握られたまま、唐突な展開にアスカの困惑は深まるばかりである。

 

「力ある者は力なき者の為にその力を使わねばならない。我々はそのことを充分に心に留めておかねばなりません。あなたほど私の理想を体現している人はいません!」

 

 本人も気づいていないのだろう、熱を込めて力説しだしてから高音の手に力が入り始めた。手を両手で包まれているので地味に痛い。しかも言葉を重ねるごとに増していく熱に比例するように手に込められる力が増していく。

 

「これさえなければ良い子なんだが」

「お姉さまったら」

 

 頭が痛いとばかりに手を額に当てるガンドルフィーニと恥ずかしがって身を縮める愛衣。

 魔法使いとして、無私の心で世のため人のために魔法を使う理想に燃えているのだが正義感が非常に強い反面、思い込みが激しいのが高音・D・グッドマンという少女の特徴であった。

 止められる人達がそんな状態だったので、高音の暴走は尚も続く。

 

「弱きを守り強気を挫くあなたの行動によって、治安が良くなったとも聞きます。私もあなたを見習って修行を全うし、いずれはあのサウザンドマスターのような『偉大な魔法使い』となるのです!!」

 

 止められる二人が役に立たないので、危険度に突入し始めた痛みに。如何にして傷つけずに手を離してもらおうかと僅かに焦りを滲ませて模索していたアスカ。

 熱弁を振るっている高音は自己に埋没し過ぎて気づかない。

 

「つい先日も侵入した爵位持ちの上位悪魔を一人で倒したと……」

「手、痛いんだけど」

「あ、申し訳ありませんっ!」

 

 言ってはいけない単語を口にしたと知らぬ高音だったが、アスカの静かに、だが威圧のある声によって一瞬にして正気に戻った。

 正気に戻って、自分が相手のことを考えずに熱くなって自論を語って周りを置き去りにし、あまつさえアスカの手を強く握り過ぎていたことに気がついた。

 慌てて握り締めていた両手を離せば、下にあるアスカの手は全体的に赤くなっていた。

 

「申し訳ありません! ああ、こんなに手が赤く…………。愛衣! 治癒魔法をっ」

「あっ、はい」

「これぐらいでいらないって」

 

 自分が仕出かしたことに申し訳なさを感じて、目の端に涙を浮かべた高音の懇願に反応して下がっていた愛衣が近づこうとするのを、治癒魔法は必要ないと断る。

 

「あの、本当に大丈夫なのですか?」

 

 高音には自らの過ちによって害を与えた事実を開き直ろうとする厚顔無恥さは持ち合わせていなかった。

 少年に下手に出ることも苦ではないようだった。本当に申し訳なさそうに気にしてくる高音に、アスカの方が逆に困ってしまう。

 

「平気だって、ちょっと痛かっただけだから。もう痛みも引いた」

「すみません」

 

 握られていた手を振っておどける仕草を見せる。

 何度も頭を下げる高音に言ったように、もう強く握られていた手の赤みは引いて痛みもない。

 

「さて、そろそろ話を戻してもいいかな」

「も、申し訳ありませんでした?!」

 

 アスカの赦しに頬を緩めかけた高音は続いたガンドルフィーニの言葉に、自分が散々に場を引っ掻き回したことを自覚させられた。緩めかけた頬を盛大に引きつらせて、茹蛸よりも真っ赤にして耳まで赤くなってしまった。

 慌てて足を縺れさせながら下がり、アスカの視界から消えようとガンドルフィーニの影に隠れようとしていた。

 

「確か君は修学旅行の時に超鈴音のことを聞いていたね」

 

 ガンドルフィーニは高音の奇行を見ないことにして話を強引に元に戻した。このままでは一向に話が進まないと考えたためだろう。

 アスカとしてもガンドルフィーニの強引さを気にすることはなかった。

 

「ああ、色々と助けてもらったから」

 

 結果的にせよ、超の行動によって明日菜が島にやってきてアスカと小太郎が合体したアスタロウは命を繋いだのは事実。エヴァンジェリンの早めの登場も超の手引きだという話。

 協力してくれた茶々丸の武装も超が持ち込んだということで、借りはあっても貸しはない。

 ガイノイドタイプのロボットである絡繰茶々丸は魔法と科学の融合体である。

 その茶々丸を作り上げたのは他でもない、超鈴音ともう一人、葉加瀬聡美の二人。そして絡繰茶々丸の製作を通じてエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルとも協力関係にあることは学園関係者なら直ぐに調べれば分かる。

 学園長より超に対する情報を開示されており、彼女がエヴァンジェリン関係で多少の情報のリークを許されていることを聞いていた。

 

「超がなにかしたと?」

「彼女が通常では侵入不可能な会合の場を科学技術を使って覗き見していた。私達はそれを追ってきたんだ」

「場所は?」

「世界樹広場前だ」

 

 む、とガンドルフィーニの回答を聞いたアスカは少し考え込むように眉間に皺を寄せた。

 

「超鈴音が警告を無視したのはこれで三度目だ。警告を三度も無視したからには、見つかれば罰を受けるのは覚悟していたということだ」

 

 校則を破れば普通の生徒も罰則は受ける。これは法律に置き換えてもよい。ルールを破れば罰せられるというのは万国共通の原理である。魔法使いが現代社会と平和裡に共存するために、その存在を公には秘密にしている。一般人に多くを知られるべきではない。

 

「超に対する罰則は?」

「魔法使いに関する記憶を消去することが妥当だろう」

 

 ガンドルフィーニが言っていることは正論だ。どこにも穴はない。そこに余計な感情を挟むことなく彼は自らの職務に従って仕事をしているに過ぎない。が、正論と正しさだけで世の中は回らない。

 アスカは社会のルールよりも己が信条を優先させる。 

 論理の正しさだけでガンドルフィーニの味方をしていては借りは返せない。

 

「少し強引じゃねぇか」

 

 だからこそ、アスカはガンドルフィーニの眼を見据えて話す。

 

「超君は危険人物だよ。あの凶悪犯エヴァンジェリンにも力を貸しているんだ。油断は出来ない」

「それが強引だと言ってんだ。その論理で言えば、修学旅行で超の力を間接的にとはいえ借りた俺も同じだ」

「む、今のは失言であった事は認めよう。だが、君の言っていることは詭弁だよ」

 

 ガンドルフィーニが言ったように、アスカも自分が言ったことが詭弁だとは自覚している。そしてガンドルフィーニの気持ちもよく分かる。

 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルという名は、それだけ魔法使いの間で大きすぎるものだった。魔法界において恐怖の対象となっており、600万ドルの賞金首となっていた。また、寝ない子を大人が「『闇の福音』が攫いに来るぞ」と脅かすなど、「なまはげのような扱い」を受けている

 普通の神経を持つ者ならば疑わぬわけがない。一度疑心暗鬼に陥れば、疑うところなどそれこそ無限に存在する。どんなに綺麗な姿を見せたとしても、それさえブラフなのではないかと疑うようになればどうしようもない。

 これが彼女のクラスメイトならば、吸血鬼の真祖というイメージよりも前者が先に来る。これは明日菜などがその典型だ。

 ガンドルフィーニは一般人の妻と今年小学校に上がる娘を家族に持つ。近くに時効になったとはいえ、凶悪犯がいると思えば安心できない。例え押し隠そうとも、ふとした時に言葉の端々に本音が滲み出てしまう。

 本来はガンドルフィーニの考えが普通なのだ。アスカのは長い時間を共に過ごし、交流を交わしたことで心の一部を許せるようになった結果に過ぎないのだから。

 

「だとしてもだ。それに先の追跡時、超は五階の屋上から落ちた。俺が受け止めなければ地面に叩きつけられ、大怪我をしただろう。目的は置いておいて、やり方に問題があったんじゃないか?」

「彼女が逃げたことにも要因があることを忘れないでほしい。そうすればこんなことにはならなかった」

「それでも一般人が巻き込まれて怪我をした可能性はあった」

 

 これは粗探しだ。隙を探して突き、こちらを有利にしようとする行為。

 

「更に問題の会合の場は、世界樹前広場は公共施設のはずだ。本当に聞かれたくない話をするのならば、どこかの部屋で行うべきだろう。今回のような場では覗き見たとしても罪に問うのは行き過ぎだ」

 

 論理に穴はある。が、それ以上にこちらに不利な材料が多すぎた。アスカは自分の不利を悟る。他に方法はないかと頭を回す。本人からしても不思議なほど回し続ける。

 

「確かにそうだ。が、裏のことであっても学園長が正式に開いた会合だ。場所は関係ない」

 

 不思議な執着を感じるほど熱意を見せるアスカに、ガンドルフィーニの眉が初めて顰められた。

 

「君はなぜここまで超君を庇おうとするだね。彼女が間違ったことをしているのは君も分かっているだろ?」

 

 ガンドルフィーニは遥か年下の若者相手であっても下に見ることなく冷静に答え続ける。

 逆にアスカは自分がなぜここまで食い下がるのかが不思議であった。同級生を守るにしても、超が犯した罪は変わらない。彼女には警告がされており、それを分かった上で行っているのだ。弁明の余地はない。

 

「修学旅行の時に力も借りた恩がある。一度ぐらいは味方するの当然だろう」

 

 きっぱりと言い切ったアスカに気圧されるように、口を挟みかけた高音と愛衣がたじろぐ。

 嘘だ、と自分で言っていてアスカは思った。

 本心はそこにはない。建前を並べ立てる不思議。分かってはいる。分かってはいるがアスカはそれでも超の弁明を止めようとはしなかった。アスカ自身にも理由は分からなかった。

 不思議な直感が超を守れとアスカを追い立てる。

 

「…………ふむ」

 

 ガンドルフィーニは意地でもどく気はないと立つアスカを見て、考えるように手を顎に当てる。直ぐに手を離した。考えは纏まったようだ。

 

「分かった。学園長も深追いは良いと言っていた。無理に捕まえる必要もない。今日の所は君に任せよう」

「ありがとう」

 

 ガンドルフィーニの采配に、アスカは軽く頭を下げて感謝を示した。

 

「だが、学園長が君の意見を認めなかった場合は分かるね」

 

 ガンドルフィーニの確認に頷きを返す。

 麻帆良学園都市の表と裏のトップである学園長の意見は、時に他の意見を凌駕する。その学園長がアスカの意見を否と言えば従わざるをえない。分からないアスカではない。

 

「それと気をつけたまえ。君が思っている以上に責任は重い。そして次がないことも」

「承知している」

「ならいい。では、後は任せたよ。そこで隠れている超鈴音にも言い聞かせておいてくれ」

 

 念を押すことだけは忘れず、ガンドルフィーニは二人を連れて戻って行った。

 三人を見送ってアスカは深い深い溜息を吐いた。自分でも強引だったと思っていて、半ばガンドルフィーニの好意に見逃してもらった形だった。

 直後、アスカがいる後ろの茂みから小太郎と超が出てくる。

 

「全部お見通しやったってことやな。やるな、あのおっさん」

「だな」

 

 軽く掻いたアスカは、小太郎に頷きを返して超を見る。

 

「いやー、ホントに助かったヨ。二人に助けられ、アスカさんには命まで救ってもらったネ」

「礼はいいからおかしな行動は取るなよ。なにかしたら俺の責任になるんだから」

 

 どうも深刻さが足りない超にお礼を言われても本当に感謝されている気がしない。それどころかおちょくられているような気さえして、普段は使わない頭を酷使したのでアスカの言葉は投げやりになっていた。

 

「分かったネ。あ、これは命の恩人に対する細やかなお礼ヨ♪ では、再見♪」

 

 迷惑をかけた自覚があるのかないのか、超は投げやりな言葉を気にした風もない。

 もう6月だから熱いだろうフード付きのコートのポケットからなにかを取り出し、アスカに強引に渡してさっさとスキップでもするようにして去って行く。

 

「俺にはないんかい」

 

 アスカにだけお礼を渡して去って行く超を不満そうに見送った小太郎は、困ったように立ち尽くすアスカの傍に寄る。

 

「懐中時計か」

「んなもん、貰ってもな。いるか?」

「俺かていらんわ」

 

 超から渡されたのは首から下げられるように鎖の付いた変なデザインの懐中時計だった。アスカの手の平に誂えたようにピッタリと収まる不思議さ。

 それはともかく、時計を持ち歩く習慣もないアスカと小太郎には貰っても嬉しい物でもなかった。押し付けようとしたアスカから小太郎も逃げる。

 実際には人から貰った物を渡すほどアスカも行儀悪くない。

 なんとなく手の中の懐中時計を弄び、どうしてあそこまで超に執着したのか、その正体を探ろうした。

 

「懐かしい?」

 

 もっとも近い感情を上げれば「懐かしい」だった。どうして超に懐かしいと感じるか分からない。そっと懐中憧憬を持っていない手を胸に当てて、その懐かしいような感覚の正体を模索する。だけど、アスカには答えが分からなかった。

 心が超になにかを感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 太陽が半分以上沈んで夜が近づいていた。

 僅かな魔力を漏らして光り出した世界樹、先走るように打ち上げられた花火が空を照らす。麻帆良祭の前夜祭が始まったのだ。

 夜も寝ずに騒ぐつもりなのか、煌びやかな電灯と花火を背景に生徒達は大いに盛り上がっている。そんな麻帆良学園の上空を、「麻帆良祭実行委員会」とプリントされた飛行船が花火と同じ高さを飛んでいる。飛行船の上には、超、葉加瀬、茶々丸がそれぞれ同じフード付きのコートを着て佇んでいた。

 超は近くにいる葉加瀬や茶々丸の存在も忘れたように、眼下を眺めやったまま呟いた。

 

「これからだナ、本当に大変なのハ」

 

 明日から始まる闘争に向けての言葉であったはずだが、それを口にした彼女の顔には、言葉には不似合いな微笑がほんの一瞬だけ漂った。

 

「どうでしたか、彼は?」

 

 6月でも空の上は寒い。肌寒い空気を防ぐために着ているコートが風で靡く。ポケットに手を入れながら葉加瀬が超に尋ねた。

 

「あれが私の敵ネ。ふふ、これ以上はないヨ」

 

 問われた超は呟くともなしに、口からその感慨を漏らしていた。

 率直な意見だった。しかし敵という言葉に、憎しみはおろか、敵意も含まれていない。それどころか友愛に似た感情が含まれていた。ただ敵と呼ぶ者とは違う別な意味が含まれていた。

 

「ようやくここから始まるネ。私は必ず叶えて見せるヨ。世界を救う為にも…………」

「超さん、あなたが本当に望むのは―――――」

 

 だから、葉加瀬の小さな声で呟かれた言葉もまた、風の音に巻かれて誰にも届くことはなかった。

 戦いが始まる。一人の少女の願いと、一人の少年の未来を決める闘いが。戦いの果てに少女は何を見るのか、少年は何を見つめるのか。この時はまだ誰も分からない。

 強く願い求める二人の道が遂に交錯する。

 




オリジナル設定。ザ・大人の付き合いです。

次より第四章「希望」です。

次回

「舞台開幕」


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第四章 希望編
第38話 舞台開幕


「第四章 希望編」始まります


 

 学園祭当日は、よく晴れた。夏が近い。朝から刺すようなきつい日差しで、日中はかなり暑くなりそうだった。今はまだ過ごしやすい気温だが、本格的に夏が来ればそんなことを言ってはいられなくなるだろう。

 アスカの口から思った言葉が口を突いて出る。

 

「暑いな」

「ほんまやで。まだ六月やっちゅうのにな」

 

 そう言って隣に立つ犬上小太郎が見上げた先には、六月半ばの梅雨の終わりを告げるような蒼い空が広がっている。

 いささか気の早い太陽は、まだ六月の半ばだというのに、焼け焦げろと言わんばかりに地面を全力で睨み付けている。

 ムッとするほど湿度の高い空気が押し寄せ、陽射しの強さだけでなく人の密集による気温の上昇もあって身体の内から水分を絞り出そうとするとでもするように拭っても止まらない汗が服に染みていく。

 嵐の前の静けさという不穏な言葉が頭によぎるほど風もなく雲も少なく気持ちの良い晴天で、陽射しも零れる宝石のようである。

 

「しっかし、ほんまに暑いのう」

 

 人混みを縫って歩いていた足を止めると、小太郎は流れ落ちる汗を服の袖で拭った。

 吊られて足を止めたアスカは、シャツの首周りを持って風を送り込みながらウェールズとの違いに辟易していた。

 

「日本っていつもこんなに暑いのか?」

「ちゅうより、この人の密集度の所為やろ。なんやねん、この数は」

「あ~、祭りはどこの国でも楽しみにしてたんだろ」

 

 納得したアスカが辺りを見渡せば、何時の間にそこまで増えたのか、猫の這い出る隙間もないほどにギッシリと並んだ人の壁。そして誰もが楽しげなイベントが始まるのを今か今かと、まるで飢えた獣のように待ち構えていた。

 麻帆良学園都市の空を綺麗な円を描いた白い雲が流れて、色とりどりの風船が雲を追いかけるように吸い込まれていく。航空隊が生み出した乱気流に巻かれて流される風船を眼で追う二人。

 空を茫洋とした視線で色とりどりの風船が空へと吸い込まれていくのを見ているのは、祭りの開始を今か今かと楽しさを抑えきれない表情で待ち受ける周りと違って、どこか取り残されたような気分で眺める。

 

『生徒の皆さん、午前10時を過ぎました』

 

 各々が腕時計などを見て時間を確認して待ちに待ったアナウンスが流れ始めると、騒めいていた観衆が祭りの始まりを目前に、ほんの僅かな時間だけ沈黙する。

 

『只今より、第78回麻帆良祭を開催します!!』

 

 航空部のパフォーマンスが行われ、麻帆良祭進行委員会のアナウンスが開催を宣言した。

 放送が学園全体に響いて、大勢の人間が歓声を上げている。

 大空を幾つもの気球が飛び、どこの大学部が調達したのか象や馬が歩き回り、生徒達は様々な仮装で往来する。お世辞抜きで学園祭というレベルを超えた、都市を上げての一大祭りが始まった。

 

『一般入場の方は入り口付近で立ち止まらないように――――――』

 

 人々の歓声と嬌声が入り交じり、独特の音楽場と変わる広場の中心にいる二人の眼の前で紙吹雪が舞っていた。

 天を覆って舞い散る色取り取りの欠片が、人々の歓声と一緒くたになって渦を巻く。風に吹き上げられ、煌めく光の粉をたゆたわせて、漫然と太陽が輝く空に駆け昇ってゆくのだった。

 

「……………」

 

 群衆の中でアスカが遥か遠き天空へと手を伸ばす。どれだけ手を伸ばそうとも、いと小さき人の身では太陽は掴めない。握った拳の向こうで太陽は燦然と輝いている。

 太陽を掴みたいわけじゃない。アスカは何時だって空に想いを馳せる。

 ウェールズと土地や空気が違っても何一つ変わらないのは空だけだ。だからというわけではないが、このように晴れた空の下にいる時は不思議と落ち着ける。

 空は何時も通り青くて、どこまでも高くて。世界は昨日までと同じ仮面を被って、そこに在る。空は、ちっぽけな夢だの過去だの未来だの、本当に些細な悩み事に苦しんで生きている自分達を、きっと困った子供を見るように呆れながらも包んでくれている。 

 紙吹雪のようにどこまでも行けたらと思った。自分の行きたいところへ、望む相手がいる所へ、どこまでも果てしない場所へと。

 どこまでも行けると思った瞬間、自分がどこへ行くのかと疑問が脳裏を過ぎった。一体どこへ行けばいいのか、果てのない青空はアスカに何も応えてはくれなかった。空はただそこに在るだけで答えを返してはくれない。

 

「折角の祭りやどっか冷やかしに行こか。まずはどこへ行く、アスカ?」

「ん? ああ、適当にぶらつこうぜ」

 

 小太郎に話しかけられ、らしくもなくセンチメンタルになっている自分に自嘲したアスカからどこか遠くで景気良く花火が打ち上げられている。

 

「飯食って遊んで騒いで…………そうしたら時間は勝手に過ぎるだろ」

 

 久しぶりの娯楽だと、今は懊悩を忘れることにしてアスカは歩き出した。

 良く晴れた青空の下、麻帆良学園都市は予想通りの混雑振りを見せていた。

 大通りの両側に屋台がずらりと並び、その間に沢山の人がいた。カップルで綿飴を舐めてたり、女の子が姦しく笑い合いながらお菓子を食べてたりしている。両親と子供二人の四人家族が子供達を中心として嬉しそうに話しながらアスカと小太郎の前を通り過ぎた。

 

「よくもまあ、こんなに人が集まったもんや」

 

 右を見ても左を見ても、溢れんばかりの人、人、人。むしろ感心してしまった小太郎の視線の先では、一輪車に乗ったピエロが大通りを走り回りながら風船を売る。

 一つの広場で何組もの楽団がそれぞれ勝手な曲を演奏する。焼き菓子の露店に客が集まる。酒瓶が飛び交る。お祭り特有の空気が流れて来ていた。

 ピエロから風船を貰った子供が転んで、その手を離れた風船が空の上へと飛んでゆく。雲一つない一面の青空に風船が彩りを添える。賑やかで、騒がしくて、落ち着かなくて。そんな日常からかけ離れた時間が、今この街を包み込んでいた。

 

「人に酔いそうなぐらいにな」

 

 そこらの屋台で買ったリンゴ飴を、今時珍しい煉瓦を積み上げた赤銅色の壁に背を凭れて舐めていたアスカは若干の呆れと共に想いを吐露した。

 

「ん? おい、小太郎」

「分かっとる」

 

 アスカの前に立っていた小太郎は、言われるまでもなく接近してくる誰かの存在を察知していた。

 二人の腰ほどの身長しかない子供が前を見ていないのか真っ直ぐ向かってきて、小太郎が伸ばした手に頭を抑えられた。

 

「ちゃんと前見て歩けや」

 

 ビックリした表情の小さな少女の頭をポンポンと軽く叩く小太郎。

 肩の辺りで髪を綺麗に揃えている少女は笑顔で答え、そして小走りで人混みの中に飛び込んでいった。

 

「優しいじゃねぇの、小太郎ちゃんよ」

「うっさいわ。通行人の邪魔にならへん内に行くで」

「へいへい」

 

 その背中を見送って、アスカが茶化すと小太郎が鼻を鳴らす。

 見渡せば、辺りは見事なまでの人、人、人。寄せては返す波のように、いやむしろ渦を巻く激流のように、老若男女が歩き回っている。ぼんやりと突っ立っていられるような環境ではない。

 歩み出そうとしたその時だった。

 

「きゃぁああああああああああああっ!」

 

 祭りに騒ぐ通りに女性の悲鳴が響き渡った。

 二人が揃って振り返ると、直ぐ前の道を女物のハンドバックを持った、黒サングラスに黒ジャンバーに顔半分を覆う白いマスクをした如何にもな風体の男が通り過ぎていく。

 視線を反対に向ければ、男が通ってきた方向で石畳に蹲った女性がいた。倒れる時に足を捻ったのか、立とうして痛みに顔を歪めた。

 

「誰かその男を捕まえて! ひったくりよ!」

 

 自分で追いたくても足を怪我して立っているのがやっとの女性が掠れた声で叫んだのと、アスカと小太郎が頷き合って動き出したのは同時だった。

 

「待てっ!」

 

 アスカによる静止の声をかけられて、ひったくり犯は自分を追いかけて来る者がいると分かったのだろう、長く続く大通りの石畳に観光客や生徒が多く歩いていたが彼らを突き飛ばしながら無理矢理に道を作り、走って逃げている。

 

「怪我人が出てもお構いなしかいな。おい、止まれや!」

 

 怪我をさせないために突き飛ばされた人達が倒れないように走り抜ける間際に支えなければならないので、思ったよりかは距離が縮まらない。いずれは追いつくだろうが怪我人が出る前に捕まえたい。人通りのない所へ誘い込むのが最適だが、追いかけている二人が後方にいてはそれも難しい。

 と、一緒にいた友達を守って突き飛ばされた男の子の背中を支えたアスカの視線の先で、必死に走っているひったくり犯が突然立ち止まり、近くの路地に飛び込んでくれた。

 

「チャンス!」

「逃がさんで!」

 

 思わずアスカが叫びながら、二人もひったくり犯に遅れて路地に入り込む。

 

「大丈夫、はる樹君?」

「ああ、金髪の兄ちゃんが助けてくれたな。雪も怪我とかしてないか?」

「はる樹君が庇ってくれたから」

 

 二人が路地に突入した直後、麻帆良学園初等部に通っている小さなカップルの雪とはる樹がこんな会話をしているとは露とも知らず、アスカ達にとって幸運な事に、そして相手にとっては不運なことに路地は別の通りに繋がっていなかった。つまり行き止まりで、どうやら男は学園祭の混雑を狙った外様らしく土地勘はなかったようだ。

 三方を建物に囲まれた場所で、女性物のハンドバックを固く握った男は、慌てた様子で次に進むべき道を探している。残念ながら壁を登る以外に逃げる道はない。なんの異能の力も持たぬ一般の犯罪者では、身の丈以上の壁を登ることは出来ない。

 

「おい、盗んだ物を返せ」

「う、うるせぇ!」

 

 逃がさないように路地の出口を背にしたアスカが慇懃無礼に話しかけると、大仰に肩を震わせた男は後ろを振り返りつつ叫んだが、叫ばれた二人は寧ろあきれ顔だった。

 

「この状況で逃げられると思ってんのか?」

 

 両手を広げればそれで幅を塞いでしまう細い裏道なので他に逃げようもない。物見高い見物人も多く、例え奇蹟が起きて二人を退けられても出口には人だかりが出来ているので突破は難しい。

 

「ガキ二人がなんだ。俺の邪魔をするなっ!」

 

 追いかけてきたのが子供で、そんな相手に怯えた自分を振り払うようにバックを握っていない方の手が後ろに回される。また手前に戻って来た時には刃背にセレーションを持つサバイバルナイフが握られていた。

 

「糞やな」

 

 サバイバルナイフを出した男を見て、二人の瞳が絶対零度の温度に下がる。

 後ろからでは瞳がどうなっているかは分からないが、空気さえ凍り付きそうな雰囲気的に感情がどういうものになったかもまた経験的に分かる。世の中、人は逆らってはいけない人間を感覚的に察するのだ。

 

「お前はここで潰れろ。豚箱の中こそお前には相応しい」

 

 アスカの口からその台詞が吐かれた数秒後、男は自らの愚かさを呪うことになる。こんなところに来るべきじゃなかったとひったくり犯が後悔した時には遅かった。

 二人が揃ってが凶器に臆すことなくひったくり犯に歩み寄る。

 数秒後、路地に男の聞くに耐えない悲鳴が響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『只今より第七八回、麻帆良祭を開始します!!』

 

 麻帆良中に響き渡るようにながされるアナウンスと同時に大規模な麻帆良祭が開始される。

 雲一つない空を曲芸飛行する前世代の複葉機やイベント用に客を乗せて浮かぶ飛行船と熱気球が流れていく。麻帆良祭が始まったのに合わせてばら撒かれる花火や紙吹雪、風船で空が様々な色に大いに彩られる。

 フランスの凱旋門を彷彿とさせる木製の巨大門の入り口から多くの外部の客が入り、生徒達は様々に完全に仮装して、空には気球や浮遊物などが飛び交い、統一感のない仮装行列が街中を闊歩していた。麻帆良にやって来た一般人が歓声を上げている。

 

「うわー! すごいやー! 僕、こんなに大きなお祭りとは思ってなかったよ!」

 

 上空には飛行機や飛行船・気球が飛び交い、地上にはパレードや様々なイベントで盛り上がっている。見渡す限りの人、人、人に、スーツ姿で背には杖を担いでいるネギは驚きつつ周りを見回していた。

 とうとう始まった麻帆良祭の盛り上がりように、片田舎の小さな祭りしか知らないネギのテンションも鰻上りである。周りを見れば仮装した人と着ぐるみばかりで、建物の演出と相俟ってちょっとした異世界にいるような錯覚さえ覚えて、何時もの落ち着きを無くして子供らしくはじゃぐ。

 隣にいるアーニャが恥ずかしくて仕方ないと手で顔を抑えた。

 

「恥ずかしいから落ち着きなさいって」

「そういうアーニャだって似たようなものじゃないか」

「どこがよ」

「恰好から手に持っているそれも合わせて全部」

 

 言われてアーニャは着ているクラスで行うお化け屋敷のキャラクターであるドラキュラの仮装を見下ろし、顔を抑えていた手とは別の方の手に持っている『麻帆良祭マニュアル』などという分厚い本を順繰りに見る。

 

「おかしいとこなんて、どこにあるのよ」

「駄目だ、脳まで侵されてる」

 

 何度も開かれた跡のある本を片手に自覚のないアーニャにネギの目が死んだ。

 

「しかし、人多いわね。流石に三日間で延べ入場者が約四十万人って言われるだけあるわ」

「世界でも有数の学園都市の全校合同のイベントだからね。話では毎年、大騒ぎの馬鹿騒ぎで三日間は昼夜問わず乱痴騒ぎのどんちゃん騒ぎらしいし」

「仮装だらけでどこの異世界よって感じだけどね」

 

 ドラキュラの恰好をしているアーニャが言える台詞ではない。

 

「ところでそのマニュアル本って、どういうことが書かれてるの?」

「これ? 学園祭という名の一大テーマパークの様相を呈していることとか、開催期間中にバイタリティ溢れる学生達による技術と熱意を結晶したイベントやアクションが各地で開かれてて、噂を聞きつけた関東圏からの観光客はご家族連れを中心として年々増加傾向にあって、ここ数十年で各クラブによる商業化が過激さを増したこの麻帆良祭は一説には一日で二億六千万ものお金が動くとも言われている、だって」

「に…………におく!?」

 

 一生涯関わり合いになることはないだろうと思っていた金額に、庶民的な金銭感覚を持つネギには信じられない現実である。

 

「中には三日間で数千万を稼ぐサークルや学祭長者と呼ばれる生徒もいるそうよ。元々は国際化に対応した自立心の為の営利活動の許可だったようだけど、まさかここまでやるとは最初に考えた人達も思っていなかったでしょうね」

「ふわぁ――――」

 

 マニュアル本を読みながらのアーニャの説明を聞いたネギの頭はもうパンクしそうだった。

 学園側も良かれと思って許可した営利活動だったが、麻帆良生のバイタリティを舐めていたと言いようがない。

 技術と熱意を結晶したイベントやアトラクションは年々度を越えて、高利益に目を付けた各種企業が各クラブのバックにつくこともあって、もはや学生だけの祭りという規模を超えている。そして規模は拡大の一途を辿っている。

 中には本場の企業を超える技術を持つにまで至ったクラブもあり、突っ込みどころ満載のものがあるが、きっと気にしたら負けだ。

 

「ほら、麻帆良祭のガイドマップ」

「ん、ありがとう」

 

 学祭実行委員会が造った麻帆良祭のガイドマップを受け取ったネギは目を落とした。

 

「へー、本当に何とかランドみたい」

 

 テレビで見たとあるネズミがマスコットのテーマパークのような、これも学生が作ったとは思えない完成度の高いパンフレットに感嘆の声を漏らす。

 お祭りという面だけでみれば、日本のお祭りでも有数の規模を誇るだろう。世代層も下は一桁台から、上は高齢者までと本当に幅広い。

 

「あっ、ネギ危ない!!」

「うひっ!?」

 

 出し抜けに聞こえたアーニャの大声がしたのと、ネギが斜め後ろのアスファルトを大きな何かが踏みしめた轟音に奇声を発したのは同時だった。

 顔を向ければ三本指の巨大な足を持つ何かがいた。指一本だけでもネギの胴体を超えた何かを、顔を上げて元を辿ろうとして首が大分上を向く。

 

「うひゃああ?!」

「うおお!?」

 

 首が殆ど真上を向いた先にいたのは実物大のティラノサウルスそっくりのなにかであった。とても本物にしか見えない恐竜にネギと、ネギの肩に乗っていたカモが大声を上げて驚くのも無理ないほどの完成度。

 よく見れば恐竜の臀部に、「巨大二足歩行システム研究会」「ロボット研究会」「古生生物研究会」「恐竜の会」の提供・協賛と書いてあるのでその通りなのだろう。

 

「そこのボクー、パレードに入っちゃだめだよー」

「ご、ごめんなさい」 

 

 これまた仮装しながらパレードの一列に並んでいた係員らしき人が笛を吹きながら注意されたので、反射的に謝ってしまうネギ。

 

「人気の仮装パレードも年々派手になるみたいね」

「どこが仮装なの!? どう見てもホンモノだよアレ!!」

 

 現実逃避して目を逸らしているアーニャの横でネギとしては理解できない領域にあった。

 もはや現代科学を超えているとしか思えないほどクオリティが高すぎて、感心を通り過ぎて開いた口が塞がらないネギとカモだった。

 

「ネギ、そろそろクラスの方に行ってみる?」

「あ、うん」

 

 アーニャの勧めにネギは名残惜しそうにパレードを一瞥して一同で教室へ向かった。

 もう今までの信じられない現実は気にしない方向にしたようだ。でなければ麻帆良では生きていけない。

 

「あれ? なんかすごく長い行列が……」

 

 女子中等部の校舎に入って教室に向かう階段で、下の方にまで続く長い行列が目に止まって首を傾げるネギ。あまりに長すぎる行列に頭の後ろで汗が流れる。

 アーニャは予想できていたのだが、敢えて黙っていた。

 

「あれ? ウチのクラス?」

「ネギくーん!」

「アーニャちゃーん!」

 

 行列は置いておいて一先ず目的地である3-Aに向かうが、その行列が自分が受け持つ教室目当てだと知って思わず立ち止まっていると聞き覚えのある声が耳に入った。

 廊下に長く続く行列の横を通って教室の入り口へと向かうと出迎えたのは椎名桜子と明石祐奈の二人。

 

「見て見て!! ちゃんと開演に間に合ったよー!!」

「お蔭で『ドキッ♡女だらけのお化け屋敷』作戦大成功の大繁盛だよ!」

 

 祐奈は臍出し肩出しのセクシー衣装に、獣の猫耳と尻尾を付けているのでコンセプトは猫娘をモチーフにしたか。祐奈に続いたは桜子は胸元も大きく開いた吸血鬼スタイルである。

 二人とも中学生にしては少々冒険し過ぎの露出の多い仮装をしているが、二人とも平均よりもスタイルがずっと良いので良く似合っている。年に似合わぬ色気と年相応の元気さが入り交じって魅了せずにはいられない雰囲気を作っていた。

 年相応のスタイルであるアーニャの目付きが嫉妬で鋭くなる。

 

「えっ、何ですか女だらけって!」

 

 そんな2人のセクシー過ぎる格好を見て、顔を赤らめて恥ずかしがっていたネギは桜子が先程発した言葉の中に不穏当なものが混じっていたことに気づいた。

 

「お客一人につき、コンパニオンの女の子が一人付くんだよ。タッチ一回に五百円」

「おさわりパブですかっ!?」

 

 教育者として見過ごせないネギが突っ込むと、テヘッ、と舌を出してお道化る桜子の嘘に振り回される。

 

「兄貴、この場合はどっちかっていうとイメクラだぜ」

「カモ、変なこと教えない。っていうか、なんでそんなことをネギは知ってるのよ」

 

 ボソリッと周りに聞かれないぐらい小さな声で主に突っ込んだカモに更に突っ込みを返すアーニャは、このことをネカネに報告しようと心に決める。

 ネギがおさわりパブなんて言葉を知っていること自体がカモの入れ知恵であることは想像の必要もないぐらい簡単な帰結。こうやって無垢だった少年は穢れた妖精に毒されていくのだろうかとアーニャはネギの将来が少し不安になった。

 微妙にカオスであった。

 冗談に面白いくらいに引っかかるネギは完全に玩具扱いされていた。ネギとしても自分のキャラクターというものは心得ている。年下なので威厳を以て振る舞うことは無理であることもまた同様に。時間と経験を積み重ねていくしかない。

 

「まーまー♪ とにかく、体験して行ってよネギ君」

「ほらほら、アーニャちゃんも」

「私はいいわ。変な事されそうだし、他の所を回って来るわ」

 

 祐奈に背中を押されるネギに巻き込まれまいと、桜子から逃れたアーニャは適当な言い訳をしてすたこらさっさと逃げた。

 止める間もなく逃げたアーニャに悪戯する気満々だった桜子がチッと舌打ちした。

 アーニャと違って祐奈によって連れ込まれたネギは、入り口の造り込み具合からその力の入り様が窺い知れて、ネギは我知らず感心の声を漏らす。

 

「しかし凄いですね」

 

 作業の全てを知っているわけではなかったが、正直、これ程だとは思っていなかった。麻帆良でもトップクラスのバイタリティを持つ3-Aの面目躍如であった。

 

「みんなで、すっごく頑張ったからね」

「当然、目指すは学祭トップだもん」

 

 頑張った自信をのぞかせて祐奈と桜子が胸を張る。張れるほど胸があることに、この場にアーニャがいれば恨みがましい眼で歯軋りをしたことだろう。

 微笑ましいとも思い、ネギは促されるままに入り口の中へと入ろうと歩みを進めた。次の番だった男性客が文句を言うがネギが担任であることを伝えると、まだ祭りが始まったばかりということもあってトラブルにならかった。

 

「当お化け屋敷ではお客様の好みに合わせて三つのコースからお選びいただけます」

 

 重苦しい音を立ててドアが開く。無駄に精巧で恐怖心を煽る音を立てるので、どれだけ力を入れたのか少し呆れた。

 

「じゃ、じゃあ一番怖くなさそうなコースかな」

 

 魔法使いといえど怖いものは怖い。京都で本物の鬼やらを見たが人間が作る物は時に本物以上の恐怖を引き出す。入り口からしてこれだけの精巧な作りをしているお化け屋敷だ。中はもっと凄いものだと容易く想像がつく。

 様子見も兼ねてネギが優しそうなコースを選ぼうとしていたのには、そんな打算的な恐怖を避ける理由があった。 

 

「「「ようこそ、3-Aホラーハウスへ~~~」」」

 

 入り口を開けた先には更に三つの扉があった。

 ネギから見て右から、大胆にも肩を露出したドレス姿のあやか、真ん中は喪服姿のまき絵、左にはセーラー服姿のアキラが立っている。各々が立っているドアの上には「ゴシックホラー」、「日本の怪談」、「学校の恐い話」とプレートがあった。

 一番怖くなくて可愛さを強調しているコースがあやかのいる「ゴシックホラー」、恐怖度は普通で可愛さは一番低いコースがまき絵のいる「日本の階段」、最大の恐怖と最大のラブ度があるコースがアキラのいる「学校の怖い話」である。

 順当にいけば、一番怖くなさそうなコースであるあやかが選ばれるはずだった。

 

「じゃあ、アキラさんのいるコースで」

「ネギくーん!?」

「ネギ先生!?」

 

 選ばれたのは恐怖度最高のアキラが立っている「学校の怖い話」コースだった。

 自分が選ばれるものだと思っていた二人は豪快にすっ転んだ。漫才もかくやと云わんばかりの転びっぷりだ。特にネギが選ぶ可能性が高かった恐怖度の一番低い「ゴシックホラー」コースにいたあやかの転び振りはまき絵を凌駕していた。

 

「先生、なんでこっちに?」

 

 何時もの清涼な雰囲気で静かに立っていたアキラは選ばれるわけがないと思っていたので驚いていた。本当にこれで良かったのかと逆に聞く始末。

 

「いえ、向こうは別の意味で恐そうなことが起こりそうな予感がしたもので。主に僕の貞操関連で」

 

 あやかの瞳には肉体を射すくめられるほどの威圧感を、まき絵からはあやかとは別種の纏わりつくような空気を、二人から邪な気配を感じ取ったネギは無難な選択をした。前者二人から醸し出される雰囲気から身の危険を感じたのだ。

 お化けの前に貞操が奪われる予感がしたので、恐怖度が高くてもお化けだけですむアキラがいるコースを選んだ。自身の危険というならば、選択としては決して間違っていないだろう。

 最近のネギはどこか図太くなってきたような気がすると少し評判である。

 

「それじゃ、行きましょう」

「はい」

 

 貞操の危機は回避されたので、あやかとまき絵の未練がましく呼ぶ声をバックに喜び勇んで招きに従ってアキラが開けた扉を後に続く。

 

「うわー、真っ暗ーそれに広い。本当に教室の中ですか?」

 

 扉の向こうは慣れた3-Aの教室のはずなのに、思わずネギがぼやくほどにおかしなほどの広さがあった。五メートル先が見えなくなるとしても広さが想像できない。

 

「超さんの最新技術だって言ってた」

 

 物理的に不可能な現状に疑問を持つネギに、アキラはスポーツも万能の無敵超人「麻帆良の最強頭脳」の異名をとる超の名を上げた。

 超の名前を上げただけで納得してしまうのは超だからだろうか。魔法のような超の科学力にネギはただ感嘆するばかりである。 

 魔法みたいな科学ってあるもんだと、先程の恐竜ロボットを思い出しながら歩き出した。そして第一歩目で止まった。

 

「え?」

 

 どんなお化けが出て来るのかと楽しみにしていたネギは、踏み出した足に床とは違った柔らかな感触が伝わってなんだと見下ろした。

 

「ひ……! ひええええええ――――――!?」

 

 薄暗い教室の中で見下ろした視線の先には死んだように地に伏せた麻帆良学園の学園長である近衛近衛門がいた。軟体生物を踏んだような感触は、学園長の異様に伸びた頭だった。真ん中辺りにネギが踏んだ足跡が残っている。

 何時もは閉じているように見える瞼を開けて白目をひん剥き、如何にも苦しげな表情で死後硬直して全身が固まっている学園長がそこにいた。冷静になってよく見れば人形なのだと分かる。服には『当お化け屋敷は学園長の許可を頂いています』と注意書きがあったことに気づいただろう。

 だが、まさか学園長のような異様な風体が初っ端から足の下にいるとは誰も考えもしない。

 普通に学園長の年なら、興味本位で入って驚かされ過ぎてポックリ逝ってしまったということも考えられる。踏んだ頭の、人形とは思えないリアルな感触が勝手に脳内でストーリーを作り出す。

 

「がっ、学園長が、しっ、死んで…………!?」

 

 ネギはここがお化け屋敷であることも忘れ、人形である可能性も簡単に吹き飛び、意識は驚愕一色に染められた。

 腰を抜かして尻餅をつき、そのまま必死に後退る。すると、背後の何かにぶつかった。能動的な反応としてぶつかった物を確かめるために無意識に背後を振り返る。

 

「わあああっ!?」

 

 そこにいたのは体操服姿で頭に斧や草刈鎌が突き刺さっている村上夏美と和泉亜子の姿があった。彼女達も白目を剥いて死んでいるようにネギの眼には見えた。

 

「ア、アキラさん! みんなっ、みんながっ…………!」

 

 最初の学園長ショックによって、ネギの頭からここが生徒が作ったお化け屋敷であるとの認識は吹き飛んでいる。頭に斧や草刈鎌が突き刺さっている夏美と亜子の姿に動揺しまくっていた。恐ろしきは精巧な学園長の人形である。

 

「落ち着くんだ、ネギ先生」

 

 目元に涙を薄らと浮かべて混乱しまくるネギの姿は、可愛いもの好きのアキラとしては頭を撫でたい衝動に駆られるも、ここは我慢我慢と自分に言い聞かせる。己の役を真っ当しなければならない。小動物のようなネギの姿に嗜虐心が生まれたかは定かではない。

 

「予想外のコトが起こってしまった。どうやら私達は学園に潜む怨霊を怒らせてしまったらしい。早く逃げないと君も私も世にも恐ろしい呪いにとり殺されてしまう………………かも」

 

 合間合間に本気で驚くネギに僅かな申し訳なさを感じつつも、定められた台詞を言い切る。最後に付けたしたのは生来の人の良さが滲み出た為だ。

 性格的に人を脅かすお化け役にも向かないが、決して情感が込もっている言い難いアキラの言葉にも学園長・夏美・亜子と続いた脅かしに屈したネギには真実味を以て伝わって来る。

 逆にアキラぐらいの喋り方の方が恐怖を引き出すと喋っている本人だけが気づかない。ナイスなキャスティングであった。

 

「さあ、早く私について来て」

「ハ、ハイ」

 

 恐怖に呑まれたネギに状況の不審さを疑う余地もなく、もはやアキラに流されるままに手を引っ張られるままに軽く走り出した。

 

「!」

 

 だが、走り出して直ぐになにかがぶつかる音と共にアキラの動きが止まった。音はネギよりも上、アキラの顔辺りから聞こえた。

 丁度、頭部ぐらいの大きさのなにかが闇の中で床に落ちてゴロンゴロンと転がる。またなにかが起こるのかと戦々恐々としていたネギがギョッと目を剥いた。

 

「ひっ……ひっ……!?」

 

 薄暗闇の中で微かに見えた廊下に転がるなにかを見たネギの口から過呼吸を起こしたように引き攣る。

 

「に、逃げて……ギ先生……」

「ひィッ――――!?」

 

 実は床の保護色を被って首より上だけを出しているだけのアキラだが、薄暗闇の中で混乱の極致にあるネギが気づけるはずもなく畏れ戦く。ことに無表情のアキラの表情と声がネギの恐怖を煽っているのは間違いない。

 

「アキラさんアキラさ――――ん!!」

 

 膝を付いて、首だけになったように見えるアキラに触れることも出来ずに名を呼んでいたネギの直ぐ近くにあった窓に、ドンという音と共に手形が付いた。

 

「えっ………わひゃああああああ――――――――っ!?」

 

 バンバンバン、と次々に窓に押し付けられる血を付けたような赤い手形が増え、もはや窓を埋め尽くさんばかりに広がる手形の群れは、それだけで十分にホラーである。実はこの窓も超の発明品で、最初から付いていた手形を、予め録音した叩く音を流すのように合わせて映すようにしているだけの単純なものだが暗い空間と合わさってかなり怖い。

 そして遂には窓が粉々に砕け散る。これも演出の一環で、脅かす人から少し離れた窓を割っていた。この窓もガラス製ではなく割れても怪我をしない飴細工なので危険性はないと細部に凝っている。

 

「ギャ、キャ―――――ッ!」

 

 窓を破って伸びてきた無数の腕にネギは本気で恐がり、マジでガチで泣いていた。死んだと思っているアキラを見捨てて逃げるほど、ネギは本気でテンパっている。

 

「あれ、ネギ君じゃん」

「あら、ホント」

「触っちゃえ♪」

「うわああ~~~~~ん!?」

 

 手が出た後に逃げるタイミングが遅すぎて直ぐに捕まってしまった。

 アキラと同じ黒いセーラー服に、顔に血のメイクを施した柿崎美砂・釘宮円・那波千鶴の三人がネギを床に転がして楽しそうに擽りまくる。冷静なカモは前後不覚を起こして恐慌を来たしたネギと違って楽しそうに見ていた。お化け屋敷なのだから脅かされて平然としているよりは楽しいだろうと主にはなにも言わなかった。

 

「だっ誰か助けて――――っ! わああ、は、早い!? 何で!?」

 

 なんとか三人の囲みから涙ながらに抜け出して走ったが、いくら走れどもユッタリとした三人から何故か距離が離れない。余裕のある三人は演出の一環として青白い人魂を背後に浮かせて、「恨めしや~」とおどける。

 ネギの怖がりようは脅かす側としては嬉しくなるぐらいで、工学部が作ったスーパールームランナーの上で気づかずに走り続けるネギを見ていたら笑えてくる。

 

「きゃあああああ!」

 

 目の前にいきなり降って来た鳴滝風香と長瀬楓が逆さに宙ぶらりんに、女の子のような悲鳴を上げて乗っていたスーパールームランナーから飛び下りて横方向に走り出した。

 

「あ、出口だ!?」

 

 すると、少し先に出口らしき光が見えた。

 絶望の末に長い長い旅路の果てに見えたか細い一筋の光のような希望を見た旅人のような面持ちか、道を見失って砂漠を彷徨うことになった旅人が一滴の水を求めた先に遂にオアシスを発見したような面持ちか。たかがお化け屋敷から出るだけで大袈裟と思うなかれ。今のネギにとってはただ一つの無窮の出口なのだから。

 遂にネギは出口を通過した。だが、直ぐ目の前にのどかの姿があった。

 

「わ」

 

 ノンストップで出口の暗幕を駆け抜けたネギは、このままではのどかにぶつかってしまう。

 暗幕を抜けて暗がりから一気に明るい世界に出た反動でハッキリと見えない。目の前に立っている相手が一瞬だけ誰か分からない。それでも普通なら怪我をする速度で走っていた自覚があった。

 回避するには距離が近い。ネギに出来ることは急制動をかけて自らの運動エネルギーを殺すことだった。

 

「きゃっ」

「うわぁっ」

 

 それでも出口からのどかまでは一メートルもない。完全に運動エネルギーを殺すことが出来ず、のどかを巻き込んで二人して廊下に倒れ込んだ。

 のどかではネギを受け止めることと倒れた自分の受け身を取ることを両立させることは出来なかった。

 ネギとしては慕ってくれる少女に自分の所為で怪我をさせるわけにはいかない。ぶつかって後ろ向きに倒れて廊下に頭を打ち付けるかもしれないのどかを、ネギが庇おうとしたのは当然の流れであった。

 ぶつかられたのどかが下で、ぶつかったネギが上に押し掛かるような体勢であった。

 

「ネ、ネギ先生……」

「あ……」

 

 火よりも顔を真っ赤にしたのどかが問題にしているのはこの体勢ではない

 ネギは手を伸ばしてのどかが頭を打つことだけは避けることが出来た。結果的な不運というべきか、のどかの脇の下を通すように両手を伸ばして頭を支え持った所為で、ネギの頭部はのどかの胸辺りに押し付けられていた。

 別にネギの行動に間違いがあったわけではない。きっと星の巡り合わせが悪いのだろう。特に女性関連の星の巡りが。

 

「本当にいるのですね、ラッキースケベというやつが」

「うほ―っ! これはいい絵が!」

 

 どこか現実逃避をしながらもツッコミ魂を刺激されたのか冷静に状況を指摘する夕映と、思わぬ奇蹟の光景に興奮してスケッチブックを取り出して絵を書くハルナを前にして、ネギが取れる行動はそう多くはなかった。

 のどかが怪我をしないようにゆっくりとかつ急いで離れて両手を床につく。

 

「申し訳ありませんでした――――――――っ!!」

 

 日本で最上級の謝罪のポーズと誰に教わったのか、最終奥義として有名な見事なジャンピング五体倒置土下座でのどかに謝罪したのであった。

 のどかはポカンとした様子だったが、女の子座りのままネギを見下ろす。

 

「許して貰えるならなんでもしますから平にご容赦を!!」

「…………なんでもするんですか?」

「ネカネ姉さんにはお願いですから言わないでって、はれ?」

「なんでもしてくれるんですか?」

 

 過去にもあったラッキースケベをしたことに怒髪天を突いたネカネによる折檻を思い出して、ガタガタブルブルと震えていたネギは怒った様子のないのどかの顔を見上げて何故かゴクリと唾を呑み込んだ。

 

「私とデートして下さい」

 

 艶やかに微笑んだのどかの言葉に「No」と言えるほどネギの意志は強くなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスカが空を見上げると、徐々に青からオレンジ色に変わりつつあった。もう陽が落ちかけていたが、祭りに浮かれる街は昼間にも増して賑やかに盛り上がっていた。

 果敢に食料を要求する腹を満たすために烏賊の串焼きを三本と、焼きそばを一つを屋台で調達する。

 手摺に行儀悪く座って串焼きに噛り付く。落ち着いた場所を探すために歩き回っていたので買ってから時間が経っていることもあって、少し冷えて硬くなっているせいでどうにも食べにくい。焼きそばの方も安さに相応しい質の悪い肉と、ひたすら味の濃いソース。

 

「失敗したな」

「こういうのは味やなくて祭りで気分よく盛り上がった胃袋で味わうから美味いねん。素面で食うもんちゃうわ」

 

 隣で同じ物を食べている小太郎は、アスカと違って大層美味しそうに食していた。

 

「この後、どうすんねん。もっと遊ぶか」

「気分じゃないな」

 

 祭りの空気に馴染めていないアスカが美味しく食べるはずがない。

 アスカは祭りの恩恵を悪い意味では受けているなと思いつつ、食べれない程ではないので瞬く間にそれらを腹に収めて、いい加減に家に帰るかと手摺から降りたその時だった。

 

「――――なんだ…………?」

 

 アスカは不意に何かを感じて周囲を見回した。

 何か首筋を誰かの手に撫でられたような戦慄が、不意に彼の裡を駆け抜けたのだ。気のせいと片付けるにはあまりにも確固たる不安が、胸の奥に居座って動かない。

 

「どうしたんや? やっぱ武道会の方に行くんか?」

「何かおかしい」

 

 小太郎に言いつつ、辺りを見るがなにも不自然さはない。だが、どこかがおかしい。見えない手で首筋を触れるか触れないかの距離で撫でられているような嫌悪感があった。

 自然な生理現象として瞼を一度閉じて開く瞬きをした。一秒にも満たない時間。瞼を閉じて開いた時、計ったようにアスカの間合いの外に一人の人物が立っていた。

 

「探しましたよ、アスカ君」

 

 白いローブで全身をスッポリと覆い、素肌が見えるのは鼻から下の口元だけ。

 ローブの人物の声は成人男性にしては少し高い。が、女性だと断定するには声が少し低い。ローブで全身を覆っているので体型も判別がつかず、目の前の相手が男か女かも分からない。

 体格から大人かとも思えるが、龍宮真名や長瀬楓のような例もあるので大人だと決めつけるのも早計である。

 

「誰や、アンタは……………いや、なんなんや?」

 

 隣にいる小太郎が総毛立っているのを視界の端に捉えながら、アスカも静かに戦闘態勢を整える。

 目の前に立っているのに気配が感じられない。どれだけ隠そうともこれだけの近距離、それも視界にハッキリと映っていて気配が感じられないことなどありえないことだ。

 頼りになる危機回避能力が全く反応しようとしない。今まで一度足りとてこんな事態に遭遇したことはなかった。どんな強者であっても対峙すればどれだけ力を隠していようとも一端は感じ取れる。

 瞼を閉じたらそこにいるのかどうかすらも分からなくなるほど相手。霞か幻影と言われた方が信じられそうな相手を人間と断定することは出来なかった。

 

「人扱いもしてくれないのですか」

 

 人間扱いすらされていないのに愉快にそうに笑うフードの人物。露わになっている口元を笑みの形から変えないことが余計に非人間的な雰囲気を醸し出す。眼の前にいるのに始めからそこにいないような、どこかここに在ることに対して違和感がある。

 別荘での二年の間にエヴァンジェリンより受けた薫陶から正体を推察する。

 

「幽霊? いや、思念体か」

 

 分身ではない。気配のない幽霊か、誰かの思念が形作ったモノが目の前にいるとしたらまだ納得がいく。

 

「当たらずとも遠からずといったところです」

 

 フードの人物は会話から少しでも情報を得ようとするアスカの問いを煙に巻くように答える。

 柔らかい言葉遣い、口元に浮かぶ薄い笑み、自然体で立っている体からは敵意は感じられない。だがアスカの緊張が解れることはない。ここまで無色透明な、怪しすぎる相手がいるのに安心など出来ようはずもない。

 相手に気づかれないように僅かに体重を前に傾け、何時でもフードの人物がいるのとは反対方向の後ろへ小太郎共々逃げれるように準備を整える。

 

「そう警戒しないで下さい、といって信じる者は少ないですね」

 

 風が静かに駆け抜ける。肉食の野獣を前にした草食獣のような反応を見せるアスカに、フードの男はただ笑みを浮かべるだけだった。

 警戒心を無駄に煽るような言い方。警戒されていると分かっているのに、尚も余裕の笑みを崩さない目の前の相手に下手な動きには移れない。

 実力が未知数の相手と対した時、後手に回るのは良くないが、かといって先手を取れば有利になる相手とも思えない。アスカの人生においてここまで不審な人物も奇妙な人物もいなかった。経験にない相手を前にして先に行動に移るのに逡巡があった。

 

「ふふ、怪しい者ではありませんよ。さてどうしましょうか。そうですね―――――」

 

 困ったとばかりの口調ではあるが、口元に浮かんだ笑みが全てを台無しにしている。

 

「―――――邪魔者もいますし、まずは場所を変えましょうか」

 

 あまりにも自然に伸ばされた手は、頭に乗せられて始めてアスカに気づかせた。

 頭に乗せられた手を払うには、腕を持ち上げて払うという二つの動作が必要になる。それならば足に込めている力を開放して後退した方が良いと判断するのに一秒もかからなかった。その一秒で十分に人を殺せる。急所たる頭を抑えられているのだから。

 

(―――――やられる!?)

 

 視界に光が満ちて間に合わぬと悟った防衛本能が目を閉じさせ、顔の前で腕を重なる防御態勢を取らせる。

 フードの人物は自分を狙った刺客かと思い、脳裏に今までの走馬灯が一瞬で流れる。

 ここで死ぬのか、と思ったのだが一向に身体に変化はない。実は既にあの世に召されていますということはあるまい。

 閉じた瞼の向こうで光が止んでもなにも起こらないことに疑問を抱きつつ、手が離れていくのと同時に目を開く。そしてまだフードの人物が目の前に立っていることに気づき、今度こそ全力でバックステップする。

 大人でも大股でも三歩は必要になる距離を開けたアスカだが違和感があった。

 

「小太郎は? いや、ここはどこだ?」

 

 近くにいるのはフードの人物だけで小太郎の姿がない。それと場所も変わっていた。人混みの中にいたのに、どこかの路地にいる。

 

(魔法使い…………それもこれだけの転移魔法を詠唱もナシにだと?)

 

 体に無駄な力が入るのを感じた。たった一秒でそうと気づかせることなく転移魔法を無詠唱、もしくは遅延呪文を使ったと推測される。

 手を伸ばされれば気づく。なのに、触れられるまで気づかせなかったフードの人物の技量。両者を合わせるとアスカの警戒心は天井知らずに跳ね上がるのは当然の流れだった。

 

「おや、余計に警戒させてしまったようですね。これは困った困った」

 

 ちっとも困ったように見えないフードの人物は、警戒するアスカの様子を楽しそうに見遣る。

 その様子を見てアスカは確信した。このフードの人物も人の困る様子が大好きな鬼畜野郎だっていうのが。

 

「このままでは話が進みませんか。どうです? ここは怪しい魔法使いの正体を探るということで話を聞いてもらえませんか?」

「……………目的はなんだ? 俺になんのようだ」

 

 現れてからのフードの人物の行動と言動に敵意は感じられない。

 どちらかといえば好意にも近い感情を感じたアスカは距離はそのままに構えだけを静かを解いた。それでも完全には脱力せず、膝は少し落として何時でも動けるようにはしている。フードの人物は敵ではなさそうだが味方でもなさそうだから警戒は絶対に解かない。

 

「私としてはもう少しフレンドリーなのがいいのですが、まぁいいでしょう」

 

 警戒を解かないアスカを少し不服そうにしたフードの人物は自分の不審さを屁とも思っていないのか、自分に甘えない子犬を眺めて仕方ないなと受け入れたような余裕を見せつける。

 愛玩動物を愛でるような対応をされていることに青筋を立てながらも、冷静さを失えば喰われると直感が囁いていた。

 

「まずは改めて自己紹介といきましょう」

 

 フードの人物は人の神経を逆撫ですることに関しては達人的に優れていた。なのに、全く気にしたような素振りも見せることなく続ける。

 

「私の名はアルビレオ・イマ。君の父ナギ・スプリングフィールドの仲間であり友人です」

「……っ!?」

 

 アスカは僅かに息を呑み、全身が瘧のように震えた。

 顔に現れた驚愕の表情を待ってましたとばかりに満面の笑みを浮かべるフードの人物―――――アルビレオ―――――を見て、アスカは青筋を更に三つほど作りながら表情を消した。

 もっと大きな反応を見たかったのか、アルビレオの表情はどことなく残念そうだった。それがまたアスカの額に青筋を増やすと分かっていてやっているなら相当の策士だろう。

 

「ですが、私の事はクウネル・サンダースと呼んで下さい。気に入っていますし、直ぐそこで行われる武道会にもその名で登録していますので」

 

 誰が聞いても偽名と分かる某ケンタッキー屋の名人物の名前で呼んでほしいと言うだけで面の厚さが知れる。警戒心の中に呆れが混ざって隙が生まれるのを防ぐのに一杯一杯だった。

 

「で、英雄様が俺になんのようだ?」

「言葉が刺々しいですね。君の生い立ちと育ちを思えば我々に敵意を向けるのは仕方のないことかもしれませんが」

「テメェ、いい加減にしろよ」

 

 アルビレオの揶揄するような言い方に、いい加減に堪忍袋の緒が切れかけていたアスカの口調が刺々しいものへと変わる。

 言い方からしてアルビレオはアスカの生まれも今までのことも知っているようだ。確かに名前を呼ばずに俗称で問いかけたアスカにも非はあったが、だからといっておちょくられていい気はしない。

 戦う気ではなく殺る気に移りかけていたアスカの心を読み取ったかのようなタイミングで口を開く。

 

「君ならば武道会に参加すると思ったのですが、その気配がなかったものでね。参加はしないのですか?」

「名声や金に興味はない。強さをひけらかすつもりも、見世物になる気もない」

「これは困りましたね。十年前の友の約束を果たす為、君には是非にも出場してほしいのですが」

 

 今までで一番困ったような表情を浮かべるアルビレオ。

 最初以外は口の中で呟かれたのでアスカにも聞こえなかったが、アルビレオはアスカに武道会に出て欲しいと思っていることは分かった。

 アルビレオはこの僅かな接触と、ずっと観察し続けてきた自らの目でアスカの気質を読み取っていた。でなければ、ここまで初対面でギリギリのラインを見極めて弄れるはずもない。

 

「では、こういうのはどうでしょう」

 

 良いことを思いついたように上に向けた右手の手の平に縦にした拳をポンと重ね合わせ、胡散臭い笑みを更に胡散臭くしたアルビレオにアスカは警戒心を更に深めた。だが、それは全て無駄に終わった。

 

「武道会で私の下へ辿り着けたのなら――――」

 

 アルビレオは、ゲオルク・ファウストを唆した悪魔メフィストフェレスのように哂う。

 

「――――俺と戦わせてやる」

 

 追い求める人の声で耳元で囁いた。

 

「お前……!?」

 

 瞳を大きく見開いてその正体を問おうと顔を上げたアスカの視線の先には誰もいない。

 慌てて辺りを見渡すが、狭い路地にはアスカ以外の人の姿はどこにもない。

 路地から出ると、雑多な人々が目の前に屯っている。

 

「ここは龍宮神社か」

 

 神社に集まるには不似合いな巨漢や体格の良い者が多く胴着や動きやすい恰好の者達が屯していた。理由は直ぐに分かった。アスカの直ぐ近くに「まほら武道会予選会会場」と書かれたプラカードが置かれている。

 アスカの記憶では麻帆良で開催される有名な格闘大会は秋の体育祭の季節に行われる大格闘大会だけで、麻帆良祭では学園統一のような大きな大会はなかったと思う。

 しかし、龍宮神社に集まっている人達は場所が間違っているのかと思うほどの盛況ぶり。だが、その疑問も直ぐに探し人の行方に気を取られて脳裏に残ることはなかった。

 

「くそっ、どこに行った」

 

 周囲を見渡してから、アルビレオの気配を探すために目を閉じて意識を凝らす。

 掴みどころのない雑多な人々の気配、人いきれにも似た多数の気配が混濁して個人を特定することが出来ない。

 武道会に向けて高まっていく闘争心に煽られるように脳髄を震わせ、額の辺りだけに太陽が当たっていて熱くなるような感覚があったが、アルビレオの気配はやはり感じ取ることができない。

 人が多すぎるのだ、とアスカは内心に舌打ちした。

 闘争の場では研ぎ澄まされる人の気配が、未熟者が多いここでは無秩序に入り混じって滞留している。木を隠すなら森の中という。アルビレオが狙ってこの場に来たと考えるなら正解と言わざるをえない。

 これだけの雑多な気配の中から特定の気配を感知するにはアスカはまだ未熟過ぎた。

 

「龍宮神社で武道会があることを知っていてたのなら、そういうことなのか?」

 

 他人であるアルビレオの思惑を理解することは出来ない。出来るのは思惑を推測して、状況から考えて予測するのみ。

 アルビレオが龍宮神社で武道会があることを知っていてこの場所に転移して、あんなことを言ったということは望んでいることはただ一つ、戦うことだけだ。状況を考えれば答えに辿り着くことは難しいことではない。

 

「アスカ、なのか?」

「あん?」

 

 名前を呼ばれて振り返ると、そこにいたのは背後に幽霊を憑かせた伊達メガネの少女であった。

 

「え、本当にこいつがアスカなのか?」

『そうですよ』

「千雨とさよか、珍しい組み合わせだな」

 

 驚きで目と口を真ん丸としている長谷川千雨と相坂さよに、アスカは張っていた肩の力が抜けて変な溜息が漏れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ネギは困っていた、物凄く困っていた。何に困っているのか、本人にもよく分かっていなかったが。

 あの時、あの場にいた夕映とハルナは気を利かせて別行動を取っている。後を追おうとしたハルナを夕映が無粋だと引っ張って行ったのだが。困惑の原因はデート相手である宮崎のどかその人にあることは間違いない。

 

「ネギ先生、楽しくないですか?」

「いえ、楽しいですよ」

 

 困惑しているだけだ、とデートの最中に口に出すほどネギも考え無しではなかった。

 嘘はついていない。のどかと共にいるのは楽しいし、ここまでのデートを思い返すと心の奥底からポカポカするものがある。

 誘われた生徒の部活だけではなく、時間が合う限りは全員のところに二人で顔を出して、今は五時半から行われる麻帆良祭名物である「光と人と水のマジカルショー」の観客席に来ていた。

 学園都市と外部との境界にもなっている麻帆良湖の近くにある観覧場に二人の姿はあった。元々は憩いの場として作られた観覧場が最も「光と人と水のマジカルショー」が良く見える絶好のスポットなので、ネギとのどか以外にも多くの人がいた。

 

「あ、始まりますよ」

 

 観客席の淵で手すりに手を置いて楽しく会話をしていた二人は、俄かに明るくなった景色に胸を弾ませた。

 

『只今より麻帆良祭名物、光と火と水のマジカルショー「マホラ・イリュージョン」を開始します♪』

 

 流れたアナウンスと共に水面が弾け飛び、光が舞い上がった。炎が湖の上を走って水面を輝かせる。炎が通ったときに水が噴出して半月を描く幻想的な風景に多くの感嘆の声が重なる。

 

「わー、凄い! 見て下さい! 水の上に火で絵が! どうやってるんだろ」

 

 幻想的な風景に目を奪われて、年相応に喜びを示すネギの姿をのどかは笑顔で眺める。

 彼女にとっては目の前の幻想的な風景よりもネギの笑顔こそが尊いもののように見えた。

 宮崎のどかにとって、魔法などつい少し前までは夢物語だった。

 知ったのは偶然、関わり続けたのは必然。今も彼女は、持て余しながらも魔法との付き合い方を模索している真っ最中だった。

 思い人の双子の弟であるアスカは、あの嵐の夜に全てを曝け出した。

 そんな危険なモノ、受け入れるべきじゃない。理屈で考えればそれが当たり前だ。そして彼女の理性は、実際にその結論に至っていたはずなのだ。だが、同時に彼女はその結論と全く別の答えを持っている。

 

「ネギ先生」

「え?」

 

 今ならこの気持ちを伝えられると思った。そして今を逃せば次が何時来るかも分からない。このチャンスを躊躇いはしなかった。

 

「先生は今、好きな人とかいらっしゃいますか?」

 

 誰も自分達を見ていないとしても衆人環視の中であることを変わらない。この状況が覚悟の上であっても、躊躇いはしなくても恥ずかしさは消えない。

 顔をほんのりと赤く染め、自然な動作で握った左手が口の近くに来るのを自覚する。

 

「え? ハ、ハイ。クラスの皆さんのことは全員好きですよ」

 

 返ってきたネギの答えはのどかの望んだものではなかった。

 少年は少女の想いを理解できない。何時の世だって、先に大人になるのは男の子よりも女の子なのだから。

 

「あ、いえ、そういうことではなくてその……」

 

 まだ子供のネギではのどかの複雑な乙女心を理解しろというのは色々と無理がある。自分から口に出すことに恥ずかしさはあれど、そこは惚れた弱みと年上の意地が後押ししてくれる。

 

「誰かと一緒にいると、とっても胸がドキドキしたりとか、そういうことはありませんか?」

「えっ……?」

 

 光に照らされたのどかの顔を見て、ネギの胸は一瞬だけ早鐘よりも早く大きく高鳴った。

 左手で頬杖を付いて、瞳を潤ませて光に照らされた目の前にいる彼女の顔は一生徒ではなく、修学旅行に見た恋する乙女の顔をしていた。その顔が自分に向けられている。とても光栄なことのように思えた。

 

「私、ネギ先生とこうして一緒にいるだけで胸がドキドキしたりして一杯幸せに感じます」

 

 ネギに向き直ったのどかは、今も高鳴っていると示すようにネギの手を取って自身の胸に当てた。

 規格外が多いクラスの中では発育が遅い自覚があるので異性に触れるのは少し恥ずかしかったが、恋心が乙女をどこまでも大胆にさせる。

 

「分かりますか? 私の胸の高鳴りが」

「はい、ドクンドクンって一杯鳴っています」

 

 なんら淫靡な行為ではなく、好意を示すだけのとても温かな行動。嫌悪感も恥ずかしさも感じなかった。

 ネギは不思議な安心感に包まれて、素直に答えを返した。

 他人の心音には安心させる不思議なリズムがある。或いは覚えていないはずの母の記憶がそうさせるのだろうか。

 

「トロくてドジで引っ込み思案な私ですけど、先生が来てから色んな事に頑張れるようになりました。ネギ先生のお蔭だと思います」

 

 胸に当てていた手を両手で握り、視界を遮っていた髪を上げて、異性にもこんなにも自分の意見を真っ直ぐに言えるようになったのはネギと接してからだとのどかは言う。

 でも、ネギには違う考えがあった。

 

「僕は、のどかさんに好意を向けてもらえるような人間じゃないんです」

 

 アスカに全てを背負わせ、自分の闇からもずっと目を逸らし続けてきた。

 五月や新田のお蔭で変わっていこうという気持ちにはなっても、ネギは自分は存在してはいけないとまでは言わないがネガティブな認識が深く根付いていた。のどかの純粋な好意を向けられるのは、自分はひどく汚れているように思えてならない。

 こうして触れていると自分の汚れを移してしまうような気がして、それだけは認めることが出来なくて少し強引に繋いでいた手を離した。

 

「違います」

 

 手を振りほどく強引さとは裏腹に弱さを垣間見せた言葉を真っ向から否定したのどかの強さは、ネギの想像を遥かに超えていた。

 少女は何時だって少年が想像するより、ずっと強かで剛い。

 

「覚えてますか? ネギ先生が初めて麻帆良に来てくれた日の放課後のことを」

「放課後?」

 

 のどかに言われなくても最も印象の深い一日を忘れてはいない。だけど、のどかがなにを言いたいのかが分からない。

 

「階段から落ちた私を助けてくれたのはネギ先生です。他の誰でもない、ネギ先生なんですよ。好意を向けられる人間じゃないって、そんな悲しいことを言わないで下さい」

 

 手を伸ばして頬に触れた優しいのどかの言葉にネギは涙が出そうになった。

 のどかの純真さが、清さが、眩しさが、どうしようもなくネギの心を抉って同時に照らし出す。

 

「僕はのどかさんを救えたんですか?」

「はい。私はネギ先生に救われました」

 

 どのようなものでも子が持つ物なら受け入れて来る母性のような温かさに、赦しを求めるネギは涙を堪えるのに精一杯だった。自分を全て分かった上で受け入れてくれるのどかの存在は今のネギには何よりの救いだった。ネギはのどかにネカネとは少し違う暖かさを感じた。

 

「でも、僕と一緒にいたら、また前みたいに酷いことが起こるかもしれません」

 

 言葉とは裏腹に頬に触れた温かさを失いたくなくて俯いた。

 この温もりを喪うことだけは今のネギには認めることは出来ない。

 受け入れることは出来ない。受け入れてしまったらネギは壊れてしまう。それなら離れても幸せでいてくれる方がいい。どこかで生きていてくれるならどんな責め苦にも地獄にも耐えられる。それだけこの温もりが愛おしかった。

 

「ごめんさない。今までのどかさんに自分の言葉で何も言いませんでした。本当ならもっと早くこうするべきだったんです」

 

 アスカが明日菜を拒絶するのに便乗して、しかし何一つネギはのどかに言葉をかけなかった。そのことを深く謝罪する。

 ずっと伏せていた顔を上げる。ネギの頬は瞳から溢れた涙で濡れていた。ポロポロと頬を流れていく。

 

「僕は自分を守ることが出来ないほどに弱い。まだ誰かを守れるほど強くはないんです」

 

 ネギはまだまだ未熟者だ。強さだけじゃない。肉体的にも精神的にもネギは自分のことだけで手一杯どころか何もかもが足りない。誰かの命を背負えるほど今のネギは強くない。

 

「のどかさんの気持ちは嬉しいです。この想いを大事にしていきたい思っています」 

 

 のどかの存在は、生徒達や他の人達とは異なる領域にいた。

 もっと自分のことを知ってほしい。

 もっと相手のことを知りたい。

 胸の中で芽生えた想いを、時間をかけて大事に育てて生きたい。そんな思いが生まれていた。なのにアスカの行動を止めることなく、その行動でのどかにも選択を強いようとした。卑怯な行為だ。

 

「僕を好きって言ってくれて嬉しかったんです。本当に……本当に嬉しかったんです」

 

 ボロボロと涙を流しながら言い募るネギにのどかは何も言えない。

 

「守ることを考えなければ従者は多い程に有利です。のどかさんの想いを利用したくありません。全て僕の我が侭です。悪いのは全部、僕なんです」

 

 魔法使いは呪文詠唱中は全くの無防備であり、攻撃されれば呪文は完成しない。それを守護する魔法使いの従者―――――即ちミニステル・マギと呼ばれるパートナーがいた方がよいとされている。

 アーティファクトは使い方によっては異常に強力なアイテムになり得る。

 だけど、ネギは道具を理由にしてのどかを利用したくない。例え黙っていたとしても自分でも気づかぬ心の底で、そのことが作用することが嫌だった。

 偶発的で、偶然が重なって生まれてしまった奇縁。大切だから利用したくないと、大事に思おうとしているから利用したくないと、告白されて嬉しかったから利用したくないと、全身から溢れさせていた。

 のどかが好奇心に駆られて踏み込もうとしているのに対して、ネギは我が侭と言いつつものどかが思う以上に真剣に彼女の想いに応えようとしていた。

 のどかは溢れ出る涙を拭うネギを見つめる自分を俯瞰視しながら自問自答する。

 ネギにはのどかの想いに必ずしも応えなければならない義務など無い。利用して引き込む選択肢もあった。利用しないにしても、これを切っ掛けにお互いの想いを深めてもいい。

 どこまでも真面目に、誠実に、大切に、のどかの想いに応えようとしてくれている。同時に一時の好奇心に浮かされた我が身が、好きになった人を悪い方向に変えさせかけた自分が恥ずかしくなった。

 

(ああ、私はこの人を好きになって良かった)   

 

 環境に、道具に作用されることなく想いに応えようとしてくれる人を好きになって良かった。人によっては不器用と馬鹿にされようとも己の想いを貫こうとしている。自分が好きになったのはこの人だと、今なら胸を張って言える。

 

「ありがとうございます」

 

 泣き続けるネギに近づいて、謝るよりも何よりも感謝の気持ちを伝えたくて、別荘を使用したのか自分と同じぐらいになっている体を抱き締める。

 のどかの瞳からもネギに負けず劣らずの大粒の涙が幾つも溢れてくる。

 

「ネギ先生を好きになって良かった」

 

 今の想いを伝えるのに多くの言葉は必要ない。このたった一言だけで良かった。

 互いの顔を寄せ合うように抱き締められたネギも、かけられた言葉と顔に触れる自分のとは違う涙に、今度は間違えなかったことに収まりかけていた涙が再び溢れ出す。

 涙を流す二人の顔に悲壮な色はなかった。浮かんでいる表情は薄い笑顔。小さな恋心を育んでいこうとしている二人の姿がそこにあった。

 

「何かあったらネギ先生が助けてくれるんでしょ?」

 

 ああ、どうしてのどかの言葉は何時もネギの心の奥に染み渡るのか不思議だった。

 もう片方の手がネギの頬に当たられ、顔が強制的に上げられる。

 顔を上げた先には慈母の如き優しい表情を浮かべたのどかの顔があった。素敵すぎる女性に絶対の信頼の視線を向けられて否と言えるほど、ネギは男を止めていなかった。

 

「ええ、今度こそ助けてみせます」

 

 答えた言葉に一瞬の迷いもなかった。男が涙を流すことは許されないとばかりに引っ込む。

 良い女の前では男は愚物に成り下がる。愚かと言うなかれ、古今東西において良い女を前にした男は魅了されて愚者になる。女に見合う男になりたいという気持ちは避けようがないのだ。

 

「期待しています。これはお詫びとお礼の印です」

 

 なにに対してのお詫びなのか、何に対してのお礼なのか、のどかにしか分からない。

 嫣然と微笑んだのどかが呟きと同時に挟まれていた顔を優しく引っ張られた。目を閉じたのどかの顔が近づいて来るのを見て、これから行われる行為がなんであるかが分からぬほど鈍くはない。

 近づく速度は決して早くはない。振りほどこうと思えば振りほどける力具合。のどかはネギに選択の余地を与えている。

 ネギは選んだ。静かに自分も目を伏せて、のどかの唇を受け入れた。

 軽い音を立てて二人の唇が重なった。その瞬間、一際大きな光が走り、大きく噴き出す噴水の水に呼応するように炎が勢いを増す。

 

「「……………」」

 

 照明に照らされたのではない赤みを増したのどかの顔と手が離れるまでネギは動かなかった。

 ネギの中では数十分間にも数分にも感じたキスは、実際には数秒程度であっただろう。一際激しい光に照らされて、ネギは離れていくのどかの唇を名残惜しく開けた目で見つめる。

 

「次はネギ先生からして下さいね」

 

 のどかが片目を瞑って、人差し指を立てて唇に立てて悪戯っぽく笑う。

 

「はい、必ず」

 

 この時、この瞬間にネギ・スプリングフィールドは宮崎のどかにハートを射抜かれた。

 ネギは今ならどんな強者であっても負けない絶対の自信があった。

 きっと五月と新田に背中を押されていなければ、のどかに甘えて縋って依存していただろう。遠くない何時かに破局すると分かっていても突き進んでしまう甘さと優しさがこの時ののどかにはあった。

 全てを赦してしまう優しさは、時に人を堕落させる緩やかな毒となる。今の二人の道は最適の時に交わり、重なった。

 

「ヘッ……妹よ、元気にしてるか?」

 

 甘酸っぱい二人を見やって、カモは鼻を擦って背中を向ける。

 二人の想いに当てられて、空を眺めながら恋人や気になる相手がいないので無性に故郷にいる家族に会いたくなったカモだった。

 それからの二人に言葉はなかった。ただ、目の前で湖を彩る火と水と光のパレードを眺めて、互いに微笑むだけだった。二人が醸し出す甘酸っぱすぎる雰囲気に誰も耐え切れず、周囲数メートルが空白地帯になっていたことに気づくまで後数分。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 近衛木乃香と桜崎刹那の二人と学祭を回っていた神楽坂明日菜は、偶々通りかかった龍宮神社に屯する人の多さに驚いていた。

 

「それにしても何なのよ、この騒ぎは」

「歴史の古い格闘大会があったらしいけど、こんな大きなもんやなかったと思うけど」

 

 明日菜の疑問に木乃香は記憶を穿り返して、合致しない情報に頭を捻っていた。

 見渡す限りの多種多様の者達が本殿へと続く石畳に集まっていて、総じて常とは違った闘志のような熱気を放っていれば異様とも思える。

 龍宮神社は各人が着込む服装が学祭の仮装とは違って中途半端なコスプレ会場のような状態に陥りつつある。

 刹那が人が一番集まっている場所に、これだけの人が集う理由があると考えて小走りで走って行った。

 

「これが原因のようです」

 

 人が集まる掲示板の近くに置かれていた箱の中から宣伝用らしきチラシを一枚を取り出して戻って来た刹那が、明日菜にそれを手渡す。

 

「あー、格闘大会ね。…………ん? ええ――――っ! いっせんまんえん―――――っ!?」

 

 麻帆良学園最強への挑戦と書かれたチラシにはデカデカと千万円の賞金額が書かれていた。

 麻帆良祭においては、賞金百万のイベントなど探せば幾つかあるのは事実だが、一千万ともなると別格だ。今まで見たことはあっても考えたこともない大きすぎる金額に目ん玉を飛び出さんばかりに食いついた。目の色を変えて思わず一人でノリツッコミをしてしまった。

 

「一千万円もあれば、学費と生活費が全部払えるかも……」

 

 明日菜は近年に稀に見る苦学生である。実際には周りから色んな手助けがあるが、親がいない彼女の身元保証人は高畑や学園長で、奨学金制度を使っているが実質的に両者に養ってもらっていると過言ではない。

 勤勉ではないが義理堅い彼女は現状を気にしていた。その為の新聞配達のアルバイトである。

 大会で勝てば学費と生活費を払えると考えると大分気持ち的に楽になる、と顎に手を当てて考える。勝てると決まったわけではないが使い道が遊ぶとかではないのは性分か。

 

「なんや誰かが色んな大会を吸収合併して纏めたみたいやな。体育祭と違って大きな大会がなかったから話題で持ちきりみたいや」

 

 掲示板の近くにいた空手着の袖を切り取って指なしのグローブを填めた、見た目とは違って親切な男性から大会の経緯を聞いてきた木乃香が明日菜からチラシを受け取りつつ言う。

 お嬢様である木乃香と彼女を護ることこそを第一に考えている刹那の二人には、大金に対してそこまで魅力を感じない。

 

「二十年前までは、この大会が麻帆良祭の目玉やったらしいで。腕の覚えのある人達が集まって来て面白くなってきたーって言うってはったわ」

 

 木乃香の話を聞けば、どうしてこれだけの人数が龍宮神社にいるのか納得もいく。

 優勝賞金一千万円という高額賞金に釣られた者や、純粋に自分の腕を試したい者。理由は様々なれど、集まった闘志と熱気が龍宮神社を覆っているのは少しでも察しのつくものなら感じ取れる。

 

「明日菜さんも出てみたらいかがですか? 結構いけるかもしれませんよ」

 

 刹那の申し出は忌憚のない意見であった。

 修行当初から感じていたが、元より明日菜は身体能力共に抜群の可能性を秘めており、大器に至る素質を備えている。一時期は危ういほど沈んでいたが鍛錬を再開してからの伸びは目を瞠るものがある。

 組み合わせの妙があるとしても一般人相手ならば良い線までいけるのでは、と考えていた。

 

「ギリギリまで選手登録の受付をやっているみたいやしな」

 

 刹那に続いて木乃香も打診してきたので、賞金自体には魅力を感じるが、大会で目立つことには前向きではない明日菜はどうしようかと考え込む。

 

『見学者と参加希望者は、入り口よりお入りください』

 

 中庭へと続く門がアナウンスと共に開かれ、明日菜達の周囲の人垣も動き始めた。まだ参加するか決めていないがジッとしていると邪魔になりかねない。

 

「参加するしないは別にしても中に入ってみようや」

「そうね。そうしよっか」

 

 どういう選択をするにしてもこのままこの場に留まっていてもなにも始まらない。参加しないにしても誰が勝ち残って賞金を獲得するのか興味もある。

 どの道、選択をする判断材料を増やす為にも、木乃香の言に従って明日菜は前に進むことにした。

 周りの波に乗って流れに沿うようにして明日菜達三人も移動を始め、龍宮神社の中庭へと足を踏み入れた。

 中庭に設置された予選の為の特設リングがあった。優勝賞金が一千万円と高額なこともあって、予選会場だというのに正方形の特設リングが等間隔に八つもある。予選会は直ぐなのに灯りの類がないので、試合中はなんらかの方法で灯りを中てるのだろう。

 そして中庭中の視線を集めて、ライトアップされた社の手前にて人影が見えた。 人影は右手にマイクを左手を天空に向けて掲げた。

 

『ようこそ!! 麻帆良生徒及び学生及び部外者の皆様!! 復活した「まほら武道会」へ!! 突然の告知に関わらず、これ程の人数が集まってくれたことを感謝します!! 優勝賞金一千万円!! 伝統ある大会優勝の栄誉とこの賞金、見事その手に掴んでください!!』

『おおおおおおお――――!!!!』

 

 ラウンドガールのようにボディコン衣装を中学生らしくなく着こなした朝倉和美が化粧もバッチリに告げると、その声と共に明日菜達の周りの男達の気合の籠った掛け声が一斉に上がって唱和した。

 

「あれ、なんで朝倉が司会を?」

 

 何故か司会をしている和美に対しての明日菜の疑問に答えられる当人は、慣れたもので前口上を述べ上げる。

 

『では今大会の主催者より開会の挨拶を! 学園人気No1屋台「超包子」のオーナー、超鈴音!!』

 

 ライトアップされた社の少し奥から影を縫うように現れたのは、中華服で正装した超鈴音だった。

 大々的に紹介された彼女を知らない者からは子供かという声も上がるが、麻帆良の天才頭脳などという二つ名を持つだけあって有名なので近場にいた知っている者が説明している。

 和美からマイクを受け取った超は会場に集まった一同の前へ出て、勿体ぶるように不敵気に笑いながら口を開いた。

 

『私が…………この大会を買収して復活させた理由はただ一つネ。表の世界、裏の世界を問わずこの学園の最強を見たい、それだけネ』

 

 片目を閉じてウインクを入れて、左手の人差し指を立てながらあっけらかんと楽しそうに言い放った。

 裏の世界という単語に心当たりのない観衆は騒めいた。順当に考えるならマフィアやヤクザといった脛に傷を持った人達のことだが、麻帆良学園都市ではそのような職業の者達が追放されて久しい。僅かに残っていた者達もこの一年の間に悉くが駆逐されている。

 大半の者達は超の言っている本当の意味を理解している者は、僅かにいた例外を除いていなかった。

 

『二十数年前までこの大会は元々裏の世界の者達が力を競う伝統的大会だたヨ。しかし主に個人用ビデオカメラなど記録機材の発達と普及により、使い手たちは技の使用を自粛、大会自体も形骸化、規模は縮小の一途をたどた……………だが私はここに最盛期の『まほら武道会』を復活させるネ! 飛び道具及び刃物の使用禁止……………そして、呪文詠唱の禁止! この二点を守れば如何なる技を使用してもOKネ!』

「ちょ、ちょっとアレいいの?」

「一般人の前でなんてことを!?」

 

 裏の世界という単語に引っかかるものを感じていた中で更に決定的なルールを発表されて、明日菜は困惑して刹那は動揺した。

 裏だの表だのと言ったのは見方を変えれば、自分が出資した武道会を盛り上げる為の演出と取れなくも無い。だがそんな下手な演出をしなくても、超の財力や麻帆良の最強頭脳と呼ばれる頭脳を駆使すればもっとマシな案があるはず。

 裏の世界と言っただけではなく呪文詠唱の禁止まで出したとなれば、先の言葉は本気で魔法のことを知っているとしか考えるしかない。

 

『案ずることはないヨ。今のこの時代、映像記録がなければ誰も何も信じない。大会中、この龍宮神社では完全な電子的措置により、携帯カメラを含む一切の記録機器は使用できなくなるなるネ』

 

 科学技術が発達したこの時代においては映像記録でさえ偽造が可能になり、完全には信じられない時代になっている。だが、それでも映像があれば信じる人も中には存在し、人の口に戸は立てられないというが証拠のない現象を信じる人はまずいない。

 魔法バレの疑いはあっても可能性の段階なので確証がない。賞金金額一千万でこれだけ注目を浴びる大会を急に中止してしまったら逆に不自然さが生まれる。学園側としても記録が残らないように配慮されているのなら問題があろうと開催せざるをえない。

 

『裏の世界の者はその力を存分に奮うがヨロシ!! 表の世界の者は真の力を目撃して見聞を広めてもらえればこれ幸いネ!! 以上!』

 

 超の宣言に集まった者達は理解できずとも、総合格闘技においてスタンダードとなっている反則とされている技以外は全て使えるルールと解釈して吠えた。

 

『では詳細の説明に移らせて頂きます!!』

 

 引っ込む超からマイクを受け取って和美が大会の説明を始めた。大抵は戦意に燃えすぎて聞こえていなかっただろうが。

 

「ちょっと不味いんじゃない、これ」

 

 明日菜の疑念も尤もだった。超が言い当てた裏の世界と関係を深めている彼女らは正確に理解して、その危険性を熟知している。かといって、これだけ戦意に燃えている参加者達を止めることなどもう出来ようもない。武道会を止める誰もが納得する正当な理由なしでは暴動が起きる。

 明日菜の懸念に対して刹那も木乃香も答える言葉を持たない。彼女達も現状に戸惑うしか術を持っていなかった。

 

「ふふ、中々面白い事になっているようだな」

「え……」

 

 和美に後を任せて引っ込んだ超のことをどうするかを考えていた背後から声をかけられた。

 聞き覚えのある声に三人は同時に後ろを振り向いた。

 

「面白い大会になりそーネ」

 

 そこには相変わらずの中華服に動きやすいようにスリットが危険域まで開いている古菲。

 体育祭でもウルティマホラに参加して優勝したこともあって、こういう大きな大会で強敵と戦えるのが嬉しいのだろう、顔が笑みの形で固定されている。

 

「一千万なら私も出てみるかな。なぁ楓」

 

 この龍宮神社の娘であり、肌の黒に致命的に合っていないが見事に着こなしている巫女服姿の龍宮真名が隣に立つ自分と同じぐらいの背丈の少女に話しかける。

 

「そうでござるなぁ…………バレない程度の力でなら」

 

 真名に話しかけられた、お化け屋敷で来ていた黒いセーラー服の衣装のままの長瀬楓がのんびりとしつつも参加の意思を窺わせる。

 

「龍宮!」

「楓ちゃん!」

「くーへ!」

 

 明日菜達が各々仲の良いメンバーの名を呼ぶ。刹那も含めて、武道四天王と呼ばれるおそらくは女子中等部最強の四人が揃った事になる。

 

「あいあい」

「こんな大会は滅多にないアルよ」

「遊びの大会で一千万ならボロい儲けだ」

 

 このような大会に率先して参加しそうな古菲は別にして、真名や楓は自分の力を必要とあれば別だが衆人環視の前でひけらかすことはしない。真名は自分が言っている通り、守銭奴な面もあるので高額な賞金に釣られて参加し、他の三人が参加するならと楓も前向きな意見が出ていた。

 次々と現れる参加者と見学者の中心にいる明日菜達は置いてけぼりになっていた。

 

「む、無理…………こんなメンバー相手に優勝なんて絶対に無理よ。どんなに頑張っても四位とか五位ぐらいにしかなれないわ」

「腕試しに参加するだけも意義があるんちゃう?」

 

 実力を付けている自負はあっても師である刹那と同格とされる武道四天王に勝てる自信などない。例え一般人全てには勝てたとしてもこの三人に勝てるはずがない。

 木乃香も明日菜が優勝できるとは思っていないのか、言っていることは中々に辛辣だ。苦笑いで否定しない刹那も同じことを思っているのだろう。明日菜もそう思ったので否定はしなかった。

 

「ほほう、中々に楽しそうな催しじゃないか。私も混ぜろ」

 

 一気に参加意欲を喪失しだしている明日菜に追い打ちをかける存在が、楽しげに声をかける。

 

「げっ、まさかエヴャちゃんも参加する気!?」

 

 明日菜が驚くのも無理はない。真名並みにこういう祭りは興味のなさそうなエヴァンジェリンが現れたのだ。

 エヴァンジェリンの登場に、彼女が真祖の吸血鬼と知っている刹那が盛大に顔を引き攣らせる。明日菜は早くも参加意欲が萎んできた。最初から参加する気のない木乃香だけが呑気にしていた。参加する人達の冥福を内心で祈っていたが。

 

「やあ、楽しそうだね」

 

 二度あることは三度ある。この場合は三度あることは四度あるのか。更に更にエヴァンジェリンの後ろから低い成人男性の声が降って来た。

 

「た、高畑先生!?」

 

 こういう場には最も縁が遠そうな教師の高畑の登場に明日菜の許容量はもう破裂した。

 

「みんなが出るなら僕も出てみようかなー」

「なんで貴様がこんなものに出るんだ?」

 

 片手で頭を掻いて火の点けていない煙草を口に咥えながらの気楽な声に、心底うんざりした顔でエヴァンジェリンが猫でも追い払うように手をシッシッと振るう。

 

「いや、ちょっと覗きにきただけだったんだけどね。見逃せないことがあったんだよ」

「超のことか」

 

 気の抜けた気楽な表情には不釣り合いな鋭い感情を一瞬だけ垣間見せた高畑にエヴャンジェリンがズバリと答えを言い当てる。

 高畑はエヴァンジェリンに対してなにも答えなかったが、こういう場合は沈黙こそがなによりも解答となる。

 

『では参加希望者は前へ出て籤を引いてください!』

 

 金的などの反則行為に値する説明を終えた和美の促しに参加者達が動き出す。

 拝殿の扉を開けて何人かの少女が籤が入っているらしき箱を持って出てきた。参加者たちはその場その場で適当に何列かに別れて並んでいく。 

 

「や、やっぱり出場するの止めようかな~」

 

 籤を引くために離れて行った出場を表明した面々の常識外れぶりに、参加意欲はプラスどころかマイナスにぶっちぎりに振り切った。明日菜は参加する全員が全員とも常識外れな気がして及び腰になっていた。

 出場したらただではすまない予感がビンビンしている。古菲のように強敵に挑むことに快感やワクワクするような思春期の男の子体質でもない。

 

「明日菜はそれでええとして、せっちゃんはどうするん?」

「楓達が出るなら私も出てみようかと」

「じゃあ、うちはせっちゃんが優勝出来るように一杯応援するな」

 

 刹那と木乃香も及び腰になっている明日菜を発奮するほど非情ではない。純粋な腕試しにならと出場する気になっている刹那と、彼女を応援することにした二人は明日菜が出場しない前提で話を進めていた。

 明日菜としても負けると分かっている大会に無理に出場する必要もない。木乃香と同じく刹那やクラスメイトの応援に回るかと、完全に参加する気を失くしたまさにその時だった。

 

「!?」

 

 偶々向けた視線の先で、隣に立っている眼鏡の少女や見覚えのある黒髪の少年と何やら話している金髪の少年が列に並ぼうとしているのが見えた。

 話には聞いていて、大きくなった今の姿を知らない明日菜はその金髪の少年がアスカだと直ぐに分かった。

 幼き頃の面影を十分に残したアスカの姿が参加者の中に消えて行った。

 

『予選会は籤引きで決まったそれぞれ20名一組のグループで行われるバトルロイヤル!! 予選会終了ギリギリまで参加者を受けつけます!! 年齢性別資格制限一切なし!! 本選は学祭二日目明朝午前8時より!! 只今より予選会を始めます!!』

 

 和美の宣言が響き渡る中で、神楽坂明日菜の肉体は本人の意思を外れてまるでなにかに導かれるように動き出す。

 



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第39話 繋がる道

 

 龍宮神社の拝殿や長廊下の屋根、更には空の上の飛行船から放射された光が方々から会場を照らす。幾重にも折り重なった光は即席のナイター照明の役割を果たして、真昼並みとまではいかなくても暗くなった空の下で視界に不自由はしない。

 

『麻帆良武道会の予選会は二十名一組のバトルロイヤル形式!! AからFまでの各組より二名ずつ選出!! 合計十六名が明日の本選に出場となります!!』

 

 麻帆良武道会の司会の役割を担っている朝倉和美の声がマイクに集音され、スピーカーを通して会場中に朗々と響き渡る。

 参加を希望した選手達はそれぞれ籤を引き、出場する場所を確認して指定された舞台へと移動する。

 

『優勝賞金は一千万円!! 籤により二十名揃った組から順次試合開始!!』

 

 和美の言葉に、籤の引き具合の妙で一組二十名を揃えて早々に試合を始めた組もあった。

 

『理由はこの際だからどうでもいいです! 武道四天王の全員が出場し、あのデスメガネまでいるこの大会に優勝すれば文句なしの学園最強が保障されます!!』

 

 混沌の坩堝に陥りかけた会場が言葉巧みな和美のアナウンスに導かれるように、真っ当な熱意への興奮に転嫁されていく。

 学園最強。誰もが一度は考え、討論を交わしあって、結局は結論が出ぬままに終わってしまう話題。言ってしまえば賞金一千万円の話題だけが先行していた感のあった武道会に新たなスパイスが加えられた瞬間だった。

 

『定員百八十名に達するギリギリまで参加受付中!! 麻帆良の強者の皆さん、奮ってご参加を!!』

 

 早い者勝ちだと言わんばかりに始めた組から生まれる怒号や悲鳴の声に負けじと和美も声を張り上げる。

 腕に覚えのある大小様々な体格や服装の男達は、各々で偶々隣り合った者同士や近くにいた者に向けて無差別に拳や武器を交し合う。勝者は次の標的を探し、敗者は地に抱かれて意識を落とす。

 バトルロイヤルという方式を採用したことで弱い者にも十分に勝ち抜くチャンスはあった。

 バトルロイヤルとは乱闘のように入り乱れて戦うだけではない。敵の敵は味方の論理もある。一対一では勝ち目のない相手にも数の差を使えば引っ繰り返すのは容易である。このルールを活かして協力して体格が良くて強そうな者を集団で駆逐する場面も見られた。

 次々に敗北者が山を為して、勝者だけが屍の上に立つ。敗北者の山の中に、いったい麻帆良のどこにいたのかと思うぐらいに奇抜な服装や容姿の者がいるが気にしたら負けなのだろう。

 A~G組までの試合は順次開始されており、未だ開始されていないのはF組のみである。

 前年度「ウルティマホラ」優勝者である古菲が体重差二倍以上の男達を宙を舞わせ、男子剣道部部長を持っている木刀と身に着けていた防具も纏めて砕き貫いて、傍で楽をしていた龍宮真名と共に早くも本選出場を決めていた。他にも差はあれど、勝ち抜くべき者が順当に勝ち上がっている。

 その中でF組だけは何故か開始が遅れていた。

 

『それではF組の方は舞台に上がって下さい』

 

 各舞台の解説を続けていた和美は最後の組に舞台に上がるように指示をする。

 指示を受けて誰よりも早く舞台に上がった者がいた。ライトに照らされる逆立てた短い金の髪に闇を吸い込む黒色で統一された上下の服を身に纏って立つ少年の名はアスカ・スプリングフィールド。

 

『お!? おお~~~~っと、これは――――』

 

 舞台の真ん中に歩み寄って止まったアスカにライトが全方位から向けられ、和美の驚いたような声に合わせて会場中から笑いの渦が巻き上がる。

 後に続いて円を描くように舞台にいる者達はアスカよりも遥かに体格が良くて強そうな者達ばかり。武道会には子供の部はないので何かの手違いで紛れ込んだのだと誰もが思った。

 これは仕方の無い事だ。誰もがその者の表面上を見ただけで物事を判断しようとする。人は他人を見た目だけで判断してしまう悪癖を持っている。愚かと言うなかれ。初対面の印象は見た目で八割が決まるのだ。今も殆どの者がアスカをアスカと認識しておらず、ただの子供と見ている故に。

 過剰にライトを向けられていたアスカから次々と光が剥がされ、輪郭ぐらいしか判別できなかったその姿を露わにさせる。

 

『用意はよろしいですか? よろしいですね? では試合―――――開始!!』

 

 司会である和美から試合開始の合図が発せられた。だが、動きは見られない。アスカにも、周りにも。誰も動かない。だからといって変化がないわけではなかった。

 自らを照らす光を発する飛行船を見上げているアスカは構えもなにも取っていない。ただ茫洋として隙だらけに見える。

 アスカの周りを十八人の男達が取り囲んでいたのが変化だった。誰もが背が高く、肉のつき方もいいのでほぼ全員が格闘技経験者に見えた。全員が全員何らかの構えを取っていた。

 格闘技をするにしては全員が全員ともガラが悪すぎる。例えるなら格闘技崩れの不良という表現が一番当てはまる。

 周りの観客の一部がF組の異様さに気づいて騒めき声が生まれても男達は動かなかった。

 

「―――――来ないのか?」

 

 これだけの隙を見せても動こうとしないことに先に痺れを切らしたのはアスカの方だった。いや、単純に純粋に疑問を覚えただけか。

 

「成程な、これだけの人数に囲まれても震える素振りもねぇ。只者じゃないのは間違いなさそうだ」

 

 アスカの問いに答えるように集団の中から一人の男が歩み出てきた。肩から力を抜き、軽やかなステップを踏んでいる。顎先辺りに置かれた拳はゆっくりと握られて半開きだった。筋肉の形、足の運びから察するに、この男は拳闘士―――――ボクサーのようだ。

 油断はしていないが同時に自分達の有利を確信した者だけが浮かべる厭らしい笑みを浮かべるも、顔を上げたまま首だけを傾けて見遣ったアスカの顔に動揺が見られないので舌打ちをした。

 

「馬鹿言ってんじゃねぇ。そりゃ過大評価ってやつだ。ブルってんのを必死に抑えてんだよ」

 

 ボクサー風の男とは反対方向から、また一人の男が一歩前に出た。

 整髪料をたっぷり使って髪を逆立て、そのファッションセンスも含めて如何にも流行っぽく決めている。対照的に、ボクサー風の男は完全なスキンヘッドで、しかも眉毛が薄いからかなり厳つい感じで、アスカを嘲笑う。

 

「こっちは全員が仲間なんだ。さっさと惨めに許しを請いな」

 

 と、こちらは構え的に空手使いのような男が凄みを効かせてきた。

 

「一千万は俺達の物だ。その為に大会委員も買収したんだからな」

「18対1…………まさか、勝ち目があるなんて思わねぇよな」

 

 続くように言った輪の中の誰かの発言は、アスカにとってはどうでもいいことだった。

 平然としているアスカに虚仮にされていると感じたのか、空手使いが凄む。

 

「俺は道場を破門されるまで空手有段。こいつは暴力事件を起こしてライセンスを剥奪されるまで、ミドル級のプロボクサーだったんだ。五戦五勝五KO。あんまり舐めてっと、怪我じゃすまねぇぞ」

 

 アスカにとっては至極どうでもいいことを延々と垂れ流す。

 どうやらこの集団の中で、ボクサー風の男と空手風の男がリーダー格らしい。

 

「知るか。ドロップアウトした奴が偉そうに語るな」

 

 心底どうでもいいという感情が込められた台詞を合図にして、男達はそれぞれに武器を取り出した。

 ボクサー風の男が両拳にカイザーナックル(パンチの威力を上げるために拳に巻く鉄の凶器)を装着し、空手風の男は大昔の不良のように長さ一メートル半ほどの鎖を構えた。

 

「おい、審判! いいのかよアレ!」

『禁止されているのは飛び道具及び刃物であって、あれらはルールには違反していないヨ』

 

 剣道部長の防具や木刀と違って明らかに人を傷つけるだけの道具に、観客の誰かが明らかに反則だと上げた声に返ってきたのは慌てた様子の和美のものではなかった。

 スピーカーから感情がないとまではいかないが伝わってくる情動が薄い超の声が響き渡る。それで反対の声は収まることはなかったが自体は坂道を転がり落ちるボールのように留まってはいない。そうこうしている内に事態は致命的な領域へと突入していた。

 

「粋がってんじゃねぇよ。たった一人でこの数の差になにが出来る?」

 

 分かりやすいに挑発に乗って暴走するほど男達は愚かではなかったようだ。だが、全員に共通して額に青筋を浮かべている。集団で個人を包囲するような狭隘さであっても変にプライドだけは高そうだった。

 血の気の多い者が勇んで足を踏み出そうとした。 

 

「―――――この程度でいいのか?」

「なんだって?」

 

 アスカが唐突に足を踏み出そうとしていた者の機先を制するように言葉を放った。

 一歩は進んだ。が、発せられた言葉の意味が分からずに戸惑うように次の足を進められない。元より脳筋と称されることの多い彼らは思考を停止して、先の言葉は時間稼ぎの為のブラフだと判断するのは早かった。

 三呼吸を挟んで結論を出した彼らの包囲網に臆すことなくアスカが口元を歪めた。

 

「たったこの程度の人数で俺をやれるのかって聞いてんだよ」

 

 ここでようやくアスカのダラリと脱力しているように見えた肉体に、少しずつ力が入っていく。

 格闘技崩れの不良であっても、一度は真面目に武道を志した身。少しずつ威圧感を増していくアスカに背を向けることがどれだけ危険なことを察知れないほど未熟ではなかったようだ。

 全員が全員、中途半端な姿勢で固まり、ギクシャクとした様子でアスカに注目する。この時にはもう全員が直感していた。目の前の少年は自分が逆立ちをしても敵う相手ではないと。

 

「ほざけっ!!」

 

 色んな挟持を背負って引けに引けなくなった感のあるボクサー風の男がステップを刻みながらアスカとの距離を詰める。怒声と共にカイザーナックルで拳を固めたボクサーが殴りかかってきた。左ジャブだ。まだ間合いの外である。後、半歩でも縮まれば背丈の差でボクサー風の男の拳が届く距離である。

 牽制というより挑発しているような仕草であった。よほど自信があるらしい。あまりスピードはなく、本気のパンチには見えなかったが、アスカが「子供」だからと油断しているのだろう。

 ボクサー風の男はアスカが臆さぬと分かると間合いを詰めて、続けて左ジャブを放った。

 アスカが上体を小さく動かし、風を切り裂く拳を避けた。成程、素人よりは遥かに良いパンチだと認めざるをえないキレとスピードに僅かに瞳を細める。

 

「くっ! はっ! せっ!」

 

 ボクサーは更に続けてジャブの連打。これも上体だけを前後上下左右に動くだけで避ける。あまりに簡単に避けられているのでムキになったように回転を上げるが、アスカには当たらない。

 執拗に攻撃を続けるボクサーの前進を止めるために、前に出ていた左膝を狙った直線的な蹴りを放り出すように放った。

 大体のボクサーというものは、下段蹴りに弱い。案の定、攻撃が当たらなくて上にばかり意識が向いていたボクサーの左膝に綺麗にめり込み、彼の顔を苦痛で歪ませた。

 それはボクサーの油断もあったのだろう。格闘技における優劣は、体格にあると考えるまでもなく決まっていた。当たり前のことだ。子供と成人男性では、当然、肉体の練度においても男の方が上回っている――――――筈だった。

 油断していたというのもあるが、普通の子供なら一撃で簡単に倒せるだけの力を込めたジャブが綺麗に躱され続けて左膝を打ち抜かれた時、ボクサーは余裕をかなぐり捨て己の最大の武器である最大最速の右ストレートが火を噴いた。

 カイザーナックルを付けた元ミドル級ボクサーが本気で放つ一撃は、間違いなく人を殺し得る必殺の凶器。直撃すれば死の危険さえ考えられる凶悪な一撃。

 当たるはずだと思われた一撃は空を切るだけに留まった。そしてボクサーはアスカの姿を完全に見失った。

 一瞬後、再びその姿を視認した時、アスカは突き出した自分の腕が作った死角に潜り込み、鳩尾に肘を突き刺していた。

 瞬間移動にも等しい踏み込みの運動エネルギーを、余さず注ぎ込んだ一撃。その衝撃に男の鍛え抜いた腹筋を突き破り、胃を破砕したような衝撃が背中か抜ける。

 重量級の肉体が、軽やかに宙を舞った。人形のように落下したボクサーの意識はそこで完全に途切れた。

 

「ガキがぁ―――ッ!」

 

 無防備に背中を晒すアスカの後ろから隙を窺っていた空手風の男が、叫びながら鋼鉄のチェーンを振りかぶっていた。

 アスカは、まるで背後に目があるかのように軽いバックステップで距離を詰め、頭を下げてチェーンを避けて後方に高々と足を斜め上に振り上げた。体移動の勢いを効かせて一気に振り切る。 

 

「!?」

 

 踵が空手風の男の脇腹にめり込む。本当は側頭部を狙いたいところだが、相手は百八十㎝を超えているので背丈の差で難しいので狙いを変更している。中国拳法の後ろ蹴り「後蹴腿」で迎撃したのだ。

 大人になっていない肉体から繰り出されたとは思えないほどの強烈な蹴りを浴びて、空手風の男は吹き飛び、受け身を取ることも出来ず地面に倒れこんだ。たったの一撃で意識を失ったのだ。

 これで十八人中二人が脱落した。

 

「和也!………もう、容赦しねぇ―――ブッ殺してやるぁ!」

 

 如何にも不良然とした格好の男が、空手家風の男(和也という名前らしい)の名前を叫んで独創性のない台詞を撒き散らしながら蹴りを振り上げて無防備なアスカに向って走り出す。

 

「っらあああぁっっ!」

 

 奇声を上げながらではあるが、技術も何もない力任せの動き。運動神経がいいのか、はたまた別の要素があるのか中々に速い。

 飛び出してきた男の動きに合わせて、アスカは軽く後方に跳んだ。

 跳躍というほどの強さではなく、爪先で地面を蹴る程度に。それだけで男の攻撃は外れる。

 同時に死角の背後から近付いていた男に自分から接近して足を引っ掛け、倒れさせることでぶつけて同士討ちにさせる。

 倒れる時に二人で頭を打ち付けたのか、折り重なったまま体を力が抜けていた。

 これで十八人中四人が脱落。

 

「死ねやあああっ!」

 

 僅かに遅れて一直線に突進してくる一人の男。喧嘩の素人なら萎縮して動き出せないぐらいには速い動きも、アスカには児戯と何ら変わりはしない。

 身体ごと相手の攻撃を躱すことの利点は、そのまま死角に移動できることだ―――――勇気があれば別だが。

 この場合、それは大して問題ではなかったが、アスカは突っ込んできた男のタックルを避ける足を上げずに滑るようにして、目標を見失った男のだらしなく体勢を崩した無防備な後ろに素早く回り込み、その膝裏に足を乗せてアスカは踏み下ろした。

 本気ならブチブチと音を立てて、膝の靭帯が捻じ切れて行くところだが、そこまでやるのは流石に忍びない。単純に膝を折り曲げさせるだけの強烈な『膝かっくん』に留め、膝が地面について上体が勢いよく背後に―――――アスカの待ち受ける方に仰け反る。

 

「せやっ」

 

 踏み抜いた足を軸足に掌底を振り上げる。向こうから近づいてきてくれた後頭部を、アスカの掌底が弾き飛ばすように迎え撃った。

 本気でヤルと真面目に柘榴になりかねないぐらい洒落にならないので、手加減して後遺症が残らないように最小限に最小限を重ねて撃つ。

 打った衝撃が男の脳を貫いて、前頭部から抜けていく。男はピクリと身体を痙攣さえ、糸が切れた人形のように倒れ伏して沈黙した。起き上がる気配もなく完全に気絶している。

 これで十八人中五人が脱落。

 

「うらぁあああああああああああああ!」

 

 更に声を上げながら別の男が腕を振り上げ、拳を投げつけてくる。

 元より距離が開いたことで、躱すまでもなく空振りしたその突き出された拳を、空手の回し受けのような動作で捌いた。同時に指先を引っ掛けるようにして相手の動きを掴み、軽く手首を返す。

 ただそれだけの動きで、男の身体は宙に浮いた。さして力を入れた様子も無いのに、簡単に飛んだ。突きの直線運動を円運動で捉え、巻き込み、重心を崩させる―――――日本では合気、中国武術では化頸などと称される技法である。相手の力を利用して、小さな力でより大きな力を制することができる、というのがこの技の利点だ。

 地面に落ちた男は肺の空気を一気に押し出され、そのまま白目を剥いて気を失った。

 これで十八人中六人が脱落。

 

「この野郎ぉっ!」

 

 いま投げた男から僅かに遅れたタイミングで、斜め前からバランスの良い肉体を躍動させて跳んだ男が飛び蹴りを放った。

 弾けるように身体を横にずらしながら払いのけるようにして躱すと、男の腹に向けて掌を真正面から閃光のように叩き込む。

 

「破ッ!!」

「っがっ!?」

 

 空気を溜めたビニール袋が破裂したような音を立てて男が吹っ飛んだ。男は近くにいた仲間を巻き添えにして数メートル転がって悶絶する。

 アスカは今の男が直ぐに戦線に復帰できないことを確認して周囲に気を配っていた。

 これで十八人中七人が脱落。

 対多数戦の鉄則は、決して取り囲まれないこと。仮に取り囲まれたとしても、攻防の主導権を常に持ち続けること。 常に攻め手を持ち、決して護る為だけに護ってはならない。防御は須らく次の攻撃への布石で無ければ成らない。 それが出来なければ、待っているのは囲まれるだけの包囲網。一所に留まらずに動き続ける。

 

「ふんぬぁあああああああああああっ!」

 

 裂帛と表現するべきかどうは難しいところだったが、とにかく気合の声と共に横合いから木刀が振り下ろされる。

 アスカは軽く右肩を引いて、その斬撃が目の前数ミリを通り過ぎていくのを眺める。

 

「おぅりゃあああああああっ!」

 

 跳ね上げるような斬り上げ、技の組み立ても何もない、ただ木刀を力任せに振り回しているだけの攻撃。今度は半歩ほど立ち位置をずらすことで回避する。

 

「どりゃ、てぃ、りゃあああああああっ!!」

 

 右へ左へ、上へ下へ。縦横無尽に暴れまわる切っ先を最小限の動きで避けて、振り抜いた隙を見計らって神速の踏み込みで掌低で顎を撃ち上げて気絶させる。

 これで十八人中九人が脱落。

 

「う…………うっ」

「くっ」

「くそっ」

 

 遂に半数の数がやられてしまった。機先を制され、平常心を失えば本来の実力は発揮できない。既に彼らはアスカの術中に嵌っていた。この時点で彼らは平常心を失っていた。少年とは思えぬ実力が逃げという選択肢を選ばせぬほどの畏れを植えつけたのである。

 

「うああっ!」

「ああっ!」

 

 間を置かずに攻め入ってくる不良達に意識を配りながら、アスカはぼんやりと考える。

 

(またこの世界か)

 

 動き始めた世界に意識だけが取り残されるような、魂が肉体から遊離して空の上から俯瞰した光景を見ているような気分。身体を動かす時は何時もというわけではないが、そんな意識があった。

 傍観者、それも俯瞰で覗くような感覚を持つ時がある。実際は、視界の外が見えるわけでもない。だが知覚のどこかで、自分がどこから襲われるのか分かる気がする。

 そのメカニズムは分かっている。ごく単純なものだ。それは経験と呼ばれる。

 前後左右から飛び込んでくる相手に、さほどの警戒は働かない。威力も、スピードも、動きも、脅威にはならない。未知のことですら―――――未知の要素というものは何時だって残るものだが、未知のことですら既に知っている。それも、経験からくる予測というものだ。敵の視線、筋肉の動き、長年の修練で相手の動きを事前に読むことが出来る。

 アスカはこの世界を幼い頃から持っていた。経験を経ねば得られない予測によって形成されるこの世界に自然と入れた。

 

(常に自分の外側に目を置いて全体像をイメージすること、か)

 

 敵の意識に自らを重ね合わせ、流れを読んでわざと作った隙に誘導する。エヴァンジェリンの教えを思い出していたのは、実際には一秒とかからなかっただろう。

 その数瞬間の間に、幾つかのことが起こった。

 

「人数はこっちが上なんだ!」

「行くぞっ」

 

 前後左右から三人が同時に攻撃を仕掛けてきた。タイミングが合ったのか、恐ろしいまでに息が合っている。

 ほぼ同時に三方向からの攻撃がアスカに叩きこまれた。読み切ることは出来るが、防ぐには絶対的に手数が足りない。だからこそ、アスカは前へ踏み込んだ。

 

「げっ」

 

 左脇腹を突こうとした今時珍しいモヒカンヘアーの男の蹴りを脛を掴むことで止める。ただしその勢いは殺さない。

 蹴りの勢いをそのまま活かして、自ら回転しながらモヒカンの男の身体を左手一本で振り回した。いくら蹴りの勢いを殺さずに利用しているといっても大人と変わらぬ体格を片手一本で振り回すアスカの腕力は並外れすぎている。

 

「なぁっ!? 片手で人を振り回すだと!?」

 

 フルスイングされたモヒカンの男の体が正面から来た革ジャンの男を見事に撥ねたのは異様としか言いようがない。更に右から来た180㎝を軽く超えそうな大柄の男の巨大な拳すら振り回したモヒカンの男の体が受け止める。

 盾とされた挙句、手放されたモヒカンの男が声もなく転がり、ぶつけられた革ジャンの男が吹き飛ぶ。殴られたモヒカン男と遠心力も付加された体重をぶつけられた革ジャンの男はもう戦えない。

 これで十八人中十一人が脱落。

 

「くそったれがぁぁぁぁぁっ!」

 

 だが、巨漢の男は未だ健在だった。自らの手で殴り倒してしまい、倒れ伏すモヒカンの男を踏み越えて、巨躯を揺るがし悲壮な雄叫びを上げて拳を振りかぶって襲い来る。

 巨躯の男に対して、アスカも捻っていた身体を戻しながら正面から深く踏み込んだ。

 先手を打って、叩き込まれた太い腕を握り締めた逆の腕で外へ弾き、間髪を入れずに拳を巨体の腹部へと叩き込んだ。

 

「ぐはっ」

 

 巨躯を持つ男はアスカよりも頭三個分以上は大きい。筋肉で膨れ上がった身体は、細身のアスカよりも遥かに強靭に見える。なのに、アスカのたった一撃で巨体が膝から崩れ落ちるように沈み込む。

 これで十八人中十二人が脱落。

 

「呆気ない。次は誰だ?」

 

 そう言うよりも早くアスカの背後にいた少年が殴りかかってきた。

 目の前の一人が目配せしたのに気付いていたアスカは、時計回りに回転しながら右に体を躱してその拳を避ける。

 目配せしていた男がタイミングを合わせて飛び掛かってきたが、突然ガクリと何かに鳩尾を叩かれたように前のめりになった。その腹にはアスカの足が食い込んでいる。

 これで十八人中十三人が脱落。

 腹を抱えて悶えている男に背を向けて、さっき攻撃して空振りした相手の手首を両手で掴み、左肘を相手の上に載せて巻き込むように手首を返してやると、襲ってきた少年は肘と肩を極められ、あっさりとうつ伏せに押さえ込まれた。

 

「まだ完全に極めていないのに動けないとは。アンタの身体は固過ぎる。もっと柔らかくした方がいい」

 

 素人がプロレスの技を見様見真似で使っているのではなく、鍛えた人間による正確な固めであることは、少しでも格闘技の経験のある者から見れば明らかである。

 かなり強力な関節技だが、外部の寝技専門の人間から見れば言う通りに抜けれる余地は残してあるのが分かる。

 頭に血が上っている彼らにそれが分かるはずもなかったが、アスカは呆れたように言いながら忠告する。

 

「ごたごたとうっせぇ! 放しやがれ!!」

 

 忠告が届いていないのは、じたばたと暴れる少年を見れば判る話だが。

 

「うるさい」

 

 アスカは煩わしげに掌の甲で腕を極めている相手の後頭部を軽く叩いて脳を揺らした。後頭部を叩かれたことで意識を消失していた。

 これで十八人中十四人が脱落。

 もう片手の指にも足りる人数になってしまった。残った面々にハッキリと分かるほど顔に焦りが浮かぶ。

 焦った長髪の男が横からタックルを仕掛けてくる。アスカは体を開いて躱し、相手の後頭部を押し下げると同時にベルトを掴んで引き込んだ。

 

「おっ! ………えっ? ………………うおおおおっ!!」

 

 相手は奇声を発しながらバランスを保とうと手をバタバタさせていたが、やがて耐え切れなくなって余計に勢いをつけられた男は反対側にいた仲間二人に頭から激突し、もつれ合って仰向けにすっ転んだ。

 

「うわ、あいつら弱ぇな~っ!」

「結局は外面だけの奴らだろ」

 

 同士討ちに観客たちの容赦ない笑いが巻き起こる。

 競技場の這い蹲る三人はそれで顔を真っ赤にして羞恥を覚え、一人無傷の男は逆に青褪め、無表情になった。パチンとバネの弾ける音と共に、男の手から細身の刃が伸びる。それは刃渡り五センチほどの飛び出しナイフだった。

 

「刃物等の武器は禁止だが」

「はんっ! 知ったことかっ!!」

 

 アスカは身構えたが、その姿勢はナイフに怯えたものではなく、虚勢でもなく、武装した敵を正面から向かえ討とうという構えだった。

 逆上した顔つきの少年は前屈みになり、ナイフを持った右手を前に突き出してじりじりと近づいていく。

 が、アスカはその場から一歩も、それどころか微動だにせず、痺れを切らした男は一気に突っ込んだ。

 水平に薙ぎ払う刃をアスカが冷静に一歩下がって避けると、男はナイフを逆手に持ち替え、大きく振り被った。

 男のナイフ扱いは堂に入ったもので、玄人と呼ぶに相応しい技量であった。だが、アスカに対するにはまだまだ未熟である。

 男の手が振り下ろされるその瞬間、アスカは前に踏み込んだ。左手で自分から振るわれるナイフに近づき、掴んだ。力の限り握られたナイフに殺傷能力はない。

 男の顔が驚愕に固まる中、アスカはナイフを持つ左手を上げ、釣られた相手の肘の下を取る。右手で相手のナイフを持つ手首を掴んで左半身に変わりながら腕を引き込むようにして相手の身体を前に泳がせる。

 更に腕を引っ張って地面にうつ伏せに倒し、取った腕を背後側に捻ると、男の手からナイフがポトリと落ちた。

 アスカは男の腕を折り曲げて極め、右足に手首を引っ掛けつつ上腕を踏みつけた。

 すると右足だけで腕が固められ、男は身動き一つ取れなくなった。立っているアスカに両手を使わず押されこまれ、完全に死に体となっている男――――露骨なまでの明白な勝者と敗者の図式がそこに出来上がっていた。

 

「下手に暴れると折れるぞ」

 

 アスカは獣のような苦痛の呻き声を上げる男を見下ろして静かにそう言うと、落ちたナイフを蹴り飛ばして舞台の外へ落とす。仲間の三人と観客たちは事の成り行きに唖然としている。

 

「なんなんだ……………なんなんだよお前は!」

 

 不良三人の一人が耐えかねたように叫んだ

 慣れ過ぎている、と誰もが思った。遥かに多い数に囲まれても動揺の欠片すらも見せず、悠々と舞を舞うかのように一人、また一人と沈めていった、息一つ乱さず、体力の消費も見えない。

 子供がどのような人生を歩めばこうなるのか、と暴力に慣れてしまった少年に恐ろしさを覚えた。

 

「もう飽きた。終わらせる」

 

 不良の叫びを黙殺し、諦めることなく暴れ続ける男を見下ろしていたアスカの視線が凍る。

 拘束していた右足をどけて、男がこれで動けると考えた時には頭を蹴り飛ばされていた。痛みも感じることなく意識を失ってゆく男が最後に見た光景は、どうやって移動したのか、神速の速さで踏み込んだアスカが瞬きの合間に仲間三人を瞬殺する光景だった。

 

「……………」

 

 瞬く間に三人を瞬殺したアスカ。

 意識を失ったか、暫くは動けない男達の屍の中で屹立するアスカに勝利の喜びは見えない。このような事態も光景も、全てが当たり前と受け入れている戦士の顔だった。

 辺りを見渡して、ここで初めて冷めていた少年の顔が変わった。

 不良達は程度の差はあれど残らず地に伏している。おかしいところはなにもないのに違和感があった。

 

「一人足りない?」

 

 そろそろ起き上がれそうな数人に止めを刺して意識を刈り取りながら反芻すれば、自分も合わせて二十人には一人足らないことに気がついた。確実に意識を刈り取るアスカに「外道」と言う者もいたが当人は気にしなかった。

 予選会は一組二十人が集まってから開始される。先のA組からF組は二十人揃ってから試合が始まっている。だから試合は規定人数を揃えてから始まるものだという先入観があった。

 

「!」

 

 舞台の上に人の気配は感じられなかったので、ザッと舞台を足が踏みしめる音を聞いた時には驚いた。

 慌てた様子で振り向いた先、スポットライトの当たっていない舞台の端っこから人影が歩み出てきた。

 強靭な顎と真一文字に結ばれた唇。太い鼻と張り出した頬骨。黒いサングラスで遮られたくぼんだ眼窩の奥底にある瞳には、闇の中で真っ赤な光が宿っている。野性味を帯びた顔には感情が宿っていない。

 こうして向かい合ったのに気配というものが感じられない。良くも悪くも人らしさが感じられない相手の異様さに、アスカは我知らずに唾を飲み込んだ。

 

『おお~っと最後に残ったのは麻帆良大学工学部所属の田中選手です!』

『機体番号T-ANK-α3、愛称「田中さん」です。工学部で実験中の新型ロボット兵器です』

 

 和美の興奮したアナウンスに続いた弾んだ声に聞き覚えがあった。これは3-A出席番号24番葉加瀬聡美の声だ。

 この大会の主催者である超も葉加瀬同様にロボット工学研究会に所属している。ロボットならば存在しない気配を察知できないことにも納得できる。

 騒動に対しても巻き込まれて壊れようが修理可能であることも考えれば、予選に参加している理由に納得もいく。

 

「ロボットか。成程、気配がないはずだ」

 

 呟きながら色々な事象に納得がいった。

 人の形はしているが、こうして対峙してみると、やはりロボットはどこまでも行ってもロボットだ。

 人工皮膚によって限りなく人に近い質感を有しているとはいえ、表情のない顔からは、心は読み取れない。そこに魂はなかった。だからこそ闘い辛い。

 闘う時、人は必ず相手の眼を見る。表情を窺い、全身の微妙な筋肉の動きを見る。そうして些細な感情の揺れを感じ取ることで、相手が攻撃するよりも速く、防御またはカウンターという対策が取れるのだ。それは高次元な戦いであればあれほど、重要になってくる要素である。最終的にはその感情の読み合いこそが、戦いの全てを決するほどのレベルにまで達するのだ。

 感情の一切ないロボット兵器は、そういう意味で生身の人間と戦うよりも何倍もやりにくい。

 おまけに人の身体の原理など全く関係ない。関節の稼働領域に限界などないし、首だってただのカメラとCPUを結合しているパイプ管に過ぎない。人工皮膚に覆われた継ぎ接ぎだらけの身体の内部には、複雑な電子機器が収められている。その上、一撃一撃が人の限界を超えた力を秘めているのだろう。

 戦士の宿命とでもいうべきか、アスカは対峙した「田中さん」の戦力を評価してどう戦うかをシュミレーションをしていた。

 

『田中さん。遠慮は必要ありません。思っいきりやっちゃって下さい』

「て、おい!? 二人残れば終わりじゃないのか!」

 

 予想外の方向に進みだした流れを堰き止めんと姿は見えないが、けしかける葉加瀬に向かって叫んだ。

 

『科学の進歩の為には少々の非人道的行為も寧ろ止む無しです』

「色々と台無しだなオイ!」

 

 葉加瀬とマイクを代わったらしい超の発言に、アスカの眉間にビキビキと青筋が浮かび上がる。

 

『尊い犠牲ヨ。アスカさん、貴方のことはきっと忘れないネ。明日までは』

「死ぬこと確定?! しかも覚えている期間短いな!」 

 

 南無、とマイクの向こうで手を合わせていそうな声にも叫び返したアスカは、なにをやっているだろうなと半ば現実逃避に陥りかけていた。だが、田中さんが悠長に現実逃避も与えてはくれなかった。

 

「指示了解。デハ初動カラパワー全開デ」

「は?」

 

 どうも闘う雰囲気ではなくなっていた中で聞こえた片言な声。見た目とは違って言語機能は未完成なのか片言喋りな田中さんが口をソフトボールが入るぐらいに大きく開けた。

 開いた口の中には、カメラのような物が覗いている。

 

「嫌な予感がビンビンと」

 

 猛烈な嫌な予感がアスカの脳裏で警鐘を鳴らし、思わず田中さんのカメラのような物の射線上から逃れるように身体が動いていた。

 カメラのシャッターのような光が発した瞬間には全力で回避運動に入っていた。

 

「のわっ!」

 

 田中さんの口の中にあるカメラが一瞬だけ光って、そこから発射されるレーザー光。悲鳴を上げながら飛び上がった靴の底を削って地面に衝突して小さめの爆発を起こした。

 光線が当たった場所は一瞬にして虫眼鏡で照らした日光の熱が黒く塗った紙に穴を開けるように、焼き焦げを作っていた。

 

「っていうか、ビームは流石に反則なんじゃ……」

 

 会場のどよめきの中、観客の誰かが突っ込んだ。

 

『大丈夫です。まだ出力不足で命に別状はありませんから』

『ということネ』

 

 そういう問題かと誰もが思ったが、もう誰も突っ込もうとしなかった。あまりにも大会側が天衣無縫すぎて突っ込む気も失せたのだ。

 

「そういう問題か!」

 

 威力に目を瞠るアスカめがけて、次々と光線が連射される。

 田中さんが舞台の真ん中まで出て、アスカがその周りを動き回る。

 気絶している男達に着弾したが血や臓物の臭いはしない。衝撃はありそうだが火傷を作る程度で大層な怪我は負っていなさそうだ。連続して着弾した影響で中々晴れない煙で姿は見えないが。

 叫ぶ余裕のある姿が観客に大会側への突っ込む気を失せさせていることに気がつかないのはアスカの非常識さか。

 

「ターゲットロック」

 

 光線の連射を軽々と割と余裕を持って躱しているアスカに向けて、一旦口を閉じてレーザービームを止めた田中さんは両腕を上げた。

 口からレーザービームに続いて感じる嫌な予感と、ロボットならロボットで割り切ってしまえと順応の早すぎる麻帆良生が田中さんの動作に期待に胸を高鳴らせた。

 

「ファイア」

「やっぱりかちくしょうめ!」

 

 田中さんの両手が突然発射されて、地面に頭をぶつけんばかりに後ろに反り返りながら避けたアスカは予想通りの展開に思わず吐き捨ててしまった。

 ワイヤーで腕と繋がっているが、特撮好きの男のロマンと言ってもいいロケットパンチである。

 

「おおー、ロケットパンチだぜ!?」

「やっぱロボッつったら、こーじゃないと! やるなー、工学部!!」

 

 男のロマンへの期待を裏切らない工学部に賞賛の声が上がる中で、アスカが直ぐ上にあるワイヤーを辿って着弾点を見ると両腕が舞台に食い込んでいた。

 さっきまでは真面目な空気だったのに、どうしてこんなおちゃらけた雰囲気になってしまったのかと嘆いたアスカは、片手をついて反転しながら田中さんを見て絶望した。

 田中さんは放った両腕を戻しもせずに、口をパカリと開けて再度のビームレーザーの準備を整えていた。

 右手と右足を付いた状態で機敏には動けそうにない。舞台の端にいるので後ろには避けられない。

 なにかもう負けてしまった方がいいような気がしたが、なんとなくあのレーザービームには嫌な予感が消えない。

 どうも男の尊厳に関わりそうな嫌な予感が背中にゾクゾクと鳥肌を立てる。

 

「ぬぅおおおおわあああああっ!」

 

 筋肉を酷使して軋ませながら体を無理矢理に動かした。右手足を踏ん張って左方向に跳躍した。直後に田中さんからレーザビームが発せられた。

 レーザービームはアスカがいた場所に正確に放たれ、長身の田中さんと膝をついていたアスカの位置関係で上から下へと向かう。舞台の真ん中から端にいたアスカがいた場所へ放たれたレーザービームは目標を失って突き進む。

 さっきまでアスカがいた場所の直ぐ後ろ、予選を勝ち上がって舞台の外に立って一観客となっていた高音・D・グッドマンに向かって。

 

「へ? ……きゃあああっ!?」

 

 超がなにか問題を起こせば憧れているアスカの責任が降りかかる。念の為にと正義感の強い彼女は相棒の佐倉愛衣と共に学園祭前日に関わっていた超鈴音を独力で調べていて、なにやら大きな大会を開催すると小耳に挟んで観客よりは参加者の方が偵察がしやすいと考えた。

 魔法使いの存在は知られてはならないので、こういう大会の参加は御法度なのだが、サウザンドマスターと同じく憧れている高畑が参加しているのを見て、大義名分を得て愛衣と一緒に大会に参加を決意した。

 順当に大会を勝ち抜いていて本選出場の資格を獲得し、アスカが予選に参加していると知って偶々最前列で観戦していたのだ。

 

「おい!」

 

 自分が避けた所為で誰かを怪我させたかもしれないと振り向いたアスカは慌てて駆け寄った。この状況は流石に予想外だったのか、田中さんも静観するように放出した腕を元に戻して口を閉じた。

 

「お姉様~~!? 死んじゃダメ――ッ!?」

 

 高音の隣にいたが奇跡的に被害を免れた愛衣が涙交じりに高音を呼んだ。が、ビームにより発生した煙幕が晴れていくと、端に浮かぶ涙を拭うことも忘れて目を点にした。

 さにあらず、そこにはビームによって着ていたウルスラ女学院の制服の大半が消失した高音の姿があった。

 

『言い忘れましたけど、田中さんのビームに当たると何故か服が消し飛ぶんですよね』

『人体には大した影響はないのになんでだろうネ。科学の不思議ヨ』

 

 呑気に解説するがフォローにもならない微妙過ぎる葉加瀬と超の会話を誰も聞いてはいなかった。

 煙が晴れたそこにはレーザービームが当たった箇所、腹部から肩までの制服が完全になくなっていて腕だけが残っているのがシュールだった。

 

「と、いうことは……」

 

 舞台を改めて見れば、高音よりも先にレーザービームが当たっていた舞台上で気絶していた男達は、ものの見事に服が消失していた。

 かなり危険な場所まで露出している者もおり、この会場には男が多いので誰も好き好んで同性の裸など見たくもない。見苦しいものが散乱する舞台から目を逸らして、世間一般的に美しいと思える女性の方へ視線が集中するのは当然の流れだった。

 一時は静寂に包まれた会場がどよめきに包まれる。直視したり顔を背けたりと様々な個々人で違う反応を示す会場は混沌に包まれていた。

 

「あっ……イッ……いやああああっ!?」

 

 レーザービームが当たって最初は痛みもないことにキョトンとしていた高音は、会場中から視線が自分の胸元に集中するのを感じて見下ろして、初めて今の自分の姿を認識した。

 羞恥に目を回しながら片手で露出している胸を隔して、魔法の秘匿もなんのその、ウギュルルルッと影を腕に纏わせて条件反射的に拳を振り放つ。

 

「ふっ」

 

 目前に迫る影を纏った拳を前にしてアスカは笑った。

 避けようと思えば避けられる一撃だが、アスカの回避行動によって高音が女性としてこれ以上もない恥をかいたのだ。男の尊厳は確かに守られたが罰は甘んじて受け入れる所存であった。

 涙ながらに頬を殴られる瞬間もアスカは高音を恨みはしなかった。ただただ申し訳なさだけが胸中を支配していた。

 

「もうお嫁に行けないぃ~~~~~~~~~ッ!」

「お姉さま――――っ!」

 

 胸を押さえながら反対の手で顔を隠して走り出した高音を追いかけていく愛衣の姿を見ながら、殴り飛ばされたアスカは舞台中央にいた田中さんにぶつかった。

 高音の影パンチの威力にアスカの体重が付加された衝撃によって田中さんの巨体が吹き飛ぶ。そのまま受け身も取れずに舞台に叩きつけられ、アスカが当たったのと舞台に叩きつけられた衝撃でどこか壊れたのか、田中さんは起き上がることはなかった。

 

「どうも締まらんなぁ」

 

 田中さんの上から起き上がって、腫れ上がってズキズキと痛む頬を押さえながら言うアスカに反論する者はいない。それどころか外野にいた者は何度も頷くほどだった。

 

『え~、なんとも予想外な事態が起こりましたがF組の試合も終了します』

 

 どこか気の抜けた和美のアナウンスを聞きながらアスカは立ち上がった。

 早くどこかで治療を受けるか氷でも貰って冷やさないと、わざと無防備に受けた頬は何倍にも腫れる。罰として受け入れるのは吝かではないが何倍も腫れた顔で外を歩き回るのは外聞が悪い。

 

『本選出場が決定した直後にトラブルはありましたが、Fグループ決着も着きました!!』

 

 全てのグループの代表が決定し、和美がコールを上げた。

 和美のアナウンスを聞き流して、もう用は済んだのでアスカはさっさと舞台から立ち去ることにした。

 人混みに塗れると、そこに何故かさよを憑かせた千雨がやってきた。

 

「なんだよ」

 

 さよが幽霊の特性を活かして空中からアスカを見つけたのだろうが、今は誰とも話をしたい気分ではなくて素っ気なくなった。

 

「大きくなっても何にも変わらないよな、お前」

『アスカさんですから』

「それは褒めてんのか?」

 

 喧嘩を売ってるのなら買うぞ、と一人の一霊(?)の言葉に虫の居所が悪いアスカの口調が剣呑になる。

 その肩をニヤニヤと笑う小太郎が叩く。

 

「よう、お騒がせ男。いや、色男って呼んだ方がええか?」

「テメェらな……」

 

 同じく予選を突破した小太郎に揶揄されて、怒るよりも疲れてきた。

 

『皆様、お疲れ様です! 予定外のアクシデントもありましたが、本選出場者十六名が決定しました』

 

 続々と、和美の前に集まる一同。出場者も観覧者も今か今かと待っている。

 群衆の声を掻き消すように和美のアナウンスは続く。

 

『では、大会委員会の厳正な抽選の結果決定したトーナメント表を発表しましょう。こちらです!』

 

 全組の試合が終了次第に運ばれたボードには見えないのようにカバーがかけられていた。

 皆固唾を呑んで見守る中、アスカらも注目していると和美が掛けられたカバーを引きはがす。そしてトーナメント表を眺める一同はその順列に驚きの声を上げる。

 

『右上をご覧下さい。Cブロック一回戦第一試合は、中国拳法の使い手である大豪院ポチ選手と顔をすっぽりと隠した仮装が謎を呼ぶ名前からして怪しさ満載のクウネル・サンダース選手です』

 

 和美の言う通りに視線をトーナメント表に向ける観客達。

 

『Cブロック一回戦第二試合は、3D柔術ってなんだの山下慶一選手と忍んでいない忍者とも呼ばれている武道四天王の一人長瀬楓選手です』

 

 観客のどこかで誰かが「にんにん」と言っていたりするが和美は気にしない。このまま勢いで突っ切ると決めた。

 

『Dブロック一回戦も第一試合から波乱に富んでおります。どう見ても10歳くらいにしか見えないお人形のようなエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル選手と桜咲刹那選手。こちらは注目の女子中学生同士の試合となります。異色の組み合わせ、全く予想が出来ません!』

 

 女子中学生同士の試合と聞いて下がりかけた会場のテンションも、実際に予選会を見ていた人達が二人の強さを喧伝することで上がっていく。予想が出来ないというのは格闘通であればあるほど喜びが増し、そうでなくても異色の組み合わせという時点で興味が引かれるものである。

 肉食獣のような笑みを浮かべるエヴァンジェリンと標的にされて口を引き攣らせる刹那に気づいたのは、二人の近くにいた木乃香だけである。

 

『Dブロック第二試合は、片や予選会で長瀬選手と同じように分身した少年忍者の犬上小太郎選手と、大人しそうな中二の少女佐倉愛衣選手です! もう一度だけ言っておきますが、二人ともその実力は予選会で証明されています! 続いて左下をご覧下さい。Bブロック第二試合からです』

 

 右上から下へ、そのまま左へと観客の視線が移動する。

 

『こちらも注目のカードでしょう。言わずと知れた「ウルティマホラ」優勝者古菲選手と、同じ武道四天王の一人龍宮真名選手!!』

 

 武道四天王では一番強いのは古菲と言われている。が、それも結果を出しているからで試合をしたところを見たことがある者は誰一人としてない。

 この大会では武道四天王同士の試合があり、学園最強と呼ばれているデスメガネ高畑もいる。真に学園最強を決めると言った主催者である超の言葉に偽りはないと観客達は感じていた。

 

『第一試合は、優勝候補筆頭である高畑.T.タカミチ選手対予選会で中村達也選手と激戦を繰り広げて勝ち上がった「遠当て」の使いである豪徳寺薫です』

 

 盛り上がっていく空気になったのを悟った和美が次を急かす。

 会場の雰囲気の機微を理解でき、空気を変えられる人柄と能力を持っているのは稀有である。恰好のセンスは微妙であったが、少なくとも主催者が選んだ人選は間違いではなかったようだ。

 

『最後のAブロック第二試合は、予選会で19人抜きを成し遂げたアスカ選手と』

「え?」

 

 アスカの口から呆けた声が漏れた。

 抽選の結果で初戦に選ばれたことではなく、その対戦相手にあった。

 

『現役女子中学生である神楽坂明日菜選手です!! 色物と侮ってはいけません! 彼女の強さは司会であるこの私が保証します!』

 

 和美の声などアスカも、互いの位置を把握して視線を向けて来た明日菜も聞いてなどいなかった。

 見ているのは互いだけ。この時、世界は二人だけのものだった。

 

『そして栄えあるまほら武道会第一試合を飾るのは、どう見てもロボットだろ田中さんとこの予選会で因縁が出来てしまった高音・D・グッドマン選手との試合です』

 

 最初は「高音・D・グッドマンって誰だ?」と隣の者に聞いていた者も、この予選会で因縁が出来てしまったと聞けばなんとなく想像が付く。想像を働かせた男子諸君の鼻の下が伸びたのは言うまでもあるまい。

 鼻の下を伸ばす男子諸君を、全身を頭までスッポリと覆う黒いローブを着ている影に殴り掛かろうとするのを小柄な影が必死に止めていた。

 

『本選は明朝八時より龍宮神社特別会場にて、乞うご期待ください!!』

 

 出場者達も対戦相手に驚きの声を上げたり、青ざめたりと色々急がしそうである。この対戦表を見て驚く者、喜ぶ者、不満に思う者と多種多様な様相を見せる。

 明日、一度は別れた二人の道が、まるで運命に導かれる様に繋がる。

 




組み合わせは活動報告にて分かりやすく纏めてあります。良かったら一読どうぞ。


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第40話 まほら武道会

 去年の来客動員数を超えて例年以上の盛り上がりを見せる麻帆良祭初日が終わり、二日目の朝がやってきた。

 この日も朝早くから麻帆良学園都市に向かおうと多くの人達が各種交通機関を利用していた。県外から麻帆良祭を楽しむ者の中には始発で目指す者もいる。

 都市外の者には負けずとばかりに、気が早い者はまだ眠い目をしょぼつかせながら既に動き出していた。中には中夜祭を満喫して寝ていない剛の者もいて、早朝と呼べる時間にも関わらず麻帆良学園都市は賑やかであった。

 その中でも龍宮神社周辺には既に数百、或いは千にも及ぶかもしれない人達が集まっていた。

 復活した伝説の格闘大会。二十年前になくなるまでは麻帆良祭の目玉とまで言われた「まほら武道会」。麻帆良の名物人間、超包子のオーナーにして最強の頭脳と呼ばれている超鈴音が複数の大会を合併・吸収して纏めた一大イベントである。

 龍宮神社前に集まった人混みの中にいる伊達メガネを掛けた少女も理由はどうあれ、大会を見に来た観客の一人であった。

 クラスの出し物である「お化け屋敷」の衣装の黒いセーラー服を着た、愛用のノートパソコンが入った鞄を片手に持った長谷川千雨である。その背後にはお馴染の相川さよが憑いている。

 

「ふーん、結構、人きてんじゃねーか。 ま、昨日からずっとネットで散々話題になってるから当然か」

『なんでそんなに話題になるんでしょう?』

「やっぱ、賞金一千万ってのがデカいんだろう。聞いたことないぞ、たかが格闘大会にそんな大金」

 

 賞金一千万という巨額さ、伝説の格闘大会の復活というイベント性の高さ、予選会での披露された実力のとんでもなさの話題に引かれ、もしくは噂の真偽を確かめようと多くの人達が会場である龍宮神社に足を運んでいた。気の使い手が出たり、予選通過者の半分が子供とあっては話題性には事欠かない。朝8時からという他の例にない早期からの開始に、話題の大きさもあって少しぐらいは足を運んでみるかと思う者は多かった。

 普通に幽霊と喋っている現状に慣れてしまった千雨は、少し肩を落としながら年頃の乙女らしく下品にならないように大きく開けた口元を片手で隠しながら欠伸をする。

 

「四時間ちょっとしか寝てねぇとやっぱり眠いな」

 

 しょぼつく目に浮かんだ涙を拭き取る。涙を拭き取る動作もどこか緩慢なのも本人が言ったように眠気が影響しているのか。

 

「あいつらなんで酒も飲まずにあのテンションを長時間維持できんだよ、まったく」

『お祭りですもん』

「便利な言葉だよ、それ」

 

 結局、クラス全員参加ということで強制連行された中夜祭で、途中で眠気に勝てずに千雨は騒ぐクラスメイトの中で眠りこけたが朝の4時まで騒いでいたらしく、起きたら広場には死屍累々と熟睡している連中が折り重なっていた。

 

『楽しかったですね、前夜祭』

「私としては、どうして酒もなしにあそこまで騒げるのか呆れるけどな」

 

 クラスメイト達の元気さに呆れつつも、諦めの境地すらも通り抜けてしまった千雨は仙人のように受け入れることも大切だと悟っていた。一々反抗して空気を悪くするのは不味いと分かっているので、よほどの害にならない限りは受け入れられるようになってしまった。

 少年少女が教師になったり、目の前で乱闘や拳銃発砲事件まであったのだ。器とかそんなものが異様に大きくなってしまったてもおかしくはない。今では大抵の非常識なことが受け入れられるようにようになってしまったことを憂えるべきか、嘆くべきか。

 

「どんだけ注目されてんだよ、この大会は」

 

 どこのセール中のデパートかというほどの混雑ぶりに、迷惑そうに言いながらも周りで屯している者達を見て頬を緩めた。

 

『顔、緩んでますよ。本当に千雨さんってコスプレ好きですね』

「うるさい」

 

 何故か袖を肩で切り取ってギザギザにした空手着はまだしも、なにかを勘違いしたような個性過ぎる恰好した者達が妙に多いのは、コスプレ好きな千雨としては彼・彼女達がコスプレ趣味の持ち主でなくても十分な目の保養になる。

 こんな恰好をした選手ばかりが出て来るなら観戦する必要もないのだろうが、彼女にはそうは出来ない理由があった。

 

「しかし、アスカの野郎。一ヶ月かそこらでなんであんなに大きくなってたんだ?」

『え、え~と、それは』

「言いたかねぇなら別にいいぞ。これ以上の非常識は御免だからな」

 

 これほどまでに器が大きくなってしまった原因で、昨夜に偶々出会ったアスカ・スプリングフィールドのことを思い出す。

 一ヶ月前は千雨よりも頭一つ分以上低かったのに、昨夜会った時は目線が上になっていた。普通ならありえない成長の仕方で、その理由をさよは明らかに知っていそうだが、これ以上は常識を壊されたくない千雨も無理に聞こうとしなかった。

 

「さしあたって、アスカから貰ったこのチケットをどうするか」

 

 予選会に出たのなら本選に出ると考えての行動だったが今やプラチナが付いているチケットを見下ろして、売って小遣いにすれば欲しかったアレコレが買えると誘惑に駆られる。しかし、ここは我慢するところだと欲求を抑え込める。

 抑え込めずにユラユラと脳裏で具象化した物欲様が「おいでおいで」と手招きしているが。

 

『折角貰ったんですから見に行きしょうよ』

「幽霊は良いよな、チケットいらずで」

『じゃあ、千雨さんも幽霊になります? 歓迎しますよ』

「大金積まれたってゴメンだ」

 

 さよに言われて、それを切っ掛けにして手招きする物欲様の誘惑を撥ね除ける。

 名残惜しげに見つめる物欲様を見ないようにするために別の事を考える。

 

『只今より入場を開始します』

 

 そのアナウンスと共に内側から入り口の扉が開けられ、多くの見物客が良い席で試合を見るために我先にと会場入りしていく。試合開始までまだ一時間以上もあるので走るほど慌てて席を取ろうという者も流石にいない。

 友達と一緒に来た者は隣り合って喋りながらゆっくりと歩き、席を取るために早く来た者も早足だが走ってはいない。

 一躍、麻帆良祭の目玉となった麻帆良武道会にしては静かな立ち上がりだった。

 

「…………怪我とか、しなきゃいいけど」

 

 早足で会場入りしていく者達の中で自分のペースで歩いていた千雨の口から思わず本音が漏れ出て、慌てて手で押さえて聞かれなかったかと周りを見渡す。

 隣にいる者と話し合ったり、前を向いていたりして、視線は向いても千雨に視線を集中させている人はいない。今の一言を聞き咎めた者はいなさそうだ。こうして立ち止まっている方が視線は集中する。口元から手を離して短い息を吐く。

 

「心配すんのは友達なら当然だよな、うん」

 

 誰に向かって言うでもなくブツブツ言いながら足を進めて本選の会場に向かって行く千雨。

 行動が答えを示しているが、それを改めて人に聞き咎めたり指摘されたりすると意地を張りたくなる心境。周りに本音を知られるのが恥ずかしいと感じる年頃なので建前で隠そうとする。

 そんな千雨をさよはクスクスと微笑ましく見ながら、後に憑いて会場に向かう。

 

『千雨さんって素直じゃないんですね』

 

 一連の流れを見ていたさよが本音に気づかないはずがない。 殆どが建前で、最後が千雨の本音であると。知らぬは本人ばかりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時刻は七時を少し回ったといったところの時間。本選出場者の集合時間が午前七時三十分なので、そろそろ選手が集まり出す頃合いだ。当然、本選出場者である神楽坂明日菜と桜咲刹那の姿も龍宮神社にあった。

 

「出場者は拝殿に集合だっけ」

「ええ、選手の控室も兼ねているそうですから行きましょうか」

 

 昨日、本選出場者だけを集めた中で聞いた超の話を思い浮かべた明日菜は視線を拝殿へと向けた。

 少し早い気もするが、選手が客席にいるのも変な話なので、刹那の言うように集合場所の拝殿が選手の控室を兼ねているのならそこで時間を潰すべきだろう。

 

「頑張ってな、二人とも。でも、怪我だけはせんように気をつけて」

 

 選手ではない木乃香では拝殿まで同行は出来ない。親友二人が行ってしまうのは少し寂しくはあるが、辛気臭い顔ではなくて笑顔で送り出すところなので、怪我をしないように注意だけをして応援する。

 

「ありがとう、木乃香」

「後で客席の方に顔を出しますので」

 

 木乃香に応えるように笑みを浮かべてそれぞれの言葉で気持ちで伝える。

 拳や武器を使って戦うのが格闘大会の趣旨なので怪我をしないと確約は出来ない。それでも心配してくれる親友の心遣いは嬉しくある。

 何時までも手を振っている木乃香の姿を二人とも目で追ったり手を振り返しながら拝殿の扉の前に立つ。

 古菲が書いたらしい「選手控え室」と書かれた書が頭上に張られた扉の前で一つ深呼吸。このような大会には縁のなかった明日菜は少し緊張しながら扉に手をかけた。

 

「失礼しまーす」

 

 どことなく遠慮がちに小さく声をかけながら引き戸を横にカラカラと開ける。

 選手控え室に入った明日菜の目に入ったのは、それぞれ思い思いに佇んでいる者達の姿。

 まず目に着いたのが三年近く共に過ごしているクラスメイト達の姿。

 普通の私服に見えない変わった白のロングコートを着た龍宮真名、何時ものチャイナ服の古菲、蝶ネクタイでバーテンか執事のような服を着た長瀬楓の三人。

 三人は明日菜達の姿を捉えると微笑んだり、軽く挨拶のようなものをしてきてくれた。

 刹那と一緒に挨拶を返しながら他に目を向けると、素性の分からない白いローブを目深に被って人相も分からず男か女かも分からない人、黒いローブで口元も隠している怪しさ満載の二人。後者は目元や足元は見えているので女と分かった。しかも片方は予選会で一悶着あった人だと分かる。体格で大体の推測は着く。

 残るは三人。学ランにリーゼントという前時代的なヤンキーの恰好をした男子高校生、もう一人の男は先のヤンキーと同じ年頃のタラコ唇をした漢服を着ている。

 そして最後の一人は明日菜も良く知っており、3-Aとも大きな関わりのある―――――ー

 

「おはよう、明日菜君」

 

 何時ものようにスーツのポケットに両手を入れたスタイルで挨拶をしてきたのはタカミチ・T・高畑その人である。

 

「おはようございます、高畑先生」

 

 育ての親とも言える人に折り目正しく頭を下げる明日菜。明日菜の隣にいた刹那は自分に向けられた挨拶ではなかったから目礼で済ませる。

 何時からか自分の前で慌てなくなった少女を前にして高畑は束の間、嬉しいものを見たという風に目を細めた。

 記憶を消されて芽生え始めた感情も失って、それでも麻帆良の日常の中で少しずつ成長していく姿を見続けてきた。師の面影を無意識に求めて煙草を吸うように求めてきた時、どれだけ高畑は胸を締め付けられる思いを味わったか。記憶を消したのは高畑なのに、一途に慕ってくれる姿を見るにつけて罪悪感に駆られてきたか。そして何気ない日常を楽しそうに謳歌する笑顔にどれだけ救われたか、きっと明日菜は知る由もない。

 なにも知ることなく誰かと添い遂げて一生を終えてほしいと身勝手にも思っていた。高畑の独善だとしても、真実を知るには彼女の過去は重すぎる。傷つくと分かっていても押し通せる気持ちを持ってはいなかった。

 

「どうかしましたか? 私の顔になにか付いてます?」

 

 高畑が眩しい物を見るように自分を見ていることに気がついた明日菜は、少しピントがずれた返答を返した。

 記憶を失っている明日菜に、高畑が長年抱えていた懊悩が分かるはずもない。分かってほしくもない。分かる時が来てほしくないとも思っている。

 

「元気になったようで安心したよ」

 

 一時は目も当てらない沈み込みようだった。でも、高畑は手を出さなかった。いや、出せなかった。

 事情は全て学園長から聞いた。侵入した上級悪魔、人質に取られた生徒達、その人質の中に明日菜がいた。

 人質はスプリングフィールド兄弟を誘き出す餌であり、学園側の動きを掣肘する頸木であった。高畑が出張で麻帆良を離れていて容易には戻って来れない時を狙い、雨に紛れて侵入した手際はいっそ見事といっていい。

 上級悪魔を相手にするなら魔法先生数人でかかる必要がある。

 個人頼みで相対するには危険すぎる相手。倒すには確実に数で囲む必要がある。だが、相手も当然そこは織り込み済み。無数の攪乱や陽動に翻弄され、一人で相手が出来そうな学園長は容易に現場に立てる立場ではない。

 結果として敵に自由行動が認められていたアスカが悪魔を倒した。それでハッピーエンドにならなかったのは何故か、答えは簡単である。その実力が、在りようが、あまりにも人の、一般人の領域から外れすぎたから。

 魔法使いでも気の使い手でも、高位になればなるほど普通の人の想像の域を超えていく。例えばナギ・スプリングフィールドがリーダーを務めていた「紅き翼」を例に挙げるとして、その単体戦闘力は戦闘機や戦車を容易く凌駕する。

 単体で戦術レベルから戦略レベルの戦闘力を有する者達を受け入れることは唯人には出来ない。恐怖を隣人することは決して出来ないのだから。

 

「はは、その節は本当にご迷惑をお掛けしました」

 

 何時からだろうか、守ると誓った少女が自分に敬語を使うようになったのは。埒もなくそんな思考が高畑の脳裏を過ぎる。

 親しき仲にも礼儀はありとも言うが、今は以前には感じなかった壁を少し感じる。

 壁を作ってきたのは自分だと分かっている。育ての親をやりながら成りきれていない。好いてくれていると分かっていても知らぬ振りを続けてきた傲慢。決して言えない秘密を言い訳にして本当に大切な時になにもしてやれない苦痛。

 この手は既に血に濡れている。一人や二人ではない。時には命乞いをする者を無慈悲に下したことすらある。こんな自分が人に愛される資格はないと思っている。同僚の源しずなの好意に答えないのはその気持ちから来ていた。

 苦笑を返す明日菜に尋ねたい衝動がどうしようもなく胸の奥から突き上げてくる。

 

(君は僕が本気で戦うところを見て今まで通り接してくれるかい? それとも――――)

 

 先に続く言葉は心の中ですら形にはならない。形にしてしまえば現実になってしまうかもしれない恐怖が押し留めたのだ。

 内心で呟こうとも表には出せない。もし今まで通り接することが出来ないと明日菜に言われれば高畑は文字通り生きてはいけないだろう。

 高畑の人生は十年前の時点で決定づけられた。師を目の前で死なせ、仲間の殆どを失って、守ろうとした人すら傷つけた。

 タカミチ・T・高畑のこの十年間は神楽坂明日菜と共に在り、それはこれからも変わらない。だからこそ、嫌われてしまったら、違う関係になったら指針を失ってどう生きたらいいか分からなくなる。

 だからこそ、明日菜の好意に知らぬ振りを続け、源しずなの気持ちを受け入れようとはしない。

 変わるのが怖いから。変わってしまったらどうなるか分からないから。分からず、知らず、見ず、聞かずを繰り返す。

 

(最低だ。でも……)

 

 明日菜はアスカが戦う姿を見て、あれだけの変調を来たした。

 悪魔がスプリングフィールド兄弟と因縁浅からぬ関係で、アスカが今までとは別の一面を見せたことが原因の一因であることは間違いない。しかしなによりも、普通の人の想像の域を超えた戦いをしたことに大きな理由があるとしたら、高畑もまた無関係ではいられない。

 だから、答えを聞くことが怖い。容易に触れることが出来ない。

 明日菜がどれだけ変調を来たそうとも、本質的にアスカと同じ側にいる自分が彼女になにを言えよう。

 かけられる慰めの言葉がなかった。傍観者として苦しんでいる姿を見ていることしか出来なかった。

 なにも出来ない自分が許せなくて、明日菜を追い込んだアスカが許せない。アスカに対しては八つ当たりだと分かっている。だが、他に誰を恨めよう。悪魔はもはやこの世にいない。侵入を手引きした何者かは誰か分からない。八つ当たりできる対象はアスカしかいないのだ。

 胸中に満ちる苦い思いを噛み締めてニコチンが無性に摂取したくなった高畑はスーツの内ポケットに入れている煙草を取り出しかけて、ここには未成年が多いので止む無く自嘲した。よりにもよって神社の拝殿をニコチンで汚すわけにはいかない良識はあった。

 急速に口元が寂しくなって手持ち無沙汰に顎髭を擦っていた高畑の前で、明日菜は誰かを捜すように首を左右に向けて辺りを見渡していた。

 

「高畑先生はアスカを見てませんか?」

「いや、知らないな」

 

 どうしたのかと聞く前に、顔を前に戻した明日菜に問いかけられた高畑は自分で想像していたより、ずっとつっけんどんで冷淡な声が出た。己惚れるわけではないけれど、普段の自分なら絶対にこんなことは言わないだろうってぐらいの冷ややかな声だった。

 明日菜の隣で刹那や拝殿にいる全員が目を丸くするほどの変わりようだった。

 

「た、高畑先生、私なにか粗相をしましたか? 」

 

 急に不機嫌になったと分かる高畑に明日菜は自らがなにか機嫌を損なうような行いをしたのかと思って狼狽した。高畑と話していたのは自分だけで、なら機嫌が急降下した理由は自分以外に考えられない。

 

「すまない。ちょっと個人的な事情で、君になんの責任もない。…………すまない」

 

 先程の和やかだったのとは打って変わったように不機嫌そうな声のままで言うと、謝りつつも抑えきれない怒りが明日菜を傷つけると考えて高畑はさっさと踵を返した。近くにいても傷つけるだけなら離れるしかない。

 困惑している明日菜達を置いて、離れて壁際に背を凭れさせた。苛立ちを押さえるように目を閉じた高畑の姿を白いローブを着た人が面白いものを見たとばかりに口元を綻ばせていた。

 

「ええか、絶対に決勝まで来いよ。俺らはそれまで当たらんのやからな」

 

 もう一度話をしようと足を踏み出しかけた明日菜を機先を制するように、明日菜達が来たのとは別の引き戸が開かれた。

 開けたのは金髪の少年。その顔は斜め後ろに向けられて続けて入って来る黒髪の少年に向けられていた。

 

「漫画とかだと、そう言ってる奴って以外にあっさり負けるよな」

 

 明日菜とそう身長が変わらない金髪の少年――――アスカ・スプリングフィールドは、黒髪の少年――――犬上小太郎の先程の台詞を揶揄するように唇の端を吊り上げた。

 

「言ってろや。漫画は漫画ってことを教えたる」

「期待しねぇで待ってるよ」

 

 暗に証明して見せろと言葉に込めたアスカが前を向いて出場者のメンバーを見渡して明日菜に気づき、僅かにその表情を強張らせた。

 屹然とした視線でアスカを見据えた明日菜が足を踏み出そうとした正にその時、階段を下りてきた和美が試合の組み合わせ表の前に立った。

 

「おはようございます選手の皆さん!!」

 

 現れた和美の声が控え室内に響き渡る。

 条件反射で明日菜達がそちらに視線をやると、黒いコンパニオン風のスタイルが際立つ服にリング付きピアスを着けた朝倉和美がいた。

 彼女の恰好は実に良く似合っており、とても中学生には見えない。化粧までしていることもあって今年大学生になったと言われても信じてしまいそうな色気があった。

 特に同年代よりも一部が劣る刹那としては羨ましい限りのバインバイン具合で、自分が同じ格好をしても滑稽さが発揮されるだけで惨めさが増すだけ。字自分のセーラー服の胸元を見下ろして溜息を一つ漏らしてから顔を上げる。

 和美の隣には袖や裾がゆったりとした中華服を着た超がいて、気を逸した明日菜はアスカが何事もなかったように背中を壁に付けるのを見ていることしかか出来なかった。

 

「ようこそお集まり頂きました。三十分後より第一試合を始めさせて頂きますが、ここでルールの説明をさせて頂きましょう」

 

 和美は一度マイクを下ろして周りの反応を窺い、誰からも否がないことを確認してマイクを口元に近づける。

 

「十五メートル×十五メートルの能舞台で行われる十五分一本勝負。ダウン10秒・リングアウト10秒・気絶・ギブアップで負けとなります。時間内に決着がつかなかった場合は観客によるメール投票に判断を委ねます」

 

 ルールの説明は予選会前にもされており、基本的にはお浚いなので簡単なものだ。昨日との違いを確認するのみである。

 武器は飛び道具、刃物のついたものは使用禁止は変わらない。試合の進行上必要な措置として制限時間が設けてあり、オーバーした場合は観客のメール投票によって勝敗が決まることになっていた。

 

「それでは以上で説明を終わります。第一試合は三十分後です」

 

 和美のよく通る声が拝殿内に響き、その声を合図にして参加者達が三々五々に散っていく。

 主催者である超や司会の和美よりも早くアスカは拝殿を出ていく。

 

「おい、アスカ。ええんか?」

「いいんだよ」

 

 遅れて後を小太郎が話しかけているが、一歩目が鈍かった明日菜の視線の先で引き戸が閉められた。

 特別強く閉められたわけでもない引き戸が、どうしてもアスカの拒絶を現しているようで明日菜は伸ばしていた腕を力なく下ろした。

 拝殿の中でいきなり走り出せば注目する。アスカを追う行動は全員が見ていた。全員に背中を向けて俯く明日菜を。

 

「明日菜さ……」

「大丈夫」

 

 近寄った刹那が慰めようとして手を肩に伸ばしたところで明日菜が顔を上げる。

 

「嫌でも試合で顔を合わせるんだから。今は、これでいい」

 

 刹那からは明日菜の顔が見えなかったが、その声はとても力強かった。

 侵すべからずの背中に伸ばした手の行き所を失って、明日菜のような強さを持っていない刹那の方が顔を俯かせた。

 その時、グギッ、と砕きかねないほど歯を強く噛み締める音が比較的近くにいた楓の耳に届いた。隣にいた真名も聞こえたのか、同じタイミングで振り返って見た 。

 そこにいたタカミチ・T・高畑の顔を見て、楓は普段は閉じているように見える片目を大きく見開き、普段は冷静沈着な真名ですらも驚いた表情を浮かべた。やはり白いローブの人物は口元を綻ばせたままだった。

 開始前から大会は波乱を含んで始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 麻帆良武道会の本選が行われるのは、龍宮神社内の普段は能舞台として使われている舞台である。

周囲をぐるりと囲む回廊の前には湖があり、舞台はその中央に鎮座している。三方には灯篭が立てられており、残った入り口側には選手席が用意されていた。一般客は回廊の一般観客席からの観覧となっていて、登り始めた日の照り付けで水面が美しく輝く様を見ることが出来る。

 現在の時刻は午前八時少し前。試合開始時刻を間近に控えて、会場の熱気は否応もなく高まっていた。

 

「だから気だって気。今回の大会は絶対凄いって」

「はぁ? 何言ってんだ馬鹿じゃねぇの?」

「昨日の分身やら遠当て見なかったのかよ」

「あんなのイカサマだって」

「バッカ。達人の間じゃな………」

 

 会場のそこからしこから湧き上がる議論の嵐。

昨夜の予選会を見た者達は興奮気味に語り、見ていない者は当然として懐疑的である。疑念を抱く者にありのままの真実を語ろうと、気などは甚だ現実性に乏しい。出場者の半分以上が子供と知れば大会の信憑性を問いたくなるのも当然。

 そんな喧騒著しい回廊の一角。舞台全体を満遍なく見渡せる解説席と銘打たれた席の近くに長谷川千雨はいた。

 早い時間に会場入りしたお蔭で良い席を確保出来たと、同級生がいれば誰だと驚くほどのホクホク顔である。

 

『色んなところでお話してますね』

 

 幽霊の特性を活かして見て回っていたさよは感心したように呟いた。

 あまりにも早く会場入りした為に暇を持て余していた千雨は、手持ちのノートパソコンを回廊の欄干に乗せてネットサーフィンをしていた。麻帆良武道会のことを取り上げている記事があったので、暇潰しがてらに読んでいたところにさよに話しかけられて呆れながらも鼻を鳴らした

 

「主催者である超が担いだイカサマなのか、それとも本物の超能力なのか。みんな気になってるんだろ。ま、興業としては十分に成功してる辺りが抜け目ないけどな」

 

 隣近所でどちらが正しいかの議論が持ち上がって、結局は実際に見て判断するかと答えが出て来るのは必然。何時までも議論をするよりは論より証拠。実際に目にして判断した方が早い。賞金の高さも相まって観客はなんの疑いを見せず、試合を今か今かとそれぞれのやり方で待っていた。

 

『千雨さんはどう思っているんですか?』

「ふん、気とか胡散臭せぇ」

 

 読んでいたパソコンの画面に映る『「遠当て」の使い手に突撃インタビュー!! 「気」は実在した!?』から目を離して鼻を鳴らす。

 

『昨日も見たのに』

「そうだけどな……」

 

 が、口ではなにを言おうと千雨も予選会の現場にいて、インタビューに答えている豪徳寺薫が「漢魂」というのを放つのを見ている。確かになにかが拳の進路上に放たれ、対戦者を打ち倒しているのを見ては信じないわけにはいかない。

 取材を受けている豪徳寺薫は、リーゼントに学ランという極めて古風なヤンキーの格好をしているが、画面上に映っている写真で照れたようにピースしている姿を見れば、安易に否定し続けるのは可哀想な気持ちにもなる。

 それでも言葉だけでも常識を忘れないように否定するところ辺りが千雨の千雨たる所以か。

 

「言っただろう、胡散臭いんだよ。こういうのは科学的に実証できないと、議論だけがイタチごっこになって答えは出ないもんだ」

『どちらも自分の自説を覆さず、相手の論理ばかりを否定しようとするって昨日も言ってましたね』

「私としては、この大会はマジな格闘技の試合を見るよりかは楽しめるだろうってだけで、そこまで求めちゃいないけどな」

 

 「気」のことを信じる信じないは別にして、普通の格闘技の大会を観戦するとはまた違った楽しみがあると結論付ける。

 周りの観客も自分のように何事も受け入れる器を持てと、社会を斜めに見た者特有の斜に構えた顔で笑ったところで、パソコンの画面に表示された時間を見た。

 大会開始まで残り数分となったのを確認して頬杖を付きながらパソコンを閉じる。

 

「皆さん、大丈夫でしょうか」

「大丈夫ですよ。知り合いばっかですし」

 

 直ぐ近くから聞き覚えのある声が聞こえて頬杖を付いていた顔を上げた。

 そこにいたのは見覚えのありすぎる顔が二つ。教師のネギ・スプリングフィールドと同級生の宮崎のどかだ。

 デートの途中で立ち寄ったかのように仲良く手を繋いで隣に立っている。

 

『もしかしてデートですかね』

「まさか」

「「え?」」

 

 こちらは幽霊同伴で、のどかは彼氏持ち。

 のどかに女として負けているようで、思わずさよの言葉に反応してしまった。

 千雨の思わず上げてしまった声に反応して、二人はようやく手を繋いでいた相手だけに向けていた意識を外へと向けた。

 千雨の隣にいたのどかが反対を向き、ネギは視線を上げる。

 

「「「……………」」」

 

 暫し無言で三人の視線が交錯する。

 この二人と千雨の交流は絶無とまではいかないまでも皆無に近い。挨拶をすれば挨拶をし返すし、話しかければ言葉を返すが、のどかと千雨は社交性のある方ではない。

 のどかは活動停止中の図書館探検部のメンバーを中心とした交流関係が中心で、引っ込み思案な性格から積極性があるわけではないので他グループなどの交流は夕映やハルナを介して行うことが多い。

 交流があったとしても積極的な相手側からというケースが多い。自分からは存外に少ない。

 対して千雨にはこれといって親しい者がいない一匹狼タイプで、誰かと一緒に過ごすということは少ない。修学旅行の班のように比較的に良識のあるあやかや千鶴といったグループと多少なりとの交流があるぐらいか。

 

「え、え~と、もしかして二人はデートですか?」

『あの繋がれた手を見て下さいよ。どう見てもデートに決まってるじゃないですか』

 

 一度二人の繋いでいる手を見遣って、千雨は後ろでさよがいらんことをほざいているのを無視して当たり障りのない話題を振ってみた。

 言った千雨本人にとっては当たり障りのない話題のつもりでも、二人にとってはハートブレイクショットをされて固まったボクサーのように言葉が心に突き刺さる。勿論、悪い意味ではなく良い意味でだ。

 視線を向けられても繋ぎ合わせている手を離すでもなく否定するでもなく、二人は揃って顔を俯けて耳の先まで朱色に染めた。時に態度は言葉を容易く凌駕することがあると言う。諺の証明とする二人がここにいた。

 

「あ~、答えなくていいです。大体は分かりましたから」

 

 揃って頬を赤らめて顔を俯ける二人に何を言ってもらうようよりも分かりやすい態度に、千雨は胸が一杯一杯になって投げやりに言った。

 

『この付き合い出しましたって感じの初々しさが溜まりませんね』

「黙れ、幽霊」

 

 悶えているさよに小さく突っ込みを入れつつ、改めて二人を見る。

 この事態になっても手を離していないので、「彼氏いない歴=年齢」の千雨には二人の甘々っぷりは目の毒である。醸し出す空気が甘々すぎて、無糖コーヒーを胸焼けするぐらいに飲みたい気分であった。

 

(いいんちょと佐々木は残念て感じだが、まあ順当なところだろ)

 

 誰が最初にネギを射止めるかというとクラス内でのオッズは初期からのどかがトップであった。次点であやかとまき絵が続いていたがトップののどかの独走状態が長らく続いていた。

 単純なショタコンの性癖の持ち主であるあやかは異性というより弟といった感じで、クラスの者達が求めているような異性への恋心とは根本的に違う。

 行き過ぎた好意から暴走しがちだが、暫くは現状が続くと誰もが思っている。

 あやかのお嬢様的な性格的では、本当の意味での求愛は自分からではなく相手からでなければ発展しない。ネギのことを想って行動はするが、結果的にいい人で終わってしまう性格をしているのが雪広あやかなのだ。

 佐々木まき絵の方は単純に性格が中学三年生とは思えないほどに子供っぽい。

 天真爛漫な性格が災いして、新体操部の顧問から「子供の演技」と言われたこともある。

 積極性はあるが、子供が異性の関係なく好意を抱いているだけで、ネギのことを「弟」としてや可愛い物を愛でるかのように思っていた。この点に関しては3-Aの中でも同じように思う者も多い。この好意が変わったのは修学旅行が終わって暫くしてからで、県大会で素晴らしい演技を見せて徐々に好意の意味が変わりつつある状況であった。

 前者二人に比べればのどかは最初からネギを異性として見ていた。時間をかけて階段を一歩一歩ずつ登るように気持ちを育み、今という時に成就させた。のどかの周りとは違った好意は確かにネギに届き、まだ異性を意識できる年齢ではないのに振り向かせた。

 二人とも残念がるだろうが祝福するだろう。悪い意味での女の汚さを表に出さないのが3-Aの良い面である。女子校特有の陰湿さは欠片もなく、グループ毎に個々人の仲の良さはあっても派閥や暗い面はない。この三年間で色々と規格外な面があってぶっ飛んだ連中に驚かされてきたが嫌いにはなれないのはそんな理由があった。本当のことをいえば今のクラスで良かったとも心底思える。

 

「デートコースに格闘大会はないんじゃないですか、ネギ先生」

 

 デートコースにしては不適切といえる場所にいることを揶揄するようにネギに話題を向ける。彼氏のいない僻みを覚える前に、自分本位の考えて振り回しているのではないかと懸念したのだ。

 

「分かってはいるんですけど……」

 

 ネギも格闘大会の会場をデートコースにするには合わないと分かっているのか、気まずそうにのどかと繋いでいる手とは逆の方の手で頬を掻きながら苦笑する。

 

「3-Aの人達も一杯出るから私が見たいってお願いしたいんです。ネギ先生はなにも悪くないです」

 

 なにかを言いかけたネギの機先を制してのどかが被せるように言い切った。さり気なくネギを庇い、批判があるなら受けて立つと言わんばかりにこちらを見上げるのどかの気迫に千雨はたじろいだ。

 

『のどかさん、強くなりましたね。やはり恋をすると女の子は変わるんでしょうか』

(知るか)

 

 気持ちを前面に押し出してネギを庇う姿に、千雨は確かにのどかの女としての強さを垣間見た。

 両者とも、自分が自分がという面もないので相手を想い引き過ぎて離れていくような危うさがあったので、この様子を見るにネギはのどかの尻に敷かれているかもしれない。

 

「僕も大会に出たかったんですけど、この大会の事を知った時にはもう予選会が終わってて」

 

 女ばかりを矢面に立たせるのはイギリス紳士を自称する主義に反すると、自ら泥を被ろうとするのどかを押し留めてネギは本音を語った。

 腕試しも兼ねて武道大会のことを知った時には参加したかったのだが時は既に遅し、予選会は当の昔に終わっていた。駄々を捏ねてなにが変わるわけでもない。そういう意味での子供っぽさを持っていないネギは心底落胆したものだ。

 

「アスカと小太郎君にチケットを貰ったので、出られないものは仕方ないので観戦だけでもと思って見に来たんです」

 

 落胆するネギを心配したのどかが観戦だけでもと提案して、二人から貰ったチケットを使って二人で会場入りをしたのだと説明する。確かにデートコースには不適切だが場所で気持ちが変わるわけではない。

 

「すみませんでした。こちらの思い込みで変なことを言って」

 

 そっと寄り添うに傍らにいる互いを見る様子を傍目から見ていれば、千雨の邪推は邪推でしかないと分からせられた。

 武道派のアスカはともかくとして、頭脳派のネギが本選に勝ち残れるとは信じがたいが、この場でそれを否定するのは無粋というもの。降参とばかりに手を上げて負けたことを示す。

 

「でも、珍しいですよね。千雨さんってこういうのには興味なさそうな感じがしたんですけど」

「え? あ、まぁ……」

 

 のどかからの切り込みに逆に切り返されたなにげない口撃に、下げていた顔を押し上げられた。咄嗟に返す言葉が無くて言い詰まる。あまりにも咄嗟で予想外の人物からの切り替えに、建前どころか本音も口から出てこなかった。

 

『アスカさんに誘われたからって言ったらどうですか』

(この状況で言ったら変に解釈されるだろうがボケ幽霊!)

 

 明らかに面白がっているさよに心中で突っ込みを入れつつ、必死に良い返答を考えるがこういう時に限って思いつかない。

 答えられずに言葉に詰まった千雨を見るのどかの視線がなにもかもを見透かしているようで、視線を逸らさずにはいられなかった。ただジッと見ているだけでなにを言うでもなかったが、さっきまでのからかいの仕返しをされているような気分であった。

 結局、良い理由は思いつかなかったので、入手経路だけをぼかす。

 

「偶々、チケットが手に入ったから来てみただけだ。他意はない」

「そうですか」

「そうだよ」

 

 視線を戻した千雨は、今度はハッキリとのどかの目を見て言った。

 言われたのどかは首を少し傾けて訝しそうにしているが、千雨はこの事情で押し通すことにしたのでそうとしか言いようがない。何時も使っている敬語じゃなくてタメ口になっていることも気づかずに言い募る。

 女にしか理解しえない気持ちというものが確かにある。男のネギには分かり得ない領域で通じ合っている二人に口を挟むことはしなかった。これでも女子校で教師をしているので、男には口を出さない方が良い時があることを心得ている。

 

「あっ、始まるみたいですよ」

 

 ネギの声に二人が顔を向ければ、選手控え室を兼ねている拝殿から真っ直ぐ選手席を通り過ぎて舞台に朝倉和美が上るところだった。

 

『わ~、朝倉さん大学生みたいです』

 

 黒いコンパニオン風のスタイルが際立つ服にリング付きピアスを着けた和美の恰好は同年代の少女の女としてのプライドを物凄く傷つける。ふと、のどかは隣にいる千雨の一部分を見て、更に自分の胸元を見下ろした。

 

「むぅ……」

 

 千雨は着やせして見えるが、大浴場で見たことのあるスタイルから平均よりも上であることを知っている。

 己が胸の進捗具合が平均に届いていないことを知っているのどかにとっては、分けてほしいと思える胸の大きさである。ネギが実はお姉ちゃん子であることを知っている身としては、胸の大きさは物凄く気になるところであった。

 

「ま、まだ将来性がありますから」

「?」

 

 まだまだ中学三年生なので将来性は十分にあるはず。

 世の中には大学生になってからスタイルが良くなったとも聞いたことであるので、のどかは希望を捨てていない。言われたネギはなんのことだか分からずに首を捻っていたが。

 

(頑張れよ、宮崎)

 

 女は子供といえど思春期ならば視線に敏感になる。特に同じ女から向けられる品定めにも似た目は直ぐに分かる。和美を見た後に自分の胸付近にあれだけ恨みがましい視線を向けられて気づかないはずもない。

 無自覚な女たらしの面のあるネギを繋ぎ止めておくのだから苦労も掛かるだろう。これは将来大変だな、と当然の如く他人事なので傍観者の目で見ていた千雨であった。

 

「朝倉さんが審判をするんですか?」

 

 生暖かい目で見られていることに気がついたのどかは話題を変えた。

 のどかにとってみればクラスメイトが多く出場しているだけでも奇異なのに、この大会の主催者や審判兼司会までクラスメイトとあっては強い疑問を持っても無理はない。

 出場者の大半のことはエヴァンジェリンの別荘にいたので納得は出来る。主催者が超なのも理解はしよう。でも、そこに和美がいる理由が分からない。

 

「予選会を見たけどあいつの司会っぷりは堂に入っていた。超が主催者だから手近にいたあいつに頼んだんだろうけど、人選に間違いはなさそうだぞ」

 

 予選会を見ていた千雨は昨日の和美の様子を現場で見ている。

 トラブルがあっても受け入れる度量と、その場その場に合わせた適応力を持ち、観客を飽きさせずに盛り上げられるトーク力を持っている者はかなり少ない。

 超の人脈であれば該当者は幾らでもいそうだが、クラスメイトの和美を適用したのは慧眼と言わざるをえない。

 

「私としては先生達や武道四天王とか呼ばれてる四人は別にして、神楽坂やエヴァンジェリンが本選に残れたって方が気になるけどな」

 

 武道四天王と呼ばれている四人や広域指導員で不良に畏れられている高畑、実際に実力を目にしたことのあるアスカと違って、明日菜やエヴァンジェリンには確たる強さの証拠や噂はない。

 修学旅行の後に明日菜が剣道部の桜咲刹那から剣道を習っていると噂は聞いたことがあるがその程度。いくら喧嘩が強かろうが不思議さばかりが残る。

 明日菜とエヴァンジェリンの存在、女子中学生が多く出場していることが観客達に武道会の信憑性を疑わせてもいた。ただの女子中学生が大人の武道家をも打倒できる力があると誰に分かろうか。

 千雨の疑問に思う声を聞いた二人には何も言えなかった。魔法を知っているか知らないかで、この大会の見方も大分変わって来る。二人と千雨の間には明確な違いがあるのだから答えられるはずもない。

 千雨が挙げた内の一人、エヴァンジェリンは魔法界では教科書にも載るほどの賞金首で人ですら吸血鬼の魔法使い。明日菜もまた素人とは思えないほどの実力を秘めている。下手をすれば上位陣を喰いかねない。優勝もあり得る。

 同意も否定も返すことが出来ず、沈黙でしか応えることしか出来ない。安易な同意は噂の当人たちの侮辱になるので、事情が事情であっても性根が真っ直ぐな二人は嘘をつけない。

 同意を得られるものだと思っていた千雨は黙り込んでしまった二人を変なものでも見るような目で見つめた。

 

『ご来場の皆様、大変長らくお待たせしました!!』

 

 どうしたのかと追及する前に舞台の端に到着した和美がマイクを片手に叫んだので、視線を舞台へと向けた。

 時刻は午前八時。

 激しい戦いが繰り広げられる麻帆良武道会は後の展開など誰にも予想できぬほど静かに始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 選手控え席は湖面の真ん中に浮かぶ舞台へと通じる唯一の通路の脇にある。明日菜達もそこにいた。

 舞台と同じく一段下にあるので、試合を見ようとしている回廊や背後の拝殿前の観客達からは良く見える位置にある。選手席には湖に落ちないように柵があるだけで周りの視線を遮る物はなにもない。

 本来この場所は舞台で舞を踊る者を良く見るための貴賓席でもあるので、そのような席が舞台を見れないような仕組みになっていたら意味がない。

 

「うう~、視線が刺さるぅ」

 

 大会出場選手である神楽坂明日菜は、前後左右から向けられる視線の束に実に落ち着かない気分を味わっていた。

 

「明日菜さん、大丈夫ですか?」

「あまり大丈夫じゃないかもー」

 

 同じ本選出場者である刹那が心配して声をかけるほどの落ち着きのなさであったが、当の明日菜の心境は意味はかなり違うが「穴があったら入りたい」気分。

 文科系である美術部員(しかも殆ど幽霊部員化している)の明日菜には、このような多重の視線を集める機会なんて今まで一度もなかった。慣れてない感覚が気になって身の置きどころがない。

 しまいにはノイローゼに陥りそうだった。

 

「でも明日菜さんの場合、体育祭の時にもっと多くの観客の中でやったこともあるじゃないですか」

 

 麻帆良学園の行事は都市を上げての一大規模になることが多い。

 秋に開催される体育祭は、国内でも大きい方のスタジアムで競技が行われることもある。それだけ体育祭に参加する学生の数が半端ではないのだ。一つや二つの学校の運動場ではとても賄いきれない。

 麻帆良学園都市にはこのような行事や大会用に作られたスタジアムや競技場がいくつもある。このようなスタジアム等で競技が出来るのは体育祭前に日頃の体育の成績で選抜された、よほどの競技成績優秀者に限られる。

 

「体育祭で? ああ、短距離の部で美空ちゃんに負けた時のこと?」

「そうです。あの時はもっと人が見てましたよ」

 

 刹那が言っているのは、短距離の部で出場した明日菜が決勝で春日美空とデッドヒートを繰り広げて惜しくも負けた時のことだった。

 2-A全員参加の応援だったので刹那も見ていた。

 二年女子短距離の決勝だったので、競技が行われた会場はこのた龍宮神社よりも遥かに大きい。失礼な話になるが比べるのが失礼になるほどの差である。人の数も、集まる視線も今とは比べ物にならないはずだった。

 

「あるけどさ、中学生の競技なんて誰も見てないわよ。見てたって知り合いとか家族とかだろうし、私はあんま交友関係広い方じゃないから意識しなかったわ」

 

 明日菜は運動神経が桁外れに高いので体育祭で注目されることも幾度かあった。が、どれだけ活躍しようとも中学生の競技であることには変わりない。

 中学生のは家族や友人らが見に来るぐらいで、注目されるのは高校生や大学生ばかりである。幼稚園や小学生のは微笑ましさ等から見に行く人がいたとしても、中学生は意外と穴場になることが多く大抵は物好きが冷やかしに行くぐらいである。

 陸上部の本職にも勝るタイムを見せたことで、陸上に力を入れている外部の有力高校からスカウトが来たこともあったが、麻帆良を離れる気はなかったので断った記憶がふと明日菜の脳裏を過ぎったが直ぐに消えた。

 

「そういうものでしょうか」

 

 剣道部の一員であっても神鳴流の使い手として自らを律している刹那は公の大会などに出たことがない。

 日頃の体育でも能力をセーブしているので、体育祭でも目立った活躍をすることが出来ないので大観衆の中で注目されるという経験がない。 

 刹那としては単純な人数比を考えれば今の方が遥かに少ないので、明日菜の経験則から来る気持ちがイマイチ理解できなかった。

 

「体育祭でした時は、スタジアムが大きすぎて観客席まで大分距離があったじゃない。よほど近づかなければ人だって分からないんだから気にもならなかったの。他にも競技はしていたから視線が集中するなんてことはなかったしね」

「ああ、成程」

 

 少しは視線が集まるのにも慣れてきたのか、頬の赤みはそのままにずっと下げていた顔を上げた明日菜の言を聞いてようやく刹那も合点がいった。

 記憶を掘り返してみれば、明日菜達が短距離をしていた時にも、スタジアム内では十近くの競技を並行して行っていた。その分だけスタジアムの視線は分散化して、多くの人達がいても逆に視線も希薄になって意識をしなかったのだろう。

 

「規模よりも質ということですか」

「うん? そういうことになるのかな」

 

 龍宮神社に集まっている観客は百を優に超えている。現在も続々と入り口から人が入って来ていることも考えれば、これからももっと増えていくだろう。

 多くの人でごった返している観客席である回廊とは場所が違い、選手控え席は明らかにいる者達も少ない例外扱いされているいて選手と考えるのは必然。武道会を見に来ているのだから観客達が興味本位もあって視線を向けるのが当たり前なのだ。

 明日菜が気にしているのは人数ではなく、向けられる視線の質にあった。重さと言い換えてもいい。本選出場者である今の方が体育祭のスタジアムの時よりも注目度が遥かに高いのだ。

 

「大丈夫かしら、あの高音って人」

「え?」

 

 少しばかり物思いに耽っていた所為で、話を聞いていなかった。明日菜が何を言いたいのかが分からなかった刹那は疑問符を上げたとこで、背後から倍近い歓声が上がって振り返った。

 

「昨日の予選会であんなことがあったから変な目で見られないかなって」

 

 確かに、と続けられた言葉で直ぐに納得がいって同意の頷きを返した。

 二人して振り返った先に歓声の元が近づいて来る。長く続く歓声から一回戦を行う選手が出てきたのだと直ぐに分かった。

 

「昨日、組み合わせ発表の時に朝倉が誰か特定できることを言っちゃったから変な目で見られないといいけど…………あっちゃー、駄目だったか」

 

 長身のロボットと足元と手と目元以外を黒いローブで纏った性別不明の人物が、両側にある選手控え席の間を通り抜けて舞台へと登っていく。

 明日菜と刹那の視線が話題にしていたローブの人物の背中に向けられた。そして観客の特定一部が同様にローブの人物の背中を上から下まで舐めるように見ているのにも気がついた。

 

「うわぁ」

 

 思わず呻いた明日菜の懸念はドンピシャだったと言わざるをえない。高音の登場と同時に会場の空気が明らかに変わったのだ。ピンク色というか、女性としては一瞬でもこの場にいたくないと思う邪な色に。

 明らかに格闘大会よりもそちらを見に来たと思われるほどの邪な視線を向ける男性達がいるのだ。高音にとって不運だったのは大会に参加して本選にまで残ってしまったことか、それとも事件に巻き込まれたことか。

 現代日本に住んでいれば、よほどの例外がなければ思春期の女子が不特定多数の者達に殆ど上半身裸を、しかも女性のシンボルである乳房を見られて平気でいられるはずがない。それは明日菜も刹那も変わらない。自制心が強いとされる刹那でも、同じような状況で衆人環視の中に立つ気概は持てない。

 高音は全身を黒いローブで隠していたので、話題の大元の出来事が起こった時も顔が隠れていたので誰かを特定できるものはいなかった。知っているのは被害にあった本人とその知り合い、そして声を聞いたアスカだけのはずだった。

 

「駄目だったみたいですね」

 

 きっと高音はこの場に立つまで、このような状況になるとは分かってはいなかったのだろう。先ほどからずっと寒気が立つのか全身がビクンビクンと跳ねている。

 

「なにごともなければいいんですが」

 

 同じ女性として高音に多大の同情を向け、これ以上は変なことが起きなければいいのにと切に願う刹那であった。

 祈る刹那に対して、昨夜のことを思い出してなんとなく無理なような気がすると思った明日菜はなにも言わなかった。

 大会の司会進行役の朝倉和美が舞台に上がる途中で選手席にいる明日菜達に気づき、進路を変更して向かってくる。

 

「明日菜達もそろそろ準備してよ」

「あ、朝倉。アンタ、どうすんのよコレ」

「悪いとは思うけど、もうどうしようもないでしょ。後で謝るしかないよ」

 

 進行役の和美としては武道会を盛り上げるための話題の一つして上げただけなのかもしれなかったが、話題の当人としては堪ったものではない。

 

「お姉さま! 頑張って下さい!」

 

 同じ選手控え席の直ぐ近く、何メートルか離れた場所に一人でいた舞台に上がっているローブの人物である高音と同じ恰好をした、体格と今の声からして少女がローブのフード部分を撥ね上げるような勢いで応援していた。

 彼女にも自分がお姉さまと呼ぶ人に向けられる視線の意味を分かっているのだろう。ある意味で孤立無援な状況に立つ高音を応援しようと声を張り上げる。

 だが、彼女にも「お姉さま」だなんて特殊すぎる呼び方が別の意味で不味いとは考えもしなかったらしい。また会場の空気が悪い意味で変わった。

 

「あ、」

 

 何度目かの声援の時に吹いた風によってフードが外れる。素顔が露わになって上げた佐倉愛衣の声は歓声に呑み込まれて消えていった。

 

「なんというか、幸の薄そうな人だよね」

 

 和美の論評に、的確だと頷いてしまった明日菜と刹那だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 拝殿は選手控え室だけではなく大会の運営本部も兼ねている。流石に選手個人に個室はないまでも、この拝殿には格闘大会を行う場合における基本的な機能が整備されているので、「臨時更衣室」や「臨時救護室」など様々な部屋がある。

 拝殿の廊下を歩く一人の男の姿があった。

 グレーのスーツと白のワイシャツ、紺のネクタイと無難な色合いに身を包んだ、顎髭に四角い眼鏡をかけた男の名はタカミチ・T・高畑。

 

「超君の姿はないか」

 

 運営本部も兼ねている割には、主催者である超鈴音は大会前に拝殿内で選手達の前に現れたきり姿を見せていない。

 彼女の動向を探るために大会に出場していたタカミチ・T・高畑は思いっ切り肩透かしを食らっていた。

 

「これじゃあ、大会に出場した意味がない」

 

 廊下を歩きながら無駄骨を踏んだかと僅かに肩を落とす。

 観客よりも選手の方が主催者に近づきやすいだろうと考えて出場したのに、これでは無駄足を踏んだことになる。

 元より高畑は学園のパトロールのシフトに入っていない遊撃に近い立場にいるので、無駄足を踏んだからといって誰かの迷惑になるわけではない、ただ、やはり無駄足を踏まされるというのは気分の良いものではない。

 不快とまではいかなくても、どうしても徒労感が肩にズッシリと乗っかかる。

 学園長の許可を得ず、高畑の独断に大会に参加したので勇み足と言ってしまえばそれまで。

 

「だけど、まだ始まったばかりだ。彼女がどうしてこの大会を復活させたのか。危険発言の意図を確かめるまでは」

 

 超は予選会の前に、「表の世界、裏の世界を問わずこの学園の最強を見たい」や「呪文詠唱の禁止」とボーダーラインをはみ出るような発言を繰り返した。今までの行動もあって、見過ごしていいレベルを超えている。

 が、記録機器の排除と魔法バレ対策は高畑の見た範囲内では完璧と言っていいレベルで施されている。

 超ほどの天才ならば言い逃れ出来るだけの材料は十分に揃っていた。二年以上を担任として関わってきた高畑はそれが良く分かっていた。

 まだ大会は第一試合が始まったところ。

 魔法も映像に残って多くの人に見られたアウトだが、噂話に上がろうとも今のご時世ならば記録機器がなければ信じる人はいないだろう。話を聞いた人たちはトリックだと勝手に解釈するはず。もしくは超達が作った技術の産物と思うか。

 

「それに……」

 

 続く言葉が唇から出されることはなかった。

 高畑にはまだ龍宮神社に残る必要があった。

 順当にいけば、準決勝で戦うのは幼き頃より知っているアスカ・スプリングフィールドである。

 高畑は彼に用があった。どうしても外せない要件。その頃には大半の試合が終わっているので、超が動き出すならなんらかの行動をしているだろう。

 超とアスカのどちらが優先順位が上かとかではなく、結果がどうあれ少なくとも自分の試合が終わるまでは様子見を見ることに決めた。

 

「さて、いないままだと怪しまれる。そろそろ戻るかな」

 

 僅かに煙草の紫煙の臭いがする息を吐き出して、沈みがちな気分を変えるように前髪を掻き上げる。

 高畑の一回戦の相手は学生の一人。

 申し訳ないが普段通りにやれば負けはない。

 しかし、大人で参加している数少ない一人として周囲の目が気になるのは引け目であろうか。

 なんとなく周り全てが自分を見ているような錯覚を覚えて、選手控え室も兼ねている拝殿に来ていた。すると、どうにも手持ちぶたさになって煙草が吸いたくなった。だが、拝殿内は当然の如く全部屋禁煙、正確には拝殿自体が禁煙だった。

 駄目と言われればしたくなるのが人間である。吸ってはいけないと分かるとどうにも吸いたくなった高畑は、拝殿の屋根に上って一服することにした。

 拝殿内が禁煙ならば屋根の上ならば大丈夫だろうと屁理屈を捏ねた自覚はあったのか、余人には分かりにくいが廊下を歩く高畑の姿は極力足音を消すようにしていた。

 木の廊下を踏みしめる音をさせず、気配を押さえているので姿を目にしなければそこにいると分からないだろう。だからだろう、「臨時更衣室」とプレートが付けられた部屋の前を通りかけた高畑がその言葉を聞いたのは。

 

「明日菜さんはアスカさんが好きなんですか?」

「「え?」」

 

 期せずして漏れ聞こえる臨時更衣室にいる誰かの声と、一瞬にして頭の中が真っ白になった高畑の声が重なった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一回戦が始まる前に明日菜と刹那の二人は拝殿の隅にある「臨時更衣室」とプレートが付けられた一室にいた。

 一室に入って着替え始めた後、スパッツを脱いだ明日菜の様子が一変した。溜め込んで限界に達していた風船に更に空気を入れて破裂させて、抑え込んでいたなにかが広がっていくように思えた。

 

「…………さあ、やってやるわよ!」

 

 広がっていく何かに名前を付けるとするならばやる気。脱いだばかりのスパッツを机に叩きつけるように置く。

 

「この時をずっと待ってたんだから」

 

 最初、刹那も口をポカンと開けて唖然とした。

 スパッツを脱いでいるのでスカートを翻して下着も見えているが、良く考えなくても恥ずかしい恰好を気にした風もない明日菜に今はかける言葉がない。

 

「明日菜さん、そろそろ着替えないと時間が……」

「あ、ごめん」

 

 おずおずと声をかけると、明日菜はハッとした様子で自分の状態に気がついたようで、顔を赤らめて背中を向ける。

 何故か大会側――――この場合は司会兼審判を務める朝倉和美が窓口になって――――の意向で着ている服から用意された服へと着替えを命じられていた。

 あまり時間がないと和美から言われているので、着替えを開始する。

 

「人前で試合をするにしても借り物の服でやらずにすんで助かったわよね。朝倉って意外に考えてる。超の入れ知恵かしら」

「どちらにせよ、汚したり破いたりして弁償にならずに良かったです。こういう衣装って高いんですよね? 弁償ってなってたらゾッとしたところです」

 

 スカートの下に激しい動きをしても大丈夫なようにスパッツを履いているが、元よりセーラー服は貸衣装なので多少の汚れならともかく格闘大会で着ていて破ったりしては言い訳にもならない。

 

「それにしてもごめんね。着替えろって言われたのは私だけだったのに、刹那さんも一緒に着替えてもらっちゃって」

 

 赤いスカーフを外してパイプ机に置うて畳んでいる明日菜が、背中を向けて同じようにしている刹那を横目で見る。

 着替えを向かい合ってするには同年代で同性であっても気恥ずかしいものがあった。これがクラスで他にも誰かがいれば別な話なのだが部屋には二人きりなので、自然と視線を避けるように背中を向け合って着替えていた。

 入り口の向かいに荷物が置けるように配慮されているらしいパイプ机があり、スカーフを置いた明日菜が横に視線を向ければ自然と背中を見せている刹那が見えた。

 

「いえ、私も助かりました。弁償できるような余裕もありませんし」

 

 上下よりもスパッツを先に脱ぐことにした刹那は苦笑しながらスカートの中に両手を入れて、黒のスパッツを下ろしていく。

 刹那もまた金銭的余裕はなく、明日菜と共にいたことで着替える機会を得れて助かっていた。

 武道四天王のネームバリューがあった所為で、危うく刹那の財布がピンチになるところだった。そう思えば、多少早めに着替えることなどなんでもない。

 

「刹那さんが破くわけないじゃない。今のエヴァちゃんって魔力が封印されてるんでしょ。それだと流石に実力が違いすぎるから破けるとも思えないと思うけど」

 

 明日菜は刹那と違って上の服から先に脱ぐことにしたようで、首の後ろに両手を持っていって襟を持ち上げた。

 実力的に考えれば気も使える本気の刹那と、封印によって魔力が使えないエヴァンジェリンの実力差は歴然。刹那のセーラー服に埃を着けることも出来ないはずと明日菜は考えた。

 

「分かりません。エヴァンジェリンさんには私達にはない時間の研鑽があります。油断していたら負けるのは私の方ですよ」

 

 服でくぐもって聞こえる明日菜の声に、何時もの謙遜ばかりではない紛れもない事実を込めて言いながら、刹那も袖を持ちながら腕を引き抜き、両腕を抜いてから襟から頭を抜き出す。

 チラリと明日菜を見れば、あまり服を畳むのには慣れていないのか、形にはなっているが下手くそな畳み方だった。同室の木乃香の几帳面な性格から考えて彼女が明日菜の畳み物もしているのだろう。こういう何気ない場面で日常が見えてくるのは何とも面白い。

 

「う~ん、少し分かる気がする。なんていうか、身のこなしが違うのよね」

「それが分かるだけ、明日菜さんもこの二ヶ月の間の修行で見違えるように伸びている証拠です。私もうかうかしていたらどうなるか」 

「そんなこと言って煽てて。口が上手いんだから」

 

 明日菜も自分の畳み方が下手くそだと見て思ったのだろう。変な畳み方で跡が残るよりは広げておいた方が良いと思ったのか畳むのを諦め、バッと広げてパイプ机にかける形に落ち着いた。

 その横でブラジャーの代わりにサラシを巻いている刹那が脱いだセーラー服から赤いスカーフを抜き取って慣れた手付きで畳んでいる。

 

「その様子だと手加減はなし?」

 

 スカーフを畳む様子を見た明日菜は、思わず拍手したくなるぐらいの見事な手並みと慣れ具合に少し感心する。関西の出身の子は家事が上手いのかと僅かな勘違いを抱きながら。

 

「勿論、試合なんですから手加減なんてしません。お互い真剣勝負です。明日菜さんそうもでしょ?」

 

 二人揃って黒いスカートに手をかけながら、刹那は切り捨てるような言葉とは打って変わってクスクスと笑いながらジッパーを下ろす。

 麻帆良女子中等部の制服はブレザーなので、クラスの出し物の衣装とはいえセーラー服は新鮮であった。しかし、上はともかくスカートの形式はどちらも大して変わらない。

 セーラー服は手間がかからないが見栄えではブレザーかな、と刹那はスカートから足を抜きながら丸一日着てみた感想を考えていた。

 

「――――私は勝つ。勝たなきゃいけない。勝ちたいのよ」

 

 脱いだスカートを持ち上げて畳もうとした刹那は、急に真剣な声音になった明日菜の声に動作を止めた。

 

「明日菜さん?」

 

 スカートを畳む動作を一旦止めて振り返る。そこには刹那が振り返ったことを気づいているのかいないのか、スカートを畳むことなくパイプ机に広げて置いた明日菜が背中に手を伸ばしてブラのホックを外そうとしていた。

 

「ずっと思ってたんだ。私ってアスカのこと何も知らないんじゃないかって――――げ……? 下も着替えるのコレ?」

 

 ブラのホックを外し、肩紐を下ろして右腕から抜く。

 続いて左腕も同じように肩紐を下ろしながらブラを外し、先に抜いた右腕で刹那には羨ましすぎるぐらい発育している胸を隠しつつパイプ机に歩み寄る。大会側に用意されている服を触って、着替えるのに下の下着も含まれているのに気がついて嫌そうな声を上げた。

 よく友達同士で服を貸し借りはするが流石に下着までは、よほどの緊急事態にならなければ貸したり借りたいしない。新品だろうが気持ち的に自分が選んだのではないのを着るのは気が進まない。

 

「サイズも合ってるし、言い訳もさせない気ね。朝倉め、後でとっちめてやらなきゃ」

 

 こうして用意されているのだから、きっと和美のことだからサイズまで知られていると見た方がいい。

 諦めたようにため息を漏らして上の下着から身に着け始めた。案の定、サイズは計ったようにピッタリだった。後で和美を折檻することを心に決める。

 

「何故…………急にその様なことを?」

 

 あれだけの目に合って、まだアスカに歩み寄ることを止めようとしない明日菜が何を考えているのかは刹那には分からない。

 彼女の疑問は当然だった。明日菜はほんの少し考えてから、顔だけを刹那に向けて下も脱いで用意された下着を着ける。

 次は明日菜らの試合なので、何時までも着替えに時間を割くわけにはいかない。臨時更衣室に入る前に和美に散々念を押されているので、刹那も一度は止めた手を動かして着替えを再開した。

 

「もっと色んな事考えないと、駄目なのかなって思ったんだ」

「と、言いますと?」

 

 サラシを解いて露わになった胸を腕で隠しながら刹那が問いかける。

 

「魔法を知ってアスカと仮契約をして従者になったりもして、色んな事があったけど正直なところ私には理解の範囲を超えてるのよ」

「明日菜さんは何も知らなかった一からの状態で、望む望まざるに関わらず巻き込まれたんです。始めからこっち側だった私だって戸惑う面があるんですから仕方のないことです」

 

 エヴァンジェリンとスプリングフィールド一派の激突時から始まった一連の事象。修学旅行で関わる必然を持ち、悪魔が襲撃したことによって破綻した。

 あまりにも劇的に状況が動き過ぎて、噛み締めて受け入れる前に次の事件がやってきてしまっている。

 生まれた頃から関わってきた刹那ですら、短い期間でこれだけの事件が多発した状況を全て受け止めて切れていない。元は素人であった明日菜が追いつけないのが当然なのだ。

 

「仕方がないからって許されるものでもないのよ」

 

 神楽坂明日菜は明朗快活で陽気そのものといった感じの少女だけど、一旦落ち込むとなると、その反動でとことん深いところまで一気に転がり落ちていくタイプなのかもしれない。プラス方向に出るにしろ、マイナス方向に出るにしろ、いずれにしても感情表現豊かな明日菜らしい。

 だが逆に言えば、プラスに働かればとてつもないパワーを発揮する可能性を秘めている。今がその時だった。

 

「何時も状況に流されていただけで、自分で決めたんじゃないって気がするの」

 

 この一か月間、ずっと自分の選択は正しかったのかと考え、問い続けてきた。

 

「何時だって人は限られた中で選ばなければなりません。それの何が悪いんですか?」

「悪いってことじゃないの。ただね、与えられた選択肢の中に望むものがない時ってあるじゃない」

 

 明日菜の苦笑混じりの言葉に、それはそうだと逆に納得させられて刹那も小さく頷いた。

 

「だから、こうも考えたの。望む選択を自分で作ることも必要なんじゃないかって。その為には考えること、行動することを止めちゃいけない」

 

 明日菜の言葉は、木乃香を守る一点だけを求め続けて距離を取っていた刹那には、今も変わらず秘密を抱え続けて本当の一歩を踏み出せないこともあって大いに身につまされる話であった。

 

「あの時、私は最低なことをした。見ない振りをしておくのは簡単だけど、逃げ出したってなにも変わらないから」

 

 人は自らの穢れを醜さを見ることを嫌がる。何らかの理由を付けて遠ざかり、目を逸らそうとする。

 前と今の刹那がそうだ。魔法の秘匿を理由にして木乃香から遠ざかり、自らのコンプレックスである白き翼を伝えられずにいる。なのに、明日菜は自らの心の穢れを見つめようというのか。

 始めて刹那はこの親友に尊敬と憧れと同時に、嫉妬と自らの醜さを抱いた。

 

「アスカと話をしないといけない。話をして、あの時のことを謝る。それが今の私のすること」

 

 不思議な光を見せる眼差しを浮かべる明日菜の横顔を神妙な表情で見ていた刹那は、ずっと胸の底に溜まっていた疑問が浮かび上がってくるのを自覚した。

 

「でも……」

 

 そこで始めて刹那は逡巡した。

 下着のまま振り返った明日菜の姿に別な疑問が浮かびかけたが、胸の底に沈殿していた疑問を払わなければならない衝動の方が勝った。

 本当にこの疑問を問いかけるべきか、一瞬の逡巡が唇の動きを阻害する。

 場合によっては、ここに至るまでに明日菜が積み上げてきた物を無に帰するかもしれない。最悪、この件が原因で仲が悪くなってしまうかもしれない。でも、問わずにはいられない。

 遂に、喉の奥から問いが出てきて唇から溢れた。

 

「明日菜さんはアスカさんが好きなんですか?」

「え?」

 

 刹那の不意の問いに、まるで溶岩を呑み込んだように明日菜の胸が熱くなった。肺腑を切れ味の悪いナイフで無理矢理に抉られたみたいな表情を浮かべる。

 

「今までずっと疑問だったんです。友達でも、他人なら離れてしまえばいい。それだけの理由があります。でも、明日菜さんは不思議とアスカさんに拘っています。どう思っているんですか?」

 

 刹那の問いに返す言葉を持たず、明日菜は自身の鼓動だけが耳の中で鳴り響き続ける世界で眼を見開いていることしか出来なかった。

 この時、世界は二人の間だけで完結していた。だから、部屋の外に第三者がいたことに気がつなかった。

 

「…………ってアレ? 刹那さん、なにそのド派手な下着……」

 

 顔を朱に染めた明日菜はその問いに答えようとせず、違う面が目について思うがままに吐露する。

 

「あ、明日菜さんこそ……」

 

 中学生が付けるようなものではない、やたらと豪奢で絢爛な下着を身に着ける二人は紅い顔を交わし合った。

 明日菜に至ってはビスチェと呼ばれるようなものを着て、ガーターベルトまで付けている。要するに主観だけではなく傍目にもエッチな下着を気づかずに付けていたのだ。

 紅い顔のまま困惑の表情を浮かべている二人の間を縫うように、臨時更衣室の襖が遠慮なく開けられた。

 

「ホラ、なにやっての! 早く着替えて二人とも! 客が待ってるよ~~!」

 

 部屋にいる二人の下着姿だが外に丸見えになっているのに頓着することなく襖が開けられ、司会兼審判の和美が現れた。

 和美の近くに、先程までそこにいた人物の影も形もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒い布の欠片が宙を舞って目の前を飛んで行くのを、舞台に立つ和美は若干の哀れみを以て見遣る。

 先の試合のことは早く忘れてあげるのが高音に対して同性として出来ることであると判断し、大きく息を吸う。

 

『えー、大変なハプニングがありましたが、会場は色々な意味で大盛り上がりとなっています。第一試合はグッドマン選手の勝利です』

 

 舞台に空いた穴を塞いだ麻帆良大土木建築研のメンバー達が使った道具と材料を手に肩に持ちながら去って行く。穴だらけになっていた舞台が瞬く間に修復されていく様子を見て、観客達が歓声を上げる。

 普通の格闘大会と同じように一試合が終わったインターバルの間にトイレに行ったり水分補給したりと、そうでなくても隣近所と先程の試合の寸評をしていて観客達は思いの外忙しい。

 

『ご覧下さい。麻帆良大土木建築研の手によって空いていた穴も迅速に修復されました』

 

 第一試合を行った高音と田中さんの姿はなく、舞台の修復を行っていた麻帆良大土木建築研も作業を終えていなくなった舞台上にただ一人残った和美が大会進行を進める。

 

『それでは皆様お待たせしました!! 続きまして一回戦第二試合を執り行います! では、今大会の華である次の試合を行う神楽坂選手と、Dブロック第一試合の出場する桜咲選手の登場です!!』

 

 和美の声がマイクを通して龍宮神社中に響き渡り、選手席間の通路に現れた少女達の姿を見た観客達のどよめきが起こる。

 二人はおおよそ格闘大会に甚だ不釣合いな格好で試合場の花道に立っていたのだ。困惑と好奇心と他にも色々なものが混じった声が龍宮神社を埋め尽くす。

 

『キュートなメイド姿の女子中学生二人の登場に、会場も別な感じで盛り上がり中!!』

 

 ゴスロリであちこちにレースのフリフリが付いたメイド服なのかと疑ってしまう衣装を着て、クロスが刺繍された帽子を被り、これまた何故かデッキブラシを持った明日菜。

 和装に身を包み、スカート部分が短すぎて映画などの物語にしか出てこないような衣装に猫耳+尻尾まで付けて、靴底が10㎝近い草履を履き、これまた何故か箒を持った刹那。

 大会側が指定した衣装を着た二人も二人だが、どう考えても特定分野狙いの衣装にしか見えない。

 

「ちょっと待った朝倉――ッ!」

 

 片手を上げて花道にやってきた二人を紹介する和美に顔を紅くしながら怒鳴る明日菜。刹那はその横で冷や汗をかいて顔を赤くしていた。思わずポーズをとってしまったのが恥ずかしかったらしい。

 

「何なのよ、この服!!」

「いや~、アンタ達って前年度チャンピオンとかの押しが無いし、折角可愛い所だしって事で超の指示でね」

 

 明日菜の正当な文句を、マイクの電源を事前に切って観客にまで聞こえないようにしてからしれっと答える和美。

 これは武道四天王に名が挙げられている刹那は別にして、明日菜には体育祭で同じクラスの春日美空と陸上で学年学園都市一位をデッドヒートしたぐらいしか売りがない。

 それにしても運動神経は良いのだろうと推察は出来ても格闘にはなんの関係もない。

 

「私はともかく刹那さんは違うでしょ!」

「でも、武道四天王っていても古菲ほどの知名度も人気もないじゃない。これも大会の為よ」

「ニヤけた顔で言っても説得力ないわよ! 楽しんでるでしょアンタ!!」

 

 武道四天王という逸話にしても、元の始まりは同じクラスの級友達が既に有名だった古菲に合わせてグループを作ってしまおうと考えたところから始まっている。

 格闘系部活として分かりやすい剣道部から刹那、バイアスロン部から龍宮真名、「にんにん」と言ってどこから見ても忍者である長瀬楓。成績下位者五人をバカレンジャーと呼ぶようになっていた時期なので、それっぽければなんでもいいという少女達のノリは凄かった。若干のこじつけの面も多くあったが、裏のことも考えれば本質的には正鵠を射ていたということだろう。

 優れた身体能力、揃って大会には出ないという事実から古菲の名が高まっていくに連れて武道四天王の名も広がっていった。しかし、そこには古菲以外は実がない。彼女らが中学生であるということ、性格的に挑戦を受けないということもあって、ハッキリとした実力を目にした者は殆どいないのだ。

 このような自称他称も合わせて名乗っているのは麻帆良学園都市を探せばいくらでもいるので、この事実を少しだけ気にはしても殊更気にする者もいなかった。

 つまり、何が言いたいかというと明日菜達は有り体に言って話題性に欠けるのだ。

 

「似合ってるよ。ほら、観客も喜んでくれてるじゃん。今更、着替えるってなったら顰蹙もんよ?」

 

 和美が言うように注目度も話題性も少なかった選手の登場にしては場の盛り上がりは最高潮に達していた。

 日本人らしく黒髪黒目の刹那には、凛とした立ち振る舞いもあって和装は良く似合っている。亜麻色の髪にオッドアイと日本人離れした面のある明日菜も洋装が映えている。

 大凡、戦闘に向いているとは思えないメイド服だとしてもだ。刹那は和装自体は京都にいた頃から慣れているので違和感を感じなかった所為で、この状況を受け入れてしまっていた。

 

「せめてスッパツ返してよ。動いたらパンツ見えちゃうじゃない」

 

 下着を着けたところで和美が現れて着替えを急かされたので、うっかり脱いだスパッツを履くのを忘れてしまっていた。

 試合ともなれば動き回ることになるだろう。動きが激しくなれば短いスカートの中の事を気にすることも出来ない。

 下手に豪奢な下着を着ていることもあって衆目に曝されるのは裂けたいのが明日菜の気持ちであった。

 

「まぁまぁいいじゃん。写真撮影禁止なんだし」

「良くない! 超を出しなさいよ! 抗議するから!」

 

 和美は記録できる電子機器――――つまりビデオカメラ類等――――を使っての撮影は出来ないので、後に残る問題はないのでそれはそれでいいのだが、この衆人環視の中では同性に見られるだけでも恥ずかしいのに格闘大会ということもあって観客は男性が多いので御免蒙りたい。神楽坂明日菜にはそのような露出の趣味はないのだから。

 

「ダメダメ。これは主催者の超からの命令だよ。聞けない場合は失格になっちゃうよ」

 

 これには明日菜も引き下がらざるをえないはずと、勝利を確信している和美から伝家の宝刀が繰り出された。

 目論み通り、どうしても出場したい明日菜はグッと言葉を呑み込んだ。

 だが、直ぐに覚悟を決めたように決然と顔を上げると、和美に向かって歩く。

 

「ちょ、なに? 力尽くってのは駄目……」

「違うわよ、あのね」

 

 ガシリと肩を掴まれた和美が予想外の展開に焦って言い募るが、そういうつもりではない明日菜はその耳元へと唇を寄せて何かを囁いた。

 

「え? それってマジ?」

 

 囁かれた言葉を聞いた和美はその内容が信じれなかったのか心底驚いた顔をしていたが、頬を真っ赤に染めてコクリと頷いた明日菜に破顔する。

 

「いや~、まさか明日菜がそういうこと言うなんてね。よし、分かった! 私の権限で認めたげるから行ってきな!」

「いいの?」

「問題なし! ほらほら、グズグズしてると撤回しちゃうよ」

「ありがとう、朝倉」

 

 傍で見ていた刹那には全く分からなかったが、明日菜が言ったことは和美の琴線に大いに引っ掛かったらしく気前良く送り出した。

 ぽかんとして、そそくさと拝殿へと戻っていく明日菜の背中を見送った刹那は、ならば自分もと和美の下へと向かう。

 

「あの、朝倉さん私は?」

「明日菜の分もサービスよろしくね」

 

 何が楽しいのか、ニヤニヤと笑いながら即答された。

 

「どうして明日菜さんだけ」

「あんな乙女なこと言われたら頷かないわけにはいかないでしょ」

「乙女なこと?」

 

 納得がいかずにいると、和美がちょいちょいと手招きをしたので近くに寄ると、明日菜がしたように耳元に首を寄せて来る。

 息が当たってこそばゆい思いをしていると、和美が特大の爆弾を落とす。

 

「明日菜がさ、『好きな人以外に見られたくない』だって。こんな乙女なことを言われたら言うことを聞くしかないじゃない」

「好きな……!?」

「はいはい、大きな声は御法度ね。こういうのは言わぬが花ってもんよ」

 

 驚愕の内容に思わず大声で言いかけた刹那の口を、そうなるだろうと予期していた和美が塞ぐ。

 

「っていうわけで、私にも立場があんの。刹那さんは勘弁してよね、流石にサービスがないのもまずいしさ」

 

 驚きも冷めやらぬ刹那の口から手を離した和美は、そう言って機嫌良く舞台へと向かって歩き出した。

 

「おい、刹那」

「エヴァンジェリンさん」

 

 更衣室で言った『明日菜さんはアスカさんが好きなんですか?』の問いの答えだと刹那が気づくよりも早く、明日菜達と同じようにクラスの出し物である、借り物ではなく自分で作った袖なしの黒いセーラー服を着たエヴァンジェリンが話しかけた。

 

「貴様達にそういう趣味があるなら最初から言えば私も訓練着を考えたものを」

「止めて下さい、本当に」

 

 エヴァンジェリンの申し出を速攻で断る刹那。

 別荘の利用の度にこのような服に着替えさせられたら落ち着かない。

 

「冗談だ。それで剣の師匠のお前から見てどうだ? アイツはアスカに勝てると思うか?」

 

 本当に冗談なのか判別しづらいニヤニヤとした笑みに疑念を抱きつつも、昨夜に見たアスカの戦い方から実力差を図る。

 

「昨夜は全く魔力も気も使っていなかったので、現在の強さがどの程度なのかはハッキリとは分かりませんが」

 

 少なくとも自分よりも体格が良い十八人も敵を相手にしていた動きに衰えはなく、寧ろ更に鋭さを増していたように感じた。

 

「真っ向から戦って明日菜さんに勝機があるとは思えません」

「だろうな。前のアスカならともかく、今のアイツに勝つのはこの麻帆良にいる者でも片手の指にも足りない。それでも戦うか」

 

 エヴァンジェリンは衣装はあれだが、やる気に満ちた明日菜の戦意を感じ取っていたのだろう。現に明日菜は衣装に文句は付けつつも、試合を止めようとはしていない。

 実力差は誰よりも分かっているにも関わらずだ。

 

「確かに明日菜では無理アルかなー」

「ん、厳しいでござるな。修行も頑張っているようでござるが……」

 

 近くで話をしていた古菲と楓の会話が刹那の耳に入ってくる。

 エヴァンジェリンも古菲も楓も、基本的には全員が明日菜の負けだと想像する。だからこそ、刹那一人だけがその言葉達を否定しようとした。

 明日菜のこの大会にかける熱意は並ではない。油断すれば負けると、隙を見せれば自分でも喰われると理解していたからだ。

 

「フフ…………そうとも限りませんよ」

 

 刹那が否定の文言を口にする前に、彼女達の身内ではない誰かが先に言った。

 

「ん?」

 

 男とも女ともつかない微妙な声音のした方向へ、刹那とエヴァンジェリンの視線が揃って向いた。

 視線の先、スパッツを履いて戻って来たばかりの明日菜の背後に、声を放った人物は気配すらもさせずに立っていた。

 地面に引き摺るようなほどに長い白いローブに身を包み、フードを目深に被っているので顔も見えない。年齢不詳どころか、ゆったりとしたローブを着ているので体格すら判別できないので性別すら断定できない。

 

「え……?」

 

 地面を踏みしめる音と声に、明日菜も遅まきながら背後に誰かがいるのに気がついて振り向いた。

 

「確か……クウネル・サンダースさん?」

 

 某白髪白髭白スーツなおじさんを思わせる名前の選手の事を明日菜も覚えていた。特徴的でありながら慣れ親しんだ名前で、怪しさ満開の恰好の人がいたので強く印象に残っていた。

 最後が疑問形になったのは記憶力に自信がなかったところ辺りが明日菜らしい。

 明らかに偽名すぎる名前を明日菜が口に出すと、目の前の人物は唯一フードに隠れていない口元を微かに綻ばせながら手を伸ばす。

 そうすることが当たり前のような自然な感じがあって、手が頭に触れても正体不明な相手なのに不思議と忌避感を抱かなかった。だから、わしゃわしゃと乱暴に髪の毛を掻き混ぜられて、「ぎゃ!?」と年頃の乙女らしくなく悲鳴を上げてしまった。

 

「ちょちょちょっとイキナリ何するんですか――――!?」

 

 大人が小さな子供にするような、大袈裟な愛情表現に似た撫で方に嫌悪よりも受け入れてしまった自分に対して驚きが先行した。顔を紅くして大袈裟ともいえる動作で距離を開ける。手を守るように上げたのは無意識の防衛反応か。

 明日菜が慌てた様子で後ろに下がって横に並んだの横目に見て、エヴァンジェリンは目の前にいる怪しげなフードの人物を観察した。

 

(怪しい)

 

 目の前の人物を語るには、そのたった一言で十分だった。

 全身をスッポリと隠すローブといい、怪しげな言動とおかしな行動を合わせて不審人物との結論が出るのは早かった。

 だが、ローブの人物が出す気配に懐かしさを感じた。

 

「?」

 

 全身を観察して結論が出たエヴァンジェリンだが、唯一見える口元に浮かぶ微笑が記憶にある『誰か』と重なる。

 エヴァンジェリンの顔色が目に見えて変わっていく。気配の懐かしさから合致する人物に思い当たるまでにしばらくの時間がかかるのは、該当した人物がここにいるはずがないと思い込みからきていた。

 

「なっ……き、貴様はまさか……?」

 

 らしくもなく驚愕の様相を隠しもせず狼狽するエヴァンジェリン。しかし、当のローブの人物の目的は彼女ではなかった。

 

「改めて間近で見ても信じられませんよ、明日菜さん。かつては人形のようだった貴女が、こんな元気で活発な女の子に成長しているとは……」

 

 エヴァンジェリンの反応を静かに見た後、ローブの人物は彼女から視線を外して明日菜を見て、感慨深げに話し掛ける。

 一度言葉を切ると、再度話を始める。

 

「良き友人にも恵まれているようです。ガトウ・カグラ・ヴァンデンバーグが貴女をタカミチ君に託したのは正解だったようですね」

 

 ガトウ、という名前が音になって耳から入って脳が認識した瞬間、ドクンと心臓が自分でも驚くほど大きく高鳴った。

 次いで押し留めていた何かが零れ出るように森の中の風景と共に『彼』の笑みが脳裏に浮かんで、ズキンと走った頭痛という名の奔流が全てを押し流していく。

 大切な『何か』も、愛しい『誰か』も、全てが夢幻の幻であったかのように押し流されていく。欠片も残さず、一抹の残滓すら残さず消えていく。記憶は霞がかかったように曖昧で、思い出そうとするほどぼやけていく。まるで記憶自体を思い起こすことを禁じられているように。

 

「…………あ、あんた、誰…………?」

 

 頭痛の走った頭を右手で押さえ、どこまでも自分のペースを崩さないフードの人物を明日菜は困惑したように見つめた。

 彼女の斜め後ろに立っている刹那も敵意のない相手だけに、どうすればいいのか分からず成り行きを見守っていた。

 

「魔法使いですよ、物語に出てくるような人を助ける魔法使い。貴女に助言をしに来ました」

 

 明日菜の問いかけに、フードの人物は口元を笑みの形に留めたまま悪戯っぽくそう告げた。

 纏っているローブや神秘性は魔法使いという自称するに足りる要素を満たしている。だが、フードの人物は物語に出てくるような登場人物を導く魔法使いというよりも、助けを求める人間を言葉巧みに騙して命を刈り取る狡猾な悪魔の方が似合っていた。

 魔法使いという存在がこの世に存在していることを知り、身近にその実例と会ったことがあるからこそ神楽坂明日菜は容易に目の前の人物の言を否定できない。

 

「アスカ君に勝ちたいのでしょう? ならば、私を受け入れなさい。そうすれば貴女なら勝てる」

 

 その表情も言動もどこか演技のように感じ、しかし嘘をついているような欺瞞さは感じられなかった。理屈もなく信じてみようと思わせる何かを明日菜はフードの人物から感じていた。

 

「オ、オイ貴様!!」

 

 明日菜が内側から鈍く走る衝動に駆られて頷きかけたのを、横から彼女よりもキーの高い声が迸った。

 かけられていた催眠術から覚めたように、キョトンと瞬きを繰り返した明日菜は隣にいるエヴァンジェリンを見ると、何時も冷静沈着な彼女らしくもなく動揺を露わにしていた。

 

「何故、貴様が今ここにいる!? お前のことも散々探していたのだぞ!?」

「…………」

 

 エヴァンジェリンが目を見開いて詰問も強く詰め寄るも、ローブの人物は彼女に流し目を送って薄く笑みを浮かべると、何も応えずにまるで空気へ溶け込むかのように霞の如く姿を消してしまった。

 

「消えた! 何者アルか、今の人!」

「……!」

 

 姿を消したのではなく、文字通り消えた。なんの予備動作もなく目の前で煙が晴れるように消えていったローブの人物。そこにいたのが幻だったように消えて驚いた古菲は、思わずさっきまでローブの人物がいた空間に手を伸ばしていなくなったことを確認していた。

 姿が消えるまでを細目でありながらも注視していた楓すらも原理が分からない。常の冷静さを欠いて、片目を僅かに開けていた。

 

「ぐ……バカな。今の今まで気づけんとは…………しかし何故?」

 

 この場でローブの人物の正体を知っていそうなのはエヴァンジェリンのみ。ぶつぶつと呟き続けるエヴァンジェリンを後ろから見下ろした楓はローブの人物の正体を問うことを決めた。

 

「エヴァ殿、今の御仁は一体?」

「奴はナギの友人の1人だ。名をアル……」

「えっ」

 

 楓に声をかけられて我を取り戻したエヴァンジェリンは、経緯はともかく一度でも姿を見せたのなら探しようはあると考えて返答していた正にその時だった。

 

「クウネル・サンダースで結構ですよ。トーナメント表に書かれている名前の通りにクウネルとお呼び下さい」

 

 ローブの人物の本名を言いかけたエヴァンジェリンの後ろから音どころか気配すらなく声がかかる。

 背後からの声に古菲と楓とエヴァンジェリンが慌てて振り返った。そこには先程消えたばかりのローブの人物が何時の間にか立っていた。

 唐突に現れてペコリと優雅に一礼するローブの人物に、古菲と楓は虚を突かれて警戒心から一歩下がって距離を開ける。だから、エヴァンジェリンが言いかけたローブの人物の本名に明日菜が反応していたことに誰も気がつかなかった。

 

「ふざけるな!! 貴様、今までどこで油を売っていた!」

 

 ローブの人物の人を食ったような言動と行動に激昂しているエヴァンジェリンの近くで、直ぐ背後に現れたにも関わらず気配を全く感じなかったことに古菲の頬を冷や汗が一粒流れていく。

 

「それに神楽坂明日菜について、何故、知っている!」

「あれ? 知らなかったのですかエヴァンジェリン。そうですか、それはそれは…………フフフッ」

 

 自己流に改造しまくって原型を失いかけている服と、金髪と真っ白な肌のコントラストがフランス人形を思わせるエヴァンジェリンが怒りを露わにしている様子は本人が思っているよりも他人に訴えかけるものが多い。

 なのに、フードの人物は気にした様子もなく、それどころか更に彼女を弄るように含み笑いを浮かべる。

 

「では…………今しばらくはヒ・ミ・ツ、ということにしておきましょうか?」

「ぬぐっ」

 

 右手を上げて人差し指を立てて相変わらずの嘘くさいニッコリした笑みを浮かべるフードの人物に、米神に大きな青筋を浮かべたエヴァンジェリンが歯軋りをする。

 

(そうだった。性格の悪さで言えば、こいつはナギ以上の……)

 

 ナギが天然だとすれば、目の前のフードの人物は理性的に計算して人を弄る詐欺師。両者とも最終的な結果は変わらないが、分かっていながらといないのとでは大分違う。太陽と月みたいな、頭に来る怒り具合がやはり変わってくる。

 

「明日菜さん。今、貴女は力が欲しいのでしょう? アスカ君に届くために」

 

 フードの人物はアッサリとエヴァンジェリンから視線を外すと、再び明日菜に問いかける。

 

「私が少しだけ、力をお貸しましょう。もう二度と貴女の目の前で誰かが死ぬ事のないように、誰もいなくならないように」

「え……」

 

 明日菜はそれを聞いてびくりと震えた。一度は押し込められた扉の中にある記憶が反応する。厳重に閉められた鍵を解き放たんと、心臓が脈動するようにドクンと動いた。

 

「アル!?」

「おや、タカミチ君が来てしまいましたか」

 

 拝殿の方から選手控え席に戻ろうとしていた高畑が、こちらに気づいて走り寄ってくるのを見遣ってフードの人物は笑みを深くする。

 

「それでは、また後ほど」

 

 固まった明日菜を置いてそれだけ言うとフードの人物は再び姿を消した。

 




Aブロック

第一試合『高音・D・グッドマン VS 田中さん』

第二試合『アスカ・スプリングフィールド VS 神楽坂明日菜』


Bブロック

第一試合『豪徳寺薫VS タカミチ・T・高畑』

第二試合『古菲 VS 龍宮真名』


Cブロック

第一試合『クウネル・サンダース VS 大豪院ポチ』

第二試合『山下慶一 VS 長瀬楓』


Dブロック

第一試合『桜咲刹那 VS エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル』

第二試合『犬上小太郎 VS 佐倉愛衣』


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第41話 届け、この想い

 

 六月末の梅雨真っ盛りの時期だというのに、午前八時の麻帆良学園都市の上空には雲一つない快晴である。空気も清涼としていて、春と夏の合間の心地良い陽気が続いている。雨が降らないのでニュースで今年の夏は水不足が懸念されているだとかなんとか。

 

『只今より、まほら武道会第二試合に入らせて頂きます!』

 

 雲一つない青空の下、マイクを通して聞こえる始まりを告げる和美の声が会場中に響き渡る。

 今か今かと待ちわびていた観客達の歓声が、まるで嵐のように会場内で荒れ狂うように湧き上がる。会場の歓声と熱気が一秒ごとに盛り上がりを増していくような錯覚を覚えるほどだった。

 試合の舞台は龍宮神社の敷地内にある、池の中心にぽつんと浮かぶように存在している能舞台で行われる。会場である龍宮神社満員御礼、正月ですらここまで人はいなかったと思うほどの大入り満員である。

 司会兼審判である和美とこれから試合が行われる舞台を歓声が包む。

 ここまで来て止められる者はいない。

 結局、フードの人物はあの後には現れることなく、いい加減に焦れた和美に急かされて明日菜は、珍しく木刀を手に持って先に待つアスカがいる舞台の上に上がった。

 

「アイツと何を話してたんだ?」

 

 向かい合い、最初に口火を開いたのはアスカだった。

 まさかの展開に明日菜は目を瞬かせ、少し低くなった声に胸を熱くしながら努めて平静を装った。

 

「アイツって?」

「フードを被っていた怪しい奴のことだ。何を話してた?」

 

 五メートルの距離を挟んで向かい合った二人の胸中にあるのは共通の人物。先ほどの――――自らクウネル・サンダースと名乗る怪しすぎる人物であった。

 

「意味の解らないことをペラペラと言ってただけよ。そう言えばエヴァちゃんがアスカ達のお父さんの友人って言ってたけど本当なの?」

「友人つうか仲間らしい」

「ということは、紅き翼ってやつの?」

「ああ」

 

 頷き、アスカは明日菜から視線を外して選手席を見る。

 その視線の意味が示すものは只一つ。戦いの場にいながらアスカは目の前にいる明日菜よりもフードの人物を優先している。

 

「アスカ!」

 

 その事実に立腹した明日菜は思わず大きな声でアスカの名前を叫んでいた。

 腫れ物に触るような、それでいて退かない強さを宿した声に、アスカの体は我知らずに体が一瞬震えるのが感じ取れた。

 ゆっくりと視線を戻し、明日菜を見て始めて存在を認識したようだった。

 意思の強そうなアスカの蒼の瞳が、明日菜を映して見開かれていた。睨むよう細められた明日菜の目が濡れていた。

 

「お前………」

 

 明日菜、と呼びかけかけた声が喉に詰まり、大きく目を見張って言葉にならない言葉を呟き、仮面を被って平静を装い口を開いた。

 

「なんだよ」

「私を見て。これから戦う相手は私よ」

「お前には興味ない」

 

 決死の覚悟で告げた明日菜に返って来たのは心を抉る言葉だった。だが、今の明日菜はその程度で挫けるほど弱くはない。

 

「お前、じゃない。ちゃんと明日菜って名前で呼びなさいよ。私はこの時をずっと待っていたんだから」

 

 明日菜はアスカの酷い言葉にも動揺することなく言い返して、堂々と自分の胸を張った。その動作や言葉の一つ一つで、この少女が今の言葉に全く傷ついていないことを思い知らされる。

 

「それに人の事を幽霊みたいに見るのは失礼よ」

 

 にっこりと彼女は微笑んだ。

 

「先に言っておくわよ! 私、絶対に今のアスカには負けてやらないから!」

 

 バン、と明日菜がアスカの機先を制して啖呵を切った。

 ギリギリ押え込んできたきたものが決壊したような啖呵に無絵を衝かれ、アスカは成す術もなく明日菜の顔を見返した。

 

「刻み込んでやるから、私という存在をアナタの心に」

 

 真っ直ぐに、まるで人の中心を射抜くような視線でアスカを直視して言う。この少女は全力で真っ直ぐに物を言う。これだけの物を言う姿勢は今までの明日菜になかった。

 

「やれるものなら、やってみせろ」

 

 明日菜はジッと言い返すアスカを見つめる。オッドアイに睨まれたアスカの手負いの獣染みたその目に細波が走った。

 互いに戦いの気運は高まった。

 腰を落して木刀を構えるアスカを前にして、明日菜は持っていたデッキブラシを脇に構えて、両手を開く。

 

「左手に魔力」

 

 ポウ、と淡い輝きが左手を覆う。

 明日菜が独自に魔力を発したことにアスカが目を瞠った次の瞬間、更に驚愕の事態が起きる。

 

「右手に気」 

「な、に!?」

 

 明日菜が魔法に関わったのはここ数ヶ月の話。

 少なくとも一ヶ月前まで明日菜が魔力も気も独自に発することが出来なかったことを知っているアスカは、目の前で少女が両方を同時に発していることに自分の目を疑った。

 魔力と気は反発する。両方の力を両手のみに集約しているから可能なことだが、一ヶ月で習得できる技術ではない。

 アスカの驚愕はこれだけで終わらなかった。

 

「――合成」

 

 胸の間に持ってこられた両手が近づき、もう少しで合わさるかと思われた瞬間、両方のエネルギーが触れ合った。

 バチッと両方のエネルギーが反発するように紫電を纏ったが直ぐに収まり、一瞬強い風が吹いて明日菜の全身を凄まじいオーラが纏う。

 

「咸卦法だと!? どうして――っ?!」

 

 明日菜が行ったのは咸卦法という技法。

 相反するエネルギーである気と魔力を融合させることで爆発的な力を得ることができる技法。非常に高度な技法であるため取得にはかなりの時間を要するが、習得難度に見合った効果があり、発動しただけで身体強化のみならず、加速、物理防御、魔法防御、鼓舞(精神の高揚)、耐熱、対冷、対毒、などといった様々な強化。防御効果を発揮。その強力な効果ゆえ、究極技法とも呼ばれている。

 

「行くわよ、アスカ。覚悟はいい?」

 

 明日菜は試合前に感じていた疼きを忘れるように極度の集中にも似た精神状態が世界を捻じ曲げていく。

 やがて余分な思考が消える。余分な臭いが消える。余分な音が消える。余分な色が消える。戦いの為の不必要な要素が、脳から削り落とされていく。戦いの為の刃と化し、その研ぎ澄まされた精神だけが敵を映す。

 

『一回戦第二試合――――』

 

 試合が開始されようとしているのに、逆にアスカは目の前の事実を受け止めきれずにいる。

 

『――――開始!!』

 

 和美の試合開始の合図と共に明日菜は解き放たれた獣のように飛び出した。

 

「たぁああああっ!」

 

 何故明日菜が究極技法を使えるのか、アスカの思索は不思議だが強烈なオーラを纏う明日菜の雄叫びによって中断された。

 刹那、まるで何かに弾き飛ばされたかのような勢いで明日菜が迫る。

 

「なっ!?」

 

 瞬動ではないのに、瞬動に匹敵するスピードで瞬く間に明日菜の履いているローファーの底が迫った。真正面からの跳び蹴りだ。アスカは反射的に前に掲げた木刀に魔力を注ぎ込み、彼女の蹴りを受け止めた。

 

「うぐっ!」

 

 とんでもない衝撃が全身を揺さぶってくる。

 受け止めた木刀どころか体ごと後ろに持って行かれそうになる。まるで生身で大型トラックと正面衝突でもしたかのような一撃だ。まともに食らっていたら、無事では済まなかったろう。一瞬でも遅れていれば、アスカであろうとも間違いなく重傷は免れなかった強烈な攻撃だった。

 

「てぇあああああああ!」

 

 蹴りを受け止められた明日菜が空中にありながらも、物理法則を一切無視するかのように身体を回転させた。それと共に縦横無尽にデッキブラシと蹴りが飛んで来る。

 最初の一撃よりは弱いものの、十分な体の捻りを加えられたいずれも巨大な鉄塊を叩きつけられているような必殺の一撃ばかりだ。それでもアスカは全ての攻撃を木刀で受け切り、時には回避してやり過ごす。

 

「はぁあああああああ!」

「いゃあああああああ!」

 

 明日菜が着地した合間を縫って、アスカも雄叫びを上げつつ木刀を繰り出していく。

 この猛攻に負けじと明日菜もまた体勢の不利を気にせずにデッキブラシで迎え撃つ。

 

「どう、私もやるようになったでしょ!」

「どうかな!」

 

 とアスカは言いつつも、既に明日菜が昔のままでないことを確信して油断を取っ払っている。

 眼の前でデッキブラシが剣術の道理を無視するかの如く腕ごと大きく振るったのを、アスカは立てた木刀で防御して間髪を入れずに打ち込んだ。

 

「なら、もっと見せてあげる!」

 

 攻撃を放った直ぐ後にデッキブラシを引き戻していた明日菜は、その打ち込みを危なげなく受けた。以前ならば間違いなく決まっていたであろう一撃を事もなげに防ぐ。

 

「強くなったことは認めてやる。けどな」

 

 簡単に防がれたことでアスカは、一度体勢を立て直すことにした。潮が引くように後ろに下がる。すると、明日菜のデッキブラシと回し蹴りの二段攻撃が空振りした。

 

「まだまだ俺に刻み込めるほどのもんじゃねぇな!」

 

 アスカは、「ダンッ」と舞台を強く踏みしめて再び大きく踏み込んで突きを見舞う。

 

「この程度で終わりじゃないわよ!」

 

 回し蹴りをスカされて背中を向けて大きな隙を見せたかに思えた明日菜は、糸の切れた操り人形を思わせる動きで素早く身を伏せて突きを躱し、床を掃くような感じでデッキブラシを低空に振るった。

 足を狙った攻撃をアスカは飛び上がって回避したが、それこそが明日菜の狙いだったようだ。デッキブラシを持っていない方の手で舞台に手を着き、空に伸び上がるような蹴りを放つ。

 アスカは身を投げ出すようにして側転して間合いを外した。次に体勢を整えた時には明日菜も既に起き上がって構えを取っている。

 

『こ……これは意外!! 色モノかと思われたメイド女子中学生の予想以上の動き!! 色モノにあるまじき、アスカ選手との本格勝負です!!』

 

 試合会場のそこかしこから聞こえる口笛や拍手と歓声。予想を遥かに超える、武道会の名に恥じないに戦いぶりにテンションが上がらぬはずがない。

 

「咸卦法だけじゃない。以前とは動きが比べ物にならねぇ。よほどやり込んできたようだな」

 

 予想外の明日菜の実力に、アスカの心臓は先程から忙しなく高鳴っていた。

 咸卦法のことがあるにしても動作の全てが洗練されている。何が原因かはわからないがアスカの記憶にある姿よりも数段上、動きから予想していた想定レベルを逸脱している。

 

「言ったでしょ、この時を待っていたのよ。この程度で終わらせる気はないわ」

 

 明日菜はアスカが本気を出していないと感じながらも、互角に渡り合えたことに確かな実感を得ていた。

 自身、どうして咸卦法を使えるのかは分からない。あるのは、何故忘れていたのかという疑念だけだ。それほどに咸卦法発動時の感覚は馴染み深く、この状態こそが当たり前なのだと感覚があった。

 知識や記憶の面ではなく、もっと根強い本能的な面が受け入れていた。

 強い力を得ることは好都合だったからこそ、この状況を受け入れていた。必要なら躊躇いもなく使う。どうして自分は知識にないことが出来るのかはどうでもいい。疑問は後で考えればいいのだから。

 

「行くわよ、アスカ!」

「来い!」

 

 両者の闘いに望む意志がここにきてようやく合致し、同時に飛び出して戦いが再開された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高畑が拝殿から選手控え席に来る途中に旧友の姿を見て、慌てて駆けつけた時には既に姿はなかった。

 探している間に明日菜の試合が始まり、仕方なく今は捜索を中断することにした高畑の目の前で驚愕の光景が繰り広げられていた。

 

「なっ、それはっ!? 明日菜君!!」

 

 明日菜が咸卦法をいとも簡単に駆使して、アスカと互角の試合を演じている。

 本来の彼我の実力差は圧倒的。真っ向から戦えば秒殺も在り得ただろうに、目の前では予想に反して明日菜が健闘している。だが、高畑の驚きは試合内容にではなかった。

 

「なぜ今の彼女が咸卦法を!?」

 

 信じられないという形相で試合を見ている高畑の隣で、エヴァンジェリンは今の言葉の不自然さに気づいた。

 

(『今の』彼女だと? 明日菜が咸卦法を使えたことには驚いたが、この様子だとタカミチはアイツが咸卦法を使えることを知っていたのか?)

 

 明日菜は自分がどうして咸卦法を使えるのかは分かっていなかったが、意外な所に情報は隠されているようだと狼狽する高畑を見て推測するエヴァンジェリン。その背後にまた浮かび上がるフード姿。 

 

「ふふふ、タカミチ君も頑張りましたねぇ。ですがあれは明日菜さんが元々持っていた力ですよ」

「ぬぐっ、貴様っ!」

 

 再び風景に透過していたカメレオンが元に戻るように姿を現したアルビレオに、出たり消えたりすることに苛立ったエヴァンジェリンが振り向きながら叫ぶ。

 楓と古菲の姿は近くになく反対側の選手控え席に移動していた。エヴァンジェリンとフードの人物は知己らしく、そこに明らかに様子のおかしい高畑まで混ざったのだから部外者感のある二人は邪魔になるだろうと空気を読んで離れたのだ。

 エヴァンジェリンの詰問は続かなかった。彼女よりも遥かに重く冷たい気配を放つ人物が先に動いたからである。

 

「アル」

 

 アルビレオの前に立ったのは、ポケットに両手を入れた独特の戦闘スタイルの高畑である。既にポケットに手を入れて、その眼には殺意すら宿っていた。

 旧友であろうと答えねば撃つ、と目が語っていた。

 

「死んだと言われていたあなたが今になって現れたことや、色々と聞きたいことが山ほどあります。ですが、今はどうでもいい」

 

 裂帛の気合を漲らせ、今にも必殺の一撃を放とうとしている高畑。彼の明らかな異変にエヴァンジェリンは巻き込まれては堪らないと、二歩距離を開けた。

 この距離は絶対安全圏ではないが、これ以上の退避は高畑の神経に障る可能性がある。ゆっくりと足裏を地面に擦らせてジワジワと距離を開けていく。

 

「どういうつもりですか? どうして彼女にアレを……理由次第では只ではおきません」

 

 言葉通り、高畑はアルビレオの返答次第では拳を振るうことも厭わぬと、ズボンのポケットの内で拳を固めて彼ならではの戦闘態勢から凄味を滲ませて尋問する。

 

「タカミチ君も色々あったようですが…………。もう十年ですか。ずっとこの下で休養してきて身動きが取れなかった私とは違いますね。時間の流れは純粋だった君を変えたようです」

 

 高畑とは反対に両手を広げて天に向けるアルビレオは、高畑の殺気には気づいていない様子で顔を愉悦に歪めている。

 今にも爆発してしまいそうな高畑を前にしても、ローブの人物はこの状況を楽しんでいる。決して彼が自分に危害を加えないと考えているのか、例え彼が爆発しても被害を蒙らない自信があるのか…………恐らくは後者であろうとエヴァンジェリンは思った。

 

「気と魔力を融合して身の内と外に纏い、強大な力を得る高難度技法。相反する力を融合して得る力の凄まじさはあなたたちも知っての通り」

 

 咸卦法を習得し使い手として名を広めた高畑と、彼に習得の為の場所を提供したエヴァンジェリンは、アルビレオに言われるまでもなく良く知っている。

 聞きたいことはそんな既に既知のことではない。もっと別の根源的なことだ。

 

「私が手を貸すまでもなく彼女自身が思い出したようですが、完成度は高くとも今のタカミチ君には到底及びません。それでもあの威力です」

「その言い様では、貴様は明日菜が咸卦法を使えることを知っていたな。タカミチも」

「ほう、その様子ではエヴァンジェリンは知っていたようですね」

「アイツの修行の監督をしていたのは私だ。いきなり咸卦法を使った時は驚かされたが、今は横に置いておく。それよりも吐け。神楽坂明日菜は何者だ?」

 

 高畑の想いも、アルビレオの策略にも、この問いに比べれば塵にも等しい。

 この麻帆良学園において、神楽坂明日菜の力量を最も正確に把握しているのは、剣の師匠である刹那と、修行場所を貸して実際に教えていたエヴァンジェリンの二人。

 

「魔法無効化能力、咸卦法、それにまるで始めから知っていたことを思い出しているような尋常ではない上達速度。まさか一般人だと言うつもりはあるまい。答えろ、神楽坂明日菜の正体を」

「ふふふ、さあ」

「貴様!!」

 

 この期に及んで答えようとしないアルビレオにいい加減にキレて、「実力行使」の文言がエヴァンジェリンの頭の中で点滅する。

 

「詳しく聞きたいならタカミチ君に。彼の方が私よりも良く知っていますから」

「なに?」

「アル!」

 

 老獪な笑みを深めて高畑を見据えながら返ってきた返答は流石に予想外で、咄嗟に視線を向けた高畑の常ならぬ余裕を失った声と顔が更に助長する。

 

「ぐっ……」

 

 エヴァンジェリンが高畑に問う顔を向けても、彼は答えるわけにはいかないから顔を逸らすことしか出来ない。

 高畑が答えられないことを分かっていたようだが、アルビレオは深めていた笑みを一度消した。

 

「タカミチ君が答えられないなら…………そうですね、エヴァンジェリン。我が古き友、一つ賭けをしませんか? 私は明日菜さんが勝つ方に賭けます」

 

 一度消した笑みを再び浮かべ、そう切り出した。

 突然すぎるアルビレオの申し出に、エヴァンジェリンは眉を潜めつつ一度高畑に視線を向けてから口を開いた。

 

「お前の掛け金は何だ?」

「明日菜さんについての情報」

「アル!? いい加減にして下さい!!」

 

 躊躇いもなくそう答えたアルビレオに、とうとう高畑はエヴァンジェリンを押し退けてポケットから出した両手で首元を掴んだ。

 

「さっきからペラペラと! 僕達の十年を無駄にするつもりですか!」

 

 二人にそれほどの体格差はない。両手でローブを纏っている首元を掴み、引き寄せた高畑は声音も高く言い募った。

 これだけの事態に試合に注目していた近くの観客や選手たちが注目する。高畑は麻帆良学園都市の殆どが知っているといっていい有名人なので、彼がこれほどまでに周囲の目を気にせずに我を忘れる様子は人目を引く。

 

「僕達、ではありません。君の十年でしょう」

 

 しかし、これほどの注目を浴び、更に煽るように言って高畑から今にも実行しそうな本気の殺気を浴びてもアルビレオは揺るがない。

 

「――――それにね、もう遅いのですよ」

 

 ギリギリと力が入っていた高畑の手が様子の変わったアルビレオの声に反応して止まる。

 

「そう、もう無駄になっているのです。あなたの献身も全て」

 

 フードの人物――――本名をアルビレオ・イマという――――は日常生活中では基本的に人を食った性格を崩さない。仲間である紅き翼にも同様で、エヴァンジェリンに「我が古き友」と言ったように彼が何歳なのか、高畑も知らない。ただ、見た目よりも長く生きているとは聞いたことがあった。彼は余程真剣な話でない限り、自分の本心を語らない。そして今は自分の本心を言っていると、フードの奥に見える真剣な眼が物語っていた。

 

「つい先日、上級悪魔がこの麻帆良に侵入してきたことは君も知っていますね」

 

 周りに聞こえないように小さな声で成されるのは問いではなく確認。閻魔が冥界の王・総司として死者の生前の罪を裁くように淡々と、そして静かに語る。

 

「彼の悪魔は明日菜さんの魔法無効化能力を知っていました。そして彼女の能力は修学旅行でフェイト・アーウェンルンクスに知られています。悪魔を放ったのは彼と見るべきでしょう」

「…………アーウェン、ルンクス……」

「その名に君も覚えがあるでしょう」

 

 アルビレオが挙げたその名は彼ら紅き翼にとって忌まわしき敵の一人の名であった。

 当然、高畑のあの場にいて、後になって敵の名を聞いたから知っている。いや、それ以前から連綿と続いてきた因縁の深き敵の名前を忘れるはずがない。

 

「忘れる、はずがありません。でも奴らは…………「完全なる世界」の残党はもうこの世にはいないはずです」

 

 今はもう掴むではなく縋りつくようにローブを握り、高畑は自らの手を血に染めてまで勝ち取った成果を誇りもせずに言った。

 二十年前の大戦を生き延びた彼らを、力をつけた高畑は結果的にせよ紅き翼を離脱したクルト・ゲーデルと協調はしなかったが互いを利用し合って虱潰しに刈り取った。そして蛇のようなしつこさを持って数年前に徹底的に根絶した。

 この世から根絶しても、今でも定期的に捜査していて網に引っ掛かったことはない。

 修学旅行に現れたのも、アーウェンルンクスの名を騙る偽物か、或いは同じ名前なだけだと考え、彼らはとっくの昔にいないものだと思い込んでいた。思い込もうとした。それぐらい高畑は人道すらもかなぐり捨てて残党を殲滅したのだから。

 世間的には呪文が使えないから「偉大なる魔法使い(マギステル・マギ)」の資格がないと思われているが事実は違う。紅き翼自体が非公式にメガロメセンブリアと敵対関係にあることとも関係ない。魔法世界共通の敵として認識されている「完全なる世界」の残党狩りで常軌を逸した能力と狂人的な殺意を見せたことが、彼に資格がないと判断された理由であった。

 彼もまた己が起こった人道を外れる所業を理解しており、手の指で数えることすらできない数の血で染めた罪業を知っているからこそ、自らに人に愛される資格がないと言い切れる。

 

「ええ、あなたとクルト君が徹底的に潰しました。ですが、まだいたのですよ。彼らの生き残りが、あなたの知らない後継が」

 

 それこそがフェイト・アーウェンルンクスだとアルビレオは語る。

 高畑は知らぬが十二年前からナギやアルビレオらに関わり、ある意味で今を作り出したといってもいい存在。当時関わった者として、実際に矛を打ち合った者として考えることは多い。

 

「彼らに明日菜さんのことを知られてしまったのです」

 

 絶対に知られてはならない相手に秘密がバレてしまったことに、紅き翼の知恵者である男が断定したことに、高畑はネギ達の故郷が襲撃を受けたと聞いた時よりも深い衝撃を受け、アルビレオの胸元を掴んでいた手を離した。

 

「望むと望まずに関わらずに過去が彼女を追い立てる。もはや悠長にしていられる余裕はないのです。いずれ向き合わなければならない過去、自衛の為の力は必ず必要になります」

 

 その為の咸卦法であり、自分が出てきたのだとアルビレオは語る。

 

「僕が、僕が彼女を護れば!」

「そうやって、四六時中傍に張り付くことが彼女の幸せに繋がると本気で思っているのですか?」

 

 自分で言っていて荒唐無稽さに呆れてしまうが、それでも縋りつきたくなる。しかし、アルビレオはバッサリと切り捨て、高畑の逃げ道が塞がれていく。

 

「それでも、それでも僕は……」

「いい加減に認めなさい。もう彼女は以前のようには戻れない」

 

 自らの未熟と怠慢を断罪するように降りかかった言葉に叩きのめされて、高畑は無力感に苛まれて奥歯が砕けるほどに噛み締めんながら俯いた。

 認めたくなかった現実、受け入れたくない事実、それら全てが高畑を打ちのめす。

 

(この様子、神楽坂明日菜には何かがあると思っていたが)

 

 魔法無効化能力に優れた基本性能と、アスカほどではないにしても戦いにおいて異常なほどの学習能力を持つ明日菜の特異性。

 アルビレオが発動させている魔法で消されている会話を盗み聞きしていたエヴァンジェリン。ここに来て、これらの異質さが浮き彫りになっていくのをしっかりと見ていた。

 

(試合前にアルが言っていたガトウ・カグラ・ヴァンデンバーグ)

 

 名に聞き覚えがある。それも当然、彼は元メガロメセンブリア捜査官にして紅き翼の一員で、十五年前に一度だけだが会ったことがあった。

 純粋な戦闘能力だけを見るならばナギらには一歩劣るものの、彼の本分は異常なまでの調査力にあった。

 情報収集及び操作の方面をタカミチ率いるタカミチ少年探偵団と調査・捜査を行って一国家へのパイプを繋ぐなど、彼失くしては紅き翼はこれだけの評価を得られなかっただろうと言われている程の男。

 

(ガトウ・『カグラ』・ヴァンデンバーグと神楽坂明日菜か)

 

 明日菜は八年前に高畑が麻帆良に連れてきた孤児だと聞いている。記憶を失い、彼が保護したと。

 「カグラ」坂という名字、高畑がどこからか連れてきた、魔法無効化能力という異質な能力。更に究極技法とまで呼ばれる咸卦法を簡単に発動させた。

 既に故人だったゼクトは例外にして他の紅き翼のメンバーと違って、ガトウとはそれほど親しかったわけではない。会ったことも一度しかないし、大した会話もしていない。

 それでもナギが行方不明になって死んだと言われてから、行方を知っている可能性の高い紅き翼の面々の事を調べもしたし、少しの会話でも交流はあったので彼に妻や子供がいなかったのは知っていた。

 少なくとも明日菜はガトウや高畑と深い関わり――――アルビレオの様子から見て紅き翼とも何らかの関係があると推察できた。

 エヴァンジェリンが紅き翼と関わったのは十五年以上前。彼女が知らなかったことを考えれば麻帆良学園都市に封印された後、ガトウの公式死亡は九年前なので、明日菜の外見年齢を考えればその間に関係があったと思われる。

 普通に考えれば、明日菜の魔法無効化能力が発現して、その能力を利用されない為に保護したというのが一番真っ当な線だが解せない部分が多い。

 明日菜が麻帆良に来てからは高畑と一緒に暮らしていたようだが、高畑が咸卦法を完全に習得したのはその後。最近まで魔法を知っている様子がなかったのでガトウに習ったと見るのが自然だ。

 

(何らかの理由で記憶を封印されたとして、ならば奴は咸卦法を五~六歳で使えた計算になる。おかしいではないか)

 

 究極技法とまで呼ばれる技術を僅か五~六歳で使えるようになるとは信じ難い。そこになんらかの隠されたことがあるのではないかと推測するだけの不自然さが多い。

 

「エヴァンジェリン。話は逸れましたが賭けは成立ということでよろしいですか?」

「よろしくないな。一々賭けをしなくてもタカミチか今度学園長辺りにでも聞けばいい話だ。貴様相手に賭けなどするものか」

 

 呆然自失といった様子で項垂れた高畑の肩を一度軽く叩いて問いかけてきたアルビレオに、彼の性格の悪さを骨身に染みて知っているエヴァンジェリンは受け入れる気はないとピシャリと跳ね除けた。

 咸卦法の発動による基本性能のアップやその他の付与能力があろうとも、明日菜の動きにはまだまだ無駄が多く、別荘内の二年で更なるレベルアップを遂げたアスカには及ぶべくもない。

 

「そうやって貴様の口車に乗って賭けをして、あの筋肉ダルマに巻物を盗られたのだ。二の轍を踏む気はない」

 

 確かに序盤は善戦したが所詮はそれまで。認識の齟齬を突いて速攻で勝負を決めて行っていたなら勝ち目もあっただろうが、戦闘の基本経験値の差は如何ともし難い。

 試合時間が長引けば長引くほどアスカの勝利は揺るがなくなる。それだけ咸卦法を含めても二人の実力差は開いている。

 が、物事には必ず万が一というものがある。そもそも頭を撫でた時に明日菜に魔法をかけて念話のラインを繋げ、イカサマをしようとしているアルビレオと真っ当な賭けになるはずがないと確信している。

 高畑の様子を見るに、事態は思ったよりも深刻なのだろう。これほどに折れた高畑の姿は同級生だったこともあるエヴァンジェリンですら見たことがない。

 ならば、明日菜に修行場所を提供しているエヴァンジェリンにも、高畑や学園長は手を貸してほしいと言ってくることは見えている。世界を相手にした紅き翼の中で参謀の立場にあったアルビレオを相手に無謀な賭けをするほどの緊急性は感じられなかった。

 

「困りましたね。では掛け金を更に上乗せしましょうか」

 

 本当に困ったとは思えぬ言い様をするアルビレオは内緒話をするように、腰を屈めてエヴァンジェリンの耳元に顔を近づけ、「周りには内緒ですよ?」と言い含めて話を切り出す。

 

「私の賭け金はナギ・スプリングフィールド、サウザンドマスターの情報です」

 

 何時もの薄ら笑いを浮かべてエヴァンジェリンにとっての爆弾を躊躇いもなく投下した。

 

「な……か……」

 

 アルビレオの目論見通り、爆弾を爆発させられたエヴァンジェリンは何も言えなかった。彼女がこの十五年間、ずっと行方を求めてきた男の情報を、アルビレオは賭けの対象にしようとしているのだ。

 

「どうです。乗りますか?」

 

 笑う頭に角と、背中には羽根、尻には尻尾が幻視しそうなほど、甘い誘惑で誘う。誘惑をかけるアルビレオが、エヴァンジェリンには悪魔に見えた。

 

「の……ぐぐ……」

 

 この十五年の間に積み重ねてきた複雑な感情が渦巻く相手。手の平をプルプルと震わせたエヴァンジェリンに、この誘惑に抗えというのは無理があった。

 ナギの最も身近にいたであろうアルビレオが持つ情報ならば確実にナギに近づくことは誰にでも分かる。

 

「――――乗るに決まっているだろうが!!」

 

 身を破滅させる悪魔の誘惑と分かっていてもエヴァンジェリンには抗うことは出来なかった。

 

「では、アスカ君が負けた場合、貴女には何時か私が困った時に協力してもらいましょう」

 

 そこで、アルビレオは先程まで浮かべていた顔に貼りついていたような薄ら笑いを収めた。代わりにこの男にしては珍しい、どこか憂慮したような物憂げな表情を浮かべた。

 

「――――そんな日が永遠に来なければいいのですが」

 

 エヴァンジェリンにはアルビレオが何が言いたのかが分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「凄いッ!」

「こりゃ、予想外だぜ」

 

 観客席でアスカと渡り合う明日菜を見ていたネギ・スプリングフィールドは、素直に感心の声を挙げていた。長谷川千雨がいる方向とは反対の、宮崎のどかがいる方の肩に乗っているアルベール・カモミールが彼の耳にだけ聞こえるぐらいの小さな声で感嘆の声も漏らす。

 千雨などは黙って鑑賞していたが、ネギとのどかは揃って唱和して応援していた。

 

「神楽坂もとうとう、あっちの世界行きか」

 

 周りが応援一色の中で、クラスメイト同士の常識外れの戦いを一緒に見ていた千雨は半眼で頬を引きつらせながら呻く。

 

「いや、元からはあいつには素養があったけか」

 

 どう見ても中学三年女子の身体能力を時々超えていたことがあるのでアスカと同様に人外認定するだけの素養は持っていたと、千雨は自らが作り上げている常識を守る。

 そんな彼・彼女らの前で激戦は尚も続いていた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一回戦第二試合は大まかな予想とは違って、大分違う展開となっていた。

 

『神楽坂選手とアスカ選手! 前評判と違って二人で舞を舞っているかのような華麗な攻防です!!』

 

 和美の実況を否定する声はない。同意するように歓声が高らかに舞い上がる。

 当初は格闘経験のない明日菜に誰も期待してはいなかった。主催者側も同じ考えでイロモノとしてコスプレしての試合となったが、明日菜はデッキブラシ、アスカは木刀を武器に何度も鍔迫り合いを繰り返している。

 しかも武器を振るう手が観客達の手には映らないようなスピードでだ。

 

(やっぱり……)

 

 一瞬も止まることなく十五メートル四方の舞台の上を縦横無尽に動き、各々が持つ武器や四肢をぶつけ合う中でアスカの疑念は確信に変わっていた。

 

(元々の目の良さだけではなく、体自体が俺の動きについてきている)

 

 咸卦法を発動させていたとしても体の動きまでは矯正されない。アスカの動きについてきているのは純粋な明日菜自身に寄るところが多い。

 

「いい加減に手を抜くのは止めたら!」

「まだまだ!」

 

 と言いつつもアスカは魔力の強化を段階的に上げ、試合前には考えていた手加減も徐々に止めてきている。魔法は使っていないが、この大観衆の中で使うわけにはいかないので時間的にアスカの実力がMAXになるのは時間の問題だろう。

 

「それぇ!」

「くっ!」

 

 なのに、明日菜は一歩も引くことなく、それどころか油断すればアスカですら食われかねないほどの勢いで攻撃してくる。 

 十五分という試合の時間制限がなければ、明日菜のスタミナ切れまでいなす事はできる。が、時間制限がなかったとしても真っ向からぶつかって来ているのに相手にその選択肢を選べるはずもない。

 

「ちっ!?」

 

 アスカは思ったように調子が上がらない自分の体に当惑する。

 今のアスカにとっての戦いとは、決して戦いを楽しむものではなく、あくまで「守る」に重きが置かれる。戦っている相手がその「守る」相手であるから、傷つけるようなことが無意識の内に意識的に上げた手を抜いていることに気づかない。

 本人は徐々にペースを上げているつもりでも、実際には動きに反映されない。意識と肉体の狂いが歯車を崩していく。

 

(…………なによ)

 

 明日菜は数合交わして、アスカが自分よりも遥かに上の領域がいることを悟っている。にも関わらず、攻撃にこちらを斃そうとする意志がないことに立腹していた。

 いくら明日菜が以前では考えられない速さで疾走して剣撃を放とうとも、練習で刹那と打ち合っている時よりも全てが研ぎ澄まされていても、今の自分の実力が届いていないことがハッキリと分かってしまう。

 

「私には向き合う価値もないっての!?」

 

 アスカが自分の事なのに自分が分からないと言う奇妙な感覚に陥っている中で、それすらも呑み込むかのように明日菜は天頂に持ち上げたデッキブラシを真下に向かって一閃する。

 

「はぁっ!」

 

 明日菜の咸卦の力の密度が上がり、アスカも魔力を上げた気になる。

 

「くっ」

 

 明日菜の今日最高の一撃で唐竹に振り下ろされた斬撃を受け切れず、ガキンという木製の木刀から本来聞こえない音と共にアスカは体勢を崩したまま後退する。

 

「見てよ! 私をちゃんと見てよ!!」

 

 弾かれたアスカが姿勢を立て直す前に、明日菜のデッキブラシが再び襲い掛かる。それも辛うじて防いだ。

 ならば、とアスカは瞬動を使って距離を開けた。が、僅かに遅れて明日菜もついてきた。また咸卦法のパワーによるものかと考えて連続して瞬動を繰り返して舞台を跳び回るも、五回を超えた辺りで明日菜が並行してしまい、遂には追い抜かれた。

 

「瞬動を身に着けているのか?!」

 

 ヒュン、と風になった明日菜の斬撃を、戸惑いながらも受け止めた。更に回転数を上げた明日菜の斬撃の全てに合わせる。それでも驚愕は消えない。

 瞬動は使えないはずだ。では、こういうことか。明日菜はこの僅かな時間に、アスカが行う瞬動を見て学び、更に実践したのだ。恐るべき才覚。

 

「ちっ」

 

 アスカの背後に火の玉のような光が浮かび上がった。

 こうなれば雷の魔法の射手の効果で痺れさせる作戦に出たのだ。

 タイミングを見計らい、絶対に避けられないタイミングで魔法の射手を放った。

 

「――――――――私にはあらゆる魔法も気も通用しない」

 

 明日菜は一言そう呟くと、目の前に迫った雷の魔法の射手に向かって無防備に身を曝した。それだけだ。それだけで、魔法の射手は明日菜に触れるや否や掻き消されるように消えた。

 

「な、に!?」

 

 あまりといえば予想外の光景に、アスカは驚いた。

 今の攻撃は体が痺れて少しの間だけ動けなくなる程度の威力しかなかった。それにしたって咸卦法の力に負けぬように調節してあるのに、いきなり消されたのだ。流石に平静ではいられない。

 防御したとか、逸らしたというならまだ納得できる。だが攻撃は文字通り、掻き消されたように消えたのである。爆発だとか、攻撃の余波すらも残さずに忽然と消えた。魔法世界の常識をもってしても異常だった。 

 

「魔法無効化能力か!?」

 

 事実に思い至り、驚愕に浸る暇もない。

 

「私は此処にいる! 私は此処にいるのよ!!」

 

 次に仕掛けたのも明日菜の方だった。アスカに驚愕している暇などない。

 正面からデッキブラシを打ち込まれるのを、アスカは受けずに身体ごと躱した。

 

「知っている!」

 

 それを追って明日菜が横薙ぎにデッキブラシを払うが届かず、そこに生じた一瞬の間隙にアスカが滑り込む。

 返す刀で逆袈裟にデッキブラシを斬り上げると、アスカは横向きに錐揉みしながら跳躍し、その回転に乗せて木刀を打ち込んできた。

 

「――――つっ!」

 

 下ろしたデッキブラシで受けたが、信じられぬパワーで押し切られる。

 想定以上のパワーに吹っ飛ばされた明日菜は舞台に背中から落ちた。しかし受け身を取り、飛ばされた勢いを利用して後転から素早く立ち上がり、距離を詰めていたアスカの追撃を躱そうと更に背後へと回転しながら瞬動で飛び退いた。これをアスカが追う。

 

「なんで関わる! なんで関わろうする! 怖かったんだろ! 俺に近づかれるのが嫌だったんだろ!」

 

 空中から着地した瞬間は誰であろうとも隙が出来る。アスカはその隙を見逃さず、着地した明日菜の肩に木刀を振り下ろす。デッキブラシを防御に動かすには遅すぎる。いくら明日菜に不思議なパワーが湧いていようとも関係のない神速の一撃。

 

「だから何よ! あれだけで私の全てを分かった気にならないで!!」

 

 キンッ、と明日菜は木刀の前に差し出した前腕で無造作に防御した。事もなげに素手で弾いたのに怯む様子が欠片もない。

 

(――――バカな!)

 

 鉄同士を当てあったような硬質な響きと硬い感触に、アスカはこの試合で何度目かも分からない驚愕の叫びを心中で上げた。

 咸卦のオーラが木刀を受けた右腕に集まっている。他の部分が薄くなったのではなく、この部分だけの密度を上げたようにオーラの色が濃い。全力に近いはずのアスカの攻撃が容易く防がれていた。だが、実際には試合開始よりはマシな程度で本気には程遠いと本人だけが気づかない。

 無駄が多い明日菜の攻防の隙を突いて戦いを終わらせることは容易だ。それよりも攻撃気の薄い今のアスカの油断。手加減している中での油断は致命的な隙を生む。

 

「己惚れないでよ!」

 

 動揺するアスカに対して明日菜は冷静に、防御した腕を引いて空間を広げて木刀を掴む。

 

「私は一方的に守ってもらおうなんて思ってない!」

 

 踏み込みながら掴んだ木刀を力任せに引っ張ってアスカの体勢を前のめりにさせる。

 掴んでいた木刀を離さず、後ろに引いてたデッキブラシを振りかぶって間近にあったアスカの胸を打った。

 

「うぐっ!」

 

 打撃されたアスカの身体はバッティングされたボールのように軽々と飛ばされた。突き飛ばされたというより、胸元でダイナマイトが爆発した爆風の圧力で吹き飛ばされたような感覚だった。

 一瞬とはいえ意識を失ったが直ぐに取り戻し、舞台に両足で二本の轍を作りながら舞台端で止まった。数メートルはある轍が今の打撃の強さを物語っていた。咄嗟に手に持っていた木刀の存在を確かめた。奇跡的に木刀は手の中に残っている。

 

「誰が一人で戦ってるって? 誰がみんなを守らなくちゃいけないって? 馬鹿にしないで! 自分一人で全部やってる気になって。私達を馬鹿にしないで!」

 

 明日菜は無造作に間合いを詰めると、頭部を狙ったハイキックを放った。スカートが翻ろうが構わない。気にすることなく蹴りを打ち込む。

 アスカは木刀でそのハイキックを受けた。先ほどの明日菜と同じように魔力を集中して。

 

「――あっ!?」

「誰も馬鹿になんかしてない!」

 

 木刀に蹴りを弾かれた相手の動揺を見逃さずに踏み込む。木刀を持たない方の手で拳を握り、魔力を纏って下から掬い上げるように突き上げる。

 

「がはっ」

 

 魔法の射手なしの、ただの魔力を込めた拳が明日菜の腹に食い込む。身体が浮き上がる。

 本気で放てば咸卦法を発動していようとも容易に明日菜を戦闘不能にできたが、それでなくても十分すぎるほどに手加減して普通の拳で肺に溜まっていた空気だけを吐き出させるだけに終わったのは、今のアスカの甘さと言えよう。

 咸卦法の強力さは分かっていも明日菜に怪我させる危険性を考えて無意識に手加減してしまう弱さがアスカにはある。その甘さも弱さも直感で理解しているからこそ、弱者であると自覚している明日菜は何ら遠慮することなく全力を振るう。

 

(力を……)

 

 無尽蔵に力が溢れ出て来るようでもあった。これには流石のアスカも警戒を強め、追撃することなくザッと後ろに飛び退きながら防御の為に全身の魔力を高めた。

 

(凝縮して……)

 

 明日菜は刹那との訓練で教わったことを実践しようとしていた。制御しきれずに溢れ出していた部分の咸卦の力を練り込んで高めていく。

 

「爆発させるっ!」

 

 着地と同時に、気合の声と共に明日菜は存在が不定形に震え出していたデッキブラシを振り下ろした。

 瞬間、破壊的な咸卦の力が舞台を抉り、木片を撒き散らしながら凶悪な衝撃波と化してアスカに襲い掛かった。当たるとは思っていない。そもそも当たらなくてもいい。放てばいいのだ。それだけでいいのだと、明日菜は確信していた。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 衝撃波が巻き散らした粉塵の向こうから、殆ど無傷のアスカの姿が見える。自分の呼吸音がやけに耳に響く。

 確かに一撃を入れたはずなのに、アスカの顔に苦悶の色はない。自分はアスカに打たれた腹がジンジンと痛んで、今にも舞台の上をのた打ち回りたいぐらいだが脂汗を顔全部に浮かべながらなんとか我慢する。 

 

「…………やっぱ、そう簡単にはいかないか」

 

 だが、軽口を叩こうとも明日菜の方が疲労の色が大きい。まるで体中の生命力を根こそぎ使い果たしてしまったかのような疲労感だ。

 

「降参しろ。このまま戦っても勝敗は見えてる」

「まだまだ余裕よ。勝手に人が負けることにしないでよね」

 

 粉塵が晴れてきて、衝撃波が通って舞台の木面を剥がして抉れた後を見ながらのアスカの問いかけに、明日菜自身も同じ結末が見えながらも退く気は毛頭なかった。

 敗北を予見しながらも戦いの続行を望むのは無謀と言われるかもしれないが、明日菜の目的はこの戦いの先にしかない。この事実を受け止めて突き進むのみ。

 

「ちょっとは私を信用して。人を勝手に値踏みしないで」

 

 囁くような、しかしハッキリとした声がアスカの耳朶を刺激する。

 

「アスカは勝手だわ! 私の幸せがどこにあるかなんて、アスカが決めることじゃないのに、どうして一人で決めるのよ」

 

 赤らんでいた明日菜の目に涙が滲んでいた。

 明日菜の瞳が一杯に開かれて、揺れているのを美しいと思った。アスカの唇が何かを呟こうと必死に動くが、言葉は何も出てこない。

 

「アスカが私のことを守りたいと思ってくれてたように、私だってアスカのこと守りたいって、支えになりたいって思ってるのよ」

 

 正面から挑むように、ただ真っ直ぐに意思をぶつける。真っ直ぐな意思に、アスカは何も返す言葉がなかった。

 

「どうしてアンタは何時だって自分を犠牲にして…………勝手に自分を粗末にしないで! アスカを大切に思う人のことも考えて!」

「……え……?」

 

 言われたことが理解できないと呆然としたアスカの顔。

 他人に心配をかけさせるようなことをしていて、誰かに守られることなんて絶対にありえないと、何も言わなくても誰かが自分のピンチを察して助けに来てくれるなんて都合の良いことが起こる訳がないと本当にそう信じている顔。

 そんな小さなことが心の底から頭にきた。

 

「………あ」

 

 アスカは言うべき言葉を失った。ひどくもどかしかった。言いたいことはいくらでもあったのに、思考が堂々巡りする。

 

「いい加減にしてよ! アンタを失えば、それを悲しむ人がいるってどうしてそれに気づかないの? 守ろうとしていた人はどうなるの?」

 

 受け止めたい。けれど、だからなにもかも曝け出せと要求するのは、自分のエゴだと思った。

 

「…………」

 

 明日菜の言葉はアスカの心を深く抉った。なのに自身が傷つけられたというよりも、明日菜を傷つけたという思いが色濃かった。そこにあるのは、罪の意識だ。アスカは自分が、とんでもない勘違いをしていたことを悟り始めていた。

 

「私だって、戦える。私だって、アンタの力になれる!!」

 

 それは完全魔法無効化能力を持っているだとかとかではない。そんな小さな次元の話ではない。例えこの瞬間に全ての力を失って一般人にも劣る力になったとしても、それでも明日菜は同じ事を言えると誓える。

 

「アンタ一人が傷つき続ける理由なんてどこにもないのよ! だから言いなさい、私の名を!! 」

 

 顔を上げ、明日菜は叫ぶように答えた。

 言葉の中身より、今にも崩れそうな濡れた瞳に胸を突かれたアスカは、明日菜から我知らず後ずさる。

 

「な、なんでだ? なんでそこまで俺に拘る?」

 

 全て自分の行為が招いたことだ。受け入れ難い現実を受け止め、それでもこんな選択しかできない自身への怒りを握った拳とは別に、逃げるように足が下がる。

 明日菜は、ただその真っ直ぐな眼差しだけを向ける。

 

「私はね、アスカ・スプリングフィールドという人が好きになったの。英雄の息子とか、他のどんな意味もどうだっていいいのよ」

 

 願いは叶う、努力は報われる、頑張った分だけ幸せになれる、そんな夢みたいな現象を明日菜は信じている。だから、アスカが報われないことが、幸せにならないことが我慢ならなかった。

 

「あんたが善人とか悪人とか関係ない。どんな世界に浸っているかも関係ない。重要なのは私が隣にいるかどうかよ」 

 

 その瞬間、二人は同じフィールドに立っていた。魔法世界の英雄の息子とか、魔法無効化能力の持ち主とか、そんなものとは別の次元で、神楽坂明日菜はアスカ・スプリングフィールドの前に立ち塞がった。

 

「どれだけ暗い世界にいても、どれだけ深い世界にいても私は絶対に諦めない。そこから必ず引き上げてみせる」

 

 アスカとヘルマンの鬼神の如き戦いを、明日菜は覚えている。どちらも、とても恐ろしくて、とても哀しかった。どんな戦いでも少年はボロボロになり、瀕死どころではない身体となった。こうして話せているのが奇跡とも思えるほどの凄絶な戦いを繰り広げてきた。

 

「………………」

 

 アスカの返事はない。もとより、明日菜は返事は求めていなかった。何も考えてやしない。ただ、胸から生まれた言葉をぶつけているだけだ。喉の奥につっかえていた言葉を溶かすみたいに話し続けた。

 

「私が、嬉しいから」

 

 すとんと、当たり前に明日菜は口にしていた。例えつっかえても、強く、胸の思いのままに言う。

 アスカは、答えない。

 

「また話が出来て嬉しいよ、アスカ」

 

 アスカの息が止まった。他愛もない言葉なのに、心臓を貫かれた気がした。痛みよりも、切ない衝撃がずっと胸の内に残った。

 

「アスカに出会えて良かった。話せて良かった。大変だったけど、辛かったけど、今こうしていられるのが嬉しいから、だから、ありがとうって言いたい。それって変かな?」

 

 尋ねた。やはり、アスカの答えはなかった。

 

「もう一人で頑張らなくても良い。ご苦労様、これまで沢山苦しいことあったでしょ。もう大丈夫。アスカは一人じゃないから」

 

 明日菜にぶつけられた言葉に、アスカの中のなにかが、心にのしかかっていたものが文字通り叩き砕かれたように思う。

 

「私にアスカを護らせて」

 

 その力強い意志に、アスカが一瞬身じろぎした。

 

「護る……?」

 

 本来なら滑稽な言葉であった。言った明日菜自身、馬鹿だと思うほどの言葉だったが恥ずかしさに俯きはしない。一瞬でもアスカから目を離したくないというように見つめている。

 

「勝手だって言われても引き下がる気はないわ」

 

 ぎゅっと手を握って、少女が言う。

 

「どうしても、どうあっても、なにが起こっても、どんな過ちだと分かっていても、私はアスカの隣にいたい」

 

 ニコリと微笑んだ。明日菜の、始めて見る顔だった。そして同時にアスカは気づいた。自分が、ずっと見たいと願っていた顔だった。

 何かが音を立てて瓦解していくかのようだった。他ならないアスカ自身の中で始まったその崩壊によって、堰き止められるもののないまま次から次へと感情の波が押し寄せて来る。

 その瞬間、アスカの脳裏を過る失われた人達。

 

「…………駄目だ!」

 

 命を賭けてアスカ達を守ろうとしてくれた人達と同じにさせてはいけないと、せめてものを虚勢を張る。

 

「出来ない。俺には認められない!」

 

 アスカにとって、己の弱さは罪だ。守りたい者に守られるなど、決して許容できるはずがない。そんな惰弱をこそ、アスカは最も嫌う。

 

「護られるだけの俺に、弱い俺に、価値なんてない!!」

 

 神楽坂明日菜は敵だ。例えその行動理由がアスカ自身の幸福を願ったとしても、彼女はアスカが進むべき闘争の道を阻害してしまう。だからこそ、冷酷に徹する。世界の全てを、それこそ守るべき者を敵に回してでも、その守るべきを者を闇から遠ざかると決意したのだから。

 

「もう、終わらせる。こんな茶番を。今度こそ、手加減は抜きだ!」

 

 アスカの全身から魔力が爆発する。今までの比ではない。凝縮し、圧縮し、精錬された魔力は渦を為してアスカに纏わりつく。言った通り、明日菜が全身で感じる威圧感も圧迫感もさっきまでとは段違いに跳ね上がっている。

 しかし、構えられた木刀の切っ先はアスカ自身の迷いを示すように小刻みに揺れていた。

 

「終わらせない。終わらせてやるもんですか!!」

 

 迎え撃つように、明日菜の咸卦の力が増す。

 一転して会場を静寂が支配し、緊張感が高まる。音を立てれば切っ掛けとなって試合が終わってしまうような錯覚さえ覚えるほど、二人の間に張り巡らされた緊張の糸は伸びきっている。

 切っ掛けはなくとも両者が飛び出すその少し前に、望まれない乱入者が明日菜の耳に届く。

 

《さて、殆ど助言をしていないような気がしますが、そろそろ決着でしょう。お助けしますよ》

《いりません》

 

 悠々と念話をしてきたアルビレオに、力を高めていた明日菜はバッサリと切り捨てた。

 

《何故です?》

 

 続けてのアルビレオの問いに明日菜の返答は決まっていた。

 

《この戦いは誰かの力を借りちゃ駄目なんです。私だけの力でやらなきゃ意味がない》

 

 次の一撃は、アスカが真っ向から向かってきてくれる。明日菜はそれに報いたいし、ここに他人の手を入れたくないというのが素直な本心なのだ。

 

《ふむ……なるほど。しかし……それでは勝てない。いいのですか、負けてしまっても》

 

 む、と返す言葉がなくて詰まった。アスカが優しく、そして自分に甘いことはよく理解していた。その好意に甘えていた面もあるし、利用していた面もある。そういう身内に弱い甘さを好ましくも思う。

 しかし、勝負とは本来は非情なもの。感情とは相容れず、ようやく本気になっているアスカを相手にしてこのまま試合を続ければ負けるのは多分自分だろうという直感があった。

 

《それでも勝つんです。でないと、こうした意味がありません》

 

 だからこそ勝利することに意味があるのだと明日菜は言いたかった。上手く言葉で伝えられない語彙の少なさが歯痒いが、これもまた自分だと受け入れる。こういう自分を変えるために、自分の力でアスカに届けば良い方向に変わったと思えるはずだから、アルビレオの手は借りれない。

 

《では言い方を変えましょう》

 

 明日菜の想いとは裏腹に、語彙の豊富や話術の巧みさではアルビレオの方が遥かに上だった。彼女の悩みも苦しみも、彼にとっては瑣末に過ぎないのだから利用し尽くすのみ。

 

《一人で何もかもをやろうとする今のアスカ君を、このまま進ませたら待っているのは破滅だけです。このままではガトウのように、あの子をも失うことになりますよ》

 

 穏やかに重ねられた声に、内奥の圧がまた一段と高まるのが分かった。

 

(失う……?) 

 

 その言葉が脳裏に響いた瞬間、まるで触れること自体が禁忌であるかのように体は震え始め、心に亀裂が生じていくのが判った。

 一年前までは厳重な鍵が二重三重にかけられていた扉は、アスカ達との出会って魔法を知り、関わりを深めていくと共に緩められていった。そしてブラックワードとでも言うべきアルビレオの言霊が契機となって、彼が狙った通りに奇怪な音と共に厳重に閉ざされていた記憶の扉が、轟音と共にこじ開けられていく。

 それはやがて幾重にも重なり合い、轟音となって明日菜を責め立てていく。

 アスナの記憶――。心の深部に封じ込められていた情報が、色鮮やかな映像として眼前に映し出される。それはセピア色に染まることなく、息遣いすら感じられるほどの生々しさで明日菜に迫ってきた。

 

「あああああああああああああっ!」

 

 強制的に脳へと焼き付けられた映像が、神楽坂明日菜には存在しない更なる過去へと誘っていく。

 

『やだ……ダメ、ガトーさん! いなくなっちゃやだ……!!』

 

 これ以上、誰かがいなくなることに耐えられない。そんな、切ない叫びを上げた記憶は明日菜の中に存在しない。

 米神が脈打つように痛み始める。

 心の中に発生した何かは急激に膨らみ続けていた。それはあらゆる方向に触手を伸ばし、明日菜の心を縛り上げていく。

 異常なほど速まる鼓動。加速度的に速まる心拍数。走ってもいないのに息が上がり始めた。血液自体が加熱しているかのように体が火照っていく。いや、そのような生易しいレベルではない。触れたら火傷しそうなほどに熱くなっている。

 

「違う……!!」

 

 しかし、明日菜はアスナを否定する。

 

「!?」

 

 エヴァンジェリンの隣でアルビレオが初めて焦りを滲ませた。場を引っ掻き回すピエロの如く振るまっていた彼が見せた焦りは、それほどに予想外で想定を超える事態を示していた。

 

「この想いは私のものじゃない!!」

 

 明日菜の意志に従って記憶の扉が強制的に閉じる。

 網の目のように広がる情報の奔流を押し留めるべく、同時に明日菜の中に広がっていた記憶が存在を許されずに、甲高い音を響かせながら派手に砕け散っていく。甲高い音を立てながら速やかに全体へと波及し、崩落し始めた。版図を広げていたアスナの世界が瓦解していく。

 そして世界は一変した。

 

「……明日菜?」

 

 突如として叫んだ明日菜に、様子のおかしさにアスカは思わず名を呼んだ。

 彼女の両眼には意志の煌めきが見い出せない。まるで人形のように一切の感情がないように見えた。

 

「……やだ」

 

 人形のようになった明日菜がボソッと何かを呟く。

 一度は広がった情報の奔流が頭の中から消えた影響で、一過性のものではあるが今の明日菜は自分の意志を失っていた。

 今の彼女にあるのは記憶が霞と消えようとも心に鮮烈に刻まれた、大切な人がいなくなる恐怖。恐怖という一色の感情に埋め尽くされた心は、自分が何を言っているのかも理解はしていない。

 

「いなくなっちゃ、やだ」

 

 幼子のように舌足らずで言った明日菜が顔を上げると、いきなりまるで氷が溶けたように目元にじわりと涙が浮かんだ。

 

「え……」

 

 それは言葉を放ったアスカが驚く程に、目元に浮かんだ涙がみるみる巨大になって頬を伝って流れ落ちていく。

 その瞬間、寸刻前までとは比べ物にならないほどの強烈な咸卦のオーラが明日菜を覆う。

 風の唸りにも禍々しい音を響かせるほど咸卦のオーラが鋭さを増し、普通の人間にも見えるほどの高密度のオーラが放出されていた。バケツを引っ繰り返したようにオーラが大きさを広げている。制御・圧縮しようとして果たせず、まるで空気が耐えられずに鳴いているかのようだった。

 

「助けて……」

「明日菜!」

 

 止まらない。否、止まると言う選択肢そのものが存在していないのだ。明日菜の目元に溜まっていた雫が筋の涙となって流れ落ちる。

 今までを遥かに上回る移動速度でデッキブラシを大上段に構え、残像を残して疾走する。その踏み込みは猛牛の如く、剣の重さを最大限に活かして振り落すエネルギーそのものを前進のベクトルへと組み替える体重移動。

 明日菜は大地を横切る稲妻と化す。

 剣とは腕だけで振るうのではない。足から腰、腰から腕と、筋肉の力を十全に引き出し、更には剣自体の重量を最大限に生かして、そのベクトル量を持って立ち塞がる者を叩き潰す。アスカがハッと接近に気付いた時にはもう目の前に大剣が迫っていた。

 咄嗟に反応できたのは正に奇跡。意志よりも精神よりも強くこの状況に対応したのは、強靭なアスカの体だった。理性を本能が凌駕し、生存に向けて本人の意志を無視して動く。

 ガキィ、とこの世にあるどんな音にも該当しない異音がアスカの耳に届く。手に持つ木刀が目の前に掲げられ、動いた身体が明日菜の攻撃を防いだと認識した時には真っ二つに切り裂かれて上半分が目の前を飛ぶのを見た。

 

「私を助けてよ!」

 

 音よりも速くデッキブラシが降り戻る。少女特有の、バネの強さを活かした――――真下に振り下ろされてから鋭角に急転して振り上げられた刃が信じがたい角度を描いて再び放たれる。魔力で強化された獲物を真っ二つにした驚愕に浸る暇もない。もはや手業を使う間もなく、無様に後退する。

 目の前をデッキブラシの先が通過していくのを見て心臓が止まる瞬間を確かに実感した。

 追撃に明日菜が迫る。

 明日菜は右手でデッキブラシを掲げ、左手は刀身に添えるように置かれていた。

 アスカは何故か明日菜の顔を凝視したまま、動こうとしなかった。

 

「明日菜!?」

「明日菜さん!?」

「いけません!?」

「くっ……間に合え!?」

 

 試合を観戦していた木乃香と刹那が名を叫ぶ。

 アルビレオがらしくもなく焦りの声を上げながら腕を構えた。明日菜の異変を会場中の誰よりも気にかけていた高畑もポケットに手に入れた何時ものスタイルから力尽くで止めようとする。魔力の殆どを封印されているエヴァンジェリンは成す術もなく死神に魅入られた少女の名を呼んだ。

 誰もが間に合わないスピードで、明日菜のデッキブラシがアスカに向けて叩き潰さんと迫る。

 木乃香と刹那が動けず、アルビレオと高畑の助けは間に合わず、エヴァンジェリンが無力を噛み締め、アスカが叩き潰されるだけの未来。訪れる結末は変えようがなく、どんな奇跡が起きたとしても死は避けられない数秒先。

 アスカの力を信頼し、明日菜の状態に困惑し、状況についていけなかったことなど言い訳にもならない。明日菜が異変を起こした時に介入すべきだった怠慢を、未来ある二人の命をもって思い知らされるしかないのか。

 

「あ」

 

 咄嗟に目を閉じてしまった木乃香だったが、何時まで立っても覚悟していた音はなかった。

 それとも、自分の耳は現実を忌避して音を拒絶してしまったのかと疑った。

 反射的に閉じていた瞼が開くと、そこには信じられない光景が広がっていた。

 

「え?」

 

 決着はついていた。ただし、想像していたのとは全く反対の光景でだ。

 振り下ろされたデッキブラシをその手に掴み、持っていた木刀の下半分を明日菜の喉元に突きつけているアスカの姿。

 

「ふぅ」

 

 その光景を見たアルビレオは静かに上げていた手を下ろし、高畑は時が止まったように固まっていた。木乃香は二人が無事だったことに安心して口元に当てていた両手を震わせて涙を浮かべ、刹那とエヴァンジェリンは深い安堵の息を漏らした。

 あわやというところで大惨事が起こりかかった会場は静まり返っていた。

 時が緩やかになったかのような錯覚を覚える空間を破るように、無言で立ち尽くしていた明日菜が体勢を崩す。手に持つデッキブラシを手から取り落とし、前のめりに倒れていく。

 

「おっと」

 

 アスカは一歩前に踏み込んで倒れ込む明日菜を受け止めた。

 抱きしめられた明日菜は、縋りつくようにアスカの背に手を回す。

 

「いなくなっちゃ嫌なの」

 

 自分が何を言っているかも、何を求めているかも分かっていない。ただ衝動に駆られた言葉が口から溢れ出していた。

 

「傍にいて」

「……ッ」

 

 背中の部分の衣類を強く掴みながら涙交じりの明日菜の懇願に、息を止めたように詰まったアスカは胸元にある彼女の頭を撫でながら穏やかに笑って答える。

 

「俺は此処にいる。明日菜は一人じゃない。俺が一緒にいるから」

 

 迷子の子供が長い時間をかけた果てにようやく見つけた親に縋りつくように求めて来る明日菜を宥めるアスカの顔は、一歩間違えれば死んでもおかしくなかったというのにひどく穏やかだった。

 この腕の中にある温もりが確かな実感をアスカに与える。

 意識を失ったらしく、全身から力が抜けていく明日菜の体を支えながらアスカは天を見上げた。空には太陽が燦々と輝き、雲は少ない。

 

「畜生、泣くなんて卑怯だろ」

 

 誰に言うでもなく噛み締めるように重く呟かれた言葉を聞いた者は誰もいない。舞台外にいる者達には声が小さすぎて聞こえない。アスカの胸の中にいる明日菜は意識を失っていて聞こえていない。

 アスカが呟いたその言葉にどれだけの想いが込められているのか、彼女達は知らない。アスカも知ってほしいとは思わないだろう。想いは語った本人の心の底にあるだけでいいのだから。

 色々なことがありすぎたがここでようやく和美も我に返った。審判として話を進めなければならない。

 

『えーと、何時の間にやら勝敗がついたようです。試合はアスカ選手の勝利です!!』

「試合はな。それ以外は明日菜の勝利だ」

 

 勝利の鍵は女の涙だと、楽しげにエヴァンジェリンは笑った。

 

 

 

 

 

 気を失った様子でお姫様抱っこで抱えられた明日菜がアスカに運ばれていく。選手控え席の脇を通っていく二人の様子を見ていられないと顔を背けた高畑を横目に見たアルビレオは静かに安堵の息を吐いた。

 

「先程の焦りようを見ると、全てが貴様の計算通りとはいかなかったようだな」

 

 アルビレオの様子に逸早く気がついたエヴァンジェリンが揶揄するように突っ込んだ。

 ナギや紅き翼の面々よりももっと前に二人は出会っていた。遥かな昔に出会った時からアルビレオはこんな性格で、特にナギへの好意を知られてからはエヴァンジェリンは何時も弄られてきた。意趣返しというわけではないが、この事態を引き起こした大元がアルビレオにあるので優しくする必要は感じていない。

 

「危うく計算違いという一言で片づけられる範囲を超えるところでしたよ」

 

 名実共に策士であるアルビレオにとっての誤算は、今の明日菜の状態を計り損ねたことにある。アスカとの絆が切れかけているところに、大切な人がいなくなる恐怖は実感がありすぎた。既に表面化した感情を逆撫でした結果が暴走なのだから笑えない。

 危うく明日菜に本来なら必要もない罪を負わせたかもしれないと思うと、さしものアルビレオも背筋にゾッとしたものが走る。草葉の陰からガトウに恨み言を言われそうな予感が走ったからだ。

 

「思春期の女の心を貴様のような男が計れるものか」

「これは耳が痛い」

 

 アルビレオは何も言い返さず大人しく意見を拝聴した。

 

「女の涙に勝てる男などいない、ということは分かっていたつもりだったのですが。いやはや、現実は想像の斜め上をいくものですね」

「だろう」

 

 六百歳のエヴァンジェリンが語るには少しおかしいところもあるが、彼女の現在の身分は明日菜達と同じ中学三年生の女の子。どのような言葉を取り繕ったところで今はアルビレオが言い負かされるのは目に見えている。

 

「ですが、多少の計算違いはありましたが結果は想像していた以上です」

「あのような暴走がか?」

 

 エヴァンジェリンとしてはアルビレオが何を考えているのかが読み切れない。そもそも彼と高畑、この場合は紅き翼の面々が共有している情報を彼女が知らないからこそそう思うのだろう。肝心要の情報を知らないからこそ踊らされる。

 

「いえ、この結果にですよ」

 

 微笑は変わらず、アルビレオは歌うように続ける。

 

「彼は姫君の寵愛を受け、応えた。ふふ、ようやくスタートラインに立ったに過ぎない、まだまだ資格以前の問題ですが嬉しい誤算というやつです」 

 

 ふふふ、と何時もよりも三割増しの笑みで、人の心の襞へ直接訴えかけるかにも思える繊細で柔らかな、何かの魔術書でも読み上げるかの如くアルビレオの声が響く。

 失敗を悔やむのではなく、その中から得を見つけて次へと繋げる。失敗ばかりに拘っていては先に勧めない。策士としては必須のスキル。流石は紅き翼の参謀として世界を相手にしたこともあるだけあって、当然のように身に着けている。

 だが、エヴァンジェリンにとってアルビレオの思惑などどうでもいい。望みは唯一つ。ついでに興味本位を付け足して二つ。

 

「それより情報は?」

「まぁ、積もる話もありますから学祭後にでも」

「ふざけるな!」

 

 自分で分かるぐらいにソワソワしながら聞きたかったことを問えば、返ってきたのははぐらかすような返答。これ以上は煙に捲かれた堪らないと激昂する。

 アルビレオとしては色々と込み入った話もあるので、このような衆人環視の中で話すのは避けたいところだったのが彼女はそうもいかないらしい。

 

「やれやれ十五年も待ったのですから二、三日くらい待てないのですか? どれだけナギのことが好きなのですか」

「う、うるさいっ……」

 

 こうして改めて他人からナギへの好意を指摘されると恥ずかしいものがあったエヴァンジェリンの勢いが目に見えて下がった。

 

「それでは今は簡単に結論だけを申し上げましょう」

 

 ナギの行方には高畑も興味が湧いたのか、顔を向けたのがエヴァンジェリンの視界に映ったが今はどうでもいい。十五年も追い求めている男の情報に比べれば今は他の全てが瑣末に思える。

 

「――――ナギは今も生きています。それは私が保証しましょう。しかしエヴァンジェリン、あなたが求めている彼と再び会える日は来ないでしょう」

 

 浮かべていた微笑を完全に消し去り、先程の暴走していた明日菜ですら目に感情が宿っていたのに、今のアルビレオは全てが人形染みた空虚に満ちていた。

 嘘ではない、とエヴァンジェリンの直感が告げている。アルビレオは真顔で平気で嘘をつくが、本当のことを言っている時とそうでない時の区別はつく。今は嘘をついていない時だ。

 

「ネギ君は正しかった訳だ……」

 

 高畑がポツリと呟く。六年前にネギから直接ナギに助けられたという話を聞いた高畑は、彼がナギの杖を持っていようともどこか信じられない面があったのだろう。

 

「…………ふん、お前のくだらん予言など、どうでもいい」

 

 意味深なことを言っているがナギに最も近い位置にいたアルビレオが生存を保証したのだ。生きていることが分かれば、エヴァンジェリンは不死者。ナギが生きているのなら何時か必ずどこかで会える。不死者の特権を活かせば、年寄りになるまでに探し当てたらいい。

 

「では、これ以上の話はまた学祭後に、明日菜さんのことも。お茶を用意してお待ちしていますよ」

「ん? 貴様、いまどこに?」

 

 高畑に向かって「ずっとこの下で休養してきて身動きが取れなかった」と言っていたので麻帆良にいたことは分かるが具体的な場所は一言も言っていない。下と言っているだから地下か何かと予測する。

 

「アスカ君達が知っていますよ。入り口まで来ましたからね」

「もしかして地下の竜は貴様のか」 

「ええ、門番をしてくれているファフニール君です」

 

 中世ドイツの英雄叙事詩「ニーベルングの歌」に登場する宝物を守護するドラゴンの名を付けていることに、エヴァンジェリンは呆れと共に突っ込みを入れる気力を失った。

 

「しかし貴様の目的は何だ?」

「目的、とは?」

「貴様ほどの奴がこんな大会にまで出場して、わざわざ表立って動く理由だ」

 

 アルビレオ・イマほどの男がこの大会に出場する理由を見つけられなかった。

 アルビレオなら出場しなくてもさっきのようにいくらでも暗躍できる。表に立つよりは裏で動く方が性に合っている男が表だって動いていることの不自然さを問わねばならなかった。

 

「その問いに対する答えは賭けの掛け金には含まれていませんが、折角会えた昔馴染みですから特別に一つだけ無料で教えて差し上げましょう」

「一々ムカつく言い方だな」

 

 何時の間にやら消していた薄ら笑いをまた浮かべていて、神経を逆撫ですような話し方に変わり方はない。エヴァンジェリンの額に青筋が浮かぶ。

 いい加減にアルビレオの相手をすることに我慢の緒が切れかけてきたエヴァンジェリンの脳裏に、再びの実力行使の四文字が浮かんでいた。

 

「貴女は本当に変わりませんね。ああハイハイ。そんなに睨まないで下さい」

 

 更にからかわれて堪忍袋の緒が切れかけている察知したアルビレオは、彼女の気持ちを解すように手を振る。

 本題に入ることを示すようにコホンと咳払いをして話し始めた。

 

「私がこの大会にわざわざ出場したのは十年前にナギとした、まだ見ぬ子供達に向けられた約束を果たす為です。ネギ君は駄目そうでしたのでアスカ君には強制的に出てもらいました。私としてはどちらでも良かったのですが、どちらかには出てもらわないと私が出場する意味がありませんから」

 

 アルビレオは一見害意のないにこやかさで言ったが、彼の性格を知るエヴァンジェリンと高畑は眉を顰めた。アスカを出場させるために碌な方法を使わなかったと簡単に推察できたからだ。

 

「ナギとの約束だと? もしや良からぬことを企んではいないだろうな」

 

 エヴァンジェリンが思慮深い面持ちでクウネルを睨み上げる。さっきまでとは様子が違う。六百年を生きた観察眼を向けて、アルビレオの言葉の裏を探ろうとしていた。

 

「神と名誉に誓いましょう。信用して下さって結構ですよ」

「詐欺師を信用できるか、ボケ」

 

 信用しにくい相変わらずの胡散臭い笑顔を向けるアルビレオをバッサリと切って捨てるエヴァンジェリン。

 

「手厳しい。他人の心配をするようになって優しくなったと思ったのですが」

「ぬっ」

 

 それでもやはり話術ではアルビレオの方が一歩も二歩も上手だった。切り返されて、言葉に詰まる。易々と腹の底を見せる相手ではないのでやりにくいことこの上ない。

 

「悪いようにはしません」

 

 そうは言っていても信じ難いのがアルビレオの胡散臭さにはある。エヴァンジェリンは信じられぬと言葉よりも分かりやすい疑わしげな表情を浮かべた。

 

「私は、ただ確かめたいだけなのですよ」

 

 十五年前にはなかったエヴァンジェリンの素直すぎる感情の発露に、過ぎた月日の流れと光の世界が変えた影響にアルビレオは頬を綻ばせずにはいられなかった。

 閉じ込められて鬱屈していようと、来ないナギを罪を犯さずに待ち続けて表の世界で生き続けたことは確かな意味を持つ。だからこそ、ナギの願いとエヴァンジェリンの望みを阻まずにはいられない己を呪う。

 

「――――アスカ君が我らの跡を継ぐに足る資格があるのかどうかを」

 

 観客の大きな歓声によって、続いたアルビレオの言葉は誰の耳にも届くことなく消えていった。

 これもまた誰にとって良きことだったのか、悪い事だったのか、きっと言ったアルビレオ本人にも、いるかどうかも分からない神様にだって分かりはしない。

 

「いま何と言った? おい、アル――」

 

 前からくる突風に目を閉じてしまったエヴァンジェリンが瞼を開けた時、アルビレオの姿は全てが夢幻の幻の如く霞となって消えていた。

 




最初は上から言って、下から言って、最後は泣き落とし。


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第42話 拳の意味

 

 龍宮神社の拝殿内にある『臨時救護室』は客を迎えていた。

 客は唯一のベッドに寝かされている神楽坂明日菜。完全に意識を失って気を失っている。

 

「気を失っているだけね。怪我をしているわけじゃないから安静にしていればその内に目を覚ますでしょう」

 

 この部屋にいる二人目の人物、白衣を羽織って眼鏡をかけたまだ二十代半ば程の若い女性保険医が診察結果を伝える。

 この武道会が開催されるに当たって学祭実行委員会から派遣されて『臨時救護室』に常駐している、麻帆良女子中等部の保険医で気さくな人柄で生徒からの信頼も大きい。

 女子中等部校内のスクールカウンセラーも兼ねていて、学校生活に馴染めなかった者や問題を抱えた生徒達の多くが彼女に救われてきた。

 

「良かったぁ。最後なんか様子がおかしかったから心配してたんです」

 

 女性保険医の診察にベッドから出された明日菜の手を握り、安堵の溜息を漏らしたのは部屋にいる三人目の人物。明日菜を心配して『臨時救護室』に駈け込んで来た近衛木乃香である。

 試合終盤の明らかに様子のおかしかったことに、攻撃を受けたわけでもないのに眠っていることに、このまま目覚めないような恐怖を覚えていた。

 二年と少し前、中学生になって麻帆良に来た木乃香はやはり不安だった。環境が関西から関東に変わり、料理の味付けから違うので同じ国でも価値観が微妙に違う。久方ぶりに会った刹那が素っ気ない態度を取ってきたのも重なって不安が強かった。

 上手くやっていける自信を早々に失くした木乃香を救ったのが女子寮の同室になった神楽坂明日菜だった。

 木乃香と違って麻帆良でずっと過ごしていた明日菜を通して多くの縁が繋がり、彼女の天真爛漫さに勇気づけられて自分からも足を踏み出せた。二年少しを共に過ごした明日菜を親友と呼ぶことに違和感はなくなっていた。刹那と仲直り出来た今でも明日菜が親友であることに変わりない。

 

「良かったです」

 

 木乃香に同意するように頷いたのは部屋にいる四人目の人物。木乃香の肩に手を置いていた、明日菜と対戦した桜咲刹那その人である。

 明日菜の異変を誰よりも間近で感じていただけに安堵もまた一入であった。重い肩の荷を下ろしたように深い息を吐いた。

 剣術の師と弟子、守る人を同一とする仲間、色々な側面を持っていても短い期間ながらも濃厚な時間を過ごしてきた、木乃香と同じように恥ずかしながらも親友と呼べる友の安全が保障されて喜ばないはずがない。

 

「悪かったよ、迷惑かけて」

 

 部屋にいる五人目は、当然ながら明日菜をここまで連れて来たアスカ・スプリングフィールド。

 明日菜を心配していたという意味では、行動で誰よりも気持ちを示した。

 暴走した明日菜をその身を張って止め、服を掴まれたまま気を失ってしまって離れなかったので、お姫様抱っこで『臨時救護室』まで運んだ張本人である。

 診察の為に胸元の衣類を開けることもあったので衝立の向こうに一人で待機していたアスカは、長く長く深い深い息を吐いた。

 

「明日菜が目覚めるまで付いててええですか?」

「いいわよ。それじゃ私は他の試合の様子を見に行くからお願いね」

 

 明日菜の手を握っている木乃香の言葉に保険医はあっさりと頷く。

 ベッドで寝ている明日菜は怪我をしているわけでもないので、悪い言い方だが放っておいても問題はない。が、気絶した原因が判然としないので様子を見る必要がある。それも木乃香がいてくれるなら問題があった場合だけ報告してもらえばいいので保険医が傍に付いている必要はない。

 格闘大会なので試合中に怪我をしてしまうことはままあることで、この大会で常駐している保険医は彼女唯一人。もし選手が試合中に怪我した時、怪我をする瞬間を見ていれば、『臨時救護室』に来てから話を聞いて治療する手間や苦労が大分変わる。

 

「選手控え席の近くにいるから何かあったら呼んで頂戴」

「はい」

 

 保険医は木乃香の返事に頷き、『臨時救護室』の襖を開けて出て行った。

 襖を閉めた音が残響として部屋に響き、眠っている明日菜は当然として木乃香も刹那もアスカも口を開かない。

 二人と独りの間には一か月前から出来てしまった壁がある。アスカからも、少女達からも、やはり思うところがあるのだ。暫しの間、部屋を沈黙が支配する。

 最初に静寂を破ったのは眠る明日菜の顔を見下ろしていた顔を上げて木乃香だった。

 

「明日菜、どうしたんやろう」

 

 木乃香の疑問は当然だった。保険医は試合で動きや観客達からのプレッシャーによる疲労による気絶と診断したが、どう考えても気絶前の暴走は異常だった。

 二年以上を共に過ごした木乃香ですら見たことのない狂騒。この短期間に刹那にも迫ろうかという実力の上昇と技法は不審を抱かせるに十分だった。

 

「あのクウネル・サンダース選手が何かをしたことは間違いないです。でも、なにをしたかまでは私にも皆目見当がつきません」

 

 見上げる木乃香の視線に刹那は緩々と首を横に振った。

 その疑問に対する答えを知っていそうな、または明日菜をこうさせてしまったかもしれない人物に心当たりがあった。クウネル・サンダースと偽名臭過ぎる名前だが、いくつもヒントを散りばめていたので正体におおよその予想はつく。

 

「エヴァンジェリンさんがアスカさん達の父親の友人の一人と言っていました。つまりはお嬢様の父君詠春様のご友人ということになります」

「お父様の友達なら変なことをしたと思いたくないなぁ」

 

 木乃香としては父の友人を証拠もなしに無闇に疑いたくはない。信頼は出来るはずだと思いたかった。

 いっそのことエヴァンジェリンが間違っていて、その友人に扮している偽物っていう方が、この摩訶不思議な出来事を起こした原因であるとモヤモヤした感情の捌け口にも出来たものを。

 

「奴の名はアルビレオ・イマ。間違いなく詠春のおっさんと同じ紅き翼に所属していた一人だ。性格が悪いとしても英雄の一角だよ」

 

 衝立の向こうから降ってくる声に、顔を見合わせていた木乃香と刹那は揃って僅かに肩を落とした。

 どうしてアスカがクウネル・サンダースの本名を知っているのかは定かではない。理由はどうであっても、正体が保障されてしまっては感情の行き先がなくなってしまった。

 蟠って沈殿していく空気の重さを振り払うように、襖を突き破るような歓声が外から聞こえて来る。

 

「どっちが勝ったんやろう」

「タカミチだろ。相手は気を使えるみたいだが、タカミチが負けるとは思えねぇ」

 

 木乃香の疑問にすらなってない言葉に、答えたのは珍しく刹那ではなくアスカであった。

 刹那はあの時に見た高畑の目が忘れられない。やる気を漲らせているのではない。ただ一つのことに目が行って、他のことは何も目に入っていないような高畑の目に共感を得てしまった刹那の背筋に鳥肌が立つ。

 自分はもうあの頃には戻れない、と隣にいる木乃香の熱と近くにいる明日菜の存在が引き止める。

 

(…………私は、弱くなっている)

 

 戦士としての桜咲刹那が総合的な意味での自己評価を冷徹に下す。

 実力的なものでいえば確実に上昇している。年月によるものや、明日菜に教え、エヴァンジェリンの従者チャチャゼロとの修行で強くなっていると言える。だが、一つの戦士として見たら完成度は間違いなく落ちている。

 大切な者が増えたから、大切な時間があったから、刹那は甘く弱くなってしまった。一年前までに持っていた刀のような抜き身の殺気は、木乃香と仲直りして明日菜という親友を持った今ではもう放てない。

 人として充足されるほど、戦士としての心が弱くなっていく。甘さである。弱さである。どうしようもなく桜咲刹那は弱くなってしまった。

 この大会に出場するかどうかの是非はともかく、一年前の抜き身の強さを持っていた刹那なら或いは月詠にも、ヘルマンが襲ってきた時にも不覚を取らなかっただろう。

 

(ああ、私は……)

 

 人としての自分と、戦士としての自分を両立することが出来ないのではないかと嘆かずにはいられない。

 

「せっちゃん!」

「あ、はい!」

 

 自分の殻に閉じこもりかけていた刹那を呼び戻したのは木乃香の声だった。

 強い声に驚いて返事をして内側に向けた意識を外に向けると、椅子に座っていたはずの木乃香が目の前に立っていて、衝立の向こうにいたはずのアスカがベッドの直ぐ近くにいた。

 木乃香は頬を膨らませて怒りの感情を露わにし、アスカは呆れたように少し笑っていた。

 

「もう、何度も呼んでんのに返事どころか反応もしてくれへんなんて、せっちゃんはうちが嫌いなんや」

「い、いえそんなことはありません。ちょっと考え事をしていて」

 

 プンプン、と擬音がつきそうなぐらいに怒りを露わにしている木乃香に、上司に叱られている部下に誠心誠意の気持ちを込めて頭を下げながら謝る刹那に、そんな二人を一歩下がった位置から楽しそうに眺めるアスカがいた。

 

「じゃあ、うちのこと好きって言って」

「え、え~!?」

 

 爆弾発言を求める木乃香に、飛び上がった刹那は目をあちこちにやって挙動不審になった。

 頭の中ではどうやってこの事態を回避するか高速で回転しているが、元よりバカレンジャー予備員に数えられている刹那。典型的な戦闘員である刹那が歴史に名を残す名軍師のように一発逆転の策を簡単に思いつくはずがない。

 

「やっぱり嫌いなん?」

 

 胸の前で拳を重ね合わせてウルウルと瞳を潤ませる木乃香に、刹那の心に盛大に極大の針が何本も突き刺さる。

 良心が痛んで、ウッと胸を押えてよろめいた刹那に取れる選択肢は限られていた。

 

「す、好きです……」

 

 ボソリと触れるほどの間近でなければ聞こえない声で答える。

 

「うちもせっちゃんのことが好きや!」

「お嬢様……!?」

「ちゃうちゃう、このちゃんやろ」

 

 ちゃんと聞き逃さなかった木乃香が刹那に向かってダイブする。ジャンプして飛び込んできた木乃香を危なかしく受け止めた刹那に、呼び方が違うと人差し指を彼女の鼻先につけた木乃香が凄む。

 やがて観念した刹那が頬を真っ赤に染めて「このちゃん」と呼ぶのを聞いた木乃香が更にハッスルするのを見届けたアスカ。小動物的に盛大に可愛がられている刹那を横目に、これだけの騒ぎに関わらずベッドで眠り続けている明日菜を見下ろす。

 

「俺は、此処にいてもいいのか?」

 

 明日菜から問いの返事は返ってこない。だけど、寝ている明日菜はアスカに此処にいてほしいのだと、思い込みだとしても言っているような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『Aブロックが終了し、Bブロック第一試合も終わりました! 続きまして今大会屈指の好カード。Bブロック第二試合を行いたいと思います』

 

 本選に出場している選手の殆どが舞台に上っている。まだ舞台に上っていない選手はただ二人。舞台へと向かう道を挟んで拝殿から見て左側に二人はいた。観客達の視線はその一人に集中していた。

 

「次は私達の番アルネ」

「ああ」

 

 次の試合は古菲と龍宮真名の試合である。

 呼ばれる前に動き出した二人は舞台に向かって並んで歩く。真名が少し観客の騒がしさに閉口している様子ではあったが、二人とも試合に対して余計なプレッシャーは負っていないように見えた。

 古菲は拳法服のスリットがちょっと開き過ぎじゃないかと思うぐらいの恰好で、下半身だけ少し露出気味に思える。

 明らかに古菲と同じ歳には見えない長身の真名は、彼女とは反対に極端に露出が少ない。上半身を覆う飾り気の無いコートを着て長ズボンを履いているので露出しているのは手と顔部分だけだ。

 

「古」

 

 腰に右手を当てながら歩く古菲に、楓が話しかけた。

 

「――――先に行っているぞ、古」

「うい」

 

 空気を読んだ真名が先に行き、袖の中に重ね合わせるように両手を入れた古菲が答える。

 

「真名とは拙者が戦りたかったでござるが――――勝てるでござるか?」

「うむ、無理ネ」

 

 先に行った真名を見送ってから聞いてくる楓の問いにはっきりと言い切る古菲。

 

「真名は銃使い。試合では銃は使えないでござるよ?」

 

 このような大会で真名がルールの都合上で銃を使えないならば、勝機はあるのではないかと楓は問いかける。

 

「真名は本物の戦場を潜り抜けているアル。実戦経験に大きな差があるし、その程度のことはハンデにならないと思うアル」

「確かにどう転んでも真名の勝ちでござろうな」

「ハッキリと言うアルな」

 

 達観したような古菲の意見に楓も同調する。苦笑いを浮かべた古菲もその同調を否定しなかった。

 

「この一ヶ月で信じられないぐらい腕を上げているのは、発している空気で分かるアル。どんな奇跡が起こっても百戦やって九十九回は負けるアル」

 

 一般の観客からしてみればウルティマホラの優勝者である古菲の方が上という見方が大勢を締めているが、当人でさえ断言したように実力差は隔絶している。得意としている武器を持っている持っていないで変わる実力差ではないのだ。

 

「分かってるアル。巷で武道四天王と呼ばれていても私が一番弱いことは」

 

 麻帆良に来てから師の教えも受けずに、我流で他にも手を出している。気も認識したが扱えているとはいえない。どちらも中途半端な状態にいる自分を古菲は誰よりも正しく評価していた。

 

「…………」

 

 これには楓も何も言えなかった。事実だったからだ。

 もし武道四天王で戦ったら、古菲は他の三人に絶対に勝てない。三人とも何からの形で裏の世界に関わっていて、古菲が無意識にしか使えない力を使いこなしているに過ぎないからだ。

 故に古菲は最弱なのである。世界が広がってしまったからこその弱さ。

 対する真名の戦闘力は本物の戦場を潜り抜けてきた本物。

 この一ヶ月で更なる修羅場を超えたきた彼女の力は、刹那や楓を凌駕する位置にいる。今、四人で殺し合いをすれば、最後に立っているのは間違いなく彼女だろう。

 衆目の中で、真正面からの試合だからこそ勝率はまだ残っているという程度。どんな奇策を用いたとしても、このような場所ではたかが知れていて十分に対応できるだけの経験と技術を真名は持っている。

 

「けど、私は嬉しいアルよ。この学園に来るまでは、私は本気で戦える相手がいなかったアルね」

 

 大人と子供以上の力の差があるからこそ、古菲は挑戦者のつもりで戦うことが出来る。その時の古菲が浮かべていたのは正に求道者の顔だった。

 

「対戦相手が真名で良かったアル。真名と戦えば私の答えが解るはずアルね」

「答えとは?」

 

 楓の問いに古菲は黙して語らず、帯を舞わせて颯爽と真名を追って舞台へと向かった。

 

『お待たせしました!! お聞き下さい、この歓声!!』

 

 古菲が舞台に上がると、マイクを通した和美の声が広がらないほどの次の試合を待ち望む観客達の歓声が広がる。和美も観客に負けじと声を振り絞る。

 

『本日の大本命、前年度ウルティマホラチャンピオン!! 古菲選手!!』

 

 両の拳をしっかりと握り、だが全身に力を込め過ぎないように注意しながら舞台で真名と相対する古菲の名が呼ばれる。同時に古菲を慕う無類の男達が歓声を上げて名を呼ぶ。

 

『そして対するは、ここ龍宮神社の一人娘!! 龍宮真名選手!!』

 

 ロングコートを羽織った真名のどこにも緊張の色は見られない。これだけの観衆に囲まれて目の前の相手よりも期待されていなくても、緩やかに笑みすらも浮かべて立っている。

 お互いに同級生という見知った相手だから余計な気負いもなく、ある意味で適度にリラックスしていた。

 

「…………いいのか? ここで私に負ければお前のファン達がガッカリするぞ」

 

 観客席を一通り見回した真名が忠告のように、古菲にだけ聞こえるように静かに呟く。

 状況的に観客達から一斉に湧き上がる古菲コールから見て、真名が悪役なのは間違いない。サッカーを例に挙げると、ホームとアウェイで試合をしたら圧倒的にホームの方が勝率が高い。

 アウェイに乗り込んだスポーツ選手のような居心地の悪い環境でありながら、尚も不敵に嘯ける神経こそが驚嘆に値する。

 

「名声にこだわりは無いアル。それよりも真名、手加減などするでナイヨ?」

「無論だ。元より戦闘における私の選択肢に、手加減等という物は無い」

 

 古菲が中国武術独特の構えを取り、真名が足を開いて僅かに腰を落とす。

 

『それでは一回戦第八試合、Fight!』

 

 二人が互いに構えを取った所で和美が叫んで、遂にこの大会の中で最も注目を集める大本命の試合が始まる――――と同時に、パンッという風船が破裂したような音と共にいきなり古菲の頭部が後方に反り返った。

 拳銃で撃たれてように後ろに倒れて、小さな体が棒切れのように舞台を転がっていく。意識を失ったように手足を力なく垂らせて押された勢いのまま五メールを無様に転がって、舞台の端ギリギリでようやく仰向けで止まった。

 一方の真名は西部劇で銃を早打ちしたように体勢でいたが、日本の武道および芸道において用いられる残心を解いて腕をダラリと下ろした。

 

『あ……』

 

 後少しで舞台から落ちるというところで止まった古菲を目前で見送っていた和美が、あまりにも予想外な展開に思わず審判にあるまじき声をマイク越しに会場に響かせてしまう。

 和美の声が大きく響くほど、歓声を上げていた場内は一瞬にして静まり返って物音一つも消えたようだった。

 

『こ……ここ、これは一体――ッ!? 開始早々、突然、古菲選手が吹き飛んで……!?』

 

 わっ、と湧き上がった観客達のどよめきのような声に後押しされるように、眼の前の惨状に驚きながらも和美は見事なプロ根性を発揮して実況する。

 実況を続ける和美の直ぐ近くに澄んだ音を立てて何かが落ちた。 

 

『こ、これは五百円玉!?』

 

 一度舞台に落ちて跳ね上がってコインのような形の物の正体を見下ろした和美の声が会場中に響き渡る。

 

『――――今のは羅漢銭ですね』

『羅漢銭とは何でしょうか、解説の豪徳寺さん』

 

 続いて響き渡った和美ではない声が二つ響き、観客達の視線が発生源を探して彷徨う。

 発生源の近くから集まって徐々に会場中の視線を集中したのは、観客席と銘打たれたプレートが置かれた机とマイクが置かれている場所。本選に出場していて高畑に瞬殺された時代遅れのリーゼントとヤンキーファッションも記憶に新しい豪徳寺薫と、絡繰茶々丸である。

 試合に負けた豪徳寺に、各試合で仲間達に見事な解説していたのに目を付けて、大会運営委員をしている茶々丸がスカウトしてきたのだ。

 

『中国の暗器の一種で、平たくいえば銭形平次の銭投げです。どこにでもあるただのコインを投げるだけの技ですが、達人は一息に五打撃撃つそうですから侮れません。しかも、今のは頭部直撃じゃないでしょうか? 危険ですね――』

 

 頬にガーゼを張った薫が生き生きと、どこで仕入れてきたのか物知り知識を初めてとは思えない饒舌さで嬉々として解説する。

 

『成程。以上、解説者席でした』

 

 クールな茶々丸と熱血の豪徳寺の組み合わせは良かったようで、観客への浸透具合は上々だった。何故か場所的に茶々丸の真横にいた千雨が疑問符を盛大に浮かべ、ネギらが感心した顔を浮かべていた。

 豪徳寺の解説でようやく観客達にも真名が西部劇で銃を早打ちをしたような姿勢でいるのか、古菲がどうやって斃されたのかが解った。観客達には古菲がどうやって攻撃されたのか分かっていなかったのだ。

 

『は、ハイ! し、しかしこれは……』

 

 八百長など以ての外なのでわざと負けられたらそれはそれで困るが、司会兼審判をしていて大会側の人間である和美としては古菲が圧倒される展開は望んでいなかった。

 こうなってしまったのだから古菲を瞬殺してしまった真名のあまりの強さに舌を巻くしかない。

 

「起きろ、古。自ら後ろに跳んで衝撃を緩和したのは見えている。ダメージはないんだろ」

 

 トトカルチョ人気No1の古菲からアッサリとダウンを奪って、賭けていた食券が飛んだ者達のブーイングが飛んでも真名に気にした様子はない。何故ならまだ勝負はついていないから。

 

「…………いや、痛かたアルよ。ホントに容赦ないアルネ。流石真名」

 

 和美のカウントが「9」を数えたところで、死んだように舞台の上に寝転がっていた古菲が動いた。ブレイクダンスのように足を振り回して、後頭部の後ろに手をついてヘッドスプリングで飛び上がるように起き上がった。

 

「下手な芝居をするな。周りが面倒だ」

「芝居ではなく、本当に意識が飛んだアル。起きなかったのはちょっと気絶していたからアル。気が付いたのは本当にさっきヨ」

 

 危なげなく起き上がった古菲の額には赤々と五百円玉の跡がクッキリと残っていた。眉間の間に綺麗に残った跡と先程の風船が割れたような衝突音を合わせて考えれば、自ら後ろに跳んで衝撃を緩和したといっても限度がある。十秒以上経っても痛みが引かないことが威力を証明していた。

 ギリギリの9カウントまで起きなかったのは、短くとも回復に費やす時間を稼ぎたかったのか。

 

「これからは周りの遠慮はせんから下がっておいた方が良いぞ、朝倉。そこは私の射程範囲内だ。流れ弾が飛んでいっても責任は取れんぞ」

「ん、了解」

 

 起き上がった古菲に飛ぶ歓声の中で、彼女がしっかりと立っているのを見て満足そうに微笑した真名が忠告とも取れる発言を舞台脇にいる和美に向ける。和美も出場している同級生達が桁外れなのは実感しているので、大人しく言葉に従った。

 あまり真名とは交流が深いわけではないが冗談を言っている時とそうでない時の表情の違いぐらいは分かる。今は真面目に言っている時の顔だ。

 巻き込まれては叶わない。言葉に従って舞台から下がって選手控え席まで下がる。

 

「さあ、来るアル」

「遠慮なく行かせてもらおう。耐えて見せろよ、古。直ぐに終わってはつまらんからな」

 

 戦意も高らかな古菲の言葉に応えたのは、完全に上から見下ろす真名の返答だった。

 

「上等!!」

 

 実力差からいって見下されて当然。古菲は声を大きく上げることで少しでも戦力差を埋めようとした。

 古菲が膝を曲げて踏み込もうとした途端、左手で右腕の肘の内側を軽く叩くと何かで止めてあったのか服の袖から束になっている五百円玉硬化が現れた。

 人差し指と親指以外の三指で硬貨の束を受け止め、親指と人差し指で弾いて手の平に垂直に立たせる。神速の速さで硬貨を一枚弾くまでに要した時間は瞬きにも満たない。

 魔力で強化された指で弾かれた真名の羅漢銭の速さは、その道の達人に迫る速度で古菲に飛ぶ。

 

「!」

 

 この第二射目を避けられたのは実力ではない。ただの幸運であると、後に古菲は語る。

 

「良く避けた」

 

 と、賞賛されたが事実は違う。

 踏み込みかけた膝が一射目のダメージによって、折れた為に上体が前に傾いたお蔭で避けれた。本人が思っているよりも額を強打されたダメージは重く、脳を揺らされた影響で足が踏み込みに対して踏ん張りが思うほど効かなかったのだ。

 真名の予想よりも深く沈みこんだ古菲の顔の上、眉間があった位置を羅漢銭が飛んで行く。

 下がった視界に映るのは舞台の床のみ。背後の池に五百円玉が落ちたとは思えぬ、観客席の天井を超えかねない水飛沫を上げたことなど気にする暇もない。

 

「次、行くぞ」

 

 背筋に走る悪寒が体を自動的に動かしていた。

 

「はっ!」

 

 踏み込んでいる足に意識を割きながら半身になっている状態で、後ろ脚を背後に動かす。真名に背中を向ける状況になるが仕方ない。先ほどまで半身があった位置を何かが通過したのを風切音で察した理性が本能を褒め称える。

 

「ほら、背中が丸見えだぞ」

 

 背後にいる真名から声が飛ぶ。

 一発指を弾いた音と共に飛来する硬貨の数を古菲は五と勘で予想した。確たる保障はない。真名は古菲がどれだけ回避できるかを試すのではないかと考えたので、一発や二発ではないと思っただけだ。五という数は当てずっぽうである。

 

「なんの!」

 

 左の足首を正確に狙った一発を僅かに上げて回避。寸瞬だけ遅れて体の体幹である腰に迫る一発を捻って避ける。後ろの飾り布が跳ね上がったところを貫いて穴が開いた。

 左足を上げて腰を捻ったので右半身を真名に向けた古菲は横目に残り三発の硬貨を見た。

 頭部を狙う一発を前に傾けて躱し、残っていた軸足を刈るように向かってきた一発を避ける為に右足で跳躍する。左手一本を舞台に付いてハンドスプリングで飛び上がる。空中に飛んでしまった古菲の回避はここまでで限界だった。

 

「ぐっ」

 

 ドンと宙にある古菲の身体が跳ねる。咄嗟に右手を固めて脇腹を固めたが吹き飛ばされる。舞台を滑って着地した古菲は片膝を付いていた。

 

「五個が限界か」

 

 こちらこそが本当の王者のように開始位置から一歩も動かず、膝をついた古菲を見下ろす真名。

 

「では、次は十個行くぞ」

 

 さっきの倍を撃つ宣言をした真名に偽りはなかろう。古菲の頬に冷や汗が流れていく。

 空中で移動する方法のない古菲が下手な逃げ方をすれば追い詰められるのは必定。出来るだけ足を付けて移動するしか回避は残されていない。そして真名が本当に宣言通りに十個だけしか撃たないという保証もない。

 既に五個で限界。良くてプラス一、二個と完全回避を目指した場合の被弾確率を脳裏に浮かべた。

 

「――――そら、行くぞ」

 

 真名にしては珍しく攻撃の宣言をしてから、マシンガンのように硬貨を連射で弾いて撃ち放った。

 何発か掠めようとも構わない。完全な回避を諦め、まともに真正面から受けぬように体の位置を考えながらダメージ軽減に努める。しゃがみや翻身、回転を織り交ぜた動きで避け続ける。

 木製の床に穴を穿ち、盛大に池に水柱を立てる音が会場中に響く。

 

『す、凄まじい攻撃!! 羅漢銭の連打はまるでマシンガンのようだ―――っ!!』

 

 選手控え席に避難した和美が真名の攻撃をマシンガンに例えているが、正に云い得て妙である。十発が舞台と池を穿つ音はマシンガンを撃ったように連続していた。

 

「次は二十で行くか」

 

 また真名は左手で右手の袖を叩く。すると五百円硬貨が束になって落ちて来る。

 弾を装填して、撃鉄を起こす。この間に距離は詰められない。

 古菲の動きは避ける方向行動全てを見事というまでに予測されて狙い撃ちされ、丁度弾丸が尽きる頃には体勢が崩れ切っている。この間に崩れた体勢を整えるだけで精一杯。

 そして再び始まる圧倒的なゼロサムゲーム。

 

『超人的な連射!! し、しかし避ける避ける古菲選手!! 辛くも弾丸の雨を避け続ける!!』

 

 和美のアナウンスは古菲の耳には入っていない。真名の超人的とすら安すぎる表現の速射を避けるだけで手一杯だった。

 頬を掠め、四肢に幾つも被弾して複数個所が痺れていた。既に戦況は古菲の劣勢どころか王手の段階に突入している。

 このままでは被弾箇所が増えて動けなくなるのは目に見えている。

 実力差を考えれば、ここまではよく戦えていると賞賛されるものではあるが回避ばかりでは実力差を覆せる戦い方ではない。負けを引き伸ばしているだけで、避けてばかりいてはじり貧。

 長期戦になれば負けるのは間違いなく自分。

 武闘家である自分ならば銃使いで中・遠距離を専門としている真名に近づけば勝てる。そのはずなのに、

 

(…………駄目アル)

 

 一定距離より真名に近づけない。まるで、真名の周りに分厚い壁が立ちはだかっているようだ。それより先に踏み込めば、たちまちの内に撃ち倒される未来がはっきりと確信できた。

 勝つためには、真名の予測を超える奇襲が必要だ。或いはそれに近い機転か、この戦闘の間に劇的なレベルの成長が見込めなければ勝てない。

 

「ままアルよ!」

 

 真名が隙を出すことはありえない。少なくとも古菲が倒れるより先になることはないだろう。歓声が上がる中で、奇策を思いつけなかった古菲は遂に賭けに出た。

 回避動作の中で右足だけで肩立ちし、左手を横に広げて右手を頭の上まで上げる。心臓がある左胸を剥き出しにして直ぐには動けない無防備な姿を態と作る。

 

「む」

 

 その行動は間違いなく真名の予測を超えたものだった。連射を続けていた真名の羅漢銭の発射が寸瞬だけ止まった。

 この試合の中で生まれた真名の隙。隙とも言えない間隙を縫うように、上げた手と足を振り下ろして、反動をつけると同時に地を蹴りつけて前へと跳ぶ。八極拳の歩法の一つである活歩で、一瞬にして数mはあった真名の懐に飛び込む。飛びこみ様、肘を当てようと右腕を動かす。

 懐に飛びこまれたというのに古菲の動きを冷静を通り越して冷徹に見下ろしていた真名は、右足を下げて半身になって簡単に避けた。

 

「お」

 

 これだけの好機はこの試合中にはもう訪れない。古菲はこの肘打ちを避けられることを予測して軸足を後ろに残していた。羅漢銭の銃身を務めている右手を左手でしっかりと掴み、踏み込んだ右足で真名の左足を動かせぬように拘束。半身を密着させた。

 

(いけるアルか?)

 

 羅漢銭を撃てる右腕を捕まえた。動けないように足も入っている。これだけの近距離ならば中国武術を身に着けた自分が勝つ。

 接触状態からでも放てる打撃法が中国武術には幾つもある。この超近距離ならば武道四天王の誰にも負けない自負が古菲にあった。

 

「!?」

 

 そしてその自身は目前に突如として現れた真名の左手。そこに今まさに放たれようと構えられた五百円玉が粉々に打ち砕く。

 

「気を抜いたな。誰が右手だけでしか撃てないと言った?」

 

 接近して斃されるような銃使いは二流。この程度で斃されるようなら真名は始めからこの場所に立っていない。

 古菲と真名に一対一での対戦経験は無い。それどころか本気で戦ったところすら見たことがない。

 卓越した戦闘経験、強化された身体能力、磨き抜かれた技術、古菲は真名に全ての点において劣っていた。だからこそ、勝機があったとしたら密着した正にその瞬間。決定打を放たずに自らの技術に自信を持ってしまった為に驕った。こうなるは必然。

 

「私に苦手な距離はない」

 

 背中側から回して古菲の顔の前に掲げられた真名の左手から放たれた、真下からの羅漢銭に顎を撃ち抜かれて体を宙に持ち上げた。

 

「ああっ、近づいてもダメかっ!」

 

 観客の声が、顎を撃ち抜かれて半分意識の飛んだ古菲の内心も表していたのだろう。受け身も取れずに空中数メートルから背中を舞台に打ち付けた痛みで意識がハッキリしたのは良かったかどうか。

 

「立て直す隙はやらないぞ」

 

 言葉通りの隙の無さで倒れた古菲に二歩だけ歩み寄り、追撃の構えを取る真名。

 

「!!」

 

 立て直す隙を与えない真名から放たれた弾丸は古菲の左肩と左胸を正確に射抜く。肩が外れたような痛みと瞬間的に動きをおかしくした心臓に意識が割かれるものの、武術家としての古菲の本能が立ち上がることを体に強制した。

 

「くっ」

 

 しかし、立ち上がろうとも先程の顎を痛打した一撃と、近距離で左肩と左胸を撃たれた痛みで足元が崩れる。そこへ狙いすました眉間への一打が古菲の意識を刈り取る。

 

「がっ……」

 

 意識は、今までの撃つスピードを超える瞬間で十打を超える烈射によって胸や肩や足など全身に走る痛みが呼び戻した。今までは手加減したというほどの連射と近づいてきたことによる威力の増加によって、古菲の拳法服が幾つもの被弾箇所が破れる。

 

「いやあっ!?」「ああ、ひでぇ!」

 

 倒れたまま動くことの出来ない古菲に、執拗な追い打ちをした真名に、会場のあちこちから悲鳴や非難の声が上がった。

 一度、二度と大きく弾んで舞台の上を転がる古菲は舞台中央から端までの数メートルを転がって、ようやくその動きが止まった。だがしかし、古菲は仰向けになったまま、今度こそ即座に起き上がることが出来なかった。

 最早ここまでかと思われた。或いは、実際戦っている本人もここまでだと思っていたのかもしれない。その顔には明らかな諦めが浮かんでいたし、ダメージも大きい。

 

(やっぱり真名は強いアルネ。実力の差は歴然アル……)

 

 圧倒的な力の差に打ちのめされて、古菲は立ち上がる意志を保つことが出来なかった。

 

(手加減してこれアルか。まぁ仕方ないネ……)

 

 もし真名が最初から本気で古菲を斃しに来ていたら、もっとあっさりと戦闘不能状態に陥っていたはずだ。もっとも今もまだ動けるとはいえ、こんな遅々とした動きでは同じことかもしれないが。

 真名も似たようなことを思っているのだろう。彼女はその場から攻撃を仕掛けるでもなく、羅漢箋を撃つのでもなく、悠然とした足取りで古菲に歩み寄る。

 体が動かない。どれだけ力を込めてみても体は反応せず、体を起こすどころか、腕を立てることすら出来なかった。まるで打ち捨てられた人形のよう、と全身を蝕む諦観と肌に触れる冷たくざらついた舞台の感触のみを認識して、古菲は天を仰いだまま、ただ止めを刺される時を待つしかなかった。

 ゆっくりと足音が近づいて来る。己の荒々しい呼吸音の中にその足音を聞きながら、古菲はその足音の主を見ようとして全身に力を込めて体を起こそうとする。

 ただそれだけの動作を為すのに永遠の時間を要したようで、その時にはもう真名は目の前に立っていた。 

 

「――――なあ、古」

 

 そんな声が耳朶に触れた。その声は闘気の色さえ見えない、硝子の如く透明な声。いっそ優しげとも思える真名の声が降りかかる。

 

「お前にこちら側は似合わないよ。元の道に戻れ。魔法なんて知らない世界に」

 

 顔を上げて、ようやく真名の表情を見た。声と同時に真名の表情はどうしようもなく優しかった。

 

「どうしてこちら側に関わり続けているのかは知らない。でも、お前なりに考えることがあったんだろ」

 

 切っ掛けは大したことじゃなかった。

 友人の後をついていったら巻き込まれて、そのままあれよあれよいうままに輪の外に弾き飛ばされただけ。関わる必然なんて、きっとない。

 

「ここらが引き時だ。何時までも引き摺り続けてもいいことなんてないぞ」

 

 そうだ。あの悪魔の名はヘルマンといったか。ヘルマンとアスカの戦いを見て自分は恐怖を抱いた。

 たかだが数ヶ月で自分を超えていったアスカが、ああも惨たらしく卑しく堕ちる。武が、そして人間が暴力の持つ力に屈する現実を。

 

「……ぁ」

 

 ずれた視界に、選手控え席にやってきた金髪の少年の姿が見えた。口から空気が零れるような声が漏れる。

 

「…………小さい頃から私は誰にも負けなかったアル」

 

 思うように動かないけれど、それでもまだ動けるのは思うところがあるからだ。

 膝を立てて手を着いて伸ばしていく。時間はかかっても構わない。まだ言葉も気持ちも定まっていないから。

 

「家は大きくはないけど地元ではそれなりの武門の家に生まれて、武術を当然のように習ってきたから強いのは当たり前だったアルよ」

 

 小さな女の子がヌイグルミを愛でるように、幼い古菲は拳の握り方を覚えた。

 

「同年代では敵なし。少し上の世代にも負けなかった私は天狗になっていたネ」

 

 子供が子供ながらの遊びに興じていく中で武術の鍛錬を笑顔でやっていたのだ。女の子らしい趣味を持たないから、きっと周りからは奇妙な子供に見えたことだろう。

 

「師父に世界を見て来いと言われて喜んだアル。ようやくこの退屈な場所から旅立てると思って」

 

 徐々に膝が床から離れて伸びていく。

 

「そしてここで、目指す目標にも出会えたヨ」

 

 アスカがバケモノだとかどうだとかは、もうどうでもいい。彼もまた強者。今はそれだけでいい。

 

「表も裏も関係ないアル。私は強者と戦えるならそれでいいネ」

 

 古菲は身体を起こしてギュッと手の平を握って拳を握る。握った自らの拳を見下ろした。ちっぽけな手だ。アスカよりも大きいくせにあれだけの力がないちっぽけな手だ。

 この拳に意味などない。意味を付けてはならない。意味を付けてしまったら戦いが穢れてしまう。

 何を理屈を付けて考えようとしていたのか。細かい理屈など頭の良いものが考えればいい。古菲に出来るのは戦うことだけだ。

 

「我只要和強者闘」

 

 我が望むはただ強者との戦いのみ、と幼い頃から口癖にまでなっていた言葉を久しぶりに中国語で言った瞬間、古菲の中で蟠っていた何かが消え去った。

 

「私は胸を躍らせる戦いに恋しているネ。そこに強者がいるなら突き進むだけアル」

 

 古菲はここに強者と戦うことに存在理由を見出した。

 

「…………そうやって突き進めば何時かきっとお前は死ぬぞ」

 

 こういうタイプは長生きせずに、戦いの果てに死ぬと相場が決まっている。

 表と裏、どちらにも強者を求めて突き進むその生き方はきっと長生きしないと、幾つもの戦争や修羅場を超えてきた経験が、その道の帰結を悟らせた。

 

「心配してくれる気持ちは有難いアルが、戦って死ねるなら本望ネ」

 

 武術家がそう在りたいと望む挟持に古菲はこの若さで辿り着いてしまった。

 これから生きる人生の殆どは武術に捧げられることになるだろう。もし、このまま止まることなく突き進めば女としての幸せも、下手したら人としての幸せを投げ出すかもしれない。

 もうそうなったら人ではない。存在理由に己を食い潰された残骸だ。人ではなく戦いを求めるだけの異常者が誕生する。

 

「でも、出来るなら子供を産んで武術を教えてみたいアル」

 

 天を仰いだ真名の懊悩など心配するだけ無駄だと見下ろした古菲は天真爛漫に笑っていた。

 

「そうか」

 

 心配するだけ無駄だったと思わせる笑みを浮かべる古菲に、安心したように真名は笑った、

 武術に囚われるのではなく、武術という枠組みの中で人の繋がりを得て楽しさを見出している。古菲は真名が戦場で散々出会ってきた精神異常者たちとは違ったということか。

 龍宮真名は古菲という少女の本質を読み切れていなかった。だからこそ、かように人の人生は楽しさに満ちている。

 

「お前を心配するだけ無駄だったな」

「言ってくれるアル」

 

 そうやって二人で、ここが武闘大会の会場の闘技場の上で、試合中であるということも忘れたように笑い合う。

 古菲なら大丈夫だと思えた。きっと道を突き進んでも、こうやって天真爛漫な笑みで麻帆良と同じように仲間を作って誰かが助けてくれるだろう。だから、これから続けるのは真名から送れる最後の選別。

 

「こちらに関わると色々と困ることもあるだろうが……」

「細かいことは関係ないアル。強者であれば闘う。それだけアル」

 

 届かないと分かっていながらも理解を得られないことに真名は深い溜息を吐いた。古菲は放っておいても大丈夫そうだが、今度は猪突進娘になったのではないかと呆れたくなる。

 

「試合を続けるアル、真名」

「私が勝ったらお前には後で説教だからな」

「なら、私が負けなかったら説教はなしアル」

 

 言葉の上げ足を取ってくる古菲の猪突進娘になったかと思えばこのやり用。都合の良い時だけ頭が回るようだ。

 

「絶対に負かしてやる」

 

 らしくもなく感傷的になっていたところなので我慢が効かず、額に青筋を浮かべながら言って真名は右手から羅漢銭を十発を連続して撃ち出した。

 

「私は負けないアル!」

 

 遠慮も呵責もない近距離からの全力発射に、古菲が叫びながら腰の後ろに手を伸ばし、付けられていた飾り布を力の限りに振り回す。

 古菲に迫っていた全ての弾丸が、飾り布に弾かれたように四方八方に飛んで行く。

 

「何?」

 

 これだけの近距離からの攻撃を弾かれたことに、僅かながらも瞠目した真名が大きく一歩後退して距離を開ける。その間にも額から血を流す古菲は慣れた手付きで飾り布を動かして、まるで棒のように突き出した。

 

「!!」

 

 布が左手に巻き付き、鎖鎌のように張り付いたのを見た真名の顔にハッキリとした動揺が走った。

 

「尻尾はただの飾りじゃなくて布槍術のか。やるじゃないか」

「ふふ、これ以上はみんなに情けない姿は見せられないアルヨ」

 

 中国武術において武器は手の延長と考える。例えば槍などの長い棒状の武器である棍を打ち込む場合は拳による突きと同じ技術を使う。刀剣で斬る場合も手刀と同様だ。つまり徒手による格闘の技術がそのまま武器の扱いにも応用されるわけだ。

 徒手も武器も同様に扱う中国武術では、武器を持ったまま拳や蹴りによる打撃の併用も自然に出来る。これが日本だと剣で戦う時は剣術を用い、素手で戦う時は無手術を使う、といったように全く別の技術を使い分けることになる。

 

(とはいえ、手足がもう動かない。次の一打で最後アル!!)

 

 これまで一方的に攻撃を受けてきた古菲の身体は立っているだけでも限界だった。無理しても一撃を放つのが精々。勝利の為にこの一打に命を預ける覚悟をする。

 

『捕らえた古菲選手!! 遂に強者龍宮選手を捕られた!!』

 

 和美のアナウンスが響き渡って観客の歓声が沸く僅かな隙間を縫うように真名が動く。羅漢銭で左手を拘束している布を途中で打ち抜き、三発を連続して当てて破く。

 

(何の……!)

 

 観客のどよめきが広がっていく間に古菲は動いていた。大袈裟とも思えるほど飾り布を回して速度をつけてから振り回す。布の槍と化した飾り布が変幻自在の軌道を描いて真名を襲い、避けた真名が羅漢銭を撃ち返す。

 リーチにおいては真名が動かない限り互角。手数においても今のところ互角で激しい攻防が繰り広げられる。

 布に剣や槍ほどの攻撃力はない。普通のタオルでも振り回して人体に当たれば痛い。古菲ほどの武術家が振るった布は、それだけで人を倒しうる力がある。が、それは普通の人にであって、真名相手には致命にはなりえない。一発二発が当たろうともびくともしないだろう。

 それでも真名が避けるのは、一度受けてしまえば先程のように拘束されてしまう可能性があるからだ。

 流れる激流の流れを逆らわずに利用するように、緩やかな動きで避け続ける真名が狙い澄ました一撃を放った。

 

「!」

 

 ゴキン、と明らかに骨が折れた音と共に一発の羅漢銭が古菲の左腕を強烈に撃ち抜いた。骨に何らかの影響が出たと解る音に観客達の悲鳴が木霊する。

 飾り布を両手で扱っていた古菲の攻撃のバリエーションがこれで極端に減るのは自明の理。古菲の敗北がカウントダウンされたかに見えた。

 真名ですら攻撃が鈍ると考えた刹那、古菲は自らの左手が完全に折れたことを走る激痛で理解しながらも笑って見せ、腕を振って布を走らせた。腕を代償にしたかのように真名の左腕に巻き付く。

 

(上手い!)

 

 真名は怪我を寸瞬も気にせずに回避行動を読み切って巻きつけた古菲の手腕に思わず賞賛する。

 

「!」

 

 だからこそ、古菲の足が殆ど死んでいて足が自分から突撃するには頼りないことを予測していながらも、片手一本で身体ごと引き寄せられたのに対応しきれなかった。

 いくら古菲が布を手放したといっても観客が多い中で空を自由に動くわけにはいかない。真名に出来たのは古菲が何をしようとも全力で叩き潰すことだけだった。

 ここで体勢を崩さる方が不味いと考えて自分から飛んだ瞬間、真名は羅漢銭の弾を手に収まるだけ充填する。対する古菲は折れた左腕にも力を入れて拳を握り、硬気功で肉体を強化した。

 

「「!!」」

 

 どちらの攻撃も避けようのない零距離で最後の一撃を撃ち合った。とてつもない衝撃音の後に真名が放った五百円硬貨が音を立てて、穴あきだらけの舞台に幾つも落ちる。

 羅漢銭を放った右腕からはあまりの高速指弾に煙が出ていた。

 

「!」

 

 最初に動いたのは古菲だった。

 口から溜まっていた息を吐き、ズルズルと膝を付いて舞台の上に崩れ落ちた。真名の零距離で羅漢銭を一斉一点集中攻撃を受けようとも耐えられはしなかった。

 辛うじて膝立ちで耐えているが真名に左手を押し当てているから倒れていないに過ぎない。

 古菲が敗れたと会場にいる者全員がそう思った、重苦しい空気と沈黙。それを打ち破ったのは跪く古菲の前に立つ真名だった。

 

「成程、浸透勁と言う奴か。本当にやるじゃないか、古。見直したぞ」

「いやぁ……まだまだアルよ」

 

 バンッと音を立てて真名の服の背中部分が来ていたコートも一緒に弾け飛ぶ。

 硬気功で耐えての浸透勁のカウンター。ダメージのなかった真名を倒すには一撃で倒せる技でなければなかった。思いついたのが、内部浸透系の技である浸透勁だった。

 目論見通りにダメージに耐え切れず、真名がゆっくりと倒れる。

 

「負かせらなかったか」

「やっぱり勝てなかったアルか」

 

 支えを失った古菲も舞台に崩れ落ちる。まるで二人で拳を打ち合ってそのまま倒れ合ったような体勢だ。

 確かに古菲の目論見通りに行った。折れた左腕を無理矢理に動かして顔面を守りながらの一撃。万が一でも顔を狙われて脳を揺らされれば立っていられない。全弾を受けてダメージは硬気功でも受け切れるものではなかった。

 

『ダウン!! 両選手、ダブルダウンです!!カウントを取ります!! 1……2……』

 

 両者が倒れて選手控え席から舞台に戻りながら慌てて和美がカウントを取り始める。

 

「次は負けないアル」

「は、抜かせ」

 

 位置的に相手の顔を見ることは出来ない。だが、視線を交わさずとも互いに不敵な笑みを浮かべていることは分かった。

 

『……9……10!! 立ち上がれません!! 両選手ダブルノックダウンで白熱の試合は引き分けです!!』

 

 途端に最高に盛り上がる試合を見せてもらった観客達から沸き起こったのは歓声だった。

 蓄積したダメージで意識が薄れていく古菲が最後に見たのは、隣で立ち上がる逆光で影になった真名の姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 龍宮神社の東門方向にある高灯篭に武道会の本部はあった。

 高灯篭の一室は、神社の内部としては相応しくないコンピューターやらの最新機器に埋め尽くされていた。電気が消された一室には正面モニターとパソコンのモニターの灯りだけが煌々と照らされている。

 

「うむ、中々に良い盛り上がりネ」

 

 パソコンのモニターの灯りに照らされて一人の少女が楽しげに呟く。彼女が見ているのは前に設置された巨大モニターに流されている試合の映像だった。

 高灯篭内部には三人の人の姿があった。一人は先程呟きこの大会を開いた主催者である超鈴音その人。もう一人はパソコンに向き合ってキーボードを叩いている葉加瀬聡美。最後の一人は先程まで古菲と激闘を重ねた疲労を感じさせない龍宮真名である。

 

「調子はどうネ?」

「カメラ妨害用ナノマシン散布良好。ネットに捲いた種も上手く芽吹いているようですよ。ネット上の噂拡散震度及び進行速度全て異常なしです。流石超さんのプログラムです」

「よし、魔法近い側からの介入があるまでは現状維持ネ」

 

 前のモニターとパソコンのモニターの光、真名が立っている壁際の窓の当たる戸が半分だけ開けられて外から入る太陽以外は光源がない。窓を全開にすればもう少し外の明るさも室内に入れられるが、武道大会を開催した本当の理由を考えれば出来るだけ隠密にしたくなる。

 

「となると残る問題は…………このフードの人ですね」

 

 葉加瀬が手元のキーボードをカタカタと捜査して、前の巨大スクリーンにCブロック第一試合の出場選手であるクウネル・サンダースの姿が映し出した。

 

「出場者の一人クウネル・サンダース。所属は図書館島図書館司書とありますが」

「ウム、さっき臨時救護室の会話を盗聴したが、どうやらかのサウザンドマスターの仲間で間違いないようネ」

 

 どうやら超らは会場中にカメラやマイクを隠しているようで、常にリアルタイムで監視していた。

 

「ええっ!? サウザンド……と言う事は!? …………アルビレオ・イマ……これですねー。ふーむ、魔法世界の資料にも詳しい事は載ってない……マズイですね。エヴァンジェリンさん級の能力者が出てきたとなると計画に支障が……」

「うむ。監視を怠る訳にはいかないし、危険な因子であることに変わりないが、私の勘では、この男の目的は我々の計画とは関係ない。おそらく大丈夫ネ」

 

 クウネル・サンダースの正体に驚く葉加瀬。またキーボードを操作してデータを参照するも名前や紅き翼関連のデータしか表示されない。

 紅き翼に所属していたのなら下手すればエヴァンジェリンクラスの魔法使いということになる。魔法界の資料にも正確な情報が残っていないことが余計に不安にさせる。

 しかし超はそれほど慌てた様子はなかった。科学者としての勘か、人としての勘か、女としての勘か。己の勘を信じて楽観的に考えていた。

 

「超さん~、熱いです~」

 

 超ほど楽観的になれなかった葉加瀬が額に汗をダラダラと流しながら振り返る。

 

「我慢、我慢ヨ、葉加瀬」

 

 六月も下旬にもなれば季節も春から夏にぐんと気候が近くなってくる。今年の梅雨はあまり雨が降らなかったのでジメジメした感じは少ないが、数十台のパソコンを同時併用し続ければかなりの熱を持ってくる。

 神社内部の高灯篭に換気扇やエアコンなんて洒落た物がついているはずもなく、唯一の空気の入れ替え口は真名がいる半分だけ開けられた戸のみ。

 室内は真夏を超える気温と湿度で葉加瀬が白衣を脱いで、ちょっと年頃の乙女としてはどうかという状態になっていようと、何故か袖が長く顔と手だけしか出ていない漢服を着ている超は汗一つ掻いていなかった。

 

「もしかしてその中に何か仕込んでませんか?」

「何も仕込んでなんかいないネ。心頭滅却すれば火もまた涼し。修行が足らんヨ、葉加瀬クン」

 

 疑わしい目で超を見た葉加瀬だが熱気で動くのも嫌になったのか、確かめるための行動も動かさなかった。

 当の超が話を逸らすように壁際にいる真名に話しかけた所為で、熱やら何やらで突っ込んで行動する意欲を失ってしまったからだ。

 

「ありがとう、龍宮サン。上手く引き分けてくれたヨ。人気No1の優勝候補が一回戦で負けてしまてはアレだからネ。お蔭で会場は非常な盛り上がりヨ」

「…………」

 

 アルビレオに負けず劣らずの貼り付けたような笑みを浮かべる超を、穴が開いたコートを脱いで一張羅の戦闘服を着替えた真名は彼女を見ながらも黙して語らず。

 

「これが報酬ネ」

 

 そう言って超が懐から取り出した紙袋には相当の厚みがあった。仮に入っているのが福澤諭吉印のお札だとしたら0が六個つく金額になるのは想像に難くない。

 

「…………いや、それを受け取るのは今回だけは止めておく」

「ほう?」

 

 言葉とは裏腹に少し未練がありそうな視線の熱を切る様に逸らした真名だが、彼女がこと仕事を完遂して報酬を受け取らない理由が分からなかった様子の超は不審げに顔を歪めた。

 

「今の試合はそれなりに本気だったよ。それを受け取るのは古に対する侮辱になってしまう」

 

 武道大会のルールは銃使いである真名には大きな制限を課すものだ。

 元より真名の本職はスナイパー。観衆の中で真正面から戦うなんてことはありえない。でも、そのルールの中でも古菲と真剣に向き合って戦ったのだ。戦っている最中は思惑や仕事のことも忘れていた。

 武人を気取るつもりはないが、仕事を達成したからといって報酬を受け取ってしまっては、試合を穢したような気がして古菲に顔向けできなくなる。

 

「報酬は既に得ている。今回はそれだけでいい」

 

 トン、と豊かな胸元を軽く拳で叩く。

 胸に去来するのは久方ぶりに感じる高揚。奪うか奪われるかの戦いの中ですっかりと忘れていた感情こそが金に勝る何よりも報酬であると真名は思っていた。

 

「それを聞けば、きっと古も喜ぶネ」

 

 貼り付けたような笑みが消え、納得したように笑った顔こそが超の本当の顔であると見ていた真名は思った。

 



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第43話 剣か、人か

 

 舞台でCブロック第二試合である長瀬楓と山下慶一が試合をしている頃、タカミチ・T・高畑は地下にいた。

 龍宮神社の一人娘である龍宮真名が高灯篭に向かうのを見て気配を消して後をつけて超と会っているのを確認し、高灯篭から地下の下水道へ通じる直接通路を発見した。当然、超鈴音の動向を探っていた高畑は危険を承知で探ることを決めた。

 

「驚いた。こんな大きな下水道が麻帆良に地下にあるとは」

 

 強度を確認するように壁を叩きながら歩いていた高畑は一人ごちた。

 年数で言えば十年を超えるのに、自分が麻帆良について知っていることはそれほど多くは無いのかもしれないと、アルビレオ・イマが十年間も隠れ続けていたことを考えれば高畑がそう思うのも仕方ないのかもしれない。

 

「学園長は間違いなくアルがいることを知っていた。それは間違いない」

 

 或いは詠春も、と高畑は冷静になった頭で考える。

 この麻帆良で学園長である近衛近右衛門の目を掻い潜ることは出来ない。例えアルビレオ・イマであってもだ。であるならば、学園長は知らなかったのではなく知っていて高畑には伝えていなかったと考える方が納得できる。

 詠春は紅き翼関係で知っていると思っただけで根拠はない。もしかしたら彼は知らないのかもしれないが、一人で蚊帳の外に置かれていると錯覚した高畑には全てが疑わしく思えた。

 地下なのに不思議と灯りはつけられているが必要最低限のため薄暗く、下水道だけあって匂いもそれなりにある。

 環境に左右されないように高畑の精神状況はどこまでも悪化していく。

 高畑の若々しく精悍な顔は、光の加減の所為か、まるで今日一日だけで十も二十も年老いてしまったかのように見えた。

 

「十年前、全てはそこから発している」 

 

 ナギの消息が分からなくなり、アスナを狙うメガロメセブリア連合の刺客が急に増えだした時期。全ては十年前に行き着く。

 ナギに同行していたアルビレオが麻帆良にいるというなら何があったのかを確実に知っているはず。学園祭が終わったら…………いや、超の動向がハッキリ次第直ぐに学園長かアルビレオを力尽くでも問い詰めることを決めた。

 いい加減に下水の匂いに耐えかねて、これなら少しの匂いを出してもバレやしないと、精神を落ち着ける為に止められなくなった煙草に手を伸ばそうとした瞬間だった。

 

「やれやれ。こんな所まで来てしまたカ」

 

 その声が掛けられたのは、高畑が今通って来た道からだった。

 在り得なかった。タカミチ・T・高畑ほどの男が声をかけられるまで接近に気付かなかったことが。

 

「!」

 

 壁を背にして進行方向と背後を見れるように体を開いたのは戦闘者としての本能だった。

 進行方向からも人の接近を察知したからだ。こちらは流石に声をかけられる前に気がついた。

 

「顔色が良くない。体調が優れないようですが、高畑先生?」

 

 字面だけを読むなら生徒が教師を心配しているようにも聞こえる。だが、実情は違う。声をかけた二人目――――龍宮真名はその両手に銃を構えて、高畑に照準をつけているという戦う気満々の姿だったのだから。

 

「君達は……」

 

 高畑は素早く目を左右に走らせて状況を確認する。右手側の来た方向に超が立ち、進行方向に両手に銃を構えている真名がいる。二人の間に高畑が挟まれていた。

 

「どういうことだい?」

 

 突破口を開くために真名に話しかけながら、何時もの戦闘態勢であるポケットに両手を入れた形を取る。

 

「仕事です」

 

 言葉少なに、表情を完全に殺しきっている真名の銃身に一ミリの揺れも無い。

 

(不利、かな)

 

 馴染んだ戦闘態勢を取りながら、高畑は状況の不利を認めざるを得なかった。

 真名は戦闘者として相対した場合、高畑をしても油断ならざるを得ないと想定している相手である。例えば先の武道大会のようにルールに縛り付けずに、殺し合いの舞台に立った時、彼女は高畑が相手であろうとも躊躇はしない手合いであることを理解していた。

 戦争を知るからこそ、勝利の為に非情に成り切れる面が彼女にはある。それでも一対一であるなら負けるとは思わなかった。真名の本分は狙撃。姿を現して、これほどの近距離にいるならば如何様にでもやりようがあった。

 

「元担任に対して申し訳ないが私には時間がないネ」

 

 高畑が不利と思うのはイレギュラーである超鈴音の存在にあった。

 高畑は彼女がどれだけの戦闘力を持っているのかを知らない。機械に精通し、魔法にも通じているからこそ絡繰茶々丸を生み出したことは知っている。しかし、単体の戦闘力がどれだけのものかを知る者はいない。

 武術の腕では古菲に劣るらしいことは耳にしたことはあるが、彼女が気や魔法を使うのかが分からない。情報が少なすぎる。

 

「降参してくれないカ、高畑先生」

 

 降参宣告してくる超の背後に向けた手や背中辺りから聞こえて来る機械の駆動音。機械に疎いわけではないが精通しているわけでもない高畑には、聞こえて来る機械の駆動音が何を意味するのかが分からない。

 超包子の手伝いをする時によく見たエプロンドレスを着ていることも装備の情報の不確かさを際立たせる。

 麻帆良№2と呼ばれている自分を有利な状況で対せる状況で、生半可な装備で相対するはずがない。真名を餌にして尾行させて誘き寄せたぐらいなのだから、自分が同じ立場ならば必殺を期する。

 

「龍宮君、仕事と言ったね? 君は超君に雇われている、で間違いないかな」

「…………」

 

 高畑の問いに銃を構えた真名は沈黙こそを返答とした。その返答こそが肯定するだけだと分かっても、真名は人形のように口を開かなかった。

 

「超君が何かをしようとしているのは間違いなさそうだね」

「さぁ、それはどうかナ」

 

 超ははぐらかすように笑うが、降参宣告をしてくるのは高畑が障害として立ち塞がるということを意味している。

 後を追って来て二人が武装状態でいて、当の真名は高畑に銃を向けている。超が麻帆良学園にとって良からぬことを画策しているのは確定した、と高畑は判断した。 

 

「煙草を吸ってもいいかな」

 

 問いかけながら煙草とライターを取り出した高畑に、二人は咎めることも止めることしなかった。

 高畑が愛用の煙草とライターをスーツの内ポケットから取り出すのを、二人は目の前で虎が餌に興味を失くして背を向けたのに拍子抜けしたように見ていることしか出来なかった。

 箱から煙草を取り出して口に咥え、ライターで火を点ける。煙草とライターをまたスーツの内ポケットに直しながら、体に悪いと分かっていても止められない紫煙を肺一杯に吸い込み、煙草を咥えながら唇の端から吐き出す。

 

「さて、もう一つだけ聞いても良いかい?」

 

 今度は手で煙草を持ちながらまた吸った紫煙を吐き出しながら横目に超に問いかける。

 魔法をバラすような行動を取っているが高畑には超の目的が分からない。立ち向かうにせよ、逃げるせよ、どんな選択をとっても情報は大いに越したことはない。

 

(まぁ、そんなに簡単に目的を明かすはずもないだろうし)

 

 麻帆良の頭脳とまで呼ばれている天才少女が簡単に目的を明かすほど、そこまで超が迂闊とも思えなかった。

 高畑が問う目的は、如何にしてこの場から抜け出すかの一点に尽きていた。その為の方策を既に十も思い浮かんでおり、後は如何にして取捨選択する段階に入っていた。

 

「君の目的は何だい?」

「世界を救う」

 

 問いに寸瞬の遅れも返事が返って来て、しかもその内容があまりにも予想外だった為に高畑の思考は一瞬だが止まった。

 

「な、に?」

 

 思わず吸いかけの煙草を唇の間から落としてしまうほどには動揺していた。

 

「だから、私は世界を救うと言ったネ」

 

 ニッと笑った、担任であった頃に何度も見た、頭脳とは裏腹の童女のような無垢過ぎる笑顔が嘘ではないと悟らせた。

 

「君はそれがどういう意味か知っているのか」

 

 自分の声とは思えぬほど冷たい声が漏れた。奈落の暗闇から吹き上げてくるような、薄ら寒い声だった。

 噛み締めた奥歯が砕ける音を聞いた。怒りが高畑の中に渦を巻いている。許せなかった。タカミチ少年は己が人生を捧げて文字通り世界を救った人を知っている。彼女の苦悩を知らずに簡単に言った少女を許せるはずがない。嘘は言っていないと分かっているからこそ。

 

「知っているヨ。災厄の女王…………スプリングフィールド兄弟の母親のように世界を救うと言っタ」

 

 高畑の中で何かが砕けた。生徒に手を上げるわけにはいかないという不文律か、それとも他の何かの事か。

 タカミチ・T・高畑から逃げるという選択肢が消え、例え自らの命を失おうとも超鈴音を捕まえなければならないと一本道を選ばされる。超の策略だと分かっていても。

 

「君を捕まえる」

「出来るかナ?」

 

 高畑の決意と超の笑顔が交錯する。

 最初に行動を移したのは二人ではなく真名だった。構えていた銃の右手に構えていた方を撃った。

 視界の端でマズルフラッシュを確認した高畑の行動は、回避か防御と予測していた真名の予想外のものだ。高畑は居合い拳で、振り向き様に背後にあった地下道の壁をぶち抜いたのだ。

 

「無茶をする!」

 

 何時からあるのか分からない地下道の壁を壊すなど正気の沙汰ではない。下手をすれば下水道自体が壊れて崩落する危険もあるのに、高畑は一秒も躊躇わなかった。

 手加減なしの居合い拳によって爆砕された壁はコンクリートの破片を撒き散らし、同時に噴煙も起こして真名の視界を奪う。高畑の姿を見失った。

 

「豪殺・居合い拳」

 

 前方で光が渦を巻いたと見えた瞬間には、地下道全体に広がった閃光が真名を飲み込んだ。

 

「これで終わった」

 

 咸卦法を纏ったまま、超がいる方向にも豪殺・居合い拳を同時に放った高畑は勝利を確信した。

 地下道が壊れないギリギリのレベルで手加減した豪殺・居合い拳をまともに食らったはずの二人が無事でいるとは思えなかった。

 この為に地下道を歩きながらずっと壁を叩きつつ歩いていたのだ。避けられるタイミングでも、それだけの防御力を二人が持っているとも、思えなかった。

 後は噴煙が晴れた後に気絶している二人の姿を確認すればいい。

 

「――――っ!」

 

 言葉や気持ちとは裏腹に高畑は一切油断していなかった。だからこそ、直上に突然戦闘衣をボロボロにした真名が現れ、銃を撃っても動揺一つしなかった。

 

「転移魔法符では魔法陣が転移場所に出るから不意打ちには向かないよ」

 

 頭上を見遣ることなく全ての弾丸を居合い拳で相殺。噴煙が晴れた先に超の姿がないことから同じように転移魔法符を使って一人で逃げたと推測。

 

「龍宮君が残ったのは超君が逃げるための囮か」

 

 ならば、遠慮する必要はなし。だが、再び超が転移して加勢する可能性だけは脳裏に残しておいて、真名をここで倒すことを決意する。

 思考が一瞬なら行動に移るのもまた早かった。言っている間には空中にある真名に向かって跳び上がっていた。確実に意識を刈り取る為に近接戦闘をすることにしたのだ。

 一瞬で真名の背後に回り、意識を刈り取るべく拳を振り上げた。

 

「そうかな?」 

 

 絶体絶命でありながら真名は笑っていた。

 拳を振り下ろしながら高畑は援軍が間に合うタイミングでないことを知っていた。転移魔法符やそれこそ魔法での転移を使おうとも間に合わない。如何なる魔法や気の技術であろうと、今の高畑を止める術はない。

 それどころか何らかの兆候を高畑が見逃すはずがない。それこそ時を駆けない限り不可能だ。

 

「掴まえタ♪」

 

 だからこそ、高畑は拳を放った己が視界に忽然と出現した超の顔を見た時、間違いなく度肝を抜かれた。

 指先を伸ばせば触れそうな距離にいるのに、転移反応も魔法や気の痕跡も感じ取れなかった。油断はなかったと断言できる。超が魔法も超常の力を何も使わずに忽然と目の前に出現したのだ。

 真名に怪我をさせずに意識を刈り取る為に、威力のあり過ぎる咸卦法の出力を最低に弱めていた胴体に超の手の平が触れる。

 

「がっ!?」

 

 市販で売られているスタンガンなどを軽く超えて、人を丸焼きにするのではないかと思うほどの電気が触れた手の平から流れ込んできた。

 普通の人ならば確実に殺傷、防御した魔法使いであっても感電死してもおかしくないほどの電気量に、如何に咸卦法を使っている高畑であっても出力を最低に弱めている状態では容易に意識を刈り取られる。

 

「――――その程度でっ!!」

 

 一般人ならば致死量を軽く超えた電気量を高畑は耐えきった。彼の鍛え上げた精神が気絶するという屈伏を許さなかった。

 理解できない方法で転移したからどうした、防御した魔法使いであっても感電死してもおかしくない電気量だからどうした、今は一人きりとなってしまった紅き翼の看板を背負い続けたタカミチ・T・高畑に敗北は許されない。

 アリカとスプリングフィールド兄弟の繋がりを知っている情報源を見逃すわけにはいかない。その一念だけが高畑を気絶から掬い上げた。

 気絶しない高畑の鬼の形相を前にして、始めて余裕だった超の表情に焦りが浮かんだ。

 痺れの残るであろう手で間近にいる自分を捕まえようとする高畑から逃れようと微々たるものでありながら体を捻った。

 

「……なっ!?」

 

 この時、どういう偶然か。ありえないはずの偶然が起こった。

 高畑の伸ばした手は、本当に一瞬首元を掠めただけで超に触れることはなかった。ただ、超の来ていた超包子の衣装の首元を結えていた二本のゴムが千切れただけ。

 超の首元が開かれ、その中にしまわれていた古ぼけた水晶のアクセサリーを前にして高畑の手は止まっていた。止まらされた。

 

「それはアスカ君の!?」

 

 まるで十年ぐらい時間が経過したような古さだったが、アスカが持っているナギから渡されたという魔法発動媒体と全く同じ細工だった。

 アスカと始めて会った時に一度借りて手に持ったことがあるので、古ぼけている程度で高畑が見間違えるはずがない。 明日菜のことを引き摺っていた高畑に、この一撃は大きかった。明日菜に続く高畑のウィークポイント(ナギ)

 油断を全くしなかった男が始めて生んだ隙を、戦場のスペシャリストである龍宮真名が見逃すはずがない。

 

「――っ!?」

 

 振り向き様、両手に銃に装填されていたのとカートリッジに残っていた弾丸を全て連続発射。狙い過たず全弾が高畑の眉間に命中する。

 電気のショックと動揺と十発の弾丸の衝撃が高畑の意識を刈り取る。

 

「ぐぁ――っ!?」

 

 タカミチ・T・高畑は、子供の頃には世界はもっと色彩が溢れていた気がした。大人になった今は、色合い自体が意味を失ったように思えた。

 思い出すと過去ばかりがキラキラ光っているようだった。彼自身が後ろ向きになっていることに腹が立った。一途な願いを捨てたのは何時だったのか、高畑にはもう思い出せない。

 転移魔法符で直上に転移して放った弾丸の甲高い発射音が消えぬ内に、気絶した高畑は下水に落ちていった。 

 その心と共に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 修学旅行後、別荘で顔を良く合わせていた面々だと自然とリーダーシップを発揮するのは、やはり亀の甲より年の攻とでも言うべきかエヴァンジェリンだった。

 

「行くぞ、刹那。次は私達の試合だ」

 

 言って金髪を翻して背筋をシャンと伸ばして歩く彼女の姿勢が刹那の目を奪った。

 自分を脅かせるものなどないと知っているかのように真っ直ぐ立っていた。彼女は女王で、その背筋を中心軸に世界が回っているのだと錯覚しそうだった。

 魔力も殆ど使えない最弱状態でありながら、最強の看板を背負う背中は誰よりも雄々しく見えた。

 

「はい」

 

 きちんと言葉を返せたか少し不安になったが、自分を見る木乃香の表情に変化がないのを見て取って少し安心した。

 

「頑張ってな、せっちゃん」

 

 刹那は胸の前で両腕を握って言ってくれる木乃香の応援に頷きを返して、先に立つように歩くエヴァンジェリンの後を追って行った。

 

 

 

 

 

『お待たせしました! 一回戦も大詰めを迎え、桜咲選手対マクダウェル選手の試合を執り行います!!』

 

 和装エプロンに猫耳を付けた珍妙な格好で何故か片手に箒を持った桜咲刹那と、日本人では作り得ない西洋芸術の極致のような容姿でゴシック風の服用が抜群に似合って中世の北欧にいる姫君然としたエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが舞台に上がる。

 

「本気で来い。今の私はお前を苛めたくて仕方がない」

 

 エヴァンジェリンは箒を持つ刹那と違って、その手には得物はない。完全な無手で舞台の開始位置の着くと両腕を組み、不敵な笑みを浮かべている。

 チャチャゼロに斬りかかられて右往左往する姿を見て悦に入っている時と同じように、頬を僅かに上気させて瞳を興奮で潤ませる表情に刹那の背筋に鳥肌が立つ。

 

「あ、あのー、私を虐めるというのは一体?」

 

 生物は危険を感じると、体を前掲するか後ろに仰け反るかする。刷り込まれた苦手意識によって刹那は本人が気づかぬ間に腰を落として逃げ腰になっていた。

 

「ちょっとした余興さ。私は貴様の事を割と気に入っているからな」

 

 言われた当人である刹那にはエヴァンジェリンに虐められるような何かをした心当たりはない。心当たりがなくても彼女の気が向いた時に虐められることはあっても修行の時の間だけ。このような衆人環視の中で別荘内と同じことをするとは思えない。

 そう思ってはいても腰が引けてしまうのは、上下関係を心の底まで躾けられてしまった身の哀しさか。基本的に刹那は丁稚根性が染みついてしまっているのだ。

 

「気に入っているからこそ、今の貴様の堕落振りが我慢ならん」

 

 虐めるのが楽しく堪らないといったサディスティック全開の愉悦の表情も長くは続かなかった。まるで夢中になって遊んでいた玩具がつまらない物であったと気づいてしまったかのように。

 堕落、とエヴァンジェリンは今の刹那の状態を評した。堕落と言われて一瞬なりとも納得してしまった我が身を顧みて、しかし抗弁の為に開きかけた口を閉じた。

 

「反論しないところを見ると少しは自覚があるようだな。そこは感心しておいてやる」

 

 口を閉じた刹那を揶揄するようにエヴァンジェリンは再び愉悦の表情を浮かべる。苦悶する刹那を見るのが楽しくて仕方ないと、言葉よりも何よりも喜悦する表情が物語っている。

 

「半年前までの貴様には生まれと鬱屈した立場からくる触れれば抜き身の刀のような佇まいがあった。今の様はどうだ?」

 

 木乃香と仲直りして、明日菜という新しい仲間と友を同時に手に入れた。周りはどんどん人で溢れ、幸せだと感じる時間は増えた。なのに、心の中にある棘は消えてくれない。何時だって忘れた頃になって痛みが走り存在を強烈にアピールしてくる。

 修学旅行で自分は決して人ではないのだと月詠に刻み込まれ、それからずっと怯え続けて来た。

 戦いを前にした高揚感など既にない。あるのは真実の刃を突き刺してくる金髪の吸血鬼に対する恐怖だけだった。

 

『二回戦最終試合Fight!!』

 

 試合開始のアナウンスを聞いても刹那の体はピクリとも前に動いてくれなかった。それどころか目の前にいる自分以上の化け物から逃れようと無意識に後退りしていた。

 

「どうした? 封印によって魔力が使えない私に勝つなど造作もないだろう。それとも貴様は知っている人間を傷つけるのが嫌だとでも言うのか?」

 

 震える手で箒を構え、無様に震えながら逃げ道を探す。だが、逃げ道などない。最初から逃げ道などなかったのだから。

 見たくなかった物を無理矢理にでも見せられるような強制感に、喉の奥から込み上げて来る物があった。恥を知っているからこそ、どれだけ気持ち悪くても衆人環視の中で吐き出すことは出来なかった。

 

「最近は随分と幸せそうじゃないか? その人並みの幸せに浸って緩み切った顔は、あの騒がしい能天気なクラスのガキ共と同じではないか」

 

 試合開始と同時に、無防備にもゆっくりと歩みを進めるエヴァンジェリンに戦意は感じられない。愉悦も喜悦も夢の彼方のように消えうせ、感情など最初からなかったかのように無表情だった。

 無表情になるとビスクドールのような無機物のように感じられ、目の前で人形が動いて近づいて来る様が恐怖を更に煽る。

 

「幸せ……私が……?」

 

 幸福を感じたことは何も知らなかった幼き頃に木乃香と遊んでいた時以外に感じたことはないはずだった。改めて指摘されて、明日菜と鍛錬している時や今の木乃香と共にいる時に感じる胸が温かくなる感覚が幸せなのだと今更ながら気づいた。

 

「幸せになってはいけないのでしょうか?」

 

 思わず考えたことが口から出たのは、エヴァンジェリンから答えが欲しかったからもしれないし、誰かに認めて言葉にしてもらいたかったのかもしれない。

 思考を言動に直結した行動は止めようがなかった。下っ端根性が染みついている刹那は、こうしろああしろと命令された方が自分で決めて行動するよりも気楽なのだ。

 

「いかんとは言わんが、幸せになった貴様はつまらん」

「なんですか、それは」

 

 歯に衣着せずにキッパリと自分の好みで言い切ったエヴァンジェリン。

 ここまでアッサリと言われるといっそ清々しく思えて、刹那は恐怖を忘れて咄嗟に突っ込んでしまった。

 

「今のお前では最弱状態の私相手に本気で戦えまい」

 

 エヴァンジェリンは刹那を見つめる視線に憐れみすら覗かせて、ゆっくりと胸の前に上げた左手の人差し指だけをクンッと上げた。

 

「昔ならこんな手にも引っ掛かりはしなかった。幸せに浸って弱くなったよ、お前は」

 

 すると、両手で箒を持っていた刹那の右手が超能力で操られているように、本人の意志を無視して勝手に動いた。後ろから見えない手で手首が引っ張られているように動き、何もない中空に掲げられた。

 

「なっ、くっ……あ」

 

 和美や観客が驚いているよりも自分の手が中空に固定されて、動かそうとしても空間に固定されてしまったように自由に動かない刹那の方が何倍も驚愕していた。

 どれだけ力を込めても指先が動くだけで、袖が捲れ上がって場合によっては脇が見えそうな姿勢を変えられない。

 再びエヴァンジェリンが先程動かした左手を動かすと、今度は人に投げられたように刹那の体が飛んだ。傍目には刹那が勝手に動いたように見えるが全く本人の意志は関与していない。

 何が何だが分からないままに空中を飛び、刹那は高下駄が足から両足とも外れるのを感じた。

 

『ああ――――っと、手も触れていないのに吹き飛んだ!? ね、念力!?』

 

 空中で三回転してから何かに引っ張られて受け身も取れずに舞台に叩きつけられた刹那を見た観客達は、和美が言ったように超能力を疑った。

 背中に走る痛みを堪えて起き上がった刹那は観客達と違って第一に魔法を疑った。エヴァンジェリンは練達の魔法使いであって超能力者ではない。摩訶不思議なようにも見えるこの一連の行動を引き起こしているのは魔法以外に考えられなかった。

 

「ぐっ」

 

 当たらずとも遠からずだが、当の刹那は起き上がりかけたところを後ろに引っ張られていた。膝を固定され、両腕が背中に回される。一連の動作は全て同時に行われて抗う暇もなかった。

 

『今のは?』

『わ、分かりません!? 柔道の空気投げでしょうか?』

 

 解説席の茶々丸に話題を振られ、咄嗟に該当するのが柔道技しかなかったが彼自身も懐疑的であった。柔道技にあのような離れて人の手足を固定する技がなかったからだ。

 

「糸!?」

 

 当の拘束されている刹那は、ようやく生身の手足に食い込む獲物の感触から正体が糸であることに気づいた。

 良く周囲を見れば、極小の細い糸があちこちに張り巡らされているのが見えた。エヴァンジェリンが試合開始直後から中々攻撃をしなかったのは、会場中に糸を張り巡らかせていたのだと今になって思い知った。

 

「その通り、ようやく気がついたか。人形遣いの技能さ」

 

 拘束している正体に気づこうともブリッジを取っているような姿勢よりも力の入れ難い状況では意味がない。

 気づいたことでエヴァンジェリンが拘束する力を込め、手足に糸が食い込む痛みだけが刹那を支配する。

 

「ぐっ……あ、がっ」

「試合でなければこれで終わりだぞ。以前の貴様ならこう簡単にはいかなかったろうに」

 

 天井に掲げたエヴァンジェリンの右手の指が動く度に、糸によってギリギリと痩身を締め上げられて刹那が苦悶の声を漏らす。

 

「そんな様でお嬢様を守れるつもりだったのか? なぁ、白い翼の神鳴流剣士」

 

 白い翼と神鳴流剣士と続けたのは明らかな揶揄であり、刹那にとって禁忌ともいえるワードを言われたことで、彼女の頭の中でセーフしていた意識領域の一部が解放される。

 全身に気を纏って背中の下にあった箒を手にする。気が回された四肢に力を入れて、力任せに起き上がることで拘束していた糸が耐えられずに千切れ落ちた。全ての糸が一瞬にして千切れたので風船が破裂したような音を立てる。

 

「御免」

 

 ブリッジのような姿勢から起き上がった刹那が箒を振りかぶる。

 出来るだけ怪我をさせないように気を限界ギリギリまで押さえつけて、箒には纏わずに放つ。筋力だけを成人男性並みに上げての攻撃は、一般人であれば間違いなく昏倒のものの一撃。だが、刹那は読み違えていた。戦っているのが六百年を生きた怪物であることを。

 

「うむ、それだ」

 

 ポケットから取り出した黒光りする扇子を逆さまにして腕の動きだけで軌道を横へ流す。

 普通の扇子なら簡単に破壊されるだろうが、彼女が持っているのは鉄で作った扇子。特注品なので頑丈さは折り紙付きな一品である。手加減されて受け流された一撃で叩き切ることは出来ない。

 

「が、殺意が足らん。そんな甘さで私は斬れんぞ」

 

 肩を狙った一撃は当初の目測から外れ、刹那の体が空中で流れる。

 その後のエヴァンジェリンの動きは流れる水の如く自然であった。一歩の踏み込みで刹那の懐に半身で入り、鉄扇で箒を持つ右手の肘を絡めて内側から押した。それだけで左手に気を込めて二撃目を放つ間もなく地面に引き倒される。

 全く力を入れた様子もないのに、上腕部に膝を乗せられて肩の関節を極められて体重をかけられただけで踏ん張ることも出来ずに、刹那は顔から舞台に倒れ込んだ。

 

『おおっ!? 鉄扇逆腕絡み!?』

 

 豪徳寺が驚きでリーゼントを揺らめかせ、エヴァンジェリンが放った技を見抜いた。高畑の居合い拳といい、本当に彼は何者なのかと近くにいた長谷川千雨は思った。

 

「くっ……」

 

 気によるブーストのある刹那を抑え続けることは不可能と判断したのか、エヴァンジェリンはアッサリと未練もなく極めていた関節を外して距離を離した。

 エヴァンジェリンを追うようにジンジンと痛む額もそのままに立ち上がって、空中で手放した箒を掴み取る。

 見た目相応のパワーしかないエヴァンジェリンに成す術もなく倒されたことに動揺していて、瞬動も使わずにエヴァンジェリンに真正面から突っ込んで行く。

 

「いい気迫ではあるが動きが見え見えだ。動揺が手に取るように分かるぞ」

 

 次もまたエヴァンジェリンが刹那の攻撃に対して行った動作は派手さや大きさは皆無だった。ただ、軽く振るったように見えた鉄扇が振るわれた箒に当たったと思ったら、刹那は自分から体を舞台へ放り投げるように身を投げ出していた。

 純粋な体移動と重心を崩されただけで吹き飛ぶ己が体が宙にあって始めて、糸による操作ではなく体術によって為されたのだと刹那にも分かった。

 今度は舞台に体を打ち付ける無様を曝さずに片手をついて、後転に近い形で勢いを殺して着地しようとした正にその時だった。エヴァンジェリンがまた左手の人差し指を弾くように動かす。

 

「幸せボケして腑抜け過ぎているから、ヘルマンにも簡単に捕まる」

 

 着地した瞬間に右足首に何かが絡みつく感触。ゾクリと背筋に走る悪寒よりも絡まった糸が動く方が早かった。前方に引っ張られて足を掬われたように後ろに転倒する。糸の操作に身体強化分よりも小さな極小の魔力が感じられるだけで、唯人の範囲の力しか発揮できないエヴァンジェリンに圧倒される状況をそう簡単に信じられなかった。跳ね上がったスカートの中の下着のことを気にする余裕もない。

 

「くっ」

 

 足を糸で掬われたのを気を込めることで引き千切り、掬われていない足で舞台を蹴りつけてエヴァンジェリンに正対しようとする。

 しかし、起き上がった瞬間、目の前には後一歩踏み込めば手が届く位置にエヴァンジェリンがいて掌底が放たれていた。気の遣い手であろうと躱せる距離ではない。

 

「ぐっ」

 

 額を強打されて再び舞台に後頭部から叩きつけられる。

 打ち所が悪かったのか、後頭部を打った衝撃で視界に花火が散った。

 

『これまた一転!! お人形のようなマクダウェル選手に箒の桜咲選手がポンポンと投げられています!!』

 

 和美が実況している間にも、脳を揺らされて直ぐには起き上がれずに倒れたままの刹那に糸が意志を持つかのように絡みついていく。

 歪んだ視界に映るエヴァンジェリンが笑い、耳鳴りばかりの聴覚に豪徳寺の驚いた様子の声が意味を持たずに雑音として刹那の中で反響する。

 

「…………と言っても、この身体では雑魚魔法使いレベルが精々だ」

 

 何やら得意げに語っていたエヴァンジェリンの声がようやく明晰になって聞こえてきた。そこに来てようやく刹那は、自分の体が糸で釣り上げられていることに気がついた。

 両手を左右に開き、両足をピタリとつける姿はまるで見えない十字架に磔にされた聖人を思わせた。

 

「何故、奥義を使わん。気を込めた技を使われれば私も苦戦せざるを得ん。いや、お前ならば奥義を使わずとも私を斃せるはずだ」

 

 言われてもどうしようもなかった。力も速さも常人レベルだとしても、長い年月で積み上げた技術を前にして神鳴流剣士の刹那が子ども扱い。最弱状態であっても格の違いを見せつけられて、刹那は奥義を使ってもエヴァンジェリンに勝てるイメージを思い浮かべられなかった。

 全てを理不尽なまでに覆され、最後には這い蹲されるイメージだけが全てを支配する。

 

「ふぐっ……くっ、ぁ」

 

 脳を揺らされたダメージが集中が出来ず、気を纏うことが出来ない。糸がギリギリと全身に食い込み、生身の四肢は耐えられずに血を滴らせていた。

 

「甘すぎる。非情に成りきれん今の貴様は、そこらの中学生と何ら変わらん。見ているとイラつきを覚える」

 

 涙を目の端に浮かべて苦痛に呻くだけで糸から脱出出来ない刹那を見遣ったエヴァンジェリンは、言葉通りにイラツキを込めて嘆息交じりに吐き捨てた。イラツキを押し込めるように目を閉じ、しかしその指先だけはゆっくりと動いて刹那を締め付ける糸の力を強める。

 上げられた手の生身の部分が新たに切れ、滴る血は舞台に落ちることなく近づいてきたエヴァンジェリンの指に搦め取られた。指先に浮かぶ刹那の血を口元に運んだエヴァンジェリンはワインを飲むように口に含んだ。

 自分の血だと分かっていても口に溜まっていた唾を飲み込ませるほどの艶やかな仕草に、刹那は現在の状況も忘れて魅入られた。

 

「刹那……貴様――幸せになれると思うのか? 私と同じ人外のお前が…………いや、貴様は半分だったか」

 

 吸血鬼は処女の生き血が好物だというのに、エヴァンジェリンはどこまでも冷たい表情で問いかけた。

 エヴァンジェリンの選択を問う声が、慈悲深く胸に染み込んできた。選ぶまでは逃げ場も救いも無いと、彼女の中で冷たい理性が告げていた。

 

「お前のその背中の翼…………白かったな。その黒髪は染めたのか? 瞳はカラーコンタクトか?」

 

 刹那の背筋には悪寒が走り、心は氷結していく。あまりにも凄絶なその姿は見た者を畏怖させ、本能的な恐怖心で心と体を縛り上げてしまう。結局、体は竦み、思考は停止する。

 

「人の世から外れた私達が真っ当な幸せを得られると本当に思っているのか?」

 

 考えまいとした命題を他人に目の前に突き出され、刹那の世界は一変する。

 どれだけ偽ろうとも真実の姿は見るべき者が見れば暴かれてしまう。世界には木乃香や明日菜達のように受け入れてくれる者達ばかりではない。桜咲刹那は幼い頃からそのことを知っている。

 刹那は気分が悪くなってきて荒い息を吐いた。心の傷に触れられた所為か、よほど緊張しているからか、吐きそうなほどに胃の辺りが痙攣している。

 

「見せてみろ。貴様の真実の姿を。曝せ、全てを」

 

 釣り上げられていた体が下ろされ、だけど立つことも出来ずに跪いた刹那の前にエヴァンジェリンが迫る。

 

「………嫌や!!」

 

 伸ばされる手を見て、何をされるのかが本能的に分かった。命よりも深い本質を覗かれる恐怖に普段は使わない関西弁が出たことに気がつかない。

 

「私の目を見ろ」

 

 絶対遵守の命令を下されたように、駄目だと分かっているのにエヴァンジェリンの言うことを逆らうことが出来ずに目を見てしまう。

 

「貴様の傷を切開してやる」

 

 頭を掴まれ、残酷な笑みと共に吸血鬼が囁く。

 

「いやぁああああああああああああああああああああああああああああああっっっっ!!!!」

 

 耐えられない、と刹那は思った。翼も髪の色も瞳の色も、本当に誰にも見せたことがない。それこそ生まれた烏族の郷の者と自分を拾ってくれた詠春しか知らない姿。

 暴かれる。今まで誰にも頑なに守り続けてきた本当の姿を、よりにもよってこんな衆目の中で曝される。

 

「せっちゃん!!」

 

 恐怖の叫びを上げようとも、文字通りの魔の眼によって刹那の意識は過去へと遡っていった。最後に木乃香の声が聞こえたのが絶望に向かう刹那への、せめてもの手向けだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 臨時救護室で眠っていた神楽坂明日菜は、虫の予感を感じて目をパチリと開けた。それと共に五感が蘇り、あらゆる感覚が世界の情報を収集していく。

 見覚えのない天井に内心で首を捻りつつ体を起こすと、これまた見覚えのない室内であった。

 

「あら、起きたのね」

 

 目の前に人の顔が浮かび上がってくる。焦点が定まらない所為か判然としないが、目を細めることで輪郭がハッキリとしてきた。

 二十代半ば程の、麻帆良女子中の女性保険医だ。

 

「頭が痛いとかある? しんどいならもう少し寝てていいのよ」

「大丈夫です」

 

 その問いに夢心地のまま明日菜は返事を返すと、右手を立てて上半身を引き起こした。

 途端に軽い眩暈を覚えて視界が揺らぐが、倒れてしまうほどではない。頭を左右に振ることで意識は明瞭になっていく。

 

「ここは……」

 

 居場所を問う文言を口にしかけた直後、明日菜は自らが置かれた状況を正しく理解した。

 和装の趣のある室内に似合わない衝立とベットと、そこに寝ていた自分。

 アスカとの試合の最中にクウネル・サンダースと名乗ったローブの人物に何かを言われてから記憶が曖昧になっていた。曖昧になった記憶の向こうで、そこから連鎖的に明日菜の中から引き出されたものがあった。今はもう忘れてしまった郷愁を誘われる『何か』。

 

「ど、どうかしたの!?」

「何がですか?」

 

 いきなり慌てて顔を近づけて来る保険医の言うことが分からなくて明日菜は首を傾げた。本当にどうしたのか分からなかったのだ。それよりも心の奥底に微かに残っている『何か』の残滓を掻き集めようとした。

 

「涙が出てるわよ」

「えっ、嘘」

 

 手を伸ばしてきた保険医よりも先に目元を触った。すると、確かに目に涙が浮かんでいて右目の方には一筋だけ流れた跡があった。紛れもなく明日菜は泣いていた。

 そして左眼の方からも涙が一筋流れた。流れていく涙と一緒に、心の奥底に微かに残っていた残滓が流れていったように思えた。

 

「どこか痛いの?」

「いえ、痛みじゃないです何かとても大切なこと思い出したような気がして。でも、もう思い出せない。そのことが悲しいだけで」

 

 保険医に、ゆっくりと心に感じたままを伝える。

 最初は残滓が涙と連動するように流れていくことが悲しかったけど、残滓が消えて一度は涙も収まると、もう何も思い出せないことが悲しくなってきた。悲しくて哀しくて涙が止めどなく溢れ出る、

 忘れてはいけないことだと感じるのに何を忘れてしまったのかが分からない。そのことがとても歯痒く感じ、涙が流れる顔を悔しさで歪ませる。腕でゴシゴシと目元を拭いても涙は止まらなかった。

 

(いなくなっちゃ、やだ)

 

 唯一、記憶に残っている言葉を心の中で繰り返す。

 誰かがいなくなったのだろうかと思うけど、思い出せないことが悲しい。きっとその人はアスナの大切な人だったはずだから。

 

「私は強くなる。誰も失わないように誰よりも強くなる。幸せになってみせるから」

 

 遠い、誰かも分からない人に向けて明日菜は涙ながらに宣言した。

 きっと高畑が試合じゃなくてこの場にいれば涙を流して喜んだことだろう。どれだけ封印されても、どれだけ忘れ去られても残ったものがある。ガトウのことを忘れてしまっていても、彼の願った想いは確かに明日菜の中で残り続けている。

 涙がスゥッと引いて、誰かに向けた誓いをした明日菜の顔が別人のような凛々しさと美しさという矛盾しながらも同居しているのを見て、保険医は安心したように身を引いた。

 

「大丈夫、そうね」

「はい。あ、もう行っていいですか?」

「出来ればもう少し安静にしてほしいけど、怪我もないし、私はここにいるからなにかあったら来なさい」

「今って誰が試合してるんですか?」

「何分か前に試合が始まったみたいだけど、誰のかは分からないわ。コールは聞こえないし、まだ試合中ないかしら」

 

 良く寝たとばかりに背筋を伸ばしてベッドから降り、目の前で屈伸運動をしている明日菜に言って保険医が離れて行く。

 明日菜も拝殿を出て試合をしている舞台に行こうと、歩き始めたところで親友で剣の師匠でもある桜咲刹那の悲鳴を聞こえたような気がした。

 

「刹那さん?」

 

 行かなければ、と直感が叫んでいる。今行かなければ何かが手遅れになる予感が脳裏で警鐘となって鳴り響いていた。既に明日菜の気持ちは決まっていた。

 

「待ってて」

 

 布団から出てベットを下り、襖を開けて駆け出していく。一刻も早く、風よりも素早く友の下へ急がんと走る。

 ただそうすることだけが友を助けられるのだと信じて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 桜咲刹那が物心ついた時、既に両親はいなかった。父親が烏族で、母親が人間のハーフであったが大人は他の子と区別をつけることなく可愛がってくれ、子供達も差別することなく接してくれた。暮らしていた烏族の郷は同族を大切にしているので、親のいない彼女にも誰もが家族のように接してくれていたから幼少の刹那は寂しくはなかった。

 昔と違って今の日本では妖が住める領域は限られてくる。だから同族の結束は強く、ハーフであっても受け入れる度量のある集団に育てられていた刹那は幸福と言えよう。

 

「親がいなかろうが、生まれが他と違っても、貴様は幸せだったのだな」

 

 エヴァンジェリンが見る限り、物心ついた時の刹那の記憶は幸福に包まれていた。

 自分が周りと違うことも知らず、ただ無邪気に周りから与えられる愛を甘受している子供。

 

「だが、そうでは今のような人格にはならん。壊れたのだろう、この幸せが」

 

 その幸福が全てが壊れたのは、翼が生えた時だった。ハーフである刹那は純血の烏族と違って生まれた時から翼が隠れていた。霊的に不可視になっていて、傍目には翼がないように見える子供だった。

 

「烏族の証明、翼があれば自分は周りと同じだと思った子供だったわけか」

 

 翼が生えた正確な時期を刹那は覚えていない。霊的に隠れているなんて知りもしなかったから朝になったら生えたという認識だった。

 他の子供が翼を生やしているのを羨ましそうに思っていた刹那は当然として皆に生えた翼を見せて回った。それが日常が壊れる行為だと知りも知らずに。

 

「白い髪に紅い眼、それらは種族が違う親から生まれたことによる遺伝的な異常ではなかった。生えた白い翼によって全てが裏返る」

 

 大人達は誰もが刹那を見て驚き、ついで災厄が目の前にいるかのように逃げ惑った。我が子を持つ者は必至の決意で刹那の前に立ち塞がった――――武器を携えて罵倒と共に。

 

「逃げ出したか、無理もない。ただの子供が、さっきまで笑いかけてくれた大人に武器を向けられ、平静でいられるはずがない」

 

 追い立てられるように郷を逃げ出した刹那は、どことも知れぬ滝壺にいた。

 寒いのか濡れた全身を震わせていた。外は真っ暗で夜になっていた。空には丸々とした月が浮かんでいる。森の中を走り回っている間に足を踏み外して川に落ち、そのまま流されて滝から落ちたのだ。

 少しでも暖を取ろうと刹那の全長近くある翼で体を覆うが、濡れて気持ち悪いだけで少しも温かくならない。幼い刹那に水で濡れて冷えるなんて知識はなかった。

 

「現代では先天性色素欠乏症と分かっていても忌避されるように、古来より生きる烏族にとって白い翼はタブーとして不吉の象徴であったわけか」

 

 集団とは同じであることを求める性質がある。同じものなら人種・性別・思想と何でも良いのだ。だからこそ、人は集団を作り、外れた異端を弾く。

 

「生まれではない。育ちでもない。問題は翼の色が白かっただけ。それが貴様の不幸の源泉」

 

 烏族でも人間でもない中途半端な種族として生まれた刹那。人間として過ごすには妖としての姿が邪魔をする。妖として生きるには人間としての部分が邪魔をする。それでも受け入れてくれる集団があったのに、ただ白い翼をしているというだけで遠ざけられた。

 もしかしたら烏族の歴史の中に、白鳥が何らかの事件を起こしたのかもしれない。郷を抜け出した刹那にとっては全てが遠い出来事だった。

 

『こんな……こんな白い翼があるから!!』

 

 幼い刹那にはどうして大人達が自分に恐怖したのかが分からなかった。ただ白い翼が原因だろういうことは幼いなりに分かっていた。

 コミュニティから弾き出されて幼い刹那一人では生きてはいけない。事実上の死亡宣告を下されたのだと理性ではなく本能で察した刹那の取った行動は過激だった。

 

『づぅっ……ああっ! ぎゃ……っ』

 

 原因である白い翼の羽を一本ずつ、世界に絶望して泣きながら引き抜き始めた。彼女の羽はまだ柔らかく、小さな刹那が少し力を入れて引っ張るだけで簡単に抜けた。

 烏族に限らず、翼を生やす種族に共通してやってはいけないことを刹那はしていた。羽を抜く度に血が迸り、涙と入り混じって滝壺を紅く染めていく。この場を本山を継ぐためにナギ達と別れた近衛詠春が通りかかるまで続けられた。

 

 

 

 

 

 詠春に連れられて関西呪術協会に身を寄せた刹那だったが、ここにも居場所はなかった。

 

「関西呪術協会は退魔の組織。半分が人であろうとも妖の側面があることは否定できない。例え白髪と瞳の色を変えたところで同じだ。居場所などあるはずもない」

 

 この頃からは白髪を黒髪に染め、瞳にカラーコンタクトを入れるようになっていたが自分から歩み寄らず、また周りから歩み寄っても感情を失くしてしまったような無表情で無感動な刹那を好きになってくれる者もまたいなかった。

 半妖である刹那が関西呪術協会にいることを許されていただけでも温情であった。それも次期長の座が約束されていた詠春が口添えしていたからこそ。

 

「本当にお人好しの詠春に拾われて幸運だったな。次期長である詠春でなければ、とうに追い出されていたか、悪ければ討伐されていただろうに」

 

 詠春が刹那の様子を見て環境を変える必要があると思うようになるのも必然だった。

 古巣である神鳴流――――それも従姉弟である青山鶴子と素子の姉妹に託したのは、神鳴流もまた退魔を目的とした組織であったのは運命の皮肉か。

 

「環境には恵まれずとも、人には恵まれるか」

 

 烏族の郷でのトラウマによって武器を怖がる刹那の様子を見て取って、神鳴流の鍛錬は極簡単なものであったが、青山姉妹に預けられたことは天恵であった。彼女らは刹那と根気よく付き合い、預けられて一年が経過する頃には刹那も人見知りをする普通の少女と変わらなくなっていた。

 青山姉妹を師というより姉として接していた幼い刹那がより変わったのは、長の一人娘として友達が一人もいなかった木乃香の友達にと請われた時からだった。

 両者にとって初めての友達。刹那にしてみれば自分より弱い木乃香の存在は自分が守らねばならない初めての庇護対象だった。

 

「救う者は、救われる者の気持ちを絶対に理解できない。貴様の忠誠は、これが理由か」

 

 頼られることの嬉しさ、大人の思惑も何もない純粋な気持ちがどれだけ刹那の心を震わせたか、きっと木乃香は知らない。

 そんな幸福な日々も唐突に終わりを迎えた。

 木乃香が川に流されて溺れそうになった時、刹那は助けにいけなかった。泳げなかったが翼で飛べば助けることが出来たのにしなかった。正体を知られてて拒絶される恐怖が彼女を縛り付けたからだ。

 結局、泳げないのに刹那も川に飛び込んで溺れた。二人して大人に助けられたが刹那には慚愧だけが残った。木乃香は笑って許してくれたが刹那自身が己を許せなかった。

 

「許せないのは助けられなかった自分ではなく、拒絶されることを恐れた自分」

 

 木乃香と離れ、守る為に今まで疎かにしていた剣の鍛錬に身を入れ、元々の才能もあって実力をメキメキと付けていった。

 しかし、自分達を置き去りにしていく刹那に同じ門弟達から心無い言葉は何度も叩きつけられた。

 

「何時だって人は自分よりも優れた者に嫉妬し、妬むことで己を守る。その点、貴様はその捌け口として絶好であったろうよ。なにせ、材料には事欠かなかったのだから」

 

 師である青山鶴子や素子に可愛がられていたのも彼らの顰蹙を買っていたこともあるのだろう。悪口は陰口だけに留まらず、面と向かって言われることもあった。

 

『人外が』

『化け物が人様の剣術を習うなよ』

『流石は人じゃないだけあってパワーが違いますね』

 

 刹那が実力をつけていったのは明確な目標を以て周りの何倍も努力していたからで、彼らの悪口は何ら根拠のない言葉であった。それでも烏族の郷を追い出された過去を持つ刹那を傷つけるには十分で、人知れず涙したことは数知れない。

 悪環境の中でも挫けずにいられたのは木乃香を守るという理念と慈しんでくれる青山姉妹がいてくれたからだ。それでもふとした時に心が折れそうになる。鶴子との鍛錬での一幕でもそんな時があった。

 

『疾っ!』

 

 気を溜めた斬撃を放ったが、進路上にある木をすり抜けて後ろにあった大岩を真っ二つにした鶴子の技に刹那は絶句した。

 

『これが神鳴流奥義・斬魔剣弐の太刀や。元々は悪霊に憑かれた狐憑きや悪魔憑きの悪霊のみを切り伏せる技として生まれたんや。滅多に見れへんからよう覚えとき』

『つ、鶴子様!? その技は宗家青山家にしか伝えられていない技では?』

 

 実演した鶴子を唖然として見ていた刹那は、行われた技が秘伝であることを悟って顔を青くした。

 

『別に宗家以外に教えたらあかんていう決まりなんかない。まあ、教えて簡単に習得できる技でもないから伝えられてないだけや』

 

 秘伝がそんなアッサリとした理由でいいのか、と刹那が聞いたら、「初代はこの技を必要な時に必要な者に伝えるように厳命しとるんや。気にせんでいい」と刹那にはよく分からない理由を言った。

 

『…………私には出来ません』

 

 何故自分に教える気になったのか分からないが、刹那にはこの技は覚えられないと思った。

 数いる門弟を押し退けて鶴子の教えを受けるだけでも勿体ないことなのに、そんな秘伝中の秘伝を、しかもよりにもよって半人半妖である刹那が退魔の技の真骨頂を覚えるなど皮肉が効きすぎている。ただでさえ、妖の面を持つ刹那が神鳴流を習得しただけでも矛盾しているのに、自分には過ぎた技だと引け目を感じた。

 俯いた刹那の足下に影が差した。小学生の刹那と同じぐらいの大きさで、鶴子にしては影が小さすぎる。

 

「拠り所としている剣の流派にすら、お前は居場所がなかったのだな」

 

 鶴子でも他の誰でもない聞き覚えのある、でもひどく優しい声が宥めるように降り注ぐ。

 誰かと思って顔を上げると何時の間にか鶴子の姿はなく、草の根を掻き分けて金髪の少女が天使のように髪を広げて降りてきた。

 

「白髪の髪に赤眼。それが本当のお前の姿か」

 

 金髪の少女――――エヴァンジェリンが言い放った言葉に、刹那はハッとして髪に手をやった。

 手で持った髪は白かった。日本人に見えるように呪術で黒に染め上げた髪が生来の白色に戻っていた。エヴァンジェリンの言を信じるならカラーコンタクトを入れている瞳も血のような真っ赤な色に戻っているのだろう。

 着ている服も背中が大きく開いた袖のない純白の装束と真っ赤な袴に変わっていた。手には使い慣れた夕凪。背中には装束と同色の大きな翼が広がっていた。

 

「アルビノ…………先天性白皮症。種が分かってしまえばなんてことはない。何時だって集団から異物は取り除かれる。人種や宗教だけでなく、時として考え方が違うだけで弾かれることがある。弾かれる対象の最たるものが見た目だ」

 

 白き髪と赤い目の刹那の姿を余人が見れば白鳥を重ね合わせたことだろう。深い森の中という幻想すら感じさせる空間の中で、彼女はそれだけの存在感を放っていた。

 

「メラニン生成能力が欠けて白い翼になっているだけで、お前は他の烏族と何ら変わることはない。純粋な基本能力だけならハーフである分だけ劣っていると言ってもいい」

 

 白い翼を持っているからといって秀でた力や変わった能力があるわけでもない。桜咲刹那はその存在こそがタブーとされていた言い伝えを否定していると本人は気付かない。或いはタブー視されているからこそ、白い翼を持ってしまった烏族達は刹那と同じように迫害されて反旗を翻したのかもしれない。

 

「しかし、烏族の郷で拒絶され、人に遠ざけられたお前は、どちらの世界にも居場所を見いだせなかった。ただ一人、近衛木乃香を除いて」

 

 人と妖との間に生まれた刹那だからこそ、どちらの世界にでもいられるようで、どちらの世界にも居場所がなかった。親しくしてくれる人も優しくしてくれる人もいたのに、木乃香以外に心の拠り所を見つけられなかった。

 自分を拾ってくれた詠春は関西呪術協会を纏め、木乃香を守る父であらねばならなかった。青山姉妹は神鳴流の宗家として他の門弟と同じく刹那だけを特別に贔屓することは出来なかった。

 木乃香だけだったのだ、刹那を頼りとしてくれたのは。対等に立ってくれたのは近衛木乃香が初めてだったのだ。まるで生まれたばかりの雛が始めて見た者を親かどうか関係なく親と認識する刷り込みのように木乃香を求めた。

 

「その気持ちを否定はせんよ。私にも闇の中で見つけたたった一つの灯に焦がれる気持ちは良く分かる」

 

 エヴァンジェリンにとってのナギのように、アスカとネギにとってのナギのように、桜咲刹那もまた近衛木乃香に救いを見い出した。故にエヴァンジェリンは刹那を絶対に否定できない。生まれた頃から不幸を背負った彼女に共感すら覚える。

 

「だが、お前に剣と幸福を両立させることは出来ない。不器用なお前が生きていくにはどちらかを捨てねばならない」

 

 桜咲刹那は器用な人間ではない。木乃香を守るという理念を貫くために、麻帆良で再会した彼女が傷つくと意識の底で分かっていながら遠ざけた。烏族で、白い翼を持つ自分が傍にいると魔法の事が知られてしまうと言い訳をして。

 本当に木乃香の事を思うならば、傍にいて心を守るべきだった。出来なかったのは刹那の心の弱さにあった。

 

「アーニャに背中を押されて木乃香と関われて嬉しかっただろう。だからこそ、タブーとされていた翼を伝えることが出来ない。この幸福を捨てるかもしれないから」

 

 木乃香に受け入れられて、刹那がどれだけ幸福を感じたか。想像は出来ても他人には真に理解できない。

 エヴァンジェリンは、一年前までの刹那を触れれば切れる抜き身の刀の様な佇まいがあったと言った。当時の刹那は自身の幸福もいらず、木乃香を守ることだけを考えれば考えていれば良かった。でも、アスカ達が来てから状況が変わった。秘密にしていた魔法のことを知られ、木乃香と少しずつ歩み寄るようになった。

 明日菜という友と戦友を同時に得て、一人で木乃香を守る必要が無くなった。ずっと張りつめていた糸を緩めると、今までの飢えを癒すように幸福を求める。もう一人だった時にはもう戻れない。

 

「苦しいだろう、辛いだろう。もう楽になっても誰も咎めはせん。お前は良くやったよ。もう十分だ。なぁ、刹那。もう剣を捨ててもいいんじゃないか?」

 

 麻薬のような心身を蕩けさせる幸福を今の刹那は捨てられない。同時に幼き頃から積み上げてきた剣も捨てられるはずもない。どちらも選べない刹那は苦悩する。

 

「剣は、剣は捨てられません!!」

 

 エヴァンジェリンに相対する自分が十四歳の頃に戻っていることに気づかず、握っている夕凪を手に言い放った。

 そう、捨てられるはずがない。桜咲刹那の人生は剣と近衛木乃香を守るという理念と共にあった。今更、捨てるには背負った物が多すぎる。そして剣を捨てることは木乃香を守るという理念を捨てることでもあった。そんなことは死んでも出来ない。

 剣を捨てるということは桜咲刹那の人生の否定でもあった。

 

「お嬢様を守ることは私の全てです! これがなければ私は生きていけません!!」

 

 桜咲刹那は近衛木乃香を親友と思っている。その思いに偽りはない。だが、関西呪術協会の長の娘として守る対象と見ていることも否定できない。自らを自然と下に置く在り方は、木乃香を「お嬢様」と呼ぶ呼び方にも現れている。

 烏族と人間のハーフとして、裏の人間として、刹那が対等であると思っている人間は実は少ない。裏のことを知らない人間には間に線が引かれていて、ハーフとしてどっちつかずの己は輪に入っていけないとも思っている。刹那が人の輪に入っていく為に剣はどうしても必要なのだ。

 剣があるからこそ木乃香の傍にいられ、剣があったから明日菜と友達に成れたと刹那は思っていた。

 白い翼を持つハーフとして忌み嫌われた過去を持つ刹那には、普通の友達として二人の傍にいれる自分を想像できない。護衛や師という分かりやすい立場が無ければ傍にいられない強迫観念がある。

 木乃香を守れず、今度こそ守る為にと求めた剣であるからこそ捨てられない。例え木乃香や明日菜に言われても捨てられない。

 

「大仰だな、くだらん。そんなものは錯覚だ」

 

 刹那の魂の全てを賭けた叫びすらもエヴァンジェリンを揺らがすには至らない。

 空中から降り立って一歩も動かなかったエヴァンジェリンが始めて、一歩だけ足を前に出した。

 

「全てだとか夢だとか、誰もが良く見る勘違いだ。そんな大層なモノに縋らずとも日々の小さな幸福と愉しみがあれば、人間って奴は生きていける。六百年を生きた私が保証してやる。お前のその思い込みも勘違いに過ぎん」

 

 この世にある全ての夢や理想のアンチテーゼを、かくも容易くエヴァンジェリンは歩みを進めながら優しげな笑みと共に提示する。 

 

「剣を捨てて、これから強くなっていく神楽坂明日菜に守ってもらうのもいい。なんならアスカに縋ってみるか? 泣いて助けて欲しいと言えばあのタイプは命を賭けて守ってくれるだろうよ」

 

 刹那の想像も出来ない六百年の時間を生きた真祖の吸血鬼が語る言葉は、万人が万言を費やすよりも重い説得力を持っていた。彼女は実際に見てきたのだろう、夢に破れてそれでも生きられると知ってつまらない大人となった大勢の子供達を。

 

「で……でも!!」

 

 生まれた場所は変えられない。でもどう生きるかは自分の力で変えられる。そう信じて今まで生きてきた。なのに、血に縛られる己が身が不遜な考えこそが間違っていたのだと思い知らされる。

 たかだか、十四年しか生きていない刹那の言葉では翻すほどエヴァンジェリンは甘くも優しくもない。真綿で首を絞めるようにジワリジワリと反論の言葉を奪っていく。

 

「選べ、剣か幸福か。ただの人間として幸福に生きるのも悪くはないぞ」

 

 二人の間の距離がドンドン近づいていく。まるで縮まっていく距離が選択の答えを出すように急かしているようにも思えた。

 日常という名の幸福と非日常という名の剣を乗せて、代価を要求する天秤がユラユラと揺れ続けている。

 

「私は……私は……私は……」

 

 縋るように両手で夕凪を抱いている刹那の身体が慄くように震え出す。

 空はこんなに明るいのに、刹那の目には今、陽光が落とす濃い影ばかりが目立った。突然、世界が苦悩だらけの迷路になった気がした。空気が、まるで闇の中にいるかのように薄ら寒い。

 もうとっくの昔に世界はこういうものだと諦めていたはずだった。だが、涙が込み上げそうになった。

 

「世界は厳しい。力と策謀が支配する、隙を見せれば即座に食われる泥沼だ。その手を血で汚す前に引き返せ。引き返せる綺麗な手を持っている内に」

 

 エヴァンジェリンがナギに光の世界に誘われたように、彼女は同じように闇の世界に縋りつこうとする刹那へ、後一歩の所で立ち止まって手を差し伸ばす。

 手を掴むには踏み込まなければ届かない場所で、選択を問い続ける。

 

「日常という鈍磨した光の世界で戦うことなく戦士としての本能を薄れさせ、やがては剣を錆往くに任せて打ち捨てればいい。戦うための武器は平和な日常には必要のない物だ。中途半端に惰弱を晒すぐらいなら、もう剣を捨てて楽になれ」

 

 幸せに緩み切って生きていくのなら、剣を捨てて非日常と縁を切れとエヴァンジェリンは断じた。そして良いことを思いついたようにニヤリと笑った。

 

「言い忘れたが今のお前の姿は会場にいる全ての者が見ているぞ」

 

 それが決定的だった。

 

「――――――――ぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああっっっっ!!!!」

 

 彼女は正気を削られながら、気を夕凪に込めて振るっていた。気持ちの奥に大切していたものを決定的に剥ぎ取られて、踏み躙られていた。だから、泣いてよいはずだった。こんな時に泣かずに、一体何時涙を流すのだ。

 選べなかった。選べなかったから、選択を問う者を消すしか刹那には残されていなかった。

 

「感情を乗せただけの無様な剣だ。そんな太刀筋では何も斬れまい」

 

 パキン、と軽い音を立てて、エヴァンジェリンの手刀によって夕凪が太刀の中程から折られる。

 長である詠春から木乃香を守る為に麻帆良に立つ際に賜った夕凪が折られた。同時に、彼女を奮い立たせていた熱が急速に冷めてゆくのを感じていた。彼女の木乃香を守るという理念が刀と同時に折られた。

 

「そんな無様な剣に頼るぐらいなら捨てて、幸福な日常に溺れながら生きろ」

 

 パンッと、夕凪を叩き折ってから振り戻ってきた手が軽く頬を叩く。魔力も何も籠っていない一撃に抗することも出来ずに倒れ込む。

 今までと同じように戦ったが完敗した。力を失って倒れた彼女に引っ繰り返せないと、判断できてしまった。これまで、なんとかなると彼女自身に言い聞かせてきたことが滑稽にすら思えた。

 

(これで終わりなのか?)

 

 終わりだと認めることが出来てしまった。この世には乗り越えられない影がある。

 横たわったまま、折れてしまった夕凪と同じように、心の中心にあった何かがポッキリと折れたように体に力が入らなくなって、流れた涙が伝って地面に落ちるのを見た。

 

「…………ああ」

 

 と、口からため息が漏れた。天秤に乗せられていた剣と幸福の内、剣が秤から零れ落ちた。桜咲刹那が頼れるものは日常という名の幸福だけとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ザワザワと困惑した観客の纏う空気が龍宮神社を覆っていた。

 

『こ……これは?』

 

 舞台脇にいる和美が観客と同じように困惑するのも当然だった。試合をしている二人が先程からピクリとも動かないのだ。

 

『両者、目を見開いたままピタリと動きを止めました。これは一体……』

 

 舞台上では跪いた刹那の頭を鷲掴みにしたエヴァンジェリンが顔を覗き込むようにして近づけて、二人は目を見開いたまま硬直したように動かない。刹那が跪いているので和美はカウントを取るかどうか悩んでいる。

 全く動かない二人に観客達も困惑を隠せないでいた。目を見開いて固まるという異常にも見える状態では野次を飛ばすことも出来ず、彼らもまた固まったように舞台を見続けることしか出来なかった。

 

「せっちゃん……」

 

 そんな観客達の中に近衛木乃香の姿もあった。舞台が真横から見える観客席にいる彼女は、困惑する観客達の中にあって悲壮に動かない刹那を見つめていた。

 舞台上での会話は遠く離れた木乃香の場所まで聞こえない。それでも最後の悲鳴は耳の奥に残るハッキリと聞こえた。

 助けたい。でも、今の刹那をどうやって助けたらいいのかが分からなかった。ただ祈り続けることしか出来ない。

 

「木乃香!」

 

 胸の前で両手を握って刹那の無事を祈り続ける木乃香の名を呼ぶ声があった。

 何時だって木乃香が沈んでいた時に勇気づけてくれた声だった。

 人混みの観客席を急いで掻き分けて来たから髪の毛が跳ねたり少しだけ衣装が汚れていたりしたが、木乃香の級友で親友の神楽坂明日菜の姿を見た時、不覚にも泣きそうになった。

 

「試合はどうなってるの?」

 

 泣きそうな顔で自分を見つめて来る木乃香から少しだけ視線を外して舞台を見た明日菜は、ピクリとも動かない現状に観客と審判兼実況の朝倉和美の困惑ぶりは手に取るように分かり、再び視線を戻して問いかけた。

 

「よう分からんねん。エヴァちゃんが何かしたと思うねんけど、さっきからあんな風に石みたいに固まったまま動かへん」 

 

 頼りになる存在を前に木乃香の我慢は限界を迎えた。

 

「なぁ、明日菜。うちはせっちゃんをどうやって助けたらいいんやろ。何時も何時も助けてもらってばっかりで何も返せへん」

 

 今の舞台上で固まる前に刹那の悲鳴を聞いたが木乃香はあんな刹那の声を聞いたことがない。きっと助けを求めていると分かっているのに何もしてあげられない歯痒さが木乃香を苛む。

 幼少の頃から刹那は木乃香を守る為に他の全てを捨てて力を求めた。別荘で鍛錬する姿を見て、小さいな頃から木乃香には想像もつかない苦しいことをしてきたのだと知った。

 なのに、木乃香は刹那に何も返せていない。ただ、昔のような仲の良い関係がいいと言い続けて来ただけだ。嫌っていないと言葉で行動で愛情を示し続けて来たけど、木乃香はずっと不安だったのだ。

 自分と出会う前の話を一度も聞かなかったから。出会った頃や今だけを見ようとして刹那の過去と向き合うことをしなかった。

 

「木乃香……」

 

 飛びこんだ明日菜の腕の中で木乃香は泣いていた。彼女の心の闇がここまでとは考えていなかった。

 明日菜は刹那が木乃香を守れれば満足だと言っていたことを思い出していた。二人の間には誰にも入れない絆がある。きっと明日菜にもだ。

 大切に思っているのに、大切に思っているからこそ、相手を気遣ってすれ違って本当に大事なことを話せない。

 

「刹那さんを助けよう」

 

 気がついたら明日菜はそう言っていた。

 二人で完結していたところに現れた異分子。ここまで問題を表面化させたのは自分の所為なのかもしれないという思いが明日菜にあった。二人だけでは解決していなかったことを知れた立場にいたのに、曖昧な嘘の上に安楽を築いてきた。だから、今こそ立ち向かわなければならないと思っていた。

 

「でも、どうやって?」

「分からない。でも、何かをするのよ」

 

 木乃香は目の前にいる力強い視線を向けて来る明日菜が本当に自分の知っている神楽坂明日菜なのかと思った。

 アスカの拒絶から立ち直った明日菜は不思議な芯のような物を感じさせた。その芯が強さに変わって、彼女を別人のように見せているのだ。人を魅了せずにはおけないカリスマ性のようなものを身に纏っていた。

 無力に沈んでいた木乃香にも気力が溢れてくる。

 

「多分、エヴァちゃんが何かやったんだとしたら魔法なんだから専門家に聞いてみましょう」

 

 そう言って彼女が向いた先には、選手控え席にて難しい顔で試合を見ているアスカがいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 桜咲刹那は諦めることに慣れている。何度も何度も色んなことを諦めてきた。彼女の人生は諦めることで進んできた。

 最初に諦めたのは妖として、烏族として生きることを諦めた。タブーとされている白い翼があるからだ。そして次に諦めたのは人間として生きることを諦めた。これもまた背中にある白い翼があるからだ。霊体化しても背中の翼は消せない。

 次に諦めたのは木乃香の友達として生きる道だ。川で溺れた木乃香を守れなかった刹那は力を求めた。結果として木乃香の護衛となり、友達の関係に戻ることを諦めた。

 木乃香を守る為に力を求め、神鳴流を学んだがこの道も諦めた。学びはしたがどこまでも純粋な人ではない自分が退魔の剣術を極めることは出来ないと思い込んだ。

 

(うちは……)

 

 流れ落ちた涙が地面に染み込んでいくのを見遣り、今また剣をも諦めようとしていた。

 諦めることには慣れているはずなのに、涙が止めどなく何時までも溢れ続けていた。今まで剣に込めて来た思いの丈を物語るように涙が止まらない。

 不思議だった。木乃香を守る為の力を求めて剣を握ったはずなのに、折られた剣を前にして胸に浮かぶのは郷愁にも似た切なさだった。消してはいけない温かさだった。その温もりと切なさの正体を探したら簡単に見つかった。

 

(剣で育んだ絆もあったんや)

 

 既に刹那が手にした剣は木乃香を守るためだけのものではなかった。仲の良かった門弟は少なかったが鶴子や素子以外にも目をかけてくれたり、ふとした時に不器用な優しさを見せてくれた人がいたことを今更に思い出した。

 詠春もまた刹那を信じてくれた。刹那に護衛の任を与えたのは木乃香との関係性があったかもしれない。それでも桜咲刹那という一個の人間を見ていなければ、長年使い続けた愛刀である夕凪を譲り渡してくれるはずがない。

 剣があったから麻帆良に来て、友人関係とはまた違った繋がりのあった龍宮真名や所属していた剣道部の人達と知り合えた。

 

(でも、もう遅い)

 

 気付くのが遅すぎた。体が動かない。心の芯は、夕凪は折られたのだ。何時だって刹那は大切なことを気付くのが遅すぎる。失ってから大切な物の価値に気がつく。

 喪失に痛みはなかった。途方もない喪失感だけが体を埋め尽くして、動く力を奪っていた。開いていた瞼を閉じようと思った。眠ったらこんな喪失感も消えると思った。

 

《――――刹那さん》

 

 閉じかけた瞼が痙攣して開かれた。

 懐かしい声が聞こえた。彼女にも出来た新しい友達が見ているのならば動かねばならない。

 

《――――せっちゃん》

 

 刹那の大切な人の声が声が聞こえた。

 愛しい主が泣きそうになっているのならば動かねばならない。 

 喪失感が別の物で埋められていく。

 光が生まれる。倒れた刹那を腰辺りから生まれた光はどこまでも広がっていく。光は刹那を覆い尽くし、染み入るように体の中に入っていく。

 指先が動き、手が動いて顔を上げた。足が動いて膝を付いた。付いた手で上半身を地面から上げる。足を踏ん張って胸を張って立ち上がった。そしてエヴァンジェリンを見据えた。

 光に導かれるように言葉が胸の中に溢れて来る。

 

「エヴァンジェリンさん。剣も幸福も、どちらも選んではいけないでしょうか?」

 

 人と人の繋がりが幸せと思った。幸せの、沢山の答え。きっと、誰も知っていることだ。時々は忘れているかもしれないけれど、それでも足を止めて振り返れば必ず胸の真ん中にある真実。

 

「私は剣を捨てられません。いえ、捨てたくありません。剣はもう私の一部。剣を捨ててしまったら桜咲刹那ではなくなってしまいます」

 

 折れてしまった刀身の夕凪を手に、桜咲刹那は暗闇の中で見出した真実を語る。

 

「ハッ、言っただろう。そんな思いは勘違いに過ぎないと。剣を捨てようがお前は何も変わりはしない」

「そう言われようと、私は諦めきれません。剣があったからこそ今の私がある。思い込みと勘違いと言われようとも曲げるつもりはありません。剣も幸福もどちらも諦めません!!」

 

 刹那は荒くなった息と獣のような鼻息の合間に、ようやく言えた。頭が朦朧として倒れてしまいそうだった。酸素が欲しかった。心臓は、逆にピタリと止まってしまいそうなほど速く脈打っていた。

 一秒後には目の前の吸血鬼に首を落とされているかもしれない緊張感の中で、夕凪を持つ手の指がまだ微かに震えていた。でも、今も守るように袴のポケットから生まれる光が身近に木乃香を明日菜を感じさせてくれたから、彼女達が信じる桜咲刹那でいられた。

 

「ホザけ、ガキが!!! 甘ったれの貴様にそれが出来るのか!!」 

 

 間近にいた刹那が吹っ飛ばされんばかりの言霊が込められた大喝が森の中に響き渡る。

 

「出来るか出来ないかじゃありません。やるんです」

 

 近くの木の葉が耐えきれずに雪のように落ちてくる中で、動ずる事なく己の決意を言い切った。全身が縮み上がり心臓が止まってしまうほどの大声であっても、刹那の意志は変わらなかった。

 もっと苦しかった明日菜がアスカに向かって行ったのだ。親友の刹那だけが退くわけにはいかない。

 

「何時の日か剣を置くために、あなたを斃してでも両方を勝ち取ってみせます」

 

 日常に帰る為に、戦う時が今なのだ。

 ピリピリと痺れるような緊張感の中、刹那はこれで良いのかと疑うほどの充足感に満たされていた。

 

「………………ふっ、はっはっはっはっはっ!!」

 

 緊張感を打ち破るように厳しい面持ちだったエヴァンジェリンが突然笑い出した。

 

「小便臭いガキが良くぞ吠えた!」

 

 不器用は不器用成りに筋を通して生きていくしかない。事もあろうに刹那はどちらかだけを選ばずに、選択を問うたエヴァンジェリンを前にして両方を選ぶと言い切った。ここまでコテンパンにされておきながらも、闇の福音を斃してみせると大見得を切ったのだ。笑わざるをえない。

 

「いいぞ、こんなにも愉快にはなったのは本当に久しぶりだ」

 

 怯え、屈しきっていた娘が吠えた姿にエヴァンジェリンは笑わずにはいられなかった。

 

「精神は肉体に影響を受ける。ガキの姿のまま不死となった私は他の化け物どもよりも若いつもりなんだがな。くっくっ、お前達といると本当に年を実感するよ」

 

 楽しくて堪らないとばかりに顔を掴むようにして大笑いしたエヴァンジェリンは、ツボに嵌ったのか目の端に涙を浮かべながら自虐していた。

 

「私の言霊にも動ぜん所を見れば口先だけではないようだな。良かろう、次が最後だ」

 

 エヴァンジェリンがフワリと浮かび上がり、刹那から十メートルの距離を取った。

 既に周囲の風景は森の中ではない。一寸先も見通せない闇の中を見て、この世界が幻術で作られたものであることをなんとなく予想がついていた。

 

「私を斃すと吠えたのだ。お前の意志の力の程を証明してみせろ」 

 

 パキィィンと甲高い音を立ててエヴァンジェリンが手刀の形にした手から、魔力で出来た紫色の刀のようなものが伸びた。魔法に詳しくない刹那にはそれが何の魔法であるかは察しがつかなったが、酷く危険な物であることを簡単に分かった。

 

(明日菜さん……お嬢様……)

 

 脳裏に思い描くのは大切な二人。この戦いが終わったら、自分の全てを二人に話すことを決めた。受け入れてもらえなくても、我儘だと言われても、隠したまま友にいられるほど、自分は強くも器用でもない。

 

「言われるまでもありません。元よりその気持ちです! アデアット!!」

 

 エヴァンジェリンに引き寄せられるように、刹那もまた必殺の一撃を放つべく取り出した仮契約カードからアーティファクトを呼び出す。

 呼び出した建御雷を腰だめに構えて力を溜める。

 刹那の中の戦士としての部分が、この人から認められたいと思ってしまった。心が全てをぶつけて剣を振るおうと決めてしまった。

 

「剣の神――」

「断罪の――」

 

 二人が同時に踏み出す。足元の地面を踏み潰すほどの激烈な踏み込みによる速度は共に神速。

 刹那が放つは木乃香の魔力が充填された建御雷の解放。

 対するエヴァンジェリンが放つは、ビーム状の剣を手の先に出現させて触れたものを気体へ強制的に相転移、つまりは蒸発させてしまう高等呪文である断罪の剣。

 

「――――建御雷!!」

「――――剣!!」

 

 奇しくも互いに放った技のタイミングは同じであったが結果は違った。

 相転移の剣が雷を切り払い、建御雷へと到達する。勝負はエヴァンジェリンに軍配が上がった。しかし、刹那はそれを予期していたかのように、建御雷に残された全てのエネルギーをその瞬間に爆発させた。

 奥義のエネルギーは行き場を失って二人の間で爆発し、爆音が破裂した。狭い空間で走った衝撃波が吹き荒れる。

 

「……ぬ、ぐぅぁ……はぁっ!」

 

 エヴァンジェリンは五体満足で健在だった。完全には相殺しきれず、雷によって服があちこちが焼き切れ、肌にも傷が幾つも出来ていたが吸血鬼の特性である不死性が傷を瞬く間に癒す。

 エヴァンジェリンは直ぐに動けない。体に纏わりつく雷の残滓によって行動が数テンポ遅れる。しかし、条件は刹那も同じ。寧ろ、回復力を持たない刹那の方が不利。代償は払ったが賭けにエヴァンジェリンは勝った。

 

「神鳴流奥義――」

 

 しかし、既に刹那は次の行動に移ろうとしていた。否、始めからこちらが本命だったのだろう。

 折れた夕凪を正眼に構え、集中するように瞼を閉じていた。

 

「折れた剣で――――」

「――――斬魔剣!!」

「――――舐めるなっ!!」

 

 振り下ろされる夕凪の方が僅かに早い。それでもエヴァンジェリンは動いた。驚異的な反応速度で切り返した断罪の剣が振り下ろされる夕凪を迎撃する。

 重なった剣閃は、確かに肉体を切り裂いた。

 

 

 

 

 

 止まっていた時が動き出す。

 舞台で固まっていた二人が身じろぎして、見えない十字架に両腕を左右に広げて固定されていた刹那が舞台の上に倒れ込んだ。エヴァンジェリンもまた右手で顔を押さえ、バランスを崩して膝をついた。

 

「……おい、刹那」

 

 指の間から瞳を覗かせたエヴァンジェリンが倒れている刹那を見下ろす。

 

「はい……」

 

 倒れたままの自分に向かってカウントを始めた和美の声を、刹那は聞き流しながら起き上がる気力も無いので舞台に横になったまま、エヴァンジェリンの声に億劫そうに返事をした。

 

「お前…………あそこまで見栄を張っておいて、最後は相打ちとはどういうことだ?」

「夕凪が折れていたことを忘れてました」

 

 ハハハ、と乾いた笑いを漏らす刹那に向けられるエヴァンジェリンの視線はどこまでも冷たい。

 最後の神鳴流奥義である斬魔剣は、刹那の予定ではエヴァンジェリンの断罪の剣よりも早く実体ではない彼女を切り裂くはずだったのに、夕凪が折れて間合いが短くなっていることをすっかり忘れていた所為で相打ちを許してしまった。

 

「あれだけ決めといて最後になんだそれは。普通は私を超えてメデタシメデタシで終わるところだろうが」

 

 頭が痛いとばかりに顔を覆っていた手で髪を掻き上げたエヴァンジェリンの表情は、言葉とは裏腹にこれほど愉快なものはないとご満悦だった。

 

「まあいい。貴様の覚悟は見せてもらった」

 

 若者の相手をすると本当に年を実感するよ、と苦笑混じりに口の中で呟いた。

 

『……8……9……10! 両者見つめ合って静止していた一分でしたが、動き出した直後に倒れ込んだ桜咲選手、膝をついたマクダウェル選手! 両者立ち上がれず、10カウントにより引き分けです!!』

 

 取りあえず終わったのだから歓声を上げておけ、的なやけくそな観客達の声を聞きともなしに聞き流す。

 

「エヴァンジェリンさん」

 

 視界の端に観客を掻き分けて舞台に向かってくる明日菜と木乃香の姿を収めて、下から声がかかったので立ち上がったエヴァンジェリンは刹那を見下ろした。

 もう動けるようになったみたいで起き上がった刹那が跪いていた。

 

「幸福な状況に流されて弛んでいた私を諌めて戴き、ありがとうございました」

 

 言いながら両手を舞台について、感謝の気持ちを伝えるように深々と頭を下げた。

 

「ふん、礼を言われる筋合いはない。私はただ単に貴様を虐めたかっただけだ。誤解するな」

 

 最近の緩み切った顔を見て虐めたくなっただけで、本当に剣か幸福かを選ばさせ、どちらかを捨てさせるつもりだったので感謝される謂れはなかった。吸血鬼になってしまったエヴァンジェリンのように屈折していない刹那の、このような生まれに似合わぬ純朴さが少し羨ましかったのかもしれない。

 

「意志は確かに見せてもらった。後はお前の自由に生きろ」

 

 そう言って、エヴァンジェリンは試合前と同じく背中を見せて歩いて行った。

 

「ありがとうございました」

 

 年を食うと説教臭くなってイカン、と頭を掻く背中に形にし切れない感謝を込めてまた深々と頭を下げた。

 

「自分で選んだ道だ。後悔だけはせんようにな」

 

 魔力も殆ど使えない最弱状態でありながら、最強の看板を背負う背中は誰よりも雄々しく見えた。その気高く誰よりも誇り高い背中に憧れずにはいられなかった。

 でも、鬼の形相で向かってくる明日菜と闇のオーラを纏う木乃香に少しビビった様子だったのは減点か。二人は刹那が大丈夫だと手を振らなければエヴァンジェリンに食ってかかっていたかもしれない。

 

「さて、なにから話そうか」

 

 話さなければならないことは一杯ある。霊体化している翼や染めている髪に隠している目の事など、話すことはそれこそ多岐に渡る。

 ふと、視界の端に自身の黒い髪の毛が映った。

 

「本当に、あの人は……」

 

 なにやらアスカに突っかかっていたが頭を撫でられて憤慨しているエヴァンジェリンの姿に、素直じゃないとクスリと口の端で笑みを零した刹那は、舞台に駆け上がった明日菜と木乃香の慌ただしい足音を聞きながら、今の彼女の心のように雲の少ない晴れ渡った空を見上げた。

 

「せっちゃん~~っ!」

 

 歓声が上がる中で、天真爛漫な笑顔で一際大きく名を呼んでブンブンと外れんばかりに手を振って向かってくる木乃香の姿を見て、これで良いのだと思えて小さく控えめに手を振り返した。

 



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第44話 憧れの行方

「第32話 アスカの休日」の中間辺りをチラ~とお読みください。


 

 麻帆良学園聖ウルスラ女子高等学校2年高音・D・グッドマンは、普通の人とは少し変わっている。

 まず第一に魔法使いの家系に生まれ、彼女自身もまた魔の道を歩んでいること。始祖代々から継いだ魔法使いならば誰もが生まれ持った宿業を彼女もまた引き継いでいた。

 魔法使いの一族に生まれた者が魔法使いになるのは定められた運命とも言える。勿論、他の道を志す者もいるので絶対ではない。が、生まれた時から魔法に囲まれた生活をしていた者が一切関係のない生活を送れるかといえば否である。往々にしてなんらかの関わりを持つ場合は多い。そういう意味において、高音・D・グッドマンは魔法使いの家系に生まれた者としては普通であったとも言える。

 

 高音はアメリカに居を構えるメルディアナと同じような町に生まれ、他の者となに変わることなく魔法に関わって育った。彼女が少し周りと変わった面があるとしたら正義感が非常に強い子供だったということだ。

 物心ついた当時は日本のアニメが海外展開されていた頃で、特に彼女のお気に入りだったのはセーラー服を着た愛と正義の美少女戦士が悪者を倒していく物語だった。

 高音はこのアニメに熱狂したと言ってもいいだろう。放送時間になればなにがあろうともテレビの前にスタンバイして、目を輝かせて今か今かと待っている娘の姿を両親は苦笑して見ていたものである。

 これで変な影響もあれば止めもしただろうが、アニメの影響もあってか親の手伝いを欠かさず、困っている人がいれば直ぐに助けようとするようになった娘の一種の教典とも言っていいアニメを見るなとはとても言えない。娘がアニメの主人公のように正義の味方になると言っているのを微笑ましそうに苦笑いを浮かべるぐらいだ。

 

 このアニメが放送終了して直ぐにグッドマン一家は魔法世界に移り住んだ。住むことになったのはメセンブリーナ連合の盟主メガロメセンブリア。現地の魔法学校に入学した高音は遂に理想を形にする術を見出した。

 立派な魔法使い(マギステル・マギ)、世のため、人のために陰ながらその力を使う、魔法世界でも最も尊敬される仕事の一つ。

 最近では大戦の英雄にして千の呪文の男の異名を持つナギ・スプリングフィールドがいる。

 無私の心で世のため人のために魔法を使う理想に燃えて、立派な魔法使いを本気で目指した。

 性格的に思い込みが激しい面があったにせよ、彼女の熱意は他の誰をも勝っていた。

 資質にも優れ、誰よりも努力を重ねたのは間違いない。クラス一、学年一位となるのに時間はかからず、飛び級の話が出るのにも長い時間は必要なかった。

 思えばこの時が彼女の人生の絶頂期であったのかもしれない。ただ前を向いて進み続けていれば良く、努力すればするだけ必ず結果がついてきた。だが、破綻の時はいきなり訪れた。

 

 切っ掛けは初級魔法の課程を終えて次のステップに入ろうとしていた時だった。

 何度も唱和して暗記した各種属性の精霊魔法を行使しようとした。優等生で学年トップだった彼女の失敗を誰もが疑わず、高音自身もまた絶対の自信を持っていた。なのに、どれだけ魔力を込めても、どれだけ回数を重ねようとも「地」「水」「火」「風」の四大元素は少しも反応してくれなかった。

 何度もチャレンジしては失敗を繰り返して涙さえ浮かべる高音に誰も何も言えず、苦虫を盛大に噛み潰した顔の先生が止めるまで悲痛な光景は繰り広げられた。

 後になって分かったのは、高音の適性は「影」のみ。四大元素に対する適正は欠片程度しかなく、他もまたドングリの背比べでしかなかった。

 精霊の適正は遺伝することが多い。親子であればこれがより顕著で全く同じというのも珍しくない。高音の両親は「風」や「雷」と割とポピュラーな属性だったので全然気づかなかったのだ。

 物事には常に例外は存在する。が、彼女のケースでは父方の祖父が「影」の適性を持っていたことから、個体の持つ遺伝形質が親の世代では発現せずにそれ以上前の世代から世代を飛ばして発言する隔世遺伝と考えられた。

 高音・D・グッドマンの人生で始めての挫折である。

 

 「影」という属性は高音が理想として求めた属性には程遠い。

 正義の味方ではなく敵対する悪役が持っているような属性だと彼女が考えたのは、理想を正しく在るものだと規定し過ぎた子供特有の潔癖さ故のことだった。正義の味方に憧れた少女が使える魔法が、敵役に似合う属性だったというのは皮肉が効いている。

 理想を絶対のモノとして規定し過ぎたから、その理想に絶対に成れないと知った絶望は余人には決して分かるまい。子供の絶望だと笑うことなかれ、当時の彼女にとっては自身の根本を揺るがす出来事だったのだ。

 誰も彼女を責めたりはしていない。親も級友も先生も高音のことを考えて「影」の属性でもやっていけると説得した。だが、彼らは高音のことを真に理解はしていなかった。或いはこれでどの精霊にも適性がなかったのなら見切りをつけて、自分の持つ能力を高めようと思ったかもしれない。高音・D・グッドマンが真に絶望したのは、どう足掻いても理想には決して届かないのだと知ってしまったことなのだから。

 

 どれだけ絶望しても、姉御肌で真面目が板についている高音が何時までも周りを心配させることを良しとはしない。

 心配を掛けない為に表面上だけでも平静を装うようになったのは、彼女なりの生きていく為の処世術である。やがてはそれが常態化して何時しか自分ですら絶望したことを忘れてしまう時間が経過した頃には、彼女も現実を知る年齢になっていた。

 幼き頃にテレビの向こうにいるヒーローに憧れた子供も、年を経るごとに世界が正義と悪だけで成り立つ単純なものではなことを知ってしまう。社会と現実を知ることこそが大人になるのだというなら、正義の味方が幻想であると知るのもまた大人になるということなのだろうか。

 この世に本当の意味での正義の味方はおらず、英雄もまたその時の人達が作り出した一種のプロパガンダであることに気づいてしまった。勿論、紅き翼が魔法世界を救ったことやナギの功績が消えるわけではないと分かっても夢に失望を覚えずにはいられなかった。

 子供は何時までも子供のままではいられない。高音が年に似合わず聡明であったこともあって、理想と現実のギャップを前にして何時か憧れた正義の味方の夢を口にしなくなっていった。

 夢の残滓をかき集めるように、せめて正しく在ろうと真っ直ぐに生きて、魔法使いとして一流になろうと「影」の属性を極めようとした。その甲斐もあってまた親の仕事の都合で旧世界に戻る時には嘗ての姿を取り戻していた。ただ正義の心だけは置き去りにして。

 

 地元のジョンソン魔法学校に転入した高音はトップの成績で卒業して、魔法学校の卒業課題で日本の麻帆良学園都市に行くことになった。

 まだ学生の年頃である高音は麻帆良の女子校に入ることになった。そして順風満帆な学生ライフをすることになる。そのことになにか不満があるわけじゃない。ただ心の奥底でなにかが絶えず燻り続けていることを自覚する日々。

 

 そんな日々に変化が訪れたのは数年後の、担当の魔法先生ガンドルフィーニ教諭から後輩の紹介があってからだった。

 なんでも魔法学校を卒業したてで、高音が卒業したジョンソン魔法学校に留学して魔法演習でオールAを取った秀才。なんの冗談かと思った。聞けば若年ながらも無詠唱呪文も使いこなす多芸ぶりで、一芸特化型の高音は雲泥の差。

 彼女―――――佐倉愛衣―――――と実際に会ってみれば、大人しく控えめな性格で生真面目で堅いと称される高音を慕ってくれる良い子だが嫉妬しなかったといえば嘘になる。炎系の魔法を得意とする彼女ならば高音が夢見れなくなった正義の味方にもなれるのではないかと思った。

 刺激された心の奥の火種は燻り続けている。夢を諦めきれず理想を捨てきれず、中途半端な道を中途半端な想いで歩み続ける。

 

 決定的な転機が訪れたのは、まだ冬の気配が残る寒い日だった。

 休みの日であったが、学校に用事があってウルスラ女子高等学校の黒い制服に身を包んで歩いていた高音の近くで、街中で中学生らしき少女数人が男達に絡まれているのを見かけたのだ。

 高音は持ち前の正義心から助けようとした正にその時だった。高音よりも早くその少年が現れたのは。

 少年は瞬く間に男達を打ち倒して事態を収めて見せた。高音の目から見ても見事としか言いようがない鮮やかな行動で。高音が理想とする正義の味方の肖像そのままに。

 どうやって寮の自室に帰ったのか覚えていない。ただ心の奥に押し留めていたなにかが疼いたのは事実である。

 その夜、中々帰って来ないルームメイトに不安を覚えていたら、また驚愕の事実を知ることになった。

 そして高音は確信したのだ。

 いたのだ、この世に。正義の味方は確かにいたのだ。無私の心で人を救い、悪と戦うヒーロー。高音が夢見て存在しないと絶望した正義の味方は確かに存在していた。

 理想の名はアスカ・スプリングフィールド。高音が諦めた正義の味方を体現する者。燻り続けた心の奥で大きな火が灯った。

 理想を体現する者の存在を確信した時、高音・D・グッドマンがどれほどの歓喜にあったか。小さな子供が、テレビの向こうにいると思っていたヒーローが現実に目の前にいるような心境であった。

 

 

 

 その後も頻繁に届くあの時の少年―――――ーアスカ・スプリングフィールド―――――の噂を耳にし続けた。外に出た時には姿が見えないか探しもした。

 愛衣からアスカの話も聞いた。彼女は数年前にアスカと面識があり、戦ったことすらあるというのだ。その時の話を彼女に何度もしてもらった。

 知り合いの夏目萌―――――通称ナツメグ――――に協力してもらって、関東魔法協会のデータベースにアクセスして隠されていた情報を覗き見までした。

 所属している組織であろうとも隠されていた情報を勝手にアクセスするのは、見習いの身分に過ぎない高音が行って許される行為ではない。バレたら下手すれば修行中止、強制送還に投獄の可能性もある。それでも意味があったのだと高音は笑う。勿論、協力したナツメグには取り返しのつかないことをさせてしまって申し訳ないと思っている。もし、バレた時はあらゆる手段を使って自分だけが罪を被るようにしておいた。彼女自身に借りた大きな借りも何時か返さなければならない。だが、今はこの歓喜に浸っていたい。

 更なる事件は直ぐに起きた。ひどく雨風が強い日だった。都市内に上級悪魔が侵入し、女子中の生徒達数人を拉致したのだ。

 結果として手下の魔物や上級悪魔は討伐された。被害も建物や土地が軒並み更地になって暫くは人が立ち入れる状況ではなくなったが、人的被害は一人を除いて皆無と言っていい。

 手下の悪魔を、上級悪魔を、侵入した敵の全てを倒したのはアスカ・スプリングフィールドであると風の噂で聞いた。高音自身も結界が停止して桁外れの魔力が奔流となって沸き立つのを感じ取った。あまりにも禍々しい魔力を相手にどうやっても勝てないと、あのような狂気が形となった存在に勝てる者はいないと思った。だが、その悪魔をアスカは倒した。

 高音の理想は、求めていた正義の味方は悪魔という悪を倒した。高音・D・グッドマンの理想が本物になったのだ。

 学園祭前に実際に会って、年下の少年に「あなたに憧れています」とは面と向かって言えず、かといって興奮を抑えきることも出来ずに別の人物を槍玉に上げることで誤魔化した。我を忘れて顰蹙を買っていないかが心配だった。

 そして今日、高音は理想の体現者であり、正義の味方であるアスカと相対する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一回戦全八試合が全て終了して、審判兼司会も務める和美が一人で舞台に立つ。

 

『一回戦の試合が全て終了しました。試合結果を特別スクリーンでご覧頂きましょう!!』

 

 選手控え席近くにいる和美が殆どの観客には見えないが腕を振るうと、動作に合わせるように修復中の舞台上空十数メートルに半透明の映像が突如として浮かび上がった。どの場所からも良く見えるように舞台を中心にして四つの画面が浮かんでいる。

 和美が言うように大会側が用意した特別スクリーンで試合結果が投影されていた。

 浮かび上がっているのは武道大会のトーナメント表で、一回戦で敗北した選手には分かりやすく顔写真に「×」文字が刻まれていて、勝ち残った選手が次のコマへと進めていた。

 龍宮真名と古菲、エヴァンジェリンと刹那の欄は両者ノックダウンなのでどちらも次のコマへ進めていない。

 

『二回戦は二十分の休憩を挟んで開始します! 尚、二回戦からはお客様も増えて混雑が予想されます! 臨時観客席もご用意させて頂きますが、なるべく詰めて……』

 

 空中に何の媒体も映像を投射しているので、現代の技術から考えても革新的する技術に驚きには慣れている麻帆良住人達も驚愕している。工学部の新技術科と叫ぶ声があちこちで聞こえた。

 

『では休憩の間、一回戦のハイライトをダイジェストでお楽しみ下さい』

「え……」

 

 絡繰茶々丸や豪徳寺薫のいる実況解説席にかなり近い場所にいたネギ・スプリングフィールドはトイレから帰ってきたところで、空中投影されている特別スクリーンに双子の弟であるアスカ・スプリングフィールドの姿が映って唖然とした声を上げた。

 その横ではネギを中心として右側に宮崎のどか、解説席側の左側に長谷川千雨が立っていた。

 

「あれって大丈夫なんですか?」

「ま、不味いんじゃないでしょうか。撮影禁止のハズなのに……」

 

 隣ののどかが聞いてくるのを、ネギはアスカと明日菜が戦っているシーンが流れている特別スクリーンを見上げながら冷や汗を流しながら答える。

 休憩の二十分の間に一回戦八試合を全て放送しないといけないので、編集でもされたのか戦っていない場面はカットされているようで、ずっと見ていたネギらからしたらシーンが飛び飛びになっているのが良く分かった。

 

「大会側が撮るのはOKってことなんでしょうか」

「う~ん、よく考えれば記録機器が使用できなくなるとは言ってましたけど、撮影禁止とは言っていないので抜け道があったということかと……」

「あ、成程。そうでしたね」

 

 事前説明では「この龍宮神社では完全な電子的措置により、携帯カメラを含む一切の記録措置は使用できなくなる」とあった。ネギが腕を組んで記憶を思い返して言ったように、やれるならやってみろ的な感じであったが撮影を禁止するとは一言も言っていない。

 

「ネギ先生、そのことなんだけ…………なんですけど、ネットにも同じ映像が上がってますよ」

 

 二人と違って上ではなく下を見ていた千雨が観客席の欄干に乗せて広げていたノートパソコンを指差した。

 

「え!? ああっ!? ホントだ!!」

 

 ノートパソコンの画面では、今まさに犬上小太郎が佐倉愛衣の懐に踏み込んで、振り上げた腕の風圧だけで場外に飛ばしているところだった。

 この時は、角度的に吹き飛ばされる愛衣のスカートの中がばっちり見える角度だったので女の勘を働かせたのどかに目隠しをされたので見ていなかったのだ。

 

「あの千雨さん、この映像は?」 

「い、痛っ! のどかさん、痛いです!」

 

 熱心に食い入るように見入っているネギにノートパソコン前を明け渡した千雨に聞きながら、この後の展開が分かっているのどかはこれまた躊躇なくネギの頬を遠慮なく引っ張りながら問う。

 頬を引っ張られた痛みで愛衣が吹き飛ばされる映像を見れなかったネギは、頬をスリスリと擦りながら涙目だった。ネギの肩の上でオコジョ妖精のアルベール・カモミールが「彼女の前で別の女のパンツを食い入るように見ようとするのは不味いぜ兄貴」と彼にだけ聞こえる声で囁いて慌てさせていた。

 映像ではどうやっても見れない様になっているが気分の問題らしい。

 

「つい三十分くらい前から出回り始めてんだよ。基本的にあの映像と同じものだから大会側から流出したものじゃないのか?」

 

 抓られた頬をまだ赤くして頭を下げている少年教師を意識に端に置いて、心の中でもう尻に敷かれているネギに合唱しながら彼氏がいない自分に若干ヘコみながら答えつつ、ノートパソコンに視線を落とした。

 舞台空中の特別スクリーンも全く同じ映像が流れている。

 

(正直、凄すぎてこの大会を信じられないんだよな。常識的に考えて在り得ないことばかりだし)

 

 千雨がそのようなことを思うのも無理はない。

 マジックのように巨大人形が現れて大男を殴り飛ばしたり、人の目には映らない速度で動き回ったり、五百円玉で舞台に穴を空けて観客席の天井近くまで水飛沫を上げたり、と上げたら枚挙に暇がない。

 

(アスカもそうだし、神楽坂や古菲、龍宮や桜咲とかもイカサマに加担するような奴じゃねーよな)

 

 アスカの本当に人かと思うような桁外れの強さは実際にこの目で見ているので疑うべくもない。そのアスカを追い詰めたような明日菜も人を騙して喜ぶような性格では決してない。

 思考を走らせながら絶対に横は見ない。惨めになるだけだから。

 

「僕はのどかさんを愛しています! 他の人なんか目に……」

 

 中々許してくれないのどかに、ネギが恥を知らないかのように様々な美辞麗句を並び立てて機嫌を取ろうとしているのを、完全に意識の外に追いやっていた。

 

《流石は外国の方ですね。言うことに全く照れがありません》

「ほっとけ。こういうのは関わらない方が良い」

 

 どこかに行っていたさよが戻って来て開口一番、感心したように言っているのを諌める。

 のどかも褒められて悪い気はしないようで、それどころか徐々に周りに注目され出してきて困っているようだった。この周囲は特別スクリーンよりも幼い恋模様に大注目だ。

 

「どこの香港武侠映画の予告編だよ。画像上がりまくってんじゃねーか」

《あ、高音さんが田中さんを殴り飛ばしているところですね》

「ああ。なんだつうんだ、あの巨大人形」

 

 特に注目されているのが高音だ。田中さんを殴り飛ばす時に彼女の背後に突如出現した黒衣の巨大人形に特に評判が集まっていた。

 

「裸のシーンが流れていないのは幸いか。あんなのが放送されたら自殺もんだぞ。少なくとも私だったら自殺する」

《超さんもそこら辺は分かってますよ、きっと》

 

 田中さんのビームによって高音の服が消された時のシーンは全てカットされている。

 編集した者もそのまま流したら真面目に自殺者が出たかも知れないので、人気取りに走って流さなかった良心はあるようだ。掲示板で画像はないかと探している者が多そうだが同じ女性としてはホッとしている面だ。

 

「スタンド使いに、腕からビーム、魔法か」

 

 パソコンの掲示板に書き込まれた、益体も無い文の数々を読み上げる。先ほどまでの試合の動画がアップされた事を含め、麻帆良武道会に関する掲示板が次々に更新されているのを見るともなしに見る。

 

(しかし、やけに魔法って単語が目につくな)

 

 桃色空間を逃れるように、いくつもの掲示板を見ると「魔法」という言葉が一度は登場していることに千雨は気がついた。

 隣からやってくる桃色空間の甘酸っぱい空気にに耐えられなくてネットで調べてみれば、出るわ出るわ「魔法」という単語の山。

 

(魔法か。こうしてみるとこの学園もこの大会に負けず劣らず、おかしいところだらけだ)

《なにがおかしいんですか?》

幽霊(お前)とか、色々だよ」

 

 麻帆良学園都市には都市伝説が多い。2-Aの幽霊(本物が背後に憑いている)とか、図書館島の地下には馬鹿でかい怪物がいるとか、中でも根強い人気なのが学園内で危険に陥るとどこからともなく「魔法少女」や「魔法親父」が現れて助けてくれるというのもある。

 一つが真実だっただけに他のも絶対にないと言えないところが常識人を標榜している千雨には痛いところだった。他にも突いてみれば科学力だとか運動能力だとか桁外れすぎている。

 

(魔法ってのもあながち嘘じゃ…………なわけないか)

 

 「気」ぐらいならありえそうな気もしたけど流石に魔法はないと自分の結論にケチをつける。

 

(でも、ネットの動きはおかしい。誰かが魔法ってのをわざと流行らせたいように見える)

 

 掲示板を時系列順に追ってみると魔法関連の話がこの一週間位から急に出始めていることに気がついた。

 自然発生しているように見えるがどことなく人為的な作為を感じる。一見不自然さは感じなくても何処か意図的な物をあるように思えた。

 

(げっ、CG加工派と魔法否定派が出来てやがる)

 

 掲示板を見ていると遂に肯定派と否定派で派閥まで生まれてしまっていた。これからもとんでも試合が続けば論争がよりオーバーヒートしていくだろう。

 既に一回戦だけでも材料は十分なので相手の出方を見るように、ちょこちょこと互いを突き始めている。

 一観戦者に過ぎない千雨だが大会に出場している選手の半分ぐらいは繋がりがある。出場者の中に同級生やら先生がいるのだから仕方がない。

 脳裏に次に試合をする金髪少年の顔を思い浮かべる。人助けをしたり、悪を成敗したりするので麻帆良の正義の味方とも呼ばれている少年が実はあまり注目されることが好きではないことを、何時だったか聞いたことがあった。

 

(助けた見返りじゃなくて、助けること自体を目的してるんだよなアイツ)

 

 人が呼吸をすることが当たり前なように、アスカも人助けを呼吸するように当たり前に行う。

 変わっている奴だとも思うし、ああも無私にもなれないと思うが助けられたことがあるのもまた事実。

 

(また変なことに足を突っ込む前に火消ししておいてやるか。やれやれ何で私がこんなこと……)

 

 特に大会に出場している面々は論争のネタに巻き込まれやすいので、後日に何らかの問題に関わる可能性がある。

 アスカのことを考える。少しでも苦労を背負わないように、ノートパソコンを引き寄せてキーボードをカタカタと慣れた仕草で叩く。

 

《うわー、今にもキスしそうですよ千雨さん》

 

 断じて隣で桃色空間を形成していた二人が、遂には抱きしめ合って薔薇色空間に突入しているのを感じ取って現実逃避しているわけではない。砂糖を盛大に口から雪崩のように吐かないためでは決してない。ネギの肩に乗っていたオコジョが目の前で欄干で、ラブラブな二人を見て「やれやれ、これだから若造は」と親父臭い仕草を見せて煙草を吸っている姿も断じて見ていない。

 

「…………――――?」

 

 隣で一心不乱にのめり込むようにキーボードを連打する千雨を、傍らの解説席にいる茶々丸が興味深げに見ていたことに彼女は気付いていなかった。千雨を通り越して向こうを見る時には、疑問符を盛大に浮かべて首を捻っていることも彼女は知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 千雨が隣に広がる桃色空間の砂糖を吐きたくなっている頃、世界樹前広場に複数の魔法先生の姿があった。彼らはここの警備をこの時間に担当している者達であるが、傍目には教師連中が集まって休憩をしているようにしか見えなかった。

 情報部が優秀なこともあって侵入者がいれば直ぐに連絡が入ることになっている。連絡があれば直ぐに対応するように心構えしているので、半休憩のようなものだった。油断はしていないが緊張もしていない理想的な状態にいた。

 

「こりゃグッドマン君やりすぎじゃないか、ガンドルフィーニ君。これいいのかねぇ?」

 

 ふくよかな体型の、思わず触りたくなるほどの柔らかそうな頬をした弐集院光は、カフェのオープンテラスのように誂えられているテーブルに置いているノートパソコンを操作しながら近くにいた同僚に問いかけた。

 

「何です、弐集院さん? 仕事して下さいよ」

 

 真面目なガンドルフィーニは言いつつも、担当している魔法生徒の名前が出たので後ろから覗き込むようにノートパソコンを見た。そして高音の黒衣の夜想曲が展開されて田中さんを殴り飛ばしている画面を見て、ピシリと彫像のように固まった。

 場所は少しだけ移動して、より世界樹に広い踊り場にいた中等部の若い男性教員である瀬流彦が弐集院と同じようにノートパソコンを触っていた。

 

「凄いな、アスカ君。神楽坂さんも。僕じゃ、勝てないなぁ」

 

 戦闘系魔法使いではない瀬流彦は、女子中等部の教師なので見知っている者同士の試合が自分の及ぶ領域ではないことに苦笑していた。

 

「やっぱそういうことは実際にやらないと分からないよ。今度試してみるかい?」

 

 3-Aの明石裕奈の父親で麻帆良大学で教授を務めている明石教授が横から見ていて、楽しげに笑いながら瀬流彦に提案した。

 

「勘弁して下さいよ。コテンパンにされちゃいますって」

「物は経験だよ」

 

 この場の責任者でありながら若い瀬流彦に付き合うノリを持つ明石教授は、年頃の娘を持つ父親とは思えないほど若々しい。娘である祐奈が中学生になっても父親と結婚すると言っているのはここら辺の感性の若さが原因なのかもしれない。

 

「教授も瀬流彦先生も、ふざけないでください」

 

 大学生気分が抜け切らない瀬流彦とそんな彼に付き合うノリの良さを見せる明石教授に、少し呆れて諌めるような声が二人の背後からかけられた。

 

「これ大丈夫かな、刀子さん」

 

 誰がいるのかは振り返らずとも声で分かるので、明石教授はふざけているところを娘に叱られたのから話を逸らすように、画面に映る高音の黒衣の夜想曲やその他諸々を纏めて問いかけた。

 

「大会自体は学園長からの許可が出てますし、この程度の画像流出に問題はないかと」

 

 そう言う女性教師葛葉刀子の手にもモバイルパソコンがあった。

 

「しかし、その大会主催者が超鈴音らしいからね」

 

 学園祭前日の行動から超はマークされていた。そんな彼女が不審な行動と魔法的に怪しい大会を開いているのだから注意が向けられて当然。情報部から魔法バレの可能性がアリと進言されて彼らもまたネットを見張っていた。

 

「そうですね」

 

 危険というほどではないがネットで不自然に魔法という単語が多いのが気になって、刀子が明石教授に返した返事は少しつっけんどんになっていた。

 ようやく一般人の彼氏を捕まえて上手くいっているのに、こういうお祭りの時に仕事をしなければならない憂鬱があるわけではない、きっと。

 

「よし、一応学園長に連絡しておこう。高畑君が偵察に出ているはずだが定期連絡は?」

「三十分前に龍宮真名と超鈴音の接触を確認し追跡。龍宮神社の高灯篭から地下の下水道に通じる直接通路を発見。動向を探る為に潜ると報告がありました。その後は何も」

 

 次の定期連絡は三十分後。それまでに高畑が何らかの情報を掴めれば良し。そうでなければ増援も必要かと明石教授は頭の中で算段をつけた。

 

「あまり娘の同級生は疑いたくないんだけど、そういうわけにもいかないか。こちらからも偵察の増援を出しておこう。何事もないことを祈るけど」

 

 麻帆良学園都市の情報部も兼ねている男は笑顔のまま、娘が哀しむ未来が来ないことを祈って次の手を打つ。

 

 

 

 

 

 今度は場所は大きく変わり、とある建物の屋上カフェテラスにいたシスター・シャークティは明石教授からの連絡を受けていた。

 

「格闘大会の偵察ですか? 世界樹のパトロールは…………。はい……はい……了解しました」

 

 修道服を着た褐色の肌に銀髪を覗かせたシャークティは、服装には似合わない携帯電話を切ってポケットに直す。

 

「二人とも、今から麻帆良武道会に向かいます」

 

 シャークティが話しかけたのは、まだ二十代中盤と見られる彼女よりも一回りは若い少女のシスター達だった。

 一人は十五歳ぐらいのアジア系の風貌をした少女。もう一人はシャークティに似た肌色の小学生中高年ぐらいの半眼の少女。

 

「パトロールの方はいいんですか?」

 

 十五歳ぐらいのシスターがシャークティに話しかけた言葉遣いは、シスターとしては少し乱雑であった。

 

「交替が来るそうです」

「わ、やた♪」

「あなた達、未熟で使い物なってなかったからホッとしました」

 

 剽軽な態度にもシャークティは慣れているのか、気にした様子もなく容赦なく若いシスターを落とす。

 

「相変わらず厳しいですね、シスター・シャークティ」

 

 自分の胸元程度しかない幼いシスターを何故か肩車しながら、こうやってシャークティに厳しく接せられるのにも慣れているのか「トホホ」と世知辛く零したシスターを合わせた三人が麻帆良武道会の会場へと向かって行くのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『皆様、大変お待たせいたしました! 只今より二回戦第一試合に移らせていただきます!』

 

 二十分のインターバルを終えて和美のアナウンスが会場中に鳴り響く。観客達が待ちに待った二回戦が遂に開始されようとしていた。一回戦のダイジェストを見て、彼らは次の試合を今か今かと待ち侘びていた。

 和美の声に龍宮神社に集まった観衆達が大きな歓声を上げる。白熱した試合や様々ハプニング続出だった一回戦に続き、これから行われる二回戦に早くも期待を膨らませていた。

 

『登場しましたアスカ選手の予選会での披露した実力に偽りなし! 果たしてこの大会でなにを見せるのか!』

 

 空の上から紙吹雪が舞い降りてくるのを目を細めて見上げているのは、舞台に昇って左右に別れた一人――――和美が紹介しているアスカ・スプリングフィールドである。

 

『対するは聖ウルスラ女子高等学校二年高音・D・グッドマン選手!! 予選会、一回戦では別の意味で話題を攫っていました! 予選会ではアスカ選手が避けたことによって恥ずかしい姿を衆目に曝してしまいました! その復讐が出来るのでしょうか!』

 

 選手紹介によって忘れていた羞恥がぶり返してきたのか、顔を俯けて全身の殆どを覆う黒いローブから僅かに見える手を震わせるているのは、舞台の上でアスカと正対する高音・D・グッドマンである。

 

「……く、……ぅ……」

 

 昨夜の予選会終盤の記憶を思い出した男達の鼻の下を伸ばした助平な視線が全身に突き刺さるのを感じていた。突き刺さるような視線によって着ている真っ黒のローブが存在せず、服を何も着ていないかのような錯覚に陥り、口の中で押し込めた声が漏れた。

 女は男の色情に満ちた視線に敏感なのである。特に見目も麗しくスタイルの良い高音は男性からそのような視線を向けられることが多い。慣れているといったら変な話になるが普段は受け流せる寛容さを持っていた。一々気にしていたら身が持たないからだ。

 しかし、ものには必ず限度がある。人の精神はなんでもかんでも受け流せるほど完璧ではないし、思春期の高音の心には耐えられる上限がハッキリと明記されている。

 この場合において耐えられる者がいるなら変わってほしいと、高音は心底そう思った。どこの世界に年頃の乙女が上半身裸を衆目に曝して平気でいられるのか。高音は海外であるようなビーチでブラを外して胸を晒したまま日光浴が出来るような性格をしていないのだ。

 羞恥やらなにやらで高音の頭の中は湯だった蛸のように思考が纏まらない。周囲全方向から体に突き刺さる好色な視線に全身が震える。

 他校の男子から告白されたこともあるが、よく知らない相手で容姿に惹かれたとしか思えないので断ってきた。結婚まで操を守らなければならない、と前時代的なことを言うつもりはないが高音も年頃の乙女である。願わくは素敵な人と出会って添い遂げられたらいいな、と「白馬の王子様」的な欲求は少なからずある。本気で異性を好きになったことのない者の夢物語であるが夢を見るは自由である。

 ミッション系の女子校に通っていることもあって「貞淑であれ」との教えが高音の混乱を助長する。

 

『それでは麻帆良武道会二回戦第一試合! アスカ・スプリングフィールド選手VS高音・D・グッドマン選手の試合を始めます!』

 

 司会をする和美の言葉と共にアスカが右足を後ろに引いて左半身を前に出して、膝を僅かに曲げて腰を落とす。左腕を上げずに下ろした状態の変わった構えを取った。

 高音に動きはない。構えを取るどころか羽織っているローブすらも脱がずに微動だにしない。顔を俯けたまま、ローブを握る手を血管が握るほど強く握りしめていたのでアスカは不審を覚えて眉を寄せた。

 

「ん?」

 

 高音の異様さに気づかなかった。観衆は言うに及ばず、これほどの一大イベントを指揮する和美ですら気づくのは難しい。

 異常を感じ取ってもアスカには高音の変化の原因は分からない。元より接したことは少なく、交わした会話もまた少ない。なんとなく周りから高音に向けられる好色の視線が原因だとは察するが、それがどれだけのダメージと混乱を与えるのかは男であるアスカが100%察することは難しい。

 これで目を見れば状態が察することが出来たかも知れないが、顔を俯けてのでは確認しようもない。試合の開始を待ってもらうべきか、と逡巡がアスカを支配する。

 

『それでは、二回戦第一試合…………Fight!!』

 

 ハッキリとした異変があるわけではなかったので決心がつかず、迷っている間に試合の開始が宣言されてしまった。

 高らかに響く和美の声に戦えば分かるかと懸念を後回しにすることにした。解きかけてきた拳をまた握り、対戦相手の高音を見据える。

 アスカは高音の様子がおかしいので先に動くつもりはなかった。暫しの間、二人は動かずに対峙し続ける。十秒、二十秒と二人が動かないことに審判の和美が動くべきかと迷いを覗かせたその時だった。

 

「ウルスラの脱げ女」

 

 観客席からポツリと誰かが間隙を縫うようにそんなことを言った。不思議と響き渡るその声の主がいる方向に顔を向けたアスカだが、観衆の中に埋もれた特定の誰かを発見することは出来なかった。

 

「…………ふふ」

 

 誰かが言った「ウルスラの脱げ女」が誰の事を指しているのかを的確に理解した高音の、平静を保っていた堪忍袋の緒が音を立てて盛大にブチ切れた。堪忍袋の緒が切れて頭に血が上った瞬間、高音は全ての懊悩から解き放たれた。

 

「お?」

 

 俯いて半ば体を掻き抱くようにしていた高音の体が不自然に振動しているのを見て、どうしたのかと声に出してしまった。

 高音から聞こえた声が笑っているように感じて、壮絶な嫌な予感が背筋を走る。アスカのこういう嫌な予感は外れた試しがない。

 騒動に発展しそうな気配がビンビンと体に降りかかってくるのを察したが、原因が分からないことにはどうしようもできない。

 

「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっっ!!」

 

 高音は俯けていた顔を上げて羽織っていたローブを脱ぎ放ち、その下に着ていたビスチェのような衣装と丈が短めのフレアスカートを白日の下に曝しながら笑った。ゲームのラストに出て来るラスボスの如き大きな、後にまで響く哄笑を上げ続ける。

 ビスチェとは本来、女性用下着の一種なのだがローブの下に着ていたことからデザインが似ているだけなのだろう。長い金髪の髪に透き通るような白い肌をした高音には非常に似合っているのだが、大胆に開いた胸元と黒という色が予選会で見せた姿と相俟って錯覚を生む。

 

「まさか早々にあなたに当たるとは思いませんでしたが、本気でお相手させて頂きます!」

 

 哄笑を収めた高音は、どこかイッてしまった目をしたまま、ビシッと音の出そうな勢いで対面にいるアスカを指差して宣言した。

 

「ええ、恨みなんてありません! 裸に剥かれた恨みなんてありませんったらありませんから!」

 

 正気を失くしているように見える高音の宣言に、ローブを脱いで戦闘衣装を披露した観衆(男達)の歓声を聞いて、アスカは大よその事情に予想がついてしまう自分が嫌だった。

 

「俺じゃなくて、あの田中さんの所為じゃないか」

「いえ、あなたの所為です!!」

 

 言い募る高音に反論は意味を為さない。

 死んだ目をしながら偏見を失くして着ている服を見れば、スカートが膝丈のドレスと言っていい恰好だった。だが、見るものが見れば、あれはただのドレスではないことが分かる。

 

「これも運命の導き。この影使い高音・D・グッドマンの近接戦闘最強奥義をお見せしましょう!!」

 

 死んだ目をしたアスカが現状に帰って来て、疑問符が脳裏に飛び交っているような顔をする。

 生憎と地水火風の四大元素やポピュラーな雷などの魔法なら知っているが、「影」の属性は担い手が少ないのでエヴァンジェリンから詳しくは教わっていない。

 基本的なことなら分かるのだが、高音の言う「近接戦闘最強奥義」については皆目見当もつかない。実は明日菜との試合に気を取られていて、高音の一回戦を見ていなかったアスカである。

 

「来るか……!」

 

 最強奥義と言うからには凄いものなのだろうと考え、なにが来るか予想がつかない。なにが来ても反応できるように体から力を抜いて動けるようにスタンパイしておく。

 

「黒衣の夜想曲!!」

 

 叫びと共に高音の足元にある影から黒が溢れ出す。

 最初は不定形だった黒は一瞬にして高音の身長を超える高さに膨れ上がって人の形をとった。人の形を取るのに要した時間はほんの一瞬、出現した白い仮面を付けた大きな人型はまるで高音を懐で守るかのように背後から両腕を彼女の身体に回して佇んでいる。

 白の仮面に、黒い紋様。首元から幾つもの帯に分かれる頭巾に十字架の紋様が描かれており、背面に浮かぶ黒い鞭のようなものが重力に逆らって揺蕩っている。

 その姿は学園祭前日に超を追いかけていたという時に見た使い魔に酷似していた。衣装の精密さ、背面から出ている鞭のようなもの、体の大きさなどといった違うはあるものの、高音があの日の使い魔の術者であることは疑いようもない。

 

『おおっと!! 一回戦に続いてまた凄いのが出た――っ!!』

 

 興奮した和美のアナウンスに、突如どこからともなく現れた高音本人より一回り大きい人形の異様さに観客席からも喚声が上がる。

 周りの盛り上がりように比べて、アスカは馬鹿になったように目を点にして口をあんぐりと開けていた。戦う構えを取っているので表情と合っていないから傍から見れば笑える。

 

(…………善玉かもしれないが、きっと直情バカだ)

 

 握っていた拳を何時の間にか解いているにのも気づかぬまま、出現した巨大使い魔を見上げたアスカは心の底から思った。というより思い知った。この真っ黒なお馬鹿さんは、頭の中がこんがらがって周囲の目のことなんて殆どぶっ飛んでいることを。

 秘匿とか秘匿とか秘匿とか秘匿とか秘匿とかを滾々と言い聞かせたい気分だったが、この状況に陥った遠因が自分の行動にあると思うと対応に困ってしまった。

 奇しくも高音とは別の意味で頭の中を湯だった蛸のようになってしまっては良い解決策は思いつかない。現状に対処するのは自分だけでは無理だと結論付けるのに時間はかからなかった。

 こういう時は当事者の身内の方が解決策が思い浮かびやすい。そうと決まれば選手控え席の方を見た。

 大多数の参加者――――この場合は魔法を知っている者達――――が、アスカほどではないが馬鹿面を晒している中で、高音に初めて会った時に一緒にいた佐倉愛衣に助けを求めた。

 愛衣はわたわたとした様子であっちを見てこっちを見て、アスカに助けを求められているのが自分と分かると念話を返してくれた。

 

『スミマセン! お姉様とってもいい人なんですけど、一度コレと決めると一直線の真っ直ぐな人なので私では止めようがないです』

 

 念話で届いた言い淀む愛衣のメッセージは致命的なまでに止めを刺してくれた。つまり、愛衣は自分では止めようがないとハッキリと言っているのだ。

 

「俺にどうしろと?」

 

 高音と彼女に背後に付き従う自分よりも優に二回り以上は大きい巨大使い魔を見上げて、ただ呆然と声を垂れ流す。解答を期待しているのに答える者はいない。現実は非情である。

 この衆人環視の中では試合をしている当人達しか関われない。選手控え室の誰もが手を出せない状況では解決をアスカに一任するのは当然と言える。

 そもそも全員が予選会での二人の因縁を知っているので関わり合いになりたくなかった。男と女の痴情の縺れに他人は関わらない方がいいというのが通説なのである。大分意味が違うが。

 

「如何ですか? これが私の持つ最強の力です」

 

 さながら守護霊のように佇む巨大使い魔を背後に従え、呟きながら両手を広げる。その動きと連動しているのか、背後の影が一抱えはありそうな太い腕を同じ動きで広げる。

 

「絶対の防御力と攻撃を同時に得る攻防一体の魔法である黒衣の夜想曲、あなたに倒せますか?」

 

 完全に興奮状態にある高音を見ずに、背後の使い魔を見上げながら顔に当たる部分に浮かぶ白い仮面だけが唯一違う色をしているのは何故かとアスカは現実逃避気味に考えていた。

 

「わはははははは、スゲーっ」

「こりゃ流石に仕掛けあんだろ」

 

 どうあれ巨大人形が始まってから一分以上経っても大会側からはなんの音沙汰がなく、試合を止める様子がないことから観客達は一部の気持ちなどお構いもなく面白い見世物が始まったと大盛り上がりだった。

 

「はぁ……」

 

 周囲を見渡したアスカは自分に味方がいないのを悟って、長い溜息を吐きながらがっくりと肩を落とした。世知辛い世間の風に煽られるサラリーマンの哀愁漂う背中に似ていた。

 

「では、全身全霊をかけて行かせて貰います!」

 

 黒の巨人を背に従えた高音が高らかに宣言したのと同時に、ゆらゆらと無重力に揺られるように揺蕩っていたベルトのようのな物が意志を持つ。

 ハッと顔を上げたアスカに向けて、二十は超えようかという槍と化して伸びた。

 高音の思い通りに動く槍は空気の壁を破るような音を伴って縦横無尽に駆け巡る。その槍の軌道は曲線や直線を描きながらも最終目的地点であるアスカへ向けられていた。

 アスカの身体が地を蹴って後ろに反り返る。そのまま空中でクルリと周り、頭から地面に落ちる。地面に落ちる前に手をついて、腕の力で飛び上がった。

 地面に手を付いた時に、さっきまでいた場所に無数の影の槍が突き刺さっているのを見ながら、後方倒立回転して高音の放った縦横無尽に突き進む槍の間合いから逃れる。

 

「ならば、こっちもそれに応えるのみ…………魔法は止めとこう」

 

 瞬時にその場を飛び退いて影の槍を避けたアスカは、流転する視界の中で一瞬で意識を戦闘モードに切り替えた。が、高音が与えたショックは大きく、魔法どころか魔力や気も控えようと少し極端な方向に振りきれていた。

 跳躍の衝撃を着地した右足の膝を曲げて殺しながら、曲げたゴムが勢いよく反発するように床を蹴って前方に跳躍する。一踏みで五歩を渡る箭疾歩。

 気や魔法を使わずに魔法使いを倒すのは容易ではない。ならば初撃で勝負を決める。影の使い魔がいるのならば容赦なく渾身の震脚すら決める覚悟であった。

 狙うは八大招・立地通天炮。身体強化を使わなくても絶大な破壊力を持った技。顎下から突き上げる一撃は、アスカの動きを捉え切れていない高音の意識を間違いなく刈り取るだろう。

 影の槍を避けつつ神速で一瞬で近づいて距離を詰めて、影の使い魔の懐に潜り込んで高音の顎下から突き上げる八大招・立地通天炮。だが、影の使い魔の腕がアスカの拳を阻むように受け止めた。

 

「ふ…………ふふふふふ、この最強モードに打撃は通用しませんよ」  

 

 この光景を見れば高音の言うように徒手空拳での攻撃は無駄でしかないと誰もが同じ事を思う。そう言った高音の眼の前で、不意にアスカの足元が陥没する。震脚を以って勁が足から螺旋を描いて接している拳先へと収束して―――――

 

「はぁっ……!」

 

 拮抗は一瞬だった。その先にあったのは破砕。まるでガラスが砕けたかのような音を立てて、高音を守るように回していた影の使い魔の腕がアスカの拳の接触地点を中心に霧散した。刹那、魔法使い達は信じ難いその光景を目の当たりにして目を見開く。

 アスカは何も特別なことをしていない。魔力等による超上の力を一切使わずに生身の力だけで成したのだ。

 そして、アスカの腕が高音に迫る。勢いそのままに高音の顎へ直撃―――――しなかった。高音が反射的に展開した防御障壁に阻まれ、アスカの拳は勢いを無くしていた。

 アスカの表情に苦渋が滲む。超常の力なしで影の使い魔と術者本人の防御を突破するには威力が足りない証拠だった。今のが千載一遇のチャンスだったのに、警戒された現状ではこれ以上の威力を放つのは不可能だ。

 

「このっ……!」

 

 攻撃が止まった隙に影の使い魔の腕を再構成し、間近にいるアスカに向けて振るう。バックステップして下がったアスカに向けて無数の影の槍を幾つも放つ。

 

「ふっ」

 

 アスカは黒衣の夜想曲から放たれる無数の影をスクリューのよう倒立背転を繰り返して躱す。

 背後に気配。咄嗟に空中で顔だけ背後を振り返る。眼前に一本の影の槍が迫っていた。

 避けられない―――――直撃コース。アスカは咄嗟に身を翻しながら振るった足を一閃。右足で影の槍を迎撃した。衝突。ドンという重い音と共に直撃軌道を変えることに成功した。

 そしてアスカは、自分の失態に気がついた。迎撃している間に、着地地点に幾つもの影の槍が待ち構えていた。絶対と誇っていた防御が突破されて遠慮の呵責もなくなったのか、攻撃に容赦がない。

 最初から一貫して穂先は潰していて槍というより鈍器に近い形状になっているが、この場合は落下の重力に全体重を合わせて落ちれば当たり所が悪ければ骨折する可能性もある。

 

「っ、……このっ!」

 

 アスカは真剣に命の危険を感じて床に墜落しながら、影の槍を迎撃した蹴りの勢いを利用して、身体を横に回転。それで何本かの軌道から外れることが出来たが、剣山の如く群れている現状では端っこに近くなったといっても数本外れたところで意味はない。

 もう直ぐ貫かれるというところで左手を伸ばし、剣山の槍の端を自ら殴打した。打撃の反発力によって身体を流す。アスカはギリギリの所で槍の剣山を回避して舞台を転がり、片膝を着きながら起き上がった。

 

「魔力を使わずに私に勝つおつもりですか!」

「いや、なんか使ったら駄目的な空気があってだな」

 

 高音も魔法使い。片膝をつくアスカが今に至るまで魔力で身体強化すら施していないのは容易に察知出来た。

 使う必要すらもないと侮られていると感じた高音は、人の話も聞かずに激昂と同時に、それでこそと高揚もして、背後に立つ巨大使い魔と共に大きく跳躍した。

 そして落下スピードを利用して抜き手を繰り出すと、背後にいる巨大使い魔もそっくりそのまま同じ動作を繰り出す。

 

「好き勝手なことを……!」

「人の話を聞けよ、おい。つか、秘匿はどこに行った。これで俺まで魔力使ったら、バレた時に巻き添えにならないよな」

 

 高音が周りの目を気にせずに魔法を使うから少しでも奇異に映らぬように自嘲しているというのに、完全に頭に血が上っている高音が恨めしい。そもそも侮りなどとんでもない。

 

「この相手に魔力無しは、ちとキツいぞ」

 

 数合の立ち合いで高音が既に見習い魔法使いの戦闘力を遥かに超える領域に到達していることを感じ取っていたアスカは、苦虫を盛大に噛み潰した顔で今度は小さな動作でステップ重ねて飛び退る。

 アスカがつい先ほどまで立っていた場所に、巨大使い魔の貫き手が突き刺さる。

 

「くっ」

 

 巨大使い魔の貫き手によって破砕された舞台の破片の一つが目前に飛び込んできて、視界を遮る破片を咄嗟の反応で右腕が動いて払いのけた。

 

「そこっ!」

 

 破片の除去に意識が若干ずれた隙を見ぬいた高音が叫びと共に突き出した右手に沿うようにして、合計八本の影の槍がカタバルトから射ち放たれたロケットの如く走る。

 右腕を外側に向けているのでアスカの半身が開いている。六本の影の槍が高音の右手に沿って、全てがアスカの左側から小さく婉曲を描くように伸びる。先の破片を払った右手では反応して戻すのに時間がかかる。しかも残った二本がアスカから見て右側へと避けられないように回避方向へと先回りしていた。左側から来る六本の槍は小さく婉曲を描いているので、そちらへ回避しても真っ直ぐに直進させて追いかけて来るだろう。

 回避不可能と見たアスカは驚くべき行動に出た。自ら左方向の影の槍へと向かって行ったのだ。直後、鉄砲が連続で放たれたような断続的な撃音が鳴り響く。

 メキッという異音と共に、アスカの身体が断絶的に震えた。

 

「がっ! ……っあは……」

 

 苦悶に呻くアスカの口から胃液が零れ出る。が、攻撃を当てた高音の方が驚いた顔をしていた。

 

「自分から当たりに行くなんて?!」

 

 アスカは自分から六本の影の槍に当たりに行ったのだ。自殺行為のような行動に高音の頭が一瞬だけ止まる。

 あの場合は回避が難しく、如何にダメージを少なくするかに人は注目する。しかし、アスカは常人の考えよりも一歩進んだ答えへと行き着いていた。右腕を外に開けたことで、体前面ががら空き。そこが狙われているならばと、右腕を戻すのではなく更に振り切る。右足を下げて左足だけで前に進む。つまり、左半身を前に出したので高音は自分から当たりに行ったように見えたのだ。

 実際には攻撃を受ける面積を減らしているので危険性を減らしている。左腕で影の槍を弾けば運が良ければダメージ0で切り抜けられる。

 だが、流石に全てが上手くいくはずもない。想定していたよりも完全な左半身にはなれず、斜め方向になってしまったので体面積が増えて防御を完全には出来なかった。食い込んでいる腹と右肩、更に影の槍を弾いた左腕は痛みでこの試合中は使えそうもない。

 

「これで……!」

 

 胃液に満ちた口内で歯を噛み締め、折れそうになった膝を叱咤して一足の間合いにいる高音へと肉薄した。

 高音は魔法使いであって戦士ではない。勝つために、敵を斃すために、行動するアスカを理解できるはずもなかった。目の前で自分が人を傷つけたことで皮肉にも高音の頭に上っていた血が下がった。

 上昇から下降による一瞬の混乱、冷静になったが故の思考の停止が高音を襲う。アスカがその隙を見逃すはずもない。

 後ろの右足で軽く踏み切って中途半端だった状態から完全に半身になり、食い込んでいた右肩と腹の槍をずらして外した。続いて左足で大きく踏み込み、高音までの距離を一足で詰めた。

 開いていた体が今度は右半身になり、肘関節を折り曲げた状態の肘を胸の前から地面と水平に大きく回して先端を突き刺した。八極拳の外門頂肘。

 

「……!?」

 

 高音はやられたと思った。先の一撃は使い魔の防御を突破した。

 今は意識が停止していて、先の一撃と同等の威力を持っているなら突破されると考えた。

 が、体に痛みはない。条件反射的に閉じていた瞼を開けば、使い魔の腕すらも突破できていないのが見えた。アスカの肘は黒衣の夜想曲のマントに受け止められていた。

 舌打ちをしたアスカへ、これだけの近距離では使い魔の攻撃は出来ないので自ら影を纏った拳を振り上げた

 数合の立ち合いで近接戦闘能力で劣っていると自覚した高音の下手な一撃が当たるはずもない。全力で後退したアスカに、更に追撃だといわんばかりに降り注いだ槍の攻撃を避ける、避ける、避ける。

 

『これまた凄まじい攻防! 少年拳士VS謎の巨大人形なんて何のモンスター映画だ――――っ!!』

 

 興奮した和美のアナウンスが鳴り響き、同意するように観客席から大きな歓声が沸く。

 

(先の攻撃が思ったよりも効いたようですが流石は私が憧れた正義の味方、上級悪魔を倒したその実力に偽りはないということですか!)

 

 さっきとは違って弾かずに小刻みに移動するアスカの動きに精彩が感じられない。攻撃の密度を落として様子を観察してみれば直ぐに分かった。右肩が上がっていないのと、左腕の動きが緩慢なのである。弾かないのではない、弾けないのだ。

 先の肘打ちもまた、肩を打たれたことによる負傷で威力が落ちたものと思われる。肩が上がらないのを見るに脱臼したか。

 先の使い魔の腕を粉砕した一撃は防御障壁がなければ負けていただろう。高音に敗北を予感させた。

 こちらにダメージはなく、向こうには戦闘続行不可能と言われても仕方のない負傷を負っている。状況は明らかに高音が有利と見える。だが、心理的な面では何度も敗北を予感をさせられているのは高音の方だ。

 それでも顔を引き締めている高音・D・グッドマンに油断は欠片もない。

 こちらの攻撃を躱す回避行動は、まるで舞踏のようであった。ほんの一歩ステップを踏むだけで影の槍も腕も虚空を切る。避けるというほどの鋭さでもなく、足の運びは寧ろゆったりとした優美なもの。なのに、当たらない。

 無造作にしか見えない足運びは、しかし溢れ出る影の槍をそれ以外にない角度とポイントで回避し続ける。

 

「これで!」

 

 高音の顔が顰められ、更に影の槍の数が増えた。

 だが、どれほどに増えてもアスカには当たらないのだ。まるで風にでも押されるような軽いステップで、ありとあらゆる攻撃を避けていく。

 

(これで魔力を一切使っていないとは……)

 

 また影の槍の一撃がアスカを掠め、接戦に観客席が沸く。今は騒音にしか聞こえない歓声を聞きながら高音は汗を垂らした。

 思考が読まれているとしか思えないほどの回避だった。動きを完全に見切られている。

 一瞬の内に舞台の端まで離脱したアスカを逃すまじと、影の槍を放ちながら追いかける高音。アスカは飛び掛かって来た巨大使い魔の手刀を避け、めり込んだ腕の服の袖を踏んで抜けないようしながら軸足にして回転しつつ上げた反対の足の蹴りつけた。

 使い魔でも関節は人と同じだったのかハイキックで蹴りつけられた肘部分で折れ曲がり、前方に倒れていく。当然使い魔に引き摺られるようにして高音もついていく。

 

「きゃっ」

「ふんっ!!」

 

 悲鳴を上げて宙を浮かぶ高音に向かって天頂に向かって、右足を下ろして反対に振り上げた左足が伸びる。しかし、それでどうにかなるほど黒衣の夜想曲は甘くは無い。

 巨大使い魔が残った腕で高音を包み込んで守る。蹴りに衣を突破する威力はなく守られた高音にダメージはない。そのままアスカの頭上を通り過ぎて無難に着地する。その時にはアスカも反対側に跳躍して距離を開けていた。

 アスカを見る高音の顔に歓喜が溢れる。魔力を使わず、両腕を使えないにも関わらず、諦めず、想像もしない手で攻めてくる。高音・D・グッドマンが憧れた姿そのままに、絶対的不利をものともしない戦士がそこにいた。

 

「それでこそ……」

 

 汗は試合と昂る興奮によって生み出されていた。見込みに間違いはないのだとハッキリと実感した感情がどうしようもなく昂る。

 どれだけ不利だろうと諦めることのない不屈の闘志で輝く眼が高音を見ている。全身が興奮で抑えようもなく震える。この時を待っていた。ずっと高音は、この時を待っていたのだ。

 

「それでこそ私の求めた正義の味方です!」

 

 高音が歓喜に爆ぜた瞬間、アスカの視界を倍増された影の槍が覆う黒界によって閉ざされた。

 一気に倍増した五十を超える影の槍がアスカに襲い掛かった。頭上と正面から来る影の槍の雲霞は世界全土が襲い掛かって来るに等しい。

 

「正義の味方?!」

 

 いきなりの単語に仰天しながらもアスカは経験から導き出される予測によって、影の槍の雲霞から回避する方法を探し出そうとしていた。

 アスカがいる場所は舞台の端っこ、回廊の合流地点を背後にして選手控え席を対面にいた。

 前から来る槍と、上から来る槍は、多少の前後はあっても最終的には重なって逃げ場を失くすようになっている。舞台の端っこいることもあって逃げ場はどこにもない。

 右肩は影の槍で脱臼したのか、ダラリとしたまま動かない。左腕は何度も弾いた所為でまだ感覚がない。逃げるとしたら左右のみ。当然、そこは考慮済みの高音は左右のどちらかに動けば前からのを操作するだろう。だから、アスカは動かなかった。動かないアスカを観客の誰もが諦めたと思った。

 もう少しで影の槍が当たるかというところでアスカが跳んだ――――後ろへ、舞台脇の欄干も蹴って更に外へ。

 

「ぐっ!」

 

 さっきまでアスカがいた場所に次々と突き刺さる影の槍の群れの合間を縫って、前から障害物がなく真っ直ぐ伸びてきた槍達が殴打する。このままでは湖面に落ちるかと思われたが、影の槍がアスカを弾き飛ばし、背後にあった灯篭まで飛ばした。

 最初から全てが計算ずくであったように後ろを見ることなく灯篭に足をつけたアスカが再び跳んだ。まさかの行動に唖然とした顔をして影の槍を戻している高音のいる舞台に、何事もなかったように着地する。

 着地したアスカは動かないはず右肩を軽々と動かして、様子を確かめるように上げ下げを繰り返す。

 

「どうして…………右手は動かないはずです。さっきまで動かなかったのにどうやって?」

 

 一連の行動は影の群れに阻まれて高音からは見えていなかった。力の入っていない具合から間違いなく脱臼したと思っていた高音は追撃も忘れて問いかけた。

 時折、痛みに顔を歪めて肩の様子を確認したアスカは高音へと顔を向けた。

 

「影の槍を利用させて脱臼を填めさえてもらった。ただ、それだけだ」

 

 自分から後ろへ飛んで水面に水平になって影の槍の一本に当たりをつけて、伸びてきたところで右手の平を殴打(つまり押させて)させて無理矢理に脱臼を填めたのだ。

 更に他の影の槍を蹴れば距離も開き、観客席もあるので無限に伸ばすわけにもいかず、精々が舞台を少し超える程度にしか伸ばすつもりのなかった。攻撃はダメージを与えず、脱臼を治しただけで終わったのだ。

 

 

 

 

 

 神楽坂明日菜は、選手控え席でアスカが追い込まれる度にハラハラドキドキしていた気持ちで見ていた。

 

「普通はあんな状況で脱臼を治せるわけないじゃない」

 

 並外れた聴力で離れた舞台にいる二人の会話を聞いて呆れていた。これだけの観客が発する騒めき音や歓声の中で、十メートル以上は離れた場所にいる会話を聞き届けている時点で並外れている。

 隣で聞いていた刹那は、それよりも自分に聞こえないアスカの声を聞き届けた明日菜の耳の良さに呆れていた。

 

「でも、なんでアスカがあんなに追い込まれてるの? もしかしてあの高音って人はそんなに強いの?」

「お姉さまは凄く強いですっ」

 

 明日菜は隣にいる刹那に聞いたつもりだったが、答えたのは高音と同じ黒いローブを纏っている佐倉愛衣が叫ぶように答えた。

 刹那は「――――流石に相手があんな派手なのを使っている時に、凄すぎる運動能力を見せたら異常に気付く」と答えかけていたのを止めて、明日菜を挟んで反対にいる愛衣に顔を向けた。

 控え室でしていたような頭まで被って顔を隠しはしていない。一度外れてしまったフード部分を首の後ろに下ろして本当に纏っているだけだった。露わになっている顔を憤りからか、紅くしていた。

 

「いくらお姉さまが憧れている正義の味方さんでも、本気モードに勝てるとは思えません」

「憧れている?」

「正義の味方?」

 

 なにやら気になる単語を次々と言い放つ愛衣に、明日菜と刹那は顔を見合わせて首を捻った。

 

 

 

 

 

 舞台上では影の槍を引っ込めた高音を中心にして、右腕が動くようになったアスカが円を描くように回っていた。

 状況は一度様子見の段階に入っていた。決定打を掴めない高音と、決定打がないアスカ。似ているようで違う二人の状況は拮抗していて、相手の様子を窺い続ける。

 

「防御はともかく攻撃動作は本体と同じ動作をみたいだな。確かに黒衣の夜想曲を近接戦闘最強奥義と称するだけはある」

 

 と、アスカが確かな賞賛を込めて言った。

 黒衣の夜想曲は自動防御能力と攻撃力と機動力の増幅を行っている。術者の能力にこれだけの能力が上乗せされるのだから近接戦闘最終奥義の名に相応しい。

 自動防御能力を除いて、使い魔は術者の思考や動きをなぞるように動く。言い返せば、術者の想像を超える行動や動きを超えることはない。つまり、黒衣の夜想曲は術者に応じて能力が上下する魔法であった。

 使いこなせれば一騎当千も夢はない。しかし、その道は遥かに険しく遠い。術者である高音の近接戦闘の動きは未熟であるが、そこはこれから改善していけばいい。高校二年生なら十分に改善の余地はある。

 現段階でも黒衣の夜想曲を発動時の高音・D・グッドマンの実力は魔法生徒の領域を超えて、戦闘に特化した魔法を扱う魔法先生に伍する。 

 

「あなたに褒めて戴けるとは、光栄の極みです」

 

 周りを回って隙を見せる時を待っているアスカだが、巨大使い魔を顕現させていても油断せずに背後を晒さない高音相手に焦れていた。正対する位置で止まって、会話で隙を生めないかと切り口を変えると意外にも乗ってくれた。

 

「初めて会った時もそうだったけど、一々大袈裟じゃないか?」

 

 正当な評価で褒めたとはいえ、今は武道会に出場していて対戦中である。本当に嬉しげに微笑む高音の様子は魔法を褒められたにしては大袈裟すぎる。初対面時での浮かれようといい、どうしてかと思ってしまう。

 初対面でいきなり握手を求められ、異様な喜びよう。憧れの芸能人に偶然会って舞い上がったかのように興奮していた。それと合わせて今回の喜びよう。二度目ともなればおかしいと感じた。

 

「大袈裟、ですか。ふふ、どうやら私は自分で思うよりも舞い上がっているみたいです」

 

 アスカの指摘に自覚がなかったのか、頬を僅かに朱に染めた高音は否定することなく認めた。その目はけして敵から離さず、何時でも攻撃が行えるようにベルトのように揺蕩っている影の槍も止まったままアスカの方へ向けられていた。

 

「貴方に会えたから…………憧れて止まない貴方に会えて会話を交わせたことが嬉しかったんです」

 

 恋する乙女による愛の告白とも取れる言葉に、攻撃されたらあっさりと倒されてしまうのではないかと思うほどにピシリと、ジリジリと摺り足で間合いを詰めていたアスカの動きが止まった。あまりにも予想外の台詞に許容量を超えて固まってしまったようだ。

 

『試合中で突然の愛の告白が始まった~~~~っ?!!!!! 皆様、ワケが判らないかもしれませんが私はもっと分かりません!!』

「なにを言ってるんですか、お姉さま!?」

 

 舞台上の会話は観客席まで届かない。選手控え室にいて聞こえる明日菜が異常なのだ。二人の会話を魔法等を使わず聞き取れるのは舞台上にいる者と、舞台脇に待機している司会の和美のみ。

 衝撃的な言葉を聞いた和美の叫びに同調して観客席から今日一番の女性陣の黄色い歓声が沸き起こった。この大観衆の中でかました愛の告白に相棒の愛衣は目を突き破らんばかりに前に出し、驚きを露わにする。

 

『高音選手! なにがなんだか意味が分かりませんが、試合中ですから取りあえずアスカ選手のどこに惚れたかだけ教えて下さい!』

 

 舞台脇にいた和美はここは聞かねばならないと会場中の総意を代表して、舞台に昇って高音にマイクを向けた。明日菜の時は気を使って大人しくしていたのに、高音の時にはしゃしゃり出てくる気満々のようだ。

 マイクを向けられた高音は、なにを言われているのか分からないといった顔で向けられたマイクと和美の顔を順に見て、「どこに惚れた?」と聞かれたことを思い出して自分の思いが勘違いされていることに気づいた。

 

「ち、違います! 憧れているというのはそういう意味ではなくて……」

『それはどう考えても惚れた腫れたとしか聞こえませんが』

 

 顔をトマトよりも真っ赤にしてマイクに向かって言うも、和美の言いように会場中が頷いた。

 

「私が憧れていると言ったのは正義の味方としてです! 決して男女のそれではありません!」

 

 認めしようとしない高音に、会場中の視線、それも女性陣から非難が体にグサグサと突き刺さってくるような気がして、身の置き所がなくなって本音をぶちまけた。

 「正義の味方」という単語に会場中の全員が揃って首を捻った。男女の恋の話がいきなりとんでもない方向に走り始めれば首を捻りたくもなる。

 

「誰もが彼、アスカ・スプリングフィールドの活躍を知っているはずです。そして見たはずです。無心に人を助け、悪を挫く姿に正義の味方の姿を」

 

 今まで語る機会がなかったのか和美からマイクを奪い、マイクを持っていない手を広げながら良く響く声で語り始めた。

 

「理不尽な災厄から、理不尽な悪意から、みんなを守る絶対的な存在。弱気を守り、強きを挫く。彼の行動はまさに正義の味方そのもではありませんか」

「なぁ……」

 

 更に続けようとした高音を遮って、アスカは少し気まずげに口を挟んだ。

 

「今の俺と前の俺が同一人物だって分かる奴、いないと思うぞ」

「む……」

 

 何故止められたのか分からないといった顔をしている高音から、そっち関係の話になると察知した和美がマイクを取り返してそそくさと舞台脇に戻っていく。

 マイクを取り返されたことにも気づかず、高音は改めてアスカの姿をマジマジと見る。

 

「どうして大きくなっているのでしょう? 話では小学校高学年ぐらいだったはずでは?」

「そこからかよ!!」

 

 今更にその事実に思い至ったらしく首を捻り始めた高音に、普段はボケのアスカが突っ込んだ。

 アスカは疲れたように肩を落として頭が痛むのか、眉間を揉み解しながら口を開いた。

 

「取りあえず、俺は正義の味方なんかじゃないから。やりたいようにやってるだけだ」

「嘘です」

 

 感じたままに高音は心中を吐露した。

 

「へ?」

 

 まさか否定されるとは思っていなかったアスカは、口を開けてポカンとした。

 

「あなたは多くの人を救ってきました。それはこの麻帆良中の人が知っています」

 

 高音は畳みかけるべくアスカまでの距離を一歩進める。いっそ無防備に近づく高音を前にしてアスカは動かなかった。どうにも温度差が異なり過ぎて、頭がフリーズしているようだ。

 

「―――――私には親友がいます」

 

 暫くの沈黙の後、高音が突如として関係のない話を始めた。大きく、観客達にも聞こえるように響く声で。

 

「彼女はとても可愛らしい人で、恥ずかしながら世間知らずな私を何時も助けてくれました」

 

 黙するアスカを見る高音の目は真剣だ。彼女の真剣な目を見れば関係のない話をするとも思えない。アスカは話を聞くことにした。

 会場にいる者達も同じ意見なのか、先程までのざわめきが嘘に静まり返る。静まり返った会場に高音の声だけが響いた。

 

「でも、そんな彼女に不幸が起こりました。帰宅途中に男達に誘拐されたのです」

 

 その男達に嫌悪を感じているのか、怒りを滲ませた口調で話す高音に、ピクリと反応したアスカの体。果たして高音に反応したのか、話す内容に反応したのか本人にも分からなかった。

 

「男達は最低でした。彼女に口にも出せないことをしようとしていたのです」

 

 一度は怒りを吐き出そうと会話の合間に間を作って深呼吸をしたが、余計に怒りが増したのか嫌悪と怒りが交互に混じった口調になっていった。

 

「多くの男達に組み敷かれ、助けを求めて精一杯の抵抗をしましたが暴力を振るわれて彼女は遂に絶望しました。そして救いはないと諦めてしまったのです」

 

 その後の悲劇は言われなくても誰でも想像がつく。想像もしたくない悲劇が高音の親友を襲ったのだろう。誰もが沈鬱そうに顔を俯けた。

 

「でも、奇跡が起こりました。どこからともなく正義の味方が現れたのです」

 

 だけど、ここで始めて高音の声色が蕾だった花が綺麗な花弁を開くように劇的に変わる。怒りが喜びに、嫌悪が憧れに変わっていく。

 

「正義の味方は男達を軽々と薙ぎ払い、窮地に陥った彼女を救いました」

 

 世界を見渡せばどこにでもあるありふれた悲劇はヒーローの登場によって覆され、悪は正義の味方によって対峙された。どこにでもある三流物語の結末と同じ。違うのはこれが現実に起こったこと。 

 

「そして正義の味方は彼女に言いました。『もう大丈夫だ。安心していい。よく頑張ったな』と」

 

 高音の親友にとって正義の味方の言葉は、どれだけの救いになったか。きっと当の正義の味方にも分からないだろう。彼女にとっては絶望の中に現れた希望そのままで、物語に現れるヒーローそのままだったのだ。

 

「男達は正義の味方が呼んだ警察に捕まりました」

「それはまさか……」

 

 アスカには高音の言う「彼女」が誰か知っていた。そもそも事件の当事者の一人だった。

 

「彼女は言っていました。もしあの時の正義の味方さんに会えたらお礼が言いたいと」

 

 高音の視線が正義の味方がアスカであることを指し示していた。

 アスカが関わった事件。別荘の使用を禁止されて散策していた時に通りかかった際、異変を察知して誘拐されて今にもな少女を助けたことがあった。

 記憶を思い返せば被害者だった少女はウルスラ女学院の制服を着ていた。同じウルスラ女学院に通っている高音と知り合いだったとしても何の不思議もない。

 

「私には出来なかった。知れもしなかった」

「完全無欠に偶然だったんだが……」

「だけど、あなたはあそこにいて彼女を助けてくれた。私は安穏としていただけだったのに」

 

 アスカが間に合ったのは偏に偶然に過ぎない。偶々、あの場所を通って異変を察知しただけ。助けたのはアスカにとって何時もの行動である。

 偶然が重なったとしても、高音には親友を自分の手で救えなかった悔恨があった。でも、彼女にどうして事件の事を知れようか。親友が帰ってこなかったことに気づきはしても、恐らく核心に辿り着いた時には全てが手遅れになっていただろう。

 だから、どうしようもなく憧れた。自分には出来ないことをしてみせたヒーローに。憧れ続けた正義の味方は本当にいたのだという喜びと共に。

 

「私に出来なかったことをしたあなたが、親友を助けてくれたあなたは、あの時から私の憧れなんです。私の正義の味方なんです」 

「頑張って! 金髪のお兄ちゃん!」

 

 答える言葉を持たずに俯いたアスカの耳に、観客席から声変わりのしていない高いキーの子供の声が響く。

 声の方向へと顔を向ければ、少年少女――――ひったくり犯に突き飛ばされたところをアスカと小太郎に助けられたはる樹とゆきがいた。

 二人は腕を振り回して、顔を真っ赤にしてアスカの応援をしてくれている。

 

「頑張れよ、坊主!」「負けるなよ!」「頑張って!」「ファイト!」「大丈夫、勝てる!」

 

 次々と観客席からアスカに向けて声援が振り向けられる。

 

「なんだこの恥ずい空気は」

 

 周りの人達も便乗して会場を包むような応援の声が木霊する。アスカは突如として注目されて穴があったら入りたい気持ちだった。

 

「決着を着けましょう。この戦いを観客投票で決められるのは本望ではありません」

 

 試合が開始されてから十分を超えている。一試合の制限時間は十五分に設定されており、時間を超えれば観客による投票で決着が決められていた。

 

「早く終わらせよう。てか、逃げたい」

 

 高音は自らの言葉通り、ベルトにも見える影の槍群を背後に戻した。一撃で決着を着けるために全ての影の槍を使い魔の拳に収束させていく。反対にアスカはその場から一歩も動かず、構えすらも取らない。

 二人は同じ気持ちだった。どちらも決着を望んでいた。その道程が全く異なっているが。

 一撃で試合の決着が着くと認識し合った。睨みあって無言の時が数秒流れる。

 司会の和美が手元の腕時計を見て、試合時間が残り一分だと告げようとしたその瞬間、

 

「――――っ!?」

 

 高音の目が丸く見開かれた。

 瞼を下ろして上げる一瞬の瞬きの間、アスカから意識をずらした、いや、普通なら意識を外したなんて言わない。誰もがする生理現象。隙とも言えない瞬きをした一瞬の間にアスカが目の前―――――それこそ使い魔が自動反応しない絶妙な距離にまで近づいていたのだ。

 

「なっ――」

 

 一瞬の接近に驚きながらも攻撃が届くか届かないか迷う距離に、攻撃を放つか退避行動に入るかで逡巡が混じる。

 神業的な速さで攻撃に移る決断を下したた高音だったが、アスカの行動に今度こそ度肝を抜いた。

 距離を一息に詰めるでもなく、まるで友人か家族の家に上がりこむような何気ない足取りで悠々と歩いてきたのだ。とても戦いの最中には見えない。

 決して素早い動きではなかった。むしろ緩やかにすら感じられる歩み。本当に極自然だった。なのに、何故か全く反応できなかった。認識と知覚の隙間に滑り込むような歩法は、不自然なほど自然すぎて警戒に足るだけの違和感を抱かせない。

 あまりに軽い歩みだった所為で、懐に潜りこまれたのに気づいても反応するのが一瞬遅れてしまった。

 無防備にくるりと反転して、アスカは背後にいる高音に体重を預けたのに反応ができない。腰を僅かに下げたアスカの背中―――――肩甲骨が棒立ちの高音の胸に触れる。

 操影術の近接戦闘最終奥義である黒衣の夜想曲。使い魔の懐の内で守られながら、使い魔の攻撃力、機動力で白兵戦を仕掛ける。相手の攻撃を自動的に防ぐため、同等の能力の持ち主であるならほぼ無敵と言っていいだろう。あらゆる物理攻撃、打撃のみならず魔法の射手のような魔法攻撃に対しても「黒衣の盾」により自動で防御する。

 ただこの魔法の自動防御は術者に損傷を与える攻撃にだけ反応するので、触れようとするだけなら使い魔に妨げられることはない。

 意識の隙間を縫って接近したといっても、外部からは普通に散歩するように歩いて近づいたようにしか見えないアスカ。

 闘気すらない歩みは使い魔に攻撃の意志を感じさせない。背後を見せて体重をかけてきても攻撃の動作は取らないので防御行動を取らなかった。高音はアスカの行動を感知できていないのだから回避行動は取れない。結果として使い魔はアスカが術者に触れようとも行動一つ起こさなかった。

 この一瞬の間こそがアスカの狙い。背中を向けて密着状態にある現状。手足を動かせば攻撃動作と取られないので攻撃接触点は背中のみ。背中で放てる攻撃が中国武術にはある。

 

「はっ――!」

 

 その瞬間、床を踏み抜くような震脚と共に、アスカが足首から膝、腰、肩と剄を練り上げ廻して背中から解き放つ。鉄山靠―――――それは一撃必殺、二の打ち要らずとも称される剛拳、八極拳の中でも最大級の破壊力を誇る打撃技である。

 

「――っ!」

 

 全く回避も防御も出来ず食らってしまう。影の衣装を纏って防御力を上げている高音の胴体が爆発した。爆発したと錯覚するほどの凄まじい衝撃に襲われた。

 

「あ……あ……」

 

 呼吸も思考もできず、その威力は高音の意識を一撃の下に消し飛ばしたかのようにブレーカーが落ちた。意識を失った高音の体はそのまま前にいるアスカへと寄りかかっていく。

 続いて、グラッと巨体を揺らめかせた使い魔の姿に、観客がどよめいた。

 

『き……決まった――――っ!?』

 

 間近で見ていた和美にはアスカの足下が陥没した直後に、高音が倒れ込むようにしてアスカに寄りかかったのでなんらかの攻撃が決まったのだと考えた。

 

『おおお!? 巨大人形が消えていきます!? 一体どんな仕掛けなのか!? 素晴らしい技でした!!』

 

 高音が生み出した黒衣の夜想曲の巨大使い魔が霞のように消えていく。

 高音の操影術は黒衣の夜想曲で巨大使い魔を作り出したり、複数の使い魔を生み出すだけではない。拳に纏わせる事でパンチの破壊力を高める事も可能であり、自分の身を守る盾にもなる。

 ここで問題なのは、一回戦で着ていた服が田中さんに吹き飛ばされてしまったことにある。替えの服など用意していなかった高音は影の鎧――――魔法で服を作り上げた――――を使ったのである。

 影の鎧は、装着すれば防御力三倍になる。見た目はただの服なので魔法バレの可能性もかなり低い。お肌にピッタリ装着すれば七倍になるのだからどうするかは決まっている。

 この試合で披露していたドレスのような服は影の鎧だったのだ。しかし、この影の鎧には重大な欠点が存在していた。そしてその欠点は影の鎧の能力を最大限発揮している時に限って致命的なものになる。

 

「ああっ! たたた大変! 今のお姉さまが気絶しちゃうと……!」

「どうしたの?」

 

 選手控え席にいた愛衣が何故か顔を真っ赤にして慌てているのを見て、耳の良い明日菜が咄嗟に不思議そうな顔をしながら反応した。選手の何人かも彼女に顔を向けた。

 

「あの着ているドレス(影の鎧)が脱げちゃうんです!」

「は?」

 

 愛衣の叫びを聞いた選手全員の顔がなにを言っているのか理解できずに束の間、埴輪になった。

 

「ふにゃ……?」

 

 アスカはふと、背中に当たる柔らかい感触をそのまま擬音を口に出した。

 これはなんだ、と寄りかかっている高音の方を首だけで振り向いて、予想以上に多い肌面積に、この試合二度目のピシリと彫像にように固まった。

 高音を見た和美や選手控え席にいる選手達、そして会場中の人間全てが凍りついたように時が止まった。

 

「う……」

 

 高音の意識は直ぐに戻った。アスカは着ている服にも何らかの魔法によって作られている物と考えて手加減はしなかったが、影の鎧の防御力は想定以上だったということだろう。

 惜しむらくは、このまま長時間意識を失っていた方が彼女にとっては幸せだったかもしれないということだろう。今の高音にとって、龍宮神社は地獄の最下層よりも最悪な場所なのだから。

 

「ア……アスカさん、私……負けたのですか?」

 

 意識を飛ばした反動で僅かに霞む視界で目の前に逞しいアスカの背中があるのが分かり、自分の身体が彼に寄りかかっているのが分かって答えが返ってくる前に敗北を自覚した。

 負けたことにショックは受けなかった。いっそ気味が悪いほどに心身ともに清々しい気持ちで負けを認められた。

 

「完敗です。今度、是非にでも私に……?」

 

 色々な意味で教えを賜りたいと考えた高音は、意識も完全に戻りかけてこの時になってようやく状況の異様に気がついた。

 会場が異様に盛り上がっていることや、試合前から開始にかけて集中していた色欲に満ちた視線を遥かに超える情欲にまで至っている視線、目の前で気絶しているかのようにピクリとも動かないアスカ、見下ろしている視界に映る肌色、清々しいを通り越して寒々しい感じる全身。

 

「え……?」

 

 視界に映るのは生まれたままの姿の自分の肢体を見下ろして現状に気づいた。見る見る内に顔が赤くなるのを自覚する。

 これこそが影の鎧の弱点。術者が意識を失うなど魔法の制御が困難な状態に陥ればなれば自然と消失してしまうのだ。素肌に着ていると気絶したら待っているのは今の高音のように素っ裸。

 肌に直接着込んだ場合、防御力が増すのは陽の下にあることで内側の影が濃くなるから。服の下に着ると影の中に着ることになって防御力が低下するのだ。下着を着ても効果は低下するので、全裸になって直接着込むしかない。

 高音は一回戦で田中さんとの試合で服を消失したので、影の鎧を肌の上に直接着込んでいた。そして短時間といっても気絶してしまったので消失してしまったのだ。後に残されていたのは全裸になってしまった肢体であった。

 

「ひゃ――」

 

 高音は反射的に悲鳴にならない声をあげて、己を裸体の前面だけでも隠そうと蹲ろうとする。

 肌に直接着込んだ影の鎧がその性質上、気絶したら消えてしまう危険性を当然高音も理解していた。だが、いざ危惧していた通りの展開になってみると羞恥心が全てを上回った。

 

「わ――っ」

 

 蹲ろうとすると密着したアスカもそれに引き摺られてしまう。しかも完全に自失していたところなので、あっさりと尻餅をついてしまう。そのスピードは蹲ろうとした高音よりも早い。

 結果として不可抗力でアスカの目の前には、薄い金色の茂みが広がっていた。どことは言うまい。

 背面は仕方ないにしても、前面はアスカがいたので防波堤代わりになって遮ってくれていた。アスカという防波堤がなくなって、高音の胸が衆目に曝される。

 ガラガラと何かが崩れていく音が聞こえた。自我とか自尊心とか世間体とか、そういった高音の持ち物が片っ端から崩壊していく音だった。

 

「…………きゃ」

 

 声の欠片が唇から零れた。

 

「きゃぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 

 生涯最大の叫び声を上げて高音は慌てて自分も蹲りながらアスカを抱きしめる。さっさと影の鎧を展開し直せばいいのだが、羞恥心が高まり過ぎて考えには至っていないらしい。

 高音にとっては幸運にも、観客の男達には不運にも、あまりにも素早い動きと正面が選手控え席だったので胸を見た者はいなかったことにあった。選手の男連中は愛衣の情報からいち早く紳士的にも顔を背けていた。衆人環視の中で見てしまったらどのような変態の烙印を押されるか分からなかったためである。

 ローブのクウネル・サンダースは性別が分からないので除外、小太郎は千草の教育によって既に明後日の方向を見ていた。

 

「はうっ……」

 

 高音の髪の毛は長いので背面も意外と隠れている。横側は高音の腕やアスカの体で肝心の所は見えなかった。そもそも十五メートル+倍ぐらいの距離が観客席と空いているので詳細など全然見えない。

 でも、間近にいるアスカには色々な場所が見え放題だった。

 

「こんな衆人環視の中で裸に剥かれた見た責任…………私の裸をこれだけ見たんですから責任を取って下さい」

 

 果たしてどのような意味で責任を取れと言ったのかは高音当人しか分からない。

 言われた当人は、先に尻餅をついていて後になって上から下りてきた高音の胸が絶妙に頭に嵌り、その上から腕を回されて圧迫された。

 胸の合間に押し付けられて綺麗に鼻と口を塞がれ、試合での超人的な技量では考えられぬほど呆気なく窒息して気絶していた。状況に耐えられなくて自分から意識を断ったのかもしれないが、ただ一つだけ言えるのは気絶しているアスカの顔がどこか満ち足りて、やり遂げた男の顔であったことだった。

 高音がアスカの気絶に気づくのと、愛衣が高音が捨てたローブを拾って持って来るまで後数秒。「ウルスラの脱げ女」と不名誉な称号が完全に定着するまで後数分。

 




高音の来歴は独自設定です。

名前:高音・D・グッドマン
属性:うっかり、猪突猛進、空気読めない
仇名:ウルスラの脱げ女

名前:アスカ・スプリングフィールド
属性:空気を読めてしまう、モグラになりたい
仇名:女の敵
天敵:高音・D・グッドマン



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第45話 踏み出す者、踏み出せぬ者

 

 タカミチ・T・高畑は霧の中を歩いていた。気がついたらこの場所にいて、辺りは鼻をつままれても分からないほどの濃密な霧に包まれていた。

 思わず辺りを見渡すも誰もいなかった。霧はその濃さを増していく。

 何十分か何時間か経って、状況が変わらないことに不審を覚えても霧の中を彷徨い続けた。

 

「タカミチ……」

 

 幾ばくか進むと懐かしい声が聞こえて頭よりも先に高畑の足が止まった。今の声には聞き覚えがある。今はもういなくなってしまった人、自分に闘う術を教えてくれた師の声。タカミチ・T・高畑がこの声を忘れるはずがない。

 

「師匠?」

 

 だけど、師であるガトウ・カグラ・ヴァンデンヴァーグは自分の目の前で死んだはず。

信じられない思いで声のした方向に駆け出した高畑は、大岩に寄り掛かって胸から大量の血を流しているかつての師の姿を見つけた。声をかけようと口を開きかけた。

その前に息絶えているはずのガトウが顔を上げた。

 死相そのままの顔で、睨み付けるように高畑を見る。

 

「タカミチ、何でだ? 何で嬢ちゃんをこちらに関わらせた。俺の最後の言葉を蔑ろにするのか」

 

 それは確かに死んだはずの高畑の師匠で、息も絶え絶えに喘いでいるのもあの時をそのまま再現したかのよう。

 

「ち、違う! 僕は――」

「ナギの息子なら私を任せても大丈夫だと思ったの?」

「……っ!」

 

 その師が今、自分の最後の言葉を無視して明日菜を関わらせたことを責めている。 

 そんなつもりはないと反論しようとしてしようとして、後ろから聞こえた声に振り返ると、そこにいたのは幼い頃の明日菜の姿―――――神楽坂明日菜ではなく、記憶を失う前のアスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアその人であることを直感で悟った。

 

「英雄であるナギなら、あなたには出来ないことをやってのけるナギなら、そのナギの息子なら……………私を守ってくれると、そう思ったのタカミチ?」

 

 高畑の膝が崩れ落ちる。目の前の断罪者を見ることが出来ないように顔を俯けた。

 ああそうだ、と高畑は目の前の摩訶不思議な現象を前にして、心の内側から本心に近い声が答えるのを聞いた。

 幼いタカミチにとって、途中で合流した紅き翼の全員が例外なく憧れの的だった。その中でも誰よりも輝いていたのは千の呪文の男の異名を持つナギ・スプリングフィールド。

 最年少ながらも名実共にグループのリーダーだったナギに、まだ幼かったタカミチ少年が憧れるなというのは無理もない話があった。

 でも、タカミチ少年には魔法使いとして必須のスキルが欠けていた。生まれつき呪文の詠唱ができない体質だったのだ。

 勿論、師であるガトウ・カグラ・ヴァンデンバーグに不満もなかった。彼がいなかったら紅き翼と関わることもなかったので感謝している。

 それでも幼心に根付いた憧れは消せなかった。魔法使いとして致命的なほどの不適格の称号を押された彼だからこそ、誰よりも魔法使いとして輝き続けたナギ・スプリングフィールドは眩しすぎた。

 ナギは世界を救い、誰にも救わないはずのアリカ・アナルキア・エンテオフュシアすらも救って見せた。どれもタカミチには出来なかったことだ。力を付けた今でもきっと出来ない。

 大人になって、師を失って、守る人が出来て、だからこそ高畑はナギに憧れを抱く。

 大人になることはきっと出来ないことを認めてしまうことだから、何時だって先頭を突っ走って立ち塞がる障害を打ち砕く背中に焦がれてしまう。

 そのナギの、世界の恨みすらも引き受けたアリカの、二人の子供なら自分に出来ないこともやってのけるのではないかと期待する。勝手な思いだと理解していても止められない。

 

「そのあなたの勝手な願いが私を殺す」

 

 ハッと不吉すぎる言葉に反射的に高畑は下がっていた顔を上げた。そこにはもう、アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアはいない。見知った十四歳の神楽坂明日菜の制服を着た後ろ姿があった。

 

「明日菜君?」

 

 おかしい。声をかけたのにピクリとも動かない。

 声をかけても反応しないので、動かない背中に手を伸ばした。明日菜の背中が動いて、伸ばした手が止まった。

 こちらに振り向くのかと思ったのだ。でも違った。振り向きはしなかった。ゆっくりと目の前で横に傾いていくのを唖然として見ていることしか出来なかった。

 

「……ぁ」

 

 力を失った明日菜の体が横に倒れる。目の前の現実が理解できなくて支える暇もなかった。

 うつ伏せに倒れた明日菜の体の下から紅い赤い液体がとめどなく流れていた。これは何だろうと目の前の事実を理解できない高畑は、倒れてピクリとも動かない明日菜の体を仰向けにした。

 

「ぁぁぁ……」

 

 仰向けにした明日菜の顔は綺麗なものだった。ただ、生気溢れていた瞳が人形のように伽藍同になっていて、唇の端から活動的な性格とは裏腹の白い肌を染め上げるように流れる血がなければ。

 心臓がある左胸を穿つ穴から今もダラダラと、許容量を超えたコップに水を注ぎ続けるように血が流れ続けていなければ死んでいると解らなかっただろう。

 悪い冗談だと明日菜を抱え上げて、ありえないほどの軽さと冷たさにゾッとした。現在進行形で熱を失って冷たくなっていく明日菜を見下ろした脳がオーバーフローする。

 

「ああああああ…………」

 

 そして見た。明日菜の死に体から顔を上げた先に、彼女を殺した証明をするように右手から血をポタポタと垂らして立ち尽くす下手人を。

 何時も黒衣を身に纏った短い金髪を逆立てた少年アスカ・スプリングフィールドが目の前に立っていた。その顔は明日菜を殺して哂っていた。どうしようもなく哂っていた。

 

「ああああああああああああああああああああっっ!!!!」

 

 腕の中で明日菜を死んだ。目の前にいるアスカに殺されたのだと脳が正しく理解する前に、魔力がオーバードライブして理性を焼き尽くす。何もかもを呑み込んで、手を伸ばせば届きそうな位置にいるアスカ目がけて致死の一撃を振るった。

 ゾムッと肉に手を突っ込んだらこんな音がするだろうかという感触と共に、高畑の手が目の前にいる人物の左胸を正確に貫いた。

 

「ほら、やっぱりタカミチが私を殺した」

 

 腕の中から声が聞こえた。だが、高畑の目は下を向かない。何故ならば彼の目は己が腕で貫いた神楽坂明日菜(・・・・・・)に向いていたから離れようがない。

 

「明日菜、君? 君がどうして――」

 

 そこにいる、という問おうとした言葉は声にならない。

 どう見ても左胸の心臓を正確に背中側まで貫かれた明日菜の口が微かに動く。守ると心に決めた少女の口が声ならぬ声で、「どうして」と動くのを見た時、高畑の精神は完膚無きまでに壊れた。

 

「あああああああああああああああああああああああああああっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!」

 

 タカミチ・T・高畑は己が罪に血の涙を流して、声よ嗄れよとばかりに慟哭した。

 

 

 

 

 

 そして悪夢から目を覚ます。

 

「ようやくお目覚めカ、高畑先生」

 

 待っていたのは、現実という名の地獄とも知らずに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 女性の胸で窒息するという男の夢を成し遂げて気絶したアスカ・スプリングフィールドは担架で運ばれていった。

 去って行くアスカに会場中の男達の野次が飛んだのは言うまでもない。望まずとも全裸になってしまった高音・D・グッドマンは自らが捨てたローブを佐倉愛衣が拾ってきてくれたお蔭で、アスカよりも先に脱兎の如く舞台から去って行った。

 

『え~、グッドマン選手が辞退するとのことでアスカ選手の勝利となりました』

 

 高音の使い魔が放った影の槍によって空いた穴を塞いだ麻帆良大土木建築研のメンバー達が使った道具と材料を手に肩に持ちながら去って行く。穴だらけになっていた舞台が瞬く間に修復されていく様子を見て、観客達が歓声を上げる。

 普通の格闘大会と同じように一試合が終わったインターバルの間にトイレに行ったり水分補給したりと、そうでなくても隣近所と先程の試合の寸評をしていて観客達は思いの外忙しい。

 

『ご覧下さい。麻帆良大土木建築研の手によって空いていた穴も迅速に修復されました』

 

 第一試合を行ったアスカと高音の姿はなく、舞台の修復を行っていた麻帆良大土木建築研も作業を終えていなくなった舞台上に、ただ一人残った和美が大会進行を進める。

 

『Bブロック第二試合が引き分けにて、試合相手不在によって試合相手不在によって高畑.T.タカミチ選手を準々決勝進出とします。暫しの休憩の後、二回戦第三試合を行います』

 

 司会進行を行う和美の姿を観客席から眺めていた長谷川千雨は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「しっかし、あいつは何をやってんのかね。もっと楽に勝てたろうに」

 

 先程のアスカの醜態を思い起こして何故か頬を引き攣らせる自分が不思議だった。

 アスカのことを考えていると試合での気絶する前の様子が思い起こされ、これまた何故か自分の胸元を見下ろして溜息を漏らす。そんな千雨の変わった様子を見せたので、ネギは理解できずに首を傾げ、カモは「ははーん」とでも言いたげな顔をし、のどかは面白いを物を見つけたように瞳を輝かせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 担架で運ばれたアスカを見送った明日菜の内側で広がっていくものがった。

 広がっていく何かに名前を付けるとするならば怒気。

 

「…………あぁもぉ! さっきのアレはなんなのよ! 頭くるなぁ――っ!」

 

 怒りが収まらぬと頭を両手でガシガシと掻き毟り、地団太を踏むように床を踏み叩く。

 「怒髪、天を衝く」とは正にこのことで、最初は刹那も口をポカンと開けて唖然とした。地団太を踏むその姿は年頃の乙女としては少し恥ずかしい。刹那は今の明日菜にかける言葉がない。

 

「えぇ……! 男は大きな胸の方が好きって言うけどね。ああ! 苛々する!」

 癇癪を盛大に爆発させる明日菜が言った言葉に、さっきの二回戦第一試合の顛末を思い出して納得した。

 アスカは対戦相手であった高音の裸の胸――――刹那よりも遥かに大きく、明日菜よりもなお大きい――――で窒息するという男の夢を体現して気絶していた。

 明日菜はどうやらその事実が、特に自分よりも大きい高音の胸で気絶したことが許せないようだった。

 額にハッキリと青筋を浮かべ立たせて八重歯を覗かせるように叫ぶ明日菜に、刹那は怒気に圧されかけていたがこのままではいかないと心を定める。

 

「あ、あの明日菜さん。少しお話ししたいことがあるのですが?」

「話?」

 

 クルリと振り返った明日菜は、刹那の提案に怒りも忘れて首を捻った。

 

「はい、お嬢様も交えて」

 

 決心を固めた様子の刹那に、明日菜は気圧されたように頷くのだった。

 

 

 

 

 

 仮契約カードを通して念話して呼んで合流した木乃香も合わせて、人の目が無い所ということでアスカが寝ている臨時救護室にやってきた三人。

 室内にいた保険医は、アスカの気絶の原因が分かりきっているので大した心配もせずに部屋を出て行った。

 

「それで、せっちゃん。話しってなんなん?」

 

 襖が閉まって少しして、中々口を開こうとしない刹那よりも先に木乃香が口火を切った。

 その言葉を切っ掛けとして、刹那の重い口が開く。

 

「…………私の、秘密についてです」

 

 刹那は気持ちを切り替えるように大きく息を吸って、また吐いた。

 そして心を決めると少し前に屈んだ。

 

「ずっと言えなかったことがあります。お嬢様にもずっと秘密にしていたこの姿を。でも、今なら……」

 

 そう言うや否や刹那は、屈んで大切な何かを抱き締めるように腕を交差する。

 一瞬の後、彼女の背中から美しい純白の翼が生え、まるで花が咲くように鮮やかに大きく羽ばたいた。

 一点の曇りもない無垢な純白の翼が羽ばたく度に白い羽が風に舞い、幻想の風景へと作り変えていく。

 

「ええーっ!?」

 

 明日菜が驚きの声を上げた事に、お守りのように箒を握る手に力が入っているのにすら今の刹那には分からなかった。

 

「私は純粋な人間ではありません。烏族とのハーフ。この翼は、普段隠しているものです。そして」

 

 髪の毛を染めていた呪術が解かれ、カラーコンタクトを外す。

 すると、刹那の髪は白く染まり、血のように紅い瞳が現れる。

 

「これが私の正体、烏族にすら疎まれた私の本当の姿です。でもっ、誤解しないでください。私のお嬢様を守りたいという気持ちは本物です!…………今まで秘密にしていたのはこの醜い姿を見られて、お嬢様に嫌われたくなかっただけ……! 私っ……明日菜さんのような勇気も持てない…………情けない女です!!」

「せっちゃん」

 

 更に言い募ろうとした刹那の言葉を、感情を感じさせない平坦な声をした木乃香が遮った。

 刹那は木乃香の視線が自分の顔よりも後ろにあることを感じていたから恐ろしくて顔を上げられなかった。

 顔を上げて、その視線の意味が分かってしまったら、もしも恐怖や嫌悪の色があったら刹那は生きていけない。嫌な想像ばかりが働いて、今にも倒れそうなほどに顔色を蒼くする。

 そんな刹那を見て木乃香はクスリと笑って言った。

 

「――――キレイな羽やね。せっちゃん、天使みたいや」

 

 朗らかで優しい木乃香の声に、刹那は顔を上げた。

 上げた顔の先で、木乃香はにっこりと満面の笑みを浮かべていた。決して恐怖も嫌悪もない。寧ろ、ようやく打ち明けてくれた秘密に喜んですらいた。

 

「ありがとうございます、お嬢様」

 

 その言葉を聞いた刹那も泣き笑いのような表情を浮かべ、自分の心が一気に軽くなるのを感じて一粒の涙を流した。

 全て杞憂で何も悩む必要なんてなかったのだと思う。何年もの間、心が離れていた二人の少女がまた再び心を通わせた、記念すべき瞬間だった。

 

「ふぅ~ん」

「ひゃ!?」

 

 声を詰まらせ、涙を流している刹那がいきなり素っ頓狂な声を上げた。そんな声を上げさせた感触を受けた所を慌てて見ると明日菜がいた。

 

「――――って、あ…………あの、明日菜さん?」

 

 明日菜は刹那の言葉を意に介さずに近寄り、羽に触れた。翼の生え際を指で撫でたり、顔を埋めてみたり、匂いを嗅いでみたり、撫でる、抱きしめる、匂いを嗅ぐ等のとにかくいじくり倒した。

 己が好奇心の赴くままに刹那の翼を堪能した明日菜は自分の行為に納得したのか、不審な行動を止めた明日菜は一歩下がると、戸惑う刹那の後ろに立ち、思いっきり腕を振りかぶり刹那の背中を張っ倒した。

 

「きゃうっ!? な、何をするんですか!?」

 

 いきなり背中を叩かれて気の抜けた声を上げて驚いた刹那は抗議の声を上げるが、明日菜はそれに取り合わずカラカラと笑う。

 

「なーに言ってんのよ! こんなの背中に生えてくるなんてカッコイイじゃん」

「え…………」

 

 きょとん、とした表情を浮かべる刹那に向かって、明日菜は不敵で素敵な笑顔で言い切った。

 

「あんたさぁ……木乃香の幼馴染でその後二年間も陰からずっと見守ってたんでしょ。その間のあいつの何を見てたのよ。木乃香がこの位で刹那さんのことを嫌いになったりすると思う? ね、木乃香」

「うん! 明日菜ばっかりズルいわ。うちもせっちゃんの羽、触る!」

「私も負けないわよ!」

「ひゃっ!?」

 

 飛びついて来た木乃香と、負けじと触る明日菜に撫でまわされ、刹那は変な声を上げてしまう。他人に触られたことがないので敏感で、思わず悲鳴を上げて飛び上がり、そのまま尻餅をついた。

 

「極上の羽毛にも負けへん柔らかい手触りや~」

「あの、私の羽については何も思わないのですか?」

 

 人に限らず、集団と言うものは異物を厭うのだ。

 その無思慮な反応は、しかし異物を含む事のデメリットを考えれば、ある意味健全な反応であり普遍的に起こり得る事なのである。 そんな扱いに晒され続けた刹那だからこそ、自身の正体を明かす事を躊躇う。

 それを知って受け入れてくれたのは、詠春を始めとしたほんの僅かの人だけ。そんな彼をトップに頂く組織としての『西』ですら、けして安息の場にはなり得なかった。

 

「? いい手触りやん。それがどうかしたん?」

 

 返ってきたのは、幸せそうに自身の羽を触る木乃香の姿。

 木乃香は本心を、思ったことをそのまま口にする。それが本当の嘘偽りのない本心だと分かったからこそ、ただ、ただその一言だけで刹那の目に涙が浮かんできた。

 

「うっ………うっ……うっ………うっ…………」

 

 何かが変わったわけじゃない。それでも初めて羽を褒めて貰えて嬉しくて涙が止まらなかった。泣いている顔を見られないように両手を顔に当てて、声を押し殺すように泣いた。

 木乃香と明日菜は大丈夫だよとばかりに羽を撫で続けるのであった。

 

「…………気まずい」

 

 明日菜の怒気に怯えてとっくの昔に目覚めていることを言い出せなかったアスカは、時期を逸して何も出来ずに布団の中で身動ぎしたのであった。

 

「あの羽って隠してたのか…………良かった、言わなくて」

 

 霊体化していた羽を初対面の頃から看破していたことを口にしなくて良かったと、一人で布団の中で何度も頷くのだった。

 

 

 

 

 

 隠し事が向いていないアスカが何時までも寝たふりが出来るはずもない。

 

「なにも叩かなくたっていいだろ」

「全部知ってたんでしょ。なら、教えてくれたっていいじゃない」

「本人が隠していることを教えるのは如何なものかと」

「本音は?」

「まさか隠しているなんて思わなかった」

 

 と、刹那の羽を見ても驚くことすらしなかったアスカは誘導尋問で手持ちの情報を吐かされ、制裁として明日菜から拳骨を頂いていたのだ。

 まだ試合の残っているアスカが選手控え席に戻るのに合わせて臨時救護室を出た四人。

 

「あの、私の羽には何も思わなかったんですか?」

 

 おずおずと、再び羽を隠して髪と瞳を戻した刹那が問いかける。

 

「魔法世界には獣人も普通にいるっていうし、ハーフも珍しくないだろってか小太郎もそうだし。烏族では不吉の象徴とされてたって、初めて聞いた俺にとってはただの白い羽だからな」

 

 だから別に変に思うこともなかった、と真顔で言われた刹那は表情の選択に困った。初対面の頃から分かっていたというのだから、実に四ヶ月もの間もすれ違っていたのだから泣くに泣けない。

 人生の悩みがあっさりと流されていることに、怒ればいいのか悲しめばいいのか、刹那自身にも班別がつかないようだった。

 

「隠しちゃうの? 折角、綺麗だったのに」

「まだ皆さんに言えるだけの度胸がなくて」

「もう、せっちゃんは可愛いんやから」

「お、お嬢様……」

 

 明日菜に問いかけられて、照れたように笑った刹那に突進した木乃香は、それだけ彼女が自分達に心を許してくれていることが嬉しすぎてこの世の春を謳歌していた。

 

「でも、聞いて良かったと思う。刹那さんのことも色々と分かったし」

 

 舞台方向からの熱気に煽られるように吹いた風に亜麻色の髪を揺らめかせながら明日菜は一人頷く。

 

「なんちゅうか、変わっているようで全然変わってなんかなかったみたいな感じ」

 

 木乃香の分かるような分からないような、トンチ染みた言い回しにもアスカと明日菜は頷いた。

 

「刹那は早とちりだってことだな」

「それは違う」

 

 コン、と明日菜に拳で頭を小突かれたアスカは、これが俺だと高音の独特空間に振り回されずに済むことに感無量という風情だった。

 

「意志を言葉にして伝えて、分かり合うことを怠ったったらあかんねん。今回、うちはそのことを強く思ったわ」

 

 それぞれに思うところは大きい。彼女達は自分達が子供であることを認めずにはいられない。

 とても簡単な、意志を言葉にするということを怠っていた。

 明日菜が言葉を重ね、想いを伝えることで頑なに閉ざされていたアスカの心の扉をこじ開けたように、怠慢は時に罪悪になるのだと知った。

 

「共に在る道を選ぶか、それとも拒絶するのか」

 

 このままではいけないと思うのならば受け入れなければならない。受け入れて話して、そして決めればいい。どの道を選んでも後悔だけはしないように。

 

『それでいい』

 

 脳裏に映る残影は選択に笑ったような気がした。明日菜は自らの選択が間違いではないと思った。

 

「?」

 

 満足した表情で一人で頷いていた明日菜の頭上が突然曇った。そうとしか言いようがないほどに影が彼女の姿を覆っていたからだ。

 気になって顔を上げたのは当然の流れだった。誰だって思うはずが無かろう、自分の真上に人が落ちて来るとは。

 顔を上げた明日菜の視界に映ったのは白だった。

 

「白」

 

 大輪の黒い花弁が映える中心の純白が明日菜の視界に真っ先に入って来た。その横にも同じように大輪の黒い花弁と中心の純白が並んでいる。こっちは少し小ぶりで見える茎のような二本の脚は褐色に近い色をしていた。

 隣で明日菜よりも早く上を向いていたアスカの口が開いていた。

 

「見ないの!」

「ほわったぁ!?」

 

 取りあえずアスカの目を潰すことにした明日菜の指が放たれ、完全に完全に油断していたところだったのでアスカは諸に食らって奇声を上げる。

 

「へ?」

「む」

 

 木乃香が同じように呆然とした声を上げ、刹那が手元の箒を警戒するように強く握った。

 アスカが「目が~、目が~」と悶える中で、二つの純白は明日菜達を飛び越えて後ろ数メートル離れたところに見事に着地した。小振りな方は回転までして十点満点を上げたくなるぐらいに鮮やかな着地だった。

 

去れ(アベアット)

 

 明日菜達が見上げただけでも拝殿よりも高い位置から見事に着地したのは花ではなく二人組のシスターだった。

 

「さぁて、どうすっかな。サボって試合見ちゃう?」

 

 気が抜けたように片手にアーティファクトから戻した仮契約カードを手にしているシスターに、彼女の腰辺りの身長しかない小学校低学年ぐらいの褐色系の小さなシスターがスカートを引っ張っていたが気づいていなかった。

 

「…………美空ちゃん?」

 

 「misora」とハッキリと書かれた仮契約カードを見て、大して変わらぬ体格、聞き覚えが満載過ぎる声から、シスターの正体を推測するのに時間はかからなかった。

 

「え……アス」

 

 当のシスターは自分の名前を呼ばれてウッカリと反応してしまった。しかもこれまたウッカリと声をかけて来た級友の名前まで殆ど言いかけてしまっている。

 今更、慌てて口を手で押さえたところで遅い。知り合いの多い麻帆良学園都市で行動するための着けている、顔の鼻下を完全に覆う変装用のマスクの意味がない。

 

「え~と、アス…………明日は晴れるのでしょうか?」

「美空ちゃん!? 美空ちゃんでしょあんた!? 何やってんのよこんな所で!? それにそのカードはぁっ!?」

 

 取りあえず名前を呼んだのではないと強引に話題をすり替えようとしたが、シスターの小さな努力は既に正体を確信してしまった明日菜に通用するはずもなかった。

 これは駄目だと背を向けたところで意味はなく、逃がさないとばかりに肩に手を置かれた。

 

「い、痛っ! 私は美空などというシスターではありませんのことよ! ただの通りすがりの一市民でありんす!」

「クラスの短距離で毎回首位を争っている私の顔を忘れたとは言わさないわよ!? というか変な口調過ぎ、こっち向きさないよコラァっ!!」

 

 ジタバタと暴れたところで万力のような力で拘束されて抜け出せない。

 割と真面目に逃げようと身体強化まで施しているのに、明日菜は咸卦法まで使って逃がさない体勢を作り上げていた。

 こうなれば咸卦法を使って地力で圧倒的に勝る明日菜が勝つのは当然で、抵抗の甲斐もなく振り向かされて顔を覆っていたマスクを引き摺り下ろされた。

 

「ほら、やっぱり美空ちゃんじゃない」

「うう、明日菜の馬鹿力ぁ。絶対に肩のところ痣になってるよ」

 

 ついでとばかりにフードまで捲り上げられて頭部も完全に露出し、春日美空はシクシクと割と本気で泣いていた。

 

「あ、傷はうちが治したる。プラクテ・ビギ・ナル 汝が為にユピテル王の恩寵あれ 治癒」

 

 トコトコと言いながら近づいた木乃香がポケットから取り出した見習い用の小さな杖を軽く振りながら治癒魔法を唱えると、光が美空の身体に吸い込まれて消えていく。

 

「げ、何ちゅう魔力。うわっ、マジで治ってる」

 

 使われた魔力が初級呪文なのに自分の全魔力に匹敵することを未熟ながらも感じ取った美空は、痛みが完全に引いたことも合わさって身震いするほどの衝動を覚えていた。

 しっかりと周りの目に見えないように刹那がさり気なく木乃香の姿を自分の身体を使って隠しているところ辺りにも戦慄を覚えた。

 

「美空ちゃん、うちら仲間やってんな。知らんかったわ」

「いやそのえーと」

 

 無邪気に喜んでいるように見える木乃香の後ろで無言で見つめて来る刹那と、咸卦のオーラを立ち昇らせる明日菜が怖くて美空は口が上手く回らかった。

 もしかして自分はこのまま始末されるのではないかと予感が全身を震わせる。

 

「話してくれるわね」

 

 話さなければ逃がさないと咸卦のオーラを立ち昇らせた明日菜の背後に薄らと浮かぶ鬼神様に言われました、と後に美空はシスター・シャークティに沈痛そうに語ったそうな。

 

「俺も治してくれよ」

「すみません、明日菜さんが怖くて」

 

 目を抑えて悶えているアスカに明日菜の味方をする木乃香は治癒してくれる気配もなく、肩を叩いた刹那が慰めるのであった。

 

 

 

 

 

 何やら込み入った話になりそうなので、場所を境内から誰も使わなさそうな臨時更衣室に場所を移した五人は、途中で合流した高音・D・グッドマンと佐倉愛衣の二人も同席していた。後者の二人は最初から合流予定だったそうで、明日菜達がいることの方が驚かれた。

 高音が近づいた時点でアスカは一人で逃げた。どうやらアスカの中で高音は天敵認定されたようだ。

 それはともかく、観念した美空は全ての事情をゲロっていた。

 

「高畑先生が超に地下に閉じ込められた――――っ!?」

 

 自分が魔法生徒であることや学園側の指示で武道会のことを調べるように命令を受け、しかし入り口で龍宮真名の妨害に遭い、来れなくなった鳴滝姉妹のチケットを譲り受けた美空とココネ・ファティマ・ロザだけが担当の魔法先生であるシスター・シャークティを置き去りにして辿り着いたことも、大会主催者である超鈴音に気づかれぬように会場地下へと潜入して囚われている高畑との連絡を取って可能なら救出することまで、綺麗に一切合財全て話した。

 

「待ってちょっとだけ待って! いきなりそんなこと言われても訳が分からないわよ」

 

 誰も言わなかっただんから当然でしょ、と美空は思いもしたが、今はしていないが脳裏に残っている明日菜の咸卦のオーラと刹那の無言の殺る視線が怖くて口には出さなかった。

 

「美空ちゃんが魔法使いだったのは、まあいいとしても」

 

 いいのかよ、と美空は思わず突っ込みかける自分を制する為に、何故か皆に囲まれて一人だけ固い板張りの床で正座をしているスカート越しに太腿の肉を抓った。

 

「あの、なんで私は正座してるのでせう?」

 

 どうも龍宮神社に来てから口調が変になっている気がしないでもないが、その前に待遇改善を求めてみた。

 

「美空ちゃんが自分でなったんじゃない」

「それもそっか」

 

 アッサリと返され、何故かこの部屋に入ってから正座しなければいけないように思ってしたのだが、誰に強制されたわけでもないので少しホロリとした。自然と自分をヒエラルキーの一番底辺に置いていたことを自覚した悲哀だった。

 

「で、何で超さんが高畑先生を?」

「さっき高畑先生の念話をキャッチした。不安定で直ぐ途切れたケド…………地下に捕らわれている。応援を、ト」

 

 極自然に尋ねられたのが自分ではなくて遥かに年下のココネであることに、美空は本当にホロリしそうになった。普段のクラスでの悪戯などから信頼されているとは思っていなかったが小学生のココネの下に置かれていると思うと泣けてくる。

 

「上の方へ連絡してもっと応援を寄越すことは出来ないのですか?」

 

 自らの強さを過大評価しない高音は、上層部の判断と更なる増援を求めた。

 高音達の元々の大会に参加した目的は主催者である超鈴音の調査だった。

 となれば、彼女達が今回が初めての仕事である美空達を伴って地下に潜ることになる。しかし、高畑を捕まえるほどの相手に魔法生徒だけでは戦力不足が否めない。

 

「連絡は入れたけど、どこもかしこも人手不足だってさ。さっきの念話だけでは確実性が薄いんだって。仮にもこれだけの武道会を開いているスポンサーだから疑いだけじゃ手は入れられないみたい」

 

 ここは直接連絡を入れた自分の出番だと、美空はココネが何かを話す前に口を開いた。

 

「ちなみに私は戦闘系じゃないから。当然、ココネも。自信があるのは逃げ足だけ」

「ということは戦えるのは私と愛衣だけですか」

 

 無謀な賭けは御免蒙るとココネを後ろから抱きしめた美空は早くも戦力外を自ら告白した。ここで自らを過大に申告して危ない場所に進むほど、この仕事に命も誇りも賭けていない。

 母猫が子猫を守るような美空の様子に少し微笑ましさを覚えながら、逃げ足に自信があるなら連れてっても問題ないかと高音は心中で冷静に判断を下す。

 

「しかし、それだけでは戦力的に厳しすぎます」

 

 間違いだと言われればそれまでで、となれば少数精鋭による偵察しかないわけだが、やはり高畑が掴まえられたほどの危険性を考えれば、この場にいる魔法生徒だけでは無謀が過ぎると高音は考えた。

 

「私も行きます」

 

 ここは援軍を待つしかないと年齢的にリーダーシップを自然に発揮しだした高音の判断に待ったをかけたのは、実は気に入っているのか猫耳和装エプロンのままの刹那であった。

 高畑救出、もしくは偵察への参加を表明する。

 

「せっちゃん」

「大丈夫です。敵といってもあの超さんです。酷い事にはならないでしょう」

 

 心配そうに手を握り合う二人の背景に百合の花が乱舞しているような幻視が高音には見えたが錯覚だと思うことにした。隣にいる愛衣が羨ましそうに二人を見つめてから自分を探るように見て来ることも気がついていないことにした。

 

(私はノーマルです!)

 

 と、言いつつこの武道会の間中ずっとアスカの背中に性欲ダダ漏れの視線を向けていたとは思えないことを叫んでいた。

 

「美空、見えない」

「子供が見るもんじゃありません」

 

 子供の教育上は宜しくない空気が充満しつつあるドロドロとした性の在り様を見せたくなくて、美空はココネの目をそっと壊れ物を扱うように優しく閉じた。

 同級生ならはっちゃけられてもココネは大事な妹分。少し遊びはあっても守るのは自分なのだと認識が強くあった。

 

(桜咲さんと木乃香が怪しいのは分かってたけど、こりゃガチだな。先輩の方もなんか色々と面白そうな気配がプンプンと)

 

 ココネと目を閉じようとも美空自身は現状を充分に楽しんでいた。この女、意外と抜け目がない。

 

(さて、想い人が捕まった明日菜の方は)

 

 美空の予想としては慌てて騒ぐと考えていたのだが、拍子抜けするほどに静かだった。 

 

「私は……」

 

 神楽坂明日菜は迷っていた。どちらを選ぶべきか、そもそも選ばなければいけないのかと。

 何を選ぶのか定かにすらなっていないにも関わらず、明日菜は究極の選択を迫られていた。他の誰でもない神楽坂明日菜だからこそ究極になる選択を。

 

「私は……」

 

 考える。考える。考える。時間はそれほど残されていない。考えて、考えて、考え続ける。

 高音が今更刹那の実力を疑うはずもない。刹那という強力な前衛を味方につけた高音が中衛に下がり、純粋魔法使いである愛衣を後裔にすればバランスの取れた戦力で偵察が出来る。そこに攻守に優れた究極技法である咸卦法を使える明日菜がいれば言うことはないだろう。

 こちらを見つめて来る高音の視線が参加の表明を求めているように明日菜には思えた。

 

「私は……」

 

 明日菜は認識していないが、地下か地上に残るかでどちらかを選んでしまう。どうしようもなく、しかし無慈悲に。

 だからこそ、明日菜は選べない。ここで選んだら致命的な失敗をすると動物染みて優れた直感が囁いていた。

 それでも選ばなければならなかった。懊悩出来るだけの時間と余裕も与えられていなかったから、間違っていると分かっていても選ばざるを得なかった。誰かに、何かに導かれるように口が勝手に動く。

 

「私は、行」

「明日菜は残る」

 

 自分ですらどちらを表明するのか分からなかった口の動きを遮ったのは木乃香だった。

 

「超りんがなんや危ないことするんやったら怖いやんか。せっちゃんが行くんやったら明日菜には残ってもらわんとうちが困る」

「木乃香」

「明日菜、せっちゃんの代わりにしっかりと護ってや」

 

 木乃香は明日菜に地上に残る理由をくれたのだ。どちらを選んでも失敗するなら、選ぶ前に別の誰かが選んでしまったら問題を先送りに出来る。少なくとも絶対に失敗する愚だけは冒さなくて済む。

 刹那が彼女の傍を離れるなら変わりの役目を担う誰かが必要になる。木乃香の友人として、その役割を担えるのは同じ立場にいる神楽坂明日菜以外に置いて他にいない。

 他に代わりを担える者はおらず、故にこそ明日菜は自らに言い訳が出来る。これで自分は此処にいなければならない理由が出来たと。

 

「…………ありがとう」

「変な明日菜」

 

 うふふ、と口元を抑えて上品に笑う木乃香に明日菜は頭が下がる思いだった。

 

「木乃香が友達で良かった」

「ちゃうちゃう、うちらは大親友や」

「ふふ、そうね」

 

 二年と少しの絆は傍から見れば短いのかもしれない。それでも二人の絆は隣で見ていた刹那が僅かな嫉妬を覚えるほどに強く見えた。

 木乃香から移された色違いの瞳に、刹那は自分にも同じだけの信頼が向けられていることに気づいた。

 

「刹那さん、私の分までお願い」

 

 強く、そして重いとすら感じる気持ちが籠った言葉だった。迂闊に頷けるほど安いものではない。

 

「分かりました。代わりにお嬢様をお願いします」

 

 それでも桜咲刹那は請け負った。

 信頼を向けられて応えないほど桜咲刹那の友情は安くない。明日菜が選べないほどの重みの一端を請け負い、その代償というわけではないが刹那もまた信頼をする。

 

「うん、任せて」

 

 対等だった。今の明日菜と刹那は対等だった。

 

「せっちゃんと明日菜ばかりズルい」

 

 間に飛びこんできた木乃香に腕を取られた二人の顔が近づく。三人で顔をつき合わせて笑い合う。この関係が幸せだと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「方々で面白いことが起こっていそうな予感がしますね」

 

 怪電波を受信したかのように、アルビレオ・イマは舞台上で惜しむように観客でごった返していて視線を遮られている拝殿を見遣った。

 

「後々まで弄れそうなのもありそうなのに実に惜しい、本当に惜しい」

「一体さっきから何を言っているのでござるか」

 

 訳知り顔で腕を組んで一人で頷きを繰り返すアルビレオに、同じ舞台上に立つ対戦相手である長瀬楓は無駄と分かっていても言わずにはいられなかった。

 

「こちらの話です」

 

 ツッコミを入れられてもアルビレオは未練がましく拝殿の方を見ていたが、和美のアナウンスが入って試合が始まるとあってはいい加減に視線を目の前に距離を開けて立つ楓に移した。

 そして足下から頭の上まで楓の体を舐めるように順に見上げていく。

 

「今年は本当に豊作ですね。どうしてどうして、アスカ君といい、犬上小太郎君といい、食指が動いて仕方がありません」

「どういう意味で言っているのか大いに気になるところであるが、答えは聞かないでおくでござる」

 

 今にも舌なめずりしそうな恍惚とした笑みを浮かべるアルビレオに少し引き気味になった楓は、しかしこれから試合を行うのだから逃げるわけにもいかない。

 何故、アスカと小太郎の名前だけを挙げたのかを想像してしまって、同級生の早乙女ハルナのような特殊な趣味を持たない楓は幾分、腰が引けながらも対峙し続けた。

 

「あなたもかなり出来るようです。ふふ、本当に今年は豊作過ぎて困ってしまいます」

「…………クウネル殿、貴殿の目的が何かは知らぬが拙者長瀬楓、本気で当たらせてもらうでござる」

 

 楓は嘗てないほどに戦意を滾らせて愉悦を迸らせるアルビレオを睨んだ。

 アスカと小太郎の貞操的な意味合いで、目の前のローブを纏った人物は危険であると察知したのだ。クウネル・サンダース――――――本名アルビレオ・イマ――――を粛正しなければならないと決意を固めた。

 目の前にいる人物が恐らく表裏を問わず世界全てにおいて最強クラスの術者で、修行中の身である楓には勝つことはまず不可能であると推測は簡単についた。

 

「いい闘気です。お相手致しますよ」

 

 ゆらりと組んでいた腕を解いたアルビレオは微笑を深める。

 

「直ぐに終わっては観客も興ざめします。何よりも私も」

 

 未来を見据えた瞳で、舞台役者達を手の平で踊らせて嘲笑いながら悪い魔法使いは舞台の上に立ち続ける。

 

「精々、私を楽しませて下さい」

 

 アルビレオ・イマという男は、気持ち良いほどに我が身を中心に人を巻き込む。彼はどこまでもお伽噺の悪い魔法使いそのものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どことも知れぬ暗い一室の中で、超胞子のネームが記された服を着た超鈴音は眼前に映る巨大スクーリンの映像を見ていた。

 

「うむ♪ いいネ、クウネル・サンダースさん。派手にやてくれる程、やり易くなる」

 

 画面にはアルビレオ・イマが試合開始直後に対戦相手の長瀬楓を何らかの方法で舞台にめり込ませていたところだった。

 真ん中にいる楓を中心として半径五メートルも隕石が落ちたかのようにへこんでいる。中心にいくほどへこみが深くなっていることから、楓に上から超重量の重さがかかって周辺に影響が出ていると考えた方が自然だろう。

 

「魔力反応を感知。周囲の影響度が低いことから風ではないナ?」

 

 手元の宙に浮かんだ薄透明なキーボードを操作して、スクリーンの映像に余人には理解できない数値やグラフが映り込む。

 映像に映らないことから四大精霊である火・水・土の可能性はない。残るとすれば風のみ。しかし、風ならば舞台脇の水面に衝撃波以外の波が立っていないのはおかしい。

 

「舞台の木材は普通のものより固くしてある。にも関わらずあれだけの結果を成し遂げ、かつ周辺への影響を最小限に抑えるは重力を操っている証拠」

 

 映像では、呆気なくやられたと思われた楓が四つに分身してアルビレオの傍に気配もなく現れ、張られた障壁を結界破壊の術で破壊して攻撃を加えているところであった。

 その映像が流れているスクリーンの横に数秒前の映像が流れ、機械的に魔法を解析でもしているのか、様々な角度から映された映像が現れては消えていく。

 

「流石はアルビレオ・イマと言うべきかナ。希少属性をここまで苦もなく操るとハ」

 

 超の明晰な頭脳は既存の魔法形態を網羅している。可視化されず、されど同じ条件を引き起こせるのは使い手が魔法世界にも極僅かにしかいない重力魔法であることに辿り着く。

 

「違うかナ? 高畑先生」

 

 中空に浮かぶキーボードを腕を横薙ぎに振るうことで消し去り、超は後ろを振り返りながら言った。

 超と真名の二人掛かりと多くの運に救われて打倒した嘗ての担任タカミチ・T・高畑が円形のカプセルの中に入れられて、四肢を雷のような物で拘束されて身動きが取れない状態で拘束されていた。

 電気で身体の筋肉を適度に麻痺させ、同時に魔力を封じる。僅かな身動きすら出来ずに封じられている現状に、逆に大したものだと感心させられる。勿論、褒めてなどいないが。

 

「…………」

 

 問いかけではなく確認の言葉を向けて来る超に高畑は言葉を返さない。

 超の目的が分からない以上、暫定であっても嘗ての仲間の情報を迂闊に漏らすような愚は冒さなかった。例え沈黙を貫き通したとしても大した意味がないと分かっていても、超の天才性を学園の教師の中で誰よりも知っている身としては下手な会話が命取りになることを知っている。

 

「手荒な真似をしたのは謝るネ。何しろ時間がなくてネ。それで急遽、この大会を開いた…………本来なら一年かけて準備する予定だたガ、結果としてはこれで良かっタ。一年後では彼はきっと麻帆良にいない。それでは全てが水の泡になっていたから、異常気象で世界樹発光が早まったのは幸運だたネ」

 

 らしくもなく饒舌で情報を聞く者に無造作に与えて来る超に高畑は一瞬ミスリードを誘う罠かと思ったが、再び振り返って楓の一撃によってアルビレオが舞台に叩きつけられている映像を見る背中からは意図を推し量れない。

 

(彼?)

 

 せめて言葉の中から意図を推し量ろうとして、まず第一に引っ掛かったのは「一年後では彼がいなくなってしまう」の中にあった「彼」とは誰の事を指しているかだ。

 彼女と言わなかったのだから、超が指し示している相手が同級生である3-Aの面々や女性である可能性は無いと判断していいだろう。それこそミスリードするための罠だったらおしまいだが、語った言葉の中に確かな熱を感じたことから直感的にその可能性はないと判断する。

 

(彼、つまりは男であることは間違いない) 

 

 超が全寮制である女子中等部に在籍していることからターゲットはかなり絞り込まれる。

 日常的に男性に触れる機会は部活の時をおいて他にない。お料理研究会、中国武術研究会、ロボット工学研究会、東洋医学研究会、生物工学研究会、量子力学研究会に所属していることから、その中で関係が深い者と推測した。

 そして一年後と考えれば卒業して麻帆良を去る可能性のある高校か大学の一部の生徒に絞られる。

 

(ありえない。超君は本来ならば一年後に行動を起こそうとしている。それが早まったのは異常気象で世界樹発光が早まったからだ。卒業などといった理由ではない)

 

 卒業とはもっと別の理由で麻帆良学園都市を去る者。他に可能性が高いとすれば大学の研究に協力している企業の研究者や事情によって転校しなければならない者が挙げられる。

 そしてそのいずれでもないと高畑は自らに囁く。

 

(彼以外に誰がいる)

 

 最初から超が誰の事を言っているのか高畑には分かっていた。

 今は麻帆良にいて、武道会がなければ一年後には確実にいなくなっていたであろう人物。卒業でも転校などといった理由ではなく麻帆良を出て行くであろう人物をタカミチ・T・高畑は良く良く知っていた。

 情報は既に与えられている。可能性に過ぎなくても、これだけの情報があって高畑が気づかぬはずがない。だが、同時に分からなくもあった。どうして超がそこまで彼の事を気にするのかが。

 

(肝心要の情報が足りない)

 

 全てはそこへ帰結する。情報の核に値する部分、それが判らなければ関連性を推測することも出来ない。

 スクリーンに映される舞台を離れてのハイスピードバトルを繰り広げている試合を、観客の一人であるかのように見ている超がこれ以上の情報を自分から話すとは思えない。ならば、高畑の側から引き出すしかなかった。

 

「超君、君の目的は何だ。返答によってはいくら元教え子と言えども、みすみす見過ごすことは出来ないぞ?」

「世界を救う、と言ったネ」

 

 背中に向けて放たれた問いに足しての返答は拍子抜けするほど速かった。同時に地下道での繰り返しに眉間に皺が寄るのを抑えることが出来なかった。

 試合よりも高畑との会話を重視したのか、振り返った超の顔には張り付いたような笑み。その笑みがスクリーンに映っているアルビレオに似ていることに気づいた。

 

「世界に散らばる魔法使いの人数は私の調べた所によると、東京圏の人口の約二倍、全世界の華僑の人口よりも多い。これはかなりの人数ネ」

 

 試合の音声は最初からカットしている為か、密閉された互いの声以外に音のない一室に不思議と超が歩み寄ってくる足音が響く。

 

「それにこの時代、彼らは我々の世界とは僅かに位相を異なる異界と呼ばれる場所に、いくつかの国まで持っている」

「それで、君は何が言いたい?」

 

 語らずとも魔法世界の存在を暗示している超に、高畑の脳裏に嫌な警鐘鳴り響いている。

 

(……ま、さか……)

 

 ある直感が、脳裏を過ぎった。

 推測とも呼べない、証拠も何もない思いつきだったが、高畑にとってそれは確信にも近い想像だった。

 

「心配しなくても大丈夫ヨ、高畑先生。一般人に迷惑をかけるようなことはしない。私の目的は総人口12億に及ぶ魔法世界の存在をこの世界全てに公表する。それだけネ」

 

 高畑の焦燥を、誰かと被る挑むような目つきが射指すように見つめて来る。

 

「魔法世界の存在を全世界に公表する?」

 

 推測が当たったにも関わらず、高畑の頭は一瞬真っ白になった。当たってはほしくない推測だった。

 

「…………そんなことをして君に何の利益が?」

「秘密ネ♪」

 

 問いに悪戯っぽく笑った超は、そう言って表情を改めた。

 

「世界は今でも紛争と貧困に苦しむ人たちで溢れ返っている。貴方達はそういった人達を救うべく日夜努力しているガ、制約は多く活動は限定せざるを得ない。でも、魔法世界の存在が、魔法使いの実在が世界に公表されれば存分に動けるのではないカ?」

「…………」

 

 高畑は返って来た言葉に、沈黙以外を返せなかった。口を開いてしまったら肯定してしまうから閉じているしかない。

 

「貴方のような仕事をしている人間には分かるハズ。この世界の不正と歪みと不均衡を正すには、私のようなやり方しかないと」

 

 麻帆良学園都市で当たり前のように誰もが浮かべている笑顔を見ていると忘れてしまいそうになる現実。力を存分に奮えていたなら救えたと思える人々がいた。力を制限なく使えていたら回避できた悲劇がある。

 魅力であった。例えようもない魅力が超の目指す先にある。現実を現実として受け入れて大人になった高畑だからこそ、揺らがずにはいられない。

 

(ナギならどうしただろうか?)

 ふとした疑問が思考の端で思い浮かび、細かいことに拘らない彼ならば超を手伝おうとしたのではないかと簡単に想像がついた。

 しかし、高畑はナギではない。彼が行方不明になった十年前の時点での年齢を今はもう追い抜かしている。より多くの悲劇を超えて今ここにいる。

 

「世界はそう単純には出来ていない。一度世界に魔法の存在が知れれば、相応の混乱が世界を覆うことになる。それは分かっているのか?」

 

 タカミチ・T・高畑はもう二十年前の大戦時のような子供ではない。ナギのような無鉄砲にも似た決断を真似ることは出来ないと知っている。

 物事にはリスクがあって、危険を勘定に入れて考えて行動するようになっている。それが大人に成るということ、社会に関わって生きていくということの証。

 超の計画の果てには、何もしないでいるよりも多くの人達を救える可能性があると理解していても、その過程で犠牲になるかもしれない人達のことを思えば危険な行動は取れない。

 

「分かっている。全てを分かった上で、私は行動しているヨ」

 

 高畑の問いに、しかし超は僅かでも揺るぎはしなかった。

 その在り様は刀を思い起こさせた。「折れず、曲がらず、良く斬れる」の3要素を非常に高い次元で実現させ、他人の言葉程度で微動だにしない芸術的とすら言っていい在り様。

 使い方次第で人を傷つけてしまう諸刃の釼を高畑に連想させた。

 

「例え余人に天才と言われても私は全知全能ではなイ。きと政治的軍事的に起こる致命的な不測の事態は起こるだろウ。抑える為に用意した技術と財力を以てしても犠牲者は必ず出ル。認めるヨ、私の計画には必ず泣く者が現れるト」

 

 高畑を拘束している円形のガラスに近づいた超は烈火の如く猛る視線を向ける。

 

「それでも、私はヤル」

 

 ゆっくりと、しかしハッキリと言いきった。

 声色に脅しやハッタリの色は無い。単純な事実だけを告げる言葉であった。

 

「この計画によて生まれる全ての犠牲者には誠心誠意謝ろウ。だが、命だけは捧げられなイ。この計画を成し遂げ、世界を続けさせるために捧げるのだかラ。きと死した後には地獄に堕ちるだろうから、それで我慢してもらうネ」

 

 ふわふわと、あどけなく超鈴音は笑う。己の行く末を悟った者だけが浮かべられるひどく透明な笑みだった。

 

「どんな世界でも滅んでしまうよりかイイ」

 

 ポツリと最後に付け足された言葉は、まるで縋るような声で放たれた。

 超がそんな声を出すところを、高畑は始めて見た。迷い子が親を捜すのにも似て、しかしそれが滑稽だなどとは口が裂けても言えないほどの想いが籠っていた。

 

「どうカナ、高畑先生。私の仲間にならないカ?」

「……!」

 

 問いに対して何を言って良いのか、何を訴えればよいのか、彼にも分からなかった。追い詰められて即断に逸らなかったのは、若くして多くの戦場を渡り歩いてきた賢明さだっただろう。

 ぐ、と奥歯を噛む。血の味が滲んだ。その鉄錆びた味こそが、高畑の意識を現実へと回復させる。

 タカミチ・T・高畑にとって、青春時代の最も価値ある記憶は紅き翼と共にある。隣り合わせの死と青春、毎日のように誰かと何かと戦って、多くの仲間を失いながらも高畑にとって青春はあの時期をおいて他にない。一日を、一時間を、一秒を、高畑は精密に覚えている。掛け替えのない宝物のように、大切に抱き抱えている。

 その日々を超えて今を生きる高畑は、やがてゆっくりと口を開いた。

 

「出来ない。僕は君の仲間にはなれない」

 

 躊躇いはあった。戸惑いがあった。それでもタカミチ・T・高畑は選択する。嘗ての友であるクルト・ゲーデルのように、高畑もまた過去の紅き翼とは違う道を歩いているのだから。

 救えるかもしれない可能性よりも、確実に生まれる犠牲を出さない道を選び取った。現在を守る為に戦い、未来の為に挑戦できない自分には英雄になれないことを、誰よりも強く俗物である自分自身こそが知っていた。

 

(ああ……)

 

 選択に嘆きを覚えずにはいられない。

 英雄に憧れたのに、成れるのは幼き頃には心底嫌悪していた俗物しかないと思い知らされたからだ。それでもこの選択に後悔だけはしなかった。英雄に成れない俗物でしかない高畑の誇りだった。

 

「残念ネ、本当に」

 

 言葉通り、肩を落とした超は振り返ってスクリーンを見た。

 

「一つだけ聞かせてくれ。君はアスカ君をどう思っている? 彼に何をするつもりだ」

 

 背中を向けている超に問わずにはいられなかった。

 地下道で見たアスカが持っているのと同一の物としか思えない、されど十年は経過しているような水晶を持っている異常。超が自らの計画に組み込んでいるであろうファクターに対して、如何なる考えを持っているのか問わずにはいられなかった。

 

「私は嘘つきだかラ、本当のことは答えられないネ。ただ」

 

 背を向けている超の顔は、高畑からはどうやっても見えない。だから、その時の超がどのような表情を浮かべていたのかは判らない。

 

「アスカさんは血の繋がった大切な大切な人ヨ」

 

 哀切にも似た声は、喜びとも哀しみとも怒りともつかない、或いはその全てがない交ぜとなった感情。その対象に捧げた積み重ねてきた心の重さを感じさせた。

 

「こちも見過ごしてしまたネ。ちょと残念ヨ」

 

 もう試合は終わっており、傷だらけの楓が薄煙を上げる舞台から一人で去っているところだった。

 

「食事はウチの美味しいのを届けさせるネ。不自由な思いをさせてすまないが、学園祭終了まで此処にいてもらうヨ。願わくば次に会うのは計画が成功した後になていることを願うネ」

 

 そして超鈴音は去って行った。

 部屋に高畑だけが残される。誰もいなくなった部屋は静かだった。

 

「機械式の拘束具は破れないか。非常手段も全部外されている」

 

 口を動かして奥歯に仕込んでいた仕掛けや、こういう事態を想定して仕込んでいるあらゆる仕掛けが外されていた。この様子ではどこまでも念入りに探られたものか。

 あまりの念の入れように、ただ一人で暗い室内に残されて苦笑が浮かんだ。

 静かなのに、超が残した空気の圧力だけがゆっくりと高畑へと浸透していった。先の戦いのような闘気と違い、その闇は抵抗もなく、ずぶずぶとこちらを蝕んでいくようだった。

 闇の正体は無力感であった。

 今の高畑には、例え拘束から解放されようも超と戦うだけの気力は湧かなかった。戦うべきだとは思っているのに、その気力だけが抜け落ちていく。

 

「師匠…………僕はどうしたらいいんですか?」

 

 師であるガトウを失って以来、自分で出し続けて来た答えを問うた。死者に問うた問いに答える者は当然いない。

 しかし、まるで高畑の問いに応えるように、超が出て行った入り口から誰かが入って来た。

 

「君は!?」

 

 在り得ない人物の登場に高畑は驚愕を抑えることが出来なかった。

 運命はまだ高畑に戦うことを求めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地下は暗く、広く、もう夏も間近だというのに寒気を覚えるほどに底冷えしていた。

 長い通路の途中らしい。基本的にはコンクリートの打ち出しで、ところどころ地肌が剥き出しになっていた。

 

「ねぇ、やっぱ戻んない?」

 

 前を行く高音・D・グッドマと佐倉愛衣に聞こえないぐらい小さな声で、シスター服を着ている春日美空は隣を歩いている桜咲刹那に言った。

 

「またですか、いい加減に諦めて下さい」

 

 これで何度目かと、頭の中で数えようとして面倒くさくなって少しばかりの溜息と共に吐き出す。

 

「超さんの目的は分かりませんが大会が終わったら雲隠れしてしまうかもしれません。何かあってからでは遅いんです」

「高畑先生は学園長を抜かせば学園最強の魔法先生なんだしさ、きっと一人でも大丈夫に決まってんじゃん」

「駄目と言ったら駄目です」

 

 ぶーぶー、と同性で同級生な気安さを以て抗議するも高畑救出作戦に従事してこんな地下道にまで来た刹那が受け入れるはずもない。文句を垂れながらも高音らには聞こえないように小さな声で続ける美空に逆に感心していた。

 

「それにホラ、ココネの聞き違いかもしれないし…………いや、きっとそう。うん、危ないしねー」

「ム……」

 

 間違い扱いされたココネ・ファティマ・ロザが見えている目元だけでも分かるほど不機嫌なオーラを醸し出す。

 どう聞いても後者の方が本音っぽいな、と右手に箒を逆手に持って歩き、腕を揺らすごとに箒の先が視界の隅に映るのを眺めながら刹那は思った。

 

(やはり夕凪を持ってきた方が良かっただろうか)

 

 善は急げ、と主導する高音に従って殆ど着の身着の儘で地下に来たので獲物を変える暇がなかった。自分よりも明らかに格上の高畑を捕まえた超を相手にする可能性がある以上は愛用している夕凪を使いたかった。神鳴流が武器を選ばずと言っても、使い慣れて少しでも手に馴染む武器の方を好むのは当然であった。

 前にいる二人と不機嫌になったココネの機嫌を取ろうとしている美空を見比べ、集団の真ん中で気づかれないように長めの息を吐いた。

 後ろにいる二人は逃げ足だけが取り柄で戦闘など以ての外とぶちまけた美空と、アスカのような常識の埒外でなければ戦闘は無理な年齢のココネ。

 反対に前にいる二人は十分な戦力になれるだけの力があるかもしれないと、胸中で呟く。

 愛衣はハッキリ言ってよく分からない。武道大会に参加していたものの一回戦で小太郎に瞬殺されてしまったので実力が全然分からない。箒を持っていることから純粋な魔法使いタイプ。

 高音は前衛としては少し心許ないが中衛から後衛にかけては魔法生徒と呼ばれるレベルを明らかに超えている。愛衣と行動を共にしていることを考えればペアであると考えるのが妥当。

 恐らくこの二人に近接戦闘特化の魔法教師でチームを作り行動していたのではないかと考える。そしてそこへ代役として自らがいるということも。

 

「静かに、何か来ます」

 

 責任を背中に抱え直したところで、高音の静止の声よりも先に立ち止まって箒の先の部分を後ろにして構えを取る。夕凪と同じように振るうには箒の先の部分が邪魔をする為である。

 

「私が前に出ます」

「任せます。愛衣」

「はい、お姉さま」

 

 始めから決まっている役割分担に沿って、神鳴流の遣い手である刹那が前衛を務め、箒を構えた愛衣が美空とココネの前に立つ。高音は二人の間に立ち、愛衣が頭上に浮かべていた魔法の光によって生まれる高音の足元の影が蠢く。

 

「?」

 

 ズシャズシャと人が立てるには異様な足音が通路の奥から聞こえてきて、実戦など殆どない愛衣は箒を持つ手に汗を滲ませながらも心中で首を捻った。

 定期的に規則正しく聞こえる音は間違いなく足音。しかし、愛衣の記憶にはこのような足音を立てる生き物はなかった。

 三人が油断なく構えている間にも足音は少しずつ大きくなり、やがて暗がりからその姿を露わにした。

 最前列にいた刹那が複数の影の名を叫ぶ。

 

「た……田中さん!?」

 

 三人を遥かに上回る身長に、全周囲に伸びているライオンへアーとグラサン。黒のハイネックに皮のジャケットを纏った姿は、紛れもなく予選会でアスカに倒された麻帆良大学工学部で実験中の新型ロボット兵器T-ANK-α3(愛称:田中さん)に間違いない。

 ここまで奇抜で奇怪な人物は他にいない。というか他にいたら嫌だと刹那は思った。

 

「こここんなにいたんですか?!」

「ふふふ、あらお爺様。え、こっちに来いって。待って下さいませ、今ここを渡りますから」

「あれ!? お姉さまがトラウマが蘇って鬱モードに?! そっちに行っちゃダメ――っ!」

 

 高音が予選会と本選の二度も衆人環視の中で局部を曝させられた過去を思い出して、ここではないどこかに手を伸ばしてフラフラと前に進みかけるのを愛衣が後ろから腰に抱き付いて止める。

 

(これは駄目かもしれない)

 

 一瞬にして戦えるのが自分一人だけになってしまって刹那は絶望した。諦めたと言ってもいい。

 何しろ目の前で五体はいる田中さんが全員口を開けて高音の服を消した時と同じ動作をしていたのだから。

 

「キャ――――ッ!!」

 

 五体の田中さんから『脱げレーザービーム』が放たれ、愛衣の悲鳴が地下道に木霊する。

 レーザーが衝突したことによって立った煙が僅かな間だけ視界を覆い隠す。高音の腰に抱き付いてた愛衣も同様だった。

 しかし、愛衣は不思議な感触を味わっていた。頬や腕にさっきまであった布地の感触が感じられなかったのだ。変わりに人肌のような温もりと柔らかさ。

 その答えがなんであるかを知りながらも現実を認めたくなくて、恐る恐る開いた愛衣の視界を埋めたのは圧倒的な肌色だった。

 

「お、お姉さま……」

 

 視界を埋めていたのは肌色の正体を知って、愛衣は声が震えるのを抑えることが出来なかった。

 

「高音さん……」

 

 ちゃっかりと反対側の通路に移動して難を逃れた刹那も愛衣が見たのとまったく同じのを見て、つい避けてしまったこともあって罪悪感から目を逸らした。

 

「………………」

 

 高音・D・グッドマンは何も語ることなく凛然と立つのみ。

 コッソリと逃げようとしている美空に肩車されているココネがゆっくりと口を開いた。

 

「裸」

 

 どんな言葉よりも的確に、そして正確にココネが言った一文字の言葉は今の高音の状況を端的に説明していた。

 脱げビームを全身に食らって服が見事に消え去っている。田中さんの良心か、神が与えたもうた奇跡か、本当に隠すべきところだけは小さな布が残っていた。

 高音は裸だった。辛うじて靴とソックスとどんな偶然か局部を隠す一部だけを残して見事なほどに真っ裸だった。もう全裸と言い換えていいほどに全裸だった。言い訳の余地すらもないほどに裸身だった。

 

「しっ! 見ちゃいけません。ここは静かに目を逸らしてあげるのがマナーてもんよ」

「がふっ」 

 

 公序良俗に反すると暗に示され、よりにもよってこの場で一番軽い美空に気を使われた高音の体が崩れ落ちる。いくら男性がいない場所であっても全裸にされたショックで気を失ってしまったようだ。

 

「お姉さま、今気を失うと……!?」

 

 今の高音はアスカとの戦いで着用していた、防御力を上げる影の】を身に纏っていた。

 下着を着用しない方が防御力が数倍跳ね上がる。だが、この影の鎧には術者が気を失うと消滅してしまう欠点があった。折しも高音はもう気絶することもないだろうと過信して下着を身に着けていなかった。

 

「わぉ、見事な全裸」

 

 美空が言ったように、完璧に言い訳の出来ない全裸だった。

 地面に叩きつけられる前に高音を抱きとめた愛衣の静止も遅く、残っていた靴やソックスや局部を隠していた小さな布地すらも消え去って、覆う物のない正真正銘の裸身が魔法の光に照らされる。

 

「グッドマン先輩ってウルスラ女学院だったよね、ココネ」

「前にあそこの制服を着ているのを見た」

 

 何かを確かめるように肩車している頭上のココネを振り仰ぎ、返ってきた答えに一人で頷く。

 

「じゃあ、ウルスラの脱げ女ってわけだ」

 

 美空の発言に地下道の空気が凍った。

 刹那と介抱をしていた愛衣は予選会や武道大会でのことを思い出して、これで通算四度目であることを確認して否定しきれなかった。

 

「すみません、私が避けたばかりに。仇は取ります」

「お姉さまはまだ死んでませんよっ!?」

 

 取りあえず美空の発言は聞かなかったことにした刹那は、間違った方向に覚悟完了して愛衣が叫ぶ前に田中さん達に向かって跳んだ。

 律儀に空気を読んだのか、それとも困惑していたのかは分からないが動かなかった田中さん達が空中にいる刹那に対して迎撃の行動に出る。

 再び口を開いてのレーザー口を露出して発射。五体分ともなれば生半可な抜け道は無い。

 

「温い!」

 

 田中さん達は自分達のライオンヘアーで射線が狭い。必然、当たらないように角度を調節すると刹那からすればスカスカの射線網だった。

 羽を出すとレーザーが当たって毛が無くなる可能性があるので、虚空瞬動で繰り返して隙間を縫うように飛びこむ。

 

「神鳴流奥義――」

 

 神鳴流の担い手が扱うのであれば箒であろうと関係ない。手摺に体重を感じさせない動きで身を沈めたまま片足だけで着地した刹那は、気を込めた箒を振りかぶっていた。

 近くにいた田中さんが同じように拳を振りかぶっているのが見えた。

 

「斬鉄閃!!」

 

 柵の球形になっている部分の上で腰を捻って勢いをつけて拳を避けながら、鉄をも切り裂く剛剣を以て田中さん達三体の胴体部分を輪切りにする。

 

「下がって下さい!」

 

 上半身と下半身で輪切りにされて崩れ落ちる田中さんを見届けることなく愛衣の言葉に従って、柵を蹴って離脱する。

 

「紅き焔!」

 

 詠唱を重ねていた愛衣が放った中級炎熱魔法である紅き焔が四体目の田中さんに直撃し、

 

「むっ」

 

 爆炎の中から迸ったレーザービームを危なげなく躱す刹那。レーザーが発射される前に爆炎が一瞬晴れたので避けるのは簡単だった。

 最初の脱げレーザービームでやられたのか、スカートの一部が破れている愛衣の隣に着地した刹那は、爆炎が晴れた後に少し焦げているだけで殆ど損傷の見られない田中さんを見た。

 焦げているということは効いていないわけではないのだろう。刹那が倒した田中さん達が上半身と下半身に別れて倒れ伏している様を見れば愛衣の攻撃では単純に攻撃力不足。

 炎による熱で攻撃する魔法では機械の田中さんには効果が薄いようだ。

 

「火力が足りないようですが、もっと上げることは出来ますか?」

「これが私の最強の魔法なんです。他の属性では魔法の射手が良いところです」

 

 残った二体の田中さんの挙動から目を離さずに問いかけて返って来た愛衣の返事は芳しいものではなかった。自信を喪失したように声を揺らされては刹那としても困ってしまう。

 こうなると高音の戦線離脱が大きく響く。しかし、尊い犠牲はどうにも出来ない。刹那もこんな場所で全裸にはなりたくない。それは愛衣も同様だった。

 

「機械なら雷属性が効くはずです。他の属性でも構いませんから私が踏み込みますので魔法の射手で牽制を」

「わ、分かりました」

 

 動揺の見られる愛衣の言葉に、本当に大丈夫かなと刹那が一抹の不安を覚えたその時だった。

 

「ダメダメ! 挟まれてる! 後ろからも大量にゾロゾロと団体さんがご到着――ッ!!」

「「げ」」

 

 存在を忘れかけていた美空達の言葉がどうしても無視できなくて振り返って見れば、言ったように魔法の灯りに照らされた範囲に見える限りでは通路にビッシリと田中さん達が揃って行進していた。

 

「桜咲先輩、前からも!?」

 

 高音が気絶してしまってはこのチームのリーダーを務められるのは技量と年齢的に刹那しかない。美空は戦力にならないと自分で公言しているし、愛衣は年下。ココネは問題外。

 前と後ろを挟まれて、こういう事態で考えることに慣れていない頭を働かせていた刹那の目が愛衣の言葉に急速に前を向く。

 

「田中さんの他にも別のタイプのロボット!?」

 

 残った二体の田中さんのみならず、その後ろから続々と無傷の田中さんが現れている。更に水路に浮かぶ多脚型の四本足の蜘蛛のような外見のロボットもいた。蜘蛛型ロボットの上にはご丁寧に田中さんが乗っていた。数の差は圧倒的だった。

 

「こうなったら私達だけでも…………って、壁や天井にまでいる?! 逃げ場ないじゃん!」

 

 アーティファクトを使って自分とココネだけで逃げようとした美空は、壁や天井にも張り付いて登場した多脚型ロボットに向かって叫んだ。これで前後左右に逃げ場が塞がれた。

 

「ど、どうすれば……」

 

 恐れるように身を寄せて来た愛衣に、刹那は打開策を伝えたり希望を示すことは出来なかった。

 慣れていないのだ。こういう事態に頭を働かせることが致命的に。目の前に現れた敵を斃すだけで良かった頃が懐かしい。

 

「もう――」

「いい案が浮かんだんですね!」

 

 重く口を開いた刹那に愛衣は希望を持った。美空やココネも同じである。

 ガシャンガシャンウィーンウィーンと機械の音が鳴り響く地下道で、期待の籠った目がこの場の最大戦力である刹那に集中する。

 

「みんなで脱がされましょう。ええ、きっと脱がされるだけですから」

「もう駄目だ――ッ!」

 

 箒を下ろして、プシューと頭から煙を噴き出して悟った表情と遠くを見つめる刹那に、ココネを肩車したまま器用に頭を抱える美空。

 

「お姉さま、みんな一緒です」

「こっちもかい!」

 

 刹那と同じくあまりの敵の数の多さに、全裸のまま気絶している高音を抱き起した愛衣はさめざめと涙を流した。

 

「ナイスツッコミ」

 

 律儀にツッコミを入れる美空の頭上で振り回されているココネがぼそりと呟いた。幸運にも狼狽している美空の耳には入らなかった。

 

「いや、脱がされたくない――ッ!!」

 

 周り全員が諦めムードに入り、ロボット達が順調に距離を縮めるのを見遣って、高音に不名誉な仇名をつけたことに対するお仕置きとばかりに全てのレーザーの砲口が美空に向けられた。

 何故か全ての砲口を向けられた美空は、真剣な貞操の危機を感じ取った。単純に一番騒ぐ美空を第一ターゲットにしただけなのだが本人に分かるはずもない。

 

「誰か、高畑先生!!」

 

 美空の甲高い声が地下道に何重にもエコーをかけて鳴り響く。

 美空が思わず助けを呼んだのは元担任の高畑だった。助けに来た立場なのにも関わらず、口に出たのが高畑の名前だったのは彼女が知る中で最も強い男だったからに他ならない。

 本当に助けが来るなどとは思っていない。そんな三文ヒーロー劇のような物を信じられる年齢ではない。本当に諦めきれずに、つい口から出ただけだった。

 しかし、美空の言葉が届いたのか、ヒーローは現れる。

 愛衣が頭上に掲げている魔法の灯りよりも、ロボット達がレーザーを発射しようと準備光のようなものが上回った瞬間だった。

 

「屈みなさい」

 

 絶対遵守の命令のように、口を利かないロボット群以外の人間四人とも違う声が降り注ぐ。

 高音を抱き上げていた愛衣が彼女に覆い被さり、刹那が跳ぶように身を沈める。誰よりも強く反応した美空は抱えていたココネを下ろして胸に抱き抱えながら地面に身を投げ出そうとした。

 その瞬間に何があったのかを正しく認識した者はいない。

 ロボット群から脱げレーザービームが放たれようとした刹那、刹那達の進行方向に閃光が走って全てを呑み込んだ。

 

「キャ……」

 

 頭上や横を轟音と轟風が通過し、刹那ほどには素早く行動できず地面に身をつけられなかった美空とココネが空を浮かぶ。

 

「わっ」

 

 脳が事態を理解する前に全身に走る軽い衝撃。

 懐かしく、そして温かい感触が美空の全身を支配する。それは遠い昔、小さい頃に父親に抱き抱えられた時の感触に似ていた。

 親が望むような魔法使いにはなりたいと思わないが、それでも嫌いではない人達。思春期になってからは接触を遠ざけていた父と同じような温もりはとても優しかった。

 確かな温もりに安心を覚えた。

 

「春日君?」

「え……」

 

 父ならば自分を美空と呼ぶ。断じて同じ苗字である「春日」とは呼ばない。しかもどう考えても声が違う。

 

「あ……? あ……ぁ……」

 

 美空は目を開いて阿呆のように口を馬鹿みたいに開けて固まった。意味ある言葉が喉の奥から出てこない。

 

「た……高畑先生!!」

 

 目の前に、少し顔色が悪いように見える父とは違う人の顔があった。良くも悪くも冴えない顔をしている父とは似ても似つかない、煙草を吸っていると映画に出てきそうなダンディーな俳優にも見えると評判のタカミチ・T・高畑の顔があった。

 

「大丈夫かい?」

「あわあわわっ、大丈夫です?!」

 

 表情に陰のある顔が心配そうに近づいてくると美空の心臓がハイビートを叩いて鼓動する。

 自分でもおかしいと分かる慌てようで抱き上げてくれている高畑の手から飛び降りる。あまりにも慌てていたため、ココネを抱きしめていたことも忘れてしまい、彼女を地面に落としてしまった。

 

「痛い」

 

 お尻から固いコンクリートに落ちたココネがよほど痛かったのか目の端に涙を浮かべていた。

 

「あっ、ココネごめんね! ほら、これで痛くなーい! ほらほら!」

 

 美空はココネの脇に手を入れて高い高いをしながら振り回す。その顔は真っ赤なままで、振り回されて痛がるココネに気がついた様子もないのは混乱が続いている証拠だった。

 高畑は美空を止めるべきかと思ったが、内面に積み重なっている感情の重さに押されるように一度は上げかけた手を下ろした。

 今は少し他人と関わり合いになる気持ちではない。気持ちが沈み切っていて、下手なことを言いそうなぐらいだから黙っている方が無難だった。

 

「無事かい、みんな」

 

 声をかけながら周りを見渡せばロボット達の残骸と、身を起こした刹那と愛衣達の姿があった。少なくとも高畑が放った豪殺・居合い拳に巻き込まれて怪我とかをしていなくて安心した。

 見渡した視界に、自分が来た道を映った。

 その道の先に自分を助けてくれた少女――――四葉五月――――がいるだろう方角に顔を向ける。

 彼女から聞いた超の計画を思い出して、限界を超えて沈み込んでしまう感情を持ち直して刹那達に向き直る。

 

「これを」

「あ、ありがとうございます」

 

 どうして高音が裸なのか分からないが、成人の男の前で女子高校生が服を着ていないのは色々と不味いと考えて着ていたスーツの背広を脱いで愛衣に渡す。

 投げ渡した後はハッキリと背中を向ける。

 無性に煙草を吸いたい気分だったが、刹那が並んで生徒の隣で吸うわけにはいかなかった。そもそも煙草とライターは高音に渡した背広に入っていたので、つい癖で煙草を取り出そうとして背広の内ポケットがある場所に伸ばして空を切った手が所在無げに揺れる。

 

「高畑先生、捕まっていたのでは?」

「情けないけど、ある人に助けられてね」

「そうですか」

 

 口の奥で苦味が走ったような顔で答える高畑に、誰に助けられたのかと刹那は問うことが出来なかった。

 全身に疲れを滲ませている高畑を直視することが出来なくて、今まさに背広の上をかけられている高音を見る。

 続いて「私にオジコン趣味は無い! 無いはずなのにこのトキメキは何っ!?」と、今度はココネを抱きしめながら地面をゴロゴロしだした美空を見るが、ロボットの破片らしきネジやらが散乱しているから地味に痛いだろうと考えた。

 遂には胸元から迸ったココネの顎直撃のアッパーに美空がK0されたのを見て、アレはアレで何時も通りなのだろうと思って再び高畑に視線を戻す。

 

「超君ならもういないよ。もう調べた」

 

 刹那の疑問を先取りするように高畑が答え、肉体よりも心が疲れたように間を開けた。

 

「彼女がいない以上、何時までもここに居ても仕方ない。外に戻ろう」

 

 高畑の悲しみも苦しみもなにもかもを一緒に混ぜ込んだようなひどく複雑な顔に、それ以上の詮索を出来るものなどいなかった。

 



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第46話 鏡合わせの二人

 

 その日は良く晴れた。雲一つなく、青い色がどこまでも広がる空。

 数ヵ月前の惨劇を感じさせない世界であっても少年達は生きている。

 移り住んだ自然に囲まれた町から少し離れ、入学する予定のメルディアナ魔法学校を一望できる木まで競争することが少年達の日課だった。

 だけど、その日だけは違った。木の傍に見知らぬ男が立っていたのだ。

 

「やあ、初めまして」

 

 無精髭を生やした見知らぬ男は、キョトンとしている少年少女を安心させるように柔らかく笑って言ったのだった。

 そうして、彼らは青空の下で出会った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二回戦も終わり、麻帆良武道会も残すは準決勝二試合と決勝を残すのみとなった。否が応でも盛り上がりを高めている会場の中にあって、観客席にいる長谷川千雨は一人だけ焦燥の中にあった。

 

(こ……これはどういうことだ!?)

 

 十数メートルの高さに支えもなく浮いたり、手を翳しただけで頑丈な舞台を何重にも陥没されたりと、摩訶不思議超人活劇を繰り広げた長瀬楓とクウネル・サンダースの試合や、巨大人形を吹き飛ばすアスカの武技。

 もうこの大会はそういうものだと遅まきながらも理解した観客達は無責任に盛り上がり、次の準決勝に向けてテンションを上げていく。

 

(一度は落ち着かせたと思ったネット状況が各所で勢いを盛り返している!? 長瀬の試合で物凄い勢いで魔法否定派…………大会側演出派が盛り返してるのか? くそっ、現実離れしたバカげた話題にどうしてこんなに盛り上がるんだ? 魔法否定派と肯定派共に数十人単位でバイトを雇って操作しているとしか思えん!!)

 

 一度は火消ししたはずなのに各掲示板で復活して、白熱する議論に焦った様子でキーボードを叩くが大火の前にしたバケツ一杯の水をかけるようなものだった。

 今度のは千雨にも止めようにもない規模で膨れ上がっていて、ハッカーとしても優れた技能を持っている自負があるからこそ、展開される論争の異常さを理解できてしまう。

 

(いや、違う。バイトにしては話題操作が巧み過ぎるし、書き込みのさり気なさも驚嘆モノだ。こういう情報操作に長けた個人か少数の集団じゃなけりゃ不可能だ)

 

 こういう一つの答えに向けての情報操作はより少数か個人で行う方が多数を誘導しやすい。現実ではなくネットアイドルとして情報社会に身も心もどっぷりと関わり続けている千雨だからこそ違和感を強く感じる。

 

(なんなんだ、これは? 単純なネット論争なんてもんじゃねぇ。ネットを介した世論操作戦、超々高度な電子戦だ)

 

 大会を運営している超陣営と、武道大会を利用して何者かが故意に魔法の存在を流布していると察知した学園側の熾烈な争いがネットの中で行われていると気づいたのが女子中学生であることは皮肉だと言えよう。

 

(どうする? 事情に関わっていそうなネギ先生を問い質すか…………いいや、それは駄目だ。最初、ネットアイドルを知らなかったことを考えればこっち方面に詳しい保証はない。それにあなたは魔法使いだって言って外れたらどうするんだ)

 

 深刻そうに宮崎のどかと話をしながらこの場を離れたネギ・スプリングフィールドを思い出したが直ぐに却下した。

 人見知りがこういう時に足を引っ張る。下手に頭脳が回るからこそ、成功した時のメリットと失敗した時のデメリットを計りに掛けれてしまう。魔法使いだなんて存在を根本から信じきれない現実主義の千雨では、一か八かの博打を打てる根性は出せなかった。

 

(ちいっ、こんなノートパソコンじゃ対抗できない)

 

 趣味が高じてハイスペックに改造してあるが限界はある。

 スーパーコンピューターには及ぶべくもなく、数十人単位で情報操作を行なっているようにしか思えない現実を前にして、どれだけ性能が高かろうが個人では如何ともし難い違いがあった。

 寮にある自室のパソコンを使えば少しはマシになるだろうが、焼け石に水程度にしかならないことは一目瞭然だった。

 

「千雨さん」

「えっ……」

 

 諦めきれずに方策を考えていた千雨に直ぐ真横から声がかかった。声をかけられるとしてもそっちからだけはないと思っていたので、予想外の人物からの声に千雨の心臓は不自然に高まった。

 ドキドキと驚きで高まる心臓の鼓動を耳にしながらネギ達がいた方とは逆を見る。

 

(絡繰茶々丸…………ロボ娘が私に話しかけてきた?)

 

 千雨達が二年生に上がった時に編入してきた、明らかにロボと分かるギミックがあるにも関わらず気づいているのか気づいていないのか、クラスメイトに受け入れられている少女。

 お祭り好きのクラスメイトの中にあって、千雨と同じように孤独を貫くエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルに付き従っている姿をずっと見てきた。エヴァンジェリンから三歩後ろを離れて付き添う姿は主に仕えるメイドのようだと常々思っていた。

 朝や帰りの挨拶ぐらいはした記憶があるが、私的な会話をしたことは千雨の覚えている限りでは一度もないはず。

 最初に見た時から明らかに人間ではないパーツの数々が垣間見えていたので千雨は関わろうとしなかった。向こうもまた積極的にこちらと関わろうとする意志を見せず、二人の関係は同級生以外の何物でもないはずだった。

 

「先程ほどから頑張っているようですが無駄です」

 

 千雨は眉を窄めた。不審からである。

 外で使うために持ち歩いているノートパソコンのモニター部分には、横から覗き込めないようにフィルターを張ってあるので真後ろからでなければ見ることは出来ない。つまり、茶々丸の位置からでは千雨が観客席の欄干に乗せているノートパソコンの画面を見ることは、よほど身を逸らさなければ出来ない。そんな行動を取ればいくら画面に注目していた千雨でも気がつく。

 パソコンを操作しているだけで何をしているのかを察知しているということは、一連の情報操作に茶々丸が何らかの形で関わっているか事情を知っていることを示している。

 

「何が無駄だって言うんだ?」

 

 自然に言葉が尖るのを抑えられない。

 茶々丸が魔法否定派か肯定派のどちらに属しているかは分からない。しかし何らかの事情を知っているのは確実。本性を隠して演技を続けたままでいられるほど能天気ではなかった。

 

「あなたのハッキング技術や現在個人で開発されているプログラムでは無駄だと言っているんです」

「な、何!?」

 

 静かに指摘された事実に千雨は驚きと冷や汗を隠すことが出来ない。

 趣味が高じて身に着けた技術と、誰にも言ったことのないプログラムの存在を看破されて驚かぬはずがない。

 特に現在作っているプログラムは、今までの集大成でかなりの独創性があると自負している。他人どころかパソコンのデータディスク以外は知り得ない事実のはずだ。

 ありうるとしたら、ネットワークを介して千雨のパソコン内にハッキングをかけるか。誰にも言ったことはないので可能性的にそれしかない。

 自分のパソコンがハッキングされて、しかもそれに気づかないなどありえないはずだった。その例外が目の前にいる相手か。

 

「今、ネット上で行われているのは片やあなたのプログラムの何世代も先を行く世論・情報操作プログラム。片や魔法使い達の最新型2003年式電子精霊群…………超科学と最新魔法技術の戦いです」

「な……」

 

 ありえない単語が次々と茶々丸の口からスラスラと出てきて、千雨の脳はもうパンク寸前だった。

 

「残念ですが、あなたがそのノートパソコンで出来ることは何もありません。これは私達と魔法使いの戦いですから」

 

 人形染みた無表情で千雨を見つめて最後通牒を下す茶々丸はまさしく機械人形のよう。

 

「超科学に魔法使いときたか…………へ、なら次は未来人や宇宙人でも出してくれるのか、茶々丸さんよ」

 

 口が悪いのは自覚している。しかし、こうでもしなければ気圧されて話についていけなくなる。今の千雨に必要なのはハリボテでも自分を偽れる見栄だった。

 

(…………糞ったれ)

 

 嫌な汗が頬を伝った。それを拭うことも出来ない。視線を逸らせば、その隙に心臓が刺されるように思えたからだ。錯覚だとしても、けして無視できない予感であった。

 

「当たらずとも遠からず…………いえ、この場合は正解と言うべきできしょうか」

 

 機械のくせに思案するように言葉を選びながら、確信を掴ませないようにはぐらかせた。

 もしかして未来人か宇宙人のどちらかが、或いはその両方が存在している可能性を茶々丸の言葉から感じ取って戦慄を隠せない。未だに魔法使いにも確信を抱けないのに、更に他の余計な者達まで現れては、既に限界のキャパシティを盛大にぶち壊しかねない。

 慌てて話題転換を計ることに決めた。

 

「超科学に最新魔法って言ったな?」

「はい。私達の最新技術と学園側に数十人規模で存在する魔法使い達の戦いです」

 

 色々とツッコミどころが多すぎて処理が追いつかない千雨は、茶々丸の感情を感じさせない文字通りの能面のような顔を前にして、顔を歪めることしか出来ない。

 

「あんたは…………いや、あんた達は何をやろうしてるんだ?」

 

 端的に自分の味方か敵かを計る為に確信を突いていった。

 答えてもらえるとは思っていない。少しでも今までの情報を噛み砕く時間と納得するだけの間が欲しかった。

 

「超の言葉を借りるなら、彼女はこう言っていました」

 

 意に反して茶々丸はアッサリと千雨の疑問に答えてくれるようだった。

 言い方からしてクラスメイトの超鈴音がどちらかの陣営の首謀者なのかと、人生経験が大人に比べて短くともネットアイドルとして多くの大衆と交流を重ねて来た経験から辿り着いていた。

 千雨が答えに辿り着いたことにすら茶々丸が気付いていたとしてもだ。

 

「――――――今から百年以内に滅ぶ世界を救う英雄を生み出す、と」

 

 どこかのインチキな占い師の如く不吉な予言を語る茶々丸の言葉に、確かな実感を持って襲ってきた呪い染みた重みが千雨の全身を奮わせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 父の友人であると語った自らをタカミチ・T・高畑と名乗った男にその場でネギは心を許し、アーニャもネカネとスタンに聞いて受け入れた。しかし、アスカだけはどっちつかずの反応だった。それは魔法学校に入学しても変わらなかった。寧ろ悪化すらしていた。

 最初は警戒心の強い動物が未知の相手を観察するように見ているだけだったアスカが、魔法学校に入学後に現れた高畑に喧嘩を仕掛けるようになったのだ。

 

「ねぇ、アスカ君。君はどうして誰彼構わず喧嘩を吹っ掛けるんだい? ネカネさんも困ってるじゃないか」

「うるせぇ!」

 

 その結末は何時だって同じだ。

 殴りかかったアスカをいなし避けて、ただの一度も攻撃を振るうことなく疲れさせたアスカを高畑が諭すのが彼らの日常だった。

 手負いの獣のようなアスカが変わったのは、何時だっただろうか。

 

「なぁ、タカミチ。アンタはその拳で誰かを助けたことはあるのか?」

「なんだい、藪から棒に」

「いいから答えろよ」

「君はもう少し人に物を頼む言い方を言うものをだね……」

 

 魔法学校に入学して暫くしてから訪れた高畑に、アスカは喧嘩を吹っ掛けることなく訊ねてきたのだった。

 アスカに殊勝な心掛けなど期待もしていなかった高畑は小言を言いかけたが、期待がチラつく瞳を見てその言葉の意味を考えた。

 

「YesかNoというならYesだ」

「そうか……」

「但し、その逆も多い」

「え?」

 

 望む通りの答えだったろう、喜色に満ちかけた変化に水を差すように高畑は重く言った。

 

「拳というのは、そのままでは用途が限られている。君が期待しているのは、力で人を助けられるかどうかだろ? ならば、僕はその問いにはYesでありNoと答える。その意味が分かるかい?」

 

 分からないと首を横に振るアスカに、自分が誰かにこのような話をすると考えたこともなかった高畑は自らの中で整理しつつ口を開く。

 

「力というのは厄介なものでね。人を助けることも出来るが、同時に人を傷つけることも出来てしまう。拳をぶつければ、ぶつけられた相手は痛いと思う。だけど、こうやって拳を握らなければ相手と繋がることだって出来る」

 

 そう言って地面に膝を付いた高畑はアスカの手を取り、反対の手で開かれているその手を握る。

 

「君にはまだ難しいかもしれないけど、よく考えるんだ。誰かを助けるなら守るなら、考えることは無駄にはならない」

 

 手を離して立ち上がった高畑を、アスカは眩しそうに見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

『麻帆良武道会も、いよいよ残すところ三試合となりました!! さぁ、注目の準決勝を進めて来た選手は――!?』

 

 マイクを片手に舞台に立つ和美の頭上で空中投影されている特別スクリーンが特定の選手を映す。

 

『既に舞台上がっているのは、学園の不良にその名を知らぬ者なき恐怖の学園広域指導員タカミチ・T・高畑! 二回戦を不戦勝で準決勝にコマを進めた高畑選手は何時ものポケットに両手を入れた独特の戦闘スタイルで準備万端だ!』

 

 舞台中央で相手選手を待ち構えている高畑は瞳を閉じて何も語らず彫像のように動かなかった。普段は不良以外にはフレンドリーな彼にしては珍しく、手を振ったり苦笑いを浮かべたりしないのは少しマイナスポイントか。

 

『そしてお待ちかね! 一回戦では予選会での十八人を倒した実力に偽りなしと見せつけ、二回戦では巨大人形を持ち出した高音・D・グッドマン選手に快勝したアスカ・スプリングフィールド選手の登場です!!』

 

 紹介されたアスカが舞台に向かって一人きりで花道を歩く。

 その歩く様だけで、人の目を惹く。ただ歩いているだけなのに、その姿の違いが目についてしまうのだ。呼吸や重心やごく些細な姿勢の在り方に、当の日本人が忘れてしまった遠い時間の記憶を刺激される。

 

「アスカさん……」

「お姉さま、涎が」

 

 舞台へと脚をかけた後ろ姿に、彼に二回戦で敗れた高音・D・グッドマンが全身にローブを纏った奇異な格好で観衆の中に埋もれながら見惚れていた。そんな彼女の唇の端から透明な雫が流れているのを見て、犬上小太郎に敗れた佐倉愛衣が取り出したハンカチで拭う。

 試合前は憧れだったのに、もはや有名アイドルに心が心酔しきったような先輩の姿に愛衣は苦笑を浮かべざるをえない。この人はこれからどうなるのかと疑問も絶えない。

 

「……?」

 

 悪寒がしたように背筋を震わせたアスカが舞台にかけた足をそのままに、後ろを振り返っても何もなくて首を捻りながら舞台に上って行った。悪意には聡くても情欲には勘が上手く働かなかったらしい。

 

『たった一人で学園内の数多の抗争、馬鹿騒ぎを鎮圧し、ついたあだ名が「死の眼鏡・高畑」!! まさに最強の学園広域指導員!!』

 

 納得がいかないように首を捻りながらも舞台に上がったアスカの顔に俄かに緊張感が増していく。戦いを前にして他の悩み事を持ち込むほどの、中央に進んで相対した高畑は生易しくないことを感じ取ったからだ。

 

『ですが、対するアスカ選手も負けてはおりません! 十八人抜き、巨大人形をを倒したその実力に偽りなし!!』

 

 舞台の上で向き合う二人。

 片や笑みすら浮かべてその時を待ち、もう片方は瞼を閉じて試合のゴングが鳴るまで彫像のように動かなかった。

 

『この二人が戦ったらどうなるのか予想が出来ず、私も興奮を抑えることが出来ません! トトカルチョでは一回戦、二回戦を勝ち上がってきたアスカ選手が人気を伸ばし、拮抗しています!!』

 

 おかしい、と開始戦について高畑を見たアスカは思った。

 あまりにも静かすぎる。まるで彫像と相対しているかのような存在感のなさ。この静けさが不気味過ぎた。

 この距離は既に高畑の射程範囲に入っている。定石通りに致命打を貰わないように距離を取って攻略するべきかな、とアスカは一瞬だけ脳裏に走った考えを飲み込んだ。

 

『解説者席の豪徳寺さん。どのような戦いに見ると予想しますか?』

『高畑選手の戦い方は有名です。昨夜の予選会でも近づく敵を片っ端から倒れていく謎の技を使っていました。この正体不明の技をアスカ選手がどうやって攻略するかが勝負の鍵になってくるでしょう』

 

 解説実況席にいる茶々丸が解説の役割を与えらえた豪徳寺に話を振り、役割の名に恥じない丁寧さで観衆が望む答えを伝えてくれる。

 誰だって順当な結果よりも奇跡的なドラマを見たがる。名が広まり過ぎていた高畑の有名税か。

 

『それでは皆様、お待たせしました!』

 

 強く拳を握り締めるとアスカの耳から音が失くなった。

観客のざわめきも、耳元を過る風さえも遠ざかる。聞こえるのは息遣いと己の胸を打つ命の鼓動のみ―――――向かい合う二人だけでなく、二人を見守る観客もそれは同じ。

 一時の静寂。その天蓋を突き破るように、睨み合う両者の迫力に和美が若干気圧されながらも和美の右手が真っ直ぐに上がり、

 

『それでは準決勝第一試合――』

 

 開始の合図が言い放たれる直前、ここに来て高畑がゆっくりと閉じていた瞼を開いた。

 その瞳に宿る見覚えのある、でも高畑が浮かべているのを一度も見たことがない。

 瞳の中に狂気にも似た感情があるのを見て、解説の豪徳寺が言っていたようなアスカの中から定石通りに距離を開けて突破口を探そうという考えが根こそぎから吹き飛んだ。

 

『――――ファイト!!』

 

 ブンと空気と火蓋が切って落とされた。

 和美の開始の合図が耳に届く前から膝を曲げて腰を落としていたアスカは、「ファイト」のトが会場に広がる前に全力で大地を蹴っていた。

 「ファイト」のトが会場全体に響く頃には既に高畑の近く。自らの間合いの距離にまで踏み込んでいた。その動きは常人の目には止まらぬほど早い。高畑が使う居合い拳を警戒して顔の前で両腕を交差して防御しながらの速攻。

 

「はぁっ!」

 

 アスカの第一撃は蹴りだった。高畑はローキックを予測して膝でガードしようとする。しかし、アスカの蹴りは膝を伸ばす直前にミドルキックに変化し、蛇のように伸びて脇腹にヒットした。

 

「ぬぅっ!?」

 

 高畑にとっては文字通りの目の覚めるような痛烈な一撃だった。衝撃が身体を走り抜け、一瞬、息が詰まる。

 アスカは更に踏み込みながら、烈風のような上段の後ろ回し蹴りを放った。高畑は辛うじてポケットから出した腕で防いだものの、ガードの上からでも浸透する重い打撃に思わず後退する。

 

『おおーっと、これは驚きです。当初の予測を反してアスカ選手が押しています』

 

 司会と同じく予想外の展開に観客の生徒たちがどよめいた。技主体で攻めると思われたアスカが高畑を真っ向から捻じ伏せているからだ。

 更にラッシュを仕掛けようとしたアスカだが、高畑に押し戻されて開始時と同じぐらいの距離を取られた。

 離れた距離で高畑は足を前後に開いて腰を僅かに落とし、ポケットに両手を入れた普通からは変わった変形の構えを取る。対照的にアスカは身体を小刻みに前後に揺すってリズムを取りながら、無言で獲物の隙を窺うように目を細める。

 

「…………参ったな。思ったよりも油断していたようだ」

 

 右手で垂れ下ってきた前髪を掻き上げた高畑は自戒するように述懐する。

 言葉通り油断していたにも関わらず、それでも攻撃を完全に防御したのは流石の一言。

 

「完全に防御しといて良く言う」

「驚いたのは事実だよ。君の実力も肌で感じた。凄く強くなってる。油断したら負けるのは僕だろう。でも――――勝つのは僕だ」

 

 この旧世界においては裏と称される世界の中でも深淵で戦ってきた男が告げる。その全身に魔力が行き渡る。

 高畑の矛でもある魔力の恩恵は、込めた一撃がそれだけで常人には文字通りの必殺の一撃と化す。防御もまた鎧よりも遥かな防御力を宿す。

 

「へっ、やってみせるさ」

 

 最強の矛と絶対の盾を前にして、アスカもまた魔力の出力を上げる。

 

「……っ」

 

 二人の間に緊迫した空気が流れ、先手を取ってアスカが身を低くして飛ぶような勢いで燕のような速さで襲い掛かってきた。高畑は怒涛のように繰り出される突きの連打や蹴りを受け、或いは弾く。

 

『こ、これはぁ!? 目にも止まらぬ素晴らしい攻防!! しかもこれはアスカ選手が……押している!?』

 

 和美の驚きに満ちた実況が会場に響く中、これこそが中国武術だと言わんばかりに、虚実を織り交ぜた見事とも言える攻撃を放ち続ける。

 長身の高畑と成長途上のアスカ。 

 体格差を活かして極限まで体を低くして懐に潜り込んでこの利点を活かし、反撃を封じ込めて一方的に状況を進めているように見える。だが、圧倒的に有利なはずのアスカの方が苦しげな顔で、攻撃を受け続けている高畑の方が平静そのものだった。

 密着に近い間合いでの目まぐるしい攻防は三十秒に及んだ。息切れしたのか、膠着した場を嫌ったのか定かではないがアスカの攻撃が僅かに緩んだ一瞬の隙をついて、高畑はポケットから見えない拳打――――居合い拳を打ち込んだ。

 

「温い。この程度で対抗できると本気で信じているのかい?」

「ぐぅっ!」

 

 胸に攻撃を受けたアスカは突き飛ばされたように後退する。直ぐに気を取り直して再度接近を試みるが、高畑は見えない拳打によって何度も打ち合わない内に簡単にアスカを追い払った。

 

『おっと、これはどうしたことでしょうか!? 序盤の展開が嘘のように高畑選手はアスカ選手を近づかせない!』

『あの見えない攻撃の効果でしょう。このまま無駄に攻めても高畑選手の牙城は崩せませんよ』

 

 司会の解説を聞いて萎縮したのか、アスカは自ら後退して間合いを広げた。難攻不落の要塞を前に攻めあぐねている遊撃隊のように、様子を見ながらゆっくりと周囲を周る。

 と、次の瞬間。

 

「――ッ!」

 

 彼我の距離は五歩以上、まずは万全の安全圏と見なしたその間隙を、アスカは僅か一歩で詰め寄ったのである。何の脚捌きも見せないままに地面を滑走してのけた歩法の名は活歩。まさに八極拳の秘門たる離れ業であった。

 瞬動と合わせ、完璧な入りと抜きによって縮地と呼ばれる段階の神速の踏み込みを見せるアスカ。表情変えた高畑の内懐に、金髪の少年が死神の如く滑り込む。八極拳が最大効果を発揮する至近距離。

 アスカは目前で高畑が拳に魔力を込めているのを見た。だが、その動きはしっかりと見えており、対処できないスピードではない。しかし、高畑の攻撃が早い。攻撃よりも回避を選択。

 

「!」

 

 圧倒的なスピードで放たれた拳を首を傾けて紙一重で避ける。あまりの拳のキレ味に掠った頬が刀を振るわれたかのようにスッパリと切り裂かれ、血が噴き出る前に通過した服によって、擦過した肌が焼かれて傷口が固まる。

 今の一撃は真っ向から顔面に当たれば、潰れた林檎のように破裂していたかのような怖さがあった。

 

「はっ」

 

 頬に走る一瞬の痛みに怯むことなく、寧ろそれでこそとアスカは笑う。

 命を刈り取る死神の鎌を振り払うように踏み込んだ震脚が木製の床を雷鳴のように打ち鳴らし、繰り出された巌の如き縦拳が高畑の胸板を直撃する。

 金剛八式衝捶の一撃。もはや胸元で手榴弾が炸裂したも同然の破壊力だった。吹き飛ばされた高畑の身体は藁屑のように宙を舞い、まるで紙切れか何かのように舞台を囲む木の柵を飛び越えて場外に弾き飛ばされて湖中に沈んだ。

 湖中に沈んだ高畑を見ようと、近くの観客席にいる観衆達が押し合いへし合って見下ろしていた。

 

「…………すっげぇ」

 

 大の大人を子供が冗談みたいな威力で殴り飛ばした光景に、武道大会の会場である龍宮神社が一瞬静寂に静まり、誰かが発した感嘆を込めた声を切っ掛けに声援が復活する。

 もはや騒音とすら言っていいレベルの声が舞台を包み、どれほどの衝撃があれば十メートル近くも人が吹き飛ぶことが出来るのだろうかと格闘マニア達が議論を始めた。

 

『な、ななななんだ今のは――っ!? 凄まじい一撃に高畑選手が吹き飛んだっ!? 今のも中国拳法なのでしょうか!?』

 

 空気が振動しているのが感じられる程の歓声に包まれた会場を、和美が後押しするように叫ぶ。

 

『凄まじい衝捶の一撃です。あの年齢でこれほどの威力と功夫を身に着けているとは、驚愕するしかありません』

 

 解説席でリーゼントの豪徳寺薫が頬に流れる冷や汗を拭うのも忘れて、今のアスカの放った一撃に衝撃を隠せない様子で声を慄き震わせる。

 

『衝捶とは?』

『八極拳の八つの基本技の一つです。八極拳では八つの基本技を纏めた「金剛八式」を学びます。内容は省きますが、衝捶は一番最初の鍛錬技です。この衝捶のみで丸三年を費やすと言われています。基本こそが奥義と言いますが、基本を完璧以上に納めなければあそこまでの威力は出せないでしょう』

 

 茶々丸の問いに対する豪徳寺の解説で今のがただの基本技なら奥義ならどれだけの威力なのだと、無邪気に歓声を上げる観客は別にして、特に格闘に関わる者は背筋をゾッとさせた。

 

「手応えが薄い。まだ来る」

 

 受け身など望むべくもなく、鉄拳のクリーンヒットは一撃で胸郭を破壊し、肺と心臓をもろとも粗挽き肉へと変えている―――――はずだった。

 固めた拳の先には確実な手応えは感じ取れず、アスカはゆっくりと吐気して残心する。周りの歓声が一層大きくなる中で油断など微塵も見せず、構えを解こうともしない。

 

『5……6……7……』

 

 和美がカウントを進めようとも追撃は出来ない。下手な追撃は逆にこちらを追い込む材料になると直感が囁いているからだ。

 奇襲だったとはいえ呆気なく一撃を受けた高畑に対する失望が一瞬だけ脱力感を引き起こし、アスカの注意力を鈍らせる。まさかその隙を狙いすました奇襲があろうとは思いもよらず、次なる驚愕を味わうのが自分の番だとは露とも知らず。

 水が跳ねたように見えた次の瞬間、眉間に突然生じた激痛と衝撃。衝撃によって首が後方に倒れて視界が空へと向く。

 

「――――なっ!?」

 

 なにが起こったのか理解するよりまず、攻撃を認識した両腕が急所をガードする。

 そこへ先程のお返しだと言わんばかりに容赦なく浴びせられる居合い拳の雨。固められた両腕がなんとか弾丸染みた居合い拳を凌いだものの、初撃による脳震盪と、まさか高畑が奇襲をしかけてくることの驚きがアスカを出遅れさせた。

 

「ぐがっ」

 

 口から唾の欠片を吐き出しながら、受け身も取れずに舞台へと叩きつけられる。

 同時に舞台の欄干を水を割って伸びた手が掴み、体を引き上げる。続いて欄干に足を乗せて、9カウントになったところで軽い足取りで舞台の上に降り立ったのは、ダメージの後すら見受けられない高畑その人。

 

『あ! 高畑選手、無事です!! あの打撃を喰らって、まったくの無傷だ――っ!? 逆にアスカ選手が突然舞台に倒れました!!』

 

 湖に沈んで水に濡れたスーツから水滴を無数に滴り落とし、垂れている前髪を両手で掻き上げた顔にはダメージの欠片も見受けれらない。

 

「油断大敵。僕も人のことを言えたわけじゃないが、君にもこの言葉を贈らせてもらおう」

 

 幾つも打たれた腹を押えて立ち上がって、苦痛に顔を歪めたアスカに向けて告げた。

 

「けっ」

 

 口元に付いている唾の欠片を拭い、アスカもまた立ち上がる。

 

「本気で来た方がいい。試合が早く終わったら客も興ざめだろ?」

「舐めるな!」

 

 どこか寂寥とした表情を浮かべた高畑が舞台の端から跳ぶ。迎え撃つようにアスカも跳ぶ。

 空中で二人の肘がぶつかって、結果は分かりきっていたことだけど一方的だった。アスカはまだ先程のダメージから回復しきれていないのだ。

 高畑は障害物など始めからなかったように勢いもそのままに突進し、アスカはトラックに撥ねられたように吹き飛ばされた。

 真正面から突っ込めば確実に当たり負けると覚悟していたが、固めていたにも関わらず感覚を全く失った左腕を抱えて着地して、右腕を舞台に付きながら両足で焦げ跡の轍を作りながらようやく止まる。

 

(距離を開けられたっ!?)

 

 しまった、と思った時には既に遅かった。どんな歩法を使おうともワンクッションは必要な距離を開けられている。同時にそれは高畑が自らの間合いにアスカを引き離したことを意味していた。

 

「ここは僕の距離だ」

「!?」

 

 何かが空気を切り裂いた音が聞こえたのにほぼ同時に、十発の居合い拳が同時にアスカの身体に叩き込まれた。衝撃に意識が飛びかける。

 着地で身体を沈み込ませていたことと、両腕が体の前面にあったのは単純に運が良かったのだろう。なければ意識を失っていたことだろう。顔に二発、両腕に四発、両肩に一発ずつ、右膝と左大腿部にそれぞれ一発ずつ。

 生身で高畑の本気の攻撃を受ければ、攻撃を受けた箇所に穴が開いている。身体強化様様であるが、全身を苛む痛みを前にして素直に喜ぶ気にはなれなかった。気絶することも出来ず、肉が抉られたような痛みに耐えなければならないことを意味していたのだから。

 

「避けないと直ぐに試合が終わるよ」

 

 迫る高畑。凄まじい速さ―――――瞬動術や身体強化の賜物―――――でアスカの周囲を回る。

 舌を噛んで、痛みで飛びかけていた強制的に意識を取り戻して近づく高畑を見る。アスカが拳打を放つにはまだ三歩遠い。

 

「誰が避けるか!」

 

 放たれる居合い拳。アスカの回避は間に合わない。感覚のなかった左腕は攻撃を受けたことで感覚は戻っているが痺れていて上手く動かない。この状態で全ての居合い拳を迎撃できる猶予もない。

 

「成程、そう来るか」

 

 元よりアスカには躱す気がなかった。瞬動を駆使して高畑に追い縋りながら、無詠唱の魔法の射手で迎撃しながら突破する。一発二発は撃ち漏らそうとも、それぐらいならば防御を固めれば耐えられないことはない。

 中国武術の遣い手に懐に潜り込まれたら厄介だと、高畑は距離を開けるために大きく跳ねる。が、間に合わない。体を極限まで沈み込ませて間合いを詰めたアスカの右手が彼の足首をしっかりと握り締めていた。

 

「――ふっ!」

 

 短い呼気と共に、アスカは右手だけではなく痺れの残る左手でも足首を掴み、両腕の筋肉を服の上からでも分かるぐらい隆起させる。

 倍にも膨れ上がったような錯覚を覚えそうな腕を振って、空中に在る高畑の体をハンマーのように地面に叩きつけた。高畑も両手で舞台を叩きつけて受け身を取ったが、そんなもので全体重と重力に遠心力を追加した衝撃を受け流せるものではなかった。

 背中に跳ね返る衝撃が肺の空気を押し出す。叩きつけられた舞台にズシンとした衝撃が放射状に広がった。しかし、高畑の表情に苦悶の色はなかった。顔の両側の地面に手を着くと、後転の要領で足を振り上げ、足の力と遠心力の力を併せてアスカを振り放した。

 

「背中ががら空きだよ」

 

 ブレイクダンスの技のように起き上がった高畑は、宙に放り投げられて背中を見せるアスカに容赦なく居合い拳を叩き込んだ。

 

「がっ!?」

 

 背中に打撃を受けて、曲ってはいけない方向に体が折れる。苦痛の呻きが口の中で消えた。

 背後に何時の間にやら高畑が現れ、身体を掴もうと手を伸ばす。アスカはまだ気づいていない。

 

(まだだ!)

 

 極限の緊張感が再び奇妙な感覚をアスカに与え、世界が拡大する。第三者の視点から自分を見ているような感覚すら覚え、背後の高畑の存在は丸見えだった。

 

「疾っ!」

 

 アスカは僅かに横へ逸れて躱し、高畑の腹部に肘を当てた。伸ばしていた手をスカされた高畑が行き過ぎ、間に挟まれた棒にぶち当たったように肘を起点に身体が曲る。

 

「ぬっ!?」

 

 アスカは肘打ちの反動を利用し、体を横へ回転させると渾身の回し蹴りを放つ。反撃されるとは予想外だったのだろう。高畑が驚いた顔で腕を上げて回し蹴りを防御する。

 攻撃を当てた反発を利用して距離を開ける。追撃の居合い拳が来るが、自分を中心として直径数メートルほどの見えない球状の結界のようなモノが生まれ、その内側に入ったものをは何であろうと正確に認識して対応できる――――そんな奇妙な確信があったアスカは冷静に防御と回避することに成功する。

 

『おおっ……! アスカ選手が高畑選手の見えない攻撃を無造作に受け止めたっ!?』

 

 和美の言ったように、放たれた居合い拳がアスカが無造作に振るった手の中に吸い込まれていくように見えた。高畑には全ての攻撃が事前に読まれているような錯覚さえ覚える。

 

「居合い拳は拳圧に過ぎない。見えなかろうが必ずそこにある」

 

 アスカの優れた目でも居合い拳は見切れない。ならば、感じ取る。肉眼で追わずに感じ取る。見えなくても必ず在る。軌跡を描いて動いている。点を線に、線を面に、面を立体に居合い拳の動きを空間として構成していく。

 もはや、アスカに居合拳は見えない攻撃ではない。

 

「伊達にずっと観察してきたわけじゃない」

 

 言って、アスカも高畑と同じようにポケットに両手を入れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「居合い拳を撃ってみたいって?」

 

 出会いから数年経って、陽気な昼下がりに寛いでいた高畑はアスカの懇願に眉を潜めた。

 

「見えない攻撃って格好いいじゃないか。どうやるのか教えてくれ」

「君はもう少し人に物を頼む態度というものをだね……」

「いいから早く」

 

 高畑自身が望んで目上の者としてではなく対等の言葉遣いを望んだのだが、こうも遠慮がないとつい口を出してしまう。何度目かを数えることも止めて、教えるだけならその分の労力のみを消費すると考え、ポケットに両手を入れた。

 

「居合い拳の原理は簡単だよ。この状態から如何に素早く正しい動きで拳を放つか、その一点に尽きる」

「簡単そうじゃん」

「ところが、これが中々に難しくてね。やってごらん」

 

 拍子抜けしたという様子のアスカを促すと、見様見真似でポケットに手を入れて、高畑が放った居合い拳を脳裏に思い浮かべているのか眉根を寄せてポケットから手を引き抜いて拳を放った。

 が、目視できる程度の速度で動くアスカのでは拳圧は飛ばない。

 

「なんでだ? 同じような動作をしてるのに」

 

 アスカは何度か試してみるも一向に飛ばない拳圧に首を捻っている。

 自分も最初の頃はそうだったなと思い出し、或いは教えてくれたガトウもこのような気持ちだったのかと師の気持ちを理解する。

 

「致命的に遅いんだよ。それじゃ、拳圧は飛ばない。その十倍は速度を上げないとね」

「十倍!?」

「下手したらもっとかもしれないよ。でも、極めればこんなことも出来る」

 

 驚いているアスカに笑みを漏らし、近くの滝に体を向けて居合い拳を連続で放った。

 割れる滝、しかも同じ個所を連続で打ち続けているから水が別れたままだ。

 

「咸卦法を使えば山を割ることも可能だよ」

「凄っげぇ! 見たい!!」

「進んで自然破壊をする気はないよ。怒られちゃうから、またの機会にね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 舞台の上では二人が互いに次の一手を仕掛けるタイミングを見計らって睨み合いながら、戦局を推し量る。

 高畑はアスカが自らの真似をするようにポケットに両手を入れた意図を計りかねている。アスカの行動はそれほどに予想外だった。

 

『やはりそうか……』

『何かお気づきに? 豪徳寺さん』

 

 解説席にいた豪徳寺が顔中に冷や汗を滲ませながら呟いたのを、誰もが舞台上に気を取られている中で機械故に正確さで聞き届けた茶々丸が問う。

 

『高畑選手の使う技の正体は、刀の居合い抜きならぬ拳の居合い抜き、『居合い拳』と思われます』

『い、居合い拳ですか?』

 

 そのまんま過ぎる技名に茶々丸がどもるように詰まった。しかし、豪徳寺は気にしたように薀蓄を続ける。

 

『ええ、恐らくポケットを刀の鞘代わりにして、目にも止まらぬ速さでパンチを繰り出しているのです』

 

 居合いとは刀を鞘に納めた状態から、抜刀し、斬りつける動作を一瞬のうちに行う技術のことをいう。居合いは、すでに抜刀している敵や不意打ちで襲ってくる敵に対していかに即応するかという発想を出発点として研究されてきた技術である。

 常識的に考えれば、抜刀している者と、いまだ刀が鞘に収まっている者とが斬り合えば、すでに抜刀している側が圧倒的に有利である。西部劇のガンマンの対決でいえば、相手はすでに銃を抜いているのに、こちらの銃はまだホルスターの中といった状況といえる。

 そういったおよそ逆転不可能と思えるような状況を想定し、それでも間に合わせようと工夫する――――そこに居合いの真髄がある。

 

『そんなことが可能なのでしょうか』

『いや、私も文献で見たことがあるんですが、実際にやってるバカを見たのは初めてです』

 

 隣で聞いていた千雨が常識外過ぎると思うほどに、高畑がやってることはそれほどに異常なのだ。

 

(どうでもいいけど、そんな文献をどこで見たんだ?)

 

 豪徳寺は居合い拳が書かれた文献を見たことがあるようだが、本当にどこで見たのだろうかと聞いていた千雨は思った。

 あのようなリーゼントをした不良ファッションの割りに実は家は古い格闘道場でもやっているのかと疑問が脳裏を過ぎったが、これこそどうでもいいことだと忘却した。

 

『では、アスカ選手が同じことをしているのは何故でしょうか?』

『「は?」』

 

 茶々丸の言葉に舞台上に視線を戻した豪徳寺と千雨の声が奇しくも重なった。

 

 

 

 

 

 高畑はアスカと距離を置くように跳び退った。同時にアスカも後方に跳ぶ。

 そうして二人は同時に着地すると、目にも止まらぬ素早さで移動しながら同じ居合い拳を交し合う。

 二人の間で、規則正しい音と正確なリズムでパン、パン、パンと破裂音が響き渡り、高畑がアスカに向かって飛び出す。だが、まったく同じタイミングで、アスカもまたポケットに手を入れた高畑と一緒の独特のスタイルで前に飛び出していた。

 居合い拳とは豪徳寺が言うように剣術の抜刀術の原理を利用したものだ。生まれつき呪文詠唱が出来ないタカミチ・T・高畑が死ぬ思いで習得した技であった。

 

「良く真似ている」

 

 アスカの天才性は熟知していて、居合い拳に興味を持っていたから何時かは習得するだろうと考えていた。この場で奇策として出すには十分な材料があったと言えよう。

 

「しかし、所詮は猿真似」

 

 高畑が言うように両者の居合い拳と比べると歴然たる差があった。一発の威力、連射力と全ての分野において天と地ほどの差がある。

 居合い拳は魔力によって、達人でも見切れぬ極限の速度まで拳速を加速している。恐ろしいのは撃ち出されるのが「気弾」ではなく、ただの「拳圧」であるという点。察知が非常に困難なのだ。

 恐らくこの麻帆良でも弾道を完全に見切れるのは魔眼を持つ龍宮真名のみ。

 真似て撃つだけでも賞賛の一言と言えよう。でも、熟練した高畑ならいざ知らず、慣れていないアスカが何発も打てるはずがない。こうやって直ぐにメッキが剥がれて無様を晒すことになる。

 

「くっ」

 

 筋肉疲労を覚え始めたアスカは、居合い拳の中に無詠唱の魔法の射手を混ぜることで落ちてきた回転数をカバーしようとした。

 しかし、結局は時間稼ぎにしかならず、慣れない動きを無理して行っていると腕の感覚がなくなりかけてきた。それでも居合い拳を放ち続けようと、腰を捻るなどの動作を入れてもやがて撃てなくなるのは目に見えており、苦しげな声を漏らしてアスカは高畑から距離を離した。

 その瞬間にこれこそが本物だと、居合い拳が雨霰と表現するしかないほどアスカに襲い掛かる。

 

「これは僕が今は亡き師匠に教わった技だ。そんな無様な技じゃあない」

 

 この試合中は常態になったかのように無表情だった高畑が初めて鬼気を覗かせた。居合い拳を真似られたことが、それもようやくというレベルで形にしかなっていないような技を見せられて癪に障ったようだ。

 

「がっ、はっ……づあっ」

 

 どれだけ回避動作をしても無様を晒して全身をこれでもかと殴打され、アスカが舞台に叩きつけられて滑る。それだけでは終わらない。舞台を滑るアスカに追いついた高畑が、これからサッカーボールを蹴るように足を上げて振り下ろされた。

 アスカの腰を掬い上げるように蹴られた体が、骨が歪むような鈍い音を立てて本当のサッカーボールのように吹っ飛ぶ。

 またアスカの体が舞台の上を転がって、勢いを留めることなく欄干に横向きに背中から激突する。ジン、と衝撃に舞台全体が揺れるのを反対方向にいた和美はマイクを持ちながら、ゴクリと飲み下した唾の音と共に感じ取った。

 欄干に背中をぶつけたアスカが苦しげに体を起こす。

 座り込んで欄干に背中を預ける。ようやくカウントを始めた和美の声を聞きながら呼吸を繰り返してダメージの回復に努める。

 

「降参してくれ。これ以上は傷つけたくない」

 

 高畑の降参宣告を耳に入れながら、まだ動けるほどダメージが回復していない体を奮い立たせる。

 

(猿真似にしては上手くいった方だと思ったんだけど)

 

 薄らと記憶に残っていた高畑の技のイメージや、情報から推測して真似をしたけど所詮は猿真似。本家に敵う道理はない。その事実にいまさら気づいたアスカは笑った。

 

「何を笑っているんだ!」

 

 アスカが師や技を哂っているように見えた高畑が激昂する。

 なにもアスカは高畑や技を笑ったわけじゃない。ただ、高畑は凄いなと改めて感じて嬉しくなっただけだ。師のことは高畑の逆鱗に触れることだと、気付くことも無く。

 刹那、アスカは殺気を感じた。相手の表情、雰囲気から解るなんて生易しいものではなく、場が凍り付いたような、肌を突き刺されるような、この場だけ猛烈な寒波が降り立ったと思わせるような冷たい殺気。

 高畑の体から殺気が放たれる。それは彼を中心に吹き上がり、圧力を伴って周囲に拡散していく。高畑の感情がパルスと化して解き放たれた抗しがたい激情がアスカの皮膚の表面を這う。

 死んだと思った。大袈裟な表現ではなく、殺されるでもなく、死んだ―――――そう覚悟した。それ程の殺気だった。今まで感じたことのあるものは所詮は標的から漏れたものでしかなく、自分だけに向けられた殺気は、それだけの硬質化した空気を放っていた。殆ど物理的なまでの、凶暴極まりない敵意。物理的にさえ効果を及ぼしそうなそれが、高畑が本気なのは考えるまでも無いことを悟らせる。

 本能的な恐怖心が働いたのだろう。気圧されるように首が後ろに傾き、後頭部が欄干の上部分にぶつかった。思わず言葉を失う。

 

「っか、は……」

 

 息が出来ない。胃の底が裏返ったみたいに体の芯から停止する。

 

「……は……っ」

 

 全ての力を使って辛うじて呼吸するのが精一杯で、押し潰されそうな意思の圧力の前に微塵も身動きできない。その原因は明らかだ。眼の前に立つ高畑。

 異様なほど鼓動は速まり、走ってもいないのに呼吸が荒くなる。それはもはや暴走に等しく、眩暈すら起こすほどだ。

 肉食獣に前に放り出された鼠の感覚。いっそ早く殺してくれと考えてしまうような、それはまるで死神の誘い。絶望ですらない。最早、そういうレベルの感覚ではない。どうしようもなく甘い誘惑に、身も心も曝される。

 

「ちっ、バカ共め。タカミチもタカミチだ。何を子供にムキになっている」

 

 何時アルビレオが現れてもいいように、選手控え席でも一人で離れた所で見ていたエヴァンジェリンは舌打ちをしながら、静まり返った会場を見渡す。多少離れた場所にいるにも関わらず、高畑から出される研ぎ澄まされた空気に当てられて楓や古菲、刹那ですら冷や汗を掻いていた。

 

「まったく、大人げない。貴様も大人なら子供のやることぐらい受け流せばいいものを」

 

 そう言いながらも、別荘で高畑が咸卦法を習得する為に数年を共に過ごしたからこそ、彼が師にどれだけの想いを抱いているかを知っている。

 素直になるということは、きっととても難しいのだろう。年を経れば経るほど、どんどん難しくなっていく。分厚い仮面の上に、更に仮面をつけるのが多分、大人になるということだ。堂々と素顔を晒すのは、とても怖くて恥ずかしいことなのだ。

 

「お前もただの子供であったなら、きっとこんな苦しみも味わなくても良かったのだろうな。なあ、アスカ」

 

 そしてエヴァンジェリンが見ている先でアスカは這うように体を起こす。服も、全身も、見る影もなく傷だらけだった。それでも戦うことを止めないことを示そうと舞台に上る。

 

「哀れだよ。お前達が戦う姿は哀れみしか浮かばん」

 

 見ていられなくて俯いて少し肺に溜まっていた息を吐き出した。

 

「――――」

 

 高畑の目が――――獲物を補足した狩人のような視線が、アスカの体を貫いていく。

 悠長に考えている時間はなかった。高畑に躊躇いはない。内に秘めた感情を爆発させ、それを拳に宿し、圧倒的なプレッシャーを引き連れて迫る。

 力を込めるでもない。トン、と軽く地面を踏んだだけだ。それだけで、次の瞬間には間合いが詰まっていた。アスカが接近に気付いた時には鞭のように撓った右脚が一直線に米神へと迫っていた。

 半身になって逸らそうとするも間に合わない。両腕を交差させて受けた。爆弾が弾けたような衝撃が腕に伝わった。威力を殺しきれず、横に数メートルも跳ぶが咄嗟に防御に魔力を集中させたからダメージは少ない。

 安堵したのも束の間。尚も痺れる腕から力を抜いて、反射的に閉じていた目を開いた目の前に高畑が立っていた。ぞん、と大砲のような拳が走った。 

 

「っ――!」

 

 吐息さえもが技法に組み込まれ、何万回と繰り返した動作をアスカの体が自然と動く。馴染んだ歩法が紙一重でその拳を回避させ、アスカを前へ進ませる。

 踏み出した足はそのまま攻撃の為のベクトルを形成し、大地からの反発で螺旋状に力が捻じれ上がる。地面からの反動を全身全霊で受け止め、増幅し、発勁の技法を以って足首から膝、膝から股関節、股関節から腰、腰から肩、肩から肘を衝き上がって、肘から拳へと流し込んで繰り出される必倒の拳。

 

(こ、こ――っ!)

 

 勝機はここしかないと、全身全霊を一打に込める。

 崩拳。基本であるからこそ、一撃必殺の念を込めて一切の手加減を込めずに放った。ロケットを思わせる、空を穿つ拳。まさしく大地を揺るがす一撃。防御も回避もならぬそれは、高畑を捉えた。

 ぱんっ、と乾いた音が響いた。

 

「え?」

 

 アスカが目を見開く。全体重を乗せて一般人に向かって撃てば殺すことも出来る一撃が――――最大威力を発揮する前に高畑の掌に受け止められたのだ。

 

「軽い」

 

 その唇が嘲るように冷笑に歪み、高畑が受け止めたままのアスカの拳を強く握る。万力の如き腕力がアスカのバランスを簡単に崩す。高畑の手は、ただ片手でもってアスカの全力を凌駕していた。体重を根こそぎ持っていかれて、アスカの体が綺麗に宙を泳いだ。

 いとも容易げに高畑は片手でアスカを釣り上げる。いかなアスカが軽いといっても、数十キロの肉体を片手で持ち上げるのに、高畑は力みさえしなかった。

 隙だらけになった腹へ、高畑の膝がぶち込まれる。

 

「がっ!」

 

 腹部には大型トラックが猛スピードで突っ込んできたような衝撃だった。成す術もなく体が折れ曲がる。

 高畑の攻撃はまだ終わっていない。アスカは持ち上げられていた手が離されたのを感じて霞む視界を、目の前にいるはずの高畑に向ける。

 

「!」

 

 腰を落としていた高畑は冷たい目でアスカを見た。動かない体の背筋に悪寒が走るのと、高畑が放った拳が防御をしていないアスカの腹に突き刺さったのは同時だった。

 腹部でダイナマイトが爆発したような衝撃に、肺が劈かれる。

 ドン、と大砲でも撃ったような音を轟かせて、血を撒き散らしながら投げた石のように軽々とアスカの身体が吹っ飛んだ。

 視界が空転し、三百六十度ぐるりと回る。嘘みたいな浮遊感の直後、舞台の欄干に激突。容易く木製の欄干を粉砕した。

 あまりにも勢いが強すぎて、二度、三度と水の上を水切りの如くバウンドし、背中から灯篭にぶち当たって、やっと勢いが止まった。灯篭は一瞬だけ持ちこたえ、直ぐに罅が入って折れた。アスカにとっては幸運にも後ろ向きに倒れ、盛大に水飛沫を上げる。

 炸裂した衝撃にアスカの意識は遠退きそうになるが、皮肉にも欄干や灯篭にぶち当たった痛みがそれを繋ぎ止めた。

 

「お、あ……っ、――っが、は!」

 

 破裂しかけた肺が勝手に空気を吐き出す。アスカの肺から空気が絞り出され、肺から空気と一緒に血の臭いが逆流して呼吸が停止した。必死の思いで遠のきかけた意識を繋ぎ止め、気管の動きを再開させるのに何時間もかかったように思えた。

 吐息に血の匂いが混じっていた。今の衝撃で、内臓が傷ついたのかもしれない。呼吸するだけで体の内側がギシギシと軋む。それでも顔を上げ、半身を水に沈めながら霞む視界で敵を見る。

 

「やっぱ強ぇな、タカミチは」

 

 落ち着けと頭の中で繰り返すことで恐怖を追い出そうとした。彼の意志に反して、冷たい脂汗が全身にビッシリと浮いていた。

 アスカはせめて心だけでも負けぬようにと歯を食い縛る。痛みが出るほど強く食い縛ることで自分の意識を保つ。誰に教えられるでもなく、そうすることが正しいのだと知っていた。

 強引に顔を上げて背筋を伸ばして、舞台の端に近寄って来て見下ろす高畑の姿を見上げる。それだけでかなりの意志力を必要としたが、やってやれないことはない。

 意志は重要なファクターだ。それがある限り、気持ちの面では対等か、それ以上になる。だが気持ちだけでは勝てない。そんなことは十分すぎるとアスカも承知している。

 

「本当ならナギさんの息子と、こうして手合わせできる事を光栄に思わないといけないのに、どうしてかそう思えない」

 

 高畑が自嘲するように、顔をくしゃくしゃと歪める。大きな拳が砕けそうに握り締められた。ギチギチと骨までも軋みを立てるのが聞こえそうなぐらいだった。

 己を真っ直ぐに見つめるアスカの眼差しに高畑はある人物を思い出していた。ナギ・スプリングフィールド。彼にとって憧れと呼ぶべき人であった。

 高畑は此処にはいない憧れの人に向けて、あなたの大切な子を傷つけてしまうと心の中で頭を下げる。届くことはないと分かっていても詫びずにはいられなかった。

 

「今の僕は、君を叩きのめしたくて堪らない」

 

 一瞬過った回顧は消え、そこに凄絶なまでの闘争本能が宿っていた。内に秘めた業火が猛り狂い、力の源へと変わっていく。

 どんな相手に対しても一切の過大評価も過小評価もなく、淡々と成すべきをなし、排除すべきを排除する。奇策でもなく、ただ強者として戦いを実行する戦士としての高畑の顔。

 高畑を突き動かしているのは刹那的な感情ではない。心の奥底にまで深々と根を張ったそれは、紅蓮の業火にも似た激情である。

 

「左腕に魔力……右腕に気……」

 

 高畑の両腕に可視化するほどに強力な魔力と気が出現する。あまりにも強大過ぎて、大気が嘶くように鳴いている。

 

「む……アレを出す気か。それだけ本気だということか」

 高畑がこれから何をするのかが解ったエヴァンジェリンが無表情に呟く。

 両腕に宿る二種の異なる力を高畑はゆっくりと近づけ、そして静かに合わせた。これは一回戦第二試合の神楽坂明日菜がやったことの再現。だが、その威力も何もかもがこちらが上回る。

 

「――――合成」

 

 ドン、と爆発にも似た衝撃波が高畑から発せられる。咸卦のオーラの奔流――――明日菜のオーラが暴風ならば、高畑のオーラは竜巻だった。文字通り、桁が違う。

 咸卦法を使う高畑は赤く煮え滾ったマグマを思わせた。数千度という熱を孕んだ溶岩がヒトの形を成したようであった。

 

『こ、この風圧はあっ!?』

 

 突如として高畑を中心して発生した竜巻に、舞台の端にいて十分に距離があったはずの和美すら思わず目を腕で覆い、身を低くして飛ばされないようにしなければならなかった。

 

「咸卦法……」

 

 半壊した灯篭に身を預けていたアスカは戦慄せずにはいられなかった。

 あのタカミチ・T・高畑が咸卦法を使い、全力で向かって来ようとしている。既にズタズタにされているアスカにとって、どれだけの絶望であったか。

 咸卦法は確かに発動しただけで身体強化のみならず、加速、物理防御、魔法防御、鼓舞(精神の高揚)、耐熱、耐冷、耐毒などといった様々な強化・防御効果を発揮する強力な効果の反面、その効果に反して使い手が少ない。究極技法と名がつくほどなのだから、習得難度がべらぼうに高いのだ。

 アスカと高畑の間には、冷たい拮抗線が引かれていた。一転がりで殺し、殺される生命線。

 これまでにないほどアスカのあらゆる感覚が極限まで研ぎ澄まされ、昇華されていく。五感が冴え渡り、世界が広がって一つになっていく感覚。今までよりも更に同調を深めていくと、細胞自体が加熱しているかのように体が熱を帯びる。呼吸が速まり、心臓は早鐘の如く打ち鳴らされていた――――――これだけの感覚があっても、現段階で高畑に勝てる気は分子一つ分にもあるとは思えなかった。

 

「サービスはしない。彼女を泣かせたことを悔やんで沈め」

 

 ポケットに手を突っ込んだまま軽く地を蹴る音がやけに大きく聞こえていた。軽い音とは裏腹に舞台の上からアスカの数メートル上空に一瞬で移動した高畑は、 嘗ての弱い自分を否定するように、師を守れなかった自分を否定するように、明日菜の涙を止めることが出来なかった自分を否定するように拳を振るう。

 

「豪殺・居合い拳」

 

 発射台に乗せられた大砲が撃ち出された。ダメージで灯篭の欠片に寄りかかるだけだったアスカに逃げ場はない。

 豪殺・居合い拳を前にして出来たのは、気休めのように顔の前に両腕を重ねて防御することだけだった。

 閃光に呑み込まれたと同時に、世界最速の新幹線に生身で轢かれたような衝撃が全身をぶっ叩いた。そしてアスカの意識は、たった一瞬で粉々に消し飛んだ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「初勝利!」」

 

 奥まった森の中に出来たポッカリと出来た荒れた土地に少年二人の快哉が響く。

 一戦が終わっても元気一杯な少年達が飛び跳ねるのを巨岩にめり込んだ状態で見ながら、高畑は時間の経過を感じていた。

 

「どうだ、タカミチ! 俺のアーティファクトは!」

 

 快哉を上げる少年達の片方であるアスカが少しの間とはいえ、気を失っていた高畑が目を覚ましていたことに気が付いて近くにやってきた。

 

「恐れ入ったよ。完敗だ」

 

 油断はしていたが、その隙をついて一気呵成に攻めて来て負けたことは事実。高畑は大人しく敗北を認めた。

 

「くぅ~! 98敗目にして遂にタカミチに勝ったぞ!」

「やったね!」

 

 初披露されたアーティファクト『絆の銀』をその耳に付けたアスカとネギは、喜びながらハイタッチを繰り返す。

 勝利に嬉しいとはいえ、ここまで喜ばれると高畑としても戦った甲斐があるというもの。当面の問題はダメージで動けない体にあった。

 

「喜んでいるところに水を差して悪いけど誰か呼んできてくれないか? 情けないことに動けそうにないんだ」

「僕が行って来るよ。ネカネお姉ちゃんでもいい?」

「彼女も治癒魔法を使えたね。頼むよ、ネギ君」

 

 任せてと、よほどアーティファクトの効果によるものとはいえ、高畑に勝てたことが嬉しかったのだろう。戦いの最中にどこかに吹っ飛んでいた杖を呼び寄せると、あっという間にメルディアナ魔法学校へと飛んで行った。

 ネギを見送ると、高畑は勝利の喜びが継続中のアスカを見る。

 

「勝利~、初勝利~」

 

 スキップまでして喜びを表現している姿は、まだまだ子供なところに苦笑が浮かぶ。

 

「本当に強くなったね」

 

 誰彼構わず喧嘩を吹っ掛けていた荒れていた頃と違って、子供の成長の早さに驚きと同時に時の流れを感じる。

 飢狼の如き飢えていた瞳は真っ直ぐ前を向き、やんちゃなところはあるものの魔法学校でも慕われているという話を聞いている。容姿は母親譲りなのに、人垂らしなところやその瞳の輝きはふとした時にナギを思い起こさせた。

 

「次は俺一人で勝ってみせるぜ」 

「まだまだ負けるつもりはないよ」

 

 言いつつも、数年でこれなのだから十年後にはきっと追い抜かれているだろうと、訪れる未来に心の中で嘆息する。

 才能が違うことは、かなり早い段階で分かりきっていたことだが、このような目に見える形で現れるのはもっと先のことだと思っていたので少し気落ちしていた。

 

「実はもう一つ見せたいものがあるんだ」

 

 下がりかけていた視線を上げさせたのは、この戦いが始まる前に言ったのと似たような言葉だった。

 戦いの準備を終えた直後に目の前でアスカとネギが合体し、驚いている間に勢いに押されて負けてしまった高畑は、まだあるのかと目を瞠った。

 

「まだあるのかい?」

「へへっ、きっと驚くぞ」

 

 楽しそうに言って移動したアスカは、高畑がめり込んでいる巨岩とは別の手頃な大きさの岩の前で止まると、軽く腰を落して精神を集中するように息を深く吸った。

 

「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル 魔法の射手! 雷の一矢!」

 

 アスカの構えた右拳に雷系魔法の射手が収束する。その収束の仕方は高畑にはとても覚えがあるものだった。

 

「雷華豪殺拳!!」

 

 紫電を纏わりつかせたまま放たれた拳は、アスカの身長より少し低いぐらいの岩を粉砕する。

 

「どうだ? 凄ぇだろ。まだネギにも見せてないんだからな」

 

 振り向いて自慢げに言うアスカに高畑は空いた口を閉じられなかった。

 

「その技はまさか僕の豪殺・居合い拳を……」

「真似なんかしてねぇからな。偶々似てるだけだ」

「光栄だと言っておいた方がいいのかな」

「だから違うって言ってるだろ」

 

 しらばっくれるアスカだが、技名といい、放つまでの力の収束の仕方といい、どう考えても高畑の豪殺・居合い拳を参考にしていることは明白だ。

 今までも賞賛されたことや喜ばれたことはあったが、ここまで直接的にリスペクトされると、こそばゆい思いが高畑を襲う。同時に無様な様は曝せない衝動が湧き上がって来る。

 

「負けていられないな、僕も」

 

 胸の裡からの衝動に駆られ、ダメージの大きい体を叱咤して立ち上がる。

 世代交代の波が何時かは来るとしても、まだ今ではない。それまでは少年達の壁として在ろうと己が役目を決める。

 

「さあ、もう一戦しようか」

「いいけど、やれるのか?」

「この程度、へっちゃらさ。さあ、一人で僕に勝って見せるんだろ」

「言ったな……!」

 

 やる気になったアスカに、力の入らない拳を握った高畑は楽しくて仕方なかった。

 弟子を持ったことはないが師匠の気持ちとはこのようなものかもしれないと考え、もしもアスカが麻帆良にいる明日菜と会って高畑の跡を継いで彼女を守ってくれるようになる想像は、自分がいなくなった後のことが不安で仕方なかった彼には心地良かった。

 

「行くぜ!」

「来い!」

 

 数分後、ネギに連れられてやってきたネカネが来た時には怪我人が増え、アスカの敗北が99敗を数えることになるのだが、笑顔で戦い始めた二人にはまだ関係のない話だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高畑が放った豪殺・居合い拳の閃光と轟音は、稲妻が落ちた瞬間に似ていた。鼓膜が破れそうな衝撃音と、衝撃によって噴出した水柱の水煙で視界が遮られる。

 高畑が空中で何かをしたと同時に、灯篭付近を圧殺した衝撃波が水柱を作り、高さは観客席の屋根を優に超えて三階建てビル相当まで上がった。空中高く巻き上がった水は衝撃となって観客席の屋根を突然の豪雨が降ってきたようにように強く叩く。

 屋根を揺らすドラムの音のような水の音を耳を圧されながら、灯篭近くに観客席にいた者達は水煙で閉ざされた視界の向こうを見ようと固唾を飲んでいた。

 やがて水煙が晴れるとその異様な痕跡に観客は唖然とする。

 

『灯篭が、ありません。欠片も浮かんできません』

 

 惨状を見つめた和美の震える声がマイクを通して会場中に響き渡った。

 二メートルほどの灯篭が和美の言う通り、水煙が晴れた後には存在していない。辺りの水辺にも欠片も浮かんでいない。先の高畑が放った豪殺・居合い拳が欠片も許さないほどに砕いたと考える方が自然か。

 咸卦法の莫大なる力で増加された居合い拳は、豪殺と付けられるだけあって比べ物にならない威力だった。単純な威力だけで言えば、軽く見積もって居合い拳の十倍以上の威力。アスカの身長を優に超える砲撃は、居合い拳というより居合い砲とでも言うべきだろう。

 圧倒的な破壊力を見せつけた豪殺・居合い拳を前に誰もがアスカは死んだと思った。今の無慈悲な一撃には一人の人間の命を奪うだけの破壊力があると直感したのだ。

 灯篭の破片すらも水面に浮かび上がって来ないのだ。直撃したアスカがどうなったか想像することも恐ろしい。もしかしたら湖面が血に染め上げられるかもしれないと、揺れて波が出来ている水面を見つめながら脳裏に思い描いた光景が現実になることを恐れて等しく口を噤んでしまう。

 

(アスカ……)

 

 観客席にいた長谷川千雨は舞台を挟んで向こう側に沈んだアスカを思って、危なげなく舞台に着地した元担任であるタカミチ・T・高畑の背中を無意識に睨み付けていた。

 アスカに殴り飛ばされて一度湖面に落ちて濡れたはずなのに、後ろから見る限りではもう渇いていてしまっているように見えた。いくら温かい季節だとしても濡れてから数分程度しか経っていないのにありえないことだった。

 その疑問を口から出すことはない。今の龍宮神社内は大勢の人がいるとは思えないほど静まり返っていた。

 終盤の高畑の攻撃は試合の域を超えて暴力に達していた。二メートル近い灯篭を粉々に砕いた現実は、生半可な出来事ならスパイスとして盛り上がる麻帆良住人達にとっても異常だった。

 受け止めるだの捌くだのという次元を超えている威力を目の当たりにして、千雨の背筋に冷たい汗が浮かぶ。

 

「ネギ先生!?」

 

 解説席とは反対側から聞こえてきたのどかの声に反応してそちらを向けば、隣にいたネギが顔を真っ青にして膝をついていた。片手にのどかの手を、もう片方の手で欄干を持ちながら両膝をついて血の気の引いた顔で、背中を向ける高畑を焦点の合っていない目で見ていた。

 

「おい、ネギ先生大丈夫……じゃなさそうだな。あんなん見たら無理もないか」

 

 のどかが必死にネギの肩を揺さぶったり声をかけているが届いている様子はない。千雨も肩に手を置いて聞いてみたが反応はない。完全に呆然自失していた。

 高畑と彼がお互いを名前で呼ぶ年の離れた友人関係で、仲の良さは誰もが知っていた。アスカやアーニャにカモや小太郎を別にして、誰に対しても敬語を使うネギが倍以上も年の離れた大人でありながら高畑を信用し信頼していたのは、付き合いのかなり薄い千雨からも簡単に見て取れた。

 ネギとアスカは同じ胎に入っていた文字通りの同胞。血を分けた半身に対する感情は他の誰とも比べようがない。

 そんなアスカが最も仲の良かった高畑に殺されたかもしれない。可能性だけでも呆然自失になっても仕方のないほどの打撃をネギに与えたとしても不思議ではない。

 

「確か救護室があったはずだ。そこに運ぼう」

 

 自分よりももっと動揺してくれる人が身近にいると人は案外冷静になるものである。ネギがこれほど分かりやすい動揺を表に出してくれたので、目の前の現実から逃げるように千雨の方は逆に冷静になっていた。

 

「私が連れて行きます」

「一人じゃ大変だろ。手伝うよ」

「いえ、千雨さんは試合の方を見ていて下さい」

 

 のどか一人では今のネギをこれだけ混雑している中で臨時救護室のある拝殿まで行くのは大変だと考え、手伝うと言った千雨だが断られて目を丸くした。

 別に好きな男を他の女が触れる触れないとかは気にしていないようだが、直ぐには拒否された理由が分からなかった。

 

「後でどうなったか教えてほしいですから」

 

 臨時救護室に入ったら外の状況は容易には分からない。他のクラスメイトの姿は出場者以外には見えないし、茶々丸に聞くという選択肢もあったが彼女は実況解説をしている身。後になって聞くのは少し躊躇われた。

 となれば、誰かが残って試合の経過を見届けるとするなら千雨が残る流れになるのが自然だった。

 

「ああ、分かった。気を付けてな」

 

 そう言われて千雨も察して納得した。道中にこけたりして怪我だけはしないように伝える。

 

「さ、行きましょうネギ先生」

 

 のどかが言ってネギの肩を下から持ち上げたその時だった。周囲どころか龍宮神社全体が揺れたように歓声が上がった。

 歓声に反応した千雨の視界に映ったのは、青い顔をして一身に前だけを見つめる明日菜の姿だった。

 

「あ……」

 

 観客席の欄干の隙間から舞台の方向を見ていたネギが声を上げた。

 

 

 

 

 

 もしかしたら死んだかと思われたアスカは生きていた。無事とは言えない状態だったとしてもだ。

 

「……あ、っはぁ……げ――っあ……」

 

 舞台へ繋ぐ通り道に手をかけて水面から顔を出したアスカは息を乱していた。

 なんとか上って地上に出たが、仰向けになった体を起こせないようだった。

 

『アスカ選手、うっ!?』

 

 司会兼実況で気楽に動けて偶々近くにいた和美が大慌てでアスカに駆け寄って息を呑んだ。

 湖面から現れたので当然の如く全身水浸し。だが、異様はそれ以外にあった。

 背中が接している通路に血が滲んでいる。前面にも切り裂かれたような跡と傷が無数にあることから、恐らくにも灯篭の破片によって出来たと思われる切り傷があるのだろう。出血自体は水で広がっているだけで傷はそこまで深くはないようだ。

 服と一緒に切り裂かれている様は爆発にあったかのよう。水で薄まっていても地上に打ち上げられた影響で染み入るように服を斑に染める。

 横を向いていた顔も選手控え席側にいた和美から良く見えた。

 顔自体の傷はそれほどないように思えたが、頭部を裂いた思われる裂傷が金髪を斑に染め上げていた。天頂部辺りから垂れた血が前頭部を通って、眉間を流れ落ちていく。

 

「づぁ――はあっ……くっ、あ……」

 

 なのに、これだけの傷なのにアスカは、苦しげに立ち上がろうとしている。和美はその姿を呆然と見ていることしか出来なかった。

 

「水がクッションになったことが命を救ったか」

 

 立ち上がって舞台に向かうアスカの後姿を見やったエヴァンジェリンは、あの瞬間から起こった出来事を予測する。

 正しく彼女の言う通りだった。

 豪殺・居合い拳が放たれた瞬間、凭れていた灯篭を離して両腕を前面に掲げて防御したことで、アスカは水中に落ちた。豪殺・居合い拳が着弾したのはその直後。

 灯篭の上部部分が一瞬で粉々に砕け散り、次に水面に着弾した。この時点で豪殺・居合い拳の威力は百分の一程度しか減衰していない。

 豪殺・居合い拳は灯篭を押し潰し、アスカをも巻き込んだ。

 底に叩きつけられ、着弾したことで荒れた水流に巻き込まれて、たった一撃で津波が来たような流れに巻き込まれてどうにも出来ないまま、偶々伸ばした手が通りに手が引っ掛かって今に至る。

 

「…………すまない」

 

 もう十分だろう、と高畑は背中に罪悪感という名の百キロの重石を乗せられたような気分のまま思った。偽善だと分かっていても言わずにはいられなかった。

 自分の醜さも、自分の八つ当たりも、十分に吐き出した。最悪の自己満足で、最悪の自己中心的行為。自分の中に溜まっていた汚泥をぶちまけたかっただけ――――ーなんて最悪で最低な、唾棄すべき行為。

 それでも一抹の解放感はあった。同時にこのまま消えてしまえれば、と強く願った。こんなことを願う自分なんて世界からいなくなってしまえばと、本当に強く願った。

 

「謝って許してもらえることじゃないって分かっている。それでもすまない」

 

 少しだけ寂しい風が胸に吹き抜けた。恨みも、何もかも、今は消えている。

 高畑は、こんな結果が欲しくて戦ってきたわけではなかった。嘗ての少年は二十年の時を経て、取り返しがつかないほど自分が子供を傷つけるどうしようもない大人になっていたことに改めて気づかされて絶望する。だから、泣き喚きたいほど腹の底が苦かった。

 でも、加害者が泣くことは許されなかった。涙を抑えるように右手で目元を押えた。右手に付いていたアスカの血が顔について、余計に泣きそうになった。

 自分に、どうしようもない吐き気がした。

 胸に過るのは、こんな時もアスカではなく明日菜だった。

 脳裏には今も彼女は輝くように笑っている。級友と友人と掛け替えのない親友と、幸せそうに笑っている。明日菜が笑っていられるなら、どんなに人として正しくない行為であろうとも躊躇しなかった。守れるなら他に何もいらなかった。

 なのに、選手控え席にいる明日菜の方を見れない

 

「すまない……」

 

 こうなる可能性はアスカと明日菜が出会った時から予感していた。分かっていたのに何もしなかった。アスカがナギの息子だからこそ、自分には出来ないことを出来るのではないかと思っていたことを認めざるをえない。

 咸卦法の習得のために何年も別荘を使った高畑はもう四十代を間近に控えている。戦士としての絶頂期を終え、後はどれだけ鍛錬しようとも時と共に実力が下がっていく。

 明日菜が背負う宿命は重い。このまま過ごして欲しいとは思っても、叶わないかもしれないから保険が欲しかったのかもしれない。自分の後に明日菜を守ってくれる者――――ナギの息子である二人のどちらかが適任だと身勝手に期待した。

 そんな身勝手な願いの果てがこの結果だとするならば、責を負うのはこの結果を予見していた大人である自分であるべきだった。決して八つ当たりを向けるべきではなかった。

 もう取り戻せない後悔だけが高畑の身を苦しめ続ける。

 

「…………謝る、必要なんて……ない……」

 

 小さな、今にも消えそうな声が聞こえた。聞こえるはずがなかった。信じたくなどなかった。 罪はタカミチ・T・高畑を絶対に許さない。まだまだ現実を見せられる。

 アスカが傷らだけになっている体で舞台に登ろうとしていた。

 

「……まだ、俺は……戦え……る」

 

 自らを取り巻く理不尽へと戦いを挑むように震える手足で舞台に上がって、この期に及んで尚も戦意を失わぬ相手を不思議そうに高畑は見つめた。

 

「なんで、どうしてたかが試合にそこまで必死になれる?」

 

 分からない。何年も関わって来たのに、今の高畑にとってアスカは謎の存在であった。

 高畑の言葉を受けて、アスカは苦笑するように口の端を歪ませた。

 

「…………100敗は、情けないからな」

 

 と、そんなことを口の中で呟いたのを高畑はしっかりと聞いていた。

 同時に思い出した。麻帆良に来てからは試合をすることはなかったが、アスカがウェールズにいた頃はよくしていた。そのアスカの戦績が100戦1勝99敗だった。

 熱した激情に支配された心が、予想もしていない返答によって氷水をぶっかけられたように急速に冷えていく。

 

「そんなことで、意地を貫き通すのか……」

「そんなことじゃない。俺にとっては大事なことだ」

 

 仏頂面のアスカを高畑は羨ましいとは思わないけれども、やはり眩しくは見えた。きっとそれは、自分がこの少年を特別だと思った理由。それは自分とこの少年が、良く似ていていも異なる最大の違いだったのだろうか。不屈であろうとする者と、不屈である者の本質的な違い。

 

「降参、してくれないか? これ以上、手心を加えられそうにない。次も無事でいられるとは保証できないよ」

 

 アスカの在り方は、どうしようもなく高畑の内側を刺し貫く。本人もよく分かっていなかった柔らかなどこかを容赦なく引っ掻いてくる。子猫の爪にやられたような、鈍い痛みがジンジンと離れなかった。

 

「馬鹿を言うなよ、タカミチ」

 

 魔法学校時代と変わらぬ笑みで見せるアスカ。あれだけ高畑に酷い目に遭わされたのに怒りや恨みを抱いているようには見えない。 

 

「俺はアンタを超える。どれだけ力の差があっても、今まで一度だって諦めたことはない」

「超える?」

 

 ふと、その言葉が異様に高畑の耳に響いた。

 高畑はナギを、ガトウを、紅き翼に追いつこうと今まで我武者羅に走り続けて来た。未だに追いつけたとは思えていないし、そんな日が来るのかも分からない。けど、一度でも超えようと思ったことがあったか。

 

「そうか。僕と君の差はそこだったのか……」

 

 憧れているだけでは、何時までも背中を見つめ続けるだけでは、その先へ行くことは出来やしない。

 胸を苛むのは痛みだ。勝利ではなく敗北と弱さ、そこから這い上がってきたはずなのに、引き攣れた傷痕がジクジクと疼く。どうにもならない敗北から自分を始めた男が抱いてしまった遅すぎる理解が傷を抉る。

 

「御託はいい。勝負はまだ終わっちゃあいない」

 

 激痛が腹の底で暴れて、アスカは衆人環視の中で胃の内容物を吐き捨てそうになる。それでも少年はよろめきながら膝を震わせ、足を踏みしめて前に進めれば、それで良いと思った。

 

「俺は強くなる」

 

 始めの一歩を踏み出す。続けて二歩目を、三歩目をと続けていく。歩み出したアスカの右手は、しっかりと拳を握っていた。

 歩くのを止めて横になりたいと、理屈ではない衝動が間断なく襲ってくる。

 

「タカミチよりも、親父よりも、誰よりも」

 

 天下無敵。およそ武術を志す者なら、男なら誰もが目指し、渇望する境地だろう。

 武術に関わらない者でも強い人間には憧れを抱く。いっそ人間なら誰もでも、と断言してもいい。何者にも屈することのない強さを求めるのは人の、特に男の本能のようなものだ。

 だが、ただ強いだけの純粋な力なんてものはない。

 何のために力を求めるのか―――――その目的、強くなる理由が問題だ。

 己の存在を世に知らしめるため。自分に誇りを持つため。自分の可能性を追求するため。不安を克服するため。何かを守るため。他の何のためでもなく、ただ生きる延びるため。

 

『強くなりたいか―――――?』

 

 手段など二の次。とにかく強くなりたい。強くなれさえすれば、なんでも良かった。その理由が何であるにせよ、アスカはそう問われれば頷かずにはいられなかった。

 

「強くなりたい。みんなを、明日菜を、守りたい全てを守れるように」

 

 今までナギを追うことだけを目的に強くなろうとしていたが明日菜が変えた。護られることを受け入れられなくても、明日菜と共にいたいのならばアスカはもっと強くなるしかない。それがアスカの妥協できる最低ラインだった。

 

「来いよ、タカミチ。俺が強くなる為の糧になれ」

 

 未だに頭が痛み、響き、視界は嵐で大荒れの海に出た小舟にでも乗っているみたいに揺れる。真っ直ぐ歩けない。頭がズキズキと痛む。目が霞んでいる。先にいるはずの高畑の姿もはっきりとしない。痛む頭を振って視界をハッキリとさせる。

 前へ、まだ前へ、進み続ける。アスカ・スプリングフィールドはそれしか知らない。誰に馬鹿にされようとも愚直に足を動かし続けることしか出来ない。

 

「君は、どうしてそこまで出来る?」

 

 無意識に足が後退していた高畑が抱える疑念だった。どうしようもない疑念だったからこそ、問いかけずにはいられなかった。

 ここまで痛めつけられて力の差を理解できているはずなのに、それでもなお立ち上がって向かって来ようとするアスカが理解できない。人間はこうなる前に必ず諦めると、アスカよりも多くの闘争を超えてきた高畑だからこそ分かる。

 

「馬鹿な男の話を聞いたからだ」

 

 アスカは喉の奥から湧き上がってきた血の混じった唾を飲み込んだ。膝が震えそうになるのを必死に堪え、奥歯が鳴るのを噛み殺す。一度でも心が屈してしまえば。自分はもう立ち直れないと良く分かっていた。

 

「自分には才能がないなんて言いながら、愚直に諦めることを知らずに遥か先を行く男がいる。その背中が先にあるから、俺は諦めないでいられる」

 

 それが誰のことを指しているかなんて、アスカの目を見れば鈍い高畑にだって分かった。

 

(ああ……)

 

 自分の姿を客観的に見たかのように、高畑の体が震えていた。寒さが原因ではない高畑の胸の隙間に滑り込んだのは、奇妙な喜びだった。

 夏に近いこの季節の太陽は厚い雲の向こうからでも、明るく地上を照らす。

 まだ昼前の太陽が天頂に近い時間だから、アスカと高畑は互いの姿を光の下で直視しなければならない。アスカが満身創痍であっても、闘いを挑む強い眼差しを高畑へと向ける。どこもかしこも傷つけられているからこそ、決して変わらない金剛石のような硬さと輝きが際立つ。たとえ幾度追い込まれても、ついに屈伏せざる者の光。

 強い目の光にナギのそれが重なり、どうしようもなく胸の奥が熱くなった。

 

「一つだけ聞く。君は明日菜君を背負えるか?」

 

 気が付けば、高畑の口からそんな言葉が漏れていた。

 言ってからその意味に気づき、衝撃を受けながらも空いていた穴にピタリと嵌ったような不思議な気持ちだった。

 

「明日菜君の気持ちは試合で聞いた。だが、君の口からは何も聞いていない。どうなんだ? 彼女が背負っているものは重い。君に世界の重みを引き受ける覚悟があるか?」

 

 言葉が次から次へと湧いて出て、強い視線をアスカへと向けた。

 アスカは一瞬怯んだように肩を震わせたが、直ぐに慄然と顔を上げた。

 

「世界なんて分かんねぇ……だけど、明日菜の気持ちに報いたい。俺は、明日菜と一緒にいたい」

「そうか……」

 

 随分と遠回りしたが、その言葉を聞けただけでもこの試合に価値はあったと高畑は閉じた瞼の下で想いを隠し、開かれていた手の平を強く強く握った。

 

「一撃だ」

 

 ここにいるのは魔法世界で憧れられる戦士でも、麻帆良学園都市で慕われる先生でもない。どこにでもいる人間であるタカミチ・T・高畑として告げる。

 

「次の一撃で決着を決める。僕を超えて、その言葉を証明してみせろ」

「ああ!」

「良い返事だ……」

 

 高畑は持つ全てを集める様に、体内に残っていた咸卦のオーラを右拳に集めて圧縮するように高める。答えるようにアスカもまた全精力を振り絞るように魔力を高める。

 噴き出た両者の力は、外界の一切の影響を与えずに収束する。

 見る者が見れば分かるほどに強大な力は、選手控え席にいる一部の選手の危機感を煽った。

 両者の力を比較すれば、勝るのは高畑の咸卦の力だ。その事実に思い至った長瀬楓と古菲が動く。

 

「お前達、手は出すなよ。手を出せば殺されかねんぞ」

 

 もう審判の和美にも止められない。いや、下手に誰かが力尽くで止めようとすれば実力行使も辞さないだろう。向き合う二人はそれだけの気迫を見せていた。だからこそ、エヴァンジェリンは選手控え席から舞台への一本道に向かって走ってきた楓と古菲を引き止めた。

 

「あの力は危険すぎるでござる」

「そうアル。このままじゃアスカが殺されるネ」

 

 その程度の静止で止まれないほど、今の高畑が放つ力は危険すぎた。審判である和美が止められないなら自分達がと、二人は続けて言った。

 

「このままでは危ないのは事実だ。だが、部外者でしかない私達に止める資格もない」

 

 あまりにも戦っている二人の因果が混じり過ぎている。そこに部外者が混じれば事態は余計にややこしくなってしまう。この戦いを止められる当事者はただ一人。

 だが、明日菜は止めるべきではないと態度で示す様に一心に舞台を見つめている。

 

「どのような結果になろうとも見ていろ。それが戦っている二人への礼儀だ」

 

 アスカを試したがっているアルビレオ・イマが易々と殺させるはずがない。エヴァンジェリンは彼がどう動くのかを知りたかった。その為にはアスカも利用しようと考えていた。

 組んだ腕の中で拳を強く握り過ぎて血が流れていることに本人だけが気づいていなかった。

 

 

 

 

 

 立ち入れない。立ち入ってはいけない空気に圧倒された会場中が静まり返っていた。高畑を止めなくてはいけないと分かっている。でも、誰も足が動かなかった。声が出なかった。

 関係者以外には入り込めない結界でも張られているかのように、舞台の上で絶対なる死の化身となった高畑が動く。

 

「――っ!」

 

 高畑はトン、と床を軽く蹴るような動作で踏み込むと、線を引くように空間に残影を残してアスカへと迫る。

 目の前に死の具現が迫ろうとも不思議とアスカに焦りはなく、終わりに対する恐怖だけが体を震わせる。

 

(届かない)

 

 高畑と比べ、101矢の魔法の射手を収束させた拳に込められた力のなんとか弱いことか。どう足掻いてもアスカに勝機は欠片もなく、この勝負の軍配は放つ前から分かりきっている。

 脳裏を過るのは走馬灯。村で過ごした幸せな幼少期、魔法学校でのやんちゃをした生活、麻帆良に来て波乱万丈な日々。それらが脳裏を一瞬で過っていく。

 幸福な願いを想って死ねるなら本望だった。瞼を閉じた向こうにこそ光が、短くも濃密だった思い出が蘇ってくるようだった。誰もが浸る日常の中こそ、彼が夢見るお伽噺の如く遠い話だ。

 アスカは迫る死の具現を前にして活路を見いだせなかった。

 

「アスカ!」

 

 死に引き込まれるアスカを引き止めたのは、神楽坂明日菜の叫びだった。それだけで十分だった。

 

(明日菜君――)

 

 高畑にも明日菜の声は聞こえていた。

 彼女に視界に入っていたのは二人ではなく、たった一人であることも分かっている。それでも、手心は加えない。愚直に前へと進み続ける。今までそうしていたように、これからもそうするように。

 

「――――ぉぉ」

 

 名を呼ばれたことで引き止められたアスカの全身が躍動する。その脳裏には天恵の如く、一回戦の情景が浮かび上がっていた。

 魔力では届かない。気では届かない。しかし、同時に使うと両者の力は反発する。ならば、明日菜が使ったように、目の前の高畑が使っているように、一つの力に束ねたのならば。二人がやったように魔力と気は体外で合わせる時間も余裕もない。となれば、残るは体内で練り合わせるのみ――――その危険性すら考えずに。

 

「――――ぉぉぉっ」

 

 踏み出しかけていた足で強く床を踏み抜く。

 震脚によってベクトルが足の親指から踵を経由して足首を通り、膝を伝って太腿に流れる。太腿から腰へと螺旋を描き、肩甲骨から肩へと捻じれていく。肩から一気に肘へと雪崩れ込んで、手首へとベクトルが伝わっていく。

 

「豪殺――」

「雷華――」

 

 似通った構え、似通ったエネルギーの収束、左右非対称に己が最強の技を放つ。

 

「――――居合い拳っ!!」

「――――豪殺拳っ!!」

 

 直後、地面に落としたパイナップルが砕けるような嫌な音が響いた。

 

 

 

 

 

 音は無かった。声も無かった。時が止まったように静止し、一つになった影は動かない。

 

「――――」

 

 ゆっくりと影が分離して、二つに分離した内の一つの影が倒れていく。アスカ・スプリングフィールドという名の影が。

 完全に意識を失って倒れたアスカを見下ろす高畑の顔に表情は無い。その唇から一筋の血が流れ落ちた。

 

「血、か」

 

 鉛のように重い手で血を拭って始めて気がついたようだった。

 高畑の声を切っ掛けとして和美が舞台へと上がって来る。

 

『アスカ選手! ここでダウン――っ!! ここで十五分経過によって試合は時間切れです! 勝敗は明らかですね。勝者は――』

「…………朝倉君」

 

 この試合だけで何十年も経ってしまったような嗄れた声で審判の和美に声をかけた。誰よりも最も身近で事態を見ていた和美は、声をかけられて体をビクリと震わせた。

 

「僕の、負けだ」

『高畑選……え?』

「今の一撃、僕は当てていない。負けたのは、僕だ」

 

 超えたのだ。あの一瞬、アスカは言葉通りに高畑を超えてきた。

 高畑の一撃よりも早くアスカの一撃は撃ち込まれ、勝敗は決したのだ。

 

『し、しかしアスカ選手が起き上がれない状況で勝者とみなすのは……』

 

 言われた和美は困惑した。現実として立っているのは高畑であり、伏しているのはアスカだ。誰の目にもどちらが勝者かなんて分かりきっているのに、当の勝者が敗北宣言しては如何に和美といえども裁定を下せない。

 

「なら、僕は棄権する」

 

 試合に負けて、勝負に勝ったことになるのかと思いながら和美にそれだけを告げると、高畑は歩き出した。

 

『た、高畑選手、棄権によりアスカ選手の勝利です!……担架担架! まずは意識不明者の救護を最優先に!!』

 

 高畑の危険宣言を受けて、和美が些か遅い試合終了宣言を行う。

 その宣言を切っ掛けにして、ざわめき始める観客達。試合を終えた二人に浴びせられる喝采はなかった。仕方のないことだった。勝者が棄権するなど前代未聞だ。

 

「………………」

 

 高畑は、担架よりも早くアスカの下へ行こうとして舞台へ繋がる道を走る明日菜と一瞬だけすれ違う。最後まで明日菜は高畑を見ようとしなかった。もしかしたら本当に視界にすら入っていなかったのかもしれない。

 ただ、燃やし尽くした真っ白な気怠さを引き摺って、高畑は荒廃した荒野を進むように孤独に歩く。

 選手控え席の脇を通っても誰も声をかけず、観客席を横切る時には誰もが進んで道を開けた。

 怖がられているな、と唇を歪めながら自嘲する。それだけのことを自分はアスカにしたのだから仕方ないのだと割り切ろうと、歩みを止めなかった。その歩みの先にローブを纏った人物が現れる。

 

「荒れていますね」

 

 アルビレオは戦争の途中の兵士のように荒みきっている高畑を前にしても気にしない茶化した口調を変えなかった。

 

「何の用ですか?」

 

 言葉通りに機嫌が悪いのを滲ませて言葉少なに問う。今は旧友であろうとも何でも許容できる精神状況ではなかった。

 

「彼女は貴方の物ではないのですよ」

 

 グサリ、と高畑にとってどれだけ切れ味を誇る名刀よりも心を抉る一言だけを、何時も通りの胡散臭い笑みと共に呟く。

 分かっていてこの男は人の傷を容赦なく暴く。このような時にこんなことをするのは必要だからと、紅き翼として長い時を過ごした高畑は知っていた。

 

「分かっています。お役御免されたわけですから、騎士の役目は相応しい者に譲りますよ」

「おや、もっと愚図るかと思ったのですが」

「超えられてしまったら、文句なんて言えません」

 

 打たれたダメージが大きく、大きく息を吐きながら言うとアルビレオは彼にしては珍しく重く口を開いた。

 

「では、やはりあれは咸卦法だと?」

「明日菜君にも及びませんが、間違いなく」

「ありえないことです。彼は寸前まで咸卦法を発動させる仕草を見せなかった」

「間違いありませんよ。あの一撃を受けた僕がそう言ってるんです」

 

 咸卦法を発動させるには、両手に魔力と気をそれぞれ発動させてから合成する手順を経なければならない。アスカはその手順を省略して咸卦法を発動させたのだ。

 

「となれば、体内で合成したことになりますが、一歩間違えれば魔力と気が反発して体の内側から破裂してもおかしくないのですよ」

「制御が甘くて半分自爆してましたけど、それでも効きましたよ。体の奥まで、ずっしりと」

 

 撃たれた腹部を擦り、重く沈殿しているダメージに時折意識を飛ばされそうになりながらも高畑は立ち続ける。

 常人では考えられない所業をアスカは成し遂げ、あの一瞬だけだとしても本気の高畑を超えて来たのだ。制御が甘くて自爆して気を失っているアスカに意識はないが、無様な姿を曝すわけにはいかない。

 

「大人になりましたね、タカミチ君も。ガトウも今の君を見たら、きっと喜んでくれますよ」

「そうでしょうか?」

「ええ」

 

 アルビレオは昔と同じ不器用さを発揮する弟分に苦笑を浮かべて、この十年の高畑の成長を噛み締めていた。

 その後、アルビレオは高畑と別れ、担架で運ばれていくアスカを見送ると楽しげに口の端を上げた。

 

「アスカ君は可能性を見せてくれました。高畑君も一皮剥けたようです。此処にあなた達がいたらどうしたでしょうね、ガトウ、ナギ」

 

 二人の姿が見えなくなったアルビレオはそう呟き、考えても栓なき事だと晴れ渡った空を見上げた。

 

「さあ、ナギ。あなたとの約束を果たす時が来ましたよ」

 

 変革の時を前に、ただ空は高く、人間味など拒絶して青く広がっていた。

 




高畑ブチ切れの理由としては


1.明日菜が苦しんでいる時に何も出来ず

2.しずなに迫られる

3.当の明日菜はアスカと試合をしてよりを戻して無力感を味わう

4.騎士の座を取られるかもしれない知れないという恐怖

5.アルビレオからこの十年は無駄だったと言われる

6.超の目的に揺らぐ

7.師の技を真似られる

総評:タイミングが悪かった。


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第47話 誇り高き狼

 

 龍宮神社の拝殿内にある選手控え室も兼ねている臨時救護室には、ベッドに寝かされている傷だらけのアスカ・スプリングフィールドを囲むように多くの人が集まっていた。

 麻帆良女子中等部の女保険医が白衣を緩やかにはためかせながら、最後に最も傷が酷かった頭に包帯を巻いていた。

 

「これで良し、と。思ったよりも酷くなくて良かったわ」

 

 綺麗に包帯を巻き終えた眼鏡をかけた女保険医は、重労働を終えた労働者のように白衣の袖で額に浮いた汗を拭った。

 治療道具を傍らの机に置く為に開いたベッドの横に明日菜が近づく。

 アスカの状態を良く見ようと床に膝を付いて顔を寄せると、明日菜の普通の人よりも優れた嗅覚が使われた薬品の臭いが鼻についた。

 

「本当に大丈夫なんですか?」

 

 これほどの怪我を負っていて酷くないと言った保険医の診察を疑った明日菜が問いかけた。

 今のアスカは全身に包帯を巻かれ、顔中にガーゼを張った姿は何回も車に轢かれたようにも見えた。血が出ていた頭部や腫れ上がっていた顔にも治療が為されていて、見た目には見事な重病人の様相を呈していた。

 これで酷くないというのだから診察を疑いたくもなる。それほどにアスカの状態は深刻に見えた。

 

「不思議なことに腫れ上がってたり傷は多いけど、どれも見た目だけで内臓や骨にはそこまでの損傷はないのよ」

 

 机に置いていた治療道具を引き出しの中に直していた女保険医も、自分の診察とアスカの状態を比べて誤診を疑われても仕方ないと思っているのか苦笑を浮かべながら説明した。

 

「タカミチもそこまでは非情にはなれんかったということか」

 

 近くにいた者にしか聞こえないほどの小さな声で診察結果を不思議がるエヴァンジェリンが呟くのを、刹那だけの耳に入った。

 刹那は明日菜にもこのことを伝えるべきかと思ったが、アスカだけにしか目を向けていない今は時期が不味いと後回しにすることにした。すれ違う時に見た高畑の顔を思い出して追い打ちをかけられるほど刹那は非情にはなれない。

 

「傷自体は一週間も安静にしていれば治るでしょう。でも、頭も大分打ってるし、目が覚めたら念の為に病院に行っておいた方がいいと思うわ」

 

 言って手元に視線を戻した女保険医は眉を顰めた。

 

「この調子だと包帯が足りなくなりそうね」

 

 開けた引き出しを見下ろしながら頬に手を当てて悩ましそうに言った。

 古菲の折れた手を固定するためにも使ったとはいえ、アスカに使った分も合わせると常備していた包帯の半分を使っていた。これほどの重傷者がまだ出て来るとは思えないが、残り二試合あると考えると常備分だけで足りるか心配になってくる。

 頬に手を当てたまま思案気に考えていた女保険医は徐に白衣のポケットから携帯を取り出した。

 

「包帯を持って来て貰えるように頼むから、ちょっと離れるわね」

 

 周りの存在すらも忘れたようにアスカを見つめている明日菜は意地でも傍から離れないだろう。他の面々も程度の差こそはあっても同じ。臨時救護室がアスカ一人になる可能性はかなり低い。

 木乃香らの頷きを見て、補充の依頼をするため携帯を片手に持ったまま襖を開けて外に出て行った。

 

「木乃香、アスカを治せる?」

「やるだけやってみる」

 

 保険医の退出のあまりのタイミングの良さにエヴァンジェリンだけは物知り顔だったが、木乃香に話しかけながらも目の前のアスカにだけ気を向けている明日菜は気付いていない。

 

「ウチの魔法の腕やと完治は難しいけど、今よりは良くなると思う」

 

 頷いた木乃香の恰好は明日菜達と違ってとんがり帽子を被った魔女ッ娘ルックである。部長を務めている占い研究部で使う衣装で、ミニスカートになっていたりと現代風にアレンジされまくっているのでモデルとなった魔女の原型を留めていない。午後からこの衣装で部活の出し物で占いをすることになっているので、同じように午後からクラスの方に参加する予定になっている明日菜達とは服装が違うのだ。

 イメージしか伝わってこない魔女っ娘ルックのズボンのポケットから、二ヶ月前にネギから貰った三十センチほどの初心者用の杖を取り出した。

 場所を明け渡した明日菜と入れ違いでベッドに横になっているアスカの傍に立ち、集中を高めるように大きな深呼吸を行う。

 

「プラクテ・ビギ・ナル 汝が為にユピテル王の力をここに 大治癒」

 

 呪文を唱えた直後、初心者用の杖を持った木乃香の手が白く発光する。見るだけで温かいと解る、目に焼き付くでもない優しい光。光はアスカを包み、やがて消えた。

 光が消えた後には、包帯やガーゼに包まれているものの、先程までの傷だらけの腫れ上がった姿とは別人と思えるほどに癒えているアスカの姿があった。完治まではしていないが腫れは随分と引いているように思えた。

 

「ほぅ、中級治癒魔法を習得していたか」

「お嬢様は勤勉ですから…………成功したのは初めてですが」

「二ヶ月程度でこれだけ出来ていれば十分だ」

 

 魔法を覚えて二ヶ月の木乃香が中級治癒魔法を行使したことに、彼女に多少なりとも教えていたエヴァンジェリンでも驚いた。

 適性があるといっても独学で習得できるほど魔法は簡単ではない。人体に関わる治癒魔法の難易度は他の属性と比べても特に高く、魔法学校で教えられる初級と中級の間には天と地よりも高い差がある。初級はともかくとして中級ともなれば段違いに習得が難しく、高位治癒魔法を覚えれば治癒術士と名乗って仕事に出来るほど高難易度である。

 木乃香は無意識下での魔力開放で周囲の怪我人を癒すほどに治癒系統への適性を見せていたが、ヘルマン襲来前は小さな火を灯すことができる初心者用の魔法すらも使えていなかった。

 一ヶ月前辺りから初心者用の魔法も使えるようになってからは魔力制御などを指導だけしてきた。これは木乃香自身が治癒魔法以外の習得を拒否したからだ。その原因は考えるまでも無い。魔法の恐ろしさを知った見習いが関わりを持とうとするだけで驚嘆に値することをエヴァンジェリンは良く知っていた。

 

「誰に習った?」

 

 魔法が成功して安心したように息をついた木乃香に、疑念と共にエヴァンジェリンが問いかけた。

 どれだけの才能を持っていたとしても一ヶ月程度の短時間で独学で覚えられるはずがない。師事した魔法使いがいるはずだった。

 別に自分に師事しておきながら別の者にも師事していたことを怒っているわけではない。吸血鬼であるエヴァンジェリンには自前の回復力があるので治癒系の魔法を不得手にしている。精々が魔法学校を卒業したネギよりも少しマシ程度しかない。

 不得手にしている自分よりは得意にしている者に学んだ方が良いことは百も承知していた。

 

「ネカネさんにお願いしてん。治癒魔法使えるいうから教えてもらったんや」

 

 何時もの緩んだような感じで笑う木乃香が軽い口調で話すことで、臨時救護室内の重い空気を払いのけられた。100%成功したとはいい難いが、幾分かは暗い空気が晴れたのは事実。明日菜から発せられる陰鬱とした空気が薄まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 麻帆良武道会も準決勝の一試合目が終わり、もう一試合が始まる直前の現状は終盤に差し掛かっていると言ってもいい。

 そんな会場は異様な雰囲気に包まれていた。盛り上がっていると言えば盛り上がっているが、どちらかといえば困惑の色が多いと、観客席にいた長谷川千雨は冷静に分析していた。

 二回戦終了後のインターバルでは、多くの観客達が高度な戦闘に期待していた。しかし、準決勝での影響が大きいのだ。

 

「頑張れ、小太郎君!!」

 

 考え事をしていた隣から急に大きな声が上がって、驚きに心臓が多く跳ねた。

 

「あれ、ネギ先生。アスカの所に行ってたんじゃないですか?」

「今、戻って来たところですよ」

 

 千雨が横を見るのと、ネギが直ぐ傍に立っていた。

 千雨は自分も見舞いに行くべきかという考えが一瞬だけ脳裏を過ぎっても、人間不信の気がある彼女では周りの目を気にせずに会いに行けるほどの度胸はなかった。

 

「それでアスカの容態は?」

「軽症、だそうです。今は眠っています。明日菜さん達が見てくれているので、僕は小太郎君の応援に」

「そうですか……」

「千雨さんは行かないんですか?」

 

 なら安心と言いかけた千雨の機先を制するように、ネギの隣にいたのどかが意地悪い質問をした。

 

「お前、そんなに性格悪かったのか」

 

 少なくとも命に別状はなく、後遺症もなければ後で誰もいなくなってから顔を見に行こうと考えるのが精一杯。苦渋の判断を下したところで巻き返されると、のどかに一言ぐらい言いたくもなる。

 

「酷いです。単なる疑問だったのに」

『準決勝第二試合、犬上小太郎選手とクウネル・サンダース選手の試合を行わせて頂きます!!』

 

 のどかの言葉が発せられたのは、舞台上の和美から発せられたアナウンスが広がるのは同時だった。

 

「―――っし、行ったるか!」

 

 男にしては長い後ろ髪を首の後ろ辺りで括った、同じ年らしいが人種の違いでアスカより少しと背が低い学生服を着た少年の気合の籠った声が観客席の千雨の所にまで届いた。

 犬耳のようなアクセサリーを頭の上に付けているので、見た目の小生意気そうな一匹狼的な気性とは違うのかと思えば差に非ず。アスカに付き合って二年も別荘で過ごすほど友情の熱い男なのだ。

 そんな思考をしていると、舞台の上から近くで太鼓を叩いたような大きな音が聞こえた。全員の視線が揃って舞台の上に向く。

 何時の間にか試合が始まっていて、開始位置から一歩も動いていないクウネル・サンダースが左腕を振るい、背中を殴られたように吹き飛ぶ小太郎の姿だった。

 

 

 

 

 

 試合開始前、舞台へ向かおうとした小太郎に楓が近づいてきた。

 

『小太郎、油断は禁物でござるよ』

『心配してくれんでも大丈夫やって楓姉ちゃん。そんなつもりはない』

 

 小太郎にだってクウネル・サンダースと名乗る男が隔絶した力量の持ち主であることを見抜いていた。

 試合が始まる前から小太郎の油断はなかった。己の最大の障害にして弱点である戦う相手に対する油断は微塵も持っていなかった。試合前の楓の忠告も受け入れ、どんな相手であろうが油断はしていなかったと断言できる。

 初撃必殺。どれだけ実力差があろうとも初撃で倒せれば問題はない。一回戦で対戦した佐倉愛衣を倒したのと同様に、開始直後の瞬動で近づいて一撃で倒すプランに変更はなかった。

 

「くっ」

 

 戦闘プランに従って開始直後に瞬動をした小太郎は、舞台に体をぶつけた痛みで一時的に失った意識を取り戻した。

 意識を取り戻した視界の先には、再び舞台の床が迫っていた。身の軽さで狭い範囲でありながら舞台の床に手をついて、それでも殺しきれなかった慣性をも利用して回転する。

 鍛え上げられた柔軟な筋力を存分に駆使して強引に身を捻り、変形型の側転して膝も付かずに両足で舞台に着地した。木目が鮮やかな木板を両靴の底で削りながら体勢を整える。しかし、勢いを殺し終えるのと同時に小太郎の意思に反して右足が踏ん張れずに膝をついてしまう。

 

(ぐっ……な、何!? 足が……!?)

 

 背中と顎に走る鈍い屯痛を感じながらも表情には戦慄を隠せなかった。事前プラン通りに行動した小太郎の動きの全てがクウネル・サンダースに見切られていた。

 開始直後の瞬動を完全に見切られ、顎と背中に一発ずつ叩き込まれた。たったそれだけで狗族とのハーフで人間離れした耐久力を誇る小太郎が動けなくなっていた。たった二撃で戦闘不能に近い状態に陥った己の状態に、立ち上がろう思っても震えてばかりで一向に回復しない足に歯噛みする。

 

「二撃でこれかいな。今まで戦ってきた奴らと桁が違う」

 

 短いながらも濃密な戦いの中で、ここまで初手で相手との実力差が分かり、愕然とするほどの桁が違い過ぎる相手に会うのは初めてだった。別荘での本気のエヴァンジェリンの戦いの時の戦慄に似た震撼が小太郎の背筋を逆立たせる。

 目の前で開始位置から一歩も動かず泰然自若と見下ろす相手が上位にいることを自然と認めていた。

 特別速いわけでもなかったのに反応できなかった。気がついた時には意識を刈り取られていた攻撃を前に、獣のような本能が強者に対して本格的に戦う前から敗北を悟らせていたのだ。

 

「本能ですか、あなたには直感的に私との力の差が分かるようですね。どうです? 私の足下に及ばない気分は」

 

 クウネル・サンダースが開始位置から始めて動く。右足を開いて小太郎の方を向き、足と同じように芝居がかった動作で手を広げる。

 小太郎を人間と認識しても蟻を見ているような矛盾した視線。どうしようもなく背筋が粟立つのを止められなかった。

 僅かに吹く風に揺らされてローブに隠れ続けた顔が、片膝をついて下から見上げる小太郎から見えた。優しげな顔で性別がハッキリとしないが、その眼だけはどこまでも冷徹に小太郎を見ている。

 

「ハッキリ言うな。兄さん、アンタ友達少ないやろ」

「紅き翼の面々がいれば必要などありません。私の心は離れても未だ彼らと共にある」

 

 心身を苛み始めた怯えを振り払おうと、小太郎は勘でクウネル・サンダースを男と決めつけた。

 どうせ自分よりも強いなら男の方が良い。なんといっても殴っても後味の悪い思いをしなくても済むし、どれだけ殴っても遠慮も呵責も覚えなくても良い。

 

「アーティファクトを使っても構いませんよ。その方が歯応えがあっていい」

 

 膝をついたまま、小太郎は言われたようにズボンのポケットに入れている仮契約カードを取り出すかを逡巡し、その選択肢を瞬時に捨てた。

 

「必要ない」

「ほぅ、実力差が分からぬとは思えませんが」

「分からんのか?」

 

 実力の差は歴然。勝ち目は天地がひっくり返ろうともありえないことは一合を交わしたる小太郎自身が誰よりも分かっている。そんな状況にいながら小太郎は皮肉を忘れず笑う。

 右脚が震えて立てない程度がなんだというのだ。そんなものは敗北の理由にはならないことを犬上小太郎は誰よりも知っている。己の全てを出し切り、動けなくなって倒れてから敗北を認めればいい。体が動く内は決して負けを認めない。

 犬上小太郎には高尚な理念も理由がない。どちらかと言えば古菲のように戦いに喜びを見出す男が、たかがダメージが深すぎる程度でギプアップなどしない。

 どこまでも犬上小太郎らしく尖った犬歯を剥き出しにしながら、獰猛な戦意を宿した瞳をクウネル・サンダースに向けて左足の裏に気を溜める。

 

「分かりませんね。負けると分かっているのに使える手を使わない理由など…………ああ、誇りとかいうものですか。アーティファクトによる戦闘力の上昇は自分の実力ではないから使わないと、そう言いたいわけですか」

 

 下らない、と見ただけで分かる感情を宿したアルビレオは、皮肉気とも自嘲とも取れる曖昧に唇を歪ませる。

 

「戦いとは、勝利を得なければ何の意味もない。己が持つ全てを賭けずに敗れるような誇りなら――――犬にでも食わせてしまいなさい」

「お前――ッ!!」

 

 小太郎の怒りが爆発する。

 左足で瞬動を行うと同時に、九つの分身を作って上下左右から分身達がクウネル・サンダースに様々な体勢からの攻撃を仕掛けた。

 

『出た――っ! 各所で話題の分身の術!!』

 

 小太郎の分身達が次々とクウネル・サンダースに攻撃を仕掛けるのを、観客達は盛り上がって観戦し和美が乗っかる。

 

「分身!?」

「小太郎君!」

「いや分身て!?」

 

 常識人でありたい長谷川千雨は周りにも己が常識を当てはめようとする。だからこそ、小太郎の分身も、霞となって消えたクウネル・サンダースの奇術のような行動も、分身なんてありえない現象の前に友達の心配をしているネギに突っ込まずにはいられなかった。

 怒涛の連撃が前後左右全ての方面からクウネル・サンダースに襲い掛かっていた。凄まじい攻撃回数に派手な連撃とスピードは、観客の目から見れば小太郎の方が有利に見えた。

 常人ならば見切ることも出来ずにボロ雑巾にされてしまいそうな猛攻を、クウネル・サンダースもその実力に疑いなしと示すかのように、全方位から迫る猛攻をその場から一歩も動くことなく涼しい顔で捌き躱す。ただの一度も反撃せずに。

 

(もろた!!)

 

 遂に連撃に隙を見せたクウネル・サンダースの意識の間隙を縫うように、本体の小太郎が察知しようのない後ろから襲い掛かった。気を充分に巡らせた手で右肩を切り裂く。

 

「!?」

 

 小太郎は目を疑った。切り裂かれたはずのクウネル・サンダースの姿が、まるで弾丸でぶち抜かれた雲のように目の前で形を失って消えたのだ。

 

「その心意気や良し。嫌いではありませんよ」

 

 不意に背中側からクウネル・サンダースの褒めるような声が聞こえて、小太郎の背筋にこれでもかと言わんばかりに最大の鳥肌が立った。

 分身達が相手をしていたのは間違いなく実体を持っていた。その攻撃の中には本体の小太郎もいたのだから間違いなく本体だったはず。さっきの形を失ったのが分身か幻影かは分からない。そもそも何時の間に背後に立たれたのかすらも小太郎には全く分からなかった。

 

「ですが、舐められるのはあなたが弱いからです。勇気と蛮勇は違う。あなたも最初の一撃でそれを悟ったはずです」

 

 空中で振り返りかけた小太郎は背後を見た。どこまでも酷薄に、だがどこか気配の薄いクウネル・サンダースの顔が間近にあった。

 

「自らのそれが蛮勇なのだと」

 

 クウネル・サンダースの左腕が霞み、半身を向けていた視界の外から小太郎の腹部に走る真下からの衝撃。

 

「がふっ!!」

 

 鈍い衝突音の直後に、優男の風貌からは想像も出来ない超人的な腕力による打撃に目を見開いて口内の水分を一瞬で吐き出し、小太郎の気の防御を突き抜けて腹部で爆発した衝撃に横隔膜が驚いたように動きを止めた。

 激痛に半ば意識が飛びかけている小太郎の体が重力に逆らって一メートル近くも浮かび上がる。クウネル・サンダースの攻撃の手は掌底の形をしていた。見た目の打撃力に優れる拳による攻撃などと比べ、打撃対象の内部に浸透する重いダメージを与える。いくら踏ん張りの効かない空中であろうとも数十キロもある小太郎の体重とかかる重力に逆らって一メートル近くも飛び上がった威力は想像も出来ない。

 攻撃は左手だけしか行っていない。右手はがら空き。その右手が振り上げられていた。今の小太郎に反応できるはずもない。

 観客達にはトンと軽く人を押したようにしか見えなかった攻撃は、小太郎を正面から最高速度の新幹線に轢かれたように吹き飛ばす。その身で舞台床を削り、ぶつかった欄干を跡形も吹き飛ばし、水面を抉りながら拝殿のある舞台へ続く道とは反対側にあった灯篭を真っ二つに折って吹き飛ぶ威力を持っていた。

 流石の麻帆良大土木建築研も二回戦第一試合で壊れた灯篭の修理は出来ていない。これで残っているのは拝殿から見て左側の灯篭ただ一つ。

 

『ああ――っ! 噂の分身の術をものともせず、クウネル選手の掌底一閃! またもや人が吹き飛んだ!? 誰か救急車を呼んで――っ!!』 

 

 二回戦第一試合の再現のような光景に、試合直後のアスカの状態を脳裏に思い浮かべた和美は思わず叫んでいた。

 観客席にいた千雨がありえない光景が続いて口を大きく開けて唖然とし、一観客として見ていた那波千鶴と村上夏美は慌てた様子で欄干から身を乗り出す。ネギは小太郎を信じるようにのどかが思わず痛がるほど握っていた手に力を込めていた。

 

「ぐっ……」

 

 誰もがア最悪の結果を脳裏に思い浮かべていたが、上がった水煙が晴れた先には別の光景が広がっていた。

 

「おおっ、無事だ」

「水面に立ってる!?」

 

 観客の一人が言ったように小太郎は水面に立っていた。両足を震わせ、息を大きく喘がせながらも五体満足で目立った外傷も見当たらなかった。

 水面についた足の周囲が波紋を広げている。気を放出しながら反発しない程度の精密なコントロールで、傍目には水面に立っているように見せていた。

 

(つ、強い!? ここまで圧倒的なんか!?)

 

 底すらも見せないクウネル・サンダースの計り知れない強さに歯がガチガチと鳴るのを抑えられない。

 世界には自分を超える者など星の数ほど居ることぐらいは承知していたつもりだった。クウネル・サンダースの力が自分を遥かに上回っていることも。

 それでもこの二年で強くなった自分ならば、一撃を与えるぐらいは出来ると思っていたのに、未だに開始位置から一歩も動かせていない。姿を消して移動したように見えても、実は最初の位置に戻っているのだ。

 クウネル・サンダースはまだ遊び半分といった感じで全身から分かるほどに余裕を醸し出している。悠然と未だに立ち上がることすら出来ぬ小太郎を見下ろす姿は、まるで両者の間に在る隔絶した力量差を示唆していているようでもあった。

 正直、ここまで歯が立たないとは思わなかった。小太郎は見積もりが甘かったと自覚する。

 

「彼我の実力差がハッキリと分かったところで、一つのお願いがあるのですが」

 

 どこまでも透徹した男はやはり開始位置から動くことなく、立ち上がれない小太郎を見下ろす。

 十メートル近く離れているのに耳元で囁かれているように明晰に聞こえてきても不思議には思わなかった。恰好から誰もが思い描く魔法使い然としたクウネル・サンダースが魔法を使っているのだと考えた。

 

「負けを認めてくれませんか?」

「は?」

 

 あまりにも唐突に切り出された言葉に、一瞬何を言われたのか分からなかった小太郎は間抜けな声を上げてしまった。

 次第に言われた意味を理解し始めた小太郎の中で膨れ上がる感情があった。その感情の名は怒りだった。侮られた怒り、敵とすら思ってもらえない怒り、戦う相手としても見てくれない怒り、全てが怒りに染め上げられていく。

 

「ああ、別に君のことが取るに足らないとかそんなんじゃありませんよ」

「じゃぁ、なんやねん」

 

 言葉通り、攻撃の意志を感じさせないクウネル・サンダースに、しかし小太郎は激昂のままに攻撃を仕掛けられない。自然界において強者こそが絶対の、弱肉強食の掟。二人の間にはその掟が展開されていた。

 強者の前に屈することしか出来ない小太郎は侮りに歯を強く噛み締め、憤怒に顔を真っ赤にしながら耐えることしか許されていない。

 

「君のようなタイプと戦うのは私としては遊べて楽しいのですが、如何せんやり過ぎて棄権になったのでは本末転倒。負けを認めてくれるのが一番問題がなく手っ取り早いのですよ」

 

 ニコニコと邪気のない笑顔を浮かべながら、心配したのはそんなことだった。怪我をする小太郎とか周りのことではなくて、どこまでも我が道を往くのがクウネル・サンダースという男である。

 一定のラインを超えた者は強烈な個我を持っている。でなければ堅い扉をこじ開けて先へ進むことは出来ない。クウネル・サンダース――――本当の名をアルビレオ・イマ――――がいる領域は、傲慢と紙一重の力の自負がなければ辿り着けない。

 

「…………な」

 

 小太郎は内側で渦巻く感情を持て余して、クウネル・サンダースをずっと見ていたら爆発しそうで顔を伏せた。

 見下ろした先の手に傷は一つもない。外傷はほぼ皆無でありながら内部は既にダメージで埋め尽くされている。戦闘を重ねてきた戦士としての直感が戦闘の継続の不可を叫んでいる。圧倒的な実力差を見せ付けられては心が挫けても不思議ではない。

 

「…………けんな」

 

 既に敗北は胸に深く刻み込まれている。だが、だからどうしたと怯え竦み続ける弱者になろうとしている己を、小太郎は叱咤する。震える膝を殴りつけ、無理矢理にでも押さえつけて立ち上がった。

 

「ふざけんなっ!!」

 

 溜め込んだ激怒をそのまま声に変えて、クウネル・サンダースに叩きつける。

 小太郎は決して強者に頭を垂れて尻尾を振る弱者には成り下がらない。さりとて弱者を嬲る強者にも絶対に成る気はない。犬上小太郎の気質は反骨。押さえつける者には反発せずにはいられない。強者に挑み続けることを己が気づかぬままに精神の屋台骨としていた一匹狼が此処にいる。

 反骨精神が戦えと叫んでいる。押さえつけられた頭に泥をつけられた示しをつけねばならない。小太郎は喜んで衝動に身を任せた。

 

「狗神!!」

 

 水面に触れている手の平から黒い炎が舞い上がる。黒い炎は瞬く間に無数の狼の形を取り、大きく口を開けて鋭い牙を剥き出しにして水面を地面のように走る。

 疾空黒狼牙。小太郎の持つ複数の狗神を出せる技の一つである。

 射られた矢よりも早く疾走する狗神達が次々とクウネル・サンダースの周囲に降り注ぐ。立っている場所を埋め尽くすように狗神達が飛びこんでいることに気づかぬはずもない。

 気づいたとしても、小太郎は狗神を目晦ましに瞬動を二回行ってクウネル・サンダースの懐へ飛びこんでいた。一回目は舞台前まで、二回目でようやく飛び込んでくるという、先程の激昂振りが信じられないほど冷静にフェイントを入れていた。

 逃げ道はなく、回避をさせるほど小太郎は愚鈍ではない。最速で放てる最高威力の技の準備は整っていた。

 

「喰らえッ!」

 

 右手に狗神を集め、棒立ち状態で反応が遅れたクウネル・サンダースの胴体のど真ん中に狗音爆砕拳を叩き込んだ。

 疾空黒狼牙からのフェイントを入れての狗音爆砕拳。恐らくは今の小太郎に出来る最高の連携攻撃。別荘で始めてアスカに使った時はこの連携で倒せた。これでダメージがないのであればどうしようもないという、如何なる敵であっても倒せる自信のあった攻撃。

 

「…………ふむ、今のは中々に良い攻めです。しかし、温い」

 

 小太郎が放てる最高の連携攻撃ですらクウネル・サンダースにダメージを入れることが出来ない。クウネル・サンダースが展開する恒常魔法障壁すら突破出来ない現実に小太郎は始めて泣きそうになった。

 浮かびそうになった涙すらも、頭の上にギロチンの如く振り下ろされた肘打ちに叩き落とされ、舞台に叩きつけられた衝撃でどこかへ飛んで行った。

 

「良い資質を持っています。あなたはまだ若い。実力の差に気を落とさないで精進して下さい」

 

 淡々と何回も読んだ物語を改まって聞かせる語り部のような透明な口調で、どこまでも小太郎を上から見下ろしながら告げた。

 小太郎を侮っているのでも嘲笑っているのでもない。何処までも冷徹に互いの実力を見据えた上での、強者の立場に立っているクウネル・サンダースが、見上げるしかない弱い犬上小太郎への思い知らせるような残酷な現実だった。

 嘗てエヴァンジェリンは、強くなっていけば「魔法使い」と「魔法剣士」の分け方は関係がなくなってくると言ったことがある。クウネル・サンダースはそれを示すように隙が無かった。小太郎が突ける隙が無かった。

 

「負けられん…………負けられんのや、俺は……ッ!」

 

 全身を痛みで瘧のように震わせて半分意識を失っていながらも犬上小太郎は諦めない。彼独自の挟持が、誇り高い精神が誰よりも敗北を許さない。

 衆目に曝してはいけない禁忌を破ろうとも、犬上小太郎は誰よりも己が魂に正直に生きている。

 

「なっ……」

「不味いぜ、ありゃ。こんなところで獣化する気かよ!」

 

 小太郎の姿が変化する。その姿を見たことがあるネギが言葉を失い、話を聞いていたのどかが口元を手で覆い、ネギの肩に乗っていたカモミール・アルベールが驚愕を露わにする。

 

「アスカが決勝で待っとるんや!!」

 

 その間にも小太郎の変化は止まらない。変身能力の発動に伴い、髪の色素が変わり、牙が伸び、爪が刃のように鋭くなっていく。骨格すらも変形するように骨が鳴るような音がしていた。

 犬上小太郎は狗族と人間のハーフである。半分だけだが妖としての特性を兼ね備えている。即ち、これから行うのは獣化。小太郎の切り札中の切り札であった。

 まだまだ未熟で幼い小太郎では半端な獣化しか出来ないが、その効果を身を以て知っているネギにとっては恐怖の対象でもあった。もし、小太郎が最初から獣化して挑んで来ていたら確実に負けていたと思っている。

 単純に獣化すれば身体能力は以前の倍、感覚器官は数倍に跳ね上がる。その代わりきちんと制御できなければ暴走する危険性と無理すれば動けなくなる可能性も孕んでいた。

 両方の危険性と可能性を無視してでも誇りを穢した報いを与えねばならない。同族に会ったことはないが狗族としての血が叫んでいた。

 

「こんな所で獣化なんてされたらフォローのしようがありません」

 

 そんな小太郎の守ろうとするちっぽけな誇りすらも、クウネル・サンダースはまるで価値がないかのように易々と踏み砕く。

 

「――っ!?」

 

 衆目にこのような魔法の存在をバラす可能性が高い行為を魔法使いであるクウネル・サンダースが見逃すはずもない。ふっと何気なく小太郎の上に掲げられた手から放たれた魔法が物理的な圧迫となって、変身しかけていた小太郎に触れることなく舞台の床にめり込ませていた。

 この武道大会では簡単に破壊されているが数センチの厚さを持つ丈夫な木の板を打ち砕き、雲の上にいる飛行機から鉄球を落として墜落したかのように小太郎を中心にして舞台が球体状にヘコんでいた。

 

「しかし、その真っ直ぐな心意気はますます気に入りましたよ。まだまだ修行が必要ですが」

 

 獣化の変化が解けて意識を失った様子でうつ伏せになって倒れている小太郎の姿を見下ろし、クウネル・サンダースはやはり強者として上からの視線を止めない。

 彼にとって小太郎は取るに足らない蟻が足元を這い回っている程度の存在で、靴に乗ってきたのを払った程度の認識しかなかった。

 蟻程度と思うなかれ、クウネル・サンダース――――アルビレオ・イマ――――は、興味のない相手には一切の関心を持たない男である。彼が無条件に関心を持つのは、遥か遠い過去に連なる者と己がマスター(・・・・)であるナギ・スプリングフィールド関連だけである。その彼が蟻ぐらいの認識であっても他人を意識したのは、それだけ小太郎の将来性に期待している証拠でもあった。

 

『きょ、強烈な一撃!! こ、これは犬上選手……!?』

「小太郎君!?」

 

 手を翳しただけで小太郎を舞台に這わせたクウネル・サンダースの奇術を理解できず、周囲の観客からどよめきが起きる。観客達のどよめきに隠れネギの声が発せられた。

 

「私を一歩も動かせない。これだけの実力差があるのです。負けても落ち込むことはありませんよ。経験上、あなたのようなタイプは一度コテンパンに負けると、強く成長できる。この敗北を糧として励みなさい」

 

 自分に負けなければですが、と貼り付けたような微笑で付け足しながら頭の中では既に勝利宣言を受ける前から次の決勝に移っているのか、クウネル・サンダースは衝撃を物語る木屑混じりの噴煙に横たわる小太郎を見ていなかった。

 異変は早々に舞台を去ろうとして、開始位置から動いていなかった足を動かそうとした正にその時だった。

 

「――っ!?」

 

 この試合で始めてクウネル・サンダースの表情が乱れた。

 動かしていた首を戻すと、懐に気絶していたはずの犬上小太郎が立っていた。突き出されている手はしっかりと拳を握っている。

 拳がクウネル・サンダースに当たるまでコンマ数秒。練達の魔法使いであるクウネル・サンダースならば、それだけあれば小太郎を迎撃することは容易い。

 しかし、クウネル・サンダースは躊躇った。咄嗟に本能で反応しての小太郎への攻撃は命に関わると、理性が攻撃動作に遅れて押し留めた結果だった。

 今の小太郎には恒常的に展開している防御障壁を突破する力はないと察していた。本能と理性が鬩ぎ合い、安全策として行動を起こさないことを選択した。

 トン、と服を叩いたような軽い音だけで小太郎の攻撃に威力は無かった。ただ、押し込んでくる小太郎の勢いに押されて二歩(・・)だけ後ろに下がっただけだった。

 そしてそれだけで小太郎の目的は達成された。

 

「へへ…………ようやく動かしたで」

 

 茫洋として焦点の合ってない目で言われてクウネル・サンダースは足元を見下ろした。今の拳に押されて開始位置から離れてしまっていた。

 僅か二歩という、たったそれだけの結果。されどそれだけの結果を小太郎は出した。

 クウネル・サンダースは特に拘っていなかったことに小太郎は最後まで拘り続けた。強者の傲慢。それがクウネル・サンダースを動かさせ、小太郎の意地が勝ち取った結果であった。

 誰よりも誇り高い犬上小太郎は拳を突き出して立ち続ける。どれだけ死力を振り絞ろうとも小さな結果だったが、誰が彼を笑えよう。虚仮の一念で岩を貫いた小太郎を哂う資格は誰にもない。

 既に意識を途切れさせていた小太郎は取り戻した誇りを胸に、前のめりに倒れていく。

 倒れる時ですら前向きであった小太郎をクウネル・サンダースは受け止めなかった。それこそ誇り高い戦士を穢すことだと知っていたから。

 

『だ、ダウン! 犬上選手気絶! よってクウネル選手の勝利!!』

 

 例え草食動物だからといって侮るなかれ。時に草食動物の闘争本能は肉食動物を凌駕して斃すこともある。弱肉強食とは強い者が勝つのではではなく、最終的に勝った者が強者となって肉を貪るのだ。

 

「見事です、犬上小太郎君。君の名は確かに覚えました」

 

 蟻程度の認識しか持たず一度たりとも呼ばなかった小太郎の名前を呟き、勝者であるクウネル・サンダースは敗者を残して去る。

 本当の敗者が誰かを知っている。彼は誇りを知っていて、生き恥を晒しながらも恥の上塗りを決してしない男だった。恥辱に塗れることはクウネル・サンダースではなく、アルビレオ・イマの誇りが許さなかった。

 舞台の上に横たわる小太郎は彼に名前を憶えられたことがどれほどの偉業かを知らずに、湧き上がる歓声だけを子守歌にして眠り続ける。その顔はやりきった男の顔であった。

 

 

 

 

 

 目覚めたアスカや木乃香達と共に舞台へと来ていた明日菜は、やってきた担架に乗せられて運ばれていく小太郎を見る。

 

「小太郎君……」

 

 体に目立った傷は見受けられないが、気を失っているからその身体はピクリとも動かない。

 チラリと隣にいるアスカを横目で見れば、彼だはただ一心に運ばれていく小太郎を見つめていた。

 互いの距離が縮まっていく。向こうはアスカ達の横を通って拝殿にある臨時救護室に行くのだから当然だ。

 十メートルから五メートル、三メートルとどんどん縮まっていく距離。しかし、アスカは動かなかった。口も開かない。それは距離がゼロになっても変わらなかった。

 

「何か言ってあげないの? 友達なんでしょ」

 

 横を通り過ぎて拝殿へと向かって行く担架を見送って、結局微動だにしていないアスカに問いかけた。

 

「………………」

 

 アスカは前だけを見て決して後ろを、小太郎を振り返ろうとしなかった。

 勝者は敗者に手を貸さない。

 敗者も勝者に手を求めない。

 対等である為に、対等であるからこそ、手を伸ばすなんてありえない。

 二年を共にしているから小太郎の気質を良く理解していたアスカは、未だ舞台に残っているアルビレオを睨み付け、ギュッと強く拳を握るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 龍宮神社内にある拝殿の『臨時救護室』には本日三名目の患者が運び込まれていた。

 一人目は明日菜、二人目はアスカ、そして三人目はクウネル・サンダース―――――本名アルビレオ・イマ――――に負けた犬上小太郎である。

 

「…………う……あ……れ?」

 

 ベッドに寝かされ、上半身の服を剥ぎ取られて治療が終わった頃、気を失っていた犬上小太郎は目を覚ました。

 小太郎が目を開けた時、ぼやける視界で見た先にあったものは雲の少ない快晴の空ではなく、木目調の古い染み跡が時代を感じさせる龍宮神社内の拝殿の天井であった。

 

「気がついたんか、小太郎」

 

 まだ眠気が半分支配する頭を擽る優しい声が耳に入って来て、会ったことも無い母親が朝だから起こしに来たような気分になった。

 母も母代わりの人も知らない小太郎は優しい声に包まれたまま、もう一度眠りにつけたら幸せだろうなと思った。

 

(俺に親はおらん)

 

 内心で呟きながらきつく瞼を閉じて眠気を振り払うように強く首を振った。

 そして直ぐに声をかけてくれたのが誰か分かった。

 

「千草姉ちゃん?」

 

 恐れるように開けた視界に真っ先に映ったのは、声と同じように優しい笑みを浮かべている天ヶ崎千草の姿があった。

 

「あれ? 俺……どうして寝てたんや」

 

 ふらつく頭を押さえ、痛む体を押してベッドから体を起こすと上半身の服を着ていないことに気づいた。

 着ていたはずの服がボロボロになって、ベッドの足下に畳んで置かれているのが見える。

 目覚め特有の記憶の混濁がある小太郎は現状を正しく認識できていなかった。自分がどうしてこんな所で寝ているのか、前後の記憶が頭から飛んでいる。

 

「那波から電話を貰って急いで来たんや。試合で怪我したって聞いたけど、大丈夫なんか?」

「怪我? あ、ホントや。なんや大袈裟に包帯巻いてんな」

 

 問いかけてくる千草の言葉に、小太郎はようやく起き上がるだけで痛む体を自覚した。

 見下ろしてみれば胴体には包帯が巻かれ、右肩を通って固定されている。右腕の二の腕にも包帯が巻かれていた。

 

「なんやって俺はこないなことに……」

 

 体が丈夫なことが取り得の一つでもあったので、ここまでの治療が必要になったことは滅多になかった。怪我をしていることやベッドに寝ている理由が分からなくて、治療の跡のない左手で腹の包帯を触れた時だった。

 積載量を超えてギュウギュウ詰めにした荷物が箱から飛び出るように、頭から飛んでいた記憶が溢れ出てきた。

 

「そうか。俺、負けたんやな」

 

 クウネル・サンダースに手も足も出ず、苦も無く軽くあしらわれたことを思い出した。有効打を一度も与えることなく、逆に一方的にダメージを蓄積させられ、最後には無様に倒れ伏した。

 

「…………」

 

 小太郎の言葉への返答は千草の沈黙が暗に示していた。

 誰にも否定できない結果を前にして起き上がったままの小太郎は俯いた。長めの髪の毛に隠れるようにして、周りからは小太郎がどのような顔をしているのかは見えなかった。

 

「小太郎は頑張っとったで」 

「頑張ったって負けたら一緒や。勝てな、なんの意味もないんや」

 

 俯いたまま布団を破れそうなほどに強く握った小太郎が呻くように言った。

 

「勝ち負けなんてどうでもいい…………やなんて、言わん。あんさんもそう言われたないやろうしな」

 

 この麻帆良で――――いや、きっとこの世で犬上小太郎を最も理解しているのは、戦ったクウネル・サンダースでも親友であるアスカ・スプリングフィールドでも他の誰でもなく、天ヶ崎千草である。

 椅子から腰を上げて、誰よりも誇り高く自負と自尊を持つ小太郎を、慈愛を以て豊かな胸元で沈む少年を包み込む。

 

「それでも言わせてんか。小太郎は良く頑張った」

 

 生まれてから母の温もりを知らぬ少年は、母を思わせる姉の温もりに包まれる。優しい匂いと温かい温もりに全身を包まれ、鼻の奥から突き上げるものを感じた。

 

「…………俺、弱いんかな」

「そんなことない。小太郎は強いで。うちが保証したる」

「今日も負けて…………。俺、戦うしか能ないのに」

 

 俯いたままの小太郎が何時もの腕白小僧のような元気さとはうって変わったか細い声で呟くのを、千草はどこまでも受け入れる。

 

「アスカと決勝で戦おうって約束したんや。なのに俺は……」

 

 俯く小太郎の目から光る物が流れて布団に落ちても、千草は何も言わなかった。

 小太郎の見舞いの為に臨時救護室に入ろうとした楓は引き換えすことにした。今の二人が間に入れる空気ではなかった。入ってもいけないことを重々承知していた。

 

「強う、なりたい」

 

 千草は言ってくれたが、小太郎は自分は弱いことを知っていた。

 

「この二年でアスカの方が才能があんのは分かってねん。差は開くばっかりや。それでも」

 

 アスカに負け、ハワイでは合体でしか役に立てず、ヘルマンの時も何も出来なかった。そして今またクウネル・サンダースにも届かなかった。負けを全て認める。犬上小太郎はどうしようもなく弱い。その上で誓うことがあった。

 

友達(ダチ)やから、アスカと対等でいたい。俺は強うなりたい」

「…………」

 

 千草は黙して語らず。小太郎を抱きしめる力を強くすることで言葉の変わりとした。

 言葉は移ろいやすく、時に思ったこととは違う意味を伝えてしまうことがある。でも、体が伝える温もりだけは間違えることはない。突き放したり押さえ付けたりせず、苦しくならないように優しく抱きしめてくれる。

 嫌われてなんかない。好意を行動として示す千草に小太郎の気持ちが動いた。布団を掴んでいた手を離して、恐る恐る千草の背中に回す。背中に手を回しても彼女は拒まなかった。それがどうしようもなく嬉しい。

 

「今日だけや……こんなみっともないのは今日だけや」

 

 弱さを曝すのも、涙も流すのもこれが最後だと、小太郎は心に決めた。

 そして千草の胸の中で悔しさを吐き出した。馬鹿みたいに涙を溢れさせ、後になってみれば恥ずかしくなるぐらいに泣き喚いた。それでも千草は優しく頭を撫で、宥めるように背中をポンポンと軽く叩いた。

 

「小太郎、お主はきっと強くなるでござるよ」

 

 臨時救護室の近くに来ていた楓は、部屋の外まで漏れる小太郎の泣き声に確信と共に口の中だけで呟いた。

 別人のように成長していく小太郎の姿に、眩しさを覚えずにはいられなかった。この若さで己だけの戦う理由を見い出し、弱さを見せられる大切な人に巡り合えているのは僥倖以外の何物でもない。

 きっと小太郎はこれからどんどん強くなると確信を抱いて、僅かに開いていた目を尊いものを見るように細めた。

 泣き止んで落ち着いたら一緒に修行をしないかと誘おうと心に決めた楓の心の中は、雲一つ無い青空のように何処までも澄み渡っていた。

 

「……………」

 

 小太郎の様子を見に来たネギは襖の前で足を止めた。そして何も言うことなく引き返した。

 元々、隠れて様子だけを見て戻るつもりだったが、小太郎には小太郎を大切に思ってくれる人がいたから見に来る必要もなかったのだと分かった。

 ネギは隣にいるのどかの顔を見て、握っている手を確かめた。隣にいる誰かが救いになるのだとネギは改めて思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 眼下で盛り上がる舞台周辺と違って、アスカがいる武道会本部ではない方の高灯篭の舞台と向き合わない方の屋根の上は驚くほど静かだった。

 座って盛り上がる街を見ていたアスカは、何かに気づいたように立ち上がった。

 

「来たか、アルビレオ・イマ」

「今はクウネル・サンダースと名乗っているので、出来ればそちらの名を呼んでほしいのですが」

 

 待ち人が現れてゆっくりと振り返ると、そこにはローブを被ったアルビレオ・イマが立っていた。

 

「良くぞ、私の存在に気が付きましたね。タカミチ君との試合で強さのステージを上げたようだ」

 

 何が嬉しいのか、フード越しでも分かるニコニコと笑っている男にアスカの目付きが剣呑になる。

 

「そんなことはどうでもいい。話があるから俺を呼び出したんだろ」

「ええ、まあ」

 

 噛みつくように言ってくるアスカに、やはり笑みを崩さないアルビレオは組んでいた腕を解いた。

 

「まずは感謝を。あのような一方的な約束を守って決勝まで勝ち上がってくれたことに」

 

 気取った仕草で頭を下げるアルビレオに向けるアスカの視線はどこまでも冷たい。

 

「そんなことを言う為に、わざわざ呼び出したのか?」

「十分に大事なことなんですがね」

「テメェ、人を舐めんのも大概にしろよ」

 

 ギリッとアスカが噛み砕けないほどに歯が鳴り、変わらないアルビレオに瞳が怒りに満ちていく。

 怖い怖い、と飄々とした仕草でおどけると、急に雰囲気が真面目なものに変わる。

 ようやく本題に入れるかとアスカはアルビレオと話していると疲れて、少しだけ肩が落ちた。

 

「アスカ君。良き友を持ちましたね」

「は?」

 

 いきなり変なことを言い出したアルビレオにアスカは阿呆みたいに口を開けた。

 

「切磋琢磨出来るライバルがいるのは幸運なことです。彼はきっと強くなりますよ」

「小太郎のことを言ってるのか?」

「ええ、彼のようなタイプと巡り合えることは稀有です。互いに刺激し合える関係は大切なものですよ」

 

 小太郎をべた褒めするアルビレオ。嘘はついていないようだが、アスカは反応に困って微妙な表情を浮かべる。

 アスカのなんともいえない表情に気づいたアルビレオは楽しげな雰囲気を崩さぬまま、胸の前で両手を打ち合わせた。

 

「それはともかくとして、本題に入りましょうか」

 

 ようやくか、とアスカも口にしかけて、また話が脱線するのも面倒だと開きかけた口を貝のように閉じた。

 

「決勝まで来れたご褒美です」

 

 向き合っていたアルビレオが、ここに来て歩を進めて距離を詰めて来る。

 数メートルの距離を一歩ずつ踏破して、離れていた距離が無くなり、近距離で手を伸ばせば届くほどに接近して足を止めた。

 ふわり、と手を伸ばしたアルビレオに何故か反応できず、短い髪の毛を逞しい手でクシャリと力強く撫でられた。強く掻き混ぜるような、どこか懐かしいと感じる撫で方だった。

 記憶を遡っても該当する人物に心当たりがない。

 

「――――俺と戦わせてやる」

 

 どこか中性的なアルビレオの声とは決定的に違う喉太いハッキリとした男の声だった。

 麻帆良に来てから始めて聞いた、だけど脳裏にその人物を思い描くことを簡単だった。声に導かれるように俯けていた顔を上げた。

 

「!?」

 

 そこにはもう誰もいなかった。アルビレオも懐かしいと感じた声の主の姿もなかった。辺りには歓声が満ちているだけで、見渡しても屋根の上には人の気配はない。

 アルビレオは霞のように疑問だけを残して跡形もなく消えていた。

 

「なんなんだよ、一体」

 

 一人しかいない屋根の上でアスカは誰にともなく一人ごちた。

 気味悪かった。もしも神の手のようなものが本当にあるのなら、こうして人を導くように思えたのだ。そうなるとアルビレオは神の下僕である天使か。

 空は快晴だったが、この時のアスカには自分すらも見えていなかった。

 



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第48話 決勝戦

 

 まずは伸脚。浅く浅く、深く深く。次にアキレス腱を伸ばし、手首と足首を回す。続けて腰を左右に捻る。

 数分前から始めているので身体は十分温まっていたが、アスカは入念に試合前の準備運動を行っていた。じっとしていられなかった。興奮が半ば勝手に身体を動かす。

 身体が温まってくれば構え、ゆっくりと拳を突き出す。

 床を踏み鳴らす心地良い音を感じながら歩法を確かめ、体幹と重心の移動を何度も試す。

 心静かに――――昂ぶり続ける闘争心を抑えつけるように無心を心掛けつつ、使い慣れた基本の型をひたすらに繰り返す。意固地に、愚直に、それしか知らないというように繰り返し続ける。

 

「……はっ!」

 

 肘打ちに鋭く空を切らせ、呼気と共に拳で宙を突いた。次第に思考がクリアになり、今の自分を悩ませる全ての事象さえも頭の中から消えていく。

 不思議なほど体が良く動いてくれる。まるで生まれ変わったかのように全身が軽い。

 どれだけの時間そうしていたか―――――不意に、ピリリリとという電子音が聞こえてきて、アスカは動きを止めた。

 全身から湯気が出そうなほど熱気を迸らせながら伸ばしていた腕を引き戻す。鳴り止まない電子音を聞き流して、落としていた腰を上げながら一度閉じた瞼をそのままに、長く静かに息を吐き出しながらゆっくりと開けた。

 ズボンのポケットに左手を伸ばす。電子音を鳴らしているのは、ポケットに仕舞われていた携帯電話だ。取り出して時間を設定して鳴らしていたアラームを切る。

 深く息をつき、額の汗を拭う。

 

「うしっ、ウォーミングアップも充分だろ」

 

 落ち着いてきた呼吸を確かめて、胸の前で柏手を打つように両掌を打ち合わせて音を立てた。 

 呼吸とは裏腹に胸の奥で鳴り続けている脈動は収まるところを知らないように高まっていく。奇妙な感覚がアスカの全身を支配していた。

 心がざわめく。戦うべき時が来たと理屈抜きで分かり、体に力が満ちる。全身が熱くなって手足や指先、毛細血管の一つ一つにまで力と熱さは宿り、戦闘態勢が整ったことを教えてくれた。

 この緊張は一体何なのだろう。予感というものがあるのなら、もっと明確な形で欲しいものだと思う。ただの気分の高揚、不安感を抑えようとする筋肉の張った気分というのは、何の役にも立たないはずなのだ。

 

「入るぞ」

 

 と、耳に心地よく響く鈴やかなと声と共に室内にいるアスカの了承もなしに襖がスパーンと音がしそうなほど強く開けられた。

 

「エヴァ」

 

 アスカが開けられた襖の方を見れば、そこに立っているのは長い金髪を垂らした西洋のビスクドール染みた容姿の少女――――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルその人。

 芸術家が本能を刺激されること間違いなしの立ち姿であったが室内に入るなり眉を顰めていては折角の美貌も台無しだった。

 

「準備運動にしては急ぎ過ぎではないか。室内が汗臭いぞ」

 

 人の形をしていても吸血鬼と人間は基本性能が違う。当然ながらそこには五感も含まれていた。学祭期間中であれば世界樹に満ちる魔力によって封印効果を超えて回復してくる。となれば五感もまた人間の域を超えて来る。下手に優れ過ぎる五感も元が普通の人間であったエヴァンジェリンには害にしかならない。嗅覚に優れた犬に及ぶものでもなし、普通の人より少し鼻が利くだけの状態であってもだ。

 

「そうか?」

「私ぐらいでなければ気づかないだろうが微かに匂っている」

 

 アスカは汗を吸った服を鼻にまで持って言って掻くが汗臭いとは思わない。得てして本人の臭いは分からないものであるが、同じように五感に優れている明日菜以外であれば気づきもしないレベルである。

 言いながらも喚起するために襖を開けっ放しで室内に入って来るのを見ると、アスカとしては綺麗好きではなくても少し気になってしまう。

 一度は水に落ちたといっても武道会で三試合して、動いた分だけの汗を掻いている。風呂に入れるような状況ではなかったので如何ともし難いことなのだが、だからといってどうにかなるものでもない。

 

「ふん、気合は十分といったところか。だが、逆に力が入り過ぎているぞ。もっと力を抜け」

 

 突っ込んでほしいやら放っておいてほしいやら奇妙な心境になっていて、どうしたらいいのかと困った顔を浮かべているアスカに、全身をジロジロと見たエヴァンジェリンは我関せず話し出した。

 

「自覚はしてる。緊張しているのか、俺は」

 

 拳を握ったり開いたりする動作には若干の鈍さがあった。動きの鈍さは怪我ではない。全身を支配している奇妙な感覚を改めて他人から指摘されれば緊張していると分かった。

 

「そんな様ではアルには勝てんぞ?」

「ハッキリ言うなぁ」

 

 歯に衣を着せずに外連味のないズバリとした言い方は、柄にもなく緊張を覚えていたアスカから肩の力を抜かせて僅かながらも苦笑を浮かばせた。

 

「なんのようだ? 試合前の選手を激励する柄でもないだろ」

「悪いか、私が激励に来て」

 

 女王気質なエヴァンジェリンは人を応援するよりも下々の足掻きを高みから見下ろして悦に入るものだと思っていたので、予想外の返答にアスカは虚を突かれて目を丸くした。

 

「何を意外そうな面をしている。私が激励に来たのがそんなに珍しいか」

「珍しいというか、人を応援するなんて殊勝な奴じゃないだろ。逆に緊張をしているところを笑いにくる性質だろうに」

「む」

 

 気質を把握されていることを怒るべきか、指摘したアスカを非難するべきか、一瞬だけ顔を歪めたエヴァンジェリンは迷うように視線を揺らめかせた。しかし、深くは気にしないことにしたようで直ぐにアスカに視線を戻した。

 

「決勝戦の相手が相手だから喝を入れに来てやったんだ。この私がわざわざ直々に来てやったんだからもっと有難そうにしろ」

 

 親切の押し売りに来たエヴァンジェリンに、素直じゃないなと微笑ましさを感じたが表情には出さなかった。甘さといった弱い面を突かれるとムキになると知っていたからだ。

 下手な藪を突いて蛇を出さない利口さぐらいはアスカも持っていた。

 

「なんだその顔は。言いたいことがあるなら言ったらどうだ」

「別に何も」

 

 懐疑的なエヴァンジェリンの視線は読心術もかくやと思うほどの鋭さで見通していたが、面倒事は御免だとポーカーフェイスをしているアスカの面の皮を貫けはしなかった。

 針もかくやの鋭さで顔を睨み付けたエヴァンジェリンだったが、不毛な追及をしても仕方ないとばかりにアスカの目の前で大袈裟に息を吐いた。当然、目の前でそんなあからさまな態度を取られればアスカだってムカつきもする。

 しかし、そのイラつきを向けられることをエヴァンジェリンが目論んでいることは明白だった。半年程度しか日本に滞在していないアスカが十五年も日本にいるエヴァンジェリンに語彙で勝てるはずがない。本格的な口論になれば勝てる見込みはないので気持ちを抑え込んで沈黙を貫き通した。

 

「ふん、まあいい」

 

 唇の端をヒクヒクと震わせながらもアスカが吊られて来ないと分かると、エヴァンジェリンは気に入らぬと鼻息を一息だけ荒くしたがそれ以上は感情を表に出さなかった。

 気安げなエヴァンジェリンの態度に、変われば変わるものだなと今日二度目の感慨を抱く。

 

「決勝戦、油断だけはするなよ」

 

 ポツリと静かに呟かれた一言に緩んでいた緊張感を取り戻した。

 

「最初から油断なんてしない」

「気持ちの上では、だろう」

 

 油断はしていない。油断できる相手ではないとアスカは知っている。だがそこまでだとエヴァンジェリンは指摘する。

 

「武道大会のルールに乗っ取った全力。衆人環視の中で行われる試合の中で出来ることは限られるが、今回ばかりはそうも言ってられん。魔法がバレようとも構わん。ルールに引っかかろうが詠唱を使え」

 

 長くなったので一度そこで言葉を切り、次の言葉を紡ぐために息を吸い込む。

 

「本気の本気、今のお前では持てる力の全てを振り絞らん限り、アルに指一本触れることは出来まい。試合にすらならんだろう。こんな簡単なことに気づかんとは言わせんぞ」

「判ってるさ。でもさ、魔法がバレたらオコジョだぞ」

「それが油断だと私は言っているんだ。わざわざこのような大会に出てまで行う奴の目的が分からん。多少のリスクは負ってしかるべきだ」

「…………やるだけはやってみるさ」

「忠告はしたからな」

 

 と、エヴァンジェリンが言った直後、襖が外から開かれた。

 

「甘く見ない方がいいでござるよ」

 

 開けられている襖の向こうから長身の少女が立っていた。

 声をかける前に存在に気づいてそちらの方向を見た二人の挙動に、少女は苦笑いにも似た表情を浮かべた。

 

「長瀬楓か」

 

 痛々しく頬にガーゼを張り、バーテンダーのような服装もあちこちが破れたり汚れたり、袖の一部分には血すらも滲んでいた。

 

「随分とこっぴどくやられたようだな」

「いやー、想像を遥かに超えて圧倒的でござった。頂きは遥か遠く、まだまだ手は届かないでござる」

 

 歩み寄って来る楓の姿を見遣ったエヴァンジェリンの皮肉染みた言い方にも、普段からののほほんとした顔を崩さずに流した。

 

「怪我はどうだ?」

 

 黙っていたアスカが押し込めていた何かを開放するように問いかけた。

 楓はアスカを見て底知れぬ感情を湛えた瞳を見て一度は開きかけた口を閉じ、言葉を選ぶように間を開けた。

 

「掠り傷……とは流石に言わないかもしれないが、動きには問題のない軽症レベルでござる。そう心配なさるな」

「心配なんてしてねぇよ。木乃香に治してもらったらどうだ? 会場のどこかにいるだろ」

「そうでござるか。また、おいおい頼むでござる」

 

 楓はそこで本題に入ろうと一度咳払いをした。

 

「拙者が来た用件でござるが、実際に戦った者として助言をと。迷惑ならば退散するでござるが」

「助かる。聞かせてくれ」

「ふん、負けた奴の話を聞いてどうする」

 

 横から入ってきた可憐な声にアスカは声の発信源の方を向いた。あまり頼りにされないことに拗ねているエヴァンジェリンがいた。

 

「そういう言い方はないだろ」

「ふん、事実だろうが」

「エヴァ、それは一回戦を勝てなかった奴の台詞じゃないって分かってるか?」

「!? あれは刹那が自爆したからであって、私は花を持たせてやろうと――」

「結果は同じだろ」

 

 微妙な女心のエヴァンジェリン。だがアスカに繊細な女心が分かるはずがない。

 目の前で言い合いを始めてしまった二人の姿は笑いを誘った。流石にここで楓が茶々を入れると話が拗れそうなので、笑うのは内心だけでに留めておいた。

 亀の甲より年の甲。先に平静に戻ったのはエヴァンジェリンの方だった、

 

「時間はそうない。長瀬楓、話を進めろ」

「…………自分が茶々を入れたくせに」

「あ?」

 

 ピキリとエヴァンジェリンの眉間に青筋が浮かんだ。

 エヴァンジェリンの表情は阿修羅の如く、対するアスカも悪鬼の如く。二人が間近で睨み合う。

 

(仲良きことは良きかな、でござる)

 

 仲良きことは美しきかな、をオマージュしつつも、先にエヴァンジェリンが言ったように決勝戦までそう時間がないのは確か。漫才のような二人のやり取りを見ることは楽しいが少ない時間が鑑賞を許してくれない。

 

「どうどう、時間がないのだからそこまでにするでござる」

 

 チクチクと相手の嫌がる部分を的確に突き合う醜い言い争いを続けている二人の間に身体で割って入る。

 右手を伸ばして割って入って来た楓の身体は、アスカに背中側を向け、身体の内側はエヴァンジェリンに向けられた。そこに意図はなく、純粋な行動の結果といえる。

 

(ぬ、この我儘ボディめが……!? 当てつけか、もう成長しない私に対する当てつけなのか!)

 

 奇しくもベストの前を止めているボタンの上半分が準決勝の戦いによって破損か紛失している。よってベストの前は半分開いている状態で、時間が空いたとはいえ、着ているYシャツはまだ乾ききっていない。つまりは中に着ているものがうっすらと透けて見えてしまっているのだ。

 触れるほどの近さでなければ透けては見えない。しかし、今のエヴァンジェリンと楓の距離は触れるとまではいかなくても手を伸ばせば触れてオツリが出る。

 片手を出して身を乗り出していることもあってYシャツも胸元が張っている。身長の差もあってエヴァンジェリンからは開いたベストの部分から楓の胸元がバッチリと見えていた。

 平地から雲を突き破るほどの高い山まで、幅広いレパートリーを数えている3-Aの中でも間違いなくトップ3に入る巨乳の持ち主。サラシで巻かれて窮屈そうにしている肉の塊は、十歳の時に吸血鬼になって成長が止まっているエヴァンジェリンには絶対に手に入らないものだ。

 

(私にもアレぐらいの胸があれば、ナギもこいつも振り向いてくれるんだろうか?)

 

 今更、吸血鬼になってしまったことを後悔はしない。こんな姿にした男には相応しい報いを与え、生きる為に築き上げた屍山血河を思えば赦しを得ることすら望むまい。それでも時折に思うのだ。

 

(吸血鬼に成るのが十年遅ければ幻影の姿が手配書に載ることもなかったろうに)

 

 子供の姿は何かと不自由が大きい。幻影で大人の姿を好んで使っていたこともあって、六百万ドルの高額賞金を賭けられた手配書に載っているのは本当の姿ではない。良くも悪くも人としての面を残しているので時として欲が湧き上がってくる。つまり、自分の胸がなだらかな平野しかないことを悔やむのだ。

 

「羨ましくなんてないからな!」

「?」

 

 持つ者に持たざる者の気持ちなど分かるはずもない。持たざる者の僻みを理解できない楓は首を横に傾けた。

 

「いい加減に話を進めないか?」

 

 男にはてんで縁のない話題なので蚊帳の外に置かれていたアスカが口を挟んだ。

 

「そうでござるな」

「ちっ」

 

 返って来た反応は当然の如く真反対。どちらがどちらであるかは察するべき。

 当然の如く、話を進めるのは顔を盛大にそっぽ向いているエヴァンジェリンではなく楓。

 

「決勝戦の相手、クウネル殿ついてでござるが」

 

 そこで少し間を開けた。

 

「あの身体、本体ではござらんぞ」

「だろうな」

 

 楓に言われるまでもなくアスカも気付いていた。

 

「ダメージは完全無効、なのに向こうからの攻撃は自由自在と反則的な無敵具合。当人も認めたことから分身体だか幻影だかを一瞬で消し去る力が必要になるでござる」

 

 体を一瞬で消し去ってしまうほどの技を放てば、周りにはアルビレオが殺されたと見えるからそんな技は使えない。そもそもそれだけの間をアルビレオは易々と与えてはくれない。

 

「本体は3~4㎞ほど離れていると言っていた故、どこまで信じれるかは怪しいが嘘ではないと感じたでござる。本人の言を信じれば無敵状態は学園内、及び世界樹の魔力が学内に満ちる三日間しか使えないと」

「となると、ここまで世界樹の恩恵を受けるとしたら居場所は地下か」

「地下のドラゴンは門番なのだと奴自身が言っていたから、その可能性は高いだろう。十五年も私に気づかせないとしたら地下に籠るしかない」

 

 図書館島に広大な地下空間があることを考えれば、麻帆良学園都市全体に広がっている可能性もある。

 

「それを込みにしても強かったでござる。世界は本当に広い。真に最強と呼ばれる者は凄まじいござるな。手も足も出なかった」

 

 悔しさを微塵も覗かせず、拙者もまだまだ修行が必要でござるなと高峰を仰ぎ見る登山者のような面持ちをしていた。

 目指すべき一つの到達点を見つけたとばかりに顔を輝かせる楓がアスカへと視線を向ける。

 

「決勝で会おう、とそう言っていたでござる」

 

 楓の伝言を通してアルビレオの不敵な笑みが脳裏に過って来て、アスカの戦意に薪がくべられたように猛る。どうにも人の心を煽ることが特異な男なのだ、アルビレオ・イマは。

 

「奴はそういう奴だ。変なところで形に拘ろうとする」

 

 古い知り合いであるエヴァンジェリンには、自分のルールに従って行動するアルビレオの悪癖を良く理解していた。十五年前に再会してから何度からかわれてきたことか。

 

「人格的に腐っていても英雄の一角だった男だ。犬に手痛い一撃を食らったことで緩みがとれたんだろ」

「エヴァ殿の仰るようにクウネル殿に油断はござらん。下手な気持ちで挑むのは自殺行為」

 

 二人ともアスカのことを思えばこそ忠言してくれていることは分かっている。

 

「程々に行くさ」

 

 言葉とは裏腹にアスカは獰猛な笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大量の紙吹雪が空を舞い、本物の雪のように降り注ぐのを見てアスカは僅かに顔を顰めた。傍目には綺麗かもしれないが紙吹雪が目の前を何枚も過って視界を塞ぐし、頭や肩の上に乗って邪魔なことこの上ない。

 会場の盛り上がりも凄まじく、小太郎が絶対的強者に一矢報いて男気を見せたことで、まるで地鳴りの如く広がり続ける歓声の声は耳を弄するほど。特に格闘系の男達が意地を貫いた小太郎に感化されて歓声の大きさだけなら今日一番の盛り上がりになっていた。

 開催されているのは武道大会なので、やはり格闘好きの男達の観客率の方が多い。出場者に女子中学生が多くて想像していたような血沸き肉躍るような戦いには成り難い。盛り上がる試合は幾つもあったが女の子や子供が傷ついている試合を心の底から楽しむことはしにくい。その中で小太郎が見せた男気に魅せられた男達は多かった。

 

『さあ、遂に伝説の格闘大会「まほら武道大会」決勝戦です!!』

 

 祭りは何時だって終わりに近づくほどに盛り上がりを増していく。このような武道大会は決勝に残った者が強いのが通説なのだから当然の流れだろう。組み合わせ次第で強者同士がぶつかって早々に敗れる可能性があると分かっていてもだ。

 

『お聞き下さい、この大歓声! 大変な盛り上がりです!! この決勝までの数々の試合、そのどれもが珠玉の名勝負!! テレビなどでは決して見ることの出来ない真の達人の闘いでした!!』

 

 アスカは拝殿から舞台へと続く道を一人で歩きながら、始めて舞台上空に浮かぶ特別スクリーンの気づいた。

 誰も驚いていないことから何回も流されたものであることは推測に固くなく、舞台を中心にして四方に向けて浮かび上がって見やすいように角度にも気を使っていること考えれば、大会開始前から放映がされることは決まっていたのだと分かる。

 耳を澄ませば肯定したり否定したり、大会側の演出を疑っている声など様々。

 

「考えるのは後だ」

 

 自然と道を開ける観客達の間を、無人の野を進むが如く歩み続ける。何もかも脳を肉体を使う全てを後に回す。アスカ・スプリングフィールドが全霊を賭けても勝てぬ相手に挑むために。

 

『学園最強の名を手に入れるのはクウネル選手か、アスカ選手か!』

 

 よく通る和美のマイクパフォーマンスで盛り上がる会場の中、観客席を抜けて両脇にある選手席の中央に到達する。

 殆どの選手が敗退してからは観客席に移っている中で、楓・古菲・明日菜・刹那にエヴァンジェリンと何故かいる木乃香。

 

「頑張れ、アスカ!」

 

 選手席から舞台までの道のりを半分踏破したところで背中にかけられる声があった。この大歓声の中でも届く声である。鼓膜に届いた時点で誰の声かは分かっている。

 後ろを振り返りたい衝動を抑え、明日菜の声援に右腕を上げて答える。視線はただ一つ。既に舞台の上で待ち構えるクウネル・サンダースこと、本名アルビレオ・イマの下へ。

 

『悠然と足を進めるのは数多くの激闘を制した…………アスカ・スプリングフィールド!!!!』

 

 舞台への昇降段に足をかけたところで降り注ぐ大歓声すら、今のアスカには重荷にはならなかった。

 理由は当人にも分からない。明日菜の応援を受けてから不思議と体が軽く感じられ、戦意は鰻上りに上昇している。軽く拳を握って好調子を確かめながら舞台へと登った。

 

『対するは、大豪院ポチ選手、武道四天王である長瀬楓選手、犬上小太郎選手を倒して、決勝戦にも関わらず口元には余裕の笑みを浮かべているクウネル・サンダース選手!! 確かにここに至るまで傷らしい傷も負っていないようだ! 被っているフードすら脱げたことの無いその素顔は未だ不明! 流派も全く不明!! まさに正体不明、謎の無敵魔人だ!!』

 

 全身を覆うローブとフードを目深に被っているが負傷も疲労すらも感じさせないその姿は、和美の言うように正体不明の魔人に他ならない。

 アスカは舞台中央に向かって歩きながら、試合開始が近づくに連れて不思議と落ち着きを増していく心臓の鼓動を確かめ、アルビレオに正対する位置で立ち止まる。

 選手二人が開始位置に着いたことを入念に目を凝らして確かめ、会場のボルテージが最高潮になりつつ爆発させない間を推し量って、舞台脇にいる和美は我知らずマイクを奮わす右手を左手を使って押さえつける。

 自分が落ち着く間と会場が盛り上がる間を合わせて、深く息を吸って、

 

『それでは、決勝戦――――』

 

 声を震わせないように気をつけて言いながら、視界の先でアスカが半身になって構えるのが見えた。

 

『Fight!!』

 

 決勝戦の火蓋を切って落とした。

 

「「………………」」

 

 しかし、会場と和美の予想を裏切って開かれたはずの戦端は動かなかった。まずは相手の出方を見ると考えたアスカとは違って、なにを考えているかも分からないアルビレオは微動だにしない。

 緊張が高まり続ける会場の空気を察したようにアルビレオは、フッと微かに笑った。

 

「よくぞ決勝まで辿り着けました、アスカ君。褒めて差し上げましょう」

 

 なんてことのない世間話のように話し出したアルビレオと違って、アスカは一ミリも油断しないとばかりに構えを崩さない。相対しているのはエヴァンジェリンとはまた違った伝説の一角、魔法史の歴史にもその名を輝かせる英雄なのだ。侮りなど許されず、油断など端からありえない。

 

「長瀬楓さん犬上小太郎君といい、貴方達はとてもいい。何時も子供達が健やかに育っていくのは気持ちのいいものです。十年間もこの場で食っちゃ寝していた甲斐もあったというものですよ」

 

 本当に嬉しそうに裾から出した手で口元を覆い隠しながら上品に笑う。この場合はマナーとかではなく、あまりにも嬉しすぎて綻んでしまう口元を見られないようにしているのだろう。

 

「そんなことはどうでもいい」

 

 アルビレオの気持ちなどアスカに心底どうでもいい。求めるのはたった一つ。

 

「アンタのところまで辿り着いた。約束を果たせ」

「分かっていますとも」

 

 頑迷だと思考の隅で思案しながら、眼光も鋭く約束の履行を迫るアスカから目を逸らしたアルビレオは、会場全体を見渡すように首を巡らせた。

 観客の中にネギ、選手控え席にいる明日菜の姿を確認して、視線をアスカに戻す。

 

「学祭が終わったら茶会を開く予定です。詳しい話はその時にしましょう。ああ、すっぽかしはしませんよ。私の居場所は学園長が知っていますから、私が教えたと言えば案内してくれます」

 

 胡散臭い筆頭の男が約束を守るとは到底思えず、そんな内心が表に出たのかアルビレオが慌てた様子もなく訂正に回る。

 

「逃げるなよ」

 

 ここに辿り着くまでの苦労を思えば一言でも言いたくなる。

 

「神や名誉ではなく、私の全てを賭けて誓いましょう。疑わしいなら契約を交わしても構いません」

「いや、必要ない」

 

 苦労から一言だけ言いたかっただけで疑いはしていないアスカである。この武道大会にしても参加前よりも明らかに実力が増しているのも分かる。色々と考えなければいけないこともあることが分かった。参加したことの他にも確かな意味があったのだ。

 

「ですが、約束の件はどうせなら私を斃してからにして下さい。その方が楽しいでしょう?」

「お前な……」

「そろそろ観客も焦れてきていることでしょうし、始めましょうか」

「ああ、もう!」

 

 アルビレオが言った瞬間に、アスカは弾かれたように動いていた。床を蹴ったその動きは、一歩目からトップスピード。アスカの身体が、そのまま鋭い矢と化した。

 疾風よりも速く、稲妻の如く、瞬く間に距離を詰め、アルビレオの死角に滑り込む。グルリと滑り込んだ身体が、ここまでのベクトルを上乗せして、男の鳩尾へ拳を叩き込む。拳が胴体に到達する―――――その寸前で、

 

「おや、危ない」

 

 するりと、アスカの拳をアルビレオの手の平が包み込んだのだ。それしか感じられなかった。

 たったそれだけで、アスカの拳は逸らされ、アルビレオはアスカの右脇へと回り込んで背後へと流れていく。斜め後ろから背後に逸れて視界から完全に消える前にアスカの体は動いていた。

 視界の端から消えていくアルビレオを追うように振り返りながらの裏拳。

 

「選択は間違っていません。ですが、体勢が良くない所為で体重が乗っていない。うん、プラスマイナス0ですね」

 

 これまた優しく軌道を逸らされ、ローブを掠めただけで虚空を切った。アスカの手には羽毛に触れた感触すらない。

 

「戦い慣れているのは高評価です。悪くないのでプラス一点です」

「ふざ、けるな! 勝手に評価をつけるなど!」

 

 余裕を見せつけるように体重を感じさせない動きで距離を開けるアルビレオに、一足で間合いを詰めたアスカの両手が颶風に霞んだ。

 正拳、掌打、手刀――――いずれも一般人には影すらも映らぬ迅雷の速度。その全てが身動きを取らなかったアルビレオによって簡単にいなされた。速さではない。体に触れるほど接近したのに不思議な力場で逸らされているような感覚。

 

(これはまさか……)

 

 アルビレオの情報は他の紅き翼メンバーと比べると不思議なほど少ない。分かっているのは優れた魔法使いであるということだけ。

 少ない情報量からどう攻めるか―――――などと悠長に考え込んでいる暇はなかった。途端にドンと重い物が叩きつけられるような音と共に、突如大量の荷物を乗っけられたようにアスカの腰が落ちた。

 目には見えない力が全身を軋ませる。

 

「これが、重力か」

「如何にも」

 

 不可視の力の正体は楓やエヴァンジェリンから聞いていたので直ぐに気がついた。アルビレオの魔法によってアスカの周囲の重力だけが通常の数倍に増幅されたのだ。 

 重力による魔法攻撃は非常に厄介だ。まず、使い手の存在が稀有であることから対策が取りづらい。また、重力という性質は攻撃にも防御にも優れている。

 火・風・土・水といった元素系魔法とは異なり、空間や重力を操る物理系魔法は、空間認識能力や物理法則の掌握など、術者自身に対する負担が大きく、シビアな意識の集中が求められる。

 強大な重力を受けるだけで体はぺしゃんこになってしまうし、軽いものでも動きが鈍くなってしまうことは免れることができない。動きが鈍くなった所に他の強大な魔法を放つでもいいし、そのまま負荷を強めるでもいい。まさしく、攻防一体ということができる。

 当たらない限りダメージが皆無であったり、周囲や自分を巻き込まないために広範囲に攻撃を仕掛けにくいというのがせめてもの救いだけれども。

 

「ぐ……っ!」

 

 気を抜けば、何十本もの見えない重力の手に、全身を押さえつけられて銃を奪われた銀行強盗みたいに床に叩きつけられるだろう。歯を食い縛って堪えながらアスカは前に踏み出した。

 三歩歩いたところでアスカはつんのめった。どうやら重力場はアスカを中心とした半径一メートル半ほどの範囲内だけだったようだ。

 詰まっていた息を吐きつつ顔を上げたアスカは、そこに自分を見下ろす二つの瞳を見た。直ぐ目の前にアルビレオがいた。

 

「……だっ!」

 

 咄嗟にアスカは伸び上がりざまに右の拳を放った。考えるよりも先に身体が動いていた。しかしその拳は、アルビレオまで後数センチというところで受け止められてしまった。

 ミシッとアルビレオの手に力が込められ、拳が軋みを上げる。

 

(拳が砕かれる……!?)

 

 思って回避するために逆に踏み込もうと瞬間、再び凄まじい重力が襲い掛かってきた。

 

「がッ――っ!?」

 

 突然、前にいるはずのアルビレオの攻撃によって斜め後ろから吹っ飛ばされた。予想だにしない方向から衝撃を受けた肺から酸素が抜け、床を踏みしめるはずの足が宙を掻き、バランスを崩したアスカはたまらず斜め前へと倒れ込む。

 それでもアスカは攻撃の意思を解いていなかった。前方に吹っ飛ばされた―――――それはアスカの体勢を崩したと同時に、攻撃の間合いに入ったという事。

 奥歯を噛んで激痛に耐えながら、アスカは床に顔がつきそうな状態で右手をつき、倒れこんだ勢いを殺さずに逆に自分から飛んだ。

 片手をついての前転跳び宙返り。吹っ飛ばされた勢いに自分の力を加えた斜めからの踵落とし。 

 本気で右半身と左半身を蹴り裂くつもりで放った一撃は、当たるかと思われたが空を凪いだ。直前で一歩下がったアルビレオによって躱されたのだ。更に駄目押しだと言わんばかりに顎に衝撃。置き土産に残した腕が一閃し、アスカの顎を跳ね上げたのだ。

 脳を揺らされた。失いかけた意識の中、宙を上へ飛ばされながらアスカは奥歯を強く噛み締め、力を入れすぎて歯を砕いた痛みでそのまま強引に意識を引き戻す。

 肉体の自由を取り戻し、しかし、全ての行動が遅すぎる。

 

「―――――まだですよ。判断が遅すぎです。マイナス二点しておきましょうか」

 

 アルビレオの短い言葉と同時に、右方向から胴へとブローの一撃。そのダメージを受けて、ミシリと自らの肋骨が軋んだ音を聞いた。

 

「く……っ」

 

 耐えた。アスカはその一撃を耐え切って身体を捻り、床に水平に着地。そのまま四肢をついた状態から再びアルビレオへ踊りかかる。フットワークや体捌き、細かな瞬動を繰り返してアルビレオ・イマの繰り出してくる重力球を避けながら接近する。

 

「ふふ、良く避ける。一点プラスです」

「余裕を見せつけて!」

 

 激昂した一撃が紙一重で空を切る。この場合、紙一重というのは決して惜しかったという意味ではない。それだけの余裕をもって見切られてしまっているのだ。分からぬアスカではない。

 

「たぁあああああ!」

 

 問答無用の突進攻撃。宙を歩くように距離を開けた刹那の間に肉薄したアスカは、ほんの一瞬、その姿を颶風へと変えた。直後、アルビレオの腹部に三度の衝撃を叩き込む。

 一息で三発の拳を繰り出すアスカ。

 

(これで――――ちっ!?)

 

 続けざまに攻撃しようとしたアスカだったが、強烈な悪寒が少年を引き留めた。

 咄嗟に虚空瞬動で空を蹴り、出鱈目に飛び跳ねながら間合いを広げていく。

 

「……ふっ」

 

 アルビレオは上げた右手を手刀の形にした状態で上げた姿勢で、よくぞ見破ったとばかりに小さく笑った。

 微動だにしていない。まるでさっきの攻撃が何一つ効いていないかのように。

 

(簡単に行き過ぎているような………ええぃ、考えるのは後だ)

 

 アルビレオがアスカの狙いを読んでいるように、アスカもまたアルビレオの狙いを読んでいる。条件は同じだが、その割には上手く行き過ぎているような気がした。だが、下手に考え事をすれば直ぐに被弾することは分かりきっていた。考えることを後回しにして回避に専念する。

 そして攻撃の間合いに届く直前――――アスカは直感で正面に向かって拳を叩き込んで、目の前の空間を殴り飛ばした。

 アスカの手に確かな手応えが変えるのと同時に、ギンという甲高い金属音のようなものを立てて何かが弾ける。

 すると、奇怪な現象が起きた。突然、鋼鉄を打ったような轟音が響いた。まるで撓んでいた空間そのものを、拳を使って平らに叩き直すように、光の進行を歪めていた見えざる何かを、この場所から殴って打ち飛ばすように。

 

「おおっ!?」

 

 それを見たアルビレオが、珍しいものを見たように驚いた仕草をして眼を僅かに見開いた。 

 行ける、とアスカは判断する。

 何となくだが重力場が発生する時に事前に発生する空間の歪みみたいなものを感じ取って勘で拳を放って見たが、意外と何とかなった。空間の歪みを察知するという行為は、視覚に頼らずに気配を掴まなければならないため神経を使うが、やってやれないことはない。

 

(ここで畳みかける!)

 

 空間系の魔法は、冷静な状況の把握と計算が必要不可欠だ。本来ならば吹っ飛ばされる筈のアスカに、そのまま向かって来られれば計算は狂い、次の魔法の発動にタイムラグが生じる。

 

「驚きました。まさか重力を殴り飛ばすとは。先のも合わせて三点プラスです」

 

 のんびりした口調と表情で言いながらもその内面には確実に焦りが生じているはず。既にアスカとアルビレオとの距離は、充分に縮まっていた。こちらの間合いだ。この距離とタイミングなら、全力で拳を放てば例え正面から攻撃を食らっても後ろへ吹っ飛ぶ前にこちらも攻撃も届く。

 

「おらぁああああああ!!」

 

 雄たけびを上げつつ、放つのは不可避の渾身の一撃。

 拳に紫電をまとい、床を大きく踏み抜いて振り抜いた。全力で放てば数百メートルの巨岩も容易く粉砕する自信がある拳には魔法の射手が乗せられ、これから行うのはナギが得意とした魔法コンビネーションの亜種。

 

「っ!?」

「これも貰っとけ!!」

 

 打ち抜いた拳打で体が浮かび上がったアルビレオに向けて、もう一歩踏み込んで引いていた反対の腕に雷の投擲を乗せてぶち込んだ。

 先の魔法の射手が込められた拳で魔法障壁を破壊した。大会のルールに乗っ取って、雷の斧の代わりに無詠唱で放てる雷の投擲で代用したコンビネーション。

 

「ほう、ナギが得意とした連携に似ていますね」

 

 しかし、直撃するかと思われた雷の投擲はアルビレオによって受け止められていた。まるで手応えを感じない。ともすれば触れているとすら思えないほどに綿に包まれたような感触だった。

 

「最後が雷の斧だったら私も危なかった。ですが折角の勝機を逸したので、辛いですが減点五点としときましょうか」

「まだまだっ!」

 

 侮られたと感じたアスカの体が回転しながら左足が跳ねた。ほれぼれするほどの鮮やかな孤を描き、上げた腕の下にある脇腹に後ろ回し蹴りがめり込む――――はずだった。

 アスカが息を止める。雷の投擲を離したアルビレオは、その脚の上に乗っていたのである。先程の拳と同じく乗っている感触させなかった。小鳥に乗られた方がまだ重いというぐらいに軽々とアルビレオはそこにいた。

 

「アンタは何時もそうやって人をおちょくろうとする!」

「おっちょくってなどいません。これが素なだけです」

「なおさら悪いわ!」

 

 覗く口元が嘲笑っていると感じたアスカは、左足を上に撥ね上げてアルビレオを空中に浮かせて軸足の右足で飛んだ。空中で身を捻りながら右足で蹴りを放つ。

 だが、手応えがない。避けられたことを理解し、着地して顔を上げたアスカは見る。手を伸ばせば触れられるほどの距離で眼の前にいた筈のアルビレオが、一瞬にして自分から見て前方――――攻撃の遥か間合いの外へ移動しているのを。

 その原因を直ぐに分かった。アルビレオを包むように感じる空間の歪み。つまり、己に重力を後方へ行くようにかけて移動したのだ。アスカは戦慄した。何故ならばさっきまで事前に感じ取れた空間の歪みが察知できなかったから。

 

「さっきまで手加減したってわけか」

 

 自分は何という思い違いをしていたのか。大戦の英雄『紅き翼』の一人アルビレオ・イマ。その実力は間違いなく世界最高位であり、例えアスカが本気で戦おうとも勝てるどうか怪しいレベルの相手。察知できていたのではない。察知出来る領域までレベルを落としていたのだ。

 

(なんて、惰弱、気の緩み、油断。ちょっと感じ取れただけで浮かれたか、アスカ・スプリングフィールド!!)

 

 己を過大評価して相手を過小評価するなど戦うものとして最もしてはいけないこと。それもよりにもよって勝てるかどうかも怪しい相手に最もしてはいけないことをしたのだ。これはきっとその報い。

 

「甘い。警戒を緩めましたね」

 

 それを悟った瞬間、耳に届いた声と同時にアスカは再び宙へと吹っ飛ばされていた。

 真下から鳩尾に衝撃を受け、口から唾が飛ばしながら苦痛に顔を歪める。胃の中の物を戻さなかっただけで賞賛できるアスカに非情な宣告が下る。

 

「次、行きます」

(…………背後かッ?)

 

 宣言と同時に空間の歪みを感じ取り、強引に身体を捻ると、背後へ向けて肘撃ち放つ。手応えと共に甲高い音が響き――――しかし、背中に衝撃を喰らう。

 

「――――ぐはぁッ! 二面攻撃!」

「誰も一方向からだけとは言ってませんからね。それに――」

 

 空中に在るアスカを襲う無数の衝撃。傲慢の対価をこれ以上ないほどに味わう。まだまだ己が甘かったのだと。

 

「――――二方向からだけとも言ってませんしね」

 

 言葉通り、上下左右、前方と後方のあらゆる方向から不可視の重力の集中攻撃が始まった。

 迎撃できるのは普通なら一方向、タイミングが良くても二方向が限界だ。残る四方向からの攻撃は、全て直撃を許してしまう。いや、斜め上や斜め下からも合わせれば何通りあるか。

 

「…………っ、~~~~っ!」

 

 想像通り、あらゆる方向から来る攻撃に反撃を中断し、迎撃よりも防御を優先して硬気功で身体を固めるも、アルビレオの攻撃は決して軽いものではない。空中をピンボールのように跳ね回り、あっという間にダメージは蓄積されてゆく。

 このままではやられるだけだと分かっていても防御に集中しなければ数撃で沈むのは己。こうしている間も足が地につくことはなく、身体はピンボールの如く軽々と何かに跳ね飛ばされて宙を舞う。

 今のアスカにこの状況を改善する方法は無く、言うならば完全なサンドバック状態。アルビレオが手を緩めることなく、攻撃は執拗に続けられた。

 そして。

 

「―――――」

 

 一切の慈悲も無く攻撃を続けていたアルビレオが唐突に攻撃の手を止めた。と同時に、宙で跳ねていたアスカが落下。そのまま床に激突する。

 

「意外と呆気なかったですね……………しかし、強情な所は一体どちらに似たのやら」

 

 ズタボロの様子で最早ピクリとも動かなくなったアスカを一瞥する。

 アルビレオは二回戦で高畑相手に居合い拳もどきを放っていたのは見ていたし、嵐の夜のヘルマンとの戦いだって覗き見ていた。

 その上でアスカにはもっと底があると判断したのだが、本気へのスイッチはまだまだ遠いようだ。一体父親と母親のどちらに似たのやら。……………母親の可能性が高いと思ったのは彼だけの秘密である。

 あれで生まれたての子供達に激LOVEで、大事な一戦を前にして可愛さを延々とアルビレオに語ってくれた父親に殺されたくはないから。

 

「そこまで強情だと逆に呆れますよ」

 

 懐かしき日々を懐古して口元に笑みを浮かべていたアルビレオは、虎視眈々と攻撃のチャンスを狙っていたアスカに上から重力場を落とす。

 

「ぬうっ!?」

 

 意識があることを悟られたアスカは起き上がり避けようとするも間に合わず、地面に膝をついて地面にモザイク状の亀裂を入れながら両腕を突っ張って上体を支えた。

 アスカはまさに猛禽に襲われるウサギだった。凄まじい轟音が空間を圧し、続いて衝撃波が舞台を轟めかして湖面を揺らめかせた。

 実際に何かが身体に圧し掛かってきたわけではない。だが、体感で三百キロはあろうかという加重だった。少しでも気を抜けば地面に突っ伏したまま動けなくなりそうだ。

 気持ちだけは迎え撃ちたいが、現実には指一本ですら動かすことが出来ない。体は鉛のような重さであり、床を突き抜けていきそうなほどだった。四肢に渾身の力を込めて動こうとしても体は今以上にピクリともしない。

 

「ご……、がっ……」

 

 まるで地球の重力が数倍に増したような重圧に襲われ、内臓を丸ごと絞られるような感覚にアスカは必死に吐き気を押し殺す。朦朧とする意識が、目の前に君臨するアルビレオをかろうじて捉える。

 

(落ち着け……慌てたところで何もならない)

 

 ギリギリ、と強力な電磁石に絞られたような状態に耐えて胸中で自身へと言い聞かせ、そしてこの状況を打破するための策を思案する。

 焦る感情を理性で制御できなければ勝てるものも勝てない。冷静さを欠いた状態で戦えるほど甘い相手ではない。

 

「ダメージを受けた小太郎君はこれで一度は沈んだんですが、いやはや我慢強い。一点プラスしてあげます」

 

 時間が経つごとに圧する重力は増し、四肢をついているクレーターを作っている舞台に走っている亀裂を深めていく。

 

「私が遊べるのもそう時間がありませんし、手っ取り早く底を見せてもらいましょうか」

 

 ほどなくアスカの全身の毛穴から傍目から分かるほど汗が噴き出した。歯を食い縛りながら顔を持ち上げ、視線を頭上に向ける。

 四つの重力球が宙に浮かんでいるのを感じ、その真ん中に白いフード付きのマントを目深に被ったクウネル・サンダース――――本当の名をアルビレオ・イマが立っていた。

 ひどく酷薄な笑みがアルビレオの唇に浮いていた。

 人にはありえない。しかし、人にしかありえないそういう微笑。その冒涜も欲望も人に近すぎて、だからこそおぞましい瞳であった。

 人の形をしているが、果たして生身の人間なのかどうか―――――そう疑いたくなるほどに生命の息吹が伝わってこない。

 

「うぉおおおおおおおおおおっっっ」

 

 それでも諦めずに魔力を振り絞って重力場から脱しようとする。生半可な力では振り解けない。ならば、世界でも有数の魔力を頼みにありったけを放出する。

 

「無駄です」

「うぐっ!?」

 

 抗うアスカに向けて四つの重力球が落とされ、体感する重力が十倍以上に跳ね上がる。

 頑丈なはずの舞台がアスカを中心としてへこみ、底が抜けないかと不安になるほど。不自然な鳴動が舞台を軋ませ、湖面に波紋を作り出す。

 あまりにも絶望的で勝機のない戦いと酷薄な笑みを浮かべたクウネルを前に、絶妙に身動きできないように調節された重力場から一ミリも動くことが出来ない状況を理解し、歯を噛み締めた。

 アルビレオ・イマには、未熟さも戦いを止める理由も戦いを楽しむという気持ちも無い。

 人と人の実力差ではない。まるでゲームのRPGでレベルが100以上違うキャラクターを相手にしているような、始めたばかりでラスボスが現れたような、それだけの力の差を感じる。単純に力の差がありすぎて戦いにならない。これでどう勝てと言うのだ。

 

「うぉあああああああああああああ!!!!」

 

 尚も魔力放出を止めない。間欠泉の如く噴き出す魔力は、普通の魔法使いならば瞬く間に枯渇に陥るほどの量。アスカの全身を縛っている重力場が、限界など知らぬとばかりに溢れ出る魔力に軋み、そして崩壊する。

 

「だらぁあああああああああああああ!!」

「なんと無茶を……」

 

 圧していた重力場を超える魔力が放出されて、あまりの無茶振りにアルビレオも驚きを禁じ得なかった様子だった。 世界でも有数の魔力量を誇るアスカだからこそ可能な脱出方法だった。

 莫大な魔力を垂れ流しにして重力場を内側から破壊したアスカが一直線にアルビレオに向かって飛翔する。

 向かってくるアスカに向かって、アルビレオは冷静に重力場を打ち出す。

 

「くっ……!? 重力場が弾かれる。魔力放出はその為の……」

 

 が、莫大な魔力を全開に放出することで周囲の空間を己の魔力で埋め尽くす。重力魔法も魔力を使った魔法であるからして、他者の魔力で埋め尽くされた空間に干渉することが出来なかった。

 アルビレオほどの技量ならば狙いが読めていれば干渉することも可能だったが、アスカの行動を破れかぶれだと判断した油断だった。

 アルビレオの反応から策が見抜かれたことを察したアスカは、放出していた魔力を足裏に集中して更に加速する。

 

「うらぁっ!!」

 

 一瞬で懐に潜り込んだアスカの拳がアルビレオの胴体を直撃する。

 確かな手応えに慢心することなく、弾き飛ばされたアルビレオの背後に先回りして身を捻りながら背中に回し蹴りを落として地上に叩き下ろす。

 

「これで決める」

 

 アルビレオが舞台に叩きつけられるよりも早く、体勢を直したアスカの背に無数の魔法の射手が浮かび上がる。

 十を超え、五十を数え、百に到達する頃にアルビレオが舞台に身を翻して着地した。

 

「行け!」

 

 制御しているのはアスカなので、わざわざ口に出す必要はないのだが気分である。百を超える魔法の射手が地上にいるアルビレオへと向けて射出される。

 地上から見上げれば雨の如く降り注ぐ魔法の射手が見えたことだろう。その全てが狙い過たず着弾する。

 爆竹を十倍に大きくして爆発させると似たような感じになるかもしれない大音響の音に、会場に誰もが耳を塞ぐ。

 

「やったか?」

 

 会場は葬式のように音の一つない静寂に満ちていた。誰かが呑み込んだ唾液の音すら大きく響くと錯覚しそうな静けさだった。天使の如く地上に下りたアスカは薄らと呟いたがそれはフラグである。

 舞台の一部を覆い隠していた煙が晴れると、そこには汚れ一つないローブを纏うアルビレオの姿があった。

 

「見事です。この体でなければ多少はダメージを負っていたことでしょう」

 

 歌うように口遊むアルビレオの足元は驚くほど綺麗だ。魔法障壁を展開し直し、別の障壁を上空に展開することで百を超える魔法の射手を防御したのだろうが、それでも完璧な防御は出来なかったようだ。舞台に三つの大きな穴が開いている。

 

「嫌みかよ。卑怯するぞ、その体」

 

 ダメージを受けた様子のないアルビレオにアスカは舌打ちをする。

 視界の先、対戦相手を冷静に見定める双眼。アルビレオはアスカの何かを推し量るように、間で揺れ動く不可視の天秤を見定めるかのように、長く長く黙りこくっていた。

 

「頑なにルールを守りますか。強情な事です。そんなところは本当に親譲りだと思いますよ」

 

 秘匿云々はぶっちしているが、大会の詠唱は禁止のルールを守っているアスカの愚直さが、懐かしくとも今は何故だか妙に虚しくてアルビレオは溜息を吐いた。

 アルビレオの瞳は、少年から離れない。けして、アスカから逸らそうとしない。

 猛禽類のような鋭い輝きを隠そうともしない瞳が、絶好の獲物を見定めたように食い入るようにこちらを見つめて来る。まるで自分の中心までも見透かされるような心持ちがして、アスカもアルビレオから視線を離せなかった。相手の底の底までも見通すような、奥の奥まで見極めるような、ひどく酷薄で冷ややかで恐ろしい瞳であった。

 

「意地を張るところは両親に似ていますね。あの二人も強情でした」

「俺が英雄に似ているだと?」

 

 咄嗟にアルビレオが紅き翼に所属していたことから、言っているのはナギのことだと勘違いしたアスカの口が勝手に動く。まだ判断能力の全てが戻っているわけではないのだ。

 

「英雄ですって? また面白い言葉が出てきました。よりにもよって二人の息子である貴方からそんな言葉が出るとは。ふふ、こんなにもおかしなことはありません」

 

 アスカの言動に、微かにアルビレオはフードを揺らしながら喉の奥で哂ったようだった。

 何か知ってはならぬことをその底に潜ませているような、禁断の行為を唆す悪魔のようなほの暗い気配をその声は備えていた。

 

「そんな言葉をあの二人が聞けば怒るか困るかしたでしょうね。いえ、本人達のいない場での仮定に意味はありませんか」

 

 フードの魔法使いの答えにアスカは沈思した。

 両親の事を情報としてか知らない身では答えるべき何物をも持っていないからだ。単に伝説された過去と、その伝説中の人物が触れて来た現実の差なのだろうか。

 

「ただ一つだけ、これだけは言わせて下さい」

 

 言い方も在り方も道化染みた中で、この時の言葉だけは真摯であろうとする気持ちが感じられた。

 

「ナギにしても決して英雄になりたかったわけではなないでしょう。戦っていたらそんな風に呼ばれていた、と以前に言っていましたから」

 

 ごく当たり前の、つい先日の天気でも話すみたいにアルビレオは話し続ける。

 

「今となっては全てが懐かしい。あの頃はどんな過酷な戦場でも珠玉の日々でした」

 

 アルビレオの声は、もはや取り戻せぬ遠い過去を忍ぶように舞台の床を這った。

 声が耳を通過して脳に達した瞬間、確かにアスカはアルビレオの背後に長い長い道があるように見えた。遥かな戦いの日々を、アルビレオの言葉は束の間だけ少年の脳裏にも去来させたのだった。

 

「そう、もはや取り戻せない過去が今はどうしようもなく懐かしい」

 

 悲哀も後悔も、遥かな過去から積み重なっている全てを押し込めようとしているようだった

 小さく、アルビレオは溜息を吐く。小さいけれど、耳にこびり付くような重い溜息だった。

 

「結局のところ、私達のやっていることは何もかも無駄なのかもしれません」

「……?」

 

 アスカが眉を顰める。

 

「なら、どうしてそこまでする?」

 

 アルビレオ達が何をやろうとしているかは分からない。それでも無駄だと分かっていることをしようとしていることが気になって静かに訊いた。

 

「私は、私達は勝てなかったのです」

 

 アスカの言葉に、アルビレオの表情が変わった。一瞬怒気を孕ませ、しかしその怒りを直ぐに鎮静化させたのである。

 一瞬、アルビレオが言った言葉の意味がアスカには分からなかった。万分の一秒にも満たぬ時間で頭は意味を理解したが、しかし心が納得するのを待たずに、アルビレオは更に続ける。

 

「大事な相手を護れなかった敗者として無様を曝しているのが私です。だから、二度は負けられません。だから、手段を選んでいられません。例えその手段が人の道から外れていようとも、例え望まれていなくても私は躊躇わない」

 

 その口振りには、冗談の欠片も感じ取れない。けして曲がることの無い、自然の摂理を告げる預言者の様だ。饒舌そのもので、その口振りと異様な出で立ちも相まって舞台の上が突如として狂騒劇の舞台に変じたようでもあった。

 

「大事な相手の子供を利用すると分かっていても、ね」

 

 言って、アスカを見下ろすアルビレオ。

 どこまでも嘘っぽくて安っぽい、まるで三文歌劇に登場する役者のような仕草。好き好んでやっているのではないと憂鬱そうにしている姿は演技には見えない。自ら敗残者と名乗っているだけあって手段を選んでもいられる状況でもないのか。

 

「…………時間です。もう五分が経ってしまいます」

 

 少し残念そうな声を出しながらアルビレオは瞳を細めた。

 

「五分間、持ち堪えたご褒美を差し上げましょう。そして、これで…………私も十年来の友との約束を果たす事ができます」

 

 来たれ(アデアット)、と懐から一枚のカードを取り出して小さな声で唱えた。

 

(仮契約カード!!)

 

 一瞬の光と共にアルビレオの周りに螺旋状に連なる何冊もの本が現れたのを見たアスカは、痛む体を押して一歩後ろに大きく距離を取った。

 パートナーとして契約した魔法使いの従者に与えられる特殊な力を秘めた魔法具であるアーティファクト。アルビレオのアーティファクトが如何なる効果を発動するものなのか警戒したためだ。

 

「私の趣味は他者の人生の収集でしてね」

 

 似合っているとは思うが嫌な趣味であることには変わりない。 

 

「このアーティファクト『イノチノシヘン』の能力は――」

 

 言いながら取り巻く本から一冊を手に取り、開いたページに同じように浮かんでいた栞を挟んで閉じ、栞を勢い良く引き抜く。瞬間、栞から強烈な光が迸る。煙まで吹き上がってアルビレオの全身を覆い尽くす。

 

『こ、これはクウネル選手、フードを脱いでいる? 素顔なのか!?』

 

 薄らと見える煙の向こうではフードを被っていないように見えた。

 

「近衛……いや、青山詠春か」

「ご名答。二十年前の婿入りする前の詠春です」

 

 煙が晴れたところに立つ人物は、二十代前半ぐらいの眼鏡をかけた青年。長身に合う鞘に入れられた野太刀を手にして立つ姿はアスカの記憶にあるものよりも若いものだった。

 選手席から聞き覚えのある驚いた声が幾つも聞こえた。その声すらも今のアスカには遠い世界のように感じた。

 

「特定人物の身体能力と外見的特徴の再生。これこそが『イノチノシヘン』の能力です」

 

 先と同じように周りを渦巻く本に次々と栞を刺して引き抜いていく度に姿が変わっていく。

 学園長に、高畑に、麻帆良にいるアスカと関わりのある者達に次々に。また面識のない巨体の男、小柄の少年、亜人の女へと変化は止まらない。

 

「しかし、この能力は自分より優れた人物の再生はわずか数分しか出来ず、あまり使える能力ではありません」

 

 次々に吹き上がる煙が舞台の上を覆い尽くし、まるで計ったように二人がいる場所のみが竜巻の中心のようにエアポケットを創り出してた。

 

「この魔法書、一冊一冊にそれぞれ一人分の半生が記されています。そして……」

 

 困惑を深めていくアスカを置き去りにするように、真名から楓の姿に変わるアルビレオ。変化が3-Aの生徒に入ってからはアスカの反応を楽しむようにどんどん親しい者になっていく。

 刹那から木乃香、木乃香から明日菜へと変わっていくのを見れば、アルビレオは趣味の悪い男だと思わざるをえない。

 

「我がアーティファクトのもう一つの能力は、この半生の書を作成した時点での特定人物の性格・記憶・感情、全てを含めての『全人格の完全再生』」

 

 何故アルビレオがわざわざ自分のアーティファクトの説明を、それも使い方次第では反則的ともいえる『イノチノシヘン』の能力を実演してみせたのかを理解する。

 この場で全人格の完全再生をするとしたら思い当たる人物は一人しかいない。

 

「もっとも再生時間は僅か十分間。魔法書も魔力を失ってただの人生碌になってしまうため、これまたあまり使えない能力です」

 

 アルビレオもまた、アスカの思考に気付いたのか、明日菜からネカネ、アーニャ、ネギへと変化しながら少年には似合わぬ笑みを浮かべる。

 

「使えるとすれば『動く遺言』として…………といったところでしょうか」

 

 遺言と聞いて、アスカはネギの記憶で見たナギの言葉を思い出した。

 六年前の村が滅んだ後に現れたナギはネギ達を救い、去り際に杖と水晶のアクセサリーを渡していった。「俺の形見だ」と。

 

(おかしい)

 

 記憶を改めて思い返してみて不自然さが際立つことに気がついた。

 

(六年前には確実に生きていた。あれだけの悪魔の集団を斃したんだ。それは間違いない)

 

 なのに、ナギは自らの杖を渡しながら形見と言った。これは矛盾している。まるで生きているのに死んでいるような……。例え生きていたとしても二度と会うことは出来ないと知っているということになる。

 目の前にアルビレオが使っているアーティファクトもナギと仮契約したことで得ていると仮定すれば、アスカの推測の可能性を後押しする。

 何らかの理由で契約者である魔法使いが死亡した場合、カードは失効し、色調・従者の称号・徳性・方位・星辰性の表記が失われる。失効したカードは念話を始めとした様々な能力を失い、アーティファクトも使えなくなる。裏を返せば魔法使いが意識不明になっても、異次元に飛ばされても魔法使いが死亡しない限りカードは失効しないわけで、カードが有効な間は生存している証拠ともなる。

 

「如何です? ココまではお分かり頂けましたか?」

「ああ、よく分かった。どんな形であっても親父は生きているってことがな」

 

 どんな理由があったにせよ、今ここにある現実こそが全てだとアスカは知っている。

 

『煙が晴れてきました。おやぁ? クウネル選手、またフードを被って……一体、どういうことだ!?』

 

 和美のアナウンス通り、アルビレオはネギから元の姿へと戻って、フードを目深に被った姿でアスカを睥睨する。

 

「―――――では、本題です。十年前に我が友の一人からある頼みを承りました。自分にもし何かあった時、生まれたばかりの息子達に何か言葉を残したいと」

 

 アスカは荒れ狂う感情に突き動かされるようにひたすらに拳を強く握りしめた。強く握り締めすぎて、拳は真っ赤になっていた。胸の鼓動だけが物凄い勢いで脈打っていく。

 

「心の準備はよろしいですか? 時間は十分。再生は一度限りです」

 

 渦を巻いていた本の束がなくなり、一冊だけがアルビレオの手に在る。その書には「NAGI SPRINGFIELD」と記してあった。

 

「さあ、アスカ君。あなたが相対するは嘗ての英雄です」

 

 書をフワリと浮かばせて、発動を示すように輝き始めた中でもアルビレオは変わらない。何時ものようにのんびりと微笑しているだけだ。しかし、その瞳だけが鋭い光を湛えていた。

 

「せめて、貴方が私達では進めなかった道を歩む者だと信じさせて下さい」

 

 重すぎる切なる願いと共に全てが輝きに染まる。

 

『ま、また光った――っ!?』

 

 アルビレオの全身を覆い尽くしても足りない光の柱が天を突き、あまりの光量に誰もが目を閉じずにはいられなかった。

 間近にいたアスカも例外ではなく、目の前に太陽が発生したかのように腕を咄嗟に掲げてしまう。

 視界が眩んだのは一瞬。三秒もあれば眩んだ視界も元に戻って来る。

 光と共に発生した煙が晴れる。晴れていく。閃光に咄嗟に掲げてしまった腕の隙間から隠されていた姿が白日の下に曝される。

 

「――――っ!」

 

 その姿を見た瞬間、アスカは全身が燃え上がるように熱くなり、下ろした拳を強く握った痛みを得ることで現実だと知る。

 急に鳥肌が立ち、吐き気が込み上げてきた。否、と叫んだ身体が身も世もなく震え出し、アスカは慌てて目を逸らした。この少年らしからぬ恐れに似た感情によるものだった。

 アスカは無意識に後退っていた。

 こんな偶然だけは絶対に在り得ない。在ってはいけない。幾らなんでも飛躍し過ぎだ。馬鹿馬鹿しくなる。アスカは自分で自分の想像を必死に否定しようとしたが、想像は中々消えてくれない。脆いはずの想像を僅かなりとも補強しているのは自らが打ち立てた推測だ。

 

「ナギィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィっっ!!」

 

 会場中に響く、選手控え席からのエヴァンジェリンの声すらも耳には入って来ない。

 それほどに、どうしようもなく致命的な相手だった。

 それほどまでに、アスカ・スプリングフィールドには絶望的な相手だった。

 

「……ナギ、スプリングフィールド……」

 

 呆然と呟いたのであった。胸に渦巻く冷たい感情は重すぎて、声に上手く乗らない。そんな虚ろに響く呟きと共に、アスカの拳から力を入れ過ぎて爪が皮を突き破り、ポタポタと血が零れ落ちていた。

 吹雪のように内心を荒れ狂う冷たい感情とは裏腹に、アスカの呟きはただ喉を引き攣らせる静かな嗚咽に似ていた。

 喉を引き裂かんばかりに重く父の名を呟くアスカの声が、まるで泣いているかのように痛々しく龍宮神社に響く。

 それ以上は声が出なかった。驚きのあまり、ということではなく、その眼を見た瞬間に胸に押し抱えた熱が爆発し、飛び散った欠片が喉を塞いだのだった。

 

「よぉ、息子」 

 

 答えるように、ネギを成長させてアスカの性格を足したような赤髪の長身の男――――ナギ・スプリングフィールドはニヤリと男臭く笑った。

 ナギとアスカ、ここに十年の時を超えて父と子が対面を果たした。

 



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第49話 ナギ・スプリングフィールド

 

 真昼の陽光の下、影は色濃いが小さく縮み、世界は残酷なほど明るく照らされて光に満ちている。滾り落ちると言うに相応しい、夏の強烈な陽光だ。何もかもが白く焼き尽くされ、傲慢なほどの光の圧に拉がれていた。

 アスカの視界の真ん中に、支配者のようにローブを纏った一人の男がいる。背の高い、痩身の男だった。

 痩せてはいるが貧弱という言葉から程遠い。極限にまで絞り込まれた肉体からは、野生の虎のような獰猛な空気を纏っている。ローブの裾がボロボロになっているが、それすらもアクセントなってナギという男を際立たせる。

 燃えるような赤毛、強い意思を感じる瞳。その容貌はどこか野性的で、それでいて粗野では無い荒々しさを備えていた。傲岸とも取れそうな、自信に満ち溢れた笑みを浮かべている。

 ナギがこちらを見ていた。その眼光を目の当りにし、何故か無条件に父親だと感じ取ったアスカは棒立ちになった体がゆっくりと揺れるのを感じた。

 アスカの周囲だけ空気が丸ごと無くなってしまったかのようだった。何度も息を喘がせ、目を剥いた。

 

「あ……ああ………」

 

 まともな言葉は一つたりとも出ず、顔色を青く、そして赤くさせる。呻きのような弱々しい声を漏らしながら目の前の男を直視する。頭蓋の中で神経を掻き毟るような警告音が立て続けに鳴り響いた。ボルトを捻じ込まれるような痛みを米神に感じて、我知らずに心臓が一度、大きく収縮した。

 思考ばかりか魂までも凍り付いたように、その場に立ち尽くす。舌は口の中で絡まったまま、言葉は喉の奥に詰まったままで、まともに呼吸することさえ出来なかった。

 その目を見た瞬間に胸に押し抱えた熱が爆発し、飛び散った欠片が喉を塞いた。アスカは両の拳を握り締め、鏡の中の自分にも重ねられる瞳を見返した。

 忘れようとしても忘れられない記憶。細胞の一片、血の一滴が内包している刻み込まれている遺伝子が証明している。目の前の男から分化して生まれたのだと震える肉体が証明している。

 足が動かない。ひどく現実味がなくて世界と自分とが薄皮一枚で隔てられている。あらゆるものに実感がなく、自分の体さえ、別人のものとしか思えない。ただ一つ胸の内から湧き上がる未体験の感情だけが現実を感じさせてくれる。

 

「麻帆良武道会決勝か…………。わざわざこんな舞台を用意しやがって、相変わらずマメな奴だ」

 

 アスカの耳に、何一つ涙するところなどないのにナギの声はひどく胸に響いた。

 髪を掻き上げたナギは、改めてアスカを見て僅かに目を細めた。

 

「久しぶり、ってのも変な話だ。親子なのにな、俺達は」

 

 ほんの少し唇を綻ばせて笑う、その澄み渡った瞳に自分自身の感情が反射しているように見えて、アスカの方から先に視線を逸らしてしまった。

 ナギ・スプリングフィールドが目の前にいるという事実は、それほどの衝撃をアスカに与えていた。また同時に、目の前に肉を持った人として存在していることもまた心に深く刻み込まれた。

 ナギの姿を見た瞬間、今の今まで自分がナギのことをどう考えていたのかも分からなくなった。更にこれからどのように考えていいかも分からなくなった。

 

「あっちにいるのはネギか。二人の身長が違うのは…………そうか、別荘を使ったんだな」

 

 視線をずらして観客席にいるネギの方を見て、一人でうんうんと頷いたナギは感慨深げに呟く。

 

「十年か。不思議なもんだ。俺の意識上じゃ、まだ生まれて間もないお前が目の前にいる。こんなにも小さいな赤ん坊でしかなかったのにな」

 

 明瞭でどんな威容にも屈することの無い、強靭な何かを秘めた声音が執拗に心を引っ掻き回し、咄嗟に思考が止まるほどに頭をドロドロに溶かす。

 親指と人差し指で輪っかを作ってサイズを現すナギの言動は固まり続けるアスカを解すための冗談でしかなかったが、当人は動くことなく固まったままで沈黙を守っていた。

 

「う~ん、あんま時間がないんだがなぁ」

 

 意固地に無言を貫くアスカに、涙ながらに胸元に飛びこんでくる展開を予想していたナギは感動とは程遠い状況を前にして困ったように頭を掻いた。

 アルビレオのアーティファクト『イノチノシヘン』で再現しているだけのニセモノでしかない。全人格がリプレイされているので自らを『ナギ・スプリングフィールド』として認識しているが十分間限定の幻なのだ。

 このまま貴重な時間をいたずらに消費するのは良くないと考えられるだけの頭は持っていた。

 

「しっかしボロボロだな、オイ」

 

 会話から膠着する状況の打開を計ろうと、見た感じの様子から始めようと口を開いた。ナギが少し呆れ気味に言ったように今のアスカの状態はボロボロと表現するのが正しい。

 二回戦で高音が生み出した影の槍に切り裂かれて服のあちこちが裂かれており、準決勝の高畑との試合ではタコ殴りにされた。先程までアルビレオに重力で全身を打ち据えられたこともあって、生地が傷み切ってボロ雑巾のようになっている。

 服と同じくアスカ自身の肉体も傷つき、ところどころに打撲痕や治療の跡が残る姿は、服装も相まってナギが言うようにボロボロとしか言いようがない。

 

「情けねぇぞ。俺の息子なら無傷で勝ち残ってみろってんだ」

 

 ナギにすれば普段から言い慣れている挑発のつもりだったのだろう。アスカを奮起させようとしたその行為自体には間違いはなかった。

 

「でもまあ、決勝に来たのは流石に俺様の息子のことはある。息子にまで遺伝するとは自分の才能が怖いね、これは」

 

 笑みに溢れたその言葉を聞いたアスカの感情の波が完全に平坦になって、脳天から足先を電撃が貫いた。

 直後、平坦になった反動でもいうようにアスカの中にあるありとあらゆる感情が爆発した。あまりの衝撃に、実際に視界が眩んでしまった。色の区別のつかなくなった世界の中で、ナギの姿だけが不必要に広がった。

 

「ったく、折角の感動の対面なんだぞ。少しは何か言ったらどうだ?」

「何を言えってんだ……っ! こんな突然に現れてっ!」

 

 ぶるっ、と全身が震えて、堪えきれずに喉の奥から引き裂くようにして獣が抜け出したような、掠れた呻き声がアスカの口から漏れた。血走った目がナギを見る。

 頭が真っ白になった。アスカの全てが激昂に支配された。ずっと蓋をして閉じ込めてきた怒りだ。

 

「死んだって聞かされてたのに現れて、また勝手にいなくなって…………」

 

 六年前に滅びゆく村に現れ、兄弟に決して消えぬ呪いを残した。生きている。どんな形であれ、それだけは間違いない。少なくともアルビレオが有効な仮契約カードを持っている現時点では生きていることは間違いないのだ。

 事情はあったのだろう。だが、どんな事情があったにせよ、ネギの記憶で見た限りでは自分の意思で兄弟達の下を離れたと考えられる。村には多くの慕う者達がいて、本来ならば敵であるエヴァンジェリンにも好かれていたナギだ。よほどの事情があったのだろうと想像も出来るので理性では納得もしよう。しかし、感情だけはそうはいかない。

 

「もっと他に言うことがあるだろ、他にもっ!」

 

 怒声を高めるアスカはしかし、それでも正面からナギを見つめることは出来なかった。目と目を合わせる勇気がなかった。

 音が鳴るぐらいに強く奥歯を噛み締め、喉から声を絞り出も掠れる。喉がひり上がって、やたらとつっかえる。ゴクリと唾を飲み込んむ、乾いた喉に張り付いた唾液の感触がぎこちない。

 

「つってもな、今の俺はあくまで記録を再現してるに過ぎないんだぜ。そんな俺に言えることは多くねぇよ。ただまぁ――」

 

 気まずげに頭を掻いたナギの姿が消える。

 自然に過ぎるほどの瞬動で、悪意も闘気もなかったから間近に接近されてもアスカは動くことが出来なかった。

 

「――――大きくなったな、アスカ」

 

 ナギがそっと呟いて、壊れ物を触れるように頭に触れた。ナギの声は、少し濡れているように聞こえた。ただ、それだけで更なる言葉を爆発させようとしたアスカの顔が強張った。

 

「……くっ……」

 

 吐き出そうとした言葉を噛むアスカ。分かってしまうから、分かり過ぎてしまうからこその苦しさがあった。膝から力が抜けるのが分かる。ずっと張りつめてきた精神が音を立てて崩れ出している。

 ギリギリの途轍もなく細い糸で、アスカは精神は保たれているようであった。その糸も既に張りつめている。

 歯を食い縛って耐えるアスカに誰かを重ねたのか、目を一端閉じた。

 

「やっぱり、お前は俺の、俺達の息子だ。こうしていると分かる。俺に、アイツによく似ているってな」

 

 一瞬だけ閉じた眼が見たものは果たして何か、アスカには推し量れない。

 

「お前が今までどう生きてきて、お前に何があったのか…………幻に過ぎない今の俺には分からない。でもな、これだけは言える」

 

 穏やかな声音だった。静かすぎるとすら言っていい。

 無理に聞かせようとするような、我意はどこにもない。なのに、聞き入らずにはいられない不思議な力を秘めていた。

 英雄が持つカリスマか、はたまたナギが生まれ持つ資質の一つか。激怒する大人の男でも、泣き叫ぶ赤ん坊でも、束の間の安らかな心地を取り戻しそうな声。成程、皆が想像する英雄とは、こういうものだろうと意識の端の冷静な部分が納得していた。

 

「世界中の誰よりも――――――」

 

 ドクン、と鳴った鼓動の音が、ナギの声に応える。

 分からなかった。ただ、自分という人間の奥底で、自分の知らない自分が声に反応している。

 

「――――――お前達を愛してる」

 

 と、穏やかに泣く子供を宥めるように優しくナギが言った。

 

「……………」

 

 アスカの表情が、滑稽なくらいに歪んだ。

 所詮は親なんてものは、遺伝子を提供しただけの存在でしかない。初めて出会った相手を肉親だからと突然本能とか愛とかを齎して相互理解出来るなんてことは物語の中でしかない。人が分かり合うには対話と時間が必要なのだ。

 それでも血を分けた者だからこそ、伝わる物が確かにある。

 

「世界中が敵になったって必ず味方になってやる。なんたって前歴があるからな、任せとけ」

 

 淡くて柔らかい微笑を浮かべての言葉。

 触れている頭に縛られているように動けぬまま、アスカは口を開いた。

 

「あんたは、馬鹿か。そんなことあるわけねぇよ」

「分かんねぇぞ、人生なにがあるか」

 

 ナギは何を思い出したのか、クツクツと喉の奥で笑う。

 

「まぁ、馬鹿だってのはよく言われるな。もっぱら戦ってばっかりで、難しいことは頭脳労働担当のアルとかに任してたからな。苦手なんだよ、小難しい事とか七面倒くさい事とか」

 

 自らの失言を安易に謝ることはせず、己の間違いを認めた上で言葉を重ねる。

 

「みんなにも、しょっちゅう似た感じで言われてたな。酷い時には鳥頭だぞ。俺だって、ちゃんと考えてるっつうの。まぁ、考えが足りないのは認めるけどよ。でも、今更変えようもないし、変えようと思わねぇ」

 

 言われ慣れていると、ナギは困ったように頭を掻いた。

 

「俺に出来るのは戦うことだけだ。この拳でぶっ壊すことで変えていくことしか出来ない」

 

 同じだった。アスカもまた言葉の力よりも拳の力を信じている。胸元に上げた手を拳の形に握ったナギに僅かながらも共感を抱いたことが嬉しかった。

 

「時間もない。こうやって喋ったりするのは何つーか苦手だしよ、男ならやっぱこれで決めようぜ」

 

 ナギは表情を変えないまま頷いて瞬動で距離を取り、重心を低くして再び左半身の構えを取って拳を持ち上げる。

 

「折角こんな舞台が用意されてることだし、少し本気を出す。怪我するかもしれねえが………アルもいるんだ、大丈夫だろう。持ってみせろよ」

 

 鋭く研ぎ澄ませ、それだけで相手の肉体を刺し貫くような―――まるで澄んだ水を凍らせたように冷たい。下手に触れれば凍えながら全身を貫かれる。

 語らずとも、その姿が示すことは解った。

 アスカが発する闘気を、逆に呑み込むように発せられている闘気からも答えは明らかだ。

 

「来いよ、アスカ。俺を乗り越えて、お前の意思を示してみろ」

 

 闘気である――――ナギの放つ闘気がアスカの全身を裂いていった。

 その闘気を浴びてアスカは全身を切り裂かれるような思いをした。暑くも冷たくもない。例えるなら紙のように薄く、刃のように鋭利で、それが幾千と放たれ続けているような、まさに狩人が獲物を血祭りに上げるような闘気。

 一般人ならそれだけで死に誘うような闘気に、アスカの米神を一筋の汗が伝う。

 

「やるさ、やってやる」

 

 アスカは心を引き締め直して、闘気によって生じる幻覚を封じ込める。

 狼狽えることなど何もない。求めた人に、自分のやってきたことが届くのかを試す。ただそれだけのこと。一度ギュッと強く瞼を閉じた暗闇の中で自分に言い聞かせる。二度、三度と繰り返し心の内で呟いた後、細く長い息を吐いて、ゆっくりと目を開ける。

 手の震えは止まっている。心臓の鼓動も落ち着き、耳障りだった呼吸も今はすっかり治まっている。それを確認するアスカの瞳は普段の戦闘時の鋭さを取り戻している。これならばナギと戦っても、さっきまでのような無様な姿を晒すことはないだろう。

 アスカは重心を落とし、膝を曲げ、どのような相手の動きにも応じられるように構える。

 その構えにナギは嬉しげにふっ、と笑い、何かに気づいたように首を巡らせた。

 

「ちょっと待った」

「なんだよ。まさか今更やれない(戦えない)なんて」

「言わねぇって。俺達だけでやるのは流石に不公平だろ?」

 

 やる気満々なところを制止されて肩透かしを食らったアスカを止めたナギが、今度ははっきりと観客席でまんじりともせずにいるネギを見て言う。

 

「ネギか? そうだけど大会のルールでは……」

 

 その意を汲み取ったアスカも納得するが、当たり前の話だが選手以外の第三者が試合に参加するなどありえない。

 アスカだって自分だけが美味しい状況を得たいわけではない。が、この状況でその選択を選べば試合自体が破算する。しかし、ナギはそれらを分かった上で悪餓鬼のようにニヤリと笑う。

 

「いいか、アスカ。ルールってのは破る為にあるんだぜ。おい、審判の姉ちゃん!」

『あ、はい!?』

 

 ナギは女であれば百人中九十人が確実に見惚れるだろうハンサムなのだ。残りの十人は好みや趣向の問題に過ぎず、普通の人間ならばカリスマ性と共に呑まれるだけに過ぎず、審判兼司会の和美も例外ではなかった。

 和美は、いきなりナギに話しかけられてテンパった声を上げた。

 

「俺、棄権するわ」

 

 話しかけられただけでもドキドキものだったが、ナギの口から出た内容に頭の中が真っ白になった。

 

『は? 棄権? …………………………………………はああああああああああああああああああああああああああああああ??????!!!!!』

 

 最初は言われた意味が分からずに目を白黒とさせていた和美は、ナギが言った言葉の意味を理解すると驚愕を分かり易く吐き出す。

 マイクで驚愕の叫びを上げたものだから声がハウリングして会場中に響き渡り、ナギの声が聞こえなかった観客席の者達にも理解させた。

 和美が驚愕してくれたから観客も同じようにはならなかったが、やはりどよめきは起きる。折角の格闘大会の決勝戦がこんな結末では納得できるはずもない。

 

『ちょちょちょちょっといきなりなにを言い出すんですか!?』

 

 慌てた様子で舞台に上がる時に躓きかけながらナギの下にやってきた和美が語気も荒く詰め寄る、

 

「聞こえなかったか? 棄権するって言ったんだよ」

『聞こえてますけど、棄権なんて……』

「仕方ねぇだろ。ネギだけ除け者には出来ねぇ。これでも二人の父親だからな」

 

 ちょっと俺良いこと言った的に自慢気なナギに、これが自分の父親かと思うと幻想が壊れる気がするアスカだった。傍から見れば同じことをした際の仕草やらがそっくりなのだが本人はそれに気づかない。

 

「待てって……お、親父」

「!? お、おいおい、アスカ。親父じゃなくてお父さんだろ。パパでも良いぞ?」

「もう一遍死んで来い」

 

 アスカが血縁を認識しても意識して父と呼ぼうとすることが恥ずかしくてどもると、和美の詰問に答えていたナギが一瞬驚いた顔をした後に無駄に良い笑顔で言ってきたので切り捨てる。

 

「おいおい、偽物だってそんなこと言われたらパパは悲しんじゃうぞ」

 

 ヨヨヨ、と泣き真似をするナギは生きているらしいが地獄に叩き落としてやろうかと考えていそうなぐらいアスカの顔が夜叉になっている。

 幻想が壊れてきているのを自覚しながらアスカは溜息をつきながらポケットから仮契約カードを取り出し、「アデアット」と唱えた。

 

「おお、その手があったな。それでネギと合体してエヴァとやりあっているのがアルの記憶にあるぞ」

 

 元であるアルビレオの記憶を共有しているようでナギは直ぐにアスカの意図を察したようだ。

 

「あの野郎と記憶を共有してるのか?」

「じゃなきゃ、状況も理解できないしよ。便利っちゃ便利だぜ。後、アルの野郎をあんま責めてやんなよ」

 

 笑っていたナギがふと寂寥を覗かせる。

 

「十年前のことで俺達を守れなかったって気負い過ぎてんだ。エヴァより長生きしてんのに変なところで弱いんだからよ。分からねぇでもないがな。ま、アルの目的を認めるわけにはいかねぇが、お前らを強くするっつうのは俺も賛成だ」

 

 だから来い、と続けたナギは野性味溢れる獰猛な笑みを浮かべる。

 

「俺を糧として降りかかる災難を物ともしない強さを手に入れてみせろ。何も残せなかった俺がお前達に残してやれるのはこれだけだ」

 

 だから、アスカが絆の銀を取り出した時も何も言わなかったし、寧ろ楽しそうにその時が来るのを待っている。

 

「超えてやるよ。だから大人しく成仏しろよ!」

「死んでねぇって。勝手に殺すな」

 

 ガクリと肩を落としたナギの視線の先で、何時もの調子が戻って来たアスカが手に持つ絆の銀の片割れを投げてネギが受け取る。

 ネギとアスカの想いは一つだった。

 この幻想を価値ある物として残すために、六年の研鑽を目の前の男に見せる為に。

 

「「合体!」」

 

 二人が一人となり、魔力の嵐が巻き起こる。

 

「…………自慢じゃねぇが俺の魔力は世界でも有数の魔力量だ。魔力量は先天的な資質に強く依存する。稀に突然変異がいるが、それこそ例外だ。多少は増やせても劇的な増加はない。体を弄ろうとも同じだ。与えられた器以上の物を望んでも待っているのは破滅だけってのは良く出来てるよ」

 

 吹き荒れる風にローブと髪を揺らしながらナギが目を細めてその存在を見る。

 

「今まで戦ってきた中で俺よりも魔力量が多かったのは数える程度しかいない。それもここまで圧倒的なのはあのバカ野郎ぐらいだぜ。嘘から出た真ってか。アルがお前達に託そうっていう気持ちも分かるが、この糞ったれな運命に反吐が出る」

 

 徐々に嵐が弱まり、ゆっくりと中心に立つ男に魔力が体中に浸透していく。それは例えるならまるで水を取り込むスポンジのよう。ネギとアスカが合体した男――――ネスカが身体に浸透させて強化している様は異様の一言。魔力による強化だけを見ても既に一流の域に達している。

 

「待たせたな。久しぶりの合体の所為で不作法を見せた」

 

 言いつつ、ネスカが軽く力を込めると、バチバチとと身体を巻き込むように紫電が走る。大気が強大な魔力に耐え切れぬとばかりに、炸裂音と共に大きく激しくなっていく。

 

「その代わりに楽しませてくれんだろうな」

「勿論、と答えておこう」

「気取った喋り方だな。はっきり言うぜ―――――どっちの性格だ、コラ」

 

 挑発しながら、こちらも気を引き締め直す。

 遅ればせながらもナギも体に魔力を流し込んでいく。静かに両腕、両足、全身に力を集中させていっている。

 

「仕様だ」

「なら、仕方ねぇわな……!」

 

 叫びと共に、ナギの内側から制御されていない莫大な力が吹き荒れて体外に溢れ出た。それが轟音となって大気を叩く。全身から放たれた魔力が波動となって破壊力となり、立っていた闘技場を振動させる。足元を罅割れされ、舞い上がった破片が喚起するように乱舞した。

 

「強くなれ――――俺を殺せるほどに」

 

 願わくば子に親殺しをさせる時が来ないことを祈るのみである。

 

「「…………」」

 

 しばし、ネスカとナギが無言で見つめあう―――――というか睨み合う。

 ネスカの天より舞い降りて大木を切り裂く雷獣の如き尖った眼光と、如何なる災害を跳ね飛ばす不動の大樹の如きナギの静かな眼差し。

 視線と視線が物理的な力を有するが如く斬り結んだ。鬩ぎ合う眼光が、虚空に火花を散らす。膨れ上がる殺気が空間を侵食し、一種の結界に近いものへと変質していく。睨み合う二人―――――その間で殺気と殺気が、空気を震わすことなく鎬を削り合って、万力のように二人の間の空間を締め上げた。無言の圧力に圧縮された空気が、声にならない悲鳴を上げた。

 親子の情愛や温かさとは対極にある雰囲気に、周囲の気温が急速に低下していく。

 ネスカとナギの間に、ひどく殺伐としたものが満ちていった。それは吹雪の如く凄絶に、業火の如く容赦なく世界を変質させていく。

 ぎしり、と音を立てて空間が軋む。

 もはや双方とも無言。じりじりと、素人目には静止しているよう見えるほど、少しずつ間合いを詰めている。

 肉体の動きは止まっても、迸る魔力は戦闘の主導権を掌握すべく、熾烈な争いを続けていた。

 僅かな後退も許さず、鎬を削り合う魔力の波動。その圧力は半ば以上物質化し、闘技場を、水面を、そして観客席を軋ませる。

 どちらか一人でも、学園長、高畑、エヴァンジェリンのトップスリーを除いた麻帆良の全戦力が束になっても届かないような凄まじい力が衝突としているのだから、それは一般人にも寒気として届いた。

 今までも、観客の中でも感受性の強い者の中には、怪訝な目で自分の腕に生じた鳥肌を眺めたり、「おい、なにかゾクゾクしないか?」と聞いている者もいた。

 とてつもない緊張感が、世界を満たしていた。今にもガスを詰め過ぎた風船のように破裂してしまいそうな危うさ。誰かが決定的な音を立てるだけで、この拮抗が砕けてしまいそうな予感が会場を満たしていた。

 動き出さない二人に場が騒ぎ出すかと思われたがそんなことにはならなかった。あまりにも空気が張りつめすぎている。こんな中で野次を飛ばす勇気がある者はいない。

 

「ねぇ、なんで二人は動かないの?」

 

 小さな物音すら致命的な破綻に陥りそうな一触即発の空気に耐え切れず、神楽坂明日菜は隣にいる桜崎刹那に本当に小さな声で訊ねた。

 向かい合って臨戦態勢に入っているのにもかかわらず、一向に戦おうとしない二人への疑問から生まれた何気ない一言を放つ。

 

「違います。もう始まっています」

 

 刹那から返ってきたのは肯定ではなく否定の言葉だった。

 

「え? でも、全然動かないじゃない」

「よく見て下さい。微妙に立ち位置が変わっています。それに構えも若干ですが動いています」

 

 刹那に言われて明日菜が視線を舞台の上に戻してよく見れば納得した。

 舞台上の二人は最初の位置から言われなければ気づけないぐらいだが、お互いに正対したまま円を描くように移動している。構えも腕の位置や足の傾きなどが若干、傾きや上下の位置が変化している。言われて改めて見なければ分からない変化だった。

 

「相手に合わせて変化させて高度な読み合いをしている証拠です。明日菜さんもよく見ておいて下さい。これほどの読み合いは中々見れるものではありません」

 

 闘いの場から一寸たりとも目を離さすのは惜しいと、目を皿のようにして舞台上を見ながら刹那は語る。

 

「戦いとは拳や武器を合わせるだけのものではありません。既に戦うと決まった時間から始まっています。相手の構え、姿勢、立ち位置、ありとあらゆる情報から精査することで実力や戦い方を予測することが出来ます。実力が拮抗すればするほど、読み合いを制した者が有利になります。当然ですよね。相手の戦い方が予測できれば自分がどう戦うかも組み立てやすいのですから」

 

 武術は極めるほどに詰め将棋、陣取り合戦のようになっていく。もし、相手がこう攻めたらこう出そう、ということを極端にしているものだ。それにしても両者が高度な技術と深い経験を持たなければ成り立たない。

 刹那が言った「これほどの読み合いは中々見れるものではない」というのは、これだけの実力者が闘う場にいれるのは珍しいことであるからだ。

 

「ようはスポーツの試合で相手に勝ちたいから研究するのと一緒ってことよね」

 

 明日菜の言っていることは簡潔にし過ぎだが間違ってはない。情報とはそれだけ勝敗を左右するファクターになり得る。

 中国春秋時代の思想家孫武の作とされる兵法書「孫氏」において「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」と記述がある。分かりやすく言うなら、相手と自分の長所短所を見極めて事を処すれば、どのような場合でも失敗することはないということである。

 戦いをスポーツという一気に普通な感覚に例えられて、少し浮かべる顔に困った刹那は直ぐに気を取り直した。今は気にしても仕方がない。それよりも目の前の闘いに気を戻す。

 

「流石はお二人の父上。立ち振る舞いからしてかなり実力者と見えますが強さの底が計れません」

 

 相対しているネスカの実力もまた底が知れない、と続きかけた言葉は流石に喉の奥にしまい込んだ。構えを取った時の威圧感、動作、その全てから刹那は感じ取っていた。

 今も互いに主導権を握ろうとしている中で。そんなことを言ってしまったら天秤が傾いてしまうような重苦しいほどに張りつめた空気が会場を覆っている。当事者でもないのに圧し掛かる重々しいプレッシャーに口を閉じざるをえなかった。

 この場にいる全ての者達が闘いの全てを見届けるために、僅かな変化も見落とさんとばかりに見開かれている。刹那らにとってもこれほどの闘いは見るだけでも百分の価値がある。

 舞台の上で向かう二人は、互いにどこまでも冷たく、しんと静まり返った表情。その視線は、研ぎ澄まされた刃のように鋭く、相手を射抜いている。傍目には無言で二人は向かい合う二人の姿。

 勝負を前に語り合う言葉はなく、語るなら拳で語れと言ったところか。

 両者の距離は約5メートル。ネスカは身体の向きを半身―――――ナギに対して斜めに。脚を開き、腰を低く低く落とし、左手は前に、右手は顔と胸を護るかのように脇を締めて何時でも駆け出せるように構えを取る。だが共に拳は握らないのは、掌打や締め技や投げ技も攻撃のオプションに入れているから。

 ナギはネスカを待ち受けるように膝を曲げて腰を落とし、左半身が前に出る構えで口元に余裕を見せつけるかのように笑みを浮かべている。

 

「何時までもこのまま読み合いをしていては埒があかねぇ」

 

 そこで、ようやくナギが口を開いた。

 ナギはまるで殺気に気付いていないかのように平然としていた。当然、気付いていないわけではない。ナギが纏う絶対の自信が殺気を受け流しているのだ。それどころか強敵と戦えるのだと楽しげに笑みすら浮かべている。

 

「何時までも向かい合っていてもしょうがねぇ。先手は譲ってやる、来な」

 

 構えは解かず、読み合いを継続しながらもこのままではいたずらに時間だけが伸びる。どちらかと言わなくても気の短いナギにしてはよくもった方だろう。

 形なく漂う闘気が、不意に凝縮して風を起こす時がある。ナギが告げると同時、ネスカの後ろから風が吹いた。それがネスカの攻撃の合図だった。

 

「ぉおおおおあああああああああああっっ!!」

 

 その風を切っ掛けとしてネスカは飛び出した。一直線にナギに向かって跳ぶ。

 ここに十年の時を超えた再会した親子が拳を打ち合わせる時が来た。

 

 

 

 

 

 一般人にも感じられる明確な変化に観客が微かにざわついた瞬間、彼はそれを駆け出す切っ掛けとした。全身に溜めていた魔力を一気に爆発させて、地を蹴る。開いた空間に服の跡の黒い残像を残し、一足の飛翔でナギとの距離を詰める。一足で一直線に飛ぶ姿は燕のよう―――。

 固めた右の拳、狙うはナギの左頬―――。相手の首を吹き飛ばす勢いでネスカは拳を斜め上に突き出す。

 

「おっと、危ねぇ」

「――!?」

 

 楓以上に「入り」と「抜き」の気配がなく、これ以上は無いという縮地からの一撃は、ナギに当たるかと思われた。しかし、ネスカの拳に当たった感触は頬骨に当たったような感触ではない。

 ナギは息子の縮地の完成度に驚きながらも、その掌でネスカの拳を防ぐ。ドシン、と二人を中心として低く大きな音を広がり、ナギの足が威力に押される様に僅かに後ろへと動く。

 

「っち」

 

 ネスカは舌を鳴らすと、右腕を戻す勢いのまま体を捻り左足の回し蹴りを放つ。が、ナギの右腕によって防がれた。ネスカは左足を戻す間も惜しんで、上体を後ろに倒して両手を地面に着け後転。同時に振り上げた右足の爪先でナギの顎を狙ったが、軽く顔を逸らすことで躱された。巻き起こった風でナギの髪が舞い上がる。

 前髪を風で撥ね上げさせながらナギは攻防の合間にニヤリと笑った。それは紛れもない賞賛の笑みだったが、ネスカは気付かない。

 

(笑っていろ!)

 

 ネスカは地に足が着くや否や、今度は縮地ではなく純粋な踏み込みで手を伸ばせば届く距離まで近づく。

 

「タイマンをやろうってか。いいぞ、悪くねぇ」

 

 逸らしていた顔を戻して前に出している足と交差するように踏み込んできたネスカを見下ろすナギの顔に、絶好の獲物を前にした狩猟者のような獰猛な笑みが広がった。

 密着するほどのこの距離ならば、魔法よりも拳の方が速い。

 魔法とは、意思に具現化である。それ故に、魔法の行使には絶対に思考する――――脳を介する必要があるのだ。対して肉体動作の場合は、個々の筋肉の使い方はおろか、『動かす』という一番最初の意志さえも省略されることがある。

 格闘技をある程度を修めた者ならば、誰でも『考える前に殴っていた』という経験があるはずだ。その速度には、魔法は絶対に届かない。どれだけ修行を重ねても、無意識で魔法を起動することは理論的に不可能なのだ。

 

「来いや――ッ!」

「はあああああああっ!!」

 

 ナギとネスカの叫びと拳が同時に交錯する。

 ほぼゼロ距離の狭間で瞬きの間に拳が十を超えて行き来する。余人には軌跡すらも目視出来ぬ、ハイスピードでの攻防が繰り広げられていた。

 

「ちっ」

 

 互いに放った攻撃が五十を超えたところで舌打ちをしたのはナギの方だった。

 

(やっぱ性能(スペック)で負けるか。バカ魔力め)

 

 生半可な攻撃に被弾してもジワジワと前進してくるので二人の脚は半ば絡まるような状態になっていた。このような状態では攻撃オプションが限定されてくる。防御にしても魔力に任せて身体強化を行なっているネスカの攻撃を完全には受け流せない。

 ネスカも自分の利点を分かっているので、受けているナギも見た目は余裕を保っているが息子の実力には感服せざるをえなかった。

 

(しかも矢鱈と懐に潜り込もうとしやがって。小さいってのはそれだけに武器になるってか)

 

 ネギに比べれば大分大きいアスカがベースになっているとはいえ、長身のナギとではまだまだ身長差が大きい。

 大戦期に自らも小さな体を活かして偶に取っていた戦法だけにやられた側の立場に立つと厭らしさが際立つ。かといって、息子相手に自分から距離を取るのは気が進まない。

 

「ぜあっ!」 

 

 殆ど接触しているような状態で、ナギですら看過する出来ない力を存分に込められた拳が放たれる。

 

「それを受けてやるわけにはいかねぇな!」

 

 必倒の一撃故に予備動作が大きく、ナギは体を横に動かして躱した。そしてネスカが元いた場所に突っ込んでくるのを見計らって、残していた右足を上へと振り抜く。

 ネスカは下から迫る足に気づくと、左手を出して受け止めた。しかし、蹴りの勢いは止まらない。ネスカの体重など全く無視して、ナギの脚は彼ごと振り上げた。

 宙を飛ばされたネスカは足を引き込んで体を丸めて胎児のように回転して距離を開けようとする。

 

「甘ぇ!」

 

 ネスカを蹴り抜いて、ナギが軸足である左足を捻って背中を見せながら舞台を蹴って前方へ跳ぶ。舞台を蹴った左足を背中越しに空中で回転を続けるネスカの頭部目がけて一閃する。

 ナギの接近を感知したネスカは、同時に蹴りが放たれていることも感じ取っていた。掴んでいた両膝から手を離して手を振り体を捻って身を逸らせる。

 直後、目の前をナギの脚が通過していく。頭部を狙った蹴りが髪の毛を何本か持っていくのを感じながら、視線を目の前の男に映す。

 

「「―――――」」

 

 攻撃を放って避けてで次の動作に移るまでの一瞬、空中で親子は視線を混じり合わせる。

 

「「――っは!」」

 

 着地は同時、踏み込んだのもまた同時だった。

 攻撃を放った直後と避けた直後、次に攻撃を放つのはネスカの方が一瞬だけ速かった。

 四肢をついたまま着地したネスカは全身の筋肉を弓のように引き絞り、溜めに溜めて限界まで束ねた力を、ただ一点に向けて放たれた矢のようになって体全体でぶつかりに行く。

 

「むっ――!」

 

 まさか頭突きで来るとは予測していなかったのかナギの反応が遅れた。咄嗟に右腕を盾にして直撃は何とか防ぐが力が足りない。ネスカの頭突きを受け止めきれず、腕はそのまま腹に押し付けられ、受けた衝撃が突き抜け炸裂した。

 ナギの足が浮いて、吹き飛ぶ。―――――が、直ぐに持ち直してノイズに似た音を発しながら両足で勢いを殺して止まった。ゆっくりと上がった顔は、まるで何事も無かったように平然としており、痛みに顔を顰めたり焦るどころか笑みすら浮かべている。

 

(痛ってぇえええええええ??!!)

 

 内心では痛みに悶えまくっていたが、表には出さなかっただけである。

 先程のネスカの頭突きによって、二人が離れた距離はまた約五メートル。二人にしてみれば無いに等しい。短い距離の先にナギが立っていた。両者の間の地面にはナギによって抉られた二本の線が傷跡のように残っている。しかし、肝心のナギには服に汚れはあっても外傷は見られなかった。

 

「―――――今ので折れなかったのか、自信があったんだが………やるな」

 

 ネスカの今、出せる渾身の一撃を中途半端な状態で受けても折れなかったナギの右腕を見て思い、やはり化け物―――――もしくはそれに近い存在だと再認識する。

 

「へ、お父様の偉大さをようやく分かったか」

 

 やせ我慢した甲斐があったと内心で小躍りしながらナギが言葉を返す。

 

「やってやれないことは分かった。攻撃あるのみ」

 

 ナギの本音を知る由もないネスカに悲壮感などない。過去の戦いで、彼我の戦力差があるのなんて決して珍しいものではなかった。ナギがいる頂点が決して絶対に届かぬ領域ではないことを直感した故に選択するのは攻撃のみ。

 

「行くぞっ!」

 

 ネスカの叫びに、もとより決壊寸前だった均衡を崩して申し合わせたように二人はあまりの脚力に互いの足場を砕きながら同時に踏み出した。

 脆すぎる足場の事など考慮の外にある二人の体が真っ直ぐに前方へ飛んだ。それこそ五メートル近くを助走もなしに重力を力技で捻じ伏せた二人の体が中間地点で容赦なく激突する。

 

「うおおおおっ!」

「おああああっ!」

 

 牽制の、あるいは距離を測るようなジャブのような攻撃は無い。互いに必殺の意を込めた拳が、衝撃波すら発しながら交差する。

 

「くっ」

「ぬっ」

 

 ネスカが咄嗟に傾けた頭部を、ナギの脇を、両者の拳が掠めて鉄槌のごとき拳が突き抜ける。その先端から迸る力が、ナギは闘技場を、ネスカは空中をそれぞれ抉った。

 突進の勢いのまま、二人の体が激突する。数トンにも達する衝撃を、揺るがず二本の脚で受け止める父と息子。しかし、闘技場は二人のように受け止めらずに、二人を中心にボコッと数十センチは陥没した。これを見れば激突の衝撃が如何ほどのものか見ている者にも理解できるだろう。

 衝撃波が無尽蔵に撒き散らされる。至近距離で睨み合う。前進に使ったエネルギーは初撃で完全に失った。

 パワーで勝るネスカも身長差の関係で拳をアッパー気味に斜め上に突き上げたため、身体を密着させると、左腕を相手の左腕の下から通して上に突き上げている形になり、脇を締められたことで次の動作を封じられた。次の動作への移行が致命的なまでに遅れる。

 その隙を見逃すナギではなかった。

 

「ふんっ」

 

 風を切るボディブローが肝臓を狙う。間一髪、腕を抜いてバックステップでその一撃を躱して間合いを取り直したネスカは、追いかけてくるナギから遠ざかるために更に後ろに跳んで一回転し、意表をつくために片手をついて横に飛ぶも、

 

「くっ……!」

 

 戸惑うことなく追いかけてきたナギの斜め下から掬い上げるような左の拳がネスカの右頬に入った。唾や口の中のどこかが切れたのか僅かに混じった血が飛び散り、凄まじい衝撃に首が後方にぐりんと捩れて無防備になる。

 これを好機と見たナギがフック気味の右を放つも、察知したネスカが身を後方に投げて両手を後ろに着き、下から飛び上がるように突き上げた両足によって上空に吹き飛ばされた。

 ネスカは腕の力で後転をして足から着地し、瞬きするほどの時間の後には十数メートルは浮き上がったナギの後方に瞬間移動したように現れた。身体強化と縮地による超速移動で、そのまま背後から背中に振り下ろしの右を放つも、そこにナギの姿は無い。

 

「ちっ…………上かっ!?」

 

 反射的にネスカは、上に向かって背後を振り返りながら裏拳を放っていた。

 すると鈍い音と共に、手に相手へ命中した衝撃が返って来る。しかし、それは攻撃が命中したものではなく、むしろ防がれたもので、拳よりも後ろに振り向く形になったネスカは、裏拳を膝で受けながらナギが右手を振り上げるのを見た。

 頬を狙う一撃を全力で後退して躱す。上下が反転して体勢を崩しているネスカ目がけて、空中を蹴ったナギが追う。

 真紅の髪が靡いて疾走するナギの姿は、戦っているネスカすらも思わず見惚れてしまうぐらいに勇猛であった。そんなナギから繰り出される左の鉄拳を首を傾けて皮一枚で躱す。首筋から小さく血が噴き出したが皮一枚なので勢いはない。直ぐに止まる。先の一撃を避けた動作のままで駒のように体を回転させて、崩れた体勢を整える間を稼ぐために距離を開ける。しかし、ナギが相手にそんな悠長な時間を与えてくれるはずがない。

 俊足で間合いを詰めたナギがネスカをサッカーボールのように蹴り飛ばす。脇を固めて受けたネスカは簡単に吹っ飛ばされ、そして見た。追撃をせずに、右手を雷光に染め上げるナギを。

 

「大きいの行くぜ」

 

 ナギの右手に魔力が走り、紅い雷光が構成されていく。烈光の蛇と化した雷の束が絡みついて、ナギの髪のような紅い魔力光が眩くネスカの網膜を焼く。

 

「――――そら!」

 

 北欧神話に登場する、雷の神にして最強の戦神トールが打ち砕くものという意味をもつ鎚ミョルニルを振るったように、ナギが腕を振り下ろす。雷光は空気を切り裂き轟かせ、吹っ飛ばされている途中のネスカに向かって落ちる。

 その雷光が雷属性のたった一本の魔法の射手であることにネスカも直ぐに気づいた。だが、そこに込められた魔力、とことんまで研ぎ澄まされ過ぎて原型を留めていない術式が威力を想像させる。

 ざっと見積もって初級魔法でありながら上級魔法に匹敵していて、下手をすれば麻帆良に来た頃のネギの雷の暴風を超えかねない。

 

「なんて、反則――」

 

 大戦期にナギと戦った誰もが思ったことを呟きながらも、ネスカは無様に横に跳ねた。無茶な行動に全身が軋むがこの一撃を受けたら間違いなく死ぬ予感があった。

 

「――づあっ!?」

 

 直後、雷光が間近を通過して余波だけで左手と左足、左半身の服のあちこちの衣服が消失する。雷は空気を切り裂いた刃だった。切り刻まれた痛みと軽い火傷に呻く声が、麻帆良湖に落ちた魔法の射手が山を吹き飛ばすほどのダイナマイトを爆破させたような衝撃と音に掻き消される。

 麻帆良大橋の全高を超えるほどに膨れ上がった水柱に、近くにいた遊覧船や展望台にいる人達が悲鳴を上げる。衝撃に翻弄されて中で微かに見た異様さに驚く暇も、軍事研の新型爆発かと騒ぐ人達に目をくれる暇も、着弾地点からかなり距離がある龍宮神社にまで飛沫が盛大に降ってきたのだから武道会場に居る全員が例外無く驚くのを悠長に眺める暇も、ネスカには全くない。

 

「おっ、よく避けたな。でも、隙だらけだ!」

 

 ハッとして見上げた目の前に両手を頭上で組んで叩き落とす体勢に入っているナギの姿を。

 反撃も回避も間に合わない次の瞬間。

 

「があっ!?」

 

 背骨の真ん中に叩き込まれ、ネスカの体が曲ってはいけない背中側を中心にしてくの字に折れる。そして凄まじい勢いで十数メートル下の舞台に向かって真っ逆さまに斜め下の部隊に落ちていった。

 

「おっ!?」

 

 攻撃を放ったナギが慌てて体を捻ると、その直ぐ傍をネスカが回避不能と悟って放った魔法の射手が直進していく。

 これまた一般魔法使いでは一瞬で干からびてしまうほどの魔力が込められた魔法の射手は、後少しでも攻撃に力を入れていたら直撃していたことだろう。追撃が遅れ、ネスカがダンッという音と共に両手両足をついて舞台に着地する。

 地震が起きたかのように舞台が揺れ、四肢を着いた場所が罅割れているのを見れば衝撃の強さが計り知れる。

 

「――っ」

 

 攻撃を受けたことか、それとも着地の衝撃が強かったのか、血が零れるネスカの口から食い縛った歯から呻き声が漏れる。しかし、たじろいでいる暇もなく、着地した姿勢の俯いたままで何かを感じ取ったネスカは、その姿勢のまま横に大きく跳躍してクルクルと宙を回転する。

 するとさっきまで頭があった位置にナギの足が落ちて舞台がボコッと陥没して穴が開いた。上から見れば頑丈な木板を貫通して水が見えたことだろう。

 あまりの威力に周辺の水が一瞬浮かび上がり、頑丈な舞台すらも耐え切れぬとばかりにぐらつく。落下の勢いもあったとはいえ、あまりの威力にネスカが避けなかった場合の時の事を考えて観客が悲鳴を上げた。

 

「呆っとしてるヒマはないぞ」

「分かっている」

 

 観客の悲鳴を置き去りにして跳んだ体勢のままのネスカを追いかけるナギ。

 ネスカが着地したのは舞台の欄干の上で、そこに追いついたナギとの間で互いに一進一退の攻防を繰り返す。しかし、後のないネスカには移動範囲が狭く、攻撃を避けてバランスを崩して後方に倒れそうになったところをナギが追い討ちをかける。

 

「そらぁっ!」

 

 これを何とかクルリと横に回転することで避けるもネスカがバランスを崩していることには変わりなく、ナギは欄干の上を纏めて蹴りで薙ぎ払う。

 だが、そこには既にネスカの姿はない。舞台端から前方屈伸宙返りで薙ぎ払うために屈んでいたナギの頭上を飛び越え、置き土産とばかりに背中を蹴って舞台から落とそうとした。

 

「おっ!」

 

 よほどネスカの行動が意外だったのか、ナギは僅かに目を見開く。

 そして背中を蹴られた衝撃で押されてナギは舞台から落ちないように踏ん張る。が、ナギの体がブレたと思ったら、次の瞬間には舞台の端から少し離れた中央側に着地して片手をついていたネスカの後方に現れた。決してナギは瞬間移動したわけではない。普通の動体視力では追えないスピードで移動しただけの話だ。

 普通なら反応できないはずのこのスピードにもネスカは反応し、先手を取って片手をついて左足で顔を蹴ろうと振り上げる。ナギがこれを右手で防いで左手を振り下ろすも、ネスカはもうそこにはいない。

 ネスカが一度飛び退いて距離を取ってからナギに前蹴りを放つも、今度は逆にナギの姿が無くなった。攻撃が空振りしたネスカが振り返りながら後ろに回し蹴りを放つと、ナギの拳と相打ちになりお互いの顔が仰け反った。

 

「「!」」

 

 両者はそれぞれ回転しながら舞台の両端へと吹き飛び、着地したら再び観客達の前から姿を消して神速の世界へと踏み込んだ。

 繰り出される攻撃は全てが必殺。その凶悪な打撃を、二人は躱し、捌き、それが叶わない時は受け止める。身を延べるとも言われるほどの縮地の歩法が幾度も繰り返され、数メートルも離れている両者の間合いが不自然に詰まり、激突の後、また離れる。

 

「とっととくたばれっ!」

 

 ネスカが獣のような形相で叫びを放つ。覇気と共に攻撃の勢いが増す。むしろ、覇気こそが燃料とでも言うように、一撃ごとに速度とキレが増していく。

 

「ガキがナマ言ってんじゃねよっ! 永遠に息子はお父様を超えられねぇって教えてやるよ!」

 

 同時に放たれた互いの肘が、両者の中間地点で激突して込められた力が爆発に近い衝撃を伴って拡散していく。二人を中心にして木板が捲れ上がり、舞台がどんどん破壊されていくかのようだ。

 

「「はぁっ!!」」

 

 極限まで無駄を廃し、絶大な<力>を乗せたその打撃は、一撃で人体を破壊―――――単なる殺害ではなく、人の形すら留めぬ絶対的な殲滅――――することさえ容易い。

 二人の激しい攻防が始まった。拳と拳、蹴りと蹴り、交差する全ての攻撃が、相手の急所に目掛けて放たれていく。瞬きしている間に二人は幾百もの拳を繰り出し、幾百もの蹴りを放ち、放った乱撃の数だけ同時に防いでいる。

 目にも止まらぬ速度で移動し、一撃必殺の威力を持つ互いの拳がぶつかり合う。その砲撃にも等しい攻撃全てをかわす方もかわす方だが、立場上、躱すことのできないものもあった。

 舞台の端から端へと目まぐるしく移動し、一般人である観客には二人が衝突した衝撃波が生まれた瞬間だけ微かに姿が見えた。衝撃波と狙いを外された力は、その余波だけで舞台を薄っぺらい紙細工か何かのように粉砕し、人々が風で押され、方々で騒ぎが起こるが二人はそちらに目も向けない。

 二人の目は互いだけを見つめていた。この時の世界は親子だけで完結していた。

 

 

 

 

 

 風が唸る。極限の速度によって真空が生まれ、空気がよじれる音だ。

 一対一の戦いだというのに舞台上は戦場と化していた。まるで互いに数千の騎兵を引き連れているかのような戦慄を観戦者達に感じさせる。

 

『危険物が跳んでいて危険です! 舞台に近い方は十分にご注意ください!!』

 

 容赦なく破壊されていく舞台から逸早く避難した和美が観客に注意を促す。

 

『しかし速い! 凄すぎる!! 目視すら出来ない速さを見せています!! これは人間に可能な動きなのか!!?』

 

 水が跳ね、風が唸り、木片が漂う。消えたと錯覚する速度。実際には常人には目視できぬほどに速いだけ。距離を離せば大抵のものを人は見れるはずなのに、影すらも追うことが出来ぬほど二人の超絶な速さは人間のものとは思えないほどに凄まじい。

 

『目にも止まらぬ超ハイスピードバトルを繰り広げています! でも、舞台は壊さないでぇ――!!』

 

 立場上、動くことが出来ない舞台の壊滅度が増していくのだけは分かって和美が悲鳴を上げる。

 二つの影が高速で飛び交い、炸裂音が断続的に響き渡る度に舞台が加速度的に壊れてゆく。攻撃の余波で舞台が抉れ、踏み込みで亀裂が入り、受け止めきれずに破壊される。相手より先に舞台を殴り倒すつもりではないかという比喩が、全く洒落になっていない辺りが別な意味で凄い。

 二人の位置を把握するのも難しい攻防だった。五感を防ぐ爆音のような大音響がマシンガンのように連続して続き、同時に突風が吹き荒れる。空気という空気を鳴動させて音の爆発を押し広げてゆく。

 人より五感が優れている明日菜は思わず耳を塞ぐも、直ぐ近くにいる木乃香の悲鳴を聞いた。

 

「大丈夫、木乃香?」

「うん。でも、まだクラクラする」

 

 豪風の中で視界を遮ろうとする髪の毛を抑えながら、明日菜はすっかりネスカの動きに心を奪われていた。

 拳打の雨が互いに降り注ぎ、蹴撃の嵐が吹き荒れる。鉄と鉄を激突させたような音が衝撃波となって絶え間なく響き渡る。間を置かない攻撃、相手の動きに素早く反応する防御、そして防御からすぐさま仕掛ける攻撃――――全てが凄いと思った。

 

「すごい……」

 

 戦いは終わりを見せない。明日菜も表情を引き締め、戦いの成り行きを見守った。

 一瞬前には舞台奥にいると思えば、次の瞬間には反対側の舞台の上空で打ち合っている。かと思えば観客席の屋根に足からネスカがめり込んだり、唯一残っていた灯篭をナギが踏み潰したりと、一瞬もその場に留まることなく移動し続ける。

 もはや場外などに意味が無くなっていた。カウントを取るべき和美には二人の動きを追い切れるはずもなく、観客となって見ていることしか出来ない。

 

「おおおおおおおおッ!!」

「はあああああああッ!!」

 

 ナギの勇猛な叫びと、ネスカの闘志に満ちた雄叫びが響く。

 拳と拳、蹴りと蹴りがぶつかっているとはとても思えない、間近で花火が爆発したような衝突音が何度も響く。その度に空気が撹拌され、舞台付近は台風が発生したように風が荒れ狂っていた。

 

「えーっと……今のところどっちが優勢なのかな? 私にはもう、速すぎて動きを追うだけで精一杯で」

 

 隣に立つエヴァンジェリンの横顔をちらっと見る。

 エヴァンジェリンは今まで見たことがないくらいに真剣な表情で二人の戦いを眺めていた。

 並外れた動体視力を持つ明日菜でも能力を使いこなせていない状況では、目の前の神速の戦いを完全に捉えきれない。世界でも最高クラスの戦いを僅かなりとも見えるだけでも彼女の資質がずば抜けている証拠だった。

 

「これまでのところは全くの五分だが、試合は直に終わる」

「どういうことござる?」

 

 楓はまだ明日菜よりは戦っている二人の動きを捉えられている。だが、それは離れた場所で俯瞰して見ているからであって、戦いの場に立てば目が追いつかないだろうことは容易に理解できた。

 見ている限りでは、戦っている二人に優劣があるようには感じない。

 エヴァンジェリンに比べて判断できるだけの実力が及ばない事実が、様々な試合を見て、自らアルビレオとの試合で芽生えた強さの向上心が悔しいと叫んでいる。

 楓でも集中していなければ見失うのに、彼女にも劣る明日菜や一般人と同程度の状況しか図れない木乃香には判然としない。仲間内で置いてけぼりを食らっている木乃香は黙って試合を注視している古菲に気がついた。

 

「速すぎてうちにはなにがなんだか。古菲は見えてへんの?」

「これ以上、速くなったら無理アル」

 

 黙って試合を見ている古菲に話しかけた木乃香だが返って来た言葉は少ない。彼女は目を皿のようにして広げ、ギリギリであることを示すように緑色に透けて見える目を小刻みに震わせていた。

 他に気を散らすと動きを追えなくなると、全身に力の入った緊張感が言っているようだった。

 

「エヴァ!」

 

 後ろから戦いの音にも負けないように張り上げられた聞き覚えのある声にエヴァンジェリンは、声に込められた切迫した感情に気づいて舞台を視界に映すようにして横を向いた。

 

「タカミチ」

 

 観客の上を超えて跳んできた高畑。なんとも派手な登場の仕方にさしものエヴァンジェリンも目を丸くした。

 

「どういうことだい、あのナギさんは一体!?」

 

 息堰切って話し出した高畑にエヴァンジェリンは仕方なく顔を向けて答える。

 

「限りなく本物に近いニセモノだ」

「そうか、アルのアーティファクトで」

「お前も知っていたか」

「これでも紅き翼の一員だからね。仲間のアーティファクトぐらいは知っているよ」

 

 本当に大事なことは教えてもらえなかったけど、と自虐を滲ませる高畑にエヴァンジェリンは下手な言葉をかけなかった。

 アルビレオや学園長の秘密主義は今に始まったことではなく、考えようによっては彼女は最も大きな被害者とも言えるからだ。十五年。ナギが呪いを解きに来ると言った三年を抜けば十二年もの長い間、学園長は呪いを解く手段があったにも関わらず隠していたことになる。

 高らかに二人が戦う戦いの音だけが龍宮神社に響き続ける。まるで歌を唄うかのように、言葉よりも拳を以て二人は会話していた。

 もはや断続的ではない。大砲が打ち鳴らされているような衝突音は、一続きの爆竹を打ち鳴らしているかのような爆発音を奏でていた。つまりはそれだけの速度で打ち合っているのだ。

 

「ああああああっ!」 

 

 猛るネスカの声が明日菜の耳の奥に響いた。

 振るう拳の一つずつから、凛然と溢れる力に慄かずにはいられない。でも、その戦い続ける一瞬見えた横顔に思わずにはいられない。

 

(どうして、そんなに泣きそうなの?)

 

 一時の直ぐに消え去る幻想と分かっていても消しきれぬ想いに喘ぐネスカの声は、どうしようもなく明日菜の胸を締め付けた。

 

「イノチノシヘンの人格再生時間は十分。この戦いには制限時間があるのだ」

 

 避け得ぬ現実にエヴァンジェリンが哀しげに囁いた。

 

 

 

 

 

 闘争のリミットが迫っている。それは戦う二人も分かっていた。

 ちら、と戦いの中で二人の視線が合った。

 

「楽しそうだな」

「ああ、楽しいぜ。夢だったんだよ。子供とこうやって拳を交えるってのがな」

 

 戦うごとに動きのキレを増していくナギの唇には本当に楽しそうな笑みが刻まれていた。

 死線を踏んでもなお猛々しく笑い、ますます戦意を昂らせる。たった一つでも対処を間違えれば忽ちの内に黄泉路を辿るというのに身のこなしに曇り一つとてない。

 

「ひゅ――っ!」

 

 鋭く呼気を継いだナギが空を駆る。

 口元に浮かんだ微笑と共に、ナギの動きが変わる。鋭い剃刀の如き直線から緩やかとすら感じる円の動きへと。かと思えば両方を混ぜた鋭く、時に緩やかな動きを混ぜた緩急のついたものに。

 追おうと思えば追えただろう。単純なスピードなら遥かに魔力で勝るネスカが上回る。やり様はいくらでもあって、選択肢は無限にあったのにその瞬間のネスカの頭から全てが消え去った。

 

「づぉらあ!」

「がぐぅっ」

 

 一瞬無防備になったネスカの頬にナギの拳が突き刺さる。

 ぶれる視界にナギの背後に光る光弾が五つ。今にも放たれんと待ち構えているのは、無詠唱の魔法の射手に他ならない。

 ナギの行動に一切の遅滞なく、一瞬でも意識がずれた隙を縫って下から降り上がった拳がネスカの腹を抉る。せめてもの反撃をと膝を叩きこもうとするも、余裕を以て防がれた。

 そうこうしている間に先行した魔法の射手が迫る。五メートルも無い距離では回避も間に合わない。ネスカは殆ど反射的に同数の魔法の射手を生み出して迎撃する。

 最悪でも相殺を願って放たれた魔法の射手は二つを相殺し、残った三つが迫る。

 両手を動かして二つを迎撃する。しかし、残りの一撃は防ぎきれない。常ならばもう二撃は防げるはずだが肉体と精神が乖離している。

 

「この程度でやられるものか!」

 

 膝を持ち上げて受け止める。激痛と痺れが膝から全身に走る。

 

(何か策を……………何かないのか!?)

 

 拝殿と舞台の真ん中辺り、観客達の真上で不利な状況の打開を求めるネスカの思考さえ、目の前で旋回するナギの身体を見て半ばで途切れた。

 振り上げられた右足を避ける術などない。急速に動きが鈍ってきているネスカに受ける余裕などない。

 肉体が硬直しているネスカへと、大岩を楽に粉砕できる一撃が迫る。

 

「ぐっ……」

 

 辛うじて腕で防御出来ただけでも奇跡的であった。

 轟音は、もはやそれ自体が兵器に等しかった。その威力を形容するならば、舞い降りた隕石か。防御に意味などないと言わんばかりに、反応した腕ごと十数メートルの高度から斜め下の舞台へと叩きつけたのだ。

 蹴り飛ばされた身体は舞台の上り段に激突し、舞台の入り口から端まで何メートルも削り取った。濛々と砂塵が立ち込めた舞台上には、一直線に抉り抜いた道筋が刻み込まれていた。

 

「ぁ……か……」

 

 舞い上がる木屑と木片に囲まれた中で舞台に半ば以上をめり込ませながら、アバラに激痛が走って呻きのみが喉から零れる。

 確実に一本か数本纏めたかは分からないが確実に折れた。ただ灼熱だけがネスカの脳髄を刺す。

 

「ご……あ、は……っ!」

 

 こほっと咽た舌に嫌な鉄の味が残った。血の味だと分かるのに、数瞬の時間を要した。

 滾る戦意は激痛を和らげる効果まではない。背中だの脇腹だかも分からず、肉と骨が丸ごと焼き爛れたようだった。今にも意識が途絶してしまいそうで、むしろ痛みに縋りつくようにしてネスカは瞳を開けた。

 仰向けになった視界の中で、ナギもまたネスカを追うように舞台へと舞い降りるのが見えた。 

 絶望の足音が近づいて来る。一歩ずつ近づいて来ることによってナギからの圧力が増してくる。あまりの圧力に、呼吸さえまともに出来ない。まるで水面を飛び出した魚が懸命に酸素を取り込もうとするように喘ぎ、必死に息を継ぐ。

 吸おうとした息が肺に入らず、ただ唇の表面だけを空回りする。酸素を欲した脳と肺がひりつくような熱と激痛を訴えている。

 

(……まだ、だ。まだ、俺は……)

 

 思考さえ纏まらない。必死に考えようとしても、虚空に消えて千々に乱れていくばかり。

 苦しい。ずっと苦しい。ただナギの前にいるだけで、四肢や内臓まで千切れていくようだ。

 

「――――もう、終わりか?」

 

 玲瓏と澄んだ声が響く。声は静かだったが、どんな強風の中でもハッキリと届く人を惹きつけずにはおかない声音だった。

 苦境に立たされているからこそ、ナギの声には逆らい難い魔魅があった。正常な判断を全て打ち消し、身を任せてしまえと誘い込む太陽の輝きだった。

 

「まだだ。俺はまだ戦える」

 

 声の魔力に抗って、米神や頬に擦過傷が出来ているのにも構わずに無理矢理に膝をついて起き上がった。呼吸音がうるさくて耳障りだった。

 みっともなさなど微塵も構うことなく立ち上がろうとした。

 

「うっ、がぁ」

 

 膝立ちから立ち上がろうとして、力が抜けて受け身も取れずに顔面から舞台に叩きつけられる。

 アルビレオに重力を食らった時のように鈍く重い手をようやく動かして起こした顔の下に、赤い雫がポタポタと舞台に落ちる。舞台に顔を叩きつけた時に鼻を打って鼻血が出ているようだ。

 今更鼻血程度で臆するような精神ではない。再び膝をつこうとして全身に力が入らないことに気がついた。

 体を刺させる腕がガクガクと震え、足は神経が働いていないかのように感覚が薄い。あらゆる精気を奪われてしまったようだった。

 

「お前は良くやったよ、本当に」

 

 辛うじて上げた視界にナギの顔が映る。

 

「俺は結構本気だったんだぜ。この若くして英雄ともなった偉大かつ超クールな天才&最強無敵のお父様に手傷を負わせたんだ。誇っていい」

 

 頬に傷を示しながら無駄に爽やかに笑いながらも、ナギの眼は真剣だった。

 

「同年代に敵はいないだろうな。数世代先を見ても同じく。お前は強い。間違いなく強い。同じ頃の俺を間違いなく凌駕していると断言してやる。そう遠くない末来に全盛期の俺を超えるだろう。その上でもう一度だけ聞く。もう終わりにするのか?」

 

 そこでナギは表情を改めて、柔らかな口調ながらも堅い気持ちを滲ませながら問うた。

 ふと、ネスカは空を見上げた。その動作に意味はない。意味はなかったが、空をみることが出来たなら答えがあるような気がしたのだ。

 空では鳥達が飛び続けている。

 何の枷も無く飛んでいる鳥達のなんと自由なことか。地上に縛られた人の身では望めない姿だった。

 拭いたくとも拭いきれない運命。生涯ついてまわる過去。出生の秘密。発作的に煮え滾るやり場のない怒り。その全てを呑み込んで、目の前の男へと視線を戻す。

 ネスカが今感じている全て以上を背負って立つ男の姿は鮮烈ですらあった。六年前に見た業火の中に立つ背中と何も変わらない。

 六年前の弱い自分に出来ることは、ただ前に進む事だけだった。それだけを頑なに守って、目の前に追い求めた男が立っている。目指す道の先に男がいるのならば、ネスカがここで立ち止まることはありえない。

 タイムリミットが迫っているからなんだというのだ。体が動くのに戦いを止めるなど、この出会いと時間を侮辱しているに等しい。

 

「決まってる……っ! 俺は、まだ戦える!!」

 

 震える四肢に力を込めて立ち上がる。

 必要なのは強い意志。自分の成すべきを成すための、その手段として利用とする貪欲なまでの意志。今のネスカを構成しているのは、そういう熱情であった。

 

「その意気だ」

 

 その顔を見たナギは静かに瞳を閉じた。

 幻影に過ぎなくとも本物と同じ意志と記憶を持つ彼の瞼には、在りし日の妻の姿が思い浮かぶ。

 

(本当に俺達の息子だよ、お前は)

 

 魔法世界の人々の不満と憎しみを押し付けられた生贄として死を望まれた時の妻の姿が、傷ついても立ち上がるネスカと被って内心に苦いものが広がる。後悔などない、間違っていたとも思わない。しかし、それが果たして最善だったのか。それだけが彼には判断がつかなかった。

 

「再開するぞ――――残された時間はそう長くない」

 

 所詮は十分しか存在できない幻。ずっと傍にいてやることは出来ず、伝えられることもまた少ない。幻影でしかない己を恨む。本体が何を望み願い、そして戦ったのかを知ってはいても傍にいてやれないことが悔やしかった。

 互いに構えを取る二人。

 先手を取ったのはナギ。

 

「行くぜ!」

 

 踏み出した瞬間にその身を複数に増やし、一気呵成にネスカへと迫る。

 数的有利を生み出したかに見えたが、ワンテンポ遅れてネスカもまた似たような戦術を取る。その戦術の正体を見抜いたナギは僅かに目を瞠った。

 

「風精か――!?」

 

 その数、ナギの倍の二十。しかもオリジナルと寸分違わない気配と見た目は分身と称して良いぐらいの仕上がり具合。

 じっくりと観察できるならばまだしも、戦闘の最中でオリジナルを見つけ出すのは不可能ではないがナギを以てしてもかなり難しい――――なんて、雑多な思考をナギがするはずもなく、風精だろうと全て打倒してしまえば良いと即決する。

 

「いいぜ、正面からやり合おうじゃねぇか!」

 

 化かし合いよりもそっちの方が好きなナギが受けて立たぬはずがない。

 十体のナギと二十体のネスカが激突する。その結果は一方的なものだった。

 

「弱い?」

 

 何体か分身を壊されたものの、残るは一体のみ。つまりは本体だけだ。数で勝るはずのネスカの風精が弱すぎるような気がした。

 

「ってことは、こいつも偽物! 本命は――」

 

 残っていた一体もあっさりと倒し、視界内にネスカの姿はない。

 舞台上にいないとなれば、いる場所は自ずと限定される。そして見上げた先にネスカの姿を見つける。

 舞台を一望できる上空にいたネスカが、顔を上に向けたナギに気づかれたことを確認して唇が動いた。

 

「避けろよ」

 

 待機させていた1001の魔法の射手の矢が雨の如く振り降りる。

 舞台を覆い隠すほどの魔法の射手が頭上を覆い隠そうともナギは全く動揺しなかった。寧ろ面白いとばかりに獰猛に笑い、自分から飛び上がって魔法の射手の雨の中に飛び込んだ。

 

「しゃらくせぇっ!!」

 

 人が通る隙間もないといっても障害が立ち塞がるのならば粉砕してでも通るナギである。無詠唱の魔法の射手を頭上に浮かべ、振り降りてくるネスカの魔法の射手を迎撃する。

 十分に準備して魔法の射手を放ったネスカと違ってナギにはそこまでの余裕はない。威力よりも数を重視したネスカの魔法の射手より一発一発の威力は少し下回る。

 放った分の魔法の射手は早々に相殺され、残りは魔力を集中させた掌打で払いのける。

 

「超えて来たんだよ、この程度は!」

 

 ローブに穴を開け、小さな負傷を負いながらも魔法の射手の雨を突破したナギが吠える。

 迫りくる姿をしかと見つめながらネスカに動揺は見られない。

 

「来るだろうと思ったよ。超えて来ないはずがないとも」

 

 攻撃範囲は舞台のみでナギならばあの一瞬で十分に離脱可能であった。防御に専念すれば防げないこともない。普通の者ならばどちらかを選ぶだろうが、ナギの思考回路はアスカに似ている。正確にはアスカがナギに似ていることは横に置いて、十年以上兄弟をやっているネギからすればその思考は読みやすい。

 思考が読めているのならば事前に罠を設置しておくことも可能である。

 

「これも偽物だ」

 

 オリジナルと思われたネスカにナギの拳がめり込み、大した手応えもなく突き抜けた。それだけに留まらず、崩れた肉体は消滅せずにナギの全身を拘束する。

 拘束するその正体をナギは直ぐに看破した。同時に自分が罠に嵌められたことにも。

 

「風精に戒めの風矢を仕込んでいたのか!?」

「正解だ。そしてこっちが本物だ!」

 

 瞬間、風精がいた場所から体一つ分ずれた場所に風景から突如としてオリジナルのネスカが現れる。

 風の属性を使って風景に溶け込む光学迷彩にも似た技術で隠れていたネスカの右手に紫電が走っている。ナギが即座に戒めの風矢を破るも避けるだけの余裕はなかった。

 

「ぐっ……舐めるな!」

 

 直撃を食らっても、雷の魔法の射手の特性である電気による痺れを全身に無理やりに魔力を通すことで振り払う。

 しかし、既にネスカは次の一手を、目の前の男が得意とするコンビネーションを放つ準備を整えていた。

 

「雷の斧!」

 

 大会のルールによって詠唱が出来ないので威力は格段に落ちるが、それでも上位古代語魔法の一角。回避できるタイミングでもなく、まともに受ければ魔力を放出したばかりのナギといえども無事ではいられない。

 

「超えて来たって言っただろ!」

 

 驚くべきことにナギは何時かのアスカがやったことと似たような、足裏ではなく体の半身側に魔力を集中して解放――――疑似瞬動を行い、体を無理矢理に雷の斧の射線上から弾き出す。

 それでも完全には避け切れず、体は動いてもそのままだったローブの端と右手足に被弾する。

 

「信じてたよ。これも避けるって」

 

 痛みに呻く間もあればこそ、ナギは歪む視界に映る直ぐ傍で足を振り上げているネスカの姿に目を瞠った。

 もうかなり無理をしているので防御も回避も出来ない。

 

「……っ!」

 

 攻撃を受けて、凄まじい衝撃を受けた右脇腹の感覚が半ば無くなっていることを感じて、ナギは強く歯噛みした。

 思考を読まれて起こす行動が先回りされていることは今までにない経験だった。

 弾き飛ばされて無意識に体が身に染み付いた受身を取ろうとも、ろくに体勢も整えることが出来ずに衝撃を殺しきることができず、背中から舞台に叩きつけられた。上下の感覚を喪失した体に何度となく衝撃が走る。

 なんとか痺れと痛みが支配する体で転がる勢いのままに立ち上がろうとするが、ダメージが足に来ていて膝立ちが精一杯。

 ナギが震える膝よりも迫りくるであろうネスカを見る為に顔を上げた時、目の前を手の平が覆い隠していた。

 

「俺の、勝ちだ」

「…………ああ、俺の負けだ。怖ぇから手を下ろせって」

 

 負けを認めなければ手の平で光る魔法の射手が頭を射抜いていたことだろう。何があっても大丈夫だと信用されるのは良いが、目の前で魔法の射手なんて危険な物が光っているのは偽物とはいえ心臓に宜しくない。

 ネスカが少し残念そうに魔法の射手を決して、その手をナギへと伸ばした。

 ナギはその手を驚いたように見つめ、やがて観念したように苦笑して無事な左手を伸ばして握った。

 掴んだネスカの手はナギに比べればまだ小さく年相応に細かった。

 どれほどの意地を張って、ここまでの領域に辿り着くのにどれだけのものを犠牲にしてきたのか、どれだけ苦労してきたか、どれだけ………………涙を我慢し続けて来たのだろうか。ここに来るまでずっと歯を食い縛って、拳を強く握り、眦をきつく張ってやってきたのが容易く想像できる手。これまでの道を想うと、きゅっと胸の奥が掴まれた気がした。

 

「負けちまったなぁ……」

「本気でやってない奴相手に勝ったなんて言わないから安心しろ」

「へっ、一丁前の口を利くじゃねぇか」

 

 ダメージで力の入らない体がネスカの手によって引き上げられる。

 意識上ではまだ生まれて間もない赤ん坊達が合体した相手に体を支えられているのだ。十年の月日が経過していると頭で考えても中々に実感が湧き難く、浮かんでいた苦笑の色が濃くなる。

 近くで向かい合うと、やはりまだナギの方が頭一つ分近く背が高い。後、何年かの後には追いつかれるか抜かれているか。

 

「傷大丈夫か? 痛ぇだろ。後でアルに治してもらえよ」

「いい。こっちには頼りになる仲間がいるからな」

 

 そう言ってネスカが視線をずらして大人しそうな黒髪の少女――――近衛木乃香を見た視線を追ったナギの脳裏にアルビレオの記憶が流れる。

 

「詠春の娘か。全然似てねぇな」

 

 最後に詠春と会った時は、今にも関西呪術協会トップの重責に押し潰されそうな風貌になっていただけに、木乃香の愛らしい容貌と容易には結び付かなくて笑みが零れた。

 

「溺愛してるらしいから本当のことを言うと怒ると思うぞ」

「お前も、な」

 

 二人して笑い合った。

 この馬鹿さ加減は確かに自分の子供だと思った。他愛のない言葉が掛け合えることに、この上ない幸福な気持ちが全身を支配する。熱い涙が、わけの分からない笑いと一緒くたになって頬に零れた。

 

「ああ、ちくしょう。もう時間かよ」

 

 淡い光がナギの全身を覆う。

 自分に似たのか大分無鉄砲なところがある子供達を、ずっと傍で見ていたい。泣かせないように、苦しめないように、あらゆる禍から守ってやりたい。だけど、アーティファクトによって生み出された偽者でしかない己には叶わない願いだ。それにもう時間がない。伝えなければいけないことを伝えないと。

 

「ごめんな、こういう勝手な親で。お前達にはなにもしてやれなかった。悪かったと思ってる」

 

 心配な思いもあるが、ちゃんと息子達を見ていてくれる人がいる。ならば仮初の身に過ぎないにしても安心できるとナギは思った。

 身体の輪郭が気化するように、ぼんやりしたものになっていく。

 ナギは自分の消滅ではなく、息子達の傍にいてやれないことだけを後悔して言葉を続ける。

 

「すまなかった。本当に、すまなかった……」

 

 男の目に微かに光るものが浮かび上がる。この人はなにを謝っているのだろう。どうして泣いているのだろうか。頭を掠めた疑問は、ネスカの体の芯で共振する熱に溶かし込まれ、少年は一対の蒼い空洞に男の顔を映しつづける。

 ただ一つ分かるのは男の目はとても温かなものだったということだ。

 

「お前達は、俺には立派過ぎる息子だよ」

 

 微笑と苦笑が入り混じる。

 ひたすら放埓に生きてきた結果、こんな風に息子が育つなんて思ってもみなかったからだ。舞台の上に立つネスカを一心に見つめる少女達の存在に気づいていて、二人に大切な者が出来ていることが、嬉しくて悔しくて、ほんの少しだけ誇らしかった。

 

「お前達には重責を背負わせてしまって、すまないと思っている。許してくれとは言わない。ただ自分の未来は自分の手で切り開いていってほしい。自分で考え、納得して行動してほしい。例えそれが辛い戦いの道であっても、滅びの道であってもだ。それが身勝手な俺たち親の唯一の望みだ」

「…………今更、父親面するのかよ」

「今しか出来ないから、させてくれ」

 

 何かを言わなければならない。何か。

 もう、この機会しかないかもしれないのに、ネスカの口から出るのは憎まれ口だった。

 心の奥底にある言葉を、ネスカは必死に掴み取ろうとした。それを掴めば、なにかが変わる。とても単純な言葉のような気がしたのに、掴み取ることができない。遠くなるほどに、はっきりとしなかった、掴めなかった言葉が、鮮明に姿を浮かぶ。

 

「お前達は俺の息子だ。だからといって魔法使いの英雄(サウザンド・マスター)の息子じゃない、お前は俺の、ただのナギ・スプリングフィールドの息子、アスカ・スプリングフィールドとネギ・スプリングフィールドになれ」

 

 心の底からそうと告げる喉太い声がネスカの耳朶を叩く。いっそ子供もみたいに明け透けな、聞く者の心を響かせる響き。

 

「ナギ!」

「お?」

 

 更に息子達に言葉を紡ごうとしていたナギは、横合いからかけられた声に遮られて条件反射的にそちらを見た。

 声を張り上げたその人物は、今にも消えそうなナギの姿を泣きそうな目で見つめながら舞台に上がって来る。

 

「お前、エヴァか…………お? ああ、呪いを解いてないのか俺は」

 

 アルビレオの記憶から舞台に上がって来たエヴァンジェリンの現状を認識して、ポンと手を合わせた。

 相変わらずのナギの様子に眉間をひくつかせたエヴァンジェリンも状況を理解しているので、怒りはせずに本題を切りだす。

 

「どうせ何秒もないのだろう。御託はいいから聞かせろ、ナギ。どうして呪いを解きに来なかった」

 

 どうしても聞かなければならなかったことを遂に口にした。

 

「行けなかった」

 

 返って来たこと返事は簡潔だった。

 知らずの内に下がっていたエヴァンジェリンの顔が上がる。見上げた先でナギは十五年前に見たものとは違って苦み走った表情をしていた。

 

「別れる時にああは言ったけど登校地獄って卒業したら解けるもんだとずっと思っててな。麻帆良のじじいから連絡を受けた時にはコイツらが出来ちまって、色々と事情のある身重のカミさんの傍を離れるわけには行かなくてだな」

 

 明朗快活なナギにしてはしどろもどろの返答であった。

 要するにエヴァンジェリンの呪いを解くよりも家族を優先したことを当の相手に言うことを後ろめたく思っているようだった。

 らしくないナギの姿にエヴァンジェリンの中で張り詰めていた何かが解けていった。その何かは或いは初恋という名の想いかもしれない。

 

「事情があったのだろう。責めはしない」

 

 ナギには女性が、子供が出来るような仲の相手がいたのであれば諦める他ない。

 せめて最後に思い出が欲しいと考えるのは我儘だろうか。

 

「だから、抱きしめろ」

「やだ」

「殺すぞ、貴様ぁっ!」

 

 恥を忍んで頼んで返ってくるのが拒否ではどんな忍耐強い女傑でも堪忍袋の緒が切れるというもの。

 

「怒んなって。世間がどう思おうと俺はカミさん一筋なんだよ」

 

 恥ずかしいことを言わせんな、と僅かに頬を朱に染めたナギを見て、エヴァンジェリンは自分が高い理想を抱き続けていたことに気づく。

 男としても、ヒーローとしても、最も大切な者を定めている。英雄としてではなく人としての幸福を得られたことを喜びこそすれ、不幸を望むことなどあってはならない。

 

「ならば、頭を撫でろ。それで許してやる」

「いいのか?」

「これが最後だ。心を込めなければ許さん」

 

 長い長い初恋にきちんと終わらせるための儀式を望む。ナギの中にエヴァンジェリンが入る余地はないのだから。例えあったとしても彼女が望む席ではない。

 

「あいよ」

 

 軽く言ってナギはエヴァンジェリンの頭に手を伸ばして撫でた。

 もう足下が完全に消えて手も薄くなっているから温かさがなくて感触も頼りないものだったけど、この手が確かに救ってくれたのだと胸に実感が湧いてエヴァンジェリンの目に涙が浮かぶ。

 胸に迫るのは嫉妬と未練と後悔と愛情と憎悪と、色んな雑多な感情だった。

 

「っと、そろそろ限界みたいだな」

 

 触れて少し撫でただけでナギの手は離れる。彼の心は息子達に向いていると分かっていても、エヴァンジェリンは何も言わなかった。結局、どこまでいっても他人でしかないのだから大事な時間を奪っているのはエヴァンジェリンの方なのだから。

 

「横入りもあったが…………まあ、こんなこと言えた義理じゃねえが元気に育ちな。幸せになってくれ」

 

 何かを言おうとして言えないまま表情のネスカを見て、優しく微笑んだナギが名残惜しげに最後の言葉を紡ぐ。

 

「俺達の子供に生まれてくれてありがとう」

 

 次の瞬間、舞い散った赤い花のように、ナギの姿は跡形もなく消滅した。

 ほんの一瞬だった。蜃気楼のようだった温かみと一緒に、父だった人が消えた。

 

「――――あ」

 

 消失した事実を前に、ネスカは奇妙な胸の高鳴りを感じた。

 体験したことのない感覚だった。胸郭の深部で腫瘍が疼くような、じわじわとした痛みを覚えた。それは、明らかにナギが目の前で消えてしまったことで生じたのである。

 大事ななにかが心をすり抜けてゆく喪失感だけがネスカの胸を埋めた。

 同時に二人の合体が解ける。

 合体が解けたのは任意ではなく極端な感情の高ぶりにアーティファクトの安全装置が働いた形だった。

 

「「――っ」」

 

 尻餅をついたネギと仰向けに倒れ込んだアスカ。

 空を見上げることになったアスカは、ギリっと力が入らない身体で無理矢理に奥歯を噛み砕かんばかりに歯を食い縛る。

 

「あ……が……」

 

  何故だか目頭が熱くなってきた。 胸の奥までムカムカしてくる。もう何が何だか分からない。それを押さえ込もうと更に強く歯を食い縛って耐えようとしても激した感情は一向に収まらない。

 

「う、うあ………うああ………」

 

 ぼやけた視界が大きく揺らめいたのは何故だろうか。歯を食い縛って堪えようとしたが、駄目だった。

 視界が………歪んできた。気付けば、頬に何か生温い液体が流れ落ちてきていた。 無性に、叫び出したい。そんな衝動が湧き上がってくる。 まるで決壊するように感情の波が溢れてくる。

 目まぐるしく駆け抜けた日々が脳裏を過ぎる。

 子供のように無邪気に夢を見ることも、大人のようにただ現実を受け入れることも出来なかった。どこに行けばいいのか、何をすればいいのか、何がしたいのか、それすらも分からないまま、ただ我武者羅に走り続けた。

 止まることはできなかった。何かに追われている、何かに追われていた。だからこそ、止まることもできないと知っていたから力を振り絞って走り続けた。

 アスカの世界が罅割れていく。心が軋み、哭き声を上げている。手足は震えて体は凍りついたように動かない。苦痛も何もかも感じなかった。もはやありとあらゆる感覚が、感情が、消滅してしまったようだ。

 

「あ………う、くっ………う、ああ………」

 

 心だけが痛い。とてつもなく痛くて熱い塊が胸を突く。

 涙がついに溢れ出したのだろうか。涙に霞んでいた景色が、さらに淡く滲んでいった。

 

「あ……、あ…………」

 

 アスカの隣で父がいた場所を呆然と眺めていたネギは口から間抜けのように言葉にならない音を、ただ喉から漏らしていた。自分が泣いているのかどうかも分からなかった。

 

「う、ああ………あ…………」

 

 今まで耐えてきた分の感情が決壊したダムのように溢れ出す。目から流れ落ちる涙がポツリポツリと舞台に落ちる。

 体中の痛みも全く気にならない。肉体の痛みよりも胸の奥にある痛みが心を掻き乱す。

 感情の堤防が決壊する。もう我慢も出来ない。 ずっと溜め込んで閉じ込め続けてきた感情達がネギの中から次から次へと溢れ出てくる。

 今まで生きてきて、ずっと堪えていたものが一気に溢れてくるように、二人の涙は止まらなかった。

 

「う、ああ………ああ……あああああああ………うわああああああああっ!!」

「ああぁあぁああ………ぁああぁあああぁあっ!!!」

 

 それが限界だった。アスカは、ネギは、声をあげて泣いた。叫んだ。大声で天に向かって慟哭する。 周りなど気にもしなかった。気持ちを貪るように、血を吐き出さんばかりの魂の叫び――――慟哭を発した。

 

「うああああ………ああああああっ!!」

 

 堰を切ったように、とめどなく目からも涙が湧き上がって来る。悲鳴にも、犬の遠吠えにも似た叫びが喉から放たれていた。止まらない。止めようとしてもどうすればいいのか判らない。

 叫びを生み出しているのが呼吸器官ではなく、心の深海であることは明らかだった。圧力が全てが煮えたぎらせ、泡を吹き出させ、外へ出させようとしている。肌はびっしりと汗が覆い尽くし、目尻からは熱い奔騰がこぼれていた。

 捌け口を見出したらしい感情が、その声を波立たせていた。しゃくり上げる肩が激しく上下する。子供のように遠慮のない、全部を曝け出してもなお収まらない慟哭だった。なぜ泣いたかさえ最後の方には解らなくなっていたが、それが何の感情なのかも分からず、思いを爆発させていた。

 顔中が涙に濡れて何も見えなくなった。

 

「ああああああああああああああああ………あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああっ!!!!」

 

 涙を隠す事なく、抑える事無く、心の限りに蒼穹の空へと解き放つ。遠くて高くても、見上げれば何時でもそこにある青い空。

 顔をクシャクシャに歪めて漏らす泣き声は、聞く者を震えさせずにおかない静かな絶叫だった。

 大声を上げたからといって、気持ちに整理などつくはずもない。泣いても笑っても何も変わらない。変わりはしない。凍り付いていた少年達が本当の雪解けを迎えたように伝わす涙は、なにを変えもしないのだ。

 どこまでも無情に見下ろす空を仰いだ。今日一日で涙が枯れ果ててしまうかと思った。

 獣が叫ぶが如く。渇いた傷が裂傷して血が溢れ、泡を噴きながら感情の全てが流れ出してしまうまで泣き続けた。ずいぶんと長い時間、声も涙も枯れ果てるまで彼らは泣き続けた。

 

 

 

 

 

 少年達の慟哭が青い青い澄み切った空、どこまでも果てしなく続いていると錯覚させるように広い空に木霊する。それは聞いている者達の胸が張り裂けそうなくらいに悲しく、心を打つ。

 アスカとネギは涙を流していた。人目を憚ることなく、いや、そもそも彼らは周りの眼に気づいてすらいない。滑稽なほど無様に、ただひたすら泣き続けている。

 嗚咽を聞き届ける明日菜の魂は激しく揺さぶられている。二人の感情が、大き過ぎる感情が伝わってくる。ポロポロと流した涙は眼から感情を搾り取っているのに、どんなに喚いても涙は止まらなかった。

 顔をぐしゃぐしゃにした彼らは、年相応のただの子供だった。

 その姿は、どこにいるの、と親とはぐれてその後姿を探す、迷子の子どものようで……………まさしく親と逸れ、求めて泣き喚く子供の姿。二人は子供らしく、ようやく泣くことができるようになったのかもしれない。

 あえて心からの慟哭に触れようとする者もいまい。少年達は恥も外聞も無く泣き喚く。どこかに涙が流れる動脈があって、それが破れてしまったように何時までも止まらなかった。

 

「これで、良かったのよね」

 

 胸に来るものを感じて自らもまた涙を流しながら、どうしてかそんなことを明日菜は思った。

 

「明日菜君、話がある」

 

 少年達の涙に動かされる様に、嘗て彼らと同じく子供だった高畑が過去に決着をつけるべく動く。

 




ちょっとした豆知識その一

アスカにとって、憧れの人は高畑で、求める人はナギである。

分かり易く言うとゴールがナギ、その途上にいるのが高畑。


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第50話 次への一歩

良い意味でも悪い意味でも一歩を。


 

『――――等々、以上のようにどの試合をとても最高の試合だたネ』

 

 人外の領域の戦闘によって原型がなくなるほどボロボロになって、土台が崩れて危険な舞台の上ではなく龍宮神社の境内に立つ超鈴音は厳かに告げる。

 龍宮神社の一人娘である真名から今大会で破損した舞台やらの請求が莫大な金額に上っていて、余計な出費に内心で盛大に引き攣っていたりするが顔には出さなかった。

 

『優勝者の技量はまさに学園最強。いや、世界最強と言ても過言ではない。想像以上だたネ。今大会主催者として大変満足のいく内容だたヨ』

 

 主催者である超鈴音のスピーチが続く。

 龍宮神社は多くの人がいるとは思えぬほど静かだった。

 

『尚、あまりに高レベルナ…………或いは非現実的な試合内容の為、大会側のやらせではないかとする向きもあるようだガ』

 

 超がここで言葉を一度溜めると同時に会場がざわつく。

 疑っているのだ。今までの試合の多くはとても人が出来る動きの領域を超えているものや、物理現象を大きく逸脱していることもあった。いくら非現実的なことが起こって当たり前で、大抵のことには誰も気にしない麻帆良であっても異常と映るだけのことが。

 

『信じるも良シ、嘘と断じるも良シ、事の真偽の判断は皆様に任せるネ』

 

 全てを知ると目される超はニコリと笑って否定も肯定もしない。

 超の目的は十分に達成されたのだから、ここからのことには個人の受け取りに任せていた。

 深く息を吸って次の言葉を繰り出す。

 

『選手及び観客の皆様ありがとウ!! またの機会に会おウ!!』

 

 アジテーターの才能があるのか、超が声を張り上げて言うと観客もまた吊られるように歓声を上げた。

 真偽は分からずともハラハラドキドキとした武道大会はこの時を以て終わりを告げたのだ。惜しみ喜びこそすれ、静かにしている道理はない。特に騒ぎ好きの麻帆良生ともなれば特に。

 

『それでは授賞式の方へ移らせて頂きます!』

 

 次いで超の近くにいた司会兼審判の朝倉和美がマイクに向けて声を張り上げる。

 彼女の背後には真ん中を頂点とした三つの高さの違う段。つまりは表彰台である。だが、そこにはキャストが足りなかった。

 

『優勝者のアスカ・スプリングフィールド選手への賞金授与は本人の希望により後日に渡すことになっています。では、準優勝者のクウネル・サンダース選手へ賞金が授与されます』

 

 優勝者が立つ真ん中は空席なので盛り上がりに欠ける。

 こういう場合、もっとも盛り上がる優勝者がいない為、どこかテンションが上がらないところがあるが和美は声のテンションを上げることで場を無理矢理についてこさせるという荒業を行なっていた。

 拍手の中で超から賞金を渡されたクウネルは、相変わらずの表情の読めなさであったことだけは追記しておく。

 続いて三位の犬上小太郎とタカミチ・T・高畑が優勝や準優勝に比べれば格段に落ちるが賞金を受け取ったところで異変があった。

 地鳴りのような足音を響かせて、スーツ姿の集団が表彰台に殺到する。

 

「麻帆良スポーツです! 取材を!」

「麻帆良新聞です! 賞金の使い道などを是非!」

 

 麻帆良学園都市のローカルテレビ局のクルーや新聞部の記者などが次々と群がり、受賞者に死体に集るハエタカのように集まって来る。

 

「クウネル選手は実は子供先生達の行方不明の父親なんですか!?」

 

 スクープに飢える記者達は怖い。その数は現在進行形で増えていた。

 中には各学校の新聞部等の部活組や外部の人間までいて、どんどん納まりがつかなくなっていた。一学生でしかも中学生につかない和美一人ではとても静止出来ない数にまで膨れ上がっている。

 優勝者がいないので特にマイクやカメラを向けられているクウネルだが、困った様子も見せずに相変わらず笑っていた。

 

「失礼、インタビューは苦手ですので」

「あっ!? 消えた!!」

「どうやってるんだ!? どこにもいないぞ!」

 

 フフフ、と絶対に嘘と分かる言葉だけを残して目の前で消えたクウネルに混乱する記者達。辺りを見渡すが影も形もない。

 

「超鈴音や犬上選手と高畑選手もいないぞ!」

 

 ここで主催者の超や三位の小太郎と高畑の姿も何時の間にか消えていることに気づいて、取材対象達が全員いなくなった記者達の混乱に拍車がかかった。

 

「はいは~い! 取材は各社各サークル独自にお願いします! 質問は運営委員会まで!」

 

 ギラリと取材対象に逃げられて煮え滾った視線が向けられる前に、先手を打った和美の声が響く。

 これで一応の混乱は収まって引いていってくれて和美は一安心であった。

 ジャーナリストの端くれを自称するだけあってこういった人種のしつこさは良く知っている。司会兼審判という限りなく中枢に近い対象である和美は自身が取材の目を向けられる前に逸らせたことにも肩を撫で下ろしていた。

 逃げた超には後で仕返しすると心に誓う和美であった。

 当の超がどうしているかといえば、龍宮神社にある観客が立ち入り禁止の区画を歩いているところであった。

 

「ふふ、この大会は期せずして我が計画に有益なものとなたようネ。良かた。良かた」

 

 置き去りにした和美のことなどあっさりと忘れて、予想外のファクターの結果に笑みを浮かべる。

 

「待ってくれないかな、超君」

 

 若い声に呼び止められた超はピタリと足を止めた。

 気持ちのいいところを邪魔をしてくる無粋ものに対して言いたいことはあれど、予想していた人物の声ではないことに驚きつつ、自分を囲んだ集団を見る。

 前方にはクラスメイトである明石祐奈の父である明石教授、自分がいる渡り廊下の左側にガンドルフィーニ、右側には神多羅木、背後には白鞘に納められた刀を持つ葛葉刀子がいる。

 超には何時の間に囲まれたのかすら分からなかった。声をかけられるまで存在にも気づいていなかったのは落ち度である。

 

「これはこれは、皆様お揃いデ。お仕事ご苦労様ネ」

 

 前後左右を固められ、自分を上回る使い手達に囲まれながらも超の余裕は揺るがない。

 

「魔法先生上位陣が一人を除いて勢揃いとは少し予想外だたかナ。高畑先生はどうしタ? あの人が私の事を言ったのだろウ?」

 

 超はこの場にタカミチ・T・高畑が来ることを疑わなかった。

 仮にこれだけの魔法先生を配しているのならば学園No.2である彼がこの場にいないのはおかしい。或いは隙を見つけて超を仕留める為に隠れているのか、と考えたがその可能性はないと判断する。

 先に捕られたのは数的有利と不意を突いたからだと超は冷静に彼我の戦力を計算する。二度目は無い。

 超を捕まえるのにわざわざ高畑程の戦士が隠れる必要はない。正面から制圧する方が色々と手っ取り早い。彼の居場所が分からないことが超の中で唯一の引っ掛かるところであった。

 

「いないよ。どうしてか報告だけで来てくれなかったんだ」

 

 超の問いに答えたのは正面にいる明石教授であった。

 明石教授が答えたのは不思議ではない。この面子では彼が最年長で指揮する立場にいることは読めた。

 

「一緒に来てくれないかな、超君。君に幾つか聞きたいことがある」

「何用カナ?」

「分かっているのに聞くのは野暮じゃないかな」

 

 静かに笑う明石教授は超をしても底が知れない。生きて来た時間が違うのだ。簡単に底を知らせるほど容易い人間ではなかろう。そもそも敵に簡単に読まれるような男を指揮官に据えるほど近衛近右衛門は無能ではない。

 

「そうだナ……」

 

 緊張で口の中が乾ききっているのを自覚しながら平静を装い、どこから攻撃を受けても反応できるように常に意識は周りへと放散する。

 どこかに隠れているかもしれない高畑。いや、彼だけではない。見える位置にいるだけが人員とは限らない。伏兵が見えない位置に隠れている可能性を考慮に入れておく。

 特に高畑であれば超が認識できずに意識を刈り取ることも出来る。気を抜くことは出来なかった。

 

「魔法使いの存在を公表すること、かナ」

「そのことで話を聞かせてもらいたいんだ。いいかな?」

 

 問いの形で聞いていても実際には強制であった。でなければこれだけの魔法先生を配置するはずがない。

 超は続々と自分が麻帆良に置いて敵視されていくことに少し笑った。

 

「明石教授! 何を甘いことを言っているんです! 彼女の思想は危険です! 直ぐにでも連行を!」

 

 超が笑ったことを余裕と取られたのか、明石教授ほどの役者ではないガンドルフィーニが我慢できずに胸ポケットから獲物を取り出した。

 ガンドルフィーニが取り出したのは拳銃であった。そのことに超はまた笑った。

 

「何も知らない者がこの場を見たらどう思うかナ? 拳銃を構えたり、刀を持ていたり、遥かに年下の生徒を囲んでいる場所を見られたら警察に通報されないカ?」

「この一帯には結界が張られている。目撃者が入る心配はない」

 

 まるで敵意がないことを示すように何も持っていない両手を広げた超を、しかしガンドルフィーニは油断せずに銃を構える。

 

「ガンドルフィーニ君」

 

 どんどん張りつめていく場の中で明石教授はいっそ穏やかなほどに静かな声で名を読んだ。

 

「銃を下ろしなさい」

「ですが……っ!」

「僕は、銃を下ろしなさいと言いましたよ」

 

 優男に見える明石教授の穏やかな声には強い威圧感があった。日本人からすれば強面に見える異国人であるガンドルフィーニが思わず怯むほどの威圧感が。それでも納得がいかないがこの場の指揮官は明石教授であることは事実。渋々とであるが拳銃を下ろした。

 納得のいっていない表情のガンドルフィーニを見た明石教授はやんちゃな子供を見るように目を細め、視線を超に戻した。

 

「すまないね。彼もまだ若い。暴走は許してあげてくれ」

「私の方がもと年下なのだガ」

「僕からすれば君は十分に合格点を上げられるよ。うん、正直にいえば部下に欲しいくらいだね。どうだい? 学園長に掛け合うから飛び級して僕のゼミに来ないかい?」

 

 話をすり替えられていることは自覚しても超は咎めなかった。

 僅かな会話であったが超は明石教授を信頼に値す人間だと認めた。その言葉を素直に信じるかは別問題であったとしても。

 

「これでも忙しい身でネ。これ以上の掛け持ちは出来ないヨ」

「それは残念だ。また機会の誘わせてもらおう」 

 

 そして二人で軽く笑い合う。

 両者を視界に収める神多羅木は口に咥えた煙草の紫煙を肺に入れながら、二人の頭上で狐と狸が化かし合う光景を幻視していた。肉体労働専門の自分が関わることではないなと、油断しないながらも彼の中では完全に他人事であった。

 紫煙を輪っかの形で吐き出しながら緊張だけは解かない。

 

「さて、そろそろ本題に入ろう。あまり横道に逸れると怒る人がいるからね」

 

 幾ばくかの世間話をしていた中で明石教授が遂に会話で切り込んだのを見て、超の後ろにいる葛葉は愛刀を何時でも抜けるように構える。

 

「僕としても娘の同級生に手荒なことはしたくない」

 

 怪我をさせて祐奈に嫌われるのは嫌だからね、と本気か嘘か判断しにくい笑みで言う明石教授に超は全身に気を張った。

 

「どうやらついてくる気はなさそうだし、この場で話をしようか」

「いいネ。ただし、こう見えて忙しい身の上だから手短に頼むヨ」

「直ぐにすむさ。君の返答次第によるけど」

 

 会話の主導権を握られていると超は素直に認めた。負けである。

 これで超に話をしないという選択肢は取れなくなった。だが、構わないと思えるのは明石教授に誘導された結果なのかどうかは判断がつかなかった。

 

「魔法使いの存在を公表するというその真意を聞きたい」

 

 率直であった。真っ直ぐすぎる。今までの婉曲な会話の繋がりや持って回ったような言い方でもない。

 笑顔すら引っ込めての真剣な表情をして問いかけて来る明石教授を見て、「これは祐奈さんがファザコンになるのも分かるナ」と芯が揺らがない父を慕う娘の気持ちの一端を理解した。

 

(どうしたものカ……)

 

 超は静かに高速で思考する。

 問いは自らに答えを出すための作業であり、どうするかは既に決まっていた。

 

「その存在が危険であるから、では答えにならないカ? 今大会のように強大な力を持つ個人が存在することを秘密にしておくことは、人間社会において致命の癌細胞なりうル。逆に問おう。何故、魔法を隠すのかト」

 

 明石教授は即答しなかった。

 抗弁しかけたガンドルフィーニを眼力だけで諌め、超の問いを噛み解すように上げた手で顎を触る。

 そして数秒の後に口を開いた。

 

「うん。確かに武道大会に参加したような超人みたいな人は現実にいるね。だが、あくまで少数だ。僕達まで彼らのような超人みたいに言われるのは困るよ」

 

 僕なんて戦闘力皆無だよ、と腕を組んだ明石教授は笑いながらも目だけは真摯に超を見る。

 

「君が言ったことをそのまま返そう。少数とはいえ、強大な力を持つ者がいるからこそ魔法は隠されているんだ。なんといっても危ないからね。表に出してもメリットが少ない」

「それは魔法使いの理屈ではないカ?」

「かもしれないね。でも、魔法使いが表に出ない方がいいのは歴史が証明している。魔女狩りの歴史を博識な超君がまさか知らないとは言わせないよ」

 

 多面的に物事を見て切り返してくる超に、娘の祐奈にもこれほどのことが出来るかと考えた明石教授は高望みしている自分に笑った。

 存外に超との会話が楽しい自分を発見して更に笑う。

 

「中世末期から近代にかけてのヨーロッパや北アメリカにおいてみられた儀式や裁判のことは良く知っているヨ」

「うんうん、祐奈もこれぐらい勉強してくれたらなぁ」

「祐奈さんにそんな性質は似合わないヨ」

 

 本当に、と机にかじりついて勉強している娘の姿がありえなさすぎて明石教授は吹きそうになった。祐奈は母譲りの躍動感あふれた体を動かしている方が似合っていると親馬鹿とも取れる思考を脳裏で広げる。そういう意味ではバスケ部で頑張っている姿は生きている頃の妻を思い出すから好きだった。

 

「平行線だネ」

「ああ、全く」

 

 言いながら亡くなった妻から注意を受けても止められない癖である顎を擦りながら明石教授は思考する。

 

「これで話は終わりのようなら私は失礼するヨ」

「まだまだ話したいことは一杯あるよ。超君って全然本音で話してくれないしね」

 

 ジリッと両脇のガンドルフィーニと神多羅木が僅かに土を鳴らし、背後の葛葉がカチッと鞘から僅かに刀を抜いた音を超は正確に聞き取った。

 ほぼ同時の動作に、誰かが合図したのかと超は訝しんだ。が、ここが勝負時なのは自分も同じであると、懐から奥の手である物を取り出した。

 

「そんな時計なんて取り出して、一体どうするつもりなのかな?」

 

 懐中時計を取り出した超は笑うだけで答えなかった。

 ジャラリと鎖を垂らした懐中時計はデザインが変わっているものの、不思議というほどでもない。明石教授の目には魔力は感じなかったし、超ご自慢の科学力で作られた物ならばどのような機能があるか分からないが、この場を切り抜けられるほどには見えなかった。

 だからといって油断はしない。超鈴音は科学の寵児。麻帆良学園始まって以来の天才とも噂される彼女が無駄な行動を取るとは思えなかった。

 

「こうすル」

 

 明石教授は万難を排するために超にも分かるように手を上げて合図する。

 

「ハッ」

 

 真っ先に反応したガンドルフィーニを筆頭に、超の四方から魔法先生が殺到する。

 魔法先生が近づくよりも一寸早く、超は懐中時計を持って何かをしようとした。

 

「――っ!?」

 

 だが、それよりも早く超の手は何かによって押さえつけられていた。

 超が驚愕を隠せぬままに見下ろすと、彼女自身の足下から湧き上がった黒い影が懐中時計を握る腕から指先まで覆い尽くしていた。指一本を微かに動かすことすら封じられた。

 隙であった。超が気づいた時には包囲網が完成していた。

 目の前には間近に接近している明石教授が額に人差し指を向け、横からガンドルフィーニが拳銃を頭に突きつけ、首には神多羅木が指先に風の刃を作り上げて突きつけ、背後からは葛葉が神多羅木とは反対方向から首に刀を添えている。

 

「これはこれは、ちょと大層な扱いが過ぎるのでないかナ」

 

 絶体絶命でありながら超は尚も余裕の姿勢を崩さない。

 囲む魔法先生の手が少し動くだけでも死の危険がありながらも悠然と笑み続ける。

 

「それだけ君を評価し、危険視しているんだよ」

 

 明石教授はここに至っても泰然自若とした体勢を崩さない超に不信感を抱きながらも、魔法で姿を隠していて姿を現した高音・D・グッドマンと佐倉愛衣を見る。その視線を追った超は自らを拘束している黒い影の正体を察する。

 

「成程、高音さんの操影術だたカ。姿を隠す魔法を使っていたのは佐倉さんの方かナ。これは一杯喰わされタ。伏兵の可能性は疑ていたガ、まさか魔法生徒の彼女達を使うとは思わなかタ。流石は明石教授と言うた方がいいカ?」

「心にもないことは言わないでほしいね」

 

 形勢逆転の手はないはずなのに、超は余裕であり過ぎる。

 逃げ出す一手と思われた懐中時計を持つ手は高音の操影術が抑えている。もう一方の手も同じだ。ガンドルフィーニが捕まえている。首から上は魔法先生達によって少しも動かすことが出来ないようになっている。

 超は何も出来ないはずと分かっているはずなのにこの余裕。明石教授はどこか判然としないものを感じながら話を進める。

 

「さぁ、ちょっとついて来てもらおうか。悪いにようにはしないよ」

「勘弁してほしいナ。下手について行たら学園祭の間は拘束される羽目になりかねなイ」

「僕としても早めに自由にしてあげたい。だけど、それは君次第になる。大人しく指示に従ってほしい」

 

 何かを見落としていると心のどこが囁きながらも明石教授は超に向けて手を伸ばした。

 伸ばされた手の先で超は嫣然と笑った。

 

「残念だが手を誤ったナ。この勝負は私の勝ちダ」

 

 風が吹いた。

 嫌な予感を感じて明石教授は急いで手を伸ばす。

 

「審判の時にまた会おウ、魔法使いの諸君」

「なっ……!?」

「願わくば示される世界が安寧であることを望むヨ」

 

 手は届かなかった。正確には、伸ばした手は何も掴まなかった。

 言葉だけを残響として残して、超の体は忽然と消えた。忽然と、影も形も無く。

 

「き、消えた?」

 

 絶対の包囲網に囲まれた中で、超は魔法先生の輪の中から一瞬にして姿を消した。まさしく消えたとした言葉に出来ない。

 抜き身の刀を引いた葛葉は正面に立つ眉間に皺を寄せた魔法先生を見た。

 

「明石教授」

「駄目ですね、トレースできません。転移したのか、それとも他の方法を使ったのかも検討もつきません」

 

 声をかけられた明石教授は皺が寄る眉間を解しながら答える。

 明石教授は本人が言ったように戦闘能力が低い。が、だからといって魔法使いとして無能であるかといえば差に非ず。

 彼の本分は戦闘ではなく、補助にある。戦闘能力はこの場にいる魔法先生の中でぶっちぎりの最弱であっても、それ以外の能力に限定すれば追随を許さぬほどに際立っている。いや、彼に勝る魔法使いは特定の分野を除けば数えるほどにもいない。

 その彼が超を補足するどころか離脱方法を検討すらもつかないと言ったことに、神多羅木は咥えている煙草の先をピクリと揺らした。

 

「魔法ではない、か」

 

 魔法で観測できなかったのならば科学的な離脱方法だったのかと答えを出す。

 

「どうでしょうね。超君なら何をしようとも驚きませんよ、僕は」

 

 やっぱり凄いな、と明石教授は言いつつも悔しさを隠そうともせず、降参と言いたげに両手を上げた。 

 なんの前触れもなく消えた超を明石教授は魔法で追っていた。だが、その居場所どころか痕跡すら察知できないのでは、文字通りのお手上げと言いたいのだろう。

 

「何かをしたとは思えん。特定の時間になったら発動する時限式の何かを仕掛けていたのだろう。拘束ではなく、制圧にすべきだったのかもしれんな」

「手を誤ったというのはそういうことでしょう。或いは最初から全てを読んでいたのか。恐ろしい子です」

 

 指先からの風の刃を解いた神多羅木の煙草を吸いながらの発言に、刀を鞘に直しながら葛葉が追従する。

 

「やはり多少強引にでも連れていくべきだったでのは?」

「後になって言うことではありませんよ、ガンドルフィーニ先生」

 

 直前まで強硬策を進言していたガンドルフィーニの言を葛葉が跳ね除けの見た明石教授は、それぞれの獲物を直す魔法先生達から視線を外して手持ち無沙汰な高音と愛衣を見た。

 

「グッドマン君に佐倉君もごめんね。折角、手伝ってもらったのに」

 

 指示を下すだけの魔法先生の指揮官である明石教授から謝られても高音達も困ってしまう。

 こういう場では愛衣よりも高音が喋ることが多い。この時も高音が口を開いた。

 

「いえ、私達は。大してお力になれなくて申し訳ありません」

「君達は十分よくやってくれたよ。ありがとう」

 

 明石教授は頭を下げて苦渋を滲ませる高音にこれ以上の謝罪は不要と視線を外して、まだ盛り上がりを見せる武道大会の会場だった舞台方向を見た。

 

『本日は麻帆良武道大会へのご来場、まことにありがとうございました! 御帰りの際は落し物や忘れ物のないようにご注意ください……』

「全部彼女の手の平の上だったか……。このことが後に響かなければいいけど」

 

 この声は娘の同級生だったか、と聞き流しつつ、致命的な読み間違いをして超を逃がしたことを反省をしながら後の展望の不透明さに眉を落した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どこもかしこも人、人、人か」

 

 武道大会終了後、人の流れに呑まれながら会場外に弾き出された長谷川千雨は憂鬱そうに溜息を吐いた。

 初等部から大学部まで含む、外来者も含めれば数十万人近い人数の熱気がない交ぜとなって、数多くの渦を生み出している。正しく人が生み出している熱の渦だった。

 人と人が絡み合って出来る、社会の内側を巡る渦である。

 今も学園都市内には熱気が渦巻いている。笑い声も怒鳴り声も、その全てを収斂していく膨大な喜怒哀楽、数十万人近い人達の感情を集めて、その熱はますます膨れ上がっていくばかり。

 街を歩く誰もが幸せそうで、偶にあまり幸せそうじゃない人もいたけれど、そんな人達でさえ楽しそうな麻帆良祭の光景を見ると思わず微苦笑してしまうのだった。

 千雨が共感する相手は、どちらかといえば後者であったが少なくともこの光景が嫌いではなかった。

 多くの学生が形作る渦の力強さ。これから社会に関わっていくはずの、若くて無分別なエネルギー。きっとその熱に当てられた所為だろう、眩しさに目が眩む。

 不可視の光へ、無意識に顔を背けかけた時だった。

 

「あ」

 

 見覚えのありすぎる人間が目の前を当たり前の顔をして横切って行った。

 

「お、前……っ」

 

 と言いかけて、千雨は咄嗟に台詞を飲み込んだ。

 少し前のことを考えれば確実に有名人になっている少年が歩いているの光景を素直に信じられなかった。傷一つない姿を見て、願望が幻覚を見せたのかと千雨は己が目をまず疑った。

 熱さによる幻覚か、人混みに酔ったのか、理由を積み上げて目を擦った。

 次いで瞼を強く閉じてから開く。が、目の前を横切った人物は千雨を襲った衝撃を知りもせずに、帽子を被るだけで変装しているつもりなのか堂々と平然とした顔で歩いていく。

 止めなければならない。呼び止めて、その肩に手をかけて振り向かせなければならない。その為に足を一歩踏み出した。

 一歩目を踏み出したところで背後に人が迫っていることに気が付かなかった。

 

「どうかしましたか、千雨さん」 

 

 背後からこれまた聞き覚えのある声がかけられた千雨は、条件反射で振り返ってピタリと硬直した。

 当の人物は固まった千雨に表情を変えぬまま、首を僅かに傾けた。

 

「どうかしましたか、千雨さん?」

 

 繰り返された問いには疑問符がついたと千雨にも分かった。分かったからといってどうということはないが。

 

「なんのようだ、茶々丸さんよ」

「突然、立ち止まられことが気になりましたので、迷惑でしたか?」

 

 本性を知られているので自然と口調が刺々しくなった千雨に返って来た予想外のものだった。

 武道会の裏で暗躍している超の味方であることを標榜しているような絡繰茶々丸が目の前にいる状況は容易く受け入れられるものではなかった。

 

「迷惑というか」

 

 千雨は予想外の返答に続く言葉が出なくて詰まった。 

 常識を揺るがされているが茶々丸に声をかけられたからといって迷惑は蒙っていない。立ち止まった千雨を避けて通って行くのを見れば周りに迷惑を与えているのは自分の方である。

 ほど良く混乱した頭で謝るべきかと考えた千雨の脳裏に一人の人物の影が過った。先ほど目の前を横切って人物である。

 

「そうだ。今そこにアスカが……!」

「呼んだか?」

 

 この事実を誰かに伝えなければならないという使命感に駆られた千雨が叫びかけたその真横に忽然と現れるアスカ。

 予想外というべきか。意識の範囲外というべきか。

 さっきまではそこにいなかったはずの人物が音も無くそこにいて、間近で声をかけられたら人が取る反応は限られる。

 外面はともかく内面は気が強い千雨は乙女のように「きゃっ」なんて言って可憐に驚きはしない。

 

「うわっ!?」

 

 色気のへったくれもない驚きの声と共に振るわれた手は見事にアスカの頬に直撃する。

 アスカもまさか千雨に頬を張られるとは予想していなかったのか、一般人の攻撃を受けようとも大したダメージにならないとたかを括っていたのか。

 

「へぶわっ?!」

 

 まともに頬を平手で張られたアスカを茶々丸は、機械にあるまじき驚きの目で見るのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 前夜の予選会から麻帆良祭の目玉になると予想して、本日の武道大会に張り込んでいた記者達は多かった。

 麻帆良武道会は嘗て麻帆良祭の伝統行事として行われていた伝説の格闘大会。以前はかなり大規模の大会だったらしいが20年ほど前から形骸化が進み、近年は賞金わずか10万円となり参加者も減っていた。超鈴音が複数の大会を合併と買収して賞金を1000万円に上げ、伝説を復活させたのだ。注目されないはずがない。

 記者達にとっての不運は同じように興味を持った一般市民にあった。

 大会会場は都市の中にある一神社である龍宮神社。普通の神社と比べれば格段に大きいといっても収容人数には限度がある。

 予選会の評判が良かったこともあって本選の観覧チケットは、かなりの値が張るプレミアとなっていた。手に入れるだけでもかなりの労力となるのに、追い打ちをかけるように完全な電子的措置で記録の映像化を防いだことにより取材も出来やしない。

 大会中に選手にインタビューすることも禁じられていたこともあって、彼らに出来たのは一観客として試合を見て記事を作り上げることだった。

 電子的措置で記録の映像化が阻まれるのは大会中のみ。インタビュー禁止もまた同じく。となれば、記者達の目当てが大会後に向けられたのは当然の流れといえた。

 

「どこへ行った?!」

 

 学祭中であっても異様なテンションを披露する集団に好き好んで関わろうとする人もいない。進軍するという表現が正しい記者軍団の進む道は海を割ったモーゼの如く勝手に開いていく。

 

「大会参加者の独占インタビューを取るのはウチだ!」

「やらせはせん! やらせはせんぞ!」

 

 人でごった返す表通りにマイクやカメラを持った10人超の目を血走らせた集団が駆ける。

 

「お母さん、あの人達なにやってるの?」

「しっ、見ちゃいけません。いい、しーちゃんはああいう大人になっちゃ駄目よ」

 

 草の根を掻き分けてでも目標を見つけ出さんという意欲は、ジャーナリストとしては正しいのかもしれない。周りの理解は往々にして得られないものである。

 

「糞っ、どこに行った?!」

「まだ遠くには行っていないはずだ。草の根を掻き分けてでも探せ!」

 

 目的の人物を見失ったらしく集団は表通りの中心で辺りを見渡す。

 中には中学生ぐらいの子供から高校生も混ざっていたが、押しなべて目を血走らせた集団と積極的に関わろうという猛者はいない。

 無駄に騒がしいだけあって事前に気づいた人達が自然と避けていくことにも彼らは気付かない。その中で比較的に冷静な方だった一人が別の場所を探している仲間と連絡を取っていた携帯から激震を齎す情報が伝わった。

 

「あっちで優勝したアスカ選手を見たと目撃情報があったぞ!」

「「「「「「「「「何っっ??!!」」」」」」」」」

 

 激震は記者たちのみならず、表通りから外れた脇道から少女の叫びと顔が出てきたが後ろから伸びて来た手が掴むと引き戻された。

 

「黒いセーラー服を着た眼鏡の子とシックなゴスロリを着た長身の子と西へ逃げたとのことだ!」

 

 続く情報の直後に脇道から今度は足が出てきたがこれまた直ぐに引き戻された。

 幸いにも誰も気が付く者はいなかった。

 

「追え追え追え追え追え追え! 逃がすな曝せ! 我ら麻帆良ジャーナリストの前に暴けぬ真実はない!」 

「「「「「応ぅ!!」」」」」

 

 ちょっとどうかと思う掛け声と気合の叫びが轟いて、記者達は台風の如く駆け抜けて行った。後にはペンペン草が一本も生えない荒野だけが残ったりしなかったりする。

 

「行きましたか?」

 

 駆け抜けて行った記者達を、表通りから少し外れた脇道から顔を出した近衛木乃香は背後から聞こえる親友の声に振り返った。

 パレードが出来そうな表通りとは違って脇道は細く狭い。両脇の建物が高いこともあって昼過ぎで頂上付近にある太陽の光も通りには射さない。暗く湿気だけが立ち込める通りには三人の人影があった。

 

「凄い勢いで駆け抜けて行ったで」

 

 再度、表通りに顔を出して記者達が戻って来ないことを確認した木乃香は体を完全に脇道へと向ける。

 そこにいるのは馴染みの二人。木乃香に声をかけた桜咲刹那と彼女に拘束されている神楽坂明日菜その人である。先程の脇道から出ようとしたのは明日菜で、彼女を刹那が止めたのだ。

 いい加減に拘束を解かれた明日菜を尻目に、刹那には多大に余裕があった。

 

「慌ただしい気配達が遠ざかって行きます。戻って来る様子はなさそうです」

 

 メイド服から元の白いセーラー服に着替え直した刹那は竹刀袋に納められた夕凪を持ちながら、より気配を探る為に閉じていた瞼を開いた。

 明日菜を拘束するにはてんで本気ではなかったらしい。そのことに少し仏頂面になった明日菜は唇を尖らせる。

 

「私には気配なんて感じないんだけど」

「直に明日菜さんにも分かるようになります」

 

 言われた明日菜はどこか納得できないのと刹那の言葉を信じたい感情との板挟みになって微妙な顔をする。

 そんな明日菜の顔を見て刹那は笑う。一般人の感性を持ちながらも師である刹那を信じようとする気持ちは嬉しく感じていた。

 

「それじゃ……」

 

 明日菜は何を言ったものかと暫し思案して、通りに向けた視線の先にいる記者らしきスーツを着た男と視線があった。

 先に駆け抜けて行った集団と違って鈍足らしく盛大に息を荒げて両膝に手をついていたが、その目はしっかりと脇道にいる明日菜達を見ている。

 足りなくなった酸素を取り込んでいた記者の口が大きく開いた。

 

「逃げるよ!」

 

 発する言葉が予測できる記者の機先を制して明日菜は叫びながら二人の手を引っ張る。

 

「あっ」

「きゃっ」

 

 咄嗟に反応した刹那は驚くだけだったが木乃香はバランスを崩してしまう。が、そこは運動神経が異常レベルに踏み込んでいる二人がさせるはずがない。

 明日菜が刹那を持っていた手を離し、木乃香を真ん中に挟んでぶら下げる。

 

「わ、あはははははははは」

 

 親友二人に転倒しそうなところを足が宙ぶらりん状態で助けてもらった木乃香は、遠い昔にまだ母親が生きていた頃に両親にしてもらったことを思い出して笑った。

 この三人でいる時の中心は木乃香である。彼女が笑っているだけで空気は柔らかくなる。

 

「これからどうしましょうか!」

 

 後ろから迫って来る鈍足の記者を振り切る為に雑踏の中に紛れ込み、手を繋いだままでは流石に難しいので刹那が木乃香を背負いながら今後の指針を問うた。

 元より完全な肉体派の刹那には考えることは向いていない。それは今までのことを考えれば明らかで、何もしないわけではないがこの楽しい時を持続したいとの思いから放たれた問いだった。

 

「明日菜の用事もあるし、まずは記者さん達を振り切らなあかんな」

 

 背負われた木乃香は猫のように刹那の首筋に顔を擦りつけながら思案気に頷いた。

 擽ったそうな刹那が文句一つ言わないことに、明日菜は二人の背後に百合の花々が浮かんでいることに気が付いたが口に出すことはしなかった。それよりも高畑に言われた言葉を思い出す。

 

『デートをしよう』

 

 表情を張り詰めさせた高畑に暫しの熟考の後に了承の言葉を返した明日菜。どんなことにも女子の準備には時間がかかる。余裕を以て行動するには、何時までも報道陣と追いかけっこしているわけにはいかない。

 

「でも、どうすんの? 結構しつこそうよ」

「うーん、そうやな」

 

 先頭を走って群衆の隙間を正確に抜けていく明日菜のツインテールの毛先を眺めながら木乃香の視線は辺りを彷徨う。

 そして視線の先に「貸衣装ハロウィン・タウン」という建物が視界に入って来た。次いで辺りを見渡して周囲が仮装している人ばかりであることを確認して口元を綻ばせる。

 

「あれや。明日菜、せっちゃんあそこに突撃や!」

 

 刹那の肩越しに指差す方向を見た明日菜のツインテールの毛先が踊った。

 

「「了解!」」

 

 木乃香の指示に従って従者二人は片方が主を背負って笑いながら突撃して行った。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 西欧風の建築が取り入れられる麻帆良学園にも純日本風の建物も勿論存在する。学園内に立つ神社や茶道部が野点会場とした古式ゆかしい日本庭園がそれに該当する。麻帆良学園創立には西欧人が関わっているとの話だが彼らが日本文化に興味を示したことも想像に難くない。

 大学から中学までの茶道部が共同して開いている野点会場は、日常では目に出来ない雰囲気を楽しめるとあって人はそこそこ多かった。

 そんな野点会場の中で人通りの少ない簡素な場所で奇妙な光景が繰り広げられていた。

 

「で、どういうことなんだ?」

 

 着慣れない着物にもぞつきながら、千雨は対面に座る少年に問いかける。

 問いかけられた少年アスカ・スプリングフィールドは、難しい顔をしながら茶々丸から差し出されたお茶の入った茶碗を見ていた。

 

「むぅ」

 

 真剣だった。真剣であるが故に茶碗を見下ろす目には苦渋に満ちている。

 千雨はその表情の意味を自分の問いにあると考えた。だが、茶々丸は違ったようだった。

 

「茶道といっても正式な場ではありませんので作法は考えなくとも良いです。お好きに御飲み下さい」 

「あ、そうなのか」

「作法を気にしてたのかよ!」

 

 茶会の作法を気にしていたらしいアスカは茶々丸の許しを得て茶碗に手を伸ばす。

 どのような味がするのかと意気揚々と茶碗に手を伸ばすアスカには問いに対する煩悶など欠片もなさそうだったので、武道大会時から心配していた千雨は思わず突っ込んでしまった。

 当のアスカはチラリと千雨を見てから両手で持った茶碗を口につけて傾ける。

 お茶を飲み込んだことを示すように喉が微かに鳴るとアスカは僅かに驚いたように目を開く。

 

「苦くない」

「苦い物は苦手と聞いておりましたので、薄めて提供させて頂いています」

 

 こういう場で出るお茶は苦いとどこかで聞いていたのか、二度三度と口をつけて確かめるアスカに茶々丸は自然と微笑んでいた。

 お茶の味がお気に召したのか、下品にならない程度に素早く飲み干したアスカは茶碗をゆっくりと地面に敷かれた毛氈というマットに置く。

 

「見事なお点前でした、でいいんだっけか」

「はい。ありがとうございます」

 

 頭を下げ合う二人に自分だけが場違いな気持ちになった千雨は臍を曲げた。

 アスカと同じく茶々丸に提供されたお茶を片手で取って、行儀悪く見えようとも気にせずにガブガブと飲む。

 

「差し出がましいことをお聞きしますが、怪我の方はどうなされたのでしょうか? 見る限り治っているようですが」

「ん、木乃香に治してもらった」

「そうですか、納得しました」

「んぐっ?!」

 

 一息ついたばかりといったところで切り込んで行った茶々丸の発言と答えようとしているアスカに、千雨は呑み込みかけていたお茶を詰まらせた。

 

「ゲホッゲホッ」

 

 お茶を噴き出すなんて乙女の誇りを真正面から穢す行為は流石にしなかったが咳き込むことは抑えきれなかった。

 

「千雨は慌てんぼさんだな。もっと落ち着けよ?」

「お前が原因だ!」

 

 背中を撫でてくれる茶々丸とは違って、指を指して笑いはしないながらも微笑ましい物を見つめるように言われると腹が立って、持っている茶碗を投げつけた。

 近距離で投げられた茶碗だったが差し出された指一本で衝撃を殺して、投げた張本人である千雨が唖然とする簡単に掌に収めてしまった。

 一連の動作を見た怒りは一瞬で冷める。

 

「…………やっぱり先のはわざと受けてやがったな」

 

 ここに来る前に叩かれたことに対する謝辞を大人しく受けたアスカは叩かれた頬を指で掻く。

 アスカが置いた茶碗を茶々丸が回収していた。

 

「突然声をかけて驚かせた報いってことで」

「叩いたのは私だ」

 

 ここは穏便に、と気にするどころか自分が悪いと言いたいアスカに千雨は固辞する。

 筋を通しておかなければならないと、そこらにいる男よりも男らしい千雨にアスカは笑わずにはいられないように微笑んだ。

 

「謝罪されても困る。受け流してから痛みはないし」

「の、わりには変な声出してたぞ」

「俺の演技もなかなかのものだろう?」

 

 当のアスカが全く気にしていないことに呆れつつも、毒気が抜かれた千雨は振り回されている自分を心地良く思う謎の心理に内心で首を捻っていた。

 

「さよはどうしたんだ? 姿が見えないが」

「アイツなら朝倉の所に行ってる…………つか、話を逸らさずにいい加減に答えろ。あれはどういうことだ?」

 

 何時までも話をはぐらかされては堪らない。千雨は颯爽と切り込んで行った。

 茶々丸より二杯目を貰っていたアスカは、茶碗を傾けて飲もうとしていた手を止めた。

 

「あれ、とは?」

「分かっていて聞いてるなら殴るぞ、マジで」

 

 着物の袖を巻くって今にも殴りかからんとする千雨にアスカは両手を上げた。

 降参を示す万国共通のポーズをとったアスカだがその顔は笑っている。

 

「アスカ・スプリングフィールドの嬉し恥ずかしの青春活劇で納得してほしいな」

「なんだそれは」

「事細かに説明するとこっちのハートが傷つくから勘弁。男には穿り返されると穴に篭りたくなる過去が色々とあるのさ」

 

 千雨には理解できない種類の笑みを浮かべながらアスカに、不思議なことに怒りを覚えない自分に内心で首を捻った。

 

「あんだけ怪我したはずなのに、なんで笑ってられるんだよ」

「慣れてる。怪我をするのも、死にかけるのも。別段、珍しい事じゃない」

 

 死期を悟った老人のようにしみじみと呟かれたら怒る気も失せる。

 怒りよりも何があったのだろうと気にかかった。千雨の知るアスカは、まるで遠い遠い世界を眺めるように緩やかな風が吹く庭園を見つめはしない。二度と手に出来ない宝物に手を伸ばすけど触れることが出来ないように怯えている。

 

「馬鹿野郎」

 

 罵倒が口に出た。思ってもみなかったが口に出してからそれが的を射ていることに得心した。

 

「突然罵倒とは酷いぞ」

「傷つくことが慣れてるなんてガキは馬鹿野郎で十分だ」

 

 ふん、と鼻を鳴らしながらこの数ヶ月の間になにかがあっただろう少年に悟られないように、着物の袖に隠れる膝の上に置いた手を強く握った。

 

「苦しいなら助けを求めろ。悲しいなら泣け。私には分からない辛いことや苦しいことがあったんだろが、成人してないガキが一丁前に悟った面してんじゃねぇ」

 

 言い切るとアスカは鳩がマメ鉄砲を食らったような顔をした。

 

「私だってアスカの力にはなれる」

 

 少しぐらいなら、と心の中で付け足しながら千雨は自嘲した。

 目の前にいるアスカ・スプリングフィールドは長谷川千雨よりもずっと高い能力がある。年下なのにもだ。

 交友の輪も広く、社交性も高い。腕っぷしも強く、飛び級出来るぐらい頭も良くて、身長と体重も負けているだろうから千雨が勝っている所は年齢とコンピュータ関連ぐらいである。そんなアスカに偉そうな口をしていることに千雨は自嘲せずにはいられなかった。

 

「何でもかんでも抱え過ぎなんだよ。そんなんじゃ何時か壊れるぞ。どこかで発散しろ」

「…………発散しろって言われてもな、別に抱え込んでいるつもりもねぇよ」

 

 心底困ったとばかりの表情から誰もアスカにこんな当たり前のことを教えなかったのだと悟る。

 そのことが余計に腹が立ってもの悲しい。

 事実、アスカには理解できないのだろう。何時も抱え込んで、溜め込んで、発散することも出来ずに積み上げ続ける。性格と言い切ることは難しい。ただ、自分がそんな人生を送るとまともに生きていける自信を千雨はとても持てなかった。

 非常識なクラスメイトを持った千雨もストレスの多い学生生活を送っているが、コスプレやネットアイドルでストレスを発散している。どちらかといえばこちらが趣味になっているのは笑い所であったが。

 

「物に当たるとかはどうでしょう。怒りを覚えたマスターは人形を壁に投げつけたりされていました」

 

 どうしたら発散できるかと考えていた千雨の前で、新しい茶を入れた茶々丸が楚々とした仕草で茶碗を送る。

 

「全力でやると大抵のを壊せるから物に当たったらテロになるかも」

「お前はどこのスーパーヒーローだ」

「超高層ビルでも三十秒もあれば余裕」

 

 顎に手を当てたアスカの信じられない一言に、武道大会のことを思い出した千雨は冗談とは思えず本気で引いた。

 当の茶々丸は気落ちした様子もなく、少しの黙考の末に口を開いた。

 

「屋上から大声で叫ぶとかはどうでしょう」

「大声を出せば解消するかもしれないがどこの青春野郎だ。普通はカラオケだろ」

「俺は音痴だ」

「自慢しながら言うことでもないぞ」

 

 ストレス解消法としては間違ってはいないが、どこかずれている茶々丸に突っ込みを入れた千雨は、胸を張るアスカにも更に切り返す。

 はぁはぁ、と突っ込みを入れ過ぎて息を荒げている千雨を見ながら着物の衿元を直した茶々丸は短い稼働データの中から探り出す。

 

「やけ食いしてみるなどは」

 

 該当するデータは主であるエヴァンジェリンが行う行動にほぼ限定される。

 人形を壁にぶつけるか、大声で高笑いを上げるか、やけ食いをするのかのパターンが限定される。この時も茶々丸はエヴァンジェリンの行動から提案した。

 

「元から大食漢のこいつに意味ないだろ」

 

 アスカは元から人の何倍も食べる。やけ食いをしたところでストレス解消になるかは千雨には甚だ疑問だった。

 

「…………千雨さんは否定ばかりです」

「む」

 

 千雨としては普通の突っ込みのつもりだったが言われた茶々丸はお気に召さなかったようだった。

 人形染みている茶々丸が不満そうに言うのを見た千雨は否定しきれずに唸った。

 反論せずに今度は自分で考えた千雨は思ったよりも良い意見が浮かばず、額に冷や汗を幾つも浮かべながら口を開く。

 

「奇行に走るとか」

「なんだそれ」

「後は―――――全力で遊ぶとか? 今は学園祭で色んなアトラクションがあるからそれでハッちゃてもいいんじゃないか」

 

 呆れた視線をアスカと茶々丸の二人から浴びせられた千雨は苦肉の策の如く、脳内に残る可能性を少し高めのテンションでぶっちゃけた。

 

「………………」

 

 恐る恐る顔を上げて二人の顔を見ると、感情の読み難い茶々丸はともかくアスカまで完全な無表情になっていて内心で酷くビビっていた。

 徐々に目に力が入っていくアスカにどのような返答が返って来るのか気が気ではなかった。

 

「アスカさん?」

 

 茶々丸もまた返答を返さないながらも反応はしているアスカに声をかけた。

 声をかけられたアスカが遂に口を開けた。

 

「それだ」

「は?」

 

 一瞬何を言っているのか分からなくて千雨は馬鹿のように口を開けてしまった。

 

「それだ!」

 

 目を輝かせて叫ぶアスカを見ても、なんのことか茶々丸にはさっぱり分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 祭りの喧騒で一時も鎮まることのない麻帆良学園。その中で神楽坂明日菜は自室へと戻って来ていた。

 見慣れた部屋を、明日菜は見渡す。

 二年と少しの間、木乃香と共有で使っていた二段ベッド。壁に張ったカレンダー。服を満載したクローゼット。仕方なく勉強をするために向かい合っていた机。ブックスタンドに並べられた漫画。

 ここの学習机の前で悩み、木枠のベットで不安に怯えて楽しい明日を夢見た。

 過去を振り切るよう目を閉じ、大きく深呼吸する。

 

「どうかな、木乃香? この服変じゃない?」

 

 高畑とのデートの為に精一杯のおめかしした明日菜の周りを木乃香がジロジロと見ながら検分する。

 足下からスカート、上着から手に持つ小物まで入念に見ていくチェックにドキドキしながら感想を待っていると、木乃香の視線は頭頂部で止まった。

 

「ん~」

 

 明日菜の頭を見たまま、木乃香は言いたいことがあるけど言えないように口をまごつかせる。

 木乃香の視線が髪飾りに注がれているのに気づいた明日菜は、改めて服装を見下ろす。

 普段着ているような活動的なものではなく、木乃香にチョイスしてもらった着慣れない甘い系の服。

 

「服と合わないかな?」

「そういうわけやないけど……」

 

 木乃香の感じからして似合っていないのではなく、付けている鈴の髪飾りが甘い系の服には違和感があるのだろう。言葉を濁しつつも態度から察した明日菜は、机に置いてある鏡に映る自分の姿に眺める。

 

「髪下ろすかなぁ」

 

 髪飾りに触るとカランと鈴が鳴った。

 まるで髪飾りが鳴いているようで、明日菜の言葉と鐘の音を聞いた木乃香の方が申し訳なくなった。

 

「その髪飾りは高畑先生に貰ったもんやろ。折角のデートやもん。そのままでええと思うよ」

 

 少し慌てた様子で言われたことを考えた明日菜は、だからこそと一大決心をして髪飾りに手をやる。

 しかし、髪飾りを外そうとした手が止まり躊躇する。

 八年前に麻帆良学園に来て高畑にプレゼントされてから日常生活では殆ど外したことが無い髪飾り。木乃香の言う通り、プレゼントをくれた高畑とデートをするなら外すことの方がありえない。

 

「私は変わるって決めたから。何時までも甘ったれていられない。タカミチに今の私を見てもらう為には」

 

 髪飾りに触っていると昔に戻るような気がした。

 

「昔は高畑先生じゃなくてタカミチって呼んでいたのよね、私」

 

 物凄い不愛想だった当時の幼い明日菜に渡され、年月と共に二人を繋ぐ絆になったプレゼント。でも、何時からかその絆に固執していたのではないか、縋っていたのでないだろうかと疑念が明日菜の中に生まれる。

 もう神楽坂明日菜は小さな子供ではない。守られているだけの少女ではないと証明しなければならない。

 

「私は、もう一人で立てる」

 

 まるで神様の前で誓う神聖な誓いのように、明日菜は呟いて髪飾りを外した。

 サラリと抱えていた深い懊悩とは別にあっさりと髪飾りは外れ、ツインテールに纏めていた髪がハラリと解けていく。

 日常的にしている動作なのに、この時の明日菜を襲ったのは世界で自分一人しか存在していないような孤独感によって、どうしようもない寒気に襲われていた。

 息が出来ない、凍えるように寒い、恐ろしい程に寂しい。両手の中にある髪飾りだけが支えで、温もりだった。

 縋ってしまえば、楽だろう。助けを求めれば、これ以上ない力になってくれる。でも、それこそが甘えだと知っていた明日菜は自ら髪飾りを手放した。

 その瞬間、明日菜の心臓は止まった。

 

「どうしたん、明日菜?」

 

 木乃香に声を掛けられ、ようやく世界に他者の存在を知覚して心臓は再び脈動を再開する。

 全ては明日菜の錯覚であり、思い込みであったのだと悟らされる。それほど髪飾りに、高畑との絆に依存していたかが分かり苦笑する。

 高畑から始まって、雪広あやかから広がって、近衛木乃香に出会い、アスカ・スプリングフィールドに行き着いた。

 

「なんでもない」

 

 答えつつ、おかしすぎて大笑いしそうだった。

 始まりは一人であったかもしれない。絆は一つだったかもしれない。

 八年、明日菜は八年の月日を麻帆良学園で過ごした。一人だった明日菜の周りには気が付けば人で溢れ、多くの人と絆を結んだ。明日菜は独りにならないし、髪飾りを置いたからといって高畑との絆が消えるわけでもない。

 

「どう、似合ってる?」

 

 自信なさげに、明日菜が指を絡ませる。こういう明日菜も、ひどく珍しくはあった。普段から芯の強さが滲み出ているような少女である。だからこそ、木乃香にとっては愛おしい。とても大事な親友の、とても大切な想い。

 

「似合ってる。可愛いえ」

「ありがとう」

 

 世辞ではなく本心から感嘆している木乃香に笑顔のお礼を返しながら、木乃香の机の上に置いてある鏡に映る自分の姿に子供ではなく女を見た。

 小さな子供ではなくこれから花開いていく女の姿は悪くないと思った。変わっていける自分を好きになれると、確かに感じられたから。

 

「あ」

 

 ふと、脳裏に閃く物があった。

 歩みを進めて自分の机に向かって一番上の引き出しを開け、奥に仕舞いっぱなしになっていた物を取り出す。

 取りだされた包装紙は木乃香の見覚えのある物だった。

 

「それってアスカ君からの誕生日プレゼントちゃうの」

「うん」

 

 答えながら包装紙を解いてペアリングを取り出し、手に取って眺める。

 特に目を惹くほどの綺麗でも細工が細かいわけでもない。安物っぽくて平凡で、どこにでもあるような物。作られてから大分経っているのか新品にも関わらず少しだけ色褪せているようにも見える。

 年頃の少女にプレゼントするには少しミスマッチなペアリングを、開けた引き出しに入っている貰い物のチェーンにペアリングを通して、後ろ手に首の後ろで留め金を付けてみる。

 胸の上に止まった飾り気のないペアリングが光ったような気がして、明日菜はアスカを思い浮かべながらペアリングを唇を当てる。微かな電流が走ったような気がして不安がスゥと消えていく。

 

「行くんやな」

 

 準備を終えた明日菜の変わりように、木乃香は感嘆の息を吐いて言った。

 

「刹那さんに何時までも囮をさせておくわけにはいかないからね。行ってくる」

 

 明日菜はドアを開け、最後にもう一度だけ振り返る。

 彼女達の部屋は南向きなので日当たりが良い。部屋にある全てがいくつもの過去の明日菜に繋がるようで、濃密な日々の思い出が押し寄せる。ここで過ごした日々を想い、この時だけは熱い涙に零れることを許した。

 

「―――――――行ってきます」

 

 女子寮を出て、祭りに騒ぐ麻帆良を歩く。

 陽射しが柔らかかった。初夏特有の温かで包み込むような光。多くの人が集まる熱と相まって、何時までも微睡んでいたくなる。撫でるように風が吹き過ぎ、下ろした髪が小さく靡く。

 変わり行くその変化を受け入れて、明日菜は前へと歩み続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 強烈な日差しが麻帆良学園都市にも滾り落ちていた。流石に暑い。正午を過ぎ、一日で最も気温の高い時間ではあった。

 タカミチ・T・高畑は、耳元に持って来ている丈夫さを重視して普通よりも何倍も無骨な携帯電話に意識を集中する。

 

「超君に逃げられたということですか」

『まんまと出し抜かれた形だね。彼女の方が一枚上手だったよ』

「すみません。僕も同行していれば」

 

 高畑は電話相手の明石教授に申し訳なさだけが募って姿すら見えないのに頭を下げてしまう。

 葛葉やガンドルフィーニ、神多羅木といった魔法先生の中でも武闘派で通っている人材が超拘束に同行すると聞いて、一身上の都合で参加を辞退した己が不始末を詫びるしかなかった。

 

『どうだろうね。向こうも君が同行することは予測してその上で対策を立てていただろうから、どっちにしろ同じ結果になったんじゃないかな』

 

 自他共に戦闘能力なら麻帆良学園都市トップクラスであった高畑は、予想外の返答に携帯を持つ方とは別の手で持つ煙草を組んだ膝の上に置いてある携帯灰皿に灰を落す。

 今の高畑は灰皿の上に置かれている灰のように燃え尽きている。武闘派が集まっていることを言い訳にして逃げた高畑に明石教授の言葉は骨身に染みるものがあった。

 

『魔法生徒の手も借りたんだけど逃げられちゃったんだ。どうやって逃げられたかも分からないからお手上げ状態。困った困った」

「超君はそれほどですか?」

『部下に欲しいぐらいだったんだけど断られちゃったよ。残念』

 

 信じられない気持ちでいた高畑だったが、本気か嘘か分からない明石教授の言葉に眉を下げる。

 明石教授は冗談は言っても嘘は吐かない人だ。彼が部下に欲しいと言ったのだから事実なのだろうと高畑は内心で呟く。

 

『それはともかく、逃げられました、逃走方法も分かりませんで、これから学園長に報告しないといけないから憂鬱だよ』

 

 言葉通りに憂鬱そうな溜息を漏らす電話先の明石教授は、声だけは普段の陽気な彼そのものだから対応に困る。

 

『僕が怒られるのは確定として、超君の言動から近々ことを起こすのは間違いないと思う。高畑君もそれまでに気持ちを固めておいてくれ』

 

 ギクリ、と内心を言い当てられた高畑は体を強張らせた。

 

「…………全部お見通しというわけですか」

『今は大学の教授をやってるけど、元担任の眼力は舐めないでほしいな。まだまだ耄碌したつもりはないよ』

 

 学生時代の童顔な担任の顔が今とそう変わっていないことに逆に戦慄を覚えながら、明石教授流のユニークを効かせたジョークに強張っていた体が不必要な力が抜けていく。

 

「恩師を舐めるなんてそんなつもりはありません。貴方のように人を導ける人間になりたくて僕は教師になったんです。今は昔以上に尊敬しています」

 

 エヴァンジェリンと同級生だった頃の学生時代の頃を思い出して、今のうらぶれた有様が情けなくて仕方なかった。

 どこから間違っていたのだろうか、と自問する。

 どこで間違ったのだろうか、と自問する。

 自問に対しての答えは、どれだけ探してもどこにも見つけられなかった。

 

『誤魔化しを感じるけど、素直にありがとうって言っておこうかな』

 

 嬉しげな声音には咎めるような感情は欠片も込められていなかったが、高畑には遠い昔と同じように諌められているような気がした。

 世間を渡る処世術だけは人並み以上に優れているので、内心を面に出さずに苦笑が出る。

 

『むぅ、よほどの重傷みたいだね。応援を頼んでおいて良かったよ』

「応援?」

『おっと失言しっちゃったかな。ま、その時が来れば分かるからデートを楽しんでおいで。じゃ』

 

 唸り声と共に放たれた謎の言葉に咄嗟の理解が出来ずに首を捻るも、続く言葉はもっと意味が分からないまま向こうから電話が切られる。

 その時が来れば分かるというのであれば、今考えても仕方ないと思考を終わらせ、携帯を背広のポケットに直した高畑はチラリと腕時計に目をやった。

 

「ちょっと早く来すぎたかな」

 

 約束の時間は十五時なのに約束の時間よりも大分早く来てしまったので、ちょっぴり手持ち無沙汰になってしまった。

 ベンチに座ったまま、ぼんやりと空を見上げる。

 くっきりとした雲の塊が幾つかと、その間から垣間見える蒼い空を見て、晴れてるなと間の抜けたことを考える。一日一日、夏らしく陽射しが日増しに強くなっていく。

 と、視界に影が落ちた。直ぐ傍に誰かが立っている。

 

「ん?」

 

 ふんわりとしたシャンプーの香り。最近は遠ざかっていた懐かしい匂いに視線が勝手に動く。

 

「お待たせしました、高畑先生」

 

 少し腰を屈めて、ベンチに座る高畑の顔を覗き込んで声をかけてきたのは見知らぬ可愛い女の子だった。

 膝まで伸びる癖の無い亜麻色の髪の毛、丸みを帯びつつもほっそりとした小顔、幼さを残すクリッとした円らな瞳、それでいながら胸元は大きくせり出し、胸の上にあるペアリングがアクセントとなって、腰から太腿にかけての女性的な曲線を強く意識させている。

 見覚えがあるので、どこかで会ったことのある女の子だ。というか、この雰囲気が誰かを高畑は知っていた。心中で舌を打つ。目の前にいるのは、見慣れた何時もの少女なのに何を混乱しているのか。

 

「………………明日菜君?」

 

 リボンのついた真っ白なブラウスに空色の膝下まであるギャザーの入ったスカート、靴は少し冒険して買ったばかりの、靴底の土踏まずの部分がへこんでおらず、踵部分が高く爪先に向かって低くなる船底形のヒール………………自分の来ている服が恰好悪いのではないかと思ったりして、明日菜は所在無げに普段している鈴の髪飾りを外してストレートに流している毛先をいじったりした。

 薄く色の入ったリップが付けられた唇に見入った高畑は、咥えていたタバコをポロリと落としてしまい、慌てて拾って携帯灰皿に押し付けてポケットに直す。以上の動作はほぼ無意識に行われた。

 

「一瞬誰かと思ったよ。髪型変えたんだね。似合っているよ」

 

 明日菜に気づかれないように深呼吸するとだいぶ落ち着いてきた。

 

「良かった。似合ってないって言われたらどうしようかって思ってました」

 

 照れてか少し恥ずかしそうに眼を伏せて前で組んだ手をもじもじさせながら、上目遣いにこちらを見ている明日菜に今までになかった眩しさを感じて高畑は少し目を細める。

 屈託なく微笑む少女を小さな子供を扱いするには、時の速さに溜息をつくほど大人びて見えた。無防備なその表情にすら、あどけなさより蕾が開いたような華やかさが前に出ていた。

 

「何時から待ってたんですか?」

 

 ストレートに流した髪を揺らし、涼やかな風が吹き抜けていく。燦々と降り注ぐ陽光が、コンクリートのタイルの上に彼女のシルエットを鮮やかに描き出していた。

 

「少し前だよ」

 

 何かが終わりつつある実感を抱き直した刹那、答えながらベンチから立ち上がる。

 自分から誘ったデートなのに変わらぬグレーのスーツ姿は間違いであったと後悔の念が頭を過った。

 

「じゃ、少し早いけど行きましょうか?」

 

 高畑の後悔を知る由もない明日菜がリップグロスでツヤッとさせた唇で、にこりと笑った。何かを期待するような顔をして見上げてくる明日菜に、高畑は意味もなく緊張した。

 

「まずは映画です。デートなんですから一緒に映画を見るのが基本なんですよ」

 



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第51話 隣にいるアナタ

 暑かった陽射しも太陽が真上から見上げた程度の高さに落ちていくことで和らいでいく。図書館島内部にもガラスから入る陽射しは目にも分かるほど柔らかかった。

 

『こちらが図書館島名物の一つである北端大絶壁です』

 

 図書館探検部に所属する大学部の生徒が先頭に立ちながらマイクで説明する。

 館内にも関わらず、橋の上を歩いている一行を優しく照らしてくれる。橋の上を歩く一行の左の方には断崖絶壁となっている本棚が並び、その上から大量の水が流れ落ちている。要するに滝になっているのだ。

 

『建築当時の資料が散逸している為、なぜこのような物が作られたのかは不明で』

 

 滝から落ちる水が太陽の光に反射して虹を作っている。

 大人の腰以上の位置になるように作り直された手摺を掴んで、この探検大会に参加した一団が紙媒体の本があるのに摩訶不思議にも滝が流れている本棚を見て歓声を上げる。

 

「ねぇ、夕映。あの二人ってもう出来てんじゃないの?」

 

 最後尾の更に後ろについて歩く早乙女ハルナの声に、どこか心ここに在らずにいた綾瀬夕映は目を瞬かせた。

 改めて視線を前に向ければ、仲睦まじい宮崎のどかとネギ・スプリングフィールドの姿があった。

 

「付き合ってるとまではいかないでしょうが、近いところにまで来ているのは間違いないようです」

 

 手を繋いで歩いている二人を見遣った夕映は、以前よりも近くなった二人の距離感にどこか焦りにも似た焦燥を覚えながらも努めて平静に返す。

 隣を歩くハルナは夕映の様子に気づいた様子もなく、頭の上で手を組んで悪戯気に唇の端を釣り上げている。

 

「あれはどう見ても付き合っているようにしか見えないけどなぁ。こう、私達の知らないところで突き合ってるって」

「ん? なにか変なニュアンスに聞こえましたが」

「気の所為じゃない」

 

 同じ視点から見ているハルナと夕映では、どうやら見えているものが違うようだ。主に普通の少女と18禁少女という点で。

 どうにも誤魔化されているような気がする夕映だが、親友の恋路の方が大切なのでハルナの言う通り気の所為にしておくことにする。

 

「二人には今が大切な時期なのですから、ハルナも変な茶々だけは入れないで下さいよ」

「そんなことしないって。もっと信用してよ」

「信用できません。普段の行動を顧みれば分かるはずです」

「普段って?」

「自覚していない時点で手遅れです」

 

 溜息を漏らした夕映は、「ラブ臭」なんてものを嗅ぎ取って恋愛において暴走しがちなところがある親友の自覚のなさに呆れる。

 夕映は知っている。早乙女ハルナという少女は他者の恋愛に首を突っ込みたがる性質があると。

 クラスでは朝倉和美と並ぶ噂好きであり、特に恋愛感情が絡むと悪ノリから無神経に話を大きくし過ぎる。そのような性格と併せて時にトラブルメーカーとなることから注意し過ぎてし過ぎることはない。

 

「二人に何かして仲が拗れたらハルナを一生恨むです」

 

 身長差から下から見上げるようになるが、夕映は精一杯の気持ちを込めてハルナを睨み付ける。

 小学生でも通用する夕映と高校生でも通用するハルナ。

 普通ならどれだけ睨もうとも夕映では体格によって迫力が減衰してしまうのだが、そこは二年と数ヶ月の月日を共にしたことで本気になった夕映の怒り様を知っているハルナには十分伝わる。

 

「分かってるって。ちょっと遊ぶだけだから」

「全然分かってないです。そういうことを止めるように言っているのです」

 

 はぁ、と当て付ける為に大きな溜息を吐くもハルナに効いた様子はない。寧ろ、夕映の反応を楽しんでいるようでもある。頭一つ分上から見下ろすその表情はニヤニヤと笑っていた。

 

「私がちょっかいをかけたって、今の二人には余程のことじゃない限り程好いスパイスにしかならないって。見てごらんって、あの二人を。夕映の心配し過ぎ」

「そう、でしょうか」

 

 言われて視線を隣にいるハルナから前へと向ければ、ほんわりとした空気を作っているネギとのどかの姿が目に入る。

 何を話しているかはまでは距離があるので聞き取れないが、仲睦まじい二人の間に入れる者はおらず、多少のことならば大丈夫かと思える安心感もあった。

 

「こっちでああだこうだ言わなくても二人は大丈夫。それよりも問題はアンタだよ」

「私が?」

 

 ニヤニヤとした笑みを収めての突然の矛先の変遷に戸惑った夕映が足を止める。

 

「ここ最近、ずっと何かに悩んでるようじゃない。お姉さんに相談してみな。聞いてあげるよ」

 

 図書館探検部一行が先を進む中、数歩進んだ先で足を止めたハルナが振り返って夕映と向き直って言った。

 

「…………何も悩んでなんていません」

「嘘だね」

 

 即座に否と断定される。

 

「本狂いの夕映が本を読まないなんてありえない。気付いている? この一ヶ月、自分が一冊も本を読んでないって」

 

 嘘なものかと否定しかけた夕映は、言われたことを認識して記憶を思い返し、確かにこの一ヶ月に本を手に取ろうともしなかったことに気が付く。

 最後に本に触ってから一ヶ月もの長い期間が開いている。一日に一冊の本を読まねば何らかの禁断症状が出ていたのに気にもなっていなかった。

 

「ようやく気づいたようだね。そんだけ悩んでたってことさ」

 

 腰に手を当て、ハルナが優しげに笑う。

 

「実際のところ、私はのどかのことに関して、そこまで心配はしてないよ。あの子はああ見えて精神耐性の高さはクラスでもトップクラスだからね」

「のどかは気が弱いと思うのですが」

「今ののどかを見てもそう言える?」

 

 言えるはずがない。ネギと関わり、告白してからのどのかは夕映が驚くほどに強くなっていっている。

 

「元からそうだったのか、ネギ君を好きになってから変わったのかは分からないけど、今ののどかは強いよ。自分で道を決めて歩いて行ける。アンタはどうだい、向かう道は選べてる?」

「…………」

「その様子からして選べてないからハルナお姉さんが相談に乗ったげようって言ってんのさ」

 

 夕映は直ぐには答えられなかった。ハルナがこれほどに人を見ていたことに驚きだが、簡単に口に出せるほど容易い悩みではない。

 

「私は――」

 

 なのに、気が付けば夕映の口からは言葉が零れ落ちていた。

 

「知りたいことがあるのです。でも、そのことを知るのには危険が伴って、私の中で知的欲求と身を守ろうとする本能が鬩ぎ合っていて選ぶに選べないのです」

 

 燃え上がり全身を焦がすほどの欲求に今も苛まれ、溢れ出しそうな想いから胸を抑えた夕映は、言語化することで形になっていなかった感情が整理されていくのを感じた。

 

「欲求に負けちゃえばいいよ」

「そんな簡単な問題ではありません! 欲求は夜も眠れぬほどにこの身を焦がしていますが、危険に晒されることを恐ろしいとも感じているです。死にたくない、傷つきたくないのです」

 

 生物が抱える真っ当な本能と夕映の中に芽生える知的欲求が鬩ぎ合い、どちらが主導権を握ることなく漫然と過ごしていた。それでも魔法のことを知らなければ良かったと思えない。

 

「ねぇ、私が知ってる夕映はさ、知りたいと思ったら飛び出して行っちゃってるよ。らしくないよ、今の夕映は」

「私は猪突猛進するタイプではないです」

「自分と周りから見る目は違うもんだよ。それにさ、危険があったら逃げればいいじゃん」

「逃げる?」

「危なかったり嫌になったら私の所に戻ってくればいい」

 

 知らずに下がっていた顔を上げると、ハルナが今まで見たことがないほど優しい微笑みを浮かべている。

 

「私達はまだまだ子供なんだから失敗したってやり直せばいい。それとも夕映はずっと葛藤を抱えたままで生きていける? やって後悔するよりも、やらずに後悔する方がずっと辛いよ。どっちの道を歩む?」

 

 ハルナは手を伸ばして夕映を待つ。

 それは救いの手でもあり、選択させようとする厳しいものでもあった。

 

「選びな、夕映」

 

 ハルナは一向に動かない。夕映の選択を待っている。

 

「待っていてくれますか?」

「私達はどこにいたって、何年経ったって親友だよ」

 

 問いに対する返答は明瞭ではないが、その意は容易く汲み取れる。

 

「ていうか、そう聞くってことはもう夕映の中で答えが出てるってことだよね。ほら、もう大分離されちゃったし、私達も行くよ」

 

 ハルナは手のかかる親友の手を握って、彼女らしく悪戯気な笑みを浮かべて先に進んだ一行を追って走り出した。

 

「ありがとうです、ハルナ」

 

 引っ張られながら走る夕映は久しぶりに自然と笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頂点を極めた太陽は徐々に傾いていく。まだ夕焼けには少し早いが、今日という日もまた一日の半分を過ぎていた。

 最も暑い時間から、ちょっとだけ気温が下がって来た麻帆良学園都市は、まだまだ祭りの盛況さの翳りすら見せない。

そんな中、アスカ達は野点会場から違う場所へ移動していた。

 

「うわっはぁ――っ」

 

 着物から着替えてクラスの出し物である黒いセーラー服の千雨は、どうやってかこの学祭の為に作り上げられた滝から滑り降りて来たボートに乗っているアスカの楽しそうな姿を眺める。

 

「楽しんでんなぁ。そんなに楽しいもんかね、あれが」

 

 水辺のアトラクションで大はしゃぎしているアスカを陸地から眺める千雨は大いに肩透かしを食らっていた。

 巻き上がった水煙が彼女のいる場所にまで届かないように設計されている作成者の細かい配慮など知る由もなく、手摺に肘をついてロボットの恐竜に囲まれた中を進むボートが進んでいくのを見る。

 

「無理もありません。恐らくですが、アスカさんはこういう風に遊んだことがなかったのかもしれません」

「遊んだことが無いって? そんなわけないだろ」

 

 隣に立って同じようにボートに乗って楽しそうに笑うアスカを見た茶々丸の発言を、千雨は彼女の中にある子供は遊ぶものという一般常識から否定した。

 平和な世界で生まれて生きて来た千雨の常識を、しかし茶々丸は首を横に振る。

 

「断片的ではありますが聞いた話によりますと、このような施設が幼少期に周りになかったことと、あまり遊ぶということがなかったと仰っておられました」

「飛び級したぐらいだから変でもないけど、あのアスカが遊ばないってのはないだろ。友達多いタイプだぞ、あれは」

 

 アスカは学校がなければ引きこもりになりそうな千雨と違って社交性がある。

 どこで知り合ったのかと疑問に思うような相手と話をしているのを見る度に内心で首を捻っていたものである。そんなアスカが友達と遊ばないというのは想像が出来なかった。

 千雨としては本音を言ったつもりだったが、茶々丸の顔を見ると自分は間違っているのではないと疑念が湧いた。

 茶々丸が特段表情を変えたわけではない。数ミリ程度眉尻を下げ、アトラクションで楽しそうに笑うアスカを見る目に感情が僅かに乗ったぐらいである。

 

「主観が混じった推測になりますが、よろしいでしょうか?」

 

 視線に込められた感情の正体を探ろうとした千雨だったが気になったので咄嗟に頷いた。

 茶々丸は言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

 

「私が知る限りでは、アスカさんはお父上に会う為に強くなろうとされています。それこそ脇目も振らずに今まで過ごしてきたのだとしたら、遊ぶという行為自体が必要ないと考えていたのかもしれません。仮に遊んでいたとしても心の底から楽しめていたかは疑問がつきます」

「…………分からない話じゃないな」

 

 何時も千雨は不思議だった。アスカは目の前にいるのにまるで別世界の存在しているかのように感じることがあった。

 声をかければ反応もするし、触れば触れることも出来る。なのに、ふと目を逸らしたら消えてしまいそうな危うさ。誰よりも強いのに弱いように感じる時がごく稀にあった。

 

「本人に確かめるしかないか」

 

 気が付けば口に出していた。

 

「何をですか?」

「色々と、だ。お前さんが言っていた魔法のことも含めて、まだ全部を聞いたわけじゃないからな」

 

 二重の意味を込めて千雨は言った。

 反応を確かめるように茶々丸を見るが今度は本当に表情が動いていない。探りを込めた問いに返答がないことに逆に千雨の方が迷った。

 

「確かめてもいいのか?」

「構いません。武道会の試合から魔法使いの存在を推測していた中で伝えましたので、さして問題は無いかと」

「そういうことじゃないだろ。このことを他の奴に言ったらあんたが不味い立場になるんじゃないのか」

 

 平然と返されて逆に千雨の方が鼻白んだ。

 秘密にされていたことを暴こうとしている千雨に口封じもせず、さして気にしない態度は逆になにかあるのではないかと勘繰らせる。

 

「千雨さんなら誰かに言いふらすなどしないと分かっていますから、その心配はするだけ無駄です」

 

 恥ずかしげもなく言い切る茶々丸に千雨の顔は真っ赤に染まった。

 

「信用してくれるのはありがたいけどよ。裏切っても知らねぇぞ」

「信用ではありません」

「は? それが信用じゃなかったらなんだんだよ」

 

 ぶっきらぼうな口調での照れ隠しはあっさりと否定されてしまった。

 

「私はクラスの人達をずっと観察していました。その中には千雨さんも含まれています。貴女が不必要に知られてはならない情報を触れ回らないことは分かっています」

 

 それを信用しているのではないかと千雨は思いもしたが口にはしなかった。他にも気になったことがあったからだ。

 

「クラス全員を観察してたってんなら聞かせてくれ。魔法の事を知ってる奴はクラスに何人いるんだ?」

「人数ですか? 私の知る限りではクラスの半数になるかと」

「半分もかよ!」

 

 どちらかといえば単純な興味で発した質問だったが、予想の斜め上をぶっ飛んでいく返答に手摺を思い切り叩いてしまった。

 そんなことをすれば叩いた手が痛くなるのは必然で、千雨は痛みに腕を抱える。

 

「大丈夫ですか千雨さん?」

 

 腕を抱えて痛がる千雨に茶々丸が声をかけるが当の本人は別のことを考えていた。

 

(マ、マジかよ。転校したくなったぜ……)

 

 痛みに打ち震えながら全力で世界に向け、声を大にして叫びたい衝動を抑える。

 時間と共に痛みは徐々に収まって来たので顔を上げると、茶々丸が心配そうに見ていた。

 

「もう大丈夫だ。しかし、クラスの半分も知っていて秘密の必要があるのか?」

「元より関わっていた方や止むを得ずに知ってしまった方が大半ですので」

「マジか。とんでもクラスだと思ってたが真正かよ」

 

 麻帆良祭に入ってから遭遇する出来事は常識を通り越してもはや異次元染みていた。今回のことはその駄目押しだった。

 溜息と共に、千雨は軽くこめかみを押さえた。

 

「頭痛でも?」

「原因のアンタが言うな」

 

 と、千雨は眉間に皺を寄せた。

 千雨の反応を勘違いしたのか、茶々丸は焦ったように口を開いた。

 

「本当なら一般人が関わることはなかったのですが、何分命のかかった緊急事態もあったので」

「イノチ?」

 

 信じられない単語が出て来て千雨はその言葉を直ぐには呑み込めなかった。

 

「イノチって、あの命か?」

「生命・LIFE、死ぬと無くなる命です」

 

 否定してほしかったのに肯定され、千雨は乾いた喉を潤すために唾を飲み込んだ。

 

「そ、そんなに危ないことしてんのかよ」

 

 やけに呑み込み辛くて喉に引っ掛かる。声が情けないほどに動揺していた。支えが欲しくて掴んだ手摺を持つ手は震えていた。

 

「人にはよりますが、表の世界に秘匿されているだけあって危険を伴います」

 

 千雨は言葉を続けられない。

 あまりにも突然かつ予想外過ぎる状況の連続に、頭が撹拌されたみたいだった。

 

「これは極端な例ですが、アスカさんは修学旅行で一回、一か月前の嵐の夜に一回、それぞれ死にかけています。修学旅行の時は一時心臓が止まったと聞いています」

「心臓が止ま……っ!?」

 

 物騒な単語の羅列に千雨の心臓が高くなった。

 胸に手を当ててドクドクと心臓がしっかりと動いていることを確かめたのは、思わず不安になってしまったからだ。

 胸の内、肋骨に包まれた中に心臓は確かに脈打っている。そのことを確かめずにはいられないほどショックが大きかった。

 

「嘘じゃ、ないんだよな」

「詳細は省きますが、事実です。そしてこれからも危険は続くと思われます。そういうお人なのです」

 

 胸に手を当てる千雨を見た茶々丸は眉尻を僅かに下げた。

 下げた眉尻は表情を悲しげに他人に見せ、人形然とした茶々丸の顔を彩る。

 

「なんだよ。なんでそんな……っ!」

「理由は考えない方がいいかと。一般家庭に生まれ、普通の世界で育ってきた千雨さんには理解できない事柄です」

 

 激昂しかけた千雨を前にして茶々丸はどこまでも冷淡に話し続ける。

 

「勘違いしてほしくないのはアスカさんだからこれほどに危険な目にあっているのであって、魔法に関わることが即悲劇に繋がるというわけではありません。戦うことも無く一生を終える人が大半なのですから」

 

 熱を持たず、冷たさすら持たず、虚空に消えるが如く目の前の人型は話し続ける。

 

「悲劇ではありましょう。ですが、世界で最も不幸というわけでもありません。遭遇した事々全て有り触れた悲劇の一つに過ぎず、五体満足で生きているのだから自分は幸福者であると以前に仰られていました」

 

 生きているのだから死者よりも幸福だと、傍にいてくれる人がいるから孤独である者よりも幸福だと、上ではなく下を見ているアスカの理屈に千雨は顔を歪めた。

 

「酷い理屈だ。酷過ぎる。あんたもだ、茶々丸さんよ。なにも思わないのか?」

「私は、機械です。人ではない私には、人の心は分かりません」

 

 茶々丸は言いながら自分の腕を内側から開いた。

 剥き出しになる内部構造。人間ながら筋肉と血管があるべき場所には、多くのワイヤーケーブルや人工筋肉といった機械部品が詰め込まれていた。

 

「だから、なんだ」

 

 動揺しなかったといえば嘘になる。千雨は絡繰茶々丸がロボットであることは見た目の時点で判断がついていた。それでも実際に現物として人間としての差異を示されれば動揺もする。中身が人間でなくても、人型をしているものに感情移入してしまうのは結局人間としては自然だろう。呑み込み切れたかといえば出来ていないと答える。が、今回のことはまた別問題。

 

「人の心が分からない奴が、そんな悲しそうな顔をするものか」

「悲しそう? ガイノイドの私は人の感情を理解する機構は存在しません。悲しそうな顔などありえません。発言を撤回して下さい」

「じゃあ、流れているその涙はなんなんだ」

「涙?」

 

 言われた茶々丸は目元を確認するために手を上げたが、頬に触れる前に落ちて来た小さな水滴が触れた。

 茶々丸は上げた手に落ちた水滴を見る。

 一瞬、雨が降り出してきたかと思ったが空模様は雲が所々にあるが快晴そのもの。梅雨の時期だというのに雨が降る様子は無く、これからもなさそうだった。次の可能性として天気雨を疑ったが、一滴だけ振るなどありえない。となれば残る可能性は一つだけ。茶々丸自身が涙を流しているということ。

 

「これは涙? 私が泣いている?」

 

 目元を触り、目から溢れ出るレンズ洗浄液を見下ろした茶々丸は声に隠しきれぬ動揺を滲ませた。

 

「他人を想って泣ける奴が人の心が分からないなんてことはない。お前は優しい奴だ、茶々丸さんよ。私が保証する」

「千雨さん……」

 

 千雨が手を伸ばし、頬に流れ続けるレンズ洗浄液をスッと拭って触れて来ても茶々丸は拒絶しなかった。

 優しいとはいえない粗っぽさだったが、今の茶々丸にはひどく心地良かった。

 

「笑えよ。泣いているよりかは笑っている方がずっといい」

 

 口の中に両手を突っ込まれ、広げて笑みの形に無理矢理にするところ辺りが千雨らしい。

 されている茶々丸には堪ったものではないが、さりとて力尽くで振り解くほどの嫌悪感は覚えなかった。千雨にされるがままに口を動かされる。

 

「あの……気にされないのですか? 私は人間ではないのですよ」

「今更だ。魔法使いやらビルを生身で潰せるなんてほざく奴がいるんだ。宇宙人がいようが超能力者や未来人がいようがもう気にするもんか」

「超能力者なら修学旅行の時に戦った敵の中にいたそうですが」

「いんのかよ超能力者!?」

 

 まさかの返答に驚きつつ、次いで頬を触った千雨は戦慄した。

 

「柔らかい……。この柔らかさでロボットだと?」

 

 ふにふに、と何度も抓り、引っ張る千雨の目の光がどんどん消えていく。

 

「信じらんね嘘だろありえねぇつうか寄越せこら。ネット中毒者を舐めんじゃねぇぞおい」

 

 ごく普通の少女と変わらない。寧ろよりきめ細かくて柔らかな肌は千雨の指に追従して色々な形に変わっていく。

 十代どころか赤ん坊のように瑞々しい肌は作り物であると分かっていても、夜更かしによる睡眠不足が原因で少し肌が荒れ気味な千雨には羨ましいやら妬ましいやら。

 女としてのあれこれが内心から湧き上がって来たのと、想像以上の柔らかさが心地良くて手の動きが止まらない。

 

「あ、あの千雨さん……」

 

 絡繰茶々丸と呼ばれるヒトガタは、自分の頬に触れて抓って撫でて当初の目的である笑顔云々が頭から消え去っている千雨を困惑した目で見る。

 次第に狂気じみた目をしてきた千雨に諦めて茶々丸は手を下ろした。

 はたして、茶々丸は知らなかった。

 刹那に過った、とても微細な心の動きをなんというのか、まだ茶々丸には分かっていない。

 茶々丸は気付かない。自分の感じた、自分の中に生まれた思考の正体を。誰かに命令されたからではなく、自分自身がある種の指向性を持って思考せざるを得なかった衝動の意味を。始めて彼女は自分という意志を以て、長谷川千雨を見ていた。

 

「ドキドキ、ワクワク」

 

 計らずとも見詰め合うことになった千雨と茶々丸を、興味津々な顔でアスカがしゃがみ込みながら見ていなければ、何時までも観察し続けていたことだろう。

 

「うわぁっ!?」

 

 真っ先に反応したのは千雨であった。

 茶々丸の頬を触っていた両手を引きながら後退り、勢いが良すぎた為に背後の手摺に思いっ切り激突する。

 手摺の高さが千雨の腰辺りだったので、向こう側に落ちるなんてことは無かったが勢いよく当たったので相当痛い。思わずしゃがみ込んで腰を抑える程度には。

 

「すまんすまん。驚かせる気はなかったんだが」

 

 どこで手に入れたのか綿菓子を持ったアスカは申し訳なさそうに頭を下げた。

 痛みに涙目になっていた千雨と、彼女の腰を擦っていた茶々丸は揃ってアスカを見て、自然とその後ろにある山を見た。

 山といっても比喩表現である。実際はうず高く積まれたヌイグルミやらだった。

 

「なんだその山は?」

「あっちこっちでしてきたゲームやイベントの景品」

 

 唖然とヌイグルミの山を見ていた二人は、ふと気が付けば辺りから視線を向けられていることに気が付いた。

 負の想念が混ざっていたり、畏怖の念が込められていたり、多種多様の感情が込められている。主に前者が景品を提供させられた屋店の店主やイベント関係者、後者がその観客達といったところだろう。

 

「すげぇよ、あいつ。あの体格で麻帆良一の怪力と噂のマッスル羅王さんに腕相撲で勝利しやがった」

 

 千雨が声のした方向を見ると、木製の机が真っ二つに裂けているのと噂の当人であるマッスル羅王さんらしき人物が沈んでいる姿が見えた。

 

「なんのこっちもだ。肺活量麻帆良一との誉れ高い金鮫灰汁さんよりも長く水の中で耐えてたぞ」

 

 茶々丸が声のした方向を見ると、水が入っていたのだろう透明バケツの前で、びしょ濡れな金鮫灰汁さんらしき人が地面に横になって、仲間らしき人物に腹を押されて口から水を噴出させて虹を作っているところだった。

 挑戦系の屋店やイベントがあった半径数十メートルで似たような光景が繰り広げられていて、辺りは死屍累々と表現するに相応しい様相を呈している。

 千雨は周りの様子から大体の状況を理解した。理解できてしまった。

 

「お前は祭り荒らしか」

「手加減はした。したはず。した、と思う。したかな? まあ、楽しかったからOKってことで」

「アホか! どう考えてもやり過ぎだろうが!」

 

 美味そうに綿菓子を頬張りながらどんどん自信がなくなっていって、しまいには胸を張るアスカに周りの惨状を示した千雨。

 

「衛生兵! 誰か衛生兵を呼んでくれ!」

「メディ―――ック!!!」

 

 悪乗りしまくった麻帆良生が現状を愉しむのと比べて、イマイチ周りの空気に乗りきれない茶々丸が助けにいくべきかどうか迷っていた。

 

「ちょっとやり過ぎたと反省はしている。でも、楽しかったから後悔はしてない」

「お前、前はもう少し自重してたのに、武道大会で頭打ちまくって、自重をどこかに落としてきてないか?」

 

 辺りを見渡してうんうん頷いているアスカの前で、千雨はがっくりと肩を落とした。千雨の反応を楽しむかのようにアスカはニヤニヤと笑っているだけなのだから怒る気力すら湧いてこない。

 そんな千雨を慰めるべきか、同意すべきかで悩んでいる茶々丸の姿は周りに男達の癒しになったことだろう。

 

「これはこれは。面白い物を見た」

 

 茶々丸にほんわかしたり、千雨に同情したり、空気が混沌としていた場に現れたのは弾丸の女。

 

「見物料は百円だ。払えねぇなら帰ってくんな」

 

 食べ終わった綿菓子の棒を現れた弾丸の女――――龍宮真名に向けて、アスカは無駄に演技臭い不遜な動作を取りながら告げる。

 

「金取んのかよ。しかも安い」

 

 千雨は突っ込まずにはいられなかった。

 しかし、真名は動じない。顧みない。予想の斜め上を行く。

 

「高いな。タダにまけてもらおう」

「駄目だな。だが、この海賊クマさんのヌイグルミを引き取ってくれるなら考えよう」

 

 値切る真名に向けて、アスカは背後に置いてあった景品の山の中で最もスペースを取っている二メートル級のヌイグルミを前に出した。

 右目をアイパッチで覆い、湾曲した刃を持つ剣であるカットラスを握り、もう片方の手が義手でフックになっている海賊クマさんを見た真名の目の色がハッキリと変わった。

 

「違う。全く分かっていない」

 

 真名が顔を俯けながら言うのを見た千雨は、ようやく常識人が帰って来てくれたのだと期待する。

 だが、千雨は真名を知らなさ過ぎた。

 

「子分シリーズをつけて、寮の私の部屋まで届ければ完璧だ」

 

 顔を上げた真名の、グラリと瞳の中の熱が揺れようとも熱意は折れず曲らず貪欲である。

 だぁっ、と蹴躓いた千雨を除いてアスカと真名の熱すぎる視線が混じり合う。

 数秒の拮抗の後、先に折れたのはアスカの方だった。

 

「負けたよ。サービスとしてカチカチ山の狸さんと兎さんシリーズもつけよう」

 

 アスカがこれまた無駄にイイ笑顔で差し出したのは、背中に背負った燃える柴に気づいていない狸と憎悪に狂った物凄い目で火打ち石を打ち付ける兎のやたらと精巧に作り上げられているヌイグルミである。

 

「あまりにも過激すぎてトラウマ製造機と名高いヌイグルミは断らせてもらう。というか、誰がいるものか。断固拒否する」

 

 見ることすら苦痛だと、最早ヌイグルミとしての存在価値を鼻から蹴飛ばしている二体から視線を逸らす真名。

 

「なに? 背中に大火傷してトウガラシ入りの味噌を塗り付けられて苦しんでいる狸と嘲笑う兎、泥船が崩れて溺れかけている狸と艪で止めを刺す兎もあるのに」

 

 更に出してきたヌイグルミ達は、精神攻撃に耐性があるつもりの千雨でも直視すると夢に出て来そうな感じがして、心持ちでもヌイグルミから視線を逸らした。

 逸らした視線の先で、アスカの後ろにある景品の山の中にも直視してはいけない物が散見されることに気づいて顔を真っ青にした。

 

「なんでそんなのが屋台やらイベントで景品として出てんだよ」

「一部のマニアックな人には好評なようで、心の傷を抉ってくれるところが他のヌイグルミにはなくていいとそこそこ売れたと聞いています。作成者が麻帆良生だったようで、売れ残りを景品として出したのではないでしょうか」

「アホばかりか、この街の住人は」

 

 茶々丸の解説を聞きつつ、コソコソと集団の中に隠れようとしている奴らが作成者達だなと当たりをつけた千雨は、改めて麻帆良生の救いようのなさを実感するのであった。

 

「まだまだあるぞ。本当は怖い日本昔話シリーズが盛り沢山。醜い女に纏わり憑かれる浦島太郎等々、今なら出血大サービス! 誰か欲しい人は手を上げて! つか、押し付ける!」

 

 と、アスカが宣言すると遠巻きに眺めていた観衆は、我先にと蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。

 

「逃げんなこら!…………どうすんだよ、これ」

 

 誰も呪いのアイテムを押し付けられたくはない。あっという間にいなくなった観客達にガックリと肩を落としたアスカは途方に暮れたように、三割ほどとても一般には出回りそうにないキチガイアイテムを見遣る。

 そんなアスカに真名は近寄ってポンと肩を叩いた。

 

「引きとれるやつは私が貰おう。勿論、タダでだ」

「キチガイなやつは残す気満々だろ」

「当然ではないか」

 

 中学女子三年の平均を遥かに超える胸を張る真名にアスカは敗北感を湛えた表情で歯を噛み締めたが、やがては諦めたのか身体から力を抜いた。

 

「分かった。その提案を受けよう」

「よし、交渉成立だ」

 

 ガッシリと伸ばした手を握り、いい商いをしたとばかりに真名が笑う。

 携帯で宅配業者を呼んでいる真名を尻目に、千雨は選り分けられたキチガイアイテムを注視しないように意識をばらつかせながら見る。

 

「あの存在自体が害悪なヌイグルミはどうするんだ?」

「学園長に送り付ける」

 

 ケケケ、と嫌な笑い方をするアスカに学園長に対して色々と溜まっているものがあるのだなと直ぐに直感した千雨は、それ以上は聞かなかった。聞いたら自分の中の学園長のイメージが崩れると分かったからだ。

 

「いいのでしょうか?」

「しっ。私は何も聞いちゃいないし、見てもない」

 

 茶々丸は気にしているようだが千雨は全力でしらばっくれた。

 別に学園長のイメージが壊れたところで困りはしないが、共犯者にはなりたくないので知らない振りをすることにしたのだ。

 やってきた宅配業者が賞品の山を積み込むのを眺めて去っていくトラックを見送ったアスカが真名を見る。

 

「で、何か用があったんじゃないのか?」

 

 日が陰って来て地面に移る影が伸びていくのを見るともなしに見ていた真名は苦笑を浮かべた。

 

「本当ならルール違反なんだが、どうしても聞きたい事があってね」

「なにを?」

「いや、その前に……」

 

 ルール違反とは何を指しているものなのか、それとも聞きたいことをそのものを指しているのか。アスカはどちらとも取れる問い方をした。

 先の会話もそうだが以前とは少し感じが変わったアスカを真名は探るように見た。

 

「君は本当にアスカ・スプリングフィールドか?」

 

 同じようなことは千雨や茶々丸も感じており、事の真偽を見守るように両者を見る。

 問われたアスカは目を丸くして、次いで悪戯っぽく笑った。

 

「俺がアスカ・スプリングフィールド以外の誰に見えるんだ?」

 

 問いに問いで返すアスカを真名の魔眼を以てしても偽りは見破れない。ならば、本物であると断定できるのだろうが、どこか精神的に固いところがあったのに今は全力で生を楽しんでいる者特有の溌剌さがあった。生き急いでいたアスカには到底なかったはずのものだ。

 

「他の誰にも見えない。だが」

 

 前とギャップがあるのだとは、真名も口には出さなかった。

 

「なんでもない。私の勘違いだ」

 

 真名は武道会でアスカに何があったかを伝手で知っているので変化があっても無理はないと思っていた。この変化が急すぎて違和感が強いのだと頭を切り替えた。

 

「肝心の聞きたいことってなんなんだ?」

 

 脇道に逸れた主題を珍しくアスカが元に戻す。

 首を傾げるアスカに真名は真剣な表情になって口を開いた。もうその頭には微かにあった違和感はなくなっていた。

 

「この世界に魔法は必要かどうか、その是非を聞きたい」

 

 まるで自分にこそ問いかけるかのように真名はひっそりと呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕方になっても麻帆良祭は大いに賑わっていた。

 学生などどこも数が集まれば騒がしいに決まっているが、今回は特別である。一年に一度の行事であり、学園都市を上げての祭りともなれば騒がぬはずがない。バイタリティの豊富さでは定評のあり過ぎる麻帆良住民達は文字通りのお祭り騒ぎを繰り広げていた。

 そういう雰囲気も寄与してか、出店やフリーマーケットも大変に繁盛していた。

 生命に溢れて鮮やかなのに、何かが終わるような切迫感をどこかに抱えている陽光に照らされ、大通りに面してテーブルと椅子を店外にも設置したオープンカフェに高畑と明日菜の姿はあった。

 テーブルの上には高畑が頼んだアイスコーヒーが置かれていた。明日菜の前には良い香りを漂わせるダージリンと華麗なフルーツパフェ。しっとりとした美味しそうな生地の上にには、フワフワのクリームやホワイトチョコレートが可愛く盛られており、トロトロな苺のコンポートが注がれ、その上から凍らせたバナナや細工切りされた林檎など、一手間かけたフルールが重ねられていた。舌に乗せた時の味わいは元より、まずは目でも楽しんでもらおうという趣向は、バティシエのセンスが十分に発揮されている。

 

「高畑先生?」

 

 意味もなくパフェに対する考察を重ねていた高畑は声をかけられて、ようやく我に返る。

 喫茶店に入って腰を落ち着けるまで、夢を見ているような気持ちのまま映画を見ていたはずなのに、自分のいる場所も状況も何一つ把握できていなかった。

 

「今日の高畑先生、考え事多いですよ。さっき私が言ったこと覚えてます?」

 

 体面に座る明日菜は一瞬、怒ったように眉根を寄せたが香りを楽しむようにダージリンを呑んだ。

 怒ったような言葉や表情とは裏腹に、唇の端にはクリームの欠片がくっついていて女の子の満足度を示してもいた。

 

「……………」

 

 明日菜が言ったことどころか、一緒に見た映画の内容すらあまり覚えていない。

 学生制作の映画ではあるが、能力に定評のある麻帆良生が作ったからか凡百の物と比べると断然面白いと毎年評価される。

 しっかりと座席に座ってスクリーンを見ていたはずなのに、今日の明日菜の変わりように意識を取られて全然記憶に残っていない。意識が向いていなくてもスクリーンは見ていたので、ぼんやりとでも覚えていていいはずなのに手元にあった映画のパンフレットを見ても、情景も音声もさっぱり記憶に残っていない。

 

「もしかして、私何か気に障ることしましたか?」

「いや、そういうわけじゃないんだ。ただ、なんて言ったらいいのかな」

 

 申し訳なさそうな顔をする明日菜に、目の前の映像や相手を放っておいて上の空になっていた高畑は慌てて否定した。

 少なからず困っている少女の表情も、彼にとっては全く大袈裟ではなく宝物だった。幾ら見ても飽きないだろうと思った。

 考えが纏まらず、間を取ろうと手をつけていなかったアイスコーヒーを啜る。

 

「このお店、美味しいって評判なんですよ。朝倉から聞いたお勧めなんですから味わってください」

 

 にっこりと銀色のスプーンを持ち上げて、女の子が主張する。

 

「ああ、朝倉君の情報か……」

 

 高畑は語尾を曖昧に濁した。

 女の子ということもあって、こと甘い物に目がない。その中でも情報通の朝倉和美のお勧めとあらば、まず外れはない。にも関わらず、高畑の口に入ったアイスコーヒーの味は全くない。余裕がなさすぎるのだ。

 何を飲んでも、何を話しても、一向に身の入らない高畑は視線を明日菜から大通りに移した。

 激しい陽光は、とりわけ濃い影を作る。人通りが多い所為でそららの影が一塊になって、一つの生き物に化けたように見えた。地面に貼りついている生き物は、きっと人間の足下で、人間には聞こえない呼吸をしているに違いない。

 そんな妄想をかき立たせる、熱に浮かされたような光と影の踊り。

 

(何を考えているんだ、僕は。もっと集中しろ)

 

 思考の脇道から抜け出そうとすると、望んだ方向とは逆に進んでいるような気すらして完全に思考の迷路に陥っている。

 らしくない態度、らしくない反応、目の前で高畑を見据える明日菜が気づかぬはずがない。

 

「外に行きましょうか」

 

 有無を言う暇はなく、また言わせる様子もなかった。

 立ち上がった明日菜が伝票を掴むより早く条件反射的に高畑の手は動いた。

 

「誘ったのはこっちだからね、僕が払うよ」

 

 年上の見栄を見せ、高畑が手早く会計を済ませて喫茶店を出る。

 映画は二時間を超える大作だったのと、喫茶店で過ごしたのも合わせてそれなりの時間が経過していた。既に太陽は西に傾いていた。

 道も壁も、一様に赤い夢を見ている。ともすると、世界中が燃えているような、そんな錯覚に囚われる。

 

「ほんと、いい天気」

「明日も晴れそうだ、きっと。暑くなるよ」

 

 夏の強い斜陽が明日菜の横顔を柔らかく照らし出す。まるで影絵の如く、高畑の視界の中で明日菜の存在だけを浮き立たせている。

 明日菜の穏やかな輪郭が、夕焼けの溶けた赤にぼけてゆくようだ。一日の間に随分と伸びてしまった顎のところの髭をザリザリと撫でながら、高畑は目を細めて明日菜を見つめた。紅と黒に支配された空間は、そこだけが世界から切り離されたようでもあった。

 夕陽の赤さが目に染みる。

 

「でも、あんまり暑いのは嫌だなぁ」

「夏だからね。暑いのは仕方ないよ」

「女の子は日焼けも気にしなくちゃいけないんです」

「男には分からない悩みだね」

 

 太陽が少しずつ沈む街中を、これといって中身のないことを喋りながら歩く。速くもない。遅くもない、のんびりとしたペースである。

 日の入りが遅い夕焼けの豪奢な赤に染められ、遠い祭りに騒ぐ人達の声もなにもかもが満ち足りているようだ。

 夕陽の茜色に照らされて染め上げられている街は、オレンジ色の夕陽とそれによって生み出された黒い影によって鮮烈なまでに塗り分けられている。どこか現実味がなくて、どこか外国の写真を見ているようだった。その向こうには、建物の向こうに沈み行く太陽。この街を、この世界の全てを照らしながら、少しずつその光を失っていく。

 もう何百回となく見てきたはずなのに、高畑はまた同じ風景に見惚れてしまっていた。

 高畑の好きな時間だった。ベッタリとした赤い光は、何もかもを覆い隠してくれる気がする。そうすると、世界の虚偽が少しだけ薄れるように思えて、高畑の気持ちは軽くなるのだった。

 

「煙草、吸わないんですか?」

 

 隣を歩く明日菜が唐突に、しかし様子のおかしい高畑の本質を問うものだった。

 

「折角のデートだからね。後一本しかないから大事に取ってるんだよ」

「高畑先生は吸い過ぎなんです。体を悪くしますよ」

「分かってるんだけど、止められないんだ。こればかりはね……」

 

 日が暮れていく。一日の終わりを告げて、或いは夜の訪れを告げて、地平線に大きな夕陽が落ちていく。一際大きく見事な夕陽だった。

 

「変ですよね。昔は私が吸って欲しいって言ったのに」

「八年も前のことなのに良く覚えてる」

「忘れませんよ。私にとっては大切な記憶ですから」

 

 風に靡く明日菜の髪が高畑の視界を遮る。赤い陽光に支配されて遠い日の残照を見るように過去を回想する。

 戦いの日々から一転した穏やかな日常、明日菜を守るべく力を求めた非日常。

 懐かしく、今は遠い幸福な日々。

 風の吹く方に眼を向ければ、ごく小さな住宅街に囲まれた公園がある。ブランコもシーソーもペンキが剥げて久しいが、案外錆は浮いていない。誰かが大切に使っていて、時折であっても手入れをされてきたらしい。それだけ住民に愛されてきた場所なのだろう。

 夕方の斜陽が、それらの年月を浮き彫りにするようでもあった。

 どこにでもある穏やかな日常。こんな日常を多くの人達が抱え続けている。そんな幸福な日々が一日でも長く続いてくれたらと、永遠に逃げ切れるはずもないのに考えずにはいられない。

 この時が幸せすぎて、幻のように儚く感じる。そして罪悪感に駆られて仕方ない。まだ振り切れていない今の彼が、この幸せな幻を見続けていいのかと。

 どうしようもなく煙草が吸いたくなった。

 

「最後の一本、吸ってもいいかな」

「どうぞ」

「ありがとう」

 

 礼を言って、夏物スーツの胸ポケットから煙草の箱から最後の煙草を取り出す。

 肺までは吸い込まず、口の中で香りを楽しみ、残った煙を空へと吐き出す。絡まった紫煙はクルクルと形を変えながら、紅い空の向こうへ吸い込まれていく。

 幾本もの電柱と電線が暗く、柵のように風景を切り分けている。賑やかさを少し離れただけで、建物や地形が作る無数の影が風景に滲み出すようだった。

 

「やっぱり高畑先生が煙草を吸ってると落ち着きます」

「そうかい……」

 

 そしてそれっきり会話が途切れて静寂が降りて来る。

 夕暮れの少し澱んだ空気の蒸し暑さが凝り固まって、高畑の額で小さな汗の粒に変わって音もなく流れ落ちていく。

 公園の前を通り過ぎると緩やかな坂を下っていく。真夏の熱気に柔らかくなったアスファルトに落ちる二人の影が、ユルリと溶けて一塊になっていた。

 祭り帰りらしいすれ違う家族連れを横目に見遣って、高畑は再び空を見つめていた。雲一つない、夕陽に染められた真っ赤な空に一匹の鴉が鳴きながら横切っていく。

 何年経っても、辛い時も悲しい時も、不思議な郷愁を誘うこの色は変わらない。日々、日没は早くなり、夕闇はただ深くなる。

 

「綺麗になったね、明日菜君」

「え?」

「さっき会った時は見違えたよ。もう、子ども扱いは出来ないな」

「突然なんですか。変な高畑先生」

 

 ゆっくりと沈みかけた夕陽が、笑う明日菜の横顔を鮮やかに染め上げている。顔も体も、全てが夕陽の色に染まっていくように見えた。

 ずっとそうしていれば夕焼けに消えてしまいそうでもあり。足を踏み出したなら夕焼けの向こう側までも歩いて行ってしまいそうに思えた。この幸せもすらも今にも壊れそうな砂上の楼閣のように感じて、煙草を持っていない方のポケットの中に入れている拳に力が籠る。

 無論、錯覚だ。あまりにも鮮やかな夕映えが想起させる、少し変わった物思いに過ぎない。

 

「明日菜君を引き取って八年。あの小さな子供だった君が大人の女性になっていくことに月日の流れを感じてね。この夕陽の所為で少しセンチメンタルな気分なんだ」

 

 幾多の虚言によって成り立ったその光景は、だけどひどく眩しい。

 

「最初の頃とは比べ物にならないぐらい良く笑うようになった。これは雪広君のお蔭かな」

「それと身寄りのない私を引き受けてくれた高畑先生のお蔭だと思います」

 

 交差路の前で立ち止まった少女の唇から、自然と言葉が零れていた。

 立ち止まった明日菜に引かれるように足を止めた高畑は静かに続きの言葉を待つ。

 

「ありがとうございます。こんな私と一緒にいてくれて。昔のことはあまり憶えていないけど、高畑先生のお蔭で毎日が楽しかったです」

 

 夜でも昼でもない、いい加減で曖昧な時間。曖昧な時間の中で目を閉じる。歌うように、懐かしむように言葉が紡がれていく。

 恋するように、抱きしめるように、今までの時間を慈しむように、遠く細く長くその声音は流れていった。

 明日菜は真っ直ぐに高畑に向き合っている。或いは視線の先にいるのは、ただ赤く遠い夕焼けと、高みに広がりつつある闇夜かもしれなかった。

 

「明日菜君、今の君は幸せかい?」

「はいっ!」

 

 問いに明日菜は、飛びっきりの笑顔で答えてくれた。

 高畑は明日菜の成長を実感していた。同時にもう大丈夫だとも思った。

 これまで二人が積み重ねてきた時間が、全部ここに繋がっているように思えた。師が望んだ夢は、真実を知っても壊れないと思えた。

 高畑がいなくても、今の明日菜は生きていけると確信していた。周りから愛されて、健やかに生きていける。誰よりも明るく、しなやかに力強く、師であるガトウが願ったように。

 一方的な庇護と依存から二人は解放されたのだ。依存し合う関係から抜け出し、別々の道を歩むことが出来るようになったことは嬉しくもあり、寂しくもあった。しかし、心から拍手をしたい気分だった。

 

「なら、良かった。それが聞きたかったんだ」

 

 高畑は大人だから、子供の前では痩せ我慢でも平気な姿をして余裕を見せねばならなかった。

 

「デートはここまでだね。ほら、彼らが待ってる」

 

 高畑の視線の先、別れている片方の道の先にアスカらがいる。木乃香も、刹那も、ネギも、のどかも、何故か千雨と茶々丸も。

 自分は彼らとは共に行けない。だから、せめて笑顔で送り出そうとした。太陽が地平線の向こうへと消えて暗くなっていることを有難いと思った。こんな泣きそうな顔を見られずに済む。

 数歩、頭を下げてアスカ達の下へと歩き出した明日菜が、くるりと振り返った。

 

「タカミチ、ありがとう。行ってきます」

 

 ひどく素直に明日菜は笑ったのだ。

 始めて会った時、少女は感情を感じさせない小さな女の子だった。それが、今ではしなやかで力強い、色づき綻んだ一人の女性へと成長していた。

 

「あ……」

 

 だから、高畑は絶句した。その笑顔のあまりの純粋さが、在りし日を思い起こさせる呼び名と合わさって胸の打ったのだ。

 

「アス……」

「また明日」

 

 名前を呼ぶことへの一瞬の逡巡。その間に、明日菜は妖精のように身を翻す。纏めていない髪が軽やかに揺れる。そして、夕暮れの街に吸い込まれるように走り去っていった。

 これから先の道のりには、もう誰の先導もない。誰の握り、誰の手を引いて歩くのか。誰も決めてくれない。明日菜が自分で決めて、自分で選んで行く道に高畑は関われない。

 みんなと合流した明日菜がアスカに何かを渡して慌ただしくなりながら去って行く。その姿を高畑は一人で見送る。

 

「やれやれ」

 

 少し間を置いて、深い溜息と共に呟いた。自分の半分の年にもならぬ少女に諭された気分だった。

 そうしたことが今後もっと増えるのだろうと、頭の隅で考えていた。年老いた者が若い相手に追い越されるのは世界の道理だ。

 

「フラれちゃいましたね、タカミチ君」

「…………アル。何の用ですか?」

 

 何時の間にか、隣にフードを被ったアルビレオ・イマが立っていた。

 神出鬼没のこの男がこのタイミングで現れても高畑は大して気にしなかった。そのような心境でもない。

 

「お払い箱にされた騎士を笑いに来た、と言ったらどうしますか?」

「どうもしませんよ。この結末は最初から分かっていたことです」

 

 気が付けば、吸っていたはずの煙草が根元まで灰になっている。携帯灰皿を取り出して煙草の始末をすると、途端に口元が寂しくなった。

 

「…………最善を尽くしたつもりです。危険から遠ざけ、要因を根元から排除して来ました」

 

 やがて、高畑は仏頂面で口を開いた。誰かに聞いてほしかったのかもしれない。その相手は明日菜の過去を知る限られた者しかおらず、アルビレオは絶好の相手だったのである。

 

「例え明日菜君が世界中を敵に回しても、僕だけは味方でいるつもりだったんです」

 

 多くの人の手助けを借りたとしても、高畑は明日菜を十年近く育て続けた。この男が口にする以上、それは掛け値なしの真実であった。本当に世界を敵に回したとしても、高畑だけは明日菜を守り抜くだろう。そんなことはずっと昔から知っている。

 

「だと思います。というか、君が最善を尽くさないとは思いませんよ。だから、もういい加減に肩の力を少し抜いても罰は当たりません」

 

 まるで、子の全てを見通す親のような言い方。十年以上も共にいて、年長であったアルビレオが高畑を宥めるのは当然と言えた。

 

「心配なのも分かりますが、そろそろ君も子離れをするべきです。彼女は君が思っているよりもずっと成長しています」

「それはそれで寂しいんですが」

 

 アルビレオの忠告に少し間を置いて高畑は呟いた。

 

「変わるのが悪いことではありません。変わるのを避けられるわけでもありません」

 

 特に神楽坂明日菜は――――はアスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアとしての記憶を消された時点で変わってしまっている。アスナはもういない。高畑が守り続けてきたのは神楽坂明日菜なのである。

 

「ガトウが命を賭して守り、そう在れと願った存在が彼女です。彼女は自らが幸せだと言った。君は誇っていい。師の遺言を叶えたのだから」

 

 幸せになれ、とガトウは最期にアスナに言った。遺言と言っていいだろう。

 高畑は師の遺言を護り、アスナとしての記憶を、特にガトウの記憶を念入りに消した。失意に暮れた彼女の意志を確認することなく。この選択が正しかったのか間違っていたのか、今となっても高畑には判断がつかない。

 辛い記憶を封印して、アスナは明日菜となってただの子供として育った。ガトウの遺志の通り、高畑が願った通りに。どこにでもいる当たり前の人間として幸せに生きてきたと思いたい。なればこそ、一個の人間だからこそ、誰だって変わるのは当然なのだ。

 

「守られるだけの少女が手の中から飛び出して、神楽坂明日菜として自らの生き方を模索しているのです。君もまた彼女に依存する生き方を変えなさい。そうしなければガトウにだって胸を張れないでしょ」

 

 生きることは、変わるということ。それは人との関係だって同じ。昔と同じような関係を、ずっと続けていくのは不可能なのだから。それでも誰かと関わっていたいなら、少しずつ変わっていく関係を受け入れなければならない。

 

「何より明日菜ちゃんに父親が用済みになっても、それは喜ぶことです。女の子は父から離れて男を知り大人になる………………何時の時代もね」

 

 そう嘯いて、自分も随分年をとったと、二十年前の子共だった頃の印象の強い高畑にこのような話をしている自分にアルビレオは苦笑を深めながら思った。

 

「女の子は強かなのですよ。きっと、自分の幸せを掴み取れる。少女の恋心は大人達の思惑なんか簡単に吹き飛ばすだけの力を持っているのですから」

 

 女の子は男の子が思っているような守られるだけの存在でも、騎士を待ち続けるだけのお姫様でも、お嫁さんになって子供を抱くだけの存在なんかでもない。お姫様だって時には戦うのだ。守ろうとする騎士の剣を分捕って、何をしているんだと叱咤しながら敵に向かっていく。偶にはそんなお姫様がいてもいいだろう。

 

「お姫様を守る君のお役目は御免ということです。別の相応しい子が担ってくれますよ。君は君自身の幸せを見つけてもいいのです」

 

 余人には窺い知れない感慨を秘めて、黒い瞳が揺れていた。

 

「ねぇ、タカミチ君」

 

 と、アルビレオは呟いた。

 

「新しい子達が、次の世代が自らの道を歩み出すのは良いことだと思いませんか」

 

 歌うような声で、祈るような声で、夢見るように続ける。遠い日に見た流星を思い出すように、その眼は細められていた。

 高畑には声に込められた感情は分からない。ただ、複雑な感情だけが色濃く、混ぜられすぎた油絵の具のように渦巻いているのは分かった。

 ふと、視線を明日菜が進んだ道ではなく高畑がいる道の先を見ると、そこに一人の女性が立っていた。

 

「高畑先生」

「しずな先生…………どうしてここに?」

「明石教授に言われたんです。ここに来るようにと」

 

 少し息を荒げた様子から急いで来た様子が分かり、その言葉の意味を考えるとデート前に電話していた明石教授が含んでいた応援の意味を理解する。

 

「お一人なら私と一緒に祭りを回りませんか」

「え?」

 

 驚く暇もあればこそ、先程までそこにいたはずのアルビレオの姿が忽然と消えている。

 

「…………僕で良ければ」

 

 伸ばされた手を取る。その温もりはとても高畑の心に染み入ってきた。

 距離を縮めて明日菜が進んだ道とは違う方へと歩み出した二人を空中から見下ろしたアルビレオは笑みを深くする。

 

「ねぇ、ナギ。あなたなら一体どう思ったでしょうね」

 

 ゆっくりと。ここにはいないナギ・スプリングフィールドを思って、アルビレオ・イマは呟き続ける。

 

「貴方達の子供は、貴方達とよく似ていて、だけど違う道を歩いて行きますよ」

 

 その問いは、今までと違ってひどく切ない響きを湛え、夏の闇に染み入ったのであった。夏の生暖かい風に吹かれて、けれど、これはこれでいい気がした。

 

「子が私達を追い越して行ってくれるのは嬉しい事です。あなたならなんと言ったでしょうね、ナギ」

 

 本当に、本当に嬉しそうな声で呟いたのだった。

 



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第52話 最悪の敵

タイトルの最悪の敵の意味とは?

1.物凄い強い

2.極悪な能力を持っている

3.圧倒的な数

4.その他

はたしてどれだ!!




 

 アンナ・ユーリエウナ・ココロウァは悩んでいた、目の前の痴話喧嘩をどうしようと。

 

「なんで渡したばかりの指輪を付けるのよ!」

「だから仕方ねぇって言ってるだろ。まさか指輪が取れなくなるなんて誰が思うよ」

「付ける指を考えてよ。二人して左手の薬指に指輪をしているのを見られたら勘違いされちゃうじゃない!」

 

 アーニャの目の前で明日菜がアスカを糾弾している。

 珍しい光景ではあるのだが、どう見ても痴話喧嘩の息を出ない内容にアーニャならずとも辟易するものである。

 アスカが明日菜から渡された指輪を面白がって遊び半分で左手の薬指に付けたはいいものの、外れなくなったペアリングの片割れを見聞していたネギが難しい顔で唸る。

 

「片方が身に着けると自動的に反対側にも同じように装着されるようになっているのかな」

 

 アスカの手を取って様々な角度から検分していたネギの発言に、横から二人のペアリングを羨ましそうに見ていたのどかが首を突っ込む。

 

「どうやったら外れるんですか?」

「相当古い魔術具みたいですから、マスターならともかく僕ではもう少し時間をかけないと無理です」

 

 知識はそれなり段階のネギよりも、六百年を生き数多の魔法具を保有しているエヴァンジェリンを押すネギ。この中で魔法に一番精通しているネギがこういうのだから、今すぐにどうこうするのは不可能という結論が出た。

 恥ずかしがる明日菜はいいとして、どうしてアスカは左手の薬指に指輪をつけることの意味を理解しているのに気にもせずにシャドーボクシングをしているのか、アーニャには一生かかってもアスカの思考回路が理解できる気がしない。

 

「まあまあ、明日菜。そんなに照れんでも」

「照れてない! こういうのはもう少し段階を踏んでから……」

「本音が漏れてますよ、明日菜さん」

 

 宥める木乃香と自爆する明日菜、突っ込む刹那のトリオも見慣れたものである。

 アーニャが少し視線を横にずらすと、そこには頭を抱えている長谷川千雨の姿があった。

 

「ありえねぇだろ。なんで指輪がいきなり光って指に装着されてんだよ。しかも取れねぇとかありえねぇし」

「魔法具の一つのようですから、なんら不思議なことはありません」

「そんなものがある時点でファンタジーだよ!? は? 羨ましいだって? 幽霊のお前が言うな!!」

 

 こちらはこちらで珍しいコンビが出来ているものである。というか、千雨がどうして魔法関係の関わっているのか、アーニャにはさっぱりだったが茶々丸が相手にしているなら魔法がバレた責任は茶々丸の主であるエヴァンジェリンが取るのだろうと気にしないことにした。

 千雨の言から察するに、アーニャには全く見えないが相坂さよが近くにいるようだ。何故、アスカとそして千雨にだけさよが見えるのかは分からないが、アーニャが本題を切りださないとこの面子では話が進まない。

 

「で、いい加減に話を進めていいかしら? 拒否する奴にはアーニャフレイムバスターの刑だけど」

『どうぞどうぞ』

 

 四肢に炎を纏いながら恫喝すると、全員が大人しく聞く体勢を作ってくれたので満足する。

 そもそもアーニャが呼んだのはアスカとネギだけだったのだが、他の者まで付随して着いて来てしまったことに少しイラついていた。全員が聞く体勢に入っているのに、アスカだけ指輪を付けた左手で拳を作った感覚を確かめているので青筋が浮かぶが努めて気にしないことにする。

 長年の経験からアスカに付き合っていると話が前に進まないので本題に入る。

 

「さっき超が学校を辞めるって言って来たわ」

「え、ホントに?」

「ええ。明日、学園祭が終わったら直ぐに学園を立つからって退学届も預かってる」

 

 この話題にはアスカも話を聞く体勢になった。ネギの問いに答えつつ、アーニャはポケットから超から預かった達筆な字で書かれた退学届を取り出して見せる。

 

「辞めるって…………理由は? 中学校は義務教育なのにそんなに簡単に辞められるの?」

「故郷に帰らないといけなくなったって言ってたけど、まだ学園長までには伝わっていないらしいからどうなるかは分からないわ」

 

 全員が驚愕しつつも、突然の報告に困惑しているのはアーニャも同じで超の言葉をそのまま伝えているに過ぎない。

 集まった全員で、ああだこうだと意見を出すが情報が少なすぎて何の結論も出ない。

 

「超に直接聞けば早いだろ」

 

 アスカの言葉にその場にいた全員が手を打ち合わせるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 超鈴音は困惑していた。自他共に天才と称される彼女にしては珍しいことに。

 

「門出を祝福してくれるのは有難いのだガ……………………みんな、目的を忘れてないカ」

 

 一番無難だろうとアーニャに退学届を渡した際、その場に居合わせた雪広あやかの号令によって集められたクラスメイト達によって壮大な送別会が組まれたことは照れるが嬉しい事である。

 問題は最初は超を中心として盛り上がっていた送別会が、何時の間にか「二夜祭」とかいう垂れ幕に変えられた時から目的が変化してしまった。

 

「私の送迎会ではなかたのカ?」

「お涙頂戴は我がクラスに似合わないと仰ったのは超さんですわよ。盛り上がることは良い事です」

「あやかさん…………にしても、これはあんまりだと思うネ。ここにいる殆どが主題を忘れてしまてるヨ」

 

 ははは、と愚痴を言うと会を取り纏めたあやかは誤魔化す様に笑う。

 

「クラスメイト全員に召集をかけましたから、もっと騒がしくなりますわよ。泣いて惜しまれながらお別れなど我がクラスではありえません。超さんには最後まで3-Aの流儀に従って頂きます」

 

 こうしている間にも借り切った第三廃校舎の屋上に次々とクラスメイトが集まって来る。

 合流したクラスメイト達は集まった本題である超に一言か二言ぐらい声をかけると、どんちゃん騒ぎに突入して行っている。麻帆良でもバイタリティではトップクラスと言われている3-Aが暴走するのは良くあることで、当初の目的を忘れて騒ぐ光景は何時ものことと言える。

 

「別れに涙はいらない、カ」

 

 あやかの言葉から残照が呼び起こされる。

 何度も呼び起こされた記憶はノイズが走るように鮮明ではないけれど、与えられた祝福と触れた温もりだけは今も覚えている。

 大切な過去を思い出せたことに我知らずに笑みが浮かんでいる超を見て、少し驚いた様子のあやかが目を瞬かせながら口を開いた。

 

「あら、良い言葉ですわね。誰かの言葉ですか?」

 

 問われて一瞬答えるか迷った。しかし、言ったところで大して問題が無いこともまた事実。

 重く感じる口は傍から見れば滑らかに、そして素早く言葉を紡ぎ出す。

 

「…………初恋の人ネ。遠い地に行くからと別れる時に泣いてた私の頭を撫でながら言てくれた言葉ヨ」

「超さんが好きになるほどのお人なら凄い方なのでしょうね」

「当然ネ。世界を背負た人ヨ。凄くないはずがないネ」

 

 ここであやか以外のクラスメイトなら『初恋の人』発言に目を丸くして、周りを巻き込んで大騒ぎになるどころだが、こういうところで人間性が出る。

 今も穏やかに微笑んでいるあやかに言い過ぎたと頬に朱を散らしながらも、言ったことに対しての後悔はない。

 

「もしかして今回、故郷に変えられるのはその方とご関係が?」

「全くなイ…………とは言わないガ、出会た時にはその人にはもう恋人がいたからネ。昔から言うだろウ、初恋は実らないト。私もその口ヨ」

 

 まさかあやかとこのような話をすることになるとは、人生とは本当に分からないものだと超は我が身を省みて苦笑する。

 

「超さんにもそういう過去があるのですね」

 

 感心したように息を吐いているあやかに言い過ぎだと自覚しながらも、一度滑らせた口から言葉が止まることはない。

 

「委員長は私をどういう人間だと思ているのカナ? 世間で言われているような完璧超人では決してなイ。私だて泣きもすれば笑いもするただの人間ネ」

「ええ、こうやって落ち着いて話をする機会もなかったものですから勘違いしていました。本当の超さんは完璧超人なんかじゃなくて可愛らしい年頃の乙女だって」

「…………委員長は意地悪ネ。小さい頃に亡くなた曾祖母を思い出すヨ」

 

 話している相手が相手なだけに故人を思い出してなんともいえない表情を浮かべた超に、あやかはその内容に驚いたものの手で口元を上品に隠して目を僅かに細める。

 超が麻帆良に来る以前のことを、ましてや身内のことを話したことは一度もない。別れを前にして心の箍が緩くなったとしても、それだけ心を開いてくれているのだと二年以上を過ごしたあやかが嬉しくならないはずがない。

 

「私で思い出されたということは素晴らしい方なのでしょうね」

「素晴らしいかはともかく、優しくお年を召されていても綺麗な人であたヨ。ただ、私にだけは時々意地悪だたネ。今ならばその理由も分かるガ、当時は好いてはいても苦手意識があたヨ」

 

 ニコニコと喜びで微笑んでいるあやかに首を捻りながら超は幼い記憶を穿り返し、当時の自分の感情に唇が我知らずに尖って、周りからは拗ねている超という珍しい光景が見られた。

 

「あら、では超さんは私にも苦手意識があるのですか?」

「そういうことをわざわざ聞くところがそくりヨ」

「ごめんなさい。私、何事にも言葉にしてほしい性質なもので」

 

 からかいも込めて伝えると超は頬に朱を散らして、「知らないネ」と顔を逸らす。照れていると分かる動作に微笑ましさしか感じなくてあやかも殊更にそれ以上は突っ込みもしなかった。

 

「超」

 

 背けている顔の方向とは反対側から聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、超がそちらを向くと後ろに手に袋に覆われた棒状の物を持った古菲が立っていた。

 

「古……」

「全部聞いたアル。突然だったからビックリしたアル。少しいいアルか?」

 

 寂しげな表情を浮かべて超の下へと歩み寄る古菲。

 迎えるように立ち上がった超は、一瞬あやかに視線を向けるが彼女は静かに微笑んで送り出してくれた。

 盛り上がっていくお別れ大宴会から離れ、二人きりになると古菲の方が先に口を開いた。

 

「すまないネ。本当なら古には先に伝えるつもりだたが、こういう結果になてしまタ」

「責めているわけではないアル。ただ、水臭いと…………止めておくアル。こんな場で愚痴を言うのは良くないアル」

「バカだが素直で一途な古にしては珍しく気を遣たのだナ」

「いきなりバカとは失礼アル」

 

 騒いでる場から離れて和やかに話す二人。こうやって話すことが出来ることも今後無くなると思えば、一分一秒がとても大切に思えて全てが愛おしい。

 超は故郷のことを殆ど話さないので同郷かは分からないが、少なくとも中華系の留学生ということで出会った当初から仲良くなった二人は、出会ってから今までを振り返るように穏やかに話す。

 

「しかし、どうしてこの時期に転校などするアルか? もう少しすれば皆と一緒に卒業できるのに」

「故郷に帰らねばならないヨ。私としても卒業までいたかたが、この時期を逃すと次は二十二年後になるからネ。どうにもならないヨ」

 

 話の中でどうしても避けられない超の転校。切りだした古菲に対して、周りに高い建物がないお蔭ではっきりと見える世界樹へと視線を移した超は儚げに笑って答える。

 

「…………また、会えるアルか?」

「私の故郷はちと遠いから難しいネ。残念ながら場所は言えないヨ」

 

 飛行機や船等で世界の大体のところに行けるようになった現代において、今を帰らねば二十二年後になるまで帰ることが出来なくなる故郷がどこなのかは大いに気になるところだったが、超の返答は問いを拒む雰囲気を滲ませていた。

 

「今までありがとうネ、古。この二年と少しは楽しかたネ。特に古と友になれたことは私の生涯の宝物になタ」

 

 世界樹から古菲へと視線を戻した超は寂しげに笑う。

 これが別れの儀式であると悟った古菲は、本当に二度と会うことは出来ないのだと実感が押し寄せて来て涙が込み上げてくるのを感じながら、後ろ手に握った袋に入った棒状の物を強く握った。

 

「私も超と友達になれて良かったアル。これ、餞別アル」

 

 会うことが出来ないのならば、せめて物が二人を繋ぐ絆になってくれればと持っていた棒状の物を超の前に差し出しながら止めていた紐を解く。

 

「我が師からもろた双剣アル。超にやるアル」

 

 封を解かれた袋から二つの柄頭が覗く。

 一つの鞘に収まった双剣を差し出された超は、見覚えのある柄頭に目が吸い寄せられた。

 

(こういうことカ……)

 

 視線の先にある双剣に故郷での記憶が刺激される。

 記憶にある赤と見覚えのない青が、家に伝わる言い伝えと繋がって一つの答えを導き出す。

 

「超の故郷は遠くて、もう会うのはアルネ? せめてこれを超に貰って欲しいアル」

 

 目尻に涙を浮かべて双剣を渡そうとして来る古菲に、超が答える言葉は決まっている。歴史の規定事項などではなく、そうすることが正しいと知っているから。

 

「受け取れないネ」

 

 双剣を手で抑えると古菲の表情が激変する。正しい意味で言葉が伝わっていないと苦笑しながら、伸ばした手で双剣の片方の柄を握って引く。

 引かれていく腕に合わせて、双剣の片方の刃が姿を現す。

 

「貰うのはこちだけにしておくヨ。私達はもう会うことは出来なくとも、きっとこの双剣はもう一度巡り合えるはずネ」

 

 鞘から引き抜かれた刃に纏っていたローブから取り出した袋に入れて笑顔を返す。すると、古菲もようやく安心したように微笑んだ。

 

「まさか断れるんじゃないかと思って心臓が止まったアル。超はこんな時でも変わらないアルよ」

「ふふ、泣くとでも思たカ? 科学に魂を売た悪魔である私は、別れぐらいで涙は流さないネ」

「そう言うと思ったから超が相手だと私も泣くに泣けないアル」

 

 別れる時に涙はいらない。互いの未来を想うならば、笑って別れる関係でいられることが幸せだった。

 拳をぶつけ合った二人が、もう少ししたら倒れるのではないかと言いたくなるテンションで騒ぎまくるお別れ大宴会に戻ったところで、屋上に通じるドアが開いて集団がやってきた。

 集団のメンバーはクラスメイト達であり、その中に目的の人物がいることに確認した超は楽しい時間が終わりに近づいていることを実感し、それでもこれから披露される舞台の脚本家として笑って見せた。

 迎えるように待つ超の前に、目的の人物の腕を引っ張りながら連れて来たネギ・スプリングフィールドがやってくる。

 

「超さん、話があります」

 

 恐怖劇と英雄譚の同時開幕の前に、脚本家たる超は静かに嫣然と笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お別れ大宴会を抜け出して、世界樹の間近の広場にやってきたネギ達と超は向かい合っていた。

 

「教えて下さい、超さん。なんで突然、退学届なんかを?」

 

 両者の間に蟠る沈黙を最初に破ったのはネギ。開口一番に切り込む。

 先を立って移動していた超はネギの言葉に振り返り、世界樹を背後に従えて何時ものように不敵に笑う。

 

「そんな怖い顔しないで欲しいネ、ネギ坊主。学園に戦いを挑むのだから形式として必要なことヨ。悪の組織のリーダーが学生では恰好がつかないだろウ?」

「ふざけないで下さい!」

 

 ニヤリと笑う超の真剣とは思えぬ言葉に、温厚なネギにしては珍しく口調を荒げる。

 

「ふざけてはいないヨ。悪というものは形を大事にするとエヴァンジェリンを見れば分かるだろウ。私はその流儀に乗とているに過ぎなイ」

 

 怒声に堪えた様子のない超は、冷静らしからぬネギを見るのもまた一興とばかりに応用と受け流して自説を展開する。

 口調こそおどけているが、超の眼は笑ってはいなかった。ネギの一挙一動を見逃さないように見定めている。

 ネギが彼にとっては、超の自分勝手と思える主張に更に激昂しようとしたその瞬間にアーニャがネギの肩を抑えた。

 

「落ち着きなさい、ネギ。超の術中に嵌ってるわよ」

「アーニャ……ごめん、少し下がる」

 

 冷静なアーニャの言葉に自分が平静を保っていられないことに気づいたネギが一歩下がる。

 

「選手交代よ。で、超。百歩譲って退学は良いとして、どうして世界に魔法をバラそうとしているのかしら?」

 

 ネギに代わって前に出たアーニャが腰に手を当てながら傲然と問いかけた。

 アーニャの目は超の本心を見透かさんばかりに眼光鋭く、毅然とした態度は嘘は許さないというポーズである。

 

「逆に問おウ。どうして魔法をバラしてはいけないのかト」

「何故って、それは……」

「そういう決まりであり、魔女狩りの再現をさせない為カ?」

 

 アーニャは答えを沈黙とすることで肯定を返した。

 

「中世ヨーロッパに実際に行われた虐殺。歴史を紐解けば、現代ならば誰もが知ることが出来る悲劇ネ」

 

 魔女狩りとは、キリスト教国家で中世から近世に行われた宗教に名を借りた魔女とされた人間に対する差別と火刑などによる虐殺。

 魔女かどうかを判別するために、被疑者に鉄球をつけて湖へと落とすのだとか。その判別も浮かんできたら魔女、浮かばなかったら魔女ではないという随分な適当な代物が多い。

 

「教会の権威と威光を示すためのデモンストレーションみたいなものだたにしロ。教会の人間にとて奇蹟とは信仰に厚い聖人のみが行えるもノ。だから神を信じない魔法使いの魔法は奇蹟ではなク神の力ではないのならば悪魔の力を借りたものダ、故に魔法使いは悪魔の使徒であル、と当時は信じられタ。処刑された殆どが無辜の民だとしてモ」

 

 超が底知れぬ笑みを浮かべながら、歴史の裏に隠された魔女狩りの真実を語る。

 

「でも、実際に教会により多くの魔法使いが殺され、それまでは普通に暮らしていた魔法使いたちは人里離れた地へと移住するしかなくなった。それまでは秘匿なんてなかったけど、魔女狩りを経験した魔法使い達の恐怖によって制度が作られた。魔法が世間に知られれば、また魔女狩りが起こる。これが一般に魔法を隠匿する根拠よ」

「それだけではないだろウ。公開された場合の兵器転用や民間被害の問題もあル」

 

 ええ、とアーニャは重々しく頷いた。

 

「では、表に出て来れない現代で魔法と魔法使いに意味はあるのカ?」

 

 超の言葉にアーニャは押し黙り、眉が内側に寄った。

 それは魔法という概念の根源に関わる疑念であった。魔法世界よりも旧世界にいる魔法使い全てが抱えている疑念。

 ないからだ。現代という世界は、魔法を必要としていない。科学という果実が落とす利益は、魔法で得られるそれを遥かに上回っている。裏の世界では利用されていたりもするが、例え魔法の全てが嘘や偽りでも全世界の人々が困ることはない。現に旧世界において大多数が魔法を知らずとも当たり前に暮らしている。この事実は動かしようがない。

 

「敢えて、言うネ。現代に魔法は必要とされていなイ。それどころか広まればデメリトの方が多いヨ」

 

 世界に魔法をバラそうとしているはずの超のまさかの否定に場がざわつく。

 だが、超はニヤリと笑うのみで憎々しげに表情を歪めたアーニャとネギを見つめるのみだった。

 

「現代において必ずしも魔法は必要なものではなイ。空を飛ぶなら飛行機に乗ればよイ。遠くの人と話すなら携帯電話を使えばいイ。街を焼き払うような魔法よりも、爆弾の方がよほど確実ダ。個人の才覚に頼らざるをえない魔法と、万人が使うことを前提とされた科学の違いは歴然ダ」

 

 だけど、このような科学全盛の時代でも、魔法を選ぶ者はいる。魔法を選んでしまった者がいる。選んでしまったのならば、その価値こそが絶対だ。世界がどれほど無価値と言おうが、そんな言葉は何の意味も持たない。

 

「魔法を知ても悪用をしなイ。あくまで希望的観測を多分に含んだ理想論に過ぎないネ」

 

 それだけ語って、超は静かにいったん言葉を切った。

 こう在ればいいという未来。勿論綺麗ごとだけで世界は廻っておらず、現実的な問題や障害はいくらでもあるだろう。

 

「現実問題として魔法を悪用して危険を及ばすことがあるかもしれなイ。いいや、必ずあル。どんな技術でも戦争に、破壊に利用してきたのが人類ヨ」

 

 科学という力によって生存領域を広げてきた現代社会にとって、魔法との出会いはあまりに破滅的だ。魔法と共存可能な新しい社会が構築されるまでの間、どれだけの命が散っていくか想像も出来やしない。新たな戦争や紛争が勃発しても何ら驚くには値しないだろう。

 だが、善と悪は表裏一体。どのような技術でも、概念でも、見方や使い方によっては善にも悪にもなってしまう。技術があれば利用したくなるのが人類の性。

 牛肉や豚肉を食べることに、罪の意識を覚えないのと同じだ。或いは、人間が自然を喰い散らかして、生存権を広げていったのと同じだ。化学が自然環境に強いてきた痛みと何ら変わることがない。魔法もまた、科学と同じ悪性を孕んでいるという、それだけのことに過ぎない。

 

「ハキリ言て便利な力を知れば必ず悪用する者が出てくるヨ。人間の中の悪を撲滅できないのと同じように、悪用することを防ぐことは出来なイ。だけど、悪いのはあくまでそれを使う側の問題であて技術に問題はないネ」

 

 物を切るためのカッターナイフで強盗をするように、人を遠く離れた場所に運ぶ飛行機をテロで乗っ取ってビルに突っ込ませるように、使う人間全てがそれを正しく扱うとは限らない。使い方を間違えれば魔法は簡単に人を殺せる。でも、悪いのは魔法じゃなくて、そんな使い方をする人間が悪いだけだ。

 人は言葉を持つ生き物だから話し合えば必ず解決する、などという麗しい考えは通用しない。話し合うのは、まず自分や周囲の安全を確保してからだ。それをせずに言葉を繰っても、その間に自分が害されてしまう。

 

「変なことを言い出すのね。とても魔法をバラそうとしている人間の言葉とは思えないわ」

「必要なのハ、こうやて議論することヨ。何が正しくて間違ているかなどを一面だけで見るのは愚かだと私は言いたいのだヨ」

「魔法使いだけでなく、一般の人間も魔法を知った上で議論をしろと言いたい訳?」

 

 そうだヨ、と返すに超にアーニャは徐々にその狙いが見えて来て渋面を浮かべる。

 

「知らないからこそ人は不安に駆られて過剰な防衛行動に出ル。私はこの世界樹を利用して全人類に強制認識魔法をかけ、魔法の存在を信じる土台を作ル」

 

 超の発言に合わせたかのように世界樹が薄らと光る。

 

「魔法をかけるといてモ、地球規模の魔法が個人に与える影響は魔法等の超現実存在へのハードルを下げる催眠術程度。魔法があるかもしれなイ、魔法使いがいるかもしれなイ、と思うだけで、もとも混乱も暴走も少ない魔法公開ヨ」

 

 世界樹の光が少し距離を開けて立つ超の表情を覆い隠し、その時の彼女がどのような感情を抱いているかは単調な口調だけは容易に察することが出来ない。

 

「確かに被害は少なくなるかもしれないけど、いくら言葉を変えようともそれは洗脳です! 人が人に最もやっちゃいけないことですよ!」

 

 聞いていて我慢が出来なくなったネギが怒鳴るが、超に効いた様子はない。寧ろ笑みを深めたのが光の向こうの雰囲気で感じた。

 

「ならば、魔法を知たからといて記憶を消すのは正しいのカ? 一方的な理屈を振り撒く魔法使いこそ害悪ではないカ」

 

 現代において外的要因による魔法の存在に気づくケースは少なからず存在している。事件に巻き込まれるなどの已むに已まれぬ理由によって知ってしまうことは往々にしてある。どのような場合であっても不足の事態は起こり、巻き込まれるのは何時だって何も知らぬ一般人なのだ。

 一般人が魔法を知った場合の選択肢は限られている。記憶を消すか、口を閉じるか、足を突っ込むか、大なり小なりの差はあれど、その三択に別れる。この三択において、口を閉じておくというケースは少ない。いくら専門機関が常に魔法バレが起きないように見張っていようとも人の成すことに完璧はありえない。ならば、記憶を消すなりした方が遥かにリスクが少ないのは誰が見ても分かる。旧世界の人口はこの数十年で激増しているのに、魔法使いは現代に入ってからも目に見えるほどの増加にないのはそこに関係している。

 それだけの力が魔法協会にはあるのだ。古くより権力社会と結ぶついてきた組織は、地方都市一つぐらいは容易に隔離しうる。情報操作、偽装工作――――そういった類の行動はお家芸といってもいい。

 

「話を摩り替えないで、超」

「摩り替えてなどいないヨ、アーニャさん。私は人を、魔法を信じているヨ。一般人でも努力さえすれば魔法は使えることは、魔法に関わて来なかた木乃香さんが証明していル」

 

 話を向けられた木乃香がビクリと体を震わせ、彼女を守るように刹那が庇う。

 超は一年前には想像も出来ない二人の姿に時の流れを感じて視線をアーニャに戻す。

 

「今の魔法社会の体質は閉鎖的すぎル。技術も議論も、もと広めなければ生産的なことではなイ」

 

 楽しくて仕方ないとばかりにクツクツと笑う超は更に言葉を重ねていく。

 

「あらゆる科学技術と同じように、気をつけるしかなイ。法律をしかり作て、魔法の悪用を取り締まるしかないネ。そうすればデメリトの大部分は解消できるネ」

「理想論よ。世界はそんな単純に出来てない」

「確かに私の言ていることは理想論に聞こえるかもしれないが魔法世界はこうやて回ているはずヨ。私を否定するということは魔法世界の秩序を否定するのと同義。それとも魔法世界は法律もない無法な場所なのかナ?」

 

 アーニャの断定にも落ち着き払った声音の超は小動もしない。相手のルールには乗らず、隙あらば自分のペースに引き込む言葉を繰りだしてくる。

 完全に超のペースだった。

 

「実際に法律を整備し、旧世界の全ての人々に魔法を悪用させないようにするには長い時間がかかるだろウ。しかし、一般の世界では周知されていない魔法が彼らにも使えるようになるにもまた長い時間がかかル。私が行う方法こそがもとも混乱を最小限に抑エ、最短で事態を収束させるネ」

 

 それは、疑いを挟むことを許さない強い言葉だった。

 

「魔法があれば救える命のあるかもしれなイ。災害に、救急に、ありとあらゆる失われるかもしれなイ、これから失われていく命を前にしテ、秘匿を理由にして見捨てるト? 人を助けることに重きを置く旧世界の魔法使いに大義名分が生まれるのだゾ」

 

 アーニャもネギも絶句した。想像もしなかった考えに、一瞬硬直した。或いは、認めたからでもあった。その言葉のどうしようもない身を溶かしてしまいそうな甘さを。情けないほど簡単に二人の心は揺れた。

 魔法使いの意味と価値。それは、旧世界に生きる魔法使いへ、常に突きつけられている問いであった。単に個人レベルではない。

 魔法もまた、科学と同じように長い時間をかけて習得するものである。そこまでしてもなお、現代において魔法は無意味なのだ。全ては一般人に知られてはならないという不文律があるが故に。

 ならば、優秀な魔法使いほど、自らが研鑽してきたものを誇り、現代における自分の存在の価値の低さに絶望するしかない。そこから目を背けるか、受け入れるかは別として、砂を噛むが如き徒労感を味合わぬ者はいない。

 

「魔法でなければ防げぬ悲劇、魔法でなければ救えない人がいるなら迷うべきではないのではないカ?」

 

 そうだ、とネギは思う。もしも、秘匿という前提が覆るなら、今まで秘匿の壁に邪魔をされて出来なかったことも出来るのではないか。それはあまりにも甘く、致命的な毒だった。

 

「幼い頃、不思議に思えた様々な出来事に惹かれて科学者になった者が、研究を重ねる内にその不思議自体をただの現象に引き摺り下ろしてしまうみたいニ。このまま時が進めば、何時か旧世界の人間は魔法そのものを排除してしまうだろウ。魔法が世に出るならば今しかないヨ」

 

 更なる難題が積み重ねられていく。

 科学はこの数十年に圧倒的な進化をしてきた。その進化は留まる事を知らず、この百年の間は鈍化している魔法は何時か追いつかれ、やがてはあっという間に追い抜かれる時が来るかもしれない。

 

「……………」

 

 一通り聞いた後、訪れたのは静寂だった。

 解決力を超えた難問をぶつけられて立ち尽くしていた。

 それぞれがさっきの話を反芻して、なんとか自分の内側に消化しようと努めているいるのであった。まるで周辺の空気が海底へと変じて、誰も彼もが塩水に沈んでしまったかのようにも見えた。

 最も効果的な言葉を切り出すのに、最も効果的なタイミングを待つ。この場にいる全員の表情を、その裏に動く感情を見定めるように超は見渡した。

 彼らの理解と感情が、丁度目的のラインに達したと見た瞬間、超は告げる。

 

「私の仲間になレ。より多くの人々を救うためニ」

 

 揺れた。特に生粋の魔法使いであるネギとアーニャの心がその言葉に揺れる。

 もしもヒーローの条件を、世界を変える力と意志ある者だと単純化するなら、超鈴音はそれを満たしている。彼女は世界に魔法を暴露するという手段を握り、世界の価値観を一変させる意志を有しているからだ。

 

「仲間になるかどうかの前に聞きたいのだけど」

「なにかナ?」

 

 あまりにも突拍子のない話が続いているので、もはや何を言われても盲目的に受け入れるしかなくなっている。それがアーニャには今一つ釈然としないところでもあったが、だからといって真偽を確かめても無意味であることは分かりきっている。

 考える。考える。考える。思考し、思索し、思案する。疑問符を幾つも繋げていく。ただ、可能性を上げていく。考えられるだけの可能性を、いずれも否定せずに列挙する。

 アンナ・ユーリエウナ・ココロウァは、けして聡明な方ではない。相手の思考を高い精度で探り、逆手を取るような叡智には恵まれていなかった。その代わり、ありとあらゆる可能性を虱潰しに辿っていくような執念と集中力にはただならぬものがある。

 これまで積み重なった経験からいくつものパターンを照らし合わせ、可能な限り精密に検証を繰り返す。何度となく見てきたパーツは組み合わせを変える度、まるで日本の折り紙のように毎回多種多彩な形を織りなしていく。

 それでもまだまだ情報が足りない。ピースが揃っていない。その為の情報を、ピースを求める。

 

「行動には動機が、理由が必要になる。アンタはどこの誰で、何の目的があって魔法を公開しようとしているのか。何一つ語らないまま、仲間になれというのは無理があるわ」

「…………道理ネ。逆に簡単に仲間になると言ていたらスパイかと疑ていたところヨ」

 

 超が握り拳を作って口元に近づけて、コホンと咳払いする。

 

「では改めて自己紹介させてもらおウ。我が名は超鈴音。ある時は謎の中国人発明家! クラスの便利屋兼恐怖のマッドサイエンティスト!! またある時は学園NO.1天才少女!! そしてまたある時は人気屋台である超包子オーナー! …………その正体は!!」

 

 意味深に言葉を切る超に、ネギがゴクリと空気を飲み込む。

 超は勿体ぶるかのように時間を開け、纏っているローブを後ろに放り投げた。

 

「――――なんと末来から来た火星人ネ!!」

 

 背景に太陽でも背負ってそうな勢いで言い放った超の姿は、まるで蛸みたいな一昔前の火星人の格好に変わっていた。

 どういう仕掛けか、一本一本の動きに違和感がない蛸足が動いているのをアーニャが少し嫌そうに見る。実はアーニャ、生きている蛸が苦手なのである。

 若干引いているアーニャ、素で言葉の意味を考えているネギ、その他それぞれは取りあえず黙っている。

 結果として、そこには沈黙が流れていた。

 予想外の無反応に超は若干顔を赤らめながら咳払いをする。自他ともに天才と称される超といえど、流石に今のを外したのは恥ずかしかったらしい。

 

「未来から来た火星人、ねぇ……」

「末来火星人、嘘つかなイ」

「私、生きてる蛸が嫌いなの。こう、ニョロニョロ動いているのが気持ち悪くて。そんな物を着ている人を信用するなんて、とても出来ないわ」

「脱ぐヨ。だからそんな侮蔑するような目で見ないでほしいネ」

 

 アーニャに駄目だしされて、一度脱ぎ捨てたローブをいそいそと拾って着直した。

 ローブに袖を通すと何故かその手に蛸足はなかった。

 

「どうなってるのよ、そのローブ……」

 

 アーニャが摩訶不思議なローブに興味を持つと、超は得意気に笑うのみで答えようとはしなかった。

 話がグダグダになりそうだったのでネギが顔を出す。

 

「それで未来の火星から来た超さんは、何の目的があって魔法を公開しようとしているんですか?」

「言葉にそこはかとない棘があるような気がするのだガ…………まあ、いイ。問われたのなら答えよウ!」

 

 ノリノリで答えようとしている超に、ネギは内心でもう放っておいていいんじゃないかと思いもしたが、このノリをどこかで知っているように思えて首を傾げながら続く言葉を待った。

 

「秘密ネ!!」

 

 ババーン、と無駄に恰好良くポーズを取った超にネギとアーニャの顔から表情が抜け落ちる。

 

「よーし、この構ってちゃんを捕まえるわよ。行き先は病院でいいでしょ」

「ま、待つネ!? 目的に関しては時間保護法で本当のことを言えないようになてるネ」

「もう、だからそういう冗談はいいのよ! 誤魔化さずにさっさと白状しろっての!」

 

 後ろで話を聞いてなさそうな最終兵器に実戦投入を指示しかけたところを、超が必死に止めるがアーニャとしては堪ったものではない。

 もう関わり合いになることすら嫌だと顔に書きながらも、生来の面倒見の良さ所為で仕方なく話を聞いてやることにしたアーニャが続きを促す。

 

「未来から来た火星人であることは事実ヨ。何しろ……」

 

 ホッとした様子で続きを話し始めた超は、そこで言葉を止めてスプリングフィールド兄弟を見た。

 

「私はスプリングフィールドの末裔。サウザンドマスターから数えて五代目が私ネ」

「な……何?」

 

 いきなり告白された話の内容に、アーニャだけではなくその場にいた全員が呆気に取られる。あまりにもその内容が信じられなかった。スプリングフィールドの末裔、サウザンドマスターから数えて四代目というならネギかアスカの子供の子孫ということになる。

 アーニャは数メートル先に立つ超の顔をマジマジと観察した。

 アジア系の超とヨーロッパ系のネギやアスカとでは似ている点を探す方が難しいが、何世代も経過し、かつ間に国際結婚したとすれば可能性はゼロではない。

 

「証拠……」

 

 は、と問いかけようとしたアーニャの言葉よりも早く、瞬間アーニャの鼻先に超の姿があった。

 

「なっ!?」

 

 反応する間もなく殴り飛ばされる。超に殴られたのだと気づくのと、身体の奥まで響く衝撃を感じたのはほぼ同時だった。防御の体勢を取る暇もなかった。

 吹き飛ばされ、後ろの方にいたアスカに受け止められる。

 

「今のが証拠ヨ」

「だから…………なに、よ……って、体が…………痺れ、る」

「この軍用強化服に仕込まれているスタンガンに似た物ネ。達人でもしばらくは動けないから無理はしない方が良いヨ」

 

 アーニャが痺れる体に齷齪していると、これまた何時の間にかローブを脱いでいた超が指先まで覆う衣装を披露しながら告げる。

 

「ネギ、麻痺解除を」

「わ。分かった。アスカは?」

「超の相手をする」

 

 油断なく超を観察していたアスカは隣に立っていた明日菜にアーニャを任せ、ネギに治療を頼みながら数歩前に出た。

 その背に向けて、アーニャを抱えた明日菜が口を開いた。

 

「ちょっと、アスカ。大丈夫なの?」

「さあな…………刹那、さっきの見えたか?」

「いえ、見えませんでした」

「刹那もか」

 

 重い声で言ったアスカだが、その口調に反して楽しげであった。

 超がローブを脱ぐのとアーニャの前に移動する過程が見えなかった刹那が思わず不安になって表情を曇らせる。

 

「策はあるのですか?」

「なんとかするさ」

 

 つまりは策などないと言っているようなものである。

 超が実力行使に出た以上、この場で最大戦力であるアスカが立ち向かうのは戦略上でいえば定石である。逆に言えば移動の過程を失くす種を暴けずにアスカが倒されば敗北が確定される。

 自身の行動如何によってこの場の敗北が決定すると分かっていても、何時だってアスカの戦いはそうだったから臆することなく足を進めた。

 

「なあ、超」

「何かナ?」

「この時代は楽しかったか?」

 

 予想外の問いだったのか、超は意表を突かれたように目を丸くして表情を和らげる。

 

「楽しかたヨ。ちょとだけ何も考えずにこの時代にいられればと思うほどにハ」

 

 嬉しさと気恥ずかしさと何か別の成分を等分ずつ混ぜ込んだような表情。その配分があまりにも絶妙過ぎて、この少女が実際にどう思っているかは、他所からは窺えなかった。

 

「それでも、やるんだな?」

「無論。私はこの為にこの時代に来たのだからネ」

 

 ならば、是非もなしとばかりに構えるアスカ。

 

「んじゃ、やろうぜ」

「ああ、思いを通すは」

 

 武道大会の時よりも腰が高く、待ち構えてはいるが動き易いように重心を低くすることを嫌ったのだろう。超の動きを見逃さんと眼を皿のように広げていた――――はずだった。瞬きもしていないと断言できる。

 

「何時も力ある者のみ」

「!?」

 

 一瞬も逸らさなかったのに彼女の姿を見失い、またもや途中の時間を切り取ったかのようにアスカの背後に現れていた。

 アスカは振り返る暇もなく超反応で腕を動かして振り上げられていた超の蹴りを受け止めるが、攻撃の威力を殺し切ることは出来ずに数メートルに渡って二本の轍を生み出す。

 アスカが体勢を整えた時には、またもや超の姿が過程を切り飛ばしたかのように背後にいる。如何なる手段によってかアスカに知覚されることなく背後に回り込んでいたのだ。

 

「ちっ」

 

 アスカは舌打ちをしながらもすぐさま反応して、身体を反転させようとする。刹那が瞠目するほどの尋常ではない反射神経。にも拘らず、超はその上を行く。

 

「何時の間に!?」

 

 振り返った超の姿がまた消え、殆どタイムラグもなしにアスカの死角に回り込んでいる。恐るべき反応速度と恐るべき瞬発力でアスカが咄嗟に出した腕を攻撃と勘違いして退いたが、アスカが振り返る頃には確実に超の姿を見失っている。

 

「速すぎる!」

 

 相手の攻撃が速すぎてアスカの攻撃は全て空振り、姿を視認することすら殆どできていないようだった。

 瞬動だとしたら、超の実力は刹那では計り知れないものだと言う事になる。それぐらい気配がなかった。高畑に勝ち、アルビレオと良い戦いをしたアスカをこうまであしらえる超の実力の底が知れない。

 

「ふむ、良い事を思いついタ」

 

 どちらも有効打はないものの、圧倒的優勢の中で攻撃を止めて距離を開けた超が呟く。

 アスカも追撃をしない。移動法を見破れていないのか、超を注視したまま動かない。

 

「もし、私に勝てたら魔法を公開する理由を語ろウ。それと今からしようとしている事も止めるネ。だがもし、アスカさんが私に負けたら――――こちらの仲間になて貰うネ」

 

 言葉が終わるか否か、超は一気に距離を詰めて掌撃を連打する。

 その攻撃はかなり鋭く、しかもスピードの速さから攻撃をガードするのが精一杯のように見えるアスカ。

 

「あれ?」

「気づきましたか、明日菜さんも」

「うん…………超ってそんなに強くなくない?」

 

 猛攻を仕掛ける超と捌くアスカの構図だが、先程のような過程を切り飛ばしたような移動法を使わないので素の実力が見えた。この数ヶ月で初心者の殻を破って信じられない速度で強くなっている明日菜よりも素の実力は劣っている。アスカが押されているように見えるのは、それだけ謎の移動法を警戒しているからだ。

 二人が分析していた次の瞬間、またもや超の姿が消えた。

 

「ぐっ!?」

 

 今度は横に現れて放った崩拳を受けたアスカが吹っ飛ばされる。その背後に次の瞬間、忽然と姿を現し、振り返りざまに肘を打ち込む。

 これもアスカは防御するが、防戦一方のように映る。

 

「問題はあの移動法です。瞬動術にしては前兆が無く、転移にしては早すぎる。あれさえなければ……」

 

 少し離れた距離を縮める為に超がゆっくりと脚を踏み出し、地が踏まれる前に姿が消える。

 文字通り、消えたのだ。その僅かな消失時間は0.1秒にも満たない。またもや轟音と共にアスカが吹き飛ぶ。

 

「…………早いってわけじゃねぇな」

 

 ダメージを負ったのか、口端から流れる血を拭ったアスカは静かに呟く。

 

「瞬動術を使ったのなら空気が動く。転移だとしても魔法反応はあるはずだから気づく。だとすると、俺が気づかない方法で移動したことになる」

 

 重ねて超が言った自らが未来人であるということと、アーニャを殴り飛ばした時に言った『証拠』の意味。ピースは大体揃った。

 

「答えは出たのかナ?」

 

 超は追撃を仕掛けず、導き出される答えが合っているか評定するが如くアスカの言葉を聞いている。

 

「別に答えはいらないだろ。大体分かったからな」

「何が分かたというネ?」

「トリックの仕掛けが分からなくたってやりようはある」

 

 言い捨て、今度は深く腰を落したアスカの真意を探るように見つめていたが、待ち受ける体勢のまま動こうとしない敵を前にして超の行動は限られる。先に動くか、アスカの動きを待つか。

 

「待つのは私らしくないネ」

 

 ニヤリと笑ってアスカの左斜め後ろに唐突に出現する超。

 既に紫電を纏わり付かせた右腕を振りかぶっており、アスカは背後にいる超に気づいている様子はない。どうやっても回避できないタイミング。

 

「!?」

 

 にも関わらず、超が気づいた時には自らの頬にアスカの裏拳が向かってくるところだった。

 触れて殴り飛ばされる寸前にまた消えて今度は右横に出現するが、完全に裏を掻いたはずのアスカが相対していることに気づいて最初の場所に戻った。

 ゆっくりとアスカは超に視線をやると、彼女の表情は明らかに強張っていた。余裕たっぷりの笑みはもはや欠片もない。

 

「ナゼ、私の場所が分かル?」

 

 奥の手を破られたに近い状況に、こめかみから汗をタラリと流しながら超は目つきを鋭くする。

 

「見て感じて反応してるだけだ。言っちゃ悪いが超の実力は古菲より二段も三段も下だ。どれだけ早く移動できたとしても瞬動術や空間転移の延長の過ぎない。俺の敵じゃあない」

 

 パシ、と言い放ったアスカの頭部付近から紫電が走る。

 その意味を誰よりも早く推察した超が苦み走った笑みを浮かべた。

 

「雷を操作して全身の電気信号を加速させているのカ。また随分と無茶するネ」

「やり過ぎると頭がフラフラするからあんまやりたくねぇんだが、結果は見ての通りだ。勝てんぜ、お前」

 

 勝利宣言とも取れる発言に超は両手を上げた。

 

「まさか純粋な性能(スペック)だけで航時機(カシオペア)を超えるとは思いもしなかたヨ」

航時機(カシオペア)?」

「未来人だと言ただろウ。つまりはタイムマシンネ」

「ってことは、さっきのは時間移動ってことか」

「疑似時間停止に遡行。そう捉えて貰ても構わないヨ」

「本当にあったのか、タイムマシン」

「これで信じる気になたカ?」

「なったなった。時間移動が出来るのか」

「世界樹の莫大な魔力を使うことでようやく実用できたヨ。戦闘においてカシオペアを有効に運用するには、ナノ秒以下の精密操作と跳躍後の時空間の正確な事象予測が不可欠。私もこの二年間の膨大なシュミレーションの末にようやく実用化にこぎつけたヨ」

 

 ネギらは超の行った技術に絶句していたが、当の本人らは呑気に会話していた。

 

「カシオペアを使えば時間を移動できル。事前の察知はほぼ不可能…………なのに、どうして私の居場所が分かタ?」

 

 種をバラしても防ぐことは出来るはずがない、と挟持を滲ませて眼光鋭く問う。

 

「もし、時間を止めている時に攻撃できるならどうしようもないが、時間移動をしても攻撃する瞬間は必ずそこにいて、移動の過程は省けても攻撃のモーションが必ずある。現れた瞬間から攻撃が当たるまでに十分に反応できる」

「間があるといてもコンマ数秒のないはずなのに反応するカ。生身でカシオペアを制御している人工知能を超えるなんて化け物ヨ。では、趣向を変えてみよウ」

 

 言った直後、超の身体が不自然にブレる。

 

「「「「「「「「「「これでどうかナ?」」」」」」」」」」

 

 十人に増えた超が上方と四方からアスカに襲い掛かる。

 

「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル、来れ雷精風の精、雷を纏いて吹きすさべ南洋の嵐」

 

 一歩も動こうとしないアスカが静かに呪文を唱える。その間に超が接近する。それでも動かない。

 

「雷の暴風、固定」

 

 放つかと思われた魔法がアスカの掌の先に留まり、雷の暴風の莫大なエネルギーが野球ボール大に圧縮される。

 上位魔法が放たれるかと思われたが、アスカの謎の行動に多くの超は眉を顰めたが、既にかなりの距離を詰めている。早い超の一人は既にアスカまで後僅かの距離まで近づいている。

 ゼロ距離で放たれようともカシオペアを使えば回避できると考えた超達は止まらない。

 後少しで触れる距離になったところでアスカの口が続きの言葉を呟く。

 

「解放」

 

 留められていた雷の暴風がその文言と同時に解放され、アスカを中心して暴風と雷の閃光が走る。触れられるほどの間近にいた超の回避は間に合わない。

 

「なっ、ぐぁっ!?」

 

 カシオペアの回避が行えた超が次々とその場から消える中にあって、間近にいたことで避けることが出来なかった超の全身に拡散された雷の暴風の余波が直撃する。全身に走る雷によって思考が散り散りに乱れてカシオペアを使うことが出来ない。

 苦痛に呻いたところに暴風を切り裂いて接近したアスカに殴り飛ばされ、欄干に叩きつけられる。

 

「攻撃する瞬間に時間移動することは出来ないみたいだな。なら、時間移動をする前に攻撃を当ててしまえばいい」

「簡単に言てくれるネ」

 

 アスカは手加減したのか、超は痛みに顔を顰めながらも立ち上がる。

 

「柔軟な魔法の使い方をするようになたネ。情報では少し前までまともに魔法も使えなかたのニ」 

「別荘で二年間、エヴァに基礎をみっちり仕込まれたお蔭だ」

「その腕の紋様も封印してもらたのカ?」

 

 超の発言にアスカの表情が変わった。

 

「なんで知ってる? 小太郎や茶々丸も知らないはずだ。まさか」

「怖い顔をしてほしくないネ。エヴァンジェリンに聞いたわけではないヨ。言ただろウ、未来人でありスプリングフィールドの末裔だト。未来情報ネ。知りたいカ? 末来のことヲ」

 

 アスカと視線が合うと超は少し困った様子で小首を傾げながら尋ねた。

 

「いや、別に」

「そこは聞いときなさいよ」

 

 思わず即答したアスカに突っ込みを入れてしまうアーニャ。チラッとネギのお蔭で麻痺は取れたようだが、一人で立ちながらも痺れが残っているようで時折眉を顰めるアーニャを見た超は、クスッと笑う。

 

「残念だが聞かれても時間保護法で教えられないヨ」

「じゃあ、聞かないで下さいよ」

「様式美ネ。さて、困たことに、このままでは負けそうだから揺さぶらせてもらうヨ」

 

 ネギの突っ込みを流して再び取り出したるは、世界樹の光に照らされて怪しく光る懐中時計。

 チェーンを持ってブラリと垂らしながら超は厭らしく笑う。

 

「世界樹の魔力でこのカシオペアを使えば百年の時を遡ることが出来るヨ。例えば六年前のあなた達の故郷の村が壊滅する前に行くことも出来るネ。変えたくはないカ? 不幸な過去を」

 

 一瞬アスカ達の脳裏を過る赤。赤い。空も、大地も、そこに存在するもの全てが赤い。見渡す限り辺り一面が赤黒い世界だ。血よりも濃い火の赤だった。それは、一言でいうなら地獄だった。

 空が赤く染まっていた。燃える夕焼けの赤ではない、暗い血の色の赤だった。落日の空は血の色だった。見渡す大地も血の色だった。

 

「変わるわけないだろ。もう終わったことだ」

 

 揺さぶりをかける超の甘言を切り捨てるアスカ。

 ネギとアーニャと違って一瞬の迷いもなく言い切ったアスカを楽しげに見つめた超は、更なる揺さ振りをかける。

 

「アスカさんはリアリストだネ。少しでも変えたい思わないカ?」

「思わない。今の俺はここにいて、過去を変えて何になる。自己満足に浸りたいなら勝手にやってろ」

「死んでしまた人に会いたイ、幸せだた時間を取り戻したという思うのは間違ているというのカ?」

「振り返ってどうする。何も変わらないし、何も変えられない。今を見ない人間の戯言だ」

 

 かつての光景、失われた人もいるけれど、それを振り向かない。胸の中で礎として進むだけだ。アスカは今までそうしてきたし、これからも変わらない。他人に強制する気はないが、他人に強制されるのも拒否する。

 アスカにとって過去は終わったもので、振り返るものでは決してない。見えるのは只一つ、遥か先にある父の背中とその道程だけ。

 

「皆がアスカさんのように強く在れるわけではないヨ」

 

 言う超の背後に二つの影が降り立つ。

 増えた人物が三人なのは影の一つがお姫様抱っこで抱えられていたからである。

 

「真名に茶々丸に…………葉加瀬か」

「あれ? 私の名前を呼ぶ時だけガッカリされたような」

「気の所為だ」

 

 茶々丸から下りた葉加瀬聡美は乱れ放題の蓬髪をガリガリと掻き毟ると、丸眼鏡の奥で黒色の瞳を細め、眉間に縦皺を刻む。厳めしい顔を作っているが、生まれつきの童顔と、広く愛らしい額が威厳の邪魔をし、才気に溢れる気難しい少年のように見せていた。

 

「で、今度は四人で来んのか? いいぜ、かかって来いよ。そっちの方が楽しめそうだ」

 

 アスカの挑発を耳にした葉加瀬の顔が蒼褪めた。戦闘員でもない自分まで戦力に数えられては堪らない。

 だが、否定の言葉は口から出ずに喉が上下するのみ。闘気に溢れた双眸に見据えられただけで身動きが取れなくなった。表情こそ何時もと変わりなかったものの、そこに紛れもない闘志を認めてしまい、生物の本能として決して勝てぬと判断した肉体が戦う前から怯えているのだ。

 

「いいや、私達はただの観客さ」

 

 葉加瀬と違って臆した様子のない真名が静かに応えた。途端にアスカから発せられていた威圧感が薄れ、フラついた葉加瀬を茶々丸が支える。

 

「こんなタイミングで出てきておいて観客だと?」

「今でなければ聞けないことがある」

 

 視界と意識を超から外さぬまま、アスカは真名の言葉の意図を計りかねて首を捻った。

 

「『この世界に魔法は必要かどうか』と、私の質問に答えていないだろう?」

 

 問いにアスカは僅かに体をピクリと揺らしたのみで直ぐに答えようとしなかった。

 数秒か数十秒か、決して短くない時間が経過した後、アスカは深々と長い溜息を吐き、静かになった場に返答を紡ぐ。

 

「知るか、俺が」

 

 この戦いを否定するかのような言葉を返したのだった。

 

「奇妙なことを言うネ。では、私と戦おうとする理由は何ヨ?」

「今、魔法バレして世界が混乱すると俺が困る。親父を探せない」

「随分と自分勝手な理由だ。魔法が認知された世界ならば多くの人が救えるのだぞ」

 

 超は面白いとばかりに理由を問い、真名は納得できぬとばかりに詰問の語気を高める。

 真反対な二人の反応に面倒くさいという態度を隠しもしないアスカが肩を竦めた。

 

「俺達が生きているのは過去でも未来でもなく今だ。もし、たら、れば、を語る気はねぇよ。魔法が公開された時、確実に麻帆良にいる魔法関係者はその責任を取らされる。そんなのは御免だ」

「自分の為に救えるかもしれない命を見捨てるなど……」

「それだけではないのだろウ? アスカさんが反対するのハ」

 

 銃を取りだそうとする真名を制するように横から口を出した超が挑発的に問いかける。

 

「人を信じると言ったな、超? そう言ったお前自身が自らの言葉を裏切っているからだ。魔法の論議をすることは必要だろう。だが、お前は準備に二年をかけたと言いながら最も最初にすべき魔法を公開するべきか否かの論議をしていない」

 

 真っ直ぐ目を見ての否定に超は笑っていた、哂っていた、嗤っていた。

 

「至極最もな意見ネ。だが、それではこの機会を逸してしまウ。次の大発光は二十二年後。とても待てないヨ」

「待つ気が無いの間違いだろ」

 

 アスカが言うと超がニヤリと否定することなく笑う。

 その顔を見て、アスカは表情を引き締めて眼光を鋭くする。

 

「否定しないこと自体がおかしい。魔法をバラすと言いながら、そこに熱がない。本心を隠してる奴の仲間になるなんて御免だ」

「本心、本心カ」

 

 何が面白いのか、クツクツと口の中で笑った超は軽く髪を掻き上げると強くアスカの眼差しを直視し返す。

 

「では、敵となるカ」

「最初からそのつもりだ」

 

 ザリッ、と地を踏みしめた超に警戒して構えを取るアスカ。

 戦闘態勢に戻ったアスカに真名と茶々丸も警戒しているが、何故か超は動く気配も見せずに笑っているのみ。

 

「三人なら負けないっていう余裕のつもりか?」

「戦う必要はないヨ。既に勝利は決まていル」

 

 懸念を含んだ問いに超は笑みと共に答え、手に持ったままの懐中時計の鎖をジャラリと鳴らした。

 今更に気づいたがアスカには見覚えのある時計だった。なにしろ全く同じデザインの物がポケットに入っているから。

 

「勝負とは戦う前に終わらせておくものだヨ。コード■■■、■■■■■」

 

 武道大会の激しい戦いでも傷一つつくことのなかった懐中時計と同じ物を取りだし、て何をするのかと問おうとするよりも早く超が聞き取れない言葉を呟く。

 

「何を……?」

「敵と定めた者から貰た物を何時までも持ているのが悪いネ」

「!?」

 

 瞬間、悪寒が全身に走った。

 無数の蛇が肌の下に入り込み、ぞよぞよと蠢く生理的な不快感にアスカは身を震わせる。その発生源はズボンのポケットの中から。

 確信を持ってポケットから懐中時計を取り出すと、竜頭が無くなっており空いた部分から邪悪そのものの気配が撒き散らされている。直ぐに遠くへ投げようとするが接着剤でくっ付いたように手から離れない。

 

「どうして……!?」

「細工は流々、仕上げを御覧じろヨ。全ては我が掌の上。嘘つきの言葉を信じてはいけないネ」

 

 語る超の言葉は、アスカには聞こえていなかった。

 

―――――苦しい………! 殺してやりたい………!!

 

 超の言葉よりも多くの無数の声が押し寄せ、神経を焼き切るようなこの世の悪意を凝縮したような感情が伝わってくる。

 荒々しい憎しみ、寒々しいまでの絶望。アスカの内面に吹き荒れたのは、個人が抱ける限界を遥かに超えていた。

 

―――――助けて! どうして! なにもかも嫌だ!! あいつさえ居なければ! 復讐してやる……!! どうせ上手く行かない…… あいつばっかり……!

 

 一瞬でも気を抜けば、我を失ってしまいそうな怨念が襲いかかる。

 

「ガ、アアアアアアアア――ッ?!!!!!」

 

 アスカの体は、千以上の肉片に引き千切られ、更にその先々で人間一人が抱えるには余りある負の感情を拾い上げては個人に還元されているのだ。如何に力強く在ろうとも、それはただの幻。ほんの一瞬だけ強く燃え盛って消える蝋燭の最期と何ら変わらない。むしろ敵といえるのは、目の前にいる超ではなく魂を犯す穢れに他ならない。

 

「アスカ――ッ!?」

「超さん! 何をしたんですか!!」

 

 暴風の如く荒れ狂う呪詛の中心にいるアスカの身を案じて叫ぶ明日菜と、感じる気配に産毛を総毛立たせたネギが誰何する。

 

「魂魄浸食型の呪詛を解放したネ。下手な手助けはしない方がいいヨ。如何にアスカさんといえど、いや人に抗えるものではなイ」

「貴様――ッ!」

「あかん、せっちゃん!? 向こう側に行ったら!!」

 

 愉悦そのものの笑みを浮かべながら語る超に、刹那が鞘に納めたままだった夕凪を抜き払って憤る。幼き頃から魔に慣れ親しみ、その身に宿しているからこそ感じられる呪詛の醜さに怖気すら感じて恐怖した。こんな状況を作り出してしまえばクラスメイトであろうとも関係ないと、超を斬らずにはいられずに踏み出しかけた刹那に木乃香がしがみ付く。

 

「いくらせっちゃんでもあの呪詛にタダではすまへん! みんなも今のアスカ君に近づいたら呪詛に取り込まれるで!」

 

 千草より陰陽術を習っている木乃香は、アスカが持つ懐中時計から発せられる数多の無念・悲痛・怨念に心を折られそうになりながらも動き出しかけた少年少女達に叫んだ。

 必死な木乃香の叫びに動きかけた明日菜とネギの足が止まる。

 

「でも……!」

「木乃香さんの判断は正しいヨ。アレには百年かけて熟成され、満ち満ちた祟り神クラスの怨霊群が封じ込められていたネ。ハワイのカネ神に力は及ばずとも後一歩でも近づけば瘴気の餌食になるヨ」

 

 そうしている間にもなんとか脱出しようとしているアスカに纏わり付く呪詛は全身に広がり、瘴気が姿を覆い隠そうとしている。

 不味くなっていく状況に焦りながらもアーニャは一人思考を走らせ、この場における唯一の打開策を導く。

 

「刹那、斬魔剣よ! あれなら呪詛だってを斬れる!」

「ハッ…!? 分かりました!」

 

 アーニャに言われ、鞘から抜いていた夕凪を構える刹那。

 今度は武道大会のような暴発はしないと心に決め、振り上げた刀身に気を込めていく。超のいる場所はアスカを挟んで反対側だから妨害も出来ない。十分に気を込めて刹那は心を引き締めて夕凪を持つ手に力を入れる。

 

「神鳴流奥義――――斬魔剣!!」 

 

 振り下ろすと同時に刹那は確かに技の成功を確信した。

 無色の斬撃が、微かに足掻く手が見えるだけのアスカに直撃する。その技名の如く、魔を斬り払ったに思えた斬撃は一瞬だけ苦悶に満ちるアスカの顔を見せ、即座に再び呪詛が覆い隠す。

 

「馬鹿な!? 斬魔剣が効いていないだと!!」

「そうではないヨ。この呪詛は数十万から数百万の人間が生み出したものネ。群体であるから一つや二つを斬たところで意味はないネ。アレを斬り尽くしたいならば青山宗家総出でもなければ不可能ヨ」

 

 近づけば巻き込まれ、外から打ち払える斬魔剣も徒労でしかない。

 ネギは、アーニャは、明日菜達は嘗てない絶望を感じていた。何も出来ず、ただ見ていることしか許されないことが彼らに出来ることだった。

 

「ウガァアアアアアアアアアアアアア――――ッッッッ!!!!」

 

 ネギ達の絶望ですら、呪詛に犯されていくアスカの苦痛の前には霞む。体の中に何かが入って来る異物感に絶叫する。

 修学旅行でエヴァンジェリンと合体した影響で腕に現れるようになった紋様の封印が解かれ、煌々と光っているのが見ないでも分かった。呪詛に反応して、封印されていた憂さ晴らしをするかのようにアスカに牙を剥く。

 

「ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア―――――――ッッッッ!?!?!?!?!?!?!?!?」

 

 赤く、赤く、世界が真紅へと染まっていき、アスカの脳裏に、断片的な映像が走った。

 それは呪詛の中の、エヴァンジェリンの記憶を、遺伝子のように閉じ込められていたものが、アスカの魂と直接触れ合うことで、具現したもののように感じられた。

 立ち込める粉塵、粉砕された家屋、そこそこに散らばる人だったモノの残骸。余熱を燻らせる瓦礫の山には、無数の死体が埋もれているのだろう。そこからドス黒い煙が噴き上がり、意思のあるもののように渦巻くのをアスカは見た。

 殺す者と殺される者、両者から等しく放出されたそれは、肌を刺す冷たい皮膜になってアスカを押し包み、平穏な死を得られなかった人の怨嗟を伝えてくるかのようだった。

 数千、数万の烏が、深紅の猛煙に燻された空を舞っている。地上では、腐臭を放つ、人とも獣ともつかぬ遺骸が散乱しており、それらを見繕って、烏は一心不乱に嘴を突き立てていた。

 すぐさま現われる、別の映像。降伏の傍を掲げている、どこかの民族、どこかの集団が、野盗の集団に惨殺されている。女は慰み者にされ、男は嬲られ。子は売られ、老人は打ち捨てられている。

 かと思うと、骨と皮ばかりにやせ細った者たちが現われる。砂に埋もれ、身に纏うものさえ持たない彼らは、誰に看取られることなく、青空の下でひっそりと死んでいった。

 アスカの心に、走馬灯となって現われては消えてゆくのは、夥しい、人々の嘆き、苦しみ、狂気、恐怖、混乱、憎悪、一切の負の想念が濃縮されたものだった。

 目に映る情景は、悉くが歓喜や幸福とは無縁だった。ただその一点においてのみ共通の、乱脈な景色の万華鏡。何時の時代、どこであるかも定かではない。慟哭があった。屈辱があった。無数の怨嗟と喪失があった。

 流血と焦土。裏切りと報復。数多を費やして何一つ得ることのない、限りなく高価な徒労の連鎖。

 鳥肌が、立った。血液が、細胞が沸騰する。鋭敏になった神経の節々まで行き渡る、内奥から注入された負の奔流は、邪悪で凶暴な意識を宿しながらも、アスカの身体を熱く燃え上がらせていく。

 そんな彼が、最後に見たもの。映像の締め括りとして現われたのは、莫大な負の想念が視覚化されるほどの力を持ち、成長を遂げた、怨霊、魔獣、魑魅魍魎の大集団が、闇の道を猛進してくるものだった。

 五感全てから注ぎ込まれるモノで潰されていく。

 正視できない闇、認められない醜さ、逃げ出してしまいたい罪、この世全てにあると思えるほどの、人の罪業と呼べるもの。

 変わりに目の前に現れたのは絶望の光景。

 幸福など欠片もない戦場。ただ硝煙と血の匂いだけが薫る地獄。世界からはあらゆる笑顔が失われ、ただ嘆きの声と涙だけが流される。

 突きつけられる死の狂騒。人の手による人の殺害。ありとあらゆる殺人行為が目の前で繰り広げられていく。

 絞殺。撲殺。圧殺。轢殺。銃殺。爆殺。刺殺。皆殺し。

 あってはならない地獄の釜。開かれてはならない煉獄の扉が世に顕現し、世界は嘆きに包まれた。この世全てとも思える悪性が、アスカの中で流れて増え、連鎖しながら渦を巻く。肉の身に起きたそれを―――――きっと地獄だと人は言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長谷川千雨は、どうにも相坂さよに弱い。

 押しが弱そうな見た目のくせしてこうと決めたら一直線なさよに対して、対人関係では強みに欠ける千雨は大体の場合において押し切られることが多い。

 超鈴音のお別れ大宴会の後、更に騒ごうとしているクラスメイトから離れて寮に戻って休もうとしていたところに、朝倉和美の下から戻って来た相坂よさの駄々によって無理やりにアスカ達の後を追わされて目撃したのは、超と対立する彼らの姿だった。

 

『超さんが魔法公開派で、アスカさん達は反対派みたいですね。世界樹を利用しての全世界規模の魔法周知。超さんは考えることが大きいです』

「そういう問題じゃねぇだろ……」

 

 隣の建物の屋上にいるので会話の内容は聞こえないが、幽霊のさよが一々中継する所為で千雨が厄介事に関わりたくないと思っても聞こえてしまう。

 さよの言葉は幽霊だから空気を震わして耳に届かせるのではなく直接頭に響いてくるようなもので、どれだけ耳を塞ごうが意味がない。

 自分も大声を出せば聞かないでいることは出来るだろうが、その場合は確実にアスカ達が気付く。かといってこの場から逃げようにも丁度良いタイミングでさよが戻って来るので果たせず。

 

「なあ、もういいだろ。どこにでもいる一般人が聞く話じゃないって。疲れてんだから帰らせてくれ」

『クラスメイトが争ってるんですよ? なにかあったら間に入れるようにしとかないと』

「この距離で私にどうしろっていうんだよ。お前がやればいいだろ」

『超さんには私が見えていないんですから千雨さんにいてもらわないと、こう大声を出して止めるとか』

 

 さよの方が正論なので堂々巡りで、すっかり逃げるタイミングを逃してしまった千雨も諦めて終わるのを待つしかなかった。

 行ったり来たりをしなければさよも千雨に話しの内容を伝えられないので、どうやっても間の話が抜けてしまうので千雨からすれば超とアスカの話は理解が難しい。

 良く見ようと顔を出すと勘の良いアスカに気づかれる可能性もあるので、考えることを放棄していた。

 

「そういえば朝倉の所に行って何してたんだ?」

 

 しまいには見ることを止めて手摺に腕を乗せ、その上に顎を乗せてさよと話をしていた。

 

『どうして武道大会の司会をしたのかなって聞きに行ってたんです』

「朝倉の性格なら十分にありうることだろ。大方、超に頼まれたんじゃないのか?」

『そうなんですけど、麻帆良祭が始まる前に聞いた予定だと報道部の取材で色んな所を回らないといけなくて、全然予定に余裕がないっていう話をしていましたから気になって』

「へぇ~」

 

 流石は自称『麻帆良のパパラッチ』だ、と心の中で感心した千雨は別におかしいことだとは思わなかった。武道大会だって十分なネームバリューがあってネタになるだろうし、報道部は和美一人ではないのでオファーを受けた時に自分の受け持ちを他の部員に任せることも出来たはず。

 

「ネタ的には武道大会の方が大きいからそっちを取っただけじゃないか?」

 

 さよが見えることを本人経由で知って最近やたらと構うようになってきた和美の性格を考えた千雨が言うと、さよは『あ、そうですね』と今更に気づいたようだ。

 

(この天然、どうしてやろうか)

 

 死んだからこうなったのか、死ぬ前もこうなのかは分からないが、生来の気質は真面目な千雨は話しをしているとどうにも疲れる。

 

「で、聞きに行った結果は?」

 

 どうせ自分の推測通りだろうと特に気にせずに訊ねた。

 

『それが良く分からないんです。アーティファクトの結果に従ったまでってどういう意味なんでしょう?』

「アイツは何時から電波系になったんだ」

 

 クラスメイトが宗教にでも嵌ってしまったのかと静かな戦慄を覚えていると、聞き覚えのない単語があることに気が付いた。

 

「ところでアーティファクトって何だ?」

『魔法使いの人とキスすると手に入れられる素敵アイテムらしいです』

「何時から世界はファンタジーに…………魔法がある時点で十分にファンタジーか」

 

 魔法使いがいるぐらいなのだからキスして素敵アイテムが出ることもあるだろうと、魔法少女ビブリオンのような世界が現実にあると思えばありえなくもないかと絶望する現実に深く肩を落とす。

 

『あれ?』

 

 さよの声に、今度はどんな非現実なことが起こるのかと視線をアスカ達の方へと向けた瞬間、全身が硬直した。

 想像を絶する光景と感じる瘴気に怖気が走り、千雨は混乱して容易く正気を失った。

 

「なんだよこれ!? なんなんだよ!!」

 

 千雨が人より感受性が高いのかは分からないが、アスカに纏わり付くソレ(・・)はよくない物だと解った。

 近くにいていけない。尊厳を凌辱され、魂が穢される。自分だったものが少しずつ汚染されて呑み込まれる。それは生きたまま食べられる感覚に近かった。

 逃げたい、少しでも離れた所に行きたいと思っているのに肉体は怯え、膝が震えて一歩も動くことが出来ない。

 人は自分のことが一番大切で、他人は二の次とはよく言ったものだ。千雨もアスカを助けるだとか、そんな考えは一切持つことはなかった。

 

「―――――――アアアアアアアアアアァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッツ!!」

「ひぃ――っ!?」

 

 アスカがいると思われる場所から、この世とも思えない悪魔の雄叫びとも思える叫喚が迸る。

 千雨は耳を塞ぎ、目を閉じて蹲ることしか出来ない。そう、千雨は。

 

『アスカさん――――っ!!』

 

 思念とでも呼ぶべきなのだろうか、遠ざかっていくさよの声を千雨は確かに聞いた。

 

 

 

 

 

「数十万から数百万の人間の念が込められた呪詛から逃げることは叶わないヨ。これでカシオペアに対抗出来る者はいなくなるネ」

 

 呪詛に囚われているアスカを助けることも出来ず、ただ見ていることしか出来ないネギ達を見る超の顔は晴れやかだった。

 徐々にアスカに集って凝縮されていく呪詛に無力感を抱いていた木乃香が顔を上げる。

 

「なにがしたいんや超? アスカ君をこんな目に合わせて」

「私の目的は既に述べた通りネ」

「こんなことをする必要はないやろ!」

 

 飄々と問いに答える超に流石の木乃香も堪忍袋の緒が切れた。

 陰陽師の修行をしていたからこそ、込められた呪詛の凶悪さ、危険をこの場の誰よりも分かっていた。そして同時に未熟な木乃香では祓うことも干渉することすら出来ないことも。

 

「木乃香さんは最悪な敵はなんだと思うネ?」

「何を……!」

「純粋に強い者か、強力な能力を持つ者か、それとも圧倒的な数か…………私の答えは違うヨ。私が考える最悪の敵とは――」

 

 直後、アスカに纏わり付いていた呪詛が跡形もなく消えた。

 アスカが破ったのだと考えたネギ達の思考は、ゆらりと顔を上げたアスカに否定される。

 

「――――――最も強く、心の支柱である仲間が敵に回ることネ」

 

 ぞっ、とその意味を理解した瞬間に全てが反転する。

 顔を上げたアスカがゆっくりと閉じていた瞼を開き、蒼穹の如く青い瞳は血のような真っ赤な色へと変貌し、壮絶な殺意を眼差しに乗せた。同時に口元が異様に歪んでいく。

 アスカの体から見えない何かが噴き出した。

 

「ッ――!?」 

 

 不意にゾクリと血が凍るような戦慄を覚えて、明日菜は目を限界まで見開いた。

 遠く祭りの音が途切れ、一切の音が完全に消えて静寂が溢れる。呼吸が死んだ。理由もなく、肌に感じる雨が叩く感触が一気に失せた。

 全身の五感が、まるで現実から逃げていくように薄れる。胃袋に重圧が落ち、呼吸が乱れ、心臓が暴れ回り、頭の奥がチリチリと火花みたいな痛みを発して思考が止まる。

 アスカから発せられる何か(・・)に少年少女達の体が支配されていく。明日菜達だけでなく、頭に血が上っていたネギでさえ、一様に心臓を鷲掴みにされたように凍りつき、背筋を粟立たせる。

 

「な、何なんこれ?」

 

 経験したことのない殺気に、直接戦闘の場に殆ど出たことのない木乃香が肌を泡立たせて鳥肌が立った腕を摩ったりして体を震わせていた。闘争の場に慣れているネギ達は動くことすら出来なかった。

 殺意。あたかも世界そのものが敵に回ったかのような、全方位から迫る威圧感。世界樹すら怯える揺らした葉の音がやけに耳に響いた。空気が押し潰すように圧し掛かり、死神の鎌を首筋に当てられたような、そんな凍てついた恐怖を囚われていた少女達は感じていた。

 

「学園最強の学園長、№2の高畑先生、封印状態のエヴァンジェリンを除けば単体戦闘力で随一のアスカさんがこちらの戦力になタ。我が2500体のロボット軍団と合わせれば学園の全戦力と戦おうとも負けはないヨ」

 

 真名や茶々丸らも含めて誰も動けない中で超だけは何の影響もないようで高らかに謳う。

 

「安心していイ。まだアスカさんは安定していないネ。勝負は世界樹の魔力が最も満ちる時。その時までに私に付くか、決めておくがいイ」

 

 時間移動をしたのか、超の姿が一瞬消えて動こうとしないアスカの背後に現れる。

 

「最善の選択を期待してるネ」

 

 アスカを連れて消える。後を追うように真名が集団転移魔法符を取り出し、茶々丸と葉加瀬と共に消える。

 残されたネギ達に出来ることは何もない。打ち拉がれたようにアスカがいた場所を見つめるのみだった。

 




洗脳されたアスカが敵に回るのは当初の予定通りです。
当初はオリキャラが出て来て…………だったんですが、出来るだけオリ敵を登場させないように考えていたところ、UQホルダーの小夜子(懐中時計の呪詛のモデル)が出て来たのでこれだと、こういう展開になりました。

超の本当の目的、アスカの状態、さよの行方、頑張って執筆続けます。


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第53話 戦争は夕暮れと共に

お待たせしてすみません。
一年振り近く更新です。覚えていてくれる人がいるでしょうか?
色々と浮気しつつ、ようやく最新話が書き上がりました。
では、どうぞ。


 

 まだアスカが別荘に篭り始めてそう長くない時期。

 

「これで封印は完了だ」

 

 伸ばされていたアスカの両腕から手を離したエヴァンジェリンは、深く息を吐いて汗を拭う仕草をする。

 

「すまねぇな、手間かけさせて」

「気にすることではない。これは元々は私の責任でもある」

「つっても影響が出るって分かった上で合体したわけだし、こうやって手間かけさせたのは悪いからよ。うん、やっぱ痛みがないのはいい」

 

 拳を握ったり開いたり、肘を曲げたり肩を回してみて調子を確かめたアスカが申し訳なさげに言うのを手を振ってやりすごして様子観察を怠らない。

 

「我慢強さは美徳の一つではあるが、無理のし過ぎでは意味がない。私は闇の魔法の専門なのだぞ。もっと早く言えば副作用の所為で犬にも負けることはなかったろうに」 

 

 エヴァンジェリンは少し前に押しかけて来た犬上小太郎との模擬戦を振り返って、疾空黒狼牙からのフェイントを入れての狗音爆砕拳に沈んだアスカがその直前に闇の魔法の副作用に陥っていたことを感じ取っていたからから不満そうに言った。

 

「さあ、どうだろうな。ヘルマンとの戦いで負った傷が痛むもんだとばかりに思ってたから闇の魔法の副作用とは全く思ってなかったけど、なくてもやっぱ負けたかもしんねぇぞ。あの一撃はそれぐらい効いたからな」

 

 打たれて暫くはノックアウトした一撃を振り返り、未だにジクジクと痛む腹部を擦りながら淡く笑うアスカは憑き物が落ちたように穏やかで、エヴァンジェリンもそれ以上は言葉を重ねられない。

 ヘルマンとの戦いから別荘に籠って周りとの関係を一切断ったアスカにとって、別荘にまで来て喧嘩を吹っ掛けてきたとはいえ、真正面から向き合ってくれた小太郎の存在がどれだけ救いになったことか。

 エヴァンジェリンにもそのことが分かっていたから勝利に喜ぶ小太郎に水を差すこともせず、看病の名目で茶々丸らを遠ざけて紋様を封印する機会を得たのだから。

 

「まあ、いい。副作用は封印したから収まるはずだ。次は勝て」

「言われるまでもねぇ。小太郎の勝ち誇ってくれた顔に全力の一発をお見舞いしてやるよ」

 

 闇の魔法の副作用で全身に痛みが走ることはもうないはずとあれば、アスカも遠慮なく戦えると歪んだ笑みを浮かべる。

 負けたことを色々と気にしているようなので、敗戦のダメージはそれほど大きくないと分かったエヴァンジェリンも表情を引き締める。

 

「やるのは勝手にすればいいが、封印では根本的な改善にはならんからな。理由は分かっているな?」

「一度刻まれた紋様は消えない、だろ。しかし、なんで消えないんだ?」

 

 病院を抜け出した後の一番荒んでいた時には、まるで生きているかのように腕から体の中心に向かって浸食が進んでいた。最初は前腕の中程までだった紋様は今、肘を超えて肩近くまで浸食したところで止まっている。封印されたことでこれ以上の浸食はないと封印前に言われたのだが、魔法的理論が頭に殆ど入っていないアスカには理由が分からない。今まできちんと勉強をしてこなったツケが回って来ていた。

 

「あくまで封印に過ぎん。封印で消えるわけが無かろう」

 

 首を捻っているアスカに、これは要勉強だなと脳内で描く今後の修行計画に大きな修正を加える。

 理論ではなく直感で魔法を発動させるのは本来ならば不可能なのだが、今までは父親譲りの魔力と才能とでなんとかなっても、ある一定の壁を超えるにはそれだけではとても足りない。魔力の制御が出来るようになっただけで格段に戦闘能力が増すほどで、アスカは潜在能力だけで上位魔族と戦えるほど並外れている。

 アスカの潜在能力を引き出し、どこまで伸ばせるかがエヴァンジェリンの課題でもある。その為には足りない頭の方を鍛えなければならない。

 

「お前の場合は例外中の例外だからだ。本来の習得方法で闇の魔法を会得したのではなく、合体による影響のもの所為か不完全なものになっている。封印を施したが今後、どうなるかは私にも未知の部分がある」

 

 言われてアスカが自分の腕を見下ろすも、そこにあるのは普通の肌色で紋様は浮かんでいない。よほど意識を集中して闇の魔法を意識すると、やがて薄らと紋様が浮かんでくる。あくまで薄くであって、封印の影響か直ぐに消える。

 

「なんとかしていくさ」

 

 除去することは、それこそ腕を切り落とすぐらいしなければならないとなれば、この紋様と一生付き合っていくしかない。そう考えれば諦めもつくというもので、封印下では大した影響もないので特に気にすることもなく言ったつもりだが、指先が微かに震えていた――――全く怖くないわけではないのだ。

 ヘルマンと戦っている時に感じた、まるで自分とは違う誰かから直接植え付けられたような負の感情に振り回された感覚は、自分が自分でなくなっていくような恐ろしさがあった。封印したとはいえ、エヴァンジェリンが言った通りならば不完全故に封印が持つかという疑念も僅かながらある。

 死ぬまでずっと不安に苛まれるかと思えば、如何なアスカといえど終わりのない迷路に迷い込んだような気分になる。

 

「どれだけ大丈夫だと思っても一抹の不安があれば、恐れるのが普通だ。怖さを感じろ、そして臆病になれ。恐怖と上手く付き合うために自分の中で戦う理由を見つけろ。そうすれば自分の感情に正面から向き合える」

「戦う理由…………」

「どんな主義主張でも、ナギに会うまででも、誰かの為って分かりやすい理由でも、なんでもいい。よく思い返してみるんだな」

 

 自問しても今のアスカに答えはなく、両の掌をしっかりと握り合わせた。

 

「明日も腹一杯に飯を喰いたいから戦う。男なら好きな女を抱きたいから戦う。それも立派な理念だ。結局はそれでいい。崇高な理念なんていうのは、そんな小さなものが膨れ上がって大きくなっただけに過ぎん」

 

 言葉の一つ一つが最もだとアスカは心の中で項垂れた。はたして自分のやるべきこととはなんだろうと考える。

 アスカは、自分の思考が麻痺していくのを感じた。思考の迷宮だ。

 

「我が子を守ろうとする母親、盲目的に生きようとする手負いの獣、それらは例外なく強い。戦うことに明確な意味があるからだ。判るな」

「…………判るような、気が、する」

 

 アスカはそれ以上の言葉を続けられなかった。

 何が敗北で、何が勝利なのか。何が間違っていて、何が正しいのか。正解が決して出ない問いだった。アスカを押し潰そうとしているのは、未来だった。正しい道など分からない。誰かが理由や指針をくれるわけでもなかった。正解も暫定的な答えもない。

 例えば裏返した52枚のトランプから、なんのヒントもなくたった一枚だけカードを選べと言われたようなものだ。手掛かりゼロで求められたカードを引き当てなければならねばならないとしたらどうなるか。自分の未来を決めかねないカードを選べるわけがない。

 選ぶこと自体が傲慢すぎて誤りだった。だが、選ばないことも、何もしないという選択だった。それでも責任は重くて圧し掛かる。それが一人で立つということだ。

 

「それよりもまず、自分がやらなければならないことを片付けてからだ。目の前の、やるべき事を片付ける。それが出来ない男に正義だとか悪だとか、理想を語る資格はない」

 

 それだけの事。たったそれだけの事なのだろうか。いや、だが自分はそれだけのことすら出来ていなかったのではないか。目の前の、やらねばならないこともせず、たた逃げていただけはなかったか。

 半分正解だが、半分間違いだ。確かに今現在は、そのことを考えている。だが、本当ならば、もっと根源的な別の事を考えなければならないことも、彼は薄々理解しているのだ。しかし、心の準備がまだ整っていない。いま、迂闊にそのことを考えてしまうと、自分は最悪な選択をしてしまいそうな予感がある。

 エヴァンジェリンが言おうとしていることが何なのか、明確にはまだ見えない。そして戦える理由も見つからない。それでもアスカは、歩み続けることを決めた。それが今、自分に出来る唯一のことだったからだ。

 

「…………」

 

 アスカ・スプリングフィールドは静かに奥歯を噛み締めた。覚悟というには足りないし、決意というほど高尚なものではない。それでも彼は、自分の手足を動かすための原動力ぐらいになるものを手に入れていた。

 

「焦らなくていい」

 

 エヴァンジェリンは自問自答しているアスカへと向けて自らの想いを絞り出した。

 

「色々と悩んでるいるのは分かっている。でも、焦ったところでいい結果なんかでない。肩の力を抜いて事に当たった方が良い結果が出るぞ。なに、封印が解けて闇に呑まれたのなら私が助け出す奴らの手助けをしてやる。一度だけだがな」

 

 アスカはエヴァンジェリンの言葉を聞いて、しばらく黙っていた。

 

「手助けってところがなんともエヴァらしいな」

 

 と、微笑みながら答えた。久方ぶりに見る、重い荷物を下ろせたような笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ネギ達に出来ることは多くなかった。既に事は彼らだけで収められる領域を超えていたから、解決できるだけの能力と権力がある身近な大人に相談するのは当然の流れだった。

 麻帆良祭の二日目の夜、突然の集団の訪問にも嫌な顔一つせず迎えた学園長も最初は好々爺とした笑みが徐々に消えていき、全ての話を聞き終わった時には苦い表情を浮かべていた。

 

「成程のう、超君が……」

 

 麻帆良で最も権力を持ち、魔法使いとしての能力も抜きん出ている近衛近右衛門はネギ達から話を聞いて唸った。唸りはしたが、超が行動を起こしたこと自体には動じていない祖父の様子に一番早く気が付いた木乃香が口を開く。

 

「お爺ちゃん、あんまり驚かへんのやね」

「十分に驚いておるとも。世界樹を使って魔法を世界に公開すると聞けば、とても平静ではおられんよ」

「ううん、そういうことやなくて…………超のこと予想してたん?」

 

 孫娘の問いに、学園長は顎鬚を摩るだけで直ぐに答えようとはしなかった。

 言うべき言葉を探しているのか、何かを木乃香らに伝えるのを躊躇ったのか。数秒か、数分か、学園長は言葉を発さず、ようやく重い口を開く。

 

「何らかの行動は取るだろうと考えてはおった。それが何時かは、どのような行動かは分からんかったがの」

 

 抽象的で曖昧な表現に、聞いていたアーニャが眉を潜める。

 

「以前から超が怪しいと踏んでいたのなら……」

 

 思考を続けていたアーニャは困ったように眦を下げる学園長を見て、続く言葉を呑み込んだ。

 目の前にいる学園長はアーニャの何倍も生き、権力の椅子に座っている男である。アーニャが考える程度のことは既に織り込み済みだと悟ったから言葉を呑み込まざるをえなかった。

 アーニャの様子から相変わらず機微に長けた聡い子であると感心した学園長が話す。

 

「彼女が起こした今までの行動は、危険視されても疑念を超えるものではない。この日本は法治国家であり、魔法使いであろうとその理から抜け出すことは出来ん。確たる証拠もなしに下手な行動は取れんのじゃ」

 

 疑わしきは罰せずの理を前に超を見逃すしかなかった学園長にアーニャが何を言えるはずもない。

 

「超さんは今まで何をしたんですか?」

 

 学園長の言葉から超が過去にも怪しい行動を取っていたのだと読み取ったネギが疑問を投げかける。

 

「茶々丸君を知っておろう。彼女は超君と葉加瀬君がエヴァンジェリンに話を持ち掛け、生み出した。あれほどまでに科学と魔法を融合させた技術を儂は知らん。魔法と科学を結びつけた超君がどこでそのような技術を習得したのか、何も分かっておらんのだ。留学生として麻帆良に来る前の経歴は全て偽造となれば、疑ってほしいと言っているようなもんじゃよ」

 

 ふぅ、と溜息を洩らした学園長は疲れているようでもあった。

 

「彼女が為した功績は麻帆良に留まるものではない。機械工学を始めとして様々なジャンルで技術革新を引き起こし、環境問題にも着手して砂漠を緑に変えた。とても一学生で収めてよい器ではない」

 

 少年少女達が伝えた事実に驚くのを然に非ずと内心で考えながら見ていた学園長は目を細めて思考に没頭する。

 

(昨日の世界樹に現れた機械も超君の物じゃった。彼女を庇ったアスカ君がこのようなことになるとはの)

 

 アスカを捕え、魔法公開という魔法協会との明確な敵対を行動を取りだした超。敵となった彼女の目的を探るべく、学園長の眼差しが鋭くなる。

 

(世界樹を使って全世界に魔法を認知させるとなれば、大規模な儀式魔法を行う必要がある)

 

 学園長の脳裏に、もし自分が超と同じことをするとしたらどのような儀式魔法を行うのかが正確にシュミレートされる。

 現在の麻帆良は通常通りとは言い難い。世界樹の活発期で、異常な量の魔力が地下に蓄積されて、六つもの魔力溜まりが発生している。

 魔力溜まりとは言葉通り、世界樹が放出する魔力が集中して溜まる場所の事だ。麻帆良大学工学部キャンパス中央公園、麻帆良国際大学付属高等学校、フィアテル・アム・ゼー広場、女子普通科付属礼拝堂、龍宮神社門、世界樹前広場の六ヶ所。

 六ヵ所を線で繋げば六芒星が出来上がり、魔法陣となってその効果が増大する。

 弊害として、半径三㎞にも及ぶ巨大すぎる魔法陣を発動させるには、天井がないような遮蔽物のない開けた場所で複雑な儀式と呪文詠唱が必要になり、詠唱は機械などでの代用は不可。発動にはかなりの制約が伴うが、全世界規模の魔法を行うと考えれば安い物だろう。

 超が言ったように勝負は世界樹の魔力が最も満ちる時、二千五百体のロボットと一流の戦士である龍宮真名と敵に回る可能性の高いアスカ。超ほどの天才ならば奥の手や切り札を二つ三つ隠していても可笑しくはない。学園の戦力が総出になってかからなければ勝機はない。

 

「超さんのことは僕に任せてもらえませんか?」

 

 ポツリとネギが呟くように言った。

 隣にいるアーニャがその発言に眉を顰める。

 

「超には航時機があるのよ? アスカは無理やり対応したけど、アンタにどうにか出来る手段があるの?」

「マジックも種が明かされていればやり様はいくらでもあるよ。100%とは言えないけど、僕に任せてほしい」

 

 珍しい自信を滲ませるネギに対応に困ったアーニャが学園長を見るも、学園長は「全ては超君を発見してからじゃな」と明言を避けた。そんな学園長に向けて明日菜が一歩、前に出る。

 

「あの、アスカを助けられるんでしょうか?」

 

 超の策略により共に消えたアスカの身を案じて明日菜が問うた。

 

「魂魄浸食型の呪詛と言っておったのじゃな」

「はい。後、祟り神クラスの怨霊群だとかも」

「儂は現場を見ておらんかったからどうとは言えんが、どうじゃったのじゃ、木乃香?」

 

 学園長も元陰陽師であるからして専門家ではあるが、流石に実際に見たわけではなく状況を聞いただけでは判断は難しい。まだ未熟ではあるが木乃香と専門ではないが知識がある刹那の意見を聞こうと顔を向ける。

 学園長の眼差しを受けた木乃香は当時を思い出し、呪詛の悍ましさに小さく身を震わせたが隣に立つ刹那が手を握ってくれたお蔭で平静を保つことが出来た。

 

「人が耐えられるような物とは思えへんかった。幾らアスカ君でも自我が残ってるかどうか」

「そんな……!?」

 

 木乃香は苦渋を滲ませて自らの私見を述べる。

 明日菜の愕然とした声を聴きながら、聞いた情報から判断して無理もないと学園長は内心で呟いた。

 数十から数百万の人間の怨念が込められた呪詛を個人で耐えるのは、どう考えても不可能というもの。寧ろその場で発狂死していないことがアスカの強い精神力を物語っており、不幸な結果になるかもしれない可能性を秘めている。

 

「私の斬魔剣ではとても斬り払えませんでした。神鳴流が総出になれば或いは」

「魅力的な案ではあるが、とてもではないが現実的ではないのう」

 

 斬魔剣を使える神鳴流を麻帆良に集め、アスカに向けて放つ案は時間と手間を考えれば現実的とは言えない。それは刹那も分かっているから、己の力の無さを悔やんで沈黙するしかない。

 ありていに言えば助ける方法がない。アスカが味方であればどれほど頼もしいかと、敵に回って始めて思い知ったネギ達を見やって、学園長は大人の話をしなければならなかった。

 

「アスカ君がどうれであれ、超君の企みは阻止しなければならん。その為にお主らの力を借りたい」

「力を貸すのはいいんですけど、具体的には?」

「超君が世界樹を利用しようとするなら狙うポイントは限られておる。まだ確定ではないが、ポイントの一つを任せたい」

 

 学園長は話すべき内容を頭の中で纏め、言葉にした内容にアーニャがハッキリと分かるほどに表情を変えた。

 

「私達を戦力に組み込むと、そう言いたいのですか?」

「そう解釈してくれて構わん」

「アスカをどうするか、一言も言おうとしないのに協力しろと?」

「彼を確実に止められるのは、エヴァンジェリンと高畑君だけじゃろう。恐らくエヴァンジェリンは超君との関係で動かん。高畑君に頼むしかあるまい。これで満足かの?」

 

 敢えて学園長もその止める方法については明言しなかった。

 二年間、別荘でエヴァンジェリンの薫陶を受け、戦うごとに強くなってきたアスカの実力は呪詛によってどのような影響があるのかも分からない。アルビレオが引き受けてくれればよかったのだが、彼は「これも試練です。乗り越えてくれなければそれまでですよ」と躱されてしまった。

 呪詛に侵され、無事であるかも分からないアスカが敵となれば、止めるには戦う両者が命を賭ける必要がある。戦えば、その結末はアスカか高畑、どちらかの死であると語らずとも物語っていた学園長の眼差しにその場にいた者達は絶句する。

 

「敵の戦力は莫大じゃ。戦いにおいて最も有効な戦術とは、相手よりも多くの兵を用意する事であることは言うまでもあるまい。数とは単純にして最も強力な力。戦力で劣る我らが手段を選んでいる余裕はない」

 

 学園長とてこのような非情な手は取りたくない。だが、状況が許さず、相対して無事でいられる人間もまた限られているのならば手段を選んでいる時ではない。

 

「ちょい、待ちぃ」

 

 不意に部屋の隅からいないはずの人間の声がした。

 殆どの者達がハッとして声が聞こえた方向を見ると、床に出来た影から犬上小太郎が浮かび上がってきた。

 

「その役目は俺にやらせろや」

 

 陰から出て床を踏みしめた小太郎は傲岸不遜な笑みを浮かべて言い切った。

 学園長は今の小太郎の転移と立ち振る舞いから実力を推察し、冷酷な現実を突きつけなければならない。

 

「言いたくはないが、君では勝てんよ。むざむざ命を捨てに行く必要はない」

 

 小太郎の年で影を使っての転移を扱える時点で天才と称されてもおかしくなくとも、アスカは現段階でも世界で上位に食い込もうとしているほどの鬼才。将来的な到達点はまだしも現段階の戦闘能力は比べるべくもない。

 

「ふん、勝つ必要はないやろ。ようはその超って姉ちゃんを倒すまでの時間稼ぎをすればええんちゃうか」

 

 小太郎の言葉の裏に隠された本音を垣間見つつ、学園長は眉をピクリと動かした。

 

「超君ならば解放する手段があると?」

「話を聞いとったら超って姉ちゃんは自分はアスカかネギの子孫や言うやないか。自分が生まれなくなるようなへまはせんやろ」

「彼女が未来人という証拠はない」

 

 希望的観測を述べる小太郎の言を否定しつつ、超の全てを疑っているのだと示す。

 ロボット軍団を従えているのは武道大会に出た『田中さん』の存在があるので事実であると考えているが、2500体という数も自己申告でしかない以上はどこまで真実か分かったものではない。

 魔法を公開することだって超自身の詳しい動機も語られていない。本人も自らを『嘘つき』と称していたのだから魔法公開すらブラフである可能性もある。

 

「そうやろな」

 

 心底どうでも良いとばかりに小太郎も頷いた。

 

「まあ、本当かどうかなんてどうでもええことや。高畑さんはこの学園防衛の要。アスカの相手は俺の方が適任や」

 

 主戦力の一人である高畑が学園防衛から外れた場合、内外に問題は大きい。高畑以外で候補を上げるならば、別荘で二年を共にして最もアスカと戦ってきた小太郎が一番生存確率が高いだろう。

 学園長はその場にいる全員を見渡し、立ち振る舞いから大体の実力を予想をすると小太郎の言が正しいことを認めるしかなかった。

 視線から意図を読み取った小太郎はニヤリと笑う。

 

「敵さん2500もいるんやろ。俺の心配するよりもそっちの方がヤバいんとちゃうか?」

 

 学園長室の空気を呑み込むように強さと弱さを同居させた瞳をギラギラと熱を発する小太郎。その熱は学園長室を覆い隠そうとせんばかりに広がって誰もが呑まれた。ただ一人、熱に呑み込まれなかった学園長だったが、小太郎の言うことも事実であり、どのように翻意させるかが問題なのである。

 

「私もやります」

 

 スッと手を上げたのは明日菜だった。

 明日菜の隣にいたアーニャがギョッとした表情になるのを他人事のように眺めながら、学園長の頭脳は高速に動く。

 

「私の魔法無効化能力なら十分に小太郎君の助けになるはずです。それにもしかしたら呪詛も解けるんじゃ」

「ない、とは言い切れんが危険すぎる」

「覚悟の上です」

 

 反対に呪詛が解けずに制御している術式を破壊してしまったら最悪の結果に至りかねないので学園長も即答しかねた。

 麻帆良に来た頃より確実に魔力を増して、エヴァンジェリンの薫陶を受けた今のアスカの魔法は強大である。正面切っての同種の魔法の打ち合いになれば、学園長いえども油断すれば一敗地に塗れかねない。防ぐ術を持ち合わせているのは魔法無効化能力を持つ明日菜を含めて数える程度しかいないこともまた事実。

 明日菜が遠距離魔法を打ち消し、小太郎が近接戦闘に持ち込むことが出来れば持ち堪える可能性はまだある方ではある。

 単純に強い高畑か、近接能力と魔法無効化能力を持つ小太郎と明日菜のペアか、考えながらも戦うその結末はあまり喜ばしいものにならないと学園長は予測する。悩む学園長に、そこへネギが明日菜達の援護射撃をしようと口を開く。 

 

「超さんは魂魄浸食型の呪詛って言ってました。なんらかの術式があるなら明日菜さんの魔法無効化能力で呪詛を追い出せませんか?」

「可能性はなくはないと思いますが、本気のアスカさんに明日菜さんで一撃を与えられるかどうか」

「でも、可能性はあると思うで」

 

 魔法無効化能力も当てなければ意味がない。今の明日菜の実力では本気のアスカに一撃を加えられると思えなかった刹那が否定する。

 木乃香が希望的観測を述べる中でネギの肩の上でカモが顔を上げる。

 

「ネギの兄貴がマスター権限を使ってアスカの兄貴の絆の銀で明日菜の姉さんと強制的に合体させれば、必ずしも一撃を当てなくてもいいんじゃねえのか」

 

 合体したとしても魔法無効能力で呪詛が離れてくれる保証もなく、仮に呪詛が離れたとしてもそれはそれで問題がある。

 

「うむぅ」

 

 確実性を期すならば高畑に任せるべきなので、どうやって納得させようかと視線が彷徨い、訴えかけるような眼差しを向けてくる明日菜の手に止まる。

 

「明日菜ちゃん、その指輪は……」

「え? いや、これはそのちょっとしたアレで」

 

 指輪のことを聞かれた明日菜は、学園長からの突然の問いに目を丸くしながらも一般的に左手の薬指につける理由が理由だったので、しどろもどろになりながら右手て隠す。

 

「もしや、片割れを付けているのはアスカ君かの?」

「そうですけど、どうして学園長がこの指輪がペアリングであることを知ってるんですか?」

「優れた魔法使いの眼から見れば分かるものじゃよ」

 

 自身も優秀な魔法使いであるネギ辺りはこの断言に疑問を覚えたが、まだまだ身分的には見習い魔法使いであることから口に出すことはしなかった。単純に学園長が魔導具をアルビレオ・イマに行商に化けさせ、買ったアスカ経由で明日菜と木乃香に魔導具を渡させたとは考えもつかない。

 すらっと本当のことを言わずにスル―した学園長は老いたりと謂えど老獪さを増していく頭脳をフル稼働させて思考する。

 

(あのペアリングは心を繋げる機能を持っておる。本当は木乃香と刹那君を本当の意味で仲直りさせる為の物だったんじゃが)

 

 一度だけ保持者を守ってくれる守護の力が刻まれたペンダントは木乃香から刹那へと渡り、修学旅行で彼女を危機から救った。望んだものとは大分違うが、刹那も武道大会で半妖であることを打ち明けられたようなので結果が良ければ問題はない。

 

(二人とアスカ君の関係性はこの中では深い方じゃろう。外と内側から呼びかけて、合体して呪詛を追い払えれば何の問題はないが)

 

 とはいえ、それもアスカの自我がまだ残っているという前提がなければならない。数百万に及ぶ怨霊群による祟り神クラスの呪詛に一個人が耐えることなど不可能なのだから、希望的観測を含めてもアスカの解放は絶望的である。

 仮に自我が無事で解放できても怨霊群の問題が残る。もし、怨霊群の呪詛が都市内に広まればどれほどの惨事になることか。究極的に言ってしまえば、アスカの内にある間に殺してしまった方が後に残る問題が少ない。

 アスカを殺せるとすれば高畑しかいないとなれば、やはり高畑に任せる方が良いのか。

 

(今のアスカ君に周りへの配慮などないじゃろうし、戦う場所の問題もあるからのう) 

 

 街中で二人が戦えばその被害は甚大なものとなるだろう。超の目的を阻めても一般人にまで危害が及んでは意味がない。

 

「二人の気持ちは有難いんじゃが」

「おい、爺っ!」

 

 どうにも今日の学園長は話を途中で邪魔される運命にあるらしく、学園長室のドアが外から蹴り開けられように開く。

 全員が入り口を見ると、両手にそれぞれ荷物を抱えたエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルがドアを蹴り開けたらしい右足を下ろすところだった。

 

「話は聞いた。私にも一枚噛ませろ」

「噛ませろと言うがのう、誰から話を聞いたんじゃ?」

「こいつからだ」

 

 本人の風格から割れた人垣の間を縫って学園長の前まで来たエヴァンジェリンは右手で掴んでいる、ここまで荷物扱いで引き摺って来た人物を示す。

 

「なんで千雨が?」

 

 猫のように襟首を掴まれて学園長の前に出され、涙目になっている長谷川千雨を見たアーニャが言いたくなるのも無理からぬ話がある。エヴァンジェリンの突然の登場と千雨の関連が読めない。

 

「さよがこいつと行動を共にしていたのは知っているか?」

「私達にさよは見えないけど、二人からはそう聞いてるわ。っていうか、いい加減に離してあげたら?」

 

 振り返りつつ言うエヴァンジェリンに、アーニャはここに来るまでにずっと引き摺られてきたのだろう、割りとボロボロな千雨を慮って言ってみた。

 

「む、そういえばそうだったな」

 

 エヴァンジェリンにとって千雨を連れて来ることは理由の説明以上のことはなかったので、掴んでいた襟首を離す。

 ようやく自由を得た千雨は「痛つつ」と立ち上がりながらセーラー服についた汚れを手で払っていると、木乃香が「ウチが治したるえ」と許可なく治癒魔法を施す。

 瞬く間に小さな擦り傷が治っていく光景に「ありえねぇぞ、ファンタジー……」と一人ごちている千雨を放っておいて、エヴァンジェリンは話を進めていた。

 麻帆良祭最終日が近くなって世界樹の魔力が増していて、封印状態であってもエヴァンジェリンが扱える魔力が増えている。ここに来るまで魔法で盗聴でもしていたのか、話はスムーズに進んでいる。

 

「さよ君が呪詛に侵されているアスカ君の下へ向かい、それから姿を見ないじゃと……」

 

 エヴァンジェリンから話を聞いた学園長は表情を苦み走ったものへと変えた。

 

「呪詛に巻き込まれた、と見るべきだろう。これを聞いてもまだ強硬策を取れるものなら好きにしても構わないぞ」

「出来るはずがないと確信している言い方じゃのう」

「で、どうする気だ?」

 

 ニヤニヤと笑うのみで、エヴァンジェリンは問うばかりで答える気はなさそうだ。エヴァンジェリンならば学園長とさよの関係を調べることが出来る諜報能力のある茶々丸がいるから知られていても不思議ではない。

 答え難い問いを簡単に放たれ、学園長の悩みは深まるばかりだ。

 

「爺、今回の一件、私が手を貸してやる。感謝しろよ」

「何?」

 

 懊悩の中で予想外のエヴァンジェリンの問いに学園長は素で驚いた。

 

「お主は魔法がバレようがバレなかろうが気にしないと思っておったんじゃがな」

「ああ、魔法のことも学園もどうなろうとも構わん。だが、アスカとさよに関しては別だ」

 

 そう言って学園長に向けて、千雨を掴んでいたのは別の手に持っていた箱らしき物を投げる。

 しっかりと受け止めた学園長はその箱がなんであるかを直ぐに見抜く。

 

「封魔の箱…………それも最高級品ではないか」

「別荘の倉庫に仕舞っていた物だ。呪詛の封印の役にたつはずだ。戦う場所も私の別荘でやれば、他に被害がいくこともないだろう。誘導も手伝ってやる。戦うのがその二人であるならば、だがな」

 

 その二人が明日菜と小太郎であることは分からないはずがない。

 

「エヴァちゃん!」

「うるさいぞ、明日菜。ええい、抱き付くな。うっとうしい」

「でも、でも、ありがとぅ……」

 

 手助けしてくれるエヴァンジェリンに学園長が自分達の提案を拒否する方向に動こうとしていたのを感じていただけに、明日菜は感極まったように涙目になりながらエヴァンジェリンに抱き付いた。当の本人には邪険にされていたが。

 

「分からんのう。どうしてそこまでする? 普段のお主なら酒の肴に見物しようとするじゃろうに」

 

 15年の付き合いからエヴァンジェリンの性格を知っている学園長には、法外とまでいえる協力体制を取ることが不思議でならない。

 

「話に聞いただけだが、普通のアスカならば今の状況に陥ることはなかったはずだ」

「どういうことですか?」

 

 独白するように呟いたエヴァンジェリンにネギが問う。

 

「超から渡された時計から呪詛が迸ったというが、アスカならば全身を侵される前に抜け出すことは可能だったはずだろう」

「でも、現に取り込まれて…………待って下さい。アスカなら呪詛に取り込まれる前に発生源の時計を握っていた手を自分から切り落とすぐらいはしたはず。どうしてあの時、取り込まれるままになっていたのか」

 

 危険には敏感だったアスカならば腕を失うことになろうとも躊躇はしない。その事実に行き当たったネギは、アスカがそうできなかった理由を探る。

 

「単純にその暇がなかっただけちゃうの? あれだけの呪詛や。一瞬で魂まで浸食されてもおかしないし」

「私もそう思います。唯人では何か出来るとは思えません」

 

 疑問を抱いたネギに対して呪詛の専門家でもある木乃香と刹那の意見は違った。それほどにアスカを襲った呪詛は醜く強大であったと知っているから。

 

「いいや、アスカの兄貴ならやると思うぜ」

「やろうな。アスカならやりかねんわ」

 

 カモと小太郎も意見を出し、彼・彼女達を見たエヴァンジェリンは長い髪を掻き上げて払う。

 

「修学旅行で私とアスカが合体したのは覚えているな?」

「ああ、俺もしたしな」

「僕も」

 

 小太郎はアスタロウ、ネギはネスカに一度ずつなっている。そして最後はエヴァンジェリンがアヴァンになったことは、この中で修学旅行で同行していない千雨しか知らないことだ。学園長も報告で聞いている。

 

「アスカのアーティファクト『絆の銀』は装着者を合体させ、アスカとの相性によって強大な力を得る。これはメリットではあるが、同時にデメリットも孕んでいる」

 

 このことは何度もアスカと合体しているネギが良く知っている。

 

「アスカが影響を受けること、ですか」

「そうだ。アスカの魔力が増大していっているのは、ネスカになった時に膨れ上がった器が合体解除後にも引き継がれているからだ。恐らく合体時に素体になっているのはアスカなのだろうよ」

「なんとく分かる気がするわ。俺がアスカと合体した時も獣化するのは危険やって感じた気がすたしな」

 

 アスカと合体した経験があるネギと小太郎――――特に小太郎は強く頷いて納得していた。

 

「アスカは人間だ。獣化などすれば合体解除後に体にどんな影響が出るか分からんから本能的に避けたのだろう――――――で、ここからが本題だが」

 

 腕を組んだエヴァンジェリンは改めて学園長を見る。

 

「私と合体してアヴァンになった際、闇の魔法を使っている。その影響か、解除後もアスカの腕に紋様として残っていた」

「闇の魔法? また物騒なネーミングな」

「私の固有技法だ。闇の眷族の膨大な魔力を前提とした技法の為、並の人間には扱えない…………これは蛇足だな」

 

 ファンタジーに巻き込まれているな、と思いつつ千雨は今更かと諦めて、聞いていたエヴァンジェリンの話に首を傾げた。

 

「『闇』の魔法ってアスカに一番似つかわしくなくないか?」

「確かに。膨大な魔力が必要って点からこの中の面子で言うと性格的にネギの方が向いている気がするわね」

 

 千雨の疑問に同調したアーニャの意見に全員がネギを注視する。話を向けられたネギからすれば納得できない。

 

「え!? どうして?」

「だってアンタ、よく悩む上に一人の時は暗いし。ネギとアスカでどっちが光か闇かって言ったら、どう見てもネギの方が闇っぽいかなって」

「で、でも最近のアスカも似たようなものだったじゃないか!」

 

 アーニャの批評にネギがショックを受けたように胸を抑えて後退り、なんとか持ちこたえると反論するも自分のことに対する反論にはなっていないことに本人だけが気づいていない。カモだけが「まあまあ」と慰めていた。

 一度は拒絶された明日菜にとってはネギの言も否定できないところである。そこに一石を投じたのはエヴァンジェリン。

 

「修学旅行後からのアスカの変調は闇の魔法の後遺症かもしれんぞ」

「そういえば、アスカの様子がおかしくなったのって修学旅行の後からよね。夢見が悪くなったとか言い出したり、別荘を使い過ぎるようになったり、いきなり明日菜を遠ざけようとしだしたり」

 

 思い当たる節があったアーニャは顎に手を当てて記憶を思い返しつつ、修学旅行後からのアスカの異変の原因はそこにあったのかと得心する。

 

「闇の魔法の源泉は負の感情だ。負とは否定、恐れ、恨み、怒り、憎悪…………アスカにはどれも縁遠いものばかりだ。怒りにしたってアイツの場合は負の感情というより正の感情から発露しているからな」

「多分、スタンお爺ちゃんが荒れてた頃のアスカに正しい怒りを持てって常々言っていたからだと思います」

「変わった爺だな。まあそこへ、腕の紋様が負の感情を想起させるのだ。普段抱かない感情に、さぞ振り回されたことだろうな」

 

 主に振り回されたのは明日菜達のような気もするが、その問題自体は遅かれ早かれいずれ向かい合わなければならないことであったから学園長も嘴を突っ込む気はなかった。

 

「そういうことがあったのならば、事前に報告しておいて欲しかったがの」

 

 本格的に闇の魔法を習得したわけではないにせよ、不完全にしてもアスカに影響を及ぼすならばその危険性を学園長には報告しておいてほしかった。明日菜の件では高畑だけではなく学園長も気を揉んでいたのだ。アスカの暴走の遠因が闇の魔法にあったのならば対処のしようもあったのだから。

 

「私もあそこまで振り回されるとは思っていなかったのだ。その上、ヘルマンが現れたタイミングも悪いとしか言いようがない。封印はしたが、心は不安定なままだ。まあ、もう過ぎたことだがな」

 

 色々と間が悪かったということなのだろう。腕の紋様で心を乱され、ヘルマンによって掻き回されたアスカは不安定過ぎた。

 武道大会で明日菜と仲直りし、高畑に思いきりぶつかり、偽物とはいえナギと再会できたことでアスカの心は平穏を取り戻した。

 

「問題は超鈴音が負の感情の塊である呪詛なんてものをアスカに向けたことだ。その所為で施していた封印が破れ、外と内から浸食にアスカも成す術もなかったろうよ」

 

 平静であったならば呪詛の発生源であった時計を持っていた手を切り落としてでも逃げれていた、と話すエヴァンジェリンに誰もが息を呑む。必要ならば自身の腕を切り落とすことも厭わないアスカの異常さを示すことでもあったから。

 

「それにしてもエヴァが手を貸す理由にしては薄いのう。修学旅行で合体を持ちかけたのはアスカ君の方からじゃろ? 闇の魔法に侵されたのも言い方は悪いが自業自得というもの。結果としてアスカ君が死のうとも、そうなったらそこまでの男だと言うじゃろう」

 

 突っ込むとエヴァンジェリンは若干照れくさそうに頬を染め、視線を僅かに逸らす。

 

「私が直接戦ってやろうというわけではない。そこの長谷川千雨が『私の血をやるからさよを助けてくれ』と泣きついて鬱陶しくてな。アスカはともかく、さよを助ける多少の手助けしてやるだけだ」

「お主も素直じゃないのう」

 

 自身のプライドもあるから直接的な手助けは出来ないが、「私は泣いてなんかないぞ!」と突っ込みを入れている千雨を言い訳にして動こうというのだろう。修学旅行でさよの面倒を見ていたから情が湧いたのもあるだろうが、アスカも助けたいのは朱に染まった頬を見れば分かる。

 なんとも丸くなったものだと考えながら、天秤は大きく明日菜・小太郎が戦う方へと傾いている。

 

「…………分かった。アスカ君はお主らに任せよう」

 

 告げると学園長室に安堵の空気が流れる。

 エヴァンジェリンまで協力するとなれば、認めなければ彼らだけで事を為そうとするだろう。ならば、最初から手綱を握れる立場にいた方が良いという結論に至っての結論だ。

 

「エヴァよ。もしもの時は分かっておるな?」

「…………ああ、約束は守るさ」

 

 その約束の意味が少し違う気がしたが、学園長の進んで突っ込みはしなかった。

 エヴァンジェリンも、伊達に15年も顔を突き合わせていないから最悪の時は対応してくれるだろうという信頼があるから、どのような意味でも構わなかった。

 少なくともこれで懸案の事項の一つの対処は出来たことになる。

 

「さて、残るは真偽はともかく、2500はいると思われるロボット軍団をどうするかじゃが」

「それについても、僕に一つ考えがあります」

 

 ネギは温めていたであろう策の詳らかにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 麻帆良学園都市中にアナウンスが流れ出したのは、正午を少し回ったぐらいだった。

 

『最終日学祭イベントの変更をお知らせします。詳しくは配布チラシ、もしくは学祭専用ホームページをご覧下さい。繰り返し、お知らせします…………』

 

 二度、三度と同じ文言を繰り返してアナウンスは終了する。

 一時間毎に放送されるアナウンスを聞き終えたアーニャは、大分日が落ちて来た太陽から視線を外して室内へと目を向けた。

 仲間、と呼べる者達が来たるべき時に備えてこれから行われるイベントに似合った格好に着替える女子更衣室であるのだが、その服装は些か日常とはかけ離れたものである。例えば神楽坂明日菜にとって女騎士の風体はとても馴染みのあるものではないらしく、居心地悪そうにしていた。

 

「元気がないでござるな、アーニャ殿」

 

 声が聞こえたので顔を上げると、忍者装束とでもいうべき恰好をした楓が直ぐ近くに立っていた。

 

「眠たいだけよ。それよりも気配もさせずに傍に立たないでくれる――――うっかり燃やしかけたじゃない」

「これは失礼したでござる」

 

 忍者装束というには少し露出が激しすぎる格好と、その恰好が映える楓に殺意を覚えて右手に炎を纏わせたアーニャに、楓はやや苦笑気味に身を引く。

 見透かされた上に気を使われたと分かったが、突っ込む気力はなかったので「何の用よ」とつっけんどんに問いかける。

 

「感謝を。拙者が真名の相手を出来るように口を利いてくれたのでござろう。一言、言っておこうと思ったでござる」

 

 軽く頭を下げる楓を、身長差から見上げなければならないアーニャは何を食べればこんなにも背も身長も大きくなるのだろうかと関係のないことを考えていた。

 

「別に礼なんていらないわよ。真名の相手が出来るなんて学園では数えるほどしかいないらしいから、仲の良い楓相手なら負けてくれるかなって打算からの提案をしただけで、決めたのは学園長よ」

「口を利いてくれなければ戦うことも出来なかったかもしれなかったござるから、拙者としては礼をするには十分でござるよ」

 

 修学旅行で真名と楓の間に何かがあったのはアーニャも知っていた。表面上は問題なくても真名が楓を遠ざけているとも。

 戦いではメンタルが大きく左右するので、真名が敵対すると知った時点で実力の面からも楓に任せるのが良いのでは考え、本選出場者の楓はその実力もあって学園側に引き寄せるだろうから学園長に上申してそれが通っただけでアーニャ自身には礼をされても困る。

 

「どっちの道、戦うつもりだったんじゃないの?」

「何分、真名に避けられているようでサポートがなければ難しいでござる」

 

 確かに真名が本気で逃げを打てば捕まえるのは難しいかもしれない。学園側に属すれば組織からのサポートが入り、戦いやすくなるだろう。

 

「まあ、友達関係が続けられる程度に頑張んなさいな」 

「うむ」

 

 軽く言うのに頷きが返ってきたところで、臨時の女子更衣室のドアが小さくノックされた。

 話が切れたこともあって近くにいたアーニャが楓に断りを入れてドアを開くと視線の先には誰もおらず、慣れた感覚で下を見るとアルベール・カモミールがそこにいた。

 

「うっす。様子を見に来たんだが、着替えは終わったかい」

「終わったわよ。見に来たって言うけど…………本当の理由は?」

「兄貴はともかく、俺っちが出来ることは何もなくて暇になった」

 

 紳士らしく全員の更衣が終了したことを確認してから入室して来たカモはアーニャの肩に駆け上がってきた。個人的な準備に忙しい主であるネギと違って暇していたらしい。カモの姿を見つけた明日菜がアーニャの下へ、ガチャガチャと鎧を鳴らしながら向かってくる。

 

「ちょっと、カモ。これ派手過ぎない?」

「似合うぜ、明日菜の姉さん」

 

 作戦の立案をしたネギの参謀を務めているカモに、明日菜が恥ずかしげに言うも返って来たのは笑み混じりの返答であった。

 納得のいっていなさそうな明日菜に、カモが肩に乗っているので会話に加わらないわけにはいかず仕方なさげにアーニャが口を開く。

 

「明日菜は数少ない戦士ユニットの一人なんだから派手な方が客受け良いんじゃないの」

 

 アーニャの見立てでは、エヴァンジェリンが別荘から引っ張り出して来た魔導具であるバスターソードを借りた明日菜の恰好は、武器を持たない左手側はガントレットと肩当てで固めていて防御を重視している。その胸元は大きく開いていてはいるが、無骨過ぎず、かといって見世物にならない実用を重視した装備である。

 学園長率いる軍団の戦闘が行えるメンバーの中で、世間が想起しやすい戦士タイプは明日菜他数名しかいないのでそういう系統になっても無理からぬ面があった。

 

「私ってアスカと戦うんだから客受けを気にしなくてもいいはずだけど」

 

 相手が相手だけに人前で戦うことはない明日菜にとっては、ここまで派手さはいらないのではないかと気に入らなげに唇を尖らせる。

 

「チラシに載る以上は見栄えを気にする必要もあるのよ。武道大会もストーリーの中に入っちゃってるんだから文句言わない。文句があるならカモとネギ、捕まえた超に言いなさい」

「俺っちに文句を言われても困るぜ。問題の大元は超にあるんだから、そっちに回してくれよ」

 

 カモが非難の的にされては叶わぬと短い手、というよりは前足を横に何度も振る。

 気だるげに壁に寄りかかってカモの仕草を横目で見たアーニャは、自分には関係ないとばかりに近くに置いてあるチラシを手に取る。

 

「火星ロボVS学園魔法騎士団、ね。戦いが避けられないなら全部イベントにして誤魔化してしまえなんて、よくもまあ考えたものだわ」

 

 チラシには、華のある騎士然とした明日菜と魔法使いらしい恰好をしたアーニャが右端に映っていて、反対の左端には武道大会にも出場していたロボットの田中さんが複数いて、両者は対決の様相を呈した分かり易い出来である。

 

「千雨の姉さんが一晩で作ってくれたんだぜ。良い出来じゃねぇか」

「それは認めるけどね……」

 

 千雨作のチラシを絶賛するカモに対して、納得がいっていないと簡単に分かる奥歯に物が挟まったよう煮え切れない口調のアーニャ。

 

「まだ納得できてないの、アーニャちゃん」

「そういうわけじゃないわ」

 

 明日菜に答えつつ、アーニャでも上手く言葉に出来ない蟠りがあった。

 

「超に負ければ魔法がバラされるんだから、全力で阻止しなければならないのは当然のことよね。でも、その為には魔法をバラすことを前提に秘匿を無視して行動する超一派を止めなければならないけど、数で劣る学園側の方が秘匿に縛られて表立って行動出来ない矛盾がある」

「その矛盾を解消する為、ネギの兄貴と俺っちが秘匿を一時的に無視できる状況を作り出す作戦を考えたわけだ。超は学祭最終日に行動を起こすってんなら、その日に行われる学祭全体イベントを利用しようと考えたわけだ」

「戦いを公のイベントにすることで魔法を使っても科学の技術の産物に見立てるってことが、このアンタ達の考えなわけね」

 

 その結果がチラシに書いてある『火星ロボVS学園魔法騎士団』という、超一派対学園の戦いをカモフラージュする為のイベントだ。

 

「かなり派手なイベントになるかもしれねぇが、去年も凄かったんだろ明日菜の姉さん」

「ええ、鬼ごっこだったけどあまりに凄かったから今年は自粛しようって話になってたぐらい」

「それなら多少は目立っても問題はねぇと、俺とネギの兄貴は踏んだわけだ」

 

 誇らしげに鼻の頭を前足で掻いたカモは目に自信を覗かせている。

 

「武道大会とネットでの魔法の是非を巡っての情報戦もその前哨戦に過ぎない、と千雨の姉さんや学園のハッカー達が情報を流してくれている。まあ、その所為で本選出場者の姉さん達に騎士団の戦力――――ユニットとして出てもらうことになったで、大会のやらせ疑惑の話が出るのも仕方ねぇわけだが」

 

 明日菜他、本選出場した刹那・古菲・楓・高音・愛衣もなんらかのユニットとしてイベントに参加することになっている。小太郎だけは「俺の勝負服は学ランだけや!」と意気込んで譲りはしなかったが、古菲はチャイナ服と楓は忍者装束や高音・愛衣は影の鎧自体がコスプレ染みているので、実質衣装が必要だったのは明日菜と刹那だけだったりする。

 刹那は武道大会の時に来た和装メイドの服装が気に入ったのか、仮契約カードに衣装登録しているらしく、魔法の杖を持った陰陽術士というよく解らない恰好をしている木乃香に絶賛されて頬を染めて照れている。

 

「ねぇ、木乃香ってどういうユニットになるの?」

「姉さんは…………何になるんだろうな。千草の姐さんが木乃香の姉さんの魔力を使って鬼達を召喚する手筈になってるんだが」

 

 木乃香の恰好と装備からユニットの予測が出来なかったのでアーニャが訊ねたのだが、何故かカモも首を捻っていた。

 

「1000体の鬼達を召喚した後はフリーだが、貴重な治癒術士でもあるわけしな。まあ、なんでもいいんじゃねぇか」

 

 陰陽師でもあり、治癒術士でもある木乃香の役割は、その身分と同じく立場が曖昧なので、特に明確にする必要性が急務というわけでもなかったのでカモも適当に流した。

 アーニャも気になった程度で、どうしても知りたいというわけでもなかったから追及はせず、少し眉尻を下げた。

 

「結局、魔力タンクとして使われるのね」

「まだ数多の鬼達を召喚出来るだけの技量は木乃香の姉さんには無ぇってことだ。餅は餅屋に任せるのが適当ってもんだ」

「千草って何気に凄いものね」

 

 侘しげに明日菜が言うと、木乃香に聞こえない小さな声でカモが数度頷きつつ否定も肯定もしない。

 アーニャが知る限り、学園防衛の要は二人いる。一番重要な世界樹を守るタカミチ・T・高畑、そして最も敵が出現する可能性が高いと目される麻帆良湖湖岸近くに配備されたのが天ヶ崎千草と近衛木乃香と桜咲刹那の三人。

 最も強く頼りになる男が世界樹防衛を任されたのは当然である。千草達が最前線に配されたのは、木乃香の魔力を使えば持ちうる戦力数が最も大きかったからである。木乃香の魔力を使って召喚した鬼らを使えば1000は相手できる、とは千草の談である。 

 

「刹那もいるんだから何があっても木乃香は安全でしょう。問題はアンタよ、明日菜。本当に、大丈夫なの?」

「なんとかするわ」

 

 一瞬の遅滞もなく、即答した明日菜に逆に聞いたアーニャの方が驚いた。

 恐らくカモも同じ気持ちなのだろう。近くの唖然とした空気を感じつつ、明日菜を見ると彼女はニヤリと誰かのように笑って見せた。

 

「確かこう言うんだっけ。『私に出来ない事なんてない』」

 

 修学旅行から戻って来てから一度も言われることがなかったアスカの口癖を、まさか明日菜の口から聞くことになるとは思いもせず、アーニャも眼を丸くする。

 

「信じるわよ、自分自身を、小太郎君を――――アスカを」

 

 言い切った明日菜の眼がアスカと重なって見えて、アーニャはこの戦いにおいて大した役に立てそうにない自身の実力を顧みて自嘲する。

 作戦にも大した提案も出来ず、戦いの役にも立てない。そんな自分を外から眺めたアーニャは苦く笑う。

 

「もう、私に出来ることは何もないのかもね」

 

 三人だった時は戻らず、進み続けた道は別れる時が来たのだと意味もなく悟ったアーニャの呟きをカモだけが聞いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『守護対象「世界樹」の周囲5㎞は戦闘想定エリアとなっています。大変危険ですので立ち入らないようにお願いします。エリアにおられる方は係員の誘導に従って避難して下さい。繰り返します』

 

 麻帆良学園都市中に鳴り響く放送も遠く聞こえる飛行船の屋根の上から、少女は地表を下ろしていた。

 神の視点であった。王の視点であった。天上より人の愚かな行いを睥睨する如く目を細め、超はゆっくりと口を開いた。

 

「これは一本取られたネ」

 

 どこからか扇子を取り出して、頭にコツンと当ててボケを表現した超に神も王の視点もない。どこにでもいるただの人間だった。

 バッと広げた扇子には何故か『以後精進』なる謎な文字が書かれていた。

 

「一歩間違えれば秘匿無視で引ぱられかねない作戦を考えたのはアーニャ先生カ、それともネギ先生カ」

 

 言いつつも、「どちらでもいいカ」と扇子を仰ぎながら空中に映したモニターを見て、楽しげな笑みを浮かべる。

 

「どうするんですか、超さん。当初の想定とは大分変わってしまいましたけど」

 

 システムの調整をしながらその後ろ姿を見つめた葉加瀬聡美は、イマイチ真剣みが感じられないリーダーに苦言を呈する。

 

「何も問題はないヨ。予想外ではあるガ、想定を超えるものではないネ。向こうから一般人を排除してくれるなら感謝こそすレ、戸惑う必要はないヨ。まさか負けると思ているのカ?」

「私も負けるとは思いませんが……」

「いくらでも想定外は起こり得る。その為の奥の手に切り札ネ」

 

 自信満々な超の行く道のどこに落とし穴があるかは分からない。が、それを込みにした上でも自分達が負けるとは葉加瀬も思ってはいない。

 

「対魔法使いシステムにアレ(・・)もあるんですから私も負けるとは思いません。もし、これでも負けるようなら超さんの言った未来になると信じることも出来ます」

 

 けれど、と葉加瀬は続く言葉を濁しながらも当のシステムを調整する手は止まらない。思考と口と手を分離させて動かすことなど彼女にとっては容易い事なのである。

 

「アスカさんにあんな呪いを浴びせて、みんなを苦しめて――――――――本当にこの戦いは未来の為に必要なことなんですか?」

 

 自らの行いが未来の為になると信じることが出来ない――――アスカが呪いに侵される場にいたからこそ、葉加瀬の疑念は消えてなくならない。

 疑念を晴らしてほしかったから、その問いを超にぶつけると彼女は振り向いて笑って。

 

「さあ」

 

 と、自分が分かるわけがないと首を捻られたら、葉加瀬がギョッと目を剥いても無理はない。

 宥めるように手を振った超は、表情を引き締めて口を開く。

 

「私は私の出来る全力で悪となリ、立ち塞がる敵で在れと、私にとての10年前、今から100年後に交わした誓いネ。未来がどうこうではなく、今の私の最善としての最善の選択の結果ヨ」

 

 侵すべからずの誓いを胸に、そこだけは偽りではない決意を秘めて立ち位置を定めた超が君臨する。

 

「ここで私に勝てぬようなラ、彼らにこれから先の未来を戦う資格はなイ。あの人は世界を背負タ。この世界のあの人が背負えないなラ、変わりに私が舞台に立とウ。誰にどう思われようと構わなイ。私は私の目的を果たすまでネ」

 

 超は昔を、これからこの世界で訪れる未来を夢見る。

 何時でも、どんな時でも、小さな自分が見上げるだけだったその背中を思い出す。

 

「超さんってリアリストに見えて、結構ロマンチストですよね」

「悪いカ」

 

 これから世界に戦いを挑むのに、どうしてか二人して笑みが浮かんでくる。

 相手が信頼できると、身近な人であると実感すると心の奥から強さが湧き上がってくる。この時の葉加瀬もそうだった。

 

「楽しそうだな、超」

「!? エヴァンジェリンさん!!」

 

 聞こえて来た涼やかな声に葉加瀬が驚いて振り返ると、中空に箒に跨ったエヴァンジェリンが浮かんでいた。

 葉加瀬とは対照的に超は落ち着き払った様子で振り返り、無表情のエヴァンジェリンとは真反対の楽しげな笑みで相対する。

 

「最終日になってかなり魔力が回復したようネ。安心したヨ。その様子ならアスカさんを任せても大丈夫そうダ」

「ふん、下手人がよくもほざく」

 

 鼻を鳴らしたエヴァンジェリンは悪びれる様子もない超にそれ以上の言葉は言うこともなく、視線も鋭く見つめる。

 

「今は貴様の掌の上で動いてやる」

「言ておくガ、戦うのは明日菜さんと小太郎君だけで手を出しては駄目ヨ」

「言われんでも出さん」

「エヴァンジェリンさんは以外に甘いところがあるから心配ネ」

「出さんと言ったら出さんと言っているだろうが」

 

 おちょくられていると分かるのでエヴァンジェリンの白磁の肌に青筋が浮かぶ。遊ぶのはここまでとした超は「これで貸し借りはなしネ」と爆発する前に消火剤の言葉を撒いた。

 

「修学旅行でのことは今回の協力でチャラ。ご苦労だたネ、エヴァンジェリンさん」

 

 修学旅行で一時的に魔力を回復する薬を受け取る際に出来た貸し借りによって、対アスカの作戦を超のシナリオ通りにする為に学園側に働きかける駒としてエヴァンジェリンが動かされた。

 

「…………分からんな。一体、貴様は何がしたい? 貴様の目的を考えるならアスカは放置しておいた方が学園側の戦力を割けたはずだ」

「今のアスカさんは見境がないネ。魔法が公開された際に被害が出ているのは望ましくなイ。周りの眼がない状況の方がこちらとしても有難いシ、敵戦力を割けるのはどちらでも同じヨ。エヴァンジェリンさんが手を出さなければネ」

「ふん、狸め。まあ、いい。酒の肴に見物しておいてやる」

 

 エヴァンジェリンが学園長らに話した内容そのままに言う超が本心の全てを吐露しているとは思えない。が、元よりこの戦いを観戦する気だったエヴァンジェリンがこれ以上の介入の予定はない。

 

「我が脚本の舞台は、きと期待を裏切らないはずヨ。英雄譚となるカ、悪漢譚となるかは役者次第ネ」 

 

 そう言って、超は前エヴァンジェリンに向かって開いた手の平を掲げ、親指から順に指を折っていく。

 

「3、2、1…………0。では、アスカさんを頼むネ」 

「ちっ、もっと早く言え」

 

 中指、薬指、小指と折って、0をカウントした時、超とエヴァンジェリンの間の空間に人間大の大きさの光る球体が突然出現した。

 超の言葉でその球体の中にアスカがいることが分かり、エヴァンジェリンは飛行船に映る自身の影を伸ばして球体が消えた瞬間に現れた全身をがんじがらめにされたアスカが捕縛を破る前に呑み込んで、共に消える。

 影による転移魔法。二人で戦いの場と定めた別荘へと向かったのだろう。

 転移を見届けたのと同時に葉加瀬のシステムも調整も終わった。

 

「さあ、祭りの始まりダ!」

 

 手元のモニターで葉加瀬の作業が終了したのを確認し、どのような結果になろうとも未来を決める戦いが始まる。その背中の向こうで陽が沈んでいく。

 戦争は夕暮れと共に始まった。

 




時系列的に

・ヘルマン戦後、退院後の別荘で(エヴァ・アスカ)
・前話後の、学祭二日目の夜(学園長室)
・最終日の昼(女子控え室)
・最終日の夕方(飛行船の上)

となります。

次回、「学園攻防戦」です。


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第54話 学園攻防戦

 

 アスカがその場所を認識した時、すべては闇に包まれていた。どのような光も、どのような救いも届かないほど、深く、深く沈みきっている。一条の光も差し込まない、漆黒が充満した檻だ。

 感覚が希薄で、自分が立っているのか、横になっているのか分からない。目を塞ぎ、耳を閉じ、あらゆる感覚を遮断しているような孤独。

 こうなる前に感じていたのは浮遊感だった、その正体が何かは分かっている、墜落したのだ。だけど、その前後がはっきりとしない。分かっているのは例えようのない喪失感と、ただ哀しいと感じる心だけだった。

 

(――――きっと、罰だ)

 

 何の脈絡もなく、ふっとそんな考えが浮かんだ。

 元々失うものなど何もないはずなのに、失ったと感じるのは錯覚なのか。それとも普段は目を逸らし忘れていた欠落に気付いたからか。必要な何かが欠けているのだとしても、それはおそらく自分の所為だった。理由は分からないが何故かそう思った。

 胸に空いた隙間に風が吹き込んで痛むなら、石でも詰めておけばいい。これまでもそうしてきたし、これからもそうする。他の方法をアスカは知らない。

 

「くっそ! なんだよここは」

 

 アスカはそうして憤然やるせない思いを吐き出す。

 暗い空間であった。ただし、物質的な暗さではない。真っ暗なのに見下ろした自分の手がハッキリと見える。まるで暗いという概念が空間を満たしているような異質さ。

 夜の墓場のような不気味さを醸し出し、欠けた月のような物哀しさを感じる不思議な空間。そんなどうしようもない暗さ、一人でいれば精神まで浸食されてしまいそうな、ベッタリとした闇が肉体に絡みつく。

 

「ここは君の中だ」

「――――!?」

 

 吐き出した言葉に返答があったが、その返答を聞いただけで体中の産毛が残らずそそりだった。

 闇は全てを隠している。音はない、匂いもない、ただ気配だけがそこにある。

 どうしようもなく圧倒的な、傍にいるだけで打ちひしがれてしまいそうな巨大な気配だけが突如として闇の中に現れた。手を伸ばせば届くほど近くにも、百年歩いても会えないほど遠くにも感じる。そんな気配であった。

 恐ろしく、忌まわしい、巨大な気配。直ぐ傍まで、いや急速にその気配が膨れ上がる。

 視線の先、黒色の衣服に身を包む華奢な体躯の少年である。よく見ると体の至る所に継ぎ接ぎがあり、そこだけを注視したならハリボテと勘違いしても不思議ではない。だが少年の体は崩れもせず、整然と存在し続けた。

 ゆっくりと閉じられていた瞼が開いていく。白目まで生き血でそのまま染め上げたような真紅の目。その瞳はどうしようもなく紅い。紅玉の如く赤く美しい、人間の色素では決してありえないはずの真紅の瞳であった。その目には隠しきれない残酷性と冷酷性が溢れ出ていた。

 目の前にアスカがいるのに、その目にはアスカの姿など映っていない。目の奥に宿るのは、抑えきれないほどの狂気と憎悪のギラギラとした輝き。人類全てを焼き尽くさんばかりの狂気。人類全てを敵に回しているかのような憎悪。二つの炎が混ざり合った凶悪な輝きが、その鋭い眼からは発せられているのだった。

 感情自体が存在しないのか、表情に変化がない。瞬きすらしない少年の姿は、風景に溶け込むオブジェにすら見えてくる。だが少年は確かに存在していた。死臭を漂わせ、絶対的な存在としてここに。

 アスカの体は小刻みに震えていた。少年が放つ昏い気配に戦慄しているのではない。自然に体が反応しているのだ。理由は分からない。皮膚が粟立ち、その場から逃げ出したい衝動に駆られるが、何故か出来なかった。目の前の相手から逃げることは出来ないと本能的に知っていた。

 

「誰だ?」

 

 思わず後退る。同時に肉体に存在しない部位が突然出来たような異物感を感じて問い詰める気持ちで訊いた。心の中で叫んだはずなのに声となって口からは飛び出していた。

 

「誰なんだ、お前は!」

 

 本能的な恐れ。人間の姿をしていながら、人間を喪失した者に対する、自然の反応。

 問いは鋭く、次第に悲鳴に近い形になって空を切った。その叫びに名無しが笑った。アスカの必死さを皮肉るように口を捻じ曲げた嘲笑かのような笑み。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 拳と拳が、脚と脚が、全身と全身が、魔力と気を迸らせてぶつかり合う二人――――アスカ・スプリングフィールドと犬上小太郎。二人がその身を激突させる度に、衝撃の余波が足元の地面を壊し砕く。地を割り、捲くれ上がった瓦礫を吹き飛ばし、空気を灼熱の色に染め上げて二人が鬩ぎ合う。

 空中でぶつかった二人は真下へ降下を開始。しかし二人にとって、重力落下は脅威ではない。頭を下にして天地が逆のままの至近距離で攻撃をぶつけ合う。

 足場のない空中戦。それも浮遊術や狗神を使わない自由落下に任せた中では真っ当に自分の体重を乗せた攻撃は繰り出せない。そこでアスカと小太郎は、相手の攻撃を受け止めたエネルギーを逆に利用して体を回転させ、様々な角度から更に強烈な一撃を返していく。

 足場なき状況を最大限に利用した応酬が永遠に続くはずがない。地面は確実に近づいている。そして着地の瞬間こそが、拮抗した状況を崩す大きな切っ掛けとなる。

 地面まで残りが三メートルを切った。アスカの拳を受けた腕を引いて独楽のように回った小太郎が肘打ちを繰り出す。

 地面まで残りが二メートルを切った。肘打ちにハイタッチをするように手を差し出したアスカが、やってきた肘を優しく掴んで天地を逆にして正常に戻しつつ後足で小太郎の頭を刈り取ろうとする。

 地面まで残りが一メートルを切った。頭を刈り取るかの一撃に小太郎は自分からぶつかりに行き、アスカに遅れて天地を正常に戻した。

 二人の足が地面へと接触する。

 

「「ッ!!」」

 

 着地と同時に前へ踏み込んで放った渾身の一撃によって、拳がぶつかり合ったとは思えぬ轟音が炸裂した。アスカと小太郎の体がそれぞれ爆心地から二十メートルほど後ろへ跳ね飛ばされて、着地地点からプラスして五メートルほど地面を削り取ってようやく止まる。

 しかし、小太郎がバランスを崩したのとは違って、アスカは短距離走のスタート直前のように体重を前に傾けた状態で静止し、小太郎が体勢を立て直すのを悠々と見ていた。

 

「これが力の違いだってそう言いたいんか!」  

 

 アスカの余裕に満ちた態度が小太郎の気持ちを掻き立てる。恥辱に塗れさせながら絞り出すように喚くが、その間にアスカは次の手を完成させている。

 侮られたと、怒りが体の奥で爆発して狗神を纏うよりも早くアスカの右腕に白色の雷華が絡みつくように迸る。

 

「雷の暴風!?」

 

 腕から手の平に向かって収束した雷華を投擲するように、アスカが光輝に猛る右手を振るった。小太郎の推測通りの雷を纏う極小の台風は空気を切り裂き、雷鳴を轟かせながら小太郎を追う。

 雷の暴風に気づいた小太郎が、集めていた狗神を利用して前に傾けていた体重を後ろに戻して身体を後転させるのと同時に、背後にあった巨大な岩の頭頂から跳躍した神楽坂明日菜が射線上に割り込んで来る。

 

「させないっ!」

 

 小太郎を背後に庇った明日菜が借り物のバスターソードを振り回して、強大な雷の暴風に真っ向から立ち向かい、頂点から真下へと切り裂く。

 魔法無効化能力によって切り裂かれた雷の暴風は、その威力を弱めることなく明日菜を中心として二方向に別れ、辺りに転がっている岩を粉微塵に粉砕する。二方向に突き進む雷の暴風が威力を大幅に減じながら、やがて拡散する。

 

「おおっ!」

 

 巻き上がった爆風が砂塵を巻き上げる中、明日菜を飛び越えた小太郎が凄まじい勢いで真っ向から突っ込んだ。応じるようにアスカも一直線に突き進む。

 小太郎の方が先に動いたのに両者の中間地点で衝撃波が飛び散り、瓦礫を撒き散らせながらその間にも二人は高速で動く。

 今度も腕を伸ばせば相手に届く近距離での近接近。二人ほどの近接能力のない明日菜では援護のしようがなく、傍観するしかない。

 

「――――」

 

 お互いに全力の攻撃をお互いに弾き躱し避けていた。手を伸ばせば相手に届くような距離では足での攻撃は体勢を崩しかねないので、攻撃オプションは上半身部分に限られる。

 移動をし続けながら決して目の前の相手から目を離さない。

 

「――――」

 

 攻撃の最中、上だけに意識を配っているように見られたアスカが移動を続ける小太郎の足を踏みつけようと伸ばす。

 普通なら意識の埒外にある足への攻撃。しかし、足を踏み潰されるその一瞬前に全てお見通しだと言わんばかりに、見もせずに小太郎は足を一歩下げた。

 お返しだという左の突きを放つ。が、伸ばしかけた腕の肘部分を内側から右腕で掴まれて止めさせられる。そしてそのまま掴んだ腕を基点として回り、小太郎の横へと移動する。小太郎の攻撃を回避したと思われたアスカが流れるような歩法と共に遠心力を付加させた左肘を振るう。

 視界の外から来る肘を背筋に走った極大の悪寒で感知した小太郎は咄嗟に身を屈めた。アスカの肘が髪を切り裂いて通過するのを小太郎は確かに感じ取った。だが、目の前に迫る肘だけでなく右の拳が伸ばさせるのを見て暢気に構えている余裕はなかった。

 なんとか目の前で腕をクロスさせて防御できたが、十メートル近くも地面を削りながら吹き飛ばされる。技量の違いに慄然とし、歯を食い縛った小太郎は、近接能力においてアスカが自分よりも二歩も三歩も上回っていることを認めなければならなかった。

 

「舐めるなやっ!」

 

 突き上げる憤懣が狗神になって吹き出し、疾走してアスカを掠める。避けられても反転した狗神がアスカに向けて跳ぶ。

 跳躍したアスカを追って宙を飛んだ狗神に向けて魔法の射手が放たれ、全ての狗神が倒されても尚、止まない。雨霰と上空から降り注ぐ魔法の射手を、慌てて距離を取って下がりながら明日菜の援護の手を借りて全弾をやり過ごした小太郎の視線の先でアスカが悠々と着地する。

 

「余裕出しくさりおって……っ」

 

 余裕を見せつけるように悠然と立つアスカの姿に見下されていると小太郎に感じさせた。

 不甲斐ない自分を許すことが出来ない。それは少年の潔癖さであっても、愚かしさではない。愚直なまでに率直で早熟な少年なのだ。

 

「手加減してるって言うんか!? お前はどこまで俺を虚仮にしたら気が済むんや!」

 

 小太郎が雄叫びを轟かせて飛び出した直後、曲がりなりにも保っていた均衡が崩れた――――アスカへと。

 互角だった攻撃のやり取りが一方的に打ち込まれていく。拳打の雨が小太郎を打ち据える。

 

「く……!」

 

 小太郎は両腕でガードを固めて拳の雨が止むのを待った。しかし、雨は止むどころか激しさを増して豪雨になり、更には嵐となった。回転を重視しているからか一発一発は重くないが、単発では脅威にならなくとも、纏められれば効いてしまう。

 遂にガードを突き破られてしまい、数十発の拳打にその身を打ち抜かれて大きくよろめいた。

 これはいけないと、明日菜がすかさず救援に入る。

 

「させ――がっ!?」

 

 放たれたバスターソードはあっさりと避けられ、振るわれた蹴りが明日菜の鳩尾に突き刺さり、蹴散らされて胃液を撒き散らしながら近くの岩に叩きつけられる。

 明日菜の行方を気にした風もなく、ダメージによろめいている小太郎に向けてアスカが拳打の雨を降らせる。更なる一息の間に放たれた数十発もの拳が、小太郎の米神を、顎を、頚動脈を、鳩尾を、肝臓を――――人体の急所を的確に捉えた。

 

「が……ごあっ――」

 

 自分のものとは思えない苦鳴。小太郎は膝から崩れたが倒れなかった。踏ん張り、追い討ちをかけようと拳を振りかぶったアスカに拳で応じる。

 アスカは小太郎の拳をダンサーのような軽やかなステップで横に回って避ける。

 

「じゃっ!」

 

 アスカの口から気合が漏れる。小太郎の顔を抉り取らんばかりの勢いで肘が放たれる。肘は人体の中でも強力な部位である。人の部位の中でも極端に固く尖った肘は、有効に使うことで鋭利な刃物と化す。しかも体幹から近い。それ故に繰り出す時の軸がぶれにくいという利点もある。ただ、あまりにも短い射程であるため、取り回しが難しいうえに、超近距離での攻防しか使えない短所もあった。

 侍であれば、拳が刀であれば肘は小刀といったところである。使い所を見極めれば凄まじい破壊力を示す。もちろん、回避と連動させて接近距離で放ったアスカの肘打ちは絶妙である。神がかり的な反応して顔を僅かに後ろに下げた小太郎の鼻の上を刃物を振り抜いたかの如く切り裂いた。

 アスカは止まらない。肘が通り過ぎたことに安堵して下げた顔を元に戻した小太郎の下から掬い上げるような拳の一閃で顎をかち上げ仰け反らせ、がら空きになった鳩尾に掌打を叩き込む。小太郎の身体がくの字に折れる。

 アスカが右の下段蹴りを放って、打撃音が響いて小太郎の体が宙に浮く。アスカは右腕を伸ばして浮いた小太郎の右足を掴み、そのまま投げる。

 

「!」

 

 相手の足を掴んで、それを一本背負いの要領で投げる。

 腕を伸ばして地面に手を突き、頭を前に傾けてそのまま前回り受け身で地面を転がる。頭から地面に叩きつけられるのだけは、小太郎も何とか回避した。

 大の字に倒れたまま、小太郎は追撃もせずに悠々と立っているアスカを見た。

 

「ぬっ……ぐ……くぅぅぅ」

 

 肘で鼻の上を切り裂かれて顔の真ん中に横一文字の傷を付けられた小太郎は、全身に感じるズキズキとした痛みを堪えて立ち上がる。

 小太郎が立ち上がって構えを取る前にアスカが動いた。真っ直ぐに肉薄し、拳を繰り出してくる。避けずに、小太郎も拳で応じた。

 

「ぐあっ」

 

 互いの拳が互いの顔面を捉える――――かに見えたが効いていたのはアスカの拳だけだった。

 打った感触は実に奇妙だった。一瞬、分厚いゴムを叩いたような柔らかさと弾力を感じた。アスカの身体は打たれた方を引いて捻っただけで小揺るぎもせず、小太郎の手には殴ったという感触が薄い。

 武道において「守」こそが武の本質であり、真髄である。より上位者ともなれば、「守」の技術が秀でた方が勝つ。こと、武術の腕において小太郎はアスカに遠く及ばなかった。小太郎の放った攻撃は受け止められ、顔にぶち当たった一撃に身体ごと吹っ飛ばされた。

 何度か転がって勢い良く立ち上がって振り返ると、今度もまたアスカは悠然と立っていた。

 

「くそっ!」

 

 彼我の実力差は始めから分かっていたことだが、追撃をかけてこないアスカの様子が舐められている感じて地面を蹴った。

 同時にアスカも動いている。再び小太郎の拳とアスカの拳が交錯し、先程の焼き直しのように小太郎の身体が宙を舞った。続けざま、アスカは小太郎の顎を拳で突き上げて仰け反らせると、渾身の回し蹴りを顔面目掛けて繰り出した。

 直撃すれば頭部を木っ端微塵になる威力を秘めた蹴りを左腕を盾とすることで防ぐ。反撃の拳を出せば、瞬時に五倍の攻撃が帰ってきた。鉄よりも固い拳を頭に打ち込まれたことでぐらつき、鳩尾を蹴りぬかれて弾き飛ばされた。

 一瞬とはいえ意識を吹き飛ばされ、着地した時には目の前にいたはずのアスカの姿を見失っていた。

 

「……ッ!? アスカは!」

「危ない!」

 

 不意に近くから声が聞こえたと思った時には、既に風圧があった。そちらを振り向く前に間に合わずに一撃が入る隙があった。

 またもや小太郎を守る為に投げられた明日菜のバスターソードが放たれた重たい一撃を受け止めた音が響くも、バスターソードごと小太郎の体は水平に何メートルも吹き飛ばされていた。バスターソードごと吹き飛ばされたのだ。

 動く視界の中で明日菜が何かを叫んでいるのを見ながら小太郎は全身を襲うダメージをどうにか耐え、着地体勢を取ろうとした。

 

「小太郎君、前!」

 

 その言葉が小太郎の耳に届く前に、息も継がずにアスカが跳躍している。

 全身で大気を切り裂いて瞬く間に宙を舞っている小太郎の頭をがっちりと両手で押さえた。自分の跳躍と落下の勢いを加算させて額に頭突きを、鳩尾に膝蹴りを、後頭部と背中に拳を打ち込んで地面に叩き落す。

 とんでもない強さだ。単純に力が強いとか、動きが速いとか、そんなものが問題ではなく、理不尽なほど圧倒的に強い。

 

「がぁあああああああああ!!」

 

 痛みに叫びながら、小太郎は時間稼ぎすら出来ないかもしれないと認めなければならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドン、と破裂音を残して、『田中』さんら機械群はバラバラに吹っ飛んだ。

 

「ここから先へ行かせないよ」

 

 最優先防衛地点でもある世界樹広場前をたった一人で任された高畑は呟きつつ、ポケットに手を入れる。

 ごおっ、と高畑の体から咸卦のオーラが立ち昇って実体があるかのようにうねった。竜巻のように、稲妻のように、なにもかもを海へと浚って行く大波のように渦巻く。

 高畑の下へと現れる巨大な人型――――学園深部に石化封印されていた6体の無名の鬼神を超鈴音が制御用の科学装置を付けて復活させ、強制認識魔法の魔法陣生成のための魔力増幅装置として用いた物。

 

「鬼神か。頭に付けている機械で制御しているのか」

 

 機械仕掛けの鬼神を見上げながら呟く。その背丈は二十メートルといったところか。これだけの巨体ともなれば、生半可な技ではびくともしないだろう。

 

「今の僕は誰にも負ける気がしない」

 

 小さな呟きの直後、轟音と共に鬼神の腹が炸裂した。

 何tあるかも分からない巨体が苦もなく浮き上がるが、この中継を見ていた人は何がどうなっているのか皆目見当もつかない。高畑はただ、掬い上げるような軌道を描く居合い拳を放っただけで、なんら特別なことはしていない。

 

「ガトウ・カグラ・ヴァンデンバーグ直伝、七条大槍無音拳」

 

 閃光が奔った。閃光は瞬く間に鬼神の上半身をあっという間に呑み込み、麻帆良の空の彼方へと消えていく。

 上半身を失った鬼神は崩れ落ちた。

 崩れ落ちた鬼神を乗り越えて、向かってくるロボット群を前にしても高畑には動揺の欠片もない。

 

「僕を超えていきたいなら、この百倍は持ってくるといい。それでも超えさせはしないけどね」

 

 直後、まるで人形みたいに機械たちが弾け飛ぶ。漫画かなにかと思えない光景だった。

 あまりにも圧倒的な沫ヘ。天災とも紛うばかりの、天災そのものとされかねない絶対的な破壊。竜巻や地震にも似た、目の前の全てを叩き潰し、押し潰し、引き裂かずにはおかぬ破壊の権化だった。

 世界樹広場前を颶風が駆け抜ける。

 

「背後に守るべき人達、前には倒すべき敵。これで燃えなければ、彼らを目指した意味がない」

 

 善良なる者がいれば、この世には悪人もいる。そして、それぞれが感情や利害に揺れながらぶつかり合う。己の信念、信義に従う――――それ以外の何にも従わなくてもいい。それは自由であると同時に、とてつもなく重圧を伴う責任だ。

 自分達は正しいことをしていると思って、これまで懸命に闘ってきたが高畑の中には一抹の不安を抱えていた。自分は間違えていたのだろうか。これまで正しいと信じていたことは全て、何も分かっていない自分の綺麗事に過ぎなかったのかと。

 超の願いは正しく清い。だが政治は願いだけでは動かない。正義を貫くには力が必要である。施政者が彼女のような者なら、この世に戦争など起こらないだろうに。

 そんなことを今更悔やんでも何にもならない。諦めて特攻し、華々しく散る気はない。最初から諦めていたら万が一の奇跡など起こらないからだ。そもそも、彼は昔から往生際が悪かった。

 

「さあ、来い。ここから先は一歩も進ませないぞ」

 

 ともすれば、今の酷薄そうに見える高畑の横顔に、憧れた彼らと同じ太々しい笑みが浮かぶ。

 高畑を前にして、なんとか破壊を免れたロボット達も呆気なく次々と破壊されていく。他と違って、この世界樹広場前だけは守る者の圧倒的優勢で戦況が推移していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 拡大鏡の狭い視野の中、馴染み深い麻帆良の風景から、ゆっくりと意味は消失してゆく。銃を構え、狙いを定め、引き金を引く。その単純な作業を精密に行うことが、真名は紙に描かれた緻密な迷路を落ち着いてなぞってゆく作業に似ていると思う。

 物言わぬ鉄の機械装置に寄り添って、その正確さに生身の体を着地させてゆく。

 

「…………………」

 

 息を深く吸った。本当に正確に撃つためには、呼吸どころか、血液の流れさえ気を使わないといけない。

 サイトへ目を寄せて、針先のような穴を通して標的を見据える。

 標的の一人である葛葉刀子が多脚砲台を切り裂いているのが見えた。深々と複合装甲版を切り裂き、円盤の半ばまで達する。対戦車ライフルにも耐えうるはずの複合装甲は、ほれぼれするほど見事に断たれていた。裂け目の内側で火花が散り、血のようにぎらつくオイルを吐いた。

 単体戦闘力で学園でトップクラスにいる神鳴流の遣い手を排除する為に、肩の力を抜いた。五百メートルなら殆ど準備なしで命中させる自信があるのだ。それは同じような射撃を幾度となく成功させた経験に裏打ちされた揺るぎのないものだ。

 葛葉刀子が次の標的である田中さんを見据え、真名が惚れ惚れとするような豪快さで3体を一気に胴体で輪切りにする。その一刀を放った瞬間に、あるべき位置へ吸い込まれるように引き金を引いた。

 

「葛葉!」

 

 サイトの向こうで異変に気づいたのだろう、風で増強された神多羅木の声が刀子の名を叫ぶが既に遅い。

 一瞬の技後硬直に陥っていた刀子が神多羅木の声に反応しようとしたが、途中でギクリと動きを止めた。刀子のスーツが判子を押したように僅かに窪んでいた。衣服の上の点は、そのまま音も無く刀子の肩から全身に広がって、彼女を瞬く間に呑み込んだ。

 

「狙撃!? 葛葉!!」

 

 転移反応と共に刀子を覆った球体が消えた直後にその姿がどこにもないことに、神多羅木は一瞬の動揺を掻き消して彼女を安否を頭の外へと追い出した。風の遣い手である神多羅木には遠距離からの攻撃が狙撃によるものと分かり、自らが刀子の二の舞を踏むことを避けて行動しなけれならない。 

 

「狙撃だ! 物陰に避難するんだ」

 

 周りの仲間に告げて自身も直ぐに建物の影に隠れて周囲を見回す。周囲は同じくらい高さの建物が多い。尖塔があっても、そこからライフルを構えた人間は見えないし、発射した兆候は見受けられなかった。

 

「!?」

 

 近くの尖塔の屋根で何かが光った。それだけで神多羅木は隠れたはずの魔法先生や魔法生徒が狙撃されたのかを悟る。

 

(――――跳弾か!? 何という技術!!) 

 

 尖塔の位置からは到底不可狽ネはずの、ありえない角度からの銃弾の行方を感じ取った神多羅木が戦慄する。

 このままでは自分も危ういと考えた神多羅木は早急に狙撃手を排除すべく行動を開始する。

 

「…………………」

 

 一方の真名の口からチッと音が漏れた。唇の間から漏れた音は舌打ちではなく、奥歯の擦れた音だった。

 

「風で作ったデコイ…………神多羅木教諭か」

 

 麻帆良の空に出現した数多の人影。それは風の扱いに長けた神多羅木が作り上げた偽りの人影であった。これでは射線が妨害され、邪魔されて標的が見えない。

 真名は慌てることなく深呼吸するように息を深く吸った。本当に正確に撃つためには、呼吸どころか、血液の流れさえ気を使わないといけない。狙撃銃を固定する筋肉の揺れ、指先の澱み、全てが射撃に影響されてしまう。

 サイトへ目を寄せて、針先のような穴を通して標的を見据える。

 肩の力を抜いて瞬きを止める。呼吸を整えて、心臓から指先への血の流れさえ、コントロールする。

 神経繊維は肉体の内にありながら、外気との接触を敏感に訴えてきたが、肝心の敵の位置だけは察知出来なかった。大気の流れと鼓動とが一致しない不快感が、項を撫でるように神経を突く。

 動くことは止めた。踏み止まった姿勢のままで、構えた狙撃銃を構え直し、トリガーガードの外に置いていた指を引き金にかける。

 

(本体はどこだ?)

 

 敵の姿が視界内に埋め尽くされている。気配がそこら中に氾濫して区別がつかない。何時でも動けるように膝から力を抜いて視界内を見回す。敵の動きを目で追うなんて素人のようなことをしなければならなかった。

 隠れる場所は幾らでもある。学園都市内には隠れられる場所というのが確実にある。建物の影、木の幹の裏と隠れ場所なら地形を選ばない。

 木を隠すなら森の中というが、この敵は多数の自分を作り出してその中に隠れてしまった。

 見回せば、そこら中に神多羅木、神多羅木、神多羅木、神多羅木、神多羅木……………。あまりにも多すぎて、どれが本物なのか見当もつかない。

 

「!?」

 

 狙撃銃のスコープで本体の居場所を探していた刹那、普段なら見逃すような空気が流れていくのを背後に感じた。

 反応しようとした直後、背中から衝撃が走った。同時に左手にも衝撃と発砲音――――背中からの衝撃で引き金にかけていた指がトリガーを引いたのだ。

 弾丸はあらぬ方向へと飛び、少し先の建物の屋根に着弾。暴発に近い形だったが人に当たることがなかったのは幸いだった。

 真名は狙撃位置にしていた建物の屋根から落ちるのを承知の上で、黒のコートを目晦ましに前方に身を投げ出した。屋根を転がり落ちながら背後に視線を向ける。予想通り、神多羅木は自分の背後にいた。

 まさか自分から落ちるとは考えていなかったのか、神多羅木は先程まで真名がいた場所から動いていない。

 彼我の距離は既に数メートルは離れている。これだけの距離が空けば、ありったけの強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)を撃ち込むことが出来る。

 二十二年に一度、数時間しか使えない期間限定品だが超鈴音曰く「最強の銃弾」である強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)。魔法障壁も剣での防御も無駄。大きく回避するか遠距離で打ち落とす他ない。一度、この銃弾を喰らったが最後、エヴァンジェリンですら脱出は不可狽ニいう超鈴音の「最強の銃弾」に偽りなし。

 ありったけの強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)を逃げ場を失くすほど周辺にばら撒けば、いかな神多羅木と謂えど回避は不可能。

 着地行動を放棄することになるが見届けた後でも余裕がある。ボルトアクションで連発の効かない狙撃銃は転げ落ちた時には既に手元から離れており、意志よりも早く反応した肉体が、コートの内側に入れていた強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)を装填している『FN P90』を右手に掴んでいた。左手は腰の裏のベルトに入れていたデザートイーグルを掴んでいる。

 神多羅木がこちらに飛び出そうとするのを目にして、助けようとしてくれるのかと考えが頭を過ぎったが、指は躊躇なく引き金を引き絞った。

 投げ捨てた狙撃銃や屋根に当てて銃弾を跳弾させる。先程までテリトリーにしていた屋根部分の全てが覆い隠されるほどの転移場が展開され、足を踏み出した姿勢で神多羅木が成す術もなく飲み込まれていく。

 転移場が収束して神多羅木が消えるのを目にして、真っ逆さまの状態から体勢を整えて足を下した時に空中に魔法陣を展開して着地して、ゆっくりと地面に降りる。

 

「上手くいったか」

 

 学園上位に位置する相手を排除して手に持つ銃を下げて、手の甲で浮かんだ滝のような汗を拭う。

 

「真名」

 

 そこへかけられる声。

 真名がギクリと身を震わせて振り返ると、少し離れた場所に人が立っていた――――長瀬楓が。

 

「楓か。何の用だ、と聞くのも変な話か」

 

 手に持つ銃をいつでも構えられるようにして、楓がこの場所にいる真意を問うこともなく戦闘態勢を整える。

 

「真名を止めに来たでござる」

 

 反対に楓は体から力を抜いているかのようで、その言葉と相まって真名に不審を芽生えさせた。

 

「超を、ではないのか?」

「拙者は馬鹿でござるから、超が何をしたいのかよく分かっていないでござる。今、拙者がここにいるのは真名を止める為で間違いないでござるよ」

 

 何故、と問うことは開かれた楓の眼が雄弁に物語っていた。

 言葉を聞いてはいけない気がして、真名は手に持っていたデザートイーグルの銃口を楓に向ける。

 

「甲賀中忍としてではなく、3年A組出席番号20長瀬楓として、お主を止めるでござるよ、真名!」

 

 宣言をした楓は立てた指先を十字に交差させ、独特の印を結びながら、低く、ひどく落ち着いた声で術の名前を呼び上げた。

 

「――――分身の術」

 

 ぼ、ぼ、ぼんと空気が弾ける音と共に、楓の周囲に無数の煙が現われて晴れると楓が増えていた。それも一人や二人などという数ではなく、十から二十に及ぶ楓を前に如何な真名もジリジリと距離を取ろうとする。

 この距離はマズい。真名も接近戦は苦手ではないが、ここは楓の距離だ。

 分身の術は、気を実体化させた術である。密度が薄ければ使い手が何人にも増えたように見えても、それはあくまでそう見えるだけでのことで、実体は本物しかないということもある。楓の場合ならば、本物と遜色ない実体を持つ分身を作り出し、使い手の意のままに操ることが出来るだろう。

 それは並みの使い手では習得することも難しい、高等忍術に属する技であった。

 

「行くでござる!」

『応!』

 

 本体の掛け声に、何盾烽フ楓が一斉にそう声を発する光景は壮観でさえあった。凄まじい大群と化した楓達が気弾で右手を光らせて、一斉に真名へと襲い掛かる。

 

「真名――!」

「楓――!」

 

 一斉に走り出す楓と相対する真名が銃を発射する。

 二人の戦いはこうして始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 麻帆良学園都市の地下にその部屋はあった。おおよそ教室ほどの広さで、その奥にはスクリーンと多くのコンピュータが設置されている。

 都市ネットワークを流通しているデータは全てこの場所に集約され、メインサーバーは一ナノ秒たりとも休むことなく麻帆良を監視し続けている。故にこのコントロールルームを指して誰が言ったか『麻帆良の砦』。

 一室にある最も大きいスクリーンには現況が流され、突如として出現した機械軍団の動きや、その結果を抽出したシュミレーションが複数ルート提示されている。可能性の高いものほど色が濃く、低いものは薄くなっているのも電子精霊による電子プログラムによるものだった。別のスクリーンには、激しい爆音を立てて麻帆良の街並みを蹂躙していく機械軍団の姿が映されている。

 

「学園警備システムのハッキングが止まりません!」

「サブシステムダウン!」

「防壁を展開してっ!」

「防壁展開…………突破されました!!」

 

 学園の警備システムを動かしているメインコンピュータが、何者かからのハッキングを受けていた。状況的に考えて、超一味からのハッキング攻撃であることが推測されたが、問題はその速度にある。

 厳重に守られているはずのメインコンピュータにハッキングし、防衛システム中枢へのアクセスコードを人間技と思えぬ速さで解析して、遂には学園結界が停止。その結果、地上では麻帆良の地に封印されていた鬼神を利用した巨大ロボが出現して、圧倒的な力で防衛拠点を奪おうと歩みを進めている。

 コントロールルームではシステムを奪還しようと学園側も決死の反抗を試みるも、電子世界上での敗北は濃厚の状況に半狂乱の叫びが木霊していた。コンソールを殴りつけ音さえ聞こえて来る。オペレータ達の必死の努力も、ただ空回りするばかりだ。

 

(…………ほんの数時間前なのに)

 

 数の差は大きく、奮戦はしているものの一秒ごとに崩壊していく景色に夏目萌はスクリーンを見上げて唇を噛む。

 

「ロボット兵器群3000体を超えて、更に増援が出現!」

「麻帆良湖湖岸と世界樹広場前以外の防衛地点より救援要請多数! このままでは持ちません!」

「鬼神級が出現! 1、2、3…………6体も!? あ、高畑先生によって1体消滅しました」

 

 たった数時間前まで賑やかだった麻帆良祭が、無残に踏み躙られていく。

 一年に一度の麻帆良祭を最高に楽しもうと誰もがあんな笑っていたのに、楽しませようとあんなにも張り切っていたのに。

 まるで地獄だ。単にこの場所が悲惨というのではなく、祭りの裏に隠された本当の意味で人々の――――生徒達の想いが崩壊していくからこその地獄。

 

(どうして、こんなに……)

 

 少し前まで誰もが麻帆良祭を楽しんでいたのにと、萌は思う。

 ごく当たり前に祭りを満喫していて、恐らくは誰もがそうであったろうに。たった一日と少しの時間の流れのなんと残酷なことか。

 

「出来の悪いB級映画みたいだな。くそっ」

 

 くしゃくしゃと頭を掻いて、萌の隣に座る魔法生徒が呟いた。

 

「いけない」

 

 頭を振って、意識を現実へと復帰させる。今は一刻一秒が惜しい。思い煩っている暇など存在しなかった。

 全体に指示を出さなければならない明石教授は、夏目萌のように学祭に思いを馳せることすら許されない。

 

「予備戦力を投入し救援要請地に援護へ向かわせて! 鬼神の封印を優先するように現場に指示を! 防衛を任された者は持ち場を動かず、遊撃の者に鬼神の封印を任せるように通達!」

 

 矢継ぎ早に指示を出しつつ、それぞれの行動が成功と失敗した場合の両方のパターンを模索していく。

 祭りだからといって浮かれていたわけではない。むしろ安全を期して監視の目は倍も増やしていたほどだった。

 これほどの逆境に立たされている以上、今の指示も見抜かれている可能性が高かった。見えないチェス盤の向こうに座っている相手を、明石教授は想像する。

 

(まさか超君、君がこれほどの策を用意しているとはね。ますます惜しいよ)

 

 嫌な汗が米神の辺りを伝って流れ落ちていく。

 明石教授が見上げたモニターに、超が用意した数多のロボット軍団が映っている。

 最も多いのは武道大会に参加した男性型ロボットの『田中さん』だが、こちらは対処さえ間違えなければ動き自体は単調なので対処がしやすい。

 二番目に多いのは、円盤から六本の足を生やした、どこか蛸に似たフォルムの機体。円盤の底からは、黒光りする銃身も覗いていた。田中さん数体を載せて走れる巨体と機動性と、田中さんと連動した攻撃は驚異の一言である。よほど装甲が分厚いのか防御力が並外れていて、魔法生徒の魔法の射手の一つや二つが直撃してもビクともしていない。

 今もモニターの映像の中で、ギキキキと音を立てて銃身が動いている。銃口の先には魔法生徒がいて、放たれた弾丸に当たって何らかの力場が発生している。

 

「転移反応を確認!」

「どこに転送された?」

「不明です。痕跡を辿れません!」

 

 田中さんが放つ銃弾もそうだが、多脚砲台に撃たれた魔法生徒は障壁の上からにも関わらず、どこかに強制転移させられ、司令部ですらその行き先が辿れない。

 

「馬鹿な。銃弾に魔法を込めて着弾した者を強制的に跳ばしても精々三㎞程度が限度のはず。痕跡を辿れないはずはないが……」

 

 自らの常識を以て返された返答のありえなさを否定したくなるが、目の前に表示されているエラーは消えてくれない。

 

「報告! 狙撃により葛葉、神多羅木他数名の魔法先生が強制転移させられた模様!」

 

 悲鳴のような報告が次々に上がって来る。

 明石教授は手元にデータを呼び出し、強制転移させられた面々が学園でもトップクラスの戦闘力を持つ者だと分かり、対策を練られる前に強襲されたのだと推測する。

 

「魔法ではなく、科学の産物か…………各員に通達! 敵の銃弾に触れてはいけません。障壁でも防げないようですから回避を優先するように。受けざるをえない場合は、対物対魔だけではなく特殊属性障壁の準備を促して下さい」

「広域念話妨害を確認! 念話が邪魔されています!」

 

 パスを繋げている全員に届ける広域念話を邪魔するジャマーが散布されたことに明石教授は眉を顰める。

 

「携帯電話は?」

「そちらも同じです。学園内の通信網の全てが遮断されました……」

 

 夏目萌からの報告は現場への指示すらも遅れなくなったことと情報が共有できなくなったことを意味していた。

 

「都市上空に超鈴音の立体映像が出現! メインモニターに回します!」

 

 高校生の魔法生徒の声と共にメインモニターの映像が切り替わる。

 

『ふははははははは! 苦戦しているようだネ、学園防衛魔法騎士団の諸君!』

 

 切り替わったメインモニターに不敵に笑う超鈴音が映る。背後が透けていることと、近くを飛んでいる飛行船との大きさの比較から本人そのものではなく立体映像であることが分かる。

 

『私が、この火星ロボ軍団の首領にして、悪のラスボス、超鈴音ネ。目的は旧態依然とした体制を打倒し、麻帆良学園都市を占領する。そして世界樹の力を以て魔法を公開することヨ』

 

 突如出現した超鈴音の映像は学園都市上空に映し出されている分、都市のどこからでも見えることだろう。イベント仕掛けにして意表を突いたはずなのに余裕を崩さないその姿に明石教授ならずとも歯噛みしたくなる。

 

『交渉による平和的な手段での解決は決裂した為、暴力という野蛮な手段に出たことは不徳の極ミ。故にこのような物を用意したネ』

 

 言って立体映像の超が銃弾らしき物を掲げる。

 

強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)――――その効果はなんと三時間先に転送する。当たたらどんな強者であろうとも回避不可能の弾丸ネ。決して他者を傷つけることのないこの弾丸を、我が兵団は装備していル。既に数多のユニットを我が部下がこの弾丸で未来に送ているネ。残る戦力で我が火星ロボ軍団の侵攻を止めることが出来るカナ?』

 

 それは三時間もあれば、学園を征服することも可能だと言っているのか。真意はともかく、超の持つ戦力はそれを可能とするまでに大きい。

 

『魔法騎士団の諸君の健闘を祈らせてもらおう…………』

 

 不敵な笑みだけを残して、身を翻した超に重なるように文字が浮かび上がってくる。やがてはっきりと映ったその文字は『提供:超包子、麻帆良大工学部、麻帆良学園』と書かされていた。

 直後、超が振り返る――――何故かその手に肉まんを持って。

 

『今回のロボ軍団は全て麻帆良工学部と超包子の提供ヨ。「世界全てに肉まんを」超包子をよろしくネ』

 

 不敵な笑みから百八十度変わって営業スマイルに変わった超が自分の店の宣伝をして、今度こそ映像は消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恒常的に輝く文明の光に当てられ、徐々に沈んでいく太陽を特等席で眺められる夕闇の空でも淡く光る飛行船。飛行船の屋根の上に描かれた魔法陣の上で葉加瀬聡美が呪文を唱えていた。その傍には超もいる。

 

「世界はアイオーンの内を行き、時は世界の内を巡り、世界は時の内に生ず」

 

 葉加瀬はきちんとした格好をすれば、それなりに見れた容姿だろうに、化粧の一つもしていない。そんな彼女の服装も世界を変える一大事にも関わらず簡素なもので、ローブを纏ってこれも洒落っ気のない黒縁眼鏡をかけている。総じて野暮ったい印象を周囲に与える。

 

「地球上12箇所の聖地及び月との同期完了です。後は六か所の占拠を待つのみ。いよいよですね……」

 

 葉加瀬は轟々と風が強く吹き荒れるこの場所で、絶えず周囲を警戒していた超の横顔を眺めながら、おずおずと口を開く。

 

「よし。葉加瀬は儀式の最終段階、最後の呪文詠唱に入るネ」

「仕上げの呪文は11分6秒です。大丈夫でしょうか?」

「大丈夫ヨ。初めてクレ」

「………でも、本当にいいんですか、超さん? この計画を完遂して」

 

 立場上は超の味方だが、計画の遂行には若干の戸惑いのある葉加瀬。が、超は「ああ」と頷くと、振り返って斜め上を見上げた。

 

「もう来たのカ」

 

 飛行船の上から麻帆良学園都市を見下ろしながら、ネギから視線を切った超は呟き、そっと深い息を吐いた。まるで自分の身体中の空気を全部入れ替えてしまおうとするような、深呼吸みたいな溜息だった。

 ずっと窓も扉も閉めきっていて当たり前に腐りかけていた空気を一気に解き放ってしまったような気分だった。津波か何かに色んなものを根こそぎ攫われてしまった気分であった。

 

「超さん、僕は貴女を止めに来ました」

 

 飛行船の、葉加瀬を三角形の頂点としている位置に静かに降り立ったネギは決意も強く言い放った。風が強く吹き荒れる中でも不思議と通るその声を聞いた超がニヤリと笑う。

 笑う超の姿に葉加瀬は違和感を覚えた。悪い意味ではない。外見に変化があるわけではなかったが、雰囲気は確実に変わっていた。

 

「思たよりここまでに早かたかナ。それとも遅かたカ」

 

 長かった楽しい祭りが遂に終わってしまうかのように、声は寂しげだった。

 

「どちらにしても強制認識魔法の発動まで後僅カ」

 

 自分をなんら卑下することなく、威風堂々とその場に立つ姿は今までどこかあやふやだった自分という存在を確固としたものとして把握していて、それに一欠片の不満も不安も覚えていない完璧な立ち姿だった。

 もはや彼女は取り繕おうとしていない。ぶっきらぼうな口調も、荒々しい目つきも、以前とはまるで違っている。肩肘を張って、常にどこかしら緊張感を漂わせていた力みが抜けて、今の方が自然体に見えた。

 

「ネギ先生、君に世界を背負えるカ?」

 

 あたかもそれは不浄な世界にたった一つ残った教会の抗いの鐘のように、少女は世界へ戦いを挑もうとしている少年に宣戦布告を叩きつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 名無しの全身からアスカに向かって、殺意の風が吹き付ける。

 

「行くぞ!」

 

 先に仕掛けたのは名無し。アスカ並の武術の腕と身体能力を以って視界から消えうせた。速度ではない。瞬きをした一瞬の隙を突いてのほ歩法による移動。

 微かな音さえ立てない。霊妙とさえ言える歩法。己の体重・筋力・運動エネルギーを完全に掌握し切って初めて可能な技。視界の死角である背後に一瞬で回り込まれ、迫って来ていることを悟ったアスカは抉り込むように放たれた拳を、振り向く動作を自らを独楽のように見立てながら回転して受け流した。

 一瞬遅れて耳を狙ってきた先程とは反対の手の指先は首を反らして躱す。体勢を崩していれば、続けて放たれた蹴りに足首を払われ、転倒していただろう。が、アスカは留まることなく足の裏でそれを受け止め、逆に蹴り押した。

 敵の動きが僅かに澱むのを、気配というよりは直感で察する。

 

「ふっ!」

 

 即座に反撃に転じた。一瞬で体を震わせ、地面を蹴る。その反動を拳に乗せて、真っ直ぐに敵の体の中央へと注ぎ込み――――空を切った。いると予測していた場所に名無しの姿はなかった。

 名無しはアスカの読みよりも更に一歩も二歩も上に行く。今までの動作は全て囮で、何手目で読み違えたかという思考は戦闘の最中では回らない。恐らく足首を払おうするのを迎撃したところで読み違えた。いや、正確には攻撃を防がれたことで組み立て方を変更したのだろう。動きが澱んだのはその布石。気配を頼りに動いてしまう習性を逆に利用され、まんまとフェイントに引っ掛かってしまった。

 名無しは既に後方に飛び退き、じっとこちらを見据えている。

 アスカは体勢を直しながら、相手と同じようには見つめ返せずにいた。名無しの、遠慮のない、脳の内側まで覗いてくるような瞳が何故か恐ろしく感じて直視できない。

 

「白き雷!」

 

 どうして自分は直視できないのだろうかと考え事をしている間に名無しが再び動き出す。無詠唱で白き雷を放ち、避けたところに瞬動で相手をねじ伏せるかのように真正面から突っ込んで来る。

 大きな動作で腕ごと叩きつけて来るような、そんな拳が来る。

 

「雷の投擲を放つつもりなんだろう!」

 

 受けようとすれば、即座に遅延呪文を発動させて放たれた雷の投擲が抉りに来ると名無しの腕に走った紫電から読み切ったアスカは、素であっても剛とも言える拳の攻撃を余裕を以て躱した。

 

(何故、雷の投擲だと思った?)

 

 その疑問が脳裏を掠めるも、瞬く間に放たれた凄まじい連打に流れるように繋げられた上段蹴りに反応が少しだけ遅れた。

 名無しの攻撃は流れるように続いて止まらない。上段蹴りを避けるために仰け反っていた顔を戻そうとする。

 勢いよく足を踏み込んで身を深く沈めた名無しは拳をボクシングで言うアッパーのように逆向きにした。足の裏から腰、腰から肩へと大地から湧き上がってくる力を伝え吸い上げる。発射台から放たれたロケットのように突きが撃たれた。八極拳の八大招式・立地通天炮である。雷の一矢が込められ、変形の弱・雷華豪殺拳をとも呼ぶべき一撃をアスカに向けて一気に放つ。

 乾いた音を発て、アスカの身体が宙を浮く。

 

「浅いっ」

 

 顎から脳にまで衝撃を透過する一撃だったが名無しは浅いと断じた。事実、数メートルを滑空したアスカは足から着地した。流石にダメージはあって膝を落としかけたが堪えている。

 アスカが口の端に浮かんだ血を拭って、獣の如く鈍く輝く瞳を滾らせている。

 

「今度はこっちからだ」

 

 アスカは間近で見れば傷が多い自らの拳を固く握り、構えの状態から僅か一歩で敵へと近づく中国拳法の八極拳の歩法である箭疾歩と瞬動を組み合わせた縮地で瞬く間に名無しの懐へと潜り込んだ。

 

「甘い」

 

 恐るべき速さだろうが他の相手ならいざ知らず、名無しと闘う時には武器足りえない。

 まるで始めから分かっていたかのように雷を纏った拳が簡単に弾かれ、逆に懐に入り込まれる。殆ど密着状態で拳が胴体に付けられた。ゾクリとアスカの背筋に鳥肌が立つ。この密着状態からの攻撃方法は限られる。そしてこれだけの超近距離での攻撃方法は幾らでもあった。

 

「ぜわっ」

 

 悪寒に急き立てられて、先の一撃を弾かれていない方の手で密着する腕を先程弾かれた腕の方向へと払いのける。最初に拳が弾かれた勢いに逆らわず、更に払いのけた腕の運動エネルギーを相乗して体をその場で回転させながら宙返り。斜め前に前方宙返りをしながらの浴びせ踵落とし。

 視界の死角から突如現れた足を名無しは見もせずに受け止めた。最初にアスカの拳を弾いた手で踵を掌で受け止め、払いのけられた手をボクシングで言うアッパーカットのように握って突き上げた。

 股の間から伸びて来る顎を狙った左の突きがアッパーカットが迫る。これもまたアスカは、それを左手で受けた。受けると同時に、左手を掴もうとした。名無しは素早く左手を戻し、間を置かずに右の崩拳を放った。

 迫る崩拳を焦らずに胸の前で重ねた両腕で防御。

 

「はぁっ!」

「ぐ……ぅあっ」

 

 震脚と共に雷の魔法の射手が込められて放たれた崩拳は空中で受け切るには無理があった。成す術もなく吹き飛ばされる。その威力は凄まじく、数十メートルも飛ばされる。アスカは空中を四肢を伸ばして体面積を広げ、空気抵抗を増やした。結果、吹き飛ぶスピードに空気抵抗がプラスされた。

 どれだけ早いプロ野球の投手でも投げた球は傍目には分からぬほど山なりになる。重力という自然現象に従って、放物線を描く軌道になるのは当然の摂理。アスカの体はやがて諸々の現象に捕まって地上へと降りて、着地後に直ぐに名無しに向けて跳んだ。

 

「これで――」

「父親のコンビネーションか。猿真似だ」

 

 ナギが得意としていた魔法の射手を込めた一撃からの雷の斧に繋げようとするも、最初の一撃を同威力で相殺されて失敗する。

 あっさりと最初から分かっていたかのように封じ込められたコンビネーションにアスカの動きが一瞬止まる。

 

「……っ!」

 

 そこへ名無しが激烈なる踏み込みと静かな気配と共に、手を伸ばせば届くほんの一歩手前まで真っ直ぐに踏み込むと同時に放つ一撃。辛うじて躱した首元を通過する衝撃に頬が切り裂かれて血が噴き出すのを感じる。頬の痛みは一瞬で、そこから広がりはしなかった。

 この機を活かして、元より完全に躱せるとは思っていなかったのでアスカは身体を更に捻って躱そうとして固まった。

 体が痺れて反応が遅れる。これは雷の魔法の射手が込められた一撃による痺れ。防御策を張っていなかったアスカの全身を僅かに痺れさせ、次への行動が遅れる。

 

「来れ、虚空の雷、薙ぎ払え。雷の斧!」

 

 後コンマ数秒でも避けるのが遅ければ決着はついていただろう。身近に迫った敗北へのカウントダウンに歯を食い縛って耐え、無理矢理に身体を捻り続けた。連動するように足も動かし、相手の横へと回り込んだことで名無しが放った雷の斧は当たらずに通りすぎていく。

 体を動かさず、浮遊術で一気に距離を取る。名無しは見ているだけで追って来ようとしなかった。

 空中から名無しを見下ろし、その不気味さに全身を震わせる。

 

「なんだ……」

 

 自分と全く同じ力、全く同じ技量を持つことなどありえない。しかも、アスカの考えを読み取ったように動くからこそ、こうも一方的にダメージを負わされる。

 

「なんなんだよ、お前は!」

「そうだ。その顔が見たかった」

 

 アスカの叫びに名無しはそう言って笑う。善悪を知らない子供が、与えられた玩具を壊すように楽しげに笑っていた。

 

「君が心の闇を切り離しさえしなければ僕が生み出されることはなかった。生まれてくるにしても、こんな惨めな在り方じゃなかったはずだ。僕には君を糾弾する権利がある。殺すべき理由がある」

 

 名無しが言いながら浮遊術で浮き上がり、アスカと同じ高さに上昇して、目線を合わせ指差して宣言する。

 殺意などという生温いものではない。殆ど物質的なまでに高められた憎悪は、グリグリと項を抉り抜き、脊髄をこじ開けて直接心臓までも掴み上げるようだ。

 

「過去を終わったことだと言う君に思い知らせてやる。過去の痛みを知れ!!」

 

 宣言して真っ向から突っ込んで来た。ありとあらゆる角度から、両手の拳、肘、掌底を取り混ぜて、手が四本にも八本にもあるかのように打ち込む。

 

「がっ」

 

 アスカは途中からそれらの攻撃を受けることも受け流すこともできなくなり、まともに喰らい続けた。急所だけは免れたがダメージが蓄積されていく。

 竜巻のように回転して瞬きの間に放たれた左右の蹴りを腕を上げて防御するも、名無しは鳥のように宙を舞って全体重を乗せた膝蹴りをアスカにお見舞いした。

 遂に吹き飛ばされ、地面へと叩きつけられる。

 

「ぐっ」

 

 ダメージが大きくて直ぐに立ち上がることが出来ず、地面に倒れ込んだ。

 着地した名無しが、苦痛に呻くアスカを蛇蝎の如く睨みつけながら口を開く。

 

「全ての始まりは村が滅んだあの日」

 

 アスカは地面に手を付いて、時間をかけてヨロヨロと立ち上がったものの、その姿に力は感じられなかった。

 

「多くの人達が君達を守る為に犠牲になった。石化した人達はまだいい。彼らには救われる可能性がある。だけど、死んだ者には救いはない。死者は蘇らず、君が言ったように終わったことは覆せない」

 

 ゆっくりと歩み寄って過去を突きつける名無しにアスカの顔が歪む。

 

「狙われる理由があるのは英雄(ナギ)とその息子の君達だけ。そうだ、彼らは君達の所為で死んだ。君達の所為で襲われ、君達を守る為に犠牲になり、君達を生かすために死んだ。なのに、君は過去を終わったことにして逃げ出した。石化した者達を救うことを言い訳にして、向き合うことから逃げた。言って見ろ、一度でも彼らを顧みたことがあるか?」

 

 石化を解くことと、父の後を追うことばかりを考えて、真剣に失われた者達を考えていたのかと名無しに突きつけられるも答えられない。考えることすらしなかったからだ。

 

「君は言ったな、振り返ってどうすると、今を見ない人間の戯言だと」

 

 それは確かにアスカが超に向かって言ったことだった。

 

「これを見ても、はたして同じことことが言えるか?」

 

 直後、世界が切り替わる――――全てが真っ赤に埋め尽くされていた。

 赤い。空も、大地も、そこに存在するもの全てが赤い。空が赤く染まっていた。夕焼けの赤ではない、火が燃える紅い赤だった。落日の空は血のように赤い。見渡す限り辺り一面が赤黒い世界だ。血よりも濃い火の赤だった。

 全てを燃やす火は揺らめくことすらせず、風すらも殆ど吹いておらず、空に点在する雲すら微動だにしない。なにもかもが停滞している。

 雪化粧が施された地面には朽ち果てた屍が、石と化した嘗ては動いていた者達があちこちに点在していた。灰を含んで香る空気は、鼻孔に突きつけられる血の鉄はあの日と何も変わらない。生きて動く者が誰一人としていない、ここはまさにそんな世界だった。

 

「そうやって君はまた逃げる。目を逸らそうとする」

 

 名無しに言われてアスカは自分が視線を下げていることに気づき、愕然とした面持ちで嘗て滅んだ村を見なければならなかった。

 

「父を探す、石化を戻すというご題目で自分を誤魔化しても、過去に囚われていることに気づかず、逃げる為に未来へと進もうとしている。これを滑稽と言わずになんと言う!」

 

 アスカは動かなかった。否、動けなかった。頭に上っていた血が、一気に首から抜けていくような、ぞっとする感覚に身を震わせて、まるで周囲の重力が何倍にも膨れ上がったような威圧に視線が吸い込まれる。

 

「っ」

 

 名無しの顔を横目に見たアスカが思わずぎくりと息を飲み込む。

 

「誰かの為、斃さなければならないからと、どんな高尚な理由も全て自分自身を偽っているに過ぎない」

 

 浮かべているのは笑顔。形でいうなら間違いなく笑みと取れる。だが、これはそんな生易しいものじゃない。どこまでも透徹した、たった一つの感情だけを宿した純粋な笑み。名無しの口元に浮かぶのは笑みを見たアスカは言葉を失くす。

 憎悪と狂気、そして妄執――――煮え滾る悪意の渦巻く双眸が、笑顔を別種のものへと変質させていく。狂笑と呼ぶに相応しいものだった。

 それは、不純物を含まない純水が自然には存在し得ないように、真っ当な人間には決して浮かべることの出来ない笑顔だった。全ての光を失った人間が、闇に叩き落された人間が、それを成した者に出会った時、このような顔で嗤うのかもしれない。

 

「人を救う? はっ、笑わせるな。君は人を救いたいんじゃない。救われたいんだ、あの日に蹲ったままの自分を」

 

 声というほんの僅かな空気の震えが、なんとか立ち上ったアスカを内側から崩していく。赤の他人から好き勝手にぶつけられる言葉とは、全く意味の異なる突き刺さる言葉だった。

 滴り落ちる憎悪のもそのままに、名無しは告げる。

 

「どうして自分が助けられたのかと、一度でも思わなかったか? それは君がナギ・スプリングフィールドの息子だからだ。決してアスカ・スプリングフィールドを守る為じゃあない!」

「黙れ!」

 

 疾風のように繰り出されたアスカの攻撃は、鍛え上げた驚異的な見切りの技でほぼ同時に受け止められていた。キンキンキン、と甲高い金属音を響かせ、刹那の時間で幾度となくぶつかり合った。

 触れ合う肉体。名無しから伝わってくるのは憎しみ。アスカへの、周りへの、世界への強すぎる憎悪だった。だが、アスカには分からない。何故目の前の自分がここまで悪意をぶつけるのか。

 名無しが攻撃の度に問いかける。

 

「人を救うことで罪悪感から逃れ、父の背中を追うことで憎悪から目を逸らす。伽藍堂の自分を偽ることで日常を生きようとしたところで飢えは満たされない。君が戦いを好むのは生死のやり取りをすることで、この飢えを満たす為だ!」

 

 触れる度に記憶にない誰かの感情と記憶が想起される。

 幾つもの命が消えていった。誰も死にたくは無かった。殺したくは無かった。皆、理由があった。

 ある者はテロに愛する家族を奪われた者、騙され成功を棒に振った者、嫉妬から過ちを犯した大切な友を傷つけた者、国家に裏切られた者、貧しい土地での流行り病に親しい者を奪われた者。

 願いの形も数多あり、人の不幸も千差万別。

 

「英雄の息子である以外は無価値な子供だったから、せめて自らに価値をつけようと強くなって人を救おうとも、そんな偽善で何も為せるものか!」

 

 二人の動きはそこで止まったかに思われた。だが、そうではなかった。全く同時に全身から雷を迸らせる。アスカは、内心の驚きを隠せなかった。だが、驚きはしたが納得もした。やはり作戦まで同じ(・・・・・・)だと。

 アスカの方が驚きの分だけ次の行動への反応が僅かに遅れる。

 

「ぐっ!」

 

 息が掛かるほどに近くに名無しの顔があり、繰り出された蹴りをアスカは躱すことができなかった。そのまま数十メートルは吹き飛ばされ、四肢をついて地面を滑りながらようやく止まる。

 

「雷の精霊199柱。魔法の射手、連弾・雷の199矢!!」

 

 顔を上げると、名無しが放った雷の魔法の射手が迫って来ていた。四肢の先に魔力を爆発させて射程圏から回避する。

 さっきまでいた場所に次々と魔法の射手が着弾して、肉を殴打する鈍い音が聞こえたと同時にアスカの視界がブレた。魔法の射手を放った直後に回避方向に先回りしていた名無しが自分の頭を蹴飛ばしたのだと気づくまで、僅かなタイムラグが必要だった。

 大地の上に赤い血が幾つも散った。アスカの体の流れに沿って、ラインを引いていくかのようだった。    

 なんとか立ち上がるアスカを黙ってみていた名無しは、靴の爪先に着いた赤い液体を心底忌まわしいと言わんばかりに乱暴な仕草で地面に擦り付ける。

 

「甘ったるい妄想に浸って僕の言葉を否定したければすれば良い。だけど、既に僕の言ったことは証明されている。どんな小奇麗な言葉を並び立てても、君の優しさは自分を守るための鎧に過ぎない!」

 

 言いつつ一瞬で近づいたと思ったら、アスカが咄嗟に放った攻撃の腕へと自分の拳を容赦なく振り下ろす。伸びきった肘の骨がないもっとも弱い部分を打たれて、アスカは腕の骨を思い切り圧し折られた。

 

「――――がぁっ!!」

 

 絶叫し、体外へと吐き出した力を爆発させて一気に下がろうとするアスカ。しかし、読んでいた名無しはその足を掴んで地面へと叩きつけた。間近で轟いた花火の爆発音のような振動が周囲へと撒き散らされる。

 残った左腕で後頭部だけは守ったアスカだが肉体へのダメージは大きかった。

 咳き込むアスカへと名無しは更に拳を振り下ろす。

 

「どれだけ力という鎧を纏おうとも、蹲ったままの弱い心が隠せるものか!」

 

 名無しが拳を振り下ろす度に、肉が打たれ、骨が軋み、血が撒き散らされる音だけが続いた。

 避けようと思えば避けられたはずだった。しかし、アスカにはそれが出来ない。それをしようという心の動きが体の内側から湧いてこない。心の中で何かが折れかけていた。肉体のダメージだけではない。内側から侵食された闇に心の柱を侵食され、自分の中にあった大切なものがグズグズと崩れていく感覚を得ていた。どんなに辛いことがあってもこれだけは守ると誓った綺麗な願いが無くなっていく。

 いいや、違う。崩れるのではない。ゼロになってしまうのでもない。それ以下、短い生涯の中で最も闇に染まっていた頃に心が逆戻りしていくのが自分で分かる。

 

「君はここで朽ち果てろ。後は全て僕が上手くやってやる」

 

 一方的に殴るのに飽きたのか名無しが攻撃を止めて立ち上がった。

 

「俺は僕に斃されて死ぬんだ」

 

 名無しの傲慢な物言いに、今のアスカには言い返す力も動くことも出来なかった。

 辛うじて息を吸って吐いていたが、体のあちこちが裂けていた。折られた右腕は変な方向に曲がっていて、顔は元の形が分からぬほどに腫れ上がっている。

 そんな肉体の傷よりも先に人間を人間として動かすための力が失われてしまった。こんな世界で生きたくない。こんな世界から離れることが出来るなら、このまま死んでしまった方がマシなのかもしれない。歪だった心は耐え切れずに崩壊する。己が生み出した闇に食い殺されるのは明白だった。

 体はまるでいうことを聞かなかった。肉体が存在しないのかと思うほどに力が伝わる気配がない。だが不思議なことに五感だけは妙に冴え、神経を剥き出しにしているかのような鮮烈な感覚があった。

 痛みは感じない。身体からは完全に感覚が失われ、最早身動き一つ出来ない。

 

(……く……、そ……っ)

 

 自分が吐き出した言葉を嘘にしないためにも負けられない、負けるわけにはいかない。なのに、このまま負けてしまうのか。

 そう思った瞬間、急速に意識が遠のいていく。

 意識が夢と現の狭間を漂う。ユラユラと流れる雲のように、アスカの意識は当てどもなく彷徨っている。どこへ向かっているのかは皆目見当がつかない。ひたすら流されていく。

 薄れゆく意識の中で、必死に見失ってはいけないものを繋ぎ止めようとする。

 鉛でも仕込まれたかのような重い瞼を強引にこじ開ける。視界は不明瞭で、薄い被膜に包まれているかのように霞んでいる。加えて世界は不定形かつ不規則に歪んでいる。この世のものとは思えぬ摩訶不思議な光景はアスカを大いに混乱させた。

 

「……ぁぁっ」

 

 声帯が痙攣するかのように震え、叫びとも呻きとも取れる掠れた音が口から溢れ出す。

 

「あぁ……!」

 

 悪寒が背筋を這う。腕を起点にして体内から虫が湧いてくるかのようなおぞましい感覚に、アスカは思わず呻いた。何かを叫ぼうとして、出来ない。体内で炎が渦巻き、アスカ自身を焼いていく。息が荒くなり、動悸が収まらない。

 

(――――こ、こ!)

 

 定まらない意識の中で不用意に近づいてきた名無しへと向け、起死回生を図って体内で練り上げた魔力を左手に集中させた起死回生の一撃――――雷華豪殺拳。

 

「喰らいやがれ!」

 

 追撃をかける名無しの顔面目掛けて、伸びあがるように左の拳を全力で叩き込む。と、鋭い殴打音が響くも名無しはその場から少しも動くことは無かった。

 

「ぐ、は――が……っ」

 

 逆にアスカの鳩尾に、名無しの固めた拳がめり込んだ。その一撃は、まるで爆弾。アスカの体がくの字に折れ曲がる。衝撃が腹から背中へと抜けていった。

 

「これで終わりだ」

 

 ここを勝機と見たのか、名無しの動きが爆発的に加速した。崩れ落ちるアスカの体に連打を叩き込む。

 鳩尾への一撃が効いているアスカは、身動きはおろか声すら上げられず、一方的に攻撃を受けることしか出来ない。到底、防御を固めても全てを防ぐことはできず、針のような正確さで防御の隙を抜いた攻撃が通り、名無しの身体が断続的に震えた。

 

「……がっ……」

 

 耐え切れずにがくり膝を落としたアスカを前で名無しの姿が霞む。

 アスカに出来たのは苦し紛れに、そして死に物狂いで横に跳ぶことだけで、それは背後に現れた名無しの右蹴りが通過するのはほぼ同時だった。地面を転がり、膝を立てた状態で首筋に走る盛大な悪寒に、頭上で既に名無しが次なる動作に入っているのを察した。

 名無しは蹴りを放った姿勢から流れるような動作で跳び、アスカの頭上で紫電を撒き散らす手の平を開いた右手をこちらに向けていた。

 

「雷の暴風」

 

 閃光が全てを呑み込み、アスカの意識は欠片も残さずに消え去った。

 




割と戦況悪い学園側。

次回「君を想う」


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第55話 君を想う

前提として超がいる未来は原作とは違いますので、あしからず。


 

 それ(・・)が自身を自覚した時、既に自分に関する殆どのことを失っていた。覚えていたのは自分の名前と結果だけ。

 生まれたばかりの赤ん坊というほど無垢ではなく、世俗に慣れた大人というほど磨れてもいない。殆ど空っぽの器が怯え、拒絶することはない。困惑したが、名前と結果以外の物を持っていなかったから直ぐに受け入れた。

 次に始めたのは周囲の観察だった。

 正確には意志すら持っていなかったそれが漂っていた中で見ていただけで、理解していたわけではない。

 自分とは違うもの。似て非なる者達を見続ける。見続けて、見続けて、徐々にではあるが理解していく。

 知識を得るには良い環境にいたこともあって、数ヶ月後には自らで思考を重ねることも出来るようになっていた。確固とした自我を獲得した彼女(・・)は考える。何故、自分は――――――相坂さよは死んで幽霊になっているのだろうかと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鮮やかな紅色が印象的な夕焼けの空を飛行船が泳ぐように飛んでいる。眼下には斜陽に暮れる麻帆良学園都市があり、その中心で魔法使い等の超常の力を持つ者の眼には絢爛と輝いている世界樹が一般人の眼にも映るほどの発光を始めていた。

 上空からヘリが現れるが、ガラスから見る限り中継をしているのだろう。イベントの一環として、ようやく舞台が整った。

 飛行船の機体の大部分を占める気嚢の上部には直径二十メートル以上の巨大な魔法陣が描かれている。その両端で暫くネギと向き合っていた超は世界樹を中心として吹き上がっている数本の光の柱を確認して視線を動かす。

 

「タイムリミットは近イ。始めなくていいのかナ、ネギ先生」

 

 問いかけにもネギは口を開かず、動かずに超から視線を離そうとしない。

 このまま制限時間に粘られるのは超としても面白くない。折角、自身が主催した祭りなのだからジッとしたまま終わってしまっては味気なさ過ぎる。

 

「三ヵ所のポイントが我が手に落ちタ。残る三ヵ所…………天ヶ崎先生と高畑先生が守るポイントは苦労するだろうが物量の前には抗えまイ」

 

 強力なロボット群による豊富な物量と、学園トップクラスの強さを持つ神多羅木や葛葉刀子といった強力な戦力が真名の放った強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)によって三時間先に送られ、他の戦力もロボット群によって未来に送られたことで、士気の低下と戦力の減少によって既に三ヵ所のポイントが落とされた。

 木乃香の魔力で召喚した鬼達で物量を揃えた千草と個人的武勇で持ち堪えている高畑が守護するポイントを落とすのは生半可なことではないが、二人以外が守る残りのポイントを落とし、物量に限界のある千草を先に狙って落とせば高畑も時間の問題となる。

 

「…………その前に僕が貴女を倒せば全てが終わります、超さん」

 

 ようやくネギが言葉を放つ。言いながら杖の先をこちらに向け、戦意を滾らせた眼が闘争を頼エさせる。

 

(これまでに行動に出なかったのは時間稼ぎカ、何らかの作戦を練る為カ)

 

 一万通りほどの予想と予測を立てられるが、悪役の役割(ロール)を演じる為に視線の先にいるこのゲームを彩るヒーローユニットへの対応を優先して思考を切り替える。

 

「陽が落チ、もう直ぐ夜がやてくル。それまでに私を倒せるト?」

 

 既に空の向こうには星々の輝きが瞬き始めていると示し、挑発も兼ねて不敵に笑う。これで怒りを示すならば更に煽り、性急に事を進めるならばその隙を突くのみ。

 

「もう、決めました」

 

 ネギは揺るがない。冷静に状況を判断している目でこちらを見つめ、一挙手一投足を見逃さないとばかりに注視する視線に超は背筋をゾクゾクと走る歓喜を覚えた。

 

「では、最後にもう一度だけ問うネ。私の同志にならないカ? 世界にバラせば君達魔法使いに意義が生まれル。私と共に悪を行イ、世界に僅かながらの正義を成そウ」

 

 物語の中で、魔王が勇者に「部下になれば世界の半分を与えよう」と言うように誘う。

 ネギは油断なく杖を構えたまま、暫く考えた上で口を開いた。

 

「答えはNoです」

「意義が欲しくはないのかネ?」

「言い分は分かります。僕自身はその提案にとても心惹かれるものがありますから。その上で答えます。僕は超さん、貴女を否定しません。ですが、貴女の仲間にもなりません」

 

 苦し気に答えたネギは右手で胸元を掴み、左手で持つ杖に力を込めて立ち続ける。

 

「今、この瞬間にも助けられる命を無視しても、カナ?」

「この行動が正しいとか正解なんて、僕には分かりません。ですが、魔法を公開することで失われる命が出ることは確実です。そのリスクは考えなければなりません。魔法公開の議論を貴女を倒してからします」

 

 新しい世界秩序を創る―――――つまり、一つの思想、あるいは価値観で世界観を席巻するということだ。古来多くの人間がその手の欲求を覚え、自分が『かくあるべき』と考える世界を地上に創り出そうとしてきた。一つの思想で世界を塗り潰し、違う色のものを排除、矯正してしまえば、争いなどはなくなる。誰も妬まず、憎まず、望まず、誇らない。

 答えが出たわけではないが、ネギの答えに超は真剣に頷く。

 

「よく言タ。でハ、始めよウ。私も持てる全ての力を揮イ、自らの力を以て我を通そウ」

 

 纏っていたローブを脱ぎ捨て、特製の戦闘強化服を起動させると備え付けた航時機(カシオペア)に光が灯る。

 流れる静寂、聞こえてくるのは4000メートルの上空を流れていく風の音のみ。もはや言葉は要らぬとばかりに、互いに沈黙を守っている。

 

「行くヨ」

 

 先に動いたのは超だった。悠々と左手を前に突き出すと、背後に浮かんでいた援護ユニットが腕に追従する。援護ユニットの砲門をネギに向けながら右手を腰の後ろに回して注意を引く。

 手の動きに視線が引き寄せられたネギの背後で飛行船の屋根の一部が開き、砲台が3機浮上して内蔵された弾丸を吐き出す。当然ながらその全てが強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)で、着弾すればエヴァンジェリンですら回避不可能な代物。

 如何なる手段によってか、背後の砲台に気づいたネギが杖を超に向けながら後ろを向いて腕を振るう。牽制として魔法の射手を放つのを忘れていない。

 腕の動きに沿うように烈風が奔り、強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)がネギから逸れていく。

 

「この程度でっ!」

「やられてはくれないだろウ。だガ」

 

 ネギが振り返るよりも早く、風の魔法の射手が着弾する寸前になっても超は回避行動を全くとろうともせず、その場で拳を振り上げて何もない空間を殴りつけるように振り下ろす―――――途中でまるで画面が切り替わったかのように一瞬で彼女の姿が消えた。

 超は別時間別空間に時間跳躍し、同時刻同空間への超高速連続時間跳躍を行なうことで得られた疑似的に時間を止めたような効果でネギの背後へと一瞬にして移動し、振り下ろされている拳の形にした指の合間には細長い円筒状のライフル弾―――――強制時間跳躍弾《B.C.T.L.》の薬莢が二つ挟まれていた。先程、腰の後ろに手を回した時に用意した物だ。

 

「これでチェックメイトだ」

 

 後は振り下ろすだけでネギは三時間後へと送られ、早くもネギの敗北が決まるはず。

 

「やった!」

 

 観戦の立場にあった葉加瀬が勝利を確信して思わず声を上げるほど、例え超反応を見せたアスカであろうとも回避が間に合わぬタイミング。アスカ程の反射神経もなく、電撃による神経速度の加速している様子もなかった。

 だからこそ、拳が対象に触れることなくネギを通過した時、超はすぐさま別時間別空間に時間跳躍を行なって回避行動に移った。

 

「こっちこそチェックメイトですっ!」

「ガハッ……!?」

 

 なのに、別時間別空間にいるのに背後からネギの声が聞こえて来たのと同時に背中に衝撃が走って、超の口から空気が漏れた。握りしめていたライフル弾は指から零れ落ちて、元の空間に戻る。

 電撃がスパークし、元の空間に戻った超の背後に吐息を吐けば当たりそうな距離にいたネギが弾かれるように離れて距離が開く。

 両者の立場は極端に別れる。背中からバチバチと火花を散らせて膝をつく超と、その彼女を少し離れた場所で悠然と見下ろすネギ。

 

「…………航時機(カシオペア)が壊されたカ」

 

 背中の航時機(カシオペア)が小爆発を起こし、その機能が完全に使えなくなったことを認めた超は油断なく杖を構えているネギへと視線を移す。

 

「成程、そちらがオリジナルカ。さきまで話していたのハ、さしずめ風の分身といたところかナ」

「そうです。僕にはアスカのような力技で超さんの航時機(カシオペア)に対処する方法がありませんでした。だから、申し訳ないですけど全てを偽らせてもらいました」

「別に責めるつもりはないヨ。これはゲームであてゲームではない。現実で勝つ為に手段を選べるのは強者のみ」

 

 納得した様子で苦笑を浮かべながら立ち上がる超に対して、言葉通り申し訳なさげなネギという対照的な態度で視線が混じり合う。

 全てはネギの作戦だった。

 ネギにはアスカのように超の時間移動に反応して防御・攻撃を行なえるほどの速度はどうやっても出せない。ならば、ネギには航時機(カシオペア)に対処が出来ないのかといえばそうでもない。

 アスカとの戦いで航時機(カシオペア)の観察をしたネギは、航時機(カシオペア)も決して万能な完璧な物ではないと知っていた。

 

航時機(カシオペア)を制御しているのは、あくまで人間である超さんです。マスターのような超人でもなければ、アスカのように戦いが巧いわけでもない。そこに付け入る隙があると考えました」

「そうして私に分身を誤認さセ、本物は隠れながら隙を伺ていたというわけカ」

 

 ネギが得意としていたのは風属性の魔法。本体は光学迷彩で景色に溶け込んで本物そっくりの分身を矢面に立てさせたり、魔法の遠隔操作や声の伝導、空気を屈折させて見える位置といる位置を錯覚させたり、方法は幾らでもある。

 

「懸念は超さんが僕よりも優れた魔法使いであるかどうかです。僕より魔法使いとしての技量が優れていれば、この策は何の意味も無くなる。ですが、超さんがこの魔法の分野においても超一流とは限らない。賭けは僕の勝ちです」

 

 とはいえ、ネギも決して勝率の高い賭けだったわけではない。超は自らをスプリングフィールドの末裔と自称した。一概に信じるわけではないが、仮に末裔が本当だとすれば魔法を使えても何もおかしいことはない。

 才能はともかく、魔力量などは遺伝によって伝わっていくケースが多いので、超の全ての方面における万能性を考えれば魔法使いとしても優れていても何も不思議ではない。

 この作戦の胆はどこまでネギの策を悟らせずに隠れ、転移した瞬間の一瞬の気の抜けたタイミングで航時機(カシオペア)に一撃を与えて破壊するかにある。超に魔法で隠れるネギを見つけられる技量があったら、この作戦は何の意味も無くなる。

 

「別空間別時間に逃げて気の抜けた私に一撃を与エ、航時機(カシオペア)を破壊すル。言葉にすれば容易いように見えるガ、私に分身を見破らせない魔法の技量と優れた観察眼、その時を見逃さずに決行するメンタル、その他諸々……。ネギ先生、君は誇ていい。それだけ出来れば十分に高位魔法使いを名乗れるネ」

 

 絶対の武器を破壊されて使用できなくなったのに、ネギに賞賛を送る超にはまだ余裕が見てとれた。

 

「下手をすれば別空間に私共々取り残される危険すらあたものの、よくぞこのような博打を打てたものだヨ」

「あ」

 

 そこまで頭が回らなかったらしいネギが口をポカンと開けて、その事実に今更ながらに思い至って顔を真っ青にする。完璧なようで抜けているネギに超の口から笑みが零れる。

 

「第一ステージは私の負けヨ」

 

 と、超が言った瞬間に眼下の麻帆良学園都市にまた光の柱がもう一つ立った。

 

「全体の勝負は私がまた一つ駒を進めたネ。残るポイントは後二つヨ」

「その前に僕が貴女を倒します。アドバンテージはもう殆ど無くなりました。強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)は脅威ですが、このまま戦っても超さんの勝ち目はないはずです。今からでも遅くありませんから、降伏して儀式を止めて下さい!」

 

 降伏勧告に超は笑う。人から見たら本心を悟りにくいほどの底知れないものに感じる笑みで、心の底から楽しそうに笑っていた。

 

「この程度で負けを認めるようなラ、最初からこのような行動は起こさないネ。ここまでは想定の範囲内ヨ。それにネギ先生、君は勘違いをしているネ」

「勘違い……?」

 

 ネギの反芻に答えず、何か行動を起こせば直ぐに抑え込めるように杖を向けられている超は、臆する事無く誰かと同じような不敵な笑顔を浮かべると口を開いた。

 

「私の手が航時機(カシオペア)しかないと何時言タ?」

 

 途端、ネギの肌が粟立ったのは魔法使いの本能か。

 

「ラスボスをやるのならば第二形態や第三形態があれば別だガ、人間の私が変身など出来ないから代わりに切り札や奥の手を二つや三つ持ていなければ面白みがないネ。そしてこれがもう一つの切り札ヨ」

 

 麻帆良学園都市をなにかが覆っていく。ネギの感覚で近い物を上げるならば結界魔法に包まれたものに近い。

 ネギが直上を見ると、透明のドームのようなものが形成されていく。魔法使いとしての本能的にこのままドームを完成させてはならないと直感し、魔法の射手を放とうとした。

 

「なっ!?」

 

 出来上がったのは想定しないほど弱々しい風の魔法の射手。一応、放たれたもの少し進んだところで空気に霞むように消えてしまった。

 術式の構成、魔力…………何一つ不足などなかった。ネギの眼には放たれた魔法の射手が、空気抵抗にあったかのように徐々に威力が減衰して、最後には形態すらも維持できなくなったように見えた。

 普通では起こりえない現象にネギが目を剥いていると、得意げな超がマジックの種を披露する。

 

「百年後の未来においテ、魔法はとても身近なものになるネ。素人であても金銭さえ払えば簡単に魔法が使えるようになる魔法アプリも開発さレ、魔法犯罪や魔法を使たテロも爆発的に増えたヨ。当然ネ。魔法の破壊力は銃器を凌ギ、人の裡にある魔力を使うのだから物的証拠がなく未然に防ぐことが出来ないからネ」

 

 例えば飛行機に乗る際、空港で爆発物や危険物を発見してテロを未然に防ぐことが出来るが、魔法が使えれば道具なしにそれ以上のことが出来る。現代で魔法を公開する際のネックとなる問題の一つの解決方法を超が楽し気に語る。

 

「それらを事前に防ぐ為に注目されたのガ、今より二十年前の魔法世界で起こた大分裂戦争末期に発生した広域魔力減衰現象ネ」

「ま、まさか……」

 

 それだけを聞いて、ネギは一体何が起きているかを大体把握した。

 

「人工的に広域魔力減衰現象を機械で再現したというんですか?!」

 

 ネギも父を追う過程で歴史を紐解き、広域魔力減衰現象のことは良く知っている。超がしたことは要は明日菜の魔法無効化能力の劣化バージョンを広域に広げたものを機械で再現したということだが、公開されている論文にある程度は目を通しているネギにとって信じられることではない。

 

「どうして広域魔力減衰現象が起こるのかすら分かっていないのに成功するはずがない!?」

「出来ているネ、百年後にハ」

 

 認めたくなくとも現実としてネギの魔法の射手は減衰されて消滅した。現在の技術力で再現することは出来なくとも、或いは百年も時間があれば原理を解明して再現することも可能かもしれないという考えがネギの脳裏を過る。

 

「この技術の発達によテ、魔法使いは絶滅するネ。この旧世界で、ただの人に追われた魔法使いが魔法世界に逃れたようニ、やがて人の技術が奇跡を駆逐するヨ。なニ、心配は要らないネ。魔法は科学に組み込まれて発展していくヨ。魔法科学を使う魔導士として」

 

 超人はただの人へと帰り、科学は魔法をも呑み込んで進歩していく。ただ違うのは、人類史として当たり前の流れと同じく、魔法使いが過去の遺物として消えてなくなることだけだ。

 

航時機(カシオペア)の破壊を検知した時、麻帆良中に仕掛けた反魔法場(アンチマジックフィールド)発生装置が起動するようにしてあたヨ。広域魔力減衰現象下においテ、等しく魔法も気も使えなくなていくネ。ネギ先生のように膨大な魔力量を誇る者を完全に無力化するには時間がかかるガ、我が兵団はこの日の為に世界樹の魔力を溜め込んだ電池で問題なく戦闘能力を維持して三時間は動くネ。はたしてそれまで学園は持つかナ?」

 

 反魔法場(アンチマジックフィールド)の効果が強くなれば、学園側最大戦力である千草の鬼達も維持できなくなり、魔法も気も使えなくなれば高畑も持ち堪えることは出来なくなる。ネギがしたことは虎の尾を踏んだようなものだった。龍の逆鱗に触れたと言い換えてもいい。敵の戦力を削ぐどころか、結果的に味方の戦力を削いでしまう。

 

「改めて問うネ、ネギ先生」

 

 救援は望むべくもなく、あったとしても反魔法場(アンチマジックフィールド)によって無力化されて戦力にならない。やがてネギも空を飛ぶことすら出来なくなる中で、出来ることは何もなくなる。翼を捥がれた鳥は地に落ち、地を駆ける獣に喰われるのみ。

 

「この技術があれば魔法を公開した際のリスクを抑えられるネ。私以上の方法で魔法を公開できる者が他にいるかナ。否、いないヨ。私の仲間として世界を変えようじゃないカ」

「…………それでも、それでも僕は!」

 

 ネギの魔法使いとしての誇りは既に剥ぎ取られた。残ったのは人としてのネギの気持ちだけだ。

 

「この街が、麻帆良が好きです。ここに、のどかさんともっと一緒にいたいんです!」

 

 もしかしたら超以上に魔法公開を上手くやれる人材はいないかもしれない。超に従うことが正しく、逆らったところで得る者は何もないかもしれない。子供っぽくて構わない。エゴイストと呼ばれても構わない。恨まれても、憎まれても、ネギにはまだ人として戦う理由がある。

 

「僕が貴女を倒せば、この戦いも終わる! ラス・テル・マ・スキル・マギステル 地を穿つ一陣の風 我が手に宿りて敵を撃て 風の鉄槌!!」

 

 魔力が減衰して魔法を放てないのならば、並の魔法使いを数十人から百人以上を合わせたぐらいの魔力量を活かす。

 普段使う十倍の魔力を使って中位魔法を放っても、どう好意的に見ても通常時の半分以下の威力しかない。それでも十分に超を昏倒させるぐらいの威力はあった。超を気絶させて葉加瀬に儀式を止めさせれば、この戦いに勝利しなくても目的を達成することが出来る。

 

「そう、後は私を倒すしかない、ガ」

 

 超は慌てることなく右手を肩の高さにまで上げると、突如として空中から刀身から柄まで真っ黒な太刀が現出して握り、そのまま振り下ろした。

 軽く振り下ろされた太刀によってネギが放った風の鉄槌が切り裂かれる。威力が弱まっているとはいえ、容易く魔法を切り裂いた太刀も気になるがネギにはもっと注目する点があった。

 

「そ、そんな……今のは魔法!?」

 

 太刀を取り出したのは魔法に他ならず、ネギには超が大して魔力を込めずに魔法を発動したことが分かった。この魔力減衰現象が発動している中でありえないことだ。

 

「私が魔法を使えるとおかしいカ? 私はサウザンドマスターの子孫ネ」

「例えそうだとしても広域魔力減衰現象下では使えるはずがありません!」

 

 現にネギが放った風の鉄槌は十倍の魔力を使っても半分以下の威力しか発揮できなかった。その中で超だけが無制限に魔法を使えるとでもいうのか。

 

「もう一度、歴史の話をしようカ」

 

 ネギの混乱を楽しむように不敵に笑う超が手に持つ太刀をゆらゆらと揺らす。

 

「大分裂戦争終結後、千年の都と謳われた空中王都オスティアで行われていた記念式典中に起こた魔力消失現象下においテ、ただ一人だけ無効化されずに魔法を使える者がいたネ。その者は魔法世界の文明の発祥の地である歴史と伝統のウェスペルタティア王国の血を引いておリ、彼女が持つ王家の魔力だけは魔力消失現象下においても無効化されなかとされるネ」

 

 情報が与えられ、ネギの中でパーツが組み上がっていく。

 ずっと不思議だったのだ、どうして自分達には母親の名前すら教えてくれないのだと。

 幼い頃からアスカと話した中で生まれた推測の一つとして、母は今もどこかで生きていてネギ達が名前を知ることで不利益を被る立場にいること。だが、これはネギ達が大人になったら教えるということに矛盾する。或いは、それだけの時間が経てば母が不利益を被らなくなるのか。

 もう一つ、アスカとネギはこれが有力としている説がある。

 母親が犯罪者であることだ。子供の時では、その事実に耐えられないのではないかと大人達が考えても無理はない。

 

「まさか、まさか……!?」

 

 ヒントはあった。村の誰もが口を揃えたネギのナギの生き写しであるという容姿と違うアスカである。金髪で青眼というナギの遺伝では決してありえない特徴。ネギは父の足跡を辿る為に歴史を調べたことがある。その中にいたのだ、金髪と青眼の持ち主で特一級の犯罪者とされる人物が。超がネギかアスカか、どちらかの子孫であり、魔力減衰現象下でも何事もないかのように魔法を扱える魔力を持つ者の条件にも当て嵌まる。

 

「私は最も古き血を継ぐ最後の魔法使いにしテ、最も先を進む先駆者たる魔導士なリ」

 

 これ以上話すことはない、とばかりに答えとばかりの言葉で打ち切って超が口の中で何事かを唱えると、ぼんやりと光の薄膜が彼女の体を覆う。

 光の薄膜の正体は身体強化の魔法であり、体を覆った光の膜が強化服に染み込んで神経のような回路が全身に走る。魔法使いとしての眼で見ても、身体強化に使用した術式と魔力から換算した位階はネギの数段下。しかし、強化服が拙い技量を補佐するように身体強化を数倍に強化している。

 

強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)には対抗呪文処理を施してあるヨ。無効化されるとは思わないことネ」

 

 超の前に魔法陣が浮かび、そこから数多の強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)が縦に5発と横に50発、合わせて250発の弾丸が整列する。本来なら撃鉄が必要なのだが、超は強化服の腕部に仕込まれた電撃を魔法で強化して、動くことなく一瞬で全弾に着火。一斉に弾丸を発射した。

 

「くっ!?」

 

 避けなくては三時間後に送られる。杖に乗って、莫大な魔力を使うことで空を飛び回避する。

 

「ラスト・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル」

 

 後を追うように反重力システムで高度4000メートルの飛行船から浮き上がった超が再び始動キーを唱える。

 

「契約に従い、我に従え、炎の覇王」

 

 強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)から発生した無数の力場が呑み込まんとするのを、高速機動で間一髪回避するのに精一杯なネギに超の詠唱を止めることは出来ない。

 

「来たれ、浄化の炎、燃え盛る大剣。ほとばしれよ、ソドムを焼きし火と硫黄」

 

 呪文を唱えるにつれ、超が掲げた左手の中に激しい光の炎が収束されていく。

 黒太刀を持つ右手は強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)を吐き出し続け、広範囲梵焼殲滅呪文に対抗しなければならないネギに回避以外の行動を取らせてくれない。

 

「罪ありし者を、死の塵に――――――燃える天空」

 

 爆炎が空気ごと大気を燃やす。空間内に熱が伝播し、高速離脱を図って逃げる先を強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)が飛来して足を止めたネギをも飲み込まんと広がっていく。一瞬遅れて大気が歪んで迫る爆炎を前に振り返ったネギは遅きに逸していた。

 全てを灰燼に帰す爆炎にネギは成す術もなく呑み込まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 相坂さよは自身がこの麻帆良学園都市の一教室に縛られた地縛霊であると気づいても、大した感慨も何がしかの想いも抱くことはなかった。まだ、相坂さよという名前と死んで幽霊になっているという事実以外に分かっていることはなく、小さな子供のような自我は悲嘆を覚えるよりも周囲へ興味を示した。

 教室の最前列窓側の席から殆ど動けないにも関わらず、さよは全く困らなかった。授業はとても新鮮であったし、生徒達を見ているのも楽しかった。

 姿が誰にも見えていなくても、声を出しても誰にも聞こえなくても、存在を誰にも認識されなくても、相坂さよはそれでもよかったのだ。なのに、ただ一人だけ例外がいた。

 彼は、何時もさよを見て悲し気に見つめてくる。彼は、さよの声に言葉を返さなくても耳を傾けてくれていた。さよの存在を彼だけが認識していた。どうして、彼――――近衛近右衛門は幽霊の相坂さよを認識できていたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し時間を巻き戻す。まだ反魔法場(アンチマジックフィールド)発生装置が作動する前、龍宮真名と長瀬楓の戦いは近づくか近づかせるかの瀬戸際を争うものだった。

 真名は近接戦闘を不得手とはしないまでも、やはり楓と比べれば一歩も二歩も劣る。強くなったといっても真っ向正面で近接戦闘を及んで勝てるとは流石に思っていない。逆に楓の方からしても遠距離では攻撃方法が少なく、遠距離戦をすれば十中八九勝ち目はない。

 距離を開けたい真名と、距離を詰めたい楓。戦いはどちらにも有利とはいえない距離で始まり、真名が時間跳躍弾を撃ちながら下がり、楓が分身を駆使して如何に近づけるかを競い合って既に幾合。

 

「近づかない事には……!」

 

 戦況は自分に不利だと楓は悟る。このまま距離で戦い続ければ、負けるのは自分であると。

 分身の密度を下げれば真名の魔眼に気づかれ、維持したままでは消耗が大きすぎる。時間跳躍弾は当たれば回避不可能な弾丸だから、回避するには分身を犠牲にしなければならない程に真名が修学旅行時よりも技量を上げている。

 距離を詰める為に繰り返される瞬動。文字通り、瞬くように動いているのに油断すれば当たるタイミングで狙われているのには恐れ入る。

 戦況は長期戦の様相を呈し始めている中で、今の気の消耗具合では短期決戦を挑まざるをえない。

 

「ぐっ……!?」

 

 強制時間跳躍弾が分身に着弾し、強制転移の為の力場が発生する脇を体勢を崩しながら通る。そこへ更に迫る弾丸を回避するために分身が囮になり、別の分身の足を差し出して足場にして体勢を整えながら前進する。

 狙って放たれた跳弾を回避し、消えた分身を生み出して、また後退する真名を追って屋根を蹴る。

 真名の特異な弾丸も無限ではなかろうから何時かは弾切れを起こすだろう。だが、ただ待つには希望的観測が多すぎる。微妙なこの距離は楓のものではない。この距離が続けば、いずれ仕留められてしまうだろう。実際に戦っている楓には未来予知とも言えるレベルでその未来が幻視出来た。

 

「何を以ても距離を詰める!」

 

 屋根に着地するたびに繰り返される瞬動、空中で軌道を変える虚空瞬動の中で、一瞬たりとも停止していない分身が入り乱れた楓を狙い打てる真名に消極策は下策と判断。安全策を取って時間切れを待つぐらいならば、一か八かの賭けに出てでもチャレンジする。

 

「来るか」

 

 自身の有利を感じ取り、楓が状況を好転させる為に行動に出ると戦場の流れから感じ取った真名は、この距離が自分のものだとしても油断はしないと不穏な動きをした分身を撃ち落とす。 

 

「学校の成績は良くもないのに、戦いばかり上手くてはな」

 

 中々、仕留めらずにいる不満を口にしつつも、それによって銃口を揺らしはしない。戦場に感情を持ち込むのは狙撃手としては二流であると、修学旅行の時に学んだ真名の見据える目に曇りはない。

 一直線に向かってくる楓の姿に奇妙な喜びすらも感じていた。 

 

「流石だ」

 

 嬉しいと感じる感情の正体にすら気づかぬまま実弾と強制転移弾を織り交ぜて、飛来してくる苦無を撃ち落とす。戦況ほどに真名にだって余裕があるわけではない。少しでも気を抜けばやられるのは真名の方だ。

 瞬動である以上、直線的な動きしか出来ないのに糸を繋いだ苦無を方々に投げて、どこかに突き刺さった苦無に取りつけられた糸を引っ張って軌道を変える。自由自在に空を飛べるわけでもないのに空中戦が本当に上手い。

 

「む……」

 

 一度地面に降りた楓を狙うも突然斜線を遮ったのは、超包子のロゴが付いた路線バス。

 

「怪力馬鹿めっ!」

 

 楓が気で増加させた身体能力に任せに大質量の物体を投げたのだ。真名が避ければ、流石にバスが落ちる被害が大きすぎる。

 回避行動をとればそれだけ弾幕が止み、接近を許すだろう。考えるよりも早く銃を大口径の物に取り換えて、バスに向けて放つ。放たれた弾丸の強制転移弾が及ぼす範囲はバスを覆いつくすほど。必然、真名の視界から楓を見失わせるほどに大きい。

 

「真名なら、そうしてくれると信じていたでござるよ!」

 

 空中を掴んだまま足に爆発的な気を集中させたことで空間が軋む。縮地无疆による長距離瞬動で彼我の距離が一気に縮める。

 バスを転移させた力場が消滅した瞬間の空間を超えて楓が弾丸の如く真名へと肉薄する。間に遮る建物はなく、一直線に繋がった二人の視線がぶつかり合う。

 超速で向かってきながら無数に分裂した楓にも焦ることなく、狙いをつけて巨大力場を生み出す弾丸を放つ。

 

「ここで決めるでござる!」

 

 巨大な力場を叫びを上げた楓を呑み込む――――直上にいた分身二体の足を持った本体が軌道を変える。別の分身が両手を固めて足場を作り、本体が瞬動で蹴って更に加速することで強制転移弾を躱した。

 

「やるな」

 

 真名の呟きは最後の距離を詰める為に虚空瞬動をしようとしたコンマ一秒にも満たない静止の瞬間に、何時の間にか背後に真名が存在していた。

 

「転移符!?」

「正解だ。そしてさようならだ」

 

 顔だけ振り返る楓の驚愕の顔に向かって言い捨て、無数のマズルフラッシュが連発して全てを覆い隠す。勝利は明白、なのに真名の中に不審があった。

 

(上手くいき過ぎている)

 

 と、直感した真名だからこそ、横合いから放たれた苦無の一撃を辛うじて銃で受け止めることが出来た。

 

「さっきのも分身か!」

「そうでござるよ!」

 

 放たれた気弾を避け、至近距離からの銃を弾き飛ばす。が、何時の間にか、真名は両手に取り回しの良いハンドガンに取り換えている。顔面を狙った銃口を楓は間一髪で顔を傾けることで躱し、回避先まで追って来る銃を苦無で弾く。

 

「くっ!?」

 

 右手の銃が動かしにくい体幹を狙ってくるので苦無で防ぐが、連発された弾丸に持たずに折れる。その前にもう片手の苦無で持ち堪え、フルオート6発を耐えきる。

 弾倉交換を銃ごと取り換えることでタイムラグを最大限まで減らす真名に対して、分身と忍具を用いて捌き切る。交差する銃撃と苦無。接近戦に持ち込んだからと言って、すんなりと勝たせてくれる程、真名という女は甘くない。

 

「まだまだ――」

 

 楓の動きが爆発的に早まる。後先考えないかのような速度の上昇に真名の対処が遅れる。

 ここで斃さんとする楓の意気に真名も戸惑う。

 

「何故、そこまで」

「真名が友達だからでござろう!」

 

 唯一の救いは、この距離での強制転移弾を使えば真名も巻き込まれるので実弾重視になること。それでも単純な破壊力は苦無に勝る。

 苦無が掠り、皮膚が切れて血が飛び散る。銃弾が脇腹を掠め、衣服と共に血が舞う。互いの血が混ざり合い、どちらがどちらか分からなくなってくるような熱さの中で発された叫びは確かに真名の耳にも届く。

 

「修学旅行で拙者は真名に何も出来なかった。その後、碌に話すことも出来なかった。だからこそ、今度こそ真名とちゃんと話がしたいのでござるよ!」

「話など……!」

「言葉を交わさなければ相手を理解することも出来ないでござろう!!」

 

 今更意味はないと言いかけた真名を詰め寄って来た楓の眼光が封じる。

 右手の銃と左手の苦無が弾き飛ばされ、右手の苦無と左手の銃が火花を散らして鬩ぎ合う。空いた手は互いを拘束して、二人の動きが力比べの様相を呈して空中で鬩ぎ合う。

 互いに決め手を欠いて拮抗が生まれれた瞬間に反魔法場(アンチマジックフィールド)発生装置が起動し、鬩ぎ合いに集中していた二人を空中に留まらせていた力が減衰し、消滅する。

 

「「!?」」

 

 驚きは両者同じ。この拮抗を崩すことは相手の先手を与えることになり、下手な行動を取れない二人は重力に任せて落ちるに任せる。

 二十メートル、十メートル、五メートル、三メートル、一メートルとどこかの建物に向かって落ちて行っても動く隙は見せられず、二人は屋根をぶち抜いて落下した。落下の衝撃は優れた術者であり、まだ身体強化が消えていない二人をして、その衝撃は決して無視できる範囲ではなかった。

 

「ぐっ……くぅ、無茶をする」 

「…………そうでも、しなければ……真名を止められんでござるからな」

 

 落下したドサグサで離れた二人は、地面に転がって全身に走る苦痛に呻きながらも相手から目を離さない。

 

「どうしてそこまで私を気にする?」

 

 持っていた治癒符と護符、転移符が軒並み動かないことに眉を顰めてダメージの回復に努める傍らで問う。楓の戦いの動機への疑念であり、ここまで痛みに呻きながらも対話を止めようとしない疑問である。ダメージから回復するまでの時間稼ぎではあったが、問わずにはいられなかった。

 

「―――――真名のことが好きだから、でござるよ。勿論、友達として」

 

 同級生にこのような話をすることに気恥ずかしさがあるのか、僅かに頬を赤く染めながら震える手で体を支える。

 

「拙者は馬鹿でござるから、上手く話しが出来ないかもしれないでござる。それでも真名と話をしたいと思ったのでござるよ。後悔しない為に、今出来ることをする。真名もそうであろう?」

「後悔しない為に今出来ることを……」

 

 時間稼ぎをするだけなのに妙にその言葉が真名の頭に響いた。

 ズリズリと地面を這って向かってくる楓に真名の頭の中から戦闘の二文字が薄れた。まるでその瞬間を狙ったかのように、手を伸ばせば触れる距離まで這って来た楓が真名の手を掴んで笑う。

 

「油断大敵、拙者の勝ちでござる。全部、終わったら話をするでござる」

 

 笑って言う、楓のもう片方の手には強制転移弾。ダメージは抜けきっておらず、それを押して動こうとするも楓の手が握って離さない。

 楓が弾を握りつぶして、強制転移の為の力場が二人を包み込む。着弾すればエヴァンジェリンですら回避不能な強制転移の力場に包まれ、真名も諦めたように肩から力を抜いた。

 

「勝手だな、お前は」

 

 真名の意志も願いも全て呑み込んで強制転移は発動した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数年が経って、さよの行動範囲は座席から教室内、廊下、学校内と動ける距離が飛躍的に伸びていった。誰に見られなくても、誰と話が出来なくても、誰にも認識されなくても、さよは退屈しなかったし、幽霊であることを辛いとも思わなかった。

 活動範囲が大きくなれば出会える人間は増え、行動範囲が広くなれば出来ることは増えていった。

 誰にも認識されないという幽霊の特権を使う、この頃のさよの趣味は人間観察だった。

 年上から年下、学生から教師まで同じ人間は一人もない。表では良い人間で通っている人でも、一人になれば裏の顔を見せることがある。悪い人間が裏では良い人なんてこともあるので、そのギャップを楽しんでいた。

 ポルターガイストの力で本を読むことも出来たので、この頃のさよは心の底から幽霊生活を楽しんでいた。ただ、喉に小骨が刺さるように気掛かりが一つだけだった。唯一、さよを認識できていたであろう、近衛近右衛門が学校のどこにもいないのだ。

 やがて日常の中で気掛かりも忘れ、冬を越えて春を迎えた。

 誰に見られなくても、誰と話が出来なくても、誰にも認識されなくても、数年を共に過ごしたクラスメイト達と一緒に卒業できると信じていた。意味もなく、理由もなく、単純に、馬鹿なほどに。

 さよは生前のことを覚えていなくて、今は幽霊で地縛霊である。そんな彼女が卒業式を迎えても、卒業できるはずがなかった。

 卒業式が終わって、春休みが過ぎ去って、変わらない教室で新しいクラスになって。

 夏が来て、秋が過ぎて、冬を越えて、また春を迎えて…………そのサイクルを幾度か繰り返した。

 学区内から出られず、誰にも認識されないことにさよは遂に絶望した―――――――――孤独という言葉の本当の意味をその身を以て味わうこととなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガシャン、と明日菜は手に持っていたバスターソードを地面に落とした音で飛んでいた意識を取り戻す。

 アスカとの戦いの最中なので慌ててバスターソードを拾おうと手を伸ばして、全身に走った痛みに硬直して指に引っ掛かった武器を取り落とした。

 

「はっ、ぐ……」

 

 苦痛の呻きを漏らすも全身を支配する鈍痛は消えてくれない。額の上からドロッとした液体が垂れて来て、腫れ上がった左瞼の上から下へと流れ落ちていくのを拭うことすら出来なかった。

 無事な右眼で全身を見下ろせば、傷だらけの痣だらけで無事なところを探す方が大変だという有様だ。魔法的処置が内部に埋め込まれた左半身の鎧も壊れて取れるか、ベコベコにへこんでいる。無理もない、と明日菜は心中で呟いて顔を上げた。

 

「ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 

 獣が啼いている。それは決して獲物を屠った時に上げる歓喜の雄叫びでも、仲間を呼ぶ遠吠えではない。勝ち目がないと知りながらも避け得ぬ運命に立ち向かうべく上げられる現実に抗う叫びだ。

 

「アスカァァァァァァッ!!」

 

 喉も嗄れよとばかりに叫ぶ小太郎の声は荒れ狂うアスカには届かない。それでも尚、彼は拳と共に声を叩きつけることを止めようとしない。

 傷は明日菜とは比べようもないほどの酷い。平気なはずはない。このまま戦い続ければ小太郎はアスカに殺されるだろう。まだそうなっていないのは、千草が持たせた治癒符と護符のお蔭である。

 アスカの魔法攻撃を警戒して魔法無効化能力を全開にしている明日菜は魔法の力で動く道具の類を持てない。魔法無効化能力を使いこなせるようになれば、無効化したいものの選別も出来るようになるらしいが今の明日菜はまだその段階にはない。

 『治癒符と護符を持つ俺が戦うから姉ちゃんは援護してくれや』とは、戦いが始まる前に小太郎が言った言葉ではあるが、援護に徹していたはずの明日菜がもう殆ど動けなくなってきている。

 小太郎にしても殆どの治癒符と護符を使い果たした様子で、致命傷に陥りかねない攻撃は小さな傷を受けてでも避けている。明日菜にはとても出来ない芸当である。決して小太郎は弱くない。明日菜が十戦戦えば十戦とも負けるような領域にいるのに、まるで問題にせず捻じ伏せる圧倒的な力を振りかざすアスカが異常なのだ。

 

(紋様が全身を覆いつくしたらアウトって言っても……)

 

 エヴァンジェリンの忠告を思い出す。

 

『紋様が全身を覆い尽くせば、恐らく精神と肉体も完全に支配されて人外の化け物となる。呪詛に侵された状態でそうなってしまえば、破壊を振り撒く魔獣に成り下がるだけだ。その過程で耐え切れなければ死ぬし、仮に人外の化け物となれば二度と人間には戻れんだろう』

 

 と言い、エヴァンジェリンが知る限りでは腕部に留まっていたという紋様が頬にまで伸びているのを、戦いを追いながら確認する。

 

(服の下は分からないけど、もう顔にまで来てる。多分、もうそんなに余裕はないはず。それまでに正気に戻すなんて、私達に出来るの?)

 

 直感的に残された時間がそう残されていないことを感じ取り、二人掛かりで未だに一撃すら入れることが出来ない実力差に心が折れそうになる。

 絶望感が覆い始めている明日菜と比べ、ずっとアスカと戦い続けている小太郎は覇気を保っていた。

 

「もっと来いや、アスカッ!!」

 

 アスカの拳が振るわれて血飛沫が舞い、蹴撃によって口から吐かれた自身の血霞で覆われながらも小太郎が尚も叫ぶ。

 

「お前の方が強いいうんは分かってねん! 俺に才能が足らんこともな!」

 

 放たれた魔法の射手を狗神で迎撃し、生まれた間隙を縫うようにして避けたところでアスカの接近を許している。

 

「ネギみたいに頭が良くない! 明日菜の姉ちゃんみたいな特異な能力もない! 木乃香の姉ちゃんみたいな素質もない! ずっと前から分かっとったわ、そんなことは!」

 

 懐に入られたと同時に振るわれた拳を、腕をクロスさせて受けることで防御するも、小太郎の動きが全身が麻痺がしたように硬直して動きが静止する。今のアスカの前で動きが停止するなど自殺行為。無詠唱の雷の魔法の射手が込められて一撃からのコンビネーションといえば決まっている。次の行動が読めているのに明確な対処が取れない。

 

「それでも俺はッッ!?」

 

 アッパーカット気味の無詠唱の魔法の射手が込められた拳打で体が浮き上がっている小太郎は、狗神を使って自らを跳ね飛ばさせることでトドメの雷の斧を回避する。

 完全な回避は叶わず、左手の手首から先を焼け爛れさせながらも着地してアスカを見据える。

 

「お前を、ダチやと思ってる。だから、余計に我慢出来ん。答えろアスカ、俺がそんなに頼りないんか! 本気を出したら直ぐ死にそうな雑魚やとお前は思ってんのか! 俺を舐めんなや! 」

 

 小太郎は焼け焦げたズボンのポケットから半ばまで焦げている治癒符を取り出して左手に巻きつける。もはや効果があるのかも怪しい治癒符を神経が焼き切れたのか力の入らない左手に巻きつけたのは拳を作る為だ。

 力を入れることすら出来ないはずの左拳を強く握って掲げ、自分はまだ戦えるのだとアピールする。

 

「別荘で俺が初めて勝った時みたいに勝利を恵んでやろうっていう魂胆か? クソくらえや、そんなもん」

 

 ペッ、と吐き捨てた唾は真っ赤に染まり、叫ぶその両足も膝がガクガクと震えている。流れ出る血も負った怪我も既に満身創痍と言っていい状態なのに、犬上小太郎の戦意は衰えるどころか轟々とその勢いを増して、大きく猛々しく燃え盛っている。

 

「闇の魔法? 呪詛? 超鈴音? 魔法公開? 知らんはそんなもん。どうでもええし、俺達の戦いになんの関係もない。俺が言うことはただ一つ、本気の本気でかかってこいや!」

 

 小太郎の懐が淡く光る。何故か明日菜にはそれが小太郎が持っている仮契約カードのものだと感じ取れた。

 

「俺が本気のお前を受け止められへんと思ってんのか」

 

 明日菜は小太郎の仮契約の称号を思い出す。

 

「耐えられへんねん、ダチのお前に侮られるのは!」

 

 『誇り高き狼』と記された称号そのままだった男が、恥も外聞もなく本音を言葉にして叩きつける。

 

「俺とお前は対等やって分からせたらぁ!」

 

 決して使うまいとしていたアーティファクト「繋がれざる首輪」で潜在能力の全てを引き出しながら吐かれたその言葉は明日菜の裡にも響いた。

 明日菜の称号は『BELLATRIX SAUCIATA(傷付いた戦士)』。今の姿はそれに相応しい。そう考えると痛みさえ少し引いたようで、地面に落としていたバスターソードを拾い上げ、膝に力を入れて立ち上がる。

 

「私だってね、言いたいことは山程あるわよアスカ!」

 

 左手の薬指に意識の一部を割く。学園長の話では対のリングを付けているアスカとは心が繋がるらしい。どのような意味で繋がるのかよくわからないが、内部で戦っているはずのアスカを信頼しきれずに弱気に屈しようとしたことは許されることではない。

 意気を吐く小太郎を見習って覚悟を決め直す。

 

「超がなんか変なことやってるし、魔法公開だとか世界改変だとか難しいことばっかで、こっちは大変なのよ」

 

 血で滑るバスターソードを掴み直して、ギュッと離さないように左手で握る。すると、より薬指のペアリングを意識して口が回る。

 

「一杯色んな人達が動いてんのよ。何時までも寝てないで、いい加減に元に戻ってみんなを手伝いなさい!」

 

 これが神楽坂明日菜の生き方なのだと、揺るがない瞳で見据えてバスターソードを構える。

 

(………………ううん、違う)

 

 結局の所、これは言い訳だと自分の考えを否定する。

 自分は、ただ好きな人の笑顔を見たかっただけだ。楽しそうな、嬉しそうな笑顔を、もう一度覗いてみたかっただけだ。決して、あの呪詛に取り込まれている時に見せた苦しんでいる撫薰ナはないのだと

 なんて自分勝手な我儘。でも、その我儘は一体どうやったら叶うのだろうか。

 明日菜はひっそりと浅く強い息を吐き、迷いを振り切るようにして感情を見せないアスカを、空のように蒼い色とは似ても似つかない血のように紅い瞳を正面から見据える。

 

「もう一度、名前を呼んで」

 

 これで終わりなど認めない。

 

「もっと、アスカに触れたい」

 

 こんな結末を受け入れることは出来ない。

 

「まだ告白だってしてないんだから、勝手に終わらせてんじゃないわよ!!」

 

 返答はない。元より期待しているわけでもなかった。これはあくまで決意楓セに過ぎないのだから――――だからこそ、アスカに変化が起こったことに驚く。

 

「ぐっ……うっ、うぅぅぅぅぅっ」

 

 アスカが頭を押さえる。よほど苦しいのか、目を閉じたままで眉間に皺を寄せ、ゼイゼイと荒い呼吸を繰り返している。まるで闇の塊を覗き込んだかのように震えていた。

 ずっと能面のような無表情だったアスカが戦い始めて変化を起こしている。しかし、明日菜も小太郎も迂闊に喜べなかった。

 

「胸糞悪い雰囲気やで」

 

 アスカを安易に倒すのではなく正気に戻す為だから、接近して下手な行動を取られるよりも今は体力の回復を優先させる。このまま呪詛が解ければ万々歳ではあるが、近くにいるだけでこちらの正気を侵しそうなほどに狂った気配を撒き散らしている状況で楽観視は出来ない。

 邪気を撒き散らすアスカは何故か苦しむように首を横に振った。

 

「戦ってるんや」

「戦ってるのね」

 

 二人にはその動作と言葉の意味が分かった。ならば、動かないわけにはいかない。

 

「「戻って来い(帰って来て)、アスカ!」」

 

 その声とほぼ同時に、二人は獣化した爪とバスターソードをアスカに叩きつけたが、アスカの全身を紋様が覆う方が早かった。

 手で触れそうなほどに増した圧力を放ちながら、真っ赤な魔力の中で渦を巻いてアスカの足下から発生した黒い影が禍々しく輝く紋様と連鎖するように広がる。黒い影に触れた小太郎の爪がゴキンと音を立てて折れて明日菜共々弾き飛ばされる。

 二人が着地し、顔を上げるとそこにいたのは人ではなかった。

 短かった髪がざわめいては逆立って腰まで伸び、険が浮き険しさ増した面立ちにはもはや理性を感じられず、その顔から正気の色は完全に消し飛んで魔顔の様相を呈していた。

 

「■■■■■■■■■■■■■―――――――――――ッ!!」

 

 魔獣が叫びを上げた。もはや、言語は人語ですらない。

 発せられる力に耐えられないとアスカを中心に地面が次々に捲れ上がって吹き飛ばされ、直下型の地震の震源地のように大地が激震する。ただ、そこにいるだけで壊れていく世界。まさしく破壊の権化。

 凄まじい衝撃波を撒き散らしながら、閃光と粉塵の塊が膨れ上がる。その向こうから現われたアスカの姿は先程までと違って人の形をしていなかった。体の輪郭はもはや人間の姿は微塵も感じられない外見となる。殺気に似た波動を振りまき、ひどく禍々しい存在を世界に知覚させた。

 上半身の着衣が内側から弾け、裂けて、後頭部からは耳のような突起が伸び顔全体も一変、顎が大きく開いている。手足が伸び尾が生え、皮膚の色も肌色から漆黒に変わって、破壊のための破壊、殺戮のための殺戮を求める魔獣のそれへと変貌していた。

 叫びだけで全身から濃厚な殺気が溢れかえる。それは一面の花園すら一瞬で枯野に変えるような死の匂い、悪意の気配、心臓が縮むような汚泥の如き圧力だった。

 

「アスカっ!」

 

 もはや誰の声も届くとは思えない。そうと分かっていても明日菜は叫んでいた。

 明日菜の声に答えるように、ゆっくりと目が開いていく。白目まで生き血でそのまま染め上げたような真紅の目。血のように完全に紅く染まった眼には炯々と獣性の光が灯り、そこに人の理性は欠片もみられない。

 

「―――――」

 

 血よりも尚も濃い真紅に染まった殺意を凝縮したアスカの双眸に見据えられ、小太郎は咄嗟に背後に飛び退っていた。幾つもの修羅場を潜り抜けた時特有の、心臓に針を突き刺されたに等しい戦慄が小太郎を大きく飛び退らせた。

 

(俺がビビったやと?)

 

 アスカの形をしたナニカと目を合わせた小太郎は、冷たい悪寒が背筋に走るのを感じた。確信というよりも戦慄。こいつは危険だ、生物としての本能が直感した。

 こうなってから何か攻撃をされた訳ではない。その素振りを見せられた訳でもない。ただ、放たれた殺気に戦士としての直感が危機感を覚えたのだ。それは物理的なものではない。ただ単なる命の危機だ。動物としての本能がギリギリと心を締め付けた。油断するとそのまま地面に潰れそうなほどの重圧だった。

 動かなければ殺されていた、と小太郎の戦士としての本能が叫んでいた。

 

「明日菜の姉ちゃん、逃げるなら今やで」

「小太郎君こそ」

 

 もう射程距離に入っていることを自覚しながらも二人は軽口を叩く。心臓が止まっていたかもしれない殺気を前にして、一人ではないことが救いだった。

 

「じゃあ、一丁やってやりますか」

「死ぬなや」

「そっちこそ」

 

 明日菜は両手でバスターソードを握り直し、小太郎は強く拳を握る。

 さっきまでのアスカと違う圧倒的な気配。先程まですら光と思えるほどの、あらゆる存在を拒絶する禍々しき闇。目の前にいるのはアスカ・スプリングフィールドの殻を被ったなにか。そう思わなけば説明できないほどの変わりようを前にしても戦意を失うことはない。

 ミチリ、と魔獣の体となったアスカの体から感じられる内圧が上がる。同時に瘴気が膨れ上がっていく。

 

「来る!」

「■■■■■■■■■■■■■――――――――――――!!!!」

 

 純粋なる破壊と殺戮を求める猛々しい獣のような咆哮が上がる。目を吊り上げて咆哮するアスカの顔は、鬼とも獣とも呼べるほどに険しい。

 アスカがゆっくりと身体を前に傾けて、このままでは倒れると思われた瞬間、足元が爆発したように見えた。もちろんそうではない。限界を超えた力の解放によって、蹴られた地面が吹き飛んだのである。もはや人間の動きではなかった。

 雄叫びが発せられた瞬間には、アスカは明日菜の懐に潜りこんでいた。前向きに倒れかけたアスカの身体が、瞬きする暇すらないほどの間に、空気を破裂させて自身が発した衝撃の広がりを追い越して明日菜の直ぐの目の前まで迫っていた。

 完全に「人」という種の速度を根本的に超えている。世界最高峰のスプリンターの疾走であっても静止画像に等しい。

 

「!?」

 

 明日菜は驚愕した。構えていたバスターソードに衝撃が走って呆気なく折れ、尚も黒く染まった腕が腹に突き込んでいたのだから。

 踏み込みが、尋常でなく速い。それなりの距離があったにも拘らず、地を踏み抜いた爆音が遅れて発生する頃には、アスカの攻撃が明日菜を襲っていた

 小太郎は条件反射で大きく後方へ飛び退っていた。明日菜への攻撃を認識していたわけではなく、彼の戦士としての本能がその場にいる危険を悟らせたのだ。真に驚くのはこの後のことだった。

 

「がァッ?!」

 

 背骨が折れるかと思うほどの衝撃が斜め上から背中を襲い、退避を優先することで精一杯で防御の概念すらなかった小太郎の身体が地面に叩きつけられる。

 着弾と同時にプラスチック爆弾を炸裂させたような衝撃と粉塵が巻き起こった。あまりの威力に前方に小太郎の身体が投げ出され、地面に溝を作り続ける。自律的な動きを止めた相手に、アスカはそのまま突っ込んで行った。

 大砲の砲弾に匹敵する勢いで空気を切り裂きながら吹っ飛ばされる小太郎が地面に溝を作って生まれ続けている砂塵を突き破って、超高速移動でアスカが出現する。

 小太郎は辛うじて意識を飛ばされずにすみ、全身に最大級の警鐘が鳴る。このまま何もしなければ死ぬと。

 

「グゥォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッツ!」

 

 生命の危機に今まで出来なかった獣化奥義『狗音影装』によって一瞬で完全獣化した小太郎が、これも過去最速最大威力の爆発する狗弾を口から吐いた。

 

「■■■■■■■■■■――――――――――――――――――――ッッッ!!!!!!」

 

 通常時のアスカでは避けるしかない必殺を期した一撃である。だが、目の前に迫る狗弾を見据えたアスカは大きく口を開いて獣染みた叫びを放った。途端に狗弾が固い壁にでもぶつかったかのように、大きく弾き飛ばされて離れた地面に落ちて大爆発を引き起こした。

 叫びの中に高密度の魔力を込めて壁とし、狗弾を破壊するには至らなくても弾き飛ばすだけの密度を持っていた。狗弾が爆発した衝撃は先の一撃で完全に意識を失っていた明日菜の近く地面に大きな穴を開け、彼女の意識を取り戻させるほどの威力があったが、小太郎の視界からアスカをも隠してしまう。

 

「ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!!」

 

 小太郎の苦痛の呻きが響き渡った。超速で移動したアスカより放たれた突きが小太郎の体を貫いている。が、一瞬の後に獣化した小太郎の姿が霞の如く消えた。

 

「分身や!」

 

 地面を割って現れた獣化した小太郎がその大きな顎を間近で開いて、狗弾を近距離から放った。

 避けようのない狗弾が着弾し、大爆発が二人の姿を覆い隠す。

 

「こ、た……ろう君っ!?」

 

 口から大量の血を吐き出しながら、大爆発に巻き込まれた二人の安否を気にして叫ぶ明日菜。

 

「――――■■ッ!」

 

 爆発の影響が収まりきるよりも早く、また獣のような叫びが響き渡る。叫ぶ、ただそれだけの行為だけで、狗弾が押し返される。

 叫ぶ魔獣アスカから数百メートル近く吹き飛ばされ、地面に捲り返して何もかもを吹き飛ばして、小太郎すらもボロ雑巾のように飛ばされた。

 数百メートル近く飛ばされて地面に叩きつけられて、大きな岩がストッパーとなってようやく止まった小太郎はまだ生きている。絶命しなかったのは、完全獣化したことで魔物に近くなり生命力が上がっていたことと小太郎が生来持つ頑丈さのお蔭だろう。

 生きているといっても小太郎はもう虫の息。獣化すら解け、地面に倒れてピクリとも動かない。

 

「■■■ッ」

 

 アスカが凶悪なまでの喉の奥と思われる器官で唸り声を上げて殺意を滾らせ、ゆっくりと動かない小太郎に向かって歩き始める。

 そこにいるのは死神ほどの分別もなく荒れ狂う憎悪の塊であり、唯の悪意の化身である。道理を弁えずに無秩序に破壊を振りまく魔獣の姿だった。

 小太郎がもぞもぞと手足を動かし、赤ん坊よりも時間をかけて岩に身を預けるようにして座り込む。トドメを刺されるのは目前で、相打ちも出来ないにしても小太郎は残る全エネルギーを右拳を集める。

 そして、小太郎の下へ歩み寄った魔獣のアスカが腕を振り上げて――――下ろした。

 もはや魔獣となって理性の欠片すらも失ってしまったかに思われたアスカの腕が、後は振り下ろすだけで死に体の小太郎の息の根を完全に止められるのに、顔の上で凝固していた。

 

「ガァ――ッ!!」

 

 アスカが動きを止めた理由は分からずとも、意識があるかどうかも怪しい小太郎が全気力を込めた右拳を伸びあがるようにして、体の中心に叩き込んだ。

 ダメージを与えたかどうかは定かではない。ただ、小太郎としては満足だった。たった一撃を決める為だけに、誇りを投げ捨ててでも為さねばならないことがあった。それを為せたのだ。

 

「主役は別やからな」

 

 という言葉を残して小太郎の意識はブレーカーが切れるように落ちた。

 明日菜はここだと思った。小太郎が生み出したこの機会しかないと咸卦法の出力をオーバーロードさせて、半分に折れたバスターソードを携えてアスカに突っ込んだ。

 

「アスカァァァァァアアアアアアア――――ッ!!」

 

 集中力が極限にまで高まっているからか、明日菜の眼から見てアスカの反応が鈍かった。それでも明日菜よりも動きは遥かに速い。

 バスターソードを右斜め上から叩きつけて半分の半分に折れた――――――――――その寸前にバスターソードを手放し、超反応して防御したアスカの懐へと入り込んで――――――――――反応が遅れたその唇へと自身の唇を押し付ける。

 明日菜の服に幾層も練られ、織り込まれた仮契約の陣がその効果を発揮する光が意識を押し流す。左耳に付けた絆の銀が熱かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幽霊になってから十年か、二十年かの月日が経過していたのに誰にも見えないし、認識もされない。どれだけ声を張り上げようとも、さよの声は空気を震わすことはないから誰の耳にも届かない。

 最初から分かっていたことなのに、最初から理解していたことなのに、どれだけ努力しても誰も見てくれないことにさよは絶望していた。

 時にはポルターガイストの力で椅子や机を動かしたが、退治する為に呼ばれたお祓い師や高名な霊能力者にも認識されない。彼らの話から自分が他の幽霊と比べてもよほど存在が薄いのだと知った。

 騒動を起こした教室は閉鎖され、騒動が鎮火して忘れ去られて再び開かれるまでさよは自分のルーツを探した。

 見つかったのは、没年と今いる学校に通っている事実まで。地縛霊はこの世への未練や恨みで現世に残っているというが、生前のことを殆ど覚えていなかったさよにはどうしたらいいのか分からない。

 どうしたらいいのか、さよには分からない。大したことを望んだわけではない。ただ、クラスメイト達と話をして、馬鹿なことをして笑い合って、行事を楽しんで、一緒に卒業する、なんてそんな当たり前のことをしたいだけなのに。

 

『友達が欲しいだけなのに』

 

 泣いても、喚いても、誰も気づかれず。幽霊だから成長することも死ぬことも出来ないまま悪戯に時間だけが経過して行く。

 誰とも話せず、誰にも見えず、誰にも認識されないまま、幽霊になって三十年を超えれば、さよが絶望に倦んで全てに諦めて開き直るまで至るのに十分だった。狂うことも出来ないまま、嘗てはクラスメイト達だった者達が卒業して行くのを見続けた。

 誰とも意思疎通を交わせないさよは何時からか望み始めた、自分をこの境遇から救ってくれる人を――――――そんな人がいるはずはないと知っていても望まずにはいられなかった。

 




今話で判明した未来の一部を抜粋すると

「広域魔力減衰現象が解明され、機械で再現することが可能(反魔法場(アンチマジックフィールド)発生装置)」
反魔法場(アンチマジックフィールド)発生装置によって力を失った魔法使いは絶滅している。超が最後の魔法使い」
「魔法使いが滅び、魔法を吸収した科学である魔法科学を扱う魔導士がいる」
「超は魔力減衰下でも問題なく魔法が使える(ウェスペルタティア王国の血を引いている?)」

尚、航時機(カシオペア)が破壊されるのは計画通りとのこと。
超曰く、「それぐらいやてもらわねバ、ラスボスとして張り合いがないネ」と申されております。
しかもこれで第二形態で、まだ第三形態を残しております。

ネギが「高位魔法使い」の称号を得ました。
ネギが「策士策に溺れる」の称号を得ました。



反魔法場(アンチマジックフィールド)発生装置が起動するのがもう少し遅ければ、気が不足した楓が押し切られ、真名が勝利した模様。
結論:真名が押しきられたのは大体、超の所為。


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第56話 此処にいる

 時間が一番優しくて残酷だ、と言っていたのは誰だろうか。生前に言われたことを覚えていたのか、幽霊になってから誰かが言っているのを聞いたのか、本当のところは分からない。その言葉の意味だけは良く理解した。

 夢や愛と恨み辛みも、希望も絶望も何もかも、時間は全てを押し流す。

 誰とも話せず、誰にも見えず、誰にも認識されないまま、これからも永遠にこの地に留まるのかと考えると途方に暮れる。幽霊だから死ぬことはないし、狂うことが出来ないから欠落だけが大きくなっていく。

 六十年の時間の果てにさよに残ったのは、『友達が欲しい』という願望だけとなった。

 自分を認識してほしい、自分を見てほしい、自分と話してほしい、と願望が膨れ上がり、生前の気性か『友達が欲しい』と心の欠落を埋める願望が生まれたのだ。いや、正確には『友達が出来れば良い』と受動的な願いである。

 願いは抱けども、さよは諦めていた。存在感の薄い幽霊だから誰にも気づかれなくても仕方ないと。

 変わったクラスになっても諦めは変わらなかった。驚きはあったが。

 六十年見てきた中でも最も個性豊かな面々が揃い、複数の留学生を迎えたクラスメイト達が起こす騒動は見ているだけでも楽しかった。十歳ぐらいの子供先生二人と、十歳とはいえ女子校なのに男子生徒を迎え入れてからは毎日がお祭りのようで、決して自分はその輪に入れないと知っていても見ているだけで良かった。

 それでも自分には気づいてくれないのだろうなと三年時の修学旅行の班決めをしている中でも思っていた時だった。

 

「相坂がまだ決まってないじゃないか。お~い、相坂」

 

 彼――――アスカ・スプリングフィールドは、きっと幽霊になってから始めて名前を呼ばれたさよの喜びを知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスカ・スプリングフィールドが首を巡らせてみても、目に映るのは赤、赤、赤。そもそも自分の目が見えているのかどうかすら分からない。

 自分にはちゃんと足があるのか、聞こえている呼吸音は自分のものなのだろうか、自分は何をしているのだろうか、自分は誰なのだろうか。思考が、感覚があやふやになっていく。

 

「ぐっ…………っ、がぁ…………」

 

 そこは寒くて暑い不思議な空間だった。背筋が凍るようで震えが止まらないのに、皮膚に異常な湿気が纏わり付いて吐く息が生温い。

 アスカは血のように真っ赤な『赤』だけが支配する世界にいた。『赤』が血だと判断したのは匂いだ。このまま血を連想させる『赤』の牢獄に居続けたら自分が発狂してしまうのではないかという恐怖にとり憑かれそうだった。

 『赤』以外の色はアスカ自身と両手足を拘束する鉄色の拘束具だけ。アスカは牢獄のような場所で手首・足首に頑丈な鉄の輪が嵌められていた。

 鉄の輪は鎖で結ばれていて、手首から上に吊るされた格好になっている。足首は固定されていないが、代わりに足首に嵌められた輪と鎖が異様な重さだった。それに身体を引っ張られる形になって、アスカは殆ど身動きが取れない状態だった。

 鉄の輪は恐ろしく硬く、恐ろしく大きく、なにがあろうと砕けることもなければ外れることもない絶対的な拘束であるように感じられた。

 

「フン! ククク………」

 

 せめて拘束している鎖を外そうと考えたアスカの腕が、ぼんやりと白色の魔力光に包まれる。途端に鎖の先から雷光が迸って鉄の輪に伝わって全身に稲妻が奔った。

 

「グァアアアアアッ!」

 

 悲鳴に近い呻き声を上げて、アスカは身体を激しく痙攣させた。腕の魔力は、途端に拡散して消えてしまう。

 プスプスと焼け焦げた匂いと蒸気を発するアスカの身体は完全に力を失って、がっくりと垂れ下がった。

 

「無駄だと分かっているのに諦めの悪い。何度目ですか」

 

 何度繰り返したか分からない愚行に呆れたように聞き覚えのある男の声が聞こえた。アスカの直ぐ目の前から。

 声の主は、アスカの傍らにいた。閉じていた目を開ければ、それはアスカに似た背格好の人間だった。だが、誰かは分からない。相手は、まるで影がそのまま固まったかのように真っ黒に塗りつぶされていたからだ。

 

「殺されたのも合わせれば十回以上じゃないか」

 

 名無しに返しながら、ペッと床に血を吐き出す。電撃で内臓がやられたらしい。

 

「ここは俺の中――――現実には存在しない、謂わば幻想空間みたいなもんだ。肉体の死に意味はない。精神が死なない限り、ここでは生きていられる」

「だとしても死は実感として残る。十回も繰り返せば、普通ならばとっくに発狂死してもおかしくないものを」

「生憎と諦めの悪さだけが取り柄なもんでな。待っていても無駄だぞ。俺は、絶対に諦めない」

 

 解けないと分かっていても、アスカは手首の戒めを解くための虚しい努力を続けていた。頭上にある手首に向かって必死で魔力を集中しようと、何度目かの試みを開始した。また雷撃に全身を焼き尽くされると分かっていても。

 

「グギギギギギギギギッ――――!?」

 

 目玉が裏返りそうなほどの電撃に身を焦がしながらも、諦めも悪く愚行を繰り返し続ける。

 走る稲光を眩しそうに目を細めながら眺めていた名無しは、アスカが傷つき疲れ果てて鎖に吊るされるがままになるのを待ってから口を開く。

 

「そう、アスカ・スプリングフィールドは諦めない。諦めた時、足を止めた時が終わるのだと知っていたから」

 

 名無しはそう言って笑う。善悪を知らない子供が、与えられた玩具を壊すように楽しげに笑っていた。

 

「父親の跡を追う道は果てしなく、一度でも足を止めてしまえば村の人達を犠牲にした罪悪感から前に進むことが出来なくなる。前に進むことで、君はずっと罪悪感から逃げ続けてきた」

 

 遠慮のない、脳の内側まで覗いてくるような瞳。紅い朱い赤い眼は、血のように感じて気持ち悪い。

 アスカはこの人物を知っている気がした。そう、魂の底までよく理解しているから、こうまでアスカが見ようとしていなかった真実を言える。

 

「これは当然の結果だ。こんな無様な結末こそが君には相応しい」

 

 こちらの抱く違和感を知ってか知らずか、名無しはいかにも苛立たしげな表情と声で言葉を続けた。

 名無しの言う通りだった。罪悪感から眼を背け、向かい合おうとしなかった。あまつさえ、挑発に乗ってこんな様を晒している。無様としか言いようがない。

 突然、足元にぽっかりと開いた暗くて深い穴に、アスカは真っ逆さまに堕ちていった。それほどの眩暈を覚えた。これまで流してきた血も、堪えた涙も、呑み込んだ怒りも、無念も、なにもかもが無に帰する。

 やはりとも、まさかとも、よもやとも、思って感じて願った。

 幾度と泣く味わってきた類似した不安、或いは不審。もしかしたらなんて推測をずっと見ない振りをしていた。だが、ありえてはならない悪夢は目の前にいた。

 名無しは彼が忘れて、見なかった振りをしたもののの亡霊だった。彼が追うべき罪科の象徴であり、彼の行ってきた行為の結果であり、詰まるところは宿命の尖兵だった。

 動かぬと見えた勝利のはずなのに、名無しの眉が寄せられた。

 

「…………どうして笑っている?」

「?」

 

 不審と共に放たれた言葉にアスカは最初意味が分からずに首を傾げたが、名無しが言うのならば嘘はないのだろうと笑みを深めた。

 

「ああ…………笑っているのか、俺は」

 

 自分でも意識しなかった表情の変化を理解し、自らの内側を捲り返したようだった。

 やっと本来の自分に戻れた気がした。ずっと騙していた。ずっと偽ってきた。本当の自分をようやく見つけた気がした。

 

「はは……」

 

 くぐもった声が喉から漏れる。

 何で自分がこんな目に合わなければいけないのか、という思いはある。だけど、これらは何時かは向き合わなければならないアスカ自身の宿業なのだ。

 

「…………分かってる」

 

 アスカは泣きたくなった。訳もなく理由もなく、小さな子供のように泣き叫ぶことが出来れば、どれだけ楽になれるか。でも、それだけはしてはいけないと知っていた。歯を食い縛って、何時ものように前を向く。

 

「分かってる…………俺が間違っているのは分かってる」

「間違えていると理解しているのならば諦めてしまえばいい。周り全てに、自分にさえ嘘をついて…………自分を演じ続けてきた。もう、いいでしょう? いい加減に全てを捨てて楽になっても」

 

 目の前に名無しは、皮肉に歪んだ苦笑でこちらに斜に見やった。それはきっとその通りであり、事実であるのだろう。少なくとも今、突きつけられた事実に苦しんでいることが証明している。

 

「出来ない。俺は前に進み続けなければならないんだ」

 

 それはもう決意したことだ。信念としたことだ。それを曲げることは間違っているし、曲げる意味もないことだ。だから拒否した。すると、向かい合う名無しは心底呆れ果てた様子で溜息を吐く。

 

「君は何も理解していない。父を目指し、前に進んだところで君に残るものは何もない。英雄が残した負債に苦しめられるだけだ。ナギ・スプリングフィールドは間違えた。あの時、あの場所で、どうしようもなくなったタイミングで現れるべきではなかった。住んでいた場所も家族も多くを失って、それらを引き起こしたのが自分達だと気づいた君達が縋れるのは、あの時に現れた絶大な魔法使いである父しかいなかったのだから」

 

 それは決して憧れなどではない、と名無しは断言する。

 

「別の者があの地獄から救い出してくれたならば、きっと君達はその人に憧れを抱いただろう。だが、決して全てを賭けてまで追おうとしなかった。それが何故か分かるか?」

「父親、だったから……」

 

 改めてアスカは考えた。もしも、自分を助けたのがナギではなく他の誰かであったならと。

 

「あの日、君にはネギと違ってナギと出会った記憶が殆どない。覚えているのは、おぼろげな背中と誰かが頭に触れたことだけだ。後からナギが村を助けに来たことを聞かされ、ネギの記憶を見ても自分は本当にナギに救われたのか実感が持てなかった」

 

 次の言葉が放たれた後も、前の言葉はまだ宙を彷徨っていて、少しずつ闇に溶けながら余韻を重ねているようだった。

 

「父親に憧れ、求める子供の願いを阻む者はいない。ああ、誰にも理解できなかっただろう。まさか、息子が父と同じになることで罪悪感から目を逸らし、恐怖から逃げるなど思いもしないから。君はナギ・スプリングフィールドを父親だからという理由で都合の良い逃げ場所にしたんだ」

 

 纏わりつく響きを振り払おうとしたが、どうすれば逃れられるのか分からなかった。頭の芯が痺れていく。まるで心の中に麻酔を打たれ、感覚の無い痺れた部位がどんどん広がって身体全体を侵食していくようだった。

 

「誰かを助けたいという願いも何もかも、立派な魔法使いである父ならばそうあるだろうとする姿を真似したいるに過ぎない。君の全ては父親と同じになることで、あの日の自分を救おうとしている。抗弁するならしてみろ。人を救う立派な魔法使いには必要ない強さを求める理由を答えてみせろ!」

 

 名無しの糾弾に、アスカの胸に氷点下の理解が滑り込んだ。彼は楽になりたいのだ。この身を苛む罪悪感と苦しみから解放されたいのだと。

 

「罪悪感と恐怖から逃げても全ては過去にある。過去から目を逸らしている限り、君に救いはない。全てを僕に明け渡し、君は楽になればいい」

「ああ。諦めたら、捨ててしまえたら楽なんだろうって…………ずっと思ってたさ」

 

 アスカは腕の力を抜き、身体を伸ばして、だらりとぶら下がりながら、悔しげに細めた眼を伏せた。目の前の名無しが言っていることは事実だと誰よりも良く知っている。戦いの果てに偽物の想いを糧にして進むアスカ自身に得るものはきっとない。戦いで得られたものなど何もないと、今までの経験から分かっているから。

 

「親父に憧れて求めた。いや、親父に成れれば全部上手くいくのだと、ずっと思ってた」

 

 言いながらアスカの脳裏に浮かんだのは、父も無く、母も無く、周囲全てが敵だと思って過ごした最初の頃の魔法学校での記憶だった。

 兄や幼馴染、スタンや最も親しい従姉にすら心を開けず、授業で学んだ魔法は暴発しっぱなしのアスカに魔法使いとしての才能はないようだったからフラストレーションが溜まっていた。手近にいた年上だからって偉そうにしている上級生相手に腕っぷしを鍛えようとして喧嘩を売り続けた。そうすることが強くなる道だと思い込むことで意地を張り続けた。

 

「…………でも」

 

 アスカは手首に渾身の力を込めて鎖を破ろうとする。この牢獄において、それは絶対に許されないこと。雷光を発してアスカの身体を打ち据えた。

 

「ぐあっ!」

 

 暗黒に染まっている牢獄に、アスカの悲鳴が木霊する。苦痛に耐えながら、腕に込めた力を抜こうとしないアスカを、続く言葉を待っている名無しが見ている。

 

「助けてくれてありがとう、ってナナリーが言ってくれたんだ。人を傷つける拳しか持っていなかった俺に」

 

 思い出す、思い出す。名無しの糾弾で暴かれた心の奥から、記憶が連鎖するように湧き出してきた。

 

『君にはまだ難しいかもしれないけど、よく考えるんだ。誰かを助けるなら守るなら、考えることは無駄にはならない』

『覚えとれよ。次は負けへん』

『私は不死者だ。お前達が死ぬまで待ち続けよう』

『傍にいて』

『俺達の子供に生まれてくれてありがとう』

 

 刹那に想起する記憶は断片的だ。それでも十二分にアスカの力となった。

 

「色んな人と出会って、友達が出来て、親友(ダチ)と戦って、仲間になって」

 

 全力で力むあまり、アスカの目の前がすうっと暗くなる。刹那、その脳裏に、今まで出会ってきた人たちの姿が去来する。

 ここに至るまで随分と時間をかけた。寄り道もした。どれほど進もうとも、行程は僅かとも縮まらない。休まず、諦めず、迷わず、眦を強く引き絞って長い道を進み続けてきた。果てはあるが求める父の背中はずっとずっと遠く、間にいる高畑の背中にも近づいた気はしない。

 あまりにも遠すぎたから、足を止めることなど考えもしなかった。腰を休めたら、足を止めたら、あまりの道程の過酷さに挫けてしまうから。

 アスカはもう一人ではない。ある時は励ましてくれ、ある時は敵として雌雄を決し、ある時はアスカの苦しみが決してアスカだけのものではないことを教えてくれた。

 何もなかった自分を変えてくれたナナリー、指針を示してくれた高畑、共に道を歩いてくれるネギ、背中を押してくれるアーニャ、帰る場所で待ってくれているネカネ、仕方なさげに送り出してくれたスタン…………他にもウェールズにいた時でさえ数えきれない人達がいてくれた。

 明日菜達と出会って、小太郎と競い合って、千草を困らせて、エヴァンジェリンと戦って、麻帆良に来てから楽しくて仕方がなかった。

 そうした出会いがあったからこそ、アスカの裡にあった欠落は埋められていった。満たされてゆく。満たされてゆく。まるで、一枚の写真のように、勢ぞろいした皆が目蓋に映る。その幸せな風景が段々白い光に包まれて、ついには真っ白になった。

 

「…………このままじゃ、逃げたままでは駄目なんだ! このままじゃ、もっと駄目になってしまう! だからっ!」

 

 痛かった。脳髄よりも深く、もっと強く心の奥底に深く突き刺さるかのよう熱情。電撃によって切れた額から流れた血に濡れた顔を上げて、髪を振り乱しながら叫ぶ。

 全身を震わせて手首に全力を集中した。雷光はアスカの身体を絶え間なく舐め、その度に表情が異様に引き攣ったが、それでも諦めようとはしなかった。

 

「グハッ!」

 

 食い縛った歯の間から、思わず呻き声が漏れる。だが、尚もアスカは力を込め続けた。手首の鉄の輪はビクともせず、それどころか牢獄中から容赦なく電撃がアスカの身体を走り続ける。

 

「あ―――――あ、はあ、はあ、あ――――――」

 

 もう、自分の呼吸音しか聞こえない。

 

「だから…………目を背けちゃ、駄目なんだよ!」

 

 自らが吐いた言葉で、アスカの中でなにかがゆっくりと、だが劇的に変化させてゆく魔法の言葉だった。

 この想いは偽物なのかもしれないけれど、アスカ・スプリングフィールドが持っている意志、胸の中に宿っている熱は本物だ。ヒトの温かさを、心強さを、肌身に染みて感じ続けたから、矛盾だらけでも偽善の奥の彼自身は変わらなかった。

 

「なら、直視してみるがいい。君の罪と、他者の悪を」

「あ――」

 

 鎖から伝わってくるのが増えた。今度は肉体ではなく精神を侵す波が心を浸食する。

 

「――――」

 

 人を黒焦げにするほどの熱病にでもかかったのか、頭の中は遠くに溶けて、耳から流れ出したかのよう。

 どうかしている。もう脳みそはないみたいなのに、体は痛みを訴え続け、空っぽの頭は律儀にそれを受け入れている。空洞なのは頭だけじゃない。胃も心臓も所在は不明。耐え切れない吐き気、吐く物など残っておらず、吐き気は際限なく増していく。

 その悪循環に、歯を噛んで耐える。意識は保てる。自分だけの痛みなら、自分だけが耐えればいいだけ。そんな事なら、何時ものことだから問題はない。

 

『クルシイ』

 

 だけど、問題はこの声と纏わりつく気配だった。

 聴覚に訴えかけるものではない。直接、アスカの脳内に語りかけてくる。数え切れない悲痛な叫びが、アスカの心と身体を激しくかき回している。それは絶望であり、憎悪であり、憤怒であった。

 

『タスケテ』

 

 足を掴まれる感覚に、アスカは足元を見下ろす。

 そこには、死が積み重なっていた。子供も、老人も、男も、女も関係なく、大量の屍と腐臭が積み重なっていた。屍の山から生えてきた無数の腕がアスカの足に絡み付いている。さらに、ぐにゃりと伸びた別の腕が、アスカの身体を押さえ込んだ。

 

『シニタクナイ』

 

 どれかが言った。空気の振動ではなく、直接精神へ訴えかける声。耳の奥で、鼓膜の内側で、頭蓋骨の深奥で延々と木霊する。

 何度も何度も何度も何度も何度も――――声ならざる声で、言葉ならぬ声で、アスカに囁きかけてくる。纏わりついた濃厚で人を侵す呪詛は、それだけで人間を狂わせる。

 聞こえるのは怨嗟の叫び、全身を掴んでくる亡者の手。腐臭が漂い、数えきれぬほどの人々の断末魔と呪詛の言葉が胸を抉る。

 見えるのは夥しいまでの生首と、同じ数の首を失った身体とが原型を留めずに腐り果てている。

 鼻も眼球も耳も唇も、何もかもが区別がつかないほどに皮膚が蕩け、ギトギトの髪の毛が白く覗いた骨の内側まで絡んでいる。未だ白骨と成り遂せていないだけに転がった生首達の姿は地獄さえかくやと思わせる異常性を漂わせていた。

 

「あ――は、あ――」

 

 聞こえるのは己の呼吸だけで、頭の中は空になって久しいのに、声はずっと響いてくる。それが誰の声なのか、アスカには分からない。

 エヴァンジェリンの六百年、超に埋め込まれた呪詛に込められた百年、彼ら・彼女達が抱いた正負の感情全てがアスカの中に雪崩の如く押し寄せてくる。

 

『モドシテ』

 

 死んだ彼らが声を揃えて生きていた頃に戻りたいと願っている。山を成して積み上げらた彼らの骸が嘆願する。

 このまま闇に呑まれれば最後の理性も跡形もなく消し飛び、自分は人としての生を終える。後は死と殺戮のみを屠る忌むべき魔獣へと変貌するだけだ。敵も味方もなく、世に終焉を齎すべく、世界に生きとし生けるもの全てが滅び去るまでただひたすら万物を破壊し続ける、破壊の為の破壊者へと。

 腐乱し蛆の湧いた全ての顔が希う声に何度も力尽きて挫けそうになりながらも、それでもなお、アスカは足掻きを止めようとはしなかった。その光景を、名無しは信じられないという面持ちの見つめていたが、どこか納得しているようにも見えた。

 傷つけたくないと偽善で覆い隠した建て前で明日菜達から離れようとした。その果てに気付いたことがある。望んだモノが在る。求めたモノがある。進むために、逃げない為に足掻くアスカを拘束するビクともしないかと思われた手首の金輪とそれを結ぶ鎖が、微かに軋んだように見える。

 次の瞬間、先程に倍する雷撃がアスカの全身を包んで激しく踊り、怨嗟の声が無限に脳裏でガンガンと鳴り響く。

 

『タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ』

 

 アスカの頭の中で慟哭と怨嗟に満ちた魂が断末魔の叫びを上げ、無数の声が反響して木霊する。何千何万何億――――人類全てが同時に発した断末魔の叫びのようであった。老若男女、様々な声が入り乱れているが、ありとあらゆる絶望、苦痛、嫉妬、怨嗟などが複雑に絡み合い、断末魔の叫びとなって吹き荒れる。

 

「ぐ、ああああああああああッ………ああああああああああああああ!」

 

 耐え切れないと、魂が、肉体が悲鳴を上げる。やがて痛みすら感じなくなり、落ちているのか、それとも昇っているのか、留まっているのかさえ判然としない。アスカ・スプリングフィールドという存在が木端微塵に切り裂かれ、破片すらも凌辱されて自分を失っていく。

 肉体が喰われ、精神が裂かれ、魂が呑み込まれる。記憶が千切られ、自分の名前すら忘却し、何が大切だったのかも分からなくなる。

 悪意と負の感情に全てが掻き消えるその寸前。

 

『アスカさんなら大丈夫です。私が護ります』

 

 何かが散り散りになったアスカを繋ぎ合わせて、守るように悪意の前に立ち塞がる。

 人の形を取り戻したアスカに、間に何かがあっても人を簡単に発狂死させるには十分な負の感情の塊が押し寄せ続ける。鍛え上げてきた強靭な精神力で、辛うじて、薄皮一枚の危うさで飲み込まれることから踏みとどまっているに過ぎない。

 

「――ぐ、あ――は――」

 

 失い、奪い、殺されてきた人達の怨嗟の声。気が狂う。彼らの声を聞く度に胸が深く抉られる。どれだけ善行を積もうとも、死者は二度と戻らない。それが覆すことの出来ない現実である以上、アスカに彼らに出来ることは何もない。

 でも、アスカ・スプリングフィールドは知っている。理解している。痛感している。どれほど過去から目を逸らそうと、どれほど無かった事にしようと過去は消せない。ずっと背後から亡霊のように追いかけてくる。だが、逃げることはできない。この亡霊たちはアスカが心の中から捨て切れなかった過去に対する負い目を感じている限り離れはしない。

 

「俺は、謝らない」

 

 アスカは彷徨う魂たちに向けて震える声で言った。アスカは目の前にいる名無しを、その向こうにいる蹲ったままの『自分』を見据えた。全身を震わせ、腕を広げる力を更に強める。

 ごめんなさいと言う代わりに、何もしてあげられない代わりに願った。彼らを救う存在がいてもいなくてもいいから、せめて彼らが安らかなところに逝けるようにと。

 自分が踏みつける全てに頭を下げて、それでもアスカは前に進むことを選択した。

 多くの物を奪い、多くの死を重ねてきた。その痛みに耐え、悔いる事が、失われたものへの鎮魂に他ならない。間違え、過ちを犯し、全てを背負って進むと――――――もはや、飛び散る雷光や無限に木霊する怨嗟の声さえ意に介さない様子で、アスカは全身を屈めるようにように持てる全ての力を手首に込めていた。

 

「ガッ! ………グギギギギギギ」

 

 ブスブスと白煙を上げながらも、アスカは更に腕に力を込めていく。アスカの腕が、左右に僅かずつではあったが、開き始めていた。錯覚ではなかった。ほんの僅かずつ、その幅が広がっていく。

 

「…………諦めろ。諦めろ! 諦めることが君の幸せなんだ! 今更、過去を拾ったって捨てた物が戻るものか!」

 

 名無しの声が、うわ言を繰り返す。引き裂かれた心の悲鳴がアスカの耳に叩き付けられる。叫んだところで何か変わる訳でもないことを知りながらも叫ばずにはいられない感情がアスカを呑み込む。

 

「君に分かるか? 置き去りにされた僕の孤独が、悪を押し付けられた僕の気持ちが! 僕が、どんなに辛かったか……」

 

 叫びを聞いたアスカの心が軋む。アスカの精神の奥底に封じ込められていた寂しがって泣いている幼い子供の自画像(イメージ)が、触れた先から緩やかな波紋のように伝わってきた。 

 

「僕は此処にいたんだ。何時だって此処にいたんだ」

 

 幼子が寂しがって声を上げ、わんわんと泣きじゃくっている。

 

(どこで間違えてしまったのだろう?)

 

 唐突にそんな疑問が湧き上がった。

 名無しの闇の正体は、日々の中で積み重ねられた想いそのものだった。だがアスカは名無しの願いを拒絶したのである。受け入れるわけにはいかなかった。

 

「でも、君は僕を探そうとさえしなかった…………僕は此処にいるのに!」

 

 あの時の少年のままに、両腕で頭を抱えた名無しが叫ぶ。

 胸の奥底から沸き上がった感情がアスカの声を詰まらせた。大きく肩を上下させ、喘ぎ声を漏らしながらもアスカはなんとか顔を上げた。しゃくり上げるような息を一つすると、声を震わせながら言った。

 

「俺も、此処にいる」

 

 ひくっ、と名無しの息を呑む気配が伝わってきた。

 

「嘘をつくなっ!!」

 

 喉を切り裂かれ、血に塗れた声を吐き出すように名無しが言いながら両腕を伸ばしてくる。がしっと音を立てて、子供とは思えない力で、指先がアスカの喉下に食い込んでくる。

 

「う、ぐぐぐ……………」

 

 アスカは名無しの正体に気付いた。

 その正体は認めたくない自分。影、闇、破壊衝動の塊、となんでもいい。誰しもが持つ、自分自身を嫌悪する自分だ。アスカの心の虚を反映した、最も弱く、惨めで、哀れで、ちっぽけな影。アスカが心の奥に封殺しようとしていた、あの頃の弱く守られるだけの幼子の姿そのままに。

 会話にはならなかった。最初から声も届かなかった。世界中のありとあらゆるものが、自分自身でさえ気づこうとせずにここまで追い詰めた。

 

「このまま、死ね!」

 

 感情を全く感じさせない顔で名無しが言った。アスカの首に食い込む指の力が増し、嫌な音を立てて首が後ろへ反り返っていく。

 

「嘘……じゃ、ない」

 

 アスカは、必死の形相で両腕を持ち上げ、名無しの手首を掴んだ。鎖に拘束されたまま全力を込めて、その手を引き離しにかかる。それはアスカの精一杯の抵抗だった。だが、相手にならない。これは素手で重機に立ち向かうようなものだ。

 アスカの心は、捨ててしまえといっている。こんな想いをするぐらいなら、悲劇を繰り返すぐらいなら全て諦めてしまえと。その方が楽なのに、どうしても捨てられない。彼の心のどこかが違うと叫んでいる。

 

「僕と君、何が違うっていうんだ」

「違う」

 

 それでも、そんなのは関係ない。ガチガチと、今にも死にそうな体を無理矢理に動かして眼前の己を睨みつける。

 

『間違ってもいいんです。偽りでもいいんです。命が失われない限り、生きていれば何度でもやり直しが出来ますから』

 

 誰かが寂しそうな表情を浮かべてそんなことを言っている。

 

「親父の、叔父さんと叔母さんの、俺達を守ってくれた村のみんなの背中を覚えてる。タカミチの辿り着けないかもしれないと知っていても先を進む背中を知っている」

 

 アスカはまだ生きている。間違えたというのならば正せばいい。偽りであろうとも前に進むこの気持ちは本物だと胸が張れる。ここで諦めてしまったら、生かしてくれた皆の意志を無駄にする。

 

「間違いであることなど、どうでもいい。偽物だからどうした。始まりが偽物でも間違いでも、そこで得たものと失ったものは俺だけのものだ」

 

 どれだけ善行を積もうとも、失った命は戻らない。アスカの生涯はきっと悔いながら続いていくだろう。それでもアスカは苦難と共に償い切れぬ罪を少しでも償おうと抗い続ける。感じ、傷つき、恐れさせる心。脆くて、効率が悪くて、時にはない方がいいと思える生身の心が叫んでいる。

 

「この歩んできた道程こそが俺とお前の違いだ」

 

 肺が悲鳴を上げている。熱い痛みが胸の突き刺し、体中が焼かれたように引き攣った。それでも言葉の限りに訴え続ける。

 

「蹲ったままの弱い自分を肯定できない君は何も変わってなんかいない!」

 

 名無しは頑なに認めようとしない。

 

「ああ、弱い自分に価値なんてないと思ってた。でも」

 

 護られるだけの自分に、弱い自分に価値なんてないとアスカはずっと思っていた。

  

「俺を護りたいと言ってくれる人がいた。俺の隣にいたいと言ってくれる人がいた」

 

 明日菜が彼を誑かしたわけではなかった。アスカが求められてもいないのに、心が動いて戦おうとしていた。だからこそ、明日菜の為にどこまでのことをしてやるのかと、ふと恐ろしくなった。本当は明日菜を救うという戦いをアスカがしたい欲だった。彼は傲慢な悪だった。

 

「正しくなくていい。間違っていてもいい。俺は俺で、アスカ・スプリングフィールドのまま、進み続ける」

 

 言い切ったアスカの左手の薬指に装着されたペアリングの片割れが絢爛に輝く。

 

『俺とお前は対等やって分からせたらぁ!』

『まだ告白だってしてないんだから、勝手に終わらせてんじゃないわよ!!』

 

 朱の闇を払う荘厳な光を厭うようにアスカの首から離れた名無しが、忌々し気にペアリングを睨み付ける。

 

「彼女との指輪が反応してっ!?」

 

 名無しの意識がペアリングに集中したその僅かに出来た隙をアスカは見逃さなかった。

 

「うおおおおおおおおおおああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」

「!!!」

 

 アスカはわざと(・・・)魔力を暴走させ、獣染みた咆哮を上げた。

 安定させることなく、体内に爆発的に湧き上がった魔力が全身を駆け巡り、傷つける。その瞬間は不意にやってきた。ごくゆっくりと伸びているように見えた手首の鎖が、突然ブチッと音を断てて引き千切られた。砕けた鎖の破片と共にアスカの身体が床に堕ちる

 すると世界の色彩が反転する。それまで辺りを包んでいた闇の帳が、さあっと晴れ上がっていくのが分かった。見ると、数メートルほど離れたところに名無しが経っており、驚愕の眼差しを向けていた。

 

「ごほっ……!」

 

 血を吐き出してアスカは呻いて笑った。内臓はグチャグチャで骨があるのかも分からない状態だったが、体の奥から無限の力が湧いてくるかのようだった。

 アスカの笑みに名無しが恐慌を来たしたように目を見開いた。

 

「うわぁあああああああああああ――――ッッ!!」

 

 叫ぶ名無しを中心に穢れた空気が凝り、人の形をした悪意が顕現したような瘴気が振りまかれる。清浄な気配とは全く次元の異なる遥かに穢れた空気。沸騰する寸前の熱湯にも似て、沸々と空気が泡立っている風にも感じられた。その空気が渦巻いた。

 

「ハアアァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」

 

 咆哮を続ける名無しの全身に紋様が浮かび上がり、熱を孕んだ白い蒸気が立ち上る。

 放射される白い蒸気に呼応して名無しの中の力が桁違いに膨れ上がっていく。渦巻く力が、まるで純白の竜巻を形成していく。この濃厚すぎる白さは異常だった。それこそ、暴力的なまでの白さというしかない。

 何色にも染まれるようでいて、何色にも染まることを拒んでいるかのような色合い。それは常闇よりも深淵よりも深い黒と本質的には同義である。このような光を発するだけでも異常。どれだけ濃密な恨みを、どれだけ積み重ねれば、これほどにも白に至れるのか。

 表で小太郎と明日菜の前に立つアスカの姿と同じく魔獣となった名無しは、一瞬の内にアスカの懐へと飛びこんでいた。

 

「がはっ!!」

 

 先程まで戦っていた時よりも数倍する威力を秘めた拳が空気を灼く。名無しの拳から危険を感じて咄嗟に展開した障壁さえも突破して腹に食い込んでいた。有り余ったエネルギーは、一点に収縮しきらず、爆発した。

 音速を超えた速度と、常識外れの威力は衝撃波を生み、地面に地割れを引き起こす。

 驚愕に息を飲んだアスカの腹に、魔獣の拳がめり込んでいた。下から掬い上げるようなアッパーによって斜め上に弾き飛ばされる。

 

「ハァアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 

 魔獣の姿となって、今や人間の限界を遥かに超えた身体能力を持った名無しに不可能などなかった。

 名無しは拳を戻しざま、一瞬にして上空数百メートルの高さにまで跳ね跳んて吹き飛んで行ったアスカを追いかけるように、足元を爆発させて破壊しながら宙に舞い上がった。

 

「くっ!」

 

 名無しから放出されると力の量がさらに跳ね上がる。パワーとスピードが爆発的に増した拳が、アスカを追い抜いて頭上からさらに破壊的な一撃を見舞った。かろうじて掲げた両手で頭部の一撃は防いだものの、今度は直角に地面に向かって急降下を始める。

 

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォッ!!!」

「!」

 

 名無しの感覚ではゆっくりと落下していくアスカに、渾身の攻撃を見舞った。更に先程戦った時とは比べ物にならないほど威力とスピードの増した拳で、アスカの顔といわず、胴体といわず、滅茶苦茶な勢いで叩き込まれていった。

 その威力はアスカが全力で張った障壁を容易く貫通し、空の上でボールのように跳ね回る身体に確実にダメージが蓄積していく。

 防御動作を取る余裕のない音速を超えた圧倒的な速さに、先程とは違い圧倒的に増した膂力に、体から迸る迷いのない敵意に、奈落よりも暗い暗黒の意思に。しゃにむに向かってくる名無しから放散されるように、凄まじい殺気が伝わってくる。アスカは胸苦しいような圧迫感を覚えた。

 

「くっ!」

 

 アスカが苦し紛れに振った右腕が空を切った。

 視界のどこにもその姿を認めることが出来ない。確実に捉えたはずなのに手には何の手応えもなかった。そこには残滓のように空気が纏わりつき、消えていくのみである。名無しの欠片もなかった。

 アスカの全身に正面から凄まじい力が叩き付けられた。殆ど水平の体勢で飛んでいたアスカの身体が立ち上がり、強引に後ろに圧し戻される。

 

「これは物理的なものじゃない。衝撃波? …………まさか生身で音速を突破してるっていうのかよ?!」

 

 アスカを襲ったのは音速を突破した時、裂かれた大気が生み出した衝撃波だった。音速を超えて動くなど人の領域を超えている。アスカは衝撃波と名無しの両方に翻弄されながら、らしからぬ戦慄を覚えていた。

 独楽のように回る視界の端を燃える何かがよぎった。

 

「そこか!」

 

 アスカは振り向き様に無詠唱の魔法の矢を三本を神速で放つ。だが、魔法の矢が届く前に、それはその空間から消えており、アスカは残影の跡を追って体を旋回させ、連続で幾つかの魔法の矢を連射する。

 しかし、その熱線は的外れな場所を貫くだけであり、高速で動き回る名無しを捉えることは出来なかった。その全身から迸る白色の光の燐光が残像を引き、魔獣のシルエットをオーラの如く浮き立たせた。

 

「が、ぐっ」

 

 名無しの体から溢れ出る力が彼の体躯を超音速の砲弾に変えていた。この時の名無しのスピードは音速を超えており、超々高速の突進が大気の壁を突き破った衝撃波がアスカを木の葉のように吹き飛ばす。

 浮遊術で急制動をかける側面に光が走る。アスカは即応して蹴りを放ったが、名無しはまた残影を残して姿を消した。直後、背中から衝撃を受ける。

 

「後ろ!?」

 

 吹き飛ばされながら視界の端に蹴りを放ったらしい姿勢の名無しの姿が一瞬だけ見えた。

 死角に潜りこんだ名無しが冷たい波動を背中に叩きつける。アスカは感知しえた気配に意識を凝らして、体勢を整えるよりも先に雷の斧を振り返りながら放つ。だが、やはりそれは空を切って、代わりに何時の間に近づいたのか防御を掻い潜って拳が腹に食い込んだ。

 

「ぐはっ」

 

 肺に溜まっていた息が無理矢理に吐き出される。吐かれた空気の中に血霞が混ざっていた。

 痛みを堪えて、正面にいる名無しに向けて拳を放つも既にそこにはいない。幼い子供に紙を鉛筆を渡して出鱈目な線を書かせたような、白色の光の燐光が目を疑いたくなるほどの目まぐるしい動きの軌跡を描く。

 

(捉えきれない、速すぎる!)

 

 それでいて攻撃は的確。異様な力が込められた攻撃が急所を抉っていく。深く決まれば致命傷になる攻撃ばかりだ。ギリギリで致命傷だけは避けていくがじり貧である。このままでは遠くない内に限界が来る。

 痛みに支配されながら反撃しようとするする意識の中の一方で思考する余裕もあった。

 何故、負けられないと思うのか。

 何故、勝たないといけないと思うのか。

 何故、倒さなければならないと思うのか。

 何故、殺さなければならないと思うのか。

 何故、何故と自問自答が混濁した意識の中で交錯する。

 

「がはっ」

 

 何度目か、名無しはもはや数えることすら出来なくなった拳打を受けて血の塊を吐き出した。

 

「!?」

 

 次の攻撃は運良く掲げていた腕に当たった。だが、パワーの差がありすぎて当たった瞬間に軋んだと思ったら鈍い音を立てて折れた。

 

「ぐがぁ――!?」

 

 苦痛の呻きはサッカーでオーバーヘッドキックに近い形で蹴り落とされて続かなかった。

 上下逆さまで真下にある地面へと、急スピードで墜落していくのを痛みで鈍い頭で理解したアスカは浮遊術で急制動をかけた。

 なんとか地面に降り立ったアスカの真正面から急旋回して突進してきた名無しがありとあらゆる角度から、両手の拳、肘、掌底を取り混ぜて、手が四本にも八本にも何百本にもあるかのように打ち込む。

 

「がっ」

 

 アスカは途中からそれらの攻撃を受けることも受け流すことも出来なくなり、まともに喰らい続けた。

 竜巻のように回転して瞬きの間に放たれた左右の蹴りを腕を上げて防御しようとするも、名無しは鳥のように宙を舞って全体重を乗せた膝蹴りをアスカにお見舞いした。

 遂に吹き飛び、地面を削り取りながら進み、どこかの壁へと叩きつけられる。

 

「ぐっ」

 

 ズルズルと壁を滑り、地面に倒れ込んだ。

 薄れゆく意識の中で見上げた壁には何故か見覚えがあった。その家はアスカとネギの、ネカネとその両親が暮らした家だ。

 あの日に焼き尽くされて今はもう残っていない過去の象徴を目にして、内側から溢れ出る何かに急かされるようにアスカの体が動いた。

 

「なっ!?」

 

 ゆらりと立ち上がる人影を見て、名無しはこの戦いで初めて呻いた。

 まるで蜃気楼のように、肉体の中心の芯を失ったかのように立ち上がるアスカは、これ以上は動きたくなった。もうどうでも良かった。あまりの心の痛みに、直前まで抱えていたものが全て消え去ってしまった。心の内側をボロボロにされたアスカは、ここで殺されてしまうのならそれでも構わないのかもしれないと思ったのに、体は無気力な意志に反して勝手に動く。

 屈する気配などどこにあるのか。

 動くアスカに明確な意思はない。だから、自分が何に対して怒っているのか、何を悲しんでいるのか、どうして自分はこんな痛くて苦しい思いをしてまで戦おうとしているのか分からない。思い出せない。何かを考えるのがひどく億劫だった。 

 

「あぁ――」

 

 哀しい。苦しい。吐き気がする。身体が、心がバラバラになりそうだ。思考能力は低下して、湧いてくるのは嫌な過去や悪意ある妄念、そして苛々と不快な思考だけだった。

 見えない殻に閉じ込められていた何かが頭をもたげた。熱くて、狂おしい、ずっと忘れていた何かが。

 蜃気楼のようだったアスカが拳を握って明確に動いた。

 

「まだ動く力が――――」

 

 殴りかかる体は満身創痍。踏み込む速度も取るに足らなければ、繰り出す一撃もキレを失って凡庸と成り果てている。

 

「ぐっ!」

 

 技術も何も無い、子供が喚いて出鱈目に振るったようなあまりにも凡庸な一撃。しかし、その攻撃は今までのどの一撃よりも受けた名無しには重く感じた。

 三度、四度、五度と何度となく拳が、脚がぶつかる。止まらないばかりが、攻撃はどんどん加速していく。

 鬩ぎ合う攻防の激しさは、今までの比ではない。一撃ごとに速度も重みも、そこに込められた想いすらも天井知らずに跳ね上がっていく。十を数え、百に届こうとする拳撃は最初は圧倒していた名無しの攻勢から盛り返したアスカが並び、両者は完全に拮抗している。

 空間が破裂し、立ち入るモノは瞬時に爆散する。飛び散る力の余波だけで、並みの魔法使いの最大攻撃に匹敵する。余人がこの光景を見たならば弾け飛ぶ力は花火の如く見えたかもしれない。

 

「「――!」」

 

 二人は同時に上げていた腕を振り下ろして、絡みつく黒雷と纏わりつく雷を解き放った。

 眩い閃光、轟く爆音、高速で大気を駆ける二人の属性は丁度両者の中心点で衝突する。色だけが違いあれど術式の構成も、そこに込められた力も同等であった為か、黒雷と雷は衝突した途端、双方共に爆散する。飛び散る雷の解れと火の粉が突風を起こして土煙を巻き上げた。

 

「僕の、力が弱くなっている!?」

 

 名無しが何かを叫んでいるがアスカはそれを理解していない。ただ、前へ前へと進み続ける。

 二人の攻防は、反発しながらも溶け合う両者の心の具現だった。

 黒雷の槍と極雷の槍は、それぞれに目的を定めて飛翔する。いずれもフェイントや予測を織り交ぜた高度な戦術。ぐるりと宙返りして回避しながらも、アスカも名無しも攻撃の手は休めない。

 両者の力の衝撃で剥離する空間は、あたかも世界の涙の如く見えた。

 

「「雷の暴風!!」」

 

 近距離で放たれた両者同時の魔法が爆発し、途方も無い力で地面に叩き付けられる。体のあちこちが痛む。しかし、流石に至近距離の爆発に巻き込まれた相手もただではすまなかったようだ。傷ついた体を押さえ、荒い息をついている。

 

「クソッ……!」

 

 荒い息をつきながら、名無しが吐き捨てる。黙したまま、アスカが名無しを睨み据える。

 

「人は自分を見れば不愉快になる」

 

 アスカは歯を食い縛って喋り続けた。

 

「でもな、どんなに不愉快でも、どんなに嫌いでも、どんなに憎くても、自分自身を殺すことは出来ない。自分自身を辞めることは出来ない。人を呪うってのは自分が屈折していくことが分かるから辛いんだよ」

 

 使った試しのない脳の領域が蠢き、頭に熱を帯びせるのを感じながら口が動く。次の瞬間には術で骨も残さず消し飛ばされるかもしれないが、構わない。目の前の相手にだけは膝を折りたくない。

 互いに極限の疲労にさらされていた。そして次の一撃が勝負を決めると理解した。

 これ以上闘うことが出来ないのはアスカも同じ。もう体外も体内もボロボロ。こうやって立っているだけでも精一杯。全く同じ力、戦術、技術、手の内が全て同じなので決着が着くことはありえない。

 

「生き残るのは僕だ!」

 

 先に動いたのは名無しの方だった。

 空間に白色に輝く魔力の光が迸った。拳に1001の雷の魔法の射手を収束させて纏い、圧縮された魔力が放つ高音でビリビリと大気を揺らしながら、目の前の相手に向かって走る。

 

「この馬鹿野郎がぁ!」 

 

 ほぼ同時に1001の魔法の射手を右腕に収束させて、雷華豪殺拳を放つべくアスカも飛び出した。

 

「「このおおおおおっ!」」  

 

 最後の攻撃だった。瞬間、世界の全ての音が止む。

 繰り出される両者の一撃が重なり、渾身の拳を相手に叩きつけた。結果――――名無しだけが弾き飛ばされた。

 

「がはっ!」

 

 白目を剥いて仰け反り、まるで至近距離から砲撃を受けたように名無しの体が遥か後方に吹き飛ばされた。地面に激突した名無しの体は、二、三度バウンドし、そして完全に力を失った。

 

「…………何故、だ。何故、僕が負ける? ありえない。こんなことが、ありえていいはずがない」

「分かっていないのは、お前の方だ」

 

 ずっと、アスカは一人で戦っているつもりだった。しかし、それは大きな間違いだってことがアーティファクトの偽物とはいえナギと試合後に話をして、ようやく気付いた。

 知らず知らずの内に多くの人達に力を貰い、助けてもらっていた。今の一撃もそうだ。

 

「俺とお前は互角。なら、勝敗を分けるのはそれ以外の力だ」

「……犬上、小太郎……」

「俺の最高のダチだ。明日菜の力もある」

 

 あの一瞬、表で小太郎の一撃がこの世界にも影響を与え、その力がアスカに流れ込んだからこの勝敗となった。

 

「俺はもう、一人ぼっちだった僕(・・・・・・・・)じゃないんだよ」

 

 例え過去から逃げ続けてきたとしても、あの日から目にしたもの手にしたものは明らかにアスカ自身のもの。もう孤独ではないのだ。

 

「抗ってどうなる!? 君にとっては地獄が続くだけだ!!」

 

 アスカを見据える名無しの眼光が、憎悪で鋭さを増す。寂しさから生まれた憎しみが、また寂しさへと戻っていた。

 

「僕を追いやったところで何も変わらない!」

 

 確かにそうかもしれない。この苦痛を共に分かち合えば、どんな願いも幾つでも想いのまま。これから歩む道の先に、喪ったものに見合う輝きが在るかどうか分からない。それでもアスカには言わねばならない責任があった。

 

「ここで足を止めたらあの日、俺を逃がしてくれたみんなの意志を無駄にする。俺は止まらないっ!!!」

 

 言う通り、アスカと名無しは何も違わないかもしれない。何かを手に入れてもきっと変わらない。アスカの、名無しの求めているのは………多分、人や物じゃない。

 

―――――痛イ

 

 悲鳴が聞こえる。

 

「だから、僕を拒絶するのか!」

 

―――――痛イィ………! 痛イィ………! 痛イィ……………!

 

 名無しが黒い涙を零す。悲鳴がアスカの胸を抉る。逃げることは出来なかった。他人の振りは出来なかった。いなくなることは出来なかった。もういい加減に眼を逸らすのは止めよう。

 

「違う! 新しい全く違う自分なんていらない。俺は進む。自分で自分を誇れるようになるために!!」

 

 純粋な闇から醸成された、混じりけの無い悪意を前にアスカは心の叫びを上げた。

 変わることを望めば苦悶を強制され、変わらないことを望めば悲劇を与えられる。人ばかりが苦しむ。最も、人であれば誰もが苦しむのだから、それは平等な幸福なのかもしれない。

 

「君は、僕が邪魔なのか!? なら、僕は一体何だっていうんだ!? 何のために生まれた!!」

 

 自分とは違う仮面を被ることを強いられたり、強い心的外傷を受けたり……………苦痛に見舞われた場合、人は自我を守るために人格の解離を引き起こす。受けた痛みを、記憶から切り離して、自分ではない他の人格に起こったことだと脳が記憶して苦痛から逃れる。

 あの日からアスカは弱い自分を理想と違うと拒絶して否定して心の奥底に押し込んだが、自分自身ですら気が付かなかったそれを修学旅行で刻まれた闇の魔法の紋様が呼び起こした。

 

「お前がいたから俺は強くなれた。ここまで来れた」

 

 足を引き摺り、全身がズタボロになって半死人の風体で名無しの下へ歩み寄りながら放たれたのは落ち着いた声だった。

 アスカの顔を名無しは惹きつけられる様に見入る。そこには強がりも自己否定も欠片も残っていなかった。名無しは息を呑むような顔で、鮮やかな変貌を見つめる。

 

「俺はお前だ」

 

 ずっと抑え続けた心の闇。負の部分を心の底に押し込めてきた。

 名無しの正体はアスカの中にある心の闇。

 アスカ自身。アスカのことをアスカよりも分かる存在。アスカ自身が受け入れられなかったことも受け入れざるを得なかった存在。闇の魔法の適性者。どれだけ自分を強く保っても、心のどこかにある負の感情と結びついて育んでしまったもう一人のアスカ。

 倒すことも追い出すことも不可能。自分はこんなにも子供だった。ちっぽけで惨めたらしい人間だ。その事実から目を逸らし続けた結果として、今の自分があり、捨ててきたからこそ名無しがある。

 

「お前は俺だ」

 

 アスカが自覚したことで魔法使いの魔法が解ける。

 気がつくとそこには、一人の小さな男の子が、不安そうな面持ちで立っていた。 

 華奢な身体つきの幼子だった。背も低く痩せていて、金髪で蒼穹の瞳の可愛らしい容貌をしていたが、その眼だけがギラギラと闇の炎のように燃え上がっている。苛烈で頑なで、他者を受け入れない鋼の萌芽が見受けられる。

 味方なんていないと思い込み、自分が世界に一人で生きていると錯覚していた哀れな子供。孤独を当然のように受け入れ、寂しさを殺して世界を拒絶する、暗く哀しい瞳をしていた。その瞳は、己の無力を痛いほどに噛み締めてきた者に特有の思い詰めた瞳だった。

 

「ずっと押し付けてきて、ゴメン」

 

 アスカは傷ついた体を引き摺って一歩ずつ少年に近づいていった。

 少年は逃げ出さなかった。何も言わずにアスカをじっと見上げている。恐らく、殴られても、罵られても、黙ったまま彼の目を見続けるに違いない。

 手を伸ばせば届くまでの距離まで、ゆっくりと歩み寄って傷ついた身体に鞭打ち、よろよろと少年の前に腰を屈めた。少年と目線の高さを合わせる。彼の瞳は近くから見ると、驚く程に澄んでいた。

 

「成長しただろ、俺」

 

 アスカは名無しの頬に手を伸ばした。

 温もりと涙の跡。凍えるような心の震え。あらゆる少年の感情の機微が掌を通じて伝わった。

 

「俺はここまで変わったんだ。もう、大丈夫だ。一人で立って歩ける」

 

 突然のことに名無しは目を白黒させていたが、名無しはあまりの上から目線の言い分に少し腹が立ってきた。明日菜や周りの人たちに散々言われて多少は自覚していたとしても、それを自分に言われると何かムカつくものを感じるから不思議だ。

 

「判るよ。僕もね、ずっと昔から()てたから」

 

 そしてあの時に取り残された小さな体を包むように抱きしめる。 

 アスカは名無しであり、名無しはアスカだった。故に、その時互いは一つになった。ようやく全てを取り戻した。長い長い空白の時を飛び越えて。

 

「今までありがとう」

 

 抱きしめられた名無しもおずおずとアスカの背中へと手を回し、ポタリと双眸から清らかな雫を垂らした。

 その瞬間、世界が消失してアスカの視界は閃光に包まれた。失ったものが自分自身であるなら、その心の鏡に写した。心に届く光とは、ただ言葉の温もり以外にはないのだから。

 

「ありがとう。今までご苦労様」

 

 一人、何もない空間に怪我もなく立つアスカは胸に手を当てて無類の感謝を捧げる。

 

『僕からの最後のお願い。彼女を救ってあげて』

 

 もう一人のアスカからの言葉の真意は考えるまでもない。気付いていた。気づかされた。その事実にアスカは震えた。

 

「…………なんでだ」

 

 愕然として、信じられなくて、叫び出したいぐらいなのに、そのことを知った衝撃が逆に感情を平坦にした。

 

「なんでだ」

 

 言わずにはいられなかった。今、言わなければ何時言うと言うのだ。

 あれだけの呪詛に侵されたはずなのに、正気を保っていられたことが最初からおかしかったのだ。百年かけて熟成され、満ち満ちた祟り神クラスの怨霊群の呪詛に一個人の魂と心が耐えられるはずがない。

 なのに、未だにアスカが正気を保っているというのならば理由が必ずある。

 

「なんでだよ」

 

 呪詛とアスカの間に入ることで守り続けた誰か。木端微塵にされ、破片すらも凌辱されていたアスカを拾い集めて誰か。押し寄せる悪意を阻み続けた誰か。

 

「なんでだよ!」

 

 名無しと合一することで理解したアスカは叫んだ、今叫ばずに何時叫ぶと言うのか。

 

「なんでだよ、さよっ!!」

 

 アスカの視線の先で、黒い血管を全身に浮き渡らせた相坂さよが儚すぎる笑みを浮かべて、ボロボロと体の端から崩れて消えていきながらそこにいた。

 

『良かった…………間に合わないかと思いましたよ』

「そうじゃない! そうじゃないだろ! なんで、こんな!」

 

 もっと言うべきことがあるのに、アスカは心に色んな感情が交錯して上手く言葉にならない。

 

『…………私が、したかったからです』

 

 自分の状態を誰よりも分かっているくせに、淡く微笑むさよにアスカは激昂した。

 

「始めからおかしかったんだ。確かに呪詛も闇の魔法の浸食も酷いものだったけど、本当ならあんなものじゃなかったはずだ。理由を考えれば簡単だった。俺は誰かに守られていた。お前だったんだな、さよ」

 

 百年分の呪詛とエヴァンジェリンが体験してきた記憶とでも呼ぶべき呪詛は一個人に耐えられるものではなかった。アスカは護られていた。その誰とは目の前にいる者のことを知れば考えるまでもない。

 

『その甲斐はありましたよ。こんな私でもアスカさんを守れました。これでも我慢は一番の得意なんです。なんせ六十年も幽霊やってましたから』

「俺を護る為に呪詛と浸食に晒されて、霊体がボロボロじゃないか。なんで、そこまで……」

『私の名前を呼んでくれました』

 

 自我の浸食と魂の汚染、待っているのは自己の消滅だ。人であることすら忘却して、魔を撒き散らして人を仇名す獣となる。よしんばそうならなくても、汚染された魂は輪廻の輪に戻れず、消滅して永遠の無へと至る。

 どのような末路に至ろうとも相坂さよという自己を消滅させていきながら、彼女は笑みを崩さない。それどころか満足げにすら見えた。

 

『ありがとうございます…………こんな幽霊の私でも一杯お友達が出来ました。アスカさんのお陰です』

「俺がしたことなんて、切っ掛けと少しの手助けだけだ。大したことはしてない」

 

 頭まで下げて礼を言うさよに、アスカは自分のお陰だという彼女の言葉に首を振る。

 

『六十年間、誰にも顧みられなかった私を始めて認識してくれました。それだけでも十分だったのに、私に一杯の物をくれました』

 

 崩れ落ちた霊体の破片がアスカの体に触れ、さよの記憶が流れ込んでくる。

 

『一杯、一杯、幽霊の私には勿体ないぐらいの思い出があります』

 

 修学旅行の班に呼ばれた時の喜び。

 人形に入ってハワイに行けたこと。

 間接的であっても人と話せたこと。

 多くはなくとも友達が出来たこと。

 千雨に憑りついて楽しかったこと。

 その全てが綺羅星の如く輝いていて、さよがどれだけ嬉しく思っているのかが伝わってくる。

 

「もっとこれから沢山の思い出を作れるだろ! そんなんじゃ……」

 

 それ以上、言葉を続けることが出来なかった。別荘でのエヴァンジェリンの薫陶で一から魔法への勉強をし直されたアスカには今のさよがどのような状況にあるのか、考えなくても分かってしまう。

 

『我慢以外に取り柄はないと思ってたんですけど、こっちの才能もあったみたいですね』

「馬鹿野郎! 出来たからって、なんで俺を庇って呪詛を引き剥がして自分に移したりしたんだ!! 幽霊のお前の方が呪詛がどれだけ危険なものか分かったはずだろ!」

 

 なんてことのない言うさよに、アスカは頭を掻き毟って吠えた。

 呪詛を操る陰陽師か死霊術士か。系統はともかく、さよには殆どアスカに定着していた呪詛を引き剥がして自分に移し替えるだけの才能があった。それでも完全にとはいかず、さよがアスカに憑りついた状態で影響を受けたわけだが、さよを襲った苦痛はアスカとは比べ物にならなかったはず。

 

『六十年の中で始めて、私の名前を呼んでくれました』

「だから、それは!」

『エヴァンジェリンさんのように、もしかしたら他の人も私を認識できていたかもしれません。それでも最初に私の名前を呼んでくれたのは貴方なんです、アスカさん』

 

 アスカにとっては何でもない出来事であっても、さよにとっては違う。生きていれば人生観が変わるほどの大きな出来事だったのだ。

 

『決めていたんです。アスカさんに何かあったら絶対に助けになるって』

「俺はこんなこと望んでない」

 

 アスカが生かされたのはさよの犠牲があってこそ。力を失った言葉は虚しく響き渡る。

 

『貴方がいなければ、今の私はありませんでした』

 

 さよが見える少数の人間は積極的に彼女に関わろうとする者はいなかったし、アスカという切っ掛けがなければ彼女自身も自分のことが見える者が他にもいるとは思っていなかった。

 

「努力したのはさよで、受け入れたのはみんなだ。礼を言うならみんなに言うべきだ。俺なんかの為に犠牲になっていいはずがない」

『私に気づいてくれたのは貴方です。最初に切っ掛けをくれたのは貴方です。私の最初の友達は貴方です』

 

 胸に右手を当てて呟くさよの姿は、薄らと透ける身体も相まってアスカが途中で言葉が途切させるほどに神秘的な光景だった。

 

『貴方が当たり前に私と接してくれたから皆さんも恐がらずにいてくれました』

 

 人間の発明した言葉は未完成で、相手に伝えたいことの半分も届かない。どれだけ万言を尽くしても、どんなに熱心に語ろうとも言葉は殆ど蒸発して消えてしまう。それは寂しい。そして虚しい。それでも言葉に込められた気持ちだけは相手に伝わっていると信じたい。

 

「さよ……」

 

 藁人形に憑いてだがクラスメイト達と自分で交流を交わすことが出来た。沢山の友達が出来た。だが、誰だって普通とは全く違う得体の知れない幽霊と進んで接しようとはしない。しかし、それも誰かが普通に接していれば話は別だ。何時だってアスカが率先してさよに話しかけることで、彼女の輪は徐々に広まっていった。見えなくても、話せなくても、触れなくても、アスカを通せば交流を交わすことも可能だった。

 

『だから、もう寂しくないんです。本当ですよ? 私は、私に出来ることをしました』

 

 満足したように微笑むさよに、そうじゃないとアスカは歯を食い縛って言わなければならなかった。

 

「だからって呪詛に囚われたままじゃ、成仏だって出来やしない。輪廻の輪にも戻れず、怨霊となって人に仇名すようになる。そんなことを」

『助けてくれるって信じてますから』

 

 信頼しきった瞳を向けてくるさよにアスカはそれ以上の言葉を継げない。

 

『望んだ席は空いていません。そもそも死んでいる私が望むことじゃない。でも、ただ消えゆくんじゃなくて、一度ぐらいヒロイン役をやりたいと思ったんです』

 

 向こう側が見えてしまうほど薄くなっているのに呪詛を示すような黒い血管だけは消えない。今も尚、呪詛に苦しみ続けているはずなのに一度もそんな姿を見せることなく、思わず気持ちよさに眠ってしまいそうな陽だまりの如く優しい微笑みを浮かべながら、さよは残る言葉を口にする。

 

『アスカさん、私を助けてくれますか?』

 

 そのたった一言を口にする為だけに彼女は地獄の苦しみに耐え続けた。

 

「…………ああ、必ずだ。必ず、助けて見せる。救って見せる。俺に――」

 

 過去を取り戻し、自分自身を再構築したアスカは嘗て口にした誓いの言葉で彼女に約束する。

 アスカはもう無条件の期待を抱けるほど無垢ではなく、蛮勇を叫べるほどの無知でもない。出来ることと出来ない事の区別もついて、呪詛に囚われて魂の根源から浸食されたさよを救う術はないと明確に理解している。

 それでもアスカは言わねばならない、為さねばならない、やらなければならない。助けを求める声を前にして、アスカが坐して待つなどありえないから。

 

「俺に、出来ない事なんてない――――っ!!」

 

 言葉は力を持つ。村人達の石像の前で誓ったように、不可能を可能にする為に叫んだ。

 

『待っています……』

 

 さよは何かに引っ張られるようにアスカから離れて行く。アスカもまた感じていた。何時の間にか装着された右耳の絆の銀が熱を持っている。それが意味することはただ一つ。誰かがネギのマスター権限で呼び出した絆の銀を使ってアスカと合体し、その結果として呪詛の源となったさよがアスカから弾きだされようとしている。

 

「待ってろ! 必ず救って見せるから!!」

 

 徐々に遠ざかり黒に覆い尽くされようとしていたさよは、アスカの言葉に安心したように微笑んで消えた。完全にアスカから分離したのだ。

 その姿を見送ったアスカは決意を込めて拳を握り、合体したことで漲る力に痩身を震わせながら毅然と顔を上げた。そのすぐ目の前に、仮契約カードが浮かんでいる。

 軽装の鎧を纏った神楽坂明日菜が描かれた姿と『黄昏の姫騎士』と記された称号のカードを握り、彼方の空からハマノツルギを手にして下りてくる明日菜に向かって手を伸ばす。

 

「やってやる……! 俺に力を貸してくれ、明日菜っ!」

「任せなさい!」

 

 アスカの言葉を聞いた明日菜は破顔し、伸ばされた両者の手が互いを掴んだ時、世界を黄昏の光に染め上げた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 爆炎が全てを呑み込み、爆発の跡が空間を震撼させる。

 燃える天空の余波が肌を震わせる中で、魔法を放った術者である超鈴音は行った実験の結果を観察するような眼差しで前を見据える。

 

「…………避けたカ。いや、直撃を逸らしたと見るべきカ」

 

 滞空する爆煙を掻き分けるように下層から抜け出したネギの状態から、防御陣を加工して燃える天空を真っ向から受けないようにして逸らしたと推測した。

 

「それでもダメージは多イ」

「かはっ……くっ」

 

 苦悶の叫びを上げながら杖を操作してなんとか空中に留まることの出来たネギだが、反魔法場(アンチマジックフィールド)発生装置が作動している中では広域魔力減衰現象によって空を飛んでいるだけで魔力を大量に消費する。

 そして超は戦いにおいて、手加減することはあっても容赦をすることはしない。

 

「ラスト・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル」

 

 超の始動キーに反応して、刀身まで真っ黒に染められた刀がぼんやりと光を発する。

 

「火精召喚、槍の火蜥蜴29柱」

「風精召喚、行って!」

 

 ネギの風精召喚と似て非なる系統の魔法を放つ。放たれた29柱の槍の火蜥蜴は、当然のようにネギへと槍を向けて突貫していく。

 迎え撃つようにネギも同数の風精を無詠唱で召喚して放つが、魔法減衰下でも全力を発揮できる超とは勝負にならない。4分の1が中間地点まで辿り着けずに魔力を失って霧散し、半数が激突に耐え切れずに消滅した。残る4分の一も数体を巻き添えに出来ただけで、20体以上の槍の火蜥蜴がネギの下へと襲来する。

 

「くっ」

 

 魔力減衰現象下では下手な迎撃は自身の魔力を消耗するだけだ。迎撃よりも回避を選んだネギは杖に乗って、その場を脱する。追尾機能がある槍の火蜥蜴もその後を追う。

 ネギは常時少数ながらも持っていた魔法薬をバラ撒く。無作為ではなく、風を操作して槍の火蜥蜴に当たるように操作する。

 数体に魔法薬が命中し、爆発が起こって他の個体も巻き込む。より少ない消耗で迎撃を行なうために計算された行動だったが、迎撃に集中し過ぎたが為に急接近した超に反応が遅れた。

 

「上手いネ。が、周囲の警戒が疎かになているヨ」

 

 黒刀を振り下ろしてくる超にネギも父の杖に風を纏わせて対応する。

 ガギギギ、と金属と木がぶつかっているとは思えぬ音が二人の間で響き渡る。上段から振り下ろされた黒刀を頭の上に横向きに掲げたネギが受け止める形だ。

 

「その受け方、失敗ネ」

 

 ガチン、と超が黒刀の柄に付けられた不釣り合いな銃のトリガーのような物が引いた。瞬間、ネギは全身に走った「この場から離れろ」という警戒警報に従って、自らに風の鉄槌を放った。

 

「がっ!?」

 

 自分が放ったとはいえ覚悟もしていなかった為、横っ腹に走った無形の衝撃に口から思わず飛び散った唾を気にすることもなく、視界から超の姿が一瞬にして消える。魔力減衰現象下であったから全力で放った風の鉄槌は威力を減衰しながらもネギの肋骨に罅を入れながらもその目的を達した。

 

「ふむ、今のを避けるカ。勘はいいネ」

 

 先程までネギがいた場所に小規模の爆炎が奔り、黒刀に炎が纏わりついていた。そのままあの場所にいて鍔迫り合いを続けていたら障壁を貫通してやられていたことだろう。下手をすれば父から譲り受けた杖が真っ二つに斬られていたかもしれない。

 肋骨に入った罅の痛みに呻きながらネギは黒刀に注目していた。今の魔法は超が放ったものではなく、黒刀から放たれたものだと感じ取ったからである。

 

「ん? これが気になるカ」

 

 肋骨に走る痛みと常ならぬ魔力の消費の速さに頭痛を覚えるネギの視線から考えを読み取った超は、未だ紫炎を纏う黒刀を掲げる。

 

「言うならば私の切り札その2といたところカ。魔導機(マジック・デバイス)――――魔力減衰現象下でも魔導士が魔法を使う為のサポートアイテムヨ」

 

 もう一つの切り札を自慢げに軽く振り、真っ黒の刀身に光が奔ると紫炎が幻であったかのように消える。

 

「魔力減衰現象下で魔法が減衰されるのは、フィールド下では魔力結合が解除される為ネ。魔導士が魔法を放つ場合、魔導機(マジック・デバイス)は人間では不可能な演算能力で術式の構成を複層構造にすることで減衰を遅らせているヨ。それでも減衰しないわけではないから魔導士が戦う場合は遠距離ではなく近距離がどうしても多くなてしまうネ」

 

 このようにと、強化服に光が走ったと思う瞬間に超はネギの背後に現れていた。超自身の魔法使いとしてのレベルはそこまで高いものではないのに、アスカにも匹敵する移動速度だった。

 ネギは振り返ることを諦め、背後に障壁を障壁する。

 

「なんで、ぐっ!?」

 

 障壁は簡単に切り裂かれ、背中を浅く切り裂かれる。ローブを着ていたお蔭で深手には至らなかったが、衝撃は大きかった。

 

「これには障壁破砕効果も付与されているネ。詠唱を肩代わりしたり発動を高速化してくれたり補助をしてくれているお蔭デ、魔導士達は色んな魔法を素早く展開できるヨ。魔力減衰現象下で威力を見込めなくなた分、機械のサポートがある分だけ魔導士の方が圧倒的に魔法使いよりも圧倒的に速イ。これもまた魔法使いが廃れてしまた理由の一つネ」

 

 無様に退却して追撃を警戒するネギを追うでもなく見下ろしながら魔導機(マジック・デバイス)の解説をする超。彼女の本質は研究者であり、そういう人種はえてして自らの研究成果を語りたがる。

 ネギは今負った背の傷と肋骨のジンジンとした痛みに耐えながら、密やかな策を打つ。

 

「近距離専門が多いなら魔導士よりも剣士や戦士を名乗った方がいいんじゃないですか」

 

 知覚領域を少しずつ広げていく。確かに超は魔導士であり魔法使いではあるが、ネギの感覚では魔力減衰現象下でなければ真っ向から戦えばもう少しマシな戦い方が出来るはずである。

 

「近接専門は魔導騎士と呼ばれているネ。まあ、私はどちらも中途半場だから戦う者としては三流と言われているヨ」

「それだと追い込まれている僕の立場がないんですけど」

「ネギ先生も近距離は専門ではないだろウ? それに初めて魔力減衰現象下での戦闘でここまで戦えている時点で私よりは素質があるネ」

 

 超が策に気づいた様子はない。思った通り、超はネギよりも魔法使いとしての格が劣る。このまま策を実行を移せるかがネギが勝利できるかの鍵になる。

 自身の残魔力量を考慮し、片手に杖を持って突進する。

 

「全然、嬉しくはありませんね!」

「喜んでほしいネ!」

 

 杖と剣が鍔迫り合いをし、互いの得物を持っていない拳がぶつかる。超が強化服に仕込まれているスタングローブを使ってこちらの自由を奪おうと全身に電流を流し込んでくるのを、ネギも雷撃を放つことで相殺する。

 

「ほう、雷属性も使えるのカ!」

「僕は風だけじゃありません!」

 

 確かに風属性を得手としているが、ネギは光も雷も使えるし、適性はそこそこだが火の属性も使用することが出来る。

 魔力によって身体能力を強化しているネギと、強化服によって向上している超の腕力は完全に拮抗していた。一瞬でも力を弱めた方が負けで、魔力減衰現象下で十全に魔力を扱える超に持久戦は圧倒的にネギの方が不利。

 

魔導機(マジック・デバイス)がある以上、魔法の速度で私を超えることは出来ないネ」

 

 言う超の顔面の直ぐ目の前に予兆なく魔法陣が展開され、そこから放たれた爆炎が障壁を張ったネギごと呑み込む。

 

「ぐ……あッ!?」

「紅き焔」

 

 吹き飛ばされた直後、詠唱無しで白き雷や風の鉄槌と同格の魔法が一瞬で放たれる。

 詠唱破棄の魔法の威力は詠唱有りと比べれば格段に落ちるはずなのに、相違ないどこから寧ろ威力が上がっている。これも魔導機(マジック・デバイス)の効果ということか。

 自分が焼け焦げる匂いを嗅ぎながら、ネギは辛うじて意識を繋ぎとめる。

 

「隙有りネ♪」

 

 楽し気な声と共に腹部に衝撃が走る。拳打によるダメージと同時に放たれた電流によって内臓が蠕動し、口から胃の内容物を出したい衝動に駆られるも、続く蹴撃によって蹴り飛ばされた為、意識が飛ばないようにするだけで精一杯だ。

 

「さあ、どうするネ。魔力減衰現象下で遠距離魔法は使えず、接近戦しかない中でも高速処理がある魔導機(マジック・デバイス)がある私には魔法展開速度で劣り、技術も同じときているヨ。大人しく降参でもするカ?」

「まさか……」

 

 と、答えつつも接近戦では確実に超の方が2枚も3枚も上手であることを認めないわけには行かない。忘れていたわけではないが、彼女は以前の古菲と同等の実力を持っている。ネギも戦えなくはないが、近距離から正面から戦って勝てる相手でもない。

 一発逆転を策に託すなど、ネギの性格ではしたくないのだけれど状況はそうもいかない。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル」

「ラスト・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル」

 

 距離を詰められれば嬲られるだけ。ネギは始動キーを詠唱することを選択していた。ネギの背後に無数の魔力球が発生し、超も合わせるように始動キーを唱える。

 

「魔法の射手、連弾・火の1001矢!」

「魔法の射手、連弾・光の101矢!」

 

 ネギは超が放とうとする魔法の射手の数にギョッとする。倍どころではなく、十倍の数である。

 

「は、反則だぁっ!?」

 

 思わずネギはそう叫んでいた。ただでさえ、魔力減衰現象下でネギだけが一方的に消耗を迫られているというのに、超は魔法を使用しやすくする道具(マジック・アイテム)まであって、まるで当てつけるかのように10倍の魔法の射手を放ったことに言わずにはいられなかった。

 

「勝負とは、これ無情なものネ」

 

 ネギが魔法の射手を放った直後、激突の結果を見ることなく急速に反転離脱して逃げ出した背中に向けて超は侘し気に呟く。自分が絶対有利と分かった上でやっているのだ。

 魔法の射手同士の激突はほぼ超側の勝利という形で、ネギがその場に留まらなかったのは正解だったといえる。反転離脱から急速上昇したネギの下を1000近い魔法の射手が駆け抜けていく。

 

「もう我慢の限界です!」

 

 超に遊ばれていると理解したのか、ネギの顔が真っ赤だった。血管まで浮き立たせ、精一杯僕怒ってますという風情だが、超には下手な演技だとバレバレである。

 

「僕の全魔力を受けて下さい!」

「そう言われたのなら、ラスボスとして受けて立たないわけにはいかないナ!」

 

 何か思惑があるのだろうが、このような挑発を受けてしまっては悪役の役割(ロール)をしている身では受けて立つしかない。真正面から受けて立ち、例え何らかの罠や策があっても正面から叩き伏せる気持ちで中空に浮かぶ。

 彼我の距離はそこそこ離れている。ネギは全魔力を込めると言ったことを素直に信じるならば、遠距離魔法…………上位古代語魔法の可能性が高い。だが、ネギの残魔力と魔力減衰現象を考えれば、上位古代語魔法の中でも最上位クラスよりかはランクは下げてくるだろう。広範囲攻撃呪文よりも一点突破型の魔法を放ってくる可能性が高い。

 超の推測に結論が出たところで、二人ほぼ同時に詠唱を開始する。

 

「ラスト・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル!」

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル 来れ雷精、風の精!」

 

 ネギの詠唱を聞いて、超は自らの推測が当たっていることを確認する。

 超が放とうとしている最初に使った燃える天空に対してネギの魔法は貫通力のある雷の暴風である。単純に正面から打ち合えば雷の暴風が力負けするのは必至。

 

「雷を纏いて吹きすさべ、南洋の嵐!」

 

 詠唱が短いネギの方が魔法発動が早い。強大な術であればあるほど、発動に必要な呪文は長くなり詠唱速度の差が生じる。燃える天空よりも雷の暴風の2小節は長い。同じ系統の術で対抗しても力負けすることは目に見えていた。だからこそ、より早く発動できる術を選んだネギはそこを見越して必勝をきたしたのだろうが、超には詠唱を代行する魔導機(マジック・デバイス)がある。

 

「燃える天空!」

「…………雷の暴風!」

 

 魔導機(マジック・デバイス)で詠唱を省略した超の燃える天空の方が発動が早く発動し、ネギの雷の暴風はワンテンポ遅れて放たれた。

 超の手から放出された極炎と連鎖する空間爆裂があっという間にネギとの中間地点を越えて、遅れて放たれた雷の暴風が威力に乗る前に呑み込むかのように広範囲に広がっていく。

 

「この程度なのカ……」

 

 超の位置からはネギの姿は見えないが逃げられるタイミングではなかったし、燃える天空に呑み込まれたことは間違いない。 

 黙々と上がる爆炎が視界を遮り、魔力の残滓が辺りを覆っていて感知も難しい。勝利の実感は湧かないが、これで終わってしまうのだと思うと気が抜けてしまった。

 

「!?」

 

 ビクン、と超の背筋に何かが奔った。まだ終わっていないのだと、まだ決着していないと勘が叫んでいた。

 

「まさカ」

 

 ネギの居場所を確認しようと、魔導機《マジック・デバイス》の力も使って感知の精度を高める。すると、着弾した場所にネギの姿がない。

 

「まさカ――ッ」

 

 更に感知域を拡大すると、直上にネギを発見した。超に向かって一直線に降下してくる。

 ネギは超が気づいたと分かると急加速、更に落下速度を上げた。

 

「この程度で私は倒せんゾ――っ!?」

 

 見上げた空に異変を感じた。夜空で見えにくいが、積乱雲が形成されている。超の明晰な頭脳はすぐさまこの異変に明確な答えを導き出す。

 

「私の火属性魔法を使って上昇気流を――」

 

 ネギがニヤリと笑って――――環境操作系のものを意図的に攻撃に転化した魔法によって引き起こされたダウンバーストが起こった。ある種の下降気流に過ぎないそれが、ネギの禁呪指定環境操作系魔法によって圧縮されて空気の弾丸となって振り降りる。

 

「行っっけえええええええええええええええええええええええ―――――――――ッ!!」

 

 対処するよりも早く、ダウンバーストの勢いを受けて更に加速したネギの一撃が避ける間もなく超の頬に突き刺さる。ネギの全重量と加速による増加に、ダウンバーストの勢いを合わせれば障壁を展開しようとも簡単に突破された。

 意識が途切れるほどの一撃だったが、超を襲った副次効果が意識を取り戻させた。

 

「がっ、ぐっ……!?」

「ぐぁっ……!?」

 

 エヴァンジェリンを圧倒したカネ神を一時とはいえ抑え込んだダウンバーストの威力は留まることを知らず、超重量の壁が圧し掛かって来たかのように二人して落ちる。

 スカイダイビングなど目ではない勢いで急降下を始めた二人。あっという間に雲を突き抜け、どんどん街が迫っていく。あまりの急降下の速さに意識は散り散りとなり、空気が体を動かす妨げとなる。

 

浮遊(アンチグラビディ)システム…………がぁっ!?」

 

 超が空を飛ぶために必要な強化服の腰に備え付けられている機能を作動させるも、ダウンバーストの下降気流の中では過剰な稼働を強いられてボンッと軽い音を立てて爆発した。もしかしたら先の攻撃でどこか破損していたのかもしれない。

 空を飛ぶ手段を浮遊(アンチグラビディ)システムに依存していた超には、普通ならともかくダウンバーストの影響下で高度を維持する手段は少ない。

 風の勢いで顔の形すら変形する中で藁をも掴むつもりでネギを見ると、彼は勝利を確信した顔でニヤリとほくそ笑んだ。思わず超はカチンとくるぐらいにはイラッときた。

 

「このまま一緒に落ちましょう」

 

 旅は道連れ世は情け、とでも言うようにちゃっかりと超を下側にして風を避けているネギは、魔力切れなのか顔色を真っ青にして逃げないように四肢に絡みついている。

 風よけにされ、四肢を拘束されては超は動きようもない。

 

「わぁ――っ!? 空中制動、飛行魔法――っ!!」

 

 ネギが魔力切れでは超がどうかしなければ二人とも壁に叩きつけられた蛙よりも酷い結果になることを予測できてしまって、割と混乱しながら魔導機(マジック・デバイス)を使って落下速度を落としていく。

 瞬く間に都市の全貌が見え、何度も制動をかけているがあまりにダウンバーストの勢いが強すぎる。

 空中制動と飛行魔法を行なうということは現在地、もしくは上へ昇ろうとする力を働かせることになる。ダウンバーストの下降気流の只中にいる超には上下に揺れる衝撃が襲い続け、彼女に縋りつくネギが必死にならなければならないほどだ。

 どうにか当初の10分の1以下まで落下速度を抑えたものの、飛来した隕石のような速度で二人は麻帆良湖へと墜落し、世界樹の天頂付近にまで水飛沫を上げて着水した。

 暫くの後に湖岸に手がかかる。

 

「ぶはぁっ――っ! 死ぬかと思たネ……」

 

 先に水面から疲労著しい顔を上げたのは超である。

 垂れる水が鬱陶しいのか、犬の如くブルブルと顔を振って振るい落とした超は一歩ずつ、ゆっくりと湖面から上がっていく、左半身を遅らせて。それも当然のことで、左手に魔力切れを起こしたネギを引っ張っているからだ。

 

「……現在、進行……形で、あぷ……僕は死に、そう……です……」

 

 魔力切れで碌な身動きが出来ないネギは早めに引き上げてくれないと溺れそうであった。しかも超はネギが首を伸ばさなければ呼吸が出来ない絶妙な位置で襟を掴んでいる。

 超としては、ネギの所為で成層圏からパラシュートなしスカイダイビングをやらされたような気分だったので、このままネギが足掻いて力尽きるのを待つのもいいような気持ちだが流石にそうはいかない。

 

「はぁ……」

 

 と、大きく長い溜息を吐いてネギの襟を掴んだまま一度は止まった歩みを進める。完全に水面から抜け出したところで、襟を掴んでいたネギを前方に放り投げる。

 背中から地面に落ちたネギが「痛っ」と苦痛に呻いているが、彼のしたことに比べれば超の行為など可愛い物である。

 

「自殺紛いの方法で相打ちに持ち込もうとしたのは評価するガ、魔力切れを起こしては敗けを認めるしかあるまイ?」

 

 黒刀を地に伏せたまま魔力切れで動くことが出来ないネギに突きつける。

 魔力を扱うには精神力が必要になる。逆にいえば魔力を失えば意識を保っているのも辛くなる。目が霞むのだろう、焦点が定まっていないネギが何故か薄らと笑った。

 

「試合に敗けても、勝負に勝つのは僕です」

「何ヲ――?」

 

 この決定的な状況で勝ち誇れる理由が分からず、一瞬思案した超の視界に走った影。

 自らの勝利を確信したネギが魔力切れで気絶したのを放っておいて影に反応しようとするも、ネギに突きつけていた黒刀に何か小さな物体が飛来して想像以上の衝撃に身体が流れて次の動作が遅れる。

 

「アーニャ・バスターキイィィ――――ッック!!!」

 

 超が弾かれた黒刀に体を流されながら向かってくる影を見ると、そこにあったのは小さな靴の裏であった。

 

「へぶんっ!?」

 

 避ける間もなく鼻っ柱に靴がめり込み、口から変な声が出るのを途絶えていく意識の中で他人事のように聞いていた。

 意識の断絶は十秒にも満たなかっただろう。背に土の感触があり、目の前にはフォークがあった。

 

「何故、フォークがあるネ?」

「超さんが危険なことをしないようにですよ」

「…………この声はネカネ先生カ。フォークが目に刺さりそうだから下げてほしいのだガ」

 

 視界一杯にフォークが独占している状況を回避したくて超は、フォークを突きつけている主がネカネだと声から判断してお願いしたのが、クスクスと思わず背筋がゾッとする漏れ出た笑い声が耳に入って冷や汗が止まらない。

 

「どうしてアスカに呪詛なんて叩き込んでくれた超さんに私が配慮しなければいけないのかしら?」

 

 ドッキーン、と音が聞こえそうなほど超の心臓が大きく鳴った。

 

「マジよ。ネカネ姉さんがマジだわ……」

 

 横から聞こえてきた声はアーニャのものだ。察するに先程の超を蹴った足は彼女のものだろう、『アーニャ・バスターキイィィ――――ッック!!!』と名前も入っていたことだし。となると、黒刀を弾き飛ばしたのはネカネが投げたフォークなのだろうかと疑問が過るが、今の超に大事なのは自分の身の保身である。

 

「え、あ、いや…………私は貴女の生徒ヨ? 傷つけるのはよろしくないと思うのだガ」

「ネギまで傷だらけにしといて、何を今更。今の私はこの子達の姉なの、ごめんなさいね。そもそも、アナタ…………退学届出してるでしょ?」

 

 生徒という立場を免罪符にして逃げることは出来そうにない。ネカネの声音はどこまでも冷ややかで、超のことなどどうでもいいという感情が透けて見えている。

 こういう人だったのかと内心で戦慄しながら割と超が真剣に危機に瀕していると、フォークが横から避けられた。

 ようやく開けた視界に、アーニャがネカネの持つフォークを避けてくれたのだと知る。

 

「まあ、ネカネ姉さんも落ち着いて」

「私は十分に落ち着いています」

「いや、どう見ても落ち着いてないから」

 

 ヤバいわこのブラコン、とアーニャが口の中で呟いた言葉が聞こえなくても分かった超も深く同意する。

 フォークを避けられても超が五体投地したままの体を起こせないのは、顔の直ぐ近くにネカネの左足があるからである。右足は黒刀を持っている超の手を踏んでおり、恐らく少しでも体を動かそうとすれば、ネカネは躊躇なく超の顔か首を踏み潰そうとするだろう。冷ややかな声音から考えるにネカネは躊躇なくやる。

 ネカネさんは下着の趣味がいいのだナ、と視界に映る白い下着を見ながら現実逃避気味な超だった。

 ふぅ、と溜息を漏らしたアーニャがしゃがんで超の顔を覗き込む。

 

「ねぇ、超。負けを認めてくれない? どう考えても私達の勝ちでしょ」

 

 完全に死に体なので敗北を認めるのは吝かではないが、腑に落ちない点がある。

 

「その前に聞かせてほしい。どうして二人がここに?」

「私達がここの防衛戦力に配置されてたからに決まってるじゃない。まあ、大した力になってないけどね。しかも魔法まで使えなくなって何も出来なくなっちゃって、まだ戦えた刹那達にに後を任せてここに避難してたらアンタ達が落ちてきたってわけ」

 

 アーニャが言った直後、近くで光の柱が上がった。

 麻帆良湖岸近くにあった残り二つの内の一つのポイントが超側の戦力によって落とされたことを示している。

 

「ところで、さきの私の魔導機(マジック・デバイス)を弾き飛ばしかけたのは……」

「ネカネ姉さんが投げたフォークよ」

「この魔力減衰現象下でネカネ先生の魔力では、もう身体強化も使えないはずなのに、あの威力はなんだたヨ」

「さあ、ネカネ姉さんだし、何が出来ても不思議じゃないけど、早くアスカの呪詛解いてくんない? 正直、ネカネ姉さんが怖いから」

 

 一瞬光の柱を見上げたアーニャが再び超を見下ろして告げた。

 超もかなりネカネが怖い。視線が突き刺さるというのは分かるのだが、発せられるプレッシャーで心臓が不整脈を引き起こしそうなほどだ。

 

「無理ネ!」

「――――超、死ぬ覚悟を持って言ってる?」

「ほ、本当ネ。なにせあれは私にもどうにも出来ない代物だかラ」

 

 ゴォォオオオオ――――ッ、と音が聞こえそうなほどネカネからのプレッシャーが高まって言い訳染みた抗弁を重ねる。

 

「大丈夫だヨ。100年後に曾孫の私が生まれているのだから無事に決まているネ」

「…………へぇ、ということはアンタはアスカの直系なんだ」

「はっ?! しまった誘導尋問カ!?」

「アンタが勝手に喋ったんでしょうが」

 

 致死のプレッシャーに負けて、真実かどうかは分からないが情報をゲロッた超にネカネの威圧が弱まった。

 

「じゃあ、呪詛が解けないんなら負けを認めてロボットを退かせないよ。もう勝負はついたじゃない」

 

 残るポイントは一つ、火星ロボ軍団の首領である超はここで地に伏して起き上がることすら許されないのだから試合も勝負もついているはずだとアーニャは言う。

 

「私の負けは認めるネ」

 

 超の敗北は確定した事項であるが、それと火星ロボ軍団の敗北は決してイコールではないのだと示す様にニヤリと笑う。

 

「これはネギ先生に言たのだガ、『ラスボスをやるのならば第二形態や第三形態があれば別だガ、人間の私が変身など出来ないから代わりに切り札や奥の手を二つや三つ持ていなければ面白みがないネ』。一つ目の切り札が広域魔力減衰現象を引き起こす反魔法場(アンチマジックフィールド)発生装置。もう一つが魔導機(マジック・デバイス)だガ、何時私の手がこれだけしかないと言た?」

「…………どういう意味よ。流石のアンタもこれだけやったらネタ切れじゃないの?」

「私のような小物は物語の中では精々中ボスだと言うことだヨ」

 

 ボンッ、と三人の遥か上空を飛んでいた飛行船が爆発した。その閃光が微かに夜空に光った。

 

「奥の手は最後まで隠しておくものダ」

 

 一瞬走った閃光を覆い隠す様に大きな影が空に広がり、徐々にその大きさを広げていく。

 翼の羽ばたく音が徐々に大きく耳に入り、それに従って周囲の風が徐々に激しく乱れてくる。単に巨大なだけではない。あまりにも圧倒的な力が、自身の存在を繊細に意識に刻み込み、曖昧な認識を許さないのだ。

 

「何かが落ちてくる!?」

 

 アーニャが気づき、叫びを上げた直後に高速で飛来した影が四人の直上にその姿を現し、その大きな翼を広げた。

 言葉もなく、アーニャとネカネは呆然と翼を広げるそれ(・・)を見上げた。

 大きい。ただひたすらに大きい。頭頂までの高さは、優に十メートルを越えている。大きな首を支える雄偉な体躯。血のように紅い両眼が、苛烈な光を放っていた。牙を剥き出しにした口腔から、灼熱の呼気が漏れた。

 岩石を削りだしたような直線と平面だけで構成された鋭角的な体躯。口腔には凶悪な牙が幾重にも並んでいる。そして、無骨な身体の中で、別の生き物のようにのたくる尻尾だけは、生々しく生物的な野太い蛇のような形をしているのだ。

 その姿は旧世界では空想の産物とされているが、魔法世界に存在するある生物に酷似している。

 

「ど、ドラゴン!?」

「正確には違うネ。未来の技術の粋を結晶した機械仕掛けの竜――――機竜ヨ」

 

 アーニャの驚きを超が訂正する。

 改めてアーニャが機竜を見上げれば、ぎっしりと並んだ牙や鱗の一枚一枚に至るまで鉄ではない金属で構成されていることが確認できた。機械であるはずなのにその圧力が肌でも感じられるようだった。

 

「あの機竜は古龍と同等の戦闘力を持つヨ。科学と魔導のハイブリットエンジンで動く機竜は魔導機(マジック・デバイス)と同じく魔力減衰現象の影響を殆ど受けないネ。私から君達に言わせてもらおうカ。機竜と戦う気はあるカ?」

 

 古龍とは、言うなれば現代に生きる神話の怪物である。その強さは正に一騎当千で、御伽噺に謡われし怪物級の強さを誇る。吸血鬼の真祖と並んで最強種と謳われる存在は伊達ではない。

 数ある幻想種たちの象徴であり、畏怖である君臨者。時に魔となり、時に神として現われる万獣の頂点。

 ただでさえ、麻帆良では全開状態のエヴァンジェリンぐらいしか拮抗出来そうな人物はいないのに、魔力減衰現象下でも変わらぬ力を振るうというなら誰にも勝ち目があるはずがない――――例え英雄であっても。

 ニヤリと絶対の自信を匂わせて笑う超は、最後通告のように言葉を続ける。

 

「負けを認めて我が軍門に下るが――」

 

 言葉の直前で極大の悪寒が四人に奔った。

 凝縮した闇が間近に現れたかのように産毛を総毛立たせた四人の視線の先で、どこからか出現した黒い靄が一直線に機竜に向かって行き、鋼の機体の裡に入り込んだ。

 

「明日菜達は上手くいったようね。皺寄せがこっちに来たみたいだけど」

 

 今まで何度も感じてきた嫌な予感にアーニャは唇の端をヒクヒクとさせて機竜の変化を見守る。ネカネもアスカは無事かもしれないという点には安心したようだが、同じように呆けたように機竜を見上げている。

 

「これは流石に想定外ネ。こんなはずではなかたのだガ……」

 

 ようやくネカネの拘束から抜け出ることが出来た超も一緒に呆然と機竜を見上げていると、こちらを見下ろす眼と眼が合った。どこまでも苛烈で負の塊のような瞳は見ているだけでも悍ましい。

 生命持つ存在ではない機竜が過去と未来の負の化身となって、敵も味方もなく、世に終焉を齎すべく世界に生きとし生けるもの全てが滅び去るまでただ只管に万物を破壊し続ける破壊の為の破壊者となった。

 負の源泉となった機竜は極めて具体的な滅びそのものであり、そして自分達はそれに晒されているのだと悟った。

 

「ガアァァァアアア…………」

 

 大気が震える。何かを激しく擦り合わせるような音。それが竜の喉の奥から響いて来ると気付いた。

 機竜の顎が開いて、傍目からでも分かるほど極大な力を持った炎が呻いている。

 感じられる力は明らかにここら一体の更地に変えても余りある。気付いた時には、回避が間に合わぬ威力ではない。魔力減衰現象下が極まっているこの状況では碌な障壁も張れないとなれば防御にも意味はない。

 そんなタイミングで気絶から目を覚ましたネギは、死の具現から皆を守ろうと魔法を発動する。

 

「くっ、うぷっ」

 

 魔力切れの気絶から回復したばかりで極大の炎から皆を守る障壁を張れる魔力なんてない。障壁は張れず、喉の奥から込み上げた大量の血がネギの口元を濡らす。

 

「けほっ」

 

 ネカネか超かアーニャか、それともネギのものか誰かが咳き込んだ。

 ネギも急激に意識が薄くなったように肺が痛んだ。体を折って咳き込んだ。目に針金を差し込まれたようだった。喉が締め付けられた。空気中の水分が急激に下がったようで暑くて暑くて、死んでしまいそうだった。目が乾いた。

 機竜の口が開かれて、極大の黒炎の塊が降って来る。

 

「太陽が……落ちて来る」

 

 近くからネカネの驚愕を押し殺した声が聞こえた。

 全てを滅却する避けようのない死が降って来る。誰もが諦め、超ですら絶望に沈んだ面持ちで見上げるしかない中で、その声が聞こえた。

 

「無極而太極斬」

 

 聞き慣れた、でも違う声が聞こえ、横合いから走った白色の斬撃が極大な炎に到達したと思った瞬間には、最初からそんな物は存在しなかったとばかりに黒炎が掻き消された。

 消しゴムで消されたかのように黒炎が消えても、夢か幻かのように生き残った実感が持てない4人の耳に、ザッザッザッと近づいてくる足音が聞こえた。グルルルルル、と唸った機竜が近づいてくる人物を警戒するように羽ばたいて距離を開ける。

 ネギが霞む目で近づく人物を見る。

 亜麻色の髪を登頂で縛って後ろに流した鎧を纏った騎士が、両耳の絆の銀を揺らして明日菜のハマノツルギを手に勇ましく立っている。

 

「は、はは……遅いぞ……」

 

 ネギが微かに笑う。理屈なんて分からなかった。ここに至る理由なんて欠片も知らなかった。しかし、確実にネギは笑っていた。楽しそうだった。

 

「――――後を頼む」

 

 肉親の息遣いを間近に聞いていられる安心を感じてネギは瞳を閉じた。全身から力が抜け落ちた。頼れるのは思いを乗せた言葉しかなかった。世界の全てがその思いを耳にしたのに違いない。

 生まれて初めて、ネギは父への憧れもない祈りだけの存在になっていた。

 

「任された」

 

 騎士は意識を失ったネギを見下ろしていた。

 そんな騎士にアーニャが恐る恐るの風体で口を開く。

 

「ねえ、私達はアンタをなんて呼べばいいの?」

 

 一拍の沈黙の後に騎士が口を開く。

 

「――――アスカナでいい」

 

 アスカでもあり明日菜でもあり、そのどちらでもない騎士は二人のよく似た笑みと共に自らの名を名乗った。

 




今話・作品の裏話が見たい方は活動報告にて。

次回、第五章の最後

 『第57話 百年後の勝者』


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第57話 百年後の勝者

独自設定の嵐です。認められない方はブラウザバックを推奨します。


 

 反魔法場(アンチマジックフィールド)発生装置による広域魔力減衰現象下では魔法で空を飛んで呑気に観戦とまではいかず、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは己が従者であるチャチャゼロを連れてどこかの建物の屋上に降りていた。

 

「舞台は最終幕といったところか」

 

 気だるげに酒を口を運ぶエヴァンジェリンが言った。

 

「ツマンナサソウダナ、ご主人」

「ああ、つまらんとも。他人の掌の上でいいように扱われて気分良く酒が飲めるものか」

 

 上等な酒も状況によっては駄酒に成り下がるのだと、隣で人の酒を掻っ食らっている初代従者であるチャチャゼロに答えたエヴァンジェリンは、一時的な静寂を取り戻した夜空を見上げる。

 

「つくづく超鈴音は食わせ者だったということだ」

 

 2500体を超える人型ロボット群と多数の多脚型のみならず、麻帆良地下で封印されていた鬼神も機械で制御して数体投入している。アスカを自らの手駒とした手腕に、切り札・奥の手を二重三重に隠し持っていた。

 全開状態ならまだしも、今の状態で超と戦うことはエヴァンジェリンでも避けたい。

 

「ほう、あなたがそこまで言うとは、珍しいこともあるものですね」

「いきなり人の背後に現れるな、アル」

 

 気配もなく背後に出現して声をかけてきたアルビレオ・イマに今更驚くことはなかった。学園長が手助けを断られたと言っていたので、どこかで見ていることは間違いなく、なんとなく声をかけてくるだろうと予感があった。

 首だけを後ろに向ければ、何時ものように胡散臭い笑みを浮かべた白いローブ姿の男がそこに立っている。

 

「犬上小太郎君の容態はどうですか?」

 

 聞かれた内容にピクリとエヴァンジェリンの目元が動いた。

 

「珍しいな、アル。お前が他人を気遣うなど」

「気に入った者を気にするのは誰であろうと同じですよ。私も、そしてあなたもね」

「相変わらず口の減らん奴だ」

 

 皮肉を返すか、相手を弄らなくては満足できない気質なのか、アルビレオのことをそう考えて直ぐに忘却する。長い付き合いではあるが、アルビレオの人間性を理解したいわけではない。

 

「純粋に彼の身を案じての事ですよ。小太郎君の気質は好ましいものですし、彼のように命を賭けて友に報いれる者は貴重です。きっとこれからのアスカ君の助けになってくれるでしょう」

 

 アルビレオが小太郎のことを気に入っているのは事実だろうが、エヴァンジェリンにはその内容が普通の人にとってはとても好ましいものとは思えないことは簡単に想像がついた。

 

(前からこんな奴だったか?)

 

 十五年以上前と比べて現在のアルビレオとの乖離に内心で首を捻る。

 以前は掴みどころのない男であったが、今は大きな目的の為に邁進し過ぎてその他のことを粗雑に扱っている節がある。その大きな目的にアスカの存在が不可欠なようで、アスカを成長させる為に小太郎を利用しようとしている。

 僅かな言葉だけでエヴァンジェリンにここまで察せさせることは以前では考えられなかったはずだ。

 

「別荘に連れてきた木乃香に治療をさせている。オマケで刹那がついてきたが、木乃香の治癒なら後遺症も残らんだろ」

「それなら安心です」

 

 と言って、アルビレオはチャチャゼロがいるのとは反対側に立って空を見上げる。

 

「まさか広域魔力減衰現象を人工的に再現するとは恐れ入りましたよ。実に興味深い。貴女のクラスは本当に面白いですね」

「おもしろクラスであることは否定せんが」

 

 自分は吸血鬼だし、従者はガイノイド。生徒に魔法使い・幽霊・魔族・半妖・半魔・特異能力者・忍者・科学者・大財閥御令嬢二人・料理人がいて、教師は陰陽師・魔法使い・魔法使い見習い二人と、自分も当人ながらよくもここまでバリエーション豊かな面々が揃ったものだと感心してしまう。

 

「とどめに未来人で最後の魔法使いで気鋭の魔導士だとか、超が一番のネタキャラだな」

 

 十五年も中学生をやっている自分の身を棚に上げて、一人で納得して頷くエヴァンジェリン。

 

「一度じっくりと話してみたいものですね、彼女と」

 

 特に突っ込むことをしなかったアルビレオは先程ネギと共に墜落した超がいるであろう麻帆良湖岸に目を向けている。

 口では興味が出たからと嘯いているものの、その眼は爛々と輝いている。どう見てもにこやかな話よりも超の持つ技術・彼女が来たという未来に注目していることが丸分かりで、そこもまた以前のアルビレオでは考えられないほど他人に望みが見えている。

 

「おや?」

 

 アルビレオの思惑を紐解こうと黙考していたエヴァンジェリンは彼の声に顔を上げ、視線を上空に向けてその意味を理解する。

 

「飛行船からドラゴンとは、また豪快なことで」

 

 広域魔力減衰現象下では視力を強化するにもエヴァンジェリンにとっては多大な魔力を消耗して見えたものは、最初に超がネギと戦っていた飛行船が爆発して機竜が出て来ていた。

 爆炎を切り裂いた飛行する機竜はまっしぐらに都市に向かってくる。

 

「加勢しなくていいのか? 碌に力も使えない私と違って、お前なら多少はなんとか出来るだろ」

「私もこの状況下では大した戦力にはなりませんよ。こうやって分身体を維持するだけで精一杯です」

 

 言った一瞬だけアルビレオの姿がブレた。広域魔力減衰現象下で魔力で構成している分身体を動かすだけでも重労働なので戦闘はとても行えないと言いたいのか。

 見ている先で機竜が口から地上に向かって火炎を噴き出した。

 

「お前の目論み通り、アイツらがなんとかするだろうよ」

「私に目論みなどありませんよ」

 

 宙を飛ぶ斬撃が火炎を消し去るのを眺め、二人は一観客として舞台を楽しむ。

 この舞台が英雄譚となるか、悪漢譚となるか、まだ決まっていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 麻帆良都市上空に異形の影が浮かんでいる。

 

「グルアウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」

 

 自然にあるまじき建物が乱立する都市の空には似つかわしくない獣の雄叫びが響く。雄叫びを上げる獣は空想上の産物とされている機竜そのものの姿で、人が造ったことを示す金属質な輝きを煌めかせながら相対する者をその紅き眼で睨み付けている。相対する者は十メートルを優に超える機械仕掛けの機竜に比べれば遥かに小さい。

 

「五月蠅いなぁ」

 

 機竜の雄叫びを耳障りだとばかりに顔を顰めて言った相対者は鎧を身に纏い、肩に大剣を担ぐ姿は騎士そのもの。後頭部で纏めた亜麻色の髪の毛を後ろに流し、何の支えもなしに宙に浮く騎士の名をアスカナといった。

 アスカ・スプリングフィールドと神楽坂明日菜が合体した騎士アスカナは、明日菜の魔法無効化能力の特性もあって反魔法場(アンチマジックフィールド)発生装置による広域魔力減衰現象下であっても制限なしに魔法を使うことが出来る。

 浮遊術で浮かび、アスカナが相対していると機竜がなんの前触れもなく顎を開き、極大の炎を放った。

 アスカナはなんの防御策も取ることなく、回避行動にも移らない。

 

「私には効かない」

 

 肩に担いだハマノツルギを動かすことなく直撃した黒炎は、しかし始めから存在を許されなかったかのようにアスカナに触れることなく掻き消える。

 幾ら機竜が対広域魔力減衰現象でも十分に力を振るえるといっても完全に減衰を無効化しているわけではない。アスカナの持つ魔法無効化能力の前では如何なる奇跡の力も無と化す。

 

「グルァアアア――――!」

 

 機竜は怒ったように吠え、再び黒炎を放つ。

 

「無駄なこと――」

 

 アスカナの持つ魔法無効化能力の前では、楯突く者の叫びを嘲笑うかのように軽々と、その力を消してしまう…………はずだった。

 

「はぁああああああああああああああああああっ!!」

 

 今度の黒炎に危機感を感じたアスカナは左足を引き、腰を落とし、背筋を引き絞って満身に力を漲らせ、障壁という形で解き放つ。世界全体に響き、感じた者の魂を鷲掴みするような黒炎の塊が障壁を打ち砕かんと襲い掛かってきた。

 

「………熱ッ……」

 

 あまりの眩しさに目を瞑った。瞼を通して赤い輝きが映る。全力で障壁を張っていても熱波が越えてきて息が詰まる。同時に機竜が吐き出した炎流が空気を引き裂き、完全に受けきったはずのアスカナを衝撃だけで遥か遠くに吹き飛ばした。

 

「魔法的な力ではなく現象としての火を吹いたのか。器用な奴」

 

 馬鹿になったように耳鳴りのしている耳を抑えながらゆっくりと目を閉じ、開く。瞼から赤い輝きが消えて目を開けると視界に映る何もかもが、ぼやけた輪郭と曖昧な色彩に染まっていた。

 視界が晴れて見ると、炙られた大気が煮え立ち、空気が赤熱化して泡立っているかのような錯覚すら覚える。機竜の炎が舐めた一帯の空気が煮立ち、その余波は恐らく数十メートルの広範囲に渡って熱せられ、遠方では一足早い夏の到来と勘違いしている者もいるかもしれない。

 

「こんな威力の攻撃を殆どタメ無しで撃ってくるなんて反則だな。しかも魔法無効化能力に引っ掛からないときてる」

 

 クツクツとアスカナの口から笑みが零れる。

 

「随分と怒ってるじゃないか。効かなくて焦ってるのか」

 

 機竜は低く唸りながらアスカナへと視線を向けて吼える。防がれたことにご立腹のようで、怒りを湛えた真紅の瞳をアスカナに向かって向けてくる。

 

「こっちも全開で行く」

 

 ハマノツルギを上空に放り投げ、両手を開く。

 左手には魔力、右手に気を宿して、相反する力を胸の前で近づけた。

 

「――合成」

 

 もう少しで両手が合わさるかと思われた瞬間、両方のエネルギーが触れ合った。バチッと両方のエネルギーが反発するように紫電を纏ったが直ぐに収まり、一瞬強い風が吹いてアスカナの全身を凄まじいオーラが纏う。

 咸卦法を発動して極大な力を纏うアスカナは落ちてきたハマノツルギを掴み、オーラを伝播する。

 

「かかって来い」

 

 挑発するアスカナに向かって、風を切り裂きながら機竜はその巨体に似合わない速度で一直線に飛翔する。

 が、何故か前方にいるアスカナに向かって風が襲い掛かった。

 

「くっ! 風だけ起こしてっ!?」

 

 機竜はその巨体故に羽ばたくだけで周囲の気流が乱れる。普通ならば前方の離れた位置にまでいるアスカナにまでその影響が伝わるということはありえない。意識的に行われていると考えた方が自然で、となれば機竜は羽の羽ばたきで飛んでいるのではなくもっと別の力学が作用して飛んでいる。

 突撃に対応しおうとしているアスカナは気流の乱れに翻弄され、機竜は攻撃することなく横をすり抜け、力学を無視するかのように反転して尾が薙ぎ払うように振るわれた。

 

「疾ィッ!」

 

 黒炎のブレスとは違って、風を切り裂き物理的な衝撃を伴う機竜の尾の一撃をやり過ごして、間髪要れずに近づいて目の前に聳え立つ脚を、ハマノツルギで一刀の下に切断しようと振り切る。

 鱗が数枚、弾け飛んだ。が、そこまでしかいかない。何万枚とある鱗を数枚無くしたところで機竜に痛痒などあるはずもない。

 

「硬ったぁ! 何で出来てんの?!」

 

 硬質の音を響かせて、ハマノツルギ刀は内部に傷をつけることも叶わず跳ね返された。未知の金属で構成されている鱗は恐ろしく硬く、またその下の分厚い筋肉を模したゴムのような物が衝撃の殆どを吸収してしまう。

 斬り付けた手に痺れを覚え、アスカナは毒づいた。直上から吹き付けられた炎を、ハマノツルギを旋回させて防ぐが、熱気が迫って顔を灼く。

 先程の一点集中の黒炎の塊とは違い、空中から四方へと巻き散らされるのは拡散型のブレス。着弾と同時に炎の形は崩れ、周りの空気を喰らいながら急激に燃焼する。つまり起こるのは爆発。

 

「っ! 白い雷!」

 

 爆発に押されるように距離を取りながら、咸卦法で強化された白い雷を放つ。

 直進する白い雷を前にしても機竜は周囲を一切警戒しておらず、速度も易々と回避されるような速度ではない。完全に直撃コース。だが、白い雷は機竜に届く直前で光の壁のようなものに阻まれ弾かれた。

 

「障壁、それもかなり強力なやつか。ただでさえ硬そうな奴なのに面倒臭いことで」

 

 アスカナの眼でも詳細は分からぬほど幾何学的な構成の障壁は、咸卦法で強化された白い雷を防ぎ切るほどの堅牢な硬さを持つ。突破するには魔法無効化能力が付与された斬撃攻撃か、白い雷以上の威力を以てしかない。

 接近すれば障壁も関係ないが、遠・中距離の攻撃は高すぎる防御力を持つ機竜相手では殆ど効かないことを示している。守りの時だけ展開するようだから隙を見つければいいが、守勢に回られると突破するのはかなり困難。

 

「グルルルルゥ」

 

 機竜は、ゆっくりとその頭をアスカ達へと向ける。

 鎧のような鱗に身を包み、鋭い爪と牙を持つ機竜。その真紅の瞳は自らの獲物を睥睨するかのように、アスカナを映し出す。ただそれだけの行為で機竜から放たれるプレッシャーが増大したように感じられる。

 魔法で作った炎は効かないと分かれば直ぐに現象としての炎で切り替えたり、風を操作しての尾での一撃等から機竜が実に計算高いことが分かる。神話の時代より語り継がれる暴力の象徴、王権の裏づけ、自然の化身と言われる姿を模しているのは伊達ではないということか。

 

「「「!」」」

 

 両者は同時に動き出した。

 アスカナが超速で移動し、負けぬとばかりに機竜がその巨体に似合わぬ快速で周囲の気流を乱しながら猛追する。

 

「うらぁああああ――――――!!」

 

 アスカナが機竜の懐へと潜り込み、切り上げたハマノツルギで機竜の顎を突き上げる。その大きさの対比は、蟻がアフリカ象を殴り飛ばすにも等しい。

 中々にシュールな光景だったが、アスカナはその隙を逃さず、仰け反った機竜の首を狙って切り返したハマノツルギに極大の力を込めて振り下ろした。技の理はアスカが習得し、明日菜が刹那に習っていた神鳴流の斬岩剣を応用し、狙い澄ました一撃が切れ味鋭く首に埋まるほど切り裂いた。

 アスカナがハマノツルギを抜いて距離を開けると、切り裂かれた跡から噴水のように黒色のオイルが噴き出す。しかし、それも全体から見れば微々たる物でしかない。

 

「グルルルルアアアアアアアアアアアアア――――――――!」

 

 機竜の咆哮が空気を震わせた。アスカナはそちらに視線を向け、思わず目を丸くする。

 白銀に輝く巨竜を囲むように、機竜の背後に光り輝く魔法陣が描かれていた。

 二重の同心円に内接した六芒星が、ゆっくりと回転している。砲声が高まるにつれ、光は一層輝きを増し、表面に稲妻を走らせた。魔法陣をのたうつように走る稲妻は無数の雷球を生み、機竜の周りに漂わせる。

 魔法陣で自然現象に干渉して生み出されたそれぞれが細い稲妻でつながれた雷球は、機竜を戒める雷の檻のように見えた。

 

「更にお怒りのご様子で」

 

 アスカナは輝きを増す魔法陣を見ながら、火に油を入れてしまったことに気づいて冷や汗を垂らす。

 

「グギャアアア!」

 

 短く鋭い叫びを合図に、雷球が一斉に射出された。狙いも定めず、ただ漠然と前方にばらまかれた雷球の群れは、それ故に予測不可能な軌道を取ってアスカナを襲う。

 

「多芸だな、とっ!」

 

 アスカナは全身に雷を纏い、音すら置き去りにするようなスピードで空を奔った。降り注ぐ雷球の間隙を縫うように、機竜に比べれば小さすぎるアスカナの身体が空を飛び回り疾走する。

 強化した身体能力に任せてスピードを瞬時に殺す急速停止と、慣性の法則を無視した方向転換。そして、停止から一気にトップスピードに乗せる驚異的な加速力が、奇跡とでも言うべき体捌きを可能とした。

 無数の雷球に触れることさえ許さず、避けられないものを防御障壁で受け流し、虚しくエネルギーを散らしていく。

 

「抜けたッ!」

 

 雷の奔流を潜り抜け、機竜の懐に潜り込んだ。叩きつけられる鉤爪と尻尾を容易く躱し、飛び乗った背中に全体重をかけてハマノツルギを深々と突き刺さんと振り下ろした。

 がぎぃん、とやたらと固そうな音を立て、切っ先が白銀の鱗を貫いた。その程度の傷は、機竜にしてみれば針に刺されたようなものでしかない。アスカナの狙いはその先にあった。

 

「――っ!」

 

 呼気と共に、機竜の体内に入り込んでいるハマノツルギに限界以上の咸卦の力を注入して爆発させる。

 

「グウオオオオオオオオオオ!」

 

 強靭な鱗も筋肉も、身体の内側で生じる爆発には無力だった。機竜の背中に、人が一人ほど身を収められそうな大穴が開く。

 

「グルアアアアアア!!」

 

 流石に頭に来たのか機竜が怒りの咆哮を上げて身を捩った。

 出鱈目に振り回される鉤爪や尻尾を冷静に見切り、爪を、牙をミリ単位の見切りで躱し、ハマノツルギを尾の付け根に突き刺す。間を置かず、雷を流して切れ味を増して切り裂き、切っ先に力を集中させて内部で爆発させる。

 

「グウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」

 

 爆発はアスカナの何倍も大きい尻尾の一部分を抉った。尻尾を波打たせ、巨機竜が咆哮する。が、爆発でできた痕は機竜の巨体からしてみればやはり微々たる物しか過ぎない。

 とても小さな生き物が自身の障害となっていることへの煩わしさだけでなく、自身を滅ぼしえる牙を持つことを理解したのだろう。憤怒がアスカナの全身を刺し貫くように叩きつけられる。

 

「悪いけどやられる訳にはいかない。返り討ちにさせてもらう」

 

 咸卦の力を込めると刀身が稲光を発して光り輝くハマノツルギを手に、アスカナは単身で機竜に立ち向かう。

 全身から発せられる咸卦のオーラが、闇夜を照らすように輝いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠い空の向こうで走る閃光と爆発に足が竦みそうになる。長谷川千雨は殴り合いの喧嘩をしたこともなければ、腕っぷしに自信があるわけでもない。それでも今、行動しなければ千雨はきっと後悔すると確信があった。

 

「くそっ、くそっ、くそっ、くそっ、くそっ!」

 

 一般人が隔離された地区を長谷川千雨は一人で走る。

 運動を得意とするわけでもなく、インドア派の千雨の走る速度は遅く、息が切れるのも速い。それでも足を止めない。

 

「なにが最後だ! なにが別れに涙はいらないだ!」

 

 千雨を前へと進めさせている原動力は怒りだった。

 現状を認められない子供の我儘とも取れるその怒りを前進する力へと変えて、何も出来ないと知りながら戦いの場所へと向かう。

 

「認められるものか。今まで散々、人に迷惑をかけておいて、自分だけさっさといなくなるなんて許さないからな、相坂!」

 

 夢見枕のように背後に立って、いきなり『さようなら』なんて言われて納得できるはずがない。言いたことだけ言って消えた相坂さよに物申すために千雨は走る。

 

「何が後は頼むだ! 自分の分までアスカを見てくれだ! そういうことは自分でやれって言ってやる!」

 

 叫びながら走っていると、少し先の道に上空から誰かが降り立った。

 

「……お前は!?」

 

 例えそこにいるのが敵であっても千雨はたった一つの目的の為に邁進する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空気が抉れて轟音が鳴り響く。轟音の原因は巨大な体躯の機竜。機竜と死闘を繰り広げるのは相手と比べればあまりにも矮小で小さな影、アスカナだ。

 機竜自身の攻撃も随分も前から黒炎の塊やブレスだけでなく、翼や尾による直接打撃や翼の羽ばたきによって起こされる突風など多岐に渡るようになっている。オマケに固定砲台のようにその場で静止するのではなく、機竜自身も空中を移動しながら攻撃してくるのだから始末に終えない。

 

「巨体だからノロマだって言ったの誰だっ!」

 

 とても数十メートル級の巨体とは思えない素早さにアスカナは堪りかねて叫んだ。

 巨体というのは『大男総身に知恵が回りかね』という言葉があるように、愚鈍なイメージがあるが、実の所巨体というのは想像以上に恐ろしい。巨大な体は当然ながら莫大な質量を秘め、一撃一撃の破壊力を増大させる。当然、耐久力も桁違いで、強烈な一撃による被害を相対的に軽減させる。

 そして地味に厄介なのが、巨体は小さな人の身と比べ、僅かな身動きであっても大きな移動距離を取る事が出来る、という事だった。これを現在の戦闘に当てはめてみれば、いくら横に回り込もうとしても容易に相手は修正が可能。傍目にはスローに見えても実際の速度は1.5倍と考えていい。

 

「これでも、大分削ったんけどなぁ」

 

 攻撃の合間に距離が離れたので改めて機竜の体を見れば、体の所々に傷がある。内部まで届いた損傷を物語るようにオイルも所々から流れている。アスカナの攻撃によって産み出された傷だ。

 数十メートルの巨体が素早く動き、攻撃してくるのは大変なプレッシャーを感じる。機竜自体が相当なプレッシャーを発しているのだからアスカナの精神的疲労はかなり蓄積されている。

 

「まいったなこれは。キリがない」

 

 疲労の滲んだ声で、アスカナは呻いた。息を弾ませ、身体のどこかしらに軽くない傷を負っている。

 手も足も出ない、というわけではなかった。戦いにおいては対等、もしくは有利に進めているといってもいい。

 問題は敵が鉄の塊であり、生物でないことにある。損傷を負っても怯みもしないので、まるで大地に拳を振るっているようなもので徒労感を与えている。相手があまりにも巨大すぎて、攻撃しても意味がないと感じるほどだ。意味があるほどの成果に繋がらないような気分になる。

 一定のダメージを与えているにも関わらず、まだ機竜は動く。一体、後どれだけ戦い続ければいいのか。どれだけの傷を与えれば沈むのか、と戦闘が長引くと雑念が混じってしまう。

 考えている暇は無い。雑念は集中を阻害する。余計な思考を奧に押し込むようにして蓋をして戦闘を続行しようとしたその時だった。

 

「グルアウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」

 

 放たれた機竜の火炎のブレスを、アスカナは見栄も体裁もなく飛び退いて躱した。

 球体型ではなく、火炎放射のように辺りに広がるブレスタイプは障壁でも防いでも長時間放たれ続けると機竜の姿を見失う。実際、一度されて大ダメージを負いそうになったので、アスカナは受けるよりも回避を選んだ。

 ブレスが途絶えた瞬間を見計らって近づき、豊富な咸卦の力にモノを言わせて攻撃を放つ。振り下ろしたハマノツルギから生み出される斬撃の風が瞬く間に暴風となった、

 咸卦の力で構成された斬撃が三日月の刃となって、ブレスを放った直後の機竜の口腔に吸い込まれ、口腔内にある炎をことごとく刻む。一瞬の後、機竜の口で制御を失った炎が大爆発を起こし、首を滅茶苦茶振り回して炎を消そうとする。

 

「はぁぁああああああああああああああああああああっっ!!!!!」

 

 機竜の隙を見逃さず飛び出したアスカナの咆哮が響き渡る。

 凝縮された咸卦の力でハマノツルギを覆い隠して構成された三倍ほどの刀身を勢いよく振り下ろした。

 機竜の体に食い込む咸卦の刃は未知の金属の鱗を突き破り、筋肉を模したゴムを抉るかのように深く突き刺さる。その瞬間、咸卦の刃が破裂した。

 破裂によって機竜の体を抉り、オイルを噴出させる。噴水のように湧き出るオイルの中で機竜が身を捩らせ悲鳴を上げた。

 

「次っ!」

 

 続いて頭部に近寄り、切れ味を上げる為にハマノツルギに雷光を走らせて斬り付ける。

 鱗をやすやすと切り裂き、オイルが上がる。だが、機竜は頓着しない。どれほど深く切り裂いても、自分の巨大な身体には些細な傷だと知っているから。頭部を振り回し、巨大な尾をくねらせてアスカナを払い、打ち砕こうとする。

 

「舐めるな!」

 

 機竜の攻撃を躱して新たなダメージを刻み込むも、このままではジリ貧だということを誰よりもアスカナが知っている。

 咸卦の力を振るうアスカナの力は減り続けるの対し、機竜は全く減っていない。寧ろ体が温まったかのように動きが激しくなっている。

 何度か攻撃を加えてはいるが、効いたようには見えない。なにせ巨大すぎる。比喩ではなしに山ぐらいあった。まだ致命的なものにまでは至っていないが、このままではいずれアスカナが力尽きてしまうのは明白だろう。

 

「グルァアアアアアアアアアアアア!!」

 

 機竜が再び黒炎の塊を吐こうとしていた。だが、その狙いはアスカナではない。

 

「街に――っ!?」

 

 ほぼ平行を飛んでいたアスカナではなく、明らかに眼下の麻帆良学園に向けて黒炎を吐いた。

 第三者を巻き込むことは戦いにおけるルール違反ともいえるが、厳密には両者の間でそのようなものは制定されていない。本来ならば製作時にそのような行動が出来ないようにアルゴリズムされていたが、呪詛の残滓に取りつかれたことで消されていた。

 今までアスカナが都市に攻撃がいかないように動いていたのを観察し、弱点が別にあると学習した機竜は目の前の邪魔な羽虫を片付けるべく最善の行動を取る、

 

「くっそぉおおおお――――!」

 

 機竜の思惑を知りながらもアスカナは急加速し、黒炎を追いかけて咸卦の出力を目一杯上げる。

 辛うじて黒炎に追いついてハマノツルギで掻き消したが、狙っていたかのように機竜が飛来する。

 その一撃は余りにも疾すぎた。風を斬る処ではなく、抉る、もしくは砕くと言った方が正解に近かっただろう。回避も防御も間に合うタイミングではない。避けられるとしたら方法は一つ。

 

「!?」

 

 動きの止まったアスカナに機竜の尾の薙ぎ払いが当たるその一瞬前に二人の合体が解けた――――その場に留まった明日菜と、尾の軌道上から弾かれるように分離したアスカに。

 

「明――」

「後は任せたわよ」

 

 明日菜は信頼を眼差しを向け、アスカが手を伸ばすが間に合うタイミングではない。

 尾が薙ぎ払われ、アスカの耳にもビシィと何か乾いたものが砕ける音がした。

 薙ぎ払われた尾によって明日菜はあっという間に眼下へと突き落とされ、麻帆良湖の図書館島近くに落ちて大きな水飛沫を上げた。

 

「テメェ――!」

 

 怒りに染められたアスカが機竜を見ると、既に攻撃の準備を整えている。

 機竜の背後に魔法陣が浮かび上がり、無数の雷球を従えて何時でも放てるように準備を整えていた。明日菜と分離し、アスカに魔法無効化能力がないと分かっているかのように傍目からでも分かるほど嗤っていたのだ。

 

「グルゥウウアアアアアアアアア!!」

「笑うな――!」

 

 機竜が雷球を放つと同時にアスカも詠唱を破棄して雷の暴風を放つ。

 

「くっ、魔力が!?」

 

 明日菜と分離したことでアスカにも広域魔力減衰現象が作用し、雷の暴風の威力が急速に減じていく。

 空を飛んでいるだけで多大な魔力が必要とされる。明日菜の魔法無効化能力なら無効化出来た魔力減衰が如実に表れていた。

 

「グルアアアアア!」

 

 更なる魔力を注ぎ込もうとしたアスカの耳に聞こえてきた再びの雄叫び。悪寒を感じて雷の暴風を放つのを止め、その場から飛び退くと迂回した雷球が上下左右から迫っていた。

 後一歩でも後退が遅ければアウトだった。

 

「はっ!」

 

 もはや長期戦はない。短期決戦を望んで、全力の虚空瞬動で一気に機竜の懐に飛び込んで全力の一撃を放つ。

 

「うっ!?」

 

 アスカナならば砕けた、アスカ渾身の拳の一撃は鱗の一枚も砕けていなかった。広域魔力減衰現象と単純な出力不足によるアスカの攻撃力の減少が原因だ。

 無防備なアスカの隙を機竜が見逃すはずもない。前足を振るってくるのを避けて機竜の後方に流れたアスカだったが、振り返った機竜が口を開き、喉の奥、真っ赤に煮え滾った溶鉱炉のようなそこから、炎の気配が生みだしているのを戦慄が走る。

 

「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル。契約により我に従え、高殿の王」

 

 機竜の胸の辺りがぽこりと膨らむ。洞窟の奥から吹き出す風のような音。それが見る間に高まり、無数の炎の玉が機竜の巨大な顎に満ちる。水晶のように透き通った牙を噛み合わせると、口の中で幾つもの火花が散った。

 火球の一つ一つに、膨大な力を惜しみなく練りこんでいるのだ。あまりの高熱のためだろうか、牙の間から放射される光は紅と共に白い輝きさえ帯びていた。 解放される前から強烈と分かるその火炎は、尚も渦を巻き集束する。

 同時に、胸に満ちた空気を一気に吐き出す。死が満ちる。それが今、狙いを定めていた。

 

「来れ巨神を滅ぼす、燃ゆる立つ雷霆。百重千重となりて走れよ」

 

 生半可な方法では明らかに今までとは異なる機竜の攻撃に対抗することは出来ない。そう考えたアスカが現在放てる最強の魔法を放つ。

 

「グウオオオオオオオオオオオオオオオ―――――――――!!」

「千の雷――!!」

 

 極大の火炎と極大の雷の雨が正面から激突した。

 

「うおおおおおおおおおおっ!!」

 

 底が抜けたかのように魔力が放出されていく。莫大な魔力を持つアスカだからこそ持つのであって、並の魔法使いならば千の雷も放てずに魔力切れで気を失っていたことだろう。

 

「グルルルルルルアウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」

 

 まさか拮抗するとは思っていなかったのか、機竜が黒炎を放ちながら怒りの叫びを上げる。

 

(もっと強く、鋭くだ)

 

 千の雷を放ちながら、減衰を減らそうと魔法の構成を変えて魔力の扱いを先鋭させていく。アスカは自制の上に自制を課した。これでは届かないという諦観の衝動を抑えつけ、己に命じ続ける。刹那よりも短い間に更に無駄な行程を絞り込み、それでも最大限の効果を発揮するように魔法に反映させる。

 この行為は限界ギリギリまで走り続けたマラソン選手に短距離走のペースでもう一度走って来いと言う行為に等しい。心臓は生物としての限界を超える勢いで鼓動し、激しい血流のせいで体中の毛細血管が破裂する。

 

「くっ! うぉおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 苦しいどころの話ではなく、意識が吹き飛ばされそうになるどころか身体が爆散しそうなほどの力の奔出だ。

 

「このぉおおおおおおおおおおおおおおーっ!!」

 

 アスカが吼えて限界の壁を更に一歩踏み越え、咆哮と共に千の雷の威力が増した。強大な電気エネルギーはアスカの吼え声さえ飲み込み、轟音がアスカの意思を受け止めてさらに轟雷を高ぶらせる。荒れ狂う雷は雷獣と化してその牙を機竜に打ち立てるべく飛び掛る。

 瞬く間に千の雷が黒炎を呑み込み、機竜が危険を察して展開した障壁を突破して身体に触れた途端、無数の大砲が間近で炸裂したかのような爆音が轟く。

 

「グルァアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!」

 

 機竜に命中した千の雷が込められた力の全てを解放して猛威を振るう。

 圧縮された全てのエネルギーを開放して、機竜を中心とした数百メートル四方を雷の雨で呑み込んで焼き尽くそうとする。響き渡る雷が存在を許さんと猛って焼かれる激痛に悶えるように機竜は声にならない叫びを上げた。響き渡る苦痛の叫び。

 

「ぬあっ!」

 

 魔力の大半を千の雷につぎ込んだアスカはあまり威力の反作用に空中を跳ね飛ばされる。嘗てない威力で放った技の余波は、刹那だがアスカの意識を混迷の世界に引き込む。

 体勢を建て直しながら頭を振り、周囲を確認する。

 

(限界を越えても届かないのかっ!)

 

 破裂した向こうで、向かってくる機竜の両眼を睨み据えてアスカは心中で叫んでいた。

 機竜は尚も健在だった。今までの戦いで体表を覆うかなりの鱗が剥がれ落ち、多くの損傷と全身から蒸気を噴き出すなど、決して少なくないダメージを負ってはいるように見えるが五体そのものは無事で戦闘は可能であった。

 文字通りの全身全霊を傾けた魔法すらも打倒するほどダメージを与えることが出来なかった。

 

「ちくしょう――!?」

 

 疲労で一直線に向かってくる機竜への反応が鈍い。

 避けることは出来ず、防御の甲斐もなく突進で弾き飛ばされ、超重量の衝突に全身の骨が軋んだ。

 機竜の攻撃はまだ終わらない。その場で前回りをするように前転宙返りをして振るわれる尾をまともに食らった。

 真っ直ぐ都市に向かって落ち、魔法で急制動をかけるも地面に叩きつけれる。弾き飛ばされた勢いのまま、アスファルトを割って作ったクレーターの底に埋もれてしまった。

 

「――っ?! ゴホッ」

 

 咄嗟に自分から跳んだことで大部分の威力を軽減したにも関わらず、身体中の何箇所かの骨に罅と、その何倍もの打撲等が出来ている。内臓にもかなりのダメージが出ていることだろう。

 痛みに呻きながら顔を上げると、機竜が羽を畳んで真っ直ぐにこちらに向かってくる。

 あの勢いでアスカを踏み潰す為だけに地上に降りれば、都市は無事ではすまないだろう。「くっ」と呻いてアスカが体を起こそうとするが、痛みで動作が遅い。機竜が下りてくる方が圧倒的に速い。

 

「豪殺・居合い拳」

 

 閃光が奔った。太いビームかと思うほどの閃光が奔り、一直線に落下していた機竜を打ちのめす。

 

「グルアアアアアアアアアアア!?」

 

 これは完全に予想外だったのか、弾き飛ばされた機竜が麻帆良湖に墜落して大きな水飛沫を上げる。

 雨が降ったかのように落ちてくる水に濡れながらアスカが閃光の発信源を見遣ると、数多のロボット群の前に鮮烈に立ち塞がる高畑・T・タカミチの背中があった。

 

「タカミチ……」

 

 今また生身で田中さんの胴体を拳でぶち抜いた高畑の背中に向け、思わず弱気の声を向けてしまったアスカの声を聞き届けたのか、田中さんを投げ飛ばしてロボット群の前で爆発させた高畑がアスカの下へと一足で辿り着く。

 未だに立ち上がろうとしないアスカをちらりと見下ろした高畑も無事とは言えない。大きく息を乱し、大量の汗を流しながらも君臨している。

 ポケットに両手を入れた何時もの戦闘スタイルを取っているものの数多の傷を負いながらも、戦意が欠けるどころか益々猛っている高畑は横目でアスカを見下ろして口を開く。

 

「――――手を貸そうかい?」

 

 たったその一言だけを口にした。

 それだけでアスカの表情が変わる。変わらざるをえなかった。

 

「はん、必要ねぇよ」

 

 遠方で麻帆良湖から上がった機竜の脚が地面に叩きつけられる。それだけであまりにも圧倒的な質量が大地に叩きつけられ、大量のアスファルトを巻き上げる。

 

「舐められっぱなしでいられるか。アイツを倒したらこっちを手伝ってやるよ」

「期待しないで待っておこう」

 

 二人が言葉を交わすのはそれだけで十分だった。

 高畑は再びロボット群との戦いに挑む。その身を包むのは最低限の身体強化だけ。ただそれだけを以て、高畑は千以上のロボットと戦い続ける。

 対するアスカは歯を食いしばり、痛む体に鞭を入れて体を起こす。罅の入った骨が軋みを上げ、傷ついた内臓が蠕動を続けて全身の至るところが痛むが精神力で押さえ込む。

 再び上空へと浮かぶ機竜と立ち上がったアスカの視線が混じり合う。

 

「「!」」

 

 機竜とアスカが同時に空を飛ぶ。

 ダメージが少ない機竜が上を取り、また顎を開いて火炎を放とうとする。

 

「また街を!?」

 

 その狙いは都市に向いている。

 アスカが避ければ都市に被害が、戦っている高畑が間違いなく巻き込まれる。

 避けるという選択肢はなくなった。しかし、受けることもありえない。このような広域魔力減衰現象下では障壁に使っている魔力も弱まり、壁が弱くなる。ならば、迎撃かといえが大半の魔力を失っていて果たして出来るかどうか疑問である。

 

「受け切ってみせる……!」

 

 土壇場で開き直った意識が瞬時に先鋭化していた。アスカは両腕をクロスさせて、機竜が放とうとしている黒炎の射線上に留まる。

 魔力が少ないからどうしたと自分に言い聞かせ、息を深く吸って吐いて、血管から神経、細胞の一つに至るまで力を絞り出す。

 

(こんなことをしてなんになる――――)

 

 それは彼の胸中の呟きではあったが――――アスカ自身の声ではなく、また耳ではなく心に響いた。

 この機竜に勝てるはずがない。アスカの力でそのことは疑うべくもない。竜と呼ばれる超越種は人の手に余るもの。幾ら模したものであろうとも、この広域魔力減衰現象下であっては機竜は伝説すらも遥かに凌駕しかねない脅威。敵とするならば間違いなく最悪の相手だった。

 そこには言い訳も、容赦も、何もない。倒してくれる都合の良い武器もない。

 まだほんの一瞬しか経っていない中でそこまで思考が回る。

 常に心掛けている力の制御に更なる集中を加える。幼い頃から練磨し続けた力の通り道は筋肉の如く鍛えられており、アスカの要求する水準へとすぐさま到達した。

 

「俺は――」

 

 足りない。まだまだ全然、足りていない。

 もっと力が必要だ。肉体から発する程度の力ではとてもではないが足りるものではない。

 反魔法場(アンチマジックフィールド)発生装置による広域魔力減衰現象によって魔力結合が解除されてしまって魔法が使えなくなるが、魔力自体が消えてなくなっているわけではない。寧ろ空気中にある魔力は世界樹が大発光するほど濃度を増していく。

 力が足りないのならば、あるところから引き寄せれば良い。元より全能ならざる人の身であれば、どんな悪あがきでも試してみるしかあるまい。

 黒炎が放たれ、その猛威が確実に自らをこの世から消し去ると分かっていてもアスカは一歩たりとも引かない。

 

「俺はアスカ・スプリングフィールドだ! 俺に出来ない事なんてない! 俺に出来ない事なんて――――――――――ないっ!!」

 

 直後、着弾して麻帆良学園都市上空に大きな爆発が起こった。

 爆炎が薄れて黒煙がゆっくりと晴れていくと、中心に小さな光が煌めいた。最初は小さな煌めきだった光は、黒煙が晴れていくとその輝きを強めていく。まるで星々が輝いているかのような光の集まりに機竜はたじろぐ様に羽をばたつかせた。

 

「これは――」

 

 中心にいながら纏わりついてくる蛍の光に戸惑うように立っていたアスカに一つの光が触れた。

 

……………! ………………!

 

 声が聞こえた。意志というには弱く、願いというには乏しい声が。

 

……………! ………………! ………………!

 

 やはり聞こえる。何者かが、大勢の者たちが遠くから呼ぶ声。

 十や二十、いやもっと多い。こんなに沢山の人たちの声が何故か聞こえる。よく聞こえない。だが、戦ってくれと勝ってくれと懇願されているような気がする。

 

……………! ………………! ……………! ………………!

 

 声は止まない。群集の声、仲間の声、小太郎の、身代わりとなった明日菜の声が次々とアスカへと降りかかる。

 アスカは顔を上げて、周囲を見渡した。その瞬間に、理解した。『光』を届けたのは真下にある世界樹で、中継点として祈りを届けてくれている。

 世界樹は願望機としての機能を持っており、何万人もいる人々が同一の願いを抱けば力に方向性が定まる。今がそうだ。アスカに勝てと求める人々の願いを世界樹が反応して、魔力以前のマナが光となって現れていた。

 

「俺は馬鹿だ。この麻帆良祭の主役が誰かを考えもしなかった。俺が勝つ必要なんかない。祭りは楽しんだまま終わらせなきゃな」

 

 振り返れば、もう太陽が落ちて夜がやってきている。都市を照らすのは麻帆良祭の光で、それを照らしているのは祭りの参加者たちだ。 

 物語をハッピーエンドで終わらせる為に、光がアスカへと集っていく。真っ白な光が集いて一気に輝き、まるで太陽のようだった。

 アスカの周囲の空間に白色の輝きが次々と現れ、一つは小さな光にすぎなくても全部が集まれば大きな力となる。自分では輝くことができなくてもその輝きがあれば、夜であろうと旅人に道を示す月のように、それは集い、収束してゆく。

 祭りを邪魔する者を打ち払えとばかりに、闇夜を照らす一筋の光によってアスカが照らされる。

 

「みんなの力、借りるぜ」

 

 天空に捧げられた両腕に紋様が浮かび上がるも、アスカの心の変化に対応するように模様を変えていく。

 最初からアスカの腕の紋様は闇の魔法とは微妙に紋様とは異なるものだった。刻まれた闇の魔法は合体による不完全なもので、エヴァンジェリンですら今後どのようなものに変わっていくか予想のつかないものだった。

 変化していく闇の魔法に合わせて、ここで明日菜と合体したことで完全魔法無効化能力を発揮したことで魂が反応し、遺伝子の奥に埋もれていた素質が開花する。

 アスカは腕を黒く染めることなく両腕の紋様を輝かせる。右手の紋様は光り輝き、左手の紋様が黒く輝き、両者が相克するようにその輝きを強めていく。

 

「怒りだけじゃ駄目だよな。善も悪も、強さも弱さも、全てを認めて受け入れ、糧として前に進もう」

 

 呑み込むのではない。アスカはアスカのまま、何も変えずにその力に方向性を与えて前に進む力へと変える。バランスを取るのではない。力はただ力として認め、その全てを制御下に置く。

 

「右手に気を」

 

 火星の白――――全てを消し去る光の力を宿す紋様が白く輝く。

 

「左手に魔力を」

 

 金星の黒――――全てを呑み込む闇の力を宿す紋様が黒く輝く。

 

「――――」

 

 無心となる。喜怒哀楽全てを中庸にして、ただ受け入れるだけ。

 これから自分がしようとしていることが無謀であると分かっている。腕の紋様が何か分かっていなくても、本来なら気と魔力と同じく同時に存在することが出来ないことも、本能的に良く知っている。

 それでも、今の自分ならば出来ると確信があった。

 

「――合成」

 

 胸の間に持ってこられた両手が近づき、もう少しで合わさるかと思われた瞬間、両方のエネルギーが触れ、紋様が重なった。

 一瞬無風になり、凄まじい閃光と共にアスカの全身を凄まじいまでに強大なオーラが覆う。咸卦法と呼べるかどうかも怪しい莫大なエネルギーは、麻帆良都市上空を覆うほどに広がり、一個人が持てる力を遥かに超えていた。

 あまりの力の収束に空間が歪み、にも関わらず脅威を感じさせるような威圧感は全くない。大きな山のような自然エネルギーの雄大さに感服はすれど恐れる必要はない。

 世界樹からの光を取り込み、自らの魔力と気を合成し、火星の白と金星の黒が混じり合った今のアスカの力は世界に溶け込みそうなほど自然で雄大だった。

 

「はぁああああああああ――――!!」

 

 その力の全てを右拳に集中させる。魔力とも気とも言えない練り上げられた純粋なエネルギーは、世界そのものとすら感じられた。

 世界は歪を嫌い、認めない。世界を歪ませる呪詛はその最たるものであった。機竜の奥にいる呪詛の残滓は、あの力に触れれば自分は存在しえなくなると感じ取って、機竜が羽をばたつかせて全身を震わせた。

 

「グルァアアアアアアアアアアアアア――――――――――ッ!!!!」

 

 機竜は恐慌したように自らの全てを搾り取る。開いた顎の奥には今までの比ではない黒炎が燃え盛り、背後に展開された魔法陣は世界を呑み込まんばかりに大きく広がって数えることすら出来ない数の雷球を作り出す。

 

「行くぞ」

 

 反対にアスカはゆっくりとすら感じるほど穏やかに光を纏って飛翔する。

 

「グルォオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――――――――ッ!!!!」

 

 雷球が発射され、その全てがアスカに着弾するも、まるで力を吸い取られたかのようにアスカの周りを共に飛行する光に変わっていく。

 

「グルルルルルゥゥゥゥゥアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――――――ッッ?!?!?!?!」

 

 アスカを目視すら出来ない程の光に覆われたところで今までで最大の、麻帆良学園すら灰燼に帰すほどの威力の黒炎が放たれた。

 それほどの黒炎すらアスカを殺すことは出来ず、光に当たって霧散する。霧散した後に周囲から集っていく光が勢いを増していくのだから、まるで闇をも吸収したかのように突き進む。

 暗黒を貫く一条の閃光のように闇を切り裂いて一直線に機竜に向かって飛んでいく。遠くから眺めたその姿は夜空に輝き流れていく流星のようであった。

 

「いるべき場所へ、還るんだ」

 

 光は優しく機竜に触れ、抵抗らしい抵抗もなく突き進む。

 抵抗らしい抵抗もないまま呪詛が憑りついた機竜の核を貫き、そのまま背中を突き破って大空へと解き放たれたアスカ。

 アスカから離れた光は機竜に纏わりつき、一瞬の強い閃光の後にその姿を呑み込んで弾けた。

 呪詛はその根元から光によって浄化され、アスカの言葉通り在るべき場所へと還っていく。同時にそれは相坂さよの魂が解き放たれたことを意味していた。幽霊…………魂だけの存在であるさよが還るべき場所は輪廻の輪以外にありえない。

 

『ありがとうございます』

 

 ふと、そんな声が聞こえた様な気がした。

 光の拳は確かに呪詛を浄化し、その核となっていた相坂さよを縛っていた全てを解き放った。浄化されたさよの魂は輪廻の輪に戻り、何時かまた現世へと生まれ直す。アスカは彼女と交わした助けるという約束を確かに果たしたのだ。

 アスカは夜空に浮かぶ月を見上げ、吠えた。

 

「見つける! 何度生まれ変わっても必ずお前を見つけてやるからな。絶対だ、さよ!」

 

 いなくなったさよに向けて向けて声の限りに叫んだ。例えこの世のどこにいなくても聞こえるように声を振り絞って。例え世界が違っても、輪廻の輪の向こうにだって届かんばかりの大きな声を発するために息を吸い込んだ。

 

「待ってろ――!!」

 

 残っている力の全てを振り絞って声の限りに叫び、全て使い果たしてぐらりと力を失って身体が落下していく。

 体の裡にある全ての力を使い果たしたということは、浮遊術で飛ぶことすら出来なくなるということ。魔力だけではなく気も使い果たしたから瞬動術で落下速度を落とすことも出来やしない。

 麻帆良学園都市に季節外れの真っ白な光が舞い降りる。その光の雪を多くの人々が天空を振り仰いで眺めた。

 輝き弾けた光の雪は、柔らかく麻帆良学園都市を満たしていった。音もなく、香りもなく、ただひたすら自らの振り落とす純白の舞。目を擦ったりすれば、直ぐに掻き消えてしまいそうなほどの美しい光景。

 季節外れの雪にも似た、悲しくも美しい景色だった。

 

「真っ白だぁ」

「……う、わあ」

「すげぇ」

 

 感受性豊かな学生達が反応するのは当然の流れでもあったろう。最初は初等部以下の子供達が歓声を上げ、その熱に煽られるようにして年長の学生達も続く。やがては大人達にも伝播して、それぞれの想いを込めて真っ白に染まる空を見上げた。

 その光の雪の中をアスカが落ちて行く。

 地面は確実に迫りつつある。アスカは己の為すべきことを為し、何の後悔はなかった。普通なら背中に風が鞭となって食い込んでいくような痛みが走るはずなのに、遠ざかっていく意識の中でひどく身が軽くなっている。

 このまま終わってしまうのならば良いのではないかと思うほどの充足感に包まれ、大空から落下していたアスカは「ドサッ」と地面に落ちたにしては小さい衝撃に疑問を覚えたが眠くて仕方なかった。

 

「――――こ――カ―!」

 

 誰かが耳元で大声で叫んでいる。

 あの世にしては騒がしく、ゆっくりと寝かせてくれないことに微かな苛立ちを覚えた。

 死んだと思った自分が声を聞こえることに、遂に自分は狂ってしまったのだろうかと思った。心を蝕まれて、都合の良い幻覚に耽溺するようになったのか。重たい瞼をゆっくりと開いていく。

 

「起きろつってんでだろ、このアホ!!」

「アガッ!?」

 

 誰かの顔が眼前に近づいたと思ったら額に走った痛みに、目から星が出るような衝撃で意識が完全に覚醒する。

 暫くの間、アスカは自分が目を覚ましていることにも気づかなかった。辺りはただ乳白色に覆われているかのように他には何も見えなかったからだ。

 頭に鈍いシコリが残っているような、眠り半ばで叩き起こされたような状態でいる内、乳白色の世界に映る影が人の形をしていると見えた瞬間、焦点が絞り込まれてあっという間に顔の形を浮かび上がらせる。

 温かなものがアスカの頬に滴った。

 

「…………千雨」

「ようやく起きやがったか、このすっとこどっこいが!」

「今ので危うくあの世に行きかけたぞ」

 

 目の前にいたのは涙顔の長谷川千雨だった。乳白色に見えたのは白い雪が降っているからで、目が開いたアスカにキツイ目付きで睨め付けながら千雨がポロポロと涙を流す。

 アスカの頬に滴ったのは千雨の涙だ。

 

「なに泣いてんだよ」

「うっさい! 泣いて悪いか!」

 

 自分の置かれた状況よりも千雨の涙が気になって重い腕を上げて指で拭うと、彼女は顔を赤くしながらアスカの背中を支えて体を起こしてくれた。

 そこでようやくアスカは今の自分の状況を理解する。

 

「なんだこりゃ」

 

 地面が近いわけではなく、まだアスカは飛んでいた。いや、正確には飛んでいる何かの上に乗っている。その理由は千雨の後ろから顔のあちこちを引っ掻き傷や青淡だらけの葉加瀬聡美が首を出して教えてくれた。

 

「超包子の路面電車屋台です。超さんがこんなこともあろうかと作っておいた飛行機能で飛んでるんですよ」

 

 はぁ~、とアスカは馬鹿のように口を開けて葉加瀬の話を聞いていた。

 アスカは、どうして路面電車屋台に飛行機能が積んであるのかよりも葉加瀬の顔の傷の方が気になった。

 

「その顔、どうしたんだ?」

「千雨さんにやられました。うう、私は非戦闘員なのに」

「なんでまた?」

 

 本気で痛いのだろう。涙目の葉加瀬は怖いのか、アスカに話しながらも千雨から微妙に距離を取っている。

 

「偶々、道で千雨さんと会って、どうにかしてアスカさんの下に連れてけって無理やり…………五月さんが助けてくれなければどうなってたことか」

「全部お前らが悪いんだろうが!!」

 

 理由を説明していた葉加瀬は千雨が怒鳴ると、「ひぃ」と怯えたように身を竦める。意識を澄ませば感じるもう一人の気配の主である四葉五月が運転しているのだろう。

 

「まあそんな怒ってやんなって。お蔭で俺は助かったしよ。割とマジで」

 

 クラスメイトがこうなってしまってはアスカがフォローに入ると、千雨はキッとした強い視線をアスカへと向け、だが力を失ったように女の子座りをしている自分の膝を見下ろす。

 

「そうじゃねぇ、そうじゃないだろ……さよが」

「ああ……」

 

 小さく呟かれたその言葉だけでアスカはどうして千雨がそこまで激昂したのかを理解する。

 

「友達だったもんな」

 

 体は痛むが、俯いたままポロポロと涙を零す千雨に手を伸ばして頭を胸に抱え込む。

 アスカの知る限りでは、幽霊のさよを認知できる者は少なく、数少ない認知できた千雨に懐いていたように感じていた。武道大会の時に二人は言いたいように言葉を交わし合える仲だったように見えたので、その友達が理由はどうあれ、消えてしまったのは超が学園に戦いを仕掛けたからと見ることも出来る。

 

「でもな、さよは俺を護る為にああしたんだ。こいつらは関係ない。さよをどうこうする気はなかったんだ。許してやれよ。恨むなら俺を」

「違う! そうじゃないんだ……」

 

 アスカの言葉に腕の中で千雨は小さく首を振る。

 

「私は、アイツに何もしてやれなかった。友達だったのに何時も邪険にして何一つしてやれなかったんだ。別れに涙はいらないって言われて、泣かないことしか出来なかった」

 

 千雨は葉加瀬達を、誰かを恨んだりしているわけではなく、さよに何もしてやることが出来なかった自分に憤っていた。

 

「なのに、さっき『友達になってくれてありがとう』だって勝手に言い残して逝っちまった。こっちの事情も関係なく、何も言わせてもくれなかったんだ」

 

 心の奥から噴出する感情を押さえつけるように千雨の声が震えている。

 声だけではない。体も、そしても心も震えていることを接しているアスカが誰よりも感じていた。

 

「じゃあ、泣いちまえ。アイツは、さよはもういない。泣いたって誰も怒りやしねぇよ」

 

 地上は空から降ってくる白い光に包まれ、本当に静かであった。

 しん、と耳が痛くなるほどの静けさだ。ありとあらゆる喧騒が絶え、砲声や人の声ばかりか、鳥や虫の泣き声も一切聴こえない。その中で千雨が泣いたって誰にも聞こえやしない。世界が包み込んでくれるだろう。

 

「う、ぅわあああああああああああああああああ――――――――!!」

 

 少し欠けた月が蒼く世界を浮き立たせている。

 

「泣き終わったらさよの話をしようぜ。そんでまた泣くんだ。なんでいなくなったんだ馬鹿野郎ってな」

 

 普段の街からは考え難いほどに月は蒼く澄んでいて、ただ抱き締めるように二人分の泣き声を包み込んでくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………信じられん」

 

 エヴァンジェリンは先程のアスカが為した事の意味を悟り、何度も何度も唾を呑み込んでは同じことを繰り返す。

 

「この土壇場で咸卦法を発動しただけではなく、世界に遍く物を自らの力へと変える太陽道だと」

 

 手に持っていた酒を落としていることに気づかぬまま、ここ数十年で最大級の驚きに全身を震わせる。

 太陰道――――気弾・呪文に拘わらず、敵の力を我が物とする闇の魔法の究極闘法で、エヴァンジェリンですら完成形を思い描きながら技術的障害の多さと費用体効果を考え、開発を断念した技法。太陽道は構想しながらも完成形を描けなかった文字通りの幻の技法である。

 

「ナンダヨ、太陽道ッテ」

「そこに存在するだけで周囲に滞在するマナを吸い取り、我が物とする闘法だ。思想的には仙人が近いか」

「ドウイコッタ?」

「奴らは霞を食うと言うが、実際には大気に満ちるマナを吸収することで食事など要らんようになる。恒常的に行えば老いもしなくなる…………これは蛇足だがな」

「ヘェ、ツウコトハ、アスカノ奴ハ仙人ニナッタチマッタノカ」

「そういうわけじゃない」

 

 興奮でエヴァンジェリンも上手く言葉にすることが出来ない。一度、落ち着くために大きく息を吸って吐き、深呼吸を行なう。

 

「十年も恒常的に続ければ成れる可能性はあるだろうが、今は置いておく。問題はアスカは大気に満ちる膨大なマナを吸い込み、自分の力としたことだ」

 

 こめかみでドクドクと血管が脈動しているの感じる。それほどにエヴァンジェリンは興奮していた。

 

「マナ、魔力と呼び方に違いはあるが、厳密にそれほど差はない。だが、人一人が生成できる魔力など、たかが知れている。星が生み出して大気中に存在するマナは文字通り桁が違うのだ。しかもエネルギー切れは、まず有り得ない」

 

 エヴァンジェリンが太陽道と称した闘法を発動している限り、自ら熱を発し続ける太陽の如く理論上ではエネルギー切れはないということになる。

 

「ジャア、結構ナパワーアップシテンダナ」

「しかも咸卦法をやりながらだぞ! 今までのアスカとは文字通りの力の桁が違うようになる……」

 

 数倍の力を得る咸卦法を行いながら太陽道を並行して行えば、アスカの体力の続く限り力が無くなることはない。

 常人を遥かに超える魔力と気を持つアスカが数倍の力を振るっても、体力が尽きるまでは何時までも力を振るえるというのは反則と言うしかない。

 

「この短期間でこれほどとはな。実戦以上の修行はないということか」

 

 武道大会とこの戦いでアスカの実力は遥かに跳ね上がった。幾ら明日菜と合体して咸卦法を学んだとはいえ、とんでもない進歩…………進化ともいえるほどの成長速度だった。

 実戦こそが戦士を最も成長させるという言葉を、エヴァンジェリンは身を以て強く実感した。

 

「…………ふふ」

 

 ふと、隣で同じようにらしくない驚愕に浸っていると思われたアルビレオが笑ったことに気づいて、エヴァンジェリンは彼の顔を見上げてギョッとした。

 

「ふははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!!!!!」

 

 彼らしからぬ大きな声を上げて笑うそれは狂笑と呼ぶに相応しい。

 

「まさか、くっ、まさか、こんなことがあるとは…………これだから人生は面白い」

 

 手を額に当てて、抑えようとしても抑えきれぬ狂笑を漏らしながら、アルビレオにあったのは歓喜だった。

 

「火星の白と金星の黒、どちらも不完全であるが故に拮抗する危ういまでの綱渡りではありますが、不滅を滅する神殺しの刃が生まれた! それがよりにもよってナギの息子の手にあるときた! これ以上のご都合主義はない!」

 

 何を言っているのかその半分も分からないが、喜んでいるのに自虐しているでようでもあって、ただ一つ変わらないのは狂笑だけだ。

 ただ、その狂笑は呪いにも似た慟哭も混じっていたとエヴァンジェリンには思えた。

 

『ご連絡します』

 

 絡繰茶々丸の抑揚の薄いアナウンスが、降り積もることなく霞みのように消えていく白い光の残光に酔いしれていた観衆を現実に呼び戻す。

 

『敵首領・超鈴音と裏ボスである機竜の敗北が確定しました。火星ロボ軍団は残り一つの目標ポイントの攻略を果たせていません。首領・裏ボスの敗北にて現時刻を以てロボ軍団は活動を停止し、火星ロボ軍団は学園防衛魔法騎士団に全面降伏します』

 

 粛々と告げられた敗北宣言に、最初は静寂に包まれていた都市がやがて爆発し、歓喜の渦となって熱を生む。

 

『これより後夜祭を開始します。全体イベント『火星ロボ軍団VS学園魔法騎士団』の映像販売を行っていますのでご希望の方は……』

 

 続くアナウンスは都市中に広まった歓喜の渦から湧いた観客の声に掻き消され、アルビレオの狂笑を聞いたのはエヴァンジェリンとチャチャゼロだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どんなに楽しい祭りも何時かは終わりが来る。それはどんなに苦しい戦いであっても同じだ。

 都市中で麻帆良祭締めの後夜祭が行われる中、世界樹前広場の裏にある草原の麓で最後の賑わいを眺めていた超鈴音は近づいてくる人物の足音に気づいて振り返った。

 

「超さん……」

 

 その先頭に立つ葉加瀬聡美が既に潤んだ瞳を向けていた。

 

「泣くナ、葉加瀬。科学に魂を売り渡した者が泣いてはいけないヨ」

「でも、でも……!」

 

 別れが迫っているのだと強く自覚した葉加瀬は大きく目を見開いて口から耐え切れず嗚咽が漏れる。

 

「またく泣き虫だナ」

 

 震える言葉を放った超はゆっくりと瞼を閉じていった。その目から涙が流れて両頬を濡らす。超の涙を見て葉加瀬の涙が止まらなくなった。

 

「別れに涙はいらないネ。最後なのだから笑顔で別れよウ」

 

 超は一度だけ頭を振り、瞳を見せて微笑んで葉加瀬に言った。

 葉加瀬は何度も首を振った。伝えたいことは山ほどあったのに、言葉が出てこなかった。だから葉加瀬は超のように笑顔になって、涙をポロポロと流したまま右手を差し出した。

 

「私達はずっと友達です」

 

 どれほど遠く、生きている時代が違っても交わした願いは残ると知っている超の手が、葉加瀬の手を握り締めた。超は瞳を閉じて、満足そうな微笑みを浮かべて、歓喜を噛みしめた。

 

「ああ、私達はずと友達ダ」

 

 離された手は二度と触れ合うことはないと分かっていた。それでも交わした願いがあれば、時代が違っても友達でいられると葉加瀬は信じた。

 

「超……」

 

 葉加瀬の後ろで世界樹防衛に参加して傷だらけになっていた古菲も泣いていた。超がいなくなると、心より先に現実を受け止めた体が無条件に流させた涙だった。

 

「古、私達はもう出会うことが出来なくても、この双剣は必ずまた出会えるネ。それまで持ていてくれるカ?」

 

 五月が持ってきた超宛ての別れの品の中から古菲から譲り受けた蒼い柄頭の双剣を手に持ち、ニカリと笑って問う。

 このような別れの中で言われた古菲に応えられるのはたった一つの返答だけだ。

 

「勿論アル」

 

 溢れ出そうな涙を堪えて頷いた古菲は無理にでも笑った。

 

「サヨナラ、親友」

「ああ、サヨナラ、親友」

 

 笑って別れられる関係に感謝を捧げて、古菲は背を向けた。それ以上は涙を我慢できなかった。 

 

「五月、超包子を頼む。全ては任せたネ」

 

 頷く四葉五月に安心して、超は英雄劇となった舞台の主役に視線を移した。

 

「アスカさん…………これでみんな揃たようだナ」

 

 この場に集った役者達に囲まれながら、千雨に肩を借りてこの場へと訪れたアスカの姿を確認した超は淡く笑んだ。

 千雨の肩を離れて一人で立ったアスカは鋭い視線で超を睨む。

 

「素直に認めるネ。貴方に負けたヨ」

「違うぞ、超。お前が負けたのはこの都市のみんなにだ。俺一人の力じゃない」

 

 やってきている明日菜や木乃香等の姿を見たアスカの訂正に少し目を丸くした超は、首だけで後ろを振り返って絢爛と輝く世界樹を視線の中に映して遠い喧騒に耳を澄ます様に目を細めた。

 

「そうだたナ。あの光は眩しく暖かたネ。私はこの都市に負けたのだナ」

 

 一つ頷き、納得したように顔をアスカに戻した超は憑き物が落ちたかのように穏やかだった。

 

「私の計画は潰えタ。敗者はただ舞台から去るのみネ」

「行くのか?」

「私のいるべき場所は此処ではないネ。元いた世界に帰るヨ」

 

 全てを悟ったように自分を見つめ、静かに笑う超にアスカは言葉が出なかった。

 色んな言いたいことが山ほどあったのに、寂し気に笑う超の姿が喉の奥から溢れ出ようとする言葉を抑え込む。

 

「元いた世界って末来か?」

 

 だから、口をついて出た言葉は有り触れたなんでもない言葉だった。

 

「未来のことは話せないネ。タイムパトロールに捕まるヨ」

 

 茶目っ気に笑い答えた超の深奥、呪詛が憑りつかれた影響で魂を薄らと見ることが出来たアスカはある事実に気が付いた。

 

『別れに涙はいらないネ』

『別れに涙はいらないって言われて』

 

 先程、超が葉加瀬に言った言葉。

 超包子の路面屋台の上で千雨が言っていた、さよに言われたという言葉。

 さよは輪廻の輪に戻り、超は百年後の人間。

 そして今の超の魂の在り様は、アスカにはとても見覚えのあるものだった。

 

「そういうことか」

 

 一つ一つのピースが集まり、大きな形を作り出す――――――――超鈴音は相坂さよの生まれ変わりなのだと。

 

「とっくの昔に見つけていたんだな、俺は」

 

 その導き出された答えに無性に笑いたくなった。 

 実際に笑っていると負傷と消耗で立っていられなくてバランスを崩しかけたが、木乃香からの治療を終えた明日菜が支えてくれた。

 

「ちょっと大丈夫、アスカ?」

「ああ、問題ない。ちょっとフラついただけだ」

 

 明日菜に支えられたアスカだったが笑いの衝動は消えてなくなっていない。

 アスカを支えようとして明日菜にその役を取られた千雨は伸ばした手を所在なさげにブラブラとさせて、やがて諦めたように下ろす。そして先程のアスカの言葉に首を捻る。

 

「どういうことだよ、見つけていたってのは」

「さよのことさ」

「は?」

 

 アスカのように魂の在り様を感じることなんて出来ない千雨には意味の分からない話だった。

 千雨の困惑を余所に、一人で納得しているアスカは超を見る。

 

「なあ、超。この時代に残る気はないか?」

 

 そんな言葉を超に投げかけていた。

 

「お前がいれば、きっとこの時代はもっと楽しくなる。俺達と同じ道を進もうぜ」

「そんな未来も悪くないかもしれないガ、やはり帰るネ」

 

 なにが楽しいのか、クツクツと笑った超はアスカを支える明日菜と反対に立つ千雨を見る。

 

「そういう言葉は大切な人に言うものであて、血の繋がた私に言うことではないヨ」

 

 超の言葉にアスカの横顔を物凄く注視する明日菜。

 視線が突き刺さって冷や汗を浮かべるアスカは話を変えようと灰色の脳細胞を活性化させる。

 

「血が繋がっていると言っても俺には実感がないぞ」

「では、証拠を見せよウ」

 

 ニヤリと笑い、超は腰の後ろへと手を伸ばす。

 

「これネ!!」

 

 暫くゴソゴソと探っていた超は目的の物を見つけて右手で掴み、アスカと血が繋がっているという証拠物品を目の前に出した。

 証拠物品は古ぼけた一冊の本で、表紙には『スプリングフィールド家・家系図』と書かれていた。

 

「すぷりんぐふぃーるどけ…………かけいず?」

 

 物凄く棒読みでタイトルを読み上げたアスカの声が空々と響き渡る。

 

「私がスプリングフィールドの子孫とゆーうことは、アスカさんとネギ先生が誰かと結婚して子を生したとゆーことネ。ということは、この家系図にその誰かの名前も……」

「その家系図、貰ったぁっ!!」

 

 彼方より箒に乗って飛来してきたエヴァンジェリンが一瞬で超の手にある『スプリングフィールド家・家系図』を奪取した。

 

「ちなみにアレには結婚相手だけではなく今から何年後に結婚するか、何人の子供を作るかまでこと細かに記されてるネ」

「させるかぁっ!!」

「ぬおっ!?」

 

 アスカを千雨に預けた明日菜がハリセン形態にしたハマノツルギを投げ、飛んでいたエヴァンジェリンを叩き落とす。『スプリングフィールド家・家系図』はその衝撃で再び宙を飛んだ。

 

「せっちゃん!」

「はいっ!」

 

 木乃香の求めに反応して刹那が白翼を飛び、宙をクルクルと舞う『スプリングフィールド家・家系図』を手にしたところで、同じように空を飛んだ者が急襲してくる。

 

「待つアル!」

「古っ!?」

「双剣の為アル!」

 

 目をグルグルと回した分かり易い混乱を現していた古菲が刹那を襲い、その対応で取り落とした『スプリングフィールド家・家系図』が三度宙を舞って千雨の下へと落ちてきた。

 

「こんなん見ても何もなんねぇに決まってるじゃないか。大体、末来ってのは……」

 

 と、尤もらしいことを言いつつも千雨は持っていたページが微かに開かれていたから意識的か無意識的か、チラッと目を向けてしまう。

 

「見るなァ――ッ!!」

「寄越せェ――ッ!!」

 

 そうはさせまいと、『スプリングフィールド家・家系図』を追って来た明日菜とエヴァンジェリンの二人が顔に向けて拳を放つ。素人の千雨には二人の拳に気づいても避けることは間に合わない。

 

「ったく、なにやってんだか」

 

 代わりに二人の拳を受け止めたアスカは、千雨の持っている『スプリングフィールド家・家系図』に向けて太陽道で回復してきた魔力を放つ。

 

「「「「「あぁ――ッ??!!」」」」」

 

 『スプリングフィールド家・家系図』はアスカの初級の発火の魔法によって燃やされていき、集まった少女達が嘆いたところで千雨が驚いて落として地面に落ちた頃には煤となっていた。

 

「アハハ、予想以上ネ」

「冗談でも性質が悪いぞ」

「…………性質が悪いのはアスカさんの方だと思うがネ。どうしてこの反応を見て面倒臭そうにするのカ」

 

 呑気に笑っていた超だったが、アスカの返答に少し顔を逸らして陰影を作ってボソリと小声で呟いた。自分が周りにどれだけの影響を与えているか自覚に乏しいことが未来に繋がっているのだから。

 

「アスカさん」

「なんだ?」

 

 目を閉じることなく、超は毅然とした目でアスカを見た。

 その視線に、アスカは答える。今はここには過去も未来もない。たった今の現在があるだけだった。

 

「もし、これから歩む道で為すことが全部無駄だとしたらどうするネ?」

 

 超は、ひどく冷めた口調で呟いた。

 

「未来を知ることが出来たとして…………。どんなに必死に戦ても誰も救えないし救われなイ。そんなことが分かていたらどうするネ? それでもあなたは戦えるカ?」

「超は全てが無駄だったとして、何もしないでいられるか?」

 

 アスカの問いに、超は答えられない。

 

「俺には無理だ。無駄だと解っていても、最後まで足掻くよ」

 

 超は解ったような解っていないような、そんな複雑な表情を浮かべていた。

 

「けれど、これだけは言える。何に対しても退くことなく諦めないと」

 

 そう続けて再び開けられた目は究極的には己の勘に頼るしかない、予測不可能な修羅場を潜り抜けてきた男のものに違いなかった。少年から男になろうとする者だけが持つ、澄み切った熱情があった。

 人の心は、脆く儚い。だがそれでも、信じられるものがあるとすれば、信じられるかもしれないものがあるとするなら全て、そのままに背負うのだと。現実からも理想からも目を背けず、何もかもそのままで背負うのだと、少年はそっと囁いたのである。これから戦場の最前線にでも向かうかのごとき真摯な表情でそんな姿で宣言したのだ。

 

「なんてったって、俺に出来ないことなんてないからな」

 

 その言葉を聞いた時、何か不思議な感情が超の胸に込み上げてきた。感動、喜び。そんな単純なものではない。しかし心を熱くさせる何かであることは確かだ。

 穏やかに、しかし力強く宣言したのは僅か十二歳ほどの少年。まるでそれは魔法の呪文。自らの言葉に鼓舞されたように、蒼の瞳にはこれまで以上の強く気高い光が宿っていたのであった。

 愚直すぎるぐらいの言葉。それはきっと、どれだけ姿が成長しようと、どんなに絶望的な環境だろうと、この少年の本質は変わらないのだろういうその証明。

 

「……ぁ」

 

 超の口から吐息が零れた。言葉にならない言葉とも思えた。

 それきりで、しん、言葉が絶えた。静寂の中で、誰もそれ以上の声を発しようとはしなかった。ゴクン、と葉加瀬の喉が震えた。ひどく重要な重大な契約が、そこで成されたような気がしたのである。

 

「それなら安心、ネ」

 

 言葉通り、長年背負っていた重みを下ろして超は童子の如く淡く笑った。

 眩しいくらいに優しい笑顔。それは、超がこの時代で他人に初めて見せた、一点の曇りもない心よりの笑顔だった。その笑顔の美しさに、皆が胸を衝かれた。葉加瀬は涙を流していた。溢れてくる涙を止められなかった。

 

「これからの時代に役立つ物を色々と残しておいたネ。場所は葉加瀬に聞いてほしいヨ」

 

 嘴を向けられた葉加瀬は思わず叫んだ。

 

「超さん!」

「後は頼むネ、葉加瀬」

 

 上空に幾層もの巨大な魔法陣が浮かび上がり、超の全身が白い光に包まれていた。

 フワリとお別れ会に貰った荷物ごと浮かび上がった超が身に着けている最新式の軍用強化服が身体と一緒に内側から透き通るほど真っ白な光を放ち、風を孕んだように揺れていた。まるで異次元の世界へ吸い込まれるかのように、全身がこの世界と摩擦を起こして消えようとしているかのようだった。

 

「さらばダっ!」

 

 そのような状態であっても超は口元に笑みを浮かべていた。超は言いながらもほんの一瞬、眉間を寄せて苦しそうな顔を作った。しかし直ぐに笑顔に戻り、駆け寄ってきた皆の中からアスカと明日菜だけを見下ろす。

 

「また会おう!!」

 

 そして時空の収縮する音が響き、一際眩く光が迸って超の姿を覆い隠した。一陣の風が吹き抜けた後には、風に攫われて消える砂塵のように超の姿は消えていた。

 葉加瀬は視線の先に広がる虚空を見つめた。もはやそこには何もなく、超が流した涙の跡もなかった。

 

「超さん――っ!!」

 

 葉加瀬は夜空を仰ぎ、目をきつく閉じて絶叫した。友達の名を心から叫んで号泣した。喉が嗄れるほど泣いた。赤ん坊の時以来、心の全てを曝け出して全ての感情を投げ出して泣いた。

 少女の涙が虚空へと消え、冷たい風が髪を嬲った。

 超がいた場所に伏せて泣き続ける葉加瀬以外、誰も動けなかった。

 

「笑おうぜ。別れに涙なんていらないって、超が言ってただろ」

 

 葉加瀬は滲む視界の中で超が残した残光の中で、アスカの背中を見上げた。その背中に超の存在を感じて、また泣いた。

 泣いて泣き尽くして、そしたら笑おうと決めて、泣いて泣いて泣き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 転移した超鈴音は着地地点に物があった所為で、盛大に足を踏み外して床に転倒してしまった。

 

「うわっ!?」

 

 完全に気を抜いていたので反応する間もなく背中に床から倒れ込んだ超に、同じように転移してきた贈り物が壁に当たって並べられていた品物が次々に落ちてくる。

 

「どわぁっ?!」

 

 最初のは純粋な驚きだったが、今度は顔や体に落ちてきた品物が次々と落ちて来たことによる痛みのものだった。特に顔に落ちてきた古いフォトフレームの角が眉間に突き刺さったので、両手で抑えて痛みに悶え苦しむ。

 

「なんネ、一体…………て、ここは家の蔵ではないカ」

 

 痛みに涙目になりながら上に乗っている品々を除けて体を起こすと、そこは見覚えのある場所だった。

 雑多な物で溢れた蔵の中は、大分上の壁が外の光を取り込めるようになっているので、電気も点いていないが真っ暗というわけではなく薄暗かった。

 

「帰てきたのだナ……」

 

 2年と少しを過ごした女子寮にはもう帰ることは出来ないが、十歳を超えるまで過ごした自宅に戻って来れたのだと実感が湧いて鼻を啜る。ホームシックになるような柔な精神をしているつもりはなかったのだが、為すべきことを為せたことで気が抜けてしまってようで涙が浮かぶ。

 ふと、手に当たる感触に視線を下ろすと先程眉間に落ちてきた古いフォトフレームが目に入った。大型のフォトフレームには三枚の写真が飾られている。

 

「何度も見た物だガ…………感慨深いものだナ」

 

 手に取ってフォトフレームの写真を見てみれば、あの草原で対峙する自分達の姿が映っている。

 我ながら涙を流している晴れがましい顔が後世にまで残っているのは恥ずかしいのだが、捨てることは許されていないので耐えるしかない。この写真の為に超は過去に向かったと言っても過言ではない。

 続いて二枚目を見る。

 

「きと、あの後はこの写真のようになたのだろうナ」

 

 光を放ち続ける世界樹をバックにしてピースをしているアスカを中心とした姿が映っている。

 中央に座るアスカの両横に明日菜とエヴァンジェリンがいて、明日菜の横に木乃香と刹那、エヴァンジェリンの横に逃げようとしている千雨と彼女を捕まえている茶々丸。

 二列目は、後ろからアスカの頭に肘を置いたアーニャと苦笑を浮かべているネギが並び、アーニャの横で彼女を諌めようとしているネカネとその隣には腕を組んで仏頂面の千草、ネカネと千草とは反対側に葉加瀬・五月と肩を組んで笑っている古菲、その横に背中合わせに真名と楓が立っている。千草とネカネ側の写真奥の遠くに見えるのは高畑と源しずかだろうか。

 最後の写真は同じ場所で撮られたものだ。

 卒業式の後らしい桜の舞い散る中で撮られた3-Aの集合写真。その中に当然ながら超の姿はない。

 

「今から思い返してみると一枚目を撮たのは誰ダ? 誰もカメラなど持ていなかたはずなのに……」

 

 超は別れの時にその時にいたメンバーを知っているので奇妙さに気が付いた。

 

「そう言えば朝倉サンのアーティファクトは末来を映せるのだたナ。もしかして彼女が協力してくれたのはこの未来を知ていたのカ?」

 

 答えを知ろうにも今となって推測するのみで超に事実の確認をする術はない。もう百年前に戻る術はないのだから真実を知ることは諦める他ない。

 

「そうカ、もう会えないのだナ」

 

 会うことは出来ないのだという実感が湧き上がってきた。

 さっきまで写真の向こうの百年前にいても、不可逆の時間の流れに何度も逆らうことは出来ないのだから再会は叶わない。

 

「再会といえバ……」

 

 大事な約束を思い出して、重い腰を持ち上げてフォトフレームを元にあった場所に飾り直し、落ちている贈り物の中から古菲から渡された双剣の青い柄の剣を持って蔵の奥まった場所に向かって歩いて行く。

 百年以上続くスプリングフィールド一族が所有する色んな物が入れられた蔵だけあって、無駄に広くて雑多としている。幼い頃に超が年下の幼馴染達と秘密の遊び場にしていてだけあって、どこに何があるかは良く周知している。

 目的の物は蔵の一番奥に安置されている。

 

「約束を果たしに来たネ、古」

 

 壁に固定された鞘に入った赤い柄の剣を前にして、青い柄の剣を手に持った超は万感の思いを胸に最後の一歩を踏み込む。

 一つ呼吸をして、青い柄の剣を赤い柄と同じ鞘へと納めていく。

 百年の時を超えて、古ぼけた鞘に収まった双剣はカチンと歓喜の音を響かせた。と、同時に蔵の入り口が外側から開けられた。

 重厚な扉が音を立てて開き、外の光が一斉に内部を照らす。暗闇に慣れたところだったので光に目が眩み、超は腕を掲げて光を遮りながら扉を上げた人物を見ようとした。

 

「おっ、誰が蔵で暴れてんのかと思ったら鈴姉じゃん!」

 

 扉を開けた主は、超を見て喜色に塗れた子供特有の高い声を上げた。

 誰だろうと思いながら、少しして光にも目が慣れてくると超にも扉を上げた人物の姿が見えてきた。黒髪黒目で赤いシャツを中に着た黒の学ランを着崩した幾らか年少の少年の姿は超の記憶野を刺激する。

 

「お、おお!? もしかして、いや、まさか……」

「鈴姉、久しぶりだなって、ボロボロじゃねぇか」

 

 遠慮もなく蔵に入ってきた少年は信じられないと目を瞠る超の下へとやってくると、あちこち傷だらけで軍用強化服を破損させていることに気づく。

 蔵の奥で向かい合った二人は空いた時間を実感するように互いの姿を見つめる。

 

「…………大きくなたナ」

「くっ、まだ鈴姉に負けてるか」

「私も成長しているのだヨ」

 

 目線の高さから未だに身長で及んでいないことに気づいた少年が膝を折って悔しがる前で、ふふんと鼻を鳴らした超は居丈高に見下ろす。

 一通り負け惜しんだ少年は立ち直りも速いのか、直ぐに元に戻った。

 

「お勤めご苦労様、お帰り鈴姉」

 

 笑顔で労わってくれた少年に帰って来たのだと強く実感した。

 

「ただいまと言いたいガ、お勤めとはなんダお勤めとハ」

「え? 本家では鈴姉はお勤めしてるから暫く留守って周りに言ってるらしいぜ」

「誰だそんなことを言たのは?」

「帆之香と勇魚の二人」

「あの二人か……」

 

 お勤めではどうにも悪いイメージを連想してしまい文句を言うと、それを言っているのが目の前の少年の妹達であると知らされて頭を押さえた。

 

「お前は相変わらず二人から好かれているのだナ」

「まあ、兄貴だし。みんなそんなもんじゃねぇの?」

 

 二年と少し前に別れる前から何も変わっていない年少の幼馴染達の行き過ぎた愛情を分かっていない少年に、本気で頭痛を覚えて眉間を揉み込む。

 

「記憶にある限りではあの二人がお前に向ける感情はどう見ても兄に向ける物ではなかたガ、二人と血の繋がりはないだろウ?」

「何言ってんの鈴姉。俺も勇魚も養子とはいえ、元々スプリングフィールドの一族の人間だ。小さい頃から家族として育ってきたんから愛情があってもおかしくないだろ? それにどう見ても好かれてるのは鈴姉の方だと思うんだけどな」

 

 近衛家は実力主義だ。スプリングフィールドの一族という制約はあれど、優れていれば養子として家族に迎え入れることがあり、勇魚がそうだ。近衛家の実子は帆之香のみで、少年は赤ん坊の頃に家族を事故で失って引き取られたので少しケースが違う。

 火星生まれの分家筋の超は昔からの言い伝えで本家で英才教育を受けていたので交流が深く、赤ん坊の頃から少年の面倒を見てきたし帆之香と勇魚も同じなのだが、二人は少年にゾッコンだ。二人だけではなく超が知る限り外でも女子に好かれている。

 スプリングフィールドの血を継ぐ男の中には先祖返りなのか、時折物凄く異性にモテる者が現れる。俗にハーレム体質とまで言われているぐらいだ。初代の噂は生涯妻一筋であったからデマだと分かったのだが、二代目が大体の原因である。というか、現在まで続いているスプリングフィールドの悪評の大体は二代目が発端なのであった。

 

「本人に自覚がないのはアスカさん…………二代目譲りだヨ」

 

 未来に戻ってくる前の本物の家系図の写しの騒動に対して、大した感慨も抱いていなさそうだった二代目を思い出して目の前の少年と重ね合わせる。

 

「ん?」

「なんでないヨ。疲れたから早くシャワーに入て寝たいと思ただけヨ」

「へへん、じゃあ俺が飯を作ってやるよ」

「ほう、どれだけ腕を上げたカ、師匠として査定してやるネ」

 

 この悩みを忘れることにして二人で蔵を出ようと並んで歩き始めた。蔵は一般の物と比べてかなり大きいので、大量の荷物がそこかしこにあるが二人で並んで歩いても問題はない。

 

「なあなあ、伝説の二代目ってどんなだった? やっぱ強かった?」

「私が会たのはまだ少年頃だたが強かたヨ、心も体モ」

「俺も一度でいいから会ってみたかったなぁ。鈴姉ばっかりずるいぜ」

「十年前に会ていなかたカ?」

「まだ二歳かそこらだったのに憶えてるわけねぇじゃん」

 

 思い出話やらをして蔵の入り口に辿り着くと、一度止めた足を意を決して踏み出す。

 明暗さに少し眩んだ眼を細めて外に出ると、まず視界に入ったのは本家の屋根とその向こうにある天空へと伸びる柱。柱の周りを行き交う空飛ぶ飛行船の数々。本当に帰ってきたのだと慣れ親しんだ光景に頬を緩め、馴染んだ清浄な空気を肺一杯に吸い込んで吐いた。

 

「さて、ご飯を食べて一眠りしたら仕事を再開するカ」

「もう始めんの? 折角なんだから暫く休めばいいのに」

「そういうわけにもいかないヨ。これでも『世界互助組織・白き翼』の次期リーダーだからネ。休んでなどいられんヨ」

 

 心機一転して働く気満々の超に少年が休むように忠告するも、アスカから心の熱を移された超は止まれない。

 

「あ、それなら帆之香と勇魚にみぞれが手伝ってくれるって言ってたぜ。アイツら夏凛先輩にUQホルダーで鍛えられてるからさ」

 

 UQホルダーという単語に超の進みかけた足が止まる。

 よく知っている組織ではある。元は二代目と闇の福音が人外の生存権確保と人との共存を目的として酒の勢いで作ったとされる組織だ。

 対外的には距離を取っているが、少年が夏凛先輩と呼んだUQホルダー№4結城夏凛は、百年前に二代目に会ったことがあるということで超も話をしたことがある。UQホルダーに百年以上所属している者の大半は会ったことがあるらしいので、一時期UQホルダー本部の仙境館に入り浸っていたこともあった。

 

「あの三人ガ? それに夏凛さんに鍛えられてるとはどうことネ? 長い付き合いではあるガ、大半が白き翼に所属しているスプリングフィールドの一族が人外寄り合い組織(UQホルダー)に近づくのは体面上あまり良くないことだヨ」

 

 幼い頃の自分のことを棚に上げて詰問すると、少年があからさまに目を逸らす。

 

「その様子では私がいない間になにかあたナ?」

 

 ガシリと両肩を掴んで詰問すると、少年は諦めたように息を吐いた。

 

「いやぁ、実はちょっとしたことがあって、半吸血鬼になっちゃってさ」

「は?」

「今の俺はUQホルダー№7、近衛刀太だぜい」

 

 イェイ、とピースをした少年――――大事な弟である近衛刀太が少し会わない間に人外になってしまったことを聞かされた超の意識は、驚きのあまり疲労と相まってブツリと意識が途切れたのだった。

 




太陽道、咸卦法、火星の白、金星の黒、さよの来々々世について、100年後の未来、UQホルダー、白き翼、スプリングフィールドの一族、近衛刀太のあれこれ。
独自設定ばかりです。

ちょっと休んで、次回より『第六章 世界』「第58話 示される道」です。


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第六章の予告

すみません、本編の更新ではないです


 

近右衛門「ぶっちゃけるが、儂は今回の超君が起こした今回の一件を隠蔽しようと思っておる」

 

高畑「公表されれば文字通り、世界がひっくり返りますね」

 

アルビレオ「ナギ、我が主よ。あの苦難と絶望に満ちた中でも笑いが途絶えることのなかった日々をもう一度……」

 

刹那『では、死んできます。どうか、お元気で』

 

木乃香『お土産買ってくるからなぁ』

 

千草「はっちゃけられんのは、あれぐらいの若い時だけや。二十五を過ぎるとな、どうしてもその後のことを考えてしまうんや。紫外線で焼いたらシミになるんちゃうかってな」

 

古菲「アスカが五人、小太郎が五人、目が回るアル~」

 

楓「分身では拙者も負けられんでござるよ!」

 

真名「何を言っているんだ、お前は……。って、止めろ。お前まで分身しようとするな!」

 

夏美(小太郎君……?! か、彼女って何てこと言ってんのよぉおおおおお――――ッッッッ!?)

 

千鶴「あら、流石は情熱の夏ね。夏美ちゃんの乙女センサーがビンビンに反応しているわ」

 

のどか「おいしいですか、ネギ先生?」

 

和美「アスカ君がイギリスまで飛んでっちゃったって…………え、マジ?」

 

あやか「急ぎですって? この雪広あやかに、お任せあれ。超特急でジャンボジェットの自家用機を用意しますわ」

 

スタン「儂は嬉しい。最後の最期でアスカ、お前に会えたんじゃからな」

 

ネカネ「頑張って、二人とも……!!」

 

ネスカ「元に戻れぇえええええええええええええええ――――――ッッ!!!!!!」

 

夕映「イギリスには日本のように遺骨を残す習慣がないはずです。遺灰は公園墓地や故人の思い出の地や自宅の庭に撒いて、愛する人が亡くなった後もその人の眠る地で花を咲かせ、木を育てる。そして故人に話し掛けるように植物たちに話し掛け、思いを馳せるのだと」

 

アーニャ「私は、魔法世界に行かない」

 

ネカネ父「例え他人から後ろ指を指されようとも、お前達が信じた道を行くならとことんやれ。それがスプリングフィールドの血だ。中途半端で帰ってきたら、それこそぶん殴ってやるからな」

 

ネカネ母「私が言うことは一つだけよ。なんでもいい、無事に帰って来て」

 

校長「アスカ、ネギよ。決して生き急ぐでないぞ」

 

ドネット「――――ようこそ、魔法世界へ」

 

小太郎「敵やと!?」

 

フェイト「それは誤解だ。君達に会ったのは全くの偶然に過ぎない。何時かは、とは思っていたけど、まさか君らがここにいるとは考えもしなかったよ」

 

デュナミス「目的を果たせ、テルティウム」

 

カモミール(妹よ、兄ちゃんがいなくても達者で暮らせよ)

 

月詠「ちょっと浮気してしまいましたけど、次ぎ会う時は殺し合いましょセンパイ」

 

明日菜「アスカ、危ないって! 早く逃げないと――――」

 

メガロ議員1「災厄の王女の息子か。この事態は面白くないな」

 

メガロ議員2「やることは大戦期の後と同じです。彼の紅き翼と同じように大衆には知らせずに指名手配することですよ。生死問わずのね」

 

クルト「アスカ君、これは私からの試練です。乗り越えて私の下まで辿り着いて下さい」

 

ドルゴネス「ようこそ、ネギ・スプリングフィールド君、歓迎しよう。私の名はドルゴネス」

 

ネギ(僕らは魔法世界に来るべきじゃなかった)

 

浮浪者の少年「誰も助けてほしいなんて頼んじゃいない」

 

領主の息子「私に尽くせ。そうすれば罪を消してやる」

 

虜囚の女「エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルを知っていますか?」

 

バルガス「乱入者だと? まあいい。誰にしろ、俺が勝つだけだ」

 

トサカ「アリカ様……?」

 

盲目の少女「お姉さんはあたしをぶたない?」

 

茶々丸「働きましょう、千雨さん。お金がありません」

 

クママチーフ「知ってるかい、二十前の戦争に勝者はいないんだ。悪いのは全部完全なる世界とその関係者ってね。何の因果か、そのことに納得できない連中がこの街に集まっちまってるんだよ」

 

反乱軍首領「戦争はもう終わっていると言ったな。ふざけるな、俺達の戦争はまだ終わっちゃいない!」

 

エヴァンジェリン『上位雷精ルイン・イシュクル。こいつに出会ったら直ぐに逃げろ。いくら今のお前が強くなったとはいえ、まだ敵う相手ではない』

 

千雨「戦争だとかなんだとか私には分かんないよ。でも、こんなのが正しいはずがないだろ!」

 

領主「戦争に勝者も敗者もなくとも世界は続いていく。この街は人間種の私と亜人の妻から生まれた息子がなんの差別なく生きれるように願って作ったのだ。どうか息子の未来を、この街を、ノキアスを壊さないでくれ」

 

メガロ軍人「我らは混乱を収束しようとしているに過ぎない。筋違いも甚だしい」

 

ヘラス軍人「ノキアスの混乱の波がこちらに来ないとは限らない。我が軍は有事に備えているに過ぎない」

 

アスカ「このノキアスに、もう混乱はない! それを――――千の魔法使い(サウザンドマスター)ナギ・スプリングフィールドの息子である俺が保証する!!」

 

 

 

 

 

 

【COMING SOON】




プロットでは第六章は全10話の予定

UQ HOLDER!にネギ等のネギまメンバーが出たことで興奮中。


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第五章 世界編
第58話 祭りの後


お待たせしました。新章の開幕です。


 

 三日間かけて開催された麻帆良祭は終了後に二日間の振り替え休日となる。

 開催期間中を徹夜して過ごす猛者の者もいて、元気が有り余っているとまで言われる麻帆良生にも限界がある。当然ながら準備期間に比例して片づけにも時間がかかるので、振り替え休日は片付け期間でもあり、休息期間でもあった。

 麻帆良祭後に振り替え休日があるのは過去の積み重ねの結果と言い換えてもいい。元より祭り気質の麻帆良生が学祭直後に授業が始まっても集中できるとは思えず、振り替え休日は気持ちを切り替える期間としても有効であった。

 振り替え休日の初日、燃え尽き症候群の如く嵐の跡のように静かな都市内にある麻帆良女子中等部に一部の教師が裏事専用の会議室に集まっていた。

 裏関係者専用の会議室は設計図にも乗っていない区画にあり、その会議室には学園長から緊急会議を開くとの連絡を受けて招集された魔法先生が集合している。

 広さはおよそ教室程度の正方形の室内。柔道場には少し手狭な室内には、真ん中にはやはり正方形になるように並べられた四つの長机。ずらずらとその机に沿って木製の椅子が並んでいて大半の席が埋まっている。

 列席者達が程度の差はあれど一応に顰め面を浮かべているのは、経年劣化して少し力をかけると揺れる机と木製の椅子に難儀しているわけではない。

 会議室を支配していたのは超鈴音陣営に勝利した空気ではない。それどころか、なにも出来なかったという悔恨。勝利を余所から与えられたと理解した空気が、戦って成す術もなく負けただけではなく、もっとなにか出来たのではないかと思いが全員の肩に圧し掛かっていた。その自覚が口を重くし、互いに顔を背けあうような空気を作り出し、会議室全体を包み込んでいるのだった。

 勝利を齎したのは3-Aの生徒や教師であり、魔法先生や魔法先生が出来たことなどたかが知れている。騒動の張本人である超が3-Aの人間であり、協力者達も同様だとしてもだ。

 

「学園長がお見えになりました」

 

 席に座っていなかったシスター・シャークティがそう告げると、広間の喧騒がぴたりと鎮まる。

 静寂の中、開かれたドアを抜けて一人の老人が会議室へと入室する。

 魔法によって隔離された会議室へと入った学園長は無言のまま足を進め、どことなく見る者を安心させる穏やかな笑みを絶えさせたまま、視線が集中する中を無人の野を征くがごとき態度で黙殺して進む。

 麻帆良学園のトップであり、関東魔法協会の理事でもある学園長の席は決まっている。所謂上座とされる席へと案内されずとも座って眉を顰めた。

 

「…………そろそろこの机と椅子も買い替えんといかんな」

 

 あまり長時間座っていたくはない椅子と手を乗せただけで揺れる机に管理者らしく思考を巡らせて、近衛近右衛門は開かれた瞳に強い意志の力を宿して、室内にいる面々の顔を確認するように首を巡らす。

 学園長の右腕であるタカミチ・T・高畑を始めとして、主要な魔法先生と防衛線で多大な貢献をした天ヶ崎千草などの姿を捉えた学園長の眉が僅かに内側に寄った。

 

「明石君の姿がないようじゃが?」

「回収したロボットの解析で少し遅れると」

 

 立場的には学園№2である明石教授の姿が見えないことに気づいた学園長の疑問に答えたのは近い席に座っていた葛葉刀子。

 

「少ない準備時間で無理して急がせたのは儂じゃ。彼が遅れて来ると言うなら先に始めるとしようかの」

 

 信用も信頼もしている相手だからこそ、少々の遅れを問題にしなかった学園長は「では、臨時の会議を始めようと」と開始の宣言をする。

 なんとも軽い宣言ではあったが、ガンドルフィーニや神多羅木といった一部武闘派の面々が放つ固い空気を和らげる効果まではなかった。

 

「本日の議題は、皆も予想しておるだろうが麻帆良祭の件と今後の方針についてじゃ」

 

 固い空気の面々の中で発せられる学園長の言葉だけが寒空しく響き、集中する中で間を置いて本題に入る。

 

「ぶっちゃけるが、儂は今回の超君が起こした今回の一件を公表しないことにしようと考えておる」

 

 開始早々の学園長の発言に幾人かは驚き、幾人かは眉を顰めた。高畑のように眉一つ動かさなかった者は誰一人としていない。

 学園長の言葉が会議室内に染み込むように浸透していき、その意味を理解したガンドルフィーニが口を開く。

 

「それはどのような理由で? まさか保身の為……」

「全くないとは言わんよ」

 

 ガンドルフィーニの問いに対して発せられた学園長の返答には気負いも衒いもないのだった。ただ事実だけを伝える淡々とした声音。

 

「事実が公表されれば未遂に終わったといえ、全世界に魔法が暴露される危険があった。儂の立場どころか関係者は全員、本国に強制送還されて今事件の責任を負うことになっていたじゃろう」

 

 その時の全員の脳裏に浮かんだのが、最低でも三年のオコジョ刑に処された自身が成るかもしれないオコジョの姿であった。

 千草等の関西出身の面子は行ったこともない本国に強制島流しにされることに忌避感を抱き、ようやく一般人の彼氏を捕まえて上手くいきかけている葛葉刀子などは想像しただけで失神しそうになっている。

 

「しかも、映画研が今回の一件を映画にして販売までしておるからの。最低でもオコジョ刑で済めば恩の字というぐらいじゃ」

 

 悪ければ云々と敢えて最後は言葉を濁すと、俗物的な反応を示す刀子に仙人の如き表情を浮かべている学園長は尚も続ける。

 

「皆の身の為とまでは言わんが、超君の出自の説明やその技術力に至るまで説明出来ん部分が多すぎる。表に出すには危険すぎる故、秘匿しておいた方が無難であろうという判断じゃ」

反魔法場(アンチマジックフィールド)発生装置に反魔法場(アンチマジックフィールド)下でも十二分に力を発揮できる魔導機(マジック・デバイス)。公表されれば文字通り、世界がひっくり返りますね」

 

 静かに同意するように頷いたのは学園長から見て斜め前に座っている高畑であった。

 治療の跡も生々しい高畑の姿であったが、古代に自らの民を連れて海を渡った聖人の如くひどく自然に佇んでいる。ただ静かな瞳でこちらを見つめて来る高畑に、その在り方があまりにも静かでこちらの内面までも鏡のように映してしまいそうなぐらいで、対面に座る千草の様子が落ち着かない様子だった。

 

(一皮剥けたのう)

 

 学園祭で心境の変化でもあったのか、人間としての格が広がったかのように存在感に重みが出ている高畑から成長が読み取れて、学園長の目からでは未だに若者の年齢である嘗ての少年が前に進めたことに内心で嬉しさを感じていた。

 

「戦っていて実感したのは反魔法場(アンチマジックフィールド)発生装置だけですけど、時間が経つほどに魔力も気も使えなくなっていきました。僕が最後まで戦えていたのは咸卦法による莫大なパワーがあってこそです。両方の技術が知られたら、魔法公表以上に魔法世界は荒れることになるでしょう。個人としても組織としても、今回の件を公表されてもデメリットが多いと思います」

「俺も同感だ」

 

 持論を展開する高畑に、腕を組んで座っていた神多羅木が同意する。

 

「今回の件での人的被害は軽微。戦っていた者は別として、精々が隔離の際にコけて膝を擦りむいた程度。寧ろ、問題にするべきは戦力として大した役に立たなかった俺を含めた面子の中にある」

「それは同感かな。いや、さっさと三時間後に送られた僕が言っていい台詞じゃないけど」

 

 神多羅木の問題提起に、肘から先を上げて少し恥ずかし気に手を上げた伊集院に「私も同じです」と隣に座るシャークティが殆ど表情をえることなく言った。

 

「想定外の連続ではありましたが、戦いとは本来はそういうもの。防衛システムの再構築や学園を護る我々の意識変革が急務だと思います」

「今回のような純粋な物量で攻められたり、秘匿を無視したりといった事態にも対応していくようにしないと」

「しかし、そう考えると戦いの場に生徒を出すのは問題ではありませんか?」

「そうですね。幾ら魔法世界では未成年でも力があれば戦場に出れるといっても、この世界の常識に照らし合わせて物事を考えていく必要もあるかと」

 

 次々と意見が出て行く中で、一人納得いかなげなガンドルフィーニは自身も防衛システムや守護をする自分達の意識変革は必要だとも考えつつも、組織人としては本国への報告をしなければならないのではと考える。

 

「議論も構わんが話を戻そうぞ」

 

 話し合いの空気を引き戻すように学園長が手を挙げて、一度話を止めてこの会議の本題に立ち戻ろうと手綱を取り戻す。

 

「そもそも、報告にするにしても超君のことをどう説明していいのか、儂にはさっぱり分からん」

 

 学園長一人は肩を竦めるが、ぶっちゃけ振りに出席者の大半は呆れ顔だ。

 

「超君の技術力然り、彼女は自らを時間遡行者と言ったが証明する術はない。魔法界では時間移動は不可能というのが定説で、頭の固い本国の連中が納得するはずもない。余計な混乱を生むだけじゃろう。それに超君の技術力を今は公表すべきではないと言ったが、それだけではない。先の爵位級悪魔の侵入と今回の一件が何らかの関わりがある可能性もあることから、可能な限り極秘裏に超君が残した全てを精査する必要がある」

「超鈴音と爵位級悪魔に関わりがあるとは思えないのですが」

「実はそうでもないんじゃよ」

 

 長い髭を撫でるように触っている学園長が考えの読めぬ表情のまま疑問を隠そうともしないガンドルフィーニを見る。

 

「悪魔が侵入した際に一時、学園結界が何者かに落とされたことは皆も記憶に残っていよう。超君が残していったデータの中に本件に関わったと思われる者の姿が映った映像があったのじゃ」 

「本当なのですが!?」

「残念ながら何者か、としか分からんかったがの。超君がそうしたのか、元からそうだったのか分からんが。全く関係ないとは限らん故、精査の必要がある」

 

 一度言葉を区切った学園長は小さな溜息を漏らして、各々の反応を確かめるように室内にいる全員の顔を順に見ていき、会議が始まってから全く発言していない千草に視線を留めてから前を向く。

 

「本国が鎖国政策を行っておるのは皆も知っていよう? 今回の一件を本国に伝えれば後押しをする結果になってしまうわい。この世界、魔法世界への影響を鑑みて、今年のイベントは少々派手ではあったが例年より盛り上がったで終わらせておきたいんじゃ。全責任は儂が取る」

 

 そこまで言われてしまったらガンドルフィーニにだって抗弁する言葉はない。彼には小学校に上がったばかりの娘がおり、収容所送りになれば一般人の妻にも迷惑がかかって離婚もありうる。

 望んで波乱を起こしたい性分でもない。結局のところ、ガンドルフィーニ達が口を噤んでさえいれば、世界は何事もなかったように回り続けることが出来るのだから。

 

「…………すまんな、迷惑をかける。何もなければ会議はここまでとしよう。皆、休日にご苦労じゃったな」

 

 出席者全員を見渡し、誰からも発言が出ないことを確認して会議の終了の宣言をした学園長が座ったまま深々と頭を下げる。

 我が身は大事で、公表したところでデメリットが多く、麻帆良学園最高権力者にここまでさせては、会議室に座る誰もが口を紡ぐことを選択する。

 

「では、解散とする。ゆっくり休んでくれ」

 

 頭を上げた学園長の宣言に従って、席から重く立ち上がった会議の参加者達が三々五々に部屋から散って行く。

 最後まで残っていた高畑も会議室から出て行き、一人室内に残った学園長は深々と長い溜息を漏らした。

 

「防衛システムの見直しに超君の裏取り、他にもやることが山ほどあるのう。老骨には響くわい」

 

 麻帆良祭最終日から事件収束を図る為に、徹夜とまではいかないが平均睡眠時間は三時間に満たない。十四歳の孫がいる学園長の齢の肉体では若い頃のような無理は効かないようで頭の奥がズキズキと痛む。

 エヴァンジェリンのように吸血鬼化といった例外を除けば、幾ら身体強化をしても元の肉体の衰えはどうしようも出来ない。これまた超のような例外を除けば時間の流れは不可逆だから、生まれれば老いていくしかない。だが、それでいいと近右衛門はいいと思っている。

 長く生きて木乃香の死に目に会うなど想像するだけで気が遠くなる。

 

「後任に後を譲れればいいんじゃが、明石君にその気がないからのう……」

 

 能力・性格・人望の三種から最適の後任は明石教授なのだが、本人が組織のトップの座る気が全くないのが困りものである。

 後何年待てば後進に任せられるのだろうかと悩んでいると、部屋のドアがコンコンと外から叩かれた。

 学園長が中へ入るように促すと、目元に濃い隈を浮かべた明石教授が何日も着続けて少し薄汚れたワイシャツのまま室内へと入って来る。

 

「遅れてすみません…………おや、会議はもう終わってしまいましたか」

「最初から遅れて来るつもりだったんじゃろ。君がいてくれれば儂もこれほど説得に苦労せんでもよかったんじゃがな」

「そういうわけにもいかない事情があったんですよ。はい、取りあえず判明した事実と残ったロボット達の扱いについて纏めておきました」

 

 軽く文句を受け流した明石教授は抱えていた紙束をガタついている机の上に置くと学園長の斜め前の席に座る。

 疲れているのか、明石教授は一息を漏らして少し落ちていた肩を上げて背筋を伸ばす。

 

「ご苦労じゃったな。その様子では家にも帰っておらんようだが」

 

 風呂にも入っていないのか、髪の毛にはフケがついていて、少し痩せたようにも見えた学園長は目を細めた。

 疲れていても眼だけはギラギラと輝いていて、これだから研究者気質の者は扱いに困ると内心で愚痴を零した学園長の視線の先で、軽く肩を竦めた明石教授は一瞬目を泳がせる。彼は彼なりに自分の状況が決して褒められたものではない自覚はあったようだ。

 

「最低限の睡眠と食事は取っていますよ」

「直ぐには倒れない程度の最低限ではな。儂から頼んだ事とはいえ、君ももう決して無理が効くほど若くはないんじゃから倒れでもしたら娘さんに泣かれるぞい」

「…………肝に銘じておきます。嫌ですね、年を取るのは」

 

 溺愛していると言っても過言ではない一人娘の祐奈のことを引き合いに出すと、流石の明石教授も罰が悪そうにフケが付いている髪の毛を掻き上げて油分のべた付きに顔を顰めた。

 顰めた顔には皺が年輪を刻んでいる。以前よりも肌の張りも無くなって来たし、若い頃ならば身体強化を使えば何日も出来た徹夜も最早出来ない。一分一秒ごとに肉体は衰えていき、嘗ては出来ていたことが出来なくなっていく気持ちは言葉にし辛く、明石教授は愚痴を零すように呟いていた。

 

「儂はそうとは思わんよ」

 

 と、明石教授の倍以上を生きる学園長は苦笑と共に否定する。

 

「まだ君ぐらいの年齢では分からんかもしれんが、年を取ることが楽しいと思えて来ることもあるということじゃ」

「はぁ……」

 

 分かっていなさそうな声を漏らす明石教授に、いずれは理解するだろうがこれも年長者の務めと居住まいを正して口を開く。

 

「明石君、今の君の人生においての楽しみは何かね? 生き甲斐と言い換えても良いぞ」

 

 学園長にとっての今の人生の楽しみは孫娘の木乃香が大きくなることだ。やがては結婚し、生まれた曾孫に名前を付けて皆に看取られながら逝きたい。

 生徒達の元気な姿を見るだけで若返るような気分にもなり、まだまだ死ねないと考えているし、もう十分に高齢で老い先短い生であるからこそ、今を必死に生きようとも思うようになる。

 

「勿論、祐奈です。仕事も好きですけど、これだけは十年間全く変わりません」

 

 一瞬の迷いもなく答えた明石教授に学園長の笑みが深くなる。

 

「疑ってはおらんよ。君一人で子を立派に育てたことは純粋に尊敬に値するぞい」

「僕はただ必死に目の前のことに取り組んできただけ。祐奈が立派に育ったのは、亡き妻のあの子への愛があったからと確信しています」

 

 男手一つで女の子を育てるのは並大抵のことではない。まず第一として性別の違いがあった。男には女の感性が理解できない。例え知識で理解できた気になったとしても体の仕組みの違いによって実感を得ない。男ならば当たり前であることが女ではそうではない。逆もまた然り。

 同姓の親、つまりは母親がいれば苦も無く解決した事柄も男親しかいないとなれば明石教授は方々に恥を偲んで行動に出なければならなかった。その波乱と苦悩に塗れた日々もまた後から思い返せれば宝石のように輝いている。

 

「では、祐奈君が嫁に行ったらどうするかね? ああ、娘は嫁にやらないなどと俗なことは言わんでくれよ」

 

 何時かは訪れる未来予想図を告げられ、一考した明石教授は顎髭を撫でた。

 

「孫が生まれ、育つのを楽しみとしますよ…………成程、年を取るのも悪くはないと思えるものですね」

「じゃろう。だから、さっさと儂の後を継いでくれんか? 儂も随分と年を食った。早々に隠居して縁側でのんびりと茶を啜りたいもんじゃ」

「残念ながら僕にそんな気は、ちっとも全くこれっぽっちもありませんのでお断りさせて頂きます」

 

 下手から出てきた学園長の提案を明石教授は満面の笑みでばっさりと切り捨る。

 

「いざという時に非情な選択は出来ませんからね」

 

 苦笑と共にその理由の一端を明かしたのだった。そう、明石教授は祐奈か学園かの選択を迫られれば確実に娘を選ぶ。多数を見捨てて少数を選んでしまう者には、時に非情な選択を迫られる権力者の椅子に座るべきではないと考えているから固辞する。

 学園長ならば、例え木乃香と学園を天秤にかけられても学園を選べてしまうということ。勿論、学園長には木乃香をただ失わせるほど凡愚ではなく、救う一手を打てる。

 

「出来ると思うんじゃがな……」

「僕には学園を背負うほどの覚悟を持てません。今のこの手は祐奈だけで手一杯ですから」

 

 能力的なものに限れば明石教授も学園長と同じことが出来るかもしれないが、大切な人を理不尽に失ったことがあるからこそまた失うかもしれない選択を前にして怖気づいてしまう。

 

「それに、やはり僕は長ではなく支える側の方が性に合っています」

 

 私生活では娘の祐奈に支えてもらってばかりではあるが、仕事としてはサポート役の方が上手くやりやすい。トップに立って皆を引っ張っていくような役割は端から似合わないのだと明石教授は自らを断ずる。

 

「今回の一件で高畑君も随分と成長しました。十年も経験を積めば、周りの助けは必要ですが学園長の座を渡しても問題ないでしょう」

 

 嘗ての教え子の変化と成長を見て感じ取った明石教授も自分の身代わりではないが学園長の後継となりえる人物を推薦する。

 

「儂、後十年も此処にいないといけないんかの。老骨を酷使過ぎではないか?」

 

 つまりは、高畑がモノになるまでは今の椅子に座り続けなければならないと宣告されたに等しく、学園長はうんざりとした様子で眉を情けなく顰めた。

 

「これから訪れる時代のうねりは僕や高畑君では乗り越えられません。まだまだアナタには学園長でいてもらう必要があります」

 

 明石教授は持ってきた紙束を学園長へと渡す。机の上をスライドして目の前に置かれた紙束が学園長には開けてはならないパンドラの箱であるかのように感じられて一瞬手を伸ばすことを躊躇する。

 後回しにしても同じこと、決意して紙束の一番上の資料を手にして目を通す。

 

「………………予想しておったことじゃが、超君の技術が我々でも再現可能とは」

 

 関東魔法協会麻帆良支部の技術部で解析された超が残した技術の数々の大半が現行の科学でも再現可能と結論付けられている。その事実は学園長にとってあまり歓迎したくない結果であった。

 小さく強く握られた紙が僅かに軋むのを見ながら明石教授が口を開く。

 

「大前提として超君が未来人であると仮定して考えると、これらの技術は十分とは言えないとも報告を受けています。恐らくですが、我々が与り知らぬ技術・材料を以て為されているのではないかと」

「現状は不完全品、それでも十分な能力を持っておるが、現行の技術だけで再現可能となると真似しろと言わんばかりじゃな」

「正しくその通りでしょう。ご丁寧にも設計図等が研究室に残っていましたから」

 

 手に持つ資料には技術畑ではない学園長には理解しえない単語が羅列してあるものの、元よりこの資料は技術部に解析させる為に敢えて残されたのだとしたら結論が出るのもまた早いというもの。

 

「例外は一つ、機竜だけは設計図どころかどのように作られたかも分からないとなれば、設計図等が研究室に残っていたことも全て超君の差し金。これは葉加瀬君も認めてくれましたよ」

「全ては超君のシナリオ通り、じゃということか。はたさて、どこからが彼女のシナリオなのじゃろうな」

 

 当初から学園に探りを入れていたことも、エヴァンジェリンと縁を繋いで茶々丸を作ったことも、これらの行動に対してとった学園の行動も、そして学園祭における行動の一切合財からその後始末においてまで、一体どこからシナリオを描いたのかが分からない。

 最初からシナリオを描いたと言われれば、この結果だけを見るならばありえると考えてしまうだけに答えは出ない。超が未来へと還った今となっては答えが出ることはないのだろう。

 

「今考えるべきはこの技術が残された意味ですが、私はこれらの物が誂えたように残されたのには意味があると考えます」

「…………人工的に魔力喪失現象を起こす機械、現象下でも自由に動けるロボットと超常の力を振るえる道具。我々の下にこれらの技術が残されたのは、そう遠くない日に魔法が白日の下に晒される時が来る時に備えての為だと想定されるわけじゃな」

 

 その時が何時なのかは学園長も明石教授にも分からない。二人には未来を見通す眼も能力も持っていないのだから、今ある情報の中から積み上げていくしかない。

 

「葉加瀬君の聴取から超君が描いていたシナリオを読み解くことは叶いませんでした。ただ、彼女のシナリオの中で鍵となる人物(キーパーソン)は判明しています」

「アスカ君じゃな」

「ええ、間違いないと思われます」

 

 二人はそう断言する根拠は超がリスクを背負ってまでアスカを操ったことにある。

 本来、超はアスカを操る必然性がなかった。費用対効果、確実性を期すならば確かにアスカは適任ではあるが確実に勝利を目指すならば学園長や高畑をこそ操るべきだった。超が航時機(カシオペア)を使えば不意を突いて操ることは可能なのだから。

 あくまでアスカは彼らの仲間間の主柱であって、学園の主力戦力には数えられていなかった。学園長や高畑を操った方がより学園側を倒しやすかったはず。特に高畑の場合は一度捕まっているのだ。操るチャンスは幾らでもあった。

 

「超君はアスカ君に拘っていた…………葉加瀬君だけではなく武道大会で超君と話した高畑君の証言も同じものでした」

「そこから導き出される答えはそう多くはないのう」

 

 係累を自称していたことが理由だとしても、超のそれは些か度が過ぎると学園長は思考し、やがて一つの結論へと至る。

 

「一連の騒動はアスカ君を成長させる為の試練であり、我々に彼女の技術を受け継がせる為に仕組まれたものであると」

「遺憾ながら」

「そして今後に魔法が白日の下に晒される時が来て、アスカ君はその一件に何か重大な立場を担う可能性が高いわけじゃ」

 

 推測に憶測を重ねた暴論ではあるが、有り得ないとも言い切れない。麻帆良祭を通しての覚醒とでも言うべきアスカの成長は、物語ではあるまいし最初からそうであったかのように都合が良すぎる。まるで英雄を育て上げるかのようで。

 

「であるならば、超君の目的は過去の改竄などではなく、寧ろ歴史の一部として組み込まれている…………卵か先か、鶏が先か。因果性のジレンマですね」

「今回は親殺しのパラドックスの逆じゃな」

 

 親殺しのパラドックスとは、時間遡行者が血の繋がった父を母に出会う前に殺してしまったら自らが生まれるはずもなく、存在しない者が時間遡行も出来ないからこそ父を殺すことは出来ず母と出会い、やはり時間遡行をして父を殺すという堂々巡りになる論理的パラドックス。

 超が未来人ならば魔法公開という行為は歴史改変に十分なトリガーとなる。しかし、歴史の規定事項として魔法公開が予め決められていたとなると超の行動は別の意味を持ってくる。

 

「超君という時間遡行者の行動によって彼女のいる未来に辿り着くのだとしたら」

「確証はないがの。神ならぬ人の身では考えるだけ無駄じゃよ。なにしろ証拠がない。あるとすれば彼女のいる未来まで生きねば分からぬことじゃ」

 

 特にもう終わりが見えてきている年齢の学園長には今日と子供達が生きる明日を護るだけで手一杯。

 

「どうあれ、激動の時代が訪れるのは間違いないというわけかの」

 

 迫る魔法世界終焉の刻限、完全なる世界の残党の蠢動、封印が緩んできた姫巫女…………と学園長の脳裏でそれらの単語が行き交い、表層に出る前に心の奥底へと押し込めて表情にはは決して出さない。

 この学園の地下にある特級の秘密も知るのは学園長と守り人であるアルビレオ・イマのみ。側近中の側近であろうとも明かせない秘密もある。

 

「外部・内部の両面での学園の襲撃に対するプランの再訂と、魔法が公開された際に我々が行える世間へのアプローチのシュミレート、その他諸々…………学園長には後十年は今の立場で辣腕を振るって頂かないといけないというわけです」

「本当、早々に引退したいわい」

 

 学園長は弱音を漏らしながら、もしかしたらこの二十年の間に停滞していた時代の流れが動き出すのではないかと淡い期待を抱いて、まだまだ隠居は許されないのだと一人静かに嘆息するのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 麻帆良学園にある世界有数の蔵書数を誇る図書館島の地下、アスカ達が期末試験の為に頭が良くなるという魔法の本を探しに潜り込んだ場所よりも更に下にその場所はあった。

 迂闊にも一般人が決して入り込むことがないように幾重にも施された結界を越えた先には世界樹の根が這う巨大な開けた空間が広がっていた。下を見れば一面に芝生が生い茂り、そこかしこに立ち並ぶ数多の石柱は列を為して、ここが自然に出来たものではなく人工物であることを示していた。

 地下にそのような空間が開けていること自体が摩訶不思議な現象なのに、古代の様式で建造された古びた門が重く存在を主張するかのように佇んでいた。

 石柱の奥に鎮座する、世界樹の根が絡みつくようにして立っている石造りの門が人工物である仮説が真実であると証明している。

 日本には不似合いな古代ギリシャなどにありそうな立派な門は、その年月を物語るようにただ存在するだけで他者に畏敬を抱かせる。だが、今この時をおいて門は些かの存在感も発してはいない。この場においてより大きな存在感を発揮し続ける者が躍動し続けるからに他ならない。

 

「――――なんというか」

 

 強制的に観客にならざるをえない者達の中でアンナ・ユーリエウナ・ココロウァは実につまらなげに一人ごちた。

 観客は彼女だけではない。ネギ・スプリングフィールド、神楽坂明日菜、近衛木乃香、桜咲刹那、犬上小太郎という何時もの面々が共にいた。そんな彼・彼女らも一様に門ではなく中空を見上げている。

 

「まだ二ヶ月程度しか経ってないのに、こうも変わるなんてね」

 

 アーニャが言った直後、空間に衝撃が走った。

 衝撃の発生源は彼女の視線の先、西洋竜であるワイバーンが直上より頭部に打撃を加えられて高度を下げる。空間に走った衝撃はその打撃が強力過ぎるが故に生じた伝播でしかない。

 ただの人が受ければ柘榴のように弾ける衝撃を受けながらも、僅かに怯む程度で堪えた様子を見せないのは流石は最強の幻想種の面目躍如か。

 

「竜種が一人の人間に翻弄されているのを見ると違和感しか抱かないわよ」

 

 ポツリと小さく呟かれた声は、直前に轟いた轟音が余人の耳に届けることなく呑み込まれる。

 今度は真横からの衝撃によって体の横にくの字に折れ曲がらされたワイバーンは、凄い勢いで壁に叩きつけられる直前で巨大な羽を羽ばたかせて急停止する。

 ワイバーンは中空に浮かんで自らを翻弄するちっぽけな人間を忌々し気に見上げた。

 

「オラァッ!」

 

 少年――――アスカ・スプリングフィールドは消えたと錯覚するほど一瞬でワイバーンの間近に出現し、アーニャが内包している以上の魔力を纏った右腕を振るった。

 また当たるかもというところでワイバーンがその長い尾を振るい、横合いから襲撃をかけたが事前に感じ取っていたアスカにあっさりと避けられる。

 

「あれでも大分周りに配慮して手加減してるよ。僕でもあれぐらいは出来るし」

「あー、うん、アンタも化け物の仲間入りしてたのよね、ネギ」

 

 アーニャは隣に杖を手に呑気に観戦しているように見えるネギ・スプリングフィールドの横顔をチラリと見て、殆ど目線が変わらないことに今更ながらに気づいてむべなるかなと納得する。

 この数ヶ月で殆ど目線が変わらないぐらいネギの背が伸びているのは、アスカ程ではないが別荘を利用して幾ヶ月の年月を経たことを証明している。

 

「化け物って……」

 

 酷い言われ様にショックを受けているネギだが、竜種のワイバーンを圧倒出来る時点でアーニャから見れば十分に化け物染みている。

 自覚がないのは性質が悪いと更に言い募ろうとアーニャが口を開くよりも反対隣りにいた小太郎が首を突っ込む。

 

「ステゴロでやり合う分には俺や明日菜の姉ちゃんらにも出来るやろ。まあ、あそこまで圧倒出来るんはこの中ではアスカぐらいやろうけどな」

 

 二十㎝近く生じた身長差の関係で屈んで文字通り二人の間に首を突っ込んできての言い様はともかく、別荘の使用で年長者となった小太郎に未だに慣れないので心持ち体を引く。アスカは幼少の頃から知っているだけに違和感も直ぐに慣れたのだが、どうにも小太郎相手にはそうはいかないらしい。時間が解決するものではあるが小太郎自身、皆に同じ対応をされているらしく気にした風は見せない。

 

「私だとあんなに空を飛べないから無理無理。良いところ、近づいた瞬間に斬れるかどうかじゃないかしら」

「勝てる可能性があるだけ十分だと思うけどね」

 

 浮遊術や自前の翼、犬神が使えない明日菜は空を飛ぶというよりも虚空瞬動で空を駆けることしか出来ないので、ワイバーンの機動力に追いつけるかは未知数。明日菜としては地上で迎え撃つとして勝率は半々も見込んでいなかった。

 仮にも竜種に対して勝率がある時点で大概だとアーニャは論ずる。

 

「せっちゃんはどうなん?」

 

 安全を考えて魔法障壁が強いネギの後ろで守られている木乃香が圧倒される戦いに感嘆の息を漏らしながら隣に立つ桜咲刹那に問うた。

 聞かれた刹那は目前の戦いから一瞬木乃香を見て困ったように眉をヘタらせた。

 

「…………西洋龍を見るのは始めてですが、結構強そうですよね。専門の装備で数日あればなんとか」

 

 自己評価が過大に低い刹那らしい謙虚過ぎる発言に木乃香以外の面々の猜疑の眼が向けられる。

 神鳴流の遣い手である刹那の攻撃力はネギ・アスカと並んでこの中では群を抜いている。半妖としての力を使えばワイバーンを仕留めるのにそれほど手間がかかるとは木乃香以外思っていなかった。

 

「刹那って自己評価低すぎない?」

 

 前々から思っていたことなのでアーニャが思わず呟くと、五感が優れている明日菜が聞いて然りと頷いた。

 

「下っ端根性が染みついているっていうか、周りが上で自分が下って認識があるみたい」

「小さい頃はここまでやなかったんやけどなぁ」

「あの、聞こえてるんですが」

 

 明日菜と木乃香がうんうんと頷き合っている横で自分の話なのに除け者にされている刹那の頬にタラリと汗が流れた。

 

「あの鶴子姉ちゃんに教えられてたんやったら誰でも自分の方が下って思うんちゃうか」

 

 と、小太郎は言いつつも同じ半妖故に周りの視線や対応から幼少期から何事かあったのだろうと予想がついたので、それっぽい理由をでっち上げて刹那本人に話題が向かないようにする。

 

「鶴子姉さん、普段は優しいんやけど噂で聞いた分やと剣を教える時はかなり厳しいらしいしな」

「ああ、成程……」

「分かります。マスター(エヴァンジェリン)に教わってると自分が塵屑だと思いますよね。本当に何で生まれて来たんだろうって、毎晩寝る度に考えて……」

「いや、アンタは自虐が過ぎるから」

 

 分かっているのか分かっていないのか、ポワポワとした雰囲気と表情のままで木乃香は頬に手を当てていた。その横で春休みに京都で鶴子を見た明日菜も納得がいったように頷く。

 同じように鶴子のような苛烈さが身近にあるネギは少し遠い目をしていて、突っ込みを入れたアーニャがポケットから飴を取り出して刹那に差し出す。

 

「刹那、飴あるけど食べる?」

「いりません!」

 

 適当な漫才が終わったところでアスカとワイバーンの戦いは終局に近づいていた。

 ワイバーンがアスカに向けて炎のブレスを放つも、まさかブレスを真っ向からぶち抜こうとする相手がいるなんて想定もしなかったのだろう。全身に魔力を纏ってスーパーマンが空を飛ぶポーズで炎の壁を貫いてワイバーンを打ち据えた。

 流石にこれにはワイバーンも堪えたらしく、中空で力を失ったように身を躍らせる。

 

「おっと」

 

 このままで地上に落下するかと思われたワイバーンの腹を下から支えたアスカがゆっくりと降下していく。

 身長の十倍以上の全長を持つワイバーンを支えている姿は一種異様ではあるが、アスカの強さを知っているのでこの場にいる者の中でそのことを声高に叫ぶ者はいない。

 ゆっくりとワイバーンを地上に下ろしたアスカは、その長大な頭を労わるように擦る。

 

「俺の我儘に付き合ってくれてサンキューな。痛かったろ」

 

 一戦行いながらも全く疲れた様子も見せずにワイバーンの顎の横をポンポンと叩く。

 

「グルゥ……」

 

 と、聞きようによっては可愛く聞こえなくもない鳴き声で鳴いたワイバーンは、アスカに気にするなとでも言うように僅かに顔を動かした。まるでもっと撫でろと言わんばかりに態度である。

 ワイバーンが満足するまで思う存分に撫で回したアスカが離れた場所にいるアーニャ達を見る。

 

「木乃香、治癒かけてくれ」

「ほいな」

 

 事前に決められた通り、かなり高かった専用の魔法の杖を手にいそいそとワイバーンへと近づいていく。

 治癒系統は数を熟すことで上達する魔法である。しかし、治癒魔法は他の系統の魔法と違って誰かが怪我をしなければ魔法をかけることは出来ない。怪我をしていないのに治癒魔法をかけると過回復を引き起こして逆に危険になる。なので、非常に有用な魔法ではあるのだが習熟する機会が少ないので熟練の治癒魔法使いは少ない。木乃香は絶好の治癒の機会に急いでワイバーンへと向かう。

 

「お嬢様、少しは警戒して下さい」

 

 戦闘不能になってはいるが強大な力を持つ竜種。飼い慣らされているとはいえ、良く知っているわけではないので木乃香にも少しは注意してほしいのだが性格的に難しい。

 片手に鞘に納めたままの夕凪を手に、直ぐに木乃香を追い抜いて攻撃を加えないか注意して進む。反対に二人とすれ違いで戻るアスカは黒のシャツの首元を引っ張って汗ばんだ体を冷やそうと空気を送り込む。

 

「ふぅ、良い汗かいたぜ」

「竜種相手にそれで済むアンタはネギ達以上の化け物になったのよね」

 

 ちょっと近くを走ってきたというノリで戻って来るアスカに愚痴を垂れつつ、アスカの後ろの方で地に伏せたまま動かないワイバーンを警戒する刹那の後ろで杖を振っている木乃香の姿を視界に収める。

 

「で、満足した?」

「おう、前よりも強くなっているってのは十分に自覚できた。悪いな、わざわざ戦わしてもらって」

 

 拳を握ったり開いたりしてるアスカは本当に満足そうに見えた。

 治癒の光が迸っているのを見て魔法障壁を解いたネギの横を明日菜が一歩前に出た。

 

「怪我してない、よね?」

「してるように見えるか?」

「ううん」

 

 見て分かることだが本人に聞いた安心できた明日菜も首を横に振って笑顔を見せる。どうにも甘酸っぱい空気が漂っているようで小太郎も居心地が悪そうだ。

 こうしてアーニャの視点から向かい合う二人を身長差の関係で見上げると、アスカの身長が良く伸びているのが分かった。アスカの方が小太郎よりも別荘の利用頻度が多く長いのもあるのだろうが、人種の違いからアスカの方が頭半分以上は大きい。160前後の小太郎よりも高く、明日菜よりも高い。

 まだ明日菜も女子中学生なのでヒールなどの踵の高い靴を履かないので、こうやって第三者の視点で二人を見ると以前のようにどこかちぐはぐの関係には見えなかった。目と目を合わせるだけで互いを理解し合えているような、まあアーニャの口からは出したくはない関係に見えても不思議ではないぐらいにお似合いに見える。

 

「結構時間かかったね。もっと早く終わると思ったのに」

 

 空気が読めないことに定評があるネギが、周りを回って本当に怪我がないか確認している明日菜とアスカのストロベリートークを邪魔してしまう。

 これには少し明日菜がムッとした様子を見せたがアスカが苦笑を浮かべたのでそれ以上、態度に表すことはなかった。言葉もいらずに互いの言いたいことを察することが出来る関係は少しアーニャには羨ましい。

 

「力試しでやり過ぎたら駄目だからな、手加減が分かり難くて」

「今のアスカの力やと、下手したらワンパンで柘榴やしな」

 

 アーニャの眼から見ても別人と思えるほどに力を高めたアスカだが、ワイバーンが竜種であるだけに強く頑丈で手加減をし過ぎれば逆に負ける。小太郎が言うように力を出し過ぎれば殺してしまうので、ある程度の力で始めたのでどうしても時間がかかってしまったのだ。

 

「招待状貰ってるんだから、わざわざ戦わなくても良かったんじゃないの?」

 

 今ここにいるのは学祭後に行われることになっていたアルビレオ・イマからお茶会の招待状が届いたから。何故か闘う前提で話が進んでいたので口に出せなかったが、招待状さえ見せれば通してくれた可能性は高いのだからワイバーンと闘う必要は全くない。

 

「さあ、どうだろうな。あの性悪野郎のことだから確実とは言えねぇぜ」

「そうやろうな。普通やったら通してくれるやろうけど、アイツやとその普通な対応はないな」

 

 実際に招待者であるアルビレオと接した二人からは否定されてしまった。直接、姿を見てもいないアーニャはそこまでの相手なのかと内心の人物像に修正を入れる。

 

「いえいえ、流石の私でもそこまであこぎな真似はしませんよ?」

「いいや、絶対するね。そうだな、最初は通させておいて後ろから襲わせるぐらいはしそうだ」

 

 何時の間にかそこにいてするっと話に入ってきたアルビレオに驚く様子もないアスカが言葉を続ける。

 

「おおっ!? 何時の間に……」

「アスカ君は油断がなくて何よりです。皆さんはもう少し修練が必要ですね」

 

 一拍遅れて小太郎と明日菜、次いでネギ、大分遅れてアーニャも気づいて散開した面々の視線の矢に晒されながらもアルビレオはにこやかな笑みを崩さない。

 

「俺の場合は戦闘で神経が過敏になってたからだろ」

「そうではないでしょ。図書館島に入る前から彼女と戦っている間も私のことを警戒していた。心と体を緩めながらも、どこかで神経を広げているのは戦士として良い心掛けです」

「彼女って…………あのワイバーン、メスだったのか」

 

 別の方向に驚いているアスカを見て何が楽しいのかニコニコと笑んでいるアルビレオの後ろから、ワイバーンの治療を終えた木乃香が首を出した。

 

「治療終わったえ」

「サンキューな。じゃあ、主催者もいるしさっさと中に入ろうぜ」

 

 アスカは木乃香の斜め後ろで何時の間にか現れたアルビレオに刹那が目を見開いてるのを見ながら、どうにもアルビレオと話をしていると話が進まなくなるので中に入るように促すのだった。

 アルビレオを知っている分だけ真面目にやる分だけ馬鹿を見ると考えるアスカと違って初見のアーニャにとっては第一印象が大切なのである。

 

「ちょっと待ちなさい、アスカ。あ、アルビレオさん。これ、つまらないものですが」

 

 親しき中にも礼儀あり。初見ならば第一印象が大切であるので。図書館島に入る前に買ってきたものをこれでいいのかと不安げに思いながら渡す。

 

「これはこれはアーニャさん、ご丁寧にどうも」

「でも、本当にケンタッキーで良かったんですか?」

「はい。お茶会には合いませんが個人的に好きな物ですので、あまり出歩ける身分ではないので嬉しい限りです。おお、オリジナルチキンセットですか。食べたかったんですよ、これ」

 

 ケンタッキーで買ってきたチキンでまさかここまで喜ばれるとは思っていなかったアーニャは目をパチクリとする。

 アルビレオと直接面識のあるアスカと小太郎にお礼の品が何がいいかと聞いて、返ってきた返答がケンタッキーだったので思わず頭沸いてるのかと殴ってしまった。うんうんと形式に悩むアーニャにアスカがケンタッキーで買ったチキンで済ませると言い出した時は脛を思いっ切り蹴って悶えさせたものである。

 

「遅れましたけど、本日はお招き頂きましておおきにー」

 

 お嬢様らしく茶会に招かれることに慣れている木乃香が礼と共に軽く頭を下げる。遅れて他の面々も続く。

 頭を上げたネギは武道会ではアルビレオと顔を合わせたことはない。アスカから話を聞き、アルビレオに聞きたいことがあったので一歩前に出た。

 

「あの、アルビレオさん」

「ネギ君!!!」

「は、はひ!?」

 

 ナギの仲間であった彼から父の話を聞きたかったネギだったが、アルビレオに大声で遮られて思わず身を竦めてしまう。

 

「私のことはクウネル・サンダースと呼んで下さい。気に入ってますので」

「ハ、ハァ……クウネルさん?」

「はい」

 

 なぜか彼の背後に某有名チキン店のマスコットなオッサン的なオーラが見えた。お土産の品がケンタッキーという時点で大概だが、名前まで改名するほど気に入っているようだ。

 

「では、改めまして。皆さん、ようこそお越しくださいました。歓迎致しますよ」

 

 土産の品がよほど嬉しいのか、笑顔三割増しになったアルビレオが背後を促すと同時に重厚な扉がゆっくりと開いていく。

 扉の向こう側から光が差し込み、アスカとアーニャを先頭として進む皆の視界を一瞬だけ晦ませる。

 直ぐに視界を取り戻した皆は扉の向こうへと足を踏み入れると、その先には広大な空間が広がっていた。とても地下とは思えない、如何にもな魔法使いの住み処といった感じにほぼ全員が感嘆の息を漏らす。

 巨大な世界樹の根を縫うように地下なのに太陽の下にいるかのように光が降り注ぎ、住み処を覆うように広がっている滝から舞い上げる水滴を照らす風景はメルヘンの世界に迷い込んだかのような幻想的な光景だった。

 

「何よこれー。ホントに学園の地下?」

「如何にも魔法使いの住み処といった感じですね」

「住んでいるのは私だけですからね。魔法使いの住み処という表現は合っていますよ。お茶会の場所はあの塔の先です」

 

 唖然とした様子の明日菜、妙な納得をする刹那にアルビレオが苦笑しつつ、このドーム状の中心にある島に立つ唯一の塔の頂上に伸びる三対の島のような場所をユラリと上げた腕で指し示す。

 

「魔法で完全調整された空間だね。マスターの別荘と同じだよ」

「正しく魔法使いの住み処、やな」

 

 杖を強く握るネギと鼻を鳴らした小太郎は警戒を解かずに前を進む一行に付いていく。

 不思議と声は滝の音に負けず聞こえ、島の周りには滝による水煙が立ち昇っているが不思議と湿気っぽいこともない。ネギが感じた通り、アルビレオの魔法か、或いは魔法具によるものか、または何らかの方法によって調整された空間は地下であることを感じさせない。

 塔の中に入ると、いきなり本の山がアスカ達を迎えた。流石に図書館島には叶わないが、一階部分に当たるスペース全てが巨大な書棚と本で埋め尽くされている。

 

「うえー、中は本ばっか……」

「こんな本に囲まれた場所で暮らすなんてゾッとせんわ」

 

 勉強が苦手な明日菜と小太郎は入るのも嫌そうに入り口から書棚を見るだけで中に入ろうとしない。

 

「うわぁ、絶版になってて入手不可能な貴重本ばかり!?」

 

 本の虫でコレクターでもあるネギがソワソワとした様子で書棚の前に行って見上げると、そこには今となっては実在が危ぶまれている貴重本にテンションが一気に上がる。

 

「うう、読みたいのに読めへんよぉ」

 

 ネギと同じように本が好きな木乃香も喜び勇んで書棚に向かうが、生憎とパッとタイトルを見るだけでも彼女が読めそうな言語の物は見当たらない。

 

「ラテン語に古代ギリシャ語、これは多分ヘブライ語かしら? 手に持つだけでも恐ろし気なタイトルがあるわね」

 

 あまりにも貴重本過ぎて、下手に触って汚しでもしたら人類の遺産に傷つけてしまうことが怖い。そこまで貴重本に造詣が深いわけでもないアーニャも明らかに歴史が違うと分かるランクなので書棚から一定距離を取って近づかない。

 その横を通ったアスカは近くにあった本をぞんざいに手に取ってパラパラとページを捲る。

 

「エヴァンジェリンの別荘の書庫のと合わせて売れば人生百回生まれ直しても遊んで暮らせるな。これだけでも売れば五年は遊べる」

「え!?」

「明日菜さん、目を輝かしても持って帰れませんよ」

「分かってるわよ、ええ。分かってるから」

 

 アスカの所見に目の色を変えた明日菜に当然の突っ込みを入れる刹那。しかし、明日菜の眼は諌められても泳いでいる。

 

「あれ、アスカの持ってるやつってヘブライ語のじゃないの? え、読めんの?」

 

 そこでアーニャはアスカが一冊の本を持って、ふむふむと頷いているのを見て首を傾げた。何故ならそれはヘブライ語で書かれた魔導書で、アーニャも読めないものだったから聞かずにはいられなかった。

 

「読めるぞ。エヴァに散々叩き込まれたからな」

「あの二年は体だけやなくて頭も苛めらたからな。俺もアスカも中学卒業までの学力と、魔法と気に纏わるもんは大体叩き込まれたで」

「今となっちゃ有難味が分かるけど、あの時は二人して血涙流しながら覚えたな。出されたテストに合格しないとマジで死にかねない面に合うし」

「「よくぞ、乗り越えた俺達!!」」

 

 エヴァンジェリンならばそれぐらいするかと納得してしまったアーニャも、地獄を乗り越えて中である二人が肩を組んで白目で遠い彼方を見つめて感涙に咽ぶ姿に引いた。

 

「お楽しみのところで申し訳ありませんが、先客を待たせているので先を急ぎませんか?」

 

 先客という単語にある人物を連想して、幾らでも徹夜して貴重本を読みたいネギも心持ち顔を青くして促されるままにアルビレオの後を追う。

 螺旋階段を上がって塔の頂上に上がり、この空間から見て左側の離れ小島に向かうと先客の一人がアスカ達を待ち構えていた。

 

「遅い!」 

 

 学園祭時の魔力が残留している世界樹の根の近くにいるだけあって大分魔力が回復しているエヴァンジェリンが、プカプカと浮かぶ球形のクッションに乗ってカップを持ったまま機嫌悪げに叫ぶ。

 エヴァンジェリンが不機嫌なのは良くあること。気にしないことにしたアーニャは彼女の後ろの方で茶々丸が茶会の準備をしているのを認めた。ただ待たされただけでなく、従者である茶々丸がアルビレオの手伝いをしているのが不機嫌の一端を担っているらしい。茶々丸の性格を考えれば主と同じくただ待っているなどありえないと分かるだろうに。

 

「さあ、どうぞこちらへ」

 

 要は不機嫌というより放っておかれて不貞腐れているエヴァンジェリンを余所にアルビレオがアスカ達をテーブルへと招く。

 

「おい待て、アル! 私の話は終わっていないぞ! 聞いているのか、アルビレオ・イマ!」

 

 放っておかれた形になったエヴァンジェリンは更に機嫌を悪くして、そうしようとしているアルビレオに突っかかるが名前を呼んでも何故か彼は反応しようとしない。

 流石に可哀想になったアスカが肩を軽く叩いてアルビレオが持っているケンタッキーの箱を指し示す。まるで聞かずにスタスタ歩くアルビレオがどう呼ばれたいか、武道会でのことからケンタッキーの箱が何を指し示しているかを察して眉間に皺を寄せた。

 

「…………クウネル」

「何でしょう、キティ?」

 

 エヴァンジェリンが苦々しくケンタッキー創始者の名前で呼ぶと、振り返ったアルビレオは普段の五割増しぐらいの爽やかな笑顔でエヴァンジェリンの真名で返す。

 エヴァンジェリン・A・K(アタナシア・キティ)・マクダウェル――――キティとは子猫を意味する――――悪の大魔法使いがそのような可愛らしい名で呼ばれるのを彼女は大変嫌がる。

 

「その名で呼ぶなと!!」

「可愛らしい名前じゃないですか」

 

 ミドルネームで呼ばれたエヴァンジェリンはアルビレオの胸倉を掴んで揺さ振るが、ガクンガクンと頭を振り回されながらも笑っているだけで気にしている様子はない。

 

「キティ」

「キティ」

 

 師匠の弱みを見つけたアスカと小太郎の二人が目を輝かせる。

 

「キティ! キティ!」

「キティ! キティ!」

「五月蠅いわ、このボケアホ共! その口を閉じろ!!」

 

 わざわざエヴァンジェリンの周りを回って腕を上げながら囃し立てる馬鹿二人に向けて叫びながら氷瀑を放って島から叩き落とす。

 滝壺に落ちて行く二人を忌々しく見送るも、直ぐに視線をずらすと落ちたはずの二人が塔の外壁をよじ登っているところだった。この程度のことは慣れているので二人の復活は早い。

 眼を光らせて指を開いた右手を上に掲げたエヴァンジェリンの動作に合わせて、外壁を昇ろうとしていた二人が超能力で浮かされたように空を浮く。光に照らされた細い糸が薄らと見えるので人形使いとしての能力を行使しているのだろう。

 糸で拘束されたままエヴァンジェリンの前にまで連れて来られた二人はタラタラと冷や汗を流していた。

 

「次、同じことを言ったら…………分かってるな?」

「「Yes, sir!!」」

「私は女だ」

「「Yes, ma'am!!」」

「よろしい」

 

 ギチギチと尖った犬歯を光らせて凄むエヴァンジェリンに二人は飼い慣らさた畜生のように畏まっている。魂の底にまで刻み付けられているような上下関係が出来上がっており、二年の別荘での生活が伺いしれるというものだ。

 ポテリと糸の拘束が解かれて落ちた二人が崩れ落ちるのを見ながら、アーニャは「馬鹿ばっかり」と口の中で呟いて茶々丸に勧められるがままに八人がけの下座の席に座る。既にその頃には二人も回復して、それぞれが勧められるがままに席に座っていく。

 エヴァンジェリンは席に座らず、座席にもなる欄干に座ってわざわざ持ってきたのかクッションに凭れかかりながら紅茶を楽しんでいる。

 机の上には上品並べられた皿とティーカップ、盛り付けられたフルーツの色合いだけでも目を楽しませる。並べられた食器といい、一見しただけで高価なヨーロッパ風のものと分かるものがテーブルの上に所狭しと並べられていた。

 茶々丸は給仕に徹するのか、それぞれの席に置かれたティーカップに紅茶を注いでいく。普段からエヴァンジェリン相手に淹れ慣れているのか、動作に全く澱みはなく見ていて惚れ惚れするほどであった。

 ネギは紅茶が入ったティーカップを手に取って口に近づけるも直ぐには飲もうとせずに、まずは香りを楽しんでから味わうように一口飲んだ。紅茶を口に含み、喉の奥へと呑み込むと表情を輝かせた。

 

「美味しい! これは龍井紅……九曲紅梅ですか。ホントに梅の香りのように甘くて爽やかな……素晴らしいです!」

「他にも色々ありますよ。後で葉をお分けしましょう」

「ホント、美味しいわねー」

「スイーツもおいふぃな」

 

 女性陣と違ってネギ以外の少年二人の食べっぷりに遠慮という二文字は一切無い。用意はアルビレオがしているのだから食べ過ぎてもいいぐらいに早く、しかし礼儀作法に以外に五月蠅いエヴァンジェリンに根性焼きを入れられたこともあって下品にならない程度の早食いをしていた。

 とはいえ、お茶会なのだから大した量があるわけでもなく、自分の分を食べ終わりかけたところで茶々丸が追加を持って来るとなると懐具合はともかく茶々丸に手間をかけさせるので二人も味を楽しむことにしてゆっくりと食べる。

 暫くは和気藹々とお茶会を楽しむ一行を見て、フッと笑ったエヴァンジェリンは立ち上がって歩いてアスカの座席の背に肘を置いて凭れかかる。

 

「それで、アスカ。今回の事件はどうだった?」

 

 紅茶を口に含んだところで問いかけられたアスカは顎を上げて視界の端にエヴァンジェリンの顔を視界に収める。間を置くように口の中の紅茶をゴクリと呑み込み、ティーカップを音を立てないようにソーサーへと戻す。

 腕を組んで背凭れに凭れ、中空を見上げて目を細めて麻帆良祭のことを思い出すアスカに言えることは少ない。

 

「色々あった」

「それだけか……?」

「あり過ぎて言葉に出来ねぇからそれぐらいしか言えねぇよ。明日菜とか小太郎には面倒かけたし、色んな人に迷惑をかけた。素直に悪いと思ってるし、反省もしてる。サンキューな、みんな」

 

 座ったままではあるが頭を下げて真摯に感謝を告げるアスカに、名前が出た小太郎は聞こえていない振りを貫き、明日菜は少しばかりの苦笑を浮かべる。

 頭を上げたアスカは全員の顔を見渡して、最後に明日菜と視線を合わせて苦笑を交わし合う。

 

「俺は今まではずっと親父の背中だけを見て走り続けてきた。その所為か、現在も過去も大事にしないようになっていた。でも、本当は未来を見ることであの日に蹲ったままの自分から逃げていたんだ」

 

 闇の魔法の後遺症で心を乱されていたとはいえ、明日菜を振り払ったことは今でもアスカの記憶にしっかりと残っている。何度も謝ったし、明日菜は許してくれたがしたことを決して忘れてはならないと自分に戒めている。

 

「それで?」

「自分にキツイ一発を入れられたよ。僕を捨てるな、忘れるな、逃げるなってな。痛感したよ、自分すら見捨ててきた奴が何やってたんだって。正直、小太郎と明日菜の喝がなかったらやばかった」

 

 拳を頬に当てて、聞いてきたエヴァンジェリンに答える。

 

「人は綺麗なまではいられない。善も悪も、強さも弱さも、過去も末来も、全てを認めて受け入れ、糧としなければ一歩前に進むことすら出来ない。そのことを今回は強く痛感した」

 

 握っていた拳を開いた手を見下ろしたアスカが何を想うのか、それはエヴァンジェリンにも分からないことだが今まで一方向にしか向かっていなかった意識が広がったこと感じ取って満足そうな笑みを浮かべた。

 

「超鈴音も上出来だったな。お前のような決めた道だけを盲目に邁進する者に世界を広げさせるのは最も難しい。諌めようとしてもなまじ才能が有り過ぎるものだからそこの覚悟がなかった時の馬鹿のように蹴散らされて終わりだ」

 

 それを言われてしまうと蹴散らした側のアスカも蹴散らされた側の明日菜も立つ瀬がない。微妙な表情を浮かべた二人を揶揄するように鼻を鳴らしたエヴァンジェリンは凭れかかっていたアスカの背凭れから離れ、空いていた上座へと腰を下ろす。

 

「自分はこうとしか生きられないなど、ただの思い込みに過ぎん。事、戦いの道を進むならば頑迷な生き方では長生きは出来んよ」

 

 上座に座ったエヴァンジェリンは足を組み、十歳前後の姿ではありえないほどの妖艶な笑みを浮かべてアスカを見る。

 

「透徹した目で見れば善悪は表裏一体、どちらかだけを切り離すことなど絶対に出来ん。愚物共は善だけを見ようとするが、寧ろ私は悪こそがこの世の真理だと考えている。窮地にこそ、人の本性が現れるというが大抵の場合、善であることは少ない。そう、悪を為す時こそ人の本質は見える」

 

 楽し気に笑いながら自説を披露するエヴァンジェリンの悪の魔法使い全開な姿に、武道会で心の傷を切開された時のことを思い出した刹那がブルリと体を震わせた。 

 悪人モード全開のエヴァンジェリンに慣れているスプリングフィールド兄弟・小太郎と明日菜はともかく木乃香はホワホワとしたままである。神経の太さは祖父譲りかとアーニャが考えていたかどうかは定かではない。

 

「流石はエヴァンジェリン。やはり師は悪人(バッドガイ)に限ります。善人では闇の魔法を受け入れるほどに柔軟な器を作り上げることは出来ません。英雄の息子も、ゆくゆくは悪の大魔法使い闇の福音の後継者、そんなところですか?」

「阿呆か。アスカがそんな玉に見えるのか」

「いいえ、どちらかといえば……」

 

 その場にいた全員の視線がネギに集中する。

 

「あれ、なんでみんな僕を見るんですか?」

 

 心底不思議そうに首を傾げるネギに誰も何も言わない。

 

「まあ、ともかく。その認識を得たアスカ君はこれからどうするのです?」

 

 全員がネギと目を合わせられない中で話題を逸らすようにアルビレオがアスカに問う。

 

「親父に会いたいって気持ちは今も変わらない。それだけじゃなくて、親父達が何を見て何を感じて来たのか、俺が、俺達が生まれてきたルーツっていうのかな、それを知りたいって気持ちが日に日に大きくなっていってる」

 

 アスカはここ数日で考えていたことを話そうと口を開く。

 

「夏休みになったら魔法世界(ムンドゥス・マギクス)に行こうと思う」

 

 アスカの言葉にネギとアーニャが目を剥いた。

 

魔法世界(ムンドゥス・マギクス)……?」

「分かり易く言うなら魔法使いの世界ですよ。亜人や幻想種が普通に暮らすこの世界とは違う世界――――それが魔法世界(ムンドゥス・マギクス)です」

 

 知らない単語が出てきて首を捻る明日菜の疑問に、彼女の斜め後ろに立っていたアルビレオが説明する。

 

「俺のルーツ、親父達がいない理由、その全ては魔法世界(ムンドゥス・マギクス)にある」

「…………何故、そう思うのですか?」

「親父、生きてんだろ?」

 

 アルビレオの問いに対してアスカは全く関係のないようなことを聞いた。

 

「ええ、彼は今も生きています。私が保証しましょう」

 

 一瞬、ほんの一瞬だがアルビレオの言葉の直後に時が止まったかのように滝の音が良く聞き取れるぐらいの静寂が広がった。

 

「証拠はこの仮契約カードです」

 

 ゴソゴソと右手の裾の手を入れて取り出したのは、言うようにアルビレオの仮契約カード。一冊の本を持ったアルビレオ本人と彼を螺旋状に取り囲む幾重にも連なる本が描かれたカードは武道大会でこの場にいる面々全員が見ている。

 

「親父とのカードか」

「間違いなくナギと仮契約したものですよ」

 

 カードを見た瞬間に木乃香が何かに気づいた様子でアルビレオの顔とネギの顔を見比べ、「なあ、くーねるはんは二人のお父さんとキスして仮契約したん?」と少し恥ずかし気に爆弾を落としたのだった。

 瞬間、物理的に空間が凍結したかのような衝撃が全員に走り、アルビレオに視線が集中する。父親が男とキスをしたのか瀬戸際なネギとアスカの視線が特に強い。

 

「秘密です♪」

 

 何故かブリッ子風に答えたアルビレオに全身の脳裏に二人の仮契約シーンが思い浮かんでしまい、ネギはブルブルと首を振って妄想を振り払う。

 

「そ、それで父さんは今ドコに……」

「申し訳ありません。私にはそれ以上は分からないのです」

 

 話題転換も兼ねての問いだったがナギの居る場所が分かるかと思ったネギだったが、そう簡単にいかないことは予測していたので大きく落胆はしないが少し肩を落とす。

 

「生きているのは間違いありません。このカードが彼の生存の証拠です。これは別の人達との仮契約カードですが、契約者――――つまりは主が死ぬとカードはこのようになります」

 

 そう言ってクウネルは他の仮契約カード数枚を取り出して見せる。それらは最初に見せたものと若干絵柄が違っていた。アルビレオの姿は描かれているが、螺旋状に取り囲む無数の本が無くなり、地味になっている。

 

「そうですか。でも、とにかく父さんは生きてるんですね。後はアスカと一緒に魔法世界で手掛かりを探してみます。ただ、これだけは教えてほしいんですが」

 

 ネギも全ての手掛かりは魔法世界にあると考えていた。過去を知ると共に調べなければならないこともある。その前にそのことを知っていそうな人物に聞くのも手だと考え、ネギはアルビレオを見ながら口を開いた。

 

「二十年前の僕達の母の真実を」

 

 心の底に泥のようにこびり付いて引き剥がせなかった疑問を、ようやく言葉に出来た。

 

「…………私の口から全てを語るのは逆に先入観を抱かせてしまうでしょうから、少しだけ」

 

 アルビレオは直ぐには答えず、老人が通り過ぎた過去を思い出すように、ひどく遠い目をしていた。

 年老いた者だけがする、遥か遠い輝いていた過去を懐かしみ、まるで眼の前の光景のように捉えるそんな眼差しだ。それが逃避なのか、それとも過去に対する洞察なのか、ネギには分からなかった。

 

「強い人でしたよ。誰よりも勇ましく気丈で、世間に流布しているような大悪人では決してない。それは断言します」

 

 余韻を残して消えていく言葉は痛切に心に届くほどの重みを持ってネギの中に染み込んで行った。が、続く言葉はなく、教えられる範囲はここまでらしい。

 

「お袋のことも知りたきゃ、魔法世界に行けってか」

 

 ニヤリと笑いつつ、アスカが揶揄するような言い方で話しているのを見ながらエヴァンジェリンは紅茶を口に含む。

 

「論より証拠。二十年経ちましたが、まだ戦禍の跡が著しく残っていると聞きます。私の言葉よりも君達自身で足跡を追い知ることが大切です。ただまあ、魔法世界はこの世界よりも遥かに危険です。どうですお二方、私の弟子になってみませんか?」

「ブゥハッ――!!」

 

 突然のアルビレオの爆弾発言に、エヴァンジェリンは思いっ切り口に含んでいた紅茶を噴き出した。幸いにも直接上にあるのは机だけで人はおらず、茶々丸が黙々と片づけていく。

 

「はぁ?」

「で、弟子ですか?」

 

 突然の話にスプリングフィールド兄弟も困惑している。

 先に困惑から回復したエヴァンジェリンが椅子を蹴り立てて机を叩きながら立ち上がった。

 

「ちょっと待てぃ! アルビレオ・イマ!!」

「ココだけの話ですが、エヴァンジェリン…………あれはイケマセン。あんなのに師事しては、人生を棒に振ってしまいますよ?」

「何だとアル、貴様――」

「例えばアスカ君、私の弟子になればイノチノシヘンで多くの強者と戦闘経験が積めます」

「なに?」

「こら、アスカ。なにを目を輝かせてる!」

「例えばネギ君、空き時間ならばここにある魔導書は好きに読んでも構いませんよ」

「え?」

「物で吊るとは何事か、アルビレオ・イマ! おい、アル!!」

 

 少し興味が引かれている様子のアスカとネギから弟子を奪還すべく、下手人の名を本名で読むが反応せず、心変わりに危機感を覚えたエヴァンジェリンは肩を震わせて大きく口を開いた

 

「クウネル!!」

「何でしょうか、キティ?」

 

 本名では全く反応しなかったアルビレオが輝かしいまでに清々しい笑顔で、まるで始めて呼ばれたかのように振り返り今更気づいたように頷いた。

 

「おやおや、二人とも相手がいるのですから横恋慕はよくありませんよ。まさかナギの時といい、そういう性癖が……」

「性癖とか何の話をしているっ、アホか! エロナスビ! ええいっ、貴様何を企んでいる!? 二人を弟子に取るなどと何が目的だ!!」

 

 風評被害も甚だしい言い様にアルビレオの胸元に飛びついたエヴァンジェリンは少し涙目になっていた。アルビレオは笑みを深めて首を傾げる。

 

「何が目的って……アナタがムキになって慌てふためく姿を見たいからに決まってるじゃないですか」

「死ねえい!!」

 

 鬼畜過ぎる企みに魔力を滾らせたエヴァンジェリンが鋭いパンチのツッコミを入れるが、アルビレオの身体を透り抜けた。その身体も武道大会の時と同じで霊体に近い存在のようで、好きに実体化が出来るようだ。

 

「いやいや、アナタの嫉妬する姿というのもなかなかの見物です」

「私がいつ嫉妬した――!?」

 

 顔を真っ赤にしたエヴァンジェリンがに連打を加えているが、今のアルビレオは無敵状態といってもいい。まともに相手をするだけ無駄なのだが頭に血が上ったエヴァンジェリンは愚行を繰り返す。明日菜達はその様子を苦笑いを浮かべて見ていた。

 

「いいように遊ばれてるわねー、エヴァちゃん」

「ホントに天敵なんやねですね……」

「好きな娘を苛める小学生みたいな対応だけどね」

「あははははは」

 

 やがてエヴァンジェリンが疲れ果てて胸元から手を離すと、アルビレオがアスカを見る。

 

「さて、アスカ君。少し内密な話があるので場所を変えて話がしたいのですが構いませんか?」

「俺に? まあ、いいけど」

「では、こちらへ」

 

 エヴァンジェリンが紅茶を噴いたことでフルーツは食べれたものではないので茶々丸が片づけている。紅茶も随分と飲んだから席に居続ける理由もなかったアスカは促されるがままに席を立ってアルビレオの後を追っていく。

 中央部に戻って別の島先へと渡ったアルビレオは端に辿り着くと振り返った。

 

「申し訳ありませんが学園祭最後に見せた闘法をここで再現することは出来ますか?」

 

 アルビレオは咸卦法と闇の魔法を同時に発動させた闘法を、アスカが自分の意志でもう一度行えるかを確かめねばならない。神殺しの刃がただ一度の奇跡かどうかでアルビレオの目論見は変わって来る。

 

「多分な、俺もやってみたいし。うし、やってみっか」

 

 どうして見せなければならないのか疑問ではあるが、アスカとしても何時かは行わないといけないと考えていた。世界樹の根のこの場所ならば魔力が濃く、自爆しても治癒術士の木乃香もいる状況は願ってもない。

 気合を入れたアスカはあの時の感覚を覚えるように目を閉じて深呼吸し、器の扉を開いていく。

 紋様が浮かんだ両手を開いて胸の前で正対するように掲げ、なんとなく思い浮かんだ白と黒の光が螺旋を描くイメージが強く印象に残った。

 

「右手に気を、左手に魔力を」

 

 白の光は気の中に込め、黒の光は魔力の中に込める。

 

「――合成」

 

 相反する気と魔力、白と黒の光が螺旋と共に混じり合い、開かれた器を通って喜怒哀楽の感情と色んなものが押し寄せて来るが流れに逆らわず、受け入れていく。

 一瞬無風になり、凄まじい閃光と共にアスカの全身を凄まじいまでに強大なオーラが覆う。台風の中心のように世界樹の根から魔力が溢れ出てアスカの下へ集い、吸い込まれていく。

 増大し続けるあまりに巨大なパワーに地下空間が耐えきれぬとばかりに震える。

 

「素晴らしい……!」

 

 地震のように揺れる塔の先で何一つあの時と遜色ない力の波動にアルビレオは彼らしくもなく本音を漏らした。間近にいたアスカはエネルギーの調整に苦心しているらしく聞こえていなかったが、アルビレオの歓喜に満ちた言葉を聞いていれば目を開けて狂気に片足を踏み込んだ笑みを見たことだろう。

 目を閉じて集中しているアスカは、数十秒ほどして闘法を解いた。

 

「…………ふぅ、こんなもんでいいか?」

「ええ、十分ですよ本当に。どうやら制御に難があるようですね」

 

 身動き一つしていないが既に汗だくなのは、それほどにエネルギーが莫大過ぎて制御に苦心していたからだろう。その頃には元の胡散臭い笑みを取り戻していたアルビレオが言った。

 

「体の中で古龍が暴れるようなもんだった。少しでも動こうとすればボンだ」

「あれほどのパワーですから無理もありません。今までよりも、より高次元な領域で力を制御する必要がありますね」

「また針山の上で指立ちかぁ」

 

 嘗ての修行を思い出して溜息を吐いているアスカを見下ろしたアルビレオは制御できなくても仕方ないと考えていた。

 咸卦法と闇の魔法の亜種を同時に発動しながら、同時に火星の白と金星の黒の制御もしなければならないとなれば、高位魔法使いでの制御力でも直ぐに暴走して内側から破裂するレベルだ。動かないとはいえ、一分以上制御し続けたアスカを褒めるべき領域にある。

 

「真にその闘法を会得した時、君はナギを超えるかもしれませんね」

「その前に超えてみせるさ。どんなことでも続けていけば何時かはゴールに辿り着くもんだろ」

「――――ひょっとしたら、ナギもそうだったかもしれませんね」

 

 急にアルビレオが妙な事を言った。

 

「は?」

「成り行きでも出任せでも、そういう風に成ってしまった。だから続けた。それだけのことだったのかもしれません。いえ、すみません戯言ですね」

 

 アスカはアルビレオが何を言っているのかよく分からなくて首を捻る。その意味は自分一人が知っていればいいので、アルビレオは苦笑を浮かべるだけで説明しようとはしなかった。

 

「折角見せてもらいましたので報酬代わりに一つだけ過去のことを教えましょう」

 

 変わりに苦笑を止めてまた胡散臭い笑みに戻る。

 

「フェイト・アーウェンルンクスはご存知ですね」

「ああ? 修学旅行じゃ戦ったし、ヘルマンを送り込んだのもアイツらしいから忘れられねぇよ」

「それだけではありませんよ」

 

 と、一度そこで言葉を止めたアルビレオはアスカが驚くことを知っているかのように次の言葉を口にした。

 

「彼の者は紅き翼が大戦期に戦った完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)の残党にして、十年前にナギがいなくなった戦いに立ち会った者です」

「な、に……!?」

 

 アスカは息を止めた。繋がりを感じたからだ。

 二十年も前からの宿命染みた繋がり。関係ないと思っていた事柄同士が結びつき、自分達を巻き込んでいく。いや、既に巻き込まれているのだ。まるで蜘蛛の糸のような、因縁の絡み合いこそが、アスカを戦慄させたのである。

 それでもこんな偶然があるのだろうか。まるで因縁。目には見えない、魔法ですら完全には推し量れない何かをアスカは感じていた。

 アルビレオがフェイトのことを知っていた時点で何らからの関わりがあるだろうと予想はしていた。だが、実際に因縁が繋がり、突然といっていい展開で内情を曝け出された時、アスカは戦慄した。自分が何も知らなかった頃から、静かに積み重ねられていた運命の輪に、足元が崩れるような不安を感じた。

 あたかも遠い昔から定められていた宿命に遂に追いつかれてしまったように、アスカは指一本動かせぬまま立ち尽くしていたのだった。

 アスカは、この事実に関わった者に、目の前のアルビレオに真実を問いただす気力も湧かなかった。知れば救いのない奈落に突き落とされるようで、怯えたのだ。今まで固い大地だと信じていた足元が実は凍った底なし沼にすぎないと思ってしまった時のような、薄ら寒い気分になった。

 何か大きなものが動いていた。裏が全く見えないことが恐ろしかった。

 それもまた自分だと受け入れようと、抗おうとアスカは思った。醜いだけの自分にはならないように抗うことを決意する。何時訪れるともしれない運命に怯え続ける時期は、もう終わっている。まだ子供のつもりだったアスカが、大きなものを背負わねばならない時が来ていたのだ。

 

「…………なんか納得した。妙に親父のことに拘っている様子もあったしな」

 

 身に収まる莫大な力とは正反対の小さな声で呟いた少年は今、幸福だけが詰め込まれた巣から落ちて森の巣を知った雛鳥だった。大きすぎる世界で、居場所を確かめるように首を巡らし、俯き、そして真正面からアルビレオへと向き直る。

 

「フェイト・アーウェンルンクスは俺が戦わなければいけない敵だと、何故かそう思う」

 

 両眼を閉じて、アスカが言う。その表情に淡い影が揺れていた。

 アスカにとって、フェイト・アーウェンルンクスは妙に胸のざわつく相手であった。始めて会った時から気に入らず、何度もヘルマンを送り込んでくるなどその姿を見せずともアスカの前に常に壁として立ち塞がってきた。

 ただ不思議と運命や宿命以前に、感じるものがある相手であることは間違いなかった。

 

(…………似ている?)

 

 フェイトと戦ったことがあり、より深く二人の関係性を理解していたアルビレオは今更ながらに向かい合うアスカの姿に何故かフェイトを幻視した。

 見た目等の外見的なものではなく、もっと本質的なところで二人は似通っている。敢えて言うならば印象であろう。光と闇、太陽と月、一枚のコインの裏表のような不思議な親和性。けして交わらぬからこそ二人が出会った時は対立すると、アルビレオは不思議な直感と共に確信を抱いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 麻帆良の最深部、世界樹の根が幾つも張り巡らされた中に根に覆い尽くされるように大きなクリスタルがあった。人の身の丈を超えるこれだけの大きなクリスタルがあるだけでも驚嘆に値するが、問題はクリスタルが透き通っていてあろうことか中に人がいることだ。

 人影は全身を黒い布を覆い隠したフードを被った人影らしきもの。だが、それだけではない。まるで人影を抱き締めるかのように、金髪の女性の姿もあった。

 誰が分かろう、金髪の女性こそが魔法世界で「災厄の女王」との忌み名で呼ばれ、世間には秘しているが英雄ナギ・スプリングフィールドと結ばれて双子を生んだアリカ・アナルキア・エンテオフュシアその人であると。

 

「ナギ、アリカ様……」

 

 クリスタルの前にアルビレオ・イマが佇み、疲れた老人のように呟いていた。

 お茶会終了後にこの場所に降りてきたアルビレオは先程とは全く違う倦み疲れた目でクリスタルを見上げる。

 

「ようやくです。ようやく、あなた達を救う為の一歩を進められた」

 

 クリスタルの内側にいる二人を見ていると、まるで囚われているような錯覚を覚えるのは何故か。否、閉じ込められているというべきか。事実、フードを被った人影とアリカはクリスタルに囚われて、この場所で十年もの長い間封印されていた。

 

「奇跡のような過程を経て生まれた神殺しの刃は始まりの地へと自ら向かいます。誘導の必要もありませんでしたよ。本当に彼はあなたによく似ている。自らの為すべきことを直感で理解してしまえるところが特に」

 

 アルビレオは先程アスカ達にした話を想起して、ただでさえ冴えない表情を惨めなほどに崩す。

 彼を知る者がその表情を見れば別人かと疑うほどであったが、眼だけが爛々と輝いてクリスタルの中で時を止めたままの二人を見ている。

 

「きっと、あなた達は私のしていることを知れば怒るでしょう。なにしろ、この下衆な企みにあなた達の息子を利用としているのですから」

 

 罪を懺悔するように顔を伏せ、地に膝を付いたアルビレオが全身を震わせる。

 

「解放された時、幾らでも罵って下さい。幾らでも恨んで下さい。幾らでも憎んで下さい。その全てを私は喜んで受けます。ですから、どうか」

 

 その先の言葉は彼のみにしか聞こえず、虚空へと消えていき、アルビレオは決意したように顔を上げた。

 

「ナギ、我が主よ。あの苦難と絶望に満ちた中でも、笑いが途絶えることのなかった日々をもう一度……」

 

 歌うように、謳うように、謡うように、唄うように、詠うように――――伏したアルビレオは懇願するのであった。

 そこにいるのは優れた魔法使いでも、英雄と謳われる者でも、底の知れない男でもない。主を失って、ただ一人で落ち延びてしまったことを嘆く哀れな従者の姿でしかない。

 虚ろな空間に響くのはアルビレオの懇願と懺悔だけで、クリスタルの中の二人は静かに眠り続ける。

 




次回は少し時間が飛び、海の日。つまりは夏休みでの出来事になります。

咸卦法、闇の魔法・太陽道を合わせた技の良い名前が思い浮かばないものです。第一案は【咸卦・太陽道】ですが、良いネーミングがあれば活動報告までお願いします。


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第59話 ひと夏の思い出

 

 

 

 

 

 滾り落ちるというに相応しい夏の強烈な陽光が照りつける。そよそよと涼しい風も何のその、何もかもが白く焼き尽くされて傲慢なほどの光の圧に拉がれていた。降り注ぐ直射日光が肌を焼き、お世辞にも快適とも言い難い空間を蒸している。

 ネギ・スプリングフィールドは、強い日差しを反射して銀色に輝く波間に視線を向ける。

 昔ながらの繁盛している浜辺で、海岸には砂浜と岩場、それに遠くに港があり、泳ぐ他にも磯遊びや釣りが楽しめる。入り江のため波も穏やかで、岩礁に囲まれた砂浜では小さい子供で安心して砂遊びができるというこもあり、子供連れの家族客の姿があち こちに見受けられた。文句のつけようもない真夏の空を映す青い海、沖には白い釣り船が見える。

 海が太陽光を反射して眩しいし、足元の砂浜は熱いしで裸の上半身を汗がタラリと流れていく。

 

「暑いな」

「ああ」

 

 隣に立つ犬上小太郎の言葉に相槌を叩く双子の弟の姿を横目で見たネギは再び視線を前に戻す。

 

「海だな」

「ああ」

 

 今度はアスカ・スプリングフィールドが何気なく呟いた言葉に相槌を返す小太郎。

 特に魔法を使わずに見たネギの目にも水平線の彼方にまで広がる海は何時でも圧倒される。始めて海を見たのは麻帆良に来る時に乗った飛行機越しではあるが、始めて感じた海の雄大さに自分の小ささを実感したものである。

 家族連れや恋人連れ、友達同士などでごった返しているので流石に今となっては感慨以上の感情は浮かばないが、今は別の感情の方が大きかった。

 

「夏休み、かぁ」

 

 学園祭の後の一ヶ月を思い出して海の上を流れていく雲を眺めて遠い目をする。

 通常授業に戻った際、別人説が出るほどアスカの身長が伸びすぎていて騒ぎになったことは記憶に新しい。計ったわけではないが、たった一ヶ月で二十㎝以上も伸びるという物理的にありえないので無理からぬことだ。

 

「まさか一時間が一日になる別荘にいたとは言えるはずないし」

「なんの話だ?」

 

 隣にいたアスカがネギの愚痴とも言える呟きを聞いて視線を前から斜め下(・・・)へと移す。隣にいるのに斜め下を見なければ顔を見ることが出来ないぐらい身長差が出来てしまっていることにネギは一人嘆息する。

 本来は現実時間に即した成長をするのが普通なのでアスカは周りよりも二年分の時間を先取りしているので文句を言う必要はない。別荘で二年を過ごして年上になってしまった双子の弟に対して、男としてはあまり身長が低いことは喜ばしい事ではない。

 

「学園祭の後にアスカがクラスに戻ったら、大きくなりすぎて別人じゃないかって騒ぎになったことを思い出してたんだ」

「あの時のことか……何故か痴漢扱いされたんだよな、俺」

 

 当時の騒ぎを思い出したアスカが彼にしては些か珍しいげんなりとした表情を浮かべる。

 以前は140㎝程度だった少年が、一ヶ月学校に来ない間に160㎝を超える男になっていたら普通は同一人物に思われない。ましてや麻帆良女子中等部は名前の通り、女子校なので見た目だけならば既に大人扱いしても不思議ではない男が我が物顔で闊歩していれば痴漢扱いもされても仕方ない。

 

「千草姉ちゃんも言っとったな。えらい大変な騒ぎになったらしいんやんか」

「大変な騒ぎレベルじゃかったよ。風紀委員や生徒会から先生達も出っ張って来て、正義感の強い人まで出て来てしっちゃかめっちゃかになったんだから」

「俺なんて学校中を追い回されたんぞ。機竜と戦った時よりも怖かったぞ」

「そこのところ見たかったわ」

「他人事だと思って」

「他人事やからな」

 

 女子中等部に関わり合いのない小太郎にとっては本人が言っているように他人事に過ぎないが、当事者であり女子生徒達に追いかけ回されたアスカにとって胆が冷える事態であったので言葉に棘がある。

 事態を収束させなければならなかった側のネギも当時の苦労を思い出して重い溜息を漏らす。

 

「最終的には入院している間に身長が伸びたって、学園長まで出っ張ってもらって説明貰わきゃどうなってたことか分かったもんじゃねぇよ。集団になった時の女って本当に怖ぇ」

 

 アスカにとってトラウマ級の出来事なのか、思い出すだけで裸の上半身をブルリと震わせた。

 

「アスカの気持ちは分かりとうはないが、学校に通えるだけマシとちゃうんか。俺なんて自宅勉強やぞ」

「まあ、小太郎君も立場は違うけどアスカと状況は同じだし、別人扱いされるだけだから騒動にならないだけ良かったんじゃないの」

「そうなんやけどな……」

 

 不貞腐れた様子の小太郎もアスカと同じく一ヶ月前と比べて身長が著しく伸びている。人種の違いか、別荘の利用頻度の長さの違いか、アスカの方が高いが小太郎の身長も十歳のそれではない。

 学園祭時の怪我からの回復が長引いた小太郎は数日遅れで小学校に登校する予定だったが、アスカの騒ぎがあったので自宅勉強という形になっている。流石にアスカみたいに「成長したから」で済ますことは出来なかった。

 アスカの場合は周りに真実を知る者がいるのと3-Aの面々が早々に受け入れたこと、普段の破天荒振りから「アスカならありうる」と変な納得が蔓延したが、結論的に第二次成長期と欧米系故の変な認識も合わさって夏休みに入るまでに身長が伸びたことが懐疑的な視線を和らげる役目を持っていた。麻帆良祭で武道大会での活躍と最終イベントでの主役という立場がそれを後押ししていたのも大きい。

 逆に小太郎の場合はアスカほどに周りが受け入れ難いという結論に達し、登校の許可が下りずに自宅勉強になったのだ。

 

「このまま転校したってことにするかもって千草姉ちゃんが言うとうったんや。馴染んだところやから、あんま離れたないんやけどな……」

「俺だって二学期にも通ってるか分かんねぇんだ。条件は同じだっつうの」

 

 小学校にも女子中にも不釣り合いな160㎝越えの男二人が微妙に黄昏た様子で海を眺める。

 

「まあ、成るようにしかならんさ」

「やな」

 

 黄昏ていたのも数秒だけ。二人はケロリとした様子で気分を変えると、軽く拳の裏を当て合った。

 軽いやり取りではあるが、二人が元いた学校から離れる場合はセットにしてどこかの学校に通うことになるので惜しむ気持ちはあるものの、こうした気軽な付き合いが出来る相手が傍にいるのは楽でいいので深刻な悩みというわけでもなかった。

 ネギにはここまで深く繋がった親友という付き合いが出来る相手はいないので少し羨ましい。アスカは双子の弟だし、アーニャは幼馴染、小太郎は悪友という感じなので親友と呼べる相手がいないのだ。

 

「アスカの場合は超さんの変わりの成績トップランカーとして残るように言われるかもね。期末で最下位にならなかったのはアスカのお蔭だって煽てられてたし」

「おい」

「ねぇって、流石に」

 

 ちょっと嫉妬したものだから友情に波紋を落とす意志を投げ込むと、小太郎が目付きも悪くアスカを睨み付ける。実際に煽てられたアスカは少し顔を逸らし気味に言うが説得力がない。

 

「遅いな、アイツら」

 

 話を逸らす意味も込めてアスカは待ち人達が未だに現れないことをアピールする。

 

「女性の方が時間がかかるものだよ、何事にも」

 

 少し悪いことをした気持ちになってしまったのでその話題に乗ることにしたネギも追従する。

 太陽にジリジリと肌が焼かれていく感覚に晒されながらも小太郎も同感のようで、文句はあるが待たされることは千草相手に慣れているので変なことを言おうとしはしなかった。

 粗方の学校で期末試験も終わり、いよいよ学生達は夏休みを迎えたこの時期。街のあちこちで、旅行やイベントを計画する人々が増え、それを祝福するように夏の光と風は万遍なく世界を満たしていく。その中でアスカ達は来たる魔法世界への渡航に向けて修行を重ね、今日は夏休みらしく休日をと海に遊びに来ていたのだった。先に着替え終わった男連中は砂浜で待ち、女性陣を待っている最中である。

 待っている時間が長いので適当に世間話をしている中で、水着姿のアスカの体に走る幾つかの薄い傷跡を見咎めたネギ。

 

「しかし、アスカは傷跡増えたね」

「ん? ああ、別に気にしてねぇけどな。言うだろ、傷は男の勲章って」

「当人がそう言うなら別に良いけどさ」

 

 二年間、別荘に篭る前よりも増えた傷跡をアスカは対して気にしていない。

 ハワイで出来た傷、ヘルマンと戦いで出来た傷、二年間の修行の間に出来た傷、特に学園祭でアルビレオがイノチノシヘンでコピーしたナギによって出来た傷はまだ新しい。どうも合体時に出来た傷の負担も主体であるアスカの方が重く治りにくいらしい。

 成長と共に薄くなってきてはいるが、近い距離で見れば一目瞭然。本人が気にしないならばとネギもそのことを考えることを止めた。

 

「今まで聞く機会がなかったけど、別荘に一ヶ月籠ってた時ってどんな感じだったの? 僕が別荘を使ってる時もマスターが会わせてくれなかったけど」

「どんな感じって……」

 

 聞かれたアスカは小太郎と顔を合わせ、どのように答えたものかと考えるかのように頭をガシガシと軽く掻く。

 どのように言ったものかと困っているアスカに変わって小太郎が口を開く。

 

「徹底的に基礎、基礎、基礎やったな。エヴァンジェリン曰く、『お前達には足りんものがある。全てだ!』ってな感じで体鍛えさせられたり、基本を一から覚えさせられたり…………後は勉強やな。魔法理論から気の術法、魔法世界の歴史や生物やらなんやら。ほんまに一から土台を作り直された気分や」

「こう、必殺技! とかはなかったの?」

「エヴァがそんなタマか? まあ、本当に基本からやり直したお蔭で強くなれたぞ。期末の成績が良かったのもその時に仕込まれたやつだからな」

 

 確かにエヴァンジェリンはお手軽な必殺技に頼るよりも堅実的で一見地味と思われる鍛え方を好む。即物的な力よりも土台を固めて基礎の戦闘力を上げることから始めるのが彼女のやり方だ。

 

「スパルタやけどな」

「つか、何度も死にかけたな」

「「俺達は今日という日を迎えたぞヒャッホイー!!」」

 

 アルビレオの時といい、別荘での修行を思い出してテンションがアッパーになってしまうのは二人の中で平常運転らしい。エヴァンジェリンのスパルタという言葉も生易しい荒行を知るネギとしては大いに納得するものではあるが。

 

「でも、アスカは最近は別荘にいないこともあるよね。決まってマスターの機嫌が悪いし」

「ギクッ」

 

 エヴァンジェリンの修行が荒行なのは自明のことだが、基本的に修行好きのアスカがこの一ヶ月姿を見せないことが多々あった。しかもその時に限ってエヴァンジェリンの師事を受けているネギと小太郎が酷い目に合っている。

 

「おい、アスカ。俺も気になっとったがまさか、あのクウネルに弟子入りしたんやないろな」

 

 露骨に反応したアスカに二人の脳裏にある場面が過る。

 時は学園祭終了後の振り替え休日、場所は図書館島の遥か地下にあるというアルビレオ・イマの居城にて、招かれたお茶会にて一シーン。

 

『例えばアスカ君、私の弟子になればイノチノシヘンで多くの強者と戦闘経験が積めます』

 

 アルビレオがアスカを、正確にはスプリングフィールド兄弟を弟子にしようと画策する際に条件に出した内容を想起した二人は強い視線でアスカを見据える。

 

「弟子入りはしてねぇって。ちょっと戦ってるだけだ」

「十分やないか!」

 

 弟子入りとまではいかなくても、アルビレオに苦手意識を持っているエヴァンジェリンが愛弟子中の愛弟子を取られたような気分になるのもいたしかないことで、そのとばっちりが来ている二人にしたら堪ったものではない。

 

「八つ当たりを受けるこっちの身にもなってよ」

「エヴァにそのことを言えたら止めてやる」

「ぬっ、出来んと思って好き勝手言ってくさりやがって!」

 

 何故か上から目線で答えるアスカに小太郎が激発する。実際、エヴァンジェリンにアスカを取られていることに対しての八つ当たりだと指摘しても決して彼女は認めようとはしないだろう。修行が苛烈になるだけで小太郎達に良いことは何一つしていない。

 だが、アスカにだって言い分はある。

 

「悪いとは思ってるよ、嘘じゃねぇ。だけど、止めるわけにはいかねぇんだ。魔法世界に行けば何が起こるか分からないだろ。今の俺に圧倒的に足りないのは実戦経験だ。それを補うにはアルビレオがイノチノシヘンでコピーした強敵と戦うのが手っ取り早い。実際、俺は一ヶ月前よりも遥かに強くなってるって実感してる」

 

 大戦期の闇を追うことになるアスカ達には魔法世界に渡れば多くの危険が待ち受ける可能性が高い。強くなることは必須事項で、その為にある程度の手段を選んでいる余裕はない。そのことを分かっているからエヴァンジェリンも不機嫌にはなってもアスカの行動を止めはしないのだから。

 エヴァンジェリンの修行にしたところで苛烈にはなるが決して理不尽ではない。その分、確実に強くなる辺りエヴァンジェリンも匙加減を間違えたりはしない。

 

「物には限度があるよ。今回の海行きも修行がきつ過ぎる、偶には遊ばせないとってネカネお姉ちゃん達がマスターを説き伏せてくれたんだから」

 

 一般的な論理から止めに入ったネカネの感性と、常識から逸脱しているアスカとエヴァンジェリンの感性はやはり違っているのだろう。精神・肉体は問題なくても今年の夏は今年しかないのだから遊ばなければならないという理由が思い浮かばない辺り一般から乖離している。

 気分転換と思い出作りの一環として、アスカ達は海に送り出されたのだ。

 

「なのに結局、刹那は京都で修行漬けか」

「こればかりは前から決まってたことだしね。木乃香さんも一緒だし、悪い事にはならないと思うよ」

「また鶴子姉ちゃんに丁稚根性叩き込まれるだけちゃうんか」

 

 急遽決められた海行きだったが、事前に夏休みになったら一週間京都に帰省することになっていた近衛木乃香と桜咲刹那は海行きを断念せざるをえなかった。こちらは日帰りなので日程をずらせば良かったのだが「地獄は早く終わらせるに限ります」と半分飛んでいる目で刹那が言うものだから木乃香も付き合って京都に出発して行った。

 

『では、死んできます。どうか、お元気で』

『お土産買ってくるからなぁ』

 

 今日の朝に新幹線に乗る際に見送った面々に向けた言葉がそれなのだから刹那の精神状況が思いやられる。

 

「戻ってきたら優しくしてやらんとなぁ」

「うん」

「どんだけ強くなって帰って来るかな、刹那は。今から待ち遠しいぜ」

「アカンわ、このバトルジャンキー」

「でも、小太郎君も同じこと思ってるでしょ?」

「…………少しな」

「同類だよ、十分」

 

 二人が似た者同士であることを再確認したネギは、やはり一人だけどこか場違いな場所に立っているような疎外感を覚えたが見ない振りをして心の奥に押さえつける。所詮このような感情は一過性の物に過ぎず、皆が合流すれば消えてなくなる麻疹のようなものだと知っていたから。

 

「…………のどかさん、遅いな」

 

 ネギも殊更意識したわけではないが、自分にも繋がりのある宮崎のどかの名前を出したのは彼の中の逃げから発した言葉か。

 まさか当の本人が水着に着替え終えた少女達と共に自分達を物陰から見つめているとは考えもしない。

 

「ネギ先生の水着…………はぁ」

 

 想い人の水着姿に頬を染めて熱い息を漏らしたのどかの横で、水着姿に触発された早乙女ハルナが見知った少年三人のBL本を書き始めた。

 

「俺の物になれや、ネギ。小太郎、俺というものがありながらお前は。アスカ、この想いが禁じられた物だとしても君の傍に…………きっ、来たコレ! 私の中で何かが始まったぞぉおおおお!!!!」

 

 どうして海にキャンパスと鉛筆を持って来たのかはさておき、創作意欲を刺激されて心がどこかへ逝ってしまっているハルナは誰にも近寄れない腐臭を撒き散らしている。

 ハルナに近い位置にいるのはネギに見惚れているのどかだけで、他の面々はその空気に押されて少し離れた場所にいた。今回の為に冒険してビキニの水着を着た神楽坂明日菜もその一人で、今彼女はジト目をして周囲に同級生達を見ている。

 

「で、なんでアンタ達までいるのかしら?」

 

 ネカネが発起人となり、今回の海行きに同行した中に呼ばれていない人間の筆頭である目の前の人物に対して物申す。

 

「なんのことですの? 私はただここに遊びに来ただけですわ、明日菜さん」

 

 明日菜に相対するのは、3-Aのクラス委員長である雪広あやか。こちらは明日菜の冒険が小さな子供のものと思えるぐらいに大胆な水着を着ていた。

 縊れた腰に手を当てて、明日菜を上回る胸を張って揺らしながら笑う姿に明日菜はグッと言葉に詰まった。

 中学生離れどころか下手なモデルすらも凌駕する美貌とプロポーションもあって、きちんと化粧をすれば異性の目を引きすぎる。女子中という同性に囲まれた空間ならまだしも海という解放された世界で彼女は今や人気の的だ。

 もしも明日菜達と共におらず、一人でいるようならば先程から周辺にいるナンパ目的の男達(飢えたハイエナ)が放っておかないだろう。

 

「麻帆良内ならともかく、都市外に同じ日、同じ場所に遊びに来るなんてあると思ってるの?」

 

 正直に言って体外的に見える女としての性能(スペック)では負けることを認めざるをえないと自覚したが負けてはならないと、出会った時から今まで積み上げてきた想いで敗北感をねじ伏せて問う。

 

「現にこうしてありえているのですから、偶然とは怖いものですわね」

「よくも言うわ」

 

 バチバチと二人の間で視線が火花を散らす。あやかについてきた3-Aの面々は慣れたもので離れた場所で観戦していた。

 

「でもまあ、ちょっと気恥ずかしいよね」

 

 そう言うのは物陰から顔を出してアスカ達の方をチラリと見て言ったのは明石祐奈だった。

 とみに発育が著しい胸部を覆うビキニが良く似合う彼女は人差し指で軽く頬を掻いて、横で同じようにしている和泉亜子を見た。

 

「アスカ君と小太郎君、少し見ない間に随分と大きなって今までと同じように出来ひんよ」

「うん、同じクラスにいても気になる」

 

 背中の傷を気にしてオーバーオールの水着を着ている亜子に同意したのは、身長・プロポーション共に3-Aトップクラスだが控えめな水着を大河内アキラ。この四人と他に二人があやかの誘いに乗って来たメンバーである。

 アキラは少し頬を染めながら自分の身長に迫りつつある遠く見えるアスカの横顔を見つめる。

 

「いや~、あの筋肉はヤバいっしょ。細マッチョっていうの、薄らと盛り上がった上腕二頭筋なんて見てるだけで惚れ惚れするね」

「腹筋も綺麗に割れてるしね。今まで直接見たことあるのはお父さんの出っ張ったお腹と弟の薄いのかだけど、あの腹筋はちょっと触ってみたいかも」

「…………二人とも言い方が変態っぽい」

「あはははは」

 

 祐奈とまき絵ではフェチシズムを感じる部位が違うらしい。アキラはどちらにも属せず、二人の言い方が寧ろ恥ずかしかったらしい。アキラと同じくフェチシズムを刺激されなかったらしい亜子は苦笑していた。

 どうにもアスカが受け入れられたのは成長した姿が受けたらしい。

 

「う~ん、やぱし教えたらマズかたアルか?」

「にんにん、皆仲良くござるよ」

「私はお前に無理やり連れて来られたがな、楓」

 

 ネギの予定を知りたがったあやかに今回の海の件を教えた古菲はスポーティな水着を纏いながら首を捻り、問題ないと大した解決になってない返答を返すのはローライズというスタイルが良くなければ自爆物の水着を着こなしている長瀬楓であった。

 楓に一度敵対した弱みをネチネチといびられて行かざるをえなくなった真名もエキゾチックな水着を纏っているが本人が不機嫌そうなので魅力は半減している。

 古菲として純粋な好意であったのが、こうもギクシャクしてしまうと悪いことをした気分になる。

 

「馬鹿ばっかだな」

「お、言うねぇ、千雨ちゃん」

 

 それぞれの話を聞いて馬鹿にしたように鼻を鳴らしたのは、ネット世界では大胆になれても衆目の面前で自分を曝すことを嫌がって大人しめの水着を着た長谷川千雨である。その横にいるのは彼女を海に連れてきた朝倉和美その人。

 この二人は今来たところだ。インドア派の千雨は無理やり連れて来られたものの、海自体は嫌いではない。ただ肌を日に焼かない為に日焼け止めを用意したのだが、無理やり連れて来られた為、鞄の中がグチャグチャで日焼け止めを探すのに手間取ってしまったのである。

 

「千雨ちゃん、遅いわよ。いいんちょに言ってあげてよ、アンタなんかお呼びじゃないって」

「そうですわ、長谷川さん。この聞かん坊に言ってください、クラスメイトは大事にしろと」

 

 何故か騒動の中心である明日菜とあやかに目を付けられ、自分の肩を持てとばかりに詰め寄って来る。

 対人恐怖症とまではいかないが、伊達眼鏡がないと人前に出られない性質の千雨のパーソナルスペースはかなり狭く、その領域内に侵犯してきた二人に対して心中でパニックを起こしていた。

 自分から踏み込む分には構わなくても人に踏み込まれると狼狽するタイプである千雨は、何かを答えようと焦り少し涙目の視線があちこちを彷徨う。その様をこれも訓練と和美は傍観を選んだ。

 孤立無援、助けはないという状況で千雨の眼はあちこちを彷徨い、一点で止まった。

 

「…………神楽坂、胸大きくなってないか?」

 

 その一点、自分と大差ないはずのビキニに包まれた明日菜の胸が増量しているような気がして思わず千雨の口から思考がダダ漏れした。

 

「へ?」

「なんですって……?」

 

 気付いていない明日菜に対してあやかがいきなり行動に移した。明日菜の胸を鷲掴みにするという唖然とした行動に。当然、いきなり胸を鷲掴みにされた明日菜にとっては堪ったものではない。

 

「って、わきゃ!? なにすんのよ、いきなり!」

 

 エヴァンジェリンと刹那に鍛えられているだけあって一瞬であやかの手を振り解くと、楓や古菲が感心するほど見事に距離を取った。

 胸を掴んでいた腕を弾かれたあやかは痛みもなんのその、感触を思い返すように指をワキワキと動かす。放心した様子で流れを見つめるしかなかった千雨はその動作の卑猥さに頬を染める。ネットでの慣れはあっても現実になると途端に男慣れしていないことが露呈する。

 

「以前より大きくなってますわ…………育ちましたわね、明日菜さん」

 

 何故かホロリときているあやかに明日菜も毒気を抜かれてしまった様子だった。

 

「いや、まあ、ねぇ……」

 

 水着を新調する際に以前のサイズでは合わなかったので計り直した結果、大きくなっていたのを知っていた明日菜は特に喜びなどは現さなかった。

 胸の大きさの彼我が女の性能を現すとは言わないが、小さいよりは大きい方が見栄えが良い。明日菜も中学生にしては大きい方がであるが3-Aには上下に規格外が多いので大して気にしたことがない。

 ともあれ、明日菜が皆の前で胸が大きくなったことを喜ばないのは、大きくなった原因が別荘使用による年月経過の面が大きいからだ。なんとなくズルしたような気がして自慢が出来ない。そういう性分なのだった。

 

「ですがまだ! 私の方が上ですわ!」

 

 まだ胸の大きさはあやかの方が上なので顎を逸らして勝ち誇っている。しかし、そこに物申す者がいた。

 

「胸の大きさなら私も負けてないよ!」

「喧嘩は良くないでござるよ、ほれ真名も」

「ええい、背中を押すな。私をこんなくだらない引き合いに出さないでくれ」

 

 最近、とみに成長著しい祐奈が参戦し、分かっているのか分かっていないのか3-Aトップクラスの楓まで乗り出し、真名も一緒に押し出すものだから収集がつかなくなってきた。となると残るは和美の参戦かと思われたが、彼女は何故か後ろから千雨の胸に手を伸ばしていた。

 

「大きさよりも形じゃない? ほら、千雨ちゃんのは美乳な上に肌艶も良いから触ると気持ち良いし」

「なにゃ!? なにしやがんだテメェっ!?」

「うん、揉み心地いからもう少し」

「ちょ、止め……あっ!?」

「しかも、感度も良いと来た。私が男なら千雨ちゃん一択かな」

 

 巧みに抜け出せないようにしながらモミモミと千雨の胸を揉む和美。次第に楽しくなってきたのか、千雨が変な声を上げても止めようとしない。

 巨乳でもなければ美乳という自己評価下せないまき絵、亜子は悔し気に見るしかなく、あまり成長しない古菲はボリュームの薄さに溜息を漏らし、そもそも戦いの舞台に上がる気のないアキラはオロオロとどうやって騒ぎを止めようかと戸惑っている。

 のどかはネギに夢中で、ハルナは三角関係BLに熱中し、あやかは勝ち誇り、明日菜は呆れ顔で、はたしてこれでどうやって場が収まるのかとすれば第三者の存在に他ならない。

 

「なにしてんねん、あんさんら」

 

 心底呆れているという風情で言いながら近づいてくるのは天ヶ崎千草である。

 あやか並みのメリハリの付いたプロポーションに加え、露出の激しい水着を着ても下品にならない品性、そして何よりも常識破りの中学生であっても決して持ち得ない大人の色気を纏って砂浜に立つ姿に全員が等しく敗北感を抱いた。

 

「あらあら、千草さん。何してるって、ナニじゃないですか? この子達、女子中ですからそういうこともありますよ」

 

 次いで現れたのは、クスクスと笑いながら上品に手で口元を隠したネカネ・スプリングフィールド。こちらは露出という観点で言えば、見た目ではワンピースタイプを着ているのどか並に少ないがハイレグで足の長さと白さが際立っている分、未完成ながらもあやか達よりも数段優れた完成度を誇っている。

 ナニという発言のところで千雨と和美を見ている辺り、彼女にはそっち方面の知識があるらしい。

 

「アホ抜かせ。あんさんらも、もうちょい公序良俗に即した行動せんかい。うちらに迷惑かけんなや」

 

 この二人の真打ちの登場とでも言うべき現れ方に、特に自慢をしていたあやかの敗北感は一入で砂浜に膝を付くほどである。

 

「ま、敗けましたわ…………完敗です!」

 

 未来はともかく現行の性能では勝ち目がないことを認めなくて行けなかったあやかは女のプライドをズタズタにされて悔しげだ。

 そして自失の隙をついて、千雨も行動を起こす。

 

「いい加減に離せ!」

「え~、もうちょっと触らせてくれてもいいじゃない。ケチ」

「ケチじゃねぇよ、ったく。こっち来んじゃねぇ、シッシッ」

 

 和美に言い様にされていた胸を抱えるようにして逃げ、距離を取って近づかせないように長身の楓の影に隠れる。流石に武闘派の楓の裏は欠けないので和美も諦めるしかない。

 

「なんやねん、ほんまに……」

「本当に、あははははは」

 

 意味が分かってなさそうな千草に少し助かった明日菜は苦笑を浮かべつつ同意する。どうしてこのような話になったのか、彼女にもさっぱりだったのだから。

 

「なんでか知らんけど人数は増え取るが、こんなところでタムロしてたら他の人に迷惑やろ。さっさと散りぃ」

 

 荷物をレンタカーに直してきた千草はそう言って腕を振るう。

 引率として付いてきた千草にも当初は木乃香達と一緒に京都行きの話があったのだが、関西呪術協会に戻るのを嫌がっていたところに今回の海行きの話を聞いて引率役を買って出たのだ。それほどに鶴子や詠春に会いたくないのか。

 休日に面倒事は御免と生徒達を散らそうとしたところで、あやか達と一緒に来た那波千鶴と村上夏美がジュースを買って戻ってきた。

 

「あらあら、これだとジュースが足りないわね」

「どうするの、ちづ姉?」

「もう一回買いに行きましょうか。それじゃ、あやか、和美、千雨さん、持っててもらえる?」

「あ、分かりましたわ」

 

 買ってきたジュースが人数分足りない(明日菜達分まで)ことに気づいて、三人に持っている分を渡すと嫌がることなくもう一度買いに行ってしまった。

 その後ろ背中を見送ったあやかの中に沸き立つ衝動が一つ。

 

「勝ちましたわ……!」

「なんのやねん。まあ、理由は分かるけど」

 

 那波千鶴――――クラス№1のバストサイズにして、クラス一年齢詐称疑惑があるほど女性としての魅力が揃った彼女を前にしては、あやかが勝ち誇るのも仕方ない。言われなくても分かってしまった千草は若妻と言われても仕方のない色気を水着のまま振り撒く千鶴が襲われないかと変な心配をしていた。

 千草も女としての敗北感を覚えているが、それを表に出さない程度には彼女は大人だった。

 

「ええ加減にしてはよ向こう行ったらんかい。男衆が待ちぼうけくらっとるやんけ」

「そうそう、早く行かないとアスカ達がナンパされちゃうわよ」

「この場合は逆ナンつうちゃうんか。ほれ、高校生ぐらいのグループが誘いかけてんで」

 

 え、全員が視線を少年三人に戻すと確かに高校生ぐらいの数人のグループがアスカ達に何かを話しかけていた。

 どうも女子高生達の狙いはアスカと小太郎のようで話しかけながらさりげなくボディタッチを繰り返している。ネギは二人の弟か弟分と見られているのか、わざと胸を強調して顔の前に近づけられて赤面したりして玩具にされている。

 さもありなん、アスカは手脚が長く背筋も伸びているので、より背が高く見える。筋肉も程好く付き、顔も良いとなればこれ以上の好物件はない。

 小太郎は良く言えば精悍、悪く言えば鋭すぎる瞳が人によっては目つきが悪くて不良だと勘違いさせそうな顔立ちをしているが、ちょっと冒険したい年代の少女達にとってちょい悪系の雰囲気をしている小太郎は興味を引かれる対象なのだろう。

 高校生か中学生かは見方によって変わるが、総じてこのビーチで目立つ男二人を狙う者は多かったらしく、明日菜達が気づいていなかっただけで少し空気が変わった。

 

「行くわよ……」

「ええ、分かってますわ」

 

 比喩表現で静かに気を漲らせた明日菜が目の色を変え、同調したあやかと共に足幅も大きく、しかし決して慌てることなくアスカ達に向かって歩いて行く。

 ネギ大好きなのどかとまき絵も後に続き、祐奈達も楽し気に後を追っていく。

 

「ったく、最初からそうしといとらええねん」

 

 残ったのは千草とネカネと千雨と和美の四人だけで他の面々は付いて行ったらしい。

 距離があるので会話までは聞こえないが、女子高生のエネルギーに巻き込まれてどこかに連れて行かれそうな男衆に、さも待ち合わせをしていたかのように明日菜が追い付き、一番女子高生に纏わりつかれているアスカの腕を取って抱え込む所作は誰がどう見ても恋人のもの。

 ムッとした様子の女子高生だったが、後を追ってきたあやかや祐奈、楓に真名とアキラまでが現れては女としての性能に不利を感じたらしく引き下がった。物凄く残念そうだったが。

 

「あの二人、もう付き合っとるんか?」

 

 明日菜は自分がアスカの腕を胸の間に抱え込むという大胆な行為に気づいて恥ずかしがっているのを見た千草は、二人の距離の近さからそう邪推せずにはいられなかった。

 

「まだじゃないですか。どっちも素直じゃないし、その一歩手前で足踏みしている感じかな」

「そうなのか、へぇ~」

 

 情報通とも言える和美が普段の二人の様子から自分の推測を口にすると千雨がそんな言葉を口にした、若干嬉しそうに。その様子を見てとった機微に聡い千草と和美と二人して目を会話をし、面白そうだから放置の結論に達した。

 

「ネカネ的にどうなんや、そこら辺」

「そこら辺って何がですか?」

 

 仲の良い姉弟なので嫉妬の一つでも見せるかと千草がネカネに話を振るも当の本人はキョトンとしていた。

 

「こう、大事な弟が他所の女に取られても平気かって話ですよ」

 

 女子高生にボディタッチされているところを見ても嫉妬の一つも浮かばないネカネに、和美が直接的な表現で探りを入れる。二人の関係からいえば明日菜並とは言わずとも、何がしかの反応を期待してのことだった。

 探りを入れられたネカネは笑顔だった、本当に普通と変わらないほどに。

 

「なんともありませんよ。アスカは最後には必ず私の所に帰ってきますから」

 

 直後、爆弾が落ちた様な静寂が四人の間に漂った。

 ネカネが言った意味の大して深くはないが何を指しているかを理解した千雨は唇を震わせながら口を開いた。

 

「え、えっと、二人って従姉弟ですよね?」

「ええ、結婚も出来るわよ」

「け、けっ!?」

 

 ちっとも全くこれっぽっちも動揺せず冷静に返したネカネに比べて、思わずといった様子で聞いた張本人の千雨の方がどもって動揺しまくりだ。

 

「アスカとは約束しているもの、大人になったら結婚してくれるって。だから、それまでは好きにさせてあげるの」

「…………ちなみにそれは何時の頃に約束したんですか?」

 

 千雨が動揺してくれる分だけ冷静になった和美だが、ヤンデレすれすれのネカネの言葉に思わず聞いていた。

 

「アスカが二歳の頃よ」

 

 普通はそんな年齢の頃の約束など約束の内に入らないのだが、ネカネの眼は本気と書いてマジと読むほどに真剣だった。

 千草が視線をネカネからアスカ達に移すと、当の本人はこのことも忘れているだろう明日菜の水着を褒めたかして何人かが気に入らなげな表情をしているのが見えた。

 

(何時かアーニャが言っとったな。ネギよりもネカネの方がアスカに依存してるって)

 

 内心でそんなことを思い出しながら、アスカの対応次第では何時かは修羅場になりそうな未来予想図が脳裏に描けてしまった。それでも最終的にアスカの嫁――――この場合はアスカを婿の方が適切な気がする――――に収まっているのはネカネだと確信してしまい、少なくとも今ではないと思い込むことにしてこの話題を忘れることにした。

 

「それはともかく」

 

 千草は右手ではしゃいでいるアスカ達を指差した。

 

「はっちゃけられんのは、あれぐらいの若い時だけや。二十五を過ぎるとな、どうしてもその後のことを考えてしまうんや。紫外線で焼いたらシミになるんちゃうかってな」

 

 そして左肩に持っていたトートバックから日焼け止めを取り出す。

 

「大丈夫だと思いますけど……」

「その思い込みが十年後、二十年後になったら苦しめられんねん。こういうのは若い頃からやるのが肝心や。ちゃんとケアしとかなあかんで」

 

 納得のいっていなさそうな和美の横で訳知り顔で千雨が頷いているのが気になるが、もう彼女らほど若くない千草には死活問題だ。丁度の中間にいるネカネは自分の鞄から日焼け止めを取り出すと千草の前にやってきた。

 

「じゃあ、千草さん。私の背中、塗ってくれますか」

「アスカに塗ってもらったらどうや。未来の旦那様やろ」

 

 忘れることにしたにも拘らず、思わず相手がいる僻みが出てしまった千草だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一通り遊び、誰かがビーチバレーのボールを持って来ていたことで二人一組でトーナメント戦をやることになった。問題は組を作る際に公平になるジャンケンやあみだ籤を使うとなると、下手をすればメンバーに偏りが生まれる可能性があった。

 所謂、運動神経と身体能力が常識を逸脱している面子…………アスカ、小太郎、楓、古菲、明日菜のことである。祐奈やまき絵、あやかも優れてはいるがまだ常人の域。アキラもかなり怪しいが常人クラスに分類しておこう。

 最初の五人が同じ組になれば優勝間違いなし過ぎて面白みがない。となると、最初の五人が同じ組にならないように、逆に自信がない面子…………のどか、夏美、亜子、千鶴、ハルナらが指名制で組を組んでいくことになったのだが。和美は写真係として辞退。

 最初にこのことを提案した真名はちゃっかりと審判の座に収まっていた。千草とネカネは適当にやれと日光浴の最中である。

 

「どうして、こうなるんだ……!」

 

 即席で作ったビーチバレーのコート内に選手としている千雨はこうなってしまった運を呪った。

 

「何言ってんだ、千雨。これから試合だぞ」

「分かってる、分かってるよ」

 

 チームメイトであるアスカの水着で露出している背中の肌を軽く叩かれて、らしくもなくその部分が熱いなどと感じてしまった自分を恥じるように千雨は天空を仰いだ。

 組作りは大体予想通りの面子で纏まっている。

 のどかがネギを指名し、あやかを悔しがらせたのはあやかの運動能力ののどかを遥かに上回っていたのだから先着順で仕方ない。

 ハルナは楓、亜子は古菲、千鶴があやかを指名し、祐奈とまき絵、アキラと明日菜と大体仲の良さで決まったようなものである。そして残り物には福があるとばかりに最後の方に残った千雨だったが、夏美と二人でアスカと小太郎の二択しかなかった。こうなれば千雨は交友のあるアスカを選ぶしかなく、夏美が小太郎ということになった。

 ネカネと千草の審判の下で試合は始まった。

 第一試合はのどか・ネギVSあやか・千鶴となったが、流石に身体能力的に順当にあやか・千鶴が勝った。まあ、のどか・ネギは終始和やかであやかの怒りが爆発した所為でもあるが。

 第二試合のハルナ・楓VS亜子・古菲は意外と接戦になり、ハルナと亜子の差が勝敗を決し、亜子・古菲の勝利となった。

 第三試合は祐奈・まき絵VSアキラ・明日菜だったが、これも身体能力の差が勝敗を決した。アキラ・明日菜という高水準なペアに勝つには面子的に厳しい

 そして残った第四試合のアスカ・千雨VS小太郎・夏美の試合がこれから行われるところだった。

 

「オラッ!」

「うわっ!?」

 

 試合が始まったが完全にアスカと小太郎だけで試合をしているようなもので、千雨と夏美は強力なアタックに当たらないように逃げ回るだけだ。

 二人は千雨と夏美がいない場所にアタックを落としているが、空気を切り裂くような音がするアタックが近くに落ちるかと思うと気が気ではない。当たるわけはないと二人を信用しているが怖いものは怖い。

 

「させねぇっ!」

 

 顔面に当たればめり込みそうなアタックを滑り込んで軽々と上げるアスカ。落ちる場所と速度まで計算されているのか、逃げる千雨の場所に向かって落ちて来るのでトスを上げるのはわけない。

 適当の上空に向かってトスを上げれば、既に通常状態でも普通ではない身体能力に達しているアスカがアタックを打ってくれる。最初の方などは明後日の方向にトスが行きもしたが、超人的な身体能力でリカバリー出来るので中々点が決まらない。

 

「わわっ!?」

 

 夏美の状況も千雨と似たようなものだ。アスカのアタックから逃げ回り、小太郎が拾ったものをトスするだけ。後は小太郎がどうにかしてアタックを打つという全く同じ戦法。二人がボールを落とさないものだから最初は超人バレーに盛り上がっていた面々にも飽きが来た。

 点数も入らずに十分以上続いている試合に、いい加減に審判の真名が二人にアタックを禁止にするかと考え出したところで状況が動いた。

 

「あっ!?」

 

 砂場に足を取られて夏美が転倒してしまった。これでは幾ら小太郎がボールを上げてもトスを上げる者がいない。

 

「もらった――っ」

 

 ここを勝負どころと見極めたアスカがここ一番のアタックを決め、小太郎が上げたがトスを上げる者がいないので虚しくボールが地面に落ち――――なかった。トスが上がったのだ。

 

「なにっ!?」

 

 トスを上げたのは夏美ではない。彼女はまだ起き上がれていない。では誰かと思えば。

 

「分身か――」

 

 ボールを上げたのとは別の小太郎――――つまりは小太郎の分身体がトスを上げていた。これにはアスカも次なるアタックへの備えが遅れた。そのチャンスをボールを上げた本体の小太郎が見逃すはずがない。

 

「こっちがもらったで――っ」

「させるか!」

「っ!? なんやと!」

 

 アタックを放ちかけたところで何者かが防がんとブロックに飛んだ。ネット上の遥か上なので千雨の身体能力では不可能だ。となればアスカと消去法で決まるが、地面の上で待ち構えているので違う。では、ブロックに飛んだのは誰か――――それもアスカであった。

 

「くっ」

 

 その事実に気づくのが遅れ、ブロックのアスカに弾かれたボールはコート内に落ちた。

 

「1-0…………ってようやく得点入ったがこれはマズいのではないか?」

 

 得点コールを行った真名だったがこのコートの異様な状況をどうすべきかと頭痛を覚えた。

 

「アスカ、お前……っ!?」

「へっ、俺が分身を覚えたことがそんなに不思議か?」

 

 キッとした鋭い目つきで小太郎が見据えた視線の先でアスカが五人に増えていた。

 元からアスカは人の技や戦い方を真似をすることに長けていた。しかも銀の鎖で合体した際に使う技の感覚を会得して直ぐに使う時もある。修学旅行で小太郎と合体した際に分身を使っているのでアスカが技を覚えていても不思議ではない。

 

「へ、本家本元の分身を見せたるわ」

 

 四体のアスカの分身を目の前にして対抗心を燃やした小太郎も既に出している一体に足して三体の分身を出した。

 

「アスカが五人、小太郎が五人、目が回るアル~」

「分身では拙者も負けられんでござるよ!」

「何を言っているんだ、お前は……。って、止めろ。お前まで分身しようとするな!」

 

 古菲が混乱し、何故か楓が二人の分身に対抗意識を燃やしたところで真名が慌てて止めに入る。

 

「さあ、決着付けようぜ!」

「俺達の間に白黒つけようや!」

 

 当の二人は周りの観衆のざわめきにも気が付かないままスポコン漫画のようなテンションで試合を再開しようとしている。このような状況を千草が認めるはずがない。

 

「この…………アホんだらどもが何をやっとるんや!!」

 

 と、比喩表現で特大の雷が落ちるのであった。

 

「行きますよ、ネギ先生っ」

「うわっ、やってくれましたねのどかさん」

 

 二人が雷を落とされた近くの水辺では、最初に試合を終えたネギとのどかキャキャウフフと水をかけあっていた。

 

「なにこの状況?」

「さあ?」

 

 用事があって出発が遅れて、たった今ビーチにやってきたアーニャと夕映は両極端な状況に二人で首を捻るのだった。

 

 

 

 

 

 試合は観客権限による没収試合となり、その原因となったアスカと小太郎は罰ゲームとしてジュースを買いに行かされていた。二人の試合が長引き過ぎて関係者以外に観客がいなければこの程度では済まなかっただろう。

 

「しかし、何時の間に分身を覚えたんや?」

「最近だぞ。学園祭でネスカになった時に使った風精分身が便利だったからコッソリ練習したんだ」

 

 分身まで出来るようになったことで危機感を覚えた小太郎の問いに対してアスカは本当のことを伝え、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。

 

「小太郎の分身には何時も煮え湯を飲まされていたからな。これであんな目には、もうなんねぇぞ」

 

 二年間での別荘の修行での立ち合いで、分身と狗神を駆使しての攪乱戦が小太郎の常套手段だった。当時から既に真っ向から戦えば圧倒されるので取った苦肉の策であったが、その策も最早通用しない。

 

「ほざけ。さっきも言うやろ、本家本元の使い方を教えたるわ」

 

 だが、その程度で諦めるほど小太郎は諦めが良くない。砂を噛み締め、血を吐きながらでも勝利を得ると宣言するように挑発する。

 そうこうする内に売店にやってきた二人。

 

「ええと……」

 

 頼まれたのを確認しようと、リクエストが書かれた紙を見ると『コーラ、オレンジ、コーヒー、抹茶オレ、烏龍茶、紅茶、アクエリアス、ポカリ、クレープ…………etc』と人数分の種類が記入されていた。地味に面倒くさくて嫌になるぐらいなので確かに罰ゲームとしては最適だろう。

 

「嫌がらせか」

「千草姉ちゃんが決めた罰ゲームやし、なんでもええって言うたからみんな遠慮があらへんわ」

 

 二人して溜息を漏らし、リストに照らし合わせてジュースを選択していく。

 十人以上分のジュースを運ばなくてはならないものだから直ぐに両手は一杯になり、売店の店員に金を渡して踵を返す。

 

「冷たいな」

「ほんまや」

 

 真夏で暑い海にいるとはいえ、一人当たり五本以上のジュースを抱えていると接触地点が冷たくなってくる。温くなったら温くなったら千草からグチグチと言われるに違いない。機会を見つけては子供二人に愚痴を零すのは止めてほしいという二人だった。最も愚痴の原因は二人なのだが。

 

「お」

 

 戻る途中でアスカが何かに気づいたように声を上げた。直ぐに小太郎も気付く。

 

「あれは夏美姉ちゃんか」

「そうだな」

 

 恐らく夏美は気を使って後を追ってきたのだろうか。実際、その通りで明日菜達では手伝うので同行するだけという夏美は二人の後を追ってきたのである。

 

「ナンパされてるな」

「そうやな」

 

 なのだが、二人が言うような状況しか表現できない状態に夏美は陥っていた。どうにも柄の悪そうな――――年齢的には高校生ぐらい――――教育機関では認められない髪染めやピアス類、刺青から見て高校には行かずにフリーターか仕事についたタイプだろう二人組に絡まれている。

 

「なあ、嬢ちゃん。良かったら俺らと一緒に遊ばない?」

「え……ぅ……」

「俺達、ここが地元なんだ。ここよりももっと良いところ知ってんだぜ」

 

 女と見れば見境がないのか、本人達的には硬派に口説いているつもりなのだろうが、かなり強引に夏美を連れて行こうとしていた。

 体格だけは無駄に良い高校生ぐらいの男二人に囲まれた夏美はこのような状況に慣れていないので、傍目にも分かるほど動揺して怯えている。断る言葉が出ない程にだ。

 

「――――ちょっと、行ってくるわ」

「おう、頑張れ」

 

 小太郎からジュースを押し付けられたが特に何か意見することもなく受け取ったアスカは、ザクザクと砂浜に足跡を残して夏美の救援に向かった背中を見送って一人先に皆の所へ速足で戻る。

 

「おい、お前ら」

 

 そして小太郎は夏美の腕を掴もうとしたナンパ男の手を掴んだ。

 

「あん? なんだチビ」

 

 手を掴んだ強い力に一瞬ギクリと体を硬直させたナンパ男だったが、振り返った先にいたのが自分よりも十㎝以上低い小太郎だったので途端に威勢を取り戻した。

 もう一人と合わせて小太郎に向かってメンチを切るが、小太郎がただの不良程度に臆するはずがない。

 

「小太――」

「俺の彼女になに手ぇ出そうとしてんのやって言ってんねん」

 

 一瞬で夏美が恐怖から安堵の変わると同時に、突然の小太郎の発言を理解して名前を呼んでいる途中で言葉が途切れてしまい、理解した内容で瞬時に顔が真っ赤に染まった。

 

(小太郎君……?! か、彼女って何てこと言ってんのよぉおおおおお――――ッッッッ!?)

 

 まだ連れていかれる恐怖が体に残っていたので乙女の叫びは内心だけに留まっていた。だが、ナンパ男にとってはその一言は気に入らなかったらしい。

 

「ちっ、相手がいるなら先に言えよ。行くぞ」

 

 流石にこのような衆人環視の中で相手持ちを強引に連れて行くほど愚かではなかったようで、表情は盛大に気に入らないと表現しながらももう一人を連れてその場を去って行った。

 その背中を見送って戻って来ることがないことを確認した小太郎は肩を竦めた。

 

「大丈夫か、夏美姉ちゃん」

「え、あ、うん…………大丈夫じゃないかも」

 

 後の方は夏美にだけしか聞こえないほどの小声であったが、全身を真っ赤に染めて俯いていたので小太郎は怖かったのだろうと勝手に解釈してしまったようだ。

 

「ああいう輩はどこにでもいるんやから注意した方がええで。夏美姉ちゃんも女やねんからな」

「…………」

「ほんまにわかっとるんか?」

 

 夏美のことを思って言ってくれているのは分かるのだが、屈んで顔を覗き込もうとするのは止めてほしいと切に願う。

 ドキドキと高鳴る心臓が五月蠅く小太郎にも聞こえてしまいそうで、顔色もまだ真っ赤になっているだろうから顔を上げるに上げられない。もし顔を上げたら嬉しくて笑っていることがバレてしまう。

 

「ったく」

「あ」

 

 恐怖で俯いているのかと勘違いしたのか、小太郎は夏美のその腕の中に抱き締めた。当然、俯いていた夏美に小太郎の行為を躱す術はなく、逆らうことも出来ずに大人しく胸の中に納まる。

 

「もう大丈夫や。またなんかあったら俺を呼べばええ。どこからだって助けに行ったる」

 

 アスカほどではないが筋肉質な胸に額を当てながら、その頭を体を抱きしめるように後ろに回された手で撫でられる。

 夏美は訳もなく泣きそうになった。男の匂いと固さの少しの粗暴さが混じった抱き締め方は千鶴に抱き締められるのとはまた違う。千鶴の胸は言ってはなんだが母の胸にいるような安心感を感じたが小太郎は全く違う。

 

「すまんな、彼女とか変なこと言うてしもうて」

「ううん、そんなことないよ」

 

 千鶴とは別種の安心感に包まれて小太郎の腕の中で目を瞑ろうとした夏美だったが、視界の端に光がチラついて思わずそちらを見てしまった。

 

「「あ」」

 

 光の発生源は砂浜に寝そべり、和美から借りてきたらしいカメラを構えていたアスカであった。ファインダー越しに視線があったアスカと夏美の声が重なる。

 

「…………おい、なにやっとんねんアスカ」

 

 パッと小太郎が夏美を解放して、声にドスを利かせながらカメラを構えているアスカを睨み付ける。

 

「撮影♪」

 

 テヘッ、とペロを出しながらおどけるアスカに小太郎の堪忍袋の尾が簡単に切れた。

 

「撮影、やないわ!! そのカメラを寄越さんかい!」

「うわっと、こんな面白いネタを消すなんてありえねぇだろうが!」

 

 他人からすれば恥ずかしい台詞と行動を見られ、あまつさえ撮影されていたと知った小太郎が証拠を隠滅しようと駆けだした。アスカも借り物なのと弄れるネタを逃してたまるかとカメラを抱えたまま逃げ出した。

 

「待たんかい!」

「誰が待つか!」

「ちょっと私のカメラ、壊さないでね!」

 

 追いかけっこを始めた二人を途中で見咎めた和美は、アスカの手にカメラがあるのを見て叫んだ。

 二人が追いかけっこをする途中にある売店にネギとのどかがいた。二人はカップルの定番である一つのジュースに二つのストローが付いた、所謂カップルジュースを注文して一緒に飲んでいた。

 

「おいしいですか、ネギ先生?」

「は、はい……」

 

 顔を真っ赤にして二人は一つのジュースを仲良く飲むのだった。

 

「あ、あははははは」

 

 一人置いてけぼりになった夏美は笑い衝動が込み上げて来て、衝動に任せて笑うことにした。

 目の端に涙が浮かぶほど笑った夏美はまだ追いかけっこをしている二人を、小太郎の楽し気な姿を見て少し残念そうに笑った。

 

「まだまだ子供だね」

 

 男になったと思った小太郎はまだ友達とああやって楽しんでいる方が楽しいだろうと、胸の奥でトクトクと高鳴りを続ける鼓動の理由を理解しながらも二人の追いかけっこを見守る夏美であった。

 

「あら、流石は情熱の夏ね。夏美ちゃんの乙女センサーがビンビンに反応しているわ」

 

 ビーチのどこかで千鶴がそんなことを呟いたかは定かではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 太陽が東から昇り、西に沈むのは常識である。どんな楽しい時間にもやがて終わりの時が来るように。

 夕焼けに染まる砂浜に三人分の足跡が刻まれていく。岩山に隠れた砂浜に足跡を刻むのはアスカ・ネギ・アーニャのメルディアナ魔法学校を卒業した三人。三人で歩くときは何時もアーニャが先頭になる。その後を兄弟が並んで歩くのが慣れ親しんだ三人の久しくなかったリズムであった。

 

「ねぇ、今日は楽しかった?」

 

 先頭を歩くアーニャの影が砂浜に濃い陰影を刻む。何かの音楽の鼻歌を詠うようにして歩いていたアーニャが振り返ることなく背後にいる二人に向かって話しかけた。

 

「ああ、楽しかったぞ」

 

 答えたのはアスカ。半身に影を作りながら言葉通りに薄い笑みを浮かべている。

 たった一日で黒く焼けた肌は風呂に入ったら染みること間違いなしだろうが、きっと本人は今まで感じたことのない類いの痛みすら今日の思い出と共に記憶することだろう。

 

「うん、楽しかったよ」

 

 のどかと二人でいることが多かったように思えたアーニャは特に突っ込みを入れなかった。

 アスカとは反対にネギはそこまで日焼けしているようには見えない。一度日焼けで苦しんで以来、障壁を調節して紫外線を通さないようにしているからである。日焼け止め要らずの便利な魔法の使い方だった。 

 

「エヴァも来ればよかったのにな」

「アスカの為に何かしてくれてるみたいよ。最後に見た時は何かを繕っていたように見えたけど。そもそも、呪いで麻帆良から出られないじゃない」

 

 そっか、とポツリと呟いたアスカは紅い夕陽を見つめ、物哀し気に嘆息した。

 この中で一番エヴァンジェリンと付き合いが長いだからこそ、彼女に課せられた登校地獄の呪いに思うところがあるアスカはふとした時にこのような態度を取る。

 

「呪い、解いてやりたいな」

「うん……」

 

 それは父親が呪いをかけたネギに対しても同じ想いだった。アスカと同じくエヴァンジェリンに師事しているからこそ、このように楽しい機会を共に出来ないことを申し訳なく思っていた。

 もしも本人にこのことを打ち明ければ、「くだらん。そんなことを思うぐらいなら修行して呪いを解いて見せろ」と素直ではないエヴァンジェリンは顔を赤くしながら言うことだろう。

 

「呪いと言えば、ネギ。石化解呪の方はどうなの?」

 

 ザクザクと砂浜に足跡を刻みながら歩くアーニャは『呪い』というワードに別の物を連想して、足を止めずにクルリと振り返ってそのまま後ろ向きに歩く。

 現実時間で六年前に村を襲った悪魔によって石化された村人達の解呪――――石化解呪の為に別荘の一室を半ば研究室代わりにしているネギに問いかけた。神聖魔法でヘルマンの魂を捉え、その後の進捗状況を聞いていなかった。

 一ヶ月前にアスカが魔法世界行きを表明して、その際に彼らの故郷であるウェールズにあるゲートを使うことになったので状況を聞いておきたかった。

 

「う~ん、出来たかって言われたら一応は出来たって言える、かなぁ」

「煮え切らない態度ね」

 

 顎に手を当てたネギが彼だが知る石化解呪の現在の状況を口にするが、アーニャが言うようにハッキリとしない曖昧と言えるものだった。勿論、ネギにはそうとしか言えない理由がある。

 

「僕も自分の修行をしないといけなから、どうしても解呪の研究は並行してやらないといけなくて、やっぱり時間が足りないんだ」

 

 頭脳労働担当ではないアスカはネギに放り投げて後は任してしまえばいいが、任されたネギにしても自分の修行がある。心情としても石化解呪を疎かには出来ないが、アスカのように年単位の時間をつぎ込むことには躊躇してしまい、両方を同時にこなすとなるとどうしても物理的に時間が足りない。

 

「それに取り込む術式と違って、魂から解除術式を作り出す方法解呪方法はマスターの所にも残っていなかったから、ほぼ一から作らないといけないんだよ。一朝一夕では出来ないよ」

「でも、出来たのよね?」

「うん、まぁ……」

 

 一朝一夕では出来ない術式をネギは一応は作り上げたらしいとのことだが、その言い方からは何がしかの問題が残っているらしいとのことはアスカにも察しはついた。

 

「なにか問題があるんだな」

「そうなんだ」

 

 問いに頷いたネギは少し話したくなさそうな雰囲気を滲ませながらも、やがて重く口を開いた。

 

「第一に成功率が低い。詰め切れてないからかなり強引な術式になってるから確実に石化が解けるという保証が出来ない」

 

 これは時間をかければ解決すると説明したネギは、まだ理由があると次を話す。

 

「第二に想定している力の桁が半端じゃない。これは僕とアスカが合体すれば解決する案件ではあるけど、負担も半端な物じゃない。当然、術者である僕ら自身の安全の保障も出来ない」

「永久石化を解呪しようってんだ。多少のリスクは覚悟の上だ。ネギは出来てないのか?」

「覚悟はしてるよ。でも、今回のは多少って状況じゃない」

 

 ネギが気にしている部分は成功率や自分達の心配では決してない。この石化解呪は三人が最初に定めた原始の約束。それを果たす為ならば、きっとこの命を使い果たすことになろうとも悔いはないというレベルで覚悟は出来ている。

 

「二度目はないんだ。失敗は許されないってレベルじゃない。失敗すれば大きすぎる力に僕らだけじゃない、石化した皆もただじゃすまない。永遠と名付けられた条理を覆すんだ。メルディアナで行って失敗すれば、最悪地図からメルディアナが消えてなくなる規模の爆発が起こる」

 

 生か死か、ではない。失敗すれば周りを巻き込んで消滅する事態になるとネギは予測している。

 地図からメルディアナが消えるほどの事態になると言われればアーニャとしても決行に尻込みしてしまう。

 なんの力もなく、石化解呪に対しての努力に殆どの意味のないアーニャは当事者のはずなのに何も出来ていない強い罪悪感がある。彼女のリスクは親を失うことだけで、自分の身自体は危険から遠ざけることが可能だから。

 折角掴みかけた光が手の中から零れ落ちていくような絶望がアーニャを襲う。

 

「んなことにはならねぇって。まだ時間はあるんだ。それまでにはなんとかなるさ」

 

 何時だって絶望を払うのはアスカだった。

 ネギの懸念が大したものではないような態度で軽く言ったアスカは目の前の苦難すらも楽しむかのように笑顔を見せる。

 

「何の根拠があって」

「術式を作ってるのはネギだぜ。出来ねぇはずがねぇだろ」

 

 理由なく言うのは止めろと言いかけたアーニャの目を、紅い夕陽に照らされようとも染まることのない蒼穹の眼差しが射竦める。

 ただ視線を合わせただけで魂を掴み止められたような錯覚を覚えながらアーニャは続く言葉を待つ。

 

「なんたって、俺達に出来ないことはないからな」

「…………はは、なによそれ」

 

 親指を自分の胸に当て、自信満々になんの根拠もない理由で成功を確信しているアスカに苦笑とも呆れとも取れる声がアーニャの口から出た。思い起こすのは、六年前のあの日、石化した村のみんなを見つけた時に掲げた誓いの一説。

 

『ここに誓おう。必ずみんなの石化を解くって! 俺達に出来ない事なんてないんだから!!』

 

 子供が囚われる幻想と言われようとも、困難な道を選んだ三人は拳を掲げあって誓い合った三人の旅の出発点。未来を知らず、恐れを知らず、今になって思い返せば無謀にしか思えない願いと言葉を交わし合ったことは記憶の中に確かに存在してる。

 

(私にはもう言えないわね……)

 

 恐れを知り、現実を知り、自分の限界を知ったアーニャは己が分を知ってしまったから出来ないことなんてないと口が裂けても言えない。どんな艱難辛苦を前にしてもアスカのように「それでも」と言い続けられるだけの意志力を持てそうにない。

 後ろ歩きを止めて前に振り返ると赤い髪が残照の中に揺れる。

 

「懐かしい言葉よね。始めにアスカが馬鹿なことを言い出したのも、もう六年も前になるのか」

「誰が馬鹿だ、誰が」

「アスカ以外に誰がいるの?」

 

 光陰矢の如し、少しばかりの感慨を滲ませてアーニャが追想していると後ろで漫才染みたやり取りが繰り返される。

 六年前から何も変わらない、でも随分と変わってしまった三人の仲はあの日から何も変わっていない。変わったのは現実を知って立ち止まったアーニャと、知っても尚も進むことを選んだ二人の違いだけだ。

 

「魔法学校では毎日が楽しかったわよね。アスカが馬鹿やって、ネギが巻き込まれて、私が収めて、最後はナナリーが救急箱を持ってやってくるって感じで」

「実際にはアーニャが被害を大きくしてたけどね。僕もアスカも最後には大変だったよ」

「ナナリーに泣きながら包帯巻かれたこともあったな」

 

 三人の中で認識の相違があるようだが、楽しかったことに違いはない。

 

「卒業して麻帆良に来たら直ぐに明日菜や木乃香達に魔法がバレちゃったし」

「明日菜は不可抗力だけど、木乃香にバラしたのは完全にアーニャの所為だぞ」

「あの時の刹那さんの顔は凄かったよね。人ってこんな顔が出来るのかと思っちゃったよ」

 

 アーニャの顔が片側に引きつく。

 

「…………アンタら、アタシに何か恨みでもあるわけ?」

 

 単純に思い出話がしたいだけのアーニャの表情の異変の理由が分からず、兄弟は顔を見合わせた。

 

「「事実だし」」

「うが――っ!」

 

 何を今更的な感じでわざわざ声を合わせて言った二人にアーニャが激発する。真実は時に人を無惨なまでに攻撃する時があり、今が正にそうだった。

 激発したアーニャから攻撃を受ける前に予測していた二人は蜘蛛の子を散らすように逃げる。拳を上げるよりも早く逃走されたので、行き場所を失くしたアーニャは深く溜息を吐いた。

 追いかけてまで殴ろうとしないアーニャには二人はさっさと戻って来る。慣れた対応であった。

 

「京都では小太郎とも戦ったし、エヴァに弟子入りしようとしたら因縁つけられたな」

「マスターとの戦いで世界の広さを知ったよね。自分達が強いって思ってたわけじゃないけど、まだまだ上があるって思い知らされたよ」

「それを言ったらハワイでのことはどうよ。俺はあの時ほど、もっと強くなりてぇって思ったことはねぇし」

「龍宮さんや楓さんの強さを知ったのこの時だっけ。実はみんな強い人んじゃないかって疑っちゃったよ」

 

 アーニャが始めた昔語りなのに当の本人を放っておいて二人だけで始めてしまう始末。

 当初の別荘での修行での苦労、過去話をして明日菜を追い払ったアスカの不手際、ヘルマンの戦い、学園祭の出来事の数々……etc。話の種は尽きず、間の出来事も合わせれば一昼夜かけても話し続けられる。

 六年と少し間に三人で歩んできた道はそれだけの話題があるということのだ。まるで祭りのように楽しい道のりにもやがて終わりは来る。終わらない祭りはないのだから。

 

「そういや、どうしてアーニャと夕映は来るの遅れたんだ?」

「僕も理由を聞いてないよ」

 

 人を放っておいて思い出話に興じていた二人が、今日の日帰り旅行に遅れて合流したアーニャに話題を振る。

 

「夕映は学園長との面談…………私も似たようなものね」

「なんでまた」

 

 何時かは話をしなければと思っていたので、話題を振ってくれたのは有難い。

 

「少し前に夕映がアンタ達に魔法を教えてほしいって言ってたことあったじゃない?」

「そう言えばあったね、そんなことも」

「ヘルマンが来た所為で有耶無耶になっちゃってた」

 

 修学旅行で島についてきたのどかから話を聞き、別荘を見つけて忍び込んだ夕映がネギ達に魔法を教えてほしいと頼んだことを二人はすっかり忘れていたらしい。明日菜との一件やヘルマンとの戦いが直後にあって、その後も麻帆良祭があってこちらでも波乱万丈な出来事が満載だったので夕映の話は頭から飛んでいたようだ。

 

「まあ、ともかく」

 

 真剣に悩んでいたらしい夕映が少し哀れになって、アーニャは話しを進めることにする。

 

「夕映は魔法を学ぶ腹積もりらしくて、学祭後に学園長にそのことを話しに言ってたらしいのよ。で、学園長としては真剣に学ぶ気があるならって、夏休みの間に体験入学したらどうかってことになったの」

「全然、知らなかった……」

 

 仮にも先生なので話を通されていなかったネギは少しショックな様子を見せるが、話自体を忘れていたので微妙な表情を浮かべる。

 

「でも、メルディアナは長期休暇中じゃない。アンタ達8月から魔法世界に行くって話をのどかから聞いたらしくて、魔法世界の学校じゃダメかって聞いたらしいのよ」

「まさか、OKが出たのか?」

「ええ、アリアドネ―が受け入れてくれるって」

 

 アスカもネギも目を剥いた。恐らく頼んだ夕映もOKが出るとは思っていなかったらしく、今日の面談時にそのことを伝えられた時の驚きようは凄かった。

 

「っていうことは、夕映さんも僕達と一緒に行くってことでいいのかな?」

「そうよ、私が聞いた限りではね」

 

 ふうん、と大して気にした様子もなく納得しているネギにアーニャは学園長との話を思い出す。

 

『アリアドネ―のトップであるセラス総長は紅き翼と知己じゃからの。当然、二人の出生の秘密も知っておる』

 

 学祭後に一気に老けた様子の学園長は夕映との面談後、アーニャにそんなことを言い始めた。

 

『セラス総長は夕映君を受け入れる条件として二人が送り届けることを念押ししてきたわい。この機会を利用して何らかの縁を作っておきたいんじゃろ。世が世なら二人は世界を救った英雄の子にして亡国の王子じゃからな。縁を作っておいて損はない。なんだかんだと理由を作って足止めしてくるじゃろう』

 

 ウェールズからゲートポートを使ってメガロメセンブリに渡り、そこからアリアドネ―を向かうことになるが、その際にアスカらの同行が絶対と条件が付けられているらしい。アーニャとしては今の二人は馬鹿でアホな兄弟にそこまで必死になるのか分からないと言ったが、学園長は「そう思える者は少ないんじゃ」と長い溜息を漏らした。

 

『彼らが魔法世界の地を踏むことは大きな意味があるのじゃよ。下手を打てば時代が動くほどのな』

『なら、アスカ達の魔法世界行きを認めなければ良かったのでは?』

『自費で旅行する生徒の自由を阻むほどの権利は儂はないぞい』

 

 今回の魔法世界行きの資金はアスカが武道大会で優勝した資金から出ている。発起人なのだからポンと現金で出したアスカに誰もが口を開けて呆然としたものであった。

 普通の旅行ならばともかく魔法世界への渡航となれば、学園長の立場からすれば止めれそうなものだがとアーニャは考えたが、そこから先へ思考を膨らませることはなかった。

 

『儂としては気転の効くアーニャ君にも共に行って欲しかったじゃがの』

 

 その学園長の言葉が全てを物語っていて、意識が現実へと戻る。

 首だけ振り返って後ろを見ると、アスカがなにかを指折り数えていた。

 

「これで魔法世界に行くのは、俺、ネギ、小太郎、明日菜、木乃香、刹那、千雨、茶々丸、のどか、楓、古菲の十一人に夕映を追加して十二人か」

「カモ君もいるよ。でも、こんだけいるとお金足りるかな?」

「夕映は学園長が出すだろ。別に全部使い切っても構わねぇし」

「でも、まさか千雨さんが来るって言い出すとは思わなかったよ」

「さよに俺を見てくれて頼まれたから仕方なくだと。しかも和美にカメラを渡されて写真係をやらされるって何故か愚痴られたぞ」

 

 武道大会の優勝賞金一千万を一ヶ月の旅費で使い切っても構わないと言っているアスカに財布は渡せないとアーニャは自分の考えに苦笑した。そんな考えは無駄でしかないからだ。

 

「アーニャはどうするんだ?」

「え?」

「魔法世界に行くのか?」

 

 アスカからの問いにアーニャは直ぐには答えられなかった。

 二人が同時にアーニャを見ているが、その視線には如何なる感情も込められていなかった。ただ、答えを待つと決めた目だけがアーニャを見据える。

 

「私は……」

 

 答えようとして口の中がカラカラに乾いているのに気が付いた。緊張か、恐れか、理由はアーニャにも判然としない。しかし、その一言が二人との道を別つ決定的な一打になると分かっていたから。

 

「…………」

 

 夕陽が陰っていく。太陽がその姿を水平線の向こうへと落とし込み、やがて暗闇の時間が訪れることだろう。

 

「私は――」

 

 やがて告げた言葉は寄せては返す波の音に紛れて余人に伝えることなく消え、二人と一人の足元の影は最初から決して交わることなく、やがて大きな暗闇が地面に広がっていった。 

 

 

 

 

 



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第60話 風雲急を告げる

ウェールズ帰郷編と合わせるか迷いましたが、ちょうど切りの良い分量になったので


 それは遠い日の思い出。もはや忘却の彼方へ追いやってしまった出来事。お伽噺のように、あの頃の記憶を思い出せる。

 出演者はたった二人。初老の老人と、なんの血縁もないまだ幼い年齢の少年。他人から見ればどこにもである当たり前の日常の記憶。もう取り戻すことは出来ない遠い日々を追想する。

 

『アスカよ、ネギと共に飛び級が決まったそうではないか』

『へへ、それほどでも』

 

 見えるのは数年前の情景、聞こえるのは数年前の音声。当然ながら、それは実際に見えているわけでも、聞こえているわけでもない。それは追憶であり、なれば、記憶の底に、心の奥に、澱のように降り積もった過去の残滓を再生しているだけである。

 この思い出は魔法学校に入学して一年と少しが経過し、寮の管理人であるスタンと何かの拍子に一緒に帰ることになった時のものだ。

 

『馬鹿者、成績というよりもネギとアーニャとセットにしておいた方が良いと判断された面が大きい。あまり驕るものでもないぞ』

『ちぇっ、分かってるよ。偶には褒めてくれたっていいじゃん』

『褒めてほしければ、もう少し普段の態度をじゃな……』

 

 記憶は風化し、改竄されて捻じ曲がるもの。今こうして思い出している記憶も同じく、そもそも、過去の自分を第三者のように眺めている時点で、空想に補完されたものであるのは違いない。それでも、或いはそれだからこそ、その過去の記憶は鮮明に克明にアスカの心に響く。

 

『なあ、爺さん。正しい怒りってのがなんなのか、最近になってなんとなく分かったような気がする』

 

 学校から寮までの短い道のり。夕陽に照らされたアスカは唐突にそんなことを言い出した。 

 

『この世界には理不尽が溢れていて、今この時も誰かが泣かされている。俺はその理不尽を払うためにこの力を使いたい』

 

 アスカが力を求める源泉は故郷が滅んだ時に何も出来ず、救われることしか出来なかった無力感から来ている。だけど、この時にアスカの裡に生まれた思いは、正しき輝きに満ちた理想だった。何時の世でも幼い者の儚い誓いが最も美しく強い。何故なら、彼らは信じるという他に何一つ戦う術を持たないのだから。

 今考えると、何と青臭く子供染みた答えだろうかと昔の自分を殴りたくなるほど恥ずかしい。弱気を守り、強きを挫く。そんな者に成れるのならば、それは確かに素晴らしいことだと、当時は馬鹿みたいにそう思ったのだ。

 

『理不尽に拳を向けたところで何の解決にもならんぞ。理不尽に対する理不尽は破壊しか生まん』

 

 夕暮れを背負ったスタンは問いに対して、とても悲しそうに笑っていた。

 焼けた鉛色の色彩の中、周囲に落ちる影は濃く暗く、佇むその男の姿も暗く陰って、顔つきはおろか服装すらも定かには窺えない。だから、普通なら彼が本当に笑っていたのかなど分かるはずもなかった。なのに、きっと悲しそうに笑っているのだろうなと、そんな気がした。

 

『理不尽にも種類があるってのも分かってる。俺は悪を倒すだけの掃除屋になりたいんじゃない。だってみんなが笑ってる方がいいだろ。だから俺は誰かが泣かなきゃいけない理不尽を、人に理不尽を強いらせる理不尽を砕くためにこの拳を振るう』

『そうか……』

 

 アスカの答えにスタンは、何かを嘲るように、何かを蔑むように、何かを追い求めるようように、何かを思い出すように、飄々と乾いた笑みを浮かべているのだろうと、確信のようにそう感じていた。何故なのかは判らない。だが、その感覚が正しかったことは今になって分かる。

 このアスカの願いはナギの跡を継いで英雄になると表明しているに等しかったのだと、現実の厳しさを知った今ならば理解できる。きっとスタンはアスカがナギのような英雄にはなってほしくないと考えていたのだろう。それでもスタンは父親のようになろうとしている子の願いと思いを頭から否定は出来なかったのだと齢を重ねて分かったような気がする。

 

『嘗てナギも似たようなことを言っておったよ。あれはもう二十年以上も前になるのか』

 

 スタンは小さく肩を竦めて瞳を意味ありげに細め、どこか嘆くように囁くように静やかに話し始めた。

 

『当時は魔法世界で南と北の大国の緊張が高まり、大分烈戦争が始まった頃だった。ナギはまだ学生であったが義憤に駆られて学校を辞めて飛び出して行きおった』

 

 勉強が嫌いというのもあったがな、とゆっくりと含み笑うように告げられた声音は悔恨を含んで掠れて乾き果てていた。

 

『紅き翼なんてグループを作って英雄なんて呼ばれるようになっても、なんにも変わっておらんかったよあのバカは』

 

 世間では正義の味方、理不尽な災厄から、理不尽な悪意から、みんなを守る絶対的な存在と呼ばれるナギでもスタンにかかればあのバカ呼ばわり出来てしまう。スタンの中では英雄としてのナギよりも、勉強から逃げてばかりいる悪ガキとしての姿が強く印象に残っているのだろう。

 

『美人のカミさんを捕まえて、お前達という子宝にも恵まれてこれからだとというのに……』

 

 どこかうわ言のように、あるいは懐かしい過去の想い出を語るように、スタンは静かに言葉を紡ぎ続ける。まるで溢れた涙が零れ出すことを厭うような行為。微笑みはより穏やかに、しかして、そこに透ける悲哀もまた強く。

 十年前のあの日から姿を見せぬナギを恨むように、その言葉だけはアスカの耳に届くことなく虚空へと消えていく。スタンは天を仰ぎ見るように、深い溜息を一度。

 

『年を取ると愚痴臭くていかんな。すまん、忘れてくれ』

 

 スタンが夕陽に紛れて消えてしまいそうで、アスカは彼の袖を握って安心させるように笑った。

 

『大丈夫だって爺さん、俺にはネギとアーニャがいるんだ。父さんみたいにいなくなることはないさ』

『…………はは、そうじゃったな。アスカには二人がいるものな』

 

 当たり前のように言うアスカに、神父は嬉しそうに笑う。擦り切れた記憶にぼかされた記憶にぼかされたスタンの顔は泣いているように見えた。

 泣いた後のように瞳を紅くした神父が穏やかに微笑して、アスカの金髪の頭を穏やかに撫でた。

 慣れた感触に笑みを浮かべながらアスカは鼻も高く言い募る。

 

『ネギ達と村の皆の石化も解くって誓い合ったんだ。石化を解いて、父さんと母さんも見つけて、村を作り直して一緒に住む。それが俺の目標なんだ』

 

 当時には大きく感じた温かい掌で髪を撫でてくるスタンに、アスカが自信満々の目標を口にする。

 

『良い目標じゃ。だが無理はするなよ』

『爺さんこそ、もう若くないんだから体に気をつけろよ』

『ほざけ、若造。まだそこまで年じゃないわい』

 

 この時のアスカは知らなかったが、既に大分高齢であったスタンの体――――心臓の状態はあまり良くなく、寮の管理人という立場も本来ならば無理な状況であったことを。彼が無理を押して傍にいなければならないほどアスカ達は危うかった。持病があったから万全とまではいかないまでも、アスカ達が自力で立ち直れたのも彼が最後のストッパーになっていたから。

 

『人は一人では生きていけない。時に自分が世界の中でたった一人で孤立していると感じることもあるかもしれない。でも、そういう時は落ち着いて、仲間に頼ればいい。人は知らずの内に誰かに支えられて、そうやって生きている』

 

 最後に言った言葉は今でも胸に染みついている。

 

『自分が何をしているのか、何をしたいのか。後悔しないように常に心に留めておきない』

 

 アスカの記憶もそこで途切れる。それだけの記憶だった。なんてことはない。特別な事件だったわけでもない有り触れた日常の記憶。今まで一度たりとも見なかったこの時の情景をアスカを夢としてみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エヴァンジェリンの別荘内で目立つ雲を突き破るように立つ白亜の城――――レーベンスシュルト城。巨大な滝の一角に作られたような城の城下とでもいうべき、湖岸に大きな爆発が起こり、巨大な水柱が立ち昇る。

 

「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル 雷の精霊199柱 魔法の射手 連弾・雷の199矢」

 

 次いでアスカの詠唱と共に湖岸に閃光が奔った。閃光は更に幾つもの水柱を上げ、中には水柱を駆け抜けて蒸発させていく。蒸発して発生した水蒸気が滞留してまるで霧のような状態になり、湖岸の視界がほぼゼロに近くなった。

 まだ幾つも上がっている水柱の周囲で幾人もの影が動く。水面を蹴って走る者、水上を超常の力で疾走する者、理由はそれぞれにして何人もの人が動き回っているのは間違いない。視界を遮られることを嫌って範囲外に撤退した者、前に踏み込んだ者、防御を固めた者と対応は千差万別であったが、この時に限っては判断が遅れた古菲が狙われた。

 水蒸気の霧を突破したアスカによって、古菲は気がついたときには左肘打ちを鳩尾に食らっていた。

 

「あぐッ!?」

 

 霧に囚われていたとはいえ、この左肘打ちを古菲の目は捉えられなかった。打たれた腹に痛みに走った時には宙を舞っていて、自分が錐もみしながらしながら飛んで行くのを自覚しながらも遠ざかっていく意識では着地すらままならない。

 水面に叩きつけられ、五度ほど跳ねてから水柱が盛大に上がり古菲は意識を失ったのかグッタリとして波に遊ばれている。

 古菲が弾き飛ばされた直後、まだ視界が晴れない中で切り裂くように大気が轟と唸るほどの剣速で大剣を振るう明日菜が現れる。彼女は視界が塞がれた瞬間に前を踏み込んだ者、恐れを知らぬ狂戦士の如く猪突猛進する。

 

「たぁ――!」

 

 気合も十分に振り下ろされるハマノツルギよりも早く、古菲への攻撃から一瞬たりとも遅滞なく始めから明日菜の到来を予想していたかのようにアスカが動く。体を捻ってハマノツルギを迎撃すべく、流れるような動きで咸卦の力で強化された拳を放った。

 固めた拳がハマノツルギと接触し、霧が両者が衝突した衝撃によって四方八方に四散した。

 

「おお―――」

 

 咸卦法の莫大なエネルギーが込められたハマノツルギを同じ咸卦のエネルギーで真っ向から押し返し、更に体重を乗せる拳を振り切って明日菜を遥か彼方へと弾き飛ばした。

 遠ざかっていく姿を見送ることなく、アスカは周辺に気配を感じ取って顔を巡らせる。範囲外から高速で迫っていた長瀬楓が自身の接近に気づかれたと分かると四体の分身を作ると、散開して五方向から中心にいるアスカに向けて一気に加速する。

 

「分身、楓か」

 

 タイミングを合わせた前後左右からの同時攻撃。アスカは囲まれても慌てることはせず、冷静に自らの状況を分析してその場から動くことなく短い髪の毛からパシッと紫電を走らせて、水面に接している足裏の力を爆発させて全身が覆い隠されるほどの巨大な水柱を上げた。

 水で攻撃位置を狭めようとしているのだと考えた楓は構わずに突進する。

 

「ちっと、足りねぇな」

 

 接触まで2秒、アスカは動かない。まだ隆起している水のヴェールを突破し、一撃を与える為に本体の楓と数多の分身が全く同時に腕を振りかぶって拳に気を集中する。

 接触まで1秒、アスカは動かない。水のヴェールを突破した。なのに動かないアスカに楓が不審に気づいても、もう攻撃を止められるタイミングではなくなった。

 接触まで0.5秒、アスカはやはり動かない。もう少しで手が届く。例えどんな超常の化け物であっても回避できる状況ではなかった。にもかかわらず、アスカはニヤリと笑って言った。

 

「バン」

 

 瞬間、アスカが爆発した。比喩ではなく、全身に紫電を纏わせたアスカの肉体が内側から破裂して爆発したのだ。肉体の爆発によって周囲に高電力の電気ショックが撒き散らされて、攻撃が当たる寸前だった楓には避けようがなく諸に直撃した。

 

「ぐわっ!?」

 

 四方八方に散る爆電によって分身は消え去り、本体の楓も感電してその動きを止める。

 

「白い雷」

「!?」

 

 水面より出た手から一条の雷が奔って、感電して動きを止めた楓は避けることも出来ずに命中する。悲鳴すら上げることなく水に落ちて沈んでいき、変わりに水の中から本体のアスカが姿を現す、

 

「忍法・雷分身ってな」

 

 分身の応用で内部に雷の精霊を詰め込んだアスカの力作。先程水面を踏み抜いて水柱を上げた際に作った分身と入れ替わり、ずっと本体は水の中に隠れて水中から爆発のタイミングを操作していたのだ。

 種明かしをされても全身の痺れで満足に動くことが出来ない楓は悔し気に唸ることしか出来ない。

 

「次は刹那、お前か」

 

 微かに降り残っていた水滴に濡れながらアスカは一連の攻撃に加わらず、白翼で空を飛ぶ刹那に向けて言うと彼女は顔を強張らせた。

 

「あの三人を一瞬で倒しますか。また腕を上げましたね、アスカさん」

「刹那も鶴子に扱かれたんだろ。俺も切り札を使うからよ、失望させてくれるな」

 

 ゴクリ、と生唾を呑んだ刹那の視線の先で、アスカが虚空に手を掲げた。

 

「来い、黒棒」

 

 アスカの肩の上辺りに小さな魔法陣が浮かび上がり、そこから一本の刀が現れる。刀身から柄まで全てが黒一色の特徴のあり過ぎる刀は学園祭で超鈴音が振るっていた魔導機マジック・デバイスその物のように見えた。

 

「それは!?」

「余所見をしてていいのか?」

 

 魔法陣から現れた刀に見覚えがあって驚愕したが刹那は決して目を離していない。瞬きをした瞬間にアスカの姿が視線の先からいなくなっていた。

 浮遊術と虚空瞬動を併用した超速の移動術。武道大会で見た時よりも格段に早くなっているが、全く見えなかったわけではない。動揺を瞬時に収め、背後から聞こえて来た声に合わせるように反射で夕凪を振るうとガギンと固い金属音がした。

 

「お、これに合わせられるか。前より反応速度が速くなってるな」

「ぬぅうう」

 

 振り下ろされた黒刀に辛うじて間に合った夕凪が鍔ぜり合いをするが、力の差は圧倒的でこのままでは押し込められるので、「せいっ」と前蹴りを放ったが簡単に膝で防御されてしまった。が、刹那の目論み通り夕凪を振れるだけの距離が開く。

 

「斬岩――」

「遅ぇ」

「がぎっ」

 

 岩をも真っ二つにするその一撃が放たれるよりも早く距離を詰めたアスカが夕凪を片手で掴み、技の出っ掛かりの初動を潰された。刹那の行動は全てアスカに読まれている。しかも、夕凪を掴むと共に刹那の腹に膝を叩き込んでいた。

 刹那が口の中の息を漏らしたのは膝蹴りの直接的な痛みだけではななく感電したかのように極端な反応を見せたのは、膝蹴りに魔法の射手を込められていたからで雷特性の痺れが襲っていたためである。

 次いで前蹴りが放たれて追撃を受けた時には全身に痺れが走っており、一時的にほぼ無力化されている。アスカはトドメを指すべく黒棒の先を蹴り飛ばされた刹那に向けて中位古代語魔法へのコンビネーションへの準備を終えていた。

 

「食らっとけ、解放・雷の斧」

 

 遅延呪文によって事前にストックしておいた雷の斧を放つ。

 拳に込めるよりも劣る魔法の射手込めの膝蹴りのスタン効果であっても、詠唱要らずの遅延呪文によって回復よりも早くコンビネーションが成立してしまえば回避も防御も難しい。事実、刹那の回復よりも早く雷の斧が彼女を襲いかけたが、「えいっ!」と先ほど弾き飛ばされ明日菜が戻って来てハマノツルギで打ち払う。

 

「刹那さん!」

「仲間の心配をして敵から目を離す馬鹿がいるか!」

 

 刹那の心配をする明日菜を注意するように言いながら躍りかかるアスカ。

 キン、キン、キンと金属音が連続する。得物が小振りなのを利用して怒涛の如く連撃を加えて来るアスカに対して取り回しの難しい大剣を扱う明日菜はここ一番で一撃必殺を狙うしかない。

 自分の身長よりも長く、また身体を隠せるほどの幅のある大剣を、まるで風車を回すかのように軽々と振り回すが中々ここ一番が来ない。 キン、キン、キンがあまりの連撃にキキキンと音が連続するように響き、咸卦法を使って莫大なパワーを持つ明日菜の腕が衝撃に痺れていく。

 パワー負けをしていて攻撃すら出来ないではジリ貧。それでも明日菜はその時を待つ。

 

「このぉ!」

 

 やがて息継ぎをするようにアスカが身を引いたのをチャンスと見て一気に突っ込む。大質量の大剣の重量を活かして大木を切り落とすように振るった。

 

「わざとだよ、これぐらい気付け」

 

 振るわれたハマノツルギを肘と膝を使って白羽取りの要領で受け止め、アスカは黒棒の先を明日菜に向けて柄にある銃のトリガーのような物を引き絞った。

 

「雷の暴風」

「きゃっ!?」

「明日菜さん!?」

 

 相応に手加減された黒棒から放たれた雷の暴風が避けることも出来ずに明日菜を直撃し、彼女に助太刀せんと向かっていた刹那を巻き込んで直進して水面に着弾した。

 アスカのいる場所まで水柱が立ち、そこから小太郎が突如として現れた。

 

「油断し過ぎやぞ!」

「してねぇし。お前こそ他の奴がやられるまで待ってんじゃねぇよ」

 

 明日菜と刹那を戦闘不能にして気を抜いているように見えたアスカに向かって水柱から突如として現れた小太郎が分身して四方八方から一斉に襲い掛かった。

 まずは先に進む分身二体が下から滑り込むような動きで接近してくる。言い返しつつアスカは焦ることなく潜り込みようにして向かってくる二体の小太郎の頭を軽くトンと押して、飛び上がることによって躱した。

 

「「ここや!!」」

 

 頭を押された二体はバランスを崩して行き過ぎてしまうものの、残りの二体が前方宙上がりをしたアスカの両横から挟み込むように回転している隙を狙って迫る。天地が逆さまのアスカは冷静に周囲の状況を図り、未だ空中にいながら体操選手のように身を回転させて、足を広げて両足でそれぞれを蹴り付けた。

 

「「ぐわっ!!」」

 

 二体の分身が霞と消えるが、アスカも流石に体勢が崩れてしまって次への行動が遅れる。

 

「「はァ!」」

 

 そこに先程踏み台にされた二体が背後から片手に狗神を纏って迫る。しかし、それすらも後ろに眼があるかのように反応し、後ろに手を伸ばして掴み取ってしまう。更に頭を下げ、肘を搗ち上げることで分身の顎を跳ね上げる。

 

「「くっ!」」

 

 そして顔が天を仰いだところで振り返り、「はっ!」という気合の入った声と共に振るわれた掌底に、大きく弾き飛ばされていた。飛び散った分身は次々と消滅し、たった一人残った本体の小太郎は分身と別行動を取って直上から仕掛けていた。

 が、その目の前に迫る黒い物体。咄嗟に拳を固めて、それを払いのける。横に弾いたそれを片目だけの視線で追うと、何時の間に投げていたのか黒棒であった。

 

(何時の間に投げたんや)

 

 跳ね除けた服の腕の部分が、薄く切り裂かれる。黒棒は偶然そこに投げられたのではなく、攻撃の意図を読んで本体の小太郎に向けて投げつけられたものに疑いなかった。裂傷の痛みに舌打ちしながら、攻撃を取り止めて飛び上がる。

 

「おいおい、今のは追撃するところだろ」

 

 距離を取った小太郎に言いながら崩れていた体勢を整えたアスカは弾き飛ばされた黒棒を物体呼び寄せアポーツの魔法で取り寄せる。

 アスカが言うように追撃するべきかどうかは小太郎にも判断がつかず、狗神を呼び出して「行け」と叫んで先行させる。

 

「ふっ」

 

 高速で迫る狗神をアスカは焦ることなく左足で超高速の上段回し蹴りを放って消滅させる。ほぼ寸瞬違いで追従していた小太郎がそこへ強襲をかけるが。

 

「ガッ!?」

 

 アスカは上段蹴りの回転力を活かしたまま右足で下段回し蹴りを放つ。二撃目の蹴りは狗神を消滅させた時の数倍は早い。わざと小太郎に蹴りのスピードを誤認させて隙を生み出させたのだ。

 小太郎は蹴りで吹き飛ばされつつ、体勢を整えながら次の一手を模索する。積み重ねた戦闘経験が一つの解を導き出す。

 空中を滑空する自身を追ってくるアスカを視界に置いて、手に留めていた狗神を両手を叩き合せて握り潰した。握り潰された狗神は右拳に纏わりついて、オオンと先に潰された恨みを晴らさんとばかりに雄叫びを上げた。

 それを見てとったアスカは、まるで槍投げの槍のように黒棒を持つと、「雷の槍」と呟いた。すると、黒棒が雷を纏って槍の形を形成し、瞬く間にアスカの身長を超える巨大な雷槍へと成長する。

 

「避けろよ」

 

 そう呟かれて放たれた巨大な雷の槍の威力は小太郎の防御力では防ぎ切れない。

 

「やべっ」

 

 小太郎はアスカが近接で仕留めに来ると予想したが、予想に反して遠距離魔法で決めにきたと判断して少しばかり焦る。巨大な雷槍が受けて受け切れるものではないと判断して、放たれた瞬間に急いで虚空瞬動で射線上から退避する。馬鹿デカいがその分、回避は容易と考えた為だ。当然、アスカがそのことを考えないはずがない。

 

「残念、これは質より量だぜ」

 

 瞬間、雷槍が分解されて数十に及ぶ雷の槍となって小太郎へと襲い掛かった。

 一気に広がった射線内から退避できないと判断した小太郎は防御よりも迎撃を選択する。

 

「狗神!」

 

 小太郎も易々と落とされはしない。体のあちこちから数十体に及ぶ狗神を呼び出して雷の槍を迎撃する。雷の槍も一つに纏まった物が分解された分だけ一つ一つの力はそこまで大きくはない。急場で呼び出した狗神でも対応可能だと考えた。

 数十の雷の槍と狗神が激突し、爆発と閃光が二人の間に広がる。

 小太郎の読み通り、数で劣る狗神であっても量を優先して質が低い雷の槍の山を迎撃できている。次のアスカの行動はより強力な遠距離魔法か、それとも近接を選んでくるか。迎撃を続けながら思考を続けていると。

 

「戦いの最中に考え事か、小太郎」

 

 小太郎はアスカから目を離してなどいなかったが爆発に意識を僅かに逸らした所為で、気付いたときには自身の右側から迫られていた。

 

「チィ!」

 

 アスカの下げている右手に魔法の射手が渦を巻いて集まってきているのを感じた。アスカの必殺技である雷華豪殺拳の前兆だと分かり、行動が遅れた自身では相殺することは出来ないと即時に判断した。

 耐えきることを選んだアスカは攻撃を受ける可能性の高い左頬に気の防御を集中する。

 

「オラァっ――ってな」

「なっ!?」

 

 アスカは直前で拳を止め、目の前から姿を消した。気配を察知した時にはアスカは小太郎の背後に回って、飛んできた未だ雷の槍の形を残している黒棒を掴み、刀身に雷光を集中させていた。

 

「神鳴流奥義、偽・雷光剣!」

「ガハァッ!?」

 

 残っていた雷の槍のエネルギーを再利用しての雷光剣は偽と名付けられたように本来の破壊力はない。それでも意識外だった無防備な背後からの強烈な一撃に背骨が折れそうなほどに逆くの字になって小太郎が水面へと落ちて行く。

 水柱を上げて落ちた小太郎を見下ろし、他の誰もが向かってこないことを確認してアスカは一つ息をつくと、水で濡れたシャツを気持ち悪げに襟元を引っ張った。

 

「着替え、あったっけ」

 

 五人を圧倒しながらもアスカの頭にまずあったのは服の心配だった。

 決着が着いたバトルフィールドに黒のワンピースをゆらゆらとはためかせながらエヴァンジェリンが下りて来る。

 

「勝負あったな」

 

 アスカの斜め上で、スタン効果やダメージが抜けてようやく動けるようになってきた敗者達を見下ろし、満足そうに頷いたエヴァンジェリンは手に持っていた物をアスカに向けて投げつける。

 何気なく物を受け取け止めたアスカはあまりの重さに「うおぅ!?」と変な声が漏れてへっぴり腰になる。直ぐに力を調整して腰を戻すが、手の中の物の重さは以前変わらない。

 

「なんだよコレ?」

「次の修行だ」

 

 アスカが問うとエヴァンジェリンは同じような物を更に3つ投げた。

 放物線を描いて飛んでくる物が先の物と同じ重さぐらいであろうことは予想に容易く、気持ちの準備が出来てれば慌てることもない。重さが重さだけに簡単にはいかないが、落とすことなく見事にキャッチする。

 投げられた物をしっかりと確認すると、身体強化をしているアスカの手にズシリと沈むのは世間一般にパワーアンクルと称される筋力トレーニング器具であった。

 

「アルビレオ謹製のそれらを四肢に巻いて各エリアを虚空瞬動で回って来い」

 

 顎で転送転移陣を示され、アスカは各エリアの様子を思い出して些かげんなりとする。

 合計すればトンに達しそうなパワーアンクルを付けて精密な制御が要求させる虚空瞬動だけで、極寒・極暑もあるエリアをマラソンしなければならないとなれば修行好きのアスカでも出来れば避けたいハードな内容だ。

 

「この重量で虚空瞬動マラソンってきつくね?」

「私は行けと言ったぞ」

 

 スパルタと定評があるエヴァンジェリンに言ったところで彼女が一度決めたことを覆すことはないないので、ギロリと睨まれたらアスカに出来ることはただ一つ。

 

「へいへい、仰せのままに」

「減らず口はいらん」

「アスカ、行きまーす」

 

 茶化すように言うと想像通りにお師匠様は口をへの字に曲げたが、それでも最後まで減らず口は閉じにパワーアンクルを付けたアスカは過酷な虚空瞬動マラソンへと旅立って行った。

 普通の人間で在れば支えきれぬ重みを負いながらも軽々とした拍子で去って行った弟子を見送り、水面に降りてプカプカと浮かぶ小太郎の頭を足蹴りする。

 

「起きろ、駄犬。何時までも寝たふりが通用すると思うな」

「…………五月蠅いわい、誰が駄犬やねん。寝たふりなんぞしとらんわ」

「駄犬が嫌なら負け犬と呼んでも構わんぞ」

 

 小太郎は足蹴りされた痛みに頭を押さえながら起き上がると、言い合いを続けるよりも沈黙を選んだ。言い返して来ない小太郎にふんと鼻を鳴らしたエヴァンジェリンがすうっと息を吸った。

 

「今の戦いの講評をするぞ、全員城に戻れ!」

 

 別荘の主であり支配者であるこの女帝の命令に逆らえる者など、この場に誰一人としているはずがない。

 かくして多少の痺れが残るのみで大した怪我がない敗者達はレーベンスシュルト城へと戻り、「治すえ」と張り切る木乃香が治療に回る。

 

「――――分かっていたことだが、貴様らには集団戦闘は向かん」

 

 意地で立っている小太郎以外は座り込んでいる面々を前にして、まず最初にそう言った。戦いには参加せず、のどかと千雨と共に観戦していたアーニャにもその理由はよく分かった。

 

「全員戦士タイプで指揮官がいないものね」

「指揮する人間がいないから分断して各個撃破。言葉にすれば単純だが、これでは五対一ではなく、一対一を連続したに過ぎん」

 

 言葉通り最初からこうなることは予想していたらしいエヴァンジェリンは全員の見渡して、予想外が起こらなさ過ぎてつまらんと表'8f薰ノ出して続ける。

 

「アスカも全員に一気にかかってこられれば、押し負ける可能性は十分にあった。だからこそ、貴様らを分断するために初手を取った。魔法の射手を放って水柱を上げさせたのも視界を奪う為と各人の行動を限定させる為だ。大半は分かっているようだが」

 

 アスカは開始と同時に咸卦・太陽道を発動させて圧倒的なパワー差を見せつけて先手を封じ、魔法の射手を湖面に叩き込んで幾つもの水柱を上げさせた。その理由を告げられると分かっていない顔しているのは明日菜のみ。

 説明する必要性を感じ、エヴァンジェリンも仕方なく口を開く。

 

「敵が複数いる場合の常套手段は敵のリーダーを先に倒すか、弱い奴を倒して人数を減らすかだ。お前達にリーダーはいない。となれば、まずは人数を減らすことを優先する。戦う場所は安定した地面ではなく水の上となれば、この中にいるだろう、まだ気の扱いが苦手な奴が」

「…………私アル」

「貴様が真っ先に狙われたのは、まだ水面では地上ほどに動けないと知られていたからだ。最も削りやすいと見なされ、事実簡単に落とされた」

 

 ぬぬ、と古菲は悔し気に唸る。古菲があの時、移動しなかったのは慣れない水面上での移動をするよりは留まって攻撃や防御の方がしやすいと判断した為である。弱者と見られ、狙われても仕方ないと古菲の戦術眼は認めざるをえない。

 

「次は性格的に考えて明日菜が来るとアスカは考えた」

「え、なんで? 事実、そうなったけど」

 

 性格的に何故次が自分なのだと明日菜は首を捻ったが、実際に攻撃したのは確かに彼女だった。

 

「気配探知が優れているわけでもないのに勘に冴えていて、例え見えていなくても突っ込む猪娘は貴様しかいないということだ。ああ見えて慎重なところがある忍者と石橋を叩いてから渡る性質の刹那ではこうはいかん」

 

 理由を説明されれば猪娘という不名誉な名称に不満はあれど、納得せざるをえない明日菜はぶすっとした面持ちで話しを聞く。

 

「まだ三人も残っている状態で一合以上やり合うのはまずい。下手に長引かせれば後ろを取られるからな。だからこそ、アスカは力任せに明日菜を弾き飛ばして一時戦いから遠ざけた。実際、そこの忍者は視界が晴れたら直ぐに行動を起こしただろ」

 

 うんうん、とその通りの結果になった明日菜は納得がいった心持ちで頷いた。

 

「アスカが何手もかけていれば別であろうが、全てを初手で決していては先に言ったように刹那は手を出さん。一手縛りの制約はあるが、忍者もそこには気づいたがアスカが先に行動を移すという先入観があったから簡単に罠に嵌った」

「全く以てその通りでござるが、せめて名前で呼んでほしいでござる……」

 

 忍者としか呼ばれない楓は白い雷の直撃を受けて若干煤切れた様子で物申すが女帝様は聞く様子もなく話し続ける。

 

「この時点でまだ10秒ほど。明日菜はようやく着地して戻って来ようとしているところ。格闘バカ二人はノックアウトしてるから後は刹那をゆっくりと料理すればいい」

 

 格闘バカ扱いされた楓と古菲は地味に傷つくも、あっさりとやられた身なので抗弁も出来ず、大人しく木乃香の治癒を受けるしかない。

 木乃香からの治療が終わった刹那が、それまで黙っていたが意を決して口を開いた。

 

「私も、もう少し出来るかと思ったのですが」

 

 アスカの実力が自分の遥か上に位置していることは分かっていたつもりだったが、これほどにも何も出来ずにやられるとまでは予想していなかったので肩を落として落胆する。

 

「尋常な立ち合いの上ならばそうであろうが、あれは流れの中での戦いだ。最初に隙を生ませ、そこを突いて攻撃を重ねることで圧倒する。これは本来、格下が格上にする闘い方ではあるが、格上がすると手に負えんだろ?」

「常に先手先手を取られて、後手に回らざるをえませんでした…………あの、アスカさんがもっていたあの得物は」

 

 戦いの主導権を完全に握られては、実力差以上に有利に運べる要素が欠片もない。戦い方が上手いというのはこういうことを言うのだなと実感しながら、刹那は主導権を握られたあの黒い刀について尋ねた。

 

「超の遺産と呼ぶべき物らしいぞ。なにかは貴様の考えている通りだ。葉加瀬曰く、アスカ専用に作られていたらしくてな、学園側から異常なしとして正式に譲渡された物だ」

「そうですか……」

「名前が黒棒ではネーミングセンスがなさ過ぎだがな」

 

 麻帆良祭の時に超がネギとの戦いで使った魔導機マジック・デバイスと同型の物に刹那は動揺を誘われ、主導権を与えてしまったに等しい。あれさえなければ、という思考は既に敗北を認めているに等しいので言うつもりはなかったが、今まで出しもしなかったのに刹那相手に使ったのはそれほど脅威と思われたのか。

 次いでエヴァンジェリンが見たのは明日菜。

 

「刹那へのトドメを防いだのは良いとして、敵から目を離してだけに留まらず、作られた隙に簡単に手を出すド阿呆はどこの誰だ?」

「はい、私です。面目有りません……」

「エヴァンジェリンさん、明日菜さんは私を心配して」

「それで貴様と同じように主導権を握られたら意味がないだろう。しかも貴様が救援に行けないのに立ち回られていることにも気づいておらんのだ。馬鹿者と言いたくもなる。そもそも貴様がもう少し持ち堪えていれば状況を改善出来ていたのだぞ。貴様こそ猛省しろ」

 

 罵倒されて小さくなっていく明日菜を心配した刹那だが、自分にもやり玉が回って来て鼻先を押されたように正座していた膝の上に置いていた拳を強く握る。

 ふと、何かに気づいた様子の明日菜が顔を上げた。

 

「ねえねえ、私って魔法無効化能力があるのよね?」

「なんだ、当たり前のことを聞いて来て」

「最後の雷の暴風が全然無効化されなかったから」

 

 明日菜としては魔法無効化能力が生命線なので気になる所なのだろう。雷の暴風を受けたのに無効化するどころか威力に押されて刹那も巻き込んでしまった。気にならないはずがない。何時かは気づくと分かっていたのでエヴァンジェリンは慌てない。

 

「麻帆良祭の時に貴様と合体して無効化に対して耐性が出来たのだろうよ。良かったな、天敵が出来て」

「天敵って……」

 

 今はまだ知る時ではないとこの理由で押し通すことにしているエヴァンジェリンは最後に小太郎を見る。

 

「各人に問題はあれど、一番の問題はそこの駄犬だな」

 

 少女らから視線を切って、一番ダメージが大きいのに意地を張って立ち続けている小太郎を見たエヴァンジェリンは聞かん坊を見るように溜息を吐いた。

 

「折角、多対一を目的とした戦闘訓練だというのに一対一に拘っただろ、貴様は」

「悪いか」

「当然だ。なんのための訓練だと思っている」

 

 小太郎が最後まで姿を現さなかったのは多勢で一人にかかるのを良しとせず、他の少女達が倒されるのを待ってから仕掛けたことを悪いことだとは思っていない。が、戦いの趨勢を小太郎の行動がある意味で決定づけたところがあるのもまた事実であると理解していた。

 

「意地の張るのも良いが、物事には時と場合がある。そのことは弁えておけ」

 

 小太郎の場合、普段は張っている意地をかなぐり捨てて勝利を目指した時の爆発力が強いことを知っているエヴァンジェリンはそれ以上は言わなかった。

 そこで今まで黙って講評を聞いていたアーニャが口を開く。

 

「私にはよく分かんないんだけど、結局はこの五人よりもアスカの方が強いわけ?」

 

 終わってみればアスカは一撃ももらうことなく、圧倒的優勢のまま全員を倒して勝利したのでアーニャの疑問は順当と言える。

 

「強いのは事実だが、今回はアスカの戦いが巧くなったことを褒めるべきだろう」

「確かに常に先手を取って主導権を握り続けて勝つなんて今までのアスカにはなかったものね」

 

 過去のアスカは目の前の戦いに没頭して勢いと流れ、持ち前の天才性と性能で押し切る場面が多かった。なにも考えていないわけではないが、多人数の強者と戦った場合に常に優位に運ぶような戦い方はしてこなかった。

 ここに来てそのような戦い方が出来るようになったということは、また強さのステージを一つ上げたということ。

 

「こいつ等の中に指揮官タイプがいないのは分かりきっていたことだから、この結果は予想して然るべきことなのだが些か面白みもない。ネギは研究が大詰めというので参加できなかったがアーニャ、お前がこいつ等を指揮していれば結果はもう少し違ったかもしれんぞ」

「冗談、私じゃ戦闘の速さについていけないわよ」

 

 元からアスカ・ネギを動かして戦ってきたアーニャと、指揮官としての素質があるネギがこの戦いに参加していれば覆ったかもしれない戦いではあるが、アーニャとしては自分では能力が低すぎて付いていくことは出来ないと告げる。

 

「前線指揮官と全体の指揮はまた別なのだがな」

 

 アーニャは強さに対する劣等感を抱き過ぎている節があるとエヴァンジェリンは言いたいが、こういうのは自分で気づかなければ意味がない。

 

「とまれ、力と経験に大きな開きはあるが、これだけの人材は本国正騎士団にもおらん。盗賊やら魔獣の群れは優に及ばず、今のお前らならばハワイで戦った奴らに勝つのもそう難しくはないだろう。アスカがいるのだからナギクラスがゴロゴロといる紅き翼のような集団とでもやり合わぬ限り、今の貴様らに危険はない」

 

 のどからと一緒に観戦していたが、あまりの戦いのスケールの違いに呆然とするしかなかった千雨はエヴァンジェリンの言葉に少しホッとした。自称最強の吸血鬼らしいエヴァンジェリンがそこまで言うのならば、一緒に付いていく千雨としても安心できる材料だった。

 

「戦争もない今の時代にそのような本物が集団でいる必要もない。ふん、これではただの観光旅行になってしまうな」

 

 つまらなげに言ったエヴァンジェリンのこの言葉が、千雨にはどうにもフラグに思えて仕方なかった。

 

「なんの話してんだ?」

「早いな、アスカ。もう戻って来たのか」

「十分に疲れたっつうに」

 

 空の上から現れたアスカが重さを感じさせない身軽な所作で着地すると地面に座り込む。

 

「あ~、重て」

 

 地面に座り込んだままパワーアンクルを外して手を離すと、ズシリと重たげな音が響いて地面に罅が入った。アスカは軽げに落としているが、千雨は近くにいたので石畳の地面に罅が入るほどのパワーアンクルの重さに興味を持った。

 

「なあ、ちょっと持ってみていいか?」

「いいけど、無理だと思うぞ」

「舐めるなよって重っ!?」

 

 見た目が市販のパワーアンクルと大差ないのでアスカの言い方に少しカチンときた千雨がいざ持とうとするとピクリとも動かない。両手で持ちあげようとするが結果は同じ。流石にそれには少し癪に触って意地でも動かしてやろうとパワーアンクルを掴んだところでエヴァンジェリンが一言。

 

「一つ辺り、二百五十キロぐらいあるから指が下敷きになると抜けなくなるぞ」

「先に言えよ!」

 

 含み笑いながら言われて突っ込みを入れた千雨は慌ててパワーアンクルから手を離す。結局、一ミリも動かすことが出来ないままパワーアンクルはそこにある。

 ようやく木乃香からの治療を終えて全快した小太郎が気になってパワーアンクルに手を伸ばす。

 

「!? 随分と重いやんけ。これ四つ合わせたらどんだけあんねん」

 

 素の身体能力では動かすことも出来ず、身体強化をしてようやく持てたが尚もズシリと重いパワーアンクルを手にした小太郎がエヴァンジェリンに聞く。

 

「おおよそ一トンといったところだな」

「「「「「「「一トン!?」」」」」」」

 

 勿体ぶること事もなく4つの重さの合計を告げたエヴァンジェリンに七つの驚きの声が唱和する。特に小太郎はアスカがこれらを付けて、より力の制御が要求される虚空瞬動をしながら極寒・酷暑のエリアを踏破されているのを半ば意識を飛ばしながら聞いていたので驚きは大きい。

 

「力の差は開くばかりかいな……」

 

 最初に出会った頃はほぼ互角だったのに、ハワイ・ヘルマン・学園祭を通して実力に圧倒的なまでに差が開いた。

 小太郎も出会った頃よりも飛躍的に実力を伸ばしているが、アスカの伸び率の方が異常なほどに大きい。持って生まれた才能の差と言ってしまえば、単純な肉体的ポテンシャルで人間を上回る半妖の小太郎の方にだって同じことが言える。

 

「…………」

 

 小太郎が視線を向ければ、試しにとパワーアンクルを持つことに四苦八苦している少女達の脇で、胡坐を掻いて呼吸法を行うアスカを中心としてマナが渦を巻いているのが見えた。咸卦・太陽道で外の世界より濃い別荘の魔力を吸収して回復を図っているのだ。

 流石に体力までは咸卦・太陽道でも回復は出来ないが、小太郎が見ている前でアスカの力が時間の経過と共に回復していくのが感じ取れる。

 ただでさえ莫大な魔力量を持つアスカが咸卦法を習得したことで人間離れをしたエネルギー量を得ることに成功し、太陽道を使用することで使う端から回復していくので、よほど大魔法を連発しなければエネルギー切れになることはない理不尽な状態になる。

 

「俺だって」

 

 小太郎が魔法世界に行くのはアスカの手伝いだけではない。まだ見ぬ強敵と戦うことでスキルアップを図る意味合いもある。この壁を何時かは超えてみせると熱意を燃やすのだった。

 小太郎が一人決意に燃えていると、同じように実力を上げていくアスカに焦燥感を抱く者――――古菲は自分に足りない物を模索する。

 

「むむ、やはり私には決定打が足りない気がするアル」

「決定打って?」

 

 古菲の呟きを聞き咎めたのは五感に優れた明日菜。

 むんむんと唸る古菲は腕を組み、今はカード化している明日菜のハマノツルギや先の戦いでアスカが使った黒棒を思い出す。

 

「気の習得が及んでいないのは修練でどうにかするにしても、私にはみんなのような遠距離の攻撃方法がないアル。一対一で相手が手の届く範囲ならまだしも、魔法使いと戦って距離を開けられ続けるとなにも出来ないアル」

 

 武道大会で使った布槍術にしても遠距離を得意とする魔法使いに範囲外から攻撃を続けられたら成す術もない。楓と比べると古菲は機動力があるわけではないので、なんらかの中・遠距離用の攻撃方法が欲しいところである。

 

「足手纏いは嫌アル」

「古菲は私より強いじゃない。足手纏いなんて」

「明日菜には魔法無効化能力に咸卦法があるアル。近距離でしか攻撃方法がない私は護られる側になってしまうアル」

 

 アスカは主力、ネギは火力担当、明日菜は対魔法使いの切り札、小太郎は切り込み隊長、刹那はオールラウンダー、楓は陽動から囮までこなせる遊撃、木乃香には治癒と式神召喚、アーニャは指揮官、それぞれに何がしかの役割があるが、この中で古菲の役割だけが限定されてしまう。言ってしまえばいてもいなくてもどっちでも良いのだ。格闘家としては身一つでどうにかしたいが、足手纏いにしかならない現状は古菲としては我慢できない。

 

「なら、仮契約してみるか?」

 

 深刻そうな悩みを吐露しているので話を聞いていたエヴァンジェリンがふむと頷いてそんなことを口にした。

 

「俺っちをお呼びかい?」

「うわっ、カモさん!? 何時の間に……」

「ふっ、仮契約と聞けばどこにでも参上するぜい」

 

 何時の間にそこにいたのか、肩の上に乗っていたアルベール・カモミールにのどかが驚く。当のカモはニヒルに笑いながら口に咥えた日の付いていない煙草の先をユラユラと揺らす。

 

「仮契約アルか?」

「ああ、仮契約をすれば何かと便利で運が良ければ貴様が望むアーティファクトを得られるかもしれん」

 

 仮契約をすれば従者への魔力供給は気を主体とする古菲には必要ないが、従者の召喚・念話・潜在能力の発現・衣装の登録・防御力アップだけに留まらず、本人の特性に合ったアーティファクトを召喚できる。

 エヴァンジェリンが言うように運が良ければ、仮契約によって古菲が望む遠距離攻撃が可能なアーティファクトが出るかもしれない。

 

「それならば拙者も頼めるかでござるか」

 

 そこへ今まで黙って話を聞いていた楓も嘴を突っ込んだ。

 

「楓もか?」

「おかしいでござるか? なにが起こるか分からない場所に行くのでござるから、拙者も憂いを残しておきたくないでござる」

 

 やれることをやっておきたいと言う楓に刹那は納得の表情を返す。刹那にも木乃香との仮契約のアーティファクト「建御雷」がある。魔力を溜めて放出するタイプのアーティファクトだから普段から使用することはないが、切り札としてあるのとないのとでは気持ちの持ちようが全然違う。

 二人から仮契約の申し出が出たのを確認したカモは髭を撫でつけながら思案する。

 

「そこの二人が仮契約をしたいってことでいいな。問題は誰とするかだ」

 

 仮契約カードの中にはアーティファクトが出るカードと出ないカードがあり、アーティファクトが出るカードをアーティファクトカードと呼ぶ。マスター側に強力な魔力・気が無い場合、仮契約自体は出来てもアーティファクトカードが出ない。その点、この場にいる魔法使い達ならばその基準をクリアしている。

 

「単純な魔力量と太陽道で回復力が尋常じゃねぇアスカの兄貴が第一候補なんだが」

 

 麻帆良に来てからも飛躍的に伸びている魔力量と会得した太陽道の回復力のお蔭で、魔法戦士として戦いながら従者に魔力供給をしても十分に余裕があるアスカが当然の如く第一候補に挙がった。

 当然、その流れを面白く思わない者もいてカモもそのことを承知している。

 

「…………」

「いや、明日菜の姉さん。分かってるから無言で俺っちを捕まえようとするのは止めてぴぎゃ!?」

「アスカは主力だぞ。万が一でもリスクになるような提案は師匠として認められんな」

 

 坐った目で無言のまま手を伸ばしてくる明日菜からのどかの反対の肩に逃げながら言ったカモの体を掴んだのはエヴァンジェリン。眼の端を若干引くつかせながらカモを引き寄せる。

 

「ぐぐ、二人とも気が主体だから魔力供給することもないだろうし、その心配はない…………こともないですね、はい!」

 

 言っている途中で掴まれている手の力が増して腹の身が口から溢れそうな錯覚に陥り、すぐさま自説を否定したカモ。緩まった手の中から抜けて地面に落ちてホッと息をつき、次の候補を探して首を巡らせる。

 

「ネギの兄貴は…………のどかの嬢ちゃんが可哀想だから除外するとして」

 

 エヴァンジェリンが二人と仮契約をするわけがないので最初から除外するとして、次に挙げたのは当然ながらネギの名前だったが恋人と言えるのどかが首を横に何度もぶんぶんと振るのを見ると流石に哀れに思えてしまう。

 ほぼ付き合っている恋人が必要だからと他の女とキスするのは乙女的に受け入れ難いのだろう。無理からぬことだとして、また次の候補を探すも残るは二人しかいない。

 

「後はアーニャの姉さんか、木乃香の姉さんしかいねぇな」

「私はパス、木乃香に任せるわ」

 

 カモが言うが早いか、アーニャはさっさとバトンを木乃香に渡す。

 木乃香の従者である刹那としては受け入れ難い部分があるのか、彼女の表情は少し気に入らなげなものに変わった。刹那的にはアーニャが主になるのが最も望ましい展開ではあるのだから。

 

「まあ、アーティファクトはマスター側に強力な魔力がある方が良いやつが出やすいから人選としては間違っちゃいねぇ。女同士だし、ノーカンにしとけばいいしな」

 

 事実、刹那の建御雷は木乃香の魔力量も相まってかなり強力な部類に入るアーティファクトである。二人が強力なアーティファクトを得ることが出来れば戦力の上としてはプラスに働くことになるのだから刹那が反対を口にする理由はない、ないのだが。

 

「気にし過ぎやて、せっちゃん」

「お嬢様……」

 

 木乃香に後ろから抱き締められ、優しい声をかけられると刹那としては肩に入っていた力が抜けてしまう。

 

「うちが一番大好きなんはせっちゃんやからな!」

 

 二人の身長はそう変わらないので耳元でそんなことを言われてしまったら、刹那は茹蛸のように真っ赤になって頷かないわけにはいかない。悲しくも嬉しい飼い慣らされた犬の如き習性で、主の言うことには絶対服従してしまうのだ。本当に哀れなことに当の犬は主の言うことに喜んで従ってしまうことだろう。

 

「百合かよ」

「何時ものことよ」

「…………なんとなく気が咎めるでござるが」

「微妙に複雑アル」

 

 二次元に造詣の深い千雨は女同士のカップルが現実に存在することに女子校に通っている身としては愕然とし、この光景を見慣れた明日菜などは放置に限ると顔に書いてあった。話の流れ的に木乃香と仮契約することになりそうな楓は糸目のまま頬を掻き、事の発端の古菲は二人の関係の出汁に使われたような気分に遠い目をする。

 

「仮契約パクティオー!!!」

 

 重いことにすると年頃の乙女として気になる部分も出てくるので、気持ち的に軽い感じで必要なキスを行って仮契約が無事に終了した。感触とか感想の話になると刹那が面倒なことになるので、ここはスルーしてアーティファクトを出すことにする。

 

「こうでござるか、来たれアデアット」

 

 まずは自分からと事前に聞いていたアーティファクトを呼び出す文言を呟く楓。すると、カードの代わりに楓の全身を覆い隠してあまりある少しボロい布がふわりと広がって現れる。

 

「こいつが楓姉さんのアーティファクト『天狗之隠蓑』だな。布を翳すことで敵の攻撃を吸収することができて、被れば完全な隠匿状態になって視覚・感覚のあらゆる方法における感知不可能な状態になるって代物だ。忍者の姉さんにはこれ以上ないアーティファクトだな」

「使いようによっては十分に強力なアーティファクトでござるな」

 

 ノートパソコンを開いてアーティファクト協会に登録されている説明書を読むカモの説明を聞いて、自分で選択できない中で十二分に納得のいくアーティファクトを得ることが出来た楓は満足そうな笑みを浮かべる。

 魔法使いと違って障壁がない楓には攻撃を吸収できて、忍者の本分である隠密機動を補佐するアーティファクトを得られたのは僥倖に過ぎる。

 

「次は私アル、来たれアデアット!」

 

 楓が強力なアーティファクトを引き当てたので自分もと高揚した様子でアーティファクトを呼び出す古菲の手に現れたのは一本の棒だった。

 

「ほほう、棍アルか。うぉ、重い!?」

「そいつの名は『神珍鉄自在棍』っていって、西遊記の孫悟空が使用する如意棒の複製で言葉とイメージで太さと長さを自在に変えることが可能らしいぜ」

 

 説明を聞いた古菲はズシリと手の中で存在を主張する神珍鉄自在棍をクルクルと回し、不思議と長年使い慣れた道具のように手に馴染むアーティファクトを使って見たくて仕方なかった。

 

「ちょっと試してみてもいいアルか?」

「いいが、こっちに向けるなよ」

 

 別荘の主であるエヴァンジェリンに請うと、古菲の目が止めても無駄だと判断してシッシッと煩わし気に手を振る。

 ぞんざいな扱いもなんのその。今の古菲は長年欲しかった玩具を与えられたに等しく、何の痛痒も感じずに嬉々としてテラスへと近寄ると、手の中の神珍鉄自在棍をクルリと回して構えた。

 

「伸びレ!」

 

 限界を知りたくてレーベンスシュルト城の上空に浮かぶ空を貫くイメージと共に発声すると、手の中の神珍鉄自在棍は古菲の望み通りに伸びる伸びる伸びる。イメージ通りではあるのだが、正直そこまで予測はしていなかった古菲の度肝を抜いた。

 

「おおう!? 戻るアル!」

 

 質量を増して伸びていく神珍鉄自在棍の自重をこのままでは支えきれなくなると悟り慌てて叫ぶ。元のサイズをイメージをして叫ぶと瞬く間に伸びていた神珍鉄自在棍が収縮する。

 あっという間に元のサイズに戻った神珍鉄自在棍をしげしげと見下ろし、その効果が本物であると自覚するとニンマリと笑みを浮かべた。

 

「二人とも良い物が出たみたいやね」

 

 彼女らと仮契約をした木乃香も従者となった二人が満足できるアーティファクトを得られることが出来たようで主としては嬉しい様子であった。

 

「木乃香には感謝感謝アル」

「借りとはいえ主従でござるな。頼むでござるよ、主君マスター」

「む、私もご主人様マスターって呼んだ方がいいアルか?」

「友達やん、そんな畏まらんでええよ。今まで通りにしてや」

 

 形を大事にする楓が畏まると古菲も倣って慣れない呼び方をしようとするが、友人に傅かれても嬉しくない木乃香が今まで通りにしてほしいと頼み込む。

 それならば、と納得して普段通りに戻る二人を見ていた千雨は、「仮契約、ねぇ」と彼女特有の皮肉気な言い方で目の前で行われた儀式を思い出しながら呟く。ふと気になって隣に立つのどかの顔を身長差の関係で見下ろした。

 

「そういや、本屋。アンタは仮契約ってやつはしないのか? ネギ先生がいるだろ」

 

 聞いている話では自分と同じく仮契約をしていないらしいのどかだが、確たる相手であるネギがいて非戦闘員なのだから手段はいくつあってもいいはずと、リアリスト故の視点から問いかけていた。

 

「興味がないわけではありませんけど、ネギ先生とは対等でいたいですから…………護られてはいますけど」

 

 足手纏いなのは自分も同じで、倣うならば自分も仮契約をした方が都合が良いのは事実。だが、のどかとしては主従という立場を間に入れるのはあまり好ましく思えなかった。仮契約が魔法世界では結婚相手を探す口実と聞いたからこそ、純粋でありたいと願う少女特有の潔癖さがそういう下世話な感情が混じる余地を作りたくはなかったのかもしれない。

 

「分からないでもないけどよ」

 

 千雨にものどかの言い分は理解できるところが多い。戦うなど論外を通り越してありえないし、生兵法は大怪我の元なので、それならばいっそ戦えないことを開き直ってしまうのも一つの手だ。

 仮契約カードの機能である従者の召喚・念話にも制限距離があり、逆にあることで過信することで油断するぐらいなら最初から無い方がいい。

 

「アスカさんはネギ先生とは違いますから、千雨さんは木乃香さんとの仮契約は一つの手段ではありますよ」

「まあ、な……って、ちょっと待て。どういう意味だ?」

 

 頷きかけたが言っている意味がよく分からず千雨が問いかけるも、のどかは薄く笑うのみで答えようとはしない。

 繊細なネギは外の声に振り回されやすいことを考えると、他の主がいる相手と付き合うのは魔法使い的に外聞が悪いだろうと考えて仮契約は出来ない。アスカはそこら辺、誰かに言われようと気にしないだろうとのどかは考えているので千雨にそう言ったのだ。

 

「ん?」

 

 追及の手を強めようとした千雨は回復中のアスカが微妙に動いた気がした視線を動かした。

 アスカの姿を視界の中心に留めると、当の本人は胸に手を当てて何やら思案気な様子で薄く開いた目を茫洋とさせていた。この様子に千雨に遅れて気づいた明日菜が「どうしたの?」と問いかける。

 

「いや、妙に動悸が激しくて」

 

 答えながらアスカは心臓がバクバクと音が聞こえるほど高鳴り、早まる血流に眩暈すら覚えていることに困惑した様子であった。

 

「病気とかじゃないと思うんだが……」

 

 動悸が早まるなど病気以外に考えられないと明日菜の思考を表情から読み取って否定したアスカだが、全身を支配する不安感にも似た焦燥に徐々に精神が浸食されていくのを感じていた。

 全身をやけに支配するこの不安感が、行動に移らねばならないと焦らせるこの気持ちがなんであるかが理解できない。ただ、予感がある。動かなければならない、行かなければならないと。そう直感が囃し立てているのに肝心な指針がない為に動くことが出来ない。

 皆がアスカに注目する中でエヴァンジェリンがふと顔を上げた。

 

「誰かが別荘に入ってきたぞ」

 

 別荘の主であるエヴァンジェリンには中に入って来た者を感知することが出来る機能が付いている。以前はともかく、改良して許可されていない者には入れないようにしているので侵入者の可能性はない。

 この場にいる者を除外すればここに入れる許可がある者は少ない。やがて、入って来たのは魔法使いらしく空を飛んで現れた。

 

「ネカネ姉さん?」

 

 急いでいる様子のネカネ・スプリングフィールドが箒に跨って飛んでくるのを、細目にしてその姿を認識したアーニャは首を捻った。

 ネカネは別荘を毛嫌い――――正確には一時間が一日になるのが―――している千草のように、よほどのことがなければ別荘に入って来ることはない。アスカと小太郎が二年間別荘に籠っていた時に時折様子を見に来た時ぐらいだ。

 そんな彼女があんな急いでいる様子でいるとなれば、かなりの要件があると推察した近くでアスカが立ち上がった。 

 やがてアスカ目がけて球のように飛んできたネカネが箒から転げ落ちるように着地するも、急ぎ過ぎてバランスを崩した。が、当然ながらアスカが支える。

 

「はぁはぁ、あ、アスカ」

 

 息を切らしているネカネを支えながら、アスカは自分を騒がさせる焦燥感の答えをネカネが持ってきた確信した。まるで正解だと告げるようにドクンと心臓が大きく跳ねる。

 

「ス、スタンさんが倒れて危篤状態って今連絡が」

 

 それを聞いた瞬間、アスカの頭の中から全てが消え去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この少し後に事情を聞いた朝倉和美は信じられぬ面持ちで呟いた。

 

「アスカ君がイギリスまで飛んでっちゃったって…………え、マジ?」

 

 単身生身でイギリスに向かって空を飛んで行ったと聞いた和美は、彼女の人生の中で初にして最後となる間抜け面を曝すのだった。

 

 




スタンの異変が分からなかった方は『第37話 世界樹の下で』の冒頭をお読みください。

次回は『旅の終わり』


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第61話 旅の終わり



この旅は誰にとってのものか……。


 

 飛んで飛んで飛び続けている。雲の中を突っ切り、嵐を切り裂いて、風を纏うようにして一筋の流星となったアスカは空を駆け続ける。

 最短ルートを通る為、成層圏近くにまで上昇してからユーラシア大陸を横断するようにウェールズに向かって飛ぶアスカの意識は既に半分飛んでいる。

 文明の利器である飛行機でも十時間以上の移動時間を要する。転移術ならばともかく、生身で超常的な力を行使出来ようとも浮遊術での大陸横断は例がない。しかも速度を優先しているので自身の安全を埒外に置いているから、風・気圧・温度の高低・酸素濃度といった地上であれば気にならない諸々の影響を諸に受けていた。

 単身生身での人類最速の大陸横断を成し遂げ、その代償としてウェールズに辿り着いた時にはアスカは心身ともに消耗しきっていた。

 アスカが降り立った場所は五歳から十歳までの五年間を過ごした第二の故郷ともいえる自然が溢れた中に作られたメルディアナの町外れの草原。

 風が吹いて、青々とした草木が鳴いた。肌を撫でて吹きすぎる風が生温い。照りつける陽射しも、どこか蒼く翳って見える。世界の全てが息を潜めている――――そんな錯覚を覚える静けさだった。

 

「はぁ、はぁ、はぁ…………爺さんはどこだ?」

 

 エヴァンジェリンの教えによって無意識にまで染みついた呼吸法を行ってエネルギーの回復を行いつつ、町を目指して歩き出す。羽のように軽い体は今は鉛のように重く、力の使い過ぎで頭にはハンマーが打ちつけられているような鈍痛が止まない。

 倒れて柔らかい草原に横になって眠ってしまえば、どれだけ安らげるだろうかと甘美な誘惑に囚われもする。

 それでも、と言いながら歩みを止めないアスカは意識をメルディアナ全体に広げてスタンの居場所を探す。本来、アスカにそこまでの広範囲の探知能力はないのだが、長時間の咸卦・太陽道の使用と疲労具合が重なって認知世界が広がっていた。

 

「……いた!」

 

 町に溢れる雑多な気配の中から今にも消え入りそうなスタンの気配を感じ取って飛び上がる。地を蹴って残った魔力で空を飛んで、スタンがいるらしいメルディアナ魔法学校へと向かう。

 地上でアスカの存在に気づいた何人かが誰何の声を上げているが、スタンのことで頭が一杯で聞こえても認識出来ていないアスカはメルディアナ魔法学校しか目に入っていない。

 目標とする場所は、歴史を感じさせる格調高き伝統的な建築物。魔力不足で速度は出ないが空を飛んでいるので間に障害物がないだけ最短ルートで向かえる。

 メルディアナ魔法学校は結界に覆われているので緊急時でない限り、空からの侵入は控えた方が良い。でなければ、学校中に警報が鳴り響いて大騒動になってしまう。以前に大騒動を起こした経験があったからアスカは無意識に結界前で地上に降りた。

 久方振りの学校に郷愁の気持ちが湧き上がるが、今はスタンのことの方が大事だ。

 校内に入ると今は長期休暇中なので殆ど人がいない。入り口の横に事務所兼職員室に数人のローブを着た教師らしき人達がいたがアスカの存在に気づいていないらしい。

 

「爺さんは……保健室か」

 

 気配を感じ取れる場所は通い慣れた校舎内の地図を頭の中で参照すると保健室が該当した。廊下を走るとアーニャがフレイムキックしてきたり、ネカネがスプーン投げしてきたりするので条件反射的に走ることを抑制してしまう。早歩きで保健室を目指す。

 広い校内ではあるが保健室は一階にあるのでそう時間も経たないうちに保健室に到達した。

 

「爺さん!」

 

 躊躇うことなく保健室の扉を力一杯に開いて、勢いが強すぎて壊しながら中に入るとベットに横たわる老人――――スタンと、物語の中に登場しそうなメルディアナ魔法学校校長がいた。

 

「アスカ、どうして……」

「連絡を聞いて急いで来たんだ」

 

 日本からどれだけ急いで来ても十時間以上はかかるのだから校長が目を丸くするのも無理はない。驚いている校長を尻目に、アスカは扉を壊して大きな音に微かに目を開けたスタンの下へと駆け寄りかけたところで足を止めた。

 

「爺、さん……」

 

 スタンの面相に浮かぶ死相と呼ぶべきなのだろうか、元気がないというレベルではなく死期が間近に迫っていると誰にでも分かってしまう。

 

「おお、アスカ。よく来てくれたな」

 

 死相の浮かんだスタンが微かに顔を傾け、アスカを認識して蚊の鳴くような声で囁いた。ふとすれば聞き逃してしまいそうな小さな声をしっかりと聞き取ったアスカは、ベットに横になっている末期を迎えているスタンの下へと歩み寄る。 

 間近で見たスタンの姿は以前とは比べ物にならないほど弱って見えた。そのことが酷くアスカに衝撃を齎して、歯を食い縛らなければ泣き叫んでしまいそうだった。

 何を言えば分からない。だから、努めてここにいた頃にどのような物の言い方をしていたか思い出さなければならなかった。

 

「どうしたんだ、爺さん。弱った面をしてよ、似合ってねぇぜ」

 

 この言い方で合っているだろうか、声が震えていないだろうかと不安であったが口に出した言葉は戻らない。

 スタンは気付かなかったのか、それとも気づくだけの観察力がもう残っていないのか。

 

「ぬかせ、若造っと言いたいところだが、どうやら儂もお迎えが近いようじゃ」

「あのスタン爺が気弱になるなんざ、明日は槍でも振るんじゃねぇか」

 

 互いに終わりの結末は見えている。

 

「もう少ししたらネギが来る。そうすれば石化を解いて、みんなで見送ってやるよ。それまで待てって」

 

 アスカのわざとの軽口にスタンは笑う。薄く、儚く、今にも消えそうなほどに。

 

「もう、六年にもなるんじゃな」 

 

 六年――――アスカはその年数を告げられたことで、連鎖的に今までのことを走馬灯のように思い出す。楽しかったこと、愉しかったこと、辛かったこと、悲しかったこと。本当に色んなことがあった六年だった。だけど、そんな楽しい一時も終わりの時が近づいてきていた。

 

「爺さんも六年待ったんだ。後、一日二日ぐらい待ってもいいじゃんか」

「そうはいかんよ。もうそこまで婆さんが迎えにきておるのが分かる。随分と待たせたからの。これ以上、待たせるわけにはいかんよ」

 

 そう言ってスタンはアスカから視線を外して天井を見上げた。視線を追ったアスカには天井しか見えないが、スタンにはアスカらを取り上げた産婆でもあったらしい妻が見えているのかもしれない。

 

「まだ、早ぇよ。頼むから、後生だから、生きてくれ」

 

 布団の上に出されている生気の失った手を握って懇願する。アスカは願わずにはいられなかった。願う以外に術はなかったから。

 

「やれやれ、アスカは甘えん坊じゃのう……ゲホッ、ゲホッ」

 

 軽い咳にすらもう力がない。普通の人間ならば大した負担にもならない行為であっても、今のスタンにとっては命取りになる。

 ヒューヒューと喉の奥から漏れる呼吸音と眉間に寄せられた皺がスタンの苦しみを現していて、アスカはせめて苦痛を和らげようと拙い治癒魔法を使おうと手を伸ばした。

 

「止めよ、アスカ」

 

 だが、その手は途中で校長に掴まれて阻まれる。何故、と誰何するよりも早く振り返ったアスカの目に映ったのは沈鬱な表情を浮かべた校長の姿。

 

「今のスタンに治癒魔法は効かん。逆に少ない命を縮めるだけじゃ」

「そんな……」

「もう、どうしようもないんじゃよ」

 

 苦痛を和らげることすら出来ず、ただ手を握って願うことしか出来ない。これほどに無力を感じたことはなく、命の儚さを実感せずにはいられない。

 

「そうだ。カネの水さえあれば、心臓だって治る。もっと長く生きることだって」

「よい、もうよいのだ、アスカ」

 

 ハワイの地にある死者を蘇らせ、どのような傷・病気を治すカネ神の水。それさえあれば失われようとしているスタンの命をこの世に留めることも可能だと思い出したアスカが希望に胸を躍らせるも、スタンは最後の役目を待っている老犬の在り様そのままに止めた。

 

「でも!」

 

 荒らげた声をアスカは止めた。反論したいわけではない。思わず声が大きくなったのは若気のためであった。アスカは一呼吸して気持ちを落ち着けるとスタンからの言葉を待った。

 

「儂はもう十分に生きたよ。子には恵まれなんだが、ナギやお前達のように孫と思える子らを見送れた。最後にこうやってアスカに見送ってもらえる。それだけで十分じゃよ」

 

 スタンの心の中に残っていた不安は取り除かれた。やるべきことを全てやり尽くした充足感がスタンに仏のような俗世を捨てた笑みを浮かべさせる。

 

「そんなことを言われたら、もう何もできないじゃねぇかよ……」

 

 浮かべられたスタンの微笑みがどうしても生に満足して死に行く聖者のように思え、アスカは辛くなって顔を背けた。

 

「可能ならばお前達の子を、この腕に抱いてみたかったが流石に叶わぬ願いであったか」

 

 スタンはうわ言のように虚ろな声色で、そんな叶い得ぬ願望を呟いた。

 

「顔を良く見せておくれ、アスカ」

 

 そう言われれば顔を背けることも出来ない。恐らくもう目もあまり目も見えていないのだろう。茫洋としているスタンの目にしっかりと映るように顔の前に移動する。そっと頬に添えられる手の力の無さにアスカは泣きそうになった。

 

「おお、大きくなったのう。ナギとアリカ様に似た良い面構えになった」

「お袋のこと言っていいのかよ」

「死ぬ寸前じゃからの。耄碌しても仕方あるまい」

 

 もっと愛したい。もっと慈しみたい。もっと育てたい。腕の中で、珠玉の珠の様に成長する姿をずっと見ていたかった。だけど、スタンは残された時間は残り僅か。

 

「これは今となっては儂しか知らんことだが、お前は生まれた時に息をしとらんかった。死産だったんじゃよ」

 

 時間は人を変える。触れ合えば、人は変わる。その両方を経て、アスカの心の中は和らいだように見えた。それがスタンにとっても救いのように思えた。

 

「でも、俺は今も生きてる」

「手の施しがないという時にネギが泣いたんじゃ。婆さんにはその声に呼び戻されるようにアスカが息を吹き返したと感じたそうじゃ。ネギに感謝しておくんじゃな」

「俺からは言わねぇよ。爺さんがその話をネギにしたらありがとうの一つでも言うよ」

 

 外から差し込む日が赤い。空は赤く染まって太陽が徐々に落ちていた。もうすぐ、夜が来る。まるでスタンの命は太陽が沈むと共に召されるかのようだ。

 何を言うべきか、何を問うべきか、何を喋るべきか。心臓が痛くなるような沈黙が下りる中でスタンは薄らと口を開く。

 

「命は生まれ、やがて終わりを迎えて死ぬ。老人は終わり、赤子が生まれてゆく。命は流転して、世界は続いていくのじゃ。今度は儂の番が来ただけじゃよ。儂は嬉しい。最後の最期でアスカ、お前に会えたんじゃからな。何の悔いもない」

「……ぉ、ぁ……」

 

 スタンは掠れたような今にも存在さえ掻き消えそうなほど痛々しい濁ったような声で、視線は夢見のように宙を彷徨い、口元に半笑いのような曖昧な笑みを浮かべて喋るたびに命が減っていくような感覚を与える。

 頬を撫でるスタンの手を握って何かを言おうとしてカラカラに渇いた喉奥から零れ出たのは、言葉にもならぬ呻き声。そんなアスカに、それでも察するところがあるのだろう。スタンは穏やかな微笑を浮かべて待っている。

 

「今までありがとう、スタン爺」

 

 教えてくれた。与えてくれた。幼きアスカ・スプリングフィールドの居場所だった。この気持ちを伝えるにはあまりにも言葉が足りなかった。気持ちが溢れすぎてそんな短い言葉しか言えない自分を恥じた。

 蚊の鳴き声のように小さな、涙で震える囁きは哀しいほどに温かく、その言葉を聞いたスタンは満足そうに微笑んでアスカの背後に立つ校長を見る。

 

「さらばだ、盟友」

「ああ、さよならだ盟友」

 

 長年の友人同士である別れの言葉を交わし合う。それだけで十分で、それだけで分かり合えた。

 

「アスカよ……そこにいるか? もう、目が見えん」

「爺さん!」

 

 言葉と共にどんどんスタンの目から光が薄れていき、言葉が途切れ途切れになっていく。

 あの日のように、また自分の前から大切な人がいなくなる。その恐怖から引き止めるようとアスカが声を掛けるも、スタンは壊れた笛のような音が空気を揺らして呼吸を繰り返すだけ。

 

「おお…………婆さん。迎えに、来て……くれた、のか……。すまん、の……随分、と……待たせて、しまったわい……。じゃが、アスカ……が……」

 

 呼びかけが聞こえていないかのように言葉を繰り出すスタンを前に、アスカは自身が出来る事は最早なにもなく、最後を看取ることしか出来ないことを悟った。悟らざるをえなかった。

 悟った現実を前にアスカは歯を食い縛った。スタンに心配をかけたくなかった。最後は安らかに眠ってほしかった。虚勢であろうとも通すべきものがある。

 

「大丈夫。俺は大丈夫だから――――もう休んでもいいんだよ」

 

 アスカは何か返さねばならないと思って言葉にしたら、鼻の奥がつんと滲みるようで、恥ずかしくなった。 泣いてはいけないのに、ぽたりと地面に熱いものが落ちた。一滴でも漏れると後は際限なくて、堪えることが出来なかった。

 体の感覚が薄れてきたスタンの耳に、その秋の落日を思わせるような穏やかな言葉ははっきりと聞こえた。

 

「安心、した…………幸せに、なれ……アス、カ…………………」

 

 他の誰にも聴こえない。傍にいたアスカの耳にだけ辛うじて聴こえた言葉。本当に安心したように言葉を呟く。

 スタンは薄く笑みを浮かべて静かに目を細めるようにして頷いた。最後にアスカの頬を撫でながら優しく言って――――その手から力が抜けた。それが本当に最期だった。アスカの頬に添えられていたスタンの手が離れて布団に落ちる。最後の痙攣を見せてスタンの体中から力が抜けたのがアスカには分かった。

 アスカの見つめる先でスタンは眠るように息を引き取った。その顔には、苦悶の表情は笑みを浮かべ、どこまでも穏やかで幸せそうだった。

 

「あぁ……」

 

 口から零れ落ちた吐息交じりのそれは嗚咽か悲哀か、アスカにも分からなかった。歯を食い縛って、顔をくしゃくしゃにしてアスカ・スプリングフィールドはポロポロと泣きじゃくった。ポタポタと落ち続ける涙だけがアスカの気持ちを表していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『急ぎですって? この雪広あやかに、お任せあれ。超特急でジャンボジェットの自家用機を用意しますわ』

 

 世間一般は夏休み真っ只中。観光シーズンに人数分のチケットを取ることは不可能で、せめてウェールズ出身の三人だけでも先にと考えていた時に話を聞いた雪広あやかの申し出は大変有難かった。

 それでもスタンの最期には間に合わなかったが、考え得る限りで最短で日本を発ったのだから悔やんでも仕方ない。せめてアスカが立ち合えただけでも良ししなければならなかった。

 

「ここがイギリス、ロンドンか」

 

 飛行機から降り立って長谷川千雨は、うーんと背伸びをした。

 日本からの便が到着し、数分程から降りてきた人々がロビーにぞろぞろと流れてきた。その中にネギ・スプリングフィールド一行と明日菜達の姿があった。しかし、殆どの少女達の眼は眠たそうに半開きで、何時もの愛らしさが半減されていた。

 

「今、日本じゃ夜中の一時、眠いはずです……」

 

 綾瀬夕映は飛行機の消灯時間に眠らなかったことを深く後悔する。

 言ってはなんだが他人の知り合いの死にそこまで思い悩めず、また飛行機搭乗前には亡くなったことは分かっていたので気に病むこともなかった。亡くなった方の知り合いの三人がいるからはしゃぎはしなかったが、初めての海外旅行と異世界渡航が間近に迫って胸が騒ぎ全く眠れなかったのだ。

 時差ボケの所為で、だるくて眠い。東アジアから欧州へと向かう旅人全てが味わう苦難であるが、故郷であるイギリスに帰ってきたネギらの目は常と変らず凛としていた。それでも常よりかは眠たげにも見えた。

 

「これが時差ボケってやつかしら」

「直に慣れるわよ。一日二日も過ごせばね」

 

 明日菜の呟きに反応したのはアーニャだった。少し目元が赤い彼女は常と変わらないツンとした表情で、日本に渡った時に感じた時差ボケへの対処を話す。

 聞いて明日菜は眠気を振り払うように軽く頭を振る。ぼやける目を擦り、視界を鮮明にして周囲を眺める。途端、纏わりついていた睡魔は鳴りを潜めた。

 ロビーにいる人々の多くは白い肌に彫りの深い顔。明らかに日本人とは違う西洋の風貌だ。飛び交う会話も看板に連なる文字も、断片しか理解できない異国の文字。否応無く、ここは異国だと思い知らされ、この地が日本ではないのだと思い知らされる。

 

「本当に違う国なのよね」

 

 明日菜はそんな感想を漏らした。

 景色の一つ一つが違う。建物の造りや道行く人々は言うに及ばず、煉瓦の色合いも、石畳の感触さえも異なる。明日菜には聞き取れぬ、異国語のざわめき。或いは走っている車の種類や、クラクションの音。或いは、通りに立つ電柱の形や、ひっそりと道路を飾る植込みの在り方。頬を撫でる風や、舌に触れる空気の質感さえも、どこかしら違和感と長年積み重なってきたこの国の時間を思わせた。その全身で異国にいることを実感していた。

 足が踏んでいる地が言葉が通じない異国と自覚すると、唐突に僅かな不安と寂しさが沸き起こった。無視しようと思えば無視できるが、決して拭い去ることは出来ない孤独感。

 

(…………アスカも、こんな感じだったのかな)

 

 遠いこの地から日本へやってきたアスカも、やはり日本へ来た時にはこんな気分になったのではないだろうか。

 

「十二時間も座り放しは体が訛るアル」

 

 二人の後ろに現れながら肩を回すのは古菲。活動的な彼女が一場所でジッと座っていなければならないのは苦痛だったのだろう。

 

「軽い体操ぐらいはしていたでござるが、なにゆえ座っている時間の方が長かったでござるからな」

「そう何回も体感したいもんじゃないで」

 

 大して堪えた様子もなさそうな長瀬楓に比べて、犬上小太郎は古菲と同じ性分なのでうんざりとした表情をしている。

 

「時差はマイナス9時間やったな。日本やったら、もう夜中やのにまだ昼過ぎやもんな」

「飛行機の中で寝ましたが、まだ寝足りない感じです」

 

 背中を伸ばしている木乃香がフラつかないか心配してしている刹那も小さな欠伸をしている。

 日本ではもう日付が変わっているのに、イギリスでは発った時と日付は変わらない。出発点と到着点の時計だけを見れば、短時間の途上と解釈できる行程だ。こんなややこしい時間の推移は、時差ボケという形で旅行者の肩に圧し掛かる。

 

「日本よりも暑くないですね」

 

 綾瀬夕映が小さな欠伸をしながら歩く。時刻は午後二時過ぎ。一日の中で暑い時間ではあるが、日本と違って湿気がない分だけ少し暑いぐらいで済んでいる。

 駅の改札を通ってバス乗り場までの道を並んで歩く。その間、ネギは周囲の風景をきょろきょろと落ち着かない様子で見ていたので宮崎のどかが気になって口を開いた。

 

「どうかしましたか?」

「いや………………懐かしいなぁ、って」

 

 バス乗り場までの道を歩きながら、ぼやいてネギは空を見上げた。

 街の景色自体に変化はない。築三百年を軽く越す石造りのアパートが道の向こうに建っている。古い街並みの中を携帯電話を持った会社員達が忙しく歩いている。イギリスの空は半年前と同じく今日も突き抜けるような青空だが、この街の天気は四時間程度で切り替わるほど移り変わりやすいので道行く人の中に傘を持っている人も多い。そして蒸し暑かった。

 変化らしい変化といえば、伝統だったはずの赤い電話ボックスが作業員によって撤去されていくぐらいか。

 

「でも何処か変わっているようにな気もするんだよな」

 

 所々変わっている所もあるかもしれないけど特に何か変わったところは散見できない。そも、空港の内装や外の景色など一々覚えてないはずだ。

 

「きっとネギの方が変わったのよ。背も大きくなったし」

 

 にこやかに言ったのはネカネ・スプリングフィールド。日本の空港でアスカと連絡がついた際にスタンが既に亡くなったことを聞かされたときは沈んだ様子であったが、ヒースロー空港に着いた時には元の感じを取り戻している。

 恐らく子供のネギ達よりもスタンの容態には魔法学校の頃から知っていたから、何時かはこんな日が来ると覚悟していたのかもしれない。

 

「そうかな? 何も変わっていないような気がするけど」

「変わってるわよ。半年でも少なからず人は変わるもの」

 

 さっきも思ったことだが、ネギは何も変わっていない。背格好は変わっていても中身は昔のネギのままだった。しかし、ネカネは笑って首を振って否定する。

 

「ようこそ、皆さん」

 

 ネギが声のした方に顔を向けると、微笑みを浮かべた美貌の女性が立っていた。

 肩までのショートの金髪に、黒のスーツにスカート、気品を損なわない程度のデザインを施されたその服装は、まるでどこかの社長秘書かキャリアウーマンか、といったような格好だ。だが、その格好を仰々しく感じさせず、むしろ自然だと思わせる空気を目の前の女性は持っていた。

 

「ドネットさん」

 

 アーニャが既知である女性――――ドネット・マクギネスの名前を読んで紹介する。

 暫くは互いに名前を名乗り、簡単な自己紹介が続けられて落ち着いた頃を見計らってドネットが少女達の荷物の持ち方に目をやった。

 

「ロンドンは治安の良し悪しがハッキリと地区で分かれているから気をつけてね。スリぐらいならいいんですけど、あまり離れると何時誘拐されるか分からないから気をつけてくださいね。日本人の、しかも女学生ってカモにされやすいから」

 

 途端、何人かの肩がビクゥッと数センチばかり持ち上がった。

 この場にいる大半は腕に自信がある者ばかりなので、この場合に自らの身の心配や荷物の持ち方を変えたのは完全な非戦闘員であるのどかと千雨ぐらいなものである。とはいえ、これだけの面子が揃っているのに犯罪に巻き込まれるわけがない。

 

「ふふ、では行きましょうか」

 

 揶揄われたと気づいて気の強い千雨などは少々視線がきつくなったが、大人の余裕で受け流したドネットは先を促して一路、ネギ達の故郷を目指す。

 ヒースロー空港からバスでロンドン市内を経由し、電車に乗り換えてペンブルック州へとたどり着く。彼らの目的地は目指すは嘗てネギ達が通っていたメルディアナ魔法学校がある町なので、ロンドンの中心街や観光名所を回ることはない。

 メルディアナ魔法学校。全ての始まりの地。肉体と精神の故郷。定番の観光地に立ち寄ることもなく、テムズ川の雄渾な流れを横目にネギ達は目的地を目指した。

 いくつかの国の集合体であるイギリスでも取り分け古く、取り分け複雑な歴史を積み重ねてきた土地ウェールズ。電車を降りると人数が人数なので特別に出してくれた貸し切りバスに乗り換えてメルディアナに到着する。

 初夏なのに冷たい霧の中で、少年少女達は蒼と緑の色彩に取り囲まれていた。

 靴の裏から伝わる地面の感触。鼻孔に突き刺さるのは、土と草の入り混じった臭い。固い葉擦れの音が幾つも鳴って、さやさやと、枝葉が揺れている。

 樹齢数百年にはなろうかという樹木達の佇まい。ほど近く小川のせせらぎが聞こえ、その所為か地面を踏んだ感触さえどこか優しい。古い樹木と清水の香りがない交ぜとなって、まるで深山へ分け入ったような気持ちになる場所だった。

 ある意味において、こういう土地こそが魔法使いの存在を公から隠す隠れ蓑になっているのだろう。洋の東西でその関わりは異なるが、その重要性は変わらない。

 

「この先よ」

 

 山道が一本道のように真っ直ぐ伸びている。それは魔法使い達が古い時代から行き交いする為に出来た――――謂わば獣道のようなものだ。一般人が間違って迷い込むことのように無いように、山全体が隠蔽結界で包まれている。魔法使いであっても一度も入ったことの無い人間は迷うようになっているのだ。

 

「さ、行きましょう」

 

 ドネッドに促されて、この先に故郷があるネギらが率先して森に向かって歩き出し、小太郎や少女達がその背中についていく。

 鬱蒼とした森の中はやはり想像していたように薄暗かった。木々から伸びる枝や葉で覆われている所為で、空は時折風に揺れて出来る葉の隙間からしら見えず、その一瞬の木漏れ日は森の中に白い光の筋を走らせてすごくきれいだ。

 

「昔、よく歩いた道よね」

「うん」

 

 と、ドネッドに続いて山道を歩いているアーニャの言葉にネギも頷く。

 前にドネッドがいなくても、彼らは何度も行き交いをした道なので迷うことはない。それでも半年ぶりに通る道に懐旧を押えきれぬようだった。

 腐葉土の地面を歩きながら、明日菜はぼんやりと空気の匂いを嗅いだ。滾々と湧き出る水のように、空気には香りが、色がある。熟れた果実みたいな甘ったるい空気、時間がゆったりと進ませていく風景、水彩で描かれた風景画の中を歩くような、フワフワとした不思議な居心地。木々の葉の匂いと虫の音が混ざりあって、心が霞に酔ってしまう。

 このあまりの静けさに、この程よく隠された景色に、まるで夢路を歩いているような錯覚を起こさせるほどに、ここは曖昧で幻想的な場所だった。

 歩行に絡まるような高い草が生えていないのは、強い光が届かないからだろう。しかしその分、太い木の根が張り出して非常に歩き難い。戦闘系の明日菜も流石に、非戦闘系の木乃香やのどか、夕映や千雨のように足を取られるようなことはなかったが、前を歩くネギらとドネッドに比べるとやや歩みが遅くなってしまう。

 楓や刹那、古が非戦闘系の面々を支えながらなんとか距離を離されないように後ろを付いて行く。そのまま数分ほど、鬱蒼とした森の小道を歩いた頃だろうか。程無くして先頭を歩くドネッドの足が止まった。そこは今まで歩いてきた狭い道に比べると若干広く、視界が開けた小さな広場だった。

 夏の最中だというのに、まるで夜のように昏い。

 あらゆる光が分厚い葉のドームによって遮られ、ちいちい、きいきい、と時折齧歯類めいた鳴き声が木々の狭間から反響する。彼らもまた愛玩動物などではなく、この森で必死に戦い、生き抜こうとする一員なのだと、そう宣言しているようでもあった。

 ひんやりとした空気には滴り落ちそうな程の濃密な植物の臭いが溶けており、都会に引き籠った人間など、それだけで金縛りにあってしまいそうだった。

 全員が広場に入ると急に霧が出てきた。

 

「霧……?」

 

 ざあっと風が巻いて、樹の葉が大きく揺れ、霧が急に濃くなって明日菜達を取り囲む。

 

「ここが入り口です」

 

 ドネッドはその広場の中心辺りを見て言った。彼女の視線を辿って明日菜もそちらに顔を向けるが、特に奇妙なモノは何も無い。数メートルの距離を置いて立ち並ぶ木々の景色が見えるだけだ。

 騙しているのかと思ったが、ネギらが当然のようにしているので違う。彼らにとっては間違いなくここが入り口なのだ。

 明日菜は見えない入り口を感じ取るように、眼に神経を集中させて視た。

 瞬間、景色の一点が歪んで見えた。その中に周りの風景と重ならない、太陽に照らされた瑞々しい森が覗いていた。まるで銀幕を張り、別の森の景色を映しているようだったが、これが映写ではない証明として、新鮮な空気がこちら側に流れて来ていた。

 空間の歪みに向かってドネッドとネギらが歩き出す。躊躇う様子も無く、まずドネッドがその風景の中に入っていた。続いてネギが入っていくのにつられるように明日菜らも続く。

 空間の歪みの境目に足を踏み入れた瞬間、明日菜は空気が変わったのが解った。完全に境目を飛び越えると不意に空間が開けた。

 豊かな山林と草原。まるでその隙間を埋めるかのように、小さな人里が築かれた地。そこがネギ達が麻帆良に来るまでの間を過ごした第二の故郷である。黒々とした森を抜けた向こうに広がる青々とした草原に古菲が息を呑み、楓も目を丸くした。小太郎も度肝を抜かれたようだ。

 

「わあ……」

「ほぅ」

「すっごいのう!」

 

 彼らの驚きとは別に明日菜は、この地に先に来ているであろうアスカのことを想った。 

 

(アスカはここでどんな生活を送ってたんだろ)

 

 ぼんやりと思う。

 どんな人と出会い、どんな風に笑っていたのか。

 どんな友と語らい、どんな風に育ってきたのか。

 隠されているわけでもなかったが、わざわざ過去を語らなかったアスカだ。明日菜にしても自分から尋ねる理由があるわけじゃなかったから、魔法を知っても魔法学校時代の話を聞くことは殆どなかった。

 この土地で、彼はどれだけのものを得たのだろう。この土地で、どれだけの研鑽を積み、どれだけの挫折を味わい、どれだけの代償を払って今に至ったのだろう。

 明日菜が物思いに耽っている間に当初の目的地であるメルディアナ魔法学校の校門の前に立つと、ネギはじっと学校の外観を眺めていた。

 

「どうかしましたか、ネギ先生」

 

 眺めるように見ていたので、斜め後ろからのどかがそう声をかけた。アスカは頷いて、空港に降り立った時に感じた時のように「やっぱり懐かしいなって」と大した時間も経っていないのに強い郷愁感に苦笑していた、

 ネギはのどかから再度、五年を過ごした学校を見上げた。

 

「卒業したのに変な話ですけど、帰って来ることが出来たって思いが強いんです」

「そうですか」

 

 ネギの返答に優しい笑みを浮かべたのどかはそれ以上の言葉を返さなかった。

 二人で並びながらネギは頭上の青空を見上げた。遮るなにものもない、無限に開かれたそれが目の前に広がり、深く息を吸い込むと脊髄から脳にまで懐かしい匂いが染み渡っていく。この太陽と空気、大地と水のあるところが戻るべき処、故郷という優しい言葉の音が示す場所だと直接的に肉体が感じ取っていた。

 

「当たり前だけど何も変わってないなぁ」

「馬鹿ね、私達が生まれる前からあるのにそんな簡単に変わるわけないじゃない」

「そうなんだけどね……」

 

 こういう時にセンチメンタルになるのは男だからなのか、それともネギが単純に感傷に浸っているだけなのかは分からない。少なくともアーニャにはネギほど気にしている様子はなかった。

 

「ちょっと、故郷っていうのを実感しただけだよ」

 

 故郷とは、自分が生まれ育った土地を意味するだけのものではない。そこにあるのは、自分の歴史だ。人間は歴史の流れの中で生きている。歴史の積み重ねの上に現在があり、現在が過去となったところに未来がある。人間は一呼吸するだけで歴史を延長し、その最端の一点である現在に生きている。観念的な考えではない。それが単純な事実だ。一人一人を考えても、それは変わらない。

 故郷とは、そのとある「一人」を形成する歴史の大部分を意味している。ネギ達の生まれた故郷は滅びたかもしれない。だけど、ネギを形成した故郷の内の一つはここにもあった。

 

「久しいな、皆よ。元気にしていたか?」

 

 校舎を見上げるネギに声をかけたのは、大理石造りの正門の横に立つのはネギとアスカの祖父であり校長であった。

 

「校長先生」

「おじーちゃん」

「おじいちゃん!」

「アスカもそうじゃったが、ネギもアーニャも大きくなったの。ネカネも綺麗になって。お帰り」

 

 お帰り、という校長の言葉に、ネギは胸が熱くなるのを感じた。

 ネギはずっと求め続けてきた。自分が何者なのか、どこから来た存在なのか。そんな当たり前のことが知りたくてたまらなかった。結局のところ、その疑問は一つに集約される。とても簡単で、難しいこと。どうしたら、自分はここにいていいと思えるのか。

 どんなに経験を積んでも、どれだけ強くなっても、自分が校長の血縁であることは変わらない。受け入れて欲しい相手であることに変わりはない。だからこそ、校長の何気ない言葉が嬉しかった。

 帰るべき場所があることを、ネギは強く自覚した。己を認めてくれる人のいる場所だ。

 

「――――ただいま」

 

 万感の思いを込めて、ネギは言った。その言葉は旅の終わりを意味するものではなく、己が帰るべき場所を自覚し、新たな道へ進むための誓いだ。

 

「本当によく帰って来た」

 

 卒業生である三人の呼びかけに校長はそっと微笑むと、両手を伸ばして三人を抱き寄せた。

 

「おじいちゃん……」

「ちょっと苦しいですよ」

「髭が当たるってば」

 

 みんなが見ている前なので、三人がそれぞれの反応を見せる。人前なのもあって少し恥ずかしい気もしたが、それ以上に切なさで胸が一杯になった。ネギは素直に校長に身を預けた。なんだか、懐かしい香りがした。

 しばらく抱き合った後、三人と校長は自然に身体を離す。

 

「コノエモンから色々と話は聞いとるぞ、二人とも。相変わらずだったみたいじゃな。随分と無茶もしてそうではないか、全くネカネも付いていながら」

「アハハ」

「相変わらずなのはネギとアスカだけよ。私は関係ないし」

「申し開きもありません」

 

 三人を慈しみの眼差しで見つめながら、どこか誰かを彷彿とさせるやんちゃな光を宿す校長。ネギは思い当たる節があって愛想笑いし、アーニャは自分は関係ないと知らんぷり、ネカネが申し訳なさげに頭を下げる。

 

「よいよい、折角の再会じゃ。これ以上のお小言は止めておこう」

 

 やんちゃ坊主の無茶には慣れていると、茶目っ気を滲ませて校長は目を閉じた。

 何時もみたいな言葉。遥か昔に交わし慣れていたやり取り。その一言一言に校長が万感の想いを込めていることを、今のネギは理解できる。何時ものやり取りであるために、溢れ出しそうな何かを堪えているのだと理解できてしまう。

 

「あの、お爺ちゃん」

 

 それでもネギは校長に聞かなければならないことがあった。

 

「分かっておるよ、ネギ」

 

 校長は遠くを見つめるようにして、一呼吸、間を置く。心を整理をつける時間が欲しかったのかもしれない。

 

「スタンはアスカが見送ったよ。遺体は魔法的処置をして保健室にそのままにしておる。この後に行くといい」

 

 寂しそうな声が静かな空間に響く。

 こんがらがった紐のようだと、明日菜は感じた。生と死という絶対の運命の紐は硬く、きつく結ばれ過ぎて誰にも解けなくなってしまった。ひどく、やるせなかった。

 

「アスカは……?」

「始まりの場所でお主らを待っておるよ。彼らも既に運び込んでおる」

 

 空港でネギらに伝えられたのはスタンの死だけではない。スタンの遺体が亡くなった場所である保健室から動かされていないのも、アスカのこの時の言った言葉が理由であった。

 

『村の人達の石化を解く。みんなを連れて村へと来てくれ』

 

 半生をかけた長い旅を終える為にネギは決意を込めた眼差しで村のある方向を見た。旅の終わりが近づいていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 村――――正確には瓦礫を撤去して跡地である場所に足を踏み入れた時、ネギの世界から色彩が死んだ。突然雨雲が広がった時のように、黒褐色に塗りつぶされた。

 脳裏に様々な過去が浮かんでは消えていく。

 多くの死が、多くの悲劇が、ネギの傍らを通り過ぎて行った。その過程で、彼は大人になったのだ。家族や友人や隣人達と健常な営みを続け、生を見て過ごしていく普通の人々は違う。全ては揺らめき、今にも掻き消えそうなか細い線画となり、紙でもくしゃくしゃと丸めるように乱れて薄れ……………そして唐突に停止した。

 ネギは立っていた。緑の大地に足をつけて。彼は瞬きをした。色彩が戻っていた。

 どこかの田舎の村らしい赤煉瓦の家。漆喰の家、板葺の小屋。贅沢ではないが、丁寧に修繕されて大切に使われている建物群―――――――――その全ては今となっては記憶の中にしかない。現実の世界の光景には草原しか残っていなかった。

 消す者がいなかったから燃やす物が無くなるまで全てを燃やし尽くした後に残ったのは多くない。焼け落ちた建物の残骸を撤去した後には何も残らず、六年の月日が流れたことで生えた雑草が村の跡地に生い茂っている。

 

「ここで生まれて、俺達は育った。そして今はもう何も残ってない」

 

 跡地の真ん中で花に囲まれるように胡坐を掻いて座っていたアスカが悲しげに呟く。

 

「…………」

 

 改めて告げられた現実にネギの喉の奥から熱くて辛いものが込み上げた。

 そのちっぽけな村から、目を離すことが出来なかった。ただの村の跡となった跡地が、どうしようもなく切実にネギの魂を叩いていた。殴りつけているといってもいい強烈さだった。認めざるをえなかった。何も説明されなくても、こんなにも心を揺さぶられては受け入れざるを得ない。

 

「アス……」

 

 明日菜が少年の名前を呟きかけて、ハッと口を閉ざす。

 頭には何万、何億回とその名前が渦巻いているのに言葉にならない、部外者でしかない明日菜が音にしてしまうと、この世界がアッサリと瓦解してしまうのでないかという恐れすら感じられた。

 

「六年前に何もかもが燃えてしまった。何人も死んで、多くが石にされた」

 

 鮮明に記憶に焼き付いている轟々と音を立てて燃えていた村の跡地には、その面影は欠片も残っていない。

 変わりに広がっているのは一面の草原と、色取り取りの花々。どこもかしこも花で溢れていた。アスカの知っている花も沢山あり、知らない花も沢山あった。だが、どの花を見ても奇妙に胸は揺さぶられた。

 

『――――お帰りなさい』

 

 そんな風に花が歌っているような気がした。それこそ自分がおかしくなったのかと思ったが、確かにそんな感じがしてならないのだ。冷たい雨の日にコンクリートから生えた一輪の花を見い出したような、ひどく淡くて、どこかしら切ない感傷だった。

 

「俺達は石にされた皆に誓った――――必ず石化を解くと」

 

 立ち上がるアスカの背中を皆が見る。アスカの視線の先には、この時の為に運び込まれた二百体を超える石像が並べられていた。嘗て村を襲った魔物に石にされてしまった人々。その中には、アスカ達を守りヘルマンに石にされたネカネの両親であるスプリングフィールド夫妻の姿も、アーニャの両親の石像もある。

 ついさっきまで自分に触れ、話し、動いてた人が一瞬にして物言わぬ塊と化して色を失くして石像となったのを見た時の絶望は今でも忘れていない。

 決して行かせないと意思の詰まった大人達の背中を、今のアスカは下から見上げることはない。六年と別荘で過ごした二年以上を合わせた歳月は、幼き少年を大人達と変わらない背丈にした。

 

「叔父さん、叔母さん、みんな……」

 

 歩みを進めてアスカの横に並んだネギはゆっくりと石像となったみんなを見渡して話しかける。

 

「僕です、ネギです。あれから六年も経つのに皆は、あの時のままなんですね」

 

 ネギの声は上擦っていて、後少しで心のダムが決壊して泣きそうな危うい、聞いている皆の方が泣きそうになった。

 

「あの時、皆に助けてくれなければ僕らはきっと生きてはいなかったと思います。言わなければならないことが沢山あります」

 

 標的とされたのはスプリングフィールド兄弟だとしたら、あれだけの惨状を生み出しておいて生かしておくことはしなかっただろう。彼らは文字通りに命をかけて兄弟を生かしてくれた、その身を犠牲にして。

 

「アスカ、ネギ。二人の気持ちは痛いほどに分かる。だが、決して自棄になってはいかん。急ぐことはないのだ。今日ここでやる必要はないのだぞ」

 

 解呪計画のことはヘルマンの魂を捕らえた時から石像を管理する立場にある校長には報告してあった。その危険性も失敗した場合のリスクも聞いていたから、校長としても親族としても未来がある若者二人に危険な橋を渡らせることを安易に推奨することは出来ない。

 

「ああ、分かってる」

 

 スタンの死によって急いでいると言われればアスカも否定できないからこそ、そう言葉を返した。

 急いては事を仕損じる、と諺があるように、リスクがあるのだからより慎重に考えて行動に移すべきだというのは理屈の上では理解できた。だが、同時に例えここで解呪を断行しなくてもアスカは魔法世界に渡ることになるので、もしかしたら命を失う可能性だってある。

 ネギとアスカが揃って、やる気になっている今こそが絶好の機会という見方もあった。事実、二人ともやる気に満ちている。

 

「失ったものは取り戻せない。過去は変えられない」

 

 持論を語るアスカの瞳は、石像を通して六年前を見つめるようだった。

 

「失ったものは取り戻せなくても、過去は変えられなくても、今を手に入れることは、明日を掴むことは出来る。俺は彼らに与えられた未来を返したい」

 

 激することなく、平静に伝えられた声音に込められた想いが重い。

 

「六年だ。六年をかけて、ここまで来た。この時をずっとずっと待っていたんだ。頼むから止めないでくれ」

 

 六年という年月は言葉にすれば容易くとも二十歳にすら満たないアスカ達にとって、半生にも及ぶ道のりがどれだけ長く苦しかったかを物語る言葉に校長はそれ以上、儀式を止めることは出来ない。きっと、それ以上止めようとすればアスカは実力を以て排除しようとするだろう。例え誰が相手であろうとも、校長が相手であってもだ。

 

「邪魔はせん。だが、決して命を捨てようなどと考えるでないぞ。例え恨まれようとも止める。儂を残して先に逝くなど決して許さんからな」

 

 息子の行方は知れず、長年の盟友は先に逝き、更には残された孫達まで失っては耐えられない。解呪出来る見込みが薄い村の皆よりも生きている兄弟の方が大事なのだと、せめて校長にはそう伝えることしか出来ない。

 

「ごめん、ありがとう」

 

 残される悲哀を良く知っているアスカは謝罪と感謝をし、カードを取り出して「来たれ(アデアット)」とアーティファクトを装着する。

 

「やるぞ、ネギ」

「……うん!」

 

 ネギは投げられた絆の銀を受け取り、耳に到着する。大きく深呼吸して意志を固める。

 取り戻せるのなら、そうしたかったはずだ。なのに、逆に夢物語だと思っていたことが実現してしまおうとしていることが、どうしようもなく不安だった。

 それでも人間は過去が戻らないからこそ、足場を固めて歩みを進められる気がした。これを果たさなければ、アスカもネギも過去を整理できない。あの時の無力な自分に、何も出来なかった自分に、誰も救えなかった自分に、あの時、あの場所で失った全てを清算するために。

 偉業を果たしたところで何も変わらない。時は戻らない。過去は変わらない。もうあの小さな少年達はいない。取り戻したくても、手に入らないものはあるのだ。

 

「「合体!」」

 

 光が辺りを覆った。光の中で二人の影が一人となり超常の力を持つ存在が誕生する。

 光が晴れた時、そこにいたは一人の青年だった。ネギとアスカの両方の髪型や髪の色、雰囲気が混じり合って一つようになった男は、知性と野生という矛盾した要素が同居した静かな瞳で前を見ている。

 

「これは……!?」

 

 今回の体格のベースはアスカの方にあるのか、身長はアスカの時と変わらない。その背中を見た校長は内包する桁外れの魔力量と完璧に制御している制御力に目を瞠った。

 始めて合体時の姿を見る校長にはネスカが内包する魔力が英雄と謳われているナギを遥かに超え、それを完璧と言えるほどに制御している姿は彼らがもう護られる子供ではないのだと知らせるかのようだった。

 

「アーニャ、封魔の瓶を」

 

 以前よりも更に増した魔力を手足の如く扱いながら、ネギとアスカが混ざった声がアーニャにかけられる。

 合体時に着ている衣類まで混ざり合ってしまうので、ヘルマンの魂が入った封魔の瓶はアーニャが持っていた。どちらでもあり、どちらともつかない静かな瞳に見つめられ、アーニャは儀式の鍵となる封魔の瓶を両手で握り締めて口を開いた。

 

「お願い」

 

 六年、本当に言葉にすれば短い期間のように感じるが、最も甘えたい時期に親を奪われたアーニャの苦悩は筆舌にし難い。

 夜眠る時にふと訪れた寂しさに枕を濡らしたことは数知れず、同年代の子供が親と共にいる姿に自分を重ねたこともある。失った時間は取り戻せなくても、これからの時間を手に入れることが出来れば、帳尻が合うとまではいかなくても六年前からある心の隙間を埋めてくれるかもしれない。

 

「皆を、助けて……!」

 

 アーニャの瞳が潤む。今までただの一度も少年達の前で見せなかった涙と共に懇願した。

 

「任せろ」

 

 二人が合体したネスカは言葉少な気に言い、封魔の瓶を受け取って自分と石像の間の地面に置く。その場所にはアスカが事前に草原を刈り取って剥き出しにした地面には自身の血で描かれた六芒星の魔法陣がある。

 血液には濃い魔力が籠っており、他の物体よりも魔力の巡りが良い。術者であるアスカの血なので更に効率が良くなる。

 血の六芒星の中心に封魔の瓶を置いたネスカは一瞬ネカネを見た。彼女は手を組んで神に祈りを捧げるように一心不乱にネスカを見ている。二人の視線が交わり、離れた時にはネスカは毅然とした表情で石像に向き直る

 

「…………」

 

 一度深呼吸をしたネスカは儀式に意識を集中した。

 

「右手に気を、左手に魔力を――――合成」

 

 咸卦法を発動し、莫大なエネルギーを得たところで第一段階をクリアした。この第一段階に関してはネギも失敗するとは考えていなかった。問題はこの先の第二段階からである。

 合わせていた両手を離して右手を構えた。

 

「右腕開放、千の雷!」

 

 アスカの時に貯めておいた千の雷を解放して「固定(スタグネット)!」と叫んで、放つのではなく球状に留める。周囲数百メートル四方を雷の雨で埋め尽くす雷属性最強の魔法である千の雷を留めておくのを可能にする制御能力がネスカにはある。問題はこの後にあった。

 

「掌握、魔力充填!」

 

 開放すれば村の跡地を一瞬で呑み込む雷の球を握り潰し、内包されていた魔力を太陽道で取り込む。

 自身の肉体に取り込み魔力を装填して融合することによって自身の強化を図る闇の魔法の応用で、千の雷を作るのに使用した時以上となって戻って来た魔力を抑え込んで咸卦のエネルギーとする。

 霊体に取り込んで術者の肉体と魂を喰らわせることを代償に常人に倍する力を得ようという狂気の技である闇の魔法(マギア・エレベア)の本来の使い方とは違う。術式兵装にすることなく純粋な魔力として取り込むことでパワーアップを図るこのやり方は本来の使い方とは少し違うが、一の力が百になったものを無理矢理に体に収めようというのだ。見方を変えればこちらの方が常軌を逸している。

 

「く、ぐぅうううう!?」

 

 咸卦法によって既にパンパンに張り詰めている風船に器以上の水を注ぎ込んだに等しい荒行に、魔力を受け止めたネスカの背が激しく震えだす。苦痛を物語るように全身から一斉に汗が噴出する。

 

「…………さ、左腕開放、千の雷!」 

 

 既に限界なのに、更に左手に込めていた遅延呪文を解放して千の雷を出す。

 

「固定、掌握、魔力充填!」

 

 今度は一気に固定から魔力充填まで行う。

 

「が、ガァアアアアアアアア!!」

 

 もう一発の極大の魔力を肉体に叩き込んだアスカの口からは人の物とは思えぬ叫びが上がり、その身体からは制御を越えて鱗粉のような魔力の粉が噴き出す。

 何も知らぬ者が見れば振り降りる魔力の粉雪に感動しただろうが、発生源であるネスカはこの世の物とも思えぬ酷い苦痛に苛まれ、己の限界への挑戦を行っていた。気高いネスカの両足が人前であるにも関わらず、ガクガクと生まれたての子羊のように震える。

 

「こ、このエネルギー量は暴走すればメルディアナが跡形もなく消し飛ぶぞ……」

 

 落ちそうな崖の端に辛うじて捕まっているような瀬戸際で制御をしているネスカから発生している大きすぎる力の波動に、誰もが吹き飛ばされないように全霊を傾けねばならなかった。その中で最早、下手に止めれば暴走の原因になってしまうことに気づいた校長は人の身には到底余るエネルギー量に戦慄する。

 

「まだだ……!」

 

 気を抜けば一瞬で吹き飛びそうな力の奔流に晒されながら、それでもとネスカは吠えた。

 

「行きなさい、ネスカ!」

「やってみせなさいよ!」

 

 ネスカに同調するようにネカネが、吹き飛ばないように明日菜に支えられたアーニャが泣きながら叫ぶ。終わらせるのだと、この長い旅路を今日ここで終着にしてほしいと訴え続ける。

 前例がないからどうした、荷が重すぎるからなんだ、限界を遥かに超えているからなんだ、無茶だからなんだ、と裡で吠えたネスカは自らの中で荒れ狂う魔力を咸卦の力で取り込んでいく。

 呑み込んで、食らって、取り込む。人生でこれ以上のことは二度と出来ないのではないかというほどにこの時のネスカは神懸っていた。

 体から漏れた魔力も太陽道で回収したネスカの存在感が倍する。にも関わらず、圧力はないに等しい。まるで自然と同化したかのように気配が溶け込んでいる。

 ネスカがピンと伸ばした右腕を肩の高さにまで上げ、唱える。

 

『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな』

 

 ネスカの声は静かだが、何故か地上と天空の全てのものに響き渡るようなものだった。血の六芒星が呪文に反応して鈍く光を発するようになり、彼は手を開くと目を閉じて呪文の詠唱を始める。右腕を折って指先を顔の前に持って行き、それから天を指して高く差し上げる。

 

『主よ、我らを哀れみ給え。憐れみ給え。愍れみ給え。憫れみ給え』

 

 抑揚もなく、只管に続く長い呪文。流れるようなその文言は、時に心に響く歌になり、重々しい神の言葉のようにも聞こえた。蛇か螺旋を思わせて、ゆるゆると流れていく言葉は、夜空の星を搦め取るようでもあった。

 詠唱と共にネスカが拳に固めた右手で左の掌を打つと血の魔方陣の輝きが増して空中に浮かび上がり、封魔の瓶が独りでにコルクの詮を外して中身のヘルマンの魂が漏れ出る。

 漏れ出た魂は巨大化していく血の六芒星に染み渡り、六芒星が全ての石像を覆えるほどになると地上へと下りて来た。石像の頂点で二つに分裂して、地面に刻み込まれるように巨大な魔法陣が浮かぶ。

 丁度、地上と天頂で石像を挟むように静止した六芒星の魔法陣が鳴動する。

 

「これには西洋魔術の東洋呪術の式を掛け合わせておるのか……!?」

 

 西洋魔術を基礎にして、千草から学んだ東洋呪術を掛け合わせた全く新しいネギオリジナルの式を読み取って思わずと言った様子で声を上げた校長が驚く中、それに構わずネスカは呪文を唱え続けた。

 

『土は土に、灰は灰に、塵は塵に』

 

 同時にネスカから凄まじい量の力が爆発した。

 空間が爆ぜて、光の柱が屹立する。外から見れば、結界の上部分だけを破壊して、空中から突然出現している塔に見えたことだろう。分厚く広がった雲を貫通し、膨大な魔力の奔流が夜の星空さえも沸騰させる。

 喩えるなら活火山の噴火だ。これほどの力が一瞬にして噴き上がり、炸裂するのを感じた経験は誰にもない。長い時を生きる校長も同じ。

 強いていえば、魔法世界の戦争において数百人の高位魔法使いが総がかりでかける儀式魔法の爆発力に近いか。だが、それだけの人数で事前に入念な準備をして魔法のイメージを共有し、膨大な魔力を一つに纏め上げるのには恐ろしく時間と手間隙が掛かる。その力がネスカによって制御されて流れが生み出されていく光景は驚嘆を越えて畏怖を覚える。こんな一瞬で可能な芸当ではない。

 

『父の心を知らず、母の愛を知らず。ただ敬虔に祈りを積み、苦悩に倒れ、絶望に沈み、されど希望の灯を消さぬ』

 

 詠唱の声が高まり、石像を包む輝きが更に強くなっていく。

 それはとてつもない現象だった。石像を包む輝きを始点にした圧倒的な光は、光の奔流などという生易しいものなどではなく、爆流や豪流という造語を掛け合わせて、ようやく表現出来るもののように思える。

 村の跡地に光で溢れ返った。風が逆巻く。まるで嵐が澱んだ空気を一掃するような凄まじくも清々しい光景だった。力尽くで呪いを破り、払拭し、薙ぎ払う降魔の矢。故にその返しの風もまた強力である。

 

「――――」

 

 宙に黄金に輝く血の六芒星に限界近くまで振り絞って注ぎ込んでいるため、活力を失くした体がやけに重く感じる

 精神を滑らかに整え、意識はただ目の前の石像達にのみに向けながら重力に押し潰されそうになる身体を必死に支え、意識に掛かる霞を懸命に振り払って血の六芒星に力を注ぎ込み、そこに描かれている構成式を強化する。

 強化された構成式に従って、宙と地に浮かぶ血の六芒星が高速で回る。

 注ぎ込まれた溢れんばかりの力が光となって迸り、石像を包み込む呪いを感知しようとした次の瞬間、ネスカの頭を雷撃のような激しい痛みが貫いた。それだけではない。ネスカの視界が数瞬の閃光に支配され、強烈な眩暈に襲われる。意識が吹き飛びそうになり、自分が存在していることすら自覚できなくなる。

 思考が加速していく。濁流のように流れこんでくる情報の数々。無限にも等しい情報が拷問の如く責め立てて来る中、必死にカテゴライズして意味あるものへと変化させることで決壊することなくとある形へと収められていく。

 力の高まりと同時にネスカの心臓が、彼個人の意思を離れた次元で駆動され、早鐘を打ち始める。既にして身体が重い。四十度を超える熱でも出しているかのように頭がぼうっとして視界が霞む。背筋がゾクゾクと冷えている。

 

「っ!?」

 

 押し寄せる夥しい量の情報が止まらず、尚も加速していく速さにネスカの脳が熱を帯びていく。容赦などない。強制的に刻み込まれていくそれにネスカは怯え、戦慄し、呻いた。

 脳が灼熱する。呪いに辿り着いたが情報量だけで人の頭脳の限界を超えている。加速する処理能力に、脳が悲鳴を上げているのだ。

 分類され、蓄えられていく情報が一定量に達した時だ。疼き、熱を持ち、かつて体験したことのない激痛が遠慮なく流れ込んでくる情報と共に一緒に脳髄を貫いていった。

 壮絶な痛覚、純粋な激痛。脳髄に赤熱した釘を打ち込み、内側から肉を抉り回すほどの痛みが全身に走ったのである。吐き出しそうな激痛に、頭の中にある器官と神経が悶え、ネスカという人格を切り刻む。脳細胞へ、一個ずつ針を刺されていくかのような感覚。

 ギリギリと頭蓋骨が軋んだ。神経が焼き切れてしまいそうだった。永劫にも感じられるほどの攻防に思えたが、実際には僅か数秒の出来事に好かぎなかったようだった。

 

「がはっ」

 

 限界を超えて稼動する脳が灼熱する。血涙が頬を伝い、鼻血が噴き出し、血の塊が喉の奥から湧き出して口を汚す。

 まるで頭の中に何十人、いや何千人に意識が問答無用に頭の中に叩き込まれているようだった。膨大な量のそれらの知識が今度は蛇となって脳内をのた打ち回る。ネスカの意識を丸呑みにし、内側から鋭い牙を立てて襲い掛かってくる。

 情報の牙によって身体の内側から食い破られていくような気がした。骨が砕けて、内臓もズタズタに切り裂かれて。自由に体が動くなら、のたうち回っていたことだろう。流れ込む情報を拒絶できないネスカの肉体は、別の方法で拒絶の意思を示した。

 

「――――があっ!?」

 

 既に限界なのに尚も流れ込み続ける圧倒的な情報量が、更にネスカの脳を揺らした。目と耳と鼻と口、顔中の孔と孔から血が流れ出し続ける。

 人の身を石像へ変えた、それも永久と名が付くほどの術式が全て脳へと注ぎ込まれているのだ。石化は半永久的なもので、神格の力を以ってからしなければ解除できない。人間の頭で処理できるものではない。

 

「があああああぁっ!!」

 

 叫びという声なき声が口から迸る。体中の神経を内側から爆砕されたような激痛に、ネスカは上体を仰け反らせ、喉が裂けんばかり吼える。喉や声帯と言った発声器官だけではなく、全身から迸っているかのような絶叫。正に痛みの叫びだった。

 脳が情報に冒されたことによって力の制御も甘くなる。最高の状態で維持していた力の制御が崩れ始め、後少しで体が爆砕してここら辺一体を消滅させるほどのエネルギーを押し留める。

 ネスカの顔色が、一気に失われていく。青色を通り越して、もはや半透明といって良い領域まで突入する。

 瞼を閉じた覚えもないのに、目の前が暗かった。息をしている感じもなくなった。だが、苦しかったのはずっとだたから、今更もう変わらなかった。

 

「……ぐえっぷ………」

 

 彼の喉は次の絶叫を放つよりも先に更なる血反吐を迸らせていた。神経が支離滅裂な誤作動を起こして全身の筋肉を痙攣させ、体が無様なダンスを演じるように揺れる。猛烈な圧力で全身を循環していた密度の力が術者自身の肉体を破壊した結果であった。

 体の内側から、何億十本という釘に串刺しにされたようだった。釘の表面からは錆びた棘が伸びており、その棘がネスカの神経を念入りに突き刺していくようですらあった。痛みのない、痛みという認識すらもはや該当しない自己の損傷に蝕まれながら、何重にも回転する痛みの中に落ちていく。既に心肺機能と神経網はズタズタに引き裂かれていたからだ。

 考えることさえ、既に億劫だ。疲れたと、ふと浮き上がったそんな感覚も消えた。闇に貪られていく。その内、今考えていることすら意味を消滅させられ、何も考えられなくなる。

 一歩間違えば経路を無視して出鱈目に暴走する一歩手前でなんとか制御しているような状態。

 苦痛の他、もう音も臭いも、光すら殆ど感覚出来なかった。世界は既に苦を盛る器だった。

 思考する暇などはなかった。激痛が人間の痛覚の感覚限界を超え、自動的にあらゆる神経系が遮断される。視覚も、嗅覚も、聴覚も、触覚も、味覚も、残らずネスカから奪い去られる。

 臨界を越えた力に蹂躙される彼の肉体は、いま人であるための機能を忘れ、一つの事象を成しえる為だけの部品、幽体と物質を繋げるための回路へと成り果てている。

 身体が上げている悲鳴。軋みは凄まじい力による損傷に、ネスカという個人の枠が決壊しかけていた。

 心が、魂が壊れて、零れていくのが分かる。理性も本能も漂白され、八つ裂きになって、ただただ翻弄されている。その軋轢に苛まれて悲鳴を上げる痛覚を無視して作業は続く。

 白目を剥いて、四肢が痙攣し、端々の毛細血管が破れて血が滲み出る。アスカの意識は既に朦朧としていた。もう無意識に行っているといっていい。何故、まだ立っていられるのかと思うほど世界が混濁している。

 一秒ごとに意識が薄れ、自分がなにをやっているのかも、どんどん分からなくなっていた。

 

(だ、め、だ)

 

 どんどん数少なっていく意識が、その隅っこでせめてもの抗議の声を上げている。

 

(だ、め、だ。だめだ、だめだ、だめだ、駄目だ)

 

 もはや輪郭すらも分からない身体を必死で捩らせる。闇に抵抗しようとする。

 無為な、一方的な叫び、それも形にならない。幼子の泣き声にさえ遠く及ばない失いかけた意味の発露だけが延々と消えていく心の中で轟きつける。

 滝壺に落ちていくように、自分が壊れていくのが分かる。硫酸を浴びせられたように溶けていくのが分かる。いや自分とは何だ。壊れるとは溶けるとは何だ何だとは何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ―――――――――と、認識が崩壊する。認識という枠からして砕け散っていく。

 肉体と魂の崩壊。その行き着く先は死すら超えた消滅だ。残留思念すらなく、ネスカという概念は完璧に消え去るだろう。

 これこそが、ネスカの編み出した解呪法の問題だった。文字通り神に挑むような作業を、ただ一人の身で解除していくことには強烈な反動がある。その代償に術者が陥る状態が常軌を逸するのも当然と言えたろう。

 ぐらり、とネスカの体が傾ぐ。

 

「―――アスカっ?!」

 

 遠く誰かの声が聞こえた。声に引き摺られるようにして、瞼に力を込める。鉛のような蓋を力尽くでこじ開けると、崩れ落ちかけた体をネカネが慌てて駆け寄って支えてくれていた。

 

「頑張って、二人とも……!!」

「しっかりしなさい! まだ終わってないわよ!!」

 

 力の嵐に流し続ける涙を吹き飛ばされて行きながら、ネカネと共に二人で突破してネスカの下へと辿り着いたアーニャが小さい体で反対から支える

 

「アデアット! 女王の冠よ、我が能力を主人へと貸し与えよ!」

 

 召喚されたアーティファクトはアーニャの頭に出現し、叫びに合わせて冠の中央にある宝玉が輝いた。

 アーニャのアーティファクトの効果が発動する。

 女王の冠は、被った者の能'97ヘを主人へと与えるという変わったアーティファクト。この場合の主人とは仮契約をしたネギであり、現在はアスカと合体しているネスカである。アーニャの能力、魔法適性と魔力がネスカへと貸し与えられる。

 今のネスカには雀の涙よりも小さな助力。それがアーニャの出来ることで彼女の全てであった。

 

「私の全てをアンタに預ける! だから、みんなを取り戻してよ!」

 

 二人とも泣いている。ネスカの痛みを共に背負うことは出来なくとも、当事者として一歩も引かずに待っていたのは彼女達も何も変わらない。

 

「……ま、だだ」

 

 他者の温もりが不思議と激痛を遠ざけてくれる。壊れた心が再構成され、一人ではないという気持ちが不思議な強さを与えてくれるかのようだった。

 ネスカはせめて心だけでも負けぬようにと歯を食い縛る。食い縛る歯が感じ取れなくても、そうすることで自分の意識を保つ。誰に教えられるでもなく、幼き兄弟達が厳しい現実に曝されて覚えた唯一の戦い方。

 

「……続け、られる……」

 

 血の泡を吹きながら言いながらも二人から離れることは出来ない。最早、ネスカに一人で立つだけの力はなかった。

 それでも再び手を石像達に向けて集中する。眠気にも似た感覚が意識を薄れさせるが、解呪法へと力を注いだ。またも脳が揺れて血が噴き出すが、ネスカは赤く染まった視界に石像達の姿を映し続ける。

 もういいじゃない、と全身から間欠泉のように血を噴き出すアスカの背を支えているネカネは声を大にして言いたくなった。

 前を向き続けるネスカの瞳に宿る透明な光に、ネカネは息を呑んだ。それはとても強く、そして限りなく優しかった。不退転の決意を見せるネスカに、顔を歪めたネカネはそれ以上は何も言えず、止めることも出来ずに大人しく引き下がった。

 もう十分に頑張った。こんなに血だらけで苦しんでいるのだから、駄目だったとしても石化した彼らは許してくれる。何もかももういいじゃないか、自分よりも大きくなった背中に顔を埋めて、幼い頃とは全く違った男の匂いを肺に入れた。

 止めて、と言って止めさせることが出来たならどれだけ良かったか。

 今は無力な幼児のように心配だけをしている時ではない。石化解呪法がネスカにしか扱えぬのであれば、少しでも彼の助けになるように背を支える。自分より大きい背中は、弱くて守られるだけの存在だった少年はもういないのだと思い知らされた。

 

「頑張って! 頑張って……!」

 

 ならば、せめて送り出そう。それだけが自分に出来ることならばと背中を支え続ける。

 

『我ら愚かな人なれば、罪を重ねる哀れな愚者なりて』

 

 何度も血を吐きながら、やがてネスカの顔つきが変わり出す。いっそ安らかと言ってよい忘我の表情は完全に目の前の事象に集中し始めた兆しだ。

 

『されど例えどんな昏い道を歩むとしても、果てに後悔はない』

 

 詠唱を続けるネスカの全身を煌めきが覆い、様々に色彩を変化させる光は地面を伝播して石像の足下へと至る。一端、地面で渦を巻いていた六芒星が、ゆっくりと石像を伝うように空中へと立ち上がり始めた。同時に空中の六芒星が地へと降り始めた。

 上昇する六芒星と下降する六芒星がぶつかって、再び一つとなると共に石像達に変化が現れる。万色の煌めきに蝕まれ、揺らぎだした。

 石化したまま永遠に存在し続けるはずだった姿が不定形に揺らぎ出している。

 

『闇を照らす月となって、この困難なる道を照らさん』

 

 ゴボリ、と再び唇から血が溢れた。負担によって内臓が軋み、気管へ熱い血を逆流させたのだ。体の内から骨の折れる異音が次々と聞こえようとも、それでも言い尽せと血に塗れた口を開いた。

 

『この魂を捧げ、悠久なる呪いを解き放つ』

 

 どうして、と自らの行いに疑問を呈して答えは最初から決まっていた。

 

『ああ、どうか主よ―――――』

 

 言えなかった言葉を、今度こそ自分の人生を始めるために。

 

『――――我らに祝福を(キリエ・エレイソン)!!』

 

 魔法名が唱えられた瞬間、今までを遥かに超える光が爆発した。

 

「元に戻れぇえええええええええええええええ――――――――ッッッッ!!!!!!」

 

 最後は言葉に全ての想いを託して、ただ激情のままに叫ぶ。

 六芒星は爆発を起こしたかのように光を撒き散らし、上空を覆っていた雲を木端微塵に破壊する。空を貫いた眩いまでの光の乱舞は、大気を震撼させる轟音と、照らすのではなく一時的に世界の色を塗り潰し、内に取り込んだ者に傷一つ、僅かな衝撃すら与えず、ただその者に宿る特定の呪いだけを根こそぎ奪い取る。

 ふっと全てを見届ける前にネスカの視界が暗くなった。ダメだ――――ネスカは必死に意識を繋ぎとめようとするが、合体が解けて別たれた二人の内の一人であるアスカは体に力が入らず、熱い泥に吸い込まれるように意識が薄れていく。

 

「アスカ!」

 

 落ちていく。誰かの声が耳元で叫ぶ。

 次に気がついた時には瞼は開かないがネカネが自分の膝に己を抱き地に座していると分かった。

 

「馬鹿、こんなに無理して」

 

 彼女は生気の消え去ったアスカの頬を撫でながら、そっと語りかけていた。

 

「………………」

 

 流した血の分だけ命を失ったようなアスカは何も答えない。ネカネが眼を伏せると、一滴の涙がアスカの頬に零れ落ちた。アスカの乾いた頬に、ネカネの涙が染みてゆく。すると、微動だにしなかった彼の眼が薄らと開いた。

 ネカネを認識したアスカは笑おうとするが、彼は口からゴポリと血の塊を吐いた。

 

「ぐっ………。ぐはっ、かはっ、っく」

 

 アスカは苦しげに咳き込みだす。また吐血。折れた肋骨か胸骨かが内臓に突き刺さったか、内臓の一部が破裂したか、どちらにしても命に関わる重症だ。ぜい、ひゅう、と、出来の悪い笛のように鳴る喉を広げて、なんとか呼吸をする。眼は落ち窪み、血の気の失せた膚は白蝋のように青褪めている。呼吸は鞴のように荒い。

 アスカが光のない目で横を見れば何時の間にそうなったのか、のどかがネカネと同じようにネギを膝枕している。その身体の損傷具合は基礎体(ベース)となっているアスカの方が酷い。

 

「…………」

 

 他にも幾人が駆け寄っている二人が心配なのにアーニャの眼は別のところを見ていた――――――――さっきまで石像があった場所を。

 

「…………もしかして、アーニャ、アーニャなの?」

 

 懐かしく聞いているだけで泣きそうになる声が、もうボロボロと泣いているアーニャの耳朶に届く。

 夢ではない。幻想でも、幻でも、ましてや神様が気紛れに起こした一時の奇跡でもない。確実にそこに存在している肉感のある声が訝し気に、六年の間に成長した娘の存在に逸早く気づいた彼女の母親が確かにそこに人の質感を取り戻してそこにいた。

 母親だけではない。隣に立つ父親も、周りの皆も誰一人の例外なく、永遠の呪いから解き放たれていた。ネスカは確かにやり遂げたのだ。

 

「お母さん! お父さん!!」

 

 認識よりも早くアーニャは走った。この世でただ一組しかいない自分の両親の下へ走り、その胸の中へと飛び込んだ。

 固く冷たい石などではない、生きていることを実感させる肉の温かさがアーニャの感情を爆発させた。

 

「会いたかった! ずっとずっと会いたかった!! ああああああああ――ッッ!!」

 

 この世で無二の母の胸の中で泣いた。人生で初めて言うほどに大きな声を出して、誰に聞かれても構わない程に大声で泣く。

 溢れ出す心を抑えきれなかった。ここに至るまで沢山辛いことがあった。息が出来ないほど苦しかったこともあった。逃げ出したいと思ったことなんて山ほどあって、どうしようもなくただ耐えなければいけなかった日々があった。それでも歯を食いしばり、何時かは、やがて何時かはと、そうしてまで頑張ってきたのはこの瞬間に辿り着く為に。

 

「アーニャ……」

 

 母親も全てを理解できたわけではない。ただ、強くしがみ付いてくる娘の激情を受け止めて優しく抱きしめる。

 父親も全てを理解できたわけではない。彼の認識では今まで見たこともない感情の爆発を見せる娘を慰めるように妻共々に抱き締める。

 

「あああああああああああああ………あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああっ!!!!」

 

 嘗て感じていた両親の温もりに全身が覆われて、更にアーニャの涙声が大きくなった。

 アーニャの声が夕陽の向こうへと消えていく。斜陽に照らされて空も地も自分達も全てが優しい茜色に染まり、意識が途切れ途切れになっていたアスカはその光景を見て満足そうに血化粧に染まったまま薄く微笑んだ。

 泣く少女と、幼馴染を抱きしめる彼女の両親。その後ろには村の皆が優し気に見守っている。この光景を見る為に、この光景を見れただけでアスカには命を懸けた価値を見い出せた。世界はこんなにも美しいのだと改めて感じる。

 風すらも暖かい茜色に染まる中でアスカの邪魔をする者はいない。魂を削るほどの仕事を成し得たのに、その喜びを噛み締める機会を奪うわけにはいかなかった。まして彼にはもう一つ、やるべきことが残っていたから。

 自分のやるべきこと。自分の責任。始めたことを終わらせるという、この少年にとっては当然の在り方。

 

「…………ありがとう」

 

 と、掠れた小さな声でアスカは言った。

 ネカネに言ったのかもしれないし、石化が解けて状況が分からぬが血だらけのアスカ達の様子を怖々と近づいてきていた村人達に言ったのかもしれない。

 

「ありがとう。…………本当に、ありがとう」

 

 意識が途切れかけているアスカは礼を述べ続ける。

 八割方飛んでいる意識の中で、なんて言葉が足りないのだろうとアスカは思った。もっと真面目に勉強していれば、こんな時に言えることも変わったのだろうかと意識の端っこで考えが浮かぶ。

 いや、やはり変わらないだろう。感謝を伝える方法など、結局は一つしかない。形はどうあれ、誠心誠意を以て礼を述べるという、その一つだけしかない。だから、言葉を重ねることで、アスカは自分なりの感謝を表現した。

 そして意識が途切れる。満足そうに微笑んで、為すべきことを成せたアスカは誇らしげに眠る。魂の奥底まで疲弊していたアスカは、底なし沼のような深い眠りに引きずり込まれていった。その寝顔を膝枕しているネカネは見下ろしてポタリと一粒の涙を落とした。涙がアスカの頬に落ち、血と混ざって流れていく。

 

「みんな、ネギとアスカを褒めてあげて」

 

 六年前と何も変わらず、変わってしまった自分達を呆然と見ている村人達に、ネカネは膝の上に頭を乗せているアスカを微笑して見つめた。

 

「六年、みんなが石になってからずっと頑張ってきたの。褒めてあげて、よくやったって」

 

 それこそが命を懸けてまで皆を取り戻したかった少年達が望む褒賞なのだと、自らもまたポロポロと涙を流しながら安らかに眠るアスカの頭を撫でながらネカネは言った。

 

 

 

 

 

 今、長い長い旅が終わりを迎えた。

 悲劇から始まった旅路は決して容易いものではなかったけど、少年達と少女は同じ終着点を目指して走り続けた。ゴールはとても遠くて、その道のりで何度も諦めてしまいそうになりながらも遂に辿り着いた。

 旅路を終えた少女はその身の丈に合わぬと思っている重い荷物を脱ぎ去って両親の温もりに包まれて幸福の中で眠り、少年達は次の旅路に向けて英気を養うために眠る。目的地が同じでもここをゴールとした少女は旅路を終えて家へと帰り、少年達は当初から決めていた通りに別の旅路へと立つ。

 少女は旅を終え、少年達は新たな旅へと立つ。その僅かな時間、道は別たれても今だけは喜びと安息の時間に沈む。

 

 

 

 

 




こういうのも原作キャラ死亡になるのでしょうか? 必要ならばタグを追加します。


タイトルの、旅を終えたのはスタンかもしれないし、アスカ・ネギ・アーニャだけでなく、ネカネにとっても、校長にとってもそうかもしれない。もしかしたら石化されていた村の人達もかもしれない。



旅を終えた後に休んで、新たな旅に出る者と、そうでない者。彼らの道は別たれる。それは旅を始める前から分かっていたことだった



次回、『第62話 ターニングポイント』






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第62話 ターニングポイント

 

 

 

 

 

 

 

 メルディアナの町外れにある閑静な場所に、花に溢れた墓地がある。墓地には特別な囲いや飾りなどはなく、ひどく質素な十字架の形をした墓碑が幾つも立っているだけで他には何もない。周辺は雑草だらけなのに、内部には不思議と雑草がない。変わりに色取り取りの花に囲まれて十字架が立っている。

 ここには六年前に亡くなった村人達やスタンも眠っている。六年前の襲撃の際に村近くにあった墓地も荒ら果て、この場所に移転していた。

 霧の都のある国に相応しく、早朝の外は白い霧に滲んでいた。朝日の破片が頂上から零れていた。淡い靄に黄金の光が反射して虹の粒を放縦に撒き散らす。アスカ・スプリングフィールドは朝露で微かに湿った芝生を踏み、並ぶよう立つ幾つもの墓碑の前に立つ。

 

「みんなが掃除してくれたのかな」

「だろうな、死者を悼むのはみんな同じだ」

 

 隣に立つネギ・スプリングフィールドの静かな声に答えつつ、アスカは日本に渡る前にネギ・アーニャ・ネカネの三人で雑草抜きをしたことを思い出していた。メルディアナの人達は自分達の身内の墓だけではなく、アスカ達の村の住人の墓にも花を手向けるのと同時に掃除してくれたのだろう。

 

『イギリスには日本のように遺骨を残す習慣がないはずです。遺灰は公園墓地や故人の思い出の地や自宅の庭に撒いて、愛する人が亡くなった後もその人の眠る地で花を咲かせ、木を育てる。そして故人に話し掛けるように植物たちに話し掛け、思いを馳せるのだと』

 

 スタンの葬式の時に綾瀬夕映が言っていたことを追想する。

 

「ごめん、皆。あまり帰って来れなくて」

 

 あの日に死んだ村人達の墓の前に立ち、アスカは言いながら目の前にある墓石にそっと片手を伸ばし、表面をゆっくりと摩った。六年の間、風雨に晒された墓石はすっかり角が丸くなってしまっている。

 

「タオルを」

「うん」

 

 二人で持ってきた水とタオルで墓碑を洗い、最後に花を供える。それをあの日に亡くなった村の住人分繰り返す。

 全てを終え、最後にスタンの墓に花を添えて立ち上がる。すると、雲の隙間から太陽光が墓地を照らす。

 ぎらつく陽光、咽るような草いきれ、六年前から何も変わらず全てが懐かしい。アスカとネギは、ただ静かに幾つもの墓を見つめていた。ここは日本ではないので線香は上げない。手も合わせない。ずっと静かに墓石を見つめるのみ。

 町で何かを焼いているのか、白い煙が上がっている。仄かに白く、そして蒼い煙が細く長い筋となって少しずつ左右へ広がり無限に高い空へ向かって心地良さ気に伸びていった。

 

「……………」

 

 アスカは墓石を見つめたまま微動だにしない。スタンとその妻の名が刻まれた墓碑の前で静かに佇んでいた。

 陽光と風を受けて、どれくらいそうしていたろうか。目の前にあるものがあまりにも大切で、大切だったからこそ迂闊に触れることが出来ないようだった。

 

「久しぶり」

 

 自問自答を重ねて、ようやく皆の墓に向かって言葉を紡ぐ。何を言うべきか悩んだが、他に言いようがなかった。墓は応えない。当然だ。アスカは構わず、熱に浮かされたように話し続けた。

 

「俺さ、十三歳になったんだ。ちょっと裏技を使って……」

 

 後は思いついたように言葉を口にするだけ。自分が潜り抜けてきた、長い長い戦いを報告するかのように。スタン以外はもう記憶の奥底にも少ししか残っていない彼らに向けて、あの日を生かされた命としてその後を伝えるのは義務であると思えた。

 魔法学校時代から、麻帆良に渡っての楽しい日々、京都での出来事、エヴァンジェリンとの出会いから戦いに向けて、ハワイでの始めての命のやり取りをしたこと、あの日にいたヘルマンが襲ってきたこと、別荘で二年を過ごした事、麻帆良祭でのハチャメチャ振り…………時にネギに変わりながらも、伝えることは山程あった。

 

「みんなを石化から解きました。あなた達もよくやったって褒めてくれるかな」

 

 ネギの口から掠れた声がその唇から漏れる。

 

「俺達はこれから魔法世界に渡る。自分達のルーツってやつを探してくるよ。戻って来たらまた報告しに来る」

 

 アスカが言い終えて、最後に黙祷を捧げるように目を閉じた二人は墓前に向けて右手を持ち上げた。

 

「行って来ます」

 

 長い長い死者との語りの果てに、アスカはやっと決意を固めた。これで別れは済んだ。小さく呟くとネギを促して踵を返した。

 

――――行ってらっしゃい

 

 歩き出そうとしたアスカの耳にそんな声が聞こえた。振り返っても、向こう側から頬を撫でていく穏やかな風が流れていくだけで当然ながら誰もいない。空耳にしてははっきりと聞こえた様な気がした。

 

「どうかした?」

「いや、なんでもない」

 

 足を止めたアスカに気づいたネギが問いかけて来るが、アスカは我知らずに浮かべていた笑みを自覚して首を横に振って歩き出した。

 どうして笑っているのか理解できないらしいネギの頭を近づきざまに掴んでグリグリと掻き回す。

 

「わ、わ、なにすんのさ!」

「ちょうど良いところにあったから遊んでやってんのさ」

 

 ネギが文句を言うが、長身になったアスカにとってネギの頭の位置は丁度、手の高さに合うのでちょっかいをかけやすい。遊ばれたネギにとっては堪らず、馬鹿力を振り切って乱れた髪の毛を整え直す。

 エヴァンジェリンお手製の肩や縁に血のような赤いラインの入った黒いシャツを着たアスカの姿は、ネギの目にはまるで知らない人のように映った。逞しくなったと思う。けれどそれは悲しいことだった。

 人の成長は月日の長さでは計れない。無為に時を刻むだけでの者もいれば、僅かな間にそれこそ十年分の修練を積む者もいる。身長が伸びていることは素直に羨ましいと思うが、その分だけ年を食った。同い年だった双子はきっと自分よりも早く死ぬのだろうなと思うと鼻の奥がつんときて、悟られないように軽口を叩くことにする。

 

「アスカばっか、身長伸びちゃってさ」

「これも年の功だ。お兄ちゃんと呼んでもいいぞ?」

「絶対に嫌だ」

 

 ははは、と笑いながらアスカはこれで良いのだと思った。墓地という場所で些か感傷的になってしまったが、馬鹿をやっている方が自分達らしいと彼らに見せることが出来る。

 墓地を抜けてまだ朝の霧も晴れない町を思い出話を交えながら進み続ける。

 町を抜けて高畑と始めて出会った場所まで来ると、何人かがそこに立っていることに気づいた。

 

「叔父さん、叔母さん……」

「お姉ちゃんにお爺ちゃんまで」

 

 スプリングフィールド夫妻とネカネにメルディアナ魔法学校校長の四人が霧に包まれるようにしてアスカとネギを待っていた。

 

「…………本当に行くのね?」

 

 叔母は歩み寄って来たアスカとネギの姿を悲し気に見つめた。

 何度見ても六年前の幼い少年達のイメージが強すぎて、現在の二人のギャップもあって別人のように感じながらも、努めて表に出さない。

 

「決めていたことだからさ。行くよ、魔法世界に」

 

 アスカにもそのことは感じ取れていたから静かに自らの決意を告げた。もう、彼は叔母に甘えるだけの小さな子供ではないから、一人の大人として言葉を返した。

 まだ六年の空白を埋めることも出来ず、少年達の出生の秘密を知る叔母はなんとか止めようと、こちらも六年前よりも成長して若い頃の自分に似て美しくなったネカネに説得してもらおうと彼女を見る。

 

「私は止めないわ」

 

 だが、その希望も虚しく、ネカネは首を横に振った。

 

「だって、二人ともは頑張っちゃってるんですもの」

 

 困ったようにキュッと眉を内側に寄せて、ネカネは笑ったのだ。

 

「苦しそうで、大変そうで、今にも倒れてしまいそうなのに、それでも必死に戦おうとしている二人を止めることなんて、私には出来ない」

「……………」

 

 娘の言葉を近くで聞いた叔父は静かに瞑目して過去を追想する。

 

「ナギと同じだな。お前達は私達の言うことなど聞こうとしない」

 

 責めたいわけではないが、叔父が愚痴の一つを言うことぐらいは認められるだろうと心の赴くままに言葉を発すると、少年達は気まずそうに視線をずらした。

 はっきりとは言えないけど、確実な変化。この六年の間の変化は叔父らには分からないことでも、悪戯をした後に身の置きどころを失くした時と同じくこの二人の姿は何も変わっていない。

 

「すまない。私達の弱さがお前達を傷つけた」

 

 共にいてやれなかった六年にも及ぶ別離。火のような悔恨を込め、二人に向けて深々と頭を下げながら呟く。

 

「叔父さん……」

 

 ネギは頭を下げる叔父から目を逸らすように足元を見つめたまま、短く言った。

 

「気にする必要もない。もう終わったことだよ」

 

 先に顔を上げたアスカが言った。

 小さな溜息の後、メルディアナ校長は薄く微笑んで首を振った。この中で失われた六年を誰よりも知っている彼だからこそ、二人を止めることは出来ないと分かってしまったのだ。

 

「儂らも二人を引き止めるのは止そう。お前達も男だ。自分がどこまでやれるか、試すのもいいだろう。ただし、決して無理をしてはならぬぞ。危険だと思ったら逃げることも一つの勇気じゃ」

 

 男には、そういう時期がある。自分の力と周囲の世界とが未知であることを許せず、限界などないと信じたい気持ちは誰の中にもあるのだ。そうやって沸き立つ気持ちを静める術は二つしかない。諦めるか、立ち向かうかだ。

 男は誰もが皆、その選択を突きつけられる。二人が挑み、立ち向かう男であることがメルディアナ校長には嬉しかった。

 

「怪我をしたからといって、あまり治癒魔法に頼り過ぎてはならんぞ。短時間に連続すれば効果も落ちるし、後遺症も残る。無理は禁物じゃ」

 

 祖父として釘を刺すことは忘れていなかった。

 彼の孫は、何者にも変えられない強い意志を身の裡に宿していた。アスカの胸の裡に生まれた熱。その熱に浮かされるように、アスカはブルリと背筋を震わせた。今皆に支えられて、更に温度を上げている。ゴオゴオと見えない炎になって胸を焦がしている。だから、この時は最も相応しい動作で校長に答えた。

 

「俺は誰にも負けねぇさ」

 

 嘗てのナギのように自信満々に言うアスカに、叔父は長年の肩の荷が下りたような気持ちで口を開く。

 群れから離れ、自由な風と共に行こうとする鳥には、その為の覚悟とて必要になるのだろう。自分の指針は自分の考えで示さねばならない。屈託なく笑いながら、その双眸は熱いほどの意志を宿して青々と燃えている。そこに大人達は悠然たる大空を思う。

 

「お前達も人の道を外すような生き方だけはしないと確信している。もう大人なのだから生き方を強制などしない。最も大切な時にいてやれなかった私達には資格もない。例え他人から後ろ指を指されようともお前が信じた道を行くならとことんやれ。それがスプリングフィールドの血だ。中途半端で帰ってきたら、それこそぶん殴ってやるからな」

「叔父さん」

 

 ネギはグッと込み上げて来るものを感じた。

 

「私が言うことは一つだけよ。なんでもいい、無事に帰って来て」

「ああ、約束するよ」

 

 叔母の願いにアスカはニヤリと笑うと親指を立てて見せた。

 二人の静かな眼差しを見つめて、叔父と叔母は衝きのめされていた。確かに、この少年達は、あのナギの子だ。ナギの心は、生命は、ここにこうして受け継がれ、鮮やかに息づいていたのだ。

 

「じゃ、行ってくる」

 

 アスカが、ちょっとそこまで出かけて来るみたいに軽い調子でネカネ達に背を向けた。ネギも名残惜し気に続く。

 

「アス……」

 

 ネカネは言いかけた言葉を口の中で呑み込んだ。引き止めても駄目だろう、と内心で分かっていたからだ。

 幼年期はとっくの昔に終わりを告げていたのだ。ネカネにとっても、アスカにとっても、誰にとっても。少年達は大人になる階段を昇り始めた。

 

「行ってらっしゃい」

 

 そう言ってネカネは、去って行く二人が見えなくなるまで祈るように見送り続けた。

 涙を流して見送る娘の後ろから未だに不安げな妻の肩を抱いた叔父は、「本当に大丈夫でしょうか」と父である校長へと尋ねた。

 

「あの子達は戦士じゃ。乱暴者という意味ではなくてな。困っている人を助け、悪い奴を懲らしめ、皆に頼りにされる男になってしまった。代償として、闇に隠れて牙を研ぐ者がいる限りは。向かい風に両足を踏ん張り、炎の中に身を投げ込み、濁流の源まで前のめりに突き進んでいく。あれはそういう子達じゃ。そういう目をしている。そういう運命を背負ってしまった」

 

 叔父は黙って聞いていたが、校長が言葉を切ると、ふっと息をついて静かに言った。

 

「人相見をするとは知りませんでしたよ、お父さん」

「よしてくれ」

 

 校長は片手を振って、息子の皮肉に寂しげに笑った。

 

「魔法学校の校長なんてやっていると、色んな人間を見る。色んな人生を見る。すると、色々と分かるようになってしまうものじゃ」

 

 叔父はもう姿が見えなくなった甥達を思う。彼の隣で校長は苦しみを堪えているような表情の奥で、何かをしきりに考えている様子だった。

 

「アスカ、ネギよ。決して生き急ぐでないぞ」

 

 霧に阻まれてもう声も届かず、姿が見えなくても襲い掛かって来る不安に苛まれた校長はそう言わずにはいられなかった。

 当然、忠告ともいえる校長の言葉は二人に届いていなかった。二人は見送りに来ていた最後の一人に会っていたから。

 

「行くのね?」

 

 アンナ・ユーリエウナ・ココロウァ――――幼き頃より道を同じくして共に進んできた少女は二人と共に歩くことはなく、その前で立ち止まっていた。

 

「最初から決めていたことだからな」

「行くよ、魔法世界に。父さんと母さんを探しに」

 

 必然の別れを前にして、二人の目にも悲しみの光が浮かんでいた。

 

「私は、魔法世界に行かない」

 

 念願の両親を取り戻したアーニャはメルディアナに留まり、石化から解放された村人達と共に村の再建に励むことになる。始めから望んでいた通りに、でもここまで早い別れになるとは思っていなかった少女は改めてその胸中を少年達にぶつけた。

 

「私がいなくても大丈夫なの? ネギはボケだし、アスカはバカだし。脳筋ばっかりのパーティでさ」

 

 甘えていた、と言われればそうなのかもしれない。アーニャの旅路は一人では挫けてしまうほどにゴールは遠く、道のりを踏破できるだけの能力も才能もなかったから二人に随分と助けられた。

 儀式を作り上げたネギ、西洋魔術と東洋呪術の専門家であるエヴァンジェリンと天ヶ崎千草の協力、ヘルマンを倒したアスカの激闘とここに辿り着くまでの必要な素質。石化解呪におけるアーニャが果たした役割は本当に微々たるものでしかない。

 もう三人だけで始めた旅ではなく、出会った人々も巻き込んでアーニャの旅は終わりを迎えてしまった。アーニャはゴールに到達して燃え尽きてしまったのだ。それでも燃え尽きても燻るものはある。

 

「なんとかやるよ。アーニャは待っててくれればいいよ」

「自分達のことは自分達でなんとかするさ。アーニャは思う存分おじさんとおばさんに甘えればいい」

「あ、甘えないわよ!」

「あはは」

 

 図星を突かれて赤くなっているアーニャを見て、ネギが笑う。ただ一言、言って欲しい言葉を二人は決して口にしない。そうしたらアーニャを縛ってしまうと分かっているから。

 

「じゃあな、おじさん達によろしく言っておいてくれ」

 

 時間が迫っている。アスカは別れを惜しいと思いながら、決してアーニャが望んでいる言葉を口にしないと決意して足を進める。

 

「帰って来たら村が出来上がってるのを楽しみにしてるから」

 

 ネギも後に続き、下を向いて震えているアーニャに言葉をかけて横を抜き去っていく。

 二人が自分を追い越して行ってしまうことなど当たり前のことで、アーニャは決して望んでいる言葉を言おうとしない二人に向かって振り返った。

 

「バカ! バカ! バカ! 恰好つけちゃってさ!」

 

 地団太を踏んで幼馴染二人を罵倒したアーニャは浮かんでくる涙を止めようとせずに更に言い募る。

 

「言えばいいじゃない、一緒に付いて来てほしいって! なんでそんな簡単なことも言えないのよ!」

 

 聞こえているはずなのに霧の向こうへと消えていく少年達は決して振り返ろうとしない。それを良いことに言いたいことを言ってしまおうと罵倒しまくる。

 

「アンタ達のことなんて昔っから大嫌いだったんだから!!」

 

 アスカは戦闘馬鹿で、ネギは勉強馬鹿だと散々言い募りながらもアーニャの心の中にあったのは例えようもないほどに大きな喪失感だった。

 二人は幼馴染で、同じ道を歩んだ仲間で、ずっと一緒に暮らしてきた家族だ。石化されていた両親よりも一緒にいた時間は長く、二人と一番共に過ごした時間が長いのは自分だと自信を持って言える。

 良いところも悪いところも、成功も失敗も、敗北も勝利も、日常も非日常も、艱難辛苦を乗り越えて辿り着いた旅路の果てはこうやって別れるのだと分かっていた。

 それでもその時になってしまうと途端に離れることが惜しくなってしまう。辛いことも多かったが、同時に楽しかったことも多く、別れ難い。能力へのコンプレックスと無力感を抱えながら、両親のこととアーニャにも意地があったから自分から共に行くと言えなかった。二人が言ってくれれば一緒に行けたのに。

 

「バカァアアアアアアアア――――ッッッッ!!!!」

 

 大声で叫んでも少年達は戻ってくるどころか、振り返ることすらなく霧の向こうへと消えていく。

 叫び通しで乱れた息を整えながら浮かんできた涙をゴシゴシと乱暴に服の裾で拭ったアーニャは、今はもう誰も見えなくなった霧を見て「馬鹿……」と静かに呟いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日もこの地、ウェールズの空は晴れていた。浮かぶ雲は水面に揺蕩う花弁のような、薄く、小さなものばかりで、真夏の太陽は何に遮られることなく地上を、一面、緑の草原を熱く色鮮やかに照らしている。

 地平線の彼方まで続き、熱気を含んだ風に揺れる風景は波を連想させ、その様はさながら緑色の海のよう。

 広い草原のあちこちには人よりも大きな石が立っており、海と見間違う者は決していない。見る者が見ればストーンヘンジと分かる場所に五十人を超えるか超えないかぐらいの人の姿があった。

 これから魔法世界に行く者達がストーンヘンジらしきものがある少し開けた場所に集まっているのだ。

 近くを小川が流れ、地面は雑草によって緑の絨毯となっている。暖かな陽射しは草の一本一本を際立たせ、風にそよぐ緑の波は心地良い自然のベッドを連想させる。風は穏やかで、やや陽射しは強いが透き通るような青空は、見る者の目を吸い寄せ、心に一瞬の空白を作り出してしまうほどに、深く、清く、美しかった。

 風が流れ、草木のざわめく音が聞こえる。暖かな陽射しとは裏腹に、ここには冷えた空気が流れていた。離れた場所には小鳥の囀りが聞こえ、太陽の光が柔らかく辺りを照らし出していた。

 

「ドネットさん、出発まで後どれぐらいありますか?」

 

 空気の清浄さに深呼吸をしたネギが此処に案内してくれたドネットに訊ねる。

 

「そうね、一時間ってとこかしら」

 

 腕時計を見て時間を確かめたドネットの発言に、予定よりも早く着いたのだなと考えているネギの横にバスケットを持ったのどかがやってきた。

 

「お二人とも朝ご飯食べてないですよね。茶々丸さんと木乃香さんと夕映と私でサンドイッチを作ったんですけど、食べませんか?」

 

 墓参りをしてから合流することになっていたスプリングフィールド兄弟に朝ご飯を食べている時間が無かったので朝食を抜いていた。気を利かしたのどかが図書館島探検部三人で早起きして作ってくれたサンドイッチが入ったバスケットを開く。

 

「え? あ、ありがとうございます。お腹が減っていたので助かります」

「茶々丸さんが夜の間に下拵えをしてくれたので多めに作ってありますから、皆さんもよかったらどうぞ」

 

 芳醇な香りに空腹を刺激されたネギがお礼を言い、のどかが勧めている横で座って食べられるように木乃香と刹那が床にビニールシートを敷いている。

 

「よかったの? アーニャちゃんを置いて来て」

 

 ビニールシートには座らず、近くにあった手頃な石に腰かけて茶々丸が持って来てくれたサンドイッチを抓んでいるアスカに明日菜が躊躇いを含んだ様子で話しかけていた。

 

「ようやく両親が戻って来たんだぞ。いいに決まってるさ」

「でも……」

「今生の別れってわけじゃない。一ヶ月して戻って来たら嫌でも顔を合わせるんだから大したことじゃあない」

 

 そう言うアスカが少し無理をしているようで心配だった明日菜だったが、たかだか一ヶ月の魔法世界の旅行に必ずしもアーニャが同行しなければならない必要性を上手く説明できなくて口をまごつかせた。

 

「気にしてくれて、ありがとな。でも、大丈夫だ。俺も、ネギも、アーニャもな」

 

 ゴクリと口に中にあったサンドイッチを呑み込んだアスカが笑いながら言われたら明日菜にはもう何も言えない。

 

「このゲートって頻繁に開くのですか?」

 

 知識欲に駆られた綾瀬夕映がドネットに質問している声が耳に入って、明日菜もそちらに耳を傾けた。

 

「いいえ、良くても一週間。調子が悪ければ一ヵ月に一度しか開かないわ」

「ほえ~、それやったら交流が無くなるのもしょうがないんかな」

「確かに鎖国って感じだな」

 

 与えられた情報をメモしている夕映の横で、エヴァンジェリンの講義で聞いたことを思い出して納得する木乃香と、日本の歴史に出て来たような状態にあるものかと千雨もサンドイッチを齧りながら同意するように頷く。

 

「けど楽しみやな、魔法の国かあ」

 

 関西にいたら一生行くことのなかったであろう地に足を踏み入れ、多くの強敵と戦うことを楽しみとしている小太郎は期待に胸を膨らませている。

 やがて朝食を摂り終えた一同は、ゲートが開く時間になるのを今か今かと待ち続けた。そしてドネットがスッと立ち上がる。

 

「もう直ぐ時間よ。行きましょうか」

 

 広げていたビニールシートを片付け、ドネットの先導に従ってゲートへと向かう。ふと途中でアスカが空を見上げると抜けるような青空が広がっていた。漂う白雲は空の青さを際立たせ、燦々と降り注がれる光は緑の大地に生命力を与えている。

 柔らかな陽射しだった。ざっざっ、と草を踏み分け、小高い丘を昇っていく。鮮やかな緑が眩しく、草木の匂いが鼻先を擽った。チチチと小鳥の囀りが耳に心地よい。

 ゲートに近づくと、既に先客が集団となってその時を待ち受けていた。

 

「この第一サークルの中に集まっていてね。あと数分でゲートが開くから」

 

 巨大な魔力を収束させるパワースポットの上に立ち、巨石によって描かれた陣により、魔法世界と旧世界を繋げる世界に数少ない一つに留まり、時間が来るのを待つ。

 この地は野晒しではあるが、その辺の空港の警備やチェックよりも厳重になっている。この地に入れる者がいたとしたら、エヴァンジェリンのような世界最強クラスの魔法使いか、或いは人外の領域に足を踏み入れている者しかない。ここにいる者達も各々が感知の術式や術法を張り巡らしているので、まさしく下手人が入ることはありえない。しかもこの場には優れた魔法使いであるネギと異常なまでの感知能力を持つアスカもいる。

 

「変な奴はいなさそうだな」

 

 ゴクリと唾を呑み込んで待っている一同の中で探知に何も引っ掛からないことに安堵したアスカが肩から力を抜く。

 

「茶々丸、なんか引っかかるか?」

「いえ、レーダーには反応ありません」

 

 アスカが茶々丸に聞いているとゲートが開く時刻になり、どこからかカラーンカラーンと鐘の音が鳴り響く。

 同時にアスカ達の足元から魔法陣が微光を放ちだした。それらは乱反射して複雑に宙で絡み合い、やがて全体に覆いかぶさるように半円形の光のドームを構築する。

 

(髪が逆立ちそうな変な気分だ)

 

 敏感すぎるアスカの感覚には静電気が全身に纏わりついて包み込んでくるようなのを感じた。

 と、瞬きする間もなく、視界が歪み、天地が逆転し、床の魔法陣が噴出した焼きつくような光芒に全てが白色化した、次の瞬間、世界が、ぱっと解けた。極上のシュールがどんなに小さく小さく畳まれていても、軽く一振りするだけで皺一つなく広がるように。そして、何時しか足がまた硬い地面を踏みしめているのが分かった。

 

「あれ?」

「もう着いたんですか?」

「ええ、到着よ――――ようこそ、魔法世界へ」

 

 夕映や千雨が困惑している様を、校長の用事等でよく魔法世界に渡るドネットは含み笑いをしながら疑問を肯定する。

 世界を超える感覚は、夢に落ちる時のそれに似ている。ふっと気が遠くなったと思ったら、何時の間にか世界が切り替わっていて、視界の全てが絵本のページを捲るみたいに激変しているのだ。

 

「大丈夫ですか、みなさん」

 

 ガイノイド故に違和感を覚えなかったらしい茶々丸が全員の容態を確認していく。その中でゆっくりと落ち着いてゆく景色を、ネギ達は見分けた。

 

「本当に別の世界なんやね」

 

 木乃香の眼から、焼き付けられた強烈な光線の緑がかった残像が除かれると、そこには、別世界が広がっていた。

 先程までいた岩以外何もなかった開放的な空間ではなく、どこかの巨大な建物の内部にいるらしく四方が壁に囲まれている。足元は草原ではなくストーンヘンジのような物を設置している円形の台座で、もしも下を覗こうとすれば千雨などはあまりの高さに目が眩んだことだろう。

 木乃香達がいる円形の台座から橋のような通路が四方八方に伸びていて、五芒星が描かれた別の円形の台座に繋がっていた。その地球の建築とは明らかに異なる建築様式に、魔法世界を初めて見た少女達の口から感嘆の溜息が零れ落ちた。

 

「ここ、ドコや?」

「魔法世界側のゲートだと思われます。場所が変わっていますから」

「正確にはゲートポートいう名前の施設よ。空港みたいなイメージで捉えてくれれば良いわ」

「へぇ」

 

 さっきと全然違う近代的な場所に立っていることに気づいた木乃香が辺りを見渡し、転移したのだと感じ取った刹那がもう魔法世界に来たのだと告げる。

 ドネットが付けたしてくれた説明に木乃香は感心したような声を上げる。

 

「酔いそうな感覚だったな」

「なんや、アスカ。あの程度で弱っとんのか」

「ほざくなよ、小太郎。ちょっと変な感じがしただけだ」

 

 揶揄ってきた小太郎に皮肉を返しながらアスカは深呼吸をして肺の空気を入れ替える。

 未だ五感が馴染めていない。その事実もあって、彼は慎重になっていた。ゆっくりと――――力を込めて、指の形を歪めていく。数秒を要して拳を作り、彼はまた、それを、さらに倍する時間をかけて開いていった。指は動く。その感触にすら新鮮さを覚える。

 

「転移とは便利なものでござるな」

「国と麻帆良にも繋いでもらると助かるアル」

 

 便利さに故郷が遠い古菲はゲートがあると帰郷が楽でいいのにと不満を漏らし、楓が慰めるようにその肩をポンと軽く叩く。

 田舎育ちが都会に来た直後のように落ち着きのない仕草で周囲を見回す一同に、クスリと笑ったドネットがある方角を指差した。

 

「あそこを上がれば入国手続きを始める前に街を眺められるわよ」

「うちらで手続きしとくから、みんなは見てきてくれたらええで」

 

 ドネットが展望テラスを指差すと興味があった者達が次々と見に行く。行かなかったのは、近衛名義ゲートポートの登録申請をしたので入国審査に赴かなければならない木乃香と付き添いの刹那、ネギに茶々丸ぐらい。

 残りの面々が展望テラスに到着するとそこにはメセンブリーナ連合の盟主メガロメセンブリアの光景が映る。それは圧巻の光景だった。のどか達が足を踏み入れたのは、科学と魔法が入り混じって一体となった空間。

 

「うわぁ」

「すっごーい」

 

 と、のどかが感嘆の声を上げて、夕映が目を輝かせた。窓際に詰め寄った古菲も、目の前に広がる景色に感嘆して吐息交じりに漏らした。

 

「これは凄いな……」

 

 壮観な光景を眼にして、小太郎が呆然と呟いたのを楓も聞いていた。しかし、誰もが同じ気持ちで彼を馬鹿にする気にはなれない。圧倒的な光景に奪われれば、自然と言葉は無くなって。後にはただ、感嘆だけが残される。

 そんな幻想の世界を、これまた奇妙な船が行く。広く張り出した翼、造波抵抗を完全に無視した全体の形状。そして何よりも奇妙だったのは、その船が空中を音も立てずに進んでいる点だろう。

 

「どうだ、魔法世界は」

 

 陶酔しながら見知らぬ世界に見入る彼女らの背後で落ち着いた声がした。聞くなり、少女らは振り返った。そこにいたのは悪戯が成功したかのように笑うアスカと、その横で苦笑する明日菜の姿。

 そこでようやく自分達が小さな子供のようにはしゃいでいることに気づき、顔を赤くしたりそっぽを向いたりする。

 その中で千雨は鼻を鳴らして、「現実と変わんねぇな」とつまんなさ気に言い切った。

 

「この街並を見りゃ分かる。ここにゃ、夢もメルヘンもねぇな。多分、現実と同じ厄介でメンドイ世界が広がってるだけだぜ」

 

 千雨にとっては魔法の世界と呼ばれるに相応しい光景であっても、実際にそこに暮らしている人にとっては他人がどれだけファンタジーに見えても現実と何も変わらない世界が広がっているのだと斜に構えた物の見方で悟っている。

 まだ幾分か離れているにも関わらず、圧巻されるような街の光景なのは間違いない。元の世界にはない、空には幾つもの鯨や鯱といった海の生物をモチーフにした飛行船が飛び交い、桁外れな光景に言葉を失っていたのは事実であるが、物理法則を簡単に無視するアスカが身近にいたことで耐性がついていた。現実的な観点で考えれば物語のような皆がメルヘンで仲良しな世界などありえないと知っている。

 

「二十年前に戦争があったぐらいだからな」

 

 千雨の言に同意しながらアスカの視線はメガロメセンブリアの街並ではなく、展望テラスの中央に鎮座している一つの石像に向けられていた。気になった明日菜が隣に並んで一緒に見上げる。

 

「これは?」

「…………この魔法世界最古の王家だったオスティアの初代女王アマテルとその騎士らしいぜ。仮契約(パクティオー)制度の元になったって言われてる二人だ」

 

 明日菜の問いに、一瞬の逡巡と思考を覗かせて答えたアスカの声音にはそれだけではない感情の色が読み取れた。

 

「へぇ……」

 

 明日菜も不思議な既視感を覚えて二人で並んで石像を見上げる。

 

「そう考えると明日菜の姉ちゃんとアスカって逆やな」

 

 斜め横で同じように石像を見上げた小太郎は二人を見て含み笑いを漏らす。

 

「逆?」

 

 分からなかったらしく、一緒に首を傾ける動作までシンクロしてる二人に他の面々も笑いを堪えている。

 

「女騎士と男魔法使いって話じゃねぇのか。二人は仮契約ってやつをしてるんだろ」

 

 明日菜の疑問に答えたのは、呆れた様子の千雨が突っ込む。

 

「ああ、そういうことね」

「気付けよ、それぐらい」

 

 と言われても、案外そういうことに気づかないのは本人達の方が多い。言われてようやく納得した明日菜に対して本性を隠す必要もない千雨が呆れ気味に呟く。

 

「これから街に出るのでござるから、見るのもこれまでとして向こうから呼びに来る前に戻らぬでござるか?」

「そうやな。嫌でも何度も見ることになるんやし、行こうや」

 

 楓が提案し、小太郎が同調して真っ先に動き出したことで街の観覧もここまでとして入国審査に向かう雰囲気が出来た。

 のどやかや夕映は些か名残惜し気であるが、小太郎の言う通りこれから何度も見るのだと自分を納得させて後に続く。千雨も後に続こうとして、ふとまだアスカが像の前に立っていることに気が付いた。

 

「オスティア、か」

 

 アスカがそんなことを呟いていたのが妙に千雨の耳に残った。

 

「アスカ?」

「ん、今行く」

 

 千雨が声をかけると、アスカは頭を掻きながら振り返って展望テラスの入り口に向かってくる。その姿にどこもおかしな気配はなく、千雨もアスカがアーニャなしで魔法世界に来て少しはナーバスになっているのだろうと気にしないことにした。

 アスカの隣を歩きたいらしい明日菜が先で待っていて、なんとなく三人でネギ達がいる入国審査局へと向かう。

 

「そういや、ここを出たらどこに行くんだ?」

 

 聞いた覚えはあるのだが、知らない地名が出て来たこともあってよく把握できていなかった千雨がアスカに聞いた。

 

「まずは夕映をアリアドネ―に送っていくことになってる」

 

 夕映の希望である一ヶ月だけの体験留学の為、最初にアリアドネ―に送り届けることになっていた。しかも、先方からはアスカとネギが一緒でなければ留学は認めないと言われているので、先にアリアドネ―に向かってから別の場所を回ることになっている。

 

「夏休みまで勉強したいなんてアイツの考えることはよく分からん」

「体験留学だっけ? 夕映ちゃんもよくやるわよね」

 

 エヴァンジェリンに仕込まれたが基本的には勉強が嫌いなアスカと、同感な思いの明日菜は夕映の考えていることが理解できないらしい。

 

「その後は?」

 

 千雨としても勉強が好きな方ではないが、知りたい・何かをしたいという欲求には理解があるので二人には同調せずに先を促す。

 

「先方の希望で一週間ぐらいは滞在することになってるらしい。アリアドネ―は学術都市って呼ばれてぐらいだからネギも興味があるらしいし、俺も少し興味あるしな」

「勉強には興味ないんじゃないのか?」

「ないぞ。ただ、十年前から始まったっていうナギ・スプリングフィールド杯の優勝者と手合せしてくれる言われたら断れないだろ」

 

 また知らない単語、というかアスカは理解できているが千雨には分からないことが出て来た。

 

「ナギ・スプリングフィールド杯って何? 始めて聞いたけど」

 

 明日菜も知らないらしく、眼鏡の奥で眉間に皺を寄せていた千雨の代わりに聞いてくれた。

 

「十年前に行われた拳闘大会…………平たく言えば個人のステゴロ世界一を決めようって大会で、前年度優勝者のガトー・ラリカルがアリアドネ―にいるんだよ。十年ごとに開かれてる大会で今年も開催されてるらしいんだが流石に出れねぇよな」

 

 二人と違って魔法世界に情報網――――正確に言えば魔法世界に繋がっている情報媒体『まほネット』と情報通であるアルベール・カモミールから仕入れているのである。

 

「アンタ達、上手いこと担がれてない?」

「二人の性格を知っている誰かが引き止めようとしている気がするぞ」

 

 ネギとアスカの性格を知っていれば簡単に餌として撒くことは可能だろう。強さを求めるアスカに十年前とはいえ世界一の相手と模擬戦を、夕映に負けない知識欲があるネギには知識で釣ろうとしている辺り、二人の性格を熟知している誰かの手を感じた。

 

「仕方ねぇさ。俺達は殆ど知られてねぇけど英雄である親父の息子なんだ。木乃香もそうだしな。向こうからしたら繋がりを作っておきたいんだろ」

 

 不安になった二人がアスカを当の本人はあっけらかんとした様子で肩を竦めていた。

 

「向こうのトップも戦争経験者で俺達の両親についても知ってるらしい。一週間の滞在になるけど、メリットも多い。妥協するところは妥協しないとな」

 

 世界間渡航をして魔法世界に慣れるまでは同じ場所にいた方が良いし、学ぼうとする意志と意欲があるなら人種・種族を問わずに受け入れるアリアドネ―ならば、違う種に対する差別も少ないはず。

 仲間内では殆ど見たことがない亜人種に対する慣れも必要で、相手が友好的で出した条件がよほど不快でなければ受け入れた方がメリットも多い。

 

「意外……」

「ああ、アスカがそこまで考えてるなんてな」

「おいおい、お前らは俺をどう見てんだよ」

 

 目を丸くしている明日菜や感心している様子の千雨に肩透かしを食らうアスカが呆れて問うと、二人は一度顔を見合わせた。

 

「戦闘バカ」

「女の敵」

「常識知らず」

 

 歩くフラグ製造機……etcなどと次々と二人が普段からどう思っているのかが出て来て、アスカは不貞腐れたように歩く速さを上げた。慌てて二人が後を追う。

 

「ゴメンって」

「悪かった」

「もういい」

 

 ああだこうだ、と言っている間に入国審査局に辿り着いた三人は、先に行っていた小太郎達を探すとカウンターのところで木乃香達が手続きをしているのが見えた。他にも手続きをしている人がいるらしく入り口の横で小太郎達がいたので、そこに一緒に待つことにする。

 

「あれ、ドネットさんは?」

 

 メルディアナから案内してくれたドネット・マクギネスの姿が見当たらず、明日菜はネギ達から離れてやってくる茶々丸に問いかける。

 

「入国審査の最中です」

「え、ここでしてるんじゃないの?」

「旧世界から魔法世界への渡航の際には別途、手続きなどが必要とのことで別室に」

 

 ふーん、と明日菜が納得をしている間にカウンターで何やら書類などにサインをしているらしい木乃香達の方が大詰めを迎えているようだった。

 

「では、近衛木乃香様。杖、刀剣等武器類はすべてこの封印箱の中にあります」

 

 審査は順調に終わったようで、ネギの杖やアスカの黒棒、刹那の夕凪から楓の武装、各自の仮契約カードを渡航前に入れておくように指示されていた箱がカウンターに置かれた。

 

「強力な封印でゲートポートを出ませんと開錠出来ませんのでご了承ください」

「はいな。こんな小さな箱の中に全部入ってるんやなぁ」

 

 木乃香が荷物の受け取りにサインをしながらカウンターに置かれた箱をしげしげと眺める。

 

「空間拡張の魔法がかけてあるんですよ。だから僕達の荷物ぐらいならば全部入ります」

 

 ネギがカウンターから箱を手に取って、こういう封印系や空間系の魔法を殆ど習得していないので物珍し気に目をダルマのようにしながら裏返したりして封印具合を確認する。

 

「メガロメセンブリアでは武器類の形態に許可証が必要になりますので、手続きをお忘れなく…………あの、失礼ですが近衛様。握手をお願いできますか?」

「え?」

 

 事務的に話していた審査局担当官の女性からいきなりそんな申し出があって、木乃香は目を白黒として驚いている様子だった。担当官の発言に刹那がピクリと反応する。

 

「お父様のサムライマスターのファンなもので」

 

 握手を求められる理由が分からなくて木乃香が近くにいた刹那に助けを求めると、担当官の女性は剣呑となろうとした刹那に慌てて手を振ってそう言った。

 

「そうなら」

「ありがとうございます」

 

 困惑した様子の木乃香が相手に害意がないと判断して握手に応じる。担当官の女性は業務中にいいのかと思うぐらいに満面の笑みになって握手していると、その近くでは他の担当官たちが少し羨ましそうに見えていた。

 

「これも有名税か」

 

 次々と握手を求められている木乃香の姿に日常との違いを感じた千雨は先程のアスカの言に納得を覚えていた。庶民レベルでこうなのだから権力者ともなればどのような対応をとるのかが一中学生の千雨に想像がつき、ふと隣に立つアスカの姿に疑問を覚えた。

 

「なあ、近衛だけじゃなくてアスカとネギ先生も立場は同じなんだろ。なんでお前らは握手を求められないんだ?」

 

 しかも、聞いた話ではアスカとネギの父親の方が木乃香の父親よりも人気がデカいと聞いていたので千雨の疑問も当然と言えた。

 

「俺らの両親は戸籍上では叔父さんと叔母さんになってるからな。血縁ていっても甥じゃあ、他人みたいなもんなんだろ」

「ということは、ネカネさんが本当のお姉さんってことになってるの?」

「戸籍上はな。詳しい話はまた今度だ」

 

 話が話だけに小さな声のアスカから告げられた内容は十分に明日菜と千雨の度肝を抜くに相応しい内容だった。このような衆人環視の中で出来る話ではないのだろうと納得して手続きが終わるのを待つ。

 ほどなくして全ての手続きを終えた木乃香達がアスカ達のところへとやってくる。

 

「終わったで」

 

 旧家で家柄が良い木乃香はお嬢様扱いには慣れてはいても、まさか握手を求められることなど今までなかったので変わった対応した分だけ少し疲れているようだった。

 

「ご苦労様」

「本当に驚いたわ。今まであんましお父様が有名人っていうこと分からんかったけど、みんなに慕われるぐらい活躍したんやな」

 

 常のポワポワと雰囲気を崩すほどに担当官の女性達の握手合戦の影響が響いているらしい。ねぎらう明日菜に凭れかかるなど、彼女にしては珍しい甘える仕草を見せる。

 入り口に十人近くもタムロしていると邪魔になるので、ゲートポートへと戻りながら話をする。

 

「直ぐにアリアドネ―行きってあったのか?」

 

 これは次のゲートポートが開く時間を木乃香に聞くのは無理だと判断したアスカは、丁度近くに来たネギに訊ねた。

 

「第三ゲートに一時間後だって。ちょっと時間が空いちゃうね」

 

 空間拡張がかかっていても重量までは減るわけではない。物が多いだけに重そうに抱えているネギから片手で封印箱を抜き取ったアスカは微妙な時間に、「確かに」と頷いた。

 指の上で封印箱をクルクルとボールのように回しながら、メガロメセンブリアに繰り出すには短すぎる時間をどうしようかと考えていると、明日菜が封印箱を変わりに持とうとして手を伸ばす。

 

「明日菜さんが持つと封印処置が外れませんか?」

「どうでしょう?」

 

 明日菜が手を伸ばしたことに気づいた刹那が魔法無効化能力で封印処置が外れないかと考えたが、はたしてそこまで適応されるのかとネギにも分からない様子だった。そこまで言われたら明日菜も責任が持てなくて伸ばしかけていた手を戻す。

 封印箱を指の上でボールのように回していたアスカは、小太郎に回転したまま封印箱を投げると彼もアスカと同じようにボールのように回し続ける。

 

「時間前に集まることにして後は自由行動にでもするか」

 

 決まった時間にしかゲートポートは動かず、転移に乗り遅れたからといって引き返すことも出来ない。集まる時間を決めて一時解散にすることをアスカが提案する。

 

「そうしよっか。じゃあ、十五分前集合で――」

 

 ゲートポートの入り口を潜りながら、トイレ休憩とでも思うことにして一時解散をネギが宣言し掛けたところで後ろから思いっ切り突き飛ばされた。

 突き飛ばしにネギはバランスを崩しながらも、入り口に繋がっている階段の下に着地する。

 

「アスカ、何を……」

「敵やと!?」

 

 突き飛ばしたアスカに文句を言おうとしたところで、小太郎の一喝するかの如き鋭い声が耳に入って瞬時に意識が変わる。

 膝をつきながらネギが顔を上げると、のどか・千雨・夕映・木乃香をそれぞれ抱えた古菲・茶々丸・楓・刹那がゲートポート入り口から一斉に飛び出してくるところだった。直後に封印箱を持った小太郎と明日菜が続いて、最後にアスカが飛び出して来た。

 

「僕達に気付くとは、どうやらあの時よりも随分と腕を上げたようだね、アスカ・スプリングフィールド」

 

 誰だ、とネギが誰何するよりも早く背筋に感じた寒気がその声と同時に訪れ、声の主から放たれた石の槍が襲う。

 瞬動で移動したアスカがネギの目の前に迫っていた石の槍を砕き、その身体を掴んで入り口から離れる。

 

「ボサっとするな、ネギ」

「ご、ゴメン」

 

 瞬く間に展開が変わって意識が追いついていないネギはアスカが険しい顔つきでゲートポートの入り口を睨み付けていることに気づき、倣って顔を向けると光の加減で姿は見えないがそこに誰かがいるのは感じられた。

 

「ハワイ以来か、久し振りと言った方がいいのかな」

 

 カツカツ、と足音を鳴らして現れたのはアスカ達と同じような白いローブを纏った少年。

 

「フェイト・アーウェルンクス」

 

 アスカが忌々し気に少年の名前を呼ぶと、フェイトはローブを取り外して捨てた。

 フェイトとアスカが顔を合わせるのは、これが三度目のことになる。二人が視線を交し合ったのは、実質ほんの二、三秒であろうか。かねてからの計画の実行する者と、その計画に偶々巻き込まれただけの者。運命に翻弄されるように三度出会った二人。

 誰も何も言わない、言えない。誰も動かない、動けない。揺るがずに、たじろがずに。

 この騒ぎは当然、ゲートポートにいる全員に直ぐに知れることになり、急いだ様子の警備兵が現れて物々しくなった空気に更に事態が急変する。

 

「お、おい! 君達、なにを騒いで……」

 

 一番近くにいて駆けつけるのが早かった一人の警備兵がアスカとフェイトの間に立つようにして割って入りかけたところで、「雷光剣」と小さな声が聞こえてフェイトの後ろから飛来した雷撃が直撃した。

 雷撃が直撃した警備兵が悲鳴を上げて倒れるよりも早く、フェイトの後ろから飛び出した二つの影が上空に舞い上がり、幾つもの雷撃と影が降り降りる。

 

「ちぃっ!」

 

 アスカとネギが先頭に立って魔力で障壁を張り、小太郎達も気で補助する。

 雷撃と影を警戒していたパーティーは完璧に防御するが、不意打ちに対応が遅れた警備兵達に次々と直撃して、空を飛んでいた者は落ち、全員が等しく地に伏したまま動かなくなった。他に動く者がいないことを確認して、雷撃と影を放った二人がフェイトの近くへと降りる。

 立っているのはアスカ達とフェイト達だけで、警備兵も一様に優れた魔法使いなので死にはしていないが深い傷を負って気を失っており、直ぐに動ける状態ではない。

 フェイトの近くにゴスロリを纏って立つ一人、二刀流剣士に刹那は会ったことがある。それどころかハワイでフェイトと行動を共にしていて刹那を剣を交わした剣士だ。

 

「月詠……!?」

「どうもです、センパイ」

 

 軽く挨拶をする月詠を、近くに立つ黒いローブを身に纏いフードと仮面で顔を隠す人物がジロリと見るが何も言わなかった。

 アスカは少なくとも敵はこの三人と感じる気配から判断して、敵の首魁らしいフェイトを見る。

 

「おいおい、俺達を狙ったにしては随分と過激じゃねぇか」

 

 微かに聞こえる警備兵の呼吸音からあまり時間をかけるのは得策ではないとアスカの頭の中で、この状況に対する打開策が構築されていく。

 

「それは誤解だ。君達に会ったのは全くの偶然に過ぎない。何時かは、とは思っていたけど、まさか君らがここにいるとは考えもしなかったよ。君達の手配した者は随分と安全と情報管理に気を配っているみたいだね。僕ですら、ここに来るまで君達が来ているとは知らなかったんだ。僕達の目的は、このゲートポート。本当に、君達は今回は無関係だ」

 

 相変わらずの人形染みた無表情でフェイトはアスカの言を否定する。

 

「全ては不慮の遭遇ってか」

「不幸な事故だよ、君達が巻き込まれたのは。今日が旧世界とゲートが繋がるからこそ襲撃の日に選んだのに、まさか君達がいるとは思いもしていなかった。見逃せるならそれでも良かったんだけど、こちらにも都合があってね。念の為に言っておくけど、外部からの応援は望めないよ。仲間が結界を張って外部と隔絶したからね」

 

 皮肉を飛ばすアスカにフェイトは否定しなかった。彼にも運命が齎したこの皮肉を嘲笑っていたのかもしれない。

 

「駄目だ、外ともドネットさんとも連絡がつかない。かなり強力な結界が張られてる。発動媒体がないと無理に通すのは不可能だ」

 

 アスカの背に隠れるようにして念話を行っていたネギが悔しそうに言った。

 救援が来てフェイト達が直ぐに逃げる可能性はこれで消えた。外でも直ぐに中と連絡がつかないことに気づくだろうが、結界を破壊しなければならないとなれば相応の時間が必要になる。

 

「お前達は皆と一緒に警備兵を連れて逃げろ。俺が時間を稼ぐ」

 

 聞き逃してしまいそうな小声で告げられたアスカの作戦に、ネギは否と言いかけて自分の手には杖もえヴァンジェリンから譲り渡された魔法発動媒体も何もないことに気づく。

 魔法発動媒体が無くても中位以下の魔法ならばネギもアスカと同じく放つことは出来るが、魔法使いらしい魔法使いであるネギと違ってアスカの方が戦力低下は低い。例え発動媒体が無くてもこの中で単体最高戦力は間違いなくアスカだ。外から結界を破って救援が入るまでに敵の足止めをするとしたらアスカがするしかない。気を主体とする小太郎と古菲は特に武器も無く戦力の低下はないが、戦えない者や警備兵を逃がそうと思えば護衛がいる。

 倒れている警備兵と仲間内での現在の戦力分布を考えればアスカが足止めをし、残りが撤退するのが最適。

 

「ハワイでの借りをまとめて返させてもらうぜ!」

「君には無理だと思うけど?」

 

 相変わらず無表情で告げるフェイトに対し、アスカは反対に大袈裟とも思えるほどに感情的に吠えている。

 もう作戦は始まっている。ネギは後に引くことを許されなかった。

 

「「…………」」

 

 アスカとフェイトは、相手の真意を探り合うような目つきから、次第に余計な感情や打算が削ぎ落とされていく。視線によって繋がった相手は自分と同類―――――晴らしようのない情動に取り憑かれて選択肢を狭められた手合いだと分かってしまう。より純粋に、複雑に絡み合った因果が、たった一つの繋がりへと収束されていく。

 互いに感じている不快感は消えず、高まる闘気が物理に作用して二人の間の通路に地面に亀裂が入り、小さな石礫がパンッと音を立てて弾け飛ぶ。

 

「行くぜ!」

「来なよ」

 

 心中に蟠る憤りを晴らすように、二人は全く同時に縮地で前に出た。同時にネギに指示された小太郎達も動く。

 小太郎と楓が分身して一部は警備兵を回収し、一部はローブの人物と月詠に強襲を仕掛け、本体は殿を務める。ゲートポートの出口はフェイトらに抑えられているから展望テラスに行くしかない。

 血気に逸ることが必ずしも良いとは限らない。寧ろ、戦いの場において冷静さを欠くというということは死への近道である。だが、二人は血気に逸っていても冷静さを失ってはいなかった。

 足裏に力を集め、武術の技術も駆使して彼我の距離を一瞬でゼロにして、目の前にいる敵に拳を振るう。

 

「「!」」

 

 放った渾身の攻撃の威力は全くの互角、激突によって生じた衝撃波によって弾き飛ばされる。

 すぐさまアスカは体勢を整えながら空中で瞬動――――虚空瞬動を行って一気に彼我の距離を詰め、繰り出したのは左右の拳のラッシュと蹴りを交えたコンピネーション。

 

「む……」

 

 成す術もなく全段命中したと思われたフェイトの体が水となって弾ける。

 

(幻影!)

 

 アスカは即座に右のバックハンドで裏拳を繰り出し、背後に出現したフェイトに向けて放つ。しかしこれは掲げられた腕によって防がれた。

 それはこちらも予測済み。そのまま身体を右下へ巻き込むように捻り、振り下ろす軌道で左蹴りを放つ。だが、アスカの蹴りは虚空を凪いだだけで終わった。見れば背後にいたはずのフェイトの姿が数メートル先にある。最初の一撃を受けた後にバックステップを入れていたのだ。

 

「逃がすかっ!」

 

 アスカは再び前へ出て、フェイトを追いかける。

 左右にフェイントをかけつつじわじわと近づき、ある一瞬で一気に間合いを詰めて鋭く左を打ち込んだ。払われたが、その時には左足を振り上げて頭を狙っていた。

 視界の死角から突如として現れた左足をフェイトは危なげなく受けたがアスカの右拳が腹部目掛けて飛んでいた。それも腕で受けられた。頭と腹を狙っての二連撃。フェイトは身を逸らして躱し、アスカの拳を掴もうとした。

 相手の意識が上半身に引きつけられたところを狙って、アスカは受けられた左足を叩きつけるようにしてフェイトの膝を斜め上から蹴りつけた。

 

「ぬぅ――っ」

 

 膝を蹴りつけられたフェイトの口から唸り声が漏れ、彼は崩れた――――――と思ったがそれは見せかけに過ぎなかった。苦し紛れに手を付いた思わせて倒立して、そのまま全体重を乗せた浴びせ蹴りが襲ってきた。

 

「見え見えの下手な演技だ」

 

 アスカも蹴りつけたにも関わらず薄い手応えから一連の動作がフェイクであると見抜いていた。浴びせ蹴りをバックステップで避け、足が眼前を通過した直後に踏み込んで体重を乗せた拳を放つ。

 倒立前転をしている形になるフェイトは危なげなく両手で受け止めたが、まだ体が空中にあって踏ん張りが利かず拳の勢いに押されて激しく退かされる。  

 

「人の所為にされては困るな。君の攻撃が温すぎる所為だよ」

 

 鳥が木の枝に降り立つように軽やかに階段の中段に着地したフェイトはダメージを負った様子も無く応えた。

 

「ほざいてろ!」

 

 突き出した拳を戻しもせず、踏み込んでいた足を軸にして神速の速度で踏み込んでいた。

 フェイトは膝でカウンターを取ろうとしたが躱された。飛んできたアスカの裏拳を裏拳で受け、逆側から手刀が飛んだが膝を落したことで服を斬り裂くに留まった。

 肩の上にある手を掴んで逃げなくして、極間近にある足を踏みつけようとしたがアスカは避けるどころか更に踏み込んできた。フェイトからすれば掴んだ腕はそのままなのに肘が抉りこんでくるような錯覚を覚えたことだろう。

 しかし、フェイトはこれすらも予測していたのか手を掴んでいない方の手で肘を受け止めた。 

 

「だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 フェイトが押しのけようと踏ん張るよりも早く、アスカは更に腕に魔力を流し込んで全身から白色の輝きを迸らせた。腕全体の筋肉が服の上からでも盛り上がるのが逃げながら見ていた明日菜達からでも分かった。

 

「ぬぅ、む!?」

 

 アスカのパワーに押され、フェイトの体が浮いた。パワーに対抗することに意識を割いて、掴んでいた手から力が僅かに抜けた。その瞬間、

 

「だらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 拘束されていた手から力が僅かに抜けたのを察したアスカが腕を引っこ抜いた。そのまま振りかぶり、思いっきりフェイトの顔面に叩きつけた。

 爆発音かとも思える衝撃音。ゲートポートの全ての音が一瞬掻き消えるほどの音だった。それだけの衝撃がフェイトの細身の顔面に叩き込まれたのだ。フェイトが立っていた階段が一瞬で粉々になり、弾丸のような勢いで壁に激突し、弾き飛ばされて大音響と共にゲートを支えている足場の柱の一つに叩きつけられた。

 

「うらぁ!」

 

 即座に後を追ったアスカが繰り出した右の拳が空を穿った。避けられたのだ。しかし、その拳を引くよりも先に、ぐっと手首を掴まれる。

 

「やってくれたね」

 

 無機質な目とぶつかり合い、振り払う間もなく、アスカは思い切り投げられた。しかし、フェイトの投げは、アスカを地面に叩きつけるものではなかった。その身を遠くへ投げ飛ばす、文字通りの投げだ。

 投げ飛ばしたフェイトの右腕の周囲に三本の岩の塊がキュ、キュ、キュ、と音を立てて生み出されてゆく。岩の塊は瞬く間に体積を増して先が尖っていく。放たれるのは、鋭利な石柱で対象を攻撃する石の槍という上位古代魔法と、魔法障壁を破壊する遅延魔法を同時に発動した複合魔法。

 

「これを受けれるかな」

 

 フェイトが今まさに放った石の槍は、アスカが展開している魔法障壁を容易く打ち破るだろう。

 

「ぐっ……――このっ!」

 

 直感で石の槍を察知したアスカが空中で身体を捻って三本の隙間に潜り込ませ、避けきれない一本を右腕で叩き落す。

 そこへフェイトが襲来する。石の槍を無茶な体勢で避けたこと、右腕で一本を叩き落したことで攻撃を回避する余裕がない。駆け抜けるようにしてフェイトが隙だらけのアスカに向けて右の拳を放つ。それは肩から水平の軌道で発射する最速の一撃。対するアスカは防御を捨てたのか、迎え撃つように蹴りを放って、

 

「「――――っ!」」

 

 互いの拳と蹴りが、刹那の内に交錯する。

 

「がは――っ」

「く――っ」

 

 腹に拳が喰い込んだアスカは肺の酸素を吐き出し、脇腹を蹴られたフェイトが衝撃で苦痛の呻きを漏らす。

 

「…………っ」

 

 展望テラスに逃げ込んだ明日菜の身体を揺らすものがあった。それは大気を振るわせる重低音。明日菜の視線の先で繰り広げられている戦闘――――その激突で生じる衝撃の余波だ。

 身じろぎさせた明日菜が展望テラスの入り口が顔を覗かせた時には、肉と肉が激突する音がゲートポート全体に響き渡り、ぶつかり合う力の衝撃波が人工の雷鳴を轟かせていて思わず両手で顔を庇った。

 大地を踏みしめる脚に力を込め、明日菜はゲートポート内部の空間を見つめ続ける。

 闘っているのはアスカと、そしてフェイトの二人だ。戦闘が始まって一分ちょっと。アスカとフェイトの攻防は止まることなく続いていた。

 

「完全に互角ね……」

 

 明日菜は驚きながらも、その事実に驚きを得る。ハワイでは圧倒された実力差をたった数ヶ月で埋め、両者の強さは伯仲しているように見える。

 まるで磁力で引き寄せられるかのように、何度となく衝突し合っている。際限などないように、無限に続くかのように、両者は空中で火花を散らす。

 明日菜だけに留まらず、この場でアスカの実力を知る者ならば当然の驚きであった。高位悪魔ヘルマン、麻帆良祭の武道会では高畑、ナギ(アルビレオのアーティファクトであったが)、機竜と強豪達を倒してきたアスカの動きにフェイトは完全に対応していた。

 明日菜の眼から見て、アスカが手を抜いているとは思えない。

 アスカが繰り出している拳撃と蹴撃は、そのどれもが一撃必殺クラスだった。もし明日菜があれを喰らえば、間違いなく一撃で意識が飛んでしまうような攻撃。そんな攻撃を繰り出すアスカに対し、フェイトは真っ向から渡り合っていた。腕や脚を使ってアスカの攻撃を防御し、あるものは回避しながら自らも拳と蹴りを繰り出してゆく。

 反対に目にも留まらぬフェイトの拳撃と蹴撃を混ぜた連撃を放ってもアスカは対応していた。体捌きと自らの両手での受け流しを交えつつ、攻撃を防いで時には避ける。避けるというよりも、思うがままに空を飛んでいたら偶々射線から外れていたというように、風に舞う綿毛にも似て機動。

 確かにフェイトは修学旅行で数合のみは渡り合って明日菜では太刀打ちできない実力の高さを実感させられたが、ここまでの実力を持っているとは思ってもいなかった。

 

「まだ早くなるアルか……」

 

 アスカ達の動くスピードが、更に一段上がるのを見て、古菲が短く驚きの声を漏らしたのを聞いた。

 まるで幻想の光景だった。感謝のしようもないほどありがたいはずなのに、自分達などいなくても事態は動き続けるのだと、取り残された気分になった。

 

「ぬ、マズいでござるぞ」

 

 同じように見ていた楓が二人の戦いに乱入する者の姿を視界に捉えていた。

 

「はぁぁぁ!」 

「デュナミス!?」

 

 アスカの背後からフェイトの仲間のローブの人物――――デュナミスが分身を掃討して気合を込めた拳撃を打ち込んでくる。

 フェイトと接近して近距離で攻防を結んでいたアスカの死角である背後からの攻撃。背中に眼のない人間では接近に気づこうとも普通なら避けようもない拳撃だ。だが、軌道上にいたはずのアスカが次の瞬間には消えていた。

 

「なっ!?」

 

 一瞬にしてデュナミスの視界からアスカが消え去った。ありえないことだ。よしんば、背後からの攻撃に気づいていたとしても回避行動への予備動作は一切なかった。

 

「右だ!」

 

 フェイトの叫びでデュナミスは右に視線を向けて初めて蹴りの動作に入っているアスカを見つけた。

 拳を突き出した姿勢のデュナミスは、攻撃を放った体勢であったため回避に移ることが出来なかった。デュナミスは瞬時に回避を諦めると、急所にだけは貰わないように意識を集中して腕を体の横で固めて防御する。

 

「うふふふふふ!」

 

 蹴り飛ばされて勢いよくフェイトがいる方向へと飛んでいくデュナミスと入れ替わるように、次なる乱入者である月詠がアスカへと飛び掛って行く。狙いは蹴り抜いて伸びきった右脚。

 攻撃を放った直後が最も隙を生みやすい。戦う者として論理ではなく直感で理解している月詠はデュナミスの危機を救えたにも関わらず、あまつさえ見捨ててこの絶好の機を求めた。

 月詠にとってフェイトもデュナミスも仲間であって同士ではない。そしてその仲間というカテゴリーも月詠の中では一般とは大分異なる。彼女の中で世界は斬れるか斬れないか、ただそれだけしかない。フェイトらに協力しているのも、その方がより斬れると判断したためだ。斬るためであれば仲間といえど容赦はしない。血に狂った剣鬼の面目躍如か。

 

「あはははは!」

 

 如何に身体強化を施して強靭であろうとも生身で気を通した刃を受けれる者など、広い世界を探しても片手の指にも足りなかろう。当の斬撃を受けるアスカは該当する人間ではない。

 蹴りを放った直後、コンマ数秒にも満たない間での月詠の強力な斬撃には回避も防御も不可能。なのに、アスカは反応して見せた。

 蹴り足の足裏に魔力が集中。見る者が見れば虚空瞬動の前兆であると知れたろう。外から脚を持って振り回したかのようアスカの体が回転する。これで月詠が胴体を狙っていれば別であろうが、足が独楽のように回転して振り下ろされた太刀が目標を失って空振りする。

 回転したアスカは軸足はそのままに一回転して太刀を振り下ろし為に下がった顔面を蹴ろうとする。咄嗟に月詠は持っていた小太刀の峰の部分で受けた。防御というには咄嗟に反応した行動に過ぎず、踏み止まれるだけの足の力を持っていなかった。

 

「君は……っ!?」

 

 バランスを崩した月詠を跨ぐようにしてフェイトが飛び上がりながら憎々しげに吐き捨てた。その視界はアスカのみが占めている。アスカに仲間二人が加勢した事実が彼らしくもなく頭に血を上らせていた。既に彼の脳裏からはネギや少女達のことは残っていなかった。

 些か冷静さを失っているフェイトの視界の中でアスカが空中でバックステップすると、いきなり背後から衝撃が走った。

 

「ぐっ……」

 

 体勢を取り戻した月詠が瞬動をしてフェイトの背中を蹴り飛ばして二人を激突させてゲートを支える柱の一つに叩きつける。激突の衝撃で柱が砕け落ちて、対角線上に位置する柱の一つにめり込んだ。巻き込まれてもアスカを倒すために仕方なかったのだと言わんばかりの躊躇のなさ。

 追って移動している月詠は崩れ落ちていく瓦礫の一つを蹴ってフェイト共々アスカに向けて太刀を振り下ろした。

 

「月詠っ!? 所詮は狂人か!」

 

 ところがその一撃は味方であるはずのフェイトが石の盾を出現させることで防いだ。彼も存在するのすら許せぬアスカを排除するためとはいえ、利用されて纏めて殺されては適わない。

 

「ぐぅっ」

 

 月詠が全力であろうとも防御に優れたフェイトの防御は突破できない。決戦奥義ならば別だが、ただの気を込めた程度の斬撃では石を僅かに削るのみ。

 

「仲間割れとは結構なことだ」

 

 フェイトが防御に移ればアスカの手が空く。しかも攻撃は敵であるフェイトが防いでくれるので助かることこの上ない。

 意識が背後にいっているフェイトの腹部にゼロ距離崩拳を全力で叩き込む。この一撃を放つまでの一連の動作は月詠がフェイトの石の盾に一撃を当てた瞬間には完了しており、即ち瞬きほどの時間でもアスカから意識を離したフェイトに防ぐことは不可能である。

 

「ぐあ」

 

 目から火花が散ったような痛みに、口から胃液を吐いて呻くフェイト。バランスを崩し、前のめりに倒れそうになったが、ぐっと足に力を込めて押し止まる。アスカの攻撃はフェイトだけに留まらない。気を抜けば月詠に自分だけが両断される羽目になる。

 その間にアスカは崩拳に魔法の射手を纏わせ、またゼロ距離からの全力痛打を放つ。

 衝撃がフェイトの腹部を突破してその身体を弾き飛ばし、石の盾を突破しようとしていた月詠を巻き込む。

 

「っ?!」

 

 攻撃を放った直後で硬直した僅かに生じた隙を逃すことなく、避けようのないタイミングと距離でフェイトの体がぶつかった月詠は衝撃で次への行動が遅延する。そこへ、抜け出したアスカがいっそ惚れ惚れするほどに体重が乗った一撃が避けようのないタイミングで月詠に迫る。

  

「お」

 

 この一撃に対して反応して見せた月詠はまさに驚嘆に値する。

 凡百の剣士であれば成す術もなく、それどころかなにが起きたかすら分からぬまま気絶していただろう。随一の剣士であっても、攻撃を察知できても反応するまでには至らなかっただろう。ならば、この一撃を不完全とはいえ、防いだ彼女はなんと呼ぶべきか。

 天才では足りない。ありうるとしたら鬼才。人間離れした才能ではなく鬼の如き直感。

 本人が意図した動作ではなかろう。フェイトに放っていた太刀とは反対の手に持っていた小太刀が僅かに上がって刀身を寝かせ、アスカの拳を見事に受け止めた。

 しかし、どうにか受け止めるだけで精一杯だった。受け止めただけで賞賛に値する一撃だったのだ。重すぎる強烈な一撃に瞬く間にバランスを崩されてフェイト共々吹き飛ばされてしまった。

 

「百の影槍!」

 

 追撃をかけようとしたアスカを阻む、一度は離脱したデュナミスから放たれた百にも及ぶ影の槍。

 無理に追撃をかけなければ被害はない。アスカは空中に滞留し、デュナミスと吹き飛んだ月詠とフェイトを視界に収める。 

 

「……まだかっ!」

 

 三人とも強いが如何せん連携がなっていない。三人がもし連携して攻撃してきたら、アスカでもここまで完全に攻撃を避けることは出来ないだろう。その事実に気づく前にこの状況を打開したいが闘うアスカにその術はない。

 時間稼ぎをするしかないアスカに向けて、フェイトを振り払って月詠が身を翻して虚空瞬動で近づきざまに近距離で大出力の神鳴流奥義雷鳴剣を放った。

 込められた気に危険を感じたアスカは身を翻しながら最大展開した障壁で受けたが、雷鳴剣の射程距離から離れたにも関わらず吹き飛ばされた。月詠がめり込んでいた壁とは対角線上の壁に叩き付けられた。

 

「やってくれたな!」

 

 脅威的な反応を見せて身体を捻って壁に足から着地しながら叫ぶ。

 行動予測よりも早く肉体が反射する。肉体と精神を苛め抜き、耐え抜いた人間だけに宿る超速の反射。それでもアスカは戦いが長引けば自らに勝利がないことを自覚した。

 

「ゲート内の様子は全くわからないのですか!?」

 

 ゲートポート管制室で状況に巻き込まれたドネットが対処しきれていない管制官達に向けて叫ぶ。

 

「重力波・電磁波・魔法力・精霊力等全て遮断されています、こんな強力な結界聞いたこともありませんッ!!」

「結界破砕機は!?」

「到着まで15分はかかりますっ!」

 

 異変から直ぐに対応を行っている管制官達も不断の努力を続けているが、機械類は『ACCESS ERROR』を叩き出すばかりで未知の結界に閉じられたゲート内の様子は全く分からない。テロなどで結界に封じ込められることは想定されているので結界破砕機はあるが、その到着までは十五分もかかるとのことで、八方塞がりに陥っている状況にドネットは思わず口を抑える。

 

(こうも簡単に侵入を許すなんて……まさか魔法世界側に糸を引く者が!?)

 

 ドネットが焦っているように展望テラスに逃げ込んだ明日菜達もまた焦っていた。

 

「まだ、外と連絡がつかないの!?」

「…………くぅ、駄目です。最低でも杖がないことには」

 

 そう言ってネギが見たのは小太郎に渡された古菲の持っている封印箱。この中には各自の武器から仮契約カード、更にはネギの魔法発動媒体である父から譲り受けた杖もある。ただでさえ、このような結界を通して念話するのは骨が折れるのに杖がないと無理だ。

 

「…………ふう、治療終わりや」

「意識は戻っていませんが警備兵達は大丈夫です」

 

 テラスの窓際に並べられた警備兵達の治療を終えた木乃香が汗を滲ませていた。未だ練達していない木乃香は魔法発動媒体無しでの治癒は余程堪えた様子で万が一を考えて護衛をしていた刹那が彼女を労わる。

 展望テラスの窓から機械で魔法的な事象を解析するために備え付けられている目を通した茶々丸の視界には、この施設全体を覆うように展開されている巨大な結界が見えていた。

 

「張られているのは複合隔離結界と推定されます。これだけの強度と規模の結界を破壊するには結界破砕機が必要になりますが明日菜の魔法無効化能'97ヘであれば破れる可能'90ォが高いです」

「明日菜の魔法無効化能力…………そうです、明日菜さんならば封印箱の処置を破れるのでは!」

「そっか、古ちゃんそれ投げて!」

「分かったアル」

 

 夕映が少々荒っぽい手段になるが現状の解決法を見つけ、明日菜はさっきまでアスカ達との会話から自分が出来ることを見い出し、古菲も直ぐにその意を理解して明日菜に向かって投げつける。

 頑丈そうな箱なので咸卦法を発動して自身最大のパワーで封印箱に拳を叩きつけた。

 

「でいやぁっ!」

 

 拳が叩き込まれた封印箱は明日菜の力によって魔法世界の中でも強固に分類される封印術が無効化され、咸卦法による全力パワーをぶつけられたことであっさりと箱が砕けて中に収められていた物が四散する。 明日菜は四散した物の中から自分の望む物―'81\'81\'81\'83Aスカとの仮契約カードを掴み取った。

 

来たれ(アデアット)!」

 

 アーティファクトを呼び出すと、閃光と共に手の中で現れたズシリと沈む大剣を握る。その間にもネギは杖を、刹那は夕凪を、楓は武器を、その他は仮契約カードや必要な物を次々と手にする。

 

「僕が展望テラスの窓を壊すので、明日菜さんは張られている結界を壊して下さい。外と連絡を取り――」

「アスカ!?」

 

 ネギが次の行動を告げかけているところで、入り口から戦いを見ている小太郎の声が切迫している状況を伝える。

 反射的に全員が気を取られ、明日菜達が確認しに向かうと事態がもう取り返しのつかない領域に足を踏み込んでいることに遅れて気づいた。

 

 

 

 

 

 戦いに溺れている月詠や、普段と違って目の前の相手に没頭しているフェイトの二人と違ってデュナミスには外界に気を配れる冷静さがあった。

 想定していた作戦時間のリミットが近づいている。ゲートポートの職員は優秀である。幾ら施設内部にいる協力員の手引きで強力な隔離結界を展開していても結界破砕機を使われれば何時までも持つものではない。シビアに考えて十分、長くとも二十分が限界と見ている。既に結界を展開してから五分以上が経過している。それは彼らのグループにとって時間切れが迫っていること意味していた。

 目の前には尚も忌まわしき英雄と女王の落とし子が敵として立ち塞がっている。

 月詠が気が込められて紫電を漏らす双剣を煌めかせて迫るが躱され、着地した瞬間を狙ってフェイトも振り下ろしの蹴りを放つ。が、二段構えの攻撃にもアスカは機敏に反応する。

 フェイトの振り下ろしの蹴りを掲げた腕で受けたと思われた瞬間、力を抜いて受け流す。身体を流して蹴りの軌道から逃れて飛び上がるように膝を繰り出した。

 伸び上がってきたアスカの膝を腕をクロスして受けたフェイトは近づく気配に留まるよりも離れた方が得策と判断して、力に逆らわずに敢えて吹き飛んだ。その間隙を埋めるように上空から月詠が左手の太刀を振り下ろして斬空閃を放とうしていた。留まっていればフェイト諸共に斬るつもりで。

 そのことを知っているアスカは既に月詠への対処を終えている。

 

「ぐっ、小癪な!」

 

 今まさに斬空閃を放とうとした月詠だが自らに迫る白い雷が放たれているのを見て、技を中止して迎撃せざるをえなかった。アスカがフェイトに膝蹴りを食らわせる前に牽制の為に先に放っていた一撃である。先程から攻撃に関わっていないデュナミスには見えていた。

 

《テルティウム、もう時間がないのだぞ》

《分かっている。アスカを倒してしまえばいいのだろ。時間はかけない。君も攻撃に参加しろ》 

 

 念話に返って来た返信は時間切れを理解していたのは良かったが、苛立ちも露にしていてデュナミスの期待していたものではなかった。

 アスカと接近して斬り結んでいた月詠の死角から残りの二人で踊りかかる。何時の間にか月詠の相手をしていたアスカの背後にフェイトとデュナミスが回っていた。

 

「ちっ……!」

 

 アスカにとって、この囲まれた状況は面白くない。飛び上がって魔力を込めた拳で鍔迫り合いをしていた月詠を倒立するような姿勢で真上に達した瞬間、体を曲げて虚空瞬動と腕の力で月詠をフェイト達の方に押しやる。

 背後から囲もうとしていた二人はつんのめるような姿勢の月詠を受け止めることはせずに左右に散開する。その二人を狙ってアスカは両手に作り出した二本の雷の槍を放った。

 直進する雷の槍をフェイトは躱し、デュナミスは影の槍で撃ち落した。

 アスカに向かいながら二人の姿が同一線上に重なる。

 フェイトが突っ込むと見せて飛び上がり、その背後に身を隠していたデュナミスが影を凝縮した体長五メートルはないとありえない極太の拳を放ち、あわやというところでアスカが横っ飛びに避ける。が、その動きさえも予測されていた。飛び上がったフェイトが上空から一対の黒耀剣を煌めかせて舞い降りる。

 右腕の動きに呼応して振り下ろされた一刀の黒耀剣が、辛うじて飛び離れたアスカを霞めて地面を断ち切った。

 

《目的を果たせ、テルティウム》

《分かってる!》

《目標はゲートボートの破壊であって英雄の息子の排除ではないのだぞ》

《分かっていると言っただろう!》

 

 念話で叫んで、フェイトは半分に割れた台座が崩れ落ちていくので離れてようとしているアスカに滞空させていた幾本の石の槍で狙う。だが敵はその散撃さえも跳躍で躱され、直撃弾だけを腕で巧みに軌道を変えられていく。

 フェイトは石の槍を放つだけでなく一気に距離を詰め、アスカの懐に飛び入った。

 

「魔法の射手・雷の一矢」

 

 アスカは石の槍の軌道を変えながらもフェイトの接近を予期していたのか、魔法の射手を放ったが、その前に顔面を拳が捉えていた。体重を乗せた一撃がアスカを大きく背後へ吹っ飛ばす。

 本来ならば吹っ飛ぶアスカにデュナミスが攻撃を加えるはずだったが自らに飛来する魔法の射手を弾き飛ばして遅れている。

 

「ちっ、今のはデュナミスを狙ったものか」

 

 先の魔法の射手の狙いはフェイトではなく追撃を狙っていたデュナミスを足止めするために放たれたもの。月詠がデュナミスよりも一歩早く出ているが既に体勢の崩れを整えている。しかも、アスカは背後へ吹っ飛ばされながら雷の槍を作り上げている。

 右足を大きく振り上げて斬りかかって来る月詠を見据えた。

 デュナミスの斜め前にいた月詠は背筋に走る悪寒に反応して咄嗟に双刀を身体の前で構えた。

 

「ぐっ」

 

 一瞬で三倍に巨大化した雷の槍が高速で飛来したのを双刀で受け止める。が、直後に雷の槍が爆発して前進が止められる。

 斜め前にいた月詠の進みが止められたことで前進を続けたデュナミスが前へ出て、アスカと相対する。

 

「「――――――っ!」」

 

 互いの第一手の雷の槍と影の槍が身体を掠め、そのままゲートポートの壁に激突して穿つ。デュナミスは次々と放たれる雷の槍を回避しながら自らも影の槍を幾つも放つが、やはり同様に回避運動に入っている敵を捉えられない。

 遭遇戦になってしまった現状に、どうしようもなくデュナミスは苛立つ。ゲートポート襲撃は電光石火の電撃戦でなくてはならなかった。如何に自分達の個人戦力が強大といえど少数勢力には違いない。今の段階で魔法世界側に目論見を察知されるわけにはいかない。

 ゲートポートの壁に沿って上昇しながら攻撃を交わし合っていた二人は、反対方向から回り込んで上を抑えたフェイトを見たアスカが壁を蹴って自ら落下したことで追い立てられるように急降下する。

 背中を見せながら落ちてくるアスカを、フェイトの行動を見ていた月詠がゲートポートの台座で双刀に気を充填して待ち構えていた。

 

「二刀連撃斬鉄閃!」

 

 月詠の双刀から気が螺旋状に絡み、振り下ろした刀身から放たれた。

 見事な連携だったがアスカは寸でのところで射線上を外れた。まるで後ろに目がついているかのようだ。アスカの超人的な反射神経がなければ不可能なことだった。だが、それも何時までも続けられるモノではない。確実にフェイト達の攻撃は鋭さを増しており、周りを気にしない月詠を主軸として連携し始めたことで詰め将棋のように最後の時が迫っていた。

 

「くっ!?」

 

 回避先に先回りしたデュナミスの体重を完全に乗せた剛腕に殴り飛ばされ、眼下の台座の上へと仰向けに叩きつけられ、長い溝を刻んでストーンに背中を凭れかかるようにしてようやくアスカの体が止まった。

 無防備に身体を晒すアスカに向け、フェイトが右手に幾本もの黒耀剣を掲げながら勝ち誇って舞い降りる。

 

「これで終わりだよ」

 

 口から血を漏らすアスカの不時着が後押しになったのか、ストーンに凭れているアスカに向けて左腕を振って十数本の黒耀剣を放った。

 

「はがっ」

 

 だが、アスカは驚くべき反射神経で真っ直ぐに向かってきた黒耀剣を両足と手で受け止め、歯で噛んで止めるという離れ業を為して見せた。が、同時に横から月詠の二刀が迫っている。

 内から外へ向けて右手で振るわれる太刀を持っていた黒耀剣で弾き、小太刀は自分から横に倒れたアスカの頭上ギリギリを薙ぎ払ってストーンに大きな亀裂を作りながら髪の毛を何本か切り裂いた。

 両手足を付いてなんとか間合いを取ろうとしたアスカだったが、月詠が右手の太刀、左手の小太刀に続いて左足を振るう。その足がアスカの顎を蹴り飛ばして、凄まじい衝撃によって意識を飛ばす。

 

「くそが!」

 

 一瞬とはいえ、攻防の最中に自失した自分を罵倒しつつ蹴り飛ばされた体勢を制御しようとする。

 

「背中が丸見えだよ!」

「がぐっ」

 

 間髪を入れずに、背中にフェイトが飛び蹴りで襲いかかってきた。攻防の最中に背中を見せるなど愚の骨頂。蹴り飛ばされて吹き飛んだところに今まで二人を前面に立たせて積極的に攻撃をしなかったデュナミスが放った拳撃を受けたところで体勢を崩した。

 

「これで終わりだ」

 

 フェイトは微かにこれで終わりとなることに表情を変えて、その斜め後ろで空中にいる月詠も二人ともアスカにトドメを刺す気だ。

 

 

 

 

 

 この瞬間に展望テラスから飛び出したネギ達。目にしたのはデュナミスの追い討ちによって空中からネギ達の近くの台座に叩き付けられたアスカに、大技を放つつもりなのか太刀から紫電を纏わりつかせた月詠が大きく振りかぶって大技を放とうとしていたところだった。

 

「止めろっ!」

 

 そこにネギ達が疾風のように割り込んだ。彼ら以外の第三者の介入を全く想定していなかった月詠は、白翼を曝した刹那の急加速からの体当たりをまともに食らって横に大きく吹っ飛ばされる。

 

「狗神!!」

 

 目的を遂げる為に、この機会に確実にアスカを仕留めるために突進してきたデュナミスに、小太郎が狗神を放つ。数匹の狗神は空中を唸りを上げながら疾走して突進して、展開された影の盾に突き刺さる。更に楓が巨大手裏剣を放ってデュナミスの行動を封殺する。

 いざとなれば入り口を塞げる神珍鉄自在棍を持つ古菲と茶々丸が戦えない者を守る為に残り、明日菜はアスカの下へと駆け寄る。そしてネギは――――――――無謀にも全身に魔力を滾らせてフェイトに突撃していった。肩に乗っていたカモが止める暇もなかった。

 常のネギならば明日菜と同じくアスカの下へと駆け寄り、フェイトを遠ざけることを優先しただろう。

 突撃をした理由は幾つもある。

 性格的なものもあるが、ネギは普段どう見えようとも家族愛の強い人間であり、半身であるアスカをとても大切に思っている。そのアスカが今にも殺される現場を見て、一瞬我を忘れてしまったのだ。

 もしもエヴァンジェリンがこの場にいたならば怒髪天を期すほどの判断ミス。だが、彼女は今この場にいない。ネギの行動を止める者は誰もいなかった。

 

「余計な邪魔を――」

 

 この時点のフェイトにとってネギは路傍の石ころ程度の存在に過ぎなかった。

 ネギの行動によって、アスカが瀕死の状況から脱してしまった。自らの手でアスカを始末したかったのを曲げてまでチームプレーに徹して確実に仕留めようとしたのに、路傍の石ころ程度の存在のネギに邪魔されたことが何よりもフェイトの神経に障った。

 

「するな――っ!!」

 

 まるで五月蠅い蠅を蠅を追い払うように、フェイトの腕の周囲に元は確実にアスカを殺すために準備していた十本の石の槍が生まれて振るわれる動きと共に放たれた。

 

「ラ・ステル・マ・スキル・マギステル 地を穿つ一陣の風 我が手に宿りて敵を撃て 風の鉄槌!」

 

 アスカの視界の中でフェイトに無謀にも突撃して怒り買い、ネギが詠唱して中位魔法をほぼ同時に放つ。石の槍と風の鉄槌が真っ向からぶつかり、十分に準備をしていた石の槍が半分近く――――五本が風の塊を突破する。

 

「!?」

 

 自ら突進しているネギにこれを避ける術はない。背を撫でる死の予感に一瞬で頭に上っていた血が下がって興奮が冷め、自らの判断ミスを悟るが既に何もかもが遅い。障壁突破の効果が付与された石の槍は障壁を張ろうが確実に貫き、回避する術を持たないネギを貫くだろう。

 この二人の行動を見ていた明日菜はにはそれが分かった、そしてアスカにも。

 

「逃げろぉっ!」

 

 この時のアスカの行動に論理的な思考や理由はなかった。自分と同等クラスのフェイトや、それに劣るといっても一線級のデュナミスと月詠の三人を同時に相手していて周りに眼を向ける余裕も皆無だった。

 単純な強さの論理を説くならば、ネギを庇えばどんなに状況が上手く働いたとしてもアスカの戦線離脱は免れない。残るのはフェイトら敵と比べれば二段も三段も劣る者達だけ。或いはゲートポートが外部と完全に隔離さえしていなければ彼女達の力なら逃げるぐらいは出来たかもしれない。不幸なのは戦いのハードルが高すぎたことだけ。目撃者を残すことを良しとしない彼らは彼女達を舞台からの退場させるだろう。

 この場合においてアスカが取るべき最も最善な行動とは、危機に晒されているネギを見捨てることだった。それでも自らの行動による影響を理解しながらも「守らなければ」と思ったのは同じ母親の胎から生まれた同士故か。

 ネギがアスカを助けようとしたように、アスカもネギを助ける為に動く。酷く単純で当たり前の事実が繰り返された。理由を挙げるならば自然に体が動いた、これに尽きる。

 明日菜を置き去りにして縮地でネギの下へと一瞬で駆け寄り、そのネギに自らの体をぶつけた。

 

「え?」

 

 ネギの視界を誰か横切ってぶつかった。視界を遮ったのが誰かの背中で、それがアスカのものであると気づくのに時間がかかった。何故ならば眼の前の背中から血が、鮮血が吹き上がり、ネギの顔を紅く彩ったから。誰かに押されるようにフェイトの斜め後ろにへと流れて、二人して地面に転がる。

 直ぐに起き上がったネギに傷はない。

 台座に力無く転がっているアスカを見たネギの眼には、双子との弟の体を突き破った三本の石の槍が見えた。

 アスカは後先を考えずに飛び出して二本の石の槍を砕いたものの、後の三本を砕くには至らず、その身を盾とすることでネギを守ったのだ。あの時、石の槍が皮を破り、肉を穿ち、そして骨までもを砕いたのをネギは感じた。

 苦痛の声すら上げることも出来ないまま、成す術もなく倒れているアスカを呆然と見続けることしか出来ない。横たわる体から地面に広がる生温かなものが、顔に付着したものが自分の双子の弟の血だということに現実感を感じられない。

 

「アスカ!?」

 

 ネギは急いで手をついて起き上がろうとしたが、台座についた右手が何か滑る物に触れた。

 台座についた手を持ち上げると真っ赤に染まっていた。地面を見る。地面も、ドロリとした赤黒い液体に真っ赤に染まっていた。それは横向けになったアスカの背中と、地面の間から流れ出していた。こんなに沢山流れて良い様な物ではないはずだった。致命的な量の出血。尚も血が滾々と流れ出していく。

 

「貴様はここで死ね!!」

 

 放っておけばアスカが死ぬであろうことは、フェイトの放った一撃を見ていたデュナミスには分かっていた。

 フェイトの過剰なほどのアスカへの異常な執着の強さ。出生と底知れぬ強さを持つアスカが後々の禍根となると判断し、ここで殺せる時に確実に殺す決断をさせた。同じようにネギもまた、今はともかく将来の不確定要素になると纏めて始末することに決めた。

 小太郎と楓の猛攻に晒されながらも、自らの手を切り離し空間を歪ませてロケットのように飛ばした。飛んだ手がアスカに駆け寄っているネギの背後から二人に突き刺さるように空間の歪みに消える。

 

(空間に亀裂!!?)

 

 背後から空間を歪ませたデュナミスの攻撃に逸早く気づいたのはネギの肩に乗っていたカモだった。

 最も二人の近くにいたからこそ気づき、そして今のネギには避けられないと悟った。アスカの異変に明日菜が駆け寄ろうとしているが、空間の亀裂に気づいている様子はなく何よりも間に合わない。また自分ではどうやってもこの致命の一撃を防ぐことも出来ないとカモは同時に気づいた。

 

(すまねぇ、妹よ)

 

 この後の結末を覚悟したカモの脳裏に、今までの歩んできた過去が走馬灯のように流れ出す。

 両親を早くに亡くして貧乏暮らしだったが妹と一緒だったから寂しくなんてなかった。妹は絶対に守ると両親が死ぬ前に誓った。六年前にウェールズの山中で大人が張った罠に引っかかり、ネギに助けられて自らが一生にかけるに値する主であると誓ったあの日の願いと誓いが衝突する。

 

(これが俺っちの選んだ道だ。親父もお袋も褒めてくれるよな)

 

 デュナミスが狙ったのはネギとアスカだ。小さな体のカモは標的にすら入っていない。カモだけならば致命の一撃から逃げることが出来る。だが、カモは逃げようとはしなかった。

 いま、カモは両親とした約束を破ろうとしていた。だけど、大事な主が死ぬのを黙って見ている息子を知ったら怒るだろう。息子の選択を褒めてくれるだろうか。

 

(妹よ、兄ちゃんがいなくても達者で暮らせよ)

 

 最後に遠い故郷にいる妹に言葉を送って、命を代償として大事な主を守るために決心を固めた。

 

「危ねぇ、兄貴!」

 

 全身からスプリングフィールド兄弟に比べれば遥かに小さな魔力を迸らせて、ネギの肩から飛び出して自らが盾になるように空間の亀裂の先に身を躍らせる。

 全ての魔力を振り絞っても、まだ足りない。カモ一人の魔力ではデュナミスの攻撃を防ぎきれない。ならば、足りないなら今ある全てを差し出すだけ。

 

「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっ!!!!」

 

 死を覚悟した生き物の底力。如何なる奇蹟か、カモは自らの生命力の全てを魔力に還元して防御壁と成した。そして―――――――――呆気なく絶命した。影で構成された槍がその体を貫くのとどちらが早かったであろうか。

 虚空から唐突に放たれた貫くことを主眼とした一本の影の槍が、ネギを庇ったカモの胴体を正確に貫いて刺さっていた。しかし、そこでデュナミスの攻撃は止まっている。自らの勝利を確信したカモの顔は満足そうに微笑んでいた。

 

「カ、モ君?」

 

 何かが何かを貫く音に振り返ったネギが見たものは大切な親友だったカモの姿だった。その胴体を貫くように影の槍が通っている。どう見ても死んでいた。

 

「なにっ!?」

「お前!」

「お主は!!」

 

 予想外の存在に必勝の攻撃を防がれて驚愕しているデュナミスに、自分達が戦っている敵が何をしているかを察した小太郎と楓が激昂して猛攻を仕掛ける。

 二人の猛攻によってネギに意識を避けなくなったことで、音も無くカモの胴体に突き立った影の槍が粉々に砕けた。まるで岩に叩きつけられた氷細工のように、小さな無数の破片へと砕けて、そしてそのまま空気に溶けるように消えてしまった。後には胴体に穿たれたままの、深い傷跡だけが残された。

 ネギは死んだとされている父にも六年前に一度会っている。だからこそ、死とはなにかを聡明な頭脳が理解しようとも、特に悩んだりすることはなかった。だが、眼の前の物言わぬ友の死骸は死というものをネギに強く実感させた、スタンの時以上に。

 眠るように息を引き取っているように見えたスタンとは違う、無惨にも殺されたとその腹部に開いた大きな穴が物語っている。

 違うのだ。死ぬということは、動かなくなるということだった。動かない、動けない、もう二度と動くことはない。温もりが失せていき、身体が冷たくなるということだった。二度と遊んだり、言葉を交わしたり、触れ合うことは出来なくなってしまうのだ。

 

「カモ、君?」

 

 ネギ・スプリングフィールドは揺れ動き続ける視界の中で、嘗てはアルベール・カモミールだったモノに手を伸ばした。

 触れたカモの体は急速に温もりを失いつつあった。身体のど真ん中を貫かれ、医療の知識がなくても致命傷と分かる傷と血が流れていくのが見える。生きていられるはずもない。呼吸は当の昔に止まっており、心の臓は活動を停止していた。アルベール・カモミールは死んだのだ。

 

「う……うげぇ……」

 

 心が受け入れられなくても肉体は反応した。喉の奥から逆流してきた物を吐き、悶えようとするかのように全身が痙攣して頼りなく震える。

 

「え、え…………。ア、アスカ。そんな…………」

 

 後を追ってきた明日菜は、倒れ伏してピクリとも動かないアスカを見て瞳が信じられないものを見たように見開かれていく。

 

「いやあぁぁぁぁぁっ! アスカ!」

「呆気ない幕切れだったね」

 

 絶叫する少女の向こうから悠然と現れたフェイトがトドメの一撃を放たんと倒れて動かないアスカに向けて拳を振り上げていた。空気を切り裂く拳が振り下ろされる。

 アスカに縋っていた明日菜では如何なる回避も防御も間に合わない。その光景を見上げ、自分達は死ぬのだと思った。その刹那、完全に生き残ることを諦めた。だが、虫けらのように明日菜達が叩き潰される寸前、影が割って入った。

 

「伸びレ、神珍鉄自在棍!」

「ぬぅぉっ!?」

 

 死が訪れる正にその瞬間に古菲のアーティファクトである神珍鉄自在棍が横からフェイトを弾き飛ばした。明日菜には最初何が起こったか理解できなかった。夢の中にいるように、ぼんやりと考えた。

 

「明日菜!」

 

 生きることを諦めていた明日菜を叱咤すような、聞き慣れた澄んだ声を発した。

 空を飛ぶ茶々丸に抱えられながら声を発した木乃香がアーティファクトの衣装である狩衣を纏った状態で、チラリと戦っている刹那へと視線を移す。

 

「これ以上、好き勝手――――――」

 

 木乃香の視線の先で神珍鉄自在棍から退避したフェイトに向けて刹那の夕凪が白く長い弧を描く。が、フェイトは機敏に反応して大太刀の一閃をかわし、飛び退いている。迎え撃つように飛び掛ってきた月詠の両刀を咄嗟の反応を見せて受け止めて叫んだ。

 

「――――――させるものかぁぁっ!」

 

 叫びに呼応するように輝きを増す夕凪と月詠の二刀が交錯し、両者は激しく身体を衝突させる。月詠は刹那の気迫に押されたかのように下がって空中に逃れた。刹那はそれを追って翼を広げて飛ぶ。

 

「四つ身分身!」

「狗族獣化!」

 

 楓が四人の分身を駆使してフェイトに躍りかかり、獣化した小太郎が全霊をかけてデュナミスを抑え込む。誰もが戦っていた。

 

「明日菜さん、どいて下さい!」

 

 緊急事態と、放心している明日菜を押し退けた茶々丸は息を呑んだ。

 一瞥しただけで分かるほどの、どうしようもないほどの流血だった。右足太腿と腹と左肩を貫いた石の槍によって負っている傷は、まだ生きているのが不思議と思えるほどだった。こうしている間にも、アスカの顔からどんどん血の気が引いていった。げぼっという異音。気管に血が入り、呼吸困難を来しているのが、その音で分かった。

 

「うちが治す」

 

 木乃香のアーティファクトは三分以内に受けた即死以外のありとあらゆる怪我を完治させる効果がある。治癒に際して被治療者には苦痛を伴うが、はたしてアスカは持つのか。

 

「今は治すだけや」

 

 治せるのは木乃香だけだ。自分の肩にアスカの命が乗っている錯覚を覚え、木乃香は喉から湧き上がる苦汁を飲み下す。しかし、飲み下したはずの苦汁は、直ぐに倍になって湧き上がった。

 命を背負うという重みの本当の意味を木乃香は実感していた。

 

「こ、木乃香さん! カモ君を、カモ君を助けて下さい!!」

 

 おぼつかない歩みで木乃香の下へやってきたネギが懇願するが、カモはどんな人間が見ても生きていないと分かる状態だ。辛うじて生きているアスカとは事情が違う。

 

「うちには死んだ者は治せへんのや…………ごめん」

「え?」

 

 木乃香は残酷なことを言わなければならなかった。正直、アスカが瀬戸際なのだからネギに構っている暇はない。残酷な言い方だが、生きている者を優先しなければ死者が増えるだけだ。

 

「カモ君は、もう死んでる」

 

 死の宣告にネギの全身から力が抜けた。糸の切れた操り人形のように、身体が崩れ折れる。その姿を痛ましげに見遣り、直ぐに意識を切り替えてアスカに集中する。

 

「このまま治したら石の槍が癒着してまう。茶々丸さん、タイミングを見て抜けへんか?」

「やります。ですが、私一人では……」

「私も手伝う!」

「気張ってや、明日菜」

 

 アスカの体を貫く二本と一本の石の槍を持った茶々丸と明日菜が集中を高める木乃香を注視する。

 

「氣吹戸大祓、高天原爾神留坐、神漏伎神漏彌命以、皇神等前爾白久、苦患吾友乎、護惠比幸給閉止、藤原朝臣近衛木乃香能、生魂乎宇豆乃幣帛爾、備奉事乎諸聞食」

 

 木乃香は横向きになっているアスカの頭を膝の腕に抱き、決意を込めて祝詞を唱え始める。

 ぽうっ、とアスカの身体を温かい光が包み込む。

 

「今です!」

 

 治癒が始まる一瞬前に放たれた茶々丸の合図に明日菜も合わせて石の槍を引き抜く。途端に血が吹き出したがすぐさま治癒が始まったことで急速に組織が復元されていく。

 

「うぐぁぁぁぁっ!!!」

 

 全身が木乃香の魔力光である黄色の光に包まれ、アスカを優しく包み込んでいく。先ほどフェイトに穿たれた三つの穴が元々無かった、という状態に回帰するかのような反動によりアスカが呻き声を上げた。

 それでも、アスカの傷は無事完全に治った。苦痛で強張っていたアスカの頬が、徐々に安らかになっていき、魔力による熱がアスカの体に蓄積されていく。

 自然治癒ではなく、木乃香の魔力によるごり押しの完全治癒呪文は確かに強力だがその分副作用が大きい。普通なら全治何ヵ月も掛かる傷も一瞬で治癒してしまった為、アスカの体に掛かる負担は予想以上に大きい。

 

「ふぅ」

 

 それでもアスカの死は回避できたと、木乃香は過去最高の出来に疲れた笑みを浮かべたが、直ぐにその笑みが凍り付く。

 木乃香の視線の先には、座り込んで手の中でピクリとも動かないカモを抱えて放心しているネギの姿が映る。彼女に目を逸らすことは許されなかった。このまま治癒術士を目指すならば見なければならない。

 治療の優先度は間違っていないと自負しているが、それでも揺らぐ。診断は間違いではないか、カモも治せたのではないかと。

 

「ぐっ」

 

 木乃香の治癒で意識を取り戻したアスカが呻き声を漏らしながら木乃香の膝から頭を動かした。

 

「アスカ!」

「まだ、あかんて。さっきまで死にかけてたんやで!」

 

 アスカが意識を取り戻したことに喜色を浮かべる明日菜を抑え、木乃香は動こうとするのを抑えようとしたが腕を払いのけられる。

 

「前だけを見てろ! 死にたいのか!」

 

 死から救い出されたことに礼を言わなければならないとアスカも分かっているが、今は生きるか死ぬかの戦いの最中である。アスカがふらつく視線で敵を探せば、展望テラスから我慢出来ずに千雨やのどか達まで出てきているの見つけた。

 

「動、け……くっ」

 

 自分が動かなければならないと立ち上がったアスカだが、全身を燻る治癒の副作用である魔力の熱が滞留していて、膝だけでなく腕からも肩からも、あらゆる関節から力が抜けていった。先の血液の流出によって、アスカの意志が肉体へ伝わらなくなっているのだった。

 倒れ込むより先に明日菜が抱えてくれたが、その姿をデュナミスが見ていた。

 

「テルティウム!」

 

 残された時間と切迫した状況に直面したデュナミスがわざと小太郎に弾き飛ばされてアスカ達から遠ざかりながらフェイトの名を叫んだ。

 古菲の神珍鉄自在棍を楓の分身の相手をしていたフェイトはその叫びの意を読み取って、彼は自分からアスカから離れるように距離をとってデュナミスに追撃をかけている小太郎の邪魔をする。

 ゲートポートの中心、世界を繋ぐ楔たる要石の上空に到達したデュナミスのローブから出している右腕が膨れ上がる。

 

「虚空影爪、貫手一殺!」

 

 そして一瞬で消えてなくなったかのように見えるほどに伸びた腕が落雷の如く真下へと降り降りる。

 

「――え?」

 

 めきっと不吉な軋みが耳を打った。

 熱で意識が朦朧としているアスカは、どこから聞こえたのか、何が軋んだのかは分からないが、致命的であることははっきり分かる、そんな音。微かな、だが無視し難い振動が踏み締めた大地から伝わる。

めきめきと、べきばきと、軋みは絶えることなく続いていく。なにやら重々しい破砕音までが加わって―――――

 

「まさか両世界を繋ぐ楔を破壊したのか!?」

 

 首を巡らせたアスカは、ストーンヘンジらしきもの中央にある一際大きな石柱が真上から真っ二つに砕かれているのを見た。

 

「残念だけど僕達はもう目的を果たした」

 

 アスカがストーンヘンジに意識を反らせた時、三人が同じように意識を要意識に移した時に離脱したフェイトの身体は空中にあった。

 

「ヴィシュ・タル・リ・シュタルヴァンゲイト おお 地の底に眠る死者の宮殿よ 我らの下に姿を現せ」

 

 詠唱を終えた直後、ゲートボート全体に轟音が響いた。振り返って仰ぎ見た誰もが目を剥いた。天井を突き破っててぬっと巨大な影が現れ、五本の石柱が轟音と共に落ちかかってきたのである。

 恐らくはフェイトの狙い澄ました結果として、天井からは凄まじい質量の落下を招いた。

 

「きゃあっ!?」

 

 アスカ達がいる台座に辿り着いていた千雨が悲鳴を上げる。隣で振動でのどかが転んだ。

 大きな天井の破片が次々とゲートの台座を貫いていく。直後、まるでビルが倒壊したかのような、周囲を震わせる身体の芯まで揺さぶる重低音と連続した轟音が鳴り響いた。

 真下から突き上げるような衝撃がその場にいた全員を襲った。地震を思わせる激しい振動。意識まで揺さぶるような、凄まじいほど縦に揺れる。横に揺れる。全てが回転するように眩み、誰もが平静を保つのに全身全霊を使わなければならなかった。

 

「じゃあね」

 

 フェイトは上げていた手を振り下ろし、無慈悲にも全ての石柱を真下に目掛けて放ったのであった。

 これだけの質量を破壊するのは状況が悪すぎた。完全治癒呪文を施されたばかりのアスカに抗する手段はなく、他の者達も突然の事態に対処が遅れた。

 

「大丈夫! 私が払うッ!!」

 

 明日菜がハマノツルギを構えて斬撃を放った。

 無極而太極斬と名付けられた明日菜だけの技は、接触した石柱を渦を巻いて消滅させる。だが、それでようやく一つ。石柱はあと五本もある。

 

「はぁあああああああああっっっ!!」

 

 打ち払う、切り払う、薙ぎ払う、そり上げる。一呼吸に四種の斬撃を放って、石柱は夢幻であったかのように全員の視界から消え去った。だが、石柱が破壊した天井の欠片までは明日菜の魔法を打ち消す斬撃でも消せない。

 更なる地響きと共に、いきなり頭上の天井から砕かれて支えが無くなった鉄骨落下してきたのである。しかもそれは、最初の墜落を皮切りに、天井から次々と雨の如く降り注いだ。 

 

「崩壊していく?」

 

 飛び退いた足元が幾度となく衝撃に揺れるのを感じて小太郎が呟いた。

 両世界を見回してもトップクラスにいるアスカとフェイト。二人に比べれば劣るものの、屈指の実力者であるデュナミスと月詠。広いとはいえ閉鎖されたゲートポートで四人が全力で激突したのだ。

 その後も小太郎達が周りの環境を考慮することも出来ずに戦った所為で被害が広がっていた。トドメに天井を突き破って落ちたフェイトの冥府の石柱が切っ掛けとなって、建物の根幹が崩れるレベルにまで到達していたのである。

 

「くっ、崩れる!」

 

 崩壊は収まる気配がない。引っ切り無しに天井の破片が落ちてくる。各自が防御壁を展開するか、落ちてくる破片を迎撃しているので問題はないが、重さ何トンもある岩が無数に降りかかっては身動きが取れなくなってしまう。

 濛々たる砂塵と瓦礫の乱舞に逃げる間もなく飲み込まれて視界が不明瞭になっていくのを感じ取る。このような状況に陥っては誰も戦ってはいられない。如何に超感覚があっても、膨大な瓦礫が阻む。

 

「ここまでですな」

 

 落ちて来る瓦礫を切り払った月詠は、戦っていた刹那から距離を開ける。間に瓦礫が落ちて来て刹那も追撃をしない。

 

「ちょっと浮気してしまいましたけど、次ぎ会う時は殺し合いましょセンパイ」

「月詠……!」

 

 更に大きく空中で距離を取る月詠よりも木乃香達を優先した刹那は強く歯を食いしばりながら落ちて来る瓦礫を縫うように木乃香の所へ向かう。

 

「なああ!!?」

 

 護る人間がいなくて不安になって展望テラスを飛び出した千雨は一番に頼りになるアスカの傍に近寄ろうとした時、彼女に向かって小粒とはいえ十分に人を殺傷してあまりある瓦礫が落ちて来た。

 避けようもないタイミングに目を閉じた瞬間、アスカが飛んで瓦礫を手で砕く。が、アスカは着地と同時にバランスを崩して膝をつく。

 

「く……!」

「お、おい! 無理すんな!」

 

 先程まで大怪我をしていたのだ。治癒されたとはいえ、失った血は戻らず、まだ魔力の熱が滞留していることもあって本来ならば立つことすらままならない身。激震を続ける中で立ち上がろうとするアスカを止めようと腕を掴んだ千雨。

 

「アスカっ! 危ないって! 早く逃げないと―――――」

 

 明日菜がアスカの手を必死の形相で引くが気付いた様子もなく、拳を握り締めてフェイトを睨む。

 

「アスカ・スプリングフィールド」

 

 空を覗かせている中空に浮かぶフェイトもアスカの姿を忌々しそうに見つめ、この場で決着をつけられぬことに血が滲むほど強く唇を噛みしめた。

 

「次に会った時が、決着の時だ」

 

 アスカをにらみ続けるフェイトの口から呪いの言葉が紡ぎ出された。

 直後、アスカ達の足下から光が溢れた。圧倒的な光量。明るすぎて全てが光に呑み込まれ、何も見ることが出来ない。あまりにも明るすぎる光は、一瞬でゲートポートにいる全ての視界を奪った。

 

「フェイトぉぉぉおおおおおおおおおおおおお――――――――っっっ!!」

 

 全てが閃光に包まれる中でアスカが溢れ出る激情をその名に託し、声も嗄れよとばかりに叫んだ直後、ゲートポートが完全に崩壊した。

 

 

 

 

 

 覆っていた粉塵が落ち着いた頃、ゲートポートの施設が瓦礫に埋め尽くされていた。後に残ったのは空々しく過ぎ去る風ばかりだった。

 ゲートポートと繋がっているとはいえ、頑丈な管制室にいたことで施設全体の倒壊に巻き込まれずに済んだドネットが瓦礫から抜け出した時には全てが終わっていた。

 

「ゲートポートが、まさかそんな……」

 

 周辺の損壊状況はドネットが愕然となってしまうほどで、同じように倒壊の被害を免れた者達が事態の鎮静化に動いていた。

 

「損害規模は!」

「完全に倒壊したホール以外の損害は軽微です。倒壊を免れた展望テラスで生存者を確認。救助部隊が向かっています」

「ホール近くは、要石が壊れたらしく魔力が暴走していて転移が無差別に発動して大変危険です! この場から退避して下さい!」

 

 漏れ聞こえてくる報告だけでも状況の深刻さが伝わって来て、アスカ達がゲートポートにいたことを知っているドネットの顔色が加速度的に青くなっていく。

 

「な、何てこと……アスカ君、ネギ君……」

 

 世界は静かで穏やかで、何かが動くのをじっと待つかのように息を潜めていた。

 

 

 

 

 




裏話

①スタン危篤の報により、あやかの自家用機でイギリスに向かったネギ達。緊急の移動だったので極秘裏にネギ達の後をついていく計画はおじゃんになり、渡航に実家の力を使って無理をした所為であやかはイギリスの地を踏めていない。結果、アキラ達が魔法世界に行くことはなかった。
なので、面子は「アスカ・ネギ・明日菜・木乃香・刹那・茶々丸・夕映・のどか・小太郎・楓・古菲・カモ」の11人と1匹。

②フェイト達は魔法世界側から襲撃をしている。世界間渡航はしていない。

③アスカはカモが死んだことに気づいていない

④ナギ・スプリングフィールド杯は戦後、十年に一度開催される拳闘大会。十年前に第一回が開催され、優勝者はアリアドネーの選手。次の大会は今年。




次回、『第63話 稀人来たりて』   





やっぱり原作キャラ死亡のタグは必要だろうか?


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第63話 稀人来たりて

 

 

 

 

 

 これはどこかで交わされた密やかな会話だった。

 メガロメセブリア連合の盟主メセンブリーナのどこかにある飾り気のない無機質な部屋。そこは薄暗い部屋であった。照明はつけられているが、広い室内の至る所に設置された電灯は全て間接照明となっており、室内に不可思議な光と影の世界を作り出していた。

 広さは十分にある。大型の体育館並みの広さだ。だが四方を囲む壁には窓がない。部屋の中の調度品も極端に少なく時計の類も一切ない。よってこの部屋にいる限り、今が何時なのか、朝なのか夜なのかさえ判別できない。

 広い部屋の中央には、巨大な円卓が備え付けられていた。直径は五メートルはあるだろう。この部屋の中で最も目立つ最大の調度品である。

 円卓を中心として階段状に席が配置されており、合計六層に渡って広がっている。中心に近い席は全席埋まっているが、六層に広がる外側には空白の席が目立つ。

 出席者の年齢は様々だが、多くが男性で、ことに亜人は混じっていない。

 この部屋にいるのは現在のメガロメンブリア連合の中核を成す者達。世界の秘密を共有する者達が放つ空気はどこか隠微で負の雰囲気を感じさせる。

 居並ぶ出席者は誰もが相応に威厳のある表情をしている。さながら威厳の見本市といったところだ。そのくせ、誰も喋らずに小刻みに貧乏ゆすりをしている誰かの足音だけが室内に響いているのだから不気味なことこの上ない。

 部屋の中心に渦を巻く白い紫煙が視界を曇らせるほどに揺蕩い、脂臭い空気が充満していた。

 大分裂戦争の戦中戦後を生き抜いたベテランが多い分、取り分け煙草の喫煙率が高い。生存競争をしていた極限状態においてストレスを軽減するのに、世間一般的に公的に認められた煙草等の嗜好品は慰めだった。

 このような一般に公開されない会議中に各々が燻らせる紫煙が揺蕩うのは常だったが、それにしても今日は酷い。灯りが少ないにしても霧が掛かったように視界が悪い。

 

「時間だ」

 

 席に着いた一人が眼前に漂う煙を煩わしげに払い、今の状況を確認するように低い声で呟くと貧乏ゆすりの足音がピタリと止まった。

 

「これ以上、待つのは無意味だ。始めよう」

「異議なし」

 

 円卓に近い席にいる者が机に手を翳し、開始を宣言した影の一つが音もなくせり上がってきたタッチパネルに触れた。

 すろと円卓の上空にディスプレイが投射され、一人の少年の顔写真が表示される。更に天井から吊り下げられた多面スクリーンが円卓の中心に降りて来て、この会議の集点ともいうべき映像が流される。

 

『世界各所で同時多発的に起こったゲートポート魔力暴走事件の続報です。各ゲートポートでは依然、魔力の流出が続き復旧の目途は立たず、旅行者の足にも――』

『幸いにも死傷者はいませんが事故に巻き込まれた負傷者の数は三十人を超え――』

『依然、犯行声明もなく全てが謎に包まれております。一日経った現在でも各捜査機関より事件の詳細は明かされず、現在も捜査中との――』

 

 天井から吊り下げられた多面スクリーンに目を向ける。幾つも並ぶ画面は、どれも事件の惨劇を伝えている。共通しているのは、ニュース原稿を呼ぶアナウンサーの背後に映された映像にゲートポート爆破が流されていることだけである。

 

「忌まわしい事態だ。此度の一件は一体どれだけの損害になるか。金が湯水のように飛んでいくよ」

 

 巻き込まれた被害者たちを慮ることなどいない。影の頭の中にあるのは金のことだけだった。人は弱く、残酷な生き物だ。目の前での生死には心を動かされても、数字の上だけ、文字の上だけで考える生死には大して感情を動かされない。誰もが自分の損得だけしか考えていない。人の生き死にを、数字程度にしか考えていないのだ。

 

「全くだ。誰の仕業か。どうせなら我が国以外だけが被害にあえばいいものを」

 

 誰かの言葉に、他の者も賛同を示す。この一連の会話が意味するもの、声の主は部屋の暗さに紛れて見えない。

 

「しかし、この事態は良くないのではないか? 襲撃者は少数と聞くぞ」

 

 そんな不穏な空気に満ちた話し合いではあるが、それはこの会議の意味を考えれば仕方ないだろう。どろりとした湿っぽい空気が肌に纏わりつく。

 

「犯人グループの手口の素早さも見事の一言に尽きますわ。犯行声明もなく、証拠も残さない。これほどの行動を起こした目的が分からないのはよろしくありません。今後どのような行動を取るのか予測できないのは面白くありませんわね」

 

 数少ない女性と思える高い声が間に入り、声の主がタバコを灰皿に押し付けた。

 

「戦後に仕事に炙れた軍人崩れの、社会の役に立たん屑で形成された右翼の弱虫どもの仕業とは思えん。また鎮圧に軍を向けねばならんな」

「奴らは確か、ノアキスに集まっているのだったか」

 

 またフワリと煙草の煙が発言者の口から吐き出される。

 

「なにかが起こってからでは遅いのだ。これほどの手練れ、早急に戦闘部隊の編成を行って討伐すべきだ」

「軍はノアキスに出すことになる。戦闘部隊は貴公の派閥から人員を出すがいい」

 

 ディスプレイの光が姿を照らす、円卓に近い席に大きな樽に手足をつけてローブを着せいたとしか形容の出来ない風貌の老人が軋るような声で言った。つるりとした丸い禿げ頭で意地の悪い眼光が煌めいている。

 これでも旧世界から移住する前である大昔の貴族の血統を今でも誇り、古臭い慣習や因習を守る古臭い老人だった。

 

「バカな、なぜ我々が出さねばならん。貴様が出すべきであろう」

 

 苦い声で先の老人の言葉を苦い言葉で否定しようとしている。こちらも円卓に近い席に座る大柄な老人だ。見事なまでに白く色の抜けた髪に、顔中に刻まれた深い皺。やはりこちらもローブを纏っている。そしてそのゆったりとしたローブの上からでも鍛えられた筋肉の盛り上がりが見て取れる。

 

「なんらかの手を打たねば次の選挙に響くではないか」

「それこそ馬鹿な話だ。大体だな、何時も貴様たちは……」

「ふん、言わせてもらうがな。貴様達こそ……」

 

 軍人上がりと貴族上がり、魔法世界移住時から犬猿の仲の家系の二人は今日も意見が合わない。この二人はこのように昔から仲が悪く、なにかと対立している。

 会議は何時もの如く混沌としてきた。部屋に集う人物は、口々に自分の意見を言う。それは互いを牽制し合うようであり、隙あらば寝首をかこうと牙を隠した獣同士の威嚇のようでもある。

 思惑が交錯し、欲と計算が渦巻くこの場にいるのは古くからの権力者が多い。権力の座にしがみ付き、離れられない亡者達。

 

「見苦しいぞ、静まれ」

 

 一際低い声が騒がしくなりかけた場を制した。円卓中の視線がたった一人の男に集中する。

 見るからに厳格で有能そうな、隙のない雰囲気の男性である。メガロメセンブリア連合元老院で重鎮とされている議員である。尖った顎に髭を生やした厳しい顔つきの髪に白髪が混じり始めた60歳ぐらいの初老の男の名はラゲイマ・タナンティ。眼光が鋭く、スーツを着てネクタイもキチリと締めているものだから正面で対峙すると苦痛に感じそうな男だった。

 気難しそうな眉間には厳しい皺が出来ていた。あまりにも長い間そうしていて、皺が男の顔に根付いてしまったようだった。

 

「今は不毛な議論はいい。我々は己に課された職務を果たすべきだ」

 

 画面から一度も目を逸らすことなく、机の上で肘を立てて組んでいたラゲイマが呟いた。冷静な機械のような声で無機質な口調で命じる。たったそれだけで室内に満ちていた喧騒がピタリと止まった。

 白髪が混じり始めた眉の下に鋭い眼光を閃かせるラゲイマは、齢六十を過ぎて未だ肉体の衰えを感じさせない。身に染みついた権力の臭いを隠しもひけらかしもせず、羨望も中傷も存在の重みで捻じ伏せる剛直な在り方は人を威圧せずにはいられない。

 部屋にいる者達は、須らくラゲイマの言葉に居住まいを正した。

 

「災厄の王女の息子か。この事態は面白くないな」

 

 影の一つが悲壮感を漂わせて徐に呟く。

 

「二十年前の亡霊が今更何のようだというのだ」

 

 まるで過去の亡霊が彷徨い出てきたかのような錯覚に誰もが心中で災厄の女王(アリカ・アナルキア・エンテオフュシア)を罵った。このような陰気な場所にいれば時が逆さまに戻ったような錯覚に陥る。

 だが、それまでだ。亡霊が彷徨い出たのではなく、実体を持った生物として生きている人間が魔法世界に来てしまった事実は変えられない。

 魔法世界、特にメガロメセンブリア元老院にとって、生きた爆弾にも等しい者に対する具体的な対策となれば、途端に誰も彼もが目を合わさず、口を開こうともしない。

 議題の少年に纏わる政治的価値の高さが駆け引きを誘発して、先手を打って利用される愚を犯さない為に沈黙の時間が続く。

 皆の様子を見たラゲイマの表情にはピクリとも反応はなかったが、その内心は嵐よりも荒れ狂っていた。

 

(これも過去の負債か)

 

 ラゲイマは、つまらない感情に否と反論を浮かべる。

 時は動き続けてきた。一度として速度を変えず、一度として止まることなく、一度として遡ることはなく。過去と現在と未来。その三者を交わらせることのないまま、時間は進んできた。三者は決して出会わない。三者の邂逅があるとするならば、時の速度が変わり、時が静止し、時が逆行するその時に他ならない。

 それこそ、世界が終わるその瞬間というころになるのだろう。彼は、周りが気づかぬほど僅かに顔を上げて自嘲した。こんな考えが思い浮かぶほどに彼の少年の情報は衝撃的だった。 

 

(女王よ、貴女は王に即位するには早すぎた)

 

 社会的な組織の中で、出世する全てが、それに準じた能力があるのなら問題はないのだが現実はそうはいかない。コネだけで出世する人もいれば、偶然、運が働いて出世した人もいる。これが世の中であり、人生の面白さに繫がるのだが、能力以上の職責についている人々は、能力のある人に対して、本能的な自衛行動をとるのが通例である。その部分での才能発揮は、驚嘆するくらい巧妙で精力的で狡猾である。

 それが人の賢しさなのだが、それで歴史の大半が動いてきたのだから、それはそれで良いと言える。

 生きていく上で、人は効率とか理想だけでは生きていけないのである。ダラけ、怠け、遊ばなければならない。寧ろ、遊び心に支えられて現れたものが文明かもしれないのだ。

 

(人の上に立つには高潔すぎたのだ。せめて政治の汚さをお父上から学ぶべきだった)

 

 そうなる前に父王を追い落とし、即位しなければならなかったのは不幸といえる。その即位劇も、その後の流れまで仕組まれていたかもしれないとしてもだ。

 

(貴女が言うことは正しすぎる。正しさだけでは全ての人々は付いていかんし、世界は回らん)

 

 そう分かっているから、凡人は理想を口にこそすれ、それを実行しようとしない。もっと言えば、自分の怠惰を見破られないようにするために、森の中で埋もれる木のように同じような者達の中で群れる。この部分に関して特異な才能を発揮するのは、凡俗であっても優れて尊い。悪ではない。正義でもないが。

 

(後何年もしてから王に即位していれば、父以上に優れた歴史に名を残す王にも成れたろうに。出る杭は打たれるのだよ)

 

 集団の中に入ってきた異分子を恫喝し、数と社会的優位によって叩きのめすことで自らの優越感を確保しようとするのは、小は虫の群れから人間に至るまで変わらない。

 際立った結果に対して、世間はその能力が何故現れたのかを納得するために、色々な概念を付け加えて論評するものである。その最も良い例が『天才』であろうが、一般的に『天才』は『特殊な人達』と烙印を押される。人々は尊敬もするが、社会的生活の領域では同時に警戒もされる。

 「災厄の女王アリカ・アナルキア・エンテオフュシア」が生贄とされたのは、権力に取り憑かれたくだらぬ政治家達の常套的な思考であった。

 

「各議員方の懸念は理解できる」

 

 若いという以上にまだまだ幼い顔をスクリーン上に眺め、考え事をする時の癖となっている尖った顎を擦っていたラゲイマは、不意に発っせられた笑みが込められた声に珍しく虚をつかれた。

 

「ですが、心配なされることはない。私に任せて戴ければ最善の手を打ちましょう」

 

 虚空に投射された少年の顔を見つめ、弛み切った頬肉を震わせて笑っている中年太りの男がお世辞にも格好のよくない体躯をつまらなそうに突き出しつつ言ったことで、ラゲイマの思考は途切れた。

 

「手、とは何かと聞いても良いかな、ダールスト議員」

 

 別の議員が問いかけるのを聞いたラゲイマは、視線をダールストと呼ばれた背が低く五十代前半でありながら頭が禿げ上がった小太りの男に向けた。

 ディスプレイの灯りに照らされて、名前を呼ばれたダールストの醜悪な影が揺れて蠢く。

 病人のように肌が青黒く、肉は張りを失い、頬も、顎も、腹も、全てが弛み切っている。放蕩の報いであることは一目瞭然だ。食べるにせよ、飲むにせよ、節度を弁えず、ひたすら貪欲に貪り続けてきた結果であった。

 

「ええ、勿論ですとも」

 

 最初に顔を合わせて以来、折につけて湿った敵意をぶつけてくるゴッコモド・ダールスト上院議員の目は、この時も憎悪に近い色を宿してラゲイマの全身に絡みついてきた。

 

「災厄の遺産が世に出てくるのは好ましくない。それは皆さんも一致した意見のはずだ。そこはよろしいかな?」

 

 ダールストはラゲイマの質問をはぐらかすように周囲にいる全員に短く訊き返した。

 暗がりの中でも周りの状況ぐらいは把握できる。自分の確認に誰も否定の意を示さなかったのを見て取って、火の点いていない葉巻を指でユラユラと揺すった。

 規則化されていない会議であっても一定のルールはある。煙草は認められていも、臭いがキツイ葉巻は自重するような雰囲気が濃い。安っぽい煙草よりも葉巻派のダールストとしては何時か変えたいルールであった。

 

「であれば、彼らの存在はこの世から消えてもらわなければなりますまい」

 

 ネットリとした低い声で続けた。傲慢な言い様に顔を顰めたのはラゲイマただ一人だけ。しかし、ラゲイマが顔を顰めたのはダールストの言い様ではない。少し離れたラゲイマの席にまで葉巻の強烈な匂いが漂ってきたからだ。

 ヘビースモーカーとして有名なダールストは寝ている時ですら葉巻を持っていると噂されている。葉巻が嫌いことで有名なラゲイマには絶対に趣味が相容れない人間だった。

 趣味だけではない。極々普通の一般家庭から並々ならぬ努力と執念を重ねて伸し上がってきたラゲイマと、上流家庭に生まれて元老院議員の重役に就いていた親のお蔭で議員となったダールストとは、価値観も考え方も何もかもが合わないと誰もが常日頃から思っていた。

 ダールストが実力で議員の座を獲得したかについては、疑問の余地が多くある。彼は生まれ持った血筋・財力・悪知恵を駆使して今の地位を保っているに過ぎない。それが悪いとは言わない。組織が存在する時、どんな方法を使ってでも椅子―――――出来るだけ高い場所にある椅子にしがみつきたい者が一定数存在することは誰もが経験的に把握している。

 今の立場に実力でなったラゲイマと、豊富な資金力と親のコネでなったダールスト。

 同じ時期に議員になった二人だが、当時のラゲイマはダールストを危険視どころか眼中にすらなかった。議員として、政治家としての能力が違いすぎたからだ。

 ラゲイマが危険視していたのは父である前議員の方で、長い苦渋を呑んできたが六年前に現議員が失敗を起こしてからは流れが変わった。

 ダールスト議員の失敗の責任を取る形で父である前議員の失職を契機として、たった二年でラゲイマによってダールストの派閥は切り崩され、もはや風前の灯となっていた。そのままいけば、派閥を呑み込むのに十年もいらなかっただろう。だが、そうはならなかった。

 危惧したダールストらの派閥が前ダールスト議員が多大な人気を利用すれども重用はしていなかった新鋭のクルト・ゲーデルが幹部に抜擢されてから状況は変わった。

 落ち目になって続々と派閥から離れていった議員達の中で彼はダールストに取り込み、彼の豊富な政治基盤と資金力を動かして盛り返しを図った。

 元紅き翼という異色の経歴を持つ彼は戦士としてだけではなく、政治家としても非凡な才能を発揮した。市民の間に根強いビックネームを活かして後援者を得て政治の道を目指してからは瞬く間に出世を重ね、ダールストの懐刀になってからは彼を裏から操るフィクサーとなって、一派の政治基盤と資金力を操りラゲイマも無視することが出来なくなりつつある。

 ラゲイマとしてはダールストにさほどの脅威は抱いていない。豊富な政治基盤と資金力には一目置いているものの、言うなればそれだけと言ってもいい。危険なのは、今では三十代の若さで戦略的に大きな意味を持つオスティアの総督にまで登りつめたクルト・ゲーデルただ一人。

 

「責任の擦り付けし合っても時間の無駄。来てしまったものは仕方がありません。ならば、そこからどうするかを考えるべきです」

 

 この歳の男にしては、彼は好きに生きすぎている。連合駐留軍を使って部族対立を煽り、資源の搾取に亜人売買にまで手を染めているとの黒い噂もある。

 普段から亜人を人と思わない発言をするだけならばまだしも、彼は同じ人ですら平気で見下す。

 長年の不摂生で顔も体も、心すらも醜悪に浮腫ませた典型。あらゆる葛藤を受け流し、己にのみ忠実であろうとする生き方がラゲイマには我慢ならない。関係ない赤の他人ならば無視できるのに、立場が近いので接する機会も多いので嫌でも視界に入る。

 六年以上前のダールストは、父親の影に隠れていたが今と同じく卑屈で高慢さを隠しもしないが、少なくとも老獪と言えるほどの巧みさは持ち合わせていなかった。我慢というものをせず、己が欲望に忠実なダールストは自ら学ぶことはない。それこそ、誰かが教えでもしない限り。

 

「まどろっこしいな。早く本筋に入りたまえ」

「答えは急ぎ過ぎないことです。旧世界の諺にもあるでしょう。急がば回れと」

 

 鉛直な言い回しを続けられて痺れを切らした老齢の議員に、ゾッとするような冷たい醒めた口調でダールストは告げた。そして彼は垂れた頬を持ち上げて歪に微笑み、嫌味な笑顔を作る。気の利いた冗談を言っているつもりなのかもしれないが、さっぱり笑えなかった。

 

「やることは大戦期の後と同じです。彼の紅き翼と同じように大衆には知らせずに指名手配することですよ。生死問わずのね」

 

 究極の権力は、人を殺すと知っている男の目と声だった。ダールストの提案に会議場が騒然とした騒めきに包まれる。

 戦後、全ての責任を押し付けられて死刑宣告が下されたアリカ・アナルキア・エンテオフュシアを助け出したことで、紅き翼は高額の賞金が懸けられ、殺人・強盗・誘拐といった犯罪を組織ぐるみで行う公認されていない闇ギルド達に付け狙われていた。

 流石に十年、二十年も経ってからは英雄の名に相応しい実力を前にして多くの闇ギルド達も尻込みしてしまったが、存在自体が深度Aクラスであった英雄の息子であることを知らなければ高額の賞金を懸ければ喜び勇んで襲うだろう。

 

「指名手配の理由は今回のゲートポートの主犯にでもすればいいでしょう。幸いにも犯人グループが映った詳細な映像は残っていない。これを利用しない手はない」

 

 映像はノイズ混じりが殆どで大まかな姿しか分からない。ならばいっそ開き直って、渡航時の証明写真を使って偽の証拠を作り上げてしまえば災厄の遺児を始末する大義名分が出来るのだとダールストは言っていた。

 

「彼の存在は英雄と同じく、いるだけで害悪。都合の悪い者はいない方が良い。皆、同じ考えのはずです」

 

 民衆に絶大な人気があり、ある意味で政府や軍より影響力のある「厄介な英雄」よりは、「死んで無言となった永遠の英雄」を奉じる方が都合が良い。十五年前にナギが行方不明になった時も陰謀説が囁かれたが、そういうものはナギの人気を証明する事柄の一つでしかない。

 

「消えてしまった方が都合が良いのですから、先の英雄と同じ方法を使っても問題ありますまい」

 

 豪放というのではなく、世間にまともに向き合う価値はないと割り切り、人は全て路傍の石と決め込んでいる節が見受けられる。全部の人を人と思っていては政治家は務まらないが、この男の開き直りようは度を越している。世界の中心が自分だと信じる人間だけが持つ、不可解なほどの前向きさだった。

 

「それでは貴殿は冤罪を作ろうというのか」

「情報操作と言って欲しいものですな」

 

 言葉を変えようが意味は同じだ。無実の者に生まれが気に入らないから始末する為にやってもいない罪を着せてしまえという理屈。

 ノイズ混じりの映像の中では明らかに災厄の遺児は襲われているように見える。見方を変えればゲートポートを守ろうとしているというのに、こちらの都合が悪いから冤罪を作り上げて殺してしまえなど人道に反している。ラゲイマが最も嫌う考え方だ。

 部屋の空気が冤罪を作り上げることに賛成の方針に傾いていくのを黙って見守っていたラゲイマの一言が切り裂く。

 

「ダールスト議員、それは本当に君の意見かね?」

 

 なにもかも見通す目と一緒に鋭い声が向けられる。

 ラゲイマの鋭い目を向けられ、根が小心者であるダールストは思わずビクリと肩を震わせて生唾を飲み下した。ぐっと詰まったダールストの顔が潰れた肉団子のようになる。

 

「……………勿論ですとも。他に誰がいますかな」

「なに、何時ものように君の知恵者の入れ知恵かとも思ったのだが違ったのなら謝ろう。すまなかった」

 

 本質を突いたラゲイマの問いに、僅かに覗かせた動揺を押し隠して注がれる冷たい視線を受け止めたダールストが硬い声で続けた。隠しても滲み出す振り幅の激しさも、未だ残る未熟さの証明というところか。もはや表情にそよ風一つ立たない我が身の枯れように辟易としながら、ラゲイマは嫌味を返した。

 

「これは…………また露骨な仰りようですな」

 

 一定の温度を保っていた表皮に亀裂が入り、ダールストの目にそれと分かるほどの怒気が走る。表皮を取り繕ったダールストは弛み切った頬を強張らせてヒクヒクと動かし、どうにか苦笑を浮かべた目が先に逸らされる。

 一呼吸を置いて再び戻された目線は既に平静に戻っていた。

 

「私の意見に決まっていますとも。天地神明に限って誓いましょう」

 

 それでも返すダールストの声には、なんの躊躇もなかった。

 圧倒的な権力を持ち、それを振るうことに微かな違和感すら持ち合わせていなかった。父親世代の苦汁に胡坐を掻き、ゲーム感覚で世界を動かそうとする傍若無人ぶりは頭でっかちのぼんぼんの所業以外のなにものでもない。

 若造に上手く動かされていると分かっていても、目の前のラゲイマに負けることに比べれば我慢できることだった。

 

(貴様に勝つ為ならば手段を選ばない)

 

 同時期に議員になったが、出会った当初から気に入らなかった。

 自らの力で成った者と父の力で成った者という違い、能力、人間性、あらゆる点でダールストはラゲイマに及ばないのに、誰からも恐れられている父に唯一反抗を続けていた姿を見続けきた。

 劣等感を刺激され、コンプレックスを抱き、今まで他人を羨んだことも執着したことも無いダールストが敵視し続ける相手。

 六年前の自らの失策で父が議員を辞職せざるをえなかった理由すらラゲイマの所為にして、しまいには派閥を切り崩されて風前の灯となるところまで追い詰められた。クルトの存在がなければ、もしかしたらダールストは今頃議員を追われていかもしれない。

 

(ラゲイマに負けるぐらいなら若造の靴を舐めても構わん)

 

 ダールストは憎悪と剥き出しの劣等感に溢れていた。欠片も親愛も愛情も感じられない。それほどにダールストの心は歪んでしまっている。

 六年前のウェールズ襲撃事件で勢力を削り切られ、身近な者にすら裏切られたダールストにはクルト・ゲーデルの助けは地獄の仏だった。徹底的に思い知らされた政治家としての格に、ダールストの中にはラゲイマのへの憎悪に染まり切っていた。クルトに言いように扱われていようと、ラゲイマに負けるよりは遥かにマシと思うようになっていた。

 

「我らには災厄の遺児に関わっている暇はない。我らは生きる為に為さねばならないことがあるがあるからだ」

 

 二人が互いをを良く思っていないのは周知の事実である。二人の様子を他の者達は興味深そうに眺めていた。事態がどう転ぶか、みな静観するつもりなのだ。

 

「我らメガロメセンブリア、純血の人間を生かすための箱舟『ノア計画』。魔法世界が消えてなくなり、火星に放り出されようとも人類の英知を結集した巨大船ノアが我らを生かす。ノア計画にこそ心血を注ぐべきだ」

 

 百年前から計画されて来た箱舟の建造の前には全てが些事であると辺りを憚らずに断言しながら、後ろから人形師によって操作される操り人形のようだと揶揄されても構わないと内心で吐露する。ただ一つ、ラゲイマにさえ負けなければ。

 

「帝国の移民計画は旧世界での実験の域にまで達しているが、この世界の真実を知れば混乱は必死。自らが幻想だと知らされて纏まるものではない」

 

 ヘラス帝国の実情を嘲笑いつつ、表情を改めたダールストはギラギラとした目でラゲイマを見る。

 

「前置きが長くなったが、災厄の遺児への生死を問わずの指名手配を提案する。否定される場合は対案を披露して頂きたい」

「…………」

 

 ラゲイマとしても災厄の遺児に対して何らかの対策は取らなければならないと考えているが、その具体案どころか骨子すら掴めていない。対案がないに等しい状況では沈黙を選ぶしかない。

 その沈黙を心地良い讃美歌のように見届けたダールストが勝利を確信したかのように円卓を見渡した。

 

「沈黙は肯定の証、と判断してよろしいのかな」

 

 広間がざわざわと影達の声で埋まった。しかし、強く反発する声も上がらなかった。

 

「――――では、採決をします」

 

 ダールストは勝ち誇った顔をラゲイマに向け、傲岸不遜に円卓へ促した。

 そこで、一拍置いた。言葉の意味が、室内の全員に浸透するのを待ち、自分が盤面の主導権を握っていることを証明するかのように議長でもないのに議決を取る。

 

「私の案に反対の方は挙手を」

 

 もう一度の沈黙の中で手は一つも上がらなかった。

 

「採択は為された」

 

 鶏のように垂れ下った頬の肉を震わせ、ダールストはしゃがれた声を上げて勝ち誇る。

 勝ち誇るダールストを無視して、ラゲイマはスクリーンの中の少年に視線を戻し、傍目には分からぬほど眩しそうに目を細めた。

 二十前にも感じた、ありえぬ光景を幻視した。嵐である。魔法世界に波乱を巻き起こす、猛烈な嵐を感じ取ったのだ。根こそぎに、力尽くに、何もかもを変えずにはいられない烈風を幻視したのである。

 確かな時代が大きく揺れ動き特有の胸騒ぎのようなものをラゲイマは感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 会議場を盗聴するクルト・ゲーデルは自らの目論見通りに展開が進んだことにほくそ笑んでいた。

 会議が終了して盗聴する必要性を感じなくなって、盗聴器に繋がっているマイクを外して控えていた少年執事に渡したクルトは深々と椅子に凭れかかり、腹の上で手を組んだ。

 

「流石はダールスト議員。政治家としては無能なれど演技だけは超一流ですね。政治家になどならずに役者にでも成ればいいものを」

「あの見た目では役はないかと。それこそサスペンスドラマで真っ先に殺される放蕩息子の役ぐらいではないでしょうか」

「ふふ、全く以てその通りです。そしてそのような役は絶対に嫌だと言うでしょうね」

 

 クツクツと名目上は上役であるダールスト議員を扱き下ろしながら、彼の頭にあるのは先の会議で唯一クルトの目的を見抜いていた議員にある。

 ラゲイマ・タナンティ。クルトが所属するダールスト派と対立する派閥のトップである彼は質実剛健、実直を形にしたような男で何から何までダールストと正反対であるが故に決して分かり合えない間柄。

 有能ではあるが扱い難い男と無能ではあるが扱いやすい男と、どこまでも対照的だ。辿って来た経歴が経歴だけに仕方ない面もある。

 

「ラゲイマ議員に私の動きを察せられたのはマイナスだが、愚物は愚物なりに良く動いてくれただけで良しとしましょう」

 

 ダールストの腹心という表皮の裏で、常に精緻な計算を働かせている複雑さがこの男にはある。

 クルトの、武人とも、知識人ともつかない、もしくはその両方を兼ね備えた知性的な野生を宿らせたともいうべき顔が嘲笑の笑みで埋まる。

 

「能力はマイナスでもプライドだけは一流だから、こちらの望み通りに踊ってくれましたが、そろそろ切り時でもあるか」

 

 大義の見えない俗物は小さなことに拘り過ぎて、自分を、そして周囲を滅ぼす。自分は違う。より大きな何かが見えている。最もダールストにどれだけ罵詈雑言を突きつけられたところでクルトは動じない。今更、その程度のことで罪悪感を覚えられるほど幸せな人生を経てきてもいない。

 

(…………上手くなってしまったものですね)

 

 少しだけ、過去の自分と今の自分の違いに胸の裡で自嘲する。

 紅き翼と袂を別って以降、自分が上手くなったのはこういう負の側面ばかりだ。他人を騙したり唆したりする行為ばかり熟達するのは、嘗て高畑と同じように英雄に憧れた身としては堪える時がある。

 だけど、淡い思いを抱いていた人の処刑が実行され、救われても名誉を回復できない現実をまざまざと思い知らされた時、求めたのは権力の力。こういう自分に成りたかったのも、本当なのだ。

 傲慢であろうが、残酷であろうが、クルト・ゲーデルはそういう力が欲しかった。そして見事に手に入れた。代償として、忌み嫌っていた者達と同類に成ることで。

 

「タカミチ、お前は何時まで経っても子供のままだ。夢見がちで、夢想家のまま」

 

 彼の顔は幾つもの苦痛を今まさに背負っている人間特有のものになっていた。

 クルトは気付いてしまった。悪人を成敗する正義の味方の秩序で、数億人の生活を守る国家は運営できない。古い体制から解放すれば人が良いものになるという考えこそ、若者が大人になる時に卒業すべき夢物語だった。

 英雄に世界は救えても、世界を続けていくことは出来ない。世界を続けていくのは英雄のような超人ではなく、ただのどこにでもいる多数の人を操る者なのだから。

 

「しかしアリカ様のお子とは――」

 

 スクリーン越しに見た母親譲りの蒼い瞳の輝きが目の奥に焼き付いている。

 ずっと保留にしてきた人生のシコリが、今になって目の前に現れる。ほんの一瞬だけ、クルトは複雑な表情をした。

 

「え……?」

 

 或いは近くにいた少年執事しか気づかなかったかもしれない。複雑な、としか言いようのない顔だった。

 喜びだとか怒りだとか悲しみだとか憎しみだとか比較的分かりやすい感情も、それ以外の感情も混じっているようだった。色々な感情の絡み合った結果として氷山の一角だけが漏出した――――そういう風だった。

 とてつもなく深くて広い、洞穴の入り口を垣間見たようだった。次の刹那には、クルトは厳しい面持ちを取り戻していた。

 

「クルト様、失礼ながら申し上げてもよろしいでしょうか?」

 

 少年執事は主であるクルトの不評を買うことを承知の上で聞かねばならないことがあった。

 

「なんでしょう?」

「ダールスト議員のことです。利用価値があったにせよ、あれほどの害悪を今まで生かしておいた理由が分かりません」

 

 戦禍の後に拾われてクルトに仕えるようになったのはここ数年の話で、少年執事には彼がどうしてダールストを上に置いたままにしている理由が皆目見当もつかなかった。

 一目会っただけで分かる醜悪なまでの人間性は、言ってはなんだが生かしているだけで他人を傷つけるとすら思えて、利用価値があるにしても下手をすれば足を引っ張りかねない存在なのだ。

 クルトの能力ならば早々に廃して自分が上に立つことも可能だったのではないかと少年執事は思っている。

 

「君が私に仕えてくれるようになったのはこの数年のことでしたね。であれば、知らないのも無理はない」

「知らない、ですか?」

 

 少しの苦笑を滲ませて、椅子に座り直したクルトは少年執事に向き直る。

 

「ダールスト議員の父親、前議員のことです」

「噂には聞いたことがあります。現議員と違って優秀な人だったと」

「優秀、という括りではありませんしたよ」

 

 政治家としてクルトが見本として参考にしたほどの男である前ダールスト議員のことを思い出したクルトの顔に苦いものが浮かぶ。

 

「メセンブリーナ連合の首都メガロメセンブリアの選挙基盤を移住以来支配し続けている一族。その中でも最高傑作と謳われ、己が能力と豊富な資金力を背景にして数十年に渡って元老院を支配した傑物ですよ。決して英雄と呼べる男ではありませんが、それほどの能力があったことは事実です」

 

 ナギを武の英雄とするならば知の怪物とでも呼ぶべきほどの男、と告げると少年執事は目を見開いて驚いている。

 

「政敵を陥れ、時には利用し、破滅させていました。当時の議会は表側はともかく、裏では前議員の独裁状態でした。大戦当時も完全なる世界と通じて随分と私服を肥やしたと噂されていますが一切の証拠を残していません。現議員以上に悪い噂が尽きないほど他の悪事諸々もね。当時の№2である執政官ですらボロを出したにも関わらずです。その癖して、表側では軍需企業から戦争特需を享受する議員や役人を告発し、自らは正義の人であるかのように宣伝していました」

「そうなのですか……」

 

 息子の姿から父親の姿をイメージを抱くことが出来ず、少年執事はまるで物語の登場人物の話を聞いているような顔をしている。

 現ダールスト議員は父親の悪い面を存分に受け継いようだが、前議員はそれらを全く他人に悟らせることもなく、巨大な国家の裏側を牛耳っていたに等しい権力を手に入れていた。

 

「タナンティ議員が認めるとは思いませんが」

 

 大戦時には既に議員だった、良くも悪くも実直なラゲイマ・タナンティはそのようなやり方を好む人間には見えなかった。

 

「辛うじて対抗は出来ていましたが、僅かな反抗のみです。あのような人ですから反りが合わなったのでしょうね。不祥事もなかったから陥れることも出来ず、利用することも出来ない眼の上のタンコブであったことは事実でしょう」

 

 質実剛健・実直を絵に書いたようなラゲイマでもそこまで追い込まれるのかと少年執事は心の中で驚く。

 

「前議員の手腕が表で分かり易く発揮されたのはアリカ女王の一件でしょうね」

 

 ギシリとクルトの組まれた手が強く握られ過ぎて音が鳴った。

 

「戦後、不毛な戦争に疲れ果てていた民衆は全ての不満と憎しみを押し付けられる生贄を探していた。早々に見つけなければ不満を溜め込んだ民衆は国に牙を剥く。前議員は各国に根回しをして、民衆に逸早く都合の良い立場にいたアリカ女王を示した、全ての原因だと」

 

 感情を抑えるように目を瞑ったクルトは、それでも抑えきれないかのように気の残滓を全身から発しながら口を開き続ける。

 

「父王を殺し、自らの国を滅ぼし、各国へ難民の受け入れを承諾させて社会不安を増大させ、死の首輪法の俗称で名高い国際的な奴隷公認法を通したことなどでも彼女は既に非難を浴びていた。生贄にするのは実に都合が良かったでしょう」

 

 そして、フッと全身から力を抜いて椅子に深く凭れたクルトは天井を見上げた。その眼は天井ではなく、別の物を見ている。過去か、それとも在りし日の自分か。

 

「前議員は大戦の末期には既に戦後の為に動いていました。オスティアの決戦時に連合の正規軍の説得が間に合わなかったのは、完全なる世界が敗北した時に備えて残党を狩る為に温存していたとも噂されています。いざ、遅れて駆けつけてもオスティアを自分の制御下に置くためにアリカ女王に世界を救う為に自らの国を滅ぼさせた」

 

 罠と知りながらも世界を救う為に自らの国を滅ぼさざるをえなかったアリカ女王の唇を噛み切るほどの忸怩たる思いを抱いた表情を間近で見ていたクルトだからこそ、前議員の悪辣なまでの策を認めざるをえない。

 前議員が敷いたレールの上を走るかのように、罠に嵌らざるをえなかったアリカ女王は民衆の不満を押し付けられて災厄の女王と呼ばれるようになった。本当に世界を救ったのは彼女なのに。

 

「生贄を押し付けられたアリカ様の処刑が決まり、災厄の女王と呼ばれる彼女の味方を名乗り出る者は一人もいなくなってしまった――」

 

 世界を救う為に自らの国を亡ぼす決断までしたアリカが連合再辺境のケルベラス無限監獄に二年も投獄された当時の自分の激情を思い出したクルトの眼には何も映っていない。

 

「幸いにもアリカ様はナギによって救われましたが、彼らでは名誉とメガロメセンブリア元老院の虚偽と不正が正されることはなかった。所詮は武の英雄でしかない彼らに出来ない事だ」

「だから、クルト様は政治家になられたのですか?」

「それだけが理由ではありませんがね」

 

 アリカの名誉を回復する為には周到な組織の力に追われるだけだった紅き翼に限界を感じたことは事実だが、年を経るにつれて完全なる世界の目的に疑問を持ったことも理由の一つではある。

 紅き翼と袂と別ち、メガロメセンブリアに渡って後援者を得て政治家の道を選んだのはそれだけの力があると見込んだからだ。

 

「政治家になるのにも元紅き翼というバックボーンは大いに役に立ってくれました。大変だったのはなった後です。前議員が自分の派閥に私を引き込んだのです」

 

 紅き翼の名前は大きく、議員になることは難しくなかった。期待の新鋭として議員となったクルトを前議員は自身の派閥に引き込み、飼い殺しにされた。自分でも要領が良く、器用な自覚があったクルトは議員になってもそれなりにやっていける自信があったが、知の怪物の前では生まれたての雛でしかなかった。

 

「利用されども信頼はされず。大々的に表には出ていましたが大した権限は与えられず、飼い殺しに近い状況でしたよ」

 

 外様のままで大した権限は与えられず、アリカの有罪を決定づけた不正の証拠を見つけることがどうしても出来なかった。しかもクルトの目的を理解された上で泳がされていると分かってしまう。下手に探り過ぎれば消されるのは自分で、文字通りの格が違ったのだ。

 だから、学ぶことにしたのだ。見方を変えれば前議員はそれほどに政治家として優れているという証拠であり、前議員のやり方を真似することが自身のスキルアップに繋がるのだと、必ず寝首を掻いてやると心に誓って牙を研ぎ続けた。

 

「様々なやり口を見て来ましたよ。決して自分は手を汚さず、他人を利用して人を陥れる。十年前には、余所から派遣されて来たエージェントが自分を探っていると知れば、偽りの情報で戦地に誘導して死ぬように仕向けていたこともありましたね」

 

 決して学んで喜ぶ類いのものではなかったが、人を動かす・利用することにこれほどに長けた者はいなかったとクルトは語る。

 

「ことが起こったのは六年前、旧世界のウェールズにある隠し里を襲った悪魔。普通ならばはぐれ悪魔に襲われた運の悪い事件で終わるはずでしたが、二つの要素が意味を変えた」

サウザンドマスター(ナギ・スプリングフィールド)が生まれた村であることと、大量に召喚された下位悪魔と極僅かな爵位級の上位悪魔が示したのは、それだけの悪魔を召喚出来る組織力とサウザンドマスター(ナギ・スプリングフィールド)を狙う理由がある者」

「正確には、狙われたのはサウザンドマスター(ナギ・スプリングフィールド)ではなく、その子供達ですが」

「アリカ女王の子供だから、ですね」

 

 ナギが生まれた村は彼を慕って住み着いた者が多く、集まれば軍隊の一個大隊にも劣らぬと噂されていたほど。そのことを知っていて、悪魔を大量召喚できる組織力があるとなれば候補は限られてくる。

 そしてアリカ女王の子供がいたからこそ狙われていたとなれば、アリカ女王を生贄に仕立てたメガロメセンブリア元老院こそが犯人である。

 

「腑に落ちませんか?」

「今までの前議員のやり方にしては杜撰な気がします。何も悪魔など召喚しなくても暗殺者でも雇った方が確実です」

 

 用意周到な前議員のやり方にしては力尽く過ぎて、しかも不確実性が高すぎる。村に一個大隊ほどの戦力があるならば目的の子供に逃げられる可能性も高く、現実として生きている。それならば、暗殺者でも雇って襲われる方が確実性が高い。

 

「子供達は結界の張った村から出ることはなく余所者が入ることは難しいという理由があったにせよ、杜撰なのは事実です。この一件に関して前議員は関与していないのですから」

「していないのですか?」

 

 話の流れ的に前議員だと思った少年執事は驚きに目を僅かに見開く。

 

「この件の主犯は君も知る現議員の方ですよ。正確には前議員に反抗的な一派が唆したのです。いるのですよ、表向きは恭順した姿を見せながら内心では反抗的な者が」

 

 陰謀や作為ばかりではなく、ちょっとした偶然や他人のポカまでもが盤面を大きく変えてしまう。最善だったカードは容易く悪手となり、最悪だったカードもまた容易く最善と変わる。幾つもの個人の利害や歴史、心情さえ加味して流れていく現実のゲーム。パワーゲームとは、そういうものなのだ。

 今回もパワーゲームの結果として行われたことと言えなくもない。

 

「処刑されたはずのアリカ女王の遺児の存在が公表されれば彼の派閥が最も大きなダメージを受けますからね。そこを突かれ、利用されたのです」

「前議員ならば気づきそうなものですが」

「もう随分とお年を召されていましたから息子に後を譲ろうとしていたところで、現場から少しずつ手を引いていたところで気が付いたのは恐らく全てが終わった後です」

 

 当時から議員であった現議員だが甘やかされて育ったと分かる容姿と性格で、本来ならば議員になれるようなレベルではなかった。父のお蔭でで議員に成れたような人間である。そんな彼にもアリカ女王の遺児の存在の危険さは理解できたから、別の議員から遺児の存在を聞かされて手を打とうとした。勇退しようとしていた父の晩節を穢すことになるとも知らずに。

 

「一派の目的は遺児の始末と前議員の影響力の排除。遺児の影響は言うに及ばず、前議員に勇退などされたら息子を通して何時までも議会を操ろうとした事でしょう。そのことが我慢ならない者達もいたのです」

 

 嘗て感じていた恐怖や恐ろしさも少し縁遠くなれば忘れてしまうのが人の性。いなくなっても影響力を残されては堪らないと、息子を利用して廃しようとしたのだ。

 彼らにとって幸運だったのは前議員が息子を見捨てることだったが彼も人の親だったのか、見捨てることなく助けてからラゲイマによって議員を辞職させられた。

 

「手段はともかく、影響力の排除という点では概ね成功したと言っていい」

 

 実際にはその一派も責任を取らされ、前議員の影響力を排除したのはラゲイマではあるが、一々クルトもそこまでは言わなかった。

 

「タナンティ議員によって派閥を切り崩され、前議員の庇護を失って弱っているところを突け込むのは実に簡単でした。後は君も知っての通りです」

 

 少年執事がクルトに拾われて仕えるようになったのも現議員の派閥の中枢に入り込んだ後のことなので、その後の経過のことは知っているつもりだった。

 

「では、アリカ女王を貶めた偽の証拠も見つけたのですね」

「随分と時間はかかりましたが、ようやくです」

 

 ふう、とその苦労を思い出したのか、クルトが小さく溜息を漏らして肩から力を抜いた。今度の溜息には重い実感が籠っていた。長く、細く、急に百歳近い老人と化したかのような溜息だった。

 再び顔を上げた時、クルトの目には鋭利ともいえる危険な刃を宿す光があった。

 

「彼の子が魔法世界に来たことは契機です。そろそろ下手な役者には退場してもらう時でしょう。これはある意味でチャンスです」

「チャンス、ですか?」

 

 少年執事が問うとクルトの双眸が鋭く輝いていた。誰よりも繊細に人の機微を読み取り、それを含んだ上で剛直に振る舞う複雑さがクルトにはあった。

 

「年寄りどもは二十年前の大戦が懐かしく思えるなんて戯言をほざく」

 

 自分の罪を噛み締めながら続ける。

 

「だが、私はそうは思わない。大戦は終わっていない。私の中ではずっと続いている。否、誰であってもそうでしょう。終わったと思っているのは政治家ばかり。もう一度嵐を起こす必要があります。その火種がやってきたのですから」

 

 嘗て世界が見捨てた災厄の女王の遺児が何の目的で魔法世界にやってきたかは分からないが、確実に二十年の間に停滞していた空気を動かす存在になることは間違いない。時代がうねりを伴って動き出す予兆を敏感に感じ取ったクルトはその流れに乗るべく自らも一石を投じたのだ。

 

「アリカ様の子を利用するにしても、まずは見極めなければならない。優れた政治家の子が愚鈍であるように、英雄の子がまた英雄とは限らないのだから」 

 

 どこまでも真摯な、地獄のような執念に満ちた顔であった。その口元には、辛辣な真実を覗いてしまった者だけが持つ荒涼たる笑みが刻まれていた。

 偉人の子が偉人ではないように、生まれや育ちで人はどのような人間にも成り得る。クルトが計画している中では遺児は重要な存在ではあるが、上に抱く価値のない存在でなければ意味がない。

 状況が一気に動き出す中でラゲイマに気付かれぬ為に、そしてこの程度を乗り越えられないなら自分と共に来るのは不可能なのだと考えたところで、ここに辿り着くのに二十年もの時間を要したことに気付く。

 

「…………あれから二十年か。この時をどんなに…………」

 

 それ以上は言葉にならなかった。震えぬ声が出せるようになるまでに、たっぷりと十秒はかかったが、少年執事の窺う目を見ずに立ち上がったクルトは言った。

 

「アスカ君、これは私からの試練です。乗り越えて私の下まで辿り着いて下さい」

 

 振り返って背後にある窓から街を見遣ったクルトの瞳には、少年執事は気付いていないが微かな焦燥の色が浮かんでいた。

 

「そして私と共に世界を救うのです」

 

 底なしの悪意も、絶望の底の希望も、全てが残酷なまでに繋がっていた。

 

 

 

 

 




元老院周りは独自設定ばかりです。



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第64話 世界が変わって

 

 

 

 

 

 長谷川千雨が魔法世界にまで来たのは相坂さよの遺言といってもいい『自分の分までアスカを見てほしい』を守る為である。でなければ、元来保守的である千雨が魔法世界に来ることはまず有り得なかった。

 それでも世界を移動することに対した不安を抱かなかったのは、アスカの強さが周りに比べても隔絶していたことが大きい。アスカの強さを信頼していたということだが、襲撃にあって追い詰められればパニックを引き起こしても無理はない。

 パニックを起こした千雨が縋りつくとなれば、やはりアスカしかいない。例え死ぬほどの大きな怪我を負っていたとしてもだ。

 

『アスカっ! 危ないって! 早く逃げないと―――――』

 

 展望テラスから抜け出した千雨は、天井から降り注ぐ瓦礫の雨の前には無力でしかないのでアスカの腕に縋りついた。その耳に焦った様子の明日菜の声が聞こえる。

 当のアスカは千雨と明日菜に腕を引っ張られていることにも気づいた様子はなく拳を握り締めていた。恐怖に慄いて目を瞑っていた千雨にはアスカが誰を睨み付けていたのか、当然ながら知る由もない。

 変化があったのは、足下から照らされたらしい光が瞼を通して目に焼き付き、体が浮かび上がるような錯覚を覚えた時だった。

 

『フェイトぉぉぉおおおおおおおおおおおおお――――――――っっっ!!』

 

 地の底から響いてくるようなアスカの怒号を契機として、世界から急に重力が消えてなくなったかのように足元の感覚が消えてなくなった。

 

『千雨さん!』

 

 どこかに連れて行かれそうな恐怖にアスカに縋りつく力を強くしたところで、茶々丸の声が聞こえて千雨の意識は急激な光の爆発に呑み込まれるように消えていった。

 

 

 

 

 

 半身が温かく、もう半身が冷たいという矛盾に苛まれながら真っ先に覚醒した聴覚が音を捉える。パチパチ、と火の爆ぜる音が契機となって千雨の意識がゆっくりと覚醒していく。

 

(……!?)

 

 頬に当たる熱を感じて千雨は目を開けようとして、彼女はひどく後悔した―――――鈍い、だがはっきりとした痛みが頭蓋を震わせる。

 まず視覚があって、それから嗅覚が追いついてきた。実際に頭に穴が開いていたとしたら、こういった痛撃を覚えるのではないかと、千雨は感じた。更に泥臭いとも思った。泥というか、鉄さびが混じった腐葉土というか、鼻にチクチクくる刺激臭が満ちている。

 暫く無言で耐えると痛みは消えなかったが、それでも慣れることは出来た。ゆっくりと瞳を開くと、一時だけ痛みを忘れた。

 

「ぁ……」

 

 星が瞬く夜空へと煙の筋が立ち昇ってゆく。傍らでは地面に座り込んだ誰かが火を焚いており、背後の木に映り込んだ影がゆらゆらと揺れていた。金髪と日に焼けた白皙の肌。座っていても分かる背の高さ、服越しでも分かる体つきも引き締まっているアスカが知性と意志力を宿す眼差しを火に向けている。

 野宿には慣れているのだろう。草を毟った剥き出しの地面に落ち葉や枝を集めた焚き火があって、炎の周囲では串に刺された何かの肉が香ばしい匂いを漂わせている。横たわったままユラユラと揺れる影を見上げ、千雨の声に反応してこちらを見たアスカと視線を合わせた。

 

「起きたか」

「ん、ああ……ぃ!?」

 

 咄嗟に身を起こそうとして、アスカの物らしいローブがかけられていたことに気づく。硬い地べたの方には千雨の物らしいローブが敷かれていて、その上に寝かされた体が強張りきり、体を起こす動作に反応して痛みに悲鳴を上げる。

 

「ずっと寝てたんだ。無理すんな」

 

 中途半端に起こした体が痛みによって体勢を保つことが出来ずに倒れ込みかけたところを手を伸ばしたアスカに支えられる。

 更に肩を引き寄せられ、アスカの肩に頭を置くと徐々に痛みも引いて来て随分と楽になった。

 

「喉渇いてるだろ、飲んどけ」

 

 そう言ってアスカは近くに置いてあった木製の陶器を千雨の前へと差し出した。

 差し出された陶器の中の透明な水がチャプチャプと揺れ動き、喉の奥がひり付いていることに気付いた。千雨は考える間もなくそれを受け取って渇きを癒すために一気に呑み込む。

 眠っていたとはいえ、眠る前の激動で疲れきっていた体が、歓喜に震えて脈動するのが分かる。生きていると感じさせる感覚に喜びが湧いて来て、全身の熱が鼻の辺りに集まってきて千雨は空を見上げた。

 汚染されていない空気の中で夜空に瞬く星々は、千雨が今まで見たことのないほど綺麗だった。

 

「なんで泣くんだ」

「え……」

 

 小さくなっていた焚き火に枯れ木をくべつつ、アスカがぼそりと問う。星空を見上げたまま、千雨の頬が濡れていた。次から次へと滴って、止まらなくなっていた。

 

「知らない、馬鹿。泣けちゃうんだから仕方ないだろ、そんなの」

 

 ごしごしと涙が流れる頬を擦る。擦った先から熱い滴りがしとどに零れ落ちた。

 アスカは何も聞かず暫しの間、肩を貸しながら千雨に何も言わず何もしなかった。

 千雨の頭の上では風で樹上の葉が鳴り、星が遠い彼方に流れていく。静かな夜だった。それほど暗くもない、豪勢とは言えないが篝火もある。まるで夢の一時のような幻想的な世界だった。

 やがて千雨の涙が止まった頃、アスカがゆっくりと口を開いた。

 

「悪かったな、こんな目に合わせてしまって」

「いいよ、少しは覚悟していたことだから」

 

 ボソリと漏らしたアスカに千雨は恨み言を言わなかった。胸の底に吹き荒れているだろう嵐を、黙って抑え込んでいた。やり場のない苦しみを受け止めて耐える強さを、彼女は最初から持っていた。

 

「私、どれぐらい眠ってた?」

 

 快適なベットではなく素肌剥き出しの地面に直で寝ていたので体のあちこちが痛んでいた。起き抜けに関節も痛んでいたので長時間寝ていたのだろうことは間違いなく、恨み言を言いたくなかったから代わりにその疑問が口を突いて出た。

 

「一日半ってところだな」

「じゃあ、今は二日目の夜か」

 

 今いるのは森のような場所のようで頭上を見上げれば辺りの木から伸びた葉が生い茂り、垣間見える空は暗く星が瞬いている。まだ頭に残る鈍い痛みと倦怠感がズシリと体を覆っているので、随分と長いこと眠っていたようだった。

 ボゥ、とする頭で揺らぐ炎を見ていて、ようやく自分がアスカに肩を抱かれていることに気付いた。全体重を預けてもピクリとも揺るがず、人が伝える温かみの安心感に全く違和感を抱いていなかった。

 

「ご、ごめ――っ!?」

 

 頭に走った鈍痛に身を離そうとした体が硬直して顔を顰める。

 

「転移酔いと魔力酔いが併発してるんだ。まだ無理しない方が良い」

 

 引き離しかけた体が肩を掴まれて引き寄せられる。相変わらず千雨が全体重をかけてもビクリとも揺るがないのは頼もしい限りではあるが、年下とはいえ自分よりも体の大きい男に肩を抱かれている現状は年頃である千雨には些か面映ゆい状況だ。

 気恥ずかしいのは勿論のことだが、千雨自身がこの肩を抱かれている状況を嫌なことだと感じていないことにも問題はある。

 

「転移酔いと魔力酔いって?」

 

 努めて今の状況を意識しないように違うことを口にする。

 

「あの時、ゲートポートで世界を繋ぐ要石が壊されたことで扉を繋ぎとめていた魔力が暴走したんだ。暴走した魔力が爆発するんじゃなくて転移の方に回ったのは運が良かったんだろうな」

 

 千雨を見ることなくアスカは定まった形も無く揺れ動く焚き火の炎を見つめながら、当時の状況を思い出すように目を僅かに細める。

 

「発動した強制転移に巻き込まれて俺達はここに飛ばされた。千雨の今の症状は、その時の強力な魔力で行われた強制転移に酔ったんだ。安静にしてれば直に治るさ」

「そうなのか……」

 

 森は深い。頭上には枝葉が重なり、その天然の天蓋に、炎の赤い光が巨大化して映っている。火の届かない向こうがぼんやりとしか分からず、千雨は思わず身震いした。

 元々、夜は人間にとって恐怖の対象だった。それを忘れたのは、電灯が闇という闇を駆逐したからである。夜を恐れるのは、原初の本能なのだ。夜間の森といっても無音になることは決してない。虫の声、そして獣の足音。川でもあるのか、水の音も聞こえてくる。

 

「転移で飛ばされたってんなら、ここはどこなんだ?」

 

 転移前にゲートポートの展望テラスから見た風景は人が造り上げた文明があったが、今いる場所は千雨が殆ど見たことのない高く太い木が乱立する森のようで、随分と遠くに飛ばされたのではないかと思って訊ねた。

 

「メガロから大分離れた場所だな。確か……」

 

 説明しながらゴソゴソとアスカが背中側に手を回すと、ローブかズボンのポケットに入れていた紙を取り出して千雨にも見えるように広げた。

 

「これは?」

「魔法世界の地図だ」

「…………本当に異世界なんだな」

 

 広げられたのは見覚えはないが地図と分かる物で、魔法世界の物と伝えられれば地球とは違う異世界なのだと強く実感する。

 表情の選択に困っている千雨に苦笑したアスカは、右手で地図を持ちながら千雨を支えながら左手で現在位置を指差す。そうすると余計に接触面積が増えたので千雨は赤面したが焚き火の赤さに照らされている中ではアスカも気づかなかったらしい。

 

「今、俺達がいるのは北のメセンブリーナ連合と南のヘラス帝国の国境線に近いここだ。ゲートポートがあったのはここのメガロだから、大体五千キロメートル以上は飛ばされたことになる」

 

 まずはメガロメセンブリアが指差され、そこから現在地である中心部の海に近い湾岸部にほど近い陸地を教えられる。地図上では数センチだけの短い距離に感じるが、地図の左下に千キロメートルから二千キロメートルの単位が縮尺の表記が記されているので、アスカが言うように五千キロメートル以上は飛ばされた計算になる。

 千雨にとっては一瞬で行われた世界間移動も五千キロメートルの移動も非現実性では似たようなものだ。遠い世界のような出来事に鈍痛が止まない頭でアスカの説明を聞いていると、他の皆はどうなったのかと疑問が湧いてきた。

 

「他の奴らは?」

「分からねぇ。自衛能力を持ってない千雨とのどかだけはなんとかしようと思って、ネギにのどかがしがみ付いていたのは見えたし、千雨は直ぐ傍にいたからな。後は咄嗟に分身をして誰も一人にならないように蹴飛ばしたりしたけど居場所までは分からねぇな」

 

 あの時、我を忘れているように見えたアスカだが、千雨よりはよほど事態に対処しようとしたようだ。それに蹴飛ばすという辺りが実にアスカらしい。

 

「魔法世界の総面積は地球の三分の一とはいえ広大だ。それでも皆を探して麻帆良に帰らないとな」

 

 決意を露わにするアスカの影が大地に揺れている。

 ねっとりと絡みつくような深い闇は、人間にはどこまでも容赦ない。そんな夜の闇の中で赤みがかった幻想的な色で炎は燃える。とある神話では炎とは神から人への贈り物であるらしい。気ままに揺らめくその姿に、神や精霊の存在を感じ取った太古の人々の気持ちを千雨は理解できた。

 

「気の長い話になりそうだな」

「そうでもない」

 

 地球で言えばユーラシア大陸にいるたった十人近くを見つけなければならないのだと考えれば、途方もない非現実的なことだと理解できてしまう頭があったから思ったままを口にすると意外にも否定が返って来た。

 

「俺達はまずアリアドネ―に向かうことになっていた。そのことは全員が知っている。こういう事態になれば、みんなまずはアリアドネ―を目指すだろう」

「そうか、なんもないわけじゃないんだな」

 

 示された場所は今いる場所とはメガロメセンブリアの真反対の場所で、アリアドネ―までは何万キロメートルもあるが千雨の胸には大した不安はない。

 流石にゲートポートのような事態が何度も起きるとは考えたくはなく、そのような事態がなければ異常なまでの強さを持つアスカが共にいてくれることは万の軍が付いていてくれるに等しい安心感を与えてくれる。

 見知った相手とはいえ、異性と二人きりであることが千雨にはとても運命的に感じられた。

 

「怪我、大丈夫なのか?」

 

 アスカは左肩と、見える右足、そして腹部の部分の服が破れ、素肌が露出している。ゲートポートで負った負傷はその時に木乃香が治療したが、治癒魔法も服までは直してはくれない。アスカの左肩に凭れかかるようにしている千雨の頬に温かい素肌が触れていた。

 少し頭を持ち上げて左肩に手で触れると、先程まで千雨が凭れかかっていたからか体温より温かいような気がした。

 

「木乃香の治癒魔法のお蔭ですっかり治ったよ」

「そっか、良かった」

 

 何故か少しの苦笑を覗かせたアスカに疑問を覚えつつ、文明の欠片も無い場所にいながらも不安を覚えない人肌の温もりが心地良くて瞼を閉じた。このまま眠れば熟睡出来るだろうという予感を抱きながら身も心も預けきる。

 

「ここにいるのは私達だけか」

 

 視覚が閉じると聴覚の感覚が鋭くなる。

 聞こえるのは虫の鳴き声と風で揺れる葉の擦れる音、バチバチと火が弾けている。なによりも大きく聞こえてくるのはトクトクとリズムを鳴らす心臓の音。アスカの心臓と千雨の心臓の音が重なって、世界がたった二人だけで構成されているような錯覚に頬が緩む。

 

「いや……」

 

 他人の心臓の音を聞いていると安心するという話はどこで聞いたのだったかと夢現のまま考えていると、アスカが何かを言おうとした瞬間に近くの草むらがガサゴソと音を鳴らした。

 風か獣かと千雨が目を開けると、木の影に半身を隠しながら焚き火の光に照らされて明らかに人と分かる影が薄らと浮かび上がっていた。

 

「ん? なぁっ!?」

 

 度肝を抜かれて座ったまま千雨の体が数センチ飛び上がり、幽霊かと思ってアスカにしがみ付く。さよで耐性がついているはずなのに、やはり初見では怖いらしい。

 

「な、ななななななな……」

「茶々丸もいるんだが、って言おうとしたんだけどな」

「へ?」

 

 涙目でアスカに助けを求めていると、困った様子で返って来た言葉に目を丸くして木の影にいる人影を改めて見てみると、炎が揺らいで絡繰茶々丸の姿を炙り出す。

 暗がりから現れた茶々丸は片手に見覚えのある杖を持ちながら二人に向かって歩いていき、焚き火の向こう側で立ち止まると二人を、特に千雨を見下ろして小さく口を開いた。

 

「…………昨夜はお楽しみでしたね、と言った方がよろしいのでしょうか?」

 

 ボソリと呟かれた言葉の意味が最初理解できなかったが、今の千雨は飛び跳ねた際に体勢を崩してアスカの腕に抱かれて胸にしがみ付いている状況なので誤解を招きかねない体勢であることを否定できなかった。

 

「ち、ちが――!?」

「冗談です」

 

 急いで否定しようとしたところで茶々丸に真顔で冗談だと告げられた千雨の目が点になる。

 

「あまり揶揄ってやるなよ、茶々丸」

 

 そう言いながらもアスカも千雨の慌て具合が面白いのか、クツクツと笑いながら言っている顔を見上げた千雨は自分がようやく担がれていることに気付く。

 

「こ、このボケロボが……!」

「動くなって。また倒れるぞ」

「でも!」

「楽にしてろ」

 

 ここは茶々丸に一発かましてやらないと気が済まないと動こうとするが、それよりも早くアスカに体を押さえつけられる。大した力も入っていないのに抑え込まれているのは、単純な力と技量の違いもあるが千雨の体調が思わしくないことも理由の一つである。

 血が上った所為でクラクラとする頭を押さえながら、焚き火の向こう側に座った茶々丸を恨めしそうに睨む。

 

「失礼しました、千雨さん。体調が悪いのにかこつけて今の状況を楽しんでいるように見えたもので」

「ぬぐっ?!」

 

 先程の緩んだ表情を見られていたとすれば千雨には抗弁のしようもなく、意識はしていなかったが状況を楽しんでいたと言われればその通りなので、図星を刺されて文字通り言葉に詰まった。

 こちらを見ている茶々丸の目が恨めしそうに見えるのは千雨の思い過ごしか。

 

「環境も変わって千雨も弱ってんだ。あんま苛めてやんなって」

 

 ポンポンと手近にあった頭を軽く触る程度にアスカに何度か触られると更に茶々丸の視線の刺々しさが増した気がする。

 ガイノイドである茶々丸がどう見ても嫉妬しているように感じた千雨は慌ててアスカから体を離して、体一個分の距離を開けて座る。まだ少しフラつくが気張れば一人で座ってられないほどではない。

 アスカから離れると茶々丸の視線の刺々しさが減ったが、千雨は内心で人肌が感じられないことに物足りなさを覚えながら茶々丸が離れていた理由を問う。

 

「で、なんだって茶々丸さんはいきなり現れたりしたんだ?」

「近くに知っている魔力反応がありましたので確認に行ってました。まだアスカさんも万全ではありませんでしたので」

「万全じゃない?」

 

 見知った魔力反応も気になったが、通常通りに見えるのに万全ではないとはどういうことかとアスカを見る。その理由は茶々丸が教えてくれた。

 

「完全回復呪文とはいえ、完璧ではありません。しかも短時間に負傷と治癒を繰り返しておりますので、その反動は大きいです。当初は千雨さんと同じく寝込んでいたのですよ」

「ニ、三時間で起きたけどな」

 

 言い換えればニ、三時間起き上がれないほど反動が大きかったということでもある。

 

「今はどうなんだ?」

「…………やっと七割ってところだな」

 

 千雨の問いに対してアスカは拳を握ったり開いたりしながら、渡航前にメルディアナ魔法学校校長から言われたことを身を思い知っていた。一日半かかってまだ七割の回復しかしていないのだから。

 寝込んでいる千雨の守りも必要であるから、そのぐらいならば起き抜けのアスカでもなんとか役目をこなせても動くとなるとまだ不安が大きかった。

 千雨が飲むのに使った陶器も茶々丸が木から削り取ったものだし、焚き火の木や葉も彼女が集めたものだ。大半のことを茶々丸に任せてこの一日半を回復に費やして、ようやく七割程度の回復しかしていない。

 

「私が戻りましたのでアスカさんも休んで下さい。体に障ります」

「肉を食ってからな。栄養付けてねぇと持たない。もう焼けただろう、千雨も食うか?」

「何の肉だよ、それ」

「多少、固いけど食えるやつだよ。何か腹に入れとかないと明日から持たないぞ」

 

 アスカが地面に刺さっていた串を二本抜いて、先に肉に齧り付きながら千雨に差し出す。

 食べれる肉であることは間違いないが、アスカは何の肉かは言わなかった。このような森の中に豚や鳥、牛がいるとは思えず、となれば現地の獣の肉と考えた方が自然で、千雨としては遠慮したいが起き抜けの腹が空腹を主張している。

 

「食べれるんだろうな?」

「不味くはない」

 

 些か言い方に不安に感じながら串を受け取って、匂いだけは上手そうなので慎重に端っこを齧って見た。

 

「固い……」

「だろ」

「しかも、味が薄い」

 

 かなり強く噛んでようやく切り取れた肉の味はかなり薄く、確かに言うように不味くはない。当然、上手くもない。

 

「最初は獣臭くて食べれなかったんだぞ。水で洗ったからどうしても薄くなるのは仕方ない」

「香辛料が何もありませんでしてから」

 

 ロボットなので食事を取る必要のない茶々丸はともかく、黙々と食べているアスカも必要だから口に運んでいるのであって、もっとまともな物が食べたいと顔に書いてあった。

 肉の味付けをする香辛料を当然ながら持っていないので、獣臭さを取る為に水で洗ったから必然として薄い味しかしない。焼いても尋常じゃなく固い所為で千雨は数口で諦めた。その間にも黙々と食べたアスカは二本目に取り掛かっている。

 眉間に皺を寄せて固く薄い肉を食べているアスカに、千雨は地面に敷いてあったローブを引き寄せてポケットに手を入れてある物を取り出した。

 

「カロリーメイトあるけど、食べるか?」

 

 千雨が取り出したカロリーメイトを見たアスカは一瞬動きを止めるが、「お前が食えよ」と機械的に肉を口に運ぶ作業を再開する。

 

「肉、食えないんだろ。果物とかは俺が食い尽くしちまったし、食える物は食っとけ。お前の物だしな」

「でも」

「アスカさんはたんぱく質を取らないといけませんので。千雨さんもそれだけでは明日から持ちませんよ」

 

 やんわりと茶々丸にも諌められ、手元のカロリーメイトを見下ろした千雨も確かにこの程度の量では空きっ腹は膨らまないと小さな子供でも分かる。仕方なく無理をして食べる。だが、なんとか一本を食べたところが限界だった。まだ満腹にはほど遠いが、顎が疲れて食べれそうにない。後はカロリーメイトで誤魔化せば、明日までぐらいは持つだろう。

 

「で、魔力反応はなんだったんだ?」

 

 千雨とは違って残っていた肉の全てを食べつくしたアスカは心なしか少し元気になった声で茶々丸に問いかけた。

 

「魔力を発していたのはこちらです」

「これは、ネギの杖か」

 

 背後に置いていた杖を茶々丸が差し出すと、受け取ったアスカは手に持ってジロジロと杖を検分し、その形と魔力反応からネギが受け継いだナギの杖だと判定を下す。長年見てきたので間違えることはありえない。

 

「探知範囲に他の反応はありませんので、あのドサクサで手放してしまったものと思われます」

「となるとネギとの合流は当分の先の話になるな。取りあえず、俺の発動媒体と黒棒は茶々丸が持っててくれたのは助かったよ」

 

 どうやら茶々丸が離れていたのは、探知範囲で反応があった知った魔力反応の確認に向かっていたようだ。結局、あったのは杖だけであったことに期待していたアスカが僅かに肩を落とす。

 杖を傍らに置いたアスカの胸には、六年前に杖と同じく父から譲り受けた水晶の魔法発動媒体が揺れている。

 ふと、発動媒体があるなら制限なく魔法を使えると聞いていた千雨は疑問をぶつけることにした。

 

「魔法が使えるってんならアリアドネ―まで飛んで行くのか?」

 

 生身で空を飛ぶことに一抹期待と大半の不安を覚えて問いかけると、「俺一人なら飛んで行くことも出来たんだけどな」とアスカが苦笑と共に否定する。

 

「私の魔力ジェットでは十五分程度しか全力運転が出来ません。上空には野生の飛竜種も飛んでいますから私達が共にいては足手纏いになります」

 

 申し訳なさげに眉尻を下ろす茶々丸がその理由を告げるが、主に足手纏いなのは常人の範疇にしかない千雨の方である。ここに足止めを食っているのも千雨が目を覚まさなかったからで、そのことを重々承知しているから余計に肩身が狭い。

 

「ネギの杖があるから全員でってのはやれねぇこともないだろうけど、疲れるからもう大陸横断なんて俺もしたくねぇからな。近くにある街から出る船を使おうって茶々丸と決めてたんだ。確か、ノアキスって名前だっけ」

 

 生身で大陸横断するなんてお前だけだ、と突っ込みは内心だけに留めておいて、千雨は街という単語に文明の香りを感じて顔を上げた。

 

「遠いのか?」

「朝早くから出発すれば夕方ぐらいには着くだろう。だから、今日はもう寝とけ。明日は歩くぞ」

 

 頭に手を伸ばされて大した力を入れられたわけでもないのに逆らうことが出来ず、横にならされた千雨は更に上からローブをかけられて「あぶ」と口から変な声が漏れる。顔にかけられたローブを肩まで下げると、何時の間にか茶々丸がアスカの隣に移動していることに気付いた。

 

「アスカさんも休んで下さい。火の番なら私がしますから」

「意地を張ってもしょうがねぇか。頼むわ」

 

 茶々丸はガイノイドなので睡眠は必要ない。アスカも全快したわけではないので茶々丸の勧めに従って休むことにしたようで、その会話を聞いている間にも千雨は直ぐに睡魔が襲って来てウトウトとしてしまう。

 瞼が重くなって目を閉じると急速に意識が沈み込んでいく。

 

「じゃあ、寝る前にゼンマイ巻いとくか」

 

 なんのことだと千雨は疑問を抱いたが瞼が重くて開けられず、気にはなったが睡魔に呑み込まれて意識が徐々に落ちていく。

 

「…………お、お手柔らかにお願い――」

「魔力が有り余ってるからな、全開で行くぜ!」

「■△○☆◇▼●■△○☆◇▼●■△○☆◇▼●?!!!」

 

 茶々丸が何かを言いかけたが、妙にやる気に満ちたアスカの声の直後に人の可聴域では聞き取れない音が聞こえ、ドッタンバッタンと騒ぐ音が気になったが千雨の意識は闇へと落ちて言った。

 実に胸がスカッとするような良いことがあったような気がして、今度は何となく良い夢が見れそうな気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ネギ・スプリングフィールドは暑いのが嫌いになった。もっと言えば、ここを抜け出れたら砂漠になど絶対に足を踏み入れるものかと心に決めていた。

 

「砂漠なんて大っ嫌いだ……!」

 

 髪はざんばらに乱れ、今や砂と汗の臭いしかない。朧な視界に入るのは、大地を埋め尽くす砂・砂・砂ばかり。

 もう二日も何も口にしていないので水分を求めて犬みたいに舌が出る。そんな自分をみっともないと思う脳も、ドロドロに溶けてしまっていた。足が動いているのだって単なる本能で、ネギの意志なんてこれっぽっちも介在していない。

 ただ、脳でさえないどこかがこんなところで死ねないと思った。死ねるはずがないと。

 

「のどかさん……」

 

 背中に少女――――宮崎のどかの重みを感じ、一歩一歩、直ぐに消え去る足跡を刻みながら移動を再開した。

 ネギはのどかと共にゲートポートの強制転移に巻き込まれて砂漠に飛ばされて来た。

 魔力と転移に慣れていないのどかは酔いを引き起こして昏睡状態が続いている。一日も安静にしていれば十分に治るが、砂漠では碌な水分も食事も与えてやれず安静にさせてあげることも出来ない。

 太陽が地平線を離れて久しく、悪意に等しい熱線を斜め上からぶつけてくる。真上に差し掛かるこの時間は、日陰になるものも極度に少ない。

 魔法で気温自体は何とかできても強すぎる紫外線だけは避けようがない。露出している手の甲の皮が日焼けで勝手に剥がれ、ネギは額にかかるローブの布越しに、目前に茫々と広がる砂漠に目を向ける。

 周囲は見渡す限りの砂、砂、砂。場合によっては口笛でも吹きたくなるほど幻想的だったが、三日も見続ければ続けば流石に飽きる。どこまで歩いても風景に変化はなく、単調そのものだったからだ。

 皮膚を炙り、脳を沸騰させ、全身の体液を渇いた粉に変える太陽の光。意識を集中しているのが難しくて、何時間も歩いていると、それだけで頭がぼんやりとしてくるのだ。汗は掻いた端から蒸発し、粉のように細かい砂は隙間とあらばどこにでも入り込んでくる。心身を蝕む砂地獄の恐ろしさと厄介さを身を以て思い知らされる。

 そのくせ、陽が落ちた途端に辺りの気温は急速に下がり始める。日中とは別世界のような寒い世界が広がり、動き続けなければ砂漠で凍死してしまうのではないかというぐらいだ。あまりの寒暖さの所為でネギは寝ることも出来ず、この二日間眠ることもなく歩き続けている。

 人体は砂漠での生存に適していない。いくら鍛えても大自然に勝てるはずがなかった。霊長類だ、食物連鎖の頂点だと威張ってはみても、所詮は陸地の一部しか征服できないのだ。過酷な自然の驚異を体験してこなかった身には奇異に思える苛烈な太陽を見上げ、未知の惑星のものとしか思えない砂の大地に目を戻す。

 なだらかな勾配が続き、斜面を登った先には下りが続き、下れば登りが続く。それが永遠とも思えるほどに続き、地の果てまで終わりがないかのように感じていた。

 生きている生物の姿を全く見かけず、二人を残して全ての生物が滅んでしまったかのような錯覚さえ覚える。

 きゅう、と音がした。その発生源を知って、ネギは罅割れた唇で微苦笑する。こんな時でもお腹が鳴ることが馬鹿みたいだと笑わずにはいられない。

 

「行けども行けども砂漠ばかり。町はどこにあるんだ」

 

 背中ののどかを抱え直し、罅割れた唇を舐めながらネギは誰にともなくぼやいた。

 唇を舐めても、砂と僅かな塩気があるだけで水分なんて欠片もない。今ならバケツ一杯の水だって飲める。

 

「何時まで持つか」

 

 ゲートポートで眩い光に包まれたかと思うと、意識が薄れて気がついた時には二人とも熱砂に焼かれて寝転がっていた。気が付いたら砂漠のど真ん中にいたなんて、冗談のような話だった。

 頬を撫でる熱風と焼けた鉄板のような砂に嬲られて目が覚めたが、腹の減り具合や、喉の渇き具合から考えて、それほど長い間、気を失っていたとは思えなかった。

 混乱していて守る対象であるのどかがいるお蔭で冷静さを失うことなくいられた。暑すぎるので風の魔法で周囲の気温を下げ、遮断できない紫外線は着ていたローブを頭まで被ることで遮る。

 ネギの見立てではのどかは転移酔いと魔力酔いを併発している。安静にして回復を待たなければ衰弱していく一方だ。

 問題は食料も水も持っていなかったこと。オアシスもないので補給が出来ず、日陰でも熱線によって砂は熱い。半ば砂に埋もれて寝ていても、例え魔法で気温を下げようとも容赦なく水分を奪われる。

 うろ覚えの知識を総動員して、なんとか地中から水を得ようとしたが全て失敗に終わっていた。根っこを齧ろうにも植物が見当たらない。動く物は蠍一匹すらいなかった。完全に不毛地帯だったのだ。

 

「……うぅ」

 

 背中で少女が苦しそうに呻いた。背中に背負っているのどかを首だけを振り返れば、苦しそうに眉間に皺を寄せて歯を食い縛っている。

 当初はまだマシだった顔色も青紫色に変わっていった。この状態で三日目に突入しているのにまだ耐えられていることが奇跡のようなものだった。叶うならば安静に出来る場所で医者に診てもらいたいところだが、歩けども砂漠から抜け出せる気配がない。

 

「頑張って下さい。もう少しで町に着きます」

 

 嘘である。坂道を転がり落ちるように体調が悪化していくのどかに、少しでも生きる希望を持ってもらおうとついた嘘だ。体力を温存するためには黙々と距離を稼いだ方がいいと理性では分かっていても、音の無い自然の沈黙に耐え切れずに思わず声を発してしまったのだ。

 夜も急激に下がった気温に曝されないようにのどかに魔法をかけ続けていた。如何にネギが莫大な魔力の持ち主であろうとも使い続けていれば何時かは底をつく。

 のどかのことを考えれば空を飛んで行くのが最善だが、どこに町があるのか皆目見当もつかず、浮遊術で空を飛んで探しても見当たらない。どっちに行けばいいのかも判断がつかない中で出来たのは、魔力の消耗を抑えて耐え続けるしかない。

 自分の杖があればまた違っただろうが、指輪の発動媒体しか状態では魔力消耗が多いので博打に出れない。

 

「くそっ」

 

 空には飛行機どころか、鳥さえも見かけない。

 救出のあてがなくても動かないことが唯一の正解だったと分かっていても、無謀だと分かっていても、動かずにはいられなかった。

 この砂漠の中で魔力を使い尽せば、ただの子供になってしまうネギでは、今の疲労状況では恐らく一日と持たない。これ以上の魔力の消費を極力抑えるために、三日目の今日は使っているのは風で周囲の気温を下げるだけ。のどかを背負うのは自前の体力である。

 ネギは直ぐに空になった頭で足を動かし続けた。それだけは砂漠の良いところだった。不安も迷いも汗になって蒸発し、身の内に留まるということがない。吹き付ける熱風も手伝って、思考という思考が毛穴から流れ落ちてゆく。

 なんにせよ、没頭できることが目に前にあるのは、いまのネギにとって救いだった。その間は余計なことを考えずに済む。なにも出来ない自分の無力を呪い、ぶつけどころのない怒りを持て余さずに済むのだから。

 

「のどかさん」

 

 声をかけてみたが当然ながら帰る声はなかった。

 背中越しに早い心臓の鼓動と、胸の弾力が伝わってくる。ブラは外した。少しでも風通しを良くして過ごしやすいようにするために外したのだ。緊急事態なので了解を取ることも出来ない。

 顔が赤く火照っているのに発汗はない。医療の知識がないネギにも明らかな異常だと分かった。

 のどかを助けるには急がなければならないという気持ちと、進むべき道も分からない中で消耗は間違っているという気持ちの矛盾した想い。

 だが、ネギの肉体も確実に限界へと近づいていた。

 のどかを守るために魔法を使い続ける所業。積もりに積もった疲労はコップに水を溜めるように流れ続ける。三日間の間、碌に休まずに魔法を使い続け、ずっとのどかを背負って歩き続けた消耗。

 せいぜい、後半日保つかどうか。幻覚も、幻聴も、まだのどかを守ると誓った理性が許していないが段々と時間の感覚が麻痺して足が機械のように動くだけ。

 

「……ん?」

 

 ネギは焦点が定まらなくなりつつあった目を瞬かせた。そうしないと視界の先に映るモノが本物であるかどうか確信が持てなかったのだ。

 やがて薄れた視界が定まった先に、熱による蜃気楼の如く揺らいでいるが動く黒点を発見したのだ。

 

「ぉぉぉぃっ」

 

 水分を失って乾いて張り付いた唇を引き裂き、流れ込んでくる血で潤した喉で掠れた声で叫んでいた。

 小さく、自分の耳にしか聞こえないか細い声。

 自分達のような迷子が他にいるとは考えられない。同じようにどこかに転移したであろうアスカや小太郎や生徒達ならば可能性があるが、こんな場所にいるのは自分達だけだと思いたい。

 

「人だ」

 

 残った魔力で視力を強化して、視線の先にいるのが確かに人で、集団で砂漠を渡っている旅人のように見えた。

 これでのどかを助けられる、と思った。

 人がいるなら水もある。集団なら余分な食べ物や、こんな砂漠を渡る為に緊急的に用意している薬もあるかもしれない。それに町まで連れて行ってもらえればのどかを医者に見せることも出来るだろう。

 

「……助け、て……」

 

 駆け出したかったが、のどかを背負ったまま走る力はもう残っていなかった。

 大きな声も出ず、これでは気づいてもらえない。このままでは気づかぬまま行ってしまう。そう考えたネギは背中に背負っていたのどかを片手で抱え直し、唯一使っていた魔法を解く。すると世界が切り替わったかのような熱風と上昇した気温が襲うが構わない。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル」

 

 強烈な陽射しが容赦なく降り注ぎ、熱砂がジリジリと体を焼く。吸収した熱が頭に籠って放出されない。四方から熱風を浴び、まるで電子レンジに入れられたような気分だった。

 問題は熱だけではない。絶えず砂塵が叩きつけ、視界を奪い、呼吸を困難にしている。

 

「魔法の射手!! 光の一矢!!」

 

 全ての魔力のこの魔法に込めて、天に向けた拳から放った。

 空へと昇っていく光の矢が中空で破裂する。残ったネギの魔力が全て込められた光の矢の破裂は派手だった。目論見通り、真下にいたネギには間近で花火が炸裂したような音と光が盛大に広がった。

 空に広がる大輪の花のような光に相手は気付いたようだった。視力を魔力で強化しなくても向かってくるのが見えた。

 助かると考えたネギの緊張の糸も切れた。安堵で一気に膝が抜けた。

 

「……え?」

 

 のどかを背中に乗せたまま、視界が傾いて地面が迫っていく。膝が折れてそのまま砂の上にうつ伏せで倒れ、次第に意識が遠のいていくのを感じた。

 

(助けてくれるなら悪魔でもいい)

 

 消えていく意識の中で薄らと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスカ・スプリングフィールドは文明人であると同時に野生人でもある。霞を食って生きられるほど生命力旺盛ではないが、星空をテントに野の花をベッドにして野営しても苦にならないほどだ。

 こと、サバイバル能力は、かなりのレベルである。その気になれば何の道具もない状態で無人島に住まいを築き、手際よく食料を調達し、火を起こし、そこそこ快適な新生活を手に入れることも可能だ。だが、アスカは現代社会に生きる男子である。そのような生活力をわざわざアピールしたとは思わない。

 しかし、そういう場面に陥った時、彼の能力は実によく働いた。

 森が奏でる歌がある。それは優しく吹く風に、心地良く枝葉を揺らす木々の囀りだ。森はどこまでも続く。植生が豊かで人の手が入っていないために緑の密度が濃いのだ。まだ日中だが、山は薄暗くあった。

 森の木々は、その数メートルはあろうという身体の中に押さえ込めない生命力を、枝葉の鮮やかさに反映させていた。太陽は昼に近づくにつれ高く、真っ白く輝きを強める。

 並んで歩くことができず、先頭をアスカ、続いて千雨、殿を茶々丸の順で進む。

 ネットアイドルとして夜型である千雨は日の出と共に起きるのは苦痛ではあるが早くに寝たこともあってスッキリと目覚めることが出来た。半日以上も歩くとなれば体が持つかと心配にもなったが、アスカが簡易パスを繋いで魔力供給をしてくれたお蔭で大した疲れもない。

 

「これぞ雄大な自然也ってか」

 

 目の前にはどこまでも自然豊かな風景が広がっていて、雄大な自然を前に感動を覚える前に皮肉を言ってしまう辺りが千雨らしい。

 南の方角の山稜が、朝の光を帯びて金色に輝いていて、空は高く陽射しも明るい。周りは人の手の入っていない原生林。どれもこれも樹齢何百年という巨木である。涼しげな樹肌を持った木々が、互いに一定の間隔を置いて立ち並び、遥か天上で泡立つように重なり合っている。森の中は分厚い枝葉の天蓋に遮られて薄暗く、空気はひっそり澱んで寒いほどに冷たかった。木々が濃いために、その光は何分の一も大地には届いてはいないようだ。

 背の低い樹木は育たないらしい。互いに広く間隔を開けた大木の幹が何百もまるで柱のように並び、柔らかな下草や樹の幹にこびりついた蒼い苔が様々な色合いの緑を連ねた絨毯となって敷き詰められた空間は、太古の民の神殿を思わせて、厳かに静まり返っている。地面は太い根に押し上げられて波打ち、幹の隙間を早朝の薄い霧が漂っている。人の声は聞こえず、もちろん車の音も聞こえない。耳に届くのは、どこか遠くで水が流れている音だけ。

 

「ん?」

 

 樹上で生活する動物か魔物だろうか、奇妙な吠え声が木霊する。それに驚いたのか、あちこちで鳥らしき生物が鳴く声と羽ばたきが無数に唱和して、密林の静寂を押し破った。

 千雨の前を何かが素早く動いていく。「あっ」と声を上げた時、別の影が千雨の直ぐ目の前をヒラヒラと飛んでいった。

 近くに生えていた樹の葉が騒めき出す。そして枝葉の陰から何百という蝶が、太陽に照らされて黒く輝く羽をはためかせて空へと舞い上がっていく。羽根を散らして遠い空へと飛んでいく。

 千雨は虫が好きではないが、こんなにも綺麗な蝶ならば触ってみたいと思って無意識に手を伸ばしていたが触れる前にアスカに止められた。

 

「その蝶に触らない方が良い」

「へ? なんでだ。綺麗じゃないか」

「千雨さんが知らないのも当然ですが、その蝶は見目は良いですが人を簡単に殺す毒を持っているので危険種指定されています。足元の花も毒性があるので気をつけた方が良いかと」

 

 手を止められて少し不満を持ったが、その理由は直ぐに茶々丸が説明してくれた。

 

「毒!?」

 

 辞書を読みあげるような茶々丸の説明に飛び跳ねながら千雨はあちこちへと目を向け、その方向全てに見たこともない植物や昆虫がいることを悟って全てが危険に見えた。

 僅かに見覚えのある要素を兼ね揃えながらもどこか違う無数の昆虫が緑の世界に満ち溢れていて、ネットアイドルをしていることから生粋のインドア派であった千雨にもより新鮮に映っていたのだが、とてもデンジャラスなゾーンに見えて来た。

 

「地球とは全然、植生も違うからな。俺の魔力が覆ってる限りは大丈夫だと思うけど、無闇矢鱈に触らない方がいいぞ」

 

 今もトンボに似た姿形をした昆虫が、小さな小川の上で勇ましく羽を動かして滑空してゆく。

 目に入るのは濃い緑ばかり。捻じくれた木々と鬱蒼と茂る枝葉、それにぶっとい蔦のお蔭で、地表近くには陽の光も碌に射してこないために薄暗く、千雨の視力ではほんの十メートル先を見通すことも難しいだろう。

 流れる風に垂れ下った枝が揺れ、濃緑の光沢ある表側と淡緑の柔らかな葉裏が交互に閃いた。足元はふかふかとした黒土。うっすらと生えた苔の上には、様々な獣らしき者達が通った跡がある。緑の大気が胸を安らげる。

 どこかで小さく鳥らしき鳴き声が聞こえた。小枝がざわめく。

 

「綺麗だ、本当に」

 

 千雨は感激したように言い、麻帆良よりも圧倒的に澄んだ空気を取り込もうと深呼吸した。見上げれば、緑の天蓋がうねりながらどこまでも続き、空は葉擦れの隙間の小さな幾つもの煌めく点に過ぎなかった。風に吹かれて見る間に次々と移動していく。

 

「綺麗なだけじゃないんだよな」

 

 アスカは後ろを歩く千雨に聞こえないようにボソリと呟きながら、歩きやすいようにネギの杖で足元の枝や葉を刈り取りながら序に危険な物も排除していく。

 森の中を歩く際に、気をつけねばならないことがある。道に迷わないで進もうなどと思わないことだ。本当のところは違うかもしれないが、太陽の位置や持っている地図を見比べて進む。木々の枝が頭上を覆い隠そうとも空を飛べば問題ないといっても、不規則に聳える木々のため、真っ直ぐ進むことなど望むべくもない。

 周囲360度目につく範囲全てが森の中。どれだけ遠くを見つめようとも変わらない。同じところをグルグルと回っているだけかもしれない、と思い込まされる光景と近くの木の幹に手を触れても先程も同じ形の木があったように思えてくる。道の高低差はそれまで歩いてきた距離を勘違いさせ、下草を払い、乗り越えながらの行程は体力を削る。

 全ての要素が容易に体力も集中力も奪い去っていく。

 本来、遭難したのならば、一所で動かずに助けを待つのが定石なのだろうが、救助などお世辞にも期待できない状況ではある。ある程度進んだら立ち止まって進路を確認する作業を続けるので一般人である千雨には良い休憩になっていた。

 生まれてから今まで屋根のない場所で眠ったことなどないし、扉のない場所で用を足したこともない。虫を見て慌てるのは通常では虫がいないことが前提で、足下のあらゆる草の裏、土の中、闇の上、あらゆる場所に何かが棲息していることに慣れると気組みも変わる。

 看板を探せばどこにでも食べ物を見つけられたのは、そこが文明のある所だったからだ。そんなことも、こういう機会にでもめぐり合わなければ自覚できない。もっとも、森の中は汲まなく食料だらけではある―――――空腹に耐えかね、その内にそこら辺や身体中に群がってくる虫を摘んで食べるようになるまで、何日かかることだろうか。

 もし、アスカと茶々丸がいなければ森にいる魔獣に一日と待たずに食われたかもしれない千雨。如何なく能力を発揮するアスカのお陰で、多少の不自由はあっても安全と食料が確保されており、直ぐにどうこうなるという心配だけはせずに済んだ。

 日はまだ高い。朝早く出発したので、このペースならば夕方までには目的地に着くだろうとアスカは脳裏に描いた地図で目算しながら判断する。

 そして―――――振り向かずに視線だけで探る。木々の枝に遮られても真夜中ほどの暗さにはならないが死角に入ると驚くほど見えない。それでもうっすらと見えた。

 あちこちの木々や地面から伸びる豊かな葉に隠れるように忍び寄ろうとしている獰猛な気配の数々。獲物が絶好の隙を見せるのをじっと凝視している。戦慄は感じなかった。ただアスカは、静かに行動しただけだった。

 

「――っ!」

 

 ギロリ、とアスカが殺気と共に睨みを放った瞬間、獰猛な気配達は手を出せば自分達が狩られるのだと分からされた。獲物になるのは御免と尻尾を巻いて逃げることを選択する。

 

「ひっ!? な、なんだ!?」

「兎かなんかだろ。遠ざかっていくし、心配はねぇよ」

 

 ガサゴソと狼ぐらいの体格の魔獣達が逃げ去っていく音に千雨がビクついているが、気にさせることでもないと大したことではないと伝えるとホッとした様子を見せる。兎などと言ったが、本当はライオンよりも凶暴な魔獣なのだがわざわざ怖がらせることも無い。

 その後も何度か魔獣がアスカの感知範囲に入ったが悉く殺気を向けると直ぐに退散した。

 

「むぅ、リハビリが出来ない」

 

 アスカとしては、この程度の殺気で逃げるような相手では回復明けのリハビリにもなりはしない。

 

「どうかしたか?」

「なんも襲って来ねぇなって思ってただけさ」

「止めろよ、怖いこと言うな」

「聞いてきたのは千雨じゃねぇか」

 

 千雨がそう言うと思ったから口に出さなかったのだ。怖くなったのか、背中にピトリとくっ付いてきた千雨に溜息を漏らす。勿論、実際に魔獣を引き込むのは駄目だなと千雨の反応から感じ取ったためである。

 魔法世界に連れてきてしまった負い目があるので千雨の気持ちを無視してまで自分の意向を優先させることは出来ない。ならば、バレないようにすればいいのだが、そうは問屋が卸さない。

 

「…………」

 

 見張るように最後尾に茶々丸がいるのでアスカは変なことは出来ない。

 茶々丸も二年間、小太郎とエヴァンジェリンと同じく二年間を過ごしたので考え方が大分バレている。アスカならば大半の魔獣を寄せ付けないようにすることは可能だと知っているので変な行動は取れない。

 アスカが昨夜のねじ巻きを張り切り過ぎたことに原因の一端はあるかもしれないが、どちらにせよ茶々丸の目はアスカの行動を見逃しはしないだろう。

 闘いたくて仕方ない体が悶々としたエネルギーを溜め込んでいると、足元を覆っていた葉や枝が無くなっていることに気付いた。

 

「ん? 森を抜けたか」

 

 木々の群れが途切れて、目の前に鏡のように美しい湖が姿を現した。

 向こう岸まで五十メートルぐらい。楕円形の湖で、鏡のように水面に微かに、泡が浮かんでいる。湖面が太陽に照らされてキラキラと光っていた。小さな槍のような形をした魚達が忙しげに泳いでいくのが見えた。

 

「わぁ……」

 

 人の手が入っていない自然そのままの湖をアスカの後ろから顔を出して見た千雨は呆けた声を上げた。

 ただ荒涼とした風が吹くに任せている。乾き切った水色の、そんな空。彼方から吹き降ろしてくる風は、当然の如く澄んでいた。鮮烈で汚れなく―――――そして人に吸われることを拒むほどに。

 

「魔力供給していたとはいえ、朝から歩きっ放しでしたから、ここでお昼休憩にしませんか」

「そうだな、そうすっか」

 

 魔力供給による疑似身体強化で通常よりは疲労を覚え難いとはいえ、何時間も歩き続けていたので疲れないわけではない。自分を基準にして物事を考えてはいけないと周りから散々に言われているので休むことにする。太陽が天頂近いので昼食に丁度良い。

 取りあえず、一休みできると分かって早々に日陰に腰を下ろした千雨の近くでアスカが靴を脱ぎ始めた。

 

「んじゃ、湖に潜って魚でも取ってくっか」

「いえ、ここは私が」

「機械なんだし、水に濡れたら駄目なんじゃないのか?」

「新ボディになって水洗い可になりましたので大丈夫です」

「仮にも女に服を脱がせるのはな……」

 

 と、どっちが魚を取って来るかで揉めているのを眺める。

 正直に言えばどちらが潜ろうとも千雨としては労せずに食料に有りつけるのだろうから、どうでもいい問題である。疲労と心地良い暖かさ、どうにも眠ってしまいそうな条件が揃っていて食事が出来るまで一眠りするかと瞼を閉じようとしたところで。

 

「ギャァアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 

 ガラスを引っ掻いた音のような声が辺り一面に響いて、眠ろうとしていた千雨はビクリと地面から五十センチは体を浮かした。

 

「な、なんだ!?」

 

 キョロキョロと辺りを見回して、アスカと茶々丸が横の方を見ていたのでその視線を追うと、向こう側の水辺で二匹の生き物が格闘していた。

 

「蛇女だな」

「蛇女ですね」

 

 先程の声の主らしい片方の生き物――――五メートルを超す人間の女性の上半身に下半身が蛇が、もう一匹の方は二メートル程度でブタのような体つきをし、ゾウの鼻のような口吻を持っている。

 

「あれは獏ですね」

「獏?」

「旧世界では伝説上の生き物とされている生物です。これは別に珍しい事ではなく、旧世界で伝説上とされている生物は大体魔法世界にモデルがいます」

「そうだったのか、初耳だ」

 

 アスカと茶々丸がそんな会話をしている間に、とぐろを巻いた妖蛇が獏を絞め殺そうとしている。千雨はファンタジーそのままな生物同士の戦いが怖くなって、立ち上がって急いで二人の下へ向かう。

 二人の下へ辿り着くとアスカが腕を組んで戦いを見守っていた。

 

「どっちも不味そうだよな」

「食べる気なのかよ!」

 

 スパン、と緊張状態に突入しているのに食べネタから離れようとしないアスカに、走りながら跳び上がって頭を平手で叩く。共に立っていると身長差の関係で飛び上がらなければ頭を叩くことが出来ないのは少しずるいと千雨は思った。

 

「助けないのですか?」

 

 どうにも戦況は体格の大きさを生かした蛇女が優勢に進めているようで、見た目的に動物と大差ない獏に感情移入したらしい茶々丸がソワソワとした様子で問いかけて来る。

 

「自然界の掟ってやつがあるのに、可哀想だからって割り込むのはどうかと思うぞ」

「それは、そうなのですが」

 

 千雨としては下手に人間ぽさを残している蛇女も怖いし、あまり可愛げのない獏もどっちもどっちにしか感じないが茶々丸には違うらしい。そうこうしている間に蛇女は獏を絞め殺したらしく、とぐろを解いて口を何倍にも大きく開けると獏を一飲みにし始めた。

 

「うわ、グロ……」

 

 上半身の大きさは人間と大差ないのに二メートル近い獏を異常なほど開けた口から呑み込んで行く様は、千雨が思わず漏らした感想通りアスカも眉を顰めている。胴体が獏の形に膨らみ、下半身に呑み込まれていくのは傍目に見ていても気持ちの良いものではない。

 

「食欲失くした……」

「私も……」

 

 食べるという行動で今のを思い出すので昼食時に関わらず、一気に食欲が減退した二人はそれぞれ揃って口元を抑えている。先ほどのバイオレンスな光景は、うっかり気を抜けば朝食に食べた果実をリバースしてしまいそうな力があった。

 

「あ」

 

 茶々丸の間の抜けた声に二人が顔を前に向ければ、周囲の水を沸騰させ、人面邪身の蛇女が天空へ向けて飛翔していた。分かり易く言うならばアスカ達のいる場所に向けて跳んだのだ。

 高く舞い上がると、頭を返して急降下する。三人の近くの水面すれすれでふわりと止まると顎を外れるほど開いた。無数の尖った牙が露になる。

 

「オギァァァァァァァァァアアアアアアアアッ!」

 

 大地を震わすなような咆哮が響き渡った。周囲の大気がビリビリと振動し、産声のような咆哮の大きさに全員が耳を抑える。

 

「やる気満々だな」

 

 耳を両手で抑えながらアスカが呟くと、蛇女は一声鳴いた後は身をくねらせ、一直線にこちらへ向って来る。

 

「茶々丸は千雨を頼む!」

 

 何もないと思うが、アスカは後ろに叫んで迎撃する為に走り出した。すると蛇女は微妙に方向を変え、接近してくる。

 全長は七、八メートルはあるだろうか。胴が細く見えるが、それでもアスカよりは遥かに太い。頭部は若い女のようで、ざんばらの髪が風に嬲られている。直径だけは人間大の大きさの顔は嗜虐の色で染まっていた。頬の深いところまで切り込んだような口には唇がなく、隙間なく並ぶ牙が剥き出しになっている。どことなく、笑っているようにも見えた。

 

「俺達は餌ってことか、分かりやすいねぇ。これなら遠慮しないでもいいか」

 

 スピードが乗る前にアスカは蛇女に接近、素手の右拳を突き出した。

 

「!」

 

 蛇女は驚異的な旋回性能で軽く出した拳を回避すると、完璧に油断しているアスカの背後を取って首筋に牙を突き立てている。牙はアスカの皮膚を突き破り、服に鮮血が滲ませている。

 

「バ~カ、分身だっつうの」

 

 噛みつかれている分身がダメージで消えて、真横に現れた本体が蛇女の顔を殴りつけた。

 バヅンッ、と音が響く。殴打というより、破裂したような音だった。一撃で蛇女が傾ぐ。蛇女の口の牙が折れて僅かに彼我の距離が開く。アスカは一気に間合いを詰め、左右の拳を連続して叩き込んだ。打撃に圧され、蛇女が後退する。

 

「ギャギャアアアアアアッ」

 

 不快気に唸りを漏らした蛇女がガスを漏らしたような異音を発して口中より吐瀉物のような液体を吐き出した。

 青緑の不気味な色の液体は危うく避けたアスカの脇を掠めて、数メートル後方の地面に撒き散らされた。ジュウジュウと音を立てて、地面から煙が立ち上る。砂が溶けてヘドロのように濁っていた。

 

「毒液か」

 

 呟くアスカの虚をついて、蛇女が身をくねらした。凄まじいスピードでアスカ目がけて突っ込んで来た。

 蛇女が今度は炎を吐く。毒液に火とは芸が細かいと思いつつ、苦し紛れで狙いが甘いので易々と躱し、跳躍する。両手を重ねて力を込め、落下の勢いを加えて殴りつける。轟音を立てて蛇女の顔が砂浜の地面に深く埋まった。

 振るわれた尾は片手で受け止められる。アスカは尾をそのまま両手で持ち、力に物をいわせて振り回す。十秒ほど振り回した後に斜め上の上空へ放り投げる。

 放物線を描いて頭部がある重さの関係か頭から落ちていく蛇女を追って跳び、右腕を向けて魔法の射手・雷の一矢を放った。

 掌から放たれた雷球が尾を引いて飛び、避ける間もない蛇女の眉間に命中して、砂場に近い水上に咲く爆発が上がった。蛇女の悲鳴に倒したかと思った瞬間、炎の向こうから火傷塗れの蛇女が顔を出す。

 顔が焦げ、牙が幾つか折れていたが致命傷ではない。

 

「ケギァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアッ!」

「結構、丈夫だな」

 

 跳んでいるアスカが感心しながら手に持っていた杖を握り直すと、蛇女が突進しながら顎を開いた。

 牙が触れる直前、アスカは思い切り後ろに仰け反った。バランスを保つ事を考えず、いや寧ろ積極的に倒れ込む。下は砂浜、痛くは無い。直ぐ目の前で、ガチン、と音を立てて顎が噛み合わされる。

 

「――アスカっ!?」

 

 蛇女が圧し掛かり、アスカの姿がその下に消えた。盛大に砂が舞い上がり、千雨が悲鳴を上げる。

 アスカはそのまま勢い余って通り過ぎようとする蛇女の無防備な腹へ、紫電を纏わせる杖を持っている右腕を突き上げる。杖の尖っている方が中ほどまで埋まり、強い手応えに引き摺られそうになる。

 

「ギィィィィィャァァァァァアアアアアッ!」

 

 蛇女が叫び、砂浜の上をのたくった。引き裂かれた腹から血と、赤黒い何かが零れ出し、砂浜を赤く染める。

 砂の半ばまで埋まりながら、アスカは杖を蛇女の腹部に深く突き立てている。だが、蛇女は悲鳴を上げながらもアスカを逃がそうとはせず、そのまま更に押し込んでくる。圧力が高まり、息が詰まる。

 

「お・も・い・ん・だ・よ――――ッ!!」

 

 アスカは圧されたまま、全身に自身の魔力光である白色に覆われながら魔力に任せて身体強化を施し、杖を持っていない方の手で蛇女の腹を殴りつけた。

 

「ギャァアアアアアアアアア!?」

 

 体を貫いている杖の直ぐ横を殴りつけられ、再び蛇女の悲鳴を上がる。

 悲鳴を上げて力が緩んだところを足を抜いて蛇女を上空に蹴飛ばして、地面から立ち上がる。視界の端に、茶々丸に圧し留められた泣き出しそうな千雨の姿を認め、早急に決着をつける決心を固める。

 

「雷の槍!」

 

 素早く腰を落としつつ捩じり、捻りこむようにネギの杖に雷の槍を纏わせて落ちて来た蛇女に叩き込む。腰から肩、腕、拳と伝わった螺旋の衝撃を込められた雷槍が避けようも無く蛇体の胴を貫いた。

 貫かれた蛇女の体から紫色の血が吹き出すよりも早く、「来い、黒棒」と言って呼び出した黒い刀を握ったアスカの右手の筋肉がローブ越しにでも分かるほどに盛り上がる。

 

「オラァッ!」

 

 弾けた鱗の中に深々とめり込んだ雷槍を引き抜くことなく、もう一方の手に持つ黒棒に魔力を纏わせて蛇女の体を斜めに切り裂いた。

 同時に雷槍を引き抜くと、間欠泉の如く紫色の血と透明な体液が迸る。それを軽やかな足取りで避けて、アスカは空中に飛び上がった。見下ろした蛇体は満身創痍。大量の出血で染まっていた。

 

「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル 来れ、虚空の雷。薙ぎ払え、雷の斧!」

 

 勝負を決めるべく、黒棒を送還してネギの杖を使って雷系の上位古代語魔法である雷の斧をその動きと共に振り下ろした。

 空気を切り裂いて飛来した雷の斧が着弾して上がった炎の中から響く蛇女の絶叫。高く高く響いたそれは、やがて弱まり、尾を引いて消えた。

 炎が鎮まった後に、焼け焦げ一部が煮立った砂浜の中央にアスカは降り立った。骨も残さず焼き尽くしたのか、蛇女は死骸もない。

 

「やり過ぎたか?」

 

 焼けて結晶化した砂はガラスのようにジャリジャリしていて、跡形も残さずには流石にやり過ぎた気がしたアスカの頬にタラリと汗が流れていく。

 

「ま、いっか……ん?」

 

 どうにも力の調整が鈍っているのはまだ本調子ではないからか。特に千雨と茶々丸に被害があるわけでもないので気にしないことにしたアスカだったが、近くの茂みが妙にザワザワとしていることに気付いて顔を向けた。

 よくよく思い返してみればアスカがいる場所は先程まで蛇女と獏が最初に戦っていた場所である。千雨達は対岸にいるので急ぐ理由も無いからついでに確かめようと茂みの方に歩いていくと、こちらが掻き分けるより早く音の主が飛び出して来た。

 

「獏の、子供か?」

 

 茂みから飛び出した獏の子供らしい小さな生物は、アスカの足首ほどまでの高さしかなく、先程の獏を親とするならばまだ赤ん坊ぐらいだろうか。

 赤ん坊の獏はアスカに向けて盛んに唸りながら両足を地面に踏ん張って威嚇している。先程の獏が親だとするならばと考えたアスカは、ふと眉を曇らせた。親である獏は蛇女と共にアスカがこの世から消してしまった。どのような方法でも元に戻すことは出来ない。

 アスカが動かずにジッと見下ろしてくるので緊張が解けない赤ん坊獏が我慢の限界を迎えようとした時に、何事かと思った茶々丸と千雨がやってきた。

 

「おい、アスカ。どうしたんだよって…………なんだそりゃ?」

「獏の赤ちゃん、のようですが」

 

 やってきた二人は対照的な反応をする。千雨は怪訝な表情で獏の赤ん坊を見ながらもアスカから離れず、反対に茶々丸は威嚇している獏の赤ん坊の傍にしゃがみこんで、「大丈夫ですか」と何やら優しく話しかけているではないか。

 茶々丸が言うと、特にアスカに最大の警戒をしていた獏の赤ん坊は、全身をピクンと震わせて小さく唸った。

 

「お母さんはどうしたのですか?」

 

 獏の赤ん坊はまだ唸っていたが、諦めずに茶々丸が指を近づけてゆくと、キョトンと瞳を丸くして鼻面を突き出した。

 

「危ない!」

 

 赤ん坊とはいえ、魔獣は何をするか分からないと千雨が悲鳴を上げた。

 獏の赤ん坊は、わざわざ体を伸ばして茶々丸の指の匂いを嗅ぎ、溜息のような声を漏らした。茶々丸は獏の赤ん坊の傍にしゃがみ込んで、そっと喉を撫でてやった。獏の赤ん坊は気持ちよさそうに目を細め、しっぽの先まで伸びて見せる。

 

「危なくないです。千雨さんも撫でてみますか?」

 

 茶々丸は呆気にとられる千雨を振り返って誘った。

 千雨はごくりと唾を飲み込んで膝をつき、茶々丸のやったようにしてみた。獏の赤ん坊は一瞬ビクリと緊張したが、結局大人しく撫でられ、頬ずりをして甘えるのだ。

 

「うわぁ、すべすべだ。凄く手触りがいい。わっ、舐めてる舐めてる。くすぐったい」

 

 随分と人懐っこい獏の赤ん坊に千雨も直ぐに毒気を抜かれて笑っている。だが、どれだけ獏の赤ん坊は千雨達に気を許しているように見えてもアスカから視線を外していない。

 

「どうやらさっきの蛇女に喰われた獏がこいつの母親みたいでな」

 

 親を呑み込んだ蛇女をこの世から抹消してしまったアスカの力を赤ん坊とはいえ、野生で感じ取っている獏は警戒しているようだ。

 

「まだ赤ん坊のようですから、このまま置き去りにするのは……」

「周りからしたら良い餌だからな」

 

 千雨とじゃれている獏の赤ん坊の親の片割れがいれば別だが、今を以て現れないとなると別行動を取っているか、最初から行動を共にしていないかのどちらかになる。このまま放置して離れれば、周りの魔獣達の手頃な餌にしかならないだろう。

 アスカとしては別にそれでも良いのだが、懐かれた様子の千雨とさっきからジッと獏の赤ん坊を見ている茶々丸が見捨てられるとは思えない。

 

「元からここで休憩するつもりだったから離れるまでに親が来れば返す。来なければ連れて行く。それでいいんだろ」

「はい、ありがとうございます」

 

 諦めてアスカが折衷案を出すと、親がいれば当然そちらの方が良いと茶々丸も受け入れて感謝を示すように深く頭を下げる。

 

「なあなあ、こいつの名前はどうすんだ?」

 

 二人の下へ千雨が獏の赤ん坊を手の平に乗せてやってくる。

 名前を付けると親がいた場合に別れ難くなる、とは満面の笑みを浮かべる千雨には面と向かって言えなかった。どうにも千雨は自分に甘えてくれる獏の赤ん坊が琴線に引っ掛かったらしい。

 当の獏の赤ん坊は千雨の掌の上で悠然と座り込み、前脚を開いて指の股まで丁寧に舐めだした。

 

「そうだな、そのままバクでいいんじゃないか」

「獏は中国の聖獣・白澤と混同されることもあります。ハク、でどうでしょうか?」

 

 アスカの適当さを見抜いたのか、聖獣から肖った名前を気に入ったらしい獏の赤ん坊――――ハクは一声吠えると、それでいいというように茶々丸の手を舐めた。

 

 

 

 

 






次回『第65話 自由交易都市ノアキス』

帝国と連合の狭間の都市で、アスカは未だ終わらない戦争の現実を知る。






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第65話 自由交易都市ノアキス

 

 

 

 

 

 湖で獏の赤ん坊であるハクを仲間に加えたアスカ達はもう半日をかけて、自由交易都市ノアキスへと到着した。

 ノアキスは周囲を堅固な石壁に覆われている。これは侵略に備えてのことではなく、近くの森に住み着いている魔獣達の侵入を防ぐためだ。こうした壁はよほど魔獣がいない地域以外は基本的にどこの街にもある。

 都市に入ろうとしている商人に混じって正門を通過した。魔法で簡単な審査を受けて都市に入った時にはもう夕暮れ時だった。にも拘らず、正門から続く街の中央を走る大通りはまだ人でごった返していた。

 

「らっしゃい、らっしゃい、いらっしゃーい」

「取れたてのラーズベリー、取れたてのラーズベリー。旧世界からの輸入豆もあるよぉ!」

「ほれ、ちょいと試してごらんな。そこの美人さん」

 

 大通りをを埋め尽くして縦横に流れる人混み。多くの通りに露店が出ていて、お土産物から日常の食料品、衣服まで様々な物を売っている。バザールである。活気溢れる青空市場では店仕舞いをする前に商品を売りきろうと商人達の客引きの声と客の値引きを求める声が響き合っていた。

 耳を塞ぐ喧騒、見たこともない衣装や人種、屋台から溢れんばかりの沢山の売り物の数々に千雨は面食らい、立ちすくんでしまった。 

 

「凄いな。今日はお祭りでもあったのか?」

 

 視線を向ければ、頭にターバンを巻いた亜人の商人がトゲだらけの固い皮をした果物を剥いている。千雨が興味深く目を向けると肩に乗っているハクも同じ動作をし、黒く厚みのある果皮からは歪な外見からは想像も付かない、果汁溢れる柔らかな実が飛び出していた。

 

「いや、大国の狭間の都市だから交易も盛んで何時もこうなんだろう」

 

 大通り沿いに連なる露天商の一つでは、持参の瓶を持った客たちが行列を作っていた。そこでは水竜の幼生が魚のエラに似た翼を羽ばたかせている。竜の翼からは、甘くて美味しい魔法の水がシャワーのように降り注ぎ、一ドラグマと引き換えに、立ち並ぶ客たちの瓶を満たしていた。

 

「流石は自由交易都市と言った感じか」

 

 どこからどうやってこんなにかき集めた、と誰にともなく問い詰めたくなるような、とにかく大量の人の波。忙しなく屋台に商品を並べる商人たちや、妖精のダンスを見世物に見物料を稼ぐ道化師など、雑多な人々で街は溢れかえっている。

 地球の都市とは違ってまだ通路が狭いので余計に人が多いように感じた千雨が思った通りの感想を口にしていた。

 

「辺境でもないのに人間種と亜人種がここまで共存しているのはこの都市ならではの特徴といって言いでしょう。前領主のロレンツォの意向を汲んだものと思われます」

 

 思わず千雨が感心といった声を出し、茶々丸が解説する。

 アスカが少し辺りを見渡すだけで白人系や黒人系、黄色人種といった多種多様な人種が織り交ざった人間種がいる。人間種と違った肌の色や尖った耳や艶やかな羽毛といった人間種ではありえない特徴を持った亜人種もまた散見できる。

 両者の比率はほぼ半分半分といったところで、ヘラス帝国とメセンブリーナ連合である程度棲み分けされている中にあってノアキスは自由交易都市の名に違わぬ異種族が混在振りであった。

 

「ノアキス――――二十前まではこの地にあったのは小さな村だけでしたが、大戦時に両国の侵攻によって村は消滅。大戦後、ヘラス帝国出身の商人であった前領主であるロレンツォ・モーフィアスがこの地に都市を三年をかけて建設。今では両国の数少ない交易の起点として発展を続けています。ロレンツォが無謀と言われたこの事業を始めたのは、亡き妻がこの地の出身だったからではないかと推測されています」

 

 これだけ人が集まるところに商魂逞しい商人達も集まる。商人達が大勢行き交う街としても有名であった。

 エリジウム大陸にあるグラニクスの姉妹都市であるが、あちらが古い歴史を積み重ねているのとは違い、ノアキスは戦後になって作られた新しい都市である。

 当時から大国の境に位置していたこともあって戦禍に巻き込まれやすく、大戦時まであったのは小さな村だけで街と呼べるものは存在していなかった。理由は単純、交通の要所として利用するには、あまりにも危険が大きすぎたからだ。

 村が戦争で壊滅した後に都市が造られることになったのは、ヘラス帝国の商人あったモーフィアスが膨大な量の資金、資材、そして人材が投じられたことにある。一説にはロレンツォの亡き妻がこの地の出身であることが挙げられている。

 理由はともかく、三年かけて都市が建設され、何とか体裁を整えられる環境が出来上がった。けれどそれも、街を造り維持するのに必要とされる水準になんとか届くというレベルでしかなかった。

 大戦後の緊張感が続く両国に挟まれ、長い時間、ノアキスは陸の孤島だった。多くの者はロレンツォの失敗を論った。が、これは昔の話であり、今はかなり事情が変わっている。

 彼は誰に中傷されようとも信念を変えることなく、長い時間をかけて街と環境を造り続けた。そして二十年の月日をかけて、グラニクスと同等以上にまでしてしまった。

 

「人が多いから、はぐれないように気をつけろよ」

 

 交易都市とはいえ、少し多すぎる人の波に眉を顰めたアスカは動じた風もなく、肩を斜めに構えて人の流れに踏み込んでゆく。千雨と茶々丸は慌てて追いかける。

 

「おい、アスカ。都市に着いたはいいけど、これからどうするんだ?」

 

 一人で先へと進んでいたアスカが千雨に問いにピタリと足を止めた。ギギギ、と音が鳴りそうなほどぎこちなく振り返る。

 

「船に乗ってアリアドネ―に向かうつもりだったけど俺、金持ってない」

「私も持ってないぞ。どうすんだよ、おい」

 

 アハハハハ、と少し自棄を含んだ自嘲を滲ませるアスカに千雨も今までが自活でどうになかった分、そこまで思考が回っていなくて頭を押さえた。金は天下の回り物というが、無い袖は振れない。ただで船に乗せてくれるとは思えないから、まずは金を稼ぐことから始めないといけないことになる。

 アリアドネ―は地図で言えば、現在地のほぼ真反対の場所にあるから運賃もそれなりの値段になるはずで、三人分ともなれば一朝一夕で稼げるか未定である。金が溜まるまではこの都市に留まることになるので、当然ながら滞在費に食費もかかる。

 

「あの、お金なら私が持っていますが」

「え、マジで?」

 

 アスカは賞金稼ぎでもするかと考えていたところだったので、茶々丸の申し出に目を丸くする。

 

「ゲートポートで両替をした際に私が持っていましたのでそのまま」

「おぉ、茶々丸大明神がここにいた……!」

「これは崇め奉らずにはいられない……!」

 

 千雨はアスカと共に、これほど茶々丸と一緒に行動を出来て幸せなことはないと最上級の感謝を現したつもりだったが当人には不満のようだ。困惑した様子でオロオロとしている。

 仕方なく崇め奉ることを止めたアスカは脳内に今晩の食事について思いを巡らしながら土下座から立ち上がる。

 

「取りあえず、今日はどこかに泊まって船を探すのは明日に――」

『お昼のニュースです。二日前に起こった世界各地同時多発ゲートポート魔力暴走事件の続報をお送りします』

「―――しようって?」

「我々の事件でしょうか?」

「世界各所……?」

 

 揶揄うのはそれぐらいにして真面目に話していたところで、街頭テレビの音声に気を取られて首をグルンと巡らせる。自分達も関わったゲートポートがニュースになっていると、千雨も茶々丸もアスカの視線を追って街頭テレビを見る。

 

『各ゲートポートでは依然、魔力の流出が続いており、復旧の目途は立っていません。負傷者、行方不明者多数が出ているこの事件ですが、犯行声明も無く背景が謎に包まれたままで各捜査機関より事件の詳細は明かされず、現在も捜査中と発表しています。続きまして次のニュースです――』

 

 街頭テレビには、猫耳の女性アナウンサーが固い表情で手元のニュース原稿を読んでおり、その背後にはどこかのゲートポートの爆発の瞬間を移した映像が流れている。

 

「あのゲートポートだけが襲われたわけじゃなかったんだな」

 

 被害は全世界のゲートポートで起きているとニュースで読み上げられた内容から、あの時にフェイトが言っていたゲートポートが目的と言っていたのは本当のことのようで、アスカは街頭テレビを見上げた僅かに目を細めている。

 千雨としてはあの時のアスカの怒号が今も耳に残っているので、話題を変える為に「そんなことはいいから、どっかで飯でも食おうぜ」と袖を引く。

 

「ん? ああ、そうだな――」

 

 袖を引かれて千雨の方を向いたアスカは返事をしつつ、何かに気付いたように首を巡らせた。千雨がどうしたのかと思ったが、その理由は直ぐに分かった。正確には聞こえて来た。

 

「――――――うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」

「……あれ?」

 

 賑やかな市場(バザール)に相応しいとは言えない、苦悶の声である。と同時に、なにやら鈍い打撃音や何かが壊れる音が数度、そして掛け声が響く。遠くから聞こえてきた悲鳴に千雨は顔を挙げ、ふとアスカが通りの向こうを見ていることからそちらに視線を移した。

 

「うらぁつ!」

「なんなんだよ、お前らはっ!」

 

 アスカの見えすぎる目に映るのは、バザールの青空市の一角で、大きな男たち数人と薄汚れた服を着た少年が言い争っている姿だ。より正確に表現するならば少年が大人達に囲まれている。

 通りを歩く人の数は、多くはないが皆無でもない。だがそれらの通行人は、互いに目配せして、歩調を早めて通り過ぎていくだけのようだった。

 

「喧嘩、でしょうか?」

「さあな。でも、これ以上揉め事に関わるのは勘弁だ。つまんない喧嘩なら無視、無視」

 

 喧騒から予想した茶々丸と、その予想から面倒事には関わり合いになりたくないと全身から表現する千雨。アスカとしてもこれ以上の厄介事は関わらない方が良いと立ち去ろうと反対方向に踵を返した。

 

「また奴らか……」

 

 すれ違った商人らしき中年の男がぼそりと独りごちるのがアスカの耳に入って思わず足を止める。

 

「奴ら?」

「その様子じゃ、兄ちゃんらはノアキスに来るのは初めてかい? じゃあ、知らねえのも無理はないな」

 

 アスカが繰り返すと商人の男はジロリと姿を確認すると見かけないタイプだと納得した面持ちで頭を掻く。

 長話になると思ったのかアスカらを伴って通路の端に寄ると、自身の荷物を地面に置いてその上に座る。

 

「理由は分からんが、最近になって連合の方から流れて来た軍人崩れがこの街に集まって、ああやって徒党を組んで亜人にいちゃもんをつけてんだよ」

「なんでまた」

「帝国の方では人間迫害があるっていうし、逆もまた然り。どこもかしも未だに戦争の気分が抜けないんだろ」

 

 自身亜人である商人も他人事ではないのだろう。嫌悪を滲ませる声に、もう一度アスカが視線を喧騒に向けると大人の男達は軍人崩れと納得できる体格と装備で、少年の方は尻尾や耳を見るに狐系の亜人のようである。

 

「ここの領主は何をしてるんだ? こういう場所だと種族差別は、ある意味で治安よりもデリケートな問題じゃないのか」

 

 大国の狭間にある交易都市なだけに人種・種族差別があれば、問題があればどちらかの国に呑み込まれる可能性だってあるはずで、都市を造り上げたほどの領主ならば早めに問題を解決するはずだが、守備隊が出てくる気配が全くないだけではなく、周りの者達も関わり合いになりたくないと姿勢が透けて見えすぎている。

 

「最近、前領主様が病気になって今の領主様に代替わりしたんだが、現領主様は近々行われるナギ・スプリングフィールド杯にご執心でね。とはいえ、領主様も騒動を収めようとしてるんだが奴らはその前にとっとと逃げちまうんだよ。被害自体は大したことないから見逃されてる感じだな」

「そうか」

 

 元は軍人であるから引き際も見極めてるし、被害としては小さいから領主としてはナギ・スプリングフィールド杯があるから気にはするが重要視はしていないといったところかと、アスカは納得すると腕を組む。

 

「ご執心って言ってもナギ杯の予選は終わったんじゃないのか?」

「この地区のは終わったけど領主様は代表に不満らしい。まあ、バルガスも弱くはねぇんだけど上を見れば切りがないから」

「別に負けたって何か困るわけでもあるまいし」

「それがそうでもねぇんだよ」

 

 弱くはないが強くもないというバルガスという名前の戦士がナギ・スプリングフィールド杯で負けたところで問題があるわけでもないというアスカの推測は商人に否定される。たかが拳闘大会で何かあるのかと目を丸くしたアスカは得意気な商人を見る。

 

「ナギ杯は代理戦争の側面もあるからな。十年ごとにしか開催されないから、メガロやヘラスは自分の国の地区を勝たせようと躍起になってるって噂だ。メガロが勝てば人間がデカい顔をするし、ヘラスが勝てば亜人がデカい顔をする。前回の優勝はアリアドネ―が取ったからまだマシだったけどよ、こういう亜人と人が混ざった交易都市だと大きな変化になっちまう。それこそ下手をすれば都市の存亡に関わるほどのな」

 

 商人が懐からパイプ煙草を取り出したので、話の礼にと指先に火を灯したアスカが煙草に火をつける。ありがとよ、と言いながら煙草の火を口に含んで紫煙を吐き出した商人は流れていく煙を見つめる。

 

「なら、自分のところが勝てば問題ないって闘技場と拳闘団まで作ったはいいけど、領主のお眼鏡に叶うほどの人材は中々いなかったってわけよ」

「要は外に目を向けすぎて内が疎かになってるのも気づいてないわけか」

「もしくは気づいていても気にする余裕もないかだ。何しろ帝国と連合の間にある都市だからな。領主様にどれだけの心労があるかは一商人の俺には想像もつかん」

 

 アスカも想像するのみではあるが、並の苦労ではないというのは分かる。人種が違うだけでも問題が起こるのに、二十年前までは戦争をしていた別種族同士が同じ都市の中にいるのだから、纏めようとすればどんな問題が起こるかなんて考えるだけでも頭が痛くなりそうだ。しかも両国が自分の方を優遇しろだとか、傘下に加われとか言ってきそうなのは容易く推測がつく。

 

「どうするんだ、アスカ?」  

 

 黙って話を聞いていた千雨が聞いてくるが、直ぐに答えずにアスカは腕を組んだまま思案するように空を見上げた。

 今は面倒事に関わっている時ではなく、一刻も早く船を調達してアリアドネ―を向かうべきではある。とはいえ、確実に騒動を止められる力があるのに放っておくのは気が咎める。

 

「守備隊はまだ来ないか」

「もう少しかかると思われます。私が止めて来ましょうか?」

「いや、俺が行こう。茶々丸は千雨に付いててくれ」

 

 この都市の守備隊に任せられるならば一番良いのだが、アスカの感覚にも茶々丸のセンサーにもかからなかったようである。茶々丸の提案を退け、アスカは商人に礼を言って喧騒の場へと向かおうとする。

 

「行くのかい、兄ちゃん。アイツらは何人もいるし、武器も持ってるぞ」

「大丈夫だ。サンキューな、おっちゃん」

「それならいいが…………奴らの頭目のブラットには気を付けな!」

 

 背中にかかる商人の忠告を胸に刻み付け、向って来る集団を無人の野を進むようにスルスルと進んでいく。

 騒動の場所から遠ざかっていく人達の中を縫って進み、見物人が造り上げた輪の内側に入ったアスカの目に最初に見えたのは、赤い色だった。

 バザールの一画を薙ぎ倒し、血塗れになった少年が倒れていた。薄い眉に細い目、尖った鼻の十代前半の子供だ。軽くパーマのかかった茶色の髪に、旧世界で言えば東洋系の血が出たような面差しには脂の浮いていて、成長期らしく年相応のニキビが出ている。殴られたのか、頬や瞼を赤くして腫れ上がらせ、鼻や口からは血を垂らしていた。

 着ているのは同じ一枚の服を何度も洗い直して使っているかのような薄汚れた生地。今はあちこちを刃物のようなもので何かで切り裂かれていて服としての様相を辛うじて保っているに過ぎなかった、

 その周りを四人の男が、手にそれぞれ武器を持って取り囲んでいる。既に気絶しているらしい少年の顔面を染めているものと同じ赤色が、その武器や男たちの手についているのが直ぐに分かる。

 

「立ぁてよ、こらぁ!」

 

 既に気絶している少年をスキンヘッドの男が髪を掴んで引き起こす。

 

「これで分かっただろう。手前みてぇな社会の屑はさっさと消えやがれ」

 

 もはやその少年に聞こえているとも思えないが、リーダー格らしき男にとっては、それはどうでもいいことなのかもしれない。

 どうやら無抵抗な相手に暴力を振るえるのが楽しくてしょうがないらしい。軍人崩れというよりは、どう見てもどこの街にもゴロツキの一人にしか見えないが纏っている装備だけは中途半端に上物だ。

 

「へっ。ざまあねえや」

 

 同意するかのように他の三人も嘲るように笑い声を上げた。嫌な笑いだ。鬱憤を晴らしたいがために、自分より下の者を痛めつけれる興奮に震える人が漏らす、腐った内臓の臭いを周囲に撒き散らしているような笑顔だった。

 

「さて、これで終いだ」

 

 呟きながら剣を振り上げたのは、この集団のリーダー格らしき男だった。剣を構えて、その視線は倒れた少年に定まっている。男が何をやろうとしているのかは明白だった。

 が、剣が振り下ろされるその一瞬前にアスカが一声する。

 

「やめろっ!」

 

 見ていた群衆達がこれから起こる惨劇を予想して目を逸らすか、閉じるかしている中でアスカが大声を上げた。それによって男は振り下ろしかけた剣を止め、見物人たちの向こうにいるアスカを睨みつける。

 

「…………なにか用かい? 兄ちゃん」

「……………」

 

 男の言葉を無視して、アスカから一斉に距離を開けた見物人を無視して歩み始めた。見物人たちが、大地が割れるようにアスカに道を譲っていく。

 アスカは決して、威嚇したり、荒げた声を出したりしているわけではない。むしろ、穏やかすぎるほど落ち着き払った、深い海のような視線で、行く手を遮る者たちを見つめているだけだ。にも拘らず、アスカが歩み寄ると、見物人たちは無言の迫力に気圧され、次々に、そそくさと道を空けた。

 

「何故こんなことをする? その子にはもう意識はないはずだぞ」

 

 少年の下に辿り着き、その様態を確認すると出血はあるが大きな怪我はない。失神しているのも殴られたことで頭を揺らしたからだろうと触診して判断したアスカは、リーダー格にここまでした理由を問う。

 

「はっ、お節介かよ。こんな薄汚れたガキがいると街が汚れんだよ。だから、俺たちが掃除してやってんだ」

 

 アスカの問いに男は鼻で笑うように答え、残りの男たちも同意するように、笑い声が聞こえた。嘲るような調子で。

 

「ちょっと待て、アンタはこれを正しい事だと主張するつもりか?」

 

 多数で一人を痛めつける行為が正しい事だと言い切るリーダー格に、嫌悪感を抱いている周りの雰囲気から意思を代行してアスカは尋ねた。対して、リーダー格は昂然と胸を張って答える。

 

「当然だろう。大切なことはゴミが掃除されたという事実のみ。我々の武器やこの地が亜人の血で汚れたが些末事に過ぎん」

 

 周囲に目をやって確認したリーダー格の男の表情は小波ほどの揺らぎも生じない。微塵の後ろめたさもなく、何度も似たようなことをやっているのだろうと、昂然と言い切った様から予予想される。

 

(こういう手合いとは係わり合いになりたくないな……)

 

 亜人を人と思わないタイプの者がいることは知っていたが、現実に目の前に現れるとこうも歪んで見えるのか。気持ちを天秤に表すと、正直に言って係わり合いになりたくない方向に傾くが、この現状をただ見過ごすことはアスカの気性が許さない。

 

「お前も人間なら分かるだろ。亜人はこの世界にいちゃいけねぇ。この世界は俺達人間のものだってことを教えてやらないといけないんだよ」

 

 リーダー格がアスカに向けられた表情は微笑みで満たされていた。言葉だけを見れば最高にフレンドリーな態度と取れるが、その裏に何かが隠されているのを感じさせる安っぽい詐欺師のような笑みだった。

 

「もう一度だけ聞く。コイツはお前達にこんなことをされるような何かをしたか?」

 

 抑えたつもりだが、目に殺気が出たのだろう。リーダー格は明らかに消された様子で後ずさり、一度は逸らした視線をチラリと流しつつ「別に何もしてねぇよ」と独り言のように呟いた。

 

「亜人はこの世から消えた方がいいんだよ。そうすりゃ世界は少しは綺麗になるだろ」

 

 例え同じ言語を用いようとも、価値観の土台からして違うのでそういう事態が起こった時の会話が成立することはない。

 

「お前達の方がこの街の品位を貶めてるだろ。掃除したいってんなら自分達でも殴ってろ」

「ああん、んだとっ!」

 

 見物人に紛れている千雨は男達の品の悪さに我知らず肩をすぼめ、無意識に腕に抱いたハクの毛並みに乾いた指を這わせた。吠えもせずにじっとているハクは千雨の手の感触よりも周りの空気の異質さに鼻を膨らませ、耳をヒクつかせて迷惑そうに閉じていた瞳を開いて首を擡げたが、男達の前に立つアスカの姿を認めると直ぐに瞼を閉じる。

 小さくとも魔物の子であるハクには男達とアスカの力の差を本能的に感じ取っていたのかもしれない。

 

「へっへっへ、テメェも亜人に付くんなら同罪だ。そいつと同じ目に合わせてやるよ」

 

 数人の男を従えたリーダー格の声には、からかうようなニュアンスが含まれていた。相手が自分より不利な立場にいる時にだけ使う声で仲間に「やっちまえ!」と攻撃を指示する。

 リーダー格の斜め後ろにいた二人が持っていた槍を同時にアスカに向けて突き出す。

 男達の手には突き出した穂先に確かな手応えを感じていた。触れた辺りでぱっと火花が弾け、消える。それが亜人に付いた愚か者に一撃を与えた証と思い、ほくそ笑む。

 

「やったっ…!」

 

 突き込んだ槍を捻り、傷を抉る。確実性を高めるために引き抜いて大量の血を振らせてやろうと。そう考えてふと人に突き刺した割にはあまりのも軽すぎる感覚に違和感を覚えた。しかも、手に持つ槍が異様に軽いことに違和感を助長する。

 穂先の金属部分があったから先程までずっしりとした感覚が手にあったのに、こんなに軽いはずが無い。

 元軍人として慣れた仕草で槍を手元に引き戻すと、穂先がすっぱりと綺麗に切り落とされていて目を剥いた。

 

「なんだと……?!」

 

 隣にいる仲間を見れば同じように穂先を失った槍を手にして呆然としていると、「街中で物騒な物を振り回してんじゃねぇよ」と槍を突き刺したはずのアスカの手に穂先の金属分が握られている。

 

「何時の間に!?」

「遅いんだよ、お前らは」

 

 バキバキ、とあの一瞬で穂先を綺麗に切り取ったのだと認識して驚愕している男達の前で、力の差をあからさまに見せつけて戦意を無くさせる為にアスカは金属の穂先を握り潰して地面に欠片を落としていく。その手には傷一つない。

 リーダー格を含めてアスカが穂先を切り落とした動作を何一つ見ることが出来なかったので、元軍人ならばこれで実力差を理解して引いてくれるものだと考えていたが、彼らはアスカの予想以上に愚かだったようである。

 

「!? う、うわあっ!」

 

 どうやら示威行為としてはやり過ぎたようで、恐慌に至った槍使いの片方が穂先の無くなった槍を持ち上げて打ち下ろす。穂先が無くなっているので槍の本分である突きの威力が弱くなるのでリーチの長さを活かそうとしたようだが、攻撃をするぐらいなら逃げろよとアスカは考えながら左に躱す。

 

「だから言ってんだろ、遅いって」

 

 一人ぐらいは痛めつけた方が逃げやすいだろうと、攻撃を仕掛けて来た男が振り下ろした槍を躱してその顔に拳を叩きつけた。鼻の骨を折る一歩手前に留め、一撃を受けて仰け反った男の鼻から鮮血が噴水のように噴き出してそのまま倒れる。

 これだけやれば逃げるだろうと男達を見ると、仲間のことを気にした風もなく攻撃を仕掛けようとしていた。

 

「仲間甲斐のない奴らだな」

 

 実力差を見せつけ、一人を倒したのに気にした風も無く仕掛けて来る男達は心身に痛みを叩き込まなければ逃げもしないだろうと感じ取り、戦闘の意識を一段階引き上げる。

 

「もらったっ!」

 

 攻撃をした直後の隙を狙って剣を持った男が横からアスカの頭に振り下ろそうとした、その瞬間。

 アスカは振り返ることなく、ふっと右手を上げると、あたかも紙切れでも摘まむかのように親指と人差し指で刃を摘まんだのである。それだけで剣はピタッと止まり、「ぬ、うぅ!?」と男が必死になって押しても引いても微動だにしなかった。それだけに留まらない。アスカが手首を返すと、剣は中程からパキリと折れてしまったのである。

 男はよろよろと後退すると、瞬きもせずに剣の折れ目を見つめていた。

 

「おっ、俺の剣がこうも簡単に……この化け物がぁっ!?」

「失礼な。人を化け物呼ばわりするな」

 

 男が恐慌をきたして半分残った剣を滅茶苦茶に振り回すのを、持っていた杖で払うと今度は根元から折れて刃が完全に無くなった。折れた刃が近くの地面に突き刺さる。

 

「ひいいいいいいっ」

「もう寝とけ」

 

 手の中に柄だけとなって残った剣をキョトンとした円らな目で見つめていた男は、やがて刃の無くなった柄を投げ捨ててクルリと踵を返して逃げ出そうとした。その前に行動していたアスカに足を払われ、天を仰いだところで肘が腹に食い込んだ。そして呆気なく気絶してしまった。

 

「よくもドドロケとシスハーンを良くもやってくれたな!」

 

 アスカに瞬殺された男達――――ドドロケとシスハーンを倒されて一人の男が義憤に駆られて、ドドロケと同じように穂先のなくなった槍を水平に振るう。シスハーンの二の舞にはならないように攻撃の仕方を変えてきている。

 アスカは大胆に踏み込んで、槍の中ほどに肘を叩き込んだ。打撃ポイントをずらせば長い武器の威力は半減するが、打撃の威力が強すぎたのか叩き込んだ箇所から真っ二つに折れてしまった。

 

「あっ、ま、いっか」

 

 と、予想以上に脆い武器に言いながらアスカは左の上段横蹴りを男の側頭部に打ち込んだ。力を入れている様子がないのに、直線的で動きに無駄のない、簡単に岩でも砕けそうなとんでもない一撃は見事に命中して、「ぎゃあっ!」と鼠が仕留められた時に上げるような変な悲鳴を上げて膝から力が抜けたように崩れ落ちた。

 

「後はお前だけだぞ」

 

 仲間をいとも簡単にやられて呆然としているリーダー格に告げると、彼は顔色を真っ青にさせながらアスカを睨み付ける。

 

「な、何者なんだテメェは! 俺達にこれだけのことがやれるなんざ、只者じゃねぇな!」

 

 たった一人で悪夢のような速度で動き回り、無骨な拳打で多数を殴り倒していく。一人、また一人。順番に、男達は地面に転がり、苦痛に悶絶している。

 男達は決して素人ではなかった。人と戦い、それを傷つけるための技を訓練によって体得していた元軍人である。だから白兵の間合いにまで飛び込んできた相手からどう自分の身を守り、どう相手を制圧するべきかを体が覚えている。どれだけ動揺していても、目前に脅威が迫れば反射的に対応する。だが、だからこそ、一線を隔すアスカの動きを捉えることは出来ない。彼らが培ってきたのは常人と戦うための技術。異常の領域にまで達したアスカに対して、ただそれだけで太刀打ち出来るはずもない。アスカの攻撃は男達の防御よりも遥かに速く、そして効果的に急所を打ち抜いていく。

 

「テメェらに名乗る名前なんてねぇよ」

 

 言い捨て、アスカは一瞬でリーダー格に近づいて蹴りを叩き込んだ。

 蹴りは見事に胸部に凄まじい打撃音が炸裂して、リーダー格は悲鳴を挙げて後方に吹き跳んで地面と激突。そのまま地面の上を何度も転がって、ようやく回転が収まった頃には完全に意識を失っていた。

 アスカは倒した全員が起きて来ないことを確認すると、亜人の少年に近寄って「治癒(クーラ)」と言って治癒魔法をかける。治癒の適性が低いので効果は薄いが魔力頼みでかけているので傷は大体癒え、少年は「うぅ……」と唸りながらゆっくりと目を開けていく。

 

「大丈夫か?」

 

 アスカの声かけに、暫く少年は瞼を瞬くと完全には癒えてない傷が痛むのだろう、眉を顰めて体を起こした。

 

「誰も助けてほしいなんて頼んじゃいない」

 

 開口一番に口を開けば憎まれ口が飛んできて、騒動を力尽くとはいえ収めて治癒魔法までかけて返って来た言われようにアスカのコメカミに青筋が浮かんだ。

 

「治癒魔法までかけてやったのにその口の利き方はなんだ」

「だから、誰も頼んじゃいないだろ」

 

 立ち上がってバッパッと服に付いた砂埃を払う少年のあまりの生意気さに逆にアスカは呆れた。どうにも少年のこの言い方では男達と揉めたのも、何かしらの接触時にこのような生意気な言い方をしたのではないかと推測が出来てしまう。

 

「助けてもらったら、ありがとうだろ」

「だから――」

「ありがとう、だろ?」

 

 首元を掴んで少し気合を込めて凄むも少年は頑なに礼を言おうとしない。こういう状況ではさっさと礼を言えば解放されるのに、ここまで頑なに言おうとしないほどに頑固だと逆に感心してしまう。

 

「強情な奴だ」

 

 別に礼を言われたかったわけでもないので掴んでいた首元から手を離すと少年は鼻を鳴らす。こうもあからさまだと寧ろ感心する。

 

「小奇麗な恰好しやがって。絶対にお前なんかに礼なんか言わないからな」

 

 更に舌打ちをした少年はアスカを身長差から下から睨み付けると、肩を怒らせるようにして千雨達もいる見物人達の方へと向かって歩いていく。

 

「て、テメェ……よくも、やりやがったな」

 

 少年の背中を感心した顔で見送っていたアスカは、手加減した攻撃でダウンしていた男達がゆっくりと起き上がって来たのでそちらを見ると、「うわっ」と背後から聞こえて来た千雨の声に反応して振り返る。

 すると、少年が千雨を押し退けて去っていくところだった。

 

「まだやるのか?」

「やってやるよ……! テメェは俺らを怒らせた!」

 

 力の差は十分に理解したはずなのにまだ向かって来ようとしている気概に感心しながら気勢を上げるリーダー格にアスカはどうしたものかと考えていると、ふと何かに気付いたように視線をリーダー格の斜め後ろの方に向けた。

 

「待て」

 

 ヨロヨロと立ち上がる者達の後ろから静かな声が響き、そちら側にもいた見物人の輪を割って一人が進み出る。立ち上がった男達の期待と信頼の瞳がそこに集まった。誰かが叫ぶ。

 

「ブラットさん!」

 

 周囲の男達を押し退けて背後から進み出たのは精悍どころか凶暴に見える大型冷蔵庫めいた巨漢だった。背丈はアスカよりも大きく百八十㎝以上ぐらいで吊り上がった目で先程の声と同じく静かな光を宿している。

 

「何の騒ぎだ、キンブリー」

 

 キンブリーと呼ばれたリーダー格の男の横にやってきたブラットは、アスカをチラリと見てそう聞いた。

 

(あの男………)

 

 一般的には見上げるような巨躯にそぐわず、その顔は理知的であり、アスカをしてさえ居住まいを正させる静かな瞳だった。動きやすそうな服の上に鉄の胸当てをつけ、太い手足を艶のない漆黒の篭手と具足で鎧って、腰にはアスカの勘に引っ掛かる長剣を下げている。

 

「コイツが俺達の邪魔をしたんだ」 

「また問題を起こしたのか」

「仕方なかったんだ。亜人のクソ野郎がいたから」

 

 亜人という単語にブラットの目に暗く重たい光が生まれる。それは憎悪であり、怨念でもあり、拭い難い黒い闇のようでもあって、アスカでさえ背筋にピリッとした緊張感を抱かさせるほどのものであった。

 目に闇を宿しながらブラットがアスカを見る。

 

「仲間が失礼をしたようだ。すまなかったな、少年」

 

 ブラットは一歩前に出てアスカに向けて謝罪の言葉を発した。真摯な気持ちが込められたその言葉に嘘はないと感じたアスカだが、どうにも彼らのやり方と考え方が気にくわなかった。

 

「謝罪なら俺じゃなくて、さっきまでいた被害者に向けるもんだろ」

「…………亜人に向ける言葉などない」

「何があったか知らねぇけどよ。同じ都市にいる相手に向けていい感情じゃねぇぜ」

 

 この亜人に対する同じ生き物と思っていない考え方がどうにもアスカの琴線に触れる。

 

「奴らのような塵畜生に向けるような情など持ち合わせてはいない」

 

 ここまで亜人に敵意を向けるとなると、過去に余程のことがあったのかと頭の中で推測を重ねながら、どうにも空気が一触即発の方向に傾いていっているのは力でしか物事を解決できない自分の限界なのかとアスカは考えてしまう。

 

「何を言っても無駄のようだな」

「余所者に何も言っても分からん――――お前達は下がれ」

「やる気か?」

 

 頭髪を短く刈り込んだブラットが険しい声で命じて、アスカの前に出てくる。威圧的なその姿を、アスカは皮肉気に睨め上げた。

 

「亜人に付く者は等しく敵だ」

 

 ブラットにしてみれば、それは相手が降伏する最後のチャンスであった。

 

「上等だ。今時そんな考えは流行らないってその体に叩き込んでやるよ」

 

 アスカの言葉を受けて、ブラットの体から熱気が迸った。軽くいたぶる程度ではなく、本気で潰す気になった。 

 アスカがこの街に初めて来たことは、自分達に逆らったことから薄々と察しがついていた。先程の手並みから相当の手並みだと想像がつく。真っ向からやり合えば被害が出ると考えたブラットは、初手から奥の手を出すために長剣の鞘に手をかけてぬっくりと抜いていく。

 

「――魔剣か」

 

 ブウウウウン、と羽虫が立てる羽音のような音が連続してブラットの長剣から放たれている。目を凝らしてみれば、長剣を覆う紅い血のような魔力光がその発信源であると分かる。

 

「街のゴロツキが持つにしては随分と上物じゃねぇか。それは誰かから奪った物か?」

 

 最初期にアスカが潰したエヴァンジェリンの魔剣と比べても上等だと分かる長剣を見遣って皮肉気な言い方で揶揄する。

 

「答える気はない」

 

 大柄な体躯に合わせた様に、手にする剣も大振りだった。ブラットの双眸が更に吊り上がり、筋肉がみしみしと蠢くのを聞いて周りが息を呑んだ。肉厚な身体には精気が満ち、両刃の直刀を構えた姿に隙はない。隙はないが。

 

(魔剣を込みにしても、身の危険を脅威を感じるほどではない)

 

 一流に手は届きそうではあるが、アスカの命を脅かせるほどのプレッシャーではない。このような場で死闘を起こさずに済みそうだとアスカの口から息が漏れる。そこに侮りを感じて、ブラットの感情は怒りを通り越して殺気に変わっていった。筋肉がごりごりと動き、関節が軋むような音を立てる。

 

「テメェ、ブラットさんを笑ったな。ぶっ殺してやる」

「下がれと言ったぞ、キンブリー」

 

 諌めた部下と違って表てに出さなかったブラットが、じりっと間合いを詰める。熱く滾る殺気に当てられて、アスカの背後近くにいた者の幾人かが腰を抜かして座り込んだ。それでもアスカが態度を変えないと、巨漢は更に接近した。

 一定の距離に近づいて、一気に間合いを詰めた。踏み込むというよりはただ地の上で足を滑らせるような動き。それだけでも彼が非凡な遣い手であることが分かる。容易く間合いに入って斬撃を放たんと魔剣を振り上げる。

 

「せやあっ!」

 

 充分に力と勢いの乗った、必殺の斬撃だった。手加減など微塵も無い、殺傷の意思の込められた一撃。気合と共に振り下ろされた一閃を、軌道を読んで直撃すると分かっていても傍目にはアスカは避けようともしなかった。

 魔剣はアスカの肩口に食い込んで振り切り、勢い余った男が膝をつく。シルエットだけなら縦に両断したかのようである。仲間の男達から歓声が上がった。だが、ブラットは呻いた。あまりにも手応えがなかったからだ。そして、気がついたら間近に切ったはずのアスカの体があった。

 

「残像だ」

 

 両断したと思った姿が霞と消え、一瞬で間合いからの離脱と再接近を行ったアスカが慌てて立ち上がろうとしているブラットをすかさず蹴り上げる。顎の下に硬い靴の爪先が食い込み、脳にまで届くだけの衝撃が確かに通った。

 しかし、ブラットは倒れることなく、籠った苦鳴を口の中で漏らしながらアスカから距離を取る。足元はフラついているが、力を失って倒れようとしないその頑丈さにアスカは目を剥いた。

 

「よく倒れない――」

 

 な、と続けようとしてアスカは自身の服が肩から腰近くまで切り裂かれていることに気付いた。どうやら先の一撃を回避する際に目測を誤ったらしい。肌には傷一つないが、魔剣はアスカの障壁を越えて服を切り裂いたということになる。

 

「…………成程、貴様は英雄達と同じく規格外か」

 

 アスカは自身が油断していたことを静かに認めていると、魔剣を地面に突き刺して立っていたブラットが膝の震えを抑えて呪うような眼差しで見つめて来る。

 

「誰かの指図とも思えんが、貴様のような奴が今のこの都市に来たのも何かの運命か」

「何を言っている?」

 

 地面から魔剣を抜き取って鞘に直したブラットは一人で勝手に納得すると、背後から攻撃されないと分かっているのかアスカに背を向けた。

 

「言ったはずだ、余所者には理解の出来ない事だと。部外者は早々にこの街から出ていくがいい」

 

 敵意、猜疑、後ろめたさ。周囲に漂う複数の視線と感情を知覚しながら拍子抜けするほど呆気なく退くことを決めたブラットはそう言い捨てて、仲間達を支えながらこの場から去ろうとする。

 

「おい、待て。話はまだ終わって」

 

 ないぞ、と続けようとしたアスカは突如とし視線を去っていく男達とは別の方向に向けた。元より、彼らの実力では周りに被害がいかないように気をつけてもアスカには何の脅威にもならない。アスカが男達から明後日の方向を見たことに見物人や千雨達がその視線を追いかけ――――そのあまりの意外さに目を瞠った。

 

「なんだ、あれ?」

 

 薙ぎ倒された店の、元は商品が置いてあった台の上に奇妙な生物が乗っていた。

 見物人の一人が疑問の声を上げたのも無理はない。形としては旧世界にいる蜥蜴に近い。やけに大きいが、異常というほどではないだろう。だが、しかし、その蜥蜴は真っ赤だった。体の色もそうだが全身に炎を纏っているのだ。それでいて木で出来ている台は全く焦げていないという異様な光景だった。

 

「なんでサラマンダーがこんなところにいるんじゃ?」

「サラマンダーって魔獣の?」

 

 炎の中に棲むと伝えられている火蜥蜴(サラマンダー)は魔獣の一種である。火山の火口付近ならともかく、街中に突然現われるものではな決してない。見物人の中で首を傾げる客らしき若い男に、偶々隣にいた物知りの老人が答えた。

 

「いや、違う。精霊の方じゃ。しかし、これはまた珍しい。たしか、大抵は術士に召喚でもされない限りそれぞれの住処から出てこないはずなんじゃが………」

 

 物知りの老人の困惑も当然で、精霊獣であるサラマンダーは四大元素を司る精霊のうち、火を司るもので、トカゲのような姿をしており、燃える炎の中や溶岩の中に住んでいると言われている。火山地帯に住んでおり、その皮は決して燃えないため高価であるが、危険な火山地帯で火傷をせずサラマンダーを捕らえるにはサラマンダーの皮の手袋と長靴が必要である。

 誰もが現われたサラマンダーに戸惑い、動きを止めた中で事態は動いた。

 

「そこの賊! 動くな!」

 

 全く別方向からの一喝にまたしても全員の視線が吸い寄せられるようにそちらに向く。アスカが視線を戻すとサラマンダーの姿が忽然と消えている。 

 

「ノアキス守備隊である。市場が荒らされているとの通報を受けて来た」

 

 ズラリと並ぶ完全武装した全身装甲に槍を持った守備隊が並んでおり、装備の色具合が他と違う隊長らしき人物が言うと、見物人がサァーと音が出そうなほど一斉に道を開ける。

 数十人に及ぶ守備隊の到着にホッとしたの束の間、隊長は何故かアスカだけを兜の向こうから睨み付けている。

 

「貴様が市場を荒らした賊だな。神妙に御縄につけ!」

「え、もしかして賊って俺?」

 

 アスカは騒動を収めた側なので、隊長の主張は勘違いも甚だしい。しかし、と辺りを見渡してみると、加害者も被害者もどちらもいない。今思えば、もしかしたらブラット達は守備隊の到着を見越して退却したのではないかと思ってしまうほど退くタイミングが良すぎた。

 

「杖を地面に置いて降伏せよ!」

 

 しっかりと説明すれば理解はしてくれるだろうが聞いてくれる雰囲気ではない。包囲が狭まるにつれ、下手に抵抗すると後々が面倒になるだろうと考えて杖を置いて武装を解き、戦意が無いことを証明するために両手を上げて大人しくすることにした。

 

「確保!」

「「「「「「「「「「確保!!」」」」」」」」」」

 

 アスカが事情を説明する為に杖を地面に置くと、誤解を解く暇も無く隊長から号令が上がった。腹の底から響くような、唱和の声が続く。

 数十の足音が整然と、波濤のように押し寄せてきた。人間の壁が、世界の果てであるかのように迫ってくる。大気そのものが痺れるように微かに振動していた。

 

「仕方ない、か」

 

 話をする機会は必ずあるだろうと自分を納得させて捕まるに任せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突然、アスカが市場を荒らした犯人として拘束されて連れて行かれたら困るのは同行者の千雨と茶々丸である。

 

「どうする? アスカが連れて行かれちまったけど」

 

 騒動が一応は沈静化して当事者がいなくなったので三々五々に散って行った見物人達の中で取り残された形の千雨が茶々丸に問いかけた。

 

「少し調査すればアスカさんの無罪は分かりますから直ぐに釈放されるでしょう。あれだけ見物人がいたのですから」

「まあ、そうだよな」

 

 法治国家である日本で生まれ育った千雨の常識では、これだけの目撃者がいて冤罪が起こり得るはずがないので茶々丸の言い分に納得できた。今後の方針もアスカが釈放されるまでに自分達で出来ることをしておけば時間を無駄にすることもない。

 

「この時間だとアスカが釈放されても船を探すのは無理か。今日泊まる宿を探すとするか」

「食事付きの宿でしたら、交易都市ともなればいくらでもあるでしょう。お金ならなんの心配もな、い……?」

 

 途中で茶々丸の言葉が不自然に途切れた。千雨が見ると、まるで電池の切れたロボットのようにポケットに手を入れて動きを止めている。ポケットに手を入れたまま動く様子の無い茶々丸が先程のまでの言葉から示す意味を想像した千雨の顔色が悪くなる。

 

「なあ、茶々丸さんよ」

「……はい」

「もしかして財布がないとか言わないよな?」

 

 頷くなよ、と心中で強く思いながら聞くも現実はかくも無惨で、茶々丸はゆっくりとポケットに入れていた手を抜き出した。その手には丸い石が握られていた。

 

「何時の間にか摩り替えられています…………やられました、凄腕のスリに」

 

 各種センサーを内蔵している茶々丸ならば財布をスラれた瞬間に重量センサーが反応して気づくのだが、どうやらノアキスには茶々丸に気付かずに財布と石を摩り替えるだけの凄腕のスリがいるようだ。

 茶々丸が手に持っている丸い石を地面に落とすと、ドスンと大きな音がした。顎が落ちてしまいそうな驚愕に苛まれながら千雨は縋るような目で茶々丸を見上げる。

 茶々丸も無い袖は振れない。励ますように千雨の肩に手を置いて、ゆっくりと口を開く。

 

「働きましょう、千雨さん。お金がありません」

「やっぱりか……」

 

 まさか異世界に来てスリに合うとは思っていなかった千雨は告げられた現実に、働からざる者食うべからずの諺を思い出さずにはいられなかった。

 

「可能ならば住み込みで働けるところが良いでしょう」

「おい、私は働いたことなんてないぞ」

「そこは生きる為と思って諦めて下さい。私だけでも構いませんが、その場合は野宿になりますよ」

 

 普通の中学生で明日菜のような新聞配達のようなバイトの経験もない千雨にはハードルが高いが、茶々丸が言うようにアスカがいない状態で諍いがあった街中で野宿など御免蒙る。真剣に貞操の危機でもあるので諦めるしかない。

 

「ん?」

 

 千雨がやはり魔法世界に来るんじゃなかったと後悔していると、茶々丸が千雨の頭越しに何かを見つけた。

 

「どうした?」

「いえ、あそこに子供が」

 

 言われて茶々丸の視線を追って振り返ると、通路の端で先程の亜人の少年以上に小さく薄汚れた子供が今正に倒れ込んだ後だった。倒れ込んだ後だと分かるのは、倒れた時に立ったであろう砂埃が僅かに舞っているからである。

 二人して顔を合わせると、千雨は仕方なく、茶々丸は急いで倒れた子供の下へ向かう。他にも気づいて子供に駆け寄ろうとした者もいたが、千雨達の行動が早くて任せることにしたようである。

 千雨が倒れた子供のところへ辿り着くと悪臭が鼻についた。千雨の肩の上でのんびりとしていたハクも悪臭に鼻を抑えようとしているが手が短すぎて果たせず、ジタバタとしている。

 

「くっせぇ」

「どうやらこの少女からのようですね」

 

 人間のように鼻が曲がるような臭いに悪態をつくこともないので冷静に分析した茶々丸の言葉に千雨は首を捻った。

 

「各スキャンで確かめましたので間違いありません。この子は女の子です。どうやら何日も洗っていないようですね」

 

 千雨が鼻を摘みながら子供――――少女を見下ろすと体格的に年齢は六、七歳ぐらいであろう。ボロボロの服の隙間から見える手足の異様な細さを見ると、もしかしたら食事を取れていない様子なので実年齢はもう少し上かもしれない。その少女の外見からは、子供という以上に確かな年齢を計ることは叶わなかった。

 少女の身体は包帯塗れであったからだ。手足も胴体もその顔にも至る所まで包帯を巻いており、悪臭の原因は服と体を何日も洗っておらず、恐らく何かの拍子に下水かなんかを浴びたのではないかと臭いの成分を分析した茶々丸だったが口に出しはしなかった。

 

「酷いな。何かの事件に巻き込まれたのか?」

「それは分かりません。ストリートチルドレンの可能性もありますし、本人に聞いてみない事には」

 

 千雨が自分の鼻を抑えながらハクの鼻も抑えてやると獏は口では呼吸をしないのか、今度は呼吸が出来ないことにビクビクと震えだした。仕方なく千雨はハクをローブのポケットに入れることで、外界よりは匂いを感じ難くさせる。

 

「……ぅ」

 

 茶々丸がそろりと少女の肩を揺する。すると、最初は愚図った少女がゆっくりと瞼を開と同時に千雨のローブのポケットの中にいたハクが小さく鳴いた。

 

『出ていけ!』

 

 瞬間、千雨の目に違う光景が映り出した。

 

(な、なんだ?)

 

 大人の男が自分に向かって木の棒を持ちながら威嚇してくる光景が目の前に広がり、恐怖と困惑に叫んだつもりの千雨だったが口からは何も発せられていない。というより口の感覚が無い。

 

『出ていけ、化け物!』

 

 見ている光景は何も変わらない。千雨は動くことも出来ず、声を発することも出来ず、ただ同じ光景を見せられている。

 ただ、大人の男が木の棒を振り回して、こちらを威嚇しているが絶対的な有利に見えるその姿だが腰が引けていて、まるで千雨がいる場所にいる何かに怯えているようだった。

 動かないこの視線の主に業を煮やして男は千雨に向かって最後の一歩を詰め、その振り上げた棒を本当に叩きつけるつもりで振り上げた。

 

『さっさと出て行けと――』

 

 振り下ろされる正にその瞬間、千雨の視界を圧するほどの閃光が奔った。同時に頬に付着する何か。

 

「――――さん!」

 

 気付いてはいけないのだと思った。だが、千雨と視線を同じくしている者は気になったのだろう。頬に付着した何かを小さな指で拭って――――。

 

「千雨さん!」

「――ぉおっ!? どうしたよ、いきなり?」

「いきなり千雨さんが反応しなくなったものですから、大声を出してすみません」

 

 間近に迫っていた茶々丸のドアップに驚いて顔を引いた千雨は自分が元の現実に意識を戻したことが分かった。なんとなく気になって頬に指を這わせて確認するも、別に何かが付いていたわけでもないので指には何も着いていない。

 

「いや、私もごめん。ちょっと、ボゥッとしてた」

 

 謝りながら千雨は自分でも白昼夢を見るなんて疲れているのかと眉間を揉んだ。

 少なくとも千雨には今ままでそんな経験はなかったし、何よりも大人の男に怯えられながら木の棒で威嚇されたことどころか、その男と会ったことすらない。それでももう一度、頬を拭った指に何もついてないことを確認する。

 

「気のせいだよな、血だなんて」

 

 頬に付いた何かが血で、それは視線の主ではなく閃光がぶち当たった男から噴出したものだとは考えたくはなかった。首をブルンブルンと横に振って忘れることにした千雨のローブのポケットの中で、ハクがまた小さく鳴いた。

 

「お姉さん……」

 

 千雨が顔を前に戻すと、倒れていた少女が瞼を開いて焦点の定まらない眼で茶々丸がいる方向を見ていた。

 

「もしかして、この子」

「はい、恐らく目が見えていません」

 

 視点が定まっていないので千雨の推測でしかなかったのだが、茶々丸のセンサーは少女の視点から観測した結果である。とはいえ、殊更に言うことでもないので二人で小声で話していた。

 

「大丈夫ですか? 立てますか?」

 

 千雨が聞いたことのないほど優し気な声で茶々丸が少女に聞くと、少女は「お腹空いた」と腹をキュルルと鳴らしながらではあるが立ち上がった。

 

「ご両親は近くにいらっしゃいますか?」

 

 目は見えていないが茶々丸は膝を地面に付けて出来るだけ目の位置を合わせるようにして問いかけるも、返ってきたのは首を横に振るという否定の意。

 

「では、ここへはどうやって?」

「歩いてきたの」

「一人で?」

 

 うん、と軽く頷かれてしまったので、どうやら事件性がないのは良い事だが近くに両親もいないとなると今日の食事にも困っている二人も困ってしまった。

 

「お家は分かりますか?」

「ないよ」

「…………ない?」

「うん、お父さんとお母さんと一緒に無くなっちゃった」

 

 変わった答え方であるが、つまりは家がなくて両親もいないということになる。少女の身なりからすると一日二日のことではなく、もしかしたら何日も彷徨ってノアキスに辿り着いたのかもしれない。

 

「どうしましょうか?」

「どうしようって言われてもな」

 

 立ち上がった茶々丸と目線を合わせ、二人して悩む。今の二人は今日食べる食事にもありつけない文無しだ。正直に言えば足手纏いでしかないが千雨も自分の半分程度の年齢の少女を一人にするのは流石に良心が痛む。

 悩んでいる二人を見上げた少女は困惑気に口を開いた。

 

「お姉さんはあたしをぶたない?」

「ぶつわけないじゃないですか」

 

 見上げられていた茶々丸は一瞬で否定し、少女の頭を撫でると柔らかく笑う。その裏で先程の問いで少女が今まで過ごしてきた環境が透けて見えて茶々丸に笑みを僅かに固くさせる。

 

「私達と共に行きましょう。あなたのことは私が守ります」

 

 人に殴られるような環境に少女を戻すわけにはいかない。例え神様仏さまマスターであるエヴァンジェリンであろうとも認めるわけにはいかないのだ。

 

「張り切るのはいいけどよ、私達は文無しだぜ?」

「あ……」

 

 しかも未だに千雨が鼻を摘ままなければ傍にいることが出来ない程の悪臭を放っているのだ。まずは風呂に入って綺麗にして、体に良い物を食べさせるという茶々丸の計画は始めから躓ていた。

 

「ヴェックション!! …………うう、今年の鼻風邪はしつこいね。チーフの私まで買い物に行かなきゃならないなんてヤダね、人手不足ってやつは」

 

 茶々丸が悩んでいると、直ぐ近くで誰かが大きなくしゃみをしていた。そちらを見ると、給仕服を着た熊のヌイグルミのような風体の亜人が鼻を啜りながら手に抱えた荷物を持ち直していた。

 人手不足、と確かに言った熊の亜人の女性(?)の言葉をしっかりと記録した茶々丸のコンピュータが名案を叩き出す。

 

「あの、よろしいでしょうか?」

 

 丁度、近くを通りかかろうとしていた熊の亜人女性に意を決して話しかけた。

 

「ん、なんだい? 食料はやれないよ」

「いえ、実は私達お金を落としてしまいまして困っているんです。三人分働きますので雇っていただけませんか?」

 

 熊の亜人女性は立ち止まって茶々丸を見下ろし、ふむと考えてゆっくりと口を開いた。

 

 

 

 

 






次回「第66話 大戦の亡霊」



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第66話 大戦の亡霊

 

 

 

 

 

 

 

 無数の丸太で組み上げられた櫓の中で、激しい炎を噴き上げている。風に煽られ、丸太で組まれた井桁の中を狭苦しいとばかりに暴れていた。旧世界の電灯のような効率的な明るさではなく、ひどく無駄が多く膨大な熱を撒き散らす危なげな光である。

 夥しいほどの火の粉を夜気に撒き散らす度に爆ぜる音が風音に混じり、咆哮のような音へと変わる。

 中央に据えられた棺は半ばまで灰に変わり、その中に収められていた個人の亡骸も既に荼毘の煙となって天に昇りつつある。

 バチバチと大きな音を立てて燃え盛るその炎を遠巻きにして、葬儀に参列している者達が粛々と故人への祈りを捧げていた。赤々と焚かれた篝火に照らされて、参列者達はその姿からは在り得ない不気味な影を揺らしていた。

 影の中でうねうねと触手をくねらせながらも葬儀は続く。

 領主の妻に相応しい、厳かで豪奢な葬送だった。だが、参列者の群れに混じっている少年は故人の冥福を祈るでもなく、ただ悔し気に表情を歪めていた。

 

『父上……』

 

 妻を亡くしたばかりの夫である父ならば自分のこのやるせない気持ちを分かってくれるのではないかと、隣に立つ自分と同じように耳が長く尖った男へと縋るように顔を見上げた。

 

『父上……っ』

 

 父は泣いていた。声を上げることなく、轟々と燃える炎を見つめて無表情に滴を頬に垂れされている。だが、それだけだ。少年のように悔しさを感じていないようにも見えた。

 

『父上……!』

 

 涙以外に感情を窺わせない父に少年は憤り、優しかった母の温もりを永遠に失って心の余裕がなく大きな声を出さずにはいられなかった。

 魅入られるように炎を見つめていた父は今更少年に気付いたように彼を見下ろした。

 

『葬儀の席だ。静かにしなさい』

 

 何時もと何も変わらない父に少年は言わずにはいられなかった。

 

『何故、母上を殺した奴らを糾弾しないのですか! これでは母上が浮かばれません!』』

『あれの死は両者の諍いを仲裁して起きた事故だ。誰にも責任はない』

 

 彼らの都市は発展を続けている都市ではある。大戦によって居場所を失った人々が押し寄せてきているお蔭で発展は加速しているが、種族を問わずに受け入れているからその分だけ問題も大きい。

 まだ大戦が終わってそれほどの時間も経っていないから人間と亜人の溝は深く、毎日のように諍いが起きている。

 領主の妻はその諍いを止めようとして命を落とした。誰にも彼女を害するような悪意はなく、純然たる事故であることは多くの目撃者が証言している。

 

『彼らも自らの咎は受ける』

 

 事故とはいえ、人一人を殺した罰は当然受けなければならない。過失ではなくとも相応しい刑罰を今も受けていることだろう。

 

『でも、彼らが諍いなど起こさなければ母上は……!』

 

 少年にだって分かってはいるのだ。それでも母を失ったばかりの子供にとって、理解と納得はまた別の問題なのだ。

 

『彼らにも彼らの事情があるのだ。帝国と連合、人間と亜人、両者の溝は未だ深く、今のお前のように癒し難い痛みを抱えている』

 

 大戦が終わったから仲良くしろと言われても、簡単に許容出来はしないのだ。両国の間には深く癒しきれない溝が厳然としてあり、その溝がある限りは火種は水面下で燻り続ける。

 

『互いを理解する為には急いではならない。焦ってはいけない。力尽くで革新的に成し遂げたとしても長続きはしないからだ』

 

 そういった心の変化を、結局は人の中にゆっくりと理解が芽吹くのを待つしかないのであると語った父の炎に揺れる横顔を見つめた少年は、荼毘の煙となって天へと昇って行く母を想った。

 

『両種族が何の蟠りもなく暮らせる都市を造る。これはお前の母の願いでもある』

 

 息子と同じように亡き妻の魂が天へと還っていく姿を幻視しながら、父は今までの時間を追想するように遠い目をしていた。

 

『私の代では無理かもしれない。次はお前に託すことにあるかもしれない』

 

 ポツリと零されたその言葉は、もしかしたら母を失った父が漏らした微かな諦観と焦りだったのかもしれない。それでも少年にとっては想いを継ぐに十分な理由となった。

 

『安心して下さい、父上。お二人の願いは僕が……』

 

 両種族の間に生まれた自分の役目であると、強く心に刻んだのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ノアキスの守備隊に拘束されたアスカ・スプリングフィールドが連れて行かれたのは暗い、地下にある必要最小限の灯りのみが照らす廊下の突き当りの部屋、石で覆われた地下の一室であった。つまりは牢屋である。

 牢屋の中はひどく暗い。ねっとりと、身体に纏わりつくような暗さだった。そんな陰鬱な闇の中に、旧世界でいえば蝋燭に当たる魔法具の灯りだけが灯っている。あまりにも淡く弱々しい光はかえって闇の深さを強調するようにも思えた。

 

「封楼石を付けるなんて、よほど警戒されてるな」

 

 動きを遮る鎖で繋がった黒い手枷と足枷に触れ、アスカは少し楽観し過ぎたかと考える。

 本来のアスカの力なら、この建物自体をあっという間に廃墟に変えることも、或いは傷一つつけることなくここから脱出することだって、そう難しい芸当ではない。

 にもかかわらず、アスカがこうして大人しく虜囚の辱めを甘んじて受け入れているのは、この手枷足枷によって彼の力の大半が封じられているからだ。魔力や気の力が阻害されていて身体強化も碌に使えない。このちっぽけな金属の塊によって、常人をちょっとだけ凌駕するくらいのレベルに制限されてしまっている。

 

「捕まるんじゃなくて逃げるべきだったか」

 

 アスカはまた飛び切り大きなため息を吐き、壁側の小さな窓にかかっている格子越しの向こうに広がる青い空を見上げた。高く、遠い空だった。

 この牢屋で一晩を明かしたものの、特に取り調べも何もなく放置の常態である。これは堪ったものではないと立ち上がって牢へと近づき、大きな口を開ける。

 

「お~い、俺の話を聞いてくれよ」

 

 看守の一人ぐらいはいるだろうと、冷たい牢に顔を押し付けて向こう側を見ようとしても魔法で灯されている燭台の火がユラユラと揺れているだけで誰の姿も見えない。

 かなり広いのか、声は反響するだけで返事は返って来ない。牢を握るとこちらも封楼石で出来ているのか、魔力も気も一切通さない。

 

「困ったな、これは」

 

 顔に牢の跡が付く前に離れ、予想外の展開に嘆息する。

 事情を話せば直ぐに釈放されるだろうというアスカの楽観的な予測は見事に外れ、既に半日近く虜囚の身である。とはいえ、牢に入る時に空腹を告げるように腹が大音を発してくれたので飯は食べさせてくれたが、朝に目覚めてからは食事どころか一滴の水も飲んでいないので再び空腹が襲ってきている。

 

「腹減ったぁ! 何か食わせろ!!」

 

 空腹は人をイラつかせる。物に当たるように牢を蹴りつけるが、ビィィィンと音を響かせるだけでビクともしない。

 

「五月蠅いわね」

「おわっ!? 隣に人がいたのかよ……」

 

 極間近、正確に言うならば隣から女のイラただし気な声が聞こえて来て、気配を感じずこの牢屋に一人だと思っていたアスカは少し驚いた。

 

「あなたより三日前からいるわよ」

「へぇ」

 

 先客がいたことで少しは空腹が紛れたアスカは、女がいる方の牢屋の壁に凭れて座り込んだ。よく気配を探れば、薄いが確かにそこに人がいることが分かる。

 どうやらかなりの達人のようだと看破して、つまらない虜囚の状況に楽しみを見い出した。

 

「アンタは何をやって捕まったんだ?」

 

 互いにやることもない虜囚であることには飽き飽きしているので、話題は捕まった理由を知ることから始まる。

 

「下着ドロを捕まえる時にやりすぎてしまっただけ」

「…………ちなみに、どれぐらい?」

 

 声におどろおどろしい感じがして問いを撤回したくなったが、一度聞いたのならば引き返すのも変だと思って詳細を聞く。

 

「生きていることを後悔させたぐらいには。下着ドロをするような女の敵に生きている価値はないのよ」

 

 それはアカンやつだろ、と内心で思いつつもアーニャやネカネでも同じぐらいはやるだろうことを知っているので特に突っ込みはせず、要は過剰防衛で捕まったのかと納得したアスカは頭の後ろで手を組んで枕にする。

 

「何も言わないのね。やり過ぎだと言うかと思ったけど」

「身内に同じようなことをするのがいるからな。嫌な言い方だけど慣れてる」

 

 本当に嫌な言い方だと考えていると、隣の牢屋にいる女が薄く笑う気配を感じる。

 

「で、アナタは何をやって捕まったのかしら?」

「大の大人数人が寄ってたかって子供をボコってたとこを止めて追い払っただけで、捕まるようなことは何もしてない。まあ、守備隊が来た時には加害者も被害者もいなくて勘違いしたかもしれないけどよ」

 

 経緯を話すと音沙汰がないことにイライラとしてきた。

 もしかしたら目撃者を探して情報を集めているところかもしれないが、それにしたってまずは当事者から事情を聞くのが先ではないかと思うのだ。悪いことをしたわけではなく、世間的に褒められる行為のはずなのに、こうして虜囚の憂き目に合う理由が納得できない。

 

「もしかしたら領主に目を付けられたのかもしれないわね」

 

 伸ばした足の踵で怒りに任せてゴンゴンと床を抉っていると隣の女がふとそんなことを呟いた。

 

「何のことだ?」

「その前にナギ杯のことは知っているかしら?」

「ああ、まあ一通りは」

 

 理由が分からなくて首を捻っていると、隣の女はナギ・スプリングフィールド杯を知っているかを聞いてきたので頷きを返す。

 

「大戦後十年を記念して開かれた世界最強を決める拳闘大会で、優勝賞金は百万ドラグマ。今年は決勝大会がオスティア終戦記念祭に開催されることもあって、前回以上の盛り上がりが期待されてるとかなんとか」

 

 アスカがナギ杯のことを知ったのはまだ魔法学校を卒業したての時のことで、調べたカモとネギから話を聞いたのでよく覚えている。麻帆良で学生をやるという卒業課題があったから、どうやっても魔法世界に渡ることはないと考えていたので悔しい思いをした。

 大会は、発起人である紅き翼のジャック・ラカンが商人であるドルゴネス等の有力者がスポンサーとなって立ち上げた。未だに戦禍の色が色濃く燻る民衆の娯楽として、戦後に事情があって奴隷とならざるをえなかった者達への助けの手としてなど、様々な憶測が流れているがラカンから真実が語られたことはない。

 

「大会が代理戦争の側面を持つことは知ってるかしら?」 

「昨日会った商人のおっちゃんもそんなことを言ってたな…………待てよ、領主が目を付けたってまさか」

 

 女の目を付けたという言い方と、代理戦争の側面があるナギ杯。世界で未だ消えない種族差別、異種混合のノアキスの状況と、商人が言っていた領主の行動を思い返していると、パズルのピースが次々と嵌っていく。

 

「俺にナギ杯に出ろっていうのか?」

「そろそろ、話に来るんじゃないかしら」

「勘弁してくれよ……」

 

 魔法世界に来た当初ならば参加しても良かったが、今は仲間が世界中に散り散りになって大変な時だ。惹かれるものはあるが、今の目的は全員で麻帆良へと変えることなので大会に参加しているような場合ではない。

 そこでふと違う考えが浮かんだ。

 

「もしかして、アンタも誘われた口か?」

 

 下着ドロに対して過剰防衛をしても魔法薬があるのだから治癒は簡単のはずだ。その薬代にしても下着ドロから徴収すればいいのだから、厳重注意はあっても三日も拘留する必要はあまりないはず。となれば、アスカと同じように牢屋に入れられているのは選手として出ないかと誘われているのではないかと考えるのは簡単だった。

 

「その通りよ。同じように牢屋に入っているよしみで教えといてあげようと思ったのよ」

「まだ牢屋にいるってことは断ったってことか」

「当然よ。私にはやることがあるのだから。なのにあの領主は私が代表になるまで牢屋から出さないって」

 

 好意でアスカが牢屋に押し留められている理由を教えてくれた女の事情は分からないが、選手になって大会に出ているような余裕はないらしく領主に不満を漏らしていた。

 

「領主にそこまで出来るものなのか?」

 

 代表にならないからと牢屋に押し込めておくことが可能なのかとアスカは首を捻る。

 

「一応はこの都市の最高権力者よ。理由は後から幾らでも作れるわ。一週間、牢屋に入ってよく考えろですって」

 

 下着ドロに生きていることを後悔するぐらいのことをしておいて大した反省もしていないのは話をしていれば分かるので、反省をしろってことで拘留期間を伸ばしたのだろうかと内心で推測しつつ、ふと気になったことがあった。

 

「やることがあるって言ってたけど、なにかあるのか?」

「…………ある人を探しているの。その人を見つけるまで私は止まることが出来ない」

 

 アスカの問いに最初は逡巡した女はやがて自分の目的を語り、一拍の間を置いた

 

「貴方は、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルを知っていますか?」

 

 良く知っている名前にアスカの肩がピクリと浮き上がり、リズムを取っていた足を止めた。

 

「お前……」

 

 何かを言おうとしたアスカだったが、遠くからガチャリと鍵を外したような音の後に誰かが牢屋のある地下に下りて来た足音を聞いて口を閉じた。

 足音の主は入り口の方から真っ直ぐにこっちを目指して近づいて来て、アスカの牢屋の前に止まると「出ろ。領主様がお待ちだ」と言って鍵を外して牢屋を開けた。

 

「へいへい」

 

 出してくれるなら理由はともかく。それにこしたことはない。どうあれ、差し招かれては囚われの身であるアスカには逆らいようのない立場にある。牢屋から抜けると少しは気分も変わって伸びをすると、背中の骨がポキポキと鳴った。

 

「こっちだ、来い」

「分かった」

 

 鍵を持っている男は慇懃無礼な言い方で入り口の方を指し示して先に歩き、手枷は外してくれないのかと思いながら後を追って歩き出す。

 アスカがいた牢屋よりも入り口側にあった女がいる牢屋を通りかかった始めてその姿を見る。

 年齢はまだ若いだろう。見た目的にアスカよりも三歳から五歳は年上のようで、黒髪のショートボブの髪に黒目と日本人の要素は持っているが、顔立ちは南欧系をしている。粗末なローブとボロボロの旅装を纏ってはいるが中々の美人だ。

 

「んじゃ、行って来るわ」

「もう会わないことを祈るわ」

 

 冷たい返事に閉口しながら先を行く男が「何をしている」と催促してくるので、大人しく女との短い邂逅に終わりを告げて牢屋から地上へと上がる。

 地下への入り口の所で留まっている男の横を通る際に鍵の位置を確認して、わざとさも躓いたように見せかけて近づく。

 

「何をしている」

「悪い悪い。こんな物を付けられた所為でバランスが取り難いんだよ」

 

 一歩の距離があるところで男が言っているが、目的を達成したアスカはその距離から近づかない。

 無言の男の後について、たっぷりと足首まで沈むような絨毯の上を歩かされていく。

 枷がジャラジャラとなって五月蠅いことこの上ないが男は鍵を持っていないのか、単純に外す気がないのか、放っておかれている。男が何も話そうとしないのでアスカは周りの調度品を眺めることしか出来ず、まだかと考えながら暫く歩いていると牢屋がある地下への入り口から一番遠い部屋の大仰な扉の前で従者が立ち止った。

 

「…………こちらで、領主様がお待ちになっています」

 

 流石に雇用主である領主が近くにいるとなると言葉と態度を改め、そう言って頭を下げてそのまま、ガチャリとドアが開けられる。

 部屋は薄暗く、アスカは石造りの牢獄を何となく連想した。

 さほど広くもないのに、部屋の四隅には埃みたいに暗闇が溜まっていて、それがふとした拍子に化け物となって立ち上がってくるんじゃないかと、原始的な戦きに捉われる。

 簡素ながらも上品に纏められた広い室内。どこか暗い、広い部屋の中央に巨大なチェースボードを思わせる正方形のテーブルがあった。中央奥には重厚な執務机が置かれている。

 その中央奥の机の向こうに一人のまだ若い男性が座っている。

 アスカよりも一回りぐらい上の見た目で、茶色い髪をオールバックで纏め、縁なしの洒落っ気なしの実用を重視した眼鏡をかけている。彫りの深い顔は厳しそうな表情を浮かべていて、着ているグレーのスーツはファッションに関する感覚が絶望的に終わっているアスカの目から見ても上質なものだと解った。他の何よりも男を示す特徴は、やはり人間種ではありえないほどの耳の長さと尖り具合か。

 亜人か、という内心でのアスカの推測が聞こえたわけでもないだろうが、領主として執務をしていたらしい男は顔を上げた。

 

「やっと来たか」

 

 男は椅子から立ち上がりもしなければ、挨拶をすることもしない。ただアスカを値踏みするかのように鋭い瞳で見ていた。その礼儀の欠片もない態度に、さしものアスカも感じるものがあったが場合が場合なので抑える。

 

「来い」

 

 アスカに向けて言われた命令口調に反抗したくなったが、今は相手の出方を見る方が先決と大人しく従うことにする。

 部屋は一目で高級と分かる調度品が並んでいたが、しかし空気そのものが放つ高級感と言おうか、生半可な人間など鼻で笑い飛ばされそうな高潔な雰囲気が、揃いも揃って一流どころといった品々を決して下品に見せていない。

 取りあえず、執務机に近づきすぎない距離で立ち止まると座ったままの領主と向かい合う。

 

「貴様の名前はアスカ・スプリングフィールドで相違ないか?」

「ああ」

 

 言葉少なに聞かれたことを肯定すると、無礼だとでも思われたのか領主の眉間に皺が寄る。

 

「まずは謝罪しておこう。市場を荒らした君の容疑は晴れた」

「なら、この封楼石を外してくれないか」

 

 今まで時間がかかったのは、やはり目撃者からの捜索と聴取に時間を取られた所為かと謝罪よりも先に手枷を外すように求めると、領主は執務机の引き出しから中から鍵を取り出した。その鍵を執務机のアスカ側に置く。

 要は自分で外せということかと解釈したアスカは鍵を手に取って鍵穴に差し込んで錠を外していく。

 

「ふぃ、ようやくスッキリしたぜ」

 

 カチャリと簡単に外れた手枷を手に持ちながら自由になった手首をグルリと回す。

 

「これで俺は釈放されるってことでいいのか?」

 

 無理だろうな、とは思っているが敢えてそう聞く。

 

「市場を荒らしたのはゴロツキ共と調べはついた。が、そのゴロツキ共を容易く退かせた貴様に興味がある」

「男に興味があるって言われてもな」

「茶化すな」

 

 張ってる空気を和らげるためにお道化て見せたのに、冗談が領主には通用しなくてアスカも閉口して口を閉じるしかない。

 どうにも余裕のない男だと二十歳ぐらいに見える年若い領主の背に乗っている重圧らしき物が目に見えるようで、年を経れば苦労でハゲそうなどと口に出せば相手が激怒しそうなことを考えつつ出方を待つ。

 

「貴様の隣の房に入っていた女から粗方の事情は聴いているだろう。貴様の腕を見込んで雇ってやる」

 

 これはまた随分と上から見た物の言い方だと聞きながら思い、どう断ったらいいものかと手の中で枷を外した鍵を弄びながら先程の従者からスった牢屋の鍵が入っているポケットを意識する。

 大した妙案も浮かばず、ここは率直に断るしかないだろうと口を開く。

 

「悪いが他を当たってくれ。俺にはやることがある」

 

 反応を窺うと、何故か領主は冷笑を浮かべている。

 

「仲間を探すために、か」

 

 予想外の反応に手の中で弄んでいた鍵を落としてしまう。動揺したと分かり易く相手に示してしまった後悔よりも、何故そのことを知っているのかという動揺の方が大きかった。

 

「名前が分かれば調べるのはそう難しい事ではない。スプリングフィールドという名前となれば特にな」

 

 サウザンドマスター――――ナギ・スプリングフィールドの名の大きさまで考慮せずに本名をそのまま名乗ったのは失敗だったかと悟ったが時は既に遅し。

 

「サウザンドマスターが旧世界英国の家の出であることは有名な話だ。ゲートポートが英国にあることも、先のゲートポートの一件の前にゲートが使われたことも、入国した者達の中でゲートポートの破壊に巻き込まれて行方不明になっている者達がいる。その中に貴様の名前を見つけるのに半日もかかってしまった」

 

 半日もかかったというが、アスカからすればこれほどの短時間でそこまで調べ上げるだけでも驚嘆ものである。

 アスカがウェールズのゲートからメガロメセンブリアに来たと思い至ることが出来れば、ゲートポートにいたはずなのに僅か三日で五千キロメートル近く離れたノアキスに現れたとなれば、転移事故に巻き込まれたと推測することは出来る。

 行方不明者のリストを手に入れることさえ出来ればアスカの名前を見つけることも容易く、もしも入国管理局のデータベースに侵入できれば近衛名義で入国した麻帆良生のことまで芋づる式に分かることだろう。

 

「私に協力してくれるならば、貴様の仲間の捜索をしてやる。腕に見合った報酬も与えよう」

「断る」

 

 悪い条件ではないと思ったが特に受けるべき切実な理由も無いので即答で切り捨てる。

 

「ふん、これを見てもそう言えるか」

 

 予想済みの返答というように領主は一枚の紙をアスカの前に差し出した。

 仕方なく受け取ると、中心には毎日鏡で見ている見覚えのありまくりの顔が映った写真があって、上部には『WANTED Dead or Alive』と記された文字と共に印刷されている。

 

「俺の手配書、か?」

 

 角度を変えて、どう見てもそうとしか見えない手配書を手にしたアスカは「百万ドラグマか……」とその賞金額を他人事のように呟いた。

 

「どうやら余程、元老院の恨みを買っているようだな。明晩にもメガロのゲートポートを破壊した主犯として指名手配されることだろうよ」

「俺は何もやってない」

「やったかやっていないかは組織にとっては別問題だ。奴らにとって情報操作などお手の物。今頃、証拠映像でも偽造していることだろう」

「おいおい」

 

 と言いつつも、アスカは母親であるアリカのことを知っている者が元老院にいるのではないかと当たりをつけた。

 アルビレオや叔父らから聞いた話を纏めると、災厄の女王と言われている母親の評判が正しいものではないとなれば処刑を推進したメガロメセンブリア元老院としては、処刑されたはずなのに生まれているアスカらの存在が露見するだけでも都合が悪くなる。

 生死問わずの手配書を発行して指名手配しようとている辺り、殺意が高すぎなのは明白で余程生きていられると困るらしい。

 

「私に尽くせ。そうすれば罪を消してやる」

 

 自信満々に領主は言うが、相手は世界を二分している大国のトップである。狭間の都市の領主程度に出来るとはとても思えない。

 

「出来るのかよ、アンタに」

「貴様が私の下に付くというなら可能だ」

 

 椅子に座ったまま組んでいた足を組み替えた領主の言い分を聞こうと続きを待つ。

 

「正直に言えば、正攻法ではどうにもならん」

「おい」

「話は最後まで聞け――――どうにもならんが、時間を稼ぐことは可能だ。ナギ杯まではな」

 

 なんとなく結末が見えた気がして、アスカは領主の向こうにある窓の向こうを見た。

 どこかで鳥が鳴いている。牧歌的な風景に馴染む長閑な泣き声じゃなくて、苦痛を訴えるような、何だか痛ましげな泣き声だった。

 

「ナギ杯で優勝した代表選手には栄誉と賞金が与えられるが、輩出した都市には幾つかの特権が与えられる。罪人の特赦も可能だが、貴様がやっていないというなら第三者機関による公平な再捜査を行わせることも可能だ」

「つまりは罪を消す為には俺にナギ杯に出て優勝しろ、と」

 

 個人の武勇で負けるつもりはないが、流石に巨大な組織相手だとどこで不覚を取るかもしれない。第一、指名手配などされたら大っぴらに動くことが出来なくなり、どのような制約がかかることになるか分かったものではない。

 仲間の捜索、自身の指名手配、その他諸々を頭の中で秤にかける。

 

「ちっ、分かった。アンタの提案を受け入れる。但し、協力もしてもらうぞ」

「貴様が自らの腕を証明してからだ」

「は?」

 

 まずはアリアドネ―に連絡を取ってもらうかと考えていると、早速の領主の発言にこの選択で良かったのかと迷うアスカだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自らの腕を証明しろということで領主の館から闘技場にやってきたアスカが引き合わされたのは鶏の頭のような髪型をした男だった。

 

「へっ、お前さんが領主肝いりの強者ってか」

 

 トサカ、と名乗った男の名前が髪型通りで笑いかけたが絶対に怒ると思ったので内心に留めていると、何故か間近でメンチを切られた。

 

「まだガキじゃねぇか。逃げんなら今の内だぞ? バルガスの兄貴は強いからな」

「ああ、はいはい。御託はいいから、顔近過ぎ」

 

 闘技場の選手が入場する入り口前の廊下で何が楽しくて、大した良くもない男の顔を近づかれても気持ち悪いだけであるので、メンチを切っているトサカの顔を押し退ける。

 

「ふん、バルガスの兄貴はガキの頃にあのサウザンドマスターをボコ殴りにしたっつー話もあるぐらい強いんだぞ」

 

 顔を押し退けられても凄んでいるトサカに、そんなに凄いなら代表を下ろされるはずがないだろうと思いもしたが、そのことを指摘すると面倒くさいことになりそうなので「へー、そうかい」と適当に受け流しておく。

 

「五分持ったら褒めてやるよ。まあ、テメェのようなガキじゃあ、二分も持たねぇだろうがな」

「お前、審判なんだろ。いいから、早く行けよ」

 

 どこからそのような自信が出て来るのかと考えたが、もしかしたらこうやって脅すことで気勢を削ぐ作戦なのかと思うことにしてトサカを追い払う。

 悪態を付きながら先に闘技場に向かうトサカを見送って背後を振り返ると、アスカの後に釈放された隣の房にいた女が立っている。

 

「結局、受けたのね」

 

 若干、呆れ気味の女に苦笑を返す。

 従者からスッた牢屋の鍵があったので逃げる時に助けてやろうと思ったのだが、アスカが代表になる意思を表明すると女も解放されたのでその必要もなくなった。

 

「断れない理由があったからな」

 

 下手に断れは領主は元老院にアスカがノアキスにいることを伝えそうだし、一人ならば逃げるのは簡単だが千雨と茶々丸が共にいるとなると彼女らに迷惑をかける。

 指名手配をかけられたままでは今後の行動にも支障が出て、ナギ杯に優勝する必要はあるが以前から出たかった大会に出れるのだからこれで由とするしかない。有名になればテレビ放送もされるだろうから、見た誰かが来るかもしれないので悪い手ではないと思うことにする。

 

「まあ、頑張って。応援ぐらいはしてあげるわ」

 

 それだけだと告げ、女が身を翻して去っていく。見送ることなくアスカも闘技場に向かって歩き出す。

 所詮は二人の関係は偶々牢屋が隣り合っただけのものでしかなく、互いの人生が僅かに重なっただけの短い付き合いだ。アスカも女も互いに名前を知ることも無く別れる。

 

「ああ、そういえば」

 

 アスカは女に牢屋で『エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルを知っていますか?』と聞かれたことを思い出し、振り返ってもう随分と小さくなった女の背中に向かって「おい!」と呼びかけた。

 

「なにかしら? もう用はないはずだけど」 

「牢屋でエヴァのこと聞いてただろ。エヴァなら旧世界の日本にある麻帆良ってところにいるぞ」

「なんですって!」

 

 随分と食い付きがいいなと思いながら、女から悪意やその他は感じなかったので会ってどうこうすることもないだろうと「学園長に俺の名前を出せば会わせてくれるだろうよ」と告げる。

 

「私、あなたの名前を知らないのだけど」

「ああ、そっか。俺はアスカ・スプリングフィールドだ」

 

 平坦だった先程と変わって喜びの感情も露わにしている女に自らの名前を名乗ったアスカに、遠目でも分かるほど女は肩を落とした。

 

「教えてくれた礼よ、一応私の名前も教えておくわ――――イシュト・カリン・オーテよ」

 

 何故か名乗る前に一拍を置いた女は随分と間を置いて自らの名前を告げた。

 アスカがその理由を考える前に闘技場の入り口から怒り心頭と言った様子のトサカが顔を出す。

 

「おい、コラァ! さっさと来やがれ!!」

「分かってるって。じゃあな、カリン。エヴァに会えるといいな」

 

 トサカに急かされてアスカは急ぎ歩きで闘技場の入り口の向こうへと姿を消していく。その姿を見送った女――――カリンは、台風が通り過ぎたような唖然とした表情で入り口を凝視している。

 

「変な奴だったわね……」

 

 それだけを言い残して、カリンはアスカとは反対に通路を進んで闘技場を出ていく。

 二人の道はほんの少しだけ重なっただけで短い時間で別れる。彼らの道が再び重なるのはそう遠い未来ではないが、今はまだそのことを知ることはなくカリンは彼女の目的である人物の居場所が分かったのでその足取りに不安はない。

 

「エヴァンジェリン様、今行きます」

 

 イシュト・カリン・オーテ――――百年後に結城夏凛と名乗ることになるカリンは意気揚々と目的地に向かって足を進める。

 

「乱入者だと? まあいい。誰にしろ、俺が勝つだけだ」

 

 カリンと再び再会することを露ほど考えてもいないアスカは、トサカ同様に目の前にいるスキンヘッドの大男の自信はどこから来るのだろうと素朴な疑問を覚えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長谷川千雨は自身の選択を大いに後悔していた。少女を拾ったことに対するものではない。絡繰茶々丸だけを働かせるのは申し訳ないと自分も申し出たその選択にである。

 

「ほら、千雨。三番卓に持って行きな!」

「はぃいいいいいい!」

 

 権限を持っていたクママチーフの紹介で闘技場に併設された飯所で働くことになったのは別にいい。だが、まさかここまでこき使われるとは思っていなかった。

 

「次は五番卓だよ。間違えないようにね! その後は四番卓を片付けな!」

「はい!」

 

 返事ははっきりと聞こえるように。最初にした時に耳が蛸になるぐらいに聞かされた注意を二度も受けるのが嫌で、しっかりと返事をしながら与えられた指示通りに行動する。

 カウンターに乗せられた料理をお盆に乗せて五番卓に配膳して、その帰りに食事を終えて会計を済ませている四番卓の食器を片付ける。飯所なのだから基本は慌てず騒がず、しかし迅速に行われければ次の客が席に座れない。となれば回転率が悪くなり、業績に響くと脅しをかけられている。

 

「初歩の初歩の魔法も使えないんだい。お荷物だと思われたくないんならその分だけ動きな」

 

 食器を片付けて戻ると、疲れを見せる千雨にクママチーフが忠告のように告げて自分の仕事に戻っていく。

 こちらの世界ではガスで火を点けるのではなく、魔法で簡単に同じことが出来る。逆にいえば日常の中で多くの魔法が取り入れられており、全くの無能力な千雨では躓くことが多い。魔法が使えない自分の食い扶持だけでも稼ごうと思えば、クママチーフの言うようにその分だけ働くしかない。

 

「ただいま戻りました」

 

 五十席はある飯所を、案内・注文・配膳・片付けまでを千雨他数人で回していると、買い出しを頼まれていた茶々丸が戻って来た。

 

「おお、戻ったかい茶々丸。買い出しご苦労だったね。厨房に持って行ったらアンタもホールに出ておくれ」

「了解です」

 

 魔法世界の通貨に精通していないので金勘定が出来ず料理も上手くはない千雨と比べ、茶々丸はオールマイティな能力を発揮して重宝されている。ロボットなので力もあり、給仕も料理もプロ級ということもあって随分と頼りにされていた。

 一人で何人分もこなしているので、魔法が使えなくても茶々丸に対してクママチーフは千雨ほどには物を言わない。

 茶々丸は外に出ていたのでパッと同僚に魔法をかけてもらって全身を綺麗にすると、ホールの状態を一通り見渡して自分で判断すると動き出す。

 

「千雨も茶々丸を見習いな」

 

 新入りなのに出来るオーラを発して率先して給仕する彼女の姿に満足そうな笑みを浮かべたクママチーフが千雨にそう言うが、断言しても良いが自分はああはなれないと千雨は思う。

 とはいえ、口に出している余裕はなく、黙々と言われた通りに目の前の仕事を片付けていくことしか出来ない。

 朝から数時間休む暇も無く働き続けていると、一番客の多かった昼飯時が終わって客が減り始めた。

 

「客も引けてきたし、千雨と茶々丸は一端休憩しな」

「分かりました」

「はい」

 

 昼食の書き入れ時を終えて、夕食の書き入れ時までの少し間ならば自分達だけで持たせられると判断したクママチーフの命令に素直に頷いた二人は店の裏手に回る。

 

「はぁ~、疲れたぁ」

 

 昨夜もそうだったが、今日も一段と疲れたとまだ終わっていないのに既に疲労困憊の千雨は、置かれていた木の箱に座りながら肩を落とす。

 

「お疲れさまです。どうぞ、お水です」

「サンキュー」

 

 千雨の二倍以上は動いている茶々丸からコップに入ったキンキンに冷えた水を礼を言いながら受け取り、一気に喉の奥へと流し込んでいく。

 

「くぁ~、上手ぇ」

 

 魔法で作った氷で冷やされた水は、魔法世界に来たばかりの時に呑んだ最初の水と同じく物凄く美味かった。

 魔法世界に来て常識が壊されることばかりだったが、旧世界では当たり前だった文明の利器の便利さや水の当たり前の安全の貴重さといった、普段ならば気にもならないことが大切なのだと気づかされるばかりだ。

 

「まさかこの年で働かせられることになるとはな」

 

 カランコロンと残った氷が入ったコップをユラユラと揺らしつつ、千雨はまだ当分は先になるはずであった働く大変さを身を以て思い知っていた。

 働いて銭を得るというのがどれほど苦しく辛く、今まで両親が飢えを感じさせることも無く育ててくれたことを深く感謝した。旧世界に戻れれば親孝行をしようと心に決めていたりもする。

 

「シェリーはどうだったんだ?」

 

 ふと買い出しのついでに拾った少女――――自身の名前も覚えていなかったのでシェリーと名付けた――――の様子を見に寝床に帰った茶々丸に問いかける。

 

「大人しくしていましたよ。私が出た時には昼食を食べて寝ていました」

「飯食って昼寝たぁ、良いご身分だ事で」

 

 飯所にハクを同行させるわけにもいかないので一緒に残したはずなので、今頃一人と一匹で夢の中なのか。千雨だって勝手にご飯が出て来て腹が膨れたら寝てもいいなら甘えたいものである。

 

「それとアスカさんのことなんですが」

「!? なにか分かったのか?」

 

 幼い頃に遅くに仕事から帰って来た父親が寝ている自分を見た時もこんな感じに思っていたのだろうかと千雨が考えていると、茶々丸が思いついたように口にしたアスカのことに敏感に反応する。

 本人としては落ち着いているつもりだろうが、茶々丸には隠している本心が丸分かりの顔と態度であった。

 

「釈放はされたみたいなんですが、何故か闘技場に向かったそうで」

 

 これはまた厄介事か、と最早慣れさせられてしまった嫌な予感が千雨に直感させた。

 どうにもアスカは騒動の渦に巻き込まれる定めがあると千雨にも分かってきて、今回捕まったことも何故か闘技場に向かったことも厄介事の前触れであるような気がして気が気ではなかった。

 はぁ~、と千雨が長い溜息を漏らすと茶々丸も察してくれて、暫しの間だけ二人の間には沈黙が下りて通りの向こうからの喧騒だけが耳に届く。

 

「お~い、茶々丸」

 

 沈黙を破ったのは店の内側から開いたドアで、隙間からクママチーフが顔を覗かせて茶々丸を見る。

 

「休憩のところ悪いんだけど厨房のヘルプに入ってくれないかい? 領主様から急遽予約が入っちまって人手が足りないんだよ。店長が給金に色付けるからってさ」

「分かりました、直ぐに行きます」

 

 では、と茶々丸が千雨に頭を下げて店内へと戻っていったので一人になるかと思ったが、クママチーフが何故か茶々丸と入れ替わりに外に出て来て千雨の隣の木の箱に座った。

 千雨が疑問符を浮かべているとクママチーフは手に持っている果実が乗った小さな平皿を差し出した。

 

「私も休憩なんだよ。ほれ、食べな」

「あ、どうも」

 

 動いていたのでお腹は空いている。勧められるがままに果実を一つ取って口に運ぶと、ジンワリとした甘みが広がって頬が落ちそうだ。

 疲れた体に果実の甘みが染み渡って来て、何個か貰って食べている千雨をクママチーフがジッと見つめていた。そのことに遅まきながらも気が付いて姿勢を正すと、「怒ってるとかじゃないよ」とクママチーフは首を振った。

 

「すまないね。本当ならもう少ししっかりと教えてあげたいんだけどこっちも忙しくて、つい厳しくし過ぎちまう」

「いえ、そんな。食事だけじゃなくて寝床まで用意してもらったのに文句なんて言いませんよ。現に私は茶々丸よりも使えませんし」

「あの子が出来過ぎるんだよ」

 

 悪い印象を抱かれないように無難な言葉で返すと若干の苦笑を滲ませたクママチーフも果実を口に運ぶ。

 どう見てもクマのヌイグルミが動いて喋っているようにしか見えず、相変わらず慣れないのだが苦笑を滲ませたり果実の甘さに頬を緩ませている表情はとても人間っぽい。こうして傍にいると存在感もあって、確かに生きていると確信を抱かせるに足る材料も多い。

 

「アタシも雇われの身だからね。出来ない奴を抱え込むなんてこたぁ出来るはずもない。言ったことは本心だけどアンタは良くやってるよ」

 

 そう言われると全身を支配する疲労感も心地良く感じるのだから不思議だ。どうにも慣れない感覚に全身をもぞつかせていると、通りの向こうから誰かが喧嘩をしているような声がする。

 

「この声、またアイツらかい。懲りないねぇ」

「アイツら?」

「亜人迫害主義者――――連合の軍人崩れだよ。千雨は人間だから問題はないけど、アタシら亜人にとっちゃいい迷惑だよ」

 

 声で判断できるほどに何回も問題を起こしている奴らが近くにいるというのは千雨の精神衛生上良くない。

 千雨自身は亜人に偏見も持っていない。ファンタジーな世界観に目が眩みもするが、こうやって隣り合って会話を交わせる相手を迫害しようとする気持ちは正直良く分からない。

 生まれ育った日本が法律で平等を謳う稀有な国で相手を対等に見ようとする土壌があったればこそであるが、千雨としては生まれや育ちで相手を差別するのはあまり気分がよくならない。

 

「どこもこんな感じなんですか?」

「ん? ああ、そういやアンタ達は旧世界出身なんだったけ。それじゃ知らないのも無理はないか」

 

 そう言ってクママチーフは通りの向こうに目を向ける。同じように千雨も視線を追ったが、通りの向こうでは騒動も収まったらしく誰かが行き交いしているだけで別におかしいところはない。

 

「二十年前の戦争のことは知ってるかい?」

「人伝ではありますけど、一応は」

「じゃあ、詳細は端折るよ」

 

 そう言ってクママチーフは手に持っていた果実を空中に投げて行儀悪く大口を開けて落ちて来たのを食べる。

 

「南北大分裂戦争――――要は二十前の戦争はそりゃ酷いもんだった。どこぞの村が焼き討ちにあったとか、報復で村が虐殺にあったとか、当事者として言うなら世界の終わりってのが明確にイメージできるぐらいにはみんな荒んでたね」

 

 千雨の世界――――旧世界において、生まれ育った日本はもう五十年以上戦争をしていない。祖父母世代の戦争の話を好んで聞く性格でもなかった千雨には伝聞でしか知らない戦争の体験をしたクママチーフは遠い目をしながら語る。

 

「お国の為、自分達の種族の為、みんな兵士になって戦争をしてたよ」

「でも、終わったんですよね。えと、英雄のお蔭で」

「まあね。でも戦争の決着は結局曖昧なままだったんだよ。悪いのは全部戦争を引き起こして戦禍を拡大させた完全なる世界とその関係者ってね。種族間の問題は何も解決しちゃいないんだ」

 

 物語ならば英雄が世界を救って「めでたし、めでたし」で終わっても、現実ではその後にも世界は続いていく。戦争は終わって全ての問題が丸く収まったわけではない。どちらが勝ったわけでもない以上、戦争の中で生まれた恨みと屈辱、憎しみと差別の火種は燻ったままだ。

 

「軍人の方が互いに対して、どれだけあくどいことをやっていたかを良く知ってるから差別主義者になりやすいんだよ。恨み骨髄ってやつだ。これは軍人に限った話じゃないけどね」

 

 メガロメセブリア連合とヘラス帝国。大戦が終わった今でも、二つの巨大国家は表面上では仲良く手を繋いでも裏側では睨み合い、焼けつくような緊張状態を維持しているのだと告げ、僅かな自虐を覗かせたクママチーフに千雨が言えることはない。

 

「軍人ってのは戦時には多ければ多いほど良くても、終われば一変して仕事のない金暗い虫だ。徴兵されて兵士になった奴は、あっという間に切り捨てられる。帰る場所が残ってるやつはまだ良い。問題は、はいさよならってされても故郷が無くなっちまった奴さ。居場所を失くして仕事も無くて、中には奴隷にならざるをえなかった奴も多いだろうさ」 

「奴隷……」

 

 千雨の認識としては、奴隷など前時代的なものに過ぎないがこの魔法世界では未だに蔓延っているのだ。

 

「奴隷って言っても、正式な登録がされたやつは条約で過度な虐待や暴力から保護されてる。条約を破るほどの奴隷主は監視装置も兼ねた首輪で報告されて罰則を受けることになってんだ。自由は制限されるが、安全を不十分ながらも守っているのも事実だ」

 

 クママチーフは千雨の感じ方を少し否定しつつ、癖なのか首元を触る。

 そんな癖が出来るとしたら長いこと首に何かを巻いていた証。つまりは首輪かそれに類するような物で、そんな物を付けるとしたら先の話の流れから奴隷を連想するのは容易い。

 

「もしかしてクママチーフも奴隷に?」

「…………昔の話さ」

 

 それ以上のことは語らず口を開かず、無神経な質問をしたと口を噤んだ千雨も踏み込んで聞くほどの勇気もなかったから二人の間に沈黙が下りる。先に口を開いたのはクママチーフの方だった。

 

「辺境ならともかく、帝国と連合の幅を利かせて勢力圏じゃ、人間か亜人の自分の種族の至上主義か横行していても珍しくない。この都市は良いところさ。両国の狭間にありながら、どんな種族であろうと受け入れてくれる。他で居場所を失っちまった奴であってもね」

 

 僅かな笑みを浮かべたクママチーフの横顔を見ながら、千雨は今日の客の顔ぶれを思い出していた。人間も亜人も、中には悪魔まで平然と客として来店する。彼らの間に隔意は感じられず、席を共にして和気藹々と食事をしていた。

 

「何の因果か、亜人を受け入れられないって奴がこの街に集まってきちまってるんだよ。多分、奴らも今までいた場所を追われたんだろうね」

 

 誰もが心に傷を負っていて、ただ自分の居場所で健やかに過ごしたいだけなのにどうしてこんなにもすれ違ってしまうのかと、千雨は胸に込み上げる悲しさで一杯だった。

 千雨の泣きそうな顔を見たクママチーフは困った顔をして頭を掻いた。

 

「まあ要は人間のアンタには危険はないだろうけど、女の子なんだから一応は気をつけなって話さ」

 

 涙を見せないように顔を下げた千雨の頭をポンポンと肉球のついた手で撫でるように叩くと、よいしょとおばさん臭い言い方で立ち上がった。

 

「休憩はおしまいだ。闘技場で急に試合が組まれたって話だし、直に野郎共が飯を食いに来るだろうから戦場になるよ。覚悟はいいかい?」 

「……はい!」

 

 ゴシゴシと浮かんだ涙を拭い、元気よく返事をするとクママチーフはニカリと笑って「良い返事だ」と言いながら千雨の背中をバシンと叩いた。

 この後も頑張ろうと気合を入れてもらったところで、通路の向こうから随分と大きな数人の男の声がした。

 

「だから~! お前、頭おかしいって」

「おかしくねぇよ。出来るからやるっつってるだけだ」

「それがおかしいって言ってんだよ。お前が強いのはまあ、分かった。バルガスの兄貴が手も足も出なかったんだから認めてやる。でも、一日に五戦するなんざ、体が持つわけねぇだろう」

「それだけのペースで試合しねぇと大会の規定数に届かないって言ったのはトサカじゃねかよ」

「言ったけどよ。普通は一戦すれば最低でも三日は休むものなんだ。折角の代表なんだからもっと堅実的に行こうぜ」

「一々何戦もするのは面倒くさいから十人纏めて()らね?」

「ひ・と・の・は・な・し・を・き・け・よ!!」

 

 どうにも一人がもう一人の無茶を止めようとして言い合いになっているようだ。そしてその片方の声には千雨は物凄く聞き覚えがある。

 丁度、通路の前を通りかかった集団の中に聞き覚えのある声の主を見つけて、思わず「アスカ!」と大きな声で名前を叫んでいた。

 

「あ、千雨じゃん。昨日振り」

 

 声に気付いて通路の先にいる千雨を見つけて片手を上げたアスカに向かって、千雨はヒラヒラの給仕服のまま走った。

 走って走って、十分な助走の距離を走ってアスカに向けて一メートルちょっとのところで踏み切って飛んだ。振り上げた蹴りを再会を祝福する顔へと叩き込む。

 

「軽いわ!」

 

 言いながら蹴った千雨の振り上げた足の間にあるピンクの生地はしっかりとトサカの目に焼き付いたそうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 どこかの空き倉庫のように開いた空間の室内に多くの男達が集まっていた。遂にいざという時が来たのだ。結果がどうであれ、これがなにかの始まりになるという予感は全員に強く働いていた。

 

「――――武装は揃ったか?」

 

 大型冷蔵庫めいた巨漢であるブラットの声が静かに暗闇の中へと響き渡った。

 

「抜かりなく。全員の鎧と盾、武器も行き渡っています」

「よし」

 

 返って来た返答に頷いたブラットの目には、暗闇の中にいる居場所を失くした者達のギラついた眼差しを見つめて瞼を落とした。

 

「二十年前に戦争は終わったと、政治家共は言いやがる」

 

 言いながらも、今も瞼の裏に焼き付いているのは戦争の光景だ。

 

「確かに奴らにとっては終わったのかもしれない。あれ以来、大規模な抗争がないのは事実だ」

 

 血の臭いも、硝煙も、人々の嘆きも、慟哭も、油の臭いも、全てが大戦の時のまま。どの場所も、死と悲しみと怒りとで満ちていた。殺し殺させ、奪い奪われ、憎しみが憎しみを呼んで悪循環となり、永遠に終わらないと思われたまま戦争は英雄が呆気なく終わらせた。

 実際には英雄にも自分達のような一兵士には理解できない苦労があったのだろうが、きっと理解することは永遠に来ないだろう。

 

「戦争が終わってどうだ、何かが変わったか? いいや、何も変わっちゃいない。なら、俺達は何の為に戦ったんだ。何の為に」

 

 善人も悪人も、若人と老人も、男も女も関係なく、理不尽に死は襲い掛かる。戦のあるところに付き纏う、ただの宿命だった。

 馬鹿でも分かっていたから、それでも失わない為に戦場に身を投じたのだ。国を、民を、友を、家族を、愛しき人達を守る為に。

 

「俺達は戦争で何もかも失って、居場所を失くしたゴロツキだ」

 

 実際、戦争が終わってみたらどうだ。戦争が終われば多くの兵隊は用済みとなる。それでも自分の居場所へ帰れるならと雀の涙程度の退職金を手に帰郷してみれば、あったのは焼き尽くされて何もなくなった焼野原だけだ。

 失意に暮れても生きていく為には身銭を稼がなければならない。だけど、戦争直後は職なんて殆どなくて腕に自信のあった者はまだ良い。中には奴隷に身を窶した者も多い。

 

「時は満ちた」

 

 護るべき者も、掲げるべき信念もないままに彼らは立ち上がる。

 

「俺達の戦争を終わらせるぞ」

 

 平和は盤石ではないと教えてやるのだ。一つ切っ掛けがあれば、二十年に過ぎない平和など簡単に覆ってしまうのだと。

 

「敗れ去り、忘れ去られていった者達よ。さぁ、亜人共に恐怖を刻み直してやろう。戦争はまだ終わっていないのだと教えてやるんだ」

 

 自分達の戦争を終わらせる為に、と最後は祈るような切実さを漂わせ、ブラットは口を閉じた。

 しんと静まり返った部屋に、それぞれの中に反響した言葉を受け止め、咀嚼する一同の沈黙が降り積もってゆく。

 

「やりましょう」

「やってやるぜ。亜人の奴らからこの地を奪い返すんだ!」

 

 そう言ったのはキンブリーか、シスハーンか、ドドロケか、それとも他の誰かであったか。

 最早、誰が言ったかは問題ではない。ブラットから発した熱は伝えられ、最初の想いがどうであったかなど関係はないのだ。

 彼らはもう、ただ死んでいないだけで生きてはいない。正しく亡霊のような存在だ。

 

「ここは俺がいた場所だ。返してもらうぞ」

 

 大戦の後も彷徨っていた亡霊が今動き出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 地平線を縁取る簡素な石造りの建物が並び、木の葉と分かる緑が陽光に降り注ぐ。

 従者の案内で屋敷らしき建物に通され、とある一室に足を踏み入れたネギ・スプリングフィールドは、窓から降り注ぐさんざめく光の中で屋敷の主と対面する。

 

「ようこそ、ネギ・スプリングフィールド君。歓迎しましょう」

 

 部屋の奥には動物か魔物かの毛皮を前にした立派な執務机が設置されている。その手前には広く重厚なテーブルが置かれ、対面する形でソファが二対置かれていた。

 窓の向こうに広がる青空を背に、仕立てのよさそうな服を着た亜人の女が両腕を広げる。

 

「ネギ・スプリングフィールドです。この度は貴重な魔法薬を分けて頂き、ありがとうございました」

 

 ネギは殆ど何も考えないで前へ進み、求められた通りに応じる。握手を交わし、口元だけを笑みの形に緩めた亜人の女の目は油断のならない光が灯り続けている。飢えた獣が目の前にいるような錯覚を覚えた。とはいえ、商人ともなればそうなってしまうのも無理はないのかもしれないと、ネギは周りにそういうタイプの人がいないので自分を納得させることにした。

 ネギとのどかはドルゴネスの一団に助けられ、お礼を言いたいと申し出た身。魔法世界でも通用するかも分からなかったが頭を下げて礼を言った。

 

「なに、困った時はお互い様だ。おっと、遠路遥々旧世界から来てくれた客人を立たせるわけにはいかないな。座って話すとしよう」

 

 勧められてソファに腰を下ろしたネギの対面に亜人の女が座る。

 

「旧世界から輸入した豆でコーヒーを準備させたのだけれど、聞けば出身は英国との話。紅茶の方が良かったかな?」

「いえ、そんな…………僕はコーヒーも好きですので。お手間をかけさせてしまい、申し訳ないです」

「なら、良かった」

 

 ここまでネギを案内してくれた従者が持ってきたコップにコーヒーを注ぎ、ネギに差し出す。対面のソファに座った亜人の女のグラスには酒が入っているのは微かな酒気が鼻に届いて分かった。

 ネギがカップを手に取って最初に口を付けるのを待ってから、亜人の女もカップを傾ける。

 互いに一口飲んで口を湿らせてから先に口火を開いたのは亜人の女。そのソファの後ろにコーヒーを入れてくれた従者が影のように控えている。

 

「部下から聞いていると思うが自己紹介をしておこう。私の名はドルゴネス。見ての通り、しがない商人だ」

 

 最後の辺りが遜った文言ではあるが、ネギ達を助けてくれて部下であるという魔法使いの話では、幾つかの闘技場を経営して多角的な商品の売買を行っている世界トップクラスの商人と聞いていたので、思ったより若いなというのが第一印象だった。

 メルディアナ魔法学校や麻帆良学園都市のトップに収まる者達から考えて、世界トップクラスの商人ともなれば六十代以上を想像していた。よく思い返してみれば関西呪術協会の長である近衛詠春が四十代であったことを考えれば、目の前にいる亜人の女のように今が働き盛りと言える年代の方が相応しいのかもしれない。

 顔の皺や単純な見た目の要素から判断するに四十代後半といったところか。人によっては三十代と言っても通用する若さを備えている。目の所為だ、とネギは思った。日焼けか地かは分からないが褐色の肌に輝く一対のギラリとした目、鋭いという言い方では足りない冷たい瞳が年齢よりも若く見せている。

 

「聞いた話ではゲートポートでの事件に巻き込まれ、強制転移で仲間とバラバラになってしまい、二日もあの大砂漠を彷徨うことになるとは災難なことだ。あの事件は今でも犯人は分かっていないとか。随分と苦労したようだ」

 

 助けられた後に分かったことだが、ネギ達がいたのは北のメセンブリーナ連合の外れ、テンペルラとタンタルスとの間にある大砂漠を彷徨っていたらしい。そこをメセンブリーナ連合で商いを終えてタンタルスに向かっていた商団に遭遇できたことは限界だったネギ達にとっては実に幸運な出来事だった。

 商団に発見された時、のどかの状態は命に関わるものであったらしいと回復した後でネギは聞かされた。

 魔力酔いと転移酔いを併発して体調不良になっていたのに、砂漠にいて二日も何も飲まず食わずだったから脱水症状に陥っていて更に体調不良に拍車がかかって一刻を争う状況であったと。

 ネギも魔力切れにのどか以上に脱水症状に陥っており、睡眠不足と極度の疲労も相まって同じように危険な状態であったらしい。

 

「回復できたようで何よりだ。相方の子の具合はどうかね?」

「眠っています。そちらの治癒術士さんの話では直に目を覚ますと。何から何までありがとうございます」

 

 カップを置いてソファの背凭れに身を預けたドルゴネスは足を組んで、その鋭利な光を放つ眼でネギを見つめる。

 

「私に任せて貰えれば、仲間の捜索も手伝うが……」

「いえ、そこまでお手を煩わせるわけにはいきません。命を助けて頂いただけで十分です」

 

 かなり高価な魔法薬で治癒したと聞かされ、更に仲間の捜索まで手伝ってもらうとなると、そこまでお世話になりすぎるのは流石に良心が咎める。

 

「そうか…………こうして実際に会い、話をした中で君を信頼に足る人物であると信じることは出来る。が、私も商人でね。信頼だけで失った商品の代金の埋め合わせをするわけにはいかない。善意で提供することは出来ないのだよ」

 

 要は二人が飲んでしまった薬の代金を支払って欲しいのだと解釈したネギは膝の上に置いた手をギュッと握る。

 

「頂いた薬の代金は必ずお返しします。今は手持ちがありませんが、賞金稼ぎでもなんでもして必ずお返しします…………あの、ところで僕達に使われた薬のお値段は幾らぐらいに?」

「君達の治療に使った薬の名は『イクシール』。魔法世界で最高級の薬だ。一瓶百万ドラグマを二瓶使ったのだから合計二百万ドラグマになるな」

「二百万ドラグマ!?」

 

 自分達に使われた薬の代金のあまりの高さにネギは一瞬聞き間違えたかと自分の耳を疑った。

 

「高いと思うかもしれないが相場では真っ当な値段だよ」

 

 ネギの驚きを当たり前の事実として受け止めたドルゴネスは艶然と微笑んだまま足を組みかえる。

 

「不当、とは言わないでくれよ。連合で商いを終えた後だから殆ど商品も残っていなくて、君達を助けるにはイクシールを使うしかなかった。望むならば当時の商品の目録を見せても構わない」

「疑っているわけでは……」

 

 当時の目録を見せても構わないと言うぐらいだから、本当にネギ達を助けるにはイクシールを使うしかなかったのだろう。

 五万ドラグマもあれば魔法世界一周が出来ると言われている中で四十倍のドラグマが必要だと言われれば現実を認めたくなくなるのが普通で、二十年は遊んで暮らせるほどの大金を稼ぐには滞在期間である一ヶ月ではとても無理だ。

 その考えもあくまでネギ達の都合だって、商人であるドルゴネスからすれば使った商品の代金は耳を揃えて返してもらわねばならない。

 

「二百万ドラグマ、それだけの損失を出せば商会で何人の首を切らねばならないか。商会には家族を持つ者も多い。職を失えば何人も路頭に迷うことになる」

 

 ネギのこれからの行動次第で何人もの人生が左右されるのだと言外に滲ませる。突如として降りかかった他人の人生の重みにネギは閉じ合わせた唇を僅かに蠢かした。

 与えられた情報を咀嚼するための時間であり、それでいて何一つ決意させない、決意させる余裕のない最初から計算され尽くした時間のようにネギには思えた。

 ドルゴネスはネギの様子に気付く素振りもなく、続きを口にする。

 

「はっきりさせよう、ネギ君。君は二百万ドラグマを支払えるかな?」

 

 即座に返せる金額ではないとドルゴネスも分かっているはずのなのに、敢えてそう聞いてくることにネギは目の前の人物から化けの皮が外れていくような気がした。

 

「賞金稼ぎでもなんでもして、必ず払います」

 

 例え滞在期間を伸びようとも、やはり命に代えられないとなればネギには支払う義務が生じる。

 

「保証は?」

「え?」

「払ってくれる保証は、と聞いている」

 

 保証は、と聞かれてもネギには確約できるものを何一つ持っていない。それこそ、この身一つしかないネギが大金を払える保証を確約できるはずもない。

 答えられないネギの対面で嘆息したドルゴネスは薄く微笑んだ。

 

「私は商人だ。確たる返済の保証がなければ、君を告訴しなければならなくなる」

「告訴って、そんな!?」

「君ならば会ったばかりの者が二百万ドラグマもの大金を必ず支払ってくれると何の保証も無く信じられるかい?」

 

 告訴という事態にネギの顔色がハッキリと変わった。続けるドルゴネスは、ネギの反応を予め見越していた顔だった。

 あくまで穏やかな声が、真綿の感触をもって心身を縛り付けてゆく。この世に人を誑かす悪魔がいるとしたら、こんな声で囁くのかもしれない。不気味なまでに静かな黄土色の眼に射竦められ、返す言葉のない唇を噛み締めたネギには言葉を聞くことしか出来ない。

 

「とはいえ、私もそこまでのことはしたくない。君を信じているからね」

 

 事実を受け止め、理解させるのに十分な間を置いて、ドルゴネスが改まって声を付け足す。それも計算ずくの声であったが、ネギは伏せた顔を上げられなかった。

 

「だが、だからといって、返済の保証が出来ない相手を自由にさせることもまた出来ない。君と私の間ではまだそれだけの絆はない。それは分かっているね?」

 

 早口でありながら、述懐する重みを持った声が鼓膜をわんわんと震わせる。その通りだと認めるしかないネギは頷きつつ、苦い唾を飲み下して這い上がる吐き気を堪えた。

 

「僕が必ず返済できる保証が欲しい。そういうことですか?」

「正解だ」

 

 良く出来ました、と胸の前で手を合わせてパンと鳴らしたドルゴネスは出来の悪い生徒を見るようにネギを目踏みするように見下ろし、懐から一枚の紙を取り出して机に滑らせる。

 

「私が用意できる保証がこれだ」

 

 嫌な予感がして手に取りたくはなかったが状況が許してくれない。震える指先で紙の先を摘まんで目の前に広げて読むと、そこには魔法世界の言語で『奴隷契約書』と記されている。

 

「奴隷契約書!?」

「世間では死の首輪法等と言われているものだ。旧世界では前時代的であっても国際法上で制定された立派な条約だよ」

 

 正式名称『ニャンドマ条約』。災厄の女王が自らの国を滅ぼした後に推進した奴隷を公認する条約である。オスティアの大地が落ちた後に難民となった国民達の当座の生活基盤を作る為の苦渋の決断だったと解る。

 ネギが知らないはずもない。魔法学校の教科書にも悪名で載っていた己を生んだ母の顔が脳裏にちらつき、ネギは笑っているともつかない肩を微かに上下させた。

 

「一つ言い忘れていたが、私は奴隷商でもある。この程度を用意するのは容易い事だよ」

 

 枯れた大樹を、ネギは思った。既に枯れ果てた大樹が、それでも養分を吸い上げ、根を張った土地さえも腐らせようとしている、そんな図を想像した。

 

「…………あなたはっ!」

 

 言葉ではなく、絶対に相容れないなにかが風圧となり、体面にいるエギの体を揺れさせた。

 

「この制度は確かに個人の自由を奪う物だが、建前上とは言え所有者には奴隷の保護義務も発生し、奴隷契約を解くための必要な資金を都合できれば解放される」

「…………二百万ドラグマを払うまであなたの奴隷になれと?」

「返す気があるのなら構わないだろ? 別に相方の子でも私は構わないが」

 

 かっと頭に血が上ったものの、直ぐには何を言われたのかも分からない衝撃が心身を痺れさせて処理しきれない憤怒が口元を歪ませる。

 

「さあ、ネギ君。お返事は?」

 

 死刑宣告にも似た言葉を耳にしながらネギは唇を噛み締める。その途端、口内に鉄の味が広がった。

 ドルゴネスには悪意は欠片もない。ただ利用価値があるから利用する。生粋の商売人と言えばそれまでだが、利用される当人としては虫唾が走るのを押えられない。あまりの身勝手さに吐き気すら覚えるほどだ。

 だがそれでも、ネギとのどかが助かったのは彼ら商人のお蔭なのだ。助けられた者が助けた者に不平を言う資格などない。助けた対価を望まれ、払うのを拒むのならば命を差し出さねば釣り合わない。

 

(僕らは魔法世界に来るべきじゃなかった)

 

 ネギは静かに閉じていた瞼を開くと、覚悟を決めて頷いた。

 

「…………判りました」

「では、サインを」

 

 狡猾なまでに鋭いドルゴネスの双眸が閃き、人差し指がぐいと曲る。魔女の呪いの如く不吉に、猛毒の鉤爪の如く凶悪に奴隷契約書を指差してサインを求める。

 膝についた両手を握り合わせたきり、ネギはなにも言えなかった。何も言えないまま、何も考えないまま、サインをしてしまうのは驚くほど呆気なく終わった。

 

「確かに」

 

 サインがされた奴隷契約書を自分の下へ引き寄せ、確認したドルゴネスは背後にいた従者に渡す。

 奴隷契約書を受け取った従者は口の中で何かを呟くと、その姿が一瞬で消えてなくなる。

 

「どこへ?」

「ここ、グラニクスの移民管理局。奴隷契約の書類を提出しに行ったのさ」

 

 僅か数節の詠唱だけで転移魔法を行える優れた魔法使いに瞑目したネギの疑問に答えつつ、ドルゴネスは一片の感情も示さずに言い放った目が本来の魔性を取り戻し、揺らがぬ光を放つ。

 ドルゴネスがグラスを手に取って口元に持って行き、傾けて喉の奥に飲み物を流し込んだぐらいの僅かな短い時間で従者は戻って来た、その手に首輪と水晶球を持って。

 首輪と錠を従者から受け取ったドルゴネスが何かを呟くと、床に魔法陣が浮かび上がる。

 部屋全体を埋め尽くすほど魔法陣の範囲は広く、ネギの目と感覚には自分と首輪が引き寄せられていることを感じ取った。

 

「さあ、立つんだネギ君。我が奴隷よ」

 

 既に奴隷契約は成っており、主であるドネットの命令に対してネギに拒否権はない。

 先に立ち上がったドルゴネスに習ってネギもソファから立ち上がると、視界の中では何重にも魔法陣が複合していく。首輪が一人でにドルゴネスの手から浮かび上がって、どんな魔法使いにも単身では外すことは不可能と言われている契約が交わされ、一瞬の光の後にネギの首に装着される。

 首輪はピタリと肌に張り付いているが息苦しくはなく不快感も少ない。ネギがそんな感想を抱いている間に首輪に突如として出現した錠が通され、鍵穴から鍵が生み出されて一瞬でまた消える。

 光はやがて輝きを失っていき、残ったのは首輪を付けられたネギと主であるドルゴネスと従者の三人だけ。

 

「契約事項が果たされれば再び鍵は現れるだろう。さて、これで君は私の奴隷になったわけだ」

 

 契約を見届けて満足げな笑みを浮かべていたドルゴネスが、ソファから離れて壁一面の窓に歩み寄る。

 

「それでは始めよう、ファウロ」

 

 何を始めるのかと訝しんだネギに背を向け、ドルゴネスは壁一杯に取られた窓の外に夜を間近に控えた街の風景が広がっているのを眺める。

 林立する建物の影が大地に黒々としたシマを描き出し、その彼方にゆっくりと沈んでいく夕陽は、旧世界よりも澄んだ大気の向こうで微かな陽炎に揺らめいていた。

 

「イガ・イラッハ・イ・ラハップ・イラックル 醒め現れよ、底に這いづる闇蜥蜴、鎖を以てして敵を覆わん 闇鎖の捕らえ手」

 

 何を始めるのかとネギが訝し気な目を向けていると、ソファの後ろに立っていた従者――――ファウロが詠唱をしつつ、左手を水平に上げて呟いて指を鳴らす。

 

「――――なにをっ!?」

 

 避ける暇などなかった。ネギの足下に橙色の魔法陣が浮かび上がり、円に内接する六芒星の頂点から魔力で作られた鎖が飛び出し、両腕、両足に絡みついて動きを封じる――――この一連の出来事が指を鳴らした音が消えるより前に起こった。

 星の頂点から一本ずつなんてものではない。一つの頂点から何十本という鎖が跳ね上がり、魔力で編まれた鎖が四肢に取り憑いて螺旋状にネギを包み、体を瞬く間に雁字搦めにして隙間なくビッシリと覆い尽くしていく。

 五秒を数える頃には、ネギがいた場所には人型をした鎖の塊がいた。呼吸をする鼻と口の部分だけが露出しているのはファウロのせめてもの情けか。

 ネギは緑色の魔力光を光らせて、身体強化を施してなんとか鎖を振りほどこうとするも、ファウロが指を鳴らした後に開いた掌をグッと握り締めると、鎖がギリギリと食い込んでネギの体が苦悶に折れ曲る。

 

「資格を問わせておくれ、小さな魔法使い。君に私の求めるものがあるかどうか」

 

 安全圏に退避しているドルゴネスは苦悶するネギを見て陶酔した吐息を漏らす。

 まるで罠に落ちた獲物を見つめる狩人のようだった。イブに禁断の実を食べさせた蛇もこんなに風に笑っただろうか。

 

「ぁぁっ――」

 

 露出したネギの口から苦しげな呻きが漏れる。鎖の塊の内部から緑色の粒子が魔法陣に向かって流れていく。六芒星の頂点から魔法陣全体に広がっていく緑色の粒子は、やがて橙色の輝きに変換されて鎖の強度を上げていく。

 ネギがもがけばもがくほど緑色の粒子が増えていく。

 

「ふふ、吸い出して変換した君の魔力を使って強化した鎖だ。破れはしない」

 

 鎖を現出させ続けるファウロのことを良く知っているドルゴネスが囚われの身になったネギを嘲笑う。

 他人の魔力を吸い出して自らの魔法を強化する技術は、並みの魔法使いで出来ることではない。伝説や英雄クラスではなくても、ファウロもまた一流の魔法使いと呼ばれるに値するだけの力があった。

 

「君に恨みはないが、これも必要な事だ。許してくれ」

 

 ドルゴネスは瞳の奥を凍らせて表情だけは申し訳なさそうな体裁をとりながら心底愉快そうに言って、ファウロは更にグッと拳を握り締める。鎖に包まれたネギからは苦しげな叫びが漏れた。

 

「ああああぁぁっ――――!!」

「――!?」

 

 ネギの魔力が爆発的に膨れ上がる。鎖の内部から迸る緑色の閃光が部屋を染め上げ、ファウロが更に拘束を強めようとするが既に遅かった。落雷のような音を立てて、ブチブチと鎖が千切れていく。

 内部から腕が見え、足が見えてくる。最後に右手で顔を、左手で胴体に巻き付いている鎖を引き千切った。六芒星の魔法陣は消え、千切れ飛んだ鎖は床に落ちる前に橙色の粒子を僅かに残して最初から存在しなかったように霧散する。

 

「――っ!」

 

 ネギに向けて拳を握っていたファウロの左腕がハンマーで叩かれたように真横に弾かれる。操っていた魔法を強制的に破られた反動で、左腕は風船が破裂したように内側から爆発した。骨は辛うじて繋がっているが裂けた肉の隙間から見え、千切れた筋肉や神経が剥き出しになっている。

 

「ファウロが全魔力を使い、ネギ君の魔力も使ったというのに力尽くで破るとは…………なんと凄まじい潜在能力。私の目に狂いはなかった」

 

 従者であるファウロがかなりの惨状であるのに、主であるドルゴネスは平然としている。それどころかファウロが負けた事実を喜んでいるようですらあった。

 ネギは魔力を集中させた足で地面を蹴り、自身を短時間とはいえ拘束した高位魔法使いであるファウロを打倒すべく距離を詰める。十m程度の部屋の中であれば三~七mを超高速で移動出来る瞬動術ならば、ほぼ部屋の真ん中にいるネギの射程範囲内に入る。

 その一足の踏み込みで、部屋の壁に近い場所にいた魔法使いまで一秒とかからずに距離を詰めることに成功する。

 

「――くっ!?」

 

 ガンッという壁を殴ったような音。放った掌底はファウロが最後の力を振り絞って瞬時にう展開した障壁に阻まれた。魔力光である橙色を薄めた半透明の障壁の向こうで、ファウロが口の端を釣り上げてニヤリと哂う。

 

「ちっ!」

 

 舌打ちをして障壁が壊れるまで何度でも拳を叩きつけようと、更に拳を振り上げたネギを見てファウロは哂いを深める。

 ネギは選択を間違えた。ファウロではなく、ドルゴネスを狙うべきだったのだ。

 

拘束(カプテット)、ネギ・スプリングフィールド」

 

 ドルゴネスが手に持っていた水晶球を手に、何事かを呟くと水晶球がバチッと紫電を発して光った。

 

「うぐっ……!? ああああああぁぁぁ!!」

 

 ネギは自らの報いを、体を襲う雷撃と衝撃で思い知らされる。

 体の芯にまで届く衝撃に立っていられなくなって床に蹲ると、ドルゴネスが壁から離れて歩み寄って来る。

 

「幾ら条約で過度な虐待や暴力から保護されているといっても奴隷は奴隷。主への反抗を許さない為にこのような道具も用意されている。とはいえ、痛いのは少しの間だけで、もう動けるでしょう」

「何のためにこんなことを……! 別に僕は反抗したりしてなかったのに」

 

 ただ上下関係をネギに刻み込む為だとしても反抗的な意思を見せていなかったのにここまでされる理由が分からず、まだ痺れる四肢に力を入れて立ち上がりながらドルゴネスを睨み付ける。

 

「言っただろう、君に私の求めるものがあるかどうかと。喜べ、少年。君は私の求めているものを確かに持っている」

 

 値踏みするような目がすっと柔らかくなり、微笑したドルゴネスが一歩距離を詰める。縮まった僅かな距離にネギは我知らず後退っていた。

 こういう笑い方をする大人は安心させておいて寝首を掻く。油断がならないと、本能的な直感で察知した恐怖に駆られ、女の動きに神経を集中させたネギは、「ネギ・スプリングフィールド。そう、君はスプリングフィールドなのだろ」と発した硬い声に虚を突かれた。

 

「スプリングフィールド――――二十年前に良く聞いた名だ。その名とその顔から察するにネギ君、君はサウザンドマスターの縁者ではないのかな」

 

 正面から浴びせられた問いかけではない断定する口調と表情は、他の考えを受け入れる余地のない声だった。ドロリとねばりつく声が鼓膜を苛み、得体の知れない感情が胸に食い込む。そう、分かっていたはずだった、とネギは今更の理解を噛みしめた。 

 だからこそ、ネギは答えることなく沈黙を選んだ。

 

「答えないか……まあ、いい」

 

 目下の者であるネギが無礼な態度を取ってもドルゴネスは気にした素振りを見せない。それどころか実に楽し気にしている。

 

「サウザンドマスターの縁者である君に協力してもらいたいことがある」

 

 一瞬前とは打って変わった事務的な声で言う。口調こそ軽いが、内容は恫喝そのものだ。

 

「私に君をプロデュースさせてくれたならば、二百万ドラグマを稼ぐことなど容易い。半月後のナギ・スプリングフィールド杯に出さえしてくれれば二百万ドラグマに届かなかろうと解放を約束しよう。契約書に追記してもいい」

 

 視線を動かさず、ドルゴネスは子供に言い聞かせる声を重ねた。

 

「入国管理局に知り合いがいてね。魔法世界への滞在期間はもう一月もないのだろう。君の大事な少女は私の手の中。選択肢はないと思うが?」

 

 流石に顔を上げ、ドルゴネスを睨み付けたネギは、直ぐに無言の目を床に落としていった。この女は姑息だ。自分の意見を押し通す為なら人の弱点に付け込むのにも躊躇がない。反感を新たにしたネギを尻目にドルゴネスは話を続ける。

 

「こちらの準備は整っている。後は君次第。私に協力してもらえないかな?」

 

 頷いてしまえ、とどこからともなく声が聞こえる。幻聴ではない。ネギの心の独白である。

 ドルゴネスはのどかを人質にとって脅迫している。今やネギの未来はドルゴネスの手中にあり、彼女はそれを完全に掌握している。ネギには屈して頷く以外の選択肢が残されていない。逆らう術などなく、従うより他なかった。

 

「のどかさんの安全を保障して下さい」

 

 そう言うしかネギに出来ることはなかった。この決断が、もう麻帆良学園都市に戻れないようになるのかもしれないという予感が、言ったネギの心の隙間に滑り込んだ。

 

「ようこそ、ネギ君。この世界は君を歓迎するよ」

 

 現実の裏に暗く深い渦が覗いているようだった。何もかもが薄ら寒かった。状況が手の内をすり抜けてゆくのを感じて、なにも出来ない拳を握り締めた。 

 

 

 

 

 




トサカ、バルガス、クママチーフがノアキスにいること。ドルゴネス関連は本作設定です。

カリンは『UQ HOLDER』の登場人物です。本作設定では数十年ぐらいエヴァンジェリンを探しています。




次回は『第67話 怒りの日』

更新は一週間以上後になるかと


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第67話 怒りの日






二ヶ月ぶりの更新で、あまり納得いかない出来上がりですが







 

 

 

 

 

 ブラットの世界が壊れたのは何時だっただろう。優しい光に満ちた幸福な日々が虚飾だと思い知らされたのは何時の事だっただろう。

 

(…………赤い)

 

 世界が赤い。ブラットの世界が赤く染まっている。夕暮れに似ていたが、到底そんなものではない。

 ブラットの目の前で赤く巨大な炎が膨れ上がり、まるで世界の終わりのように轟々と燃えていた。

 美しかった草原が、賑やかだった道が、自分が住んでいた家が見る影もなく焼け爛れ、跡形もなくこの世から消え去っていく。

 

(俺の世界が燃えている)

 

 ブラットは忘れられない光景を思い出す。

 こんな夢の中でも、未だにあの世界は燃えている。最前まであったはずの人の叫びも呻きも、もう耳に届かない。ひょっとしたら知り合いだったかもしれないものが禍々しく黒ずんで、ブラットが生まれて育った世界と共に燃え尽きる。

 ブラットにとって夢とは、無駄な感情を削り、無機質な情報へと変えて記憶庫に放り込む作業に過ぎなかった。だけど、夢は打ち捨ててしまった記憶に、唯一出会える場所でもあった。同時に何度も惨劇を思い起こさせる地獄のような時間でもある。

 

『いいかい、ブラット。夢について色々な仮説があるけど、記憶の整理の為というのは大体共通している。逆説的に言えば、人の記憶は夢まで使って整理しないといけないわけだ、分かるね』

 

 人が夢を見るのは起きている間に記憶を整理するためだと言われている、と学者で物知りの父は、子供の頃に悪夢に怯えた息子を前に何時も通りの世の中を斜に構えたような顔をしていた。

 その父もまた煉獄の炎に焼かれて無惨に死んだ。

 

『リアラ! 親父! お袋! みんな!』

 

 ずっと一緒に育ってきた幼馴染も、自分を育ててくれた両親も、生まれた頃から良く知る隣人も、家族とそう変わらない繋がりを持つ村人達も、誰もが等しく煉獄の中に没した。

 

『俺は、俺はこんな結末を迎える為に戦ったわけじゃない! なのに、何故、何故なんだ!』

 

 成人を迎えたばかりのブラットがメセンブリーナ連合の軍人となったのは村を護る為だ。

 ヘラス帝国とメセンブリーナ連合の境目に位置するブラットが生まれ育った村は何時戦禍に襲われてもおかしくない。大戦末期まで戦場に晒されなかったのは寧ろ奇跡に近い。

 戦争のご時世では転居するにはリスクが大きすぎて、しかしその場に留まるのも危険が伴う。だからこそ、ブラットは戦争が早期終結することを願って軍に志願したわけである。幼馴染にも、隣人にも、村人皆にも止められたがブラットの決意は固かった。

 それでも最後にはなけなしの金を集めて買ってくれた魔剣を選別として贈られた。今もその魔剣をブラットは今も愛用している。

 にも関わらず、この結末は何だ。

 村が戦禍に襲われたと聞いて、与えられた任務放棄してまで駆けつけてみればヘラス帝国側の奇襲によって既に滅んでいた。

 焼き討ちに遭い、生存者がいないと誰でも分かる。

 

『亜人が……!』

 

 任務放棄の罪で除隊は免れたが、最前線に配置されたブラットは戦い続ける。亜人を憎み続けて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ノアキスの外れにある空き倉庫には熱気が籠っていた。そこに集まった百を超える男達が発する熱が室内に滞留して、まるで気温が上がっているかのような錯覚さえ覚える。

 

「シスハーンの姿が見えんな」

 

 樽に腰かけて片膝を抱えていたブラットが部屋に篭る熱意に気付いた様子も見せずに言葉を漏らした。

 誰かに問いかけるというより思ったことをただ口にしただけのような言葉は、本来ならば誰に聞かれることもなく虚空へと消えていくだけだったが聞いていた者がいた。

 

「昔馴染みに会いに行くと言っていました」

 

 脇に控えて耳ざとくブラットの言葉を聞いていたキンブリーは答えた後に僅かに顔を顰めた。

 

「選手団を味方に引き込めるかもと言う話でしたが、我らの作戦が漏れる可能性もあります。念のために作戦を早めますか?」

「必要ない。今の段階ならば多少情報が洩れても都市側の対処は間に合わん」

 

 キンブリーの心配を一刀に切り捨てたブラットは室内を見渡し、各々に身に着けている鎧の着心地や武器の感覚を確かめている者達に目を向ける。

 

「魔術具の準備はどうか?」

 

 金があるわけではない面々なので統一性のない一式を身に着けた者達の熱気に満ちた空気を肌で感じ取ったブラットが聞くと、キンブリーはニヤリと笑い「抜かりなく、都市各部に配置しています」と返す。

 

「連絡員に通達すれば今すぐにでも始められます」

「そう焦るな」

 

 逸るキンブリーを視線と言葉を抑え、血気に逸る者達を見据えたブラットの目は不気味なほどに静かだった。

 

「一時の感情に押し流されて冷静な判断が出来なくなって作戦が失敗しては何の意味もない」

 

 ブラットがわざわざ言うまでもなく元軍人や元奴隷剣闘士が多く、冷静さを失った者達の末路を知っている者達ばかりだ。現役の賞金稼ぎも多くいる面々には普段ならば必要のない言葉ではあったが、彼らにとっての夢が成就しようとしている時に興奮してしまうのは避けられない。

 

「各自時間が来るまで英気を養え」

 

 興奮に水を差すようなブラットの言葉にも二十代以下の若者がいない集団は自分の分を弁えているので静かに時間を待とうと、武器の手入れを始めた者や精神統一している者など、方法はともかく時間まで英気を養おうとしている。

 彼らを見渡したブラットが樽から立ち上がり、傍らに立てかけてあった魔剣を持ってどこかへと行こうとする。

 

「ボス、どちらへ?」

「トイレだ」

 

 気になったキンブリーの問いに返って来たのは、作戦前にすることとしては真っ当なことだった。とはいえ、止めたことに対してそれ以上のことは言えず、ただ「そうですか」となんとも言えない表情でブラットを見送る。

 

「私も自分の準備をしておくか。ドドロケ、なにかあったら直ぐに連絡してくれ」

「分かりました!」

 

 頭が良くなくて抜けているところはあるが仲間内での評判は悪くない下っ端のドドロケに頼み、キンブリーは特に急いだ様子を見せることなく室内から出ていく。

 一度室内を出てどこかに向かう途中で道を外れ、辺りに誰もいないのを入念に確認して先程までいた倉庫から少し離れた狭い路地に入る。

 路地に入ったキンブリーは一分ほど待って誰も現れることがないのを確認して、懐から通信用の魔術具を取り出す。

 

「こちら、ミスター・ブラウン。作戦は予定通りに行われる。繰り返す。作戦は予定通りに行われる」

 

 魔力を込めて起動させた魔術具を口元に近づけ、小さな声で必要なことを告げると耳に当てる。

 耳に当てた魔術具は当初は何の反応も示さなかったが、少しずつノイズ音のような音が漏れて来る。

 

『…………了解。情報提供、感謝する』

 

 ザーザー、と多少のノイズ音の合間に低い男の声が魔術具より発され、発信源を特定されない為に直ぐに切れる。

 しっかりと通信が繋がっていることを確認して、キンブリーは持っていた魔術具を地面に落とし、振り上げた踵で踏み潰す。そしてもう一つ同じ魔術具を取り出して同じような内容を繰り返す。

 

「くくっ、今回のことで両軍にチクるだけでボロ儲けだ。暫くは遊んで暮らせるな」

 

 二つの魔術具を踏み潰して路地の端に蹴飛ばしたキンブリーは大した労力もなく得られる金に唇の端を上げてニヤリと笑い、今も作戦の時間を待っている仲間たちがいる倉庫の方向へと目をやる。

 

「悪いな、みんな。俺は一抜けさせてもらうぜ」

 

 世の中は所詮利用されるするか、だと暗に言葉に込めつつ、作戦が成功しようが失敗しようが死んでいたのだろうから利用されてくれと嘲笑う。

 

「この腐ったれた世の中で一都市で革命を起こしたって大国には敵わねぇんだ。精々、俺の為に死んでくれや」

 

 作戦開始までにはまだ時間はあるが、巻き込まれては叶わないと都市を出ようと足を踏み出したその瞬間だった。

 

「随分と面白いことをやっているな、キンブリー」

「っ!?」

 

 聞こえて来た声にキンブリーは心臓に釘が撃ち込まれたような衝撃を感じて、踏み出しかけた足を硬直させる。

 壊れた機械のように声が聞こえて来た方を振り返れば、そこにいたのは路地の壁に背中を預けたブラットの姿がある。その眼はとても冷たく、曲りなりにも仲間に向けるようなものではない。

 

「ぼ、ボス? いきなり何を――」

「下手な芝居は止めろ。お前が作戦を帝国と連合に漏らしていたのは既に知っている」

 

 魔術具は既に破壊してゴミと化している。後はこの場を誤魔化して離れればどうにでもなるというキンブリーの予測は一刀両断出された。

 

「何故、という顔をしているな」

 

 ブラットは表情一つ揺るがすことなく、キンブリーの百面相を見ながら壁から背を離す。

 

「最近になっての物資の流通のしやすさ。資金の調達、計画の進捗具合と何もかもが上手く行き過ぎている。アイツらはこれが天命だと考えているが、そんな都合の良いことが俺たちに起きるはずがない」

 

 ブラットは自分達を落伍者、持っていない者の集まりであると知っている。でなければ、こんなところに集まるはずがないのだから。

 副リーダーとして実務を担ってきたのはキンブリーであったから、真っ先に自分が疑われるのだと気づいていないところが本職の軍人に劣るのだと証明している。

 

「分かっていながら何故俺を泳がしていた!?」

「その方が作戦が成功すると判断したまでだ。どうせ両軍と動くのは分かりきっていたこと。戦うのが早いか遅いかの違いでしかない」

 

 身内にスパイがいようと利用価値があったから泳がしていたのだと告げられ、ブラットの言葉の真の意味を汲み取ってキンブリーは顔色を変えた。

 

「やはり最初から勝つ気などなかったというわけか!? その目的は――」

「戦争を再開させる」

 

 逃げ場を探して視線をウロウロと彷徨わせているキンブリーを決して逃がさぬと表明するかのように、鞘から真っ赤な刀身の魔剣を抜き放って通路を塞ぐ。

 

「この都市は大国の狭間にある中立地帯。我らがこの都市内で収まらない程に亜人を追い詰めれば帝国も動かざるをえない。帝国が動けば連合も動く。両軍が激突すれば燻っていた火種に一気に火が付き、中途半端だった終わりに明確なケリをつけるだろう」

 

 ブゥゥゥゥゥン、と蠅の羽音のような不気味な音を立てて血のように赤い刀身が微細に震える。まるで魔剣が獲物を求めているかのようでキンブリーには恐ろしくて仕方ない。

 

「両国がこの地で戦争を再開すれば革命を起こした我らは確実に死ぬ。ただ戦争を再開するための布石になれと?」

「そうだ」

「やはり破滅主義者か!?」

「違う。いや、違わないか」

 

 対抗するように自前の剣を取り出したキンブリーを視界に収め、ふと苦笑を漏らしたブラットは羽音を鳴らす魔剣を見下ろす。

 

「我らは死すべき時に死ねなかった死人だ。倦み疲れた生よりも意味ある死を望む」

 

 彼らの大半は元軍人や戦争によって帰るべき場所と人を失った者達の集まりだ。手に職も持っていない彼らが戦後の一番酷い時代を生き抜くには血生臭い方法しかなく、そんなことを続けていればどこに行っても爪弾きにされる。そうやって爪弾きにされれば更に悪い手段しか取れなくなる悪循環が続き今に至る。

 

「戦争に決着を。我らの生に、死した者達に意味を」

 

 それが彼ら集団のスローガンと呼ぶべきものだった。

 

「自ら死にに行くなど狂ってる!? 貴様らは狂ってるぞ!!」

 

 キンブリーにとっては建前としか思っていなかったそれを何も疑わずに諳んじるブラットに、生き汚く今までを過ごしてきた自分と彼らは根本的な考えが違うのだと今更に思い至って手に持つ剣先が恐れを現すようにブレる。

  

「眠れ、キンブリー」

 

 ブラットは瞬動で距離を詰め、突き出して来たキンブリーの剣を魔剣で真っ二つに切り払う。

 

「くっ、がっ!?」

 

 逃げようとするキンブリーの顔面を掴み、力任せに後頭部を壁に打ち付ける。

 キンブリーは苦悶の声を漏らし、意識を失った体から力が抜けてブラットが顔面から手を離すとそのまま地面へと倒れ込んだ。

 トドメを刺すことなく魔剣を腰に下げている鞘に直すと、後頭部を打って気絶しているキンブリーを見下ろす。

 

「貴様の働きには感謝している。裏切りがあった故、報いてはやれんが運が良ければ生き延びることも出来よう」

 

 ここで殺すのは簡単だが、裏切りをただ見逃すことも出来ない。

 帝国と連合の戦争に巻き込まれる前に起きて逃げれるか。その頃にはもう死んでいるであろう自分の関与する問題ではないと、もう直ぐ落ちる太陽を見上げたブラットは不確定要素を想起する。

 

「確かアスカとかいったか」

 

 瞬く間に都市代表選手になった一度だけ対峙した若者のことを思い出し、止められるものならば止めてみろと内心で吐き捨てた。

 

「作戦が両軍に漏れているのならば作戦開始を早めねばならんな」

 

 両国が動く前に作戦を終わらせなければならず、即時の作戦発動を告げる為に気絶しているキンブリーを放置して足早にアジトに戻るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『さあ、西方より拳闘会に現れた新鋭、アスカ選手の登場です!』

 

 呼ばれたのでアスカ・スプリングフィールドは選手入り口の手前で首をコキリと鳴らして歩みを進める。

 入り口を通ると広大な空間が広がっていて闘技場がアスカを迎え入れた。

 五万人を収容できるという観客席に囲まれた百メートル四方のバトルフィールドの中央では、審判がアスカの登場を待ち構えていた。

 褐色の肌、頭部に2本の角、背中にコウモリの様な翼を持つ魔族のメガネっ娘であり、首には奴隷の首輪をしている審判が厳かに、拡声魔法が付与されたマイクに口を近づけて告げた。

 

『続いて東方より、精霊獣の一門であるマクスウェルの次期党首と名高きシュナイゼ選手の登場です!』

 

 アスカが入場したのとは真反対の登場口からシュナイゼ・マクスウェルが現れると同時に闘技場が女性陣の歓喜の声に埋め尽くされる。

 波打つ日の光によって黄金に輝く長い金髪を後ろに撫でつけ、切れるような鋭い美貌と鮮やかに輝く蒼穹の如く蒼い瞳。肌はミルクのように滑らかで、高貴さを感じさせる整った顔立ちは御伽噺から抜け出てきたようであり、しなやかな立ち居ふるまいと背後に大輪の薔薇のような華やかさを感じさせる雰囲気から王子と呼ぶに相応しい。少々才気が顔に出過ぎているようだ。自分の才に自信がありすぎ、他人を自然に下に置いている。そんな顔をしている。

 沢山の群集の中にいても、ぱっと人目を引く存在だ。しかし、引き締まった体つきも、発する雰囲気も柔らかさを拒絶して猛々しい。

 

「ふん、貴様が期待の新鋭とやらか」

 

 声が響く。古い楽器のように、重く脳に響く声音だった。

 黄金。それは黄金の人物であった。髪の毛も瞳も、着ている服も黄金色で、華美なその服装が嫌味もなく似合っている。

 

「らしいな」

 

 他人の評価を大して気にしないアスカは、十メートルほどの距離を取って対峙するシュナイゼに話しかけられても淡泊な返事しか返さない。 

 金髪の男は端整ともいえる顔立ちだが、戦いの場にあってもどこか飄々とした雰囲気を漂わせ、口元は不敵に曲げられて眼だけが野生の獣を思わせる猛々しさを宿していた。この戦いも戯れの一つという風に見下ろす涼やかな目は、人を見下しなれた傲慢させ漂わせている。

 

「この私と口を利けるのだ。もっと豚のように鳴いて喜んで見せろ」

 

 傲岸不遜に言いながら、シュナイゼは重々しく両眼を閉じた。どこか芝居染みた仕草が、この男に限っては大袈裟にはならない。

 

「さっさと戦ろうぜ」

 

 こういう手合いは話しているだけで疲れるので早々に切り上げるに限るのだが、何故か話したがるのだ。

 アスカの言葉にシュナイゼが、もう一度ゆっくりと瞼を開いた時、纏う空気に変化が生じた。

 

「ふん、所詮は市政の子供か。愚民には分からぬだろうが物事には順序がある。今はこの私が訓示を垂れているのだ。首を垂れて拝聴するがいい」

 

 絶対的な王の勧告。否定も曖昧な肯定も許さない、人に命令することに慣れた者の威厳。

 その様子も、王者を思わせた。それも王権神授時代、神より権威を与えられた尊き者。この男は生まれながらの王であった。他人を従え、屈伏させ、効率的な運用することを重視する生物だった。

 伝統と歴史を重ね、宝石の如き結晶とせしめた貴族という名の血統。整えられた美髪から鋭い碧眼、立ち振る舞いに至るまで、この男自体が一つの象徴とも見えた。元より貴族とはそういうものではなかったか。

 

「別に聞きたくもないんだが」

「黙って聞け」

 

 落ち着いた声には、しかし苛烈な怒りが籠っていた。それは、支配者としての怒りであろう。自らの領域を汚した者への王としての正当な激怒。故にシュナイゼの纏う空気は殺気に似て奔騰する。

 

(長くなりそうだな……)

 

 ペラペラとシュナイゼが喋っているのを右から左へと聞き流しながら、シュナイゼのマクスウェル一族が使うという精霊獣について考える。

 精霊獣は一群の精霊を仮想人格に統御させることで一個の生物と見立てて、それを使い魔として使役する、精霊魔法と儀式魔法の融合によって生まれた『魔法武器』である。精霊獣、精霊式など呼び名は多々あるが、昔は割りとポピュラーだったのに最近では滅多に聞かなくなっている。ここ二十年で急速に廃れていったからだ。

 二十年前から急速に廃れていった理由は――――『紅き翼』、特にナギ・スプリングフィールドの所為であったりする。

 二十年前の大戦で、帝国・連合のどちらにも属さなかったマクスウェル一族は積極的に参加していなかった。

 間違いなく一流の力を持っていた彼らは、両陣営から協力を求められるも自らの力を利用されることを嫌い、専守防衛に努めていた。一族間でも意見の食い違いはあったものの、最終的に戦争への参加の意思を固めた頃には既に終戦を迎えていた。

 だが、問題はここから。彼らの落日が始まった。

 世界を救った『紅き翼』そのリーダーであるナギ・スプリングフィールドは『千の呪文の男(サウザンドマスター)』と呼ばれている。戦士としては間違いなく超一流であるが、実体は魔法学校中退の劣等生で覚えている魔法も6つと少ない為、アンチョコの存在やメモが必須であることはあまり知られていない。

 世間はナギを千もの魔法を使いこなした男として見なし、まるで万能な人間かのように見たのは仕方のないことであろう。

 戦争に参加しなかったこともマイナスイメージが定着した一因でもあるが、短期間とはいえ、認識が魔法世界中に広まってしまったため、急速に廃れていったのだ。

 

「歴史も伝統もない小僧に見せてやろう! 我が精霊獣の強さをその身を以って知れ!」

 

 アスカがエヴァンジェリンの授業を思い出している間に長い高説を終えたシュナイゼの高らかな宣言と同時に、彼の前に蝋燭ほどの小さな光が灯った。今にも消えそうな光は消えるどころか数倍に勢いを増して、やがて降り落ちて地面へと染み込んで次第に人の形を取り始めた。

 

「出でよ、土の精霊獣ノーム!」

 

 光が染み込んだ何の変哲もなかったはずの地面が、沸騰した水のようにぼこぼこと動きを見せている。徐々に盛り上がり、球体のものが地面からせり出した。と、そこから唐突に動きを見せ、吐き出されるように巨大化し―――――土の人形となる。

 現れた土人形はその場にしゃがみ込むと、こちらへ跳躍する体勢を見せる。

 人間よりも頭二つ分は大きい土人形を見上げ、感心した様子を見せたアスカも戦う体勢を整える。

 

開始(インキビテ)!!』

「さあ行くぞ、下郎。我が一族の総力を結集した精霊獣の力に慄くがいい!」

 

 両者が戦闘準備を終えたことを確認した審判が試合開始を宣言したのと同時に、シュナイゼの叫びと共に土人形が跳躍するのを見届けてアスカがその場から飛び退く。

 ズシン、と土人形が地面に着地した衝撃が闘技場に響き渡り、巻き起こった土煙が両者の影を覆い隠す。百キロ以上はありそうな質量はそれだけで凶器と成り得る。

 土煙の中でノームが地面に着いていた手を上げると、ボコリと辺りの土を削り取ったかのように穴が開いていて手には巨大な爪が形成されていた。ノームは巨大な爪がついた右腕を前に突き出して、アスカを捕らえようと爪を開く。

 不意に、その腕が音を立てような勢いで伸びてきた。

 

「行け、イフリート!」

 

 咄嗟に身を低くしてノームが伸ばした爪付きの腕を躱したアスカは、ほぼ同時に更に別の火の精霊獣――――筋骨隆々な大男の風体のイフリートを顕現させていたシュナイゼの命令を耳にしていた。

 炎によってその身を形成したイフリートが傍らで肌に火がつきそうなほどの熱を火の粉と共に発しているが、何らかの処置がされているのか隣に立つシュナイゼは平然としていた。イフリートが腕を上げて掌をこちらに向けている。

 イフリートの掌の先にぼんやりと鈍く光が灯り、見る間に明るさを増していく。

 

「くっ」

 

 本能的に危険を察知し、屈んでいる状態から飛び上がって空中に逃れるアスカの下を、イフリートの手から放たれた火炎が舐めるように通り過ぎていった。

 

(中々のコンビネーションだ。油断し過ぎるとヤラれるな)

 

 チリチリと皮膚の焦げるような感触にシュナイゼの大言も妄言というわけではないと認め、アスカは攻撃を仕掛けてきた相手を見下ろした。

 

「愚か者を八つ裂きにせよ、シルフ!」

「ガァアアアアアアアアアア!!」

 

 素早く腕を引き戻したノームは素早く身を起こし、次いで呼び出された妖精のような風体の風の精霊獣シルフが口を開いて叫び声を上げ、風によって作られた見えない弾丸をアスカに向けて射出した。

 その数は気配で感じる限りは直ぐに数えられないほど無尽。アスカを覆い隠すほどに風の弾丸が埋め尽くされる。

 

「――シッ!」

 

 逃げ場がないことにアスカは一切焦ることなく、直撃コースにある物のみを狙って白い雷を放って打ち払い、霧散させていく。

 大半の風の弾丸はその場を動かなかったアスカの遥か後方に着弾して爆音を発生させ、迎撃されたものは驚くほど呆気なく打ち消された。だが、その直後、「行け、ウンディーネ!」と叫ぶシュナイゼの叫びが響き渡り、呼び出された女性体の水の精霊獣ウンディーネがアスカに迫る。

 陸上選手のように俊敏な動きでその手に水で出来た槍を握って突進する。

 

「四大属性の精霊獣を同時召喚か」

 

 風の弾丸を迎撃しながらもシュナイゼから意識を離さなかったのでウンディーネの攻撃も奇襲には成り得ない。アスカは跳んだ。一直線に放たれた水の槍を余裕を持って回避する。

 軽く跳んだかのように見えて驚くべき脚力でもって五メートルほどの高さまで跳躍し、そこから虚空を蹴って一気に急降下に転じた。

 

「はっ!」

 

 アスカは長い足を抱え込むようにして身を丸めて、クルクルと駒のように回ってアクロバティックに身体を回転させた。

 虚空瞬動に重力に凄まじい回転力をも乗せて繰り出された踵落としの一撃は、けれどもシュナイゼの脳天を割るどころか、ノームが巨体に似合わぬ素早さで移動してその土塊の腕で主を護る。

 

「!?」

 

 ノームの鈍重な見た目に反した予想よりも素早い動きにアスカが驚いた隙を見逃さず、すかさず残る三体の精霊獣がアスカに攻撃を仕掛ける。間一髪、アスカはもう片方の足でノームの腕を蹴ってシュナイゼから距離を取り、僅かにバランスを崩しながらもなんとか着地を決めていた。

 

「流石に代表になっただけはあるか。ふっ、少しは持ってもらわねばつまらん」

 

 余裕か、慢心か、シュナイゼから追撃はなかった。反対に精霊獣達はアスカの一挙手一投足を見逃さぬように目を離さない。

 

「我が精霊獣は完璧。地に伏し、無様に許しを乞うなら先程の無礼も許そう。無駄な抵抗は諦めて、負けを認める気になったか?」

「はっ、まさか」

 

 微笑とは間逆の尊大な言葉に、アスカは鼻で笑って答える。

 厄介な精霊獣は放っておいて術者本人を叩くのが先決かと思うも、そういう場合を想定して先程のように防御を固めて来るだろう。ちらりとシュナイゼの様子を窺い見ると、その容姿に違わぬ優雅な微笑を浮かべて言った。

 

「ふん、所詮は力の差を知ることもできない愚物では仕方あるまい。実力の違いを思い知るがいい。奴を殲滅せよ、我が下僕どもよ!」

 

 折角の慈悲を無碍にする回答に不快気に眉を顰めたシュナイゼの無言の命を受け、精霊獣達がいきり立つ。

 シュナイゼの叫び声に反応するように、まずはシルフが叫び、それに呼応してか他の精霊獣達も同じように叫び声を上げて、それぞれの属性の弾丸を発射するのが見えた。

 射出された弾丸は遠隔操作が出来るのか、不規則な軌道を描きながらアスカを狙って襲い掛かる。

 予測のつかない方向から襲いかかる攻撃にアスカも躱すのがやっとだった。

 

「ちっ」

 

 アスカは次々と飛来する弾丸を躱し、時には弾くことに集中する。

 四大属性の弾丸は全く想像もつかない動きで、全ての方向から飛んで来た。しかも、一度躱しても再び方向を変え、アスカに向かってくるのである。まるで、糸かなにかで操られているようだった。

 

「魔法の射手以上の誘導性…………面倒だな」

 

 目の前を通過した風の弾丸を仰け反って躱し、背後から向かってきた水の弾丸には身を捻って宙を舞い、足元を通り抜けた他の属性と違って唯一実体を持っている地の弾丸を蹴ってアスカは大きく飛び上がった。

 十数メートル後方に飛んで包囲網から脱出して着地して、ようやく一息つく。

 距離が出来たことで僅かに余裕が出来たアスカは、戦力の分析を始めた。その間にも四体の精霊獣が真っ直ぐにアスカに向かって飛び上がってきた。敵の戦力を分析しながら、複雑に飛び、動き回って追跡を躱し続ける。

 逃げ回りながらアスカの背後から見て正面のイフリートが先程と同じように大きな掌を開き、無造作に火球を放った。

 

(単純な火力では火の精霊獣がトップ。だが、火力に対して速度はそれほどでもない)

 

 被弾直前に躱した火球が先程までアスカのいた場所に命中し、大きな爆発が起きる。目も眩むような閃光が辺りを包んだ。

 爆炎によって出来た目晦ましを利用して魔法の射手を一矢放つ。続いて背後に回った敵によって結果を見届けることはなかったが、イフリートのいた方向から悲鳴のような叫びが聞こえて気配が一つ消えた。

 そして、背後に回った敵―――ノームが右腕に巨大なハンマーの形をした岩石を構えている。

 

(土の精霊獣は実体が分だけ攻撃が重く、攻撃を弾くのも大変。逆に実体がある分だけ自由度がないのがネックか)

 

 唸りを上げて土のハンマーが叩きつけられる瞬間、アスカはさっきイフリートが放った火炎の爆発によってこちらに飛んできた大き目の瓦礫を避けながら手を添えて投げる。

 速度を速められた瓦礫は、アスカにハンマーが叩きつけられるよりも早くノームの中心を貫いた。

 コアを撃ち抜いたのか、ノームはそのまま後方に倒れて動かなくなった。

 

「来い、黒棒」

 

 アスカはノームの様子を見届けることなく黒棒を呼び出し、追いかけてくる残りの二体に向けて飛び出していく。

 向かってくるアスカに、ウンディーネが水で出来た巨大な爪を振りかざし、襲い掛かった。

 

(水の精霊獣は実体とそうでないもののメリットを程よく持っている。逆に言えば長所と言えるものもなく、中途半端とも言える)

 

 鋭利な爪を躱して通りざま、アスカは握った黒棒に魔力を流して紫電を纏わせ、刀身から放射される雷の力で切れ味を増した刃でウンディーネを真一文字に薙ぎ払う。

 プツン、という実体特有の肉を切った手応えとは別の感触があった。一瞬、ちらちらと光を放ちながら、ウンディーネは空中に溶けるように消えていった。そこへ、唯一残ったシルフが翼を強く羽ばたかせて周りの物を容易く切り裂くカマイタチを発生させた。

 

(風の精霊獣は火の精霊獣の対極で速度は最速。その反面、攻撃は軽い)

 

 アスカの反応は素早かった。カマイタチを真っ向から叩き伏せながら最短の距離を駆ける。接近するアスカに気づいてシルフは避けようとするも、頭から唐竹割りをして真っ二つに切り裂く。

 

「!?」

 

 それを待っていたかのように、頭上から何か(・・)が高速で接近した。頭上への警戒を怠っていたアスカは、その一撃をもろに食らって頭に食らう。

 

「あだっ」

 

 アスカは凄まじい勢いで頭部が衝撃に揺らされながらも、その場から飛び退いて数メートル離れた地面に着地する。

 頭を直撃した土の塊にクラクラとする頭を押さえつつ、辺りを見渡せば体の中心を貫かれたはずのノームが何かを投げた後のような姿勢をしている。直後、アスカの背後から復活したイフリートが襲い掛かる。

 

「マクスウェルの精霊獣は作り物。何度でも作り直せるってことか」

 

 振り向くことなく魔力を込めた裏拳でイフリートの胴体を文字通り刳り貫いた。その刳り貫いた空間から勝利を疑っていないシュナイゼの薄ら笑いが見えたが、皮肉にもその余裕がマクスウェルの一族が使う精霊獣がどういう存在(・・・・・・)であるかをアスカに教えていた。

 事実、アスカが次の一手を準備している間にもイフリートの刳り貫かれた部分が急速に修復していっている。

 

「白い雷」

 

 修復しかけているイフリートに白い雷を放って消滅させている間に起こった気配の変化は急速なものだった。アスカの身体を鋭い風が舐め、その身体を地面から引き剥がそうとする。

 目に見えない気流は闘技場の砂を巻き込み、高速で動く壁と化した。竜巻状に荒れ狂うその流れが可視のものとなる。

 

「くっ……!」

 

 吹き飛ばされまいと膝を落として踏ん張り、頭を下げながらも口の中で詠唱を唱える。

 

「魔法の射手・雷の矢」

 

 ボールを投げるように振り下ろした手から幾つ本もの雷の魔法の矢が飛び、抉られた風砂の猛威が瞬間的に消失する。それを数度繰り返しながらも、どちらも譲らない。が、少しずつアスカは上体を起こされ、風の勢いを増していく。

 今暫くは続くと思われた均衡は突然崩れた。アスカが吹き飛ばされたと観客には見えたが、吹き飛ばされたのではなく、自ら飛んだのだ。後方に大きく跳躍すると遠く離れた地面に無音で着地した。

 

「!?」

 

 なんの前兆もなかった。土が盛り上がることも、割れることもなにもない。あると分からない地面の隙間から、ノームの力を利用したウンディーネによる刃物のように鋭い水の一撃が先程までアスカがいた場所に伸びていた。

 アスカはなにかを放とうと左腕を突き出した―――――が、その時には地面から飛び出してきたウンディーネは地中深くに姿を隠している。

 次撃は、定石通りに背後からだった。見もせずにそれを避け、アスカは後ろ蹴りで使い慣れた雷の斧を纏いながら放つ。

 

「雷の斧!」

 

 足の裏で雷の斧を放つという離れ業を成し遂げ、地面から突き出したウンディーネとノームを巻き込んで木っ端微塵に吹き飛ばすのを確認してから、アスカは油断なく辺りを見渡す。

 数メートル先の空中から火球を放とうとしてイフリートに先んじて一撃を見舞おうとするも、標的にしていたイフリートの姿が、瞬時に消える。放ちかけていた白い雷を中断して、練っていた魔力を戻しながら、アスカは手に持つ黒棒を握り直す。

 

(地中に消えた? ……いや、違う)

 

 先程ウンディーネとノームを吹き飛ばしたのを思い出し、その選択肢を除外して精霊獣特有の気配が近くにあることから種を見破ろうと、黒棒を持つのとは逆の手に魔法の射手を放って変化を見破らないように目を凝らす。

 魔法の射手は敵がいたはずの場所を通り過ぎるも、敵が消えたと思っていた空間の一点が揺らぎ、まるで絵が歪むように、透明のなにかが突き進んでくるのが見えた。

 

(成程、シルフによる透明化か)

 

 シルフとイフリートによる光の屈折と熱の遮断なのだろう――――完全な透明化ではない。野外で遠目でなければ、直ぐに見分けがつくだろう。

 光を透過させようと目立つイフリートを完全に隠すことは難しい。近づくにつれてはっきりと知覚できるようになっている。

 カウンターで拳を打ち込もうとした瞬間、衝撃が身体を襲った。

 

「―――――っ?」

 

 正面のイフリートが突然退き、背中にまるで岩をぶつけられたような痛みが走った。更にアスカを覆い込むように周囲の土が呑み込んだ。

 

「しゃらくさい……っ!」

 

 アスカがそう一喝すると、身体を沈める。右手を地面につけると同時に強大な魔力を叩き込んで土を吹き飛ばす。

 吹き飛ばされるはずだったアスカを呑み込みかけていた土のかまくらは突如として火柱に包まれた。イフリートの攻撃だ。

 土で覆われているとはいえ、中は間違いなく灼熱地獄。だが、激しく燃え盛る火柱を前に精霊獣の攻撃はまだ終わらない。

 そこに風でコーディングされた無数の水の刃が全方向からアスカに向けて飛来する。ウンディーネが生み出した水をシルフの風が覆うようにコーディングされており、火柱の中だろうと突破して切り裂くだろう。

 

「な、に……っ!」

 

 攻撃が着弾して大きな爆発が起こり、爆風から顔を庇った腕を避けたシュナイゼは呻き声を上げた。

 必勝を確信したシュナイゼが見た物は有り得ぬものだった。土――――いや、火柱が消え去った後に右手を腰に当てたアスカが余裕の様子で立っていたのだから。

 アスカは大したことをしたわけではない。ただ、その有り余るほどの魔力を障壁に回して防御した。ただそれだけで精霊獣の猛攻を防ぎ得る防御力を有する。

 

「なんという障壁、なんという魔力だ……!」

 

 防御を固められれば四大精霊獣の一斉攻撃でも障壁を越えられない。純粋なスペックの差をシュナイゼは認めなければならない。

 本選ならまだしも今は地方の予選に過ぎない。知名度のない相手に押されるなどありえないと思うシュナイゼの考えは単なる自惚れではない。

 栄華を誇った名声が地に落ちた一族といえど、実力まで落ちたわけではない。一芸に特化した能力の平均値は他のどの家よりも秀でている自信は決して驕りではない。

 一族の中であっても秀でた才を持ち、驕れることなく一族の汚名を勇名に変えるべき努力してきた質も量も余人の及ぶべきもなかった。一族史上最高の精霊獣使いの名に偽りはない。実戦でも一度として敗北はなかった。

 惜しむらくはシュナイゼの完成度に失うことを惜しんだ一族の者達が実戦の相手を格下にばかり調整してしまったことにある。自らよりも弱い相手としか戦わず、勝った経験のないシュナイゼは格上との戦いに慣れていない。勝ち続けたことで自らを最強と勘違いして他者の力量を計れない愚か者となってしまった。

 だが、ここまで大瀑布の如き魔力を感じ取れば嫌でも認識せざるをえない。自分は井の中の蛙であったのだと。

 

「悪いがゴリ押しで行かせてもらうぜ」

 

 言いつつアスカの背後に無数の魔法の射手が浮かび上がる。その魔法の射手に込められた魔力は、一つ一つが普通の魔法使いが全魔力を込めてようやく作れるかというレベルのものだった。

 今まで戦い、一矢辺り一般魔法使い並の魔力が込められた魔法の射手を数十も作りアスカに大した疲労も見せない姿に、傲慢な性質なシュナイゼであっても実力差に気付かざるをえない。

 

「行け!」

 

 震撼しているシュナイゼに向けてアスカが閉じていた手を開いて号令を発するのと同時に、一際強く瞬いた魔法の射手が解き放たれた。

 精霊獣達は主に向けて放たれた魔法の射手を阻まんと間に立ち塞がったが、各自に防御策を張り巡らせたにも関わらず次々と消し飛ばされていく。そしてアスカもまた瞬動術でシュナイゼへと肉薄する。

 

「――くっ!?」

 

 とっさにシュナイゼは、シルフを再召喚して小型の竜巻を生み出して地面に叩きつけた。それは衝撃となり、地面の土砂を巻き上げる。次いで再召喚したノームがアスカの視界を遮る土の波を作り出す。

 

「邪魔だ!」

 

 しかしこれは、あっさりとアスカが繰り出した手刀によって壟断される。だがその時には、シュナイゼは後方へ飛びアスカの間合いから大きく離れていた。

 更に巻き上げられた土砂によって周囲が土煙に包まれていて、シュナイゼはそれを好機と判断。急いでいた為に不完全で力を使い果たし消滅したシルフだけではなく、残りの元素の精霊獣も再召喚するべく集中する。

 差し当たって最も相性の良いシルフの再召喚が終わった所で、周囲の大気の動きを察知したシルフが動き、口を大きく空けて空気の圧縮弾を連続で放つ。

 空気の圧縮弾が砂煙に丸い穴を穿ったのを見たシュナイゼは一瞬歓喜の笑みを浮かべたが、土煙が晴れた場所にアスカがいないことに愕然とする。

 

「―――いないっ?」

「こっちだっ!」

 

 そんな―――と思ったのと同時、右の土煙を突き破ってアスカが叫びながら飛び出してきた。

 既に腕を振りかぶった攻撃の態勢。シルフは空気弾を放った直後で動けない。他の精霊獣を生み出す時間的余裕はない。防御は間に合わない。

 障壁を展開することすら出来ず、雷光の如く円弧を描いたアスカの左拳が振り返りかけたシュナイゼの頬に叩き込まれた。まるでシュナイゼの目の前で爆弾が爆発したかのように体が後ろに跳んだ。

 

「ぐはぁ……っ!」

 

 シュナイゼは容赦の無い一撃を食らって掠れた声を漏らして沈んだ。

 

『強烈な一撃が決まった! おおっと、シュナイゼ選手立ち上がれません!』

 

 巻き込まれないように距離を取っていた悪魔っ娘審判が恐る恐る近寄って来て、殴られたことで立ち上がれないシュナイゼの状態をチェックする。

 シュナイゼも精霊獣使いとして自らの技量だけでなく体も鍛えていたが戦った相手が悪すぎたというしかない。体がピクピクと動くだけで確たるとした動きに繋がらず、その視線すらも定まっていないので頬を殴られた衝撃が脳にまで達していることは想像に難くない。

 

『カウントを開始します』

 

 意識は失っていないのでカウントが取られる。十を数えるまでに立ち上がらなければシュナイゼの敗北が決定する。

 

「待て、カウントは必要ない。俺の……負けだ」

 

 十を数えるまでに立ち上がれないことはシュナイゼ自身が一番分かっていた。カウントを取ろうとしていた悪魔っ娘審判に自らの敗北を宣言する。

 シュナイゼの試合を今まで審判してきたことで彼の傲慢さを良く知っていた悪魔っ娘審判は目を丸くしたものの、片手を上げて『シュナイゼ選手、戦闘続行不能によりアスカ選手の勝利です!』と宣言する。

 わぁっ、と悪魔っ娘審判の宣言に湧き上がった観客の歓声は二分していた、シュナイゼの敗北を嘆く一部の女性陣とそれ以外の者達に。

 

「これが敗北か」

 

 勝者であるアスカが先に闘技場から姿を消しても、ようやく起き上がれたばかりのシュナイゼは立ち上がることが出来なかった。悪魔っ娘審判が担架がいるかと問いかけたが断ってまで動かなかったのは、始めて味わう敗北感に打ちひしがれていたからだ。 

 普段のシュナイゼならば地に塗れた衣服は即座に脱ぎ捨てて新しい衣服に着替えようとするだろう。なのに、着替えるどころか無様な姿を見られようとも動くことが出来ないのは、それほどに生まれて初めて彼が味わう敗北は重く苦かったから。

 幼少の頃から余人を卓越していて常に勝ち続けることが彼の人生だった。それ故に敗者の立場に立った時、どう行動したらいいのか分からなくなる。

 

「…………まだだ」

 

 心は一度芯からポッキリと折られた。それでもシュナイゼは己の裡からメラメラと燃え上がる物を感じた。

 

「まだ私は強くなれる。この程度で立ち止まってなるものか」

 

 以前の彼ならば絶対にしない拳を地面に叩きつけるという行為を行い、フラツキながらも立ち上がる。遺憾ながらも超えるべき目標も見つけたのだ。こうやって蹲っている暇はないと、

世界の広さを知ったのだから武者修行でもして心身を鍛え直さなければならない。

 そうと決まれば話は早いとシュナイゼは戦う前よりもやる気に満ちた目で闘技場を出ていくのであった。膝がぐらついていたのは余談である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 先の闘技場から選手入り口を通って外に出ようとしていたアスカは、拳を握ったり開いたりしながら先程の戦いを思い出していた。

 

「強かったな、アイツ」

 

 勝敗はついたものの、シュナイゼ・マクスウェルの実力は既に一線級であった。アスカが見る限りではまだまだ伸びしろは大きい。現状でもAAクラスの強さを持つが死ぬほど十年も鍛錬すれば紅き翼クラスにまで辿り着けるかもしれない。

 

「俺ももっと強くならないと…………魔力頼みでの戦い方も改めた方が良いか」

 

 アスカの持ち味は高いスペックと異常なほどの勘である。今まで戦ってきた相手の中でも純粋なスペックでアスカを上回る程は数えるほどしかおらず、シュナイゼを相手にした時のように大抵の相手に魔力頼みで押し切ることが出来てしまう。これでは戦い方が単調になって成長が望めなくなってしまう。

 アスカが今後の方針を考えていると通路の端が見えていた。

 闘技場の外に出たら併設されている飯所にでも行って千雨達に顔を見せようかと考えていると、通路の外から話し声が聞こえて来た。

 

「トサカ、お前だって同じことを思ってるはずだろ! この世界は間違ってるって!」

 

 どこかで聞いた覚えはあるのだが誰だったか思い出せない声が拳闘団に所属しているトサカに思いの丈をぶつけているような叫びが聞こえ、咄嗟にアスカは身を隠すように壁に背中を預けて気配を消した。

 

「俺はお前ほど世界に絶望しちゃいねぇよ、シスハーン」

 

 トサカが相手を、シスハーンの名前を出したが、やはりアスカには覚えがない。覚えがあるような気がするが、名前を聞いても思い出せない時点で重要な相手ではないのだろう。

 

「俺達が理不尽に住むところを奪われたことを忘れちまったのかよ」

「忘れちゃいねぇ。忘れちゃいねぇが、お前らのやることには賛同できぇね。それだけだ」

 

 溜息の音が聞こえる。恐らく話の流れから察するにトサカが吐いたものか。

 

「そりゃ、昔は勝手にオスティアを占領してるメガロとかを恨んだりはしたけどよ。生きるのに必死でそれどころじゃなかったんだ。憎しみはある。恨みもある。でもよ、世界を疎み続けるには捨てられんぇもんが多すぎる」

 

 憎むのも自分が生きていればこそだ。日々の糧を得て、住む場所を確保する。衣食住がなければ生きることすら出来ないのだから憎むのはどうしたって二の次になる。そしてそうやって後回しにし続けて時間が経ってしまえば当時の激情は既に遠い。

 二十年も同じ感情を抱き続けるには長過ぎて、やがて倦み疲れていく当時の遠くなった激情よりも今の生活が大切になってしまった。もう子供の頃のように想いに自分の全てを託せるほど若くもないのだ。

 

「奴隷になった俺をバルガスの兄貴とママが解放してくれた。俺は拳闘以外は他に能がねぇ駄目野郎だけどよ。二人を裏切るような屑に成り下がる気はねぇ」

 

 帰んな、と言外に滲ませるトサカにやがてシスハーンも諦めたのか、肩落としたような気配を感じ取ったアスカは眉をピクリと上げる。

 

「…………そうか」

 

 先程までの激情を滲ませたシスハーンが簡単に引き下がるとは思えなかったので、万が一の場合は飛び出してトサカを助ける気でいたのだが寂し気に呟きながら呆気なくシスハーンは引き下がったようだった。

 

「同じ孤児でもお前にはバルガスさんもクママさんもいたんだったな」

 

 ボソリと呟かれたその言い方は自分にはバルガスやクママのような大切と思える者がいないのだと物語っていた。

 

「昔の好としての忠告しといてやる」

 

 踵を返したらしく、ジャリッと足元の砂を踏みしめる音が聞こえた。

 

「今夜計画は実行される。死にたくなかったら都市を出ることだな」

 

 シスハーンはそれだけを言い捨てて立ち去ったらしく、足音と気配が遠ざかっていくことから戻ってくるようなこともないようだ。

 気配を消して壁に溶け込んでいたアスカは数秒悩んだものの、良く考えれば空気を読んで遠慮するよりも聞いていない振りをした方が無難であると判断して足を踏み出す。

 

「お? よう、トサカ。こんなところでなにやってんだ」

 

 入り口の脇にある階段に座っているのに今気づいたかのように腕を上げて話しかけると、トサカは物凄く胡散臭い者を見たかのようにアスカを見上げる。

 

「テメェ、その様子だとさっきの話を聞いてやがったな」

「な、なんのことだ?」

「どもってるぞ。顔にも出てるし」

 

 マジか、と言って顔を触ってからトサカがほら見ろとばかりの表情をしたので、誘導尋問に引っ掛かったのだと分かり両手を上げて降参を示す。

 

「試合終わったのに出口で話をしてるお前達が悪い」

 

 降参しても自分に全ての非があるわけでもないと逆に開き直ったりしていたが。

 

「そりゃぁ悪かったな。勝者様を出迎えてやろうと思ったんだけど、まさか昔馴染みと会うとは思いもしなかったんだよ」

 

 そう言われるとアスカも強い立場ではいられない。かといって興味本位な面もあったが話を聞いてしまったこと自体は不可抗力な面も多分にあったので。口の中でモゴモゴと言葉にならない言葉を漏らして肩から力を抜く。

 

「さっきの奴、昔馴染って言ってたが」

 

 入り口横で座り込んでいるトサカの隣に立ち、闘技場の外の通路を行き交う人々を眺めながらアスカが問いかけるとトサカが片眉を上げた。

 

「話が聞こえたからさ」

 

 言い訳のようなだな、と言いながらも自分で感じていた。

 

「…………古い話さ」

 

 暫し視線を通路を行き交う人々に向けながら、重く口を開いたトサカは吐き捨てるように言った。

 

「二十年前の大戦のことは知ってるか?」

「一応は」

 

 アスカの返答にトサカは唇を歪めた。

 

「俺も全部分かるとは言わねぇ。当時の俺も只のクソガキだったからよ。アイツはその頃の友達(ダチ)さ」 

 

 嘗ての自分を思い出すような遠い目をするトサカの視線を追ったアスカに見えたものは、通路を行き交う種族すら違う人々だけだ。

 旧世界出身のアスカには種族すら違う面々が目の前を行き交っている光景は未だ慣れぬものがあるが、いずれはこの光景にも違和感を抱かぬようになっていくのだろう。

 

「オスティアがどうとかも聞こえたが」

 

 アスカにとって重要な土地の名前であったから聞かずにはいられなかった。

 

「そんなところから聞いていやがったのかよ…………ああ、いたよ。オスティアが落ちるあの日までな」

「…………そうなのか」

「別に同情してほしくて言ったわけじゃねぇよ」

 

 同情ではなく、自分を生んだ母が関わっている地だけに気にしたのだが見方を変えればそう受け取られても仕方ないとトサカの勘違いを正すことはせず、通行人を眺めるトサカの横顔を見下ろす。

 

「俺は幸福な方だったと思うぜ。少なくとも食うに困ることはあっても、こうやって五体満足で今も生きている。何よりも一人じゃなかったからな」

 

 勘違いに気付くこともなくトサカの独白が続く。

 アスカのマネージャー的な地位の彼とは普段から話すことは多いが、これほどまでに過去に突っ込んだ私的な会話はしてこなかった。それほどまでには深い仲でもなく、時間もなかったのだが昔の知人に会ったことで口が緩んだのか。

 

「あの時代では誰かが何かを失っていた。俺の場合は両親だったわけだが、戦争をやってたんだ。孤児なんて珍しくもない。スラム街には腐るほどいたから仲間は多かった。本当に酷かったのは戦争が終わった後だ」

 

 一つのことに熱中した後に、ふと冷静になってみると犠牲にしてきたものがどうしても目についてしまう。戦争をしている時には気にならなかったそれが大きな意味を持って来る。

 

「戦禍で住むところを失った難民が溢れてたし、仕事が無くなって、物価も上がって物も買えねぇ。生きるためには奴隷に落ちるしかなかった奴も山程いた。誰もが自分のことで手一杯だった中で他人のことを慮れる余裕のある奴は金持ちぐれぇだよ。オスティアが落ちて、孤児で住む場所を失った俺達も奴隷にならざるをえなかった」

 

 自分達もそうであったのだと言ったトサカにアスカも想像がついていたので続きを聞く。

 

「バルガスの兄貴とママが拳闘士として金を稼いで俺を奴隷から解放してくれた。その恩を返すために自由拳闘士になって金を稼いでいたわけなんだが、俺が当時奴隷拳闘士だったシスハーンと会ったのはその中の試合でだ。その試合は俺が勝ったんだが、まあ話をしたらウマが合ってな」

 

 拳闘士であれば自由拳闘士であろうと奴隷拳闘士であろうと試合は行われる。その中で出会い、仲が良くなったのは年と境遇が近かったからだというトサカの話に、自分にとっての小太郎のようなものかと一人で納得することにしたアスカは昼過ぎになってから陽射しを落として来た太陽を見上げた。

 

「俺が兄貴とママを解放できたのが三年前、心機一転だってこの街に来たのは正解だったな。問題はあるが順調にやれてるからな。シスハーンが解放奴隷になったのは五年前。それ以来、会っちゃぁいなかったが、随分と苦労したらしい」

 

 戦争が終わっても問題がなくなったわけではない。寧ろ戦争という大きな問題に片が付いてしまったが為に他の問題に目を向けざるをえなくなった。

 戦争が終わった後は大抵の国の経済・社会が混乱を来たす。

 世界の終末すら見えた戦争の後で経済と社会が順調なはずもなく、多くの軍人が職を失い、あちこちが焼け野原で住む場所もない。難民も多く誰もが困窮していた中で、はたしてどれだけの人が真っ当な生活を送れたのか。一般の人ですら辛酸を舐めたというのならば奴隷がどうだったのかと言えば地獄と言うしかない。

 

「それであのシスハーンって奴は世界を恨んで、この街で何かをしようってのか」

 

 この街に来た時に聞いた話と先程の話を合わせて類推するに平和的な行動ではないと馬鹿でも分かる。

 

「よろしくねぇことは間違いない」

「止めなかったのか?」

「どうやって止めろっつうんだ。俺もアイツらの気持ちはよく分かる。今の世界を変えたいって気持ちもな」

「でも、アイツと一緒に行かなかったじゃないか」

「気持ちが分かっても今の生活がある。もう博打に出れるほど若くはねぇんだよ」

 

 二十代後半の年齢にしては枯れた台詞ではあるが、今の生活を守るというよりバルガスとクママチーフに迷惑をかけることを嫌ったのではないかとアスカは内心で推測する。

 

「世を恨んでいる奴ってのは探せば多くいるもんさ。そんな奴らがこの街に集まって今夜に何かをしようって計画があるらしい。俺も詳しいことまでは分からねぇが」

 

 今夜に行動を移すとは随分と急な計画だとは思いつつも、当日までトサカを仲間に引き込もうとするシスハーンの行動の無謀さに頭が痛くなりそうだった。

 

「止めなきゃなんねぇんな。世界を恨む奴が何か実行しようとしている時は大抵が血生臭くなる」

 

 荒くれ者達が多そうな連中が起こす行動といえば大抵が力押しに終始する。経験則というよりエヴァンジェリンから聞いた昔話から得た教訓でシスハーン達の行動の結末を薄らと予測したアスカが眉を顰めた。

 

「俺は団長の兄貴に伝えて領主に話しを通してくる」

 

 都市代表になったのはアスカではあるが、選手団の団長はバルガスである。元はトサカだったのだが代表選手が変わった際にスライドした形になる。

 選手団は領主直属なので団長にはホットラインが用意されていることは前団長であったトサカも良く知っているので、バルガスに伝えれば領主に伝わり、ひとまずはトサカは自分の役割を果たしたといえるだろう。

 

「俺は茶々丸や千雨を逃がさねぇとな」

「ママにも伝えてくれよ」

 

 二人の意志はシスハーン達を止めることで一致しているが、血生臭いことになるのならば身近な者を危険から遠ざけておきたいと気持ちも同じだ。

 

「ああ」

 

 そして二人は別れる。

 トサカは闘技場に戻り、アスカは外へと出る。

 走って闘技場に併設されている飯所に向かう途中で見上げた空は赤々と、この日を限りに明日からは永遠に夜になるとでも覚悟しているかのように、残照を一杯に集めて燃えて激しく、そしてこれ以上もないほどに染み入る優しさで世界を照らしている。

 

 

 

 

 

 アスカが闘技場を出て走り始めて直ぐ都市を少しずつ霧が漂い始めた。

 瞬く間に霧は濃霧となり、夕暮れ時には決して有り得ぬ現象にアスカは眉を顰める。

 

「何かの魔術具の効果か?」

 

 自然に発生した現象ではないとするのならば誰かの魔法か、それとも魔術具で霧を発生させていると考えるのが自然だ。都市を覆い尽くすほどの霧を魔法を行使したとするならば、アスカの感覚に少しは引っ掛かるはず。となれば、どこかに設置した複数の魔術具を同時に起動させたと考える。

 

「くそっ、こんなことなら念話で連絡を取るんだった」

 

 飯所には直ぐに着いたものの、どうやら入れ違いになったようで闘技場に向かったと聞いて引き返す羽目になってしまった。そして闘技場に戻ってみれば、これ以上の入れ違いを防ぐ為に先に寝床に向かったというのだから念話を事前に使っていればと後悔していた。

 

「念話は誰にも通じないし、人の気配が掴めねぇ。この霧の所為か?」

 

 後悔先に立たず。どうやらこの霧には念話阻害の効果もあるようで、アスカの超感覚も周囲の気配を探ることが出来ない。

 どこから人が飛び出してくるか読めず、下手に走る速度を上げることも出来ず、迂闊に空を飛ぶことも出来ない。事実、建物といった障害物のない空を移動しようと考えた者達が空中で衝突して落ちてきている。

 ここは地道に周りを気にしながら地を進む方が適作と判断し、寝床の近くに辿り着いたところで前方から三人の足音が聞こえて来た。

 

「三人? そういや子供を拾ったって言ってたな」

 

 微かに感じる気配は千雨のものだ。となれば、重い足音が聞こえながらも気配を感じないのは茶々丸となる。すると千雨よりも小さな足音と妙な気配の持ち主は、アスカと別れてから出会ったという少女ではなかろうかと話を聞いていたので推測する。

 人、というには些か奇妙な気配に足を止めたアスカの眦が自然と厳しくなる。

 

「っ?!」

 

 そして霧を縫って現れた千雨、茶々丸に連れられたそれ(・・)を見た瞬間、全身に奔った悪寒にアスカは全力で飛び退いた。

 

「お、おい、アスカ……? いきなり会ったと思ったらどうしたんだよ」

 

 姿が見えたと思ったら霧の向こうへと跳び退ったアスカに困惑して、こちらも足を止めた千雨が目を丸くして問いかける。だが、アスカの眼は千雨を見ていない。ただ一心に茶々丸と手を繋いでいる子供を視ている。

 

「どうしたってのはこっちの台詞だ」

 

 アスカは拳を強く握ろうとして惑うように指先を震わせた。

 本当に何のことか分からない千雨は一歩足を勧めたところでアスカが同じように距離を取ったのを見て、流石に機嫌悪げに眉尻をクッと上げる。

 

「どうしたって……」

 

 と、言ったところで千雨はアスカの視線が自分と茶々丸を見てはおらず、視線が斜め下――――つまりはシェリーを視ているのだと気づいた。

 クママチーフの好意で買ってもらった真新しい衣類を纏い、整容をきちんと行ったシェリーは話していた浮浪児とは似ても似つかない。このような霧の中で恐らく神経過敏になっていたのに話と違う人物がいて驚いたのではないか、と千雨は考えた。

 

「なんでこんな小さな子にそんな剣呑な雰囲気出してんだよ、アスカ。らしくないぞ。この子はシャリーだよ。話はしてあっただろ」

「ああ、覚えてるさ。俺は、人間を拾ったと聞いた」

「じゃあ、なんでそんな剣呑な態度なんだよ」

 

 何を言っているのだ、と全く以て理解できなくて腰に手を当てた千雨の視線の先で、目を細めたアスカは緊張感を並々と湛えて眉間からタラリと汗を垂らして拳をハッキリと握る。

 

「俺には、それ(・・)が人間には見えない」

 

 アスカが言った瞬間、千雨の視界を稲光のような閃光が奔って「ぐぁっ!?」と呻き声が聞こえた。

 

「千雨さん!?」

 

 状況を理解するよりも早く後ろにいた、声からして恐らく茶々丸がぶつかってきた。

 背中から突き飛ばされるなどと想定もしておらず、ぶつかってきた威力が強すぎて手を付くよりも早くこのままでは顔から地面に突っ込むかというところで体が真横に流れる。

 千雨には見えないが、彼女を背中から体を抱えている茶々丸が背中側の服を突き破って出したブースターが火を吹いていたのである。

 

「あわわわわわわわわ?!」

 

 上下前後左右にどれだけ振り回されただろうか。

 目が回るよりも早く止まったのだからそれほど長い時間を飛び回っていたわけではないのだろう。どこかの建物の屋上端に茶々丸に抱えられたまま下りた千雨は、先程の稲光の閃光と振り回されたことで揺れた脳のダメージは容易くない。

 フラフラとする頭で遅い思考が追いつくよりも早くチカチカとする視界が異変を捉える。

 ガラッ、と音がして先程まで千雨がいた場所の対角線上の建物の壁からアスカが片手で壁の欠片をどかしながら起き上がっていて、もう片方の手には紫電を発する特殊な意匠の槍の穂先が握られていた。

 本来ならばアスカに注目するはずなのに千雨が視ていたのは別のモノ(・・)であった。

 

「な、なんだアレ(・・)は?」

 

 茶々丸にぶつかられて倒れ込むはずだった地面が割れて大きな地割れが発生しており、辺りには風が吹き荒んでいてこの一帯だけ霧が追いやられている。異変はそれだけではない。

 シェリーの前に、それまでただ吹き荒れるだけだった風が生命あるもののようにヌメヌメと集まっていき、雷光を纏いながらゆっくりととある形を形成していく。

 瓦礫をどけて立ち上がったアスカは、これ以上ないというほど表情を顰めて空中で形を形成していくソレを見つめた。

 すると、不定形と思われたソレから、ヌウッと腕と思しきものが生えた。その先端の手に当たる部分に、バチバチと激しく弾ける音を響かせながら雷光が集まってくる。途端、アスカの手から特殊な意匠の槍が消え去り、シェリーの前へと出現した。

 

「はっ!? 逃げろ!!」

 

 何かに気づいたように千雨達に向けてアスカが叫ぶ。途端、シェリーの前に出現した槍を握った腕が軽く振るわれると同時に雷光が大きさを増して激しく輝いた。

 その場で飛び上がったアスカに習って茶々丸は千雨を抱えたままその場から飛ぶ。直後、落雷の大音響と共に千雨達がいた建物が粉々に吹き飛んだ。だが、何かの攻撃はそれだけでは終わらなかった。

 飛び上がったアスカを追いかけて、大蛇のようにのたうつ雷光が奔る。

 

「二度も同じ手が効くか!」

 

 黒棒を呼び出して雷光を切り払うアスカ。が、手応えが薄かったのかアスカの表情に笑みはない。

 建物の屋上の上の空中で止まったアスカはシェリーを見下ろしたまま目を離さない。

 その視線の先で槍を握った腕から胴体が形成され、反対の手や足、そして顔が生み出されていく。紫電は更に激しさを増して、二本足で立つソレの存在を明らかにする。

 

「やれやれ、今回はまた随分と荒い召喚のようだ」

 

 より人型に近い形になったソレは言いながら背伸びをするように体を伸ばす。それだけで発せられる紫電が途中で何本にも枝分かれして、その先端全てに強烈な雷光を纏いつかせる。

 

「最悪だ、ルイン・イシュクルだなんて」

 

 あの姿はエヴァンジェリンの別荘にあった文献に載っていた上位雷精『ルイン・イシュクル』そのものだ。数いる魔物の中でも最強クラスと街中で遭遇するなどありえていいはずがない。

 人よりも物語に出てくるような悪魔のような顔のルイン・イシュクルを見つめ、アスカの口から漏れた声には絶望と称して疑いようのないものが込められていた。

 全身を形成したルイン・イシュクルは、アスカを見て苦笑のようなものを浮かべていた。

 

「相手が中々の遣い手のようでは長引きそうか…………さて、そこの災難な若者よ」

 

 見下ろすアスカを見遣って憐れむように声をかけた。

 

「これから起こることは拙者にはどうにも出来ぬこと故、予め謝っておこう。殺してしまい、済まぬとな」

「なに?」

「この少女は我ら精霊を狂わす…………ぬぅ、もう時間切れか」

 

 貴重な情報を得ようと耳を傾けたアスカの視線の先で、ルイン・イシュクルの表情が微かに強張り、その白雷で構成されたような体の胸の部分に墨汁を一滴垂らしたような黒い点が生まれていた。

 

「ぬぐぐぐぐ、戦うよりも逃げることを勧めるぞ。拙者から逃げられればだが」

 

 全身を染め上げるように広がる黒に苦し気な声を上げながらも意外に余裕のありそうな感じでアスカにアドバイスを送り、黒がルイン・イシュクルを全身を染め上げた。途端にルイン・イシュクルが発する気配が獰猛に変わった。

 

「ギャギャギャギャギャギャギャギャギャヤャャャャャャャ!!」

 

 完全に黒化したルイン・イシュクルが醜い叫び声を上げると、その全身が雷が発せられてそこかしこに着弾して爆発が起こった。

 

「止めろ――ッ!!」

 

 尚も雷を発して街を破壊しようとしている黒いルイン・イシュクルに向かって、先程の絶望を振り捨ててアスカが飛んだ。

 

 

 

 

 




黒化ルイン・イシュクルVSアスカの開幕です。

次回 『都市を紅に染めて』


この二ヶ月にしていたことを活動報告につらつらと






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第68話 都市を紅に染めて

 

 シェリー・■■■■■は変わった子供だった。別に人相や性格が人と違うわけではない。寧ろ何時も人形を抱いて笑っている姿は愛らしいとすら言える。では、何故変わった子供だったのかというと生まれる瞬間にまで遡らなければならない。

 シェリーは生まれたのと同時に母親を失っている。

 母親は出産時に原因不明の爆発が起こって入院していた病院諸共に多くの者達と焼け死に、シェリーだけが何故か傷一つなく生きていたのだ。

 後に爆発は精霊が暴走した所為と判明したが、そのような事例は今まで確認されておらず、原因不明として事件は収束することになる。ただ一人、シェリーを例外として。

 それほど大きくはなかった町ではシェリーは厄災の子と呼ばれるようになっていた。

 百人近い死者を出した病院爆発でただ一人の生存者であること、そして彼女が癇癪を起した時に発生する異常現象を知った誰かがシェリーを厄災の子と呼び出した。

 この時からシェリーの不幸は始まった。

 

『この化け物め!』

 

 シェリーの一番古い記憶は父に罵倒されるところから始まる。

 妻を失い、生まれた娘は百人近い者達を殺したかもしれないと疑いをかけられて町を追い出され、精神を病んでしまった父は娘を罵倒するようになった。

 父は心底から娘を恐れていたのである。

 最愛の妻を失って、せめて娘を一人前に育てようとしたのに、赤ん坊の頃から泣く度に不思議な現象が起こってこちらを傷つけてくる娘。

 現状に耐え切れずに娘を殴ろうとすれば、突如として現れた精霊が自らを打ち据える。家から遠く離れた地へ捨てても、どうやってから戻ってきてしまう。職も住むところも失い、それでも生きなければならないとなれば最早狂うしかない。

 

『出ていけ!』

 

 曲って、狂い、侵された父は、少なくとも行き過ぎない言葉の暴力であれば異常現象は発動しないと分かっていたので娘を自分から出ていくように仕向けた。

 散々の罵倒を受けてもシェリーが家から離れなかったのは彼女なりに父を愛していたからだが、狂って追い詰められた彼には伝わらなかった。

 

『化け物!』

 

 英雄でも何でもないただの人である父親の精神は、心に鑢をかけられるような日々に遂に限界を迎えた。

 このまま娘と暮らし続けるよりも異常現象に合ってでも現状の打破を求めたのだ、その先がどうなるかを理解せずに。

 

『出ていけ、化け物!』

 

 半ば精神が壊れた父は木の棒を持って振り回しながら娘を威嚇した。

 場所は掘っ立て小屋のようなボロい家の外。家を背にした父は締まりのなくなった口から涎を垂らしながら目からは正気の光が失われている。

 当の娘は父の異変に気付いていながらもボロボロの人形を抱えたまま立ち竦んでいた。

 シェリーには理解が出来なかった。父が自分を嫌い、憎み、疎んでいることは分かっていたが同時に自分を愛していると疑っていなかった。何故ならば彼女には世界の祝福があったからだ。

 

『――――』

 

 シェリーには常人とは違うモノが見えていた、精霊と呼ばれるモノ達が。

 普通の者達には見えず、よほど卓越した魔法使いやチャンネルの合う眼の持ち主でなければ、精霊が纏わる魔法を使いもしなければ普段から見えることはない。大してシェリーは前提とした全てに当て嵌まらない。

 上位精霊ならばともかくとして、魔法使いが魔力を代償として使役する精霊の個我は薄い。とはいえ、人によって得手不得手があるように、精霊に対する感応力にも差がある。

 「地」「水」「火」「風」の四大元素から「雷」「光」「闇」「氷」「石」「影」「重力」等の様々な精霊がいて、どんな人間でも強弱はあって必ず何かしらの適正がある。逆に言えば、全ての属性に適性があることは理論上有り得ないのだ。

 その理論上有り得ないことを覆しているのがシェリーである。ただそこにいるだけで精霊を惹きつける人間。誰よりも精霊に近く、シェリーならば魔法使いのように魔力を糧とすることもなく魔法を使うことすらも可能だろう。

 問題はその年齢・精神性に対して適性があり過ぎたことだった。

 

『さっさと出て行けと――』

 

 父親が最後の一歩を詰めて振り上げた棒を本当に叩きつけるつもりで振り上げたのを見た時、始めてシェリーは身の危険を感じた。

 木の棒が振り下ろされる正にその瞬間、生存本能が爆発して精霊感応と呼応してルイン・イシュクルを呼び出して、理性を奪って生命を脅かす根源を排除する。

 

『え?』

 

 視界を圧するほどの閃光が奔り、同時に頬に付着した液体にシェリーは理解できないと声を漏らした。

 生存本能が端を発して高まった精霊感応力で自分が呼び出した上位雷精の理性を奪っていることも、理性を奪われたルイン・イシュクルが主を脅かす危険を排除することも、その能力に反してただの幼き子供に何もわかるはずがない。

 

『お、父さん?』

 

 この後に起こるこの一帯を焦土へと変える破滅が起こっても、結局はシェリーは自らの能力を知ることはない。

 彼女にそれを教えられる者は誰もおらず、また正しく導く者もいない。世が世ならば人類史に名を遺す逸材に成れたかもしれないのに、生誕の時から恵まれなかった彼女の運命は加速し続けるばかりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『上位雷精ルイン・イシュクル。こいつに出会ったら直ぐに逃げろ。いくら今のお前が強くなったとはいえ、まだ敵う相手ではない』

 

 エヴァンジェリンに言われたその言葉を決してアスカは忘れていたわけではなかった。

 アスカは決して一瞬たりとも警戒を緩めたりはしなかった。当然である。黒くなり理性を失った様子であろうともルイン・イシュクルは、数いる魔物の中でも最強クラスの誉れ高い上位雷精。

 油断する要素は欠片もなかった。中空にいるアスカの周囲に遮蔽物はなく、見落とす要素はどこにもない。

 だが、そこにいた。気づけばそこに、アスカの直ぐ目の前に人影があった。

 音もなく湧いた、としか表現できなかった。ただ、気づけば目の前にルイン・イシュクルは存在していた。

 雷光の速さで詰められた間合い、雷撃の強さで叩き込んだ拳。腹部を打ち据えた拳に、アスカは見事に吹き飛ばされる。直ぐに受身を取ったアスカは、それでも十数メートル以上も地面に火花を散らしたところでようやく停止した。

 ガクリと片膝をついたアスカは、そもなぜ自分が吹き飛ばされ、ダメージを受けているのかを理解していない風に。

 

「は……?」

 

 残響音の中、口から零れ出たのは疑念の呻き。前方を睨んでいたその眼光は、打たれた己の腹へと落ち、一瞬前まで自分がいたはずの場所を見遣って、最後に右拳を振り抜いた姿勢で帯電するルイン・イシュクルを見てから、ようやく自分に起きたことを理解した。

 

「雷速移動か」

 

 文献で読んだ通りの移動方法に戦慄していると、ルイン・イシュクルはゆっくりとアスカを見下ろす。

 お互いの距離は十数メートル前後。

 アスカは全神経を集中して、ルイン・イシュクルの指先の動きまで捉えていた。ルイン・イシュクルの雷速に反応して下手な一手は打たずに最適のタイミングを把握して突撃しようとしているのだ。

 またもや唐突に、残像すら残さずにルイン・イシュクルはアスカの目の前から消えた直後、ガクンと視界が大きく傾いた。

 

「……、あ?」

 

 右肩の辺りに衝撃を受ける。痛みが走る。首を振ると、尾を引く残像のように視界全体が大きく崩れた。視界の先に空が見えてようやくアスカは自分が攻撃を受けたことに気づかされた。

 

(は、速い) 

 

 何らかの攻撃をされたのは間違いない。しかし、そもそも何をされたのかが理解できない。一体どのタイミングで攻撃が来たのかすら把握できなかった。

 

「ッ!?」

 

 音は聞こえなかった。相手を見失って視線を宙に彷徨わせたアスカは、避けろ、と頭が悲鳴を上げるよりも何倍も早く、残像すら残さない雷速で接近したルイン・イシュクルによって自身の視覚が急激に横に流れるのを辛うじて捉えた。まだ息も吸えない。

 アスカが息を呑む前に、既にルイン・イシュクルはアスカの真横へと飛び込んでいた。消えた。アスカの目にすらそう判断するしかないほどの速度で潜り込んだルイン・イシュクルは、不意にアスカの鼻先に出現して頬を横から殴るように肘を放つ。

 凄まじい威力だった。アスカはきりきりと身体を回転させながら、近くの建物の壁に向かって吹き飛ばされた。途中、何度か弾んだ拍子に砕けた床が破片を撒き散らし、激突した壁が爆発したように吹っ飛ぶ。

 アスカが一軒の店か家の中を壁から壁へとぶち抜いて別の通りへと出たと同時に響き渡った雷鳴。大気を振るわせたそれはアスカの鳩尾を突き上げた雷拳の一撃。前のめりに崩れ落ちそうになりながら、アスカは濁った呻きを漏らす。

 

「グギャ!」

 

 続く攻撃は苛烈に激しく。腹に打ち込んだ右の拳を引きざま、左の拳を脇腹に叩き込む。次は右を、顔面を、ガードしようとした右腕を、蹴り返そうとした左足を、ルイン・イシュクルは雷光を纏ったままで一撃ずつ、深く、確実に、抗おうとする全ての動作を叩き潰していく。

 

「ぐくっ!?」

 

 堪らずに後ずさったアスカ。だが、間合いが開けば開いた分だけ踏み込んで、より重い一撃を加えるルイン・イシュクル。逃れることも、防ぐことも赦さぬと、雷拳の連撃は、速く、深く、苛烈に、アスカを飲み込んで轟雷を響かせる。

 

「行け!」

 

 轟雷によって生まれた噴煙を突き破って、アスカが飛び出してくる。一人、二人…………ざっと数えて十人以上のアスカたちが、ルイン・イシュクルに向かって襲い掛かった。

 ルイン・イシュクルは、分身達をものともせず、姿が消えたと思ったら、次々とアスカたちを打ち破っていく。打ち破られた分身から生まれた煙が煙幕のようにルイン・イシュクルの周囲を取り巻き始める。

 その煙を突き破り、分身の背を蹴って本物のアスカが宙を飛ぶ。きりきりと身体を捻り、片手に持った黒棒でルイン・イシュクルの背後から斬りつけた。

 

「やったか!」

 

 狙いはあやまたず、黒棒はルイン・イシュクルの背中を切り裂いた……………はずだった。今さっきまでそこにいた筈のルイン・イシュクルの姿がなく、黒棒は目標を失って空振った。

 剣を振るった直後のアスカの横に消えたルイン・イシュクルが現われ、掬い上げるような腹部に打撃を受けた。アスカは躱すことも出来ず、それをまともに腹部に受け、姿勢を崩したまま地面の上に転がった。

 

「魔法の――」

 

 アスカは苦痛に顔を歪めながらも、魔法の射手を放とうとするも、文字通り雷光石化の速度で肉薄したルイン・イシュクルは、アスカの手首を掴んで容易く持ち上げ、ぐるぐると頭上で振りました。そうして、地面に向かって叩きつける。

 

「ぐわっ!」

 

 全身を叩きつけられる前に足で着地すると鳩尾を強かに蹴りつけられた。激痛に思わず反射的に腹部を押さえ、膝を折ったアスカの顔面にルイン・イシュクルの拳が叩き込まれる。

 大気が震え、ばちばちと帯電させる。直後、ルイン・イシュクルは雷と化して亜高速で飛翔して拳を振り放った。空気を引き裂く雷鳴は、踏み込みと打撃と衝撃と、全てを刹那に重ねて鳴り響く。

 

「グギャ!」

 

 ルイン・イシュクルが叫んだ直後の攻撃は、全く把握できなかった。

 左の前腕に感じ取った先行放電(ストリーマー)に肘のカウンターを合わせたはず。避けようがなく当たるはずの一撃は空を切り、気付いた時にはもう、アスカの体は宙を舞っていたのである。直後に襲い掛かる衝撃と痛み。

 

(飛んでいる!?)

 

 何時の間にかアスカは空中に浮かんでいた。当然、そのままでは落下して地面に叩きつけられるので体勢を整えようとして再度の衝撃と共に吹き飛ばされる。

 今何をされたと驚愕と共にそれを成したルイン・イシュクルをを探すも見つからない。見えない。捉えることが出来ない。

 加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃、加速、衝撃―――――。

 攻撃を受けるという認識が間に合わなければ防御など………間に合うはずがない。

 忽ち、アスカの身体は雷を伴った打撃に覆われた。身体中から迸る打撃によって生まれた煙が霧の如く、アスカを隠したのである。

 力が抜けた。

 糸の切れた人形(マリオネット)のように、身体が崩れ折ちて地面へと堕ちた。膝だけでなく、腕からも肩からも、あらゆる関節から力が抜けていった。突き抜けた衝撃波によって、アスカの意思が肉体へ伝わらなくなっているのであった。

 

「……ぅ、かはぁ……」

 

 掠れた息が、漏れる。

 ありったけの力を膝に込める。しかし、脳を揺らされたのか込めた先からすり抜けていく。

 速度は神域。その動き、まさに閃電。

 見えない。かつて戦った誰よりも速く、早い。こんな相手と普通に渡り合えるはずがない。何の弱点もなく、発動に際するデメリットもない。己は敵よりも圧倒的に速い。だから、スピードに任せて攻撃し、防御する。雷速によって、常に敵よりも早く行動を開始する。攻撃を受けても雷速で回避し、絶対に被弾しない。速さという利点を活かした単純にして絶対的な戦術だった。

 

「グギャギャ!」

 

 更に雷槍を構えての炸裂砲弾。回避不可避、防御不能の致命の一撃が来ると勘で察知したアスカは己の裡の力を解放した。

 

「はぁあああああああああああああ――――――!!」

 

 アスカは咆哮と共に全身から血流の如き魔力を溢れさせ、周囲を爆圧で吹き飛ばす。空間そのものを砕くかのように激しく、突撃しようとしていたルイン・イシュクルの身体を後方へと押し返した。

 

「…………ハッ、なんだよそりゃ………雷そのものだなんて何の反則だそれ………」

 

 アスカはここにきてようやく、ルイン・イシュクルが最強と言われる所以を実感した。

 ぼやきは失笑のように、それでもアスカは戦意を緩めない。不屈の敵意だけを眼光に宿して睨み上げる。ルイン・イシュクルはその眼光を真っ向から受け止めて、構えた雷槍に一際力を込めた。

 互いを隔てる距離は目測で約十メートルと少し。二人ほどの実力者なら一足跳びで潰せる間合いである。だからこそ、まずはその先手を譲らぬために、ルイン・イシュクルは無詠唱で

白い雷を放った。アスカが魔法の射手を放つよりも遥かに早い。

 

「速過ぎる!?」

 

 文献に記されていた通り、ルイン・イシュクルは風系雷系の魔法を呪文なしに使い放題なのだと、何の予備動作もなしに白い雷を放つ生成スピードに驚愕しつつ飛翔して躱す。

 地を蹴っての跳躍ではなく文字通りの飛翔であったが、全身を雷光に変じての亜光速移動であるルイン・イシュクルの前ではコマ送りと何も変わらない。飛び立った直後に着弾して発生した土煙の向こうから稲妻となって飛来したルイン・イシュクルは、アスカの懐深くに踏み込んだ姿勢での体当たりを敢行する。

 

「ぐっ」

 

 雷鳴と轟音を響かせて後方へと弾かれるアスカ。そのまま何かの建物の壁に突き刺さり、瓦礫に埋もれながらも、アスカは咳き込んで理解する。

 

(なるほど、確かに自身を雷に変えている。まるで元素変換(マグナス・オブス)だな)

 

 本物の雷に打たれたように服のあちこちが焦げて重度の火傷を負った己の腕を見下ろして笑う。通電の具合が良かったのか、はたまた咄嗟の防御が間に合ったのか、広い範囲ではあるものの表面的な火傷だけですんでいる。

 防御魔法を突破され、咄嗟の反応で障壁が間に合って致命傷を避けたものの、体当たりされただけでこの有様だ。流石は上位雷精というべきか。雷速とは恐れいった、と火傷を負った身を治療しながら賞賛する。

 本物の雷と同じく先行放電に、意思よりも先に身体が動かなければ、すでに勝負は決していただろう。

 単純なぶつかり合いになれば、アスカの方が不利である。手数と間合いが違いすぎるのでアスカが一撃放つところを、向こうは十発は放てるのだからどちらが有利か良く分かるというものだ。

 しかし、とアスカは瓦礫に圧し掛かられながら考える。

 

(今の一撃から、一気に畳み込まなかったのが命取りだ)

 

 アスカはその場に片膝をつくと、静かに両の目を閉じて無言不動で神経を研ぎ澄ます。

 自らを雷と化しての動きは、限りなく光速に迫る速度。まともに追おうとしても捉えきれるものではないだろう。だが、あくまで雷速といっても常時その状態ではない。攻撃を受けた感じでは必ずその瞬間には実体化している。狙うとしたらそこしかない。

 崩れる瓦礫と土煙に遮られた視界。おそらくは、こちらを視認すると同時にルイン・イシュクルは再度雷光化して一気に倒しに来るだろう。でなければ、アスカの攻撃に先手を譲ってしまうからだ。そして先手を取ればもう、互いに攻め手を緩めはしない。つまり、アスカもルイン・イシュクルも、先に相手を補足した方が勝つ。

 アスカは戦闘用に研ぎ澄ました感覚をさらに鋭く尖らせる。それは五感全てではない。聴覚と視覚――――敵を聴き取る感覚と姿を見る感覚だけを集中する。

 僅かな空気の流れも聴き取るため、一mmの動きを見逃さないために、それ以外の感覚をハッキリと閉ざして、思考すら停止させて、その神経全てを、二つの感覚へと収束する。

 常人からすれば、いや達人からしても異常ともいえる領域に二つの感覚を高めていく

 亜高速の動きなど負えるわけが無い。亜高速で現れた敵を迎え撃つことも同じく。何時どこで現れるのか分からぬ以上、まともに索敵していては、アスカはどうしても一歩も二歩も遅れる。

 雷光を見てからでは間に合わない、雷鳴を聞いてからではなお遅い。

 敵は光ではない。ましてや雷ではない。雷電のように動けるだけのただの精霊だ。

 試合で闘ったシュナイゼ・マクスウェルとの対戦で精霊の気配の探知の仕方を理解している。しかも理性を失っている様子から気配はダダ漏れ。雷速で動こうともその意念からは狙いが読み取れる。

 心の波を消し、静かな湖面の様にする。波のない水は鏡に似ており、周りも自分も、そしてルイン・イシュクルすらも底に映し出す。全ての音が遠ざかり、周りの全てが静寂に包まれたかのような錯覚を覚える。

 自分を一滴の雫にすると湖面に堕ちた雫は波紋を生み、均等に周囲に広がって行く。本当の集中は一点に絞るものではない。波紋の様に、意識を一点から周りに広げて行くものだ。

 感覚と思考がクリアになり、先程とは違い周りの状況が感じ取れる。周囲には、崩れた瓦礫の音が、己の呼吸が、鼓動が、様々な雑音が入り乱れがなり立てる中で、それらの全てを、まるで俯瞰でもしているかのような感覚で頭の中へ浸透する。

 だが、それでも相手は雷速である。感知能力を高めただけでは届かない。ならば、自分も物理的な速度を速めるしかない。

 

「くっ……」

 

 学園祭で超との戦いでも使った、魔力で雷を操作して全身の電気信号を操作して体感時間と反射速度を加速させる。

 後で必ずリバウンドが体を襲うが、雷速とまではいなくても先鋭化した感知能力と合わせれば雷化に対応できると考え、アスカが着々と迎撃の準備を整えていたとき、土煙が晴れてルイン・イシュクルはアスカの無事な姿を見てまた雷光を纏う。

 既に準備を整え終えたアスカの耳に轟いたのは微かな雷鳴、目にしたのは稲光。思考よりも早く自然にアスカの身体は動いた。

 鼓膜を打ち、大気を振るわせるほどの轟音は、ルイン・イシュクルとアスカの左右の雷拳を打ち合わせて生じさせた衝撃波の音。

 

「……ッ!?」

 

 音と音が衝突したことによる衝撃波が、周囲の瓦礫を蹴散らして爆散する。視界が晴れた瞬間、立て続けに鳴り響いた雷鳴と、走った閃光。

 自らの雷拳が、迎え撃たれ防がれた事を悟った時、ルイン・イシュクルの眼前にはもう、アスカは動いていた。同じように雷を纏う手が掴みあい、拮抗すると思った瞬間には既にルイン・イシュクルの姿は掴み合っている手の中から消えている。神経を集中する。

 顎の先に、微弱な電流が這うようなチリチリとした感覚があった刹那、上体を仰け反らせる。すると、その場所を拳を突き上げたルイン・イシュクルの身体が下から上へと通り過ぎていく。

 ここだ、と最速で放てる無詠唱の魔法の射手・雷の一矢を放とうとした。

 

「なっ!?」

 

 放とうとした雷の矢が、正確には雷の精霊が反応せずに不発に終わる。

 有り得てはいけない現象にアスカの思考が硬直した隙をルイン・イシュクルは見逃さない。

 最初に音が聞こえた。直後、花火工場が爆発するような直撃音が響き渡った。これまでの弾丸が豆鉄砲に見えるほどの破壊力だった。つい先程までアスカのいた所が、無詠唱で放たれた雷の斧によって地面ごと綺麗に吹き飛ばされた。

 

「…………うぅっ」

 

 砲弾が着弾したような衝撃の後に、自分が何を言ったのか分からず、アスカの体が勢いそのままに壁へと叩き付けられた。

 強すぎる勢いに反発して壁から弾き飛ばされるように跳ね飛ばされ、更に地面へ叩き付けられた。そのまま勢いでゴロゴロと地面の上を何メートルも転がる。手足を乱暴に投げ出してうつ伏せに倒れるその姿は、なんだか壊れた人形を連想させた。

 うつ伏せになったまま動かないアスカの衣服の所々から、線香のように薄い煙がゆったりと漂っていた。長時間テレビゲームをやっていると、ゲーム機本体が熱を持つように。

 雷そのものが直撃した少年の体のあちこちに軽度の火傷を刻み付けていた。目を剥き、口の端から血とも涎ともつかないものが垂れるのを止めることもできない。身体を駆け抜けた雷の衝撃に指先一つ動かせなかった。

 

「雷精、を……奪う、とか……反則……だろ」

 

 先程の魔法の射手が発動しなかったのはルイン・イシュクルか、それ以外によって雷精を集める前に奪われたのだと理解していた。

 

「うぅ」

 

 アスカは倒れたまま、ゆっくりと目を開けた。高圧電流を浴びて意識を失っていた時間は、恐らく短い。時間にすれば精々五秒か十秒程度のものだろう。

 だが、投げ出された手足の先が異様に冷たかった。正常な血の巡りが阻害されているのだ。感電の衝撃で心臓の鼓動が不規則になっているかもしれないし、最悪、気を失っている間に一度か二度、心臓が止まっていたのかもしれない。

 

「精霊系統の魔法が使えないなんて、無茶不利じゃねぇか」

 

 まるで飽きて部屋の隅へ投げられた人形のような自分の手足を他人事のように感じながらも、雷系風系の魔法が丸ごと封じられてしまったことによる影響の大きさの方が大事だった。

 

「……、っ」

 

 試しに指先に力を加えると、人差し指はゆっくりと、死にかけの昆虫みたいに動いてくれた。瞼を動かして瞬きをすることも出来た。ひどく浅いものだった唇の隙間からは空気が吸い込まれ、吐き出されていくし、投げ出された体の中で僅かに心臓の鼓動が聞こえていた。

 体はまだ動いてくれる。それなら、まだ闘う事が出来る。

 歯を食い縛って芋虫のように震える指を動かす。ゆっくり、ゆっくりと五本の指を地面の凹凸に引っ掛け、バーベルでも持ち上げるように渾身の力を振り絞って、ようやく地面から自分の体を起こした。

 片膝をつくだけで、寿命が五年は縮むかと思うほどの疲労。

 片膝をついた状態から更に立ち上がろうと、両足に力を込める。震える膝に全力を注ぎ込み、がちがちに震えたまま立ち上がろうとする。

 今にも崩れ落ちそうな体を動かし、ゆっくり、ゆっくりと上体を起こしていく。

 

「それでもやるしかねぇか」

 

 時間をかけて立ち上がり、一歩ずつ距離を詰めて来るルイン・イシュクルを睨み付ける。

 攻撃系の魔法のほぼ全てを封じられても今ある手札で対抗するしかアスカに打てる手はない。

 

「はっ……!」

 

 佇むルイン・イシュクルに向けて、瓦礫を蹴ってアスカが迫る。無造作でありながら絶大なる踏み込みによって成された一歩は如何なる強者であろうとも容易には躱せまい。しかし、常時雷化出来るルイン・イシュクルに取っては、これを避けるのは児戯にも等しい。

 雷化中は思考加速・身体機動加速の特典つき。この状態にあるルイン・イシュクルの周囲を流れる時間は恐ろしく遅い。映像をスロー再生するようどころか、殆ど静止しているといっていい。

 ルイン・イシュクルにとっては、相手が神域の踏み込みで迫ろうとも亀の歩みに等しかった。壮絶なるアスカの武芸ですら簡単に見切れる。

 徐々に近づいてくる。拳がルイン・イシュクルの顔に触れるまで、後五cm、一cm、二十mm、五mm、一mm……………ここでようやくルイン・イシュクルは回避行動に移った。

 雷の速さでサイドステップする。

 すると、ルイン・イシュクルの体は、本来の状態ならば近くも出来ずに殴られるだけの一撃をすり抜けた。傍目には、当たったはずの攻撃がルイン・イシュクルをすり抜けたように見えただろう。或いは、ルイン・イシュクルが数十cmだけ瞬間移動したかのように。

 雷の速度という神速の世界にいるルイン・イシュクルが感じている状態。如何なる力も、技も、戦術も、全てが意味を失う絶対的な速さ。

 未だダメージが抜けきらない中で、あまりにも理不尽な速度差にアスカが対応策を考えていると、視界に別の敵の姿が見えた。

 

「おい、反則だろっ!?」

 

 気配から地・火・水と思しき上位精霊達がルイン・イシュクルと同様に黒化して、アスカに向かってやって来るのを見て叫ばずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスカを襲っているルイン・イシュクルを召喚したのがシェリーであることは一目瞭然であったから、長谷川千雨と絡繰茶々丸も坐して見ていただけではなかった。

 

「この砂嵐は何なんだ!?」

 

 少し離れたところで稲光が何度も瞬き、激しい衝突音のような爆音が轟く中でシェリーに近づこうとした千雨達を遮ったのは突如として発生した砂嵐である。

 シェリーを中心として発生した竜巻が地面の砂を巻き上げ、人の肉体などミキサーのように削り取って余りある砂嵐を前にして千雨が叫ぶ横で茶々丸は現状を把握しようとしていた。

 

「精霊反応増大中。千雨さん、この場は危険です。離れて下さい」

 

 センサーが示す数値の上昇率からこの場に留まることは危険と判断し、何の力も持たない千雨に避難を促す。

 

「なんでだよ! あそこにシェリーがいるんだろ」

 

 千雨は抱えていて貰わなければ嵐の勢いに吹っ飛ばされていることを理解出来ていないのか叫ぶ。

 茶々丸は不利な戦いを強いられているアスカがいる方向を見て、この場よりも激しい精霊反応に眉を顰めた。

 

「先程の霧はともかくとして、この砂嵐と先程の上位精霊はシェリーが引き起こしています。彼女に危険はありませんよ」

 

 砂嵐とアスカと戦い始めた上位精霊達の出現によって、この一帯の霧はポッカリと穴が開くように視界が晴れている。

 茶々丸はセンサーの感知機能から状況を理解しており、今現在のこの都市で一番安全なのがシェリーであると理解している。

 

「なら、尚更止めなくちゃいけないだろ」

「どう止めるというのです?」

 

 茶々丸にハッキリと言われ、風で煽られる髪を右手で抑えていた千雨は言葉を失った。

 アスカと違って特別な力を何一つ持たない千雨には砂嵐を止めることも、上位精霊をどうこうすることも出来るはずがない。

 かといって機械ならではの分析をする茶々丸に出来ることも多くはない。

 砂嵐を前にして茶々丸の装備で突破できる物は限られる。仮に突破できても威力が強すぎてシェリーの安全は保証できない。この都市の中で、砂嵐を突破してシェリーの安全を保障できる絶妙な力加減が可能なのは上位精霊と戦っているアスカだけだ。

 

「それでも止めなくちゃなんねぇだろ! シェリー!」

 

 この問題の中心にいるシェリーが平静を取り戻し、安全だと認識出来なければ騒動は収まらない。

 何も出来ることがないと分かっていても、一縷の望みを賭けて砂嵐の中にいるシェリーに呼びかける。

 

「砂嵐が動く?」

 

 無駄な行為と思われた千雨の声かけが状況を動かした。

 声かけから逃れるように砂嵐が急遽として動き出したのだ。それも千雨の声から逃げるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クーデターを敢行しようしていたブラット一行もまたシェリーに端を発した騒動に巻き込まれていた。

 

「くっ」

 

 先頭を走るブラットの視界の稲光が支配し、眼が眩みながらも走り続けるが直後に起こる激震に足を取られかける。

 ブラットは足を止めることはなかったが、周りの者はそうはいかない。足を止めて踏ん張る者、中には転んでしまう者も多く、ブラット一人だけで進んでも意味はないので足が止まる。

 足を止めて稲光と激震の原因を見上げたブラットは再び走る閃光を遮るように目を手で覆った。

 途端、空一面からシャワーのように雷撃が降り注いだ。そこかしこで小さな火の手が上がり、街の中心を少し外れたところで巻き上がっている砂嵐の強力な風に吹き消される。

 

「英雄がいるのならば対する敵もまたいると考えていたが、相対するのは我々ではなかったということか」

 

 物語の中で英雄には必ず相対すべき敵がいる。悪政を敷いているわけでもない都市に我欲で行うクーデターなど悪でしかないと考え、英雄級の力を持ったアスカが現れたのは自分達の計画を阻むために運命が用意した駒と考えていたのだが、この状況を見る限りでは違ったらしい。

 

「あの調子では英雄は我らの計画に口を出すことは出来まい」

 

 英雄とその敵との戦いは苛烈を極めている。

 建物を超える土の巨像がむっくりと起き上がり、地面に向かって振り下ろすが不思議なことに大地が揺れることはない。振り下ろされた拳は地面に落ちる前に粉砕され、跳び上がった小人が膝を蹴って胴体中央に辿り着くと巨体がザンバラに切り捨てられる。

 崩れ落ちていく土石の欠片を縫うように風の刃が裂き荒れるが、英雄は切り裂かれて爆発的に飛び散る土砂を頭から浴びながら激しく辺りを飛び回り、相手に的を絞らせない動きを徹底していた。

 攻撃は尚も続いている。空中に突如として発生した焔は真一文字に切り裂かれ、触手のような水の鞭を回避し、降りしきる雷撃の雨を持てる力全てを振り絞って必死で逃げ回っている。

 

「進むぞ。あの事態は我々には届かん」

 

 恐れを抱いている仲間を喝破し、先導して足を進める。

 英雄が計画を阻むにしても、これほどの騒動に発展しては都市内だけで収めるのは難しい。

 殆ど魔法が使えず、気の遣い手であるブラットにも感じられるほどの精霊の異常だ。この事態を両軍が見逃すはずがない。どういう結末を迎えてもキンブリーの暗躍で都市外に展開している帝国と連合の軍が都市に流れ込んで来るだろう。

 どう転んでもブラットの目的は達成されるが、この場で足を止める理由もまたない。

 

「…………さあ、裁きの時だ」

 

 誰に対するものかとは口にせず、領主の館を目にしたブラットは腰に吊るしている鞘に納められた血のように朱い魔剣の柄を強く握るのだった。

 一方、この事態に対する解決を図る為に館の前で警備部隊からの報告を聞き、各自に指示を出していた領主にもブラット達の姿が見えた。

 

「このような変事に武装した一団が向かって来るとすれば敵でしかあるまい。総員第警戒態勢を取れ!」

 

 都市を覆うほどの霧は魔法具に発生させられたもの。その後に起こる縦横無尽に走る雷や勇壮なる土の巨人、水の狂乱、焔の脅威とはまた別の思惑が重なっているとしか考えられない。

 まだ年若い領主はそこまで思考を巡らし、指示を出していた警備部隊を前面に展開させる。

 展開された舞台を見たブラット達一行が領主の館まで五十メートルの距離のところで足を止める。

 魔法や気の遣い手が跋扈する魔法世界において、五十メートルの距離は決して遠くはなく遣い手によっては一歩で走破出来てしまう。

 両軍の間合いの最も中心に立つブラットを睨む領主の目付きは鋭い。

 

「街を荒らす無頼者が群れを成して何の用だ」

「知れたこと。見れば分かろう」

 

 都市の最高権力者の領主の問い質しに対して、クーデターを起こしている集団のリーダーのブラットが不遜に答える。

 

「あの異変も貴様らの差し金か?」

 

 領主が指し示す異変とは都市上空を雷光が跳ね回り、突風が吹き荒れ、地鳴りと共に当たりの地面を割って、水が激しく噴き出し、黒炎が奔っているのがブラット達の手の者の所為かということ。

 

「知らん。どうせ英雄が彼奴に相応しい敵と相対してるのだろうよ」

 

 これでどちらにとっても最大の戦闘能力の持ち主がこの一件に直ぐに関わることが出来ないことを示している。

 

「邪魔者は入らない。貴様の首をもらい受け、我が望みは叶えられよう」

 

 何時でも魔剣を抜き払えるように柄に片手を添えながら、相手を嘲笑する意図を以て下衆な笑みを浮かべて宣言する。

 不遜な言い様に領主は眉をピクリと動かしたが、気位の高い男は激昂するどころか怒り一つ見せることなく鼻を鳴らす。

 

「何の望みか知らぬが、数は私達の方が上だぞ」

「装備の質は良くなさそうだがな」

 

 む、と領主が自身の前を固める警備部隊の面々と相対するブラット一行を見遣って渋面を作る。

 警備部隊の質が悪いというわけではない。

 警備部隊はあくまで都市内の揉め事を解決するための部隊である。彼らはあくまで都市の治安を守る者であって戦うものではなく、言葉にするならば調停する者である。揉め事を収めるのに相手を殺してしまう装備を身に着けるはずがない。

 戦争をする装備を整えてきたブラット達に比べれば装備の質が劣るのは仕方がない。殺し合いを望むブラット達と装備の目的が違うのだ。

 

「我が警備部隊は精鋭。無頼者如きに負けん」

 

 と言いつつも分が悪いのは自分達の方であると領主も認めざるをえない。

 数は多いが装備の質で劣るのは大きく、更にはブラット一行は誰も彼もが目をギラつかせており文字通りの死に物狂いで戦うだろう。死兵とそうでない者達が戦うには状況があまり良くない。

 魔法具の除去に向かっている拳闘団が戻ってくれば戦況はひっくり返るが、もう少し時間がかかるだろう。

 

「本当に精鋭か、試してみるがいい。代価は貴様の首を以て払ってもらうが」

 

 自分が勝つと確信している言い方で余裕を示しながら鞘から魔剣を抜き放つ。

 鞘という拘束具から解放された紅の魔剣は、まるで主が血を望んでいるのを反映するかのように朱く輝き、不吉を届けるかの如く羽虫の羽音のような不気味な音を発しながら振動する。

 

「最終通告だ。武装を解除し、投降しろ」

「断る」

 

 互いに歩み寄ることは決してない。あまりに多くの人が良きものを目指し、意志や立場の食い違い、そして挫折の中であべこべに地獄を現出する。

 両軍の激突は不可避。地獄を止めるのは何時だって英雄なのだと人々は直ぐに思い知る。

 

「亜人は死ね」

 

 ブラットの宣言と共に両軍が進軍を始めようと足を上げたその時だった。

 

「「「「「「「「「「!?」」」」」」」」」」

 

 両軍の中央の前で、頭上で目も眩む雷光が襲い掛かる。

 誰もが目の前の相手に注視していた他に注意力が向かっていなかった中、近づいていた強大な力を感じ取って足を竦めて動けなかったことが彼らの命を救うことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 都市上空を黒雷が黒水が、黒火が黒土が、そしてその中心で四つの黒の中で一つの白い光が孤軍奮闘するように瞬いていた。

 激突音が炸裂し、アスカはルイン・イシュクルと拳を交えた。その簡単な事実を確認する方が遅れるほどの速度だった。一秒で百を越え、一秒で千を越えた攻防が繰り広げられる。

 アスカとルイン・イシュクルの周囲に小規模の星空が舞う。

 しかし結果は一目瞭然。

 上位精霊四体を同時に相手にするアスカの口からは断続的に血が零れる。体の見えない所に重大なダメージがあるのは明白だった。

 拳を振るう速度はまだ目に見えて遅くなってはいないが、相手は文字通りの雷速。何時かは追いつけなくなってルイン・イシュクルの致命的な一撃を受ける絶望的な未来が脳裏をちらついた。

 

「がっ……」

 

 一瞬でアスカを抜き去ったルイン・イシュクルの脚が背中へと突き刺さる。更に強引に振り向かされたところで膝蹴りが加えられた。

 追撃を瞬時に横に飛んで逃げたアスカのさっきまでいた場所に雷撃がうねりくねる蛇のように舐めてて行った。

 続けて放たれた神速の手刀をアスカは無我の境地で避けて黒棒をルイン・イシュクルの左肩に突き刺し、そのまま体を斜めに切り裂いた。が、肉体を切り裂いたにしては手応えが浅すぎる。

 

「雷化だろうが!」

 

 真っ二つになったルイン・イシュクルに向けて手を掌底の形にして空気を叩く。

 

「グギャ!?」

 

 空気を叩いた魔力が込められた掌底から伝播した衝撃波が雷化しているルイン・イシュクルを襲い、細かい粒子へと粉砕する。

 殺すにまで至るには威力が足りなかったが追撃をかければいい。アスカがもう一撃を放つために力を溜めた瞬間に身体が攫われた。

 

「ぐ、あぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 ルイン・イシュクルを一時退けたアスカは最後っ屁で操作された桁外れの上昇気流が巻き込まれて更に上空へと吹き飛ばされていた。

 風で身動きが取れない中で上昇気流に乗るように黒炎弾が撃ち込まれ、直撃コースにあるものだけを黒棒で打ち払っていると土の巨人が体当たりを仕掛けて来る。

 

「!?」

 

 避けるとか、弾けるレベルではなく、防御するも純粋な物量による衝撃を凄まじかった。その衝撃で刹那の間、アスカの意識はあらぬ世界へと飛んでいく。

 そこに追い討ちで黒炎弾が次々に突き刺さり、重い衝撃が立て続けに全身を襲い、突き抜けてゆく。攻撃が一撃入る度に肉体を撃つ音が耳朶に響き、四肢から力が失われてゆく。

 

「あああああああああああああああああああああああああああッ!!」

 

 己を鼓舞するためか、唇の端から血を垂れ流しながら傷ついた呼吸器官を押してまで雄叫びを上げるアスカ。同時に放たれた剣閃が土の上位精霊を弾き、そこから空間が破裂する音の連続が、一瞬で空気を爆発させた。

 腹を抉って来た水剣を、体を捻って威力に押されることなく利用して肘を水の上位精霊の後頭部に叩き込む。

 

「がああああああ…………ああああっっ!」

 

 水の上位精霊を巻き込むように放たれた黒炎を何とか潜り抜けたところで、不可視の風の弾丸が容赦なく四肢や腹部に着弾して口から血霧を吐く。

 体勢を立て直す暇もなく、体を再生させた土の巨人が拳を振り上げるのがアスカに目に映った。

 

「おおっ!」

 

 身の丈を遥かに超える巨大な拳が、まるで天よりの裁きと思える勢いで振り下ろされるのを見据えて全身から魔力を漲らせる。アスカの身体から爆発的に溢れ出た魔力が、不可視の渦を起こして景色を歪めていく。

 強大過ぎる魔力が込められた拳が打ち下ろされた拳を打ち砕くが、土の巨人の拳の威力が強すぎて「ぐぅ!?」と自らの拳に走る衝撃に喉の奥で呻きを漏らした。

 

「ごっ、ふ!?」

 

 安堵などまだ早いとばかりに振り落ちる土塊の合間を閃光が奔り、完全な復活を果たして雷光と化したルイン・イシュクルが突き出した雷槍で障壁を軽々と突き破ってアスカを捉えた。

 位置的に鳩尾を貫いているはずの雷槍はその前に掲げられたアスカの手に阻まれ、ルイン・イシュクルが押し込もうとするも強大な魔力に支えられた防御を超えることが出来ない。

 

「な、に……!?」

 

 全身から魔力を発してルイン・イシュクルを追い払おうとしたアスカの眼に信じられないものが映った。

 水と火の上位精霊が水剣と炎斧を手に向かって来る。

 確実に追い払おうとしていたところでルイン・イシュクルは今も雷槍を推し進めようとしており、二体の上位精霊に即応できるほどの余裕はない。精々出来たのは衝撃に備えることだけで、水剣と炎斧を受け止めても堪えることはできなかった。

 

「――――っ」

 

 雷槍が雷を発し、エネルギーが充填された途端、一度は静まっていた大気が再び嘶いた。

 口からどんな言葉が迸ったかも分からぬまま、上空から地上へと引き落とされる。

 土の巨人の拳と相打って痺れている腕を動かして炎斧を防いだものの、血が噴き出す端から焼かれて気化する。肩に刺さった水剣から肉体に侵入した水の方が血よりも炎斧に焼かれて気化するのが多かったのは少ない幸運か。

 

「ぉ……ごぁ、っ……」

 

 三体の突進によって堪えることも出来ず、地上に叩き落とされたアスカは地面にクレーターを作りながらその底で呻く。

 尚も押し込んで来る三体の上位精霊に抗っていると、血に塗れた視界の中で何度破壊されても再生する土の巨人がその巨体を落とし込んで来る。

 

「ぉぉおおおおおおおおおおっっっ!!!」

 

 雄叫びと共に発露する魔力に指向性を持たせ、三体の上位精霊ごとこちらに向かって倒れ込んで来る土の巨人を弾き飛ばす。

 抑える者がいなくなり全身を走る痛みに苦悶しながら体を起こすと、土の巨人が見覚えのある館に塀を破壊しながら倒れ込んでいくところだった。

 ズシン、と大きな音を立てながら地震が起きたような振動を地面越しに感じながら、追撃を警戒して辺りを見渡したアスカは「領主の館、か?」と頭部から頬を伝って血が流れ落ちるのを感じながら呟いた。

 

「お前はアスカ、か?」

 

 雑多な気配が周囲に多く、その気配の持ち主たちがアスカを中心として向かい合っていることに疑問を感じていると、片方の集団の後方で数人に土の巨人が倒れた塀から遠ざけられている領主がいた。

 

「領……」

 

 主、と続けようとしたアスカだったが、それよりも早く腕が動いて黒棒を虚空から呼び出して掴み、ほぼ同時に打ち込まれた雷槍・水剣・炎斧を三閃して弾き飛ばす。

 

「死にたくなければ下がれ!」

 

 他人のことを気にして戦える相手達ではない。

 言い捨てて彼らのことを意識の外へと追いやったアスカは再び四体の上位精霊との戦いに戻った。

 

 

 

 

 

 嵐のような攻撃が吹き荒れる中で両軍の士気は壊滅的と言っても良かった。

 

「な、なんだというのだ……」、

 

 警備隊に守られる領主の言葉がその場にいる全ての者達の気持ちを代弁していた。

 状況が理解できない。人と人の戦いのはずが、何故神話や英雄譚に描かれているような戦いに立ち合っているのかと。

 一人と四体の黒化精霊の戦いは彼らにとってすれば神話の戦いと大差ない。誰一人をとってもこの場にいる全員を纏めて殺すことが出来る実力者たちだ。強大過ぎる力に怯え、足が竦んで逃げ出すことすらも出来ない。

 

「全員武器を構えろ!」

 

 例え自分達が英雄譚や神話の端役に過ぎなくとも、血の通った人として為すべきことを成すだけだとブラットは自ら進んで魔剣に気を込める。

 前大戦を生き抜いたブラットは英雄というものをその眼で見ていた。

 魔法世界の闘争において、戦術の基本は最強の魔法使いが陣頭で敵を蹴散らし、それを他の者が脇から支えることだ。高位魔法使い達の戦闘の駆け引きなど、そもそも低位の魔法使いには分からないのだ。

 だから、闘争を決着するのは個人の武勇だ。魔法史の最初期から、この方向性は変わっていない。

 もはやここに正義は無かった。あったのはただ力と敗北を許されないエゴと、狂気だけだ。この通路で何人が血泥に沈もうと、巨大で救いのない絵の一部でしかなかった。

 何かを手に入れる為の賭け札に使う命は、勝負が決まるまでは軽い。

 先頭に立つリーダーのブラットの叫びに、クーデター一行が我を取り戻したように目にギラついた熱気を宿し、各々が持つ武器を構え直す。

 

「進め! 亜人を殺し尽くせ!」

 

 叫ぶブラットの瞳のおぞましさ。色も普通なのに、形も普通なのに、二度と見たくないと思わせる異常をその瞳は抱えていた。こんな瞳を、人が出来るはずがない。そして、だからこそ人でもあった。あらゆる感情を凝縮したかのように、ブラットは亜人を睥睨して扇動する。

 警備部隊はまだ衝撃から抜け切れていない。再び走りだそうとするクーデターと戦いになれば一方的なものとなるだろう。

 

「シェリー!」

 

 またもや乱入者がなければ、だが。

 勢いを減じている砂嵐が走り始めたブラット一行の邪魔をするように進路上に現れた。

 まさか千雨と茶々丸から逃げるように離れたシェリーを中心に据えた砂嵐が追われるままに逃げ回った果てに進路上に割り込んだなどと、目の前に相手を屠ることに執心していたブラットが気づくはずもなく。

 

「邪魔を――」

 

 元軍人であり、この二十年間を傭兵として各地を渡り歩いたブラットにとってすれば、気を込めた剣閃を飛ばすことはそれほど難しいものでもない。

 この時もただ邪魔をする砂嵐を切り払うために、魔剣に気を込めて振り被った。

 

「――するなぁっ!!」

 

 目的に執心し過ぎて視野狭窄に陥っていたブラットは目の前に現れた砂嵐の意味を理解することもなく、振り被っていた十分に気が込められた魔剣を振り下ろす。

 振り下ろした剣閃に沿うように虚空を飛んだ気の刃は徐々に大きさを増し、充填された気の量と魔剣の能力、ブラットの技術もあって砂嵐は真っ二つに切り裂かれた――――中にいるシェリーに届くほどに。

 

「――――子供?」

 

 砂嵐の一番近くにいたからこそ、ブラットは目にしたものが信じらず一瞬目を疑った。

 子供――――シェリーはその強すぎる感応力によって精霊に守られながら移動していた。

 精霊達に明確な個我はなく、故に人の価値観とは違う方法でシェリーを護ろうとする。少しでもシェリーの肉体と精神を危険から遠ざけようとする。即ち、外敵の排除と防衛をしながらの移動である。

 シェリーが暴走した原因は街を覆う霧による周囲の不安感に心が苛まれていたところに、あまりの精霊の感応力に身体が反応したアスカの敵意に過剰反応してしまったことによるもの。

 不幸だったのは、その強すぎる感応力に上位の精霊の個我を侵してしまうことと、アスカが強すぎたことで外敵の排除が直ぐに終わらなかったことだった。

 精霊に守られて来たシェリーは今までの自分の状況を理解していなかった。

 そんなところに自分を護ろうとしている精霊達の行動を理解できずパニックに陥って今までにないストレスを抱えていたところに、千雨に呼びかけられた時に彼女達を危険に晒してはいけないという思考を読み取った精霊達が彼女を砂嵐ごと動かす。

 その先にクーデター一行と領主の警備部隊がいることすらも知らずに。全てが不幸な巡り合わせだったのだ。

 

「え?」

 

 そしてシェリーは、自分を護っていた精霊から一時的に切り離された。

 周りは地面にはクレーターが出来、砂嵐の余波で周囲は酷いものだ。上空ではアスカと黒化上位精霊が戦っていて、クーデター一行は全員が例外なく殺気立っている。警備部隊もクーデター一行を止める為に決死の覚悟を定めていて。

 全ての悪感情がシェリーを中心として渦巻いていた。

 

「ああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっっ!!!!」

 

 悪意、殺気、闘気、となんでもいい。正の感情ではない雑多な感情を叩きつけられ、高い感応力とは裏腹に感受性豊かで幼く脆弱すぎる心は呆気なく許容量を超えた。

 叫ぶシェリーの全身から光が吹き荒れた。

 その光からは魔力や気は感じられず、あまりにも清浄過ぎて神々しかった。

 死線を潜ろうとしていたクーデター一行も警備部隊も、走って来た千雨と茶々丸も、ブラットも領主も、戦っていた黒化精霊達が突如として消え去って困惑したアスカも、誰もが例外もなくその光に見入る。

 

『――――』

 

 光は空を貫いて、どこまでも果て無く伸びていき、その先を見通すことすら出来ない。

 一秒か十秒か、はたまた一分か十分か。

 時間の流れすら歪めたかのような光が唐突に消え去ると空が割れ、虚空に複雑な紋様が浮かび上がって雲間から斜光が差し込んだ。

 斜光は沈み行く太陽の光では決してない。

 

――――『ナニか』が現れた

 

 誰も眼を逸らしたりはしていない。気が付いた時には実体なき『ナニか』が湧いたとしか表現できなかった。

 ひどく朧で、黄色い影だ。まるで砂漠に舞う黄砂の如き薄影であった。人影というには輪郭が曖昧すぎる、何者とも知れぬ形。人というには形を成しておらず、その存在の大きさは都市にいる全ての者が見上げたまま動けずに呑み込まれている。 

 皆と同じように呑み込まれながらも辛うじて思考の一部が動いていたアスカは、『ナニか』が現れた後からグンと増した精霊達に溺れていた。

 

(何だ?)

 

 世界の法則すらも切り替わってしまったような息苦しさを覚えながらも、思考はこの状況を理解する為の答えを求めて過去の記憶を回想する。

 一瞬の間で過ぎ去っていくフラッシュバックする記憶の中でこの状況に対する答えが見えた。

 

「せい、れい、おう」

 

 口に出して有り得ないとアスカは自らの答えを否定した。

 精霊王――――文字通り精霊達の王であり、全ての精霊を統べる存在である。こことは違う次元の世界である精霊界に存在すると推測されているが、無論、確認した者は誰一人としていない。

 魔法世界史二千八百年の時の中で、上位精霊の存在を数例確認されるも、その最上位存在である王を見た者はいない。百年間で上位精霊のルイン・イシュクルの目撃例が片手の指で足りる。噂されているだけで実在すらも疑われていた存在こそが精霊王だ。

 世の全ての事象は地・水・火・風の四大によって成り立つもの。その全てを自在に操れるなら、できないことの方が少ないだろう。あくまでも伝説、というか御伽噺のレベルの話だが、世界は精霊王が創造したものだ、という説もあった。

 上位世界にある王を、直接この世界に降臨させる。それは離れ業を超えた奇跡の領分である。

 伝説上、そうした者は超越存在を呼び出した者は存在している。七十二の魔王を支配したソロモン然り、ユダヤの民を率いてヤハウェと契約したモーセ然り。精霊王を呼び出したシェリーの才覚は、神話上の彼らに何らのなんら劣るどころか、人類史に名を刻んで余りある。

 

『――――――』

 

 精霊王が人に理解できない言葉で何かを言った。音なのか、声なのか、言葉なのか、それすらも判然としない。

 都市にいる誰もがその姿を捉えながら理解が及ばない。都市にいる全てモノが思考を剥奪されている中で、精霊王の眼前に光が浮かび上がった。

 光は空間さえ歪ませながら、一筋の光の線となって精霊王の眼前に収束していく。光が収束していくと共に大地がまるで怯えるように戦慄いた。

 

「神罰だ……」

 

 誰かが呟いたのをアスカの聴覚は捉えた。

 争う全ての者達に粛正するために現れた超常の存在が鉄槌を下すのだと、アスカもまた疑いようもなく納得した。

 超常の存在は人の理解の埒外にあるのだと思い知らされている。神罰の光はこの都市どころか良くて大陸を吹き飛ばし、悪ければ魔法世界そのものを灰燼と帰すだろう。あの光にはそれだけの力があり、抵抗は無駄でしかない。

 

「……違う」

 

 ならば、アスカの裡から溢れ出るこの気持ちは何だというのか。

 

「違う」

 

 力を高める、気を魔力を。体にある全ての力が限界を遥かに超えて高まり、その状態で咸卦・太陽道を発動させて過去最大級に力が高まる。

 これほどの力は魔法世界・旧世界を合わせても疑いようもないほどに強大だと断言出来るほどの力すらも、精霊王の掲げた光の前には塵芥に過ぎないのだと理解しながらもアスカは飛んだ。

 

「違う!」

 

 同時に神罰の光が地上に向けて発射される。

 全ての力を掲げた右腕に抱え、自ら破滅の光へと向かっていく。光に自分から向かっていくアスカの時間は刹那の間に切り刻まれ、永遠とも思える中で今までの人生が走馬灯の如く脳裏を過って行った。

 

「俺は――」

 

 その先に何を叫んだかは定かではなく、アスカの視界を光が埋め尽くした。

 

 

 

 

 

 都市に光が氾濫した。目を圧し、耳を塞がせ、跪いてその時を待つ。

 絶対の神罰は正しく執行され、いと小さき人の身は世界と共に消え去ることが規定事項だと疑いようも信じている。誰もが神罰だと死を受け入れ、光と共に消え行くのだと認識していたが、何時まで経っても不自由な肉体の頸木からは解き放たれないことに疑問を抱く。

 やがて光が薄れ、誰もが閉じていた瞼を開いた時、そこに自らの手を見い出しても自分の生を受け入れることが直ぐには出来なかった。

 

「生きている、のか?」

 

 数千から数万の人々が隣近所にいる者に同じタイミングで異句同音にて尋ねるほどに自身の生存が信じられない。空にいた精霊王は消えていなくなり、神罰の代行者がいなくとも喜ぶことはできない。

 事件の中心地となった領主の館近郊では地面を揺らした衝撃に倒れた者、倒れた物が多かった。

 なによりも爆心地とでも言うべきその場にいた者達は誰もが立っていられず、中心に近いものほど空より振り落ちた何かが地上に衝突した衝撃によって吹き飛ばされていた。クーデター一行も、警備部隊も、千雨や茶々丸も、誰もが例外なく衝撃波に吹き飛ばされ、より中心にいた者ほど被害は大きい。

 中でも領主は吹き飛ばされた際に頭を打ったのか、血を流して倒れたまま動かない。

 

「くっ、アスカ……」

 

 茶々丸に庇われたお蔭で数少ない無傷の千雨が、チカチカとする視界で痛む頭と全身を押して、あの時に微かに見えた光に向かって飛翔したアスカのことを思い出し、彼の名を呼んだ。その声すら響くほどに領主の館前の空間は静寂に満ちていた。

 内臓の電子機器の幾つかがショート、もしくはフリーズしている茶々丸は頭を押さえている千雨を抱えながらアスカの反応を探す。

 

「生体反応をキャッチ。千雨さん、クレーターの底にいます」

 

 十倍深くなっているクレーターの底で反応をキャッチした茶々丸の言葉を聞き、光が溢れるまではここまで広くなかったクレーターの端から底を覗き込んで絶句した。

 

「あ、アスカ」

 

 この大クレーターの底に埋まるようにアスカはいた。

 生きてはいるのだろう。だが、動きがない。十メートル以上の距離があるので班別はしづらいがい、傷がないところを探すのが難しいほどに傷だらけのように見えた。

 全ての力を絞り尽くして神罰の光に抵抗したのだと察して千雨は鼻を啜った。

 

「っ!? シェリーは?」

 

 遅まきながら少女のことを思い出し、首を巡らせると少し離れたところで茶々丸が身を屈めていた。

 

「シェリーは、生きているのか?」 

 

 一度は飛ばした意識を取り戻した者も多く、吹き飛ばされた時に負った傷で呻く声があちこち聞こえるこの戦地の跡を作り出した張本人ともいえるシェリーのことを問う口は重い。

 

「…………生きてはいます」

 

 シェリーの容態を確認した茶々丸は千雨に振り返ることもなく答えた。

 それを聞いた千雨は安堵の息を漏らし、恐る恐るクレーターの端に足をかけて降りていく。その間もアスカは動かない。

 まだ痛む頭と全身に難儀しながらクレーターの底にいるアスカの下へと辿り着くと、「……ぅ」とアスカが微かに呻き声を漏らした。

 アスカが生きていることに安堵し、ホッと息をつくと肩から力を抜く。

 

「これでもう終わりなんだよな?」

 

 これほどに傷だらけのアスカに触れていいものかと迷った千雨は、最初から最後まで自分の及ぶところにない事態がこれで収束したのだと思いたくてそう呟いていた。

 

「まだだ……!」

 

 事態はなにも終わってはおらず、クレーターの外で魔剣と同じ紅い血を頭から流しながら立ち上がったブラットが叫ぶ。

 

「亜人死すべし。貴様らは生きていてはならん存在だ!」

「なんなんだよお前は!」

 

 誰も動けぬ中で狂気の眼差しのブラットに、警備部隊の内の一人が倒れた際に打ったらしい肩を抑えながら嫌悪も露わに叫ぶ。

「今時差別主義者なんて流行らないぞ! 戦争はとっくの昔に終わってるんだぞ!」

 

 二十前後の亜人の青年の叫びにブラットの表情が変わる、狂相とでもいうべきものに。

 

「戦争はもう終わっていると言ったな。ふざけるな、俺達の戦争はまだ終わっちゃいない!」

 

 ヘラス帝国とメセンブリーナ連合は、古くから様々な確執を持っていた。 南は元々この世界に住んでいた亜人種が多かったことに対し、 北は人間世界から移住して来た人間種が多かったことが起因している。20年前、完全なる世界はそれを利用して、 両陣営の中枢にまで潜り込んで裏から操り、大分烈戦争を起こさせた。

 不安と混乱を煽り、怒りと憎しみを熟成させて戦火を拡大した。 

 

「国を、みんなを護る為に戦争で戦ったのに勝者も敗者もいない。残ったのは亜人にやられた故郷と大切な者達の亡骸だけだった俺達の気持ちが分かるか?」

 

 悪いのは裏から操った完全なる世界。

 悪いのは戦えと囁いた完全なる世界。

 悪いのは、全て完全なる世界だと誰もが言った。

 

「なにが完全なる世界が全て悪かっただ。扇動されようと戦いを選んだのは俺達自身だ」

 

 憎しみが憎しみを呼び、負の連鎖が続いて憎悪が更なる憎悪を呼ぶ。

 それでも彼らが戦ったのは誰かを何かを護る為だった。なのに、全て悪いのは完全なる世界と言われては、自分達は何の為に戦ったのだ。戦って死んでいった者達に意味はあるのかと、ブラットは叫ぶ。

 

「答えろ! 俺達の戦いは正しかったのか! 死んだ者達に意味はあったのか!」

 

 共に戦った者は還らず、護るべき者を失い、帰るべき場所を焼き払われたブラットが求めるものは何もない。

 

「決着を」

 

 クレーターの底で途切れそうな意識の端でその声を聴いていたアスカ。心身を凍られるほどに冷たいのに、自分も周囲も焼き尽くすほどに激しい炎の塊、これが憎悪かと得心する。

 

「あの戦争に今度こそ決着を」

 

 亡霊、という言葉がアスカの脳裏を過った。

 死すべき時に死ねず、無様に生き残るよりも、亡霊は意味のある死を寄越せとがなり立てている。

 薄らと開いた瞼に紅い光が目を貫いた。

 それは沈み行く太陽の赤さか、ブラットの魔剣が放つ紅い光か。

 もう、どうなってもいいとアスカは諦めた。こいつらと話しても無駄だ。この悪意と敵意を終わらせるためなら例え体が引き裂かれようとも構わない。

 ギシギシ、と限界をとうに超えている身体が悲鳴を上げているのを無視しして、大戦に関わりのある自分が幕を引かねばならないと責任感に駆られてアスカは痛みを押して立ち上がった。

 

「あ、アスカ……なにを」

 

 千雨が聞いてくるが、なにをするかなど決まっている。

 亡霊に話しは通用しないのだ。彼らに聞くつもりはなく、理解する気もないのだと認識して、痛む体を押して歩き始めたその背中は引き止められた。

 

「やめ…………て……アスカ」

 

 苦痛の底から絞り出された声が、矢になって胸の奥にある心を貫いた。無意識に足を震わせ、アスカは我に返った顔を上げた。

 狂気に引き寄せられて引き込まれかけていたアスカを引き戻した千雨が、アスカの前に立ってクレーターの端に立つブラットを見上げた。

 

「アンタ、なにか色々言ってるけどさ。ようは今の状況が我慢できないって駄々をこねてるだけだろ」

「なに?」

「いい大人が、情けねぇ」

 

 千雨の挑発に魔剣を握るブラットがギロリと見下ろした。

 

「大戦を知らぬ子供が賢し気な口を利くな」

 

 ブラットの言い様に千雨はフンと鼻を鳴らした。

 

「さっきから大戦大戦と馬鹿みたいに繰り返して。大戦を知ってりゃ、大人かよ。下らねぇ」

 

 腕を振るって辺りを指し示し、クレーターの周りで今も呻いている者達を見遣った千雨は叫んだ。

 

「戦争だとかなんだとか私には分かんないよ。でも、こんなのが正しいはずがないだろ!」

 

 大人の世界はお互いの利益が絡んだ巨大な歯車に組み込まれている。それは思惑のバランスで黒いものは白くなるということで、その中でどう人間でいられるかは一つの戦いだ。だから、そこにまだ加わっていない子供の目だけが時に真実を映す。

 叫ぶ千雨のなんと凛々しく、気高い姿か。

 崇高な宗教画の内側に、自分までも取り込まれた気分で千雨の背中を見るアスカは笑いだしたい気分だった。

 

「誰かが傷つくのは沢山だ!」

 

 千雨は凡夫だ。聖者でも英雄でもない。平凡に生きて、当たり前に怒り、普通に悲しむ。そういう人間の声は、アスカのそれより、恐らく狂気に堕ちた者の心に響く。

 

「戦争がしたきゃ、一人で勝手にしてろよ! 自分を大人だって言うんなら平和に暮らしている人に迷惑かけてんじゃねぇよ!」

 

 捨てきることも純粋になることも出来ない煩悩塗れの凡夫だからこそ、当たり前の叫びは正しかった。

 そして正しさでは止まらない者もまたいるのだ。

 

「確かにそうだ」

 

 クレーターへと下り、歩を進めながら平坦な声で言ったブラットの顔に安らかさはない。表情は苦悶で歪められ、その声は弱々しい。

 

「だが、もはや止まれんのだ!」

 

 正しさだけでは救われず、生ける死者を止めることは今を生きる生者には出来ない。

 立ち塞がるのならば誰であろうと斬ると眼差しに乗せ、視線を向けられた千雨はゴクリと唾を呑み込んで「止めてやる!」と叫んで腕を広げた。

 

「やめ……」

 

 千雨を止めようとしたアスカはダメージが大きすぎて進みかけた膝から崩れ落ちる。

 

「やってみろよ、この腰抜け野郎」

「よく言った」

 

 受け身も取れずに地に倒れたアスカを見ることなく啖呵を切った千雨だけを見て、ブラットがニヤリと笑って魔剣を振り上げた。

 千雨は動かず、ブラットが魔剣を振り下ろすだけ血の雨が降るはずだった。

 

「待つのだ」

 

 茶々丸がクレーターに向けて武装を発射するよりも早く、今まさに振り下ろされようとした魔剣の動きを止めたのは老年の男性の声だった。

 誰もがその声の主、年齢と病気で息子に領主の座を譲って療養している前領主ロレンツォ・モーフィアスを見て声を失った。

 

――――瞬間、今まで恐怖から千雨の胸ポケットの中に籠っていたハクが顔を出して鳴いた

 

 直後、千雨の眼には現実とは違う光景が映り出した。

 

『リアラ! 親父! お袋! みんな!』

 

 紅蓮の燃える村の中を走り回る青年は幼馴染を、家族を、自分の知る者達を探しながら走り回る。

 

『俺は、俺はこんな結末を迎える為に戦ったわけじゃない! なのに、何故、何故なんだ!』

 

 そして誰も生きた者を見つけられず、見つけたのは焼け焦げた死体だけ。

 

『亜人が……!』

 

 誰かを憎まなければ生きていけなかったのだと、燃え落ちる村の中で血涙を流す姿はとても悲しかった。

 そして唐突に光景が変わる。

 

『もう、いいのかね』

『ええ』

 

 何もない野原で二人の男女が並んで立っている。

 一人は亜人の中年、もう一人は少女と女の境目に立つ女性。二人の距離は近く、親密さを物語っていた。

 

『貴方は言ってくれましたよね。この地をまた賑やかな笑みの絶えない場所にしてくれるって』

 

 千雨には、中年に振り返った女性の顔に見覚えはない。ただ、その腹部がふっくらとしていることから彼女は妊娠しているのだと千雨は気付いた。

 

『もう一度、約束する』

 

 妊娠している女性を労わりながらも鋭さを失わない眼光が、強い輝きを放って再びこちらを見据える。威圧するでもなく、ただそこに在り続ける瞳がそれと分からぬほどに揺れ、長い時を被膜越しに無二の光を投げかけた。

 

『人と亜人、そして生まれてくるこの子が何の憚りも暮らしていける地にするとも』

 

 どこか寂寥とした笑みに胸を突かれながらも、千雨は中年の亜人の顔から目を逸らさなかった。

 これまで生きてきた時間を、一秒も無駄にしなかったものだけが持ち得る高潔さがとても眩しい。

 

『手伝ってくれるかい、リアラ?』

『はい、あなた』

 

 男の問いに女性の顔に柔和な笑みが口元に拡がり、黄土色の瞳に親身な色が差す。

 

「頼む」

 

 そしてまた唐突に現実に引き戻され、まるで白昼夢を見たかのような感覚に千雨は頭を振った。

 

「亜人の命が欲しいというなら、この老いぼれの命を持って行くがいい。それで満足してくれ」

 

 聞こえて来た声に千雨が目をやると、骨に皮が張り付いていると思える顔に既視感が湧き上がった。

 

「な、なんだというのだ今のは……」

 

 と発したブラットの声にギョッと振り返った。

 千雨の視線の先で、頭に手を当てたブラットが息を荒らげ、苦悶の表情を浮かべていた。頭から血を流し、ただでさえ青白い肌から血の気が失せ、紙さながらに白くなってゆく。

 

「これ以上、リアラが眠る地で人が傷つくのを見たくない」

 

 前領主が喘鳴としか思えぬ声を上げる。

 その声からすればこの場で絶命してもおかしくないのに、皺に埋もれた目はとても優しい。

 

「リアラ」

 

 と前領主が発した名前を繰り返したブラットの声が風になって吹き過ぎ、千雨は胸の熱がドクンと脈打つのを感じた。

 ブラットの瞳が微かに揺れ、千雨と同じ理解に辿り着いたことを示すように悲哀の色が宿る。閉じた瞼がその瞳を隠すと、スッと弛緩した手から魔剣が抜け落ちる。

 

「リアラは生きていた。あの時に死んでなどいなかった」

 

 紅蓮に燃え落ちた村から逃げたブラットは亜人を憎むことで自らを現世に繋ぎ止めた。この地を死地と定めたのは、亜人の前領主が建てた都市を滅ぼし、嘗て住んでいた村の跡地でせめて死にたいと思ったからだ。

 本当にこの都市が村の生き残りであるリアラが望んだものなのだとしたらブラットには壊せない。

 ブラットの心に残る人間性、幸福だった過去の象徴である幼馴染の願いを前にして、復讐も悔恨も後悔も何もかも、全てに意味はなかったのだと思い知らされたブラットの心は簡単に折れた。

 

「俺の行為に意味などなかった」

 

 唇を噛み締めたブラットが、耐えられないという風に顔を背ける。

 胸の底で悲哀の錘が溶け、涙になってブラットの目から吹き零れた。誰もいない。誰も声をかけてくれない。やり直せるならものならやり直したい。時を巻き戻して、もう一度やり直したい。今度は間違えないからと叫んでも、それこそ意味がない。

 

「赦してやれよ、自分を」

 

 同じものを見て、同じものを聞いて、同じ理解に至った千雨にはそれだけしか言えず、二十年分の深い静寂が長い時を経たブラットの体に降り積もってゆく。

 それでもその言葉がブラットの眼からとめどなく涙を溢れさせ、零れる端から流れ落ちて丸い粒になって服を濡らす。己の無明を洗い流してブラットは声を押し殺して泣いた。

 

「なんなんだ?」

 

 どうやらブラットから行動を移す気が無くなったようだと感じ取ったアスカは状況の変遷についていけず、痛む体を起こすことも出来ずに座り込んだまま空を見上げた。

 夕方を迎えた空は朱く染まり、都市を紅に染めている。

 その温もりは赦しを与えるように、例外なく誰もをも赤く照らす。

 なにはともあれ、これで終わりだろうと後ろに倒れ込む。一休みするかとアスカが息を漏らして目を閉じようとしたその時だった。

 

「おわっ、なんじゃこりゃ!?」

 

 騒がしい気配と共に知った声が見事なクレーターに驚いている声が聞こえ、事態の変遷を届ける。

 

「トサカ、それよりも」

「おおっとそうだった、領主様は……」

 

 何かあったのかとアスカが「いてて」と体を起こすと、クレーターの端を走るトサカと後に続くバルガスの姿が見えた。

 

「何かあったのか?」

「さあな」

 

 近くに戻って来た千雨の後ろでブラットが立ち呆けているのを見て首を振る。アスカにもトサカ達が慌てている理由は分からない。

 

「領主様……って、前領主様!?」

「ちょっと肩貸してくれ」

 

 ああも騒いでいるとおちおち寝ても居られないと、一人で歩くのは辛く千雨に肩を借りながらクレーターを登る。

 

「なに、連合と帝国の軍が都市近くに展開しているだと? 本当なのか!?」

 

 クレーターを登り切ると、打った頭の治療を受けているが未だに意識が戻っていない領主の代わりに話しを聞いているらしい前領主がトサカに詰め寄っている姿が見えた。

 

「ほ、本当です。それで総督府に両軍から通信が入っていて、時間以内に領主より返信がなければ鎮圧を開始すると」

 

 領主が両軍に通信を入れることが出来なければ、連合と帝国の軍がノアキスに乗り込んでくると聞こえた警備部隊がざわついた。

 

「馬鹿な!? この地は自由交易都市。条約で中立、非戦闘地帯が設定されているのだぞ!」

「ノアキスにクーデターが起こるって情報が入っているらしくて……」

「ええい、こうなったら儂が」

 

 と、困惑した様子で報告するトサカに皺だらけの顔で前領主が言ったところで立ちくらみを起こしたように膝が折れた。

 

「いけません、お身体が」

「くっ、そんなことを言っている場合ではないのだぞ」

 

 前領主の傍で体を支えていた御付きの者が諌めるが止まらない。が、遅々として前領主の身体は動かず、苦し気に息を漏らす。

 

「トサカ」

 

 この事態は良くないと会話の端々から読み取ったアスカが声をかけると、千雨に肩を支えられながら立つ姿にトサカは驚いたように目を瞬かせる。

 

「お、おい、どうしちまったんだよアスカ。今にも死にそうじゃあねぇか」

 

 トサカにしてみれば、拳闘団の面々が総出になっても小さな傷をつけることすら出来ないアスカが少女の肩を借りねば立っていられない様子なのだ。驚くのも無理はない。

 

「それはどうでもいい。さっき言ってたのは本当なのか?」

「ん、ああ。アイツらは人の話なんか全然聞きやしねぇ。かといって頼みの領主は」

 

 未だ意識が戻らない様子の領主に目を向けたトサカの視線の後を追ったアスカは頭に鈍い痛みが走って顔を顰めた。ともすればブレーカーが落ちるように途切れそうな意識を繋ぎ止めながら解決策を考える。

 

「…………トサカ、ここに通信を繋げられるか?」

「やろうと思えば出来るが」

 

 トサカはアスカの真意を図りかねるように末尾を濁す。

 二人を見てアスカが何を言いたいのかを察した千雨が目を丸くして得心したように頷く。

 

「領主様が目覚めたら直ぐに出てもらえるし、悪くない案だと思う。ただ」

 

 千雨の理解を有難いと思い、懸念はあった。

 懸念そのものである直ぐに目覚めなさそうな領主に視線を映す。

 

「問題は直ぐに目覚めない場合だ」

「その場合は前領主様に託すしかないだろ。公の立場を持ってるのはあの人だけだからな」

 

 千雨とアスカの話から言いたことが分かったトサカは、本来ならば安静にしていなければならないはずの前領主でも彼らが退かなかった場合のことは敢えて考えなかった。

 決断を固めたトサカの行動は迅速だった。

 前領主に話しを通し、拳闘団団長の立場があるバルガスから総督府に連絡をつけて通信を回してもらうように頼み、動ける警備部隊とクーデター面々の区別なく怪我人の収容と治療を高圧的な言い方で不満を封殺して行わせる。

 この状況に置いて、よほどの者でなければ普段から人に指示を出すことに慣れている人間の指示に逆らうことはない。

 アスカと千雨が感心するほどにトサカの指示通りに皆が動き、館にいた者に取りに行かせた通信機を「いいですか?」と総督府からの通信を繋いで前領主に渡す。

 

「こちらノアキスの前領主ロレンツォ・モーフィアスだ。連合、帝国の軍は通信チャンネルを開いてもらいたい。繰り返す――」

 

 何度か同じ文面を繰り返していると、通信機からピピッと音が鳴って前領主の前に二つの立体画面が浮かび上がった。

 

『連合所属エルストロメリア艦長クラップ・ゴドリー大佐だ』

 

 映った立体画面が映しているのはブリッジよりも一段高いに場所にある艦長席と思われる席に座るはちきれんばかりの巨体だった。

 メガロメセンブリアの軍服に身を包んだ壮年の男――――クラップ・ゴドリーは、叩き上げの軍人であることを示すかのように制服の袖捲り上げて異様に太い二の腕といい、分厚い胸板といい、まさに実戦によって造られた特殊仕様の肉体の持ち主だった。

 

『帝国所属グラムヘイル。ナマンダル・オルダート中将だ』

 

 もう一つの立体映像には、大きな巨人だとしかその姿を表現する言葉がない。

 姿勢の良い長身に、よく鍛えられた固そうな筋肉。まるで鉄の塊が目前に立ちはだかっているような、異様なまでの威圧感。頭部の左右に伸びる角に鋭い両目と肉付きの薄い頬を持ち、口元と顎に鬚に蓄えて年月を経た鋼の色に染まっている。

 

「二人が連合の帝国の指揮官で相違ないか?」

『そうだぜ』

『如何にも』

 

 愚連隊のトップもかくやのクラップと中将という立場に相応しい厳格なナマンダルがそれぞれ返答を返す。

 二人の階級に差があるのは、亜人迫害主義者を重く見た帝国側が今回のことをそれだけ重要視していることに他ならない。下手な引き伸ばしや交渉は逆に悪手となると、都市創設時に連合と帝国とやり合った際に良く知っている前領主は敢えて拙速を選ぶ。

 

「用件だけを言おう。ノアキスに混乱はない。直ちに軍を退きたまえ」

 

 前領主の率直な要件に肘かけに肘をついているクラップと腕を組んでいたナマンダルが同時に眉をピクリと動かした。

 

『混乱はないって話だが、さっきの光はなんだっていうんだい?』

 

 先代とはいえ、元領主に対する口の利き方というか、軍人とはとても思えない口の乱暴な口調で問いかけるクラップの目付きは鋭い。

 

『クーデターが起こるってんで急いで来てみりゃ、光の所為でこっちのセンサーがイカレちまって今も煙を上げてるぜ。混乱がないなんて戯言はともて信用出来ねぇな』

『こちらにも同じ状況だ』

 

 厳めしい表情をそのまま人形に写したかのような鉄面皮のナマンダルが続く。

 

『クーデターの目的は亜人の排除と聞いている。帝国としては同胞の安全が確認できなければ軍を下げることは出来ん』

「儂の姿では確認にならんかね」

『足りんな。そもそも、先の光の説明がなければ納得のしようもないし、貴方が仮に前領主であっても権限がなければ我らの行動を止めることは出来ん』

 

 近くで見ているアスカからは前領主が表情を歪めたのが見えた。

 光の説明など誰も出来るはずがないからだ。仮に正直に伝えたとしても嘘をついていると思われるに違いない。それほどに精霊王の存在は眉唾物だから、あの瞬間にあの場にいた者でなければ誰も信用しようとはしないだろう。

 

「軍勢で介入する必要もなかろう。こちらも調査員ならば受け入れる用意がある」

『少数では調査員の安全を保証できん。部下を必要のない危険に晒す気は無い』

『そうだ、無駄なリスクを取る気はねえよ。つうか、いい加減にさっきの光の正体を言えよ』

「…………精霊王と言って、君らは信用するのかね?」

『良い病院を紹介してやろうか?』

『そんな眉唾な話を信じろと?』

 

 前領主が駄目元で真実を告げても正気を疑われている。

 公的な立場がある領主が説明しない限り、このままでは彼らは軍を退こうはしないだろう。

 自治権を持つこの都市のトップである領主が彼らが納得できる説明をし、安全が確認されなければ軍を下げることはせず、放っておけば彼らはノアキスに雪崩れ込んで来るだろう。

 アスカはいても立ってもいられず、通信に顔を出して割り込んだ。

 

「問題を起こした奴らのトップは武器を捨てた。奴らも戦意を失っている。それでも軍を退かない理由にはなれないってのか」

『なんだお前はぁ?』

 

 傷だらけの少年が割り込まれたクラップが不審げな顔を隠しもしないのは当然だ。

 

「当事者だ…………この街の問題は全部解決した。分からないことがあろうがアンタらが首を突っ込む理由はないはずだ」

『馬鹿が。俺達はあくまで混乱を収束させる為に来たに過ぎないんだぜ。何も確認せずに「へい、さようなら」なんて通用するはずがねぇだろ。筋違いも甚だしい』

『ノキアスの混乱の波がこちらに来ないとは限らない。我が軍は有事に備えているに過ぎない』

『つうわけだ。どこの誰かもしれねぇガキが大人の話に首を突っ込むんじゃねぇ』

 

 大人としての仕事をしているのだと二人は言い、ならば領主のような確たるとした身分と証明があれば彼らは納得するのかとアスカは考える。

 アスカは領主が未だ目覚めていないのを見て、両軍に顔が効きそうな者がいないか辺りを見渡した。

 

「………………」

 

 拳闘団・警備部隊・アスカ一行・クーデター一味、そして権限がないと言われた前領主を含めて、誰も両軍に効く公的権力を持っていない。

 ならば、とアスカは自身の切り札を切ることにした。

 

「俺は――」

 

 耳元で本当にいいのかと心の悪魔が囁いた。

 これをしてしまえば本当に後戻りは出来ない。一度口にした言葉は戻らず、下手をすれば旧世界に戻ることは出来なくなる。

 

「俺の名前は――」

 

 これだけ関わった以上は、途中で足を止めるわけにはいかない。この事態に陥った原因の一人として決して無傷ではいられない。

 

「アスカ・スプリングフィールド」

 

 虚空からこの世界に来た時に手にしてしまったネギの杖――――英雄である父が愛用していた杖を指し示しながら証明する。

 

「このノキアスに、もう混乱はない! それを――――ナギ・スプリングフィールド(千の魔法使い)の息子である俺が、アスカ・スプリングフィールドが保証する!!」

 

 発言の直後、通信相手だけではなく、この場にいる全てから音が消え去る。

 自分に視線が集まるのを自覚しながら通信相手の二人だけを見る。

 立体画面の向こうでは杖の固有反応が調査されていることだろう。

 ナギの杖は大戦時にも使われていたもので、大戦後にレプリカが大量に生産されて売られている。オリジナルはナギの強大な魔力の使用に耐えられる魔法発動媒体でレプリカとは全然違う。が、中にはオリジナルに似せて丈夫な物もあり、オリジナルを詐称して高値で売り買いもされていた影響で、防止の為にオリジナルの固有反応がデータベースに登録されていることをアスカは知らなかった。

 

『確かにサウザンドマスターの杖に相違ないようだが、息子がいるなんて聞いたことねぇぞ』

『…………』

 

 情報を確認して訝し気なクラップに比べてナマンダルが沈黙しているのは、深度Aクラスの情報を見れることが出来る立場にあるかの違いだ。

 

『どっちにしろ。乗り込めば全てが分かることだ』

 

 一度目を閉じたナマンダルが重い口を開いた時、アスカは賭けが失敗に終わったことを悟る。

 アリアドネ―のセラスからしてアスカらを取り込みたがっていたのだ。運が良ければ餌に食いついて領主が目を覚ますまでの時間を稼げればという目論見は露と消える。

 が、ここまで運命に翻弄され続けて来たノアキスに救いが空からやってきた。

 

『そこまでよ』

 

 通信相手の二人とは違う女の声が通信機から響く。

 

『彼の身元はアリアドネ―の総長である私が保証するわ。彼は紛れもなくサウザンドマスターの息子よ』

 

 視線の向こうで沈み行く太陽を遮るように影が現れ、瞬く間に船の形を現す。船を護るように並走する幾つもの影は武装した人だ。

 アスカだけでなく誰もが突然の展開にポカンと口を開けてみている中で、アリアドネ―の精鋭である戦乙女騎士団はノアキスの領域には入らず、護るように都市外部へと展開していく。

 

『信用できないというのなら調査員を派遣しなさい。但し、立ち合いとして我らアリアドネ―の戦乙女騎士団に同行させてもらうわ』

 

 強力な武装中立国の総長であるセラスの顔が立体画像に現れ、クラップとナマンダルの間に入ると共に宣言する。

 

『…………十五分後に調査員をノアキスに下ろす。当然、戦乙女騎士団が護衛をしてくれるのだろうな』

『ええ、無傷で帰してあげますわ』

 

 セラスが笑みを込めて返すとナマンダルの通信が切れた。

 

『連合はどうするのかしら?』

『ん、ああ、白けちまったな。時間は帝国に合わせる。後は頼むわぁ』

 

 次いでクラップの通信も切られた。

 取り合えず、調査員は来るが本格的な軍の進軍は止まったのだと理解だけはしたアスカに、唯一残った立体画面からセラスが笑みを浮かべる。

 

『始めまして、アスカ君。まさか君とこんな形で出会うとは思いもしなかったわ』

「俺もだ。でも、なんでここに?」

 

 そうアスカが言うと、画面の向こうでセラスが苦笑を浮かべる。

 

『ノアキスにクーデターが起こり、連合と帝国が動いているって匿名の通報があったのよ。戦争の再開なんて真っ平だから慌てて飛んで来てみれば、行方不明の君がいるのだもの。驚いたわよ』

 

 冷戦状態の連合と帝国が中立のはずのノアキスで問題を起こすとなれば、両軍に戦闘を躊躇させられる戦力を持つアリアドネ―の中で最高権力者である総長のセラスが出張ッてきたというわけだ。

 アスカもセラスに連絡を付けようと思えば出来たのに後回しにしていたのだから頭を上げれない。

 

『綾瀬さんだけしか発見できていなかったから、色々とあったようだけど無事で安心したわ』

「じゃあ、夕映はそっちにいるのか?」

『ええ、当初の予定通りに勉強を頑張っているわ』

 

 魔法世界に来た面子の中で完全な非戦闘員は宮崎のどかと綾瀬夕映の二人だが、のどかの場合はネギが一緒にいた。夕映だけはあの時に一人にしてしまったので心配していたのだが、運良く転移先がアリアドネ―であったようで一安心だ。

 

「そうか……」

 

 一安心して気が抜けると緊張が緩んで今まで保っていた糸が切れた。

 自分の声と共にアスカの意識は闇へと落ちて行った。

 

 

 

 

 

 気を失ったアスカに呼びかける少女の声を遠くに聞こえた男――――キンブリーはやれやれと肩に入っていた力を抜いてグルグルと回す。

 

「仮にも元仲間が死んじまったら俺でも気にするぜ。間に合うかどうかは微妙だったが保険の一つぐらいは打ってるっての、ってアイチチ」

 

 ブラットに壁に叩きつけらた時に打った後頭部に出来たタンコブを痛そうに擦りながら、キンブリーは紅に染まった都市の中に消えていくのだった。

 

 

 

 

 



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第六章 継承編
第69話 オスティアへ



遅まきながら、あけましておめでとうございます。
本話より第六章 継承編です。
本年こそ、完結目指して頑張っていきますぞ!





 

 

 

 

 

 薄暗い部屋で宮崎のどかは椅子に座って、ベットに横になっているネギ・スプリングフィールドを見ていた。

 ネギがこの部屋に運び込まれて一時間か、二時間か。

 夕方に運び込まれ、治療を終えて面会が許されたのが夜。唯一ある窓から薄らと光が入って来るということは朝になったのか。

 眠気を感じることなく膝の上に置いた手を見下ろしていると、ネギが呻きながら身動きをした。

 

「ん、んん……」

 

 まさかこのまま目覚めないのではないかと危惧していたのどかは、ほっと安堵の息をついてネギに視線を移す。

 瞼を開け、意識を取り戻したネギが最初に視界に入れたのは白い光を落とす魔法灯だった。

 仄かな消毒液の臭いから医療関係の部屋にいるらしいと思いついた頭が緩々と動き出し、ネギは仰向けになったまま目を動かした。

 棚に収められた色んな薬品類と、木製の机は診療机を兼ねているのかカルテと思しき書類が積み重ねられている。

 まだ神経が巡りきらない頭で、服が見覚えのないものであることに気づいた。

 寝起きの所為か頭がはっきりしておらず、事態がよく把握できていない。

 身体は動かなかった。意志が伝わっても動かすだけの力が残っていないというと丁度そんな感じだった。なにもかもが夢現で、遠い世界のように思える。

 

「ネギ先生」

 

 と、声が掛かった。何故だか安心する、心に届く優しい声。

 横に視線を向けると、そこには椅子から身を乗り出したのどかが顔を泣きそうに歪めて立っていた。

 

「良かった……」

 

 のどかは心の底から安堵しているようだった。

 寝起きで状況が理解できないネギには、どうしてのどかが安堵しているのか、自分がこのような場所でベットに横になっているのかが分からない。

 全てが他人事のように感じられる中でのどかの円らな瞳が潤み、殆ど涙ぐんでいる。ぐす、と洟を啜った。ネギは知らないのだ。彼女の苦悩を何もかも。

 

「お願いです。もう、止めて下さい」

「ここは?」

 

 必死に訴えかけるのどかの声を遮るように、驚くほどしわがれた声を喉から出してネギが言葉を紡ぐ。

 

「医務室です」

 

 と、のどかが喉の奥に言葉が詰ったように言い淀んで口を開く。

 

「僕は、なんで……」

「覚えてないんですか?」

 

 のどかが心配そうに問いかけて来る。その言葉でやっとネギは自分がベッドに寝ていることに気づいた。

 まだ記憶が混濁している。横たわったまま、グラグラと定まらない視界を、こめかみに手を当てて固定する。奥歯を噛み締めて、無理矢理に意識を賦活させた。

 

「無理しないで下さい。繋がりましたけど、腕を斬られたんですから」

 

 案じる声音に胸が痛む。本当に心配してくれていたのだと誰でも分かる。

 心配してくれることは嬉しくもあり、同時に悔しくもある。

 もしも、ここにいるのがアスカならば彼女はどう思うのだろうかと答えの出ない煩悶を覚えていると、部屋のドアを開けて白衣を着た中年の亜人の男が入って来た。旧世界で言うならば中東系の浅黒い肌と、エルフのような尖った耳に小さな丸眼鏡をして、全身でやる気のなさを表現している医者だった。

 

「やっと目覚めたか」

 

 二人の間に漂う微妙な空気を気にすることなく尋ねた。

 片手に抱えていた荷物を診察室にある机に置くと、のどかを邪魔そうに見て横に除けさせてネギの横に立つ。

 

「さて、調子はどうだ?」

 

 大丈夫、と言おうとしたネギだったが、ちょっとした身動きをした途端に、全身にミシミシと痛みが走った。

 身体を起こせず痛みに呻くネギに向かって無遠慮に伸びてきた男の手。

 頭を押さえつけられたネギは、いきなり目に当てられたペンライトの眩しさに顔を顰めた。

 ジロジロと遠慮もなく見られ、男が手を離すのを待ってから、ベッドに横たえられていた体をゆっくりと起こした。

 

「意識混濁はなし。痛みもしっかりとあるようだな」

 

 白衣の男はネギから離れてカルテに何事か書き込みつつ、振り返りもせずに言った。

 

「断ち切られた腕は動くかね。神経結合は旨くいったと思っているが」

 

 診療机の椅子に腰かけた医者の言葉に、実際に右手の指を折り曲げて「動きます。少し痛みますけど」とネギは少しは出せるようになった声で答えた。

 

「生きとる証拠だ。我慢しろ。数日すれば収まる」

 

 素っ気ない言葉が返って来た。ぞんざいな口調は、傍目に見えるやる気のなさではなくこうした状況に慣れているものと聞こえた。

 カルテを書いている医者の背中を困った様子で見つめるしかないネギは、診察の間に部屋を出てのどかが室内に戻ってくるのが見えてそちらに視線を移す。

 

「水、飲みますか?」

「もらいます」

 

 のどかがコップを手にこちらに来る。声が掠れているのは口が渇き切っていて、中で揺れる水の動きを見て喉の渇きを覚えた。

 水差しを受け取ったネギは、殆ど一息でそれを飲み干した。

 乾き切って罅割れた大地に命が注ぎ込まれたかのように、ネギの体に水分が染み込んで生気が戻ってくる。

 同時に今まで鈍っていた脳も活発に活動を始めて記憶が蘇って来た。

 思い出した記憶にドクンと心臓が跳ね、こめかみの辺りに疼痛が走った。左手をやると、包帯のごわっとした感触が指先に伝わり、右手も動かそうとして強い痛みと痺れを感じて、ネギはようやく自分がこうなった経緯を思い出した。

 

「僕は、負けたんですね」

 

 ネギは半ば放心した目を空になったコップに注いだ。ひどい悪夢を見たような記憶はあるが、それも既に曖昧な印象になっている。

 

「ネギ先生…」

 

 気配を察してのどかがなにかを言おうとしたのを遮るようにネギは俯いた。その先には中身を失ったコップがある。

 ネギの胸のどこかに、空虚な穴が開いた。それがひどく深かったから、何もかも打ち捨ててしまえば楽になれるだろうかと思った。 

 

「動けるんならさっさと出て行け。また明日、来るように」

 

 医者は言いたいことだけを言うと、ひらひらと動かした手で向けられた二人分の視線を追い払うとまた机に向き直ってしまった。

 揃って白衣の背中を注視した後、ネギとのどかはどちらからともなく顔を合わせた。

 

「歩けますか、ネギ先生」

「なんとか」

 

 魔力を体に回せば歩くぐらいならできるだろうと思って立ち上がったネギはのどかと共に医務室を出て廊下を歩く。

 まだ外は薄暗く、朝焼けに照らされた街が廊下の窓から見れた。

 暖かい土地柄ではあるが流石に朝は少し冷える。身を包むのが世界は変わっても似たような医療用の貫頭衣一枚というのは頼りなく、正直に言えばあまり出歩きたい服装ではない。

 

「僕が着ていた服はどこに?」

 

 直ぐ傍を歩くのどかに問いかけると、ネギの鼻に甘い匂いがした。

 頭のぼうっとするような優しい香りが鼻に届く。ずっとこうしていると、その香りと優しい気持ちに溶けそうになる。

 

「血で汚れていたので」

「そうですか」

 

 血の汚れは中々落ちない。少しならばともかく、腹を貫かれ他にも大小様々な傷を負って服には血が付いていたことだろう。洗って血を落とすよりは捨ててしまった方が手っ取り早いとネギも理解した。

 とはいえ、貫頭衣一枚で辺りをうろつくのは流石にネギも羞恥心を覚える。

 

「新しい服を用意しておけばよかったですね。すみません、気が付かなくて」

「いえ、そんな」

「直ぐに取って来るので、そこのベンチにでも座って待ってて下さい」

 

 廊下から展望台テラスに出ると、朝風に身を震わせたネギの表情から困っていることを読み取ったのどかは到らなかったと頭を深く下げ、止める間もなく走っていなくなってしまった。

 ネギとのどかが寝泊まりしている部屋はここからそう遠くない。のどかの気持ちは有難いので言われた通り、展望台テラスの椅子の方へと向かって歩く。

 しかし、ネギは椅子に座ることはなく通り過ぎて、まだ目覚めには早いグラニクスの街を見下ろして、このような目覚めをすることになった理由を想起する。

 

「負けた、また」

 

 敗北である。野良試合を挑まれ、右腕を斬り落とされ腹を貫かれて完膚なきまでに圧倒された。有効打も与えたが誰が見ても自分の敗北であるとネギは認めざるをえない。

 決して強いと己惚れていたわけではない。なのに、この様はなんだと自分を嘲笑いたかった。

 

「ボスポラスのカゲタロウ…………あの人のように父さんに恨みを持っているかもしれない人達がこれからも来るかもしれない。どうして僕はこんなにも弱いんだ」

 

 ドルゴネスの命令で闘技場では父の名のナギ・スプリングフィールドの名を名乗らされていた。父に恨みがあるとやってきた熟練の影遣いの魔法使いのことを思い出し、血が出るかもしれないほどに強く拳を握り締める。

 のどかはネギが自分を護る為に奴隷に落とされ、拳闘士となって戦うことを強制されていると知っている。

 ネギは戦いを専門としている魔法使いではないが、よほどのことがない限り敵の術中に落ちる技量にはない。事実、ドルゴネスに捕まった時も逃げようと思えば逃げることは出来た、一人ならば。

 治療を終えた後に暗い表情のネギが奴隷の首輪をつけているのを見て察することが出来ないほど、のどかも愚かではない。

 そのことに気付いてしまったあの日から責任を感じたのどかはネギに対して下手に出過ぎている。少しでもネギの負担にならないように努め、精一杯の手伝いをしようとしている。見方を変えれば卑屈になり、そうすることで依存しているとも取れる。

 

「こんなんじゃ、のどかさんを守れない」

 

 ネギだって大差はない。寧ろのどかの優しさに甘えることで精神の安定を保っている。要は共依存の関係にあり、そのことを指摘して改善しようとしてくれる人と出会えずにいる。

 

「アスカはあんなにも強くなってるのに」

 

 脳裏を過るのはニュース映像に映る双子の弟の姿だ。

 ノアキスという中立交易都市での事件を収め、一部では英雄扱いされているアスカのことを耳にしない日はない。

 自分と同じくスプリングフィールドを名乗り、こっちは父と同じ名を、あちらは本当の名を惜しげもなく披露している。

 ゲートポートの折に失くしてしまった杖もアスカが拾っていたらしい。それが父の子の証明になっている。

 自分は偽物なのに、あっちは真作である。

 

「くそっ、なんなんだよ。僕は本当に、今まで何をやってきたんだ」

 

 やり場のない怒りが胸を突き上げ、張り裂ける痛みを全身に伝えた。

 頭蓋の裏側を圧迫する。割れそうな頭を押さえたネギは、痙攣する頭皮に食い込んだ指を引きはがし、髪の数本が絡みついた手の平を見つめる。

 アスカが自分よりも強い力を手に入れているであろうことは自明の理だった。石化解除の為に研究を重視していたネギでは戦っても十中八句勝利はない。

 どうやってそんな力を身に着けたのか。どうしたらカゲタロウに勝てるのか。アスカのようなどのような敵の圧迫を押し返す強靭な精神力、強い心を手に入れろとでもいうのか。或いは自分も強さだけを求めれば別の展開があったのか。

 取り返しがつかない、もう元には戻れない血の流れに搦め取られ、ネギの魂は漫然と宙を漂っている。

 

「僕は――」

 

 少年が呻く。

 前を見つめたまま、ネギの顎先をつうと赤いものが滴った。血である。強く噛んだ唇が出血して、ネギの肌に一条流れているのだった。

 苛立ちでおかしくなりそうだった。ただそれしか出来ないというように、呻きは風に散っていく。無力さを受け止めることも、惨めさを噛み締めることも碌に叶わず、ただ膝を折るしかなかった。

 

「カモ君……」

 

 我知らず呟いた今はもうどこにもいない親友の名前に、ぶり返した傷を抉ってしまい胸が痛い。

 張り裂けてしまいそうなほどに、親友に会いたくてたまらなかった。しかし、会ってどうするのか。こうして無様を晒している自分が、どんな顔をして会えるのか。そしてどこの誰とも知れぬ敵に敗北した自分が、今更いったい何を出来るというのか。

 何も出来なかった。出来るはずのことも、するべきはずのこともしなかった。

 

「力さえ、あれば」

 

 ふと、零れた言葉がネギの心を物語っていた。

 

「…………力が、あれば?」

 

 問いかけは自分自身の心に染み込んだ。

 

「そうだ、アスカよりも力があれば」

 

 別にアスカが悪いわけではないことは分かっている。だけど、割り切れない面がある。アスカが魔法世界に来るという選択を取らなければ、自分達はこんな奴隷の身分に甘んじなくてもよかった。それも確かなので、筋違いだとか逆恨みだとかそんな言葉で飲み込むことが出来ない。

 

「堅いな」

 

 瞬間、聞き覚えのない太い声が鼓膜を震わせ、余人の存在を察知できていなかった体を硬直させる。

 振り返ると、のっそりと後ろに立ち熊みたいな影の上に立つ岩の頭が揺れていた。

 二メートルを超える巨体だったが、肩や脇に盛り上がっていてその実数以上に大きく見える。

 まるで人のカタチに岩を積んだようだった。それも高山の上流で剥き出しになっているような、ゴツゴツとしたまるで磨かれていない岩だ。何かの間違いで人のカタチを持った岩が、これまた何かの間違いで喋っているかのような、そんな感じが男にはあった。

 プロレスラー顔負けの鋼を折りたたんだような上腕、太腿は更にその五倍増しはありそうだ。筋肉が今にも破れてしまいそうなほど、ミチミチと張りつめていた。胸元に盛り上がった筋肉なと、小さな子供なら雨が降っても雨宿りが出来てしまいそうだった。

 体格に合わせて首も異様に太い。ゴツゴツとした大木の幹のような首だ。上にはズングリとした小岩みたいな顔が載っている。だから、それが岩ではなく巨大な人だと知った時、ネギは驚いた。

 

「心がカチコチに強張りきっている。折角の良いセンスを持っているのに宝の持ち腐れだ」

 

 その声さえも、空の彼方から落ちて来る。男はガリガリと二メートルを超える高さの頭を掻いた。

 

「貴方は?」

 

 声の相手を予測したネギは一つの覚悟の息を吸い込んでから口を開いて問いながらも、相手の容貌を見れば見当がついた。

 

「ああ、悪い悪い。最近は会う奴全員がこっちのことを知ってるもんだからその前提で勝手に話してたな」

 

 癖のある長い蓬髪が風に靡く。おどけた雰囲気の風貌なのに、その瞳だけが異様にギラギラとした光を宿していた。

 

「ジャック・ラカン。お前ほどじゃないが、まあ有名人でもある」

「父さんと同じ紅き翼の……」

 

 ジャック・ラカン――――紅き翼において、ナギ・スプリングフィールドと並んで最強の名を欲しいままにする傭兵剣士。

 

「ドルゴネスの野郎に呼ばれて来てみればナギの野郎の息子がいるときてる。もう一人いるみてぇだが、こっちは顔が本当にあの野郎とそっくりだな」

 

 ラカンは捉えどころのない笑みを浮かべ、奇妙に絡みつく視線を投げて寄越す顔にネギは拳を握り締める力を強くした。

 

「紅き翼は詠春さんとタカミチ以外は行方不明って聞いています。そんなあなたが僕に何の用ですか?」

 

 挑発的な物言いにラカンはニヤリと笑い、ネギを見定めるように目を僅かに細めた。

 

「近くに来たから戦友の息子を一目見に来ただけだ」

「嘘ですね。さっき、あなたはドルゴネスさんに呼ばれたと言いました。あの人は無駄なことをしません。僕のことに関して何か頼まれたんじゃないですか」

 

 疑問ではなく断定。

 行方不明とされていたというのならば何年も人里に現れていないか、人目を避けたことになる。そんな人物がわざわざ人里に現れ、ドルゴネスの呼ばれたと言ってネギの前に現れたのならば大体の察しがつく。

 

「へぇ、どうやらナギの奴とは違って馬鹿じゃないらしい。母親の血か」

 

 口の中だけで呟いたラカンは心持ち見直した目でネギを見下ろすと、ネギの胴体ほどはありそうな腕を組んだ。

 

「察しの通り、お前を強くしろと頼まれた。カゲタロウとか言うやつに野良試合で敗けたんだろ」

「ええ、敗けましたよ。だっただらどうだって言うんです」

(やっこ)さんは不安になってお前を強くしろと泣きついて来やがったんだ。で、俺様が来てやった訳よ」

「必要ありません。あなたの手を指導を受けなくても僕は本選には行きます」

 

 図星を刺された胸がキリキリと痛み、相手にするなと訴える理性を忘れさせた。思わず言い返したネギの動揺した視線をジャック・ラカンは逃さない。

 

「嘘だな。じゃなきゃ、さっきみたいな弱音を吐いたりしない。不安なんだろう、自分が強くはないと思い知らされて」

 

 聞かれていたと分かる言葉にネギの頬が羞恥で紅く染まる。

 

「気に入らないんだよ。男が女々しく一人でぶつぶつとしてるなんて情けねぇ」

 

 言い返そうとしたネギがきつい視線で睨んで来るのを、予想通りと内心でほくそ笑んでラカンは語気を強めた。

 ナギの息子に興味はあるが一から十まで面倒を見る気は無い、それこそよほどの理由がなければ。

 

(出資者の依頼は断れねぇ)

 

 ナギ・スプリングフィールド杯の発起人はジャック・ラカンである。そしてドルゴネスはナギ杯の大口の出資者で、ネギが本選に出れなければ出資を取り止めると言われれば逆らえない。

 

「二週間だ。二週間で敗けたっていう野郎に勝てるぐらい俺が強くしてやる」

「それがドルゴネスさんの頼みですか」

「ああ」

 

 お前は弱いのだと突きつけられるに等しい肯定によって、押し殺してきた感情に組み伏せられ、大声で泣き出したいような衝動に衝き上げられた。

 目の前のラカンも、アスカも、みんなが強くに見える。出口のない憤懣を溜め込み、独り悶々とする自分が救いようもなく惨めに見える。その羞恥と怒りが爆発し、一秒前には考えもしなかった言葉が発作的に口をついて出かけた直後。

 

「分かりました。強くなれるならなんでもいいです」

 

 束の間顔を伏せ、ぽつりと呟かれたのは別の言葉だった。

 その目に一抹の感情がよぎり、再び上げた目は感情を消し去った強かな戦士のものだった。

 

「ほぅ、良い顔をするようになったじゃないか。アスカってのもお前と同じなのかね」

「――――――」

 

 ラカンの口から何の気なしに放たれたアスカの名前を聞いた瞬間、ネギはひくっと喉を鳴らして息を呑んだのを隠す。

 

「しかし、二週間で強くなるってのはマトモな方法じゃ大した進歩はねぇ」

「…………マトモな方法でなければあるということですか?」

「パッと思いつく限りのだと世間では禁呪扱いされてる」

 

 禁呪、と言われてネギが脳裏で思い描いたのはエヴァンジェリンの存在だった。

 学園祭の折にアスカが闇落ちした原因そのものであるソレ(・・)に向いているのは自分だと散々言われたので記憶に残っていた。

 

「もしかして、闇の魔法(マギア・エレベア)ですか?」

「知ってたのか」

 

 褐色の大男は会って始めて驚いたように目を丸くする。

 

「マスター、エヴァンジェリンさんが使っているのを見たことがありますから」

 

 マスターではラカンには伝わらないだろうと名前を出し、修学旅行で行ったハワイの地でエヴァンジェリンがカネ神相手に闇の魔法を使うところを見ていることを伝える。

 

「あのロリババアをマスターなんてつうことは、アイツの弟子か。あんなドSに師事するなんざ、勇気のある奴だ。少し見直したぞ」

「ア、アハハハハハ……」

 

 ラカンの酷い言い様に納得はしても同意すると後が怖いので苦笑して誤魔化す。

 

「話が早いのは助かる。で、どうすんだ? 分かってるだろうが、闇の魔法は禁呪指定されていることから分かるように術者にかなりの負担がいく。その分のリターンはあるが、習得するのにも命懸けで失敗すれば死ぬし、最低でも魔法は使えなくなる」

「やります」

 

 ネギは迷いなく即答し、自分の右手を見下ろした。

 朝焼け下で自分の右手はハッキリと見えている。しかし、この手で守るべきだった大切な友人の手は失われてしまった。

 友を失って戦う理由を見い出せずにいる。何故闘わなければいけないのか、未だ分からずにいる。そればかりか、その理由を知るための心の準備すら整っていない。

 

(………これからだ)

 

 ネギは拳を強く握った。

 

(力さえあれば、誰も失わなくてもすむんだ。僕は、強くなる)

 

 ようやくネギの中でなにかが始まろうとしている。それがどうしようもなく間違った選択だとしても、ネギの運命は加速し続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メセンブリーナ連合の領域にあるノクティス・ラビリンスから南西に五十㎞ほど離れた場所にラクンドリア鍾乳洞と呼ばれる場所がある。

 ラクンドリア鍾乳洞が付近にはドラゴン種がうようよしており、遥かな古代にはここでドラゴンと人とが共存していたと伝えられているのだという。その言い伝えも今となっては伝承として語り継がれるほどの過去の話。ドラゴンと共存していた人など最早おらず、現在は様々なドラゴンが生息する地帯として有名になっている。

 古菲と長瀬楓の二人の姿が広大なラクンドリア鍾乳洞の中にあった。

 岩陰にこびり付く光苔がと藍色の鉱石が淡く輝き、光の届かぬ闇の中であっても視界が閉ざされることはない。 

 そして辿り着いた鍾乳洞の一番奥まった一角。そこには、巨大な、本当に巨大なドラゴンが蹲っていた。ここだけ目の前のドラゴンが直接出入りしているため天井がなく、遥か頭上に空が見えていた。

 ドラゴンは眠っているのか、動かない。

 恐竜のような巨躯の持ち主で、荘厳な美しさすら備えていた。全身を丁寧に磨き抜かれたように光る鱗は、見る方向によって青色もしくは黄緑に見えるアイオライトの石のように。

 頭の頭頂から背中にかけて、炎の塊のような太い角がビッシリと生えている。

 盛り上がった胸筋、逞しい上腕筋や大腿筋、体全体をすっぽり包んでしまえるのではないかと思えるほどの巨大な翼は退化した飾りではなく、一目で実用的なものだと分かるほど雄々しかった。寝ながらでも引っ切り無しに地面を打ちつける長々とした尾。岩でも切り裂けそうな鉤爪は、その蓄えられた破壊力を十分以上に誇示している。

 装甲の如く分厚い表皮に覆われた頭部は、ぞろりと鼻先が長く伸び、僅かに開いた口の間からは、ギラギラと輝く鋭い牙が垣間見えている。

 

「大きいアル……」

「そうでござるな……」

 

 思わず声を漏らした古菲の気持ちは楓も一緒だった。

 ヘラス帝国の帝都守護聖獣の一体、全長100mを超える龍樹に比べれば遥かに小さい。それでも全長が50m近くの巨体となれば、威圧感に変わりはない。

 

「これがラクンドリアの魔龍」

 

 畏怖を込めて、そう呼ばれる足る存在であると楓は素直に感心していた横で古菲がこの一角の至る所に真っ黒な物体がいくつも転がっているのが見て取った。

 

「なにアルか、この黒いのは?」

「人、でござろう。ドラゴンの業火に焼かれた者達の末路。いやいや、こうはなりたくないでござるな」

 

 火傷を負っている程度の話ではない。まさに消し炭になっていた。 

 そんな彼らのやり取りの所為か、ドラゴンの尾がピクリと動いた。

 

「ん?」

 

 と、楓が最初に異変に気付いた。

 

「動いたでござるぞ!」

 

 古菲も、すわとばかりにドラゴンへ向き直る。

 ラクンドリアの魔龍が、ゆっくりと瞼を開いて紅い目が詳らかになる。そしてのっそりと畳んでいた足で地面を踏みしめて起き上がる。四本足で立つと、更に巨大に感じられた。

 ダン、と一歩足を踏み下ろしただけで地響きがする。眠気を振り払うようにブルブルと身震いをしたドラゴンは、眼下にいる楓達を順に眺める。爛々と燃える紅い瞳が遥か高みから二人を睥睨していた。

 内に秘めたエネルギーが、存在としての格が、あまりにも桁違いだった。

 二人の数十倍近い体高、堅そうな龍鱗、地獄のような紅い瞳――――そのどれもが魔性の威厳に満ちて、相対するだけで魂を拉がれそうだった。 

 

「グルルルル――ッ」

 

 自らの眠りを妨げたのが彼女らであると理解したのだろう、ドラゴンがギロリと睨め付けて低い腹に響くような叫びを発したのである。

 

「ウワッチッ」

 

 と、肌を燃やされそうな熱風に思わず古菲が仰け反った。

 鼻を鳴らしただけで突風ほども勢いがあった。ゴオッ、と熱い吐息が吐かれた余波だけで二人の髪は一斉に逆立った。もう少し熱ければ、発火するんじゃないかというぐらいの温度だった。最早、叫び声は一種の凶器である。

 ダン、ダン、と足を踏み鳴らした。壁が崩れるのでは、と二人が心配したほどだった。

 

「―――――ッ」

 

 ドラゴンが、畳まれていた背中の翼を広げて、バサリと一度羽ばたかせた。それだけで猛烈な風が楓達を襲い、立っているのがやっとというほどだった。

 その風に気を取られていると、牛を丸のみ出来そうな大口を開ける。鋭く尖ったが白い小石を敷き詰めたように整然と並んでいた。

 

「来るアル!」

 

 古菲が硬い声で警告を発した。

 二人は、パッと間反対に散開し、両方が攻撃のターゲットにならないようにドラゴンを挟むように陣取った。五十m強のドラゴンが自由に動き回れるほど広いこの空間ならば、それも可能だ。

 ドラゴンは、まずは楓に標的を定めたのか首を彼女に向かって突き出すと口から大量の炎を吐き出した。

 楓は瞬動で移動して炎をやり過ごす。

 離れても炎の余波が身を炙る。まともに浴びれば防御障壁があったとしても人一人などあっという間に消し炭同然にしてしまうことは間違いない。そうなっては、今までここにやってきた者達の二の舞だ。

 

「それだけは御免でござる」

 

 あれだけのドラゴンブレスに対して魔法使いのような確たる防御手段を持たない二人では正面に立つのは無謀。回避し続けるしかない。

 

「分身の術!」

 

 楓が幾重もの影分身で生み出し、四方八方に動き回らせてドラゴンが分身に気を取られている隙に、古菲が駆け寄ると、爪や翼を掻い潜って背中へと飛び乗った。

 

「ぬぉぉ………………りゃぁっ!」

 

 拳に気を思いきり込めた一撃を、ドラゴンの背に向けて放つ。

 続けて、二撃、三撃。古菲がいま放てる全力を込めて攻撃を、休まずに幾度も続ける。

 だが、ドラゴンは平然としていた。

 ドラゴンの固い皮膚は年を経るとどんどん固くなる。古菲の全力でも突破できないほどに堅く硬い。

 

「グゥルルルルルアアアアアアアアアアア――――ッ!」

 

 小蠅に纏わりつかれたように苛立つように首をもたげ、ドラゴンが咆哮を上げる。

 そこへまるでタイミングを合わせたかのように、楓が懐に飛び込んだ。

 16の影分身を集結させて、楓忍法朧十字を放とうとしていた。全ての分身が持つクナイが気を纏って青白い光を纏う。そして気合の声を発して一斉に瞬動に入る。

 

「はぁああああああああああああああ―――――――――――――――――っ!」

 

 16の分身がとてつもないスピードでクナイを叩き込んでゆく。彼女らがクナイを叩き込んでいく度に、ドラゴンの腹がのたうつ。

 手応えはあった。堅牢な鱗を突破し、ドラゴンの身体を傷をつける。

 が、巨体に対して負った傷は人間が指先に針を刺されたようなもので致命傷には程遠く、ドラゴンの逆鱗を刺激するのに十分な威力だけはあった。

 

「グゥウウウウウウウオオオオオオオオオオオオオオオ!!」

「ぬぅ!?」

 

 楓が熱気の渦巻く洞窟の中を大きく飛び上がった。

 赤熱する溶岩が煮え滾る広大な洞窟の奥にいる歪な巨木のような暗い影が、楓を追うように恐ろしくゆっくりと左右に首をくねらせている。

 

「グルゥア!」

 

 と、ドラゴンがのっそりとしたその動きからは想像もつかない速度で開いた顎から再びの火炎弾を吐き出した、気配を決して近づこうとしていた古菲に向けて。

 古菲は真っ直ぐに向かってくる火炎弾を見て、ドラゴンに向かっていた慣性を地面を蹴って方向を変えて辛うじて躱す。

 火炎弾は古菲の脇を通り抜け、その向こうにあった巨大な岩の塊を容易く焼き尽くした。

 

「ひょえーっ、あ、危なかったアル……」

 

 肩越しに溶岩と化した岩の塊を振り返っている古菲を見下ろして、天井に足を着けて着地した楓は指先で印を作った。

 

「分身の術!」

 

 途端に天井に幾つかの煙を弾けさせながら、楓の周囲に十数人の分身達が再度出現した。

 術を発動した時に発生した煙と頭上に増えた気配に反応したドラゴンが首を擡げ、今まで折りたたんでいた翼を広げた。そして全長を超えて二倍もあろうかという翼を幾度も羽ばたかせた。

 これだけの巨体よりも大きい翼を羽ばたかせただけで洞窟内の空気が大きく乱れる。特に天井近くの空気は、まるで大嵐のように凶器と代わる。

 凄まじい豪風が楓と分身達に襲い掛かる。

 分身達の幾つかが豪風に飛ばされて壁に叩きつけられ、煙を撒き散らしながら消滅した。辛うじて地に降りて豪風の脅威から逃れた本体は、バランスを崩して地面に叩きつけられた。

 

「楓!?」

 

 台風を遥かに超える烈風に立っていられず地に伏せて耐えていた古菲が名を呼ぶ。擦り傷だらけの楓は彼女の声に反応して顔をキッと上げ、大きすぎる翼を羽ばたかせて豪風を生み出し続けるドラゴンを睨み付けると、素早く姿勢を立て直して分身の生き残り達と共に、向かい側から来る風に逆らって飛び出した。

 ドラゴンは前脚を振り回して分身諸共楓を薙ぎ払おうと執拗に迫る。少しでも爪が掠っただけで、肉を引き裂かれるのは目に見えている。

 ドラゴンは滅茶苦茶に前脚を振り回しているように見えて、的確に楓を狙ってくる。しかも巨体に似合わず素早い。どうしても楓は回避を強いられた。

 

「アデアット、伸びれ神珍鉄自在棍!」

 

 そこへ横合いからアーティファクトを取り出した古菲が西遊記に登場する孫悟空の如意金箍棒の複製で神珍鉄自在棍を急速に伸ばし、ドラゴンの横っ腹をド突く。

 完全な隙を突いた一撃だったが、ドラゴンはその部分の皮膚が熱して赤くはなったが鱗を打ち破ることは出来なかった。

 

「ぐぬッ」

 

 ドラゴンが吠えて翼を振るって、古菲を叩き落とした。

 古菲はなんとか受け身を取るが、ゴロゴロと地面を転がる。そこへドラゴンが炎を吐き出す。

 

「ぬわっ!?」

 

 古菲は咄嗟に真横に大きく跳んで、どうにか躱す。それでも腕の辺りに刺すような痛みが走った。

 腕に目をやると、手首から肘の辺りに火傷を負っていた。手に力を込めると痛みを感じるが、戦えないほどではない。なにより、利き腕でないことが幸いだった。

 

「伸びれ!」

 

 躱しながら時折、神珍鉄自在棍を伸ばした古菲の攻撃がドラゴンの体に当たっている。だが、決定打には遠く及ばなかった。

 ドラゴンは今度は僅かに開いた口先から無数の火球を吐き出した。

 広範囲に吐き出された火球は今までみたいに飛んで避けることが出来そうにない。瞬時にそう判断した楓は「アデアット!」と叫んでアーティファクトを取り出して、天狗之隠蓑を手にして古菲の前に立つ。

 

「楓!」

「大丈夫でござる!」

 

 古菲が案じるが楓には天狗之隠蓑がある。

 天狗之隠蓑には布を翳すことで敵の攻撃を吸収することが出来る。事実、ドラゴンの無数の天狗之隠蓑に吸収されてその向こうの楓にまで届いていない。

 

「なんとか凌いだでござるが」

「こちらの攻撃が殆ど効いていないのは反則アル」

 

 そんな会話を交わし、二人は同時に左右に瞬動で動く。

 楓達が有利な点と言えば、ドラゴンが棲み家である鍾乳洞を壊さないように手加減していることと、楓達が二人であること。

 常に互いの位置が対角線上に位置するようにしているので、流石のドラゴンも前後や左右にいる二人を同時に目を配ることは難しかった。

 ドラゴンは、時々羽ばたいては嵐のような風を起こし、楓達の動きを止める。

 しかし、飛び去ることはしなかった。それでは人間相手に逃げたことになってしまうからだ。

 この鍾乳洞という限られた場所が、闘いのコロシアムだった。

 背後から古菲の一撃が、前方で分身して攪乱していた楓を鬱陶しそうにしていたドラゴンの左腿へと見事に入る。固い鱗に遮られて一撃の下に突き崩すことは出来なかったが、衝撃は響いたようで伸ばしていた足が折れ曲がる。

 

「グルアアアアアアアアアアアア!!」

 

 ドラゴンが怒声を放つと、反転した。

 巨大な鞭と化した尾が、古菲の身体を弾き飛ばした。

 

「うぐっ」

「古――っ!」

 

 悲鳴のような叫びを上げる楓。

 だが、古菲は受け身を取り、直ぐに立ち上がった。彼女はドラゴンの尾による一撃を、根を立てることによって上手くガードしていた。

 楓がドラゴンの顔の高さまで飛ぶ。クルリと一回転してドラゴンの鼻面へと、全体重と気を込めた拳をお見舞いする。

 

「グ…………ググッ…………」

 

 ドラゴンの顔が苦悶に歪み、体全体がグラリと傾いだ。

 そこへ古菲が素早く潜り込んで止めを決めるつもりで、全力の棍の一撃を叩き込む。

 しかし古菲の一撃は、ドラゴンの腕によって阻まれてしまった。

 

「くっ」

 

 喉の奥で唸る。だが、その動作によってドラゴンはバランスを崩し、少しずつ少しずつ前に倒れた。

 前肢の膝が地面に付いた。続いて顎が落ちる。

 

「顎が地面に付いたアル」

 

 肩で息をしながら古菲は一旦地に伏せて動きを止めたドラゴンを見る。

 ドラゴンはそのまま身震いをすると、みるみる内に鱗を赤くしていく。

 

「グゥルアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

 大きな口を開けて天空に向け、雷鳴のような咆哮を上げた。

 咆哮に射竦められた二人は身動きも出来なかった。鼓膜が震え、脳が痺れてしまった。毛穴が開くほどの恐怖だ。身が竦む。手足が一気に萎え、危うく気が遠のきかけた。

 頭が凄まじい勢いで回転していた。過去に蓄積してきた体験や知識を総動員して、目まぐるしく記憶がフラッシュバックしている。極限状態に置かれた人間に備わっている生存本能が働いているのだ。

 体を起こしたドラゴンは、全身の鱗を真っ赤に染め上げたラクドリアンの魔龍としての本性を明らかにする。

 今までのは寝ぼけていたと思えるほどに存在感の桁が跳ね上がり、その前に立つ二人の末路は絶望的だった。

 目の前のドラゴンを相手にして、戦って生き残る道はない。なにもなかった。あるはずもない。体格が、スピードが、戦闘能力が桁違いだった。あまりにも生物としての格が違いすぎる。最初から勝てるはずがなかったのだ。

 二人の魂は委縮し、今にも恐怖で押し潰されそうだった。この壮絶な生き物に比べ、なんと自分達の存在はちっぽけで、矮小で、取るに足らない塵の如きものであるか。

 残酷で、悪夢の世界だった。

 例え悪夢であっても、夢であればいい。目覚めれば、温かい布団の中で寝汗に塗れながらも安堵の吐息をつくことが出来る。朝ご飯を食べて何時ものように学校に行く。平凡で、なんということのない、何時もの日常がそこにはある。

 次第に現実感が薄くなってきた。理性が、恐怖を紛らわそうとして麻痺してしまったのかもしれない。

 

「うぅ……」

 

 楓は乾いた喉から呻き声が漏れてくるのを横から聞いた。

 視野狭窄に襲われるほどの極限状態とはいえ、ようやく楓は隣にいる頼もしい友がいることを思い出した。だが、腕が、足が、痺れたように動かなかった。

 その時、急激に周囲の気温が低下していった。

 空気が凍り付き、みるみる壁の岩壁にも霜が下りていく。

 魔龍が周りの熱を吸収しているのだ。牙を剥き出しにした口腔が真っ赤に染まり、紅蓮の炎で一杯になっている。あれを放出されたら、こんな鍾乳洞など簡単に崩れる。

 ドラゴンの口腔内の激烈なる力の高まりに鍾乳洞が鳴動する。

 彼女らの頭上に、鍾乳洞の天井からパラパラと土砂が降り注いできたのである。ハッと身構えるのと、天井が崩れて岩石が落下してくるのは、ほぼ同時だった。

 

「な……っ」

 

 古菲と楓が飛び退いた直後の地面を、巨大な岩が直撃した。

 楓の固まっていたかに見えた体内に流れる血がストッパーを外されたように急速に流れ出した。

 

「逃げるアル!」

「承知!」

 

 突如として湧き上がり、身を縛る恐怖心を焼き尽くしたのは、生物が持つ原初の衝動である生存本能であった。

 反転して全速力で走り出す。

 戦いの時よりも気の強化率が高いのではないかと思うほどに二人の足は速く、そして、そのすぐ後ろに次々と天井から剥落していく瓦礫が落ちていく。

 二人が鍾乳洞の入り口を抜けて外に出ると、あっという間に岩と土砂とに埋もれてしまった。

 

「う~ん、どうやら鍾乳洞が耐えきれなかったようでござるな」

 

 今までの攻撃による衝撃と、ラクドリアンの魔龍の本気に鍾乳洞が耐えきれなかったのだ。

 舞い上がった土煙が収まってみると、ドラゴンがいた大広間までの通路が完全に埋まっている。戻るのは不可能ではないが手間がかかるだろう。

 

「本気になられた時は殺気だけで死ぬかと思ったアル。鍾乳洞が崩れて命拾いしたアル」

 

 ふう、と溜息を漏らして鍾乳洞から離れた古菲は疲れたように地面に座り込んだ。

 

「まだラクドリアンの魔龍に挑むには早かったということでござるな」

 

 精進精進、と元の細目に戻った楓の忍者衣装もあちこちが煤けてしまっている。

 

「ありあどねーのセラスそうちょうが来るまでもう一週間、要修行アル」

「で、ござるな」

 

 この地にいることが出来る後一週間はもっと修行だと、割かし世界が変わってもやることが変わりない二人だった。

 

「グギャアアアアアアアアアア!!」

 

 もう来んなし、と一週間前にも襲って来た二人に向けてドラゴンの雄叫びがあったかは定かではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 街道を行く幌馬車があった。幌馬車を引く牛と馬の中間のような見た目の動物の手綱を取るのは、ヘラス帝国のアンマンからメセンブリーナ連合のヴァルカンへと荷を運ぶ行商人である。

 

「今日も良い天気。全て世は事もナシだな、ムンバ」

 

 男がムンバと呼んだ動物だか魔物だか分からない存在が同意するように一鳴きした。

 ちなみにムンバは男が勝手に名づけた名前である。先代が死んだ時に偶々近くにいたムンバで代用してそのままなのでどういう動物なのか、魔物なのかもしれないが、まったく知らない。今は無二の相棒だ。

 

「それにしても良い風だ。毎日こんななら良いのにな」

 

 街道脇の長い雑草が風に揺られている。彼は昼下がりの長閑な空気に欠伸を一つ漏らす。

 この近辺には人を襲う魔物は滅多に出ない。街道を外れればその限りではないが、街道沿いに進んでいる限りは比較的安全だった。

 

「野盗が出るって話だったけど、こんなに良い天気なら昼寝してるだろうし、用心棒を乗せる必要もなかったかも」

 

 商売の為に街から町、村から村へ移動する者にとって、怖いのは何も魔物だけではない。結局の所、人の敵は人であることが大前提にある。それは今も昔も変わらない。最近はこの近辺で野盗が出てるとも聞き、少し不安だったが一応の対策はあるものの仕事なので仕方ない。

 

「どうだい、姉ちゃん。乗り心地は?」

「――――」

 

 聞くと幌に遮られて聞こえ難いが大丈夫と返って来た。

 用心棒というには頼りない人選ではあるが、ヴァルカンに行きたいので護衛をするから馬車に乗せてほしいということだったのでお金はかかっていない。街から町、村から村への移動の際に乗れないかと頼まれてきたことも多く、まだ若い女人であれば断る理由はない。

 

「ん?」

 

 また一つ大きな欠伸をしていてた行商人の男は、ふと風を切る聞いたような気がして周りを見渡した。

 

「うわっ、な、なんだ!?」

 

 突然、ムンバを引いていた手綱が自分の意志に反して動き出して行商人の男は慌てた。見ればムンバの横腹に矢が刺さっている。

 行商人が手綱を引いてムンバを静めようとすると、後ろから布の破れる鈍い音が聞こえた。

 振り向くと、荷台を覆う幌にも矢が刺さっていた。

 街道脇の雑草の群れから、顔を長い布で隠した数人の男が姿を見せた。顔全部を覆う布の所為で人相や、人間か亜人かすら分からない。

 ヒューマンタイプなのは間違いなが、どちらかを断定できる目印がない。特に現在地がヘラス帝国とメセンブリーナ連合の境目であることが判断を鈍らせる。

 

「野盗か!?」

 

 分かっているのは自分が強盗に襲われているということだけ。

 野盗の一人が射ったであろう弓を投げ捨て、全員が腰に下げていた短刀を鞘から引き抜く。何度も使い込まれているのか、太陽の光に反射して新品にはない妙な凄味の輝きが照らされる。

 行商人の男は自慢ではないが弱い。べらぼうに弱い。この前、近所の十も下の若造の酔っ払いにコテンパンに斃されたところである。

 この人数差では多勢に無勢。戦うことに慣れていそうな野盗相手に、一対一でも負ける自信があるのに無謀なことをする気はない。

 

「う、動かないと!」

 

 行商人の男の頼りは横っ腹に矢が突き刺さっているムンバだけである。

 ムンバを見捨てて逃げるという選択肢はない。荷は別に取られても替えは利くが、噂に聞いた野盗は家畜も皆殺しにしていると聞いた。

 ムンバは無二の相棒である。自分の命より大切とは言わないが下手すれば家族よりも慣れ親しんでいると言っていい。

 家では娘が思春期になって邪魔者扱いされている状況で、妻ですら味方と言える状況ではない。息子とまでは言わないが大事であることに変わりない。

 手綱を操って、なんとか前へ駆けさせようとする。しかし、刺さった矢の激痛にムンバは闇雲に跳ね回るだけだ。

 野盗の一人がムンバに近づく。

 この囲まれた状況では行商人の男の足で逃げるのは不可能だろう。万が一にも逃げられるとしたらムンバが強行突破するしかない。その芽を先に潰しておこうというのだ。

 ムンバの状況を見るに自分を連れての強行突破が出来るとは思えない。となれば、残る一つしかない。

 

「逃げろ、ムンバ!」

 

 手綱を離したムンバが抑えを失って一目散に駆け出す。

 包囲網を強行突破しようとするムンバに野盗達は慌てた様子で道を開けた。下手に抵抗されて怪我をしても仕方ないと最初から打ち合わせでもしたのか、軽くアイコンタクトをした野盗の一人が残った行商人の男に狙いを定めた。

 もはや震えるばかりの行商人の男に、粗野な笑みを浮かべて近づきながら短刀を振りかぶる。

 せめてムンバが逃げ延びてくれればいいなと男は思い、娘が嫁に行く時までは生きていたかったなと場違いなことを考えていた。だから、残りの野盗達が荷台に回って幌の天幕を破こうとしている気づかなかった。

 その時、天幕の内側から何かが飛んできた。

 

「ぐわっ」

 

 幌馬車の行者席に座っていた行商人の男の顔の横を木の棒が突き出ている。その棒が、正確に野盗の額を捉えて吹っ飛ばした。

 一瞬で野盗の一人を倒した棒が引き戻されるのと、幌馬車を取り囲んでいた野盗達が悲鳴と共に倒れたのは同時だった。彼らは自分達を打ち倒したのが誰かを知ることもなく倒れていた。

 野盗達のリーダーらしき男は仲間の惨状にただ目を奪われている。リーダーは一人だけ輪から外れていたから助かったのだ。

 

「おじさん、大丈夫?」

「あ、ああ……」

 

 何時の間にか亜麻色の髪の乙女が近くに立っていて、何が起きているのか分かっていない行商人の男は問われるがままに頷く。

 行商人の男が状況を理解出来ていなくとも、まずは野盗を退治するのが専決と判断した亜麻色の少女は肩に背負い直した大剣を担ぎ直し、棒が引っ込んだ幌の向こうを見る。

 

「良かった。じゃあ、やっちゃいますか、刹那さん」

「ええ、明日菜さん」

 

 幌を捲って荷台から降りてきたのは、亜麻色の少女に刹那と呼ばれる少女。

 行商人の男がアンマンでヴァルカンに行きたいと言われて、少女なので変なことにはならないだろうと乗せた珍客である。

 

「おっと、逃がさないわよ」

 

 一人残された野盗のリーダーは、明日菜が仲間をやった気付き、彼女達の腕が立つと分かって逃げの体勢に入ろうとしていた次の瞬間、野盗のリーダーは誰かが背後に立ち、何かをされて意識が落ちるところで記憶は途切れた。

 行商人の男は直ぐ傍にいた明日菜から目を離したわけでもないのに、野盗のリーダーは倒れその後ろに彼女が立っている。

 木の棒と思われた夕凪の柄を握って馬車から下り立った刹那が行商人を護るように立つ。その背中を呆然と見る行商人の男が口を開く。

 

「あ、アンタ達一体……」

「賞金稼ぎです。この辺で野盗を率いる賞金首がいるとの情報があったので同乗させてもらいました」

「その甲斐はあったわけよね。お出ましよ、本命が」

 

 端的に事情を説明した刹那の横にこれまた何時の間に移動したのか明日菜が立っている。

 

「本命って何が………げげっ!?」

 

 なんのことだと行商人の男が問いかけようとした時、街道の先に現れた二人の男を目にして悲鳴を上げた。

 一人は身長二メートルはあろうかという色黒の大男で、太い灰色の眉、何者をおも貫きそうな鋭い両眼、鼻の下に蓄えた灰色の口髭、もしゃもしゃとした灰色の顎髭、体つきはゴリラのようにガッシリとしていた。両腕をダラリと下げている。

 

「まままままさか、悪名高いブレイド兄弟がなんでこんなところに!?」

「野盗の纏め役なんてしてるらしいわよ」

 

 行商人の男の疑問に対して明日菜は肩に背負っていたハマノツルギを下ろしながら簡潔に答える。

 

「ブレイド兄弟のゲヘレケとラバレイトで間違いありませんね」

 

 ポケットから取り出した手配書を開いて人相を比べ、刹那が声の届く位置に近づいてきた兄弟に問う。

 

「ああ、そうだぜ」

 

 大男の後ろにいた者が誰にともなく言った。

 

「俺が兄のゲヘレケだ。で、こっちが弟のラバレイト」

 

 大男の背後から現れたのは、色黒な大男とは対照的に小柄で色白な小男だった。厭らしそうな視線を二人に向けて、手には小さな筒を持っていた。

 

「まさかこんなところに賞金稼ぎが、ガキだが別嬪さんがいるとは思わなかったぞ」

 

 ゲヘレケと名乗った子男が、足下で転がる野盗達を無造作に蹴飛ばして鼻を鳴らしてから口を開いた。

 

「こいつらは使えねぇし、しょっぱい儲けかと思ったが女がいるとなれば話は別だ。げへへ、仕事の後の楽しみが出来たってもんだ」

 

 漏れた涎を拭いながらの口調は、視線に負けず劣らず好色的だった。明日菜達の背に鳥肌がゾゾゾッと立つ。

 

「良い声で鳴いてくれよ」

 

 ゲヘレケと呼ばれた小男は嘲笑するように言って筒を握った片手を振るうと、その先から魔力で構成された鞭がするするっと伸びた。鞭が地面に触れると、バチリと激しい音がして、その部分が真っ黒に焦げた。

 無言を貫いている大男―――――ラパレイト――――――は、両手をダラリと垂らしたまま、のっそりと前に出る。

 

「へ~、あんたは丸腰なんだ。こっちは武器を使うけど、文句は言わないでよ」

 

 立ち位置的に自分が相手をするラパレイトが動いたのを見て、明日菜はハマノツルギを上げて両手で握って正眼の構えを取る。

 

「気をつけて下さい。この男達は並みの使い手ではありません」

 

 自らもゲヘレケに注意を向けながらの刹那の警告は、少しばかり遅すぎた。

 ラパレイトの体が、ふわりと地面から浮かび上がったかと思うと、目にも留まらぬほどの速度で固めた肩から明日菜にぶつかっていったのである。

 

「ぐふっ」

 

 明日菜も油断があって、実に三倍以上はあるであろう体重差によって留まりきることは出来ず、弾かれたように後ろへと吹き飛ばされて背中から地面へと倒れた。

 これだけの大きな隙をラパレイトが見逃すはずもない。目に見えるほどの魔力を巨大な拳に滾らせ、砲弾のように撃ち放った。幾つもの魔力弾が明日菜へと向かって飛ぶ。

 

「くっ」

 

 幾つもの魔力弾が炸裂する。

 煙が晴れると、地面は爆撃を受けたように荒れ果て、余波を受けて長い雑草が吹き飛ばされていたが明日菜の姿はなかった。彼女は可能な限りの速度で起き上がり、瞬動でギリギリ後方へと飛び退っていたのである。

 

「ぬ!?」

 

 そちらへ気を取られていた刹那は、突然、なにかを感じて横に転がった。

 今まで彼女のいた場所に、魔力の鞭が振り下ろされた。

 

「ゲッゲッゲッ、中々やるじゃないか」

 

 気色の悪い声でゲヘレケが笑う。

 

「鞭使いとはかわっています、ね!」

 

 余裕を見せつけるゲヘレケの隙を利用して起き上がって飛び込み、今まで納刀したままだった夕凪を鞘から抜き放つ。

 今も魔力弾を撃たれて回避し続けている明日菜のこともあって一気に勝負を決めるべく、夕凪に紫電を纏わりつかせて斬りつける。だが、ゲヘレケの余裕はポーズだったのか、あっさりと躱して素早い動きの刹那へと魔力の鞭を振るった。

 予想よりも遥かに素早い挙動に、勝負を焦りつつも仕方なく刹那が後退する。だが、魔力の鞭がそれまで以上の長さにスルスルと伸びてきた。

 

「伸びたっ!?」

 

 魔力の鞭は普通の鞭と違って柄以外は魔力で構成されているので、物質的な射程距離は意味をなさない。持ち主の魔力の込めようによって理論上の限界値はない。

 

「くっ」

 

 魔力の鞭を持ち出した時点で可能性として頭の隅にあったことが幸いしたのだろう。虚を突いた攻撃にもなんとか夕凪で受け止める。

 雷属性を負荷されたサンダーウィップなのか、受け止めた夕凪との間にバチバチと激しい音が鳴る。

 

「ぐっ」

「ちっ」

 

 奥義を放つために夕凪に紫電を纏わりつかせていなければ刹那の全身を雷撃が走ったことであろう。

 効果が薄いと判断したゲヘレケは一旦サンダーウィップを戻した。

 

「やぁああああああ!」

 

 明日菜はラパレイト相手に、ハマノツルギを振るい易い距離ではなく接近戦に持ち込んで、蹴りと拳を織り交ぜて立て続けに繰り出す。

 が、ラパレイトは低距離の浮遊術で飛行して易々と避けた。

 

「空を飛ぶなんてずるいわよ!」

 

 と、言いつつ明日菜も飛び上がって上を取り、上段からハマノツルギを振り下ろす。

 

「…………」

 

 ラパレイトは微動だにせず、明日菜のハマノツルギは命中するかに見えた。

 だが、ハマノツルギは宙を薙いだだけだった。明日菜の動きを見切ったラパレイトは、寸前で身を躱したのだった。

 

「ひっ」

 

 痛みに呻いたのは明日菜の方だった。

 ラパレイトは迫り来るハマノツルギを完全に見切り、僅かに後退してミリ単位でやり過ごした。目の前を刃が通過してから空中を踏み込む神業を披露して、流れるような動きで明日菜の眼前まで稲妻の如く駆け寄り、明日菜が刃を戻すよりも早く、その腹部へと膝蹴りをめり込ませた。

 丁度良い高さにある明日菜の顔面へと裏拳を叩き込む。

 

「くはぁっ」

 

 明日菜は成す術もなく空中で体勢を崩す。

 ラバレイトはトドメを刺すべく、右拳に尋常ではない魔力を込めて振り被ったところで明日菜が動いた。

 

「でりゃああああああああああああっ!!」

 

 ラバレイトの拳が放たれるよりも早く、明日菜はただでさえ身の丈以上に大きく重いハマノツルギに全身の体重と運動能力を乗せて振り回した。

 

「――ッ!」

 

 今までよりも早く、速く、疾く、振り回されたハマノツルギを避けることが出来ずに、がっしりと両拳で挟んで受け止めた。ハマノツルギがピタリと止まる

 静止したのも一瞬。押し込められていくハマノツルギの勢いは止まらない。

 

「おぉ――っ!」

 

 ラパレイトが初めて叫んだ。

 すると、ただでさえ太く厚い腕や胸板が倍くらいに膨れ上がった。肉体の膨張に耐え切れず服がズタズタに破れ、みるみる内にラパレイトの体は何倍にもなっていき、押し込まれるハマノツルギが今度こそ止まった。

 このままでは押し切れないと判断した明日菜の決断は早かった。

 

「なっ!?」

 

 ラパレイトの上半身の筋肉がボコリと盛り上がって、押し返そうとしたところで明日菜がハマノツルギを意図的に引き、スポンと抜けた刀身が通り過ぎていくのを見つめながら拳が合わさる。

 

「ハァッ!」

 

 押し、押し返すことに終始していたラバレイトの動きが固まり、その隙間を縫うように振り被られたハマノツルギがラバレイトの頭上が迫り、グシャと林檎が潰れるような音と共に迫っていた地面に叩きつけられる。

 

「ラバレイト!」

 

 ラバレイトがハマノツルギによって頭から倒立するように地面に突き刺さるのを見たゲヘレケが刹那に向かってサンダーウィップを伸ばす。

 だが、刹那は仲間が倒された焦りで今までとは違って正確さを欠いた雷の鞭を易々と掻い潜り、尚も前へ進んだ。

 

「小娘! お前は邪魔だっ!」

 

 焦るゲヘレケを後目に、刹那はその懐まで入ると、出した足を絡ませて転がせる。

 

「ゲッ!?」

 

 軸足を刈り取られて無様にも尻餅をつく。

 ここを好機と見た刹那が瞬動でゲヘレケに一足で迫ろうとした。

 

「なんてな」

「くっ」

 

 武器を手に後一歩の距離まで接近しているの気づいて慌てながらも振るったサンダーウィップが、見事に刹那の右手に巻き付いた。

 

「ぐあああああっ!」

 

 武器ならまだしも気で防御していようとも生身の部分で受けた激痛が刹那を襲う。よほどゲヘレケは慌てていたのか、柄が焼き付く程の魔力を込められた雷撃は普通の人間が雷を浴びたに等しい痛みを与える。

 しかし、サンダーウィップは結果的にせよ、封じられている。

 雷撃の痛みに悶絶しながらも、刹那は先よりも更に紫電を漲らせる夕凪を無我夢中で突き出した。

 

「はんっ! この距離で当たるはずが」

 

 長い野太刀よりも外へ飛び退きながらゲヘレケは自らの勝利を確信した。この攻撃が終わった後に目の前の女の止めを刺せば、ラバレイトの応援に駆け付けられると考えた。

 考えただけで実行には移せなかった。ゲヘレケの全身を雷が打ち据える。

 

「がっ、ぐ………が………」

 

 雷の正体は簡単。刹那が伸ばした夕凪から放たれた一撃である。

 

「つぅ」

 

 刹那が腕を振るって巻き付いていたサンダーウィップを払い落とした。袖は焼け焦げて肌も火傷を負っているが重傷ではない。全身に残ったダメージも少なく、殆どの雷が夕凪へと流れてしまったらしい。

 ゲヘレケが完全に気を失っているのを確認し、地面に埋まっている巨漢のラバレイトを引っ張り起こしている明日菜の姿を見た刹那も肩から力を抜いた。

 

「無事ですか?」

「うん、ちょっとやられちゃったけど」

 

 問いに対して明日菜は打たれた腹と頬を痛そうに擦る。

 勢いよく打たれた割には目に見える頬は僅かに朱くなっているだけで、まるで軽く小突かれたようなリアクションなのはそれだけ気の扱いに習熟して来たことを証明している。

 

「随分、気の扱いに慣れてきましたね」

「刹那さんのお蔭よ。やっぱ師匠の教えがいいと覚えも早いわ」

 

 もう痛くなくなったのか、腹部を擦っていた手を離して傍の地面に突き刺していたハマノツルギを抜いてカードに戻す。

 さっきまで殺し合いをしていたのに戦いが終われば何事もなかったかのように話す二人の底知れなさに、行商人の男はまだ震えている。野盗よりも目の前の二人の方が恐ろしいとでも言いたげだ。

 

「今ならあの時のアスカの気持ちが少しは分かるわよね。人に怖がられるって結構クるものがあるわ」

「………………」

 

 行商人の男には聞こえぬように小さな声だったが、近くにいた刹那には聞こえていた。

 守った者から恐れられるのは想像していたよりも心に突き刺さる。

 アスカがヘルマンと戦った時、今更ながらにあの時の自分達の反応が如何に無神経であったかを思い知らされる。

 

「おじさん、怪我はない? 仲間に治癒術士がいるから治して――」

「ムンバ!」

 

 明日菜が柔らかい態度で話しかけていると、行商人の男は街道の外れから牛と馬の中間のような動物――――逃げたはずのムンバが黒髪の少女を扇動するように走り寄って来る。

 

「おぉ、お前無事だったのか……」

 

 懐に飛び込むようにやってきたムンバを見て喜色を露わにした行商人の男は矢傷もない体を触れて驚き、近くにやってきた黒髪の少女の見上げて先の明日菜の言葉から彼女――――近衛木乃香が治癒術士だと判断して「ありがとう、ありがとう」と涙声で何度も礼を言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 滝から水飛沫が落ちて、飛沫が小さな虹を生み出していた。落差は大きくないが水量が多く、滝つぼは池のようにようなっている。

 清涼な滝の音だけが響くその水辺に、刹那が水に濡れながら羽繕いをしていた。

 まるで日に当たった事がないかのように透ける白く美しい肌に、その瞳と髪だけが肌とは対照的に夜のように黒い。まだ慎ましい膨らみや均整の取れた体つきが彼女が将来身につけるであろう今以上の美しさを予感させる肢体が光を浴びて眩しく映える。

 

「せっちゃんの羽は何時触ってもモフモフやなぁ」

「こ、このちゃん、その触り方は……」

 

 同じく何も身に着けずに隣に座る木乃香に白翼を慈しむように撫でられる刹那の背がビクビクと跳ねる。

 

「なんで? よく寮で背中とか流してるやん」

「背中と羽とは違うんです」

「一緒やと思うけどなぁ」

 

 言葉尻はともかく刹那も嫌がっているわけではないので、木乃香の為すがままになっている。

 キャッキャッと百合の華でも咲きそうな雰囲気に第三者が現れる。

 

「あ、二人ともズルい! 私も入るわよ!」

 

 二人が水浴びしているのを見た明日菜は躊躇いもなく服を脱ぎ出した。着ている服を全部脱いで裸になって水に入る。

 

「ぷはぁ、冷たくて気持ちいい」

 

 頭まで水に浸かり、顔を出した明日菜の胸の間を筋のように水滴が落ちていた。

 普段は黒いリボンで一結びにしている髪を流した明日菜が立ち上がると二人は呼吸を忘れた。スラリとした体格は、適度な筋肉と女らしい柔らかさの両方を併せ持つ人体美の見本のようだった。

 二人が自身の身体に見惚れていることに気付いていない明日菜は、横になって水面に浮かびながら視界一杯に空を映し、ひどく遠く感じられるクラスメイト達の顔を呼び起こした明日菜は、ふと割って入った空と同じ蒼色の瞳に胸を突かれた。

 アスカ・スプリングフィールド。神楽坂明日菜が追い求めている人。彼も魔法世界にいる。この同じ空の下のどこかにきっとにいる。

 会いたい。奥底から湧き上がって来た思いに胸を締め付けられ、無為に拳を握った刹那、「賞金はどうなったん?」と木乃香の問いが放たれて意識を現実に戻した。

 

「しっかりと払われたわよ。これでやっと船に乗れるわね」

 

 ブレイド兄弟を近くの街に連れて行って掛かっていた賞金を貰い、数日分の生活費を抜いても船舶賃としては十分な金額であった。

 

「やっとって、まだ賞金稼ぎを始めてニ週間しか経ってないやん」

「私にとってはニ週間も一年と変わらないわよ」

 

 会話をする二人は何一つ身に着けていない全裸だ。

 同姓だけとはいえ、刹那は外で自分が身に何も着けていない素っ裸であるという事実が今更ながらに恥ずかしくなり、見られているのが同姓といっても体の底から羞恥が生まれた。

 

「アスカったらまた無茶してるんだもの。気が気じゃないわ」

 

 明日菜の声が響くように、ゆったりと流れる水面がその顔を映し出している。

 

「こっちが違う世界に慣れなくて悪戦苦闘してる時にクーデターとか精霊王とか訳分かんない騒動に巻き込まれてるし。まあ、お蔭で連絡が取れたわけだけど」

 

 旧世界の中でも彼女らがいた日本は裕福な部類に入る。完璧とも言い難いところもあるが、蛇口を捻れば水が流れ、スイッチを押せば照明が灯る。コンビニに行けば食べ物が手に入り、暑い寒いもスイッチ一つ。中世ヨーロッパの基準で言えば、まさに天国と言えるような環境だ。

 飲める水を探すのにも一苦労と三人が人里離れた地に転移してきて、アリアドネーかメガロメセンブリアにいるはずのドネットに連絡を取ろうと手段を模索していた中で、街中で流れたニュースでアスカのことが出ていたのだから驚かずにはいられない。

 居場所が分かれば連絡を取るのは難しくない。

 

「凄い騒いでいましたね」

「そやな、英雄の子ってのはホンマに注目されるもんなんやってよく分かったわ」

 

 誰も彼もがニュースを見ながら興奮した様子で話し合っていたのだから、ゲートポートでその洗礼を受けた木乃香は実感を強くした。

 

「言いたいことは会った時に言ってやるわ」

 

 言いたいことは山ほどあると据わった目でブクブクと水面で噴いて呟いた明日菜に、もしも木乃香と一緒に転移できていなければ情緒不安定になっていたであろう刹那は心配性だなと内心で思っていたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自由交易都市ノアキスが夕闇に沈んでいく。

 岬や海が夕闇に沈むと、ノアキスの繁華街の照明がいっそう冴え冴えと輝きだした。

 『黒龍の晩餐亭』は、活気溢れる通りの中でも特に賑やかな一件だった。地元ではそれなりに知られた店である。安くてそこそこ上手くて満腹感が得られる。大衆食堂の基本に忠実であるということは強い。

 開けっ放しの扉や窓から調子のいい音楽と笑い声、むわっと包み込むような油と香辛料、上手そう料理の匂いが途切れもなく溢れ、石畳の街路を歩く人々の目や耳や鼻を惹きつけた。

 ぎっしり並べられたテーブル席は満杯だ。一階の大多数を占めるのは街から町へと渡り歩く若い冒険者達だ。服のあちこちが破れた男達が酒をかっ喰らって己の武勇を誇り合い、仲間の暴走にほとほと呆れた女性陣が最近流行しているファッションについて語り合っている。

 カウンターの周りでは、独りを好む者達が静かに酒を飲み、待ち合わせをしているらしき者達が辺りを見回している。

 二階にはノキアスに住む者達が夕餉を過ごすために訪れている。二人きりで出かけてきたのは初めてらしい若い男女がぎこちなく会話をして食事が意識の外へ行っていたり、また別の席では何か祝い事らしい家族連れが団欒を過ごしている。

 総じて赤ん坊から年寄りまでが湯気を立てる馳走をにこやかに分け合っているのには変わりない。

 

『ノアキス事変。通称「精霊王事件」について、帝国・連合・アリアドネ―の専門家は――――』

 

 店の中央ではニュース映像が立体画面で映し出されており、事件が起きた地であるからこそ注目している者達もいるが大半は享楽に興じていた。

 

『精霊王なんて伝承、伝説の類だわさ。どうせ見間違いだわね』

『いいや、ありゃ精霊王様に間違いねぇだど。ほれ、これは連合の艦隊に搭載されているセンサーの数値の写しじゃが、ここの部分を見てみい。これほどの数値の異常は精霊王の存在を証明してるぞい』

『センサーを誤認させる方法なんて五万とありますわ。数値の異常を以て精霊王と断じるのは危険であると思われます』

『彼らの発言は近視眼的である。現地にいた者ならば誰でも、あれが精霊王だと認識させられたものです。あれほどの高位次元存在を間に当たりにした時、センサーなどよりも実感として精霊王であると認めざるをえない。なんならばノアキスの住民に聞いてみるといい。アレは何だったのだとね。誰もが精霊王と答えるよ』

『人の感覚ほど、不確かであやふやなものはない。錯覚に過ぎん』

 

 高らかにラッパが鳴り、忽ち口笛と拍手、足を踏み鳴らす音が混乱の店内を一つに纏めた。甘い歌声が響き渡り、高まる音楽と眩い照明の中、踊り子達が軽やかに舞台に登場して自慢の踊りを披露する。これに見とれて静まった座席の間を給仕達が駆け抜ける。

 この都市の名物料理が次から次へと通り過ぎ、手近な人々の食欲を更にいっそう煽るのだ。

 

『今まで確認されなかった精霊王の召喚事態が眉唾物なのに、この事件を収めたヤツだって本当にサウザンドマスターの息子かどうかも怪しいものだわさ』

『しかし、アリアドネ―の総長セラスが保証しているとか』

『大国が睨み合っている中で行動を制止するには、それだけのビックネームが必要だったというだけで必ずしも本物である必要はないじゃろう』

『彼が持つ杖はサウザンドマスターの物であると確認されていますが』

『遺物を持っているから血縁だというのはナンセンスだ。そも、彼の英雄は十五年前から行方不明のまま。他にも同姓同名の偽物が現れているのだから、その真偽もまた怪しい』

『金髪に蒼眼と、サウザンドマスターとは似ても似つかぬ。同姓同名の偽物の方が息子と言われても、まだしっくりする面はあろう。仮に二人とも息子と考えると年齢的にありえなくもないんじゃろうが、そうなると大きな問題がある』

『『『『『母親は誰か?』』』』』

 

 しばらくして、最初のステージがつつがなく終わり、踊り子達が袖に引っ込むと、それを潮に勘定を頼む卓が続いた。長いこと座る席を探していた大勢が遅れまいと移動する。入れ替わりの混乱に、店はまた一頻りざわついた。

 そんな中、騒ぎまくっている一階と違って特に入れ替わりが激しい家族連れや連れ合いが多い二階の奥に彼らはいた。ついさっき入店したばかりのアスカ・スプリングフィールド・長谷川千雨・絡繰茶々丸の三人である。

 

「いらっしゃいませ!」

 

 ウェイトレスが、お盆に水の入ったグラスを二つ乗せて運んできた。チラチラと二人の様子を、特にアスカを気にしている。テーブルにグラスが置かれた。

 茶々丸が各自の前にグラスを置いている間に、アスカはテーブルの隅に置かれたメニュー表を手に取って上から順に丁寧に目を通しているので気づかない。千雨はアスカの他人からの視線に対する無関心さに呆れながら我関せずにグラスに手を伸ばして水を一口に飲む。

 

「ご注文がお決まりになる頃、またお伺いします」

 

 顔を上げないアスカを見て手短にそう言ったウェイトレスは残念そうにクルリと背を向けた。

 

「本選出場の祝だ。私と茶々丸の奢りだから好きなだけ食え」

 

 少しの興味も持たれないのは同じ女としては傷つくものがあるな、と哀れみを感じながら千雨がグラスを机の上に置いて言う。

 

「サンキュー。遠慮なく食わしてもらうぞ。さて、なにを食べるか」

 

 どれも美味そうだ、と呟いている。なかなか決めかねている様子だ。

 食物からエネルギーを摂取することは出来ないので注文する気のない茶々丸が視線を去ったウェイトレスに向けると、階下で他のウェイトレスと駄弁っていた。

 

「恰好良い人だったんだけど彼女持ちか、残念。好みだったのに。しかも二人もなんてね」

「あら、私は彼女持ちでも構わないけどね。あの黒のグラサンもミステリアスでカッコいいし」

「結婚してるわけじゃなさそうだから粉かけるぐらいは自由だもんね」

 

 これは意地でも席から離れるわけにはいかなくなったと、食事をする必要がないことからとアスカの本選出場記念食事会に同席することに懸念を示していた自分の意見を百八十度撤回する。

 茶々丸が決意を固めていると、アスカが何にするのか決めたらしくメニュー表から視線を上げて千雨を見る。

 

「千雨は何にする?」

「同じものでいいよ。量は少なめでな」

「少な目っていうなら、俺が頼むやつにミニってのがあるからそっちでいいんじゃないか」

「任せる」

 

 旧世界と全然違う料理のメニューを見ても千雨では健啖家のアスカと同じ量を食べることは出来ないので判断を預ける。 

 ふむ、とアスカはウェイトレスを探すように辺りに視線を回した。

 アスカの視線に気づいた近くにいた別のウェイトレスが慌てて近寄って来る。その頬が少し紅い。

 

「ご注文はお決まりでしょうか」

「鉄塊ステーキ定食を一つ、同じもののミニを一つ頼む」

「はい、以上でよろしいですか?」

 

 ウェイトレスは取り繕うように軽く咳払いをして、素知らぬ顔のまま力強くガシガシとお盆の上の伝票に注文を書きつけた。

 頷きを返すと、階下に向けて階段を下りながら、「鉄塊とミニ一つずつでーす」と、声を上げた。

 茶々丸は何の気なしに、一階と違って家族連れが多い二階のテーブルにだけ付いているフリルの付いたテーブルクロスをそっと手の平で撫でている。落ち着いた白とピンクの格子模様。その光沢から上質な布地を使っていることが分かる。

 

「この店にして正解でしたね」

 

 そうだな、と何故かテーブルクロスを撫でながら並々ならぬ闘志を燃やしている茶々丸に言葉に千雨も頷いた。

 ウェイトレスが客に色目を使うのはどうかと思うが店の雰囲気も良く、これで出された料理が美味であるならば言うことはない。そして味が良くなければここまで繁盛することはないのだから期待も膨らむ。

 

『――――ナギ・スプリングフィールド杯の続報です』

 

 と、テーブルクロスや店に大した考えを持っていないので料理を待っていたアスカは、店の中央で流れている立体映像ニュースに目をやった。

 

『つい先程、盧遮那地区の代表が決まり、これで主催者推薦一名を含む代表選手八名が決定しました』

 

 アスカがニュースを見ていると二人もその視線を追う。

 

「主催者推薦って何なんだ?」

『第二回ナギ・スプリングフィールド杯では規定で前大会で優勝した地区からは選出されない仕組みになった為、その欠員分を穴埋めするために新設された枠です』

「あ、そうなのか」

 

 千雨の疑問は続いたニュースキャスターが説明してくれた。

 

『主催者推薦が誰になるかは明かされておらず、本選トーナメント表の公示と共に公開されることになっています』

「誰なんだろうな、主催者推薦は」

 

 結局、主催者推薦が誰なのかは公開されないままなので千雨が呟くと、対面のアスカが「俺も詳しく知ってるわけじゃねぇけど」とグラスの縁を指でなぞりながら言った。

 

「ナギ杯は国が主催してるものじゃなくて連合・帝国、その他大小様々な国の富豪や豪商達が出資してるって話だ。大元の出資を集めて、この大会を企画した企画者は謎のまま。だから、誰も主催者推薦が予測がつかない」

 

 グラスをなぞって指先についた水滴を舌で舐め取ったアスカの色っぽい仕草に千雨の背筋はゾクリと来た。

 

『優勝本命と目されるのがノアキス事変で脚光を浴びるノアキス拳闘団所属のアスカ・スプリングフィールド選手。予選では相手から有効打を一度も受けることなく勝利し、新世代と目されている中でも注目の選手です』

 

 吸い寄せられる目を意識して離してニュースの方を見ると、こちらでもアスカが映っていて千雨の顔を赤面させていた。

 運良くアスカは続いて現れた選手の映像に注目していて気づいていない。残念なような気付かないアスカの鈍感さにムカッとしている千雨の顔を茶々丸が見ていたりする。

 

『グラニクス地区より、サウザンドマスターと同姓同名で姿さえもそっくりと評判のナギ・スプリングフィールド選手』

 

 続いて現れたのは赤髪の厳しい目つきをした男の姿。その姿は背丈は大きく違うものの身近にいる者を容易く連想させた。

 

「どう見てもネギ先生だよな。でも、体格が……」

「恐らく年齢詐称薬による効果ではないかと」

「あの幻術の出来映えからするに、かなりの高額のはずの薬を飲んでまで大会に出るなんて何考えてんだ?」

 

 三人で映像を見ていても答えは出ず、そうしている間に映像は見知った黒髪の少年に映っていた。

 

『盧遮那地区からは、決まっていた代表を野良試合で倒して瞬く間に代表にまで成り上がった犬上小太郎選手です。以上、三人は十代前半とプロフィールで公開されていることから新世代と目されています』

 

 本名で登録して大した変装もしていない小太郎が映像の中で腕を振り上げてガッツポーズをしていて、続いて喉太い声援が巻き起こっていた。

 

「小太郎は男に好かれるよな」

 

 割かし同姓には嫌われることの多いアスカは少し羨まし気に胴上げをされている小太郎の姿を見つめる。

 

「お前は女に好かれてるけどな」

 

 千雨がニュース映像から視線をずらすと、階下では誰が料理を運ぶかでウェイトレス数人が口論している。彼女らの視線はアスカに集中しており、どう見ても誰が目的か分かり過ぎていた。

 

『前大会出場者のマニカグ・ノーダイクン選手、ボスポラスにその人ありと言われるカゲタロウ選手、他にも――――』

「ご注文の鉄塊定食とミニ鉄塊定食をお持ちしました」

 

 意図したわけではないだろうが選手紹介を邪魔されてしまったわけで、文句を言いかけたアスカはウェイトレスが持ってきた料理にあっさりと口を噤んだ。食欲に敗けたとも言う。

 

「ありがとう」

 

 ウェイトレスに礼を言い、黒龍の晩餐亭の看板メニューの一つである鉄塊ステーキ定食を受け取る。その際に手が触れてウェイトレスが一瞬、期待に満ちた目をしたがアスカの意識は鉄塊ステーキに注目して気づいてすらいなかった。

 千雨も肩を落として去っていく姿は流石に可哀想と思いもしたが、前に置かれた鉄塊ミニステーキ定食から香る芳醇な香りに食欲を刺激されて直ぐに忘却する。

 鉄塊ステーキとは、その名の通り表面が真っ黒になるまで火の通された肉に、ガリガリとナイフを入れると炭のようになっているのは表面だけで、肉の内側はほどよく火が通っている。見た目はともかくボリュームと味は中々のものであった。

 アスカは運ばれてきた料理にがっつきだし、千雨も遅ればせながらもナイフを手にする。

 

「んっ、美味い」

 

 アスカのようにフォークを肉に刺して直で齧り付くという下品なことはせず、ナイフで苦労して切り取ってから口に運ぶと、ジュワーと肉汁が広がって味覚を支配していく。人気店の秘密が分かるというものだ。

 美味なる物を食す時、人は黙々と食事を続けるという。であるならば、食していない者が黙る通りもまたない。

 

「アスカさん」

 

 食事の途中で話しかけるのはマナー違反と分かっていても茶々丸は口を開いた。

 肉に齧り付いていたアスカは何度か噛んで呑み込むと、「ん?」と話を聞く姿勢を作る。

 

「シェリーのこと、領主様に頼んで頂きありがとうございました」

「大したことはしてないぞ」

 

 と、茶々丸の礼に対して前置きを置く。

 

「あの子は僅かな時間とはいえ、精霊王を召喚したんだ。権力者なら取り込んでおきたいってのは、連合や帝国との会談の時のことを考えれば分かるだろう」

 

 アリアドネ―が仲介をした連合・帝国を交えた領主が開いた会談に何故かアスカも参加することになり、妙に持ち上げられて二者の間に挟まれて胃の痛い思いをしたものである。

 

「精霊王なんて召喚なんて荒業をやったんだ。俺が見る限りでは以前のような精霊への感応力は失っている。例え取り戻したとしても感情の制御さえ出来ればあんなことにはならないって領主に言っただけだ」

 

 野心的な面がある領主はアスカの助言を受けてシェリーを手元に置いておくことを決めたのである。連合と帝国は、何時起爆するか分からない爆弾を手元に置いておくよりは中立地帯に置いておく方が無難であると判断して軍を退き上げて行った。

 

「領主はシェリーを利用する気なのか?」

「暫くは万が一を考えて精霊を排除する結界の中で暮らすことになるが結界の維持には莫大な金が必要になる。シェリーにとっては最善の環境でも領主にとってはリターンが約束されているわけじゃない」

 

 利用するには確実性がない、とアスカは言に込めつつ、切り分けた肉にフォークを突き刺す。

 

「分かった上で迎え入れると判断したんだ。あの一件で領主も思うところがあったようだから、例え力を取り戻しても戻さなくても悪い事にはならないだろう」

 

 言い切って突き刺した肉を口に運ぶアスカを見た茶々丸は安堵した息を吐く。

 

「そっか…………ハクもあっちに行っちゃったし、少し寂しくなるな」

 

 無くなった重みを感じつつ少ししんみりとする。

 先に量の少ない千雨が食を終え、少し遅れてアスカも食べ終えた。

 

「美味かった。ありがとう、二人とも」

 

 食事途中で邪魔そうに黒のサングラスを何度もかけ直しながらであったが、大変満足したように椅子の背凭れに凭れかかる。

 

「そこまで喜んでもらえて何よりです。邪魔ならばサングラスを取ってもよろしいのでは?」

「これ取ると囲まれるからな。変装でもしなきゃ外も碌に歩けやしねぇ。なんであんなにサインを欲しがるんだか」

 

 認識阻害がかけられた黒のサングラスをかけなければ外を碌に歩けもしないと、腹が膨れて満面の笑みだが不満げな雰囲気を隠しもしないという器用なことをしているアスカに千雨は笑った。

 

「人気者はつらいねえ」

「変われるのなら変わってくれよ。厄介事はちっとも減りやしねぇよ。」

 

 千雨がからかうとアスカは不満そうに鼻を鳴らす。

 

「明日になったら少しはマシになってるといいんだがね」

「余計に注目されるだけだと思いますが」

「私も同感だ。と、そろそろ出るか」

 

 食事を終え、腹もこなれてきたところで清算を行おうと千雨がウェイトレスを呼んだところで、「そういえば」と言いながらアスカを見る。

 

「明日は何で行くんだ?」

 

 アスカに聞いたのだが、何故か茶々丸がニヤリと笑った。

 

「アスカさんに賭けていた賭け金で飛行船が買えましたので、そちらで向かいます」

「は?」

 

 何時の間に茶々丸はそんなことをしていたのかと、なにも知らなかった茶々丸の眼が点になる。

 

「この都市に来た当初は必ずしも領主が全面的に信頼のおける相手とは限らなかったので、私達の稼ぎの一部でアスカの勝利に賭けさせて頂きました」

「私、知らなかったんだけど」

「念の為の予備策でしたので、アスカさんにだけ許可を貰いました」

 

 茶々丸がアスカに視線を向けると頷いている。一人だけ知らなかったことに千雨は疎外感を覚えるが、あの頃はレストランの仕事を覚えてこなすことに躍起になっていたので相談されてもまともな回答が出来たか怪しい面もあり、仕方なく納得することにした。

 

「まだアスカさんも有名ではなかったので賭け倍率も高く、あの一件までに目標額に達成しました。領主が信頼のおける相手と分かったので、使い道の無くなったお金で中古ですが飛行船を買いました。これで彼の地に集まることの出来ない人達の所へも居場所が分かれば迎えます」

 

 予備策は無駄にはならないと分かり、安堵した千雨は肩をゆっくりと撫で下ろす。

 

「じゃあ、何の気兼ねなく行けるわけだな」

「そういうわけにもいかねぇんだよ」

 

 一階に下りて会計を財布を握っている茶々丸に任せ、ウェイトレイス達から桃色視線を向けられても気づきもしていないアスカが嘆息する。

 

「セラスから言われてんだよ。向こうに行ったら大事な話があるから予定を開けておいてくれって」

「大事な話って旧世界に戻る方法についてか?」

「それもあるだろうが、どうにもきな臭い話でな」

 

 会計を終えて外に出ると、夜のノアキスの街が三人を迎え入れる。

 赤、青、黄、緑に橙。薄闇に滲む船灯りは色とりどりの蛍となって豆々しく飛び交っていたが、やがて互いに一つに寄り集まり始める。止まった先が埠頭である。

 魔法世界での移動は空路が主流であるが、海産を取るための漁船や、空船を使うまでもない距離への移動には海路が用いられている。自由交易都市ともなれば一日の空船の離発着が多く、空路より海路の方が早いことも多いので港の灯りが消えることはない。

 

「この間の事件のことで連合と帝国を交えて話し合いを行いたいからって話だが、別に向こうでやる必要はないだろ? あれから何度も会談の場は持たれてるってのに、どうしてわざわざ終戦記念祭にやるんだ?」

「確かに変ですね」

 

 隣に並んだ茶々丸が首を傾げる。反対隣りの千雨も訝し気な顔をしているのは、彼女達まで情報が降りてこないからだ。

 

「しかもその話し合いには領主は参加せず、参加を求められたのは俺だけ。何か裏があるって言ってるようなもんじゃないか」

 

 頭の後ろで腕を組んだアスカは、黒のサングラスを付けていて視界はかなり効かないはずなのに真昼と変わらない足取りで進む。

 

「断るってことは出来ないのか?」

「それは難しいと思います。セラス総長にはあの事件での調停に入って頂いただけでなく、ドネットさんとの仲介に始まり、仲間間での連絡の橋渡し、長瀬さんと古菲さんを渡航手助けまでしてもらっているんです。余程のことがない限りは向こうからの要請を断ることは難しいと判断します」

「だよなぁ……」

 

 慮った千雨の言葉は茶々丸にあっさりと否定されるも、ある程度は理解していたアスカに落胆はない。

 

「まあ、なんとかなるさ。気にせずに行こうぜ」

 

 片目を閉じたアスカはその閉じた眼で己がルーツがある地を思い浮かべる。

 

「オスティアへ」

 

 歴史と伝統のウェスペルタティア王国、麗しき千塔の都、全ての始まりの地である空中王都オスティアに運命が収束する。

 

 

 

 

 




本作では時間の流れは現実と同様です。


8月1日 魔法世界に到着、ゲートポート破壊テロによって散り散りになる
8月3日 ネギ゙、のどか、砂漠を彷徨ってキャラバンに助けられる
    その夜、千雨、目覚める
8月4日 アスカ一行、ノアキス到着。アスカ騒動に巻き込まれて牢行き
8月5日 アスカ牢から出て代表になる為、バルガスと試合をする。
    ネギ、ドルゴネスに脅されて奴隷にされる
8月6日 アスカ、試合に出る(描写ナシ)
ネギ゙、ナギ・スプリングフィールドを名乗らされて試合に出る(描写ナシ)
8月7日 ノアキス事変
    ニュースでアスカがナギの息子であると報道されてドルゴネスが不安を覚える
8月8日 夕方にネギ、カゲタロウと野試合を行って破れる。ドルゴネス、知己のラカンに連絡する
8月9日 ネギ、ラカンと出会って師事を決意する
8月13日 古菲・楓、ラクンドリアの魔龍に挑む
8月20月 明日菜・刹那、賞金首ブレイド兄弟を討伐。
8月22日 アスカ・千雨・茶々丸、黒龍亭で食事

と、なります


次回「第70話 世界の真実 前編」



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第70話 集う者達

タイトルは前回予告とは違います


 

 

 

 

 

 イギリスのウェールズにて、ネカネ・スプリングフィールドは石化から回復した両親や他の村人達と村の復旧作業に当たっていた。

 六年前に襲撃を受けた際に焼け落ちた建物は全て撤去されたので一から作り直すようなものであったが、魔法を行使して作業手順の大半を省くことが出来る。一週間もすれば一定の建物が建ち、足りない物の方がまだまだ多いが村としての形を取り戻して来ている。

 大分復興も進んできた村の中を、メルディアナ魔法学校がある町から買い物をして帰って来たネカネはふと頭痛を覚え、頭に手をやった。

 

「…………風邪かしら?」

 

 不可思議な圧迫を覚えた直後に訪れた、胸にまで響く重い頭痛だった。

 日本で教職に付いているとはいえ、事情が事情であるので麻帆良学園学長である近衛近右衛門の計らいで新学期まで仕事を免除されている。

 幼少期に離れ離れにならざるをえなかったアーニャは空白を埋めるように両親に甘えている。だが、アーニャと違ってネカネには六年の空白によって両親の間に見えない溝が出来上がっていた。彼女が一人で買い物に出たのもぎこちない雰囲気に耐えかねてだった。

 夕飯の献立だけを母に聞いて買い物を終わらせた帰り、突如とした頭痛に眉を顰める。

 両親の溝や村の復興に精神的肉体的に疲れている自覚があったので風邪かと一瞬考えたが悪寒が走るわけでもなく、風邪の諸症状はないので別の理由からであるとネカネは考える。

 頭痛の理由である、今も復旧作業が続けられているゲートポートのある方向を見る。

 

「アスカ、ネギ……」

 

 事故に巻き込まれた兄弟達のことが気になって仕方なかった。

 思い浮かぶのは青年となったアスカでも大きくなったネギでもない。六年前のまだ村が襲われる前の、魔法学校の見送りに来てくれた両親と手を繋いだ小さな子供達だった。

 あの小さな子供特有の暖かな体をどうしようもなく求めていた。

 

「ネカネ姉さん、前見て歩かないと危ないわよ」

 

 聴覚が聞き覚えのある声を聴き取った。

 声の聞こえてきた方を振り返ると、ネカネと同じように食材が入っている買物袋を持ったアンナ・ユーリエウナ・ココロウァがいた。

 

「またゲートの方を見てたの? 飽きないわね」

「気になるもの」

 

 呆れている様子ではあるものの、素直ではない少女は態度で心配を隠しもせずにネカネの隣に並ぶ。

 家までの道のりを歩きながら六年間を共にした共有した空気は、これほどに傍にいても肩に力を入れないでいられる貴重なものだ。

 

「あの二人のことなら何があっても大丈夫よ。アスカの生命力はゴキブリ並みだし、ネギもそうそう変なヘマはしないでしょ」

 

 そこで一度言葉を切ると、「大体」と続けて身長が上のネカネの顔を見上げる。

 

「明日菜達もいるんだから悪い事にはならないと思う。どうせまたアスカのトラブル体質から事件が起こっただけだって」

 

 機嫌良さげに鼻歌を歌いながら買い物袋をクルクルと回すアーニャは言ったように心配しているようには見えない。だが、そう見せているのはあくまでポーズであって、早朝や夕刻などふとした時に一人になっているアーニャが先程のネカネのようにゲートポートの方を良く見ていた姿を目撃している。

 

「そうね」

 

 軽口を叩くことで不安を紛らわそうとしているアーニャに同調するネカネ。

 彼女達は置いて行かれた者達であり、着いていくことが出来なかった者達だ。望めば、自らが一歩を踏み出せば共に行くことも出来ただろうが、戦うことが出来ないから、夢を叶えたからと言い訳をして足を止めた。

 事件が起こってからは傍観者になるしかなく、連絡を待つしか出来ることはない。

 

「高畑さんや龍宮さんが向かってくれたから、きっと大丈夫よ」

「きっと、私達が行くよりもずっとなんとかしてくれるわ」

 

 ネカネは自分に言い聞かすように言うのを、アーニャは数日前に不安定だったゲートが完全に閉じる前に魔法世界に渡った二人のことを思い出しながら言葉を返す。

 百戦錬磨でありエージェントとして様々な経験を持つタカミチ・T・高畑と、年齢不詳ではないかと思うほどの底の知れなさを持つ龍宮真名が魔法世界に向かってくれたのだ。少なくとも戦闘能力がないに等しいネカネや、強いとは言えないアーニャよりも百倍以上適任であると、理性は納得しても感情が納得できているわけではない。

 もうIFはない。ゲートは完全に閉じており、復旧するまでは魔法世界に渡る術はないのだから。

 この話題は不毛であるとネカネは判断して話題を変える。

 

「どう、家の方は? もう慣れた?」

「あ~、ん、どうだろう。そっちは?」

「…………まだ慣れないわね」

 

 話題転換は藪蛇だった。

 仲の良さそうな家にこのことを言うのはどうかとも思うが嘘をつくわけにもいかない。

 

「そっちもか」

 

 予想に反してアーニャも長い溜息を漏らした。

 

「お父さんとお母さんってこんな感じだったけて、なんか接していても違和感があるの」

 

 六年前のアーニャは四歳とか五歳で記憶も大分曖昧になっている。

 皆にはついさっきのことでもアーニャ達にとっては六年前のことだから、どうしても共に過ごしていると感覚に違和感が生まれる。こうやってネカネとアーニャは肩に力を入れずに傍にいれるが、両親ですら他人のように感じてしまう。

 

「分かるわ。私も同じだもの」

 

 ネカネもアーニャと同じ気持ちだ。

 あの事件が起こったのが思春期真っ盛りで六年の月日と子供達の母親代わりを努めなければならなかった彼女は、同年代の子達よりも早く大人にならなければならなかった。

 最も大変だった時期に傍にいてくれなかった子供らしい感情と、事情を鑑みて仕方がないと納得してしまう大人の感情の狭間で揺れ動いている。

 そして石化する前は子供だった娘が気がつけば精神的肉体的にも大人になってしまった戸惑いは彼女の両親も同じだった。他の者達も大なり小なり六年の時間の経過に翻弄されながらも、真っ先に現実に直面していたのはこの家族であっただろう。

 

「こんなはずじゃなかったのにね」

 

 アーニャの吐息は地面に沈みそうなほど重い。

 石化さえ解ければ全てが上手くいくと思っていたのに現実はかくも難しい。

 

「今更ながらに六年の時間の流れを実感してるわ」

 

 昔のように戻るにはまだまだ時間が必要で、六年前ならば周りに頼ることが出来た村人達も今では素直に甘えることが出来ない相手になっていた。

 言葉が虚しく虚空へと消え、二人の間に暫し沈黙が下りる。

 

「…………私、日本に戻ろうと思う」

「え?」

 

 信じられない言葉を耳にしたネカネの足が止まる。

 遅れて足を止めたアーニャは一度だけ顔を振り向かせ、また歩き出した。ネカネもその後を追って歩き出す。

 

「ご両親がいるのに、どうして?」

「私がいると困るみたいだものって、これじゃ分からないわよね」

 

 迂遠的で抽象的な言い方では誤解を招くとネカネの表情を見て察したアーニャは困ったように眉を動かす。

 

「昨日のことなんだけど、お母さんがローストビーフを焼いてくれたんだけど、味付けが私の好みとは違ったの。今の私の好みとはね」

 

 一見関係のない話題を話しだしたかのように思えたが、理由があるのだろうと自分を納得させて話を聞く。

 

「昔の私は好きだった味付けかもしれないけど、今の私が好きな味じゃない。食べた時に顔に出たみたいで、お母さんもそのことが分かっちゃったみたい」

「味の好みだって変わるものよ。みんなの中では私達は昔のまま。石化していたんだもの、仕方のない事だわ」

 

 納得と理解はまた別物だとネカネも薄々と感じていた感覚をアーニャもまた味わっていたのだと思うと少し安心する。

 

「このまま一緒にいれば違和感っていうか、差異はどんどん大きくなっていくと思う」

「でも、慣れていくしかないわ。時間の差を埋めていくのは、時間しかないから」

「時間が解決する。それも一つの手だわ。でも、もっと良い方があるわ。一度、距離を置くことよ」

 

 歩く度にユラユラと揺れるツインテールと軽く放たれた言葉尻とは違って、重い足取りのままで歩みを進めていたアーニャの表情は斜め後ろからでは窺い知れない。

 

「別に二度と会わない、なんて言うつもりはちゃんちゃらないわ」

 

 茶化した物言いをしながら、その眼はただ前だけを見つめている。

 

「会おうと思えば会えるし、声が聞きたかったら電話すればいい。石化されていた時とは違うんだから」

 

 笑っているのだろうか、それとも泣いているのか。声と横顔からでは判別できない。

 アーニャの肩に手を乗せようと動かしかけたところで止めた。気丈に振舞おうとしている少女を侮辱する行為に他ならないと気づいたからだ。

 

「私はもう、子供じゃない」

 

 自分に言い聞かせるようにアーニャの口の中で呟かれた言葉は誰に聞かれることなく霧散する。

 目的を見失ったからといって足を止めて現状に耽溺するなどアンナ・ユーリエウナ・ココロウァの流儀ではない。不遜に前を向いて走り続ける姿こそ望ましい。

 

「いい加減に前に進まなくちゃ」

 

 まるでアーニャの背を押すように後ろから前へと一陣の風が凪いでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 茶々丸が命名した飛行船スプリング号が雲海を抜け出し、どこまでも続く青い空に向けて飛翔する。向かう先には、キラキラと輝いている緑に覆われた美しい空中都市が浮かび上がっていた。

  日は、昇ったばかりだったが、陽射しは殆どない。上空には厚い雲が広がっていて陽射しを遮ってしまっている。それは、まるでこれから繰り広げられる激しい戦いを人々の目から覆い隠すため準備されたかのようだ。

 雲の合間から降り注ぐ微かな陽射しを受けて飛ぶスプリング号に向かって後方から幾つも光が飛んできた。

 

「キャー!?」

 

 操舵を行っている茶々丸が光を避けるように舵を大きく切ると、スプリング号も連動して動き、中にいた長谷川千雨が思わず悲鳴を上げるほど船内で振り回される。咄嗟にアスカが掴んでくれなければ船室の壁の叩きつけられていたことだろう。

 

「あ、ありがとう。助かった」

「ん」

 

 千雨が礼を言った瞬間、急速に左右に船体が振れる。

 

「うぉおおおおお!?」

「ぎゃああああああ!?」

 

 特に何かを持っているわけでもないのに安定しているアスカの腕の中で守られている千雨はまだ良い方で、拳闘団の関係で同乗しているトサカやバルガスは船が上下左右に蛇行する度にあっちへ行き、こっちへ行きと決行悲惨なことになっている。

 

「しつこいな、アイツら」

「いや、こっちを気にしてやれよ」

 

 アスカの意識は少し前から飛行船を追って来る者達に向けられており、どこかに捕まろうにもタイミング悪く船によって壁にゴンゴンとぶつかっている二人が少し哀れになった千雨が言った。

 

「つっても、掴まれるようなもんねぇし」

 

 アスカの言うことも最もである。

 買ったばかりの船には、今回は数時間の移動の為にしか使わないので固定されていない椅子と机が持ち込まれていて、適当に飲み食いをしていた。翻せば内装はないに等しく、掴まれるような物がない。

 

「アスカは安定してるんだから捕まらせてやれよ」

「男に掴まれて喜ぶような趣味はしてねぇ」

「私はいいのかよ…………流石に二人が可哀想だぞ」

 

 千雨も流石にトサカとバルガスにギュッと掴まれるのは嫌だなと思いつつ、壁だけでなく椅子や机にも当たっている二人は哀れでそう言わずにはいられなかった。

 

「仕方ねぇか。来い、黒棒」

 

 千雨に言われるまでもなくアスカもボコボコになりつつある二人を放っておくのは良心が咎めたのか、中空から黒い刀身の刀の相棒を呼び出して床に突き刺した。

 そして千雨に柄の部分を持たせ、近くに来たトサカ、バルガスの順に捕まえて刀身を持たせる。

 

「怖ぇな、おい!?」

「手、切れないか?」

「身体強化すれば切れねぇって、多分」

 

 切れ味抜群の黒棒ではあるが魔力や気を通さなければ、身体強化を施せば刀身を持つことは可能である。

 千雨が自分で体を固定するには柄以外なく、魔力と気が使えるトサカとバルガスが刀身を持つのは当然の流れだと「千雨に刀身持たせる気か」と凄まれると引き下がるしかない。

 納得せざるをえない二人と千雨が安定したのを見たアスカは一人で船首にある操舵室へと向かう。

 

「どうだ、逃げ切れそうか?」

「向こうは高速船です。この船の推進力では、オスティアに着く前に追いつかれます」

 

 話しかけている間にも茶々丸は舵を右に大きく切り、船体も急速に傾いて真横を向いた。すると、先程まで船体が場所に光の矢が通り過ぎていく。どうやら追ってきている飛行船達から攻撃を受けているようだ。

 船体が振られたことで後ろからは「ギャー!?」「うぁあああ!?」「のぅおおおおおお!?」と三者三様の悲鳴が聞こえてくるがアスカは努めて無視してどうするかを考える。

 

「ったく、今度のは随分としつこい。どこの賞金稼ぎだ? 九つの尾を持つ狐(ナインテール・フォックス)か、幻影の猫(ミラージュ・キャット)か、それとも――――」

「船籍によると、追ってきているのは『黒い猟犬(カニス・ニゲル)』と思われます」

 

 どうにもアスカはノアキス事変で闇の手配書で指名手配がかけられているようで、あの事件後に賞金稼ぎから狙われるようになった。その経験から知っている実際に襲い掛かって来た賞金稼ぎ結社の名前を指折り上げるも、そのどれでもないと茶々丸が否定する。

 

黒い猟犬(カニス・ニゲル)?」

「シルチス亜大陸にある賞金稼ぎ結社です。まほネットによると、冷酷非情で名を挙げてきているようです」

「へぇ」

 

 茶々丸は操舵をしながらまほネットに繋いで情報を得ているらしい。

 アスカは右に左に揺られながら、茶々丸が船のシステムに繋いでスクリーンに映し出してくれている黒い猟犬(カニス・ニゲル)の宣伝動画を見ながら感心する。

 

「運転しながらよくこんなことで出来るな」

「私、ガイノイドですので」

 

 黒い猟犬(カニス・ニゲル)に感心していたのではなく、茶々丸の機能の方に感心していたらしい。

 褒められて少し上機嫌になった茶々丸が勢いよく舵を切ると船が横に一回転して、後ろの船室の方から三者三様の悲鳴が操舵室まで響いてくる。

 

「逃げ切るのは無理となると俺が外に出て足止めするしかないか」

「救難信号は出しています。直に救援が来ると思われますが」

「奴らの狙いは俺だろう。このままじゃ救援が来るまで後ろの三人が持たない」

 

 追いつかれても茶々丸の操舵ならば撃墜されたり船を止められることはないだろうが、こうまで船体を振られ続けると船室で黒棒を支えにして踏ん張っている三人が持たないだろう。トサカとバルガスは身体強化出来るだろうから心配はしていないが、一般的な少女でしかない千雨は確実に持たない。

 

「しかし、お一人では危険ではないですか?」

「俺ならなんとでもなる。いざとなれば逃げるし」

 

 また窓の向こうを光の矢が突き進んでいく。

 さっきよりも窓の向こうを通り過ぎていく光の矢の数と頻度が増しており、どうやら後方の追っ手達の射程範囲に入ってしまったようだ。

 

「選択の余地なし、だな」

 

 議論をしている暇はないと、茶々丸の静止も聞かずに床を蹴って操舵室を出た。

 船室に戻ると床に突き刺した黒棒に必死に捕まっている三人を見て、特に千雨の限界が近いと感じ取って「扉を開けるぞ」と一応声をかけた。

 

「大丈夫だって。障壁張っとくから」

 

 ギョッとして声なき三人に言って扉の開閉スイッチを押す。

 開いた扉から気流に乗って風が吹き込んで来るのを広げた障壁で可能な限り船内に入って来ない様に注意する。流石に完璧にシャットアウトは出来ないが体を揺さぶる程ではない。

 

「んじゃ、行って来る。気つけてな」

 

 外に一歩出て浮遊術で飛びながらスプリング号に並走しながら中の三人に声をかけると、何か必死な様子でがなり立てているようだが風の音で全く聞こえず、船体の開閉スイッチを押した後なので問い質す機会も失われた。

 

「何か言ってたが…………ま、いっか。先にアイツらだ」

 

 閉まった扉を前にして一度考えたが、飛んできた光の矢が障壁にぶち当たったことで優先順位をつける。

 光の矢――――スプリング号を撃墜しない様に威力を抑えた精霊砲を放った黒い猟犬(カニス・ニゲル)船籍の高速船数隻を見て、並走を止めて直上に上がり船尾に下がって自身の姿が向こうにもしっかりと見えるように数秒留まると変化があった。

 

「俺に気付いたか」

 

 明らかに狙いが変わり、精霊砲の威力が増したので姿を確認されたようであると判断して速度を落とす。

 飛んできた精霊砲を後ろのスプリング号に万が一でも当たらないように障壁で防ぎながら速度と共に高度も落としていく。その間にも精霊砲と魔法の射手が雨霰と降り注いできて、全てを受け切るのは後のことを考えると最善ではなく、避けつつ時には弾いて直下の荒野へと下りていく。

 もう少しで地上というところで真上を見上げれば高速船から飛び降りる複数の影が見える。飛行船も逃がさんとばかりに散開して上空を抑えながら一定の高度を保っている。

 地上にも追っ手がいたようで接近する気配が増えている。後ろからだけではなく、オスティア方面からも気配があるとなれば待ち伏せをしていたのだろう。

 

「こっちにもいるとなると、これは誘い込まれたか。随分と手際が良い。渡航ルートが漏れてるのか」

 

 ここまで用意周到に配置しているとなると、かなり以前から襲撃が計画されていたとみるのが自然。

 罠が仕掛けられているかもしれないことを念頭に置いて、このまま素直に対応するつもりはなく行動あるのみ。

 

「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル」

 

 伏兵に戦慄するよりも感心しながら、気配の数が十を超えた辺りから数を数えるのを止めて始動キーを唱える。

 

「来たれ雷精、風の精。雷を纏いて吹きすさべ南洋の風」

 

 相手側の方が圧倒的に人数が多いので先手必勝と、右手に紫電と豪風を纏わせて狙いを地上に定める。

 副次効果が目的なので威力は抑え目にして振り被った右手を魔法名と共に放つ。

 

「雷の暴風」

 

 威力を抑えたとはいえ、世界でもトップクラスのアスカが放つ雷の暴風は轟音を立てながら地上に伸びて着弾する。

 ダイナマイトでも爆発したかのような大きな音と衝撃が地面を大きく揺らし、集まっていた気配が踏鞴を踏むように動きを止めた。雷の暴風が着弾したことによって砂塵が巻き上げられ、周囲数十メートルを覆い隠す。

 

「やり過ぎたか?」

 

 着弾の衝撃波に受け止められてゆっくりと特大のクレーターに降りたアスカは手加減したつもりが地形を変えてしまったのではないかと頭を掻く。

 

「ま、いっか。何かあったらアイツらに押し付けよう」

 

 新オスティアの総督府から文句を言われても黒い猟犬(カニス・ニゲル)の所為にしようと、責任を押し付ける満々で懸念を消し去る。

 黒い猟犬(カニス・ニゲル)もこの程度で諦めるつもりはないようで、一度は止まった進行を再開していた。アスカも戦闘に意識を切り替え、全身に雷を身に纏った。

 

「シッ!」

 

 滞留している砂塵を縫うように雷光が奔る。

 周辺から集まっていた者達、上空から下りて来ていた者達に向けてアスカが文字通り雷光のような速さで疾走する。

 

「ぬぁっ!?」

「ごぐっ!?」

「おごぅ!?」

 

 多種多様な苦痛の叫びが木霊し、バタバタと何かが倒れるような音が連鎖する。

 

「ちっ、雑魚ばかりじゃねぇのか」

 

 砂塵内にいる三十近い敵の全てに一撃を叩き込んだが、確実に意識を刈り取れたのは半数と少し。

 まともに一撃を食らう者がいれば、耐えた者、防御した者、それぞれの対応から見るに黒い猟犬(カニス・ニゲル)内の強さにはかなりのバラツキがあるようである。やり過ぎると殺してしまうので手加減をしたのだが、相手が多すぎたので下の方にレベルを抑えすぎたようだ。

 

「――――来れ地の精、花の精。夢誘う花纏いて蒼空の下、駆け抜けよ一陣の嵐、春の嵐!」

 

 左方より魔力反応が高まり、風系統の高位魔法が放たれた。

 アスカの一撃を耐えた高位の魔法の遣い手が視界を塞がれたまま戦闘を継続するリスクを嫌い、多数の仲間を巻き込むのを承知の上で放たれた春の嵐が砂塵を吹き払う。

 五人ほど春の嵐に巻き込まれて吹き飛ばされて行ったが、賞金稼ぎ結社である黒い猟犬(カニス・ニゲル)は死ななければ問題ないと考えているようで、意識のある者の大半が雷光を纏うアスカに向けて疾走を開始する。

 向かってくるもの全てが街にいるようなチンピラとは一線を解している。

 

「五百万ドルの賞金首ッ!?」

 

 一番近くにいた人間種族(ヒューマン・タイプ)の双剣使いが目を血走らせながら迫って来たので、つい気持ち悪くてカウンターで顎の先を揺らして意識を刈り取ってしまった。

 

「何時の間に五百万ドルに跳ね上がってたんだ?」

「その首貰った!」

「やらねぇって」

 

 呑気に考え事をする暇もない。

 背後から魔力でコーディングされた穂先の槍を突き出してくる次の賞金稼ぎを振り上げた踵で顎を蹴り上げてノックアウトしつつ、この間まで二百万ドルだった賞金が倍以上に膨れ上がっていることに首を傾げる。

 傾けた首の横を、耳の長い拳闘士系の賞金稼ぎが拳を放っており、裏拳で鼻面を叩いて衝撃で怯ませる。

 

「なあ、そこんところ何か知らねぇか」

 

 振り向きながら両足を刈り取ってバランスを崩させ、体勢を直そうとするところに膝蹴りを腹に放って息を吐き出させ、肘を後頭部に落とす。

 完全に意識を刈り取ったかまでは確認せず、少し離れた場所で詠唱を重ねている魔法使いを標的を定める。

 

「ものみな焼き尽くす浄北の炎、破壊の王にして再生の徴よ。我が手に宿りて敵を――――」

「遅い」

 

 護衛らしき体格の良い盾使い(シールダー)を無視して、紅き焔の詠唱を唱えながらも堅い障壁を持つ魔法使いの真横に移動する。

 障壁に手を添えて足を開いて腰を少し落とす。

 

「ふんっ!」

「喰らばらえばぁっ?!」

 

 気勢を発して障壁を壊すことなく、障壁に繋がっている魔力ラインに衝撃を伝播させる。

 紅き焔を放とうとしていた魔法使いは魔力ラインから逆流して来た衝撃に詠唱を終えようとしていた口から血の霧を吹き出した。

 

「効果は抜群なんだが多重高密度魔法障壁には効き難いのが難点だ、なっと!」

 

 一撃ノックアウトした魔法使いの状態から己の放った一撃の効果を確認しつつ、振り返りかけている盾使い(シールダー)の脇に一瞬で近づいて手を添えて同じ方法を試す。

 

「ぬ、ぐぬおおお!?」

 

 防御力が売りの盾使い(シールダー)は三層にも及ぶ魔法障壁を展開しており、寸勁による衝撃伝播も本人に届く頃には減衰されていて一撃ノックアウトには至らない。

 衝撃を伝播する層が多いと減衰してしまうので、このやり方はフェイトの多重高密度魔法障壁を超えるには向いていないと、今度は鎧に直接寸勁を叩き込んだ倒す。

 

「隙有――」

「白雷掌」

「ギャン!?」

 

 顎に手を当てているのを隙と見て殴り掛かって来た犬耳の賞金稼ぎの拳を躱し、腹部の部分の服を掴んで無詠唱の白い雷を打ち込んで雷撃で麻痺させる。

 犬耳の賞金稼ぎが全身から白い煙を立ち昇らせながら倒れてゆく向こうの空で光が瞬いた。

 

「おぉ」

 

 それが魔法の射手の光であること、総勢にして千を超える数が飛来してきたことに僅かな驚きを覚えてバックステップを行う。

 魔法の射手も千を超える数にもなれば絨毯爆撃にも等しい範囲攻撃となるが、言い換えれば同時に打った場合は全てを同じ場所に打ち込むことは出来ず、どうしても範囲が広がってしまう。

 この魔法の射手の雨は広範囲に広げられていたので自分に向って来る分だけ防ぐと、着弾によってまたもや砂塵が舞い上がる。

 

「今のは俺を狙ったというよりも、俺の視界を防ぐのが目的か。気配も探れねぇ」

 

 先の魔法の射手には探知を妨害する機能が付与されたのか、砂塵の中の気配が感じられない。

 気配探知を行えず、視界も遮られてはアスカといえども不確定要素が大きくなる。修行としてなら悪い条件ではないが今は実戦の最中である。

 

「おっ」

 

 砂塵の上へと飛び上がると山羊骸骨顔の魔族の男と目が合った。

 骸骨顔魔族に意識を向けながら次の一手を考えて辺りを見渡すと、誰かに使役されていると思わしき砂蟲二体が触手を伸ばしてノックアウトしている仲間達を回収しているのが見えた。

 

「仲間想いなのか、そうでないのかハッキリしろよ」

 

 春の嵐で仲間ごと吹き飛ばしたり、今度は回収したりと行動に一貫性がないことに文句を言いつつ、当座の標的を骸骨魔族に定めて虚空瞬動を行おうとしたところで、骸骨魔族の上半身の服が破けて手が増えて伸びた(・・・・・・)

 

「おおっ!?」

 

 驚きつつも伸びてきた骨魔族の手を振り払いつつ、魔族ならばそういうこともあるかと妙な納得を覚える

 骨の魔族は四本の右腕を振り下ろしてくる。アスカは体を捌いてその攻撃の軌道外に飛び出すと、更に左手が伸ばされて横腹を狙ってきた。異様な角度から伸びて顔面に一撃を放ってきたのを残った左腕で防ぐ。

 

「ぐっ」

 

 命中はしたが当たりは浅い。ダメージも殆ど無く衝撃が腕を震わせただけだが、魔族ならば人間では不可能なこともあると予測していなかった自分に喝を与える役目にはなった。

 

(ちっ、戦闘中に余計なことを)

 

 内心で毒づきつつ、開いた隙間で腕を振り、伸ばされた手を足場にして短い距離を飛んで、骨魔族の目の上を右足で蹴りつける。

 これも、骨である以上は痛痒を感じるはずもないが、一瞬でも注意を引くか、視界を奪うだけでも意味があった。

 

「はッ!」

 

 骨の魔族の動きが僅かに止まったその瞬間に左足を振り上げ、踵を敵の身体の中心へと叩き込む。

 その時、砂塵の向こうの地上から砂が波のようにうねり始め、一斉に舞い上がってアスカを覆う檻のような形に変じようとしている。

 

「優れた魔法使いがいるな」

 

 全身から魔力を発して骨魔族ごと砂の檻を吹き飛ばすと、更に地面から仲間を回収し終えた砂蟲の触手が幾つもこちらに向かって突き進んでくる。

 あり得ない角度で突進してきた触手を、『疾風迅雷』と名付けた雷を纏うモードで迎え撃つ。

 疾風迅雷には身体強化・肉体活性・攻撃強化・防御強化の効果があり、肉体活性によって単純に防御力と攻撃力を飛躍的に上昇させるだけでなく、全身の神経に雷を流し込むことによって、電気信号を加速させて人間の限界を超えた、超人的な反射速度を可能にさせる。

 雷を身に纏っているのと変わらない疾風迅雷モードによって、触手は触れる端から炭化していく。

 

「おおっ!」

 

 疾風迅雷モードの確認をする為にわざと触手に捕まってアスカが静止したその間に、砂塵を割って飛び出した爬虫類のような皮膚をした賞金稼ぎは撓んだ膝を戻す勢いを利用し、目前のアスカに拳を突き上げた。

 砂蟲に攻撃を仕掛けようとしたアスカの喉元に、カウンターで襲いかかる狂気の一閃。

 

「魔族か」

 

 狭い来る一撃を冷静に見つめつつアスカが口の中で呟いた。

 敵は人間ではない存在である。人間ではない強さ、人間ではないタイミング、人間ではない空間の使い方をする。

 アスカは攻撃の手を止めようとはせず、更に一歩を踏み込みながら、思い切り深く腰を落とした。目の前を風を切り裂く拳が駆け抜けていくのを確認し、掌を爬虫類賞金稼ぎの下腹――――丹田に当てる。

 空中に展開した魔法陣の上で両足を強く踏みしめる。

 その反発力を腰、腰から肩へと、螺旋を描き増幅しながら伝達していく。肩から腕の先へ、全身の運動エネルギーを収束し、流れに沿って掌から前方へと全身の筋力と共に解き放つ。同時に身体から溢れ出るほどに練り上げた力が、掌から迸り、敵を貫く様子を明確にイメージした。

 

「発っ!」

 

 短い気合と共に、十数メートルの巨岩でも爆砕するほどの発頸が、爬虫類魔族の丹田―――人間なら霊的中枢―――に炸裂した。カァァンと銃弾が鉄骨に当たったような、異種とはいえ、身体が互いにぶつかって発するもとのは絶対に思えない音が響いた。爬虫類魔族の身体が爆破されたように吹っ飛び、数メートル先の岩壁にめり込む。

 人間の気は丹田を基点に全身を循環する。故にここは急所中の急所なのだ。術者ならば気の巡りを乱されて一時的に術を行使できなくなる。それが人間ならば―――――

 

「むっ」

 

 アスカが必殺で放った一撃を受けて、岩壁に埋まったままで呻く爬虫類魔族を見て、やはり人間とは耐久力が違うのだなとシリアスな場には見当違いな感想を抱いた。

 

「魔法の射手・雷の三矢」

 

 体の中心にダメージを受けて地面に膝をついて直ぐには動けない様子の骨魔族を次の標的に定める。全身にコートを纏った人物に牽制の魔法の射手を放って足止めをしつつ、虚空瞬動を繰り返して接近する。

 

「させん!」

 

 もう少しで接敵というところで、スキンヘッドで頭の先から腹部まで刺青のような模様をもつ巨漢がアスカの拳を阻んだ。

 

「我ら傭兵結社『黒い猟犬(カニス・ニゲル)』賞金稼ぎ部門第十七部隊はそう簡単には――」

「長ぇ」

「ごぱっ!?」

 

 アスカは拳を腕で防御されたのを見るや、土手っ腹に蹴りを叩き込んで話を中断させる。

 そこへ、もう動けるようになった骨魔族が次々と腕を伸ばしてくる。

 八本の腕を内、六本を躱して弾き、残りの左右の腕を掴んで力の限りに引っ張っる。左右に広げた腕の所為でリーダー格の刺青男諸共にアスカの下へと引き寄せられる。

 

「雷の斧」

 

 六本の腕で抵抗しようとするが詠唱を破棄して放たれ、威力が極めて弱い雷の斧が骨魔族の眉間に突き刺さる。

 

「ぬがっ!?」

 

 魔族ならば眉間にダメージを負っても致命傷にはならない。それでも骨の魔族は仰け反り、硬直を長いものにした。

 

「雷の投擲」

 

 回復したリーダー格が動こうとしているが、骨魔族の腕が邪魔で身動きが取れないでいる。

 右手の周囲に雷の槍を三本纏って懐に潜り込もうとしていたアスカに、魔法の射手を込めた拳を放つが骸骨魔族の骨腕を防御に使われて届かない。

 アスカは僅かに出来ている隙間に身体を滑り込ませて、「オラァッ!」と叫んで拳と共に雷の槍を腹に叩き込んだ。その威力は凄まじく、二人の腹を貫いて地面に叩き落とされる。

 

「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル」

 

 また一つクレーターを作り出したアスカは地上に降り立ちながら、晴れた砂塵の向こうから砂蟲が迫ってきているのを見ながら始動キーを唱える。

 

「影の地、統ぶる者。スカサハの我が手に授けん、三十の棘もつ愛しき槍を」

 

 やや斜めに構え、迫りくる砂蟲に相対する。

 慣れているといえば慣れている攻撃準備だが、それとは違う感覚が頭の中に芽生えていた。自分の動きを見つめながら、これから自らが為す行動を予想しながら思い描いていたのは自分の敵の姿だった。

 眼前の砂蟲でも、先の賞金稼ぎ達でも爬虫類魔族でも骨魔族でも刺青男でもない。

 脳裏を過るのは、ゲートボートで対峙したフェイト・アーウェルンクスの姿。

 何故だろうと、アスカは苛立っていた。初めて味わう感覚―――――いや、これは、フェイトには負けたくないと、理屈抜きに思う。敵愾心を刺激されてしまう。

 声に出さずに呟いたその名は、確かな苦味をもって内心の懊悩を一纏めに染め上げる。そもそもアスカはハワイで初めてフェイトを目にしたその瞬間から、確かな敵意と嫌悪を抱いていたのだ。今ではそれらの感情はより大きく深く、決定的になる。

 

「雷の投擲」

 

 三十の雷の槍を背後頭上に展開し、穂先を標的に向けてブルブルと震える様は血に飢えた獣のそれ。

 

「行け」

 

 号令と共に撃ち放たれた雷の槍は砂蟲の触手を突破し、その巨体を貫いて岩山に磔にする。

 断末魔の叫びを上げて磔にされた砂蟲の近くに魔獣の使役者である全身をコートと帽子で包み、目以外ほとんど見えない格好をした人物が慌てていた。

 

「くっ、幾ら高額賞金首とはいえ、この僅かな時間に黒い猟犬(カニス・ニゲル)が全滅するとは…………やるネ!」

 

 似たような語尾の奴がいたな、と内心で思いながら二人揃って雷の槍に貫かれたまま地面に縫い付けられている骨魔族と刺青男に一睨みを利かせながら、コートの人物に歩み寄って行く。

 

「おっぱいについて語らんかネ」

 

 何故そこで胸の話題になるのかとアスカは首を捻りつつ、コートの人物がポケットに手を入れているのを見逃さない。

 

「巨乳も良いが貧乳もまた良し。オッパイに貴賎なし。乳の道は奥が深く、人類皆おっぱいに愛された――」

「下手な時間稼ぎだな」

 

 というか、もっとマシな時間稼ぎの方法をしろと言いたくなりながらも瞬動でコートの人物の前に移動し、ポケットの入れている手を捻り上げる。

 すると、コートの人物の手から何らかの魔術具が零れ落ちたのを掴む。

 

「い、イタタタタタッ!? 暴力反対ネ!」

「人を集団で襲っといてそれを言うのか? しかもこれ、魔力を込めて投げると爆発するやつじゃないか」

 

 検分した魔術具の機能を推測しながら、ここまで自分勝手な論理を展開できるのは逆に凄いと呆れと同時に感心もした。

 

「ああ、もういい。仲間を集めてとっととどっか行け」

 

 肩から力が抜けてしまい、襲われたこともどうでも良くなって投げやりにコートの人物の手を離した。

 魔族たちに放った雷の槍も解き、彼らが自由になっても相応のダメージを負っているので負けはないと冷静に判断した結果であった。

 

「ひぇえええええええええ」

 

 と叫びながらコートの人物が仲間達の下へ向かうのを見届けたが、アスカの中の感覚が戦闘意識を解かせなかった。

 

「なんだ?」

 

 戦闘意識を押し退けるほどに警鐘を鳴らす危機感がこの場から退避することを求めていたが、その具体的な理由が分からず行動に移せない――――――途端、足元の地面が光って周囲百メートルにも及ぶ巨大魔法陣が浮かび上がる。

 

「これは戦術広域魔法陣――っ!?」

 

 地面に浮かぶ魔法陣の紋様からその用途を見抜いたアスカはこちらが本命の罠かと推測した。

 陣の発動前に脱出しようとして賞金稼ぎ達を見ると、彼らも唖然とした目で魔法陣を見下ろしている。罠ではないのかと疑念が一瞬頭を過り、次への行動がコンマ数秒だけ遅れる。その瞬間に魔法陣は発動した。

 

「がぁああああああああああああっ――――!?」

 

 魔法陣の上にいるアスカと黒い猟犬(カニス・ニゲル)の者達の一切の区別なく、効果範囲に含まれる百メートル四方に雷撃の雨が降り荒れる。

 大戦期の骨董品である大軍用魔法地雷はその威力を存分に発揮し、アスカでさえ魔力を防御に回して耐えるのがやっとの雷撃の嵐を生み出し続ける。

 特にダメージを負っている黒い猟犬(カニス・ニゲル)の面々の中には気を失っていた者も多く、アスカのように障壁を張ることも出来なくて雷撃を直に受けていて。後十秒も耐えることは出来ないだろう。

 

「ぐぉおおおおおおおおお!?」

「ああああああああああああ!?」

「づぅううううううううううう!?」

 

 アスカによって特に大きな負傷を負った爬虫類魔族や骨魔族、刺青男も同様だ。このまま雷撃を浴び続ければ如何な魔族と言えども長くはない。

 

「ちぃっ」

 

 特異系統である雷ならばアスカにも多少の操作は出来る。逸らすことは出来ないが、自分に集めることならば。

 

「グガァアアアアアアアアアアアア?!?!」

 

 雷を自分に集めることで黒い猟犬(カニス・ニゲル)の面々への雷撃を減らすことは出来たが、それはアスカへの負担が倍加することを示していた。文字通り骨身にまで染みて来る雷撃に獣の如き叫びを上げる。

 

「ぐっ、な、何故我らを助けようとする? 我らは貴様を襲ったのだぞ」

「か、関係ねぇ。死なれたら目覚めが悪いだけだ。黙って助けられてガアアアアアアアアアアア!?」

 

 狙った賞金首が自らに雷を呼び寄せたことで自分達への負担が減ったことに気付いた刺青男が問うが、答える途中からアスカの声が裏返る。

 

「ぶ、部長! 何故だ! 何故こんなことを!」

 

 刺青男は今回の作戦を指揮する黒い猟犬(カニス・ニゲル)賞金稼ぎ部門の部長へと広域念話をかける。

 雷撃に阻まれて届かない可能性はあったが返答はあった。

 

『作戦の一部に決まっているだろう、ザイツェフ』

 

 雷撃の最中に聞こえ難いが壮年の男の声が広域に響き渡る。

 

『ノアキスの英雄――――数多の賞金稼ぎ結社を返り討ちにした五百万ドルの賞金首。そんな相手に真っ向からぶつかるなどあり得ん。貴様らが勝てるならこんな作戦を使うまでもなかったのだが、第十から二十までの部隊を使って倒せなければ仕方なかろう』

 

 言葉とは裏腹に声に笑みを滲ませながら部長と呼ばれた男は楽し気に語る。

 

『駄目元であったが不思議と使用許可はあっさりと取れた。ふん、天は私に味方したということだ』

「なにを――」

『知っているぞ、ザイツェフ。貴様が私の椅子を狙っていることを』

 

 楽し気な声が一転して刺青男――――ザイツェフを名指しした部長の声が妄執にも似たネットリとした粘着質な声で断じる。

 

『貴様は前年度ナギ杯準優勝というネームを利用して黒い猟犬(カニス・ニゲル)の幹部になるつもりなのだろう。今回のノアキスの英雄を捕れば部長の座が約束されるともな』

「そ、そんなことはない!」

『嘘をつくな! …………貴様らの犠牲は無駄せんよ。これほどの高額賞金首を仕留めれば本部長の座も確実となる。身内を囮にして賞金首を捕まえたところで私の評価は地に落ちるだけだが、それも目撃者がいたならばだ』

 

 抗弁しようとするザイツェフの言葉を遮るように言葉を重ね、この後のことを暗示する。

 

『ザイツェフ、貴様がいけないのだよ。私の椅子を狙ったりするのだから仲間も含めてこのような目に遭う。フフフフ、ハハハハハ…………』

 

 笑い声が響き渡る頃には既に八十秒が経過している。

 アスカも黒い猟犬(カニス・ニゲル)もまだ耐えている。後、二十秒も雷撃に晒されるのは辛いが耐えられないことはない、と思われた。

 

「契約により我に従え高殿の王」

「契約により我に従え奈落の王」

「契約に従い我に従え炎の覇王」

「契約に従い我に従え氷の女王」

 

 戦術広域魔法陣の範囲外から轟く四つの詠唱の声。

 迸る魔力はそれだけ空間を歪めかねない程の高まりを見せ、それが四方を囲んで上がるものだから戦術広域魔法陣の雷撃に晒されていてもアスカと黒い猟犬(カニス・ニゲル)が気づかぬはずがない。

 

「最上位古代語魔法、それも四つを同じ標的に放つだなどと我らをこの世から物理的に抹消する気か!?」

 

 ザイツェフが雷撃に晒されながらも戦慄も露わに叫んだ。

 『雷』の千の雷、『土』の引き裂く大地、『火』の燃える天空、『水』のおわるせかい。上位古代語魔法(ハイ・エンシェント)の中でも四つの属性の最上位に位置する魔法を同じ標的に向かって撃ち放つなど正気の沙汰ではない。

 意識のある黒い猟犬(カニス・ニゲル)のメンバーは少しでも逃げようと防御から意識を移した途端に雷撃に身を焼かれる。

 

「来れ巨神を滅ぼす燃え立つ雷霆」

「地割れ百重千重となりて走れよ」

「来れ、浄化の炎、燃え盛る大剣」

「来れ、とこしえのやみ、えいえんのひょうが」

 

 雷撃が勢いを増し、地面が割れてマグマが見え、気温が急激に上がって肺が焼かれ、急激に気温が下がって足が地面から動かない。

 身動きは取れず、放たれれば確実に塵もこの世に残らない。凄腕の賞金首達だからこそ容易く想像できてしまい、絶望し諦めこのまま死ぬしかない。雷撃に晒されたままではアスカでさえ、この状況からの脱出の術がない。

 

「百重千重と重なりて走れよ稲妻」

「滾れ、迸れ、赫灼たる亡びの地神」

「ほとばしれよ、ソドムを焼きし火と硫黄。罪ありし者を死の塵に」

「全ての命ある者に等しき死を。其は、安らぎ也」

 

 後は魔法名を唱えるだけ。

 死神の鎌は振り上げられたが、その前に天空より剣が舞い降りた。

 

「「「「「「「「「「っ!?」」」」」」」」」」

 

 最上位古代語魔法四種が死神の鎌であるならば、それは超常の力を無に還す神剣であった。

 舞い降りた大剣はアスカの眼の前に突き刺さり、刃先から地面に伝播するように何かが染み渡って戦術広域魔法陣を打ち消した。後数秒は振り荒れているはずの雷も一瞬で消え去り、まるで幻であったかのように虚空へと溶けて行く。

 ガクリ、と雷撃から解放されて口から煙を吐いたアスカは地に膝をついて大剣に目が釘付けになる。

 

「これはハマノツルギ?」

 

 アスカの心臓が激しく鳴った。既知感を伴った、胸騒ぎというにはあまりにも具体的な安堵感と恐怖と不安とかが入り混じった表現し難い何か。

 雄の生理を揺るがす雌のフェロモンの匂いが鼻を撫でる感触がして、天使が舞い降りるように亜麻色の髪を黒いリボンで纏めた少女が地に降り立った。

 

「明日菜……」

「大丈夫、任せて」

 

 アスカの呼びかけに顔だけを振り返らせて笑みを浮かべた神楽坂明日菜が地に刺さったハマノツルギを抜き放ち、大きく一歩を進み出て振り被った。

 同時に四種の上位古代語魔法が放たれる。

 

「千の雷!」

「引き裂く大地!」

「燃える天空!」

「おわるせかい!」

「――――無極而太極斬」

 

 ざぐんっ、と大きく振るわれた一撃が、なにもかもを真っ二つに切り裂き、切り開いた。

 防御するなど考えるだけでもあり得ぬと分かる四種の上位古代語魔法を苦も無く切り裂いた明日菜は美しかった。亜麻色の長い髪を黒いリボンで束ねた毛先を躍らせ、アスカを呑み込む程の気迫を全身に纏いながら闘う姿は途方もなく美しかった。

 言葉を忘れた。信じられないものを見て、アスカはさっきまでとは別の意味で固まった。

 

「狗神!」

「忍!」

「伸びれ!」

「斬空閃!」

 

 上位古代語魔法を放った魔法使い達がいる場所に聞き覚えのある声が聞こえ、その後に悲鳴等が聞こえたがアスカの耳には入っていなかった。

 

「――!」

 

 明日菜がこちらを見て優しげに微笑んで、花開いた艶やかな美貌を見めてアスカが息を呑む。

 どれくらい、ただ黙って対峙し続けていただろう。お互いに、なにか言わなければと思うのだが、上手く言葉が出てこない。

 

「お前……」

 

 意思の強そうなアスカの蒼の瞳が、明日菜を映して見開かれていた。睨むよう細められた明日菜の目が濡れていた。

 明日菜、ともう一度呼びかけた声が喉に詰まり、大きく目を見張って言葉にならない言葉を呟く。

 アスカの言葉を切っ掛けとして明日菜が動いた。

 足音を響かせて、アスカの近くまで歩み寄ってくる。余計な小細工など要らなかった。ただ真正面から最短距離で接近する。アスカの顔を見ると、決心で固めた心が一瞬にして溶けて感情が溢れそうになった。それを押し留めるように後一歩のところで足を止めて名前を呼んだ。

 

「――――――アスカ」

 

 明日菜の口から自らの名が零れ落ちるように紡がれた。腫れ物に触るような、それでいて退かない強さを宿した声に、アスカの体は我知らずに体が一瞬震えるのが感じ取れた。

 

「どうして…………お前がここに?」

 

 アスカは近づいてきた明日菜に早速質問をぶつけた。

 黒き猟犬(カニス・ニゲル)を相手にしたことも雷撃に耐えたことも、頭から吹き飛んでいた。腹の底から湧き上がってくる感情は、ひどく珍しいことに困惑に近い。

 

「オスティアの港で待ってたら千雨ちゃんと茶々丸にさんに会って、襲われてるって聞いて一緒に急いで来たの」

 

 明日菜はアスカの問いに一瞬の躊躇もなく言い返して、堂々と自分の胸を張った。その動作や言葉の一つ一つで、この少女が神楽坂明日菜に違いないことが嫌というほど思い知らされる。

 

「危ないところだったみたいね。間に合って良かったわ」

 

 真っ直ぐに、まるで人の中心を射抜くような視線でアスカを直視して、にっこりと彼女は微笑んだ。

 

「ああ、本当に助かった」

 

 この少女は全力で真っ直ぐに物を言う。物を言う姿勢に、随分と強くなったものだと色んな意味を込めてアスカは我知らずに力が入っていた眉尻を緩めたから力を抜いた。

 

「ニュース見たわよ。また随分と危ないことしたみたいね。一杯心配したんだから」

「俺だって好きで騒動に巻き込まれているわけじゃない」

「本当にそうかしら」

 

 こうして触れることの出来る所にアスカがいるなんて、明日菜はまだ信じれていなかった。離れ離れになっていた時間が長かったせいで、なかなかその実感が湧いてこなかった。

 胸が怖いぐらいに高鳴っていた。顔が火照って、風の冷たさがまるで分からなかった。

 世界中がこの数メートルに隔離されたような気分だった。高鳴っている心臓の鼓動が聞かれていたとしても、まるで気にならない。

 

「「…………」」

 

 二人の間を沈黙が支配する。

 勿論、明日菜は何度かこの沈黙を打ち破ろうと試みたのだが、しかしその度に喉がつっかえ、勇気が失われて最後には溜息とも咳ともつかない、ただ闇雲に音を発するだけの行為をしては場を誤魔化すばかり。

 胸の鼓動さえ相手に伝わりかねない。只管もどかしいばかりの時間だけが過ぎていく。

 そうしてふと、無理に聞き出そうとしない方がいいのかもしれないと思った。

 ただ、こうして共にいられる時間を大切にしたかった。守りたかったものは、このかけがえのない今。微笑みと優しさに溢れた、この今という大切な時間。

 二人の間に流れている沈黙は、実際の時間にしてみればさほどではないが、それでもとても長く感じられるものだった。

 

「ごめん、迷惑かけた」

「いいわよ。元気な姿が見れたんだから」

 

 かけられた声に明日菜の背筋が矢でも打ち込まれたみたいに伸びた。

 

「でも、残念だったわね。アンタのお父さんの行方を追う旅のはずがこんなことになって」

「親父のことよりもみんなが無事に帰る方が大事なことだよ。生きてれば何度だってやり直しは出来る」

 

 自分達が、どんどん変わっている最中だとしても、これからも変わってしまうのだとしても、どんな結末が待っているのだとしても、それでもこの一瞬だけは、この刹那に込み上がった気持ちだけは忘れるはずもない。

 ここまで積み重ねてきた時間を悔やむことだけは絶対にしないと、明日菜は語ることなく心の中で誓ったのだった。

 

「本当に、明日菜も無事で良かった」

 

 アスカは空を見上げて心底から安心したように言った。それまでのアスカと違う、ひどく切なく――――しかし、ずっと強張っていたものが解けたような素直な声だった。

 切り離したはずの繋がりを紡ぎ合わせられたことに喜びを覚え、胸に絡みつく思い出の重みを何度も反芻する。

 ただアスカがそこにいることが嬉しかった。だから静かに彼の息遣いに耳を澄まし続ける。随分こっ恥ずかしいことを思ってしまった気がして、いまさら顔が熱くなってきた。

 思い出のように閉じ込めるのではなくこんな風に共に生きることが守るということだという教えられた気がした。大事だからこそ一緒に歩まなければならないものがあって、自分にとって目の前にいる彼は、そういうものだと思うのだ。

 見つめていると、先の言葉が恥ずかしくなったのか、アスカはそっぽを向いて顔を掻く。

 そんな癖の一つ一つが愛おしくて――――愛おしい理由に気がついてしまって、好きなのだと、この少年のことを想ってしまっているのだと少し気恥ずかしくなった。

 

「…………イチャついているところ悪いんやけど、ええ加減に周りに目を向けてくれへんか」

「「は?」」

 

 少し低い声の関西弁に促されて二人が素面に戻って周りを見ると、魔法使いらしい黒いローブを纏った者達を足下に転がした犬上小太郎・長瀬楓・桜咲刹那・古菲が呆れも隠さずに直ぐ傍に立っていた。

 

「仲良きことは美しきかな、でござるな」

「む~ん」

 

 一句残す楓はともかく、古菲は少し不満げである。

 視線を少しずらせばオスティアに向かったはずのスプリング号が近くに着陸しており、船から下りて来た木乃香に向かって刹那が向かっているところだった。

 アスカが視線を向けていると、船から出て来た木乃香が手を振って来たのでなんとなく振り返す。

 木乃香はそのまま黒い猟犬(カニス・ニゲル)の治療を開始する。

 

「あ、えと、こんなことを仕出かしたあの部長とかいう奴は」

「ここにいるぞ」

 

 珍しいことに赤面したアスカが話の矛先を逸らそうと今回のことを仕組んだとザイツェフが言っていた部長のことを出すが、当の本人はザイツェフにふん縛られて地面に転がされていた。

 

「こちらの不手際に関して誠に申し訳ない」

 

 これはかなり意識が長いこと外側に向いていなかったのだと思い知らされてまたアスカの頬に朱が散る。

 努めて平静を装いながら軽く頭を下げたザイツェフとの会話に集中する。

 

「こっちは賞金首、そっちは賞金稼ぎ。不手際だろうが何も言うことはねぇ。そいつには思うところは山ほどあるが、落とし前はそっちでつけるんだろ」

「勿論」

 

 と、ザイツェフは魔法のロープで縛られて呻く部長の頭を踏みながら力強く頷く。

 

「周りから冷酷非情と言われようとも仲間殺しは最大の禁忌。未遂に終わったとはいえ、報いは受けて貰わなければならない」

 

 そこまで言ってザイツェフは表情を緩めた。

 

「お嬢さんやそちらの仲間方に我らは救われた。君達に深く感謝する。我ら黒い猟犬(カニス・ニゲル)一同、命を救われた恩義は決して忘れない」

 

 骨魔族や爬虫類魔族、他の賞金稼ぎ達も揃って頷いた。コートの人物は少し怪しい。

 

「流石は五百万ドルの賞金首と言ったところか。手も足も出なかった」

「そうそう、名に相応しい実力の持ち主であると実感させられたよ。あ、僕はモルボルグラン。よろしくね」

「…………いいおっぱいがこんなに一杯なのに手が出せないネ。ちくしょう」

「おい、パイオ・ツウ。変なことは言うな」

 

 爬虫類魔族が出来ればもう戦いたくはないと肩を竦め、骨魔族改めモルボルグランが長い手を振る。ニョロニョロと指を動かしているコートの人物改めパイオ・ツウの背をザイツェフが叩いた。

 魔族二人掛かりでパイオ・ツウを下がらせたザイツェフは、コートのポケットに手を入れてアスカに向かって少し端が焦げている名刺を差し出す。

 

「何かあれば、ここに連絡してくれれば大国だって戦おう」

「いや、そんなことする気はねぇし」

「我らも流石にそれは困る。それぐらいの感謝と気持ちはあるということだ」

 

 手を伸ばして来たので、それが握手を求めているのだと分かり、アスカも手を伸ばしてグッと二人の手が交わる。

 

「英雄の名に偽りはなかった。君達のこれからに私も期待しよう」

 

 少し重い期待を背に背負いながら、先程まで敵であった者でさえ手を繋げるのならば、この世界は案外捨てたものではないとアスカには思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 木の葉が千切れて風に舞う。淡い灰色をした雲の群れが、とんでもない速さで空を流れてゆく。命あるものは死んだように沈黙し、命のないものが踊るように暴れ狂う。そんな矛盾に満ちた世界がそこにあった。

 人里離れた森に囲まれた一件の寂れたお屋敷。

 森の中に目立たずにひっそりと佇んでいた。見るからに古さを感じさせる壁の色は、あちこちに見える苔と黴とも混ざり合ったくすんだ緑である。使わなくなって久しいのかボロボロだが最低限の機能だけは残っているようだ。

 陰鬱に沈むくらい木々の合間にある屋敷の二箇所ある出入り口の内、正面玄関に中から黒いスーツを着た壮年の男が現われて、とうに枯れ落ちた朽ち葉を踏み締めて土に還しながら見張りをしていたローブを目深に被った男に問いかけた。

 

「どうだ様子は」

「はっ、今のところは異常ありません」 

 

 予定調和の問いかけに返ってきた言葉もまた、何かあれば流石に気づくから予定調和に過ぎない。

 

「ローウェン隊長、ちょっとよろしいでしょうか」 

「なんだ?」

 

 ローブを目深に被った男と共に玄関側の見張りをしていた体の要所要所に鎧を纏った軽装の男が壮年の男―――――この部隊の指揮官であるローウェンに訊ねた。

 男の顔つきは精悍であり、体格も良い。実際の年齢はさほど高くはないのだろうが、見かけはそれより老けて見える。実年齢で三十を少し回ったぐらいだが、見かけでは四十過ぎに見えなくもない。精悍な顔つきに伸びる無精髭が印象を加速させている要因の一つか。

 

「本当に攻めてくる敵はいるんですか? とても信じられないのですが」

 

 鎧という格好とは反対にぼさぼさの黒髪に隠れるようにして眠たげな眼差しを覗かせる男の、ぼそりとした声で呟く言葉にローブの男も同じ気持ちなのか、視線だけは絶え間なく辺りを見ながらも意識はローウェンの方へ向いていた。

 ローウェンもまた二人の疑問は最もであると理解できた。

 彼らがこうやって警備しているのも、この屋敷の主を護るため。侵入者を発見次第殺せと命令されているのだ。この周囲だけでも二桁の人員が配備され、内部にもかなりの人数がいる。それこそ突破するには二十年前の英雄『紅き翼』や軍隊でも持ってこない限り不可能だと、彼らは言いたいのだ。

 

「俺も来るとは信じ難いな。だが、既に似たような状況で被害が出ていると聞く」

「それでは………あの噂は」

「事実だ」

 

 メガロメセンブリアの一部だけに回っていた、現役の元老院議員と引退した元老院議員に襲撃をかけている者がいるという局所的な噂。

 それらの者達が二十年前の大戦後、あの「災厄の女王(アリカ・アナルキア・エンテオフュシア)」を逮捕した当時の元老院議員だったこともあって、周囲の者達は彼女の呪いなんていう者までいた。

 

「おい……」

 

 ローウェンが不意に厳つい表情の中にある鋭い目を更に尖らせ、傍目にも分かるほど体に緊張感を漲らせて鎧男に訊ねた。

 

「はい? どうしました?」

 

 落ち着かないのか、腰にかけてある鞘に入った剣に無骨な手が柄に触れながらの鎧男からしてみれば突然の問いかけに困惑し、何か粗相をしてしまったのかと思ってビビリながら返した。

 

「……………もう一人はどこに行った?」

「は、なんのこと」

 

 でしょうか、と問いかけかけて気付いた。

 鎧男同様に正面玄関に配置されていたはずのローブの男の姿が何時の間にかなくなっていたことに気付いたからだ。間違いなくさっきまでいたはず。

 ローウェンが見回りに来た時に姿を見て返事もした。その後、ローウェンが鎧男と話をしている間に魔法で辺りを精査していたはずで、数分も目を離していなかった。

 

「警報を鳴らせ、早く!」

 

 ローウェンに命じられ、鎧の男が懐に入れていた魔法具を慌てて取り出す。

 侵入者を探知した時や視認した時に直ぐに全員に伝えられるように爆音を鳴らすだけの至極簡単な魔法具が配られていた。

 辺りを見渡してもローブの男の姿はどこにもない。自分でどこかに行ったとしたら足跡ぐらい残っているはずだがそれもない。

 周囲は屋敷の外壁と森林だけだが、侵入者とローブの男の二人を隠せるほどのスペースは無い。

 ローウェンは既に腰を落として何時敵が現われても対処できるように戦闘態勢になって周囲を警戒しており、慌てて魔法具を取り出している鎧の男と比べれば段違いの胆力といえた。

  

「おい、鳴らすのに何時まで時間をかけて……!」

 

 流石に慌てるにしてもたかだが魔法具を取り出して鳴らすだけに時間をかけるのかとローウェンが振り返ったその瞬間だった。

 ぞわり、と背筋に悪寒が走るのを感じて咄嗟に後方に跳び退った。

 

「!」

 

 着地したローウェンの鍛え上げた動体視力の端に影が映った。物体を認識する前に視界の埒外に入ってしまったことで対象を把握できない。消えた方向に目を移しても次は捉えることすら出来ない。

 先程までいた場所に鎧の男が崩れ落ちているのが一瞬だけ見えた。外傷などで出血している様子は無く、傍目には怪我はしていないように見えた。一撃で意識を落とされ、そのまま意識を失って倒れたような感じ。

 ローウェンは自分が紅き翼の面々と比べるほどにもならないほど弱いことは自覚しているが、それでもこの魔法世界の裏社会を生き抜き、とある要人の警護部隊の隊長を任せられている以上はそれなりの実力があると過信ではなく事実として自負している。

 ローウェンが鎧の男を視界から外した時間はほんの数秒に過ぎない。その間に一切の気配を断ち、音も立てずにやってのけている。並み以上の者であっても同様のことをすれば絶対に気づける自信があったはずなのだ。

 

「どこだ、どこにいる」

 

 ローウェンは絶えず周囲を警戒しながら頭をフル回転させて自分が何をすべきかを考えた。

 間違いなく相手は自分よりも手練。取るべき行動は、闘うか、逃げるか、それともと手段を模索する。

 集中力によって極限まで加速された思考が答えに思い至るまで一秒も掛かっていないだろう。

 ローウェンは選択を、敵の侵入を他の仲間に知らせるために手を懐に入れて魔法具を探った。彼の選択は真っ当に正しく―――――だが、それ故に襲って来た相手が悪すぎた。

 焦らず、慌てず、早く、静かに魔法具発動のボタンに手をかけたローウェンの耳に、

 

「初めまして、そしてさよならです」

 

 耳の中にどこかで聞き覚えのある声が入ってきた瞬間、首の後ろに衝撃が来て意識が遠のいていく。

 最後の抵抗を試みて魔法具を動かそうとして、再度の衝撃を感じて今度こそ完全に意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 灯火の揺れる音や、壁から埃が落ちる音。耳を澄ましたとしても、聞こえるか聞こえないかあやふやな音。それらに囲まれて、男は待っていた。

 蝋燭一つしか明かりのない部屋の中は、まるで影の住人が犇いているかのように、暗く狭く感じる。実際には、部屋には十分な広さがあった。

 豪奢に飾り立てられた広大な部屋である。広大な空間を埋め尽くすのは豪華な調度品達だ。

 床には複雑な模様の描かれた毛皮の長い絨毯が敷き詰められ、魔物の皮の敷物なども置かれてあった。壁には著名な絵画が所狭しと並べられ、部屋に置かれた無数の調度品はどれもが世界的に有名なブランドの最高級品だ。極めつけは、煌めくような輝き達。金や銀、各種宝石をふんだんに使った世界に二つとない贅をこらした飾りが部屋中に施され、それらが放つ眩い輝きが部屋の中をより華やかに彩っているのであった。

 ただ、それらが豪華絢爛で珠玉の極みであることは間違いない。たが、あまりに大量に、無節操に集めたてられたそれらはかえって主張が強すぎて、ただの成金趣味のようにしか見えなかった。

 ここには全ての物が自己の血統を訴え、頑なに変化を拒む息苦しさがある。よそ者を寄せ付けない空気を放っているように思えた。

 部屋の中心にいるのは、中年太りの男がお世辞にも格好のよくない体躯をつまらなそうに突き出しているゴッコモド・ダールスト。メガロメセンブリの上院に名を連ねる議員の一人。

 これまた豪奢な椅子に座っていた。背もたれの高さがダールストの倍くらいはあった。見るからに高価な椅子で、骨組み部分には金銀財宝が惜しげもなく使われている。この部屋に相応しい椅子である。

 椅子に深く腰掛けたダールストはスーツを着ているが、ネクタイをかなり緩めて身軽にしていた。

 時を刻む何か―――――ただし時計はここにない―――――に意識を傾け、仮眠しながらそれに聞き入る。世界が始まって以来、時が止まったことはあるのだろうか。止まったとしても誰も気づけないのだから、何度かそういうことがあったのだとしても否定は出来ない。

 広い部屋ではあるが、こうも人数を揃えて侵入者に神経過敏になっていては息苦しくも感じる。軍人ではなく一介の政治屋でしかないゴッコモドには馴染んで心安らげる空気ではない。

 部屋には他にも何人かおり、その身のこなしには訓練を受けた兵士のようなものを連想させた。

 ダールストは傍らのテーブルに置かれたシャンパングラスを手に取り、中の深紅色の液体を一気に嚥下した。

 

「クルトの奴、こんなところに押し込めやがって。さっさと議員襲撃の犯人を捕まえられないのか」

 

 苛立ちを紛らわすようにテーブルに置かれた高そうなボトルを自ら手に取り、グラスに中身を注ぐ。

 落ち着きのない動作であったので手元がブレてワインをテーブルに零してしまった。

 

「ちっ、くそっ。おい! 拭いておけ」

 

 部屋で周囲を警戒していた一人に機嫌も悪く怒鳴りつける。

 男達は誰が見ても分かるほどに屈強で戦士系の者が多い。中にはひょろい者もいるがローブを纏っていることから魔法使いなのだろう。男達に灯る眼光は罵倒されようとも平静そのもので、御小言に付き合って見せるのも仕事の内という顔を押し隠している。

 

「了解です、ボス」

 

 ダールストに命じられた、明らかに執事などといった職には縁遠い汗臭い骨太い男は、内心はともかくとして表向きは嫌な顔一つせずに零れたワインを拭き取る。ハンカチなどという気の利く物を武辺者が持っているはずもないので服の裾で拭った。

 ダールストに見られれば激怒しそうだが、本人がワインを飲んで目を逸らしている間に拭き取ってしまったので問題ない。

 ちなみにダールストが飲んでいるワインは、下手すれば一般階級が男性の一年分の年収に値する値段である。プロであっても、武辺者は酒が好きと相場が決まっている。水を飲むように頓着せず煽る主人に悟られぬように羨ましがる者達は多い。

 

「少しは落ち着いたらどうだ、息子よ」

 

 落ち着きないゴッコモドを諌める声が薄暗い部屋の中に響く。

 声の主は壁に近い安楽椅子に座った老境の男であった。ゴッコモドと違って線はかなり細く、下手をすればミイラが辛うじて人の形を保っているような薄気味悪さを感じさせる。

 この男こそゴッコモドの父にして、嘗ては元老院で辣腕を振るった前議員である。

 今は政界を追われ、こんな辺鄙な地で老後を送っているが、その眼はとても侘しい老人のモノではなく、感情を感じさせない老獪さだけが鈍く輝いている。

 

「しかし、父上よ」

「私は、落ち着けと言ったぞ」

「ぐっ……」

 

 不詳の息子でしかないゴッコモドは老い先短いはずの父の決して強く言われたわけではない言葉に喉の奥を詰まらせたような唸りを漏らした。屈強な男で構成された護衛の者達もまた老人から放たれる異様なほどの威圧感に呑まれたようにゴクリと唾を呑み込む。

 父の威圧に長年晒されて来たゴッコモドの回復力は早く、口答えをするように拗ねた眼差しで睨む。

 

「ぜ、全部父上が悪いんだ。父上が災厄の魔女を陥れたりしなければ」

「まさかお前まで呪いだと信じているのか?」

 

 息子の言を呆れたように見下しながら、地に着いている杖を一度上げて下ろしカツンと高く鳴らす。

 

「下らない。ああ、本当に下らない」

 

 やはり貴様は不詳の息子だ、と物憂げに語ると、ゴッコモドの背後に立っていた男が拳を振り下ろした。

 

「うぐっ」

 

 後頭部を打たれたゴッコモドの首がガクリと傾き、意識を落とした。

 

「事態が収まるまで寝かしておけ。五月蠅くて適わん」

 

 意識を失って椅子にダラリと身を沈めている息子を一瞥し、どこで育て方を間違えたかと何度も思ったことを繰り返す。

 

「情報を挙げろ。外からの報告が止まっている」

 

 本当の雇い主として部下に命令を下そうとした、その時、室内を冷たい風が流れた。

 

「もう外に貴方の部下はいませんよ」

「っ!?」

 

 声は唐突にした。いきなり聞こえた声に、ダールストと彼の部下たちが、同時に同じ方向を見る。だが、声が聞こえたと思えた場所には誰の姿もない。否、正確にはそこには護衛の一人が倒れていた。

 

「誰だっ!?」

 

 護衛の一人が、鋭く叫ぶように聞く。部下たちも油断なく辺りを見回した。誰もいない――――誰もいないが。

 いる(・・)ということは分かる。先程まで、人の気配などしなかったというのに、その声の気配は、肌にひりひりと感じるほどに、その場に満ちていた。

 突然、室内に轟音が響く。視界を音の方に向けると、入り口の扉が吹き飛び、壁に突き刺さっていた。もうもうと煙が上がっている。その煙の中から、ダールストが雇った傭兵が部屋の中に飛び込んできた。いや、正確には部屋の中に吹き飛ばされてきた。

 男は室内を転がり、高そうなカーペットの上に手をついてなんとか体を起こそうとする。そして、自分が吹き飛ばされた方向を強い瞳で睨み付けた。

 煙がまだ晴れない入り口から、風のように一つの人影が現れた。

 闇に溶け込むような真っ黒なローブを纏い、体のラインも分からず体のサイズから長身であることは間違いない。

 ローブの人物はそのまま倒れている男の前に進み、足で蹴り飛ばした。出て来たその足は黒いローブとは真逆の白いスーツのズボンを履いている。

 

「ぐぅっ」

 

 背中から壁に激突して息が漏れるような悲鳴が上がり、部屋に吹き飛んできた男はゴッコモドにぶち当たって意識を失って床に崩れ落ちる。逆にゴッコモドが苦痛の呻きを上げながら目を覚ました。

 

「役者二人が揃っているようで何よりです!」

 

 と、室内にまるで最初からそこにいたかのように透き通った男の声が響き、語尾を強く言い切った直後に白刃が煌いて、部屋の中にいた護衛達が次々と倒れた。

 ゴッコモドが目を覚まして最初に見たのは、室内に入って来た黒いローブを纏った男がそのフードを取ったその姿だった。

 

「貴様は、クルト・ゲーデル!?」

 

 ゴッコモドが目を覚まして現状を認識するまでに、部屋の中は散らかり護衛の者達がもみくちゃにされてあちこちに倒れている。その中央で王のようにクルト・ゲーデルが立っていた。

 

「ま、まさか貴様が議員襲撃の犯人か!?」

「そうだ、と言ったのならばどうすると言うのです」

「貴様、こんなことをしてただで済むと思うなよ!」

 

 ゴッコモドは引きつった笑みを顔に貼り付けながら、殆ど裏返った声を張り上げた。

 恐怖からか、多少錯乱しているようにも見え、座った椅子から微動だにしていない父の後ろに逃げようと、ジリジリと逃げながら叫び続けているゴッコモドは多少哀れさえ誘う小物ぶりだった。

 傍目にも分かるほどに見下しの視線を向けたクルトが一瞬でゴッコモドに近寄って蹴り上げた。

 

「がひいぃっ!」

 

 見苦しく情けない叫び声を上げたゴッコモドの丸い体が、空中で一回転して仰向けに地面に落ちた。

 

「こ、殺さないでくれ」

「別に殺しはしませんよ」

 

 痛みと怒りと恐怖で悲鳴を懇願するゴッコモドにクルトは軽くそう言いながら、ぐい、と手首を捻り上げた。

 片手でゴッコモドの豚のような巨体が軽々と持ち上げられ、吊り上げられる。表情を引き攣らせ、恐怖の浮かんだ眼差しでクルトを見下ろす。

 

「安心して下さい。まだ殺す気はありません」

 

 クルトは若干言葉を変えてそう繰り返して、くすっと妖艶に笑った。ただ笑うという動作だけで人はここまで妖艶に成れるものなのか、クルトには人成らざる魔性が取り憑いる錯覚をゴッコモドに覚えさせた。

 恐怖から漏らし始めた息子を見た父は、クルト入室からピクリとも動かさない眉の下にある頑迷な目を向け続けている。

 

「我がダールスト家にこのような狼藉を為すということは、十分な準備が出来たということか」

 

 ゴッコモドが口惜しげに繰り返し呪詛のような呻き声を繰り返しながら手を振り解こうとしても、まったく歯が立たないのを見ながら他人事のように父が言った。

 

「おや、貴方は私が議員襲撃の犯人であることに驚かないのですね」

「他の議員を襲った手際の良さとこの襲撃のタイミング、なによりも息子をここに送り込んだことを考えれば自ずと予想はつく」

 

 カッカッカッ、と骸骨が笑っているような不気味が笑い声を発した前議員は眼光鋭くクルトを見る。

 

「何時かは動くと思っておったが、また随分と性急に動きおったな」

「これも貴方の薫陶があればこそですよ」

「若造が師に牙を剥くか」

「必然ですよ。老いたリーダーを越えなければ新たなリーダーにはなれませんから」

 

 恐怖で大きな声は出ていないものの、父の諦観だけはゴッコモドにも伝わってきた。

 ゴッコモドには分からない。クルトが言っていることも、父の諦観も。

 

「実を言えば、これほど早く行動に移す気はまだなかったのですがね」

「当てて見せよう。英雄の…………いや、災厄の女王の遺児が世間に出て来たことが大きな要因だろう」

「その通りです。何事にも予定通りとまではいかないものですが、この場合は良い意味で事態は進んでくれました」

「父と同じく英雄の道を進んでいる。世界を率いるに相応しい器か、私には分不相応だと思うがね」

 

 クルトにも父にも、この事態になってしまった状況を別に気にした風もでもなく、平気な顔で言葉を交わす。

 

「彼自身が何かをする必要はありません。御輿は、御輿たるに相応しい条件さえ整っていれば案山子でも構いませんから」

 

 それを聞いた父は何がおかしいのか、クツクツと笑い始めた。

 

「貴様に何かを教えた覚えはないが、成程こうも似るとは。つくづく貴様とソレが逆であったならばと悔やんだことだが」

「元より懇切丁寧に教えて貰わなくとも大体のことは見ていれば分かります。良き教師とさせて頂きましたよ」

「金を払えと言いたいところだが、まあいい」

 

 ゴッコモドには分からぬ理由で一頻り笑った父は覚悟したように背筋を伸ばす。

 

「十分な準備をしてここに乗り込んできたからには、ただ二十年分の恨みを叩きつけに来たわけではあるまい。わざわざ我ら親子を一つに纏めた理由はなんだ?」

 

 問われたクルドはにこやかに笑う。残酷、容赦なく、どこまでも冷酷な、悪寒を感じさせる笑みを。

 

「ひぃっ!」

 

 未だに腕を捻り上げたままのゴッコモドはその笑みがあまりにも恐ろしくて、また悲鳴を上げて体を震わせて抵抗を試みた。

 ジタバタと暴れられて邪魔になったのか、クルトはゴッコモドを壁に叩きつけた。

 ガゴン、ズシン、と壁にぶち当たり床に落ちて大きな音を立てながら「うぐぉおおお」と苦痛にのたうち回る。

 醜いブタが泣いているのを一顧だにもしないクルトが、ゴッコモドを持っていた手をコートで拭い、髪型を整えるように両手で髪を掻き上げた。

 

「二十年前にアリカ女王の真実、六年前のウェールズの片田舎が襲われた真相、その全てを相応しき場で世界に公表します」

「ま―――――待て!? そんなことをすれば元老院は」

「良くて解散、悪くて組織解体の上で関わった者は極刑といったところでしょうか」

 

 ゴッコモドが慌てて叫んだがクルトの未来展望が見せる、脅しにしては目が本気で堂の入りすぎた内容を止めずにはいられなかった。

 既にゴッコモドは詰んだ状態にあり、クルトと駆け引きが出来る状況でもないと分かっていない。

 

「貴方達はその末路を見ることは決してありませんよ」

 

 クルトは、童子のようににっこりとした。それが先程の、こちらの背を怖気が走るほどの狂笑を浮かべた者と同一の者とは信じられない。

 

「二十年前にアリカ女王にかけられた父王殺し及び完全なる世界との関与の疑い、更にオスティア周辺の状況報告について虚偽改竄の疑いまでかけて、世界を救った女王に全ての負債を押し付けたその罪。貴方達が百度生まれ変わろうとも贖い切れるものではない」

 

 二十年の間に降り積もった感情を表情に張り付けて、「それだけではない」とクルトが鬼面の如き笑みを浮かべる。

 

「収賄、公文書偽造、虚偽告訴、職権濫用、亜人売買、軍に勝手な命令を発行したこと、その他諸々と数え上げれば切りがない。そうそう、最近ので言えば、オスティア総督府にある情報を勝手に賞金稼ぎ結社に流したというのもありましたね。更に総督府を通さずに大戦の骨董品の使用許可と、またまた罪状が増えました。貴方達の全ての罪を公表すれば、一度や二度の処刑ではとても足りないぐらいです」

 

 パチパチ、と手を叩くクルトの言う意味が浸透するに連れてゴッコモドの顔色が赤から青に変わる。

 その末路が簡単に想像が出来て、太って血圧の高いゴッコモドの顔からこれでもかと血が更に落ちる。

 

「二十年前の真実が公表されればアリカ女王の名誉は回復され、陥れた者達の名声は地に落ちる。おお、世界を救った者がこれ以上ないほどの汚名を着せられたことを知った世の者達は何を想うか」

 

 自分達が追い込んだことに対する罪悪感か。

 人は弱く多数に流され、逆に言えば操作しやすいことは二十年前に彼らが証明している。

 

「私ならばこう言うでしょう。『奴らにアリカ様が受けた処刑方法を受けさせろ』と」

 

 戦後の悪を押し付けられた災厄の女王は、古き残虐な処刑法である魔獣蠢くケルベラス渓谷に落とされたとされている。

 魔法を一切使えぬその谷底で、幾百の肉片となって魔獣の腹に収まる。例え吸血鬼の真祖であろうと復活が不可能な残虐すぎる処刑方法を自分達がされるのかと、ゴッコモドはクルトに問いかけた。

 

「因果応報、貴方が今までしてきたことに比べれば軽すぎる罰ですよ」

 

 クルトは否定はしなかった。

 ゴッコモドは連合駐留軍を使って部族対立を煽り、資源の搾取に亜人売買にまで手を染めているとの黒い噂もある。その全ての罪が明らかになれば、生きながらに魔獣に貪り食われたとしても軽すぎる罰だとクルトは断じた。

 

「好きにするがいい。事ここに至って、貴様に逆らったところで意味はない」

「父上……!」

 

 父の言葉に、ゴッコモドはかっと激高して叫んだ。

 そんな息子を見て、父は諦めたように溜息を吐いた。

 

「物分かりの悪い。ここまで準備を整えている以上、証拠は万全であろう。我らに勝機など欠片もないと分からんか」

 

 順風満帆。それがゴッコモド・ダールストの人生を示す言葉だった。

 メガロメセンブリアの裕福な家庭に生まれ、何不自由ない暮らしを送り、高い教養を身につけ、元老院議員だった親の跡を継ぐように彼もまたなんの疑いもなく議員となった。

 誰もが脳裏に描くエリートの人生を歩んできた。今まで一度も失敗して来なかったし、これからも成功以外の道は歩まない。一点の曇りも無くそう信じてきた。誰にも話していないが、いずれは元老院のトップとしてメガロメセンブリアの全てを、行く行くは魔法世界全てを掌握することも難しくないと思っている。

 そんな彼は夢にも思わなかった。その末路が父の価値を否定され、その命が無惨に奪われるなどと。

 

「最後まで貴様は出来損ないであったよ」

 

 と、息子の価値を切り捨てて座ったままクルトを見上げる。

 

「………………」

 

 そうしてゴッコモドの心は簡単に折れた。

 仮にも国のトップである議員の一人がたったこれだけで崖っぷちに追い詰められたのだ。

 

「最後に一つだけ、君に忠告を残そう」

 

 前議員は息子を一顧だにせず、政治屋としての気質を図らずとも受け継いだ息子とでも呼ぶべきクルト・ゲーデルを見据える。

 

「事態は君の思う通りに進むとは思わないことだ。私のように予想もつかないところで足を掬われることもある」

 

 息子の不始末で政界を追われ、取り込んだ獣に手を噛まれた自らのようになると、まるで未来を見透かしたかのように二十年から何も変わらない冷徹な眼差しにクルトの背を冷や汗が流れて行った。

 

「私は貴方のようにはなりませんよ」

 

 そう自分に言い聞かせるように言いつつもクルトの中から不安は消えなかった。

 

 

 

 

 




ちょっと甘酸っぱい感じと、クルト君の復讐劇的な感じです



オスティア終戦記念祭、その式典に集まった帝国・連合という二大強大国。
ノアキスの件で両国と会談を持つことになったアスカはアリアドネ―のセラス総長と共に出席する。
出席者は少ない。
帝国からはテオドラ第三皇女、連合からはリカード主席外交官、そしてアリアドネ―からはセラス総長。
錚々たる面々の中で会談が始まる。だが、中身はノアキスのことではなく、もっと差し迫ったもので。
明かされる世界の秘密に対してアスカは……。



次回『第71話 世界の真実』





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第71話 世界の真実 前編




超独自設定の嵐です。




 

 

 

 

 

 しっかりと掃除の行き届いた執務室で、口元と顎に蓄えた鬚を年月を経た鋼の色に染まった一人の男が椅子にゆったりと腰掛けている。

 また見た目では分からないが、壁には厚い装甲材が埋め込まれ、背後の窓には戦艦にも使われている強化ガラスが使用されている。国の中でもかなり上部のセキュリティ措置が施されたその部屋は主の位階の高さを物語っていた。

 男の目の前には机があり、その上には一台のモニターが置かれている。

 モニターには先程から莫大な量の情報が表示されていた。男の視線はモニターに向けられている。眼球がモニターに映し出されている情報に合わせてせわしなく動く。凄まじい速さで、凄まじいの量の情報を追っている。

 秘書官がノックをして返事が返って来ないことに訝しげな気持ちになって、おそるおそる部屋に入ってきても厳格な表情は一切動かなかった。

 

「ナマンダル中将……」

 

 秘書が男の名――――――帝国軍の高級幕僚の一席を担う中将ナマンダル・オルダートを呼んでも、その表情は変わらない。長年、ナマンダル中将の文官として勤めてきた秘書官ですら見たことがない厳しい表情だった。

 

「アリカ王女の子供、か」

 

 その言葉は、あまりにも小さく殆ど彼の口の中で消えてしまった。

 

「あの、何か仰りましたか?」

 

 ナマンダル中将が厳しい表情をしているのはモニターに原因があると悟り、刺激しないようにおずおずと執務室に入ってきた秘書が不審そうな顔を向ける。

 

「なんでもない。独り言だ」

「そうですか」

 

 鋭い両目に射竦められた秘書官にそれ以上の問いが続けられるはずがない。

 

「この後はテオドラ殿下がお見えになる。急ぎの用事でなければ下がっていてくれ」

 

 テオドラ第三皇女との面会を遮るほどの案件ではない。

 可及的速やかにナマンダル中将が処理しなければならないものではないので手元の案件は後回しにしても良し、と動揺している秘書官は自らを納得させた。

 

「はっ、では失礼します。何が御用がありましたら御呼び下さい」

 

 秘書は敬礼して答え、まだ納得しきった顔ではないが、中将ほどの相手に些細なことで追求するわけにもいかないので大人しく執務室を出た。

 秘書官が出て行った執務室の中に一人残ったナマンダル中将は口元を隠すように机に肘を付いて組んでいた腕を下ろした。

 

「ノアキス事変での精霊王召喚…………英雄と災厄の女王の子の出現と続いて、戦後二十年の節目にこうも変事が起きるとは」

 

 まるで前大戦が起きる前の時のようだと、まだ佐官であった当時の自分の心境を思い出そうとしても、出世欲に取り憑かれて軍内の競争をしていたことしか記憶に残っていない。

 

「老いたか、私も」

 

 過去を想うのはそれだけ年を取った証拠だと、二十年前とは違って真っ白になった髭を撫でながら自嘲する。

 

「ほう、鉄のナマンダルとまで呼ばれた男が弱音か」

 

 聞こえて来た声にナマンダルの眉がピクリと動き、モニターに向けていた視線を入り口に映すとドアが半分開いて女性が顔を覗かせている。

 

「部屋に入る時はノックぐらいはしてほしいものですな、テオドラ様」

「したとも。聞こえていなかっただけであろう」

 

 ドアを半分開けて顔を覗かせている女性――――ヘラス帝国第三皇女テオドラに苦言を呈すも、当の本人は皇女らしからぬ笑みを浮かべて体を室内に滑り込ませる。その後に続く者がいないのでナマンダルは眉を内側に寄せた。

 

「従者がいないようですが、まさかお一人でここまで?」

「そこで下がらせただけだ。中将とは内密な話をする故、とな」

 

 どんな時でも最低でも一人は従者が着いているはずなのに一人で室内に入って来たテオドラに返答に、ナマンダルは大きく溜息を吐いた。

 

「あの者達は姫様の護衛も兼ねているのです。幾らここが王城とはいえ、危険ですぞ」

「ああ~、小言は聞きたくない」

「いいえ、陛下より姫様の世話係を任された以上、何度でも言わせていただきます。幾ら人間換算では十代とはいえ、姫様も既に三十路。落ち着いてもらわなければ――」

 

 耳を塞いでイヤイヤと首を横に振るテオドラに、第三とはいえ皇女に小言を言える立場の者は少ないので、この機会もあってクドクドと言い聞かせる。

 

「ええい、小言は聞き飽きたと言っておろうが! そんなことを聞きに来たのではないぞ!?」

 

 最初は大人しく聞いていたテオドラも我慢ならぬと爆発する。

 

「失礼しました。どうにも年を取ると説教臭くなるものでして。して、用件はなんでしょうか?」

 

 会う度に小言を言ってはいるが、今回はテオドラ側からのアポイントメントを取ってのものなのでナマンダルは用向きを聞いていない。

 

「妾は第三皇女で結構偉いはずなんじゃがな……」

 

 どうにも扱いが微妙な気がすると頭を捻ったテオドラであったが、用向きを優先させることにしたようで「ノアキスのことが聞きたいのじゃ」と、ナマンダルの執務机の前の対面ソファーの片方に些か行儀悪く座る。

 世話係としては物申したくなること甚だしいが、ここは我慢と話題の転換に乗る。

 

「報告書ならば王政府に提出していますが」

「あんな堅苦しい文面で何が分かろうか」

 

 事件の規模が規模であったので重要書類に類する報告書の文面は確かに固いのだが、仮にも偉い人のトップである王族に文句を言われては書いた本人であるナマンダルとしては面白くない。

 ナマンダルの眉が僅かに中央に寄ったのを不機嫌の証拠と感じ取ったテオドラは手を顔の前で何度も振る。

 

「直接関わった本人から話を聞いた方が報告書よりも分かり易いと思い、ここに来たわけじゃ。決して報告書を否定するわけではないぞ?」

 

 否定しつつも目が若干泳いでいるので言い訳であろうと察しつつも、役所仕事の文面はどうしても分かり易さ重視では書かれないのでナマンダルもテオドラが面倒臭いと断じた理由も理解できる。

 しかし、王族が親しき者の前であろうともそれを口に出して言うのはよろしくないと、ナマンダルが口に出そうとしたのを雰囲気から感じ取ったテオドラが表情を変えた。

 

「中立交易都市で人間がクーデター、それも亜人差別主義者となれば無視できん」

 

 旗色悪しと見て、皇女モードになったテオドラが先程までの醜態を掻き消すように強引に話題転換を図る。

 

「都市に派遣していた調査員より異変の報告が上がって、ノアキスにお主を派遣したのは妾じゃからな。関わった以上、事態を細部に至るまで知っておきたいのじゃ」

 

 クーデターの情報は王政府に上げられ、極秘裏に調査が進められていた。

 テオドラの要請を受けたナマンダルがノアキスに調査員を派遣し、クーデターの可能性高しと判断して万が一を想定して軍の準備を進めていた中で事件は起きた。

 

「これもナマンダルが艦に乗せてさえくれれば、こんな手間はいらなかったのじゃがな」

「姫様をクーデターが起きている危険な場所に同行させられるわけがありません」

 

 本来ならばナマンダルほどの将官が現場に出たのは事態を重く見たのもあるし、ナマンダルが出なければテオドラがノアキスに行くのを止められなかった。

 

「妾も精霊王を見てみたかったのに」

 

 短い皇女モードは終わり、不満そうにぶーたれるテオドラに対してナマンダルは渋面である。

 

「あれは天変地異や災害と何も変わりはありません。今回は我々に実害はありませんでしたが出会わなければ良い類いのものです。滅多なことは口にしてはなりません」

「分かっておる。興味本位で言ったまでだ。本気にするでない」

 

 それはそれで性質が悪いと口に仕掛けたナマンダルも、既に何度も似たようなやり取りを繰り返しているので疲れたように溜息を漏らすに留めた。

 

「さて、本題だが」

 

 立ち上がったテオドラは二十年前から変わらないやんちゃ娘な面を表に出して執務机の前に移動し、手を着いてナマンダルの前で今も表示されているモニターの映る一人の少年の顔写真を見る。

 

「アスカ・スプリングフィールドのことが聞きたいんじゃ」

 

 オスティア終戦記念祭の二日前の出来事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大戦期の巨大魔法災害によって沈んだ廃都オスティア。嘗て大戦が起きるまでは風光明媚な古都だったが、戦の主戦場となったことであまりの荒廃によって捨て去られた都である。

 戦後にメガロメセンブリアによって実効支配され、墜落を免れた浮遊大地を新オスティアと呼称して都市が建設された。現在は殆ど廃墟で一部が観光の街として栄えている。

 空中を土台もなしに浮かび上がっている都市には、支えも無ければ下部に何かを噴射している様子もない。そんな音もなく浮かんでいる浮遊都市の上空を様々な形状の船が飛び交っている。古典的な帆船に似ているのもあれば金属製の現代性のデザインのも見える。大型から小型まで千差万別であった。

 十年前に終戦記念祭がこの新オスティアで開催されたのは、最後の戦いが起こった地であることを考慮すれば当然の流れである。

 人種・宗教・国境を越えて世界中から人が集まって、誰もが取り戻された平和が続いていくことを願う。

 終戦記念祭は決してお堅いお祭りではない。

 老若男女獣魔はおろか、世界中の商人やらお尋ね者やらゴロツキやらでごった返す。一攫千金、決闘、喧嘩、酒に博打に女に男、なんでもござれの七日七晩にかけて街を挙げての大騒ぎとなるので世界最大の祭りと言っても過言ではない。

 浮遊大地の関係で単純な人数ならば麻帆良祭の方が多いだろうが、こと訪れる人の多様性については追随を許さない。

 

(人間に亜人に魔族に妖精、精霊って、本当になんでもありなんだな)

 

 どこかの偉い人が祝辞を述べているのを他人事のように聞きながら視線を少し上にずらすと、儀仗を持った鬼神兵が目に入る。

 

(こんなに大きくて儀仗兵のつもりなんかね)

 

 大戦期に大いに活躍した鬼神兵に儀仗を持たせただけで儀仗兵というのは無理がある。連合側用意した兵であるが、帝国が守護聖獣の一体である古龍である龍樹を連れてきていることも考えると、両国は示威行為に余念がない。

 

(帝国のインペリアルシップ、連合のスヴァンフヴィートって仲良くしましょうっていうより、自分はこんな強いんだって見せつけてるだけじゃないか)

 

 艦隊も錚々たるもので、この新オスティアに集まった艦隊と戦力であれば下手な小国ぐらい簡単に落とせるだろう。

 式典が進み、帝国の代表であるテオドラ第三皇女と、連合の代表である主席外交官リカードが中央に歩み寄る。

 連合側には新オスティア総督のクルト・ゲーデルが立ち、帝国側にはアリアドネ―のセラス総長が近い。この新オスティアが連合に実効支配されているので中立のアリアドネ―は帝国側に立つらしい。

 

(政治って面倒臭ぇ)

 

 何故か式典に貴賓側に席を用意されたアスカは、テオドラとリカードが向かい合って後一歩で触れる距離になると周りが立ち上がったのに合わせて立ち上がる。

 一応、式の内容は事前に教えられたものの、どうしても場違い感が消えない。

 

(なんで俺はここにいるんだ?)

 

 ボーッとしながら多数の紙の花弁が舞う空を見上げて現実逃避を続けていると、周りから複数の視線を感じて顔を下ろす。

 その場にいた大半から視線を向けられ、式の流れを思い出す。

 

「あ」

 

 式の最後にテオドラとリカードが握手をする際にアスカも参加しろと言われたのを思い出し、現実感が乏しいながら足を踏み出した。

 アスカにだって言い訳はある。

 新オスティアに来る時に黒い猟犬(カニス・ニゲル)に襲われた。それ事態は解決したので問題はないのだが、内輪揉めの証人として証言に駆り出されたので予定されていた話し合いに遅れて式の流れはおおまかにしか聞いていない。

 元より興味のないことには覚える気力が湧かないのでド忘れしてしまった。寧ろ思い出せたことを褒めてほしいと思いながら焦らない足取りながら素早くテオドラとリカードの対角線上に立つ。

 

「それでは最後に握手を」

 

 と台詞を思い出して告げると、二人が握手する。アスカも事前に言われたように、二人の握手に手を被せる。

 その瞬間を狙ってカメラのフラッシュが視界が眩むほどに焚かれ、眩しさに眼を細めながらやはりアスカが感じる場違い感は消えなかった。

 

『二十年の平和を祝して両国代表が固い握手を交わし、前大戦を収めた赤き翼のリーダー千の魔法使い(ナギ・スプリングフィールド)の息子であるアスカ氏が手を添えています』

 

 街頭のテレビにはにこやかに握手を交わす両国代表と手を添えているアスカの姿が映し出されていた。

 

『紅き翼の関係者がオスティア祭に参加するのは始めてであり、大分裂戦争が終結したこのオスティアの地で帝国の王族と連合の主席外交官と共に手を交わしている姿は歴史的瞬間と言えるでしょう』

 

 猫耳の女性アナウンサーはどこか固い表情と声でリポートを続ける。

 

『世界には未だ戦禍の跡も深く、種族差別も消えていません。ノアキス事変の例をとってみても戦後に終わりはなく、まだまだ苦しい時代が続くかもしれません』

 

 少し目を俯かせたアナウンサーだったが、顔を上げて今も拍手の海の中心にある式典へと手を開いた。

 

『しかし、二大国と戦争を終結に導いた紅き翼の関係者がこの地で手を取り合えたことは、未来の希望に思えてなりません。この平和が続くことを切に願います』

 

 そこで映像が切り替わり、別のニュースへと移行している間に式典の参加者であったアスカは控え室に戻って椅子に座って肩を落としていた。

 

「お疲れ様、水飲む?」

「ああ」

 

 首元を締めていたネクタイを緩めていると、控え室で待っていた神楽坂明日菜が心労から長い溜息を吐いているアスカに近寄り、手に持つコップを差し出してくる。

 式典に緊張していたわけではないので喉の渇きはなかったが、気遣ってくれる気持ちは有難い。コップを受け取り、一気に飲み干す。

 ゴクリ、と呑み込んでも疲れは変わらず、明日菜にコップを返しても椅子から立ち上がる気がしなかった。

 

「おい、アスカ。あんま馬鹿面晒してんなや」

「うるせぇ。文句言うんならお前も式典に出ろよ」

「金積まれたって出たかないわ。見てただけでも肩凝ってしゃあいないわ」

「俺だって金積めば出なくていいんならそうしてる」

 

 小太郎の言う通り、気の抜けた顔をしている自覚はあるが改める元気がない。

 肩が凝りはしないが黒い猟犬(カニス・ニゲル)と戦ったのとは別種の疲れに体が重く、今は何もしたくない気分なのである。

 

「まあ、あれだけの場だもん。疲れるのは仕方ないわよ。控え室で待ってた私もなんか疲れたし」

「明日菜、ハラハラしとったもんな」

 

 明日菜が味方して擁護してくれたので顔を上げたが、どうにも木乃香の言い方からするとアスカが変なヘマをしないか心配している母親みたいな印象が浮かんできて、少し動きかけた手をダラリと下ろした。

 

「うちもお堅い式みたいなんにお爺ちゃんと参加したことあるけど、あくまでお爺ちゃんの付き添いやったからな。こんな規模で主賓みたいな扱いされたことあらへんけど、終わったら妙に疲れたしアスカ君が無気力になるんもちょっと分かる気がするわぁ」

「空気から違いますから、やはり気疲れするのでしょう」

 

 木乃香が近衛の家の関係で参加した式での感覚を元に共感するのに顔を上げると、刹那が同調する。

 

「千雨達はどうしたんだ? 姿が見えないが……」

 

 慰められて機嫌を戻したアスカは、仲間の姿が幾つか見えないことに疑問を呈した。

 新オスティアに到着して黒い猟犬(カニス・ニゲル)内の内輪揉めに一定の目途が着いた後、拉致するように式典の場まで連れて来られたので疑問を覚えた。

 

「千雨ちゃんはクママチーフって人と拳闘団の方の手伝いだって」

 

 そうか、と返しながら明日菜の説明に千雨がいない理由に納得して頷いた。

 クママチーフが拳闘団に協力するので千雨と茶々丸も手伝うことは事前に聞かされていた。正直に言って千雨よりも茶々丸の方が戦力に的に大きいのではないかと思って、残りの絡繰茶々丸・長瀬楓・古菲の三人はどうしたのかと聞く前に刹那が口を開く。

 

「茶々丸さん達には私達が泊る所を探して貰ってます。私達も手伝おうとしたのですが、三人で十分と言われてしまって」

 

 オスティア終戦記念祭がある一週間はこの地に留まることになる。

 それぞれが十分な金を稼いでこの地に来たので、わざわざ野宿をしないとなればどこかに泊まる必要がある。

 

「アスカ君らと一緒のところに泊ろうと思ってたんやけどな」

「選手は専用の部屋があるし、千雨と茶々丸は拳闘団と一緒に領主が予約したホテルに泊まる。領主も人数分しか部屋しか取ってねぇから無理だわな」

 

 ノアキス拳闘団が予約したホテルは領主が拳闘団の人数分しか予約を取っておらず、明日菜達は自分達で探す必要がある。

 パーティーの中で一番の常識枠でしっかりとしている茶々丸ならば良い宿が見つかるだろうと納得したアスカは、まだ再会できていない仲間のことを考えると小太郎が口を開いた。

 

「後は夕映吉とネギ達だけやな。今日会えるんやったか?」

「確か夕映ちゃんは、セラス総長が連れて来るんじゃなかったけ」

「私もそう聞いています」

 

 小太郎は何故か夕映のことを夕映吉と呼ぶがそれはともかく。明日菜が記憶を思い出すように顎に手を当てながら、セラス総長と共に来ることを言うと刹那も同意する。

 

「ネギ君とのどかは、じゃっく・らかんさんいうお父様やアスカ君達のお父さんと同じ紅き翼にいた人と一緒に来るって聞いたで」

 

 これもセラス経由で聞いたことを木乃香が口にすると、アスカが何かに気付いたように顔を上げた。

 

「姿を見てない三人も無事は確認されてるし、後はカモだけか」

 

 魔法世界に渡った者達の中でまだ安全が確認されていないと思っているオコジョ妖精のアルベール・カモミールの名を出すと場の雰囲気が凍った。

 その変化は気配には敏感だが雰囲気を感じ取ることが下手なことで定評があるアスカにも分かるものであった。

 

「どうした?」

「カモは……」

 

 明日菜がカモがゲートの事件で死んだことを口にしようとしたところで、控え室の扉が開かれて戦乙女騎士団の甲冑を纏う夕映を伴ったセラスが現れる。

 セラスに促されて室内に足を踏み入れた夕映は、木乃香達を見ると感極まったように涙目になる。

 

「木乃香! 皆さん!」

「夕映!」

 

 夕映が走ってやってきて、同じように走り寄った木乃香と抱き付く。

 

「す、すみません」

「ええよ。夕映も無事でよかったわぁ」

 

 木乃香は甲冑で全力アタックしたから少し痛そうだったが、と夕映が謝るのを手を振って静止して顔を良く見ようとする。

 

「運良くアリアドネ―に転移出来たお蔭で何不自由なく過ごせていました。みんなの方が苦労したでしょう」

 

 賞金首になったり、賞金稼ぎをしたり、ナギ杯の代表選手になったり、何がしかの苦労をしたのは事実なので全員の目が遠くなる。

 

「その甲冑って戦乙女騎士団のやつじゃなかったか? 確かエリートだって聞いた覚えがあるが」

「夕映、凄いやん」

 

 ノアキスで会ったアリアドネ―の者達が纏っていた甲冑に見覚えがあったアスカが記憶を思い出しながら言うと、木乃香が夕映を尊敬の眼差しで見る。

 

「こんな短時間で、そんな凄い所に入るなんてやりますね」

「魔法世界に渡る前より魔力の練りがしっかりしとるし、結構頑張ったみたいやないか」

「流石夕映ちゃん、我らがバカレンジャーの星」

 

 刹那と小太郎が感心し、同じバカレンジャーと呼ばれながらも偉大な出世を遂げた馬鹿仲間の躍進に明日菜も嬉しげである。

 

「い、いえ、私は式典の警備の為の臨時の警備兵ですので、あくまで候補生です。戦乙女騎士団に入れたわけではありません。警備兵になれたのもおこぼれで特別枠を作ってもらっただけですし、運が良かったのです」

 

 壮大な勘違いを正そうと夕映が慌てながら訂正する。

 混乱している様子を面白そうに見ていたセラスが夕映の肩に手を置く。

 

「あら、そうでもないわよ。選抜試験で乱入した竜種を仲間と協力して倒したのだから、選ばれたのは純粋に貴女の実力よ」

 

 セラスの賞賛に夕映は照れたように頬を染めて俯く。

 勉強嫌い等、身内以外ではあまり得意分野で褒められることがない夕映は賞賛されることに慣れていない。純粋に認められることが嬉しく、皆の前で褒められるのが照れくさいのだが雰囲気を読まないアスカが駄目押しをかける。

 

「候補生とはいえ、一国の正規騎士団の一員として任務についてるんだ。自信を持てよ、夕映」

 

 アスカにまで賞賛されて頬を林檎のように朱く染めた夕映は身を縮めて、「そ、そうです! のどかは、のどかはどこです!」とどもりながら矛先を自分から離そうと話題の転換を試みる。

 

「のどかやったらネギ君と一緒に直に来ると思うで」

「そうですか、なら良かったです」

 

 のどかと夕映は親友であったから心配も一入であったようでホッとしたように息を吐く。

 

「話しているところ悪いのだけれど、そろそろ会談の時間だからいいかしらアスカ君」

 

 手元の時計を見て少し申し訳なさげにしたセラスがアスカに話しかける。

 

「ん、ああ、もうそんな時間か」

 

 式典後に連合・帝国とノアキスの一件のことで話し合いの場が設けられることを事前に聞いていたアスカは、だらしなかった姿勢から立ち上がって背を伸ばす。

 ポキポキと首を左右に傾けて骨を鳴らすアスカの横顔を見ていた明日菜がセラスに「私達は参加できないんですか?」と聞いた。

 

「ゴメンなさいね。事件に関わっていない者が参加するのは良くないわ」

「でも……」

「それやったら千雨のねーちゃんと茶々丸のねーちゃんも参加しなあかんのとちゃうか? あの二人も確か当事者やって聞いたで」

 

 セラスはノアキス事変に無関係の者が会談に参加するのは好ましくないとして明日菜の訴えを拒否する。

 諦めきれない明日菜を擁護するように小太郎が口火を切るが、セラスは首を横に振る。

 

「二人はアスカ君と違ってノアキスで行われた会談にも参加していないのよ。記録に残る公式の会談に参加することは出来ないわ」

 

 セラスの話を聞いてアスカは一つだけ疑問を覚えた。

 

「でも、領主も参加しないよな」

 

 ノアキス側で参加するのはアスカだけである。

 事件があった地であるノアキスの領主もまた重要人物である。ノアキスでの会談にも全てに参加しており、事件に関わった代表としてアスカが指名されたのは、分からない話でもないが領主が参加しない理由もまたない。

 

「帝国と連合の関係は今更言うまでもないと思うから省くけど、この会談には護衛を同席させずに行う為に出席者は各陣営一人ずつに絞られているのよ。私もアリアドネ―の代表者として一人で出席するわ」

 

 二大大国は潜在的な敵同士。護衛もつけずに会談を行うならばリスクを避ける為に出席者を減らしたいとのこと。ノアキス側では領主よりもアスカの方がこの事件の代表者として周知されているので、今回の会談では自分が選ばれたのかとアスカは一人で納得する。

 

「分かった。つうわけだから、行って来るわ」

 

 納得すれば会談まであまり時間もないので彼らを残して控え室を出ようとしたところで振り返る。

 

「会談がどれだけかかるか分かんねぇし、ノアキスの拳闘団が泊るホテルで待っててくれ」

 

 会談が終わるまで控え室で待っているかもしれないのでそう言うと、「分かった、待ってる」と明日菜の返事に頷きを返して会談が行われる部屋に向かう。

 

「そういや、会談に新オスティアの総督は出席するのか?」

 

 セラスの案内で歩きながらアスカはふと疑問に思って訊ねた。

 この地は新オスティアなのだから、大事な会談ともなれば総督であるクルト・ゲーデルが出席するかと考えた為である。

 式典にギリギリで現れたアスカに怒っていたのか、妙に見られていた気がするので気になっていた。

 

「彼は関係者ではないから出席しないわ」

 

 参加したがっていたから盗聴しようとするかもしれないけど、とセラスの口の中で呟かれた言葉はアスカの耳に届く前に霧散する。

 会談の場はそれほど遠くなく、二人が歩いて数分もしない内に着いた。

 アスカでもそこが確実に会談の場と分かったのは、人が四人も横に並べば行き交いすることが出来なくなる広さの通路で対峙する二つの集団を見たからである。

 一方はローブを纏った集団で、もう一方はスーツを纏った集団。ローブを纏う集団のあちこちが普通の人間ではない特徴を見せていて亜人と分かる。つまりは帝国と連合が部屋の前で物騒な雰囲気を出しているのである。

 

(これほど分かり易い犬猿の仲もないな)

 

 と、護衛同士が互いに目を光らせ合っている中でアスカが呆れて内心で呟くと、こちらの存在に気付いたそれぞれの集団から二人の人物が出て来た。

 横に垂れた長い耳と褐色色の肌が特徴的な、スーツの人物よりも楚々とした仕草ながらも素早く動いたローブを纏った人物がアスカに向けて右手を伸ばしてくる。

 

「式典で顔を合わせましたが自己紹介は始めてですね。ヘラス帝国第三皇女テオドラ・バシレイア・ヘラス・デ・ヴェスペリスジミアです。今後とも良しなに」

 

 テオドラの動作が握手を求められていると分かったので高貴な人相手に待たせるのは必要だと手を伸ばそうとすると、斜め後ろからカニのような感じに五本尖っている印象的なスーツの男が割り込んできた。

 

「私の名はジャン・リュック・リカード。連合の主席外交官です。同じ男同士、仲良くしましょう」

 

 暑苦しい笑みを浮かべてリカードも左手を伸ばして握手を求めてきており、邪魔をされたテオドラが横で凄い目をしていた。

 二人の後ろの護衛団の目がアスカがどちらかと先に握手をするかを注目しているのが分かり、どちらを先にしても棘が残るのが分かってしまい、上げかけた手が行き所を失って彷徨う。

 

(俺にどうしろと?)

 

 何時の間にか一歩退いていたセラスからも注目され、どうしようもなくなったアスカの両腕が上がる。

 

「よろしくお願いします」

 

 言いつつ、腕をクロスさせて二人同時に握手する。

 どちらかを先にしたら問題が残るならば同時にしてしまえばいいと単純に考えた結果であったが、生徒が問題の答えを導けたのを見るかのような笑みを浮かべたセラスと二人の護衛団の雰囲気が和らいだのを見るに正解の対応だったようだ。

 

「会談を始める前に一つだけ」

 

 満足そうな笑みを浮かべて握手を解いてリカードが、後ろに見えない位置でアスカに向けてニヤリと笑う。

 

「我が国を訪れていた麻帆良からの使節団が貴殿との面会を希望しています」

 

 そう言うとリカードの護衛団の後ろから何人かが前に出て来る。

 

「高音、愛衣、それに美空!? っと誰だっけ?」

 

 高音・D・グッドマン、佐倉愛衣、春日美空と褐色肌の小さな少女が現れるが、最後の少女に関してはアスカも知らないので首を捻った。

 

「私だけリアクションオーバーじゃない!?」

「いや、なんかすまんつい。そういやお前って魔法生徒だったよな。学園長から使節団の話は聞いてたが、お前らだったのか」

 

 よくよく考えれば魔法生徒の高音や愛衣が使節団なのだから、同じ魔法生徒の美空がいても不思議ではないのだが、あまり魔法生徒である認識が無くて凄く驚いてしまった。

 驚きように美空が不服そうであったので珍しくアスカが謝っていると、高音が顎をツンとして腰に手を当てる。

 

「お久しぶりですね、アスカさん」

「あ、ああ」

「お元気そうで何よりです。ゲートポート事件に巻き込まれたと聞いて心配していましたが、ノアキスで英雄級の働きをしたと見聞きし、同じ麻帆良生として私も鼻高々です!」

 

 麻帆良祭でのことで、どうにも高音に苦手意識を抱いているアスカは腰が引き気味だったが、高音は開いた距離の分だけ歩を進めて目を爛々とさせている。

 嬉しげなのは結構であるが手を伸ばせば触れそうな距離を詰められながら絶賛されても嬉しくない。

 

「ゲートポート事件のことをニュースで見た時は心配ってレベルじゃないぐらいで慌ててたけどね」

 

 ボソリと呟かれた美空の小声は高音に聞かれることなく彼女の声に掻き消される。

 

「アスカさんの名誉を穢さないように私達も使節団として頑張りました」

 

 だから褒めて褒めて、と尻尾があれば大きく振りまくっているところが幻視出来そうな顔で言い切った高音に、「あ、ああ、良くやったと思うぞ?」と何をやったかは知らないので最後が疑問形になりながらもなんとか口にする。

 

「現在進行形で名誉を穢している気がするような」

「あら、なにか言いまして? 使節団のメンバーではない春日さんは下がっていて下さいな」

 

 グイグイとアスカに突っ込んで今にも壁に追い詰めている姿を見て率直な感想を抱くも、一転した高音の冷たい声に美空は「あれ?」と首を捻った。

 

「え、私って使節団のメンバーじゃないの?」

「春日さんはココネさんの付き添いですので、厳密にいえば使節団のメンバーではないです」

「…………知らなかったぁ」

「自分が使節団に入れるような人間とお思いで?」

 

 高音の暴走を止めるのを諦めて傍観していた愛衣が近くいたので訊ねると、物凄く申し訳なさげに言われた美空だったが高音の言うことは最もだと逆に納得してしまった。

 

「ドンマイ、ミソラ」

「全然気にしてないよ、私のご主人様。いやぁ、アンタのお蔭で高級ホテル・高級ディナーのサマーバケイションを堪能出来たんだから文句なんてないよ」

 

 褐色少女――――ココネに励まされたがめげていない美空は丁度良い位置にあった彼女の頭を撫でる。

 美空に話しの矛が向いたことで高音から離脱したアスカはホッと一息をついて一定の距離を取る。

 

「明日菜達も新オスティアに来てるから一度ぐらい顔見せとけ。ノアキスの拳闘団が泊るホテルに来てくれれば会えるから」

 

 ジリジリと高音との間合いを図りながらスリ足で移動し、動きを警戒しながら会談の場に近くなると一気に背を向けて歩き出す。

 

「さあ、会談を始めないとな。今直ぐ、即座に、そして速やかに」

 

 脱兎の如く早足で護衛団の間を通って会談の部屋に辿り着くと、扉を押して開いて中に入る。

 少し遅れて楚々とした仕草のテオドラと肩を張るように歩くリカードが同時に室内に入り、最後にクスクスと笑っているセラスが入って扉を閉める。

 高音の姿が見えなくなってホッと一安心したアスカは室内を見渡して、菱形の机に備え付けられた四つの席のどれに座ろうかと悩む。 

 

「ふぃ、やっと周りの目が無くなったぜ」

 

 扉が閉じられてこの部屋にいる者以外に外部の目は無くなった途端、リカードが力の入っていた肩をグルグルと回し始めた。

 

「ったく、元老議員とか肩凝って仕方ねぇよ。向いてねぇんだ。あの頃が懐かしいぜ」

「このおっさん、どの面下げて向いてないとか言ってるのかしら」

 

 オホホホホ、と笑うセラスも他国の外交官に向けていい言葉ではない。

 アスカが目を白黒とさせていると、近づいてきたテオドラがしげしげと顔を覗き込んでくる。先程までの楚々とした雰囲気から一変して、どこかやんちゃな子供染みた笑みが浮かんでいる。

 

「えと、なにか?」

「先の対応は中々であったぞ。合格点をやろう」

 

 先程までの深窓の令嬢もかくやの雰囲気であったのに、今はその辺にいる気の良い姉ちゃんな感じである。褒めながら手を伸ばして来たので改めて握手ということか。

 

「しかし、あまり両親に似ていないと思うっておったが、驚いた時の顔は母親そっくりじゃの」

 

 流されるままに握手を交わしたところで、その言葉の内容に離したばかりの手がビタリと止まった。

 

「テオドラ殿下は俺の母親のことについて知っているのですか?」

「テオで構わんよ。それと楽に話してくれてよいぞ。この場にいるのは気心の知れた者ばかりじゃからな」

「じゃあ、テオ。遠慮はしねぇぞ?」

 

 構わん、と懐の大きさを認めたテオドラはそこで表情を少し申し訳なさげなものに変化させる。

 

「妾はお主の両親とは友人じゃった。じゃが、妾は何もしてやれなんだ。許せ」

「ってことは、やっぱりお袋は無実だったってことか」

「ぬ、もしや聞かされておらんのか?」

「ぶっちゃけ、何も聞かされてない」

 

 真実を告げるとテオドラがしまったとばかりに手で口元を抑えた。

 

「悪いが俺達には何も教えてやれねぇんだわ」

 

 目をキョドキョドと彷徨わせたテオドラに変わって、額をペシッと叩いたリカードが言った。

 

「戦後のアリカ姫のことはナギと一緒になったこと以外は皆が知っている程度のことしか知らねぇ」

 

 スーツの胸ポケットに手を入れて煙草を取り出したリカードだったが、未成年と女二人しかこの場にいないことを思い出して吸うのはマズいと判断して直す。

 

「詳しく聞きたきゃ、もう直ぐ来るラカンの野郎に聞け。俺達よりも詳しいだろうよ」

「…………分かった」

 

 追及するべきかと考えたがより詳しい人間がいるのならそっちから聞いた方が良いと判断したアスカが納得の意を返すと、セラスが三人に席を勧める。

 

「防諜対策は行っているけど、早く終わらせるに越したことはないわ。始めましょう」

 

 アスカが勧められた席はセラスの対面、対面に座ったテオドラとリカードの対角線上である。

 常に互いを見る位置に座る連合と帝国、その両者が見える位置に座ったアリアドネ―を見て、こういうところにも国の関係が出てくるのだなと席に座りながら思う。

 

「さて、まずはノアキスの件から始めましょうか」

 

 議事進行役はセラスが務めるようで会談の口火を切った。

 

「待ってくれ。その前にオスティアのゲートの件について確認したい」

 

 アスカは会談の前にどうしても確認しておかなければならなかった。

 現状では全てのゲートが破壊され、魔法世界と旧世界を繋ぐ橋が壊れてしまった。繋ぎ直すには数年かかるという話だが、夏休み中に旧世界に戻れなければネカネ達に迷惑がかかる。

 幸いにも廃都オスティアに今は使われていないゲートがあるという。ここはフェイト一味に襲われておらず、ゲートは休止しているだけで生きている。

 フェイト達がゲートを壊したのには何らかの理由があると予測され、一つだけ残った休止中のゲートを放っておくとは考えにくいが、現状では旧世界に帰れる唯一の手段である。セラスを通して両国に許可を求めていたのだ。

 

「帝国としては、この祭りの後であれば構わん」

「連合も同意見だ。このままゲートが開かんのも困るからな」

 

 帝国・連合共に色よい返事が貰えたことで、もうアスカにとっての会談の目的は果たしたと言える。

 

「終戦記念祭終了後に両国立ち合いの下でゲートを開通することでよろしいかしら」

 

 異議なし、と頷いた二人に安堵の息を吐いたアスカを優しい目で見たセラスが、「では始めましょう。ノアキスの件について帝国は何かありますか?」とテオドラに視線を移して問いかけた。

 

「最終的な亜人の被害がどうなったかを聞きたい」

 

 テオドラがアスカを見ながら言い、これはノアキスの代表である自分が答えるべきことなのだろうと口を開く、

 

「亜人も含めて多少の怪我人は出たが既に治癒済みだ。死傷者はなく、後遺症が残った者もいない」

「人的被害は軽微ということか。では、クーデターを起こした者はどうなったんだ? 一応はウチの元軍人崩れだったから詳細が気になる」

 

 リカードが気にしたのはノアキス事変において、クーデターを起こした者達の処罰がどうなかったであった。

 

「実質的に被害を起こしたのは彼らではなく精霊によるものだ。クーデターも起こっておらず、未遂に終わっていることは分かってもらえていると思う」

 

 前置きを置きながら、新オスティアに来る前に領主から伝えられた文言を脳裏に羅列する。

 

「彼らがクーデターを起こしたのは、居場所を失くしていたからだ。彼らに強い罰は与えず、奉仕活動を行わせるものとする。ノアキスは種族を問わずに受け入れている。都市の在り方を受け入れるのならば職の斡旋を行い、家を与えて居場所を作ることを約束する」

「ふむ、奉仕活動の期間は?」

「一年を見ている、と領主は言っている」

「未遂に終わったことを考えれば妥当な期間か。奉仕期間を終えて、都市の在り方が受け入れない場合はどうするんだ?」

「奉仕活動の後、都市から放逐する」

 

 奉仕期間の間に寝泊まりする場所と食事は領主が提供することになっており、少ないながらも給料も出ることも伝える。与えられた奉仕以外は自由で特に拘束もされない。その代わり一年間は領主の許可なく都市から出れば犯罪者として賞金がかけられて賞金首となる。

 

「随分と思い切ったことをするな」

 

 リカードの言うように罰というには少し甘すぎるきらいがある。

 

「領主曰く、チャンスを与えるだそうだ」

 

 元の根無し草の傭兵や賞金稼ぎ暮らしに戻るか、一年の間に手に職をつけて都市に住むことを決めるか。落伍者として蔑まれて来た彼らにも平等にチャンスを与えるのだと。

 

「良い領主ですね。確かに大戦後に軍を辞めさせられた者達は時代が時代でしたから再就職もままならず、難民と変わらぬ生活をしている者も多いと聞きます。今回のことは今後も起きる可能性が高い」

 

 二十年の間に溜め込んだ不満の種が別の場所で爆発しても可笑しくはないと語るセラスの言を誰も否定できない。

 

「前大戦後に兵士で無くなった者達に限らず再就職の斡旋や、未だ難民として苦境に喘いでいる者達に支援の手を伸ばす必要性があります。付きましては両国に力添えをお願いしたい」

 

 セラスの目がテオドラとリカードを見る。

 世界的な問題は二分する大国が同調しない事には始まらないことを良く知っているからだ。

 

「前向きに検討しよう」

「俺だけでは答えられん。持ち帰って議論する」

「はっきりしないな」

 

 否定も肯定もせず、玉虫色のなんとも政治家らしい返答にアスカは呆れた。

 

「即答できんのには理由があるのじゃよ」

 

 ふぅ、と重い息を吐いたテオドラの面持ちは暗い。

 

「前大戦の傷跡は未だ生々しい。戦後補償で財源はカツカツ、二十年経ってようやく立ち直ってきたと言えるところじゃ。自国内での再就職の斡旋ぐらいなら出来ないこともないじゃろうが、国外の難民への支援まで確実にやれると保証が出来ないのじゃ」

「じゃあ、落ちぶれた奴は放っておけってのか?」

「そうは言わん。大国であるからこそ、護らなければならない者が多い。そのことは理解してくれ」

 

 無い袖は振れず、より多くの者達を護る為には、少数の者までは手を回せないということか。理解はしても納得は出来そうにないアスカは腕を組んで鼻を鳴らした。

 

「それ以外にも理由がある」

「今を苦しんでいる者を助けない理由がか?」

 

 アスカが皮肉ると、リカードは重々しく頷いた。

 瞼をピクリと痙攣させたアスカに「何か理由があると?」と聞くと、リカードではなくセラスが口を開いた。

 

「始まりは戦後のことよ」

 

 目を伏せて話すセラスの表情は無であり、そこから感情は読み取れない。

 

「百年前まで民衆の間では旧世界は伝説かお伽噺と思われていた。世界の十一ヵ所にあるゲートで繋がっていて、週に一度、長い時で月に一度のタイミングでしか開かない。今は安定して開けるようになったけど、安全が確認されるまでに十数年もかかったことは貴方も知っているわね」

 

 今更何でそんなことをと思いながらもアスカは頷きを返す。

 

「安定してゲートを開けるようになったといっても、当時は魔法世界も旧世界もゴタゴタしていた時だから、旧世界から来る数に比べれば魔法世界から渡る数の圧倒的に少なかったわ。文化も風習も違うから、だからこそ余程の物好きでない限りは旧世界を訪れようとは思わない」

 

 アスカは麻帆良で学んだ授業の内容を思い出す。

 百年前から十数年後となると、旧世界では第一次世界大戦が行われていた時代と被る。魔法世界ではそこまで大きな大戦はないが、当時から帝国と連合が小国を巻き込んで小競り合いをしている。

 社会情勢的にどちらの世界も間違っても平和と呼べるような時代でなかった。魔女狩りの件もあって一市民が好き好んで旧世界を訪れようとする者は稀であったのだろう。

 

「戦争が終わったことを契機に旧世界がブームになったんだよ。それはナギや詠春の世界ということで注目されたのもあるけどな。それは人間に限った話じゃなく亜人も含まれる」

「亜人だと見た目的には問題あるわな。人種がどうこうってレベルじゃねぇし」

「旧世界の者に見えるように変装は必須じゃな」

「魔法世界の技術なら、余程のヘマをしなければバレることはないだろう。もしかしてバレたのか?」

「そこら辺は厳重じゃよ。人間への変装は必須で、こんな分厚い注意説明書を読まされるんじゃぞ。変装にしても滞在する日数・場所によっては非常にコストがかかる。中々、庶民が気楽に旅行出来る金額ではない」

 

 手を大きく開いて注意説明書の分厚さを表現するテオドラに、アスカは自分ならそんな面倒はゴメンだと内心で考える。

 

「分からないな。結局、何が言いたいんだ?」 

 

 話の内容からするに身バレしたわけでもなさそうで、ゲートがどう難民を助けない理由に繋がっているのかが読めない。

 

「大事なのはここからじゃ」

 

 と、一端そこで話を止めたテオドラが一呼吸置いた。

 

「問題が起こったのは、裕福な亜人が旧世界を観光目的に訪れた時じゃ。先に言っておくが、その亜人が何か問題を起こしたわけではない」

 

 裕福なのは変装にかかるコストと旅行の金銭を自前で賄える財産が必要になるからである。

 

「じゃあ、何があったんだ?」

「亡くなったんじゃ」

 

 ピクリとアスカの眉が動き、その脳裏に色々な仮説が浮かべ上がる。

 

「事件や事故に巻き込まれたとか、そういうことではないぞ。死因は単純、病死じゃ。所謂、持病の悪化という奴で何の事件性もない」

「分からねぇ。事件でも事故でもないなら一体、なにが問題なんだ?」

 

 事件や事故に巻き込まれたのではないかという可能性はないと断言されると、アスカには大国が難民を救わない理由にどう繋がるのかが皆目見当もつかない。

 

「消えたんじゃよ、魔法世界に搬送中に死体が。衆人環視の中で忽然と」

「高位の魔法使いなら幾らでもやりようはある。が、ことはそう簡単にはいかなかった感じか」

 

 腕を組んだリカードが「そうだ」と言い、話を引き継ぐ。

 

「死体の搬送に使われたのは、偶々近かった連合側のゲートでな。少し前まで帝国と戦争をしていた連合の仕業じゃないかって決めつけられたってわけよ」

 

 疑問の目が向くのも無理はないが連合にとっては寝耳に水の話であったとリカードが語る。

 

「帝国が捜査をさせろと言ってきたが安易に認めるわけにはいかねぇ。認めるわけにはいかねぇが、戦後にようやく落ち着いてきた頃だったから厭戦ムードもあって喧々囂々のすったもんだの末、合同捜査を行うってことで落ち着いたわけだ」

 

 下手に連合の領土内で帝国の専横を許せば自国民が納得せず、かといって帝国の要請を端から突っ撥ねて戦争再びというのも困るから、連合の監視下で捜査を行えるようにしたということか。

 

「目撃証言の洗い出し、現場の監視カメラの映像、魔力反応検査等々…………様々な検査や調査が行われた。目撃者の記憶が正しいか、映像が細工されていないか、魔力反応は隠蔽されていないか、両国のそれぞれの分野における人材のトップが互いを監視をしながら微に入り細を穿つほどに捜査された」

 

 二大国の人材が結集した、間違いなく魔法世界一の捜査が行われた以上、互いを監視しているから不正の入る余地はなく、そこで出された結論はその当時においては覆しようのない答えとなる。

 

「行われた捜査の結論は事件性なし。唯一、分かったのは死んだ亜人の体が魔力になる前のマナ(自然のエネルギー)となって散ったということだ」

「マナに?」

 

 『マナ』とは大気中に満ちる魔力以前の自然のエネルギーであり、人が魔力を生成するには大気に満ちるマナを肉体内に取り込む必要がある。人もマナを生成出来るが、大気中に満ちるマナと比べれば微々たるものでしかない。

 大気中のマナを肉体のマナと混じり合わせ、魔力とする。先天的に魔力容量が大きいものは、肉体のマナ生成力が多い者が大半である。アスカがこれで、アーティファクトの使用の度にこの生成力が増していることが魔力容量の拡大の理由である。

 

「人の体がマナになるなんてありえない」

 

 大気中に満ちるマナを吸い集めて自らの力とする咸卦・太陽道を扱うアスカだからこそ、肉体がマナに還元されることは物理的にありえないと知っている。

 

「俺達もそんなことが可能なのかと世界中の学者達に聞き、誰しもがお前と同じことを言ったよ」

 

 アスカの否定にリカードも同意見だと頷き、二人の男の反応にセラスは苦笑を浮かべた。

 

「途中で参加したアリアドネ―でも同様の結論に達したのよ。その上でその方法が分からなかった」

 

 連合と帝国は捜査に行き詰まり、独立学術都市であったアリアドネ―も捜査に加わったが同様の結論にしか達せず、亜人の体がマナに還元された理由は分からず仕舞い。

 

「連合は帝国が再度の戦争を始める為に何か仕掛けをしたのだと疑い」

「同じように、帝国は連合の策略を疑ったというわけじゃ」

 

 リカードとテオドラが言った通り、信頼関係は無きに等しいから荒唐無稽な話を信じるよりも、信用できない相手が何かを仕掛けたと考えた方が楽である。

 

「事件の追跡調査…………正確には他にも被害がないか調べてみたらゲートが開通した百年間の間に行方不明になっている者が何人かいたの。亜人だけではなく連合の人間も中には含まれていたわ」

 

 百年の間に同じことが繰り返されていたとなると、やはり組織的関与は疑わざるをえない。そんな権力があるのは二大国のどちらかだけなので互いに疑いの目を向ける。

 帝国は連合を疑い、連合は帝国を疑う。肩を並べて捜査出来ただけで奇蹟なような関係はあっさりと破綻する。

 

「斯くして二大国は不審を募らせ、両国上層部では第二次大分烈戦争も秒読みとされたわ」

 

 セラスが大きな溜息を漏らす。

 関わったアリアドネ―としては、どちらに非があるようには思えず仲裁をしたのだろうが、元から仲の良くなかった国同士が不審を募らせれば衝突するしかない。

 

「だが、現実に第二次大分烈戦争は起きていない」

 

 歴史に記されずに起こっていた事件は、表沙汰になればそれだけ世界をひっくり返す可能性があるのだと思い知らされる。しかし、第二次分烈戦争は現実には起こっていない。つまりは、捜査に何らかの進展があったのだとアスカは推測した。

 

「情報提供があったのじゃよ。ご丁寧に連合・帝国・そしてアリアドネ―同時にの」

 

 テオドラが苦み走った表情でその事実を伝える。

 

「情報提供ねぇ。二大国と学術都市が分からなかったことをそれ以外の国で分かるものなのか?」

 

 人材・機材の両面から見ても魔法世界トップの者達が出した結論以上の物を、三国に及んでいない国が出せるものなのか。仮に出せたとしても信頼に値するものなのかと考えたアスカの推測はリカードから根本から覆される。

 

「正確には国からじゃねえ。情報提供元は――――魔界だ」

 

 魔界、と口の中で同音を繰り返したアスカの眼がパチパチと瞬きを繰り返す。

 

「魔界って、あの魔界か?」

「魔族達が暮らす世界、その認識で間違いはねぇぞ」

 

 信じられない思いで問うもリカードに肯定されてアスカは腕を組んで考え込んだ。

 魔界が魔族達が暮らす世界というのは、魔法世界や旧世界の裏側の関係者なら誰もが知っている話である。他にも妖精が暮らす妖精界や、妖が暮らす妖界、その他にも様々な異界があるとされている。

 基本的に魔界や妖精界、妖界に人が行くことは出来ない。物理法則や自然法則が旧世界や魔法世界と全然違い、人が生きていける環境ではないというのが定説である。行ったまま帰って来なかった者、帰って来たが何らかの異常が出る者が多く、各世界の内容については伝聞が殆どを占める。

 

「信じられないのも無理はないわ。私達も魔界がそれだけの文明を築いていたなんて知らなかったもの」

 

 アスカの表情が疑念を示しているのを見たセラスがむべなるかなと強く頷いた。

 

「信用したのか、魔界の言うことを」

「信じるしかなかったのよ。というより、信じさせられたと言うべきかしら」

「彼らは我らが知らなかったこの世界の秘密を解き明かしたのじゃからな」

「世界の秘密?」

 

 最初は魔法世界側も魔界の情報を疑わしいと感じていたが、彼らが明かした魔法世界の秘密によって信じるしかなくなったというのか。

 

「魔界の研究機関は、魔法世界に極小の穴が開いていてそこからマナが流出し続けていて、このままで世界の維持すらも危うくなると言ったんだ」

「は?」

「更に魔法世界人は魔法生命体に近く、世界の根幹に何かが繋がっているらしい。魔法世界が消失すれば運命を共にすることになる。死体がマナに分解されたのはその繋がっていた何かが切れたからじゃないかなってな」

「いやいやいや、さっきから何を言ってるんだ!?」

 

 何を聞いているのかとアスカは自分を信じられなくなり、頭を押さえながら説明を続けるリカードを制止した。

 

「魔法世界に穴が開いていて、このままだと魔王世界が消失して魔法世界人も消えるってのか? んな、馬鹿な話が」 

「あるのじゃよ、これが」

 

 アスカの混乱に満ちた否定を、以前の自分の視るような優しい目で見つめたテオドラが一刀両断する。

 

「詳細は秘するが、実験を行ったのじゃよ。その結果、以前までは旧世界で暮らそうとも問題なかったが、死亡したり生命活動が停止すると肉体が魔法世界以外ではマナへと分解されることが分かったのじゃ。マナへと分解されるのは旧世界でのみ。違うのは世界だけじゃ」

 

 実験の詳細は言われずとも決して人道的なものではないと分かってしまい、アスカも終わったことを問い質すほど愚かではなかった。

 

「マナの流出は我らでも観測できた。じゃが、穴を止める術はない」

 

 語るテオドラの表情はこの部屋に入った際に抱いた印象とは真逆の無である。

 それよりもグルグルとテオドラの言葉がアスカの頭の中で、『魔法世界の穴』『マナの流出』『魔法生命体』『旧世界』といった単語だけが飛び回っていく。

 

「マナに分解されないのは、生まれた地が旧世界であるか、もしくは家系の中に魔法世界の者がいない、つまりは純粋な人間でなければならん」

「この世界に旧世界から移住してきた新しき民にしても、混血が進んだ中でどれだけが確実な人間か分からねぇんだ。移住時から家系図を残していなければハッキリとしないしな。余程古い家系で純血の人間か、比較的新しく移住してきた者や最近やってきた者に限られるとなれば、恐らく魔法世界中を合わせても純粋な人間は多くて数百万といったところだろうよ」

「魔法世界人が旧世界に渡るのは稀だから問題にはなっていないけど、魔法世界が鎖国政策を推し進めているのは、この事実が表沙汰にならないようにする為よ。魔法世界側からの物資の流入も制限し、少しでもこの事実が知られるのを遅らせようとしているの」

 

 テオドラ・リカード・セラスが何かを言っているが、もうアスカの頭はパンク寸前だ。さっきから脂汗が止まらず、手の中は濡れてグショグショだ。

 

「穴が開いてたのは何時からだ? もしかして前大戦末期の広域魔力減衰現象が関係しているのか?」

「魔界の研究機関の話では、穴は世界創造時からあったものと考えられておる。前大戦以前からのものじゃ」

「数千年に及び流失し続けたマナの流出は世界の根幹すら揺るがしていて、魔法世界の消失は明日かもしれないし十年後か百年後かはまだ分かっていないの。このままでは魔法世界はいずれ必ず滅びる」

「…………教えてくれ。魔法世界人が魔法世界と消失したら、残った人はどうなる?」

 

 重い頭を支えきれなくなり、机についた手で頭を支えながら辛うじて動く思考がその問いの答えを欲する。

 

「なあ、魔法世界の大きさって分かるか?」

「なんだよ、いきなり」

「いいから答えろよ」

「確か三千kmぐらいじゃないか。地図にそんなことが書いてあった気がする」

 

 問いに対する返答がなく、関係のなさそうなリカードが発せられた問いに頭を上げたアスカは魔法学校の授業とノアキスで見た世界地図を思い出して答える。

 

「まあ、そんなもんだ。ところで地球の大きさが六千㎞超ってのは知ってるか?」

「だから、それがなんだって……」

「この世界が異界にあるとされていることは貴方も知っているわね」

 

 頭がパンクしそうになっているところに問いを重ねるだけでさっさと核心に至らないリカードに苛立っていると、セラスが彼の味方をするように言葉を重ねて来る。

 

「一般魔法理論によると、異界とは現実世界に重なり合うように、或いは現実から半歩足を踏み出した場所にあるとされているわ」

 

 理論立てて説明を始めたセラスに、ここが会議室ではなく学校の教室にいるような錯覚を味わい、アスカの頭が少し冷えた。

 

「問題なのは、広大な異界はそれに見合った現実世界の広大な土地を必要する点にあるわ。ここで貴方に質問するわ、アスカ君。魔法世界に対応する現実世界上の空間はどこにあるのかしら?」

 

 魔法世界も地球と同じく惑星型の球体を為している。今までアスカは何の疑問もなく魔法世界の現実上での対応する空間は地球と考えてきたが、大きさが合わない。

 

「地球、じゃないのか」

 

 魔法世界周期も地球と同じ。半分程度の大きさしかない魔法世界では理屈に合わない。

 

「最新の研究で火星であることがほぼ確実視されているわ」

「か、火星?」

「ちなみに魔界は金星にあるらしいわね」

 

 またまた出て来た新事実にアスカは遂に眩暈までしてきた。

 

「とはいえ、世界の大きさの差異に関しては以前から疑問視されている声が大きかったわ」

 

 どうやら魔法世界の人の中にはアスカのように先入観に囚われることなく、目の前にある事実に疑問を覚える者もいたらしい。

 

「旧世界から持ち込まれた資料の中に火星の地図があったの。それが魔法世界の地図と比較すると地形や地名に相似が幾つもあって、大きさも近いことから対応する真の場所は火星であることはほぼ間違いないとされているわ」

「魔法世界が火星の大地を触媒にして、その上に重なり合うように存在する世界なのは分かった。だが、そうなると魔法世界の成り立ちはどうなる? 対応する世界が地球だとされていたから、創造神が異界を作ることも可能だって話じゃないのか。火星ってことになると、どうやって星を移動したんだ?」

「世界を造ると言うこと自体が想像の埒外のあるのじゃぞ。それこそ、神のみぞ知るじゃろうな」

 

 テオドラが軽く言うが、要は方法が分からないと言っているに等しい。

 世界最古の王家だったオスティアの初代女王は御伽噺で有名なアマテルという女魔法使いと言われている。創造神の娘だったとも伝えられている彼女の血を受け継ぐ者には不思議な力・神代の魔法が宿ると伝えられている。

 ハワイでカネ神と対峙したアスカは神の巨大さを知っている。あれで不完全というのだから、万全ならば異界を造ることも不可能でないと見ているが、果たして星を移動して異界を造ることまで可能なのか。

 

「親父達は、紅き翼はこのことを知っているのか?」

 

 火星と聞いて、アスカは真っ先に火星から来た火星人と言った超鈴音を連想する。そして京都のナギの別荘に望遠鏡があることも思い出した。

 アスカの頭の中では、超のいた未来では魔法世界は存続しているのではないかという確信に至るが、証拠は何もないとノアキスの一件で自らの立場と責任の重さを自覚したが故に何も言えなかった。

 

「知っておったよ。我らとは違う独自のルートで情報を得たようじゃ」

「そうか……」

 

 京都の別荘に望遠鏡があったのは、父達が魔法世界の真実に直面したからこそだろうか。その答えを知る者はこの場にはいない。

 

「世界創造すら私達の手に余るのに、観測できないほどの穴を見つけ、更に穴を防ぐのは至難の技よ。これほどの事態の重要さだから公表すれば大きな混乱が広がるわ。知っているのも、元老院や帝国でも上層部の極々一部。研究するにしても公表できないから規模が小さく遅々として進んでいないの」

「だからこそ、帝国はこの件に関して魔界の研究機関に依頼し、並行して別の対策を取っておる。そしてこれが難民への支援が出来ない大きな理由でもある」

 

 見方を変えれば世界の問題に対しては魔界を頼りにしているとも取れるテオドラの言葉だが、セラスの言う通り公表できる事実ではないから無理のない面もある。

 魔法世界の穴と崩壊へのカウントダウンの答えを示したのは魔界で、内外に問題を抱えていては全面的に信用できるか不明であっても頼らざるをえないのだろう。

 

「亜人が主な帝国は例え世界を存続させることが出来たとしても、何時マナに分解されるのかという恐怖を抱えることになる。そして仮に世界が崩壊したとしても亜人が生きた痕跡を残したい。その為に移民計画を立てた」

 

 世界がどうなろうとも消滅の恐怖と向き合わなければならない亜人のテオドラを真に理解できないアスカが何かを言うことは出来ない。

 

「亜人も現実世界に確実に存在しておる。妾は決して吹けば飛ぶような幻想ではなかろう?」

「ああ」

 

 あの握手の時に感じた温かさと力強さは確実に命を持った肉体であったとアスカは疑いもしなかったからテオドラの問いに強く頷く。

 

「移民計画は、遺伝子情報を抽出して本人そっくりの肉体を作り出すことにある。成長で負った傷から細かい癖までが浸透した疑似体がな。そしてそれは既に実用段階に入っておる」

「本当に本人そっくりなのか?」

「お主は既に実験体に会っておるよ。気づかんか?」

「なに?」

 

 魔法・科学の両面の技術を駆使しして既に計画は完成に近いとアスカはニュアンスで受け取ったが疑わしく思える。

 実験体に会っていると言われても心当たりがない。

 

「つい、さっきだ。いただろ、さっきの使節団に」

 

 リカードに言われて面子を思い出す。

 高音・D・グッドマン、佐倉愛衣、春日美空、そしてココネと呼ばれた少女。

 

「まさか、あのココネって子か」

「ココネ・ファティマ・ロザ。帝国移民計画実験体十八号よ」

「全然、気づかなかった……」

「気づかれていないのは良い事じゃ。それだけ計画の完成度が高いということじゃからの」

 

 気配に鋭いアスカに何の違和感を抱かせなかったのに、テオドラの表情は決して晴れ晴れとしたものではなくどこか晴れない。

 

「とはいえ、成長し続ければ問題なしじゃが、如何せん観察期間が長すぎる。ヘラスの(うから)は長命じゃからの。生まれてから死ぬまで、何例か観察するまでは実験は終わらんのじゃ」

「なんとも気の長い話だな」

「計画が完成するまで魔法世界が持つ保証はないしの。このままでは他のアプローチも試さななければならんようになる」

 

 三十路でも人間換算では十代となるから、百年以上は実験期間は続く。それまで魔法世界が持つ保証はない。そうなるとそれこそ人道に配慮することもなくなる。

 

(別荘を使って時間経過を早めるとかか)

 

 アスカ程度で思いつく程度のことを研究者が考え付かないはずがない。テオドラの他のアプローチは恐らく別荘や他の方法を視野にしているようだ。一人の人生を別荘内に固定すると言っているに等しいから、テオドラも出来るならやりたくないことなのだろう。

 テオドラが暗い表情で話しを終えると、こちらも出来れば話したくないという顔をしたリカードが口を開く。

 

「連合が進めているのはノア計画っていう、まあ一言で言えば魔法世界が消滅しても暮らしていけるシェルターを作るってやつだな」

 

 煙草でも吸わなければ話せないとばかりに、遂に胸ポケットから煙草を取り出したリカードは火を点けて紫煙を吐き出す。

 

「何万何億と収容して自給自足で暮らしていける環境をって話しらしいが、どうにも上手くいってないらしい」

 

 紫煙で輪っかを作り、虚空に消えていく様を見つめるリカードの目に感情は浮かんでいない。

 

「元老院の中には純粋な人間を収容することのみ優先しろなんて意見と、そもそも魔界の言うことは疑わしいという意見もある。資材は地球縛り、誰にもバレないように海の底で作って、しかもゲートが不通になって計画に遅延が出ている…………これだけ重なると遅々として進んでない」

「地球が受け入れるのは…………無理か」

「私達でも何白万と突如として訪れた異世界人を受け入れろと言われれば難色を示すわ。希望的観測でも良い結果にはならないでしょう」

 

 となれば純粋な人間だけでも地球にとも思ったが現実問題として厄介事でしかない。地球側が喜んで受け入れてくれるとはとても考えられない。

 

「だから連合も我らに協力するように言っておるんじゃ。少なくとも生きる者は多い方が良かろう」

「ああん? 人の生存不可能な火星の荒野に投げ出される者が増えたって直ぐに死んだら意味がない。それよりもシェルターを増やす方が得策だと俺は思うがね」

「仮にシェルターを増やしたところでそこで生きる者がいなければ意味がないであろう」

「確実に生きる者を優先するべきだと俺は言っているんだ」

「お主は亜人を見捨てると言うのか!」

「そんなことは言っていないだろう。事実を曲解するな。大体、移民計画は亜人を優先して人間は対象になっていないのは何故だ? 帝国こそ人間を見捨てようとしている証拠だろ!」

「自国の者で実験をすれば亜人ばかりになるのは仕方なかろう! 文句があるならば出資ぐらいはしたらどうだ!」

「こちらこそ同じ言葉を返そう! シェルターに入りたければ金を出せ!」

「ほら、それが本音であろう!」

「そっちこそ!」

 

 テオドラとリカードが立ち上がって口論を始めた。

 どちらも正しいのに、どちらも譲らないものだから泥沼の言い合いに終始する。

 幾らでも湧き出す金でもない限り、限られた財源で戦後復興と自国の繁栄を続けながら世界の問題に直面するには各々に課題を抱えすぎている。自国民でない難民に金を使うならば他のことに使いたいと本音が見えている。

 旧世界の出身であるアスカが魔法世界に来てから一ヶ月も経っていない。これが現実なのだと明かされた世界の真実を前にして、何の権力も持っていないアスカの口は貝のように閉じたままだ。

 

「全く折角設けれた会談の場なのに」

 

 怒鳴り合う二人の声の合間に、眉間を揉み込むセラスの呟きが聞こえた気がした。

 

(ノアキスは両国が会談の場を設ける為の体の良い口実か)

 

 セラスの呟きからアリアドネ―が大国の間にまで立ってこの会談を設定したのは、アスカを口実にしての両国が話し合いの場を設ける為であったのだと悟る。

 ノアキスの一件で有名になっても一個人でしかないアスカがこの場にいる本当の意味は無きに等しく、繋ぎに使われただけでしかない。アスカに話して見せたのも両国の共通認識を確かめるためで、あわよくば互いから譲歩を引き出そうという意図もあったのか。

 

「貴方達、いい加減に……」

「オラァッ!」

 

 セラスが二人の口論を止めようとした時、外に通じる扉が廊下から何者かによってぶち開けられた。

 防諜対策されていた所為で気配も探れず、知らずに俯いて机を見ていたアスカが音に驚いて顔を上げた。

 顔を上げた先には、扉をぶち抜いた男の手がまず見えた。 

 腕を見ても分かる筋骨隆々とした野性味溢れる壮年の巨漢は、手入れとは無縁そうなぼさぼさの蓬髪と、口元に浮かんだ野生的な笑みが印象な容貌だった。身長はおそらく目算で二mを越えている。

 褐色に焼けた肌に着古した衣類。決して太ってはいない。逆三角形の上半身。分厚い胸板。鎧を付けているかのように盛り合っている肩や上腕。全身これ、筋肉の塊であった。その袖から伸びた腕は、仁王像のそれのようであり、二メートルを超える巨体と相まって見る者の足を一歩退かせるに十分怪異であったがその豪放磊落な表情が不思議と中和する。

 普通はこれだけ長身だと、どうしても背ばかり高く、細く見えてしまう。だが、彼にはそれがない。隆々と盛り上がる巌のような肉体に、見ているだけで圧倒されてしまう。別名、暑苦しいというかもしれないが。

 

「メガロの元老院議員にヘラスの第三皇女、更にアリアドネ―の総長まで集まって何してんだ?」

 

 豪放磊落なユーモアを感じさせる声が天井近くから降り注ぎ、笑みを含んだ声で巨漢が訊ねてきた。

 

「こ、この筋肉ダルマ! いきなり何をしとるんじゃ!」

 

 突然の暑苦しい男の登場にアスカが唖然としていると、男を見たテオドラが姫被りもせずに叫んだ。

 

「何って俺を呼んだのはお前だろ、じゃじゃ馬姫」

「だからといって扉をぶち壊す必要はないじゃろう! 驚いて心臓が止まりそうになったぞ!」

「まあ、コイツらしい登場の仕方ではあるがな」

 

 男の登場に驚いて心臓を抑えているテオドラと何故か納得の表情を浮かべているリカードの間にあった陰惨は空気は最早存在すらしていない。

 

「で、コイツがもう一人のナギの息子か」

 

 男――――ジャック・ラカンがアスカを観た見た視た。

 目が合うと眼の光が明らかに常人と違う分かる。何より、気迫というのであろうか。肉食獣を思わせる凄まじい気迫が体から迸っている。殺気ではない。体の中にとてつもない熱量があり、それを抑えきれずに放っている。そんな感じである。

 

(熱い……?)

 

 一瞬、ジャック・ラカンを前にしてアスカが思ったことである。

 ジャック・ラカン――――魔法世界で暮らす者なら、その名を知らぬ者はいない。『英雄』という称号は、物語の中の人物には相応しくても、現実の人間にはなかなか与えられないものだ。それでもない、ジャック・ラカンは『英雄』と呼ばれるのに相応しい男だった。

 近衛詠春と同じように大戦期を絶頂期とするなら、現在は肉体の絶頂期を超えているはずなのに衰えを感じさせる部分は外見上どこにもない。それどころか、男の外見からは他者を圧倒する強い何かが感じ取れる。それは肉体的な強さというより、男の精神力の強さが空間に滲み出ているかのようだ。

 

「容姿はアリカの方に似てるが、眼の光はあの野郎そっくりだな。生意気そうな面しやがって」

 

 近付いてきたラカンは顔を綻ばせて、いきなりアスカの頭を鷲掴みにして持ち上げ、何故か胴回りを抱き込んで絞り込むように締め付けてきた

 

「ぐえ~~~~。苦しい。苦しい…………!」

 

 強烈な抱擁に、身長差で浮かされた足をジタバタさせるアスカ。

 ラカンにとっては単なる抱擁だろうが、バカ力によって身体を締め付けられているだけではなく、顔全体をラカンの胸の辺りに抑え込まれているため、まともに呼吸が出来ず、今にも窒息しそうだ。

 ジタバタさせていた脚の動きが段々と弱っていく。

 

「ちょ、ちょっと止めなさいって!」

 

 二人のやり取りを見ていたセラスが驚いた声で訊ねた。

 

「おっ? ああ、悪い悪い。感動でつい、やっちまったぜ」

 

 どう考えても相手の背骨から肋骨にかけてを圧迫することなどわざとでなければやるはずもないが、ラカンは抱擁を解くとアスカを解放した。

 男の胸の中で危うく昇天しそうになっていたところを解放されたアスカはズルリとその場にへたり込んだ。

 

「死ぬかと思った……………一体何なんだよ、アンタ」

 

 アスカはのそのそと立ち上がるとラカンを睨んだ。

 

「その顔だぜ。アリカの顔をしてナギと同じ目をした奴が辛気臭ぇ顔してんじぇねぇよ」

「ぬ……」

「ほれ、お前の兄弟を連れて来てやった俺様を讃えろ」

 

 図星を刺されて言葉に詰まっているとラカンが入り口を示し、その手の先を追うと壊れた扉の後ろに立つ二人の人影が立っていた。

 

「ネギ、のどか、無事だったのか」

 

 半身ともいうべきネギと宮崎のどかが心細そうに寄り添いながらも並んで立つその姿に、先の暗い話が多かった所為もあってアスカは喜色満面で二人に駆け寄ろうとして――――。

 

「ネギ?」

 

 ネギの様子がどこかおかしく、その首に見慣れない首輪が付いているのが見えて途中で足を見えた。

 

「お前……」

 

 その首輪が奴隷を示す物であることも、ネギの両腕から漂う馴染み深い魔性の気配が何を示す物なのかを察知したアスカは、それ以上の言葉もかけることすらも出来なくなった。

 暗い目の奥で鈍い闇を纏わせながらネギは双子の弟の元気な姿を見て、そしてその後ろの室内にいる世界のVIP達の姿を見据える。

 

「アスカはいいよね、順風満帆そうで」

 

 ラカンによって一度は振り払われた悪い雰囲気が戻って来たかのようなネギの暗い声が廊下と室内に静かに木霊した。

 

 

 

 

 

 




本当ならフェイトとの対話まで行きたかったのですが、長くなるので一旦ここまでで。

ちなみに『第62話 ターニングポイント』において、フェイトの石の槍を受けて昏倒したアスカはカモの死を見ていない。つまりは知らない。

後、設定・魔法所為について

・大戦期、もしくはそれ以前から魔法世界の秘密を知っていた者は完全なる世界・魔界の者を除いて両手の指で足りる
・両国の上層部の一部が知ったのは戦後の亜人消失事件の時
・旧世界で亜人、もしくは魔法世界人の血が入ったものが死ぬと肉体がマナに分解される。どの程度血が入っていると魔法世界人判定されるかは誰にも分かっていない
・生きている間は旧世界でも行動できる。但し、死ぬと肉体がマナに分解されるが、魔法世界崩壊のカウントダウンが進んでいる状況では分解されない保証はない。
・魔法世界崩壊の理由は、世界創造時より空いていた極小の穴よりマナが流出し続けていた為
・火星の異界に魔法世界があるのは上層部には周知の事実



「第72話 世界の真実 後編」



UQ HOLDERでは亜人が地球にいたので現実世界に出て来れないっていう問題は解決したのだろうか?


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第72話 世界の真実 後編

 

 

 

 

 

 ジャック・ラカンの登場と共に三者会談は終わりを迎え、魔法世界渡航前とは別人のようなネギの変化に困惑したアスカは何故かのどかにも避けられていることに気付いて首を捻りまくった。

 三人で移動するようになっても、最初意外頑なに目を合わせようとしないネギに首を捻り、顔を合わそうとすらしないのどかに更に首を捻り、居心地が悪くなって明日菜達との集合場所だけ教えて逃げるように離れた。

 訪れたのは新オスティアにあるオープンカフェ近くの欄干に腕を乗せて、死んだ目で祭りを楽しむ人々を眺めている。

 

「平和だなぁ……」

 

 祭りに夢中になって周りの事など見えていない若者達、家族で笑いあいながら楽しんでいたり、通り行く人々で通路は溢れ返っている。

 終戦記念祭目当てに集まった露天商が大声で商品を売り込み、その声に足を止めた観光客は商品を手に入れるために己の誇りと財布の紐を賭けて値切り交渉を行っている。ある場所では名物である賭け野試合が行われ、街中が野蛮なオリンピックもかくやとばかりの光景がそこかしこで見られていた。

 世界の真実に悩み、身内が変わってしまった理由に悩み、祭りの喧騒の中でアスカはふとどうしようもない孤独感を覚えた。

 

「寂しい、か」

 

 それぞれの程度の差こそあれ、皆一様に平和そうな顔をしていた。

 この祭りを楽しんでいる者達は魔法世界が今この瞬間にも消え去る可能性があることを知らない。

 そうでなくても、ふとした切っ掛けで万一の事態に巻き込まれるかもしれない。巻き込まれる時は一瞬、死ぬのも簡単なことなのに、彼らはそんなことが起こるとは夢想だにしていない。

 意識的にも無意識的にも自らの死を考慮の外にし、昨日と変わらない今日が続くと信じている。

 

「遠いな」

 

 所詮はそうした集団錯誤で成り立っているのが平和という状況であり、それはどうしようもなく脆いものらしいという理解が、この時のアスカには現実感を感じられなかった。

 目に付くもの全てが現実感の無い夢のような景色の一部に見えてくる。自分も日常の中に身を置いているはずなのに、現実感がなくどこか遠い世界の光景のように思えた。

 当たり前に埋没できた日常という時間が、どうしようもなく色褪せて見える現実。多少の齟齬を含みながらも、問題なく回ってきた歯車が世界の真実を突きつけられた瞬間を境に軋み始め、今や完全に止まってしまったという実感。

 そういったものが自分を焦らせているのであって、周囲の所為にするのは筋違いとだと思う理性を失くしていなかった。

 変えようのない現実を真正面から突きつけられたのである。どれほどに取り繕ったところで単なる現実逃避でしかない。

 今は現実を見ないように、苦しむ自分から目を逸らすように。周りを意識から除外し、剥き出しの心が暴走しないように蓋をすることでしか自分と周りを守る術を持っていなかった。

 

「ネギが奴隷になってるわ、闇の魔法(マギア・エレベア)を習得してかなりの深度まで浸食されてるわ、態度も刺々しいし」

 

 態度が辛辣な時は小さい時からあったが、あそこまで刺々しいのは試験勉強を邪魔した時以上だ。

 奴隷になってるのは完全に予想外で、麻帆良祭の時のアスカの暴走でネギにも闇の魔法(マギア・エレベア)の危険性は承知しているはずなのに、どうして習得したのか。しかも一ヶ月未満で麻帆良祭開始の時のアスカ以上の浸食深度に達している。早過ぎである。

 

「のどかまで余所余所しい、俺なんかやったか?」

 

 ゲートの事件以来、会ってすらいないのだから少なくとも魔法世界に来てから二人には何もをしていないはずである。アスカには何の心当たりもない。

 

「いや、待て。確かネギは偽ナギを名乗ってるんだよな。でも、俺が何か関係してるか?」

 

 関連性が分からない。そもそもアスカは本名を名乗る気などなかったのだがノアキスの一件で知れ渡ってしまったのだから不可抗力である。責任はないはずと、自己反論する。

 

「ネギとのどかのこともそうだし、この世界のことといい、なんなんだよ、もう」

 

 最初は小さな違和感だった異変が次第に全身に広がり、気持ちの落ち込みように比例するように悪化していく。

 

「うげぇ、考え過ぎて気持ち悪くなってきた」

 

 吐きそうな気持ち悪さの中で口を押えた。

 坂道を転がるように際限なく体調が悪化して頭が重い。周りの歓声が頭蓋骨の内側で反響して、胃が裏返りそうなほど捻じれている。

 アスカは即断即決なので物事について細かいことに拘ることはないと周囲の者には思われているかもしれないが、これほどの事態に対して無感でいられるほど薄情ではない。

 逆に一度考え込んでしまうと、ヘルマン時に明日菜の仮契約を断ち切った時のように思い悩む性分なのである。蹲って鬱々とした思考に溺れてしまい、爆発してあらぬ方向に進んでしまう悪癖がある。

 正に張り子の虎か。強くあるのは外面だけで、少しも内実が伴わない。これでは駄目だ。変わらなくてはと思うのだが上手くいかない。歯痒い。あるべき感情をどこかに忘れてしまったようだ。

 自分がどこに行き着くのか、正しいのか、間違っているのか、アスカはそれを知りたかった。

 

「毎日お祭りだといいのになぁ」

「パレード見に行こうか」

 

 後ろを通り過ぎた目の前の親子連れのように実に楽しそうに笑い合う人々の横顔を見ていると、なんだか気分が底抜けに暗くなってくる。

 来るべきではなかった。どこか人のいないところへ行こうと思い、適切な場所を探す。

 

「宿の部屋に篭るかな」

 

 どうしたものかと悩むアスカの思考は、しかし、巡りも回りもする前にビクリと凍りついた。背筋に何か冷たいものが走った。

 カツン、という足音が聞こえた。

 これだけの雑踏の中、人の体が生み出す生活音がそこら中に溢れているはずなのに、まるで洞窟の奥で天井から落ちてくる水滴の音を聞くかのように、その足音は正確にアスカの耳に滑り込んで脳を刺激する。

 音源は自分の背後。何者かが近づいてくる。

 確かな緊張に四肢を強張らせたアスカが振り返る。

 変装用に付けているそのサングラスに隠れた見開かれた双眸が睨んでいるのは、雑踏の先に埋もれるように立っている人物。

 白髪と何故か着ている学生服を纏った少年―――――彼は睥睨するようにこちらを、アスカ・スプリングフィールドを凝視していた。その少年は誰あろうゲートボートでアスカに重傷を負わせた張本人、フェイト・アーウェンルンクス。

 

「フェイト……」

 

 溢れ出す激情を抑えながらも零れ落ちた名前。会ったのはこれで二度目。最初に出会った時も、それほど長く接したわけでもない。

 アスカは思わず握り締めていた右の拳を開いて肩の力を抜く。さっきから『実力行使』の四文字が、アスカの頭の中で躍っている。だが、ほどなくして戦意を消失した。フェイトの正体に気付いたからである。

 

「偽物、いや、分身の類いか」

「正解だよ。良く分かったね」

 

 ゆっくりと歩み寄って来たフェイトが本体ではなく、魔法で作り出した分身のようなものを操っていることを指摘すると、本物そっくりの偽物は薄く笑みを浮かべた。

 

「見ての通り、見た目は本物そっくりだけど戦闘力は格段に劣る。それでも今僕達が戦い始めれば周囲の被害は相当なものになるだろう。それは僕も本意ではない」

「つまり、戦う気はないってことか」

「言っただろう、次に会った時が決着の時だと。今はまだ、その時ではない」

 

 と言いつつも、フェイトは警戒と興味と殺意とが等分に入り混じった奇妙な気配をアスカに向けて来る。

 

「態々、顔を見に来たってわけでもなさそうだが」

 

 様子から察するに今回の来訪はフェイトの意図するものではないということなのか。それでも分身を使ってまでアスカに会いに来たのには理由があると見るのが自然である。

 

「今日、君の前に姿を現したのは戦いに来た訳じゃない。平和的に話し合いと取引をしようと思ってね」

「話し合いだと?」

 

 散々、敵として戦っておきながら今更話し合いなどとおかしなことを言い出すなと言わんばかりのアスカの表情に、フェイトは表情を一つ変えずに「そうだ」と返した。

 

「ハワイの時といい、ゲートポートの時といい、不幸な巡り合わせで互いの目的の為に拳を合わせてきたが、一つ何かがずれれば僕達は本来ならば戦う必要もなかったことは君も理解しているね」

 

 ハワイでは、ゲイルに雇われたフェイトと、ゲイルの目的を阻止するために動いたアスカ。互いに明確な遺恨があって戦ったわけではない。雇い主の意向とその邪魔をしたい者の利害がぶつかっただけである。

 ゲートポートの時はもっと単純だ。ゲートを破壊したいフェイト達とその場に居合わせてしまったアスカ達。アスカ達を見逃せば外部の邪魔を呼び寄せるとなればフェイト達は排除するしかない。

 仮にアスカ達がハワイに行かなければ、使うゲートポートが違っていれば、二人は互いに顔すらも知ることもなかっただろう。

 

「僕達が何者なのか、何を目的としているのかを話そう。その上で敵対するかどうかを決めるといい」

 

 そう言ってフェイトはオスティアンティーを飲みながら話そうと近くのカフェの席に座ることを勧めた。

 少なくともこの場においてフェイトの話を断る理由はアスカにはない。仕方ない風情を装い、勧められた席に座ったアスカの前でフェイトはやってきたウェイトレスに注文をする。

 

「君は何を?」

「同じ物でいい」

「じゃあ、オスティアンティーとコーヒーを一つずつ」

 

 人が同じ物で良いと言ったのにアッサリと違う物を頼むフェイトにアスカの頬が引くつく。

 注文を受けたウェイトレスが笑顔で復唱し去っていくのを眺めたアスカは、なんとなく空へと視線を移した。

 上にはどこまでも広がる青い空。建物の上にもモクモクと入道雲が湧き上がり、焼けた石畳からは幾つもの陽炎が立ち昇る。輝く太陽の下、三角形をした白いテーブルが幾何学的に並べられ、街の風景にちょっとした彩りを与えている。

 

(火星って赤い星じゃなかったけか)

 

 見上げる青い空からは那波千鶴が所属する天文学部に遊びに行った際に見た火星と思うことは中々出来ない。

 未だに呑み込めない魔法世界の真実を前にしてそれほど長い時間、見ていたわけではないが顔を下ろした時には去ったはずのウェイトレスがアスカの前にオスティアンティーを並べているところだった。

 香りから察するにオスティアンティーとは、要は茶のようなものかと察して、つい長年の習慣から紅茶を飲む時のように机に置かれていたミルクを手に取る。

 

「やれやれ、いきなりミルクかい?」

「なに?」

 

 アスカのようにミルクに手を伸ばすことなく、コーヒーが入ったカップを手にしたフェイトが揶揄するように言った。

 

「薫り高い銘茶として名高いオスティアンティーにいきなりミルクなんて…………ミルクティー、なんでもかんでもミルクティーって子供みたいだ。これだから英国人は。まあ、僕は圧倒的に珈琲党だからどうでもいいけど。珈琲は精神を覚醒させる。僕は日に七杯は飲むよ」

「いや、一日に七杯はどう考えても飲みすぎだろ」

 

 ミルクを置いて持論を展開するフェイトに突っ込みを入れる。

 作法なんて知らずにネギの真似をしてミルクを入れていたので、別に入れなければ飲めないわけではない。

 

「ん、美味いな」

 

 フェイトが絶賛するだけあって、食べたり飲めればそれでいい派のアスカをしてオスティアンティーが美味であると認めた。

 

「僕の言うことを素直に聞くとは、少し意外だね。君は僕のことが嫌いだと思ったが」

「ああ、嫌いだね。だが、俺は嫌いだからと他人の意見を端から否定するほど狭量じゃない」

 

 言葉以上には驚きを表に見せないフェイトにオスティアンティーの香りを堪能していたアスカが澄まし顔で答える。

 嫌いであることは認めつつも、注文時に同じ物と言ったのに自分はコーヒーを頼んでいたフェイトを皮肉る。

 今度はフェイトの頬が僅かに引くついたように見えたが、錯覚かと言われれば納得してしまうほどの微かなものである。だが、見過ごさなかったアスカはやり返せたことにご満悦な笑みを浮かべる。

 

「本題に入ろうか」

 

 数口飲んだオスティアンティーをソーサーに戻したアスカが口火を切る。

 

「フェイト・アーウェンルンクス、完全なる世界の幹部が俺に何の用だ?」

 

 同じように珈琲を半分飲んだフェイトもカップをソーサーに置き、口火を切ったアスカを見据える。

 

「僕が完全なる世界の幹部であると知っている者は少ない。それを知っているとなるとタカミチ・T・高畑か、アルビレオ・イマか聞いたのかな」

「どっちでもいいだろう。で、どうなんだ?」

 

 こちらの頭の中までも覗き見るように透徹した瞳に屈せぬように腹の底に力を込めて再度の問いを放つ。

 

「その前に完全なる世界について詳しく聞いているかい? それによって話す内容も変わって来る」

「…………いや、何も。世間で流布している以上のことは俺も知らない」

 

 そもそも魔法世界でフェイトと激突する予定などなかったし、アルビレオ・イマもアスカの問いに対して自分で調べる方が良いとしか言わなかった。

 自分で知った場合と、アルビレオが語った場合ではアスカの主観に影響が出るという話だったが、この事態を考えれば先に聞いておいた方が話が有利に進んだのかもしれない。

 

「まさか世界を滅ぼすなんて戯言を本気で信じているとしたら、僕は大口を開けて笑いコケてしまうよ」

「正直、その姿は見てみたい気もするが、この世界は何もしなくても滅びると聞いた」

「情報源が気になる所だけど話が早くて助かるよ。僕も無様を晒さずに済む」

 

 今は真面目な場なので自嘲して先程の会談で聞いたことをそのまま伝えたが、この人形のような男が大口を開けて笑い転げる姿が想像すらも出来ない。アスカの本音としてはその姿を見てみたい。

 

「とはいえ、流石に君がこのことを知っているのは意外だったよ。このことはこの世界の上層部、それも極一部しか知らないことだ。君に戦う姿勢が見えないのも世界の真実を知ったことが関係しているのかな」

 

 意外そうに少し目を見張ったフェイトが自分の反応を落ち着けるように珈琲を一口飲み、敵意があってもアスカがが戦う気にならなかったのは世界の真実知ったことにあると推測する。

 

「ああ、俺が知ったことを教えてやるよ」

 

 この世界の現実世界の場所、世界に開いた穴と流出を続けるマナ、魔法世界人の不安定さ、滅びが不可避であること、を敢えてアスカはフェイトに語った。

 

「そのヘドロを呑み込んだような胸糞が悪いと言わんばかりの顔。それだけを聞けばそうなるのも無理はないね」

 

 自分のこの苦しみを目の前に叩きつけてやろうという些か下衆な心持ちであったが、話を聞いたフェイトはむしろ納得したような面持ちになり、アスカが期待したような顔にはならなかった。

 

「この世界の滅びは回避できない決定事項だ。僕達が世間で言われているような世界を滅ぼすことを目的として行動するなんてナンセンスだよ。放っておけば滅びるんだからね」

 

 カップをソーサに置き、足を組みかえたフェイトが「とはいえ」と続ける。

 

「ある側面から見れば、僕達の目的はこの世界を滅ぼす事にある。 一概に彼らを間違っているとは言えない」

「なんだって?」

 

 矛盾した言い様に眉根を寄せ、真意を問い詰めようとしたアスカの言を先回りしたフェイトが先に口を開く。

 

「君はこの世界をどう思う?」

 

 フェイトは周りを見渡して手を広げながら、ゆったりと言葉を紡ぐ。

 

「人は野蛮な生物だ。どれだけ文明が進歩しても闘争本能を捨て去ることが出来ない。いや、その文明こそが本来は平等であるべき人々の間に貧富を生じさせ、対立を生んで争いを引き起こしている」

 

 アスカの脳裏にノアキスでの一件が流れていく。

 貧困から抜け出せず、居場所を見い出せない者達。富める者を妬んでその席を奪おうと立ち上がった者をいたずらに非難することは誰にも出来ない。誰もが幸せになりたいだけなのに、幸福の席は決まっているから他者から奪おうとする。同時に不幸を生み出すことと同意であることにも気づかず。

 

「世界はシステムだ。だから造り上げる者と、それを管理する者が必要なのは分かるかい?」

 

 人が集まれば集団となり、村となり、街となり、都市を造り、最終的には国へと行き着く。

 

「人が管理しなければ、庭とて荒れる。誰だって自分の庭には、好きな木を植え、芝を張り、綺麗な花を咲かせるものだろう? 雑草は抜く必要がある」

 

 アスカはフェイトの長広舌に、仏頂面で聞き入っている。そんな相手を見もせず、フェイトは得々と語り続ける。

 

「人は誰だってそういうものが好きなのは世界を見れば分かる。きちんと管理された場所、安全をね。今だって世界をそうしうようとしている。街を作り、道具を作り、ルールを作った」

 

 人が目指してきたものは、秩序ある世界だ。より自分達が生きやすいように、人は環境を作りかえ、様々なルールを作り、そのルールが遅滞なく機能するように作りかえ、それに従って生きている。

 

「だが、現実はどうだろう。種族、人種、住んでいる国、場所、生まれ、能力、資質、性質、様々な者が他者と違うからといって争い殺し合いまでする。誰もが不幸になりたくて生まれてきたわけではないというのにね」

 

 幸せになりたいだけなのに、人はどうしてもすれ違い争い殺し合うのか。そう語るフェイトの目は煉獄を見ているようで、決して終わらぬ問いを続ける聖人のようで、矛盾した両者が同居した眼差しをアスカに向け続ける。

 

「この世界を見渡してみて、喜んでいる者と苦しんでいる者のどちら多いと思う?」

 

 今この新オスティアにいる者の大半は喜んでいる者だろう。だが、この都市外の者はどうだろうか。今日食べるご飯がない者、住む場所がなくて放浪を続けている者、明日をも知れない者達が山ほどいる。

 

「何が言いたい」

 

 長々と語るフェイトの真意を読めず、黙って聞いていたアスカはいい加減に我慢が出来なくなって唸るように言った。

 

「完全なる世界の目的とは即ち、この不完全な滅びに瀕した世界を造り変えることにある」

「世界を造り変える、だと?」

「僕達にはそれが可能だ。既存のルールに縛られた世界では不幸になる者の方が多い。僕達が作り出す世界は、ただ一人の漏れなく人々を幸福に出来ると断言するよ」

 

 本気か、と胡散臭さを隠そうとしないアスカが声に出さずとも顔に書いてある言葉にフェイトはハッキリと頷いた。

 

「救われる者の数は、間違いなく正義だよ。無駄に死ななくて良くなる者達が何十万、何千万といるはずだ。これだけの命を前に、動かないことは悪ではないかな」

「そうだが、ただの一人の漏れもなく幸福な世界なんて信用できない」

 

 幾ら地球の半分程度とはいえ、数億の者が平等に幸福になることなどありえない。

 もしも全ての者が食い詰めず貧しくならない世界なら、アスカの信念如きではフェイトが告げた以上を実現できることなど想像も出来ない。それでも、アスカは膝を屈することが出来ない。

 

「出来る」

 

 虚言ではありえない自信を覗かせてフェイトは断言する。

 

完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)――――僕達の組織名だが、実際は造り上げる世界の名称でもある」

 

 魔法世界は不完全な世界であると暗に込めながら、自らの組織の名称の真の意味を告げる。

 

「有り得たかもしれない幸福な現実、最善の世界。『完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)』は各人の願望や後悔から計算した、最も幸せな世界を提供する。人生のどの時期であるかも自由、死もなく幸福に満たされた暖かな世界。見方によってはこれを永遠の楽園の実現と捉えることも出来るだろう」

 

 滅びが避け得ない世界を作り変え、幸福が約束された世界を生み出す。確かに人生において最も幸せな世界であれば幸福は約束されていると言えるだろう。誰一人の例外もなく、誰もが幸福に包まれる。

 争いのない幸せなだけの、みんなが何時も笑顔でいられる世界。不安はなく、悩みもなく、ひたすら健やかに幸福に生きられる世界。なんだか、狂った世界に思えるが、或いは天国のような、完結してしまった恐ろしいほど退屈な世界である。

 

「出来ると言うのか、そんな世界が」

「その為に何千年と準備を重ねて来た。それに完全なる世界であれば魔法世界の滅びを回避できる」

 

 アスカには理解が及ばない事態だ。三者会談における世界の真実から続き、前大戦において世界の敵とされた完全なる世界の真の目的が救済となれば、アスカの混乱は深まるばかりだ。

 

「第一、連合や帝国に魔界を通して世界の真実を教えたのは僕達完全なる世界だ。だが、彼らは滅びから回避する方策を見つけるどころか自分達が生き残ることしか考えていない」

 

 大国が自国の利益を優先し、代表であるテオドラとリカードの二人が対立していたのをその眼で見たアスカに抗弁は出来ない。

 

「世界の崩壊は不可避だ。魔法世界崩壊後、純粋な人間だけが生き残れても不毛な荒野に放り出されて苦しむことになる。仮に帝国と連合の計画が間に合ったとしても、残っているのは悲惨な未来だけだ」

 

 アスカにも簡単に想像がつく。

 仮に世界崩壊後に両国の計画が間に合ったとしても、種族の壁が消えないままで魔法世界より狭いシェルターに閉じ込められ続ければ、何時かはノアキスの一件のように不満が爆発する未来予想図が簡単に描けてしまう。

 

「だが、それでも世界に開いている穴は変わらない。マナが増えるわけでもなし、永遠になんて続けられるはずがない」

 

 穴から流失し続けるマナによって、やがて魔法世界のように維持が困難になる時がくるはずであるとアスカは言った。

 

完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)は魔法世界とそこに生きる者達の肉体をマナに分解し、魂のみを封ずる。世界を根本から造り替えるわけだから当然、穴は無くなるし、分解されたことで生み出されたマナと、完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)に封ぜられた者達が生み出すマナだけで世界の維持は十分に可能だと試算が出ている。これは魔界の研究機関も認めている」

 

 フェイトの語る論理に穴はない。

 世界に出来た極小の穴を防ぐ術がないのならば、防ぐのではなく世界を造り替えるなどという発想は中々出てこない。

 魂だけを本人が望む願望の世界に送り込むならば肉体は必要なく、その肉体を分解して得たマナは膨大である。願望の世界ならば大きさは関係なく、魂が発するマナさえあれば永遠とも思えるほどに世界を永続させていくことは可能かもしれない。

 

「分かるかい。大戦前から完全なる世界の目的は一貫しており、世界の敵はむしろ紅き翼の方であったということが」

 

 フェイトの言うことにアスカは否とは言えない。

 紅き翼では世界の崩壊のカウントダウンを止められず、完全なる世界は彼らなりのやり方で世界を救おうとしている。

 

「このままじゃ、世界が滅ぶって言うことをどうして公表しなかった? そうすればあんな戦争を起こす必要はなかっただろ」

「愚策でしかないね。確かにやり方に問題があったのは認めよう。だが、それも故あってのことだ」

「その理由は?」

「答える気は無いね。その必要もない」

 

 世界が滅ぶ瀬戸際であるのに大戦を起こした理由をフェイトは語らなかった。

 考えるが答えは見つからず、アスカは「マナ流出を止める方法はないのか?」と訊ねた。崩壊をより先に知っていたのならば知っているのではないかと期待したのである

 

「仮に防いだだところで何の意味がある? 数十年滅びを先送りにするだけだ。もう世界を維持するマナは限界に来ているのだから意味はないよ」

 

 疑問に対して疑問を問い返したフェイトの目はここではないどこかに向けられていた。

 

「消えぬ種族差別、大国の溝、癒えぬ戦禍の傷、歴史は勝者が作り、敗者はひっそりと忘れ去られる。そんな世の習いしか築くことが出来ないこの世界は間違っている。幸福が約束された完全なる世界へ移行すべきだ」

 

 フェイトは言い切った後に喉の渇きを覚えたかのようにカップを口に傾けたが、もう中身は残っていないようで残念そうにソーサーに戻す。

 

「だが、これらは本来は旧世界に生きる君や君の仲間には関係のない話でもある」

 

 主張を止めたフェイトは考え過ぎて頭がしっちゃかめっちゃかになっているアスカを労わるように声音を和らげた。

 

「どういう意味だ」

「簡単なことさ。世界の真実を知り、僕達の組織の目的を知った上で敵対するというなら止めはしない。君が君の父達の遺志を継ぎ、滅びる世界の守護者となる選択を取るというのならば、世界の敵となることを覚悟するといい」

 

 前大戦のように完全なる世界と敵対するということは、世界の真実と彼らの目的を知った上では意味が異なってくる。

 

「世界の敵……」

 

 救われる者の数が多い方が正しい。それは一つの真理だ。

 滅びが確定されている魔法世界で代替案もなく完全なる世界と敵対することは、文字通りの世界の敵になることに等しい。その事実がアスカの肩の上にズッシリと乗っ掛かる。

 

「好き好んで世界の敵になんてなりたくはないだろう。旧世界に戻り、この世界のことは忘れてしまう方が良い。寧ろ、協力しても構わない」

「なに?」

 

 とんでもない提案を出したフェイトにアスカは目を剥いた。

 帰還に際して、連合と帝国、アリアドネ―の協力は既に取り付けてある。その上で仮想敵であった完全なる世界も旧世界への帰還に協力的な姿勢を見せたことがアスカに驚きを抱かせた。

 

「君の存在は僕達にとって脅威だ。ノアキスで名声を得て、大国との繋がりも得ていると聞いている。今の君は二十年前の紅き翼のような存在になりつつあることを自覚した方が良い。そんな君が何もせずに旧世界に帰るというのなら僕達にとっては願ってもない事だ」

 

 語るフェイトの言うことを鵜呑みにして判断を下すのは危険ではあるが、敵性勢力が減るのは悪い事ではない。理屈も納得の出来るもので、今のアスカの実力と発言力ならば紅き翼並とまではいかなくても、かなりの領域で完全なる世界の邪魔が出来る。

 アスカが魔法世界に来た目的は両親の足跡を知ることにある。その目的は達成できていないが、言い出しっぺとして仲間を無事に旧世界に連れて帰らなければならない責任がある。そのことを考えれば二重の意味でフェイトの提案は断りにくい。否、断る理由を探す方が難しい。

 

「ただ、協力だけはさせておいて後で前言撤回されてこの世界の問題に首を突っ込まれても困る。それでこれだ」

 

 ポケットから天秤を下げる鷲を象った魔法の印璽を取り出し、テーブルの上に置く。

 

「これは鵬法璽(エンノモス・アエトスフラーギス)――――この印璽は、標的となる人物の言明を魂に刻みつけ、強制的に厳守させる」

 

 アスカの眼から見ても最高位クラスの魔法具で、フェイトの言う通り対象が口に出して成立すれば如何な超高位魔法使いであろうとも逃れることは出来ない。

 

「僕が望むのはただ一つの言葉だけだ。『完全なる世界の邪魔をしない』と、それで取引は成立だ」

 

 印璽を見つめたまま肩を震わせるアスカを見て、ほくそ笑みながら言うフェイト。

 戦うべき理由が存在しないアスカは苦虫を潰したかのように唇を歪めながら、テーブルの下で両手を強く握り締めていた。

 

「何も英雄の息子だからといって英雄になる必要も、父親達の残した因縁を引き継ぐ事も無い。この世界のことを忘れて旧世界で幸せに生きるといい」

 

 フェイトの言うことは常に真っ当で反論しようもないほどの正論である。

 嘘は言ってないだろうし、質問に対して真摯に答えてくれていると分かる。語っていないのも大戦を起こした理由と穴を防ぐ方法があるかないかを答えていないだけである。

 

(そうだ、頷いてしまえ)

 

 内心で呟くが何故かその気にはちっともなれなかった。

 魔法世界のことを見捨てて旧世界に帰ってしまえば楽であるはずなのに、アスカの中にある何かがこの提案に対して反発するものを覚えている。

 

「さあ、口に出して言って……」

「うるせぇ!」

 

 人が考えている時に急かされ、頭が煮詰まっていたアスカはテーブルに力一杯拳を叩きつけた。

 ゴッ、という大きな音がしてテーブルが叩かれた部位を中心として真っ二つに割れ、生じた衝撃が周囲に波紋を広げた。

 

「さっきからごちゃごちゃと…………」

 

 周囲から唖然とした目で見られているのを感じながら椅子から立ち上がり、自分が使っていたカップとソーサーを確保しているフェイトに向けて指を突きつける。

 

「お前に保証されなくなって、こっちは勝手に帰らぁ! テメェに指図される謂れはねぇんだよ! その珈琲臭ぇ口を閉じやがれってんだ!」

 

 魔法世界云々のことは横に置いておいて、二大国とアリアドネ―の協力を取り付けているのだからフェイトの保証など必要ないと吠える。

 正直、言ってからやってしまったかと少し後悔したが、心は晴れ晴れとしている。

 

「ハ……ハハハ、ハハハハハハハハハ!」

 

 フェイトが大口を開けて笑う。まるで笑うという動作を人形が真似しているかのように目だけは感情を伴わせないまま。

 

「これほど譲歩し、情報を与えてあげたのに愚かな選択ではあるが、アスカ・スプリングフィールド。君なら、そう言ってくれると思っていた。期待通りの返答をありがとう。これで僕達は晴れて敵同士だ」

 

 機嫌良さそうに、アスカに向って告げる。

 二人が会話をこれ以上続ける意味はない。互いに歩み寄る意思はなく、外交策としては最も愚劣で直接的な手段に訴える他ない。

 距離は一歩分開いており、双方ともに初手で仕留めるにかかるのは難しいと素人やある程度の強さの人間は思う。彼らの力はもはや常人の及ぶ領域にはない。たった一撃で川を切り裂き、山を穿つ攻撃は人を容易く殺す。

 

「ああ、そうかい!」

 

 敵認定に嬉々として言いつつ、問答無用に殴りかかるアスカ。その拳を腕で払いつつも、フェイトは飄々とした人形染みた表情を崩さぬまま。

 

「いきなりだね。相変わらず沸点が低いなキミは」

 

 気が合うとはまた違い、息が合うといった方が正しいか。性格は全然違うはずなのに、妙に似た部分があるような、まるで歪んだ鏡を見ているような気がして癇に障るわけだ。

 正反対だけど、似ているところあると自覚できるから、やけに反発してしまうというか。録音した自分の声を聞く気分になるのだ。

 

「はっ、ゲートでいきなり襲ってきたお前にだけは言われたくないね」

 

 皮肉に返した軽口もまた飄々とした態度は逆に挑発となったのだろう。それが引き金であったかのように、フェイト・アーウェンルンクスは地を蹴り、脚を踏み出す。今度はフェイトが受け止めた腕とは逆の拳でアスカに殴りかかった。

 

「野蛮なのは先に始めた方に決まっている」

 

 今度はこちらが流したアスカだが、なおも止まる様子のないフェイトに、その腕を掴み止めた。

 ギリリと軋む両者の四肢。掴んだ腕を捻じ伏せようと、掴まれた腕を振り抜こうと、互いに力を込める。幼稚な意地の張り合いそのものの力比べに、小さく舌打ちを鳴らしたのもまた同時。

 

「初めて会った時からお前が気に入らなかったんだよ」

「君と気が合うというのは最悪だが同感だよ。僕も君が気に入らない」

 

 待ちに待ったこの瞬間を見逃さないと、両者は掴まれた腕を力任せに振り解くと、前にも増して大きく腕を振り被る。

 鈍く激しい打撃音は、互いの拳が頬を殴りつけたもの。マトモに入った一撃によろけながら苛立ち呻いた。

 

「テ、メェ……ッ!!」

 

 怒気も凄まじく繰り出したアスカの三撃目は、初撃、二撃目に勝るとも劣らぬ重さでフェイトを打ち据える。仰け反ったフェイトは踏み留まってアスカを睨む。お返しするように攻撃を叩き込むが分身を操作にしている過ぎない以上、アスカに簡単に防がれる。

 

「こんなことなら本体で来るべきだったよ!」

「全くだ! ここで決着を着けてやったのにな!」

 

 ならばこそ、二人は込めた激情も凄まじく更に拳を振るい合う。

 魔法も培った技術も使わない純粋な肉弾戦。そこにあるのは、ただ、相手に抱く嫌悪と敵意の爆発。何がそんなに気に喰わぬのかと問えば、存在の全てがと答えるであろう。

 それは初めてハワイで出会った時から、そして、今対峙したこの瞬間において決定的に二人の中に刻み込まれた敵意。目の前に立つ男が心の底から気に喰わない―――――それは反発しあいながらも皮肉にも同期した感情。

 

「うぉおおおおおおおお!」

 

フェイトの怒声は改めて激しく、そこに込められた嫌悪を露に、アスカの腹を右膝で蹴り上げた。

 

「この野郎ぉおおおおおお!」

 

 対するアスカの叫びは憤怒に震えて底冷える。前のめりに崩れかけたアスカは、グッと踏ん張って持ち直すと、反動のままに頭を突き上げ、フェイトの顎先を跳ね上げた。

 分身である以上、パワーで劣るフェイトだけが衝撃に大きくよろめいて、それでもなお引き下がる意思はなく、それどころか文字通り怒り心頭の形相で、周りに群集がいるのにも関わらずに必殺を繰り出そうとする。

 

「「死ねっ!!!!!」」

 

 互いの叫びが重なって濁る中、だが、必殺の一撃を放とうとした二人の動作は半ばにて掴み取られていた。

 

「アホかッ!!」

 

 呆れも強く張り上げられた叱責は、双方の攻撃の手を掴みとめた男の怒声。響いたそれは怒りの激しさを物語るように、大気を振動させて爆発する。

 争う二人に対して放たれた、指向性もった衝撃波。

 

「んぎゃ!?」

「ぬ!?」

 

 予想外の方向からの攻撃に成す術もなく吹き飛んだアスカとフェイトは、それぞれ身体を強かに打ちつけて石畳に転がった。

 それでも油断なくあっという間に立ち上がると、攻撃を放った男を同時に睨み付ける。

 

「なにしやがる、ジャック・ラカン」

「コイツと同じ気持ちなのは癪だけど僕も聞きたいね、ジャック・ラカン」

 

 二人に攻撃を放った男――――ジャック・ラカンは周りのことなど欠片も考えていない二人を見据え、「祭りの最中に殺し合いを始めるんじゃねぇよ」と言い捨てた。

 

「血気盛んな年頃なのは分かるが時と場所を考えな。祭りは楽しむ物であって、殺し合いをする場じゃねぇ」

 

 至極最もな言い様であったので二人は揃って閉口し、何時の間にか周りから人がいなくなっているのを目にして互いを見ながらゆっくりと戦闘態勢を解く。

 二人が戦う気を無くしたのを確認したラカンの眼が細くなって眼光が一点に集中する。フェイトを見るというよりは射抜くといった方が相応しいその眼には、物理的な力さえ感じられそうである。

 

「こりゃまた随分と懐かしい顔じゃねーか。土? 地だっけか、のアーウェンルンクスだったか。二十年前に一人目、十年前に二人目がナギの野郎にやられたって聞いたが、テメェが三人目か?」

「…………三番目などと無粋な呼び方をしないでほしいね」

「ああ、フェイトだったか。自分でつけたにしちゃいい名前じゃねぇか」

「どうも」

 

 ラカンは楽し気な笑みを浮かべているが全身に油断はない。反対にフェイトは完全に戦う気を失っているようで体から力を抜き、返答にもどこか適当さが滲み出ていた。

 アスカをチラリと見たフェイトは改めてラカンに視線を戻す。

 

「貴方が人里に出て来るとは少し意外だったね。世捨て人になったのかと思っていたけど」

 

 ラカンの太い眉の下にある瞳は、どこか遠くを見ているように思える。鍛え上げられた身体には、異常なまでの筋肉の隆起が見られる。生半可な修練ではこれほどの肉体を得ることは難しい。筋肉質といっても肉の厚みからくる重さを微塵も感じさせない。野獣だけが持つ無駄なく研ぎ澄まされた肉体美がある。

 これでもかと存在感を主張する男が、今この時にこの浮遊都市に現れたことをフェイトは憂いていた。

 

「引っ張り出されちまってな。まあ、悪くねぇよ。こういう予想も出来ないことががある分だけ、人里の方が刺激に満ちてやがる」

「僕と()るつもりかい?」

「前大戦の生き残りっつうんなら、自分の拭き残しぐらいは拭かなきゃなんねぇが、お前は大戦後に作られたタチだろ? 俺が戦う意味はあんまねぇな。ま、そっちの坊主やこっちの嬢ちゃん達が五百万出すなら話は別だがな」

 

 そう言ってラカンが親指で後ろを指し示すと、そこには明日菜達が物陰から隠れるようにしてこちらを見ている。

 分身であってもフェイトの実力はまだ彼女らを凌駕している。全員で闘えばいい線を行くだろうが、その場合は周りの保証は出来ない。アスカとフェイトが戦う気になってしまったことを考えれば、彼女達がラカンを引っ張り出してきたのは英断と言えるだろう。

 

「詠春の娘に自分の拭き残しぐらいは拭けって言われたが、来てみれば見覚えがあるっつうんで介入したが別人だしな。場所を変えるなら幾らでも戦って来い」

 

 シッシッと手を振って追い払う動作をしたラカンにフェイトは呆れたように息を吐いてアスカを見る。

 

「興が削がれた。今日はここで失礼するよ」

 

 言って、分身を解いたのか、足元から砂となって体が解けていく。

 一瞬で砂になっていく中でフェイトの口が「次は必ず決着をつける」と動いたのを目にしたアスカは、親指を下に下ろして「一昨日来やがれ」と返す。

 風が吹き、フェイトがいた場所に留まっていた砂が攫われてどこかへと運ばれていく。

 

「はぁ」

 

 衝動的にフェイトの取引は断ったが、アスカの口からは重い溜息が漏れていた。

 

「テメェら兄弟は揃って何時も辛気臭ぇ顔してやがんな」

 

 溜息と一緒に下がった視界が地面を映し出し、そこに突如として入り込んだ影の主であるラカンを見上げる。

 

「辛気臭くもなる。なんだって誰も彼も俺に秘密を打ち明けたがるんだ?」

 

 これはアスカにとっての本音だった。たった半日に過ぎない間に知った隠された事実は、とてもアスカの裡に収めておけるような内容ではない。さりとて容易く他人に相談できる内容でもなく、鬱屈が溜まるばかりだ。

 

「俺にどうしろってんだ? ああ、どうしろってんだ!?」

 

 頭を掻き毟りながら叫ぶ。叫ばずにはいられなかった。

 

「何を聞かされたのか知らんが、考え過ぎだ。ていっ」

「いたっ!?」

 

 大きい拳が煮詰まってこんがらがっていたアスカの頭に下ろされ、視界に星が散ったような感覚と痛みを得る。

 

「なにしやがる!」

「苦み走った顔をしてたからスッキリさせてやったのよ」

 

 頭を押さえながら頭二つ分は上にあるラカンの顔を見上げると彼は笑っていた。そのことが妙に癪に障った。

 

「元はといえば、紅き翼がこの世界の問題を片付けていれば俺がこんなに苦労することもなかったんだぞ!」

「ほぅ」

「完全なる世界は全てを救うと言った。じゃあ、アンタ達がやったことはなんなんだ? やったことに意味はあったのか!」

 

 アスカが胸の裡に溜まっている思いをぶちまけると、一瞬二人の間を沈黙が支配する。

 

「知るかよ」

 

 間を置いたラカンは心底どうでもいいとばかりに口にした。

 

「じゃあ、逆に聞くがお前は意味がなければ戦えないのか?」

 

 はぐらかすな、と激昂しかけたアスカよりも早くラカンが問うた。

 

「言葉遊びだ。人は何かを得る為に、何かを失わない為に戦う。俺だってそうだ」

 

 やがて、ゆっくりとアスカが答える。それは考え抜いた上に、やっと言葉にすることが出来たかのように想いの籠もった口調だった。

 

「ふぅむ、思考の袋小路に至ると自分の中で結論を出そうとするのは母親似か。かぁ、面倒臭ぇ」

 

 思いつめた眼差しで見上げて来るアスカを見たラカンは、ふと何かを思いついたような顔をする。

 

「良いことを思いついたぜ。おい、アスカとかいったか」

「あん?」

「俺もナギ杯に出る。何を隠そう、俺こそがナギ杯の主催者の一人だ。他の奴らから主催者推薦で出ろって言われてたんだが受けることにしたぜ」

 

 もうラカンに興味を失くして恐る恐るやってきている明日菜達に意識が向いていたアスカの眼が急速に戻って来て点になる。

 

「大会で俺に勝てることが出来れば、俺の知る全てを教えてやる。俺達が何を思って戦ったのか、ナギのことも、お前の母親のことも含めて一切合切全部な」

 

 アスカは最初ラカンが何を言っているのか理解が出来なかったが、やがてその意味が頭の中心部にまで浸透するとゴクリと唾を呑み込んだ。

 

「途中で敗けたらどうするんだ?」

「そん時は何も教えてやれねぇな。運と自分の弱さを嘆け」

 

 ラカンは自分が敗けることをチリほどにも疑っていない。出場すれば自分が優勝することは自明の理であると、慢心ではなく事実として認識している。

 

「本当に全部を教えてくれるんだろうな」

「くどいぜ。男に、二言はねぇ」

 

 尚も言い募るアスカに向けて、ニヤリと凄みを滲ませて笑う。

 

()ろうぜ、アスカ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 歓声が沸き起こる。その中心で踊るのは二人の拳闘士である。

 その戦いは世界から選りすぐられた頂点と呼ぶべき大会に相応しく、武技に溢れ選手は勇猛にして果敢。しかし、必ずしも両者の実力が拮抗しているとは限らない。

 

『ナギ・スプリングフィールド杯の記念すべき第一試合。千の刃のジャック・ラカン選手、新世代と呼ばれる犬上小太郎選手を全く寄せ付けません!』

 

 試合が始まって既に数分が経過し、実況者が語るように試合状況は英雄ジャック・ラカンが貫録を見せつけていた。

 

「確か犬上小太郎とかいったか」

 

 アーティファクトを展開しているラカンは、試合相手である犬上小太郎に良い一撃を与えて地面に叩き伏せた後に追撃をしないまま、痛みに呻きながらも立ち上がろうとしている少年を見下ろしながら話しかけた。

 

「お前は確かに良いセンスをしてるぜ。後二十年、いや十年も死ぬ気で修行すりゃ俺達の領域に踏み込めるほどだ。だが、それは今じゃあねぇ」

 

 そんなことは闘っている小太郎自身が分かっていることだった。

 気の総量、練り、集積率、経験、技量、色んなものがまだ小太郎に足りていない。そんなことはずっと承知しているのだ。

 

「五月蠅い、わぁ! 及ばんからって戦わん理由にはならんやろ!」

 

 ボタボタと頭から垂れる血を拭いもせず、立ち上がった小太郎は吠える。

 足りない物は百の承知で、及ばないのも千も承知で、勝てないことも十分に承知している。それでも、と小太郎は痛みを堪えて立ち上がってみせた。その足はダメージの重さを物語るように震え、自分の足だとは思えないほど頼りない。

 

「俺は手負いだろうが向かってくる相手にゃ、手加減しないぜ」

 

 と、ラカンが手を振るった。周りの地面に突き刺されていた無数の剣や槍といった無骨な武器を掴み勢いよく投げ放たれ、小太郎を襲う。

 

「この程度でやられんわ!」

 

 一気に半獣化した小太郎は叫びながら数え切れないほどの武器から身を躱す。狼を彷彿とされる素早い動きであった。

 

「さぁ、どんどん行くぜ!」

 

 ラカンは背後の武器の中から無造作に大剣を掴んで放つ。その要領で武器を次々と放っていく。武器が刺さった地面は瞬時に吹き飛び、大穴が開いていく。恐ろしい威力であった。

 小太郎は走り回る自らの影から狗神を呼び出し、ラカンに向かって飛びつかせる。

 

「おいおい、こんなちゃちなもんで俺を倒そうってのかよ?」

 

 ラカンに迫った狗神の悉くが武器の斉射を受けて木端微塵に粉砕された。やはり英雄が相手ともなれば、苦し紛れの攻撃の小細工などあまり意味がない。

 

「れりゃぁ!」

 

 と、狗神に気を取られた隙に小太郎がラカンの死角に回り込み、背後から襲撃する。しかしラカンは振り返ることなく、小太郎の気が十分に込められた一撃を最初から分かっていたように動かした剣の刃で弾いた。

 

「おっと、危ねぇ危ねぇ」

 

 実際危なくなんてないのに、ラカンは振り返りながら呟いた。

 一撃を防がれようとも連打を続ける小太郎を軽くいなしながら軽口を言う余裕がラカンにはある。

 

「テメェ、中々速いじゃねぇか。少し驚いたぜ」

 

 小太郎が体を回転させて素早く放った回し蹴りを受け止めながら、口笛を吹くラカンの顔には紛れもない賞賛があった。

 

「俺を舐めるなや!」

 

 受け止められた足を起点にして、飛び上がりざまの蹴りを放つ。狙いは先程防御した腕。

 ラカンはこの一撃を受け止めようとしたが、今度はラカンの腕が蹴りで弾かれた。

 

「へ~」

 

 しかしラカンの余裕は崩れない。あっさり体を反らして、更に体を回転させて放った最初に受け止められた足での蹴りを躱した。

 

「おおおぅ」

 

 小太郎が右手を振り上げ、狗神を召喚して疾空黒狼牙を放とうとした――――――――が、右肩に衝撃が走り、その手の力が抜けてしまった。

 

「な!?」

 

 十分な距離が空いていたはずなのに、伸びあがったラカンの長い脚蹴りが小太郎の右肩を打ったのだった。強烈な蹴りだった。一撃で肩関節が粉砕された。狗神を使うヒマがない。

 

「ふっ」

 

 続いて、ラカンは着地と同時に右足を振り上げ、体勢を崩した小太郎の顎先を爪先で思いっきり蹴り飛ばした。脳髄まで響くほどの衝撃。痛すぎて、痛覚を痛覚として感じるよりも前に体が弾き飛ばされる。

 体が後方へ飛ばされる―――――――が、思ったほどに飛ばなかった。何故なら一瞬で背後に回り込んだラカンが、小太郎の脳天に強烈な踵落としを決めて地面に叩きつけてくれたからだ。

 

「ぐがっ!?」

 

 成す術もなく地べたに倒される小太郎。闘技場の固められた地面が粉々になって、小太郎の体は一メートル近くも地面に穴を掘って、ようやく勢いが止まった。

 狗神を使うどころか、まともに防御するヒマすらなく叩き伏せられた。

 圧倒的な実力差。まさに悪夢だ。勝てないと、小太郎は本能的に、その事実を悟る。

 

「一丁上がりだ。もっと修行して来な。次に戦う時を楽しみにしてるぜ」

 

 倒れたままの小太郎を見下ろして、ラカンが呟く。

 これはラカンにしてみれば最高級の賛辞であるが、そんなことが小太郎に分かるはずがない。

 

「意識があったら辛いだろ。一思いに楽にしてやる」

 

 ラカンが手を振り上げる。具現化されるほどの強烈な気の塊が唸る。

 

(これで終わるんか?)

 

 今の一撃の衝撃で思考が朦朧としかけている小太郎はぼんやりと思った。

 

「まだや!」

 

 自分で終わりに仕掛けたことを契機として、全部を曝け出したわけではないと叫んだ小太郎の身体が変化していく。

 半獣化させていたた体を更に変化させる。彼の全身が体毛状の鎧を纏って巨大な獣の姿に変わる。そして現れたのは巨大な漆黒の狼。

 黒く尖った針のような獣毛に覆われた四肢が大地を踏みしめている。土を抉る鉤爪の一本一本ですら、成人男性の平均を凌駕するほどに長い。牙を剥いた口腔に赤黒い舌が覗く。

 

「我流・犬上流奥義、狗音影装!!」

 

 狼となった小太郎は地面を蹴り黒き閃光となって、宙を舞った巨体がラカンへと襲いかかった。

 空を迸る気を纏う一匹の獣が飛ぶ。

 

「グルウウウァアアアアアアアアアア!!」

 

 獣化した小太郎が咆哮した。

 彼の前脚が、まるで獲物を捕らえるように、乱暴に空中を薙ぎ払った。肉と肉がぶつかるような、重々しい音が鳴り響いた。

 

「――――――――なに!?」

 

 呻いたのは小太郎の方だった。

 

「へぇ、その姿でも人語を喋れるんだな、と!」

 

 前足を軽々と手で受け止めたラカンが言いながら小太郎の前足を引っ張りながら軽く放ったように見える拳が胴体に直撃し、「がっ!?」と血反吐を撒き散らしながら吹っ飛ばされる。

 

「残念だったな。魔獣退治は傭兵剣士()の専門領域でな」

 

 ニヤッと笑って呼び出したアーティファクトを握り、砲弾のような勢いで未だ地面に並行に吹っ飛ばされている小太郎に向かって跳躍する。

 腹部から全身に向かって走る痛みに呻きながらも向って来るラカンの姿を視認した小太郎は、一気に気を練り上げて口蓋に集中させていく。今の小太郎は人間である面よりも狗族である面の方が強く出ているので、態々狗神を呼ばなくとも気に宿っているような物なのである。

 

「お」

 

 自然と狗神が宿る漆黒の気弾が幾つも吐き出され、もう少しで小太郎に追いつこうとしていたラカンに着弾した。

 一個当たり数メートルの爆発をしてその最中にラカンの巨体も呑み込まれる。

 

「溜め無しでこの威力は褒めてやるが――――」

 

 体勢を整えて滑るように地面に着地した小太郎の耳に低い男の声が届いた。

 

「――――まだまだ足りねぇな」

 

 気弾の爆発が切り裂かれ、幾つもの剣が飛んでくるのを見た小太郎がその場から飛んで回避する。

 上空に逃げた小太郎が瓦礫の中で傷一つなく立っているラカンに向けて、もう一度数発の気弾を吐くがその場から動くこともなく片手で相殺される。

 ただ、気の籠った拳を放つだけで狗神が籠った気弾を難なく相殺され、追撃を仕掛けようと口から漆黒の気弾を吐き出そうとしていた小太郎の動きに躊躇いが生まれた。

 

「隙有りだぜ」

 

 突如体に走る、鋭い痛みと衝撃。一瞬で目の前にまで移動したラカンが剣を小太郎に突き刺していた。激痛と共に、体に鋭利なものが貫通する不快な感触に口の端から血が零れ落ちる。

 

「まだ――」

「これで終わりだ」

 

 痛みで霧散させてしまいそうな気を根性で纏め上げ、漆黒の弾丸として解き放つ前にラカンが剣を持っていない方の掌に莫大な気を込めて小太郎に叩きつける。

 小太郎が放った複数の気弾の爆発よりも遥かに大きい爆発が闘技場の半分を覆うほどに広がり、生じた光が観衆の目を眩ませる。

 爆発が収まり、観衆達の目が元に戻ってから闘技場を見る。

 

「ほう、まだ立ってるか」

 

 まず目に入るのは圧倒的なまでの存在感を放ちながら仁王立ちするジャック・ラカン。

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 襲い掛かる圧倒的な戦力差に翻弄され、完全獣化どころか半獣状態でもなくなり満身創痍となった小太郎は荒く息を吐いていた。それでも二本の足でしっかりと立ち、手に拳は構えたままだ。

 もう立っていることがやっという感じで、少しでも気を抜けば意識が飛ぶよう状態で小太郎の視界はぐわんぐわんと歪んでいる。

 

「…………俺は、アンタには及ばん。今は、まだ」

 

 実力差は始めから分かっていた。勝てないこともまた。

 それでも挑むのだ、戦うのだ。反骨の精神を持つ小太郎は諦めることを知らず、挫けても直ぐに立ち上がり、何度でも向かって行く。この敗北もまた糧として小太郎は強くなる。

 

「負けを認めといたる」

 

 敗北宣言をした瞬間、張り詰めていた糸は切れて小太郎の意識は一気に闇の中へと落ちて行った。

 

『おおっと、犬上選手の敗北宣言が出ました! んん? もしや意識を失っておりませんか? 審判確認を!』

 

 実況が試合の決着に興奮染みた声を上げ、立ったまま動かない小太郎の状態の確認に悪魔っ子の審判を向かわせると、悪魔っ子は頭の上でバツ印を作った。

 その様子を双眼鏡の魔法版の魔法具で実況席から確認した実況者が腕を振り上げた。

 

『犬上選手はどうやら意識を意識を失っている様子! 記念すべきナギ・スプリングフィールド杯第一試合はジャック・ラカン選手の勝利です!!』

 

 実況者が声を張り上げてラカンの勝利を喧伝するのに合わせて観客達が大声で歓声を上げる。

 前評判通りの結果となったが、小太郎は未だ十代も半ばに達していない少年だ。ジャック・ラカンと戦いらしい戦いが出来ている時点で、新世代と目されている面目は躍如している。

 ラカンが言ったように十年後が楽しみであると、今日の観客達は決して犬上小太郎の名前を忘れることはないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ナギ・スプリングフィールド杯第二回戦は開始と同時に激しい剣戟が交わされております!』

 

 実況の声を耳にしながらアスカ・スプリングフィールドは対戦相手のことを見る。

 

(マニカグ・ノーダイクン、前大会出場者か。かなり、やる)

 

 黒棒で攻撃を捌きながら相手の容姿、体格、武器捌きを観察していく中で、前大会出場者の肩書に偽りはないと判断する。

 羆のような見た目に、ガッチリとした体躯。年の頃を三十を少し過ぎたところだろうか。戦士としてはもっともよい時期を迎えているといってよい。

 その巌のような男は首から下を鎧で包んでいる。年季こそ感じられるものの、手入れはよく行き届いている。擦り傷や切り傷が鎧の至る所につけられているのは、幾多の戦場で主人を守ってきた証だ。

 そして手にしている武器は身の丈ほどもるバスタードと呼ばれる剣で、幅の広い刀身には文字とも紋様とも取れるものが刻まれている。

 

「斬り捨て御免!」

 

 振り上げたバスタードに極炎の蒼炎を纏いつかせながら、マニカグは跳躍する。ばさついた体毛が踊り、身に着けた古風だが堅牢な造りをした金属鎧が音を鳴らす。

 

「セイッ!」

 

 アスカの振るった黒棒の剣先が、一端足首辺りにまで下がってから迎え撃つように旋回する。

 跳躍から落下に至る勢いと、全身を覆う鉄鎧と、獲物のバスタード自体の大きさ、それだけの質量を込められた一撃が、重力に逆らって振り上げられた剣に受け止められた。

 ぶつかり合い、衝撃波を押し広げて衝突による閃光が、巻き上がった砂塵に呑み込まれる。殆ど衝撃と言っていい熱波が肌を叩く。

 二つの剣先が凍り付く。だがその氷もすぐさま砕け散った。

 着地しかけたマニカグが無謀にも金属鎧の肩の装甲を押しかけて、ずいっと圧し掛かって来た。魔法的処置が施されているとはいえ、効果が付与されるのは着ている当人のみ。押し当てられたアスカには金属鎧本体の百㎏近い重量が圧し掛かり、踏み抜いた地面に亀裂が広がっていく。

 

「そこっ!」

 

 ここが好機と見たマニカグは手に持つバスタードから放つ蒼炎を撒き散らし、このまま叩き潰さんと力を込める。蒼炎によって膨張する熱波が亀裂によって生まれた細かい破片を舞い上げていく。

 重量と勢いでジリジリと押されてきたアスカは、このままでは押し切られると察して体を引いた。押される勢いに逆らわず、体捌きだけでマニカグの剣撃の威力を受け流しきって側面に回り込んだ。

 着地したマニカグも座して見ていたわけではない。振り下ろしたバスタードの勢いを殺さず、体を駒のように回して半回転する。下ろしたバスタードを半回転した体の動きに合わせて下から掬い上げ、背面から放たれたアスカの黒棒と交錯させる。

 反発した剣が左上から右下へ、右下から左上へと、二人の剣が描いた二筋の孤が幾度も交差する。激突し、弾かれ合う剣筋が矢継ぎ早に閃光を閃かせ、衝撃波を押し広げる。斬り結びながら移動する二人の足下で地面が次々と捲れ上がり、土塊を吹き上がらせて二人が発する闘気が包み込む。

 

「ハァアアアアアアアアアアアアアッッ!!」

 

 アスカは吠えると、左右の上段から猛烈な速さで刃を走らせる。

 マニカグには光が走ったとしか思えぬほどの速度だった。反応できたのは奇跡に他ならず、素人が振り回したよりは五段階ぐらいマシ程度の剣技が恐るべき速さで迫るのを半ば無意識に防いだ。本人ですらよく防げたと思うほどの反応であった。

 更にアスカは黒棒を大きく振りかぶった。もはや自らの意志ではなく肉体の反応に動かされる器である。だからこそみえみえのフェイントにも引っかかってしまう。

 振り上げた黒棒を降ろすことなく、背中に構えたままで斬撃と見せかけて腹部に渾身の蹴りを入れた。

 

「うぐ」

 

 鎧がベコリと靴型にヘコんで呻くマニカグ。

 鎧は剣や斧のような鋭い刃に対しての防御には有効だが、打撃系のダメージは完全に殺げるというものではない。マニカグが纏っている鎧は魔法的処置が施された一級品であったがアスカ・スプリングフィールドという常識外の相手と対峙するには頼りなさ過ぎた。

 

「ぜらぁっ!」

 

 獣染みた速度と執拗さで追撃を仕掛けて来るアスカ。

 体は前かがみの状態でよろけながらも、袈裟に振り下ろされた一刀をマニカグはバスタードを合わせて防ぐ。それを皮切りに次々と飛来するアスカの斬撃・拳撃・蹴撃に対応する。

 

「それっ」

 

 下から振り上げられるように放たれた黒棒を追いかけて蹴りが放たれ、刀身を蹴り上げられたことで加速する。

 加速した剣速に対応できずに鎧がスパッと斬られるが生身にまでは至っていない。が、斬られたという事実がマニカグを一瞬硬直させ、軸足を回転させたアスカが刀身を蹴った足を胴体にねじ込んで来るのに反応が遅れる。

 

「ぬうっ!?」

 

 衝撃に息が詰まっている間に体勢を戻したアスカの疾風迅雷の如く閃く連撃。その一撃、一撃を受け止める度にマニカグの腕は軋み、二度蹴られた腹部が燃え上がるように疼く。

 今のマニカグにアスカの剣を弾き返して、反撃に転じるのは不可能だ。このままでは凌ぎ切れなくなるのは時間の問題だが、かといって下手に回避すれば、先程のように蹴り飛ばされるのが目に見えている。 

 マニカグは数合の立ち合いで目の前で相対する少年の底知れぬ実力に気づき、目に映る物事を少しでも多く理解しようと瞳孔が広がった。だからこそ、ほんの寸瞬だけ曲がったアスカの膝が必殺の前兆であると見て取れた。

 だが、彼の足が反転伸びきるのを見れても反応するだけの反射神経は持ち合わせていない。

 十年に一度開催されているナギ・スプリングフィールド杯は、終戦二十年を記念する大会だけあって前回大会よりもレベルが高い。マニカグも本選トーナメントに出場するだけあって実力は折り紙付きである。その反射神経も常人を遥かに超えた域にある。ただ、アスカがマニカグの上を行く速度で動いてみせた。それだけである。

 

「疾ィッ!」 

 

 股、腿、膝、脛、足首、踵、爪先、全てを一直線にしてアスカはその力を己の剣へと伝えた。

 勝負を決めるべく放たれた一閃を、マニカグは全身ほどもあるバスタードで受け止めようしたが、果たせずに手から弾き飛ばされて飛ぶ。自らの手から解き放たれた武器から意識を戻すまでに要した時間は瞬きほどもない。

 油断ともいえない時間の経過がマニカグの敗北を決定づけた。突きつけられた黒棒の先が首元に向いている。

 

「参った」

 

 完敗だ、と清々するぐらいの力の差を見せつけられ、マニカグは両手を上げて降参した。

 

『マニカグ選手ギブアップ! アスカ選手の勝利です!』

 

 審判がアスカの勝利を謳い、歓声が闘技場を揺るがせた。

 黒棒を仕舞ったアスカはマニカグと健闘を称え合い、握手を交わして登場入り口に向かって歩く。

 この後にも試合があるので、闘技場の整備の時間を考えれば選手が何時までも留まるのは望ましくない。ラカンと小太郎の試合に比べれば、多少地面がめくれ上がって切創や焦げ跡が付いているだけでさほどの時間がかからなくてもだ。

 

「ん?」 

 

 もう直ぐで選手入り口というところで妙にその近くがザワザワと観客が騒いでいるようで気になったアスカは顔を上げた。

 

「よう」

 

 観客が騒いでいる原因――――ジャック・ラカンが観客席の縁に腕を乗せてそこにいた。

 

「お互いに勝ったようで安心だな。これで俺達は闘うことになる」

 

 アスカがラカンに勝てば彼が知る全てを話すという約束。その為には本選で闘う必要があったわけだが、互いに一回戦を勝ち上がって準決勝で闘うことが決まったラカンは上機嫌にアスカを見下ろす。

 

「どうせなら決勝で戦いたかったとこだが、そこは組み合わせの妙ってやつで仕方ねぇ。まあ、お前が勝って良かったよ。折角の約束が不意にならなくて良かった」

 

 自分が敗けることなど端からありえないと絶対の自信を覗かせたラカンがギラリと獣の如き眼光を放つ。

 サインが貰えるか、握手だけでもと互いを牽制し合っていた観客達が自分に向けられたわけではない英雄の鋭い眼光に静まり返っている中で、ただアスカだけが気圧されることなく睨み返している。

 

「ああ、本当にな」

 

 ラカンの近くにいる者が気絶しそうになっている威圧感に晒されても毛ほども恐れを感じていない様子のアスカが涼やかに答える。

 涼やかに答えた言葉とは裏腹に目には激烈なる闘志が込められており、既に戦う気満々になっていることが誰の目にも明らかであった。

 

「明後日まで首を洗って待ってろ。ぶっ飛ばしてやる」

「言ったな、小僧」

 

 英雄に発するとはとても思えない挑発を向けられたラカンはニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の新オスティア新聞に号外が出た。

 選手入り口前にいるアスカと観客席の縁にいるラカンの姿を横から捉え、傍目にも闘志をむき出しにする二人の姿を写真に捉えた一面が掲載されていた。

 その新聞を一回戦を難なく勝ち上がり、次の準決勝の対戦相手であるカゲタロウとの戦いに向けて英気を養っていたネギ・スプリングフィールドが読んでいた。

 

「千の刃と英雄の息子の対決、か」

 

 英雄と同じ英雄の忘れ形見が対決するのだ。二人の実力は一回戦で証明されており、誰もが楽しみにしているのは今も外から響いてくる人々の声が物語っている。

 

「僕だって……」

 

 ネギの記事はとても扱いが小さい。カゲタロウの扱いに比べれば大きいが一面を飾っているアスカとラカンに比べれば紙面の端っこに載っているようなものだ。

 ネギはアスカと同じ立場であるはずなのに、少し前まで何も変わらなかったはずであるはずなのに、どうしてこんなにも変わってしまったのか。

 胸郭の中で、心臓が狂ったように拍動している。息は上がり、汗が噴き出し、体の節々に激痛が走り抜けていく。少しでも気を抜けば卒倒しかねなかった。

 体だけではない。意識の奥底で何かが蠢いていた。それはネギの心に牙を立て、食らいつき、ジワリジワリと心を蝕んでいく。その度に、ネギは神経を撫でられるかのような鮮烈で絶望的な感覚を味わっていた。

 

 

 

 

 






次回『第73話 伝説への挑戦』




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第73話 伝説への挑戦

 

 

 

 

 

 そこは古代ローマの闘技場(コロッセウ)に似た巨大な場所になっていた。この闘技場は広く、何よりも高さのある空間になっている。

 全国大会で使うに相応しく、広さも造りも立派なものだった。

 観客席は闘技場を中心に円を描くように並べられ、更に階段状に広がっている。最上階は見上げるほど高い場所に位置し、もしそこに人が座っていたら顔をハッキリと判別できるどうか分からないほどだ。

 

『皆様、長らくお待たせいたしました。これよりナギ・スプリングフィールド杯準決勝第二試合を開始します!!』

 

 実況者の言葉により闘技場が震えるほどに観客の声援が爆発したかのように熱狂する。誰も彼もが腕を振り上げ歓声を飛ばす。

 闘技場の中央上空に投影された巨大モニターには、アスカ・スプリングフィールドとジャック・ラカンが向かい合っているバストアップ写真が映され、二人の異名である『ノアキスの英雄』と『千の刃』の文字が派手なエフェクトに合わせて浮き上がる。

 

『英雄と、同じ英雄のその息子の対決に期待が集まっています。前日までに集計した街頭アンケートでの勝敗予想ではなんと5:5と互角の争いとなっていますが、解説としてお呼びした前回大会準優勝のザイツェフさんは、これをどう見ますか?』

『実際にアスカ選手と拳を交わした私としては彼の勝利と予想していますが、ラカン選手の戦歴を見れば揺るいでしまいます。大戦時における公式発表されているジャック・ラカン選手が沈めた帝国艦は、なんと驚きの大小合わせて百三十七隻となります。数だけなら千の呪文の男(サウザンドマスター)を凌ぎ、恐らく生身で艦を沈めた数では有史以来№1でしょう。他にも九体の鬼神兵に素手を戦いを挑んだ、帝都守護聖獣である古龍・龍樹と引き分けたなど大戦中の逸話には事欠きません』

 

 改めてジャック・ラカンの戦歴が語られた闘技場の観客達がざわつく。

 

『ですが、アスカ選手の経歴も凄いものです』

 

 やはりラカン有利かとなりかけた空気をザイツェフの声が引き止める。

 

『アスカ選手を一躍時の人としたノアキス事変では四属性の最上位精霊と戦ったと聞きます』

『最上位精霊は百年に一度目撃例があるかないかと言われていますので、その話自体が眉唾という話もありますが?』

『連合・帝国が公式で精霊王の降臨を認めたのです。その下の上位精霊が四体揃っていようとも不思議ではありません。しかもアスカ選手は精霊王の一撃をも防いだとの話もあります。決してラカン選手に劣るものではありません』

 

 自信満々のザイツェフの魔法具によって拡大された言葉が闘技場内に響き、ザワザワと騒めく。

 

『それだけではありません。ノアキス事変で有名になり、高額の賞金がかけられたことで個人も含めた多数の賞金稼ぎ結社に狙われたわけですが、その全てを撃退してこの場に大会に出ている時点で並々ならぬ実力が証明されているわけです』

 

 おおっ、と観客席から感嘆の声が上がり、何故か鼻高々と言わんばかりにザイツェフが自慢げな顔をしている。

 十分に場を温める話が出来ているザイツェフだがアスカ贔屓が強く見られるので実況はラカンの方の話を出す。

 

『専門家の間ではアスカ選手の実力は認めるものの、流石にラカン選手相手には分が悪いとの見方が囁かれ、早くも何分間アスカ選手が持ち堪えられるかが賭けの焦点となっており……』

 

 細々とした説明が闘技場で行われている頃、既に超満員となった観客席から響いて来る騒めきを遠くに聞きながら、控え室の壁際のベンチに座っているアスカ・スプリングフィールドは眼を閉じて静かに精神集中を行っていた。

 彼は目を閉じていた。最後の時から、ずっと。視界を閉ざし、さりとて耳を澄ますわけでもなく、ただ意識だけを尖らせていた。感覚を、静かに練っていく。

 逃げられない、と考えて、なにから逃げるのかと自嘲する。

 

「……っ………アスカ選手、時間です。闘技場へ」

 

 それから数分後――――遂に運命を決める瞬間が訪れた。

 大会設営委員らしいスーツを着た男性が控え室に入ってきて、静かな威圧感を発するアスカに息を呑むも己の職務を全うした。アスカが控え室を出た後、大会設営委員の男性が腰を抜かして尻餅をついていたのは余談である。

 控え室を出たところで、アスカの精神集中の為にトサカが外の廊下で壁に凭れて腕を胸の前で組みながら立っていた。

 

「勝てるのか、アスカ。あの大英雄に」

「戦う以上、誰であろうとも負けるつもりはない」

 

 アスカは不敵に笑うと自信有り気な口調で言って、ゆっくりとした足取りで足元が見えるだけの最低限の蝋燭の火が灯された闘技場の通路を歩く。その後をトサカも付いていく。

 

『いよいよ選手入場となります! まず西より、千の刃ジャック・ラカン選手の登場です!!』

 

 西側の入場口から大量のスモークが吹き出したかと思えば、白煙を切り裂くようにしてマントを纏った褐色の巨体が姿を現した。

 ジャック・ラカンは薄く笑みを浮かべて歩みを進め、アーティファクトを呼び出して剣を地面に突き刺し、柄頭に両手を乗せて対戦相手を待ち受ける姿勢を取る。

 

「行って来い」

「ああ」

 

 伝説の英雄の登場に観客達は大興奮して、あらんばかりの声援を送る歓声を聞いたアスカは、拳を突き出して来たトサカに応えて闘技場へと繋がるトンネルのような通路を歩く。

 

『続いて東より、ノアキスの英雄アスカ・スプリングフィールド選手の登場です!!』

 

 選手紹介に合わせてトンネルの出口、莫大な光に溢れたその先へとアスカは踏み出して行く。

 光に慣れぬアスカが瞳を僅かに顰めた直後に耳を聾するほどの爆音が鳴り響いた。それは観客席を埋め尽くした数万にも及ぶ観客達の歓声であり、闘技場の各地に設置されたスピーカーから溢れる司会者の叫び声でもあった。二つの巨大な音は一つの大きな渦となって、巨大な試合会場を包み込んでいる。

 降りかかる巨大な唸りの流れは冷静に事を進めたがる選手にとっては必ずしもプラスになるとは言えない空気の振動だったが、闘技場で並び立つ両陣営はこの程度で揺らぐほど弱くは無い。

 不敵な笑みを浮かべたラカンが歩み寄って来るアスカの姿を見て笑みを深める。

 

「来たか」

 

 年齢は十代前半から後半と若く、細身に見えても頑強な体に強烈な意志を持った双眸は、対峙した相手に彼を隙のない戦士に見えた。引き締まった鍛鉄の如き体躯のアスカ・スプリングフィールド。

 もう一人は人間のものとは思えないくらい発達した筋肉が暑苦しいジャック・ラカン。肌の張り、そして色艶も申し分もない。彼のコンディションの良さは、離れた場所にいるアスカにも分かった。

 

(落ち着け、落ち着け……)

 

 アスカが歩を進める。一歩一歩近づく度に、胸を押しつぶされそうな感覚に襲われる。

 闘気だ。絶対的な力による圧迫。敵意も殺意も含まない、どこまでも純粋で果てしなく強大な闘気。今のアスカは、ラカンにとって獲物である。それが、痛いほど解った。それでも膝を屈することはない。身体の奥底から湧き上がってくる闘争心が、今にも恐怖に崩れ落ちそうになるアスカの心を支えている。

 

「逃げずにやられに来たは褒めてやる。この場で立っていられるだけでも後々の自慢にしてもいいぜ」

 

 傲岸不遜な物言いに、虚飾は一切無かった。圧倒的な自負とこれまで積み上げてきた道が彼を支えている。

 

「好きなだけほざくがいいさ。試合が終わった後には何も言えなくなるんだからな」

 

 ラカンに負けず劣らずの挑発を返したアスカの表情はまだ固い。

 挑発を聞かされても、ラカンに明確な反応はなかった。ただ黙って、武器である剣を握る手に力を込めた。

 事前に予想した癇癪染みた怒鳴り声もない。鋭い光を湛えた両眼はそのままに、じわじわと戦闘態勢を取っていく。

 

(思ったよりも単純な男じゃないということか)

 

 アスカは胸中で呟きながらラカンの評価を修正する。

 先程まで歓声という音の洪水で満たされていた闘技場が、僅か一瞬で静寂の帳に包まれる。皆が口を噤み押し黙っていた。

 ごくり、と喉の鳴る音がした。多くの観客のかもしれないし、貴賓席にいる誰かであるのかも知れない。明日菜達の内の誰かだったのかもしれない。ともかく、闘技場内の全員が圧倒された。

 空気そのものが痺れてしまったかのように、沈黙が支配する。

 まだ、開始の合図も鳴らしていない。だというのに、耳鳴りがする程の静寂を作り上げた二人は周囲のことなど我関せずとばかりに戦意を高めていく。

 既にラカンの攻撃圏内に入っている。それは同時にアスカの射程範囲でもある。

 互いの攻撃が交錯する距離に二人はいた。

 圧縮された空気が熱を帯びてゆく。息苦しいほどの熱量を浴び、アスカの身体は心地の良い汗を発汗しながら拳にギリギリと力が籠る。

 

『それでは準決勝第二試合開始!』

 

 試合開始の宣言と同時にアスカは呼び出した黒棒の刃を正眼に構える。刃に帯電する雷光は眩く、対するラカンもまた己のアーティファクトの剣を腰溜めに構えた。

 

「そらぁっ!」

 

 ラカンが一気に間合いを詰めにかかると、恐ろしいほどの速さで刃を真横に走らせてきた。

 アスカは後方宙返りをすることで、易々とこの攻撃を躱す。

 

「ほー、速攻で決めてやるつもりだったが、躱しやがったか。まあ、このぐらいはやって見せてくれなきゃな」

 

 ラカンは傷一つなく回避してみせたアスカに感心した声を上げた。

 

「なら、こいつはどうよ?」

 

 言い終わるが早いか、足元を爆ぜさせて迫るラカン。数十メートルの距離を一息に潰して懐に飛び込んできた影。今度も巨体からは信じられない素早さで上段から振り下ろしてきた。 

 何の小細工もない、上段から振り下ろしてくる最速の一撃。掠るだけで身体の半分を持っていかれそうな剣が、後退して跳んだアスカの眼前を通過した。ただし、剣先は地面を抉らなかった。振り下ろした勢いで柄を捻って一回転させ、再び上段に戻してきた。銃弾を装填するように。

 

「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル――」

「遅いッ!」

 

 危機感を覚えて始動キーを唱えた始めたのを遮るようにがなる声と共に繰り出された功撃は単発ではなく六連、アスカの膝元から喉笛までを火花を散らして駈け上げる。その速さに、詠唱を続けて隙を晒す愚は犯せず、相手の初撃を躱しても懐に踏み込むことも出来ない。それどころか六連の内、受け流したのは三連まで、残りの三連は体裁きで避けるも服と肌を浅く掠めて走った。

 アスカは僅かに走った痛みと熱気を堪えて吐息を細く。六連目の振り際に合わせて踏み込み、腰溜めに構えた剣をラカンの腹に突き出すと、そのまま勢いに任せて押し返そうと薙ぎ払う。

 撃音が鳴り響いた。

 金属同士の激突音にしては余りにも太く重いそれは、二人の剣撃がぶつかり合った音だ。薙ぎ払いの一撃と、それを受け止めた剣が衝突は白い閃光にも似た火花を散らす。

 文字通り輪切りにしようと迫る剣を、ラカンは手にしたアーティファクトを振るって受け止め、流す。ギリギリと奥歯が疼くような擦過音と、撒き散らされる火花。

 アスカは全体重を込め、さらに雷撃をも乗せた剣がラカンを押し飛ばそうとするも僅かに押すだけに留まった。

 籠められた力が反発して火花が散る中、二人は同時に後方に飛んで距離を取る。

 互いに僅かにも構えを崩さぬまま、「来たれ(アデアット)」とアーティファクトを呼び出すワードを言ったラカンの背後に剣、槍、鎚、斧、多種多様の白亜の武具が虚空に突如として出現する。

 

「それが千の顔を持つ英雄か」

 

 ジャック・ラカンの代名詞である千の刃の語源となった、如何なる武具にも変幻自在・無敵無類の宝具と名高きアーティファクトを前にしたアスカに焦りはない。

 

「行くぜっ!!」

 

 ラカンの号令に合わせ、白亜の武具の雲が空に舞う。

 アスカに逃げ場などなく、上空から降り落ち、雨となって怒涛の斬撃と化した。その凄まじさを例えるならば何十人もの不可視の剣士に一斉に襲い掛かられるのにも等しい。しかも武具の一振りずつが稀なる名刀のキレ味を湛えて。

 

「温い」

 

 飛来する武具の全てを黒刀であっさりと弾き飛ばす。

 四方八方に散った自身のアーティファクトの行方を見て、構え直しているアスカが無傷なのを確認したラカンが破顔する。

 

「クハァ~………やるじゃないか。いいね、いいねぇ!」

 

 ラカンの全身から噴火寸前の活火山のような、きな臭い闘気が膨れ上がる。

 声も高らかに、一瞬で距離を詰めながらラカンは長身のリーチに任せて大きく薙ぎ払う。受ければ受けた剣ごと吹き飛ばしそうな重い剣戟は、その上で十二分に迅速。身を躱すアスカに対し、時折白亜の武具を投げ飛ばしながら上へ下へと巧みに軌道を変えて執拗に追撃してくる。

 次々と波濤のように繰り出される連撃。しかもその一撃一撃が異常なほど重い。ただ闇雲に振るわれているのではない。まるで生き物のように違う角度から襲ってくる。

 また、それだけではない。時折、フェイントも織り交ぜて来る。

 ラカンの剣技は派手さや豪快さが売りに見られがちだが、実はいくつもの細かい卓越した技が盛り込まれているのだ。

 

「流石にやる」

 

 勢いが乗ってきた最初よりも重い攻撃を受け止める。力負けしないように踏ん張っていたのでアスカはその場から微塵も動いていない。完全にラカンの剣撃とその衝撃を受け止めたということだ。

 防戦一方のアスカは、とにかく全神経を集中しなければならなかった。少しでも集中力が途切れてしまえば、そこで全てが終わってしまう。

 

「ほれ、次行くぞっ!」

 

 二刀になったラカンは楽しそうに眼を細め、更に勢いを増した連撃を放った。

 このまま防御を続けていても、アスカは勝つことは出来ない。ラカンの体力が尽きるのを待つのも一つの手かもしれないが、それよりも先に、アスカの集中力が切れる方が早そうだ。

 とにかく攻めるしかない、とアスカの脳が激しく指令を出している。

 

「うるせぇんだよ! この馬鹿力がっ!」

 

 次々と放たれる一切の容赦のない剣撃に、アスカは堪えかねた叫びに鋭い叫びを込めながら、一際大振りに迫る一撃を払って軌道を変える。

 そこに隙が生じた。アスカにとっては僅かに訪れた攻撃のチャンスだ。それを逃すまいと、身を撓めて飛び越えた。地面を蹴り砕いての跳躍は、薙ぎ払う剣どころかラカンの頭上を大きく飛び越えて宙返る。

 

「そらっ」

 

 アスカが背後に降り立ったところへ、ラカンは身を反転させつつの薙ぎ払いを放つ。そんなものは予想通りだとばかりにアスカは着地して身を低く沈めざま、最高速の独楽となってラカンの足を浅く斬り払った。

 

「ぐぉっ!?」

 

 痛みよりも斬られた驚きに体勢を崩し、仰け反ったラカンの後頭部をアスカは雷を纏った飛び膝で蹴り上げる。

 それは見事なまでのクリーンヒット。人体の中でも固い膝頭が後頭部を強打し、込めた雷撃がラカンの体内を駆け巡る。ラカンも流石にこれは効いたのか、二刀の内の一刀を取り落とし、ガクリと膝を折った。が、崩れ落ちそうになったのは一瞬のこと。

 

「舐めるなよ、これぐらいで俺がやられるわけないだろうがぁっ!!」

 

 その叫びと共に身を翻し、爆発的な勢いで地を蹴ったラカン。巨体を獣のように低い放物線を描いてアスカへと踊りかかる。

 

「ふ……ッ!」

 

 アスカは黒棒を斜め後ろに提げたまま、ラカンが虚空に描くアーチの下に駆け込んだ。見下ろすラカンと見上げるアスカの視線がぶつかり合い、ラカンが眉を顰める。下に潜りこまれてしまえば、跳躍などは隙だらけだ。

 アスカは片足を踏み出した疾走を止め、身体を低くしてラカンとの距離を計る。身体一つ上に、ラカンが見えた。この距離ではアスカの黒棒のリーチには絶妙の間合いだった。対するラカンの大剣は大きすぎて大振りになっていた為、寸瞬だけ黒棒の方が速い。

 

「はッ!」 

 

 アスカは上半身を捻りながら黒棒を跳ね上げた。

 雷光を纏わせた黒い刀身が斜めに走り、ラカンの足元から腰を断ち割らんと迫る。雷刃が描く死の軌跡を瞳に映し、少しも慌てずにラカンは大剣を握る両腕を振り上げた。

 

「こん……のおッ!」  

 

 上げた両腕を力の限り振り下ろす。速さの増した剣速が寸瞬だけ上回っていた黒棒が届く寸前に間に入って行く手を阻んだ。

 ぶつかり合う二つの剣から青白い雷光と気のエネルギーの波濤が飛び散った。鍔迫り合いの体勢で、二人の動きが空中で一時凍る。

 

「はン……」

 

 噛み合う刃越しにラカンが笑って黒棒を弾き上げて、がら空きになったアスカの脇腹を狙い、蹴りが横薙ぎに襲う。

 アスカは円舞のようにステップを踏んで身体を回転させた。一回転ターンした視界が正面に戻ると流れるような踏み込みに乗せて、遠心力を付加した雷刃を右斜め上へと振り上げた。

 

「オラァ!」

 

 アスカの動きを予測していたラカン雄叫びと共に大剣が疾風の如く急加速させて振り下ろされた。

 ガギリ、と異様な音が生まれた。落雷のような激しい、シンバルの一打ちに似た音がビリビリと闘技場を震わせた。そして刃の軌跡が空中に留められたように、紫光が残ったままだ。

 二人の剣がずれ、互いの剣が相手の顔を狙う。

 

「クソが!」

 

 折れんばかりに首を傾けるアスカ。だが完璧には避けきれず、大剣が彼の頬をザックリと切り裂いた。一方ラカンの頬にも薄く斬り傷が走っていて微かに痛みを覚えたようで頬を顰めている。

 ラカンが口元を歪める。

 互いに得物を突き出した体勢の二人は、剣を引きその場から飛び退った。二人は頬の血を乱暴に拭う。ラカンが付けた傷の方が何倍も深い。

 

「ハッキリ言って、テメーがここまで俺に付き合えるとは思ってなかったぜ」

「そっちの方が傷が多いくせに何言ってやがる。降参宣言なら何時でも受け取ってやるぞ」

「口の減らねぇガキだが、ここまで楽しませてくれたんだ、見逃してやる」

 

 ああ言えばこう言うラカンの言い様に、アスカはこんな緊張状態にありながら自然と笑みが零れた。身体の高揚感を感じずにはいられなかった。

 

「もう少し楽しませろや、アスカ!」

 

 アーティファクトを剣から突撃槍に変えて、至近距離での高速突貫。それは実際に地を蹴った爆発を伴って、穂先はアスカがガードした剣に逸らさせられて火花を散らす。

 穂先はギリギリで受け流したアスカだっだが、身体ごとぶつかってくる突貫そのものを防ぐことはできず、爆圧と共に空中へと吹き飛ばされる。

 

「せいっ!」

 

 宙で身体を捻ったアスカは、追撃の構えを取ろうとしたラカン目掛けて剣に力を籠めて、剣撃を連続する。それは斬撃の衝撃波を生み、神鳴術の斬空閃にも似た力の刃が一斉にラカンを襲う。

 

「詠春の技に似てんじゃねぇか!」

「直伝だよ!」

「にしては威力が弱ぇなっ!」

 

 力の刃を軽々と斬り払い、アスカを跳ね飛ばしたラカンは身を顰めるように低く伏せ、更なる気を解き放つ。

 全身のバネを駆使しての跳躍。その力の全てを槍の穂先に込めて、迫り来る力の刃を蹴散らしつつ頭上のアスカを真上から突き上げる。技を放った直後で宙に投げ出されたアスカにはそれを躱す術はなく、両の手で槍の柄を掴み取るが、槍撃はそれで止めきることは叶わず、突き出された穂先がアスカの肩口を軽く抉った。

 

「ぐっ」

 

 吹き上がる爆炎と、溢れ出る鮮血。

 その確かな手応えに、ラカンは「ハッ」と、短い笑声を吐きつつ、突き刺した状態のままで空中から槍を振り下ろしてアスカを地面に叩きつける。

 

「がっ!?」

 

 受け身も取れずに背中から落ちたアスカ。ラカンは気を抜かずにトドメの一撃を放つために槍を引こうとして、しかし、未だにガッシリと握り締められているそれは動かず、逆に自身の力の反動で大きくつんのめった。

 

「はっ! 剣はどこに……!?」

 

 アスカが片手で何かを指しているのに見て、その時になってようやくアスカが剣を手放しているのに気がついたラカンは、あまりにも迂闊すぎるというものだろう。

 

「来い」

 

 アスカは魔法で黒棒を手元に引き寄せようとしていた。それ事態には殺傷能力はないが、鋭利極まる黒棒の刀身が背後から空を駆けてラカンを狙う。

 

「ちぃっ!?」

 

 ラカンが咄嗟に視線を巡らせるよりも早く、飛来した剣は子供の腰ほどの太さはある二の腕に突き刺さる。が、ラカンは避けられないと悟っていたのか、避けるのでも、防ぐのでもなく、逆に突き出した槍に気を込めた。

 槍を掴んでいたアスカにそれを避けられるはずもなく、さながら巨大なドリルのごとく唸りを上げる気によって地に巨大な溝を抉りつつ、穂先を抜いたアスカを怒涛の勢いで後方に押し流いていく。

 

「ゥオオオオオオオオァラァァァ――――ッ!!」

 

 渦巻く気はラカンの雄叫びに呼応してさらに大きく激しく。立て続けに爆音と地の裂ける破壊音が響く。

 地を抉り込む気の渦が、大きくその勢いを止めた。決して勢いが弱まったわけではない。受け止めるアスカが力を振り絞り、その輝きを強めたが故だ。

 アスカの身体は無事とは言い難い。槍に貫かれた肩からは力を振り絞ったことで血が噴き出し、ところどころ衣服が裂けて血が滲んでいる。

 

「ラァアアアアアアアアア――――ッ!」

 

 限界に達したエネルギーが爆音として破砕した瞬間、アスカは怪我に構わず地を蹴った。爆炎の中を掻い潜り、ラカン目掛けて一直線に飛来する。

 飛び蹴る様はまさに雷光一閃。堪らず仰け反ったラカンの胸を踏み蹴って跳躍したアスカの手には、ラカンの腕から抜けた黒棒が舞い戻っている。

 

「これで――」

 

 振り上げた刃が放つ雷は、激しく音を立て雷光の如く輝き猛る。眼下には未だ槍を構えることはおろか、身を起こしてもいない無防備なラカンの姿。その姿を掻き消さんと、雷刃が稲光る。

 

「――――終わりだ!」

 

 跳躍で百メートル近く上昇したアスカが握る刃の先から敵に絡み付かんと伸びてゆく。ラカンもこの雷の脅威を悟ったのか、身を捻り避けようとするが――遅い。崩れた体勢で、此方の攻撃を回避できる筈が無い。ラカンの体に雷鳴剣が直撃して、トドメの宣告は雷光と着弾した爆音によって全員の目から遮られた。

 

『アスカ選手の高威力攻撃炸裂――っ!! ラカン選手が一瞬にして爆炎にって障壁障壁!?』

 

 興奮気味だった実況が地面を突き抜けた爆炎が魔法障壁を貫いたのを見て慌てて叫んでいる途中で、中空に滞留するアスカが何かを感じ取ったかのように顔を強張らせた。

 

「オラァ!」

 

 ラカンの雄叫びと共に爆炎を切り裂いた突撃槍がアスカに向かって一直線に飛ぶ。

 膨大とも言うべき凄まじい気が込められた亜音速の突撃槍は、先程天空から舞い降りた雷光とは逆のルートを辿ってアスカへと直撃する。

 次の瞬間、辺りを真っ白に染め上げる眩い閃光が観客全員の目を焼き、直後に発生した大規模な爆発は上空へと抜けたにも関わらず、観客席にまで衝撃が襲い掛かって来る。先のアスカの雷光剣の着弾で発生した緊急魔法障壁でも抑えきれなかったのだ。

 会場外の警備をしていたアリアドネー魔法騎士団員がテロ攻撃ではないかと勘違いしかける程であった。

 

『コラー、二人とも!! 何を考えておるんじゃ―っ!! 念の為に緊急障壁を何重にも敷いてそれらが働いたから良いものの、防ぎ切れなければこの闘技場が消し飛んでおったところじゃぞ!』

『ひ、姫様!! 口調が…………全国ネットですよ!!』

 

 テオドラが闘技場にいる二人に向かって放送で罵声を浴びせたが、観客はこれほどの高威力の攻撃を食らって生きている方が信じられない。

 

「無事だからいいじゃねぇか。しかし、案外脆いもんだなこの闘技場」

 

 まずラカンが辺りを漂う爆煙を焦げ付いたマントを脱ぎ捨てて払うことで姿を現す。

 

「全くだ。この程度で壊れちまったら全力が出せねぇ」

 

 黒棒を振るい、若干煤けているアスカがケホッと黒煙を吐き出しつつ、あちこちが穿り返された地面へと下りる。

 

『す、凄まじいまでの大規模高威力攻撃が両者より放たれましたが、どちらにも大きなダメージは見られません! アスカ選手が放った技は紅き翼の青山詠春氏の技に似ているように思えましたが…………なんにせよ、試合開始直ぐの展開とは思えません。これは期待が高まります。試合は障壁の再展開が完了するまで、今暫くお待ちください――』

 

 魔法障壁が再展開されるまで試合再開を待っている間、ようやく一息がつけた観客達が隣近所の者と話している。

 

「凄ぇ……闘技場の地面が滅茶苦茶じゃねぇか。上位精霊四体と戦って生き残ってるってるのはマジなのか」

「これが世界を救った英雄の力、今のがホントに個人の技なのか」

「こんなの初めてみるよ。二人とも戦艦の主砲以上ってことだろ?」

「流石はノアキスの英雄、千の呪文の男(サウザンドマスター)の息子だ」

「ナギの盟友ラカンの力はそれ以上だぜ」

「ああん、テメェはラカン派の野郎か? 筋肉マニアは下がってな」

「お前こそアスカ派だってのか? 止めとけ止めとけ。あんなひょろいガキが英雄と同格のはずねぇだろ」

 

 先の光景を巡って観客席で二人のファンが相手ファンに対して敵意を剥き出しにしていたりする。

 

「久しぶりに本気で放ったんだが、大した傷も負っちゃいねぇとは流石に思わなかったぜ」

「鍛え方が違うんだよ。そっちこそ、俺の全力の雷鳴剣に耐えるとは思わなかったぞ」

 

 地上で再び向かい合った二人はお互いを賞賛しながらも先のダメージは大したことがないと浮かぶ笑みで確認し合う。

 

「良い武器じゃねぇか。俺様に傷をつけられるなんざ、魔法世界でもそんなにねぇぞ」

 

 本当にアスカに大したダメージがないことを確信したラカンが視線を黒棒を見て言った。

 

「へへ、そうだろ」

 

 貰い物ではあるが、今では無二の相棒とも言える黒棒を褒められたアスカは得意気に黒棒を振り回し、もう片方の手で鼻の下を擦る。すると、ラカンが笑った。

 

「鼻の下に煤がついてんぞ」

「なに?」

 

 言われて鼻下を指先で拭うと確かに煤跡が付いている。

 格好悪い姿を晒していると気づき、恥ずかし気に服の袖でゴシゴシと拭う。

 

「まあ、抜けたところはあるが、お前はそれなりには強ぇ。それは俺も認めてやる」

 

 頬を僅かに朱く染めたアスカを笑ったラカンは言い終えてアーティファクトをカードに戻す。

 

「だが、それだけだ。怖くはねぇ。ただ、強いだけで凄みが足りてねぇんだよ、ガキ」

 

 次の瞬間、ラカンの発する気配が膨れ上がった。力の波動が渦を巻き、気配に煽られたアスカの鳥肌が総毛立つ。

 

『――――緊急障壁の復旧が終了、魔法障壁の強化も完了しました。試合を再開してください!!』

 

 ラカンに負けじと大きく息を吸い込んだ呼吸は巨龍の息吹の如く。地を踏みしめた足は重圧で地面に亀裂を走らせる。振り上げた拳はアスカの戦意に応えて激しく雷光を放った。

 

「せいッ!!」

 

 宣言と共に迸る雷を伴って走る。地面を蹴ったアスカは、踏み出した一歩目からトップスピードに乗っていた。踏み固められた地面が一瞬で抉られた。爆発とすら言えるほどの速度で、見えない壁を蹴りつけるように加速。彼我の距離を一瞬で詰めた。

 人間の限界を超えるような速さで放たれた拳は雷光を走らせてラカンを吹き飛ばす。

 

「オラァァァァァァッ!」

 

 ラカンの奇声が、響いた。苦痛の悲鳴ではなくて闘志の雄叫び。体を()の字に折って四肢を地面に叩きつけて体勢を整えた全身から発せられる威圧感に些かも翳りはなく、引き下がる様子は全く無い。

 瞬間から今宵の悪夢まで尾を引きそうな長い掛け声と共に放たれた敵の一撃は、容赦なく速い。

 直進であるかのように錯覚するほどの速度だが、決して直進ではない。見れば身体を左右に振って、闇に纏い付く奇怪な足捌きで突き進んで切る。その転進のリズムが視覚に幻惑を齎し、また振り出す腕に更なる威力を付加する。

 

「疾ィッ!」

 

 放った雷の九矢が避けられたのを見た刹那、アスカは横に跳んだ。そのギリギリの視界を、踊るような動作で大きく腕を振り下ろして――――ラカンが通り過ぎていく。寸でのところでその一撃を躱し、アスカは体が流されないうちに、足の裏を地面に叩きつけた。

 身体が止まる。振り返って迎撃の態勢を作り、敵を視界に収める。

 

(……速い……!)

 

 なんの小細工もない、新兵器もない、ただの素手の一撃。それだけで、容易く人体を爆砕させる威力をラカンは持っているのだ。

 

「くっ……」

 

 真正面に見据えた相手の身体が、爆発するように膨れ上がった。

 それは錯覚だった――――分かっていたが。身長は二メートルクラスあり、フットボーラー的な全身の筋肉を鍛え上げた分厚い身体が、鈍重さをまるで感じさせない素早い踏み込みからエルボーで突っ込む。

 相手が突進してくると分かってから接触するまで、まったく間がなかった。

 アスカは背中側に躱して死角に入ろうとしたが、ラカンは最初から予測していたように肩を使った体当たりに変化して突き飛ばされた。突き飛ばして体勢を崩したところに再度エルボースマッシュを見舞った。

 ガツッ、と鈍い音がしたものの、辛うじて打点は外した。が、その一発でアスカのガードが緩んだ。その気を逃さずラカンは重いフックとボディブローの連打を浴びせる。

 連打を避けたり、受けたりしながらアスカは、ここで打ち負けて守勢に回ってしまえば相手の思うツボであることを感じていた。

 烈風にも似たラカンの腕の内側に入り込むと、身体を沈めて回転しながら通り抜ける。受けにも、逃げにも回らない。その際に二発。急所には至らないが、ラカンの肉体へと拳を触れさせた。

 

(これは……っ)

 

 だがこの勢いのある重量物へと痛痒を与えることはできず、敵の身体の強靭さを思い知るだけに留まった。アスカが突き出した拳から感じた感触は、不動の大樹を殴りつけたかのように重い。

 

(固いっ、拳が押し返されるっ!!)

 

 人間の肉体とは思えぬ感触にアスカが固まっている間に、雷の矢が込められた拳で麻痺していなければおかしいラカンはその巨体に似合わぬ素早さで振り返りつつ、右フックを放つ。全てが異常な素早さだった。

 

「ハッ!」

 

 気がついたときには邪魔な蝿を払うような腕の振り回しによって弾き飛ばされていた。その動きは余りに流麗。ラカンの動きは余りに鮮やかすぎて、攻撃を受けた後にしか理解できなかった。

 

「くっ」

 

 弾き飛ばされて空中で体勢を整えるアスカに向かってラカンの剛腕が空気を切り裂いて唸る。

 その拳を身を捻ることでかわし、逆に虚空瞬動でラカンの懐に飛び込んで先程の回避動作の遠心力を利用して喉下に蹴りを放つ。だが、喉下という鍛えることの出来ない人体の急所を衝かれたのにラカンに効いた様子はない。

 ラカンの攻撃は始まっているが、先程のこともあって逡巡は短い。かといって遠心力を利用して攻撃していたために背中を見せる形となっていた。しかし、ただ背中を見せるつもりはなかった。背中越しに攻撃の気配を察知して、空中で身を屈めて右フックを外側にかわしながら、その手首を掴んで引いた。相手が抵抗して腕を引っ込めようとした瞬間、その力を逆に利用して空中で跳躍する。脇腹に右膝を食らわせ、そのまま後ろに倒れ込むラカンを飛び越えて両足を首に引っ掛ける。

 自分の頭を振り子の錘のように使って後方に倒れこみ、自らの脚力で相手の上半身を前のめりにさせ、ラカンの頭部を地面に叩きつけた。

 

「ぐはっ!」

 

 プロレス技の一種であるフランケンシュタイナーの変形型を受けたラカンは、ダメージは大きくないが衝撃に息を漏らした。

 そのままトンボを切るように手をついて飛び上がり、ラカンから距離を取った。

 これで終わったとも思えない。そう思ってラカンの方を見ると丁度、何事もなく起き上がっているところだった。

 

「まさか、あれを食らって全然効いてないのか!?」

「おう、効いた効いた! おかげで肩こりが取れたぞ」

 

 ラカンは首をコキコキと鳴らしながら、ニィッと笑った。

 

「ちょろちょろと飛び跳ねやがってやりづれったらありゃしねぇ。まあ、大分慣れてきたし、勘も戻って来た。次、行くぜ」

 

 アスカの視界からラカンが消え失せる。凄まじい速度でアスカの視界の外へ移動されたと気づくまで、一瞬の時間が必要だった。そしてその時には風を切る音がアスカの真後ろから響いていた。

 反射的に後ろを振り返りながら無意識に腕を上げて防御に入る。

 

「ッ!?」

 

 ラカンが放ったのは、ただの蹴りだった。にも拘わらず、アスカの体が防御した腕ごと大きく吹っ飛ばされた。仰け反り、バランスを崩すアスカの腹へ、ラカンは握った拳をただ放つ。

 空気を溜めに溜めた風船が破裂したような凄まじい轟音が炸裂した。

 巨龍をも屠る右拳を受けて苦痛に呻くアスカの口から唾液が零れ、ノーバウンドで十メートルも飛んで戦いの中で生まれた瓦礫の岩石の一つに直撃した。長身のアスカと同じくらいの大きさの岩石が粉々に砕け、体が更に地面を滑る。

 

「がっ……く……」

 

 腹部から全身に広がる痛みに耐えながら岩に食い込んだ体を引き抜く。

 

(一筋縄でいくとは思っていなかったのが、この強さは……ッ!?)

 

 呼吸困難になったアスカの脳裏に警鐘にも似た認識が浮かぶが、冷静に考える暇はなかった。苦痛に呻く視界の先でラカンが空を跳んでアスカを踏み潰すために空中から脚から落ちてきているのだから。

 

「な、ァ……ッ!?」

 

 咄嗟に横へ転がるアスカ。しかしそれは遅きに逸していた。

 轟音と共に落下したラカンの蹴りの一撃はミサイルが着弾したような衝撃と爆発を起こした。無防備に受ければ死を免れない攻撃の直撃こそ避けたが、安全圏へは逃げられていなかった。

 爆発と衝撃によって撒き散らされる土塊がアスカの体を叩いたのだ。

 血を噴きながら転がるアスカを、ラカンは着地点からゆっくりと立ち上がりつつ静かに見下ろしていた。注意深く観察しているというよりは、慌てて追う必要はないとでも言わんばかりの表情だった。

 

「クソがっ」

 

 立ち上がりながら自分を叱咤していると、ラカンが飛んだ。その拳は固く握られている。

 

「そらっ」

 

 アスカがその場を飛び退き、ラカンの拳が地面に触れると拳から生じた衝撃波が、闘技場の地面を砕いて吹き飛ばした。

 アスカは火山弾のような勢いで飛んでくる破片を見切って避けたが、その直後、視界を覆った巨大な手に顔面を鷲掴みにされた。ラカンは破片が舞い散る中で地面を蹴り、砲弾のように低い弾道で飛翔して、空中でアスカの顔面を捉えたのである。

 

「つ・か・ま・え・た♪」

 

ラカンはアスカの頭上を飛び越えて着地し、首切り投げの要領で肩越しに引っこ抜くようにぶん投げた。

 

「オラアアァッ!!」

 

ラカンの投げは一発で終わらなかった。アスカの首を捕まえたまま、右へ、左へ人形を振り回すようにして何度も叩きつける。最後にアスカの身体を抱えたまま垂直に百メートル近くも跳躍すると、自分の巨体と地面の間でサンドイッチになるように大の字に落下した。

 競技場の地面が盛大に陥没し、破片ではなくて瓦礫が放射状に飛び散った。

 胸の悪くなるような沈黙が会場を押し包む。死んだ、と誰もが直感した。

 

「あ、やっべぇ。つい、やり過ぎちまったぜ…………死んじまったか?」

 

 遠慮なく全力を出せる喜びに恍惚とした薄笑いを浮かべながら、ラカンはゆっくりと身を起こして陥没した穴を見下ろす。が、真っ直ぐ突き上げてきた足が、覗き込んでいたラカンの顔面にめり込んだ。

 

「重たいんだよ。さっさと退けや、ゴラアアッ!!」

「がっ!」

 

 更にぐるりと腰を支点に体を回し、不安定な体勢だったにもかかわらず完全な制御と勢いを持ってもう片方の足がブレイクダンスのように跳ね上がり、真下からラカンの巨体の胸を蹴り上げた。

 そしてラカンを弾き飛ばしつつ穴から飛び出したアスカは、空中で華麗に回転して足から着地する。

 一拍おいて、観客から絶叫のような歓声が巻き起こった。

 

「おい、ピンピンしてやがるぜ!」

「なんで、あんなの食らって生きてるんだ!?」

 

 呼吸をするのも忘れて見ていた観客たちの驚きの声が、辺りそこらで巻き起こる。

 流石に無傷とはいかず、頭部に裂傷を負って血が流れているものの、常人なら一発で死ぬような攻撃を何度受けてその程度なら十分だろう。

 無事なんてものではない。内臓が破裂するような衝撃によって痛みに喘ぎつつ、なんとか立ち上がっただけだ。呼吸法でダメージの回復を図りながら相手の動きを見る。

 当のラカンは納得と少し落胆を覗かせて、回復に努めるアスカに直ぐに攻撃を仕掛けない。

 

「情弱の連中にとっちゃ、お前は俺と同格に映るんだろうが…………本物には未だ及んでねぇ。期待はしたんだがな」

 

 かったるげに髪を掻き上げたラカンの最後の呟きはアスカまで届かずに霧散する。

 

「拳からは本当のお前が見えて来ねぇ。一番頑丈な檻の中に閉じこもってんじゃねぇのか」

「何を、訳の分からないことを言ってやがる!」

 

 まだダメージは回復していない。ラカンが攻撃して来ないというのならば相手の話題に乗るつもりであったが、訳の分からないことを言われて口調が荒くなる。

 

「仲間、友達、魔法世界、現状、敵、色んな思いを抱えている、抱えすぎちまっている。期待を背負って、やらなくちゃなんねぇと義務感を抱いて、他の奴には出来ねぇから、自分ならば出来るかもしれねぇからって、それが重荷になってる」

 

 ラカンはアスカに強い言葉を聞いていないかのように続きを捲し立て続ける。

 

「悪い事じゃねぇ。この広い世界には他人の期待を、願いを、想いを力に変えることが出来る奴もいる。俺や、ナギの野郎がそうだった」

 

 ドクン、とアスカの心臓が高鳴った。

 

「だが、今のお前はそうじゃねぇ。期待を重荷に感じてしまってる」

 

 やっと言いたいことが理解できた。今のアスカは世界の真実を知って苦悩し、多くの者から期待されることを辛いと感じている。力に変えるどころか、心の重荷になっていることは否定出来ない事実である。

 

「ふざけたことをっ!」

 

 事実は時に受け入れることは出来ない時がある。今がそうだ。認めることは出来ない一心で、縮地を使って拳を振り上げた。

 

軽い(・・)

 

 放った拳は簡単に払われ、足払いをかけられる。

 体勢を崩すことを嫌ったアスカは自ら飛んでラカンの横を通り過ぎ様に身体を捻って雷の投擲を無詠唱で放ち、穂先がラカンを貫くかに見えた。少なくともそのつもりで放った――――身体の中心、背骨を狙って。

 当たれば数秒は動きを封じることが出来る。悲鳴を上げる隙を与えず、相手を無力化できる。

 

「ちんけな攻撃だ」

 

 だが、ラカンは背中に眼があるかのように俊敏に横に回って雷の槍を躱す。更には体勢の偏ったこちらに対して、横殴りの一撃を打ち込んでくる。歯を食い縛り、アスカは身体を仰け反らせた。尻餅をつくほどに身を低くし、打撃を回避する。そのままバランスを保ち、素早く起き上がる。

 相手も止まっていなかった。振り向いた時には既に、拳を突きこんできている。

 

(避けるか、受け止めるか)

 

 一瞬にも満たない時間で、選択を迫られる。敵の拳に込められた気を見るに受け止めるのは得策ではないと瞬時に判断する。

 だがアスカは避けることもせず、その場で右足を振り上げた。内側に円を描くように、極度に絞り込んだ動作で蹴り出す。靴がラカンの拳を振り払い、衝撃が体の芯にまで通る。

 

(ぐっ……)

 

 軌道を逸らし、相手の攻撃動作を崩したところで更に足を上げ、自分から前進してきたラカンに向かって痺れた踵を振り下ろす形で攻撃を仕掛ける。

 蹴り足はラカンの肩口を捉えたが、痺れたことによる感触の浅薄さにアスカは舌打ちした。攻撃を逸らすことに成功したのは良いものの、その威力に負けて体勢を崩し、痺れたせいで威力が足りない。奇襲の勢いと足を使ったことで体重差を埋め合わせたつもりだったが、相手の攻撃の威力はそれを尚凌いでいる。

 威力だけではない。身体全体を移動させる足の運び、攻撃角度、全てが的確で最短しか要しない。

 

(人の壊し方を心得ている動きだ、こいつは)

 

 心中で呟きながら、幸い向こうの方が体勢は崩れているので些かの余裕があったので軸足で後ろ向きに滑り込み、肩と背で突き上げてラカンを押しやる。岩を押すようなもので微動だにしない。だが、ラカンは人間であり、決して岩ではないと念じて足を踏み出すと、その一撃に鋭さを加える。

 体重差は、体格で大きく劣るアスカが絶望的だったが、向こうは体勢を崩しているのと、かえって此方が逃げないのを見て取って接触を嫌ったのか、ほんの僅かに身体を退いた。

 僅かに空いた間隙に一撃、二撃と繰り出されてくるラカンの攻撃を死角への体捌きで躱すと、踵で敵の踝を狙う――――腱を切断することを目論んだ反撃だが、ラカンは見た目に反する舞うような動きで身体を反転させ、一旦間合いを空けた。

 

「逃がすか……っ!」

 

 そう言って、アスカは右足を前に踏み出した。

 地面を踏み抜くような、重い一歩は震脚だ。それは練り上げられた力を、一気に体内で高速循環して圧縮し、解放させる。そして生み出されるのは、流れるような動きで左拳を突き出す。

 

「誰が逃げるかよ……っ!」

 

 ラカンが叫び返しながら右の掌を使い、柔からな動作でアスカの拳を流すと、そのまま懐へ。

 

「「オオオオオラァアアアアアアアアアアアアアアアァ―――――ッ!!!!!」」」 

 

 放った叫びは同じくなら取った行動も全く同じ。相手の反撃を一切許さぬ拳の弾幕。互いの手の動きが見えず、只管に攻撃の衝撃だけが体を突き抜けてゆく。

 両者は止まらない。打ち付けた拳を支点として、身体ごとタービンの如く捻りこんでの渾身のラッシュ。その都度、無数の攻撃が穿って相手の身体が振動させる。相手を殴り倒さんばかりの、あまりに原始的な、だからこそ必殺を誇る攻撃。

 手数ではアスカが上。

 威力ではラカンが上。

 二人の体がマシンガンに打ち抜かれているかのように振るえ、顔が上下左右に激しく揺さぶられながらも攻撃は止めない。ここで攻撃の手を休めれば相手に圧倒されることが分かっているから、防御や回避せずにただ攻撃の一念のみ。

 手数と威力を総合すれば攻撃は恐らく互角。ならば、揺れる天秤を傾けるのはどれだけ攻撃に耐えられるか。即ち攻撃に耐えることの出来る肉体の耐久力こそがこの局面を決しうる。

 

「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラァッ!」

「……く……ぅ」

  

 攻撃の手数こそ緩めないものの、アスカの口から僅かな呻き声が漏れた。

 速度で上回ろうとも極限の気に練り込まれ、鍛え抜かれたラカンの鋼の肉体を前にして同じ土俵で打ち合って勝つには彼以上の耐久力か、鋼の肉体を突破出来る火力が必要だった。

 突破できる火力を用いようにも手数を緩めれば圧倒されることは分かりきっていた。だが、他にはどうにもすることが出来ない。逃げることも避けることも受けることも、選択した瞬間、倒されれる自分の姿が簡単に脳裏に浮かんだ。

 

(どうする! どうする?!)

 

 ダメージから徐々に手数は減っていき、被弾が増えていく悪循環を前に、良い手が思い浮かばずアスカは焦っていた。

 魔法の射手を拳に乗せれれば威力を上げることは出来るが、この攻撃を放ち受けている状況で一撃一撃に乗せるだけの集中力が保てない。魔力と気を攻撃と防御に振り分けながら対応しているが妙案は浮かばない。

 そんなアスカの思惑など知ったことではないラカンはニヤリと笑うと右手を大きく振りかぶった、

 

「そりゃぁっ!」

 

 掛け声と共に、カウンターで放ったアスカの右拳を左手で受け流しながら拳が放たれた。

 真正面からアスカの腹を打ち抜き、吹き飛びかけた体を先回りして掴むと「羅漢大暴投!!」と言いながらそのまま遥か彼方へと投げ飛ばした。

 数百メートル離れた壁際近くまで投げ飛ばされ、序盤で穿り返されて出来た岩石を幾つも穿つ。それでも勢いは止まらず、闘技場端の防御結界を作動させて跳ね上がる力の抜けたアスカの体。

 しかし、ラカンの攻撃は未だ終わらず。

 獲物に止めを刺す肉食獣の如く、これまでの動きが信じられないほどの速度で接近して、意識があるかどうかも怪しいアスカの腹部に飛び蹴りを叩き込む。

 

「おげぇっ!?」

 

 内臓が口から出て来そうな一撃の後に崩れ落ちかけたアスカの前に着地したラカンの手が指が下に来る変わった形の掌底の形で添えられた。

 

(防御を……!)

 

 飛んでいた意識を腹に当たる手の感触で呼び戻したアスカは、最大限のサイレンが鳴る予感に急かされて防御をしようとするも体が動かない。

 

「羅漢破裏剣掌!!」

 

 それよりも速く、ラカンは掌を強引に回転させて完全密着状態から捻りが加わり、螺旋状の衝撃が捻じ込まれる。

 アスカの防御を打ち抜いて内臓に響く衝撃がぶち込まれた。接触状態からの純粋物理攻撃には障壁による軽減にも限度があり、アスカの視界が自分の意思とは関係無しに大きく旋回しながら内臓に深いダメージを与える。

 腹に来た一撃は、容易く筋繊維をブチブチと引きちぎり、胃液と共に血が逆流する。激痛。

 

「うぐぅ……ッ」

 

 為す術もなく吹き飛ばされてそのまま地面に叩き付けられ、何とか四肢を付いて着地した。

 痛い。思考が明滅するほどの痛み。嫌悪感が食道を這い上がってくるような感覚があった直後に堪らずに大量の喀血。ビチャビチャと地面を跳ねて飛沫が範囲を広げる。

 下を向いて血を吐いたアスカの首筋に――――――ラカンの回し蹴りが突き刺さった。

 

「ガッ!」

 

 蹴り飛ばされて数十メートル転がって地面を擦れ、アスカは悲鳴もなく倒される。その一撃はラカンなりに殺さないように手加減されていたのだろうが、今の状態でも何の防御もなしに大型トラックに撥ねられたのと同じ衝撃だった。

 

『ラカン選手が圧倒! 英雄の名は決して伊達などではなかったっ! しかし、これだけの猛攻を受けたアスカ選手に息はあるのか――――ッ!?』

「アスカ!?」

 

 実況や観客席にいる明日菜が何かを叫んでいるが耳がイカレたのか聞こえない。それよりも痛い。とにかく痛い。脳が揺れていて思考がおぼつかない。

 

「く……そっ」

 

 漏れそうになる喘ぎ声を押し殺すと同時に激痛が内臓から手足の末端に向けて迸った。頭蓋骨に釘が打ち込まれ、脳に深々と突き立つような感覚。

 気を抜けば一瞬で意識を失いかねない状況に、必死に歯を食い縛って抗った。 

 

「痛ぇだろ。その痛みはお前だけのものだ」

 

 何時の間にか、少し離れたところに立っていラカンがアスカを悠然と見下ろしている。

 

「今のお前は一人だ。敵も目の前にいるこの大英雄ジャック・ラカン様よ」

 

 ラカンが向ける静かな眼差しは百年を生きた賢者のようであり、子供のままのやんちゃな少年のようもであり、色んなものが混ざり合った異質なものであった。

 

「捨てちまえ、全部。期待も、悩みも、これからのことも、何もかも。集中しろ、俺だけに」

 

 戦いの場において当たり前のことを説くラカンに、アスカの中で定まっていなかった何かが嵌っていくような感覚があった。 

 

「素のままのアスカ・スプリングフィールドを、その全てを俺に叩きつけて見せろ。じゃなきゃ、何時まで経ってもお前の親父にも俺にも届かねぇぞ」

 

 その一言を聞いた瞬間、アスカの目に光が戻った。その光は、空のように透き通った蒼い青色をしていた。

 

「――――!」

 

 全身の血を振り絞るかのように、アスカが激しく身悶えした。

 爪に土が入り込むのにも頓着せずに地面に爪を立てる。砂を掻くように足を動かす。喉を突き上げて空気を貪る。眦が裂けるほど両眼を見開く。

 

「ガアアアアアッ!」 

 

 アスカが苦痛を振り払って獣染みた叫び声を放って、全身をまざまざとした闘志に燃え上がらせる。

 意志の力で肉体を無理矢理動かす。膝を立て、胸を浮かした。蒼く光り輝く瞳に闘志を燃え上がらせて、彼はゆっくりと足を曲げ、片膝の状態から立ち上がる。ガクガクと震える足は、ダメージがまだ抜けていないことを示していた。それでも、気力だけでアスカは己の体重を両足で支えていく。

 岩でも引き抜くように全力を込めて、自らが作り上げた瓦礫の上に立ち上がって見せた。その膝は震え、足元はおぼつかない。

 

『た、立った!? アスカ選手、カウント十八で立ち上がりました!!』

 

 アスカが立ちあがっただけで闘技場の空気が震えていた。まるで、巨獣の腹の中に飲み込まれて、アスカの血塗れの体が消化されて無くなってしまうような、圧倒的な感覚だった。立つ地面が無くなったようだった。ただ人間が沢山いるということが、全感覚を狂わせる麻薬だということをアスカは始めて知った。

 戦慄く膝を押さえて、立っているのがやっとだった。力が入らないのに、体の奥から熱が後から後から湧き出して止まらなかった。息が出来なくて咳き込むと、喉の奥にへばりついていた血が口元を覆った手に散った。

 

「ケッ!」

 

 血混じりの唾を吐き捨て、不敵な表情でアスカは完全に立ち上がっていた。普通に考えれば既に立っていること自体が奇跡のような状態だったが、アスカの中から湧き上がる力は未だ尽きていなかった。 

 

「散々言ってくれやがって……」

 

 アスカの体は痛みだらけ、傷だらけだ。反対にラカンの傷は少なく疲労も殆どない。

 既にアスカの勝てる要素は殆どないと言っていいだろう。だが、アスカの今までの戦いにおいて、勝機が薄い戦いなど幾らでもあった。そしてその殆どに勝っている。

 最初からアスカがああだこうだと悩むのは性に合わない。今まではアーニャやネギに任せていたのに自分で考えるようになったからドツボに嵌るのだ。良い考えも浮かばないのに長く考え込んだところで何の役にも立たない。時間の無駄であるということは、ここ数日に悩んで判明している。どうせ考えることは頭の良い者達が散々にやっているのだから任せてしまえばいい。これは適材適所であると、自分を納得させる。

 

「いいぜ、見せてやるよ。俺の全てをっ!」

 

 全国区に放映されているのだからフェイトも見ていると考えた方が良いからと、技の出し惜しみをしていた。後のことを考えながら戦うなど本来ならばアスカの流儀ではない。

 らしくもなく出し惜しみをし、かけられる期待に重圧を感じて世界の真実を知って委縮していた。

 どうせ今までも出たとこ勝負でやってきたのだ。昔のやり方で押し通すと、追い込められて逆に開き直る。

 

「ここからは出し惜しみなしで行くぜ!」

 

 叫んで両腕を紋様を浮かび上がらせ、右手に気を、左手に魔力を灯らせて胸の間で合わせる。

 

「マジかよ、咸卦法だと? いや、それだけじゃない。なんだ、これは……?」

 

 ラカンをして異常と称せる光景が目の前で繰り広げられている。

 咸卦・太陽道を発動させたアスカの力は天井知らずに跳ね上がり、全身をすさまじいまでに強大なオーラが覆っている。異変はそれだけに留まらず、上がりきったと思われた力が更に上がったのだ。

 咸卦法というだけでは力の上がり方がおかしすぎる。その原因はアスカの両腕にある闇の魔法(マギア・エレベア)に似た紋様に理由があると推測は出来る。

 

「おぉおおおおおおおおおおお――――――っ!!」

 

 雄叫びを続けている間にも力が上がっていくのに、世界に溶け込みそうなほど自然過ぎてラカンの内心では混乱が収まらない。

 とはいえ、これがアスカの切り札の一つであることは間違いなく、見えていたと思った底が自分の間違いであると認め、ラカンは楽し気に笑った。

 

「俺も負けていられねぇな! はぁあああああああああああああああ――――っ!!」

 

 負けじと雄叫びを上げるラカンの全身を青く輝く半透明の煙のようなものが包んでいた。これは闘気だ。ラカンの闘争心があまりにも強すぎて、視認できるまでに具現化したものだ。

 ラカンはただ立っているだけだというのに、周囲の空気がビリビリと振動している。時折、火花のようなものが飛び散り、地面の小石に撥ねて砕いている。闘気の余波だけでこの威力とは恐れ入る。

 

「へっ」

「はっ」

 

 更なる力を纏った二人は笑い合い、戦いは次のステージへと移る。

 

「さあ、第二ラウンドの開始だ!」

 

 

 

 

 







 仲間を麻帆良に帰さなければならない、新しい英雄と呼ばれる重圧、期待をかけられる責任感、大国の思惑、世界の真実、完全なる世界の目的、紅き翼の真意、過去の出来事諸々……。
 ジャック・ラカンにいいようにやられ、言われて、我慢の限界に来て開き直ることにしたアスカ。
 切り札を知られるのがなんだ、世界の真実がなんだ、そんなことは今はどうでもいい。敗けるのが嫌いだ、考えるのは性に合わない。原点に立ち返って、ただ戦え。
 嘗て、桜通りの吸血鬼には二人でも足元にも及ばなかった。
 嘗て、父が瞬殺した過去の悪魔を打倒した。
 嘗て、古本の魔法使いに翻弄された。
 嘗て、千の魔法使いに二人で辛うじて勝った。
 そして今、父と同じ英雄に、ただ一人で挑む。
 挑戦はまだ始まったばかり。どれだけ父の背中に追いつけたのか、今試される。



次回『第74話 男の戦い』




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第74話 男の戦い




描写もせずに、ネギVSカゲタロウ戦は終了し、ネギが決勝進出決定。





 

 

 

 

 

「さあ、第二ラウンドだ!」

 

 言ったアスカの体がふらりと動く。お互いの距離は十メートル前後。ラカンがこうして観察するにアスカの体は満身創痍の立っているだけで精一杯という有様。立っただけでも奇跡に近い。

 それでも先程までとは違うアスカの様子にラカンは全身の神経を集中して、アスカの指先の動きまで捉えていた。下手な一手は打たず、最適のタイミングを見計らっていた。意志がアスカに向けて一斉に集中していくのを感じる。前兆。事が起こる前の第一波を決して見逃すまいと注視する。

 

(来るか……ッ!!)

 

 決して誓ってラカンはアスカから眼を離していていなかった。

 

「は?」

 

 だからこそ、アスカは何の策も弄さずに愚直というほど馬鹿正直に走って来たので、悪い意味でラカンの度肝を抜いた。

 咸卦・太陽道による身体強化で凄まじい速さではあるが瞬動を使うのでもなく、真っ直ぐに向かって来る姿はラカンが抱いた期待を大いに裏切っている。

 この程度か、とラカンが内心で落胆していると、後一歩で攻撃の射程圏内に入るというところでアスカの姿が消えた。同時に入れ替わるように雷の槍がラカン目指して直進してくる。

 突如として出現した雷の投擲に驚く。肩透かしを食らっていたところなので初動動作が遅れて回避行動に移れない。

 

「ちぃ」

 

 咸卦・太陽道で作られた雷の投擲は牽制であろうともまともに食らうわけにはいかない。ラカンが舌打ちをしながら迎撃しようとすると、文字通りに滑り込むように足下をスライディングしたアスカがラカンの左足に腕を引っ掛け、その反動で体が浮き上がる。

 

「あがっ!?」

「――――来れ、虚空の雷」

 

 雷の投擲を難なく迎撃したラカンは足下に滑り込んだアスカが足に当たったまでは感知していたが、突如として後頭部に衝撃が走ったことに驚く。

 雷の魔法の射手が込められた足でラカンの後頭部を蹴って空高くに跳躍しながら始動キーを唱え終わり、得意のコンビネーションである上位古代語魔法の詠唱を重ねる。

 

「薙ぎ払え、雷の斧!! 」

 

 無防備に受けるには背後から迫る雷の斧は危険極まりない。ラカンは後頭部から足先にまで広がる痺れを無視して地面を踏み抜いた。

 雷光剣と気の突撃槍によって穿り返された地面はラカンの力に耐えられず、端を踏み抜かれた岩が雷の斧から護るように屹立する。

 雷の斧の前には岩の塊など防壁代わりにもならないが、無理して避けるラカンの姿を一瞬とはいえ隠してくれる。追撃を警戒するよりも体勢を整えることを優先できるならば次の一手が大分変わる。

 

「契約により我に従え高殿の王、来れ巨神を滅ぼす燃え立つ雷霆、百重千重と重なりて走れよ稲妻」

 

 雷の斧が岩の塊を粉砕した破砕音と貫通して地面に着弾した爆発音を間近で聞いたラカンの耳が耳鳴りに支配される中でも、朗々と響く詠唱の声と咸卦の力の高まりは見逃せるものではない。

 

「千の雷!!!」

「気合防御――っ!!」

 

 雷の斧の後でこれは避けられないと、気を膨張させて全身に纏って防御をする。

 大戦時代にナギの千の雷にも耐えた防御であったが、アスカが放つ千の雷はそれを凌駕するのではないかとラカンに危機感を抱かせる威力を発揮する。

 闘技場全てを埋め尽くすほどの雷の雨が降り注ぎ、審判は最初の攻防で危険を察知して避難していなければ巻き込まれていたことだろう。その雷の雨の只中に晒されることになったラカンには堪ったものではない。

 

「ぐ、くぅ……」

 

 普通は対軍勢用魔法を生身で受ければ塵も残さずに消えているところだが、ラカンは全身から白煙を漂わせながらも立っている。

 

「や、やってくれるじゃねぇか。ちょっとだけ危なかったぜ」

 

 カハァ、と大量にあった瓦礫を焼き尽くした浅いクレーターの底で、口から大量の白煙を吐き出しながらあちこちに出来ている火傷の跡を示す。

 ほぼ闘技場の地面全てに広がるクレーターの端っこに下りてラカンを見ていたアスカは心底呆れ果てたとばかりに息を漏らした。

 

「超広範囲雷撃殲滅魔法を食らっといて、ちょっとで済むようなレベルは異常だぞ」

 

 アンタは本当に人間か、と生物であることすらも疑問視しながらアスカがクレーターの中心へと身を躍らせた。

 そのまま軽く歩いて距離を詰めて来るのを見たラカンはアスカから意識を放さぬまま、ほんの少しだけ肩から力を抜いた。

 

(単純な威力だけなら、あの頃のナギの野郎よりも上なんじゃねぇか?)

 

 ナギの千の雷の受けたのはまだ仲間になる前になるが、今受けた千の雷は確実にナギのを上回っている。

 二十一年も前の話だから単純な比較にはならないが、今のアスカと当時のナギが同年代であることを考慮に入れると単純な魔法使いとしての力量ではアスカが上なのかもしれない。

 ラカンがつらつらと頭の一部で考えていると気が付いたらアスカが真横に、それこそ身体が触れ合うような至近距離に近づいていた。

 

「なッ!?」

 

 多少は気が緩んでいたがラカンは決してアスカから目を離していなかった。

 決して素早い動きではない。むしろ緩やかにすら感じられる歩みで本当に極自然だった。距離を一息に詰めるでもなく、悠々と歩いてきたのだ。まるで友人か家族の家に上がりこむような、何気ない足取りだった。とても戦いの最中には見えない。

 まるで、雲の上を歩む仙人のように軽妙かつ玄妙な足捌き。相手の呼吸や意識の隙間を完全についた形。それは何気ないようでいて、あらゆる戦闘における奥義とも言うべき到達点だ。

 あまりに軽い歩みだった所為で、ラカンですら懐に潜りこまれたのに気づいても反応するのが一瞬遅れてしまった。

 

「ぐっ!?」

 

 息を呑む前に、避けろと頭が悲鳴を上げるよりも何倍も速く、残像すら渦巻かせてアスカがラカンの頬を横から殴るように肘を放つ。反応する、という選択肢すら頭に浮かばなかった。

 ラカンの視覚は世界が勝手に高速で回りだしたように感じた。

 アスカの攻撃はまだ終わらない。宙にあるラカンに音もなく忍び寄り、地に付く直前に鉄球が落ちたような怒号の震脚が地面を揺るがす。

 手首、腰、膝の三点に捻りを加えた結果、雷迸る右腕に回転力が付加される。アスカは回転力が付加された右の掌底を、思いっきりラカンの裸の腹部に打ち込んだ。

 

「白雷浸透勁」

 

 バーン、とアスカが呟いた技名を掻き消すほどの近くで雷が落ちたような凄まじい打撃音が鳴った。

 

「!」

 

 と、その時、信じられないことが起きた。

 アスカが掌底を打ち込んだ場所の、ちょうど反対側のラカンが着ている背中の衣服が爆発したかのように吹き飛んだのだ。

 原理は単純。威力だけが貫通して反対側を突き破ったのだ。全て波のようなもので、衝撃や破壊力に形はない。波を上手く使えば、内部に浸透して目標を貫通するような攻撃も可能な骨法でいう徹し。中国拳法では浸透勁と呼ばれる技法である。

 白雷浸透勁は、浸透勁を白い雷が込められた右腕で行うことで相手の体内に衝撃と雷撃を叩き込む技である。

 

「な、に!?」

 

 壮絶な吐き気を抑えようとした時には、既に体のバランスは失われていて思わず片膝をついていた。下手に立ち上がろうとすると、体内に残ったダメージによって地面へ崩れそうになる。

 体内にまで重く染み渡った衝撃と雷撃に、如何なラカンといえども立ち上がれるまでの回復にかかる時間は一秒程度を要した。それだけの隙をアスカが見逃すはずが無い。

 神速で近づいたアスカが、片膝をついたラカンの顎を思い切り横から蹴り上げた。ご丁寧にも全ての攻撃に魔法の射手が込められており、この蹴りにも雷撃が付与されている。

 蹴られた顎にダイナマイトが爆発したような衝撃が走った。

 

「魔法の射手、集束・雷の1001矢――――雷華豪殺拳!!」

 

 ラカンの人並み外れた巨体が何メートルも浮かび上がり、落ちてきたところに流星が集うように収束した魔法の射手が込められたアスカの右の拳が無防備な腹に叩き込まれた。

 

「ご、ぉぅッ!?」

 

 どんなに巨大な竜種だろうと一発で内臓破裂間違いなしのボディブローを叩き込まれたラカンは、口から大量の血反吐を溢れさせながらも数歩後退るだけで堪えて見せた。

 

「へっ…………それぐらいじゃ、屁でもねぇぜ」

 

 腹を両手で押えて顔中に脂汗を垂れ流しながらも強がりを見せるラカンは、そう言いながらもアスカを圧倒できずにいた。

 咸卦・太陽道によって大幅なパワーアップを果たしたことで、極限の気に練り込まれ鍛え抜かれた鋼の肉体をも突破する力を有していることを証明した。

 

「どう見ても効いてるじゃねぇか。痩せ我慢は体に毒だぞ」

「うるせえや、効いてなんかいねえよ」

「足がガタついてるのによく言う」

「かっこつけて冷静に指摘すんじゃねぇ、ばぁか。男ってのはな、痩せ我慢と諦めの悪さで出来てんだよ。テメェみてえなガキにゃ、まだ理解できねえかもしれねえけどな!」

「年寄りの強がりなんて理解したくもねぇな!」

 

 叫びながらアスカがラカンとの間合いを詰める。しかし、仕掛けたのはラカンが先だった。近づくアスカに一足で至近距離にまで踏み込んで恐ろしい勢いの踏み込みと共に繰り出された右拳が顔面に振り下ろされた。

 顔を傾けて避けたアスカだが体勢が崩れてよろける。

 アスカが体勢を整える前にラカンは次の攻めに移っていた。丸太のように太くて長い右足で繰り出される素早い前蹴り。アスカが固めた肘で横から蹴り足を弾く。同時に攻勢に転じる。

 左右の拳の連打から、頭部を狙っていると見せかけて足元を狙った左の浴びせ蹴り。

 一呼吸で放たれた連撃の全てをラカンが凌ぐ。左右の連打は太さに見合わぬ軽さで動いて阻み、足元を狙った浴びせ蹴りはフェイントに黙らず、右足を上げて空振らせる。が、アスカの攻撃はここからが本番だった。ラカンが巧みに連撃を捌いた刹那、アスカの身体が異常な速度で動いた。

 遠くから魔法具で見ていた実況者とザイツェフには驚くべき速さで懐に入ったのが見えたが、多分ラカンにはアスカが目の前で突然、消えてしまったように見えたはずである。

 案の定、ラカンはアスカを捉えきれていない。

 

「がっ!?」

 

 なのに、苦痛の呻きを上げて吹っ飛ばされたのはアスカの方だった。後方に吹き飛ぶ視界は、強すぎる気によって紫電を湛えた拳を突き出して不敵に笑うラカンの姿を捉えた。罠だったのだ。

 

「ちっ」

 

 舌打ちをしつつ、空中で体勢を整えようとしたアスカに音もなく追い抜いたラカンが振り向きざまに裏拳を打ち込む。

 両手をクロスさせて防いだアスカが、ラカンの腕を搦め捕った。立った状態からその腕にぶら下がるように飛びついて仕掛けた。アスカの胴体ほどはありそうな太い腕を脇に挟み、全体重をラカンの肩にかけてゆく。脇固めの形だ。

 

「ぐははははは、軽い軽い」

 

 二本の巨木と化したラカンの足が頑強に身体を支えている。どれだけアスカが倒そうとしても、びくともしない。

 腕を後ろに捻られたまま、ラカンが大きく思いっきり腕を振り上げて――――全力で振り下ろした。柔らかさと硬さが微妙に入り混じった、なんとも嫌な音が競技場に響いた。

 

「いってぇ……」

 

 先のダメージが大きく、追撃よりも回復を優先したラカンがその場から飛び退くと、叩きつけられた時に出来た血を眉間から垂らすアスカがのっそりと起き上がる。

 

「本当に馬鹿力だな」

「今のテメェにそれを言われたくはねぇな」

 

 ようやく内臓のダメージが回復してきたラカンはアスカの言い様に我慢が出来ずに反論する。

 

「咸卦法を使うアスカのパワーは俺に劣らねぇ。いや、寧ろ上回ってる」

 

 認めたくはないが、今のアスカは性能はラカンを上回りつつある。

 何かが吹っ切れたのか、動きに迷いがなくなり、果断になった行動に一瞬とはいえラカンも対応できなかった。一度は底が知れたと思えば、こちらの対応を上回る速さで益々深さを増していく様はナギを彷彿とさせる。

 

「んじゃ、もっとギアを上げてみっか」

 

 ニヤリ、と唇の端に血の跡を残しながら笑ったアスカが地面に着きそうなほど身を沈めて向かって来る。ラカンも坐して待つつもりはない。

 

来たれ(アデアット)

 

 アーティファクトを呼び出し、大剣や鉾槍といった大きい得物をアスカの進路上に突き刺していく。

 進路を変更しようとするのも、行き先を予想して同じように突き刺して動きを封じる。

 

「必殺――」

 

 アスカを足を止めざるをえない状況を追い込んでいる間に飛び上がってとっておきの準備を整える。

 あまりにも巨大すぎて流石の千の顔を持つ英雄でも即座に形を形成することが出来ないソレを握り、大剣達に囲まれて身動きが取れないアスカを見下ろす。

 

「――――斬艦剣!!」

 

 大戦時代に超弩級戦艦を文字通りに斬り落としたラカンの身の丈を遥かに超える大剣をアスカに向けて振り落とす。

 アスカは避けることも出来ず、斬艦剣の影へと消える。直後、地面を貫いた斬艦剣が巻き起こした轟音と砂煙が闘技場の地面を覆い隠した。

 

「――――雷の精霊1001柱、集いて来りて敵を射て」

「やっぱ、生きてやがるか」

「魔法の射手、連弾・雷の1001矢!」

 

 詠唱のする声が聞こえた時点でアスカの生存を確信したラカンは砂煙を割って突き進んで来る魔法の射手を認めても驚きはない。

 

「千の顔を持つ英雄!!」

 

 如何なる形にも自在に姿を変えられるアーティファクトである千の顔を持つ英雄には決まった型はない。斬艦剣から飛び上がりながら幾百もの短槍を作り出して千を超える魔法の射手を迎撃する。

 

「まだ来るのかよ!」

 

 全てを迎撃しきれず、気を纏った素手で払いのけると既にそこには第二弾の魔法の射手が迫っていた。しかも全く途切れずに地上から連射され続けている。

 

「無詠唱で撃てるだけ撃ってやがるのか!?」

 

 咸卦法をすることで人並み外れた力を持つに至ったアスカの弾幕である。たった一人で数十人が揃って放っているのではと錯覚しそうになるほど、アスカは雨霰と魔法の射手を放ち続ける。

 

「ぐっ」 

 

 遂に弾き切ることが出来ずに一矢がラカンの体に着弾する。

 斬艦剣を受ける前に地面を掘って影響圏から退避していたアスカは地上からその姿を見届け、「オラァ!」と気合を上げて弾数と威力を増やす。

 

「お……おぉ……!?」

 

 回転数と威力が右肩上がりに跳ね上がっていくことで、徐々に体に着弾する数が一矢から十矢、十矢から百矢と加速度的に増えていく。

 地上から放たれる魔法の射手が十万を超えたところで、迎撃よりも受けることを重視するのに天秤が傾くのに時間はそうかからず、流石のジャック・ラカンも腕を掲げて耐える。

 浮遊術を使っているわけでもないのに魔法の射手の威力にって徐々に上空へと押し上げられていく。

 

「ずぁ――っ!!」

 

 このままではジリ貧だと悟ったラカンが四肢を開いて全身から大量の気を発し、自身を中心とした数メートル範囲に気のバリアーが広がり魔法の射手をシャットダウンする。

 魔法の射手は気のバリアーによって阻まれてラカンの下まで辿り着けない。

 アスカがこのまま魔法の射手を放ち続けて気のバリアーを突破するか、別の手段を講じるかで意識の切り替えが行われる瞬間よりも早く動いたラカンが形成した気が込められた突撃槍を投げ下ろした。

 

「!?」

 

 放たれ続けている魔法の射手の間を縫うようにして投げ落とされた突撃槍が避けようもないタイミングでアスカに命中する。

 障壁越しとはいえ、着弾によって大爆発が起こってアスカの体が大きく投げ出された。

 なんとか意識を保って四肢をついて着地したアスカの服は上半身の服が殆ど焼け焦げている。先程までいた場所が大きなクレーターになっていることを考えれば生きているだけ儲け物というものだろう。

 

「はぁはぁ」

 

 最早衣類の体を為していないシャツは着ているだけで邪魔になる。遂に切れ始めた息を整えることを意識しながら服を破り捨てる。その眼は上空から下りて来るラカンから外さない。

 

「よくもやってくれたな。俺の一張羅が台無しだ」

「ほざけ」

 

 ラカンは言いながらもアスカと同じように服が台無しになっており、同じように投げ捨てる。

 互いに上半身裸になりながらも、その眼は油断なく相手の挙動を見逃さないように鋭い。

 

「俺にバリアーを張らせるなんざ、この二十年の間で両手の指の数ほどもいなかった。誇っていいぜ、今のお前は俺達に比肩する力を持っている」

「比肩? 面白いことを言うな」

 

 純粋な賞賛に何故かアスカは鼻を鳴らす。

 

「俺は誰であろうと負ける気は無い。例え紅き翼であろうとも、親父やアンタであろうともだ、ラカン。最強は、俺だ」

 

 中指を立てた挑発のポーズを向けられたラカンが心底楽しくて堪らないとばかりに破顔し、手で髪を掻き上げた。

 

「いいねぇ、いいねぇ。俺様よりも上だとほざける馬鹿野郎が一体どれだけこの世界にいることやら。そしてそれに実力が伴っているともなれば片手の指にも届かないだろう」

 

 傲岸不遜にして大胆不敵な台詞を、英雄であるラカンに面と向かって言える者が世界にどれだけいるか。ラカンの傷を見れば決して大言壮語ではなく、そう言えるだけの実力をアスカは証明している。

 ラカンは楽しくて仕方なかった。これほど血沸き肉躍る戦いは久しぶりである。

 

「だが、まだガキにその称号はやれねぇな。一昨日出直して来やがれ!」

「年寄りは年寄りらしく後進に譲って隠居してろ!」

 

 二人同時に飛び出し、全く同時に同じ右の拳を放って左手で受け止める。

 拳を受け止めた間近で視線が交わり、男の意地が足を下げさせることを許さなかった。

 拳を開いた二人は互いの掌をしっかりと合わせ、指と指を組み合わせて相手の手をギリギリと握った。共に力で相手をねじ伏せようとするが、その力は拮抗していた。力を込めたことで上半身の筋肉がボコリと盛り上がっている。たちまち、額に玉のような汗が噴き出る。

 

「ぐおおおおおおおっ」

「があああああああっ」

 

 二人は口元を歪め、顔を真っ赤にして吠えた。

 

「「ぉおおおおおおおおおおおおおお!!」」 

 

 咸卦の力と気が二人の体から迸り、相手を圧さんばかりに広がっていく。引いたら負けると直感し、力を入れる互いの顔に青筋が浮かぶ。

 一進一退の力場が気流にすら影響を及ぼし、二人を中心として円を描くように巻き上げられた砂塵が渦を描く。あまりの二人の力に闘技場が震えているのではないかと錯覚するほど揺れが観客席を襲う。

 どちらにも傾かない天秤は、アスカの背後に浮かんだ雷の球が一気に傾けた。

 

「くっ!?」

 

 無詠唱で放った雷の魔法の一矢は、ラカンが顔を前に傾けて避けるものの、行動を予測していて跳ね上がったアスカの膝によって額をかち上げられる。

 手はがっちりと組み合ったままで離していないので、額をかち上げられたラカンの上半身が僅かに反っている間にアスカは圧することが出来たはずだ。にも関わらず、そうしなかったのは別のことをしていたからである。

 

「来れ雷精、風の精。雷を纏いて吹きすさべ南洋の嵐」

 

 それが何の魔法を示す詠唱であるかはナギの仲間であったラカンに分からないはずがない。ならば、迎撃を。回避が出来ないのならば迎え撃つしかない。

 三秒で全開パワーに達するラカンであろうとも分の悪い賭け。しかし、それしかラカンに出来ることはない。

 

「雷の――」

「ラカン――」

 

 組み合ったままのアスカの左手とラカンの右手が赤熱する。

 極狭いエリアに巨大なパワーが収束したことで空間が歪むほどの熱量が発せられていた。

 

「暴風――っ!!」

「インパクト――っ!!」

 

 雷の暴風とラカンインパクトが鬩ぎ合い、二人の手は衝撃を抑えきることは出来ずに跳ね飛ばされる。

 同時に、二人はバッと跳んで、一旦間合いを取った。

 だがラカンは、直ぐに前へ跳び、アスカの懐に入ると右の拳に体重を乗せて頬へとお見舞いして綺麗に命中する。が、アスカは微動だにしない。

 次の瞬間、アスカが右の拳を、ラカンの腹部へとめり込ませた。これまたラカンは動かない。

 やがて、アスカがポツリと言った。

 

「――――今のは、ちょっと効いたぞ」

「――――お前のもな」

 

 と、返すようにラカンも言った。

 そこからは拳と蹴りの激烈な応酬となった、

 雷の暴風とラカンインパクトを撃ち合った手は痺れているのか、攻撃に使われることはなかったが十分に熾烈な攻撃が繰り広げられる。

 途中、ラカンがアスカを抱え込み、そのまま身体を回転させて背負い投げを試みた。だがアスカはそれを堪え、かえってラカンを背後から抱えると、自分の肩越しに後ろへと投げ飛ばしたのである。

 その先に、捲れ上がった岩があった。

 

「うおっと」

 

 ラカンは巨体から信じられないほどの身軽さで、叩きつけられる直前に猫のように空中回転をして足から岩に危なげなく着地する。

 衝撃を殺すために撓めた膝を活かしてそのまま蹴り出し、投げた姿勢のままのアスカにヤクザキックを顔面にお見舞いする。

 顔を蹴られて鼻血とその他を撒き散らしたアスカは、そのまま蹴り足を掴んでラカンを振り回して地面に叩きつけた。

 

「あでっ」

 

 ビダーン、と音がしそうなほど顔面から地面に叩きつけられたラカンはアスカが顔を抑えながら距離を取ったことに助かりながら起き上がる。

 

「いってぇな、この野郎!」

「それはこっちの台詞だ、クソ野郎!」

 

 ジンジンと痛む顔の痛みに叫び返しながらラカンはローキックのフェイントから深く踏み込み、アスカの胸を狙って拳を打ち込んだ。どれほどの大きさの巨石であろうとも容易く砕く一撃にアスカは自ら当たりに行くように飛んだ。

 

(なに!?)

 

 体の中心に拳の直撃を受けて吹っ飛ぶアスカの姿をイメージする――――その一撃は手応えなく空を切った。

 ラカンは目を瞠った。アスカは自分から攻撃を受けに行くほど酔狂な趣味を持っていない。まるで体重が消失したような動きで拳を避けると、自分に向かってくるラカンの右腕を両手で手首を捕らえた。

 

「っ!?」

 

 右腕にアスカの全体重がかかったかと思うと、ほぼ真下から右足が突き上げてきた。

 ラカンが反射的に顔を後ろに反らせたが、それこそがアスカの狙いだった。アスカは左足を反らされたラカンの首に引っ掛けて曲げ、右足を外側に開いて膝下を曲げて肩の上から左脚の太腿の上に重ねた。後は自身の体重をかけて両手で掴んだラカンの右腕を引っ張れば、左足が首を絞め、右足と両手が右腕を極めて完成。締め技と関節技を同時に行おうとしているのだ。

 

「チィ!!」

 

 これを極められてしまえば、さしもののラカンと言えども抜け出すのに手間がかかる。

 極められる前に右腕に渾身の力を込めることで二の腕の筋肉を瘤のように固く膨れ上がらせ、後少しで重ねられたアスカの右足を跳ね上げる。

 

「……っ!」  

   

 自由な左手で首にかけた自身の左足を掴もうと伸ばそうとしているラカンの行動を見て、アスカは締め技と関節技を捨てて次の行動に移った。

 ラカンの首にかけていた左足を自分から外し、跳ね上げられた右足を自分から下に振り下ろしてラカンの膝裏を蹴り上げた。

 膝かっくんをされたように膝が折れたラカン。アスカは左手で掴んだままのラカンの手首を基点に一回転。そのまま胸に乗り上げて地面に倒れたラカンの馬乗りになる。

 

「マ~ウント、ポジション」

 

 仰向けになったラカンの腰と両腕を自身の両足で抱え込むようにして馬乗りになったアスカは楽し気に笑い、締め技と関節技を捨てた時点から両手に溜めていた力を纏って嬉々として振り抜いた。

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉっっっッ!」

 

 叫び、ありったけの雷を込めて、渾身の力で拳を叩き込んでいく。

 アスカの浴びせる鉄拳が、ラカンの体を少しずつ地面にめり込ませていく。 

 

「!」

 

 鋼鉄の肉体を持っていようと、それを越えるエネルギーで叩き潰せばいい。十分に溜め込まれた一撃に、流石にこれは効いたのか殴られた頬に拳の跡がついたラカンの口から血が飛んだ。

 

「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ――――――――っ!!!!」

 

 一瞬で十発を、一秒で百発を瞬時に叩き込んだアスカの攻撃は全く緩む気配がない。 

 顔と首と胴体に次々と連打を叩き込まれ、ダメージと共にフラストレーションを溜め込んだラカンの我慢の糸があっさりと切れた。

 

「痛てぇな、この野郎が!」

 

 お返しとばかりに開いたラカンの口の中から飛んだ気弾が額を直撃し、攻撃ばかりに意識を集中していたアスカの顔が上空に跳ね上がった。あまりの威力に身体も浮かび上がり、抑え込まれていたラカンはその隙にマウントポジションから抜け出した。

 顔を倍に膨れ上がらせたラカンは直ぐに起き上がり、地面を踏み砕きながら前のめりに落ちて来るアスカの顎を再度アッパー気味に炸裂させた。

 ダウンすることも許されずに顎を強烈にかち上げられたアスカは棒立ちになったところへ凄まじいタックルを食らって、堪えようもなく吹っ飛んだ。

 

「全開――」

 

 吹っ飛ばされたアスカを追いかけず、その場に留まったラカンは腰溜めに構えた拳に気を充填していく。

 高まる気に気流が動くのを感じながら、ようやく体勢を整えて着地したアスカに向かって拳を振り抜く。

 

「ラカン・インパクトォォッ!!」

 

 避けようと上空高くに飛び上がるが腕の振り方を変えるだけで簡単に対応できる。全開のラカン・インパクトは、ほぼ闘技場中央の上空まで一瞬で移動したアスカ目掛けて轟音を響かせながら緩く孤を描いて伸びていく。

 

「――――雷の暴風!!」

 

 もう少しで着弾というところで諦めの悪いアスカが詠唱を破棄して雷の暴風を放った。

 孤を描いているラカン・インパクトと違い、真っ直ぐに向かって来た雷の暴風はラカン・インパクトの少し後に技後硬直に陥っていたラカンを襲う。

 

「ぐぅ……ぬっ!?」

 

 防御よりもこのまま撃ち抜くことを優先したので、諸に食らった雷の暴風によるダメージが大きい。

 地面ごと撃ち抜かれた体がバウンドし、直後にラカン・インパクトと雷の暴風によって上下共に障壁を破砕された甲高い音が鳴り響く。

 地面を貫いた雷の暴風によって、一度は千の雷で更地にされた地面が再び穿り返された。

 穿り返された地面の欠片の一つに寄りかかるラカンは大きすぎるダメージに直ぐに動けない。その直ぐ近くを上空高くから落ちて来たアスカがなんとか四肢をついて着地する。

 

「く、くそ……」

 

 近くにラカンを認めて立ち上がろうとしたアスカだが、ダメージが多すぎて膝が折れて片膝をつく。

 

『気が飛び交い、魔法が乱舞し、肉体が躍動する!! というか、いい加減に障壁を壊さないで!?』

 

 実況の泣き声が入るが、戦っている二人にはどうでもいいことだ。もう二人は相手しか見えていない。

 

「お互いにダメージが大きいようだな」

「はん、お前と比べるんじゃねぇよ」

「意地っ張りめ」

「上等」

 

 互いにダメージの回復を図りながらも減らず口は止まらず、目の前の相手に膝をついていることが我慢できずに同時に立ち上がり、瞬動で相手目指して飛ぶ。

 

「オラァ!」

「うりゃっ!」

 

 再び激突する拳と拳の間に、大量の血が飛沫く。アスカとラカンの双方が流した血。錆びた鉄の臭いと鮮やかすぎる紅色。

 紅色に半顔を染めながら、ますますラカンは楽しそうに笑みを深めた。

 

「ははっ」

 

 ラカンと同じように喜色を顔面中に滲ませながら、アスカは剥き出しのままの素の自分で戦えることが楽しくて仕方がない。本来はそうであったはずの自分を取り戻せた気がする。

 拳を叩き込みながらアスカが口を開いた。

 

「なんかさ、分かって来た気がする」

「なにをだ?」

 

 お返しのように頬を右拳で振り抜いたラカンが問う。

 自分から首を捻って拳の威力を逃がしてラカンの軸足を刈りながらアスカは笑った。

 

「どんなに格好つけても、どんなに無理をしても、俺は俺を止められない」

 

 掌打が放たれて顔の前面に受けながら、刈り取られた足でアスカの顎を蹴り上げたラカンにとっては当たり前のことであった。そんな当たり前のことを今更ながらに理解したアスカに少し呆れる。

 

「ぐっ……!」

「ぬううっ!」

 

 同時に踏み込み、右拳を振り抜いて互いの頬を撃ち抜く。

 口から血を噴き出しながらアスカの顔からは獰猛な笑みが消えない。

 

「期待をかけられたら応えたくなるし、助けを請われたら無茶だってしちまう。それが俺だ。他の誰でもないアスカ・スプリングフィールドだ」

 

 やられたらやり返し、やられる前にやる。殴られれば殴り返し、殴られる前に殴る。そんなことを幾度も繰り返す。

 

「他人から見たら馬鹿なことをしているのかもしれねぇ。実際、今までに自分でも馬鹿だと思うことが何度もあった。自分だけじゃなくて、周りにも大きな迷惑をかけてきた」

 

 張り付いていた余計なものがどんどん剥がれて行って、頭ではなくて心で体が動く。

 嘗てないほどに体が動き、これほど体が軽いと思ったことはない。蹴られて体が宙を舞っても強く握った拳が解かれることはない。

 

「でも、それでいいんだって今は思える」

 

 アスカには末来なんて見えない。ネギのように頭は良くないし、アーニャのように機転が利くわけでもない。それこそアスカに出来るのは、こうやって拳を相手に叩きつけることだけだ。

 見えるのは、ここまで走って来た自分の道と今この瞬間しかに対峙している相手であるラカンだけ。

 

「俺はバカだから、考えるよりも心に従いたい。英雄がなんだ、紅き翼がなんだ。俺は、俺がアスカ・スプリングフィールドだって世界中に言ってやるよ!」

 

 自分の中にあった余計な物を捨てて全部取っ払った後に残ったのは、幾人もの願いと想いで作られた羽の山だった。

 嘗て戦った敵ですら、今のアスカを構成する羽の一つになっている。どれかが欠けても今のアスカにはなりえない。自分を肯定出来たその先にあったのは、他には例えようもないほどの全能感であった。

 現実にアスカに出来ることは少なくとも、全ての問題に立ち向かえる気概が心の奥底から湧いてくる。

 

「俺に、出来ない事なんてない!」

 

 今こそ、嘗ての誓いの言葉を声高に叫ぶ。

 必要なのは信じること。出来ないことはないのだと自分こそが信じれなければ、誰も己を信じてくれることなど出来ない。試練上等、もっと壁を寄越せと、全能感に酔いしれたアスカは殴られ続けてハイになった心持ちで全世界に言いたいぐらいであった。

 

「ははっ、言うじゃねぇかアスカ!」

 

 一分一秒、一瞬でも眼を離した隙に生まれ変わるかのように変化していくアスカにラカンも笑いが止まらなかった。

 先程まで自分で飛ぶことすら出来なかった雛が、瞬く間に成長して大空を飛び始めたのを見送る親鳥のような心境でアスカに向かい合うラカンは、まさかここまでナギにそっくりな馬鹿野郎であることに心底喜んでいた。

 

『殴る蹴る切る投げる叩きつけるっ! 両者一歩も譲らずに相手を打倒しようと全力を尽くす! これこそが、拳闘の極み!!』

 

 実況が興奮した口調でがなり立てる。

 自分の信念を揺るがぬ答えとして世界に示すために敵の顔を殴れ、腹を蹴れ、足を払って地面にたたきつけて叩き潰せ。

 殴る。ぶつかり、弾かれて再び激突する。二人の戦いに耐え切れず、地面は捲れ上がって、さながら嵐の巣となっていた。

 痛みに呻き、気合を叫び、殴られて傷つき、蹴られて血を流し、叩きつけられてみっともなく反吐をぶちまけて、痛みに涙を滲ませるのだ。気を失いかけても、根性で拳を握りしめろ。負けない。負けられないのだ。男のケンカには。

 雷が舞い踊り、気が乱舞する。

 思うがままに暴力を貪った雷と気によって、闘技場地面の表面は融解し、抉れた大地の痕はガラス状に変質した。熱量の凄まじさが小規模な水蒸気爆発を起こし、いまだ周囲の空気は陽炎の如く揺らめいている。

 陽炎のように揺らめく空気を突き破り、ラカンの顔目がけてアスカが頭から体当たりを仕掛け来た。

 ゴッ、と固い者同士が激突する重い音が響いた、アスカの頭突きは狙い通りラカンの顔面を捉えた。二人は瓦礫に倒れ込む。

 素早く起き上がったのはラカンの方だった。

 

「オラァッ!」

 

 ラカンの強烈な右足が振り上げられた。それはアスカの頭上高くまで持ち上がると、鉈の如く脳天に目がけて振り下ろされたがその前に足を掴まれた。

 

「残念だったな」

 

 しまった、というラカンの表情を不敵な笑みを浮かべつつ、アスカが足を掴んだまま彼の体を振り回した。まるで人形と戯れているかのように軽々と、自身を軸にハンマー投げの要領でラカンを振り回す。

 そして十分な遠心力を付けたところでアスカは振り向きざま、背面にあった岩に向かってラカンを投げつけた。

 岩に強かに背中を打ち付け、ラカンが苦しげに呻く。だが、それも一瞬、ラカンは直ぐに身体に活を入れ直すと、斜め前に跳び込んで猛牛にも勝るアスカの突進を躱した。

 雷を全身に纏って突進してきたアスカの体当たりによって岩は大きく揺れ、やがて中心が真っ二つに折れる。

 

「チャンス!」

 

 背を向けているアスカに向けてアーティファクトを呼び出したラカンが大剣に気を込める。

 気の高まりを背中越しに感じ取ったアスカが、「ふっ」と呼気を発すると手を着いていた岩の片割れが粉微塵に粉砕された。強すぎる威力によって地面まで打ち砕き、巻き上げた砂煙が一瞬だけアスカを覆い隠す。

 その瞬間に気が込められた大剣は放たれた。

 

「ちっ」

 

 大剣の着弾よりも一瞬早く、アスカが瞬動で砂煙から出て闘技場の向こう側に退避するのを見たラカンが舌打ちする。

 

「来れ雷精、風の精、雷を纏いて吹きすさべ南洋の嵐」

 

 標的を失った大剣が大爆発するのを意識の外へと追いやって、アスカが雷の暴風の詠唱を重ねているのを力の高まりと同時に感じ取りながら、体をアスカの方へと向けて珍妙なポーズを次々に取る。

 

「エターナル・ネギフィーバー!!!」

 

 最後にそう言いながら四肢を開く決めポーズを取ると、膨大な量の気を前方に向けて全身から迸らせた。

 怒涛の如き気の波濤が一直線に伸び、雷の暴風を放とうとしておいたアスカを呑み込んで爆発した。観客席の下、闘技場の内壁を貫通したエターナル・ネギフィーバーという、ネギに闇の魔法(マギア・エレベア)の鍛錬をつける間に戯れに編み出した技が駆け抜けていく。

 何度も張り直したことで強度が弱まっていた緊急魔法障壁を全て貫く。闘技場が街よりも高い位置になければ市街地にまで影響が出ていたことだろう。

 

(まさか、これで終わりか?)

 

 爆炎が晴れていないが、エターナル・ネギフィーバーは確実に直撃した。既に互いのダメージは大きいので決着がついてもおかしくはないが、これではあまりにも呆気なさ過ぎる。

 これで終わってくれるなよ、と再びやってくることに期待しながら着弾地点を見ながら油断せずに気を配り続ける。

 

「――――今だ!!」

「「「「「「「「「「応!!」」」」」」」」」」

 

 真後ろから聞こえて来た一つの掛け声に対して全く同じ声が複数応える。ギョッとしたラカンが後ろを振り返ると、地面の下からアスカと全く同じ姿と形をした十体のアスカが現れた。

 アスカ達は全方位からラカンに飛び掛かりながら魔法の射手を放った。

 音はなく、雨のような弾丸が避けようもなく歴戦の勘から咄嗟に防御体勢に入ったラカンに全ての魔法の射手が着弾する。

 

「ぐっ!!!!」

 

 雨霰と降り注ぐ弾丸が着弾した直後、まるで雷のように一瞬遅れて轟音が鳴り響いた。

 僅かに遅れてラカンの瞳に、無数の白い雷光が映りこむ。

 先程の大剣を避ける前に生み出された分身達は、地面を穿り返して接近したために付いた土塊を振るい落としながら走る。

 

「「「「「「「「「「雷華豪殺拳!」」」」」」」」」」」

 

 アスカの分身達がそれぞれに雷華豪殺拳を構え、何かをする間を与えず一気にラカンに突っ込んでいく。

 もしもラカンが大剣が着弾した後にも目を向けていれば、不自然に空いた穴にも気づいたことだろう。だが、既にもう賽は投げられている。

 

(分身たぁ、ナギにどんだけ似てんだよ!)

 

 初めてナギと戦った際に同じことをされた経験があるが、今の状況でアスカの分身達の攻撃を全てを受ければラカンでさえ危険である。かといって、牽制の魔法の射手を食らって避けるだけの動作は取れそうもない。

 

「うおおおおおおおおお――――!!!!」

 

 前、後ろ、左、右、上をアスカの分身体によって遮られて後方に逃げても打開策にならない状態になったラカンは、全身から気合の声と共に全周囲に気を迸らせる。迸らせた気は衝撃波を発生させて辺りの瓦礫を吹き飛ばした。

 その気流をまともに食らったアスカの分身達は、余波だけでもたちまちの内に消滅して姿を消していく。

 背後で消えない気配から感じた凄まじい圧力に待ち構えていた身体が反応して振り返ると、消えぬ一体が迫ってきているのが見えてラカンはこれが本体だと直感した。

 

「テメェが本体か!!」

 

 不意打ちが決まったかに思っていたが全ての分身が迎撃されて焦ったのか、アスカの動きは単調だ。分身に合わせるのを止めたのか、速度は段違いに速くなって腕の輝きも増して空気を切り裂きながらラカンに迫るが絶好のカモである。

 

「甘めぇ! 食らえ、零距離・全開ラカンインパクト!!」

 

 ラカンは、相手のその技が恐るべき威力を秘めていることを察しながらも、余裕を浮かれるように口端を引き上げて、振り返って腰を僅かに落として身構えていた。そうして、拳に集中させたエネルギーをアスカの技に合わせるように突き出すと共にエネルギーを放出した。

 光は竜の吐息にも似ていた。

 絶大なる力を秘めた、破滅の光。

 目も眩むような光を放って、二人の間で恐るべきパワーが激突した。それは強烈な衝撃波を作り出し、辺りのものを薙ぎ払うカマイタチのような突風が、所構わず吹き荒れる。

 拮抗したと思われたパワーは、一瞬のみで天秤はラカンへと大きく傾いていく。

 歯を食い縛りながら前に出たラカンに、押し込まれながらも負けじと相手を押し返そうと力を込め直したアスカだったが、時は既に遅く、パワーバランスが一気に崩壊した。

 

「しまっ――」

 

 アスカの雷華豪殺拳は、ラカンの零距離ラカン・インパクトに完全に押し込まれてクリーンヒットする。

 

(勝った!!)

 

 避けるのも防御するも絶対に不可能なアスカの状態に、ラカンは心の中で勝利を確信した。

 

「これも分身だと!?」

 

 零距離ラカン・インパクトが直撃した瞬間に空気の抜けるような音を残し、アスカが霞と化して消えた。必殺の技を放ったはずのアスカが消え、それが分身であることに気付いたラカンが驚きの声を漏らす。

 しかし、ピンチを切り抜けて、その後には全力の技を放ったことで如何なラカンといえでも絶対的な隙が生じた。

 そしてアスカが待っていたのは、待ち望んでいたのはこの瞬間だった。

 

「契約により我に従え高殿の王」

 

 零距離ラカン・インパクトの爆発が闘技場を支配する中で、最初にエターナル・ネギフィーバーが命中した場所に本体のアスカがいた。

 ほぼ生身でエターナル・ネギフィーバーを受けたのか傷だらけであるが、こんなことをしたのは当然、ラカンを倒すため。

 

「来れ巨神を滅ぼす燃え立つ雷霆」

 

 壁に足を付けているアスカの足下で力が収束され、高められる力に耐え切れぬとばかりに軋む。その手には今か今かと雷が膨張と圧縮を続けている。

 

「百重千重と重なりて走れよ稲妻」

 

 溜めに溜めて空間を軋ませんばかりに壁を踏みつけて縮地无疆を行い、アスカは自らの身体を弾丸として撃ち出した。あっという間に音速を超えた速度の進撃は、当たっても外れても大怪我必死の、文字通り肉の弾丸となって飛ぶ。

 

「収束・千の雷!!」

 

 詠唱が完了した千の雷を、無理矢理に収束させる。

 本来ならば超広範囲雷撃殲滅魔法は収束できるような代物ではない。それをアスカは咸卦の力で無理矢理に右拳に押し込める。

 強すぎる力に皮が剥がれ、肉が暴れ、神経が燃える。暴発しそうになるのを、幼いころから魔力の扱いが下手で最大級の一矢で雷華豪殺拳を放っていた経験が活きる。

 

「うおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 それでも押し込めきれずに右腕を焼かれて雄叫びを上げながら、本物のアスカがラカンへと迫る。

 

「くらえッ! 雷轟塵殺拳だァァァァアッ!!」

 

 1001矢が込められた雷華豪殺拳や、分身達が放とうとした魔法の射手が一矢込められたものとは文字通りの桁が違う今現在のアスカが放てる最高最大にして最強の一撃。

 エターナル・ネギフィーバーを放ち全身から気を発したところに全開のラカン・インパクトを放ったラカンは、他の者には短く感じても超高位に至った者には隙だらけであるほど技後硬直に陥っている。

 狙いは過たず、千の雷が込められた雷轟塵殺拳が振り返ったばかりのラカンのどてっ腹に叩き込まれるその刹那。

 

「全力・気合防御!!」

 

 攻撃を受けることは避けられないと悟ったラカンは、避けるでもなく、振り返るでもなく、選択肢したのはこの場面における最善の一手である全力の防御。

 

「うっ、ぐぉおおおおおおおぉおおおお!?」

 

 刹那、縮地无疆の突進のエネルギーすらも足された雷轟塵殺拳を気の鎧が押し留めたように思われたが、それもやはり瞬きにも満たない一瞬のことに過ぎなかった。

 凄まじいほどのパワーが気の防壁をあっという間に引き千切り、今度こそ本当に相手の内懐に食い込んでいった。

 ラカンの口から体内にある全ての血が吐き出されたかと思うほどの吹き出し、瞬く間に蒸発する。

 とっておきの切り札である分身をここぞという場面でフル活用した三度の攪乱で、完全に余裕を失くしていたところに痛恨の一撃を受けたラカンの目からは半分意識が飛んでいる。

 意識がまともであれば、生きていることが信じられないことに自分を賞賛していただろうが今のラカンは意識を殆ど飛ばしながら動く。

 

「ぉ、ぉおおおおおお!!」

 

 打たれた部位の感覚を完全に無くしながらも拳を振り上げたジャック・ラカンを動かしたのは英雄の意地か、それとも他の何かか。

 縮地无疆の突進エネルギーも無くなり、地に足を付いたアスカは顔を上げない。

 アスカはこの一撃に必勝を期していた。そう、既に勝ち筋を見い出していたのだ。

 

解放(エーミッタム)」 

「げっ」

 

 顔を伏せているアスカの全身を雷光が照らし出す。

 ありえない。有り得てはならない光景だった。雷轟塵殺拳を放った手とは反対の手に雷霆の暴風があることなど、決して認められることではない。第一、遅延呪文を何時の間に行っていたというのか。

 

(あの、時か?!)

 

 意識が半分飛んでいるラカンの脳裏にエターナル・ネギフィーバーを放った瞬間が蘇る。

 あの時、確かにアスカは雷の暴風の詠唱を唱えていた。確かにあの時ならば遅延呪文をストックできる。だが、あのタイミングで遅延呪文をストックすることを優先すれば、生身で受けることになる。

 アスカは決断した。障壁を張ることなく、ラカンの一撃を受けると、受け切って遅延呪文をストックすると。賭けである。下手をすれば自分が敗けるリスクを冒してでも、勝利を目指した。そして今、アスカは賭けを勝つ。

 

「雷の暴風!!」

「ぐ………ぐおおおおおおおおおぉお!」

 

 アスカの突き出した手の平から、残りの全ての力が込められた力が込められた雷の暴風が解き放たれた。

 ほぼゼロ距離から雷霆の暴風を前にしてラカンに出来ることは何もない。

 ラカンが咆哮した声すらも瞬く間に飲み込まれる。

 閃光の閃きと共に二人がいた辺りが爆発して吹っ飛び、土煙を巻き上げて渦を巻く衝撃波が突き抜けていく。

 ラカンの背後にあった瓦礫を粉々に砕け散り、その向こうにある地面を抉りながら、直線上に存在したあらゆる物体を丸々薙ぎ払い、吹き飛ばし、破壊の限りを尽くしていく。

 闘技場の壁を塵すら残さず貫通して、新オスティアの上空を雷の暴風が突き抜けていった。

 

『こっ、これは……どう見ても勝利ッ!!! アスカ選手、伝説の英雄を打ち倒し、完・全・勝・利ぃいいいいい!! というか、生きているのかジャック・ラカンゥゥゥゥッ!!』

 

 雷の暴風の射線上には何も残らず、これには実況もアスカの勝利を欠片も疑わず、寧ろ肉体の欠片すらも残さずにこの世から消えたかもしれないラカンの心配をする。

 闘技場は勝利宣言がされたにも静まり返り、その不気味な静けさがラカンの死を印象付けるかのようだった。

 

「ハァッ、ハァッ、勝った…………のか?」

 

 崩れ落ちそうになる身体を何とか支えながら言葉を漏らす。

 エターナル・ネギフィーバーに耐えて縮地无疆からの雷轟塵殺拳、そしてトドメの遅延呪文でストックしておいた雷の暴風で一気に咸卦の力を使い果たし、咸卦法を維持する集中力と体力を失ってアスカはもう指一本動かすのも億劫なほどであった。

 分身を最後の切り札として温存していたのは本当だが、勝敗は紙一重の差に過ぎなかった。

 気が込められた大剣の爆発に地面に潜った分身が耐えられる保証もなく、エターナル・ネギフィーバーとかいうふざけたネーミングの割に強力な気の攻撃を本体が生身で受けて動ける保証も待たない。

 分身にどれだけ引っ掛かってくれるかも分からず、全身の気の放出に分身一体が残ったのも偶々他の分身が壁になったからに過ぎない。

 過分に運の予想が大きい博打の中で、分身の迎撃まではやってみせるだろうと、そこまではアスカの計算の内に入っていた。何段にも張り巡らせた陽動で隙が出来たラカンに、隠れていた本体が飛び出して雷轟塵殺拳で斃す。これがアスカのシナリオであった。

 まさか絶対の隙が出来ていたにも関わらず防御したことには驚きを覚えるが、如何なジャック・ラカンとはいえども大河を割る一撃を耐え切ることは出来なかったようだ。

 雷の暴風を遅延呪文でストックしたのは、これまでの戦いで雷轟塵殺拳でも仕留めきれなかった場合の保険であったが、まさか反撃をしてくるとは予想していなかった。後少しでも遅延呪文の発動が遅れれば、地に伏せていたのはアスカの方だっただろう。

 

「そんな……信じられん」

 

 VIP用の特別観覧室で試合の行方を見守っていたテオドラは、呆然と呟いていた。同席するリカードとセラスも同様だ。

 

「あの、ジャック・ラカンが」

「まさか」

 

 ラカンと互角に戦い、そして勝利するという結果が示され、それを為したのが二十歳にも満たない少年なのだ。

 幾らノアキスの英雄と言えど、本心からジャック・ラカンにアスカが勝てると信じ抜けた者はいない。

 眼の前で信じられない光景が起きたからこそ、誰もが未だに雷の暴風の余波の跡が残る闘技場を見ながら目の前の光景を受け入れられずに呆然としている。そんな中でも逸早く我を取り戻したのは、試合を監督せねばならない審判であった。

 あまりの危険さに観客席に避難していた悪魔っ娘審判は、おっかなびっくりな様子で闘技場に下りて、未だに赤熱する地面に足がつかない様に背中の翼をはためかせながらアスカの下へと飛ぶ。

 

『あ、あのラカン選手を打ち破る者が本当に現われたとは信じられませんっ! ささ、早速勝利者インタビューを行って見ましょう!!』

 

 拳闘士のルールとして、例え試合の結果として死んだとしてもお咎めはない。

 実際、予選では殆どいないながらも死者も出ており、ルールを熟知している悪魔っ娘審判は障壁を張っても熱さが酷い地面に辟易としながら、アスカの近くへと下りた。

 近くにやってきた悪魔っ娘審判の興奮した声を聞きながらアスカは勝利の実感を少しずつ感じ取ってきた、その瞬間だった。

 

「ダメェッ! アスカ!!!」

「え?」

 

 全力を出し尽くしてラカンを倒したと思ったアスカは完全に油断していた。

 丁度、闘技場の中央にいたアスカから見て左側にいた神楽坂明日菜から緊迫した声が掛かって、力を使い果たして思考能力落ちたアスカは疑問符を上げて声を上げた明日菜へと無防備に視線を向ける。

 アスカが明日菜へと視線を向けた次の瞬間だった。雷の暴風が駆け抜けて穴が開いている闘技場の壁の近くの瓦礫がいきなり吹き飛んだのは。その瞬間、瓦礫を吹き飛ばした何か(・・)が急速に飛来してアスカの頬をぶん殴った。

 

「がふっ?!」

 

 成す術もなくぶん殴られたアスカは、ラカンが気の放出で捲れ上がっていた瓦礫を吹き飛ばしながら元いた場所から数十メートルは離れた場所に地面をズガガガガガと滑って停止した。

 突然の事態に、観客達がどよめきの声を上げる。

 

『な……なん、ななな!!』

 

 驚きの光景を目の前にして悪魔っ娘審判は言葉にならず、驚愕するしか出来ない。

 そして灰色の煙を振り払い、アスカを殴り飛ばした()が姿を現した。

 

「敵の生死を確かめもせずに気を抜くとは致命的なミスだぜ。だが………見事ッ! 見事だぜ、アスカ!!!」

 

 瓦礫を吹き飛ばしてアスカを殴り飛ばした張本人――――ジャック・ラカンは全身傷だらけで満身創痍な状態にありながらも決然と立っていた。

 

『なんで生きてんの、この人!?』

「うおおおぉ――――いッ!!? あれを食らってそりゃねぇだろ、流石にッ!?」

「やっぱり、ただのバグキャラじゃねぇか!!?」

 

 悪魔っ娘審判やVIP席にいたリカード、観客席にいた千雨があり得ない光景に突っ込みを入れているが、それは会場全体の総意と言えた。誰もがアスカの勝利を疑っていない中でのラカンの復活に驚きを隠せない。

 

『ふふふ、復活ッ!? 英雄ラカン復活――っ!? どーなってんの、この試合は!?』

 

 アスカが放った雷の暴風は六年前にウェールズの村を襲った悪魔を一掃するためにナギが放った物と比べても明らかに上回っていたはず。

 炸裂すれば大山一つを容易に消し飛ばすほどの威力を誇っているのも関わらず、その前にラカンが原型を留めているだけでも驚きなのに、立って動いて攻撃までした。雷の暴風の前に、それ以上の威力のある縮地无疆からの雷轟塵殺拳を食らっていたにも関わらずだ。

 

「な、なんで生きてる?」

 

 完全に気を抜いていたところに一撃をもらい、フラフラになって立ち上がったアスカの言葉は闘技場の全ての者の気持ちを代弁していた。

 

「おう、俺も流石に死ぬかと思ったぜ。正直に言って、今までで一番死を覚悟したってレベルだ」

 

 一歩も動かないまま、ダメージでジッと立つことが出来ずにフラフラと体を微妙に揺らしながら遠い目をしたラカンが答える。

 

「あの一瞬、僅かに雷の暴風から芯を外せなけれゃ、今頃塵も残さずに消えていただろうよ」

「芯を外せても、なんで生きてたんだよ。普通死んでるぞ」

 

 幾ら雷轟塵殺拳を多少は防御したとはいえ、その殆どのエネルギーを受けて雷の暴風まで受けて原型を留めている方がおかしい。しかも、アスカを殴り飛ばすだけの力が残っているのだから驚嘆すべきタフさだ。というか何で生きてるのかと突っ込みたい。

 

「生きてるだけだ。残っていた力はさっきので全部出し尽くした。もう、尻を掻く力も残ってねぇ。空っぽだ」

 

 全身に闘気を纏わりつかせたラカンが、そう呟く。体中傷だらけで満身創痍だが、力は全く残っていないと言いながらも戦意は少しも衰えていない。相変わらずの凄まじい圧迫感だ。アスカはそう思いながらも、それでも圧倒されることなく佇んでいた。

 

「俺もだ。さっきので全部使い果たした」

 

 そう言うとアスカはゆっくりと歩いて移動し始めた。今にも倒れそうなほどよろめきながらも、ラカンもアスカに近づくように歩く。

 二人は拳の届く間合いまで近づき、構えずに胸を張って仁王立ちになった。

 ラカンの人並み外れた筋肉に力が篭る。アスカの足のバネが撓み、何時でも動けるように待っている。もはや魔法や気を使う闘いになどなる訳がない。互いに動くだけでも奇跡な死に体。出来る事など、この肉体を相手に叩きつけることだけ。

 

「おら、来いよ。疲労はそっちの方が大きいだろ。先に殴らせてやる」

 

 この男はどこまで意地っ張りなのか。間違いなくダメージはラカンの方が上なのに意地を張るのか。

 

「は、施しを受けるほど弱っちゃいない。お前こそ、来いよ」

 

 アスカとラカンでは身長で三十センチ以上、体重で二、三十キロは差がある。まともに正面から殴り合うのは不利と承知で言うからには、よほど自信があるのか、それともこちらを舐めてかかっているのか。笑ったラカンにはどちらでも良かった。

 

「後悔するなよ」

 

 ラカンが言いながら半歩踏み込んで右ストレートをアスカの顔に打ち込んだ。空手式の正拳突きに似ている。

 もう全力を放つことは出来ず、六分にも満たないパワーだがアスカ程度の体格なら軽く吹っ飛ばせるだけの威力がある。防御もせず受け止めれば骨に罅が入ってもおかしくはない。

 

「今度はこっちの番だ」

 

 ラカンの拳が届いた瞬間、仰け反りよろめきながらも身体を捻った勢いのままにアスカが凄絶に笑う。

 この一撃を堪えたアスカが地面を蹴って拳を放つ。

 拳と拳が交錯し、互いの顔面を捉え合う。

 

「がっ」

 

 ラカンは息を吸って打撃に備えるも、胸に打ち込まれた拳にハンマーで叩かれたような重い衝撃が身体の芯まで染み通った。後退せずに耐えたが、自分が打ち込んだ打撃の力を利用されたのでダメージは大きい。

 

「くっ……」

「へっ……」

 

 お返しのパンチがアスカの胸に突き刺さる。今度は受け流されないように身体の真ん中を狙っているので、アスカはダメージを受けた。

 互いに力の迸りは、もう感じられない。体力も力も底をつき、文字通りの気力だけで動いているのだ。

 

「ぐ、っ――!?」

 

 アスカが反撃をするも、そこにラカンの姿が無い。

 躱しようのないタイミングで渾身の一撃を放つも突き出した右拳は宙を切り、衝撃を受けたのはこちらの胸元。一瞬で視界から消え去り、長身を折り畳むようにアスカの左横に屈み、拳で腹を殴りつけ、迸る左右の足で、アスカの身体を容赦なく蹴り上げた。

 

「うおおおおおっ!」

 

 痛みを振り切るように空間中に響くような雄叫びを上げて、アスカが繰り出した頭突きが攻撃のために腰を下げていてたラカンの額に炸裂した。

 ドゴオッ、と爆発音にも似た重く鈍い音が遠く離れた観客席にまで聞こえ、ラカンの意識が衝撃で真っ白に弾けた。

 

「はっ!」

 

 負けじとばかりに、ラカンから火を吐くような左右の蹴り上げが放たれる。

 

「ぎ、っ――」

 

 何メートル突き上げられたのか。胴から首を引っこ抜かれてもおかしくない衝撃。いや、それを言うなら腹を叩いた二撃目ですら、内臓を破壊する威力があった。

 追撃が来ることを考え、固まった関節を力尽くで曲げ、身体を起こす。

 

「は――」

「っ、ふっ……!」

 

 目を背けず、火花染みた速度で迫る敵を迎え入れ、ラカンの顎に掌底が叩きつけられる。

 初動作の無い最短の軌跡。円であり線、外部はもとより内部へのダメージを考慮したそれは、中国拳法という。外側ではなく内側の破壊を旨とした一撃は、容赦なく衝撃を通す。

 二人とも仰け反りよろめきながらも倒れない。力の入らない足で踏ん張り、再び拳を交換する。

 耳朶に響くものは己の心音のみ。裡にあるのは相手を打倒し、超えようとする燃え盛る戦意の心のみ。

 眼下で繰り広げられる戦いを観客席から見下ろす観客達は息を呑んでいた。

 アスカが殴り、ラカンが殴り返す。良いのを食らった二人は互いに堪えきれずに半歩下がるも、直ぐに踏み込んで殴り合いを再開する。

 小細工無用。技を繰り出すだけの気も魔力も互いに残っていない。ただの殴り合いである。

 アスカが殴る。ラカンが殴り返す。その繰り返しだ。

 傷つけられた痛みで意識が飛ぶなど、この戦いでよくあったことだだろう。明日には指一本動かす力さえ残らなくても、今、この瞬間だけ動ければいいという気迫がここまで届いてくる。

 拳を動かすのも、両足を支えるのも、ただ男の意地のみ。

 

『こ………これは先程までの目まぐるしい戦術、戦略、魔術戦、大魔法戦はどこへやら!? 両者駆け引きなしの真っ向勝負!! ただの殴り合いだ――!!!!』

 

 眼下での闘いは続く。

 アスカが殴り、ラカンが蹴る。相手の腕を掴んで、そのまま投げを放つ。

 一進一退。二人の周囲を、夥しい量の鮮血が覆っている。真紅の舞台の上でどっちが先に潰えてもおかしくはなかった。

 ノーガードでやり合う二人に観客がどよめいた。数多の拳闘試合を見てきたこの場にいる誰一人として見たことのない、魔力も気も全く使わない己が肉体のみを武器とした闘いを、男達の宴を呆然と眺めていた。

 不器用なほどに無鉄砲な殴り合い。防御も駆け引きもない。出鱈目な戦いだった。

 しかし、無邪気なまでに殴り合う二人の姿に、観客の誰もが言い様のない気高さを感じていた。神々しく魂を燃やして輝く二人の姿に言葉を失っていた。

 男達の中でも血気に逸る者は、こんなにも楽しそうな宴をどうしてこんな所から眺めているのかと自問した。

 ある者は全身の血が沸き立つのを抑えられなかった。心を冷静に努めるのに必死だった。あの中に交って、闘いたいという衝動に必死に耐える。でなければ、乱入してしまう。

 やがて誰かが足を踏み鳴らし始めた。それは瞬く間に観客全体に伝染し、会場を揺るがすほどの響きとなる。

 

「アスカ!」

 

 地鳴りのような足踏みに続いて観客席の最前列にいた明日菜が誰よりも真っ先にアスカの名を叫んだ。

 

「ラカン!」

 

 次にそれに対抗するかのように誰かがラカンの名を呼び、再び別の誰かがアスカの名を呼ぶ。

 

「アスカ!」「ラカン!」「アスカ!」「ラカン!」「アスカ!」「ラカン!」「アスカ!」「ラカン!」「アスカ!」「ラカン!」「アスカ!」「ラカン!」「アスカ!」「ラカン!」「アスカ!」「ラカン!」「アスカ!」「ラカン!」「アスカ!」「ラカン!」「アスカ!」「ラカン!」

 

 闘技場に居る二人の名を呼ぶ声は止まらず、うねる波のように会場中を流れ始めていた。

 繰り返される声援は、最早どちらを応援しているのか分からない、気付けば観客は両方の選手を応援していた。それは試合に勝てと言っているわけではない、ただ声を上げずにいられなかったのだ。

 その歓声すら当事者の二人には届かない。例え届いていたとしても認識しえないほど、二人の世界は二人だけで完結している。

 歓声に包まれる闘技場の中に掠れたアスカの声で笑みが漏れた。

 

「酷い顔だ。声も変だぞ」 

「しゃあねえだろ。テメェも一緒だろうが。へっ、口の中が鉄の味で一杯だぁ」

 

 ラカンが唾を吐き出すと、それは真っ赤な血の色をしていた。だが、御顔相に関しては、アスカも同様だった。二人の顔は、頬も唇も瞼も腫れ上がり、痣だらけだった。顔があちこち腫れ上がって左右非対称になってしまっている。

 痛いのに、火傷しそうなほどに熱を持っているのに、体は今にも休息を欲しているほど疲れ切っているのに、心は太陽のように燃え盛っている。

 

「おおおおおおおおおおおおおおっ!」

 

 ブツブツと肌が泡立つ。グツグツと血が沸騰する。異常な興奮と衝動の中で、アスカはラカンへと吠えながら跳ねた。

 

「クハァ――」

 

 パンチの応酬が何発になったのか、もはや数えること事態分からなくなった時点で良いのを貰ったラカンは数歩後退り、倒れはしなかったものの上体を折って喘いだ。真っ赤に焼けた鉄を放り込まれたように全身の血が沸騰しそうだ。しかし、その熱も胸の奥にある意思までは溶かせない。

 

「はっ、はぁ!。ここまでとは思わなかったぜ!」

 

 言いざまラカンの反撃の右拳がアスカの顔面を捉えた。

 拳が頬に当たって食い込んでもアスカは瞬き一つしない。ラカンはさらに左フックと右の膝蹴りを出したが、アスカは右フックと左の膝蹴りの相反する攻撃を出してくる。

 

「嬉しいぜ、アスカ!!」

 

 何の思惑もなくできるこんな心躍る楽しい戦いはナギ以来、久しぶりだとラカンは笑わずにはいられなかった。

 息子ほどの年の離れているアスカが巷では英雄と呼ばれている自分に肉薄している。下の世代が突き上げているのだ。旺盛な戦意で勢いは上回っているほど。

 ラカンは初心を思い出し、目の前で歯を剥き出しにして迫ってくる若い男と同じように身を曝け出して勝機を得ようとした。

 かかってこいと言わんばかりに、アスカが手招きする。観客がラカンを急かすように足拍子も速まる。

 ここで行かなければ男ではないとラカンは良く知っている。

 

「――――おおおしゃぁっ!」

 

 ラカンが雄叫びを上げてアスカの胸に拳を打ち込んだ。渾身の力を込めた一撃に堪らずアスカは数歩後退するも、楽しげにニヤリと笑った。ラカンも自身の口元に同じ笑みが浮かんでいるのを感じた。

 

「まだだ、まだ足りねぇ! 全然伝わらねぇぞっ!!」

「はっ! さっさと倒れろよ、この老兵(ロートル)がっ!!」

 

 再び拳と蹴り、ありとあらゆる箇所を使った攻撃の応酬が始まった。

 互いに吠えて手と足と体が交錯し、互いの熱だけが膨らんでいった。言葉以上に別のものが二人の間を繋いでいった。感情と言えばいいのか、モヤモヤとした何かが熱になって伝わってきたのだ。

 希望と絶望、希求と渇望、楽しさと悔しさ、狂おしさと満足さ。

 どう言っても少しずつ違ってしまいそうだった。所詮は相手の仕草から垣間見える熱情を自分勝手に噛み砕き、再解釈しているに過ぎない。だけど、それでも百万言を費やす以上に、二人は互いを理解していった。

 ラカンはこのような触れ合いを過去に経験している。

 心が静かなのに、肌が熱い。何時までだって、こうしていられそうだった。何時までだって、こうしていたいと、心の底から願った。

 

(フ…………なぜか懐かしいぜ。見た目も違うし、細かなところが違うはずなんだがな。テメェと戦ってるみてぇだぜ、ナギ)

 

 身体に残されたエネルギーを最後の一カロリーまで使い切るつもりで拳を繰り出しながら、ラカンはかつての親友兼ライバルの姿を思い出していた。

 

(熱い………熱で全身が焼けそうだ)

 

 アスカも感じていた。拳が熱い。痛みではなく、血の熱さだ。

 

(そうだ、俺は戦いを楽しんでいる)

 

 これほど戦いを楽しいと思ったことはない。

 胸の奥の鼓動が指先まで伝わり、弾け迸る。全身全てが心臓になったような錯覚。敵を倒すための冷たい凶器でしかなかった拳に血が通い、魂を宿す器となったようだ。今までずっと胸の裡に蟠っていたものが頚木から解き放たれ、自由になった感触があった。

 

「はははははははははは」

「あはは、あははははは」

 

 フラフラとよろめきあいながら、互いに零れ出るのは心底楽しくて堪らないと感じさせる笑い声。

 体力など、とっくの昔に尽きている。お互いに足が利かなくなっているから、もう避けることも蹴りを放つことも出来なくなってきていた。出した拳は確実に相手を捉え、出された拳は確実にもらってしまう。

 拳にも、もうまとまな威力は残っていなかった。虫を殺すのがやっとという拳だが、それでも効いてしまう。一発貰う度に意識が飛びそうになりながらも、二人は決して倒れない。

 互いの頭骨を打つ鈍い音が闘技場に延々と響き渡る。

 如何に体力が尽きようとも互いの眼だけは死んでいなかった。息を切らし、震える脚に手で活を入れ、額から汗と血を垂らしながらも、彼らは倒れず、戦いを投げ出すことなく、気力を振り絞って相手を見据える。

 

(あちこちの骨が………体中が悲鳴を上げている!!)

(ここに来て最後のダメージが………限界だ!!)

 

 小手先の駆け引きなど無用とばかりに全力で殴り、全力で受ける。これまでの戦いでボロボロになった全身の血と骨と肉が更に悲鳴を上げようと、そんなことはお構いなしだ。

 意地で拳を繰り出し、意地で耐える。意地と意地のぶつかり合いを何度も繰り返す。

 

((だが、負けられない!!))

 

 あらゆる事象や状況が頭から蒸発していく。他の者の思い、頼み、願い、目的、しがらみ。もう何もない。ここはアスカとラカンだけに用意された純粋な空間。

 無駄な情報の一切を排除し、眼前の敵を倒す事だけ考える。そうすることで心がこれ以上なく澄み渡り、頭の中が限りなくクリアになって目の前の敵を妥当することのみに集中する。

 二人の頭には、目の前の相手に勝ちたいという気持ちしかなく、勝った場合の決勝のことも綺麗さっぱり忘れ去っていた。

 何の躊躇もなかった。計算も打算もなかった。ただただ、互いの本気と本気とをぶつけあった。

 

「づらぁ!」

 

 アスカがラカンの顔面を殴る。

 

「ぐぬぅ」

 

 食い縛った歯の隙間から呻きが漏れた。ラカンは体が揺らぎながらもなんとか踏ん張る。

 反撃を試みようと、右の拳を放る。

 アスカに待ってやる義理はない。順番など待っていられない。もう一発行く。

 

「おんどるらぁぁ!」

 

 奇声を発しながらラカンがアスカの拳が放たれる前に無理な体勢で打ってきた。

 カウンターで決まった一撃の衝撃がアスカの全身を襲う。痛みなどとうの昔に限界を超えた所為で感じなくなっている。 

 拳と拳。気迫と気迫がぶつかり、肉が軋みを上げる。肉体には隠しようもない深刻なダメージが蓄積していく。それでも意地で苦痛を噛み殺す。

 立っているのは最早、戦士ではなかった。本能が四肢を支配する男である。

 もはや何発殴ったかも分からない。何時しか足拍子は止み、拳が肉を打つ音だけが辺りに響いた。互いに自分が立っていることが信じられなかった。

 顔面に相当食らって人相が変わるほど腫れ上がっているが、それでも倒れる気がしない。

 全身を充足感が支配していた。

 重ねてきた経験も、磨いてきた技も最早意味はなさなくなった。二人を突き動かすのは男としての意地のみ。目の前にいるから殴る。永遠かと思えるほど続く、純粋な拳闘が心の不純物を流し去っていく。

 心地良い。まるで夢のように楽しい一時を、二人は過ごす。夢現の時はどれほど続いたのか。どれだけ楽しい祭りでも、必ず終わる時が来る。やがて終わりの時が来た。

 元の人相すら分からぬほどに腫れ上がったアスカの頬に、これまで以上に的確にラカンの拳が炸裂した。奇妙なほどに歪む血塗れの顔が、おかしな角度に曲がっている。

 

「ぐぅつつつぅ」

 

 細かい血煙を口中から迸らせ、アスカが膝から崩れた。

 だが、アスカ・スプリングフィールドのどこにそんな力が残っているのか、ジャック・ラカンの大砲のような拳を食らって腰から崩れ落ちたのに倒れなかった。

 

「俺は、負け、ない!」

 

 荒い息を吐きながらアスカはラカンに、そして自分に向かって声も高らかに叫んだ。

 

「勝つんだっ!」

「いい加減に倒れやがれ――っ!」

 

 ラカンもアスカの叫びに負けじと叫び返す。

 二人の距離は手を振れば必ず当たる近距離、次の一撃で終わりになると悟っている。互いに防御など考慮もしないノーガードで、叫びながら右拳を振り抜く。

 横から回り込むように進んだアスカの拳よりも僅かに先に下から掬い上げる振るわれたラカンの拳が早い。一瞬だけ早くラカンの拳がアスカの顔面を下から抉った。

 

「おおおおお!!」

 

 この最後の一撃に渾身の力を込めてラカンは雄叫びと共に腕を振り抜いた。

 真下から突き上げてきた拳を受け、アスカは天を仰いだ。もう痛みは感じなかったが自分が負けるのだとは理解できた。

 敗北を意識したことで視界が急速に暗くなっていく。意識が途切れようとしているのだ。だが、もう勝敗などどうでもいい。このまま眠ることが出来れば、どれだけ楽になれるだろうか。

 アスカの中で戦う理由が消え去り、楽になりたいという気持ちが全てを支配した刹那。

 

「アスカ!」

 

 真横から放たれた明日菜の鋭い声が闇に沈もうとしていたアスカの意識を繋ぎ止める。

 暗くなっていく視界の端に、胸の前で固く拳を握る明日菜の姿が映る。

 彼女は何を言うのだろうかと、繋ぎ止められた意識が再び闇に落ちようとした時、明日菜は腕を振り上げた。

 何時だって男を奮い立たせるのは女と決まっている。

 

「――――勝てぇええええ!!」

 

 その叫びは静まり返った闘技場に鮮烈なまでに響き渡り、アスカの耳にも入って電撃の如く意識を賦活させた。

 

「ぉぉぉぉぉぉ――――」

 

 女に心の尻を蹴られた男の魂が最後の活を入れた。

 肉体は動かない。だけど、太陽道で回復したほんの僅かな雀の涙ほどの欠片の様な魔力だけなら扱うことが出来た。

 後頭部に瞬動の要領で魔力を集中して一気に放出。殴られた慣性重力に従って落ちるだけだったアスカの身体が「起き上がり小法師」のように頭から跳ね上がった。

 

「ぉおおおお――」

 

 アスカの声が上から聞こえて、勝利を確信していたラカンは腫れ上がって視界を塞ぐ瞼を押し上げて上空を見上げた。

 

「おおおおおおおおおおおおぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」 

 

 もはや指一本動かすことは出来なくても、顎をかち上げられて仰け反った時に上がった拳だけは固く握っていた。後頭部に瞬動をして跳ね上がった勢いそのままに、倒れ込むようにラカンの頬に拳を叩き込んだ。

 鈍い音が響いて、そのまま巨体を地面へと叩きつける。

 二メートルを超す巨体が仰向けに倒れた姿勢のままピクリとも動かない。反対にアスカは何とか倒れず、生まれたての小鹿のように今にも倒れそうなほど足を震わせているが立っている。

 

「ゼッ、ハッ……………俺の、勝ちだ!!」

 

 アスカは倒れたままのラカンではなく、ここまで戦った相手を見下ろすことを嫌って遠くを見つめたまま、大きく息を荒げながら勝利を宣言する。

 

「ああ。そして、俺の敗北(負け)だ」

 

 ラカンは、宣言するアスカを見上げて、そう、目蓋を閉じて己に言い聞かせるように呟いた。

 数万人分の歓声が聞こえ、彼方に遠ざり、意識が薄れていく――――。 

 

『き、決まった! ラカン選手、動けません!! ダウン! ダウン――ッ!! 負けを認めました!』

 

 近寄ってきたアナウンサーが落ち着きなくラカンの周りを動きながら言っているのも、全くアスカの耳に入ってこない。

 

「っ……」

 

 ふと、アスカの口から声が零れ落ちた。

 両手を硬く握り締め、ぐぐと身体を折って縮めると、抑えることの出来ない感情の奔流を解き放つ。

 

「ああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」

 

 大きく上体を反らし、両の拳を高らかに突き上げて天を振り仰ぐように、アスカ・スプリングフィールドは勝利の雄叫びを上げた。試合で全ての力を使い果たしたアスカの声は掠れるように小さいが叫ぶ、叫び続ける。

 静まり返った闘技場に響く静かな声に、落雷を撃たれたように体を震わせた人々が、次の瞬間には一斉に手を叩き始めた。割れんばかりの拍手が渦となって闘技場を包み、観客の歓声と鳴り止まぬ拍手がアスカの叫びを覆い隠すように何時までも響き渡っていた。

 

 地に沈む褐色の巨体と両の拳を突き上げて勝利の雄叫び上げる青年の姿に、多くの者が眼を疑ったに違いない。

 

――――伝説の英雄ジャック・ラカンが負けた

 

 観客達の目の前の光景は、そう物語っている。俄かには信じ難いことだ。ジャック・ラカンの名はナギ・スプリングフィールドらと並んで不敗の象徴であり、敗北から最も遠い存在なのだ。

 だが、目の前に広がる光景は最強神話の終焉を揺ぎ無い事実として示している。それを否定することは誰にも出来ない。 この時になって、人々は初めて理解することになる。新たなる伝説の誕生を。

 

「アスカ!」

 

 観客席と闘技場を遮る障壁は既にない。まず最初に明日菜が身を乗り出して下り、アスカの下へと走る。

 明日菜を皮切りとして、小太郎が、刹那に抱えられた木乃香が、古菲が、楓が闘技場へと下り、控え室通用口からトサカやバルガスが現れて、皆がアスカの下へと走る。

 アスカに親しい者達が続々とアスカの下へと向かうのを契機に観客達も後へ続く―――――――――アスカの掲げた拳の下へと。

 

「千雨さんは行かないのですか?」

「…………うるせぇ。黙って見てろ」

 

 絡繰茶々丸に聞かれた長谷川千雨はどんどん溢れて来る涙を手で拭いながら、辿り着いた小太郎やトサカに抱えられても拳を突き上げ続けるその姿を目に焼き付けた。

 人種も種族も関係なく老若男女獣魔が集い、誰もが笑みを浮かべている光景はとても尊いものに思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『終了したナギ・スプリングフィールド杯準決勝第二戦は大方の予想を裏切り、アスカ・スプリングフィールド選手の勝利でした』

『鍛え上げられた肉体がぶつかり、知恵の限りを駆使した試合は一進一退の攻防を繰り返したわけですが、それにしても最後は壮絶な殴り合いでしたね。あそこまで駆け引きもへったくれもない、肉体の頑丈さと根性だけで競う勝負は見たことがない』

『十年に一度の試合となることでしょう。何度も障壁が壊された所為で会場の修復と補修、更に残る決勝戦に備えて急ピッチに工事が行われています』

『激戦の影響で記録機器にも故障が相次ぎ、全てを収めた映像が高値で売買されているという情報もあります』

『え、なにそれ? 私も欲しい』

 

 ブツン、とテレビの電源を落としたネギ・スプリングフィールドは闇に染まった室内で、膝の上に置いた手を強く握る。

 何故、と同じ立場であったはずなのに変わってしまった自分達の立ち位置に強張った手の平をきつく握りしめた。

 

「なんで……………僕じゃなかったんだ」

 

 喉奥から絞り出した声が体を震わせた。感情の波が行き過ぎるまで伏した顔を上げなかった。

 同じ種から発した命。アスカでもなければ、自分でもない。別のなにかと向き合い、必死に踏み止まっているかのような顔だった。内面の脆さを押し隠し、折れそうなまでに張りつめた瞳。ネギの瞳の暗さは、ヘルマン戦後に明日菜に離別を告げた時のアスカと哀しいくらいに似ていた。

 

 

 

 

 




勝負の決め手は、声援を力に代えられたかどうか。

オリジナル技:雷轟塵殺拳

・千の雷を咸卦の力で無理矢理に右手に収束して放つ拳。威力は雷華豪殺拳を遥かに上回るが、収束しきれないので効率は悪くアスカは使った後は右手がボロボロになっている。
 それでも対個人に使って相手が原型を留めている辺りにジャック・ラカンの桁外れの耐久力が分かる。



次回はナギ杯決勝であるネギ戦
長ければ二話、それ以外では一話になります。
次回タイトルは『宿命の二人』と『兄と弟』か、『宿命の兄弟』です。





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第75話 宿命の兄弟









 

 

 

 

 

『お父さんはスーパーマン?』

『お父さんはヒーロー?』

『今もどこかで誰かを助けてるの?』

『っ…………ええ、きっとね』

『じゃあ、僕もヒーローになる!』

『アスカ、どうしたの急に?』

『ヒーローになってみんなを助けたら、どこかで同じようにみんなを助けてるお父さんと会えるはずだよね。だから僕もヒーローになる!』

『あっ、アスカだけずるい! 僕だってヒーローになるもん! ずるいアスカは成れないよ!』

『えぇ!? 僕だって成れるもん!!』

『成れないったら成れないもん!!』

『成れるったら成れるもん!!』

 

 それは遠い日の記憶。

 従姉弟のネカネを挟んで二人で言い合いをしていた。今思い出せば、どうでもいいことに拘っていたのだろうかと苦笑する。

 

『どうやったらヒーローに成れるんだろう』

『困ってる人を助ける?』

『そんなのでヒーローに成れるのかな』

『いっぱい、いっぱい、助けてたらヒーローになれる!』

 

 瞼を閉じればその向こうに思い浮かぶ、もう決して戻ることはない平穏だった頃の二人。

 遠い遠い昔の、まだ二人だった時の優しい思い出は過去の中で輝いていて――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 収容人数十二万人。中央アリーナ部分の直径三百メートルを誇る大闘技場。それがオスティア終戦記念祭の目玉であるナギ・スプリングフィールド杯の決勝戦が行われる舞台である。

 模擬戦形式に変化し、正に拳闘界の頂点に決めるに相応しい舞台が整えられた闘技場は静まり返っていた。この地に集まる全ての者がこれから行われる試合を見に来ており、闘技場中央に立つ悪魔っ娘審判に注目していた。

 

『――――――皆様、長らくお待たせいたしました。これより、ナギ・スプリングフィールド杯決勝戦を執り行います!!』

 

 厳かに告げる悪魔っ娘審判の拡大された声が闘技場に響き、静まり返っていた観客席が歓声で沸き立った。

 

『遡ること三日前、準決勝のアスカ・スプリングフィールド選手とジャック・ラカン選手の試合は伝説に残る試合でありました。どんな言葉で語ろうとも陳腐と思えてしまう激闘は皆様の記憶にも深く刻まれたことと思います』

 

 審判が手を上げると三日前に行われた試合のハイライト映像がパッパッと幾つかのシーンを切りだして流される。

 

『本来ならば昨日行われるはずだった決勝戦が今日に延期になったのは、準決勝での激闘による爪痕があまりにも大きすぎた為です。集団戦闘合戦にも耐えうるこの闘技場がたった二人の試合で重大な損傷を負いました。幾度も常備障壁、緊急障壁が破壊されるほどに』

 

 祭り中の予定変更は普通ならばありえないことだが、それだけの理由があるのだと語る。

 

『されど、先の試合は準決勝です。決勝では更なる激闘が行われると予想し、大会側は補修と強化を施しました。以前の物が連合艦の艦載砲を防ぐ物であるならば、今回の物は複数艦による同時砲撃にも耐えうる規模であると自負しています。今度こそ皆様の安全を保障します』

 

 つまりは現在出来得る限りの防御処置を施したというわけで、準決勝ではあわやの事態も想像した観客の中からは安堵の息が漏れた。

 

『街頭アンケートの勝敗予想では6:4でアスカ選手がやや有利と見られていますが、専門家の間ではラカン選手に勝利したアスカ選手に勝つには千の呪文の男(サウザンドマスター)

の本人か、生まれ変わりでもない限りでは戦いにもならないだろうと、ナギ選手に厳しい評価が出ています。果たしてナギ選手は――』

 

 それはまるで、地鳴りのようだった。空気を鳴動させ、大地を震わせる重低音。だが、それは自然現象とは異なる要因によって生じていた。

 一箇所に集結した大量の人間が、己の体内から発しているもの。興奮だ。ナギ・スプリングフィールド杯決勝の闘技場は今、熱気に包まれている。その熱は喧騒となり、分厚い石壁で覆われた通路を歩くアスカの下にまで届いていた。

 

(まさか、こんなところでネギと試合することになるとはな)

 

 準決勝でジャック・ラカンとの試合に勝った時点で分かりきったことなのに、何とも心の中は不思議な心地であった。

 全ては半ば予想していたことだった。理由などない。肌を包む空気の質、風の音、何処からか忍び寄ってくる湿気も感じてはいた。だが、それが理由ではない。単に分かっていたのだ。彼は胸中で、意味もなく理解した。どうしてか、アスカはこの試合が辛い時間になると予感していた。互いが辿った経緯を慮る余裕はなく、ただ苦い予感を噛み締める内に時間が来たことを自然に悟る。古くからの約束事のように、分かっていたのだった。

 

『まずは最も新しき伝説! アスカ・スプリングフィールド選手の入場です!』

 

 その歓声が入場のテーマ。まず姿を現したのはアスカ・スプリングフィールド。

 特にアスカは、『伝説の傭兵剣士』『自由を掴んだ最強の奴隷拳闘士』『千の刃』『死なない男』『不死身馬鹿』『つか、あのおっさん剣が刺さんねーんだけどマジで』の数々の異名を持つ現代の英雄ジャック・ラカンを正面から粉砕したことで一躍、時の人となっている。

 武舞台へと姿を現したアスカに向けて盛大な拍手と声援が包み込む。

 

『対するは、彼の千の魔法使いと名前を同じくするナギ・スプリングフィールド選手! 同じ名を持つ選手が対戦する異例の事態でありますが――』

 

 程なくして反対側の通路から、対戦相手であるナギ・スプリングフィールドの名を騙ったネギ・スプリングフィールドが姿を現した。同時に観客席から、女達の絶叫に近い嬌声が沸き起こる。

 実況の説明を掻き消すほど互いのファンが歓声と罵声をぶつけ合い、闘技場は一気に騒然となる。だが両者が相手まで十数メートルの距離まで近づくと同時に足を止めたことで声を張り上げるのを止めた。

 ナギの名を騙ったネギが本物であるかどうか気になるところではある。トーナメントの組み合わせで運命的・奇跡の一戦と思われていた彼とジャック・ラカンの試合は惜しくもならなかったが、二十年前の英雄の一人であるジャック・ラカンを倒したアスカとの試合は観客達に別種の興奮を呼んだ。

 

「「……………」」

 

 武舞台では、互いの雌雄を決する者達が向き合っていた。

 

「首輪、外したんだな」

「相手の要求を満たしたから、らしいよ。なんだい、気にしてたの?」

「俺が勝ったら賞金を渡してやらなねぇって思ってたからな」

「もう勝ったみたいな言い方じゃないか」

「そこまでは言わねぇよ。ただ、戦う以上は誰であろうと勝つってだけだ」

 

 ネギは思う。最強と言われているナギと同格のラカンを倒したアスカと比べ彼我の戦力差は明白。真っ向から戦って勝機があるとは思っていない。でも、そう何もかも自分達の思い通りに行くと思ったら間違いだということを教えてやる。

 自分も今日の試合まで何もしなかった訳ではない。

 作戦は練ってある。元々はジャック・ラカン用に考えていた作戦だが、こと相性という点についてはアスカ・スプリングフィールドの方がいい。勝気に逸っているであろう鼻を明かすには十分な作戦を。

 

「忘れてないよね。今までの戦績を」

「忘れてねぇさ。百二十五戦六十二勝六十二敗一引き分け。だが、それは魔法学校の話だろ」

「いいや、今でも同じだよ。僕は敗けない」

「はん、言ってろ。勝つのは、俺だ」

 

 そして審判が厳かに、拡声魔法が付与されたマイクに口を近づけて告げた。

 

『―――――ではこれより、第二回ナギ・スプリングフィールド杯決勝、アスカ選手対ナギ選手の試合を開始します!』

 

 開会宣言に、闘技場が大歓声で沸き上がった。審判は、歓声が少し収まるのを待ってから、試合のルール説明を行う。時間は無制限で、戦闘不能になるか、自分から降参する事によって勝敗が決まると。またどんなに戦闘が激しくても、観客席には被害が生じないカラクリを説明する。武舞台及び武舞台上空を範囲とする戦闘空間についていは、その外周を特殊な結界で覆っている。

 

「「……………」」

 

 張り詰めた空気がある。息を呑むようなその静寂は、やがては観客をも威圧していく。

 審判が安全の為に距離を取ってネギとアスカの間の緊張が最高潮へ高まり、観客が思わず息を呑んで静まり返った頃、闘技場中に、銅鑼の音が鳴り響いた。

 カウントダウンが始まったと同時に全身の血流が早まっていく。逸る衝動に掛けた手綱を一杯に引き絞る。

 

『それでは決勝戦……!』

 

 ネギの全身から、目には見える程の魔力が立ち上り、無風だったはずの闘技場に強い突風が吹き付けた。魔法を使ったわけではない。ネギの気勢とと共に高まり続ける魔力から僅かに漏れ出た欠片に、相性の良い風の精霊が反応して反応を起こしたのだ。

 アスカもまた気迫の籠もった呼気と共に、全身に力を漲らせた。全身から白い雷が輝き、バチバチと火花が散った。息を吸い込みながら僅かに姿勢を低くして身構えると同時に、両者から放射されていた風と雷は揃ったように収まった。

 

開始(インキビテ)!!』

 

 それは、運命と、宿命が交差した戦いの始まりだった。計らずとも兄弟が戦う試合が始まったのだ。

 審判の語尾が闘技場の空に消えるよりも早く、開始位置にいたはずのアスカが魔力による身体強化と縮地の合わせ技による超速移動でネギの背後に移動して、その肩を掴んで無理矢理に振り返らせた。

 先手必勝とばかりに腰溜めに構えていた拳をネギの腹に向けてアッパー気味に叩き込んだ。が、アスカの手には人の肉体を打った手応えはなく、雲を貫いたような曖昧な感触が残っている。

 

「む」

 

 腹を貫かれたネギは霞の如く消え、突き出した腕を捕らえるように戒めの風矢がアスカの全身を縛り付ける。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル」

 

 戒めの風矢で動きを封じたネギが風精召還・剣を執る戦友の術式を改造して本物そっくりの見た目の幻影の体一つ分横にいて、魔法発動媒体の指輪を填めた手をアスカの向けている。

 

「地を穿つ一陣の風、我が手に宿りて敵を撃て、風の鉄槌!!」

「ふんっ!」

 

 戒めの風矢は基本呪文だがまともに食らえば脱出に時間がかかる。ネギはその前に中位呪文を詠唱していた。

 アスカは全身に異常なまでの魔力を放出して力任せに戒めの風矢を振り解き、体を後ろに倒したところで耳に「ラス・テル・マ・スキル・マギステル」と遠くから始動キーを唱える声が聞こえた気がした。

 気の所為と断じてしまえばそれで試合は終わると直感が囁き、背後に倒れ込む動作でネギの手を蹴り上げようとしていたのを中断して無視することを決める。

 

「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル」

 

 後ろ手に地面に手を付いて後方に跳ねながらアスカも始動キーを唱える。

 

「「来れ雷精、風の精、雷を纏いて吹きすさべ南洋の嵐、雷の暴風!!」」

 

 五十メートルほど離れた場所に立っていたネギの方が僅かに早く雷の暴風を放つが、離れていた距離の分だけアスカが放つ雷の暴風も間に合った。

 二条の雷の暴風はアスカの近くで衝突して相殺された。衝撃波で体が浮かび上がったアスカは無理に逆らわず、百メートル近くを飛ばされて危なげなく着地する。

 

『開始直後から大呪文が激突ぅっ! 両者共に無傷のままです!』

 

 実況が興奮した声で解説しているが二重の罠を潜り抜けたはずのアスカは仏頂面を浮かべていた。

 

「最初から幻影で登場して、次に現れたのも幻影。本物は最初から離れた場所で隙を伺うなんざコスイ性格が出てんぞ、ネギ」

「アスカみたいな直情馬鹿には言われたくないね」

 

 離れた場所であるが相手にだけ声を聞かせる魔法がある。二人は会話をしながら相手の隙を伺っていた。

 

「風精に戒めの風矢を仕込んで、破壊されたら発動させる遅延術式。それが破られたら真横に幻影を映して、魔法を放つかのような動作を取らせる。本体はその間に仕留める準備を整えるなんて、セコイって言わずになんて言えってんだ」

 

 アスカでさえも引っ掛かった気配もあった本物と殆ど変わらない幻影に戒めの風矢を仕込み、破壊されれば発動する術式を別途に仕込む。仮にもう少し早く幻影に気付かなければ、先程の雷の暴風で痛手を負っていたことだろう。

 

「実力差を埋める為に策を巡らせるのは知恵持つ弱者ならば必要なことだよ」

「弱者、ねぇ」

 

 嘯くネギにアスカはコキッと首を傾けて骨を鳴らす。

 

(さっきの雷の暴風は相殺はしたが完全に押し負けていた。込めた魔力なら俺の方が上回っていたはずなのに、だ)

 

 魔力量を覆すほどにネギの術式は優れていると証明でもある。つまりは、魔法使いとして一枚も二枚も上に行かれている中で弱者と言われても納得できるものはないとアスカは口に出して言いたかったが、能書きをたれてもしょうがないので鼻を鳴らすに留める。

 

「で、次はどんな手で来るんだ?」

 

 自らを弱者とするならばお手並みを拝見してやると、かなり上からの物の見方で挑発する。

 一連の罠を見るに何重にも罠が張られていると予想され、不用意に飛び込むよりは相手の出方を窺ってから反応した方が惑わされずに済むと判断しての挑発である。

 

「右腕解放、固定」

 

 挑発を受けたネギは鋭い眼光を保ったまま片手を天に掲げると、手の先に生まれた稲妻が縦横無尽に走る。稲妻は吸い寄せられるように彼の掌に集まり、小さな光の点に凝縮されていった。稲妻の塊を握り潰す。

 

「千の雷の術式兵装か。まあ、闇の魔法(マギア・エレベア)を習得してんなら、そっちを目指すわな」

 

 千の雷を掌握(コンプレクシオー)したネギの姿が劇的に変わるのを見ていたアスカに驚きの色はなく、寧ろ納得の表情が浮かんでいる。

 闇の魔法はエヴァンジェリンが編み出し、秘奥として使った絶技。まだエヴァンジェリンほどに使いこなしていないだろうが、周囲の警戒を怠るほどアスカは甘くない。

 千の雷を術式兵装した際の術式名は|雷天大壮《へー・アストラペー・ヒューペル・ウーラヌー・メガ・デュナメネー》。

 闇の魔法での千の雷を取り込んだことによる効果で、比喩でもなんでもなく、自分自身を雷に変異させているとしか思えない。精霊を纏わせるのではなく、操るのでもなく、自ら変異するその様を、まるで万象の理を捻じ曲げるかの如く。

 

「雷天大壮。僕はこの術式兵装の名をそう名付けた」

「!?」

 

 遥か彼方に離れていたはずのネギがアスカの肩を後ろから引っ張って振り返らせながらそう言った。

 

「魔法の射手、連弾・雷の1001矢」

 

 もう片方の手が腹部近くに向けられ、最大数の魔法の射手が極間近で放たれた。

 閃光と次々と着弾する爆発に包まれてアスカの姿が一瞬で見えなくなる。巻き込まれない様に距離を取ったネギは1001矢の魔法の射手の全てを放ち終え、少し離れた場所で成果を見守る。

 

『専門家の間でも詳細が分からないというナギ選手の謎の変身技からのゼロ距離射程の魔法の射手が決まったぁ! 流石にこれは――』

「おぉ、痛ぇ痛ぇ」

『…………普通に立ってますね。試合は続行です!』

 

 爆煙と巻き上げられた砂煙を払うようにして手首を振りながらアスカが現れたので、実況は少しだけ声を詰まらせた後に感情を廃した声で試合の続行を宣言する。

 

「必殺を期したのに、なんで生きてるの?」

「人を勝手に殺すな」

「あのタイミングで1001矢の魔法の射手を受けて無事っていうのはありえないよ」

 

 完全に虚をついたはずで、避けられるはずも防御する余裕もなかったはずだとネギは告げる。

 

「無事じゃねぇって。また一張羅が台無しだ。後一着しかねぇってのに」

 

 エヴァになんて言って弁明すりゃいいんだ、と後半の言葉は口の中にだけで留めたアスカのシャツは所々破れ、焦げ付いている。

 

「雷速移動、大したもんだ。それが雷天大壮の能力か」

 

 百メートル以上離れた場所にいながら一瞬にして背後に回った移動方法を言い当てたアスカは顎に手を当てて感心する素振りを見せる。

 隙だらけのようにも見えるが、全神経でネギの挙動を見逃さんばかりに観察しており、一片の油断すらその眼からは伺えない。

 そしてそのアスカの目がネギは苦手だった。まるで人の中心を射抜くような視線。どんな時でも、どんな相手でも、自分の信念を曲げない者の強さ。麻帆良祭武闘会決勝で会った父にそっくりな目が。

 

「ノアキスでルイン・イシュクルと戦ってなけりゃ、今ので敗けてだろうな。まさかあの戦いでこんなところで生きて来るとは思わなかったぜ」

 

 精霊特有の気配に反応して魔法の射手を弾く動作に移行できていなければ、今頃地に伏していただろうと語ったアスカは純粋にネギを褒めている。だが、同時にそれだけで自分が敗けるわけがないと強烈な自負を覗かせていた。

 

「俺もスピードには自信があるぜ――――」

 

 ネギと違って精霊に変化するのではなく、全身に雷を纏ったアスカの姿が忽然と消える。

 

「――――雷速とまではいかないがな」

 

 疾風迅雷モードに入ったアスカが縮地との併用で数十メートルを一瞬で踏破し、ネギに肉薄する。

 

「おらぁ!」

 

 絶大な威力を誇る拳が放たれ、これを雷化して回避したネギは自分の得意距離を保とうと五十メートル離れた場所に瞬時に移動する。

 どれだけアスカが速かろうとも雷速に迫ることはないはずだった。十分に余裕を以て体勢を整えようとしたネギの背後にアスカがいることなど想定していない。

 

「隙だらけだぜ」

 

 八ッ、と気づいた時には既に拳が放たれていた。

 常時展開している障壁に拳が降れ、砕かれる一瞬の合間に雷速で先程よりも距離を広げて逃げる。

 

「やっぱ、雷の速度が出せるのは一瞬だけか。流石に逃げに徹せられると攻撃が当てられねぇか。ま、このまま続けてりゃ何時かは当たるだろ」

 

 標的を失った拳は地面を打ち砕き、十メートル近いクレーターを作ったのを上空から見下ろしたネギは忌々し気に表情を歪めた。

 バチバチと全身から紫電を撒き散らすアスカの今の状態が、麻帆良祭で対峙した超鈴音を相手にした時のカシオペア破りの時のと同一であると見て取ったネギは「…………この状態だと勝てないか」と口の中で小さく呟く。

 

「雷速なのは大いに結構だ。だが、その術式兵装の真価をネギが発揮するには、この闘技場は狭すぎる」

 

 もっと広い場所で雷天大壮状態のネギと戦う場合は苦戦必至だが、この闘技場の大体がアスカの射程圏内に入ってしまう。常時雷化出来るようならば盤面はひっくり返るが、今の状態では雷天大壮でアスカに勝つのは難しい。

 

「僕の手はこれで終わりじゃない」

 

 そう、今のままではアスカに勝てない。ならば、もっと手札を出すしかない。

 

「左腕解放、固定」

 

 試合前に左腕に込めておいた遅延呪文を発動する。

 発動と同時に左手の先に台風の塊が荒れ狂い、「掌握!」と叫んで握り潰した。

 

「異なる属性の二重装填だと? 正気か!?」

 

 アスカの驚愕の声を掻き消すほどの一瞬颶風が闘技場内を走ったが直ぐに収まった。

 視線の先で静かに佇んでいるネギに雷天大壮になった時ほどの変化は見られない。風属性の最上位呪文を取り込んだというのに変化がない方が逆に恐ろしかった。

 

(ネギが虚仮脅しなんざするはずがねぇ)

 

 と、アスカが内心で呟いた瞬間、頬に何かがめり込んだ。

 

(な……?)

 

 気付けば、自分は横殴りに吹き飛んでいた。

 疾風迅雷モードに入っているアスカは全身の電気信号が超加速されていて世界は止まったように見える。その中にあっても一雷速のネギを捉えることは出来ないが、反応や反射は出来ていた。動きを先読みして退避場所に先回り出来たのもそのお蔭である。

 止まった世界の中でネギは動いておらず、先行放電もなく動きの前兆も何もなかった。にも関わらず、アスカは頬に何らかの攻撃を受けて横殴りに吹き飛んでいる。

 

「雷の斧」

 

 思考が答えに辿り着く前に何時の間にか、上空に移動しているネギが無詠唱で雷の斧を振り落とす。

 

「くあっ!?」

 

 詠唱とした時と変わらない威力の雷の斧を障壁を全開にして耐えている間に、「春の嵐」とまた詠唱もなく大呪文が放たれた。

 春の嵐から感じられる魔力は詠唱時と全く変わらない。これを受けたら耐えられないと判断したアスカは障壁をオーバーフローさせて爆発させ、一直線に向かって来る春の嵐から自分を弾き飛ばす。

 

「戒めの風矢、魔法の射手・光の1001矢」

 

 自分の障壁を破壊したことでダメージを負いながら受け身も取れずに無様に地面を転がっていると、戒めの風矢が地面から突如として湧き上がってアスカを捕らえようとする。ほぼ同時に上空から光の1001矢が孤を描くようにして向かって来ていた。

 

「ちぃっ」

 

 肘で地面を叩いて魔力を放ち、瞬動の応用で戒めの風矢の捕捉エリアを越える。まだ魔法の射手が迫っているので、体を捻って足から着地して全力で逃げる。障壁の再展開をしている暇もないので、脇目もふらずに魔法の射手の効果範囲から離脱する。

 後方で次々と着弾する魔法の射手に背中を煽られ、最後の一矢の着弾で吹っ飛ばされて闘技場の壁に頭から突っ込む。

 

「おぅっ?!」

 

 全速力で壁に突っ込んだので陥没させながら視界に星が何重にも瞬く。

 頭部が完全に壁に埋まっているので追撃を受ければそこで終わりだったが何故かネギは攻撃を仕掛けず、アスカが壁から頭部を引き抜くまで待っていた。

 フラつく頭でアスカが振り返ると、闘技場中央上空に浮かんでいるネギがこちらを見下ろしていた。その姿を見たアスカは不審げに眉を寄せた。頭部の痛みからではなく、ネギの気配が上手く捉えられなかったからだ。

 

「なんだ、気配がしない? いや、これは……」

「なにかに邪魔をされて僕が何人もいるみたい、かな」

 

 アスカの思考を先読みしたかのようにネギが厳しい表情を崩さぬまま口にする。

 

「アスカの気配察知は厄介だからね。邪魔をさせてもらっているよ」

 

 ノアキス事変で霧を発生する魔法具を使われた時のように気配探知が出来なかったように、確かにネギがそこにいるのに気配がおかしな場所にネギがいるように感じる。

 

「そして僕も見えている場所にいるとは限らない」

「っ!?」

 

 またもや真横から攻撃が放たれ、偶々腕が防御の体を為したが、またもや成す術もなく弾き飛ばされる。

 それほどこの攻撃に大きい力はなかったようで、少し体が反転した程度で着地する。急いで攻撃が放たれた場所を見てもそこには誰もいないし、空気の動きもなく何の気配もない。

 

「姿の隠蔽に気配阻害、それに今のは魔法の射手か?」

 

 風の最上位魔法を取り込んだことで、どこまでの効果を得たのかは推測するしかない。

 

「……?」

 

 何が起こっても不思議ではなく全方位に警戒していると、アスカは耳鳴りを感じた。

 キィィィィィィィィィンと耳を弄する甲高い音が耳の奥で鳴り響き、頭蓋骨の裏を掻き毟られるような気持ちの悪さが血管を伝って全身を駆け巡り、不快感のみを伝播させていく。

 

「ぐっ、が……」

 

 両手で耳を抑えるが耳鳴りは止まない。ネギはピンポイントでアスカ相手に音波攻撃を仕掛けているのだ。

 

「天雷空壮――――僕はこの術式兵装をそう名付けた」

 

 耳鳴りで自分の苦痛の声すらも聞こえない中でもネギの声だけは明瞭に聞こえた。

 

「効果は大気を操ること。勿論、なんでも出来るわけじゃないけど、限定空間内なら大抵のことは出来るよ。今のように気圧を下げることだってね」

 

 頭痛がし始めた状態で前を見れば視界内にネギの姿が幾つもある。十や二十では利かない。百や二百のネギが空中に浮かんでこちらに手を向けていた。

 視界がぶれているのか、単純にネギが幻影を用いて複数に別れているのか、気配探知が乱されている中では判別できない。厄介なことに全てに気配がするのだから。

 

「雷天大壮は雷速といっても雷化出来るのは一瞬だけで思考速度まで速まる訳じゃないから、これぐらいの距離だと僕では上手く活かし切れない―――――――と、思ったね」

 

 一瞬の雷化を活かし切るならば近接か遠距離の方が良い。典型的な魔法使いタイプであるネギがするとしたら遠距離だが三百メートル四方では狭すぎるとアスカは考えた。

 

「ブラフだよ。一瞬でも雷の速度を得られるなら魔法使いタイプのネックである詠唱に時間がかからなくなる、こんな風に」

 

 全てのネギの掌が光り、1001矢の魔法の射手が放たれる。

 そのどれが本物で、偽物で、どこから放たれたものなのか。仮に全てが本物だとして、雷速で幻影の場所に移動しつつ放った物なのか。

 

「しゃらくせぇ!!」

 

 気圧の急激な変化に耳と口と鼻と目から血を溢れさせながらアスカは全身から魔力を発する。

 後先考えずに魔力を振り絞って向かって来た魔法の射手を弾き飛ばす。魔力が放出された空間内は天雷空壮の影響下では無くなるのか、頭痛も消え去った。アスカはこの間に「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル」と始動キーを唱える。

 

「契約により我に従え高殿の王、来れ巨神を滅ぼす燃え立つ雷霆、百重千重と重なりて走れよ稲妻」

 

 詠唱を唱えている間に無詠唱で魔法の射手を無差別に放ち続け、攻撃を受けることを防ぐ。ネギに当たっているかどうかも分からないまま、この窮屈な空間を破壊しようと雷を纏った手を振るった。

 

「千の雷!!」

『それを待っていた』

 

 ネギの喜悦を滲ませた声に失敗を悟るよりも早く、放たれた千の雷は闘技場内を奔り回って――――――――地面と観客席を守る為に展開されている障壁に難解な魔法陣が浮かび上がる。

 

「なっ!?」

 

 何時の間に闘技場内を埋め尽くすほどの魔法陣が描かれたのかと驚愕する暇もなく、千の雷は魔法陣に吸収されていく。

 やがて全てのエネルギーを吸い取られた千の雷は、闘技場内に何の傷を残すこともなく消え去る。

 

「太陰道、だと?」

 

 よく見れば先程放った牽制の魔法の射手も地面等に着弾したはずなのに被害がない。アスカは自らが使う太陽道の真逆にある効果を発揮する技法の名を知っている。

 

「敵弾吸収陣――――――気弾・呪文に関わらず、敵の力を我が物とする闇の魔法(マギア・エレベア)のもう一つの技法。師匠(マスター)の構想をそっくり使わせてもらったよ。ああ、地面や障壁を壊したからって魔法陣に影響はないから。都度、展開しているものだからね」

 

 アスカが放った千の雷を吸収したはずなのに相変わらず気配が掴めない。好機に逸って油断してくれれば助かるのにネギにその気配はない。

 目が信用できず、耳が潰され、鼻も利かず、今までアスカを助けて来た気配探知すらも出来ない。アスカの得意距離に入らず、魔法を使っても相手に吸収される。こうやって真綿に首を絞められるように追い詰められては成す術はない。

 

「砂?」

 

 動くに動けないアスカが打開策を必死に考えていると、肌にビシビシと感じたのは吹き上がった砂だった。

 砂がどうして、と思うよりも背筋に走る悪寒がアスカに防御を固めさせた。

 

大地の風(ウェントゥス・テッラ)

 

 次の瞬間、腰を落として防御を固めていたアスカの体があっさりと風に攫われた。

 目も開けていられないほどの風が闘技場内で円を描き、強大な嵐となる。地面の表土や砂を巻き上げて風の乗せ、外から見ればまるで巨大な壁のような外観をした褐色の嵐の中でアスカの体が風船さながらに振り回される。

 大地の風――――響きは美しいがそれは人にとって大いなる禍でしかない。強力な下降気流で巻き上げられた砂を含んだ風が嵐の中を漂うアスカの体を高速研磨機さながらに削り取っていく。

 

「うらぁああ!」

 

 自然の驚異をその身に受けるアスカは、一瞬の内に全身をズタボロにされながら咸卦法を行い、跳ね上がった力の全てを使って大地の風を内側から食い破った。

 

「双碗解放――――術式統合、雷神槍『巨神ころし(ティタノクトノン)』」

 

 何故か目の前にネギがいて、何故か両腕に込めていた遅延術式を発動し、何故か右手の千の雷と左手の雷の投擲を融合させている。

 理解が追いつかない。融合オリジナル呪文をこの状況で披露するということは勝負を決めに来たという証拠。

 防がなければ敗けるというのに、大地の風を破る為に全力で咸卦の力を放出をしたばかりのアスカに巨神ころし(ティタノクトノン)を防ぐ術はない。それでも、と全力で力を集中させる。

 

「そっちは偽物、本物はこっちだよ」

「がっ、ぐぅ……!?」

 

 放たれた前方の巨神ころし(ティタノクトノン)は霞と消え、何の防御もしていない真後ろからやってきた。

 予想外からの方向からの攻撃に一瞬で胴体を撃ち抜いた巨神ころし(ティタノクトノン)によってアスカの意識が寸断され、あまりの痛みに引き戻されたところで「解放・雷神槍」と背後のネギが冷酷にキーワードを放つ。

 

「千雷招来!!」

 

 巨神ころし(ティタノクトノン)は、雷の投擲で作られた魔法の槍に千の雷の強力な魔力を吹き込み、巨大な雷撃の矛を作り出す呪文である。超広範囲雷撃殲滅魔法の力を一点に収束させており、今のキーワードは千の雷の雷撃を解放するキーワードである。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――――――?!?!?!?!?!?!?!?!」

 

 体の内側から千の雷の雷撃に身を焼かれたアスカの口から人の物とは思えぬ叫びが上がった。その叫び声すら雷撃に焼き尽くされるかのような激音が闘技場中に鳴り響き、やがて全てがシンと静まり返る。

 大地の風によって抉られた地面の上に落ちたアスカはピクリとも動かず、直ぐには起き上がれないのを見たネギは拳を握り直した。

 

「や、やった……やった、のか……?」

 

 ネギの心を占めたのは、想像していた高揚感ではなく眼の前の現実を受け止めきれない戸惑いだった。それが、絶対の壁となって立ち塞がっていた双子の弟アスカを超えたネギの偽らざる姿だった。

 

「これが僕だ」

 

 今までの鬱屈を叩きつけるようにネギは叫ぶ。

 

「これがネギ・スプリングフィールドだ!!」

 

 同じ孤独な部屋で過ごした相手だからこそ、弟に、アスカに叩きつけずにいられなかった。

 

『闘技場内部を覆う竜巻が壊れたと思ったら凄い光が奔り、アスカ選手が地面に倒れています。これは一体何が起こったのでしょうか、解説のジャック・ラカンさん?』

『勝手に人を解説者扱いすんじゃねぇよ。説明してほしかったら一万ドラグマ出しな』

『分かりました、後で払います』

『即答かよ、おい』

 

 実況から解説者扱いされて金を要求したら速攻でOKを出されたジャック・ラカンが困惑したような声を出した後で覚悟を決めたように鼻を鳴らす音が闘技場に響く。

 

『最初から話すぞ。まず、ナギは特殊な方法でアスカの目や耳といった感覚を妨害したんだ。その所為でアスカにはナギの居場所が分からなくなるし、迂闊な動きも取れなくなる』

『成程、ところでその特殊な方法とは一体? ナギ選手の謎の変身技と関係しているのでしょうか』

『一瞬だけ雷の速度を得られることと大気操作と見たが、詳しく知りたきゃ本人に聞きな。続けるぜ。目も耳も、あの様子からして恐らく気配も探れないとなると、取れる手は少ない。アスカは千の雷で状況を打開しようとしたが、俺でも似たようなことをやっただろう。それをナギも当然予想していた』

『あの謎の魔法陣ですね。アスカ選手の千の雷を吸収したように見えましたが』

『実際、吸収したんだろうよ。敵弾吸収陣とか言ってやがったからな』

『声が聞こえたんですか?』

『聞こえなくても唇の動きを見れば大体何言ってるかは分かる』

『百メートル以上、離れていていますが』

『もう話すの止めるぞ?』

『す、すみません。では続きを』

『ふん、後は簡単だ。仕留めればいいだけだからな。隙だらけとはいえ、大呪文も効果がないとなれば普通は防御を固める。アスカもそうしていた。で、文字通りに足を掬われたわけだ』

大地の風(ウェントゥス・テッラ)ですね』

『十分に溜を作ってたんだろう。あのまま受け続けるとダメージが大きくなる。そうなれば壊すしかねぇ。アスカには咸卦法があるから壊すまではなんとかる。が、問題はここからだ』

 

 一度、間を取ったラカンの説明に闘技場中が引き込まれる。その間にもアスカは動かず、カウントが続けられている。

 

『雷の投擲と千の雷の術式を統合した一点突破型の融合オリジナル呪文。あれを受けたら俺でもただじゃ済まねぇ』

『ラカンさんならばそうなる前に回避すると?』

『…………現実に前情報なしで戦ってあの状況に追い詰められないと断言は出来ねぇ。こうやって外から見ているから分かることもある。例え俺が準決勝を勝ってもあそこに倒れていたかもしれねぇな』

 

 あの英雄ジャック・ラカンにここまで言わせたことに闘技場全体がざわつく。

 

『千の雷を内側食らったんだ。こりゃあ、流石にアスカも死んだかね』

「勝手に、人を、斃したつもりになってんじゃあねぇよ」

 

 ラカンの軽口にカウントが十五を超えたところでアスカが身動ぎした。

 全身に痛みがあった。だが、どれだけ身体が傷つこうとも、アスカが戦意を失うことはない。まだ死んだわけではないのだから、立ち上がれないはずがないと四肢を無理矢理に動かす。

 カウント十九を数えたところで、アスカが立ち上がった。

 

「そ、そんな…………神すら斃す一撃を体内から食らって立ち上がるなんて」

「凄ぇ、凄ぇよ、ネギ。一杯食わされたぜ」

 

 ネギの驚きも聞こえていないのか、アスカの言葉は噛み合っていない。

 雷撃によって脳がダメージを負ったのか、瞼を開いているのに何も見えず、音は全く聞こえない。匂いも全くせず、五感の殆どが機能していないようだ。辛うじて僅かに残る触感が着ている服が辛うじて布の体を為しているだけのことを感じ取り、痛みも殆ど感じないことに苦笑する。

 

(殆どの力を防御に回した所為で、すっからかんか)

 

 攻撃を受けた瞬間に咸卦の力の全てを身体強化に回したお蔭で内臓から焼き切られずに済んだ。無茶な力の使い方と巨神ころしの雷撃で体の内側が割と危険な状態であるが根性で耐える。

 生きているだけでも奇跡と呼べるような内情にあっても立ち上がらなければならなかった。

 

「お前を倒す方法が直ぐには思い浮かばねぇ。だけどよ、俺は敗けるつもりはない」

 

 追い詰められているのにアスカの心は不思議と凪いでいた。勝機を見い出せなくても焦燥に支配されることなく、ただ在るがままを受け入れて前へ進むことが出来る。

 開き直っていると言われればそうだろう。諦めているのとは少し違う。

 目は見えず、耳は聞こえず、嗅覚と味覚も機能していない。五感の内の殆どが潰されたアスカは深呼吸をする。取り込んだ息が体のあちこちに漏れているが気にしないことにする。

 

(世界は、広いな)

 

 目が見えず、気配探知が行えないことで世界の広さをより強く感じる。

 広大な世界において、自分はとても小さな欠片なのだという認識がアスカの内なる世界を広げていく。両腕の紋様がアスカの心模様に反応して明滅を繰り返して動く。右手と左手は常に相反する紋様を描き、幾何学模様が常に変容を続ける。

 棒立ちで内側に埋没するアスカの頭上から様子を窺っていたネギは、そこに隙を見てとると、決して見切れないはずの速度で相手に襲い掛かった。雷光化しての亜光速移動―――――だが、対するアスカは人間の身でありながらその領域へと挑む。障壁の強度を上げて防御を固めようとも人外の防御力を誇るラカンには及ぶべくもない。エヴァンジェリンのような不死や治癒能力もない。

 長く大きく呼吸をし息を長く止める調息を行い、相手の意と合流すれば動きが全く見えないネギの行動も必ず察知できるはず。

 

「ぐはっ!」

 

 地面を蹴り割って振りかぶった拳はネギを捉えたかと思ったが、加減のない雷撃を纏った槍がアスカの顎を斜め下から突き上げた。

 

「がっ!?」

 

 意から動きを感じ取って後方に振り返りながら腕で弾こうとして逆に吹っ飛ばされる。

 眩く弾けた雷光と雷鳴。右と見せて左。東と思わせて西。下を狙う振りで上。この要領で揺さぶりをかけてきた。対処できずに何発も貰ってぐらりと僅かに身を揺らしたアスカ。

 

「ちっ」

 

 ネギがもらした舌打ちは、それがどれほど効いていないと分かったが故。だが、そこで怯んで止まってもいられない。

 ネギは再び魔力を練り上げ、全身に雷を纏いつつ、怒涛の如く無詠唱で魔法の射手を連続で叩き込む。立て続けに鳴り響く雷鳴と爆発音。だが、アスカはそれらに揺らぎながらも攻撃の全てを、ただ、真っ向から受け止めていた。

 雷を地面に流し、風の衝撃を受け流す。ダメージは蓄積するが、もう痛みは感じないのだから気にすることではない。

 

(速さの優劣は分かっていたことだ)

 

 人の動きを読みには目線、筋の伸縮、重心の変化を一瞬で見極める必要がある。

 始めから見えないのならば、聞こえないのならば、感じ取れないのならば、第六感を高める。相手の意を読み取り、相手の気持ちになって、相手の攻撃を予測する。

 

(怯むな! 思い出すんだ、今までの戦いを……っ!!)

 

 ネギが雷光を研ぎ澄まし、放つ一矢一矢に更に力を込めていく。より重く、より速く。

 一際激しく弾けた雷光。ネギの放った雷が付与された風の鉄槌の直撃を受けて口から胃液や血を噴き出しながら、またも無様に吹き飛ばされたアスカだが自分から飛んでいることで致命傷ではない。

 

「雷の投擲!!」

 

 アスカが慣れた雷の槍を作り上げ、ネギのつもりになって行動していればここにいると予測した場所に打ち込む。

 直後、七閃の雷が空間を引き裂いた。

 大気をつんざいてぶつかり合い弾き合う雷撃の応酬。目にも留まらぬ高速の魔法の打ち合いは、そもそも迸る雷光に遮られて直視が叶わない。闘技場を、雷たちが激しく交差する。

 駆け巡る雷鳴と閃光。文字通り眼も眩む超高速の戦闘に晒された闘技場。

 幾度も交錯しぶつかり合うネギとアスカ。次の瞬間には意識を飛ばされているかもしれないが、構わない。目の前にいる相手にだけは膝を折りたくない。

 

(咸卦・太陽道にはまだ先がある。いや、俺が発揮できていない領域が)

 

 マナを取り込んで魔力を生成するだけが太陽道の全てではない。

 マナは万物に等しく存在する粒子であり、流転し、回帰し、流れていくものだ。天雷空壮に支配された空間であっても変わらない。

 ネギから発散される無意識のマナから意を読み取る。そしてアスカから発散されるマナもまたネギの中へと入る。

 量で言えば極々少量である。本来ならば微量のマナを人が認識することは出来ない。認識できるのは意識的にマナを集めることが出来るアスカだけで、他の誰にも真似は出来ない。

 

(相手の意を読み取るだけじゃ足りない)

 

 今のままではネギに届かない。ならば、もっと先へ自らを高め続ける。

 どうやってもただの人間が速さで雷に勝てるはずがない。だとしたら、相手が動き出す前に意を読み、先に対応して動くしかない。ネギの意を読み取り、行動をコントロールして対応する。つまり相手をこちらの思う通りに動かすしか雷速に対応することは出来ない。

 

(無駄を削ぎ落せ)

 

 動作から無駄な行程を省き、攻撃の軌道を予測して初動を早め、回避の動作を最小限に抑えることで、本来は受ける事も目で追う事もできない一撃を回避しる。自分だけを判断基準とするのではなく、相手の身になって物事を考える気持ちで自分が相手ならどう行動するかを読み取る。

 相手の流れに合わせるだけでは足りない。相手と一つになるだけでは届かない。相手を自分の流れに乗せて相手の動作を思うままにコントロールへと発展させてこそ完成となる。

 

(出来ないはずがない……っ!!)

 

 心の中で叫んだ直後―――――アスカの中でなにかが切り替わる。

 時間が歪む。意識が急速に拡大し、全方位に向けて拡散していく。アスカの体内時間が、異常なほど引き延ばされる。

 脳の処理速度を強引に加速させ、刹那の時間をスローモーションに引き延ばす。秒が切り刻まれる。刹那が引き延ばされる。これから生きるはずだった何十年かを凝縮するように、時の刹那が切り刻まれ、引き延ばされていく。その集中の余り、アスカに向かって世界が収斂していくようでさえあった。

 

(ああ、これだ。これこそが太陽道の真価)

 

 太陽道を扱う者は世界に遍くマナを統べる術者となる。マナの範囲下にいる全てを感じ取り、感知・操作しうる権能を得る。

 マナが持つ過大な情報量を統御するには人間の脳では追いつかない。限界を超えて灼熱するほどの稼働を強いられた。

 アスカの感覚器官ではありとあらゆるものが静止している。何もかもが、遅滞したセカイ。空気分子一つさえ見落とさぬ、絶大な集中。そんな何もかもが静止した世界の中で、唯一、動くものがあった。ネギ・スプリングフィールドである。

 先程までは知覚すらできなかったネギの存在を、動きの流れを感じた。いや、感じ取れると言うべきか、正しい表現が思いつかない。

 指一本、瞬きすら出来ない世界の中で普通の速度(・・・・・)で宙を飛び、カタツムリの歩みよりも遥かに鈍重なアスカの腹に風の鉄槌を叩きつけた。

 

「ぐっ」

 

 次の瞬間、痛みに呻きながら何百倍何千倍にも伸長していた時間の流れが元に戻った。感覚器官が元に戻ったのだ。どおっ、と雪崩の如く、鼓膜をつんざく音。五感が取り戻されていた。

 開いた目に映るのは輝かんばかりの鮮やかな色彩。自分がどれだけの情報に包まれて生きていたことを、アスカは認識する。生きているということは、なんと騒がしいことか。

 

(世界はこんなにも美しい)

 

 無に浸されていたアスカの世界は、こんなにも騒々しく愛おしくなるほどに美しいのかと改めて実感する。

 美しさを知った感動からの涙か、目に砂が入ったことに対する防衛本能によりものか、アスカには分からない。それでも世界はこんなにも尊いものだと感じ取れたことが何よりも嬉しい。

 だが、歓喜に咽ぶって惚けている時間など無い。もう一度集中を極限にまで高めて領域へと突入する。

 

「見えている? ならば……!」

 

 アスカの表情と目の動きから五感が戻ったことを悟ったネギは、天雷空壮が対応され始めていることを察知し、両腕に込められた遅延呪文を解放して二つの千の雷を握り潰した。

 

「雷天双壮……! 常時雷化している僕には対応できないだろ!!」

 

 最後の奥の手である術式兵装『雷天双壮』による常時雷化の雷速瞬動を発動し、ネギの姿は闘技場から完全に消える。

 

(今まで捉えられなかったネギの動きが………観える)

 

 だが、その姿をアスカは観ていた。見えるのではなく、観える。感覚を僅かに刺激する微弱な殺気まで全身の肌で感じることが出来る。迫り来るのを感じる。雷が迸る音、切り裂かれる空気の悲鳴が聞こえる。

 

(今までの全てがこの体の中に生きている)

 

 自分でもまだはっきりと判らない感覚であったが、この感覚は以前とまるで違う。アスカの感覚が自己から世界へと拡大している証拠でもあった。

 今までは相手の動きに合わせて読んでいた。だから、天雷空壮には歯が立たなかった。常時雷化の雷天双壮は捉えることすら出来ない。

 今はネギの指向性まで感じる。どこを狙い、何時来るかまで読み取れる。論理とか理論とかそういうものではない。

 世界をこの手に収めたかのような不思議な感覚を感じたことは何度かあった。でも、確信は持てなかった。今までの戦い、そしてラカンとの戦いが自身の中で何かを引き起こしたのか。

 自分の感覚が拡張し、指先の末端まで神経が張り巡らされてゆく。だが、ネギの動きに反応して体を動かすも、ひどく遅く感じられる。体が重い。まるで液体に漬け込まれたかのようだが、これは時間感覚が狂ったが故のことだと分かっていた。一秒が百倍にも引き延ばされたような世界では、空気も粘度を持つ。精神と肉体が乖離し、普通の速度でしか動けない血と骨に圧がかかっているのだ。

 アスカはネギの移動の軌跡が見えていた。正確に言うと見えるというのとは違う。意思の向く先、流れとでも呼ぶべき線が今のアスカにはネギの攻撃の軌道を感じさせているのだ。

 

「うぐっ!」

 

 だが、判っているのに左腹部を狙った避けられない攻撃が容赦なく食い込む。

 

(なにかもが遅い。それに無駄な動作が多すぎる!)

 

 極限の集中に入った状態で見た自分の動きのなんと無様なことか。肉体の隅々まで通った神経を操り、アスカは無駄な動作を省いていく。

 時の流れが外界と緩やかになった視界の中ですらネギの姿ははっきりと映らない。だが、感じる、分かる。無駄を省き、余計な動作を消し、最短の軌跡を描けばネギの動きについていける。その確信があった。

 

(俺なら出来る。やってやるさ!)

 

 二人の間を遮るような障害物はない。互いを隔てるものはなく、雌雄を決するのみ。

 それが分かっていて、アスカは動かなかった。それどころか体の力を抜いて、構えを解いた。両手をだらりと垂らし、向けられた殺気を全ていなしていく。

 アスカは軽く息を吐き、気息を整える。目は半眼に開き、焦点を無限遠に。精神を内に沈め、同時に外に開いて意識を全方位に集中する。

 拡大した自我が、近く範囲内にある全ての事象を掌握する。五感以外の近くに齎されるその感覚は、次いで細かに分散する殺気になってアスカの脳髄を貫いた。

 

―――――アスカの左腕が大きく弾けた。

 

 誰もがアスカの動きが変わったと感じ取った。

 アスカの動きはネギからすれば全てスローモーションにしか見えない。魔法の射手は身体のど真ん中を狙ったはずなのにズレて左腕に当たるはずがない。直前の意識では間違いなく当たっていたはず。それでも狙いが外れたというならアスカがなにかをしたということ。

 

―――――右の太腿が蹴られた。

 

 突進してすれ違いざまの蹴りは、アスカの右太腿を深く抉りながら血と肉片を撒き散らす。

 忘我の境地に至ろうとするアスカにはもはや痛みはなく、ただ肉が削られたという実感だけがあった。痛覚などという情報を得るほどアスカに余力は残っていなかったのだ。

 今のネギは動体視力、瞬発力、思考力、機動力、速度等の性能において、アスカを遥かに上回っている。

 しかし、そんな時こそ慌ててはいけない。今までアスカを上回る敵など山ほどいた。絶望的な状況に陥っても生き残ってきた自負がアスカを踏み止まらせる。

 今までの日々、ラカンとの戦い、ネギとの戦いという極限まで追い込まれたことで、アスカの中で今までずれていた感覚が上手く噛み合っていく。

 

―――――三度目は、脇腹を抉られた。

 

 串刺しにするつもりで放たれた風の投擲が掠め、衝撃で身体が揺らぎ、腹部から足首にかけて温く濡れていく。

 まだ、自分の血は温かかかったのかと思った。生命が零れていく実感を覚える。

 今までの傷と流れ出た血によって意識は朦朧としているようで、別の領域へとシフトしていった。集中を極めた領域の更に上へと。

 

「……………」

 

 圧倒的に有利なはずのネギの眉が微かに顰められるほどに、アスカの目からは闘争心が戦意喪失かと思うぐらいに完全に消えた。だけど、極々一部の者だけが静かだけど重い闘争心を、目の奥深くに感じ取っている。

 一度なら偶然で決め付けられる。でも、雷の速さという超越した速度を手に入れたネギが三度かかってもクリーンヒットを外すのは偶然でない。

 アスカの視界から色が消えた。見える景色は白と黒の世界。視界はひんやりと冴え渡り、周囲の何もかもが手に取るように感じ取れる。

 人とは生きていく上で、幾つもの顔を見せる。それは、自身にも有る。闘争に飢えた滾りがある。強くなりたいと泣き叫び我武者羅に鍛える自身が居る。これもまたその中の一つ。

 

「「魔法の射手・()の1001矢!!」」

 

―――――四度目は、完全に避けた。

 

 雷速であることを利用した連続の魔法の射手。余人には全く同時に放たれたと思うほどに雷と風のそれぞれの魔法の射手・1001矢がアスカを包囲するように散開した。

 2002にも及ぶ魔法の射手が雨のように降り注ぐ逃げ場などない状況の中でアスカはゆったりと歩み出した。

 ダンスを踊るようにステップを踏み、時に身体を揺らしながらまるで舞でも舞っているかのように無造作に避ける異様な光景。

 それを看破したネギが放っておくはずがない。雷の速度を利用した新たな攻撃を放つも、その攻撃すらもアスカは避けて見せた。極限まで五感を研ぎ澄ますことである種の第六感まで発展させて、ミリで見切って薄皮一枚で躱したのだ。

 避けられたことを察したネギは、文字通りの雷の速さで反応すると、アスカの足の付け根辺りを狙って風の槍を複数穿ち上げる。

 雷化の状態あるネギの動きについていける者などいない。なのに、全て予想済みと言わんばかりにアスカは動いた。

 アスカはほんの少し、傍から見たら頭が揺れた程度にしか見えなかっただろう小さな挙動で自分の身体を後方にずらし、小石を避けるように数ミリの差でギリギリ触れないくらいの距離で躱した。いや、上がったとも認識できない手によって僅かに軌道をずらされたのだ。僅かに軌道を逸らされた槍は、アスカの身体を掠めるように通り過ぎる。

 

「どうして……!」

 

 ネギは必死だった。試合前の冷静さなどとうに吹き飛び、視界にはアスカの姿しかない。それなのに、どれだけの攻撃を加えようとも防御を突破できず、必殺を確信した攻撃が全て回避される。

 もはやその身に纏うのは敵意と言う以上に澱むような執念である。ネギが纏うはずのない感情に、アスカは肌をほんの僅か粟立たせる。

 背後から打ちかかった右手を簡単に跳ね除けられ、たったそれだけの動作で突き飛ばされてネギはかっとなった。自分とアスカの間には、これほどまでの力の差があるのかと。

 

「でやあああああああっ!」

 

 この世のどんな大砲にも勝る拳を雷速の速さで躱し、魔法の射手で牽制しながら再び突っ込む。

 

「ぅうぉぉぉぉぉぉッ!」 

 

 ネギは自分が獣のように呻いていることにも気づかず、ひたすら目前の敵を追った。自分の目から溢れて落ちる涙にも気づかず。

 

「!!?」

 

 雷の速度の攻撃をまるで見えているかのように回避し、且つ呼び動作なくこちらの懐に潜り込んで攻撃を加えてきた。油断していたところなのでひっくり返るように弾け跳んだ体を回転し、錐揉み状態のまま瓦礫に激突する。

 無論、人間の速度が雷に叶うはずがない。不可能を可能にするのは、単なる技術の積み重ねだ。

 アスカは、ほんの僅かな姿勢のブレや視線の誘導。そういったもので、敵の動きを限定し、誘導しているのだ。それも歩くだけで傷口が開くような身体で。しかも、ネギですら気づかぬ精度で。

 自分と敵とを区別しない。自分と他人とを区別しない。自分と世界とを区別しない。

 武術に聴勁というものがある。功夫も達人の域になると、視覚で敵を捉えることなく、腕と腕とが触れ合った刹那に相手の次の動作を読み取ることが可能。だとすれば死角は死角足りえず、攻めても必ずしも効果があるとは言えない。攻撃をブロックされる限り、目が見えているも同然だ。

 しかし、アスカはネギに触れている時間は驚くほど短い。肉体に対する聴勁を行おうとも効果は薄い。

 そんな中でアスカが成したのは常識外れの『心』の聴勁とも呼ぶべきもの。

 全ては一つであると受け入れいて、より高次の領域から俯瞰する時、自分と他人も一つに溶け合い、森羅万象は武器と化す。

 数え切れない聖職者や武芸者たちが求めてきたその境地に、この時のアスカは偶然か必然か到達していた。 

 集中の妨げになる痛覚を眠らせる。死にたくないという恐怖を眠らせる。生き残りたいという執着を眠らせる。喜怒哀楽、すべての感情を無に還して、愛する人々の顔も意識の底へ沈め、息をするよりも、心臓を脈打つよりも、生存することよりも、ただただ意識を研ぎ澄ませる。

 意識的にではなく、全てが当然のように、当たり前のようにその境地に踏み込んだ。

 嘗てのアスカ。何度となく修羅場を越え、敵を屠ってきた自身。理由も、想いも、全てが自身のためにある戦いに忘我していた。ずっと自分から目を背けていた。苦しかった。辛かった。逃げ出したかった。だけど、それら全てが無駄ではなかった。悩みも何もかもが受け入れられる。全てが今ここに収束する。

 

「!!」

 

 雷速で切り返して後ろから迫るネギの振り下ろしの一撃を薄皮一枚で躱し、逆に振り向きざまの振り上げのカウンターを打ち込む。

 防ぐでもなく、躱すでもない。拳は打つのではなく、既に打ち込まれいなければならない。敵の動きに応じ、勝手に導かれていなければならない。攻撃のモーションに入るかと思ったら次の瞬間にはもうアスカは攻撃を終えている体勢になっている。まるでコマ送りだった。

 カウンターを紙一重で躱し、反転したネギの一撃が首筋の急所に決まる寸前、先行放電(ストリーマー)でその攻撃に気付いたアスカは、掌を叩きつけた勢いで、大きく後方に跳び退り、それを躱す。

 直前で目標を見失い、体勢を崩したネギに向かってアスカが振り上げた腕が一閃する。その一撃を受け止めようとしたネギの身体が簡単に吹っ飛んだ。そこを追撃。ネギの身体が大きく「く」の字に折れ、宙を舞っているところを、アスカが腕を掴んで無理やりその場に引き止める。

 

「殺気が漏れ過ぎだ」

 

 軽く足を振るってネギを蹴り飛ばす。

 自分から飛んでダメージを半減させたネギは急速上昇してアスカを睨みつけたまま、その全身に雷を帯電させ、直後、雷光となって瞬動した。

 

「僕はアスカには及ばないのか」

 

 どんな攻撃もアスカには届かない。その事実がネギをどこまでも追い詰める。

 こんなにも自分はアスカより劣っているのか。憎悪でネギの脳内が真っ赤になる。捻れそうだ。壊れそうだ。ネギのコトを一度も振り返りもしないで。

 

「僕は、僕は……っ!」

 

 周りを振り回すばかりで、自分の存在が他人をどのように脅かすかも想像できない。そんなアスカが大嫌いで、憧れていた。

 アスカから放たれた雷撃がネギを襲い、全身に衝撃が走った。全身の筋肉が震え、殴られたのか、焼かれているのかも分からない激痛と熱さに、声にならない絶叫を上げる。心臓が縮み上がるような異様な痛みに死の恐怖を覚えた。

 

「は―――――あ、あ―――」

 

 地面を転がって大きく肩を揺らし、体を起こしながら苦しげに吐息を漏らして、ネギは白い光を纏って悠然と佇む双子の弟を睨む。

 雷天双壮が解除され、自分のものとも思えない激しい呼吸音を聞きながら震える両手をきつく握りしめる。

 

「ふざけるな―――――! そんなの不公平だ、何時もアスカ、アスカばっかり、どうして―――!」

 

 話している内に興奮してきたのだろう。ネギの言葉に熱が帯びてくる。

 繰り返される攻防、何らかの壁を越えたアスカにダメージを与えられない無意味な攻撃と知りながらも、長く鬱積し続けた、唯一の肉親に対する恨みと共にネギは叫び続ける。

 何時も、何時も、圧倒的な差を見せつけ、超然と高みから見下ろされてきた。

 

「そうだ………! 僕はアスカが羨ましかった………! 周りから褒められて、輝いていて、僕が欲しかったものを手に入れたアスカが憎らしかった。だから勝ちたかった。一度ぐらい、一度でいいから勝ちたかったのに………! なのにどうして、そんなことも許してくれないんだ………!」

 

 支離滅裂な言葉。怒りと悪意が先行し、結果として論理と整合性が失われた言葉の数々がただ言葉となって口から迸る。

 

「―――――」

 

 アスカは意を重ねながら、歯を噛み締めて双子の兄の心を垣間見る。

 

「どうして!? 僕は違ったのに。同じ兄弟で、同じ家に生まれたのに、僕には何も無かった! 誰も彼もがアスカを褒めて、ラカンさんもアスカを認めた! 僕は見てさえもらえなかったのに………!」

 

 その憎悪は、弟である自分に対してのものではなく、無力な己に向けたものが大半。それでも溢れる想いがアスカに向けられる。

 悪いのはアスカだ。全てを奪いながらも、奪ったという自覚すら持たないアスカ・スプリングフィールド。あいつの存在が全てを狂わせたのだ。不意に結露した感情がじわりと視界を滲ませた。何も知らないような顔をして、何時でも渦の中心にいる。流れを変えたり引き寄せたり、まるで天性の王様。

 アスカを見ていると苛々する。お前は出来損ないと嗤われているようで、わけもなく不安になってくる。目から溢れ、頬に吹き零れた結露の雫を拭おうともしないネギは、今まで溜めに溜めていた感情をあらん限りに吐き出した。

 アスカさえ生まれてこなかったら、アスカと同じ強さが自分にあったなら。父はラカンは皆は自分を見てくれただろうかと。

 

「どうして、同じ兄弟なのに、同じ人間なのに、どうしてアスカにだけが与えられるんだよ………!」

 

 だから理不尽だろうが、不合理だろうが、嘘っぱちだろうが、出鱈目だろうが、必死で、ありったけで、アスカを憎む。そうしないと立っていられない。そうしないと意地を張ってもいられなかった。

 人が、人をこうも憎む。同じ種から発した命であっても―――――いや、そうであればこそ。寒々とした感慨を抱く。その憎悪は、弟であるアスカに対するものではなく、世界と自分自身に向けられた、出口のない懇願だった。

 近親憎悪。血の繋がりのある者同士が憎み合う。互いに近しいが故に、その存在を許せない。

 

「英雄なんだろ、誰よりも強いんだろ。なら、僕を救ってくれよ、助けてくれよ……!」

 

 その目と声も、大事なものを盗られた子供そのもの。愛惜と憎悪が入り混じり、本人の中でも仕訳されていない感情を宿った血走った目を向け続けるネギにアスカが言えることは何もない。

 怒りと悲しみが交じって我慢できる許容量を超えていた。感情の暴走が止まらない。口の中に血があふれ出して唇から零れるのと同時にネギは叫んでいた。

 

「アスカが元凶なんだ。全部奪った。みんな、みんな……………!」

 

 湿った声が耳朶を打ち、汗と涙でグショグショになったネギの顔。突き刺さってくる視線から決して目を離さない。

 

「魔法世界なんて来るんじゃなかった。来るべきじゃなかったんだ!」

 

 限界に達した心臓が弾け、熱い感情が迸った。とうとう口にしてしまった。今までずっと誰にも言えなかった気持ちをまるで氷のように冷たい感情の声で叫んだ。

 

「アスカなんて――――」

 

 違う。こんなことが言いたいんじゃない。言ったことを全部取り消してしまいたかった。でも、言葉止まらない。憎しみと怒りと罪悪感と後悔が入り混じって心の中が滅茶苦茶だ。

 ネギはいま超えてはならない一線を越えようとしている。例え身内でも――――いや、身内であるからこそ、そこより先は引き返せないに足を踏み出そうとしている。でも、一度走り出した感情は歯止めを失って止めようがない。

 ネギははち切れそうな自分の心臓の音を聞き続けた。そして決定的な一言が放たれようとした刹那。

 

「いったい、何を言っている?」

 

 ネギの独白を遮ったアスカは理解できぬと首を傾げた。

 実際には疲労と負った負傷に合わせて、重ねた意から混入してくる整理されていない想いがアスカを襲って来て頭がフラつく。

 あっちこっちに飛びまくっている意を受けたアスカは吐き気を覚えながら、脳の奥で鈍く響く痛みに考えることが億劫になり、思ったままを口にする。

 

「俺は誰にも付いて来てほしいなんて強制しちゃいない。言い出しっぺの責任は取るが、そんな闇の魔法に惑わされた戯言を聞く気は無い。言ってやる―――――だからどうしたってってな」

 

 可哀想だな、なんてアスカは一切ネギに同情しなかった。

 魔法世界に来てどんな辛い目にあったかは知らない。アスカにも責任の一端はあるだろう。だけど、アスカは一度も誰にだって付いて来てほしいなどと言ったことはないし、強制したこともない。その意志を問うた上で来るというならば拒まなかっただけ。

 

「こっちに来てから何があったかは知らねぇけどよ。自分の決めたことに泣きごとを言うな」

 

 その苦悩はネギだけのもので、今の憎悪はアスカに責任を転化しているだけに過ぎない。そんなことは憎悪に染まりかけたネギの中にある冷静な部分が頷いた。

 心に秘めた感情を理解し、解放することなど他人にはできない。そんな偽善は絶対にない。自分が苦しい思いをしたのと同じようにアスカにだって辛いと感じることは山ほどあった。

 ノアキスで望んでもない闘争に巻き込まれ、四大上位精霊と戦って精霊王に立ち向かわざるをえなかった。世界の真実を知り、完全なる世界の真の目的を知り、誰にも言えずに苦しんできた。

 少なくとも不幸自慢で負ける気は無いので泣き言を聞く気は無い。

 

「正直に言えば、お前がどんなに辛い思いをして、どんなに酷い日々を送ってきたかは解らない。悪いけど、理解しようとも思わない。俺には俺の苦しみがあって手一杯なんだ。今だって余裕があるわけじゃない。自分のことは自分でなんとかしてくれ」

 

 だとしたら、どうなるだろう。

 何時も自信に満ち溢れていて、自分の欲しい物を全て持っていて、まさしく目指す理想そのものだった存在。そんな弟が自分と同じ。いや、それ以上に苦しみ続けていたとしたら。

 

「ぁ……」

 

 憎悪を軽く流されたネギの口から、微かな呻きが漏れる。

 醜い自分。アスカを憎んで、妬んで、眼の前からいなくなればいいとさえ願う汚れきった自分。それだけでなく、苦心して掴んだ強さでも遠くアスカには及ばない事実と相まってネギの魂を侵す。

 

「黙れ。黙れ! 黙れッ!」

 

 ネギは息を止める叫びながら否定した。否定しなければネギが壊れる。

 ネギの心と言葉は、配線をつなぎ間違えたかのような不自然さがあった。

 当たり前だと思っていたことが、そうじゃなかったら。ただ単に自分が不幸なのだと、そう思い知らされたなら。想像したのだ。あまりにも絶望的すぎる事実。その衝撃は大袈裟ではなく、少年の世界を破壊するに足りると、確信してしまったのだ。

 

「カモ君が死んだんだ! 死んだんだよ! お前の所為で!」

 

 言ってはいけないことだと感じた。けれど、開いてしまった心の隙間から漏れ出す言葉が止められなかった。

 悲しみ、怒り、罪悪感、自分の中にある感情がなんなのかすらもう分からない。分かっている。こんなのは八つ当たりで責任転嫁に過ぎない。それでもネギには一度壊れた感情の箍を止められない。

 

「魔法世界に来なければ、来なければ!! カモ君は死なずに済んだんだ!」

 

 責任転嫁もここに極まる。ネギは分かっていた。カモは自分を護る為に死んだ。自分の所為で、死んだのだと。

 あまりにも惨めで、いい気になっていた。

 自分にないものを持っていた。自分に出来ない事を可能とした。自分の立てない場所に生きていた。そして、その誰かに決して及べない自分を、思い知っていた。だから妬んだ。そうではない自分を怨み、そうである誰かを憎み、それを許容する世界をも、呪うかのように妬んだ。

 それはなんてドス黒く、なんて禍々しく、なんて卑屈で罪深き業の闇。人を傷つけ、殺し、自分自身をも焼き尽くす凶暴な熱。

 何時も何時もアスカばかり。悔しい。憎い。恨めしい。自分とアスカの何が違う。世界の全てが呪わしい。自分自身を含めた、この世の全て、あらゆる法則が憎らしい。何もかもが妬ましい。淋しさに、悔しさに、怒りに、絶叫したくなるほどの羨ましさに。

 

「アイツ…………カモは死んだのか?」

 

 心底驚いたとばかりに目を見開いたアスカが、その言葉を放った。

 アスカはアルベール・カモミールが死んだことを知らなかった。あの時、ゲートポートの一件でネギを庇ってフェイトに殺されたカモが死んだことを、知らなかったことがネギの呼吸を止めさせた。 

 アスカのたった一言が、ネギの内奥に巣食っていた決して起こしてはいけない眠り続けている獣を呼び起こす。長年の間に溜め込んだ鬱屈を、今こそ解放する密やかな合図だった。

 

「―――――、あ。ああ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああ…………………!!!!!!」

 

 胸倉を掻き毟り、歯噛みして涙すら浮かべてネギは絶叫する。

 行き場を失った想いが、強く自身を呪い始めた。力を、全てを壊す力を求める。

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 ネギは叫んだ。胸に刺さる絶望を、なんとか吐き出そうとでもするかのように。その一声で正気を失ってしまおうするかのような、悲痛という言葉さえ拒絶する獣染みた声が虚空に拡散する。

 しかし、何もかもが手遅れだった。魂の内側で、何かが音を立てて切れた。思考がどす黒い憎悪に支配される。全身に亀裂が入るように、ネギは己自身の悪意で壊れていく。

 

「ぐぁああああああ……………!」

 

 目は妖しく光り、並びの良かった白いが歯が剥き出しになり、ダラダラと涎を流していた。ググググと伸びる八重歯が牙となって涎が糸を引いて滴った。

 自身を構成する柱が砕ける音を聞いて、ネギの体の奥深くで何かが弾けた。

 力が全身に流れ込んでくるのを感じる。凶々しいまでに大きな力の渦は、ネギを人以外の何者かへと変えていくかのようだった。

 目の前を闇が覆い、何もかもがあやふやとなる。体の中心から末端までがドロドロとした感情に染まった。歯を食い縛り、眼球を真っ赤に染めてネギは世界の果てまで方向を響かせる。

 皮膚という皮膚に、魔法陣に用いられるような異様な黒の紋様が浮かび上がっている。影が全身を覆い、指先に至るまで力が漲ってきた。

 

「こ……………こっ、こっ、これは!」

 

 アスカが変容していくネギから放たれる魔性の風を腕で防ぎながら悲鳴に似た声を上げるも直後に湧き起こった咆哮に掻き消された。地を揺るがす叫びが、ネギの喉の奥から声という形になって放たれる。

 

「くっ、はは!」

 

 ネギが人間のものとは思えない声で不意に笑った。

 

「がはははははッッッ!! ぎゃははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」

 

 声の波が安定しない。高くも低くも大きくも小さくもある奇妙な声だった。ガスの元栓から何かが零れる音よりも、それは遥かに危機感を煽らせる声だった。

 今まで感じたこともないほどの力が、体の中で暴れている。双眸から人の意志が無くなり、ネギは魔獣のように理性を感じさせない哄笑を放ち続けている。

 

「おぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」

 

 きしっ、と歯が軋るような笑い声がネギの口から漏れた。

 

「アァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」

 

 危険を感じて止めようとアスカが動くよりも早く絶叫しながらネギが飛び出した。ひどく重い音を立てて地を蹴って向かって来る速度は超絶ではあるが、雷の世界に身を浸していた時と比べれば見切ることが難しくない程度のものだった。

 疾風の如き速さで迫りながら大きく振り上げた右手が肥大化、人間を容易く両断できる巨大な爪を生やした腕に形が変わる。

 

「!?」

 

 ネギの行動に対応が遅れたアスカの目の前に浮かんでいた。いや、浮かんでいたように見えた。それは、時間にしてほんの一瞬のことに過ぎなかった。瞬きよりも速く肉薄して、異形と化した巨大な腕を作り上げてその手を振るってアスカの頭上から叩きつけた。

 地面に五本の巨大な亀裂が走った。だが、アスカの姿はない。ほんの少し離れた距離に避けていた。

 それを追いかけて、両腕からそれぞれ千の雷を出し、双碗掌握して『雷天双壮』状態になったネギの精神は闇に覆われた。自意識は既にない。

 

「くっ!?」

 

 黒き雷神と化したネギがアスカに襲いかかる。恐ろしい速度だった。アスカの跳躍も十分に素早かったはずだが、それを圧倒的に勝る速さで迫ったネギは、手の先端を尖らせ、その魔族化したことで異常に伸びた爪で宙に浮かんだアスカの左上腕を一瞬にして貫いた。

 

「グアアアアアアッツ!」

「カカカカカカカカ」

 

 アスカの口から獣染みた咆哮が漏れる。ネギが嘲笑うように声を立てた。

 

―――――憎い………!!

 

 そんな貫かれた痛みよりも、アスカには耐えられないものがある。

 他人には決して届かぬ苦悶の声、悲しみの哭き声、怒りの咆哮、それらが渾然一体となったネギから届いてくる負の想念が、外部からの痛みよりもなお強くアスカを苦しめる。

 

「あああああああああああ!」

 

 爪から伝播してくる雷撃によって体内部を焼いてくる苦痛で絶叫するアスカがネギを蹴り飛ばした。爪が抜けて吹き飛んだネギだが、獰猛な獣性を剥き出しにしてアスカに迫る。

 

「づらぁっ!」

 

 反撃するようにアスカが拳を振るったが、そんな状態で放った一撃は健全な精神を放棄して獣性に身を任せたネギに当たるはずもない。

 容易く肉体を粉砕する一撃を易々と回避し、雷速を維持したまま背後へと回り込む。

 

「あっ……」

 

 アスカが振り返るよりも早く、ネギの手がアスカの体を殴りつけていた。吹っ飛ばされるかに見えたアスカの体は、だがそうはならなかった。一瞬で回り込んだネギが反対方向へ蹴り飛ばしたからだ。

 

「AHAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!」

 

 人間の言語すら解さなくなったのか、獣染みた雄叫びを上げたネギの動きは更に速まった。超高速で動くために、ネギの姿が何重にも分身したようにも見える。アスカは殴られ、蹴られ、打たれる度に弾かれるのだが、それ以上の速さで動くネギが連続で攻撃を加えるために、アスカの体はその場から殆ど動くことも出来ずになされるがまま、四方八方から一方的に袋叩きにされている状態だった。

 

「ダメ、ネギ先生」

 

 観客席で見ていた宮崎のどかは思わずそう呟いていた。確かにネギは強くなっている。一時は押されていたが、今はまたアスカを圧倒している。だけど、その強さはネギが求めていた強さでは、決してない。

 哀しみで、目の前が暗くなっていく。歪んでいく。ネギ・スプリングフィールドという宮崎のどかが愛した男の根源が歪んでいく。谷底へ真っ逆さまに落ちていくような深い絶望感だけがあった。

 

「それ以上はダメです!! もう止めて、戦わないで!!」

「GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!」

 

 のどかの叫びは、ネギの更なる絶叫で掻き消された。もうのどかの声も届いていない。

 無償で得られる力などはない。代償を払わなければならない。自らの器を越えた力は、肉体にとって過度の負担となる。時間をかけて少しずつ馴らしていくならともかく、一気に大量の力を受け入れれば、器である肉体がそれに耐えられない。

 闇の魔法(マギア・エレベア)の浸食は留まることを知らず、やがてはネギの魂魄すらも侵して肉体を魔族へと作り替えていくだろう。

 

「馬鹿野郎」

 

 再び咸卦・太陽道の真価を発揮するとネギの心に自分を重ね合わせることで感じ取れるものがあった。

 壮絶なる孤独。アスカの強さに対する嫉妬があった。父との戦いを得られなかった憎しみがあった。自分以上に物事を上手くこなす弟への憧憬があった。叶えられない出来事を容易く成し遂げてしまう憧れがあった。それよりも遥かにカモを失った心の喪失は大きい。アスカへの嫉妬に転化することで誤魔化していた心の隙間は、のどかが傍にいてくれても埋まることなく、ただただ孤独に喘いでいた。

 

(これが…………ネギの負の心)

 

 重ねた心の向こうでネギの慟哭の叫びを聞いた。

 

「馬鹿野郎っ!!」

 

 その罵倒はネギに向けたものであり、何よりもそれほどの深く傷ついていたネギを慮ってやれなかった自分自身に向けたものでもあった。

 同時にアスカの中に、音を立てて燃え上がるものがあった。

 ネギから感じられる負の壮年に心まで呑み込まれそうな恐怖感に襲われ、自分を見失いそうになる。アスカは歯を食い縛ると、薄く目を開き、自分の内にいるネギに向かって吼える。

 

「最初から言えよ! 寂しいなら寂しいって、苦しいなら苦しいって!」

 

 空中から悠々と見下ろすネギに向かって、アスカは自分に返ってくる言葉をぶつけながら、さっと顔を上げる。その目には、ネギの闇に気付いてやれなかった自分に対するあらゆる感情が渾然一体と混じった光を爛々と湛えて激しい怒りに溢れ、それがネギに向けられた。

 

「自分の殻に閉じ籠るお前を引っ張り出すのには慣れてんだ。これで終わらせたりしねぇぞ!」

 

 魔法学校に通っていた頃、図書室に篭り切りになっていたネギをアーニャの命令で引っ張り出したのはアスカだ。あの時とやることは何も変わらない。ネギがどれだけ嫌がろうとも力尽くで引っ張り出すのみ。

 

「GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!」

 

 雄叫びを上げたネギが雷速という誰も踏み込めない速さの領域へと入り込み、全ての者の視界から消え失せる。

 アスカは言葉を一切放つことなく、ネギが消えた空間をじっと見つめた。と、突然鋭い痛みが右頬に走る。何時の間に殴られたのか、身体が後ろに傾くほどの衝撃が突き抜けた。

 

「GYAッ!!」

 

 ネギの気合の声に遅れて、再び目にも止まらぬ攻撃が全身を揺るがす。腹を殴られ、顔を蹴られ、背中を打たれ、アスカの身体は次々と攻撃を受け、傷ついてく。

 だが、アスカは動じなかった。僅かに腰を落とし、胸の前で交差させた腕を勢いよく左右に大きく開く。途端、生まれた衝撃波が、アスカの直ぐ近くで今にも攻撃しようとしていたネギを吹き飛ばした。

 

「GYAAAA――――ッ!?」

 

 如何に雷化していようと攻撃する直前では物理干渉を避けることが出来ずにアスカの衝撃波をもろに受け、吹き飛ばされていく。

 

「GYAAAァァァァァッ!」

 

 ネギは喚き、空気を切り裂いて雷速で突進する。

 アスカは防御動作すら取らず、纏う障壁の角度を動かして受け切り飛び退く。

 

「……!」

 

 繰り出される疾風迅雷の連続攻撃。その全てをアスカは避け切った。

 出された攻撃を見切るのではない。敵の心に攻撃の意思―――――殺気が揺らめくのを第六感で悟ったのである。そして、ネギが消えた。その刹那にアスカは右足を振り上げる。目の前にいるネギの顎を、頭部ごと蹴り砕くような勢いで。

 同時に、常軌を逸した速さで近づくネギがその蹴りを受けたと感じた。しかし、防御されたようでダメージはなく再び、閃光となって消えた。

 

(落ち着け。心を乱すな)

 

 消えたネギを追うことなく、一度は熱した心を覚ます。

 常に最高速で動く必要はない。必要な時だけ神速を発揮すればいい。動くのは一瞬、瞬き以下の時間だけ。それでも雷の速度に対応しようとすれば肉体に無茶をさせる必要がある。鍛えたといってもまさに血肉を削りながらの綱渡りの状況である。

 

「――?!」

 

 闘争本能に支配されたネギが衝撃に目を剥いた。

 闘う者が被弾を忘れた時、如何な大人であろうとその耐久力は赤子並に成り下がる。意識の隙間を縫う絶妙の攻打。被弾を覚悟する隙を与えない対戦者にとってはまるで不意打ち。

 如何に雷並みの思考加速があろうとも元が人間であるネギでは決して消えない心の隙間を打つ。言葉にすれば容易いことであっても実行に移すことは不可能。絶対なる雷の速さの有利が効かない。有史以来、人が人のままで雷の領域へと手を伸ばせたことはないのだから。

 

「……っ」

 

 何だこれは、どうして自分の動きを追いきれると、まるでネギがそんな戸惑いを覚えているように動きを鈍らせた。

 

「…………」

 

 対して、アスカは言葉を語ることなく、動くことなく沈黙していた。

 彼の目に映る視界がひどくクリアだった。今までよりも細密に世界を感じることが出来た。この世界でもネギの姿を完全に視認出来ない。それでも心を重ね合わせたことで流れを読み取ることが出来た。意思の行き着く先と言ってもいい。

 ネギの流れに自分を乗せて、思考の隙や死角を作りだし、その虚を突くように動いている。

 

「ガアアアアアッ!」

 

 達人の目にすら視認も出来ない速さで下段から顎元を狙って雷化しているネギの体が、アスカの雷を纏った手刀によって切り裂かれた。首を動かして紙一重で避け、打ち合わせていたかのように今度はアスカの手刀が斬り払ったのだ。

 アスカの動きに余計な成分が削ぎ取られ、鋭さと鮮やかさだけが残った。まるで、ワルツのように、見えていた、感じていた、分かっていた。心を重ね合わせているが故に、受けられるのも、避けられるのも、承知の上。

 獣の怒号が雷と化して闘技場の空を走り抜ける。 

 それもまたアスカを捉えることは出来ない。彼は未来が見えるとでも言うように、稲妻の軌道から身を逸らして地を伝い来る落雷の余波からも逃れるように巧みに距離を取っている。

 VIP席で観客として見ていたリカードは違和感を覚えた。アスカが雷の軌道を読んでいると、何故、自分が思ったのか分からない。

 今のネギは暴走しているといっても紛れもなく雷そのものだ。光に近い速度で飛来するその動きを、生身の人間であるアスカが捉えられることは出来ない。

 

「亜光速だぞ!? 稲妻は!!」

 

 進路をふさぐ形で放たれた稲妻すら掠りもしない。アスカは焦る様子もなく横に跳んで易々とそれらを躱す。

 攻撃の悉くを読み切り、躱しているようだった。

 だが、ネギは、ネギだけは認められない。今のネギはアスカを認めることが出来ない。

 暴走する肉体とは別に、心は人生に疲れ果てた老人のように今は無き壊滅した故郷の村外れの岩場の上に腰掛けていた。

 受け流すということを知らず、なんにでも真正面から向き合ってしまう生真面目な魂。掛け違えたボタンを直す暇もないまま、自分を殺し続けてきた孤独な魂。

 行かなければならない場所、成さねばならないことがあったはずなのに、闇の魔法(マギア・エレベア)の侵食によって頭に霞が掛かったように何も思い出せない。

 今まで肉体だけに留まっていた魔素の侵食は魂魄にまで及び始めていた。徐々に侵食が深まっていく所為で重くて身動きが取れず、とても痛くて触った人を皆傷つけてしまうと怯えていた。

 しかし、動けない()とは別に脳裏に流れていくものがあった。

 

「……………」

 

 それは心を重ね合わせたことで流れ込んでくるアスカの記憶。

 アスカがネギを感じ取ったように、ネギもまたアスカを感じ取っていた。表で暴走する肉体と内に籠もる心と別れてしまったからかアスカよりも強く心を感じていた。

 有体に言って魔法世界に来てからのアスカの境遇はネギが考えているものよりも何倍も酷いものだった。だからといって何かが変わるわけではない。同情もしない。哀れみもしない。凄いとも思わない。だけど、闇に堕ちるだけだったネギに心に小さな変化を与えるには十分だった。

 

「……ぅ」

 

 まるで逡巡するように動きを止めたネギを前に、不意に襲い掛かる激痛にアスカは呻き、よろめいた。今まで蓄積したダメージがここに来て遂に限界を超えて表に現われてきた。

 ネギが駆使する魔法に比べれば、アスカのそれは派手さも威力もない稲妻の速度といえば秒速150キロ―――――マッハ440。空気抵抗を考えれば人間の体の方が持たない。精霊化をしたネギの肉体は三次元空間における時間の束縛から解放されているのだ。傷ついた体でその領域に至ろうとすれば無事であるはずがない。

 多くの負傷によって本来在り得ないはずの負荷に晒され続けた四肢の骨に、次々と亀裂が生じた。限界を超えた筋肉は軋みを上げ、稼動させられ続けている神経は既に限界を超えてたった一つの動作にすら痛みを伴っていた。

 

「来いよ、ネギ」

 

 が、そんな苦痛もダメージも一切頓着することなく、アスカは戦い続ける。

 ネギが背後に回り、相手の死角から存分に仕掛ける。

 背中から迫り来るネギの拳に、だがしかしアスカは身体を巡らすことなく、僅かに屈んで応じにかかった。どのみち転身は意味がない。速すぎるネギの動きに振り向こうともまた背後に回られれば同じことだ。アスカは死角を衝かれる不利をものともせずに背中を見せたままで戦うしかない。

 立て続けに閃く連撃。もはや常人どころか達人でも視認すらできず、文字通り稲妻の残像だけを目にするしかないそれを、アスカは悉く躱し、受け流し、捌いた。

 

「――――!」

 

 途端、ネギの体は大きく飛び退った。その鬼面染みた横顔が困惑に揺れていた。

 完全に自分の雷の速さにすら食い下がって対処するアスカの手練に、怪物に堕ちたネギは戦慄する。殆どが明らかに視野の外からの攻撃なのに、アスカはまるで見えているかのように確実に防ぎ通す。

 この男の積み上げた強さは、もはや速さの優位だけで覆すことなど不可能なのか。

 怪物―――――もはやアスカをそう形容するしか他にない。一体誰が音を越えて光に迫る雷の領域に付いて来れると思うのか。一体どのような執念が、生身の人間をここまでの領域に練磨しうるのか。

 ネギが先の先を極めたとするならば、アスカは相手の出方に合わせて自分の攻めを決めることを徹底した後の先の極みに近づきつつある。

 時間をかければかけるほど、僅かな動きで、腕が、脚が、心臓が、猛烈な痛みで悲鳴を上げるアスカの状態は悪化する一方。ついていくだけで精一杯のアスカにネギの優位性は変わらない。

 限界を越えた激戦の結果、ノコギリで切られるような痛みが脳を苛む。体のダメージも凄まじく、特に異常稼動している心臓の痛みと動悸が酷い。雷で心臓が薬物注射(ドーピング)ですら不可能なスピードで鼓動している。

 随所の毛細血管、果ては一部の動脈や静脈がぶちぶちと切れ、内出血を起こしている。何時破裂してもおかしくない状況。

 でも、そうやって送り出された大量の血液は体中の筋肉と脳細胞を活性化させ、常から常人離れしていた身体能力を達人離れしたものにまで昇華させ、人を完全に超えた身体能力と判断力、代謝を生んでいる。

 動きの中でついでにクハッと喀血した。あちこち骨折もしているはずだ。これが代償。今の超人的な戦闘能力はその副産物。長期戦どころか中期戦すらも不可能な、短期戦特化の戦法。

 ネギとアスカが乱れ舞う激空間。その凄まじき衝突は、徐々に、そして確実に、決着へと傾き流れていく。

 アスカは、双子の兄ネギと対峙した。遥か昔に進む道を違えた二人の兄弟は、間合いを大きく取って向かい合っている。

 

「本当、なんでこんなことになったんだろうな」

 

 これも現実である。言葉だけでは到底変えられるものではないし、救われない。死力を尽くしてぶつかり合わねば、分からないこともある。もはや戦う以外道はないと、アスカは知っていた。だから拳を構える。気負いはない。だが躊躇もない。試合前にはあった不安も迷いも今はなくなっていた。

 お前が憎い、と。お前を呪う、と。

 人の心を持たぬ魔族と成り果てて狂乱に身を委ね、紅い双眸に憎しみを滾らせて獣のように吼え猛るネギに、もう声は届いていないかもしれない。それでもアスカは語りかけた。

 誰かと分かり合うことは凄く難しい。言葉にしなければ伝わらないことがあって、言葉では何も伝わらないことがある。どうにも伝わらないほどに胸が熱い。

 

「全てが終わったら話をしよう。今まで出来なかった分も全部」

 

 悩んで、苦しんで、迷って、間違えて、自分の醜さを恥じて。人として、悲しいくらいに人として生きてきた。まるで、旧友との再会を心底懐かしむように、激さず、怒声を上げるでもなく、アスカは静かに声をかける。彼は、ネギの身体を上から下に繁々と見つめた。

 

「だけど、今は――――」

 

 話さなければ、言葉にしなければ伝わらない。想いを口にせずに分かってもらおうなどと傲慢に過ぎない。だけど、想いを口にしても伝わらないモノがあるとしたら、どうすればいいのか。

 苦労しても伝えても理解してもらえないことなんてザラにある。誰かと分かり合うのは何時も凄く難しい。言葉にしなければ伝わらないものがあって、言葉では伝わらないこともある。ならば、初めから知ろうとしなければ、分かろうとしなければ自分の心にも、互いの関係にも変化を及ぼさないから楽だ。けど、それが必ずしも良いというわけではない。

 アスカがそうやってネギと分かり合うことを避けたからこの結果に至ったのだ。もちろん自分から歩み寄ろうとしなかったネギも同様だ。

 二人はあまりにも似すぎて近くにいすぎていた。

 相手の自分が持っていない何かを羨み、求め、焦がれ、憎んでいた。

 こうなってしまったといういう思いもあるが、何時かはこうなるだろうという思いもあった。生まれた時からこうなることは決まっていたのかもしれない。

 一度別たれた道を進めば、次に出会う時はぶつかり合うしかない。今がそのぶつかり合う時。

 今更悔やんでも遅かったが、そうせずにはいられない。可能なら子供の頃に戻り、一からやり直したかった。だが今となっては叶わぬ願いである。もはや衝突は避けられない。  

 言葉が通じないのなら想いを形にして相手に打ち込むことしか出来ない。その結果どうなるか分からない。けれど、何時かこの戦いも必要なことだったと二人で笑って言える日が来るだろうか。

 

「決着を着けよう、お互いが納得できる決着を」

 

 自然と体が両足を不動の大樹の如く根を張り、腰を下ろして不動の構えを取る。

 体重移動の流れに澱みが見えない。体幹を支える筋力に無駄がない。正中線を走る重心が全くぶれずに全身が重心を軸に螺旋を描いている。速さとは筋肉の伸縮が主ではない。大地に根を下ろす木の幹の如き不動の重心を得ることにある。

 ネギも多少なりとも傷を負っているがアスカ程ではない。

 アスカの方は重症だ。体中の骨が折れたり罅が入ったり、筋肉が軋み千切れ、神経が限界を超えた稼動に途切れかけている。流れ出た血は足元に池を作り、後数分もすれば強靭な精神力でも耐え切れずに足を折るだろう。

アスカの表情は今までの激戦でボロボロな体とは違って考えられぬほど穏やかだった。ネギもまたあれほど激しかった殺意や殺気も今はない。混じり気のない透明な闘気だけがそこにはあった。

 

「次の一撃で決着をつけよう」

「……………」

 

 子供のように純粋な笑顔を向けてくるアスカに、魔族化したネギもまた、同意するように拳を構える。暴走したといっても少しは意識が残っているのか、最後はやはり拳で決着をつけることこそが、もっとも相応しいと思ったのか。

 実際にはネギは唇を結んだまま、何も語っていなし表情も変えていない。アスカは漠然とネギもそう考えているのだと思った。大して理由なんていない。敢えて上げるとすれば双子だから、だろうか。

 全身に力を蓄え、短く長い時間が過ぎ。

 

「――――最後に一言だけ、言わせて欲しい」

 

 一瞬だけ過去を想うように眼を閉じ、拳を握って深く沈黙したアスカは穏やかに眼を開けて心からの言葉を贈る。

 

「この戦いは本当に楽しかったよ――――――――兄貴」

 

 ネギに自分の心が伝わったか、確かめる術などない。いいや、確かめずともいい。

 自分は言うべきを言い、伝えるべきを伝えた。断絶していた兄弟の絆が繋がったかどうかなど判らない。

 口と鼻の機能を止めて呼吸を止め、皮膚で細胞で呼吸する。

 すると意思に反応して己に中にある力を昇華させると、下半身が締め付けられて重い感覚を味わいながら激しく集束していくのを感じ取った。

 ネギは完全に魔族に堕ちたわけではない。そのギリギリの境目にいる状態ならば、元に戻すことが可能かもしれない。

 魔を浄化する光は、救いと呼ぶには程遠いやり方かもしれない。いや、力を求めて闇の魔法を会得したネギをこの姿にしたのはアスカだ。その責任を取るわけではないが、出来ることならば人間に戻してやりたい。

 しかし、それは希望的観測。奇跡の領域。それでも結果は見えなくとも、それが今のアスカに出来る最善だった。

 不思議なことに、この時のアスカは死の恐怖を微塵も感じていなかった。

 アスカは自分の心がそうしたいと感じるがままに『ネギ』を『兄』と呼び、乾いた風が戦場を吹きぬけ、そして―――――二人は同時に飛び出した。

 これを最後の一撃と、そう示し合わせたかのように、真っ直ぐに正面から、全出力を解放して最高のスピードで。

 最初から決めていたのだ。ネギを倒す時は、背後からではなく正面からで。そして剣や術や魔法ではなく、己の拳で決着を付ける(・・・・・・・・・・)と。

 

「「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」」

 

 二つの雄叫びが反響する。

 次の瞬間、何かが爆発したような音を立ててネギが跳ぶ。自らを雷に変え、人の身ではありえぬ超加速。音の壁を越えて空いていた距離を一瞬で無へと縮める。反対に、二人の距離が離れているといってもネギの圧倒的なスピードの前ではアスカに許されるのはたった一歩。だからアスカ・スプリングフィールドは、右の拳を固く握って軸足の左足で大地を蹴った。

 相手がどんなに速かろうと、やることは既に決まっている。

 一歩で爪先、足首、膝、腰、肩、肘、手首の順に関節に捻りを加え、後を追うようにして足先から拳の間の筋肉に、回転エネルギーが加えられる。最後に、丹田に集まった力が移動し、同じルートを駆け抜けて右拳に光が収束する。

 攻撃は同時。もはや技などとは呼べない。互いに力を拳に乗せ、殴るだけの攻撃だ。

 瞬間、膨大な光が爆ぜる。

 それは途方もない破壊の力を宿していた。だから、直後に起きた出来事を誰も理解できなかった。光は忽然と消えてしまった。だが、それも直ぐに判明した。途方もないエネルギーが結界を突き抜けて空に向けて飛んで行ったのだ。

 二人の身体は交錯した。上空を突き抜けたエネルギーは空の彼方へと消えていった。

 ほんの僅かの差で勝敗は決した。いや、勝敗などないのかもしれない。

 

「「―――――」」

 

 何も聞こえなかった。静か過ぎて耳が痛くなるような深すぎる静寂があるだけで、自分の喉から猛りあがった声も、攻撃が当たった衝突音も何も聞こえなかった。

 ただ、感触があった。ネギの放った拳はアスカの左頬を深く切り裂いただけに留まり、アスカの放った渾身の右拳がネギの左胸へと叩き込まれていた。

 その拳から撃たれた光は、敵を滅する憎悪の刃ではなく、あくまでも温かく。ただ兄の魂が闇から解き放たれることのみを祈った弟の願いが込められた一撃。

 

「!?」

 

 衝撃は突き抜けるようにしてネギの胸から背後へと貫通した。

 突き抜けた衝撃を表すようにネギの服の背中の部分が弾け飛び、同時に黒い瘴気のようなものが飛び出して纏っていた黒い皮膚、角、牙、爪、尻尾が空気に溶けて消えていく。肌は元の色合いを取り戻し、眼から魔に染まった狂気が薄れて元のボロボロの戦闘装束へと戻っていた。

 拳を繰り出したアスカも、それを受けたネギも、そのままの体勢で動かずにいて。

 そして暫くの後―――――先に動いたのはネギだった。倒れ込む。全ての力を失ったように、ゆっくりと前へと。

 そんなネギを、アスカの腕が抱きとめた。目を閉じたネギは口元だけで穏やかに、ようやく向き合えたことに満足そうに笑っていた。二人の兄弟は、お互いの成長を確かめ合えたことを喜んでいた。

 兄が知らぬ間に弟は成長し、弟が知らぬ間に兄もまた成長していた。その失われた時を実感し合えた。

 もう、右も左も分からない幼い頃に共に暮らしていたあの頃には戻れない。互いにあの頃よりも成長し、変わりすぎてしまった。だけど、今は、今だけは子供だった頃の思い出に浸るように笑みを浮かべていた。

 互いに己が全てを掛けた死闘、ここに決着。

 

 

 

 

 

 




魔  法:|大地の風(地面の砂を巻き込んだ台風で、取り込まれると高速研磨機にすりつぶされるように肉を抉られる)

術式兵装:雷天大壮
効  果:一瞬のみ雷化、雷の速度を得る
備  考:原作では主に近接戦目的で使用しているが、本作ネギは詠唱時間の短縮の方に使っている。傍目には最上位魔法ですら詠唱無しで詠唱と同等の威力を放つことが出来る

術式兵装:天雷空壮
効  果:大気を操ること。限定空間内ならば幻影、視覚誤認、気配探知阻害、音声反響、気圧操作
備  考:雷天大壮に風の上位呪文を取り込むことで、相手の殆どの外部器官(目や耳)を封じて詠唱無しのような速さで攻撃が出来る

術式兵装:雷天双壮
効  果:常時雷化が可能

太陽道:自然エネルギー(マナ)を取り込み、魔力・気を回復する。
*追加:マナを操作して相手の思考、意を読み取る。究極の集中力の果てに得られる境地で、この状態になったアスカにはどんな速さも対応されてしまう。但し、相手の心に自分を重ねてしまう為、強い思いに引きずり込まれる危険性と、逆に引っ張ってしまう可能性がある



次回『第76話 熱に浮かされて』




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第76話 熱に浮かされて

 

 

 

 

 

 ナギ・スプリングフィールド杯決勝が終わった後、ネギ・スプリングフィールドは会場医務室のベッドに横たえられていた。両眼を閉じ、呼吸こそしているものの、ピクリとも動かない。

 ベッドの隣の丸椅子には宮崎のどかが腰を下ろし、心配げにネギを見つめている。

 この部屋のもう一人の住人であるアスカ・スプリングフィールドは包帯塗れで壁に凭れて腕を組み、そんな二人を傍らから見下ろしていた。

 強い消毒液の匂い、規則正しい心電図モニターの音。点滴が音もなく透明な液体を垂らし、管に繋がれた右腕に最低限の栄養を送り続けている。何時もならアスカこそがベッドに横になっている立場なので、既視感と同時に強い違和感を覚える光景だった。

 ナギ・スプリングフィールド杯はアスカの勝利という形で幕を下ろした。

 勝者は全身包帯だらけの満身創痍。本来ならば彼もまた横になるべきであるが本人は無理をしているのか治癒術士の勧めを拒否している。反対に敗者のネギには傷がないのだから。

 壁に凭れたままアスカは何も語らず、のどかも敢えて口を開かないとなれば部屋の中は沈黙が支配していた。

 沈黙を打破したのは部屋に入って来た第三者である。

 

「よう、ご苦労さん」

 

 明日菜達を後ろに連れたジャック・ラカンが現れ、壁際のアスカに一度視線をやってからのどかに声をかけた。

 

「ラカンさん」

 

 のどかは、そちらへ振り返ると立ち上がった。礼儀正しい少女のことである。座ったまま相手をしては失礼と考えたのであろう。

 歩み寄って来ようとしているのを制止してベットへと近づき、一気に騒々しくなった部屋にも関わらず眠り続けるネギを近くから見下ろす。

 

「で、坊主の様子はどうだ?」

「………………悪くはありません」

 

 と、のどかは治癒術士から聞いた悩ましげな現状に眉尻を下げる。

 

「重度の急性魔素中毒に似た症状があったようですけど、今は健康体でただ眠っているだけだと」

 

 話を聞いたラカンは腰を屈めてネギの顔を良く見て、「成程」と治癒術士もさぞ困惑しただろうと内心で納得する。

 

「幾ら闘技場お抱えの治癒術士でも闇の魔法(マギア・エレベア)の浸食の事例を見たことはねぇだろうからな」

「それじゃあ、やはり異常が」

「いや、それはねぇ」

 

 不穏なことを言った自覚はあるので不安にさせてしまったことは悪いと思っているが、治癒術士が健康体であると言った意味がのどかにはちゃんと伝わっていないことに少し息を吐く。

 基本的に拳闘士に傷は付き物である。治癒術士には説明責任があるものの、ネギほどの優れた魔法使いの傍にいたのどかが魔素中毒のことを知らないなどとは考えもしないから健康体と言えばそれ以上の説明は必要ないと思ったのだろう。

 

「治癒術士が言ってたんだろ、健康体だって。俺の目から見ても今の坊主に異変があるとは思えねぇ」

 

 ネギはとても穏やかな寝顔で規則正しい寝息を立てている。少なくとも悪夢を見ていることだけはないようだった。

 ライトグレーの検査着を着せられたネギから視線を逸らし、明日菜や千雨達と話しているアスカの方へと振り返る。

 

「アスカから見て坊主の状態はどうなんだ?」

「さっきから寝てるだけって言ってただろ。俺の方が重傷だっつうの」

 

 問われたアスカは木乃香の治癒魔法を受けて必要の無くなった包帯を明日菜の協力を受けて外しながら言い、体の調子を確かめるように肩を回す。

 

「ネギは心身共に健康そのものだよ。今はちょっと疲れて寝てるだけだ。その内に起きるだろ」

 

 回復次第が思っていたほどではなかったのか、少し眉を顰めたアスカにのどかが顔を向ける。

 

「でも、どんなに声をかけても体を揺さぶっても起きません。やっぱり何か異常があるんじゃ」

「それだけ疲れてるってことさ。今は休ませてやれ。起きる時は自分で起きる。ネギは寝坊助だからちょっと遅いかもしれないけどな」

 

 不安がるのどかに適切なアドバイスは出来ない。拳で撃ち抜いたあの時の感覚を他人に伝えるのは難しいからだ。

 どのように伝えたら良いものかとアスカが悩んでいるとラカンが肩に手を乗せて来た。

 

「治癒術士もアスカも問題ないって言ってんだ。嬢ちゃんは心配し過ぎだって」

 

 ラカンに太鼓判を押されてものどかの不安感は消えないらしい。

 まだ不安げにネギの方を見て、こちらから視線を外したのどかの隙を伺うようにアスカの首をどの太い腕で抱え込んだラカンが、「今の内に外に出ろ」と小声で言った。

 

「なんで? つか、痛ぇよ」

「兄弟で理解し合ってても嬢ちゃんにはそんなことが分かるわけねぇ。坊主がこうなったのは試合の後だ。どうしてもアスカがここにいると気にしちまう。坊主が目覚めれば解決するんだが直ぐには目覚めねぇんだろ?」

「そんなに時間はかからねぇと思うけど、直ぐにとは言えねぇな。分かった。外に出るよ」

 

 小声で話しているがのどかはネギを見ながらも、こちらを気にしている意を感じたアスカはラカンの言うことも最もだと判断する。ネギのことについては放っておいても問題ないとしてものどかの精神衛生上、よろしくないだろうというのは鈍感なアスカにも分かるので部屋から出ることにする。

 

「あ、私も行くわ」

 

 付いてきた明日菜をお供に医務室を出たアスカは、さてどこに行くものかと頭を悩ませる。

 

「これからどうするの?」

 

 目的もなく医務室を出たアスカの横に並んだ明日菜が問いかける。

 

「夜には舞踏会に参加しねぇといけねぇからそれまで時間潰しだな」

 

 試合は昼間で時刻は既に夕方である。夜には新オスティア主催の舞踏会があり、オスティア終戦記念祭の目玉であるナギ・スプリングフィールド杯の選手は余程の事情がなければ参加することが決まっている。

 

「ナギ杯出場者は出ないといけないんだっけ」

「面倒臭せぇけど大会要項に書かれてたし、諦めるしかねぇ」

「でも、どうして選手が舞踏会に出ないといけないの?」

 

 特に優勝を果たしたアスカは絶対に出ろと大会運営から口を酸っぱくされて言われたので参加しないわけにはいかない。

 大会参加者ではない明日菜にはそこら辺の理由を知らないらしく、聞かれたアスカはどうやって答えたものかと頭を回す。

 

「俺も聞いた話なんだが」

 

 ノアキスにいた頃に領主から聞いた話を思い出す。

 

「ナギ杯の出資は主に商人がしていて、決して少ない金額じゃねぇ。それでも出資が続くのはこの舞踏会が理由なんだと」

「みんなそんなに踊りたいってわけじゃないわよね」

「この舞踏会には各国の政財界から多くの奴が参加するらしい。商人達や金持ちはそこで政財界と繋がりを作るんだと」

「つまり、選手は客寄せパンダってわけか。世の中、世知辛いわね」

 

 明日菜の言い方は身も蓋もないが正にその通りである。

 貴人公人との繋がりは金で買えるものではない。基本的に分野が違えば繋がりを持ち難いので、ナギ杯を観戦してファンになった彼らを選手を餌にして繋がりを持とうとする。オスティア終戦記念祭を盛り上げるだけではなく自分達の利益にも繋げる辺り商人は油断がならない。

 

「決勝の夜に舞踏会をやるなんて正気の沙汰じゃねぇ。体が持たねぇよ」

「本当なら決勝は昨日に終わってるはずで、一日延期になったのはアスカとラカンさんが準決勝でやり過ぎたからじゃない。文句言わないの」

「へいへい」

 

 決勝戦が一日延期になったのはアスカとラカンの準決勝で闘技場を壊しかけた所為で、復旧と障壁の強化をしなければ観客が危険だったからである。

 

「体の方は大丈夫なの? また短期間に治癒魔法を使ったわよね。さっきも体が持たないって言ってたし」

 

 なるべく人に会わないように闘技場を出たところで明日菜が先程の会話の際にアスカが漏らした言葉を心配していた。

 

「六、七割ぐらいって感じだな。痛みとかはないけど、どうにも体に力が入らない」

 

 アスカが拳を握ったり開いたりしながら答えると明日菜はもっと心配げな顔になってしまった。大丈夫なことを伝える為に安心させるように微笑む。

 

「心配すんなって。今の状態でも明日菜よりは強いぞ」

「むー、そんないことないわよ」

「じゃあ、試してみるか」

「やらないわよ。あんだけ戦っといてまだしたりないの?」

「まあ、我慢はするさ」

 

 呆れられてしまったが心配げな顔をされることは無くなったので良しとする。

 戦い足りないのも嘘ではない。ネギとの戦いで到達した咸卦・太陽道の真髄を誰かに試したくて仕方なく、戦闘狂と呼ばれても無理はない心境にある。とはいえ、生半可な相手と戦っても消化不良で逆に欲求不満が重なるだけ。

 明日菜レベルならばようやく、といった感じか。傷つけたいわけではないし、舞踏会の前にこれ以上疲れるわけにはいかないのであくまで冗談である。

 

「試したいけど、これだけ相手にやったら死ぬしな」

 

 夕方の新オスティア市街は相変わらず人でごった返している。こんな中で意を取り込もうとすれば、脳が処理しきれずにパンクする。

 一人相手に慣れない内に多人数に使えば良くても廃人になってしまう。追々とやっていくしかない。

 

「説明聞いたけど、よく分かんなかったのよね。どういうこと?」

「俺にも説明し難いんだよ」

 

 概念として理解しているが言葉にすると途端に陳腐になってしまう。これがネギであれば言葉にして上手く説明できるのだろうがアスカの限界でもある。

 

「じゃあ、私に試してみてよ」

 

 言われたアスカが一歩離れて距離を開けて向かい合ったのを見た明日菜は少し身構える。

 少しの興味とアスカの欲求不満を解消する為に提案したのだが、アスカが集中を始めると妙に心臓が高鳴った。ドキドキと、指先まで鼓動するみたいに痺れる。目の前の景色まで鼓動一つで震えているようだった。

 

(なに、これ……)

 

 人間なのだから欠点があるのは当たり前。どんなに仲の良い友達でも、どんなに長い時間同じ時間同じ夢を見てきた仲間たちでも、必ずどこかに隙間がある。それが当たり前なのに、今はアスカと繋がっていると確信している。否、どんどん重なっていっている。

 

「んー、失敗か」

 

 内側からアスカの声が聞こえてきたと思ったら、まるでアスカと一体になったかのような感覚が途切れた。

 ハッ、として何時の間にか伏せていた顔を上げると、目の前にアスカの顔があった。

 精悍な顔には頬に大きく傷痕が走っていたが、恐ろしいとか無残といった印象を感じさせない。飄然たる顔にある傷痕さえもその男の魅力に変えている。

 

「つか、やり過ぎたか。てい」

「あ痛っ!?」

 

 見惚れていると頭をチョップされて、ようやく正気に戻った。

 

「これが副作用だな。まだ中層ぐらいでこれだと深層にまで繋がり過ぎると自分と相手の境界が曖昧になる」

 

 分かるような分からない感じだが、やはりなんとなく分かるような気がした明日菜は頷いた。

 

「凄かった。うん、凄かった」

 

 明日菜の口から上手い言葉が出てこない。

 最初から余分な言葉を重ねなくても気持ちの全てが通じ合う感じがあったのだが、途中からは通じ合うどころか溶け合って一つになっていくような不思議な陶酔感があった。

 溶け合ったのはまだ表層だけであったが、副作用という意味が良く分かる。

 

「いや、これは失敗だ」

 

 反対にアスカは大きく息を吐いていた。

 

「相手を理解するのにこれは何の苦労もなく出来てしまう。関係を続ける努力を怠ったら、言葉を惜しんだら人として腐っていくしかない」

 

 人は楽な方に怠けていく性質があるから、有用かもしれなくてもそれに頼り過ぎれば堕落してしまう。

 自分の殻に籠ってネギと分かり合うことを怠った。だからこそ、アスカはこの力を余程のことがない限り使う気は無いと決めた。

 

「そうかしら」

 

 アスカが決意を決めていると明日菜がにんまりと笑って下から顔を覗き込んで来る。

 

「なにがだ?」

「恥ずかしがって言葉にしてくれない人には良い薬だと思うけど」

 

 言われて思い当たる節があるのか、アスカは心持ち明日菜から顔を逸らしながら頬を掻く。

 

「感謝はしてるさ」

 

 何を望まれているかは理解しているが主導権を握られたままの状態で言うのは面白くない。後で話のネタにされたり揶揄われる気配がする。断じて照れ隠しではない。

 

「ラカンとの戦いの最後の時、明日菜の声が無ければ俺は敗けていた。準決勝の時だけじゃない。今までも明日菜には随分と助けられてきた」

 

 街中で足を止め、遅れて足を止めて振り返った明日菜と視線を合わせる。

 人混みの中で足を止めた二人を迷惑そうに周りの人たちが避けていくが、向かい合って互いがいるだけの世界に浸っていて気づかない。

 

「エヴァンジェリンとの戦いから、ハワイでもそうだし、ヘルマンの時には随分と迷惑もかけた。学園祭の時のことも碌に礼は言ってなかったからな。改めて言うよ。ありがとう、明日菜」 

 

 明日菜の背後から風が流れて舞った髪の一房を握ったアスカが手を顔に近づける。まるで髪の毛にキスするかのようで。

 

「俺は明日菜が――――あ?」

 

 認識阻害付きのサングラスを付けていなかったまま街中を歩いていたので物凄く注目されていたことに遅まきながらアスカも気づいた。

 英雄ジャック・ラカンや偽ナギ・スプリングフィールドを倒して第二回ナギ・スプリングフィールド杯に優勝したアスカは世間の注目の的である。とても目立つということはいらん輩も呼び起こしてしまうことにも繋がる。

 

「アスカ・スプリングフィールド選手だ!」

「見つけたぞ。者ども出会え出会え!」

「新オスティア出版の者ですが、お二人はお付き合いを……」

「高額賞金首!!」

「お前を斃せば俺も英雄に」

 

 集まるわ集まるわ。目的も違えば種族まで違う人々が周りから蟻の如くどこからともなく現れて殺到する。

 これほど野卑た気配を撒き散らす者達が集えば二人だけの空間も維持できない。

 

「…………良いところだったのに」

 

 アスカはどうでもいいことはベラベラと喋るのに大事なことは裡に秘める傾向にある。本当に珍しく素直に心情を吐露してくれていたのに、とんだ邪魔が入った明日菜はその手にハマノツルギを呼び出して握った。

 

「良いところだったのに!!」

 

 咸卦法までしてハマノツルギを振るって集まって来た不届き者達を纏めて吹き飛ばした。

 

『あ――っ?!』

 

 明らかに害意を持って向かって来る武器を握る賞金稼ぎが優先的にぶっ飛ばされ、空のお星さまになっていくのを見送ったアスカに範囲外にいた近くの店主のおっちゃんが近づく。

 

「よう、兄ちゃん。姉ちゃんを止めなくていいのかい」

「止めて。今の俺に触れるのは止めて」

 

 ギャーギャーワーワーと割と一大事になっているがアスカは羞恥で真っ赤になった顔を両手で覆っていた。割と恥ずかしい言動と行為をよりにもよって街中でしていたことに気付いて、穴があったら入りたい心境である。

 祭り中の新オスティアで諍いが発生するのは珍しい事ではないが少しやんちゃが過ぎた。

 

『届け出のない私闘は違法である。全員その場を動くな』

 

 声量拡大魔法で周囲に響き渡ったその瞬間、時間が止められたかのように全員の動きがピタリと止まった。

 面倒事は御免だと、アスカ達は逃げようとした。だが、彼らは直ぐに足を止めることになった。前後左右から多くの鎧軍団がアスカ達を取り囲んでいたのだ。蟻も漏らさぬ包囲網、といった様子である、

 

「治安を乱す犯罪者どもめ、貴様らは包囲されている。無駄な抵抗は止めて、大人しく投降しろ!」

 

 その囲みの一歩後ろに立っている指揮官らしき男が、アスカ達に向けてがなった。

 閲兵式もさながらの、ビッシリと整列した百人を超える鎧軍団によって包囲されていた。どこを見ても完全武装した騎士だらけだ。

 仕舞われたゲームのコマのように並ぶ騎士の列が真ん中で一直線に割られた。鎧を身に着けずに裾の長いコートを纏った眼鏡をかけた男が歩み寄って来る。アスカは、男のどこか尊大な態度に、一目で嫌悪感を感じていた。

 

「彼らを残して確保して下さい。後はそちらに任せます」

 

 その男が口を開き、近くにいた鎧にそう言うと集団が動き出してアスカと明日菜以外を捕まえて問答無用で連行していく。

 

「どうする、アスカ」

「今は様子見だな。俺達を残したってことは何か用があるってことだろ」

 

 ハマノツルギをカードの戻して明日菜が不安そうに身を寄せてきたのを庇いつつ、寧ろ遅すぎた男の胎動に思考を巡らせる。

 私闘関係者を粗方連行し終えたことを確認した男は、アスカ達に向かって足を進めて小声であれば他者に声が聞こえない距離で立ち止まる。

 

「既に知っていると思いますが改めて自己紹介させていただきます。メガロメセンブリア元老院議員、MM信託統治領新オスティア総督クルト・ゲーデルです」

 

 そう言って男――――クルト・ゲーデルは優雅に手を胸に当ててお辞儀する。

 完璧な社交辞令を身につけたクルトの振る舞いは、ある種の貴族を思わせる。身体の線は細く、彼の肌は、女性並みに色白だ。傍らにいる従者の少年が白鞘の刀らしきものを持っているが、少年の振る舞いもあって、これまで果実の皮を剥く程度にも使われたことはないと思わせるには十分だった。が、そんな華奢な外見が、見る者には逆に、高価だが枯れやすい上質の蘭のような高貴な印象を与える。

 

「以前はまともに話も出来ませんでしたが、ようやくこの機会が訪れました」

 

 和やかに話すクルトの全身からは、滲み出るような風格がひしひしと伝わってくる。果たして彼は切れ者か、曲者か、或いはその両方か。多分、三つ目の答えが正解だろう。

 見たところ、年齢は三十代を少し回ったぐらいといったところだろうか。どう考えても四十代には達していない。そんな若さで、オスティア新総督の地位にまで登りつめた男だ。並の人物のはずがない。

 よく見れば、面立ちも悪くない。ぴたりと撫で付けた亜麻色の髪、筋の通った高い鼻梁といい、引き締まっているが荒々しさはない。最も、見る限り当人はそんな自分の見栄えを鼻にかけているようなところは毛頭ない。

 人に見られることに慣れ、自分を魅力的に見せる術を心得ている男のものだった。彼のような職種に就き、また俳優と見紛う整った顔も授かった者には、特に珍しいことではない。が、気負わず、諂わず、鏡の前で演じるように自己を演出しきれる厚顔振りは、生まれや育ちだけでは説明がつかない、この男に備わった特殊な資質であるのかもしれない。

 

「邪魔もなく話せる絶好の機会がこのような街中なのは優雅ではありませんが、再びの再会を喜ぶとしましょう」

 

 アスカは驚きに息を呑んだ。驚いたのには単純な理由があった。身の危険を感じたのだ。

 クルトはいきなり身を乗り出してきて、病気になった息子の熱を測ろうとする親のような親密さが許す近さで、アスカをマジマジと眺め始めていた。

 

「おい」

「おや、これは失礼」

 

 アスカが顔を引きながら言うと、一つ咳払いをしてやや落ち着いた感のあるクルトが身を引いた。

 

「再会に年甲斐もなく興奮してしまいました」

 

 そう独り言のように言っている間もクルトの目は片時も休まずに動き続け、アスカの頭から爪先までを凝視続けた。薄く笑ったその顔に、危険な男、と直感が囁いた。

 

「話をしませんか、アスカ・スプリングフィールド君。私は君に興味がある」

 

 そう言い、向かいにいるクルトの所作は、礼節は身を守る武器と心得ている者のものだった。洗練された物腰は相手にも同等の礼節を要求する。見た者が威圧されるほどに。元より礼法とは、単に小奇麗な所作やテーブルマナーに留まらない。それは、相手との交渉を有利に運ぶための一連の技術の別名でもあるのだ。

 

「話しぐらいなら別にいいけどよ。ただ、話すのに後ろの奴らは必要ないんじゃねぇか? それに確か記念祭期間中の新オスティア市内での公権力の武装はアリアドネ―騎士団にしか許されてないはずだぞ」

 

 アスカは拳を握り締め、無言の目をクルトに向けた。そうして体に力を入れていないと、クルトのペースに呑まれてしまいそうな危機感があった。

 

「いやなに、私は幼少より虚弱体質でしてね」

 

 クルトは腕を振り上げて大袈裟な動作をしつつ、この行為を言い訳するように言った。

 

「これでもこの地の総督ですから一人では外出もままならないという身分です。彼らは極々私的なボディーガードのようなものですが偶々市内を視察している時に私闘を見つけては放ってもおけません」

「つまり、仕方のない事だと?」

「官邸に来て頂けるのであれば別ですが」

「悪いが忙しいんでね。舞踏会前にそんな時間はない」

「残念です。ならば、このまま話すとしましょう。彼らは壁の花とでも思って下さい」

 

 言葉こそ丁寧だが、つまるところは圧倒的な戦力を背景にした脅迫であった。

 虚弱体質だとか、全ての言い分に眉を顰めるがクルトと一対一で向き合う方が危険なのはアスカが一番強く感じている。

 

「試合は見せてもらいました。驚愕し、驚嘆し、感激しました。君の才能は億の賛辞にも値する」

 

 世辞と分かっていても、堂々と語られれば反駁することも出来ない。アスカは無言を通した。それよりも新オスティアの提督を任じられた男の、自分に対して向けられる奇妙な関心が気になり、アスカはクルトの瞳をマジマジと覗き込んだ。

 

「ジャック・ラカンとナギ・スプリングフィールド、その両方に勝利した君の力は本物だ。全く以て空前絶後で前代未聞。ああ、本当に期待以上と言っても良いでしょう」

 

 青い瞳には思ったほどの強圧さはなく、むしろ何かを求めるような揺らぎがあった。何を求めているのだと深く瞳の奥を探ると、体中を舐め回すような執着質な色も含んでおり、違和感としか言いようのない隠微な空気を醸し出しているのだった。

 

「最強と呼ぶに相応しい力を手に入れた君は一体ナニをするというのです? 平和な国の学園の戻って平穏に暮らすというのはつまらないでしょう」

 

 礼節に則った持て成しは上辺のことに過ぎず、威圧的な空気が流れている。

 

「俺は俺のやりたいようにやる。例え周りがどう思おうと、お前がどう思おうと関係ない」

 

 力なくば叶わない。力は直接的な武力だけを指し示さない。クルトが用いる権力もまた力である。力のない者の言葉など誰も聞こうとはしない。無論、アスカもそれは理解しているつもりだ。だが、相手の言葉に反抗するようにぶっきらぼうに言い返す。

 

「関係ない? 君が、それを言うのですか」

 

 黙ってアスカの言葉を聞いていたクルトははぐらかすような笑みを浮かべ、すっと手を振って言った。その表情はまるで、やんちゃな子供の悪戯を大目に見る親のものだ。

 

「どういう意味だ?」

 

 くすり、とクルトが笑った。

 それから仰々しく、深々と頭を下げたのだ。あたかも忠実な臣下が主に傅くみたいな荘厳ささえ覚える、異様な光景だった。

 

「私は――――災厄の王女の息子としての貴方とお話がしたいのですよ」

 

 腹の底でなにかが断ち切れ、揺れていた秤が一気に傾くのを感じながら、今度こそアスカの顔から、すぅっと表情が消えた。一瞬で、あらゆる感情が漂白されたかのような変化であった。「話、だと?」とアスカは鉄面皮で応じた。

 

「おおっと」

 

 思わずといった拍子でクルトが一歩後退る。

 

「誤解しないでください。そのことで貴方を告発したり、脅したりする気はありません」

「なら、なんだ?」

 

 アスカの瞳は、極点の冷気を秘めたままであった。先ほどまでも決して愛想が良かったわけではないが、今は純粋な敵意を放っていた。ずっと内に秘めていたとは信じがたいほどの存在感が圧力となって圧し掛かる。

 二十年の時間が経過しようとも色褪せるどころか輝きを増したジャック・ラカンを倒した男から発せられる圧力に、クルトはスーツの胸元を抑えるだけで耐えた。

 

「――――――嘗て知った時は驚きましたよ。まさか、あの人達に子供が生まれていたなんてね」

 

 と、流石に気圧されはしたのか微かに嗄れた声で囁く。

 

「私は貴方に従いたくて、やってきたんですよ」

 

 と、クルトは悪戯っぽく笑いながら告げたのだ。

 

「俺に?」

 

 片眉を上げたアスカに、クルトは深く頷く。

 この男の反応は、妙に人を安心させるところがあった。カリスマ性、というのだろうか。彼にしたがっていれば大丈夫と思わせるような風格。その肩が、そびやかされる。

 

「ええ、貴方に」

「………………」

 

 静寂が満ちた。硬く、重苦しい沈黙だった。

 爆弾にも似て、ひどく微妙な性質を含んだ沈黙を再び破ったのは、やはりクルトであった。

 

「大英雄の息子であり、自らもノアキスを救って英雄と呼ばれ、嘗ての英雄を越えた戦士。更に世界最古の王国の血を引く数少ない末裔の一人ですらある」

 

 クルトは、ゆっくりと呼吸を整えながら言う。その顔色こそ蒼褪めてはいたが、けして怯んではいない。寧ろ愉しむように、唇の端が歪んでいた。

 

「大国との繋がりを持つ君は望めば世界を支配することすらも可能だ。如何ですか、私と手を組んで世界を支配してみますか」

 

 理不尽なギャンブルを勧める悪魔のような口調で、物騒なことを言い出したクルトにアスカは「アホらしい」と返す。

 

「んな面倒なことに興味はねぇ」

 

 この男は危険だ、と内心の叫びが心身を強張らせ、アスカは両の拳をきつく握りしめた。

 

「それは良かった。私も君がそんな俗なことに賛同したら斬らねばならなかったところです」

 

 何時までも通りを封鎖しているのは、終戦記念祭開催中であることを考えれば決して良い事ではない。何よりもクルトという男から感じられる奇妙な粘着性がアスカの感性に触る。

 冗談だと分かりづらいクルトのジョークにアスカは「いい加減に本題に入れ」と先を促した。

 

「分かりました。では、本題に入りましょう。私の目的はただ一つ、アスカ・スプリングフィールド君――――――――私と手を組みませんか?」

 

 僅かにイラついた様子のアスカが本題を促すと演技然とポーズを崩さないまま、端的に自らの目的を口にした。

 

「とはいっても、直ぐには信じられないでしょうから、こちらも誠意を見せましょう」

 

 アスカの目の奥には容易には拭えない不審の光が宿っている。互いの間に横たわる溝をどこまで自覚しているのか、クルトは口元をふっと緩めた。

 

「二十年前の君の母君の真実、そして六年前に君の故郷の村を襲った犯人。もしも君が全てを知りたいというなら思うなら私と手を組むべきだ」

 

 アスカの沈黙に、若きオスティア新総督は頷き、とんでもないことを言い放ったのである。

 

「無論、この程度のことは貸しなどとは申しません。例えば君の仲間を旧世界へ戻す為のゲート行きの協力ですね。協力関係を築くにあたってのこちらからの好意だと思ってくだされば結構です」

「それはつまり協力しないなら逆の強権も働かせられるぞ、ということか」

 

 苦い表情を浮かべたアスカの言葉に、明日菜がハッと振り仰いだ。

 それだけ過激な発言だったが、クルトは困ったように微笑したきりであった。

 

「どのように取られるかは、人によるかと」

 

 優しく、しかし厳かな声でクルトは言う。

 アスカの言葉を否定せず、直接肯定もしない。相手の想像に任せるやり方だ。政治では何時もそんなやり方が交わされているのか。

 

「…………」

「いかかです?」

 

 再び、クルトが問う。

 暫くアスカは反応しなかった。クルトも急かすことはしなかった。待つことには慣れていると言うかのように、クルトはアスカの返答を待っている。正しく準備を整えれば、後は時間の流れこそが全てを解決すると経験によって知り尽くしているようでもあった。

 

「――――俺は」

 

 やがて、返事があった。

 見咎められぬように、クルトはこっそりとにやついた。

 

「協力――」

 

 その先を続けようとしたアスカの手が不意に熱くなった。柔らかなものが触れていた。明日菜の指であった。

 明日菜の手が彼の手を包んでくれていた。その温もりが、彼の全身の血を温かくしてくれる気がした。

 血が出るかと思うほどに石のように固く握りしめられた拳を丹念に解いて、明日菜の手とアスカのそれが重なった。白磁の如き指は、アスカの傷らだけの手の甲を癒すように撫でて慈しんだ。

 アスカが顔を横を向けると、明日菜は何も言わずに首を横に振った。合わせるように亜麻色の髪が揺れた。

 明日菜の強さとは、立ち向かう意志であり、新しいことから逃げない勇気だった。人間と関わることを諦めない、握ってくる手の感触だった。

 握った手の平は、アスカよりも強い力で握り返してきた。体温が伝わる距離にいると、少女の髪と汗の気配を感じた。そんな些細な出来事が何故か嬉しい。

 

「ありがとう」

 

 言いながら、アスカは目を閉じていた。闇の中に一点、光が灯ったような彼女の体温を感じていたからだった。まるで明日菜が、溺れる者の掴む藁のようだった。

 アスカが微笑む。やっと明日菜が安心できるような、温かい微笑だった。きっとなんとかなると、そう思える笑顔。

 

「どうやら時が悪いようですね。答えはそうですね…………舞踏会で聞くとしましょう」

 

 明日菜の存在を認識したことでアスカの心が移り変わり、旗色が悪くなっていることを持ち前の観察眼から察知したクルトはあっさりと退くことを決断した。

 

「では、また後程。良い返答を期待しています」

 

 旗色悪しと見るや即座に身を翻したクルトはそう言い捨てて、先程までの奇妙な執着はどこに消えたのかと思うほどにあっさりと去っていく。

 協力を断ろうと口に仕掛けたアスカの機先を見事に制し、あっという間に鎧集団共々に通路からいなくなってしまった。

 あまりの素早さにアスカが唖然としている間に封鎖が解かれた通路には人が戻って来る。

 せき止められていた通路には多くの人が行き交いを始め、その中でアスカ達だけが取り残された。

 

「何はともあれ、一難去ったか」

 

 知らずに力の入っていた肩を落としつつ、繋ぎっぱなしの手を辿って明日菜を見たアスカはゆるく笑みを浮かべた。

 

「助かったよ。明日菜がいなけりゃ、奴に取り込まれてたところだ」

「ううん、何のこと言ってるのかよく分からなかったけど、アスカの助けになったのなら良かったわ」

 

 頼りにしてもらえることを、彼女は何時も望み続けてきた。だから、彼女は誇らしく頬を上気させていた。この世で最も美しい物を手に掴んだように、オッドアイの瞳が喜びと期待に輝いていた。

 

「ありがとう、アスカ」

 

 弾ける笑顔が、アスカの網膜に焼き付いた。

 

「なんで、明日菜が礼を言うんだよ。逆だろ、普通」

「言いの。私がそうしたいんだから」

 

 どうにも気恥ずかしくなって明日菜を見れなくなってそっぽを向くも、直球の明日菜の言葉に続く言葉に窮する。

 

「少し疲れたな。どこかで休むか?」

「舞踏会までそう時間はないでしょ。それにあのクルトっての対策を取らないと。舞踏会で絶対に関わって来るわよ」

「それはそうなんだが……」

 

 話題を変える為に休憩を提案するが明日菜の言うことは至極真っ当なもので反論の余地がない。この疲労感を抱えたまま宿に戻ってもトサカ辺りに鬱陶し気な目で見られるのは確実。

 腕を組んで悩み始めたアスカに苦笑した明日菜が折衷案を考える。

 

「私が一緒に付いてってあげるから心配なんかいらないわよ。休憩せずに飲み物でも買って飲みながら早く帰りましょう。皆と対策を考えないと。ここで待ってて、何か買って来るから」

 

 足取りも軽く、散り出した群衆の向こうへ行こうと、少女の背中が遠ざかろうとした。

 

「明日菜」

 

 その前に一度だけ、名前を呼んだ。

 少女が、進みかけた足を止めて立ち止まる。振り返って、どうしたのかと問いかけてくる顔に「その……」と、言い淀む。少し悩んだ末になんでもないと口にして、

 

「キンキンに冷えたのを頼む」

 

 リクエストを不器用に口にした。

 明日菜にとっては、それだけで十分だった。

 

「うん、分かった!」

 

 もう一度、本当に嬉しそうに明日菜は笑ったのだ。

 

「待っててね。直ぐ戻るから」

 

 どうして、この時に胸に抱いた不安感に気がつかなかったのかと後になって深い深い後悔と共にアスカは思う。

 

 

 

 

 

 魔法世界には旧世界の日本のように自動販売機はない。魔法世界では人力による店での販売が主流である。

 木製のコップ込みでアスカの希望通りの冷たい飲み物を購入した明日菜の姿は、離れた場所から少し歩いた多くの人が行き交いする噴水広場にあった。

 つい、色々と考えてしまう。さっきまでの高ぶった気持ちは、まだ収まりきらず、明日菜の胸と内心を熱く乱していた。

 

(嬉しいな……)

 

 その胸を、そっと押さえる。

 嬉しいことには変わりなかった。まるで、キラキラと光る宝石のような、何より大切な贈り物だった。

 

「――――さ、帰ろ」

 

 思わず噴水に見入って止めていた足を進めようと、視線を動かしたその時だ。

 何か見てはいけないものが視界を過った。

 

「な、に?」 

 

 見てはいけないと分かっているのに、明日菜の目が本人の意思を裏切って周辺を彷徨う。人が多く集まった広場の片隅――――――不自然然に誰もいない街灯の近くに影がいた。

 

(え……っ)

 

 明日菜の呼吸が止まった。理由は分からない。なのに、一人でに明日菜の膝が、精神よりも先に身体がその影の正体に気づいたようにガクガクと震え出したのだ。

 これは、致命的だ。けして近づいてはならない死神だ。逃げなくてはならない。なのに、足がちっとも動いてくれない。

 

「あなたは、誰?」

 

 何時の間にか、明日菜はどうしようもなく震えていた声で尋ねていた。

 群衆の中で、影はゲートポートで見たデュナミスという男が着ていた僧衣のような服を纏っていた。違いといえばデュナミスが黒に対して薄い紺というぐらい。

 

「我を忘れたか、姫御子」

 

 と、明日菜に問われた影が嗄れた声で答えた。

 目深に被ったフードで顔は見えない。皺枯れた声から老人かと思ったが子供のように背が低く、喉元に覗く肌は若さが見える。

 老人と思ったのは声だけではなく全てが空虚で遠い存在感にあった。同じ場所に立っているとは思いないほど、気配がない。いや、生気がない。この影に比べれば、まだしも木乃伊の方がよほど生きている。

 影がゆっくりと顔を持ち上げる。その動作に合わせるように、悪戯するように吹いた風が影のフードを捲り上げて顔を外気に晒す。

 

「―――――ぁ」

 

 フードの下に隠されていたのは知らない顔だ。勉強は駄目でも人の顔を覚えるのには自信がある。少なくとも覚えている中で会ったことはないと断言できる。全く見たことのない他人としてならば。

 鏡の向こうで見つめ返してくる顔だ。見覚えは嫌というほどある。

 明日菜をそのまま幼くしたような顔をした影は、まるで怯える明日菜を嬲るようにゆっくりと近づいて来る。

 

「来ないで!」

 

 近づく幽霊に怯える子供のように懇願するが影の足取りに遅滞は見られない。

 頭のどこかで警鐘が鳴り続け、膝の震えがどうしても止まらない。逃げられない。靴の裏は地面に貼りついたまま、身体は指一本まで強張っていて明日菜の意志に従わない。血管は見えない毒に冒され、神経はありえない指令に狂い、脳髄は真っ白に漂白されていく。

 何をするでもなく、何を語るでもなく、ただいるだけで少女をグラグラと揺さぶり続ける。

 

「そうか、記憶を消されているのだな。ならば、思い出させてやろう」

 

 ゆっくりと影が持ち上げた指先から光が伸びて明日菜の額に当たる。

 

「な……何よこれ!?」

「案ずるな、ただの解除呪文だ」

 

 光が当たって額に浮かび上がった魔法陣からグルグルと回転して光を増す。

 異常事態にようやく周りに助けを求めることを思いついた明日菜は辺りを見渡した。だが、これだけ目立つことをしているのに周囲の人々は明日菜達の様子に気がついた様子もない。そこで一つの異常に気がついた。

 

(………人が、いない……!?)

 

 ナギ・スプリングフィールド杯を終えて、オスティア終戦記念祭は最大の盛況で新オスティアのどこでも多くの人達の姿が見えていた。この噴水広場にも多くの人が行き交いしていたのに、気がつけば広場には他に誰もいない。遠くから人の生み出す喧騒と話し声が聞こえるのに、視認できる範囲には人影は見受けられなかった。

 

「あ、あぁあああああっ!?」

 

 直ぐに周りの事を気にしている余裕はなくなった。明日菜の記憶が上書きされていく。いや、忘れていたことを思い出される。結果として神楽坂明日菜という存在が根底から否定されていく。

 唇が本人の意思を無視して、一人でに動く。

 

「墓、守り……人」

 

 衝撃が走った。自分の口走った名称が、この目の前にいる影を指す敬称であると思い出してしまったからだ。

 墓守り人と呼ばれた影が、口の端を歪ませて地獄からの囁きのように告げる。

 

「我が末裔よ。自身の罪の重さに耐えられるか」

 

 歌うように、呪うように墓守り人は呟いた。幼いような、老いたような、不思議で奇妙な声だった。

 影の笑みはやはり死人のようにしか映らなかった。生気が無さ過ぎて、人というより蝋人形か何かに見える。

 

「助けて、アスカ」

 

 ぱしゃん、と明日菜の手元から落ちたコップが地面に落ちて地面を染めていく。

 その手で、アスカから指輪が魔法陣の光に照らされて虚しく輝いていた。

 

「……………終わったぞ」

 

 地面に倒れ込んで動かない明日菜を見下ろした墓守り人は僅かな哀れみをその眼に滲ませたが声を発した瞬間には消え失せていた。

 

「ありがとうございます、墓所の主」

 

 墓守り人に言葉に答えたのは通路の影から現れた一人の少女であった。

 

「協力してもらってなんですが、本当に良かったのですか。彼女は貴女の……」

「姫巫女がおらねばこの世界は確実に滅ぶ。となれば、否はない。それは分かっておろう、栞」

 

 栞、と呼ばれた少女は墓守り人の言うことが正しいからこそ、一時の気の迷いを口にした自分を恥じるように俯く。

 

「一人か世界、どちらかを選べと言われれば答えは決まっているが、この者の幸せな姿を見た後で揺らいでしまうのは仕方のない事。お前まで犠牲を必要だからと割り切る必要はない」

 

 感情の揺らぎを感じさせない声で言う墓守り人には、栞が感じている後ろめたさがあるようには見えない。

 

(そう、私は後ろめたさを感じている)

 

 意識を失って倒れている少女の目元は濡れている。

 果たして封印されていた記憶が解放されたからか、もう英雄の下には帰れないと悟ったからか、その涙の理由は他人でしかない栞には分からない。

 世界の贄たる姫巫女としてではなく、どうしても先程まで監視していた時に見た一人の少女の印象が強すぎた。

 

「何時までも人払いの結界を張っておくわけにはいかん。早く偸生の符を使え」

「…………はい」

 

 理屈で理解は出来ても感情で納得は出来ない。それでも与えられた任務、為すべきことは為さねばならない。

 

『必ず君をお姉さんと会わせてみせるよ』

 

 世界を守る為に、約束を果たす為に躊躇ってはいけない。この為に栞は完全なる世界に協力しているのだから。

 栞はフェイト・アーウェンルンクスが十年をかけて完成させた偸生の符を取り出して、明日菜の傍に跪く。

 

「ごめんなさい」

 

 何に謝っているのか、自分でも分からないまま偸生の符を二人の間に置いて、果物ナイフを取り出して明日菜の指先を薄く切る。

 皮一枚切られた指先から血がポタポタと地面に置かれた偸生の符に向かって滴り落ちる。

 明日菜の血に染まっていく偸生の符が地面に魔法陣を作り上げ、明日菜と栞の体から自動的に魔力を吸い上げて輝きを増していく。

 やがてマナが魔法陣の中に満ちていき、ぼんやりと輝く魔力は渦を巻き始め、何本もの細長い帯のようになって栞の体に絡みついていく。

 不意に目も眩む輝きが魔法陣を満たした。光が薄れて晴れた先には、栞が立っていた場所に倒れている明日菜と瓜二つの神楽坂明日菜が立っていた。

 

「偸生の符――――貴様のアーティファクトは外見だけでなく、特殊な自己暗示によって性格反応まで本人そっくりと化す変装術。テルティウムも手間のかかるアーティファクトを作るものだ。不安はあったが成功したか」

「この時の為にフェイト様が十年をかけて完成させたのですから成功するのも当然です」

 

 栞は、明日菜そのもの声で言ってから、彼女の顔でにっこりと笑った。

 

「早く戻らなければ彼の英雄に怪しまれますので直ぐにスイッチを入れます」

「では、私も姫巫女を連れて撤退するとしよう」

 

 当初決められた通りに神楽坂明日菜の奪取に成功した完全なる世界の作戦は進行する。

 明日菜を連れて墓守り人が姿を消し、明日菜の姿をした栞が成りきりのスイッチを入れたところで通りに人が戻って来た。

 

「どうしたんだ、明日菜。なにか結界が張ってあったみたいだが」

「あ、アスカ」

 

 その直ぐ後にアスカが現れ、先程までこの通りにあった結界の名残りに不審げな表情を浮かべている。

 

「また決闘騒ぎよ。巻き込まれたから邪魔だって結界を壊しちゃったら、戦ってた人があっという間に逃げちゃった。その時にコップ落としちゃったから買い直して来なくちゃ」

「いや、いいさ。宿に戻って飲めばいい」

 

 不審に思っている様子はなく、明日菜が言うことを疑っている様子もない。それでも話すアスカは何故か一定距離から明日菜に近づかない。

 

「さあ、行こうぜ」

「うん」

 

 この時はまだ誰も気づいていなかった。破滅へと進む世界の傍らで、終わりへと加速していることを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 会場となっているホールに向かうまでに廊下には豪奢な絨毯が敷かれており、アスカの革靴を踝まで包み込んだ。

 

「……うはっ」

 

 何とも言えない感触に、アスカが呻く。

 ある意味で贅沢のそのものの触感でもあったろう。同じ重さの黄金にも匹敵しようという絨毯に、廊下に並んでいる他の調度品も何一つ見劣りしない。それでいて主張の激しさから全体の調和を乱すこともなく、コーディネーターの優秀さをさり気なく証明していた。

 

「なんや場違いな気がするで」

 

 隣で着慣れないタキシードに身を包んだ犬上小太郎があちこちを引っ張りながら隣を歩く。

 ナギ・スプリングフィールド杯本選出場者は舞踏会に招待されて話題の花にならねばならない。小太郎と共にタキシードを纏ったアスカが会場ホールに辿り着くと同時にゆっくりと曲が流れ、その流れに合わせてゆったりと時間が流れてゆく。

 

「うおっ……!?」

 

 今まで努めて気にしないようにしていた会場中の視線が実体を伴って突き刺さるように感じて素っ頓狂な声を上げてしまった。声は幸運にも口の中だけに留まったお陰で周囲には知られることはなかった。

 改めてアスカは自分が会場にいる参加者だけでなく楽隊やボーイに至るまで、ありとあらゆる人が自らの一挙手一投足まで観察するような視線を向けられているのを悟り日和った。

 

「飯でも食うか」

「こんな周りから見られて食ったって美味かないやろ」

 

 舞踏会開始前、それこそ会場に入ってから直ぐに、幾人者が近づきたいという顔を隠しもせずに周囲と牽制し合って距離を計っている姿を見れば、まるで晒し者にされているような気にもなって嫌気も指して来る。さりとて近づいて来た者がどういう気質で、何を目的に自分に近づいてくるのか、進んで腹芸をしたくもない複雑な心境であった。

 本選出場者の二人は、特に優勝したアスカに向けられる会場中の視線は物理的な力を持つのではないかと思うほどで、どれだけホールに幾つかある机の上に乗っている料理が美味しそうに見えても視線が気になって味を堪能できないだろうことは想像に容易くなく、ガックリと肩を落とす。

 

「見た目は美味そうなんだがな」

 

 社交界で出される料理のメニューは、富の威力を示すまたとないチャンスだ。

 大抵は調理されすぎている上、重いソースがふんだんにかかっていて舞踏会で踊る合間に食べれたものではないが、主催者であるクルトはその辺りも抜かりなく配慮していた。立食用の大皿に並んでいるのは、こなれのいい肉類とスープ、サラダばかりで、動いても響くような重いものはなかった。

 タキシードを合わせなければならず、時間が無くて軽い物しか食べれなかったアスカと小太郎には垂涎の料理に見える。

 

「飯食ってれば周りの相手をせんでいいんならええんやけど、俺はともかく優勝者のアスカは放っておいてくれへんと思うで」

「うへぇ」

 

 広大なダンスホールには各国の高級軍人や官僚、名立たる事業家といったそれなりの立場にいる者達が集まっていて、ホール壁面に陣取った楽隊が静かな舞踏曲を演奏する中、数組のカップルがステップを踏む光景が展開されていた。

 

「あかん。こんなところにいるだけで腹一杯や」

 

 上品に舞踏会を楽しむためのその空間は、心地の良い旋律が流れているのとは裏腹に、些細な振る舞いがその者の評価を根底から覆しかねない社交界という魑魅魍魎の住む世界。

 保身に凝り固まった男や、権力のある男に取り入ろうとする接近する女達の涼やかな笑みの皮を被って談笑している様は、小太郎にとってはさぞ長い歴史が作り上げてしまった人間の醜い業のようにも思えることだろう。

 

「お? 向こうの奴らがお前と踊りたいんちゃうか、アスカ」

 

 先刻からナギ・スプリングフィールド杯を制して一躍有名人の仲間入りを果たしたアスカに、いの一番にダンスの相手を勤めようと近くで淑女の群れ達からチラチラと視線を送られてくるのが場違い感を助長していた。

 

「折角、知らない振りしてたのに」

「同伴者を連れて来てればこんな苦労もせんかったんやけどな」

 

 淑女達が身に付けているドレスは胸元を露出しているのも珍しくないが決して下品には見えないように装飾品があしらわれている。宝石が装飾されていても過多と呼ぶほどでもない。単に煌びやかというのではなく、広大なホールにさりげなく置かれた調度品も相まって、えもいわれぬ気品を漂わせていた。

 男は女性陣よりかは服装のバリエーションは少ない。色も黒や黒に似た系統の色のタキシードや自国の軍服と、服選びにかかる苦労は女性に比べれば万分の一にも満たないだろう。

 

「小太郎も誰か連れて来て踊ったら良かったんじゃないか。楓とか古菲と仲良いじゃねぇか」

「お前がそれを言うんか?」

 

 と、何故か呆れ果てた目で言われたのが解せないアスカであった。

 

「仲間内で気取って踊れるかいな。それこそアスカだって、明日菜の姉ちゃんどころか誰だって選び放題やのに連れて来てないやないか」

「俺の場合は厄介事に巻き込まれるのは分かってたからな。残った奴らに危険がないってわけじゃないし、戦力差的にこの方が無難だろ」

 

 理由を付けてはいるがクルトとの対面を考えれば誰か一人ぐらいは傍にいてくれた方が助かるのは事実である。舞踏会は同伴推奨で、街中でのクルトとのことを思い出せば明日菜が傍にいてくれれば心強い。千雨は忌憚のない意見をぶつけてくれるし、他の誰だって決してマイナスにはならない。

 

「心配して付いて来ようとした明日菜の姉ちゃんに妙に冷たかった男の言うことには思えへんな」

 

 誰もが明日菜の同伴を疑っておらず、アスカも当初はそう考えていた。

 

「俺にも分かんねぇんだ。考え過ぎだとは分かってんだけど」

 

 今の明日菜には違和感を覚え、他人のように感じるなどと。

 気配は変わらない。性格や何かが変わったわけではなく、間違いなく本人と自信を持って断定できるのに、何かが違うと心のどこかが囁く。

 明日菜に対して妙に冷たかったというのはアスカ自身がその理由に辿り着けていないからの対応なのだ。

 

「この舞踏会が終わったら麻帆良に帰る。その時に謝るよ」

「まあ、二人の問題やから俺に言わんでもええけど」

 

 アスカが煮え切らない態度で言うと小太郎は少し考える仕草をしながら言って、視線を近づいてくる者達に向けた。

 

「あ、あの犬上小太郎選手とアスカ・スプリングフィールド選手ですよね。どちらか私と踊って頂けますか?」

「いえ、アスカ様。私と」

「小太郎選手、わたくしと踊りませんか?」

 

 男同士の会話を邪魔しないように待っていたが一人を皮切りに次々と集まって来る淑女達。

 

「アスカ選手、帝国拳闘協会の者ですがお話を」

「本選出場者として今大会のことについて、どう思われますか」

「私は連合の軍事教官なのですが、貴官の強さの秘密は」

 

 ダンスの誘いならまだしも、有名人と話がしたいセレブから、取材をしたい記者から、軍人に至るまで次々と話しかけてきて収集がつかなくなってきた。

 判で押したような愛想笑いを浮かべた者達一人一人に丁寧な対応をしていたら面倒臭すぎる。

 ダンスを求める淑女には、取材を求める記者や話がしたい軍人をそれとなく矢面に立たせて、アスカが対応出来ない姿勢でいると早々に諦めた者達の中から誘ったり誘われたりしてこの場を離れていく。

 それを繰り返しても人は中々減らず、それどころかアスカや小太郎を目的として続々と人が集まってきている。

 粘り強い者と諦められない理由があるのか意地でも離れないとする意志が垣間見える者もいる。

 このまま続けることによって生じるストレスから来る胃痛と妥協した場合の面倒を天秤に掛ける。その場合、簡単に想像できる現状維持と、もしかしたら現状打破に繋がる未知を比較すると秤が後者に傾くのは自然の流れといえた。

 

「後は任せた、小太郎」

「お、おい!?」

 

 三十六計逃げるに如かず。徐々に気配を薄めて、全員の意識から自分が外れた瞬間にこっそりと退避する。後を任された小太郎にとってはいい迷惑である。

 

 

 

 

 

 逃げ出した先の上階のテラスからは、新オスティアの街並みが見える。既に夜の帳が降り、世界全体が群青色に染まっていた。新オスティアの街を浮かび上がらせる無数の光は、人々が息づく証。

 新オスティアを一望できるテラスには、現在は舞踏会が行われていることもあってアスカ以外に立ち入る者はいない。中心市街や総督府から伝わってくる賑わいを遠くに聞きながら空を見上げる。

 

「よお、こんな所にいたのかよ。なに一人で黄昏てやがんだ」

「見れば分かんだろ、ジャック。人に酔ったから涼んでんだよ」

 

 遅れて会場ホールに来たらしいジャック・ラカンがその巨体に合わせた特注らしいタキシードを纏って現れ、アスカの横に並んで空を見上げる。

 

「小太郎が一人で困ってたぞ。アスカはどこ行ったてな」

「要領が悪いんだよ、アイツは。逃げたもん勝ちだ」

「違いねぇ」

 

 あっさりと小太郎のことを見捨てた二人が見上げた先に、乳白色の河の流れのように無数の星久が夜空を満たしている。標高が高く空気が澄んでいるせいか、空には零れ落ちそうな満天の星空が広がっており、見る者の心を強く打つ。

 

「こっちの空も地球と変わらねぇな」

「変わるわけねぇだろ。違うのは場所だけなんだからよ」

 

 例え世界が違おうとも、見上げる先にあるのは同じ夜空だった。位置は違えど見たことのある星が同じ形に並び、一瞬たりとも同じ姿ではいない夜の地上を見下ろしている。

 不同の世界たる大地を、ある意味最も正確に映している鏡のような不変の空は、空を見上げる人間の慰めであること以上の意味を持っているはずだった。

 

「お、流れ星」

 

 アスカが人の夢想に過ぎないのかもしれないと思っていると、ラカンが満天の星が一つ短い軌跡を描いて星空を横切って流れていくのを見て弾んだ声を上げた。

 

「流星群か」

 

 それは奇妙に胸を騒がせる光だった。流れた星を追うように、次の星が流れる。流れ星は新たな流れ星を呼び、遂には豪雨の如き流星群と化し、その勢いは、時が経つにつれて益々激しくなっていた。

 降るような、という表現そのままの星空から零れ落ちた。

 

「珍しいこともあるもんだ。何かが起こる前触れってやつかね」

 

 星たちが哭く。そんな、千年に一度あるかないかの天の異変は凶兆か、あるいは幸福を呼ぶ印か。テラスに佇ずんで金の髪を夜風に靡かせるアスカが澄んだ蒼の瞳をじっと眇めながら夜空を眺めている姿を見たラカンが表情を緩める。

 

「クルトの奴と接触したらしいな」

「ああ、カミソリみたいな奴だった」

「言い得て妙だ。成程、今のアイツはその言葉が最も似合う」

 

 クツクツと的確な表現に笑ったラカンはテラスの欄干に凭れかかり、流れていく星を眺める。

 

「カミソリの刃は使い方次第で容易く人を傷つける。アイツをそうさせちまったのは俺達紅き翼が不甲斐ないと思っちまったからだ。まあ、俺は謝る気は更々ないが」

 

 唯我独尊なラカンは勝手な言い様をしつつも、どこか郷愁を感じさせる目をしていた。彼は彼なりに思うところがあるのだろう。

 

「アスカ、お前は強い。もしかしたら俺よりも強いかもしれねぇ。いや、それはねぇか」

「試合に勝ったのは俺だから強いに決まってるだろ」

 

 ふっ、とアスカが結果を持ち出して反論するとラカンは思わせぶりな笑みを浮かべて笑っているだけだ。

 

「俺からお前に何かを言うことはもうねぇ。言っちまったら方向性を決めちまうからな」

 

 ラカンは軽く自分のうなじを叩く。

 世界を守れとも、敵と戦えとも決して言うことはなく、静かな眼差しでアスカを見る。その顔には、なにかに耐えるような表情が浮かんでいるのが見えた。アスカはトクンと跳ねた心臓に手をやり、瞬く星久に目を凝らす。

 

「俺が知る全てをクルトのガキに渡しておいた。それを知った上で、お前はお前の望む通りに生きればいい。俺から言えるのはそれだけだ」

 

 短く告げた。そのまま欄干から身を話し、ゆっくりと歩き出す。

 

「お前の進む道に幸多からんことを祈ってるぜ」

 

 テラスから去っていくその一歩一歩が、まるで岩を引き抜くような重い重い歩みであった。気配だけで他人のあらゆる干渉を跳ね除ける、強い信念に満ちていた。

 

「アスカ様」

 

 ラカンの姿を見送ると、入れ替わるようにテラスにスーツを着た幼い少年がやってきた。

 執事らしい所作のその少年が街中でクルトの傍に控えていたのを記憶しているので、クルトの遣いであることは間違いないだろうが驚くべきことにアスカよりも幼い。クルトの所は人手不足なのだろうかとの疑問が脳裏を過ぎる。

 

「クルト・ゲーデル総督が特別室でお待ちです」

 

 どうあれ、クルトの従卒らしき少年に差し招かれてはアスカに断る理由はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新オスティアの街並みが見下ろせる高い建物の屋根の上で白いスーツを纏ったフェイト・アーウェンルンクスは祭り中とはとても思えない陰気な顔していた。

 

「何も知らない、哀れで儚い木偶人形達。人の自我など錯覚による幻想にすぎない…………などと言ったところで慰めにもならないね。まあ、僕も大した違いはないけど」

「―――――――やれやれ、頭の良いバカの言う事は敵も味方も訳わかんねぇな」

 

 フェイトの背後数メートル離れたところに新たな影が作り出させる。その男の名はジャック・ラカン。救世の英雄の一人にして強靭な戦士でもある男がフェイトの歩みを邪魔するように立つ。

 

「懐かしい姿じゃねえか。前のままじゃガキ過ぎて見栄えが悪かったがアスカに合わせたか?」

「祭りに紛れるのに子供の姿は面倒が多いから調整しただけだよ」

「へっ、本当かね」

 

 その言葉に気を害したように眉を顰めたフェイトの反論を全く信じていないラカンは分かり易すぎるほど挑発的に鼻を鳴らす。

 

「お前、招待状はあんのかよ? 招待されてねぇ奴は入れねぇんだぞ」

「僕は悪者だからね。そんな決まりは無視させてもらうよ」

 

 上がる花火の爆発の光に二人の姿が照らされて、屋根に二つの影を作り出す。

 

「少し意外だったね。貴方は世界のことに興味がないと思っていたけど、彼に情でも湧いたかい?」

 

 数秒の沈黙の後にフェイトが口火を切った。

 

「世界はどうでもいいんだが、今のアスカは本調子じゃねぇ。アイツを狙うってんなら俺が相手になってやるよ」

 

 腰を落とし、半身になったラカンが戦う気になっているのを見てもフェイトは動かず構えすら取ろうとしない。

 

「昨日今日会った仲にしては随分と入れ込んでいるね」

「とことん戦えば通じ合うものがあんだよ、男にはな。テメェにはないのか?」

「…………全くないとは言わないけど、君のように本来なら戦う必要のない相手と戦う気にはならないよ」

 

 ラカンの戦意に反応して微かに指を曲げて戦う準備を続けるフェイトは少し不快そうに表情を顰めた。その顔にラカンは本当に珍しいものを見たように瞬きをする。

 

「どうもお前は前の二人とは違うな。どうにも人間臭ぇ感じがする。どうした、世界と人生に飽いたか」

「戯言はそこまでだよ。言葉で理解し合えるなら二十年前も紅き翼と完全なる世界は闘っちゃいない。さっさと始めよう」

 

 喋っているとペースを崩されると理解してか、軽く膝を曲げたフェイトにラカンも臨戦態勢を取る。

 

「戦うのには賛成だが、見たところテメェは最強クラスのようだが俺にもアスカにも負けるぜ。そのことを良く理解しているからお前もアスカが完全じゃない今を狙った――」

 

 んだろう、と言いかけてラカンが息を止めた。

 真っ白なキャンバスに絵の具を染み込ませたようにフェイトの気配が劇的に変わったのである。

 

「関係ないね」

 

 それまで動かなかったフェイトが一歩前に出ながら静かに言った。地獄の底から聞こえてきそうなひどく熱した声で、それまでの硬質な雰囲気からは考え難い変化だった。

 ラカンは唇を歪めて、唐突に頬を押さえた。火傷しそうなほどの異様な熱を、そこに感じたのだ。

 

「本当のことを言われて怒ったか」

「黙れ」

 

 挑発に引き出された言葉を放ったフェイトの何かを押し込めたような形相は、普段の人形のような無表情だけに酷く暴力的に思えた。

 殺気が、その形を異形に見せた。暗がりでも怒りに満ちた表情が窺える。

 

「ジャック・ラカン、君はここで舞台から退場しろ」

「はっ、やって見せろ」

 

 二メートルを超える巨体を覆う窮屈なスーツの上からでも瘤のように膨れ上がった筋肉が分かる。

 一瞬の後に激突するかと思われたその瞬間。

 

「アーティファクト発動、無限抱擁」

 

 花火の光を浴びて大きな影は隠れていた少女が発動したアーティファクトの空間に呑み込まれ、やがて二人の姿はその場から消え去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 執事服の少年はアスカを先導するように歩き出した。まずダンスホールに戻ると周囲の人がさり気なく道を開け、向かう方向から二人が踊らずに中座すると分かったのか楽隊の演奏の熱が冷めたようにアスカには感じられた。

 

「おい、アスカ!」

 

 小太郎が気づいて声をかけてくるが生贄にした負い目があったのでそそくさとダンスホールを抜けると、絢爛豪華な舞踏会の空気は成りを潜め、最低限の照明しか灯されていない廊下は薄暗く石細工の廊下を歩く足音が奇妙に大きく聞こえるようになった。

 さっきまでの豪奢な部屋から一転して、辺りは静けさに満ちていた。

 薄暗い照明の下、広々とした通路を無言で進んでいく。

 魔法学校の廊下と似たような作りでも、アスカの記憶にある魔法学校のは古びても垢抜けた印象のあったのとは違って、ここには全てのものが頑なに変化を拒む息苦しさがある。時間を被った柱や壁、調度品の数々は、やはり余所者を萎縮させる空気を放っているように思えた。

 そんなことを思うのはアスカだけであるが、歩き続ける自身を小さな背中を追って、屋内に充満する空気を振り払って後に続く。

 幾つもの部屋が並ぶ廊下をすり抜けた先で、奥まった場所に辿り着いた。

 目の前には真っ白い壁があった。壁に直接埋め込まれたようなドアのの前に立ち止まった。

 

「こちらです」

 

 少年従卒は如何にもわざとらしく、恭しい一礼を送った。

 

「僕は貴方が羨ましい」

 

 両脇に翼の生えた壮麗な飾りが施された女の像、髪の長さと造型からいって女らしき天使に挟まれた部屋がクルトがいる特別室なのだろうと考えていると、執事少年が唐突に言った。

 

「なに?」

「いえ、あの村の悲劇から出発した貴方が心配してくれる仲間と強大な力を手にしていることが少し羨ましく思いまして」

 

 執事少年は少し目を伏せる。

 アスカだって分かっていた。先程の小太郎がアスカを責めたのではなく一人で行動していることを怒っていることを。恐らく仲間から共に行動するように言われていることは想像に難くなかったから。

 

「どうぞ、中へ。我らの主がお待ちかねです」

 

 何か合図でもあったのか執事服の少年が手を前に伸ばすと、瞬間、天まで届くような高い両開きの扉がうやうやしい音をたてながら自動的に開いて行く。

 暗い闇に満たされた世界に光が溢れ、温かい空気がアスカの肌を撫でる。まるで、この門の向こうは別の世界だと主張しているようであった。運命を告げるように、どこかで鐘が鳴った。

 

「今も世界に悲劇は満ち溢れています。旧世界、新世界を問わず。英雄と呼ばれるようになった貴方は、真実を知った上でどうのような選択をするのでしょうね」

 

 執事少年が誰にともなく言った言葉を耳に入れながらアスカが扉を潜り抜けた途端、音を立てるような閃光が正面から照らされて視界が真っ白に塗りつぶされた。

 思わず手を翳しながらも、細めた目を光の向こうに向ける。常人に倍する速さで回復した視界に、それまで見えなかった世界が眼前に浮かび上がり、アスカは何秒かの間、息が出来なくなった。

 炎が見えた。アスカ・スプリングフィールドの視界を炎が埋め尽くした。

 肌に熱を感じないことを考えれば幻かホログラムか。が、そのようなことは問題ではない。

 見覚えのある光景が燃えていく光景は、あの日の思い出したくもない人の焼ける臭いと、家が崩壊して巻き上げられる塵芥の臭いが交じり合った香りを脳が錯覚させる。

 家の壁にある小さな傷、道の隅に生えた名も知らぬ花、今となってはあらゆることが懐かしい。石化された人々が回復したからといって村が一度滅んだ事実は変わらない。

 耳には今でも染み付いている。遠くから腹の底に響くような爆音、全てを燃やし尽くす炎が燃えるバチバチという音。熱くて熱くて、たまらなかった。もし地獄が本当にあるのなら、ここが地獄だった。煉獄が本当にあるのなら、ここが煉獄だった。炎は幼いアスカの愛した全てを蹂躙するだろう。これは過去なのだと、既に定まってしまった運命だと思うと哀しかった。

 あの時と同じ炎の中を一歩、また一歩とアスカの足が進む。

 眼の前を幼い自分とネギが横切ったのを見て、アスカは驚きのあまり瞬き一つ出来なかった。

 

(小さい――――なんて小さいんだ)

 

 背丈の事だけを言っているのではない。

 見ている世界も、感じているものも、あまりの小ささに絶句すらした。

 本人達は走っているいるつもりでも歩くよりも弱々しく、失われる悲しみと襲われる脅えに満ちていた。

 助けを求める声も、炎に半ば掻き消されて、あたかも慈悲を請う瀕死の呟きの如くであった。この災害の前に抗うことも出来ない少年達のなんと弱々しく幼いことか。

 

(そうだ)

 

 あれからもう主観時間で十年近くも経っているのだと、アスカは改めて認識したのである。進むべき道を探して彷徨い、眠れぬ夜を過ごし、奪われた者に泣き、思わぬ仲間を得て、多くの出会いと別れを繰り返してきた。

 

「ようこそ、アスカ・スプリングフィールド君。私の特別室は如何かな」

 

 その時、新たに聞こえた声の方向へとアスカは顔を向けた。素早い動きだった。一秒でも長く、声の主から意識を逸らすわけにはいかなかったからだ。

 

「慌てることはありません。これは全て映像。君達の治療の為に抜き取られた過去の一部でしかない」

 

 切れ長の目が周囲を撫で、中心に立つアスカに留まると端整な顔が暫し笑みを湛えた。

 折り目の入った白いスーツを着こなし、一部の隙もない立ち振る舞いを見せる彼の姿は、上品で優雅だ。

 白い端整な顔は柔和だが、同時に周囲を引きつける存在感をスラリとした全身から放っている。やや華奢な感も受けるが、ひ弱そうではない。殻だから発せられる研ぎ澄まされた空気、そして眼鏡の置くから覗くやや吊り上がって見える切れながらの鋭気を秘めた双眸は、触れたら切れる鋭利な刃物のようだ。剣を水底に沈めたまま凍りついた、夜の湖面のような瞳の奥に怪しい光を宿す若者である。

 強固な意志を感じさせる、目鼻立ちのハッキリとした知的な風貌。同年代らしい高畑と比べれば意外なほど若いが、別荘を頻繁に利用していた彼と比べるだけ無駄だろう。

 

「誰の目にも悲劇と分かるこの地獄から君は立ち上がってここに辿り着いた。これは決して余人には出来ないことです」

 

 ライト・グリーンの瞳が如何にも冷徹そうに見えたが、クルト・ゲーデルは意外にも優しい微笑みを浮かべていた。

 

「歪むことなく正道の英雄足る位階にまで成長した君には格別の敬意を表します」

「御託はいいから本題に入れ」

「ええ、勿論分かっていますとも」

 

 相手が自分を慰めようとしているのだと取り、アスカは過去の傷に無遠慮に触られて憮然としてそれを退けようとする。しかし、クルトは穏やかに、だがあくまで冷静に言葉を継ぐ。

 クルトは小さく咳払いをした。優しい父親が、自分の子供達を膝に乗せて素敵な絵本を読んであげようとする、それはそんな咳払いだった。

 

「一つ、観て頂きたいものがあります。元々、そうするつもりでお呼びしましたので」

 

 クルトが手を上げると、空間にに異変が生じた。壁や地面をスクリーンにして、映像が映りこんだのだ。同時に激しい喧騒が聞こえる。それは人間同士の怒号であったり、悲鳴であったり、或いは重いもののぶつかる激突音であったり、何かの爆発音であったりした。通常、人の日常では聞くことのない規模の轟音。

 これは戦いであり、戦争であり闘争である。地上を埋め尽くすほどの大勢の人影が激しくぶつかり合っているのだ。

 戦うのは厳めしい甲冑を身を包んだ騎士であり、黒いローブを着て空を飛ぶ魔法使いであり、手に手に剣や槍、斧といった無骨な武器を持ち、激しくぶつかり合っていた。時折聞こえるのは、魔法か気によるものか分からぬが起こった爆発。その爆発に巻き込まれて、多くの者達が石ころのように容易く吹き飛ばされていく。

 

「これ、は……」

 

 何気なく呟くアスカ。その問いに答える声があった。

 

「ええ、ご想像の通りかと」

 

 クルトの頷きに、アスカは我知らずに拳を握り締めてから、こう口にした。

 

「これは、大戦の記録」

 

 これらの状況を、アスカは天空より俯瞰しながら眺めていた。ひどく現実味のない光景。にも拘わらず、吹き上がる血の生々しい臭い、黒煙の焦げ臭い臭い、生暖かい風、陰鬱で絶望的に重い空気、何もかもが本物のように感じられた。

 

「――――そう、記録です」

 

 と、クルトが言って、映像に赤髪の男が映り込む。

 

「嘗ての紅き翼の記録。結局勝てなかったその記録ですよ」

 

 噛んで含めるように、嘗て紅き翼の一員だった青年が口にする。

 アスカはその言葉に不穏なものを感じ取り、背筋がざわつくような気分になって問いかけた。映像に視線を戻す。

 

「何を言っている? 紅き翼のお蔭で戦争は終わったんだろ」

「ええ、戦争は終わりました。ですが、これほどの英雄がいて、これほどの熱量があって、これほどの尊い犠牲があって、どうして彼らは勝利できなかったのでしょうか」

 

 アスカの問いかけにクルトはおかしな答えを返した。

 視線の先では、凄まじい轟音と共に、周囲を光で埋め尽くす雷が地面に落ちる。一本や二本ではなく、無数の雷が連続で地上に降り注ぎ、人間がゴミのように焼き尽くされて吹っ飛ばされていく。明らかに自然現象ではない。 

 

「ナギ・スプリングフィールドは間違いなく英雄でした。彼が率いた紅き翼は最強チームだったといって間違いないでしょう」

 

 独り言のようにクルトは話し続けた。その言葉にはほどよい分量の哀惜が加えられている。だが何故かやはり、その滑らかすぎる語調の所為か、誰かに対して完璧な演技を行っているかのような印象が漂う。

 

「それでも彼らは勝てなかった。勝てなかったのです」

 

 奇妙な違和感がアスカの脳裏を渦巻いた。

 アスカは映像に意識を映して自分が生まれた足跡を振り返っていた。永い永い道のりを。まるで走馬灯のように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 世界中のあらゆる施設、場所、様々なメディアが乗っ取られ、一つの映像を流している。

 

『これは、大戦の記録』

『――――そう、記録です』

 

 酒場のラジオが二人の男のやり取りを流し、街頭のテレビがその姿を映し出している。

 

『嘗ての紅き翼の記録。結局勝てなかったその記録ですよ』

『何を言っている?』

 

 帝国も連合も関係なく、様々な国の地域の地区の、あらゆる場所のメディアが乗っ取られて大戦の真実が流される。

 

『これほどの英雄がいて、これほどの熱量があって、これほどの尊い犠牲があって、どうして彼らは勝利できなかったのでしょう』

 

 二十年の間、大国の思惑によって頑なに封印されていた真実。

 

『ナギ・スプリングフィールドは間違いなく英雄でした。彼が率いた紅き翼は最強チームだったといって間違いないでしょう』

 

 歴史の闇に埋もれ、やがては誰も真実を知らぬままに忘却された真実が白日の下に晒される。

 

『それでも彼らは勝てなかった。勝てなかったのです』

 

 全てはクルト・ゲーデルの計画通りに。

 

 

 

 

 







原作との変更点:クルトの目的、ラカンの言葉、明日菜の誘拐のタイミングと過去バレ、紅き翼の真実が全国生放送

次回『第77話 想いを継いで』




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第77話 想いを継いで

 

 

 

 

 

 舞台が変わり、時は遡る。

 光と影、影絵と切り絵、暗転する劇場、クルリと変わる万華鏡。回る回るメリーゴーランド。カレンダーは逆向きに捲られ、太陽が西から東へ巡り出し、大人は子供へ、子供は生まれる前へと巻き戻る。何年も何年も戻って行く。

 それは二十年前。魔法世界にて紅き翼と呼ばれた集団が、その名を世界に轟かせていたその時。平穏な日常のルールが打ち捨てられ、新たなルールを力ある者が作り出す時代。英雄の時代、或いは強者の時代だった。

 人は己と己の世界を守るためにいがみ合い、殺し合い、また不幸を呼び込む、世界には苦しみが満ち溢れていた。

 大切な人を失えば、人間は怒りを覚える。不幸に対して無力ならば、うちひしがれる。人には自分と自分が属する世界を守りたいという気持ちがある。友人、大切な人、家庭、主義主張、信念、理想、宗教、世界、そして未来。ギリシャ神話のパンドラの箱が開けられた後のような、混乱と悪意と戦乱が渦巻く世界だ。どこに希望を見出せるか分からない時代だった。

 

『明日世界が滅ぶと知ろうとも諦めねぇのが人間ってモンだろうがッ!!』

 

 唐突と語られる最も新しき英雄譚。

 

『人間を舐めんじゃねぇ――――――ッ!!』

 

 大袈裟とは思わない。ナギ・スプリングフィールドにはそれだけの価値があり、紅き翼の面々を英雄を呼んでも問題の無い能力と実績を残したのだから。

 

「こうしてナギ・スプリングフィールドは敵の首魁を倒して戦争を終わらせました。他の誰であっても真似の出来ない偉業で、彼は正しく英雄としか呼びようのない人物です」

 

 黄金の時を記憶から掘り返すように、クルトは心の底から笑っていた。まるで演説だった。両手を広げて見えない群衆を相手にするみたいに、クルトは語る。熱が入るほど、忍び寄ってくる影の気配も濃くなった。

 

「―――――でも、真に世界を救った女王を救えなかった」

 

 と、彼は言った。

 

『よろしいのですね? 女王陛下』

『よろしいハズが……ないッ』

 

 女王は己の国よりも世界を優先した。世界が無ければ国は存在しえないと知っていたから。

 

「アリカ様は世界を滅ぼす黄昏の姫巫女の反魔法場を姫巫女ごと封印することで世界を救いました。その代償として自らの国を滅ぼした。そうしなければ世界が滅んでいたから」

 

 例え勇者が魔王を倒しても、世界は平和になどならない。

 確かに多くの物語は魔王を倒した後にフィナーレを迎える。世界中が平和の訪れを喜び、誰もが笑顔を浮かべている幸せな結末が通例だ。だがそれは、都合の良い部分にだけカメラを向けているからに過ぎない。

 エンドロールが流れて笑顔で手を取り合い、空を見上げる主人公達の向こう側では、何時だって戦いの爪痕を残したボロボロの世界が広がっているのだから誰もが事実から眼を背けて酔いしれる。

 物語だから、感動したから、都合の悪い光景は欠片も映らない。魔王を倒して直ぐに手に入れられるのは表側だけのハッピーエンドでしかないのだ。

 

『ですから、このように我が民の窮乏を訴えているのです!! 彼らの多くは難民となり、貧苦に喘いでいます!! 彼らの犠牲あってこその現在の平和!! せめてもの援助を……』

『畏れながらアリカ陛下。陛下を逮捕します。父王殺し、及び完全なる世界との関与の疑い。またオスティア周辺の状況報告について虚偽改竄の疑いが持ち上がっています』

『ふふ、浅はかなことをされましたな、陛下。我らの情報機関を甘く見られたようだ』

『主らどこまで…………恥を知れ』

 

 そうして二十年前も、彼らは事実を隠蔽した。

 世界を統べる彼らを否定する方がまともでないから、世間も常識を否定するような世論を進んで起こそうとはしない。そんなことをすれば傷つくのは自分達だから。みんな否定されたくはないし、自分は正しいと思いたい。

 英雄である紅き翼も、世論を動かしてメガロメセンブリ元老院を裁くことまでは出来なかった。彼らは武の英雄であって、出来ることは破壊することだけだから。

 

「逮捕・拘束されたアリカ女王は即座に二年後の処刑が決定しました」

 

 クルトの声は、あくまで冷たい。まるで凍り付いた炎だ。

 激しい気性を秘めながら同時に制御する理性をも併せ持っている。その矛盾をさしてカリスマと呼んでも良いだろう。人の上に立つ者に欠くべからざる宝石の如き稀な資質。

 

「父王を殺し、自らの国を滅ぼした彼女は何時しか災厄の女王と呼ばれ、彼女の味方を名乗り出る者は一人もいなくなってしまいました。本当に世界を救ったのは彼女だというのに」

 

 その間にも映像は流れていく。

 連合再辺境のケルベラス無限監獄に収容されて二年が経ったアリカに生気は無い。無理はない。民衆の怒りを鎮める贄と捧げられた乙女の末路など誰の目にも明らかだったからだ。そして彼女はその事実を諦めと共に受け入れている。

 こうして世界を救った女王は、世界平和の礎として処刑されるはずだった。

 

「処刑は未然に防がれました。ナギを始めとした紅き翼の手によって」

 

 英雄譚の語られなかった結末。

 描かれなかったヒロインを、真に世界を救った女王を救う為に二年の間、ずっと耐えていた英雄は嘗ての約束を果たす為に、そしてただ一人の女を手に入れる為に戦った。

 結末は誰が見てもハッピーエンドだった。女王はその荷を英雄と分け合い、一人の女として生きていく。ああ、これ以上とないハッピーエンド。

 

「本当にハッピーエンドだと思いますか?」

「……っ」

 

 父と母の物語に見入っていたアスカの呼吸が止まった。クルトが何を言いたいのか察しがついてしまったからだ。だが、分かるべきではないと、心のどこかが訴えている気がして表層に現われた。

 

「ハッピーエンドでいいじゃねぇか。二人は生きて、そして俺とネギが生まれた。これ以上のことはないだろ」

「確かに私人として見ればそうでしょう」

 

 クルトはあっさりとアスカの言を認めた。

 

「ですが、公人として、亡国の女王としてはどうでしょうか? メガロメセンブリア元老院の虚偽と不正は正されていない。何よりもアリカ様の名誉は地に落ちたままだ」

 

 事実を受け止め、理解させるのに十分な間を置いて、クルトが改まった声を付け足す。それも計算ずくの声とアスカには思えたが伏せた顔を上げるには至らなかった。

 

「ナギは一般からの支持は揺るぎませんが、アリカ様を庇った咎でメガロは秘密裏に懸賞金をかけています。なにより魔法世界人から恨まれているアリカ様は生きていると知られるわけにはいかず、日の当たる場所で誰に憚ることなく生きることが出来ない。影に暮らし、影に生きる。真に世界を救った彼女がこんな生活を強いられていて本当にハッピーエンドだと言えますか?」

 

 沈鬱な調子でありながら、その口調がアスカのささくれた気分を逆撫でする。何故かアスカはクルトが口にする一言一言が癇に障るのだ。発せられた言葉の全てに何となく裏があるように感じてしまう。

 

「私に協力してくれないか、アスカ君。君は、君が思っている以上に価値のある人間だ。君の協力があれば、アリカ様の名誉を回復できる。それだけではなく、元老院の虚偽と不正も正すことが出来るのです。君こそが真実を告発するのです」

 

 流石に顔を上げ、クルトを睨みつけたアスカは、直ぐに視線をずらした。この男は姑息だ。自分の意見を押し通すためなら、人の弱点に付け込むのにも躊躇がない。反感を新たにしたアスカを尻目にクルトは静かに言葉を重ねる。

 

「それこそが彼らの息子たる君の役目ではないでしょうか」

 

 爽やかな微笑の裏には、勝利を確信した者だけが放つ底意地の悪さが秘められている。

 青い瞳が、奥底まで射抜く光を宿してこちらを直視する。言い方に予想外の重力を感じたアスカは、我知らずに握り合わせた自分の拳に目を落とした。

 探るような視線を寄越すクルトをちらと見返し、端整に過ぎる眼前の顔一つを見据え直す。

 

「協力とは何だ? 俺に何をさせたい。元老院を告発するだけなら俺は必要ないはずだ」

「ああ、簡単な話です。君に魔法世界の、火星の王となってほしい」

「王、だと?」

 

 信じられぬ言葉にアスカが身じろぎする。

 アスカは目の前の男がいよいよ分からなくなってきた。不意を打たれた気分で口を閉じた。

 

「君は既に知っているはずだ。この滅びに向かう世界のことを」

 

 セラスの危惧通り三国会談の場を盗聴でもしていたのか、アスカが世界の真実を知っていることを前提に話し始める。

 

「力持つ者はそれに見合った舞台で戦うべきです。君の父君は前大戦の後の十年間、身を粉にして尽力しましたが世界は未だ理不尽に満ちています。種族差別は消えず、強き者は弱き者を搾取し、弱き者は強き者を妬む。世界は辛うじて存続していても救われてなどいない」

 

 語るクルトの声は穏やかでありながら、その声音には割って入ることを許さない強圧さがある。

 

「放っておけば、いずれ世界は破滅への道を辿ることになるでしょう。我々には既に英雄はいない。民衆に与えられた物語とは別の理由で、我々は今こそ英雄を欲しているというのに。だが、私は諦めなかった。戦い続けた。方法を模索し続けて来た。そして見つけたのです、君を」

 

 ノア計画、帝国移民実験。脳裏でそれらの単語が飛び交い、やがては無為に消えていく。

 

「英雄に世界を救うことは出来ない。人にその領分はないのです」

 

 大国が半ば諦めている問題をあっさりと切り捨てたクルトは大仰に腕を振るう。

 

「誰もが救われる絶対解はない。滅ぶことが運命であるならば、その後のことを考えなければいけません」

 

 国の政治に関わる政治家として当たり前の想定をしなければならないクルトは、いっそ割り切り過ぎなぐらいに未来に想いを馳せる。

 

「メガロが計画しているノアの箱舟は完成したとしても果たして他種族、他国家が共存できるか。今も消えない大国の溝を見れば、その未来は誰の目にも明らかです」

 

 二十年前に大戦は終わろうとも世界は危ういバランスの上で、辛うじて平衡が保たれている。今の平和はメガロメセンブリア、ヘラス帝国の両大国は先の大戦で被ったダメージから回復することを先決とした仮初の平和に過ぎない。

 降り積もった遺恨を消しようもない国家上層部はそうでも、国民末端には平和を甘受しようとする気持ちがある。誰も好き好んで戦争をしたいとは思わない。

 争う切っ掛けを失くした和平の仮面の下で申し合わせたように互いに手出しを避けてきた。先の処刑されたはずの災厄の王女の息子が現れるなんて極大の刺激を与えたら、この平和は一気に崩れ落ちる。

 

「真に世界を救った女王、大戦を収めた英雄、その二人の息子である君が王となれば誰もが従う。女王の真実によって求心力を失う両国政府の上に立つ王にね」

 

 だが、その前提も災厄の王女こそが世界を救ったことが知れればひっくり返る。

 

「俺にはサウザンドマスターのようにも、災厄の女王のようにもなれない。二人の息子だからって変な期待を持たれても困る」

「いやいや、君にしか出来ないことなのです。でなければ、わざわざこれほどの手間をかけて君を呼んだりはしません。失礼ながら、例え二人の息子といっても、ただの少年である君などをね。しかし、ただのではない。ノアキスを救い、英雄ジャック・ラカンを打倒し、偽物のナギを打ち破った君はご両親の名が無くとも民衆に認知されている」

 

 否定に返って来た返事は、アスカが考えていたものとは全く異なっていた。

 

「大衆は常に英雄を求めている。古き英雄を越えた、最も新しき英雄アスカ・スプリングフィールドを」

 

 最後の言葉は、間違いなくアスカに向けられていた。思わず後ずさりそうになるほどの、狂気とも憎悪ともつかない色が青い瞳に澱んでいた。どだい、言動の全てが演技と思える得体の知れなさが、このクルトにはある。

 

「アスカ・スプリングフィールド。我々は英雄を失ったが、しかしここに嘗てを超える英雄を得た。英雄の忘れ形見であり、父親と同じく民衆に選ばれた存在となった君を。世界最古の王国の末裔であり、真に世界を救った女王の息子である君の下でならば魔法世界も纏まる」

 

 あの日と同じ故郷が燃え落ちていく篝火に照らされて地面に伸びるクルトの影は微動だにせず、今やそこに焼き付き、容易には拭い去れない染みとなった風にも見えた。

 

「私の名誉にかけて最善の努力をするつもりです。この身、この魂を捧げて王となった貴方へ尽くす所存です」

 

 クルトの言葉には、真摯なものがあった。けして目下に向かうような態度ではなく、対等な相手を説得しようとする誠実な姿勢。

 

「今度こそ世界を導いて下さい、アスカ・スプリングフィールド。君こそが新たな世界への道を指し示すのだ」

 

 真摯な、しかし鋭い光がクルトの目に宿り、気圧された胸の底を騒めかせた。

 そしてもう一度、アスカの視線の先にいるクルトが甘やかな声を響かせる。

 

「――――さあ、返答を。我らが王よ」

 

 嘯くクルトの表情には、相応しい稚気が横溢していた。飛び切りの玩具を目の前にした子供のようにも見えた。

 最善の道、未来へ通じる道―――――脈絡のない言葉が頭の中で渦を巻き、膿み、崩れ、意味をなくしてゆく。どうすれば正しいのかという思考すらなく、空々しいだけの言葉がドロドロと混じり合い、空になった頭蓋の中で行き場なく滞留した。

 

「とはいえ、母の名誉回復だけでは君自身に帰る報酬がない。それはフェアではない」

 

 自身に満ちた声は、決して大きくなどないのに腹腔に染み入るように響いてくる。

 

「さしあたっては…………六年前、この光景が生まれた原因。そしてアリカ様を陥れた首魁、その首を差し出しましょう」

 

 ひどくゆっくりとした、独特のリズムの言葉はどこか催眠術にも似た響きを奏でながら必勝を確信した笑みでアスカにとっての爆弾を落とす。

 

「な、に――っ!?」

「彼らを此処へ」

 

 驚くアスカを置いて背後を見遣って誰かに言ったクルト。

 額の奥で重い物が脈打っている間に少年執事に追い立てられるようにアスカの前に引きずり出されたのは、対照的な二人の人物。

 ガリガリに痩せた眼光鋭い老人と、その真反対に醜く太った卑屈な目をした中年の男の二人は、揃って何も話せないように口枷を付けられ、両手を背後に回して拘束具をつけられている。

 少年執事に追い立てられるようにしてアスカの前で跪かされ二人。

 老人は何かを覚悟したかのようにアスカを見つめ、中年の男はみっともなく逃げようとして拘束具に仕込まれているらしい雷撃を浴びて倒れた。

 

「君から見て左側がアリカ様を陥れた男です。そして右側の醜い男が周りに唆されて君の村を襲わせた男。どちらも元は元老院議員ですが、今はその地位を剥奪されています」

 

 あくまで穏やかな声が、真綿の感触を以って心身を縛り付けてゆく。この世に悪魔がいるとしたら、こんな声で囁くのかもしれない。不気味なまでに静かな青い瞳に射竦められ、気圧されているのを感じた。

 

「言っておきますが冤罪ではありませんよ。証拠は此処にあります」

 

 後ろに拘束されたままアスカの前に引き釣り出された二人から少年執事が離れると、クルトは腕を振るう。その動作に合わせるように画像・動画が空中に幾つも投影される。

 

「――!?」

 

 その全てを見て決して虚偽ではないと判断したアスカは、服の襟を引っ張って隙間を作り氷の塊を背中に落とされたような悪寒が走った。 

 クルトは春の到来を思わせる爽やかな笑顔なのに、周囲の気温が下がっていく。

 

「さあ、我らが王よ。罪深き彼らに処罰を」

 

 柔らかな笑みだった。どんな重いものでも背負ってしまいそうな、包容力に満ちた笑顔。

 信じるなら、このような笑みを湛えた者にすべきだろう。そんな風に思わずにはいられない落ち着きと頼もしさを兼ね備えた表情だった。

 

「処罰だって?」

「そのご老人の思惑によってアリカ様は世界中の憎しみを背負わされ、真実を捻じ曲げられたことによって、本来ならば称えられるべき人を大罪人に仕立て上げた罪。真に世界を救った女王に対して、これは決して許されるべきではありません」

 

 一瞬とはいえ、こちらが間違っているのではないかと疑わせる目と声で吐き捨てるように言ったクルトが次に中年の男を指し示す。

 

「そしてこの男はもっと酷い。君達の村を襲わせたのも、アリカ様の子供がいることが世間に知れれば処刑が為されなかったこと、隠していた真実が明らかになって権力の座を追われることを恐れた。更には職権濫用は言うに及ばず、亜人売買や殺人、その他諸々と数え上げれば切りがない。調べれば余罪はもっと出て来るでしょう。生きているだけでも万死に値する」

 

 本物の嫌悪に満ちた目で中年の男を見下ろしたクルトは、やがて見ているだけでも目が穢れるとばかりに視線を切った。

 

「ただ妬み、恐れ、保身の為、数多の罪なき者を陥れている。決して許せることではありません」

 

 言葉面と違い、クルトの口調に責める色はない。ただ、事実を突きつけていると感じさせる、本当にそれだけの弁舌だった。

 

「二人は元老院議員だったんだろう。メガロの組織的な関与はなかったのか?」

「ない、とは言い切れませんが総意ではありませんでした」

 

 間を置かずに重ね、クルトは体全部をアスカに向けた。

 

「アリカ様のことに関して言うならば、あの時に生きている全ての者が同罪と言えるでしょう。帝国もまた紅き翼と行動を共にしたテオドラ王女の言を信用せず、他の国々同様にアリカ様が全ての原因であるとした元老院に同調した。それだけこの男が偽造した証拠が動かしようもなかったのは事実です。諸悪の根源。その元は正すべきです」

 

 束の間だけ目を閉じて当時のことを思い出したその顔にあらゆる感情が過ったが、再び瞼を開けた時には変わらぬ表情を浮かべている。

 

「王よ、裁定を」

 

 クルトの口調は澱みがない。強い信念を持っている者だけに許される言葉の力を持っている。

 アスカは促され、黒棒を呼び出してその手に握る。

 

(みんな……)

 

 脳裏を過ったのはあの日に命を落とした者達、人生を狂わされたネギやアーニャやネカネといった関係者たちの顔だった。

 憎しみがないはずがない。ずっと怒りを抱えていて生きて来た。

 

(王、裁定、復讐か)

 

 怒りをぶつけられる相手を前にして、何故かアスカは空虚感を抱いている。

 憎しみはある。怒りはある。だが、その全てが今は遠い。

 あの日の悪魔であったヘルマンと戦い、打倒しても心が晴れることはなかった。復讐を成し遂げたところで戻ってくるものはなく、一時の爽快感の果てに去来するのは空虚感だけである。

 

「俺は、斬らない」

 

 怒りや復讐を表明するでもなく、アスカは仕方なさそうに溜息を吐いて一度は振り上げた黒棒を下ろす。

 

「クルトの言うことは真実だろう。正しいのだろう。だが、俺はアンタらを斬らない」

 

 言って、アスカは強く拳を握った。

 決意を新たにする。自分の、自分だけの消えない炎を胸に宿す。

 既に多くの者達が間違いを犯したかもしれない。だが、その間違いを遣り通したって、やっぱり何も残りはしない。今すべきは間違いを認め、それを無意味にしないことだ。残された者がその意思を失わないなら、希望は失われない。

 

「怒りはある。憎しみはある。でも、感情のままに振舞っては獣と一緒だ。俺はアンタらを裁かない。人として、生きる者として、社会の罰を受けろ」

 

 ゆっくりと、顔を上げる。アスカにもこの決断は苦渋のものだった。

 自分の手で裁きを与えられたらどれだけ楽だろう。どれだけ心がスッとするだろうか。だが、その考えこそが目の前の男達と同類になることを示している。そんなことはゴメンだった。

 それは後悔しないための答え。今までの人生で味わって来た、怒り、悲しみ、喜び、傷ついて得てきた自分の体で覚えたアスカの出せる精一杯の答えだった。

 

「なにを……」

 

 煉獄を思わせるこの空間が、今まさに王を迎えた王の間のようにも見え、クルトは息を呑んだ。

 

「アリカ様の無念を晴らさないというのですか」

「論点を摩り替えるな。お袋のことに、王になることとか、こいつらに裁きを与えることは関係ない」

 

 眉間に皺を寄せて不機嫌さを見せるクルトに先程までの余裕はない。

 掌で踊っていた哀れな操り人形が突如として自らの意思を持って動き出したかのように苛立っている。

 

「この会話も映像も全て世界に流れています。冗談でやっていることではないのですよ」

「冗談でこんなこと言うもんか。俺は正当な裁判の上で、法律に乗っ取った裁きを求める。独善と私怨で人を裁いたらコイツらと何が違う。俺はコイツらと同類になるのは真っ平だ」

 

 ノアキスで個人で動いて国相手に何も出来ず、そのアスカを救ったのも国だった。

 大多数の民意は無視できない。嘗て彼らが扇動して母アリカが罪を背負わされたように、アスカは彼らの詳らかにされた罪が公の場で裁かれることを求めた。せめてもの意趣返しである。

 これで彼らが社会で裁けぬ悪ならばアスカが手を下すが、現実はそうではない。これだけの証拠が揃っていてアスカが手を下すのは私刑と変わらない。それは獣の所業だ。

 

「お前と手を組む気もない。汚いやり方で人を操ろうとする今のお前のやり方は好かない」

 

 気に障るのは、その完璧すぎるクルトの自己演出だった。常に相手の瞳に自分を映し、その者が求める姿を読み取りながら利用しようとする。傲慢な者でなければ、こうも徹底して他人を物扱い出来るものではない。

 怜悧な策士を演じる一方で、この男はどこか幼い。少年染みた理念と怨念を身の裡に抱え、大切な物を過去に置き去りにしたまま歳を重ねてきたように思える。人を語りながらも人を信用しておらず、信用しようとすらしていない。

 大人になりきれずに大人になってしまった印象をアスカに与えた。

 

「…………馬鹿馬鹿しい。あの人の息子だと思い、期待し過ぎた。所詮、遺伝子で受け継がれる物だと知れているということか。分かっていたはずなのに」

 

 侮蔑の念を込めて、クルトは吐き捨てた。

 アスカの答えを聞いて後ろを振り返った前ダールスト議員の目が、そら言ったことかと言わんばかりだった。

 

『事態は君の思う通りに進むとは思わないことだ。私のように予想もつかないところで足を掬われることもある』 

 

 二人を捕らえた時に前ダールスト議員に言われた言葉通りの展開になった。

 チェックメイト寸前でキングが裏切り、敵側についた心持ちでアスカと相対する。

 

「教育をしてあげます。死にかければ私の言うことも聞くようになるでしょう」

 

 かつては自分も、こんな若々しい情熱のままに行動していた。自分にもこんな時代があった。ただ我武者羅に、明日と理想と世界を信じていた頃があった。だが、年月を重ね、精神の尖った部分は摩耗して滑らかになっていった。それは成長の証のはずだが、未来を切り開くのは何時だって、成長と共に失われていく激しい心だ。

 しかし、この事実を今のクルト・ゲーデルが認められるはずもない。

 

「やってみろ!」

 

 互いに刀と剣を手にして戦う。そうすることでしか二人は意を通せないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四方八方が無限に広がる空間を結界空間のような世界であるアーティファクト・無限抱擁の中で強大なエネルギー同士が炸裂している。

 この空間が現実と隔絶した異空間であることは幸いだった。もしも、これが新オスティアの総督府だったなら余波だけで総督府自体が壊滅していたかもしれない。

 この二人が撒き散らす破壊は、あまりに桁外れだった。

 二人の男。ジャック・ラカンとフェイト・アーウェンルンクス。二つの力が正面から激突し合い、この惨状を為しているのだった。

 

「はっ!」

 

 噴水の如く流れる血潮を、寧ろ誇るかのようにジャック・ラカンは笑う。

 真っ白な鋭い歯を剥き出しにした顔は、凶暴な野獣か無邪気な子供だ。ずっと我慢をさせられていた遊びをやっと許されたかのように、超大なパワーが込められた拳を思いきり振るう。

 直径百メートルはあろうかという爆発を避けるようにして距離を取ったフェイトはラカン以上の傷に膝をついた。

 

「こりゃ、やっぱ俺の勝ちじゃねぇか」

 

 戦う前に言っていたようにラカン有利に戦闘は続き、このまま続けても結果は見えていると膝をついたまま言われたフェイトに必死さはない。寧ろ何故そこまでラカンが戦おうとするのを不思議そうにしていた。

 

「やはり、分からないね。どうしてあなたがそこまでして戦おうとするのか、抗おうとするのか」

「あん?」

「この世界の真実、魔法世界人である自身が幻想に過ぎないと知らないわけではないだろう?」

 

 フェイトは片目から涙のような白い血を流しながら心底分からないとばかりにラカンを見る。

 

「ナギの野郎から聞いてるぜ。魔法世界が人造異界でそう遠く内に滅びることも、俺達魔法世界人が幻想に過ぎないこともしっかりとな」

 

 自らの血に塗れた顔で、あっけらかんと語る。

 

「なら、何故抗おうとする? 何故、僕の邪魔をする? 無駄に苦しみを長引かせていると何故気づかない? 絶望に沈み、神を呪うもおかしくはない真実だ。事実これまでに僕が見てきた者は皆そうだった。真実を知って尚も何故あなたはこの意味なき世界をそんな顔で飄飄と歩み続けられる?」

 

 その顔があまりにもなんでもなさそうだったので、ついフェイトは訊き返してしまった。

 すると、ラカンの表情が変わった。

 

「なんだ。テメェ、んなこともわかってなかったのかよ。真実? 意味? んなことは俺の生には何の関係もねぇのさ!」

 

 一瞬呆気に取られたような表情を浮かべ、ニッと笑い言葉を続ける。

 

「それに」

 

 カッカッカッ、と快活に笑ったラカンは表情を引き締めてフェイトを見据える。

 

「期待してるのさ」

「期待?」

「アスカなら俺達に出来なかったことをやってくれるんじゃないかってな」

 

 ラカンは笑っていた。戦いの最中とは思えぬ、ひどく柔らかで、どこか困ったような顔。その笑みには少しだけ苦いものが混じっていた。本当は自分達がしたかったことを託さざるをえないことが悔しいのだ。

 

「英雄だとか何だとか、偉そうな名前ばかりをつけられて、でも結局俺達には出来なかったことを、やってくれるんじゃないかって期待してるんだよ。だから…………」

 

 左肩から流れ続ける血のように、ラカンは止どめなく告白する。

 

「だから、俺はお前と戦う。拭き残しを拭きに来ただけじゃねぇ。友達(ダチ)の為にテメェを倒す」

「…………やはり分からないね、僕には」

 

 フェイトはラカンのこの戦いにおける決意を耳にして一瞬、膝をついている地面を見下ろして何かを想起した。

 そして失望の表情を浮かべながらビキビキと軋む体を押して立ち上がったフェイトは、とても人形とは思えぬ暗い瞳でラカンを見る。

 

「所詮は幻想だ。僕自身はあなたの力に敬意は表しよう。その強さを本物と言っていいのかバグなのか分からないけれど、勝つのは僕だ」

 

 そう言って虚空から出したのは球儀のようなものが先端について杖であり鍵のようなものを握る。

 

「あなたの方が強いことは分かっていた。だから、対抗できない唯一の力を使わせてもらうよ」

「させねぇよ!」

 

 杖が姿を見せた瞬間から背筋に走る悪寒に従って、ラカンが攻撃を放とうとした瞬間に世界が切り替わった。

 二人の戦いでボロボロになった無限抱擁の空間が一転して、辺り一面に花が咲き誇るラカンにとっては見覚えのある草原に。

 

「ここは……」

 

 見覚えのある場所にラカンは戸惑い、幻影を見せられているのではないかと考えたが、肌を撫でる風も花の香りも何もかもが違うと告げている。

 

「美しい場所だね。この景色が戦火によってもう存在しないというのは残念だよ。この景色がなくなったのはそう、四十年前」

「まだ勝負の最中だ。人の過去を勝手に覗き見るのはいい趣味じゃ…………!?」

 

 傷も無くなって椅子に座って語り始めたフェイトの背後に回って肩に手を置いたところで、気が付くと対面の椅子に座っている自分に続く言葉を失う。

 幻覚、記憶操作、時間操作、と考えられる様々な可能性が頭を過るが、どれであってもラカンに気付かれずに対面に椅子に座らせるのは不可能である。

 

「てめぇ……何をしやがった」

 

 フェイトが球儀を取り出してから悪寒が止まらず、この状況に対する違和感が際限なく膨らむ。

 ジャック・ラカンはこの感覚を知っていた。この違和感を知っていた。この悪寒を嘗て感じたことがあった。

 

「世界の始まりと終わりの魔法――――リライト」

 

 その言葉を聞いて違和感の正体に気付いたラカンの脳裏に、アスカと共にいた少女の姿が思い浮かぶ。

 

「勘違いしているようだけど、僕達の目的は邪魔者になるであろう者達の抹殺。僕の狙いは始めから君だ、ジャック・ラカン。どれほどの力を持っていようとも人形は人形師に逆らえない。君の為に誂えたこの特製の造物主の掟(コード・オブ・ザ・ライフメイカー)にはね」

 

 球儀の杖――――造物主の掟(コード・オブ・ザ・ライフメイカー)が光り、次の瞬間には椅子を蹴立てて立ち上がったラカンの四肢が霞と化して消えて、核とも言うべき部分に亀裂が入った。

 

「くだらねぇ」

 

 アーティファクト・千の顔を持つ英雄を発動して四肢に動甲冑を装着し、踏み止まったラカンは流石に驚いた様子のフェイトに言い返す。

 

「へ……幻? 人形だあ? それがどうした」

 

 千差万別に変化可能なアーティファクトを武器に変化させて握ったその手の甲冑の中にラカンの手はないからといって諦める理由にはならない。例え絶対に勝てないと分かっていてもだ。

 

「俺を誰だと思ってる。俺はジャック・ラカンだぞ」

 

 ラカンは深く息を吸った。フェイトから受けた一撃はラカンを構成している核を傷つけ、立っているだけでも精一杯。歩いただけでも、消滅してしまう恐れがあった。

 目の前の造物主の使徒と闘うなど、論外である。

 それでもラカンは拳を握り身構える。核を傷つけられて消滅を待つだけだとしても、負けると分かっている勝負であろうとも決して引かない。決して諦めないこと、それがラカンの人生の哲学である。

 四十年以上前から少年奴隷剣士として戦いを重ねて常に闘いの中にいた男が身をもって体得した答えであった。男は一度退いてしまったら二度と同じ場所へ戻れない。志も誇りも砕け散り、負け犬へと落ちぶれる。一度砕けた心はどれだけつなぎ合わせようとしても決して元には戻らない。

 男であることを捨てるくらいならば死んだ方がマシ、それがジャック・ラカンという男の生き様である。

 

「人形だって自分の足で勝手に歩き始めることだってあるってことを教えてやるぜ」

 

 四肢を失おうとも、この男はどこまでも鮮烈な生き様を見せつける。その姿をフェイトはどこか羨まし気に見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静かな夜だった。豪華な装飾に包まれた会場で、正装の大人達が歓談を続けている。アスカが抜けた後でも会場では、招待された各国の大使や外交官を招いての華やかなパーティが続いていた。

 警備も厳重で、会場周辺に配置された警護者の数もかなりの人数で厳戒態勢を思わせる光景だ。

 

「お偉いさんは旨いもんを食えていいっすよねぇ。俺も相伴に預かりたいっす」

 

 会場の周辺で不審人物がいないか警備の目を光らせているサンドリア・ルナージに、まだ若い部下ロメ・フォルクスが軽薄な口調で言った。

 

「俺達のすることは会場の警備だ。それを忘れるな」

 

 着ている重装魔導装甲に耳障りなキンキンとした声が響いて、サンドリアは食い気に釣られて会場に突入しそうな部下を窘めながら顔を顰めた。四十を少し過ぎたサンドリアにとって、この軍人とは思えない軽薄さと喋りすぎる新米部下とはあまりソリが合うとは言えない。

 悪い奴でもないし、言葉や口調は軽薄でも仕事はキチンとこなすのだが性格的なモノと言うしかない。

 

「へ~い、先輩は本当に真面目っすね」

 

 先輩の不機嫌さに気づいた様子もなくいらぬ一言を付け加えている辺りが空気の読めなさを示していた。

 本音を言えばサンドリアもフォルクスに同意見だったが、そこは軍人として職務を全うしなければならない義務感と持って生まれたフォルクスが言っているような生真面目さが表に出させなかった。

 この生真面目さがフォルクスとソリが合わない原因だが持って生まれた性分は変えようがない。

 

(まったく、この年にもなってまた子守をすることになるとは)

 

 フォルクスの相手をしていると、親の自分に反発ばかりを繰り返していた聞かん坊だった息子を相手しているような気分になってしまう。

 早くに家庭を持ってからは落ち着いた息子のように、フォルクスも何時かはマシになるだろうか。それまでのことを思うと、どうにも気が滅入って仕方なかった。

 

「俺はこっちを見回りしますんで、隊長はそっちをお願いできますか」

「ああ、分かった」

 

 気の抜けるような部下の声に、肩から力が抜けるのを感じながら返事を返して二人は別れた。

 

「いかんな、少し神経質になっている」

 

 サンドリアも普段ならここまでフォルクスの軽さに神経を刺激されることはないのだが、どうも今日は過敏になり過ぎている自覚があった。要人が多く集まる会場の警備を行う重責によるものではない。理由は別のところにあった。

 サンドリアは昔から勘が鋭いとなどと、周りから言われていた。

 二十年前の大戦の頃には既に軍人であったが悪寒に従ったことで、どんな激戦区に派遣されても生き残れたと信じている。彼の勘によって部隊が救われたことは一度ならずともあったことで、周りにもセンサー扱いされたこともある。

 朝からその勘が今日は何かがありそうな予感がしていた。どんな激戦区や絶望的な状況下にも勝る最大級の警鐘が鳴らされていた。

 こういう日は外に出ないで家に引き籠るに限るのだが、以前から決められていた舞踏会の警備の為に悪寒がするので休みたいなど言えるはずもない。真面目さ故に仮病もすることも出来ず、職務を全うするしかなかった。

 だがそれでも静かな夜だった。少なくともこの瞬間までは。

 

「ん……?」

 

 最初に異変に気付いたのは、やはりサンドリアだった。

 テラス向こうの雲海から何かが隆起して姿を現した。

 雲海を割って鎌首を擡げたそれは手に見えた。身近な一本と並ぶ長い四本は人の手を想起させる。だが、その手は人のスケールでは測れない。物語に出てくるような大巨人のように大きい。

 一杯に開けば人を十人は一纏めに出来そうな巨大な手が、手近にある自分のいる場所に向けて振り下ろさせるのを見て、やはり仕事を辞めてでも家にいれば良かったなと思う頃には押しつぶされて意識を永遠に断絶させた―――――かに思われた。

 

「隊長!」

 

 手が振り下ろされるよりも一瞬だけ早く、フォルクスがサンドリアを抱えて退避する。その一瞬の後にテラスが押し潰されて飴細工さながらに押し倒して崩壊する大音響を響かせる。

 

「うっ、わぁ!?」

 

 数十トンの塊が激突する衝撃と轟音にサンドリアが上げた悲鳴は掻き消され、続いて押し寄せた衝撃波に一斉に視界を封じられる。

 

「な、なんだってんだ!?」

 

 重武装甲冑の魔法防御機能のお蔭で飛んできた瓦礫に押し潰されることもなく生きていたサンドリアは、九死に一生を得た衝撃で言葉を発せない中でフォルクスの困惑する声を聞く。

 未だ精神が平常ではないサンドリアもその視線の先を追うと、そこにいたのは化け物としか言いようがない存在だった。

 見上げて即座には全容が把握できない巨躯は、全身縄の如く盛り上がった筋肉に包まれている。肌は闇に溶け込むような漆黒。分厚い胸板の上に乗った頭は異形のもので、簡単に言えば所謂、物語に出てくる悪魔の姿そのものである。

 

「あれは、二十年前の大戦時に完全なる世界にいた黒い巨人、なのか?」

 

 大戦時の激戦区の中で死神の如く数多の命を刈り取った巨人の姿に見覚えがあった。

 そうしている間にも巨体はテラスの破壊を進め、その衝撃は総督府全体に広がっている。異常を感知した司令部が鳴らした非常警報の音色が鳴り響き始めた。

 

「マジっすか……」

「確か異界から召喚されている召喚魔って聞いたことがある……っと、呆けてる場合じゃない。本部本部! こちら警備113! 総督府テラス付近にて大戦時に完全なる世界が使役していたと思われる召喚魔が現れた! 至急、救援求む!! ええい、繋がらん! 念話妨害か!?」

 

 総督府各所のスピーカーから唸らせたその音は、忍び寄る惨禍の予兆を孕んで新オスティアの空気を震わせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は黒い召喚魔が現れる前まで遡る。

 瞬きの後には既にクルトがアスカの手前に急接近していた。普段よりも三テンポ遅れて反応した身体が振るわれる野太刀から大袈裟に飛び退く。二人の距離は再び数メートルに開いていた。

 虚を突かれたわけではない。動きは見えていたのに身体が上手く反応して動いてくれなかったのだ。

 

(力が入らねぇ!?)

 

 準決勝でのジャック・ラカン戦と決勝でのネギ・スプリングフィールドとの戦いは自身が思うよりも肉体に深いダメージを与えていた。

 両試合とも常人ならばダース単位で死んでいるほどの重傷を負っている。日常生活ならばいくらかの誤魔化しが効いても、戦闘ともなれば支障をきたす。治癒魔法を受けて傷は完治しているが、体の内部に負った目に見えないダメージは大きく完全に治るまでにはかなりの時間が必要であった。

 

「どうやらナギ杯でのダメージが色濃く残っているようですね」

 

 アスカの反応の鈍さを、試合を観戦していて剣士としても超一流の域にあるクルトが気づかないはずがない。

 決して鍛錬は怠っていないが政治家としての活動もしていたクルト・ゲーデルの実力は、ジャック・ラカンら紅き翼の面々と比べれば劣っていることは認めざるをえない。二十年の月日が経とうとも、老いという言葉自体を否定しているようなジャック・ラカンに勝ったアスカとの全快状態での彼我の戦力は劣っているはず。

 なのに、先程の一合ではあわやというところだった。原因がナギ・スプリングフィールド杯にあるのは明白であった。

 

「私には好都合なことです。力尽くで屈伏させてみましょう!」

 

 絶対の勝利の予感を感じ取って、薄ら笑いを浮かべたクルトが動いた。

 二度、三度、と避ける間もなく彼は後退するアスカの眼前に立ち塞がって振るい、成す術もなく野太刀の一撃に黒棒ごと吹き飛ばされる。地面に叩きつけられて転がった。

 

「そらそらどうしたのです! 先程の大言を吐いたのならば、この程度ぐらいは凌いで下さいよ!」

 

 空気を裂き、クルトの野太刀が自分から転がって攻撃を避けようとしたアスカの脇腹を掠めた。着ていたタキシードの布地が千切れて脾腹から鮮血が噴き出た。

 

「くぅっ……」

 

 なんとか立ち上がったが呻くアスカ。背後に回ったクルトが上段の構えから剣先に気を集中させて、一気に刀を振り下ろした。

 

「斬岩剣!」

 

 岩を両断する破壊力を誇る神鳴流奥義の斬撃が咄嗟に展開した障壁の上から背中に直撃した。衝撃に跳ね飛ばされて宙を舞う。

 クルトの神鳴流の技の凄まじい威力を受け流し、避けるのが精一杯だった。

 アスカは一度も攻撃に出れないでいた。一方的に打たれ、切り裂かれていた。総合的な強さでアスカに劣るといえど、刹那に勝るとも劣らぬ技術で振るわれる神鳴流の技の数々に追い詰められていく。

 この一見、アスカが踏みとどまっている状況もクルトが本気になっていないからに過ぎない。アスカが足掻けるギリギリのラインを見極めて嬲っているのだ。

 

「斬空閃・弐の太刀!」

 

 遂に避けようのないタイミングで放たれたのは、障壁をすり抜ける二の太刀である曲線状に反る気の刃。防御すらも無意味と化す一斬撃がアスカの右肩から左脇腹まで切り裂いた――――――かに見えた。気の刃によって切り払われたアスカの体がブレて霞となって消える。分身だ。

 分身を囮にしてクルトの背後へ移動したアスカが黒棒を振りかぶる。

 

「見えていますよ」

 

 黒棒が振り下ろされるよりも早く、アスカの動きを見切って既に勝利を確信したクルトが自分の背後へ向けて野太刀を突きつけた。

 

「…………!!」

 

 刀身の切っ先から中程までがアスカの背中を突き抜けて血糊が刃を濡らしていた。刺された場所が急所ではないことをいいことに、クルトは野太刀を抜刀術で鞘から日本刀を出すように引き抜いた。

 突き刺した場所は奇跡的にと思えるほど内臓の隙間を通っていたのは決して偶然ではあるまい。先の言葉通り、普段の半分の力も出せないのをいいことにアスカを屈伏させようとしているのだ。

 

「があっ……!」

 

 よろけるように数歩後退して血を流す腹部を抑えて、火鉢を押し付けられたような痛みに苦悶の声を漏らす。

 

「私に従わないからこうなるのです!」

 

 痛みに泣き叫びそうにるのを堪えていると、クルトの叫び声がアスカの耳を打って衝撃に弾き飛ばされる。

 何十メートルも吹き飛ばされ、ゴロゴロと地面を転がる。

 痛みに呻きながら肘をついて体を僅かに起こすと脇を蹴られて仰向けをさせられる。

 

「チェックメイトです」

 

 痛みに蹲るアスカの体を跨ぎ、首を刈る処刑人のように野太刀を突きつけたクルトが呟いた。

 

「殺されたくなければ私に従いなさい」

 

 アスカの脇に片膝をつかれ、馬乗りになったクルトを払いのける術はなく、首筋に押し当てられた剣光に歯軋りしかすることが出来ない。

 

「従うのならば鵬法璽(エンノモス・アエトスフラーギス)で契約をしてもらいます。これ以上の我儘は要りませんからね」

「断る」

「ほう、よほど死にたいと見える」

「言ったはずだ。お前に従う気は無い」

 

 突きつけられた剣先を意に介さず、強い意志を凝固させた瞳がクルトを真っ直ぐに睨み据える。単なる敵意とは異なる、鮮烈な風が吹き付け、見る者を無条件にたじろがせる視線が、なによりも雄弁に彼女を思い起こさせる。

 

「その眼が、アリカ様と同じその眼が私を否定するというのか」

 

 アスカに在りし日の運命に抗おうとするアリカの面影を重ね合わせ、クルトは生唾を呑んで激情に駆られた。

 

「貴方は――!?」

 

 積み上げた二十年の年月が怒涛のように押し寄せて来たその怒りのままに、アスカの首筋に添えていた野太刀を振るおうとした。その手に力を入れた瞬間、幻想空間が砕けた。

 ありえない展開に硬直した瞬間にアスカに顔を殴られ、体が浮いたところに成人男性を軽々と呑み込む光弾がクルトを襲った。

 

「ぐえっ」

 

 攻撃を受けて無防備になったクルトが光弾に呑まれ、悲鳴と同時に身体が吹き飛んで総督府の特別の壁へと叩きつけられた。

 

「この気配は…………タカミチ!」

 

 体を起こしながらアスカが馴染みのある気配の方向を見ると、そこには何時だって変わらなかった無精髭を綺麗に剃って若返っているような印象のタカミチ・T・高畑が何時ものポケットに手を入れた独特のスタイルで立っている。

 

「やあ、アスカ君」

 

 日常の世界と変わる挨拶をする高畑の後ろでは少年執事が犬上小太郎の狗神に拘束されていた。

 狗神で身動きできないようにした少年執事を置いた小太郎がアスカの下へと走り寄る。

 

「生きとるか」

「ああ、なんとかな。助けに来るのが遅いぞ、小太郎」

「うっさいわい。一人で行動しとるアスカが悪いんやろうが。これでも急いで来た方やっちゅうに。幻想空間を発生させる魔法具を使っとったアイツがタイミング良くいてくれて助かったぐらいや」

 

 傷を負ったアスカに肩を貸しながら立ち上がらせた小太郎は、口が減らないアスカに呆れつつも傷口に触らないように気をつけている。

 

「また傷だらけやないかい。姉ちゃんらか治癒符預かっといてよかったわ」

「どんだけ準備良いんだよ」

「また怪我するって思われてんぞ、お前」

「マジか。信用ねぇな、俺」

 

 貫通している腹の前後と斬られた脇腹に治癒符を張ってもらったアスカは、仲間に全然信用されていない自分に少し悲しくなって眉尻を下げたところで視線をクルトへと移した。

 

「く…………くそっ…………どいつもこいつも…………生意気な…………。いい気に……………なるなよ。この…………まま…………で、いられると……思うな!」

 

 アスカが見守る中、クルトは負ったダメージでフラつきなら、よろよろと体を起こすが立ち上がることは出来なかった。

 

「しかし、どうしてタカミチが魔法世界に。しかもこんなタイミング良く」

 

 壁から抜け出してガラガラと体にかかった瓦礫を振り落とすクルトを警戒している高畑が此処にいる理由が分からない。

 

「ゲートが閉じる前にドネットさんの依頼で龍宮君と一緒にこっちの世界に来てテロの捜査をしていたんだよ。何事も無ければ君達に合流してオスティアのゲートで帰るつもりだったけど、クルトの行為を知ったら放っておくことは出来なかったんだ」

 

 キッと秘められていた紅き翼の秘密を暴露したクルトがもう少しで動くのを察知した高畑が腕を振るう。

 

「アスカ君を連れて行くんだ、小太郎君。心配はいらない。大戦の映像を見ていたなら分かるだろうが、彼とは旧友だ。なに、二十年分の交友を温めるだけさ」

 

 アスカはダメージが大きく、直ぐには一人で動けない様子なので小太郎を急かす。

 言われた小太郎は僅かに逡巡したものの、アスカを安全な場所に移すのが今の自分がすることと判断して「頼んます」と一言で残して特別室から去っていく。

 二人を見送った高畑は、落としていた野太刀を拾い直してやる気満々なクルトに意識を集中する。

 

「どうしたんだ、クルト。余裕たっぷりの姿はどうした。らしくないぞ」

「タカミチ、貴様はそうやって何時も上から見下ろして……!」

 

 クルトが、ギリと歯ぎしりする。

 

「貴様は何時もそうだ。口ばかりで行動が伴っていない」

 

 嘗て命を預け合った戦友という過去も遠く、クルト・ゲーデルとタカミチ・T・高畑は、殺気を媒介として見詰め合った。

 

「あの時、お前は言ったな、『僕達でやるんだ』と。だが、現実の貴様は元老院の犬と成り下がっている」

「犬になった気はない。敵は元老院の一部だけだ。そうやって物事を極端に見るのは昔から変わっていないな」

「言葉では何とでも言える!」

 

 先程の一撃のダメージを抜けたのを確認して、激昂した感情のままに斬りかかる。

 

「この二十年で貴様はアリカ様に何が出来た!」

 

 身体強化した腕で野太刀を受けた高畑の前でクルトが気勢を吐いた。

 

「虚偽と不正を暴くことなく、旧世界の学園で平和面して正義ごっこをするのはさぞかし楽しかったろうよ!」

「政治に苦心していたお前に言われたくない!」

 

 力任せに振り解き、残していた腕で居合い拳を放つも直ぐに回避される。

 

「私はあの言葉通りに真実を明らかにしたぞ! 世界に事実を公表し、アリカ様の名誉は回復される! 二十年だ、二十年かけてようやく……!」

「そのことに何かを言う資格は確かに僕にはない。だけど!」

 

 百花繚乱の如く放たれる神鳴流の数々の技を時には受け、避け、弾きながらもクルトの執念は認めざるをえない。

 クルトはたった一人で、世界にひた隠しにされた秘密を明らかにしてみせた。明日菜を守る為に二十年を捧げた高畑では決して成し遂げられないことだった。

 

「アスカ君を巻き込んだこと、こんなやり方で公表したことは決して許せない!」

 

 発動機のエンジンの唸り声の如く乱打する二つの拳を、真っ向から野太刀が迎え撃った。

 大戦後の決別から十二年の時間を埋めるように、もしくは切磋琢磨した懐かしき時を巻き戻すように、咸卦法の拳と退魔の剣はそれぞれの術理を尽くして交錯し合う。

 

「お前は間違ってる!」

「正しいもクソもあるのものか!」

 

 言葉の合間にも、斬撃と拳撃は止まらない。拳も脚も、はたまた野太刀も、一歩も退かずに立ち回りを演じる。予め定められた型の如く優美に、しかし互いの命を天秤に乗せて続けていく。

 クルトと交錯するその一瞬、絶妙の流れで思いきり反転した。あまりに隙だらけの、だからこそクルトも目を剥いたその刹那、高畑が跳んだ。

 

「クルト!」

 

 嘗ての友であり、今戦っている敵の名を叫んだ。

 違う道を行くことになった時、自分こそが正しいのだと己が信念をぶつけ合うことはしなかった。遠い過去に置き忘れた過去の負債を、この時を以て晴らすために。

 

「タカミチ!」

 

 何度となく激突し合い、今や半壊したホールで高畑と戦っていたクルトもその叫びを聞き落すことはなく、己が正しさを証明して相手を否定するために逆に叫び返した。

 

「「おおおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」」

 

 袂を別った時より十年以上の時を飛び越えて、二人の会話はひどく短く、しかしその表面上からは窺い知れないほどの多くの意味を伝達していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こいつがぁっ!」

 

 触手の束を突破し、内側に入り込みさえすれば勝機はある。ジグザグの軌道を描き、大巨人に斬りかかった空戦隊隊長は、それ以上に素早く動いた手に先手を取られ、後退をかける間もなく鷲掴みにされた。身長を超える大きさの腕に蠅を掴むように親指と人差し指に挟み込まれた。

 

「ぐっ、はぁっ……………」

 

 宙高く掲げられた身体が手ごと地面に叩きつけられた。二度、三度、と振り回された身体は、最後に逆さ落としの要領で地表に投げつけられ、瞬間的に音速に迫ろうかという衝撃に物理障壁も意味をなさず、隊長の肉体は高度数千メートルから地面に叩きつけられたような衝撃に挽肉となった。辛うじて原型を留めた口が動くことは二度とない。

 

「キャーッ!!」

 

 響き渡る非常警報に総督府の外に出ようとした舞踏会の参加者の一人が、地面から次々と湧いて出て来る召喚魔に悲鳴を上げた。

 先程までの楽しい舞踏会が一転した恐怖劇に対応できる者は極少数に満たない。大抵は顔面を蒼白しながら震え、恐怖が全てを飲み込みのを止める術はない。

 

「な、なんだアレは!?」

「み、見ろ戦艦が……ッ!」

 

 最初に登場した超巨大召喚魔がオスティア駐留艦隊所属巡洋艦フリムファクシに、その全身から伸びる触手のような物で拘束している。

 

「どっ、どどどどういうことだ!?」

「あ、あんな大規模な召喚をこの総督府の周辺で行えるはずが……」

 

 直ぐに新オスティアの所属の警備の者達と自国の要人を守ろうと多数の国の軍人達が動き出すが、彼らでもこの事態の全てを把握している者はおらず、状況についていけているとは言えない。

 

「くっ……大使! こちらへ! 警備兵は大使を守れ!」

「どういうことだ、これは! アレはなんだ!?」

「分かりません。こんなことが起こり得るはずが」

「総員戦闘態勢! 招待客を安全な場所へ誘導しろ!」

 

 新オスティア付きの警備兵はともかく、自国の大使や要人を守ろうとする軍人や警護兵は特定の人物しか守ろうとしない。

 

「念話が妨害されている? 通信はどうした!?」

 

 避難誘導をしようにもどこが安全な場所なのか、敵の襲撃が突然で数が多く、不特定の場所から次々と湧いて出て来るかもしれない司令部も混乱している。

 

「ちっ、足手纏いが多く数が違い過ぎる」

 

 高畑と共に魔法世界にやってきた龍宮真名はドネット・マクギネスが用意した招待状で招待客の一人として舞踏会に参加していた。この予想外の事態にも混乱することなく、手近の敵を取り出したグロッグ17に迎撃しているが結果は芳しくない。

 強化プラスチックを大胆に導入した銃身が焼け付くほどに銃弾が連続で発射されているが、舞踏会参加者とその護衛や他の警備兵があちこちに逃げ回るものだから射線を遮って一気に敵を掃討することが出来ない。

 

「コレを全部相手するのは骨が折れるな。依頼内容にも含まれていない」

 

 銃身が焼け付いたグロッグ17から二丁のサブマシンガンにに持ち替える。

 ウージー、グロッグ17とは真逆に第二次世界大戦から愛用されていた質実剛健な作りは、もはや歴史の香りさえ漂う品だった。

 

「この面倒な場所からは離脱したいところだが」

 

 貴族らしい中年の婦人とその旦那が召喚魔に追われているのを見て助けに入る。

 

「た、助かった。ありがとう」

「なに、代金は後で請求させてもらおう」

「金を取るのか!?」

「命に比べれば安い物だろう。嫌ならば向こうへ行ってくれ」

 

 旦那が文句を言ってきている間にも近寄って来る召喚魔達を蜂の巣にしていく。

 危険地帯にいる現状を認め、真名が明らかに突出した実力者であることを戦い様から推測した貴族の旦那は「貴様を雇おう、言い値でだ!」と半ばやけくそ気味に叫んだ。

 

「商談成立だ!」

 

 向かって来る二十を超える召喚魔に向かって自分が近づきながら迎撃していく。

 後ろの依頼者を守る為に召喚魔の武器も破壊しながら穴あき召喚魔を増やしていく。弾を撃ち尽くせば異空弾倉でカートリッジを取り替え、時に銃も取り換えながら大立ち回りを繰り返す。

 その戦い様は人間台風と呼ばれても無理もないほどの圧倒的な強さで、右往左往して安全な場所が分からない中では彼女がいる場所こそが安全地帯だと誰にも思わせた。

 

「私も守ってくれ! 金は幾らでも払うから!」

「倍だ。俺は倍を払うぞ!」

「いいえ、わたくしを守って下さいまし!」

 

 目に見える範囲とまではいかなくても一息つける程度には召喚魔を掃討した真名にまだ近くにいた要人達が殺到する。

 

「貰える金が増えるのはいいが、私一人でとても全員は守れんぞ」

 

 十人を優に超える要人達が自分をこそ守れと縋ってきては真名も困るしかない。

 最初の貴族の夫婦は依頼を受けたから守るが、十人纏めては状況次第で守り切ることは出来ない。しかも、比較的近くにいた要人と警備兵達も真名を当てにして続々と集まっており、許容量を超えるのは目に見えている。

 

「おい、司令部は何をやっている」

「念話妨害で情報が入らず、混乱しているようだ。結界で覆われているはずの総督府にこれほど大規模の集団が転移してきて、襲撃を仕掛けてくるなど想定外なのだろう。すまないが、我々も協力するので彼らを守ってほしい」

 

 近くにいた新オスティアの印章が入った鎧を着ている警備兵の一人を捕まえて聞くも、返って来たのは真名にはとてもよろしくないものだった。

 真名が当初いた場所は、ダンスも出来る開けた外のテラスだったので、召喚魔が駆逐され人が集まっていることもあって今もどんどん人が向かって来ている。警備兵や護衛も増えているが足手纏いがこれほど集まれば危険も更に高まる。

 

「私は民間人だぞ…………命令系統はどうなっている? こんな開けた場所に集まっても何もならない。指示を出して散らせろ」

「この場には連合・帝国、アリアドネ―や様々の国の要人が集まっている。下手に指示を出して危険に晒せば後で国際問題になりかねない」

「…………後があればいいがな」

 

 要は面子と体面の問題で、誰も責任を取りたがらないのだ。

 普段の真名ならば見捨てて逃げるところだが仮にも依頼人がいるので放っておくことも出来ない。しかもこの場にいる大半が真名のことを当てにしようとしているので堪ったものではない。

 髪を掻き上げて悩まし気に毒づいた真名は何かに気付いたように顔を上げた。

 

「グルォオオオオオオ!!」

 

 テラスの向こうからまた召喚された巨大召喚魔がのっそりと体を起こす。

 逸早く気づいた真名が巨大召喚魔に効く威力のある銃を取り出したところだった。

 

「ひぃ、助けてくれぇ?!」

 

 と、でっぷりと太ったどこぞの国の要人らしき仕立ての良いスーツを着た男がしがみ付いて来て、本人にはその気は無くても真名の邪魔をする。

 

「邪魔だ!」

 

 男を振り解いて銃を取り出すも召喚魔が腕を振り下ろす方が一歩早い。警備兵達も要人達を守ろうとしているが大質量に耐えられるほどの防御準備は出来ていない。

 腕が振り下ろされるよりも少し前に、真名の視界に閃光が横切っていく。

 

「おおぉっ!」

 

 振り下ろされている腕を横から奔った雷の槍が弾き飛ばす。テラスを押し潰すはずだった腕は空振りして、僅かに端っこを抉り取っていく。

 振動に揺れる地面に堪えながら真名が巨大召喚魔を見ると、既に雷の投擲を放って真名達を助けた人物は一瞬で懐に潜り込んで次なる一手を放っていた。

 

「来れ、虚空の雷、薙ぎ払え――――雷の斧!!」

 

 巨大召喚魔に比べれば格段に小さな人影が振るった雷の斧が一刀両断する。

 体の真ん中で右と左に別たれた召喚魔は形を維持できずに消滅する。それを見届けた人影が真名の下へと下りて来た。

 

「覚えのある気配だと思ったら、やっぱ真名じゃねぇか。こんなところで何やってんだ?」

「相変わらず呑気な聞きようだね、君は。火星の王とは思えないね」

「それは止めろ」

「みんな知っていることだよ」

 

 頭を抱えている血の跡も生々しいアスカ・スプリングフィールドの変わりなさに嘆息しつつ、真名は最強の援軍に肩を撫で下ろす。

 

「傷だらけのようだが、この程度の相手にやられたのかい?」

「まさか。別の相手だよ。最低限の治癒はしてるから問題なく動ける」

 

 しかし、とアスカは真名の近くにいる要人や警備兵達を見て眉を顰めた。

 当の彼らはアスカを困惑と期待の眼差しで視ている。クルトが中継していたアスカの身の上等に困惑しつつも、ナギ・スプリングフィールド杯優勝者が援軍として現れた安心感に揺れていた。

 

「なんだってこんな場所で屯してるんだ? どんだけ敵がいるか分からねぇが、危なくねぇか」

「足手纏いが続々と集まって来ていてね。司令部も混乱しているようで動けなくなっていたところだよ」

「そうか。でも、あのヘンテコな奴らは一体何なんだ? 誰かに召喚されてってるのは分かったんだが」

「大戦時にいた召喚魔らしいが詳しいことは私にも分からん」

 

 空を飛んで向かって来る召喚魔に向けて無造作に魔法の射手を放って撃ち落とすアスカがいるお蔭で真名は随分と気楽である。とはいえ、一人に任せておくわけにはいかないので周囲の警戒を続けていると犬上小太郎を先頭にして複数の人物達が向かって来る。

 

「アスカ、どうやら総督府全域が襲撃を受けてるようやで。司令部も混乱してて、舞踏会の参加者があちこちで逃げ惑っとる」

 

 説明する小太郎の後ろにいる要人と護衛達も別れて行動している時に見つけて保護したのか。

 

「念話妨害が敷かれている中で、これだけ足手纏いがいる中で多発的に召喚魔が現れると対応が後手に回るか…………仕方ない。小太郎、真名。ここにいる人たちを頼む」

「おい、まさかここにいるのを押し付けて一人で他の奴らを助けに行くんとちゃうやろな。俺と真名の姉ちゃんの二人だけやったら敵の数によっては守り切れへんで」

「敵の掃討をするにも相手の数が上限が分からない間に下手に動くのは危険だぞ」

「いや、一人でここを離れようとは思っちゃいねぇよ」

 

 実は思っていたが、小太郎と真名の言うことは最もなので適当に誤魔化す。

 夜空を見ながら考えるアスカの斜め上に軍艦がいるのを見つけて、守る手を増やすべきと判断する。

 

「よし。使える物は使うか」

「どうする気だい?」

「ここに全員集める。帝国も連合も関係なくな」

 

 言いながら浮遊術で浮かび上がったアスカは喉の調子を確かめるように「んん」と声を出して準備する。

 

「あ~、こちらアスカ・スプリングフィールド」

 

 対象者を限定しない声量拡大魔法でオスティア総督府全域に向けて発信する。

 

「総督府にいる全ての者に伝える。総督府北側の外部テラスが安全地帯だ。戦える者は近くにいる者を守りながらこの声が発せられた場所に来い。繰り返す――」

 

 同じ内容の言葉を三回繰り返していると、さほど間を置くこともなく『こちらヘラス帝国皇女テオドラである』と同じように声量拡大魔法で返信があった。

 

「そちらは本当に安全なのですか? 保証はありますか?」

「保証はねぇが、安全だって言い切ってやるよ」

「何故?」

 

 誰の目にも見上げれば映るように高度を上げて力を解放する。これぐらいならば全開でないアスカでも出来る。

 バチバチと力の高まりに耐えられない空気が紫電を発し、理性ある者ならば生半可な相手ならば敵対することすら尻込みする力を見せつけることで安全の保障とする。

 

「俺がいるからだ」

 

 眼下に雷を落とすわけにはいかないので目印代わりに目立つだけに留めて、自信満々に答える。

 

『了解しました、貴方を信じます。帝国に所属する全ての者に告げます。アスカ・スプリングフィールドがいる場所に避難を――』

 

 アスカと同じように三度繰り返していると、帝国に習うように連合や他の国々も同じように声量拡大魔法による呼びかけを行い始めた。呼びかけが重なると何を言っているのか分からなくなるので順番に行われる。

 最初に連合が、続いて間を取って小国が、次に二国の呼びかけが重なって途中で止まり、先に言い始めた方が継ぐというやり方が何度か行われる。

 

「これで何とか持つかっ!」

 

 安堵しつつ、遠方にまた大巨人召喚魔がのっそりと雲海から顔を出したので白い雷を無詠唱で放って消滅させる。

 体に力が入らず、反応が鈍くても魔法には影響はない。下手に動き回るよりかは、避難の目印になって遠方から攻撃を加えている方が効率が良い。

 

「お、一番乗りは帝国か」

 

 絶え間なく湧き上がるかの如く召喚魔に無詠唱で魔法の射手を連発していることで、視界がピカピカと光って眩しいことこの上ないが帝国の意匠が施された戦艦がこの場所に近づいて来ている。

 下にいる面々も小太郎や真名、護衛達が奮闘してくれているので当座の心配はない。アスカの役割はこのまま避難の目印になって召喚魔に攻撃を与えることだ。

 

「とはいえ、要人の殲滅を目的にするには敵のやり方は生温い。何が目的だ?」

 

 念話妨害を掛けながら転移封じが為されている総督府に多数の召喚魔を召喚しておいて、どうにも要人狙いにしては手緩い感じがしてならない。被害は出るだろうし、それに伴う混乱は相応のものだろうが、この戦闘に投入された召喚魔の戦力に相応しい効果があるかと言われれば疑問が付く。

 精々が悪戯レベルにしかないらない。それこそ第三皇女であるテオドラのように替えの効かない立場の者を害すれば別だが、大抵の者の立場には替えが効く。

 

「う~ん、ん?」

 

 ここに来るまでに召喚魔が二十年前に完全なる世界に使役されていたことを聞いていたので、この襲撃の裏に何の意図があるのかと考えていると少し離れた場所の空間が歪み始めた。まるで内側からの圧力に耐えきれぬように軋む空間にアスカは新たな敵の襲来かと身構えると、破砕された空間の向こうから何かが地上に向かって墜落した。

 

「ジャック!?」

 

 墜落して行ったのがジャック・ラカンであると見て取ったアスカはその後を追った。

 地面に出来たクレーターの底で四肢を突きながら立ち上がろうとしているラカンの近くに降り立ったアスカはその異常さに直ぐに気づいた。

 

「よぉ、アスカじゃねぇか。最期に会えて、良かったぜ」

「最後? 何言ってんだ、テメェ。それよりもその有り様は何だ! 何でそんなに存在感が薄くなってんだ」

 

 普段ならば周囲を圧するほどの存在感を発するラカンが今にも消え入りそうなほど儚くなっている。

 

「ああ、まあ、情けねぇ限りだが敵の策略にやられちまった。一発やり返したがこの様だ」

 

 ラカンの全身から霞のように煙が立っている。焦げているとかではなく、穴が開いたかのようにラカンの全身からマナが漏れ出しているのだ。

 

「待ってろ、今元に戻して」

「無駄だ。核が傷つけられてる。時間稼ぎにしかならねぇ」

 

 そう言いながらも立ち上がった姿は二メートルを超える巨躯も相まって、その姿は難攻不落の砦とも見えたがラカンの言う通り、アスカの助力があろうとも既に手遅れ。いずれは消える幻想でしかない。

 

「ざまぁねえや。オッサン世代の挟持として拭き残しはサッパリ拭ってやりたかったが、どうも全部押し付けることになっちまいそうだ。悪ぃ」

 

 野放図で温かい、こうとしか生きられなかったと自嘲する男の声が、胸を締め付ける喪失感を伴ってアスカの中に入って来る。

 

「こんな時に言うのがそんなことかよ」

 

 触れられない。温かいのに掴めない。静かに見下ろす残影を見上げたアスカは悔し気に顔を歪ませる。

 

「末期の台詞は気の利いた言葉を残しておきたかったんだが、世の中早々上手くはいかぁしねぇな」

 

 歯を食い縛らなければ息が出来ない。胸の奥から生まれた熱に突き上げらえれた身体が張り裂けてしまう。爆発する炉心になった胸中に呟き、気持ちのままに言葉を吐き出そうとした瞬間だった。

 ラカンは全てを受け入れた顔でアスカを見る。

 

「奴らがアレ(・・)を得ている以上、本物のアスナは向こうの手にあると考えるべきだ。今の明日菜は替え玉のニセモノだ」

 

 衝撃の事実とでも呼ぶべき爆弾が落とされたのに、アスカは寧ろ合点が言ったかのような表情を浮かべた。

 

「気付いていたか?」

「違和感はあった。多分、俺がクルトと会った後の少しだけ離れていた時に捕まったんだと思う」

 

 あの時から明日菜が傍にいると違和感があって小太郎に冷たい対応をしていたと言われた。別人にすり替わったのならば、この違和感に納得する。

 

「分かってるんなら俺から言うべきことは何もねぇ。その顔を見れば分かるからな」

「ああ、俺は明日菜を取り戻す」

 

 原初から定められた運命のように答えたアスカにラカンは快活に笑った。

 

「なあ、アスカ」

 

 決意を固めるアスカを、まるで我が子を見るように見つめながら、ラカンはとてつもない長距離走を完走したランナーのように恥じることなくそこに立っていた。消え行くラカンは優しく語りかけた。

 

「情けねぇ大人が何言ってんだと思うかもしれねぇが、一つだけ頼んでもいいか?」

 

 自分を超えて見せたアスカなら、きっとこんなドジは踏まないと信じる。歪んだ固定観念に縛られることなく、強い意志をもってしがらみを断ち切ってゆくのだろう。

 

「明日菜を、世界を頼む」

 

 現在という時を背負って歩く大人の一人として、未来を考える役割を持たされた子供に全てを託す。無論、それで今までの怠慢が落とせるとは考えていない。ただ、子のいない自分が想いを託すことが出来るというのが無闇に嬉しい。

 或いは、子を持つ心境とはこのようなものか。二十年前から一歩も進めていなかった自分が、子を儲けていれば別の展開もあったかもしれない。もう一つの可能性。刻一刻と残り時間が減っていくのを感じながら、ラカンは唐突に得心した。

 大人は未来を子供に託す。だが、何も出来ないと分かっている子供に、やり残した事を押し付けるのは、ただの無責任だ。逆に真に信頼して後を託せると信頼されたならばアスカがラカンに出来ることは一つだった。

 

「分かった。後のことは俺に任せて隠居しとけ」

 

 快諾したアスカに肩の荷を下ろしたラカンの体が急速に薄れていく。

 

「はんっ、ガキが一丁前にほざいてんじゃねぇよ」

 

 例え死んだとしても、子供が生き続ける限り種としての歩みは止まらない。ラカンとアスカの関係は極めて特殊だが、それでも希望を繋げたことには変わりはなかった。

 

「後は頼んだぜ、アスカ」

 

 最後に安心したように微笑んでラカンはこの世界からいなくなった。

 あのジャック・ラカンがなにかの冗談のように綺麗に消え去った。

 そう、消えた。死んだのではない。つい先刻まで喋り、息をしていた者達が花弁となって消えたのだ。これは死ではない。こんな死に方はあり得ない、とアスカは思った。こうもなにも残さず、実感する間もなく訪れる最期があるとしたら、それは消滅と呼んだ方が相応しい。感情も感傷も喚起されようがない、あったものがなくなるというだけの消滅。

 

「また一人、英雄が逝ったか」

「!?」

 

 まだ危険が排除されたわけではないので近づいてくる者はおらず、アスカの傍には誰もいないはずだった。小太郎や真名達の場所からはそう離れていないのでラカンとの会話が聞こえたかもしれないが、今発せられた声はアスカの真後ろから聞こえた。

 驚愕しながら振り返りつつ飛び退いて距離を取ると、そこにはローブを纏った小さな人物がいた。

 

「誰だ、お前は?」

 

 即座にアスカはその人物が幻影や霊魂の類に属するもので実体のある生命ではないと判断し、言葉と同時に太陽道を発動させて相手の意と重ね合わせる。

 相手はそのことを予期していたのか、アスカが異能を発動させたのと同時に開け放たれていた心から莫大な情報が流れ込んできた。相手が心を開け放っていると、一気に深層まで達してしまい、同調を行った相手の考えまで読み取ってしまう。

 

「っ、墓守り人……?」

「然り」

 

 脳を灼熱させるほどの情報量に頭を押さえて太陽道を止めたアスカに墓守り人は感心したような声を上げた。

 

「私は貴君を知った。同時に貴君も私を知った。その上で告げよう、我が末裔よ。見事であると」

 

 称賛している割には寧ろ憐れんでいるようですらある墓守り人は続々とこの地に集まってくる人々を見ることもなく、ただアスカだけに注目している。

 

「太陽道――――マナを吸収して魔力を生み出すことが出来る貴君ならば、この世界に別の未来を齎せるやもしれん」

 

 墓守り人が独り言のように呟くその言葉の意味を、太陽道で意を読み取ったアスカは何よりも理解していた。

 明日菜の過去も、現在の明日菜が陥っている状況も、そしてこの世界を存続させるにはどうすればいいかも全て。そこに余分な情報はない。

 

「お前…………いや、アンタは態と太陽道を」

「知らねばならなかった。見極めなければならなかった。喜べ、貴君は世界を争える資格がある」

 

 墓守り人がアスカに与える情報を選んでいた。言葉通りにアスカを知り見極めようとしていたのだ。その結果として墓守り人は余人には決して分からない結論に至り、アスカを哀れんでいる。

 

「紅き翼の後継よ。戦いの舞台に至り、完全なる世界の後継と雌雄を決するがいい」

 

 言いたいことだけを一方的に言って、墓守り人の姿は一瞬で掻き消えた。

 転移でもなければラカンのように存在が消滅したわけでもない。忽然とその姿だけが消えた。

 

「くそっ」

 

 墓守り人が姿を消したと同時に急速に総督府から争いの気配が消えていく。

 魔法世界の現状、完全なる世界の目的、大国の思惑、囚われた明日菜、そして自分に求められている役割が脳裏を次々と過り、アスカは口汚く吐き捨てた。

 

「なんやったんや、今のは」

 

 争いの気配が無くなって来て、来賓を守る必要が無くなった小太郎と真名がアスカの下へやってきた。

 

「人、には視えなかったが」

 

 その眼で視た墓守り人を人と認識できなかった真名も訝し気にしている。

 

「……………」

 

 アスカは墓守り人の正体も今の在り様にも気付いているが詳しく説明する気分にはなれない。現実に打ちひしがれていると言っても過言ではないアスカを影が覆う。

 顔を上げたアスカの視線の先で飛行船スプリング号がホバリングしていた。その艦橋から一人の少女が飛び降りる。

 

「アスカ!」

 

 橙色の髪の毛を靡かせて下りて来た神楽坂明日菜――――――その偽物が地面に降り立ち、アスカの名前を呼びながら駆け寄って来る。

 

「無事なの? って怪我してるじゃない。木乃香、木乃香ッ」 

 

 明日菜と同じ声で姿で、何も変わらないのに何もかもが違う少女が囀っている。

 今ならば違和感の正体も分かる。目の前のコレは神楽坂明日菜ではなく、その肉体と精神を模倣した偽物に過ぎない。

 

「な、何をするのアスカ?!」

 

 突如ととして遠方から湧き上がった光が繋がった二人の影を明確に映し出していた。

 

 

 

 

 





クルトの狙い:魔法世界の消滅は避けられない。純粋な人間と移民計画で消えない者を収容をするノア計画を推進し、小さな世界を守ることに決めた。
       大国間、種族間の溝を埋めきれていないので何時かは内乱で滅ぶかもしれない。纏める者が必要である。しかし、連合・帝国のどちらかが上に立っても不満は残る。ならば、より相応しき者を。そうだ、世界最古の国の王族にして真に世界を救ったアリカ様の息子を利用しよう。
       丁度良い具合に英雄にもなってくれた。これならば民衆も納得する。不正と虚偽も告発すれば両国政府の信用も落ちてアスカに箔もつく。
       母親と六年前の真実を教え、陥れた者達を裁かせれば自分が手綱を握れる。例えアスカが世界を纏める能力が無くても自分が裏から操ればなんとでもなる。

但し、アスカには「テメェのやり方が姑息すぎて信用出来ねぇ!」と一蹴された模様。



フェイトの目的は「ジャック・ラカンの排除」。特製の造物主の鍵を作り、確実に嘗ての敵を真っ先に排除しようとしたのである。
その裏でデュナミスもアスカの排除に動いていたが、墓守り人がアスカの能力を知る為に邪魔をして出来なかった。


第六章 継承 最終話『星に願いを』




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第78話 星に願いを

 

 

 

 

 

 ウッドハウスのテラスにあるベットチェアに身を鎮めているアスカ・スプリングフィールドは寄せては返す波の音を聞いていた。

 

(久しくなかったな…………こんな時間は。世界がこんなにも単純なら良かったものを)

 

 ずっと気持ちがささくれ立っていたので波の音だけが響き渡るこの空間とただ無為に静かに過ごす時間が無性に愛おしい。

 時間の流れが外界と違う別荘で既に五日目に突入している。肉体そのものに傷や疲れは残っていないのだが、気持ちがとりとめもなく浮いている感じがする。

 

「ああ~」

 

 特に意味もなく力の無い声が口から漏れる。

 自堕落な状態に陥っているのは自覚していた。この五日間は、寝る・食う以外に多少体を動かすしかしていない。

 体に降り積もっていた疲労と傷の後遺症を解消するには休むのが一番良い。精神的にも今まで知った真実の重みで神経が張り詰めていたので休養は必要だった。

 

「ん」

 

 ベッドチェアに寝そべったまま寝ようかと考えたアスカは、人が近づいてくるのを察して起き上がった。

 直前で逡巡するように歩みを止めたものの、こちらが気配に気付いたことが切っ掛けだろう。背後から声をかけてきた。

 

「アスカ……」

 

 声をかけてきたのは長谷川千雨だった。他にも人の気配がある。

 ベッドチェアから起き上がった姿勢のまま振り返ると、千雨の消沈した面持ちは、はっきりと言えば辛気臭い。テラスの入り口で佇む千雨と姿は見えないが複数の気配を感じ取る。

 

「今、大丈夫か?」

 

 お互いに沈黙して見詰め合う中で、隠れている者達の意思を代表して千雨がこちらの返事を待たずにそのまま言ってきた。

 

「話がしたいんだけど……」

 

 遂にこの時が来たのだと諦めにも似た気持ちが湧き上がってきた。寧ろ遅すぎたぐらいだ。

 避けたい気持ちもある。だけど、向き合わねばならない時でもあるのだと覚悟を決めなければならなかった。

 

「分かった。で、何の話がしたいんだ?」

 

 アスカは頷くと、ベッドチェアから足を下ろして向きを変えた。促すつもりで問いかける。

 

「あの、その……」

「俺が知っていることが気になるんだろ?」

 

 気ばかりが急いて舌を縺れさせる。千雨の縋るような表情を見て、アスカは深々と息をついた。

 

「あのクルト・ゲーデルって人との話は聞いたけど、私達には分からないことが多すぎる」

「そうだな。なら、まずは俺が知ることから話すとしよう」

 

 視線を左右に這わせたのに理由はない。単に魔法世界に来てから他者に話を聞かれないようにする癖が染み付いていただけにすぎない。

 肩を竦めて告げてから、アスカは嘆息した。力尽きたような心地ではあった。

 この楽園のような安息も直に終わる。人は楽園を追放され、楽園と比べれば地獄のような外界へと赴く。資格のあるなしに関係なく、魔法世界にいる全ての者が当事者となるのだから。

 

「世界に寿命がある…………と言ったら、どう思う?」

 

 沈みかけた太陽が、燃えるような最後の輝きを、辺り一帯に放っていく。

 

「どうって…………それはなんにでも始まりと終わりがあるものじゃないのか。地球だって何億年か後には太陽に呑み込まれるって聞いたことがあるぞ」

「魔法世界はもっと特別でな。世界が存続するだけで、魔力が少しずつ消えていってるんだ。どっちも総量から微々たるものだけど、そうやって少しずつ命を失うと世界は寿命を迎え、いずれ死んでしまう。それが地球よりも圧倒的に速い。十年、百年単位の話だ」

「…………じゃあ、この世界は十年後、百年後には、どうなるんだ?」

 

 一瞬、儚い期待が千雨の胸に宿るが、続く言葉がそれを打ち砕く。

 

「消えるだけ。後には何も残らない」

 

 アスカの呟きは周囲が静かなだけに怖いほどによく通った。

 

「笑えるだろ、魔法世界は現実には存在しないんだ」

 

 魔法世界の真実と完全なる世界の目的、大国達の計画を話し終えてヘラヘラと笑っているアスカの顔を誰もが見る。

 

「…………どうしてそんなに悠長に構えていられるんだ? 世界が消えるんだぞ」

 

 滅びを素直に憤れる千雨がじっとこちらの言葉を待っている。

 大したことが言えるわけではなかった。また自分は彼女らの期待を裏切ることになるわけだ――――と、アスカは内心で独りごちると、自然と肩が落ちるのを自覚した。膝に手をついて、自分が何時の間にか辞儀をしているような体勢になっていると気づく。

 

「我に秘策有り、だ。この世界は消えやしない」

 

 体勢を上げて、彼は呟く。

 

「………………」

 

 笑みを湛えて自信満々に告げたアスカがまるで泣いているようで千雨は続く言葉を失った。

 

「その秘策を言う気は無いのか?」

 

 暫くの沈黙の後にポツリと問う。

 

「ない。言っても意味がないからな」

 

 その後、何度か問い質してもアスカは頑として首を縦に振ることはなく、やがて根負けした千雨は話題を変えることにした。

 

「いきなり神楽坂の首を絞めだした時はびっくりしたよ」

「驚かせたのは素直に悪かったと思ってる」

 

 明日菜が偽物であると告げられ、ジャック・ラカンの消滅に動揺していたところに偽物が現れて我を忘れてしまった自分の不甲斐なさにアスカが頭を掻いた。

 

「明日菜の偽物――――確か栞とかいったか。今はどうしてる?」

「古菲と長瀬が交代で見張ってる。変なことはしてないみたいで大人しくしてるってよ」

「見張りなら真名もやるかと思ったが二人だけなのか?」

「ん、ああ、あの二人はどうにも相性が悪いからな。口喧嘩だけだが五月蠅いし、龍宮には外れてもらった。まあ、その所為で高音先輩と佐倉が酷いことになったが」

 

 どうにも千雨は煮え切らない態度だが相性はあるものだと納得したアスカも気にすることはなかった。後半は意味が分からなかったが。

 

「口喧嘩するなら元気ってことだな。正体暴いて目的と完全なる世界の情報を聞き出す為にやり過ぎちまったから元気なら良かった」

 

 つい、勢いで殺しかけた少女のことを気にしていたアスカは安堵の息を漏らす。

 

「怯えてたぞ、あの子」

「いや、悪かったって。悪気は…………少しあったが、あそこまでやる気はなかった」

 

 スプリング号から見た光景を思い出した千雨は「本当かよ……」と訝しげであった。

 千雨が艦橋から見たのは総督府のテラスで明日菜の首を絞めるアスカの姿である。錯乱を疑い、色んな者が止めようとする前に偽物の姿が暴かれなければ問題は大事になっていたことだろう。

 

「知れたことは大きいんだ。それで良しとしようぜ」

「加害者のアスカだけには言う資格がないぞ」

「本当にすまなかった」

「後で良いから、ちゃんとあの子にも謝っておけよ」

「ああ」

 

 一生ものトラウマを植え付けてしまった自覚があるのでアスカも大人しく言うことを聞いている。

 会ったら物凄く怯えられそうだが、その時はその時であると開き直っているアスカに千雨はもう一度聞かねばならなかった。

 

「アスカが言ったことは栞って子に聞いたのと同じ内容だった。アイツは世界を救うことは神でもなければ不可能だって言っていたのに、本当に魔法世界は消えないのか?」

 

 確かめるような眼差しを見せ最後の確認というように千雨が聞いてくる。

 

「墓守り人の宮殿で明日菜を助けることが出来れば確実にな」

 

 今のまま世界を存続するには墓守り人の宮殿にアスカも行く必要がどうしてもあるのだ。墓守り人と心を重ねたことで得られたこの情報を伝える気は無いので苦笑いを浮かべて誤魔化す。

 

「心配しなくても世界は続いてくさ。だから、千雨達だけでも麻帆良に帰れ」

「え?」

 

 きょとんとした声を上げる千雨に、アスカは決然として言った。

 

「皆には魔法世界の為に戦う理由はないだろ。自分のいた世界に帰るんだ」

「それを言ったらアスカだって」

「知っての通り、俺のお袋はこの世界の人間だ。親父も英雄として深いところまで関わってて、俺自身も英雄なんて言われて周知されちまってる。二十年前の再現が起きようとしている中で誰も帰さしちゃくれねぇよ。テオドラがこの別荘を貸してくれたのも俺を回復させるためだからな」

 

 あの時、墓守り人の宮殿から湧き上がった光は二十年前の再現を示していた。本来ならばアスカ達は戦いを選ばずにオスティアにあるゲートを起動させて旧世界に帰ることが出来るのに、テオドラから別荘を渡されて休養を勧められたのにはアスカに回復をさせるために他ならない。

 

「ジャック・ラカンは消えた。嘗ての英雄は誰一人としていない。テオドラ達は俺に英雄の役をやれって言ってんのさ」

 

 アスカはクルトによって付けられた傷を負っていてナギ・スプリングフィールド杯で負ったダメージも蓄積している。貴重な別荘を与えたのはアスカに紅き翼の代役を求めたからには他ならない。

 

「それはアスカがしないといけないことなのか」

 

 精悍な横顔からは、年齢以上の風格が漂う。鋭さと涼やかさが入り交じった眼差しは荘厳にすら思えた。

 アスカの瞳の奥には、正義や悪を超越した、もっと強固な信念があった。誰が何を言おうと、周囲がどのように考えようと、自分の信じる道だけをやり抜こうとする男の信念があった。

 

「俺がやると決めた。俺じゃないと意味がない。だけど、そのことにお前達まで巻き込む気は無い。だから、麻帆良に帰れ」

 

 それは奇妙な最後通牒だった。事実に向かって問われたわけではない。ここでどう返事をしようと、それを覆すことは出来ない。

 だがそれでも、ここでは本当に最後の意志を決めなければならないのだと、なんとはなしにそう思えた。アスカは言葉を吐く前にしばし迷い、告げた。

 

「私には、よく分からないよ」

 

 千雨の声は、僅かに震えていた。だがそれも大きな動揺ではなかった。なにかに立ち向かうように足を踏ん張ってから、あとを続ける。

 

「アスカの言っていること、凄く自分勝手なように聞こえる。だって大きな物事を左右するような力を持った上で、それを言うんだから」

 

 客観的に考えれば、アスカは強さを極めた一人として見れる。ナギ杯での戦い振りを見ていれば誰だってそう思うだろう。

 疑うようにこちらを見ている千雨に、アスカは笑いかけた。

 

「力か、どうだろうな」

 

 千雨から視線を外して、別荘内の沈んでいく夕陽に目を移す。そこで言葉を止めたのは我知らずに拳を握っていたから、それを開いて身体から力を抜く。

 反論しようとした気配を察して、遮るように続ける。

 

「完成度で言えば俺はまだ親父にも至ってないだろう。魔法ではエヴァに及んでいない。生物的な限界を言えばジャックに勝つ自信はないな。頭ではネギに逆立ちしたって足元にも届かない。機転ではアーニャに及ばず、人を纏めることに関しても千草に勝つ自信はない。剣でも全盛期の詠春に及んでいない。さて、俺に何がある?」

「でも、アスカは現に強いじゃないか」

 

 同じ否定を繰り返して、千雨が口を噤んだ。迷っているのか、単に困惑しているのか本人も判別がつかなかったのだ。

 事実、アスカはラカンに勝利し、ネギにも勝ってここにいる。そんな人物が否定しても説得力はない。それでも言葉が出なかったのはアスカの目の中にある鈍い光を見てしまったからか。

 

「俺はただ強いだけだ。個人の力なんて自ずと限界がある。一人で世界相手に戦えやしない」

 

 ノアキスでのことを思い出して、クルトとの話を思い出して、アスカは強く拳を握る。

 

「墓守り人の宮殿には明日菜がいる。完全なる世界が発動すれば明日菜は世界の機構に組み込まれることになる。世界が終わりを迎えるその時までずっとだ。そんなこと、認められるか」

 

 アスカは既に心を決めた者の静けさを漂わせ、淡々と言う。

 もう決めてしまっている。こうなった彼の心を変えることが出来るなら、最初からこうはなっていない。

 千雨も何かがしたかった。いや、しなければならない。

 世界は急な坂道を転がり始めている。このまま放置すればとんでもないことになる。それが目に見えているのに、こんなふうにじっとじていられるはずがない。何かをしなければ。

 

「私達だって神楽坂を助けたのは同じだ。一緒に」

「戦うってか? 止めとけ。こんなバカなことをするのは俺だけで十分だ」

 

 不意に、喉元に刃を突きつけられたような心持ちになった。縋るような眼で見つめる千雨の視線を振り切って、アスカは立ち上がって浜辺へと下りる。

 

「英雄なんてのは成らなくていいならそっちの方が良い」

 

 そうして、転がっていた小さな石を湖面に投げ込んだ。それはどこか、ままならぬ運命に抵抗だけは表明して見せよう、という志にも見えた。

 

「アスカは一人で英雄になる気か」

「ああ、明日菜を助け出せるなら俺は英雄だろうが何だろうがなってやるよ」

 

 もう一つ、石を投げた。

 アスカの言葉は明瞭だった。少女達が今まで見たことのない横顔で、男の声だった。やるべきことを見出した男の眼差しだった。

 

「これから先は生き死にがかかってくる。千雨達はまだ中学生に戻れるんだ。どっちかを選ぶなんて考えるまでもないだろ」

 

 作り物の星々に照らされる孤高の戦士の肖像。心も体もあまりにも強すぎて、逆に放逐されてしまったような、何故だか悲しくなってしまう光景。

 

「帝国・連合・アリアドネ―他の全ての勢力の混成艦隊が墓守り人の宮殿に向かっている。分かるか、賽はもう投げられてるんだ。テオドラ達は俺が旧世界に戻ることを許してはくれない。けど、お前達は違うんだ」

 

 その場にいた皆を圧倒する気迫の篭もった物言い。それがアスカ・スプリングフィールドの、これから辿る艱難辛苦を物語っている。

 

「栞って奴の話からすると敵の人数はそう多くない。英雄に役目を押し付けられるのは俺だけで良い。テオドラ達からも確約は取っているからお前達は麻帆良へ帰れ」

 

 『お前達』という、自分を蚊帳の外に置いた言い方に違いを思い知らされて、急所を突く針が含まれているのを感じ取った千雨は我知らず拳を握り締めた。

 

「一緒に戦ってくれるって言ってくれただけで十分だ」

 

 嘲るのではなく、蔑むのではなく、ただ確認するだけのようなアスカの口調。

 

「生物っていうのは困難から逃げるように出来ている。苦しみから、哀しみから、遠ざかりたいと思う」

 

 息も切らせず、アスカは言い切って笑みを浮かべた。

 

「無理をして、歯を食いしばって、自分を殺して、人間は――――――生物はそんなことをしなくてもいい。戦うのは英雄の役目だ」

 

 その笑顔の穏やかに、千雨は思わず言葉を呑む。アスカがあまりにも超然としていて、どこか遠い世界の人物に思えたからだ。

 

「麻帆良で待っててくれ」

 

 千雨はもう一度アスカの横顔を見遣った。

 そこになにかがあると期待したわけではない。ただ、誰もが未来を思い描けない中で、彼だけが未来図が出来上がっているという感覚は間違いなく千雨の中にあった。

 やはり自分達には見えないものが見えている。もはや疑う余地はなく、

 これがアスカ・スプリングフィールドという男なのだと、皆は認識するしかなかった。こんなに近くにいるのに手が届かないという寂しさと共に。

 分かっているつもりだったのに、それを錯覚と思い知らせる脅威としての目の前の現実。

 この事実を認めたくないという苦渋を飲み込みながら……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 例えアスカ達がどれだけ悲壮な覚悟を持っていたとしても、『完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)』にとっては何の意味も成さない。ただ知ったとしても「それがどうした」と一笑に付すだけの代物であっただろう。

 何故なら彼らは造物主(ライフメーカー)使徒(人形)であり、世界に絶望した者達で構成されている。

 『墓守り人の宮殿』の最上階にて、窓の前に備え付けられた木製の長椅子に座って窓枠の縁に頬杖をついた学生服を着た白髪の少年は、ゆるりと長い脚を組みかえる。

 彼の名はフェイト・アーウェンルンクス。

 その整った顔立ちに浮かぶ表情には、まだ幼さが残っている。恐らく体格や容姿から見て十代後半だろう。しかし、少年らしい明るさや若いエネルギーのようなものはない。彼からは、『熱』というものは一切感じられない。

 乱雑に刈られている白髪にやや隠れるように見える瞳も冬の海のように青い。更に最も印象的なのが肌の色だ。まるで死者のように病的に青白かった。青白く均整の取れた顔立ちに浮かぶ表情は人形のように薄い。

 体格は異常なまでに細く、戦士が持つべき肉体には見えない、着ている学生服のように、学生をやっている方が釣り合いが取れている。だが、それでもどんな屈強な軍人よりも彼は強かった。鞭のようなその体は、外見からは想像も出来ないような高い戦闘能力を秘めている。

 頬杖を付いているフェイトは、数時間前に戦ったジャック・ラカンの言葉を思い出していた。

 

『けど、楽しかったろ。もちっと楽しめや』

 

 二十年前から連合・帝国上層部がひた隠しにする魔法世界の秘密。魔法世界の無慈悲な真実、絶望に沈み神を呪うもおかしくはない真実。魔法世界の住人であるジャック・ラカンには避けようのない現実だったはずだ。

 フェイトが見てきた者はみな前者だった。

 何故、真実を知りながら二十年もの長き間、この意味無き世界をそんな顔で飄々と歩み続けられるのか問うた。

 

『なんだ。テメェ、んなこともわかってなかったのかよ。真実? 意味? んなことは俺の生には何の関係もねぇのさ!』

 

 どんなラカンの攻撃もフェイトの前では無意味だった。結果は決まっていた。

 事実、ラカンは塵となって肉体は消滅し、その魂は『完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)』へと送られていった。だが何故か、ラカンの言葉はフェイトの脳裏にずっと残っている。

 ずっとずっと、呪いのように耳の奥で木霊するラカンの声に重なるように背後から聞こえてくる足音。その主がフェイトの斜め後ろで歩みを止めたのを聞いて、重く静かに口を開いた。

 

「何か用かい、デュナミス」

「貴様の従僕から頼まれたのだよ。主が浮かない様子だとな」

 

 影法師の如く揺らめくローブを身に纏う偉丈夫であるデュナミスは心底どうでもいいことだとばかりに口遊む。

 

「そんなことで来たのかい。君がそんなに殊勝な男だとは思わなかったよ」

「まさか! 奴らのことなどはどうでも良いが、同じ使徒の貴様の様子は私も気にしているのだ」

 

 フェイトの従僕――――調達をデュナミスは自然と見下している。否、そこらにいる虫けらと大差ない意識しか向けていない。

 

「彼女らも完全なる世界の構成員で僕の部下だ。そんな言い方は止めてもらおう」

「考えておこう」

「ふぅ、前も同じことを言っていたね。変えるつもりがないならハッキリと言ったらどうだい?」

「分かっているなら気にしなければいい」

 

 デュナミスにとって、魔法世界に生きとし生けるもの全てに対して万事この有様。至高の主を頂点として使徒を同格とし、それ以外を虫けら以前と認識している。誰よりも主の使徒であることを誉れとしているデュナミスは優先順位と価値観が余人とは違い過ぎる。

 

「所詮は奴らもいずれ消え去る幻でしかない。そんな者らに気を使う必然性は認めんが、いないよりかはマシであることは事実ではある。口にして欲しくなければ、貴様も話題に出さぬことだ」

 

 あくまで己は人形であると規定し、そのままであるから味方である調達に対する認識は精々が役に立つ虫けら程度。完全なる世界はクルトと高畑によって組織はほぼ壊滅状態なので、虫けら程度でもフェイトに対する忠誠は本物だからいないよりはマシと本気で思っている。

 

「それで普段は無口を装っているなら、とんだ役者ぶりだよ」

 

 少女達の前では無口を装って外面を取り繕うが、主の役に立てないのならば疾く死ねという態度をフェイトの前では隠しもしない。

 今回もああだこうだと彼にとってはどうでもいい話を延々と聞かされるよりは、現状唯一の同志と見ているフェイトといる方がマシだと判断したのだろう。

 

「姫巫女の奪取に成功し、遂に計画が実行される。長い雌伏の時から解放されるのだ。小娘数人の囀りぐらいは我慢しよう」

 

 そこには、やや陶酔するような響きがあったが直ぐに苦い物も混ざった。

 

「だが、ジャック・ラカン(古き英雄)の排除には成功したものの、アスカ・スプリングフィールド(新しき英雄)は必ず来る」 

「だろうね」

 

 フェイトは薄い唇を動かして言葉を紡ぐ。

 

「主の係累であることは理解しているが墓守り人の考えることは分からん。あの者さえ邪魔しなければアスカ(英雄)を排除出来たものを」

「協力はしてくれているが厳密には仲間というわけじゃない。墓守り人には墓守り人の考えがあるんじゃないかい」

「だとしてもだ。主の不利益になるのならば排除もするが、墓守り人がいなければ魔界の協力は継げられん。悩ましいものだ」

 

 本来の予定では総督府への襲撃の目的は、嘗ての英雄ジャック・ラカンと新しき英雄アスカ・スプリングフィールドの排除であった。

 前者についてはフェイトが果たしたが、後者に関しては墓守り人の邪魔によって為せなかった。

 

「邪魔をした自覚はあるみたいだから、これ以上の介入はしないと明言していたんだろ」

 

 介入すれば自分を如何様にでも扱うといいと暗に込めた墓守り人の目的が読めないが、計画の成就を目前としているフェイトとデュナミスには邪魔さえしなければどうでもいいことである。

 

「その所為でアスカ(英雄)を生かしてしまった。あの二人の息子である奴ならば必ず我らの計画を邪魔しようとするはずだ」

 

 姿を現したとの情報は未だ彼の手元に届けられていなかったが、フェイトとデュナミスの中ではアスカが邪魔をしていくるのは規定事項のように眼前に横たわっていた。

 

「紅き翼の後継か。言い得て妙だろうね」

 

 特にフェイトには絶対の確信があった。

 ゲートポートの一件に始まり、新オスティアでの邂逅を経て、ハワイでの初対面時に互いに相容れないと直感した理由も分かっている。

 

「紅き翼もとんだ厄災を残したものだ。どうせ表舞台から消えるのならば痕跡すら残さずにいなくなれば良いものを」

 

 デュナミスが心底気に入らないとばかりに鼻を鳴らして吐き捨てる。

 二十年前から始まった紅き翼(ナギ・スプリングフィールド)との因縁。しかし、二十年の間に当時の紅き翼の主力は大多数が死去・もしくは一線を引いているのに、その後を継いだ者達がとことんまで完全なる世界の邪魔をしてくる。

 

「きっと向こうも完全なる世界(僕達)に対して同じことを思っているよ」

 

 壊滅したはずの組織が再び蘇っているのだから思っていることは互いに同じだろうことはフェイトも想像に容易い。

 

「ふん、これもタカミチとゲーデルの所為だ! 奴らがあれほどしつこくなければ、これほどの苦労もなかったろうに」

 

 『完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)』も最盛期には十万に届く大規模組織だったにも係わらず、今ではフェイトと当時の唯一の生き残りであるデュナミス、成人すらしていない小娘五人のみ。

 

「タカミチ一人ならばどうにかなった。問題はメガロメセンブリア本国が温存していた精鋭部隊とゲーデルの組織力だ」

「それで追い詰められて取ったのが死んだふりってのは情けなくないかい?」

「これも兵法の一つだ。卑怯などではない」

 

 大戦を生き延びた『完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)』残党を『悠久の風』タカミチ・T・高畑によって蛇のようなしつこさで(しらみ)潰しに狩られた。更にメガロメセンブリア本国が温存していた精鋭部隊とクルト・ゲーデルの組織力によって追い詰められ、全滅寸前。

 何とか死んだフリをすることで全滅したと思い込ませることに成功した。現状を見れば実際、殆ど全滅に近かったが。

 

「旧世界でテルティウムの生存を知られたのは痛手だった。あの所為で行動に制限がついてしまった」

 

 旧世界・ハワイで主の捜索にて各地の依頼を請け負っていたフェイトが麻帆良にいた英雄の遺児と接敵、交戦したことで完全なる世界が未だ存続していることがバレた所為で行動に制限がついたことをデュナミスが皮肉る。

 

「お蔭で黄昏の姫巫女の存在も知れたんだ。今更、嫌味を言うのは止めてくれないかい」

 

 デュナミスの鉄面皮は変わらないが、個人で動くフェイトと違って組織としてのかじ取りをしなければならない身としては愚痴の一つも言いたくもなるのだろう。

 

「嫌みではない。黄昏の姫巫女を発見したことは素直に称賛している。但し」

 

 主の所在と共に急務であった黄昏の姫巫女の在り処を知れたことは望外のことであった。崩壊が間近に迫る世界のことを考えれば、例え英雄の誕生を手助けしまったとしても十分に割に会う。

 

「新しき英雄を未然に殺せていれば、な」

「…………」

 

 まるで運命に護られているかのようにアスカは生き抜いて来ている。

 ハワイから始まり、フェイトが差し向けたヘルマンに続き、ゲートポートでの接敵も、そして総督府への襲撃に至るまで、とことんまで何かに導かれるようにして生きる道を駆け抜けている。

 油断もあったし、何回も横やりやアスカへの救援があったというのも理由の一つではある。

 

「しかし、彼がいたからこそ姫巫女も魔法世界に来たんだ。何も悪い事ばかりじゃない」

 

 新たな敵を生んだことは間違いないが、態々贄が自分からこっちの世界に来てくれたのだ。ランダム転移に巻き込まれた後に見つけた後は誰かしらが傍にいて奪う機会がなかった。その機会があったのはナギ杯決勝後。

 

「今更過ぎたことを悔やんでも意味はないよ。姫巫女の奪取が成功し、機能を停止していた造物主の掟(コード・オーブ・ザ・ライフメカー)も起動できた。止まっていた歯車を動かす時が来た」

 

 一人でいた油断をついて、黄昏の姫魅子である神楽坂明日菜を確保して墓所深奥に至り、『造物主の掟(コード・オーブ・ザ・ライフメカー)』を手に入れた。二十年前に成し得なかった大計画を成就しようとしている。

 

「新たなる英雄もまた同時にだ。全く、忌々しいばかりだ。奴ら英雄は何時も我らの邪魔をする」

 

 だが、歴史は繰り返されると言わんばかりに二十年前同様に自分達に立ち塞がる者がまた現われた。

 それがアスカ・スプリングフィールドであると、ハワイで、ゲートポートで、二度に渡って互いを認識した瞬間に根拠も証拠もなく第六感にも似た部分が感じ取ったのだ。……………敵、だと。

 

紅き翼(ナギ・スプリングフィールド)の跡を継いだアスカ・スプリングフィールドか、主の使徒(人形)たる僕達か、そのどちらかが魔法世界の行く末を決める。それでいい」

 

 まるで運命の女神に選択権を委ねるような口ぶりであったが、無論彼は女神の愛籠を座視して待つつもりはない。

 

「ふっ、戻って来てから覇気がないかと思えばこれはこれは。しかし、貴様に奴を倒せるか?」

「彼はジャック・ラカンに勝ち、僕は造物主の掟(コード・オーブ・ザ・ライフメカー)が無ければ負けていた。戦っても勝つことは難しいだろう」

 

 それを聞いて、始めは理解できず不審そうに眉を顰めていたデュナミスの顔色が、やがて一変する。

 ナギ・スプリングフィールド杯の中継を二人も見ていた。

 準決勝ではナギ・スプリングフィールドに並ぶジャック・ラカンを真っ向から捻じ伏せて見せた。 

 決勝ではフェイトですら初見で相対すれば成す術もなく破れたかもしれない技法を持つネギ・スプリングフィールドをアスカは越えた。

 過去を越え、現代を退けたアスカは間違いなく当代最強。

 クルトの会談の中継を見て、確信を強めた。

 何かに導かれるようにアスカとフェイトの激突は必至で、もしかすると『完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)』は全滅するかもしれないが、計画さえ成功すれば彼はそれでも構わなかった。

 アスカさえ潰れてしまえば、後はどうとでもなる。

 

「それでも勝たなければならない。億千万の敗者達の為に」

 

 フェイトの瞳から放たれる光には、女神の襟首を掴んで足元にひれ伏せさせるような気配さえあった。

 どちらが世界の命運を握るか。

 勿論、自分達である、という自負がある。その自信を裏付けるように無意識に撒き散らされた獰猛過ぎる覇気が柱や床、窓に次々と罅を入れていく。 

 

「ならば、どうする?」

 

 問いにフェイトはデュナミスを見て、互いの視線が交わった。

 漆黒の肌に埋め込まれた赤い瞳に、その者の本質を見抜かんとする鋭い光が宿っていた。その瞳を真っ向から見つめ返して、フェイトは「僕を再調整してくれ」と言った。

 

「……なに?」

 

 デュナミスの顔が、微速度的な慎重さをもって硬くなる。 

 どういう意味か、と探るような視線を向けてくるデュナミスに、フェイトは唇を吊り上げながらも微笑とは懸け離れた笑みを浮かべて答えた。

 

「言っただろう、今のままで勝てないのならば対策を講じないといけない」

 

 そこでフェイトの吊り上げた唇の角度が深くなる。

 

「能力を限界にまで上げる必要がある。一僕の全てを賭けて彼を倒そう」

 

 と、呟いた顔は殆ど恍惚といった表情だった。ぞくりとしたものを感じて、デュナミスは石になった唾を飲み下した。

 激烈なるその視線に縫い止められたかのように、デュナミスの体が震えた。視線の主であるフェイトは長椅子にダラリと座ったままだというのに、その体から立ち上る雰囲気は肉食獣の酷薄さを漂わせ、周囲を威圧する。

 

「覚悟は出来ているのか?」

「一戦だけ持てばいい。どうせ、アスカさえ倒せば障害はない。後はデュナミスの好きなようにすればいい」

 

 吊り上がった薄い唇から零れ出る言葉は、空気中の水分を凍結させてしまうかのように冷たかった。

 高いのか低いのか判然としない。一度聞けば忘れられない特徴的な声でありながら、心には何も残らない無機質な響きだった。

 

「アスカは必ず来る」

 

 来ないはずがない。いや、二十年前と同様の場所と環境という雌雄を決するには相応しい舞台に来ざるをえまい。

 

「君達も戦うのだろう?」

「勿論ですわ。センパイもきっと来るやろうし」

 

 そう言ってフェイトが少し離れた場所を見ると、月詠が姿を現して言った。

 

「私達もです。フェイト様に救われたこの命、どうかこの世界を救済するまで遣い潰して下さい」

 

 同じように現れた四人の少女達が跪き、代表して焔が先制する。

 少女らは、それぞれ大人に成る前に傷つけられた。だからといって、世界から除き得ない痛みや苦しみを振りまく役目につく理由も正当性も無いのだ。巨大な変革の時に、彼女らは優しい答えを出せない。

 

「彼らも全力をかけてくれる。なら、僕もそれに答えよう」

 

 少女らの宣誓を胡散臭そうに見るデュナミス、相も変わらず殺意を肌一枚に収めた月詠、瞬きもせずに凝視してくる部下の少女達の顔を順々に眺め、再び最初のデュナミスへと視線を戻して留めた。

 

「アスカは嘗ての英雄を越えて来る。僕も過去の誰よりも強くなろう」

 

 そう言うフェイトの瞳は澄んでいる。デュナミスにはその言葉に嘘の翳を見ることは出来なかった。彼はフェイトの言う話が事実だと気付いたのだ。

 

「良かろう、テルティウム。貴様を最強にしてやる」

 

 語ったデュナミスの顔はまるで、フェイトの吐き出す凍気に当てられてしまったかのように青白く――。

 

「時間はそれほど残されていない。早速取り掛かろう。なにせ」

 

 だが、フェイトはそれ以上の言葉を明確に言語化せず、ただ含みのある微笑みを深くさせるだけだ。獲物の喉笛をかっ喰らう、その機をじっと息を殺して窺う獣のような目で遠くを見ていた。

 

「――――――――――ならば、私もまた主の望みの為に全霊を尽くさねばならんな」

 

 そのデュナミスの言葉もまた誰にも聞かれることなく虚空へと消える。

 後顧の憂いを断ち、すっきりと露払いを済ませてから造物主()の念願を果たす。そこに変わりはないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜はまだ丑三つ時を数えている。

 アスカは予定通りの時間に目を覚ますと一つ一つの装具を身に付けていった。

 耳に届くのは静かに響く波の音だけで、他に届く音はない。まるで嵐の前の静けさだと、装具を身に付けるアスカは考えるともなしに考えた。

 これから世界を賭けた戦場に赴く。この判断は正しかったのだろうか、と迷いがまた頭を擡げた。この先に待っているのは、世界を救うために、世界を救おうとしている相手を倒すための戦い。大した矛盾だ。

 こんな夜中に起きて誰とも会わないまま出て行こうとしているのは、眠る間にも彼の中に高まってきていた張り詰めた内圧が、外気に乱されることを恐れたためである。

 

「――――さて、行こうか」

 

 装具を身に付けて準備を終えて、外に出るためにドアの前に辿り着いた。

 ドアを開けなければならないのに、手が石になったように動かない。ここまでハッキリと足が竦むのは何時以来かと思った。

 絶望的な戦いに向かったことは、もう数えきれない。だが、今度は完全に生還の可能性はゼロだ。激しく動悸がしていた。傷一つ負っていないのに、息が乱れた。

 

「行くぞ」

 

 自分に言い聞かせるように声を出すと、ようやく体が動いた。

 ドアを開けてウッドハウスを出ると出口の横の壁に犬上小太郎が体を預けていた。ヘルマン戦後に二年を共にした彼は何一つ変わらない。

 

「………………」

 

 絆の銀で一心同体になったこともある彼らの間に、世界を賭けた戦いに赴こうとも言葉は必要ない。

 小太郎は頷きだけをしてロフトの階段を下りるアスカの後に付いて下りる。そうするのが当然の務めだというように、この位置だけは絶対に誰にも譲る気はないと態度で示していた。

 

「私も行きます」

 

 ロフトの階段を下りきると脇に直立不動で茶々丸が立っていた。彼女の瞳には機械仕掛けにはあるまじきな逡巡が見られたが、横を通り過ぎたアスカの顔に何かを見たのか、迷いを振り払い、小太郎の後ろに付いて歩き出した。

 

「世界を救う大仕事だ。報酬は弾んでくれよ」

 

 真名は大きな戦いを目前に控えながら、その気配は凪のように静かだった。穏やかに微笑んでさえいる。余裕――――があるわけではないだろう。彼女はこの場にいる誰よりも多く修羅場を経験している。もしかしたらアスカよりも。このような危機的な状況でも凪を保っていられるだけの胆力を身につけていた。

 

「うちは明日菜の親友やもん。付いて行くで」

「必ず取り戻しましょう」

 

 砂浜に星に照らされた海が波を刻む中を一同が突き進む。やがて砂を踏み締めて進む途中で木乃香と刹那が寄り添って立っていた。彼女らは固い決意を胸に秘めた顔をして、茶々丸の両脇に並んだ。

 

「仲間は多い方が良いでござるよ」

「足手纏いにはならないアル」

 

 別荘の転送ゲートがある桟橋の前に古菲と楓が並んで立っていた。彼女らは固めた拳を突き合わせて道を譲るように両脇に寄り、二人の間を通るアスカ達の最後尾に着いて歩く。

 桟橋を歩くアスカは後ろを付いてくる者達に呆れていた。

 

「馬鹿だよ、みんな」

「その先頭を歩くアスカが一番の馬鹿やっちゅうことや」

「はっ、違いねぇ」

 

 小太郎の揶揄に笑みを返したアスカは少しばかり顔を斜め上に上げた。込み上げるモノがあったのかもしれない。

 

「「「「「「「………………」」」」」」」

 

 彼らは幾分早足、幾分大またで余所見せず、ただ前を見て無言のまま靴音を桟橋の上に響かせた。

 背後にある複数の気配を感じて絶え間なく足を前に進めながら、己一人の心の内に緩やかに沈降していった。

 アスカ・スプリングフィールドは死神の気配に敏感だった。

 年齢に似合わぬ修羅場を潜り抜け、生と死の境界を何度も彷徨って来た所為かもしれない。目に見えず、音も聞こえず、それでも骸から生命が抜け落ちる瞬間を待ち受けている何か(・・)が間近にいれば、何となくそれと察しがつく。

 とりわけ、耳元でその時を待ち侘びている死神の獲物が掛かることを想像している歓喜を感じる時は危険度が跳ね上がる。

 そして今もまた、いや、嘗てないほど明確に己の背後にいる死神が歓喜しているのを感じ取った。それが逃れようのないものだと分かってしまい、心のどこかで観念していた。きっと自分はこの戦いで死ぬことになるのだろうと。

 分かっていたからこそ覚悟もしていた。

 だからこそ、今さらそこには喪失も嘆きも在り得ない、それが道理だ。当然の帰結だ。なのに何故、歩く膝が震えるのだろうか。喉元に息が詰まるのだろうか。表情には、微かな恐れの色が混じってしまうのだろうか。

 当たり前だ、生命が死を怖れるのは本能的なことだ。ましてやアスカはまだ十二歳――――納得して生命を終えることなど出来るはずもない。

 

(本当に、本当にやれるのか)

 

 その時から隠していた恐怖が露になり始めた。踏みしめた足がそのまま奈落へと落ちていきそうな接地感のなさ。全身の細胞が逃げたい、と叫んでいた。神経が恐怖に震えていた。呼吸が苦しい。行けば戻れない。その確信がある。

 行けば会えない、もう二度と。幼馴染のアーニャにも、未だ目覚めぬネギにも、故郷で待つネカネも、指導してくれたエヴァンジェリンにも、共に笑いあった仲間にも、故郷で待っている村人達にも、麻帆良で出会って来た色んな人にも、もう二度と会うことは叶わなくなる。

 未練がないと言えば嘘になる。未練など山程あるに決まっている。強がってはいたが、内心、逃げ出したくて仕方が無い。それはつまり失うことを恐れ、未練を抱くほど大切なものがあるという証だ。

 

(でも、やるしかない)

 

 耐え難い喪失感に内心で自分に言い聞かせる。何度目かの声で何とか、自分の死は必要なことである、と自身を騙すことに成功した。

 しかし、それでも尚、彼の表情からは恐れの色は消えない。身体の震えは止まらない。なのに、アスカの足は確実に一歩を踏み出している。何を成すべきかを知っているから。

 

(……………そうだよな、死ぬ事を怖れるな、なんて誤魔化せるはずもない)

 

 強張った表情を引き攣らせて、ぎこちない嘲笑を浮かべる。アスカは自分を騙す事を諦めると、何とか恐れを表に出さないように、努めて表情を引き締める。

 次に上がった彼の表情は仮面のように無表情だった。

 関わる者が増えれば、同時に責任も増えていく。負けられない、という言葉がどんどん重みを増して気がつけば世界を背負うことになった。

 そしてアスカは微かに震える。己の背に背負った運命とやらは、ただ自らが選んだ道を突き進んだ結果として世界を背負わせる。

 怖くないと言えば、嘘になる。それでもアスカの足は、一歩一歩前へと進む。その姿は、どこかしら十字架を持って死刑場へと歩いて行った聖者を思わせた。

 死ぬのは恐ろしい。死とは、どんなものか。自己の一切が無になるというのは、どういう状態なのか。苦痛は、あるのか、ないのか、それを全て知っている。怖い。煩悶するほどに、胸の動悸が早鐘になる。

 今なら、まだ間に合うのだ。今なら、何もかもを放り出し、急流に浮かぶ落ち葉の如く翻弄される流れの外で生きていける。ならば、どうして自分は踏みとどまらず、前に行くのだろうと自問自答は続く。

 この世界に生れ落ちてから十と二年。そこそこ上出来の人生だったように思う。ろくでもないこともあったが、そこは仕方がない。

 考える度に、アスカの心に様々なものが浮かぶ。辛い時、苦しい時、常に自分を励まし支えてくれたネカネ、自分に道を指し示してくれたアーニャ、己の半身ネギ、麻帆良で京都でハワイで出会った多くの人達もあったりもした。

 それらの思い出が、繰り替えし、繰り返し、幻影のように脳裏に浮かぶ。幸福の記憶も、受難の過去も、大切な歴史だ。分け隔てなく、思い浮かぶ。

 目から熱いものが零れた。

 求めるならば、もう少しだけ、楽しい時間をみんなと一緒に過ごしていきたかった。望めるならば、もう少しだけ、そのような時間を過ごしていきたかった。けれど、もうそのような贅沢は叶わない。

 あんなにも忌避していた日常の一コマが、ここまで追い詰められて他の何にも増して輝きを放ち始めた。暗闇の中でだけ輝きを放つ月のように。それらが失われてしまう。これまでのことも、関わった人たちの想いも。どうする、と自問し、再び自分の掌に目を落としたアスカは、一つしかない自答を得て笑みから肩を震わせた。

 

(そうか、そういう、ことだったのか)

 

 反問し、黙々と歩んでいたアスカに、ようやく一筋の光明が見え始める。ともすれば、悲壮な決意に心を焼かれそうになっていたアスカの肩から、ふっと力が抜けた―――――そうなのだ。なにかを守りたい。なにかを救いたい。そこに、理由はいらない。理由などない。守りたいから、守る。救いたいから、救う。そこに沸き起こるのは、無償の気持ちだ。

 終わった後の事を想像してみる。

 

――――――答えは、簡単に見つかった。

 

 世界中の人間が笑顔で平和に暮らせる時代が訪れたとして、そこにアスカの知る人たちがいないことが、明日菜が笑っていないことが認められない。

 特別な理由など、なにもない。これから自分が行おうとしているのは、自然に芽生えたごく当たり前の気持ちに、ただ真っ直ぐに添うだけのことなのだ。

 別荘の出口に近づいたアスカは、どこか晴れやかだった。

 

『待っててね。直ぐ戻るから』

 

 不意にあの時に別れた明日菜の声が聞こえ、その瞬間、アスカの思考は戦いへの道とは別の空間を浮遊していた。何故、明日菜との会話を思い出したのか、彼自身にも理解できないでいた。

 それは、過去に一度、振り払ったことであった。戦いを止めるという誘惑を。戦いを止めて人並みの生活をする。その夢想がどれほど甘美なことか。安寧と悠久の時の流れに身を任せていくことの、どれほど穏やかなことか。差し伸ばされた手を振り払った生活がどれほど…………。

 

(感傷だ)

 

 アスカは、ぎり、と奥歯に力を込めて、その幻夢を粉々に噛み砕いた。

 今の彼にそれは出来ない。元を正せばこの結果に至ってしまった原因の一端はアスカにもある。その責任は取らないといけない。望みは、増やそうと思えばいくらでも増えていく。きりがない。既に幸せと言える時を十分に過ごしたのだから、それで良しとしよう。

 思いを封じ込め、脇へと押しやる。心の奥に眠る―――――確かに存在するもう一つの面を前へと持ってくる。そして無理矢理に笑った。不敵な笑みを、戦士に相応しい笑みを。

 やれやれ、と声が返った。自分の中にいるいるもう一人の誰かが苦笑を浮かべたような気がした。

 前に向かって続ける歩みのどこにも震えはなかった。最早、成すべきことを成すのみという、厳粛な気持ちが彼の中に満ち、想いはは穏やかですらあった。

 今、アスカは自分が強いのを感じていた。自分の中に強さを見出すことが出来た。経験が、この強さを得さしめたのであろうか。それまで彼を支配していたのは不安だった。今、不安は極小さく、片隅に退いていた。小さくならなかったのは寂しさだった。いるべき人がいない寂しさが。

 

「全員いるのか」

 

 桟橋の先にある転送ゲートには別荘にいる全員が揃っていた。

 視線を目の前の顔ぶれに向けた。順に彼女達の顔を順に見ていく。千雨がいる。高音がいる。愛衣がいる。美空がいる。ココネがいる。

 アリアドネ―戦乙女騎士団の夕映、新オスティアで静養中のネギと付き添いののどかは別荘内にいないので、別荘内にいる全員がこの場に集まっていることになる。

 

「みんな、お前の行動は見え見えやっちゃうことや」

 

 後ろにいた小太郎がアスカの肩を小突く。

 

「折角の大舞台やんけ。一人でケリをつけようなんざ、せこすぎるちゅうねん」

「セコイってなんだよ。俺はだな、みんなの為を思って」

 

 小太郎の物言いに困惑しているアスカに木乃香が笑った。

 

「うちらは世界がどうこうやなくて明日菜を助けたいんや。アスカ君が認めてくれんでも行くで」

「明日菜さんの友人として放っておくことは出来ません」

 

 笑う木乃香と意気込む刹那。

 世界の為ではなく、ただ友の為にと戦場へと赴く覚悟を滲ませる。

 

「学友の危機を見過ごすわけにはいかんでござる」

「ここで退いては女が廃るアル」

 

 イマイチ本音が見えない笑みを浮かべる楓とやる気満々な古菲。

 

「アスカさんが行くならばどこまでも付いていきます。マスターもそれを望まれています」

「連合や帝国から莫大な褒賞が出るんだ。この仕事を放りだす気は無い」

 

 本音を隠して建前を語る茶々丸と世界でも学友の為でもなく金銭の為であることを隠しもしない真名。

 

「私はさっさと麻帆良に帰りたいなぁ、なんて」

「美空、空気読んで」

 

 麻帆良に帰りたい美空をココネが宥めている。

 

「世界を巡る戦いに私の力不足は認めざるをえません。くぅ、どうして私はこんなにも弱いのですか」

「まあまま、お姉さま。皆さんの留守を守るのも大切な仕事です」

 

 傷はないものの些か憔悴している様子の高音と彼女を抑える愛衣。

 

「ここまで来たんだ。今更、アスカと神楽坂を置いて麻帆良には帰れるわけがねぇ」

「しかしだな、千雨」

「なにも全員で行くってわけじゃない。高音さんと佐倉も守ってくれるって言ってくれた。戦えない私達は大人しく待ってるよ」

 

 それを聞いて、アスカは再び瞼を閉じた。

 ゆっくりと息を吐く。とても長い溜息だった。体中の空気を出し尽くすような、本当に本当に長い溜息であった。たった十秒ばかりに、これまでの人生全てを流し込んだみたいな、少しだけ嬉しそうな溜息だった。

 

「まだ引き返せるぞ」

 

 アスカとて、今更彼女達の想いがこの短時間で翻意するとは思っていない。だが、既に一線を越えているアスカと違って彼女達はまだ線の向こう側にいる。

 今回の戦闘は彼女達の想像している以上に激烈になるだろうし、最悪の場合、彼女達自身の生命が失われるか、或いは手が血で汚れ、こちら側に来てしまうことも考えられる。そうさせたくはない。

 事態は刻一刻と破滅への道を突き進んでいる。相手はアスカと同格クラスの相手が複数。きっとアスカには他者を気遣うだけの余裕すら今回の戦闘では得られないかもしれないのだ。故にアスカは敢えて最終確認のように尋ねたのである。

 

「ここで背を向けたら、うちは一生後悔することになる。この選択の結果がどんなものであってもうちは受け入れる。アスカ君は自分の心に従って」

 

 否定しようと思った。だが、それを否定するのは間違っている気がする。代わりに木乃香は、そっと囁いた。

 

「絶対に明日菜を助けような」

 

 言い切った黒色の瞳は、まるで天宮を支える不動の石だった。

 

「覚悟してくれ、なんて格好のいいことは言わない。こんな馬鹿なことに付き合って死ぬ義理はない。全員、死ぬな」

 

 最後は祈るような切実さを漂わせ、アスカは口を閉じた。しんと静まり返った部屋に、それぞれの中に反響した言葉を受け止め、咀嚼する一同の沈黙が降り積もってゆく。

 

「当然、アスカも死ぬなよ」

「大丈夫だって。心配しないでくれ」

 

 千雨とアスカの声が沈黙を貫くかのごとく響き渡る。それが、二人の抱いた覚悟の室であるようにこれまで聞いたことがないほど、硬く、重かった。そこには断固とした意志の力が感じられた。  

 

「明日菜は必ず救い出す。世界だって救って見せるさ」

 

 アスカの声を聞いた千雨は、彼の成すことがそれほど無理なものではないような気がしてくるのを感じた。理屈ではない。何故そんな気持ちになったのか本当に不思議な気持ちだった。

 

「俺が、やるんだ」

 

 右腕を握り締め、アスカは一語一語噛み締めるかのように言葉を紡いだ。少女達へ向けてというより、内なる自分自身に対する決意の言葉だったのかもしれない。

 戦うのだ。世界のために――――――というと大げさな気もするが、本当はそんなところではない。

 

「勝算はあるんか?」

「あるに決まってるだろ。勝つのは、何時だって俺だ」

 

 重たい沈黙を挟む間もなく小太郎から発せられた愚問に対する返答が耳に届いた。

 

「アスカ君……」

 

 木乃香はその声から信念の固さを感じていた。

 信念というのは貫かなければならないものではない。何があっても貫きたいと思う強い気持ちのことを言うのだ。逆に信念のままに進み過ぎて破滅へと至らんとする危うさもあった。

 

「卒業式」

 

 ふと、アスカの決意を青い顔をして聞いていた千雨が唐突に言い出した。

 

「みんなで一緒に学校を卒業しよう。一人でも欠けたら許さないからな!」

 

 千雨の双眸は、ハッとするほど健気なものだった。

 

「それだけじゃない。戦いが終わったら、助けた神楽坂を囲んでみんなでパァーッと騒ごう」

 

 千雨の瞳には、本気で信じることの意味を知っている者のみが持つ力強い光があった。アスカのように敵と立ち向かわないからといって、どうしてか弱いだけの少女だと決めつけてしまったのか。

 彼女も戦ってきたのだ。不安に押し潰されまいと、必死に歯を食い縛って耐えてきた。運命に立ち向かおうとしている戦士が、ここにも一人いたのだ。

 アスカ派自分の迂闊さを、傲慢さを恥じた。出口が見えない孤独感と戦うことは、誰にもでも出来ることではない。全てを放棄して死んでいくよりも、ひたすら待ち続ける方が辛いこともあるのだ。

 

「パーティやるんやったら、世界なんて救うんやから世界規模でやろうや」

「それ、ええな。みんな呼ぼう。クラスのみんなもお父様達や知り合いみんな」

「私も微力ながらお手伝いさせてもらいます」

「準備が捗りますね。マスターもきっとお喜びになられるでしょう」

「五月に頼んで超包子で料理を作ってもらったらどうアルか」

「どうせなら魔法世界の人達も招待してはどうでござろう」

「そうなると生半可な会場では収まり切らなくなりそうだな。金勘定も大変そうだ」

「英雄を讃える会となれば、いっそのこと麻帆良を貸し切った方が」

「お姉さま、流石にそれは暴走し過ぎでは」

「美味しい料理……」

「なんでもいいから早く帰りたい」

「全部終わったら、また前みたいに学校へ行って…………昔みたいになれるよな」

 

 みんなが精一杯の笑顔で互いの笑顔の奥にあるものに触れないように言葉を続ける。嗚咽にも似た荒い息遣いをアスカの耳に響かせた。

 

(強いな、みんな)

 

 アスカは皆の言葉を別世界の人の言う事のように感じた。それでも少女達の声にはアスカの煩悶を吹き飛ばす勢いがあった。

 

「ああ、きっと必ず昔のように戻す。戻して見せる。パーティーして学校に通って、みんなで卒業しよう」

 

 そういう道もあるはずだと思おうとしたが、まったく実感が湧かなかった。他のみんなはともかく、自分にはそういう選択肢は残されていない。

 濡れて光る瞳を見返し、みんなともっとたくさん話しをしていればよかったな、と苦い感慨を噛み締めたアスカは、千雨に応じて笑みを返した。何とも言えぬ、噛みしめるような声だった。もう戻れぬ故郷を思い返す旅人の声に似ていた。

 上手く笑えた自信はなかったが、明日菜を含む皆を麻帆良に戻すことこそが自らの役目だとアスカは分かってきた。

 アスカの歪んだ笑みに千雨が息を呑んだ。

 

「絶対だからな! 約束守らなかったら針千本飲めよ!」

 

 微かに息を呑んだ後、彼女は精一杯、これまでの人生で一番の笑顔で細い糸が千切れないか確かめないように告げた。

 きっとみんなも分かっている。みんなでハッピーエンドなど、ありえないということは。それでも敢えて口にせずにはいられなかったのだろう。誰だって奇跡を信じたい――――――こんな時は。

 

「それは怖いな」

 

 アスカはその約束は決して守れないと知っているからこそ、そう言うしかなかった。

 約束を守るという言質が出ない。これが今生の別れになるかもしれない、という予感が千雨の中に湧き上がった。

 アスカは自分がきっと生き残れないと予感していた。やり残したことは数多くある。しかし、それを投げ打ってでもやらなければならないことがあった。

 これが最後の戦いになるだろう、となんとなく彼はそう思った。失敗は許されない。未来を守りたいと思った。そのために、この命を使おうと。それでも不思議と悲壮感はない。

 弱かった自分、そして泣いてばかりいた過去の自分を受け入れ、自らの意志で歩んできたのだ。

 

「あれはしないんでござるか?」

 

 更に言葉を言い募ろうとした千雨より先に楓が言った。

 

「あれ?」

「古は知らないでござろうが、修学旅行の時にこうアスカが言っていたのでござるよ。『俺達に出来ない事なんてない』と。拙者はあの誓い文句が好きでござってな」

 

 少しワクワクとした様子の楓がハワイの戦いには参加しなかった古菲に説明する。

 

「私も少し、あの言葉がないと気合が」

「じゃあ、ここでみんなでしようや。ほら、集まって集まって」

 

 頬を染めた刹那が主張すると木乃香が賛同して皆を円形に集め出した。

 

「あ~、なんか漫画とかであったね。こんなシーン」

「最終決戦前に主人公と仲間が誓い合うやつって、定番ですけど燃えますよね」

「少年漫画的な?」

「そんなのがあるのですか?」

「お、高音さん。ちょっと興味あり?」

 

 アスカを中心とした円陣を組んだ中で隣り合った美空・愛衣・ココネ・高音は楽し気な笑みを浮かべる。

 

「ほれ、アスカ。音頭取れ」

「なんで、俺が……」

「何時も言い出しっぺはお前やろが」

 

 小太郎に促されるも自分の仕切りではないのにこのような状況になって戸惑うしかないが、全員から期待に満ちた目で見られると安易に断るわけにもいかなくなる。

 

「え~、あ~、こういう時になんて言ったら分かんないんだが」

 

 今までは責任を知らず、その場の勢いと流れで突き進んできたので改まって注目されると緊張して言葉が出てこない。

 

「これは明日菜を取り戻す戦いで、これからの魔法世界を左右するものでもある」

 

 普通ならば後者の方が大事だがアスカは敢えて前者を強調することを口にした。

 

「敵は巨大だ。嘗ての英雄は誰もいなくて、絶望しても何もおかしくない」

 

 完全なる世界も大戦期に比べれば遥かに弱体化しているが、こちら最強クラスに到達しているのはアスカだけ。途中の邪魔も必ず入るだろうし、不安要素は多い。

 

「諦めるなら今の内だ。引き返すなら今しかない。残りたい者は残れ。止めはしないし、その方がきっと良い。これから向かう場所は戦場だ。命の保証なんて出来ない」

 

 この中にあっても古菲と真名にも及ばずに戦力不足を通知された高音と愛衣が少し悔し気に顔を伏せた。全員で行けばその分だけ守りに手を割かざるをえないので、残って非戦闘員を守る者も必要になると、理屈では分かっていても辛いものがある。

 

「それでも付いて来てくれるなら、俺が勝利を保証する。明日菜を助け、世界を救って見せる。なんたって」

 

 この戦いは神の定めた運命なんかじゃないと、人間には自身の戦いの結末を変える力があるはずだと。自分がこの日のために生まれてきたような不思議な使命感が、アスカを駆り立てていた。それでもアスカは何かに祈るようなことはしなかった。祈って何かが起きるのなら、とうに起きているはずだったからだ。この世に救世主はいないから、自分なりのやり方でいくしかない、そういうものだ。

 

「俺に出来ないことはない」

 

 拳を斜め前に突き上げる。真似をして全員が拳を突き上げる。

 ココネは絶対的に身長が足りないが突き上げられた拳が一点に集まり、アスカも胸が熱くなった。

 何度も繰り返し口にし、その度に叶えて来た誓いの言葉。その時には何時もネギとアーニャが共にいた。あの二人がいないことがとても寂しかった。

 

「俺達に出来ない事なんてない!!」

 

 アスカの内側から火が燃え上がり、周囲に伝播していく。その火は、千雨に、木乃香に、刹那に、楓に、古菲に、真名に、茶々丸に、美空に、ココネに、高音に、愛衣に、そして小太郎に灯り、たちまち燃え上がって炎となった。まるで辺りの気温が上がったようだった。熱は互いに放射し合い、力強い渦となった。

 

「「「「「「「「「「「「「俺達に出来ない事なんてない!」」」」」」」」」」」」」

 

 異口同音に叫んでご満悦になっている者の中で一際強く拳を握ったアスカが腕を下ろそうとして、咄嗟に千雨はその手を掴んでしまった。

 

「行って来る」

 

 言って異様に強い力で動いたアスカの腕から千雨の手が離れていた。背中を向けて歩き出したアスカを見つめる。

 あまりにも頼りない亀のように鈍い歩み。背中は直ぐそこ。手を伸ばせば今なら届く。追いかけようと思えば、幾らでも出来ただろう。だが、千雨は動けなかった。自分の身を省みない人間を止めるだけの強い理由と想いを千雨は持っていなかった。

 

「アスカ!」

「アスカ君!」

「アスカさん!」

 

 背後から涼やかな声が追って来たが、彼はもう振り返らなかった。もう言葉はいらない。受け取るべきものは、全て受け取った。もはや後には引けない。振り返るつもりもない。ただ、前へ進むだけだ。 

 千雨は決して振り返ろうとしない背中を見つめれば見つめるほど、ひどい胸騒ぎがした。

 あの背中は進み続けて二度と戻っては来ないという、思い込みに近い感情を異様なほど強く感じていた。

 或いは苦しく、或いは悲しく、或いは甘酸っぱい感情であった。

 ぎゅ、と唇を噛む。自分が耐えられるように、この身が引き裂けてバラバラになってしまわないように。一体、何時の間に自分はこんな感情を覚えたのだろう。覚えてしまったのだろう。

 

「アスカと出会えて良かったよ」

 

 ゲートに辿り着き、輝いて転移する寸前に千雨が言った。

 会えて良かった。千雨はその気持ちを噛み締めた。ポロリと零れた瞳にアスカは面食らった思いでその顔を見返した。潤んだ瞳に見据えられ、予想外の疼きが胸の底に走ったが、立ち止まるな、と命じる頭の中の声の方が強かった。

 

「俺も、みんなに出会えて良かった」

 

 アスカが震えた唇で早口に言った直後、姿が消えた。魔法世界の未来を懸けた戦いの場所へ転移した。

 パズルのピースは最後のアスカの選択によって全て揃った。噛み合った運命の歯車は、いま敢然と回り出し、最後の刻を目掛けて唸りを上げて加速する。選択は成された。後は己を信じて成すべきことを成すだけ。

 そして時計の針が午前零時を指し示す。魔法世界の命運を賭けた六時間が始まる。

 

 

 

 

 







次話より最終章 英雄編『第79話 英雄行進』


 


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第七章 英雄編
第79話 英雄行進



最終章、開幕です




 

 

 

 

 

 雲が走り、土の色が風の帯の中に渦巻いている。

 新オスティアに駐留している全てを駆り出した防衛艦隊の中央に位置するアルビオン。広く張り出した翼、造波抵抗を完全に無視した全体の形状。そして何よりも奇妙だったのは、その船が空中を音も立てずに進んでいる点だろう。

 艦の頭脳とでも言うべき艦橋に新オスティア総督クルト・ゲーデルの姿があった。

 クルトの眼は、二十年前の大戦末期から魔力が枯渇している地域に向けられている。

 

「たった数時間で一度は落ちた島々まで浮き上がっている。これは完全なる世界が何かしようとしていると見て間違いないでしょう」

 

 墓守り人宮殿を始めとして、二十年前に魔法の使うことの出来ない不毛の大地になって墜落した島が魔力の奔流の影響で浮かび上がってしまっていた。

 クルトの脳裏を過るのは忌まわしくも愛おしくなる二十年前の光景か。

 

「ですが、まさかこうやって再びオスティアが浮かんでいるところを見られるとは」

 

 こんなこともなければ喜ばしい光景ではあるのだが、ただ喜んでばかりもいられない。艦橋から空の上を見れば、天空に視覚化されるほどの魔力の川が流れている。

 このオスティアの島々を押し上げた巨大な魔力溜りの影響が魔法世界全土に広がっているのは各地からの情報で掴んでいた。

 

「現状の被害は?」

「世界的に多少の混乱が見られるようですが今のところはまだ何も」

 

 光り輝く魔力の川は連合のみならず、帝国やアリアドネ―などの世界の至るところから確認できるという。幻想的ではあるが、明らかに異常と分かる現象に世界の人々の心に恐れを抱かせた。

 

「空以外に異変は見られませんからね…………各艦の連携は密に。特にリカード議員やテオドラ皇女、セラス総長とのホットラインは切らないように」

「了解です」

 

 何かで問題があった時に把握、もしくは対処するにはホットラインが必要不可欠。元老院の議員であるリカード、ヘラス帝国の第三皇女であるテオドラ、アリアドネ―の総長であるセラスとは常に話が出来るようにしておかなければならない。

 

「まさか私がこの混成艦隊の暫定的なトップを任せられるとは……」

 

 この異常事態にオスティアに駐留していた艦隊を緊急発進させ、原因と思われる墓守り人宮殿の空域にやってきた混成部隊は指揮系統を一本化するトップを決めなければならなかったのだが、どの勢力が担おうとも後で角で立つので新オスティアの総督であったクルトが暫定という形で引き受けざるを得なかったのだ。

 中立国であるセラスも適任であるのに、この地がオスティアという理由だけでトップに任命されたのだからどう考えても面倒事を押し付けられたに過ぎない。

 

「そ、総督! こ……これは! ぜっ前方に敵影多数!」

「何!?」

 

 オペレーターの唖然とした声が艦橋に落ちる。艦橋に詰めていたクルトもまた、背筋に生じた冷たい汗を感じながら、目前を覆い尽くす敵集団を見つめた。

 

「て……敵集団総数計測不能……! 概算で五十万を越えています!!! 更に数は上昇中!?」

 

 艦橋に絶望的な沈黙が垂れ込めた。

 敵集団の数は、波濤の向こうに凄まじい容量の海水を抱える大津波のようだった。陸地全てを洗い尽くして呑み込んでしまう、最後の大審判の災害だった。まるで、生まれた時からのありとあらゆる記憶を奪われたかのように、鍛えられた兵士達の誰もがただ呆然と硬直した。それほどに戦力差があり過ぎる。

 

(こ……これはッ非常にマズイですね!!)

 

 前大戦の焼き増しのような光景を前に、クルト・ゲーデルは歯噛みを覚えた。

 前大戦の時は十分な準備と戦力を整えての戦いであったのに比べ、今回の戦力はその十分の一にも満たないとなれば予想だにしない状況に頭の中が真っ白になる気分を味わった。

 視線が外に吸い寄せられ、動かなくなる。「総督……!」と低く叫んだ少年執事がこちらを見たようだったが、反応する神経も働かなかった。迎撃の指示、艦隊移動、新オスティアの避難勧告とすべきことは山ほどあるのに、喉に何かが詰っているかのように奥から言葉が出てこない。

 混成艦隊の兵力は合わせても一万に届くかというところだ。五十倍の敵に敵うと考える方がおかしい。

 

「タカミチの方はどうなっている? 援軍は!」

「いえ、まだ何も……」

 

 この緊急事態に一時休戦して共にアルビオンに乗り込み、通信室で各国に渡りを付けている高畑に一縷の望みを託すも、たった五時間足らずで国が動けるはずもない。

 二十年前の再現とでもいうべき観測データは各国に送られているが会議を開き、軍を派遣するにはあまりに時間が短すぎる。

 隠されていた真実を暴いたクルトではなく、紅き翼の高畑が矢面に立って動いてくれた方が融通が利くだろうと目論んだが事態の進行が速すぎる。

 

「敵総数百万を越えました!?」

 

 オペレーターの声が最早ひっくり返って裏声になっている。

 味方はない。援軍は間に合わない。希望もない。百倍に広がった戦力差を前にして頭の空白が次第に大きくなり、生まれる先から思考を呑み込んでゆく。

 何人生き残れる、とクルトは絶望の諦念の中で呟いた。正規の軍事行動ではない作戦に何人が全力を出せるか。端から勝ち目のない戦いを前にしてクルトの心は折れかけていた。

 

「勝てるのか……」

 

 知らずに零れたクルトの諦めの声に、少年執事が頬を痙攣させた。

 押し付けられたといっても曲りなりにも新オスティア防衛のトップを任せられたクルトが諦めれば、下にいる兵の士気が地に落ちる。ただでさえ数で圧倒的に負けているというのに士気も落ちれば蹂躙されるだけだ。

 

『らしくねぇな、クルト』

 

 諦めたクルトを叱咤するように低い男の声がスピーカーを通して艦橋に響き渡る。響いた声には聞き覚えがある。

 知った声。アスカ・スプリングフィールドという名前一つが脳裏に浮き立った。

 

「本艦より南西に飛行船の反応をキャッチ! 映像はそこから広域に向かって発信されています」

「映像を出しなさい」

 

 クルトはオペレーターが指示を求めてきたので映像を出すように指示する。

 数瞬後、艦橋に映る映像が切り替わり、一人の青年を映し出したことで、再度、目を見張った。

 ウェスペルタティア王国最後の王女、魔法世界では現在でも「災厄の魔女」または、「災厄の女王」と呼ばれタブー視されていたアリカ・アナルキア・エンテオフュシアの僅かな面影を持つ精悍な表情を浮かべたアスカ・スプリングフィールドの姿が画面に映っている。

 

「アスカ……スプリングフィールド………」

 

 呆然と名を呼んだのは、はたして誰だっただろうか。モニターから目が逸らせない。

 

『世界全てを敵に回しても勝利するとかほざいてたお前はどこ行ったよ』

 

 短めの逆立てた母親譲りの金髪の髪、精悍な顔に光る蒼穹の瞳は不思議な引力を持っていた。がっしりとした筋肉に覆われた身体をエヴァンジェリンお手製の肩や縁に血のような赤いラインの入った黒いシャツに身を包んでいる。

 女性が好む男の顔は二種類ある。繊細か精悍かだ。アスカの顔は明らかに後者だった。顔よりも目で人を引き付ける人間は少ないが、確信とも言える自信と自負が生んだ余裕を感じさせる佇まいが埋もれそうな存在を異様な程に目立たせていた。

 頬に走る一筋の傷跡。本来なら醜悪に映るであろう傷さえ、強烈な存在感を失わせるに至らせるどころか、寧ろその傷こそが精悍な顔立ちを一層引き立たせていた。

 

「…………これほどの事態を目の当たりにすれば諦めたくもなります」

 

 人の戦う意思を挫くためには、恐怖と諦めが一番効果的である。圧倒的な物量を見せつけ、歯向かえば必ず死が待っているという恐怖、或いは決して敵わないという諦観。人の手から武器を捨てさせるには絶対的な力で屈服させるのが早道であり常道であると歴史も物語っている。

 

「あの敵の集団と、墓守り人の宮殿から観測される魔力の総量から推定すると、この事態は二十年前の再現です。先程の君と私の話は年単位の危機の話ですが、これは数時間単位の目前の危機。この事態に対して新オスティアに駐留していた連合、帝国、アリアドネー、全ての勢力が手を結び混成艦隊を編成して対処しますが、増幅を続けている敵にどこまで対処できるか」

 

 永久不変であると思われた平和が仮初めのものに過ぎず、これから徹底的に破壊し尽くされるのだという予兆。過去の再現という、形ある絶望だった。地獄の光景だった。或いは、やはり神話か。

 

「あの時は希望がありました、紅き翼という希望が。ですが、彼らはもういない。最後までいたジャック・ラカンも敵に敗れました。希望は既に潰えたのです」

 

 奇しくも二十年前と似たような状況。でも、あの時は皆の希望である世界を救う英雄・紅き翼がいた。

 今はもう彼の英雄達は誰もいない。ゼクトは二十年前に行方知れずになり、ナギ・スプリングフィールドも十五年前に行方不明に、アルビレオ・イマと青山詠春は旧世界にいる。ガトウ・カグラ・ヴァンデンバーグは十年前に死に、ジャック・ラカンですら敵の前に敗れた。

 

『……………』

 

 アスカはクルトの言葉を聞いて暫く黙っていた。数多の召喚魔達が群れ集いこれから始まる激しく争うことになる戦場を、ただじっと目を瞑って立っていたがゆっくりと口を開いた。

 

『俺がいる』

 

 もう打つ手は無く、このまま終わってしまうのかと絶望と恐慌に陥りかけていた艦橋を静かにさせてしまう、淡々とした―――――しかし、確かな『芯』を持った声音。けして威圧的ではなく、ゆっくりと聞く者に染み入っていく言葉。

 その言葉をヘラス帝国の旗艦に乗り込んで聞いていた第三皇女としてテオドラは、自分達が求めたとはいえまだ少年のアスカに酷なことをさせていると自覚しながらも部下に「映像を世界に発信せよ!」と指示を出していた。

 

「これは………帝国の艦が中継して魔法世界中に映像が中継されています!! 」

 

 オペレーターの困惑した声を聞いてもクルトは帝国というより、恐らく指示したであろうテオドラの意図が分からずに戸惑って動けない。

 疑問は何をするのかという欲求に変わり、視線を泳がせて咄嗟の判断に躊躇う。

 不動の中、クルトは更に響く声を聞いた。

 

『馬鹿になるほど敵は強く大きい。嘗ての英雄は誰もいない。ああ、こんな絶望的な状況はそうないだろうな』

 

 幾多の大軍を指揮して数多の戦いを勝利に導いていた将軍の如くアスカの表情が不意にすりかわった。例えるなら何度もリングに叩きのめされながら、なおも挑み続ける挑戦者のように。

 

『だが、俺がいる。俺がいる限り、世界を終わらせたりなんてさせない』

 

 漆黒の衣を纏って、アスカはひどく自然に佇んでいてる。

 古代、自らの民を連れて海を割ったモーゼの如く、ただ静かな瞳で前を見つめていた。その在り方があまりにも静かで、こちらの内面までも鏡のように映してしまいそうだった。

 

『世界の為に戦ったナギ・スプリングフィールド(サウザンドマスター)アリカ・アナルキア・エンテオフュシア(災厄の女王)の子供として、紅き翼の想いを継ぐ者として、ただ坐して見ていることは出来ない』

 

 迸った声音に誰もが気圧された様子で脚を止めた。

 人々はアスカに注目していた。良くも悪くも、人々はスプリングフィールドとエンテオフュシアという名に敏感に反応する。

 

『戦争の遺恨は未だ消えず、種族差別も根強い。領土問題は何時までも後を引いて、個人の価値観にまで干渉することは出来ない。この世界は未だ多くの問題を抱えている』

 

 息をつく間をもって、この世界が眼を逸らし続けてきたものを口にする。

 世界を壊す言葉がある。世界を癒す言葉がある。相応しい時、相応しい場所で、相応しい人物がその言葉を口にした時、掛け値なしに世界はひっくり返る。言葉とは、情報とは、それだけの価値と可能性を秘めた概念なのだから。

 

『俺がこの世界で見てきたものも、あくまで氷山の一角だろう。それで世界の全てを理解できたと錯覚するつもりもない。完全なる世界の目的も今は少し理解できる気がする』

 

 メガロメセンブリア連合の都市の一つに流れる街頭映像の中のアスカが語り出す。あくまで重厚に。一語一語噛み締めるかのように。

 

『あらゆる理不尽、アンフェアな不幸の無い楽園は確かに魅力的だ。それでも俺は完全なる世界を認めることは出来ない』

 

 映像を見ている誰かが唾を飲み込んだ。誰かは目を大きく見張った、誰かは過去を反芻するようにゆっくりと息を吸った。

 誰かは、様々な思いを抱えたままで胸を押さえた。誰かは、ずっとずっと幼い頃に失われてしまった宝物を見るかのように切なく表情を歪ませた。

 

『ここに至るまで幾千年』

 

 強い。誰の目にも明らかなほど覇気を発する声と目の中の光。どこか静謐な雰囲気を漂わせていながら息を呑むような独特の雰囲気がアスカにはあった。語るアスカの声には特別な艶が聞き取れた。カリスマといってもよい。

 

『ここに切り替わるまで二十年だ』

 

 その視線は見ている者達全てに目が合っているような錯覚を感じさせ、心の底まで見通せるほどの澄み切っていた。

 一字一句、聞き逃すまいとしながら、殆どの人々がアスカと目が合った、と後に主張した。

 

『苦難を乗り越えて今に辿り着くまでに築き上げた物を無駄にしない為に、今を生きる者として次へと繋げる為に俺は戦おう』

 

 悲しい結末も、しかし絶望のみで終わりにしなければ、その先に見いだせるものがきっとある。希望とはつまり、そういうことなのだろう。

 

『それに奴らにもいい加減に好き勝手やられて振り回されっ放しなのも飽きた。今度はこっちがやり返す番だ』

 

 映像の向こう側でアスカがニヤリと笑った。

 死のうが生きようが、英雄とは特別だ。だからこそ信仰になる。だからこそ万人の縁になる。そうなった時点で、その者はもう人間ではない。

 英雄とはそれだけの価値がある。それだけの価値があると皆が認めるからだ。

 これからアスカが成そうとしていることは、ただの人間に成し遂げられることではない。人間でありながら人間以上を求める。人間が人間以上を求めればこそ、英雄は生まれいずる。本人が求める求めないに関係なく、資質と絶好の場を持ったものは、そういった『枠』に押し込められる。まるで、生贄のように。

 

「あの敵の集団を突破し、墓守り人の宮殿まで辿り着かなき、奴らが行おうとしている儀式を止めなきゃならない」

 

 目前の軍勢と呼ぶべき召喚魔の群れは、それだけで十分な脅威である。如何にアスカが強かろうと、あれだけの数の敵と戦いながら更に完全なる世界を相手取ることは不可能だろう。

 

「俺だけでは無理だ。まだ足りない」

 

 土壇場という言葉がある。もともとは罪人の首を切る刑場のことで、転じて、物事が決しようとする最後の最後、決定的な場面や瞬間を指す。

 逃げ場のない絶体絶命の窮地に立たされた時、土壇場に際して試されるのは、その人間の性根と運の強さだ。正面から力でねじ伏せるか、それとも機転を利かせて身を躱すか。切り札を使うか、ハッタリをかますか、本人次第だ。

 世界を動かすには個人はあまりにも小さすぎる。だから、アスカは誠意を以て言葉を重ねる。

 次に言うべきことを定めて、血を吐く思いで口を開く。頭の中が熱くて、ぐるぐると渦巻いてしまって心が保てない。

 

「どんなに強くたって俺は一人だ。一人で世界を背負えるほど俺の手は大きくない」

 

 映像の向こうに沢山の未来を作っていく人がいる。その人達に訴える。アスカ一人の声は弱くて小さくて、両手を伸ばしても守れるものは限られている。それでも、だからこそ真剣に語る。少しでも未来がより良きものに近づけられた幸せだ。

 不意に憧れ続けて来た男達のことを思い出した。ずっと想い続けていた。誇らしい、あの生き様。ちょっとでも近づけただろうか。否、これからは追い越す気持ちで行こう。それを多分、彼らも望んでいる。

 ここまで来た。思えば遠くまで来たものだ。どれだけの山を登り、森をかき分け、暗闇を咀嚼して進み続けてきたか。過去の哀しみも失敗の数々も、もはや敵ではない。自分を育み、ここまで育ててくれた。

 

「だから―――――」

 

 映像には映らない死角にいる刹那達は演説を聞く。

 アスカ一人で戦うわけではないにしても、現在の状況は限りなく絶望的といってよい。

 

「だから、みんなの力を貸してくれ」

 

 訴えはまるで祈りの様だった。

 人間でいて、人間の社会を守りたいと思うなら、ほんの少しでも人間らしくいられるように、きちんと悩むべきだ。結局の所、人が人を信用するのは、卓絶した強さでも冷徹な判断でもなく、そうした脆さや弱さなんじゃないだろうか。アスカが戦うのは強さ故じゃない。

 苦しみだけに囚われて選択できないものは愚か者だ。しかし、苦しみもせずに安直な判断を行う者はもっとも大事なものを失う。

 

(……ああ)

 

 と、アスカは口を開きながら知らず知らずの内に胸の中で呟く。

 その手が震えてしまうのを拳を強く握り締めることで抑え、前のみを見つめて言葉を繰り続けた。考える必要はない。これまでに見たこと、感じたことが澱みなく言葉になって溢れ出てくる。神託を口寄せする巫女の心境とは、このようなものなのかもしれない。

 

「俺をあの場所へ行かせてくれ。そうすれば敵の悉く打倒すると約束しよう」

 

 何時だって喪うのは怖いし、痛いのは嫌だし、死にたいわけでもない。代わってくれるものなら誰かに代わってほしいくらいだ。その思いが強かった。逃げることは、容易かった。

 本音のところを言えば、理性は今からでもそうするべきだと思っている。これほど全てが上手く行く勝算のない戦いも、これほど追い詰められた状況も知らない。ひょっとしたらおかしくなっているのかもしれない。感情に従ってわざわざ窮地に向かっている自分は、狂気にでも犯されているのかもしれない。

 だが、アスカはそれを望まない。怖いからといって逃げていたらどこにも行けない。進んだ先に天国があるとは思わないけど、やるべきことを放り出して、何時か後悔しない為に。

 

「夢を見せてやる! お前達が戦ってきたことが無駄でなかったと思える世界を俺が護る。だから、俺についてこい!」

 

 心に訴えかける。やろうと思ってやれることではないし、やっていいことではない。

 言葉にしてしまって、体が震えた。世界を護るなどと、一人の人間が言えることではなかった。どうしようもない恐怖と空に昇るような高揚で、全身に鳥肌が立った。アスカの中の、誰もが持っている当たり前の弱さが、これは無理だと泣き言を吐いた。

 

『俺が世界を救ってやる』

 

 モニターの映像を注視するクルトの体が震えた。今度こそクルトの心が奥底から震えた。

 眼球がひどく熱く、どうかすると零れてしまいそうで、抑えるのに必死になった。映像に注視する皆に気づかれないのように、そっと隠した。

 それから深く息を吐いた。

 まるで、自分の身体の中の空気を全部入れ替えてしまおうとするような、深呼吸みたいな息だった。ずっと窓も扉も閉め切っていて、当たり前に腐りかけていた空気を、一気に解き放ってしまったような気分だった。

 津波か何かに、色んなものを根こそぎ攫われてしまった気分であった。

 驚愕、歓喜、激情。或いはそれらがぐちゃぐちゃになった、希望の萌芽といってもいい、心の動き。『スプリングフィールド』の血族、『英雄』の息子とはそういうものであった。

 

(もう大丈夫だ。ここに、英雄がいる)

 

 そう感じた。そう信じた。

 ただの少年が多くの艱難辛苦を乗り越えて英雄になろうとしている。

 英雄とは、それだけの価値がある存在なのだ。希望といってもよい。その一人がいるだけで何とかなるかもしれないという―――――現実逃避染みた夢想を呼び起こさせる存在。人間は、そんな夢想だけで生きていけるのだと、クルトは知っている。

 

「……おお」

「……ああ」

 

 どっ、とざわめぎが人々を渡った。心の底から湧き上がって来るざわめきだった。喝采に至るような熱狂ではなくても、その言葉は確実に人心を捉えていたのだ。

 モニターの少年に応えるように、ある者は小さく頷き、ある者は拳を握り締めた。艦橋にいる軍人達の絶望に染まっていた表情は、ある予感と感情に輝いた。

 期待であった。予感に基づく期待。つまり、二十年前の焼き増しといえる光景のように、これから生まれる新しい英雄と肩を並べて戦えるという事実が、この絶望的な状況の最中にも表情を輝かせているのだ。人間にとって根本的な、自分が光の側にいるという実感。英雄とはまさにその象徴であった。

 今のアスカは『ナギ・スプリングフィールド』に等しかった。

 魔法世界を救った英雄と、今の少アスカは比肩しうる存在だった。長き時を、数多の出会いを、幾多の試練を乗り越え、多くの経験を経て、少年は遂に父と母の領域にまで登りつめたのだ。

 

「アスカ!」「アスカ!」「アスカ!」「アスカ!」「アスカ!」「アスカ!」「アスカ!」「アスカ!」「アスカ!」

 

 クルトが乗っていたアルビオンがあまりの熱気に煽られてか揺れた。

 歴史が動く瞬間に立ち会えた人々の熱気はことに凄まじかった。誰もがせきを立ち、声を張り上げた。やがてはアスカの名を喉も割れよとばかりに歓呼し続ける。

 

「王の帰還、か……」

 

 憧れの英雄に出会った子供のように、或いは砂漠でオアシスを探し続けた旅人のように、呆然と我知らず呟いたクルトの声に少年執事が怪訝な顔を振り向ける。

 空白だった頭になにがしかの火が灯り、クルトはブリッジ内を見渡した。信じるという以外になんの後ろ盾も持たない、無謀で闇雲な衝動に取り憑かれた顔、顔、顔。今退いてどうなる。ここで勝負を下りて誰に赦しを乞おうというのか

 

『そして――――』

 

 そこで言葉の意味が、員に浸透するように一拍を置いた。

 最も効果的な言葉を切り出すのに、最も効果的なタイミングを待つ。彼らの理解と感情が、ちょうど目的のラインに達するだろうタイミングを見計らったアスカは深く息を吸い、こう告げたのだ。

 

「完全なる世界との長きに渡る戦いに決着を着ける!」

 

 宣言の後に、ドッと声にならない世界中から集められた熱気が自身の身体を叩いたのをアスカは感じた。

 それは、この映像を見た全ての人々の驚愕であり、一瞬遅れて無理に押し込めた歓喜であった。

 終わったと夢見ていて、しかし現実には何も変わっていなかった戦いの終わり。それが今まさに生まれいずる英雄と成らんとしているアスカの口から言葉にされたのだ。だからこそ、彼らは否定も出来ず、かといって鵜呑みにも出来ない矛盾に追いやられた。これみよがしの希望にすぐさま飛びつかぬのは、これが二度目だから。

 それでも期待は消えない。なにせ彼は紅き翼のジャック・ラカンに勝ち、ナギ・スプリングフィールドの息子で、彼らの跡を継ぐ者。あまりにも強大すぎる絶望の前に現われた希望の光に期待したのだ。

 時代を、歴史をその手に掴んだ人物には時にこうして劇的が瞬間が訪れる。後の歴史において、識者はこの瞬間をそう評した。

 

「……っ」

 

 強く心臓が鼓動を打った。緊張だと、その正体が悟るのに少しかかった。アスカは彼らの希望を一身に浴びて、瞼を閉じる。

 姿が見えなくても彼らの想いが集まって希望の火が灯ったのが分かる。

 服を突き抜けて、身体の中心を直接炙るかのような激しい熱。何千、何万、何億人もの視線と興味とが綯い交ぜになった、激しく荒々しいまでの圧力。今まで人を指揮したり、注目されたことはあっても、これまでに感じたことのある熱とは全く比べものにもならないベクトル量。

 その渦に、半ば意識を奪われそうになりながらも、深呼吸して気持ちが落ち着けば、熱は決して不愉快ではなかった。寧ろ、こちらの内側の何かを励起するかのような、心地良い熱さだった。心臓が何時もより高く鳴って指先まで血を押し上げるように思えた。

 

(これで後には退けない)

 

 この後は問答無用で戦いが行われる。これを見た者の中には救援にと戦場へ来る者もいるだろう。そして様々な人が死ぬかもしれない。

 自分の発言と行動に、これから始まる戦いで失われる命が、魔法世界数十億人の命がかかっているのだ、とアスカは悟ったのである。

 自分が殺すのだと。この手で殺す命と、この背中に背負う命。どれ一つだって、自分なんかの手に負えるものではない。それでも無理矢理に歯を食い縛る。

 不安。その一語に集約される影が肩から滲み出し、握り締められた拳を震わせた。

 自分の行動に確信を持てない不安。それでも精一杯の虚勢を張り、確信があるかのように振る舞わねばならない重圧と、みんなを騙しているのではないかという自責の念。それらが渾然一体となって押し寄せる。信じるということの重さと難しさを満身に受け止める。

 昔、誰かが英雄は人ではないと、人外のものだと言っていた。それは多分、こういう意味だろう。人間の精神では受け入れられないものを受け入れて、擦り切れていった成れの果てこそが英雄なのだ。

 だけど、アスカは抵抗する。擦り切れていく自分に、それでもしがみつく。鑢にかけられているような精神を、それでも絶対に手放さない。

 英雄なんてのは言葉だ。

 英雄なのだから仕方が無い。百万人殺すような人間は、もう人間ではないのだから崇め奉るしかない。そんな優しくて、卑怯な言葉。機械的に少数の命を切り捨てるようになったら、それはもう英雄でもない。人間ですらありえない。それはただの怪物だ。

 罪を噛み締めるように、ゆっくりと深呼吸する。

 自分が成したことで逃げ道を塞ぎ、騙すことばかり上手くなったことを考えると、あまりいい気持ちはしない。色々と変わっていったものに想いを馳せる。

 望まれてなくても、誰かを助けたかった。そんな、子供っぽい幻を追った道の先として、たぶんアスカはここにいる。

 自分の環境、自分の内側。一つずつ思い返すことで、自分のアイデンティティを確立する作業。ずっと染み付いていた感性や思考の癖が変わったことを感じている。こんな風に、自分を変えてしまったものは何だろうと。

 出会った人は多い。関わった事件も多い。移ろっていく季節は、どうしても人間を変えてしまう。それは自然なことで、忌避するようなものでもない。

 

(多いな……)

 

 瞼を開いて前を見る。

 空も、地上も、見渡す限りが召喚魔によって覆い尽くされている。いっそ見事だと思えるほどに数え切れない程の敵ばかりだ。アスカの優れた視力には、もう一体一体の区別がつくほどにまで召喚魔の群れは迫っていた。圧倒的な数であるが故、暗い雨は群れ全体を一つの巨大な雲のように見せる。悪意を懲り固めた黒雲だ。

 自分の行動が待たれているのを無形のプレッシャーから感じる。押し潰されてしまいそうなほどの、その重み耐える。

 命の重みであった。しかし、アスカは躊躇わない。

 

「みんな、行けるか?」

 

 問われた少年少女達の誰もが口を開けず、自分の呼吸音だけを耳にしていた。

 概算で五十万を越えて増え続ける軍勢は脅威を通り越して絶望しか齎さない。これからあの軍勢の中に飛び出していく。あの軍勢を越えて墓守り人の宮殿に到達して完全なる世界を打ち倒し、級友である明日菜を取り戻さなければならない。

 今まで何度も戦いに赴いてきたが、これほどの激戦を予感させるものはなかった。

 

(…………アスカさんは緊張しているのだろうか?)

 

 桜咲刹那は自分自身に尋ねた。

 この場には演説をしたアスカの他に飛行船の上にいるのは刹那・小太郎・楓・真名・古菲のみ。茶々丸は飛行船の操縦で、副操縦席に木乃香がいる。それ以外はテオドラから借りた船で離れた宙域にいる。

 僅かに心拍数が上がっている気もするし、唇も少しばかり乾いているのだから恐らくそうなのだろう。死ぬリスクを背負って、これから文字通りの死地に赴くのだから当たり前。そこに戦慄を覚え、だが同時に、彼女は昂揚に似た感情の昂ぶりを感じていた。

 

「怖気づいていいぜ。正直に言って俺は怖い。これほど怖いと思ったことはないってぐらいにな」

 

 この部分だけはアスカも正直に何の衒いも飾りもなく自分の言葉を連ねる。

 周囲の者達に渦巻く様々な策謀に気づいている。それでも絶望はしない。してはならないと自分を定め、英雄として求められる役割を演じ続ける。

 

「はん、アスカ。この程度で怖気づいとんのかい。情けないのう」

 

 小太郎が彼らしく粋がった台詞が吐いているが、流石の彼も少し顔色が悪い。

 

「怖いね。だから、頼む。誰も死ぬな。死んでくれるなよ。誰かに死なれると俺が千雨に殺されてしまいそうだ」

 

 お道化る小太郎に合わせたアスカの言葉に少女達は普段の彼らのやり取りに薄く笑った。

 刹那は、自分の心音に耳を澄ましてみた。

 鼓動は高く、速い。高揚しているのではない。緊張しているだし、不安を感じてもいる。少しばかり、怖がる気持ちもあるのかもしれない。今まで味わったことのなかった感覚にしかし、刹那は微笑んだ。

 これから戦場に出るのだ。生と死が一瞬ごとに交差する場所へ行くのだ。平静でいられるはずはない。だが震えているのでもなければ、重圧を感じているわけでもなかった。

 精神と肉体は、何者にも縛られてはいない。五体には力が漲っている。激しく熱を持ったものではない。静かで清涼な力だ。一点だけ炎が灯っているのは、心と体の中心、魂とでも呼ぶべき部分だけだ。

 

「さて――――」

 

 アスカは戦場の空気を感じようと、酸素を肺一杯に吸い込んだ。

 もはや選択肢はなく、退くべき道も残されていなかった。いや、例えそうでなかったとしても、やはり自分が進むべき方向は一つに定められていたのかもしれない。

 次々と、過去の記憶が脳裏に蘇る。幾度も傷つき、倒れながらも、ここまで戦ってきたのは何のためだったか。色褪せることなく想起される思い出は、必ずしも楽しいものばかりではなかった。だが、今となってはその全てが懐かしい。

 多くの戦いを潜り抜けてきたが、これが最後になるかもしれないかと思うと、アスカの皮膚の上に緊張の微電流が流れた。

 その最後が、自らの生命の終了を意味しているのか、或いは完全なる世界を打ち倒し、目的の達成を意味しているのかは分からない。最も完全なる世界を打ち倒しても、それが即、アスカの目的達成に繋がるわけでもなく、それを考えれば、些か気が急きすぎているとアスカ自身でも苦笑を禁じえないが。

 目的地は墓守り人の宮殿。全てはあそこから始まり、あそこで終わるのだ。

 

(あそこに明日菜がいる)

 

 アスカの意識の大部分を占めるのは、宿敵であるフェイトのことも、世界のことでもなかった。あるのは明日菜に会って、なんとか自分の手元に引き寄せたいという欲望だけである。

 この道の終わりに、彼女は、笑顔で立っているだろうか。これから行く目的を想起したアスカは体の奥底から無限の力が湧き出るように感じた。

 

「………………明日菜」

 

 瞼を閉じれば、そこには一人の少女が映っていた。

 彼女を想うだけで、膨れ上がり、腹腔からふつふつと温度を上げていくものがある。気管を突き上がって喉を熱くする感情()。その感情を何と呼べばいいのか、アスカにはまだ分からなかった。

 分かっているのは、如何なる運命であろうと、もうそれを悩む時期は過ぎたことだけ。今自身がやるべきは抗うこと。戦うこと―――――明日菜を取り戻すこと。

 戦う理由がここにある。己の裡から膨れ上がる熱が、自分の背中を押している。

 戦士をやる気にさせるのは、結局、命を危険に晒して見せることでしかないことを、アスカは良く知っている。人は利得では動かない。それを超えた何かかを与えてくれる戦士に従うのである。

 最後の戦いになると確信して、アスカは心を決めた。 

 

「―――――行くぞっ!」

 

 頭部に乗ってアスカが叫んだ直後、茶々丸が操船するスプリング号が飛ぶ。

 最初はゆっくりと、やがて速度に乗って最高速度に達し、遥か遠くに見える墓守り人の宮殿へ向かって疾走する。

 

「子供らに任せてばかりはおられまい! 全艦!!! 主砲一斉射撃!!!」

「撃てぇッ!!」

 

 ヘラス帝国第三皇女テオドラの号令と同時に、ヘラス帝国群の艦船から主砲が一斉に放たれ、前方に立ち塞がる召喚魔達を串刺しにして飲み込んだ。戦艦から放たれた圧倒的な光量を持つ強大な精霊弾が、魔法世界の行方を左右する戦闘開始を告げる凶暴な号砲だった。

 

「英雄の道を拓けよ!!」

 

 戦闘の始まりを告げる光が爆ぜ、墓守り人の宮殿への長い道を篝火のように飾る。

 

「撃て! 撃ち続けろ! 砲身が焼け付くまで撃ち続けるんだ!」

 

 ヘラス帝国軍に負けじとメガロメセンブリ連合旗艦スヴァンビートに乗るリカードが叫ぶ。

 

「彼らをあの場所へ、墓守り人の宮殿への道を開きなさい!!」

 

 セラスが指揮するアリアドネ―の艦からも戦乙女騎士団が出撃し、撃ち漏らした召喚魔に向かって行く。

 アスカ達が行く道を作るために、ヘラス帝国軍とメセンブリーナ連合、更に中小様々な国で構成された混成軍から放たれた火砲の嵐が波頭のように広がる召喚魔達を次々と飲み込んで爆発した。モーセが神の力により海を割ったかの如く、見る見る内に目の前に直線的な道が造られて行く。

 

「往けよ、英雄!!」

 

 様々な勢力によって空けられた空間に、射撃を放った艦達の横をすり抜けてアスカ達を乗せたスプリング号が先を急ぐ。

 

「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル」

 

 一度は砲撃によって開かれた道も瞬く間に閉じていき、黒い波が迫る。

 自ら突っ込んだ飛行船に群がろうとする黒い波は、さながら荒れ狂う大海原に投げ出された一艘の小船と鳥の群れのようだ。しかも、雨滴の一粒一粒が凶暴な破壊力を有している。 それでも目的のものが、そこにあるのだから多少濡れたとしても雨の中に飛び込んで行かねばならなかった。

 

「来れ雷精、風の精、雷を纏いて吹きすさべ南洋の嵐」

 

 召喚魔達に立ち塞がったのは、飛行船の船首の上に立つスカ・スプリングフィールド。

 アスカ・スプリングフィールドというちっぽけな獲物を逃がすまいと両手を広げ、高波となって襲いかかる。周りを取り囲まれ、こちらの全てが彼らの作る影の中に落ちる。

 既に戦闘開始のための撃鉄は下ろされた。二度目はない。後戻りは出来ない。これっきりのチャンスなのだ。必ず成功させなくてはいけない。アスカは昂ぶる感情と緊張を抑制するどころか、大きく息を吸い込み、それを声と共に吐き出した。

 

「雷の暴風!!」

 

 開幕の号砲に次ぐ英雄の一撃が黒い波を一直線に引き裂く。

 英雄の最大威力の魔法によって数千単位で消し飛ばしながらも、現在進行形で増え続けている召喚魔には大した痛手にはならない。

 雷の暴風で開かれた道が徐々に狭まり、前方が塞がれる前にアスカは黒棒を呼び出す。

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっ!!」

 

 手に握った黒棒に魔力を流してスプリング号を超える巨大な雷の刀身を形成すると、雄叫びを上げながら前を塞ぐ敵の集団目掛けて突っ込んだ。大気を震わせる咆哮と共に、空を切り裂くように巨大な雷刀で敵を薙ぎ払った。

 雷刀から放射線状に広がる剣閃が道を塞ぐ大小関係なくあらゆるものを吹っ飛ばしていく。

 切り裂かれた召喚魔が魔力へと還元され、辺りには一瞬屠殺された召喚魔から発せられた憤怒の風が吹き荒ぶ。

 瞬く間に雷刀が切り返され、召喚魔達はスピードを全く緩めなかった突進によって同じ末路を辿る。

 大半の召喚魔は瞬く間に振るわれたこの二撃によって第一陣が半壊したが、運良く攻撃を受けなかった固体も少なからずいた。

 二撃を突破して足の速い大型召喚魔二体が迫る。人間の体など容易く引き裂く鉤爪を猛禽のように突き出し、昆虫めいた形状を持つ二体が間近で散開する直前、アスカは黒棒を持っていない方の手を大型召喚魔に向けた。

 

「雷の投擲」

 

 各々の軌道を読んで放たれた雷の槍が召喚魔の行く手を遮る。

 腹部に雷の槍を食らった昆虫めいた形状を持つ二体の召喚魔が四肢を散らし、爆散する。爆発の光輪が咲き乱れる中、迎撃の邪魔になると巨大な雷刀を消して黒棒に紫電を纏わせるに留める。

 前方から接近していた召喚魔達が怯んだ隙を逃さず、アスカが躊躇なく跳んで一気に肉薄した。

 攻撃を避けながら回避運動に入っている真ん中に突っ込み、黒棒を一閃してドラゴン型の召喚魔達の体を上下に両断する。

 追いついたスプリング号の屋根に着地しつつ、前へ前へと先走る思惟を押し返し、硬い圧迫が前方から寄せてくる。次の瞬間、それは無数の気配となって現われ、数秒とかからず視界に現われた。

 

「せっ……!」

 

 間近に迫って振り下ろされた召喚魔の鉤爪を躱し、すれ違い様に頭部を蹴りつける。頭部を吹き飛ばされて尚も飛び掛かろうとする召喚魔を頭頂から唐竹割りをしたアスカの背後から迫る無数の黒い波が襲い掛かる。

 

「刹那!」

 

 アスカとペアを組んで空中を担当している刹那に向かって声を張る。

 それだけで刹那にも意図が伝わる。

 

「任せてください!」

 

 気合いの入った返答と共に、刹那がアスカの背後に迫る無数の群れの前に飛び込んで、振り被った夕凪に気を溜める。

 

「斬空閃――っ!」

 

 アスカの背後を守るべく刹那が飛び上がり様に放たった剣閃が黒い波の正体である召喚魔達の存在を許さない。剣を振るった軌跡通りに気の力を刀身から飛ばし、影を消滅させる。

 際限なく湧き上がってくる黒身の存在たちを、刹那は一刀の下に両断していた。常人ならば一体であろうと逃れられない死の化身。

 

「斬空閃!」

 

 死の化身を一刀の下に数体纏めて屠っていく。アスカに襲い掛かった哀れなガーゴイル型の召喚魔達は、刹那が放った気の刃によって次から次へと全身を寸断され、己が敵の選定を見誤ったことを、身をもって学ぶことになった。

 剣の乱舞は斬撃の竜巻を生み出す。そこに近づく召喚魔を待ち受けているのは、吹き飛ぶか、斬り砕かれるか、叩き潰されるかのどれか一つ。

 

「はっ!」

 

 スプリング号の右翼側の迎撃に当たる古菲の持つ棍棒―――――神珍鉄自在棍が彼女の気合の声と共に長さを遥かに伸ばして虚空を切り裂き、全体の補助をする真名が腰溜めに構えたサブマシンガンを放つ。

 振り回した神珍鉄自在棍が数体纏めて吹っ飛ばし、そこに真名の黒光りするサブマシンガンの弾丸が放たれ、体を貫かれた召喚魔達が爆発の中に消えた。

 トンプソンM1921。通称トミーガン、トムソン銃、シカゴ・タイプライター。退魔の刻印が施されたトンプソンM1921の弾丸が次々と敵召喚魔へ着弾し、正確に、着実に敵を撃ち抜いていく。 

 銃身の付け根につけていたドラムマガジン(予備弾倉)まで使い果たして弾切れを起こし、弾頭を換装しているその隙に、真名目掛けて召喚魔が翼を広げて迫る。

 

「来たりて伸びるアル!!」

 

 古菲の手首がしなり、神珍鉄自在棍が真名に襲い掛かろうとした召喚魔を襲う。

 柱と見まがうほどに巨大な棒となった長い神珍鉄自在棍が正確に広げていた翼に当たり、軌道をずらされた所に弾を換装し終えた真名の突撃銃が火を噴いた。広げていた翼を抉り、空を飛べなくなった召喚魔が落ちていく。

 

「やるな、古」

 

 真名が感心している間に神珍鉄自在棍はシュルシュルと縮んでいった。

 

「まだまだこんなものじゃないアル」

 

 古菲が右手を一振りすると、普通の大きさの棍となった神珍鉄自在棍で近くにいた召喚魔の頭を叩き潰す。、

 

「ふんっ! 疾空黒狼牙っ!」

 

 その間に小太郎は背後から迫る召喚魔に、影が滲み出るように空間が歪んで生まれた狗神を両手に留めて真っ直ぐ踊りかかり、抜き打ちに右手を頭部に叩き込んだ。そのまま頭部を蹴って即座に反転。

 背後で爆発して消えていく召喚魔には目もやらず、上空から近づいていた一体に返す刀のように左手に留まっていた狗神で屠り、素早く体を翻して放っておいたら自分を置いていくスプリング号の上に着地する。

 

「ほっ」

 

 最後尾で後を追って来る召喚魔の首を持っていたクナイで三体纏めて刈った楓を飛行船は置いていく。

 

「遅れているぞ、楓っ!」

 

 真名の目は常に全体を見渡していた。敵を倒すことに注視し過ぎてスプリング号に置いていかれかけている楓に向けて叫ぶと、彼女も置き去りにされては叶わないと虚空瞬動で後を追う。

 数知れぬ光条が切り裂き、微塵に燃え尽きる炎が散りばめられた虚空。その果てにある墓守り人の宮殿は、今にも手が届きそうでありながら、尚も遠かった。

 順調に進んでいるアスカ達の姿を、茶々丸は飛行船で操縦しながら自分の目を通して全世界へと中継している。

 

「おぉ、あの大群の中を駆け抜けてゆく……」

 

 中継で黒い波の中を希望の光が進んでいく姿を見た誰もが伝説の再現を夢見る。

 ただの兵士であれば希望に浸ることも出来るが指揮官には許されない。

 

「気をつけなさい! 我々が突破されればオスティアの市民が巻き込まれます!」

 

 アリアドネ―の戦乙女騎士団の戦いをアリアドネ―部隊の旗艦で指揮しながら、戦士達を鼓舞するようにセラスが叫ぶ。

 戦艦から出撃した数多の魔法使い・戦士が召喚魔と接敵し、空域の至る所で激戦が繰り広げられている。

 容赦なく行われる敵の攻撃に戦士が落ち、船が傷つき、混成艦隊も苦戦している。飛び交う混成軍の砲弾が命中しようとも一向に減らない敵の大群を一条の矢が突破した。

 

「突破した……っ!」

 

 召喚魔の波を越えてグングンと上昇していく飛行船。逆巻く雲海が轟然と渦巻き、足元を激流のように流れていく。

 下に視線を移せば、魔法世界全体に広がっている魔力の川の発信源であるオスティア宙域を超大規模積層魔法障壁が白い膜のように覆い隠している。

 咸卦法・太陽道を発動しているアスカに向かって魔力が渦を巻き、使った端から力が回復している。逆に使わなければ回復し過ぎて内側から破裂しかねないので、力を使わなければならない状況は有難い。

 上昇を続けていく飛行船と共に取り付いてくる召喚魔の数は減り、遂に頂上へと到達する。

 

「茶々丸!」

『行けます! 栞さんの言ったように障壁はありません!』

 

 操舵を続けながら観測していた茶々丸がアスカの声に応える。

 栞の情報通り、上部中部は魔力が台風のように凪いでいて障壁がないので内部の墓守り人の宮殿が見えた。

 

『突入します! 何かに捕まっていて下さい!』

 

 飛行船を操縦している茶々丸の声がスピーカーを通して聞こえ、近づいていく距離に比例して増していく圧力に軋む船体に各人が捕まる。

 濃霧のように前の見えない魔力のバリヤーの一歩内側に入れば、宮殿全体をハッキリと認識することが出来る。

 

「これが、墓守り人の宮殿……!?」

 

 二十年前の大戦の最終決戦地。全てはここから始まり、そしてここで終わるのだ。

 

「!?」

 

 下降の勢いそのままに上層に下りようとした瞬間、スプリング号に何かが飛来して来た。

 

「白い雷!」

 

 気付いたアスカが白い雷を放って撃ち落とすが、何かは途切れることなく宮殿上部の塔から次々に撃ち出されている。

 

「な、なんや?」

「大方、迎撃兵器の一種だろう。この宮殿が古代のものと思えば当然あって然るべきものだ」

 

 困惑しつつも狗神を放つ小太郎に銃弾を放ちながら真名が推測を披露する。

 その間にも船体を貫いて余りある大量の巨大針を各自で迎撃しているが、何時までも持つものではない。

 

「栞殿も態と言わなかったでござろうな」

「どうするアル? このままでは持たないアル」

 

 なんとか上部に下りようとするが巨大針の集中砲火にこれ以上は近寄れない。

 弾き、吹き飛ばし、消滅させているが、果断なく飛来して数が多すぎてスプリング号が被弾するのは時間の問題であった。

 

「上部に下りるのは無理です!」

「仕方ない。下へ回るぞ!」

『了解です。急速降下します!』

 

 刹那が巨大針を弾きながら叫ぶのを聞き、アスカが指示を出すと茶々丸がスプリング号を動かす。

 上部への降下を諦め、巨大針の集中砲火を避けて離脱する。宮殿から距離を取れば巨大針の密度も下がり、降下することも可能であった。

 向かって来る巨大針を弾きながら下部へと回り込む。迎撃を続けながら空中に浮遊している宮殿だから飛行船の発着場を探す。

 

『有りました! このまま突っ込みます!』

 

 アスカよりも先に飛行船の発着場を見つけた茶々丸の外部スピーカーを通した声が注意を促す。

 未だ向かって来る巨大針を魔法の射手で迎撃していたアスカも船体に捕まる。

 

「くっ」

 

 巨大針から逃げる為に安全な着地など望むべくもない。スプリング号は船体下部を削って発着場の地面を穿り返しながら止まった。

 

「全員無事か!」

 

 衝撃に揺れた頭を振って気付けをしながらアスカが仲間に問うと船外にいた者達からボツボツと返事が返って来る。

 

「お嬢様!」

『ちょっとおデコ打っただけで、うちと茶々丸さんも無事や』

 

 木乃香の声が外部スピーカーから聞こえ、刹那も安心したように肩から力を抜いた。

 

『主機は大丈夫ですが、船体に穴が開いています。修理しなければ飛ぶのは難しいでしょう』

 

 次いで茶々丸の声も聞こえ、カチカチと何がしかのスイッチを押す音が辺りに反響する。

 

「いざとなれば自前で空を飛べるんだ。修理は後回しだ。先へ――」

「いいえ、貴方達は先へ進めません」

 

 進もう、と続けようとしたアスカの声を遮るように第三者の涼やかな声が発着場に響き渡った。

 

「動くな、止まれ!」

 

 声が聞こえた方角に誰もが首を巡らし、真名が近づいてくるその人物を牽制する叫びながら銃を向ける。

 敵地である墓守り人の宮殿にアスカ達以外の第三者がいるとすれば敵以外にありえない。真名が警戒するのは当然で、追従するように地面に下りたアスカが構えを取る。

 

「!?」

 

 数秒の静寂の後に瓦礫の上に立って姿を現したその人物を見た時、誰もが例外なく驚愕を露わにした。

 

「こんにちは、皆さん」

「ザ、ザジ・レイニーデイ?」

 

 口元だけで薄く微笑んだザジ・レイニーデイの登場に誰もが動揺を隠せない。

 まさかの人物にアスカすらも次の行動に移せず、目の前の人物が本物なのかと目を疑う。

 

「本物のザジなのか?」

 

 銃を向けながらも真名にもザジの真贋がつかないようであった。

 

「出席番号31番のザジ・レイニーデイで間違いはありません。姿を真似た偽物に見えますか?」

「…………いや、気配はザジと変わらない。だが、ザジはこんな異質な圧迫感を放つ奴じゃねぇぞ。似たようなのなら嘗て感じたことがある」

 

 真贋はさておき、今までに類似する者が殆どいない圧迫感を放つザジを見るアスカの目は鋭い。

 嫌でも古い記憶と苦い思い出を想起してしまうその圧迫感の持ち主を想起して口を開く。

 

「ヘルマン―――ー奴と同じ圧迫感だ。ザジ、お前は悪魔だな。それもかなり高位の」

 

 六年前にアスカ達の村を襲った悪魔の一体、そして数ヶ月前にも麻帆良で対峙したヘルマンと良く似た圧迫感からザジの正体を割り出す。

 

「正解です」

 

 ニヤリ、と表現した方が良い笑みを浮かべたザジは「私の方が偉いですよ」と付け足すのを忘れなかった。そこには拘りがあるらしい。

 

「だろうな。ヘルマンとは強さも段違いみたいだ」

 

 思わぬ相手の出現ではあるがやることは何も変わらない。邪魔をするというのならば等しく敵であり、倒して前に進むだけだ。

 アスカが僅かに爪先に力を入れたのを見てザジが体を後ろに引いた。そこはアスカの射程圏外で、当てるには魔法を放つ必要が出て来る。

 

「ここにいるってことは敵ってことだろ。仮にもクラスメイトなんだ。せめて理由を聞かせてくれよ」

 

 半年にも満たないとはいえ同じ学び舎で学んだ級友であること考えれば、ザジが容易ならざる相手であると認めつつも、その目的を知らない間は安易に倒すわけには行かない。

 

「皆さんを傷つけるつもりはありません」

 

 穏やかに微笑みながら、無口キャラはなんだというぐらいに流暢に話すザジ。その表情とは裏腹に圧迫感が更に高まる。

 

「そうとは思えんがな」

「嘘ではありません。皆さんがここで退き返すならば、ですが」

 

 圧迫感に苛なまれながら真名が皮肉を口にすると、ザジは少し苦笑しながらも圧迫感を強めて空間全体に広げるような魔力を発する。

 

「この世界はいずれ滅びます」

 

 規定事項であるように魔法世界を結末を語る。

 

「その崩壊に巻き込まれて魔法世界十二億の民の多くは消えます。なんと生き残ったとしても、待っているのは生物が生きていくには過酷すぎる不毛の荒野。彼らが生きるには地球を目指すしかない」

 

 仮に地球に辿り着けたとしても、異邦人でしかない魔法世界人が歓迎されるとは限らないとは誰にでも想像がつく。

 

「悲惨な悲劇を回避するためにはフェイトさん達の計画通り、この世界の全てを『完全なる世界』に封ずる他はない。これこそが最も血の流れない未来となるのだから」

 

 追い詰められた魔法世界人に手段を選べるはずもなく、下手をすれば地球人類と血で血を争う戦争が始まるかもしれない。悲劇を回避するには他に手段はないのだと語るザジ。

 

「世界を救った英雄と女王の息子が、こんな無謀な行動に出ることがないよう祈っていましたが」 

「無謀、無謀ね。勝手に未来を決めてんじゃねぇよ。俺にはこの世界を救う方法があるぞ」

 

 どうでもいい、とばかりに小指で耳を穿った出て来た耳糞を息で吹き飛ばしたアスカが他の方策について語ると、ザジはありえないと首を横に振る。

 

「魔界の研究機関の試算では、最短で九年六ヶ月の後に魔法世界の崩壊が始まります」

「何やと!?」

 

 アスカの一歩斜め後ろで話を聞いていた小太郎が速すぎる魔法世界の崩壊に驚きの声を上げる。

 

「如何なる計画があろうとも十年で世界を救えるはずがありません。分かったのならばこの世界のことは忘れて旧世界に帰ることです」

 

 数十年スパンで考えていた者達にとってはあまりにも早すぎる崩壊の予告に、しかしアスカは驚いた顔一つ見せずに反対の耳に小指を突っ込んでいた。

 

「で、言いたいことはそれだけか」

「聞こえていなかったのですか? この世界の崩壊は不可避だと」

「十分に聞こえてるつうの。まあ、言いたいことは分かったよ。その様子だと墓守り人から何も聞いてないのか」

 

 もっと焦って然るべきのところで妙に余裕のあり過ぎるアスカに始めてザジが笑みを消した。

 

「あのような馬鹿げたことを本気で行う気ですか?」

 

 笑みが消えた後に残ったのは無ではなく、怒り。小太郎達には分からない理由でザジは怒っている。

 

「世界と個人、どちらを選ぶかなんて決まっているだろう」

「…………貴方は、進んで贄になるつもりだというのですか」

 

 二人の間で共通の事柄が分からないから、贄という言葉が何を示すのかが他の者には理解できない。

 

「明日菜が待ってんだ。先を進ませてもらうぜ。邪魔をするなら遠慮なく倒させてもらう」

 

 他の者達がその理由を問い質すよりも早く、話題を変えるようにアスカがザジの目的を問う。

 

「貴方と戦えば私も只ではすみません」

 

 ザジは他のことを口にしようとするもアスカから発せられるプレッシャーは大きくなるばかりで、仮に贄の問題を穿り返そうとすれば先鋭攻撃を仕掛けて来る。そう予感させるプレッシャーにザジも諦めてポケットに手を入れた。

 

「致し方ありません。このような手を取りたくはなかったのですが」

「アーティファクトカード!?」

 

 優れた目を持つ真名が真っ先に気付き、遅れて気づいて対処しようとしたアスカが踏み込むも、ザジはカードからアーティファクトを発動している。

 

「幻灯のサーカス、発動」

「しまっ!?」

 

 ザジまで目前というところでアスカの視界は光に包まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………あぁあああああ………ぐはっ!!!」

 

 アスカは何か嫌な悪夢を見た気がして大声を上げながらベッドから掛けられていた布団を吹き飛ばして飛び起きた。

 

「はぁ、はぁっ………ここは?」

 

 ベッド上で起き上がった姿勢で暫し、アスカは茫洋とした視線を前へと向けて息を荒げる。

 一分か数分か数時間かどれだけの時間、息を荒げていたのか分からない。時間の感覚も曖昧な中で眼だけを動かして周りを見渡す。

 見覚えがないのに見た記憶があるという不自然な感覚。

 何時も勉強をするために使う机、日本に来てから出会って親友になった犬上小太郎に勧められてお気に入りになった漫画が入った本棚、自分が現在寝転がっているベッド。何時もと同じ天井、何時もと同じ壁のシミ、朝の光――――。

 

「なんだ……」

 

 何も変わったところは無い。昨日、自分の意志でこの布団に寝転がって寝た記憶がある。なのに、何故だろうか酷く違和感があった。まるで寝すぎた時のように頭がガンガンする。

 

「誰かいないのか?」

 

 焦燥感に追い立てられるように布団を跳ね除けてベッドから飛び降り、日本に来てようやく与えられた自分だけの部屋から出る。

 扉を開けて出た瞬間に足裏にひんやりとした木の感触。毎朝丁寧に磨かれているのだろう、埃一つ無い。昨日と何も変わらない廊下にも違和感が抜けない。

 首を巡らせれば、 隣には双子の兄であるネギの部屋。何もおかしいことはない。おかしいことはないのに、おかしいとアスカの中で何かが叫ぶ。

 違和感を抱えたまま、廊下をドタバタと走って廊下を駆け下り、誰かがいるとすれば一番可能性の高い居間へと辿り着いた。

 

「いないのか、誰も!」

 

 冷たいフローリングを踏んで居間へと足を踏み入れ、声を張り上げても暗い部屋からは誰も答えてくれない。

 

「……………」

 

 暗い部屋、誰もいない部屋、寂しい部屋。居間への入り口から見て右斜め奥に広いダイニングキッチンと四角いテーブルがある。逆側には真新しい絨毯の上に大人三人が並んで座れそうなソファーが収まっていた。

 朝のはずなのに分厚いカーテンが敷かれており、外の朝日が部屋を照らすことはないので家具は輪郭程度しか映らないが人の影は見当たらない。

 いもしれぬ孤独感に苛まれて腕で己が体を抱きしめる。後少しで寂しすぎて泣き出そうとしたその瞬間にパンッとクラッカーが鳴り響いた。

 

「「「「「ハッピィバースデー!!」」」」」

「……!?」

 

 突然、点いた明かりと同時に鳴り響く幾つものクラッカーの音とかけられた声。点けられた明かりの先には、暗がりで分からなかったがテーブルの上には食欲をそそる匂いを醸す美味しそうな料理が並べられていた。

 壁には色取り取りの地図が貼り付けてあり、旧世界や魔法世界の各所で色んな人と撮った写真が飾られている。

 

「何をビビッてんのや」

「アンタのために来てやったんだから少しは嬉しそうな顔をしなさいよ!」

 

 クラッカーを片手に笑いながら言う二人。見覚えのある二人である。

 変わらないツインテールのおしゃまで気の強い少女と、大して背の変わらない黒髪のやんちゃそうな少年。

 

「……小太郎……アーニャ?」

 

 犬上小太郎とアンナ・ユーリエウナ・ココロウァの良く知る二人である。

 小太郎は関西呪術協会からの交換留学生として麻帆良にやってきていて、アスカの同級生にして親友である。アーニャはロンドンで占い師見習いをしているはずで、まだ別れてから半年も経っていない。

 二人とは何度も顔を合わせているのに何故か強い違和感があった。

 

「ホラ、こっちやで!」

 

 末だに信じられぬ面持ちのアスカの腕を横合いから現れた近衛木乃香が引っ張って、先にネギ・スプリングフィールドが座っているケーキが用意された上座の席へと連れて行く。

 

「よっと、主役の席はここですよ」

「せ、刹那まで……」

 

 混乱の収まらないアスカは立ち上がろうとしたが背後に回った桜咲刹那が肩に手を置いて抑える。

 辺りを見渡したアスカの斜め前に後ろ手のまま神楽坂明日菜が歩み寄って来る。

 

「誕生日おめでとう、アスカ」

 

 その笑顔に、全ての言葉を封じられる。

 

「ん? どこか痛いの? 怪我でもした?」

 

 明日菜の言葉は、アスカの意識の外をついた。一瞬、止まった息が、直ぐには出ずに詰まった。

 

「どこも痛くない。怪我もしてないから」

「でも、痛そうな顔してるわよ」

 

 明日菜が近寄って来て、そのままアスカの頬に手を伸ばした。

 

「……っ」

 

 その手をアスカは払えなかった。彼女は誕生日に浮かない顔をしている自分を心配しているだけで、払う理由がないと思った。

 自分でもおかしいぐらいに硬直した身体は、明日菜の手をすんなりと受け入れてしまった。

 

「なにかを隠しているみたいだけど我慢するのは良くないわ」

 

 ちょっと怒った顔で明日菜が唇を尖らせた。

 なにも隠していないと緩く頭を降るアスカを見つめた後、明日菜は「じゃあ」と腕を組んだ。

 

「辛いことも、苦しいことも、みんな忘れしまえばいいのよ。今はそれが出来る」

 

 そうなのだろうか、と自問がアスカの脳裏に響く。

 

「おめでとう、アスカ、ネギ」

「おめでとう」

 

 答えが出る前に、背後から聞こえてきた聞き慣れた、だけど殆ど聞いた事の無い声がアスカと隣りに座ったネギへとかけられた。

 

「……………!」

 

 アスカは振り向けない。見てしまえば戻れない。この優しい世界に甘えてしまう。

 

「父さん、母さん、ありがとう」

 

 だけど、隣りのネギが声の主たちへと答えてしまった。

 知りたくなかった。分かりたくなかった。見たくなかった。しかし、ネギの声に導かれるようにアスカは後ろを振り返った。

 

「………どうして………」

 

 振り返った先、そこにいたのは自分の隣にいるネギを大きくして繊細さを減らして野性味を足したような男性。そして自分を大人にして柔らかさを足した女性。ナギ・スプリングフィールドとアリカ・アナルキア・エンテオフュシア。自分とネギの父と母だ。

 口から零れ落ちた呟きに自分が困惑する。

 

「…………親父、お袋…………」  

 

 確かめるようにそっと呼びかけると、ナギが優しく微笑んだ。

 

「なんだ? 折角祝ってやってるのに嬉しくないのか?」

 

 何時もとは様子が違う様子で自分達を見るアスカを訝しげに見ながら問いかけるのはナギ。

 

「少し顔色が悪いようじゃの。風邪でも引いたか?」

 

 心配げなアリカの温かい手がアスカの頬を撫でた。

 

「何でもないって。ちょっと夢見が悪かっただけで」

 

 居心地の悪い様な、使われた試しのない神経にじんと熱が通うような、曰く言い難い気分は違和感として強く残っている。

 

「あ、あれ…………どうして、涙が」

 

 アリカの言葉に涙が自然と溢れて来た。抑えようとしても、拭っても次から次へと流れて来る涙にアスカは困惑した。

 

「大丈夫じゃ」

 

 アリカがいきなりアスカの頭を抱え込み、抱きしめた。

 彼女の胸に顔を埋める形になり、アスカは戸惑う。頭の後ろに触れるのは唇だろう。彼女の肌の温もりが汗の甘い匂いと共に伝わってくる。

 

「アスカは精一杯やった。誰も責めないし、私が責めさせはせん」

 

 彼女の吐息が頭を撫でる。アリカの汗なのか、水滴が一つうなじに落ちたのをアスカは感じた。

 

「これでも、ずっと心配しておったんじゃぞ」

 

 声に何時もの溌剌さはないが囁くようなアリカの言葉は真剣そのものだった。

 

「お袋……」

「辛いことも、苦しいことも、何もかも忘れてしまえばいい。私が許す」

 

 ほんの少しの間を置いて、彼女は言った。

 身体を抱く母の腕に力が篭り、その身の温もりをより強く熱く感じた。伝わってくる彼女の鼓動は速い。

 ずっとこのままでいたい。このままこうやって触れ合っていたい。そうすれば、もう辛いことは何もないのだ。傷つくことも、傷つけることもない。誰かに恨まれることも、恨む必要もない。

 今のアスカは陽の匂いに包まれていた。ずっとこうしていたかった。そしてそれは当然の求めるべき権利のあるものだった。他の皆には家族がいるのだから、どうして自分が求めてはいけないのか。

 

「最初からどうしようもなかったのだから苦しむ必要なんてない。忘れてしまえばいいんじゃ」

 

 アリカの言葉が目覚めてから胸の中に感じていた空虚な部分に染み込んでくる。

 これがアスカの望んでいたもの。ささやかだけど、皆がいて、満たされて、幸せな日常の世界。なのに、その時になってアスカの中で強烈な違和感が蘇る。

 抱擁が解かれ、優しい笑みを浮かべている目の前の女性が母なのだと思い込もうとした。

 

「改めて誕生日おめでとう、アスカ」

 

 それは家族が誕生日を迎えた、どこの家庭にも一年に一度ある極普通の親から子供へ向けた言葉だった。しかしこれまでのアスカにとっては、幾ら望んでも得られなかった、かけがえのない一言だった。

 

「…………ありがとう」

 

 答えるアスカの胸に、切ない気持ちが込み上げる。我知らずに頬を再び涙が流れ落ちた。

 

「泣くことなんてないじゃいの」

 

 閉じた瞼では分からない近くから明日菜のからかうような、とても優しい慈しむ声が聞こえた。

 

「実はアスカは泣き虫だからな」

 

 ナギから慰めているのかけなしているのか分からない声がかかった。慣れているような感じでアスカをポンポンと軽く動作には愛が溢れていた。

 開かれたカーテンの向こうから、瞼を透かして窓から差し込んでいるらしい陽の光が眩しい。

 陽の眩しさに目が潰れてしまえば、こんな幸せな光景を目に焼き付けておけるのにと思った。

 開いた瞼には先程と変わらない幸福な光景が広がっている。どうしても夢のように思えて何も乗っていない取り皿を見下ろしていた。

 

「食べへんのかいな。こんな美味そうやのに」

「じゃあ、私が取ります。アスカはから揚げが好きだったものね」

 

 天ヶ崎千草が問い、ネカネ・スプリングフィールドが率先して動いて何もなかった皿の上に油が薄らと浮いたから揚げがアスカの目の前に現れた。微かなレモンの香りがアスカの空腹を刺激した。

 だけど、何か大切なことを忘れているような気がした。

 考えなければいけないことがあるはずだった。追求しなければならないこともあるはずだった。けれど、みんなの笑顔を見ると、何も考えられなくなった。何も追求できなかった。

 

(…………………)

 

 これで、いいのだろうか。

 みんなが楽しそうに、今のこの日々を送っている。満たされて、みんな、表情は明るい。だから、何も思い悩むことなどないのだろうか。自分はこのまま、何も言わず、何も考えずにいればいいのだろうか。

 ここは幸せな世界だ。大きな争いは根絶され、不正義も膨れ上がることはない。奇跡も犠牲も英雄も必要としない当たり前の日常である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 家族と友人に囲まれているアスカを中空から見下ろしたザジが小さく微笑む。

 

「心から望んだ世界。だからこそ一度囚われしまったが最後、逃れようは無い。純粋な己の欲望にこそ、人は抗いようもなく囚われる」

 

 完全なる世界は、招かれた者が一番強く望んでいることを再現する。ここには、恐怖も絶望も、苦痛もない。完全なる世界の中で、人々は永遠に生き続ける。終わることのない、幸福な夢を見ながら。

 

「ここは全てを断ち切る場所、永遠の園、無垢なる楽園」

 

 その世界の名をこそ、完全なる世界という。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り五時間二十五分十二秒。

 

 

 

 

 





次話『第80話 完全なる世界』



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第80話 完全なる世界

 

 

 

 

 

 壁に並んだ窓から柔らかな陽光が差し込んでいる。

 白いテーブルクロスが敷かれたテーブルの上には、から揚げやコロッケといった揚げ物が沢山並び、マカロニサラダのボウルがどでんと置いてある。子供が好きそうな油ものばかりだ。

 

「………………」

 

 兄弟の誕生日会に集まってくれた人達は誰もが笑顔で楽しそうで、違和感を感じているアスカだけがおかしいのか。

 状況だけ見ればとても楽しいイベントなのだけど、どうにも現実感がないというか、ずっと夢の中にいような気分。しかも微妙に居心地のよくない夢。

 違和感があったはずなのに、具体的なところは何も思い出せない。傾けた器から零れ落ちる水のように、サラサラと勢いよく失われていく。後に残されたのは、なんとも言い難いモヤモヤとした違和感だけ。

 

「紹介するぜ! 今日のサプライズゲストだ!!」

「?」

 

 皆が楽しく食事と会話を繰り広げる中で消えない違和感を抱えているアスカを熱に巻き込むように、一度部屋の外に出ていたナギ・スプリングフィールドが誰かの手を引っ張って戻って来た。

 

「ほら、早く来なって。いい年した年寄りが恥ずかしがってないでさ―――」

「分かったから引っ張るな、ナギ。後、誰が恥ずかしがっておるのかと」

 

 サプライズゲストが姿を見せる。その姿を見た時、アスカの心臓は間違いなく一瞬止まった。

 

「……あ、あ……!」

 

 喉が、胸が震えるのを感じた。熱いものが込み上げて、ガクガクと小刻みにアスカの芯が震え出す。

 忘れるものか。忘れられるものか。アスカ・スプリングフィールドがアスカ・スプリングフィールドであるならば、その声だけは絶対に魂の奥底から失われるはずがない。

 

「久しぶりじゃな、二人とも」

 

 ナギに力任せに引っ張られて部屋に入って来たのは一人の老人だった。

 着慣れない衣服にまごつきながらナギに文句を言いつつ、肩に一匹のオコジョ妖精を乗せて皆がごった返す室内に足を踏み入れる。

 

「スタンさん! カモ君!」

 

 のどかと談笑していたネギが一人と一匹の姿を見て椅子から立ち上がって名を呼ぶ。

 皆から注目されていたスタンは喜色満面のネギの姿に平静を取り戻して咳払いをした。

 

「ゴホン。お前達が修行を頑張っとることは二人から聞いておる。儂らはプレゼントを渡しに来ただけじゃ」

「へへ、俺っちも関わってることもお忘れなく」

「お前は大したことはしとらんじゃろうに、カモ」

 

 肩にオコジョ妖精のカモを乗せたスタンが後ろ手に何かを背中に隠しながら歩み出てアスカの前で立ち止まった。

 

「へへ、兄貴達。誕生日おめでとう。つまらねぇものだが、プレゼントだ。よかったら貰ってくれ」

 

 老人の肩から机に飛び下りたオコジョ妖精はスプリングフィールド兄弟を見遣り、魔法を取り出した包装された誕生日プレゼントを短い脚で二人の前に押し出す。

 

「誕生日、おめでとう。これは儂と村の皆からのプレゼントじゃ」

 

 そう言って背中から綺麗に包装された紙包みを取り出してアスカに差し出した。

 そうだ、違う。

 

「どうした、アスカ?」

「どうしたんすか、アスカの兄貴?」

 

 スタン、カモと順々に問いかけてくる。アスカは少しだけ目を鋭くして周囲を見回した。

 穏やかな毎日に、大切な人達。そこは確かにアスカにとっての理想郷なのだろう。だが、そこには何か、何かが決定的に足りないような気がした。

 

「あぁ…………ごめん。ありがとう、嬉しいよ」

 

 ずっと、強いとは何かを問い続けてきた。愚かな話だ。今の今まで己の弱さを克る事こそ、強さの道だと想っていた。

 人は自分という殻から、自分自身の運命から逃れることは出来ない。そも、変えるべきは運命じゃない。自分が変わらなければ願いを叶えたとしても未来に光は差すはずがない。されど、己とはどこまでいっても一人、如何に威を張り通そうとも越えられるものもまた己一つに過ぎぬ。アスカが本当に求めていたのは強さなんかではない。この当たり前の風景、幸福。これこそがアスカの欲しかったもの。

 改めて左右に視線を走らせる。

 明日菜がいて、ネギがいて、アーニャがいて、小太郎がいて、ナギがいて、アリカがいて、今まで出会って来た様々な人達が笑顔でアスカを見ている。イギリスのウェールズに住んでいるのに、わざわざ今日の為に日本に来てくれたスタンも、その肩に乗っているカモも笑顔だ。

 そうだ、確かにここは素晴らしい場所だ。だが、何時までもここにいることは出来ない。

 

「……………でも、受け取れない」

 

 だが、だからこそ今の(・・)アスカに受け取る資格はない。いや、受け取ってはいけない。

 ずっと無意識にこの光景を求めてきた。だげど、それは間違いだった。幸福とはただ求めるだけでは得られない。自分の手で掴み取らなければ意味がないのだと。

 

「はぁ!? 何言い出すんだよ、アスカ!!」

「ちょっとアンタ酷いよ!?」

「アスカ………」

「アスカ、どうした?」

 

 アーニャが明日菜が怒り、ネギとナギが心配そうにアスカの顔を困惑したように覗き込んでいた。

 

「ここは俺のいるべき場所じゃない」

 

 手を離したのならそれがどんなに辛くてもまた繋げばいい。手から零したのならどんなにみっともなくてもまた拾い集めればいい。もう過去の夢は量り尽くした。答えを恐れる日々はとうに過ぎた。振り返ってはいけない。無限の未来の可能性は決して誰にも量りえぬものなのだから。求めるならば実現せよと、そんな当たり前のことから逃げていた。

 

「ゴメン、行かなくちゃ」

 

 自らが作り出した大切な人達の模造品達を押し退けるようにして廊下に転がり出て、正面玄関に向かった。

 

「待つのじゃ、アスカ!!!」

 

 アリカの静止を無視して正面玄関に辿り着いてドアノブを回しても、鍵はかかっていないのに開かない。

 ドアを開けようとドアノブをガチャガチャと動かしているアスカの背後からざわざわと無数の足音が迫って来る。

 

「この開けっ!」

 

 体当たりをかましてみたがドアは開かない。腰の入った蹴りを見舞ってみたが、やはりビクともしなかった。

 

「止めろ。ここからは出られやしない」

 

 背後から妙に優しく、そのくせしてひどく乾いた男の声が掛けられた。

 振り返ったそこ、玄関からリビングにつながる廊下には先程まで誕生日会に参加していた大勢の影が犇めいていた。彼らの前に出て話しかけるのは、声と顔に怒りを滲ませたナギだ。

 

「ここにいるみんなで楽しい夢を見ているのに、どうしてお前は辛いこと哀しいことを思い出そうとするんだ?」

「恐れや苦痛の全てから解放されるのに、どうして出ていこうとする?」

 

 ナギとその横に並んだアリカが順に問いかける。アスカは彼らを見て、その後ろに並ぶ哀しみと怒りに染まっている人々に眼をやった。

 

「ここにいれば永遠の安らぎがある。心穏やかにすれば………………きっと素敵な夢を見られるはずだ」

 

 二人の間から進み出たスタンが言いつつ、アスカに向けて手を差し出す。

 

「ここから出てしまったら、儂達はもう二度と会えなくなるぞ。共に終わらない理想郷で過ごそう」

 

 生前と変わらぬスタンが静かに告げてきた。

 酷い現実から目を背けて生きられたら、どんなに楽だろうか。恐怖と焦りと、妬み、憎悪、嘲り、蔑み、数え切れぬ不快な想念から解き放たれて楽しい夢だけ見ていけたら、どんなに良いだろうか。望みさえすれば、それは手に入るのだと言う。

 しかし、それならばなぜこの世界で自分には『孤独』しか見えなかったのだろうか。

 

「アスカの兄貴ももう気づいているだろう。ここは現実世界じゃあない」

 

 スタンの肩に乗っているカモの言う通りだ。

 未だナギとアリカの居場所は分かっていない。スタンもカモも、現実世界では既に死んでいる。そんなことは少し考えれば分かることだ。そんな簡単なことに何故今まで気がつかなかったのか――――――――アスカが無意識の内に気づくのを拒否していたというわけか。

 再度、ドアを壊してでも外に出ようと振り向いた。だけど、腕を振り上げることが出来なかった。抑えるように肩を節くれ立った年輪を感じさせる手が掴んできたからだ。

 

「ここは現実ではない。だからここから外に出れば、アスカは二度とこの世界には戻って来れなくなる。儂は寂しい。何時までも一緒にいれぬか?」

「出来ない。俺はもう行かないといけないんだ」

 

 無論、手の持ち主が誰なのかは振り向かなくても分かる。その持ち主がどんな表情をしているのかも見なくても分かった。だからアスカは背後を見ようとはしなかった。見てしまえば決心が鈍るから。

 

「行くな、アスカの兄貴。行けば、きっと今以上に苦しむことになる」

 

 振り返ろうとしない背中にカモが声をかける。

 

「あんな、あんな絶望と不幸に満ちた世界のどこがいいんだ? 俺っち達と一緒にいるのはダメなのか?」

 

 この期に及んでの甘い囁きが極上の誘惑となってアスカの決心をどうしようもなく揺さぶる。

 

「違うよ。俺は、みんながいれば他には何もいらない。みんながいない世界なんかに行きたくはない」

 

 これもまたアスカの裡にある本音。

 目を閉じると、さっきまでの温かな空間が思い出される。許されるなら何も知らなかった頃に帰りたい。誰にも死なないでほしい。それでも、アスカはもう喪いたくない。

 

「なら、行くな。ここで儂達と一緒に永久に生きよう」

 

 そっ、と掴んでいた肩から手を離したスタンが優し気に言った。

 スタンが振り返ったアスカに向けて手を差し出す。それは甘露のように甘い誘いだ。だが、その手を掴むことは、アスカには出来なかった。

 

「違う、違うんだよ。俺の知るアンタ達は、そんなことを言ったりしない」

 

 その手を振り払うように、アスカは叫んだ。

 頭では分かっていても、本当は辛くて、分別も何もかも捨てて取り戻しておかないと後悔すると分かっていても拒絶する。

 

「俺は誓ったんだ。どんな時でも諦めないって! 誰にも負けないように強くなるって! ここで立ち止まったら、俺はみんなを裏切ることになるんだ! だから、俺は行かなきゃいけない!」

 

 アスカは答えを導き出した。スタンを見つめる瞳に、小さな炎が宿っている。

 

「じっちゃんもカモも…………死んだんだ。二人は俺の作り出した幻影に過ぎない。生きちゃあいない」

 

 現実は覆せないのだと自らに言い聞かせるように事実を口にする。

 

「こんな世界からは何時か覚めなくちゃいけない。俺達は現実を生きているんだ。夢は束の間だけでいい」

 

 生きることがどんなに残酷でも、その中から一つ一つ大切な宝物を探し出していく方がいい。生きている日々にこそ真実の幸せがあって、それ故に夢が生まれるのだ。

 

「夢は与えられるものじゃなく自分で見つけ出すものだ。この世界は間違っている」

 

 忘れてしまった夢もある。新しく見出した夢も、そっと胸に抱き続けている夢だって…………。

 アスカが決意を込めて言うと、カモが悲しそうに目を閉じた。

 

「残酷なことを言うじゃねぇか。俺っち達がこれほど言っているのに、アスカの兄貴はそれに応えてくれないのか」

「でも、ダメなんだカモ。だって、お前は本物のカモじゃない。俺の望みが生み出した紛い物に過ぎないんだから」

 

 アスカは血を吐くような思いで叫んだ。眼からは何時の間にか、涙さえ零れていた。

 カモの顔でそのように言われるのは、アスカとしては身が裂かれるように苦しかった。だが、それでもアスカの決心は変わらなかった。

 

「なぜ儂達が幻だと思うんだ?」

 

 流れる涙を服の袖で拭うアスカにスタンの冷静な声が問いかける。

 

「リアリティっていうのかな。現実って感じがしなかったていうか、望む全てがある世界―――――でも、そんなの俺の願望にしかありえなくて………幸せだったけど本当の幸福じゃない気がしたんだ」

 

 果たして死んだ人間を生き返らせるのは、どれだけの罪か。多くの人は言うだろう。「褒められたことではない」と。しかし、医者は人を治す。それは罪ではない。これもまた事実である。

 医者は、死を治療できない。最後の不可能が約束されているから許されている。不可能を可能にするのは、倫理を犯す罪だ。人を殺したり、かっぱらったりするのとはまた次元の違う話である。何故罪かと言えば、それが不可能で、不可能だから大事にしてきたものが山程あるからだ。それが完全なる世界でならば、擬似的(・・・)にだが可能である。

 完全なる世界は本気で、平和な世界を創ろうとしているのだ。誰もが悩みなく満ち足りて暮らせる、幸福な世界を。

 

「ここは幸福に満ちた世界だと思う。敵もいなくて、戦う必要も無くて。清明で温かな善意に満ち満ちた世界。でも、言い換えれば俺に都合の良い独善に満ちた世界だ。ここに他人はいない」

 

 他者の干渉、己以外の存在、自らの認識できない未知なる要素を排除して初めて、完全なる幸福は約束される。

 

「他人がいるから、自分よりも優れた者には嫉妬し、劣る者を侮蔑する。それが争いの元になる。完全なる世界は他者を排斥し、個人で完結することで幸福を達成する。」

 

 世界に他人はおらず、そこに自身以外の人間は己のために世界が用意した構成要因、歯車。他人がいるということは必ず軋轢を生み、反発が生まれ、争いが出来る。

 『夢』こそが人を駆り立て、未来を創っている。

 『夢』があるから、『願い』があるから、『希望』があるから―――――それらの『欲望』があるから。

 『夢』とは『欲望』の別の名だ。人はああしたい、こうしたいと、未来を願う。それに『夢』という美しい名をつけて愛でているのだ。『夢』は『欲望』。その結果は善とも、悪ともなる。進歩は人の命を救い、幸せを齎すのと同時に争いを生み出す。もっと多くをと望む心が他者を虐げ、戦いを引き起こす。

 殺し合い、憎み合う際限のない負の連鎖。血で贖い、切り拓いてきた人類の未来。

 自分は結局、何時も同じ事を繰り返しているにすぎないのか、とアスカの胸を虚しい想いが過ぎる。

 戦いたくないと思いながら、自分はまた戦おうとしている。これからやろうとしていることは、ただ自分の欲望の為に。人類の長き戦いの歴史を長引かせる行為でしかないのか。己の身勝手な思いの為に、この世界に訪れようとしている平和を阻害しようとしているだけではないか。

 『夢』があり、欲望から自由になれない限り、人は戦い続けるしかないのだろうか。

 誰もがみな、幸福に生きられる世界、戦争もない平和な世界。完璧でこれ以上の幸福ない世界。

 

「絶対的な一つの観念でありながら、そこを訪れた者それぞれに用意される閉塞世界――――――限定された天国こそが、この完全なる世界。対象の深層意識から読み取った理想世界を具現化するもの。そして当事者にとって、この世界は限りなく現実に近い。なのになぜ、その理想を自らを破壊しようとする?」

 

 スタンの、アスカの中にあるスタンの姿を模造した偽物が問いを投げかける。

 

「生きている。生きてきた。今まで色んな人に会ってきた。それは今までの世界だから出来たことだ。この楽園のような世界じゃ出来ない事だった」

 

 『幸福』の確定した世界に『夢』はない。最初から与えられ、それ故に過大な欲望は生まれず、生まれたとしても世界に否定される。お前が持つべきものはこれとこれ。それ以上は過分だと。その世界では、人は与えられたものの中でも満ち足りて生きる。

 

「幸福はあっても夢はなく、希望もない。ただ、幸福を続けていくだけの独善的な寂しい世界」

 

 そこは個人だけの満たされた自分だけの世界。同時に、夢、望み、希望を失う。決まった幸福からの逸脱など、その世界では許されない。死も許されず、一本のつながった円の道を回り続けるしかそこにはない。人は一人では生きていけない。なら、この世界で生きていると言えるのだろうか。

 

「俺は満たされたままの生に価値を見出せても、ずっとここにいたいとは思わない。夢を持つことが出来ず、ただ停滞した静けさの中で生きるなんて真っ平だ」

「だが、これはアスカの理想の世界のはずだ。どれだけ否定しようとも、ここはお前の深層意識が望んだ世界。争うことのない平和な世界で、家族や大切な人達と穏やかに過ごす日々。それがアスカの望んだ世界のはずだ。いったい、何が不満だ?」

「不満なんてないさ。だから、俺はこの世界にはいられない」

「良いのかい? この世界はきっと、これからアスカの兄貴がどれほどの頑張っても二度と手に入らない楽園なんだぞ」

「選べない。そんなことは絶対に出来ない」

 

 スタンとカモの懇願に応えるアスカの声は静かで殊更に大きいものではない。なのに、空間に深く広く響いていた。

 

「何故、と聞いても?」

 

 痛みを痛みとして感じる自分。苦しみを苦しみとして理解する自分。それをもし消し去ることが出来るのなら、こんなにも幸福なことはない。だけど、そんな楽園のような世界では――――――。

 

「そんな楽園にいたら、今の俺は俺でなくなってしまう」

 

 カモの問いに対する答えはちっぽけなものだ。

 人々が平和に、幸せに暮らせる世界が来ることを、自分も確かに望んでいる。だが、己の身に危険が迫れば、人はみんな戦う。それは生存するための本能だ。だから彼らは戦う。人の歴史は、そんな悲しい繰り返しだ。こんなことはもう終わりにしたい。殺し合いたいわけではない。戦わずとも人は生きていける。戦い続けなくとも人は生きていけるはずだ。

 

(目的が同じというなら、何で完全なる世界を否定するのか?)

 

 アスカは心中で疑問する。

 望みは同じ。だが、彼らの望んでいる世界とアスカの思い描くものは違う。

 

「途絶えることなく、移り変わることなく、まるで悠久の太古から続いているような――――――そう、まるで夢のような世界だ、ここは」

 

 「完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)」は各人の願望や後悔から計算した最も幸せな世界を提供する。人生のどの時期であるかも自由、死も無く幸福に満たされた暖かな世界。

 都合の良い夢かもしれないが、あり得たかもしれない幸福な現実、最善の可能世界。見方によっては、これを「永遠の楽園」の実現と捉えることも出来る。そんな世界なら、もうあれかこれかと迷うことから解放される。目の前に選択肢がなくなるからだ。人は決められた幸福だけを与えられ、悩みから逃れる。

 

「絶対の幸福が約束された世界。ああ、誰もがこの世界で生きることを望むだろう」

 

 アスカもまた誘惑に駆られる。自分のしたことを、洗い流したくなる。全部、全部だ。

 己の手を見た。別段、それが血塗れになっているわけでもない。それでも緩やかに丸められた指は、それが成し遂げたことを物語っていた。きっと直接、間接的にアスカによって被害を被った者でなければ止める権利も義理もない。だけど、それをしたらアスカは人間ではなくなる。

 

「でも、この世界で生きているのは俺だけだ。他の全ては俺を幸福にするためだけの部品に過ぎない。一人で幸せになっても虚しいだけだ」

 

 「完全なる世界」とは文字通り完全であるために主人公たる自身以外は虚構である。そして主人公たる自身は世界を構成する部品(パーツ)。それが本当に人間と言えるだろうか。

 いや、とここでアスカは迷った。

 

「ならば、今この世界が幸せと言えるのか。惨たらしく殺し合い、際限なく憎しみあう、悩み多き不完全な世界が」

 

 カモに問われ、アスカは直ぐに答えられない。

 自分も平和を望む。完全なる世界とは違う世界を望む。だが、それがどうすれば始められるか、どんなものか明確に思い描くことが出来ない。

 そんな自分が正しいと、完全なる世界が間違っていると言えるだろうか。

 平和で満ち足りた世界。誰もが希求するそれを、銀の盆に載せて差し出そうとしている者を、非難することが出来るのか。

 それが果たして正しいことなのか、自己満足に過ぎないのではないか、迷う。アスカは自責の思いに沈み込む。手にした何かが失われる日を知らず、失われた後に過去を悔やむことから逃れ得ない。何度も、何度も――――。

 

「俺を構成しているものの中には苦しみや哀しみも含まれている。楽しい思い出や素敵な記憶とかと同じくらいには両方とも俺の一部なんだ。どっちが欠けてもいけない。どちらかだけでもいけない。両方あってアスカ・スプリングフィールドなんだから」

 

 現実世界は不完全で争いによって憎しみが生まれ、多くの悲しみが生まれている。だけど、今のアスカがあるのはその世界を生きてきたからこそだ。

 沢山の出会いが、別れがあったからこそ。あらゆる苦しみが、痛みが、悲しみがあったからこそ。もしそうして定められた道を歩んでいたなら、多くの人との出会い自体が存在しなかったかもしれない。

 

「この世界がニセモノだから認められないと? ここはあり得たかもしれない幸福な現実。最善の可能世界であるというのに」

 

 スタンは意表を突かれたような顔をして、アスカの顔に見入った。アスカはただ、真っ直ぐに彼を見つめて続ける。

 

「もしも二十年前の時点で完全なる世界が全滅していたら、こういう世界になる、彼らがいなければナギとアリカが行方不明になることはなく、六年前の村の襲撃もナギによって未然に回避され、修学旅行での事件もナギ達が対処し、危険を冒して魔法世界に来ることもない。心労を重ねなかった儂もまだ生きておっただろうし、カモが殺されることもない。つまりアスカにとっての敵、戦いのない世界、清明で暖かな善意に満ち満ちた争いなき世界となるのだ」

「ホンモノだとか、ニセモノだとか、最善だとかは関係ない。どんなに幸福な世界であろうと、俺が歩んできた道じゃない。過去に浸って、現在を逃避して、未来を閉ざしてしまうことは間違っている」

 

 アスカは淡々と告げた。「完全なる世界」が実現すれば、確かに人類は殺し合いの歴史に幕を閉じる。恒久的な平和が訪れるのだ。同時に自らの人生も。

 

「他人がいて、色んな意見があって、ぶつかって…………未来は他人がいなけりゃ生まれない、望めないんだ」

 

 夢を見る。未来を望む。それは全ての命に与えられた、生きていく力だ。何を得ようと、夢と未来を封じられてしまったら、人類は既に滅びたものとして存在することしか出来ない。死がないだけで、死んでいるのと変わらない。

 

「ぶつかって、傷つけあって、間違って、何度もそんな馬鹿なことを繰り返してここまできた」

 

 奪われたことに傷つき、得られぬ物の為に苦しみ、翻弄されるように此処まで来た。

 

「他の奴から見れば無駄であっても、不幸である道のりと言われたとしても、この無駄な道のりがなければ、今の俺はここまで到達することが出来なかった」

 

 それらの日々を思い返し、アスカは心の底から思う。出会えて良かった、と。

 苦しみ、悩んだ、不幸な日々であろうと、それが現在の自分を創った。無駄とも思える遠回りがなければ、自分という存在は殆どないも同然だ。そしてそれは、これからも続くのだろう。間違い、悩み、遠回りして道を選び取る。間違ってやり直すことは、同じ到達点に至るにしても、間違わずに真っ直ぐ進むこととはまるで違う。決して無駄でも不幸でもなく、天から与えられた人生の賜物だ。

 

「爺さんもカモも死んだ。死者は蘇らない、喜ばない、悲しまない、何も――――――――感じない。だけど、死は終わりじゃない。生きている者が想いを消さない限り、死は終わりなんかじゃない。生きている者の胸の中に在り続ける」

 

 死んだ人間の生命は、消滅した情報に過ぎないのかもしれない。だが、生きている者達は、その怨念に取り込まれるのではないかと恐怖しながらも、死者に束縛されて前に進むしかない。人が過去を忘れることが出来ない生命であり、そうして文化と生命をつないできたのだから、過去そのものである死者に報いたい、と思うのは当然の事であろう。

 人はより良い未来を夢想して、ずっと戦ってきた。悪しき欲望に取り憑かれて、他者を虐げ、戦乱を生んだ者達もいる。だが、だからといって幸福以外の欲望を全て否定してしまうこともまた間違いだと思う。夢が人を駆り立てている。そのこと自体は善悪両面の顔を併せ持っている。人は各々戦って、何が正しいかを選び取っていかなければならないのだ。誰かに与えられるのではなく。

 

「小奇麗な日常の全てが光り輝いているわけじゃない。不満なんて、どんな世界にも必ず存在する。だけど、全ての面で自分にとって都合の良い究極の世界は、突き詰めれば他人の事情を全く無視した独善の空間になる」

 

 自由意志を持つ一人の人間として、別の意思を持つ誰かと出会う。この先、どんな道筋を辿ろうと、これらの出会いが自分達の人生に齎したものを否定することだけは出来ない。完全なる世界に自由意志など必要ない。他人の存在しない幸福に新たな出会いなど存在しないのだから。

 自分に出来るのは戦うことだけだ。そう分かっていても、ただ戦士としては生きられない。今のアスカはそんな生を過ごすぐらいなら、生まれてきたこと自体を呪うだろう。

 

「俺は何時果てるとも知らない弛緩した幸福に縛り続けられるよりは、普通に生きて普通に死ぬ。愚かでもいい、短くても生きていて良かったと思える本当の生を謳歌したい」

 

 アスカは語り続けた。

 沢山の幸福の日常の切れ端たちを見て美しいと感じながらも、切り捨てるように語り続けた。

 無意味とも思える時間の片隅で誰も覚えていない記憶を語り掛ける。もしも時間が一つの物語であったなら真っ先に添削され、忘れ去られてしまいそうな、そんな当たり前の風景がそこにあった。

 忘れられ、失われ、それでいてあらゆるものの一番奥にしっかりと溜まり積もってゆき、例えそこに居合わせた全員がこの世から退場した後も、静かに静かにずっとキラキラと輝き続ける。

 

「完全なる世界を間違っているとは言わない。言う資格もないし、誰かがこの世界にいたいと望んでも反対もしない」

 

 択ぶ余地はなく、だからこそ択ぶ価値がある。誰もが未来に向かっている。避けることの出来ない明日を自らの意思で選び取る。

 理念や思考では説明できない体の奥底に息づく原始的な本能の叫びであったのだろう。生きることは戦いだ。例えこの戦いが終わったとしても、生きていく限り、人は日々戦っていかなければならない。

 現実で生きることを放棄したら、ここまでだと諦め、終わってしまったら、人は自分を捨てることになる。

 戦士であることと自分自身であること、それは同一でもないが別でもない。例え戦士でなかろうと、皆に対する自分の気持ちが変わるわけではない。

 本当は何と戦うべきか。

 どうすれば戦いを終わらせ、目的を達することが出来るのか。果たしてそれが本当に正しいことなのか。何もかもがまだ分からない。

 迷いはまだこの胸の中に。

 結局はまた一巡して同じところへ戻る。何時も答えは出ない。答えがないことこそ答えなのかもしれない。

 それでもやらなければならないことがある。いや、何としてもやりたいことがあるのだ。自分の信じることのために戦う。守りたいともののために戦う。守りたいものがある。言えなかった言葉がある。まだ間に合う――――――――きっと、だから。

 

「俺は進まなければ行けない。阻むというなら誰であろうと打ち砕く」

 

 回る時計のように、巡る季節のように、何時までも同じ場所には留まっていられない。想いが、ここにちゃんとあるから。

 誰が許してくれようとも、足を止めたアスカ・スプリングフィールドを自分自身こそが認めないと拳を握って皆に向けて、己の出した答えを阻むのならば倒すと突きつけた。

 

「―――――きっと、そういうことなんだな」

 

 守りたい、生きたい、と最も原初的で基本的な衝動に身を任せ、一歩を踏み出したアスカの姿にカモは納得したようにそう言い、そっと微笑んだ。

 

「そうか、決心は変わらないか」

 

 近寄ってきたスタンが正面からそっとアスカの腰に手を回し、顔を近づけて頬を押し当ててきた。

 

「少しだけ、少しだけでいいからこうさせてくれんか? 少しでいいから」

「………………ああ」

 

 答えながらアスカも恐れるようにスタンの背に手を回した。

 この温かさ、柔らかさ、香り、全てがアスカの知る現実世界で失われてしまったスタンと同じなのだ。だが、悲しいくらいにこの世界は虚構でもある。アスカの感じる全てが偽物なのだ。

 アスカは、この世界を捨てて醜い現実世界へ戻らなければならない。今を生きる生者が何時までも死んだ者に囚われていけないから。

 しばらく抱き付いていたスタンが離れてもアスカは顔を上げられない。そんなアスカをカモが、やれやれと苦笑を滲ませて見ている。

 

「アスカよ、これだけは忘れんでくれ。儂はお前の幸せを願っておるよ」

「俺は幸せになるよ、爺さん」

 

 アスカの言葉にスタンは満足にそうに頷いて微笑んだ。

 

「俺っちからは特にいうことはねぇな。どうせ兄貴は自分でどうにかすんだろ。ま、頑張ってくれや」

「お前らしいな。もっと言うことがあるだろ」

「男は細かいことに拘らねぇもんだぜ」

 

 と言って短い親指を立てて答えたカモに、苦笑してアスカは後ろのドアを振り返る。

 そして魔力を高めると右拳に集めて思いきりドア目がけて叩きつけた。木製の戸に蜘蛛の巣状の亀裂が入る。もう一度、今度はありったけの力を込めて拳を叩きつけると、激しい衝撃音と共にドアは崩れ落ちた。

 四散したドアの欠片を踏みつけながら外へと出た。

 

「進めよ、アスカ。道の果てまで」

 

 誰かが背中に向けて言って来た。

 歩き続けるアスカが首だけで後ろを振り返っても、残された人達は誰一人として追ってこなかった。霞がかかったかのようにぼんやりと姿を薄れさせていくので表情すら読み取れなかった。ただ、細められた瞳だけがアスカの選択を嬉しそうに思っていると感じ取った。

 

「行ってくる」

 

 光が差し込んできて、道が拓けている。アスカは光の差す方へ走り出した。

 血塗られた闘争の道は、まだ終わりそうにない。重い荷物を背負ったまま、何時果てることなく続いていく。それでも彼は駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アーティファクト『幻灯のサーカス』を発動し、アスカ一行を等しく疑似・完全なる世界に送り込んだザジ・レイニーデイは勝利を確信していた。

 

「何故――」

 

 満たされぬ想いが多ければ多いほど、心の穴が大きければ大きい者ほど、甘美な夢である完全なる世界からは逃れられない。

 

「何故何故――――」

 

 幻灯のサーカスで作り出した完全なる世界はあくまでレプリカ。本物は肉体ごと異界に取り込み、永遠を与える。それでも取り込まれた者の幸福の世界から逃れることは出来ない。その世界を望んだのは自分自身なのだから。

 

「何故何故何故何故――――――――何故、目覚めたのですか!?」

 

 起き上がったアスカを前に、ザジはその不可解な結果を受け入れられずにいた。

 目覚めぬはずだった。確実にアーティフアクトに囚われていたはずだった。小賢しい若造に過ぎないアスカ・スプリングフィールドが擬似とはいえ完全なる世界を上回る意思を持っているのでもない限りは。

 

「そんなものがあるはずがない………そんな意思があるはずがない。なにも知らない幼子でもなければ。挫折を知り、失敗を知っている。諦観と己の限界を知っているはず。絶望を知っているはずなのに何故!?」

 

 知っていれば、その先に希望などない。絶望なのだから。その先などない。

 生物として生きる彼らに、それを相克する力などあり得ない。肉体とは朽ちていく肉の塊だ。生暖かい体液と蠢く腱、その集合だ。限界を持つべくして限界を持つ物質だ。

 

「人が甘美なる夢を捨てて進むなど―――――あるはずがない!」

 

 いずれ滅びる種、死すべき個人が至上の誘惑を振り払えるはずがないと彼女は信じていた。いま、このときまでは。

 

「進むさ。俺が足を止めるのは死ぬ時だけだ」

 

 立ち上がったアスカは甘美な夢を振り払うかのように頭を振り、歩みを止めさせようとするザジをその鋭い眼差しで見る。

 

「この滅びが確定した世界で足掻くなど、無駄なことでしかないというのに」

「無駄かどうかを決めるのはお前じゃない。俺だ」

 

 表情を歪めるザジに対して揺らがぬアスカは戦意も高らかに一歩前に足を進める。

 

「そこをどけ、ザジ。俺はこんなところで足を止めるわけにはいかないんだ」

 

 アスカの後ろで倒れていた者達が起き上がり始めた。

 一人が抜け出したことで術式が緩み、他の者の目覚めも誘発してしまった。所詮はレプリカである以上は本物に遥かに劣るとはいえ、本来ならば誰一人として抜け出せるはずがないのだから分かるはずのない欠点であった。

 

「誰もが幸福な世界を捨てるなど、ありえない。滅びる世界の為に戦うなど無駄以外のなにものでも」

「俺も全部分かってるわけじゃない。あるんだろ、世界を救う方法が」

 

 言葉を途中で遮られたザジは、幻灯のサーカス発動前には明確に答えずにはぐらかしていた。

 

「墓守り人の望み通りに、世界を救うというのですか」

 

 ギリッ、と歯を噛み締めたザジは決して認められぬと吐き捨てるように言った。

 

「必要なら、そうするだけだ」

「世界を存続させるための贄になると」

 

 首肯したアスカに、やがてザジは諦めたように肩を落として強く拳を握った。

 

「認めません、そんなことは!」

 

 毅然と顔を上げて叫んだザジの姿形が変容する。

 魔力の高まりと共に額と頭の横に合計四本の角が生えて伸び、腰の辺りから黒い翼がバサリと広がった。そして背後に女の顔が中心に浮かぶ上半身だけの異形の悪魔が召喚される。

 

「はっ、やる気か」

 

 ザジの背後に浮かぶ、巨大な腕と昆虫のような胴体に羽根を宿した異形を前にしてもアスカは臆さない。

 

「力ずくでも止めます。今度こそは二度とは戻れぬ真の完全なる――」

 

 世界へ、と続けようとしたザジの言葉を遮るように、彼女の周囲の地面から突如として複数の物体が空中へと浮かび上がった。

 

「ジャンプ地雷? 何時の間に設置を」

 

 即座にザジはアスカの後ろで真名が何かのスイッチを押しているのを見て、自分に向けての攻撃だと推測して撃ち落とそうとした。

 まさか撃ち落とした瞬間に地雷と思われたそれが本来の機能を発揮するなど考えもせず。

 

「くっ」

「超鈴音特製重力地雷だ。一瞬だが五百倍の重力がかかる」

 

 いかなる実力者であろうとも予測もつかない攻撃には弱いもの。幾ら高位魔族であろうとも動きを一瞬でも止められれば隙だらけ。

 撃ち落とされる前に取り出した強力な貫通力を持つ銃で、五百倍の重力が掛かっているザジがいる辺りの地面を撃ち抜く。

 

「――っ!?」

 

 墓守り人の宮殿は浮遊宮殿である。間違っても底が抜けないように頑丈に作られているが、構造上どうしても脆い場所がある。例えば直ぐ下が空いた空間であるとか。

 発着場の下にも下層が有り、ザジがいた場所はその下層の空間がある真上だった。

 人の何倍もある巨大魔の重量と五百倍の重力が掛かる地面に強力な貫通力がある弾丸を打ち込めば、底が抜けるのは必然である。

 

「ザジの相手は私が引き受けよう。お前達は先に行け」

 

 下層へとザジは落ちたが自前の羽もあるのだから飛べないはずもなく、先を進むためには足止めか倒す必要がある。その役目を立候補した真名は周りを見て言った。

 

「いや、ザジの実力は未知数だ。フェイト達以上の強敵の可能性もある。ここは俺が」

「馬鹿なことを言うな。最大戦力をこんな序盤で投入してどうする。私を信じろ」

 

 次なる銃を取り出しながら真名は止めようとするアスカの肩を軽く叩く。

 

「囚われのお姫様を救い出すのに王子様がいなくてどうする。ここは私に任せて上へ向かえ」

 

 ニヤリと彼女らしく笑って穴に向かって身を躍らせる。

 その後ろ姿を見送り、尚も動かぬアスカの肩に真名のように楓が手を置いた。

 

「真名ならば、きっと大丈夫でござるよ」

「足止めに徹すれば、どんな相手にも遅れは取りません。私が保証します」

「…………分かった。先に進むぞ!」

 

 刹那にも言われて納得したアスカは今度こそ上へ向かって進み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜、魔法世界には『風』が吹き荒れていた。現実のそれではない。多くの人々を翻弄し、常に歴史の転換点に吹いていた『運命』という名の嵐である。

 その嵐に巻き込まれた者は必ず選択を迫られる。一つの決断は更に多くの選択と決断を強制し、波紋は更なる波紋を呼んで、ドミノ倒しのようい世界を席巻していくのだ。本人の思いと末路に関わらず、一度吹き始めた『嵐』はとめどなく他人へ影響し続ける。

 オスティア宙域を覆う戦闘はなおも継続しており、魔法世界軍勢と召喚魔との戦いは続いていた。

 オスティア終戦記念祭のために新オスティアに駐留していたヘラス帝国・メガロメセンブリア連合・アリアドネー・他数多の勢力が手を結び、混成艦隊を編成して「完全なる世界」が召喚した召喚魔を相手に立ち向かっていた。

 二十年前の再現、現出した世界の危機を前に、彼らは良く奮闘していた。

 戦艦から放たれる砲火や魔法使い達が放った魔法が数多の召喚魔を飲み込み、やられた分を返すように召喚魔が魔法使いや戦艦に取り付き撃沈されていく。

 夜の闇を斬り裂くように響く砲撃に続く砲撃、放たれる大魔法の数々、命をかけた特攻とも言える攻撃で空域は震撼し、断末魔の叫びで大気が震えている。空が炎と煙で覆われて今が昼か夜かも判らない。

 光球の多くは、戦艦の砲火や魔法使いの魔法に飲み込まれた召喚魔であり、召喚魔に取り憑かれて爆撒した戦艦の光であったが、当然、それ以外の光も含まれている。単身で空域を飛んで戦う戦士達の、戦艦に乗っていた人々の、光球は全ての人たちの命の散華だった。

 一人の戦士が召喚魔を屠れば、もう一方も負けじと爆砕させる。どちらもどれだけの損耗を強いられようとも一行に止む気配がない。寧ろ戦意という薪をくべたかのように激しく猛り上がった。

 まだ後衛に位置する混成艦隊に比べて、最前線に単身で空域を飛んで戦う戦士達の状況はもっと悪い。

 双方共に少しずつ撃ち減らされているにもかかわらず、戦いは終局の見えない乱戦に雪崩れ込んでいた。召喚魔達の集団と、どちらが前か、どちらが後方であるのか、もはや彼らにすら判断することは難しい乱戦へと陥っていた。

 空中を飛び回る内に既に上下左右の感覚を消失して、もう自分がどちらを向いているのか、何を相手にしているのかすら分からない。ただ我武者羅に攻撃をして、向かってくる敵意を避けることしか出来ない。

 

「うおおおおおおおおおっ!」

 

 ある者が喉から気合の咆哮を迸らせ、目につく敵に向かって魔法を放ち、次々と撃破していく。周りは敵だらけでどんな下手な鉄砲でも放てば当たるし、横へ凪ぐように剣を走らせればそこに切り裂かれた敵の姿が散見できる。

 ある者は仲間と互いに背中を預けるように守りあい、迫り来る敵に向かって戦場に光のリングを描くような密度をもって攻撃を叩き続ける。

 無秩序な、ある種の狂乱の様相さえ呈していた光の群れだったが、迫り来る敵の数に比べればあまりにも少なすぎる。数体の召喚魔を屠っただけで大勢に全く影響が及ばない。どこを向いても敵なのだから撃てば当たる、などと前向きに精神を昂揚させられるような精神的余裕は、敵の圧倒的な数の前にあえなく崩れ落ちた。

 破壊と死が隣人となっている。神経が麻痺したように、恐怖は感じなかった。すとんと抜け落ちたように、憎しみや悲しみはなくなっている。感じるのは熱風と爆圧、そして飛行魔法の移動による目まぐるしく変化して殺しきれない重圧に、体をシェーカーに掛けられて血液がシェイクされているように感じて、内臓がひっくり返りそう気分が続いている。

 誰もが必至だった。生きることに懸命になっていた。だが、死出の旅路についているのは敵ばかりではない。召喚魔達も停止しているわけではない。

 

「ぐぬぬっっ……ぁ!?」

 

 高速で移動し、隙あらば食らいつこうと突進してくる。それらを必ずしも躱せるとは限らない。

 今も尖った爪に胸を貫かれて一人の戦士が堕ちた。一人の戦士を殺したガーゴイル型の召喚魔の眼が不遜に光り、取り残された手負いの相棒を憐れんだようだった。

 

「ラスティ……!」

 

 メガロメセンブリアの戦術飛行部隊ヨーハン・メルバスは長年の友であり相棒でもあるラスティ・ビアスの名を叫んだ。

 叫んだ頭が真っ白になり、ヨーハンは束の間だけ体が動かせなくなった。

 

「やったなぁっ!」

 

 頭が真っ白になり、全身の毛が逆立った。

 ラスティとの思い出が脳裏を掠め、楽しかったことや苦しかったことを共に分かち合った思い出が心身の一番深い所を抉り取ってゆく。ありったけの気合を吐き出し、目の前の相手だけは生きては帰さんと攻撃を放つ。

 

「よくもラスティを! このぉぉぉぉぉっ!」

 

 ヨーハンが相棒のラスティを堕とされた弔いのために攻撃を重ねる。しかし、攻撃に夢中になりすぎて背後の警戒が疎かになって、気付いた時には大型召喚魔が戦士の後ろから至近距離まで迫ってきていた。

 

「殺らてたまれるか! ラスティの分まで死んでも帰るんだよ!!」

 

 全方位から迫る敵に障壁を全開にしてスパークする視界を前にしてヨーハンが叫ぶ。

 後少しで障壁が破られるというところで友軍が駆けつけ、中級魔法を大型召喚魔に叩き込んで消滅させる。

 

「すまねぇ、助かった! あんた、名前は!」

 

 爆煙と化した召喚魔から飛び離れたヨーハンは今度こそ周囲の警戒を怠らず、十分に距離をおいて攻撃を仕掛ける。

 

「いいってことよ。俺の名はヘラス帝国近衛騎士団ギルサ・コルダだ。お前は!」

「俺はメガロメセンブリア戦術飛行部隊ヨーハン・メルバスだ!」

 

 互いに簡単な自己紹介をしつつ、ギルサと背中を合わせながら近づいてくる召喚魔に魔法の射手を放ち牽制する。

 

「おら! もっと気をつけろよ!」

 

 誰でもいいから自分の辛さを分かってくる、と思わなければ、例え覚悟していたとしても、こんな命の価値がないに等しい戦場にいられるはずもない。他国であろうと、事実上の敵国であろうと、鉄火場に放り込まれてしまえば今まで間に蟠っていた感情も超えて繫がりを求める。

 

「はっ、テメェもな!」

 

 憎まれ口には憎まれ口を返す。それだけのことだが、それだけのことが如何に心を落ち着かせるものか。

 先に逝った仲間がいる。生きているだけで未来を感じることが出来た。守るべきものがある。覚悟と決意はしている。後は逝ってしまった僚友達の分も戦うだけだ。

 多くの僚友達が沈んでいく中で、残った者達は必至に足掻き続けていた。

 

「合わせろ!」

「お前がな!」

 

 国を跨いだ即席のコンビながらも息の合った攻撃を重ねつつ、ギルサとヨーハンは敵が密集している区域へと突撃していく。同じような光景がそこかしこで見られた。乱戦だ。至近に迫る召喚魔と誰が放ったかも知れぬ攻撃に阻まれ、各自が独自に敵を撃破するしかなかった。   

 隙を作ってしまった者と、その機会を逃さなかった者。一瞬ごとにその振り分けが行われ、生と死という全く逆の、或いは紙一重の運命を押し付けられることになる。誰一人例外ではいられない残酷なまでの平等な世界だ。

 どんな過酷な状況でも、どんなに哀しい場所であっても、人はそこに信頼と友愛を見出すことが出来る。

 だけど、敵の数はまだまだ多い。手を伸ばせば、鷲掴みに出来るほどに。ある者は目にも止まらぬ速さで動く。またある者は味方に守ってもらいながら高位呪文を唱える。

 そんな多くの戦士達が入り乱れる空域を、ただ只管にアリアドネ―に所属する魔法女戦士ガトー・ラリカルは駆けた。

 無数に群がってくる召喚魔達の攻撃を巧みに回避する、まだ二十代の半分を少し超えたばかりのまだ妙齢の美女が外見に似合わった華麗な動きは、あたかもダンサーのステップのようだった。

 

「邪魔、どきなさい!」

 

 避けようもない位置に追い込まれると、ガトーは叫ぶや背中に背負っていた自らの身長を遥かに超える巨大な大剣を握って振り上げる。

 

「雷撃武器強化!!」

 

 弱体化するが詠唱破棄して武器に雷を流して強化されて黄色く輝いて囀る刃は切れ味を上げる。鈍重な大剣を両手に握ってそのまま突進した。まさしく、戦場を駆ける鬼神の如く。

 狙いは突破さえすれば包囲網から抜け出せる位置にいる人型に翼を生やしたガーゴイル型。

 敵もガトーが自分を狙っているのに気付いた。しかしガトーの行動の方が速かった。雷の刃が、ガーゴイル型を文字通り真っ二つにした。瞬きの間隙だった。

 しかし、ガトーの背後から別のガーゴイル型が迫っている。 

 

「行かせるか! ギルサ!」

「応よ!」

 

 そこへギルサとヨーハンの即席チームが飛び込んで、ガトーの背後に迫っていたガーゴイル型をハチの巣にする。

 

「囲まれているぞ!」

 

 激戦区では挨拶を交わしている暇もない。四方八方から迫りくる召喚魔に三人は死角を失くすために背を向け合う。

 

「クソッたれ! 全然敵の数が減らねぇ!」

 

 敵は増え続け、味方は減り続ける。戦略の基本が「敵より数を揃えよ」であるのならば、召喚し続ければ幾らでも数を増やすことが出来る「完全なる世界」側の圧倒的な有利。

 

「目の前に集中しろ! 気を逸らしたらやられるぞ!」

「互いの背中を信じるしかありません!」

 

 ヨーハンの愚痴にギルサとガトーが気持ちは同じだと叫び返す。この戦友達となら共に死んでやってもいい、と思える関係には敵も味方もあるものではない。その場限りとはいえ、戦友とはそういうものだ。

 

「ところで貴女は、もしかしてナギ杯前年度優勝のガトーさんでは!」

「そうですが何か!」

 

 背中合わせに飛ぶ中でヨーハンは助けた女性が有名人であることに気付いて、戦いの中で戦いを忘れた。彼は有名人大好きなミーハーであり、年の近いガトーのファンなのであった。

 

「十年前から貴女のファンです! 生きて帰れたら一緒に酒を飲みませんか!」

「あら、お酒だけでいいんですか?」

「もしかして、その先もオッケーでありますか!?」

「アリアドネ―では強すぎて誰も誘ってくれないんですよ。生きて帰れたら考えてあげます」

「うっひょー! これは絶対に死ねないぜ、俺ぇっ!!」

 

 いまや滅亡の淵に立たされた彼らが胸中に何を描いているのか。戦死した仲間の復讐を誓っているのか、この敗勢から武勲を上げて立身出世の道を夢想しているのか、自分達が魔法世界を守る最後の砦であると信じて殉ずる覚悟でいるのか。そのいずれれであるにせよ、本人達以外に知りようもない。

 だが、たった一つだけ彼らに共通する真理があった。

 

「酒を飲むなら俺の一押しの店で飲み明かさないか?」

「むっ、ギルサとかいいましたか。アナタは私を誘わないのですか?」

「俺、妻子持ちなんで。浮気ノーセンキューです」

 

 上下左右から間断なく襲い掛かってくる召喚魔の群れの中で抱くそれは、どのような欲に塗れた願いであれ、純粋な理想であれ、生き残らなければ実現しないということだ。まるで英雄譚に出てくる端役みたいな扱いで、決して主役(英雄)になれないと知りながらも彼らに撤退の意思はない。

 戦えない程の傷を負おうとも関係ない。そんなものを問う段階は、とっくの昔に終わっている。

 

「行けェェ――――――ッ!」

 

 召喚魔の軍勢が、まさに雲霞の如く空を覆っている。生きて帰る理由が出来たヨーハンの号令に三人はその中に真っ直ぐ突っ込みながら、立て続けに中級魔法を放つ。胴体や羽を損傷した何体かが落下していく。

 召喚魔の軍勢の一部が三人の突入によって動きが乱れる。これだけ密集している中で下手に応戦すれば、同士討ちの危険があるからだ。だが直ぐに彼らも態勢を立て直し、左右に散開して背後を庇い合う三人を狙う。

 

「家族が待ってるんだ。こんなところで、やられてたまるかァァァッ!!」

 

 ギルサの憤怒の叫びがその口から迸る。巨大な大剣に眩いほどの炎を迸らせ、ドラゴン型を袈裟懸けに斬り下ろした。

 空中で左右に斬り離された胴体が一瞬漂い、虚しく霞となって消える。その時にはギルサは素早く振り下ろした大剣を切り返して、別の召喚魔に躍りかかっていた。

 

「どうだぁァァァァ…………!」

 

 ヨーハンから放たれた高位魔法が周囲に絶え間なく巨大な氷の柱を築いていた。

 しかしいくら敵を倒そうとも、取り囲む召喚魔の数にまるで変化はないように見えた。

 

「突っ込みなさい!」

 

 ガトーの合図に三人がここしかないという敵の間隙に飛び込む。

 彼らは臆さない。己の危険を省みず、痛みに対して泣き言の一つも告げず、死地と呼べる場所へと何の躊躇いもなく飛び込んでいく。守る、その一点に収斂した思いが、彼らの心を支える下地となって戦場を際どいところで支えていた。

 死ぬ気でやっているのではない。死んでも守るという決意しか感じ取れない。彼らは軍人だ。プロだ。戦うことを強制付けられ、そのための訓練を積んできた。だが、そんな彼らでもこのような絶望的な戦いに参加させられて命が惜しくなって逃げ出したところで無理はないのに、逃げるどころか命を盾にして敵に挑んでいた。

 

「くっ、戦線が下げられている…………このままでは新オスティアが巻き込まれる! これ以上は下がれんぞ!」

 

 二人よりも実力が一歩も二歩も上のガトーでも戦線を睨みつけることしか出来なかった。

 

「下がるな! 俺達の後ろには新オスティアが、守るべき人達がいるんだぞ!」

「そうだ、少しでいい。少しでも戦線を押し返せ!」

 

 ギルサとヨーハンの叫びに呼応するように戦線のあちこちで怒号が響き渡った。先だった声に応じるように各所で返答の怒号が沸き上がる。

 

「敵陣営とだって背を預けられるんだ。まだこの世界は捨てたもんじゃねぇだろ!」

 

 人の繋がりが、本当なら共に歩まない者を結び合わせていた。光を浴びる英雄達とは違った場所で、みんな戦っていた。

 

「ここは私達の世界だ! 終わらせたりするもんか!」

 

 この世界は地獄ではなく、救いある楽園ではない。ここはただ人が生きる場所だ。だから、敵でも味方でもなく人がいるだけだ。

 彼らは軍人で、戦うことに関してはプロだ。しかし、それ故に彼らは知っている。彼らが負けてしまったら、一体どこの誰がその被害を被るのかを。彼らは大切な人を守りたいからこそ軍に志願したのだから。

 軍に入った時の市民を守る誓い通りに、あやふやな希望と良心の為に命を本当に投げ打って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日も回ってどこの家でも寝静まる時間帯だが、この日だけは違った。日が変わる前から始まったテレビ中継を見るために、眠気を振り払っていたためだ。

 

『引き続きニュース速報をお送りします。新オスティア。地区一帯に地域外避難命令が出ています。対象地域にお住いの方は、テレビやラジオなどのニュースに耳を傾け、落ち着いて避難して下さい。荷物は必要最小限に留め……………』

 

 右上の隅に小さく「LIVE」と白いスーパーが入った、緊張した顔で喋る亜人の女性アナウンサーの映像が乱れる。

 

「ここは避難区域に入らないのね」

 

 ヘラス帝国軍の軍人である夫を持つメネナ・コルダは、要避難地域のテロップを読んで自分達の住む地域外であることを確認してテレビの前から離れた。

 避難区域でないにしてもコルダ家はヘラス帝国の中でも比較的新オスティアに近い地域にある。巻き込まれることはないと思うが家にいるよりはシェルターにいた方が安全なのは違いない。

 

「まさかこれを出す時が来るなんて」

 

 物置から防災リュックを引きずり出し、埃を払ってから肩に背負う。

 軍人である夫は常々家族に万が一における事態の行動を言っていた。

 

『軍人の俺は何かあってもお前達の傍にいれないかもしれない。念には念を押してだな。いや、何事もなければそれでいいんだが』

 

 と言われて渋々用意した防災リュック。二十年前の大分裂戦争以来、戦争どころか自然災害も起きていないので必要ないと思っていたのに、まさか本当に使う日が来ようとは駄目亭主の言うことも聞いてみるものである。

 

「ほら、フェイスもリュックを背負って。ええと、後必要な物は……」

 

 夫が溺愛し過ぎて甘えん坊な息子にも子供用リュックを背負わせ、数日分の着替えと水分と食料を手早く詰め込む。

 

「まさか後になって防災訓練とか言い出したりしなんて…………そんな都合の良いことはないか」

 

 一抹の不安も湧くが、二十年前の子供だった頃になんの準備もせずに味わった苦労を思い出して振り払う。

 

『英雄アスカ・スプリングフィールドが墓守り人の宮殿に突入して三十分が経過しましたが、以前戦況に何の変化もなく―――――』

 

 寝ているところを叩き起こされた息子は、テレビに映る今まさに現実に行われている戦争という非現実的な光景を事態を理解していない顔でテレビの中継画面を眺めている。見たことのないパノラマ的光景が現出されていれば、男の子が魅了されるのは仕方ない。

 

「フェイスも手伝いをって、二十年前は私も何もしてないじゃない」

 

 二十年前の自分が子供だった頃はどうかと記憶を振り返り、同じように親に任せて何もしていなかったことを思い出して肩を落とした。

 

「大丈夫よね、ギルサ。ちゃんと帰って来なさいよ」

 

 呑気な様子に僅かな苛立ちを覚えつつも、夫が現在戦闘中の新オスティアにいると思えば気持ちも変わってくる。

 

「さあ、フェイス。シェルターに行くわよ」

「ええ~、テレビ見てたいよ」

「馬鹿言わないの。世界の危機なんだから。少しでも安全な場所に行かないと」

 

 子供にダダ甘亭主でも帰らなければどうすればいいのかと不安もあれど、息子を護れるのは自分だけだという決意が溢れ、テレビを見ている小さな体を抱え上げ、メネナは玄関に向かった。

 急ぎドアノブに手をかけて開けば、外は自分と同じように危機感を覚えた人達がまさに避難をしている最中だった。

 

「みんな、考えることは同じね」

「ママ……怖いよう……」

 

 周りを見ていて気づかなかったコルダ夫人とは違って、空を見上げた息子はソレ(・・)に先に気付いて恐怖を覚え、服にしがみ付いてくる力を強くする。その声には恐怖が込められていた。

 避難している人達もまた、ざわめきながら空を見上げていた。遅まきながら空を見上げたコルダ夫人も固まった。

 

「な、なんなの一体?」

 

 息子の恐怖に気がつかぬほど、コルダ夫人の全身の産毛が総毛立っていた。

 空が輝き、海が広がっているようにオーロラが出現している。金色の光が帯のように連なり、どこまでも伸びていく。金色の帯が全身を総毛立たせるほどの濃い魔力だと分かるので、これほどの魔力が可視化するなど凄まじい光景だった。

 次第に大きくなっていくオーロラの光は強くなり、背筋が凍り付くような感覚を増大させていく。

 そのオーロラの始まりが新オスティアの方角から伸びていることに気付き、コルダ夫人の全身が恐怖に縛られる。

 

「…………神様、どうかあの人を、ギルサをお守りください…………」

 

 未来が分からないという不安を、人はどこまでも振り切ることが出来ない。だから、生き続けるが怖く、失うことに怯える。

 彼女は知らない。祈っている神が作り出した使徒こそが既存の世界を滅ぼそうとしているのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この世に絶対の神はいない。だがそれでも世界には人を暫し魅了し、支配する不思議な力が少なくとも一つはある。恐怖という名の力だ。

 世界各地のゲートポートが破壊された事件はまだ記憶に新しい。大規模なテロを仕掛けられたことは知っていたが、それらは旧世界に縁のない大多数の者達にとっては遠い世界の出来事、テレビのニュースやニュースペーパーで語られる情報でしかない。

 が、空に流れる具象化されるほどの魔力の川が、これが現実であることを突きつけて来る。

 

「これが世界の終わりか」

 

 シェルターなどない寂れた地方都市の街頭テレビに多くの人々が集まっており、その中から絶望に満ちた言葉が漏れた。

 旧世界の黙示録にも記された終末の予言が、今こそ人類に襲い掛かっているかの如き悪夢の光景。

 

「熱っ」

 

 その途端、押し寄せてきた熱風に嬲られ、嘗てノアキスでアスカと僅かに関わった薄汚れた亜人の少年は顔を背ける。

 伸び放題の整えられていない靡く髪を押さえつけ、空を仰いだ少年は思わず息を飲んだ。そこは少年の見知った世界ではない。空は夜なのに血のように赤黒く染まっていた。

 現実離れしたその光景に、少年の思考は瞬間的に停止する。映画の中にでも迷い込んだのではと錯覚するほどだ。だが肌から伝わってくる鮮烈な感覚は、少年に嫌というほど現実を突きつけてきた。

 

「誰が好き好んで世界を滅ぼすんだよ。馬鹿じゃねぇのか」

 

 そんな化け物のような人間が本当に存在するものなのかどうか。否定の論理を述べようとして、並べきれずに顔を背けた。

 一般人にろくな想像力はない。世界のなんのと言われてもピンと来ず、個人の見識を問われても戸惑う他ない。ろくな想像力がなければ、上等な理念に共鳴できる頭も持ち合わせてはいない。

 

「どうせ英雄様が二十年前と同じように世界を救うんだろ」

 

 根無し草の少年にとって、戦争もどこかの地域で起こった紛争も、大戦から二十年経って大規模な闘争から遠ざかった環境にいたのでフィクションと同列の出来事という以外の感想は持てなかった。

 現実感がないのに少年は全身の力が抜け落ちるような思いと闘っていた。戦争とはこういうものだと分かっていたはずなのに、いざ目にしてみると戦慄する。

 殆ど、いや全てが理解を超えていた。ただ一つだけ分かっていたのだ。

 

(これは、僕の物語じゃない。脇役どころか名前も載らない役割すらも与えられていない)

 

 どこかで、何時の頃から始まったかも分からない、この世界の命運を賭けた戦いが行われているのだ。

 歴史の本にも載りそうな出来事が見上げる先で繰り広げられている。戦っているのは、果たして善と悪なのだろうか。光と闇なのだろうか。そんな陳腐な、理解不能な、二つの相反する力がぶつかっているのだろうのか。

 

(滅びるんなら、滅びろ。こんな世界)

 

 少年は泣いていた。己の無力への怒り、悔恨、悲哀。整理できない様々な感情が爆発し、沸騰した体液になって目から吹きこぼれるのを感じ続けた。

 悪い奴がどこからかやって来て、平和な世界を脅かす。そんな単純な物語であってほしい。人の物を盗んだら警察に捕まるように当たり前で当然な論理が展開されていれば、孤児で碌に教育を受けたことのない自分にだって理解できる。納得がいく。

 

(現実がこんな簡単なわけがない)

 

 善と悪、光と闇、白と黒。簡単に二極に別たれる分かりやすい物語じゃない。世界の謎を、丸ごと抱える物語。これが世界の命運を賭けた戦いであることは絶対に確かだ。でも、これは決して少年の物語ではない。

 

「どうして、僕は…………」

 

 空を見上げる少年の頬に何かが触れた。それが自分の目から溢れた涙であることに、彼は気付かなかった。分かっていたのは自分が途方もなく無力であることだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 足元がボロボロ崩れてゆくようで、不安で仕方がなかった。世界中で、誰もが救いを求めていた。だが、この世界に彼らが求める救いを齎す神はいない。

 誰もが浮き足立ち、上を下への大騒ぎになっていたわけだが、ある者達はただ一つの目的の為に行動していた。

 

『もっと高度を上げろ。その方が早い』

『しかし、それでは連合のセンサーに引っ掛かりますが』

『大丈夫だ。きっと連合も同じことをしている』

『了解しました、准将』

 

 深黒の夜の清澄な大気の中を、軍艦の群れが飛んでいく。

 高峰を掠め、森の梢を何万となく超えて煌めく絹のように広がる大海原を渡り、複雑な島や大陸の地形を遥かに眼下に見下ろして飛ぶ。

 雨雲の中に入り込むと、稲妻が走り、雷電が閃いた。氷の礫が滝と降りかかり、空を行く鉄の船を打ちのめそうとした。鉄の船は雷鳴に負けじと精霊エンジンをフル稼働させて唸りを上げ、スピードを上昇させて黒雲を貫き、風を追い抜かんと飛翔した。

 

『では行くぞ、新オスティアへ』

 

 やがて彼方に黒い塊が見えてきた。鉄の船を行く手を塞ぐように龍山山脈の山々が険しく伸びている。尖った頂上は、たなびく雲に隠されている。

 

『そうだ! 片道の燃料を全開にすれば、今からでも戦場に辿り着ける! あの放送を聞いただろう! 今行かなければならないんだよ!』

『帝国の連中に敗けられん!』

 

 誰もが裡から湧き出た熱情に駆り立てられていた。正しいと思ったことを、ただ正しいが故に人々は成そうとした。彼らは誰に命じられたのではなく、自らの意思で動いていた。

 声が聞こえる。世界を存続させようとする者達の抗いの声が。

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り四時間四十七分五十八秒。

 

 

 

 

 








次回『第81話 心に弾丸を』





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第81話 心に弾丸を

独自設定ばかりです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 真名にザジの相手をそれぞれ任せて先に進んだアスカ達は、巨大な墓守り人の宮殿内を駆け上がっていた。

 一つ目のサイクロプス型や恰幅の良いミノタウロス型から、翼を生やしたガーゴイル型まで種類は様々。無数の召喚魔によって行く手を遮られ、襲い掛かられていた。道を塞ぐ召喚魔の手洗い歓迎を受けていたが歩を進める彼らに迷いは見られない。

 

「くっ……!」

 

 飛び掛ってくるサイクロプス型の剛腕を避けた犬上小太郎が、横合いから狗神を叩き込んだ。

 

『――――――』

 

 狗神を受けて床に転がったサイクロプスタイプは、直ぐに起き上がろうとするが動きが鈍い。攻撃が効いているのだ。

 だが、小太郎の手に確かな手応えはあったのに倒すほどのダメージには至っていない。

 

「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 桜咲刹那が夕凪を腰溜めに構え、刀身に練り上げた気を集めて神鳴流の真骨頂の雷と成りて一気に振り抜いた。

 解き放たれた雷の奔流は絶大な破壊力を伴ったまま、倒れていたサイクロプスタイプを一気に呑み込んで、激しい爆音と共に吹き飛ばした。

 

「っしゃ、片付いたな」

「ええ、あっちも同じようです」

 

 視線をずらせば同じように古菲と長瀬楓がペアを組んでミノタウロスタイプの召喚魔を倒しているところだった。

 墓守り人の宮殿外にいた召喚魔よりも格段に強い。小太郎達の力では一撃で倒せないので二人一組のツーマンセルで攻撃を行っていた。

 茶々丸は攻撃能力のない木乃香の守護、ザジの相手をするために残った真名。必然的に仲間内は奇数になり、ペアの組む相手のいないアスカは一人で戦うことになる。

 

「オオッ!」

 

 アスカの雄叫びが響き渡る。他のタイプの倍以上の背丈があるデーモン型とドラゴン型数体を相手に、繰り出した剣撃と蹴撃によって次々と倒して霧散させていた。

 墓守り人の宮殿に侵入する前に戦ったドラゴン型の大きさは優に十メートルを超していたのも珍しくなかったが、ここにいるのは五メートル前後と半分程度の大きさだ。恐らく、広いといっても屋内である墓守り人の宮殿内で動き易い個体を選んでいるのだろう。

 その分だけ頑丈さや敏捷性といったあらゆる能力が桁違いに高い。単純な戦闘能力で比較すれば、外の10体分の能力が一体に凝縮されていると考えたら分かりやすい。

 

「グルァアアアアアアアアアアアアアア!!」

 

 唯一個体となってしまったドラゴン型が逞しい四肢で地面を蹴り、怒涛の如き勢いで突っ込んでくる。

 アスカはドラゴン型の方を見遣った瞬間、居合い拳を放って、ドラゴン型は目に見えない壁にぶつかったみたいにその巨体がアッサリと弾き返されていった。そこへ数を大きく減じた召喚魔の中でデーモン型が大きく右手を振り抜くがアスカは既に懐へと潜り込んでいる。

 大きく身体を沈み込ませた反動で宙を蹴り、真下から蹴り上げる。身体が浮かび上がったデーモン型の大きな巨体に阻まれて他の召喚魔が手出し出来ないのを利用して、黒棒の刀身に莫大な力を込めて雷を迸らせる。

 

「喰らい、やがれえぇぇぇぇっ!」

 

 雄叫びと共に黒棒の刀身に溜めた<力>を振り抜いて一気に解放。雷となった力はデーモン型の胴体へと吸い込まれると、居合い拳によって弾き飛ばされたデーモン型や奇怪な力を遣う天使型をも呑み込んで長い廊下の彼方へ全てを吹き飛ばした。

 

「へっ……圧倒的な実力差ってヤツか。悔しいでぇ。こんな大舞台やのにあの域まで達せてないやなんて」

 

 真夏の太陽のように輝くアスカの全身から迸る力が近づく全ての敵を爆散させる。台風のようだった。アスカという台風の目が召喚魔を苛烈に巻き込み、弾き飛ばしながら突進していく。誰にも止められない。

 見ている端にもドラゴン型の翼を一刀両断して、堕ちて行く背中に蹴りを放って倒している。ペアを組む必要のない圧倒的な力の強さ。小太郎達が二人でようやく一体を倒している間に、アスカは一人で数体を纏めて相手にしている。

 

「比較対象が悪すぎな気もします。相手は文字通りの世界最強クラスですよ」

 

 刹那の言うことも尤も。ナギ・スプリングフィールド杯で名実共に世界最強クラスに名を連ねていた紅き翼の一人ジャック・ラカンと、闇の魔法を修めて風の絶対支配と雷の速さを手に入れたネギ・スプリングフィールドを打倒したアスカは間違いなく世界最強の一角に名を上げている。

 

「それでも、それでもや。俺はどうしてこんなに弱いんや」

 

 比較対象としては絶対に間違えている。小太郎も醜い嫉妬だと自覚はある。だとしても、目の前で超絶の強さを見せ付けられると自らの弱さが不甲斐なく思える。

 歩んできた道は、今までしてきたことはなんだったのかと考えたくもなるほどにアスカは強すぎた。

 

「小太郎、我らは皆、弱いでござるよ。だからこそ、強くもなれる」

「くさるでないゾ、コタロよ。自らの弱さを不甲斐ないと思うのは皆、一緒アル」

 

 戦いを終えた楓と古菲が小太郎の独白に共感を重ねながらも、このままでは収まらないと克己心を全身から滲ませる。

 

「拙者らは多くの人々の期待を背負っているでござる。されど、けして強制されたものでもなければ、犠牲として差し出されたものでもござらん」

「…………!」

 

 思わず小太郎が凝視した先で、楓は飄々とした顔を見せる。

 

「覚悟を持つことと、感情を束縛することは違うでござるよ?」

 

 彼女は、そして恐らく全員が少年の悩みの薄々察していたのだろう。冗談めかしたからかいは、気負いすぎる自分を楽にするためのものだったのかもしれない。

 

「…………るさぃわ。分かってる」

 

 照れくさそうに笑う小太郎に刹那らも笑う。

 これから待ち受ける戦いを前に少しナーバスになっていただけで、言う程に気にしていたわけではない。悔しさはあっても戦いの場において今ある強さが全てであると小太郎は幼い頃から積み上げてきた経験で知っている。

 それでも内心、どうかしている、と思ってしまう。決死の戦いに向かうはずなのに自分も、そして仲間達も普段とまるで変わりない調子だった。本当にどうかしている。

 

(だけど、こんな風に笑って行けたなら)

 

 今日を生き抜き、明日を切り開く力になる。例え相手がどんな強者であっても、きっとなんとかなる。心から、そう信じられた。

 

「はああああああああああああああああああああああああああっっ!!」

 

 アスカが最後に残ったドラゴン型へと爆発的な脚力によって攻撃の隙を与えることなく、一気に間合いを詰める。そしてドラゴン型の眼前に迫ったところで、刹那、膝にグッと力を溜めこむと収縮したバネが一気に開放されるように大きく跳んだ。

 およそ人間とは思えないほどの跳躍力でドラゴン型の頭部近くまで接近すると、首に向かって黒棒を一閃した。確かな手応えが黒棒を通じてアスカの全身を駆け抜け、それを裏付けるかのように野太いドラゴン型の首が宙を舞った。

 

「行くぜ!」

 

 勢いは留まることなく、英雄は進み続ける。その眼はただ前だけを向いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恐らくは廃棄ダクトと思われる最下層に下りて来た龍宮真名は、重力から解放されたザジ・レイニーデイが待ち構えているのを見て油断なく銃を構える。

 

「やりますね、巫女スナイパー龍宮真名。ですが、私は貴女と戦う気はありません」

「へぇ、ザジ。お前に戦場に来ておいてそんな冗談が言えるとは思わなかったよ」

 

 真っ向から戦えば世界でも上から数えた方が圧倒的に早いであろうザジを相手にするには分が悪いと真名は冷静に推測する。

 とはいえ、墓守り人の宮殿内部と周囲はミルクのように濃密な魔力が漂っており、この場であれば真名の奥の手と切り札が同時に使える。戦力差を埋めることが出来ると見た。

 

「私の目的はアスカさんを止めることです」

「つまり、それ以外は放っておいても構わないと? 随分と舐められたものだ」

「そういうわけではありません。アスカさんがいなければ、完全なる世界が発動しなければ世界は存続しえないのですから」

 

 傭兵として己の実力に自信を持っていた真名にとって侮られるのは決して心地良い事ではない。侮って油断してくれるなら隙を突けるので普段なら寧ろ喜ばしいぐらいだがザジは事情が違うようである。

 

「どういうことだ?」

「その様子ではアスカさんは何も言っていないようですね。いいでしょう、完全なる世界に頼らずに世界を存続させる方法を詳らかにする必要があるようです」

 

 そしてザジは世界救済の方法を口にし始めた。

 

「超鈴音は天才――――いえ、鬼才でした。彼女は見つけていたのです、この世界の救済方法を」

 

 未来人であるのならば事前に知っていた可能性は無きにしも非ずと言外に含ませながら、一人の少女の行動の軌跡を振り返る。

 

「その布石は彼女が現代に現れた直後から打たれています。機械工学を始めとして様々なジャンルで技術革新を引き起こし、環境問題にも着手して砂漠を緑に変えました。これらは彼女の天才性を示すものですが、未来人であるという見地から見方を変えればものが得ることが出来ます」

 

 即ち、超の為したことは彼女がいた未来に辿り着くには必要な要素であるのだと。

 

「超鈴音は自らを火星人と称したことから考えて、百年後の未来には火星は人の棲める星になっていると推測することは容易い。ご存知の通り魔法世界は火星に重なるようにして存在しており、火星のテラフォーミング計画に彼女の技術が使われていることは決して無関係ではないはずです」

 

 少し考えれば馬鹿でも分かる理屈である。但し、超が行ったことの全容を把握している者は全世界でも片手の指に満たない中で、その思惑を推測することは難しい。

 

「恐らく百年もすれば、火星は緑の溢れる豊かな土地となるのでしょう。魔法世界崩壊の要因は魔力の不足です。魔力の源は生命ですから依り代たる火星が緑溢れる土地にしてラインを繋げば魔力不足も解消され、崩壊を回避できると私の研究機関も推測しています」

「だが、確か最短で十年も持たないと言ってな。そんなに直ぐにテラフォーミングが出来るとは思えない。百年も魔法世界は持たないんじゃないのか?」

「ええ、だからこそ、超は世界樹を利用した」

 

 麻帆良学園の中央に聳え立つ、樹高二百七十メートルという世界に類を見ない巨木。内部に強力な魔力を秘めており、魔法使い達には世界樹と称されている巨木を超は利用したとザジは語る。

 

「二十二年に一度の大発光、その理由は魔力が溢れた為に起こる現象です。彼女は魔法を世界にバラすと表では言いながら、裏では魔法世界に魔力を充填していたのですよ」

「麻帆良祭の時か」

「ええ、これによって崩壊が少し伸びました。そして二十二年ごとに繰り返せば数年は伸びるでしょう。我ら魔族の住む魔界、金星でも同じように魔力を供給すれば数十年単位で崩壊を引き延ばすことが可能です」

「それでも百年は持たない」

 

 地球と金星が協力するかは横に置いておくにしても、二十二年毎に火星に魔力を注ぎ込んでも百年にはとても及ばない。未だ滅びは不可避である。

 

「そうです。ですが、その前にどうしてこの世界の魔力が不足するのか、を説明しましょう」

「普通に魔力が足りないんじゃないのか?」

 

 真名の疑問は最もである。

 

「本来、世界を巡るマナは循環するものです。消えてなくなるとすれば、そこには必ず原因があります」

「原因か。穴が開いて流出しているとは聞いたが、穴が開いている理由は聞いてないな」

「原因を詳らかにするには、魔法世界創生時にまで遡る必要があります。時は神代、ある理由によって地球を去った造物主――――所謂、この世界を造った神のことですが――――が火星を訪れたことから始まります」

 

 スケールの大きい話である。魔法世界そのものに関わる話なので十分に大きいスケールなのだが、何千年も前ともなれば想像すら出来ない。

 

「魔法世界を造った造物主は神ではありましたが、全能にして万能には程遠い存在でした。本来ならば世界を造ることなど不可能な神だったのです」

 

 真名はハワイで戦ったカネ神を思い出す。

 確かに不完全な復活であっても強大な力と水の操作力を有してはいたが、神だからといってなんでも出来るというわけではなかった。世界を創り出すなど、それこそ神の手にも余る。

 

「ある理由によって世界を造らねばならなかった造物主は、神たるその肉体を苗床にすることで異界を造ることに成功したのです。ですが」

 

 不可能を可能にしたところで、どこかで必ず歪が生まれる。この場合は造られた魔法世界に欠陥があった。

 

「自らの肉体を触媒として作り上げた魔法世界に極小の穴が開いていることに直ぐには気づかなかった。何千年も経たねば気づかぬほどに穴は小さすぎたのですから」

 

 向かないことを行ったとして成功しただけでも奇跡に値する。例え不完全であったとしてもだ。

 

「火星から微量の魔力を吸収して魔法世界に循環していますが穴から抜け出ていく一方。本来ならば何万年と続くはずでしたが、世界の寿命は一気に短くなりました。造物主も当然そのことには気づいて穴を閉じようとしましたが、最早神の肉体を持たぬ彼女にはそれだけの力はもうない」

 

 神の肉体を世界の苗床にした所為で、造物主は神としての力を失ったということかと真名は推測する。

 

「穴を閉じようとすれば、他の場所に穴が開いてしまう。世界は穴が開いている状態を平常としていたのです」

「矛盾か。まさしくイタチごっごというわけだ」

 

 坐して見ていることは出来ず、かといって穴が開いている状態が平常なので塞いでも別の場所に穴が出来てしまう。

 

 

「では、穴を防ぐにはどうすればいいかと考えた造物主は、神の肉体を苗床に世界を造れたのならばより神の力を引き継ぐ者であれば塞ぐことが出来るのではないかと思い至ったのです。世界を存続させる為に」

 

 魔法世界の文明の発祥の地である歴史と伝統のウェスペルタティア王国の初代女王は、アマテルという女魔法使いと言われている。 彼女は創造神の娘で、彼女の血を受け継ぐ者は不思議な力が宿ると伝えられていた。

 

「それが創造神の末裔として伝えられている世界最古の王家ウェスペルタティア、その中でも最も創造神に近いのが黄昏の姫巫女アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシア――――――貴方達の知る神楽坂明日菜の本当の名です」

 

 遠い過去の話が今と結びつき、急に現実味を帯びて迫って来る。

 

「黄昏の姫巫女のみが穴を閉じることが出来る。それは同時に世界を維持するために部品となることを意味しています」

「ふん、完全なる世界とは聞いて呆れる。完全と言っておいて、一人を犠牲にしなければ出来ないとは」

「黄昏の姫巫女である彼女にしか出来ない事です」

 

 ザジにとっても言っていて喜ばしいことではないようで、避けれるのならば避けたいと内心が透けて見えていた。

 

「完全なる世界とは、この終わりが決定づけられた世界を、黄昏の姫巫女を遣うことで救済するシステムです。簡単な話でしょう。世界(多数)を殺すか、明日菜(一人)さんを犠牲にするかなど考えるべくもない。彼女の献身によって世界は救われるのです」

 

 より少ない犠牲で多を救う。その逆などあってはならないのだと暗に込めて、世界に対する反逆を認めないとザジは真っ直ぐに真名を見つめて来る。

 

「誘拐して本人の了承なく世界のシステムに組み込もうとしておいて、献身などと良く言えたものだ。生贄だとはっきり言ったらどうだ?」

 

 ザジが耳障りの良い言葉で誤魔化そうとしていると皮肉る真名。

 

「否定はしません」

 

 どう言葉を取り繕おうと明日菜が世界救済の為の生贄にされようとしている事実は変わらないことをザジも認める。

 

「世界の穴を閉じ、完全なる世界で各個人で完結し、消費する魔力量を減らす。穴を防げば、流出し続けている魔力は止まり、完全なる世界の中では不必要な魔力が使われることは決してありません。完全なる世界が成立した時点で、既に世界崩壊の危機は回避できました。逆にいえば、どれだけ手を尽くしても完全なる世界なくしては百年も持たないのです」

 

 火星のテラフォーミング、旧世界と魔界の助力があったとしても、世界を永続させることはできない。崩壊を先延ばしにするだけで間に合わない。ザジの言う通り、完全なる世界でなくては崩壊を先延ばしにするだけで何の解決にもならない。

 

「完全なる世界を造るには明日菜さんだけが必要で、現状のまま世界を存続させるには、もう一人の生贄が必要になります」

「また生贄か? しかしそれでは本末転倒だろう」

 

 明日菜を助け出す為に戦いに来たのに、世界を存続させるためにもう一人を世界のシステムに組み込むでは意味がない。

 

「犠牲失くして世界は存続しえないのです。完全なる世界を発動させずに存続させるためには―――――――――アスカさんの存在が不可欠です」

 

 そう言ったザジの表情は、これだけは言いたくはなかったのだと物語っていた。

 嘘ではないだろう、と真名はザジの表情と様子、そして別荘での妙なアスカの自信から推測する。ただ、まだ情報が足りない。

 

「それは彼がウェスペルタティアの直系だからか?」

「否定はしませんが、それだけではありません。一番の理由は彼だけが扱える技法にあります」

「咸卦・太陽道か」

 

 技法と聞いて逸早く真名も気づいた。

 

「咸卦・太陽道。素晴らしい技法です。周辺のマナを集めて魔力を生み出す。見方を変えれば星でしか為し得ない役割を代用できる。ここまで言えば、もうお分かりでしょう?」

「彼を世界の機構に組み込み、魔力を生み出させる装置にしようというのか」

 

 まだ冷静であった真名ですら声に微量の嫌悪が混じっていた。

 悪魔の発想だ。世界の為に犠牲になるだけではなく、死ぬことすらも許されずに生かされ続ける。それを地獄と言わずになんというのか。

 

「二人の生贄がいれば、完全なる世界でなくても金星と地球の協力があれば、火星に緑が溢れるまで耐えることは可能と試算が出ました」

 

 溢れでる感情を抑えるようにザジが低い声でアスカと明日菜がシステムに組み込まれ場合の試算を口にする。

 

「ザジ、お前達魔族の、いや魔界の目的はなんだ?」

 

 それ以上は聞きたくないと真名はザジに向けて彼女ら目的を問うた。

 魔族でもかなりの高位であろうザジが、そもそも魔法世界崩壊までの試算を算出した研究機関の話を聞くに組織だって完全なる世界に協力をしている魔界の目的が分からない。

 

「私達の目的は造物主個人のみ。やがて蘇る大きな災厄を封じ込めるには彼女の力がどうしても必要なのです。貴女も魔族ならば分かるでしょう」

「なに?」

 

 ザジの言っていることは分からないが、どうやら真名の奥の手はバレているようである。

 

「ん? どうやらその様子では知らない様子…………純粋な魔族ではない?」

「そうだ。全開放は五年振りだが……」

 

 半分とはいえバレているのならば隠す必要もない。

 かなりの高位魔族であるザジ相手であるならば不足はなく、廃都のミルクのような魔力濃度ならば行える。

 

「その魔眼、その姿…………成程、半魔族(ハーフ)というわけですか」

 

 魔眼の能力を全開し、普段は抑えている力を解放した真名の姿を見たザジが瞑目したが、やがて合点がいったように動揺を収めた。

 

「この姿になって驚かれないのはお前が初めてだよ、ザジ」

 

 体から溢れ出す魔力に髪と目が光り輝き、全開放による解放感で湧き上がる若干の興奮状態を抑えながらザジと対峙する。

 

「純粋な人間とは思ってはいませんでしたが、十二分に驚いてはいますよ。ただ、合点がいっただけです。半魔族(ハーフ)ならば、決して目覚めさせてはならない存在の鼓動が分からないはずです」

「決して目覚めさせてならない存在、だと?」

「遥かなる神代において神の時代を終わらせた、ありとあらゆる神話に語られる終末を齎す者。数多の神を滅ぼし、全知全能の君がその身を以て封じた災厄の化身であり、全ての怪物の王。その鼓動です」

 

 真名には及ばない領域の話を始めたザジは片手を心臓を当てる。

 

「魔界は怪物の王の揺り籠であり、我ら魔族はその封印の守り人を任じられた者達が変じた者。嘗ては神気に満ちた身は、封印されながらも溢れ出す瘴気によって反転し、怪物よりの存在となった。それが嘗て神だった我ら魔族の祖です」

 

 一般には知られていない魔族の本当の歴史を諳んじ、それを聞いた真名の内にある魔族の血が反応するようにドクンと高鳴った。

 

「怪物の王の封印が遂に破れる時が間近に迫っているのです」

「信じれたものではないな。第一、証拠がない」

「証拠は貴女の内にある魔族の血に原初より刻まれた因果が物語ってくれます」

 

 肉体は肯定し、精神は否定する。板挟みである。

 真名の体に流れる全開放して荒ぶる魔族の血は真実と断定しているが、感性は人のままである心が真偽を疑っている。

 

「封印を強化するには神か、神に連なる者しか行えない。ですが、我ら魔族では封印に近づくことすら出来ない。漏れ出す瘴気に呑まれ、怪物となってしまうから」

 

 同じ空間にいるだけで姿形と心まで侵されているのに、その本拠地に近づけばより怪物の王に近づいてしまうのは道理。封印に近づけるとすれば怪物の王の反存在、もしくは対抗できる者。即ち、神しかいない。

 

「殆どの神が死に、現存する神も往年の力を失っている。封印されて眠っている者も多く、大半が会話すらままならない状況で神としての肉体を失ったとはいえ、理性的な造物主は稀有な例です」

「だが、造物主も神としての力を失っているのだろう? 本当に封印を強化出来るのか?」

 

 神としての力を失っているから魔法世界の穴を防げないのに、神としての力を発揮させるのは不可能である。

 

「存在の全てを封印の力に回せば可能であると、造物主は言いました。完全なる世界が成った暁には行うとも」

「ただの言葉を信じると? 馬鹿馬鹿しい。口だけの可能性もあるだろう」

「勿論、研究機関で検証を行いました。十分に可能であると試算は出ています」

「試算試算、お前達はそればかりだな」

「魔界のこともそうですが、私だって魔法世界の滅びは避けたいのです。そして犠牲が避け得ぬならば少ない方が良い」

 

 真名はザジの言うことは全てが本当なのだろうと考える。

 魔法世界を今のまま存続させるには明日菜とアスカが必要で、魔族の目的は太古の昔に魔界に封じられた怪物の王の封印を補強できる造物主の協力が必要だから完全なる世界に与していることも。

 

「分かった。これで憂いはない。では、戦おうか」

 

 理由に納得がいって、行動に合点がいって、真名は改めて銃を構えた。

 

「犠牲を容認するというのですか?」

「私も大筋はお前と同じだよ」

 

 龍宮真名という個人としてはザジに理解を示しながらも、傭兵としての在り方が否と示していた。

 

「ただ、これも仕事でね。何せ世界を護るなんて壮大なものだ。莫大な報酬が各国より約束されている。傭兵として一度受けた仕事を放りだすことは出来ない」

 

 プロフェッショナルとして私情を殺すのはまま在ること。受けた依頼は必ず遂行する。

 

「主義も大義もなく、ただ金の為に戦うと?」

「よほどの仁義に反すことでなければな。それにどうせどちらが勝とうとも、在り方はともかく世界の存続は決定される。私は私の仕事を果たすだけだ」

 

 完全なる世界に変するか、魔法世界のまま存続するか、アスカ一行か完全なる世界のどちらが勝とうとも確かに崩壊は免れる。

 

「私はアスカさんの犠牲を容認できません」

「それは私もそうだが、まあお前を倒した後にでも本心を聞くに行くとするさ!」

 

 言って銃を手に駆け出した真名。上の方で戦闘が行われているのか衝撃で揺れる路面を、意に介さぬ速度で疾走し、目指すザジの間合いへと真っ直ぐに飛び込む。

 

「スナイパーが自ら近づいて来るなど」

「それは私以外に限った話だな」

 

 爪による迎撃は選択を間違えた嘲笑と共に薙ぎ払われる一閃を飛び越えて躱した真名は、ザジの頭上を宙返り様、その身を錐揉むようにして立て続けに銃撃する。

 超接近にて放たれた弾丸は、しかし、ザジの背後に浮かぶ悪魔によって弾かれていた。

 ふッ、と挟んだ呼気も鋭く、こちらに伸びるザジの爪と銃で打ち合う。

 

「その使い魔は出来るな」

「使役しているのは私です」

 

 続いて、力任せに振り下ろされた五本の爪を真名は紙一重で躱す。地面を五本の爪牙が深く抉るのを見ながら後退した真名がライフルに持ち替えて弾丸が繰り出される。

 受けてはならないと、背筋に走った悪寒に撃たれた弾丸を全力で避ける。

 

「!?」

 

 避けられた弾丸は地面を穿ち、特殊な(フィールド)を展開する。

 数秒で(フィールド)は消失したが、地面がまるで(フィールド)にくりぬかれたように異様な穴を開けて外が覗けていた。幾ら真名が半魔族化してパワーアップしたとしても威力が大きすぎる。

 その正体をザジは直ぐに見破った。

 

「やはり学園祭での強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)を持っていましたか」

「正解だ。この廃都の魔力は学園祭の時の麻帆良以上。ほら、避けないと三時間後に送られるぞ!」

 

 再び強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)が放たれるが弾速は決して早くはなく、避けるのはそれほど難しくない。

 

「種の知れたマジックなど恐れるに足りません」

 

 展開される(フィールド)にさえ巻き込まれなければ危険はない。既に(フィールド)の大きさも目視で確認しているので、ザジは背後の魔族も合わせて数メートルの巨体でありながら、決まれば一発で決着のつく強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)を完全に見切っていた。

 

「お返しです」

 

 発生する強制時間跳躍の(フィールド)を躱し、背後に憑いた魔族の口から幾重もの光が迸った。

 

「その程度の攻撃が今の私に当たるものか」

 

 真名の対応は素早かった。

 魔眼の力を全解放して半魔族(ハーフ)の姿となったことで生えた翼を駆使し、開けた穴から墓守り人の宮殿の外へと飛び出す。

 大半の光弾は穴の周辺に着弾したが、ザジも真名の後を追って墓守り人の宮殿から出て再び光弾を撃って来る。

 光弾から距離を取って半数以上を撃ち落とす。撃ち漏らした光弾から逃れるように、体を垂直に上昇させる。が、背後に大型魔族を従えたザジは鈍重そうな巨体から予想も出来ない機動力を見せて腕を振るう。

 

「速い!? その大きさでその速さは反則だろう!」

 

 毒づきながら真名は体を翻し、やはり旋回してこちらに向かってくるザジに相対する。

 速い。急速に眼前に迫る巨体に、真名は圧倒されかける。その時、ザジが爪から巨大な鉤爪を伸ばし、真名をその咢に咥え込もうとした。真名は危ういところでその鉤爪をすり抜ける。

 

「ぐぅっ……」

 

 高速ですれ違ったザジの背後にいる大型魔族の口が開いていて、強烈な魔力砲を放った。背後から迫る閃光に真名は羽を羽搏かせて急上昇して躱した。そのまま宙でクルリと回転しながら、ライフルを構えて強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)を応射する。

 が、強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)の危険性を熟知しているザジは障壁で受けることをせず、全弾避けて見せた。

 

「その程度で私を倒そうなどとは!」

 

 綺麗に強制時間跳躍の(フィールド)の合間を抜いてくる光弾の一撃を躱しながらも真名の動きが驚きから一瞬鈍った。ザジの冴え渡る目はそれを見逃さない。一気に間合いを詰め、咄嗟に上げられた強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)専用ライフルの銃身を斬り落とす。

 

「ライフルを――っ?!」

「逃がさない――ッ!」

 

 切り札たる強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)専用ライフルの銃身を断ち切られ、必死で後退する真名を追いながらザジが叫ぶ。

 専用ライフルを捨て、両手に新たにデザートイーグルを取り出して応射したが、それを躱され、激突する勢いで突進してくる。真名は飛び上がるようにしてそれを避けた。すぐさま振り返るが、敵の方が一歩速かった。

 既に真名に正面を向けていた大型魔族が、両翼にある突起のような部分から糸に近い物を射出する。回避行動直後の硬直によって全身に糸が纏わりつく。

 直後、真名の全身が青白いスパークに包まれる。

 

「ぐわあああああっっ!!」  

 

 全ての皮膚という皮膚が一斉に爆ぜたような電撃が真名を痛めつける。視界が明滅する。しかもそれは一瞬で終わるのではなく、電撃を浴びている間、ずっと続くのである。

 そして敵は当然、電撃だけで済ませるつもりはないようだった。

 

「貰った!」

 

 ザジの勝利宣言と共に大型魔族の口が開き、接近しながら光が生まれる。至近距離から確実に仕留めるつもりなのだ。

 くっ、と歯噛みして電撃によって硬直しかける筋肉を無理やりに動かして、敵がこちらに迫って来ているということは、即ちこちらにも攻撃の機会はあると真名は確信した。

 撃てば当たる。敵よりも半瞬速く、真名はトリガーを引いた。

 二つの砲口から迸り出た弾丸は一直線に突進していく。

 一つは大型魔族の顔を僅かに揺るがして軌道をほんの少しだけずらし、もう一つは糸を射出した両翼の片側に…………最初の一つで揺るがして、ずらした軌道側にある方の射出点に命中した。

 

「なっ?!」

 

 軌道を揺るがされた所為で光撃が逸れた。糸の射出点に着弾したことで拘束も解かれた。

 絶好の勝機を覆され、ザジも目の前の真名に追撃するのが一瞬遅れる。

 光撃で髪の毛と肩の戦闘衣を代償としたが、羽を羽ばたかせて距離を開けながら両手に構えたデザートイーグルが同時に吠えた。銃口から放たれた魔弾が幾つも吐き出される。それは確実にザジへと迫るが、着弾する前に直進しながらザジ自身と大型魔族によって全て弾かれる。

 

「ちっ!」   

 

 直進を阻めないことに舌打ちを漏らす真名の左右から空を斬り裂くような勢いで斬撃が迫った。真横から走る迫る大型魔族の爪を右手のデザートイーグルで弾き、下から振り上げられる拳から逃れるように自分から弾き飛ばされる。

 そこへザジが単身近づいて真上から右手の爪を振り下ろす。

 咄嗟に差し出した左手のデザートイーグルで受け止め、そのまま引き金を引いた。がら空きになっているザジの胸元に魔弾が撃ち込まれる。一瞬の間を置いてザジの左手の爪が数本砕けた。

 至近距離からの銃弾の勢いを受け止めきれずにザジが後ろ向きに仰け反る。左手にある半分切り裂かれたデザートイーグルを捨てながら右手の銃口をザジに向ける。

 

「食らっとけっ!」

 

 銃口から放たれた強烈なマズル・フラッシュが真名の視界を焼く。

 銃声が轟き、それに続いて着弾音が響き渡る―――――が、ザジに被害らしい被害はない。着弾の寸前に大型魔族がザジを抱え込んだからだ。ダメージは与えただろうがあの巨体の前では戦闘不可能にするには全然足りていない。  

 新たにライフルを取り出して連射しながら、全解放したことで生えた羽で一気に空を駆けて相手の鼻先に割り込む。

 ザジは華麗な動きで射線を回避し、一端、上空に逃れる。自身の推進力だけでなく背後に憑いた魔族の力を合わせた凄まじい加速に、一対の翼しか持たない真名は忽ちの内に引き離される。

 

(だが、逃がすものか――!)

 

 先を行くザジが振り返りざま背後の魔族の口が開いて閃光を放つ。だが真名は加速を止めない。目前に掲げた護符に閃光が弾ける。

 焼け落ちた護符を捨てつつ撃ち返すと、スコープから何時の間にかザジだけ(・・)の姿が消えていた。

 

(――――来る)

 

 全身を駆け抜ける電流のような殺気に晒され、真名は反射的に羽を動かして体を傾けていた。

 

「くっ……!」

 

 左へ傾けた頭部の横を、紙一重のところで重力の加速も乗せて接近したザジの突き込まれた爪の切っ先が駆け抜ける。分離したザジが何時の間にか後ろに回りこみ、後少しでも反応が遅れれば頭部に穴が開いていた。

 トリッキーな機動に虚を突かれ、かろうじて避けた真名。そこにザジに憑いていた魔族が迫る。

 浴びせられる散弾のような光を躱して旋回し、魔族を無視して背中を見せているザジを狙おうと銃身を構えた。そこへ、主の危機を察したのか魔族の巨大な右腕が真名を掴もうとしなり、飛び出した。

 まさか腕が伸びるとは思っていなかったのかザジを狙っていたライフルが絡め取られる。

 長い腕に電撃のパルスが走り、直感的に嫌なものを感じ取った真名は躊躇無くライフルを放棄した。直後、ライフルが爆発した。

 その光を浴びながら二挺拳銃を取り出して、ライフルの爆発によって行動を遅延した魔族を大胆にも無視し、振り向き様に背中を見せるザジに向けて掲げた銃口から閃光が弾ける。が、ザジを守るように現われた魔族によって遮られた。空中で弾丸と魔族の障壁が交錯した。

 魔族と半魔族は、凄まじい勢いで交錯しながら、尚も死闘を続ける。

 

「パワー、スピード、予想だにしない行動と飽きさせてくれないな!」

 

 ただでさえ純魔族のザジと比較しても半魔族の真名ではパワーで及ぶのか分からないのに、二体分では明確な差がある。十分な余裕があるにも係わらず、ザジの予想だにしないこと行動に、真名は不適な笑みを漏らすことで自分を鼓舞する。

 

「どうだっ!」

 

 真名は二丁拳銃をしまうと、代わりにもっと長くてごつい銃をズルリと引きずり出した。通称トミーガンと呼ばれるM1921短機関銃。陸軍とFBI、そしてギャング御用達の物騒な武器であり、到底十四歳の女の子が振るう代物でもない。

 空中で腰だめに構え、敵に向かって引き金を絞った。

 フォアグリップを支える左手が反動に震える。火薬の閃光が敵の周囲に無数に閃く。

 

「あれを避けられるとは思ってなかったとも!」

 

 立ち込める硝煙を切り裂く一陣の旋風となったザジが吠える。

 何時しか再び巨大魔族と合一したザジと真名の距離が縮まり、ザジの手の爪が伸びた。張られた弾幕を掻い潜って爪を突き出すも躱され、持っているライフルで振り払い、逆に打ちかかる。

 距離を開けるとすかさず、真名が右手のライフルで撃つ。が、その全てをザジは鮮やかに躱し、時に障壁で防ぐ。

 迫り来る脅威に焦りが一瞬、次の瞬間には下から接近したザジの爪によって右手のライフルの銃身が半ばから削ぎ取っていった。

 

「人の銃を何丁も駄目にして後で賠償請求するぞ!」

「知るものですかって!?」

 

 敵に無茶な要求をしようとする真名に反射的に言い返したザジの口が驚きからぽかんと開く。

 空中に浮かべた魔法陣から弾を取り出す異空弾倉の応用でアメリカ製の歩兵携行式多目的ミサイル、、FGM-148ジャベリンが獲物を狙う猛禽のように急迫していた。

 

「人に向けていいものではありませんよ!?」

「魔族だから問題なしだ!」

 

 急転上昇したザジが先程までいた地上の地面に着弾して爆発。無数の水蒸気と粉塵が立ちこめ、爆発的に立ちこもる白と黒の煙を貫いてミサイルがザジに迫る。

 ザジも武装を失った真名のこの行動が予想もつかなかったのだろう。身を捻り、かろうじてザジ自体が攻撃を受ける事はなかったが、背後の魔族だけは巨体故に躱し切ることが出来ずに着弾した。

 

「がっ!?」

 

 背後からの何重にも雷が落ちたような轟音と衝撃をまともに食らって吹き飛ばされた。真名は瞬く間に弾が無くなったFGM-148ジャベリンを捨て去り、落下していく敵を追った。

 

「これで!」

 

 そして真名は人が持つには巨大過ぎるM134(機関銃)を取り出した。

 毎分3.000発、最大で100発/秒と云う発射速度を誇り、生身の人間が被弾すれば痛みを感じる前に死んでいるという意味で「無痛ガン」とも呼ばれるM134を両手を使って腰ダメに構える。

 実弾発射時の反動および振動も、射手の体力程度では到底制御できるものではなく現実に使える物ではないが、魔力による身体強化を使える真名が扱うことは造作でもない。

 畳み掛けるようにM134の弾丸が撃ち込まれた。

 吹き飛ばされたザジは水面に叩きつけられる寸前で何とか体勢を立て直し、白い水飛沫を立てながら滑降していき、追うように弾丸が水面をぶち抜いていく。

 

「ちっ……」

 

 M134は驚異的な速射力と引き換えに持続性は低い。直ぐに弾切れになり、FGM-148ジャベリン同様にM134も一切の未練なく捨て去り、熱せられた銃身が水面に落ちたことで水蒸気が発生する。

 再び二挺拳銃を取り出し、水面を滑降しているザジを追いながら撃つ。

 羽をはためかせて全速で追うものの、二体分のスピードのザジには追いつけない。しかし異空弾倉の応用で背後に取り出した四層ポッドが開き、二発のミサイルが吐き出された。

 

「さっきから手品師みたいにポカスカ出しすぎですよ!?」

「なに、こっちはこれだけが取り柄でね!」

 

 ザジが背筋に冷たいものを感じながら叫んで、水面を滑りながら反転して背後の魔族がその巨大な腕で追尾機能があるのか避けても追ってくる二発のミサイルを叩き落す。

 直近で生じた衝撃に体が揺さぶられる。背面と迎撃によってスピードが落ちたことで追いついてきた。

 

「ちっ!」 

 

 背後の魔族から溜めナシの魔法の射手級の一撃を発射し、残りの二発を撃とうとしていた四層ポッドを撃ち抜く。ミサイルの爆発も相まって衝撃は凄まじく、咄嗟に制動をかけて回避するも幾つかの破片が真名の体を切り裂いていく。

 上がる黒煙。黒煙を貫いて魔族の放った光と二兆拳銃の銃撃が交錯しあう。熱線が回避する互いの体を掠めていく。

 次々と銃撃、光を撃ち掛けてくる。互いに攻撃によって辛うじて接近を阻むが、確実にダメージは蓄積していった。主に―――――真名に。

 

「中々、厳しい勝負だ! 二対一とはせこいぞ、ザジ!」

「最初から分かっていたことでしょ!」

 

 一人で戦い続ける真名と、背後の魔族に守られながら戦うザジ。

 どうやっても被害、消耗で真名が上回るのは自明の理だった。

 今までは真名が追う立場だったが何時の間にか真名が追われる立場となっていた。距離を詰めたザジが、背後の魔族の巨大な腕と自身の爪を浴びせかかる。寸でのところで体を捻り、真名は錐揉みするような格好で避けた。

 

「ぉおおおおおおおおおおお――――――――――ッ!!」

 

 あまりにも高速すぎて残像を撒き散らしながら凄まじい加速で真名に急迫する。真名もまた翼を広げ、突っ込んでいく。魔族の振り下ろした拳は躱され、放たれた銃撃を弾きし、両者は閃光のようにすれ違う。

 ザジが退きながら背後の魔族の口を開き、広げた両手の間に大きい光の玉を生み出した。臨界に溜まった光から凄まじい轟音が迸る。真名は体に纏う魔力の密度を最大出力で広げ、辛うじて取り出した右手の全ての指の間に挟んだ四枚の護符で受け止めた。

 お返しとばかり、二挺拳銃から取り替えたFN-P90で撃ち返し、ザジが受ける。両者は目まぐるしく交錯し、激しく撃ち合った。撃ち、躱され、また撃たれては躱し、真名とザジの戦闘はまるで際限なく続くように思えた。

 真名は立て続けにFN-P90を連射して、ザジを追い込みながら急迫する。周到に散らされた射撃が敵の退路を断つ。

 直前で閃光弾を投下し、生まれた閃光で眩ませて素早く魔族の懐を掻い潜り、手を伸ばせばザジに届く距離まで接近した。体勢を崩した敵が眼前に迫る。閃光を諸に受けて視界が効かないのか目を擦っている。

 

「これならどうだいっ!」

 

 避けようもないゼロ距離からの射撃。次の瞬間―――――真名は信じ難いものを目にする。

 ザジが茫洋とした視線で接近される気配を察したのだろう。己の羽をまるで盾のように掲げ、ゼロ距離からの射撃を防ぎきった。犠牲として半ばから羽を千切れさせながら。

 

「舐めるな!」

 

 そんな防御するとは考えていなかったため唖然とする真名の一瞬だけ生じた隙を突き、後退しながら魔族の腕が振り下ろされる。凄まじい衝撃が真名を襲い、激しく下方に吹き飛ばされる。

 水面に叩きつけられる直前に体勢を整える成功する。

 

「ハァァァァァァッ!」 

 

 が、そこに合計七つの光線が瞬いた。

 だが、真名は殆ど面のように見える光線の驟雨を、まるで見切るかのようにすり抜ける。

 

「護符の残りが少ないか………」

 

 一定以上の衝撃に自動的に作用する護符のお陰で一命を取り留めた真名は、閃光弾の影響から脱してこちらに向かってくるザジを見やりながら懐に入れた護符の残り枚数を計算する。

 護符のお陰で深刻なダメージに至っていないが、この調子で消費続けると負ける。もっと考えなければならない。

 

「残るは切り札だけか」

 

 二対一と戦力的不利な中で真名はこの勝負の詰めを脳裏に描きつつあった。

 

「「おおおおおおおおぉぉっ!」」

 

 両者の主義も主張もない絶叫。ビリビリと全身に伝わる強烈な振動が、死闘に一瞬だけ音の飽和した沈黙を作り出した。

 真名とザジの戦闘は熾烈を極めていた。双方退くことを知らず、真正面からぶつかり合っては命を削るような攻防を繰り返す。その動きは縦横無尽であり、何一つ制約するものはない。空を疾駆したかと思えば大地を突き破り、ありとあらゆる場所を戦場に変えて二人は戦い続けている。

 二人は檻から解き放たれた猛獣と同じだった。

 

「クッ……」

 

 爪と銃で鍔迫り合いをするが、逆に勢いに押されて真名の腿を掠めて肉を斜めに噛み千切った。

 腿から真っ赤な血を引かせ、真名は背を丸めて膝を胸に抱き、跳んだ勢いを利用してコンパクトに纏めた身体が回転する。宙返りのままに羽を羽ばたかせて飛ぶものの真名は苦悶の表情を浮かべる。

 ザジと攻防を交える度に彼女は少しずつ、しかし確実に体力を奪われていた。多量の血が流れた所為か体は怠く、意識は随分前から朦朧としている。立っているのもやったという有様だった。銃を構えていられるのは、意志の力に寄るところが大きい。

 

(分が悪すぎる)

 

 戦ってみて分かる。ザジの強さは計り知れない。勝てないまでも退けることは可能と考えていた刹那だが、今となってはそれすら怪しい。

 このままザジと戦い続ければ、ますます状況は不利になる。猛攻に耐えきれず、致命傷を負って負けるのは時間の問題だった。それだけではない。タイムリミットも確実に迫っていた。

 

(負けるのが先か、それとも時間切れが先か)

 

 だが、そのどちらも選ぶつもりはなかった。

 問題は現状を打破する方法が何一つないことだ。倒すことも退けることも難しく、逃げることすら叶わない。

 

(どうする……)

 

 気が逸る。考えれば考えるほど思考は空回りし、正常な判断を下せなくなっていた。

 ドクン、と焦燥感からか、鼓動が急速に速まっていく。喘ぐような呼吸を繰り返しつつザジの姿を凝視する。

 しかし、その後も激しい光線が寸暇なく真名を貫こうと遅い、何とか服一枚で避けている状態では生きた心地がしない。

 

「――――――」

 

 真名が懐に潜られるのを嫌って退がる。そこが彼女の銃の射程範囲内。

 今まで見せた戦い方から銃で近接戦をやると思っていたザジの予想は外れた。

 真名はザジの予想と違って手に持っていた銃をあっさりと捨てた。だが、両手を振り払うように銃を捨てたのに、右手には既に新たな銃であるデリンジャーが握られていた。今までのような異空弾倉の応用ではなく、恐らく最初から服の袖に隠し持っていたとしか考えられない。

 銃を捨てた両手を振り払う動作で仕掛けが外れて現れるように細工していたのだろう。

 自ら武器を捨てるという意外性抜群の暴挙に敵でありながらも度肝を抜かれたザジの動作が寸瞬だけ硬直する。或いは大儀があるとしても、言葉とは裏腹に二年以上を共に過ごした級友の自殺行為にためらいを覚えたからか。真相は動きを止めたザジにも分からない。

 分かっているのは、この硬直によって、どうやっても先に攻撃が当たるはずだった運命を覆したということだ。

 

「このっ!」

 

 当然、真名はザジの躊躇いを置き去りにしてデリンジャーの弾丸を容赦なく叩き込む。

 飛距離こそないものの護身や暗殺に用いられるデリンジャーは掌サイズほどに小型でありながら、デリンジャーから放たれた全弾丸が至近距離でザジの胸を貫いて命を散らせるだけの威力があった。この距離では防御も間に合わない。

 だが、揺れ動いた死の天秤は傾き切らなかった。

 

「…………」

 

 ザジを庇ったのは、彼女が使役している大型魔族。

 後ろから両腕でザジを覆い尽くし、その身を隠し切る。その直後、情けなどない無機物の鉛玉が容赦なく喰い込む。

 隠し玉としていただけあって今までの銃弾より威力が高かったのか、それとも何の防御もせずに受けたかは定かではないが、銃弾を受けた両腕は弾け飛んだ。それでも殺しきれなかった衝撃をまともに受けて、ザジの体が大型魔族の巨躯と共に仰向けに吹き上がるが直ぐに体勢を戻す。

 傷は致命傷ではなく、深くもない。十分に戦闘続行は可能。視線の先にはデリンジャーの銃弾を撃ち尽くした真名がいる。

 大型魔族の体を蹴って肉薄する。爪を伸ばし、ザジは勝利を確信した。彼女にはもう武器を出す時間を与えない。

 

「勝つのは私――」

 

 です、と続けようとしたザジの目の前に伸ばされた左手には銃弾が握られていた。

 両手を振り払う動作で右手にデリンジャーを取り出す仕掛けをしたように、左手にもたった一つの銃弾を握る仕掛けをしていた。万が一を考えてとある弾丸専用ライフルが破壊される前に弾倉から一発抜き出していた。

 

「ああ、私は勝負には勝てないだろうよ。だが」

 

 ただの銃弾であるならば傷を負おうともザジの勝利は揺るがない。

 如何なる弾丸であろうとも、最早真名の勝利はない。ならば、相手の勝利を盗み取る。

 

強制時間跳躍弾(B.C.T.L.)――――っ?!」

 

 握り潰された弾丸が(フィールド)を作る。弾丸を持っていた真名と爪が首に触れるほどの近距離にいたザジを巻き込んで。

 (フィールド)に取り込まれればエヴァンジェリンですら逃れることは出来ない。

 

「化かし合いは私の勝ちだ」

 

 勝てないならば勝負を先送りにする。(フィールド)は消え去り、二人は揃って三時間後に送られる。

 勝者はいないまま、彼女らは墓守り人の宮殿付近から消えたのだった。

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り四時間十三分十一秒。

 

 

 




①明日菜が穴を塞ぐ
②二十二年毎に地球と金星が魔力を注ぐ
③アスカがマナを魔力に変換する
④超のテラフォーミング技術

完全なる世界ならば①だけ。
今の世界を存続するには②③④が必要。どれか欠けてもダメ。
④ならば百年後には火星は緑あふれる星になり、魔法世界と繋げば滅びは回避。穴が開いていても循環するので、明日菜とアスカがいなくても大丈夫。

以上、本作の魔法世界救済案でした。

魔界の目的、神代の終わりの理由、造物主が火星に来た理由は前者二つに関わり有りなども本作設定です。



これで真名vsザジの決着は三時間後に先送り。

次回『第82話 剣の果て』




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第82話 剣の果て

 

 

 

 

 

 

 先を急ぐアスカ一行は邪魔をする召喚魔を排除しつつ螺旋階段を登り切り、墓守り人の宮殿の上層に到達していた。

 この場にはいない真名以外の全員と顔を合わせたアスカが墓所への扉へと近づく。

 

「何かいるでござるな」

「うむ、強い気の持ち主アル」

 

 待ち伏せか罠を疑いながらも先を進むアスカの背中を信じて付いていく一行。

 

「相手は恐らく……」

 

 強い気の持ち主が誰であるかを感じ取った刹那は、手に持つ夕凪を意識して戦意を高める。

 アスカによって扉が開かれる。その先にいたのはただ一人の人間。

 

「ようやく来はりましたか」

 

 何かの台座に腰かけて足を宙ぶらりんに浮かせていた月詠が、当たり前のように立ち上がってアスカ達を、特に刹那を見た。

 

「刹那センパイ以外は先に行っても構いまへんへ」

 

 初めから刹那と戦うつもりだったのだろう。迷いなく自然に鞘を払って太刀と小太刀の刀身を翳す。ちょうど日本刀が入るぐらいの細長い黒地に封印札が張られた麻袋を背中に背負っている。

 

「貴様の相手は私、ということか」

 

 刹那は、修学旅行の一度だけのそれも百にも満たない攻防しか交わしていない月詠が刀を抜いた時点でもはや話し合いはないと分かっているから、自らも夕凪の柄を握って応じる。

 

「ゲートポートで言うてた通り、殺し合いをしましょ」

 

 月詠の、自身の敗北の可能性を全く織り込んでいない余裕が少女の誇りに火をつける。

 

「みんなは先に行ってください。月詠の相手は私がします」

「全員でやれば楽に倒せるぞ」

 

 前に踏み出した刹那の背中にアスカがこの場における最も簡単な月詠の倒し方を明示する。

 事実、アスカが共に戦えば時間は取られるが確実に月詠を倒せるだろう。だが、今は一分一秒が惜しい。真名がそうしたように、刹那も同じことをする。

 

「今は一人に時間を取られるわけにはいきません。明日菜さんを助けるためにも先へ。私も直ぐに向かいます」

「言うてくれますなぁ」

 

 夕凪を手にした刹那が自信満々に自らの方が強いと暗に言っているのを楽し気に聞いた月詠は今にも舌なめずりしそうな表情をしていた。

 

「ここはせっちゃんに任せてうちらは行こう」

 

 最初に刹那のパートナーである木乃香が言って走り出す。

 

「待ってるからな、せっちゃん」

「はい、先に進んで下さい。直ぐに追いつきます」

 

 横を通り抜ける時に二人は信頼の目を交わし合い、遅れてアスカ達も走り出した。通すと言っても信用できない月詠を警戒しつつ、木乃香を護りながら横を通ってアスカが最後尾を守護しつつ大広間を抜けていく。

 アスカ達が完全に見えなくなるのを確認して、刹那は一時も視線を自身から外そうとしない月詠を見る。

 

「お前のことを聞いた、月詠。時坂のことも、お前が生み出された経緯も、そして時坂にしたことも」

「つまらんことしてますな」

 

 自身に纏わる話を一刀の下に切り捨て、数歩刹那に歩み寄った月詠は表情を消して対峙する。

 

「もう、終わった話ですわ。今のうちはただの月詠。時坂とはなんの関係もありません」

 

 一足一刀。剣士ならば一呼吸で他人を切り伏せられる間合いは二人の場合、優に十メートルを超える。迂闊に踏み込んだ者は痛みさえ感じずに両断されるに違いない。

 

「初代青山もか?」

「ええ」

 

 遥かな昔、侍達は刀を抜いた時点で殺し殺されることを当然のように受け入れたという。それは武士としての心構えからではない。刀の柄を握った瞬間に彼らは覚醒するのだ。殺し合う為だけの肉体、生き残るためだけの頭脳に。

 

「血沸き肉躍る闘争こそが我が故郷。言葉は無粋なりて、ただ剣にて語れ」

「剣、か」

 

 試合の前に気を引き締める、などというレベルの話ではない。彼らは刀を抜くことで、精神の切り替えを行っている。その領域に二人は既に至っていた。

 戦うしかないことは分かっている。だが、どことなく刹那はやり切れなかった。まるで姉妹と殺し合わねばならぬ不条理に苦しんでいるような感じというべきか、刹那自身にもこの気持ちの正体が今一つ良く分からないのだ。

 刹那と違って月詠は二刀を使うといっても互いに同じ神鳴流。ならば、偶然の介在する余地は限りなく薄い。獲物の差はあれど、純粋な実力の差こそが両者の命運を分けるに違いなかった。

 

「……………」

 

 刹那の吐息が細くなっていく。それに伴って、二人の神鳴流剣士の周囲には沸々と戦意が滾り、五体を取り巻くように気が湧き上がっている。

 互いの気は、如何なる形をとって喰らい合うか。

 両者の全身が強張る気配が、音もない戦いの開始の合図だった。

 

「「――はっ!」」

 

 気合の声は一瞬。刹那が目にも留まらぬ速さで抜刀した夕凪から、月詠は既に抜いていた太刀を振るって、凄まじい二つの紫電が生まれた。

 どちらも神鳴流奥義・雷鳴剣を選んだのは、最速で最大の威力を以てまずは戦いの主導権を得ようとした結果だっただろうが、同時に二人の思考の同一性をも示していた。

 紫電が激突し、技量に見合った爆発が互いの中心で炸裂する。二人は神鳴流剣士として限りなく完成に近い領域に至っており、それ故に結果を待つことはしなかった。

 

「以前とは見違えるほどに腕を上げましたな、センパイ」

「貴様こそ、更に練磨されたようだな」

 

 またもや同時に踏み込んで斬撃を浴びせるタイミングが同期していた。

 両者の中間地点で太刀と太刀が火花を散らし、この衝突で二人は相手の強さが自身とそう変わらないことを理解する。

 

「月詠! これほどの腕がありながら何故外道に堕ちた! 幾ら初代青山の記憶があろうと――」

「刀を持つなら刀で問うべきやで先輩。うちを打ち負かしてから改めて訊けや!」 

 

 月詠は刹那の放つ問いに攻撃で答える。

 攻守は目まぐるしく入れ替わり、刃速は互いの剣が触れ合うたびに加速していく。衝撃が肩から伝わり、全身を痺れさせる。皮膚が、骨が、細胞が、血液が、身体の中にある、あらゆるものが斬撃によって振動する。

 

「シャァァァァァッッッッ!」

「ハァアアアアアアアアア!」

 

 裂帛の気合と共に、まるで弾幕のような連続攻撃が斬り結ばれる。食いしばった歯の根から二人の口腔を鉄の味で満たす。

 

「貴様の剣が鳴いているぞ!」

「何を阿呆なことを!」

 

 剣がぶつかり、鍔が競り、また剣が打ち合う。火花の散る鍔迫り合いは互角に終わり、刹那と月詠は互いに距離を取る。そして直ぐに地を蹴り、再び刃を重ねる。

 斬撃を放ち、斬撃が来ることを予期して受け止め、更に受け止められることを予測して太刀筋を変える。

 激突する度に凄烈な金属音が幾重にも鳴り響く。命を削るように響く音が二人の太刀筋の凄まじさを物語っていた。

 どちらも得物を完全に使いこなし、間合いを十分に心得ている。

 月詠の剣は二刀である分だけ速く、そして目まぐるしく変化した。足を使って立ち位置を常に変えつつ、左上かと思えば右下、頭上かと思えば突きが、刹那の首を刈りとろうして風に悲鳴を上げさせた。

 刹那の剣技は一撃一撃が重い。神鳴流が想定している敵とは人間よりも遥かに強固で強靭な魔であるが故に、如何なる堅牢をも断つ威力を持つ。だが月詠はリーチで太刀の刹那に軍配が上がる中で、驚異的な踏み込みと太刀と小太刀のリーチ差を考慮した攻撃によって本来の威力を発揮する前に巧みに受け流していた。

 まともに打ち合えば一撃で折れそうな小太刀で受けながらも歪み一つ生じた気配がないのにはそんな理由があった。

 

「この!」

「なんつう力ですか……!?」

 

 だが月詠にそれほど余裕があるわけではなかった。自分とさほど体格の変わらない、世間一般で言えば痩せて小柄な刹那の体から信じられない剛剣が繰り出されてくる。それらを自ら危険地帯に踏み込んで一つ一つ捌きながら背中に冷や汗を掻いていた。少しでも仕損じれば瞬時に左右で斬り別れることは間違いなかった。

 

「ははっ」

 

 しかし、月詠は寧ろそのような感情自体を喜んでいた。彼女が求めるのは、ただ血と戦のみ。弱者を斬り殺すのにも楽しみはあるが強者を斬り殺すのに比べれば満足度は段違い。それが彼女が同類と思った刹那であれば尚更。

 

「ハァァァァァッ!」

 

 抑えても抑え切れぬ狂笑を浮かべた月詠が宙を駆けた。

 

「行きますえ!」

「来い!」

 

 瞬動と虚空瞬動を併用して息つく暇もない乱撃が刹那に迫る。単なる力任せではなく、全てが基本に忠実で必殺の威力を誇る。刹那の夕凪に比べれば軽く細い二刀で、月詠が休みなく攻撃を繰り出し続ける。拮抗していた。寧ろ、月詠の間合いで攻防が続いている。

 

「流石の技だ!」

 

 月詠の恐るべきはスピードでも二刀を操る技術でもなく、無限とも思える手数を有する繰り出す技にあった。何種類もの突き、何種類もの斬撃。三重、四重のフェイント、縦横無尽のステップ。

 

「よう受け張りますな!」

 

 しかし、刹那は体捌きと夕凪の切っ先を右に左に揺らすだけで払いのけてしまう。彼女の太刀は月詠の太刀と小太刀よりも遥かに長く、そして重いはず。にも関わらず、完璧な防御を披露してみせる。しかも時折、カウンターの一撃を打ち込むのを忘れない。

 

「力はセンパイの方が上ですな」

「そういう割には余裕がありそうだ」

「まだまだこの程度では終われませんから!」

 

 この反撃を月読は巧みに防いでいたが、かなりギリギリだった。同じ神鳴流でありながら対人を主眼とした邪道の月詠と退魔を主眼とした正道の刹那。こと対人戦においてはより特化した技術と経験を積んでいた月詠が上回るはず。

 

「そうでなくてはな。この程度では、チャチャゼロさんの方が遥かに凄かったぞ!」

 

 刹那がこうも拮抗出来ているのは、魔法世界に来る前に重ねたエヴァンジェリンの初代魔法使いの従者(ミニステル・マギ)であるチャチャゼロとの模擬戦の数々と、夏休みに集中的に行われた青山鶴子の強制修行があったからである。

 身長70cmほどの人形で茶々丸の姉に当たる彼女は中世の百年戦争時代からエヴァンジェリンと行動を共にしており、魔法使いタイプである彼女を守るため数多の敵に立ち塞がった前衛として経験は筆舌にし難い。多数の刃物使いで自分の身長以上の刀も振り回す彼女の剣術は我流でありながら千変奔放。対人戦の経験が不足していた刹那にエヴァンジェリンが用意した彼女は、型に囚われず、ただ斬るためだけに特化した技術は正に天敵。

 常に予測外と予想しても防ぎきれない攻撃を仕掛けてくるチャチャゼロに比べれば、相性が悪く二刀流といっても神鳴流の流れが残っている月詠の剣に追いつくのは不可能ではない。

 更に夏休みの鶴子とのマンツーマンでの修業、魔法世界での実戦は確実に刹那のレベルを上げていた。

 

「はあっ!」

「せいっ!」

 

 同じ神鳴流剣士、攻撃と防御、どちらにも隙がない。

 これほど実力が拮抗した相手に、どうやって攻め崩すのか。

 重要なのは観察することだ。際どい勝負の場に立つ時ほど、目と頭が冴える。敵の一挙手一投足。表情。視線。

 勝機に繋がる気配は一つも見逃さない。敵の性格を見極め、思惑を読み、行動を見定める。観察し、考える。人であれ、悪魔であれ、妖怪であれ、どんな存在であれ、どんな強敵でも性格さえ把握できれば対策は立つ。

 

「シィッ!」

 

 顔面、側頭部、左肩、腿、脇腹、心臓、頚動脈、右手首。それらの部位を狙って互いに遠慮呵責は一切なく、疾風迅雷の斬撃で続けざまに攻め立て、受け止め、斬り込む。

 月詠は太刀が近づくたびに体を揺らし、双刀を盾にして避けていく。

 二人が激しく切り結ぶ。自分に向いた流れを察知して一気に勝敗を決しようと迫る。月詠も押されてはいない。必死に踏み止まり、押されては押し返す。

 刹那の夕凪が月詠の小太刀を跳ね返し、返す刀で斬りつけて来る。月詠は敵の切っ先を刀身で逸らすと、刃先を滑らせるようにして横薙ぎに走らせた。

 超高速で剣戟の応酬が交わされる。刹那の夕凪が月詠の太刀に阻まれ、月詠の小太刀が戻した刹那の夕凪に弾かれる。

 刹那と月詠は、互いの得物を防ぎ、弾き、斬り付け、受け止めては攻撃に転じるを繰り返した。得物がぶつかり合うたびに重低音が鳴り響き、鮮やかな閃光の火花が星屑のように飛び散って散る。剣戟の余波が足場を突き抜けていく。

 遂には足場が耐え切れずに根元から圧壊していく。

 

「「!」」

 

 予想外の事態に同時に後方へ跳び退る二人。

 しかし、瞬き以下の間に全く同時のタイミングで鋭い呼気を吐き出しながら空を蹴り抜いた。

 遠い間合いを一瞬で踏破して野太刀と太刀が衝突する。火花と、武器に込められた気が二人の闘争と狂悦に染まった顔を一瞬だけ明るく照らす。

 金属がぶつかり合ったとは思えぬ轟音が戦闘再開の合図だったとでも言うように、一気に加速した二人の剣戟は激しさを増していく。共に同じ流派、互いの手の内は知り尽くしている。気の閃光が迸り奔流となる。それは二人の意志のぶつかり合いを象徴するかのように。

 その最中で、刹那がふっと身を屈め、水面蹴りの要領で柔軟に足を回す。

 

「――――何っ!?」

 

 月詠の左脚に、刹那の足が絡みつく。

 ここまでほぼ手に持つ得物だけに限定された攻防に思考の死角を突かれ、一気に体勢を崩される。しかし、月詠は小太刀と太刀の二刀流で斬りかかりながら、体当たりで刹那を突き飛ばすことで回避と攻撃を同時で行った。

 逆に刹那の体勢が致命的に崩れる。

 

「くっ……!」

「もらったで!」

「舐めるな!」

 

 体勢を崩したそこに月詠が無数の斬空閃を放ってくる。空を切り裂いて迫る風の牙。対する刹那もまた、溜めた気を夕凪に込めて振り抜いた。

 月詠が放った無数の斬空閃と刹那の一筋の斬空閃が激突した。互いの気斬が気の刀身を削り合い、接触点から眩い火花が乱舞して辺りを照らし出す。キーンと激しい耳鳴りのような音が聞こえた。

 刹那も月詠に勝るとも劣らない速さで横に動く。剣術というより舞踏――――――――――フラメンコにも似た躍動的なステップで、仇敵の接近を避けようとする。それを追う月詠の足捌きは、膨大に撒き散らす気とは逆に滑るような摺り足。氷上を追うスケートで走るかのような滑らかさで、刹那の軽やかなステップに追いすがる。

 刹那は上回る月詠の速さを食い止めるために夕凪を振るう。単発ではない。首筋、胴体、脚を狙った必殺の三連撃。

 それを太刀と小太刀が、楽器の調べにも似た美しい金属音を立てながらリズミカルに打ち払っていく。狂気に落ちた心とは別に月詠の剣捌きは美しく、的確で、精妙に、刹那が操る太刀を軽やかに弾き、もしくは受け流してしまう。

 だから刹那は、無理に攻めなかった。夕凪だけではなく、足を出す。狙いは月詠の足の甲。そこを踵で踏み砕こうと、刹那は思い切り足を踏み下ろした。

 

「ええですよ、センパイ。その今までみたいな綺麗にお高く染まった剣だけやなくて全てを使ってウチを倒そうとっていう気概。前に戦った時よりも遥かにゾクゾクしますえ!」

「ふん、貴様に褒められても嬉しくともなんともない!」

 

 踵を避けた月詠は言葉通り艶然と微笑み、攻撃を避けられてやや後退をした刹那は向けられた好色に満ちた視線を振り払わんと再度踏み込み、夕凪で月詠目掛けて全力で斬りつけた。しかし、太刀で見事受け止められてしまう。野太刀と太刀を重ねて、二人の少女は鍔迫り合いを開始した。

 

「ぉおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

「ぁああああああああああああああああ!!」

 

 斬り合い、打ち合いを続けていれば、互いの間合いは自然と詰まっていく。そうでなければ組み打ち、足がらみを仕掛けるのは剣術の常道である。

―――――斬! 斬斬! 斬斬斬! 斬斬斬斬! 斬斬斬斬斬! 斬斬斬斬斬斬斬斬斬!

 そのまま、真正面から切り込み合う刹那と月詠。

 小太刀を大上段から振り下ろす月詠。大して刹那は夕凪で稲妻の鋭さで中段の剣を叩きつけて来る。小太刀を夕凪の柄が受け止める。剣と剣が正面衝突し、そのまま再び、真っ向からの鍔迫り合いになった。

 普通の剣なら、こんな乱暴な激突をさせれば、直ぐに刃が欠けてしまう。

 

「やるな、月詠」

「やりますな、センパイ」

 

 だが、気で強化された武器に、そんな心配は無用。この程度でどうにかなるほど柔な造りではない。鍔迫り合いのまま、両剣士はニヤリと笑みを浮かべ合った。

 

「はっ!」

 

 月詠が双剣を使った光線のような斬撃を繰り出す。並みの剣士であれば、自覚がないまま十の肉片に分割されているだろう。

 対する刹那は、それを見事に防いでいた。避けるでもなく、一つ一つを正確に打ち落としている。基本に忠実な動きだが、それだけに隙が無い。一瞬でも見切りが狂えば致命傷となる身の毛もよだつ攻防だ。

 

「くっ……」

 

 そこから更に月詠は体当たりの要領で踏み込み、もう一刀を叩きつけて刹那を夕凪ごと吹っ飛ばした。

 

 すると刹那は吹き飛ばされた勢いを利用して、そのまま白鳥の如き白い翼を背中から出して文字通り鳥の如く高みを舞った。当然、月詠も空を跳んで刹那を追う。

 

「残念だが、(ここ)は私の領域だ」

 

 魔法や気を使えば人も生身のまま空を飛べる。だから人間は忘れてしまう。人間は空を飛ぶことに適していないのだと。

 

「私が持つ全てでお前を倒そう!」

「うちの持つ全てでセンパイの翼を剥ぎ取ったるわ!」

 

 跳び上がった月詠を狙って、刹那が猛禽のように舞い降りていった。

 甘い、と言いたげな不適な微笑が刹那の口元に浮かんだ。彼女の使う飛行の術は、魔法や気を使って飛ぶ者達のそれを大きく上回る。より速く、より高く、より遠くに飛び、時には慣性の法則さえも半ば凌駕する。彼女には常人が持ちえぬ翼があるのだから。

 

「ぬっ!?」

 

 いきなり落下の勢いが止まった。空中でブレーキでもかけたかのように刹那の落下は急停止し、予測していた動きを外された月詠の太刀は空を切った。

 斬り込んできた月詠をスカした刹那は、再び落下を始める前に羽を羽ばたかせて素早く背後に回り込んで夕凪を振り下ろす。

 狙われている部位は右肩。この速度と間合いでは受けるのも、避けるのも難しい。跳躍の勢いと全体重を乗せた剣が、月詠の右肩から左腰にかけて深々と切り裂き、抉り取るはずだった。月詠が双刀使いでなければ。

 考えるよりも早く体が判断して、自ら持つ太刀ともう一刀の小太刀で合わせると、小太刀を叩き折られながらそのまま真横へと押した。軌跡が折れ曲がり、肉と骨の変わりに皮一枚だけを薙ぎ斬る。そしてその力の反作用が月詠の体を一歩分の距離だけ前方へとずらさせた。

 刹那の目が僅かに驚愕する。けれどそこには動揺はない。隙らしい隙は生まれない。互いの手傷は致命傷には及ばず未だ戦闘続行可能。冷静に回避行動をしたばかりの月詠の背中に蹴りを見舞った。

 

「がわっ!?」

 

 上から踏みつけるような蹴りを食らって、壁に向かって投げて跳ね返って来るボールのように落ちていく。

 

「―――――はっ!」

 

 落ちる月詠に向かって刹那が夕凪を振り切ると、剣筋に沿って気の斬撃―――――斬空閃―――――が凄まじいプレッシャーとなって月詠を襲った。

 月詠の小太刀は半ばから折れ、本人も使えないと思ったのか放棄した。今は刹那と同様に太刀を両手で握るスタイルに変更した。

 月詠に植え付けられた記憶の持ち主である初代青山は野太刀一刀流の遣い手。初代を追い払うために為に二刀流を手にしたので、記憶の中の時間では二刀流よりも一刀流の方が長いので手に良く馴染む。違和感はさほどない。

 

「斬空閃!」

 

 天罰の如く振り降りる気の斬撃の刃に同種の技を放つ。が、完全に二刀流の剣士となっていた月詠が今更一刀流を扱おうとも体が思うよりも上手く動いてくれない。気の問題でも技の問題でもない。二刀だった者が一刀に持ち替えたからといって都合良くいくはずがない。

 

「!?」

 

 二刀で放つ時よりは一撃にパワーはあったが刹那の斬空閃の前に及ばなかった。自らが放った斬空閃が掻き消されたのを見て、振り下ろした太刀の持ち手を逆手に変えて振り上げて、もう一度斬空閃を放ってぶつけたことでなんとか相殺出来た。

 

「二撃でようやく相殺か…………うちの倍のパワーがあるってことかいな」

 

 元来、人の身よりも強靭で巨大な妖魔を対峙するために生まれた神鳴流は一撃のパワーがある。反対に月詠の二刀流は対神鳴流とも呼ぶべき、パワーよりも小手先の技術や速さが信条だった。

 一撃のパワーで劣るのは仕方のない話であったが倍近い差があるとなると忸怩たる思いが心中に生まれた。

 

「ここで終われ、月詠!」

 

 思いを外に吐き出す前に白翼を羽ばたかせて距離を詰めてきた刹那の一撃が、水平に構えた太刀と激突した。

 

「くふっ……!」

 

 その衝撃で一辺に数十メートルも押し込まれた月詠は、それでもどうにか虚空で両足を踏ん張って鍔迫り合いに持ち込んだ。そのまま無様に空から転げ落ちるなんてことにはならなかった。

 

「ッ!?」

 

 風が動いたと、そう月詠の頭が気づくよりも先に、残った太刀が動いていた。

 鋼が鋼を噛む、鋭い金属音。意識が危険に気づくよりも早く、反射神経が右手を撥ね上げていた。握り締めていた太刀が、それこそ旋風か何かのように飛び込んできた刹那の夕凪を受け止める。

 

(うちの予測を超えた!?)

 

 刹那の勢いは止まらない。第二撃、三撃。夕凪の白刃が煌めいたかと思うと、次の瞬間には襲い掛かってくる。その一撃一撃が、まるで斧のように重い。

 まずい。月詠は頭の隅でそう判断する。予想以上に刹那が実践慣れして、修学旅行の頃と比べて格段に実力を上げている。神鳴流の太刀筋は変わらなくとも、実践を重ねた乱撃は月詠をして驚異の一言に尽きる。一撃一撃の力と速度が尋常ではない。

 意地で防ぎきっているが、こんな凌ぎ方では長くはもたない。そしてそれ以前に、戦いというものは攻撃を凌いでいるだけで勝てるものではない。

 考えるよりも早く体が動く。

 

「はぁああああああああああああああああっっ!!」

 

 全身に全力の気を滾らせて、太刀を撃ち振るって刹那から距離を取る。

 

「させん!」

 

 しかし、刹那は暴風な勢いで襲い掛かってくる。開いていた距離を一瞬で踏み潰し、巨木も切り倒さんばかりの勢いで夕凪が振り抜かれる。体勢が整っていない。受けても弾き飛ばされて、余計に体勢を悪くするだけだから受け切れない。

 

「言ったはずだ。私の全てで貴様を倒すと」

 

 鋼と鋼が噛みあう鋭い音。

 

「半妖の私の方がパワーは上だ!」

 

 自身が異端であることを受け入れている刹那が叫ぶ。

 気で強化される腕力の量は、むろんその個人が抱える気の総量によって決まる。元々の体格や筋量から生まれる力など、そのイカサマ染みた圧倒的な力の前には端数も同然だ。力を込めた剣撃を打ち合わせる度に、パワーで劣る月詠の小柄な体が反動で吹き飛ばされる。

 気で増幅された大きな力のぶつかり合いで、体格も気の総量も劣る月詠では支えきれない。

 

「はぁあああああああああああああ!!」

 

 吹き飛ばされる度に、中空で体勢を立て直す。着地と同時に杭を打ち付けるような勢いで地面を蹴り、開いてしまった間合いを詰め直し、次の一撃を加える。

 何度も何度も、それを繰り返す。

 掬い上げるような鋭い斬撃を、月詠は身を退いて躱した。間一髪だ。遅れた髪が切断され、ハラリと空を舞っていく。

 

「斬岩剣!」

 

 激烈なる踏み込みと共に神鳴流の奥義の一つ斬岩剣が振るわれる。

 上段の構えから剣先に気を集中させて、一気に振り下ろされた夕凪を皮一枚で躱した月詠が、刹那に体当たりをかける。倒れざまに振り上げられた夕凪の切っ先が月詠を掠め、頬を裂いて飛び散った血が花火の如く閃く。

 

「ふっ――!」

 

 堪らず、月詠が逃げるように跳躍する。

 それをも、刹那は見透かしていた。

 

「斬空閃!」

 

 空中へ逃げた月詠へ、横殴りに気の斬撃が襲い掛かる。

 戦士としての本能がこの一撃を食い止める。しかし、刹那の剣撃は一撃ではなかった。

 

「おおおおおおおっ!」

 

 ただの一撃で月詠を葬ろうとするほど、刹那は浅はかではなかった。

 放たれるのは斬空閃が六つ。間断さえおかない縦横無尽に走る連撃。

 左右縦横、直線曲線を描いて襲い掛かる気の刃を、辛うじて手持ちの全ての護符で受けることで相殺しきった。だが、これすらも布石。無防備を晒す月詠の胴体に、とうとう躱しきれなくなって斬撃を受けた。

 

「ぐっ――」

 

 押し殺したような悲鳴が聞こえた。

 体の前面に服を切り裂いて幾重もの紅い線が走っており、裂傷から紅い雫が噴水のように辺りに撒き散らされていく。

 

「その傷では勝負は見えた。負けを認めろ、月詠」

 

 勝者の余裕を垣間見せ、着地した月詠に宣言する。

 太刀を地面に突き刺して斬られた部位に治癒符を張り付けるが即座に治るわけではなく、戦闘で酷使すれば傷は広がるだろう。勝負は最早決まったようなものである。

 

「このままでは、勝てまへんなぁ」

 

 そう、このままでは勝てない。ならば、その背にある奥の手を使うのだと月詠は嗤った。

 

「勝負はまだまだこれからですわ」

 

 ゆっくり流れる時間の中で、月詠が背中に背負っていた麻袋を体の前に持っていき、張られていた封印札を剥がし、袋の口から年季の入った柄を押し出す。

 そのまま流れるような動作で刀袋を置いた左手で柄を掴み直す。

 

「姿を見せい、ひな」

 

 静かな呟きと共に刀が抜き放たれる。抜刀と同時に凄まじい黒一色に染まった気が月詠の持つ日本刀から迸る。

 右手で優美な刀身を一気に引き抜く。日本特有の乱れた波紋が、窓から微かに差し込む外で輝く魔力の光を受けてユラユラと揺れて見えた。その揺らめきは光と大気の加減によるものののはずなのに、波紋自体が動いているように思えた。

 鞘から抜き払った月詠の目は閉じられていた。だが、眼光よりもハッキリと、刀の冴えが剣鬼の心を映した。

 

「!?」

 

 刹那は眼を見張った。

 月詠が右手に持っている刀を以前に見たことがある。幼き頃、師である青山鶴子が教訓として見せた東に伝わる魔剣。妖刀ひな。過去にひなを手にした剣士を相手に、神鳴流全剣士が絶滅の際にまで追いやられたという逸話を持っている妖刀。

 

「月詠………………なぜ貴様がその刀を?」

「ウチが京都を出たのはこの刀をかっぱらったからや。どうやら最期を齎したこの刀に惹かれてしまったようなんですわ」

 

 錯覚かと思うほどに月詠らしくない苦い笑みを一瞬だけ浮かべたが、直ぐに消え去ったのでひなに目を奪われていた刹那は気付かなかった。

 

「嘗て剣士ですらない男が手にしたこの妖刀ひなによって神鳴流を滅ぼされかけた。今のウチが使えばどれほどのもんになるんやろうな」

 

 マズイ。冗談ではなく、何の余裕もなく本気でマズイと感じていた。

 月詠は確かに強い。刹那が押しているように見えるが、目に見えるほどのハッキリとした差はない。でも、あの刀は別だ。そもそもあれは、魔力も気も使えなかったただの剣士が隆盛を誇っていた神鳴流を壊滅させかけた妖刀。

 肌で感じる気の上昇に圧倒される。まともに闘っても対処のしようがない。

 

「今更何を驚いてはるんですセンパイ? 闇と魔で力を増幅させるのは魔法の専売特許やと思ってはりましたの?」

「力の為に、魔に身を委ねるとは………………月詠!」

 

 月詠の全身から迸る暗黒に染まった気と、その瞳に宿る狂猛な殺気と闘志。命がけの戦いを飄々と楽しんでさえいた剣客の目ではなかった。立ち塞がる敵は全て打ち倒し、殲滅せねば気が済まない鬼の瞳。

 

「力の為? ウフフ、違います。センパイを心ゆくまで味わうためですわ。さぁ、味わせて下さい。センパイの全てを」

 

 嗤う月詠の内側に剣気が篭るのを刹那は見た。

 さざ波の如く、津波の如く、時に弱く、時に強く、剣気は揺曳する。月詠の呼吸に合わせて、その形を変えていく。

 暗黒の気を放つひなを掲げた瞬間、月詠は無造作に刀を振るった。

 剣が消えた―――――いや、消えたように見えた瞬間、刹那は斜め後ろに飛び退いた。そうしなければ、死ぬ。理屈抜きにそう悟り、助走なしで跳べる最大限後方へ、咄嗟にジャンプしたのだ。

 直後、恐らくコンマ一秒にも満たないほどの直後。そこまで刹那がいた空間を、横薙ぎのひなが真一文字に斬り裂いた―――――ように思える。先程よりも遥かに増した剣速に眼が追いつかず、太刀筋も剣も朧にしか見えなかったので、断言は出来ない。

 

「加減が難しいですな。まずは小手調べ」

 

 月詠が言った直後、刹那の頬が裂けた。

 

「な!?」

 

 裂かれた頬から血が噴き出して刹那は始めて攻撃を受けたことを悟った。

 

「どうしたんや、センパイ。さっきとは違って避けることも忘れたんか?」

「ぐっ!」

 

 防御を固めた刹那を嘲笑い、月詠が超速で接近して再度刀を振るう。奥歯を噛みしめて刹那が慌てて距離をとるも次は肩が裂けた。

 

「あはは、ちゃんと避けてくれな!」

 

 標的を逃がしたのに、月詠は陽気に笑っていた。だが、笑う瞳が闇に染まっていることに刹那は気付いた。

 

「月詠――ッ!!」

 

 心の底から湧き上がる全ての感情を込めて、その名を叫んだ。

 あらん限りの力を込めて地面を蹴る。靴底の下で地面が割れ砕ける音が響いたが、そんなことに構ってなどいられない。前へ、ただ前へ。月詠の魂の全てが闇に堕ちる前に、とにかく前へ。

 月詠が動いた。迸る闇によって刀身すらも定かにならぬひなを握って、圧倒的な速さで刹那の前に立ち塞がる。

 

「ハァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 

 気は現実を歪める。単なる人間の体の内にある気は、宿命的に逃れられない現実を容易く破壊する。本来ならば持ちえない筋力。本来ならばありえない耐久力。それらが単なる人間にはありえない、暴風の如き斬撃を可能にする。

 目の前に立ち塞がる闇に向かって、野太刀の刀身を上から叩きつける。

 神鳴流奥義を放つレベルの気を込めて叩きつけられた斬撃はビルを真っ二つにするだけの威力を持っていた。生身の人間の膂力では決して止められない一撃。刹那が放ったのは、そういう一撃である。ひなを出す前の月詠であれば、双刀で受けようとも纏めて叩き折れたはず。

 なのに、ひなを持った月詠は、この一撃を蠅を追い払うように簡単に正面から弾き飛ばす。

 

「!?」

 

 鋭い剣音。激突の反動が、そのまま同じ勢いで刹那の小柄な体を弾き飛ばす。

 全身の骨が砕けてしまいそうなほどの衝撃。全身の血が逆流するような、吐き気を伴う浮遊感。刹那の体が軽々と宙を飛ぶ。

 

「く――っ」

 

 白翼をはためかせて急制動をかけて勢いを殺した。

 その目前に、闇を纏った人影が肉薄する。火薬に弾かれた砲弾にも勝る速度で、ただ真っ直ぐに飛翔し刹那との距離を詰めて来る。言うまでもなく、その身体能力は人が人のままで持ち得るものではない。ひなを持つ前とは比べ物にならない。

 

(これが妖刀ひなの力――――)

 

 突き出される妖刀を前にして悠長に考えている暇はなかった。まともに避けるには体の反応が間に合わず、背後に身を倒すことで無理矢理に回避。

 小手調べで斬られたのとは反対の頬の辺りに熱い感触。避けきれていない。足首に軽い衝撃。バランスを崩したところに足払いを受けたのだと、そう頭が把握した時には、既に天と地がぐるりと一回りを終えている。

  

「が、ぐっ――」

 

 振り下ろされた柄が鳩尾に食い込み、強かに背を打ちつける。呼吸が止まるのを強引に抑え、大きく息を吸う。無理を強いられた肺が激痛を訴えるが、この際知ったことではない。

 ちり、と刹那の首筋で何かがちりついた。反射的に握ったままの夕凪を動かして、防御を固めた。

 その防御の上から暴風が叩きつけられた。

 不意打ちではあったが、奇跡的に反応が間に合った。攻撃を予測しての行動ではない。肉体が起こした反射的な動きである。叩きつけられるひなの軌跡に、夕凪を割り込ませることには成功した。だが、地面を抉りながら繰り出された剣撃を受け止めるには何もかもが足らず、くるくると宙を舞った。

 体と一緒に吹き飛びかけた意識をなんとか繋ぎ止めて考える。握力が受けた衝撃を支えきれず、少しでも気を抜けば持っている夕凪がすっぽ抜けそう。

 

「なぜ貴様は自分から闇に堕ちようとする!?」

「これがうちの望んだことですえ!」

 

 答えるように少女の容赦なく斬撃が迫る。

 受ける度、弾く度、得物を叩き込む度、火花が飛び散る度に全身から力が抜けていく。ただの疲労感ではない。

 

(浸食、されている?)

 

 理屈は分からない。だが、そうだと自覚するなり、月詠の攻撃は更に激しさを増していった。苛烈に、激烈に、猛烈に、淡々と、まるで大木を切る鋸のように激しさを増していく。

 全ての攻撃を防ぐことが出来ず、傷を負う度に内臓が焼かれるような激痛が走った。ダメージと共に自らの動きが鈍っていくのを自覚する。

 

「ああ、気が漲る! 滾る! どこまでも高まっていく!!」

 

 月詠が持っているひなの柄の部分から伝わってくる絶大な力に陶酔しながら叫ぶ。

 握っているだけでも心が昂ってくる。初めて人を殺した時以上の、その時のイッてしまいそうな感情を遥かに超えた圧倒的な陶酔感があった。

 

「時坂も、初代青山も、世界も………………何もかもがどうにでも良くなってきましたわ!」

 

 夢でも、現実でも、どうでも良かった。とにかく、良い気持ちだった。生まれ変わったかのように、身も心も軽い。叫びたくなるほどの解放感があった。これほど爽快な気分にはなったのは生まれて初めてのことだと哄笑にして吐き出す。

 

「あははははは、ぎゃはははははははははははははははははははははははははは!!」

 

 「ひな」からあらゆる負の感情が荒々しく柄から流れ込んでくる。直接脳に手を捻じ込まれ、掻きまわされているようだったがそれですら月詠にとっては快感だった。

 

「なにが初代青山の記憶も時坂も関係ないだ。本当は気にしてたくせに!」

 

 受けに回って刹那が勝てるはずもなかった。だが、不用意に打ちかかれる相手ではなかった。ひどく死に近い場所に刹那は立っていた。

 月詠が空間を蹴りつけて走り出すと、それに応じるかのように 刹那も羽根を羽ばたかせて一歩を踏み出した。足の裏が虚空を踏んだ瞬間、意識していなかった緊張が全身を痺れさせた。それでも刹那もまた疾走する。

 二人の距離は一瞬で縮まり、突き出された刃が甲高い金属音を響かせながら交差した。

 

「クッ……」

 

 生身で全速のトラックに追突されたかのような激しい衝撃が、手に持つ夕凪から伝って全身を突き抜けていく。刹那でなければ体中の骨が砕けていたに違いない。

 刹那は力任せに夕凪を押し込むと、その勢いを利用して刀を振るった。勿論、その程度の攻撃では月詠の体に傷一つつけることは出来ない。

 後方へと自分から弾かれた月詠は中空で体勢を立て直すと、何事もなかったように突進してきた。ひなを正眼に構え、黒色の光で輝く気が空中に残光を描きながら刹那へと迫る。

 

(速いっ!)

 

 月詠の攻撃は目で追いかけられるような速度ではない。それでも刹那は不思議と反応することが出来た。考えながら対処しているわけではない。今まで培ってきた経験、そして本能が体を突き動かしているのだ。

 月詠が高速で攻めて来るのであれば、刹那もまた高速で迎え撃つ。光速で打ち込んで来れば、光の速さで受け流していく。

 刹那と月詠は何百、何千、何万と攻防を交えていく。その度に一方的に刹那の体にばかり小さな傷が刻まれていった。一つ一つの傷は些細なものである。だが何千、何万と刻まれた傷は、それ自体が致命傷となり得る。

 体中から染みだす血液が刹那から体力を奪ってゆく。それでも気力は衰えず、闘争本能が萎えることもない。むしろ勢いは増しており、体の切れは鋭くなっていた。

 

「ここまで持ちますか。では、一段ギアを上げますで」

 

 ニヤリと笑う月詠を見た刹那の背中に、ゾクリと悪寒が走った。

 ひなに膨大な闇の気が集まっていく。灼けたように刀身が赤々と輝いた。悪意と憎しみを凝縮させ、凶悪な力を放とうとしているのだ。

 

「黒刀――――斬岩剣!!」

 

 ひなによって膨大にブーストした暗黒の気による月詠の黒刀斬岩剣は、一振りで岩をも真っ二つに斬るどころか世界すら切り裂きかねない錯覚を同種の技を放てる刹那に与えた。

 刹那の視界を染める黒い気を撒き散らす剣。

 天より振り下ろされる巨人の剣か。或いは審判を告げるダモクレスの剣か。

 空に浮かぶ月さえ斬り捨てんばかりに伸びた漆黒の巨刃が、一切の遅滞なく、一切の容赦なく、一切の油断なく、あまりにも優美な弧を描いた。理想的過ぎる軌跡を流れた太刀は、逆に緩慢にも見えて、死に行く者に僅かな悔恨の時間を与えるようでもあった。 

 

「斬岩剣!!」

 

 刹那は避けられない距離で放たれた一撃に対して全力を以って迎撃に出た。

 衝突の直後、耳をつんざくような金属同士の激突音が鳴り響いた。と同時、二人を中心にして地面が陥没した。それは二人の斬撃が衝突した余波であり、一目瞭然の破壊力。

 生じた激突は、エネルギーの嵐を巻き起こした。

 断ち切らんとする絶大な力が、匹敵するだけの斥力と衝突してねじくれ、蛇を思わせる蠕動。互いの中間で支えきれなかった圧が、余波となって四方八方へと散る。

 

「―――――ッ?!」

 

 月詠の力のあまりの強さに刹那の顔が歪んで床に膝をつく。

 

「フウゥッ!」

「ぐッ………あ……が!!」

 

 月詠が力を込めるごとに刹那の足元は砕けていき、二人の力の差は歴然だった。

 両手の刹那に対して、月詠は片手である。気のブーストがあるので一概には言えないが、それでも両手の方が有利のはず。にも拘わらず、幾ら刹那が力を込めても微動だにしない。それどころか押し込まれる。

 それが意味するところは一つ。

 刹那よりも、ひなを使ってブーストした月詠のパワーの方が遥かに上回っているということだ。

 撓んで両足が床に沈み、簡単に砕けていく。最初は真正面からぶつかったはずなのに力の差によって上から刹那を沈めるように剣を振り下ろし続ける。

 このままでは力の差に押し切られると悟った刹那が、これを抑えるべく見せた技はまさしく『柔』だった。拮抗していた剣を自分から傾けて力を受け流す。結果、ひなは目標を失って地面へと打ち下ろされた。

―――――百の力で攻めてくる敵に対して、自分が十の力しか持っていなくても、綿が水を吸うように力を吸収し、受け流し、防ぎきる。

 柔よく剛を制すというが、言うは易し。完全な再現は出来なくとも一端ぐらい行う技術を刹那は持っていた。受け流されたひなが地面へ。

 刹那、世界が大きく傾いた。いいや、傾くばかりか、地面ごと滑落したのだ。

 受け流したひなによって百メートルはありそうな円形の儀式場らしき足場が切り裂かれて真っ二つになって大地が爆発した。埋まっていた地雷が炸裂したかのような熱と衝撃。

 

(ぐっ………なんという力だ!) 

 

 爆発に巻き込まれたが、刹那のダメージは少しの火傷と裂傷くらいだった。しかし、爆風と衝撃までなかったことには出来ず、吹っ飛ばされた。余波だけで吹き飛ばされて破壊した岩石の一つに着地し、あまりの破壊力に恐れを抱いた。

 

「もしかしたら、鶴子様以上の――」

 

 感じるだけでも単純な力だけならば今の月詠は宗家…………いや、歴代最強と呼ばれた刹那の師である青山鶴子すらも上回っている。

 耽る暇などない。月詠は、身も心も明敏に研ぎ澄ましながら踏み込んできた。

 月詠が軽やかに腕を振ると、ひながまるで鞭のようにしなって見えるほどの速さで刹那の首筋―――――おそらく頚動脈へと走る。攻撃の気配を全く感じ取らせない自然な動き。しかも、速すぎるほど速い。

 刹那も完全には見切れなかった。半ば勘に任せて首を振り、斬撃を薄皮一枚のところでなんとかやり過ごす。

 

「避けられてしまいましたわ、刹那センパイ」

 

 その狂笑とは裏腹に優雅に双刀を構えながら、月詠は毒花のように甘い眼差しを向けてくる。女の刹那ですら見惚れてしまうほどの妖艶さだった。

 そして、この名をこれほど蜜のように甘く、これほど恋焦がれるように呼ぶ人間は、世界中でも月詠ただ一人である。……………問題は、そんな風に名前を呼びながら、躊躇いなく刀を突き込んで来るところだった。

 

「力にはしなやかさで、剛には柔で対抗するのが武の妙味。しなやかさにはしなやかさで、柔では柔で応じれば如何に」

 

 朗々と語りながら月詠は全身を綿のように緩めた。蛇の如く、蛭の如く、綿の如く、五体と双剣を振る。刹那よりも柔らかく、しなやかに。更に優雅に、緩やかに。

 魔に堕ちながら魔を従える月詠の優美な剣捌き。四つの斬撃を一呼吸の内に放ってきた。

 まず右手のひなで袈裟懸けに切り下ろし、その刀を逆袈裟に斬り上げたと思ったら左の太刀が挟み込むように振り下ろされ、最後は双刀が登頂目掛けて大上段から再び斬りつける。その太刀にもひなの暗黒の気が移っている。

 

(妖刀二刀化……!?)

 

 一太刀でも浴びれば、確実に即死できる。

 最初の二撃を防ぐのが精一杯だった刹那は残りの二太刀を、ギリギリのところで後ろに飛び退き、身体を捻り、もう一度バックステップして、どうにか避け切った。

 足を払いに来たひなによる一撃を飛び退いて躱す。

 しかし、遠ざかった刹那を追い込むようにして、次の短刀による一撃へ。ひなよりも射程距離が短いので突き刺すように短刀が懐に伸びる。

 

「せいっ」

 

 今度は、刹那は退がらなかった。僅かに横にステップするだけの、最小の動きで避けながら逆に月詠の懐へと踏み込む。同時に針のような一突きを月詠の胸元に。

 刹那の意図であるカウンターを察して、月詠は敢えて避けなかった。これはもう間に合わない。刹那の足元を払った右手の手首を捻り、手首のスナップだけでひなはムチのように撓り、刹那を払いのける。

 人間離れした反撃だが、気で強化された肉体、狂気によって戦鬼と化した月詠には造作もない。間一髪であったが夕凪に貫かれる直前で、刹那を弾き飛ばすことが出来た。

 

「ふふっ…………ええですわ。今のウチからであっても、隙あらば命を取りに来れるとは思っていませんでしたで」

 

 攻撃に失敗したというのに、月詠は微笑んでいる。あんな無理な動きをしたというのに彼女の方にダメージはなさそうだ。

 先程までは単純な実力ではほぼ互角。技量では二刀と一刀の差はあれどほぼ互角。パワーでは刹那、スピードでは月詠が上回り、半妖の能力で僅かに刹那が有利といった安パイだった。だが、それもひなの存在によって覆される。

 

「アデアット!」

 

 続けて横薙ぎに振り回されるひなを、刹那は呼び出した『建御雷(タケミカズチ)』で受け止めた。だが、体ごと吹っ飛ばされる。斬撃の威力を殺しきれなかったのだ。もっとも、木乃香の魔力が充填していなければ石剣は粉砕され、刹那の体は両断されていただろう。

 簡単に吹っ飛ばした月詠は宙を跳んでいてる彼女に追いすがり、間髪いれずに襲う。刹那は急激なパワー上昇の鍵であるひなを建御雷(タケミカズチ)で巻き取ろうとしたのだが、上手くいかなかった。

 逆に月詠が巻き取ろうとしたひなと妖刀した太刀を軽やかに振り回した。薙ぐ、薙ぐ。左右の横から、斜め上、斜め下、真下、真上、ありとあらゆる角度から斬りつけ、薙ぎ払い、時には真っ直ぐに切っ先を突き出す。

 その軽やかさとは裏腹に暴風雨のような斬りつける。一瞬の停滞もない、間断なき連続攻撃。さながら鋼の竜巻である。

 

「ぐ………! うっ………!!」

 

 咄嗟に懐から取り出した護符による防御壁を築き上げるも、月詠は打ち崩そうと容赦なく攻め立てる。

 暗黒の気によって増大した圧倒的なパワーとスピードによるひなは速く、鋭く、着実に刹那を追い詰めて行く。正気を失っているようなのに、異様なほど速く月詠が踏み込んでくる。その勢いに乗って、八相の構えから袈裟懸けの一刀を振り下ろす。

 それを刹那は、右手に夕凪、左に建御雷(タケミカズチ)を構え、がっちりと受け止めた。漆黒の妖刀が、雷の神剣と英雄の相棒であった野太刀と激しくぶつかり合おう。両者の接点では火花が散り、暗黒の気と刹那の気+木乃香の魔力が迸る。

 まさに互角の押し合い―――――と見られたが拮抗は一瞬。一種類の束ねられた力相手に二種の相反する力を平行していては叶うはずもない。押され、迫る突き。刹那の体はイナゴの如く後方へ飛んだ。

 

「な、何故だ! 世界が終ろうとしているのに、お前はそこまで魔に耽溺できる!?」

「どちらが勝とうが、この世界がどうなろうが、ウチにはどうでもええことです」

 

 そこで月詠も地を蹴った。

 

「ウチは強者と戦えればそれでええんです。勝った方に闘いを挑めばええだけですから。ふふ、フェイトはんとアスカはんならどっちが勝っても心躍る殺し合いが出来る。想像しただけでイッてしまそうや!」

 

 自分よりも明らかに上位にいる二人と殺し合う想像をして、もはや戦う力が半減した刹那から興味を失いつつあるのか恍惚とした表情を隠しもしない。

 退がる刹那に向けて、駿馬のように突進。すかさずひなで切り払い続ける。怒涛の連撃。何十発と打ち込まれる刃先から、刹那は時に地面を転がりながらも無様に逃げる。その寝転がった体勢から、追いすがる月詠の脛を薙ぐ一太刀。

 月詠は驚異的な反射神経で軽くジャンプして躱し、着地を待たずに突きの軌道で迫っていた。

 

「―――――ちぃっ!」

 

 起き上がりの動作を捨て、更に横に転がって回避。着地の姿勢に入ったのを見逃さずにその勢いで立ち上がると、水平に夕凪を振り抜いた。

 生じたのは剣閃が生んだ気の刃である斬空閃。だが、それは空を凪いだだけで終わった。

 そこにいる筈の月詠の姿がなかったからだ。あの瞬間、虚空瞬動で跳びあがったのだ。今ので追撃を断った刹那も、間髪いれずに立ち上がる。その姿は、服は所々切られ、体中に大小の傷を作っていた。

 

「ハッ! は、ははははは! 凄いですわ。どこまで持つんやろうな!」

 

 感心したようにいきなり笑い出した月詠。ひなの狂気に囚われてからの冷徹な声ではない。修羅場すら飄々と楽しんでみせる、可憐な剣客本来の声音だった。ひなの効力が切れたのかと期待したが、直ぐに勘違いだと悟った。彼女から発せられる気が、より一層に膨れ上がったからだ。

 両手でひなを握り、刹那目がけて切っ先を突き入れてくる。

 

「くっ……!」

 

 刹那は仰け反って攻撃を躱す。顔の上をひなが通過していった。

 体勢の崩れを直す時間を稼ぐために顔の上にあるひなを弾こうと夕凪を振るうも既にそこに存在しなかった。

 月詠は刹那の目論見を予見していたのか、体勢を整える暇を与えぬように次々と切っ先を繰り出した。攻撃を放つひなの刀身が何重にも見えたほどだ。

 

「月詠っ……!」

 

 必死に回避に努めたが防御の隙間を縫うように腕に足にと傷が増えていく。刀身が肉に深々と食い込み、血潮が激しく噴出すると刹那の視界が朱に染まる。

 激痛に耐え、強引に退いて攻撃範囲から逃れる。そのみっともない様に月詠が哄笑を上げる。

 

「もっとや! もっとウチを楽しませて!」

 

 叫ぶ月詠の手中で、漆黒の魔刀が黒色の稲光を発しだす。

 バチバチと火花が散り、黒く放電するひな。古の人々は雷を雷を神々の成せる業と見なしていた。つまり、神鳴流の名の下である雷鳴を「神鳴(かみな)り」というように、気の昂ぶりによって余波だけで雷を発生させているのだ。

 

「!!」

 

―――――一瞬千激・弐刀黒刀雷撃五月雨斬り

 

 黒きオーラを纏いながら強力な斬撃を繰り出す秘剣。ただの一撃で刹那を葬ろうと思うほど、月詠は浅はかではなかった。

一瞬の内に放たれた雷を纏った黒刃は優に千連に及ぶ。その凄まじさを例えるならば、千人もの不可視の剣士に、一斉に襲い掛かられるのに等しい。しかも剣士の腕は自分と同等かそれ以上、剣の一振りずつが世にも稀なる名刀の切れ味を湛えて襲い掛かってくる。

 

「ぐ……」

 

 夕凪だけで受け切るのは不可能と直感して、取り出した持ちうる中で最高位の護符も使って辛うじて防御には成功したものの、衝撃までは殺せなかった。

 

「速さも桁違いか……ッ」

 

 少女の身体が地面と平行に吹き飛び、ひな発動前とは段違いの速さと力に戦慄しながらも何とか宮殿の壁に足からぶつかった(・・・・・)。壁に着地しただけで粉砕しながらも肋骨に激痛が走った。

 確実に折れた。一本か数本纏めてかは分からない。ただ灼熱だけが刹那の脳髄を刺す。こほっと咽た舌に嫌な鉄の味が残った。血の味だと分かるのに、数瞬の時間を要しただろうが、そんな余裕を月詠が与えるはずも無い。

 

「クス……隙だらけですえ」

 

 切れた頭部から流れ出た血によって左側の視界が遮られ、そちらか聞こえた声に振り向いた瞬間には強烈な一撃に防御した腕ごと吹き飛ばされ、壁を崩して墓守人の宮殿から飛び出してしまった。

 月詠の一撃は凄まじくて墓守人の宮殿を飛び出しても勢いは止まることなく、遥か眼下の地表にまで飛ばされて背中からめり込んだ。直ぐ近くに手を離れた夕凪が突き刺さる。

 

「ご……あ、は………っ!」

 

 剛撃に痺れる腕で取り出して発動した護符も、落下の衝撃を和らげることは出来ても激痛を抑える効果までは無い。背中だか脇腹だかも分からず、肉と骨がまるごと焼けるようだった。内臓から湧き上がってきた口から大量の血を吐き出す。

 今にも意識が途絶してしまいそうで、寧ろ痛みに縋りつくようにして顔を上げた。

 視界の先、漆黒の太陽のように暗黒の気を撒き散らしながら向かってくる月詠の姿。まるで神に反逆した堕天使のように―――――刹那の白翼の対となるように撒き散らす暗黒の気が翼のように広がっていた。

 

「まだ沈まんといてや」

 

 痛みに耐えながら無理矢理立ち上がった刹那の耳に囁き声が聞こえたと同時に、月詠が彼女の眼前に移動していた。ブーストした力にモノを言わせたことで空間が破裂したような爆音を轟かせながらも、速さは事実上の瞬間移動に等しい。

 時空を捻じ曲げた如き錯覚と共に、下段から掬い上げられる漆黒の乱れ刃紋。

 ぼっ、と血煙が噴いた。

 刹那の気の防御などまるで紙切れの如く切り裂き、しかし、その一撃は彼女の命脈を断つには浅かった。剣士としての勘か、意思が反応できなくとも肉体が動いて割り込んだ剣のためだった。だが、防御出来たとしても剣から放たれる衝撃までは防げない。背後にあった夕凪諸共に吹き飛ばされる。

 

「この程度で終わったらつまりませんへ!」

 

 笑いながら刃風が跳ねた。盾するために差し出した夕凪だけでは受け止めきれずに弾かれ、刹那の肩口が裂け、服の破片と血を撒き散らす。

 

「――っ」

 

 刹那は、激痛と絶望を噛み殺す。一秒ごとに、勝算の薄さを思い知らされてゆくようだ。

 

「まだだ!」

 

 刹那の叫びに呼応するかのように、手に持つ建御雷の刀身が光を放ち出した。

 

「その意気ですわ」

 

 建御雷を真っ向から迎え撃った掌に伝わる鈍い振動。死を与えるという確かな感触。柄から伝わるそれは掌から腕へ、腕から全身へと波及し、脳髄を痺れさせていく。そしてそれは例えようもない快楽を月詠へと与えていた。

 

「まあ、意気に実力が伴ってませんが」

 

 あっさりと建御雷を弾き飛ばし、逆に月詠の強烈な蹴りが刹那の腹部を深々と捕らえた。

 

「かは……」

 

 刹那の身体が文字通りくの字に曲がり、面白いように吹き飛んだ。一瞬、目の前が真っ暗になり、呼吸機能が停止した。身体全体がまるで雷に打たれたような痛みに襲われた。

 それでも刹那の戦士としての本能は建御雷を手放すことをさせなかった。それが唯一の僥倖だった。

 月詠が宙を飛び、まったく無防備と思っていた刹那に向かって、漆黒の雷を帯電させたひなを横に一閃した。

 ガツンと刹那の全身に衝撃が走る。今度こそ、建御雷を落としそうになった。もし刹那が本能によって建御雷を掲げて防御をすることがなかったら、この斬撃で彼女の身体は間違いなく真っ二つになっていただろう。

 斬撃は防御できても帯電していた漆黒の雷が容赦なく刹那の身体を蹂躙する。

 

「ぐぁあああああああ!?」

 

 刹那の体は紫電に捉えられて、空気の破裂した衝撃でその身体ごと後方に吹っ飛んだ。

 雷に打たれて跳ね飛ばされた人間が、受け身をとって起き上がるところなど早々見れるものではない。一直線に飛んでいった刹那の身体は、勢いよく地面に叩きつけられてそのまま転がってゆく。

 

「はっ!」

 

 更に月詠は、うつ伏せで倒れている刹那の背中に漆黒の気弾を放った。

 

「ぐあ――――っ!」

 

 エビ反りの状態で、悲鳴を上げる刹那。背中全体に焼き鏝を押し付けられたような激しい痛みが走る。気弾が直撃した白翼が焼け焦げ、刹那の背中には火傷の痕がクッキリとついていた。

 

「うう…………ああ…………」

 

 ほんの数センチ先にある夕凪を掴もうと腕を伸ばしただけで、全身を激痛が駆け抜ける。

 

「恨むなら、己が弱さを恨み。弱いからセンパイはこんな目に合うんや」

「があッ、あああああああッ!?」

 

 月詠は冷酷に言うと、刹那の太腿を黒塗りの剣で抉った。灼熱の感触が意識を引きはがそうと荒れ狂う。

 ひなから送り込まれてくる闇に染まった気によって、どうしようもないほどの寒気が襲う。

 血が飛び、とっさに身を躱した刹那は地面に手を付いて転がるのを防ぐ。そこを追撃する月詠の血刀。刹那も反転して避けるが、避けきれずに肌を服を切り裂かれ傷ついていく。

 血煙が更に舞う。

 跳ね上がり、気合でかなり深く足を斬られているのに刹那は立ち上がろうとした。もはやまともに立ち上がることも出来ず、それでも倒れることを拒んで土を掴む。握る夕凪を地面へ突き立てた。血に塗れた唇から荒く乱れた息が漏れ、泥にまみれた頬を伝い落ちる滝のような脂汗の中にもまた赤いものが混じっていた。

 なんとか掴めた夕凪を杖に身を起そうとするが、震える膝は言うことを聞かない。

 

「センパイとのこの三十九分三十一秒………………ウチの一生の宝物にさせて頂きますえ」

 

 戦闘の最中だというのに、月詠は記憶を反芻して愉悦に染まって心ここにない表情をしていた。一方、立っているのもかなり厳しいのだろう。ふらつきながら刹那は月詠をにらみつけている。

 

「貴様に褒められても嬉しいものか」

 

 刹那は険しい表情を、真っ直ぐに月詠に向けて吐き捨て、猛然と挑みかかる。しかし太腿が痛むのか、その動きは明らかにおかしく精彩を欠いていた。

 それを見逃す月詠ではない。

 

「まだ向かって来てくれるのは嬉しいですけど―――――――無様ですえ」

 

 武器すら使わず夕凪を避け、月詠は一切の躊躇もなくひなと太刀を同時に振るう。刹那の両肩が派手に血をぶち上げて夕凪を取り落しそうになる。嘲笑を隠しもせず、技すらもいらぬと言わんばかりに前蹴りで刹那を蹴り飛ばす。

 

「がっ……」

 

 なんとか倒れることだけは避けたが満身創痍に刹那に対して月詠は余裕気に立っている。彼我の戦力差は圧倒的だった。

 

「うちは結局、初代青山の記憶を植え付けられただけのただの子供やった」

 

 一歩ずつ刹那に歩み寄りながら月詠が語り掛ける。

 どうしてか、その眼は闇に囚われていない。或いは完全に堕ちる前の一瞬の正気の発露か、刹那には分からない。

 

「ずっと剣筋に、動きに常に違和感がありましたわ。当然ですわな。幾ら記憶を再現しようとも初代青山とうちは別人なんやから。うちに剣の才は無い」

 

 肉体が違う。魂が違う。

 どれだけ記憶が月詠に定着しようとも、別人である以上はどこかに齟齬が出る。本物の初代青山ならば刹那程度など、直ぐに倒されているだろう。確かに月詠の剣技は優れているが、戦って感じた中では師である鶴子には遠く及んでいないと分かる。でなければ、ひなを出す前に刹那と拮抗した理由にはならない。

 短時間で驚くほど強くなった刹那に比べて、どれだけ修練を続けても月詠は大して強くなれてはいないのだから。

 

「記憶に縛られているのに初代青山ではなく、うちを生み出した時坂も滅ぼしたうちは一体誰なんやろうな」

 

 墓守り人の宮殿で溢れている世界を飲み込むほどの閃光を背中に、月詠は一瞬だけ迷子のような寂し気な目で、傷つき普段のように動けない刹那を見たが直ぐに闇の囚われて堕ちた。

 

「センパイには感謝してますねんで。短い間ですがありがとうございました。ああ、あの世とやらがあったとしても寂しくないですえ。お仲間を一杯送りますから」

 

 今までの刹那との戦いを反芻するように、懐かしむように一瞬だけ完全に闇に堕ちた目を細める。

 

「月詠」

 

 刹那は瞳を憤怒に燃やして吠えた。

 刹那は怒っていた。月詠の現状に、生まれに、そして何も気づいてやれなかった自分に怒りを抱いていた。

 

「センパイを殺した後は神鳴流を滅ぼしましょか。そうすればこの初代青山の記憶も消えるやろ。それでうちは完全に自由ですわ」

 

 その間にも月詠は今までにないほどに気を収束させて奈落そのものと化したひなを振りかぶっていた。トドメを刺す気だ。

 

「お嬢様、お姫様、仲間、世界………センパイには気にするモノが多すぎましたな! 何もかもを切り捨てて自由になるウチに叶う道理がありまへんよ!!」

 

 気が無尽蔵であろうと技量が一流であろうと、心の隙が、絶対なる一に成れない弱さでは絶対に勝てないのだと証明するように、吹き上がる叫びは歓喜だったか、激怒であったか。

 突進はもはや何の技術も行使されていない。しかし、その速力は以前の比ではなかった。

 

「はァァァァァァッ!!!」

 

 闇が膨れ上がった。圧倒的な闇の奔流が、か弱い光を飲み込もうと迫る。

 膨れ上がった剣の有様は、まさしく天から振り下ろされる神罰の剣か。

 

「ああ……」

 

 空さえも斬り捨てんばかりに伸びた漆黒の巨刃が、一切の遅滞なく、一切の容赦なく、一切の油断なく、あまりにも優美な孤を描いた。理想的すぎる軌跡を流れた太刀は、逆に緩慢にも見えて死に逝く者に僅かな悔恨の時間を与えるようもであった。

 

「――――――」

 

 流れ出た血、邪法といえど届かない高みに至った力の差による絶望、全身を苛み続ける痛みが刹那の意識を茫洋にさせる。

 防御をし、反撃もしなくては。そのための技を、桜咲刹那は幾つも身につけている。千変変化・変幻自在の剣技を駆使して迎撃するのだ。しかし、刹那の頭から思い浮かべた技が全て消えていった。ひどく緩慢になった時間の中で、刃がぐんぐんと大きくなり、脳内を鳴らす警鐘とは裏腹に刹那の腕は剣を構えることを止めた。

 思い浮かぶのはナギ・スプリングフィールド杯の決勝でネギと戦ったアスカの姿。動体視力、瞬発力、思考力、機動力、速度等の全ての性能において劣っていながらも最終的に勝利した。

 力で劣り、速さで劣り、技で劣り、練度で劣り、経験で劣る。ネギと戦ったあの時のアスカよりも条件が悪い。刹那にはアスカ程の技術も何もかもがない。

 木乃香の優しさに触れて救われ、アスカの容赦のない強さに怯え、明日菜の辿り着いた答えに感動した。

 だらりと剣を下げる。構えるべきではないのだ。攻めるべきでも防ぐべきでもない。ただ心の赴くままに剣を動かせばいい。これは謂わば無の構えだ。無であるが故に、無限の変化を生み出せる。変幻自在ではまだ足りない。簡素にして変幻無窮。陰と陽を極めるが如く、矛盾する二要素を渾然一体に。

 後はただ、無心に。無念無想。何も念じず何も思わず―――――。

 刹那はアスカのように自らの力でその領域に入れたのではない。至ったアスカに話を聞き、強敵たる月詠の存在と守るべき木乃香と救うべき親友である明日菜がいることで、恐らくこの先の人生では決して届かないかもしれない剣の極意へと片足を突っ込んだ。

 そこへ、月詠が奈落を背負って真っ直ぐ突き込んでくる。刹那の気の防御も意味を持たぬ。一瞬後の少女は、嵐の前に濡れた紙切れよりも呆気なく消滅するだろう。

 しかし、刹那は全く臆することはなかった。

 

「――――それが私とお前の違いだな」

 

 刹那は無想のまま、右手に持つ夕凪で擦り上げるような一太刀を繰り出した。これば上手く決まれば、下からの斬撃を受けてひなは高々と宙に跳ね上がるのだが―――――。 

 硬質の金属音が響く。高々と宙を舞ったのは、刹那の夕凪の方だった。その刀身が半ばから折れていた。

 

「違い? そうおすなあ、それが結局、ウチの勝因かもしれまへんなあ」

 

 ひなの軌道を変えることには成功したものの、武器は折られて弾き飛ばされ、右肩に浅くない傷を負った。切り裂かれた肩から血が噴出し、刹那の顔が血に彩られる。

 月詠の攻撃はまだ続く。肩を切り裂いた行動から繋ぐように首を薙ぎ払うような一撃。これを何とか躱すものの続けて放たれた振り下ろしは避けることは出来ない。

 

「いいや――」

 

 月詠は刹那が手を伸ばせば届く距離の地面に突き刺さっている建御雷で受け止めると考えた。他に武器はなく、避けることが出来ない刹那に取れる選択肢は建御雷で受け止めるしかないのだから。

 だが、だからこそ次に取った刹那の行動は彼女の裏を掻いた。

 

「違う」

 

 なんと、あろうことか刹那は唯一の選択肢である武器を手にすることなく無防備にも月詠に自分から近づいた。そしてその身だけで突っ込んだ。

 何も考えていなかった。何も考えられなかった。身体だけが、ただ前へ前へと突き進んでいく

 

「甘い、甘すぎるわセンパイ――――ッ!!」

  

 そんな無策が通用するほど月詠は甘くない。振り下ろしの途中で無理やりバックステップ。懐に飛び込まれる前に刹那が突っ込んで詰まった分だけの距離を開けた。

 これでひなは脳天を唐竹割りして纏った黒雷が刹那を跡形も消滅させることが確定した―――――はずだった。

 月詠は一つだけ勘違いをしている。

 

「言い返そう。繋がることを見縊ったことがお前の敗因だ、月詠!」

 

 刹那は決して一人で戦っているのではない。彼女の傍には何時だって親友の木乃香がいる。刹那が使っている建御雷は彼女との仮契約によって引き出されたアーティファクト。刹那の危機に木乃香は何の合図もない状態にも係わらず要求に答えて見せた。石剣にしか見えなかった建御雷は魔力を充填することで巨大化した。

 

「なっ?!」

 

 そう、巨大化した建御雷は期せずして『ひな』を一瞬だけ受け止めた。言葉を交わさず、眼も交わさず、意志すらも交わさず、そもそもその場にすらいない木乃香に状況が分かるはずがない。 なのに、刹那が最も欲しいタイミングで彼女は答えて見せた。

 考えて動くのではない。ただ心と体が天然自然に動くに任せた刹那には建御雷がひなを受け止めた一瞬で十分。

 

「神鳴流は武器を選ばず」

 

 ボソリと呟かれた刹那の言葉。その言葉が意味するものを月詠は正確に読み取った。

 

「無手で何が出来るって言うんや!!」 

 

 月詠の言う通り、刹那には最早武器はない。幾ら神鳴流が武器を選ばずと言っても無手では瞬間的にひなから吸い出して鎧のように纏った黒い瘴気を突破できない。

 無手のまま右手を手刀の形にして振り下ろすが、ここで月詠は驚くべき反射速度を見せた。

 

「「――っ!」」

 

 体の構造を力尽くで制御し、ひなを身体から血を噴出させながら己が下へ引き戻して、振り下ろされた手刀に抗して見せた。

 月詠にして良くぞ反応したと賞賛したくなるぐらいの動き。会心の一撃と感じた。作られた頃から剣を握ってよりこれ以上の手応えはないと確信する。

 ひなと手刀を境に二人の間で黒雷が降り荒れ、周囲を余波だけで破壊していく。黒雷は確実に刹那に牙を向いた。

 

「ぐぅ、ああああ!」

 

 腕を焼き、足を焼き、体を焼く痛みに壮絶な叫びを上げる刹那。だが、決して力を弱めはしない。

 不利なのは刹那。気の強さに劣り、無手なのだから彼女の方に雷は増えていくばかり。だが、この勝負は既についている。刹那がさっき言ったではないか。「繋がりがないからことがお前の敗因だ」と。

 

「ああああああああああぁぁぁ――――――――――っ!!」

 

 その瞬間、刹那の身体の中から、押さえようもない猛烈な力が沸き上がった―――――身体の中に詰まった空気が、一気に破裂するような力に吼えた。

 

「!」

 

 突如、増大する刹那の力。理解できない月詠には成す術もなく、瞬く間に均衡は崩れ、

 

―――――斬!!!!!

 

 ひなに比べれば小さな、人の身体の一部分でしかない手刀が妖刀を真ん中から断ち切り、更に月詠の左肩から右脇まで切り裂いた。

 断ち切られた妖刀ひなは、その魔性そのものを切られたかのように刀身から瘴気が抜けて白い刀身を剥き出しにして、ただの折られた刀として切っ先が地面に突き刺さった。

 

「まさか………今のは………咸卦法」

 

 膝をついた月詠は刹那の急激な力の増大を成した技法を言い当てた。

 だが、あり得ない。神鳴流は気を使う剣術。京都にいた時に究極技法を習得したとは思えない。かといって修学旅行で戦った時、彼女は咸卦法を使っていなかった。ならば、その時もまた習得していなかったのだろう。それから覚えたというなら一年にも満たない月日で習得したことになる。

 

「いいや、私のそれは完全と言うには程遠い。一人では発動することすら出来ぬ紛い物だ」

 

 究極技法を短時間で習得など出来ていないと刹那は首を横に振って月詠の言葉を否定した。

 

「明日菜さんに教えてもらい、お嬢様の魔力供給があって、アスカさんを見て来て、この土壇場で一瞬だけ成せたんだ」 

 

 決して習得するために明日菜に教えてもらったわけではない。剣術を教えてもらった明日菜が刹那に何かを返したいと考えた時に彼女が出来る事が咸卦法を教えることだったのだ。だが、気を主流として学んだ刹那に魔力の扱いを同等にまですることは不可能だった。

 その部分は木乃香からの魔力供給で改善したものの、普段から思い悩む性質の彼女に自分を無にすることなど出来やしない。なので、一度として成功したことはない。大抵が反発して終わりだ。

 ナギ杯でのアスカの姿を見て、この戦いで血を失い、忘我の境地に至ったことで為せた一瞬限りの奇跡。だが、それで十分。力で劣る月詠に勝つための唯一の勝因となった。

 

「月詠、お前の言う通り私は大した人間じゃない。でも、私は………このちゃんを、明日菜さんを、アスカさんを、皆を信じている」  

「……………!」

「何からも自由なことが強さへの道だと言うのはきっと間違いだよ、月詠」

 

 遠くなっていく意識の果てに月詠は刹那の言葉を聞く。

 

「一度ならず二度までも―――――ウチの完敗どすな」

 

 諭すような刹那に月詠は大人しく己が負けを認めた。

 明日菜に切っ掛けを貰って、木乃香に命を助けられ、アスカに導かれた勝利。卑怯などとは言うまい。助力を得て勝利したことに対する憤慨などない。何からも自由である自分が繋がりによって刹那に敗北したこの結果が全てだ。

  

「もっと早くに気づいたらなあ」

 

 惜しいと、今更に自分が刹那との戦いを求めている理由に気付いた。

 

「センパイに憧れてた。どうして同じ異端やのに人と共にいられるセンパイがどうしようもなく羨ましかったんや」

 

 自分と同じように逸れ物でありながら対極の道を行き、大切な人を守り続ける彼女が羨ましかったのだ。

 

「うちはセンパイが好きやった。その魂に焦がれてた。今更気づくなんて……」

 

 今になって刹那の繋がりを羨ましいと思ってしまった。そんな強さが自分にあったならばと願ってしまった。

 だけど、全てがもう遅い。この身は切り裂かれ、遠ざかっていく意識は死へのカウントダウン。戦いよりも本当に欲していたモノを見つけたけど既に手遅れ。

  

「遅くはない。次に眼が覚めたら話をしよう」   

「………え?」

「なあ、月詠。お前の名前、苗字がないじゃないか。私が付けてやる。その誕生を言祝ごう。今より『祝』月詠と名乗れ」

 

 理解できない刹那の言葉への問い返しの言葉と同時に月詠の意識は途切れて俯けに崩れ落ちた―――――手刀によって切り裂かれた跡のない体のままで。

 

「やれやれ、こんな無邪気な顔をされたら斬れないじゃないか」

 

 先程までの戦闘時のような魔に堕ちた顔とは違って、憑き物が落ちたかのように穏やかに年相応な無邪気な顔をされたら斬るものも斬れない。

 

「見えたよ、お前の心が。助けを求める、繋がりを求める声が聞こえたぞ」

 

 アスカと同じ無念無想の境地に片足でも突っ込んだ刹那は月詠の心を垣間見た。その心の奥に何重にも厳重に隠された本当の欲求を。

 

「お前を縛る青山の記憶を斬った。二度も出来ることではないが、斬魔剣・二の太刀は形無きものを選択して斬る技。魔を、記憶を限定して斬るなど容易い事だ」

 

 あの瞬間に放った斬撃はただの斬撃にあらず。

 神鳴流奥義・斬魔剣弐の太刀――――その無手バージョン。元々は悪霊に取り憑かれた狐憑きや悪魔憑きの、悪霊のみを斬り伏せる技として生まれた。まさに退魔の技の真骨頂。本来ならば宗家青山家や縁の者でもなければ扱えない技。

 

「私はお前と友達になりたい」

 

 無念無想に境地に片足を突っ込んでいた刹那は、咸卦法を発動させて押し切った瞬間に月詠の心を垣間見た時に思った―――――友達になりたい、と。

 自分は木乃香に救われた。明日菜に助けられた。ならば、自分も同じように誰かの手を取りたいと。

 無意識だった。決して意識をしたわけではない。

 刹那は無意識に咸卦法を発動させた状態で神鳴流奥義・斬魔剣弐の太刀を無手で放った。魔のみを切り裂く刃はひなに込められた闇を断ち、月詠の青山の記憶のみを斬り払った。その肉体に一切の傷を作ることなく、手刀から放たれた刃は魔性のみを切り裂いた。

 

「繋がりがあるのはいいぞ、月詠」

 

 憑き物が落ちたかのように安らかに眠る月詠に話しかけ、視線を遠く離れた墓守人の宮殿へと向ける。

 

「このちゃん、ごめんなさい。少し、遅れます……」

 

 二人の決着は着いたが、刹那が負った傷は深すぎた。

 白翼で空気を叩いて飛び上がるよりも早く、刹那の意識は闇へと引っ張られて意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やがてアスカ達一行は墓守り人宮殿最上層部に辿り着き、それまで何度も目にしてきた物とは明らかに違う巨大な階段を見出した。

 階段の上は吹き抜けになっている。登るべきその先には密度の濃い魔力が視界に映るほど渦を巻いて海鳴りのように音が響く。見上げた先に待つ苦難は、ここに辿り着くまでの道程よりも比べ物になるまい。誰もが階段に踏み出そうする足を強張らせ、痺れるような恐怖を喚起させた。

 

「皆、分かるでござるか?」

 

 つ、と頬を伝った汗を拭いながら楓が乾いた声を発する。

 

「あの先にいるアル。この肌がビリビリと痺れる空気を発する根源が」

「俺にも分かるで。今までのヤツとは桁違いや」

 

 古菲の答えに続いて小太郎が全身を総毛立たせて呟いた。無意識に強く拳を握りながら楓が二人に頷く。

 

「例え相手が誰であろうと関係ない。倒すのみだ」

 

 足を止めた少年少女を追い越して勇ましく眼光を輝かせたアスカの足が階段に足をかけた。

 

「行くぞ」

 

 臆することなく先頭に立って階段を登り始めたアスカに倣って、意を決して少年少女達もゆっくりと階段を登り始めた。

 待っているのは絶望か、死か。それでも進むしかない。

 こんなにも大気を鳴動させる力を前にしても前を行くアスカの背中は凛とした背中には臆する気配はない。少年少女達にとっては何よりも頼もしい。

 厳しい顔つきの楓が、唇を噛んだ古菲が、拳を握り締めた小太郎が、三人に遅れて木乃香と茶々丸が続く。一歩一歩、階段を登るに従って緊張と決意が等しく彼らを包んでいった。そして――――――――光が彼らを包んだ。

 温い風が吹き、吹き晒しの外周部には太い柱が等間隔に屹立し、中央に設えてあるのは巨大な祭壇である。十字架に縛り付けられたように両手を広げて宙に浮く明日菜の姿。

 しかしそこに立ち塞がると予想されていたフェイト・アーウェンルンクスの姿はない。祭壇の中央に立っているのは怪しく燃え盛る暗黒の瞳を宿した、夜をそのまま置き換えたような衣装を纏った男と少女が四人立つだけである。

 

「デュナミス」

 

 アスカが男の名を告げると、デュナミスは聖職者が着るカソックに似た衣装の胸の前で手を組み、几帳面なぐらいに真っ直ぐ立っている。そうすると、巨漢の男は尚更大きく見えた。

 

「来たか」

 

 罠を警戒して歩み寄って来るアスカらの姿を見据え、祭壇の大分前の魔法陣が描かれた台座で待つデュナミスが組んでいた腕を解く。

 

「ようこそ、新たなる英雄達よ」

 

 完全なる世界で最も最古参のデュナミスが尊大な声を返す。アスカの後ろで少女達が武器を構え、小太郎が戦闘態勢を整える。

 

「悪の大幹部としての様式美として、ここから先は通さん、と言っておこうか」

「ならば、こちらも英雄としての流儀で答えてやる――――――――力で押し通さしてもらおう!」

 

 全身から咸卦の力を溢れ出させながら英雄の覇気を向けて来るアスカにデュナミスは仮面の奥で過去を思い出す。

 

「くく、奇妙な偶然もあるものだ。奇しくも十年前とは逆の立場か」

 

 今にも飛び出しそうなアスカは笑みを含んだデュナミスの言葉を足を止められる。

 

「その様子では十年前に何があったかを知らんと見える」

 

 意気盛んだったアスカが足を進めなかったことから察したデュナミスは仮面から覗く目を暗い怨讐で輝かせる。

 

「あの時は紅き翼が黄昏の姫巫女を守り、今は我らがそうなっているのだから時代の流れとは恐ろしいものだ。我らは黄昏の姫巫女を奪えず、火のアートゥルの二代目と水のアダドーの十七代目を失い、我が主すらも奪われた。我らの敗北であった」

 

 クツクツ、と喉の奥で笑ったデュナミスが「歴史は繰り返す」と言った。

 つまりは、奪う側になったアスカ達もデュナミスらと同じように仲間の誰かが死に、目的を果たせないのだと暗に語っていた。

 運命が示すのは貴様らの敗北だと言われたアスカは何と的外れなことを言うのかとせせら笑った。

 

「ああ、歴史は繰り返すだろうさ。お前達の敗北というな。二十年前に続き、十年前も負けたんだ。二度あったんなら三度目もあるかもしれねぇな」

「…………何も知らぬ遺児が知った風な口を」

「何も知らなけれりゃこんな場所にいねぇよ。そうだ。もう一つ、教えといてやるよ」

 

 二度とも目的を達成できないことを根拠に示され、その二度ともアスカは生まれてすらいなかったことを当て皮肉るも堪えた様子はない。

 

「物語において悪の大幹部なんて三下は、英雄に敗けると相場が決まってんだよ!」

 

 中指を立てて啖呵を切ったアスカに、しかしデュナミスは自らの勝利を疑わない。

 

「物語は所詮物語。虚構でしかない。勝つのは完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)だ!」

 

 アスカよりも早く、デュナミスは「ふん!」と気合を込める声を発した。

 

「!?」

 

 直後のデュナミスの変化にアスカ達のみならず、傍に控えていた少女らも唖然とした。

 

「墓守り人より聞いてる。貴様には世界救済の方策があるようだが、やはり我々には歩み寄りの余地はない」

 

 これから戦うというのに何故か仮面とフード以外を自ら吹き飛ばして全裸になりながらも、一人で話を続けるデュナミスに誰もついていけない。言い換えればデュナミスに視線も意識も集中している中で少女らの内の一人が手を背後に回していることに誰も気付かない。

 

「そう、既に世界の崩壊は問題の核ではない」

 

 切っ掛けで本質ではない。世界の変革を望むか、継続を望むか。在り様を賭けて戦うことになる。

 

「自らを貫きたくば、障害を排除するのみ。さあ、拳で語ろうぞ!」

 

 先程まで纏っていたローブから解かれた黒の鋼糸がギュンギュンと音を立ててデュナミスの体に縛りつき、その体積を増していく。

 一瞬にして三倍に増した体積となって変化したデュナミスに誰もが目を奪われる。

 

「このデュナミスの大幹部戦闘形態をとくと味わってもらおう!」

 

 デュナミスが瞬動を使って新たに増えた象の如き太さの巨碗を振るって来る。

 フードと仮面以外全裸からの悪の大幹部に相応しい姿への移行に意表を突かれたが、むざむざ受けてやるほどアスカらは耄碌していない。

 小太郎と古菲が左右に散り、木乃香を抱えた茶々丸を守りつつ楓が後ろに下がるのを感じながら、アスカは右手に雷を纏う。

 

「雷の――」

 

 事前に遅延呪文で溜めていた雷の暴風を放って初撃で決着を着けようとしたアスカを異変が襲う。

 

(身体が動かない……っ!?)

 

 声も出ない。発動し掛けていた魔法すらも不自然に止まった。

 

(任意の空間への時間干渉かその類いか!?)

 

 麻痺や何かではなく、発動中の魔法すらも停止したことから何らかの方法による時間遅延や時間停滞がアスカのいる空間にかけられたと悟った。

 

「掛かった!」

 

 声に前方に向けたまま動かせない目で意識を向ければ、黒髪の猫耳っぽい少女――――暦が右手に砂時計のようなものを掲げている。

 アスカは暦が持っているのがアーティファクトであることを見抜き、それよりも向かって来るデュナミスに意識を戻した。

 アーティファクトの能力は決して万能ではない。暦のアーティファクト『時の回廊』は任意の空間へ時間干渉して、時間遅延や時間遅滞延できる砂時計ではあるが今のアスカの力を抑え込むほどの力はない。

 

「――――――しゃらくせぇ!!」

 

 気合の声も一発。咸卦の力を爆発したように全身から放出して、一定空間内への干渉を逆に塗り潰すことで打ち破る。

 停止されていた空間の時間が進み始めたことで、自らの行動の方が早いと考えたのであろうデュナミスよりも先に魔法は発動する。

 

「良い作戦だが、この程度で俺を倒せると」

「馬鹿め――――使用権限代行・無限抱擁発動」

 

 既に勝利を確信したアスカを嘲笑ったデュナミスが巨椀の中より半分となっている仮契約カードを発動させる。

 アスカが失敗を悟るよりも早く、世界が切り替わる。

 

「くっ」

 

 発動途中の魔法は急には止められない。

 放たれた雷の暴風は標的を見失って直進し、そこらに浮かぶ白い柱を幾らか吹き飛ばして彼方へと消えていく。

 

「結界空間を作るアーティファクトか」

 

 無限抱擁という名の通り、無限の拡がりを持つ閉鎖結界空間が発生し、大量の巨大な白い柱が空に縦横ランダムに無数に浮かび、底はどこまでも続く雲海という現実離れした光景が広がる。

 無限の広がりを持つだけあって、当然底に落ちればどこまでも地面は無くただ落ちていくだけである。

 

「然り。フェイトの部下の娘のアーティファクトである。この無限の広がりを持つ閉鎖結界空間に出口はない。理論的に脱出は不可能だ」

 

 浮遊術で浮かぶアスカにどこからかデュナミスの声が届く。

 姿は見えなず、気配も感じない。が、感知外にいると考えるのは早計である。何せ隠れる場所は幾らでもあり、気配を消して潜まれると厄介であった。

 

「全裸になったのは空間の時間停止のアーティファクトの発動を悟らせないための罠か」

「いや、普通に戦闘形態に移行しただけに過ぎん」

「全裸になった意味は?」

「その方が移行しやすからだ」

 

 罠でもなんでもなく戦う為に全裸になったと語ったデュナミスに、アスカは聞かなかったことにして頭を切り替えて「話を聞くに他人のアーティファクトを使ったようだが」と変なほどに話しを変えた。

 

「本来、他人のアーティファクトは使用できないが、黄昏の姫巫女の帰還によって起動した造物主の鍵を使えば使用権限の代行と分割は容易い事だ」

「分割だと?」

 

 ふと、答えたデュナミスの言葉に看過しえないものがあった。

 

「このアーティファクトの欠点は術者は展開中の結界内に必ずいなければならず、その術者を倒す、もしくは結界を解けば脱出できてしまう。だからこそ、使用権限の分割に意味が出る」

 

 つまりは使用権限の代行をすれば術者は二人いると解釈することが出来て、必ずしも本来のアーティファクトの持ち主が結界内にいる必要がなくなることを示していた。

 

「本来の主である娘はこの結界空間外にいる。幾ら貴様が私を倒そうとも意味はないということだ。私と娘、二人を倒さねばこの結界空間は解けぬ」

 

 何らかの魔法を使っているのか、喋る声は辺りに反響してどこから発せられているのか分からない。

 

「貴様らの中で警戒するのはアスカ・スプリングフィールド、貴様のみ。英雄一行と言えど、紅き翼と違って私やテルティウムに匹敵するのは貴様だけ。他は恐れるに足らず」

「随分と俺の仲間を舐めてくれるじゃねぇか」

 

 朗々と語るデュナミスの居場所を探すアスカの眉が怒り立つ。

 

「テルティウムの部下の娘達は塵芥ではあるが、その意志に関してだけは見所がある。幾ら強者であろうとも、旧世界の平和な国の学生如きに負けるほど弱くはない。私が英雄を倒す以上、従卒程度は下してもらわんとな!!」

「従卒じゃねぇ、俺の大事な仲間だ!」

 

 叫び返したアスカに向かって背後の白いブロックの後ろから影の槍を纏ったデュナミスが躍りかかる。

 意表を突いたかに見えた攻撃にすぐさま対処したアスカが、やり返すように雷を纏う。

 

「勝つのは俺達だ!!」

 

 閉鎖結界空間内で英雄と悪の大幹部の激闘が始まった。

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り三時間四十二分五十一秒。

 

 

 




刹那vs月詠(ひな込み)決着。
刹那の勝利だが負った傷が大きく意識消失して戦線離脱。

造物主の鍵を使うことでアーティファクトの使用権限の代行と分割が出来るというのは本作設定です。


次回はアスカvsデュナミス、小太郎・楓・古菲vs調・暦・焔・環

次話『第83話 抗いし者達の挽歌』



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第83話 抗いし者達の挽歌

 

 

 

 

 

 後が閊えているのだから速攻で倒す。決断が迅速なら、行動も迅速だった。地を蹴る足は爆弾みたいに強力で、宙を跳ぶ体は弾丸のように速い。

 白いブロックの上、数センチの所に黒い球体が浮いていた。瞬く間に大きくなっていき、闇が人の形を作っていく。シルエットだけで男であること、相当な巨漢であることが分かった。

 闇が足下から解けていき、アスカは戦闘形態のデュナミスへ疾走した。

 

「ぉおおおおっ!!」

 

 裾が空気を孕み、発散する精気を受けたかの如くそよいだのも束の間、僧衣の似た服が解かれて蜘蛛を連想させる長い手足が露になった。

 

「ぁああああっ!!」

 

 一秒が、十秒に感じられる中で叫んだアスカが、こちらも攻撃態勢に入ったデュナミスもアスカに向けて叫ぶ。

 歯を食い縛って疾走するアスカの上腕二頭筋の力瘤が大きく盛り上がり、まるで噴火寸前の活火山のようだ。酸素を臍の下、丹田の辺りに送るイメージで呼吸を止め、一気に吐き出す。

 

「「らぁああああああ!!」」

 

 直進するアスカと対向する形でデュナミスも進む。二人は一秒と待たずに交錯し、互いの肉体の一部を打ち合い、次の瞬間にはそれぞれの進行方向に従って行き違った。

 双方共に遠距離で撃ち合い、8の字を描くようにして再び接触。ぶつかり合う度に軌道速度を減殺させ、高度を下げてゆく。

 紫電走る黒棒が一閃され、浮遊しているブロックの一つが溶断される。

 吹き飛んだブロックの一部が別のブロックを突き破り、遥か底に落ちてゆく光景は見ずに、アスカは上方に回避したデュナミスの動きだけを追った。

 

「貴様は邪魔だぁぁぁぁ!」

 

 見下ろすデュナミスが打ち付けるように右手を振った。

 アスカがブロックの一つに着地して再び飛び上がろうとした矢先だった。冷たい叫びが頭蓋を揺らし、底暗い声に押し出されて突風にも似た殺気が足元から吹き上げた。脊髄反射で体を動かした直後、視認も難しいほどの極細の影の槍が目の前を行き過ぎた。

 

「英雄よ、今度こそ消え去れ!」

 

 アスカの目の前を通過した影の槍は、それ自体が命を持つかの如くデュナミスの叫びに呼応して十数倍に分裂して、それぞれが異なる方向と捻じれを持って追尾して再度襲い掛かる。

 あるものは真下からブロックを貫き、あるものは風を切り裂き、あるものは頭上から降り注いだ。またあるものは蛇のように円を描きながらアスカの後頭部を抉らんとした。

 

「おらっ!」

 

 蜘蛛の網にも影の槍の包囲網を前に、アスカは振り上げた拳を足下のブロックに叩きつけた。

 ブロックが叩きつけられた地点を中心に円状に捲れ上がり、クレーターを創り出す。瓦礫と粉塵とが影の槍の魔手から姿を隠したまま、反作用でアスカの身体は大きく跳ね跳んだ。

 頭上から舞い降りていた影の槍を寸でで躱し、そのままデュナミスに近づこうとした。

 

「っ!?」

 

 しかし、目を剥いたのはアスカの方だった。

 

「遅い」

 

 アスカの行動を読んだデュナミスが息のかかるほどの距離で哂っていた。振り上げられた右腕はアスカの全身を越えるほどで、放たれた弓矢の如く打ち下ろされる。

 

「ぐっ」

 

 巨大な炎の拳を真正面から受け止めて、アスカが歯を食い縛った。噛み締めすぎて奥歯の一本が砕けた。

 身長だけで二メートル超え。腕を振り上げれば三メートル以上の高さから、これまた身長に見合った体重はありそうな拳を渾身の力で叩きつけられたのである。いかにアスカが人間離れしていようが、これは潰れていない方が不条理なほどだった。

 さしものの強靭な肉体が、天使の鉄槌を止めたことで嫌な音を立てて軋む。

 

「っざけんな!」

 

 負けてなるものかとアスカが歯を剥き出しにて吠える。

 ブチブチとなにかが断裂する音が聞こえる。

 受け止める巨碗の拳が、徐々に持ち上がっていく。ばかりか、一定まで持ち上げられたところで、腕がゴキリと捻り返され、百キロは超えようかという巨体がその場に倒れ伏したのだ。

 凄まじい量の轟音が上がり、束の間の轟音が空間を支配する。

 

「この程度で私を殺せると思ったか」

 

 影で構成されている折られた腕を再構築したデュナミスは地に伏せたまま決して待たなかった。

 本来の手の指を上に向けると、影の槍達は空中へ跳ね上がった。追撃をしようと拳を振り上げたアスカの頭上で分裂し、豪雨の如く降り注ぐ。

 ぞんっ、と空気が裂けた。

 無数の影の槍が迸り、一つ一つがアスカの命に飢えた怪物と化して、あらゆる角度から牙を剥いた。

 

「しゃらくせぇ!」 

 

 ごおっ、と渦巻く咸卦の力から全方位に魔法の射手がばらまかれる。

 アスカの身体に纏わりつくように放たれた魔法の射手は、それぞれが意志を持つかの如く影の槍へと絡みついて溶かして呑み込んだ。

 雷の矢と黒の影の拮抗。その網を抜けて離脱したデュナミスを追ってアスカが空を疾走する。

 

「厄介だよ、貴様ら英雄という存在は!」

 

 デュナミスの振り向きざまの一撃が空を走り、柱の一つを打ち砕き、飛散した破片が花火のように眼前に広がる。その中を、破片群に取り巻かれたアスカがよろめいて過ぎた。

 

「何を!」

「無知故の強さ! 我が主の苦悩を知らず、厚かましくも何度も邪魔をしてくる武の英雄!」

 

 淡々と語る声に吐き捨てる調子が混ざり、追いついてきたアスカを振り払うように全身から影の槍を生み出して直接攻撃を躊躇させる。ならばと放たれた魔法の射手を、槍を生やしてハリネズミのようになっている自分の体を駒のように回転させ、往なして弾き返す。

 

「大した防御だが、その程度で! フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル。来れ、虚空の雷――」

 

 魔法の射手が弾き飛ばされたのを見たアスカは、弾くことが出来ない威力の雷の斧の詠唱を始める。

 

「ぬっ」

「薙ぎ払え、雷の斧!」

 

 背後から感じる魔力の高まりにデュナミスは咄嗟に横に避けた。その脇を掠めて背後から轟音を立てて放たれた雷の斧が通り過ぎていき、体から生やしていた影の槍を余波だけで溶かす。

 

「ぜあっ!」

 

 雷の斧を回避したことで次への行動が遅れたデュナミスにアスカが躍りかかり、シュッと音を立てて拳が突き出される。

 突き入れられるアスカの左拳をギリギリで躱しながら、デュナミスは腕に影を纏わりつかせる。そして目の前に迫る拳に向かって腕を向けた。

 すると腕の影がしゅるりと伸びて、アスカに襲い掛かった。アスカはとんぼを切って拳を躱し、更に追いすがるところを黒棒で払う。だが、尚も影はしつこく食い下がってきた。

 駈け回りながらも一瞬の隙をついてデュナミスに迫って防御した腕ごと蹴り飛ばす。

 

「人というのはどうしようもないほどに愚かしくて弱い生き物だ。なぁ、アスカ・スプリングフィールド? 貴様もそうだとは思わないか?」

「何が言いたい」

 

 戦いの最中に突然かけられた問いかけに、放たれた影の槍を避けながらアスカは困惑を苛立ちに変えて叫んだ。

 

「人は弱い生き物だ。一人では何も出来ない。群れないことにはロクなことが出来ないほどに弱い。群れた人がやることは一つ、人同士で争い合うだけだ」

 

 戦っている間にテンションが上がってきたのか、デュナミスは聞いてもいないのに朗々と語り出した。最も、その間も攻撃の手は緩めたりはしない。それどころかより苛烈に、辛辣に威勢を増していった。

 

「愛だ絆だと言いながら、他者を攻撃せざるをえないのが本性、どうしようもないほどの自己矛盾を抱えた最悪の生物、それが人なのだ。まさに滑稽だな!」

 

 デュナミスの言葉は、ある意味真実だった。人の歴史を振り返ればまさしくその通りであるからだ。だが、デュナミスの言い方は自らの体験で習得した経験というものではない。まるで他人の記憶を殊更に誇っているような歪さがあった。

 

「ごちゃごちゃと……………時間がないんだ。さっさと倒れろ!!」

 

 アスカが放った白い雷が幾つかのブロックに着弾し、衝撃波と破片を四方に拡散させる。デュナミスは直前で体を翻したが、爆発後に生じた黒煙を引き裂き、急速に肉薄して手元で伸びて来るアスカの雷の投擲を完全に躱しきることは出来なかった。

 雷で構成された槍がデュナミスの影で出来た腕を半ばから焼き、抉り取りながら擦過していく。体の中心に向かってくる雷の槍を見て、影で構成された腕を自ら切り離して後ろへ大きく跳んで距離を離す。

 

「明日菜をこんな馬鹿げたことの生贄にさせられるか!」

「馬鹿げたとは、聞き捨てならぬな!」

 

 雷の槍が突き刺さっている、切り取ったともいえる腕を未練もなく振り払ったアスカは、更なる踏み込みと共に跳躍する。

 影で構成された腕は文字通り、影の集合体である。切り離しても制御を手放さなければ再利用は可能である。黒棒を持ってアスカが跳躍する前に、彼の背後に落ちた腕の位置を確かめ、命令を送って遠隔操作する。アスカが跳躍するのと腕が飛んだのは同時だった。

 傍から見れば勝手に腕だけが動くホラーな光景だが、アスカは背後を見ることもなく体をバレルロールさせ、体に雷を纏って腕を焼き尽くした。次いで放とうとした魔法の射手を途中で爆発させて目晦ましをかけ、映画のコマオトシのようにデュナミスの視界から姿を消した。

 

「ちょこまかと…………!」

 

 数多くのブロックに遮られ、また先の魔法の射手を爆発させた影響で視界は良好とは言えない。当たりずっぽうで斜め後ろを振り返ったそこに拳を振りかぶったアスカを見つけたのは偶然に過ぎなかった。

 

「「っ!」」

 

 デュナミスはアスカの拳を真っ向から受け止めた。ギチリと噛み千切るような異音。力の破片は火花と燃え、そして弾かれた魔弾が巨大な威力の余波を周囲に振りまいた。

 余波だけで柱に蜘蛛の巣のような亀裂を入れ、衝撃で柱を破砕した。中程から真っ二つに折れた柱が自重で崩落する。ダイヤモンドの欠片さながら無数の塵が舞い上がる。

 

「アスカ・スプリングフィールド。貴様はただの戦士だ。こうして戦っているのは状況に過ぎん。状況が貴様に英雄であることを強いているだけだ。しかし、私は違う。私は神より世界救済を任じられた使徒だ。そのことに何の迷いもない!」

 

 考えを停止した狂信者の瞳だった。他者の理想を自らの全てと錯覚した愚か者の顔だった。自らを作った者だけが絶対的に正しく、それ以外は間違っているのだと考える傲慢さが溢れて窒息しそうになる。

 アスカはデュナミスの言うことは違っていると思った。感覚的にそう思ったのである。感覚が言葉の欺瞞性を看破していた。だが、それを言葉で表現することは別である。思考は言葉にした瞬間に歪みを生ずる。

 全身の細胞が沸騰するような感覚が湧き出し、アスカの意識を飽和させた。

 

「お前は傲慢だ。他人の考えに従うように作られた人形だ!」

 

 その言葉が自然と心の底から浮かび上がり、アスカは、随分と思ってもみなかった言葉を吐いた。が、口に出して言ってしまってから、そうかもしれないと自分の直感は正しいだろうと思って納得出来た。

 仮面を脱いでも仮面と思える顔。他人の望みを押し付ける冷えた瞳は、世界の行く末に思いを馳せる物でもなければ、他人や自らを憐れむものでもなかった。世界を見下ろす、一片の熱も持ち合わせていない空っぽの瞳だ。

 

「はっ、人形の何が悪い。他者の考えであろうが私には大義がある。それもこの世界の神から賜った大義が」

 

 論破されるどころかデュナミスは開き直るように勝ち誇っていた。裡に抱えた喪失の淵もなく、端から空っぽの瞳がそこにあった。

 

「他人から与えられた大義だろう!」

「神より与えられた使命である!」

 

 決然と雄叫びを上げたデュナミスはアスカを追いかけようとはしなかった。その代わり、突然全身が膨れ上がり、その分の体積を移動させた巨大な腕を前方に爆発的に伸ばした。

 だが、その攻撃は僅かにアスカに届かない。振り下ろした巨碗は、避けたアスカの鼻先を掠めて白いブロックに食い込んだ。

 

「迷いを持てないの間違いだろうが!」

「下らぬことで一々悩む人でなくて清々しておるさ!」

 

 と、デュナミスは白いブロックに食い込ませた巨碗を支点にして、自らの身体を引き寄せた。更に伸ばした巨碗の途中から新たな腕を分岐させ、避けようとしたアスカの胴体をガッシリと掴む。

 

「このっ」

 

 捕まれたアスカは身をくねらせながら振り切ろうとしたが、それよりも早く力の限りに別に白いブロックに掴んでいる腕ごと叩きつけられる。

 

「ォオオオオオオオオオオオオ!」

 

 長いブロックの壁面を引きずり回され、叩きつけてもデュナミスはアスカを放さなかった。

 二度、三度とブロックに叩きつけたところで力尽くで拘束を振り解く前兆を感じ取り、それよりも早く力任せに放り投げられていた。

 空気を切り裂きながら十個近いブロックを次々と破砕したところで浮遊術で急制動を賭けたアスカは低い呻き声を発し、頭から流れる血を拭いながら向かって来る影の槍を迎撃する為に魔法の射手を放つ。

 

「人は考え、好奇心を持つ動物だというが、少なくとも私には当てはまらない定義だ。男が男、女が女として生まれるように、私という生き物は造物主の使徒として生まれた。だからそのように振る舞い、そのように生きる。他には何もないし、考えることもない。そんな自分を不自然だとは思わず、哀しいとも思わないのが私だ。そこに疑問を挟む余地はない」

「疑問を持たない人なんていない。そんな奴を人は人形だと言うんだよ!」

 

 竜巻の如く氾濫する雷と影の槍の中で、突如として影が膨張した。

 空間を染めんばかりの奔流が白いブロックを次々と破壊し、更に激しく轟いた雷轟に阻まれる。振り放たれた雷拳にデュナミスは顔面を強かに殴られ打ち抜かれて、ボロ雑巾の如き体たらくで吹き飛ばされた。

 

「寧ろ私は人をこそ哀れに思う。一々悩むなど無駄でしかない。であれば、不幸などない完全なる世界に浸ればいい。それこそが貴様ら愚かな人が求め続けた永遠の楽園であろうに」

 

 宙に流れる異形を、七つの雷の槍が追い打つ。七本の稲妻の槍は、ダメ押しとばかりに突き刺さるも、デュナミスは突き刺さった部分ごと分離して諸共に消滅する。

 

「他者がいるからこそ、苦しむのだ。この世界には始めから神のみぞいれば良かったのだと知れ!」

 

 後少し分離が遅れていたら殺されていたと自覚し、叫びを上げて闘志が打ち砕かれるのを必死で耐える。

 

「そんな世界に意味などあるものか!」

「あるとも! この世界を、生きる者達を見ても私には意味など解らん!」

 

 なんとか生を拾ったデュナミスは、怯えを胸から拭うべく、アスカに叫び返す。

 

「他者を否定する狭い世界だけを見て……っ!」

 

 届くはずがないと分かっていても、叫ばずにはいられない人との繋がりがデュナミスにはない。

 硬質な怨念を突出させるデュナミスこそ、世界の和を乱す存在。他者の意思が自分から生まれたものだと錯覚した斃すべき敵でしかない。一方的に湧き上がってくる嫌悪を打ち払い、アスカは闇を現出させているようなデュナミスを睨みつけて飛んだ。

 

「迷うことすら出来ないお前の尺度で人を図るな!」

 

 デュナミスの足下に回り込んだアスカが、真下か直径が等身大ほどの白い雷を放つ。一直線の熱波に反応したデュナミスが横っ飛びした直ぐ脇を雷撃が通り抜ける。

 

「人形の何が悪い! 何時までも迷い、苦しみ抜いて生きるよりも何億倍も幸福であるものを!」

 

 応戦するように影が寄り集まり、膨れ上がり、これまでのものよりも遥かに巨大な腕を作り上げて長身のアスカを覆い尽くすほどの巨大な拳が空気を切り裂いて放たれた。

 

「こんなもの!」

 

 アスカは避けようともしなかった。両の拳を合わせて右側への体の捻りと共に大きく振りかぶり、全身を右後ろに反る。そして、自分の全身ほどもある巨大な影の拳と組み合わされた両拳を打ち合わせた。

 耳をつんざく轟音が鳴り響いて互いが束の間、静止した。

 次の瞬間、影で構成された拳の中央に罅が生じ、それが一気に拳全体から腕全体に広がった。ガラスが砕ける音と共に巨大すぎる拳が砕け、突き破った。

 

「たかが腕一つで!」

 

 デュナミスの腕は影で構成された大きいのが二本、本体の小さいのが二本。いま潰したのは影で構成された影の腕の一本に過ぎない。 

 影で構成された巨椀に比べれば一回り以上は小さな本体の両腕を掲げた。その手の間の空間に影が異様なほど収束して空間が歪み、捻じれ、手の内へと収縮されていく。

 感じられる力の圧力に、無防備に突っ込もうとしたアスカの背筋に鳥肌が立ち、脳内に鳴り響く危険信号に従って急停止。

 

「くっ」

 

 影が荒れ狂う。腕が一つ無くなったことを、むしろ重荷が取れたと言わんばかりの気迫。デュナミスは極限まで圧縮された空間に閉じ込められた影を解き放った。捻じれた空間は瞬時に膨張し、狭い空間に百を超える影が幾つもの閃鋭となってアスカの逃げ場を失くす。

 アスカは回避しようとしたが最大速度で離脱しようとも、影の閃鋭は貫くだろう。

 鼓膜を引き千切るような轟音と共に、無数の影杭が雨霰と降り注ぐ。一つ一つが丸太ほどの大きさを持つそれが、次々に白いブロックを抉り、穴を抉っていく。

 その影杭の一本だけをとっても十分以上に人を殺傷できる凶悪な兵器だ。だというのに、数えきれないほどのそれが、純粋にして単純な殺意と共にアスカに殺到する。

 アスカが最大速度で空を駆ける。寸でのところで回避の間に合わなかった影杭の一本が頬を僅かに掠める。肌が裂け、肉が千切れ、血が噴き出す。

 更に一斉射された影の槍が進路上で内側から自爆した。周囲を埋め尽くすように連続して咲いた爆光に戸惑い、足が鈍った隙に上方からデュナミスが拳に魔力を込めて跳ぶ。

 漆黒の篭手に覆われたかのように拳がアスカ目がけて振り下ろされる。直撃コース。痙攣する頬が勝利を確信して笑みの肩に引き攣った瞬間、デュナミスの視界は突如発生した閃光に眩まされた。

 

「なんだ……!?」

 

 アスカが前方に雷球を生み出し、外側にのみ衝撃波がいくように自爆させたのだ。奇しくも自らがとった戦法の一部を利用された形で、衝撃波の暴威に曝されて後方に吹き飛ばされる。

 すかさず姿勢を制御して爆煙の向こうでアスカがこちらを見ている。

 

「……………そうか。そうやって貴様達は、この私を虚仮にしてくれるのか」

 

 上空からアスカが見ていてデュナミスは心情的に見下ろされていると思った。

 紅き翼達に続いて二度までも自分の顔に泥を塗る真似をする。こちらに向かって跳んだアスカ・スプリングフィールドの顔にナギ・スプリングフィールドの顔が重なり、デュナミスは他の全てを忘れた。

 

「そうやって貴様たちは我々に何度でも屈辱を思い起こさせてくれる。消えていなくなれよ、英雄! 今度こそ貴様達を駆逐してくれる!!」

 

 旺盛な気勢に比例するようにデュナミスから放射される敵意より粘着質な敵意と悪意は殆ど物理的な硬さをもってアスカの芯を震わせ、戦闘で昂る神経に促されて全身の肌を粟立たせた。

 

「―――――お前こそ」

 

 我が身を食い破られた激痛に叫びそうになりながらも、それよりも胸の内で色んなものが一緒くたになっていた。今も空を駆け抜けるアスカを射抜かんと無数に迫る影の槍達を背に置いて、考える時間などないに等しい。

 だが、一つだけは確かだった。アスカ・スプリングフィールドはデュナミスとは、フェイト・アーウェンルンクスとまた別次元で永遠に分かり合えない。

 

「お前こそ、邪魔だ――――――!」

 

 ガシッと、吠えて近づいたアスカがデュナミスに掴みかかった。デュナミスはさせないとアスカの手を掴み、二人はがっちりと組み合った。

 アスカの身体から溢れ出る白いオーラの如き咸卦の力の輝き、デュナミスから漏れ出るグレーの魔力の輝き、双方が双方を浸食しようと鬩ぎ合い、周囲の空間に稲妻が放電される。

 

「テメェは間違っている! その考え自体が歪んでいると何故気づかない!」

 

 お互いのパワーに弾かれるようにして両端に飛ばされながらアスカが叫んだ。

 先手を打つように放たれた影の槍を紙一重で躱して軌道上に乗って身体を滑らせ、一気に相対距離を詰める。すれ違った一瞬に肩の服を切り裂かれた。代わりにデュナミスの肩の角が一本根元から折れる。

 

「私はこう在るべくして在るのだ。歪んでいようが関係はない。世界を在るべき正しき姿へと戻す。この願いこそが我が創造主の願い。間違いと定義付けられた世界を作りかえることに何ら疑心はない!」

 

 何かがずれるのを、アスカは感じた。決定的な何かが、今のデュナミスには欠落している。

 例え人の顔と知能を持っていようとも、どうしても理解しえない相手。遠い異世界の論理を無理矢理現実の枠組みに翻訳したような思考。デュナミスの鋼鉄の意志は、それ自体が神の意志であるかのように揺らがない。

 アスカは叫ぶデュナミスの背後に不気味な黒い影が立ち昇るのを見た。

 

「えっ?」

 

 それは確かに黒い影だった。蜃気楼のようにデュナミスの背後に揺らめき、その影は段々と一つの形になっていた。無形の塊が筋になり、筋が人の形を成す。

 アスカには両腕を左右に広げた人の形に見えた。まるで人に取り付く悪鬼のように見えてデュナミスの手を振り払って距離を開けた。だが、渦巻いているようにも見えた悪魔の影も一瞬の内に消えた。

 

「……?」

 

 一瞬で消えたので、アスカは自分の気が動転して幻覚を見たのかと思った。猛攻を仕掛けてくるデュナミスを前にして意味を考えていられる余裕はない。

 

「神に逆らう愚か者よ! 我が前から消え去るがいい!」

 

 そのデュナミスの気合がアスカの意思に明瞭に投影された。まるで過去の怨念にしがみつかれたような気がして、腹の底が冷たくなるような戦慄を覚えた。

 

「女!?」

 

 アスカに投影されたデュナミスの意思に個人の考えなど微塵もありはしなかった。デュナミスの思い込みがそのままアスカの意思に焼きついたのである。

 ドス黒い人の心、怨念に染まった負の意思がデュナミスの周りを取り巻いている。悪鬼が見えたのもアスカの心象風景が具象化したのかもしれない。

 

「隙を見せたな!」

「―――――しまっ!?」

 

 アスカの一瞬の思考が見せた隙を突いて、デュナミスは影の槍の一撃を虚空に向かって放つ。最速で放たれた一撃を紙一重の見切りで全身を捻って躱そうとするも、一瞬の思考によって回避の行動が数瞬遅い。二人が至った領域には致命的な遅れだった。

 虚空を転移して貫通する一撃が大気を引き裂いて本物の槍のように伸びる。この一撃によって脇腹を抉られる。

 抉られたアスカの脇腹が一瞬遅れて血を噴き出す。

 

「これぐらいかすり傷だっ!」

 

 自分に思い込ませるように叫びながら即座に手刀で脇腹を貫く槍を叩き折った。

 幸いにも痛みはあるが動くのに支障を来たす器官には達していない。が、この行動の遅れは致命的にまで突け入られる隙をデュナミスに与えることになる。

 

「もらったぞ!」 

 

 致命的な隙をデュナミスは逃さない。

 先程放った最速の影槍の後に放った影が触手のようにアスカの右腕に巻き付く。気づいたアスカが影槍を斬り落としたように手刀を振り落す前に、絡みついた影は思い切り食い込み、そのまま高速で回転した。

 右腕が血飛沫を上げる。皮膚を破られた赤黒い傷が見える。そこに食い込んでなお、影の触手は更に回転して傷口を深く抉る。

 激痛にアスカが怯み、動きを鈍らせた瞬間、咄嗟に右腕に絡みつく触手を引き千切ろうとした左腕にも別の影の触手が巻き付いた。アスカが僅かな動作を見せた直後、左腕からも鮮血が吹き上がった。

 瞬く間に両足にも影の触手が巻き付き、首にも伸びてきた。声を上げようとして喉までをも締め付けられて呻きだけが漏れる。

 

「まずは首を折ってからこのまま全身を引き裂いてくれる」

「がっ、ぐっ」

 

 首の触手にどんどん引っ張られて呼吸も出来ぬまま、四肢を抑えられたアスカはもがくことも出来ない。デュナミスの思惑通りにさせたくないのかもしれないが、もはや動くことも出来ない。首と全身を締め付けられる苦痛と、思うがままにされていることへの屈辱の顔は隠すことが出来ない。

 せめて少しでも抵抗しようと腕に力を込めているのがデュナミスからもで分かるが、四肢全てが抑え込まれている上に次々と影の触手が取りついて拘束を増やしている状況では、まともに力を込めることすら困難極まりない。そもそも、完全に気管を圧迫され、呼吸も出来ず、苦痛の中で意識さえも遠のいているのか瞳が虚ろになってきていた。

 

「ぎっ、がっ」

 

 デュナミスはアスカに意識を失わせるつもりはない。捕らえていた四肢を引き伸ばしたことにより激痛で意識を取り戻させる。

 関節が軋む音と何かが千切れる音にデュナミスは鮮烈な笑みを浮かべた。大きく見開かれたアスカの蒼い瞳だけが苦痛を表していた。

 

「さらばだ、英雄よ」

 

 英雄というものがどれだけしぶといかを知っているデュナミスはそれ以上は遊ぶことなく、更に何本もの触手を全身が見えなくなるほどに巻き付けて隠す。

 影の触手に覆われた身体が不自然なほどに後ろに反り返る。そのまま影の触手達はそのまま関節の可動域など既に超えてしまっている状態の肉体を容赦なく捻じ曲げていく。

 なにかがへし折れる音が確かに響いてデュナミスは勝利を確信した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなた達のようなお気楽な学生に負ける訳にはいかない!」

 

 それがアスカがデュナミスと共に姿を消してから長瀬楓達に襲い掛かって来たフェイトの部下である焔達の口上であった。

 

「はぁああああああああああああああ!!」

 

 叫びと共に焔の服が彼女から発せられた炎で燃やし尽くして炎精霊化して楓と激突する。

 

「自陣加速!」

 

 暦がアーティファクト『時の回廊』を発動して調の周辺空間の時間を加速させる。

 

「う……く……」

 

 木精憑依を最大顕現し、樹龍を招来した調はアーティファクト『狂気の提琴』を握り、木乃香を守っている茶々丸に狙いを定める。

 

「ふっ、覚悟なさい!」

「俺の狗族化みたいなもんか」

 

 気勢を発した暦の肌は瞬く間に髪と目と同色の黒の毛で覆われ、その両手足には鋭い爪が現れた。

 豹族獣化した暦の変化に、自身と似た感じを覚えた小太郎の目付きも変わり、向かって来る少女に相対する。

 

「…………」

 

 アスカを結界空間に閉じ込めたアーティファクト『無限抱擁』の持ち主である環は四つん這いになり、他の三人同様にその身を変化させていく。頭から二つの角が伸び、大きな尻尾、そして翼が現れる。

 対して古菲は、神珍鉄自在棍の一端を斜めに床へと突き立てた。

 

「――――伸びろ」

「……」

 

 環の目には、古菲が消えたようにしか見えなかっただろう。一瞬後、古菲の身体は環の頭上にあった。

 

「落ちるアル!」

 

 伸ばした神珍鉄自在棍を振り上げ、無造作に振り下ろす。

 間近で大砲が打ち鳴らされたような、人どころか竜すらも悶絶するには十分な音を撒き散らして環が墜落した。

 次の瞬間、竜と化した環は空中へ跳ね飛ばされた。実際には古菲の手から神珍鉄自在棍が伸びたのだ。想像を絶する速度で伸びた神珍鉄自在棍は強かに環の腹を打ち、天高く跳ね飛ばしたのである。

 跳ね飛ばした高さは、おおよそ十メートル。今の竜化して人間形態と時と比べて五倍以上になった体を考えればありえないパワーだった。

 

「ギシャァァァァァ!」

 

 竜族である環は見た目同様に頑強な肉体となっていて、堪えた様子もなく雄叫びを上げる。

 

「ここで死になさい、新たなる世界を望まぬ者達よ!」

 

 焔が魔眼の力を全開にして、彼女の視界内が炎で埋め尽くされる。文字通り、裁きの炎のような火炎であった。

 張り巡らされていた石柱さえ紅く溶かし、数千度という熱が世界を押し包んだのである。灼熱というも愚かしい熱波は、水分という水分を蒸発させ、空気からして地獄の成分へと置き換えた。

 時間さえも、炎に焼き尽くされたように思えた。

 実際、それほどの熱にあっては秒瞬も数時間も同じことだっただろう。たかが人間の肉体如き、骨の芯まで炭化する他ない。

 

「何故、そこまでして今の世界を壊そうとするのでござるか!」

 

 炎に巻き込まれる前に離脱した楓が問いかける。

 少女達は敵である楓達に恨みを欠片も抱いていない。自分達と同じで、ただ守るための手段が違うだけで心の中にある大切な何かを守ろうとしている。

 

「他の世界の貴方達には関係のない話でしょ!」

「今、ここにこうして立っている以上、無関係なはずがなかろう!」

「他のゲートはともかく、オスティアのゲートは稼働しているはず。こんなところに来る前に戦いに巻き込まれる前に自分達の世界に帰ればよかったじゃないの!」

 

 楓から苦無が飛び、焔が睨んだ端から発火する。

 睨むだけで発火出来るとは随分と便利な能力だと楓は毒づきながら対策方法を幾つか考える。

 

「級友を放っておいて帰れるものか!」

「彼女は元よりこの世界の住人で黄昏の姫巫女。住む世界が違うのよ!」

 

 総督府から流されたアスカとクルトの間で明かされた二十年前の真実の中で明日菜がこの世界の住人であることは、分身を出して攪乱している楓も知っている。

 

「拙者にとって明日菜殿は黄昏の姫巫女ではなく、出席番号八番の神楽坂明日菜でござる。バカレンジャー・レッドで、元気いっぱいで強気。掛け替えのない級友を住む世界が違うからといって忘れて拙者らだけ麻帆良に帰ることなどまかりならん!」

 

 視界に映る楓を全部燃やすつもりの焔から放たれた炎が辺りに次々に広がっていく。その様を観察しながら焔の能力を査定していく楓が隙を見て苦無を放つも気づかれて燃やされた。

 

「では、この世界に滅びろというのですか! 黄昏の姫巫女無くしてこの世界はいずれ滅びる!」

「アスカ殿が世界を存続させうる方法があると貴殿らの仲間も認めいたでござろう!」

「だとしても、もうそんなことは問題じゃないのよ!」

 

 楓と焔が舌戦と戦闘を繰り返して一進一退になっているように、両陣営は言葉と力を以て己の意を通そうとしていた。

 

(なんて傲慢な――――――なんて狂信的で魅惑的な想いでござるか!)

 

 迫り来る火の玉に服を焼かれながらも躱した楓の全身に、攻撃によるものではない震えが走った。

 自分が同じ環境にあったとしたら耐えられるか自信が持てなかった。

 世界は正しくないところがある。理不尽な運命、後戻りできない死、ある意味で公平で、だからこ世界は不公平で出来ている。そこまでは理解できる。直すべき部分がある。全くその通りだ。けれど、その為にここまでのことが出来るのか。楓には出来ない。

 忍者とは耐え忍ぶ者と書く。骨の髄まで忍者としての業に染まった楓には決して彼女達のようには出来ない。だが、出来ないからこそ、これほどまでに憧れてしまう。

 

(知りたい! 何故、彼女達がそこまで世界を変えたいと望むのかっ!!)

 

 楓は世界を変えたいと望む者達の心の裡を想像しようとした。

 どんな悲劇が、どんな不幸が、彼女達に決意させたのか。どれほどの絶望、どれほどの痛みが現在と未来を引き換えにしても良い思わせたのか。

 

「知りたいと言うなら幾らでも教えてあげるわ!」

 

 未だ天秤はどちらにも明確に傾くことはなく、ユラユラと揺れている。自らに勝利を引き寄せようと焔が動いた。

 近くで暦と戦っている小太郎と近くにいた古菲に向けて、調がアーティファクト『狂気の堤琴』を使って地面を爆発させて大量の粉塵が起こったところを発火させて粉塵爆発を起こす。

 先に離脱していた暦は小太郎の周囲の時間を時の回廊で遅らせている。爆発直前に時の回廊は解除されたが粉塵爆発に巻き込まれた二人の安否を気にした楓に三人の攻撃が集中する。

 

「ずっと神様なんていないと思ってた、神様がいるなら世界はもっと優しいはずだって」

 

 三人の攻撃を回避する楓に向けて絶対に避けられないタイミングで発火させて大爆発させた焔は根本的なところで神の存在を信じれていなかった。彼女にあったことを考えれば当然のと事で、フェイトの下で世界の秘密を知っても考えは変わらなかった。

 

「私の住んでいてシルチス亜大陸のパルティアは昔から戦乱に巻き込まれやすい地域にいたから余計にそう思っていたわ。大戦後も紛争や闘争が続き、遂には私がいた村も焼かれた。生き残ったのは私一人だけ!」

 

 黒煙を切り裂くように落ちた楓は全身に気を纏って防御したが負ったダメージは大きい。

 

「……………戦災孤児になったから世界を変えようとしているのでござるか」

 

 なんとか近くの足場に着地するが特に右半身の火傷は酷く、右膝が折れて膝をつく。

 

「そうです。旧世界の平和な国で学生をやっている貴方達には我々のような者の痛みが分かるはずがない」

 

 世界中で探せば幾らでもある悲劇の一つではあるが、一人の人生においては大きな出来事である。

 大戦が終わって国同士の戦争は無くなっても個人間や集団間での紛争は止まらない。実際に紛争に巻き込まれて平和だった村を焼き討ちされた焔の叫びと火炎は止まらない。

 旧世界の日本で戦争を体験していない世代である者達に自分達の気持ちが理解できるはずがないと、身に抱える感情と共に楓を攻撃する炎がその威力を増す。左足で跳ねたが熱気が舐めるように肌を炙る。

 

「例え世界の崩壊が回避されたとしても、この世界は今のまま何一つとして改善されていない。私達のような孤児が減ることもない」

 

 大戦が終わっても世界は何も変わっていない。英雄は戦争を止めただけで、人は争い続けて来たと自らの実体験を以て焔は訴え続ける。その度に炎は虚空瞬動で逃げ続ける楓を捕らえようと執拗に発火する。

 

「憎しみも怒りも悲しみも、決して消えない。人は争い続ける。それしか知らないから、命を大事と言いながら奪い合う」

 

 安らぐために殺し、楽しむために壊す。知恵をもって生きる人の罪業。フェイトと共に世界を回って多くの悲劇を見た焔は叫ばずにはいられない。

 

「もう直ぐ世界は変わる。こんな救いようのない果てしなき欲望の地獄から、フェイト様が求める真実の楽園へと!!」

 

 限り無い憎しみを込めて、終わっても終わらぬ戦争の被害者とも言える少女は何も知らないと断じた楓を燃やし尽くさんと睨む端から燃やし尽くしながら叫ぶ。

 

「世界は今、生まれ変わろうとしている。より良き完璧な世界を目指して不幸も苦痛もない、偽りもない、何もかもが光り輝く世界に!」

 

 現段階の焔では睨んだら発火は一瞬の溜めが必要なようで視界外、もしくは発火する前に退避すればそれほど難しくはない。とはいえ、右半身に火傷を負っている楓には酷な動作である。

 

「しかし、『完全なる世界』は他人との繋がりを断ち切って成立するものでござる。接触を求める人にまで犠牲を強いる。人は絶対に一人では生きていけないでござる。そんな寂しい世界に意味があるのでござるか」

 

 世界は矛盾に満ちているとしても、その矛盾を解く方程式は存在しない。その方程式が存在するのは、ごく限られた限定された世界の中だけなのだ。

 現実というのは、つまるところ他者の存在によって成り立つ。だが、現実に絶望した者はどうすればいいのか。答えは簡単だ。世界を区切ればいい。世界を自分で限定する。自らが望んだ世界に―――――完全なる世界のように。

 

「他人がいれば主義が生まれ、集団になれば勢力を作り、勢力間で対立関係が生じる。融和を望めば、望まない者との間に新たな対立が生まれるだけ。何時だってのような無責任な理想論主義が争いを招く!」

 

 無責任な理想主義が、戦争を争いの元となる。その言葉で炎に炙られて灼熱している楓の脳裏に学校の授業で学んだ歴史が去来する。

 過去の歴史の中において理想論を語って人を扇動しながらも、その責任を果たすことが出来ずに没して行った例は枚挙に暇がない。 

 無知こそ罪だ。知らなかったからといって許されはしない。それで死ぬのは知るべきことを知らなかった自分たちなのだから。そうなったとき誰かに責任を被せたとて、失った命や破壊された多くものが戻るだろうか。

 

「確かに。だけど、この世界の者達は本当に一生懸命生きているでござる。優しくて正しい生き方で…………誰かを愛して、愛されて、応えようとして。そんな人達の大切な今を、例えどんな目的があっても奪ってはいけないのでござるよ」

 

 有史以来ずっと戦争で悲惨な死を遂げた若者達が踊らされてきた論理であるのかもしれなかった。だが、その心情は真性のもので、それを否定したら人は生きていくことは出来ないだろう。

 睨んでも発火することを止めた焔は楓の言葉に沈黙する。攻撃をせずに沈黙した焔に離れた場所に降り立った楓は息を整える。

 

「…………如何にも平和な世界で生まれ育った貴方達らしい意見です」

 

 そうして、ずっと長い沈黙があって焔は世界全部の業の重さを背負ったような声で呟く。

 

「正しく、真っ直ぐで、ご自分の信念に僅かな疑いも持っていない。ああ、大きな悲劇も絶望も喪失も知らないから言える言葉」

 

 変えようがない世界で煩悶し続ける当たり前の人間の想いを代表して少女が吠える。

 

「ですが、貴女は分かっていない。完全なる世界は貴女が口にする正しい在り方へのアンチテーゼ。完全なる世界は、永久の営みを抱く世界。完全な独立を実現した世界。過去どれほどの者達が夢想したか分からない理想郷」

 

 人の魂は全て孤独を抱えている。似たような魂は、それこそ星の数ほどもあった。

 孤独を抱えないのは、神々に祝福された聖人、万人に愛される英雄、傍若無人な太陽だけだ。社会の繊細な機微など一顧だにせず、激しく強く伸びやかにただ自らを燃やす太陽のように孤独を抱える者を焼く。

 

「無論、それを良しとしない者もいるでしょう。でも、完全なる世界を求める人は大勢います。貴女が想像するより、遥かに多い」

 

 焔は訥々と語り、言葉を切った。

 平坦な口調にも関わらず、言葉の一つ一つに雷の如き破壊力がある。彼女を支配しているのは、恨みや憤りが渾然となった、激しい敵愾心だった。純粋な負の感情だ。

 

「この思いを分かってほしいとは思わない。貴女から見れば哀れに映るのかもしれませんね。ですが、だからこそ、私達はフェイト様が示して下さった巡り得た輝きを貴重に思う」

 

 焔が言いたいことはなにかという疑問に答えは簡単に答えを見つけられた。

 

「分かりますか? 自らが幻想と知った絶望が、何時消えるかも分からない恐怖が、この世界を造った神に間違いと断じられた悲しみが」

 

 真実だと思っていた物が幻想で、本当だと思っていたものが嘘だったとしたら、そんな世界で生きていくほど辛いことはない。不思議なくらい、楓には敵である少女達の想いがくっきりと想像できるのだった。

 

「完全なる世界ならば、残酷な真実も忘れて遍く全てが等しく幸福となる。幸福を求めて何が悪い!」

 

 完全なる世界で死んだ祖父母と里でのんびりと過ごせた夢は、今という現実を侵しかねないほどに幸福だった。幸せという麻薬は如何なる脅迫にも拷問にも勝る。アスカの叫びが聞こえなかったらあのままあの世界で耽溺し続けただろう。それだけ幸せだった。

 

「くそ……」

 

 僅かでも共感してしまって目の前の少女達を決して敵として憎みきることが出来なくて、暦と戦っていた小太郎は奥歯を噛み締めた。

 何もかも狂っている。どこかが決定的に間違っている。もし誰か頭のいい奴がいて、何がどんな風に間違っているのか教えてくれるなら喜んで以後の人生を捧げただろう。

 苦悩が戦意を弱らげ、動きを鈍らせる。まるで芯をずらしたような攻撃、当てて下さいといわんばかりの行動。恐れてでもいるのか、と調はチラと考え、後退するばかりの敵を見据えて違うと結論して奥歯を噛みしめた。

 今の彼・彼女らからは戦意が全く感じられない。先ほどまでの鬱陶しいまでの覇気がなく、ただ逃げ回っているのだ。

 

「バカにして……! 私達を憐れんでいるとつもりですか!」

 

 調は呻きながら我知らずにアーティファクトにかけた指を強張らせた。

 

「本気で戦いなさい!」

 

 調の救憐唱で起こった間接的な衝撃波に飛ばされながら楓は宙を舞う。

 そうでなければ、こんな戦いに意味はない。

 彼女達に差があるわけではない。違いがあるわけでもない。両者を分けるのは求める先にあるもの。神、希望、可能性、言い方はなんだっていい。光がなければ人は生きてはいけない。

 

「幸福を求めることを悪いとは思わないでござる。お主の気持ちも薄らと分かる気がするでござる。だが、世界の真実の一端を誰もが知った。これからどうしたって世界は変わるでござるよ」

 

 幸福に耽溺することがどういうことか知った楓は、だからというわけではないが敵である少女らの怒りと悲しみに渦巻く激しい感情に薄らと想像できたのだ。

 この嘘と偽物に塗り固められた世界は正しくないのかもしれない、と。国の上層部は世界の真実をひた隠しにして嘘をついている。本当のことを知らされず、お前達は生きていけばいいのだと言っている等しい。

 

「今更世界に真実が告げられたところで止まれるものか! この間違った世界を正すまで、止まることなどありえない!」

 

 アスカから世界の裏側の事情を聞いて心のどこかで思った。間違っている。何もかも。全てはこんなにも間違っている。それは真実を知ってしまった彼女達も同様なのだろう。

 こんな世界は変えてしまった方がいいはずだ。いいや、変えなければいけない。世界を正しき姿へと創り直さなければいけない。明日なんか信じない。現在なんか要らない。幸せな世界だけを、もっと完全な、平和と幸福だけで作られた世界を。

 

「拙者は馬鹿でござるが、これだけは分かるでござる。お主たちの想いも願いも間違いなどではござらんよ。だが、同時に正しいとも思えないでござる」

 

 音もなく地に降り立った楓は、悼むように目を伏せた

 テオドラに借りた別荘の中でアスカから魔法世界人がどういう存在なのかを事前に聞いていた。

 その時の情景が脳裏を過ぎる。

 

『ちくしょう………そんなってアリなんか。酷すぎるで』

『酷い、か。それは間違っていると思うぞ』

 

 嫌悪を露に吐き捨てる小太郎にアスカは何故か怒っているようだった。

 その本質が幽霊みたいに曖昧な存在であり、各国上層部がそのことをひた隠しにしていることに憤っていたことを怒っているわけではない。アスカが怒っているのは別の事に対してだ。

 

『良いか? 生物として必要な要素を兼ね備えていても魔法世界人の本質は魔法世界と同じく儚い幻想だ』

 

 だが、とアスカは一度言葉を切って、

 

『儚い幻想だとしても、だからなんだって話に過ぎない』

 

 はっきりと、迷わずに言い切った。

 

『魔法世界に来てから出会った人達はお前達の目から見てどうだった? 命も心もない幻想に過ぎなかったか? 違うだろ。俺達と同じように楽しければ笑うし、悲しければ泣く。嫌なことがあったら落ち込んで、ムカつけば怒りもする』

 

 全員の脳裏に魔法世界に来てから出会った人々、物、風景が浮かぶ。

 

『彼らは簡単に失われて良いほど軽い存在だったか? 現実に存在しているとかしていなとか、本物だとか偽物だとか、そんな理由だけで消えてしまっても良い存在だったか?』

  

 違う。そんな訳がない。誰もが心の中で断言した。

 彼らは生きていた。幻だとかそんなことは関係なく生きていた。儚い幻想だからといって消えて良い理由になるはずがない。

 

『戦う理由なんてその程度で十分だと、俺は思う。お前達には戦う理由はあるか?』

 

 過去と現在の中で問いと答えが反響し合う。どうしてこんなにも辛いことや哀しいことが沢山ある世界を守ろうとしているのか。どうして行動を理解してしまえる彼女達の邪魔をしているのか。

 

(何故って、それは)

 

 楓の中には最初から答えがあった。

 仲間であり、友人であり、同級生である神楽坂明日菜を助けること。彼女達が言うような世界救済を目的とした英雄的行動は結果に付随してくるオマケでしかない。仲間内でも世界救済に関して明確なビジョンを持っているのはアスカしかいないと、楓もそう思う。

 彼女達の邪魔をするのも単純明快。何かがあるかもしれない未来を閉じてしまいたくないから。

 どれだけ強大な敵と戦うことが出来ても楓達は十四歳の少女、まだ子供なのだ。人生が楽しくなるのはこれから。

 自分達と彼女達、正しいのはどちらか。そもそも、この二つに違いはあるのか。呪いのように、祝いのように問答が付き纏う。

 いずれにせよ、揺ぎ無いことは彼女達がフェイトを信じているようにアスカを信じているという事だ。

 楓は瞬きをした。そうだ、その通りだ。自分で選んで来たのだ。友の為に来たのだ。この地獄の中へ飛び込んできたのだ。どこにも後悔はなかった。ただ、決心だけがあった。 

 

「アスカ・スプリングフィールドは魔法世界を救済策をあると言った。だけど、世界を救っても何も変わらない。それでは今までと同じように悲劇だけが永遠に続く。提示出来るだけの未来もなしに、無責任に否定ばかりして、その先はどうする?」

 

 狂っているか、と頭の中で自問し、狂いもしようと自答した焔は自らの行いに正当性を見出した。

 父も、母も、村人も、絶望と悔恨の中で死んでいった彼らの無念を晴らすために、自分の生はあった。狂って当たり前の矛盾だらけの生は、今日という日のためにあったのだと思いたい。狂わせたのは、この世界だ。

 

「世界の運命や未来なんて拙者が偉そうに語れるものではないござる。生憎とそんな大層な理想も力もないでござるからな」

「無責任な……!」

「個人で為せることなど大したことはないでござる! 自分で自分を騙して、分かったようなことを言って…………! 本当は貴殿にも分かっているのでござろう。こんなのはただ逃げているだけだと。なにも報われるものはないのだと!」

 

 焔の目がカッと開かれる。

 

「なんにも知らない人がデカイ口を! 貴女の言う通りだとしても完全なる世界になれば戦災孤児が生まれることは無くなる! 最善の世界、幸福な過去だけが、フェイト様が私達を救ってくれる!」

「そんなの……! ただの思考停止ではござらんか!」

 

 これが現実だと言いながら、実は自分は認めていない。本意であることを本意であるかのように嘯き、自分で自分を苦しめている。背負わねばなにもできず、時に自らを殺さなければならなくなる。

 

「いい加減に眼を覚ますでござるよ! 過去だけが幸福などというのは間違っている! お主達はそれに気が付いてないだけでござる!」

 

 分かり合えないと内心で断じた焔は全身から炎を発して周辺に自らのテリトリーを広げる。

 

「分かっていないのは貴女達よ! フェイト様は新しい世界を切り拓く方なのよ! 理想の為なら死ぬ覚悟だって出来ているわ!」

 

 その言葉を聞いた時、楓は全身を焼かれながら火炎を突っ切って焔を殴っていた。

 

「そんな勝手なことのために死ぬなんて許さないでござる! 世界を変えるなら最後まで見届けるでござるよ!」

「くっ、対価を支払わずに奇蹟を願えと言うの!」

「当たり前でござる!」

 

 焔の気持ちが分かる、などと気安く言うことは出来ない。

 今も反撃してくる焔には、彼女だけの痛みと苦しみがある。それを想像しただけで、『分かる』などと理解を示すことはあまりにも傲慢だ。

 

「欲張りで何が悪いでござる! なんでそんなどうしようもない場所で立ち止まって、他の答えが見つかるまで足掻かないでござるか!」

 

 一瞬の激昂。何の迷いもなく叫んだ。世界を賭けた理由も何も、その瞬間には忘れていた。

 分身体で攪乱しつつ、四つ身分身朧十字を放ってダメージを与える。

 

「づぅう、馬鹿なことを言わないで下さい。そんな、理屈に合わな――――――――」

「理屈だなんだと考える前に、もっと馬鹿になれって言っているでござるよ、拙者は!」

 

 駄目押しとばかりに炎精霊化した焔に容赦なく風魔手裏剣を突き刺して力一杯に怒鳴りつける。

 亡くした者を悼むことと、悲哀に縛られることは同一ではない。遺された者が死者にしてやれることなど、多分なにもないのだ。ただ生きること、速やかに日常へ帰っていくことだけが餞となり得る。幼き頃に祖父母が亡くなった時に悲しみに沈んでいた楓に両親が教えてくれた。

 

「確かにこの世界は地獄なのかもしれないでござる。生きているだけで苦しいかもしれないでござる。それでも――」

 

 焔に胴体に突き刺さったかに思われた風魔手裏剣はその前に刃を焼き尽くされている。ならば、と周辺の台座にも次々に風魔手裏剣を突き刺す。その全ては鎖で繋がれていた。

 

「この世に生を受けたのならば生きていくしかないでござろう! 死した者達に報いる為にも、生かされた者の義務でござる!」

 

 世界はとても非情だ。夢や希望が必ず叶うとは限らず、願いや想いが必ず届くこともない。寧ろ現実は常に挫折と失敗が付き纏い、人の一生はそうした不幸を緯糸にして織られていく布のようなものだ。

 だとしても、この世界で人は生きていくしかない。生まれてきたのは、生きるためなのだから。それに、憎悪と絶望が立ち込める世界にも見るべきものはある。 

 楓は静かに己の想いを噛みしめた。そして、この思いを自分にもたらしてくれたものを考える。脳裏に魔法世界に来てから様々な光景や人々が思い出される。それは土地であったり、今までに知り合ってきた人々。

 

「一度でもこの世界を美しいと思ったことは本当にないのでござるか? 全てが醜く存在してはならないと本気で思っているのでござるか?」

 

 鎖に撒きつけられている爆符が炎精霊化している焔が無意識化にも発してる炎に反応して連鎖的に大爆発を引き起こす。

 

「綺麗だと思えたことなら何度でもあるわよ! だから、苦しいのよ! 悔しいのよ!」

 

 大爆発に巻き込まれて大きなダメージを負いながらも、楓の問いに焔は僅かな遅滞も見せずに即答した。

 楓に返ってきたのは激昂。激発したのは怒りであり、憎しみであり、小さな個人でしかない無力な己に憤っていた。

 優しさで世界は救えない。哀しいことだが、優しさとは甘さだ。幸せを願う気持ちなど嘲笑と共に汚し、侮蔑と共に踏み躙る輩もまた、当たり前のように存在している。その時に役に立つのは優しさではなく、何者にも屈しない強さである。

 

「どうしようもなく憎いのよ! 綺麗なものを殺す者達が、想いを穢す者達がいることが!」

 

 黒煙を振り払うように焔が纏う炎が勢いを増す。

 

「あなたに分かる! 家族を、友達を、知り合いを殺されて自分だけが生き残ってしまった現実が!」

 

 焔は英雄でもなければ強者でもなく、戦うどころか人を殴ることすら出来ない弱い子供だった。

 多くが死んだ村の中で自分だけが取り残され、一人だけフェイトに助けられた。一思いに死ねれた者はまだいい。中には残酷な方法で生殺しにされたり、死後も体を晒され辱められた者もいる。

 死者の無念を思えば後を追うことは許されず、石に噛り付いてでも生き延びなければならないという理屈は分かる。

 

「どうしたら死んだ者達の無念に報いられるのよ!」

 

 生にしがみ付いている自分を毎日見る悪夢が、どうして自分だけが生き残ったのかと責めたてる。血塗れで足を掴んで蒼褪めて死人のようになった末期の顔をこちらに向けるのだ。

 

「報いるにはみんなを殺した者に仇名すしかない。でも、弱い私に何が出来るっていうの!」

 

 相手は軍や集団である。一個人である少女になにが出来ようか。弱いからだ。自分がどうしようもなく弱いから泣き寝入りをしなければならない。

 

「だから私達は強くなった。誰にも負けない為に、挫けない為に、今度こそ奪わせない為に。フェイト様の望みを邪魔をする者は全て敵だ!」

 

 叫ぶその左眼が刹那、煉獄の如く真紅に染まる。

 暴炎。魔眼の瞳から視線に沿って超高熱の炎が噴き出す。途上にあった全てを悉く蒸発させ、けれど炎は勢いを止めずに直進する。着火する。

 大火災となった。壁を貫き這い回る魔眼の炎と猛煙が、焔の視界を地獄絵図に変貌させる。歪む空気。弾ける火花。視界の全てが紅く染まっていく。

 

「燃えろ! 燃えろ! あはははははは!」

 

 何もかも燃えてしまえばいいと、空っぽな心を映した感情声の底に張り付いてた。

 あまりにも人間らしく、しかし人間というには邪気のなさすぎる笑み。人を殺すのに一切の敵意を必要としない人間が此処にいた。

 

「拙者には貴殿らの気持ちは分からんでござるよ。分かるなど、口が裂けても言えぬ」

 

 でも、そうならなぜこうも昂るのか。否、と心が叫ぶのか。その目、その言葉が一々胸に刺さり、締め付けられる痛みを伝えてくれるのは何故だ。

 家族で死んだのは老衰と病死の祖父母のみ。両親は健在で知人も生きている。まだ本当に哀しいことを知らない自分には、彼女らの気持ちを否定できる資格がない。百も承知の上で、楓は歯を食い縛り、火傷で痛む体を押して奮える膝を奮起させて膝を立たせた。

 

「でも、分からないからって止まることは出来ないでござる。拙者にも闘う理由がある故」

 

 自分一人ではない闘う理由を想起して支えにし、楓は両の足を地面に押し付けた。

 

「ただ、これだけは言えるでござる」

 

 紅蓮の海の中で水分を奪われた喉を掠れさせて震わせた声を楓が放つ。

 

「確かに許せないのでござろう。憎いんでござろう。どうしてそれをみんなに聞こえるように声を大にして叫ばなかったのでござるか!」

「言って何が変わる! 個人の言葉が世界どころか国にさえ届かないというのに、一人で叫んだところで何も変わりはしない!」

 

 集団に、国に、世界に、個人の声がどこまで届くのか。どんな馬鹿にだって分かる。

 どんな相手が敵であっても非情に徹しなければならない。他に光に報いる術がないから。失ってしまった死者の嘆きに応えられる答えを持っていないから。こんな人どころか世界にも見捨てられた自分達に手を差し伸べてくれたフェイトに報いる術が。

 

「私達はフェイト様に救われた。差し伸べられた手に光を見て、その向こうに夢を希望を見たのです。あの方が求めることこそ、我ら救われぬ者達が望む世界。どんな苦難が待ち構えていようと必ず成就して見せる。でなければ、我らはあの方に報いることが出来ない」

 

 炎の中で偽りの世界を憎む少女らは踊る。

 

「変わらないかもしれないでござる。でも、分かってくれる人もきっといるでござる。拙者も、お主の言葉に感銘を受けたでござる」

 

 グッと詰まった焔の目の色を見て、真摯に楓は言葉を重ねる。

 

「お主から発せられた言葉が他の者を動かせば、他者もまた声を張るでござる。拙者の声を聞いてくれた誰かが声を発し、その者の言葉もまた誰かを動かし、連鎖すれば個人で終わることはない。きっと国を、世界を変えることだって出来るでござるよ」

「世迷言を! そんな都合良く上手くいくはずが……」

「やってもいない内から諦めている者が何も変えられるはずが無かろう」

 

 求める世界は同じなのに焔は英雄の仲間らのと間にどれほどの差異があるのかと疑問が過った。だとしたら自分達が選んだ選択は間違いだったのか。

 こうしている間にも「墓守り人の宮殿」の外ではこことはまた種類の違う戦いを続けている。

 

「拙者はこの世界が好きだから、今まで出会った来た全ての者に恥じたくない生き方をしたいから、今のままの世界を変えていくことを望むでござる!」

 

 楓の叫びに、しかし焔は一片も動じない。怒りに狂うのでもなく、嘲りに笑うのでもなく、罪悪を感じるわけでもなく。ただ動じなかった。

 その光景に、楓はゾッとした。焔には、恐らく理屈は通じない。儀式が発動してしまった時点で、何かレールのようなものから脱線してしまったんだろう。その結果、世界にどれだけの影響を与えるかなど分かりきっている。ただ、正しいものを正しいものへと還そうするように。

 それでも言葉を重ねなければならない、気持ちを伝えなければならない。分かり合うことを止めたら殺し合うことしか出来なくなる。それこそ希望がない。

 

「人だって偶には逃げたくなる。完全なる世界は一時の夢であるならば理想的でござろう。だが、夢は必ずいつかは覚めるもの! 拙者らは現実を生きているのでござる!」

 

 果たしてこの戦いの歴史に終わりはあるのか。それとも、これら全てを終わらせるには、彼女らの言うように「完全なる世界」を生み出すことがたった一つの手段であるのか。

 戦いながらも楓の心は激しく揺れていた。

 彼女には分からない。押し寄せる絶望に圧倒されながら、それでも焔からの攻撃を避けて飛び回り戦い続けた。

 

「虚構の価値は現実より低いと頭ごなしに否定するのか!」

 

 楓の言い様に焔は嗤われていると感じたのか、更に激昂した。怒りに反応して身を包む炎が勢いを増す。

 

「そうやって自分への卑下しているのはお主でござる!」

 

 と、抗いの言葉を言わせる確かな熱が楓の胸の中にあった。

 

「自らは幻想で、魔法世界が現実に存在しない。不完全で間違っているからと思い込もうとしている。もっと真摯に生きるべきでござる!」

 

 魔法世界は幻想なのかもしれない。魔法世界人は現実に存在していない不確かな存在なのかもしれない。だが、焔はそうやって自分を卑下し過ぎている。幻想だから、不確かだから、正すべきだとそう思い込もうとしている。

 

「それでも、それでも、私はこの世界に我慢ならない」

 

 思いがあっても結果として間違ってしまう人は沢山いる。また、その発せられた言葉が、それを聞く人にそのまま届くとも限らない。受け取る側もまた自分なりに勝手に受け取る。それは間違っている。だから恨むなと、嘆く人々に言えるだろうか。言えるはずがない。

 

「そう言ったお主らが始めたこの戦いでも戦争孤児を生まれてもでござるか!」

「それは……」

 

 新オスティア空域で戦争と呼べる戦いが行われているのは焔も知っている。

 戦えば誰かが死に、今もこうしている間にも誰かの親が死んで、どこかで戦災孤児が生まれているかもしれない。結果的にとはいえ、嘗て憎んだ者達と同じことをしていることを否定できない。

 戦災孤児を生み出さない為に始めた戦いが戦災孤児を生み出すこの矛盾を焔は無視出来ない。

 

「完全なる世界にさえなれば悲しみを知る前に――」

「自分すら騙せない欺瞞で他者を納得させられるわけがないでござる!」

 

 欺瞞である、と焔は認めざるをえない。

 完全なる世界の方が救われる者が多いことは間違いのない正義であるというのに、そこに至る道のりで憎んだ者と同じことをしている。

 焔も分かっていたことだ。大国達が抗うことも、兵士達が最前線で戦うことも。

 

「それでも、それでも私は……!」

 

 矛盾に気付いたところで、今更止まれるものではない。

 

「もう、ここで止まるでござるよ。完全なる世界に次代はないのでござるから」

 

 楓は叫ぶ。完全なる世界に『次代』というものはないのだと。

 誰かが誰かと競い合い、誰かが誰かを押し退けない。言葉にすれば理想なのに、現実にすればただの滅びでしかない。

 憎まないとは、そういうことだ。諍いがないとは、そういうことだ。他者との闘いなど思わないように、誰かを捻じ伏せたいと考えないように。ある種、理想の世界ではあろう。古代より夢見られてきた世界かもしれない。

 しかし、それはもう人の世界と言えるのだろうか。闘争は人間の本性だ。それを根絶するというなら、人間を根絶するのも当然だ。これが無意味でなくて何なのだ。

 

「お主が言っていた戦災孤児云々の前に、他人を区切り個人で世界を閉じるのならば、子供が生まれることが無くなるのはではござらんか?」

 

 焔も考えなかったわけではない。子供は他者同士が繋がって生まれて来る。世界を個人で閉じれば生まれようがないのではないかと。

 進化も変化も無ければ退化もない。幸福だけが強制された停滞である。子供が生まれるはずもないし、当たり前ながら成長もない。過去から現在を永遠にループする閉じた世界。完全なる世界に次代も末来もないのだ。それでも人々には幸福が約束されている。幸福だけが、約束されている。

 

「拙者も女でござる。いずれは、これはと思う良き男の子を孕み、産んで育てたいと考えているでござる」

 

 向かい合う焼け残った石柱で立った焔の視線の先で、炎に焼かれて色んな部位が露出している中で楓は腹部に手を当てた。そのポーズが示す意味を言葉と共に直ぐに察した焔も無意識に同じ場所を触る。

 

「お主にはいないのでござるか? これはと思う男は」

 

 言われて真っ先に想起したのは自らを救ってくれた人だった。

 

『僕達と来るかい? 返事はご両親を弔った後で良いよ、手伝おう』

 

 両親を、住んでいた村を、生きて来た全てを喪った焔に差し伸べられた手。

 忠節を誓い、その目的を知って必ず果たすと同じ境遇の仲間と誓い合った。もしも世界が最初から完全なる世界であったのならば、焔達は生まれることすら出来ない。同じ志を抱いて日々を過ごした大切な時間ですら存在することはなかったのだ。

 全てを喪う悲劇はあっても、この命は救われて、同じ境遇の少女達とフェイトに仕えた日々は幸福と言えるものだった。

 

「……………………だからって」

 

 連鎖する。思い出が、気持ちが、ここに至るまでに過ごしてきた日々が、今際の際に起こるという走馬灯のように連鎖して焔の脳裏を過っていく。

 自分の存在が不確かでも、世界が間違っていても、楽しかった日々を否定することは出来ない。

 

「…………だからって」

 

 戦災孤児を生み出さないという罅割れた信念であっても、一度始めたことを止められるほど焔は器用ではなかった。

 

「だからって」

 

 揺れ動く信念と願い。過去と現在と未来の狭間で焔は葛藤して、グチャグチャになった心のまま前に進む。

 

「今更、始めたことを止められるものですか!!」

 

 今までの最大の炎が焔の全身より噴き出す。

 二人にそれ以上の言葉は必要なかった。どちらも、ひっそりと呼吸を変えた。戦士にとって呼吸とは全ての大前提となる技術だった。即ち、彼らの選んだ呼吸とは戦いの息吹に違いなかった。

 次の一撃が勝負を決める。

 

「「「「「覚悟!」」」」」」

 

 楓の背後から距離を開けて、本体と共に分身体が躍りかかる。

 それにさえ、焔は反応した。全ての分身と本体の目測と、ほぼ同時に発動する炎の渦。

 空気が煮え滾る坩堝と化して、万象を悉く焼き尽くす現象が楓を呑み込むのを見て焔の唇を笑みに歪めた。

 

「!?」

 

 忽ち、人体が消し炭へと変わる。だが、燃え尽きたのは、防御に使われた手甲と纏っていた忍者装束の一部。分身が空けた空白に本体の楓が突っ込む。

 精々が分身で本体への攻撃の集中を避けようとしただけで最初から楓は防ごうとも避けようともしなかった。

 狙っていたのはカウンター。

 カウンターには二つの効果が期待できる。一つは当然、物理的な効果。例えば野球のように向かってくるボールを迎え撃つバットのように、小さな力でも大きな力を発揮する。しかし、迎撃の核となる真なる効果。それは物理的な部分ではない。

 心の隙間。憤怒、憎悪、闘争心、攻撃一色に染まった心。喰い縛るべき顎は開き、鍛え抜かれた頚椎の筋肉は緩みきっている。闘争の最中、被弾を忘れた肉体への迎撃。

 

「選ぶでござるよ……」

 

 最大の火炎を突破されたことに動揺して微かに目を見開いた焔と、楓が視線を交わらせたのは一秒未満の時間に過ぎなかった。

 

「このまま他人に全部預けて世界を変えるか、それとも自分の手で世界を変えていくのか!!」

 

 拳が、この上なく強く握られる。落下する勢いが合わさって、楓の高まる気によって光り輝く拳は彗星にも見えた。

 

「傲慢だろうが何だろうが、死んだ者達に胸を張れるものを自分で選んでみるでござるよ!!」

 

 炎をぶち破り、轟音が炸裂した。楓の拳が、焔の顔面を確実に捉えた音だった。

 家族、故郷、失った大切な人達、フェイトに救われたこと、同じ境遇の者達と過ごした日々、忠節を尽くしたこと、仄かな想い、絶対に何があっても守りたかったもの。

 確かに焔はこれから生まれる戦災孤児を防ぎたかった。

 現実を見れば夢物語でしかなく、人が人である以上は争いは避けられない。そうして声を発することを諦めてフェイトが望む世界の変革を手伝おうとした。

 そこで自身の思考の矛盾に気付く。

 戦災孤児が生まれるのを防ぎたかったのは本当で、不完全な世界を正すべきだと思ったのも本当で、でも完全なる世界を選んだのはフェイトが求めていたから。もしもフェイトが今の世界を変えていくことを望んでいたら焔は変わらず従っていたことだろう。

 

(私は完全なる世界を望んでいたわけではなく、ただフェイト様の望みを叶えたかったというの?)

 

 頬を打たれて真後ろに吹っ飛びながら焔は思う。

 信念を歪ませていた恋心を自覚した焔は、自分の中に蟠っていた何かしらの幻想が破裂するのを感じていた。

 

(ああ、私は……)

 

 仕えたのも、その目的を果たそうとした理由も気づいてみればなんということはない。

 元よりフェイトは自分達のような戦争孤児を拾っては面倒を見て、学校にも通わせてくれた。焔達にも勧められたが最後まで一緒にいたい気持ちが大きかった。世界を変えようと思ったことも、戦災孤児を生み出さないことも、何も偽ってはいないが、フェイトが好きだったから完全なる世界を求めた。

 もしもフェイトが完全なる世界を止めて別の方法を探そうと言えば疑うことも従うだろう。焔達にとって完全なる世界はその程度でしかない。

 

(フェイト様に恋い焦がれていた)

 

 恋心に理由を付けて信念を決めた自分の浅ましさを笑うしかない。

 主の意志を失った炎が、束の間だけ鮮やかな花火の如く世界を彩った。

 

「本当に――」

 

 世界はこんなはずではなかったと、やりきれない想いを抱えて、全く違う道の先を見ながら存在する。今ここにあるものだけが自分達の現実で、過去を振り返っても仕方ないと分かっている。

 誰も悪くなくても、何も欠けていなくても、人はすれ違うし、悲劇は起こる。どちらも哀しくて、どうしようもなくすれ違う。世界とはそういうものだ。分かっていても絶望せずにはいられない。こうなってしまっては現実を嘆かずにはいられない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 温くドロリとした沼のような闇に包まれているようなのに、アスカの意識はぼんやりとしていた。そのままジッとしていれば、体中が蕩けてしまいそうな、そんな感触に包まれていた。

 頭が、ぼうっとする。自分がここにいる理由だとか、そういうものが、まるで考えられなかった。あまりにも受動的であるため、アスカは沈んでいく意識へと埋没していく中の一方で思考する余裕もあった。

 何故、負けられないと思うのか。

 何故、勝たないといけないと思うのか。

 何故、倒さなければならないと思うのか。

 何故、行かなければならないと思うのか。

 何故、何故と自問自答が混濁した意識の中で交錯する。

 

「戦うと、決めた」

 

 アスカの敗北と死は、最高最大勢力にして屋台骨であった魔法世界側の陣営の威勢は崩れることを意味していた。墓守り人の宮殿内にいるアスカ以外の戦力ならばデュナミス一人でも対処は可能である。つまり、事実上の魔法世界陣営の敗北と完全なる世界の勝利が確定したとも言える。

 デュナミスの失敗はただ一つ。アスカの死をその眼で確認する前に勝利を確信してしまったことだ。

 何時だって英雄は定められた敗北を覆して勝利を掴む。絶望的な状況に陥った程度で死ぬようならば英雄と呼ばれるはずがないのだから。

 

「―――――――――ぉぉおおお」

 

 影の触手達の中から雄叫びが上がる。最初は小さく、やがて大きくなるごとに触手の隙間から光が溢れ出し、デュナミスが異変に気付いて対処しようするよりも早く、状況が一変する。

 

「ああああああああああああぁぁぁぁぁ―――――――っっっっ!!」

 

 影の触手が中心から爆発を起こし、中から傷を負っているもののまだまだ戦えるアスカが飛び出してくる。

 光に紛れるように、下がるのではなく真っ直ぐ向かってきたアスカによって蹴飛ばされたデュナミスが「ぬぐぅあ!?」と呻き声を出している間に、蹴りつけた反動を利用してアスカが離脱していく。

 

「逃がすものか!」

 

 放たれる奔流の如き死を躱す。噴き上げた粉塵が舞い上がる大気の中を、回避後のアスカの足跡が、宙を疾走したかのように天を点を結んでゆく。

 因縁と、怒りと、そして殺し合う理由が逆巻き、火花を飛沫を上げていた。

 

「ええいっ!」

 

 デュナミスは、跳び退るアスカに向けて更なる影の槍を追従させる。だが、寸刻前までは体に傷をつけるぐらいは出来た影の槍が今は服に掠るどころか追いつくことすら出来なくなっていた。前より、数分前より、一秒前より素早かった。

 

「その在り様、その才能(センス)。益々、ナギ・スプリングフィールドを彷彿とさせてくれるよ、貴様は!」

 

 若者の増長と言っても良いが、若いだけに俊敏で、その姿が十年前よりも更に若かりし頃の大戦期に戦ったナギを髣髴とさせる。

 肉を切るように左右上下から跳ねる様に迫る槍に今も悠々と攻撃を回避するアスカの姿が、二十年前の大戦期に僅かながらも直接矛を交えた若き紅き翼のリーダーの姿に重なって見えて忌々しいと感じることを抑えることが出来なかった。

 

「まだやられはせんよっ!」

 

 事ここに至って力の差は明白で攻撃が当たらずとも戦いようはある。

 現状はアスカの方がダメージが大きい。更に強くなろうがこのまま戦っていればデュナミスが勝つ。

 

「巨龍を葬る我が重拳の連突を受けよ、英雄!!」

 

 デュナミスの背中で影が絡まりながら肥大化し、巨大な腕を幾本も編み上げていく。仏教における信仰対象である菩薩の一尊である千手観音のように腕が増え、それらは握り拳を作るとアスカに殴りかかった。

 

「むぅうううううッ!!」

 

 芥子粒も残さんと秒間二千撃にも及ぶ剛拳の全てが迫っていたアスカに向けて放たれた。

 拳の残像は、あたかもアスカには十数本の腕が生えたかに見えた。

 黒棒を背後に放り投げ、魔法で空中に作った足場に両足をしっかりとついたアスカが剥き出しにした歯を食い縛り目を見開き、砕けよとばかりに強く足場を蹴りつける。

 

「オオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」

「オラァアアアアアアアアアアアアッ!!」

 

 言葉通り巨龍すらも葬れる前方方向全てにカーテンのように展開された拳撃をアスカは真っ向から迎え撃ってみせた。

 破壊の一つ一つは直径一メートルほどの円に過ぎないが、それが一分間に四千発を超える勢いで増殖し、一発でも十分に恐ろしい術を驚異的な方向へと進化させていた。

 桁が違う。一線を越えている。

 

「テメェの拳は――」

 

 苛烈にして峻烈、怒涛の連撃は確かに巨竜を屠ることも可能であろうが、ナギ・スプリングフィールド杯準決勝でジャック・ラカンと拳の打ち合いをしたアスカにはその拳が酷く軽く感じた。

 

「――――軽いんだよ!」

 

 押す押す押す…………。連撃を放ちながら一歩、また一歩と前へと進んでいく。

 

「我が使命の重みが軽いなどと……!」

「自分の願いを持てない奴の拳が重いはずがあるか!」

「ぐ、ぅ…………!」

 

 更に押し込められて漏れかけた呻きを噛み締め、デュナミスが右の拳を繰り出す。けれども、アスカはここにきて対応を変えた。左手を回した円運動で攻撃を逸らしたアスカは、デュナミスの右手を右脇の下にガッチリと抱え込んだ。その後ろからアスカの同じ姿の分身体が飛び上がる。何時の間に分身をしたのか。

 

「「「魔法の射手・雷の1001矢――」」」

 

 デュナミスの直上に差し掛かったところで、上空から分身体のアスカが魔法の射手を纏いながら落ちて来る。

 魔法の射手が渦を描くようにして分身体のアスカの全身に纏わりつき、バシバシと周囲に紫電を撒き散らしながらその規模を増していく。明らかに分身体の許容量を超えている力の発現は例えるなら水を入れ過ぎた風船のように、訪れる結末は内側からの爆発に他ならない。

 つまりは自爆。このままでは本体のアスカにも被害が行く。

 

「自爆か……!?」

「んなわけないだろうが!」

 

 驚愕を表に出すデュナミスに言いざま、アスカが左手をデュナミスの胸に当てて抱え込んだ右手を引っ張り上げた。アスカが後ろに倒れ込んだことでデュナミスの体が宙に浮く。背中が落ちて来る分身体にピンポイントに当たる位置に。

 

「「「――――雷華豪殺拳!!」」」

 

 分身体達はその手に魔法の射手を収束して殴りつけた。大爆発を起こして、生じた爆雷を周囲に撒き散らす。

 

「がはっ!?」

 

 片腕を捕まえられて空中で身動きが出来ないまま、デュナミスは背中に爆雷の集中攻撃を食らって苦悶の声を上げた。背中の千手の殆どが被害を受けて炭化してしまった。お蔭で本体にダメージは少ないが再構成しなければ攻撃力は低下する。

 

「まだ終わりじゃねぇぞ」

 

 しかし、アスカの攻撃はまだ終わらない。捕まえていたデュナミスの腕を解放し、戻した左手に閃光を放つほど溜めていた力を開放する。

 

「オラァッ!」

 

 目に背中を爆撃されて落ちかけたデュナミスの体が、目に見えない巨大な拳にぶん殴られたように大きく中空に吹っ飛んだ。空中に浮かぶブロックの一つに、十字架に磔にされたイエス・キリストの如く埋まる。

 本家には遠く及ばない豪殺居合い拳だが必殺の威力は十二分に持っている。それでも恐るべきタフさを見せて、片腕を埋まったブロックから出してノロノロと伸ばした。

 

「私は…………造物主の使徒たる私が負けるわけには――――」

 

 いかんのだ、と続きかけたデュナミスの台詞は敢えなく途中で遮られた。猛スピードで突っ込んできたアスカがデュナミスの顔を片手で鷲掴みにして、そのままブロックを抉りながら一気に横移動を開始した。

 

「ぬっ、ぐぅううううおおおおおおおおおお…………っ!?」

 

 造物主の使徒であるデュナミスの耐久度は普通の人間よりも遥かに優れている。魔法による恩恵も足されて、これで肉体が削られるなんてことはないけれど、それでも肉体に加わる衝撃はかなりのものになる。

 先の数体の分身による雷華豪殺拳を受けて耐久力が落ちていたので、電動鋸のエンジンのような嫌な音を立てながらブロックがデュナミスの体で抉られていく。

 

「ざらぁあっ!」

 

 やがてアスカはデュナミスの体でブロックを抉りながら端までやってくると、そのあまりある力を持て余すように絶叫をもらすと掴んだデュナミスを斜め下にある白いブロックへと放り投げた。

 今までに味わったことのないと思われるほどの衝撃が全身に叩きつけられ、幾十もの白いブロックを壊し飛ばしながら衝突して深々と埋まる。

 大砲の如き速さで白いブロックに叩きつけられたデュナミスは、隕石が落ちたかのようなクレーターの中心で粉塵に覆われてなくても見えない視界の先にいるアスカを睨み付ける。

 

「お、おのれ、この、え、英雄が…………!」

 

 誇るべき頑健さもこの場合は地獄の苦痛へと繋がる。いっそ死んでしまったら楽と思える激痛の中で、怨念混じりの苦しげな声を漏らすがそんなことをしている暇はない。

 

「雷の――」

 

 直上に現れたアスカが右手に極小の台風が顕現する。咸卦の力で行使されるその魔法は、周囲の空気を加熱するほどのエネルギーを放ち、標的となるデュナミスの心胆を底から冷やす。

 

「――――暴風!!」

 

 命を刈り取る死神の鎌の如く、雷霆を纏う台風がクレーターの底にいるデュナミスに向けて撃たれた。

 デュナミスは脳裏に過る走馬灯を振り払い、多数ある左腕を使って地面を叩いて射線上から辛うじて退避する。直後、クレーターの底を雷の暴風が直撃し、躱しきれなかった全ての左腕と足が一瞬で蒸発する。

 

「ぬぅあぁあっッ!!」

「デュナミス!」

 

 半身に走る激痛に呻きながらも体勢を整えるために上体を捻ると、引き寄せた黒棒を手にして全身に雷を纏いながら迫り来るアスカの姿が見えた。

 

「虚空影拳貫手八殺!」

 

 背中の千手を太くしながら迫り来る英雄に向かって槍のよう伸ばしその先を空間跳躍させた。

 虚空より突如として出現し、逃げ場もなく集中する影の槍を、アスカは体を捻って微かな隙間を縫って飛び込んだ。

 

「やる!」

 

 虚空より現れる影の槍の包囲網を抜けるには此処しかないという場所に躊躇いもなく飛び込んで見せたアスカに思わず賞賛の言葉を吐きながらも、接近戦では勝ち目はないと判断した。遠距離で勝負を決めるべく、巨大な右腕を放ちながら比べれば細い影槍を更に伸ばす。

 体ほどの大きさのある腕を擦るように滑っていたアスカは呼び出した黒棒を直近に伸びている影で構成された巨碗へ突き刺した。

 アスカは黒棒を突き刺したまま、巨碗を円を描くように抉り取りながらスピードを殺すことなく突進する。移動に不規則な要素が加えられたことで細い影槍が目標を見失ったように巨碗に突き刺さる。

 

「なに!?」

 

 思いも寄らないアスカの行動にデュナミスの思考に半瞬ばかりの躊躇いが混じる。

 たった半瞬の躊躇いの間に、影で構成された腕を円を描いて斬り進んできたアスカが目の前に迫る。回避行動も防御すらも意味のない距離へと近づかれたデュナミスに成す術はない。

 

「ぬおっ?!」

 

 抉り抜かれてきた腕に沿って叩き落とされた黒棒が、防御を固めようとしたデュナミスの身体を肩から脇腹にかけて一閃する。

 

「どうだっ!」

 

 手応えは重く、身体の芯まで伝わった。

 デュナミスを両断し、地面まで切り裂いて着地したアスカはもんどりうって倒れる。

 

「ッ……!」

 

 奥歯を噛み締め、直ぐに跳ね起きる。

 目の前で両断されたデュナミスが後ろ向きに倒れていくところであった。

 

「やっ、たか……!?」

「ぬ……ぅ……見事、と……言う、他………あるまい。貴様の、勝ちだ……」

 

 おどろしげなその声とは裏腹に、地面に仰向けになったデュナミスの体にはもはや力が入らないみたいだった。デュナミスの体から、黒い蒸気のようなものが立ち昇り始めた。

 

「再生核が、損壊している。私の死は、避けられぬ」

 

 死という、誰もに訪れる終焉の時。

 左横腹を背骨近くまで黒棒によって切り裂かれたデュナミスは、影や手で滝のように落ちる鮮血を抑えようともせず、静かな湖面のような瞳でアスカを見ていた。

 

「ウェスペルタティア末裔の血、英雄たる父以上の魔力、英雄と呼ばれるほどの貴様自身の才能と実力…………これだけ揃えられては、ただの人形たる私に勝ち目がないのは道理か」

 

 切り裂かれた脇腹から傷ついた腸が垣間見えている。地獄の苦悶に苛まれているだろう。それでも何事もなかったように話すデュナミスの異様さにアスカは畏怖さえ覚えた。

 

「負け惜しみもほどほどにして、さっさと死んどけ」

「ふん、虚無の洞で貴様が惨めに足掻く様を見届けよう」

 

 瞬間、大出血で蒼白になっていたデュナミスの顔面の右半分が弾け飛んだ。頭蓋骨の破片が、脳漿の飛沫と共に飛び、花火から飛び出た火の粉のように霞となって散った。けれど、デュナミスは自らの欠損に躊躇することなく悪意を込めて、にぃと笑った。

 

「私は敗けたが、完全なる世界が負けたわけではない」

 

 その間も黒い蒸気を上げ続けているデュナミスの体は、欠損部分以外も次第に薄らと透け始めていた。多分、蒸気のように見えているのは、デュナミスの身体を構成していたナニカなのだろう。それが解けて拡散し、密度が下がって向こう側まで見えるほどに透けてしまったに違いない。

 

「我が屍を越え、偽りの勝利を抱いたまま進むがいい」

 

 そして、全身を弾け飛ばせ、塵も残さずにこの世から消え去った。

 

「最後の最期まで口の減らない奴……」

 

 敵とはいえ、目の前で死んだ男の消滅を見届けたアスカは生命の一瞬を競り勝ったことに安堵し、荒い息をついて額の汗を拭う。無理をさせすぎた右手の指が緊張で拳の状態から解せなくなっているのを、左手で一本一本もぎ離してゆく。呼吸が整わず、何度も深呼吸して暴れる胸郭を宥める。

 全身を見れば酷いものだった。

 両腕は影の触手に絞り上げられ、皮膚を捲り上げられて内側の肉が見えてしまっている。脇腹には穴が開いており、全身も似たような物で折角の一張羅も台無しである。

 

「勝つのは、俺達だ」

 

 消えていなくなったデュナミスに向けるように言った途端、硝子細工を粉々に叩き壊すような高くけたたましい不吉な音が響いた。地鳴りのようなそれは、よく耳を澄ませば世界の全てからしているのだった。この世界が崩れ去ろうとしている。

 その瞬間に、文字通り世界が崩れて、壊れて消えた異界の隙間から本物の世界が姿を現した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無限抱擁の閉鎖結界空間が解かれたということは、本来のアーティファクトの持ち主である環と造物主の鍵による使用代行権を持つ結界内のデュナミスの双方が倒されたことを意味する。 

 

「全員、無事か?」

 

 結界内から墓守り人の宮殿へと帰還したアスカが真っ先に気にしたのは仲間の安否だった。

 

「いや、まずお前が無事なんかアスカ」

 

 倒した焔達を狗神で拘束していた犬上小太郎が突如として背後に現れたアスカに咄嗟に身構えたが、誰かを理解すると構えを解く。

 煤と血の跡で汚れている小太郎はアスカの全身をしげしげと眺め、両腕の状態と全身に負った浅からぬ傷から、かなり激戦を潜り終えたと分かる様子に労わるように口を開いた。

 

「そっちは倒したみたいやな。結構な苦戦やったみたいやんけ」

「まあ、な。そっちも大変だったぽいじゃないか」

「こっちの方が先に終わっとるけどな」

 

 小太郎に言われてアスカが視線を動かすと、狗神に拘束された少女達の近くで長瀬楓だけが地面に横になったまま動かない。

 

「楓はどうした?」

「気を使い過ぎて動けんようや。意識が戻るまで時間がかかるやろう」

 

 衣服の損耗具合を見るに負った傷は大きかったのだろう。気は体力を源にしているとも言われる。傷は癒されても気が尽きていては起きることも出来ない。

 激戦を潜り抜けた楓に一番必要なのは休息、それには寝ることが一番手っ取り早い。

 

「傷は治すえ。アスカ君が最後や。ほら、動いたらアカン」

「分かったって。助かる」

 

 近くで古菲の治療を行っていた近衛木乃香が駆け寄って来る。気にせずに動こうとしたアスカを強い視線と言葉で押さえつけ、特に酷い腕の治癒を始める。

 

「うちが出来るのはこれだけやから」

 

 少し沈んだ様子の木乃香に礼を言うと、茶々丸が近寄って来る。

 

「申し訳ありません、アスカさん。一度は明日菜さんを奪還したのですが、取り返されて樹霊結界を施されてしまいました」

 

 言われて明日菜の方を見れば、大祭壇上部にある幾重ものリングに囲まれた球形の中心で十字架にかけられているような姿勢の明日菜の姿を木が覆い隠している。

 

「気にすることじゃねぇさ。罠にかかった俺が言えることはねぇよ」

 

 アスカ達が激闘を潜り抜けた理由、十字架に縛られている両腕を拘束されて宙に浮かぶ神楽坂明日菜の姿。今は概念結界に包まれ、眠ったように目を伏せて浮いていた。

 治療を終えたアスカは未だ空を覆うオーロラの如き魔力の川を見上げる。

 勝利の余韻に浸っている時間はない。自分達は、一刻も早く明日菜を助け出さなくてはならないのだから。

 

「さあ、明日菜を助けようぜ」

 

 全員で大祭壇に向かい、直下から明日菜を見上げる。

 

「下手なことをすると明日菜まで傷つけてしまいそうアルな」

 

 全員揃って文殊の知恵とはいかないようだ。早々に古菲は強硬策を捨てる。

 

「明日菜!」

 

 親友の木乃香の声に、明日菜は反応しなかった。拒絶の沈黙ではない。まるで深い眠りに落ちているかのように、明日菜の瞳は閉じたまま開かない。

 

「――――――」

 

 祭壇を覆う結界とその内側に広がっていた樹霊結界の中で反応しない明日菜の様子を見たアスカの眼がスッと細まった。

 

「儀式の中枢なのは明日菜の能力だけだ。意識は邪魔になる。声かけぐらいじゃ目覚めないのは当然か」

 

 「完全なる世界」がしようとしていたのは、二十年前と同じく儀式を発動させて世界を創りかえること。そこに明日菜の意識は必要ない。必要なのはあくまで「黄昏の姫巫女」としての能力であって、儀式の核に寧ろ自意識は邪魔でしかない。

 生半可な手段では目覚めないように魔法的な処置がされていると考えるのが自然。 

 

「明日菜は儀式に不可欠。能力がどこまで密接な関係にあるかは分からない以上、下手な処置はしてないはずだ」

「では、どうするのですか?」

 

 迂闊な真似は出来ないところだが、明日菜の存在は「完全なる世界」でも最上位の扱い。何しろ明日菜が欠けてしまえば途端に儀式は失敗する。

 とはいえ、茶々丸の言うように手探りの状態で目覚めさせる方法を探すしかない。

 

「まだ儀式が始まる時間には余裕がある。一通り調べてから――――」 

 

 下ろそう、と言いかけたアスカの口が止まった。

 不審に思った木乃香達が問いかけかけたその時だった。背後から声がしたのは。

 

「――――彼女は儀式の重要な鍵だ。勝手に下ろされては困るな」

 

 それはその場にいる全員が知っている、感情の感じさせない人形のような声音。

 全員がゆっくり振り返ると、そこに佇んでいたのは絶対零度の瞳を持つ今まで現れなかった仇敵――――フェイト・アーウェンルンクス。以前の少年のものとは違う、アスカに伍する体格を何時もの制服で纏って立っている。

 

「フェイト様!」

 

 敗残兵となった調が喜色も露わに主の名を叫んだ。

 戦闘能力を奪われながらも大きな怪我を負っていない少女達に、フェイトはアスカ達に向けるのとは全く違う慈しみにも似た眼差しを向けて安心したように微かに笑み、再びに視線を戻すと人形そのままの鉄面皮に戻っていた。

 

「調整に思ったより時間が掛かってしまったけど、どうやら間に合ったようだね」

 

 フェイトが現れた途端、辺りの空気が変わった。強い静電気が発生したかのように、空気がビリビリと震え始めたのだ。

 震えているのは空気だけではない。小太郎と少女達の身体も意志とは無関係に震えていた。実際に静電気が発生したわけではない。フェイトが放つ凄まじい闘気が、空気と彼らを震えさせているのだ。

 

「皆、下がっていてくれ」

 

 フェイトから全く視線を外さずにアスカが言った。

 あまりにも硬質な、対話など不可能と思わせる凝り固まった意志。最初に出会った時からそうであったように、相手を否定することしか出来ない二人の関係性はここに結実する。

 小太郎と少女達も二人の戦いが自分達の介入出来る余地のない領域にあると、発せられる空気から肌で感じ取り、大人しく従ってその場から大きく離れる。

 

「随分とデュナミスにやられたようだね。傷は癒せても疲れは隠せていないよ。そんな状態で今の僕とやる気かい?」

 

 アスカが一歩ずつ着実に歩みを進める。自らの前にも、また自らの内側にも、臆することが何一つない。そんな毅然たる歩みであった。どれだけの経験を積もうとフェイトには出来ない歩き方である。

 

「ここは戦場だ。勝者だけが望みを勝ち得る。対等な条件で戦いたいってんなら最初からこんな場所へ来ちゃいねぇ」

「安心したよ。でなければ、僕も調整した意味がない」

 

 静かな殺気を孕んだアスカとフェイトの間合いは、徐々に狭まってゆく。そしてついに両者は、墓所の中央で対峙した。同時に二人は足を止めた。互いを隔てる距離は既に二メートルを切り、踏み込めば殴れるからだ。

 

「僕達は自分の意を通すために闘う。勝者は全てを得て、敗者は全てを失う。相手がどうであれ、勝たなければ意味がない」

 

 片や、紅き翼の意志を受け継ぐ英雄。

 片や、完全なる世界の存亡を託された悪役。

 相似して相反する二人は、遂に衝突の瞬間を迎えたのであった。

 世界の命運を決定付ける二人の眼光が、間近で激突する。

 

「俺が勝つ。今を生きる者達が明日を掴むために」

「僕が勝つ。過去に死んだ者達の望みを叶える為に」

 

 それが合図。世界の頂点に立つ怪物と怪物の闘いが、ここに幕を開ける。両者は互いの存在を賭け、宿命の闘いの火蓋を切って落とされようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り三時間十九分一秒。

 

 

 




次回『第84話 二人の後継』


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第84話 二人の後継

 

 

 

 

 

 戦場は墓守り人の宮殿内部やその空域だけではない。地上もまた戦場だった。空を飛べない戦士や重武装隊が激戦を重ねている。空にいるのとは違うタイプの召喚魔が何千、何万と召喚されていたのだ。一軍となって戦士達に襲い掛かっていた。

 

「ちくしょうっ! キリがねぇぜ、こりゃ!」

「ぼやくな、トサカ! 次が来たぞ!」

 

 双剣を振るってガーゴイル型の召喚魔を切り裂いたその名の通りに鶏冠のようなモヒカンヘアーをしたトサカの弱気に、兄貴分のバルガスがスキンヘッドでいかつい外見のまま頭を叩く。

 バルガスとてトサカの気持ちが分からぬわけではない。彼自身、無詠唱の砂の魔法の射手を放って道化師型の召喚魔を打ち倒した辺りで斃した敵の数を数えるのを止めていた。キリがないだけでなく、数を重ねるほど虚しくなるだけだからだ。

 

「ほら、アンタも頑張んな」

 

 現役時代に使っていたバトルアックスで敵の攻撃を弾き飛ばしたクママチーフも後ろを振り返ることなくトサカを鼓舞する。

 しかし、かくいうトサカを鼓舞したクママチーフも最早疲労は限界にまで達し、バトルアックスを握る手に力が篭らなかった。

 クママチーフは現役を引退してから十年以上が経過している。簡単な基礎鍛錬自体は怠っていなかったが、長らく実践から遠ざかり肉体も衰えているので、肉体的な面で言えば現役を続けている二人と比べて劣っている。

 

「こいつらを全部、斃さないといけないのは流石にきついねぇ…………」

 

 汗に流血に敵の血と、トサカを鼓舞したがウェイトレス服が見る影もなく汚れてしまったクママチーフが初めて弱音を吐く。そこへ、また新たな召喚魔が襲ってきた。

 二十年前、大戦末期のオスティア崩壊と共に国を失ってから共に行動している三人の絆は強い。携えている獲物からクママチーフが大型を、双剣を持つトサカが小型を、高位の魔法使いであるバルガスが中型だけに留まらず臨機応変に対応する。

 ガーゴイル型のように人間と同じような四肢に、全身を鎧で覆って剣や槍といった武器を持つ戦士型である。地上にだけ現れるタイプで、他にもでっぷりと太った体躯に道化師のような服を纏った巨漢の道化師型と合わせて強敵である。

 道化師型が巨漢に合う強大な腕力による破壊力を持つように、戦士型は持っている武器による白兵戦に特化した厭らしい特徴を持っている。

 クママチーフを襲ったのは非常に大柄な彼女に負けない体格で、鉄槌を持った戦士型であった。

 大まかな特徴として、道化師型は巨漢に似合う破壊力を持っているが相反するように動作は遅い。戦士型は素早く技もあるが一撃一撃の破壊力は他のどの召喚魔のタイプよりも劣っている。

 なのに、クママチーフ襲った戦士型は巨躯に似合わぬ速さと技、力を融合させた稀有な個体であった。

 勢いよく振り下ろされた敵の鉄槌を、クママチーフはバトルアックスを翳してなんとか受け止める。鉄同士が激しく打ち合わされ、銅鑼のような音がした。

 

「ママ!?」

 

 鉄槌を受け止めたクママチーフの足下が衝撃を物語るように陥没する。

 思わず別方向から接近したガーゴイル型の相手をしていたトサカが振り返って叫ぶ。

 

「この馬鹿! 闘っている最中に余所見をする奴がいるか!」

 

 バルガスの怒号にトサカが眼前のガーゴイル型に意識を戻した時には既に攻撃範囲に潜り込まれていた。

 手に持つ小回りの利く双剣でも間に合わない。

 

「ぐっ」

 

 ガーゴイル型の爪が胸に伸びて来る瞬間、トサカは自分でも良く反応した思う速さで咄嗟に横へ跳躍した。それでも斬りつけられた腕に激痛が走るが、そうしていなければ鋭い爪に抉られて身体に風穴が開いていたことだろう。

 

「トサカ!?」

 

 クママチーフとバルガスは弟分の危機にそれぞれが相手をしていた敵を瞬殺する。

 特に疲労の極致に到達していたはずのクママチーフの鬼気迫る気迫に、相対していたはずの鉄槌を持った戦士型は成す術もなくバトルアックスに頂点から両断された。バルガスもクママチーフに負けず劣らず、トサカに傷をつけたガーゴイル型に牽制の魔法の射手を放って距離を取らせ、自分達以外の周りに向かって全方位に向かって中級魔法を連発する。

 瞬く間に周囲の敵を掃討して、傷ついたトサカに駆け寄る。

 

「大丈夫か?」

「何ともねぇよ。二人とも大袈裟なん……っ!」

「何がなんともないだ。確かに直ぐにどうこうなる傷じゃないけど、この腕じゃ剣は振れないよ」

 

 バルガスが油断なく周囲を警戒しながら荒い息を吐きつつ訊ね、強がったトサカはクママチーフがバトルアックスを地面に突き刺して取り出した包帯を強く巻かれて言葉を途切れさした。

 クママチーフの言う通り、傷自体は深くはなく命に別状はない。だけど、剣を振るって激戦を戦えるほど浅くはない。

 

「アンタは下がりな。ここはあたしとバルガスで何とかするからさ」

 

 仲間達の姿も戦闘の混乱の中に消え、背中を預け合うようにして戦っていたこの三人が離れないようにするのが精一杯であった。

 トサカも戦えないことはないが負傷を抱えたまま続けられるほど生易しい状況ではない。無理だと分かっていても弟分が死ぬことに耐えられず、クママチーフは嘯いた。バルガスも同じ気持ちなのか、寡黙に頷く。

 どうやらこの周辺の戦闘は小康状態になっているようで、今のトサカでも撤退出来る状況にある。

 だが、言われた当のトサカは答えず前方、つまりはクママチーフの背後の方を無事な手で指差す。振り返ったクママチーフの顔に、絶望が浮かんだ。

 

「そうも言ってられる状況じゃなさそうだ。新手だぜ」

 

 包帯に血を滲ませたトサカが苦々しげに呟く。彼らの視線の先には、新たに十数体の召喚魔が悠然と進んできた。

 まだ生きてはいるが地に伏せたまま動けない召喚魔の肉体を踏み潰しながらもなお進軍は止めない。憑かれたような行軍には意志というものが感じられず、ただ本能が命じるままに動いているとしか見えなかった。

 

「ど、どうしようママ」

 

 微かに怯えさえ見せるバルガスに、クママチーフは迷う。先ほどの鉄槌を持った戦士型を倒した渾身の一撃で最早握力は殆どなくなっていた。援軍が現れる気配はなく、他の拳闘士たちがどうなったかも分からない。

 震える手を持ち上げた。じん、と痺れていて、バトルアックスどころか小石を持ち上げることも覚束ないかもしれない。

 もう無理や危険どころの話ではなかった。死力を尽くしてきた。それでも、どうにもならないのだ。逃げて確実に逃げ切れる、というものでもないが、少なくともここにいるよりは目があるだろう。

 

「逃げ…………」

 

 逃げよう、と言いかけるクママチーフにバルガスも仕方ないと思う。自分達の限界を把握していた。オスティアが滅びて奴隷になった経験が死にさえしなければどうにでもなると分からせる。

 

「逃げねぇ!」

 

 だから、片手に短剣を握ったトサカが二人の前に歩み出て、言い切った時には驚いた顔を向けた。

 

「アリカ様の息子が、アスカが今も闘っているんだ! 俺だけが逃げることなんて出来ない!」

 

 大戦末期のウェスペルタティア王国王位簒奪の経緯から、秘密結社「完全なる世界」の黒幕ではないかとの有力な証拠が挙がるにいたり、国際法廷による裁判の結果として18年前に処刑された長年の間、タブーとされてきた災厄の魔女アリカ・アナルキア・エンテオフュシア。

 旧オスティアに住んでいたトサカ達はアリカ女王を恨んでいてもおかしくはなかった。中には難民生活が辛いから逆恨みをする者もいた。だが、大戦前のアリカ女王は身分の差なく民に接してくれる気さくな姫として慕われていた。トサカも一度だけ間近で姿を見たことがある。オスティア大崩壊の時も一人でも多くの民を救おうとした必死な姿を見て聞いて、そんなヨタ話を信じていない。

 だから戦犯として刑死したと聞いた日には絶望した。アリカ女王はオスティア難民の心の支えでもあったのだ。

 けど、あの放送で明かされた二十年前の真実と自らを災厄の魔女の息子と名乗ったアスカ・スプリングフィールドの存在が全てを覆す。

 アスカが名乗っているだけで、なんの物的証拠はない。だが、確かにあの強き眼差しに、一人でも多くの民を救おうとしたアリカ女王の面影を見た。

 嘘はないと自らの直感が告げている。ならば、アリカ女王の処刑は政治家が作り上げた真っ赤な嘘で、家名からどこぞの英雄が颯爽と救い出して子供が生まれるまで幸せに暮らしていたことを証明している。

 

「いま逃げたら俺はアリカ様に顔向けが出来ねぇ。そんな情けない男になることは出来ねぇよ」

 

 魔力は微かしか残っておらず、疲労は全身に重く圧し掛かっている。片腕は負傷して武器の双剣の内の片方は使えない。

 しかし、トサカはそんなことがどうしたと言わんばかりに強大な敵に立ち向かう。

 トサカの胸に宿るのは意地ではない、誇りでもない。近いものを上げるとすれば忠義。一国民でしかなかったトサカの胸に宿るのは二十年前から胸の裡で燻り続けた心の灯だった。

 

「二人は…………」

「やれやれ、数だけは多いね」

「全くだ。戦い甲斐があるってもんだ」

 

 逃げてくれ。そう言うより先にクママチーフは両手でパトルアックスを持ち上げて一歩進み出た。戦いの旋律で身体強化をしながらバルガスも続く。

 

「……………来るぜ」

 

 気持ちは同じだと語る背中に静止の言葉は必要ない。トサカも無事な方の手で短剣を握り、視線を召喚魔にだけ据えている。意識を敵へと集中させた。

 ここが正念場だと、彼らは理解していた。

 自分達が相応の時間さえ稼げば、必ず希望は訪れてくれるのだと。

 

「頼むぞ、アスカ」

 

 英雄という名の希望が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 世界は嘘のように静まり返っている。既に何人たりとも邪魔をしてはいけない戦いが始まっていることを、世界そのものが理解しているかのように静かだ。

 金髪と白色の髪に、激烈なる闘志を秘めた深緑と寒気がするほどに澄んで無機質な藍色の瞳を持った二人の青年が対峙する。獰猛な眼は互いを映し合う。

 制服と戦闘服に包まれた身体は一見するとスリムに見える。だが、見るものが見れば、それが如何に鍛えられた肉体であるか気がつくだろう。穏やかな佇まいの中に見え隠れする鮮烈なオーラ。それは一流の実力者だけが持てる、確信にも似た余裕の表れだ。

 互いにちゃんと向き直ったのはこれで三度目。

 ジャック・ラカン、ネギ・スプリングフィールドとの激闘を潜り抜けて強くなったアスカをして、目の前に立つ以前よりも大きくなっているフェイトの身体から感じられる力は恐るべきものだった。

 フェイトもまた、デュナミスに能力を限界以上に調整させたにも関わらず、彼我の戦力差が紙一重レベルしかないことを悟って眼をスッと細める。

 この程度の距離は、互いに何の障碍にもならない。共に承知している。自分達は既に、一足一刀の間合い――――――――――ほんの少し踏み出すだけでぶつかり合う。そういう状態にあるのだ。

 

「アスカ」

「フェイト」

 

 二人は互いの名を呼び合った。そこには、敵意はあっても殺意は含まれていない。

 憎しみ合っているわけではない。恨み合っているわけでもない。だが、戦わなければならないと感じている。もはや和解の機会は失われている。いや、最初から機会などなかった。和解が不可能だったからこそ、事態はここまで悪化しているのだ。

 互いの発する力が、目に見えないところでぶつかり合っているのだろうか、二人を中心とした地面がピシピシと罅割れていく。地面が微震し、パラパラと砂塵が宙に上って空気が重くなっていく。

 

「今からでも遅くない。儀式を止めるつもりはないか」

 

 戦場で熱くなってはいけない。気を抜いてはいけない。調子に乗るなど愚の骨頂だ。戦意と闘志で心を燃焼させるのはいい。だが、それを表に出してはならない。常に平静を保ち、冷静な視線を向けねばならない。

 

「くどい。現状を維持し、希望を未来に託すなど危険性(リスク)が高すぎる。それよりも発動すれば確実成功する完全なる世界(コズモ・エンケレディア)を僕は求める」

 

 フェイトは自分の成すべきことを完全に理解していた。歪み、腐りきったこの世界を終わらせる。例え生まれ変わった新たな世界を、自分が目にすることが叶わなくとも。

 

「人はどれほど賢くなろうと、正しいことは出来ない。歴史がそれを証明している」

 

 あらゆる者を救うことなど出来ない。あらゆる者が幸せになる世界など来ない。だからこそ、フェイト・アーウェンルンクスは立つ。

 

「知ったことか。人は、正しくても悪でも、過ちを犯す。積み重ねていくことで変わっていくと俺は信じる」

 

 フェイトからは、悪が斃れ、世界が正しくなることの期待をヒシヒシと感じた。

 だが、ここまで辿り着かせた想いがアスカの足は止まらない。

 

「根拠のない楽観論に賭けるつもりはない」

「分かった。なら俺は、どうあってもお前を倒すことで証明しよう」

 

 何時しかアスカは微笑していた。獰猛に口の端を曲げる、獣の笑み。それは、闘争の喜悦を抑え切れない故に零れる、戦士の徴であった。

 

「君に出来るかな?」

 

 アスカと同じ笑みが浮かべたフェイトの身体が、魔力光である蒼い光に覆われる。

 アスカは対峙しながら構えを取った。フェイトも同じく構えを取る。

 相手は動かない。こちらも動かない。呼吸を整え、互いに相手を待っている。靴の中で、足の指の位置を変える。体重の分配をミリ単位で調節しながら、最善の場所を探す。二人の体勢は自然と低くなっていた。筋肉によって骨を引き絞るのは、弓のそれに似ている。

 じりっ、と足を前に進める。呼吸を練る。それを吐き出すタイミングを求めて、視線が巡った。視線は目の前の相手の目で定まり、そこからは微動だにしない。

 音が消えた。永劫かと思えた一刹那の直後に、

 

「はあああああああああああああああああああっ!」

 

 咆哮と共に予備動作一つ無く、烈々と繰り出されるフェイトの拳撃。アスカは手と体捌きで、全てを躱し切る。

 

「おらぁ!」

 

 即座に繰り出されたアスカの反撃は、ただ一撃。ただし、並みの一撃ではない。踏み出す。その踏み込みだけで力尽きても構わない思いで、アスカは全身を跳ねさせた。跳躍が距離を失くし、一瞬地面から離れた足が地面に吸い付くと同時、相手の急所目掛けて収束した拳を突き込む。

 果断の一撃が齎した烈風は、横の動きで躱したフェイトの残影を突き抜ける。

 地面を、天を突くような衝撃波が走り、凶器と化した拳圧は、軌道上にあったモノを次々と破壊しながら、遠く離れた大きな建物の屋根に着弾して爆砕した。

 

「「――――――」」

 

 弾かれたように、両者の身体は大きく間合いを取る。砕かれた屋根は崩れ、瓦礫が建物を押し潰す轟音が地震となって墓守の墓所に響く。

 戦場の誰もが、言葉を発しない。観戦者となった彼らはただ息を呑み、冷や汗が背筋を流れるがままに任せていた。

 誰もが、強さを極めた超人同士の人知を超えた戦いぶりに、圧倒されていた。いずれかの実力が劣っていても、もう一方は全力を出す必要はない。強者の闘いにおいて、両雄の力が均衡していて始めて真の獣欲を剥き出しにした決闘が起こるのだ。

 

「お前のその曼荼羅のような多重高密度魔法障壁は、強固であっても無敵ではない。破ろうと思うのなら、さっきみたいに防御を上回る一撃を与えればいい」

「確かにあれだけの威力なら破れるだろう。だけど、そんな大振りが当たると思っているなら甘いよ」

 

 睨み合う両雄の力の高まりに沿って、墓守の墓所全体に地響きが起こる。周囲に満ちている魔力が反応してざわめいてるのだ。

 

「まさか、他に方法がないとでも思っているのか?」

 

 殺伐とした眼でフェイトを睨むアスカの、白の魔力光が、彼の右拳に集中していく。

 

「試してみたらどうだい。させないけどね」

 

 フェイトの挑発に光に照らされて銀髪にも見える白髪を風に舞わせ、獲物を狙うように、後ろでに回した手から黒棒を取り出し、弧を描いて構えた。

 対峙するフェイトもまた身の丈を遥かに超えた石で出来た大剣を魔法で作り出し、片手で軽々と振るって構えた。

 

「「……………」」

 

 武器を構えた両者の一瞬の沈黙。

 

「はあああああああああああああああっ」

「うおおおおおおおおおおおおおおおっ」

 

 一瞬の静寂から一転して、互いに発した気合が重なり合い弾かれたように前へ出た。アスカとフェイトの距離が急速に縮まり、さっきまであった距離の中央で両者は肉薄。二人が激突する。黒棒と無骨な岩の大剣がぶつかり合い、金属の塊である黒棒は別にしても岩から削りだしたようなフェイトの持つ大剣が出すには激しい金属音が打ち鳴らされる。

 厳密には二人の武器は接触していない。武器に纏わせた力が反発して金属音にも似た音を奏でているのだ。現にギリギリと鍔迫り合いを続ける二人の狭間からはガラスを擦ったような音が今も尚、鳴り響いている。

 

「……っ!」

 

 このままでは埒が開かないと考えたアスカが力を込めてフェイトを域の届く距離から僅かに弾き飛ばし、出来た間隙に流れるような横薙ぎを繰り出した。だが、フェイトは地面を蹴ってこれを回避。

 フェイトは距離を詰めることなく、その場で大剣を横薙ぎに振るう。

 武器の重量差と大きさの二点から受けたとしても、こちらの剣の攻撃範囲では届かない。敢えて受けることはせず、身を地面に着きそうなぐらいに低くして遅れた髪の毛が両断させるのを感じながら黒棒で斬り上げた。

 己に迫る黒棒を手首を捻って大剣の柄で受け止めたフェイトは、斬り上げたことでがら空きの脇腹へと蹴りを叩き込む。

 

「ぐっ」

 

 蹴りを受けたことで口から呻き声が漏れ、その隙に振るわれた大剣で弾き飛ばされるアスカ。

 持つ得物の違いから攻撃範囲の大きさが異なる二人。大剣の大きさを活かせば一方的に攻撃出来るフェイトと懐に潜りこまねば攻撃を当てることの出来ないアスカ。

 戦いは必然的に近接戦闘へ突入する。互いの距離が縮まり、アスカの間合いまで、後半歩まで縮まった瞬間に姿が掻き消えた。

 高速移動。フェイトは咄嗟にこれに反応する。

 身を屈めて背後を庇うように大剣を構えたのと、金属音が鳴り響いたのは同時だった。背後からの攻撃を防いだフェイトは、そのまま大剣を振り回して弾き飛ばす。そして、

 

「―――――喰らえっ!」

 

 超重量級の大剣を身軽に剣撃を放ち、衝撃波の刃を放った。しかし、アスカは武器であっさりとそれを打ち払う。

 その時には、既にフェイトは距離を詰めていた。重量にモノを言わせて叩き伏せようと空中にいるアスカ目掛けて振り下ろす。大剣は過たずアスカの身体を左右に切り裂いた。

 

「っ」

 

 それは成功した。フェイトの大剣が完全にアスカの身体を左右に切り裂いた。避けようのない絶命の一刀を見舞ったのだ。

 なのにフェイトの表情はやにわに硬直した。大剣は確かにアスカを切り裂いた。にも関わらず、全く人体を切り裂いた手応えがない。手の中に残る感触は、例えるなら岩を斬った(・・・・・)ような…………。

 

「なにっ?!」

 

 そう思った瞬間、左右に切り裂かれて地に落ちるアスカの身体に驚くべき変化が起こった。切り裂いた筈のアスカの体がブレる音と共に断ち切られた岩の破片に変わり、本物は呆然自失となっていたフェイトの背後で黒棒を振りかぶっていた。

 

「はぁあああっ!!!」

 

 フェイト目掛けて一気呵成・縦横無尽に斬りかかる。不規則な威力と速度の斬撃をランダムに織り交ぜる。大剣より攻撃範囲が小さいことを利用した懐に潜りこんでの剣撃の乱れ打ちだ。

 一気に決める、とアスカの意気込みが伝わってきそうなほどの勢い。回転の速すぎる連撃によって空気を切り裂くことで鳴らす羽虫が羽ばたくよう独特の風切り音と、連続した衝突によって発せられる金属音が同時に鳴り響いたことで一種独特の音を生み出していた。

 それが表すことはつまり、フェイトがアスカの連続斬りを全て受けきっているということになる。

 

「くっ……この……っ」

 

 言葉で言うほどアスカの攻撃を捌いているフェイトに余裕があるわけではない。空を裂いて繰り出される剣撃は、フェイトの目にも捉えきれないほどの速さを持っていた。フェイトは反撃することすら出来ず、防御に専念させられることになった。

 目で追うのではなく、反射的に剣を振るわなくては対処出来ない程の高速の剣撃に、先程から防戦一方に陥っているのがその証拠である。それに扱う武器の性能差か、受けた攻撃の差か岩の大剣がピシピシと罅が入り始めた。

 

「っ!」

 

 ここが攻め時だと直感したアスカは更に攻撃の回転を速めた。余りにも速過ぎて攻撃を重ねるアスカの姿がブレるように増え、無数の残像を生み出した。傍から見れば何人ものアスカが攻撃をしているようにも見えよう。

 

(このままでは不味いね………なら!) 

 

 フェイトは自身が持つ大剣の罅が致命的な所にまで達しかけているのを見て、不利な状態に追いやられていることを自覚して一か八かの策に出ることにした。

 

「これでっ」

 

 アスカもまた戦況を優位に進めていることを自覚して、ここで勝負を決めるべく決断した。

 今までよりも多くの雷撃が流された黒棒が高音を奏で始める。

 全てを切り裂く雷光に光り輝く剣が、罅割れて頑丈さの大半を失った大剣を破壊した上でフェイトをも切り裂けるだけの威力を持って振り下ろされようとしていた――――フェイトが予想外の行動を取りさえしなければ。

 フェイトがアスカに向けて大剣を放り投げた。それだけではない。幾ら罅が入って脆くなったといっても大剣を破壊するのにコンマ数秒程度の時間を要する。それだけの時間があれば、破壊された瞬間に両手で真剣白羽取り(一か八かの策)が可能だった。

 

「な―――っ」

 

 思わず絶句するアスカに、フェイトは横蹴り。堪らず宙を吹っ飛ぶアスカの手から黒棒が離れ、荒れ狂い始めた魔力乱流に乗って何処かへ飛んで行ってしまった。

 

「余所見をしている余裕は無いよ!」

 

 ほんの0コンマ数秒程度の時間だけ黒棒が飛んで行った方に意識をやったアスカに叫びながら無手で迫るフェイト。

 

「……!」

 

 一足飛びに近づいて、身を翻しながらの体重が存分に乗った視界の外から振り下ろされる右の浴びせ蹴りを、意識ではなく反射的に体が動き左腕で防御した。

 フェイトの攻撃はまだ終わっていない。着地する前に空にいる状態で左の拳をアスカの腹に向かって放つ。

 今度は意識も目の前のフェイトに戻っていることで開いた掌に受け止められた。逆に空いた左腕で着地したフェイトの顔面を狙って振り抜いた(・・・)。アスカの拳は当たることなく攻撃を予測していたフェイトが屈んだことで頭上数センチのところを通過する。続けて下段蹴り。

 

「ひゅ――っ!」

 

 鋭く呼気を継いだフェイトは、屈んだ自身に向かって振り抜かれる蹴りを飛び上がって躱し、その体勢から蹴りを放った。

 蹴りを放って片足が浮いた状態にあるので回避は難しい中で、何と自分から仰向けに沈み込みながら前方に跳んだ。地面についた腕だけで着地し、その手を基点として回りながら着地地点を狙って回し蹴りを放つ。

 足から着地をしようとしたフェイトはその蹴りを見て、空中で自分から体勢を崩し、アスカの蹴りの攻撃範囲外に腕で着地して飛び上がる。今度は足から着地して後転宙返り、後転倒立宙返りを二、三度繰り返す。その間に体勢を立て直すアスカ。

 四度目の後転宙返りの最中、空中で突然フェイトの姿が消えた。

 

「……後ろ!」

 

 フェイトが浮遊術と虚空瞬動を併用して一瞬の内に背後へと回り、完全な死角から蹴りを放つもアスカはまたもや反応して見せた。腰を落として薙ぎ払うような蹴りを躱し、攻撃直後で流れる身体を利用しての背後からの肘を受け止めた。そのまま腕を取って前方に向けて投げる。

 十数メートルは投げられたフェイトはクルクルと身軽に回転して着地直後にアスカ目掛けて跳んだ。それよりも早く投げた直後に動いていたアスカもフェイト目掛けて跳ぶ。

 中間よりもややフェイトの着地点に近い狭間で二人は衝突した。

 二人は拳と蹴りを組み合わせて目まぐるしく攻守を入れ替えながら、息も吐かせぬような空中戦を繰り広げてゆく。一秒たりとも同じ場所に留まらず、世界トップクラスの実力を持つ者達ですら目で追うのがやっとというレベルの戦いを繰り広げる。

 いっそ緩やかな円の動きから、鋭い剃刀の如き直線の動きへと変じ、視線が合った。

 ほんの一瞬、瞳が交わされ、様々な感情もまた相互に伝わった。

 

「アスカ…………スプリングフィールドォオオオオオオオオ―――――ッ!」

「フェイト………アーウェンルンクスゥウウウウウウウウ―――――ッ!」

 

 戦いを続けながら、互いに最初は呻くように、徐々に声を張り上げてその名を呼んだ。

 

「うおおおおおおおおッ!」

 

 フェイトが咆哮する。もう少しで完粋する儀式の邪魔をされる憤怒がフェイトを叫ばせていた。

 

「ぬああっ!」

 

 空間そのものを貫くような勢いで拳を放つ。アスカは僅かに首を振るだけで顔を狙った拳を躱す。紙一重の間隙だ。一分たりとも無駄な動作はない。フェイトの放つ攻撃の悉くを見切り、完璧な間合いで躱し続ける。勿論、躱しながらも反撃を浴びせることも忘れない。

 

「逃げるな!」

「誰が!」

 

 間断の無い攻撃を避け続けられる苛立ち交じり叫びに叫びが返される。

 

「君の存在だけは、認めない!」

 

 フェイトの目の前には誰よりも強く、圧倒的な輝きを放つ人間がいる。他の追随を許さず、あくまでも超然として。彼こそナギ・スプリングフィールドの跡を継ぐ英雄。光に包まれた新たなる英雄と呼ぶべき存在。それが目の前にいるアスカ・スプリングフィールド。

 人類の果てしない欲望によって絶望した果てに、造物主によって世界の守護者として生み出された人形である自分と同じく、これから生まれる新たな世界に不要な存在である。即ち過去に属するもの。

 だからこそ、互いの拳を撃ち合い、衝撃で僅かに体勢を崩しながら決意を込める。

 

「何を……!」

「英雄である君達には分からないことさ!」

「勝手に一人で納得してんじゃねぇ!」

 

 前蹴りをフェイトの腰の高さよりも深く踏み込み、戻すところに踏み込んで肘で横に弾く。片足を上げたことによる不安定になりやすい姿勢のところに、ドッと音がするほどの衝撃で横に傾くフェイトの体。

 

「さっきからごちゃごちゃと、テメェは小姑かオラ!」

 

 直後、踏み込んだ足で追うようにアスカが飛ぶ。自ら右の前回り受け身する勢いを生かし、地面と平行になったフェイトの顔目掛けて全体重と重力が加算された浴びせ蹴り。

 

「…………小言の一つぐらいは言いたくもなる」

 

 普通の手段では回避不能だと直感したフェイト。

 瞬動術の応用で横に向けた掌に魔力を集中して一瞬の放出。変形の虚空瞬動でギロチンの如く振り下ろされた一撃を回避して体勢を整え、即座に反転して拳を放ってくるアスカを冷静に見つめる。

 

「本当に厄介だよ、君という存在は。()のように人々を騙し、欺き、導こうとする英雄が!」

 

 衝撃を受けて、一瞬アスカの気が逸れる。その隙を逃さず、フェイトは右横から接近。腰を捻りながら運動エネルギーを込めた肘打ちを叩き込んだ。

 

「くっ」

 

 辛うじて腕を差し出して直撃を防いだものの、耐え切れずに地面を抉りながら吹っ飛ばされる。

 

「終わらぬ争い、消えない差別。それらを全て終わらせる! ()には出来なかった! 終わるんだ、完全なる世界なら!」

 

 瓦礫を押し退けて立ち上がったアスカの直上からフェイトが拳を構えて落ちてくる。

 すぐさま己も拳を構えて迎撃するも、対峙する相手の憎悪・信念・義務感、そしてそれらとは裏腹な虚無と諦観の感情が伝わってくる。

 互いに複雑なステップを踏むように空中を蹴って飛び交い、次々と拳撃を放った。体勢を崩したアスカは押し込まれないようにするのに手一杯だ。

 フェイトがフェイントで拳を振ってから身体を転じて低く蹴りを放ってくる。アスカは後退してそれを凌ぐと、圧されていることを自覚して舌打ちしてフェイトの死角に潜り込もうと体勢を低くし、相手の次手を予測して肘を固めた。

 フェイトはアスカの肘を受け止め、防御されようとも腰を膝で蹴りつける。共に身体を密着させた上体の攻撃だが、手応えを得たのはフェイトの方だった。ふらつくアスカの背面から拳を突き出し、背骨を打つ。

 

「ぐッ」

 

 アスカはつんのめって転倒しかけたが踏み止まり、改めて構えを取った。

 構えを取った直後、踏み込んできたフェイトが連打してきた拳を腕で避ける。脛を蹴って相手のリズムを崩そうとするも、フェイトは機敏で牽制すら捉えきれない。人間を超えた何かに突き動かされた予言のようにフェイトは揺らがない。

 

「完全なる世界には、世界を救う力が、人を正す力がある」

「頼んでもない救いの為に、勝手に人の運命を決めてんなよ! お前ら何様――」

 

 アスカは言い切ることも出来なかった。聞き分けのない獣が打たれるように頬が打ち抜かれた。

 

「救わなければ、何時までも敗北者が生まれ続ける。彼らは世を呪い、生者を妬み続ける!」

 

 打たれる前から首を捻って受け流していると、視覚から別の攻撃を放たれているのを感じて避ける。

 

「諦めることが、誰にとっても救いだというのに」

 

 どちらを選んでも正しくなどなかった。だからこそ彼の生命が激しく猛った。

 

「世界はあるべき正しき姿へと戻る。主が望んだ世界と人に!」

 

 顔を戻す前に牽制の魔法の射手を放ったが容易く避けられていたアスカは、人と世界のあるべき正しい姿という言葉に反発を覚えた。

 

「ふざけんじゃね」

 

 怒涛の拳を捌くアスカは、不意に猛烈な反発を覚えて歯を強く噛み締めた。

 

「ふざけてんじゃねぇぞ、テメェ!」

 

 人間は愚かである。言語という意思疎通の道具を持っていながらそれを活用しようとしない。流血の果てにしか人は学ぼうとせず、多くの犠牲で教訓を得ても時間が経てば忘れてしまう。

 何度も言われていることだが、人類の歴史から戦争やそれに類する火が完全に消え去ったことはない。

 

「世界は不完全かもしれねぇ。人は愚かかもしれねぇ」

 

 欲望・独善・無関心、それらが戦いを産み、人々は更に戦い続ける。人の中のエゴイズムが失われない限り、戦争の火種がなくなることはないのかもしれない。どれほど嘆いても、止めようと足掻いても叶わず、結局自分もまた戦いの道を選んだ。

 何時かはやがて何時かは―――――そんな願いは決して叶わないのかもしれない。もし『完全なる世界』のやろうとしていることを止めれば、人はこのまま何時までも、際限なく争い続けるばかりなのかもしれない。

 ならば、あるべき正しい姿とは何だ。今を精一杯に生きている人達は、そこから外れた間違った存在だというのか。

 

「だからって、人や世界に正しいも間違いもあるわけないだろうが!」

 

 アスカは声を限りに叫び返して一直線に突きこむ拳を躱しざま、ぐるりと身体を回転させて裏拳。余波だけで大きく大地を抉ったその裏拳をフェイトは跳躍して回避しながら、左目を妖しく光らせた。

 やばい、と思っても放たれた裏拳は止まらない。

 フェイトの左目から光線が放たれて、石化の邪眼という高等魔法を受けたアスカの腕が石像のように固まる。

 

「うらぁ!」

 

 体の内側から無理やりに力を通して石化を解除し、並行して魔法の射手・雷の一矢を生み出した瞬間に爆発させる。

 雷光で視界を塞ぎ、石化の邪眼を防いでいる間にフェイトは「ヴィシュ・タル・リ・シュタル・ヴァンゲイト」と始動キーを唱えていた。

 

「小さき王、八つ足の蜥蜴、邪眼の主よ――」

「させるか!」

 

 触れただけで石化させてしまう雲を生み出す『石の息吹』を放つ前にアスカの魔法の射手が先制する。

 威力は左程ではないが受けるにはダメージを負ってしまう。フェイトは舌打ちをしながら魔法の発動を止めて、魔法の射手を弾く。

 二人は闘い続ける。

 戦い―――戦い―――戦い。連綿と続く修羅の道から、人は初めて救い出されるかもしれなかった。自分のしていることは、それを邪魔する行為に他ならないかもしれない。

 だけど、全ての命は産み落とされた瞬間から、その人のものとなる。命に意味も必然もない。みな、同様に戦い、生き抜き、この瞬間を味わう。それに『正しさ』などという基準を当て嵌める権利は誰にも無い。

 

「正しい答えなんか出ないんだよ! 出せるならとっくの昔に誰かが出してる!」

 

 怒涛の攻撃を放つアスカは自分が善人だとは思っていない。視界に入った全ての他人が例外なく善意の塊だとは思っていない。旅の中で、人がどれだけ邪悪になるのか、人間という生き物がどこまで容赦がないのか理解している。

 

「だから探すんだ。求めるんだ。何時かはそこへ辿り着けるのだと信じて!」

 

 圧されて吹っ飛んだフェイトに向かって白い雷を放った。

 

「ちィッ!」

 

 堪らず、フェイトは地面を隆起させて盾にした。躱すことを考えられる速度ではなかった。

 外と内側の両方に幾重にも重ねされる土の盾が、白い雷を受けて撓んだ。幾層にも重ねられた土の盾は、雷撃を受け止めていた

 

「諦めた奴が俺の道を阻むんじゃねぇ!」

 

 ならばとばかりに、二発目、三発目、四発五発六発――――と、まるで流星雨の如く白い雷が降り注ぐ。

 

「どれだけ進んでも問題のツケばかりにぶち当たる。諦めた方が正しいのだとしても、上手くいかないことばっかりだとしても、それでも前に進むんだよ! 変われるのだと訴え続けなきゃ何も変わらない!」

 

 連発性を重視して一発の威力を落とした無詠唱の白い雷の猛射がフェイトへと浴びせられた。穿たれても自己修復する土の盾を幾重にも作り上げながらも、雷撃が着地する度に破砕された土の欠片が花火のように散った。

 

「ぬっ、ぐぅうう」

 

 地震が起こったように地面が震え、大気が爆発に拍動した。絨毯爆撃を受けようとも傷一つつかない土の盾が欠損し、砕け散った岩塊が赤熱した雫となってそのまま飛びぬけていった。

 視界を粉塵で遮られ、射撃を止めた。赤熱した粉塵の煙の向こうにまだ人影があった。その人影に向かってアスカが躍りかかる。

 土の盾は無残に砕かれ、制服や体に傷はついているもののフェイトはまだ生きていた。縮地で一瞬で迫って来たアスカの拳をフェイトは受け止めた。

 

「ナギ・スプリングフィールドは答えを持っていなかった。人に期待だけさせて、何も為せずに失敗した。君も同じだ」

 

 広げた掌で拳を受け止めたフェイトは、嘗てもそうしたように言葉を発する。

 十年前、彼に本人にも気づかぬ期待を抱かせたナギ・スプリングフィールドは失敗した。今に至るのはあの時、自分が無意識に彼を殺すことを躊躇したことから始まっている。

 

「例えここで世界を存続させても混乱は長く続くだろう。人々は猜疑心に囚われ、或いは混乱に乗じてより多くを取ろうとし、戦火は魔界や旧世界にも広まる可能性がある」

「何を……!」

「旧世界と魔界の手を借りるということは、魔法を旧世界に公開する必要がある。分かるかい、あの世界でも新たな差別が生まれる」

 

 魔法使いとそれ以外ではない。強大な力を持つ者達を恐れた結果生まれる人種差別(・・・・)だ。

 肌の色が違う、瞳の色が違う、信仰が違う。そうやって人という種は、自分とは異なる者を忌避してきた。そしてそれは、旧世界でも魔法世界でも行われてきた事だ。理不尽な侵害と弾圧―――――それは何時の世も変わらない世界が必ず抱える闇の一つなのだから。

 

「人は動物を差別しない。だが、自分と異なる人間は差別する。知ある生き物として差別されて快い者はいない。待っているのは戦いだ」

 

 生み出されて十二年間でこれまで見てきたものが、次々とフェイトの脳裏を過ぎる。目の前で花弁となって消えた女、あの美味しい珈琲はもう飲めない。

 救い難い運命の中に置き去りにされた全ての為に終わらせなければならない。自身に架せられた運命ではない。生まれてから見たものから考えた末の結論である。

 

「君がしようとしていることは無用な争いを、犠牲を生むだけだ。僕が終わらせる!」

 

 空を駈けながらの近接戦闘(インファイト)の最中、地面が限りなく近づいた瞬間に足に魔力を纏わせて力強く踏み締めた。彼が踏みしめた地点が不自然に盛り上がり、葉脈の如き線を生んで周囲に伸ばした。ばかりか、その脈は瞬時に更なる地下の深奥へと潜り込んでとある液体(・・・・・)を刺激した。

 下から何かが突き上げる音がした直後に轟音が鳴り響く。フェイトが無詠唱で発動した地を裂く爆流によって中心に大地が爆発した。

 

「!?」

 

 まるで地面の深い地下で爆発したような衝撃と共に足場が崩れ、足元に開いた地割れから鋭い岩石の槍衾(やりぶすま)が飛び出したのをかわして、たまらずアスカの体勢が崩れた。

 

「今度こそ―――――この混迷に満ちた世界を終わらせる!」

 

 決意を胸に飛び上がり、膝蹴りをガードさせながら同時に左を叩き込む。

 

「―――お前は……!?」

 

 防御し切れなかった蹴りの衝撃が顔の前に構えた腕を突き抜けて前頭部を揺らし、反応し切れなかった拳が左前腕部に入った。同時に弾けた衝撃を受けながらアスカの口から疑念が零れた。フェイトからドス黒い闇の粒子が放射されるように、強烈な負の感情が伝わってくる。だが、それはアスカだけに向けられたものではない。

 覚えがある。これはアスカを見て、その背中にナギを見ていたデュナミスから発せられたのと同じ感覚。

 

「「!」」

 

 ぶつかり合ったフェイトの拳の間から激しいスパークと光塵が散る。

 パワーを上げて敵の攻撃を振り払おうとしているのに、じりじりとアスカが押される。咸卦・太陽道を使っているアスカが魔力だけのフェイトに力負けしている。ジャック・ラカンにも迫ろうという圧力を持ってアスカを追い込む。このままではいずれ押し切られる。

 

「勝手に世界を終わらせるんじゃねぇよ」

 

 そう判断したアスカは瞬間的に咸卦・太陽道の出力を抑えた。自動車で言えば全開で踏み込んでいたアクセルを一気に放したようなものである。突き進んでいた敵の力を受け流し、またそれを利用して、その場でくるりと身体を回転させ、オーバーヘッドキックのような格好で足裏をフェイトの胴部に叩きつける。

 蹴りつけた反発力を使って、アスカは崩れた体勢を整えるためにフェイトとの距離を開けようとした。が、相手の動きの方が僅かに速かった。無防備に晒されたアスカの背中に、反撃の蹴りを食らわせたのである。

 

「くっ!」

 

 後背から来る攻撃の気配を探り、身体を捻って頭部を守るようにして腕を掲げる。

 蹴り飛ばした直後に追ってきたフェイトが思い切り腕を振り下ろした。激しい衝突音がしてアスカは弾き飛ばされたが、しかしその勢いのまま背面飛行し、魔法の射手を放つ。

 

「だとしても、旧世界で生まれ育った君に魔法世界の未来を決める資格もまたない」

 

 広範囲に及ぶ五十以上の魔法の射手を前にして、フェイトは退かなかった。フェイトを囲むように小さな魔法陣が浮かび上がり、魔法陣から黒い杭が出てきた。

 杭を打ちつけるようにフェイトが右手を振った。千には及ばないものの数十、数百にも届くかと思われた万象貫く黒杭の円環(キルクルス・ピーロールム・ニグロールム)がフェイトの命令と共に撃ち出される。

 すると杭の群れが、それ自体が生命を持つかのごとく、それぞれが異なる方向と捻れを以って迫り来る魔法の射手へ襲い掛かったのである。

 あるものは地面へと潜り、あるものは頭上から降り注いだ。またあるものは蛇のように円を描きながら抉らんとした。五十以上の魔法の射手と数百の石化の黒杭が迫り、次々と激突して絨毯爆撃のような閃光を上げていく。

 数で劣った時点で射程外に退避していたアスカに向け、フェイトが爆炎を掻い潜って虚空瞬動を行って突進する。

 フェイトが肩で担ぐように構えた千刃黒耀剣を叩きつけるように両腕で振り下ろした。アスカは迎え撃つように雷の投擲で受け止める。

 石の剣と雷の槍の接触面から苛烈なスパークが四散し、チェーンソーで木を削り取るような甲高い音が鼓膜を煩わせる。

 

(不味い……!)

 

 敵は流れに乗っている。いや、意志の力で無理やり流れを造り出したのだ。一度それに呑み込まれては抜け出すことが難しくなる。アスカはそう判断したが、寸瞬遅かった。既に敵が先んじていた。

 怒りに呼応するようにフェイトの周囲に加速度的に黒剣が現われ、背後から全ての黒剣が四方に飛び散った。放たれるとそのスピードを上げ、四方八方からアスカに襲いかかる。何十もの黒剣が彼の意を受け、鋭い弧を描いてアスカを切り裂かんと押し包む。

 加速したアスカの視界に、己を包み込むように無数の黒剣が迫る。圧しかかるような圧迫感に、体の奥底から悪寒のような戦慄が這い上がってくる。逃げ道もなく完全に網を打たれたかのように映った。漁られた者に死を齎す、美しく、致命的な罠。

 

「ふっ……!」

 

 集中力を極限にまで高め、時間が止まったかのような静止画の中で遅々とした速度で激流のように襲い掛かる全方位から放たれた黒剣を、湖岸を流れる清流のようなゆったりとした動きで、常人にはありえない反応を見せて、それらの黒剣全てをすり抜けた。

 千刃黒耀剣を放ったと同時に浮遊術で飛び上がったフェイトが、ス……と片手を上げる。

 

「ぬ!」

 

 千刃黒耀剣を潜り抜けたアスカの足元が光を放つ。六芒星の魔法陣が浮かび上がり、六芒星の頂点に位置する地面から六本の石柱が地面を割って直立する。魔法陣が効果を発揮して、飛び上がりかけたアスカを地に縛り付けた。

 

「これは地系の捕縛陣!?」

 

 動こうとしても捕縛陣によってギシギシと体を縛られて何も出来ない。戦闘中にこれだけの強度の仕掛けを仕込むことはまず不可能。予め戦闘前に準備していたということになる。

 

「ヴィシュ・タル・リ・シュタルヴァンゲイト。おお 地の底に眠る死者の宮殿よ、我らの下に姿を現せ!!」

「何!」

 

 力尽くで破ろうとしたアスカの耳に距離を取って浮かび上がったフェイトの詠唱が入ってきた。

 

「冥府の石柱!」

 

 驚きによって捕縛陣を破ることが遅れ、詠唱を阻む者の無い魔法が効果を表した。

 フェイトの背後の天空に無数に浮かぶ無数の巨大な石柱。

 

「行け!」

 

 フェイトの手を振り下ろす動作と同時に未だに捕縛陣を破れていないアスカ目掛けて落ちてくる。それだけではない。先ほど、地面に突き刺さった千刃黒耀剣までが敵を求めるようにアスカへと迫る。

 千刃黒耀剣の動きに先程までの機敏さと鋭敏さがない。まるで無造作に投げられたナイフのような無軌道な動き。無秩序であるが故に軌道を読むことが出来ない。

 フェイトが、地系の捕縛陣を展開してから冥府の石柱の詠唱を始める間にアスカ目掛けて放っただけで制御はしていないからこそ、絶対の包囲網が完成していた。

 千刃黒耀剣でアスカを予め定めていたポイントに誘導して、仕込んでいた地系の捕縛陣を発動。アスカが捕縛陣に縛られた直後、最初に誘導して地面に突き刺さっている千刃黒耀剣を制御してアスカ目掛けて放つ。そして冥府の石柱の発動。

 一つ一つを破るのは容易くとも三重に絡め取られたアスカに対する絶対の包囲網が形成された。

 

「くっ!」

 

 アスカは腰を落として防御のような姿勢を取り、衝撃に備えるのが見えた。ほとんど間を置かずに強大な大質量で柱状の一枚岩に呑みこまれてしまう。

 

「アスカ!」

 

 巻き上がった土煙が晴れた時、そこにアスカの姿はなかった。小太郎らが彼の姿を求め、戦場に目を光らせるが、どうしても見当たらない。

 

―――――まさか、アスカがやられてしまった!?

 

 小太郎達が、俄かには信じがたい思いにかられた瞬間、突如としてフェイトの真下から地面を突き破って雷霆の台風が向かって来る。

 

「くっ!?」

 

 向かって来る雷の暴風を前にして大魔法を使ったばかりのフェイトに避けるだけの時間はない。常時展開している多重高密度魔法障壁を強化して対応しようとするも、威力に対して防御の力が足りなかった。

 大爆発を起こしてフェイトの姿が爆炎と黒煙の向こうに消える。

 

「フェイト様!」

 

 調達がフェイトの名を叫んだ叫んだ直ぐ後に雷の暴風が通った穴から誰かが出て来た。当然、アスカである。

 無傷、ではなかった。完全に躱し切ったわけではなかった。

 アスカは全身に傷を負っていた。服の至ることろが破れ、切り傷が刻まれている。最優先の地系の捕縛陣を破っても上空から迫る冥府の石柱と地上から迫る千刃黒耀剣を前にした回避不可能な絶望的な状況。

 絶体絶命に陥ったアスカは混乱をする自身を抑えつけて今までの経験から最適の行動を割り出した。

 千刃黒耀剣に切り裂かれたり、冥府の石柱に押し潰されるよりかはと、地面に一撃を加えて逃げることを選択した。とはいえ、捕縛陣に囚われている中でタイミングはギリギリ間に合わなかった。

 千刃黒耀剣に切り裂かれ、冥府の石柱に押し潰されながら地面に穴を開けて致命のダメージだけは避けた。0コンマ数秒の躊躇いもなく行動しなければ死んでいたところだろう。

 

「まぁ、九死に一生はお互いさまってか」

 

 アスカが上空を見上げれば十分な溜を持って放たれた雷の暴風を、障壁を強化したとはいえまともに受けたフェイトが黒煙から姿を現したところだった。

 負った負傷は同程度、損耗具合はデュナミスと戦ったアスカの方が重いぐらいか。

 

「どうだ、必勝の策を破られた気持ちは?」 

「あの程度が必勝のはずがないだろう。手間をかけた割には効果は薄かったってだけだよ」

「つう割には仏頂面してんぞ」

「そう見えると言うなら君の目は腐ってるんじゃないか」

「ほざけ!」

「君もね!」

 

 アスカの蹴りをフェイトの腕が受け止めると、ガキィン、と重い金属の塊同士が激突したような音が響いた。

 腕を使って蹴りを防いだことで顔面の防御に隙が出来た。その隙にねじ込むようにして下から拳が突き上げられる。迫り来る拳を何とか頭を横に動かすことで回避して躱す。

 

「やはり勝手だよ、君達英雄は」

 

 この世は天国と地獄が同時に存在している。

 人は死を迎えると、神様はその人を天国へ送るか地獄へ落とすかを決めるらしい。だからこそ、人は生きている間に良い行いを沢山して、天国へ向かう準備をするものらしい。しかし、神様が全ての人々を救う力を持つならば、そもそも何故「地獄」が必要なのか。

 

「どれだけ傷つこうとも、何を喪おうとも前へ進もうとするその気概は素直に称賛しよう。だが、世の中には君達のようにはいかない。不安に揺れ、喪ったことを嘆いて、足を止める」

 

 全ての人を救えるなら、一人も残らず救って上げれば良い。何か道を外した人がいるならば、正しい道へと引き上げて上げれば良い。救いの手なんてものが本当にあるのなら、等しく平等にみんなが笑って幸せにならなければ一番嬉しいはずなのに。

 

「幸福な者は一部だけだ。大半が不幸を嘆き、苦痛と共に生者を呪って死んでいく。そんな世界が正しいわけがあるものか」

 

 どうして、限られた人しか幸せになれないのか。

 どうして、選ばれなかった人が地獄に落ちなければならないのか。

 何時だって救いの手を求めるのは運命から見放された「選ばれなかった人」なのに。

 

「世界を変えなければならない。でなければ、何時までも救われない者だけが増え続ける。この世から嘆きの声が消えることはない」

 

 善行を積んでも、それを評価して報いてくれる父はいない。悪を罰する約束はない。

 祈ったところで、救ってくれる神はいない。この世界は、そんな世界だ。人は、実在しない神にしか希望を持てないからだ。

 

「未来がなんだ。今を救って見せろ。過去からの嘆きを止めれないのならば、君こそ僕の邪魔をするな」

 

 それはアスカ・スプリングフィールドとは全く正反対の考えだろう。前へ進むためではなく、後ろを振り返るために全力を尽くす。

 

「過去からの嘆きか。確かに止めれねぇな」

 

 目に見え、手で触れられるものに人は絶望する。それは絶対に希望を上回ることはない。見えれば見えるほど、触れれば触れるほど、より失望していく。だが、それでも………失望しても、絶望しても、人間は生きていくしかないと諦観する。

 

「でも、お前の道は未来の笑顔も摘むことになる」

 

 この世にいるありとあらゆる全ての人間が例外なく救われないのならば、現在まで歴史は続くはずがない。ネギ然り、アスカ然り、多くの人々の心の中には、どうしようもない闇や欲望と一緒に、ちっぽけだが力強い光が宿っているのだと言う事を。

 

「君の道は嘆きを増やすだけだ」

 

 どこで世界は狂ってしまったのだろう。どこで哀しみはとめどなくなってしまったのだろう。

 ここで自分達がしていることこそが、まさに人の欲望を体現している。どんな理屈を掲げていようとやっていることは変わらない。

 これこそが人の本質なのか。妬み、憎み、戦う。それこそが人が欲望を脱しきれていない証明なのか。共に歩むことは出来ぬとその未来を切り捨て、相手の明日を潰すことで自らの明日を確保しようと望む。護るための戦いで相手の望みを奪う矛盾。

 

「望む世界は同じだ。誰もが嘆かず、幸福でいられる世界」

「けど、方向性が違う。僕は過去を、君は末来を望む」

 

 二人の道は平行線を辿る。決して道は交わることない。

 

「完全なる世界は幸福が確定された世界」

「未来はない。閉塞した、何時かは自滅する世界だ」

「未確定の推測に過ぎないよ」

「現に俺は抜け出した。永遠もの時間があれば夢から目を覚ます奴も現れる。誰かに救い上げてもらっても人は変わらない。自覚し、変わろうとしなければ、人は、生命は変わらない」

 

 所詮は感情論で否定しているのに過ぎないのかもしれず、明確に否定する論拠があるわけでもない。しかし、言葉が溢れて来る。信じ合い、響き合い、胸の中で鍛えられてきた思いが、熱になって込み上げてくるのが分かる。

 

「夢を見るのは寝ている時だけで良い。俺達は現実を生きているんだから。現実を生きている俺達自身が変わらなければ意味がない」

「天に祝福された英雄だけが言えることだよ、それは!」

 

 否定するようにフェイトの足許に渦巻いていていた灰煙が鋭利に尖った石を複数形作り、その尖端をアスカに向けて発射した。

 放たれた障壁突破(ト・ティコス・ディエルクサスト)石の槍(ドリユ・ペトラス)が、迫るアスカに襲い掛かる。鋭い石柱で相手を攻撃する魔法・石の槍にあらかじめ詠唱しておいた障壁解除の呪文の発動を遅延させ、同時に発動させたもの。

 アスカの防御力で障壁を展開しても突破されるだけ。だからこそ、アスカは防御でもなく回避と迎撃を選んで最短コースを選んだ。

 複数の石の槍の間に身を投げ、当たりそうになるものだけを弾いて表面を掠めるようにして、旋回しながら接近したのである。

 

「バカな!」

 

 敵の移動スピードと自分から攻撃に向かっていく無茶な行動にフェイトが驚く。 

 しかし、フェイトは一瞬の精神的失調を振り捨て、近づくアスカを迎え撃つべく四肢に力を込める。

 

「このっ……!」  

 

 二人の拳がぶつかり合い、間を置かずにもう片方の拳も放って激しく閃光が散る。それは、意志と意志とが互いにその身を削りあうような凄まじい光の乱舞であった。

 爆発的に生じた干渉波に弾かれ、後方に撥ね跳んだフェイトの体が一瞬がら空きになる。チャンス、と他の思考は吹き飛び、アスカは一気に前方へ跳んだ。

 

「こうなる他に道はなかったのか!」

「あったかもしれない! けど、どうして分かる! 事実を知ろうとも自分たちのことしか考えない者達しかいない世界でどの道がある!」

 

 アスカの叫びに対するフェイトの返事は、彼に押し寄せるあらゆるジレンマへの呪詛が込められていた。沸き立つ激情によって全身からあらゆる邪悪が染み出してきて、放つ攻撃全てに乗り移っているようだった。

 石柱が落ち、雷槍がぶつかり合う。

 破片があちこちに飛散し、雷撃の残り香が焼き尽くす中で二人は言葉を交わし合う。

 本当ならばこうして交わす言葉に意味はない。言葉が心を通じ合わせるものであるなら、絶対に分かり合えない二人に言葉は不要でしかない。だが、それでも言葉にして示さなければ、世界は希望も絶望も知ることが出来ないのだから。

 人は言葉を発明して意志の伝達を行い、文字を発明して知識を後世に伝えることが出来るになった。

 だが、伝えることが出来るのは知識であって感情ではない。話を聞き、書物を読んで感情を継承した、或いは共有したつもりでいても、所詮は「つもり」でしかないのだ。痛みを伴わなければ伝聞など突き詰めれば情報でしかないのである。生物として生まれた以上は寿命により人ならば百年で世代が交代し、感情がリセットされてしまう。

 

「誰も選ばない。失った痛みを忘れ、もう争うのは嫌だと言いながら何度でも繰り返す!」

 

 雷が蛇のようにのた打ち回り、黒曜剣が避雷針の如き役割を果たして滞留する。

 

「何度も! ああ、飽きるほど何度もだ!! どうしろというんだ! ああ! どうしろっていうんだ!」

 

 呪うように言い募るフェイトの言葉が蹴りと共にアスカの胸を打つ。

 誰もが自分の幸せを願う当然の権利を主張し続ける。自分の幸せを、自分の意思でと。それがぶつかり合って大きな戦いのうねりを生み出す。

 

「人は変われる。みなが望めば――――」

「それが綺麗事の楽観論しかないと言っているんだ!」

 

 胸を打つ足首を持ち捻るよりも早く抜け出したフェイトの強い声で遮られ、蹴りを受けたアスカは虚を突かれた思いで顔を見返した。

 

「誰も世界が変わるなど信じはしない。今の生活を守れれば、百年後の世界がどうなろうとも、他人がどうなろうともどうでもいい。そんな人間たちを敵に回して一人で戦うのか? そうまでして、なんの意味が――――」

 

 顔を狙って来た拳を腕で弾いたフェイトの望みは勝ってこの不完全な世界を終わらせ、完璧で幸福な世界を創り上げたい。それだけだ。

 

「戦うとも! 一人でも、意味がないとしても!」

 

 二人は舞い続ける。衝撃波は光となって空を飾り、戦いに花を添える。

 全体としては何かが崩れていく中で、アスカとフェイトの衝突は世界そのものを無視した美として完成されつつあった。だがその美は、完成されれば壊れるしかない脆いものであると、誰もが予感してもいる。

 

「俺は俺なりの理由があって、ここまで来た」

 

 拳をぶつけ合って大きく距離を取りながら、何時だってアスカの戦う理由は己の中にあったから言い切った。

 数は絶対だ。今を見るならば、救われる者が多いのは完全なる世界。そんなことは百も承知でアスカは闘うことを選んだ。

 まともではない、そんなことは分かっている。でも自分が求める物はこの光の先にある。なにもできないかもしれない。後悔しながら死んでゆくだけかもしれない。

 自分はまだ、こうして生きている。戦うための命がある。拳を握るための指は動き、相手を見据えるための目も開いている。ならば、最後の最後の瞬間まで、投げ出してはならない。 

 確かに、人は愚かしい存在かもしれない。自らの世界を汚してきた人間たちを、《運命》という超越的な存在が排除しようと審判を下したとして、当然のことかもしれない。だけど、アスカはそんな『運命』を座して受け入れる気はない、認めない。

 

「それでも俺は明日が欲しい! 自らの足で歩き、自らの意思で求めた先にある未来が!」

 

 1001矢の魔法の矢と万象貫く黒杭の円環が真っ向からぶつかり合う衝撃波に身体を揺るがせながらもアスカの芯はぶれていない。

 未来に希望を持てるから、人はどれほどの苦難を経てもなお、頭を上げることが出来る。人は愚かかもしれない。どうしようもなく醜い存在かもしれない。それでも尚、その内に美しい夢を秘めているとアスカは信じている。

 

「正しくなくても、不完全な世界でも生きていくしかない! 間違っても苦しくても! それが生きるってことだろうが!」

「英雄の戯言だ!」

 

 次々と魔法の矢と万象貫く黒杭の円環を放ち続け、墓守り人の宮殿を爆光で染め上げる。

 見知らぬ他人を救うために己を投げ出す者がいれば、欲望の為に家族を殺す者もいる。壊れた本能は感情を超えられず、人を命の破壊者にしてしまうのだ。それを素晴らしいことだと褒め称えたり、なににも勝る罪と恐れ貶したりするのもまた人なのだから。

 運命という概念はどのようにして生まれたのだろうか。

 偶然の出来事も全て過去によって起因しているとしたら、確かに宇宙の誕生以来時間は一つの方向に向かって動いているのかもしれない。

 耐えねばならないのは現在だけである。過去も未来も押し潰すことは出来ない。何故なら過去は既に実在していないし、未来はまだ存在していないのだから。

 歴史にもしもは無い。それでも未来にだけは無限の可能性を求めるからこそ、人類はここまで発展してきた。

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

「ああああああああああああああああっ!」

 

 アスカとフェイトの叫びに、拳が交錯し、人知を超えて荒れ狂う。ぶつかり合う二人は、まさしくヒトガタの天災に他ならなかった。

 単なる威力だけの激突ではない。技術が、駆け引きが、その全てが至高の領域。この二人は、間違いなく世界の頂点に立てる実力を持っている。

 彼らの戦いは既に無意識の領域だ。本能と理性は乖離し、しかして融合し、空中戦を演じ続ける。 

 激突し、弾き合い、防ぎ、応戦し、再び縺れ合う。たった二人のヒトガタの戦いが、天と地を裂くこの異常。一進一退というが、これは互いに一歩も譲らぬ決闘であった。

 轟音を立てて爆砕する地面。重力に絡め取られ、落下する瓦礫を三角跳びの要領で蹴って跳ね回りながら激突し、文字通りの瞬く間に幾つもの瓦礫が粉砕されていく。 

 

「すっ……」

 

 旋風として巻き上げ、刃として研ぎ澄まし―――――鎌鼬。

 近距離から放たれた無力無形の鎌は、フェイトの血管を切り裂き、腱と脛を断つ。頚動脈を深々と切り裂く。フェイトが力なく啼いて、砂となって崩れ去った。

 何時の間にか砂と入れ替わっていた本物のフェイトはアスカの直上で足を振り上げていた。

 

「はぁ!」

 

 裂帛の声と共にフェイトが上がっていた踵を振り下ろすと、衝撃波が墓守り人の宮殿を縦断し、軌道上にあった建物を倒壊させながら端まで到達する。

 あらぶる獣の素早さ、鋭さで体を操り、蹴りを放つ。

 

「ぜぁ!」

 

 対するアスカが拳を振り上げると、巨人の剛腕でも受けきれないと思われる拳激は弾かれ、アスカの一撃から発生した衝撃の余波は宮殿をミルクの如く渦巻く魔力の海を一瞬だけ両断する。

 二人の戦いは、一瞬交錯し、残像を刻みながら打ち合った。地を割り、天を裂き、星さえも砕かんとする互いの拳と脚が合わせた合数は既に五千を越えていた。

 アスカが攻撃を放つと同じ数だけフェイトも攻撃を放ち、激突は止めどなく連鎖する。その度に悲鳴の風は勢いを増し、罅割れた地面から破片や土塊が中空を舞うのだった。

 人にはありえぬ速度、ありえぬ精密さで、二人は戦い続ける。三次元空間を駆け抜け、飛び抜け、衝撃の発生位置は予想もつかぬ。瞬間移動に匹敵する互いの戦闘機動を行っている。

 血が爆ぜる。肉が沸騰する。骨が残らす焼け落ちる。しかし、両者の実力は全くの互角で、一向に勝負がつかない。強烈なエネルギー同士が炸裂した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り三時間。

 

 

 






次回『第85話 平行線の先』



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第85話 平行線の先



なんとか一ヶ月空けずに更新できました




 

 

 

 

 

 墓守り人の宮殿を、激しい衝撃が殴打している。大気を振動させて駆け抜けるのは、腹の底まで響くような破裂音だ。破裂音は一度ではなく、連続して発生している。刻まれるリズムは常に不規則。発生する位置も目まぐるしく変化している。

 衝撃が生まれる中心には二人の青年がいた。アスカ・スプリングフィールドとフェイト・アーウェンルンクンス。絶え間なく生じる空間破裂は、二人の青年が繰り広げる激突によるものだった。

 これは、自分の力を試す勝負ではない。負けてはならない男の戦いだった。

 無謀で野放図な目標だとしても、世界を変えると言った責任を果たさなければならない。これは誰か他の大人に援助してもらうことが前提の少年の夢ではないのだから。

 

「シャァッ!」

 

 フェイトがアスカの頭目掛けて攻撃を仕掛けながら、口から獣の如き叫びを上げた瞬間だった。

 攻撃を避けたアスカの真下、コンクリートの地面を突き破って巨大な石柱が出現した。

 

「っ――――……!」

 

 アスカは咄嗟に大きく後方へ飛び、そのままザザと地面を滑りながら着地する。

 無詠唱で優に五メートルを超す厚くて巨大な石の塊。その質量は恐らく、十トンを超えるだろう。先の尖ったクリスタルのような形状。

 これほど少ない魔力でこれだけの石柱を一瞬で生み出すとは。

 

「今のに気付くとは、君は凄いね。まったく敬服するよ」

 

 フェイトは心から敬服していた。ここに辿り着くまでの戦闘によって疲労しているはずなのに、消費していない自分と互角の戦いを演じている、アスカの強さに。彼の拳に宿る、計り知れない想いの強さに。

 

「ふん、そう思うならさっさとやられろ」

 

 消えゆく灯火が暗転の間際には鮮烈輝くように、アスカの全身からは一層激しい光が立ち上っていた。

 二人は再び、踏み込んだと同時にいきなり中間で激突した。

 

「――――ッ!」

 

 激突を続ける最中、フェイトの視界からアスカの姿が掻き消えた。

 フェイトは自分へ向かって地を這う影が見えたので右の抜き手を下へと放った。しかし、アスカの左手が払う動きでフェイトの抜き手を捌き、代わりに斜めに振り上げる動きで拳が来る。

 

「ゴハ――なっ!?」

 

 慌てて後ろへ跳んだのに、胴を貫く衝撃を受けた。

 アスカの拳は間違いなく届いていなかった。だが、それでも距離を取った自分が攻撃を受けている。見ると、自分の脇腹に雷で構成された槍のようなものが貫いていた。アスカが拳と一緒に雷の投擲を伸ばしていた為である。

 

「くっ……!」

 

 脇腹を貫く雷の槍を叩き折り、空中で崩れた体勢を整え、脚から着地するタイミングで、距離を詰めてきたアスカが拳撃の連打を放ってくる。フェイトも咄嗟に捌こうとして幾つも被弾する。

 理由は明快。アスカの攻撃がここにきて段々と鋭さを増していたからだ。

 

(これは……っ)

 

 フェイトは必死に攻撃を防ぎながら驚きを抑え切れなかった。それまでと同種でありながらキレを増していく攻撃。攻撃が鋭さを増していくのと比例するようにアスカの眼から闘気が薄れていく。

 

「ふんっ!」

 

 攻撃の間を置かず、右拳を放ちながらアスカの金的を狙って最速の左の前蹴りを打った。ガッと鈍い音。アスカは右拳に惑わされることなく冷静に捌き、フェイトの蹴りを右膝でブロックしていた。

 ヒュー、と空気を切る音がした。一撃に思えるが十に及ぶ連続のフェイトによる拳打が放たれる。

 この凄まじい速度の連打を、アスカは右拳だけで悉く打ち弾いた。

 フェイトは右手の指を二本伸ばして突き出した。伸ばされた先にあるのはアスカの両目、目潰しだ。

 アスカは一歩バックステップして、計ったように伸ばされたフェイトの指が届かない位置で間合いを外す。

 目潰しの指で目隠しにして、殆ど竜巻のような右上段後ろ回し蹴りを打ち込む。この蹴りを、指で視界を塞がれているので見えていないはずなのにアスカは急激に腰を落とした。フェイトの蹴りはアスカの頭上数ミリを霞め、髪の毛を何本か巻き込んでいく。

 腰を落としたアスカは、そこから縦に回転した。地面を蹴って小さく跳んだのだ。右脚を伸ばして、回転の勢いを利用して思い切り踵を打ち落とす。

 

「!」

 

 上体を後ろに反らしたところで、フェイトは危ないところで避けることが出来た。

 胴回し蹴りのような攻撃を放ったアスカが綺麗に脚から着地して、まだ上体を反らしたままのフェイトの懐に潜り込んだ。フェイトが慌てて上体を戻した既にアスカの攻撃は放たれている。

 ドドンッと複数の打撃音が連続して響き渡る。フェイトの肩と脇腹に、一発ずつアスカの拳が炸裂した。 

 

「これは……決勝の時と同じ」

 

 ネギと闘った時に辿り着いた「無念無想」の境地に、アスカは再び踏み込んでいた。闘いを続けるごとに一歩、また一歩と確実に入り込んでいる。

 

(動きが先読みされているのか!?)

 

 攻撃を避けた場所に魔法の射手が放たれ、無理やりな動きで首を動かして避けたが頬を焼いていく。

 全ての攻撃に動きに対応されている。まるで予知されているかのように事前に対応策が敷かれていて、フェイトは動けば動くほど自縄自縛に陥っているかのような錯覚に陥っていた。

 

「遅ぇ」

 

 無理やりな動きに動きが一瞬硬直し、そこへ大きく振りかぶった蹴りを避けることが出来ない。

 

「ぐぅっ!?」

 

 今取れる最大の防御をするが十分な溜めを以て放たれた蹴りが腕ごとフェイトを吹っ飛ばす。

 寧ろそうやって吹っ飛ばされて距離を空けることが目的だったが追撃の魔法の射手が放たれて防戦一方になる。

 

「後ろががら空きだぞ」

 

 百を超える魔法の射手を障壁を全開にして耐えていると、背後に突如としてアスカが現れた。背面を取られたフェイトが対応するよりも早く頬がグルンと回る。拳が頬を打ち抜いたのだ。

 今まであった無駄な力み、無駄な動作、無駄な思考がアスカから消えていく。動作のおこりを完全に殺したその足運び。武道を志した者ならば、何時かは辿り着きたいと願うその動き。

 まるで、雲の上を歩む仙人のように軽妙かつ玄妙な足捌き。相手の呼吸や意識の隙間を完全についた形。それは何気ないようでいて、あらゆる戦闘における奥義とも言うべき到達点だ。

 最短距離で最速で来るのは、あらゆる無駄を省き、一つ一つの動作が極限まで研ぎ澄まされた、必殺とも呼ぶべき打撃の連打。予備動作が無い――――それ故に先読みが出来ず虚を突かれてしまう無拍子。そえは所謂体感速度によるものが大きい。人は思考の視覚にある動きをされた時、それを必要以上に速く感じる。

 闘いの中でそれを自覚したフェイトは堪らず背後に大きく跳ぼうとして、

 

「――――逃がさない」

 

 完全に同じタイミングで、アスカがこちらを追って空中を蹴って一気に宙でフェイトに追いつき、右の跳び蹴りを放ってくる。

 狙われたのは側頭部。フェイトは反射的に左腕を上げ、辛うじてガードが間に合った。しかし重い衝撃が叩き込まれ、左腕全体が痺れる。

 

「ちっ……!」

 

 全ての動きが先読みされているように動かれ、どんな攻撃にも対処される。距離を開けようとしたら機先を制され、未来を予知しているように向こうの攻撃が突き刺さる。

 それでもフェイトは痺れていない右腕でアスカの右脚を掴み、そのまま地面に叩き付けようとしたが向こうの方が動きが速かった。左脚を振り上げ、直上から踵を振り下ろしてくる。

 攻撃よりも防御を優先。掴んでいる右脚を離して右腕を頭上に掲げる。

 

「!」

 

 直ぐに生まれた右腕に衝撃。だが、咄嗟に出した右腕だけでは受けきれずに直下へと叩き落される。

 

「――ガッ、ハ……ぁっ!」

 

 フェイトの全身を、激しい衝撃が襲った。

 大地に叩き付けられて轟音を生み出し、新たなクレーターを作り出す。咄嗟に背に魔力を集めて防御を高めたものの、激突の内部が身体の内側にまで響いていた。

 幸いにも戦えないほどのダメージではない。直ぐに立ち上がる。アスカが空から強襲をかけようと、大砲となって降りて来る。

 ダメージで直ぐに動けず、防御の体勢を取る。その顔は悔しげであった。

 ここに来て急成長を続けるアスカに、フェイトは一抹の勝利の予感を抱けなかった。それどころか自らが負けるイメージばかりが思い浮かぶ。

 

(負けるのか、僕は)

 

 敗北の二文字を思い浮かべた瞬間、いきなりフェイトの中に怒りが溢れた。

 

「まだ僕は全てを出し切っていないっ!」

 

 怒りを引き金として何かが彼の意識を強制的に引き上げた。同時にフェイトの世界は一変した。

 例えば、盲目の人間が視力を手術で取り戻したようなものだ。これまで視野が前方に限られていた世界が、今や全天周に近く出来るかのように感じられた。それだけに留まらず周囲の時の流れが急に減速した。それは錯覚で、実際には彼の意識が急速に加速したのだ。彼らの動きによって飛び交う石が眼の前で止まり、荒れ狂う空気の流れすらも停止した。止まっているも同然に思えるほど、意識が高速で動いているのだ。

 まるでどこかでスイッチが切り替わり、時間が止まったかのようだ。

 

(見え、る……?)

 

 アスカの攻撃が嘘のように見える。それが体を勝手に反応させた。

 たった一センチ、一センチだけ体を動かす。その一センチが降りて来る蹴りを絶妙に外させた。

 アスカの攻撃が決まらなかった。「無念無想の境地」に入り、どのような時でも何ら変化のなかったアスカが初めて瞠目した。予定調和のように決まるはずの攻撃が躱された。

 フェイトは回避したその一瞬に深く体を沈めていた。そして、そのまま大きく踏み込んで、後少しで地面を蹴り抜くアスカの胸を左右の掌で打ち据えた。ドンッと大砲のような音が轟いて地面が大きく陥没するのと、アスカの身体が木の葉のように舞うのは同時だった。瓦礫の一つに大きな音を立ててぶつかり、砂塵が舞い上がる。

 無防備に必滅の攻撃を受けたアスカが起きれる一撃ではなかった。並みの者ならば爆砕してもおかしくはない一撃。

 

「立て、アスカ。大して効いていないのは分かっている」 

 

 超然と言い放つその瞳からは、アスカ同様に溢れんばかりの闘争心が消えていた。否、静かだが重い闘争心が目の奥深くに感じられた。

 無駄な力なく、すっと立った姿はそれだけで一個の芸術だった。澄み渡った湖の如きその横顔は、闘いの最中にあって一切の殺意を感じさせない。悟りの境地に至った術者の在りようだった。人を打ち倒すのに殺意も敵意も不純物とみなす武術の境地の極致。

 放った双掌打だったが全力で打ったにしては手に手応えが薄い。派手に吹っ飛びはしたものの、ダメージを与えたという手応えは全くなかった。その理由も分かっている。掌打が炸裂する瞬間、自ら飛び退いて衝撃を緩和されていたのだ。

 フェイトの言葉を証明するように、アスカがむくりと上体を起こした。落下点となった瓦礫に大きな穴が出来ているが、アスカの顔にダメージの色は微塵も感じられない。

 

「この感じ…………そうか、俺の感覚に引っ張られたか」

 

 言いざま、意識の隙間に入り込むような歩法であっという間に近づいてきたアスカの拳が飛んだ。

 ゆらりと揺れるように動いたフェイトが避けながらアスカの顔面目がけて拳を返す。フェイトの拳がアスカの頬を掠める。腕を交錯させたまま、フェイトは笑った。

 

「成程、これが君が見ている世界か!」

 

 アスカが至った境地に自分も辿り着いたわけではない。正確にはアスカに引っ張られていると理解していた。

 理屈ではない。だが、アスカとの接触を契機になにかが変わり始めていたという感触はずっと持っていた。

 互いが互いの意志を見通し、自分という存在が他者の存在と共鳴して世界が拡大してゆく覚醒感。初めて向き合った時には威圧感しか感じられなかった敵が、今はなにがしかの親和性を持ち始めている。

 この不可思議な知覚を全面的に受け入れてしまったら自分が変質するとの予感はある。が、今はこうして従うのが正しいという思いは、フェイトの中に間違いなくあった。

 心臓が狂ったように早鐘を打つの感じながらフェイトが叫ぶと同時に膝を放った。至近距離、それも真下の死角からの一撃なのに、アスカは最初から知っていたかのように後方に飛んで避ける。

 

「凄まじい。今まで見てきた世界が児戯のようだ」

 

 この回避行動もフェイトには見えていた。肉体の隅々まで通った神経を操り、軸足で前方に跳躍して間合いを詰めて、放った膝を伸ばして高々と上げる。踵落としだ。しかし、行動が見えているのはフェイトだけではない。先人であるアスカもまたフェイトの行動を読んでいた。

 アスカはフェイトが足を高々と上げたと同時に飛んで避けた距離を踏み込んで距離を詰めて懐に飛び込む。これで踵落としをしても肩口に喰らうことになっても威力の半分も発揮されない。そのまま踏み込んだ足を軸として拳をフェイトの顔面に放つ。

 骨を打つ感触がアスカの手に響く。

 

「まだ君の方が上回るか」

 

 当たるよりも僅かに早く首を捻ってダメージを最小限に抑えていても、頬骨に食い込んだ拳に顔を歪ませながら冷静に分析する。

 首を振って拳を払いながらアスカの肩に乗っていた足を利用して飛び上がり、全体重を乗せた肘を脳天に叩き落とそうする。 

 

「だが、直ぐに追いついてみせる!」

 

 ドロリと粘度を持った空気を掻き分け、更に高まる動悸に全身が爆発しそうに熱くなるのを感じながら、受け止められた肘の状態で体を捻って蹴りを避ける。

 

「させるわけがないだろうが!」 

 

 少しまでの激流のような激しい戦いとは打って変わって、清流のような静かだけど激しい戦いへとシフトしていた。一箇所に留まらず、縮地と浮遊術を併用して高速移動を繰り返す。同じ高みに至った者同士は、互いの動きや流れを読み切った複雑に入り組んだ攻防を繰り広げていた。

 アスカが後方に宙返りして顔を上げる挙動まで、全てがスローモーションにしか見えなかった。

 相手の動きを視線と流れから先読みして、次の動作に対応する。知覚して、それに対応する動きを体にさせるには、何千分の一秒とい誤差があるものだが、二人は同時に行っていた。

 

「動きが見える。いいぞ、この世界は素晴らしい!」

 

 フェイトの言うことは比喩ではなかった。感覚が異常なまでに研ぎ澄まされている。世界の全てが自分とアスカを中心に収束して開いていく。全ての事象が手に取るように予測できた。それをどう呼べばいいのか分からない。だが、彼はそうすることが出来た。

 

「人に引っ張ってもらっておいて好い気になってんじゃねぇよ」

 

 咸卦・太陽道の真骨頂であるマナ支配による相手との交感。無意識化に相手から発せられるマナを取り込むことで思考から何までを読み取る。副作用としてアスカの思考まで相手に筒抜け手になってしまう可能性もある。

 アスカによって普段より活性化しているマナを感じ取り、極限の集中力状態を維持することが出来なければ同じことは行えない。言い換えればその状態を維持できればアスカに引っ張られるようにして無念無想の境地へと辿り着いてしまう。現に今のフェイトの状態がそうなのである。

 

「そこは素直に礼を言おう。この世界を知れたことは純粋に感謝している」

 

 視界の横で流れていく光景がひどく長く感じられる。世界と共に自分の感覚が拡張し、指先まで神経が張り巡らされてゆく。

 変わりに身体が重い。まるで液体に詰め込まれたかのようだが、これは時間間隔が狂ったが故のことだと分かっていた。一秒が十倍にも引き伸ばされた世界では、空気も粘度を持つ。精神と肉体が遊離し、普通の速度でしか動けない血と骨に圧がかかっているのだ。

 

「じゃあ、敗けとけよ」

「それとこれとは別の話だよ」

 

 左を出せば払い落として右、右を突かれる前に足下を蹴り払う、蹴り払われる前に踏み込んで腕を掴んで投げる、掴まれる前に捌きショートレンジから顎を狙う………と、一つの動作だけで幾つもの攻防を同時に処理している。過程や理論を一足飛びに越えて正解が見える。その正解に向けて体を動かすことが予知のような行動となっている。

 僅かな肩の動き、眼の動き、指先の曲げ具合、膝の方向、体幹の傾き、といった様々な要素の少しの変化だけなので傍目には何を意味しているのかすら分からない。

 小さな要素を幾つも組み上げて動作を読み合う事で、相手の動きを観察して攻撃の軌道を脳内で先読みし、牽制し合っていた。詰め将棋のように最初から定められたような攻防。

 

「うおおおおおおおっ!」

「まだ温い」

 

 裂帛の気合と共に放たれたフェイトの一撃を、アスカは首を動かして紙一重で避けて反撃を放つ。

 

「君もな」

 

 最初から打ち合わせていたかのように、今度はフェイトが体を横にずらして躱した。

 まるで二人で踊るダンスのように互いに流れを読んでいるが故、戦いからは余計な成分が削ぎ取られ、互いに命を奪い取らんとする鋭さと鮮やかさだけが残った。

 しかし、今の二人が戦っているのは更に高次の盤面である。

 受けられるのも、避けられるのも、全て承知の上。目的とするのは十手も二十手も先。最終的に自らが勝利する流れを掴み取らんと儚い火花を散らす。

 心を重ね合わせたことで伝わってくるアスカの心には、濁りもなければ曇りもなかった。あるのは闘争心だけで殺意もなければ憎悪も感じられない。フェイトと武技を競い合えることが楽しいとすら感じ取れた。

 

(ああ、僕も同じだ)   

 

 何時までも続けばいいという思いが心を満たしているのはフェイトも同じ。アスカも同じ気持ちであることは口元に浮かぶ笑みを見れば明白だった。

 

「行くぞ、アスカ!」

「来い、フェイト!」

 

 向き合う二人の男の間には主義も主張もない。ただ競い合えることに喜びがあるだけだ。

 二人が円を描く。交錯する姿は、まるでワルツのよう。

 何年も練習してきた円舞を披露するかの如く、優美にして大胆。ステップが一度でも狂えば忽ち破綻してしまいそうな狂気のリズム。拳と脚をぶつけ合わせながら、二人の足取りはますます速度を上げていく。

 纏う力を激突ごとにスパークさせ、二人とも全力で戦っている。打ち込んだ。打ち込んだ。打ち込んだ。身体が軽い。力が漲っている。いま、心を支配しているのはなんだろう、と不思議な思いが去来して、それがどちらの思いだったかも曖昧になる。

 憎しみか、怒りか、と考えて違うとどちらかが思った。好敵手と戦うことの昂り、自らの力の全てを振り絞れる喜びだった。

 この時の二人は世界を賭けて戦っているにも関わらず、何の言葉もなく打算もなく分かりあえていた。敵同士であっても人が全ての欲を越えて分かり合える黄金の時間がそこにあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 麻帆良学園都市を襲った異常の前触れは、本来なら二十二年に一度に大発光する世界樹が先の麻帆良祭後に半年も立たずに一般人の目にも分かるほどに光り輝いていたことから始まった。

 

「なんだ? あれ? 隕石か?」

「オーロラとも違うな。光は揺れていない」

 

 それは最初、夕焼けの空をただ落下して行くだけの物体に見えた。

 当たり前の感じ方として、早めの流れ星と考えた者が多かった。この段階でも近づいて見る事が出来たなら流れ星なんて生易しいものではないと分かったであろうが一般人の想像力で分かるはずもない。

 彼らに欠けているのは想像力である。世界中で戦争をしていても、それは遠くで行われていること、誰かが対応することだと考えている彼らには、政治家に文句を言うことは出来ても、それを当事者として捉える想像力はない。

 そう、何時まで経っても流れ星が流れず最初は霞だった存在が世界樹から発せられる光に照らされた現実のものとしてハッキリと映るまでは。

 夜に向けて沈み込むために高度を下げた夕方の太陽に照らされた光り輝く尖塔群。まるで古代の天地儀のよう。白い都市が天空に逆さまにそそり立っていた。

 夏休みとはいえ部活もあるので麻帆良学園都市に残る学生はかなり多い。夕焼けの空に描かれた非現実的な情景で、彼らの理性は簡単に奪い去られてしまった。誰もが立ち尽くして空を見上げた。

 

「世界樹が光ったと思ったら今度はなんだい」

 

 二十二年に一度しかない現象を前にして暢気に携帯のカメラ付き機能で撮影している女子学生に比べれば、一昔前のヤンキーのようなリーゼントに服は学ランという極めて古風な格好をした豪徳寺薫の疑問は尤もであった。

 

「に、しても何のイベント?」

 

 豪徳寺薫の隣りで同じ光景を見上げていた空手着の中村達也が考えたように、超鈴音によって外界よりも数十年は進んだ科学力を持つ麻帆良学園都市に住む人々が工学部のデモンストレーションや3D技術が進歩したと考えるのは無理もない話だった。

 勿論、そんな訳はないのだが、学生達はそういう風に自分達の枠の中で事態を納得しようとする。危機を感知しない事が危機回避能力と同義であると勘違いするように。

 

「あ、あれは……本国の新聞で見たことが……」

 

 周りが空を見上げたまま困惑する中で、魔法世界の新聞で同じ光景を見たことがある魔法生徒である夏目萌は驚愕していた。

 明らかな異常事態に空を飛べる者達は逸早く行動を起こしている。しかし、上空に出た彼らが目撃した物は想像を絶していた。パイロットの達の目には、地上よりも明確に見る事が出来たからだ。

 

「こちら軍事研まほら☆おすぷれい! 駄目だ! あの物体の周辺に見えない壁でもあるみたいに知らぬ間に進路を曲げられて2500以内にどうやっても近づけない!」

 

 満足に状況も分からないまま発進した大学の軍事研の男性パイロットの感じ方は正しく、未知の状況を把握できるほどの余裕はなかった。

 

「確かに近づけないが周囲を旋回は出来る! 蜃気楼でも映像でもなく実在の物体に見える!」

 

 学園祭でも飛んだ旧式のプロペラ機を操りながら、航空部長である七夏・イアハートが先導する五機からなる連隊を組んで飛行しながら無線に向かって怒鳴る。

 回転するプロペラが轟音を出すので相手に声を届けるには必然的に声が大きくなってしまう。普段なら相手を気遣ってもう少し声のボリュームを落しているが未知の現象を前にしては気にしていられない。

 

「それより更に上空を見たか? 逆さまの大地が見える。これはまるで……まるで……!?」

 

 鏡に文字を映すと反転してしまうように感じ取って、光の向こう側に世界が広がっていると言いかけた七夏・イアハートの言葉は空に浮かぶ無数の黒点が見えたことで途切れた。

 

「あれは!? グ……グレムリン!?」

 

 徐々に近づいてくる黒点は最初翼をはためかせる鳥に見えたが、大きさや人型に羽が生えたような明らかな異形の輪郭がはっきりと見えた。しかもそれは一つではなく、目算では十や二十ではきかない。

 七夏・イアハートがその異形を目にして咄嗟に「グレムリン」と叫んだのは、20世紀初頭にイギリスの空軍パイロットの間でその存在が噂されたのが始まりとされている機械に悪戯をする妖精の話を聞いた事があったから。既存の常識が全く通用しない存在を目の当りした時、脳裏に咄嗟に浮かんだ飛行気乗りの故の勘違いだった。

 飛行速度は異形達の方が数段勝る。接敵まで時間の問題だった。

 

「キャアアッ!」 

 

 迫り来る異形達の群れに突然の事態に回避行動すら取れなかった七夏・イアハートの緊張の糸が切れ、パニックに陥って悲鳴を上げながら顔を伏せるのと異形達が手を伸ばせば届く距離にまで近づいたのは同時だった。

 異形達は七夏・イアハートの存在を一顧だにすることなく側を通り抜けていく。パニックを引き起こしながらも操縦桿を傾けたり離さなかったのは奇跡的と言えた。

 振って来る異形の姿はやがて地上からも見えて、対岸の火事だった現実が近づいて来てパニックを引き起こす。

 

「なんだ!?」

「化け物だ!! 化け物が降ってくるぞ!!!」

 

 叫び声が聞こえた。地上から上がったのは連鎖する叫びだ。連鎖する悲劇だ。

 瞬く間に拡がり、狼狽と狂気の大乱となって辺り一帯を飲み込んだ。逃げ惑う者、這い蹲う者、体を凍てつかせる者。

 

「ワァアアアアアアッ!!」

 

 その騒然を目がけ、巨大な影が幾つも落下した。腹を殴りつけるような衝撃と地響き。巻き上がる粉塵が視界を覆う。

 粉塵の中で何かの影が揺らめく。どこからか、低く轟く唸りが聞こえる。近いようで遠く、遠いようで近い、不気味で不吉な脈動だ。如何なる存在がいるのだろう。濃霧にも似た粉塵の中では判然としない。

 小山のような質量を持った何かが、ビリビリと肌を叩く空気を放ちながら身を起こした。影が、地面に大きく染み広がってゆく。

 異形が落ちた場所が人を避けたのは奇跡であった。湧き上がった地煙が漂い去り、人間のものではない肉体が姿を見せる。瓦礫を踏んで現れたのはこの世の者とは思えぬ異形の存在。

 人間よりも遥かに大きい二本足が滑らかな動作で瓦礫を踏み砕く。その行為は、悪魔の所業である。それは玩具にでも戯れるかのように、何の躊躇いもなく街を破壊していく。

 異形の怪物達の前には、今まで日常を謳歌していた学生達がいた。

 

「うわぁぁぁぁぁ!」

 

 始まりは、跳ねるように逃げ出した一人の学生服を着た生徒の叫び声から。

 

「ひぃ―――――この世の終わりっス~~~~~!!」

「あ………あれって………」

 

 そこには単一の恐怖はない。突然の出来事に、そういった感情に分類される以前のもっとごちゃごちゃとした感情の渦に翻弄されて、がくがくと震えている。

 たった数分で暢気な見学者から被害者へと変えられてしまった人間達は、頭を抱えて蹲り、両手を突き上げて罵り、足早に逃げ去る。走って転ぶ。連れと逸れる。他人を押し倒す。その背中を踏んづける。無視する。泣き喚く。どこにかは不明だが電話をかける。暢気にデジタルカメラで撮影する。

 対して、異形の怪物達の対応は単調だった。

 獣のような、もっと異質で、人間の心の中へと抵抗なく滑り込み、否応なく感情を揺さぶってしまう咆哮が響き渡る。

 

「ひ、ひぃ!?」

 

 魔法世界にいるはずの召喚魔の叫びに腰が抜けてしまった、まだ新人らしき若い教師は遠くから聞こえる同様の地響きに振り向いた。

 人混みの向こうに落ちた化け物と同じように、次々と新たな化け物が重力に身を任せて落下している。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ…………。

 静かに日常が壊されていく。

 

「いったい………どういうことなんだ」

 

 教師の震える瞳から混沌の涙が一粒、滑り落ちた。

 この教師の涙が地面に落ちるのと麻帆良学園都市が混乱の坩堝に落ちたのはどちらが先か。

 悲鳴、怒号、絶叫、号泣、罵声、哀願、呆然、懇願、困惑、興奮、焦燥。

 麻帆良学園都市を席巻して、まるでドミノ倒しのように狂気が伝染していく。部活帰りの中学生の集団や高校生達、見回りで騒がしすぎる生徒達を叱り付けていた教員達も、誰もが次々に平静さを失い、取り乱し、うろたえる。

 一点の墨で、広大な海が汲まなく黒くなっていくかのようだった。

 

「危ないってば! …………痛いっ!」

「うるさい!」

 

 パニックの見本とも言える惨状で、彼らは我先にと駆けて行く。そこに人間性などありはしない。生き残るために人を押し退け、倒れた者は踏み越えていく。

 

「押すな危ない! あぶな…………うわあっ!」

 

 相手を押し退けてでも助かりたい生存本能の制御が利かなかった。追い越そうとして小競り合いが起きて大きな混乱となり、混乱の中で振り回した腕や足が拳骨と足蹴に変わって飛び交う。誰かが倒れ、踏まれ、遂に次の段階へと突っ込もうとした、まさにその刹那。

 

「…………………………喝っっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!」

 

 魂にまで響いた大音量の声に全員の膝が子供のように震えた。

 

「諸君らはそれでも良識ある麻帆良学園都市の住人か! 節度というものを知りなさい!!」

 

 一体何時の間に現れたのか。肉付きの薄い白い髭の生やした、老人という単語に相応しい姿もなかろうというほどに老人らしい老人――――――麻帆良学園学園長、近衛近右衛門その人である。

 奇術のように何の支えもなく空中に浮かびながら学園長の声が天地を揺るがしていた。少なくとも混乱していた人々が無防備な背中に冷や水を垂らされたような感覚に陥り、それほどの迫力でもって感じられていた。

 

「――――諸君!」

 

 この場の混乱が落ち着いたのを見るや否や、辺りに響き渡るほどのとても老人とは思えぬ声量が放たれる。

 

「状況を理解できない者も多いと思うが今は有事である! 学園長である儂にも状況を掴めとるとは言えんが為すべきことはハッキリしておる!」

 

 麻帆良学園学園長という、この麻帆良学園都市のトップである立場を良く理解した上で為すべきことを見定める。

 

「動ける者は避難を! 助け合うのじゃ! そして全ての責任は儂が取る! 杖を持つ者は己が使命を果たせ!!」

 

 魔法使い、もしくはそれに類する者に伝わる隠語を広域念話に乗せて麻帆良学園中に聞こえるように伝播させる。

 

「儂らの街を守るんじゃ!」

 

 優先事項は当面を乗り切ること。

 その後のこと――――――政府や諸外国、そもそも麻帆良学園都市に住む一般住民の反応を考えると頭が痛いどころの騒ぎではないが、今は考えない。後のことは後に考えればいいのだ。今は目の前にある危機を何とか乗り越えることが肝心。

 この声を契機として、麻帆良防衛戦が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 互角の戦いを見せる二人の攻防は一進一退で、このままでは両雄が数千年戦い続けても雌雄は決しないように思われた。

 墓守り人の宮殿を覆う引き裂かれた魔力の塊も即座に修復されるが、修復の過程で発生した微風がやがて大きなうねりを伴う乱流となる。竜巻の如く、二人の戦いによって捲れ上がった瓦礫が巻き上げられて空の向こうへと跳んで行く。一瞬だけ瓦礫に視線を追った二人は全く同時に弾かれた様に間合いを取った。

 

「あれは……」

 

 魔力の海の上の空に何かが薄らと映っている。

 少し前までそこにあったはずの星空に変わって、そこに逆さまの大地があるかのような光景。大地に灯る光の柱の先にあるものはとても見覚えがあった。

 

「世界樹、まさか麻帆良学園?」

 

 樹霊結界に囚われている明日菜と世界樹が光の柱で繋がり、確かに逆さまの麻帆良の大地が空の向こうにあった。

 

「オスティアのゲートは麻帆良に繋がっているという話だったけど、まさかこうまで旧世界と繋がるとはね」

 

 フェイトにとっても予想外の事実だったようで、傷だらけの顔には驚きの色が濃い。

 この魔力の乱流は魔法世界と旧世界の魔力濃度の違いにより起こった魔力の流入現象に違いなく、ゲートを介して両世界が繋がった証明でもある。

 

「向こうの世界に混乱が広がるのは僕も望んじゃいない」

「それはこっちの台詞だ」

 

 新オスティア方面の空域で光と光がぶつかり合う中、フェイトの声が通って視線を戻す。

 フェイトの体を見れば、立っているのもやっとというボロボロな有様だ。アスカの方もデュナミスとの連戦もあって疲労も怪我も限界である。

 あまり時間をかければ連戦のアスカの方が持たなくなるかもしれない。故に口火を切った。

 

「互いに体の限界は近い。次で決着を着けないか」

「悪くない提案だね」

 

 二人は十数メートルの距離を間に向かい合う。呼吸が荒い。両者は微動だにせず、ただ向き合って射抜くような眼光で相手を睨み続ける。

 

「決着を着けよう」

「ああ、お前の顔にも見飽きた」

 

 それは、ハワイでの両者の初めての対決を思い起こさせた。思えばあの時から、アスカとフェイトの因縁が始まったのだ。そして今、両者は互いの因縁を終わらせようと向かい合っている。最後の一撃を繰り出そうと身構える。

 これも現実。言葉だけでは変えられないし、救われない。死力を尽くして決着をつけなければ分からないこともある。

 

「「―――――」」

 

 アスカとフェイトの間の空気が、緊張で張り詰めてゆく。次の行動で勝負を決める事になると、互いに理解しているからだ。攻撃を当てるにせよ、避けるにせよ、先に動いた方が圧倒的な不利な状況。

 

「アスカァァァアア…………………!!!!!」

 

 それでもアスカが、勝負を決めるために動こうとした時だった。こちらよりも先に先にフェイトが叫びながら動いたのは。

 

「フェイトォォォオオ…………………!!!!!」

 

 向こうもそのつもりか。アスカは獰猛な形に唇を歪めた。

 もう駆け引きや戦術を云々する段階ではないと、フェイトも思っているのだ。こちらには時間がなく、両者共に満身創痍。それゆえ思惑は重なった。

 

「フェイト様……」

「アスカ君……」

 

 墓守り人の宮殿の空気がピリピリと帯電しているみたいだった。見守ることしか出来ない少女達でさえ、凄まじい内圧に身体を震えを押さえるのが精一杯だった。

 これから放たれる一撃で全てが決まると誰もが悟った。

 

「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル!!」

「ヴィシュ・タルリ・シュタル・ヴァンゲイト!!」

 

 二人は全く同時に始動キーを唱え、足元を陥没させながらエネルギーを溜める。

 

「契約により我に従え、高殿の王!!」

「契約により我に従え、奈落の王!! 」

 

 構成が世界を書き換えて現象を引き起こす。

 アスカの姿勢が右腕を出した状態で定まる。右腕の先に、一個人で扱えるはずのない雷が現れる。手の先ただ一点に収束し、今にも解放されようと荒れ狂う。

 フェイトの詠唱によって地を裂き、遥か地下にあるマグマが今にも溢れんばかりの灼熱の業火を迸らんと勢いを増す。辺りで渦巻く熱気を揺さぶり、光熱波が轟いた。

 

「来れ、巨神を滅ぼす燃え立つ雷霆!!」

「地割れ来たれ、千丈舐め尽くす灼熱の奔流!!」

 

 二人は互いの詠唱と共に浮かぶ構成で相手が何の魔法を使うのか分かったが、自分が知る魔法とは最早別物であるそれに僅かに眼を剥いた。

 氷属性のおわるせかい、炎属性の燃える天空と並ぶ上位古代語魔法。だが、これはそんなものに収まるようなものではない。構成の緻密さは最上位の更に一段上を行き、速いだけではなく絞り込んで余裕を持たせた隙間にも別の構成を埋め込み、その密度は尋常ではない。

 例えるなら数人掛かりで行う儀式魔法のようなもので、とても個人でやっているというのは信じ難い。二人の残りの全精力を注ぎ込んだことで、魔法名だけを名残とした別種の魔法である。

 

「百重千重と重なりて走れよ、稲妻!!」

 

 白く、眩い破滅。闇夜を砕き、空気分子を焼き払う稲妻。何もかもを微塵と化す稲妻の龍は、有り余るエネルギーを纏い、敵を喰らわんと高い咆哮を上げる。

 

「滾れ! 迸れ! 嚇灼たる滅びの地神!!」

 

 フェイトが翳した手の先から光が放たれた。遥か眼下の地面に青光の線でいる織り上げられた魔法陣が浮かび上がり、赤黒い炎の柱がまるで太陽のプロミネンスのように次々と噴き出していた。地面から噴き出した何本もの炎の柱がグルグルと回転し、別の帯とくっついたり離れたりを繰り返す。

 次々と吹き上がる炎の帯はそうやってフェイトの背後で合流し、収縮し、やがて光の球体となって空中に固定された。

 

「おおおぉっ!!」

「あああぁっ!!」

 

 爆発的な、いや、それすらも生ぬるい光の本流が迸り、空を覆う。圧縮と膨張を繰り返しながら、今や今やと撃ち出されるのに耐えかねた空間の絶叫。空間が捻じ曲がり、それはまるで世界の終わりに歌う引き金の祝詞。

 二人が掲げた手の先に集まった球体から放たれる炎の光が世界全てを染め、視界が光に染まっていく。

 破滅的な力の渦に、空間が戦慄き、大気が咆吼する。

 二人の詠唱に呼応して、滾り溢れる膨大なエネルギーが地殻変動に等しい重さとパワーで空間を軋ませていく。それだけに止まらない。仲間がいる状態で広域にまで消滅範囲に入る魔法を使うことが出来ないアスカ。儀式を前にして儀式場に致命的な被害を与えるわけにはいかないフェイトも同様。

 

「―――――千の雷(キーリプル・アストラペー)――――――!!!!!!!!!」

「―――――引き裂く大地(テッラ・フィンデーンス)―――――!!!!!!!!!」

 

 魔法名が唱えられたのが合図。

 光が凝縮した。野放図に垂れ流されるのではなく、何と二人ともが広範囲殲滅魔法とも言えるエネルギーを片手に球状に収束して固定させ、相手に向けて一直線に神速で飛び込んだ。

 収束させた千の雷と引き裂く大地を手に飛んだ両者は中間地点で衝突と同時に光が爆裂した。

 

「「――っ!!」」

 

 この世のものとは思えない澄んだ音が響いた。

 両者の破滅的エネルギーが衝突した瞬間、墓守人の宮殿上空に太陽が生まれた。そうとしか思えぬ巨大な閃光によって世界が光に埋め尽くされ、全て人の目を焼いたのだ。

 どちらともなく飛び込んだ二人の色彩は、互いの最強を以って、打ち砕くべく牙を剥いたのであった。

 蠢く光の柱が世界を突き破る。同時に音が消え去っていた。それを奪ったのは、巨大なエネルギーの衝突によって生じた衝撃。

 盾同士で防御力を競っても意味はない。ならば、最強の矛同士で打ち合った場合どうなるか。答えは簡単、より強い矛が勝つ。

 互いが誇る貫けぬ物なしの最強の矛同士による激突によって、ごおっと烈風が巻いた。

 雷霆の光芒と煉獄の物塊のぶつかりあった接点で、現実の物理法則が砕けて悲鳴を上げたのだ。

 いっそ暴力的なほどの灼熱と光芒が渾然一体となり、世界を我が物顔で荒れ狂った。清冽にして苛烈なるエネルギーの竜巻は、空気分子の一つずつさせ瞬時に沸騰させ、あらゆる障害を呑み込まずにはおかなかったのだ。

 

「うおおおおおおッ!!!!!」

「オオオオオオオッ!!!!!」

 

 雷と溶岩を凝縮したエネルギーが僅か数センチしか空いていない二人の掌の狭間で鬩ぎ合う。

 五分と五分。互角のぶつかり合い。それも広範囲殲滅魔法を対個人に向けて放つというとんでもないことをしながら、魔法を放つのとは違うもう一つの手で溢れ出そうとする力を抑えつけるなんて非常識なことを成していた。

 

「なんというパワーアルか!?」

「二人が抑えへんかったら、この周りは塵も残らんで……!?」

 

 余波だけで吹き飛ばされそうになりながら各々が何かに捕まりながら趨勢を見守る。

 二人が発動と同時に広がることを抑えなければ恐らく墓守人の宮殿が飲み込まれて跡形もなく消滅していただろう。そんな非常識なことをしながらも魔法を放っている両者の右手が僅かずつ、一mm、また一mmと近づいている。互いの広域殲滅魔法を打ち消しあいながらも、少しずつ近づいていく。

 稲妻と溶岩が抑えの無い上下に乱れ飛び、二人を中心として何の混じりけも無い純粋なる閃光が墓守人の宮殿を照らすどころか付近の数十キロ先の空域まで白金色に染め上げる。

 二人の距離が近づいていくごとに全てが捲れ上がり、ひっくり返されるような、痛みではなくただ只管に肌を撃つ衝撃が身体を揺らす。

 光の発生源である二人が意識を保っていられたのは、奇跡に近かった―――――が、素晴らしい奇跡とも呼べなかった。衝動的に何もかも投げ出したいと思うほうどの衝撃の中で、二人が己の敵の眼だけを見つめ続けていた。

 

「アスカ君……」

「フェイト様……」

 

 木乃香と調が、息を呑んで白い、或いは赤い、極端な刺激の明滅に目を眩まされ、余波の風に立っていられなくてその場に座り込んだ。

 光は時間を重ねる事に光を巻いて更に純度を上げ、白く眩い灼熱の衝撃は解放された竜の如く魔法世界の天空へと猛り狂って、天にはオーロラまで現われた。

 まさしく天地開闢の光景。旧世界の黙示録にも記された終末の予言が今こそ人類へ襲い掛かっているかの如き、悪夢の光景。誰もが目の前にある光景が信じられず、今も腕を翳しても網膜に残る光の圧に慄いた。

 彼女らの、相手に寄せる信頼は、殆ど確信に近いものだった。どんな強敵相手にも勝利してきたのだ。だから今度も、きっと…………。

 

「おぁあああああッ!!!!!」

「オオオオオオオッ!!!!!」

 

 直近にいる二人には、それだけで記憶の全てを奪うほどの光が迸り続ける。光の筋が視界の全てを染め上げ、自分の身体すらちっぽけなものとして包み込んでいた。

 両者の激突は一進一退だった。

 負けた方は消滅しかねない技と技・力と力のぶつかり合い。絶大なる力を秘めた破滅の光。爆縮と拡散を繰り返すように、その光の奔流は付近の空域をうねる。二人の真下の地面が思うがままに暴虐を貪る光によって表面が融解し、抉れた大地はガラス状に変質した。

 刹那を万に切り刻み、億に切り刻み、意識だけが引き延ばされるのを二人は感じた。瞬きさえ許されない、走馬灯にも等しいコンマの時間に力が膨れ上がり続ける。

 闘いの中で高まる意識領域が重なり出し、ずれもなく一致した時、二人は意識の奥に光が弾けるのを自覚した。

 

「「っ!?」」

 

 その瞬間、互いの魔力光が乱舞する中で発散される波動が発光して見えた。幻覚かもしれなかった。二人は互いの魔力がぶつかり合い、絡み合い、溶融してゆくのを見た。

 重ね合わせている意志が共鳴し、閃光の中で互いの意思が競合して融合するのを感じ取った。

 

『アスカ、雪だるまを作るのはいいけど遅れないでね!』

『おはよう、3(テルティウム)

 

 一秒の何百分の一の時間に得た知覚。気がつけば二人は時間の流れを逆行して、相手の記憶が流れ込む。

 

『よぉ、テメェが新人か? さっきの陣のタイミングは良かったぜ。以後、よろしくな』

 

 まるで相手の人生を映画館で観ているかのように静かだった。今までの激烈な戦いが嘘のように、二人を取り巻く世界は静寂を保っている。

 

『ここに誓おう。必ずみんなの石化を解くって! 俺達に出来ない事なんてないんだから!!』

 

 その静寂の中でアスカとフェイトは互いの人生を見る。

 時間の流れが、ここだけ違っているかのようだった。悠久の時間が刹那に凝縮されているようにも、刹那の時間が悠久に引き伸ばされているかのようにも思えた。

 

『何故だ、何故だナギ! 君には答えがあったんじゃないのかっ!』

『答えなんてねぇよ。でもさ、俺の後に続く者が現れて答えを出してくれるかもしれねぇじゃあねぇか。その為に未来を守るんだ!』

『今を守ったところで何も変わらない! 君がしているのは現状維持だ。それでは魔法世界は救われない!』

『そうかもしれねぇ。だけどよ、今が無理だからって明日が出来ねぇとは限らねぇだろ?』

『可能性では誰も救われない! 』

『救われるさ。少なくとも俺のガキ達が大きくなるまでの時間は稼げる』

『っ!? やはり君も他の俗物達と何も変わらなかったのか!』

『子供の未来を守るのは親の役目であるぞ』

『アリカ王女!?』

『すまねぇな、アリカ。お前まで』

『これで良い。一時だとしてもあの子らが危険から遠ざかるのならば』

『認めない…………僕はこんな結末を認めないぞ!』

 

 一瞬で流れ落ちる記憶は普通ならば覚えていることは出来ないが、時間の流れに意味はないこの世界において容易い事である。

 この時、二人は世界中の誰よりもお互いを理解し、その根元から先に至るまで知った。

 

『親父とお袋は未来に賭けた。そして俺はこの道を選んだ』

 

 アスカは無意識の内に、そんな言葉を口にしていた。だが、アスカは口を開いていなかった。アスカの思考が直接フェイトの意識に飛び込んできていた。

 

『ナギの言う通り、君は答え(魔法世界の救済案)を持って現れた。彼は自らの行動を以て言葉を証明した。そのことは、認めざるをえない』

 

 その会話の全ては夢ではないし、幻覚や幻聴でもない。アスカが自分の全てを知ってしまったように、自分もアスカを織った。彼の生まれ、育ち、背負ってきた重荷。互いの意識が共鳴した一瞬に、恐らく相手以上に相手の事を織ってしまったのだから。

 

『僕は君にナギを見た。ナギと同じようでいて、君は決定的に違う道を作り出した。だけど、それでも僕もまた自分でこの道を選んだ』

 

 二人の意識が異常なほど深いレベルで繋がり、混濁しているのだった。ひどく複雑に縺れあっている。グルグルと撹拌される二人の精神は互いの垣根を乗り越え、だけど確固として強力な個としてあることで精神を共有しているという不思議な感覚にあった。

 

『この十年、自分の眼で世界を見て回った。完全なる世界の構成員(テルティウム)としてではなく、一個人(フェイト)として世界を見た』

 

 奥の奥まで、底の底まで繋がってしまっている。

 まるで宗教で言うところの悟りを開いた人間のように他人の心が手に取るように分かり、誤解も行き違いもない。

 

『その上でこの世界を変えなくてはならないと思った。この空間では君の考えが手に取るように分かる。勿論、僕の考えも君に筒抜けだろう』

 

 十年間の間にフェイトが見てきたものがアスカの脳裏を過る。

 貧困、紛争、差別…………世界から決して根絶できない負のそれらを見た上でフェイトは使徒としてではなく、魔法世界に生まれた一個人として変革を起こすと決めたのだ。

 

『止まる気は無いか』

『結論はもう出ている。この意味なき世界で唯一の救いであり、創造者たる僕達の責務だ』

『なら、なんで栞達を助けた?』

 

 アスカの問いに、フェイトの思考にノイズが奔った。

 

『お前の行動は矛盾している。魔法世界に生きている全ての者は人形で幻だから世界を閉じるのだと考えている癖に、この十年の間にやっていることは真逆のことばかりだ』

 

 魂狩りをせずに世界を見て回り、自分の手の届く範囲で助けられる人達を救う。やっていることはどう見ても人形だと断じている相手にすることではない。フェイトはその矛盾から目を逸らしている。

 

『本当のことから目を逸らすな。お前のしたいことが別にあるだろう』

『無駄な話だ。最早、互いに引くことは出来ない。僕らはどこまでいっても平行線だ。平行線は決して交わることはない』

『だがよ、平行線ってことは向いてる方向は一緒ってことだ。望む世界も求める物も同じなんだぜ』

『皮肉な話だね。ここにきて、僕らは世界中の誰よりも理解し合っている』

 

 フェイトの言をアスカは否定しなかった。

 

『同感だ。運命の皮肉を感じずにはいられねぇ』

 

 ふっと苦笑したフェイトに吊られるように、アスカもまた微笑んだ。

 

『僕は君が嫌いだ』

『俺もお前が嫌いだ』

 

 平行線にいるからこそ、理解し合えたからって相手への心象は死んでも変わることはない。

 

『俺は今の世界を変えていく』

『僕は絶対の楽園を築く』

『何時か破綻するかもしれない世界をか?』

『不完全な世界が続いていくよりはいい』

 

 フェイトの偽りの無き本音ではあるが、彼自身は自分の内なる望みに気付いていない。

 

『本当に、それがお前の望みなのか?』

 

 フェイトの全てを知ったからこそ言えるアスカの言葉を最後に、二人の間の世界は霧散した。

 

「ォオオオオオオオオオオッッ!!」

「ァアアアアアアアアアアッッ!!」

 

 雷と溶岩は激しくぶつかり合い、弾け合い、絡み合い、破壊の光を撒き散らし、遂に揃って消えていった。或いはこの空域全てを呑み込みかねない大爆発を想起させた激突は、二つのエネルギーの総量が同量であったが故か、しゅるりと互いを喰らう蛇のように相殺して消滅した。

 その際、凄まじい衝撃波が駆け抜けた。猛烈な爆風だけが渦を巻き、周囲を煽る。衝撃波だけで地形すら変える―――――どころか、原型も留めさせぬほどの威力。

 ごっ、と二人の間に空気が流れ込む。この天空にある全ての空気が、たった二人だけに集中するようだった。

 二人を中心に発生した衝撃波によってフェイトとアスカは互いを中心点に反対方向に派手に吹き飛んでいた。それこそ何百メートルも吹き飛びそうな勢いで弾け飛んだ二人だが、その後の行動も同じだった。

 

「!」

 

 一瞬で数十メートルを飛ばされたがアスカは直ぐに体勢を整えた。物理法則に反した行動に身体を軋ませて腕を振り被ると驚異的な力がアスカの右腕に収束していく。

 凝縮した筋肉が痛めた内臓を軋ませて込み上げた血を噛み切り、吼えながら虚空瞬動で未だ最初の体勢のまま吹き飛ばされているフェイトに向けて一直線に飛ぶ。

 

「……っ!!」

 

 ほぼ同時に体勢を整え、同じように右腕に力を収束させてアスカに向けて飛んだフェイト。

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」 

 

 迫り来るアスカに向けて吼えると共に滑空する。時間は限界まで凝縮して爆発した。瞬く間という言葉すら短い時間に腕を振り被って迫るアスカへと近づいていく。

 

「「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」」

 

 二つの雄叫びが反響する。もはや技などとは呼べない。互いに拳に力を乗せるだけの攻撃だ。

 互いに引き延ばされた刹那の時間、二人の瞳は相手を映し見た。後少しで接触というところで、先程の二人の意志を交わらせた世界の揺り戻しが起こった。

 

「「!?」」

 

 自分の人生を相手が知る先程のとは逆に、今度は自分の人生が脳裏でフラッシュバックする。 

 

『美味しい珈琲を淹れて、お待ちしていますね。何時でもいらしてください』

 

 生まれてから十二年の人生が一瞬の内にフェイトを襲い、記憶の中の少女が朝日に照らされた笑みを向けて来る。

 

『――――――あの珈琲は、もう飲めないね』

 

 死神のように傷を負った少女の魂を刈り取った2(セクンドゥム)を消し飛ばした後に漏らした自分の言葉こそが押し殺していたフェイトの本音だった。

 

『待っててね。直ぐ戻るから』

 

 アスカの中にも自分の人生そのものと言える膨大な量の記憶が雪崩れ込んきた。十二年に及ぶ記憶の奔流を刹那の時では全てを認識できない。

 それでもアスカは本当に大切なことだけは感じることが出来た。

 

「あ」

 

 交差する両者。放たれた攻撃。

 相打ちにも満たない。いや相打ちでも足りない。自分が斃れれば、目の前にいる相手によって仲間が屈するだろう。体に走る傷と力の消耗はほぼ同じ。ならば、最後に勝負を決する要素は果たして何か。

 

「ゴプッ……!」

 

 勝負を決したのは小さな要素。過去を力に変えた者と止まってしまった者。その違いこそが勝負を決定付けた。

 一直線に放たれたアスカの右拳がフェイトの腹を抉った。人のそれとは違う白き血を吐き出し、眼を剥いて己を抉ったアスカの腕を凝視する。

 

「ハッ!!!」

 

 激烈なるアスカの発声と共にフェイトは派手に吹っ飛んだ。破壊されて抉られた通路を吹き飛ばし、橋下にあった剥き出しの岩場に落ちて地面を壊し尽くした。

 何度も何度も地面に叩きつけられ、抉り、フェイトの何倍もある岩石を吹き飛ばし、元がどんな土地だったかも定かではない荒れ地がまた一つ誕生した。

 

「け……は……ッ!」

 

 もうもうと砂煙が舞う中、自らが突き崩した瓦礫にうつ伏せになって両手を突き、フェイトがその狭間に血の塊を吐き出した。

 殺しきるだけの時間が足らなかったのも向こうも同様のようで、幸いにもフェイトの腹に穴は開いていないが今の一撃は致命的だった。

 

「フ………所詮は人形………何度繰り返しても結末は同じか。十年前、二十年前………或いは、それ以前からずっと……」

 

 叩き付けられた岩塊からフェイトが震えながら身を起こしていた。常人なら即死してもおかしくないほどの衝撃にもかかわらず、フェイトは起き上がった。片膝をついて座り込む。

 ごとり、と岩の塊がフェイトの背から落ちた。己に圧し掛かる岩石をどかして立ち上がったフェイトだが、既に満身創痍。体は不規則に揺れており、膝は笑っている。

 殆ど全ての力を使い果たし、無理な調整によって生まれた歪みによって体は上手く動かず、ダメージは限界を超えた。

 

「これで、終わりか。今回は、嘗て程の苛立ちを感じない。己の全てを掛けて、挑んだからかな」

 

 フェイトの顔に自然と笑みが広がる。

 一瞬前まで死闘を繰り広げていた相手なのに、敵意も恐怖も感じない。殺し合っていたこと自体、夢現の遠い記憶だと思える。それを不思議と感じることすらなく、フェイトは満たされていた。

 ふと視線を動かすと、祭壇の近くに調達仲間の少女達の姿が目に入ってきた。

 全員が全員、両手で口元を覆い、ボロボロと涙を流している。言いたいことが山ほどあるが、想いが深すぎて何も言えない――――そんな様子だ。

 フェイトの胸にも、熱いものが込み上げて来る。

 何度か咳き込み、汗と血で汚れた顔を拭ってから、汗とは違う雫が目から零れ落ちていることに気づいた。

 

「涙か。人形である僕が涙を流しているのか」

 

 記憶が相手に伝わったように、自分の記憶をも走馬灯のように脳裏に流した。封じ込めた認識を受け入れると目から一滴の涙を流させた。

 

「ああ、認めるよ。僕はもう一度あの珈琲が飲みたかった。完全なる世界を造れば、もう一度彼女と会えると思ったんだ」

 

 体ではなく心が滲ませた雫。頭の中に押し入り、痛切な熱と共に押し入ったアスカの記憶。一体あれはなんだったのか。

 動かぬ手で億劫に目を擦り、掴まえた端から霧散してゆく記憶を弄りながら遠く離れたアスカを見つめた。

 

「ハァ………ハァ………ハァ………ハァ」

 

 敵に劣らず、アスカの体もボロボロだった。

 幸いにして骨が折れるまでの重傷はないが、打撃によって内臓が傷ついたのか、血も吐いた。吐き気も凄い。負荷を越えた心臓がキリキリと痛む。擦り傷、打撲、内外の出血も数知れず。……………現実空間で広域殲滅魔法なんてものを打ち合って五体満足でいるのだから、むしろ良く生きているといえる。

 息を大きく乱したアスカは立つだけで精一杯といった様子のフェイトの方へ、ゆっくりと近づいた。

 

「決着は着いた」

「殺さないのかい?」

「俺はお前を理解した。お前も俺を理解した上でそんなことを言うなら、もう一回ぶん殴るぞ」

 

 フェイトに近づいたアスカが膝を曲げつつ、右手を差し出した。

 

「手を出せ。お前の仲間の所まで運んでやるから」

 

 フェイトは、その手をパシッと叩いた。

 驚くアスカに、フェイトはニヤッと笑う。

 

「君に運んでもらうほど弱ってない」

 

 アスカの手を借りることなく、膝に手を付いて立ち上がる。足元がふらついているが、不思議と体が軽くなった感じがした。

 

「素直じゃない奴」

「ふん、君ほどじゃない」

 

 憎まれ口を叩きながらも笑い合う二人の顔には悲壮感も焦燥感も無い。あるのは、互いを認め合った気持ちだけだ。

 

「しっかし、世界だ何だ言って理由は女か」

「君も同じだろう。人のことは言えない」

「違いねぇ」

 

 手を繋いで慣れ合うような仲ではない。アスカとフェイトは、互いに共になることはないと知っていた。この関係は永遠に平行線で、望む未来が同じだとしても道が重なることは決してない。

 

「僕達は同じ道を歩みことはない」

「分かってる。この世界に続いていく価値がないと思ったんなら何度でもかかってこい。相手をしてやる」

「寝首を掻かれないように邁進するんだね」

 

 偽善ですらないたただの利害関係だった。それでも全く違う方向を向きながら二人は繋がっていた。

 一瞬の幻に過ぎなくても、命を奪い合った敵をすら信じられるなら、この世界はそれほど悪くないとフェイトは思った。 

 

「僕の、負けだ」

 

 勝敗は決した。墓所の主は静観の構えを見せ、フェイトガールズは楓達によって破れ、デュナミスはアスカの手にかかって死んだ。残ったフェイトの敗北を以って完全なる世界は英雄の前に膝を屈した、その瞬間までは。

 

「!」

 

 アスカの全身を悪寒が走り冷や汗が襲った。まるで冷や水でも浴びせられたかのような寒気が体を駆け抜け、全身の産毛が総毛立つ。

 神経を抉り出して直接冷水に浸されたかのような強烈で鮮烈な感覚。そのまま凍死しても不思議ではないほどの衝撃がアスカの体を冒していく。その絶望的な感覚は致命傷に近く、その瞬間、アスカは本当に死んでいたかもしれない。

 その場にいた全員の肌に寒気が走った。鈍い衝撃が足下から伝わってきた。

 

「なんだ、この気配は?」

 

 ただでさえ魔力の圧迫感は強まっているというのに、今また更にその重圧が増してきている。とんでもない膨大な魔力の持ち主が、この空間に顕現しようとしている。

 確かな質量を持ったなにか、肌を粟立たせるほどの存在感をもったなにかが、この場所に迫っている。

 悪寒の元を振りまく先へと体が恐怖に屈した意志とは反対に勝手に動いて見てしまう。

 アスカの千の雷とフェイトの引き裂く大地の衝突によって荒された墓守り人の宮殿の都市には今もなお粉塵が撒き散らされている。だが、いる。この空気を殺す存在が向こうに。

 何かの軋むような音の後に破裂音が響く。アスカ達の見守る中、宙に裂け目が出来ていた。あたかも、空間に亀裂が入ったかのように、何もない空中に唐突にそれは現れたのだった。

 

「来る!」

 

 空間の裂け目から二本の逞しい腕が突き出てきた。なにか巨大な気配のようなものが、闇と共に現われようとしている。

 ぞくっと肌が粟だった。

 空間の裂け目から溢れ出る気配は墓守り人の宮殿を覆っているかのような嫌な感じだった。これは人間が生み出せる気配ではない。

 アスカの顔がこれ以上ない緊張で引き締まる。

 敢えて隠すこともなく、自分の力に圧倒的な自信を持っている気配の持ち主だと分かる。相手の正体が分からないだけに、余計油断できなかった。

 裂け目の縁に指を引っ掛けると、左右に押し開くように力を込めた。それだけで大地が、空気が、この魔法世界全てが震撼するような重低音が響き渡る。空間の裂け目は、たった二本の腕の力によって大きくその口を開けることとなった。

 広域殲滅魔法のぶつかり合った余波で生まれた風が徐々に粉塵を払って――――――――足音もなく、裂け目の奥から悪寒の元の姿を白日の下へと晒した。

 

「造物、主…………始まりの魔法使い…………」

 

 黒のローブと布で肉体の全てを覆い、顔どころか素肌が一切見えない独特の服装。それはクルト・ゲーデルが見せた過去の記憶の映像に現れた『完全なる世界』の首魁。彼、もしくは彼女こそが悪寒の元。

 本当の絶望に、アスカ達はまだ触れてもいなかったのだ。闇が絶望を連れてやってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り二時間四十四分二十九秒。

 

 

 

 

 






次回『第86話 終わりの始まり』



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第86話 終わりの始まり

 

 

 

 

 

 麻帆良学園聖ウルスラ女子高等学校の生徒でドッジボール部「黒百合」の主将である英子は、同じ部活の後輩に呼ばれてこの奇怪な事件に遭遇した。

 

「な……何よ……これ……」

 

 当てもなく逃げ出した途中で、大通りを外れた小道に突き飛ばされた英子は恐慌を来たした同輩達を見て茫然と座り込む。と―――――何時の間にか目の前に一体の召喚魔が忍び立っていた。

 でっぷりと太った巨体を道化染みた衣で包み、紫色の肌と角を持っている。

 まさしく悪魔としか呼べぬ凶悪な貌に愉悦の感情だけがはっきりと浮かんでいた。裂けた口元と異様に発達した牙、そして額から突き出る尖った角を加味しても、それは形だけを見れば人間に限り無く近い。体型こそ人間のものに近いが、明らかに魔の血統を有する存在。魔人、という単語が親しくしている部活の後輩が勧めてくれたゲームの中に出てきた単語が脳裏に浮かんだ。

 敢えて言えば、その瞳だけが人間とは決定的に違う。瞳と白目の境が無く、全てが紅く塗り潰された虚無の瞳。それは今、目前に立つ哀れな生贄の子羊に向けられていた。

 

「ひっ……!?」

 

 少女が身を護るように身体を縮めて目を閉じ、悲鳴のように高い声を上げて尻餅をついてしまった。捕食者に遭遇した食われる感じ取って自力では立ち向かえぬと悟った絶望の反応である。

 遠目で見るよりずっと大きく、なおかつ分厚い筋肉に覆われている召喚魔は嘲りを浮かべ、一歩踏み出した。少女は震えながら頭を掻き抱く。それが精一杯の動作。

 召喚魔が人の言葉ではない何かを呟きながら蒼く光る手を掲げると、掌の先に幾何学模様の魔法陣が浮かび上がった。

 魔法使いでもない一般人の少女に、召喚魔が放とうとしているのが古代語魔法であると分かるはずが無い。だが、それが自分の身を危険に晒すものであることは直感的に警鐘を鳴らす普段は鈍い生存本能で悟った。

 

「神様……ッ!」

 

 英子は固く目を瞑り、名も知らぬ神を口にした。

 

「危ない、英子先輩!」

 

 そこへ召喚魔と英子の間に遮るように現れたのは、彼女を呼び出した部活の後輩である春日直哉であった。

 春日直哉は部活の先輩である英子に惚れている。彼は麻帆良祭で出来なかった告白を夏休み中にする決心した。しかし、夏休み最終日になるまで決心がつかず、今日まで延びてしまった。

 相手を挑発して冷静さを失わせて自分たちに有利な約束を結ばせる策士な面もあるが非常に負けず嫌いで勝気な性格で、引っ込み思案で弱気な性格な自分では釣り合わないかもしれない。そんなことを考えもしたが気持ちは抑えきれない。

 こんな事態になっている中で必死に探したが、ようやく小道で見つけた時には絶体絶命の状況だった。

 自分が死んでも英子を守りたい、と思春期特有の思い込みがあったとしても彼の好意は本物であった。一瞬たりとも迷う来なく英子の盾となるように飛び込んだ。

 

「直哉君!?」

 

 知り合いの少年の背中で向こうで発せられる蒼い閃光が瞼の裏までを貫き――――破滅を止めるべく一瞬で躍り出たのは葛葉刀子だった。クールビューティーという言葉を体現したような彼女は、その長髪と細眼鏡で知的な雰囲気を持つ、壮麗な女性だ。

 着こなしているスーツを翻しながら、バッと二人の前に躍り出て長刀を鞘から抜き放つ。

 

「神鳴流奥義―――――雷鳴剣!!」

 

 間近で女性のものらしき叫びが聞こえたと同時に雷鳴のような爆音の直後、再び視界が闇へと落ちる。

 何も起こらぬ身に少年は戸惑いながら瞼を上げた。

 そこには先程までいた異形の召喚魔はおらず、地面に焼け焦げた跡を残すのがそこに存在していた証明のようだった。 

 揺れる瞳の中、焼け焦げた地面からは煙が立っていた。そしてその前に物凄く見覚えのある女教師がスーツに刀という奇怪な組み合わせで立っている。その女教師にこれまた有名なクラスの担任女教師がやれやれとばかりに近寄る。

 

「あ~あ、一般人の前で刀なんか抜いちゃって。これはオコジョ妖精やろうな」

「その時は貴女も一緒ですよ、千草」

「嫌やわ、刀子さん。うちはなんもしてませんし」

「これからすることになるでしょうに」

 

 違いない、と笑って答えた天ヶ崎千草はスーツのポケットから二枚の呪符を取り出す。

 

「猿鬼、熊鬼出でませい!」

 

 千草が投げた呪符から呼び声と共に現れたのはファンシーな見た目の猿と熊のぬいぐるみ。

 これだけなら一見にして可愛らしい姿で終わるのだが、その大きさが二メートルを越えていると可愛らしい外見も不気味に見え、ある種の圧迫感すら感じさせる。特に熊鬼と呼ばれた方の熊のぬいぐるみには、殺傷力のありそうな鋭い爪を備えており、道端で会ったら一目散に逃げる事を推奨されるだろう。

 

「さあ、行きますよ」

「給料分は働くとしましょか」

 

 二人の女教師は英子と直哉を顧みることなく、二体のファンシーな異形を従えたまま人間離れした跳躍力でこの場から離れていく。

 

『――――諸君!』

 

 その直後、呆然とした二人の頭に学園長の声が直接響いてくる。

 

『状況を理解できない者も多いと思うが今は有事である! 学園長である儂にも状況を掴めとるとは言えんが為すべきことはハッキリしておる!』

 

 現実はどこに行ったのろうかと呆然とするぐらいに突発的な事態が続いていて、有事であるというのは二人も理解していた。

 

『動ける者は避難を! 助け合うのじゃ! 全ての責任は儂が取る! 杖を持つ者は己が使命を果たせ!!』

 

 状況は理解できない。それでも助けたことは間違いなく、異常な事態でもどうするかを考えなくてならない。

 

『儂らの街を守るんじゃ!』

 

 と、次の瞬間、杖を持ったこれもまたどこかで見たようなスーツ姿の中年の男が異形を退治しているのを見て二人はある噂を思い出した。

 

「魔法オヤジって本当にいたんだ……」

「ですね……」

 

 彼らの混乱は絶賛進行中である。

 

 

 

 

 

「キャァアアアアアア!?」

 

 生徒達の避難誘導をしていた新田教諭は聞こえて来た悲鳴に、一切の躊躇いなく発信源に向かった。

 避難場所になっている広場へと続く通路を塞ぐようにガーゴイル型の召喚魔が立ち塞がり、その前に中学生ぐらいの少女たち数人が怯えて蹲っている。

 

「貴様……っ!」

 

 瞬間、新田教諭は獰猛な殺気を放つ召喚魔に突進していった。自分の身の安全のことなど脳裏には欠片もなかった。あったのは、ただ一つだけ。

 

(――――――生徒を守らねば!)

 

 それだけが、その思いだけが体内を激しく駆け巡っていた。正義感でもなく、社会人としての義務でもなくて、教師としての魂に従って生徒が傷つけられることに耐えられなかったのだ。

 

「障害を排除します」

 

 後少しで殴れる距離に到達するというところで感情の無い機械音声染みた声が響き渡る。

 直後、ミサイルを撃ったような激音が鳴ってガーゴイル型が吹っ飛んで霞と消えていく。

 

「は?」

「皆さま、避難して下さい」

 

 新田が振り上げた拳の行き場に困っていると、次いでSF映画でよくあるガシャンガシャンとロボットが歩く時に聞こえる音が聞こえ、同じ機械音声染みたが声の主が横から現れる―――――五体ほど。

 

「私は麻帆良大学工学部に製作されたT-ANK-α3。開発者より田中さんと命名されました。以後、お見知りおきを」

 

 他と区別をつける為か、頭に赤い鉢巻をつけた田中さんが新田を見ながら言った。

 いかつい体形にサングラスをつけた大男の集団の登場に頭がついていかない新田は「あ、ああ、こちらこそよろしく」と、咄嗟の反応で挨拶を返す。

 

「赤鉢巻、私達は他へ向かいます」

「了解しました。ご武運を」

 

 そうして赤い鉢巻を付けた田中さんを残して他の田中さん達はガシャンガシャンと大きい足音を立てながら走って行ってしまった。

 

「現在、麻帆良学園は厳戒態勢に入っており、二千五百体の田中部隊が救助に当たっております。皆さまは私が守りますのでご安心を」

 

 女子生徒達と共に田中さん達を見送った新田に赤い鉢巻をした田中さんが胸を叩いて請け負う。

 学園祭でロボットであることが周知の事実である田中さんを前にして新田と女生徒達は表情の選択に困った。

 

「あ、あの新田先生、これは一体……」

「…………私にも分からん。分からんが」

 

 田中さんの言葉を信じるならば、少なくともこの事態に対処できるだけの力が動いていることは間違いないだろうと、遠い目をしながら去っていく田中さん軍団を見送る新田なのだった。

 

 

 

 

 

 

 麻帆良学園都市で一番高い建物の屋根の上でエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルがいた。

 都市中が混乱に陥る中で最も平静であろうエヴァンジェリンは魔法秘匿の法を無視することを選択した近衛近右衛門の姿に鼻を鳴らした。

 

「ふん、爺も腹を括ったか」

 

 混乱からパニックに陥りかけたところで魔法を使用しての一喝を行わなければ、二次的な被害は莫大なものとなっていたことだろう。

 魔法秘匿よりも人命と安全を優先するには勇気と覚悟のいることだが、今後次第では立場どころか命すらも危うくなるとなれば中々選択できるものではない。

 

「現状は秘匿云々を言っていられる状況ではない。学園長も相応の覚悟の下で為されたことでしょう」

「分かっている。評価はしてやるとも」

 

 音もなく背後に現れたアルビレオに、前にもこのようなことがあったなとエヴァンジェリンは内心で思いながら上空を見る。

 

「絵に書いたような一大事だが、貴様は手伝ってやらんのか?」

「その必要はないと思いますよ。彼は彼なりにこの事態に備えていたみたいですから」

「ああ、あの田中とかいうロボットか」

 

 視線を下ろして都市内を見渡せば、学園祭で猛威を振るった男性型ロボットである田中さんや多脚型ロボットなどが縦横無尽に走り回り、魔法世界からやってきた召喚魔や落ちて来た岩石に対処している。

 魔法先生や魔法生徒だけで都市中をカバーすることは不可能である。力を持った一般人も協力はしてくれているが焼け石に水の中で、疲れ知らずの田中さんらロボットの活躍には目が瞠るものがある。

 

「備えていた、か」

 

 アルビレオが言った言葉の意味を反芻するようにエヴァンジェリンは口の中で呟く。

 魔法先生・魔法生徒で大体の事態に対処可能であるのに、千以上はいそうなロボット群はどう見ても過剰な戦力ではあるが今の事態においてはこの上ない有益な戦力である。

 

「む……」

 

 エヴァンジェリンの沈思に突っ込みもせず、変わらず上空を見上げ続けているアルビレオが何かに気付いた。

 釣られてその視線の先を追ったエヴァンジェリンも麻帆良学園上空に映る浮遊都市で何度も明滅する光を見た。

 

「戦っていますね。彼の世界の創造主の道具とアスカ君が」

 

 向こう側の都市で明滅を繰り返しり、絶え間なく移動を続ける光の片割れがアスカ・スプリングフィールドであることは超高位魔法使いである二人ならば判別することは容易い。

 

「アル、貴様…………何を知っている?」

 

 もう一つの光の主がハワイで戦ったフェイト・アーウェンルンクスであることはエヴァンジェリンも見たが、名前ではなく違う言い方をしたアルビレオに不審も露わに問いを発した。

 

「オスティアと麻帆良(ここ)がゲートで繋がったことは、まあどうでもいいことだ」

 

 膨大な魔力によってゲートを介して両世界が繋がってしまったことを事態は問題ではないと、今も都市中を覆っている混乱を意図的に無視して鋭い視線を向ける。

 

「絵に書いたような一大事をどうでもいいとは豪胆ですね」

「茶化すな」

 

 暴発して学園丸ごと吹き飛んだら廃墟生活になるが、これだけの異常事態になってしまえばどのような結果になろうとも今後は平穏無事になるとは思えない。

 他人ごとではないが今はもっと大事なことがある。

 

「あの召喚魔は向こうから流れてきたものだろうが、進んで人を害しようとはしていない。襲っているのはある一定の地点に向かう為の邪魔になっているからだ」

 

 言うなれば邪魔な障害物を除こうとしているに過ぎないと自らの推測を話しつつ、アルビレオの反応を窺う。

 

「吐け、アルビレオ・イマ」

 

 彼らしくなく厳しい表情を崩そうとしないアルビレオに直接的な問いを発する。

 

「奴らが向かっている学園中央部――――世界樹の下に何が隠されている?」

 

 核心を突く問いにアルビレオはまるで人形のように微動だにしないまま口を開かない。

 十秒か一分か、或いはもっと短く、もしくは長いような沈黙の後にようやく重い口を開いた。

 

「十五年…………あなたがこの地に留められた年月ですが、果たしてその年月は長かったのでしょうか」

「長いに決まっているだろう」

 

 アルビレオ・イマは無駄話が多い男だがシリアスの時までギャグに走る男ではない。少なくとも必要なのだろうと話に乗る。

 

「馬鹿な学生どもと机を並べて、五回も中学生をやらなければならなかった私の気持ちが貴様に分かるか」

 

 思い出すとイラツキが増してくる。

 三年待ってもナギが来ず、卒業も出来なくてまた中学一年生からやり直しさせられて、そんなことを五回も繰り返せれば誰だって嫌気も覚える物である。

 

「途中から時々見ていたので少しは分かります」

「何?」

「学園祭の時にも言いましたが、私はずっとこの都市の地下にいたのですよ」

 

 どうにもアルビレオにはおちょくられることが多いので話半分にしか聞いていないことが多々あったので、改めて言われて思い出せばそんなことも言っていたような気がする。

 

「つまりは、あなたの封印も解こうと思えば直ぐに解けたというわけです」

 

 記憶を想起していて、続いたアルビレオのその言葉を聞き逃しかけた。

 

「私の存在を知った時、あなたも少しは考えたでしょう。私のアーティファクトであるイノチノシヘンを使い、ナギになれば呪いを解けると」

「…………考えなかったわけではない」

 

 アスカらと出会う前には選択肢の一つとしてアルビレオのアーティファクトはあった。だが、それもナギの生存があってこそ。アーティファクトは仮契約の主が死ねば契約は破棄されて出すことは出来ない。つまりはナギが生きてなければアルビレオがいても意味がない。

 

「昔ならばともかく、今はナギ本人かアスカ達以外に呪いを解いてもらおうとは思わん」

 

 アスカらとの戦いで気持ちの区切りはついているから、今のエヴァンジェリンは昔ほど切羽詰って呪いを解こうという気は無い。

 

「第一、貴様に頼もうものならばどのような対価を要求されるか分かったものではない」

 

 もう一つの理由として、アルビレオの生存を知っても選択肢から外したのは彼が無償で呪いを解いてくれるような殊勝な男ではなく、変態的な対価を求めて来るのは目に見えているからでもあった。

 

「スクール水着を着て、ネコミミとメガネを付けて一日を過ごしてもらうぐらいは要求したかもしれませんね」

「…………」

「後生でセーラー服を着るぐらいは認めてあげましょう」

 

 どこからか取り出した『えヴぁ』と書かれたスクール水着・ネコミミ・メガネ、更にはセーラー服を取り出したアルビレオに心底から頼まなくて良かったと思ったエヴァンジェリンであった。

 

「それはともかくとして、少なくともこの十年間の間、私はあなたが苦しんでいたことも知っていたし、無理をすれば呪いを解くことも出来たことは事実です」

 

 アルビレオの言い様から嘘ではないだろうとエヴァンジェリンも結論付ける。

 諧謔を弄することは多々ある男ではあるが、ここ一番にまでふざけた物言いをすることは決してないことは長い付き合いで知っている。

 

「そう出来なかったと言いたい訳か」

「呪いを解いた場合、不都合があったから。理由はただそれだけです」

「不都合、か。私が荒れていたから、ではなさそうだな」

「ええ」

 

 十年前とすると、一度目はともかく二回目の中学を卒業できなかった時期は特に荒れていた自覚が有るので抗弁する気は無い。が、アルビレオの言い様からするとそれ事態は問題ではなさそうだ。

 

「ナギが呪いを解きに行けなかったのは武道会の時に聞いていますね」

「ああ」

 

 卒業しても呪いが解けなかったと学園長から聞いたとはナギも言っていた。そしてアスカらを妊娠した妻を放っておくことが出来なかったとも。

 

「アスカ君達が生まれてもナギがあなたの前に現れなかった理由は十年前にあります」

 

 溢れ出る感情を無理矢理に抑えたような抑揚のない淡々とした声で秘された過去を告げるアルビレオは、そこで一拍を置いて一瞥もなく続ける。

 

「十年前、私達は敵との一大決戦を行いました。二十年前に比べれば規模は小さくとも、二十年前に勝るとも劣らぬ激戦でした」

 

 内心で荒れ狂う激情を隠しもしないアルビレオの横顔を見たエヴァンジェリンを見ることもない。

 

「元老院の暗部が手を出して来たこともあって混戦を極めましたが、敵の大半を倒したことだけを見れば勝利とも言えるでしょう。その代償としてガトウが死に、ナギは敵の首魁と相打ち、私も重傷を負い、最近まで碌に動くことも叶いませんでした」

 

 決して歴史に記されることのない戦いを語ったアルビレオは、そこで疲れたように深く息をついた。

 

「だが、お前はナギが生きていると言った。相打ったが死んだわけではないのだろう。生きてはいるが、何らかの変容があったということか?」

「…………正にその通りです」

 

 アルビレオの肯定を受けて幾万の可能性がエヴァンジェリンの脳裏を過るも、可能性はあくまで可能性でしかない。

 全てを知っているであろうアルビレオの続く言葉を待つ。その姿勢を見たアルビレオも覚悟を決めたかのようにエヴァンジェリンを始めて見た。

 

「二十年前…………いえ、もっと遥かな昔から始まっていたことです。今更、何かを変えることなど出来ないと分かっていたはずなのに」

 

 それでも期待してしまったのはナギ・スプリングフィールドという英雄を間近で見ていたからか。アルビレオは二十年前の決戦地である墓守り人の宮殿を見上げる。

 

「二十年前、敵の首魁は我々紅き翼も討伐に失敗し、十年前も辛うじてナギが相打つことで倒しました」

「変な話だな。十年前と言えばナギも全盛期だろう。アイツと相打つほどの力の持ち主などあの筋肉バカか、神や魔界の最上位クラスの魔族ぐらいものだ。少なくとも十年前の時点でこちらと魔法世界にそんな奴がいたなどという話は聞いたことがない」

 

 全盛期のナギと相打つほどの力の持ち主ならば世界に知られていないはずがない。二十年前というのならば大戦の黒幕の首謀者だとしても、そこまでの強さがあるなどとは噂にも上がっていない。

 

「無理もありません。彼の者は魔法世界の闇に潜み続け、決して歴史の表舞台に出て来ることはありませんでした。二十年前の時点では十全ではなかったナギとゼクトの二人掛かりで倒せたことからも考えれば決して戦闘巧者ではありません。彼の者の本分はあくまで造り出すことにあるのですから」

「それこそおかしいだろう。二十年前のまだ若造だったナギに勝てなかった奴が全盛期のナギと相打てるはずがない」

「カラクリがあるということです」

 

 エヴァンジェリンの疑問は最もであり、二十年前と十年前ではナギの戦闘力が違うという矛盾を突いていた。反対であるならばともかく、大戦期よりも肉体の全盛期を迎えているナギが同じ相手に勝てなかったというのはおかしすぎた。しかしアルビレオは理由があると告げる。

 

「二十年前に倒したと言いましたが言葉通りの意味です。一度はその肉体を殺しています」

 

 肉体を殺した、という変わった言い方に眉を顰めつつ、不死ならば殺せるはずがないのだから自分のような不老不死ではなさそうだと推測する。

 二十年前では手負いのナギに負けたにも関わらず、十年前の肉体の全盛期を迎えているナギとは相打っている。普通ならば逆である。この矛盾を解消をするには前提を変えなければならない。

 

「肉体を殺せたということであれば不死ではない。不死ではないが何らかの方法で生きていた?」

「ええ、彼の者は不死ではなく不滅。貴女の好きなテレビゲームでもよくある設定ですね」

 

 瞼を伏せたアルビレオは僅かに痛ましげな感情を覗かせる。

 

「その方式は報復型精神憑依。自らを殺害した者の精神を強制的に乗っ取る。そうやって彼女は遥かな昔より存在し続けて来ました」

 

 遥かな昔から存在していた者がたった十年やそこらで劇的な変化を遂げるとは考え難い。しかし、自らを殺害した者の肉体を乗っ取るとすれば話が変わって来る。

 

「つまりは二十年前と十年前では肉体が違う」

「二十年前はナギと共に彼の者と戦ったゼクトが憑り付かれました。十年前にナギと戦った際はゼクトの体を使っていたのです」

 

 例えるならば車を乗り変えたようなものである。車が変われば走る速度が変わることもある。もしもそれが普通車とF1カーともなれば馬力の差は歴然である。

 恐らく二十年前にナギと戦った時点での肉体は戦闘に秀でたわけではなかったのだろう。手負いのナギとゼクトでも倒せる強さであった。

 乗っ取られたゼクトはナギに伍する超高位魔法使いで、言うならばF1カーの肉体である。全盛期のナギが相打ちにしか持ち込めないほど二十年前と十年前で強さが変わってもおかしくはない。

 

「ナギとしてもゼクトは魔法の師でしたから叶うならば助けたいとは考えていました。ですが、状況がそれを許してはくれなかった。魔法世界に迫るリミット、攻勢を強める完全なる世界、元老院の暗部の追っ手…………対してこちらは、旧世界にはジャックは来れず、アリカ様の懐妊と出産もあって戦力が落ちていました。少なくとも決戦を仕掛けるタイミングではなかった」

 

 戦力は減るばかりで増えることはなく、寧ろ年月を重ねるごとに状況は悪くなりばかリ。

 

「その時でなければいけない理由でもあったのか?」

「ナギとアリカ様が今でなければいけないと言っていましたが私にも理由は分かりません」

 

 戦力が落ちている中で決戦を仕掛けた推測が頭の中で幾つか浮かび上がるが、答えを知る二人はいないので推測の域を出ない。

 アルビレオとしては決戦を行った事実に対してそこまでの思い入れはないようで、「一番の問題は魔法世界の救済です」と次の話題を振った。

 

「魔界にも手を広げましたが私達には完全なる世界以上の救済案がなかった。ナギとしては旧世界にも応援を求める気でいましたが秘匿のこともあって我々で止めていましたから足踏みしていましたね」

「問題の解決には手段を選ばない辺り、アイツらしい」

「ナギとしては出来る人間に任せるのが手っ取り早くて楽で良いらしいですが」

 

 自分で出来ないことは出来る者に任せる方が効率的ではある。魔法世界の問題にしても、自分達には思いつかなくても魔法など全く知らない技術進歩の著しい旧世界ならばと望みを託したのかもしれない。

 

「常々、ナギは言っていました。今の自分や皆には出来なくても、明日の自分や皆には出来るかもしれない。今が出来ないのだとしても諦める理由にはならないのだと」

「ナギは未来に賭けた。例え敵を殺して自分が乗っ取られたとしても、自分のように誰かが立ち上がって問題に立ち向かってくれると信じたんだろう」

 

 人の悪性を散々見てきたにも関わらず、善性を疑いようもなく信じぬくことが出来る精神性は英雄としか言いようがない。大戦で世界の闇を見ても人を信じることが出来るナギだからこそ、どこまでも前向きで太陽のような男をエヴァンジェリンも好きになった。

 

「正にその通りです。憑依された者も直ぐに乗っ取られる訳ではない。もしそうならば二十年前の時点で戦闘で重傷を負っていたナギはゼクトの体を乗っ取った首魁に殺されていたことでしょう。ゼクトを殺し、憑依されたナギは自分ごと封印せざるをえなかったのです」

 

 乗っ取られることが分かっているのならば対応策を考えないはずがない。しかし、殺害と乗っ取りが結果でイコールで結ばれているならば、乗っ取りを防ぐことは出来ない。叶うならば殺害せずに封印してしまうことだったが、ゼクトの肉体を使う首魁の強さと状況がそれを許してくれなかった。

 

「…………やはりそういうことなのか」

 

 灯台下暗しとは良く言ったもので、ここまで情報が与えられれば直ぐに分かった。

 

「世界樹には封印したナギがいるんだな」

 

 学園祭の時にアルビレオがずっと地下で療養していたと言っていたことから怪しんではいた。嘗てのナギには会えないとも。そしてここにきて、魔法世界から溢れたはぐれ召喚魔が世界樹を目指す目的。そしてこれまでの話を繋げていけば子供にでも連想出来る。

 

「ええ、十年前からずっと封印を施したアリカ様と共に。そして私も」

 

 アルビレオの肯定にエヴァンジェリンの内側から込み上げてくるものがあったが意識的に抑え込む。

 

「私の封印を解かなかったのにも理由があるんだろう?」

 

 右手で顔を覆うが感情はコントロールできている。今はまだ感情的になる時ではない。

 

「万が一の抑止力を期待していました。ゼクトの肉体を使うことで全盛期のナギを追い詰めた敵に対抗するには生半可なことではありません」

「不老不死である私ならばナギの肉体を使う輩にも抗しうると」

「その強さは最早想像絶します。ジャックではこちらの世界に来れない以上は貴女に期待するのが最も可能性の高い方策だったのです」

「勝手だな。自慢ではないが何も知らずにナギの肉体と戦わされて動揺しない自信はないぞ」

 

 肉体上、死にはしないエヴァンジェリンならば他の有象無象に比べれば生存可能性と戦闘続行が可能ではある。但し、それは単純なスペックの話で心情は全く考慮されていない。

 仮に何も知らずに遭遇して戦闘に発展したとしても動揺しっぱなしで、まともに戦うことは出来ない自信が自慢にもならないがエヴァンジェリンにはある。

 

「そのことは分かっていましたから所詮は時間稼ぎでしかありません」

 

 他の方法がなかったとアルビレオは苦渋を滲ませる。

 

「タカミチ君ではそもそも実力が足りない。この十年間のあなたでは、とてもではないが任せることすら出来なかった」

 

 少なくともナギの肉体を使う彼の者はナギ以上の強さを有するはず。であるとすれば、当時のナギ以上の強さか不死のような特殊能力が必要だった。高畑にはそのどちらもなく、ナギの死の情報に動揺していたエヴァンジェリンに任せるには不安が多すぎた。

 

「幸いと言っていいか、アリカ様の封印術は生半可な方法では決して破ることは叶わないので余裕はありました。ナギとしては封印されている間に彼の者と対話して翻意させようと考えていましたが、二千年以上も同じ考えに拘っている者に対しては難しいでしょう。私としては新しい希望が生まれることを期待していました。望みは薄いと考えていましたが見事に芽吹きました」

 

 良くなることはなく、悪くなることも待たない。現状維持を続けるしかないが、未来は不確定なので現状を覆せる存在が現れるかもしれないと期待していたアルビレオの望みは叶った。

 

「不滅を滅する神殺しの刃―――――――あの時のアスカを指してお前はそう言っていたな」

 

 学園祭の最後、機龍を斃したアスカが為した技法を見たアルビレオの言葉が狂笑と共に強く記憶に残っている。

 

「魔法無効化能力と闇の魔法(マギア・エレベア)は拒絶の力と受容の力という本来ならば同時に存在しえない。にも関わらず、どちらも不完全であるからこそ奇蹟的なバランスで成立しています」

 

 アルビレオも一度は夢想しながらも決してありえないと断じた推測である。

 

「あなたが編み出した闇の魔法(マギア・エレベア)も神に通ずるもの。魔法無効化能力に関しては、アリカ様の子であることから可能性は低いものの発現してもおかしくはありませんでしたがね」

 

 大戦で滅びたウェスペルタティア王国の初代女王は創造神の娘で、彼女の血を受け継ぐ者は不思議な力が宿ると伝えられていて、王族の血筋には完全魔法無効化能力を持つ特別な子供が生まれている。つまり、最後の女王であるアリカの息子であるアスカならば魔法無効化能力に目覚めてもおかしくはない。

 

「魔法無効化能力は彼の者に連なる力、同種であるからこそ干渉出来る。火星の白と金星の黒が交じり合っているアスカ君なら不滅をも滅することが可能だ。そしてアスカ君がこのまま順調に成長し続ければ、ナギを殺さずとも彼の者を打ち滅ぼすことも出来るかもしれない」

 

 二千八百年以上、一度も訪れなかったチャンス。この十年の間、探し求めていた力。

 

「アスカのアーティファクト」

「ネギ君と合体すれば未だ未熟でありながらもナギに到達しえた。もしも彼らが単独でナギのいる領域に至り、合体すればその戦闘力は予測すら出来ません。彼だけがナギを救える可能性を持っている」

 

 合体して大幅なパワーアップが望める絆の銀を持つアスカがこのまま強くなり続ければ、全盛期のナギの肉体を使う彼の者を打倒することも不可能ではないと夢が見れる。現に本気の本気ではなかったとはいえ、学園祭の武道大会ではアーティファクトで作った幻とはいえ本物と変わらない強さのナギに勝っている。

 

「これはチャンスなのです」

 

 決して現れることのないと思っていた千載一遇の機会を決して逃すまいとアルビレオは心に誓っている。

 

「創造主の道具との戦闘はアスカ君が強くなる餌としては上等でしょう」

 

 麻帆良学園都市を覆っている混乱の元すらも利用する気満々なアルビレオはエヴァンジェリンから見れば驕っているように見えた。

 

「随分と余裕のようだが、人間得意ぶっている時ほど足下を掬われるものだぞ」

「なにを馬鹿なことを」

 

 アルビレオは彼に向けられた珍しいエヴァンジェリンの忠告を一蹴する。

 

「警備は二重三重にかけてあります。仮に全てを突破できたとしても封印を解くのは不可能――――」

 

 と、そこまで言ったところでアルビレオは言葉を止めて黙考を始めた。

 

「完全なる世界がこの地に創造主がいることに気付いた? アスナさんの存在を知り得たのならばこの地にいると踏んでもおかしくはない。世界樹が最も封印に適すると考えるのも簡単」

 

 彼らしくもなく思考が口から漏れ出ている。そのことすらも気づかぬまま独白は続く。

 

「オスティアと麻帆良のゲートが繋がったということは、中枢への直接経路を確保したとも言える。召喚魔が陽動であるとしても封印は常に世界樹の力で補強されている。外的要因で破るには世界樹を上回るほどの力が必要になる以上、現実的ではない。となれば別の要因。だが、封印を開くには鍵が必要――っ!?」

 

 思考を巡らせていたアルビレオが息を止めた。

 何時も道化染みた仕草ばかりをしているこの魔法使いが、今ばかりは心臓を貫かれたかのように全ての動きを停止させたのだ。

 

 

 

 

 

 麻帆良の最深部、世界樹の根が幾つも張り巡らされた開けた空間がある。窓もなく太陽の光が差し込まず、電球のような電気で光を灯すような設備があるわけでもないのに不思議と明るい。

 理由は空間内に張り巡らされた世界樹の根が光を放っているからである。

 光は目を眩ませるほどではなく、空間内に明るく照らし出していた。常ならば自然の現象に畏敬を抱く光景だったが、辺りは嵐が来て爆撃でもされたように蹂躙されていて以前のような面影は欠片もない。

 普段ならば神聖な空気が満ちて動く者のいない空間は破壊されつくしてされており、それを為した幾つもの人影があった。

 似たような容姿が三つと、クリスタルにいる全身を黒のローブで覆った存在と似たような服装をした背の高いのが一つのと合わせて四つの人影があった。

 小さな人影達は兄弟のように似た容姿と子供のような小さい体格をしており、同じ灰色の制服のような服を着ていることもあって益々兄妹のような印象を与える。

 三人と一人の視線は揃ってクリスタルに注がれていた。

 

「――――ぉお」

 

 その中で背の高いローブらしきものを纏っていた人影が、クリスタルに囚われている全身を黒のローブで覆った存在を見上げ、長い巡礼の旅路の果てに神の下に辿り着いたかのように声を震わせる。

 

「ようやく、ようやくこの時が来た。おお………我が主よ。遂にあなたの下へ辿り着きましたぞ」

 

 声からして男であるローブの人物は世界樹の根に覆い尽くされるようにして鎮座する大きなクリスタルを見ながら、ここに辿り着くまでの十年を思い浮べる。

 

「御身を救えず、無様に生き恥を晒したのも御身をお救いするこの時の為。忌まわしくも英雄と災厄の女王に縛られた封印。このデュナミスが解き放って見せましょうぞ」

 

 長身で普段は着けていた白い仮面を外し、彫りの深い顔立ちをしたスラリとした線の細さ。似た服装も相まってどこかアルビレオ・イマに雰囲気が酷似している男の名はデュナミスといった。

 魔法世界の墓守り人の宮殿でアスカと戦い、敗れた男の姿が何故か麻帆良学園都市の地下にあった。幻ではない。地に足を着け、今も輝き続ける世界樹の根に照らされて出来た影が実体を持った存在であることを伝えている。

 

「主の末裔でありながら反旗を翻したアリカ姫。英雄として我らの前に立ち塞がったナギ・スプリングフィールド」

 

 クリスタルの内側にいる二人、災厄の女王との忌み名で呼ばれているアリカ・アナルキア・エンテオフュシアと、彼女に抱き締められるようにして抱えられているローブで全身を覆っているナギ・スプリングフィールドの名を忌々し気に呼ぶ。

 クリスタルの内側にいる二人を見ていると、まるで囚われているような錯覚を覚えるのは何故か。否、閉じ込められているというべきか。事実、フードを被った人影とアリカはクリスタルに囚われて、この場所で十年もの長い間封印されていた。

 

「共鳴りを抑える為とはいえ、厄介な結界を施してくれたものだ」

 

 ウェスペルタティア王国の王家の直系にだけ口伝で語り継がれていた隔離結界。王家の魔力を持ち得る者のみが使うことの出来る魔法である。

 現存するあらゆる防御・結界魔法を超える世界を切り取る魔法。完全に殺しもしないが固められて動かぬ身体では抜け出すことも出来ない、疑似的に時さえも固められたクリスタルの隔離結界。

 ここは豊富なマナが潤沢に溢れ出す神木・蟠桃がある。大樹は魔力を生み出し続け、クリスタルの隔離結界の維持に必要なマナを失うことなく、故にこの結界は永遠に崩れない。

 

「神域の結界を破ることは内側からも外側からも不可能。だが、閉じられた封印を開く為の鍵があれば良い。この地はオスティアと繋がっており、こ奴らの息子の魂と近い。手に入れた血肉もここにある」

 

 現在、麻帆良と魔法世界のオスティアはゲートで繋がっている。物理的な距離ではないが、概念的には両地は近い場所に存在している状況である。

 

「英雄を打倒し、儀式を完遂させられるならばそれに越したことはない。英雄とは厄介なものだ。奴らはゴキブリのようにしつこい。故に策を弄する必要があった」

 

 勝てるならばそちらの方が良い。だが、敵は武の英雄。世界の守護者として主から莫大な魔力と戦闘力を与えられているとはいえ、英雄は常識外れの領域外の存在である。

 現に二十年前の盤面をひっくり返され、十年前も主を奪われている。

 そしてまたもや、歴史は繰り返すようにアスカ(英雄)が現れた。だからこそ、デュナミスは備えた。自分が破れようとも主は取り戻して見せると。

 

「主を取り戻す。その為に我が身を裂いた。その成果を此処に」

 

 隔離結界を解くには、クリスタルの内側にいる器と封印を施した肉親が生きた状態で近くにいること、そしてその者の血肉が手元にあれば鍵として機能し得る。つまりは、デュナミスにとってアスカとの戦いは足止めが目的ではなく、その血肉を手に入れることこそを第一としていた。

 

「始めようぞ」

 

 クリスタルから幾らか離れた位置で、デュナミスが胸の前でアスカから採取した血が塗られた左の掌に右の拳を当てて、術を行使するための精神集中を行う。

 

「――――――」

 

 ぽうっ、とデュナミスの正面のクリスタルに、半径二メートルほどの魔法陣が浮かび上がった。魔法陣の中には幾つもの複雑な紋様が組み合わされていて、全体が青白く輝いている。

 魔法陣が完成すると、デュナミスが視線を上げた。

 

「我、デュナミスの名において命ずる。隔離結界よ、その鍵を以て開け」

 

 デュナミスが言い切ると、クリスタルからビキッという音がした。

 結界の構成が崩れ始めたのか、クリスタルの表面に亀裂が走っていた。

 

「止めろォおおおおおおおおおおー――――――――っっ!!」

「遅い」

 

 侵入と異変に気付いて転移して来たアルビレオ・イマがデュナミスらがやろうとしていることに気付いて絶叫するが遅い。デュナミスが右手を振り下ろすや否や、波紋のように広がっていた闇の光が刹那にクリスタルの表面を駆け抜け、更に大きな亀裂が走った。

 亀裂は瞬く間に表面全体に及び、クリスタルを爆砕させた。甲高い音を響かせて弾け飛ぶクリスタルの欠片。

 無数の煌めきの中、閉じ込められていたアリカの身体が倒れて落ちていく。

 

「喜ぶがいい、アルビレオ・イマ。我らの創造主が目を覚まされる」

 

 同じようにクリスタルから解放されたローブの人物はアリカのように崩れ落ちることなく地面に立ち、閉じられていた瞼が開かれていく。

 

「ナギ!」

「――――――この体は既に我の物、奴の意識はもうない」

 

 一縷の望みを賭けて放たれた希望は無惨に打ち捨てられ、ナギと同じでありながら決定的に違う声が返される。

 

「貴様も眠れ、古き書よ」

 

 光が空間を埋め尽くし、この日一番の激震が麻帆良を襲った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これからの九分二十九秒は瞬く間に起きた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仮に、彼、としよう。男と想像する理由は、その身長だ。アスカも長身の部類に部類に入るが、彼の身の丈は長身のアスカに決して引けを取らない。

 そして、年齢不詳、性別不明の理由は彼の全身をすっぽりと覆い隠す黒いローブにあった。頭頂部から顔面、胴体、四肢の先に至るまで人の肌が露出している部位が全くないのだ。お陰で見る者にしてみれば、齢や男女の別を選択する以前に、この者の正体が本当に人間であるかすらも疑わしく思える。

 その馬鹿馬鹿しいまでの存在感は、その禍々しいまでの圧倒的オーラは、何者の常識をも許容しない。全身からは黒の燐光が立ち上り、凛然と佇む様からは、黙しているだけで、神話の中で数多く描かれてきた絶対的な『神』に勝るとも劣らぬ威厳が滲み出ている。

 例え数㎞先であろうが息を止められてしまいそうな、圧倒的なヒトガタの気配。

 闇のように、奈落のように、ただ底抜けに暗かった。

 純粋な憎悪、破壊への衝動、ヒトの負の部分を濾し取って熟成したかのような、真っ黒な靄が周囲を包んでいるような気がして直立していることすら苦しい。気を張っていなければ、荒波のように押し寄せてくる正体不明の威光の前に、いまにも武器を投げ出してひれ伏し、従属の誓いを結んでしまいそうになる。

 その闇が、ひどく虚ろに見えた。

 闇の中で、ぽっかりと浮かんだ双眸が動いた。微かな光に照り映える大量の血で固めたような紅い瞳は、人の純粋な負の感情が形をとった邪な宝石に見えた。世界から隔絶された闇の中で、その紅眼だけが浮き立って見えた。

 いや、違う。瞳の存在感があまりにも強すぎて、他を虚ろで薄っぺらいもののように見せかけているのだ。息苦しくなるぐらいの強烈な意思。重苦しさ。世界の何もかもが、その瞳に向かって砕けてしまいそうな、凄まじい重圧感。地獄のよう、という。まさしく、その瞳こそが地獄だった。九層地獄のなお奥底より睨め付けるが如き、業火と業苦を練りこんだ瞳だった。

 

「ああ……う、ぐっ………」

 

 全身の毛穴が開いて汗を流し、前歯が噛み合わされてガチガチと鳴って心の奥が熱く疼いた。呻き以外の言葉が出なかった。

 

「……ッ!?」

「なん、や………!」

 

 その瞳を見た時、その威圧感に晒された仲間達、古菲、木乃香、小太郎、茶々丸もみな、首筋や胸などを押さえ、まるで横殴りの嵐に抵抗するかのように、苦しげながらも辛うじて正気を保っていた。

 造物主を見つめるアスカですら表情を強張らせて体を震わせていた。

 体を抱きしめ、震えを強引に捻じ伏せようとしたが無駄だった。体の芯から溢れ出てくるそれは、動物としての本能が発する警鐘である。意志ではどうにもならない。ただこうして向き合っているだけで、一刀も交えずして自ら敗北を懇願したくなるほどの凄まじき圧力は、神と呼ぶに相応しいものだった。

 これが、これこそが、神の力とでもいうのか。だが、その存在は『神』とは質が異なる。いっそ、間逆と言っていいだろう。

 闇が光を食い散らすように広がっていく。それは全ての希望を絶望に変え、全ての天国を地獄に変える魔界からの使者。天使を堕天させる腐れて淀んだ暗黒の瘴気。

 両肩が鉛のように重くなり、瞬きの内に全身が巨人の手に押さえつけられたような感覚に襲われる。

 

(な、何なんや、これは。地平線の向こうにまで続く死者が見えたで)

 

 見えない重圧という名のプレッシャーに片膝を突いた小太郎が心の中で独白する。

 理不尽なまでの力。不条理という言葉では生温すぎる力。隔絶した力の差。しかし、力の差自体はアスカがヘルマンと戦っていた時に感じた。今回のことにもっとも近いのはあの時のことであろう。だが、今感じるのはあの時を遥かに上回る。

 見えない手が頭の中を触ってくる感覚―――――だが、これは違う。もっと一方的で、もっと異質だ。実体がないくせに威圧的な、存在を丸ごと鷲掴みにしようとするなにかの圧力を感じていた。

 

「……狗神……!」

 

 小太郎は腕を小刻みに震わせながら地面に押し当てた。己が動けなくても影から出てくる狗神ならばと、そう思ったのだが――――。

 

「な……?」

 

 影からは何も出てこなかった。小太郎は戸惑いを浮かべながら地面から手を離す。

 

「怯えているっていうんか、俺が!?」

 

 戦う前から無駄だと、抗うことは無意味だと、本能が戦うことを拒否して狗神を呼び出させない。小太郎の裡に流れる半分の妖怪としての本能が逃げなければと警告を発する。だが、逃走のために体が動かない。動こうともしないのだ。

 危険などという生半可なものではない。視線の先にいる相手と関わるぐらいなら、死すら安らぎと感じるに違いない。人の形をした異形は、ただひたすら暗き闇が存在するのみである。

 

「な………なにごとアルか、これ………!」

 

 小太郎より一呼吸早く跪いていた古菲は取り落とした自分の獲物である神珍鉄自在棍を握ろうとした。しかし重圧に抗う指は振るえ、ままらなず―――――やがて耐え切れず腕ごと落ちた。

 

「これは……っ!?」

 

 本来ならば機械の茶々丸が恐怖を感じるはずがない。

 なのに、何故だかひどく明瞭に状況を理解してしまった。絶対的な存在と向かい合ってしまった恐怖。逃げることも、抵抗することも許されず、ただ相手に生かされているだけの状況。気紛れ一つで命が飛んで、茶々丸の芽生えたばかりの感情がそこで終わる。

 

「ぐ……」

 

 重圧がいっそう強まり、茶々丸は立てた膝に自身の胸を圧し付けられていた。

 行動しようにも体が動かない。得体の知れない恐怖を感じているのか、体が言うことを聞かないのである。どのような状況でも毅然と対応出来ると確信していた茶々丸だが、それは単なる思い込みでしかなかった。

 

(あ……)

 

 チリチリと肌に焦げるような痛みを木乃香は感じていた。造物主が魔力を行使したわけではない。その存在自体が発する狂気に、木乃香の肉体が耐えられないのだ。額に浮かんだ汗が次々と頬を伝い、脚が小刻みに震える。喉はカラカラに渇き、水分が失せたザラつく口内の官職が不快だった。

 

(学園祭で超がアスカ君に放った呪詛よりも何白、何千倍の…………桁違いの規模の祟り神)

 

 足が竦んでいた。先程から体の震えが止まらず、意識を集中しないと全身がバラバラに崩れてしまいそうだった。

 奇跡なんてあるわけがない。命は簡単に散る。

 

「……っ?」

 

 デュナミス、フェイトと続いた激戦による影響、特に最後の気力を振り絞った千の雷によって、ガクッと身体の中から釣り針で引き摺りだされたように力を消費してしまった。全身全霊で力を放射しなければ負けていたのはアスカの方であっただろう。

 仕方がなかったとはいえ、想像以上に消耗が激しかった。全身から汗が噴き出し、指先に力が入らない。平行が分からなくなったように膝は震えてるし、内臓がキリキリと痛んだ。ほんの一瞬に、無理な運動を重ねてしまったかのようだ。

 脇に控える造物主の使徒達が動くまでもなく、一撃で捻じ伏せられてしまう。無条件に沿う思わせる、アスカですらこれまで向き合ったためしのない桁違いの冷気を発する造物主。

 気圧されている。圧倒されている。体が竦んでいる。

 

(……なのに)

 

 彼・彼女達の中でアスカだけは何かが違っていた。

 知っていると、自分が知っている相手だと、そういう不思議な確信を造物主は喚起させて止まぬ相手だった。

 誰も彼もが造物主を見つめていた。魅入られたと言っても過言ではない。あまりの存在感に逸らせないのである。

 

「ははっ!」

 

 アスカらの姿があまりにも滑稽だったのか、フェイトと同じ制服を着た自分以外の全てを見下しているような傲慢さが表情に滲み出ている男が乾いた笑い声を発した。

 

2(セクンドゥム)……何故……?」

「魔法世界全土の魔力がこの祭壇上に充満する今、造物主()たる我らが主に不可能はないのだよ。自分で殺しておきながら核を持ち帰ってくれたことには感謝しないといかんかもな。でなければ、幾ら主であろうとも私を蘇らせることは出来なかった」

 

 その正体を知るフェイトへの返答の声はひどく楽しそうだった。猫がネズミをなぶり殺しにする類の笑みで心から楽しげだった。

 顔立ちはフェイトと似て端正だが、にこやかな表情の直ぐ裏側に底の知れない凄味が感じられた。見かけの年齢には不似合いな、何もかも見透かしたような冷たい瞳をしている。

 

「思えば」

 

 アスカによって殺されたはずのデュナミスがオペラ歌手の如く優雅に手を広げる。

 

「長い、長い道のりだった。この時に至るまで多くの物を犠牲にしてきた」

 

 まるで全てが終わってしまったかのように、演劇の幕が降りる寸前に最後の言葉を告げるように朗々と語る。その身体の末端がサラサラと崩れ落ちていく。

 

「今代の英雄は紅き翼と比べれば全体の戦力はアスカ・スプリングフィールド一人に偏っている。私と強化調整したテルティウムならば何の策も弄せずとも勝てたかもしれぬ。だが、私には安心できなかった。今までそうやって油断して英雄にひっくり返されてきたのだから」

 

 広げた指先から崩れ落ちていく自らの身すらも誇りと思えると、雄弁に顔に書かれているデュナミスが朗々と語る。

 

「麻帆良学園中枢への直接経路の確保、器の肉親の魂が祭壇上にあること。これらの点から主の奪取を目論んだ。主の居場所はテルティウムが麻帆良に上位悪魔を放った時にザジ・レイニーデイの協力によって判明している。しかし、テルティウムの調整終了には時間がかかる。故に私が墓守り人の宮殿から離れるわけにはいかぬ」

 

 ならばどうするべきか、と肘まで消滅したデュナミスは自らの末路を気にすることもなく口を開く。

 

「この身を二つに別けるしかあるまい。造物主の鍵さえあれば、核を割ることも可能だ。当然、この末路も覚悟の上」

 

 消滅が胸に達し、やがては全身にまで及んでデュナミスは消え去ることだろう。核を割ったことで2(セクンドゥム)のように復活することは叶わない。それを覚悟の上でこの作戦を決行した。

 道具でもいい。使い捨てでもいい。最後までデュナミスは裏切らない。敵がどのような正当性で向かってこようとも、責められ罵られ石を投げられても、策の為に魂を分割して消滅すると分かっていても主の開放を求めた。

 

「申し訳ありません、我が主。道半ばで果てるこの身をお許しください」

 

 我が身は主の道具、報われることはないだろう。だが、満ち足りている。

 

「――――我が第一の忠臣デュナミスよ。汝の忠義、真に大儀であった」

「……ぉぉ」

 

 命を賭した献身を為したデュナミスに、造物主は働きを認めて労いのことを掛けた。その言葉を受けたデュナミスは顔にまで及んだ消滅に抗うことも出来ないまま、歓喜の呻きを上げる。

 

「勿体なきお言葉。それだけで私は――」

 

 報われた、と人形としてであっても満足した笑みを浮かべてこの世から消え去った。

 

「安らかに眠るといい、デュナミス。貴様はそれだけの働きをしたのだから」

 

 忠臣の消滅を見届けた2(セクンドゥム)は、次いでアスカの近くにいるフェイトを見る。

 

「デュナミスと違って貴様は何をやっているテルティウム? その様はなんだ。出来損ないにしても仮にも使徒がすることか」

「…………全力で戦って、そして負けた。ただそれだけだよ」

 

 傷だらけの体でなんとか立っているフェイトはそう言い返すことしか出来なかった。

 

「負けたことに関してはどうでもいい」

 

 と、フェイトの予想とは全く違った返答を返す。

 

「何?」

「デュナミスに聞いたぞ。幻共を部下にしているとな」

 

 そこで祭壇上にいる調達を見る為に向けた2(セクンドゥム)は、彼女らを塵芥のような存在であると誰の眼にも分かる感情を隠そうともしない。

 

「今代の英雄に負け、幻を刈り取ることもしない。ああ、やはり貴様は出来損ないであった」

 

 2(セクンドゥム)は演劇臭い仕草で嘆いているのを見ながら、アスカの頭の中では激動の速さで駆動している。

 逃げ出したとしても手負いで数も劣る自分達が助かる可能性は皆無に等しい。明日菜を残して退けない以上は、後味の悪い思いをするよりも挑むべきだとアスカは考えた。

 造物主の闇に呑まれて動けそうにも無い仲間達の命はアスカに委ねられていた。一歩たりとも退けなかったし、退くつもりもない。

 アスカの悲壮たる決意を余所に、2(セクンドゥム)は「邪魔者が多いですね」と背後にいる造物主に向けて言った。

 

「…………極光の光よ」

 

 その途端、急速に造物主から魔力が膨れ上がっていく。

 造物主の背後に幾つもの魔法陣が浮かび、解読すら叶わぬ複雑な術式から完成に至るまで尋常ではない力を感じることが出来た。それも単に巨大なだけではない。

 良く見ると、陣の中に複雑な紋章を描くように、恐るべき魔力が走り回る。海を泳ぐ魚の群れのように、地を歩く蟻の行列のように、規則正しく巨大な魔法陣を築き上げていた。

 魔法陣の意味が分からぬとも体の内側が震えるような桁外れの魔力。術式は着実に完成へと向かっていく。

 何かをするつもりだ。観察している暇はない。今は戦闘の最中だ。侮ってはいけない。だがアスカの警戒は、あまりにも遅すぎた。

 アスカは肌身で造物主から発せられる魔力の行先を察した。標的は―――――木乃香達と調達のいる場所。

 

「逃げろっ!!」

 

 アスカと同じように気づいたフェイトが調達に向けて叫ぶも、彼女らも木乃香達と同じように造物主から放たれる死の気配に心を呑み込まれて放心している。動く気配はない。

 

「間に合え!」

 

 平和な時ならば美徳であるが戦闘中では思ってはならない言葉を口にしていた。敵は万全の状態でも勝てるかどうか怪しい造物主と自分と同格の使徒達。背を向けるなど愚の骨頂でしかないと分かっていても、アスカは一にも二にも無く彼女達がいる場所へ飛んだ。

 フェイトも動こうとしたがダメージが多すぎた。膝が折れて動けない。

 アスカが木乃香達の前に辿り着いたと同時に造物主の背後の魔法陣から黒色の光が放たれた。獣の咆哮に似た爆音を轟かせながら、世界を引き裂き一点を目指して飛んでいく。

 

「お、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」

 

 辛うじて間に合った。

 木乃香達の前に立って腕を全開に広げて咆哮する。咆哮する。アスカは、あらん限りの力を振り絞りながら咆哮する。

 迫り来る絶望を追い払わんとする抵抗の咆哮だった。迫る絶望の足音を認めぬと、世界すらひれ伏させ破壊し尽くすのだという凶悪な意志の発露を掻き消すだけの意志をあらん限りの叫びに乗せて叫ぶ。

 

「ぉあああ―――――ッ!!」

 

 背後に庇われた少女達と小太郎が、少しでも気を抜けば意識を手放してしまいそうな状態でありながら腕を広げて咆哮し続けるアスカを呆然とした様子のまま見る。

 庇われた者達からすれば、膨大で埒外の力がアスカの身体を中心に全身から振り絞られて障壁となる。

 一瞬の出来事だった。造物主から放たれた目が眩むほどの黒の光が世界を蹂躙したかと思うと、地面が捲れ上がり、全てが薙ぎ倒される。そしてアスカの元へと一瞬で巨大な光が到達する。

 

「ああァ――――――――――ッッッ!!!!」

 

 まさしく爆発だった。

 あまりにも莫大かつ巨大な力は、アスカが張った障壁だけで受け止めることが出来なかった。障壁にぶち当たり木っ端微塵に粉砕した。

 圧倒的過ぎる黒一色の閃光に、アスカ達は自分達が目を開けているのか閉じているのかも判別できなくなった。無形の衝撃に押されるようにアスカの背後にいた木乃香達を蹂躙するのに一秒も必要なかった。

 

「―――――――――」

 

 閃光は、世界を沸騰させて色褪せた世界をそのまま洗い流した。

 音は無かった。視界は真っ白に塗り潰された。

 風が死に、音が死に、空気が灼熱していた。常人であれば、軽く息を吸っただけで呼吸器が焼かれて命を落とすほどの熱さだ。焼けているのは、空気だけではない。周辺の地形が造物主の一撃によって悉く焼き尽くされ、蹂躙しつくされた。

 立ち込めた爆煙が晴れた後に残ったのは傷だらけで立つアスカだけで、周囲にあった建造物は先程の一撃で全て薙ぎ払われ、掘り返された大地だけが残っていた。

 アスカの後方だけが微かに建造物を残しているが木乃香達の姿が無い。遥か後方で呻き声だけが聞こえることから生きてはいる。

 墓守り人の宮殿の都市部が原型を失くしていた。粉砕することのみに特化した、愛想も何もない淡々とした一撃は絶対的な力を有する者のみに許された、神罰にも等しい力の権限である。

 少女達は衝撃に吹き飛ばされて何百メートルも浮遊してから地面に叩き付けられていた。決して浅からぬ傷を負いながらも、重症にまでは至っていないのはアスカが張った障壁のお陰か。

 アスカ自身もまた無事ではすまなかった。ボロボロだった服は上半身の全てが掻き消え、ズボンの裾もなくなっている。体中の傷は隠しようもなく、青痣や裂傷が全身を覆っていた。

 

「く、く……!」

 

 仲間達の惨状を見たアスカは体の芯が熱くなっていくのを感じた。それは一瞬にして沸点に達し、全身を貫く激しい悪寒を闘争心で一掃すると体を突き動かす。

 全身の痛みも、失われている体力のことも忘れて、まるで足の裏がロケット噴射でも起こしたように駆け出した。

 

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」

 

 アスカの右手に雷が宿る。それは純粋な抗いの意志の結晶だった。

 自分がやらねばならないという不倶戴天の決意、後に続く者のいない悲壮な決死の疾走。絶対的な恐怖の感情に抗う意志に支配されている今の彼に、己の意志など存在してはいなかった。ただ造物主のみを視界に捉えて倒すことだけを考えていた。

 

「ふ、屑が最後まで抗うか」

 

 ❘2《セクンドゥム》の頭上に、巨大な光球が膨れ上がる。稲妻を捕まえてくしゃくしゃに丸めたようなそれは周囲の空間を一気に帯電させる。

 

「「「「ヴィシュ・タルリ・シュタル・ヴァンゲイト」」」」

 

 小さな少年達と同じ詠唱キーを唱え、各々が好き勝手な呪文を叫んで、炎・風・水・雷―――――無数に閃く閃光の刃が、耳を痺れさせるような轟音と共に飛びかかってきた。

 

「しゃおらっ!!」

 

 アスカは数多くの攻撃を全く意に介した様子もなく、己を鼓舞するようにより大きな雄叫びを上げて雷を纏う右手ではなく左手を突き出した。

 最大展開した障壁に幾重もの閃光の刃を遮る。

 無数の魔法が同時に着弾し、もはや何であるかも判別できない力の津波だった。圧倒的な攻撃力の前にその盾を打ち砕いて通り抜け、アスカの身体に浅からぬ傷を作っていく。

 

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!!」

 

 全身を激しく揺さぶられ、アスカの意識は遠のいていく。だが、一瞬のことだ。激痛で半ば強制的に現実へと引き戻されたアスカは呻き、一切の遅延無く腹を極限まで空かした状態で獲物を前にして枷を外された獣のような勢いで、ただ造物主へと向かって駆ける。

 

「今のを耐えるとは、たかが息子と思って油断したか。認めてやろう。貴様を今代の英雄だと」

 

 2(セクンドゥム)は少し感心したような表情を浮かべたが、直ぐに嗜虐に満ちた笑みを浮かべて控える少年少女に向かって、「やれ」と命ずる。

 

「「「はっ」」」」

 

 フェイトに似た背格好の少年少女達が2(セクンドゥム)の命令に従い、向かって来るアスカを迎撃する。

 激痛に霞む目で向かって来る少年少女の姿を見たアスカは即座に分身を出して本体も紛れる。

 

「「「「ふんっ!」」」」

 

 一合しか耐えられなかったが突破する時間は稼げた。

 分身四体が破砕されたのを隠れ蓑に本体のアスカは包囲網を突破した。

 

「貴様っ!」

 

 敵を罵るのは、自分の不甲斐なさを罵ることである。2(セクンドゥム)は、早すぎるアスカの速度に遅きを逸していると分かりながらも直ぐに反転して、主の下へ向かって疾走する敵を追った。

 

「邪魔だっ!!」

「ぶぺら……っ!?」

 

 雷を身に纏って最も早くアスカに辿り着いたが軽く振るわれた左手が、本当に偶々頬にクリーンヒットして2(セクンドゥム)はバランスを失ってもんどりうって倒れる。

 良い感じに入ってしまったのと、侮っていたアスカが自分達の包囲網を突破して造物主に向かったことに焦った所為である。

 他の三人の内、速度に優れた5(クゥィントゥム)2(セクンドゥム)によって邪魔された所為でアスカが造物主に辿り着く方が早い。

 

「これで――っ!」

 

 遂に使徒達の包囲網を突破して造物主の眼前にまで躍り出た。

 右手を振りかざし、全ての運動エネルギーと力を込めて造物主に叩き付けんと迫る。

 悠然と構える造物主へと襲い掛かっていく。アスカは回避動作を取らぬ無防備な造物主へと腕を突き出した。

 それは絶対的な破壊力を秘めた必滅の一撃であった。雷迸る拳撃は造物主の前に出現した障壁を砕いて肉体を貫く―――――はずだった。だが、アスカの手は無造作に伸ばされた手によって掴まれた。

 受け止めても突進の勢いまでは100%殺しきれず、旋風が造物主を揺らす。

 ローブが旋風に靡き、造物主の顔を覆っていたフードが捲くり上がる。

 

「………!」

 

 晒された造物主の素顔を見たアスカの心臓の鼓動が早鐘の如く鳴り響く。あまりの速さに、機能を停止してしまいそうだ。アスカは息苦しさを感じていた。息苦しいのではない。呼吸すら忘れるほどの衝撃が目の前で起きていた。

 

「……おや、じ……?」

 

 それは奇妙な再会と言える。誰かに計算され尽くした結果であるのか、或いは運命の女神の些細な悪戯によるものなのか―――――このアスカ・スプリングフィールドと、造物主と成り果てたナギ・スプリングフィールドの再会は。

 

「邪魔だ」

 

 アスカの耳に簡単な単語だけの無情なるナギの声が届くと同時に、造物主の体内から魔力が迸った。

 するりと腕が伸びてアスカへと伸びる。腕の先、広げた掌に強大すぎる魔力が集まり始める。広げた掌に凶暴な光が浮かび上がる。そのまま腹に押し当てられ、それは彼にとっては呼吸をするよりも簡単な魔力でしかなかった。

 黒い光が世界を覆い始める。衝撃は音もなく訪れた。アスカの体を突き抜ける鈍い衝撃。脳を不気味に揺さぶった。

 

「ガハッっ!?」

 

 巨大な鉄球が体の中を通り抜けていくかのような重い衝撃、体の中に埋め込まれたダイナマイトが内側で爆ぜたような衝撃。内側から内臓を引っ掻き回されたようなおぞましい感覚と共に簡単に吹き飛ばされたアスカの肉体が衝撃に押されて浮遊する。

 何十メートルも吹き飛ばされ、受け身も取れずに背中から地面に激突した。

 二回、三回、地面の上で跳ねて、やがてボロ布のように力なく広がって動きを止めた。大の字に倒れたアスカは一度、大きく痙攣して動かなくなる。それっきり、ピクリともしない。木乃香達はまだ意識を取り戻していない。

 これは九分二十九秒の間に起きて決着した悲劇。アスカ達は敗北を宣告された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り二時間三十五分。

 

 

 






次回『第87話 閃光の如く』



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第87話 閃光の如く



――――燃やせ、命を




 

 

 

 

 

 

 

 麻帆良学園都市は、かつてない喧騒に支配されていた。その只中を麻帆良学園初等部に通っている小さなカップルの雪とはる樹は必死に逃げ惑っていた。

 

「なんなんだよ、いったい」

 

 信じられない、学園祭から行動を共にするようになった雪の手を引っ張りながら走るはる樹の内心はその想いで一杯だった。

 少年は逃げながら、つい先ほど見た光景に愕然とした。

 突如現れた異形の召喚魔達の咆哮、逃げ惑う人々の悲鳴、勇気ある者達の怒号が飛び交う。何より奇妙だったのだ、どこかしらで見覚えのある人達が空を飛んで手から炎や稲妻を出して異形の者達を倒しているのだ。

 手品ではない。どう見ても超常現象としか思えない光景だった。爆音が轟き、空が赤黒く染まっているのは錯覚ではあるまい。

 どうやら異形達は世界樹を目指しているらしく、進行の邪魔さえしなければこちらのことは眼中にないようだ。避けれる人はそうでも動けない建物は容赦なく破壊されるので被害は大きい。壊された建物から火災が起こって二次災害も起きている。

 もうどれぐらい走っただろうか。何時間も走っているような気がするが、実際はせいぜい十分足らずだろう。全身に感じる恐怖が時間の感覚を狂わせていた。

 

「まったく、冗談じゃないぞ、クソ」

 

 見たこともない異形が現れたり、ただの人間が空を飛んだり、超能力、或いは魔法みたいなものを使っている現状に毒づくしかない。

 

「きゃあああああああああああああ!」

 

 近くの家の外壁を穿った雷撃に驚いた雪が腰を抜かしたのか、その場にへたり込んだ。

 

「雪、立つんだ!」

 

 はる樹が懸命に雪を引っ張って逃げ出そうとしていると突然耳を劈くような破壊音が轟き、数メートル頭上を紅蓮の炎が吹き渡っていた。

 

「うわ……!?」

 

 舞い落ちる火の粉に咄嗟に二人は同時に地に伏せた。その伏せた二人に向けて、運悪く上空から一戸建ての家ぐらいの大きさになりそうな岩石が高速で落下してきた。

 火の粉が収まって頭上を見上げたはる樹が落ちてくる岩石に気がついた。

 

「雪!」

 

 避ける暇も、その暇もなかった。はる樹は雪だけでも守ろうとはる樹は彼女の身体に覆い被さった。今更、立って逃げるだけの時間はない。

 せめて彼女だけでも守ろうとするはる樹の行動は褒められるものであったが、落ちれば一戸建ての家を潰す岩石が落ちれば結果は同じ。それでも何億分の一の可能性であっても、自分はどうなってもいいから彼女だけでも助けて欲しいと神様が起こしてくれる奇跡を信じた。

 

「――――――させん!」

 

 落ちて来る岩石から目を逸らした。これで死ぬ、という実感の湧かない言葉が全身を痺れさせた刹那、神様に祈るしかなかった少年の耳に喉太い男の声が届いた。

 雪の上に乗って頭を抱えていたはる樹が閉じていた瞼を瞬間的に開くと、オールバックの黒髪に髭、サングラスをかけた黒スーツを着た男性が目前に凄い速さで走り、空に向けて両手を上げた。

 パチチン、と黒スーツを着た男性が頭上に掲げていた両手の指を鳴らしたら風が瞬き、数十メートルの岩石が包丁で豆腐を切ったように砕け散った。

 

「無事だな。よし、怪我もない」

 

 小石よりも小さな砂が舞い降りる中でサングラスをかけた黒スーツを着た男性――――――神多羅木は呆然と自分を見る少年少女の下へ歩み寄り、雪を守るために上に乗っていたはる樹から順番に起こして身体の状態を見て怪我をしていないか確認した。

 まだ自分達が助かったことを実感できない二人はされるがままで神多羅木の顔を見つめるばかり。

 

「この先の広場なら安全だ。走れるな」

 

 怪我がないことを確認した神多羅木が立ち上がって別方向に顔を向けて言ったことで、自分達が残されることが分かったはる樹は頼りになる大人がいなくなる恐怖に全身を震わせた。

 

「で、出来ないよ。オジサンも付いてきてよ」

 

 オジサンと呼ばれたことに事態も忘れて少し肩が落ちかけた神多羅木だが持ちこたえた。今がそんな時ではないと重々承知している。

 

「甘ったれるな」

 

 所々で鳴り響く轟音に怯えて涙目で縋りつくはる樹に神多羅木は厳しい面持ちを崩さなかった。

 

「私にはまだやることがある。いいか、この子はお前しか守れない。男なら女を守ってみせろ」

「ぅ……」

 

 自分にしがみ付いている雪を指し示され、はる樹は喉の奥で呻く。

 

「さあ、行け!」

 

 神多羅木は二人の背中を軽く押した。ヨロヨロと頼りない足取りだが二人はようやく歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 灼熱する泡沫が浮かんでは消えていく。息つく暇すらないほど激戦の中を誰もが闘志を振り絞る。

 交差する無数の光条が、僅かの隙もなく戦意と害意を乗せて戦場を満たし、ときおり小恒星のような光球を一瞬だけ瞬かせる。溢れる光条と光芒の乱舞は戦闘の光だ。

 戦意と熱気が奔騰して双方がぶつかり合い、そして散華していくさまは、戦場というキャンバスに死を意味する光の絵の具を染み込ませた筆を、片時も休みなく振り続ける一種の油彩画のようであった。

 勿論、戦っている当人達にそのような認識はない。

 ある者は死の恐怖から逃れるため、またある者は与えられた命令に従っているだけ。またある者は守るべき者のために、またある者は共に闘う戦友の背を支えるために目前の敵と戦っているのだ。 

 召喚魔の軍勢によって連合軍の奮戦も虚しく劣勢を強いられ、戦線は新オスティアの直ぐ近くまで押し下げられていた。

 47隻あった混成艦隊も半数以上が落とされ、絶望的な戦力差にも怯まずに戦いを挑んだ飛行部隊の多くの英霊達も逝ってしまった。新オスティアを後ろに戦意だけは衰えないが戦線が瓦解するまで秒読み段階に入っている。

 50万を超える敵に比べて圧倒的に劣る混成艦隊が全滅せずに防衛線を維持できていたのは、一人一人の弛まぬ献身があってこそだろう。もとより消耗戦になることが前提であったため損害は避けられないことだった。

 

「艦長、直上に反応! …………大きい。ドラゴンタイプです!」

「真上だと!?」

 

 オペレーターの報告に、見えるはずがないのに艦長は思わず天井を見上げた。

 一体のドラゴン型の召喚魔が直上から飛来し、ヘラス帝国軍の巡洋艦ガルドバレステイルの艦橋真正面に陣取った。そのまま口を開き、ブレスの構えを取る。

 

「逃げられんか」

 

 ガルドバレステイルの艦橋内が静まる。その一握りの空間内で時間が止まった。艦長が驚愕し、副長が呪いの言葉を呟く。着任間もない新人が悲痛の叫びを上げた。

 艦長は一段高いシートに悠然と背を凭せ掛け、そうするのがさも当然であるかのように自分たちが散った後にも戦わねばならぬ同胞達にせめてもの言葉を送る。

 

「我が同胞達よ、後は任せたぞ」

 

 艦長の言葉を最後に、多くの乗組員と共にガルドバレステイルの艦橋はドラゴン型の召喚魔のブレスの高熱に融解した。艦橋が一瞬にして燃え上がり、ほどなくしてガルドバレステイルは推進剤に火が回り、誘爆を起こして轟沈した。ブレスを受けて僅か数秒の出来事だった。

 連続する爆炎が装甲板を瘤のように膨らませ、ガルドバレステイルの船体が内部から破裂する。その様子を自らが乗る艦の艦橋から見ていたクルト・ゲーデルが、短い呻き声を上げた。

 至近距離で起こった爆発に防眩フィルターが作動しても瞬間的に膨れ上がった閃光は窓を真っ白に染め、ブリッジにいる全員の目を焼いた。艦は乱気流に飲まれたように揺さぶられた。まだ年若い女性オペレータの甲高い悲鳴が響く。クルトは柵を掴んで衝撃に耐えて唇を噛み締める。

 

「状況は!?」

 

 クルトが全身を声にして叫んだ。

 

「ヘラス帝国軍巡洋艦ガルドバレステイル轟沈、艦橋への直撃です! 味方の半数が大破! これ以上は戦線を維持出来ません、撤退を!」

 

 悲鳴染みたオペレーターの声が、視界が戻り始めたスピーカーを通じてクルトの耳朶を打って暗澹たる思いにさせる。

 

「メガロメセンブリア連合カラルン隊全滅!」

 

 ヘラス帝国軍艦ガルドバレステイルも轟沈し、更に勇猛で知られるメガロメセンブリア連合カラルン隊も全滅したとの報告を聞いて、ブリッジの艦長席に当たる一際迫り出したデッキの柵を強く握り締めたものの、オコリのように震えるのを止めることが出来なかった。

 

「ぐっ……!」 

 

 突然、艦を揺るがした激震に堪える。

 

「各部、損傷確認!」

「右舷に直撃! 特攻を仕掛けてきた召喚魔によって対空砲座の一つが消滅しました!」

 

 オペレータの一人がダメージ・コントロール室からの一報を引き移し、悲鳴に近い叫びを上げる。その頭上のスクリーンパネルに、艦の損傷個所を点滅させる船体の俯瞰図が投影されていた。

 既に新オスティア総督であるクルトが乗る最終防衛ラインを固めている艦周辺にも敵が入り込んでいる。艦の上部に位置どった高畑が大多数を排除してくれているが、これだけ他の艦が近くては手の出しようもない。

 無数にいる敵一体と防衛線の要である砲座一つと引き換えでは、あまりにも損な取引であった。このままではいずれ致命傷を負うだろう。だがクルトは臆することなく叫んだ。

 

「たかが一つの砲座を失ったのがなんです! 他で代用しなさいっ!」

「り、了解っ!」

 

 クルトは全力で怒声を振り上げた。そんなでかい声を上げなくても伝わるのだが、上官である彼が少しでも気を抜いている姿を見せるわけにはいかない。司令官が気合を入れていることが部下達に気合を伝染させる、なんて暑苦しい考えは一片たりとも持ち合わせていないが、それでも部下達からすればこんな状況でも崩れない指揮官を心の支えにしていた。

 

「アリアドネー戦乙女騎士団ボズゴロン、撃沈!」 

 

 満身創痍になりながらも、尚も戦い続けていたアリアドネーの艦の一つが健闘も虚しく多数のガーゴイル型に取り付かれて沈んでいく。

 巨大な火球が視界一杯に広がり、千々に裂けた船体が衝撃波に乗って吹き荒れ、殺到する破片のいくつかが装甲を打ち据えた。断続的な衝撃音に心身を竦ませながら、クルトはどうにか倒れかけた姿勢を制御した。

 

「左舷前方百より、大型ドラゴン型が新たに五!」

 

 先程の艦を襲った衝撃で変調した索敵モニターを前に懸命にセンサーを調整していた一人が悲鳴を上げた。

 艦の数倍はありそうな大型ドラゴン型を倒すのには主砲が必要になる。だが、これだけの乱戦の中で主砲を発射することは難しい。しかも、大型ドラゴン型は互いの距離を開けている。例え主砲を放とうとも五体全てを倒しきることは難しい。

 

「大型ドラゴン型は艦上にいるタカミチに迎撃に当たらせなさい!」

「右舷より防衛線を突破して急速接近してくるガーゴイル型が十! 接敵されます!」

 

 オペレーターの声に右舷を見たクルトの目視でも今にも艦に取り付こうとするガーゴイル型の姿が見えた。

 

「右舷に急速回頭! 撃ち落としなさい!」

 

 クルトが叫ぶなり、操舵手が全長数十メートルもの船を力尽くで、あたかも小型の戦闘艇のように振り回した。体を振り回された乗員の悲鳴が一瞬上がる。

 左側のノズルを全力噴射することで強引に回転した船は、正面からガーゴイル型を迎え撃つ姿勢となる。迫り来る数は十。空戦隊の援護は期待できない。

 艦砲砲台が襲い来るガーゴイル型を撃ち落す。しかし、空中戦において、全長数十メートルの船が数メートル程度のガーゴイル型に挑むなど土台無茶な話だ。

 たった一つでも砲座を失った影響か、弾幕を掻い潜って半数のガーゴイル型が艦に急接近をかける。

 

「回避――っ!」

 

 クルトの叫びよりも早く操舵手が舵を全開まで切る。

 急速に傾く艦内で倒れぬように捕まりながらクルトは艦上から左舷に向けて極太の閃光と、右舷に向けて幾つもの細かい閃光が走って、大型ドラゴン型五体と艦に取り付こうとしていたガーゴイル型が殲滅されるのを見た。

 

「今ので大型ドラゴン型と当艦に接近していたガーゴイル型のみならず、付近にいた多数のタイプの二千にも及ぶ召喚魔の撃滅を確認!」

「おおおっ、一瞬で………ッ 流石はAAAのタカミチ氏だ!」

 

 オペレータの唾を吐くような興奮した報告に、艦内が高畑の戦果に戦くようにどよめいた。

 

「ガトウ直伝の七条大槍無音拳と千条閃鏃無音拳か。腕は衰えていないようだな」

 

 高畑の戦果に周囲に近づいてきた召喚魔達が、ただそれだけで、行動を鈍らせていた。理性を持たぬはずの獣が高畑の放つ桁違いの力の前には、本能的な恐怖を抑えることができなかったのである。

 

『クルト! 僕一人ではこの艦と数艦を守ることは出来るが全体を支えるのは不可能だ』

「耐えろ! 貴様が耐えなければこの戦線は瞬く間に瓦解するぞ!!」

『くっ』

 

 苛烈な視線でモニターを睨みつけているが、その視線だけで彼の望む通りに戦局が覆ることはない。

 

「怯むな! 我らが下がれば新オスティアを戦火に巻き込むことになるんだぞ! ここで踏ん張って見せろ!」

 

 作戦上の犠牲は呑み込むしかない指揮官の務めとはいえ、他に犠牲者達の魂に報いる術はない。

 

「付け焼き刃の艦隊行動では歯が立たんか」

 

 戦線を維持できなければ意味もなく、完全な負け戦にしかならないと分かっていながらも具体的な対策すら取ることも出来ない己を呪う。

 歯を噛み砕かんばかりにギリギリと強く噛み締めながら大きく叫ぶことしか出来ない。部下に指揮官が弱気になっているところを見せるわけにはいかず、睨みつけるように窓の先の戦線を凝視する。

 

「八方塞がりですね」

 

 クルトは指先で眼鏡のズレを正すと、苦悶の表情を浮かべる。

 二十年を耐えたクルトに限って諦めるなどありえない。だが打つ手がないのも事実だろう。最悪の事態を想定して戦慄を隠せなかった。

 

「左舷、弾幕薄いぞ! なにやっての! 」

 

 クルトと同じく最前線の戦艦の中でメガロメセンブリアの元老院議員の一人で5本に枝分けした特徴的な髪型をしている主席外交官ジャン=リュック・リカードは、直近で爆発した衝撃に胃の液体が喉に込み上げてくるような嫌悪感の中で叫びを上げた。

 

「艦直衛部隊は取り付こうとする召喚魔を迎撃! 各個に迎撃っ!」

 

 同艦の提督がリカードの直ぐ側で、コンソール・パネルに向かっているオペレーター達に向かって絶叫した。

 オペレーターの誰もが逃げ出したい気持ちで一杯だった。ブリッジの左舷前方の空域に膨らんだ火球が戦艦ロウスデンを巻き込んで爆発したのを見れば恐怖を覚える。

 

「ロウスデンがやられましたっ! やられたんです!」

 

 オペレータの一人が左舷前方で光の膨張する姿を見て、反射的に悲鳴を上げていた。爆発に巻き込まれてがくんと沈み込む衝撃がブリッジを突き抜け、艦体が激しく軋む。誰かの悲鳴が激震の中でブリッジに響く。

 リカードはその光芒から目を逸らすことなく、沈んだ艦の最後を看取っていた。沈み行くロウスデンの姿は、僅かの偶然で彼が乗る艦であっても不思議はなかったのだ。そして彼は知っている。僚艦の沈没は自分達の沈没に等しいことを。

 

「今の爆発で五番から七番のミサイル砲座が損壊、八番から十番のミサイル砲座のバイパス回路に異常発生!」

「――――くっ、八番から十番のミサイル砲座は一時放棄! 副砲の照準合わせ、外すなよ――――――撃てっ!」

 

 リカードの傍で今にも撃沈されそうなほどボロボロになってしまった艦の艦長も勤める提督は、揺れるブリッジの中で倒れないように柵をしっかりと握りながら矢継ぎ早に指示を出して叫んだ。

 オペレーターが提督の指示に従って主砲を発射したのと同時に、近くの空域から一筋の閃光が走った。

 

「あれはテオドラ皇女のいる艦か」

 

 揺れる艦の中で閃光を放った艦にリカードが呟いたのを聞いた提督は、ヘラス帝国とメガロメセンブリアの艦船が揃って接近する大型召喚魔に向けて銃火を放っていたのだ。

 黒い粉塵によって空気が濁ったように霞む中で、テオドラが乗る艦もまた満身創痍であった。

 轟音と閃光、そして身を揺さぶる振動が幾度となく襲い掛かる。それでもなお、アルカンシェルは怯まず留まり続ける。

 

「直営部隊を突破したデーモン型が急接近! 間に合いません!?」

 

 アルカンシェルのブリッジでオペレータの一人が叫んだ。

 瞬間、窓の外で閃光が発して防眩フィルターでも減殺しきれない激しい光がブリッジを塗り込めた。間近で膨れ上がった一際大きい衝撃が艦を襲った。船体を揺らし、直撃。艦の直衛部隊を突破したデーモン型の召喚魔を迎撃したが遅すぎた。艦の左船上部を破壊したのだ。

 

「左船上部に直撃! 火災発生、一時閉鎖します!」

 

 飛散した破片が外壁をパラパラと叩く。咄嗟に目を庇ったテオドラは、顔面に翳した指の隙間に灼熱する炎を見て、引き千切られた亜人の腕が飛んでゆく光景を見た。

 既にテオドラが乗るヘラス帝国軍旗艦アルカンシェルは満身創痍だった。致命的な損傷こそないものの、対空砲座の三割が使用不能。残りの七割の内二割が砲弾の殆どを撃ち尽くしてしまっていた。

 

《応急処理班、Bブロックにて作業中ですが手が足りません! 応援を!》

《Cブロックの隔壁を開けてくれ! まだネェルが向こう側に…………!》

 

 落盤のような轟音が重なり、一旦浮き上がった体が床に叩きつけられると同時に、室内を照らす赤色灯が激しく明滅する。艦内オープンスピーカーからは、もう悲鳴と怒号しか聞こえてこない。

 

「殿下! 火災により左舷副砲が損傷。使用不能です!」

「ええい、こんな時に! 修理にどれくらいかかる!?」

 

 絶望的だ。艦自体が危うい状況にある。床から身を起こしたテオドラは額から流れる血も拭わずに拳を握り締めた。戦っても戦っても減らない敵への絶望感だけが艦橋を支配していた。だが、まだ希望は残されている。

 

「…………待って下さい。整備班は二十、いや、十五分くれと」

「ならん! 死にたくなければ十分でやってみせろと言え!」

 

 自然と声が荒くなった。単なる怒りでは決してない。様々な思いが複雑に入り混じった感情によって叫ばせた。

 艦橋が大きく揺れた。続いて轟音。艦の間近で爆発が起こった衝撃だ。直衛部隊の誰かが犠牲になったのか、パラパラと肉の塊と血の雨が艦橋の窓に降り注ぐ。

 

「今の衝撃で第二精霊炉、出力低下! 補助機に切り替えます!」

「主砲開け! 管制は艦橋より行う。クックウェル中尉、照準を任せる!」

「しかし、敵の攻撃で艦が安定しないため照準がずれます」

 

 激震を続ける艦にあって最も冷静に操舵しているクックウェルが応じる。数多くの被弾を負って満身創痍であっても未だ戦闘を続けられるのは軍属二十年を越える彼の類稀な操舵技術と経験によるもであった。

 

「味方に当たりさえしなければ構わん、撃て!」

「了解」

 

 テオドラの声に反応し、クックゥエル中尉は撃った。艦が揺らぎ、主砲の発射を体感させる。

 この混戦の状況下にあっては、艦の進路を預かる操舵士のクックゥエルに照準を任せた方が良いとテオドラは咄嗟に判断した。そしてその判断に誤りはなかった。

 

「撃てっ!!」

 

 生きようとする意志のない兵士は、生きようとする兵士に必ず劣る。僅かな希望であっても、そのために戦うことは軍人として当然の責務であった。

 この時点において、魔法世界側の劣勢は誰の目にも明らかであった。

 

 

 

 

 

 舞い上がった砂塵が虚空へと溶け込んでいく。サラサラと降って落ちる砂の雨の中から、がっしりとした体格を持つ若者が腰を沈めて一気に跳躍して左手にある反りのないバスタードの刃がキラリと輝く鈍い光を煌めかせた。

 身に着けた古風だが堅牢な造りをした金属鎧の重さなどまるで感じさせぬ軽やかな勢いで、雄叫びを上げながらバスタードを振り上げる。

 

「斬り捨て御免!」

 

 ナギ・スプリングフィールド杯の予選にも出場していた拳闘士マニカグ・ノーダイクンの持つ大剣の刀身が、まるで若者の内なる活力を映し出すかのように眩い蒼い色の炎を纏った。

 眼下の相撲の力士よりも遥かに恰幅の良い召喚魔へと向かって振り下ろした。

 

「ギシャアアアアアアアアアアアアアァ!」

 

 刃と蒼炎が溶け合うように渾然一体となって解き放たれる。蒼炎刃は召喚魔の体をいとも簡単に斬り裂いていく。背骨を割り、内臓を分断する嫌な感触が伝わってくるが、お構いなしに刃を振り下ろす。召喚魔は二枚に下ろされ、鮮血すらも蒼炎に燃やし尽くされて消滅していく。

 僅かながらも仲間意識があったのか牙を剥き出しにした召喚魔達が四方からマニカグに襲い掛かってくる。倍はあろうかという巨躯が四方から迫り来る中、飛び散った火の粉を受けながらマニカグは不敵な笑みを浮かべていた。

 

「っぁああぁっっ!!」

 

 下段から掬い上げるように振り上げられた動作に伴って一直線に断ち割られた大気が真空を生み出し、空を飛んでいたガーゴイル型を股間から登頂まで斬り上げる。反転したマニカグに合わせて剣先はそのまま円軌道を描き、彼の背を狙った敵を登頂から股間まで斬り下ろした。

 あまりの速度に、余人には円形の光が迸ったとしか見えないだろう。当の斬られたガーゴイル型二体も自らが斬られたことを認識しておらず、微動だにしない身体に困惑するように目だけをしきりに動かしていた。

 

「お前達はもう、死んでいる」

 

 それからゆっくりと体が左右に分かれていく。恐らく毛ほどの痛みも感じなかったのだろう。血液を漏らすことなく霞となって消えていったが二体の表情は全く変わっていなかった。

 

「たぁああああああああああああ!」

 

 続く巨剣の乱舞は斬撃の竜巻となって戦場に決闘場を生み出す。そこに近づく召喚魔に待ち受けているのは、吹き飛ぶか、斬り砕かれるか、叩き潰されるかのどれか一つだ。

 油断なく地を蹴り、次なる者に場を譲る。

 

「ピピルナ・パピルナ・パリアンナ 萌え出づる若芽よ 縛鎖となりて敵を捕らえよ」

 

 頭上から植物の種が降り注ぎ、マニカグが良く知る少女のような高い声が戦場に鳴り響く。

 巨大なツタを発生させ、敵を捕縛する魔法を放った妖精の相棒が駆ける。

 

「うりゃあああああああああ!」

 

 ヘカテスのベテラン自由拳闘士アルギュレの虎獣人ラオ・バイロンとケルベラスの森妖精ラン・ファオが召喚魔を仕留めた。

 眼前の敵を倒し、直ぐに跳ね戻って偶々近くにいたラオとマニカグは背中合わせになる。相棒のラオの頭の毛の上にランの姿もあった。

 もう何十回と繰り返してきた動作を再び行い、二人は背を合わせた。

 

「大分、減らした、ね」

 

 魔法を連発した疲労によって荒い息の下、ランが呟く。服をあちこち切り裂かれて全体が薄汚れていたが、体の小ささもあって目立った傷はない。

 逆にマニカグとラオの鎧はもう半ば残骸と化してしまっており、邪魔になるようなら打ち捨てるべきかもしれない。

 

「そう、だな。百は、斃したと思うが」

「斃しても斃してもキリがない」

 

 それぞれ拳と剣を振るって敵を打ち倒すが、周囲を取り囲む召喚魔を見回せば減った気がしない。

 垣のように立ち並ぶ召喚魔達が一歩進み出る。本能で動いているといっても、三人相手ならば楽に押し切れると判断したのだろう。ただでさえ無理をしている状態なのに、状況は最悪を通り越して絶望的だった。

 

「ラン………………なんとか突破口を開く。お前だけでも逃げろ」

 

 ジワジワと包囲網が狭まる中、ラオは頭の上に乗っている相棒に向けて囁きかけた。荒い息と召喚魔達の地面を踏みしめる音によって声は聞き取りづらい。

 飛行タイプはなまじ機動力がある分、緒戦において殆どが倒された。ここに来るガーゴイル型は低空飛行だけで、飛べてもさして速度の速くないものだ。ランの機動力なら逃げ切れる。

 そこまで読んでのラオの提案だったが、ランは首を縦に振らなかった。ここでランが逃げれば、二人は確実に死ぬ。

 

「ふざけないで。生き残るならみんなでよ。そんな提案は認めない」

 

 同じように掠れた声で答えながら、ランの声には臆した気配は見受けられない。

 

「くくく、ラオよお前の負けだ。諦めろ」

 

 疲労で重すぎるバスタードを握る手を震わせたマニカグが笑う。居合わせただけの即席パーティで、相棒がいない彼としては羨ましい限りだ。

 

「いいのか、ラン?」

 

 晴れやかに笑い、ランは頷いた。その笑顔を見てラオは覚悟を決める。

 

「しゃあねぇな。二人とも俺より先に死ぬんじゃねぇぞ!」

「応!」

「了解!」

 

 弾かれたようにマニカグとラオはお互いに視線から外し、背中合わせの姿勢で敵の群れを睨んだ。

 情調を介さない無粋な者どもは、とうとう狭め切った包囲網を崩して飛び掛かって来る。

 マニカグは吠えた。バスタードを握る手に力を込めて、当たるを幸いに敵を切り裂いていく。彼の背後ではラオが手近にいる敵に殴り掛かり、吹っ飛ばしては別の相手に殴り掛かると繰り返していた。ランは二人の間であらん限りの気力を振り絞って魔法を放ち続けた。

 もう三人とも疲労は疾うに限界に達しており、最小限の動きで最大限の攻撃を繰り返すのみだ。その度に疲れ切った体は休眠を欲して倒れそうになるが、背後の温もりを感じて懸命に睡魔の誘惑を跳ねのける。

 誰かが斃れれば、連鎖的に他もすぐさま斃れてしまうだろう。背後を任せきり、依存しているといってもいい。

 

「ピピルナ・パピルナ・パリアンナ!!」

 

 小さな妖精は肩で息をしていた。取り囲む召喚魔を睨み付けながら、時折目を細め、苦しげに表情を改める。彼女が手を宙かざして歯を食い縛ると、そこから幾本もの風の矢が放たれて、召喚魔達を捉える。

 貫かれた召喚魔が痛みの奇声を発するが、数本程度では絶命させることは出来ない。続けざまに放ってようやく一体を倒したが焼け石に水に違いない。

 

「ぐぅっ」

 

 マニカグが呻いた。歯を食い縛って、悲鳴を堪えている。

 まず初めに倒れたのはマニカグだった。尻餅をついた彼の胸には獣の切り裂かれたような大きな切り傷がある。傷口から血がとめどもなく溢れている。

 彼に傷を負わせた召喚魔も霞となって消えていく。その腹に突き刺さっていたバスタードが地面に落ちた。相打ちだったのだ。

 

「ピピルナ・パピルナ・パリアンナ 汝が為にユピテル王の力をここに――――大治癒!」

 

 マニカグの惨状に気がついたランが慌てて中級回復呪文を使う。だが、残り少ない魔力では完全な治癒は難しい。

 

「ラン、助かったっ!」

 

 未だ残る傷の痛みに顔面を蒼白にしながら、それでもマニカグはバスタードを拾いながら立ち上がった。

 体をふらつかせながらたった一人で周りを相手にしているラオの加勢をするために、バスタードを振り上げた。

 

「うおおおおおおおおおおおおおおおおぉ!」

 

 腹の底から声を発して、マニカグは通常の何倍もの重みを感じるバスタードを振り下ろす。

 そのバスタードが今にもラオを背後から襲いかけていたガーゴイル型を捉えた。ガーゴイル型は地面に叩き潰される。頭が潰れ、血が飛び散った。もう、相手を切り裂ける技量を保つことも出来ない。バスタードの重量に頼った無様な剣技だ。

 だが、敵は自らの無様な剣技に浸っている時間すら与えてくれない。 

 

「うがっ」

 

 安堵の息を漏らしかけたところで不意にマニカグの顔面が歪む。

 彼の背中には新たに大きな傷が刻まれていた。血が流れ出していく。彼の背後では別の召喚魔が冷ややかな笑みを浮かべていた。

 

「マニカグ!?」

 

 魔力がほぼ皆無になりかけのランは先程から攻撃に参加せずに回復役に専念している。実質的に一人で支えているラオがマニカグの名を呼ぶ。

 

「ぬああっ!」

 

 マニカグは体を捻って、遠心力で背後の魔物にバスタードを叩き込んだ。

 バスタードが召喚魔の首を折り、骨を折る鈍い手応えが手に残る。召喚魔は絶命した。

 

「流石にこれは不味いか?」

 

 マニカグもまた膝をついて虚ろに呟く。足元には血の海。血を流し過ぎた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頬に接しる地面の振動を感じて、近衛木乃香は意識を覚醒させた。意識を覚醒させて一番最初に感じたのは激しい痛み。

 

「っ……!」

 

 思わず身悶えするほどの激しい痛みが全身を襲い、ようやく自分が生きていることをなんとか自覚した。咳き込むように息を吐く。痛みでギクシャクした動きで起き上がろうとした。しかしそこで木乃香の思考が一瞬でクリアになった。自分が今どこにいて、何をしていたかを思い出したのだ。

 明日菜を助けるために墓守り人の宮殿に侵入して、最後の敵だったフェイト・アーウェンルクスを倒した直後に現れた謎の集団。

 何もかもが分からかった状況の中で最後に見た雄叫びを上げるアスカの背中、全てが闇色の閃光に呑み込まれ、轟音が響いて爆風に飛ばされて受け身も取れぬままに叩きつけられて――――――そして三十秒以上も自失の状態が続いた。いや、実際には一瞬の事で、焼きついた黒色が五感を奪い続けたのかもしれない。

 

「アス……カ君……?」

 

 打ち付けた身体が痛むが、意識はハッキリとしていた。ゆっくりと身を起こし、顔を上げれば眼前からあれほどの光が全て消え失せていた。絞り出した声は、異様にしわがれていた。蛍光灯を長時間凝視し続けたように、米神の辺りにじんじんとした痛みが走る。

 

「…………アスカ君っ!?」

 

 少女の声だけが寒々と響く。

 全てを思い出した木乃香が身体を起こして辺りを見ると、意識を失う前と風景が一変していた。

 周囲を見回す。あれだけの暴虐の閃光にも拘わらず、意外にも木乃香の近くは比較的無事だった。土は掘り返され、建物は崩れ、自分の足下すらも覚束ない。徹底的に破壊された焼け野原になった周囲の壊滅を具合を見ればアスカが張っていた障壁が彼女達を守ったのだろう。仲間達も直ぐ傍に同じよう倒れており、楓以外は気が付いたのか体を起こしていた。

 

「ああ……」

 

 木乃香は負った傷や土を転がった汚れも気にしないで呆然と呟いた。アスカ・スプリングフィールドがいた――――――木乃香の直ぐ近くで倒れている。

 木乃香の呆然とした呼び掛けに、上半身の服が完全に吹き飛んで大の字に仰向けで倒れているアスカは応えない。ピクリとも動かないので遠目からでは意識がないのか、生きているのかも判別出来ない。

 

「アスカ君!」

 

 造物主の使徒達など目にもくれず、アスカの敗北という残酷な現実に硬直している仲間達を置き去りにして木乃香はアスカに駆け寄った。

 駆け寄ってその顔を見て絶句した。血と煤で汚れ、見る影もなく黒ずんでいる。

 力一杯に抱き締め、木乃香は治癒を行いながら何度もアスカの名を呼んだ。しかし、不規則な呼吸音があるだけで言葉は返ってこない。抱きかかえたアスカの体はまだ(・・)暖かかった。ただ、そこには少しずつ生気が抜けていくように感じた。

 

「驚いた。あれほどの傷を負いながらも我が主に辿り着くとは。出来損ないと互角に戦っただけはある」

 

 遅れて傷ついた身体を引き摺るように古菲や小太郎、茶々丸も木乃香とアスカを守るように前に立つ彼女達へと投げかけられた声があった。

 

「認めてやる。貴様は我らが敵に値すると」

 

 治癒魔法を使う木乃香を守るように立つ彼女達ではなく、一人だけ地に倒れ付しているアスカを見て感心したようにかけられる声。それが誰かなんて考えるまでもない。味方はここにいる面々だけ。ならば、残るのは必然的に敵のみ。

 アーウェンルクスシリーズの二体目。2を意味するセクンドゥムの名を冠するフェイトにどこかよく似た容姿の男。

 

「だが、造物主()たる我らが主への不敬は万死に値する。放っておいても死ぬだろうが大人しく死ぬことは許さん。造物主()に弓引いた大罪を、その命を以って償え」

 

 2(セクンドゥム)の表情には明白な狂気、或いは狂信の色が浮かんでいた。咀嚼され、濃縮された無垢なる邪性。論理的に話しているようで実は論理ではない。これまでの話はあくまで、彼の独善あって対話の意思があるわけではない。

 本来なら激しく反発するべき発言。だがそんな2(セクンドゥム)の言葉に彼らは何も反応を示さなかった。聞いていなかったからではない。彼らには反発しても抗するだけの力がないから、少しでも行動を先延ばしにするべく時間稼ぎの方策を考えていた。

 良い方策を思いつく前に造物主が口を開いた。

 

「怒りも愉悦も枯れ果て、絶望にも飽いた。我が使徒よ、全てを終わらせるために荒れ狂うがいい」

「御意」

 

 直後、四人の使徒から同時に閃光が放たれた。

 

「うわあっ!」

 

 炸裂した白い閃光と衝撃波に弾き飛ばされ、一人だけ反応して皆の壁となった小太郎がアスカとフェイトの戦闘で生まれた瓦礫の山の上に吹っ飛ばされた。

 

「ううっ……」

 

 鈍く呻き、懸命に身を起こそうとする小太郎だが、上体を半分起こしたところで血を吐いて倒れてしまった。

 

「小太郎君っ!」

 

 アスカを抱き締めたまま、木乃香は年下の少年の名を叫んだ。しかし返事はない。ここからでは生きているのかさえ分からない。

 駆け出したい衝動に駆られた木乃香だが、腕の中のアスカを捨てることは出来なかった。少しでも治癒の手を止めればアスカの命は永遠に失われてしまうような、そんな予感がするのだ。

 木乃香が血を流して噛み切れるほどに強く唇を噛み締めていると、古菲と茶々丸が呼びかけてきた。

 

「私達が食い止めます! だからその間にアスカさんを頼みます!」

「で、でも」

「出来なければ殺されるだけアル!」

 

 敵は負傷していたとはいえアスカですら勝てなかった相手なのだ。遥かに実力で劣る二人が、アスカと同格のフェイトと明らかに関わりのありそうな相手が無数にいる状態でまともに戦うのは危険すぎると言おうとしたが、それよりも早く二人は雄叫びを上げながら突撃を敢行していた。使徒達も安易に待っているはずがないから少しでもダメージを与えるために先制攻撃を加えようとしたのだ。

 彼女達の考え通り、使徒達は既に行動を開始していた。先に移動を開始した二人を上回らんかと思うほどの速さで。

 

「絶対に……助けてみせる」

 

 みんなの頑張りを無駄にしないためにギュッと堅く目を閉じて、治癒を続ける。

 

5(クゥィントム)。風のアーウェンルクスを拝命」

 

 茶々丸の前に立ち塞がったのは、風のアーウェンルクスで五番目を意味するクゥィントム。

 フェイトが着ている物と同じ制服、似た容姿と体格、差異があるとすれば若干の髪の毛の長さと右側だけを下ろして左側をツンツンと跳ねさせた髪型ぐらい。やけに無機質で何も考えていないような、善悪の区別がつかない無垢な人形染みた声だった。

 

「私の全機能を以て止めます」

 

 両腕の武装を解放し、5(クゥィントム)に挑む。決して勝てぬと分かっていても、やらねばならなかった。

 

6(セクストゥム)。水のアーウェンルクスを拝命」

 

 古菲の前に現れた6(セクストゥム)の肌は他のアーウェンルンクスシリーズと比べても透き通るように白く、しなやかで可憐だ。ただ他のアーウェンルクスと共通して感情が欠落しているかのような顔には表情が無く、まるでよく作られた人形のようにも見える。

 

「ぜあっ!」

 

 実力差を前に臆したら負けると判断し、古菲は先制攻撃を繰り出す。

 気迫の乗った全身全霊の神珍鉄自在棍の一撃を繰り出した古菲だったが、6(セクストゥム)は軽く首を捻っただけで、その一撃を避けてしまった。

 

「まだまだぁっ!」

 

 間髪入れず、古菲は神珍鉄自在棍と蹴りを嵐の如く連打で放った。

 だが、その攻撃は掠りもしない。全ての攻撃は紙一重で避けられてしまう。6(セクストゥム)は、古などにまるで興味がないと言った顔で、反撃すらしようとしない。

 

4(クァルトゥム)。火のアーウェンルンクスを拝命」

 

 4(クァルトゥム)の全身を、更に強烈な炎が包み込む。真っ赤な炎はその温度をますます上げて、白く発光するまでに達した。

 

「やれやれ、目を覚ましてみれば、ひ弱そうな小娘ばかりとは」

 

 木乃香は、これだけ離れているというのに4(クァルトゥム)から伝わるあまりの熱気に汗を流した。そこには冷や汗も混じっていたかもしれない。

 

「契約に従い我に従え炎の精霊。集い来たりて………」

 

 詠唱を唱える4(クァルトゥム)の身の回りに、火の玉のような真紅の火球が無数に出現した。

 

「紅蓮蜂」

 

 4(クァルトゥム)が魔法名を言い放つのと同時に左腕を振り上げる。

 火球は魔法名通り、紅蓮その物の蜂となって火の粉を撒き散らしながら、一斉に木乃香に襲い掛かる。

 

「させんアル!」

 

 古菲が木乃香の危機に神珍鉄自在棍で地面を穿り返し、6(セクストゥム)に目晦ましをしながら瞬動で紅蓮蜂の前に先回りする。

 紅蓮の蜂の群れは、正面からだけではなく上下左右あらゆる方向から様々に軌道を変え、八方から古菲を捉えて炸裂した。空の彼方にまで響くような轟音と共に、熱を孕んだ衝撃波が着弾地点の周囲に広がる。

 

「ガハァッ!?」

 

 爆発の中央で焼け爛れて崩れ落ちる古菲の姿に興味を失くした4(クァルトゥム)は、近接戦を仕掛けてきている茶々丸の攻撃を全て避けている5(クゥィントム)と、制服にかかった砂埃を払っている6(セクストゥム)に目を向ける。

 

5(クゥィントム)6(セクストゥム)、この程度の輩は僕だけで十分だ」

「いいでしょう」

「好きにするといい」

 

 二人から了承を得た4(クァルトゥム)は「ヴィシュ・タルリ・シュタル・ヴァンゲイト」と始動キーを唱える。

 

「九つの鍵を開きて、レーギャルンの筺より出て来れ」

 

 魔力が熱となって、4(クァルトゥム)の周りに陽炎を起こした。

 4(クァルトゥム)の立つ足元の地面が融解を開始する。土石が高熱のあまり赤く発光しながら溶けて、マグマと化していく。あまりの高熱に周囲の空気が膨張して、4(クァルトゥム)の周囲で引っ切り無しに爆発を起こすまでになっていた。

 

「燃え盛る炎の神剣」

 

 スッと左腕を前に伸ばす。広げられた掌の前に、小さな炎が生まれた。それを素手で握り潰すと、腕を斜めに振った。すると、まるで炎自体が意志を持っているかのように動き、消火ホースの中にガソリンを詰めて噴いたように手からぐんっと身の丈を遥かに上回る緋色の大剣が生まれた。

 炎を凝縮し、剣の形に物質化させる魔法である。そこにあるだけで大気を焼く超高温。

 近くにいない。触れてもいないのに、5(クゥィントム)に簡単に吹き飛ばされて燃え盛る炎の神剣を見た茶々丸は、機械の目が焼かれるような気がして思わず右手で顔を覆っていた。

 その絶好の隙を4(クァルトゥム)は見逃さない。

 一切の躊躇いもなく、一片の容赦もなく―――――茶々丸へと炎剣を勢い良く横薙ぎに振り回した。

 

「!?」

 

 何かが断ち切れる音が響いた。

 眼の前を通過するそれを、茶々丸は一瞬だけ何か分からなかった。目の前を通過したのが燃え盛る炎の神剣によって斬られた自分の左手であり、自らの上半身が宙を浮いているのに気づくのに長い時間はかからなかった。

 

「茶々丸!?」

 

 斬り裂かれた茶々丸から弾け飛んだネジ等のパーツが雨のように降ってゆくのを膝をついている古菲が呆然と見ていると、不意に辺りの空気が灼熱した。

 ハッと顔を上げた古菲は、4(クァルトゥム)が炎熱を纏った右腕を振りかぶるのを見た。無造作に振るわれた腕から膨大な量の炎が射線上に発生した。赤々とした炎の津波が、ごうごうと唸りながら近づいてくる。

 

(どうするアル……!?)

 

 異常な集中力で鈍化した風景の中で、辺りの空気が一瞬にして炎天の砂漠のように熱くなる赤い壁を前に、避けるか、後ろのアスカ達の為に受けるか。古菲は一瞬の内に思考を巡らせた。

 肌に火がつくような熱気が容赦なく吹き上がって感じられる凄まじいまでの熱量。自分だけで避けたところで、後ろにいる治療に専念している木乃香と意識のないアスカでは塵も残らないだろう。小太郎は意識があるかも分からず、茶々丸も既に死に体。結局のところ、自分が攻撃を受けきるしかないのだ。

 

「ォ、ォオオオオオオオッッ!!」

 

 意を決し、両腕を前に伸ばして気を全開にし、手に持つ神珍鉄自在棍を高速でグルグルと風車のように回す。

 轟音、爆圧、炎。それらが混ざり合って古に襲い掛かる。視界が緋に染まって、古菲に火炎が直撃した。

 炎は、ごうごうと濁流さながらに唸りを上げて渦巻いている。その中心に古菲がいた。炎が瀑布のようにごうごうと唸りながら迫るのを、古菲が前に掲げた神珍鉄自在棍を高速で回転させて散らそうとする。

 

「ぐうぅうッ! あ、くあぁぁぁぁぁっ!?」

 

 古菲は絶叫した。

 炎が空気を焼くのとはまた別の匂いが、肉の焦げる嫌な匂いがした。散らしきれない炎が腕の肘から先を焼いて赤黒く爛れさせていく。更に燃焼によって周囲の酸素が一気に失われたからか、肺をも焼き尽くそうとする高熱のためか、呼吸すらまともに出来ない。

 腕が燃えていた。人間には、火災現場で生き続けることなど出来ない。熱気の中で、人は目を開けることすら出来ず、煙に捲かれて正常に音を聞き取ることもない。匂いも、触覚も、味覚も、全てが燃えていた。

 炎が止んでも古菲の周囲は熱波に包まれ、最早意識は彼方へと飛んでいた。

 

「つまらん。もう少し足掻きようもあるだろうに」

 

 全く本気を出さずに、ほぼ一人で二人を制圧しかけている4(クァルトゥム)は残る茶々丸に目を向ける。

 上半身と下半身を切り離されて立ち上がることはおろか、移動することも出来ない茶々丸の身に、炎の槍が上空から無数に降り注いだ。

 炎を凝縮して生み出された、その極炎の槍は、茶々丸の右肩と左胸を貫いて地に縫い付けた。焼かれた部位から白煙が昇る。

 

「ア"ッアアアア"ッ!」

 

 その白煙が視界を覆ってゆくのと一緒に、茶々丸が悲鳴を上げる。

 皆が劣勢に立たされている。ただみんなが言う通り、今の内にアスカの意識を戻さなければならないと、木乃香は胸の辺りをギュッと握り締めた。敵わぬと知っていても、みんなは戦いを挑んでいるのだ。ただ一つの希望、アスカを信じて。

 しかし、アスカの傷と消耗は酷すぎた。

 現実時間では数時間前のナギ・スプリングフィールド杯決勝とクルトとの戦い。別荘を使用して数日間休養しても、ここに来るまで無数の召喚魔、デュナミス、フェイトと激戦を重ね続けた影響で肉体はボロボロになっている。トドメの造物主の一撃によって、今も尚、治癒を行っているが焼け石に水にしかなっていない。

 奈落への片道切符を切られるのも間近だった。這い寄る絶望が、あらゆる希望を打ち砕いていく。

 

「弱い者苛めにも飽きた。そろそろ終わりに――」

 

 一気に終わらせるつもりか、大技を放とうとする4(クァルトゥム)に木乃香の後ろから瓦礫の欠片が投げつけられた。

 不意打ちにもならない瓦礫の欠片を4(クァルトゥム)は簡単に叩き落として、投げられた方を見る。

 

「…………人を、舐めんのも、ええかげんに、せえよ」

 

 瓦礫を投げた張本人である小太郎が仰向けに近い状態で瓦礫に沈み込んでいた上体を引き起こしていく。

 

「さあ、戦おうや」

 

 小太郎に不安はない。だた眼前にいる理不尽な輩を叩き潰すのみである。

 

「ふっ……ふふふふふふふふっ…………あははははははははははははっ! 馬鹿な子供だ。そんなズタボロな有様で何が出来る。所詮は獣だな」

 

 立ち上がった小太郎に舞台劇(ショー)を観覧していた2(セクンドゥム)が堪らず、純粋な悪意の結晶とも表現すべき瞳を鈍く輝かせて嘲笑を浴びせかけてくる。

 

「獣? 大いに結構や。俺は狗族とのハーフやぞ。褒め言葉にしかなっとらんわ」

 

 だが、その程度では今更小太郎の心を揺るがしはしない。その威勢は虚勢だったけれども、虚勢は大切だと思うのだ。余裕がなくとも余裕があるように自分を騙せてしまうから。

 死ぬのは嫌だった。けれど今ここに在る死から逃れたとして、その後に何が残るというのだろう。安穏とした人生を送ってもそこに希望や幸福はなく、あるのはただ恐怖の記憶とみっともない敗北感だけだ。生きてはいるが、それだけのなんの価値もない生。

 

「ああ、俺とお前達の実力差は決定的や。どんだけ逆立ちしたって勝てるとは思とらん。でもな――――――」

 

 相手は強大で強壮、凶暴で凶悪、絶対的かつ絶望的な力を持った化け物達だ。実力差は明白、数的にも劣り、彼我の戦力差は圧倒的、勝算はない。負けて当然な戦況で開き直りにも似た心境になっていた。

 今の小太郎の五体には一部の隙もなかった。自分の弱さを認識するが故の臆病なまでの細心。

 

「だからってな、俺はお前達に、ボスの癖に自分で動こうとせえへんスットコドッコイなんかに屈する気はない。絶対にや!!」

 

 一度は崩れ折れるようように膝をついた小太郎だが、口元を引き締めて苦痛に顔を歪めたまま吠えて憑かれたように走る。

 

「獣風情がほざくなっ!」

 

 冷静で鉄面皮に見えた5(クゥィントゥム)が、残忍で好戦的な性格をしている2(セクンドゥム)4(クゥァルトゥム)よりも早く小太郎の前に飛び出した。一歩遅れて6(セクストゥム)も続く。

 元より2(セクンドゥム)は彼基準では、小太郎の強さは下の下に過ぎないので動く気がない。自分を殺したフェイトの例もあるので、他のアーウェルンクスシリーズの様子を見るつもりだった。

 4(クゥァルトゥム)の場合は、小太郎達の相手を5(クゥィントゥム)6(セクストゥム)よりも多くしていたので、小太郎の言葉にも弱者の戯言だという意識が先に立っていた。

 アーウェンルンクスシリーズは造物主が造りだした人造人間である。それはアーウェンルンクスシリーズに限らず、アートゥルシリーズやアダドーシリーズ等も同様である。個体に違いはあれど、これらの人造人間を造りだせるのは造物主のみである。

 だが、この最終局面において姿を現したのならば何故デュナミスはフェイト以外のアーウェンルンクスシリーズをもっと早く投入しなかったのか。

 アーウェンルクスシリーズの作成自体は十年前の時点で完成している。しかし、調整は出来ていなかった。調整を行うには創造主の掟(グレートグランドマスターキー)が必要になる。

 創造主の掟(グレートグランドマスターキー)を扱うには、どうしてもウェスペルタティア王家の直系の血が必要になる。十二年前にフェイトを起動させた暫く後に墓守り人の宮殿から黄昏の姫御子を紅き翼に奪われ、造物主もまた封印された為、他のアーウェンルクスシリーズは最終調整を残したまま今まで保存されていた。

 ナギ・スプリングフィールド杯の直後、隙を見せたアスカから神楽坂明日菜を攫い、彼女の血を以て創造主の掟(グレートグランドマスターキー)が再び使用可能となった。

 フェイトには前大戦の英雄である紅き翼のジャック・ラカンの始末を頼み、デュナミスは10年前にやり残したアーウェンルンクスシリーズの最終調整に入った。

 そして保険として、また極大の罠としてデュナミスは創造主の掟(グレートグランドマスターキー)を使って自らを分割し、フェイトにも秘密で起動したアーウェンルクスシリーズと共に主を奪還した。

 3(テルティウム)――――――フェイト・アーウェルンクスを想像し調整した造物主は自身に対する忠誠や目的意識を設定していない。いわば素焼きの状態である。彼にとって造物主への忠誠は絶対のものではない。完全なる世界への願望も、栞の姉との果たせなかった約束への悔恨、自らが手にかけた2(セクンドゥム)の言葉を否定したくて世界を巡った故に辿り着いた答えである。

 デュナミスはフェイトが2(セクンドゥム)を手にかけたことを知っていた。「完全なる世界」を望んでいることを知っているが、同時に何時か裏切るのではないかと危惧もしていた。だからこそ、この十年近くの間、フェイトの行動に規制をかけることはなかった。好きにさせていたと言ってもいい。それは高畑やクルトが自分達を執拗に追い詰め、自分以外にはフェイトしか戦力がいなかったことが大きく関係していた。

 アーウェルンクスシリーズの最終調整に中って留意したのは、フェイトには設定されなかった主への忠誠と目的意識。生まれたばかりの彼らの初期設定の心はいっそ無垢とすら言ってよかった。そこにかけられた忠誠と目的意識は小太郎の言葉は決して看過出来るものではなかった。

 特に2(セクンドゥム)に近い性格に調整された4(クゥァルトゥム)よりも、5(クゥィントゥム)6(セクストゥム)にその傾向は強かった。

 囚われていた主を救い、フェイトが負けようとも盤を引っ繰り返せるデュナミスの策は成功したと言える。デュナミスは消滅したが、彼の策は完全なる世界陣営の勝利を決定づけた。しかし、彼の慎重さが僅かな歪を生んでいたことを知らなかった。

 

「我らが主を侮辱した罪、その身を以て償うがいい!」

 

 5(クゥィントゥム)の差し上げた左右の手が相次いで振り下ろされ、断ち割られた空間から巻き起こった鎌鼬が小太郎を切り裂く。だが真空の刃を浴びながらも、小太郎の足は止まらない。

 ズバン、と水が6(セクストゥム)の背後で床下から噴水のように水の柱飛び出した。どうやら墓守り人の宮殿内にある水源から汲み上げたもののようだ。

 

「死になさい」

 

 続けて6(セクストゥム)が口を動かすと、水の柱がまるで蛇のように鎌首を擡げた。ギリシア神話に登場するヒュドラーや日本神話に登場する八岐大蛇のように枝分かれした何本もの水の蛇。槍と化した水流が勢い良く小太郎に襲い掛かった。

 走りながらサイドステップをした小太郎の周囲の地面へと次々と刺さる水槍。回避行動を取らなければ串刺しになっていた。

 回避しきれない一本が避けられないタイミングで小太郎の体へと向かってきた。

 

「うぐぁ!」

 

 避けきれないと悟った悟った小太郎は左手を犠牲にすることで致命の一撃を受けきることに成功した。代償として前腕を貫かれた左手はもはや使い物にならない。

 

「づらぁッ!」

 

 気合一閃。左の前腕を貫く水槍を右手で半ばから叩き折る。

 叩き折られた水槍は水風船のように弾けて四方へと飛び散った。飛び散った水片がまた小太郎の肉体を穿つ。

 

「トドメ!」

「誰が!」

 

 小太郎は諦めていなかった。疾風になって止めを刺しにきた5(クゥィントゥム)を間近に見ながらも、その意思は揺らがない。しかし現実は冷酷だ。躱すだけの猶予も余裕も技量すらも今の彼にはなかった。

 

「くそっ!」

 

 覚悟を決めたその刹那、真空の弾丸が宙を無数に奔り、小太郎の身体を朽ち木のように吹っ飛ばす。

 

「――!?」

 

 小太郎を簡単に吹っ飛ばした5(クゥィントゥム)だが、信じ難いという表情では頬を押さえた。

 攻撃をされながらも真っ向から伸ばされた小太郎の拳が、5(クゥィントゥム)の頬を掠めて僅かに切っていた。

 

「ゲホっ」

 

 何度も地面をゴロゴロと回転した小太郎が血を吐く。打たれた腹部が熱を持ったように熱い。内臓のどれかが破裂したかもしれない。それでも地面に右手を付いて口から血を滴らせながら立ち上がる。

 

「よくも獣風情が、神の使徒たる私に傷を付けたなッ!」

 

 また衝撃。もはや何で攻撃されたのかすら分からない。

 抵抗も出来ず、防御など夢のまた夢で、小太郎は更に吹き飛ばされて仰向けに倒れ伏す。意識も途絶えた。だが直ぐに目覚め、瞬きをして生物的な本能から出た涙を拭う。

 

「が、お、あ…………」

 

 悲鳴は口から迸らず、泡だけが零れた。

 叫ぶだけの余力がないのである。全身を渦巻く激痛の嵐は、それだけの力さえも少年から奪い尽していた。肺さえもろくに動かず、窒息寸前まで少年を苦しめる。

 ギシギシと悲鳴を上げる両足。ゼイゼイと忙しなく呼吸を繰り返す喉。肉体に鞭を打ってゆっくりと立ち上がった。額や頬、そして腕や太腿を面白いほどに血液が流れていく。満身創痍の体で血を噴出させながら大地を踏み締め、足元の紅い水溜りが自分の流した血によるものだと気づいて苦笑した。だが、それでも退くわけにはいかなかった。

 

「はは…………良く生きてんな、俺」

 

 自分を見失いそうになる。頭がくらくらするが、まだそんなとぼけたことを言える余裕があるのだから希望はある。

 唇を強く噛み、自ら痛みを生んで正気を取り戻した。どうも、ぼうっとしていた。もしかしたら自覚する以上に命が危ないかもしれないが今は死ぬのは我慢しよう。

 小太郎は何時ものように、当たり前のように瞳に力を取り戻した。

 意固地になった子供のようにフラつきながら敵を見る。全身がボロボロだ。服もあちこちが破れて血に染まり、悲惨な有様だ。それでも目の輝きは失せていない。小太郎は真っ直ぐに前を見る。

 

「何ですか、その目は」

 

 ここで初めて、他のアーウェンルクスシリーズとも比べても感情が希薄だった6(セクストゥム)が低く唸った。

 両者の距離は遠い。吹き飛ばされて、離れてしまった。歩いていく。少しずつ、血だらけの身体を引きずるようにして。身体中が痛くて死にそうだが、この程度では小太郎は止まらない。

 

「無理をすると死にますよ」

「いや、その前に私が殺す。この傷を付けてくれた罪は万死に値する」

「待ちなさい。トドメは私が」

 

 6(セクストゥム)を制して、頬の血を拭いながら激怒した5(クゥィントゥム)が前に進み出た。しかし、6(セクストゥム)とて譲る気はなく5(クゥィントゥム)の手を掴んだ。

 他の使徒達は面白い余興だと、外野で観客となっていた。手を出す気はなさそうだった。

 小太郎は一歩進んだ。前に進み出た使徒達までの距離が縮む。

 

「俺はな、生き意地が汚いんや」

 

 血と生命が吐き出され、呼吸が荒くなり、立ちくらみを起こす。亀のような速度で、けれど確実に距離を詰めていく。

 

「無様な。無駄に責め苦を味わおうとするとは」

「いい加減にしろよこのッ…………」

 

 静かに嘲弄する6(セクストゥム)に切れて、吼えるように小太郎が喉から声を絞り出す。歯を強く噛み慣らし、6(セクストゥム)を睨み付けると僅かに怯んだ。 

 

「この、私を愚弄するか!」

 

 僅かでも強さが遥かに劣る小太郎に怯んだことが許せないのか、6(セクストゥム)は激昂して、5(クゥィントゥム)の前に出て手を振り回すようにして水で出来た魔弾が放たれる。

 冷静さを欠いた攻撃だから大半は狙いを逸れて地面に着弾して、地響きと衝動が小石や砂を舞い上がらせた。

 

「がっ!?」

 

 数少ない直撃弾が命中して、またも吹き飛ばされる。辛うじてその場から一歩だけ後退するに留まったが、もう全身の感覚がなくなってきた。血を流し過ぎたようだ。歯を食い縛っていなければ即座に意識が飛んでしまう。意識を飛ばしてしまったらきっと死ぬだろう。

 

「はっ――――はっ――――はっ――――はっ――――」

 

 フラつきながら顔を上げると、6(セクストゥム)の表情が変化していた。それは恐怖そのものだった。理解し難いものを見た時の、驚きと不安の表情。その顔がどうしても泣いているように見えて、凍り付きそうな足をギクシャクと動かした。

 5(クゥィントゥム)は様子のおかしい6(セクストゥム)に気圧されたように動かなかった。

 

「来るな!」

 

 6(セクストゥム)が癇癪を起した子供のように叫んだ。

 

「どうして………………どうしてそこまでボロボロになってまで戦おうとする!? 貴様に何の得がある!? 現実世界の住人である貴様が命を懸ける義理など何もない戦いで、どうしてそこまで戦おうとする!?」

「人形でしかないお前達には分からんやろうな」

 

 小太郎は血の味を噛みしめつつ、それでも笑った。ただ、人形とはいえ女を泣かしてしまったのは少し悪いなと思う。

 無理に無理を重ねてきた結果として、肉体がどうしようもなく蝕まれている。いくら人間よりも丈夫な狗族のハーフでも失血死に至るのも十分な血液。意識は朦朧として、瞬く間に世界が曖昧になっていく。

 

(やっぱ、勝てんなぁ)

 

 と、小太郎は思った。彼我の実力差は分かっていたことだ。小太郎が百人いてもあの中の一人にも勝てない。それだけの力の差が歴然と立ち塞がっている。勝てる道理がない。

 

「どうして、笑っていられる? どうしてそこまで戦おうとする?」

 

 と、6(セクストゥム)が訊いた。生命という生命を失い、瞼を開けている力さえも無くしながらも小太郎は笑っていた。

 

「俺にはライバルがおる。自己中で馬鹿の癖して、あっという間に俺よりも強くなってしまったライバルがな」

 

 傷だらけで、もはや立っているだけで精一杯で。それでも限界を超えている足が自然に動いた。

 

「今は眠っとるが、そいつが起きとったら絶対に戦ったはずや。当然、俺も一緒にな。それが俺の戦う理由の一つ」

 

 もう動けない。そう思いながらも一歩。

 

「麻帆良には世話になった人達がおんねん。小さい頃から一人やった俺に家族の温かさを教えてくれた人が」

 

 動いたら死ぬかもしれない。そう自覚しながらも一歩。

 まだ奴らには遠い。遠いのだ。それでも諦めることなく歩き続ける。帰りたい場所、守りたい人達への強き想いが、そうさせた。

 

「世界なんて大層なものの為になんて戦えへん。あの人に誇れる自分で在りたい。こんなところで尻尾巻いて逃げたら会わせる顔がない。俺が戦う理由なんて、それだけで十分や」

 

 小太郎の中で、何かが巻き起こる。それは、確かな力だった。ボロボロになって、正直体が動くことさえおかしい今の状況で、それでもなお小太郎が立つことが出来るのは、その力のお蔭だ。

 

「なら、その理由を抱いて死ね」

「グッ!」

 

 小太郎はギリギリで強襲してきた5(クゥィントゥム)の攻撃を回避したものの、完全には避けきれなかった。脇腹の肉が薄く抉れ、鋭い痛みと共に血液が流れ出て行く。

 

「小太郎君!」

 

 木乃香の悲鳴のような叫びを耳にして、小太郎はなんとか飛びかけた意識を引き戻した。

 

「このっ!」

 

 小太郎は、片手に狗神を固めて目の前の5(クゥィントゥム)に叩きつけた。5(クゥィントゥム)は躱そうともせずにその攻撃をまともに喰らい、ボールのように弾かれて吹っ飛んでいった。

 しかし、ダメージを負った様子もなく地に伏すことなく軽やかに着地した。

 

「ハァ、ハァ」

 

 小太郎は呼吸が酷く苦して仕方なかった。ボロボロで、全身から滴る出血と共に生命力も零れ落ちていく錯覚に襲われる。にもかかわらず、喘ぐような呼吸を繰り返しながら、気力を振り絞って動き出す。

 

「ほほぅ、流石にこれは感心するしかない。それほどの傷を負って、まだ動けるか」

 

 血塗れの小太郎がゆっくりと動く。歩く度に足から噴水のように血が流れ出て、全身から力が抜けた。

 崩れる身体が、全身を傷だらけのまま、だがアスカは足を踏ん張って倒れなかった。その状態で一歩前に出る。視界などあってない様なものだ。出血の所為でまともに目が開けていられない。

 それでも一歩、また一歩、緩慢ながらも自力で前に出る。

 

「その闘志は敵ながら天晴れ、まさに驚嘆の至り。だが、それでどうする? 動けたはいいが、今の貴様に何が出来る?」

 

 小太郎にはもう言葉を返す余裕はない。呻きながら、ヨタヨタと足を前に進める。視界の中ではグニャグニャと歪み地面を踏みしめて進み、殆ど力の入らない右手の拳を握りしめ、ゆっくり、だが確実に5(クゥィントゥム)に迫る。

 

「あ、あ、あ、あ、……………」

 

 限界だ。小太郎の体力は限界を超えていた。これ以上は、自分の身体を支えることさえ難しい。既に全身、血まみれであり、体の節々が悲鳴を上げている。関節は脂が切れたかのように軋んでおり、骨格が粉砕されたように動かす度に激痛で顔が歪む。

 体を支えることさえ満足に出来ない。体だけではない。精神も摩耗し、少しでも気を抜こうものなら、失神しかねない危うい状態である。

 今の小太郎を支配しているのは気迫だ。何度叩きのめされようと、決して諦めない小太郎の心が未だに残っているのだ。

 結局の所、何時の世も力が強い者が当然の帰結のように必ず勝つのか。いいや、違う。体はボロボロ、気は尽きかけている。小太郎の敗北はほぼ確定したも同然である。それでも、小太郎の中にある気持ちは、闘志だけは折れなかった。

 現実に力の前に屈しようとしていても、力が全てだなんて思わない。弱い者がどれだけ吠えようが説得力はないだろう。だから小太郎は強くなりたかった。千草に誓ったのだ、強くなると。

 

「ふん、意識もまともになく気力のみで動くか」

 

 5(クゥィントゥム)が小太郎に無造作に近づく。アーウェンルクスシリーズは嘲りを持って、木乃香は固唾を呑んで小太郎を見守っている。小太郎はふらつきながらも歩き、遂に5(クゥィントゥム)の目と鼻の先まで来た。

 

「貴様のしぶとさは認めてやろう。それでも勝つのは私だ」

 

 5(クゥィントゥム)が、ゆっくりと右手に豪風を纏って貫手を構える。

 一方の小太郎も最期の力を振り絞って、右腕を上げた。その拳を前に着き出す。

 

「グボァッ」

 

 5(クゥィントゥム)の貫手が小太郎の腹を抉る。不気味な音と共に小太郎は大量に吐血をした。

 最初に相手に届いたのは当然の如く5(クゥィントゥム)の方であった。小太郎には躱しようもない。当然だ。避けられるだけの余力を既に残していないのだから。 

 トン、とひどく静かな音と共に小太郎の拳が5(クゥィントゥム)の障壁に当たる。掲げた掌どころか障壁すらも突破できない。攻撃力はゼロ。だが、この一撃は5(クゥィントゥム)の攻撃と同時であった。

 

「……………………ぁぁぁ」

 

 その瞬間、小太郎は自らに流れる全ての力を血の一滴一滴、細胞の一粒から気を吸い出す。

 限界の上を遥かに超えた気で全身に纏って最後の一歩を踏み出す。気の強大さに足の筋が音もなく何本か断裂する。あちこちで血管が千切れ、視界が一気に真っ赤に染まる。自らの体を傷つけ、壊し、それを代償にして小太郎は自らの力量以上の力を手にする。

 

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!!」

 

 小太郎の視界が赤く染まっていく。脳髄の中で火花がバチバチ飛び散るような違和感。既に限界を超えている許容量を遥かに超える気を使おうとして肉体が悲鳴を上げているのだ。しかし、ここで引くわけにはいかない。遥かに各上のアーウェンルクスを倒すには、自分の限界を更に超えなくてはならない。

 全身の筋肉が膨らむ。血管が膨張し、浮かび上がり、血圧に耐えかねて全身の毛細血管が千切れ飛んでいく。視界を鉄の色が満たしていく。全身に真っ赤な鉄の串が突き刺さって焼き尽くされるような激痛。だがそんな状態でも小太郎は意識を保ったまま、更に限界以上の気を放出する。狗神が小太郎の感情に呼応するように次々と呼び出され、拳に収束して障壁を穿っていく。

 許容量の限界を超えた気の発現に、小太郎の視界が遂にブラックアウトする。だが、それでも構わない。相手の位置は分かっている。目など、見えなくても問題はない。

 

「なんだとっ!」

 

 徐々に障壁を突破してくる小太郎に、これには5(クゥィントゥム)も至近距離で呻く。

 

「バカな、貴様程度の力量で私の障壁を突破するなど…………」

「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 遂に何層にも張り巡らされていた多重障壁を超えて、掲げていた掌すらも吹き飛ばして逃げようのない5(クゥィントゥム)の胴体へと叩き込む。

 

「ぐ、がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 ようやく獲物に辿り着いた狗神を纏った拳は、絶叫と共に5(クゥィントゥム)の胴体を穿ち、その核を破壊する。

 核を破壊されれば強大な使徒といえど消滅は免れない。5(クゥィントゥム)は絶叫の残響だけを残して崩壊して消え去った。後には制服の欠片だけが地面に残っている。

 

「へへ……」

 

 貧血にも似た浮遊感が小太郎の全身を包み込んだ。瞼の裏の暗闇が急速にその濃さを増したかと思うと、ガバリと大きく口を開いて小太郎を丸ごと飲み込んだ。まるで、限界まで疲れてからベッドに飛び込んだ時のようだ。甘くて重たい深淵の中へと、抗い様もない勢いで落ちていく。

 腹には5(クゥィントゥム)の貫手によって穿たれた大きな穴、全身に数えきれない傷、重傷を通り越して棺桶に順調に突っ込んでいる状況。

 奈落の底に落ちて行きながら、残された意識の片鱗で友に囁く。

 

「…………やったで、アスカ」

 

 全身傷だらけで無事な場所を探す方が大変な大怪我を負いながらも、どれだけ手を伸ばしても遠く届かない領域に相手に一矢報いたことに満足したように笑う。

 その瞬間、キンッ、という透き通るような甲高い音が鳴り響いた。生み出されたのはクリスタル状の氷柱。その中には満足したように笑って眼を閉じた小太郎の姿があった。

 

「不良品がまだ残っていたようだな」

 

 6(セクストゥム)が作った巨大な氷柱に捕らわれた小太郎を見ながら、仲間を不良品扱いしながら4(クゥァルトゥム)は薄い笑みを浮かべた。

 余興を観覧していた2(セクンドゥム)は「つまらん劇だった」と当てが外れたかのような顔をする。

 

「アーウェンルンクスシリーズは不良品の発生が多いようだ。まったく、旧世界の獣すら碌に始末できぬとは」

 

 嘆かわしい、と髪を掻き上げた2(セクンドゥム)はふと気づいたように6(セクストゥム)を見る。

 

6(セクストゥム)、獣を何故捕らえた? 放っておいても死んだろうに」

「…………これ以上、主がいる場所を血で汚したくなかっただけです」

「ふむ、まあいい」 

 

 今の傷ついた小太郎では内側から破ることが出来ない代物。6(セクストゥム)の対応に気になる節があったが、これ以上のイレギュラーは流石にないと判断したのと、この状況で自分の後発シリーズを問い質す必要も見受けられなかった。

 

「こ奴らは演者足り得ぬ。これ以上はくだらん余興に付き合う必要もない」

 

 大事な儀式の前の余興も役者が下手であっては興が冷めるというもの。2(セクンドゥム)は遊びは終わりと未だ目覚めぬアスカを治癒し続ける木乃香に視線を移す。

 

「女、今代の英雄を渡せ」

 

 アスカを指し示し、既に決まった運命を告げるように要求する。

 

「素直に渡すならば貴様は殺さないでおいてやろう。永遠の園が造られるその時を見せてやる」

「そんなこと出切る訳ないやろ……ッ!!」

 

 心とは関わりなく熱い雫を流しながら、裏返った声に悲鳴のような闘志を込めて言い切った。近衛木乃香は絶対に逃げない。

 

「逃げへん………………うちは絶対に逃げへんからからなっ!」

 

 まるで神話に登場する聖女そのままに、近衛木乃香は即答で突っぱねた。

 声は震えていた。痛みの所為でもあるし、緊張や不安、それに恐怖だって混じっているだろう。しかし、木乃香は2(セクンドゥム)の言葉に即答していた。

 頭の中で深く考えて答えた訳ではないはずだ。考えるまでもないと信じているからこそ、直ぐに言葉が口から出たのだ。

 

「なら、とく去ね」

 

 醜悪に歪められた2(セクンドゥム)の顔が、直ぐ目の前にあった。

 生温かな息が鼻先にかかるのを感じて木乃香はハッと目を見開き、硬直して抵抗はおろか逃げることすら出来なかった。

 刹那、右肩に衝撃が走る。

 

「――――っ!」

 

 木乃香は声にならない悲鳴を上げて、アスカを落とさないようにするのが精一杯だった。

 そして見た。2(セクンドゥム)の右手から伸びている雷の槍が右肩に突き刺さっているのを。雷の槍から紫電が迸る度に痛みがじわじわと全身に染み拡がり、同時に力が抜けてゆく。

 全身からズキズキとした鈍い痛みが滲み出る。地面を転がった時に岩がこめかみにぶつかり、脳を揺さぶっていた。意識が朦朧としたまま、それでも近衛木乃香は思う。

 

(助けて……)

 

 痛みからではない。只管に、何も出来ない自分の弱さが悔しくてボロボロと涙が零れ落ちる。

 

(誰か、助けてください。うちの、うちの大切な人達を闇の中から……) 

 

 歯を食い縛って、瞳に涙を浮かべてどこかにいる誰かに助けを求めた。

 木乃香に抱えられたアスカからドクンドクンと音が響く。破裂しそうな勢いで心臓が打っている。

 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。鼓動は更に大きくなり、やがて一つの奇跡を生み出そうとしていた。だが、まだ早すぎる。闘争によって極限まで酷使されたアスカの肉体。酷使に継ぐ酷使によって、破壊されつくした肉体を修復し、更なる境地へ辿り着くには時間が圧倒的に足りない。

 

「まだやるか」

 

 歩み寄って来た2(セクンドゥム)の目が表情が、泣き叫んで声高に助けを求めるでもない木乃香がつまらないと物語っていた。

 何とか力を振り絞ろうとする木乃香に対して、無造作に右肩から雷槍が引き抜いた。

 木乃香の血でしとどに濡れた槍を振るって血を払いながら、彼はアスカも纏めて蹴り飛ばした。格闘技のようなものではなく、まるで道端に落ちている小石を無造作に蹴り飛ばすようなものだった。

 木乃香と彼女が抱えたアスカの体が宙を舞い、地面をゴロゴロと転がる。

 

「ほぅ」 

 

 雷槍が刺さっていた肩やぶつけた額から血を流しながらも、気丈にも立ち上がって地に伏せているアスカの下へ行こうとする木乃香を見て、つまらなさそうだった2(セクンドゥム)の顔に喜悦が浮かぶ。

 視線の先にいるのは、まだ身体が出来上がっていない少女だ。長い黒髪がほっそりとした肩を覆い、未成熟な腰まで伸びている。夜をそのまま映し取ったような鮮やかな黒だった。対照的に肌は抜けるように白く、瞳は極上の黒真珠の色に濡れていた。

 

「くく……」

 

 2(セクンドゥム)は雷のような速さで回り込み、木乃香の胸ぐらに手をかけ、それを引き千切った。下着と白い肌が露になる。

 

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

「ほら、暴れろ暴れろ! はははははははははっ!!」

 

 絹を裂くような絶望的な悲鳴を上げながらしゃがみ込む木乃香に対し、2(セクンドゥム)はその体を彼女へと覆い被せていく。魔の手から逃れようと懸命に暴れまくる。

 彼女は死に物狂い暴れるが、その体を押し退けることが出来ない。それどころか両手を押さえつけられ、抵抗すら出来なくなっていた。男と女の違いだけではない。隔絶した力の差の前に残されたのは抵抗すら出来ぬ乙女である。

 

「いやぁぁぁぁぁっ!」

 

 木乃香は大粒の涙をポロポロと零しながら、なけなしの力を振り絞って悲鳴を上げていた。

 だが、彼にとって悲鳴も楽しみの一つなのか、その様子を眺めていた2(セクンドゥム)は唾液に塗れた舌で唇を舐めて、端整な顔を狂笑で染めながら耳障りな笑い声を発した。

 小太郎は氷柱に閉じ込められ、古菲も火炙りにされて気を失っている。ただ一人だけ意識を保っている茶々丸も4(クァルトゥム)によって上半身と下半身を分断され、紅蓮に輝く槍によって地面に縫い付けられて動けない。

 

(動いて……動いてください! いま動かなければなにもなりません!!) 

 

 唯一自由な左手で紅蓮に輝く槍を引き抜こうと全身に力を込めていく。だが茶々丸の意志に反して、起動しているだけでも奇跡なほどの損傷を負っている体は思うように動いてくれない。

 

(今動けなければ、私はなんの為に生まれたのですか!?)

 

 茶々丸の中で造物主の使途達に勝つための戦略が何度も検討される。

 並列処理された条件の数々。それが一秒間に約五千以上の可能性を検討し続ける。

 人間ならばとっくの昔に死んでいる。頭蓋をカバーするシェル型のケージにも損傷が見られる。血管代わりのケーブルが幾つか断線した。使えないシステムをパージして処理速度を上げる。

 『ERROR』のアラート表示が嵐のように茶々丸の中を駆け巡る。結論が出るのは早かった。

 機械の表示がややこしい命令文を吐き出す。それが意味するところを要約すれば、勝てる可能性ゼロ。取るべき戦略は速やかなる撤退。そういうことになる。無駄な戦闘は意味がない。一端回避する。

 

(退けません。何か方策を!)

 

 0と1を超えた何か、パルスとパルスの間に生まれた機械に生まれ出はずのないノイズが撤退を選ばせない。

 勝機は完全に潰えた。

 刹那と真名は各々が敵と交戦していて安否すら分からない。最大最強の戦力であったアスカは倒れ、古菲も他のアーウェンルクスシリーズを前に呆気なく敗れ去った。皆を鼓舞した小太郎は氷柱に閉じ込められている。木乃香は今まさに敵に嬲られている。

 逃げることすら不可能な状況。機械故に全ての可能性が生存を望むにはあまりにも絶望的なことを受け入れるしかなかった。

 逆にこの時は己が身が機械であることにも感謝していた。人の身で上半身と下半身を別たれ、右手を失い、燃え盛る槍に貫かれても生きていられるのだから。

 機械故に、茶々丸はこの場で動ける可能性を持てた。明確な絶望が支配する中で、一筋の道を模索する。

 みんなの命は風前の灯であり、周囲は『完全なる世界』達に取り囲まれている。勝てる見込みは万に一つも無い。もしかしたらみんなを見捨てれば、アスカ一人なら逃げることも可能だったかもしれない。それでもアスカは抗って見せた。みんなが諦めた中で絶望的な状況を打破するために走ったのだ。

 彼の気持ちに気持ちに応えたいと思う茶々丸だが、同時に手遅れであることも知っていた。

 

(私が時間を……希望を繋ぐための時間を作り出さなければなりません!) 

 

 何の根拠もない希望。誰も立ち上がれない。助けは来ない。奇跡は起きない。無意味であることも理解している。だとしても、希望を捨てることは出来ない。一分でも一秒でも稼ぐことが、仲間を守ることこそ己に与えられた使命であると機械である自らを規定する。

 人が作り出した究極の人形の選択に迷いはない。

 再度、エラーのとアラートの嵐。処理速度の限界。その更に限界。限界を超えた極限の速度で計算を繰り返す。内装されている冷却機構の全てが熱で溶け始める。光学系、味覚系、使わない殆どの機能を殺す。

 数百、数千の言葉がデータベース上に明滅したが、どの表現も適切ではない気がした。自分が今抱えているモヤモヤを現すのには何かが足りていないように思えた。

 何度も何度も表現しようとして、同じ回数だけその試行が失敗する。

 

「く……」

 

 回路を焼きながら歯を食い縛って機能不全に陥りかけている体を動かし、紅蓮に輝く槍を掴む。術者が離れたといっても槍は未だ燃え盛っている。手が焼かれているのを感じながら引き抜く。

 視界の全てがエラーメッセージで埋まる。無事な箇所は残っていない。機械であろうとも彼女は自分が人間で言うなら棺桶に片足を入れているような状況を理解していた。

 自己保存の項目を削除。残りの機能をこの一撃にかける。

 

「木乃香さんから――――」

 

 だが、その目は死んでいない。今にも途切れそうになる機能を必死に繋ぎ止めながらも、槍を振りかぶるその瞳だけは強烈な光を放っている。

 

「――――離れなさい!」

 

 茶々丸は叫ぶと同時に、紅蓮に輝く槍を木乃香に覆い被さっている2(セクンドゥム)へと投げつけた。

 だが哀しいかな、通常の能力に比べれば一割にも満たない力で投げられた槍を2(セクンドゥム)は見もせずに片手で叩き落とした。

 茶々丸の上げた手が力を失って落ちる。目から光が消える。先ほどの無理な動作で殆どの機能が死んだのだ。最早茶々丸は動けない。

 

「目障りな」

 

 2(セクンドゥム)は茶々丸や小太郎の気持ちなど気に留めない。

 視界を遮る蝿を振り払うように、ただ腕が動く。莫大な力が、茶々丸を一瞬にして灰燼に帰す力が込められた腕が無造作に動く。

 

「っ!!」

 

 しかし、2(セクンドゥム)の腕が茶々丸を灰燼に帰すことはなかった。小太郎の勇気が作り出した時間と茶々丸が自らを省みることなく放った一撃がもう一つの奇跡を呼び寄せる。

 

「なんのつもりだ、これは」 

「さあね、君の邪魔をしていることだけは確かだ」

 

 フェイト・アーウェンルンクスがそこに立っていた。

 アスカに倒され、味方が登場してからは動きを見せなかった彼が、何時の間にか立ち上がって茶々丸を爆殺しようとしていた2(セクンドゥム)の腕を掴んでいた。

 

「邪魔だ」

 

 掴まれている腕を裏拳というより、邪魔な蜘蛛の巣を払う仕草で振るった。

 アスカとの戦いによって身も心も限界を超えていたフェイトには逆らうことさえ出来なかった。腕を放すことすら出来ずに体が砲弾のように吹き飛ばされた。

 受身も取れずに瓦礫へ叩きつけられる。全身に力が入らない。フェイトは瓦礫から立ち上がることすら出来ないまま、口元を震わせる。

 

「やはり我らに反逆するか、3(テルティウム)

「反逆する気なんてない。ただ、君にやり方が気にくわなかっただけだ。ふふ、アスカに影響されたのかな僕も」

 

 歩み寄って来る2(セクンドゥム)に対そうとするも足に力が入らない。フェイトは立ち上がることすら出来ないまま、口元を震わせて笑った。

 

「僕はアスカに負けた。敗者には敗者の挟持がある。何もしていない君達が口を出す権利はどこにもない。例え主であろうとも許さない」

 

 道を阻むのならばこの命に代えても倒すと、立ち上がれもしない瞳が言っていた。

 

「なにより、婦女子に暴行するような下衆と同類に思われるなんて吐き気がする」

 

 例え言葉でなくても、自分の全てを賭けた何かを、互いに交わしあったのだから。例え敵と味方に分かれていても、命を賭したやりとりだとしても、それ以上に伝わるものをフェイトは感じていた。

 自分の中で決着が付いて蟠りがなくなるとひどく涼やかな気分だった。

 それは戦争という悲惨の中で生まれた、人が示した僅かな良心だった。人によっては偽善と嬲るかもしれない。だが、確かに生まれた奇跡だった。

 この戦いは英雄の物語ではない。そんな単純で美しいものではなく、もっと罪深く、どこにでもある人同士の戦いだ。そして世界に挑むとは、アスカとフェイトのように相容れないものの手を取り合わせる今のような状況ではないだろうか。

 

「ふふふっ……ははははははははははっ、あははははははははっっっ!」

 

 2(セクンドゥム)は狂ったように嗤っていた。腹を抱え、くの字に体を曲げながら、よく透る澄んだ声で嗤い続けていた。気の違ったような激しい哄笑だった。それは何時までも終わりを告げることは無い。

 笑い声は果てしなく続いた。嗄れることなく、疲れることなく、更に人間の限界を超えて、どこまでも声量を上げて続いた。聞く者の心を粉々に破壊する笑いだった。

 

「はは、笑い死ぬかと思ったぞ………………………身体がまだ残っているのが既に奇跡でありながら、さっきの犬のように良く吠える。主を許さないなどと、やはりお前は失敗作だったな」

 

 圧し掛かっていた木乃香の上からどいて立ち上り、怒号とも哄笑ともつかない2(セクンドゥム)の声が、フェイトの鼓膜を強く叩いた。

 

「罰だ、罰を与えてやるぞ。テルティウム」

 

 甲高く叫びつつ、何時の間に近づいたのか拳をフェイトの腹に突き入れて崩れ落ちた身体を肩に担いだ。そして、天上高く飛び上がり、そのまま地上目掛けて急降下する。

 地表が間近に迫ってきたところで、2(セクンドゥム)はフェイトを投げ捨てた。

 成す術もなく背中から地面に叩き付けられたフェイトは、無造作に転がった後、うつ伏せに倒れた。呻いて、咳き込む。唾液と人形特有の白い血が焼けた土に無数の染みを作った。

 

「まだだあ! そう簡単には楽にしてやらんぞぉ!」

 

 殺すことが、戦いが、無力な相手を圧倒的な実力で叩きのめすのが楽しくて堪らないというように、快くて我慢が出来ないように悪意に満ちた笑みを浮かべて、あらゆるものを破壊せんとばかりに2(セクンドゥム)は驀進する。

 

「まだまだまだぁ! この程度で私を愚弄した罪が贖えると思うな!」

 

 近づいてきた2(セクンドゥム)の爪先が、アスカによって最後につけられた腹の傷に押し当てられる。無造作に身体を仰向けに返され、フェイトは痛みに悶えた。

 

「その顔だ! もっとだ! もっと泣け! 喚け! 喘げ! のたうち回れ! そして悔いろ!」

 

 夥しく出血している腹の傷に、にやにやと粘着質な笑みを滲ませて2(セクンドゥム)が踵を落とす。

 全身に激痛が走った。あまりの痛みに、フェイトが頤を逸らして苦痛を漏らすと、2(セクンドゥム)は舌なめずりをして傷口を踏み躙った。

 

「私の首を切り落とした貴様には相応しい末路だ!」

 

 凄惨な笑みを浮かべて歓声を上げながら、何度となく傷口を蹴りつけて踏み躙る。

 もはや何の抵抗も出来ないフェイトは、成すがままに痛めつけられた。悲鳴を上げる力も失くし、グッタリしているだけだったフェイトの上体が激痛に大きく反った。

 

「くっくっくぅ、立場が逆になったな。貴様はもう限界だ、3(テルティウム)!」

 

 そしてフェイトが仰け反る様を見て、また2(セクンドゥム)が歓声を上げる。

 

「安心しろ。不良品の貴様の代わりに我々が全てを終わらせてやる。それですべて解決、綺麗さっぱり問題なしだ。貴様は向こうであの女の珈琲でも飲んでるがいいさ。何年でも何百年も好きなだけな」

 

 どうしようもない激痛と、自分が消えていく感覚に景色が次第に白く霞んでいく。

 

「フェイト様!」

 

 しかし、その声は消滅しかけたフェイトの意識を現世に呼び戻した。

 

「フェイト様から離れなさい、この下郎が!」

「部下だという幻想どもか」

 

 魔眼から放たれる烈火の火線を厭うたわけでもないのに2(セクンドゥム)が焔の叫びに従うように離れたのは別にフェイトを慮ったわけではない。このままフェイトを嬲るだけでは芸がないのと、調達にも褒美を与える為である。

 

「幻にも人情はあろう。欠陥品を庇う理由を言ってみるがいい。私を面白がらせることが出来たならば今の行動は不問にしといてやる」

 

 フェイトを守るように立つ四人の少女達を一見し、やはり脅威にはならないと切り捨てながらも行動の是非を問う。

 そして調が薄桃色の唇を開いた。その言葉をフェイトはきっと生涯忘れない。

 

「フェイト様に救われたから私は、私達はここにいる」

「復讐ではなく、世界を変える為に」

「完全なる世界の理念に共感したわけではなく、フェイト様が作る世界の為に私達は闘った」

「あなた程度の下郎がフェイト様を図るな!!」

 

 煉獄のような地獄の中で、まだあどけない容姿の少女達が各々の想いを叫んだ。

 

「君達……」

 

 世界が歪んだ。フェイトは自分が初めて涙を流していることを自覚した。一分後には消滅してしまっているのかもしれないけれど、今この瞬間にここにいて良かったと思った。

 世界を見て回ったフェイトは、もう残酷や打ち捨てられる願い、無意味な悲劇を、現実を知っている。けれど雲間から射す光のように、喜びが彼の体を包むのだ。

 

「僕は、英雄(ヒーロー)になりたかった」

 

 心の奥から次々と湧いて出て来る力に突き動かされるように立ち上がったフェイトの体は、もう致命的な領域で損傷しているが今の彼を包むのは今までに感じたことのない全能感だった。

 

「ナギに少し憧れていたところもあったのかな。彼のようにどんな苦難に遭っても笑って乗り越えらえるようなそんな男に」

「私達にとって他の誰でもなくフェイト様こそが英雄(ヒーロー)でした」

「ありがとう」

 

 期待を裏切られたことで憧れに蓋をして嫌おうとした。それでも世界を見て回る中で、自分の手が届く範囲で人々を救っていたのは嘗ての気持ちを捨てきれなかったから。似姿のアスカを初見から嫌いだったのはそこに理由があるかもしれない。

 

「僕は、僕の意志でお前達と戦う」

 

 フェイトはここで慄然と決意表明をして、目的意識も忠誠も設定されていない3(テルティウム)は自らの道を見つけて嘗ての仲間達と主から離別する。

 

「言いたいことはそれだけか?」

 

 2(セクンドゥム)はとんだ茶番を見たとばかりに、最後のどんでん返しを期待するかのように問いかける。

 返って来たのが少女達の闘志に満ちた目であったことから心底から呆れたとばかりに溜息を吐く。

 

「つまらん。なんだそれは。折角の余興なのだ。少しはこちらの予想外の出来事があって然るべきだろう。なのに、なんだ。全員が全員、判で押したような展開にしかならんとは。全く以て嘆かわしい」

 

 キザッたらしい仕草で髪を掻き上げた2(セクンドゥム)の目はやはり生物を見るものではなかった。

 

「余興は終わりだ、造物主の掟(コード・オブ・ザ・ライフメーカー)

 

 ボッ、とフェイトの目の前で四人の少女達が花弁と化して消え去る。

 フェイトの目が見開かれる。2(セクンドゥム)が掲げた一本の火星儀の杖――――造物主の掟(コード・オブ・ザ・ライフメーカー)を。

 

「何故、造物主の掟(コード・オブ・ザ・ライフメーカー)があるのかという顔をしているな?」

 

 なんだこれは、とフェイトは目の前の現実を否定したかった。

 少女達の為に、己自身の運命に決着を着ける為に、戦おうとした理由その物を理不尽に奪われた。命を刈り取る死神の鎌のように、神の視点から見た世界で不要な物を天から手を下ろして掬い取るように。

 

「これはデュナミスが残していた物で、微かな力しか残っていない。現に使えるのも後一度程度だろう」

 

 傷だらけの幻想四体を完全なる世界に送るだけで限界を迎えていては他に使い道などない。言い換えればフェイト達が裏切った場合を想定して残しておいたともいう。

 

「これは慈悲であり、救済だ。神に逆らう愚か者を罰することなく、永遠の園に送ってやったのだ。寧ろ感謝され」

2(セクンドゥム)――っ!!」

 

 怒りがフェイトを支配した。

 有史以来幾度もあった大切な者を理不尽に奪われた者が抱く感情そのままに、フェイトは怒りを拳に込めて2(セクンドゥム)に叩きつけた。その一撃は火事場の底力か、怒りに駆られた激情か、それとも他の何かか。なんにせよ、フェイトの拳は2(セクンドゥム)の障壁を突破して腹に食い込んだ。

 

「…………そうだ、その顔が見たかった」

 

 障壁は超えた。腹に食い込んだ。だからなんだと2(セクンドゥム)は嘲笑う。

 

「理不尽に全てを奪われ、何も為すことが出来ずに消え去る恐怖。貴様にも味あわせてやろうと心に決めていた。今が、その時だ」

 

 笑みを浮かべて最後のフェイトの足掻きを哂った2(セクンドゥム)造物主の掟(コード・オブ・ザ・ライフメーカー)の力を解放しながら振るう。

 

「!?」

 

 剣で斬られたように上半身と下半身が切り離される。嘗て首を切り落としたことに対する意趣返しということだろう。

 造物主の掟(コード・オブ・ザ・ライフメーカー)が力を失って消滅する、完全なる世界に送られるフェイトと共に。下半身は一瞬で花弁となって散り、上半身の顔に向けて蹴りが振るわれた。

 

「幻想の中に浸るがいい、使徒であることすら放棄した塵芥。貴様にはその末路こそが相応しい」

 

 頬を足蹴にされたフェイトは無様に地面を転がり、パタリと木乃香とアスカの直ぐ近くで止まった。

 やがて上半身も形を保てずに消え去ることだろう。フェイトが無様に足掻く様を見た木乃香の心を折らんとする2(セクンドゥム)の奸計は、もう失う物すらも無くなったフェイトから見てもいっそ見事と言えた。

 

「くっ……」

 

 それでもここで屈してしまうことはフェイトの挟持が許さなかった。何も為せないのだとしても、このまま2(セクンドゥム)の思い通りにさせて堪るかと手を伸ばす。

 徐々に体は花弁と化して消えていく。それこそ運命のように抗うことは出来ない。

 

「アスカ」

 

 輪郭すらあやふやになっていく中で地面に顔を擦りつけながらも、一心不乱に未だ意識が戻っていないアスカの投げ出されている手に向かって這う。

 

「僕が、こんなことを、頼めた、義理じゃない、のは、分かってる」

 

 僅かな距離が今は永遠とも思えるほどに遠い。

 フェイトを突き動かしていたのは、使命でも忠義でも目的意識でも願いでも望みでも願望でも、決してない。人形ではなく、造物主の使徒としてではなく、この世界に生きる者としてこんな結末を認めることは出来なかった。

 湧き出た涙すらも頬にこびり付いた土と混ざり合い、顔はとても見れたものではなかった。そんなことに拘っている余裕はない。消滅は胸元にまで及び、消え去るのも時間の問題だろう。

 

「みんなを、世界を、救ってくれ」

 

 託すことしか出来ぬ己の不明を恥じながらも、その手を掴んで自分に残る全てをアスカに譲って消えていく。

 

「………………」

 

 三流の英雄譚ならば、宿敵から力を分け与えられた英雄が目を覚まして戦う展開になったかもしれない。それでもアスカは目覚めない。表面上の傷は癒えていても奇跡は起きないし、ご都合主義の展開になることもないのだ。

 

3(テルティウム)も消え去り、碌に動ける者もおらん。これ以上の余興は蛇足でしかない。夢見ることなく消え去るがいい―――――響き渡る雷の神槍(グングナール)

 

 ガガガガガガ、と幾重もの重なる雷鳴の音と共に、雷系最大の突貫力を有する魔装兵具が2(セクンドゥム)の手に現出する。

 木乃香の力では響き渡る雷の神槍(グングナール)を防ぐことは出来ないし、アスカを見捨てて一人だけ逃げたところで命を狩られる時間が僅かに伸びるだけだ。

 もう茶々丸は機能が生きているかも怪しく、小太郎は氷結に閉じ込められ、古菲の意識も戻っていない。瓦礫のどこかにいる楓の意識が奇跡的に戻って助けに来ることはない。

 

「ごめん、アスカ君。ごめん、せっちゃん。ごめん、明日菜……」

 

 木乃香は諦めた。逃れようのない現実から、迫りくる死から生きることを諦めた。

 抗い様のない欲の業に満ちた世界は文字通りの地獄なのかもしれない。誰もがこの世に救い主(メシア)はいないのだと悟る。だからこそ、救いは常に神ではなく、他ならぬ人の手によって齎される。

 人の精一杯は、何時も最悪へ向かって転がるとは限らない。命を閃光のように燃やして稼いだ時間は無駄ではなかったのだから。

 最期の瞬間が訪れる前に瞼を閉じた木乃香の瞼を光が透かした。

 

「るるぺらあん?!」

 

 温かい閃光に驚いて瞼を開いた木乃香の視界から響き渡る雷の神槍(グングナール)を放とうとしていた2(セクンドゥム)が奇妙な悲鳴と共に消えた。それと同時に紫電走る閃光が木乃香の前に背を向けて立つ。

 

「くっ……き、貴様は!」

 

 遥か遠くで2(セクンドゥム)が何度か地面を跳ね回りながらも最後は手を付いて足から着地して、自らを攻撃した木乃香の前に立つ者を見て吠えた。

 

「大丈夫ですか、木乃香さん」

 

 憎らしいほど最高のタイミングで現れたその少年の名前を近衛木乃香は知っている。知らないはずがない。彼は自分達の仲間。アスカに届かず、されど一つの可能性を生み出した麒麟児。

 闇の福音の後継、アスカとはまた違った道を進んだ少年。名をネギ・スプリングフィールドといった。

 

「遅くなりました」

 

 破られた衣服の木乃香の前に屈んだネギが上半身の衣類を脱ぎ、剥き出しになっている背中にかける。

 何時目覚めるとも知らぬ眠りについていた少年の登場に、絶望の闇に沈んでいた木乃香は想像力すら眼前の現実に追いついてこず、頭が痺れた。

 

「ネギ君!!」

「これから、あいつらを倒します。もう大丈夫です」

 

 ネギは木乃香に頷いてみせると、立ち上がって振り向いた。

 自分が蹴り飛ばした相手、その近くにいる似たような格好と容姿をした者や同類らしき者達、一番奥でネギが願い求めていたナギの姿を借りた敵の首魁を睨みつける。

 

「よくもみんなを……」

 

 何の躊躇もなく、何の遠慮もなく、何の容赦もなく、何の恐怖もなく、何の焦燥もなく。ネギ・スプリングフィールドは少女達を守るように背を向けて、死神のような完全なる世界の軍勢の前にただ一人で立ちはだかった。

 善悪も愚かしさも越えて、ただ何者をも隠さず鮮烈に背中を滾らせて君臨する。

 

「――――許さないぞ、お前達!」

 

 全身から紫電を迸らせ、闇の底から復活したネギ・スプリングフィールドの怒りの叫びが響き渡った。

 精根尽き果てた木乃香には、彼の背中がひどく眩かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り二時間十二分三十八秒。

 

 

 

 

 




追い詰められ、どうにもならなくなってからの満を持してのネギの復活。
ネギは如何にして復活を遂げたのか?

次回『第88話 輝く星となれ』



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第88話 輝く星となれ




――――死者は止まり、生者は進む





 

 

 

 

 

 超時間に及ぶ戦闘による肉体的精神的疲労は、誰にも平等に禍となって降りかかる。戦場の一角にいる、本来なら候補生でアリアドネー騎士団員ですらない彼女らがいるにはあまりにも過酷過ぎる場所だった。

 倒しても倒しても旧世界にいるゴキブリの如く際限なく湧き出てくる召喚魔と戦う無力感は、一人前と呼ばれる騎士ですら心の芯を折られる。

 このような状況である中で彼女達が未だに生き残っていられるのは、周りを固める正騎士団員が学生達だけは護ってみせるという熱意と彼女達自身の不断の努力に支えられていた。それでも遥かな古の過去から戦場が持つ呪いは彼女達にも容赦なく洗礼を浴びせる。

 

「コレット! コレット、無事なのですか!」

 

 騎士団の中にも犠牲者が出始めたことで学生達を護る守護線が崩壊して一人目の犠牲者が出た。

 重量級召喚魔の突進を、コレット・ファランドールは何とか防御魔法を展開したが受けきることが出来ずに重症を負って意識を失っていた。バディを組んでいた綾瀬夕映が頭から血を流して失神しているらしき相棒が直ぐに意識が戻らないので、死んだかもしれないという恐慌に囚われて肩を必死に掴んだ。

 

「やめなさい! こんな戦場で意識を失う方が馬鹿なのよ!」

 

 こんな自分が生き残れるかも分からない戦場の中で他人の命を背負えやしない。言い方は悪いがエミリィ・セブンシープの言うことは正鵠を射ていた。

 未熟な学生部隊の部隊長として、未熟ながらも隊を預かる身として犠牲は最小限に抑えなければならない。このような戦場の中で学生の域を越えていない彼女達に怪我人を守りながら戦える程の技量も力もない。

 非情ではあっても可能性の問題として戦えないコレットを守って二人で死ぬか、コレットを見捨ててでも生き残る可能性を上げるかの二択のみ。

 

「だからってクラスメイトなのですよ! 見捨てられるわけないです!」

 

 夕映にとってコレットはアリアドネ―で自分に優しく接してくれた一番の友。軍人として正しい選択をしているエミリィの言に、自分が生き残るためにはそうしろと言われても感情が納得しない。涙と汗とで、顔をぐしゃぐしゃにして叫ぶ。

 夕映のはあくまでも感情論。だけど、まだ正規の騎士団員ではないエミリィには公私の私を捨てられるほどの胆力は未だ身に付けているはずもない。

 

「分かってる! 分かってるわよ! けどね、どうしようもないでしょ!!」

 

 ただ与えられた命令をこなすだけの召喚魔が、二人が口論しているからといって見逃してくれるはずもなかった。エミリィのバディであるベアトリクス・モンローが二人と気絶したコレットを守るために獅子奮迅の活躍を見せていたが遂に突破された。

 

「お嬢様っ!」 

 

 ベアトリクスが叫んだ時には、防衛線を突破した一体の召喚魔が彼女達の至近距離にまで迫っていた。人に翼を生やした翼人のようなガーゴイル型が鷲よりも遥かに大きく鋭利な爪を二人に向けて伸ばす。

 多数の意思が入り乱れる戦場においてはイレギュラーは常に存在する。イレギュラーを呼び込んでしまうのは常に人であり、血の齎す業なのかもしれない。ただそれだけのことである。

 最も近くにいるベアトリクスは同タイプのガーゴイル型の相手をしている。回避行動や防御魔法を発動させるだけの時間的余裕もない。気絶しているコレットも含めて三人を容易に貫く爪が夕映の視界の殆どを占めた。

 

(死ぬのですか、私は!?)

 

 脳裏を過ぎる記憶の数々は走馬灯と呼ばれるもの。人は死の間際に自分の人生を振り返ると言う。綾瀬夕映は極限状態の中で緩やかに迫ってくる爪に自らの死を直感し、緩い尿管が解放されて小便を漏らして下半身を濡らした。

 大好きだった祖父が死んでしまって生き返らせて欲しいと願って叶えてくれなくて失望した神様に、腕の中で気絶している親友と自分のミスの所為で巻き添えにしてしまう委員長を思って全身全霊で祈った。

 

「――――――!?」

 

 夕映の切なる願いは届いたのか、後少しで一番近くにいた三人を順に貫くかと思われた爪を伸ばしていたガーゴイル型の召喚魔が爆発して消滅した。至近で起きた爆風に否応なく吹き飛ばされながらも、感じる熱風に焼かれる肌の痛みが夕映に生を実感させた。

 恐らくガーゴイル型は、自分の身に何が起こったのか、理解する間もなかったろう。

 

「な、なんですかっ!?」

 

 エミリィの上げた狼狽の声は、その音が広がる前に、突如として凄まじい衝撃が辺りを襲う。

 彼女達を包囲する召喚魔の群れ、その一角から火柱が上がった。彼女たちの後方から飛来した火球が横を通過して前方の召喚魔に着弾して爆発を起こしたのだ。忽ち、十数体の召喚魔が吹き飛ばされる。

 更に第二、第三の火球が包囲網の外から内に向かって連続する。救援が来たと分かった時には、包囲網の召喚魔の群れは半分以下にまで減少していた。

 

「戦場で立ち止まるとは、未熟者め」

 

 背後から火竜に乗って独自の戦闘服に身を包んで接近してきた王子様のような美貌の男が口も悪く言い切った。

 言語道断。彼の口調からはそんな強い意思が感じ取れた。

 

「奴らにばかり、良い思いをさせられないっ! 皆の者、私に続け!」

 

 男は一時も止まることなく、背後に同じような戦闘服に身を包んだ一団が傍らに精霊獣を引き連れて通過して行った。一族を先導するように先頭を突っ走る若者に見覚えがあった。

 僅かに遅れて、別の一団が近づいて来る。

 

「遅れるなっ! 俺達も行くぞ!」

 

 武装や防具はちぐはぐだが、一様に精悍でふてぶてしい面構えの者達だ。彼・彼女らは雄叫びを上げて戦場に向かって突撃する。

 変わった一団が喰い散らかした包囲網を埋めようとした召喚魔達との距離を詰めて躍りかかる。単純な持っている武器による攻撃のみならず、中には魔法を使う者もいた。

 呆然としながら気絶しているコレットを抱えた夕映とエイミィ、近づいてきたベアトリクスが手を出す暇もないという内に、召喚魔どもはあっという間もなく駆逐されていく。

 

「奇跡、ですか?」

「こんな奇跡を起こしてくれる神様がいるなら私は――――――」

 

 呆けたようなエミリィの言葉に、夕映はこのような奇跡を起こしてくれた神様なら小便でも飲んでもいい、と常ならば絶対に考えもしないことを本気で思った。

 

「あ……ああ……」

 

 そんな中でこの連合艦隊旗艦で絶望的な戦況の中でモニターを見ていたオペレーターの一人が掠れた声を上げた。

 

「どうしました、早く報告しなさい!」

 

 絶望に染まった声なら嫌というほど耳に染み付いていたクルトだが、オペレーターの声の中に抑え切れない歓喜を感じ取り、一縷の望みを抱きながらも声を荒げた。

 

「奇跡です! 新オスティアの向こうから多数の熱源反応! メガロメセブリア、ヘラス、アリアドネー他多数、幾つもの所属が入り混じっています!」

 

 答えるオペレーターの頬は、興奮から紅潮していた。

 クルトの前に新オスティアを映したモニターが映し出される。

 

「援軍が、援軍が来てくれた」

 

 新オスティアの向こうに幾つもの鋼の群れがひしめき合っていた。形、大きさ、所属は違えど無数の艦隊が並ぶその光景は壮観そのものだった。

 異なる国旗、異なる種族、異なる指揮大系。それにもかかわらず一丸となった艦隊は旧世界の東洋の曼荼羅のように整然と隊伍を組んでいる。

 

「メガロメセンブリア連合、ヘラス帝国軍、アリアドネー騎士団………他にも小国から一族単位、個人レベルでこの空域に続々と集まってきています!」

 

 ブリッジで各艦の所属を確かめていたオペレーターの一人が素っ頓狂な声を張り上げた。その声にクルトも窓の外を見た。

 それらは一方方向から接近するのではなかった。この宙域を中心として接近している。艦艇だけではなく単身で空を飛ぶものから複数で寄り集まっている者等、軍人ですらない者すら多く見えた。

 今も艦橋の直ぐ側を独自の戦闘服に身を包んだ一団が傍らに魔獣を引き連れて通過して行った。一族を先導するように先頭を突っ走る若者に見覚えがあった。

 

「いや、あれは魔獣ではなく精霊獣か。ということはマクスウェル一族が来たというのか」

 

 ナギ・スプリングフィールド杯の地区予選でアスカが戦った中に彼の一族の次期党首がいたことは調べで分かっている。二十年前の大戦の最中で帝国、連合のどちらにも属さなかったことで没落したマクスウェル一族が、こんな機会を見逃すはずがなく逸早く駆けつけてきたのだろう。

 

『奴らにばかり、良い思いをさせられないのだよっ! 皆の者、我に続け!』

 

 それは、ある種、奇態な光景だったのかもしれない。

 アスカの叫びに心を揺り動かされた彼らは、世界の破滅を前にそれぞれが持てる戦力の全てを投入して終結させた成果がこれである。

 二十年前の大戦時ですら遅れていたメガロメセンブリア連合の正規軍とヘラス帝国の軍隊が到着したのは、言ってしまえば戦いが終わった直後。帝国・連合・アリアドネー混成部隊が最初から戦っていたとしても全精力を傾けた時には遅すぎた。

 二十年前のように裏方として説得に回っていた人員はおらず、集った戦力がアスカの中継映像を見て集まったことには想像に難くない。

 各々の軍勢が陣営など関係なくまるで攪拌されたかのように混在し、その全ての目が召喚魔に向けられている。今までいがみ合ってきた者達がみな一つの目標に向けて力を合わせているのである。

 クルトは唖然とし、また心が沸き立つような思いを抱く。多くの人々が自分達と同じ道を選び、戦おうとしている。それは絶望に身を浸していたクルトにとって心慰められる発見だった。

 ブリッジに弛緩したような空気が漂った。

 戦闘中にも関わらず緊張が途切れる、というのは非常識なことだ。クルトにも、このような劣勢過ぎた状況で救援が現れたので、止むを得ないことだと承知している。

 絶望に垂らされた一筋の光を見れば人の生理というもので、それを責めたいとは思わなかった。

 爆音が轟き、召喚魔達に襲い掛かる。新オスティアにいる者達は浮遊島が揺れていると錯覚するほどの激震だった。

 アスカを中心にして、驚くほど自然に人がつながってゆく。人なら誰でも持っていて、ただ傍にいるだけでは結ばれることのない手が何時の間にかしっかりと誰かの手をとって輪を育ててゆく。そんな小さな不思議が、得難くも尊いものに思えて、ひどく眩しかった。

 前線に出る者達だけではなく、その熱は後衛の者達にも伝播していた。

 

 

 

 

 

 ヘラス帝国軍旗艦グラムヘイルの操鑑に従事している者達は皆、当然ながらヘラス帝国軍の制服を身に付けている。

 急遽、編成された艦隊の指揮を執るのは、ヘラス帝国軍の高級幕僚の一席を担うナマンダル・オルダート中将である。大きな巨人だ。そうとしか、その姿を表現する言葉がない。

 姿勢の良い長身に、よく鍛えられた固そうな筋肉。まるで鉄の塊が目前に立ちはだかっているような、異様なまでの威圧感。頭部の左右に伸びる角に鋭い両目と肉付きの薄い頬を持ち、口元と顎に鬚に蓄えて年月を経た鋼の色に染まっている。

 

「先頭に立つマクスウェル一族より打電が来ています。内容は『一番槍は貰う。我に続け』と」

「凋落した精霊獣の一族か。ふん、言い様は気に入らぬが気持ちも分かる。戦に猛るのは当然か」

 

 打電内容に自分と同じように二十年間の間に忸怩たる思いを抱えていたであろう一族のことを思い出し、ナマンダル中将はこんな事態にも変わらぬ言葉に苦笑すら浮かべた。

 

「返信せよ。『貴官らの健闘を祈る』とな」

「了解」

 

 オペレーターが命令を復唱しているのを意識の外に追いやり、ナマンダルは視線を未だ激戦が続く戦域に向けた。

 

「間に合わないかと思ったが……」

 

 望遠映像に直接戦場を捉えられるようになって数分が経っている。予想以上の惨状と奮闘をスクリーンに確かめたナマンダルは、致命的な状態に陥る前に間に合ったことに押し殺した安堵の息を漏らした。

 

「試練を重ねて分かり合う。今がその時だと思いたいがな」

 

 他国の軍艦が揃って並ぶ光景は、式典などで何度見ても見慣れるものではない。

 

「…………中将、お訊きしてもよろしいですか?」

 

 中将ともなれば、本来であれば後方で戦局を判断するのが職務であり、このような現場に出てくる人物ではない。

 ブリッジに詰めるオペレーターから先遣隊が戦闘を開始した報告を受けた女副官ナタリア・コンラッドが、おずおずと数多の戦場と権謀術数を潜り抜けてきた瞳を戦場に向ける上官に尋ねた。

 

「なんだ? 言ってみろ」

 

 ナマンダル中将は旧世界で言うならロシア系の美女であるナタリアへと顔を向けながら問いかける。

 

「中将は、何故このような危険な作戦に志願されたのですか?」

 

 男に比べればかなり華奢で理性的なナタリアの声は凛と澄んでいて耳に心地良い。

 

「君を連れてきたことを責めているのかね?」

 

 滅相もない、とナタリアが慌てて首を振る。

 ナタリアは軍内でナマンダル中将の派閥で最近、頭角を現してきた軍人である。だが、軍というのは男所帯であるが故に同じ派閥の者達から有形無形のプレッシャーを受けていた。

 独立学術都市国家アリアドネーの戦乙女旅団のような存在は稀でしかない。これで武官で戦功でもあればまた別であったが彼女は文官である。戦場に赴いて戦うなど出来ようはずがない。このままでは同じ派閥の者に潰されていたかもしれない。

 階級や立場に縛られすぎることなく、素直な見方を変えれば愚直さが権謀術数に明け暮れたナマンダル中将には時に眩しく見える。彼女の価値はその美しさよりも有能さと愚直さにあるとナマンダル中将は思い、数多い側近ではなく彼女を副官に選んだ。

 

「中将の真意が知りたいのです」

 

 敬愛する中将に比べればまだまだ短い軍歴で、これほどの戦いに、それもこの人と参加できることはこれ以上ない程の誉れであった。蓋をしなければ抑えきれない程の昂揚を前にして硬くなる言葉しか選べない自分を少しばかり恥じた。

 

「私は二十年前の大戦に参加できなかった。いや、しなかったと言うべきかな」

 

 偽悪的な笑みを浮かべて部下をからかったナマンダル中将が表情を真面目なものに変え、遠く見つめるような眼差しで言った。出世欲に取り憑かれて軍内の競争に明け暮れてね、とナマンダル中将が短く自嘲的な笑い声を立てる。

 

「あの映像を見るまで私はなんのために軍人になったのかずっと忘れていた。私はな、ずっと実戦経験のない貴族がトップを占める軍内を変えたいと思っていたのだ」

 

 厳めしい顔に深い皺を寄せて、ナマンダルは低い声で唸った。

 軍の問題は、実戦経験のない一部のエリート達が実験を握ることだ。

 士官学校を出て最前線を経験せぬまま幹部と成っていく。彼らはもはや軍人ではなく政治家と結託して権力を手中にし、自らも政治家に成ろうとする官僚に過ぎない。自らも血を流して戦ったことがなければ、時に戦う者達をゲームの駒と考えてしまう。そういう連中が軍の上層部に座ることを彼は良しとしなかった。

 

「何時からだろう。軍の在り方を変える為に権力を手に入れたのに、逆に権力に縛られて嫌悪していたはずの彼らと同類に成り下がってのは」

 

 今の自分を振り返り、ナマンダル中将は自嘲気味に呟く。

 実戦を経験した者には独特の共感がある。

 戦争は人の心を蝕むが、同時に軍人同士の結束を固める面もある。特に同じ作戦に従事して生き残った仲間の事は生涯忘れない。二十年前の大戦に参加しなかったナマンダル中将にはそれがない。

 戦友というのは何にも代え難い。死線を潜り抜け、生き残った者達には時に家族に匹敵するほどの絆が生まれるのだ。追い落とした同期や政敵達に共通した結束があることをどこかで羨ましいと感じていた。

 

「老人の戯言だと思ってくれて構わん。彼のスピーチを聞いた時、年を忘れて心が躍ったものだ」

 

 ナマンダル中将は自らの恥部を副官に晒しながらも、本国にある執務室で見たモニター越しのアスカの姿を思い出していた。

 生きてきた年齢と共に培った経験が人を捻じ曲げてしまうのか、こちらを射抜くような真っ直ぐで鋭い視線はナマンダル中将にはひどく眩しく思えた。

 

「家族、類縁を全て失くした私だ。死ぬまでに一度は自分の心に従って生きてみたいと考えていた。絶好のチャンスだったのだよ」

 

 そして、孫ほどの子供に骨身の隋まで自分達の愚かさを叩き込まれて説教されたと、とも思った。勿論、モニター越しのアスカが遠く離れたヘラス帝国本国にある執務室にいたナマンダル中将のことを指して言ったはずもなし。一重にナマンダル中将自身が抱える負い目が感じさせたものだ。

 

「あんな男なら時代を変えていけるかもしれん、とこんな子供染みたことを思う私を笑うかね?」

 

 ナマンダル中将は言って遠い目をした。スクリーンに向けられた目は、ここではなく失った何か遠いものを見る目。まだ彼に比べれば小娘でしかないナタリアには理解できない眼差し。

 

「いえ、誰が笑おうとも私は絶対に中将を笑いません」

 

 まだ若いながらテキパキとした返答は、ナマンダルが多くの部下達の中で最も彼女を気に入っている理由の一つだ。

 

「ならば、潜在的な敵であるメガロメセンブリアとも共に戦えることに喜びを見出している私を不謹慎だと思うかね?」

 

 しかし、ナマンダルはそうしたことは微塵にも面に出さず、試すように問いかけた。

 これも試練の一つ、と都合の良いことは言うまい。無明な大人として、せめて過去に残してきたことだけの責任は引き受けようと思う。

 

「いいえ、これほどの軍勢が共に行軍しているのを見て私も心が躍っています。中将だけではありません」

 

 副官は頷いて見せた。ロマンチシズムと言われることなのかも知れないが、軍人として上官の心情に共感を覚えたからである。

 副官の表情は、政略にばかり振るわれていた中将の辣腕が戦略に転換したことを頼もしく見ているようだった。

 

「回線をオープンに、この宙域に全ての者に聞こえるように」

「…………よろしいのですか?」

「構わん。一世一代の大舞台を上げるとしよう」

 

 通信オペレーターはナマンダルの命令に確認を返したが絶対の自信の頷きに、震える手で通信回線を切り替える。

 

「私はヘラス帝国軍ナマンダル・オルダート中将である。この宙域にいる全ての者に告げる」

 

 場の空気が提督の一言で変わる。

 その声には人を従わせる力があった。人に命令し慣れた者の声だった。

 

「初めに言っておこう。私達は戦う前から既に負けている」

 

 その発言に、流石に艦内にも騒めきが起きたがナマンダルは頓着しない。

 ナマンダルはメインスクリーンに映る、茶々丸を通して中継されている墓守人の宮殿を指差す。

 

「見たまえ諸君、あそこにいるのは、戦っているのは子供だ。まだ幼くて、本当は世界なんてどうでもいい、ただ毎日楽しく笑ってることが許されるはずだ。でも、彼らは戦っている。何故だ? それは我ら大人が不甲斐ないからだ!」

 

 命のやりとりに、子供も大人もない。それでも理不尽な怒りに駆られずにはいられない。

 

「子供達に世界の命運を託している。そんな私達は勝っても負けても愚か者にしかなりえん。私も諸君らもそれを自覚しなければならない。決して自惚れるな。私達大人は戦う前から負けてしまっているのだ!」

 

 腹から声を裂帛の怒声だった。男が心の奥底に仕舞い込んだ本音の欠片を世界に向けて叩きつける叫びであった。その叫びには聞く者達の心を揺さぶる力があった。単純明快な、だが異論を差し挟む者は誰もいなかった。

 

「私達は大人だ。大人は子供達に少しでも良い未来を残しためだけに死んで行くべきだ。その私達が安穏として許されるはずがない」

 

 なんとなれば、あの闘争の激戦地にいるべきは、彼ら子供よりも多くの時を経た大人の仕事であったはずだ。大人とはそうした役割でなければならない。

 若者に道を示せない老人などは、ただ生きている死骸候補に過ぎないのだから、これから生きる若者を生かすために礎になる覚悟を固めろとナマンダルは声を大にして叫んだ。

 

「私達は軍人だ。戦うことこそが仕事の軍人だ。だが、軍人は一職業ではない。一般市民の盾となるべき者であるべきだ。戦うために戦うのではない、生かすために戦うのだ」

 

 危機的状況にあって必要なのは示されたリーダーシップに従うことなのだとナマンダル中将は心得ている。握り締めた拳が僅かに震わせながら言葉を紡ぐ。

 

「私は帝国軍人としてではなく、一人の男として彼らの戦いに応えたい! 今だけでも過去の遺恨を捨てて、世界の敵と戦っていただきたい! だが、死ぬなよ、同士諸君! この戦いは国同士の戦いではない。我々魔法世界人の尊厳を守る戦いである。二十年前にここで散った多くの英霊達が無駄死にでなかった証のために。今、若人の熱き血潮を我が血として、大人として軍人としての責務を果たす時が来た。多くが失われよう。それでも残された子供達が未来を作っていってくれると信じたい!」

 

 先行した精霊獣一族を追いかけるようにヘラス帝国軍旗艦グラムヘイルが前進する。ここで負けてしまっては意味がない。彼らにはもはや退路などはないのだから。

 

「南の古き民と北の新しき民は古くから様々な確執を持っている。二十年前も争いあったばかりだ。この声を聞く者の中にも家族を、友を、恋人を失った者もいるだろう。そう簡単に恨みや憎しみを捨てられるとは思わん」

 

 彼らの中には互いに敵として殺し合った者も、ただすれ違っだけの者もいる。

 恨みは胸に押し込み、目は戦いが展開される前だけを向いていた。

 胸に去来するのは遠い過去に忘れ去ったはずの感慨の二文字だ。多くの兵の先鋒に立ち戦場に臨んだ。艱難辛苦に満ちていながらも、なお懐かしきあの日々。

 

「だからといって次の世代に伝えるべきではない。こうして肩を並べられたことが分かり合える切っ掛けとなろう。そうであれ、と切に願う」

 

 兄弟だと、生きるも死ぬも同じだと、役職としての上下こそあれ、世界の為に戦う同志だと。愛国心の為でも、正義の為でもない。戦士として、男として、ただ大切な人に恥じない戦いをしよう。

 

「今度こそ、全ての戦いを終わらせる為のものと成らんことを」

 

 最後にナマンダルは祈るように言った。

 

「同志達よ、我に続け!!」

 

 恥を背負う大人達の声には、焼き入れした鉄のような鈍く静かな覚悟があった。その宣言に沸き立ちながら、グラムヘイルに負けまいと増援艦隊が進撃を開始する。

 全ての悲劇を弾き飛ばせとばかりに、ここは俺達の世界だと押し流すように。

 

 

 

 

 

 精霊砲の一斉射撃で空いた空間を召喚魔達が埋める前に、艦隊の艦艇から装備も国籍も種族すらも様々な戦士達が続々と飛び出していく。

 戦士達が飛び立ってからも砲撃が重ねられ、砲撃の隙間を縫うように激烈な弾幕を支えにして多くの戦士達がいざ戦場へと足を踏み入れる。数百、数千、数万にも達する戦士達が恐怖と絶望と勇気と誇りに満ちた戦場へと旅立っていく。

 爆煙を掻き分けながら召喚魔へと向かっていく。

 

「総員、構え!」

 

 真っ先に爆煙を掻き分けた人族の戦士が後に続く者達に叫ぶ。

 ほんの少し前まで敵対関係にあった国々や人種が参加していた。間断なく迫り来る召喚魔の群れに向けて銃身・砲身・各個人の攻勢の狙いを並べ、迎撃行動に加勢する。そこには親しげな言葉を交わし合うような通信や会話など皆無だった。当然だ。一時的に協力しているとはいえ、彼らは仲間ではないのだから。

 

「放て―――ッ!」

 

 叫んだ人族の戦士の行く手に幾つもの煌めきが生じた。

 稲妻のようにも見える発光体が尾を引きながら放たれた。集まった魔法戦士達が放つ魔法の射手が夥しい数となって、雨のように召喚魔達へと飛来する。

 ミサイルのように先行した魔法の射手が召喚魔の躯へと炸裂して爆発する。

 今の攻撃で決して少なくない召喚魔が消滅し、多くのものが手数を負った。消滅した召喚魔達は総数からみればあまりにも慎ましやか。全体で見れば毛ほどの痛みも感じない。

 成果を確認するまでもなく近接近型の戦士達が突っ込み、命を刈り取っていく。

 

「あそこで子供達が戦っているのに、大人達の俺たちが命を惜しんでどうする!」

 

 誰もが互いをカバーするように動き、叫び、邁進している。

 こんな最悪の状況で、全てが一つに纏まっていく。

 全ての勢力が集結した軍勢は、予想していなかった勢いをもって発火し、爆発した。その熱波は一気に膨れ上がり、見えざる爆風で押し返すように錯覚させたほどである。

 間断なく続く閃光、そして爆発音。空が燃え、激しい爆音が空間を蹂躙し、宙を浮く岩石も、死体も、何もかもがごたまぜに撒き散らす。

 魔法が、気撃が、兵器が、肉体が、空を引き裂いていく。

 一秒ごとに崩壊していく景色。大地を抉るクレーター。たった一日前までは賑やかだった場所が、無残に踏み躙られていく。まるで地獄、文字通りの戦場であった。

 

「奴らから俺達の世界を取り返せ!」

 

 所属の違うものと背中を預けあいながら、別の勢力の亜人もまた人族の戦士に負けんと炎で応じた。

 真っ向からぶつかった召喚魔が爆炎に巻かれ、その炎の中へと自らを飛び込ませた。一瞬、視界が赤く閉ざされるも敵の位置と動きは目に焼き付けてある。どの辺りに敵がいて、どの方向へ進んでいたのか。直前に焼き付けた光景から現在の位置を予測して攻撃を重ねる。

 淡い幻想を抱くことさえ空しいほどの、短い一時のことだと分かっていても、確かに今は、自分達の間に横たわっていた境界線が消えていた。

 

「子供だけに任せるな! 大人なら自分達の未来ぐらい自分達で掴み取れ!」

 

 新たな、そして大きな爆発が生まれた。

 次々と色んな勢力の者達が参戦してきて四方に閃光が煌めく。

 

「喰らえ!」

 

 闘志を叩きつけるように頭に角を生やした亜人の男が吼えて、光の槍とも見える魔法の矢が召喚魔の全身に穴を穿つ。

 絶望の戦いの中にあって、彼らは真の軍人であろうとしている。戦う力を持つ者も民間人を守り抜く戦士であろうとしている。凄まじい争いになった。

 

「飛び込め!」

 

 歴史を紡ぎ上げてきた全てが徒労ではなかったと証明するために、二千六百年の間に積み重ねてきた知識と技術がある。それが挟持だ。失くしてはいけない自分たちの誇りだった。

 世界の裏にどんな真実があるのかは知らない。だけど二千六百年、されど二千六百年。積み重ねられてきた人々の気持ちがある。その意思が連綿と紡ぎあい絡み合いながら今日まで受け継がれてきた。

 秘密と謎の闇を晴らさんとする子供達が先陣を切ってくれている。どんな真実があろうとも、きっと魂は穢れはしない。

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

 一度人のついた勢いは、なかなか止められるものではない。

 

「グギャアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 

 対して、連合軍の猛攻を受ける召喚魔達も、簡単に崩れはしなかった。

 例え士気や勢いで劣ろうとも、彼らは数を揃えている。そして、主の意志によって攻撃本能を全開にしている。連合軍を上回る物量を最大限に活かし、がっしりと構えて一歩たりとも退かなかった。

 近接戦闘と遠距離戦闘が渾然となり、世界を血で染めていく。心身から発散する熱気が空気に溶けて、熱が戦友へと受け継がれる。

 後の事など考えない。いま、この時に命を燃やす。

 戦意は過剰なまでに魔法世界人側が上、数は圧倒的なまでに召喚魔が上、個々の戦闘能力は召喚魔が上、連携は魔法世界人が上、という、幾つかの要素が複雑に絡み合い、戦場の状態は膠着状態に突入していた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗がりの中でただ一人、ネギ・スプリングフィールドは顔を伏せて座っていた。

 岩の上に座り、見るともなしに地面を眺めていた。だが目は虚ろで、そこには何も映ってはない。魂でも抜け落ちたかのように、心は驚くほどに空虚だ。ネギは何も考えられなくなっていた。

 遥か頭上で、一際強い閃光を放つ流星が空を引き裂いていく。次いで大地が鳴動した。揺れは立っているのが困難なほどの激しさで、岩に座っているネギも揺り動かした。それでもなお、ネギの心には波一つ立っていない。

 赤黒く染まる空を見つめるように顔を上げて、夢見るような表情を浮かべるだけだ。

 

「父さん………」

 

 ネギの口から、抑揚のない淡々とした声が零れ落ちた。彼の瞳は中空を彷徨う。だがどんなに恋い焦がれ、思いの丈をぶつけようとも想像のナギが振り向くことはない。

 ナギを追い求め、彼に近づくために人であることすら捨てかけたネギである。ショックは計り知れない。もはや自分自身に価値すら見い出せない有様だった。

 分かっている。立ち上がって行動するべきだ。まだ何も終わったわけじゃない。だけど、自分はアスカのように強くはない。強くはなれない。

 みんなが自分のことをどう評価しているかは知らないけど、何時だってふとした時に弱い自分が顔を出す。

 何も出来ないのか、また失ってしまうのか。怖い、嫌だ、耐えられない。自責と鼓舞が、今だけ自分の心を打撃する。急かされ、焦らされ、それは自己嫌悪につながって吐き気までする。

 いま顔を上げたら、光の眩しさで目がつぶれる。馬鹿馬鹿しくて、情けなくて自分が日陰を這いずってようやく生を繋ぐ虫けら以下だと思い知らされた気分だ。

 

(このまま消えてなくなればいい)

 

 その間にも大地は裂け、空は粉塵と火花で塗り潰されていく。吹き荒ぶ風は熱を孕み、草木が焼ける臭いが鼻をついた。

 気がつけば辺りは火の海だ。野焼きでもしているかのように、四方から迫る炎で退路は断たれ、じわじわと範囲は狭まっている。行動を起こさなければ、やがて火はネギにまで到達して全身を焼き尽くすであろう。

 

(もう終わりにしよう…………)

 

 そんな覚悟と共に、ネギはそっと目を伏せた。後は最期の時を静かに待つだけだ。

 唸り声にも似た業火の音が徐々に迫ってくる。

 

「こんな所でなにやってんだよ、兄貴」

 

 不意に、目を閉じた闇の底にいたネギに聞き覚えのある声がかけられた。

 

「相変わらず普段は上にクソが付く位の真面目なのに、一端崩れると際限ないな兄貴は」

 

 だけど、ネギは顔を上げられない。この声の主はネギの未熟が、傲慢が引き起こした行動によって犠牲になったはずだ。

 誰よりもネギを理解してくれた一番の親友。ネギが修得した闇の魔法で暴走したのは現状への恨みだけではない。他でもなく、一番の友を失った自分自身への無力と絶望こそが引き金となった。

 

「また泣いてるんですかい?」

 

 伏せた頬に柔らかい毛で覆われた指先が触れた。

 懐かしい温もりに幻か、とも思う。

 安易な願望が夢を見せてくれていたとしても構わない。幻でも傍にいてくれるなら構わない。

 もう随分と昔に感じられるほど懐かしい。失ってしまった友と再び出会えた奇跡に我知らず流していた涙を拭われた。

 温かなその感触が夢ではないと実感させる。けれど、立ち上がる力を失くして無力感に支配されたネギは、そんな幸せを直視できない。疑ってしまう。目を開くのが怖い。ここで目を開けて、傍に友がいなかったらネギは壊れてしまう。

 

「カモ君?」

 

 悲しみでも、哀悼でも、悔恨でも、憎しみでもなく、顔を歪めて噛みしめて、恐れるようにいなくなったはずの友の名を呼んだ。

 

「そうだぜ。俺っちのこと忘れちまったか」

 

 ネギの自分の分も知らない愚かな行動の所為で死んでしまったというのに、柔らかくて軽快な口調で声も変わらない。

 

「嘘だ」

 

 自分なんて庇わなければ良かったと恨んでいるはずだ。何で死ななければいけないのだと憎んでいるはずだ。何であんな馬鹿なことをしたんだと罵られるはずだ。

 

「兄貴が心配で、うっかり死んでもいられなくてよ。ちょっとだけ戻って来たぜ。なあ、目を開けてくれよ」

 

 なのに、声は変わらず優しい。

 

「嫌だ」

 

 友の優しさを信じれなくて首を横に振った。まだ出会った頃のように惨めで弱く甘えたことしか言えない頃にまで退化して駄々を捏ねた。

 ネギが目を開けない限り、友の全ては幻なのだ。幻でも傍にいてくれるなら自分が立ち上がらなくても良いとすら思っていた。

 

「カモ君は死んじゃったんだ。僕を置いて死んじゃったんだ! 勝手に死んじゃった奴の言うことなんか聞けないよ!」

 

 ずっと先を見つめすぎて手元にある光を零してしまった。光がどれだけ自分を照らしてくれていたか、失って初めて気づく始末。

 

「傍にいてくれるだけで良いんだ。一人じゃ無理なんだ。独りじゃ無理なんだよぉ…………」

 

 馬鹿みたいだ。なんて弱い愚かな生き物。力を手に入れて強くなったはずなのに、傷を自分で穿り返して当り散らした馬鹿な男。

 心を強くする方法を知りたかった。痛みも苦しみも何もかも捨て去って、強い生き物になりたかった。けれど、自分は弱いまま。友を目の前で失って強くなると誓ったのに、心はずっとあの時から進むことを止めていた。

 どうして自分は、こんな痛くて苦しい思いをして身体を醜い異形に変貌させてまで強くなろうとしたのか。嫌なことがあって独りぼっちになってまで生きているのだろう。何かを考えるのがひどく億劫だった。

 

「独りはしんどいよな、兄貴」

 

 友は自虐に沈むこちらを眺めて、ぽつりと独白した。 

 

「どこで間違えちまったんだろうな。どこで道を踏み外しちみまったのか」

 

 きっと友がネギの目の前で死んでしまった時だ。他に理由があったとしてもネギは自分自身に原因があると考える。

 

「もしかしたら、ずっとここにいるのが兄貴とって良いことなのかもしれねぇけど」

 

 ここには何もない。強者も弱者も、勝者も敗者もいない、ネギにとって優しい世界。現実は苦しくて残酷で地獄のような世界だ。

 

「兄貴には行かなきゃいけない場所があるだろ。待っていてくれる人たちがいる。何時までこんな所で蹲っているわけにはいかないぜ」

 

 言いたいことは分かる。だが、ネギは二度と力を持ちたくない。

 戦うのが怖いのではない。人を傷つけるのは嫌だが、それだけが理由ではない。力を持つこと自体が恐ろしいのだ。未だ自分は、何のためにどう戦えばいいかを知らない。そんな自分が力を手にすれば、闇に呑まれた時のように再び誤って誰かを傷つけるのではないかと、それが恐ろしい。

 立ち上がろうとも同じことになると、ネギは確信を込めた言葉を吐いた。

 

「僕じゃアスカみたいには成れない! アスカみたいに強くないんだ!」

 

 今のネギがあるのは、己の対極であるアスカがいたからだ。アスカを超えるべき壁として精進してきた。

 アスカがいなければ、ネギは今の自分ではなかっただろう。失敗があった。苦しみがあった。挫折があった。吐き気のするような敗北感と、無力感を与えて己を鍛えてくれたのはアスカだった。

 憧れたのだ。男として、戦う者として、あのよう在りたいと。でも、アスカのように強くなれない。同じ種から別れたはずなのにアスカのようには成れないのだと悟ってしまった絶望は大きい。

 

「はぁ~、ハッキリ言うぜ? 兄貴はアスカの兄貴のようには絶対に成れない」

 

 カモは呆れたように頭を振って深い溜息を吐いた。

 

「当然だ。二人は違う人間なんだからな」

 

 カモの眼差しは痛いほどの力が籠っていた。それは迷っていたネギの心を大きく動かす力だった。

 持たざる者は持てる者を妬み、自らと違うものを人は容易に貶める。何が正しくて何が間違っているのか、何が重要で何が不要か。誰が敵で誰が味方か――――それらは、時代や状況、立場によって縛られた限られたものにすぎない。

 同じであること、違うこと。人はつい、それにばかり目を止めてしまう。だが、誰もが同じでいる必要があるだろうか。少しばかり頭が良くて、人より強くても、そんなことで一人一人の価値を極めて優劣をつけること自体がおかしい。

 人の価値は、その人自身が大切に持っていればいいだけのもの。ましてや他人が決めるものではない。人の存在に、価値なんてつけようがないではないか。誰が死んでも悲しむ人はいる。それはその人の頭がいいからでも、腕っ節が強いからでもない。その人がその人自身だからなのだ。

 人はその表面だけを見て、理解した気になってはいけない。

 

「弱くても醜くてもいい」

 

 言葉が一つ一つ染み込んできて癒されていく。

 

「アスカの兄貴みたいに強くなれないことに負い目を感じて一人で背負い込み過ぎなんだよ。のどか嬢ちゃんに相談してみな。きっと二人でなら答えを出せる」

 

 ネギはさっきの勢いを失い、子供のように項垂れる。思い返すと、自分は一人でこの世の悪を背負い込んだような気持ちで、冷静さを失って空回りしていた。それは何をしてもただの自己満足だ。個人的な思い入れで動かされている場合ではななかったのに。

 

「そうさせちまったのは、俺っちが死んだ所為もあるんだろうけどよ」

 

 沈みかけたネギの気持ちを引き上げるように、カモは心からの笑みを浮かべる。

 

「だからな、何時までもそんなものに振り回さちまったらいけねぇぜ。アスカの兄貴は兄貴で、ネギの兄貴は兄貴なんだからよ」

 

 それは、これまでネギが思いつきもしなかった考え方だった。彼は思わず目を見開いて相手の言葉に聞き入る。

 

「兄貴は自分が成りたい自分に成ればいいんだ」

 

 真っ直ぐな言葉というのは、スッと胸を突く。理屈はなくても、理由はなくても、心の底に染み渡る。

 ネギがネギであるように。またアスカがアスカであるように。

 不思議とその言葉は、ネギの心の隅々まで染み渡った。その通り、アスカはアスカ、自分は自分だ。ネギはアスカと違った道を選んだのだ。頭では分かっていたはずのこと。だが自分はきっと、誰かにそう言ってもらいたかったのだ。

 ネギは、今は素直に相手の言葉に耳を傾けていた。カモは優しい笑みを浮かべて言う。

 

「カモ君は僕を恨んでいるんじゃないの?」

 

 聞かなければならなかった。聞かなければ、ネギはどこへもいけない。

 

「恨むなんてとんでもねぇ。死ぬのは怖かった。でもな、兄貴が死ぬ方がもっと怖かった。その為には怖いとか言ってられない。体が勝手に動いちまった。それだけだったのさ」

 

 そうだ、みんな怖いのだ。怖くても、いいのかもしれない。まだ言葉にならなかったが、ネギはそう思い、瞼を閉じた。

 

「誰の所為でもない、そいつに起こったことは、そいつ自身が引き受けるしかない。自分に起こったことも。俺ッちは兄貴を守れたんだ。この結末に後悔なんてしちゃあいねぇ」

 

 分かっていた。最初から全部分かっていた。ネギは現実を認めてくなかったのだ。

 受け入れたネギの心が憎悪が消え、悔恨の雫が滲み出す。

 

「どうも兄貴は後ろを振り返ってばかりだ。それ自体は悪くはない。過去を振り返って失敗から学ぶことは必要けどよ、人間は前を向かないと困難に打ち勝てない。未来は常に前にある」

 

 何一つ、上手く進まない――――――そんな焦りと虚脱が、またもネギを襲ってくる。

 

「その原動力は誰かの為、何かの為、みんなそうなんじゃねぇかな」

 

 カモの言葉がネギの心にするりと入ってきて今まで欠けていた部分にピタリと当てはまった。

 

「思い出せ。兄貴は一体、何のために強くなろうと思ったんだ?」

 

 その声には、ネギに対する信頼が籠っている。ネギの中で何が大きく揺すぶられ、動き始めていた。

 不思議だった。ネギは自分でも不思議なほど落ち着き払っていた。何を思い悩む必要があろう。すべきことは一つではないか。

 一つ一つ確かめていこう。一つ一つ迎え入れよう。弱くて馬鹿な自分をこれまで支えてくれた、みんなを気持ちを。父の為、夢の為って題目で大切なものを見失いそうになっていた。随分と遠回りをしてしまった。

 もう怖がらない。前へ進む。

 

「強くなろうとした理由か…………そんなの分かっていたのにな」

 

 ネギは悔やんだ。悔やんだが、生きていると思えば、まだやれる気がした。まだ心は完全には折れていなかった。

 ネギの瞼に映ったのは、自分の遥か先を歩む双子の弟の背中だった。

 アスカ・スプリングフィールド。自分は、ああは成れない。あのような芯から誇らしい他人に認められる生き方は出来ない。何度も転んで、何も蹴躓いて、みっともないことこの上ないやり方しかできない。

 だけど、それでも譲れないものが胸の裡にある。

 ナギ・スプリングフィールド杯決勝での戦いを思い出す。

 肌を震わす空気の振動、圧し合う裂帛の気合。拙い、どこまで行っても不毛な相手を否定するだけの惨めな八つ当たりを続けた自分、己が意思を相手に伝えるために叩きのめそうとしただけだ。

 勝利したところで得るものなどない。そんなものは初めから、病的なまでに張り付いて離れない。

 ネギはネギのまま、アスカはアスカのままで結局、何一つとして変わっていない。それも仕方のないことだろう。ネギもアスカも、あんな戦いで何かが変わると信じていたわけではない。まったく、割りに合わない事この上ない。

 一時間にも満たない戦い。それだけの時間が、今はこんなにも懐かしい。もう随分昔の事のようだ。それでも、目を閉じれば思い返せる。考えてみれば何も知らなかった。アスカの決意も、アスカの苦しみも、この恐怖の味さえも何一つ知ろうとしなかった。

 

「何をやっているんだ、僕は。一人で、こんなところで。情けない。本当に情けない」

 

 落ち着いて周りを見渡せば世界はこんなにも広かったのだ。こんなにも沢山の人が響きあっている。

 人間の人格は、脳内ではなく環境によって構築されている言われている。誰かと語らった、誰かと笑った、誰かに怒った、誰かのために泣いた。そういう幾多の関係が、人間を作っているのだと。

 それは、たった一人では、人は人足りえないということ。如何なる英雄であろうが、如何なる天才であろうが、一人で完成された人格など幻想にすぎないということ。

 

「兄貴は頭は良くても考え込み過ぎちまって突拍子もないことを仕出かしちうまうからな」

「その通りだけど笑えないよ」

 

 強い力で身を守ることで他人を傷つけることしか出来ない過去の自分。未熟で、拙劣で、短慮で、増長していた頃のアスカと同じくらい弱い。あの頃のアスカと、今の自分と、アスカと自分と。

 何が違うのか、それは分からない。或いはアスカが自然と今の自分になったように、その違いはいずれ曖昧になって、どうでもよくなってしまうのかもしれない。

 そのことにネギが気づけば自然とアスカやナギ、ラカンたちがいる領域に届くだろう。ネギの力は既に片足を踏み込んでいる。後は精神的な問題に過ぎないのだから。

 

「無理にでも笑っときゃいいのさ。笑う門には福来るものんだぜ」

 

 今も完全に屈託が失せたわけではないが、もうネギは躊躇うことはない。

 自信満々に主張しよう。これが自分の名前、これが自分の人生だと。今の自分を築き上げた全ての時間を凝縮し、名前に込めて発しよう。

 

「僕は進むよ、カモ君」

 

 止まるわけにはいかない。時には振り返っても、足を止めて蹲っていては何も変わらない。ただそれだけの想いで立ち上がる。

 どれだけ道を踏み外そうが、最後の最後には少年の心は光を求めてしまう。結局のところ、それがネギの見出した真実だった。

 

「それでいいさ、兄貴」

 

 無様でいい。誰にも褒められなくても、馬鹿なことをしていると罵られても行動する。蹲って目を逸らせば傷つかないかもしれないけど、何も変わらないのだから。

 進み続けることが出来るのは生者の特権。既に死した者に出来ることはその背を押すことだけだとカモは悲し気に理解していた。

 

「あ……」

 

 立ち上がったネギの世界は一変していた。

 周りはどこまでも続く草原が広がり、空の果てに光がある。無限にも近い世界の果てに、針穴ほどの小さな光がポツンと浮かんでいた。光にしては儚く、しかしながらそれは確実に存在している。

 その光に暖かさはない。しかしその光には切なくなるほどの眩しさで無数の命の灯が確認できる。

 求めて止まなかった一筋の煌めきの道に向かって歩みだすと、世界が光のベールに包まれ始める。幾筋もの光の帯がネギの体に絡みつき、その中心へと誘っていく。

 

「きっと辛い道になる。止めるなら今の内だぜ」

「かもしれないね。でも、今更だよ。僕は最初から覚悟してこの道を進むと決めていた」

 

 ナギを目指すというのはそういうこと(・・・・・・)であると六年前の時点で想像できていたことだ。覚悟していたつもりでも甘さはあったが、もう足を止めることはない。

 この道を進んで行けば、ありとあらゆる艱難辛苦がネギを襲うだろう。それでもネギは敢然と顔を上げた。恐怖を感じぬ者は戦士ではない。恐怖を感じて、それを克服する者が戦士足りうる。ネギは今この時より戦士となる。

 

「そっか。もう覚悟は決めたんだな」

 

 深呼吸してから、ネギの決意にカモは少し寂し気に笑った。

 子の巣立ちを前にした親鳥のような気持ちで、語る言葉はこれで最後と決める。

 

「最後に言っておきたいことがある。遺言と思ってくれていい」

 

 光を見つめるネギが顔を上げると、カモは目だけで微笑んでいた。

 ギチギチとネギの内側で闇が暴れだす。両腕に浮かび上がる、塒を巻いた翼の紋様。それが禍々しい光を伴い肥大化していく。

 ネギは怒りと憎しみが与えてくれる闇の力を感じた。しかし、巻物のエヴァンジェリンから闇の魔法を習得する前に制御方法を既に教わっている。どうして今まで忘れていたのか。教えられた戦うための心の置き方を思い出し、それらを心の奥深くに沈めた。

 戦いを恐れ、敵に対して臆病になり、用心する。自分の戦う理由を忘れないことが肝要だった。怒りと憎しみの力に呑み込まれてはいけない。歯を食い縛り、呑み込む。善も悪も、強きも弱きも、全てを呑み込むのが『闇の魔法』なのだから。全ては心の持ち様。闇を受け入れても呑まれず、光を求めて突き進む。

 ネギの心の在り様の変化に従い、闇に包まれた世界が音を立てて崩れてゆく。

 

「どんな絶望に支配されても、前を見て進め。兄貴には蹲っているよりも前へ向いて走っている方が似合っているぜ」

 

 地は深緑の草原、空は紺碧の海。清々しい風が頬を撫でた。夜空を照らす星の光が逆光になってカモの姿が判別できない。

 

「頑張れ、兄貴!」

 

 それでもきっとカモが微笑んで送り出してくれていることだけは間違えようもなかった。 

 

「行ってきます」

 

 身体を突き抜けていく穏やかな光に身を委ねる。世界は白一色に染まり始め、やがてネギは白き世界に身を溶かしていった。

 死者は止まり、生者は進む。ただその理に従って。

 

 

 

 

 

 戦端が開かれて数時間が経った新オスティアは連合軍の奮戦によって市街地に主だった被害は出ていない。

 動かせる全ての船を使って民間人の避難は順次進められているが、祭りの開催期間中で多くの観光客がいることもあって避難は遅々として進んでいない。

 まずは港に押しかけた希望者から避難が始まっているが、中には自力では動けない者もいる。そして宮崎のどかもまた逃げる場所などないからナギ・スプリングフィールド杯決勝後から眠り続けるネギ・スプリングフィールドの傍を離れなかった。

 このまま死ぬのかと思い、それでもいいかと諦めていた中で突如としてネギは目覚めた。

 

「ネギ先生!」

 

 重度の魔素中毒に似た症状に侵され、何時目覚めるか分からないと言われていたネギがあっさりと瞼を開いたことに驚きながらも駆け寄る。

 

「のどかさん……」

 

 体を起こしたネギは胸元に抱き付いてきたのどかを受け止めながら一粒の涙を流した。

 縋りつくのどかの背を撫でながら細くなった体に彼女が感じていた心労を思い、ネギは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

「迷惑をかけてしまいましたね。ごめんなさい」

「そんな、私の方こそネギ先生に何も出来なくて」

 

 ちょっとした気持ちのズレが積み重なり、お互いの間に溝を作っていた。求め合う気持ちが強ければ強いほど、そうなってしまうのも人と人の関係なのだろう。溝が二人を引き離すように働く。

 ベットから上半身を起こしたネギは光を放つ外を見る。

 

「…………みんな、戦ってるんですね」

 

 医務室の窓から見える外はとても夜とは思えぬほど明るく、魔力の川が空全体に広がっている。川の根元を辿ってみれば、大戦時に堕落したはずの墓守り人の宮殿がある方角に繋がっている。

 ネギの鋭敏な感覚にはその場所で数多の魔力がぶつかり合っているのが感じられた。

 

「駄目です!」

 

 ネギが騒乱の場所に行こうとしているのを感じ取り、のどかは全力で止めた。

 

「ネギ先生はまだ動いてはいけません」

 

 魔法世界でずっとネギと共にいたのどかはどれだけ苦しい目に遭って来たかを良く知っている。

 のどかの所為で奴隷に落とされ、望まぬ戦いを強いられ続けた。親の所為で襲われて腕を切り落とされたこともあった。ネギにとって魔法世界の日々は苦しいものだったはずだ。

 

「戦いはあるかもしれないですけど、私達には関係の無い世界じゃないですか。もう十分でしょう」

「関係なくはありませんよ」

 

 この一ヶ月を過ごした世界だ。もう関係ないなんて言えない。何よりもこの世界はネギの父が戦って世界を救い英雄と呼ばれており、母の生まれ育った世界をとても無関係と言えない。

 

「それにアスカ達も戦ってるんでしょ。僕だけ大人しくしていることなんて出来ません」

 

 これだけの異常事態と多数の魔力が衝突している中であのアスカが黙って傍観しているはずがないと、散々首を突っ込んできた今までの経験から直ぐに分かる。そしてその場合、ネギが待っていることも同じようにありえない。

 

「大人しくしていることのなにが悪いんですか。戦えることが偉いとでも」

「悪いということじゃありません。すみません、言い方が悪かったですね」

 

 ネギにそのような意図はなかったが、戦うことを選ばなかったのどかには酷な言葉だったのだろう。

 言い募ろうとした言葉を遮り、言葉が足りなかったことを謝罪する。

 

「決めたんです、前に進むと。その為には皆で麻帆良に帰らないといけません。もう夏休みも終わりですから」

 

 自分を見つめ直す為にもこんな戦いは一刻も早く終わらせて新学期の準備をしなければならない。

 

「これでも僕は先生ですからね」

 

 そうあれと望み、そうしようと尽くせば、誰でも願うことを叶える可能性が与えられるのだ。無論それが叶わないことも多いが、歩くことを止めなければ前に進むことは出来る。

 人は変われる。望む何かを手に入れられる自分に変わることが出来る。ネギはそう信じたい。

 

「待っていてくれますか、のどかさん」

「…………一緒に来てくれとは言ってくれないんですね」

「言えませんよ」

 

 言えるはずがない。しかし、それはのどかに問題があるのではなく、ネギの方に問題があった。

 

「そんなに私が信用できませんか。私が女だから、弱いから」

「そういう問題じゃないんです。仮にのどかさんに付いてきてもらっても僕は戦えません。例えのどかさんに戦える力があったとしても、好きな人と共に戦場に立てるほど僕は強くはありません」

 

 力の問題ではない。強さの問題ではない。心の問題だ。

 

「待っていてもらえませんか? そうすれば僕はどんな場所からでも必ず帰って来ます」

 

 酷い言葉だと自分で言っていてネギは思った。

 

「何を言っているのか、本気で分かっていますか」

 

 足元に近づいて来る蟻を追い払うような淡々としたのどかの口調に、冷水でも浴びせられたかのような悪寒がネギの全身を駆け抜けて行く。足元からせり上がる本能的な恐怖が、自然と体を震わせた。

 数秒か、数分か、空間が凍結したかの如く、世界から音が消え失せていた。

 目の前にいるのどかの姿がしっかり見えているのに、脳がそれを正しく認識しない。

 

「分かっていて言っています」

「…………酷い人です。私が断ることを微塵も疑ってない」

 

 のどかの胸中に怒りや悲しみなど、ありとあらゆる感情が胸中に去来する。激情が理性を押し流す。烈火の如く燃え盛る瞳には、つい先ほどまであった揺らぎはない。代わりにそこに浮かんでいるのは、ネギには分からない感情の色。

 

「そんな勝手なネギ先生なんか嫌いです」

 

 その言葉に、肉を剥ぎ取られたような痛みがネギの胸の中に宿る。どくどくと血が流れている。ここまで思われていたのか、疎まれていたのか。

 言葉が胸に刺さる、というのはこういうことだと思った。絶望が言葉という形を借りると、こんなにも人の胸を抉る力を発揮する。言われた者の心境を容易には想像できぬほどに。

 これほどの想いを負わせるほどに自分の存在は、のどかを追い込んでしまったのか。

 原因がなんであれ、一つのボタンを掛け違えれば永遠にすれ違い続ける脆さが人の関係にはある。自分の愚かさに腹を立てながらも、どうしようもなく悲しかった。

 

「って言えたら良かったんですけど」

「え?」

「冗談です」

 

 仕方のないことを言った自覚があったネギは何を言われたのか分からなくて、知らずに下げていた顔を上げるとのどかは舌を出して笑みを浮かべている。

 舌を収めたのどかは少し気恥ずかし気に頬を赤く染めながら、ポカンとしているネギを真摯に見つめる。

 

「私が好きになったのがネギ先生の前を向いて進んでいく姿ですから」

 

 のどかが好きになったのはネギのそうやって前へと進んでいく姿なのだから、好きになった方の負けということなのだろう。

 

「待っていますからちゃんと帰ってきてください。じゃないと迎えに行っちゃいますからね」

「肝に銘じておきます」

 

 お互いに苦笑を浮かべ、同時にネギの足下から起こった風が着衣の袖口や裾をはためかせて髪の毛をフワリと持ち上げた。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル」

 

 窓を開けて始動キーを唱えると、背中にのどかが抱き付いてきた。

 

「契約により我に従え高殿の王、来れ巨神を滅ぼす燃え立つ雷霆、百重千重と重なりて走れよ稲妻」

「行かないで」

 

 詠唱に掻き消えるほど小さな声で引き止められる。それはきっとのどかが押し隠した本音。

 絞り出した声が嗚咽に呑み込まれ、吐き出しきれない感情が雫になって目から吹き零れた。小刻みに震える肩に触れ、ネギは振り返って泣くのどかをそっと抱きしめた。全身を包む重みと温もりがネギの存在を伝える。

 

「千の雷」

 

 ネギが魔法名を口にした途端、彼を取り巻く風が轟と音を立てて渦巻いた。

 そっと二、三歩離れたのどかは引き止めた言葉は聞き間違いであったと勘違いさせるほど柔らかい笑みを浮かべている。

 

「掌握、術式兵装『雷天大壮』」

 

 ネギの肉体は千の雷を霊体と融合させ、荷電粒子の塊と化した。

 その身を精霊に近づけたネギがのどかを見ると、彼女は仕事に行く夫を見送るように手を振っている。

 

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 

 言ったネギは雷光と化し、のどかの目の前から消えた。

 

「…………バカ」

 

 医務室に残されたのどかは閃光となって一人で戦場に向かったネギに、聞こえない言葉を贈ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 魔力の渦を突破したネギの耳に女性の悲鳴が聞こえた。更に速度を上げ、声の聞こえた方向―――――墓守り人の宮殿の都市部の抉られた地点へ向かう。

 そこには、小太郎が、古菲が、楓が、茶々丸が、アスカが、木乃香がいた。誰も彼もが一目で見て重傷と見て取れるほどの傷を負っており、茶々丸に至っては上半身と下半身が分断されていた。

 小太郎は氷柱に閉じ込められ、傷ついたまま動かない古菲、傷は少ないが動かない楓、木乃香に抱えられたままのアスカは意識がないのかピクリとも動かない。

 その中で木乃香はフェイトに似た制服で似たような容姿をしているが髪型が違う奴に魔法で出来た雷の槍を突きつけられている。彼女の服は袖を残して剥がされており、上半身はほぼ裸に近い状態だった。

 ネギは飛行の勢いのままに、雷の槍を放とうとしているフェイトに似た青年――――――2(セクンドゥム)の顔に蹴りを入れる。

 

「るるぺらあん!!」

 

 ジャック・ラカンの全力の一撃に比べれば劣るといっても雷速の勢いを乗せた蹴りが、完全無防備だった2(セクンドゥム)の顔にめり込み、変な叫びと共に軽々と吹っ飛ぶ。

 不意を突かれたといってもそこは造物主の使徒。何度か地面を跳ね回りながらも最後は手を付いて足から着地して見せた。

 

「くっ……き、貴様は!」 

「大丈夫ですか、木乃香さん」

 

 誰何してくる2(セクンドゥム)を無視し、危険なため一時的に雷化を抑えてから涙で顔をクシャクシャにした木乃香の体を引き起こして、目線を合わせるように片膝をついた。

 

「遅くなりました」

 

 目は泣き腫らして赤くなり、手入れされている髪は血と埃で汚れている。露出した白い肌には、幾つも青痣も見受けられる。自分の服を脱ぎ、上から被せる。身長の問題で全ては隠せないが、ないよりはマシだった。

 いまだ茫然自失でいる木乃香の肩を揺さぶり、声をかける。二、三回、体を揺すり、軽く掌で頬を叩くと、ようやく彼女の目に生気が戻り始めた。木乃香の目が、ネギへと向けられる。

 

「ネギ君!」

「これから、あいつらを倒します。もう大丈夫です」

 

 ネギは木乃香に頷いてみせると、立ち上がって振り向いた。

 自分が蹴り飛ばした相手、その近くにいる似たような格好と容姿をした者や同類らしき者達、一番奥でネギが願い求めていた(ナギ)を睨みつける。

 

「よくもみんなを…………許さないぞ、お前達!」

 

 今の感情を表すように全身から多量の紫電を迸らせ、闇の底から復活したネギ・スプリングフィールドの怒りの叫びが響き渡った。全身が弾けるように輝きを増すと空気が裂け、数条の雷光が放たれた。

 周囲の地面に幾本もの雷撃が突き刺さる。

 

「英雄の息子のもう一人の方か。とんだどんでん返しもあったものだが」

 

 悪意と狂気に満ちた強烈な殺気をネギへと放っていた。

 

「今の一撃から推察するに我らに並ぶ力を持っているようだが。たった一人でやってきて何が出来るというのだ」

 

 敵は巨大で強大で、ネギと同格と思われる相手が三人以上もいる。

 単純な戦力比較をするならば、こちらの陣営で戦えるのはネギ一人だけでは勝ち目はないように見える。

 

(だから、どうした)

 

 そんな簡単なことは分かりきっている。ネギは心の中で吠えた。

 正直に告白するならば恐ろしいし、出来るならば尻尾を巻いて逃げ出したい。だが、後ろに護るべき人達がいて、自分が此処に辿り着くまでに小太郎達が激戦を潜り抜けて来たことを思えば一人で逃げられるはずがない。

 

「不利? だから何って話だよ」

 

 戦うと決めた。どれだけ不利な戦況であろうとも逃げることだけは決してない。

 恐怖を感じぬ者は戦士ではない。恐怖を感じて、それを克服する者が戦士足りうる。

 

「勝つさ。勝つのは、僕だ」

 

 イメージするのは双子の弟であるアスカの背中。何時か追いつき、追い越そうと決めていた背中だ。

 何時もみんなの最前線に立っていたアスカはこんな気持ちだったのだろうか。後ろに護るべき人がいて、前には倒すべき敵がいる。逃げ出したいような気持ちの中で浮かべ上がって来るのは興奮にも似た感情で。

 

「嫌な目だ。貴様も英雄の端くれというわけか」

 

 自分を見据えて来る目がナギやアスカと同質の物である看過した2(セクンドゥム)は油断の捨てた目をしている。こういう手合いがそれこそ土壇場で事態をひっくり返すことをやりかねないと経験で知っていたから。

 

「貴様も父や母がいる幸せな世界に送ってやる。案ずるな、直ぐに貴様の兄弟も送ってやろう」

 

 油断もなく、全身に紫電を走らせた2(セクンドゥム)に呼応するように、4(クゥァルトゥム)6(セクストゥム)も身構える。

 

「油断はせん。数で押し潰させてもら――」

 

 雷のアーウェンルンクスである2(セクンドゥム)が文字通り雷光と化してネギに襲い掛かろうとした正にその時、一歩目を踏み出したところで足元の影が歪んでそこから何かが飛び出した。

 影からロケットの如く飛び出した小さな何かが強かに2(セクンドゥム)の顎をかち上げる。

 

「あぶろぉ?!」

 

 想定すらしていなかった予想外の場所からの攻撃に反応はすれども避けることは出来ず、大砲の如き勢いで放たれた何かの攻撃によって視界がぐるりと一回転する。

 

「な、何奴!?」

 

 完全な意識外からの強打に一瞬意識が飛んだが、そこは造物主の使徒。体勢を立て直し追撃を避けて、未だに消えない影から離れた場所に着地しながら誰何する。

 

「――――――なに、しがない吸血鬼さ」

 

 答えたのは2(セクンドゥム)の顎を強襲した小さな何かではなく、影から新たに浮かび上がって来た金髪の少女だった。その頭の上に2(セクンドゥム)の顎を打った人形――――チャチャゼロが下りて来て捕まる。

 

「き、貴様は…………闇の福音(ダーク・エヴァンジェル)!?」

「私の名を知っているとは、中々見所があるガキ共ではないか…………と、言いたいところだが、よくもまあ好き勝手にやってくれたものだ」

 

 金髪の髪を靡かせて、孤高なまでに潔く少女はその瞳を凍らせていた。そうしているだけで世界の何もかもが少女に屈してしまいそうな、そんな威厳さえも感じられた。

 チャチャゼロを頭の上に乗せながら、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは不遜な面持ちを隠すこともせず、全てを睥睨して見下しながら2(セクンドゥム)からあっさりと視線を切って歩き出す。

 エヴァンジェリンは先程までいた2(セクンドゥム)がいた場所から真っ直ぐにネギ達がいる方に歩き出す。街中を歩くかのように背を向けたエヴァンジェリンに、2(セクンドゥム)らは警戒して動向を観察する。

 

闇の魔法(マギア・エレベア)か。くだらぬものに手を染めたものだ。若い頃の日記を勝手に覗かれたようなむず痒さだよ」

 

 2(セクンドゥム)らに背中を見せても警戒した様子もないのは絶対な力の自信か。進行方向にいたネギの姿を見て面映ゆげに苦笑いする。

 

「だがまあ、悪くない面構えだ。旅に出た甲斐はあったかな、弟子よ」

師匠(マスター)……」

 

 敵を前にして警戒もしないのは弟子を信頼してくれているのだと、ネギは少しだけ表情を崩しかけたが直ぐに立て直す。

 その姿勢にますます笑みを深くしたエヴァンジェリンは通り過ぎる寸前に肩に手を乗せ、「よく強くなった」とねぎらいの言葉をかけた。

 

「証明してみせます」

「期待している」

 

 戦意も露わに気合を充足させるネギに頷きを返し、歩みを進めたエヴァンジェリンは木乃香の頭にも触れ、チラリと未だ眠るアスカから視線を切って更に進む。目的は木乃香がいる場所よりも更に奥にいる茶々丸。

 

「茶々丸」

「申し、訳、あり、ません、マスター。約束、を、守れま、せん、でした」

「気にするな。その姿を見ればお前がどれだけ尽力してくれたか十分に分かるとも」

 

 半身と腕を焼き切られ、胴体にも穴が開いている茶々丸が途切れ途切れに言葉を重ねる。

 傍目にも分かるほどスクラップ寸前になって、言語機能にも障害が出ている茶々丸を責めるほどエヴァンジェリンは理解の無い主ではなかった。

 

「先に麻帆良に戻っているといい。葉加瀬に直してもらえ」

「いえ、マスター。私は、ここで、最後、まで、見届け、ます」

「しかし……」

「お願い、しま、す。マス、ター」

「…………分かった。チャチャゼロ、茶々丸を頼んだぞ」

「ヘイヘイ」

 

 頑なな従者に折れた主はもう一人の従者に後事を託す。

 

「貴様がその機械人形の主とは思いもしなかったぞ、吸血鬼」

 

 顎を打たれたことで脳震盪を引き起こしていたのか、行動するまでに時間のかかった2(セクンドゥム)はそう言ってエヴァンジェリンを揶揄する。

 チャチャゼロにかち上げられた顎が痛いのか、擦りながら隙を見て動こうとしてもネギが機先を潰している。

 

「情報ではナギ・スプリングフィールドに負けて間抜けにも麻帆良学園に封じられていたとある。人外の貴様が英雄の側に付くのは予想外ではあるが、最強種である力が噂通りだったとしても、援軍が一人では何も変わりは」

「黙れ」

 

 2(セクンドゥム)の言葉を遮ったのは極大の殺気だった。

 造物主の使徒として莫大な戦闘力と魔力を与えられた絶対なる強者である2(セクンドゥム)ですら思わず口を噤むほどに。

 

「今宵は良い夜だ。久方振りに魔王と呼ばれた頃に戻ってみるのも一興だろう。貴様らの末路は既に決まっている」

 

 彼女が浮かべる表所は喜悦。人間というより、美しい獣を思わせる笑みだった。獰猛さと残酷さが同居して、どんな化粧よりも女を引き立たせていた。

 

「これはこれは、私も始めて見るブチ切れたキティですね」

 

 音もなく気配もなく、その男は忽然と現れた。

 

「アルビレオ・イマ…………生きていたか」

「しぶとさだけが取り柄でしてね。封印の間で消し飛ばされましたが何事も備えあれば憂いなしです。麻帆良と魔法世界を繋いでくれたお蔭で来るのも簡単でしたしね」

 

 木乃香の直ぐ傍に現れたアルビレオ・イマを憎々し気に見る2(セクンドゥム)。造物主によって消し飛ばされたはずだがホームとも呼ぶべき場所だけあって対策は取っていたようで、今は傷一つない万全の状態で立っている。

 アルビレオは屈み、木乃香の肩に手を当てて治療を施す。

 

「木乃香さん、よく頑張りましたね」

「アルビレオさん……」

「アスカ君は――――成程、計らずとも望んだようにはなっているようですね」

 

 刻々と好転していく状況についていけない木乃香が見上げている中で、アスカの頭にも軽く触れたアルビレオは意味の分からないことを言う。

 

「なに、こちらの話です」

 

 聞こうとした木乃香の機先を制し、口元の笑みを消したアルビレオは姿勢を戻して敵を見る。

 

「懐かしい顔と似た顔が幾つかありますね」

「かび臭い骨董品風情が今更現れたところで何が出来る」

 

 見定める視線のアルビレオに2(セクンドゥム)は機嫌悪げに言った。

 三人と三人で、数の上ではこれで対等となった。アルビレオの力が侮れないことは良く知っており、ネギもエヴァンジェリンもこの場に立つに相応しいだけの実力がある。

 油断できない状況ではあるが2(セクンドゥム)に焦りはない。英雄という人種は天が味方しているかの如く状況をひっくり返してくる。この展開もまだ驚くことはない。なかったのだが。

 

「この中で一番年寄りなことは認めましょう」

 

 六百年を生きるエヴァンジェリンよりも生まれたのは先であることを告白しつつ、策士であるアルビレオ・イマがこの場にいる以上は策を疑うべきであった。

 

「では、こちらも若手を召喚いたしましょうか」

「ほざけっ!」

 

 先手必勝。自身を鼓舞するように威勢よく吠える。相手に何もさせずに倒すと、両側に魔法陣を出したアルビレオを強襲する。

 雷光と化して先手を取ろうとした2(セクンドゥム)の機先を更に制するように動くもアルビレオの両側に現れた魔法陣から二つの閃光が放たれた。

 

「もろぷれろっ?!」

 

 斬撃と拳撃を諸に受けた2(セクンドゥム)がまたもや吹っ飛ばされる。

 遅れて二つの魔法陣から召喚された二人の人間が現れる。共にスーツを纏った男であった。

 神鳴流の斬撃を放った野太刀を持ったクルト・ゲーデルと、無音拳で拳撃を飛ばしたポケットに手を入れたタカミチ・T・高畑の二人がふわりと地面に着地する。

 

「数で負けてしまったな。親分に泣きつくな今の内だぞ」

 

 現れた二人と、そして遠くの宙域の戦況の変化を感じ取ったエヴァンジェリンは楽し気に告げた。

 どんでん返しが次々と起こり、事態は明確に入れ替わった。それは破壊の中に生まれたささやかな希望の萌芽だった。最高の舞台と最高の役者は揃った。後は奇跡の瞬間を待つだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り二時間。

 

 

 

 

 




 連合軍に救援が来て、カモとのどかに背中を押されたネギは一皮剥けて戦場へ。
 エヴァンジェリンとアルビレオも現れ、救援が来たのでクルトと高畑も参戦。



次回『第89話 反逆の咆哮』


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第89話 反逆の咆哮


―――――声を上げろ。それは生まれた全てに許された権利である





 

 

 

 

 

 茶々丸は上半身と下半身が切断されていて、右肩と左胸に紅蓮の槍が突きたてられており、そこからは黒煙が昇っていた。小太郎は全身傷だらけのまま氷柱に閉じ込められ、肉の焦げる嫌な臭いを全身から放ちながら気絶している古菲、離れた場所で瓦礫に埋もれている楓。意識がないアスカを抱きかかえて必死に治療している木乃香。

 みんなに目を向ければ、これまでの戦いが如何に激戦であり、またそれ以上の苦戦であることはどんな鈍い者でも感じ取れる状況であった。

 

「状況は二十年前と少しも変わっていないんですね」

 

 クルト・ゲーデルは愛刀を油断なく構えながら、奇しくも二十年前と同じくこの地で行われた決戦をなぞるかのような状況に、少しばかりの感慨を込めて言葉にする。

 

「そういうことです。ただ年月だけがいたずらに過ぎていったのかもしれません」

 

 ついにこの日が来てしまった。自分達の奮闘も虚しく、またも世界は同じ歴史を繰り返そうとしている。

 これこそ天の配剤、全ては収まるべきところに収まりつつあるのかもしれない。一秒未満の悔しさを抱きしめ、二十年前と同じようにこの地に立ったアルビレオ・イマは造物主(ナギ)を見る。

 

「でも、無駄に年齢を重ねたとは思いたくはありません」

 

 無為ではなく、この二十年に意味があったのだとタカミチ・T・高畑は信じていた。

 

(………ああ)

 

 視線を移して傍らで油断なくネギ・スプリングフィールドの姿に一瞬だけ、高畑は目を細めた。

 先の大戦中は必死だった。紅き翼を中心として同じような疑問に突き当たった者達が何時しか集い、戦いを終わらせるための戦いを懸命に模索していた。

 最初は小さな勢力だったが同じ志を持つ者達が集まり、一つの目標に向けて力を尽くした。あの頃の自分の側にもクルトがいて、師であるガトウがいて、憧れたナギがいて、強かった紅き翼がいて、共に悩み、迷い、互いに痛みを分かち合った。

 当時は小さくて弱い自分がどうしようもなく苦しいと感じたこともあったが、今思い返すと必死だった分、ある意味満ち足りた時間だったかもしれない。

 

「どうかしましたか?」

 

 と、アルビレオが訊いた。

 

「何がです?」

「今、笑っていましたから」

「……………そうですか、いえ、気にしないで下さい」

 

 言いながら高畑は頭を振った。

 実のところ、指摘の通りに不謹慎と思われても仕方のないことだが、このような状況にあるにもかかわらず少しだけ高畑は愉快であった。

 こちら側と、向こう側。前の大戦に参加した者としていない者、戦った者と見ていることしか出来なかった者、旧世代と新世代。嘗ては自分は戦えない向こう側にいたのだろう。今頃になって彼らがどういう風に自分達を見ていたか、痛いほど分かる。

 こうやって、引き継がれていくのだろう。こうやって、引き継いでいくのだろう。大人から子供へ。過去から未来へ。受け継がれていく魂があると信じたい。

 しかも、その一人はあの時に憧れた人(ナギ)の息子のネギ・スプリングフィールドだ。

 

(全く我ながら子供っぽい)

 

 笑みを噛み殺す。こんなことで愉快になってはいけない。そんな資格は自分には無い。だけど、それでも。まるで昔に戻ったかのような錯覚に、ほんの数秒だけ高畑は微苦笑した。

 温かいものが高畑の体を満たし、胸に凝っていた何かを洗い流していく。

 自分は一人ではない。ここに、共に戦う仲間がいる。

 ここは戦場。和んでいる場合じゃない。 世界は変わっているのだと信じた。だから高畑も取り残される老人になるには速すぎたから前に進みたかった。

 高畑は両頬を叩き、自分の出来る精一杯を果たすことにした。最後の一瞬に後悔しない為に。出来れば生き延びて、子供達が作っていく夢の溢れた未来を眺めるために命を燃やして戦う。

 何時か高畑を置いていくだろう少年へと、前途を祝して乾杯するように拳を強く握った。

 

「この戦い、必ず勝とう」

「勿論」

 

 言葉少な気に返すネギの顔を見て、もう子供扱いは出来ないなとドクンドクンと破裂しそうな勢いで打つ心臓を抑える。

 

「…………新旧揃い踏みと言うところか」

「そちらも同じではありませんか。まあ、そちらは二十年前にいた者は誰もいませんが」

 

 人数差が入れ替わってひっくり返された盤面を前にして、そっくりそのまま言葉を返された2(セクンドゥム)は気に入ら気に吐き捨てる。

 

「そう言うならば関係のない者もいるようだが」

 

 造物主の使徒であり、アーウェンルンクスシリーズと造物主の完全なる世界側に比べて、英雄一行の中には二十年前にも十年前にも関係のない人物がいた。

 

「キティはネギ君とアスカ君の師匠です。十分に関係ならばありますがね」

「安心しろ。関係なかろうと貴様らは全殺しにしておいてやる」

 

 スプリングフィールド親子との関係を持ち出されなくても、従者である茶々丸をこんな有り様にした奴らを見逃すほどエヴァンジェリンの器は広くない。貴様らは等しく死ね、と嘗ては魔王とすら呼ばれた吸血鬼は敵となった者達の末路を宣言する。

 

「口だけは減らない奴らだ」

 

 ああ言えばこう言う、と大して会話に重きを置いていなかった2(セクンドゥム)は雷光を纏う。4(クゥァルトゥム)6(セクストゥム)もそれぞれの属性を全開にして戦意を見せる。

 

「創造主の道具として宣言しよう。貴様らを根絶やしにすると」

「自らを道具と卑下するか」

「はっ」

 

 2(セクンドゥム)は、いきなり耳に障るような笑い声を上げた。

 

「何が不服なものか。それこそ我らの願い、望み、全て。主の為の、主のお作りする世界の為にこそ、我々の命は存在するのだ。道具であることを何を卑下することがある」

 

 これは別種の存在であると、高らかに嗤う2(セクンドゥム)からネギは感じ取った。

 

「現実を見せてやろう。どんなに頑張ろうとも、お前達は終わりだ。虚しいとは思わないか? 命に限りがあり、どんなにもがいてみても最期には『死の恐怖』が待つのみ。お前達も同じだ。苦痛と恐怖と絶望の内に死ぬがいい」

「倒れるのは君達の方だ!」

 

 そう叫んだネギの言葉を契機として、新たなステージの戦いが始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、麻帆良学園都市も混乱は収束に向かっていた。

 向こうの戦いから漏れ出た流れ召喚魔による世界樹への侵攻。そして―――――それを隠れ蓑にしてのデュナミスの決死の策。墓守人の宮殿にいる本体から核を分割して分身を作り、目覚めたばかりのアーウェンルクスシリーズを引き連れての封印された「造物主」の奪還。

 召喚魔は魔法先生・魔法生徒と、学園祭で超鈴音が率い残していったロボット兵器群を葉加瀬が起動したお陰で何とか一般人に被害が及ぶ前に事無きを得た。だが、デュナミスの策を防ぐことは出来ず、学園深部は襲撃にあって「英雄」と「災厄の王女」の犠牲によって封じられていた「造物主」は遂に解き放たれた。

 造物主の解放と同時に召喚魔は消え去ったが、残されたのは戦闘によって荒れ果てた麻帆良学園都市。建造物の破壊と魔法世界側の浮き岩の落下による二次被害は防ぎきれなかった。

 真夏でもあり得ないほどの熱い熱が、火の粉と爆音、そして人々の悲鳴を運んでくる。

 

「頑張るのよ裕也君! お姉ちゃん達が必ず助けてあげるからねっ!」

 

 汗で額や頬に髪がへばり付いているのにも構わず、明石祐奈が瓦礫に手を掛けた。そして腕にありったけの力を込める。

 これでもう何度目の挑戦か分からない。同じように腕に力を込めている佐々木まき絵・和泉亜子・大河内アキラの手も既にあちこち皮が破れて血が滲んでいた。

 目の前にいるのは、崩れた建物の外壁に両足を挟まれて身動きの出来なくなった、四歳ぐらいの男の子。不安そうに祐奈を見上げている。顔は涙と鼻水でべとべとになっているが、身体に大きな怪我はない。

 異変が起きてから両親と逃げている途中で逸れて、一人で泣きながら彷徨っていたところ、建物の崩壊に巻き込まれてしまった、ということらしい。

 彼女達は買い物帰りに混乱に巻き込まれ、近くを通りかかった時に少年の泣き声が聞こえて駆けつけたのだ。この周囲は既に避難が行われているのか他に人影はない。どれだけ声を上げて助けを呼んでも誰も来ない。

 どうにかなってしまった世界を前に、今にも崩れそうな顔の子供を見捨てることは出来なかった。どこもが似たような状況で子供を助けられるのは自分達しかいないと発奮していた。

 

「いい加減に持ち上がりなさいよぉ――っ!」 

 

 叫んだ祐奈だが、タイミングが良いのか悪いのか、今までビクともしなかった瓦礫が音を立てて動いた。

 

「引っ張って!」

「分かった!」

 

 僅かに浮いた瓦礫をアキラとまき絵が支え、亜子が少年を引っ張り出す。

 

「あっ!?」

 

 亜子が少年を引っ張り出したと同時に一番の力持ちであるアキラの手が血と汗で滑る。祐奈とまき絵だけでは支えきれずに瓦礫が落ち、すっぽ抜けた亜子は思いっきり尻餅をつくはめになった。

 

「あいたたたぁ……」

 

 固いコンクリートで思いっきり打ったお尻が痛くて涙目になりながら唸る。

 

「亜子、大丈夫?」

「平気、平気」 

 

 まき絵が心配そうに聞いて来て本当は泣きたいぐらいに痛かったので本当のことを言いたかったが、抱えている自分を見つめる男の子に不安を与えてはいけないと、聞いてくるまき絵に平静を装って親指を立ててウインクしてみせて返す。

 アキラが手がすっぽ抜けたことを謝ろうとするのを止めながら祐奈は少年の体に傷がないかを見る。

 

「ここも何時まで無事か分からないし、早く逃げないとね」

「ボク、歩ける?」

 

 まき絵が辺りを見渡しながら言って、祐奈は亜子が抱えていた少年に問いかける。

 少年は言葉もなく眉を引き締めてコクンと頷いただけだが、状況が状況だけに泣き喚かないだけでも少女達には十分に助かっていた。

 

「偉いっ! さっすが男の子!」

 

 祐奈が身を屈めて目の高さを合わせて髪をくしゃっと撫でてやると、男の子は「へへっ」と無邪気に笑った。

 そこかしこで火災が発生しているためか、それとも緊張のためか、感じる気温はかなり上がっているように感じる。浮かんでくる汗を拭いつつ、荒れた呼吸を整える。

 

「さあ、行こう」

 

 魔法世界だけではない、墓守り人の宮殿だけではない。誰もが戦っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メガロメセンブリア艦隊の戦艦エルストロメリアの中でブリッジよりも一段高い場所にある艦長席と思われる席に、はちきれんばかりの巨体を軍服に包んだ壮年の男が座っていた。ガッシリとした肩の階級章から大佐と分かる。

 ブリッジに詰める者達も大半が如何にもなマッチョ体型ではないものの、制服を捲り上げたりして露出している異様に太い二の腕といい、分厚い胸板といい、まさに訓練によって造られた特殊仕様の肉体を持つ者が多かった。

 

「我らの陣営とヘラス帝国のみならず、多数の諸国から個人に至るまで、なんとも壮観な眺めじゃないか」

 

 低く呟く声に、副官オルフェ・ボルドマンが艦長席に座る艦長クラップ・ゴドリー大佐へと顔を向けた。

 上級士官の制服に包まれたクラップ艦長の恰幅のいい肉体からは、岩の如き重厚な存在感が漂っている。そこにいるだけで、船は沈まないとさえ思える雰囲気があった。敵であるヘラス帝国軍にも広く名前を知られ、メガロメセンブリア軍一の猛将と名高きこの艦長の副官に成れたことはオルフェにとって人生最大の幸運であった。

 クラップ艦長は五十五歳という年齢を感じさせぬ揺るぎ無い姿勢で、艦長は戦場を見つめている。髪と顔周りを覆う髭は灰色が混じっているものの、その顔には静かな気迫が常に感じられる。太い眉の直ぐ下の瞳は、そこらの若者以上の生気に満ち溢れていた。

 右上から左下へ眉間を通る深い傷跡が男に凄みを与えている。オルフェはクラップ艦長の顔を斜めに走る醜い傷跡は二十年前の戦争で受けた傷だと何時か酒の席で聞いたことを思い出した。

 

「ええ、全くです」

 

 一隻の艦船に乗る艦長がそんな場合でもないのに心の感想を表に出して嘆息するように呟くと、隣りに控えるオルフェが相槌を打つ。短い相打ちしか打てなかった。

 クラップ・ゴドリーは現場主義の行動力に富む人物で、上に行けば上に行くほど政治に関わろうとする軍人の中では異彩を放っている。年を取っても現場から引くことなく、数多くの戦果を上げながらも未だ大佐の位置に留まっている。

 軍内では勇猛果敢さと功績の多さに人望は多いが、上層部には逆に煙たがられて孤立している立場にいることは否めない。

 軍人という職業は、末端ならまだしも上に行くほど平時においては軍人としての実力よりも政治的な手腕が要求される。それは世界、時代、国の隔たりなくそうしたものだ。クラップには、そのような要素が欠けていた。本人としてはまどろっこしいことは嫌いなので前線で戦っている方が気が楽なのもあったのだろう。いい意味でも悪い意味でも生粋の軍人なのだ。

 しかし、オルフェは、そんなクラップを心底尊敬していた。自分も軍人としてこう在りたいと切望していた。

 

「だが、皮肉なものだな……こんな時でなければ纏まれないとは」

 

 くたびれたキャプテン帽を被り直したクラップ艦長の目は、苦渋と誇らしさがない交ぜになったような複雑な色だった。

 過去を回顧するような表情を浮かべる。

 以前に酒の席で二十年前の戦争のことで思うことがあると言葉の端に匂わせていたことがあった。二十年前には市井の一般国民でしかなかったオルフェには想像することも出来ない何かしらの事実を知っているのかもしれない。

 例え何もなくても何がしかに思うことがあるのは間違いない。副官に着任して短いといっても実力で地位を掴み取った能力は伊達ではない。クラップ艦長が何を考えているか感じ取っていた。

 

「だけど、世界は今一つになっています。これも悪くないのではないですか?」

 

 大分烈戦争から時代は流れ、仮初めとはいえ平和の下、各国は健やかな友好関係を結んでいる。なにも解決していないのだとしても、この二十年は決して無駄ではなかった。

 遠くには魔法使い・亜人・戦士で構成された飛行部隊が召喚魔達と交戦しているのが見える。

 凄まじい数の者達が下方から魔法を放って上空に光を閃かせる様は、光の奔流が重力に逆らい猛り上がって行くようで、この上もなく美しかった。もしかすると敵味方の区別なく団結している姿に、そう思わせる要因が含まれているのかもしれない。 

 ブリッジのフィルター付きのガラスは、その光を減殺してくれたが、それでも窓の向こうが真っ白になった。今もまた窓の外で光条が輝き、爆発光がそれに彩りを添えて艦長の顔を照らし出す。

 

「ああ、確かにそうだ。こんな状況だからこそ纏まれることが悪くないと思っている俺がいる」

 

 副官の問いに、艦長は同意するようにふっと口元を吊り上げてニヒルな笑みを浮かべて見せる。これだけの戦力が揃えば、何の不可能ごともないとすら思えた。オルフェの口元もまた、主人の意志を無視して自然に曲線を描く。

 

「戦況はかなり悪い。数も集まりつつあるがこちらが劣っている。だが、不思議と負ける気がせんでな」

 

 状況を分析する声は至極冷静だった。その目が僅かに細められる。口元には笑み。悲壮さはない。それどころか勇壮ですらあった。

 

「若者はいい。混迷する世の中にあっても常に未来に向かって歩いている。そうは思わんか、オルフェ」

「ええ。時折、羨ましく思います」

 

 クラップは艦長席から立ち上がり、灰色に染まった髪を掻き上げて軍服の襟元を緩めた。戦闘を前にして軍服を崩すという軍人としてあるまじき行為だが、それは如何にも手馴れたといった仕草だった。彼の部下なら誰もが知る戦いに猛った上官が戦闘モードに移行した証。

 

「これだけの大戦は二十年前以来だ。血が滾って仕方ない。ラゲイマの野郎には感謝しないとな」

 

 根っからの軍人で、中央で政治をやっているよりは最前線で戦っている方が性に合っていると常日頃から言い切るクラップ艦長らしいと、副官を勤めるオルフェは浮かびそうに苦笑を抑えるのに必死だった。

 

「機関全速! 敵陣に突っ込むぞ!」

「了解!」

 

 クラップ艦長が立て続けに命令を下し、クルー達は勢い込んでそれに従う。精霊エンジンが唸りを上げ、船体が急激に加速を始めて横に並んでいた

 

「これより敵を叩く。余所見をくれるな」

 

 クラップは指示を下しながらもチリチリと脳のどこかでアドレナリンが蠢く気配がした。結局、どのように飾っても戦争がクラップ・ゴドリーは戦うことが好きなのだった。

 この内に秘めた好戦的な気性が若くして大佐の位に就きながらも政治に興味を持たなかった所以だった。だが、年老いても現場に拘る彼の姿勢は多くの軍人の指示を集め、アスカの演説を聴いて狼のように戦闘の臭いを感じ取った。元老院幹部であるラゲイマ・タナンティの後押しがあったとはいえ、瞬く間に軍勢を纏め上げて馳せ参じたわけだ。

 動き出した自らに触発された者達を続々と纏め上げながらも滾る血を抑え切れない。

 

「偶にはこんな柵のない戦いもいい。二十年前もそうだった」

 

 軍人が戦いに赴くのは、どんな綺麗事を重ねても何時だって命を奪うためである。でも、今回だけは違う。守るため、世界を救うための戦いだ。後ろめたい作戦では得られない、二十年前と同じ本物の闘いの高揚が血を沸き立たせるのを覚え、口中に広がるアドレナリンの苦味を堪能した。

 

「総力戦になるが全員生きて帰ってこいよ! 俺の奢りで上手いものを食べさせてやる!」

「はっ!」

 

 楽しみにしておく、と部下達の返礼の中に臆していない気持ちを感じ取ってクラップも腹を決めた。

 

「総員、第一種戦闘配置」

 

 クラップは正面を睨み据え、一拍間を置く。そして高らかに命じた。

 今のクラップは、散発的に発生するだけの戦闘に満足していたハゲワシではない。鋭い目と牙を持つ猛獣だった。獲物を狙いすます野獣の長だった。

 

「ハッ! 対空、対召喚魔戦闘、有視界戦闘用意っ! 精霊ミサイル、第一波! 第二波! 発射準備よーいっ!」

 

 副長であるオルフェの命令が必要な部署で復唱されて行く。

 彼はある意味で細かいことは気にしない鷹揚な艦長とは対照的に几帳面な男であった。オルフェも世間一般で比較すれば大柄な男だったが、クラップ艦長ほどの威圧感はない。だが、やはり艦長の女房役として比較的新参者でありながら、その存在感は古株の者にも認められていた。時に艦長よりも怖い人物と恐れられてもいる。

 

「空戦部隊急速発進! 射出後、一個中隊を本館の直衛に回らせろ! 一番から十番の精霊ミサイル装填急げ、続けて十一番から二十番の装填も忘れるな!」

 

 ブリッジでオルフェの命令に従ってオペレーターがパネルのスイッチを入れていく。その間にも別のオペレータ達が艦内の格部署と連絡を取り合う声が交錯していた。

 副長とは艦長の予備ではない。艦内の状況を最善の状態に保つのは副長の責任だ。副長がその庶務を果たしているからこそ、艦長は作戦指揮に専念できる。

 

「…………第一波! 発射だ!」

 

 各部署の準備が整って一瞬の静寂がブリッジを支配し、オルフェがクラップ艦長を仰いだ直後に号令によって艦から精霊ミサイルが発射された。間を置いて近くにある全ての艦から同じように精霊ミサイルが発射される。

 一拍遅れて随伴していた艦隊からも精霊ミサイルが続けて発射される。

 爆音と共に射出された熱が閃光と焔を纏い、一直線に敵へと向かう。精霊ミサイルが直進して遠雷にも似た轟音と共に砂柱が何本も上がった。着弾した攻撃が爆発したのだ。閃光にも等しい強烈な光が幾つも迸り、野獣にも似た凶暴な唸り声がそこかしこで漏れて聞こえる。無慈悲に破壊を広げ、抗しきれなかったものから死んでいく。

 

「さぁ、野郎ども。戦争をするぞ。俺に遅れずについて来い!」

 

 野獣の長に率いられた一群は、その身を一気に猛らせた。推進剤の奔流を引きながら、エルストロメリアは敵の一団に向けて加速した。轟音に猛々しい鬨の声が混じった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メガロメセンブリアの元老院。

 ここには主に武官や文官といった政に関わる人々の執務室などが集結し、いわばメセンブリーナの心臓部といってよい場所だ。ラゲイマ・タナンティの執務室もこの階の一階の最奥に設けられていた。

 しんと静まり返った部屋に、古い柱時計の音だけが響いていた。木製の柱時計だ。

 ボーン、ボーンと部屋中に響き渡る時報を聞きながらラゲイマは書類に走らせていたペンを脇に置くと、顔を上げた。

 穏やかな時間よりも、自らを律する厳しさを選んで皺に刻んできたような風貌を見つめた秘書官が不意に口を開いた。

 

「本当によろしかったのですか?」

 

 丸い小さなツーポイントの眼鏡をこの男は、もう四十半ばを回っているにもかかわらず、実際の年齢よりも遥かに若く見えた。常に物静かで物腰も柔らかいが、それでいて眼鏡の奥の瞳は、まるで全てを見透かしているかのように鋭く、如何にも切れ者といった感じのする男だった。

 ラゲイマの第一秘書であり、彼の名実共に片腕ある男であった。

 

「状況が状況だ。良い悪いの問題ではない。私は私に出来る最善をしただけだ」

 

 元老院議員ラゲイマ・タナンティは、世界の中心を貫く軸であるかのように、背中を真っ直ぐに伸ばして座っている。

 苦渋の選択を選ばざるをえなかったとしても眼光の鋭さに変わりはなかった。滲み出る存在の重みにも衰えはなく、続けた声音は刺さるように冷たかった。

 

「しかし、今後のことを考えて我らがすべきは万が一を考えて戦力を温存しておくべきではありませんか」

 

 窓の外では、今や誰の目にもハッキリと分かるほど黄金色の魔力が神秘的な河となって空に広がっている。世界の終焉を予見するような、美しすぎる輝きであった。

 

「糾弾されるか、英断と称えるかは世界が存続してこそ」 

 

 どんな残酷な仕組みでも、運営しているのは人だ。それは働く者と組織の間に偽善にしろ妥協点が無ければ人が運営している意味がないということでもあった。立ち位置を守りながら、良心や利害から助け合い繋がっている。偽善であっても善を為すし、そうして繋がることで恐怖から逃れたい。

 

「もし彼らの命が潰えるようなことがあれば、恐らく完全なる世界を倒し得るだけの戦意と結束力は失われる。そうなれば、どれだけ戦力を温存していようが必ず負ける。そも、既に儀式は始まっているのだ。今この時に勝たねば全てが終わる」

 

 ラゲイマは振り返り、何時も通りの厳しい表情のままで言った。その顔を窓の外からの光が照らしだす。

 

「申し訳ありません。仰られる通りです。ですがラゲイマ様は、勝機があるとお考えですか?」

「勝敗は時の運と言う」

 

 実直で確実な手ばかりを打つラゲイマにしては珍しく無責任な発言に、秘書官は目を丸くした。

 

「上手くやってくれるでしょうか? 彼らは……」

 

 まだ不安に囚われたままの秘書が窓の外に広がる魔力の海に目を向ける。ラゲイマは椅子を回して背後を振り返ってその視線を追った。

 

「確かに運に身を任せるには、あまりにもリスクが大きすぎる。だが、打てる手は全て打った。後は戦闘の場に立てぬ我ら文官に出来るのは戦う者達を信じることのみ」

 

 ラゲイマは大きく溜息を吐くと、椅子の背もたれに深く身を委ね、ジッと目を閉じた。

 このように巡ってしまった事態を受け入れて、対処するしかない。その為に出来ること、するべきことは全てしたつもりだ。表だって戦える技能を持っていない自分達に残っているのは信じ祈ることしかないとラゲイマは知っている。

 

「英雄と災厄の女王の子が世界の為に戦う、か」

 

 独りごちてみて、寓意が過ぎると改めて思う。しかし、物事が大きく動く時はそんなものだという思いもラゲイマにはあった。全てが最初から計画されていたなどということはなく、後になって偶然の符合に震撼とさせられる。そう、所詮、人の生は偶然と運に支配されているのだ。

 

「複数の思惑が絡み合い、雁字搦めになった事態を突破し得るのは何時だって我ら大人ではなく彼ら子供達だ。信じよう、良くも悪くもこうなってしまったのだと」

 

 二十年前の時点で、ラゲイマは完全なる世界に興味が持てなかった。政治家だった彼を突き動かすのは、そこで何が出来るだけだ。

 

「賭けてみるしかあるまい。我らに出来るのは備え、終わった後に元の木阿弥にしないことだけだ」

 

 ラゲイマは無言で窓越しに空を見上げ続ける。革張りの椅子に背中を預けて息をついた。

 好々爺といった表情がラゲイマの顔に広がり、秘書官は呆気に取られた目を瞬いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『繰り返しお伝えします。本日未明、旧オスティアにある墓守り人の宮殿が』

 

 誰もいない部屋の中、消し忘れたらしいテレビの画面から、アナウンサーがたった今届いたばかりのニュースを読み上げている。部屋は乱雑に散らかり、食卓の上には食べかけたまま放置された食器が残っている。

 

『現在、墓守り人の宮殿で行われている戦闘は収まる気配を見せておりません。時間が経つごとに激しさを増しているような見えます――――――』

 

 家々から人の姿は消え、誰もが外に出て空に流れる魔力の川を見上げて押し黙り、固唾を呑んだ面持ちで見つめる。

 酒場からも殆どの人が避難したがブラットはカウンターで酒を飲み続けている。

 

「お兄さんは避難しないのかい?」

「酒でも飲んでいた方が有意義だ」

 

 どちらにせよ、自分に関係のある話ではない。家族と仲間を失った時から自分の世界はとっくに死んでいる。

 

「英雄なんてのは俺達に関係のない世界に生きている。勝とうが負けようがどうでもいいさ」

 

 歴史上には、しばしば求められるように現れて一時代を創る人間がいる。

 しかし、所詮はアスカは自分とは違う人種。立っている場所が端から違えば、これからも同じ目線に立つことはない。ようはそれだけのことだ。

 

「マスターこそ避難しないのか?」

「客がいる内は逃げませんよ」

「すまんね」

 

 仕方あるまい、と胸中に呟く。アスカ達が見ている未来を否定するつもりはないが、少なくとも自分はそこには住めないし、自分のように前大戦の亡霊達もそれは同じだろう。

 

「亡霊は何時か消えていくのみだ」

 

 人はそれほど強くも高貴にもなれない。生まれた場所に縛られ、過去に囚われながら自分では変えようのない流れの中を漂い続ける。出来ることといったら、その過程で小さな取捨選択を繰り返し、自分の人生を生きていると錯覚するぐらいだ。

 

「世界が滅びようがどうでもいい」

 

 これが現実、と酒を入れたグラスに薄らと反射する覇気のない衰えた自分の顔を見据え、ブラットは虚ろに内心に嘯いた。

 

「俺の知らないところで手の届かないところで好き勝手にやるがいい」

 

 とブラットは口の中では呟いた。完全なる世界が魔法世界を滅ぼすだとか、アスカ達が世界を掬うだとか言われたところで、どうあれ自分には関係がない。

 言葉はただ言葉でしかない。受け止める心がなければ、ただの音の連なりでしかないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスカ・スプリングフィールドが気づいた時、周りは全てが闇に染め上げられた空間を揺蕩っていた。

 

(俺は、死ぬのか?)

 

 これで死ぬのか、という思いが脳裏を過ぎる。

 ひどく間隔が曖昧で、自分自身に実在感がなかった。なにもかもが半透明な被膜に包まれ、現実感を失ってゆく。夢現であるように思えるが、記憶は最後の瞬間が克明に刻まれている。腹部を貫いた激痛を思い返し、身震いする。

 

(やばいな)

 

 忍び寄る死の影に、アスカはもはや覆われた脳髄の片隅で漠然と思う。

 

(冗談じゃない。俺にはまだ、やることがあるんだ)

 

 思いが意志という名の火をくべる風になり、アスカは未だ魂の奥で燻り続ける熱を知覚した。

 こんなものではない。まだ出来ることはあるはずだと訴えて退かない熱が体の奥で胎動している。その熱が薄まりかけていた心身に血を通わせるが、現実はどこまでも厳しかった。

 意識が遠のき、暗転しつつあったアスカの視界に幻想的な光景が飛び込んできたのはその時だった。

 

(なんだ?)

 

 不意に体が震え、アスカの頭の中に莫大な情報が映像と音とに転換されて流れ込んでくる。何か不思議な夢の中に迷い込んだような、映画の世界に入り込むような不快感。

 刹那、彼の意識は何かに引っ張られるように時の狭間を飛び越える。

 未知の記憶がそこから溢れ出し、見たことのない、しかしどこか覚えのある光景が像を結んで、眩暈の波が押し寄せてくるのを感じた。

 

(幻覚……? あれは)

 

 初めに見えたのは、人ならざる者達の楽園――――神々の世界だった。

 豊穣、地母、天空、冥界、愛、美、月、死、法…………様々な神々が星の数ほど存在し、彼女もまた造物神として高い神格の持ち主として人と共に暮らす神々の絶頂期を過ごしていた。

 絶頂期はそれほど長く続かなかった、ソレ(・・)が現れるまでは。

 ソレ(・・)は何時の間にかこの世界に存在していた。生まれ育ったものか、それとも外の世界から現れたものかは定かではない。ともあれ、ソレ(・・)は存在を世界に示すと同時にとあることを始めた、殺戮である。

 生きとし生けるもの、人や動物だけではなく、精霊や妖精、その他一切の区別なく殺し始めた。そしてソレ(・・)は遂には神にまで牙を向け始めた。

 最初神々は楽観していた。例えソレ(・・)が幾ら強かろうとも感じられる力は神の領域には程遠い。そう、当初は神よりも圧倒的に弱かったのだ。

 だが、ソレ(・・)は闘う毎に力を増して強くなり、やがては神すらも屠り始めた。

 最初は戦いに向かない文化的な神が、次にそこそこ力のある神が屠られて始めて神々も危機感を覚えた。戦闘を本職とする武神が出張って戦って敗北した時には静観していた神々もソレ(・・)の排除論に賛成するほどに。

 名前のないソレ(・・)は便座上、魔神――――神達は神以上の存在を認めなかった――――と呼ばれ、一対神連合による戦いが繰り広げられた。

 彼女はその結末をその眼で見たわけではない。戦闘を得意とする神ではなく、生み出す、もしくは作り出すことに特化していた神であったから、その役割は闘うことではなく戦いの後にことにこそ求められるものが大きい。

 彼女は万が一を考えた神達が人に啓示を与えて建造させた箱舟に乗って旅立った。万が一、例え魔神によって世界を破壊されても安住の地を見つける為に。

 魔神と神々の戦いの結末を旅路に出た彼女は詳しくは知らない。それよりも自らに与えられた役目を果たすことに必死だったから。

 長い長い旅路は箱舟に乗り込んだ生物達が死んでも終わらない。

 

(これ、は?)

 

 混乱した思考に、色褪せたフィルムのような情景が拍車をかけるも映像は止まらない。

 常命の者にとっては長い旅路を終えて辿り着いたのは、大いなる《無》だった。そう、これは無だ。あまりにも圧倒的で、普遍に浸潤する、絶大な無―――。

 ―――――世界は、未だ存在せず。

 生きるものもなく。海と、空と、陸の区別もなく。命も、緑も、何もなく。

 ただ、無窮の空間だけが無限とも思えるほどに広がっていた。世界全てが無とも思える静寂がある。

 造物神の力では世界を創造し、生き物を生み出すことはできない。彼女はあくまで造り変えることは出来ても、無から有を生み出すことは出来ないから。だが、等価交換ならば可能だった。

 自らの神の肉体を苗床として世界とする。失敗して無に帰す可能性の方が高かったが、もはや船に乗る神は彼女一柱のみ。失敗したところで一柱の神が人知れずに消えていくだけだ。

 例え成功しても神としての力を捨てることになるが、それでも構わなかった。彼女は造物神、生み出す者であったから。

 神の肉体を苗床として空間に凪の一波を放つ。

 一片の波紋。それは、ともすると見逃してしまいそうになるほど微々たる変化ではあったが、無が、揺らめいた。

 揺らぎは本当に、本当に、小さなさざ波でしかなかったが、零と一は天と地ほどに違う。零は無であり、一は有だ。やがて、無の内に生じた一の揺らぎから光が生まれ、闇もまた、生まれた。

 土は一所に集まり三日月の形を成し、箱舟に乗り込んだ生物を雛型とした世界に不変に蒔かれた生命の種は、嘗て神だった造物主の願いによりて形となって実を結び、実は新たなる種を生んで、やがて、初めての命がそこに宿った。

 原初の生命に、心なく。感情もなく。砂粒のように小さく、脆弱なその者たちは、食べることも、喋ることも、眠ることもせず。それは生きているというだけの、魂の宿らぬ空蝉のような存在だった。

 しかし、肉体を失った彼女は、この上のない歓びと愛情をもって、彼らの誕生を迎えた。何故ならば、それが、空しき虚無の澱みを拭い去る、大いなる端緒と知っていたから。

 無窮の刻が過ぎ去った時、空蝉は、恵みによって劇的な転生を果たした。

 生命の祖は、万の生きとし生けるものへと姿形を変え、増え、別れ、極みなき大空を鳥が舞い、地の倍の領域を与えられた水のものたちは、茫洋たる水脈を伝って、大河と海原を遊楽した。

 清涼な風は森の種子を運び、広がりゆく台地の緑には、何時しか生命たちの番う声が響く。

 そして、遂に亜人という自分の分身が誕生したのだ。その中には自分の神としての因子を強く引いた人間種も少しだが存在している。

 動物から派生して生まれた亜人と比べて肉体的にひ弱な彼らを保護した彼女は、最も自分の因子を色濃く継いでいる子を娘として育て、弱き彼らでも生きていけるように術を教え、様々な文化を伝えた。

 娘は彼女を母と慕い、やがて娘――――アマテルは王国を作り上げてその初代女王となった。この時に生まれたの国の名はウェスペルタティア、後に世界最古の王家となる。

 子らは、知性と、勇気と、自由なる心をもって、世界の果てまで踏破し、自らの世界を拡大していった。

 彼女は愛していた。アマテルだけではなく、自らが生み出した子ら全てを愛していたのだ。

 全ての人が、互いに敬意を払い、誰も誰かを虐げたり、憎んだりせず、争いや貧困は過去のものとなり、人々は愛しあい、生きる未来を切り開いていく、平和で穏やかな素晴らしい世界になると信じていた。まるで現実感を伴わない、明るく子供っぽい夢。

 

(俺はいま、何を見ている?)

 

 己が子らを見て、熱く理想を想う彼女の幸福を噛み締める時は長くは続かなかった。

 

――――痛い

 

 始めに嘆きが聞こえた。

 最初は小さな声だったそれが徐々に大きくなり、やがては彼女を苦しめ始める。

 

――――苦しい

 

 始めは小さな諍いからだった。徐々に規模を大きくし、やがては一つの大陸を十の国にもぎ取って闘い、十の国に分かたれた人々は、百の民族となって敵対し、百の対立は千の血に、千の血は万の憎悪へと化した。

 森を焼かれ、住処を追われた獣の群れは、血の匂いに渇いて狂ったように吼え、罪深き者は、死後の行く末に恐怖して狂い死に、聖者もまた、塩の柱となって朽ちた。憎悪、怨嗟、傲慢―――――各々が大罪を写したような表情を、誰かの手が押しのけ、誰かの足が踏みつけている。煉獄のようである。

 

『耳にこびりついて離れない。子らの末期の叫びが、痛みが。何も出来ずに全てを奪われた恨みと憎しみの声と感情が頭にこびり付いてくる』

 

 地獄と化した世界で、生きとし生ける者たちは、ただ啼いていた。

 無論、彼女が何もしなかったのではない。

 ウェスペルタティア王家直系で血の濃い者の体を借り、自らの手で救われぬ者を救おうとした。

 そして、救おうとした誰かが目の前で死んだ。

 死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んで、しまった。なにもかも。みな。

 死に顔すら、彼らは安らかではなかった。負に囚われて死に逝く者は、魂までもが、負の呪縛に落ちる。

 災いの如く喚く妖鴉の泣き声が木霊する。反響し、共鳴し、圧倒する。溢れ、笑い、這いずり、濁り合う。

 

『そう、そうだ。私の掌から、星砂のように、彼らの魂が零れ落ちていった』

 

 とめどなく、とめどなく、とめどなく。永久であったはずの幸福は空しく塵芥と化し、地獄の業火に焼かれていった。嵐に打たれた大樹の葉のように。天の恩寵から離れた魂が堕ちてゆく。堕ちてゆく。

 

――――苦しいよ

――――こんなにも痛いのに、どうして助けてくれないの?

――――アイツさえ、いなければ

――――死ねばいいのに

――――憎い

 

 底知れぬ深淵、タールのように重たく粘る汚泥だ。そこに揺蕩うのは万象の残滓、夢の切れ端、口にされることのなかった叫びと、生まれる間もなく押し殺された嘆きだ。

 

――――死にたくない

――――なんで私が

――――僕が

――――俺が

――――死にたくない

――――死にたくなんか、ない。

 

 疎んじられ、遠ざけられ、無用になり、捨てられ、省みる者のなくなったものが集う。折り重なって圧迫され、発熱し、爆発し、混濁し、溶解し、微細な反応を繰り返して難泥の海となる。

 嘗ては美しい生者達が、彼女が気が付いた時には群れを生して醜い呪詛を撒き散らす死者となって背後に広がっている絶望。

 

『私は彼らに幸福でいてほしいだけなのに。どうして争う? どうして殺す? どうして傷つけることが出来る?』

 

 呪詛が消えない。絶望が広がる。憎しみが何時までも連鎖する。

 復讐者、狂信者、求道者、傍観者のあらゆる人々が発する共通する意思。

 

『こんなはずではなかった。こんな結末がありえていいはずがなかった。どこで間違えた。何を間違えたのだ』

 

 悲劇は終わらず、呪詛だけが増えていく。

 負の連鎖に陥った人々は世界を生み出した神に助けを求めながらも、その手で誰かを傷つけていく。

 嘗ては穏やかだった心は荒みはて、血の嵐が吹き荒れていた。ある者は水と食料を求め、ある者は混乱に乗じて権力を欲した。無秩序と混乱の中、弱き者はただ天に救いを求め、祈っている。そんなことが何度も繰り返される。

 

――――生きたい

 

 生き延びること。それは生命が持ち合わせた最大の欲求だ。自らの種を生き延びさせるため、生物は自らの生命を維持し、また繁殖する。

 生命維持に必要な栄養素を求めて戦い、より優れた伴侶を求めて戦い、自らの遺伝子を受け継ぐ子を守って戦う。それらは全て、生まれた時から遺伝子に刷り込まれた行動で、生命の形態によって差異はあるものの、一つの衝動に衝き動かされている点は同じだ。

 

『何故、自分の分にあった幸福を甘受できない? 何故、手元にある分だけで満足できないのだ、人は』

 

 人は、もっと幸福を、もっと優れたものをと。あらゆる競争に勝ち残り、他を圧倒しようとする。身の丈にあった幸福を受け入れることが出来ず、他者を羨んで奪おうとする子らが理解できない。

 他者を羨みながらも拒絶する矛盾。ヒトは互いを敵とし、際限なく続く戦火は血と涙を呼ぶ。憎しみが憎しみを呼び、一つの勝利は新たな報復によって覆される。

 

――――こんな世界なら、生まれて来なければよかった

 

 この世界に神はいない。嘗て神だった世界創造に肉体を捨てた彼女に往年の力はなく、ただ嘆きの言葉だけを聞き続ける。

 

『違う違う違う! 私が汝ら造ったのはそんな願いを抱かせるためではなかった!!!』

 

 何故ならばこの世界には遍く彼女の因子に満ちている。範囲など関係ない。人数に意味はない。神を信じようと、否定しようと、無神論者であろうとも、この世界に生きとし生ける者全てに彼女は繋がっている。

 喜びも哀しみも、怒りも楽しみも全てを彼女は共に感じている。自らの生み出した物に責任を持つのは当然のことだ。

 

『私の愛する者達の嘆きは、止まらない。何故、止まらないのだ』

 

 歴史と世界は勝者が作り、敗者はひっそりと忘れ去られる。それが世の習い。敗者の痛みと嘆きは永遠に彼女の身に刻まれる。

 そうして、どれだけの年月が過ぎ去ったのだろう。その間に、長大な歳月と同じだけの命が失われ、痛みと嘆きが彼女に刻まれ続ける。

 

『人は何故、争うのか。自らの住まう地を汚すのか。他者の言葉に耳を傾けず、私から離れ、滅びの道を歩もうとするのか。何故、何故、私の願いは届かないのか……』

 

 先へ、もっと先へ、と希求する心は、果たして善なのか。なにも知らないがために、彼らは、あまりにも安易だった。何時でもやり直せると、思っていたのだ。止まることができると、漠然と、無垢な幼子のように信じきっていたのだ。だから彼らは、未来の行く末に心を砕かず、自己を省みず、安易に戦いを始めてしまう。まるで、嵐の恐怖も知らずに、無謀にも櫂を持たずに荒海に漕ぎ出す小船のように。

 違う、違う、違う。後悔しても間に合わない。それは、堕ちたる星が決して天に昇らないが如く、堰を溢れた濁流が、下手の何もかもを呑みこまねば、治まらぬように。

 過ちを犯した子らは、自らの命をもって、その罪を贖った。悠久の時の中で星の数ほどの命が失われた。どこまでも浅ましく、いじましい人の営みが世界を汚していく。

 

――――助けて下さい、神様

 

 守るべき沢山の子が絶望と共に死んだのだ。純粋無垢だった全ての子の母だった心が憎悪の輝きと憎しみの叫びに染まっていく。絶望、狂気、悲哀、憤怒、憎悪、達観、欺瞞、嫉妬、その全てが彼女に刻まれる。

 

『―――――――――――救えなかった護れなかった救えなかった護れなかった救えなかった護れなかった救えなかった護れなかった救えなかった護れなかった救えなかった護れなかった救えなかった護れなかった救えなかった護れなかった救えなかった護れなかった救えなかった護れなかった救えなかった護れなかった救えなかった護れなかった救えなかった護れなかった――――――――――』

 

 そして、彼女は絶望した。

 絶望とは負の許容と同義語。世界の誰よりも澄んだ心をしていた彼女は、もういない。

 悲恋に打ちひしがれるのでも、死に別れて涙するのでもない。真実の絶望は、ただただ無感動になる。彼女は何時しか思うようになった。

 

『愛した。心の底から愛していた者たちの命が、朝露のごとく潰えてしまった。数限りなく。私の手の届かないところへと逝ってしまった』

 

 世界が廻る。勢いよく、或いは緩慢に、性急に回っていく。回る、廻っていく。

 

『私は間違えた』

 

 全てが塗りつぶされていく。この呪わしい世界が恐怖と狂気で埋め尽くされていく。

 

『この世界は、造り出した者達の全てが間違っていた。不完全だったのだ』

 

 長い時が経過して、摩耗し、薄められ、何に絶望しているのかを忘れてしまっても、絶望していることだけは忘れなかった。それだけは忘れぬようにしがみついた。

 

『間違えているというのならば造り変えねばならない。それがこの世界を造った私の役目であるから』

 

 人が間違えてしまうのは、救われぬ者がいるのは、自分が何かを間違えたからだと結論付ける。

 不完全な者たちが犇く今の世は、自身が本来願って創造した世界とは異なるのではないか。ならばいっそ、全てを滅ぼし、穢れ無き新しい世界を創造すればいい。尽きぬ欲望、失われし道徳、独善、不条理な差別、今の者たちがいる限り、決して世界には平和は訪れない。

 彼女の望みは傍から見れば独り善がりである。だが、世界を真摯に憂うあまりに彼女の考えは歪んでしまったのだ。それだけの業、呪いを彼女はその眼で見てしまったのだから。

 

『それでも彼らを愛そう。歴史の闇に打ち捨てられた敗者達を、今を苦しみながら生きる者を、これから生まれる不幸を与えられる全ての者を、等しく私が救おう』

 

 恨み、怨念、恨みの為の恨み、怨念の為の怨念。それは、そういうものだ。長すぎて、遠すぎて、そういう風に歪んでしまったモノだ。

 地獄の具現といってもよかろう。当に始まりの想いを置き忘れてしまった憎悪の塊。真っ当な思考など、遥かな過去に塗り潰したヒトという概念の末路であった。

 

『私は始まりの魔法使い、神であった名を捨て去った者』

 

 悪鬼と呼ぶべき形相が迫り、喰われるという根源的な恐怖がアスカの全身を貫いた。

 恐怖が全身を塗り込め、毛穴を塞いでゆく。紅い燐光を放つ眼光に追い立てられ、不気味に血のように紅く輝く双眸に射すくめられ、死以上の絶望と恐怖に曝された身体が絶叫を迸らせた。

 

『我が名は、造物主(ライフメイカー)。魔法世界に存在する過去・現在・未来に至る全てを救う者』

 

 長い長い、一人の人が見た歴史の源流だった。

 一人の存在が絶望する過程を、ずっと知覚していた。

 時間はどれだけ経ったのだろう。一瞬と言われても、一億年と言われても納得出来そうだった。或いは時間が逆光しているとしても、この場では不思議ではなかった。

 ただの一瞬も見逃さず、ただの一瞬も見逃すことが出来ず、あらゆる光景をあらゆる角度から認識していた。認識しているのになにも出来なかった。全てを知りながら、アスカは蟻の一匹よりも無力だった。

 

(判らない。…………判ら、ない。いま見えたものは、いったい………誰の………心?)

 

 無性にアスカは哀しかった。こんなにも心というものが歪んでしまうことが哀しかった。ひょっとしたら自分もこうなっていたのかもしれないことが哀しかった。

 絶望に、怒りの激しさにアスカの体が揺れる。ずっとずっと醸成されてきた呪いは、それだけで人を殺すことが出来る。

 何時の間にか、虚ろな眼差しを虚空に向けるアスカの頬を、一筋の涙が伝わっていた。まるで、突然に彼の脳裏に浮かんだ誰かと同調するように。

 この人はこの上なく善良なのだとアスカは思う。子を愛し、孫を愛し、隣人を愛し、他人を愛している。ただその愛が強すぎたせいで失われていく絶望が深すぎたのだ。

 アスカが静かに涙していると、場面が唐突に変わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り一時間四十五分四十一秒。

 

 

 

 

 




 オリジナルに突入。



次回『第90話 目覚めの鼓動』



7/7修正。


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第90話 目覚めの鼓動




――――真なる絶望を垣間見ろ





 

 

 

 

 

 

 世界を造った神だった者が人に絶望し、自らの名前すらも忘れ果てた過去。

 アスカ・スプリングフィールドはまた誰かの過去を見続ける。

 

(ん? ここは、誰かの家か)

 

 場所はどこかの家の中だろうか、幾人かの人間が寄り集まっている。

 

『少しは落ち着かんか、ナギ』

『だってよ、兄貴』

『父親たるものがそんな様子ではどうする? これから生まれて来る子の為にも少しはドッシリと構えろ』

 

 その中の一人、ナギと呼ばれた赤髪の男が落ちつかなげに立ったり座ったりを繰り返し、辺りをグルグルと歩き回っている。部屋にいる兄貴と呼ばれた他の者に落ち着くように注意されて一旦はじっとするも、また同じ事を繰り返していた。

 

『全く、これで英雄などと呼ばれているのだから世界は分からんものだ』

『英雄でもただの人間だということじゃ。お前さんもネカネが生まれる時は同じようなもんじゃったぞ』

『…………スタンさん。私はあんな醜態は晒していませんよ』

『知らぬは本人ばかり、というやつじゃて』

 

 ソファに座って、生まれて来る子を待って落ち着きのない年の離れた弟に嘆息した男だったが、スタンに娘の誕生の時を言われて二の句を告げなくなり沈黙する。

 とはいえ、スタンもいい加減にナギの落ち着きの無さは見ていて気持ちのいいものではない。ここは彼が幼き頃に悪さをした時にしたように頭に一発入れて切り返させようとした時だった。

 

『…………ァ』

 

 スタンの行動を阻み、ナギの落ち着かない行動を止めたのは隣りの部屋から聞こえた一つの泣き声。他の者も色めき立つように立ち上がって隣りの部屋を凝視する。

 

(おい、双子のはずだぞ)

 

 聞こえてくる泣き声は一つだけ。アリカは双子を妊娠していて、もう一人の泣き声が聞こえないことにどんな苦境にも蒼褪めたことのないナギの顔色が変化する。

 漫然と変化が訪れるのを待っていた男達は、やがて聞こえていた一つの泣き声も収まったのを感じて何か不測の事態が起きたのではないかと焦燥に駆られた。

 中からは慌ただしく動く音、何かを叩く音、叫ぶ声がするのだから特に父親であるナギの脳裏には様々な予想が過って顔色と表情は七変化を遂げていく。

 

『――!』

『――――っ!』

 

 十分か一時間か、もっと長い時間が経過しているような錯覚を与える。

 最悪の予想をナギが思い浮べた時、一際大きな泣き声が上がり、少し遅れて重なって聞こえて来た最初はか細く、しかしやがて響き渡るほどに大きくなった泣き声にナギは腰砕けるように地面に座り込んだ。とても最強無敵と謳われた英雄の姿とは思えない姿だ。

 すると、前触れもなく部屋を繋ぐドアが開いて白衣を身に纏った一人の老婆――――スタンの妻が出てきた。 

 

『生まれたよ、ナギ。元気な双子の男の子達だ』

 

 世間的には死んだことになっているアリカの為に産婆として出産に立ち会った老婆が笑顔で言うのと同時に、わあっと湧き上がる部屋。

 

『奥さんが待っているよ。あんたも父親なんだ。地面に座り込んでしみったれた顔をしてないで顔を見せておやり』

『ああ、すまねぇ』

『アンタを取り上げた時よりも重労働だったよ。それに言うことが違うだろう』

『分かってるよ。ありがとう、婆さん。本当に助かった。感謝してもしきれねぇ』

『へっ、この間生まれたばかりの子が一丁前の口を利くようになって。アタシも年を取ったねぇ。ほれ、何時までも油売ってんだ。さっさと行っておやり』

『婆さんが引き止めたんじゃないか』

 

 老婆の促す言葉に、ナギは立ち上がって尻についた汚れを払って緊張を隠せぬ顔で頷き、ゆっくりとドアへと歩み寄る。

 先に部屋に戻った老婆が開けて行ったドアの前で額に緊張で浮かんだ汗をごしごしと袖で拭い、胸に手を当てて無理やり呼吸を整えた。

 この木造の薄いドアの向こうに、新しい家族が待っているのだ。緊張しない方がおかしい。

 アリカにプロポーズした時でさえ、ここまでの緊張はしていなかった。妻にプロポーズした時は状況的に落ち着いている時間などなかったから、言ってしまえばその場のノリとテンションで乗り切れたのだが今回はそうはいかない。

 

『兄貴とスタンの爺さんは来ねぇのか?』

 

 これから対面する者達を前にして今まで感じたことのプレッシャーが肩に圧し掛かる。深呼吸しても収まらない鼓動を放つ胸を抑え、安堵と喜びを顔に滲ませながらも動こうとしない二人に緊張を忘れようと話しかける。

 

『いいから、さっさと行け』

 

 意外な意気地なしを見せる弟は蹴飛ばされるようにしてドアを潜り抜けて部屋に入る。

 ドアを潜り抜けた途端にけたたましい泣き声が聞こえるのでは、という期待と不安があったが中は寂しい程に静かだった。

 部屋の壁側には幾つも家具があって真ん中にベッドがある。

 ベッドに横たわる金髪の女こそがナギの妻である。大きな羽根枕の真ん中に、ナギからすれば不思議なほど小さな頭をすっぽりと埋めるようにして横たわる女がいた。

 真っ白の掛け布が、出産で力を使い果たして血の気のない顔をいっそう青白く見せている。

 そこには、今日この日、この場所で出産という人生の一大事を見事に成し遂げた母親となったアリカがいた。アリカはナギの妻だけではなく、今日からは生まれたばかりの母となっていた。

 

『アリカ』

 

 らしくもなく小さく妻の名を呼ぶと、アリカは僅かに睫毛を持ち上げた。

 

『―――――ナギ』

 

 ナギは手を伸ばして、妻の汗ばんだ額に張り付いた金色の髪の一房を、そっと取りのけてやるとアリカは青く隈の浮いた顔でうっすらと微笑んだ。それは男には出来ない子を産んだ母にだけ浮かべることの出来る、偉業を成し遂げた誇らしげな、そして優しい笑顔だった。

 普段は綺麗に整えられている髪もほつれ、頬も扱けて濃い疲労の跡を残してはいたが、ナギが今まで見た中で最高に素敵な笑顔だった。

 

『ありがとう。お疲れ様、よく頑張ってくれた』

 

 ナギはアリカに心からの感謝と初産を乗り越えてくれたことへの感謝と労わりの言葉を伝えた。

 

『ん、正直しんどかった。まさか、本当に二人も入っていたとは思わなかった。道理で重かったわけだ』

 

 アリカは頷き、初産でありながら双子という苦難を越えて疲れながらも精一杯の笑顔を見せてくれた。

 

『良く頑張った。子供は?』

『生んだ途端に連れて行かれてな、私も見ていない。お義姉様が用意してくれている産湯に着けて下さっているらしいから、そろそろ戻ってくると思うが…………』

 

 ナギがそわそわと気もぞろにアリカに尋ねて旦那の様子に笑みを浮かべながら彼女が答えを返した瞬間、ナギが入ってきたのとは別の扉の外から『入るよ』と老婆の声がした。

 

『赤ちゃんだ! どうぞ、早く開けてくれ!』

 

 アリカは瞳を輝かせて、出産による疲労が色濃く残るのも忘れて肘をついて起き上がろうとした。しかし、出産で体力を消費しきっているので自分の体を支えきれず、ナギが慌てて背中を支えるのと扉が開くのは同時だった。

 

『ああ、私の赤ちゃん!』

 

 開かれた扉から村唯一の助産師である老婆とナギの兄の嫁の二人が入ってきた。二人の両腕の中に白い産着に包まれた小さな命がいた。

 

『今は寝ておるから小さな声でな。間違っても叫ぶんじゃないよ、特にナギ』

『分かった。分かったから早くっ』

 

 アリカが感動している横で思わずナギが口を開けて叫びそうになったのを見た老婆が制止した。老婆に、ナギも大袈裟に頷いて了解し、慌てて小声で言った。

 

『抱かせてもらっても構いませぬか?』

『ええ、貴方達の子供なのだから許可なんて必要ないわよ』

 

 おっかなびっくり手を伸ばすアリカに、ナギの兄の嫁は数年前に出産を経験した当時の自分のことを思い出しながら手渡した。

 

『こ、こうか? こんな風でいいのですか?』

 

 新米お母さんらしく、ぎこちない仕草で我が子を抱いたアリカはナギの兄の嫁に自分の抱き方がおかしくないかを何度も尋ねる。

 

『大丈夫よ。手もあんよも、首も、ちゃんと包んであるから』

 

 アリカの義理の姉は自分もこんな風だったのかと娘を産んだ時の気持ちに立ち返り、村人に預けて来た娘にどうしようもなく会いたくなった。あの子供特有の温かい肌の温もりがどうしようもなく愛おしくて仕方がない。

 

『ん、温かい』

 

 義姉の保証を貰ったアリカは我が子から感じる体温に自分が出産した実感を得た。出産を終えてまだ間もないというのに、我が子を抱く妻の顔が、もうすっかり母親のそれになっていたのでナギは見惚れてしまった。惚れ直したと言ってもいい。

 

『お、俺も抱かせてもらってもいいか?』

『お前もこの子達の父親だよ。許可など求めなくてもよかろうに。全く似たもの夫婦だね』

 

 普段は人に少しは上げた方がいいと思うぐらい無駄に自信満々なのに、今はおずおずと自信なさげに聞いてくるナギの行動の可笑しさに柔らかい声音で答えた。

 老婆は遠い過去の悪餓鬼だった子供が親になったことに感慨を覚えながら、生まれたばかりのもう一人の赤ん坊を差し出した。

 

『ええっと、首がすわっていないから、気をつけないといけないんだよな』

 

 妊娠が分かってから妻と一緒に勉強した知識を思い出しながら、老婆から受け取った赤ん坊を怪しい手つきで受け取って抱き締める。戦闘以外では不器用なナギの為に行っていた既に伝えた安全策のことは耳に入っていなかったのだろう。

 

『軽いなぁ。それにこんなにも小さい』

 

 受け取った赤ん坊は信じられないくらいに軽い。細すぎる首を見れば、少しでも力を加えただけで簡単に壊れてしまいそうな恐怖をナギに与える。それは我が子を抱くアリカにしても同様だった。

 

『どっちが先に生まれたんだ?』

 

 言いながらナギはアリカと抱いている子供を交換する。全ての行動がおっかなびっくりなのは、万が一にも手を滑らせて落としたら大変だとの思いから慎重になっているのだ。

 

『いまナギが抱いている薄ら金髪の子が弟だよ』

『て、ことはアリカが抱いてる薄ら赤髪の子が兄貴か』

 

 ナギに抱かれた赤ん坊がどこかむずかる様にしていているのは抱き方に問題があり、アリカの下だと安らかな寝息を立てているのはそこら辺に理由がありそうだ。

 

『目はまだ開かないのですか?』

『それに泣かねぇんだな。赤ん坊って何時も泣いてるもんなんじゃねぇのか』

 

 と、兄である赤髪の子を抱くアリカが我が子の目を見たさに疑問を呈し、ナギが少しピントのズレた疑問を続けた。

 

『そう、急ぎなさんな』

 

 義姉は部屋の外で待っている自分の旦那に詳細を伝えるために退室したため、残った老婆が答えることになる。

 

『疲れてるんだよ。お母さんも大変だけど、赤ちゃんだってこの世に出てくるには頑張らなきゃなんない。産声はしっかりと上げているから、散々泣き疲れて、ようやく一息ついて寝てるんだ。直に嫌ってほど元気よく泣き出すんだ。今は無理に起こすもんじゃないよ』

 

 出産で疲れたのか、腰をトントンと叩きながら老婆が一仕事を終えた良い顔を見せる。

 

『寝てるのに手は握ったままなんだな』

 

 ふと、ナギは寝ているというのに手は握ったままの赤ん坊を見下ろして首を捻る。

 

『幸せを逃がさない為さ』

 

 あまりにもナギの赤ん坊の抱き方が拙すぎたので、正しいやり方にしながら老婆が言うと赤ん坊も安らかな寝息を立て始めた。

 

『赤ん坊の手の中には沢山の夢が詰っているのさ。でも、手を開いた瞬間にみんな飛んで行ってしまう。だから、人は失くしてしまった夢をもう一度掴むために生きている』

 

 臭い言い様だがね、と老婆は生まれたばかりの赤子達を優しい目で見つめると、もう一度自分の腰をトントンと叩いた。

 

『これからは毎日が戦いだよ。素晴らしい日々ではあるが頑張って育てな』

 

 老婆は最後に年季の入った顔に深々と皺を滲ませてニッコリと笑みと、部屋を出て行った。

 見ての通り、高齢での出産の立ち合いは想像を絶する。それも初産の母親に双子の取り上げともなれば、体力の消費がズッシリと全身に伸し掛かっているだろう。疲れた仕草一つ見せずに、親になったばかりの新米達に激励の言葉を残して去って行った老婆に二人は深い謝辞を捧げた。

 部屋に二人と、生まれたばかりの赤ん坊達だけが残される。

 互いに手に持つ赤ん坊を見ていて、最初に口を開いたのはナギだった。

 

『名前、考えたか?』

 

 生まれる子が双子だと分かってからは、先に生まれた方をアリカが、後に生まれた方をナギが名前を付けることにしていた。ちょうど、互いに抱いている方の名前を付けることになっているので都合が良かった。

 

『勿論、決めている。この子はネギ、ネギ・スプリングフィールドだ』

 

 得意そうに生まれたばかりの我が子を見下ろしてアリカが宣言する。

 

『ネギ? なんでまたそんな名前に』

『分からないか?』

 

 悪戯っぽく笑うアリカ。鳥頭と言われたこともあるナギでも少し考えれば分かった。

 

『もしかして俺の名前から取ったのか?』

『その通り。ナギのように育って誰にも負けない強い男になってほしいと願っての。丁度、ナギと同じ赤髪じゃしな。アギやノギと他にも候補はあったがネギの方が響きが良かったからこちらにしたのだ』

 

 それだけ言われれば嬉しくないはずがない。だが、ナギは何度か『ネギ・スプリングフィールド』と口の中で転がしてみて、重大なことに気がついた。

 

『でもな、ネギって食い物のことじゃねぇのか』

『あ』

 

 イギリスではスプリングオニオンと呼ばれているが、数年前まで日本に住んでいたことが二人に食用のネギを連想させた。

 そこまでは頭になかったアリカは自分の子供に食べ物の名前をそのまま付けてしまったことに気付いて慌てる。

 

『ま、待て! 今のはナシじゃ! やり直しを要求する!!』

『いいじゃねぇか。語呂もいいし、いい名前だと思うぞ。まぁ、食い物名前ってのがあれだけどな。そんなに叫ぶとネギが泣くぞ』

 

 顔を真っ赤にしてやり直しを要求したアリカだが、クツクツと笑うナギの言う通り、母の叫びに赤毛の子がむずかるようにして泣きそうになっていた。

 

『おお、よしよし。ネギよ、泣くでないぞ』

 

 腕を揺り籠のように小さく揺らして宥めると息子は直ぐにまた寝たようだ。聞き分けのよさそうな息子にアリカの頬を緩む。

 

『やっぱりネギで決定だな』

『は!?』

 

 つい、自分でも咄嗟に息子を宥める時に『ネギ』と呼んでしまったことに遅まきながら気がついた。全ては遅きに逸していた。

 こうなったらナギが考えただろう名前が変であることに一縷の希望を託した。そうすればそれを理由にしてネギの名前も変えられる。

 

『う~、そういうナギはどのような名前を考えたのだ』

『俺か?』

 

 言われたナギは我が子を見下ろす。

 名前は最初から決めていたことだけれど、それを口にすることは少し躊躇ってしまう。呼んでしまえば、もう後戻りは出来ない。自分のしていることは、きっと間違っている。そんな思いが拭いきれない。それでも、ナギは名を呼ぶことを選んだ。

 

『アスカ…………お前の名はアスカ・スプリングフィールド。お前の名前だ』

 

 そう告げると、生まれたばかりの我が子が腕の中で分かるはずもないが気に入ったのか笑みを見せる。

 

『そうか、お前も気に入ったか。悩みながら考えた甲斐があったな』

 

 アスカが笑ったのは偶然だとしても零れてくる笑みを抑えきれない。この喜びはなにものにも代え難く、後悔はなかった。

 

『アスカとは、どういう意味なのだ?』

 

 思ったよりまともな名前だったので、由来が気になったアリカは問いかけた。

 

『お前の名の『アリカ』から名前を取って『アスカ』にしたんだ。勝手で悪ぃけど使わてもらったぜ』

『わ、私の名を取ったのか!?』

『それとアスナの名もな』

 

 まさかナギが自分の名前を取って息子に付けるとは思っていなかったので、アリカは頬が真っ赤になるのを感じた。

 

『後、アスカを日本の漢字に直すとな『飛ぶ鳥』と書いて『飛鳥(あすか)』って読めることに気づいてな』

 

 母となるアリカと、今はガトウとタカミチと行動を共にしているアスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアから一文字を取り、『アスカ』と名付けた我が子を見つめるナギは彼らに訪れるだろう過酷な運命を想う。

 

『どんな籠に囚われても破壊してどこまでも飛んで行けるように、囚われず、捉われず、捕らわれず、どこまでも、地の果てまでも己が翼で飛び立って欲しい。そんな男になって欲しい。願わくば自分だけじゃなくて色んな人に希望を与えられたらって望むのは贅沢だけどな』

 

 続けられたナギの嘗てないほどの真面目な言葉にアリカは背中に芯が入るのを感じた。

 自分達は色んな柵に囚われている。世界、過去、因縁、数えきれないほどの柵に。夫婦で子供に願ったのは同じことなのだ。アリカもまたネギに同じことを望んでいたのだから。

 

『やっぱ、駄目か?』

『いや、いい名前じゃ。この子にはこれ以上相応しい名前はない』 

 

 思索に耽っているのを怒っていると勘違いしたのか、ナギが心配そうに聞いてくるのを否定する。

 ナギが英雄として様々な物を背負っているように、自分も世間では死んだことにされていても災厄の女王としての重荷がある。アスカと名付けられた子は金髪をしている。男の子なのだからナギに似て欲しいと思うが金髪である。万が一でも自分に似てしまったら、と考えて背筋を怖気が走る。

 もし自分に似てしまったら考えている以上の苦難がアスカを襲うだろう。自分達が必ず傍にいて守ってやれるとは限らない。

 

『名は体を表す、と日本の諺では言うのだろう。少しでも名前がこの子の力になってくれるなら、それ以上のことはない』

 

 その時に少しでも名前が我が子を守ってくれるなら僅かながらでも救いになるだろう。

 

『ああ、この子達のこれからには多くの苦難が待っているかもしれない。それでも―――――』

 

 腕の中にいるかけがえのない、たった一つの大切な宝物。 

 誕生したばかりの生命を前に怖々ながらもその感触を確かめようと赤ん坊の頬に触れた時、指先に伝わってきた肌触りはあまりにも柔らかく、少しでも力の加減を誤ればか細い陶器のように壊れてしまいそうな脆さに酷く戸惑った。

 そして赤ん坊が、アスカがナギの指を握り、あどけない笑顔を見せた瞬間、戸惑いは喜びに変わり、命の尊さを自覚したのだ。

 

『俺達の子供に生まれてくれてありがとう』  

 

 今こうして実際に子供を抱いて、そして子供を抱く妻の姿を見て思うことは、ただこの子達に幸せになって欲しいということだけだ。妻がずっと傍で微笑み、そして子供達が誰よりも幸せであることがナギにとって、何にも代えられない幸せになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『雷速』という代物は中々に厄介である。恐ろしく強力なのだが、厄介ごとも数多い。

 まず速すぎることである。慣れない内は、相手が逆に遅すぎて普通のスピードで動く存在に触れられなかった。

 更に心身への負担。雷速の世界に五分もいると、体が激しく軋みあげる。通常速度の世界とは流れる時間が異なるため、その差異を処理する脳が悲鳴を上げる。また二十分も使い続けると、雷速をオフにした時、時差ボケを百倍強烈にしたような不快感が襲ってくる。

 ネギは修行の段階で、スピードがつきすぎて中々通常速度に戻って来られず、ずっと雷速のままでいた時もある。ちょっとした浦島太郎だ。

 人の体のまま雷速へと至るから厄介なのだ。速きことが当たり前の姿、閃電のスピードこそが本質たる状態になればいい。

 人によっては狂気とも考えられる思考の下、ネギは辿り着いた。

 一時的にせよ人の肉体を捨て、雷天大壮発動時に自身の体を完全に精霊化してしまえばいいと。人としての肉体を解き、プラズマの塊に化身したのだ。

 勿論、人を捨てる気はないので専用の術式を開発しなければならず、初期はミスをしてうっかり戻れなくなりそうなことが何度かあったが。だが、それだけの甲斐はあって雷速突入による心身への負担が皆無となり、後顧の憂い無く戦える。

 物理攻撃も意味もなさなくなるので無敵に近いが、同時に代償として精霊の弱点も抱えることになった。

 雷天大壮発動時のネギの天敵は人を護り魔を狩る退魔の剣である神鳴流。特に『神鳴流奥義・斬魔剣弐の太刀』は相性が悪すぎる。大戦期のナギやラカンともいい勝負を出来るだろうが、全盛期の詠春には惨殺されるだろう。

 とはいえ、雷速のネギに反応出来るのは英雄級のとんでも馬鹿か、対応できる技術を持つ者。そして雷のアーウェンルンクスである2(セクンドゥム)もまた雷速に近い領域にいた。

 

「先手必勝!」

 

 大地を蹴ったそのひと跳びで、雷の速度で2(セクンドゥム)との間合いが一気に詰まる。大地を蹴ったことで撥ねた小石が地面に落ちるよりも、ネギが肉薄する方が遥かに速い。

 勢いに任せて繰り出した飛び蹴りを2(セクンドゥム)の両腕が受け止めたが、それをガードの上から叩き潰す。ネギの一撃は腕もろとも2(セクンドゥム)の腹へと食い込んだ。

 

「ぬぺろがまぁ!?」

 

 大柄な身体が軽々と吹き飛ぶ。しかし、彼は空中で体勢を立て直しながら、その両手で地面を掴んで無理矢理に着地する。

 

「どいつもこいつも…………」

 

 自分達以外の全てを傲慢に見下す表情をかなぐり捨て、荒々しい本性を剥き出しにした2(セクンドゥム)は全身に殺気を充満させた。

 

「後少し…………最後の最後に安い逆転劇など許さん。完璧な勝利のために、もはや手加減はしない。貴様らに冥土の土産に教えてやろう! この造物主の使徒で最強の2(セクンドゥム)が本気になれば、貴様らなんぞ虫けらだということを!」

 

 全ての虚飾を捨てきった激しい感情のまま、四つん這いのままで2(セクンドゥム)が牙を剥いて吠えた。

 2(セクンドゥム)が吠えている間にも、ネギは飛び掛かっていた。

 空いた距離など、ただのひと跳びで十分に詰まる。

 再び2(セクンドゥム)へと迫りながら拳を振るう。風を置き去りにして、2(セクンドゥム)が着地した際に巻き起こった砂塵を切り裂いた。

 崩れた体勢を整えるために距離を取ろうと、後ろへ跳ねた2(セクンドゥム)よりも、先に大地を蹴ったネギの二歩目の方が速い。

 2(セクンドゥム)が逃れようと跳ねた時、地面を蹴った為に遅れた形になっている足をおもむろに掴み、思いきり振り回す。2(セクンドゥム)の体がそのまま地面に叩きつけられ、大地が抉れる。

 ネギは掴んだままの2(セクンドゥム)の身体を更に振り回し、今一度叩きつけようとする。

 だが、地面に激突する寸前、2(セクンドゥム)は傲慢な性格からは想像もつかないほど器用に身を反転させて四肢を付いた。

 

「貴様ッ!」

 

 侮蔑していた相手に文字通り振り回された2(セクンドゥム)が怒号を上げた。

 ネギに背を向け、片足を握られた姿勢ながら、動く動作は俊敏極まりなかった。握られていない足が勢いよく振るわれ、無詠唱で放たれた雷の斧がネギの腕を切り裂きながら逃れる。

 生憎、切り裂かれる前に腕を分離して逃れたことでネギにとっては何ら通用は感じない。

 ネギが切り裂かれた腕を再結合している間に2(セクンドゥム)はその勢いを殺すことなく、全身をくねらせて身体を反転させてネギに向き直りながら、今度は腕に雷の鎌を手にして横薙ぎに叩きつけた。

 ネギは咄嗟に無詠唱で断罪の剣を使って弾いた。火花が散り、激突する甲高い悲鳴を上げる。

 

「くっ……」

 

 確実に攻撃を受け流したはずが、2(セクンドゥム)から繰り出された重い一撃は凄まじい膂力を発揮してネギの身体を揺るがした。

 生じた一瞬の隙をつき、2(セクンドゥム)が大きく真上へ跳ね上がる。

 ネギのように完全雷化して雷そのものとなった速さには劣るものの、2(セクンドゥム)は単純な速度ならばアスカにも勝るだろう。造物主によって能力値を最大値に設定され、速度に優れる雷属性を得意とする面目躍如である。

 2(セクンドゥム)を追い、ネギもまた地を蹴って跳び上がった。こと速度において雷化したネギを上回るには雷を越えなければならない。一瞬で追いつき、殴りかかる。

 だが、その一撃を2(セクンドゥム)は器用に身体を捻ることで回避し、間髪入れずに前蹴りの一撃をぶつけた。

 

「ルイン・イシュクルと同じ完全雷化能力か。その程度でこの2(セクンドゥム)様に有利に立てると思ったか!」

 

 完全雷化していても攻撃の時に実体化しなければ、打撃戦で与えるダメージは雷のみとなる。自分の攻撃にほぼ交差する形で叩き込まれた一撃を回避することはできず、辛うじて防ぎながらも、今来た道を遡るように地面へ叩きつけられる。

 

「確かに強い」

 

 すぐさま起き上がったが、巨像の全体重を叩き込まれたかのように両腕が痺れていた。大地に衝突したことで受けたダメージは微々たるものであったが、2(セクンドゥム)の実力は予想を上回ることを認めざるをえなかった。

 

「反対に貴様は少し期待外れだったな。速さ任せで技量が追いついていない」

「そう言う割には油断がないようだけど」

「獅子は兎を狩るにも全力を賭すというようだが、貴様は兎ではない。少なくとも獅子たる私を噛み殺すだけの力はある。油断などするはずもなかろう」

 

 ネギが立ち上がった場所から僅かに離れた所に着地した2(セクンドゥム)にも油断の気配はない。

 

「雷速の貴様の方が速いが、せめて後十年研鑽を積むべきだったな」

 

 差はあれど、互いに神速の域に達した二人すれば、この距離は瞬きよりも早く詰まる距離だ。

 

「…………そうだね。多分、十年後に戦っていれば僕が圧勝出来ただろう」

「所詮は過程の話だ。貴様は此処で死ぬ。造物主の使徒たる私に殺されるのだ!」

 

 ネギはたかだが十年と少しの年月を生きただけに過ぎないただの人間。相手は世界救済を神に宿命づけられた戦士。

 

「言っただろう。倒されるのは君達の方だって!」

 

 総合的なポテンシャルでは、今はまだネギは2(セクンドゥム)に敵わない。今までのような油断を突いての不意打ちも恐らく通じない。だからネギが勝つには短期決戦。この一瞬で決着をつけるしかない。

 だが、2(セクンドゥム)の動き出しの方が速かった。ネギが次の行動に移るよりも速く、彼の周囲には雷の投擲が無数に展開されている。雷鳴を鳴らして一斉に襲い来る。

 

「………………くそっ!?」 

 

 避けられる物量ではない。展開したままだった断罪の剣を盾とし、正面突破を計ろうとしても相当の傷を負うのは免れない。

 ナギ・スプリングフィールド杯決勝でのアスカとの戦い。後半は我を忘れて暴走していたが都合の良いことに記憶は残っていた。闘いの中で完全雷化していたネギを、アスカは雷系の技で傷つけている。完全雷化による回避も同じ雷属性の攻撃には絶対ではない。

 

「超えてみせる!」

「させんがな!」

 

 跳ぶと同時に断罪の剣を盾にしたたまま突き進む。それでも、なお、2(セクンドゥム)の攻撃は激しさが増しこそすれ、収まることはなかった。

 

「英雄と女王の落とし子よ。此処で等しく消え去るがいい!!」

 

 ネギの眼前には数百本の雷の槍が雨の如く飛来する。

 雷化しようともネギ自身の体積は変化できない。雷の速度であっても雨のように降り注ぐ雷の投擲の狭すぎる隙間を通過することは不可能。

 例え雷の雨を抜けようとも、先の雷の投擲の術式展開速度を見れば、速度同様に並外れていると見た方がいい。直ぐに軌道を修正して、文字通りの針鼠ならぬ槍鼠にするまでネギを追い詰めにかかるだろう。

 

「それでも、前へ!!」

 

 飛び来る槍を左手で握り潰し、別の雷槍を断罪の剣で斬り落としながら更に前へ出る。

 

「前へ!」

 

 直撃しないものは避けない。長い髪の毛が千切れ、皮膚を裂かれ、肉まで抉られるが、戦闘に支障さえでなければ構わない。アスカは、生徒達は、もっと苦しみ辛かったはずだ。この程度の苦痛は意地で噛み殺す。

 

「小賢しいわ!」

 

 こじ開けた隙間を埋めようとするネギの頑張りを嘲笑うように雷の投擲の数と速度が上がった。

 

「…………ぐ!?」

 

 2(セクンドゥム)の攻勢が増すにつれ、徐々にネギの動作が遅れ、それが身体の傷を増やしていく。辛うじて致命的な直撃を裂けるのがやっとだが、時間の問題だということは分かっていた。

 

「僕はバカだから前に進み続ける……っ!」

 

 血肉を散らせながら、それでも進む。致命打を受ける前に2(セクンドゥム)を叩くしか勝つ術はない。

 後、一歩で槍の壁を抜けて拳が届く間合いに入る。地に足がつく。そのまま、ネギは地面を蹴り砕き、前へ跳んだ。

 

「小僧が舐めるなっ!」

 

 ネギの踏み込みよりも早く一歩下がっていた2(セクンドゥム)は叫びながら、両手に握る自分よりも長い雷霆を一つに束ね、より長大な稲妻の槍を振りかぶっていた。

 稲妻の槍がネギ目がけて突き入れられる。

 地を焼き尽くし、触れた物を全て破壊する雷光が閃光を伴って大地を這うように襲い掛かり、大気を震わせる轟音がその場にいた全ての者の臓腑へ叩きつけられた。

 2(セクンドゥム)の放った稲妻の槍は触れたもの全てを轟音と共に穿つ。先に放たれていた雷の投擲によって幾つも穿たれた地面に、新たな大穴が開いていた。数十メートルにもわたる地面が深々と抉れ、長い溝を作り上げている。

 だが、2(セクンドゥム)の勝利の笑みは目の前に立つネギの姿を前にして容易く崩れ去った。

 例え雷の速度であろうと回避不能な神速の一撃を、ネギは自らを極限にまで細分化して避けるという荒業に出た。

 闇の魔法に習熟してきたといっても基本は人間でしかないネギが自らを細分化するなど危険が大きすぎる。自らの肉体を再構成出来るだけの強い意志がなければ普通ならば元の形を取り戻せずに消滅しているところだ。

 

「馬鹿な! 今のを避けただと!?」

 

 必殺を信じて疑わなかった全てを穿つ一撃を躱された2(セクンドゥム)は逃れようとまた後ろに跳ぶ。

 ネギは止まらない。2(セクンドゥム)の眼前に再構成する。

 

「解放固定・雷の暴風! 雷の投擲!」

 

 あらかじめ呪文を唱えていた術式を解放し、右手に雷の暴風を、左手に雷の投擲を収束させた塊が現れる。

 

「術式統合!!」

 

 戦闘面に特化しているナギとアスカとは方向性が違うネギの持ち味は、莫大な魔力や技能でも努力でもなく類稀なる頭脳から作り出される開発力にある。一流大学の教授の知恵と努力を軽々と上回る天才性。闘いの場ではなく、新たなる魔法理論と魔法技術の開発の場こそがネギがいる舞台。

 

「巨神殺し『暴風の螺旋槍』」

 

 暴風の螺旋槍はネギが開発した融合オリジナル呪文である。千の雷と雷の投擲の術式統合した雷神槍のバリエーションの一つ。

 暴風の螺旋槍は千の雷と雷の暴風では投入される魔力量が十倍も違うので、単純な破壊力では雷神槍よりも遥かに劣る。が、コストパフォーマンスに優れているだけで、このような場面に暴風の螺旋槍を使うはずがない。

 

「奇策を用いようともっ!」

 

 雷速には劣るとはいえ、驚異的な速さでフェイトと同じ曼荼羅のような多重高密度魔法障壁を展開して強化する。

 その瞬き以下の直後、暴風の螺旋槍と曼荼羅魔法障壁が衝突して、接触点から目も眩むような閃光を発する。

 

解放(エーミッタム)! 抉れ雷の狂飆!!」

 

 螺旋の槍が回転して、穿つ力を全開にするして直進する暴風の螺旋槍は止まらない。

 雷系最大の突貫力を有する魔装兵具である轟き渡る雷の神槍を上回る暴風の螺旋槍が、2(セクンドゥム)の曼荼羅魔法障壁を少しずつ抉りながら直進していく。

 

「何、だと……っ!」」

 

 ジワジワと抉りこんでくる暴風の螺旋槍を前にして、魔力の全てを多重高密度魔法障壁に注ぐ2(セクンドゥム)の顔には恐怖の色が浮かんでいる。さながら目の前にある透明の壁を削り取りながらチェーンソーが迫っているようなもので、常人ならば恐怖で発狂してもおかしくはない。

 

「超えろっ!」

 

 更に叫びと共に魔力が込められた暴風の螺旋槍が回転力を上げる。同時に曼荼羅魔法障壁を削る音が大きくなった。

 この近距離では回避することは出来ない。避けるよりも暴風の螺旋槍が2(セクンドゥム)に届く方が早い。それどころか防御に少しでも力を抜けば忽ちの内に食い破られる。

 

「なんだ…………なんだこれは!? 使徒の多重障壁を無きの如くなど」

 

 それは2(セクンドゥム)の知らない感情だった。

 

「主より世界の守護者として莫大な魔力と戦闘力を与えられた私を、ただの人間が超えていくなどありえていいはずがないのに!!」

 

 2(セクンドゥム)を襲う感情が恐怖であると彼に教えてくれる者はいない。彼は奪うことにだけ慣れていき、造物主の命に従うことを当然としてきた。だから逆境における身の処し方を知らなかった。

 

「デ、デタラメだ!? わわ、私はこんなことは聞いていないぞ?!」

 

 使徒の中でもパラメーターを最大に設定されて最強のはずの2(セクンドゥム)が多重障壁に全魔力を回しているにも関わらず、恐怖を煽るように徐々に暴風の螺旋槍が抉り込んでいるのを見て狂乱する。

 

「嘘だ! 私は負けない! 私が負けるはずがないんだ――――っっ!!」

 

 そういう肥大化した自意識と、恐怖だけが死に行く2(セクンドゥム)の心に染み込んでいて、虫の羽音の如き不快な声を放っていた。口元には涎。眼鏡は炯々とし、表情は野獣のそれだ。先ほどまで見せていた余裕気な態度はどこにもない。

 

「ま、ままっ待て待て待て!! はっ、はなっはっ話し合おうじゃないかぁ、あぁぁッ!?」

 

 遂に暴風の螺旋槍の穂先が障壁を突破した。ガガガガ、と今も障壁を抉り続けていて、そう遠くない内に自身に到達するのを否が応でも実感した2(セクンドゥム)は、目の前に迫る特大の危機に今まで自分がしたことを忘れて命乞いを始める。

 

「我々の目指す場所は最終的に同じハズァッ?!」

「――――同じ場所だって?」

 

 最後の一押しを押す前に、槍投げの選手が投擲する前に力を溜めていたネギは2(セクンドゥム)の命乞いの一部分の言葉を繰り返した。

 

「そ、そっそそうだ! 望むのは同じ平和な世界のはずだ我らは協力できる」

「じゃあ、お前が木乃香さんや皆にしたことはなんだ!」

 

 勢いが弱まったと勘違いした2(セクンドゥム)は脈ありと言葉を重ねようとしたが、遮るようにネギが喝破する。

 暴行他、数え上げれば切りがない。その全てを知るわけではないが、木乃香の姿から彼女らが味わった苦しみを察した。その上で覚悟する。例え、人形であろうとも命を奪う覚悟を。

 

「償え、なんて言わない。僕にそんな資格はない。ただ、僕は僕の感情で君達を倒すと決めた!」

「や、止め……」

「ハァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!」

 

 2(セクンドゥム)が止めようとするが最初からネギは緩める気など欠片もない。雄叫びと共に遅々としていた進みの中で溜めていた力を一気に解放し、多重障壁を完膚なきまでに破壊して2(セクンドゥム)を貫く。

 

「い、いっいいいい嫌だぁッ、あああああああああああ―――――ッッッッ!?」

 

 暴風の螺旋槍はあっさりと2(セクンドゥム)に大きな穴を開け、螺旋の槍部分が回って胴体を抉り取る。回転を続ける暴風の螺旋槍に身体の内側から抉り取られ、2(セクンドゥム)は汚い悲鳴を漏らしながら核の消滅に伴って残った四肢と顔もやがて消える。

 

「……っ、くはぁ」

 

 2(セクンドゥム)の消滅に伴い、戦闘態勢を緩めたネギは肺に溜まっていた空気を吐き出す。

 

「強い、敵だった」

 

 ネギの雷速には及ばないもののかなり速度で、アスカとは違う方法で対応してきた2(セクンドゥム)は間違いなく強敵だった。戦いが長引けば勝者は逆であったかもしれない。

 

「それでも勝ったのは僕だ」

 

 人形とはいえ、命を奪ったことに揺らぐことはない。例え揺らいだとしてもこの戦いが終わった後だ。

 他の戦いに加勢しようと顔を巡らせたところで、ヒヤッとした冷気が肌を震わせる。

 

「ほう、もう終わったか」

 

 冷気の元はネギよりも早く、相対した6(セクストゥム)を氷漬けにしたエヴァンジェリンである。

 戦いを終えたネギが未だ解いていない術式兵装『雷天大壮』に興味を見せながら、ゆっくりとした歩みで近寄って来る。

 

「短期決戦でなければ敗けていたのは僕でした。師匠(マスター)のように実力で圧倒出来たわけではありません」

 

 余裕を以て倒せたと態度から分かるエヴァンジェリンに、やはり同じ闇の魔法を習得してステージは登れたとしても別格であると改めて認識する。

 少なくともネギには、2(セクンドゥム)と同型であるらしい6(セクストゥム)相手にこれほどの余裕を見せれる自信はとてもない。

 

「圧倒したのは当然だが、どうやらコイツは外れだったようだ。戦いに迷いが見えた」

「迷いですか?」

「アル曰く、ぼーやが戦ったやつ以外は最近になって起動したタイプらしいが理由は知らん」

 

 それこそ戦いに迷いを見せる理由はないのだとネギは思ったが、エヴァンジェリンには迷いが見えたというのなら事実なのだろうと疑いはなかった。結果としてエヴァンジェリンの前に敗れたのであれば特に知る必要も思い浮かばないのだから。

 

「さて、あっちはと」

 

 もう6(セクストゥム)に興味を失くしたエヴァンジェリンが視線を動かすと、そちらも佳境を迎えていた。

 4(クァルトゥム)で炎の塊が生まれた。それはただの炎の塊ではなかった。

 

「炎帝召喚!!」

 

 真紅に燃え盛る炎の中で、重油のような黒くドロドロしたモノが形を成していく。次第に人間の形を形成したソレ(・・)は巨人となって両手を広げる。だが、対峙している高畑とクルトにとってすれば大きな的でしかない。

 

「邪魔だ、タカミチ!」

「そっちこそ邪魔だ、クルト!」

 

 先を急ぐ様に斬撃が振り抜かれ、拳撃が撃ち放たれる。斬空閃によって攻撃を放とうとしていた腕が切り落とされ、下方から接近して顎に豪殺・居合い拳が打ち抜かれる。

 

「真・雷光剣!!」

「七条大槍無音拳!!」

 

 神鳴流の決戦奥義と居合い拳の奥義が全く同時に放たれては、両奥義を受けた炎帝もこの世から欠片も残さず消え去るのみ。

 

「ええい、紅蓮蜂っ!」

 

 相手を邪魔扱いするくせに息はピッタリな二人に苛立った4(クァルトゥム)は次の手を放つ。

 ザーッ、と音を立てるようにして、火を宿した蜂の群れが高畑を取り囲む。瞬動で移動しても着いてくる様は、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄だった。いくら振り切ってもピタリと張り付き、四方から体当たりを繰り出してくる。

 

「こいつらっ!」

 

 狙いを付けずに飛び上がりながら体を縦回転させながら無音拳を放つ。浮遊術も併用して全方位に拳圧をばら撒き、死角に滑り込んだ火蜂を打ち倒す。扇状に広がった拳圧と接触した端から小規模の爆発を連鎖させる。ストロボに似た閃光が連続して咲く。

 

「はっ、タカミチはそこで遊んでろ!」

「なにっ!?」

 

 まさか仲間を助けることもせずにこちらに攻撃を仕掛けて来るクルトに、同型シリーズであろうとも仲間意識は持たない4(クァルトゥム)であってもありえないことだった。せめて心配ぐらいはするだとう考えていて反応が遅れ、斬岩剣によって右腕を斬り飛ばされる。

 

「貴様ら仲間だろう!」

「タカミチも貴様も等しく敵だ!」

 

 即座に腕の切断面の組織を閉じると、クルトが4(クァルトゥム)よりも悪役らしい台詞を放ちながら切り返してくる。バランスを崩しながらも無様に避けると、そこへ紅蓮蜂を引き連れた高畑が瞬動の超速度で向かって来る。

 高畑の接近は4(クァルトゥム)に追撃をしようとしていたクルトにも見えていた。

 

「タカミチと一緒に死ねぇっ!」

 

 言葉通り、諸共にと言わんばかりに極大の斬空閃が直線状にいる4(クァルトゥム)も射程に巻き込んで放たれる。高畑は「死ぬかぁっ!」と叫びながら瞬動スライディングして、立ち上がろうとしていた4(クァルトゥム)の足をついでに刈り取る。

 斬空閃は標的二人を見失って紅蓮蜂を呑み込む。流石に極大・斬空閃を放ったクルトも技後硬直で動作の流れが止まる。その間に瞬動スライディングでクルトの横も通り過ぎた高畑が地面に踵を叩きつけて一回転。空中で回転して地面に下りる前に上下逆さまになりながらポケットに手を入れる。

 

「諸共にくたばれっ!」

 

 やられたらやり返す。

 千条閃鏃無音拳――――召喚魔を幾百体纏めて消し飛ばした拡散型無音拳がクルトを巻き込み、足を刈られて倒れ込んで起き上がろうとしている4(クァルトゥム)に向けられた。

 その直前、技後硬直から抜け出していたクルトは自分も高畑を巻き込もうとしていたのだから奴も必ず同じことをすると、激動の時代の中を共に過ごした理解が次の行動に移っていた。

 

「ぅおおおおお!」

 

 背後上空に力の高まりを感じ取る前にクルトの回避に成功している。極大・斬空閃を放ったポーズのまま、逆再生のように力の溜めも出来ず弱い斬空閃を放つ。しかし、今度は足の踏ん張りを利かせない。

 足の踏ん張りを利かせていないので、斬空閃がブースターのようにクルトの体を後方へ動かす。そして放たれた斬空閃は千条閃鏃無音拳を回避しようとしていた4(クァルトゥム)の背中を押す。

 多重障壁があるので傷をつける威力もないが、不安定だった体勢を崩す一助にはなる。

 

「ぐぉ……ガァアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!」

 

 完全に予想もしていない攻撃を受けて無様にも顔から地面に倒れ込み、その背中側から千条閃鏃無音拳が襲い掛かる。多重障壁に魔力を回す余裕もなく体が削られる。

 

「「チャンス!!」」

 

 敵が絶好過ぎる隙を見せると敵対していたはずの二人は揃って目を輝かせる。

 高畑は着地して振り向きながら、その横に後退していたクルトは更に切り返す。

 

「豪殺・居合い拳!」

「雷鳴剣!」

 

 最速にして最大の威力を放てる慣れた技を、これまた全く同時に4(クァルトゥム)に放つ。

 

「はぁああああああああああっっ!!」

「おらぁあああああああああっっ!!」

 

 今の攻撃で多重障壁が壊れたと見るや、連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打である。拳撃が飛び、雷撃が舞う。

 豪殺・居合い拳と雷鳴剣の連打が4(クァルトゥム)を隠し、自身の敵を倒したネギとエヴァンジェリンがあまりのオーバーキルに同情すらし始めたところで高畑とクルトは攻撃を止めた。

 

「やったか……?」

「やり過ぎた気がしないでもないが」

 

 前者がクルトとで後者が高畑である。権力者で実戦の場がどうしても高畑に劣ってしまうクルトの方が判断が甘い。高畑も途中で気づかない辺り、クルトの存在に看過されていた面もある。要はどっちもどっちである。

 

「議員になって鍛錬を怠ってないみたいで安心したよ。足を引っ張られたらどうしようかと思った」

「そっちも教師になって腕は落ちていないようだな。伊達に年は食ってないようだ」

「なにか言ったか? 全世界に公表された失恋野郎」

「別荘使い過ぎの若年寄。とても同い年とは思えんな」

 

 4(クァルトゥム)の消滅を確認した二人は相手を睨み付ける。

 敵を倒す時についでと言わんばかりに相手を抹殺しようと二人は、敵を倒した後も一触即発のままで顔を突き合わせる。

 

「仲の良い事だ」

「「誰が!!」」

 

 反発しつつも互いを理解し合っている二人をエヴァンジェリンが揶揄すると異口同音で返す。そういうところが本質的なところで仲の良いところではないかとネギは思った。

 

「ままならぬものだ」

 

 直後、ナギの声でナギの口調ではない造物主が使徒達の敗北に感情の籠らない言葉を吐く。

 ヴヴン……と、衝撃を伴った音波が大気を伝播して渦巻く黒い奔流が、周囲の地面ごとナギのしなやかやな身体を包んで呑み込む。アルビレオが放った重力の渦はあっさりとナギの身体を叩き落し、地面そのものが細かい振動にブレるように揺れて爆砕した。

 しかし、噴煙が晴れた後も造物主にはなんら痛痒の様子は見受けられず。更なる重力魔法で常人ならば体を百度捻じ切られてもおかしくない攻撃を受けながらも纏う黒いローブに傷一つなく立っている。

 

「人形は所詮人形。想定外が多い人とは違い、人形は設定を越えることはない。そういう意味では3(テルティウム)は人形ではなくなったと言ってもいい」

 

 話している間にも次々と重なる重力場を気にした風もない。

 空間が捻じられる音が響く。見ているだけでも骨が、筋肉が、内臓がギシギシと軋む。食い縛った牙も砕けてしまいそうだ。

 

「この体も馴染んできた。もう想定外はいらない。全てを、終わらせよう」

 

 その瞬間、その場にいる全員の時が凍りついた。重力場を事も無げに粉砕した造物主から目が離せない。

 赤色の髪を靡かせながら、彼らの下へと近づいてきた。歩きながら全身から何かが爆発的な勢いで噴き出した。魔力だ。黒色の魔力が絵の具のように世界に塗りたくられていく。暗黒、闇、負の塊。浸食する、それは闇そのものだった。

 

(…………今、確かに地平線の果てにまで続く骸骨と血の海が)

 

 造物主を中心にして徐々に徐々に周囲を蝕んで負の想念。果てが見えないほどに血の海が広がり、そこに骸骨が浮かんでいる。その中にあっても、あまりにも存在感が強すぎて造物主の周りだけ色が失われているようだ。

 ただ、あれは良くないものだと分かる。それだけは本能が、魂が理解している。

 ポタリ、と知らない内に浮かび上がった汗が、ネギの顎から滴った。それは冷や汗だった。恐怖と畏怖からか、額から汗が次々と浮かび上がってくる。体が小刻みに震え出した。全身から冷や汗が吹き出し、呼吸が激しく乱れている。

 対峙している相手は、造物主は、あまりにも異質だ。存在の根源が自分達とは違いすぎる。そしてあれに比べれば、自分達はなんとちっぽけな存在なのだろう。圧倒的な力を前に、ネギは絶望にも似た喪失感を感じていた。

 

「武の英雄達よ。羊達の慰めも、もういらない。ここを終わりと定めよう」

 

 憂いも嘆きも憎しみも混合した重い声。声自体はナギのものなのに、放つ根本の存在が違えばこれほど変わるのか、心の奥深い所を直に触るような原始的な恐怖を呼び起こす声だ。

 

「あ……っ!」

 

 思わず声が上がった。

 脳髄から爪先までを一気に突き通すかのような恐ろしく冷たい気配であった。例え氷の杭に腹部から喉元まで貫かれたとしても、これほどの衝撃はあるまい。

 冷や汗を頬へ伝わせるネギに、造物主はいっそ友好的と思えるように傲然と笑った。

 

「全てを満たす絶対解はない。全ての魂を救う唯一の次善策。絶望の帳が下りる前に永遠の救いに沈むがいい」

 

 歩くという動作にさえ、神の風格が漂っていた。世界を洪水で洗い流した神の如く、確信と傲慢に満ちて、造物主は高らかに告げる。

 

「――――――――その前に、愚かなお前達に今一度考える時間を与えよう」

 

 歩いて近づいて来る。放射される圧力が更に高まり、極度の存在感で肺が潰されそうだった。視線だけで人を殺せるではなく存在だけで押しつぶせる、過剰なまでに苛烈な負の化身。

 刹那、エヴァンジェリンをある感覚が貫いた。

 

「――!?」 

 

 何の装備も無く裸一貫で荒れ狂う海に投げ込まれたような、鉄を簡単に溶かす煮え滾る炉に放り込まれたような、底が見えない千尋の谷に突き落とされたような、そんな感覚。

 造物主の魔力は尋常ではない。ネギやエヴァンジェリンの魔力を巨大な山だとすれば、造物主のそれは海だ。どこまでも広く、深く、暗く、冷たい海だ。ただ淵に立っているだけでも、絶望が圧し掛かってくる。

 虚空の常闇。漆黒というだけでもまだ足りない。一切の光を吸い尽くして広がる無辺の闇だ。

 それは恐ろしい感覚だった。血が、骨が、細胞が、未知の異常を訴えて発熱しているのが分かる。そうして結露した汗が冷たい悪寒になり、喉元に畏怖の塊が込み上げてくる。

 カタカタと何か硬い物を打ち鳴らす音を耳元に聞いた。それは真祖の吸血鬼として様々な強敵を打ち倒してきたエヴァンジェリンの奥歯が鳴る音だった。

 

「この私が気圧されているだと!?」

 

 エヴァンジェリンは寒くもないのに震えていた。両膝は生まれたての山羊のように奇妙なほど笑っており、立っていることすらままならないほどである。

 恐怖が、本能的な恐怖が呼び覚まされているのだ。その原因となっているのは彼の瞳である。光を宿さぬナギの肉体の瞳の奥には暗黒が広がっており、こうして向き合っているだけで絶望して自殺しかけないほどの狂気が横たわっている。

 本能が逃げろと警告を発していたが、竦んでしまって足が動かない。十三階段を力尽くで上らされていくかのような絶望感が全身を支配していく。いっそのこと絶望して、自害して果てた方がどんなに楽かもしれない。

 横を見れば、ネギや高畑、クルト、アルビレオをもまた同様に脂汗を流して次々と膝を付く。

 

「――――――」

  

 造物主と眼が合った瞬間、ネギは糸を切られた操り人形のように、がっくりとその場に両膝をついた。造物主が何かしたわけではない。ネギの意志によるものでもない。

 

「う……」

 

 直ぐに立ち上がろうとしたが叶わなかった。意志とは無関係に、掠れた呻きが漏れた。

 足腰に力が全く入らなかった。なのに両腕は石のように強張り震えている。

 この感覚には覚えがある。極最近、つい数ヶ月前まで常に裡にあった全ての生命あるものが持つ本能と直結した感情、即ち恐怖だ。それがネギを跪かせたものの正体だった。

 

「完全なる世界を受け入れるも良し、今すぐこの場で死ぬも良し。さあ、選ぶがいい」

 

 眩暈と吐き気が止まらない。造物主から放射される闇が全身を貫いて荒れ狂い、凄まじい恐怖となって心を打ちのめす。ここでは、絶望だけが唯一の真実。

 

「受け………」

 

 小さなネギの呟き。逃げることが恥とは思えなかった。こんな絶望に立ち向かえる人間なんて、この世に存在するはずがない。世界は広くて大勢の人が暮らしているというのに、たった五人でこれほどの悪夢に相対せねばならないというのだ。

 

「受け入れる…………」

 

 こんな岩ばかりの殺風景な場所で、世界を背負った気になって闇に貪り尽くされるのは嫌だった。全てを投げ捨て、泣き叫びながら逃げ出したかった。

 

「受け入れるわけがないだろう!!」 

 

 しかし、ネギは既に闇を克服する術を会得している。ネギが習得した『闇の魔法』とは、善も悪も強さも弱さも、全てをありのままに受け入れ飲み込む力。恐怖を制し、御することで大きな力とする。全精力を振り絞って立ち上がる。

 闇を背景に佇む造物主からは、圧倒的なプレッシャーを感じ取ることが出来た。ネギは折れそうになる心を支え、強引に奮い立たせて震える足を無理矢理に動かして立ち上がり怒鳴った。

 

「アスカは逃げなかった! 立ち向かって見せた! なら、兄の僕が恐怖に負けるわけにはいかない!」

 

 世界のためなどではなかった。今の自分が感じる恐怖を知ろうともしない人々のことなど、どうでもいい。ただ自分自身の衝動に突き動かされて口が動く。

 

「良くぞ言った、坊や」

「全く見違えたよ、ネギ君。もう君を子ども扱い出来ないな」

「アリカ様の子ならば当然。これぐらいは言ってくれなければ困る」

「ふふ、クルト君も素直じゃない」

 

 造物主から発せられるプレッシャーは変わらず、絶望は体を戦きで縛り続けようとしている。だがネギの叫びに応えられないほど、彼一人を戦わせて震えていられるほど、彼らは腑抜けではない。

 エヴァンジェリンが魔力を猛らせ、高畑がポケットに入れた拳を強く握る。、クルトが剣を握る手に力を込め、茶々を入れたアルビレオに照れ隠しに凶悪とさえ見える目つきで睨み付けた。

 彼らは絶望に抗って次々と立ち上がる。這い上がる恐れを己が闘志で打ち消し、沸き起こる迷いを先達としての挟持で振り払う。

 

「愚かな選択だ。だが、それもまた人であるが故…………かかってくるがいい、武の英雄達よ。この体の真価をとくと味わうが良い」

「ぬかせっ!!」

 

 戦意を露わにする彼らを見渡し、ナギとは似ても似つかない諦めが染みついた目を向ける造物主に叫んだのは誰だったか。

 五人が一斉に飛び出し、狂ったように魔法を、剣撃を、拳撃を撃ち込み続ける。

 

「流石は武の英雄の体。今までとは格が違う」

 

 だが、そのどれもが効果を示さなかった。百を超えて炸裂した攻撃がようやく収まると、風に吹き散らされた爆煙の中心では、造物主が変わらぬ様子で佇んでいる。纏っている黒のローブがボロボロになったぐらいでダメージを受けた様子もない。

 

「この体を少しは試したい。精々、抗って見せろ」

 

 言いざま無数の煌めきが一点へと渦巻いて光の輪を形成する。そこへ向かって魔力が集まり出した。

 それは造物主が天に差し上げられた両手に集中しており、寸刻後、煌めきが一気に膨れ上がった。回転する光の輪が縮まるにつれて魔力は渦を巻き、空の下に太陽が降りてきたのかと思うほどの光輝を放った。

 それを見たエヴァンジェリンが呻く。

 

「まずいっ! あれは――」

 

 左右に開かれた腕の動きに従って半円状の軌跡を描き、身体の前に下ろされて組み寄せられた手に合わせて集積する。造物主の組んだ両手に、その光が余さず吸い込まれる。

 

「防ぐな! 避けろ!!」

 

 防御態勢に入ろうとしたネギに叱咤しながら、エヴァンジェリンは回避行動に移ろうとした。遅れて他の者達も動き出そうとする。

 しかし、その行動は遅きに逸していた。

 

闇に染められし血を求める剣(ダーインスレイヴ)

 

 魔法名と共に重ねた両手から凄まじい奔流となって闇の剣が撃ち放たれた。

 

「「「最強防護(クラティステー・アイギス)」」」

 

 間に合わぬと悟ったアルビレオとエヴァンジェリン、ネギの三人が精神を集中して掌を突き出した。三人の前に十ほどの対物理&対魔法に効果がある魔法陣を展開させ、彼ら以上の防御手段を持たないクルトと高畑は三人の後ろに下がる。

 両者が接触して、閃光と灼熱が膨れ上がり大爆発が起こった。

 重密度の閃光と極高温の衝撃波が撒き散らされ、大気が激しく鳴動する。閃光・灼熱・轟音が渾然一体となったそれらが岩のような質量を持って降り注ぐ。余波ですら、鉄すら一息に溶かす煉獄の焔となって荒れ狂う。

 展開していた一〇もある魔法障壁が粉々に砕かれ、大気中の力、その全てが凝縮され、爆発したかのようだ。悲鳴さえ、灼かれる。

 

「中位魔法で上位魔法を遥かに超えるだと…………魔力の桁が違い過ぎる」

 

 焦げ臭い空気と苦悶の声が流れる中、怪我を負いながらも起き上がることが出来ただけでもネギ達の非凡さを現している。

 

「耐えたか。すまぬな、もしかしたらやり過ぎてしまうかもしれん」

 

 陣が組まれ、切り替わり、複雑怪奇な魔法陣を形成していく。

 刹那、ドンと重い物が叩きつけられるような音と共に、造物主の周囲の地面が陥没した。

 

「――――ぐっ!?」

 

 その苦鳴を上げたのは、造物主だ。

 

「アルビレオ・イマ、古き書よ。まだ貴様は諦めぬのだな」

「その体、その声でそれ以上、囀らないでもらいたい!」

「私が自ら望んだものではない。これは貴様らの為した結果でもある。受け入れよ」

 

 アルビレオが更に力を籠めると、造物主を中心とした半径一メートル程の範囲内を通常の数万倍の重力が襲ったのだ。重力はドンドン強さを増してゆき、地面の陥没も深くなってゆく。だというのに、造物主は潰れも倒れもしなかった。僅かにつんのめっただけだ。

 

(これが効かないというのですか、造物主には!?)

 

 大してダメージを受けた様子のない造物主を見て、アルビレオが内心で唾棄する。

 魔法の効果は無限ではない。それよりも先に造物主が煩わしげに手を振るっただけで重力場が消え去った。

 

「神鳴流奥義! 極大――――」

 

 アルビレオに半瞬遅れて、必殺を決めて全力で剣先に電気エネルギーを帯電させながら落雷のような極大・雷鳴剣を放とうとクルトが横合いから造物主に迫る。

 

「地よ、割れろ。引き裂く大地(テッラ・フィンデーンス)

 

 クルトを見ることなく、造物主は煩わしげに振った手とは反対の手で足下に向かって何かを振りまくような動作を行う。

 すると激しい振動と共に熱風が、地面より更に下、大地の底から吹き上がった。どこからか現れた煮え滾る溶岩が一瞬にして床を覆い尽くし、空を赤黒く染めて荒れ狂う灼熱が、容赦なく神鳴流奥義を放とうとしていたクルトを悲鳴諸共に一瞬で呑み込む。

 

「クルト!?」

 

 長年いがみ合ったとはいえ、最も苦しい時代を共に過ごした同輩に救援が間に合わなかった高畑が名を呼ぶ。

 現れた時と同様の唐突さで溶岩が消える。どうやら呼び出された灼熱は、物理的に噴出したものではなく、魔法によって一時的に現れたものらしかった。後に残されたのは地面の焦げ目ときな臭い臭い、そしてクルトが深刻な痛手。

 

「く、そぉ…………あんな短い詠唱で最上位クラスの魔法を使えるとは。相殺してもこの威力、化け物め……っ!?」

 

 陽炎と蒸気の中を、クルトの苦悶の声が交差した。

 溶岩に呑み込まれたまさにその時、放とうとしていた極大・雷鳴剣で大部分を相殺しようとしたがしきれなかった。技を放った反動に身を任せて撤退していなければ、焼け爛れた足以上の被害を負っていただろう。

 僅か二小節の単語でフェイトがアスカとの戦いで使った引き裂く大地(テッラ・フィンデーンス)を放つ造物主の異様さ。

 

「来れ、浄化の炎。燃える天空(ウーラニア・フロゴーシス)

 

 動けぬクルトに止めを刺そうと思ったのか、クルトを見る造物主の右手に青白い炎が浮かんだ。瞬く間に紅蓮に染まった炎が放つ力は燃える天空に他ならない。しかし、この時既に、雷光を発したネギが懐に飛び込んでいた。

 

「はっ!」

 

 渾身の拳を、鋭い呼気と共に造物主の胴体に向けて放つ。

 

「自ら人であることを捨てようとしている愚か者よ」

 

 力を存分に込めたネギの拳には、大岩を塵に変えてしまうほどの威力がある。その威力は中級呪文にも匹敵する。絶好の一撃だった。しかしその拳が捉えたのは、造物主の胴体ではなく、目にも止まらぬ速さで持ち上げられて袖から露になった、造物主の左腕の肘だった。

 

「人へと還れ」

 

 至近距離でタイヤが破裂したような音がして、雷化しているはずのネギの拳が砕けた。術式に強制的に介入されたことで精霊化が解除され、骨が砕ける手応えが腕を伝わって頭に伝わってきた。

 

「ぐああああっ!!」

 

 痛みに目を剥き、苦悶の声を上げてネギが砕けた拳を抱えて首を擡げる。反対に攻撃を受けた造物主の腕は、多少赤らんだだけで傷一つついていない。

 

「させんっ!」

 

 敵の前で無防備な姿を晒すネギを刈り取らんと造物主が動いた刹那、半瞬で肉薄したエヴァンジェリンが背後から首を狙って手刀を放った。魔力を帯びたその手刀から伸びた断罪の剣が虚空に紫色の軌跡を描いて造物主を襲う。

 目前で無防備なネギを狙っていて隙だらけだった。が、首まであと紙一重というところで、造物主の手がエヴァンジェリンの手首を掴んだ。ただそれだけの衝撃波がネギを簡単に弾き飛ばす。

 吸血鬼の力にモノを言わせて筋肉がはち切れるぐらいに力を込めて振り解こうとしたが、造物主の手はビクともしない。

 

「非力だな。そんな有様では真祖の吸血鬼の名が泣くぞ」

 

 ネギを蹴飛ばし、心底失望したと言わんばかりに斬り上げられた造物主の手刀が虚空に赤い軌跡を描いた。

 腕に力を込めていたエヴァンジェリンは、力を入れる先を失って宙を泳いだ。

 

「「「おぉあッ!!」」」

 

 そこにエヴァンジェリンの後ろの左右上から、あちこちが焼け焦げたクルトが放つ斬撃が、高畑の拳撃が、アルビレオの重力が迫る。

 しかし、造物主は一瞥を向けただけでふっと唇を笑みの形に歪めると、エヴァンジェリンの手首を切り落とした手を振るった。手を振るった動作に連動するように造物主の身を纏うローブが生き物のように動き、ローブに触れた三人が悉く防御も買いも出来ず、紙くず同然に弾き飛ばされた。

 

「以前ならば苦戦していただろうに、武の英雄の体は凄いものだ。これでは弱い者苛めになってしまう」

「私を弱い者扱いするなど――」

 

 力を誇示するなどという次元ではない。まるで顔の前を跳ぶ目障りな羽虫を潰すような動作だった。誰が何をしようが、その抵抗ごと粉砕するような動きだった、そして二の腕の丁度真ん中から切断したエヴァンジェリンの腕を、伝説と呼ばれる吸血鬼の腕をあっさりと切り取りながらも興味がないとあっさりと放り投げる。

 

「ぬ……」

 

 傷口から噴水さながらに血が噴き出し、エヴァンジェリンが唸った。

 しかし、エヴァンジェリンは真祖の吸血鬼、腕を斬り落とされた程度では闘気を衰えさせる要素にはなりえない。

 

「おおおおおっ!」

 

 右手を斬り落とされようとも瞬く間に再生させて、泳いだ身体を制御して宙にあるままで気迫の籠もった蹴りを放つ。造物主は避けようとも防ごうともせず、エヴァンジェリンの蹴りはまともに造物主の側頭部に入った。

 が、造物主は身じろぎ一つしない。

 

「ならば、ここならどうだ!」

 

 素早く蹴り足を引き戻すと、今度は喉に突き刺すような蹴りを喰らわせた。

 例え紅き翼や完全なる世界のメンバーでも喰らえば首が吹っ飛ぶような威力がその蹴りにはあったが、造物主には微塵も効きはしなかった。それどころか吸血鬼の行動を憐れみの眼で見ていた。

 桁が違う魔力に護られて、エヴァンジェリンの攻撃は何一つ効いていない。

 

「無駄だ。弱すぎる――――不死殺しの鎌(ハルペー)

 

 魔法名を唱えた造物主の手が赤い閃光に染まる。

 赤い閃光が虚空に軌跡を描き、造物主の喉に入ったままのエヴァンジェリンの足が膝の上から切断された。

 足が無造作に地面の上に落ちると同時に、エヴァンジェリンの身体はぐらりと前に傾いた。そこに造物主の手が伸びてきて、エヴァンジェリンは首根っこを鷲掴みされた。

 ジャック・ラカンのように筋肉質の腕ではないのに、彼以上の力を持ってエヴァンジェリンを高く持ち上げる。喉を絞める造物主の手に凶悪なまでの力が込められ、エヴァンジェリンは喘いだ。殴るなり伸ばした爪を刺すなりして反撃したかったが、抵抗の手を緩めると一瞬で落とされかねないので出来なかった。

 

「ぐぅ――がっ!?」

 

 振り解こうとするエヴァンジェリンの叫びは、半ばで短い呻きに変えられた。エヴァンジェリンを覆うように魔法陣が煌めき、造物主の手刀が閃いたからだ。

 

「ぐッ……!」

 

 残っていた足、再生した手と反対側の手が切断されてエヴァンジェリンは四肢を失った。

 だが、吸血鬼の能力を持ってすれば再生は容易いが。

 

「ば、馬鹿な! 何故、再生しない!」

 

 なのに、一向に再生する気配はなく切断された跡から間欠泉のように血が噴き出し続ける。

 

「不死者にはそれぞれ対処法がある。特に吸血鬼はその力に比例するように弱点も多い」

「私は全ての弱点を克服している!!」

「だとしても、特性が消えるわけではない。この不死殺しの鎌(ハルペー)は貴様のような不死者を狩るのに最も適している」

 

 四肢を切り払った手に纏わせた赤いオーラの光を見た瞬間、エヴァンジェリンは魂に舌を這わせられたようなおぞましい感覚を覚えた。

 

「とはいえ、私の不死殺しの鎌(ハルペー)神具(オリジナル)に比べれば劣化模造品(デッドコピー)の魔法の一種に過ぎない。精々が再生阻害といったところで殺す力はない」

 

 四肢から抜け出ていく多量の出血が、エヴァンジェリンの意識と闘気を薄れさせていく。

 

「血が抜けきったら適当に封印するとしよう。不老不死の体には些かの興味がある」

 

 造物主は人の肉体に乗り移ることで生き長らえてきた。だが、例え『不滅』の身でも肉体がなければどうしようもない。

 

「用があるのは肉体のみ。魂に用はない。長き時を生きるのは辛かろう。幸福の底に沈むがいい」

 

 エヴァンジェリンの身を覆うように魔法陣が煌めいた時、紫電の如く悪寒が通り抜けたから何かが干渉してくるのを感知する。最強と謳われた種族の吸血鬼が、まるっきり子ども扱いされている。造物主の力は次元を超えていた。

 

「……あ?」

 

 エヴァンジェリン・A・K・マグタウェルの意識がブレる。目の前の景色が極彩色に染まり、前後の記憶が呼び出せなくなる。上下の感覚が消失して、熱さと寒さを受け取れなくなる。全てがグチャグチャに混ざっていく。

 意識は残っていたが、暗幕が下りたように何も見えなくなった。

 そうしてから気づいた。修復と呼べる回復能力を持つ吸血鬼ではありえない消耗と出血、そしてまるで一つ上の高みから泥の中でもがく昆虫でも眺めているような目で自らを見つめる造物主を前にして、最強の誇りを折られて諦めが視力を奪ったのだ。

 努力や意志がつけ入る隙はない。何をやっても無駄、打つ手なし。

 絶望感がエヴァンジェリンの身体を満たしていく。無駄なのか。全部無意味なのか。これまでエヴァンジェリンが積み重ねてきた六百年の経験も努力も研鑽も、それ以上の二千六百年の前に一蹴され、無残に散っていくのか。

 これが絶望。気力は尽き、心は折られ、エヴァンジェリンはこの時に真の意味で敗北しようとしていた。無駄な努力を繰り返すほど気持ちを蝕む害悪はない。エヴァンジェリンは疲れ、病みつき、この時緩慢ながらも楽ではある敗北という未来を選ぼうとしていた。

 

「アス、カ君………?」

 

 なにかの波動。いや、鼓動といった方が相応しい振動がアスカを抱く木乃香の全身を背中から貫いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り一時間十三分四十一秒。

 

 

 

 

 




造物主の強さは

大戦期 10(手負いのナギ+手負いのゼクトで倒せるレベル) 
10年前 25(全盛期のナギが相打ちに持ち込むのが精一杯)
現在 100(紅き翼全員でも勝てない強さ)

さあ、どうやってナギ=造物主を倒すか。


次回『第91話 過去の先へ』


7/7修正。


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第91話 過去の先へ

ちょっとおかしくなったので前二話を構成し直し、6000字近く追加。



――――過去を知り、現在に至り、君は何を望む?



 

 

 

 

 

 そしてまた場面が変わる。

 荒れ果てた山野で二人の男が戦っていた。

 一人は傷だらけの赤髪の男、もう一人はボロボロのローブを纏う小柄な少年だ。

 彼我の実力差は殆どない。肉体の成長もあって大戦期よりも強くなったナギと、紅き翼の一員であるゼクトの肉体を奪って使用している造物主。

 

『まだ諦めぬかっ……! 滅びを先延ばしにしようとも何も変わらぬというのに!』

『諦められるわけねぇだろうが!』

 

 周辺の地形を物理的に変えながらも戦う二人は叫び合う。

 

『ここでテメェを斃せば問題に一応のケリはつく!』

『魔法世界の滅びはなんの解決もしていない!』

『だとしても、俺の子供(ガキ)達が戦いに巻き込まれる可能性は低くなる』

『それだけの理由で!』

『何と言われようともそれだけで十分だっ!』

 

 世界よりも私情を優先することに苦渋の感情を滲ませながらもナギは一度決めたことをやり通そうとしている。

 

『貴様も所詮は俗物かっ!』

 

 両者の狭間には破滅的な力が渦を巻き、真っ向から互いを相克せんと鬩ぎ合っている。

 やがて決着はつく。ナギの拳が造物主の腹を貫いた。

 どう見ても致命傷の一撃。しかし、苦し気な顔をしていたのはナギの方だった。

 

『すまねぇ、お師匠……』

『………構わん。だが、これでは』

『分かってるさ』

 

 腹を貫かれた体に謝ったナギに意識が表に出て来たゼクトが許すも、これから起こる現象を止めることは出来ない。既に因果は成立しており、造物主の固有能力が発動している。

 そこへ一度は退けられたフェイトが傷だらけの体を押して現れた。 

 

『何故だ、何故だナギ! 君には答えがあったんじゃないのかっ!』

 

 ゼクトの体から抜け出した魂が自らを殺害した者の精神を乗っ取ろうと離れた。

 

『答えなんてねぇよ。でもさ、俺の後に続く者が現れて答えを出してくれるかもしれねぇじゃあねぇか。その為に未来を守るんだ!』

『今を守ったところで何も変わらない! 君がしているのは現状維持だ。それでは魔法世界は救われない!』

 

 体の内側、精神に異物が潜り込む違和感に吐き気を覚えながらナギは完全に乗っ取られるのを少しでも遅らせる為に必死に耐える。

 

『そうかもしれねぇ。だけどよ、今が無理だからって明日が出来ねぇとは限らねぇだろ?』

『可能性では誰も救われない! 』

『救われるさ。少なくとも俺のガキ達が大きくなるまでの時間は稼げる』

『っ!? やはり君も他の俗物達と何も変わらなかったのか!』

 

 造物主と同じことを言うフェイトに苦笑が浮かぶのを止められず、そうしている間に準備を終えたアリカが術式を展開する。

 

『子供の未来を守るのは親の役目であるぞ』

『アリカ王女!?』

『すまねぇな、アリカ。お前まで』

 

 造物主の固有能力――――報復型精神憑依を防ぐことは今のナギ達には出来なかった。

 造物主が肉体を奪うためには、クリアしなくてはならない条件があった。

 ポテンシャルや能力が劣る肉体であれば何の問題もなく奪えるのだが、一定以上のレベルの相手には、激しく消耗させるか致命傷を負わせるかして、相手を極限状態にまで追い詰めなければならない。

 ゼクトの肉体を奪った造物主の戦闘力は二十年前を越える。メンバーが欠けている紅き翼では対応できないかもしれない。だからこそ、消極的策として封印を選んだ。

 

『これで良い。一時だとしてもあの子らが危険から遠ざかるのならば』

『認めない…………僕はこんな結末を認めないぞ!』

 

 これで良い、とナギとアリカは生まれたばかりの子供を残して戦いに望んだのだから。

 封印は結実し、場面は強制的に終わった。

 暫くは闇の光景が続く。正確には視界が利かず、所謂精神の世界だけが広がっていた。

 

『――――』

『――、――!』

『――っ!』

『――――! ――――』

『――――――――』

『――――っ』

『――!』

 

 封印されても閉じた世界での精神活動は続いている。

 その中ではナギが望んだように造物主との対話が行われていたが結果は芳しくない。二千八百年もの長い年月の間に凝り固まった思想が、対話を繰り返しても数年程度で翻るとはとても思っていない。

 封印は特定の条件が揃わなければ解けない。後の人生を引き換えにしてでも、何年かかっても説得するつもりだったナギの精神世界が突如として揺らいだ。

 

『――、――!』

『――――』

『――!』

『――っ!』

『――――! ――――』

 

 造物主ではなく仮契約のパスを通じて外の世界にいる誰かと話をしたナギは決意したような意志を発する。

 

『―――――――』

『――――、―――――――――』

 

 この精神世界を支えているアリカもナギに同意する。

 二対一でも徐々に浸食されているというのに、ここでナギが動けば僅かな拮抗すら崩れることを意味する。それでもナギは動くことを決意してアリカも賛成した。

 そしてまた場面が切り替わる。

 精神を繋げたアリカに造物主の精神を引き受けてもらうことで、一時的に仮初の自由を手にしたナギが転移してから目を開けると、そこには地獄が広がっていた。

 

『これは……っ!?』

 

 出現した場所は万が一を考えて転移術式を仕込んでいた村外れの山の頂上。ナギの主観では数日前までアリカの出産の為に滞在していた故郷の村が焼かれていた。

 記憶の中では変化らしい変化もなくて、退屈を嫌って魔法学校を中退してまで飛び出した村が夜の闇を染め上げんばかりに燃え上がり、闊歩する大量の悪魔達の姿もあって地獄としか言いようのない光景が広がっていた。

 

『っ!? あれは――!』

 

 村の中で極大の魔力が突如として湧き上がる。知らないようで知っている、どこか馴染みのある魔力の持ち主に思い至ったナギは飛んだ。

 一飛っびすれば村の直上に到達したナギは直ぐに魔力の持ち主を視認する。

 ナギは目撃する。地に伏した金髪の少年と守るように立つ赤髪の少年に向けて、ナギでも油断ならない一撃を放とうとしている上位悪魔を。

 

『させねぇっ!』

 

 虚空瞬動と浮遊術の併用で振り下ろされる死神の鎌に割り込む。

 上位悪魔の拳を受けた衝撃と上空から下りて来た勢いもあって地面に足がめり込むが、目の前に立つ悪魔が背後にいる少年達――――覚えのある魔力と容姿から彼らが自分の息子達と察した――――を躊躇なく殺そうとしたことにブッツンしていた。

 

『テメェ……』

 

 高まり続ける魔力に拳を受け止めた障壁がバシッバシッとスパークし、新たな演者が登場したことでまだ終わらない状況に悪魔が哂う。その笑みがまたナギの怒りを誘った。

 

『人の息子達に何やってんだオラァアアアアアアアアッッッ!!!! 来たれ、虚空の雷、薙ぎ払え!―――――雷の斧!! ぶっ飛びやがれ!!!!』

『ぬおっ!?』

 

 頭の中が激発しようとも英雄とまで呼ばれた男の戦闘術理が狂うことはない。無詠唱で発動した魔法の射手で悪魔の拳を弾くと、雷の斧の詠唱をして得意のコンビネーションへと繋げる。

 英雄の怒りの一撃を諸に受けた悪魔は真っ二つにされ、存在の核を失ってこの世界での現界を保てずに消滅していく。

 悪魔の完全消滅を確認して子供達に振りむこうとしたナギは敵の増援を察知する。

 瓦礫を踏みしめる音が連鎖し、現れたのは恐らく僅かに召喚されたであろう爵位級の上位悪魔の一体。その後に続くのは、村を襲った大小、形も様々な異形の者達。

 辺りには悪魔が集結している。背後にいる二人から絶望の気配を感じ取ったナギは自信満々に『大丈夫だ』と言い切った。

 

『お前らに指一本触れさせやしねぇ。安心して待ってな』

『あ……』

 

 ナギに救援は恐らく来ない。多勢に無勢、しかもこちらには時間制限付き。

 それでもナギは笑う。

 英雄としてではなく、魔法使いとしてではなく、ただの父親として戦えるこんな状況がナギに力を与えてくれた。

 爵位級の上位悪魔が片手を上げる。上位悪魔の合図に呼応するように、視界に映る殆どの悪魔が男性に向かって一斉に襲い掛かる。その数、十'82笂\'82ナはきかない。百や二百、もしかしたら千に達しているかもしれない。

 

『あっ、危な――』

 

 後ろの少年達の存在がナギに無限の力をくれた。

 

『オラァァァアアアアアア!! 俺の息子達に手は出させねぇぞ!』

 

 その雄叫びの直後、意識が断絶する。

 気が付いた時には悪魔を撃ち滅ぼし、屍の山の上で上位悪魔を縊り殺していた。

 記憶はある。自分が何をしていたかを覚えている。なのに、していたことに実感がない。まるで誰かが自分の体を使っていたかのような。

 

『これが共鳴りか……』

 

 徐々に自分が自分で無くなっていく感覚。造物主の固有能力を甘く見ていたつもりはないが、もう残り時間はそれほど残されていないのだと自覚する。

 

『何故じゃ、何故今更になって現れた!? 答えろ――』

 

 声が聞こえてそちらを見ると見覚えのある老人と記憶よりも成長した少女がいた。主観では数日も経っていないはずなのに咄嗟に名前が出てこなかった。それほどに浸食が進んでいるのだと気づいた。

 

『答えろ、ナギ!!』

 

 残された時間は長くない。まだ周りは燃えており、この場で話すのは危険だったから村から連れ出した。

 連れ出した場所はナギが転移して来た村外れの山の山頂。村を一望できる場所だから焼け野原となった村を見るのは苦しかった

 

『すまない、来るのが遅すぎた……』

『帰ってきたのは良い。この子達を助けたのはお前だ。だが、タイミングが良すぎる。ナギ、お前は何を知った? いや、それはいい。今まで何をやっていた』

『…………すまねぇ、スタンのおっさん。詳しくは言えねぇんだ。ただ、俺は――』

 

 真実を告げるわけにはいかない。大戦の裏側も魔法世界の秘密も何一つ伝えることを許されない不実にナギは頭を下げるしかなかった。

 

『――――勝てなかった。失敗したんだ』

 

 端から勝機があって決戦を挑んだわけではなかった。未来に希望を託す為に、せめて子供達が大人になるまでの時間を稼ぐ為のものだった。

 なのにこの有様はなんだ、とナギは自身を罵倒する。

 あれだけの悪魔を召喚するともなれば、かなりの組織力が必要となる。となれば、一番に怪しいのはアリカを謀殺しようとした元老院だが、少なくともナギが覚えている限りでは、これほどの無謀な行動に出るような議員はいなかったはずである。

 未来に託そうとした自分の決断は誤りだったのだろうかと、自信が服を着ているとまで言われた男の口から弱音が零れた。

 

『お父さん、なの?』

『…………お前。そうか、お前がネギか』

 

 そんな中で近寄って来た子供が赤髪をしていたから直ぐにネギであることに気付いた。

 記憶の中で赤ん坊だった子が大きくなった姿に感慨を覚えながら刺激しないように一歩ずつ距離を縮め、ぎゅっと目を瞑ったネギに恐る恐る頭に触れる。

 

『怪我、ないか?』

『う、うん』

『そうか。すまねぇな、来るのが遅れちまって。あっちの金髪はアスカか。今、三歳ぐらいか。二人とも大きくなったな……』

 

 ネギの髪の毛の質はナギに良く似ていた。意識のないアスカの方にも触ってみたかったが、流石にこれは我儘すぎるだろうと自重する。

 もう二度と会うどころか、触ることすら出来ないと思っていたので子供の頭に触れただけなのに大の大人が泣きそうになる。

 

『悪いな、怖い目に合わせちまって』

 

 赤ん坊の頃しか知らないから力加減が分からない。悪魔を倒すことは簡単でも子供を撫でることの方がナギにとっては百倍も難しい。

 

『何も残せなかった俺達を許してくれとは言わねぇ。憎んで、嫌って当然だ。俺達は親としての務めを果たせなかったんだからな』

 

 これは遺言になるか、と思いもしたが、もうこのような非常手段を取ることは出来ないのだから言いたいことを言うことにした。

 

『お前達にこの杖と、このペンダントを形見として渡す。これでも魔法発動媒体としては最高級品だ。本当ならもっとマシな物が何かあったら良かったんだがな。こんなものしかなくて勘弁してくれよ』

『あうっ』

『ははは、少し大きすぎたか…………くっ、もう時間がない』

『え』

『この馬鹿者が! またこの子らを置いていく気か!?』

『悪い、スタンのおっさん。ここに来るのにもアイツらにかなりの無理をさしてんだ。俺にはどうしようも出来ねぇ』

 

 封印を維持しているアルビレオと負担を肩代わりしてくれているアリカがもう限界だった。ようやく名前を思い出せたスタンが駆け寄ろうとするが、また意識が途絶するようなことがあればネギ達が危ない。もう時間はない。

 

『この子達のことを、頼む』

『っ、……大人になっても馬鹿なところは変わっておらんのか。ああ、任せておけ! お前とは違ってまともな大人にしてみせるわい!』

『なら、安心だ』

 

 意識が断絶と接続を繰り返す。一瞬でも気を抜けば持って行かれてしまいそうな浸食に抗いながら為すべきこと為す。

 

『まったく、無茶しやがって。もう危ないことはすんじゃねぇぞ、アスカ。ネカネも迷惑じゃなければ二人の面倒を見てやってくれ。アイツの面影があるアスカにはネギよりも多くの苦労があるかもしれねぇが』

『は、はい。でも……』

『すまねぇが、何も教えてやれねぇんだ。悪いな』

 

 ネカネの傍に歩み寄り、アスカの顔を良く見ると男女の差異はあれど懸念は当たってしまったのだろう。無茶をするのは自分似だなと思いながら意識を失って瞼を閉じているアスカの口から垂れる血を拭い取って、首にペンダントをかける。

 名残惜しげに立ち上がったナギは浮かび上がりながら、ネギとアスカを同時に視界に収めて名残惜しそうに目を細めた。

 

『大きくなれよ。俺よりも、アイツよりも。ずっとずっと大きな男に』

『お父さん?』

『こんな事言えた義理じゃねぇが、二人で喧嘩せずに元気に育て。幸せにな!』

『お父さぁ――っん!!』

 

 そんなことしか言えない自分に嫌気が差しながらも、追いかけて来てくれるネギにそう言うことしか出来なかった。耳に残るネギの叫び声が何時までも残響していた。

 そしてここへ辿り着いた。まるで、何もかもが悠久の時間に押し流された果ての光景のように、真っ白に塗りつぶされてなにもない空間に。

 

「―――――来たか」

 

 直に聞こえる野太い声が薄れかけた意識を揺り動かす。

 

「アスカ……」

 

 次いで突如かけられた女性の声がアスカの名を呼ぶ。

 

「ぁ……」

 

 何を不思議に思えばいいのだろう。その声は誰なのだろう。分からない。思いつきもしない。その声を聞いても誰の顔をも浮かばず、何も感じない。本当にそうか、と耳を塞ごうとする自分に問いかける。

 少なくとも、ただ一つ言えるのは声を聞くだけで何も考えられなくなっていることだった。ゆっくりと振り返る自分を第三者の視点で俯瞰するアスカがいた。

 声に導かれるようにゆっくりと振り返った先には二人の男女がいた。

 二人の事を知っている。この心が、魂が、体に流れる血潮の一滴まで知っている。

 ローブを纏った一人の男がいた。燃えるような赤毛、強い意思を感じる瞳。その容貌はどこか野性的で、それでいて粗野では無い荒々しさを備えていた。

 ふわりと風に靡くような裾の長い服を着た一人の女がいた。太陽のような金髪。誰かに似ている青空の瞳。どこかアスカに似た容貌を優しい穏やかな笑顔で染めていた。

 総督府で開かれた舞踏会を中座して特別室で、幻想空間を利用した映写装置でクルト・ゲーデルに見せられた「父と母の物語」の主役とヒロイン。男は千の呪文の男(サウザンド・マスター)ナギ・スプリングフィールド。女は災厄の女王アリカ・アナルキア・エンテオフュシア。分かり易く言うと、アスカの両親である。

 

「不思議に思うか? こんな形で出会うのを」

 

 奇跡のように現れた身内の顔を前に、ナギは微笑していた。

 

「封印を解かれた場合のことは当然考えてあったんだ。最初に身体に接触した相手の精神に干渉する術式が組み込んであった」

 

 反対にアスカはなにも言わず、警戒と戸惑いが入り混じる生硬い瞳を向け続けた。自分を凝視している目、鋭利なくせに、どこか湿って見える瞳が、アスカをその場に縫い付けて離さずにいるのだった。

 

「まさか息子が最初の接触者だとは思ってもみなかったがな」

 

 ゆっくりとだが激しい言葉を紡ぐ声には確かな感慨と、こうなってしまった結果に対する皮肉がふんだんに込められていることだけは伝わってきた。

 

「…………ここに辿り着いたお前には期待している」

 

 一度閉じられた瞼が開いた後、ナギの瞳がじっとこちらを凝視している。その表情はひどく落ち着き、豪放磊落な雰囲気は微塵も無い。

 目を逸らすことなく目を背けることなく、真正面から真正直に。

 

「期待?」

「我らには出来なかったことを成し遂げてくれるのでないかとな」

 

 本当は自分達で成す筈だったのに我が子に託さなければならなかったことが悔しかったから、少しだけ言葉を継いだアリカの表情に苦いものが混じった。

 

「ふざけるな!」

 

 何故かその叫びは縋りつくような態度に思えた。小さな子供が泣きじゃくっているようだと自分でも思った。

 期待を押し付けるだけの勝手な言い草に激昂して、アスカが強く握り過ぎた手から血を滴らせる。血がポタポタと感情と共に身体が出て行く。痛みも血も精神世界にいる以上、現実ではそうなるだろうという思い込みの産物に過ぎない。

 どうして自分はこんなにも怯えてしまうのだろう、と思いながら虚勢を張らずにはいられなかった。

 

「なんだよ、何年もいないと思ったら急に現れて…………謝罪の一言も無しに期待してるだって? 調子が良すぎる」

 

 これまで零れないよう懸命に保ってきたコップの喫水線が、遂に超えられてしまった気分だった。だから、今ここで素直に黙っていたら今まで積み上げてきた全てが崩れるとも思った。

 乾ききり、罅割れた少年が抱えてきた恨みへの残酷な解答が目の前にある。アスカが怒りを杖にし、恨みの元凶に罵声を浴びせたとしても何の文句があろう。

 

「調子が良いことは分かっておる」

「だけどな、アスカ。お前はここにいる。他の誰でもなく、アスカ・スプリングフィールドがここにいるんだ。ここに来たのなら責任を果たせ」

 

 本物の親の愛情を間近で感じたことのない子供の当然の憤懣を受けて、アリカは理解を示しながらも自分が手前勝手なことを言っている自覚があったから陳謝するように瞼を伏せる。反対にナギは柔らかい口調で諭すように言いながらも強い目がアスカを射抜く。

 

「責任ってなんだよ。俺は親父達のことを知る為に魔法世界に来ただけで、英雄だなんて呼ばれたのも偶々だ。こんなところに辿り着いてしまったのも偶然でしかない。仮に英雄だなんて呼ばれるのも英雄の親父達がいるからだ」

 

 憤怒の炎は我が身を焦がしそうなほど猛り狂っていた。ナギに対してだけではない。もっと漠然とした。この不条理で理不尽な世界そのものに対する憎悪や憤りが、言葉という形で一気に噴出していく。

 望みの為には世界を背負うしかなくて、割に合わないことこの上ない。

 今まで無意識に心の奥底に押し込めていた不満が甘えられる捌け口に向かって一気に噴き出した。

 アスカにとっては二人が世界を救ったという事実は遠い世界の出来事であり、言うなれば両親である二人は物語の中の人物でしかなかった。彼は偉大だ、とナギの偉業を知る者達は口を揃えて言う。知っている、とその度にアスカは思っていた。

 世界を救ったことは知っている。理解もしているし、凄いとも感じている。でも、アスカはずっと思っていた。

 

「俺は英雄の親なんて欲しくなかった。俺が欲しかったのは――――俺が、欲しいのは――――」

 

 喉が痞えて言葉にならない。堪えくれなくなってきつく目を閉じる。閉じた目の奥が熱い。

 アスカは思わず拳を握り締めた。

 腹が立って、腹が立って、なのに、自分がどうしてこんなにも怒っているのか分からない気持ちをずっと抱えて来た。

 

「英雄じゃなくて当たり前の親でいてほしかったんだ」

 

 なんてことはない。英雄も女王も結構だ。肉親が偉ければ誇りに思わないことも無い。だけど、それよりも近くにいてほしいと思っていたのだ。

 

「すまねぇとは、思ってるよ」

 

 ナギは光だ。そこに存在するだけで太陽のように世界を照らす存在なのだと、彼を目の前にして思った。

 影の内側、闇に属して、そうした感情を抱いた、或いは抱かざるを得なかった人間をこそ、さっと照らし出す。闇が深ければ深いだけ、思いがけないほど激しく、強い陽射しとなって残酷なほどに罪を浮き彫りにする。

 

「でも、それとこれは無関係だ」

 

 理解を示した上でナギは無関係と言い切った。

 

「アスカ、お前はお前の中にある目的の為に世界を巻き込んだんだろ。他人を巻き込んでおいて責任転嫁するな」

 

 英雄と呼ばれる苦しさをアスカよりも知るからこそナギの声音はこれまでにない烈しさで燃えていた。

 この精神世界の繋がりでアスカは造物主の始まりとこれまで、そしてナギの記憶を垣間見た。それは同時にアスカの記憶もまたナギ達は見たのだろう。

 

「甘えるな」

 

 アスカが戦うことを選んだ個人的な理由を知った上で、ナギはハッキリと言い切った。

 

「俺は、そんなことは……」

 

 心臓にちくりと痛みが走る。負傷の痛みではない。拳で胸を押さえ、アスカは呟いた。

 

「勘違いするな。英雄だなんだなんてこの場には関係ない。アスカに資格があるとか、判断に特別なものがあるわけでもない。俺のこともアリカのことも関係なく、この場所にいる以上はお前がやらなければならないことがある」

 

 親子だの血筋だの、所詮は生物学上の定義だと思っていた。僅かな時間で父を父と認め、遺された言葉に縛られもする。理屈ではないし、感情的な問題でもない。親子という面倒で強靭な血の力。

 この場所に立っていることに関して、ナギは血は全く関係ないのだと言い切る。

 

「恨むだろうな、アスナは。お前も俺達を恨むだろう。なにもしてやれずに、こんな重荷まで背負わせてしまう。だが、今はこうなった運命を呑み込むしかない」

 

 殴られたから殴り返し、殺されたから殺す。際限のないループを終わらせようとしている造物主は正しいのかもしれない。結局、ナギ達では戦いの連鎖を終わらせることが出来なかった。臨むことは皆、同じはずなのに。平和を、幸福を求めて、何故人は丸きり逆の方向へ走り出してしまうのだろう…………。

 人々が真に求めるものがそれだとしたら、造物主が求める世界は最上の選択なのかもしれない。

 

『―――――……なんで戦うの?』

 

 まだアスナが明日菜となる前、ナギは彼女に戦う理由を聞かれたことがあった。

 その時は造物主を倒し、遥かな過去からアスナと魔法世界を雁字搦めに縛っている「世界の秘密」をぶっ壊すことで彼女を助けると答えた。

 だが、自身はぶっ壊すことかけて超一流でも、世の中にはそれだけでは収まりがつかないことがある。終わらなかったどうするのかと問うてきたガトウに答えた言葉を、ナギは今でも覚えている。

 

『後の誰かがどうにかすんだろ』

 

 自分がやったようにきっと同じ事をする人間が現われる。当時は根拠も無くそう思っていた。

 

(それがまさか自分の息子になるとは思わなかったけどな)

 

 現実時間で十年前の完全なる世界との決戦で、造物主との戦いは決着は痛み分けに近い敗北だった。二十年前よりも強かった造物主相手にこの結果は上々であっただろう。ただ、生まれたばかりの息子達を残してしまったことだけは心残りだった。

 だから、六年前に封印場所がバレる危険を冒してまで襲われている村に助けに向かった。

 護った希望の種子は育ち、ナギの足跡を辿ってここまで来た。

 

「明日菜を救うためにここまで来て、そしてその先へと進む。その気持ちに偽りはないか?」

 

 再び確かめる目が注がれる。アスカは、心臓が一つ大きな脈を打つ音を聞いた。

 動悸が早まり、脇の下に汗が噴き出す。直ぐには声も出せず、戸惑う目を向けるしかないアスカを正面に見据え、「もう一度だけ聞く」とナギは静かに呟いた。

 

「明日菜が背負っているものは重いぞ。真実を知った上で、それでも明日菜を救うことを望むか?」

 

 ナギの警告は痛みを和らげてはくれなかったものの、胸の重さだけは取り除いた。同時に胸の中で凍り付いてた感情が溶け、熱を放ちながら喉元に突き上げてくる。

 

「前にも同じことを言われたよ、タカミチに」

 

 麻帆良祭の武道会での高畑と試合でアスカは『君は明日菜君を背負えるか』と問われた。それだけではない。明日菜が背負っているものは重く、世界の重みを引き受ける覚悟があるかと聞かれている。

 

「俺はその時、背負えるかどうかは答えなかった」

 

 その時のアスカは拳を握っただけだ。覚悟を、問いに対する返答が出来なかった。

 世界なんてものを実感できなかったし、実感できないものに対する覚悟なんて持てなかったからこそ、ただ思ったことを口にした。

 だけど、その時に握った拳に嘘はない。そして世界を背負う重みを知り、言える言葉は一つだけ。

 

「世界程度の重みがなんだ。俺は、明日菜と一緒にいたい」

 

 虚栄だろうが胸を張って拳を突き出して宣言する。

 

「そうか……」

 

 その時、ナギが浮かべた笑みは苦笑でも嘲笑でもない、誇らしさに少しの哀しさが入り混じった満足げな笑み。

 

「英雄だとか何だとか、偉そうな名前ばかり付けられて、でも結局俺達には出来なかったことを頼む」

 

 ナギは己の舌でも噛み切るような口調で、そう言った。

 

「託すことしか出来ない俺達を許してくれとは言わねぇ」

 

 正直に言えば息子が自分達の跡を継いでくれることが嬉しくて悔しい。自分の想いを継いでくれるのが我が子で嬉しい。こんな苦しいことを我が子に継がせなければならないことが悔しい。二重の想いがナギを支配していた。

 

「世界を、明日菜を頼む」

 

 実の息子に、その言葉を告げねばならないことを、死ぬほど後悔するような表情で。

 他に選択肢はない。アスカはここに辿り着き、過去を知って、ナギの前を進んでいく。

 

「勝手すぎる」

 

 元より、もうアスカに選択肢はない。

 仮に明日菜と魔法世界を見捨てて稼働中のゲートを使って逃げても一生悔いが残り続ける。第一、ここで逃げたら、それはもうアスカ・スプリングフィールドではない。

 

「今更、勝手すぎる。今まで何もしてくれなかったあんた達が、一番傍にいて欲しい時にいてくれなかったあんた達に俺の何が分かるって言うんだ……」

 

 それでもまだ一度激発した感情が完全に収まったわけではない。吹き荒れる感情の嵐に心を乱され、アスカは突き放そうとした。

 

「ああ、そうだ。叶うならずっと傍にいたかった」

 

 ゆったりと微笑み、ナギは右手でアスカの左頬に触れ、反対からアリカが左手でアスカの右頬に触れる。その感触は優しく、温もりを伝えきろうとする指先は、無二の肌合いをもってアスカの熱を共振させた。

 

「願うならば、この場所に立つのは他の誰かでほしかった。こんな苦しい選択を思いをお前にさせてたくはなかった」

 

 込み上げる感情が言葉を作り、アスカは口を開きかけたが二人の頬を撫でる手が震えているのに気付いて言葉が封じられた。

 

「俺達は魔法世界よりもお前達の未来を守ることを優先した。こうなってしまったけど、世界を質にしたって釣り合うものじゃねぇ。この世でたった一つの宝石」

 

 どんな傑物であっても、脆さを持った人であることに変わりはない。失う痛み、背負うことの重み、同じ人間として、男として、少しは現実を学んだ今なら、その不完全さをも含めて同じ目線に立って彼らの苦悩を肯定できる。

 

「こんな苦しい立場を子供に背負わせたいなんて親なら思わねぇ。俺達だってそうだ。せめて、二人が大人になるまでは戦いに巻き込まれないように願ったのに」

 

 ナギは父として毅然とした目で、アリカは母として慈愛に満ちた目で微笑んだ。優しく暖かい瞳が、じっとアスカを見つめている。

 

「許されるならずっと傍にいたかった」

 

 母は泣いていた。アリカの目から、大粒の涙が零れ落ちている。

 一度は生を諦めようとした己の内から生まれ落ちた子が何よりも大事だった。その為に傍から離れてでも戦うことを選んだのは決してアスカを自分達と同じ修羅の道を辿らせる為ではない。

 

「大きくなって成長していくのを傍で見ていたかった」

 

 そう言って何かを堪えながら包み込むようにアスカを抱き締めたアリカの声音は、暖かく優しい。抱きしめてくるアリカの手は、思っていたよりずっと細かった。寄せられた体は想像以上に小さく、そして心地良く、温かい。 

 

「母、さん……」

 

 その感触は優しく、温もりを伝えようとする指先は無二の肌合いをもってアスカの中の熱を共振させた。一瞬でも触れた感触から安心できてしまう。映像の記憶に残っていなくとも懐かしいと肉体と魂の記憶が感じてしまう。

 ネカネやその母とも違う。母親。子の全てを受け止めて、子にあらゆる愛を無償に注ぐ絶対の存在。

 

「大きくなってくれて嬉しい。その言葉に偽りはない。それでも」

 

 囁くようなアリカの声が心に響き、やがてその声は、春の日差しが名残雪を溶かしてゆくように、アスカの心の中にあった塊を溶かしていった。押し固めていた感情の塊が腹の底で溶け、視界がじんわりと滲んだ。

 

「一緒に色んなものを見て、色んなことを感じて、嬉しいことも、悲しいことも、家族で分け合っていきたかった」

 

 ゆっくりとアスカはアリカの体に手を回し、か細い背中を抱きしめてしまう。

 

「それでもお前達に俺達の負債を押し付けたくなかった。戦いなんてない、穏やかな日常を過ごして欲しいと願ったのだ」

 

 生まれた時から英雄と災厄の女王の因果を引き継いでしまった子供達。

 過去から続く呪いの連鎖を自分達で断ち切るのだと決めて、生まれたばかりの二人を置いて戦いへと赴いた。

 負ける可能性も十分に考えた。それでも戦ったのは、例え家族が一緒にいられなくても我が子達を守りたかったから。叶わぬ願いと分かっていても決して諦めたくはなかったから。

 二人が戦ったのは世界でもなんでもない。

 例え世界中の人間を巻き込んでも、例え自分の子供達が成長していくのを見ることが出来なくても、例え家族が揃って笑い合う事が出来なくても、望んだのは生まれたばかりの子供達が幸福に暮らせる世界だったのだから。

 これだけ多くの人を巻き込んでしたことが何てことのない私情だった。 

 

「ありがとう。生まれてくれて、今まで生きてくれて…………ありがとう…………」

 

 子供に嫌われようと誰に疎まれようとも構わない。親とは、ただ子供の未来を作り出す。世界はそうやって受け継がれてきた。

 アリカの言葉に、心にあった大きな何かが消えたような気がする。ずっとアスカの心を縛り付けていた、目には見えない鎖が、今、断ち切られた。

 

「我らの我侭を、身勝手を許して欲しいとは言わない。それでも――――明日菜を、世界を頼む」

 

 アリカが縋るようにアスカを見つめた。それは心から我が子を案じる親の姿だった。

 蟠っていた不安や怒りが溶け消えてゆく。

 

「……………」

 

 込み上げる感情が一つの言葉を形作り、アスカは口を開きかけた。頬を撫でた指先がそれをやんわりと封じると、ゆっくりと二人の姿が薄れていく。

 ゆっくりと二人が薄れていく。行ってしまう。もっと聞きたいこと、話したいことが沢山あるのに、行ってしまう。麻帆良祭の時と同じように。

 

「任せろ」

 

 世界を託されるなど、とてもではないが重すぎる。本来なら動転して取り乱すべきところだが、今のアスカは少し違った。

 普通の人なら生涯に一度あるかないかという非常事態。悪夢のような状況に対しても何度も経験したことで耐性が出来たのか、もう恐れはなかった。奈落に突き落とされるような不快な感覚に慣れる事はないが。

 

「世界中の誰もが許さなくても俺が許す! 頼まれなくたってやってやるさ。これはもう、あんた達だけの戦いじゃない。俺の戦いでもあるんだから」

 

 薄れゆく二人が驚いたようにアスカを見た。

 

「もっと頼れよ。アンタ達の…………親父と母さんの息子はそんなに柔じゃない」

 

 獰猛で、野蛮で、荒々しく、上品さの欠片もない自信過剰で、何時だってみんなの先頭を走り続けたナギそっくりの笑みを浮かべて宣言する。

 

「宿命だか運命だか知らないけど、踊らされてやる」

 

 まるで他愛無い親子喧嘩の後、両親と仲直りをすることを込めた子供のように無邪気に笑って宣言する。

 

「アンタ達がやり残した事を継いでいく」

 

 アスカは自分の手の平を見下ろした。

 薄い皮が張り付いているだけの鍛錬で硬くなった手の平。こんな手で世界の重みを引き受けられるとは思えない。でも、明日菜に触れることも、細い体を引き寄せて互いの体温を伝えあうことは出来る。

 

「俺もまた道半ばで倒れるかもしれない。でも、その時は俺の想いを継いで誰かが立ち上がってくれる。今ならそう信じられる。次へと続けていく為に」

 

 アスカの内側から溢れ出ようとする感情と、幾万もの言葉とが絡み合い、熱をも帯びて彼の心身を焼き尽くそうとする。だが、アスカは畏れなかった。

 

「俺が、アンタらのやり残したことを終わらせてみせる!」

 

 英雄と災厄の女王の血を継いだ者の因果と言われればそうかもしれない。でも、アスカはしがらみや義務に駆られてここに辿り着いたわけじゃない。もっと単純で力強い原始的な衝動に駆られて行動したに過ぎない。

 ずっと堰き止められていた水が流れ出した。

 

「「――――、」」

 

 二人の口から言葉も出ない。視覚がないといえど、幾度呼ばれることを夢見たことか。

 父母と呼ばれたのは、それが初めてだった。当惑と、ふつふつと沸いてくる喜びのあまり、ナギは思わず口をへの字にした。

 そんな父の仕草にアスカが本当の意味で初めて笑った。

 

「後を、頼む。我らも共に……」

 

 重すぎる肩の荷が下りたという表情を浮かべて、もう一度微笑むと消え入るようなか細い声で二人は告げて消えていく。

 呪いは引き継がれた。祈りもまた引き継がれた。

 

「感じる……」

 

 瞳を閉じると、召喚魔の高い戦闘能力と奔放で無秩序な戦いぶりに、魔法世界人達は劣勢が強いられているのを感じた。誰も彼もが追い詰められていた。

 脳を騒めかせる戦場の感覚。夢ではない。これは現実だ。刻々と霞が晴れてゆく頭の中に確認しながら覚悟を決める。

 

「多くの命が消えていく」

 

 状況は絶望的だった。だが、アスカは諦めない。戦う人がいる限り、アスカを希望して信じてくれる人がいる限り、どうしてアスカの膝が砕けることがあるだろう。

 孤狼の叫びのような小太郎の叫びが、創造主からの操り糸から脱して魂を輝かせるフェイトの意思が、多くの意志の断片が雪のように染み渡っていくのを知覚した。

 命の温かさが切れていく感触。それらが降りしきる雨の粒の鋭さと同じに突き刺さってきてもアスカに迷いはなかった。アスカを傷つけるものから守ろうとしてくれるものがいたからだ。

 強張った手の平に視線を落とす。失われてはいない。腕も、痺れる骨身も、間違いなくこの意識と共に在る。握り締めた手の平の感触を確かめる一方で、確かな両親の愛がアスカを守っていた。

 

「やってやる。やってやるさ」

 

 アスカの眼差しから希望は消えない。

 

「見守っていてくれ…………親父、母さん」

 

 指先が掌に食い込むほどに強く拳を握って、小さな、しかしハッキリした声で言った。

 

「次へと繋ぐために、今度は俺が希望を示す番だ」

 

 心が絶望に蝕まれないように、憎しみに引き摺られて為すべきことを見失ってしまわないように。目を開けて前に視線を移したアスカは、細く鋭く息を吸って駆け出した。過去の先へと進んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その理不尽は唐突に現れた。

 突如として湧き上がった閃光がエヴァンジェリンを拘束していた造物主にぶち当たり、その隙にネギが助け出して距離を取った。

 戦いの場に割り込んできた閃光を放った主を見て一瞬、誰もが呆けたように動きを止める。

 この場において、無敵を誇った造物主に隙を生み出すほどの力を誇る者は誰だろうか。そんな奴はいない。いるはずがない。いてはならない。しかし、それなら、何故と疑問だけが積み重なる。

 疑問がやがて苛立ちとなり、それが混乱にまで育つおりも僅かに早く、答えは出た。

 木乃香の視線の先に、一人の男が立ち上がっている。

 

「アス、カ君………?」

 

 木乃香が呆然とした声で呟く。目の前で起きたことが信じられないという顔だった。

 まさかと思う。あまりにも出来過ぎのタイミング。素晴らしい登場。だけど、それがひどく彼には似合っている。何時だってそうだった。まるで整えられた舞台の出来事のように彼はそこに立つ。その奇跡を前にして涙で視界が霞んできた。

 

「あははははは………………」

 

 木乃香は目元に涙を浮かべて無意識に頬を抓っていた。都合のいい夢だったら今度こそ絶望だが、幸いにも頬は痛かった。

 同時に全身に残る傷の痛みも思い出す。治癒魔法をかけてもらったが内側に痛みが残っている。今更思い出したように痛みがサイレンを鳴らしていた。動けない。どれだけ痛みを堪えようとも痺れてしまった手足はまるで動かない。立ち上がれない。もうこれ以上は何も出来ない。

 だから、目の前で信じられない光景が広がっているのを、ただ呆然と見ていることしか出来なかった。

 ここだけが世界から切り離されているようにも思えた。彼の立つ場所こそが、奇跡の一幕のようだった。

 しっかりと自分の目で見据え、目の前の光景を現実のものとして受け止めようとしていたのだが、何もかもぼやけてしまっている。涙腺が壊れてしまったのか、涙が次から次へと溢れ出てきた。

 木乃香はそれを拭うことすら出来なかった。いや、拭うことすら忘れていた。

 これまでのもとは明らかに涙の意味が違った。こんなにも流したい涙があったのかと、驚いてしまうほどだった。彼女は自分の中から込み上げるものに逆らわず、大粒の涙を零しながら、ただ目の前の奇跡を見つめながら口を開く。

 

「奇跡や……」

「それは違う」

 

 間違いなくアスカだと分かる声が鼓膜を震わせて即座に否定する。

 アスカは知っている。絶望的な戦力差だった。それでも誰もが闘った。戦って戦って戦い抜いて、今、この瞬間まで耐え続けてきたのだ。巨大で理不尽な相手を前に一歩も退かずに。 

 誰もが彼から目を離せなかった。

 誰もが彼の事を忘れられなかった。

 

「みんなが戦ってくれた。絶望的な戦力差だった。全てを諦め、投げ捨てたとしても誰にも責めることは出来なかっただろう。だがみんなが戦ってくれた。戦って戦って戦って…………今の今まで耐え続けてくれた。だから……」

 

 光の中から彼は木乃香へと顔を向け、物語の中の勇者のように、神話に語られる英雄のように鮮烈に君臨して更に告げる。

 

「だから、俺は帰ってこれた。これは奇跡なんかじゃない。確実にみんなが齎した、当然の結果だ」 

 

 金髪に青い目を輝かせ、アスカ・スプリングフィールドは力強く頷いてみせる。今まで以上の覇気と力を漲らせる姿に、木乃香の内部から感情が溢れ出してきた。

 

「アスカ……」

 

 エヴァンジェリンを救出したネギがアスカの姿に瞬きも忘れて瞳に映していた。ひどく久しぶりに見るような気がした。今のアスカは、どうしようもない運命のレールとやらを軽々と飛び越える象徴のように見えたのだ。

 これがアスカ・スプリングフィールド。これが英雄。何か特別なことをする訳ではない。ただそこにいるだけで、ただそこに立っているだけで、悲劇を回避し誰かを救おうという願いが形になったような存在。

 ネギ・スプリングフィールドが憧れ、求め、嫉妬した弟。ああ、この場にアーニャがいればどれだけ心強いだろうか。

 

「遅いよ」

「悪い、寝坊しちまった」

 

 今、ネギはその弟と共に立つ。

 長い道のりを歩み、己の力を究極にまで高めた二人が並び立ち、今は敵となった父の肉体に巣食う造物主を睨み付ける。

 

「決して勝てぬと知りながら尚も抗うか、我が末裔よ」

 

 複数の世界最強クラスの戦士達を同時に相手しても圧倒的な強さを見せつけた造物主は、抗うことを止めぬ自らの末裔二人を視界に収めて重い口を開いた。

 

「約束しちまったからな。勝つぜ」

 

 言いながらアスカが一歩前へと進む。

 

「力の差ぐらいがなんですか。今まで戦ってきた中では僕達より弱い人の方が少なかったぐらいですよ」

 

 続いてネギも大きく足を前に出してアスカに並ぶ。

 誰にも二人の背中を止められない。その背中に追いつけない。距離が離れているわけではないのに、しかし感覚において永遠だった。強いのではない。恐いのではない。鋭いのではない。重いのでもなく速いのでもなく凍るでもなく熱いでもない。

 遮るもののない強い魔風に曝され、二人のスプリングフィールドは勇猛に、ただ神のみと相対するかのように前へ進む。

 

「アデアット!」

 

 アスカが取り出した仮契約カードから呼び出されたアーティファクト『絆の銀』の片方を取り外しネギに渡して、二人は互いの左と右の耳に一対のアーティファクトを装着する。

 

「「合体!!」」

 

 瞬間、まるで磁石に引かれた砂鉄のように二人の体が引き寄せられ、接触すると辺りを圧するほどの光が迸った。

 光が晴れた時、地上に太陽が現れたかのように熱が迸る。

 太陽かと思える熱の発信源は一人の男。ネギとアスカの両方の髪型や髪の色、雰囲気が混じり合って一つになって生まれたネスカは、知性と野生という矛盾した要素が同居した静かな瞳で造物主を見ている。

 

「また古臭い道具を引っ張り出したものだ」

 

 荒れ狂う風を鬱陶し気に見つめながら、純白のオーラを放つネスカを見据えた造物主は視線を返す。

 ネスカは何もしていない。ただ立っているだけで全身から引っ切り無しに大量の力が漏れている。

 あまりにも膨大な力は純白のオーラのような形となって視認できるレベルにまでなっている。空気にまで感染した力は、空気中で弾けて火花が散っている。何もしていないのに彼の周囲の地面が崩れ、石は勝手に砕け散っていく。

 傍から見る木乃香にすれば桁外れの、まさに人外レベルの力の保有量だ。絶大なる力を具現しながらもどこか温かい波動を放つその姿を目にして、神様が現れたような錯覚を覚える。強く在ることは、それだけで美しいのだと、その時初めて実感した。

 かくして幾つもの諦めと絶望に満たされた空気を切り裂いて、ネスカが拳を握って造物主の元へと歩いていく。よくある勧善懲悪の、予定調和の英雄譚のように。幾つもの神話で描かれる超常的な神や天使による救済のように。

 

「父母と同じように我に挑んでくるか」

 

 眉間に深い皺を刻んだ造物主がナギとは似ても似つかない暗い瞳で二人を見据える。

 どん欲なまでの大量のマナを飲み込んでゆく。風が渦を巻くように、太陽道を使うネスカへと集中してゆく。

 ネスカは黒の存在を真正面から睨みつけていた。一切の揺るぎ、一切の怖気、一切の迷いを断った強力な眼光を、ただただ真直ぐに差し向けていた。

 

「さあな、ここまで来たら答えなんてわかってるだろ」

 

 声とさえ呼べぬ聲が、殺意が、空間を這い回る。何というおぞましさ、何という妖しさ、何という恐ろしさか。

 揺らがぬ不動の瞳は、もはや同じ人間のものと捉えるのも難しい。降り積もった時間そのものが喋っているような、この世の外から聞こえてくるような声音を耳にしながら、造物主の問いに小揺るぎともせずに答えるネスカの顔から、能面のように表情が消えた。

 全身の筋肉は適度に緩み、余計な力が籠もった場所はどこにもない。その一方で精神は凍えた湖水の如き静謐の鏡となって、周囲一体の全景を映し出している。聴覚より鋭く、視覚より明確に、一切の死角なく、どんな些細な動きがあろうと即座に見抜く短針に自らを変える。

 

「何時の世も、人の歴史は戦乱と共にある。人が争うのは、もはや覆しがたい宿命なのだ。愚挙の極みといえる戦争。人は愚かさ故に自ら破滅の道を歩み、互いを傷つけ、殺し合う。この救い難い者たちのために、何故貴様は戦う?」

 

 造物主は、自問自答でもするように問いかけながらも、その言葉一つ一つに最上の憎悪を込められていた。

 

「人間が人間である以上は、決して平穏など訪れぬ。完全なる平安はあり得ぬのだ」

 

 人は安楽な方へ流れる。自分の力で運命を切り拓き、幸福を掴むことは実に難しい。もしそれが、誰かの言いなりになって叶うというなら、自分の頭で考えることも、判断して放棄してしまうものだ。

 

「だから全てをゼロに戻して作り直すと?」

「そうだ。それ以外に道はない」

 

 二人の間の空気が、ビリビリと帯電しているようだった。見守ることしか出来ない木乃香達でさえ、凄まじい内圧に身体の震えを押さえるのが精一杯だった。

 

「未来がどうなるかなんて誰にも判りはしない。大切なのは守るべきものを守りたいという自分の気持ちだ。俺はこの気持ちに添って命をかけることに、なんら迷いはない」

 

 例え造物主にどんな事情や思惑があろうとも、ネスカは怯むわけにはいかない。

 自分が敗れれば、全ては終わり、魔法世界は完全なる世界と置き換わる。そんなことをさせはしない。自分で決めたことを貫くために、挫けることは許されない。

 争い続けることが、ヒトの宿命なのか。これが種としての限界なのか。

 違う、とネスカの心が叫びを上げる。

 ネスカは信じる。ヒトは断じてそんな存在ではないと。例えこれまで人の世に争いが絶えた試しがなかろうと、この戦いは定められた運命なんかではないと、自分達の拳には自身の戦いの結末を変える力があると、ネスカは信じている。

 毅然と造物主を見据え、想いの丈を述べる。

 

「俺は信じているんだよ。変えられると」

 

 ネスカが告げると、造物主は口を横に広げ、その端を吊り上がらせた。笑ったようにしか見えないが、どこか笑みとは違うその笑みで、否定の声を上げる。

 

「お前は全てを守れるほど強くはない………いや、そんな強者はそもそもいない。そのような思い込みこそが絶望の種子を育てる。誰も避けられない」

 

 見えない手が頭の中を触って来る感覚。だが、これはフェイトとは違う。デュナミスに似た―――――いや、こちらこそが根元である、もっと一方的で異質な存在感。実態がないくせに威圧的な、存在を丸ごと鷲掴みにしようと圧迫を感じる。

 

「俺が全てを守るんじゃない。俺はそんな上等な奴じゃないし、ちっぽけで哀れなただの人間だ」

 

 敵を前にしてもネスカの中にアスカやネギの時に感じた最初のような動揺はなかった。言葉により否定されても、また心は動じない。相手の全ての動きを予測し、それを全てたった一手で打ち破る最良の技を夢想する。

 

「アンタの理想はここで潰える。俺に負けるんだ」

「世迷言を。根拠なき希望はより大きな絶望を育む。生半可な絶望よりも害悪だ」

 

 造物主はネスカの宣言を鷹揚に無視する。

 

「心の平安なくば、生きていても仕方あるまい。眠るような生を、精神の安定を人は望む」

「さっきからごたごたと、阿呆か」

 

 ネスカは、それだけ吐き捨てると造物主が眉を上げた。

 

「…………私の言うことは間違っているか?」

「いいや、概ね正しいのだろうよ。だから阿呆だって言ってるんだ」

 

 訳が分からないといった眼差しでこちらを見る造物主にネスカは笑みを浮かべる。

 

「俺は今まで苦しくても、辛くても、悲しくても……………それらが無駄じゃなくて結構楽しかったと思っている」

 

 過去を振り返るように目を細め、口元に薄く笑みを浮かべる。

 

「今まで色んな人達と会ってきた」

 

 万感の想いと共に口にする。

 

「千差万別。生き方も在り方も誰一人として同じ人はいなかった」

 

 魔法世界に来てから出会った一人ずつの顔を思い浮かべる。

 出会ってきた人々、通り過ぎていった人々、関わりのあった人から関係のなかった人まで全てが脳裏に流れる。

 父が切り開き、母が繋ぎ、多くの人に導かれてネスカはこの道の上にいる。

 自分もまた覚悟を決めねばならない、とネスカは気持ちを新たにした。足元にあるこの道は、幻想でも希望でもない。数々の光に照らされた道を歩いている。

 可能性という道は、一人では到底切り開かれるものではなかった。前に、隣に、後ろに、必ず誰かがいたのだ。多くの人が望み願い求めた想いがあればこそ、ネスカはこうして歩いて行ける。

 

「でも、たった一つだけ共通しているところがあった。みんな一生懸命に生きていたってことだ」

 

 大きく息を吸って、自信を持って続けた。

 

「だから断言できる。彼らの存在が、誰にも、神様にだって間違いだって言わせない」

「……………」

 

 迷いなく言い切ったネスカの表情に、この身体の持ち主であり自分に立ち向かってきた男の姿を重ねて造物主は瞳を閉じた。

 

『―――――ようするにお前は、この世界のこと、どう思ってんだ!! 運命だかなんだか知らんがよ、魔法世界を変える理由を背負ってるってな、判った! けど、お前自身、本当にそれ、やりてえのか? おめえはこの世界が、好きじゃねえのか!?』

 

 造物主の双眸がゆるりと開き、ぞっとするほどに澄んだ赤の瞳が覗く。

 

(あの夕暮れのような赤い髪を持つ、風のような魔法使いは本当に不思議な男だった)

 

 感慨を造物主の胸を満たそうとも何も変わりはしない。

 造物主は失ってきた。二千八百年もの永き時の鑢で、あらゆるものを誰よりも失い続けてきた。

 この世界において神ともいえる自分を怖れず、何人にも支配されず、何人をも支配しようとせず。ただあるがまま、自由に動き、自由に生きる。気の遠くなるほど悠久の時を魔法世界で生きてきたが、あんな人間と出会ったのは、初めてのことだ。

 

「ならば、父と同じく私に挑み、証明して見せよ」

「やってやる」

 

 二人の体から同時に白と黒の真反対の光が吼えた。

 ネスカは逸る気持ちを抑えて息を整え、拳を握り締めた。

 大仰とも思える構えを、彼は取った。腰を落とし、足を前後に開き、右肩を引く。一本の線をイメージする。自らと、相手を結ぶ一線。それは足元から始まり、腰を、肩を通り、拳の先端から敵の身体の中心へと貫いていく。在るべき力の通り道だった。

 全身全てを凶刃と化す。いずれに触れても敵を貫く、どこまでも細く鋭い刃となる。溢れ出す程のパワーは、アスカがフェイトと闘った時の比ではない。

 

「武の英雄には何も変えられんと教えよう」

 

 造物主もまたエヴァンジェリン達と戦っていた時には放出していなかったエネルギーを周囲に撒き散らしていた。ナギという最高のポテンシャルを有する肉体を手に入れたことで、二十年前や十年前のパワーを遥かに凌駕している。

 ネスカから発散される戦意の戦慄と同時に造物主の、ローブの内側の息遣いの質も変わり、限りなく無音に近くなる。戦士が息の音を消すのは、彼らが戦いの場にある時だ。達人相手の戦闘では、呼気と吸気のの間を悟られれば相手に動きを読まれ、死を意味する。

 巨大な光は衝撃波となって墓守り人の宮殿を叩いた。瞬時にして二人が立つ大地に縦横無尽の亀裂が生じ、アスカとフェイトの戦いによって損傷を負っていた建物が全て押し潰されたように崩れた。

 地鳴りがして、風が唸る。

 髪が激しく波打ち、服の裾が跳ね上がった。二人の全身から噴き出す凄まじい闘気が、大きな津波が迫ってくるような闘気に慄くように墓守り人の宮殿を震わせていた。

 嵐の中の船のような揺れに、木乃香達は懸命にバランスを取った。倒れこそしなかったものの、動くことが出来なかった。

 一帯の空間に歪みを生じさせるほどの、息をするのも憚れる緊迫感。直に接している地面は次々と新たな地割れを刻み込んでいく。

 ネスカも造物主も、睨み合ったまま互いに微動だにしていなかったが、あと何か一つ、ほんの小さな切欠が加わるだけで戦闘が始まる。

 そしてその結果、確実に一方が命を落とす。もしくは最悪、両名と共に。二人の殺気は明白だった。

 もう互いに語る必要はない。

 ネスカの敵は絶望の塊だ。造物主自身も絶望している。対峙する相手にまで絶望を振りまいている。そして恐らく、その強さは史上最強…………誰にも届かない領域にいる相手だ。

 二人の男の眼光が、正面から激突した。

 それが合図。

 純白と漆黒。二つの力が、激しくぶつかりあった。

 古今東西あらゆる歴史においても頂点に位置する英雄と怪物の戦いが、ここに幕を開ける。いまここに、最後の対決は音もなく幕を切って落とした。

 今度こそ小手調べではない。世界の今後を決める本当の激突が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り一時間。

 

 

 

 

 





造物主=ナギに攻撃を受けた際、事前に仕込まれていた術式によって完全なる世界に送られたと思われていたナギとアリカの魂と精神世界で出会うアスカ。
最初が造物主が神だった頃からの記憶。
如何にして魔法世界を造り、人を作り、見守って来て、そして絶望したか。
次がナギの記憶。
ネギとアスカの出産と命名。
造物主=ゼクトとの戦い。
六年前の村襲撃事件(村に危機が迫ったら危険を知らせる術式を仕込んでいた)
ナギだけではなくアリカも封印されていたのは、造物主の浸食を抑える為で、六年前にナギが救援に向かったことでバランスが崩れ、この六年の間にほぼ乗っ取られている。
デュナミスによって封印から解放された瞬間に、造物主は二人の魂を完全なる世界に送る術式を発動している。それを察知していたので敵意を持った第一接触者の精神に干渉できる術式に魂を移していたので、造物主は二人を完全なる世界に送ったものと勘違いした。但し数日もすればバレていた。


アスカの復活から、ネギとの合体してネスカになってからの造物主との戦いを加筆。この話に入れないと次が読み難いので変更しました。


次回『第92話 比翼の英雄』




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第92話 比翼の英雄




――――英雄よ、望む未来を勝ち取れ





 

 

 

 

 

 同時の発声、同時の仕掛け、威力まで同じの攻撃を繰り出したネスカと造物主が額を擦り合わせるほどの超至近距離で鬩ぎ合う。

 

「ぐっ………っつあああああ!」

「ぬぅっ………っぐううっ!」

 

 極大の力同士のぶつかり合いは弾かれ、衝突を繰り返しながら螺旋を描きながら上昇していく。

 

「おおおァあああッ!!」

「はああああああァ!!」

 

 両雄の拳。正しくは拳に纏われた力が激突した瞬間、超新星の出現かと見紛う眩しい紫電が周囲数キロまで走り、見た者達の区別なく網膜を焼いた。髪を逆巻かせ、気合の声を絞り、拳と拳の狭間で燻る力の波動を押し合うネスカと造物主だったが、やがて力場は光泡となって四散した。

 

「力は」

「互角か」

 

弾かれたように距離を取って一瞬だけ静止した二人は、内在量はともかく一回の放出量に関してはそれほどの差はないことを自覚する。

 

「なら後は」

「強い方が勝つ!」

 

 それは、神話の再現だった。果てしなき究極の攻撃が、果てしなく究極の防御によって弾かれる。

 世界が破裂する音が聞いた事があるだろうか。それは爆音や衝撃波の領域すら超えていた。人間に聞き取れる範囲を遥かに超えた。世界が放つ苦痛の悲鳴。悲鳴の余波の余波、その切れ端になって初めて爆風と化す。悲鳴の切れ端は浮かんでいた岩石を吹き飛ばし、墓守り人の宮殿の地面をビリビリと振動させる。

 一見しただけでは果断の撃ち込みと圧し合いを繰り返しているだけにしか見えないが、彼らの攻撃は紛うことなき神域。

 そこにあるのは想像を絶する相反する二つの光。二人の戦いに言葉は要らなかった。全ては触れ合う拳を通じ、互いの力が声となって相手を突き抜けた。

 ネスカと造物主。魔力の渦に巻かれた墓守り人の宮殿上空で、二人の激突だけが全てであった。

 

「この武の英雄の体を使う私によく抗う」

「まだまだ!」

 

 二十年前の最強と名高き英雄の肉体を得たことで史上最強と言ってもいい造物主と、後のことを考えず自身の肉体すら考慮せずに力を振り絞るネスカの対決には、先程のアスカ対フェイトや最高峰の力の持ち主同士の戦いとは別種の迫力があった。

 普通に力がなんら制約なく解放され破壊に向かえば、恐らくは一撃で大河を干上がらせ、墓守の墓所の中にいる者たち諸共に瓦礫の廃墟と化すことも可能だろう。そうならないのはネスカと造物主の両者が、己の攻撃と同時に、相手の攻撃を封殺する防御壁を展開していたからだ。

 

「雷の暴風!」

闇に染められし血を求める剣(ダーインスレイヴ)!」

 

 裂帛の気合と共に放たれるのは最上位の強さに至った者ですら受けきることが出来ないほどの突き抜けた力。

 雷霆の暴風と闇色の大剣の魔法が激突する。何人にも受け止めることの出来ない力を、しかし二人は自身の力を以って弾き返す。

 魔法の撃ち合いになれば無数の敗者達の怨念を原動力として無限とも思える魔力を有する造物主を相手にするのは、人外とも言うべき魔力量と太陽道で回復するとしても分が悪い。過去、造物主と相対した数多の武の英雄やナギがそうしたように強力な魔法を突破して近接戦を仕掛ける。

 

「でやっ!」

 

 雷の暴風と闇に染められし血を求める剣(ダーインスレイヴ)の撃ち合いの直後、超スピードで移動したネスカが造物主の懐に潜り込んで拳を放つ。

 

「その程度で」

 

 やられるほど造物主は愚かではない。思考に反応してナギの体が最善の動きでネスカの拳を迎え撃つ。

 両者の間で莫大な力が次々とその性質を変え、音速を超える肉弾戦の最中に別次元の『読み合い』という頭脳線が平行して展開される。

 物理と魔法。肉体と精神。騒乱と瞑想。

 互いに拳をぶつけて生じた火花を散らしながら行われる頂点を極めし者同士の戦いは熾烈を極めた。

 五分と五分の息詰まる攻防戦は身体に幾つものの傷をつけていく。まさに、魂を削るかのような乱舞だった。打ち込む攻撃の一つ一つが、両者を死へと近づける。

 拳撃に次ぐ拳撃。繰り出された拳撃の速度は高速を超え音速へ、音速を超えて神速へと変わっていく。刹那で十撃を超え、瞬きで百撃を超え、一秒で千撃を超え、一息で万撃を超え、一拍で億撃を超えていく。

 やがて火花は閃光に、閃光は爆発に、爆発は崩壊に、崩壊は無へと変わっていた。ヒトの限界を遥かに超えた攻防は世界をも砕きかねない。

 

「うぉぉあああああああっつ………………!」

「ぬぅうううあああああぁぁ…………………!」

 

 造物主の連撃速度が更に上がる。合わせるようにネスカの攻撃速度も上がる。

 両者の攻撃速度の増加によって連続した音が崩れる。

 崩れたというのは少し語弊があった。あまりにも素早すぎて音は数をなくした塊となり、数千数万の爆音が短い間隔で次々に炸裂したため、総体として一つの音のように聞こえて空間そのものを踏み潰すような轟音へと変わったのだ。

 

「受け入れよ。これが最適解だ。完全幸福への本当の答えだ」

「人の心を大事に出来ずに作った世界が一体何になる! あんたはそんな世界を作ろうとしているんだよ!」

 

 ネスカの一撃ごとに彼の想いの波動が造物主に、造物主の一撃ごとに彼の想いがネスカに。

 不変なものなんてなく、自分も世界も心持ち一つで変えられると信じているネスカ。

 自分自身の心さえも制御できない愚かな人間では過分な希望は毒になることを知っている造物主。

 二人は螺旋を描きながら上昇し続け、中空で静止。どちらかともなく動き出し、極限まで高めた力をぶつけ合う。互いの主張を、拳を、技を、心を、存分に叩きつけた。

 

「お前の言葉は信じない。思想も、感情も、信用できない。期待を裏切られ続けた二千六百年――――――もはや、誰も私を変えられはしない」

「そんな考えは唾棄すべきだ!」

「私をここまで追い詰めたのは誰だ!」

 

 流された膨大な血の量を知るが故に、次代に祈りを託さずにはいられなかった。その先になにがあるのか、分からないまま。

 託しても報われず、託された者達は託されたことすら忘れ果てて死んでいく。希望こそが最悪の毒なのだと何度も思い知らされた造物主にあるのは絶望だけだ。

 

「俺たちなのかもしれない。でも、俺は諦めない。何があっても、何度間違えても、何度大地に叩きつけられようとも次には勝利するために!」

「お前達に勝利はない。虚しい足掻きが不幸にしているのだと何故分かろうとしない!」

 

ゆっくりと弓を引くように構えを取り、声音に押し出されるようにネスカの眼前に光が迫る。紙一重で躱した直後、跳ね上がるように膝が突き上がり、胸元に迫った。

 

「この分からずやっ! みんなが戦っているって見れば、世界はまだ捨てたものじゃないって分かるだろうが!」

「何にも知らない子供が! 扇動した者がなにをほざくっ!!」

 

 口元に血を滲ませた造物主の目がかっと開かれる。再度の攻撃を繰り出そうとした手を掴み、叫びながら圧倒的な膂力が呆気なくネスカの体を押し上げていた。

 成す術なく浮き上がった途端、真下から繰り出された造物主の足が腹に食い込む。組み合わせた両腕によってネスカは遥か下方に吹き飛び、墓守り人の宮殿の空域から外れた地面に体を打ちつけた。

 

「たった一人で世界の代弁者にはなれない。私のように敗者達の怨念を背負わなければな」

 

 生み出したクレーターの底で食い込んだ地面から立ち上がるネスカを、悠々と降りて来て見下ろす造物主の目が圧迫する。ネスカは、意地でもその目から視線を外さなかった。

 

「無限共感能力、望んで得たものじゃないだろう。そんな物で世界を背負った気になるなよ」

 

 全身から滲み出す圧迫感が毛穴にまで入り込んでくる。口で反論しながらもネスカは生唾を呑み込んだ。

 初めて造物主は本音を語っている。自分という他人の中に、自己を投影しているのかもしれない。

 

「世界は勝者と敗者に別れる。歴史を紐解けば後者の方が多いのは自明の理。少なくとも私は世界の半分を背負っていると言っていい。たかだか一時代を背負った程度の男が言っていい言葉ではない!」

「だとしても、アンタの絶望を世界に押し付けていいってことはない!」

 

 湧き上がってきた口中の血を吐き出し、空を蹴って迫っていた造物主にカウンターで体当たりを仕掛ける。呻いた造物主に胸倉を掴まれ、再度地面に叩き付けられたネスカは、足を蹴り上げて造物主を退かすも、声にならない苦悶を押し殺した顔が視界一杯に迫る。

 その体が流れるや、ネスカも一緒に引きずり回され、両者とも錐もみ状態で近くにあった巨大な岩塊へと突っ込み、盛大な粉塵が噴き上がった。

 即座に相手の胸倉を掴み、互いに相手より有利に立とうと体が目まぐるしく回転する。極大の力を持つ二人が回転する度に周囲にある何もかもが粉砕され、地面に大きな溝を作り出す。

 

「小癪な!」

 

 喉元に食らいつき続けるネスカの顎を押し返し、造物主も負けじと振り回す。

 何度も、何度も、何度も、互いの体を地面にぶつけ合う度に周辺一帯が砲撃を受けたかのように振動を繰り返す。

 数十度目かの激突の際に二人の体が離れ、尋常ではない力で振り回し合っていたこともあって勢いがつき過ぎて、何十メートルも吹き飛んだ体が背後の地面に激突して抉りながら破壊する。

 深々と地面を抉りつくして止まった時には息が出来なくなり、口を一杯に開いたネスカは、そのままずるずると瓦礫に体を埋もらせた。

 

「くっ、つぅ……」

 

 立ち上がろうと瓦礫をどかすも、膝に力が入らず、全身が心臓になったと思える体を折り曲げ、肩で息をする。

 最早どこが痛いのかも判然としない体を動かし、直線状に同じように瓦礫に埋もれている造物主を視界に入れたネスカは、地面についた手に力を込めた。ズキンと頭蓋まで突き抜けた痛みを堪え、自身の体より遥かの大きいサイズの瓦礫に体を預けてゆっくり引き起こしながら掠れた喉を震わせる。

 

「過去の怨念を今に叩きつけたって何も変わるものか」

「ああ、そうとも。変わらぬだろう。人とはそう簡単に変わるものではない」

 

 ただ対峙しているだけにもかかわらず、ネスカは体力の消耗を感じていた。極限状態が精神を磨り減らし、肉体を疲弊させていく。だがそれは造物主とて同じだ。

 

「痛みを伴って学ぼうとも、世代を経れば学んだことすらも忘れて同じ過ちを繰り返す。それ以前に学習すらせずに何度も同じ過ちを繰り返す者すらいる。これが不完全でなくてなんとする」

「完全ってのは終わりだ。不完全だから人は学ぼうとするし、成長しようと思える。進化の袋小路に陥れば待つのは滅びだけじゃないか」

 

 所詮、英雄であろうとも人でしかない自分に神だった造物主を間違っていると断ずる資格はない。それを百も承知の上で、ネスカは痛みが走る体で歯を食い縛り、痺れて棒になった膝を立たせた。脳裏に思い描く人たちを支えにして、ネスカは両の足を地面に押し付けた。

 

「かもしれぬ。だが、それで良い。苦しみに満ちた生よりも安らかな滅びを望む」

「決めつけるなよ。そんな消極的な自殺なんて誰も彼も望むものか」

「敗者達が望んでいる。こんな惨めな最期は嫌だと私の中で叫んでいる」

「それこそ死者の怨念に振り回されている証拠だ。末期の叫びは他のどんな声よりも大きい。怨念に突き動かされていると何故分からない」

 

 一途ともいえる狂気に対しても、所詮は感情論で否定しているのに過ぎないかもしれず、明確に否定する論拠があるわけでもない。ネスカは背中を支える圧力にも似た力を信じて、先に進むことだけを走る。

 

「欲しいのは、時間だ」

 

 迎撃として真っ正面から飛んできた拳の先を払い、相手の斜め後方に滑り込ませる。向き合う間を与えず、左肘を打ち込んだネスカは、超反応で受け止めた造物主に続けざま右拳を叩き込んだ。

 

「今更、時間など……!?」

 

 立て続けの拳撃を受けて防戦一方になった造物主がよろめくように後退って呻く。

 

「どうして魔法世界が生まれたのか、どうして魔法世界が滅ぶのか、どうしてアンタが憎しみに染まってしまったのか! 皆に伝えなくちゃ……………誰も分かってなんてくれない!」

 

 続ける間もなく、後方に跳び退った造物主が背後の崩れた瓦礫を蹴り、ネスカの頭上をすり抜けると同時に固めた拳を振り上げる。

 

「幻想として消え去る者たちに教える必要などない!」

 

 と、唾棄するかのよう言葉を吐き出すや否や、純然たる殺意で固めた拳が目前に迫ってもネスカは臆する様子すら見せず、それを真正面から拳で受け止める。

 

「そうやって自分だけで完結してしまうから他の道を模索することすらしようとしない! だから独り善がりだって言ってるんだ!」

「貴様ら英雄は何時もそう言う」

 

 ギリッと間近に近づいた造物主の眼が煉獄に燃える。

 

「別の道、別の方法、もっと良い手段があると大衆に誤認させる。いらぬ期待が、そのような考え方が迷いを誘発し、大きな混乱を生んできた!」

 

 激突し、弾かれ合う拳と脚の幾つもの輝きが矢継ぎ早に光を閃かせ、干渉波を押し広げる。殴り結びつつ移動する二人の足元の地面が捲れ上がり、崩壊して灼熱した空気が包み込む。

 

「違う! 別の道があるかもしれないってことが混乱を生み出すなら人はとっくの昔に滅びてた。理不尽と戦って、少しでも進んできたのが人だ! あんただってそれを知っているはずなのに、していることは絶望を押し付けているだけだって分かれ!」

 

 強化した脚力と卓越した動作と縮地で、垂直に跳躍したネスカが横殴りの脚撃を躱し、造物主の背後に着地する。即座に振り向こうとする造物主の挙動を予測したネスカは、地面に膝をついたまま倒立のように伸び上がって蹴り上げた。一歩引いた造物主には顎を狙った一撃は僅かの差で当たらない。

 

「そうさせているのはこの世界の者達であろうがッ!」

「そんな言い方!!」

 

 反撃を避けるために飛び退き、空中に飛び上がって距離を取る。

 造物主は追いかけることをせず、地上から闇色の光弾を撃ち放つ。ネスカは迫るそれらを風に揺れる柳のような動きで回避する。

 

「事実であろう! 貴様の言うような青臭い綺麗事など、この痛みに塗れた世界では何の意味もない」

「それでも俺は言い続けるしかないんだ。伝えなければ何も分からないじゃないか!」

「なら、気づくことだ! 私のように分かり合いたくない者もいる! 伝えたいものが悪意しかない者もいる! 他人が自分と同じ物差しで考えていると判断すること自体が傲慢なのだ! 貴様の理屈を私に押し付けるな!」

 

 回避し続けるネスカを追って、光弾を撃ち続けながら造物主がフワリと浮かび上がる。

 地上から降り上がる雨のような千を超える光弾を事も無げに躱すネスカに造物主の顔は歪む。

 

「………何故だ!? それだけの力がありながら何故、私が理解できない? 貴様ら英雄は何時の代も私を理解しようとしない……?!」

 

 迫る光弾を迎撃すべく放たれた魔法の射手が衝突して、相手を押し込もうとする二人の間で表面化した力が小規模の爆発を起こした。

 

「独り善がりの絶望なんて他人に理解できるわけ無いだろうが!!」

 

 常識を超えた互いの疾さでは派手な回避は意味を持たない。最良の迎撃はギリギリまで引きつけての後の先(カウンター)―――――ネスカは体勢を整え、造物主の背後の魔法陣から矢継ぎ早に発射される光弾を躱しながら迫る。

 押し寄せる絶望に圧倒されながらも、それでもネスカは火線を避けて飛び回り、その手に意思を込めて戦う。

 

「貴様の言うのはただの願望だろう!」

「違う! どれだけ過酷な世界であっても、その結果がどうあれ、誰かが勝手に決めていいものじゃないんだ!」

 

 叫ぶネスカの手に千もの光の煌めき集い、身の丈十メートルはありそうな雷の大槍の輪郭を形作っていく。

 

「俺たちは全知全能になんてなれない。時間をかけて変えていくしかないだろう、造物主!!」

 

 完成した雷の大槍が振りかぶって放たれた。

 有り余る力を込められて巨大化した雷の投擲は、その大きさもあって幾分か鈍重であった。造物主にとってみれば躱すことなど造作もない。

 余裕を持って躱す造物主。しかし、この戦法の真価はここから発揮される。

 

「弾けろっ!!」

 

 造物主が躱した直後、巨大な雷の投擲から全方位に向けて千条の閃光が弾けた。

 器だけを作ってその中身には千もの雷槍が犇き合っている。避けられた瞬間に巨大な器を自壊させて中の雷槍を解き放つ。その特性上、一方向に狙いなどつけられないので全方位に飛んで行く。

 なので、造物主に向かったのは百にも満たない雷槍。如何な造物主といえど不意打ちで、優れた魔法使いの放つ中位魔法クラスもある一槍を千も受ければ無事では済まなかっただろう。

 単純に全方位に飛ぶ特性に助けられたとはいえ、次々と被弾しても力尽くで耐え切った。

 

「ちっ! そうやって何時かはと時間を掛ければ何でも解決すると、そんな甘い毒に踊らされて一体どれほどの時を私が過ごしてきたか、貴様に分かるか!?」

 

 多少なりとも傷を負って爆煙から飛び出した造物主の脳裏に浮かぶのは過去。

 

「所詮は現実を知らぬ者が嘯く理想論だ。そんなもので人は変わりはしない!!」

 

 人の心は脆く弱いもの。些細な誘惑に負け、欲望に支配され、憎しみ、殺し、憎悪を募らせる。憎しみだけは、幾年過ぎ去ろうとも、薄らぐことはない。むしろ日を追うごとに、強くなってゆく。それどころか、人の短き一生すら越え、復讐の念は子々孫々に至るまで継承される。価値観、文化、種族、些末な違いに捉われ、相手を排除し、戦乱に明け暮れる。

 

「何かが変わるかもしれないと夢想して、やがては膿み憑かれるだけだ!」

 

 この世界に生きる者たちが犯してきた、数々の所業。尽きぬ欲望、失われし道徳、独善、不条理な差別、造物主が変えなければ決して世界に平和は訪れない。

 善とはなにか。悪とはなにか。その通念はひどく不安定なもので、時代、価値観、見定める者の立場によって直ぐに入れ替わる。それでもなお、普遍の悪と直感するに容易いだけの悪行を、愚行を造物主は嫌になるほど見てきた。

 

「次があると、また今度ならばと、何時までも繰り返して苦しみたいか!」

 

 己の身を削ってまで作り上げた者たちが唾棄すべき存在に成り下がったことを知った時、彼女の身を狂おしい怒りが貫いた。だが、唾棄すべき存在に成り下がろうとも、彼女にとっては世界に生きるものが自身の子供のような存在であることに変わりない。ならば、その過ちは自らの手で覆すのみ。

 不完全なるこの世界に、不変なものはありえない。永久の平和はない。永久の安寧もない。だからこそ、造物主は誓ったのだ。不変を、永久の平和と安寧を作り上げてみせると。

 

「他者を傷つけるだけの地獄のようなこの世界を終わらせる……」

 

 周囲の光は増え、何時しか千を越す黒の玉達が造物主の周りで煌めくようになった。

 ネスカも迎撃すべく、周囲に魔法の射手を生み出す。周りで輝く光の玉は瞬く間に数を増やしいてく。

 造物主の光は太陽を覆い隠すほどの暗黒の輝き、さながら宇宙を埋め尽くす漆黒の闇だった。反対にネスカの光は夜空を満たす星々の輝き、銀河を彩る星々の煌めきの如く燦然と輝く。

 両者から暴風が撒き散らされ、更に幾百筋もの光弾が互いに向けて放たれる。

 

「今度こそ世界を、人を救うのだ!!」

 

 造物主の声が迫り来る光弾を迎撃し、避け続けるネスカの耳に毒を注ぎ込む。

 後悔に、苦渋に塗れた言葉を聞けば誰もが彼は十分に手を尽くしたのだと分かるだろう。造物主が一番望んだモノは、きっと普通に笑って、普通に泣いて、それを普通に誰かと分かち合える世界なのだろう。

 冷たく暗い暗闇で、遠く皆が輪になって当たっている焚き火の温もりに一生懸命に手を伸ばすようなそんな虚しい日々を送ってきたんだと思う。なのに、どれだけ苦しみ、もがいて伸ばした手の先には望んだ世界がない。

 アスカが示す世界は正しく、そして美しい。だが、それは誰から見ても恵まれ、幸せに映る物が言ったのでは空虚な綺麗事に過ぎず、人を動かすことなど出来はしない。

 動かせるとすれば、誰から見ても不幸で推測される未来すらも無残な奴が実際に笑って言ったときだけだ。

 そんな者を造物主は知らなかった。その者がいれば皆を救えると分かっていても、その存在を信じることはできなかった。

 

「俺は傷つけ合うことが悪いこととは思わない!!」

 

 光弾と魔法の射手の激突の最中でネスカの一秒も間を開けずに断言した返答は、造物主の予想を覆すものであった。 

 

「差し出した手が傷つくことを怖れていたら、触れることもできないじゃないか!」

 

 これまでずっと戦い続けてきた。目の前で誰かが泣くのが嫌だから必死になって戦ってきた。死にそうな目にあったのも一度や二度ではない。死に物狂いで生きてきた。

 対して、手にすることが出来たのは本当に些細なものだっただろう。割に合わないことをしている自覚ぐらいはある。単純に自分がもっと強くて頭が良ければもっと上手くやれたと思うことの方が多い。

 でも、だからこそ得られた実感もある。

 拙い手で必死に掴み取ったものが決して無価値ではなかったことを、ネスカは知っている。

 

「お前にみたいな諦めた奴に救われなければならないほど、世界は弱くなんかない!」

 

 本当に平和な世界っていうのは、ただ痛みを忘れられている場所なんかじゃない。もし二度と痛みを生まずに済む場所まで辿り着いたなら、その時人間は、過去に置き去りにしてきた痛みや犠牲を、本当の意味で悼んで、偲ぶことができるようになるのではないか。

 

「前提が間違っているぞ! この世界は歪んでいる。魔法力枯渇ではない。そこに住まう者達がだ! 一つ一つの問題を順番に解決できるような状態ではなくなっている!」

 

 その瞳に、明確な憎悪が宿る。

 

「何時まで経っても消えぬ人種・種族差別、偏見、奴隷、何も、何も変わらない!」

 

 闇の光が辺りを包み込む中で、炯々と輝く暗い瞳だった。

 

「こんな世界が弱くないだと! それは悪意という言葉の意味を知らん子供の寝言に過ぎん!!」

 

 造物主が絶叫し、その造物主の気合に呼応するかのように力を放出していくように見えた。 

 

「大戦から二十年経って世界の何が変わった! 何も変わっていない。だから、私が変えなければならんのだ。それがこんな不完全な世界を創ってしまった私の責務だ!!」

 

 絶望を我が物として、絶望の中に生きて、それをまるで希望のように語る哀しい人の瞳だった。

 

「確かにそうなのかもしれない。俺もアンタの眼を通して見た」

 

 ネスカは造物主の記憶を見た。魔法世界の戦いの歴史を、忌まわしい記憶を。

 でも、とネスカは続ける。

 

「人の本性はそれだけじゃない」

「何、だと……?」

「人がどうして一面しかないと断言できる。俺達にそれ以外の側面が一つも存在しないなんて、どうして断言できる」

 

 言葉を紡ぎながらネスカは思う。 

 人の心の中には、どうしようもないほど深い闇が広がっている。人間は他人と繋がる事だけを考える生き物ではない。身を守るため、安全を保つため、何かを独占するため、様々な名目で他人を遠ざける性質を持つ。人を傷つけたり排除しようとしたり、そういった行動を自然と取るようにできているのである。

 でも、それと同じか、それ以上の光も同時に眠っている。普段は恥ずかしくて出そうともしない善意。わざわざアピールする必要すら感じないほどの正義。そうしたものは必ず存在する。見えないだけで絶対にある。

 そうでなければおかしいのだ。人の心の中に、本当に他者を殺し奪うだけの悪意しかないのなら、とっくの昔に人は勝手に争って滅んでいたはずだ。自分達が今日まで生きてこられたことが、歴史が途絶えずに続いていることが、滅びようとする心よりも繋がろうとする心の方が強かったのだと、きちんと証明してくれている。

 

「それが幻想であることを歴史が教えているのだと何故気づかない!」

 

 造物主の言いようは理解できる。正しい、とも思える。が、どこかで大切なものが抜け落ちていないだろうか。言葉を重ねれば重ねるほど、遠ざかってゆくようなもどかしさを感じる。

 

「このままでは何も変わらない!! 私が変えなければ、呪われた宿業は!! 嘆きの運命は!! 果てもなく貴様達を焼き続けるのだぞ!!」

「その時はまた誰かがあんたみたいな馬鹿をぶん殴って止めてくれる! 遠い過去から連綿と続けてきた営みと一緒にな!」

 

 誰が正しくて、誰が間違っていて、何が正しくて、何が間違っているのか。そんなもの誰にも決められるわけがない。でも、みんな戦っている。そこに自分が信じたものが、信じた人がいるから。

 みんな同じ。誰かの幸せを願って戦っている。そのためならきっと自分の命だってかけられる。何人にも追いつけぬ速度で、何人にも叶わぬ力を振るって目の前の存在に教えなければならない。

 

「自分が見たいものだけを見て、全てを否定して!」

「見るに値するものがなければ仕方なかろうよ! 全ての弱き者の悲鳴と呻きが消え去るその日まで私は止まらん!」

「見たくないのなら目を瞑れ! 聞きたくないのなら耳を塞げ! 幾ら絶望を叩きつけられても、今を生きる者に向けるのはただのエゴだよそれは!」

 

 最初に造物主が世界を作り、子らを作ったのは善意からのはず。過酷な現実、理不尽と戦う中で紡ぎ出された善意。ネスカもまたそれを見た。その上で造物主とは違う答えを見い出した。

 

「不滅だろうと封印は出来るんだ。他者の悲鳴と呻きが聞きたくないのなら一人で引っ込んでろ! 今を生きる者の邪魔をするな!」

「それではこの世から嘆きが止まることはない! 誰かが救わねばならんのだ!」

「だからって…………アンタは不滅なんだろ、永遠に生きるんだろ。だったらなんで敗者の痛みと嘆きを代弁して叫ばない!」

「何を!?」

 

 その指摘に造物主の動きが僅かに鈍ったところで、ネスカの攻撃が更に苛烈さを増して襲いかかる。一瞬で差を引き離されそうになり、しかし造物主は逆転し返すべく拳を振るう。

 

「勝者に声高に叫べよ。お前達が倒した相手の想いを知れって。何も知らない奴らに教えてやれよ、ひっそりと忘れ去られようとしている敗者の気持ちを」

「がぁっ!?」

「声高に叫べば共感してくれる者が必ず現れる。一人で小さな世界に閉じ籠ることもないだろうが!」

 

 ネスカは一撃を躱し様に、風の塊を幾つか放出して造物主を背後から吹き飛ばした。凄まじい衝撃が背中に走り、造物主が成す術もなく弾き飛ばされる。飛ばされた造物主が、直径五十メートルほどの浮遊岩に激突した。

 

「これ以上の苦しみを感じたくないって言ったな。だったら、世界を喜びで満たせ!」

 

 偶然ではない。流動する周辺の状況を読み、衝突させる腹積もりで風の塊を見舞ったのであろうことは、間を置かず距離を詰めてきたネスカの挙動を見れば分かる。

 衝突の影響で一時的に朦朧とした意識の端に閃く剣呑な気配を捉え、半ば無意識に全身に力を込めて埋まった岩石から光を溢れさせた。造物主が岩石を爆砕させて、吹き上がった砂塵が爆発的に広がる。

 

「叫んだとも、共感する者は現れたこともあった。だが、それだけだ。永続することはなく、死と共に終わる」

 

 破片が迫ってくるのを見たネスカは少しの機動で回避した。気配を察するのには長けていないのか、造物主はネスカを見失ったのだろう。砂塵の中をすかさず転身したネスカが素早く離脱したことを分かっていない挙動をしている。造物主の隙を逃さず、瞬時にその背後を取る。

 

「一時だけ苦しみを和らげたところで世界に何ら影響を及ぼさん。それよりも世界を造り替えて悲劇を止める方が先決だ!」

 

 背中を見せる造物主に蹴りを叩き込んだが、体の超反応によって防御される。

 攻撃を受けた防御した手の痛みを堪えながら、攻撃を放った直後で直ぐの追撃を選択しなかったネスカを目にした造物主の手が閃光で光る。

 

「私は、既に歴史の闇に消えていくしかない嘆く弱者達をこそ救いたいのだ! でなければ彼らは何時まで経っても救われない!」

 

 姿勢制御を放棄して攻撃を受けたままの慣性で跳びながら両腕を胸の前で抱え込むと、空気の引き裂ける音を立てながら驚くべき密度と圧力を持つ力の炎球の塊が出来上がっていく。

 炎球が出来てからも、造物主は力を籠めるのを止めずに新たな変化を加えていく。すると、今度は球体を覆うように雷の迸りが生まれ、それが腕の間で増幅しあって威力を高めている。

 炎球を中心にして遠くからでも間近で稲妻が落ちたかのような閃光が輝いていた。

 どんどん大きさを増していく炎球から迸る雷によって周囲が圧力でビリビリと震える。空気を普通に感じ取る能力があれば、それがどれだけの威力を持つか、見ただけでハッキリと分かる。それほどの魔法だった。

 ただでさえ、脅威の威力を発揮しそうな炎球が更なる増大を見せた。最初の五倍近くの大きさになった炎球をネスカに向ける。

 

「術式統合、雷神槍・巨神ころし!」

 

 造物主が力を溜め続けている間に迎撃の手を整えていたネスカは左半身を後ろにした半身になりながら、掲げた左手の上に巨大な雷槍を作り上げている。

 雷神槍を収束させたネスカに向かって、人の姿など簡単に飲み込む炎雷球を撃ち放った。

 上位古代語魔法を遥かに超える炎雷球が彼我の中間地点を越えてようやくネスカは雷神槍を放つ体勢を整えた。出来上がった雷槍は腕の中で圧倒的な力を内包し、まさに稲妻のように閃光を発し続けていた。

 

「食らえ!」

 

 威力を充分に溜めたその魔法名の通り、雷神が放ったかのような槍の一撃が解き放たれた。音速の二倍の速度で加速された雷神槍が空気摩擦で加熱する。

 遅れて放たれたはずの雷神槍が炎雷球を強襲する。

 

「解放、千雷招来!」

 

 両者の技が激突した瞬間に雷神槍に込められた千の雷が解放される。膨大な量の空気が一点に吸い込まれていくような音が風に流れ―――――次の瞬間に天まで吹き飛ばしそうなほどの衝撃波を発した。

 最早、竜巻と呼ぶほうが相応しい空気の激流が、二人の技の激突地点から渦を巻いた。 

「「!」」

 

 互いの魔法が荒れ狂う。衝突した周囲数㎞が爆炎に覆われ、爆風に押されるように更に距離が空く。相殺した爆発だけで周囲の物を根こそぎ吹き飛ばし、空間に悲鳴を上げさせながら煙を割って二つの影が飛び出した。

 

「完全なる世界に囚われようとも、何時かは楽園から出ようとする者が必ず現れる」

 

 海に出て上空から光を撃って来る造物主に魔法の射手を撃ちながらネスカが断言する。

 

「人は強欲なんだよ。もっと、もっとって先を望む」

「その欲深さこそが世界を破綻させる!」

「人の業だよ!」

 

 刹那の攻防を続けながら互いに攻撃・防御・高速機動を繰り返し、どんどん墓守り人の宮殿から離れていく。

 

「世の中には完璧なんてものはない。こんな簡単なことにも気づかないなんて、アンタは死人に引っ張られ過ぎてるんだ!」

「今更!」

 

 振り下ろされた風の斧をネスカは躱せず、海に叩きつけられてその凄まじい威力は海底まで水面を鋭い切り口で切り裂く。

 

「言ったはずだ! 私は敗北者たちの代弁者だと! 完全なる世界は完璧なのだ。楽園から出ようとする者などありえない!」

「疑似とはいえ、俺は抜け出したぞ」

「偽物は偽物に過ぎん。本物の完全なる世界から抜け出してから言うのだな!」

 

 海底で立ち上がったネスカに向けて割られた両脇の水面から槍が突き出す。それを叩き折り、折れたところを踏んで足場にしながら離脱する。その直後、割られた海面が元に戻る。

 

「現実も夢も同じ儚い物でしかない。同じならば幸福な世界を人は望む!」

「地獄のような世界で生きていたって、それが何だって言うんだ? 例えどれだけ現実が辛くて自分が弱かったとしても、この世界に生きている人達が全力で生きていくことには変わりはない!」

「黙れ! 何も知らないくせに、世界の真理も、絶望も知らない無知な子供如きに何が分かって………」

「何も知らなければここにいるわけがない!」

 

 白い雷を雨霰のように撃って、造物主を後退させながら叫ぶ。

 

「貴様はよほど楽な人生を生きてきたと思える。知っているか? 幸せとは、絶望を知らないこと。無知は人にとって救いなのだ」

 

 魔法の射手を拳に収束させて撃ちかかって来たネスカの攻撃を捌きながら、ひどく空虚な穴が造物主の胸にポッカリと開いたようだった。それでいて、ジワジワとしたその穴を埋めるにあまりある何か熱い物が込み上げてくるようであった。

 類い稀なる存在感が目の前の男にはあった。人を惹きつける資質。カリスマといっていい。選ばれた者だけに許される圧倒的な存在感。ネスカにはそうした陽のカリスマが備わっていた。

 死線を踏んでなお猛々しく嗤い、ますます優美に舞い踊る。たった一つ対処を間違えれば、忽ち黄泉路を辿るというのに、身のこなしに曇り一つとてない。

 正しく、英雄。

 ネスカと違って他の人々は愚かしく弱い人間なのだ。そう、人の心は弱いものだ。何時も迷い、小さなことでも激しく揺れ動き、簡単な誘惑で負に屈する。時に過ちを犯すこともある。

 弱い弱い人間なのだから、楽な方に流れても責めるべきではない。正しいことは痛いもので、間違いや怠惰の方がずっと楽で気持ちがいいのだから。

 

「絶望なら知っているさ。それも特大のな。でも、何時までも絶望に浸っているほど、俺はセンチメンタルな男じゃないんでね!」

 

 造物主は声を張り上げる度に音がなくなる息継ぎの瞬間を恐れるように手に沿うように断罪の剣を作り上げる。

 

「ほざけ! 貴様らのような英雄が根拠のない希望を振りかざし、大衆を煽り続けて来た。結局は何も変わらないまま、今に至っていることを知れ!」

 

 先を進むネスカに向けて、断罪の剣を一瞬にして伸長して斬りかかる。

 

「変わり続けてるさ! アンタがそれを認めようとしないだけだ!」

 

 ジグザクに飛びながら躱すネスカの言い様を造物主は受け入れられない。

 

「英雄が言うことなど信じれるものか!」

「英雄だって同じ人間だ! 俺はどこもみんなと変わらない、人と世界の軋轢の中で生きるちっぽけな人間だ!」

 

 毛穴にまで染み込んでくる冷たい声を押し返し、叫ぶと同時に急停止して迫る造物主に膝を叩き込む。「ぐあっ」と苦痛を押し殺せぬ声を漏らす造物主に更にアッパーで顎を跳ね上げる。

 更に肘撃ちを打ち込んで離れたところに、スピードをそのまま乗せたドロップキックで突っ込んだネスカは、蹴り飛ばした造物主の後方に一瞬で移動し、背中の方から蹴り飛ばした。

 

「がぁっ」

 

 造物主の苦痛の呻きが空に響き、一転して造物主の体が蹴り飛ばされて回転しながら飛んでいく。

 海を越えて龍山山脈にまで蹴り飛ばされた造物主はグルグルと回る体を正すことも出来ないまま背中から激突し、まるで磔にされたようなポーズで山に深々とめり込んだ。見た感じでは埋まっていてその姿が見えない。

 

「これで決める!」

 

 身動きの取れない造物主に向かって、数少ない好機と見たネスカは全力の雷の暴風を放つ。

 

「―――――ぉぉおおおおおおおっ!!」

 

 迫る雷の暴風が着弾する寸前、遮る声音が山の向こうから発して光が溢れた。攻撃動作を隠したまま岩塊ごと吹き飛ばすつもりだと理解するのに、コンマ一秒分だけ対処の挙動を鈍らせた。

 高速で山から抜け出した光の弾丸がアスカを強かに打ち据える。

 光の弾丸と化した造物主は吹き飛んだアスカの足を掴んでお返しとばかりに山に投げつけて叩きつけ、再び断罪の剣を作り上げて振り被った。

 

「ぜあっ」

 

 百メートル近い断罪の剣によって数十回切り払われた山がボロボロになる中で雷が迸る。

 

「雷の斧、千の雷、術式統合」

 

 切り払らわれた山の欠片が舞う中で、雷の斧と千の雷を合成したネスカが鮮烈に笑う。

 

「雷神槌、悉く打ち砕く雷神の槌(ミョルニル)!!」

 

 直後、山が消失した。

 雷神槌が放たれた余波で山を消し飛ばし、辛うじて防御が間に合った造物主を上空高くへと吹き飛ばす。その間に大魔法の連発で魔力の残量が危なくなってきたネスカは千の雷を唱える。

 

固定(スタグネット)、掌握、魔力充填!」

 

 放つのではなく球状に留め、握り潰して内包されていた魔力を太陽道で取り込む。

 村の石化を解除する為に必要な魔力を得る為に行った闇の魔法の応用。千の雷に使った魔力以上のエネルギーがネスカの中に生まれた。当然、負担は大きく、魔力を受け止めたネスカの背が激しく震えだす。苦痛を物語るように全身から一斉に汗が噴出する。

 

「狂人か」

「必要なことをしているだけだ」

 

 体勢を立て直し、大きく肩を揺らして遥か下にいるネスカを睨み付けた。

 つん、と鼻の奥に痛みが走り、続きの声が喉に詰まった。ヌルリと生暖かい感触が鼻に拡がり、漏れ出した血が目前に散るのを見たネスカは手の甲で拭って散らす傍ら、上空の造物主に向かって牽制の魔法の射手を撃つ。

 

「明らかに動きが鈍いぞ。意志ばかりが先走って、身体がついてこられなくなっている」

「はっ、良いハンデだ! こんなことで負ける物かよ……!」

 

 弾幕を突破してきた造物主に向けて、手に生み出した雷の槍を身の丈を遥かに超えて伸ばす。大出力の雷を収束させた槍が、近くを飛んでいた飛行岩を蹴って回避行動をした造物主を掠める。雷の投擲は流れていく飛行岩を貫き、瞬時に灼熱させた。

 バチバチと溶けた礫を爆ぜさせ、直径十メートルはあろう岩塊が粉微塵に破砕する。飛散した破片が体を打ち据え、ネスカの背中に回り込もうとした造物主の挙動を一拍遅らせる。

 

「人は分かり合える。そういう可能性が人にはあるんだって分からないのか!」

 

 岩塊を打ち砕いたアスカがすかさず手に魔法の射手込めて振りかぶり、自らも岩塊の群れにいる造物主に突っ込む。

 

「その可能性が人を殺す。何時だって貴様たち英雄は無責任に可能性だけをばら撒く。誰もが様々な道を選び、他者の可能性を認められず否定する。だからこそ、私は未来を一本道に定めた」

 

 明日、未来という不可知な情景であるが故に、刻々と形を変えていくら求めても決して追いつくことはない。

 

「それでも…………それでも明日が欲しいんだ! 誰も見たことのない明日へ!」

 

この肉と心には、弱きも、脆さも備わっている。傷を受ければ赤い血が流れ、苦難にぶつかっては迷い、恐怖に出会えば恐れもする。決して不磨の肉体と精神を持つ超人ではない。不動の心を持つ、悟りを開いた超越者でもない。なれど、意思があるかこそ戦う意味があり、生きる理由がある。

 

「若いというのは滑稽なものだ。貴様の願いが遂げられることはない!」

 

 上身を一杯に反らせたネスカを掠め、造物主の膝が虚空を切る。そのまま後方に一回転した勢いを借り、ネスカは造物主の腹部に倒れざまの蹴りを打ち込んだ。

 

「はっ、若さは若者の特権だ! 世界に倦んだ老人の絶望を押し付けてもらっては困る!」

 

 下から上へと流れた踵が腹部にめり込み、蹴り飛ばされた造物主がよろめく。「くっ……!」と呻くや、その右腕が閃き、ネスカの頬を深々と抉った。

 

「貴様の根拠なき希望を認めるわけにはいかんな!」

 

 人は変わらず、学ぼうとしない。闇から生まれて闇に帰る一瞬の光にすぎない。人や世界に過分な期待をするのは間違いだと、造物主は2600年の絶望の果てに気づかされた。いまここにいる造物主は人と世界の真実に触れた者の末路に他ならない。

 他者より強く、他者より先へ、他者より上へ。競い、妬み、憎んで、その身を喰い合う。

 命を守るために命を散らす矛盾。些細な違いに拘り、共に歩むことは出来ぬとその未来を切り捨て、相手の明日を潰すことで自らの明日を確保しようと望む。だが、彼らの間にどれほどの差異があろう。泣き笑い、憎み殺し合う。その行動に何の違いもないというのに。

 まさしく造物主の存在こそが、魔法世界が自ら育てた闇。

 

「善に導けるのが人の心だろ!」

 

 捻れた首を引き戻しつつ、造物主の言葉に拳で応じる。

 造物主の背後から放たれた大出力の光がネスカの体を掠める。戦場(フィールド)の外でまで流れ、直径一㎞はあろう岩塊を瞬時に灼熱させ、塵すら残さず粉微塵に破砕した。

 

「俺は、お前に負けはしない!」

 

 未来は今を生きている者が作るべきだ。大昔の錆び果てた想いの塊などに負けられない。ネスカの当たり前で甘い、だからこそ尽きぬ思いは決してそんなものに呑み込まれて果てたりはしない。

 

「その程度の執念で私を倒そうなどと、笑止!」

 

 叫びと同時に二人が拳を放った。

 互いの腕に衝撃が伝わり、それぞれの耳に高い音が遅れて届いた。ネスカが音速を超えて拳を振るい、造物主はそれを上回る疾さで防いだ。ネスカが腕を振り上げたコンマ数秒後には造物主が受けている。

 近くに誰かいれば無音の激突の後に衝撃波(ソニックウェイブ)と音が届き、一時もその場に留まらぬ二人の残像すらも目にすることが出来なかっただろう。音速の壁を突き破る攻防を、二人は何度も繰り返していた。

 拮抗する膨大なエネルギーが両雄の間で集約し、行き場を失って爆砕した。爆発の煽りを弾け跳び、すぐさま相手に向かって突進する。

 間違いなく史上最強の造物主とそれに比肩しているネスカ。頂点を極めし二人は、有為転変の魔法世界の歴史にあって、これほどまでに傑出した使い手が同じ地を踏むことなど未だ嘗てなかった。

 その極点の両雄が一瞬の気の緩みも許されない、互いの全知全能をかけた戦いを繰り広げていた。

 戦いは何時果てるともなく続いていく。傍目には二つの光点が重なり、離れ、そしてまた重なるようにしか見えない。牽制ですら岩を砕き、鉄を貫き、空間を打ち据える威力と重さを有した一撃必殺の連続。攻撃をまともに喰らえば致命は必死。

 二人の戦いは何時終わるともなく続いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 墓守り人の宮殿近辺の戦争とでも呼ぶべき争いが繰り広げられている空域から十数キロ離れた、比較的安全な場所からヘラス帝国第三皇女から借り受けた飛行船が停留していた。

 戦いに赴く意思はあったがネスカによって戦力外通告をされた長谷川千雨といった非戦闘員と、彼女達の護衛として残った春日美空、高音・D・グッドマン、佐倉愛衣、ココネ・ファティマ・ロザの合わせて四人の姿が艦橋にあった。

 

「どうなるんでしょうね、これから」

 

 そう不安げな声で言ったのは、高音の斜め後ろに立っている愛衣。周りのみんなも同じ気持ちなのか、全員の表情に不安の色が浮かんでいた。

 

「分かんねぇよ。私達に出来ることっていったら精々祈ることぐらいだろ」

 

 睨むような目つきを遥か彼方の空域に向けて、普段している伊達眼鏡を外している千雨が言った。

 女達の視線の先には、今も激闘が続く墓守り人の宮殿がある。遥か離れた空域にいる飛行船の下にまでびょうびょうと吹きすさぶ風、立ち込める黒煙を千切っ溶かしてゆく。

 

「それはそうですが……」

 

 高音など一心不乱に胸の前で手を組んで目を閉じてアスカの無事を祈っている。その姿を斜め後ろから見ながら愛衣は視線を前に向ける。

 出来るのは無事を祈ることだけ。祈ってみんなの無事が確約されるなら、いくらだって祈る。けれど、そんなことはありえない。祈りなんて所詮は気休めだ。それでも、確かに今の自分達達に出来ることといったら、祈ることぐらいしかなかった。 

 

「みなさん戦ってるんですよね。もう何時間経ったんでしょうか」

 

 永遠とも思える時間の中で思うのは、戦いに向かった皆は無事であろうかということ。

 生きているということと無事であるということは必ずしもイコールではないのだ。信じたい。信じたいのに、恐怖が勝ってしまう。時間の流れが遅い。一分が一時間にも二時間にも感じる。ただ待つことしか出来ない辛さを噛み締め、強い不安が胸を締め付けていた。

 ある者は靡く髪を押さええながら墓守り人の宮殿を見つめ、誰もが口を開くこともなく、睨むような不安を込めた目つきで墓守り人の宮殿がある空域を見つめていた。

 戦闘は数時間経過しても留まることを知らず、尚も激しさを増しているように感じる。特に遠目からでもはっきりと分かる白と黒の光が互いを打ち消し合うように衝突しているのを見ると、その思いが強くなる。

 

「何て異常な魔力、大気の乱れ方が尋常ではないわ。彼が負けたら、この世界は終わりね……」

 

 流石に何時間も祈り続けていた高音が顔を上げて靡く髪を押さえながら、やはり険しい顔で前を見ながらどこか力のない声で言った。

 一般人と大差ない少女達とは違って未だ未熟な身であれど魔法使いである高音には、全体的な闘いよりも白と黒が放つ尋常ではないエネルギーに慄いていた。 

 そんな高音を隣りから見上げて表情を曇らせた千雨は、きゅっと唇を噛み、胸の前で両手を組んで、祈るような眼差しを墓守り人の宮殿に向けた。

 白と黒の光がぶつかり合った直後から、素人の千雨でも悪寒と吐き気を覚えていた。肌も粟立っている。

 アスカは決して負けない、必ず生きて帰ってくると、みんなに言いたかった。しかし、激しく乱れた大気と、吹き荒れる風に漂う素人目でも分かる程に莫大なパワーが、千雨に言葉を呑み込ませた。

 

「ううっ……は、吐きそう……」

 

 皆が墓守り人の宮殿の空域に目を向けている中、一人だけ座り込んでタラップに凭れかかって、がっくりと項垂れている人物がいた。春日美空である。

 魔法使いならずとも、長時間これだけの濃厚な魔力に浸っていれば吐き気や眩暈に襲われるだろう。魔法使いであるがために魔力に敏感だが幼いココネにも技量である彼女は、一同の中で最も酷く力に当てられていた。

 条件で言うならば、高音・D・グッドマン、佐倉愛衣、ココネ・ファティマ・ロザも同じだが、彼女だけが特に酷いのには理由があった。

 高音と愛衣は単純に美空との魔法使いとしての単純なレベル差。親の意向で魔法を習っているのと、マイペースで面倒臭がり、いたずら好きな性格なので普段から真面目に修行に励んでいるココネにも魔法使いとしてのレベルは劣る。ようは、このメンバーの魔法使いとしての括りの中では一番レベルが低いために影響を諸に受けているのだ。 

 ココネに背中を摩ってもらいながら、美空は視線だけを動かした。

 

「うええっ」

 

 一際激しい光の衝突と共に訪れた波動に、吐き気が込み上げてきて美空は半泣きになった。

 

「美空、大丈夫?」

 

 他の誰もが一心不乱に墓守り人の宮殿を見つめる中、彼女の主であるココネだけが常と変わらぬボソボソとした口調のようで心配を込めた顔で声をかける。

 

「本当、もう勘弁してほしい感じだよ」

 

 廃都オスティアを包み込む積層魔法障壁を取り込んで脈動する度に毛細血管のような光の筋がオーロラのような被膜を走らせ、じらじらと拡散する細かな光の粒を散らす。

 頭上を見上げれば光のベールが空を閉ざし、オーロラの如くたゆたう光景を見た。胸がざわめき、光の脈動に引き摺られた鼓動が早鐘を打つ。

 遠く離れた距離を隔てて瞬く爆光は、色の薄いイルミネーションに似ていた。星よりも鋭く冷たい光が現れては消える。細い糸のような光芒が時折走り、光輪の中に鮮烈な光を刻み付ける。

 あの光の中にアスカ達がいる。敵が放出する憎悪に呑み込まれまいと、必死に踏み止まろうとする彼の鼓動が何故か感じ取れる。言葉とは裏腹に勝利を祈っているが、早く終わってほしいと思っている。

 

(本当に頑張ってね、アスカ君! 主に私とココネの為に!)

 

 戦力扱いされなくて良かったと思いながら他力本願なことを考えていた。

 

「あ……」

 

 不意に千雨は止めどない悪寒を覚えた。

 突然の眩暈。思わずしゃがみ込み、沸き起こった不吉な思いを振り払うように首を振った。無駄だった。予感は尚一層増大し、心中で幾重にも重なり不気味な渦を巻いた。

 恐怖、戦慄、驚愕。そんな言葉では言い尽くせない感覚に、千雨はただ身震いするだけだった。

 

「大丈夫ですか、長谷川さん」

 

 微かに揺らいだ千雨の身体を、愛衣が慌てて全身で支えた。

 

「いい、平気だから」

 

 千雨は支える愛衣の手を申し訳なく思いながら軽く払い、青褪めた顔で無理に笑顔を作った。それが彼女を一層痛々しく見せる。

 

「平気なものですか、唇まで真っ青ですよ!」

「無我夢中で戦い続けているアスカ達はもっと辛いはずだ。私だけが休むなんて出来ない」

 

 顔色は青色のままだ。だがその瞳は、生気と決意の色で満ちている。流石に全てを見届けようとする悲壮な決意で立ち続けている千雨を見ては愛衣も心配げに見る高音も、それ以上は言えなかった。

 

「何があっても最後まで見届けるって誓ったんだ」

 

 しかし、時が経るにつれて逃げ出したい衝動に駆られる。怖いのだ。戦いの結末は常に勝つか負けるか、生きるか死ぬか、ただそれだけだ。中庸はない。

 誰かが死ぬかもしれない。そう思うと、身体が凍りつきそうになる。だが、それでも自分は見届けねばならない。クラスメイト達のように戦うことも出来ない、のどかのようにネギを一心に思って傍にいることも出来ない。何の役割も持たない自分は見届けることが使命であると考えた。

 アスカ達に付いて行っても自分に出来ることは何もない。それが納得出来ないほど、千雨は物わかりが悪くなかった。自分が足手纏いになるのだけは堪えられなかった。だからこうして、みんなを待ち続けている。

 

「アスカ……」

 

 千雨は心から零れ落ちるように名前を呟くと、不安を遠ざけるように自分の体を抱きしめる。

 

「勝っても負けても、どっちでもいい」

 

 千雨は今にも消えそうな弱々しい声で祈った、祈るしかなかった。

 

「みんな無事に帰ってきてくれ」

 

 それは彼女のたった一つの願いである。

 最良の結果を信じたかった。必ず叶う。そう願わなければ、起きるものも起きないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遥かな果てで黒と白の光の波動が煌めき、ぶつかり合い、光の膜を脈動させている。それがここら一帯の空間全体を鳴動させ、小さき人の身を押し潰しそうな力を発生させる。

 治療のために巻いた包帯に内側から赤いものを滲ませるという凄惨な状況も気に留めず、皆は墓守り人の宮殿から離れた空で繰り広げられる戦いを呆然と眺めていた。

 同じ人間であるにも拘わらず、圧倒的な運動量と衝撃波によって荒れ狂う力の渦すら薙ぎ払って激闘を繰り広げる怪物達。戦いの規模が違う二人の激闘を茫然と眺めることしか出来なかった。

 爆音、爆風、衝撃波は余波だけで凄まじく、伝わってくる衝撃と振動から考えて墓守り人の宮殿が壊れないのが奇跡だと思えるぐらいだった。

 ただでさえ世界最高峰の桁が外れた強さのエヴァンジェリン達でさえ、軽々と凌駕して粉々に砕くほどの力を持った者同士の戦闘だ。

 雄叫びが響き、拳と拳がぶつかる激突音が炸裂し、爆風が空気中の粉塵を吹き消して飛行機雲のような残像を生む。攻撃の合間合間に複数の閃光が瞬き、その内の一つでも浴びれば彼らでは耐えられない力が次々と迎撃されていく。

 離れた所から見ると、それは銀河と銀河のぶつかり合いにも見えた。激突と共に複数の星が爆発し、空間が撓み、暗黒に呑み込まれ、その闇すら振り払うように新たな光が生み出される。ならば仮初の銀河の中心に立つあの二人は何を示すのか。

 あの内の片方は彼らの良く知る人間である。

 木乃香たち女生徒たちには、自分たちの担任補佐やクラスメイト。

 高畑には憧れた人の息子であり、守るべき対象であった子供だった人。

 クルトには恋焦がれ、求め続けたあの人にどこか似ている人。

 その彼らが今、たった一人で戦っている。

 

「…………、」

 

 ガシャン、という音が聞こえた。戦いを眺めていた古菲の手から、彼女のアーティファクトである神珍鉄自在棍が滑り落ちた音だった。力を得る為に木乃香と仮契約してこの戦いにおいても存分に力を発揮したアーティファクトが、まるで路傍の石のように、ただ転がっていた。

 古菲だけではない。他にも何人かが武器を落とすほどではないが同じような表情を浮かべていた。それは、ただ圧倒的な無気力感。

 自分は一体何をやっていたんだろう、と古菲は思っていた。

 この戦いの前に申し出て戦いに赴くことを認められた。自分を認めてくれたようで嬉しかった。実際、戦いにおいて多少なりとも役には立ったという自負はある。しかし、今は誰にも到達できないような高みで戦いを繰り広げるネスカを見れば、そんな必要があったのかと思わざるをえない。

 最初から自分たちは当てにされていなかったのか、自分たちがいなかった方が上手くいったのではないか、と邪推してしまう。

 ネスカが自分たちに助けを乞うたか、無駄なことをしたのではないだろうか。

 超人とは孤独である。だから、誰も理解出来ない。しかし、一人だからこそ超人は思うがままに行ける。超人にとって、自分以外の者達は重石でしかない。その事実が彼らにとっては痛みを与えるものでしかなかった。

 全然、本気で見てもらえていなかった。どこまでいっても、頼りにされていなかった。

 その厳然とした事実に叩き潰されそうになりながらも、そして同時に、アスカ・スプリングフィールドが見せた優しさに対して、そんなことしか考えられない自分の矮小さに、特に最初から戦いに参加していた古菲が特に打ちのめされる事になる。

 途中で参戦したエヴァンジェリン達はそこまで悲観的になる者はいない。だが、一人で戦わせることに対する己の力が足りない無力感を感じていた。

 とても割り込むことの出来ない圧倒的な戦闘を眺めているだけで、凄まじい無気力感が傷ついた体に残った僅かな体力や気力を削ぎ落としていく。あまりにも圧倒的な力は、直接的にぶつからずとも、ただ見ているだけで人の心を抉り取っていた。

 足掻こうと思うことが間違い。あまりの戦い、壮絶な光景は現実で動いて未来を変えるその歯車さえ取り外してしまう。

 

「あれはもう神魔の戦いなのか?」

 

 高畑の目には遠い空で絡み合うように舞い、空を圧しながらぶつかり合う巨大な黒と白の光を瞳に映していた。初めは小さな瞬きに過ぎなかった白と黒の輝きはぶつかるごとに強さと長さを増していった。今や魔法世界の空は、巨大な光に縦横無尽に切り裂かれている。

 それは神々の戦いと呼びたくなるほど、神話的な情景だった。

 気流とは無縁に滞留し、互いに鬩ぎあって明滅する光の波動。クルトは肌を粟立たせながら、世界そのものを振動させる光が個人の力で成されているのだから悪夢の中の光景を見た。

 人にこれほどのことが可能なのかと、畏れに打たれた。

 オーロラともつかない光は高速移動を繰り返す二人を中心に膨れ上がり、戦いのフィールドを形成するように数十キロメートルもの範囲をすっぽりと包み込んでゆくようだった。

 小型の太陽にも匹敵する光が四方に拡散し、それは意思あるものように二人以外の全てを押しひげ、戦域外に押し出した。

 

「きゃっ……!」

 

 出し抜けに発した熱風と轟音に背中を叩かれ、隣にいた木乃香が耳を抑えて体を強張らせた。どうにか顔を上げた木乃香の目には、数十メートル先まで接近したネスカの姿が映り、その全身から噴き出した白い光が焼きついた。

 

「ぉぉおおおおおおおおおおおっっっっ!!!!」

 

 ネスカの体からまるで命の輝きのような燐光が湧き出し、四方に撒き散らされる光景を目の当りにした。

 僅か数秒だけ静止して乱れた息を繰り返したネスカが嘗てないほどに厳しい顔をして舞い戻っていく。ネスカから発せられた熱波から思わず目を閉じた。そして再び瞼を上げた時、ネスカの姿を確認できなくなり、遥か遠くの空域で造物主と交わっている。

 高速で移動しつつ攻撃を繰り返して残光を引いて跳んで行く。

 直後、軍用機が間近を通り過ぎたような爆音が炸裂した。砲撃音にも似た大音響の正体は、音速を超えたことによる遅れて来た衝撃波だ。

 援護をする間もなく―――――いや、その発想を持つ間すらも与えずに、ほとんど一体となった二つの光点が衝突を繰り返す。花火のように空を抉り瞬く光。 星のように天を切り裂き流れる光。 鼓膜を襲う轟音の波は、瞬くたびに世界を揺るがせる。

 変幻する光の膜が周囲を押し包む一方、膜の中間点で激突する両者の息吹が肌身に伝わり、木乃香は息を詰めて弾かれ合う廃都オスティアを包んでいた積層魔法障壁を取り込んだ力場から発生した燐光を凝視した。

 二人を包み込んでいるらしい光の帯は、ここからは揺らめく光の繭に見える。

 目の前でたゆたっていても現実感がなかったが、時折爆ぜる光と爆音が現実を否応なく認識させた。その一撃一撃に籠もる力に空気が脅えるように震え、大気が慄くように鳴動する。

 人の命を吸い、喰らい、奪う、魔性の光を発生させている。あの光の芯から発する感情は、それほどに激しい。かなりの距離があるのに、ぶつかり合う二人の力がビリビリと肌を痺れさせる。

 

「どのみち、我々の力では造物主には届かない。樹霊結界と概念結界が重ね掛けされている明日菜さんを救い出すことが出来ない以上、彼に任せて………せいぜい巻き込まれて死なないように気をつけましょう」

 

 アルビレオの言葉を、誰もが締め付けられるような無力感の中で受け入れるしかなかった。

 儀式の鍵となる黄昏の姫巫女である明日菜は二重の結界によって祭壇に閉じ込められている。外部からの結界の突破が不可能とあっては超常の戦いを見守ることしか出来ることがない。

 その力は神罰と呼ぶに相応しい圧倒的な破壊力であり、エヴァンジェリンら世界最高クラスの者でさえひれ伏さずにはいられない存在感を誇示していた。

 人を超えるとは、人であることを捨てることなのか。戦おうと思うことすら許さない絶対的な強さを前に彼らの心は折れかけていた。

 

「違う」

 

 一時、唖然としていた木乃香がアルビレオの言葉に反発するようにぶんぶんと頭を振った。

 

「戦えなくたってうちらには出来る事があるはずや」

 

 何が出来ても、出来なくても、自分の力を誰かの為に使って上げようとする人間は足手纏いなんかではないと、木乃香は思う。その人は誰かの役には必ず立っているのだから。

 

「…………コノカ」

 

 古菲の苦し気な言葉にも木乃香の口は止まらない。

 

「うちには回復以外に出来る事がなかったんや。今更、闘えんことで全部任せることは出来ん」

 

 深く深く息を吸って肺に酸素を溜める。

 

「二人とも頑張れっ!!」

 

 あの領域の闘いには自分では力及ばず、どうすることもできないけれど、この喉が張り裂けても構わない。この声が、声援が、少しでもネスカの背中を押す『力』になるのならと木乃香は一人で叫び続けた。

 人など容易く消滅させる光が飛び交う空に、星の光は絶えていた。神でもなければ悪魔でもない光の持ち主達の、互いの色は違っても闘い続ける二つの意志だけが満ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り四十五分九秒。

 

 

 

 

 







次回『この醜くも美しい世界で』





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第93話 この醜くも美しい世界で




―――――――世界を背負ってまで求めたものは





 

 

 

 

 光が瞬いては消え、宙を舞う者達が踊るようにすれ違い、爆光が煌めいては閃く。対極にある二つの想いが狂気と化して幾度となく交差し、交錯し、それでも決して混じり合う事はない。 

 交錯し、光を撒き散らす超越者達。白と黒の超越者が描く光の軌跡が、周辺空域をネオンの如く彩っている。引かれ合い、惹かれ合い、だが重なり合うことはない。ただひたすら出会いと別れを繰り返している。

 拳を噛み合わせたまま、ネスカと造物主が顔面同士触れんばかりの距離で睨み合っている。込められた力によって小刻みに震える体が互いの破壊を目指していることが、見ずとも手に取るように感じ取れた。

 

「ぐぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁあああ……………………!」

「ぬぅああぁぁぁぁぁああぁぁあぁあ……………………!」

 

 眩い光が視界を圧倒して脳内に押し拡げられる。心身を押し包む力の圧迫をも遠ざけるその光は他者の存在を許さない。

 世界すら軽々と砕きそうな造物主の力。抗うネスカもまた例えるなら岩を砕く荒れ狂う大河の激流。

 闘いの舞台は墓守り人の宮殿の周辺空域にまで戻って来ていた。闘いが始まって何分が経過したのか、激闘を続ける二人は完全に時間の感覚を失っている。

 互角の戦いを見せる二人の攻防は一進一退で、このままでは両雄が数千年戦い続けても雌雄は決しないように思われた。

 どれだけネスカが力を集めようとも、それを制御するのは一人の人間にすぎない。やはりナギの肉体を得た造物主の力は強大だ。

 ナギ・スプリングフィールドという世界最強の肉体を得たことで史上最強になった造物主と違って自身の力だけで追従しているネスカには遠からず限界が迫っている。そうだとしても力を抜くことは出来ない。少しでも力を抜けば圧される。形振り構わずでようやくネスカは造物主と互角になったにすぎない。それも、今にも壊れそうな天秤の上でやっとだ。これだけやって対等に辿り着いただけだ。そして、深海にも底があり、空には果てがあるように、これ以上は望むべくもないことも、ネスカは重々自覚していた。

 

「ぐっ、あ! ………でっやあああああああああっつ!」

「むんっ! はっ! ―――――っっはっつ!」

 

 ネスカの拳と造物主の拳が激しく交差する度、星久を砕いたような光の波が拳撃の合間で発生し、光の力場に溶けてゆく。前後左右に押し合う光の力場は、他者の存在をどこまでも否定する。

 両者の戦闘空域に紛れ込んだ愚かな飛行石達が、分を弁えない愚か者に神罰を下すかのように塵へと変えていく。

 この戦場に他の誰も介入させない。余剰物を排し、戦場には二人分の殺気が充満してネスカは息をつめて拳を構え直した。

 二人は全く同じタイミングで跳び、互いに拳を打ち合い、交錯した狭間で発せられた光が激突してスパークの光を弾けさせた。轟音が爆ぜる。頭上の雲でぼっ、と真円の穴が穿たれ、隠された空が露になる。音速を超えた激突が生んだ衝撃波が天を引き裂いたのだ。

 

「どうしてそこまで呪われた生にしがみ付く!」

 

 瞬きの更に半分の後、スパークした光が弾けて交わる向こうで互いの顔を映し出す。

 

「生き物は自分の子に未来を託すのが本性じゃないのか! あんたはどうして次の世代に託そうとしない!」

「託すに託せるものではない! 彼らがあまりにも愚か過ぎるのだ!」

 

 負けられない、目の前の相手にだけは。本能の叫びが体を突き上げ、何度目かも分からない拳を突き出す。造物主の拳がほぼ同時に振り上げられ、干渉し合う光が空を覆う光を揺らめかせた。

 殴り飛ばされて追撃を仕掛けるネスカに向けて造物主は片手を差し出した。同時に、指先に紅が小さく宿った。

 

「行けっ!」

 

 造物主が叫ぶのと、指先から炎の奔流が放たれるのは同時だった。迫るネスカの顔に灼熱の風が吹きつける。

 

「くっ……!」

 

 ネスカは押し寄せる龍の如き炎を睨みつけて急に高度を上げる。その軌跡を、遠い造物主の指先がなぞった。炎龍がその指に従って同じだけ高度を上げてくる。

 

「誘導――――この規模でだと?!」

 

 右へ左へと旋回しても、高度を下げたり上げたりを繰り返しても炎龍は執拗にネスカの背を追ってくる。圧倒的に高密度の、防御もせずに飲み込まれれば肉体など消し炭一つ残さない炎だ。

 高速で移動し続ける物体に早々当たるものではない。怖いのは、進行方向と敵の射線が水平に交わった瞬間――――即ち、真正面か真後ろにいられる時だ。それ故、とにかくジグザグに動き回る。慣性飛行を五秒も続けたら、止まっていると見做されるのが空戦戦闘の実態だ。

 

「逃げられない、なら!」

 

 何時までも追いかけてくる以上、後退することは意味を成さない。逃げるのを止めて迫り来る炎龍へと向けて加速した。

 軌道修正の叶わない距離まで引き付けた上で、紙一重ですれ違うしかなかった。加速しながら身体を揺らして様子を見るも、どう動いても造物主の指先に誘導された灼熱の顎が広がっていてアスカを逃がしそうにない。

 

「まだまだ行くぞ!」

 

 造物主が指先だけは炎を誘導しながら交差した腕を振り下ろすと、瞬く間に視界を涙のように澄んだ刃が埋め尽くすように放たれた。

 前方からは炎龍が、それ以外からは周囲を氷刃が埋め尽くすように包囲していく。

 どんどん大きくなる前方の炎を見据え、周囲から迫る氷刃が空気を切り裂く音を聞きながら逃げ場を失ったことに悟り、アスカはそのまま炎の中へと消えた。

 炎龍と激突し、爆煙の中に消えた白い光を見届けた造物主は構えを解かなかった。

 

「この程度でやられてくれるとは思えん。その程度の男ならば既に決着がついている」

 

 見上げる先で、渦巻く火球が一瞬蠢くのを止めた。暫しの後、内から何かに抗うように細かく震え、少しずつ膨張していき、最後に砕け散った。爆ぜ落ちる炎の紅と引き裂かれた黒煙の狭間から突き破って、辺りに満ちた黒煙を振り払った白い光が輝きを放ちながら向かってくる。

 

「っ!」

 

 だが、それは囮。背後から気配を消して近づくアスカに気づいて、振り向き様に十分に魔力の乗った裏拳を放つ。

 黒煙を振り払った白い光が沫となって消え、隙を突いたと思っていたアスカは咄嗟に障壁を張ったが、造物主の一撃の威力は障壁の防御力を凌駕しており、障壁は粉々に砕かれた。

 

「がっ――!」

 

 一撃を完全に防ぎきれず、弾き飛ばされながら鮮血を迸らせて、アスカは横に吹っ飛ばされた。

 

「滅びよ」

 

 造物主は裏拳を放った手を吹っ飛ぶアスカに向けて、手の先で黒い雷が帯電して究極の破壊の波動に満たされる。その強大無比な魔力で、雷鳴を数百倍に増幅したような轟音を天地に響かせると共に、アスカを攻め立てる。

 一瞬後、暗黒に染まった波動が帯状に広がる雷となって打ち出された。

 

「――――――あああぁぁあああああああああああああああああああああああああっつ! ……………っは―――――――――っつ!」

 

 アスカは体勢を整える間もなく間近に迫った黒い雷を前に気合一閃で雷の暴風を放つ。

 次の瞬間、雷鳴にも似た音が耳をつんざき、同時に凄まじい衝撃が全身を駆け抜けた。雷の暴風は造物主の黒い雷と衝突し、混ざり合い、遂にはこれを相殺することに成功したのだ。

 

「ぐっ………」

 

 アスカの払った犠牲は、大きかった。

 無茶な体勢で技を放ったことによる力の消耗と、相殺したといっても間近で迎撃した所為で黒い雷の波動をまともに浴びたことで腕と言わず脚と言わず、猛獣の牙にでも噛み砕かれてしまったかのように深い傷を負ってしまったのだ。

 苦痛に呻くアスカを前に造物主が手を翳すと、近くの空間を漂っていた一㎞近くはあろうかという岩石が彼の念によって引き寄せられる。

 

「流星」

 

 岩石が近くに来たところで造物主が腕を一振りすると、岩石は一つの一つの欠片が数メートル台にまで爆砕され、無制限に加速して超高速の凶器となった何千、何万という散弾がアスカに襲い来る。

 それは、天より堕ちる巨大な隕石にも等しい衝撃、破壊力であった。稲妻の速さで失墜する隕石(メテオ)。ありうべからざる、愚者を打ち据える聖なる鉄槌であった。

 

「うっ………!? ………っぐ………っくっ…………っぐああああああああっ!」

 

 アスカは展開した障壁で防ぐので手一杯で、反撃する余裕もない。なんとか三分の二は回避に成功するも残りが身体を傷つけて、皮膚が裂け、肉が裂けて、鮮血が目の前を赤く染める。

 

「どうした? 顔色が冴えぬようだな。―――――むんっ! はっっつ!」

「ぐっ、………っ………っく! っぐあっ!」

 

 なんとか戦いを再開するアスカだったが、先程までの接戦が嘘のように、造物主の攻撃が幾つか肉体を貫いていく。

 鋭利な岩石の刃は確かに恐るべき破壊力を秘めていたが流れが完全に造物主に傾いた状況は良くない。

 

「ええいっ!」

「ちっ、目潰しか」

 

 両腕に雷を溜めて掌を勢いよく打ち合わせることで強力な発光を生み出す。

 体勢を立て直す時間を得ようと離脱したネスカは光の残滓を突き破って離脱する。しかし、距離を取って振り向きかけたネスカを光線が掠め、不味いと思った時には遅かった。光の壁がネスカを取り囲み、波動を伴ってネスカに浴びせかけた。

 

「人は勝手なものだ。信じれば裏切られる」

 

 声にならない悲鳴を上げたネスカは全ての力を防御に回すことで耐え切るも、虚無よりもなお深き造物主の眼を直視して肉体が重く硬直させる。

 

「信じれば傷つく」

 

 ネスカの中で溜め込んでいた塊が一気に解放され、両腕の間から迸る雷を走らせ、電磁加速砲の要領で加速した風の弾丸が音速すらも超えて造物主へと放たれる。

 しかし、準光速といっていい速度の風の弾丸を造物主は直前に急加速をかけて躱した。応射された光が横合いからネスカに殺到する。

 

「認めよう。今の貴様は確かにナギ・スプリングフィールドよりも強い、圧倒的に」

 

 出力を絞った速射型の光弾に乗って、造物主の声がふりかけられる。

 ネスカよりも力を使っているはずなのに、そのスピード、パワーには些かの衰えもない。いっそ体が馴染んできて動きが鋭くなっているとも思える造物主が縦横に奔り、八方から飛来する光弾がネスカを狙う。

 

「だが、貴様一人がどれほど強く輝いても、世界全体を背負えるわけではない。これから貴様が為すことも、やがては歴史の闇に埋もれてゆく。変わらんのだよ、人は、世界は!」

 

 擦過した光弾が障壁を抉る。やはり遠距離では勝ち目はない。接近戦に持ち込む他ないが、造物主はまったくその隙を与えてくれない。ネスカはぎりと奥歯を鳴らし、避ける動作に神経を注いだ。

 光球が造物主の周囲を巡り、輝く闇色の魔力の塊は、揺らめきながら大きくなり、それぞれが頭上で大きく乱舞し始める。

 

「行け!」

 

 戦意を声に出して吐き出すと共に造物主の頭上で天使の光の輪にも見える光の集合体が四方に押し広げられ、一斉に飛び立って各々にジグザグの軌道を描いて跳ね回り、一束に収束する。

 

「―――――ッ!!」

 

 どう、と光が奔流となり、ネスカに真っ直ぐ向かってゆく。

 迫る光弾を前に、一秒が一時間にも引き延ばされた一瞬の後、意識と一体化した肉体が動き、灼熱する光の渦が連続して視界内に弾けた。

 光弾はネスカの直前で破裂し、無数の光の玉とよって一瞬で百を越える爆発の火球が行く手を遮るように膨れ上がり、体を包み隠してゆく。ネスカの進行方向の長い道を遠目からでは篝火のように飾った。

 造物主の憎悪そのものである衝撃が二度、三度と体を打ちのめし、ネスカの心身を容赦なく苛んだ。ただの衝撃波だけで飽和した障壁が弾け、ネスカの体が意識とは別に後方に弾き飛ばされる。

 そこに避けようもない光玉が迫る。姿勢を整えて避ける間もないネスカは風盾を展開して受けた。

 

「…………!」

 

 だが、障壁に命中した光は、空中でしっかりと踏ん張ったはずのネスカを一気に数㎞も後退させた。

 

「あああ…………ッ!」

 

 ネスカは防御障壁の出力を全開にして咄嗟に施した最大の防御の上からでも、凄まじい衝撃が伝わってくるのがネスカには分かった。四肢が千切れたと思うほどの衝撃が脳髄を貫き、ぱっと弾けた空白が頭の中に広がる。

 削るどころではなく、抉ってくる光を辛うじて軌道を反らした。かろうじて軌道を逸らしたものの、余波だけでもネスカの身体を大きく揺らし、バクッと鼻の真ん中を横一文字に切れて出血する。

 闇色の光は天に向かって走り、雲を抜いて消えていった。

 ネスカは膨れ上がる衝撃波に押されて錐揉み状態に陥り、目まぐるしく回転する世界が視界を埋める。

 空中に滞留したネスカを前に造物主が現れ、攻撃を重ねる。

 

「私は越えられぬ。これが………この世界を創造した我が力の一端―――――これで終わらせる!」

 

 造物主の囁きが耳朶を擽り、同時に左の下腹部に強い衝撃が走った。造物主の拳が深くめり込んでいた。がら空きの顔面に目掛けて反撃の一撃を振るう。

 パンッと、くぐもった破裂音を響かせて、振りかぶられたネスカの拳が払われ、身体が勢いに流れたところに造物主の次の一撃が加えられた。閃光のような蹴撃が側頭部に決まる。

 首と頭蓋の両方から、反対側に抜けていく衝撃。間髪入れずに魔力の輝きを帯びた拳打を胸板にもらって吹き飛ばされる。

 一瞬で何百メートルも吹き飛ばされながら意識を遥か前方に向けると、光り輝く無数の球体が迫っていることが分かった。前方に障壁を何枚も展開するが次々と突破され、咄嗟に全身を覆うように展開した障壁に着弾する。

 全身を包んだ障壁を揺るがす衝撃に、アスカは呻き声を上げた。 

 

「ふっ!!」

 

 爆煙によって遮らせた視界の最中、造物主が息を吐く音が直上から聞こえた。

 半瞬にも満たない刹那でネスカに肉薄する。ネスカは咄嗟に迎撃の一撃を放ったが、万全の状態で放たれたわけではないので手の甲で難なく払われて体が泳ぐ。

 

「尚も歯向かうか。その心意気だけは認めよう」

 

 造物主の組み合わせた両手が動き、真上から思い切り叩きつけられた。上位古代語魔法を放つのと同じぐらいの魔力が込められた一撃に轟音が空間に炸裂して、全身を包んでいた障壁が一瞬の停滞すらも許さず粉々に砕けて攻撃が背中に食い込む。

 

「人を信じて世界が変わるものか! 気持ち一つで、越えられない壁を壊せると、奇跡が起こると思うな!!」

 

 下方に落とされながらその叫びを聞く。

 ここで自分たちのしていることが、正に人としての業であり、罪なのだ。どんな理由を掲げようとやっていることに変わりはない。

 

「驕らぬ者などいない! 惑わぬ者などいない! 恨まぬ者などいない! 怒らぬ者などいない! 貪らぬ者などいない! 妬まぬ者などいない! 怠けぬ者などいない――――ッ!!」

 

 この世に渦巻く悪意と罪業を叩きつけるような造物主の連撃を耐える。

 

「明確な悪意に踊る者もいれば、虐げられた果てに堕ちた者もいた!」

 

 拳の一撃一撃がネスカを打ちのめし、一瞬とはいえ意識を消し飛ばして痛みで直ぐに復活させる。その連続の狭間で垣間見た造物主の過去がフラッシュバックしていた。

 

「取るに足らない些細な悪意から、他を喰い潰すドス黒い極悪まで、多くの罪悪をその眼に焼き付けてきた!!」

 

 言葉の一つ一つが氷の針となり、腹の底を凍てつかせるのが感じられた。無条件に同意させられた本能を振り払うも闇は纏わりついて離れない。

 

「人の心は脆い! 例え世界を救おうとも喉元を過ぎれば忘れる! そうなれば変わらずこれまで通りの歪な世界が続くだけのことだ!!」

 

 殴打を受ける体が、何よりも言葉とは裏腹に何もかもを諦めて、しかし諦めきれない嘗て神だった者の慟哭が心に痛い。

 

(俺のしたことは正しいのか?)

 

 ア7スカは茶々丸を通して世界に映像を流して安定という名の硬直に波紋を投じた。しかし、本当に正しかったのかと、造物主の憎悪を目の当りにしてネスカの中に疑問が浮かんだ。

 旧世界だけでも数十億の人がいる。それだけの人がいるなら多少の歪みや不平等は生きていくための必然だ。無理に正そうとすれば、忽ち全体のバランスが狂って世界は崩壊する。

 何度も何度も攻撃を受けてボロボロになり思考の袋小路に陥ってネスカを前にして、攻撃の手を止めた造物主が救いの手を差し伸べた。

 

「いま貴様が信じている希望、可能性は、いずれ裏切られる。私はそういう例を何人も見てきている。今ならまだ間に合う。私に従い、理想の世界を造るのだ!」

 

 ズキリ、と差し込む痛みが胸に走った。意識して封じ込めていた想いを言い当てられ、冷たい空気に体の熱を奪われたネスカは改めて造物主を見た。

 衝撃の軽減と共に全身を締め付けていた気嚢が萎み、鬱血した頭からすっと圧迫が遠のくのが感じられたが、体全部が肉離れを引き起こしたような、不穏で不快な違和感は骨身の奥に残り続けた。

 肩で息をしつつ、腕を上げて顔の汗を拭う。頭痛が取れない。高速移動による重圧で締め付けられ通しの全身がひりひりと痛む。つん、と鼻の奥に痛みが走り、ぬるりと生暖かい感触が鼻から漏れ出すのを感じた。鼻血を腕で拭って後を追って飛び出してきた造物主と相対する。

 

「儀式発動まで、まだ幾ばくかの猶予がある。今一度だけ選択を与えよう。ここで死ぬか、我が前に屈するか」

 

 造物主の声の冷たさは冷酷さから来るものではない。運命に絶望し、達観した者が持つ心が凍りついたかのような冷たさだ。

 油断とも思える隙を晒す造物主は、来るべき敵は全て粉砕するとばかりに泰然とした調子でネスカを見下ろす。

 

「……………、」

 

 問いかける声に対するネスカの返事はまだない。

 諦観に沈む造物主の目を見上げ、その闇に吸い込まれる錯覚に囚われた時、第三者の声が頭の中に響き渡った。

 

《―――――呑み込まれるな》

 

 固まっていたネスカの冷えた体を内側から温めるようなその声とは別の声が続く。

 

《よく見ろ、過去の怨念に支配された造物主に未来は見えていない》

 

 甘い匂いと共にもう片側の耳に声が響く。

 

《あの方は独り。もう誰も背中を支える者はいないのだ。他者に裏切られるからと全てを拒絶する哀しい魂を救ってやってくれ》

 

 声に従って改めて造物主を見れば、誰とも共に在ることが出来なくなった年老いた恒星のように倦んだ残光を放つ孤独な光が目に入る。

 

《暗闇で立ち止まっている限り、望む未来がやってくるはずもない。自分から光に向かって歩かなければ希望が生まれないと分かっていても、絶望しきったあの方にはそれが出来ないのだ》

 

 悲し気に語る声に、造物主が何を根底としているのか、やっとネスカに理解できた。妄執である。同時に、どうしようもないほどの信念であった。誰もにも曲げられず、誰にも止められない程の、いっそ絶望的な精神は自分で道を変えることすら出来ないほど凝り固まってしまっている。

 

《過去に絶望して足を止めちまった奴に、未来を語る資格はねぇ。未来を創るのは今を生きる者だけだ。それを教えてやれ》

 

 幻聴ではない。確かに聞こえる声達に導かれるようにネスカの総身に力が漲ってくる。

 

「まだだ………」

 

 否、と造物主に言葉を否定するように意思が、力が湧いてくる。

 体力の限界など、肉体の限界など、とうの昔に超えている。予想よりも遥かに巨大な造物主の力に精神が、意思が屈しそうになる。挫けそうになる。だが、その度にネスカを支えるものがあった。ネスカは諦めなかった。

 

―――――頑張って

 

 重症を負った皆を治療しながら祈りを込めていた少女がいた。木乃香だ。

 彼女にはアスカが墓守人の宮殿に突入するまで、デュナミスらと激戦を重ね、治療の限界を迎えていることを察していた。アスカが超人と呼べる者でも膝を折り、常人ならばとっくの昔に気絶どころか死んでいてもおかしくない状態にあると知っていながらも木乃香は確信していた。

 ネスカならばどんな相手も跳ね除け、必ず勝利することを。

 

「まだだ!!」

 

 彼・彼女たちの想いは、ずっとネスカに伝わっていた。彼女らの全ての想いに報いるためにも、絶対に負けられない。

 

「まだ諦めぬか!」

 

 後、一歩で陥落しかけたネスカから放出されるエネルギーに造物主は思わず距離を取った。 

 

「――――ぁっ!」

 

 ネスカが拳を引くと、背後に千を越える光が生まれる。それらは最初は蛍の光のようにふわりと淡い光となって浮かび上がるが、瞬く間に激烈なる雷光を発して雷の槍へと変わった。

 ネスカの背後に出現した千を越える雷の槍。遠目からは黄金色に輝く雷槍は天の星々を思わせる。千にも及ぶ煌めきだ。その一つ一つが山を穿ち、川を裂き、天を突く。

 雷槍の切っ先を造物主に向けて、ぐるりと彼の周りを囲い込む。

 

「諦めねぇ! アンタみたいに俺は絶対に諦めない!!」

 

 ぎしり、と軋む音が体の内から聞こえるが、ネスカは無視して叫ぶ。

 千ある内の百の雷槍が一斉射されて光軸を描く。稲光の尾を引き、槍は造物主に向かって刹那の速さで迸る。

 

「人は、世界は、アンタの言うように絶望しない! 奇跡を起こすのは、何時だって人の強い想いだ!!」

 

 自分の力で何とかできない状況に遭遇したところに、パズルのピースのようにその解決方法を都合よく携えた人間が現れるようなら誰だって道を踏み外さない。人類皆兄弟、みんなで笑ってみんなが幸せ、なんて極めて優しい幻想だが実際にそんなことが起きるはずがない。

 生きている限り、望みはあるはずだ。方法がないなら見つかるまで探し続ければいい。そこに敵が立ち塞がるというのならばみんなで闘えばいい。手段がない時が、望みがない時が終わりなのではない。諦めた時が終わりなのだよネスカは知っている。

 

「戯言を……ッ! 奇跡を信じて死ねと言うのか!」

 

 気勢が戻ったネスカから距離を取っていた造物主は回避して横合いに滑り込む。ネスカは体を捻り、残りの九百の雷槍をそちらに向けて放った。

 負けじと造物主の背後に光の輪が顕現して闇を解き放つ。

 闇色の光の輪から生まれた一矢の矢は高々と上昇し、分裂して数百の闇の矢となって、集結する前の九百の雷槍に向かって降り注いでくる。

 闇の矢と雷の槍の激突。

 ドッ、という轟音が響き、二人の周囲に連続した爆発と破壊を撒き散らした。

 

「想いがある限り、人はどこまでも強くなれる! 絶望だって跳ね返せるようになる!」

 

 そもそも、最初からネスカが戦おうが逃げようが運命は何も変わらなかったかもしれない。もしかしたら、ネスカが選んだ選択こそが未来を滅ぼす道に進むのかもしれない。

 それでも、とネスカの魂の奥底から声が叫ぶ。

 

「幻想だ! そんなことは思い込みに過ぎない!」

 

 更に速度を全開にして加速させ、突進をかけた。雷槍と矢が爆発する間をすり抜けるように飛行して、何発か当たるも力技で突破してネスカに攻撃を仕掛ける。

 ネスカはそれを真っ向から受け止め、二人が発した光がぶつかり合い、融合して、巨大な光の帯が爆発的に膨張した。

 波紋状に広がった光の帯が周囲の空間を揺るがし、二人以外の全てを弾き飛ばす。

 

「そらっ!」

 

 至近距離からの一撃を、けれどネスカは僅かに身体を捻って躱し、そのまま造物主への側頭部に捻じりを利かせた回し蹴りをぶち込んだ。体勢の崩れた造物主へと、マシンガンのような連続突きをを放つ。僅か数秒の攻撃で、堅牢な防御陣がデコボコに歪んでしまった。

 

「ここで一気に!」

 

 叫びと共に放った痛烈な一撃が防御陣を突破して造物主の胸に叩き込まれた。上から放たれた一撃によって真下に急降下する。

 落ちていく造物主に向かって追撃の一撃を放とうとしていたネスカの目前で、自然の法則などないかのように造物主の身体が跳ねる。造物主は壁を蹴ったかのように空中を跳ねて肩口からアスカにぶつかっていった。

 

「ぐあっ」

 

 体をくの字に捩って呻いたアスカを尻目に、身体をぶつけた反発作用で距離を開けた造物主は体を横周りに回転させて黒い魔力光を纏った右手を振るった。振るわれた腕に沿って風の刃が飛ぶ。けれどもネスカは、飛んできた黒い風の三日月を素早いローリングで躱すと、体が開いている造物主に急接近して白い魔力光を纏った拳を放った。

 

「むおっ!?」

 

 アスカの攻撃を受け止めようとした造物主が咄嗟に翳した左手の前に展開された防御壁が重い音を立てて砕け散る。対してネスカの右拳は、殆ど勢いを失わないまま、造物主の肩口に深々とめり込んでいた。

 

「まだまだ!」

 

 まるで怪我人に肩を貸すような姿勢で、ネスカが造物主の右腕を肩の後ろに背負い込む。

 ネスカの体側が造物主の腰に密着すると同時に、左腕の肘は鳩尾を一撃、また同時に左脚は造物主の軸足を鮮やかに刈り払った。

 鮮やかなまでに決まった鶴打頂肘。肩を殴ってから後は全てが一瞬のうちの一動作である。まさに中国拳法、八極拳の極意とされる攻防一体の套路だった。

 

「ぬぐぅっ」

 

 受け身を取ることすらできず、近くの飛行石の一つに叩きつけられる。あまりに強烈な衝撃に、手足が全て根本から外れ落ちてしまったかのような錯覚に陥る。全身が痺れて動かない。ただ肘撃ちの直撃を受けた胸の激痛ばかりが意識を焼き尽くす。まず間違いなく肋骨に罅が入ったのだろう。

 膨大な魔力にあかせて治癒した造物主の向かってネスカが迫って来る。

 究極のポテンシャルを得た自身とここまで戦える人間がいるはずがないと思っていた。そんな自分にここまで戦えたネスカを素直に称賛した。

 だが、と造物主は続ける。

 

「勝つのは私だ!」

 

 掌の上に浮遊していた小さな炎の塊が急速に膨張する。

 直径にして三十メートルはあろうかという漆黒に染まった巨大な炎の球が、唸りを上げて周囲の空間を捻じ曲げながら振り降りるネスカに向かって大砲のように撃ち放たれた。

 幾ら炎球の威力は大きかろうが、速度は鈍重で軌道も真っ直ぐ。ネスカの機動力ならば避けることは容易い。

 

「弾けろ!」

 

 避けようとしていたネスカの少し前で振り上げた腕を引き戻して双眸をカッと開いた刹那、彼らが至っている領域からすれば比較的ゆっくりとした速度で進んでいる炎球が、音もなく炸裂した。

 直後、巨大な闇の炎が空気を引き裂いた。鋼鉄をも瞬時に跡形もなく溶かす灼熱の閃光が、爆発地点を中心に発生する。

 一連の動きは、殆ど爆発だった。轟音に空が震えて、その温度が如何なる次元に達したか、回避行動に移ろうとしたネスカを呑み込んだ。

 爆煙が辺りを覆い尽くし、視界が利かない中で中々動きを見せないネスカに焦れた造物主は眉を顰める。

 

「…………この程度で倒れるとは思えんが」

「ああ、利いてないぜ」

 

 突如として背後から聞こえた声にナギの体が反射的に攻撃を繰り出す。

 雷光の如き速さで振り返った造物主が振り上げた拳がやや斜め方向からネスカの頭蓋骨目掛けて一気に振り下ろされる。その一撃はネスカを貫いた。柔らかいものを粉砕した感触を造物主は得ている。が、その手応えは人体を貫いた割にはあまりにも軽すぎる。

 

「間抜け」

 

 瞬間、ネスカの体が内側から爆発した。造物主が何かをしたのではなく、以前に楓相手に使った雷の精霊を詰めた影分身が衝撃を受けたことで自壊したのだ。

 

「っ!?」

 

 接触状態からの爆発と間近での高電力の電気ショックに晒された造物主の口から悲鳴も出ない。

 

「親父の体に頼ってるから、そうなる!」

 

 爆煙の向こうから孤を描くように空を泳いだネスカが獣のように歯を剥いて、電気ショックで体が痺れている造物主を強襲する。

 体が動かない造物主は魔力に任せて右の拳を躱した瞬間、目の前でネスカが腰の回転を殺さずに運動エネルギーを左足に移すのを見て、ナギの体は反応しようとするが電気ショックから抜け出せていないので動きが鈍い。

 

「!」

 

 造物主の視界の死角から後ろ回し蹴りで側頭部を襲う。これに造物主は抗することが出来ず、衝撃が脳を揺るがして意識を途絶させる。

 

「ウォオオオオオオオオオオオオオッッ!!」

 

 ここを数少ない勝負所と見たネスカの連打が次々に放たれる。

 絶大なる力を以て放たれた拳の一撃一撃が無防備になった造物主に突き刺さる。ネスカは止まらない。猛烈な攻撃に動きを止めて棒立ちとなった造物主を一方的に攻め続ける。

 

「があっ?!」

 

 膨大な魔力による身体強化であっても攻撃を受け止めるには限度がある。

 胴体と言わず、顔や四肢を強打された特大の衝撃が全身を揺らす。マシンガンを百丁一気に撃ったかのような爆音が自分の体を殴打している音だと造物主が気付いた時には、既に呼吸が止まっていた。

 

「ざらぁっ!!」

 

 造物主を上から叩きつけて真下にあった墓守り人の宮殿に落とす。渾身の殴打によって一秒とかからずに墓守り人の宮殿にある墓守り人達の街へと落下する。

 

「がっ、ぁぁああああああああああああああああああああッ!!」

 

 見下ろすネスカの目には、落下する造物主の身に途中で幾重にも渡って防御術式が張り巡らされる輝きが見えた。恐らく攻撃を躱せないと踏んで発動させていたのだろう。だが、それら全てを突き破って造物主の体は落ちていった。

 

「雷の暴風! 雷の投擲!」

 

 圧倒しようともネスカの辞書に油断の文字はない。遅延呪文のストックはないので詠唱を破棄して魔法を唱える。

 個々の威力は落ちようとも今は拙速とトドメに足る威力があればいい。

 

「術式統合、巨神殺し・暴風の螺旋槍!!」

 

 右手に雷の暴風を、左手に雷の投擲を収束させた塊を結合させ、もう一つの雷神槍を作り出す。

 数十倍近い魔力があるネスカが放てば個々の魔法の詠唱を破棄しても、ネギが2(セクンドゥム)に使った時よりも遥かに威力は大きくなる。

 

「行けっ!」

 

 神罰の如く放たれた暴風の螺旋槍が造物主が落ちた場所に着弾する。その瞬間に「解放(エーミッタム)! 抉れ雷の狂飆!!」と穿つ力を全開にする。

 造物主が落ちた地点を中心として、突如として発生した破壊力抜群の圧縮された台風が墓守人の宮殿にある街を粉々に粉砕する。

 爆音と、振動と粉塵が辺りを襲う。灰色の粉塵が、煙のように舞い上がる。

 

「ぐっ………ごほっ………」

 

 暴風の螺旋槍で粉々に粉砕された街の中で傷だらけで造物主は倒れていた。

 有り余るほどの魔力を全力で防御に回すことで五体満足で耐えきったが、その体はボロボロだった。それ以前の戦いの傷も合わせて腕と言わず胴体と言わず、ありとあらゆる所からドロリとした赤黒い液体を零している。

 何度も死んだことがある造物主でも生きているいるのが不思議と思える一撃であった。偏に生き残れたのは頑強な肉体のお蔭。

 

「ここまでだ、造物主」

 

 諦めることには慣れているから、フワリと羽毛のように近くに着地するネスカを見ても何も思わない。今の造物主の傷だらけの体と比べれば十分に軽症であり、疲労はしていても限界には達していない。

 

「此度、も……及ばぬ、か……」

 

 力の入らない体に活を入れて傷だらけの体を引き摺るように上半身を起こし、立ち上がりながら造物主は掠れるような声で呟いた。その間にも魔力で治癒を行っているが戦闘可能にまで回復するには時間がかかり過ぎる。

 

「この、魂に……響く感覚。完全魔法無効化能力が不完全とはいえ、発現していると見える。力を使い果たした後ならばともかく、今の状態では体を奪うことは叶わぬだろう」

 

 造物主は今まで何度も武の英雄に打ちのめされて来た。その度に体を移し替えてきたが、今回は同じ結末を辿ることすらも出来ない。

 

「この上にアルもいる。その魂、封印させて貰うぞ」

「ただでは、やられん!!」

 

 十分な余裕がまだまだある魔力で光弾が放たれ、ネスカは魔法の射手を放って迎撃する。

 第一歩の動きが鈍い造物主に、ネスカの攻撃が更に苛烈さを増して襲いかかる。一瞬で差を引き離されそうになり、しかし造物主は逆転し返すべく拳を振るう。

 轟音が炸裂する。深手を負っていることで力負けをした造物主の体を掬い上げるような拳が大きく吹き上がる。

 

「があああああああああッ!?」

 

 下から掬い上げるような拳に上空へと突き上げられた造物主は自身が砲弾にでもなったかのように、次々と天井を吹き飛ばして墓守り人の宮殿の都市部にまで跳んだ。

 空中から地面に落ちて血を迸らせながらも必死に立ち上がろうとしている造物主に迫るネスカには油断も隙もない。

 

「あ……あ――」

 

 回復した分だけダメージを負ってもなんとか立ち上がった造物主だが、血に塗れた体に入る力は、全開時の一割にも満たない。もう、立っているだけでも精一杯で、相手を睨みつけることしか出来ていなかった。

 

「………お、のれ……」

 

 小細工もトリックもない。自らの肉体を完全に掌握し、戦闘の流れを掴めば一気に引き寄せる戦闘理論と直感。数多の武の英雄と同じようにポテンシャルで上回っているにも関わらず、上に行かれてしまう。

 どう戦えば切り崩せるか、ごぷっ、と口から血反吐を吐きながら造物主は考え続ける。

 

「が――っ?!」

 

 そんな最中、造物主を追い詰めていたネスカの体が突如として振動した。

 造物主は何もしていない。突如としてネスカは大量の血を吐いて、膝を折った。

 

「な、に……っ!?」

 

 次いでネスカの全身に灼熱が襲う。そして次の瞬間、ネスカの体がブレる。

 

「まだ、制限時間には――ッ?!」

 

 アーティファクトの合体制限時間ににはなっていないはず。分離するはずのないネスカが造物主を追い詰めながらネギとアスカに別れる。

 

「……なにがっ!?」

「が、お、あ……」

 

 分離して弾かれたネギが理由も分からずに混乱していると、その場に留まっていたアスカが呻いているのに気づく。

 目から、耳から、口から…………アスカの頭部のあらゆる穴から、血が流れ落ちていく。そして太腿に、膝に、肩に、指の一本ずつまで―――――痛みの感覚が誤作動を起こして逆に麻痺しかけるほどの信じられない激痛が噴き上がっている。

 神経、血管、腱、筋肉、骨、あらゆる体組織が重機のように圧倒的な力でブチリと引き千切られた感覚。古代に行われた車裂の刑とはこうしたものか。脳はショックから今にも死を選びかける。その責め苦は、絶え間なく続くのだ。アスカは羽を捥がれた鳥のように地に堕ちて悶え苦しむ。

 

「―――――――ッ」

 

 その痛みとは逆に悲鳴は口から迸らず、血に染まった泡だけが零れた。

 叫ぶだけの余力がないのである。全身を渦巻く激痛の嵐は、それだけの力さえもアスカから奪いつくしていた。まるで体中が捲れ上がるような、内臓が皮膚となり、皮膚が内臓と置き換わってしまったような異様な感覚。肺さえも碌に動かず、窒息の寸前までアスカを苦しめた。

 

「負けかと思ったが、とんだ結末になったものだ。しかし、当然と言えば当然とも言える」

 

 と、身体中の骨と筋肉が引き裂かれるような痛み、激しい振戦と頭痛に苛まれるアスカを見ることしか出来ないネギに直上から冷たい声がかけられる。

 

「全開の状態で私と相対すれば別であったが、連戦を繰り返して負傷の極みを直ぐに治した後では、こうなるのは必然。デュナミスとテルティウムの奮戦が実を結んだとも言える」

 

 ネギと倒れたアスカを見下ろし、立ち上がって今も回復をし続ける造物主は告げた。

 真紅の髪を風に靡かせる姿は、死神のようにも見えた。負傷によって全開時の一割に戦闘力が落ちようとも、未だネギらを上回る造物主はネギどころか放っておけば死にそうなアスカにとっては、まさしく死神以外の何者でもない。

 

「っ……」

 

 アスカが身体をくの字に折って血が大量に混じった吐瀉物を嘔吐した。そのまま荒げた息を吐き出す。そうすることで、やっと呼吸という行動を思い出したという、そんな風だった。無理矢理に自分を蘇生させたようでもあった。

 

「あ……う……」

 

 呻き唸りともつかない声を絞り出しながら、次いでアスカの全身から噴き出す蒸気。力が蒸発していくのが目に見えていた。極限まで力を引き出し、蒸気が出るほどの身体の限界を超える力を搾り出していた代償。無理な力の行使に全身の血管が表面に浮かび上がり、熱のある息をひっきりなしに吐き出し続ける。その顔色は紅潮するどころか氷水に首まで浸かっているかのように青褪めていた。

 

「そこまでなっても尚も抗おうとするか」

 

 呻きながらもまだ起き上がろうとするアスカを見て造物主は勝ち誇るでもなく静かに見守る。

 肉体は死に体同然。しかし、この状況に至っても眼だけは爛々と輝いて全く衰えていない戦意を示していた。もう殆ど身体は言うことを聞いてくれない。支えにしようとした手は土を掴むことしか出来ないが、それでもなお、アスカはゆっくりとその身を起こそうともがく。

 

「かっ、まだ………まだだ」

 

 床に口元を擦り付け、無理やりに泡をこそぎとって、アスカが言った。

 

「その決着を見ることなくお前は死ぬ」

 

 造物主はアスカの足掻きとも言える宣言に静かに否定する。

 障壁を張る力も残っていないアスカに全力は必要ない。いや、今のアスカの状態からすれば、放っておいても死ぬだろう。それを理解しながらも、ゆっくりとアスカの腕が動く。

 ここまで、無理に無理を重ねてきた結果がどうしようもなく蝕んでいる。激痛で意識は朦朧とし、瞬く間に世界が曖昧になっていく。分かっていたことだ。確率的に言えばこうなる結果の方が圧倒的に高かった。

 それでも、ありったけの力を手の指先に込める。

 

「止めておけ。その状態では意識を保っていられるのが不思議なくらいだ。無理に動けば今すぐにでも死ぬぞ」

 

 しかし、込めた先から力がすり抜けていく。代わりに、激痛だけが神経を劈く。まるで、指先だけが痛覚を残した肉袋に変わったようだった。

 砕けた破片を掴み、ボロボロの体を動かして、血塗れのアスカがまだ立ち上がろうとしている。内臓が傷ついたのか、呼吸をしようとした彼の口から、ごぽっ、と血の塊が噴き出した。

 それでもその顔は凄絶な笑みを浮かべていた。

 

「どうして笑っている?」

 

 と、死に体でありながら目から光は消えず、口元には笑みが浮かんでいるアスカに造物主が訊いた。

 ただ立って歩くことすら出来ない絶望的な状況でありながら戦意を失わず、なおも立ち向かってこようとすることに疑問を覚えたらしい。

 

「さあ、どうしてかな」

 

 造物主の問いに生命という生命を失い、瞼を開けている力さえも無くしながら応える。

 腕の感覚などない。ところどころ血に塗れ、まだ指の感覚が残っているのが不思議なほど。足腰も動かない。筋肉全てが断線しているとしか思えない。立ち上がれない。

 

「は……………あ―――――!」

 

 敗北を示す肉体に対して、精神が示す意思はそんなことはないと右腕に力を込める。

 

「がっ……!」

 

 力を込めた右腕に灼熱する痛みが走る。体の中でブチブチと何かが千切れるような感触。耳ではなく、体内を直接通って響き渡る鈍い音。

 我慢する、耐える、堪える。

 息を吸う。拳一つほどの空気を吸うのに、小一時間もかかったように思えた。それらの空気を力に変えて、奥歯を噛みしめる。

 微かな心臓の鼓動と、ギチギチと音を立てる傷ついた内臓。ずるり、と滑る腕で地面を掴み、危険信号が鳴り響く体を無理やりに起こす。一つ一つの動作が自らの肉体を破壊していく様がありありと伝わってくる。強引に関節を引き伸ばし、血管をギシギシと軋ませ、碌に酸素も供給されない肺は燃料不足の悲鳴を苦痛という形で脳へと叩きつける。

 体は鈍い音を立てながら、それでもアスカの意思に応えてくれた。

 

「は―――ぐ、つ――!」

 

 鬼神の如き形相のまま、片膝をつくために腕に更なる力を込める。その度に傷口から、なにか生きていくのに必要な物がごっそりと零れ落ちていく。それすらも無視して力を込める。

 ゆっくりと体が持ち上がった。膝を立てるだけで、巨大な岩を引き抜くような疲労に襲われた。

 

「無駄だ。最早、戦える体ではない。私がそんなにも憎いか、アスカ・スプリングフィールド」

 

 憎悪。そうだろうか――――――アスカは考える。

 

「父と母を奪った私が憎いから戦おうとするのだろう。でなければ、命を捨ててまで戦おうとする理由を見い出せん」

「憎んでなんかいない」 

 

 眩暈を堪え、アスカは言う。

 

「憎しみでないのならば、どうしてそこまでなっても闘おうとする? 辛いだろう、諦めてしまえ」

 

 戦っている相手から哀れむような目で見られることが理解できずに造物主の困惑して、本当に疑問に思うようなその言葉には頷いてやるわけにはいかなかった。

 言葉を吐く余裕などなく、アスカは睨み据えた視界の向こうに囚われたままの明日菜の姿が目に入った。眠っている顔に流れる一筋の涙。

 

「諦める理由なんか、ねぇ」

 

 どくん、と魂が鼓動を打つ。それで、気がついた、思い出した。

 

「同情なんてしない」

 

 魔法世界の人間に同情なんてしていない。

 答えなど、とっくに知っていたのだ。しかし、分かりきった答えを受け入れることが、一体どれだけ困難なことか。

 

「魔法世界を救ってほしいと頼まれたわけでもない」

 

 今、アスカにしか出来ないことがある。だが、それはあくまで限られた範囲のことだ。一番大きな壁はこの世界にいる者達が乗り越えるしかない。

 

「親父達が守った世界だからって、俺が命を賭けてまで戦う理由はない。精々一ヶ月程度しかいないんだからな。俺が戦う理由はないはず、だった」

 

 確かに彼女の過去は血に塗れていたのかもしれない。造物主の2600年に及ぶ絶望は世界を作り変える権利を得ているのかもしれない。心の一部では造物主が正しいことを悟っているのに、どうしてこんな体になっても抗おうとするのか―――――彼女の過去を知ったからだ。

 

「造物主、アンタには世界を作り変える権利があるのかもしれない。正直、アンタが正しいとも思うよ」

 

 自分と信念を貫こうとした者達が戦って散っていく。ここは楽園には遠すぎる世界だ。アスカが希望を持とうと、事実は変わらない。

 この楽園にはほど遠い世界で、アスカは声を上げる。

 

「それでもさ、俺にも戦う理由があるんだ」

 

 魔法世界に来て明日菜の過去を知った。

 ただ奪い、奪われるだけの日々。ナギに助けられて、ガトウという犠牲の果てに光の道へと歩むことが出来た少女。その力で多くの人が消えてしまったら彼女はどう思うだろうか。きっと己の力を憎むだろう。きっと悲しむだろう。きっと自分を責めるだろう。

 だから、光の道を歩んだ彼女が、最後にその闇に囚われないように守らないと、遥かな過去から明日菜と世界を雁字搦めに縛っているモノを壊そうと思った。陽だまりの中でみんなに囲まれて笑っていられるように。

 アスカのやるべき事は、こんなにもはっきりとしている。立ち上がらなければならない。

 

「お、ぉぉおおおおおおおおおおぁぁああああああああああああ!!」

 

 そうして、アスカ・スプリングフィールドは天に向かって吼えるように立ち上がった。

 たったそれだけのことで、体中のあらゆる部位が悲鳴を上げる。見えない刃物で切り裂くように全身から間欠泉から溢れ出るように血が噴出する。だが、それが何だというのか。そんなものが、この衝動を止める理由になどなると思っているのか。

 明日菜の無邪気な笑顔が、曇った視界にちらつく。それだけで迷いは消えた。

 

「アスカ……」

 

 隣で血を撒き散らしながら立ち上がったアスカの姿にネギは胸を打たれた。

 けして人の胸を打つものではない。目を剥くような感動も、胸を高ぶらせるような激情もない。だけど、涙が出てしまいそうな奥の奥のずっと奥の魂までも震わせるような在り方はネギには到底出来ないことだ。

 

「はっ――――ぜっ―――――ぁ」

 

 正直に言えば、アスカは意識を保つのもきつい。立って、声を出すのも苦しい。今にも死にそうだ。だが、それでも生きている。生きているなら声を出そう。心臓の鼓動があるのならまだ闘える。口は動く。腕一本動けば人は殺せる。指一本動けば眼球だってくり貫ける。それが出来なくても、この歯で喉笛を噛み裂ける。どんな手段でも人は戦える。

 現状では万に一つの勝機はない。しかし、ここで立ち止まることは出来ない。この胸に、まだ温かさが残っているうちに。

 ならばやるべきことは一つだけ。退く理由は欠片も無い。退く必要も微塵も無い。あるのはただ、絶対にも似た必然だけ。

 体の自由は利かないも同然。両足の機能とて本来の十分の一ほどもなく、拳を握る両腕でさえ力が籠もらない。打ち込まれれば、どんな凡庸な一撃でさえ受けきれずに倒されるだろう。何かの拍子に、不気味に軋む動脈の一本でも引き千切れれば、それだけでアスカは確実に絶命する。されど今のアスカには一部の隙もなく、迷いさえ見出せなかった。

 もはや虚勢など張らず、ただ己の敵を正面から見据える。

 

「何故闘うだと? そんなことは決まっている!」

 

 絶望すら跳ね除けるほどに胸の奥が熱かった。

 滅意を遮る暖かな波動。それは酷く脆いながらも、なによりも強固だった。折れぬ想いが、切実なる決意が、ただそれだけがアスカを守る盾の全てだった。

 初めて。初めて。初めて。初めて。初めて。初めて初めて初めて。狂おしいほどまでに求める人の為に。

 

――――――――――ごめんなさい

 

 目覚めてからずっと頭に響いている明日菜の弱々しい声。

 

――――――――――何も止められなかった

 

 また彼女の悲痛な声が頭蓋骨を震わせる。

 

――――――――――私がいなければ、こんなことにならなかった

 

 自分を責めなくてもいいのだと、救われていいのだと、アスカがこの戦場に飛び込んだ理由を声を大にして伝えたかった。

 

「…………よく聞け、俺は―――――」

 

 息を、アスカは吸い込んだ。何もかも失われた空っぽの身体を、せめて別の中で満たそうとするように、思いきり吸い込んだ。

 造物主は正に人を救う神そのものだ。が、古来、神とは生贄を希求するものであるらしい。その生贄が明日菜なのだ。そんなことを認めるわけにはいかない。

 英雄だとか、どうだとかどうでもいい。ただ、男として此処まで来た意味を。

 

「俺は、明日菜を助けるためにここにいるんだよ! 世界なんてそんな小さい事情なんかどうでも良い! 他の誰でもない。明日菜を救う為だけに戦ってきたんだ!」

 

 明日菜が助けられないなんて嫌だった。

 犠牲にしないと世界が滅びるのなら、全ての人々に謝ろう。死んだ人々に、生き残った人々に、膝をついて詫びよう。泥だって啜るし、踏み躙られても構わなかった。殴られようが撃たれようが刺されようが砕かれようが構わなかった。

 内側から溢れるように我知らず最早ドロリとした血の味しかしない唇を動かして、アスカは造物主の目を直視して言葉が迸る。

 男が鋼のように鍛えてきた自尊心も、頑冥な人生哲学も、命よりも大切な意地も、人生を懸けて来たもは全て女に恋した瞬間、砂のように崩れ落ちる。最も忌み嫌っていたはずの格好の悪い自分を曝け出してでも、それでも求めずにはいられない。彼女―――――神楽坂明日菜を。

 

「惚れた女をこの手に抱きたい! そのために邪魔なテメェはぶっ飛ばす! ついでに世界を救う! 全て俺のためだ! 邪魔をするなァァァァァァァァ―――――ッ!!!」

 

 喉も裂けよとばかりに、自分の中に詰まっている想いを叫んだ。

 死地へ挑む者が放つ、ただ純粋な宣戦布告。体力の限界など、とうに超えている。戦う力も、もはや尽きた。それでも自分のありったけの言霊を込めるようにして強く叫ぶ。

 心は常に血を流し、過去の疵痕と、酷薄な現実と、残酷な未来に炙られている。けれど、弱音も悲鳴も押し殺して戦ってきた。英雄ではない。勇者でも天使でもない。頭のおかしい異常者ですらない。怖くないはずがない。アスカは無感情な機械のような人格ではない。

 だけど、立っていることすら覚束ない万事休すの絶望的な状況でありながら。それでも決して諦めることだけはなかった。拳を握るための指は動き、相手を見据えるための眼も開いている。ならば、最後の最後の瞬間まで投げ出してはならない。

 愛する者がいるから戦うことが出来る。守ることと戦うことは同じだから。かけがえのない尊いものを守ることは、自分自身の在り方と、自分自身の未来を守ることに直結している。

 信じなければなにも始まらない。もう絶望は要らない。絶対に負ける訳にはいかないのだ。これで命が、心が、魂が、アスカ・スプリングフィールドという存在が根こそぎ燃え尽きることになろうとも、立ち向かわなければ何も変わらない。

 

「――――一個人の為に世界と戦うなど馬鹿げている。正気か、貴様は」

 

 絶望に押し流された諦観どころか身を焦がすほどの闘志を迸らせるアスカを前にして、如何な造物主とて構えられぬ筈がない。死に体の男を前にして構えてしまった自分に造物主の眉間に不快の皺が寄る。

 

「それでも安かねぇんだよ! 世界の未来みたいに大きくなったって、明日菜の命は俺にとっては安かねぇんだよ!!」

 

 明日菜を縛り付ける運命に対する怒りがアスカを突き動かしていた。

 腹の底で沸き立つ怒りが、痛み切った筋肉に際限なく活力を与えるようだ。だから、まだ戦えると思った。

 

「その理由が判らないからこそ、あんたは変わってしまったんだよ」

 

 問いに対してそれだけを応え、瞳だけが決死の覚悟を告げていた。

 先程まであった莫大な力は既にアスカにはない。全開時の一割未満の闘う力すら残っていないのに立ちあがった愚者。全てのカードを使っても対処できない、それどころか立っているだけで精一杯のアスカにもはや勝機はない。たった1枚の切り札すら出し惜しみ出来ないのでは、巻き返しを図るのは不可能。

 

「判らぬな。私はもう、忘れてしまった。……………喜びも、なにかを愛する心も。私にはもう、なにも思い出せぬ」

 

 それは、気のせいだろうか。アスカには一瞬、無情の造物主の顔に侘しい影が差したように見えた。

 

「今の私には、もう絶望しかない。かつては、身勝手な者達を恨みもした、憎みもした、悲しかった、悔しかった、恐ろしかった、狂いそうだった……………………だが、それらの感情も全て二千六百年の長い時がすり減らしてしまった。私の中にあるのは、空虚な隙間と二千六百年分の絶望でしかない」

 

 真実、二千六百年もの長き間、地獄を見続けた彼女の者の心は磨耗し、今では嘗ての願いや想いも既に過去のもの。今の造物主を動かしているのは呪いとでもいうべき降り積もった敗者達の積み重なった怨念である。

 

「ああ、私は真実、怨念に突き動かされる亡霊なのだろう。だが、それでもいい。何もかも忘れて、敗者達が置き去りにされるよりかは、ずっといい」

 

 過去の怨念に衝き動かされる亡霊。その姿がまるで道に迷った迷子のようだとアスカには思えた。

 愛する者が与えてくれるものを、そして自分が愛する者に与えられるものを、造物主は忘れてしまったのだ。アスカは初めて造物主を哀れだと思った。

 微かに目を見開いた造物主と、アスカが視線を交わらせたのは一秒未満の時間に過ぎなかった。次の瞬間には攻撃されるかもしれない。それでも誰もが最期を迎える前、こんな衝動に身を焼かれていたのかと思った。アスカは倒れていいはずなのに、先も無いのに痛む全身に力を入れて立ち続ける。

 

「―――――」

 

 とはいえ、現状ではアスカが戦えないことに変わりはない。立っていることがやっとで歩くことすら出来ない体たらく。アスカ・スプリングフィールドは血塗れの唇を拭い、決然とした面持ちで造物主に対峙する。

 

(…………、)

 

 単に口を動かさないのではない。頭の中においても静寂。心の中が何も生まない奇妙な空白。それはある種の覚悟か。或いは諦めか。一瞬後に全ての思考を取り戻した彼は願った。

 

「……頼む……っ」

 

 神にではない。自分自身にではない。

 

「力を」

 

 自分が取るべき選択は何か。もはや戦えない体の自分がするべき選択は何か。絶対の敵、造物主の圧倒的な暴力に対抗するための選択は何か。

 都合の良い幸運など当てにすることは出来ない。自分が当に限界を踏み越えてしまっていることは解っている。それでも眼光だけは衰えない。そしてその眼光が消えない限り、アスカの闘志が止まる事はない。

 

「誰でもいい」

 

 絶望に、神楽坂明日菜がいなくなるという想像がアスカの精神を蝕む。だから、泣くように叫んでいた。祈るように叫んでいた。

 

「誰か俺に力を貸してくれ」

 

 一人で勝てないのであれば二人で、二人で勝てないのなら倍の四人で、四人で勝てないのならばもっと多くの人に。

 一つが解ければ、後は全てが連鎖的に紐解かれていく。それはアスカの最後の力。正しいと信じられるからこそ、出し惜しみ無く全てを出せる、信念の力。

 全身は傷だらけ、生まれたての鹿のように足が震え続けている。口から血反吐を吐きながらただ助けを乞うて叫んだ。

 

「いいわよ」

 

 そして、軽い声がアスカの耳に届く。

 本を貸してほしいと言われたから答えたかのような軽い言葉と共に声の主がトンと背後に着地する音が聞こえた。

 

「また変な事態に首を突っ込んでるのね、アンタ達は。全く私がいないとテンで駄目なんだから」

「はは……」

 

 その主を確認する為に振り返る必要はない。ありえないタイミングにアスカは全身を走る痛みも忘れて笑った。

 

「よくも馬鹿兄弟をボコボコにしてくれたわね、ネギに似たイケメンのお兄さん」

「似たじゃなくて、あの人は僕らのお父さんの体を勝手に使ってるんだよ」

「あらそうなの? まあこのアンナ・ユーリエウナ・ココロウァが来たからには快刀乱麻の如くパパッと終わらせてやるわ!」

 

 状況は全然分かってないのだろうが、これほど空気を自分のペースに巻き込んでくれる者などアーニャ以外いない。実力で言えば全く以てそぐわない発言ではあるが、ネギもアスカも万軍を得たかのような面持ちで造物主に相対する。

 

「一丁、やってやっか」

「メルディアナ魔法学校が誇る黄金三人組(ゴールデン・トリオ)の復活かな」

人間台風(ヒューマノイドサイクロン)雷小僧(サンダーボーイ)火の玉少女(ファイヤーガール)の前に敵はなし!!」

 

 アスカを中心として後ろにネギとアーニャが並ぶ懐かしい立ち位置。魔法学校時代のことを思い出してテンションが上がった三人は揃ってニヤリと笑う。

 

「なんたって三人揃えば」

「出来ない事なんて」

「ないんだから!!」

 

 揃って中指を立てて造物主を挑発する三人が対峙する戦場から百メートルと意外なほど近く。呆然と戦いを眺めていた面々は、合体が分離してアスカがとても戦えない状態になった時には絶望に満ちた顔だったのに今浮かべているのは笑みだった。

 全身を痺れさせる言葉だけがグワングワンと頭蓋の奥に反響した。

 

「全くあの三人は」

 

 その声を発したのは誰だったか。

 エヴァンジェリンは己が決心を固めた。

 茶々丸は胴体から顔部分しか残っていないが全てを見届けるように眼差しを向け続ける。

 木乃香はアスカの決心を伝えるように眠り続ける明日菜を見た。

 古菲は無気力感から武器を取り落としていた神珍鉄自在棍を拾い上げた。

 高畑は三人を幼い頃より知るからこそ、誇らしげに感じて拳を強く握った。   

 クルトは想い人の似姿を持つ彼の言葉に猛る自身を感じ取っていた。

 アルビレオは深く静かに決心を固めていた。

 

「…………行こう」 

 

 この場の中で誰よりも応援し続けていた木乃香が声を出す。

 拒む者などいなかった。体中に包帯を巻き、その包帯すら赤いものが滲んだりしているような状態であっても、そんなものは関係なかった。

 圧倒的なパワーのネスカですら倒し切ることが出来ずに分離してしまった以上、歯が立たないほどの『怪物』の前に立てと言われても怯える者はいなかった。それ以上に心を占めるのは嬉しさといった感情。

 

「行こう! うちらの戦場へ!!」

 

 叫び声と共に、茶々丸を抱えたまま我先にと飛んで戦場へと向かう。

 無力であることなど百も承知。それでも戦うべき理由は揺らがない。ここはアスカだけの戦場ではない。彼ら皆の戦場だ。ならば自身が戦場へ向かうのになにを遠慮する必要があろうか。

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」

 

 ある者は氷を纏い、ある者は長刀を携え、ある者は棍を手に大きく跳ぶ。死を怖れぬ者たちはあっという間に集合すると、まるで満身創痍のアスカを守るように布陣を築き上げた。

 

「みんな……」

 

 アスカはその奇跡のような光景に、痛む身体を忘れるほど感動した。

 エヴァンジェリンがいる、木乃香もいる――――皆が一丸となってアスカを守るように立っていた。

 ぐら、とアスカの身体が傾いだ。力が抜けて立っていられなくなる。

 

「あ……」

 

 極度の緊張から、一瞬とはいえ解放された結果、一気に精神と肉体が限界に達したのだ。視界がおぼつかない。完全に平衡感覚を失い、横倒しになろうとした時、横合いから柔らかな何かが受け止めてくれた。それが少女の手だと理解するのに、少し時間が掛かった。

 

「大丈夫アル。傷は深……浅いアルよ!」

「古……」

 

 ぼんやりとアスカは支えてくれた少女の名を呟いた。

 アスカ派瞼を閉じ、少女の体温と匂いに心を預ける。   

 自分が支えられていることが、一人じゃないことが、強く強く感じられて、胸の奥から湧き上がってくる。湧き上がった想いが血を失い冷えた身体に熱を宿す。 

 

 (なんて……)

 

 なんて軽いのだろうと古菲は思った。

 怪我ばかりの二人でも支えられるほどの軽い身体。どこにでもいる人の重みを感じながら、たった一人で世界の命運を背負っていたのかと、真剣に古菲は考えた。それがクラスメイトを守るためだと聞いたからこそ、その胸を痛めた。

 完璧な人間など、いないこと。欠けていない人間など、いないこと。寂しくない人間など、いないこと。

 現実に生きていく以上、誰もが耐え、誰もが戦い、誰もが抗い、自らの埋めがたい欠陥や欠落に耐えて生きていくしかないということ。結局、無関係な相手なんて世界にいない。誰もが他人と繋がって、そうやって世界全体と関わってしまっている。

 結局はそうやって生きていくのだ。誰だって、何時だって、どこだって。

 古菲に支えられて、上体を起こす。しかし身体に全く力が入らない。そのまま支えてもらっているのとは反対側に倒れそうになってしまう。

 

「しっかりするでござるよ」

「楓……」  

 

 倒れかけたところを古菲と同じように楓が受け止めて支える。

 

「楓!? 気が付いたアルか?」

「あいあい、三人の声でつい先ほど目が覚めたでござるよ」

 

 焔達との激戦で全精力を使い果たし、意識を失っていた楓が笑みを浮かべながら立っている。その背後に突如として人が現れる。

 

「みんな頑張ったようだな」

「おや、真名。いたでござるか」

 

 楓が声の主を振り返ると、長身の龍宮真名が髪を流しながら立っていた。

 

「随分と遅れたが、最後には間に合ったようでなによりだ」

 

 ザジとの戦いで次元跳躍弾を使って三時間後に飛ばされ、戦いが最終局面に至っていたこともあって手を引いたザジと別れてやってきた真名は少し嘆息する。

 

「戻りました、このちゃん」

「せっちゃん!」

 

 月詠との戦いの後、一時気を失っていたものの傷だらけの体を治癒しながら辿り着いた桜咲刹那の登場に涙を溢れさせた木乃香が優しく抱き付く。

 

「はは、小太郎以外全員集まっちまったな」

 

 傷だらけの者も多いがパーティーが全員生きていることが確定し、アスカは血染めの顔で笑った。

 

「…………ありがとう」

 

 と、アスカは言った。

 瞼を閉じ、少女達の体温と匂いに心を預ける。自分が支えられていることが、一人ではないことが、強く強く感じられて、胸の奥から湧き上がってくる。湧き上がった想いが血を失い冷えた身体に熱を宿す。 

 

「ありがとう。本当に、ありがとう」

 

 少女達に支えてもらわなければ立っていられない状態にありながら、みんなに頭を垂れて礼を述べる。

 なんて言葉が足りないのだろうと思う。もっと言いたいことがある。もっと気持ちを表したいのに言葉が口から出ない。

 

「馬鹿ね。礼を言うよりも簡単なことがあるでしょ、アンタには」

「ああ、そうだな」

 

 感謝を伝える方法など、結局は一つしかない。形はどうあれ、誠心誠意を以って礼を述べるよりも彼らに報いるとすれば、世界と明日菜を救うという結果を出すこと。だから、それ以上を口にすることなく涙を零さぬように奥歯を噛み、長く頭を垂れていることでアスカは自分なりの感謝を表現した。

 

(な、に………?)

 

 造物主は、アスカ・スプリングフィールドの取った行動を理解できなかった。

 彼からすれば、個々に見るべきものはあっても菓子に等しい脆き壁。一分も揺らぐことなく、険しい表情で告げた。

 

「弱者に救いを求めるだと………。それほどまでに命が惜しいか」

「そう見えるか」

 

 遂には立っていることすら出来ずに楓と古菲に支えてもらっているにも係わらず、彼の口元には笑みすらあった。

 

「人に頼るってのはそんなに悪い事か?」

 

 これだけの人が揃うことが奇跡のように思えた。アスカは、多くの人に支えられてここにいるのだ。

 

「なんだと?」

「一人で全てを背負えるなんて、ただの思い上がりで周りを信用していないだけだ。お前みたいにな。俺はアンタと同じにはならない」

 

 己の弱さを自覚し、なおかつ前へ進む者は成長する。

 

「弱さにそのような言い訳を見つけたか。貴様が語る希望は他人に縋らなければ立てない単なる幻想と成り果てたわけだ」

 

 だが、勝機がないことは変わらない。最高期のネスカに比べれば百歩も二百歩も劣る烏合の衆でしかない。寄り集まろうとも何の問題もないのだ。集団心理でも働いたのだろうが、ありもしない錯覚に縋った末路は碌なものではない。

 

「違う……! 希望はここにある! 独り善がりの妄想じゃない。躓いて傷ついて、それでもみんなで歩いて行けるってことを世界に示さなくちゃいけないんだ!」

 

 しかし、アスカはそれを否定する。己が胸と周りを指し示し、熱を伝播させる。

 傷だらけで疲れ切ったアスカは、苦しみで体を満たしている。なのに、極限状態の中、世界を信じられていた。信じることが出来るようになっていた。

 

「もう、アンタが救う必要はないんだ。この世界は地獄じゃない」

 

 アスカは喘ぐように喋る。

 苦痛の中で感じる身近な熱の心強さを誰かに伝えてやりたい気分だった。彼のように信じられなかった誰かに、この世界は捨てたものではないと、誰かを救ってやりたいと伸ばされているのだと、伝えたかった。

 

「なら、示して見せよ! 幻想では何も守れはしない!」

 

 喝破した造物主を前にして、アスカは笑う。

 

「俺だって何も闇雲に戦っていたわけじゃない」

 

 一人一人は無力でも、個人の意思の連なりが世界を闇の淵から引き戻すことだってある。

 

「見えたぜ、あんたの隙が」

 

 苦しみ、激しく咳き込んで口から血が一筋流れていても静かに瞼を開き、アスカは呟いた。 

 

「造物主、アンタは強い。今まで戦った誰よりもな。だけど、その身体は親父のものだ。アンタ自身のじゃない。ずっと見てたぜ。その身体と精神の隙間を」

「隙間などない。我が精神はこの身体を完全に掌握している」

「違うね。なら、俺はなんでアンタの過去を知ることが出来た? なんで意志よりも早く体が勝手に反応する? まだ完璧じゃない。全てを奪えてないんだよ」

 

 ナギの身体はあくまでナギのものだ。その精神が肉体より抜け出てもその繋がりは消せない。精神と肉体の結びつくは強く、横から肉体だけを簒奪した造物主が本当の意味で奪い取るには、まだ時間が必要だ。

 

「俺には魂に作用する技が使える。追い出せるぜ、その身体から。俺の力はその為に鍛え上げて来たんだからな!」

 

 麻帆良にいた頃に木乃香に取り憑いた動物霊を払った時や、麻帆良祭で機竜に取りついた怨霊を払ったように、ネギから闇の魔法の毒素を追い出したように、神鳴流の奥義である斬魔剣・二の太刀を真似た斬魔拳。

 そして造物主と同種の魔法科無効化能力と神の技法を真似て作られた闇の魔法。火星の白と金星の黒を斬魔拳に込め、ナギの精神を肉体に打ち込めば殺すことなく造物主を追い出すことが可能だ。

 

「―――――、」

 

 告げられた造物主は、一言も告げなかった。ただし、その表情に変化があった。笑み。隙を突きつけられて尚、造物主は壮絶な笑みを浮かべていた。

 

「そのような弱った体で出来るものか」

 

 アスカの足元から舞い上がった光の粒がキラキラと煌めいた。淡い輝きを放つ、蛍のように小さくてフワフワとした光の玉だ。それは一つきりではなく、二つ三つ四つと少しずつ増えて、遂には数え切れなくなった。

 

「出来るさ。俺は一人じゃないからな」

 

 歩いた。激痛を無視して、歩を進める。全身全霊を込めて、アスカは前へ進んだ。

 

「此処にいる皆と」

 

 暖かで不思議な光がさざめき舞い、戯れる。輝く粒子は巨大な砂時計を逆立ちして見たかのように天に昇っていく。

 それはネギが、エヴァンジェリンが、木乃香が、古菲が、楓が、刹那が、真名が、高畑が、クルトが、アルビレオが、彼らの背後にいる幾千、幾万、幾奥の人々の願いだ。

 

「周りで戦う沢山の人と」

 

 ネスカと造物主の戦いで荒らされた超大規模積層魔法障壁が晴れてその向こうの光景が現れた。

 この地に進むのを阻む召喚魔を駆逐し、かなり近くにまで迫ってきている魔法世界の各諸国の連合軍の戦艦と戦士達がアスカ達の後ろにつく。

 彼らからも発せられた光の粒がアスカに周りに滞留して大きな光となっていく。

 

「この世界で生きる全てが俺を支えてくれる」

 

 明日を望む若者の希望が、若者達をこれ以上戦場で散らせまいと大人達が積み上げてきた努力が、若き者達が造り上げる世界を見届ける老人達の祈りが編み出した奇蹟。

 人は変われるし、変わっていける。その変化の中に少しずつでも前進しようとしている。瀬戸際に立つ世界の片隅で、それぞれのやり方で向き合おうとしている。世界を否定し、絶望を突きつける何者かに対して彼らは怒っている。理不尽に抗い続けてきた人の本能に突き動かされ、みんなが同じ敵と戦っている。

 

「こんな光がなんになる。一瞬の光が幾ら集まったところで―――――」

「だから繋げていかなぎゃならねぇんだ。光は灯し続けなければ消えてしまう。人が想いを託すのと同じだ」

 

 自分の想いを受け継ぎ、自分の死後も存在し続ける何者かがいてくれるということ。それは多分、永遠を手に入れたのと同じ事。世代を重ねて受け継がれた想いが、少しずつ進化して未来へと連なる。

 光の粒に触れたアスカの心に多くの声が響いてくる。それだけで赤ん坊のように泣いてしまいそうだった。

 

「多くの人が戦っている。それだけでこの世界を信じられる」

 

 今、それぞれの理由で集まって来た人達が戦っている。深い感慨が押し寄せて、息が出来なくなって喘いだ。絶望に負けないように、もう一歩踏み出した先は、ただどうしようもなく広い世界に成る。

 

「そこをどけ、造物主。未来に絶望はいらないんだ」

 

 アスカはフラフラのまま、感覚さえ失い始めた四肢に無理やり力を入れて、ボロ布のようになった身体を引き摺るようして前に進む。

 立って一歩足を進めるだけで命が抜けていく感触がする。それでも、アスカの眼光だけは衰えない。その眼光が消えない限り、アスカの前進が止まることはない。

 みんなを追い越して集団の前に立つ。

 

「そんなもので私を越えられると思ったか!!!!」

「思ってるさ。アンタは言ったよな、世界は重いって」

 

 背後にいる全ての者の視線と意を感じながらアスカは万感の思いを抱きながら自信を持って答える。

 

「俺一人では無理でも、みんなとなら世界だって背負える。一つになれば超えられないものなんてない」

「そこまで……! そこまで抗うか!」

 

 ぎり、と造物主は奥歯を鳴らした。

 

「だが、構わぬ!」

 

 始めから造物主は独りで戦っていた。始めから、そして終わりまで独りで戦い続けるのだ。

 

「世界の敵となろうとも、過ちと悲しみに満ちている絶望の世界で壊し、我が理想の世界を築くのみ!」

 

 相手が何人いようとも自分一人で結構と、そう考えているのだろう。それが思い上がりでないことを、全員が知っていた。しかし、臆する必要はなかった。だから、アスカは自信を持って言えた。

 

「俺はアンタと違って人の強さってヤツを信じてる」

 

 最後の戦いが始まる。ここからが反撃の時。過去から続く因縁と呪いに決着を着けるために集った者達の、最後の戦いが。

 激化する強大な戦争の中で、彼らが自らの目的を見失わずに走り続ける限り、この世界は簡単に壊れはしない。世界の命運が決まるまで―――――――後僅か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り二十六分五十九秒。

 

 

 

 

 







次回『第94話 希望を胸に』

残り三話。




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第94話 希望を胸に




――――走れ、行けるところまで






 

 

 

 戦端が開かれてどれだけの時が経ったか。

 後方に位置する巡洋艦マルベールには最前線にも勝るとは劣らぬほどの喧騒が満ちていた。汗と血や多種多様な匂いが混ざり合っていた。だが、多くの者達に不快感はない。むしろ安心感に満ちていた。戦う者達が集う場所は、同じく戦いから一時身を休めた者達を優しく迎え入れる。ここもそうだった。

 巡洋艦マルベールの役割は、帰る母艦を失った戦士達を癒す一時の仮宿。戦えない程の重症を負った怪我人は医務室に運ばれるが、疲労や治療すれば再度の出撃が可能な者も多い。

 しかし、その中でオルドはガタガタと震えている自分に気付いた。そんな彼に、直属の上官であるラークウッドが近づいてきた。

 

「先輩」

 

 所々が砕けて焼け落ちてボロボロになった戦闘服を着ているラークウッドは、筋肉がミッシリと詰まった短躯のタフそうな男だった。頬や眉間に大きな傷の跡があり、一見だけすれば裏社会に住んでいる住人と間違われても仕方のない顔だった。しかし、その内面は見た目とは真逆の性格であり、彼を知る者であれば誰もが軍人になるべくして生まれたとすら言われるほど実直な男であった。

 

「さぁ、行くぞオルド」 

 

 こんな局面においても、ラークウッドの顔に恐怖はない。

 巡洋艦マルベールは最前線からは離れている。この艦に乗員以外で乗っている者らは何らかの負傷を負ってここまで後退して来たのだ。だが、何時戦線がこちらに移動してくるか分からない。

 

「………………どうしてですか。どうして先輩は戦えるんですか」

 

 喉が詰まりそうな恐怖に駆られて座り込んだまま言った。体の震えが止まらない。腹の底で脈打っていた衝動が萎え、外に出るぐらいなら永久にここから出なくてもいいと益体のない考えが這い上がって来る。

 今、こうして最前線から下がった艦で治療を受けていると、考える時間あるから戦っていた時よりも戦うことが恐ろしく感じられた。

 体を休めようとしても戦いの緊張感から逃れることが出来ない。常に死と隣りあわせだったということがとても信じられない。そして、心底戦いが恐ろしいと感じるのだ。死にたくない、という単純で力強い感情が錯綜していた。

 

「二十年前と同じように英雄様がいるんだ。僕達がそこまでする必要はないでしょう!! 」

 

 簡単に飛び込める闘いではなかった。また飛び出して行って一瞬で絶命することも十分あるだろう。自分が足を引っ張った結果、ラークウッドの方が倒されてしまうかもしれない。それが勝敗を左右することにもつながりかねない。

 そういう風に考えていくと、オルドには立ち尽くして新たに現れた英雄に縋って脅えることしかできなかった。自分達は一兵士に過ぎない。英雄がいるなら出番なんてある訳がない。

 叫んだ途端に耳が痛くなるほどの静寂が訪れ、空気が変わったという実感が立ち上がったが、目を開けて確かめる勇気は持てなかった。

 

「そうだよな。俺達がいくら戦って何の意味はないわな」

 

 同調する誰かの呟きに、ようやく閉じていた目を開けて周りを見た。

 壁にグッタリと凭れ、医療班の女性スタッフに支えられている者もいた、血の滲んだ包帯を頭に巻いて、床に座り込んで虚ろな眼をしている者もいた。共通しているのは、まるで精気のない表情をしていること。恐らく耳元で名前を呼んでも聞こえるかどうか。

 視線をどこに移しても、飛び込んでくるのは負傷した兵士の傷つき倒れている姿ばかりだ。あまりの惨状にオルドは眉を潜めた。

 仕方がないじゃないか、と誰かが言った言葉に同意するような空気が立ち込める。

 

「なら、お前はここにいろ」

 

 体を強張らせるオルドの方へ、治療が終わって戦場に飛ぶために背中を見せていたラークウッドがゆっくりと振り返って言った。

 

「どうして、どうしてですか!? どうしてみんなそこまでして戦おうとするんですか…………僕は怖い。こんなところで何も残せないまま死ぬのが怖いんですよ!」

 

 人の心は、脆く儚い。どれだけ必死に否定をしても、その事実は変わりようがなかった。

 怖くないわけが無い。にも拘わらず、自ら進んで死地へと向かおうとするラークウッドにオルドは尋ねずにはいられなかった。

 

「俺だって怖いさ。出来る事なら危ない所になんか行きたくなんかない」

 

 そう言うラークウッドの体は戦うと決めながらも足だけではなく全身を震わせていた。

 なんせこの戦いにおいて自分達の役割は、英雄端で言うなら名前すらも出ない幾らでも替えの効く端役なのだから。戦う理由がなければ何時だって逃げ出したくなる。

 

「俺達は軍人だ。民間人を守るために戦うのに理屈などない――――――って、ナマンダル中将のように言えたらカッコイイんだがな。そんな分かり易くて都合の良い奴なんて殆どいない」

 

 苦笑いのような表情を浮かべ、全身を震わせるみっともない姿でありながらオルドの目にはラークウッドが誰よりも英雄のように見えた。

 髭に顔半分を覆われたラークウッドの顔には、長年の軍人生活を忍ばせる皺が何本も刻まれていたが、この時はその一本一本が子供に語りかける優しい表情を作っていた。

 

「俺が戦うのに大層な理由なんかないさ。世界を滅ぼされちまったら困るんだよ。折角、手塩にかけた娘が良い奴を見つけて一緒になろうっていうんだ。親なら子供が暮らす世界ぐらいは守らなくちゃなんないだろうが」

 

 人が立ち上がるのに必要な理由は、それほど特別ものではない。世界のためではなく戦う理由は至極単純な自分のためだった。

 

「それにな、英雄たって戦っているのは俺の年の半分にもならない子供だ。大の大人で軍人の俺がこんなところでのんびりしていられるか。俺にだって意地がある」

 

 他人の口から改めてその事実を突きつけられ、艦橋にいる全ての者達が黙った。本当は自分達が闘わなくてもいい理由を押し付けているだけだと分かっているから。

 軍人であっても命令だけでは命を賭けて戦えない。自分自身の意志がなくては、こんな過酷な戦場で戦い続けられるはずもない。

 理想を口にすることは誰にでも出来る。命じられるままに戦うことも。だが、二十年前の大分裂戦争も経験した長い軍人人生の中でラークウッドは知っている。自分の信念と理想の為に自分の意思で戦える者はそう多くはない。自分の中の弱い心を震わせて立ち上がるには人は弱すぎる。

 

「お前達にはあるか? どんな個人的な感情であっても構わない。どんなにちっぽけな理由でも良い。大それた理由とか責務の問題じゃねぇ、戦うための理由が」 

 

 立て続けに外で起こる轟音の所為で聞こえにくい質問に誰かが顔を上げた。直ぐに顔を上げなかった者も黙考し、そして一つの決断を下す。

 

「やれやれ、俺はここまで言われて黙っていられるほど男を止めちゃあいねぇ」

 

 オルドより少し年嵩の男が真っ先に立ち上がる。治療したばかりなのか、実直に生き過ぎた軍人の典型というべき風貌に巻いた包帯から血が滲んでいる。

 

「もう直ぐ退役なのに人使いの荒い奴らだ」

「ああ、過去の手柄話を孫達に語って聞かせようと思っておったんだがな」

 

 続けて髪の毛に白いものが混ざり出した退役間近の兵二人が続けて、よっこらせと年寄り振りをアピールとしながらゆっくりと立ち上がった。 

 

「思いっきり尾ひれを付けて自慢そうに話すつもりだろ爺さん達は」

 

 老兵二人の言葉に突っ込みを入れながら立ち上がった男は折れているのか右手を包帯で固定している。

 座して待っていても平和は訪れない。闘う理由はそれぞれの胸の中にある。自分が守りたいものを守るのに他人の手は借りれない。俯く必要はないと判断したから顔を上げた。或いは家族の為、命の為、信条の為、願いの為、と理由は違えども答えは決まっている。

 ラークウッドに呼応するように次々と男達が立ち上がる。顔に浮かぶのは戦場に臨む戦人の表情。我が身を死人と決し、死を決したからこそ如何なる敵をも恐れず、成すべきことを成し遂げる男の顔であった。オルドが何度か戦いの中で見た英雄の顔であった。

 けして、皆が幸せになれるわけではない。ただ、なるようにしかならなだろう。それでも、ただ一つの小さな奇跡にオルドは生気を取り戻した。

 

「僕にだって…………戦う理由があります!」

 

 傷ついている者もそうでない者も立ち上がった中で、一番最後にオルドも恐怖を振り払うように叫びながら立ち上がった。

 

「はは、とんだ馬鹿野郎どもだ」

 

 戦意を復活させた者達の先陣を切ってラークウッドが笑う。

 

「扇動したあんたも同類だよ」

「はっ、俺にそんな気はない」

 

 冗談を交し合って外で壮絶な戦闘を繰り広げているとは思えないほど和やかな空気が広がる。肉体は疲弊していても、精神は不思議な高揚感に満ちていた。そしてその感覚が、麻痺した四肢を突き動かしていた。

 

「さて、歯ぁ食い縛れよ、野郎ども!」

 

 ラークウッドは共に戦う仲間達を、喉が枯れるほど大きな声で鼓舞した。

 彼は、ただの人であり英雄や超人ではない。歴史のうねりを単身で止める力もない。ただし、命を掛札にして大勝負に参加できる権利だけは持っていた。

 

「一分一秒でも時間を稼げ! 未来を、世界を、俺達が守るんだ! その間にきっと英雄様が世界を救ってくれる! 英雄様が世界を救ってくれれば俺達の守りたいものが守られる!!」

 

 そうやって希望を信じる意志こそが、疲れた体を奮い立たせる。それだけは、確かだった。

 不可能と思えたことを可能とする力。しかしそれはなにも運命に選ばれた英雄のみに許されたものではない。自分を信じ、そして未来を切り開く意志さえあれば誰にだって困難に立ち向かい、何かを勝ち取ることは出来る。

 

「さあ、ちょっくら個人的事情の為に世界の危機とやらを防ぎに行こうぜ!」

 

 敵も味方も乾坤一擲。勝利の女神がどちらに微笑むかは、まだ分からない。それぞれが死ぬほど重いものを抱えて失わないように戦っている。ここにいるのは英雄端で名前も上がらないような端役達。だが、間違いなく誰かにとっての英雄達が様々な思いを抱き、再び戦場へと舞い戻る。その先にどんな結末が待っているのか、皆が不安を抱える戦場だ。それでも戦い抜いて、己の道を切り開かなければならない時代に彼らは生きていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 麻帆良学園都市。世界樹広場の一角に急遽建てられた仮設テントには多くの傷病人が運び込まれていた。学園祭や体育祭で使う仮設テントを有志達が組み立て、ベッドを持ち込んで緊急の医療テントの役割を果たしていた。

 各学校にある普段は生徒が怪我をしたり体調が悪い時に寝かされる保健室にあったものを運び込んだベッドに、今は怪我人達の体臭と血が染み込んでいく。そのベッドももう一杯になった。 

 仮設テントの救護所は場末の宿よりもなお暗く、急拵えで作り上げたので空気は澱んでいた。

 ベッドは傷の深い者から順に宛がわれた。重傷者の数に対して仮設テントに持ち込んだベッドだけでは足りず、学校の机を持ってきて並べ、シーツを敷いただけの簡易ベッドを作って対応している。安定はしなくても冷たい地べたに直に寝かせるよりはマシであった。

 

「誰か! どこの学校でもいいから保健室からありったけの薬と医薬品を取って来て!!」

 

 保険医か医者なのかの叫びがあちらこちらで連鎖し、元気な学生が取りあえず自分の学校に向かって走る。

 

治癒(クーラ)治癒(クーラ)治癒(クーラ)! 魔法薬を飲んでもういっちょ治癒(クーラ)!!」

 

 魔法使い達が治癒魔法を重傷者に片っ端からかけながら、魔法薬も飲んで顔色を劇的に変化させながら治療行為を続ける。

 

「あ」

 

 世界樹前広場が直上からの閃光で再度照らされ、誰かが声を上げた。

 膨大な魔力で魔法世界の墓守り人の宮殿と繋がっている麻帆良学園都市でもネスカと造物主の戦いは見えていた。

 

「天使と悪魔が戦ってるのかな」

 

 世界樹の直上に映る映像は城から光と闇の戦いへと移っていた。不安げに呟くまき絵に祐奈も何も言えない。

 神話のようだった。まるで何かの伝説のようだった。どちらが正しいかは分からないが、白と黒の色から天使と悪魔が戦っているように思えた。

 

「これは……世界の終わり……なの」

「なんなのよ、一体!」

 

 世界樹が光ったと思ったら変な映像が映り、突然現われた先程まで見たことも無い化け物やそれと戦う学園の先生や生徒達・学園祭の最後に出てきたイベントのロボット兵器群の姿。

 飛来する岩石や倒壊する建物。巻き込まれて怪我をする人々。叫び、喚き、恐慌を来たす都市。化け物達がいなくなったと思ったら空のことが気になってきた。見上げる先には、白い光と黒い闇が絡み、ぶつかり合っていた。

 訳が分からないことばかりだった。

 ふとすれば、全身の力が抜けて立ち上がれなくなりそうだった。そうならないのは互いを繋ぐ温もりのお陰。時折届く赤いサイレンの不吉な色と唸り声。異常を来たした世界を前にして自分はあまりにも無力だった

 それでも救護所には声無き悲鳴と活気が満ちていた。声を上げて嘆く者達。声すら上げられぬ者達。そして何かに突き動かされるようにして嘆き、或いは黙り込む人々の間を走り回る者達。

 軽症者は応急処置の後、テント外での待機を指示された。テントの外に地面に敷いた毛布の上に座り込む者の数も増える一方だ。

 

「まき絵、足は大丈夫?」

「ただ挫いただけだし。立たなかったら痛むこともないよ」

「裕也君の家族、見つかるといいね」

「うん」

 

 足を挫いたまき絵や瓦礫を除ける時に手の皮が擦り剥けたアキラの応急処置を受けた後、祐奈とまき絵の二人はテント外でぼんやりと座っていた。アキラと亜子は助けた少年の親を探しに行ってこの場にはいない。

 頭に包帯を巻いたり、添え木で固定している人や、地面に敷かれた毛布の上で辛そうに横になっている人といった、平和な日常の中では見るから重傷でも今は軽症の部類に入るのだ。同じようにテントの周りで屯する人の数が、そのままベッドの不足数を現している。

 

「魔法使いって本当にいたんだね。私、ビックリしちゃったよ」

「まあ、ね」

 

 天に映るこの世の者とは信じられない光景と、麻帆良学園都襲った異形の怪物達、それを撃退した知っている魔法先生と魔法生徒達を目の当りにした今、魔法という信じられないものの存在をどうして否定できようか。

 事態の急変に追いついていないまき絵の平坦な感想に、小さな頃の記憶が刺激された祐奈は少し言葉に困った。

 

「お蔭で誰も死んでないみたいだし、こんなことになっちゃてるけど運が良いのかな」

 

 麻帆良学園都市を突如襲った異形の化け物達を魔法先生、魔法生徒達が退治し終えたお陰で、増加する一方だった怪我人の数も減りはしなくても一時のピークは過ぎてきたように思える。

 こんな悲劇の中でも唯一の救いは重傷者は出ても死者が出ていないことだけだろう。それにしても幾つもの偶然の積み重ねと多くの人の願いが交差し合った奇跡のお陰か。

 

「みんなが頑張ってるのもあると思うよ」

 

 異形の化け物達の襲来に魔法の秘匿よりも人々の安全を思って逸早く行動した魔法先生や魔法生徒、果ては本人すらも意図せずに気の力を使える一般人の救援行動。超鈴音がこの日の為だけに用意していたロボット兵器軍を動員した葉加瀬。その全てを決断した学園長の判断を知ってか知らずか、祐奈は彼らを擁護するように言った。

 

「…………明日から学校やるのかな」

 

 聞かれても答えようもない祐奈はまき絵と身を寄せ合い、言葉もなく押し黙っていた。麻帆良中に充満する異常な空気、先程まであった暴力そのものといった音と光に感情を麻痺させられているかのようだった。

 これは一体何なのか、と誰とも目を合わせる気力もなく、祐奈は一人で内心に呟いてみる。少しまで誰もがさして代わり映えのしない日常の中にいたのに、たった数時間かそこらで覆されてしまう日常はなんなのか。日常という時間、厳然と周囲を取り囲んでいた壁のなんと脆いことか。

 

「………………」

 

 人の多さに見合わない静けさの中、互いの行方が分からなかった家族や友人との再会に声を殺して喜び合う者達。慌ただしく行き交う医師や看護師、杖を持った魔法使いらしき人。そしてまた一つ、新たな即席で作られた担架に乗せられた人が少女達の眼前を通って行く。

 全身にドロリと血糊をこびり付かせているのは微かに見覚えのあるスーツを着た男性だった。どこかの学校の教師なのだろう。意識無く横たわっていた。

 

「先生! しっかりして!」

 

 男性が教師と分かったのは、麻帆良女子中の制服を着た少女がそう言っていたからだ。庇って怪我をしたのか少女の表情の悲壮さは、一瞬で流れる出来事の数々に現実感を失いかけていて二人を現実に呼び戻した。

 今日だけでどれくらいの人がこんな気持ちを抱えているんだろうか。

 

「裕也君のお母さんは無事だったよ」

 

 アキラの声に、祐奈は顔を上げた。

 座っている祐奈と立っているアキラの対比で、背後に砕けた建物の塵芥と火の粉が入り混じって視界は暗く、空は得体のしれない闇のように見える。

 

「裕也君の家、パン屋さんで、これ貰ってきたんや。食べよ」

 

 アキラの一歩後ろに立っていた亜子が手にした紙袋から菓子パンを取り出し、祐奈に差し出した。

 

「ほら、チョコチップ。好きやったやろ」

「………………ありがと」

 

 食欲など欠片もないが元気づけようとしてくれる親友の好意に、小さく笑みを作って受け取った。処理能力が追い付いていないのだろう、隣のまき絵は何も返せず、ただ黙ってチョコチップを見ているだけだった。

 アキラは祐奈達の隣に、彼女達が来るよりも前からそこに座っている小学生ぐらいの男の子と女の子を見た。

 親が迎えに来るのを待っているのか、もしくはテントに入った重症の親の帰りを待っているのか、周りの状況が状況故に安易に聞くことは出来なかった。ただ、女の子の方は疲れ果てて男の子の肩に頭を凭れて寝ている。

 女の子を守るのは自分だと、男の子も自分が寝たいのを必死に我慢しているのが分かった。

 辛うじて聞けたのは、男の子がはる樹で女の子が雪という名前だけ。

 

「はる樹君食べる?」

 

 アキラは、自分のチョコチップをはる樹に差し出した。はる樹は「ありがとう」と微笑んで受け取り、半分に割って食べた。残りの半分を食べる気配がないので雪が起きたら上げるつもりなのだろう。

 亜子やまき絵、祐奈も自分の半分に割って周りの人達に分ける。

 四人で並んで腰を落ち着け、広場から辺りを見渡せば数時間前までは何時も通りだった日常の風景が見るも無残に破壊されている。特にこの世界樹前広場は攻防が激しかったらしく、通いなれた街路には瓦礫が散らばり、あちこちから黒煙が上がっている。

 

「一体、なにがあったんやろうか。テロって感じやなかったけど」

「怪物とか化け物を見たって人も多いよ」

 

 学校へ行って、帰って、安らかに寮の自室で眠れる日常は崩れ去った。何が切っ掛けだったのか、どうすれば元の平和が戻ってくるのか、祐奈には分からない。非日常に潰されないように多くの人達と同じように逃げ惑うだけだ。きゅっと口元を引き締めて歩く。級友や知り合い達の安否が気になったが、無事に避難しただろうと思うしかない。

 

「魔法使いとか、化け物とか…………意味わかんないよ」

 

 三人の中の誰が言ったのか、祐奈には判断がつかないが、それでも魔法のことを思い出した彼女に言える言葉はない。

 明日も明後日も変わらないと信じていた日常。それは、これほどまでにも脆いものだった。彼女達の人生において戦争やテロといった非日常は、どこか行ったこともない国で行われる何かであった。地球人口が60億を超えようかという時代だ。この日本と同じように戦争をしていない平和な国だけが彼女達の世界であり、その世界の外で人が死んだからといって気の毒なと考えるのみ。こうして自分達の世界が非日常に呑みこまれて、ようやく日常の在り難さを実感する。

 パトカーや救急車のサイレンが絶え間なく流れ、学生や有志によって救助活動が行われて彼方此方で声が飛び交っていた。病院の窓は昼のように輝き、夕方に訪れた異変に誰もが家の中でじっとはしていられなかった。

 家族の安否を気にして必死で連絡を取る者、怪我をした友人を気遣う者、傍にいる恋人を護ろうとする者、全ての者が共通して空に描かれた予言に記された黙示録の如き光景を見上げた。 

 

「あれ、アンタ達。こんなところに座り込んでどうしたの?」

 

 かけられた聞き覚えのある声に辛い現実を直視したくなくて地面を見ていた四人は一斉に俯けていた顔を上げた。

 

「アーニャちゃん!?」

「な、なんでここに!?」

 

 顔を上げた四人は目の前に立つ小柄な少女――――アンナ・ユーリエウナ・ココロウァに目を丸くしてまき絵と祐奈が次々に問いかける。亜子とアキラは驚きのあまり口をあんぐりと開けていた。

 

「なんでって、明日から新学期じゃない。これでも副担任補佐なんだからいても不思議じゃないでしょ」

「い、いや、まあそうなんやけど」

 

 よくよく考えてみれば別に驚く理由はなかったのだが、このように素で首を捻っている少女を見るとなんとなくこれじゃない感が頭に浮かんでしまう亜子だった。

 

「しかしまあ、なんとも派手なことになってるわね。魔法の秘匿もあったもんじゃないわ」

 

 一人で何かに納得しているアーニャに口から零れ落ちた『魔法』というキーワードに祐奈以外の眼の色が変わる。

 

「アーニャちゃんは何か知っているの?」

「悪いけど詳しいことは何も知らないわよ。ただ」

「ただ?」

 

 可愛い物好きなアキラが率先して問いかけるが思わせぶりなアーニャの発言に少し苛立ったように繰り返した。

 

「アスカの馬鹿がこの事態に深く関わってるんじゃないかって確信してる」

「アスカ君が?」

 

 続いて出て来た馴染みのある名前に亜子が窮していると、アーニャはまるで携帯電話が電波を受け取ったかのようにピクリと反応した。

 

「へぇ、葉加瀬ったら面白いことを考えるわね」

「葉加瀬さんがどうかした?」

「学園長はこの事態を隠し立てする気は無いみたい。ほら、空を見ときなさい。面白いものが見られるわよ」

 

 まき絵が問うもアーニャは核心には触れず、空を見るように促す。

 理由が分からずともこの事態に関する何かが空にあるのだとすれば見ないはずがない。

 四人が頭上を見上げると、数秒後に空にノイズが奔って立体映像らしきものが映った。

 

「なに?」

「誰か、いる……」

 

 撮影者は遠く離れた場所から誰かを撮っているようで、立体映像には小さく誰かの背中が映っている。しかし、遠すぎて背中の主が誰かは判然としない。

 

『無駄だ。最早、戦える体ではない。私がそんなにも憎いか、アスカ・スプリングフィールド』

 

 若い男と分かる酷薄な声が世界樹広場に木霊する。

 

「今、アスカ・スプリングフィールドって」

「私にもそう聞こえたよ」

 

 収音マイクで遠い場所の音声を拾っている所為か、かなり聞こえ難いが確かに四人が良く知る人物の名前がしっかりと聞こえた。

 

『父と母を奪った私が憎いから戦おうとするのだろう。でなければ、命を捨ててまで戦おうとする理由を見い出せん』

『憎んでなんかいない』

『憎しみでないのならば、どうしてそこまでなっても闘おうとする? 辛いだろう、諦めてしまえ』

『諦める理由なんか、ねぇ』

 

 なんとか立ち上がろうとしても出来ない映っている背中が何度も震える。その背中の持ち主が半年間を同じ教室で過ごしたクラスメイトであるとは容易くは信じられない。

 

『同情なんてしない。魔法世界を救ってほしいと頼まれたわけでもない。親父達が守った世界だからって、俺が命を賭けてまで戦う理由はない。精々一ヶ月程度しかいないんだからな。俺が戦う理由はないはず、だった』

「世界だなんて、またアスカはとんでもない事態に巻き込まれてるわねぇ」

 

 と、聞こえたシリアスな音声とは裏腹にアスカが巻き起こす事件に慣れっこのアーニャの感想は呑気なものであった。

 

『造物主、アンタには世界を作り変える権利があるのかもしれない。正直、アンタが正しいとも思うよ。それでもさ、俺にも戦う理由があるんだ』

 

 映る背中だけでも傷ついていると分かる姿ながらもアスカは立ち上がろうとしている。

 

『お、ぉぉおおおおおおおおおおぁぁああああああああああああ!!』

『アスカ……』

 

 今聞こえたのはネギであろうか。ネギ大好きなまき絵などは目を丸くして映像を見ている。

 

『はっ――――ぜっ―――――ぁ、何故闘うだと? そんなことは決まっている!』

 

 立ち上がったアスカの姿は背中だけでも痛々しかった。それでもその背中からは力強さは失われず、その声は世界樹前広場にいる全ての者が聞かずにはいられない覇気が込められていた。

 

『…………よく聞け、俺は―――――俺は、明日菜を助けるためにここにいるんだよ! 世界なんてそんな小さい事情なんかどうでも良い! 他の誰でもない。明日菜を救う為だけに戦ってきたんだ!』

「うわっ、何を小っ恥ずかしいことを言ってるのかしら」

 

 アーニャが赤面して顔を覆っているが、明日菜の名前が出ても四人はジッと映像を見ていた。

 

『惚れた女をこの手に抱きたい! そのために邪魔なテメェはぶっ飛ばす! ついでに世界を救う! 全て俺のためだ! 邪魔をするなァァァァァァァァ―――――ッ!!!』

『―――――――個人の為に世界と戦うなど馬鹿げている。正気か、貴様は」

『それでも安かねぇんだよ! 世界の未来みたいに大きくなったって、明日菜の命は俺にとっては安かねぇんだよ!!』

 

 女ならばここまで男に想われたいと思わせる熱情を発露するアスカ。今度はアーニャも弄ることはせず、ただ何かを決意したように手に持っていた箒を見る。

 

「たった一人の為に世界を救うなんて馬鹿なことする奴だわ。まあ、私も嫌いじゃないけど」

「あの、アーニャちゃん」

「悪いけど私も何が何だかよく分かってないし、説明は出来ないわよ。話している感じからして明日菜が捕まってアスカが助け出すついてに向こうの世界を救うみたいね」

 

 そんな説明では何も分からない。四人は揃って疑問顔だが、追及の言葉をかける前にアーニャはヒラリと箒に跨った。

 

「ネギにだけ任せておくのも不安だから私も行って来るわ」

 

 ちょっとコンビニに行って来る的な気安さで箒に跨ったまま、なんの支えもなく宙に浮かび上がったアーニャに四人の顎がカクンと落ちた。

 

「リシ・トル・キ・ラトレ 汝が為にユピテル王の力をここに 大治癒!!!!!!」

 

 直後、力強い声と共に中位治癒魔法が世界樹前広場全域が照らされ、範囲内にいる者の傷が問答無用で癒される。

 

「…………流石はネカネ姉さん。アスカの生存が分かって意気込むのは分かるけど凄い治癒魔法ね」

 

 精神は時に肉体を凌駕するというが、魔法の腕にまで影響するらしい。アーニャと共に麻帆良に帰って来て負傷者の治療に当たっていたネカネが発動した中位魔法は、とてもその位階ではありえない規模の威力を発揮している。

 

「化け物が現れたり、魔法使いが本当にいたり、アスカ君が何かと戦ってたり、明日菜が捕まってるとか、アーニャちゃんが空まで飛んで、ネカネ先生まで魔法使いとか…………もう、訳がわかんないよ」

 

 アキラが頭が痛いとばかりに抑え、まき絵が目を回し、亜子が気絶しそうで、祐奈は苦笑を浮かべていた。

 

「訳わかんなくてもなんとかなるわよ。これ、経験談ね。あの万国ビックリ箱みたいなバカ達と一緒にいたらよく分かるわよ」

 

 彼・彼女らの表情は先程まであった暗い影が微塵も感じられない。若さ故の特権と言うべきだろう。それまで内気であったり、何かと消極的だった顔にも、まるで童子のような前を見据える輝きが見受けられるほどだ。

 

「それじゃ、私も行って来るわ」

 

 どこにとは聞かない。分かりきっていることを聞くはずもない。

 

「私達はどうすればいいの?」

 

 と聞くのは祐奈の中にある種の確信からだった。ここでこうやって座り込んでいても出来ることはない。ならば、何ができるのかといってもただの中学生に過ぎない彼女らには出来ることは何もない。

 それでも聞いたのはアーニャならば今出来る正しい答えを教えてくれると何故か理由もなく思えたから。

 

「祈って、応援してあげて」

「それだけでいいの?」

「祈るっていうのは、結構大変なのよ」

 

 誰にでも出来ることだけど、誰にでも出来るから大きな力になるのだと今まで彼女らの立場にいたアーニャは確信を持って言った。

 

「それがアイツらを強くするわ。賭けたっていい」

 

 そう言い残して、アーニャは世界樹の上空へと飛んで行った。

 その姿を見送った四人は、原始に神も知らぬ人々が両手を組み合わせたように祈る。

 早くこの事態が収まりますように、明日から皆が学校に通えますようにと、彼女らの行為に倣って世界樹広場にいた誰もが真似をする。

 それは、確かな力。英雄のように選ばれた者でなくとも、或いは権力や暴力のように直接的ではなくとも、きっともっと根源的なところで世界を変えていく力。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 魔法世界の各地で茶々丸を中継して戦いを眺める者達がいた。

 映像に映る目の前のこの一個人が戦っているとは思えない圧倒的な光景は、もはや人々の心のキャパシティを軽く凌駕してしまっていた。

 彼らは正直に、それこそちっぽけな一般人として、繰り広げられる戦いを怖いと思っていた。勇気とか正義感とかそういう次元ではなく、それは人として真っ当な心の動きだったのかもしれない。

 そして英雄すらも地に堕ちた。まさに目の前の光景は絶望の象徴だった。

 

「もう、終わりだ」

 

 群集の中で誰が言った。

 ただでさえ人は臆病で非情で、憎悪や邪念に囚われたり、無知や不実や冷酷さを見せてしまう。無論、そうでない心だってある。誰の胸にも光が宿っている。けれど絶望という死に至る病は強く、希望を圧倒してしまう。

 むしろ嘗てないほどに輝いていた希望が失われたことで、これまでより苛烈に、圧倒的に絶望は彼らを犯していた。 

 魔法が使えようが戦いの訓練などしたこともない彼らは単なる民間人だ。軍人が戦うのは当然で、英雄が悪を倒すのは必然だった。戦う力なんてない自分達が戦況に影響する何かを出来るとは露とも考えはしていない。

 

「ちくしょう……ッ!!」

 

 その時、そんな声が群集の中から上がった。

 薄汚れた服を着た見るからにみすぼらしい浮浪者の少年だった。少年の服は、まるで同じ一枚の服を何度も洗い直して使っているかのような薄汚れた生地だ。旧世界風に言えばホームレス。

 ストリートチルドレンの少年は憤りも露わに、画面の向こうで倒れているアスカを睨み付けた。

 

「なにやってんだよ、アンタは!!」

 

 向こうは覚えてもいないだろうが少年はアスカのことを知っていた。実際に会ったこともある。

 アスカが魔法世界に来て辿り着いたノアキスで、少年が悪漢に襲われていたのを助けた。その後のゴタゴタに巻き込まれることを嫌って逃げた少年は自分とは違うはずのアスカが破れたことを怒っていた。

 

「今までそんな風に生きてきたんだろ。僕を助けてくれたことだってアンタにとって特別な事だったんじゃない。アンタはずっと、そんな風に生きてきたんだろが!! 」

 

 ナギ・スプリングフィールド杯での戦いの中継を少年も見ていた。

 正直に言えば、どうしようもない強さに憧れを抱いた。同時に自分とは全然違うアスカに嫉妬も抱きもした。世界という舞台を相手にして戦いを挑んだ英雄アスカ・スプリングフィールドに諦めも抱いた。

 

「アンタは僕と違って英雄なんだ。誰よりも光り輝いている奴が諦めるな!!」

 

 アスカが立っている場所が、戦っている相手がどれほどのものなのか、どれだけ傷つきながら戦ってきたのか、少年には想像もつかない。 

 

「……………………立てよ」

 

 アスカがナギや高畑に並々ならぬ想いを抱いたように、戦う力を持たない少年には世界の命運を掛けた場所で戦うアスカに想いを託すしか出来ない。

 託す相手が瀕死の怪我人であることも承知の上で少年は叫ぶ。

 

「立てェェェえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええッッッ!!!!」

 

 本物の英雄とは、一度倒れた程度で諦める者を指すのではない。人々の声に応じて、何度でも起き上がる者を指し示す。

 

『お、ぉぉおおおおおおおおおおぁぁああああああああああああ!!』

 

 そうして、少年の叫びを聞き届けたかのように、画面の中でアスカ・スプリングフィールドは天に向かって吼えるように立ち上がった。画面越しにも骨を軋ませ、全身から多くの赤い鮮血を噴出させながらもアスカは立ち上がった。

 全身から血を吹き出させながらも、フラフラで今にも倒れそうになっていても立っていた。

 

「へ、格好良いじゃねぇかよ。英雄(ヒーロー)

 

 聞こえるはずのない声に応じて立ち上がった英雄に、沸き上がった感情に鼻を啜りながら画面のアスカを見る。周りにいた誰もがアスカに見惚れていた。

 

『…………よく聞け、俺は―――――』

 

 彼の声はどこまでも真っ直ぐで、そしてそれ故に眩しい。

 

『俺は、明日菜を助けるためにここにいるんだよ! 世界なんてそんな小さい事情なんかどうでも良い! 他の誰でもない。明日菜を助けるために戦ってきたんだ!』

 

 声は波だ。空間を震わせて伝わっていく音の波。波は弱くて、遅くて、直ぐに消えてしまうほど儚い。

 映像を通してアスカの声は空間に響き渡る。それは、この世界に比べれば存在しないのと同じくらい矮小でささやかすぎる現象。

 

『惚れた女をこの手に抱きたい! そのために邪魔なテメェはぶっ飛ばす! ついでに世界を救う! 全て俺のためだ! 邪魔をするなァァァァァァァァ―――――ッ!!!』

 

 声はやがてそれがあった痕跡も残さず一瞬で消えてしまう。けれど、声に込めた想いは消えない。

 例え弱くとも、見えなくとも、それは消えない。

 幾重にも折り重なった壁の向こう。その壁を突き破って想いは飛ぶ。その想いが空間を越えて息づく者全ての耳に届けられる。

 当たり前のことだが、どれだけ引き籠ろうが現実から離れられるわけではない。この世界に生きている以上、誰も無関係ではいられない。同じ空の下で戦っているのに何もしないことに我慢できない者もきっと現れる。

 

「敵と戦わなくても僕にだって出来ることは何かあるはずだ。僕だって戦える。あんな風に闘えなくても戦えるんだ」

 

 薄汚れた服を着た見るからにみすぼらしい浮浪者が自分に出来ることを探して動き出した。

 少年はただ一人のちっぽけな人で、世界の全てを背負うことなど出来るはずもない。けれどほんの一部なら、自分の目につく小さな範囲なら、背負うことは出来るのだ。他の誰もが同じように、そのために出来ること、今しなければならないのは戦うこと。

 そんな浮浪者の少年の姿を見ていた小さな少年がいた。母親に抱き締められて突然起こった戦争についていけない一人の小さな少年が顔を上げた。小さな少年は、アスカの声を聞いてゆっくりと立ち上がって母を守るように立ち上がる。

 

「僕がお母さんを守るんだ」

 

 戦いは殴り合いだけで勝敗が決まるものじゃない。無理矢理に他人から奪うものでもない。そんなことをしなくても、大切な人を守れるような人間になれるかどうかで全てが決まるのだ。特別な力を持っているからといって、特別なことをしなくてはならないのではない。誰だって戦って良いんだ。例え世界を敵に回してでも、これだけは命を懸けて守りたいと、そう認めた者のために。

 自分の半分もない小さな子供が母親を守ろうとしている姿を、風に当たりに来たブラットが握った拳をギリギリと震わせた。

 ブラッドは、アスカの声を聞いて血が出そうなほど強く握り締めていた拳を解いて歩き始める。

 

「こんな子供が戦おうとしているんだ。俺にも何か出来る事があるはずだ」

 

 粛々と大人達が自分達の役割を果たすために歩いてゆく。

 アスカから発せられた声が少しずつ人々に影響を与えていく。彼らの前にあるのは暗い迷路だ。逃げても具体的な目的地は見えない。それでも足を止めていてはそこで終わってしまう。

 誰もが戦っている。いや、人だから機会があれば戦うのだ。

 それは完全な相互理解とか、人々の進化とか、そんなご大層なものではない。偶々、その時において人々の利害が一致し、アスカの行動から生まれて集約しただけだ。理解し合えたことなど幻想に過ぎない。明日には消えてしまう。夢のようなものだ。しかし、その幻想はあまりにも尊かった。

 今のアスカなら少年が指で突いただけでも倒れそうだ。だけど、幻のように美しかった。人々を救い導く救世主という幻想が形を取った姿だった。儚い希望でも全ての人々の未来を背負って世界に平和を取り戻す英雄の姿だと誰もが思った。

 行動した人達は、目撃した人達は、何十年も子孫の代までこの日に起こった奇跡を語り続けた。一人の人間から発せられた心の灯が多くの人々を揺り動かす瞬間を。それは人の魂が歴史の中で幾度も見せてきた輝きだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この一瞬に、自分が生きてきた年月の全てが掛かっている気がした。ネギは雷を纏って蠢動しながら奥歯を噛む。

 

「はぁあああああああああああああ!!!!」

 

 空間が振動する。落下する隕石を押しとどめるように、彼らは造物主を迎え撃った。

 

「邪魔をするな!」

 

 薙ぎ払う一撃が旋風なら、振り下ろす一撃は瀑布のそれだ。まともに受ければ良くて致命傷、悪ければ即死するだろう。複数の衝撃波が周囲を震わせ、激突の余波が音の洪水となって辺りへと撒き散らされていく。

 

「まだまだ!!」

 

 直接的な肉体の衝突の他にも、彼らの周囲では断続的に光が瞬き、複数の方向から何色もの色の光が放たれていた。

 しかし、両陣営の激突は拮抗していなかった。

 

「蠅が何匹集まろうとも……っ!」

 

 造物主の強さは圧倒的だった。消耗が激しいとはいえ、ネギやエヴァンジェリンの実力は世界トップクラスで紅き翼に勝るとも劣らない。その彼らが束になってかかっているというのに、アスカとの闘いで消耗しているはずの造物主に相手にならない。

 崖から落ちそうになる体を指先だけで必死に捕まっているような危ういバランスを保っていた。

 

「止まるなっ!!」

 

 それでも、上から、下から、左から、右から、後ろから、前から、ネギ達は絶え間なく攻撃を仕掛けた。

 

「合わせろっ!」

師匠(マスター)!」

 

 師弟はアイコンタクトだけでお互いの行動を理解し合い、ネギは力を溜め、エヴァンジェリンは氷雪を纏って蠢動する。高畑とクルトが両脇から造物主を牽制し、アルビレオが渾身の重力場で足を止める。

 付き合いの長さなど関係ない。 想いを同じくする彼らはわざわざタイミングを揃えるまでもなく、その攻撃はピタリと息が合っていた。時間差をかけた波状攻撃。異なる角度からの一斉攻撃。フェイントとフェイントと特攻。力と技とスピード。

 これだけやって致命の一撃も加えられないが、二人の魔法使いが大魔法を放てるだけの時間を作り出す。

 

「雷の、暴風!!」

「闇の吹雪×16!!」

 

 最大限にまで力を溜めたネギが六年前の故郷の村でナギが放ったそれを遥かに上回る雷の暴風を放ち、術式兵装・氷の女王で上級以下の氷属性魔法を無詠唱無制限に放てるエヴァンジェリンの十六もの闇の吹雪が絡みつき、雷氷の闇風となって足止めを食らっていた造物主に襲い掛かる。

 

「小癪な」

 

 大海とも思える無限の魔力によって雷氷の闇風が打ち消されようとも肉体に宿る力を振り絞り、僅かな休息すら許さずネギ達は猛攻を仕掛けた。歴史を振り返っても、これだけの実力者にプレッシャーと攻撃を受けた者はいないだろう。密度といい、物量といい、圧巻としか表現しようのないコンビネーションだ。

 

「武の英雄以外に私を越えられるものかっ!」

 

 が、歯が立たない。墓守り人の宮殿を揺るがさんばかりの、怒涛の攻撃が続いている。次から次へと途切れることなくだ。

 それを正面から、怯むことなく最大の力で弾き返す造物主。少しずつ、まるで鋭い嘴で柔らかい肉を啄ばんでいくかのように形勢が悪化していく。

 

「うおおおっ!!!!」

 

 嵐のように振るわれる一撃に対し、全身全霊の一撃をもって弾き返す。そうでなければ受けた防御ごと両断される。間断なく繰り広げられる無数の拳撃は、その実、受けたネギ、エヴァンジェリンにとって一撃一撃が渾身の攻撃だった。

 

「崩れ落ちろ!」

「するものかっ!」

 

 絶え間ない攻撃の音。間合いが違う。速度が違う。力が違いすぎる。彼らに許されるのは、避けきれない衝撃に全力を以って迎え撃ち、威力を相殺することで負けないようにするだけだった。

 力の波動が痛いほどの空間を満たしている。なのに、その中心にいる造物主は、まさに神の如く次元の違う強さを持って全方位から近づくモノ全てを容赦なく粉砕する。少しでも欲を出せば終わりだ。逃げるなんてことすれば塵のように微塵になるだろう。

 そんなモノに立ち向かえない。近づけば死ぬだけなら逃げるしかない。だが、彼らは暴威の内に身を置き、退く事をしなかった。ならば削られるしかない。彼らは常に一秒後には即死しかねない渦に身を置いている。 

 

「無駄な足掻きをっ! 仲間、絆、愛に何が出来た! 運命に少しでも気を与えることが出来たか!」

 

 光と光がぶつかり合う中、造物主の声が通る。

 雷速を駆使して誰よりも危険域にネギは怖くて心臓が止まりそうだ。それでも、信じようと決めた。この世界には希望があるのだとアスカが言ったのだから。

 

「出来る!」

 

 自分に言い聞かせた。世界の未来がかかっている。正義の味方ごっこをしている場合ではない。それで、ベストを尽くしてどうしようもないからと簡単に取り下げるものは信念ではない。

 

「運命は我らを嘲笑い、変わることはない! 現実に押し潰されるがいい!!」

 

 狂気染みた響きが、造物主の声には籠っていた。

 かつて、旧世界で十字の理想を掲げ、領地回復を目指した軍隊もそうだったろうか。

 

「運命なんて超えてやる!!」

 

 力が違うのなど百も承知。それでも、彼らは千載一遇の機会に賭けた。死んでも構わない。せめて一撃、自分たちが刻を稼げればアスカがなんとかしてくれる。それまで戦ってみせる。この身が引き裂かれようとも。

 自分たちを遥かに凌駕する巨大な暴力。目を奪うほどに絢爛な戦いは、しかし、一秒毎に傷ついていく彼らの敗北しか結末を用意していなかった。 

 

「おお――っ?!」

 

 高畑の雄叫びが木霊する。造物主の光弾が大気を裂き、避けたはずの高畑を弾き飛ばしたのだ。

 高畑が戻ってくるまで、全員で掛かっても及ばない敵では戦力が欠けた状態では圧倒されるのが必然。それでも皆は勇猛に造物主へと突進する。

 激突する熱量の凄まじさが小規模な水蒸気爆発を次々と起こし、周囲の空気が陽炎の如く揺らめいている。それも既に限界だ。

 

「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」

「ゴフ………ハァ」

「ゼェ、ゼェ、ゼェ、ゼェ」

 

 連戦を続けた全員の呼吸は乱れて、体の動きも目に見えて衰え始めている。常に全開で力を発揮し続ければ当然の結果だった。 だが引かぬ、負けぬ、挫けぬ。

 

「何故だ………何故立ち向かってこれる!?」

 

 幾つもの致命打を受けたはず、何故彼らは死なずに立ち向かってくるのか造物主には理解できなかった。肉体が破壊されても精神は死なぬというのか、彼らを支えているものが分からない。そこには既に余裕はない。なのに、そんな彼らを倒しきれない。

 

「消え去れ!!」

 

 造物主の全身からあまりにも恐ろしい光が噴き出した。

 一本、二本ではない。造物主を中心として、数千、数万にも及ぶ莫大な光が全方位へと。

 

「避けろ――――ッ!?」

 

 世界でも最強クラス達の術者達が体面もプライドもかなぐり捨てて、エヴァンジェリンの叫びよりも速く慌てて回避行動に移る。

 全力で回避行動に移った彼らの直ぐ近くを、一瞬で肉体を塵も残さずに消滅させる力を持った光が通過する。間近を通過した衝撃で肌にはビリビリとした痛いほどの感覚が伝わってくる。まるで間近で打ち上げ花火を見たような、腹の底に深く響く衝撃は、 殆ど透明な壁にも近かった。

 耳元を弾丸が通過しようとも笑っていられる彼らが恐怖で大声を発しようとしたままで口が固まっていた。度重なる戦闘と無理によって全身が痛みを発している。しかし苦痛を訴えている暇はない。次の一撃が来る。

 

「させませんっ!」

 

 そんな中で回避ではなくダメージを負ってでも光を越えたアルビレオが背面から造物主を拘束した。

 

「くっ、古本風情がっ!」

「ぐぬっ、がぁあああああああああ?!!!」

 

 造物主は雷撃を纏ってアルビレオを引き剥がそうとするが、なにが彼をそこまでされるのかと戦慄するほど拘束が解けない。

 

「…………ははっ、私程度を振り解けないとは、彼らとの戦いが効いているようですね」

 

 あちこちを焦げさせながらも決して離さないアルビレオに再度の雷撃を与え、力任せに振り解こうとするが果たせない。

 アルビレオの言うようにネスカとの戦いによるダメージは引いておらず、ネギ達が全力でかかってくる以上は手を抜けず、造物主もまた死に物狂いだった。

 

「私は長く生きました。嘗ては神だった人よ、貴女も長く生き過ぎた」

 

 仲間が最低でも動けるまでの時間を稼ぐ為に全身全霊を賭けて造物主を拘束しているが、ネスカ戦でのダメージで戦闘力が落ちているとはいってもアルビレオではどうあがいても不可能。

 そうなれば、彼の未来はたった一つだ。ならば、そうなる前にこの肉体を駆使して、生命の輝きに新たな一筋の光彩を加えてやろうではないか。

 

「老人は若者達に託して死んでいくべきなのです」

 

 あたかも黒いドレスを纏った貴婦人が抱きつくように、影のような重量場が造物主を打ち倒す。

 

「貴様!? なにをっ!!」

「子を成して、世代を重ねて、未来を残す。人の生は何を成して、どのように次に世代に命を受け渡したかで決まる。そういうことが分からなくなった貴女は私と同じく長く生き過ぎたんだ!」

 

 アルビレオは笑っていた。血反吐で口元をべっとりと濡らしながら、それでも笑っている。

 

「未来を、子供達を守ってみせる!」

 

 爆発の光に包まれたアルビレオの意思は四散して、歪んだ空間を元の時間に戻していった。

 拡散する光を残して、アルビレオがいなくなった。今日、この戦場で消えた多くの戦士達と同じように。一つ一つに宿る思い、同じ物のない人生を一切想像させることなく。

 

「アル!」

「くそっ!」

 

 良く知った者が目の前でいなくなった。その現実を目の当たりにしたネギ達の前で、爆煙を割いて更なる傷を負った造物主が落ちて来る。

 

「行きます!」

 

 アルビレオが自爆してまで稼いだ時間を無駄にしない為に、動く力を取り戻したネギが誰よりも速く造物主へと突貫する。エヴァンジェリンも、高畑もクルトもネギに続く。

 悲しむのは後だ。今はただ、目の前の敵を倒すことだけに集中する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 眩い光が、少年の手に凝縮する。今のアスカに残る全てを振り絞って集められた力であった。周囲の闇すべてを振り払うような強烈な輝きだった。目的を成すために練り上げて、高まり続ける力が高く美しい音色を響かせる。

 

「温かい」

「それに綺麗や」

 

 刹那と木乃香が思わず呟くほどその光は温かく綺麗だった。

 弱く、そして強く、微かに瞬きながら、光は次第に明るさを増して、やがて小さな太陽のように煌々と輝き始めた。

 あたかもそれは、不浄な世界にたった一つ残った抗いの鐘のように。世界を滅ぼそうとする神に向けた人間の宣戦布告のように。

 

「まだ足りねぇ。もっとだ」

 

 まだ、逆転には足りない。まだまだ足りない。何一つとして足りない。圧倒的に足りない。最大限にまで高められた造物主の力を押し戻し、打ち破るには、まだ多くの力を必要としていた。

 アスカの体は既に限界を遥かに超えている。疲労などというレベルではなく、生命活動のための力が消えていくのだ。「死」という脱力感をチューブから挿入されているようだった。

 絶対安静にしなければ死ぬ体を押して、アスカは周り中から力を集め続ける。

 自分の中の大事なものが、少しずつぴしり、ぴしりと、綺麗な音を立てて罅割れて砕けていくのが分かる。物理的なものではなく精神的な音。当然、足にも力は入っていないが、少女達が支えてくれている。彼女達の腕は、アスカにとって何よりも心強い支えだ。

 全ての力を振り絞っても届かない。全く以って八方塞がり。自分でどうにか出来ないのならば、外部に助けを求めるしかない。

 

「もっと俺に力を! 戦うための力を! 明日菜を助けるための力を貸してくれ!」

 

 アスカは叫び、手の先にある自らが生み出した光を天に翳した。

 求めに応えるように、最初は手の指ほどの光が集まる。

 次第に増えて数百、数千、数億、もはや数えることすら出来ない光が集い、黄金色の輪郭を形作っていく。それは例えるなら銀河の光。暗黒の宇宙に輝きを灯す星雲の煌めき。弾けては混ざり、また弾ける。光が重なり合い、凝固し集まって形を成していく。

 集いし光は猛々しき力となり、勝利への路となる。

 

「うちの力も使って」

「私も微力ながら」

「気を送るのはこんな感じでいいアルか?」

「十分でござるよ」

「なんとも変な感じだね」

「ほら、持って行きなさいアスカ!」

 

 声が聞こえる。少女達だけではない。

 戦っているネギ、エヴァンジェリン、高畑、クルトの声が聞こえた。

 

『後は任せましたよ』

「アル!?」

 

 一時の時間を稼ぐ為に自らの全てを差し出したアルビレオが去り際にアスカに全ての力を譲り渡した。その悲しみに浸る暇もなく、更に様々な人の声が聞こえる。

 

……………! ………………! ………………!

 

 やはり聞こえる。何者かが、大勢の者たちが遠くから呼ぶ声。

 十人、百人、いやもっと多いか。こんなに沢山の人たちの声が何故か聞こえる。よく聞こえない。だが、戦ってくれと勝ってくれと懇願されているような気がする。

 

……………! ………………! ……………! ………………!

 

 声は止まない。群集の声。力を求める声。救済を求める声。アスカは顔を上げて、周囲を見渡した。その瞬間に、理解した。

 アスカに援軍を届けたのは、いまなお矢面に立って造物主と戦う戦友たちだけではなかった。

 

『頑張れ!』

『世界を救ってくれ!』

『英雄、皆を守ってくれ!』

 

 魔法世界の色んな場所で、戦場で戦いで傷つきながらも皆が呼びかけ続けていた。

 超常の能力がなくても、今なら人の心が分かる。

 世界に存在する人々が、ほんの少しずつの力をアスカに分けてくれている。

 援軍の送り主は人間や生命体という枠組みさえ越えて、魔法世界にある、あらゆる植物、あらゆる生き物、果ては命無き無 機物―――――一掬いの泉の雫、大地に転がる石の一片に至るまで、悉くに及んだ。

 彼らはこの世界に生まれ、この世界と共に生きてきた。故にこの世界と共に滅びるのが必定であり、必然。彼らはまるで世界の今後を委ねるように、アスカに力を分け与えた。

一つ一つ分けて見れば、造物主の力に比べてけし粒にも及ばない小さき光。だが魔法世界に疎らに点在する光点は、やがてしっかりと結び合い、地平より昇る雄大な朝日のように天地を逆流していく。

 それだけではない。

 

『アスカ君、頑張って!』

『明日菜と一緒に帰って来てよ!』

『なんかよく分かんないけど頑張れ!』

 

 麻帆良学園都市で避難していた祐奈、アキラ、まき絵、亜子が空に祈るような瞳を向けて、頭上で戦い続ける知り合いに向けて呼びかけた。

 少女達に呼応するように生徒達が、大人達が叫びを上げる。

 オスティアのゲートを通じて麻帆良にある世界樹を介し、旧世界にいる人々の光もまた流れ込み、魔法世界の光と溶け合ってアスカの下へと届けられた。

 

「みんな、ありがとう」

 

 世界の全てがアスカの目になったようだ。光の下の意志を我が事のように把握できた。

 

「この光は……!?」

 

 それだけの光が集まり、戦っていた造物主も気付くほどに規模を増していく。

 滅びに対抗せんとする全存在の『想い』の結晶が咲かせる、大輪の華。アスカが天へと掲げた手のひらの先へと希望の光が集っていく。

 拳に未来への意志、前に進む意志の想いを全て込める。恨みも嘆きも切り裂いて、ただただ幸せに生きたいと願う想い。その想いは、金色の光となって眩いばかりに拳を輝かせる。

 大勢の人々が願い、請い、念じ、祈る想いの力。心の力がこの場に集まり、光となって集まっている。今のアスカには 、それがはっきりと理解できた。

 魔法世界に来てから出会った人々、旧世界で出会ってきた人々の全ての想いに触れて力が際限なく湧き出してくる。朽ち掛けていた肉体に、新たな息吹が吹き込まれる。ここで負けたら、皆に顔向けできない。

 中心として集まった希望の光はアスカの体に吸い付き、寄り添い、燦然と輝く。まるで銀河を纏うかのようにアスカの体が輝きを増していく。

 

「させるかっ!」

 

 それだけの力の集まりを造物主が察知しないわけがない。造物主はどれだけ傷を負ってもしつこく迫ってくるネギたちを両腕から迸らせた波動で吹き飛ばし、天に腕をかざして闇よりも深い魔力を集中させていた。

 

「千の雷! 燃える天空! 引き裂く大地! おわるせかい!」

 

 唱えるのは雷属性・炎属性・土属性・氷属性の最上位古代語魔法のオンパレード。

 稲光を放つ雷球・燃え盛る炎球。呑みこむ土球・氷結させる氷球が造物主の周りに滞留する。一発一発がネギやエヴァンジェリンの全力に相当する魔法を無詠唱で唱えて固定して各属性を螺旋のように絡み合わせる。

 造物主が全てを一つにして握り締めた。

 

(あ……あ、あ……)

 

 ネギには見えた。見えてしまった。見せられてしまった。古いストッキングが破れていくかのように、空がぱっくりと裂けた。あまりにも巨大で、膨大で、壮絶な闇の塊。それは黒々と唸るのだ。それは轟々とざわめいているのだ。それは嫋々と泣き喚いているのだ。

 

「全て、滅び去れ!」

 

 四大精霊魔法の最高位の魔法を合成したものは宇宙のようでもあり、星々の群れ集う星群にも似ていた。実体を持たないフレアのようでもあり、何百光年の彼方にまで吹き抜けていく太陽風のようでもあった。

 全ての要素が入り交じり、絡み合って次元の概念さえ曖昧となり、ただただ漆黒に滲んで溶けていく。これでは、ブラックホー ルの特異点にも等しい。極微の微小点でありながら無限の広さを誇るという、矛盾に満ちた概念を獲得していた。

 最早、魔法という領域に納めてるには範疇を越えすぎていて、ほんの末端ですら力を感じ取っておかしくなってしまいそうだ。或いはノアキスで降臨した精霊王が放った一撃すらも超えるほどの威力を感じさせる黒い輝き。

 大地が怯え、世界が震撼した。壮絶なエネルギーに空間が歪む。

 一瞬は永遠となった。希望と絶望、光と影、善と悪、始まりは終わりで、終わりは始まりだった。表裏一体の想いが目まぐるしく入れ替わる。

 

「…………無理、だ…………」

 

 呆然と、ただ茫然とネギは思った。

 誰もが見た。誰もが感じた。全員の力を結集したとしても絶対に届かない。築かれた希望を打ち砕くために、今日見た中でも最大最強の闇であることは疑いようのない一撃。

 造物主の攻撃を受け続けたネギ達だからこそ分かる。あれを一度でも受ければ、今度こそ命はない。この世から存在の欠片すら残さず消え去るだろう。

 造物主の両手の合間に生まれた闇から発せられる威圧感に打ちひしがれていった。その中で、ネギの背後から目前の闇に対抗するには小さすぎる光が迸った。

 

(え?)

 

 振り返って見た光の発信源にいるのはアスカ。

 その光には太陽のように人を照らす輝きは無い。

 その光には星のように人を魅了する輝きは無い。

 アスカはまるで光そのものだった。命尽きるまで輝き続ける、例えるなら月光のように見えた。

 闇の中で少しだけ足元を照らしてくれるような月光。全てを呑み込んでしまうブラックホールを前にすれば小さすぎる光。だけど、その光は瘴気と狂気と憎悪と苦悩と絶望に満ちた地獄の中にあっても陰ることを知らず、人の心に希望を照らす清浄なる輝きを放っていた

 闇に比べれば小さすぎる光では勝てる要素など、どこにもない。どこにもなかったが、負ける要素も見つからなかった。

 ネギの体の奥底から力が湧き出してくる。それは体中を満たし、心が、体が、細胞の一つ一つが活性化していた。萎えていた戦意を復活させて 溢れ出した力が総身を満たす。

 未だ力は集まり続けているが足りない。このままでは間に合わない。

 

「纏めて砕け散れ!!」

 

 闇が吹き荒れた。それは存在する全てを焼き払い、消滅させる神の鉄槌だった。

 

「皆、アスカを守れ!!」

 

 間に合わないと歯噛みするアスカの目の前でネギの号令に、エヴァンジェリンが、刹那が、古菲が、小太郎が、真名が、高畑が、クルトが、木乃香すらも、各々がアスカを護ろうとするように魔法の射線上に飛び込んでいく。

 造物主を見上げ、睨みつけながら、各々が防御の構えを取って障壁を張り、防御陣を敷いていく。

 反撃のための挙動ではない。全ては防御。古今東西あらゆる防御壁を寄せ集め、ただアスカを守るための盾となる。

 

「うぉおおおおおおっ!!」

 

 ますます発光を増していた。それは数匹の蟻で前進するマンモス象を押し返す行為に似ていた。

 

「うわっ!?」

 

 放たれた魔光の前に一人、また一人と防御を紙の如く吹き飛ばされながらも己が体を盾として在り続けた。―――――だが、足りない。

 満を持して放たれた最強の魔光を阻むには、彼らだけの力ではまだ足りない。残るは、自分の力を全てアスカに分け与えた所為で立っていることすらやっとの木乃香のみ。

 障壁を張る魔力すら残っていない木乃香は立っていることがやっとの状態でも、己が体を盾として身を投げ出そうとした。

 しかし、ここで木乃香の体は後方へと引っ張られた。力の入らない体は抵抗も出来ずに後ろへと流れて行く。

 

(なんで……?!)

 

 守ろうとしたアスカの手によって、木乃香は後方に引っ張られた。

 全ての守りが打ち抜かれ、間を遮るものがなくなったアスカに凶光が迫る。

 光を集めることに集中しているアスカには避けることも、受けることも出来ない。造物主は勝利を確信した。だが、迫る魔光を前にアスカの表情に恐れはない。それどころかその顔には―――――笑みが。

 

「遅いぞ、明日菜」

 

 黒色の閃光が炸裂する。全てを呑み込む恐ろしい光。目を閉じても呑み込んでしまうの莫大な闇が塗り潰す。木乃香の目が、耳が 、鼻が、舌が、肌が、全ての感覚が消えてなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り十六分四十四秒。

 

 

 

 





次回『第95話 絆の光』

残り二話。




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第95話 絆の光



――――光を集めて





 そこは静かだった。そこは冷たかった。そこは暗かった。深海のように暗く、氷河のように変化が無かった。

 世界は白くも黒くもなく、只管茫洋として、薄ら寒かった。息は苦しくなかったが、ほんの一メートル進むだけで凍えて死んでしまいそうな錯覚を覚えるだろう。

 

「どうして……どうして、こんな………」

 

 闇よりも深い深淵の中で神楽坂明日菜は考える。

 どうして、このようになったのか。どうして、このようにならねばならなかったのか。運命という言葉を使うのであれば、これは俗に言う「運命の悪戯」であるのか。現在という時間との隔絶感がずしりと圧し掛かってきて、明日菜は声を詰まらせてしまった。

 

「どうして……」

 

 明日菜は愚かな自分を呪った、呪うことしか出来なかった。

 体にポッカリと穴でも空いたかのように、心は見事なまでに伽藍同だった。受け入れ難い事実に心がついていない。喪失感すら感じられなくなる空虚さが体を支配している。

 もう友達が傷つくのを、終わり行く世界を、何もかも残酷なだけの現実など見たくなかった。何も考えず、ただ楽しいことを探していれば良かった日々は二度と戻らない。誰にも迷惑を掛けずに、初めからこうしている方が正しい在り方だったのかもしれない。

 

「諦めてしまうの?」

 

 どこからか声が聞こえる。

 ありえない。ここは明日菜の内面世界、彼女しか存在しえないはずなのに。

 

「本当に諦めてしまうの?」

 

 薄闇の中に溶け込むように、「彼女」は静かに立って繰り返す。

 背筋がピンと伸びていて、その立ち居のさまが微かな威圧感を発していた。一度も陽に照らされたことのないようなすべらかな白い肌、頭の両端で縛られた長い髪と完成された面差し。儚げな肢体を古風な神殿に使える巫女のような裾の長い服で覆うことで、それが彼女の持つ神秘的な雰囲気を引き立たせていた。格別派手でも煌びやかでもないのだが、対峙する者を圧倒する力が備わっていた。

 人形のように表情を全く動かすことのない端整な顔から、虹彩異色の瞳が真っ直ぐに明日菜を見ていた。

 感情を感じさせない虹彩異色の瞳は、こちらに焦点が合っているのかどうかも定かではない。人の身では潜れない深海に通じているのではないかと思わせる昏い瞳は、まるで眼前にポッカリと開いた二つの堂靴に見えた。

 深森の奥深くに人知れずひっそり咲く花のように。目立たない、だが一度でもその姿を目にすれば、見た者の心に生涯咲き続けるような、不思議な印象の少女だった。

秀麗な顔立ちは、何の感情も浮かべずに間近の明日菜を見つめていた。相手に対する正負の思念を持たない純粋な視線は、幼児や動物に通じる無垢な色を持っていた。

 

「あなたは、誰?」

 

 彼女が誰か分かっていながら明日菜は泣き声のような、弱々しい掠れた声で聞いた。

 眼の前の少女は明日菜に似た面影がある。いや、明日菜にこそ少女の面影があるというべきか。

 

「私はアスナ。紛い物じゃない本当のアスナ」

 

 銀の鈴を鳴らすような、冷え冷えとした透き通った声が明日菜の耳に冷たく触れた。それはキーが高いといっても同じ明日菜の声であるはずなのに、明らかに自身の声とは違っていた。

 

「アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシア」

 

 アスナは淡々と明日菜に告げた。感情を介さない言葉は、魔法世界を滅ぼす罪業を糾弾するべく現れた断罪人のように思えた。

 魔法世界の伝統を重んじる小国・ウェスペルタティア王国の姫君で、王族の血筋にしばしば生じる「完全魔法無効化能力」を持つ特別な子供「黄昏の姫御子」その人。

 

「そんな、私は偽物なの?」

 

 明日菜は絶句して頭を振った。

 心の底ではそんなことはないと信じていたかった。自分は自分だと。

 

「神楽坂明日菜は私が封印された時に生まれた代理人格に過ぎない」

 

 残酷すぎる真実を突きつけられた明日菜は己の体を抱きしめながら苦悶する。

 目の前の少女アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアこそが、本来この身体を扱うに相応しい人格であると、解放された記憶と無意識のレベルのところで正しいのだと悟らされたからだ。

 アスナが存在しなければ明日菜はこの世に生まれなかった。アスナこそが本物で明日菜は偽物に過ぎない。全ては彼女の物であり、明日菜足らしめる何かは何一つ存在しなかったのである。

 所詮、明日菜はアスナが記憶を封印された際に生まれた代理人格であり、存在自体もまやかしに過ぎない。そしてその事実を知った時、明日菜は絶望の淵へと追い込まれた。神楽坂明日菜という人間の全否定に等しかったのである。

 明日菜は両手で頭を抱え込み、真実に嘆いた。

 

「諦めるの?」

 

 再びの問いをアスナは繰り返した。

 ここで初めて、アスナの声に微妙な本当に微々たる変化があった。自分と同じ顔、自分と同じ瞳、なのに何もかもが違うアスナの、有るか無きかの情意があった。そして驚いたことに、その感情は明日菜に対する非難であるようだった。

 

「明日菜はこの道を選んだ…………ガトウさんの想いを踏み躙ってまで」

 

 ぼそりと呟いた一言が、断頭台の刃のように明日菜の心を真っ二つにした。

 

「なのに、諦めるの?」

 

 その言葉の一つ一つが氷の罅割れが心臓に走っていくようだ。熱くなっていた明日菜の頭が真っ白になり、心臓から心の隅々にまで凍りつくような冷たいものが広がっていく。まるで血液に冷却液が混じりこんだようだ。全身を満たしていた神楽坂明日菜を支えてモノの全てが砕け散り、バラバラと抜け落ちていく。

 

「しょうがないじゃない。私にどうしろってのよ」

「ガトウさんに望まれた幸福なアスナとして生きてきたのが明日菜。明日菜にはガトウさんの願いを叶える義務がある」

 

 必死で問いかける明日菜に、アスナは冷めた口調のまま、抑揚無く返答した。その口振りからは何の感情を見出すことも出来ない。その態度は、微動だにしない表情も相まって人形のイメージを加速させた。

 

「明日菜が諦めるということはガトウさんは間違っていたということになる」

 

 そう言葉を切り、アスナは感情のない瞳で明日菜の顔を見つめた。

 

「……な」

 

 明日菜はハッと身じろぎした。

 既にアスナからは、先程見えたかに思えた感情の芽は、跡形もなく消えていた。そこにあるのは、例の透明な瞳だった。何もかも見透かすような瞳だけが、明日菜の思いを鏡のように明日菜自身へと跳ね返していた。

 

「それでも私には背負えない。私はアスナじゃないから」

 

 どうしてこんなことになっちゃたのかな、と明日菜は言いながらぼんやりと考えた。

 封印されていた記憶に隠されていた過酷な現実が彼女をひどく打ちのめす。たった数か月前の、魔法のことなんて知らなかったことが何年も昔のことのように時間間隔が麻痺していた。

 

「きっと木乃香達も私の正体を知ったら、もう笑いかけてくれない」

 

 それどころか、何も知らずに笑みを向けていた事そのものを、忌まわしき記憶のように思うかもしれない。ここには人の皮を被った醜い化け物、兵器でしかなかったのだから。

 

「なんでこんなことになっちゃったのかな……」

 

 何でもっと違う、ずっと異なる、誰もが笑って誰もが望む最高に幸せな物語ではないのか。誰一人欠けることなく、何一つ失うものもなく、みんなで笑っていられるような世界じゃないのか。

 

「ごめんなさい」

 

 弱々しく謝る。そうすることでしか今の明日菜は自我を保てない。

 

「何も止められなかった」

 

 どこに逃げ場はない。精神が悲鳴を放ち、罪の意識で引き裂かれる。

 

「私がいなければ、こんなことにならなかった」

 

 温かい世界にいたかった。誰かと一緒に笑っていたかった。一分でも良い、一秒でも構わない。少しでも穏やかな時間を過ごしたかった。だが、何を思った所で、もう遅い。明日菜には逃げ場などない。隠れる所なんてない。こんな醜い自分を温かく迎えてくれるような、そんな楽園はこの世界に存在しない。

 「完全なる世界(コズモ・エンケレディア)」が成立すれば、アスナに呑み込まれてしまった方がマシかもしれない。

 

「…………そう、明日菜も諦めるのね。私のように」

 

 少女の声は疲れ切っていた。まるで、千年を生きて人間の闇を全て見つめてきたような、明日菜よりも尚も暗き達観した絶望がそこにあった。

 

「精神年齢二桁にもなってないのよ。諦めるしかないじゃない」

 

 一体、どれだけの人達が明日菜の力の犠牲になってきたのか。十や二十では足りない。百や二百では足りない。数え切れない程の人達の命を奪った怪物が、そんな大罪を背負う化け物が一人だけ助けを求めるなど許されないと思った。

 

「……、助けて」

 

 祈りにも似た声で呟く明日菜。

 存在するかも定かではない地面に倒れ込み、顔を埋める。世界中の不幸を一身に背負ったかのような理不尽さに咽び泣く。

 だからこそ、今の明日菜は誰もいない所でしか、自分自身だけしかいない所でしか弱音を発せられない。背負うには重過ぎる罪に脅え、贖えない罰に傷つき、耐え切れなくなってボロボロになった呟きは、ただ闇に消えていく。

 喉からは吐こうとしているのが言葉ではなく、肺であり心臓であるかのように何度も喘ぐ。

 

「助けてよ……」

 

 この場にいるのは明日菜とアスナだけ。

 アスナが無様な姿を晒す明日菜を止めなかったのは同じ気持ちだったからかもしれない。誰に届かなくても、いるかどうかどうかも分からない神様にお祈りするようにアスナも、助けて、とやはり無感情な言葉を口の中で呟いた。

 とうの昔に錆びたはずのアスナの涙腺から透明な錆が落ちた。決して誰にも届かない叫びが、耐え切れずに少女達の口から零れていく。

 

「助けてよ、アスカぁ」

 

 生命を振り絞るように、心の奥にいる人の名を呼ぶ。希望を失い、命を投げ出さずにはいられない暗闇の底で、ただ一つの灯であるように。

 最後の最後で、終わりの一歩手前のこの瞬間に真っ先に浮かぶのは、やはり彼の顔だ。

 巻き込みたくはなかった。しかし、彼は自ら戦場へと身を投じた。

 みんなが自分の為に戦ってくれただけでも、存分に感謝に値するはずだ。だから、こんな結末に陥ろうとも明日菜は誰も恨まない。

 それだけで満足だ、十分だ。神楽坂明日菜はこれ以上の幸せなどないと両手で抱えきれないと考えているのに、助けを求める声が口から出てしまう。明日菜に出来ないことも、アスカなら出来るような気がした。だけど、自分一人が助けを求めるのは卑怯だと思った。

 誰にも届かない。誰にも聞こえない。誰にも受け入れられない。絶対なる孤独の中で、神楽坂明日菜の幸福がこれから始まるなんて思いもしなかった。

 

「…………、」

 

 声が聞こえたような気がして明日菜は顔を上げた。

 この場にいるのは明日菜とアスナだけ。言い方を変えればアスナから派生した明日菜しか存在しない内面世界。そこに他者の存在が混じることはない。目の前のアスナもまた無表情の中に驚いたように目を僅かに大きく開いていた。

 

『――――なんか、ねぇ』

「…………?」

 

 また誰かの声が聞こえた気がして、明日菜は声の主が分からなくて首を捻った。

 誰の声だったのだろうと耳を澄ますが第三者の存在は感じない。となれば、現実からの声が届いているのか。

 

「ありえない。ここは精神世界。現実の声が届いて来るなんて」

 

 と、そこまで言ったアスナは明日菜の指に嵌められた指輪を凝視する。

 曲がりなりにも世界最古の王家としての相応しい知識を有しているアスナの眼には、宝石もない簡素なデザインのリングに込められた魔法効果を看破していた。

 

「対の指輪に対する共鳴。現実にいるアスカの声を精神世界にまで届けてる」

 

 魔法発動媒体になることや、若干の魔法・気に対する抵抗力が増すだけではなく、隠された効果として対の指輪に対する精神を共鳴させることが出来る。例えば本来ならば他者が介在出来ないはずの精神世界に声を届かせることも可能となる。

 

『同情なんてしない』

 

 その声に、明日菜は呼吸が止まるかと思った。

 

「アスカの声? 一体、何が」

 

 全く事態が呑みこめていない表情で明日菜ががアスナを見てくる。

 

『魔法世界を救ってほしいと頼まれたわけでもない。親父達が守った世界だからって、俺が命を賭けてまで戦う理由はない。精々一ヶ月程度しかいないんだからな。俺が戦う理由はないはず、だった』

 

 暗闇に飲み込まれた少女の叫びを聞いて駆けつけた英雄が闇の世界に福音の鐘を鳴らす。

 

『造物主、アンタには世界を作り変える権利があるのかもしれない。正直、アンタが正しいとも思うよ。それでもさ、俺にも戦う理由があるんだ』

 

 その声は暗闇に包まれた世界を照らす鮮烈な光と共に耳朶を貫き、肉体を一揺れさせた。明日菜は我に返った思いで目を瞬いた。

 

『何故闘うだと? そんなことは決まっている!よく聞け、俺は――――』

 

 今にも死にそうな体で、強すぎる造物主を前にして恐怖を感じないはずがない、怖くないはずがない。神楽坂明日菜には分からないあの少年が何を言いたいのか、それが分からない。

 それは、誰の為に?

 それは、何の為に?

 

『俺は、明日菜を助けるためにここにいるんだよ! 世界なんてそんな小さい事情なんかどうでも良い! 他の誰でもない。明日菜を助けるために戦ってきたんだ!』

 

 叫びに明日菜の心臓が止まるかと思うほど高く鼓動を打った。

 胸が詰まる。アスカが何の為に怒りを抱いているのか、今の今まで何の為に戦っているのか。

 敵が勝てる相手だから誰かを守りたいのではない。誰かを守りたいから勝てない敵とも戦うのだ、と声の主は込めた全てだと物語っていた。

 

『惚れた女をこの手に抱きたい! そのためにテメェをぶっ飛ばす! ついでに世界を救う! 全て俺のためだ! 邪魔をするなァァァァ―――――!!!』

 

 血を吐くように叫ぶ少年の声がハッキリと明日菜に届いた。 

 間違いない、呼んでいる。見知った命が、自分だけを見て叫んでいる。アスカの顔が、囁きが、明日菜の内にはっきりと脳裏に蘇った。色んな感情を見せる背中、温かい手、青空のように蒼い瞳。怯えるような恐れ、真っ直ぐな怒り、静かな思いやり。目を閉じれば鮮烈に思い出せる。

 罪深さは変わらなくて、ここで消えていくべきだと思っている。それでも、そんな生きていてはいけない存在でも、失いたくないと求めて叫んでくれる人が、確かに存在する。

 

「ああ……」

 

 身も心も震えるような感動に明日菜の口から声が漏れた。

 涙が溢れそうで、少女は沈黙する。世界中の誰に見捨てられても彼だけは味方でいてくれる。その単純な真実が体の芯に灯り、生きる細い獣道を照らしてくれる。

 

「ああ……!」

 

 熱に浮かされたような心に噴火するマグマにも似た感情が沸き上がった。まるで魔法みたいに、どうしようもなく暴れる熱が、胸に、涙腺に込み上げる。

 今度こそ涙が零れてくるのを止められなくて、明日菜は顔を押さえた。

 

「どうしたの?」

「ううん、なんか胸がいっぱいで」

 

 手で隠したまま、アスナの問いに顔を逸らして目尻を手の平で擦り、笑おうとする。だけど、頬が強張ってなかなか上手くいかなかった。どころか、隠したはずの指の間から涙の欠片が滴った。

 

「あ、あは、ご、ごめんなさい。な、涙がっ、止ま、らなく、て」

 

 嗚咽が少女の喉を割る。

 なんてことはない、そこまで想ってくれたことが嬉しかったのだ。ただ、それだけのことがどうしても堪え切れなかった。押し留めていた感情が自分にもどうしようもない形で暴走していた。

 

「ご、ごめんなさい。見、ないで」

 

 顔を伏せる。どうしてと、思う。もう終わりなのだ。もう十分だって諦めたところなのに。恥ずかしくて、顔中から火が噴き出るようで居たたまれない。このまま消えてしまいたいと、本気で願った。

 

「泣きたいなら、泣けばいい」

「え?」

 

 すると、アスナからの思いがけない言葉が耳をついた。

 

「無理に抑えたり、我慢したりしなくていい。そんなことをする必要はどこにもない」

「そっか……」

 

 場違いな笑みを浮かべた明日菜の目元に、珠のような雫が浮かび上がった。それと同時に、堰を切る勢いで感情が溢れ出て来る。

 そんな明日菜の胸中に去来するのは、アスカとの思い出の数々である。決して楽しい思い出ばかりではない。だが、かけがえのないものばかりだ。

 アスカがどれだけの激闘を超えて、ここまで来てくれたかを思うと泣いてしまいそうになる程に嬉しかった。アスカだけではない。木乃香も、刹那も、茶々丸も、楓も、古も、真名も、小太郎も、他にも多くの誰もが傷つきながらも戦い抜いてきた。

 最期の涙が一滴、頬を伝った。そしてゆっくりと嗚咽は収まった。

 

「もういいの?」

「うん。私は一人じゃないもの」

 

 魔法の薬みたいに激情が退き、代わりに温かなものが胸に宿った。確かに、覚えのある温かさだった。

 だから、とても嬉しそうに、まるで指輪を受け取った花嫁みたいに明日菜は笑った。強く笑って頷いた。そして歩行を覚えた手の幼児のようにどこかぎこちない動作で、それでも明日菜は立ち上がる。

 重要なのは何も真実だけではない。偽りもまた明日菜の一部だろう。自分の為に全てを賭けて戦ってくれている人がいる。幸せも苦しみも、嘘も真実も、過去も現在も、何もかも。

 

「ありがとう」

 

 と、アスナにアスカに、全ての人に笑って言った。勇ましい女騎士のような微笑だった。

 最後の瞬間が訪れるまでは徹底的に抗わなければならない。一秒でも長く時間を稼ぎ、生き残るための方法を模索する必要があった。もはや恥も外聞もない。地面に這い蹲り、命乞いをし、恥辱に塗れようとも、明日菜はこの声が聞こえる限り生き続けると心に誓う。

 

「私は行く。みんなの下に、アスカのところへ帰る」

 

 ぐいと涙を拭きながら、少女は宣言する。どうして、断るはずがあろう。

 ずっと、少女は役に立ちたかった。自分に許される限りあらゆる手段を尽くして、アスカを振り返させたかった。無力な自分が嫌で、何も出来ない自分を憎んで、ずっとずっと過ごしてきた明日菜にとって、アスカの叫びはまさしく天恵にも等しかった。

 

「どうして、どうしてまた希望が持てるの? もう諦めていたのに」

 

 アスナの小さな声を聞いた。

 

「確かに一度は諦めたわ。でもね、もう一度希望を持てたの」

 

 それだけで嗚咽が零れそうになった。あれほど恐怖していたのに、どうして声を聞いただけで涙ぐんでしまうのだろう。

 

「私はここにはいられない。外に世界に行かなくちゃ」

「アナタではここから出られない」

「ええ、分かってるわ。だから、力を貸して」

 

 これまで彼女と向き合えなかったのは、自分の弱さ故だ。こんなギリギリのタイミングでやっと向き合うだけの覚悟が決まっただけだ。それだって、外部からの手助けがあってのことに違いない。

 それにここを出ることは、本物であるアスナに出来ても偽物である明日菜には出来ない。

 

「無理を言ってるのは分かってる。自分がどれだけ酷い事を言っているのかも分かってる。私にはきっとみんなを、アスカを守れない。どれだけ足掻いても絶対に守れない。だから、だからお願いだから!」

 

 それでも続けて言った。

 

「私を呑み込んでもいい――――アスカを助けて!」

 

 そこには打算も駆け引きも、ウェスペルタティア王家の人間とか黄昏の姫巫女とかも、人間が積み重ねてきた小賢しい知恵もない。呪われた宿命と向き合った彼女は、そんなことを言い切る強さを身に着けていた。

 それは、不屈の力だった。温室で咲き誇る花ではなく、道端で太陽を目指す花の力だった。冷たい夜を耐え凌ぎ、陽の下で花を咲かせる。この世で最も古く普遍的な力だった。人が類人猿だった頃から持ち続けてきた純粋な愛情だけだ。

 ただ、そうしたいという願い。少女の気高き決意だった。遂にアスナには持てなかった強い意志だ。

 

「逆でしょ? アナタが私に身体を返すのよ」

 

 運命を告げる女神のようだった厳正な声音を崩して、童女のように笑って悪戯心を込めて言う。底知れぬ声には、確かな喜びと親愛に溢れていた。

 

「呑み込まれるのがどちらかはまだ分からないけど」

 

 目の前にいるのは自分の可能性の一つ。そして自分にはなれなかった存在。

 

「どのような結果になっても結末はもう決まっている。それでもいいの?」

 

 アスナは猛々しく在る明日菜を見て決めた。 

 

「アスカも覚悟した上で戦ってくれたんだもの。私も覚悟しなくちゃ」

「そう、分かった」

 

 人形染みた表情は柔らかな面差しへと変わる。罪は全て自分が背負うと、こんな自分にもやるべきことが、やれることが出来た。柔らかな面差しが微かに悲しみで曇り、今にも溶けて消えそうな儚げな表情になる。

 

「「行こう、過去に決着をつけに」」

 

 これで何もかもに決着が着く。どのような結果に至ろうとも走り続けると決めた二人の手が重なった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 木乃香は自分が死んだと思った。視界には何も映らなかったし、先程までアスカの近くにていて濃厚だった血の匂いもしない。五感のほぼ全てが機能していないのだから、黒の光に呑み込まれて死んだと考える方が自然だった。

 

(考える? 死んだはずなのに?)

 

 死んだのならば考えることも出来ないはずであると矛盾に気付く。

 死んだ後は輪廻の輪に入って転生するという話はアーニャから聞いたことがあるのだが、流石に魂になっているのに思考できるのはおかしい。

 

(………、っ)

 

 アスカに可能な限りの魔力を譲渡したので、真っ白に塗り潰された五感が戻るのに暫く時間が必要だった。

 生きている。失われたのではなく、五感が回復しつつあるのだということは自分は生きていることを示していた。

 

(な、にが………?)

 

 造物主が放った一撃は、ネギ達が壁となって防ごうとしたが碌な抵抗も出来ずに弾き飛ばされた。光を集めていたアスカを守る最後の壁となるはずだった木乃香は腕を引っ張られて後ろに投げ飛ばされた。

 最後の一撃を放つために力を溜めていたアスカが防御したとは考え難い。

 防ぐことは不可能で、当たらないなんて希望を持つなんてのもありえない。にも拘わらず、木乃香には新たな傷の痛みのようなものはない。

 

「――っ!?」

 

 ゆっくりと瞼を開いて息を呑んだ。

 近衛木乃香は、一瞬だけ自分が置かれている状況を理解できなかった。地面に倒れている木乃香が眼にしたのは、自身の両側に伸びる暗黒の光だった。暗黒の光は眼の前の地面をごっそりと吹き飛ばしながらも止むことはなく、今も勢いを増している。

 世界すらも呑み込むように見えた破壊光線を真っ二つに切り裂く嘘みたいな情景である。聖書に描かれる海を断ち割るモーセのようだ。恐らく暗黒の光によって抉られた地面は深く巨大な溝となることだろう。

 木乃香は未だはっきりとしない意識のままで首を反対側に向けた。そこに広がっているのも同じ光景だ。破壊力は拡散し、薙ぎ散らされて周囲の大気を焦がし、耳を圧するような轟音と身を吹き飛ばしそうな剛風は暗黒の光が放つものだ。

 しかし、それにしては妙だった。上と左右に暗黒の光が伸びているのに、自分の被害は皆無。後方は無事だったからだ。

 善悪強弱問わず、放出系の魔法というもの全てを問答無用で消去する行為。そんな馬鹿げた事が出来る人間を、彼女はたった一人だけ知っている。

 

(あの魔法を防いでいる……? いや、違う。魔法を消している(・・・・・・・・)!?)

 

 ようやくハッキリしだした意識と共に暗黒の光の発生源であろう前を向くと再び息を呑んだ。

 眼の前に、見覚えのある背中が二つ(・・)ある。

 一つはとても広く、そして逞しい男の背中だった。傷ついたアスカ・スプリングフィールドの背中だ。

 もう一つはアスカに比べれば華奢だが、造物主の魔光を手に持つ剣で正面から押さえつけ、アスカを守護するように立ち塞がる少女がいた。下手したら幼馴染の刹那よりも馴染み深い少女、封印されていたはずの神楽坂明日菜の背中があった。

 或いは、造物主が己が能力を活かして物理攻撃をしていれば彼女など粉々になっていただろう。しかし、今回はあくまでも魔法攻撃だ。そして、彼女の能力はどんなものであれ放出系の魔法は完全にシャットダウンする。

 造物主の攻撃が絶大な「魔法」攻撃であればこそ、彼女の能力は容赦なくその一撃を無効化される。

 

「な……ッ!!」

 

 調の樹霊結界の上に概念結界を重ねがけして囚われていたはずの明日菜が目覚めて現われたことに驚愕する造物主。

 造物主とアスカを別にすれば造物主の使徒達や紅き翼が総がかりでも外側からでは突破することは不可能。内側からなら可能性はあるが、儀式発動の為に意識は深いところに眠らせてある彼女が目覚めるはずがない。

 それこそ外部から誰かが彼女に干渉して目覚めさせない限り。

 

「遅いぞ、明日菜」

「いいじゃない、最後には間に合ったんだから」

 

 魔法を防ぎ続ける明日菜と、彼女を信じて力を溜め続けるアスカの軽口をする二人の姿を見た木乃香は、今まで張っていた気を抜いた。

 自分に対して何かを言ったわけではない。しかし、二人の背中は雄弁で。声より先に、告げられた言葉を木乃香は確かに受け取っていた。

 

―――――二人なら大丈夫だ、と。

 

 安心して魔力切れから来る失神に身を委ねた。気を失った彼女の口元には二人への絶大な信頼から緩やかな笑みが浮かんでいた。

 

(後は任せたで、二人とも)

 

 後ろで木乃香が完全に気を失って倒れこんでいることに二人は気づいていなかった。そんな余裕もなかった。

 

「貴様ら!!」

 

 造物主が何かを叫んだが、二人は聞いていなかった。

 

「明日菜ッ!!」

「任せなさい!!」

 

 声を掛け合う必要はなかった。互いの目を見詰め合う必要はなかった。指先を触れ合わせて鼓動を一つにする必要もなかった。二人は狂ったように絶望()を撒き散らす造物主だけを瞳に映し、咆哮と共に明日菜の剣が振るわれる。

 

「はぁあああああああああああああ!!!!」」

 

 気合の籠った叫びと共にハマノツルギから放たれた魔法無効化能力が込められた斬撃は、四大属性の最上位魔法が纏められた魔光を一刀両断に切り裂く。

 

「ぬぅっ!?」

 

 無極而太極斬は放つ端から魔光を切り裂き、やがては造物主に辿り着いた。

 魔光を放っていた腕が斬撃によって上方に弾き上げられ、造物主の体が寸瞬だけ泳ぐ。その隙を見て取った明日菜とアスカが飛ぶ。

 先を飛ぶ明日菜がハマノツルギを槍のように構え、背後を追うアスカが、ごぅん、と音を立てて光が練り合わせる。

 

「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

 

 刹那、刮目し、腕を振り上げるアスカの魂の喚声。命の残り火その最後の灯明までも爆ぜさせて吶喊する。造物主だけを視界の中心に据え、全身を槍と化した。

 

「負けられん! 負けられんのだ、私は! 全ての敗者達を救う為に!」

 

 迫る二人の光を見据え、造物主は体勢を整えることすらせずに攻撃を選択する。腕に激流を遡って泳ぐ竜の猛々しさを持つ暗黒の波動が集まり放たれた。

 凝集された究極の負は周りにある浮遊石を呑み干し、重力を捻じ曲げ、太陽や星久の光さえも屠りながら迫るアスカに襲い来る。

 

「これで終わりだ、造物主(ライフメーカー)ァァ!!!!」

 

 アスカは魔光を回避することなく、造物主へと迫る。

 魔光は全て明日菜が切り裂く。アスカは拳に集めた光に全てを預け、造物主へと迫る。外部から見た二人の姿は、もはや闇を切り裂く一条の光に等しい。

 

「我が宿願を阻ませるものか!! 貴様らには分かるまい! この積み重ねられた敗者達の願いの重みが!!! 救済の邪魔をするな!!!!!」

 

 必死の造物主の慟哭と共に闇が倍増する。

 あまりの威力に明日菜の突貫の勢いが止まり、弾き飛ばされる。それでも造物主までの道は確かに切り開いた。

 

「行って!」

 

 最後の力で造物主までの道を切り開いた明日菜の献身を力に、希望という名の光を体現するアスカが突き進む。絶望の闇で覆いつくさんと造物主もまた全ての力を絞り尽くす。

 

(英雄)よ、ここで潰えろ!」

 

 最早、攻撃は避けられない。それを悟った造物主は世界すらも呑み込む闇を拳に収束して勢いを増していく。

 

「!!!!」

 

 闇そのものと化した造物主の拳とアスカの光を纏った拳が遂に激突した。

 

「く……!」

「ぬ……!」

 

 二人を中心に巨大な黒と白の光が激突して荒れ狂い、互いを食い破らんと輝きを増す。弾けた輝きが太陽が間近にあるように辺りを照らし出した。

 ぶつかり合う二つのエネルギーが爆発的な光を生じさせ、太陽よりも遥かに強い光量が新オスティア空域を照らすと、夜に沈む空を暗転させた。

 それまでとは比べものにならないほどの閃光が発した後、大気が揺らめいて世界そのものが震撼したような錯覚すら覚える。あまりにも痛々しいほどに強い光であった。誰一人として、目を開けていられる者などなかった。それどころか、光は瞼を易々と貫通し、誰もが目を尾さえ、庇を作ってこらえようとしたが、それでもなお光は飛び込んでくるのだった

 

「終わりだ!?」

「世界の終わりだああぁあッ!?」

 

 鮮烈を極める膨大な閃光が世界を包み込んでいく。

 灼熱する太陽よりも激しく、圧倒的な存在感を以って世界に現出したそれによる衝撃も凄まじく、まるで人間が立つことさえ許さぬ星の怒りのように世界が揺れていた。

 今回のそれは、原因は自然現象ではない。アスカと造物主の拳の合間で分かれる白黒の柱が、その中心であった。まるで魔法世界の核から吹き上げるがの如き白黒の柱が、世界全土にまで影響を及ぼしているのだ。

 

「この不完全な世界と共に砕け散れっ!!!!!」

 

 造物主の叫びと共に闇が膨れ上がる。圧倒的な闇の奔流が、今にもアスカから発せられる小さな光を呑みこんでしまいそうになっていた。

 

「くっ!」

 

 アスカの突進は一瞬で無に帰した。右腕に自ら作り出した勢いが跳ね返って来る。前に進もうとする力がその場で虚しく空を掻く。

 既に限界を迎えていたアスカに、全てを賭けた造物主の一撃は重すぎた。容易く圧倒され、拳どころか腕、上半身、下半身と流れるように痛みが走り、何かが途切れる音を聞いた。

 

「おおお……ぐぐぐ………くそおおおおおおおお!!」

 

 抵抗。譲り得ぬ抵抗。アスカの拳先から小さくも気迫こもる閃光が湧出する。極小の光の波動と、極大の闇の波動の激突。勝敗は誰の目にも明らか。百も承知の上で、なお諦めず、雄叫びを上げる。

 

「諦めろォオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!」

「諦めて、たまるものかぁああああああああああああああ!!」

 

 アスカは諦めない。諦めは意味を成さない。この拳を引けば後が無い。自分にも、この他闘いにも、そして世界にも。

 例えそれがどんなに不利な戦いであっても、勝機が皆無に近いと知っていても魂魄を出し尽くすまで、アスカは退かない。

 

「消え去れぇぇえええええええええええええええええっっっ!!!」

 

 だが、どれだけアスカが力を込めようと拮抗にすら至らず、太陽すらも呑み込む宇宙の暗黒を前に、それに比べればあまりにも小さく儚い希望の光が今まさに消え去ろうとしていた。

 威力では押し切る事も出来ない。耐える以外の方法は思いつかず、時を待たずして吹き飛ぶことは間違いない。胸に湧くは諦観と絶望、そして屈辱。

 細やかな抵抗は終わり、間もなく訪れるのは覆しようのない死。運命を受け入れるというのはこういうことだというのか。抗えば抗うほど運命という名の鎖は肉に喰い込んでいく確定的未来。―――――そうなるはずで、あった。

 

「これでようやく終わるのだ。やっとこの呪われた運命から解放される…………!」

 

 揺るがぬ優位に立つ造物主は長年の想いが成就する時が目前であることを悟り、激戦の終わりが見えたことで気の緩みから本音が零れ落ちる。

 人は皆、捨てられない何かを持っている。それを守るため、或いは取り戻すために生きている。造物主もまた嘗て願った世界を取り戻すために戦っていたのだ。

 

「……っ!」

 

 造物主の涙ながらの呟きにアスカの意識が沸騰する。

 確かにこのままでは魔法世界は滅ぶだろう。そしてアスカの取る手段は最高(best)とはいえ、危険性は跳ね上がる。完全なる世界の取る手段である次善策の方が救われる者は多い。

 

(でも)

 

 と、尚も拳を強く握って闇の重圧に耐えながら、アスカは思う。何も、こんな結末じゃなくても良いはずだ。もっとより良い世界を求めても良いはずだと。

 

「まだだっ!!」

 

 だから、こんなところで崩れ折れてはならない。

 彼の背中は、自ら未来を掴もうとした幾億の手に押されている。彼を同じ方向を、幾兆の瞳が共に見ている。無数の足が、彼と共に踏み出される。

 小さな光がアスカの想いに応えるように輝きを増して闇を押し返す。ありったけの力を、持てる力の全てを、それでも足りないというならこの()すらをも込めて。

 今まで無意識に自己保身で抑えていた力の全てを解き放った。

 

「うぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 

 叫びと同期するように勢いを強めた光が僅かに闇を押し返した。

 しかし、届かない。多くの力を借りて、多くの願いを背負って、多くの想いに背中を押してもらっても造物主の二千六百年の絶望の前には無力。

 

「ァアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!」

 

 どれだけ叫ぼうと、どれだけ力を込めようと、どれだけ叫ぼうと、どれだけ抗おうと、絶対的な力の差を前に抵抗は無意味であり時間稼ぎにしかなりえない。

 己の力だけでは耐えることすら出来ず、皆の力をより集めようとも届かない。その事実を前に諦めたわけではない。折れたわけでもない。絶望したわけでもない。だけど、どれだけ願っても届かないアスカを闇が呑み込み掛けた―――――その時、

 

「ぁ――」

 

 ふと大気が凪いだ。圧されるばかりの小さな白い輝きを、誰かがそっと握り締めた。その背中を支えた。

 微かな温もりが背にはある。背後を振り返る必要など無い。

 

『行け、アスカ!!』

『負けるでない!!』

 

 声は聞こえない。気配は感じない。背を押す感触がない。だけど、分かる。言葉すら交わす必要など無い。誰がそこにいて、何をしたのか、これからどうするのか。分かる。ただ自然に理解できる。だから、自分もただ為すべき事を為すのみ。

 

「な、に……!?」

 

 アスカの背後にいる存在を見た造物主は予想外の事態に一驚する。

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!!!!!」

 

 アスカから膨れ上がる純白の力。光へと変換された力の渦がアスカを中心に顕現し、天まで届けと膨張する。光は闇を押し返し、今にも潰れそうな状態から拮抗へと持ち込んだ。

 拳の狭間で激発する光と闇が鬩ぎ合う。

 二人を中心に衝撃波が広がり、唯一無事でアスカの応援に向かおうとした明日菜も強すぎる衝撃に地へと押し付けられた。竜巻を遥かに強くしたような乱気流が舞い、世界が震えているような強い地震が世界を襲った。

 二人のあまりにも強すぎる力に世界が耐えられないように、怯えるように。

 

「どこまでも私の邪魔をするか! 英雄よ! 我が裔よ!」

 

 アスカの背を押す陽炎のような姿―――――ナギ・スプリングフィールドとアリカ・アナルキア・エンテオフュシアを憎悪を込めて叫ぶ。

 自身に拮抗せしめたアスカを前に、負けぬと押し返しながら激昂する造物主。今まで残していた力を全て振り絞るも、一進一退を繰り返すだけで圧倒することが出来ない。それどころか一瞬でも気を抜けば負けるのは自分。

 それがまた造物主の怒りを強めた。

 アスカの背中を押す存在、二十年前に自身を打ち倒し救済を挫き、そして十年前には万全を期したにも係わらず相打ちにまで持ち込まれた。剰え、ナギが己の肉体を犠牲にしてアリカによって封印されてしまった。

 協力者である魔族の研究機関が出した試算では十年前の時点で、魔法世界の崩壊が始まるまで最短で二十年を切っていた。計画の万全を期すなら早い方がいい。そんな最中に十年もの長き間、ナギの体に封印されていた。

 彼らにとっても苦肉の策だと理解していても数少ない時間を無為に消費してしまった憤りは消えはしない。

 

「二度ならず、三度までも立ち塞がるか!!」

 

 目の前の相手を排除すれば抵抗する勢力は完全に瓦解する。後一歩というところで入った邪魔が造物主から完全に余裕を奪い取って死に物狂いにさせた。

 だからこそ、造物主は彼に取ってもはや塵芥に過ぎなくなった一人の少年がまだ完全に戦意を失っていないことに気がつかなかった。彼もまた抗う彼らと血を同じくする者、ネギ・スプリングフィールドの存在を。

 地に伏せていたネギが最後の力で体を起こした。かほどに傷つきながらも、尚もぶつかり合う光と闇と見上げた。

 

(ああ……)

 

 あれが英雄だと思う。あれこそが英雄だろう。だけど、自分も負けていられない。家族が一丸となっているのに自分だけが暢気に寝ている場合ではない。

 出来る事を成すため右手に、残った魔力の全てを注ぎ込んでいく。

 ドクン、となけなしの魔力を搾り出すように右手に集めていると心臓が一際高く鳴った。

 今までの激闘と残った魔力すらアスカに分け与え、ネギに残ったのは生命を維持できるギリギリのラインしかなかった。なのに、生命を維持する限界の魔力を更に使おうとすれば答えは簡単。生命を維持している魔力を切り崩して行うは正しく自殺行為。 

 

「ぐ……! ……ッ、うぶ……こふ」

 

 魔力の限界を迎え、ネギの口から溢れる大量の鮮血。吐血は収まらず、遠ざかっていく意識を精神で引きとめながらも魔力を収束していくのを止めない。

 何故ならネギの目にもまた造物主と同様に、アスカの背を支える薄らと透けた両親の姿が見えた。双子の弟と両親が戦っているのに自分だけ退くわけにはいかない。

 これから使う魔法はシンプルにたった一つ。基本にして簡単な魔法の射手。数があっても意味はない。一つに全ての力を込めて、あのバランスをこちらに傾ける一助とする。

 

「づぅっ」

 

 だが、魔力が足りない。命を賭けてもあの光の中に飛び込むだけの威力に届かない。

 

「馬鹿ね、ネギ。私のも持って行きない」

 

 比較的に近くにいたアーニャもまた辛うじて意識を繋いでおり、ネギのやろうとしていることを察してアーティファクト『女王の冠』を呼び出す。

 

「我が能力を主人へと貸し与えよ」

 

 召喚されたアーティファクトはアーニャの頭に出現し、冠の中央にある宝玉が輝いた。

 アーニャのアーティファクトの効果が発動する。

 女王の冠は、被った者の能力を主人へと与えるという変わったアーティファクト。この場合の主人とは仮契約をしたネギであり、アーニャの能力、魔法適性と残り少ない僅かな魔力がと貸し与えられる。

 

「やっちゃえ」

 

 それだけを言い残して今度こそ気を失ったアーニャの気持ちを受け取ったネギの片手の先が炎を纏う。想いと共に熱量を強くして不規則に明滅し、ネギの顔を浮かび上がらせる。

 

「行けぇえええええええええええ――――――――っっっっ!!!!」

 

 全ての意志を込めた咆哮と同じく掲げられた手の先から、ばちばちと火花を散らせる高密度の輝きが放たれた。反発し合う光と闇と比べれば圧倒的に小さな炎が、ネギの放った魔法の射手・火の一矢が掻い潜りながら進み行く。

 

「な……!」

 

 極限の光闇の激突を奇跡的に潜り抜けて魔法の射手・火の一矢が背後から造物主に着弾した。

 二人のない魔力を搾り出した乾坤一擲の一撃でも造物主にダメージはない。あるのは頭部に当たったことによる僅かな衝撃と驚きだけ。

 造物主が着弾の衝撃から揺れた頭を戻して撃った眼下にいる相手を見ると、今にも倒れそうな少年が右手を自身に向けていた。

 

「勝て、アスカ!!」

 

 その一発を放っただけで何をされるでもなく、ネギは最後にアスカに向けて血を吐きながら叫ぶ。直後、今度こそ全ての力を使い果たして崩れ落ち、完全に意識を失った。

 ネギの残りの全てをかけた一撃は造物主に全く効いていない。傷の一つもつけることすら出来ず、影響は殆どない(・・・・)。だが、その一撃は余裕を無くしていた造物主に一瞬の隙を生んだ。

 

『『――――今(じゃ)!!』』

 

「―――――ううぅぅぅぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぁあああああああああああああああああああああっつ!!!!!!」

「な、っに?!」

 

 ネギが生み出してくれた最大にして最後の絶好の好機。これを逃してなるものかと背を押してくれる存在達の叫びと同時にアスカは踏み込んだ。

 この一歩。更に一歩。大いなるその一歩。その歩みには想いを繋いだ者たちの命が宿ると大きく踏み込んだ。

 運命は変えられる。過去は無理でも未来ならば。吹き荒れる力の光を身に纏ったアスカは、その意思を示すべく闇を突破して思いっきり踏み込む。

 空を蹴って造物主の目前に一歩踏み込み、自身の拳を更に握り締める。アスカに折り重なるようにナギとアリカも拳を構える。

 

人間(俺達)を――――」

 

 我が拳に乗せた想いよ、届けとばかりに拳に込められた光が爆発した。

 

「―――――舐めるな!!!!!!!!」

 

 振り下ろした拳は、造物主の分厚い胸板を撃ち抜いた。光の奔流が柱となって雲海を吹き飛ばし、天空へと突き抜けていく。

 

「があ?! がっ!?!?!?」

 

 苦痛を上げる造物主の肉体に変化があった。造物主の、ナギの胸から、炎とも光ともつかない真紅の球体が浮かび上がっていた。

 

『俺の体を返しやがれ!!』

 

 光に乗ったナギの精神に追い出されるように真紅の球体は造物主の精神、魂とでも呼ぶべきものが肉体から遊離して宙空へと浮遊していく。

 アスカが放った光の一撃、『エンジェルさん事件』で木乃香に取り憑いた雑霊を追い払ったように、闇の魔法で魔素に魂魄まで侵されて精神も肉体も完全に魔に支配されて人外の化け物になりかけたネギの闇を打ち消したのと全く同じもの。

 途方もないエネルギーでありながらどこまでも純粋な光は、拳に宿ったナギの魂を肉体に打ち込んだ。入り込んできたナギの魂によって、肉体を乗っ取っていた造物主の魂が光に追い出されたのだ。

 普通ならこんなことはありえはしない。偏に傷つき、消耗して、アスカの魂に届く一撃を受けたところにナギの魂が突っ込んできたから。

 追い出されたオーラのようになものをゆらゆらと昇らせている真紅の球体は「不滅」たる造物主の魂。封印することでしか対処出来ない高位の魔物を完全に撃ち滅ぼして消滅させる超高等呪文ですら決して死なず、滅びず、失わない。「紅き翼」ですら二十年前、討伐に失敗し、十年前にナギとアリカを犠牲にすることで辛うじて封印に成功した。滅ぼすことが出来ないからこその「不滅」である。

 今その魂は、肉体を失ったことで急速に宝石のような真紅の球体から歪な形をしたドス黒い何かとなって浮遊する。

 

《ああああああああああああああああああああああああああああああああああ―――――っ!》

 

 突如、ドス黒い何かが絶叫した。

 今までなかった、意図せずに肉体を失って魂のみの存在となってしまった造物主が上げた、文字通りの魂の叫び。

 魂は、それ単体では存在することが出来ない。魂を入れる容器が必要なのだ。常人ならば魂だけになった瞬間霧散するが、「不滅」である造物主は存続できる。それとて、消滅しないだけで平静を保っていられるわけではない。やはり、器が必要なのだ。

 神殺しの刃によって造物主の魂に致命的な亀裂が生じていた。

 突如として肉体という器から放り出された魂は急速に損耗し、しかし不滅であるからこそ大人しく消えることすら許されず、己が全てが削られ続けるこの世の地獄を味わう。

 無限共感能力による他人の痛みではない。自分の、他人ではない己が消えていく予想すらしていなかった恐怖に、精神的に追い詰められていた魂だけの造物主は狂乱する。

 

《おおおおおおおおおおおおおののののののののののののののののののれれれれれれれれれれれれれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!》

 

 怒り、哀しみ、憎しみ、恐怖。それらの感情が綯い交ぜになって荒れ狂い、最も強靭で優れた肉体を求める。だが、ナギの肉体では駄目だ。今の一撃に内包されていたナギの魂によって肉体を奪い返されてしまった。

 報復型精神憑依の能力も壊された。肉体はともかくナギの精神は万全そのもの。今の造物主では奪い返すだけのエネルギーはない。

 残るとすれば、たった一人。その肉体を奪わんと魂が動く。

 

《その身体を寄越せええええええええええええええええええええっ!》 

 

 標的にしたのは心身共に限界を遥かに超越しているアスカの肉体。素養は十分、完成度も高い。怪我具合が似たりよったりの中でもっとも簡単に早く奪える肉体は目の前のアスカだった。

 甲高い叫びを辺りに響かせて、凄まじい勢いでアスカに向けて突き進む。先程の一撃が正真正銘の最後の力だったアスカには、迫り来る造物主の魂を認識しても、ただ目を見開くことしか出来なかった。

 そこへ収まった衝撃波の中で最も早く行動した明日菜がハマノツルギを携えて割り込んだ。

 

「さようなら」

 

 最も自分に近く遠かった人に向けて哀別の言葉を向け、過去に決着を着けるべく明日菜はハマノツルギを構える。

 

「やあぁぁぁぁぁあああああああああっ!!」

 

 全身全霊を込めて、明日菜はハマノツルギを突き出した。明日菜の手に、ズブリとめり込む感触があった。

 完全魔法無効化能力と最も始祖に近き明日菜の血が、造物主の魂に刻まれた呪いとも言える不滅の力を消し去る。

 

《ぐわぁはぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!》

 

 ハマノツルギが突き刺さった造物主の魂が次の瞬間に四散した。

 不滅の力を失くした魂はこの世界に存在することは出来ない。その末路を見届けたアスカの胸を痛みが走った。二千六百年の長きに渡って世界だけを思い続けた存在の、あまりにも無残な最期に心を痛めたのだ。

 

「あ」

 

 ふと、四散した魂の一部が自身に向けて落ちてくるのに気がついた。

 アスカは受け入れようと思った。すると、そいつはアスカが伸ばした手に染み込むようにして見えなくなった。

 

「お疲れ様、造物主」

 

 魂の内側に滑り込められたような異物感を感じて表情を歪めながらも、アスカは今までたった一人で世界と戦い続けた人を労わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り十二分。

 

 

 

 




次回『第96話 英雄と姫巫女』

残り一話。



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第96話 英雄と姫巫女

――――全ての人にありがとう、全ての人にさようなら










 戦闘は終わった。造物主の消滅と共に召喚魔が次々と消滅して完全にいなくなったからだ。激しく飛び交っていた火線や爆発していた火球は既になく、新オスティア周辺は静寂を取り戻していた。

 失われたものは多かったが、それでも生き残った者達がいた。

 突如として召喚魔の群れが消滅したことで戦闘は終結して、戦士達は息をつき、力を抜き、武器を持つ者は凭れて放心していた。

 様々な事柄が、あまりにも目まぐるしく動いた。危ういところで生き延びたのを喜ぶには事態が大きすぎて時間が必要だった。

 戦場一帯に一種独特の倦怠感が漂っていた。張り詰めていた緊張の糸はぶつりと切れ、今までの疲れが一気に覆いかぶさった。誰もが疲労の色を隠せない。

 亡くした者を悼み、生き残った我が身を顧み、沈痛と高揚が交互に訪れる。沈思し、様々な想いを脳裏に浮かべる。

 同じようにヘラス帝国軍旗艦の艦橋内の誰もが言葉に言い表せない深い感情に身を沈めていた。自分達がまだ生きているのを不思議がっているような表情で、墓守り人の宮殿を見ていた。

 長い、長い沈黙。多くの者達の血と汗と涙と魂のよって世界は守られた。言葉などあるはずはない。

 

「――――終わった、かのう…………」

 

 それは短い祭りが終わったような、緊張感の緩んだ声だった。

 ポツリと呟いたテオドラの言葉に、クルー達が反応して喜びの声を上げた。遂に全てが終わった。その事実が、彼らに底知れぬ安堵感を与えていた。対照的にテオドラは多くの戦士達の冥福を祈るかのように瞳を閉じる。

 

『損害は小さくないが何とか終わったな』

「おお、生きておったか、リカード」

 

 常に開きっぱなしになっていた通信回線の向こうにいたメガロメセンブリア元老院議員であるリカードに今更気づいたように反応する。

 

『失ったものは多いし、今後のことを考えると頭が痛いけど、戦いが終わったことは喜ばしいことだわ』

「うむ、決して無事にとは言える状況ではないが一旦はな」

 

 リカードとは反対側の画面に映るアリアドネ―総長のセラスが言いながら小さく息を吐いた。喜悦を露にするブリッジクルーとは違い、セラスはこの後の考えているのか戦いに勝利した喜びは薄く憂鬱そうですらあった。

 人が死ぬのには、軍人といえど慣れないものだ。ヘラス帝国の第三皇女であるテオドラも数多の死を見てきたが、やはり慣れるものではない

 

『多くの英霊達が行ってしまった。また俺は行きそびれちまった』

 

 本質的に議員である前に戦士であるリカードとしては、これほどの戦場で死ねるのは本望と言うものだろう。

 

「なにを言っているのじゃ。元老院議員ならまだまだやるべきことが山ほどあるだろう。勝手に死なれたら残された周りがどれほどの迷惑を蒙るか考えた方がよいぞ」

『言ってくれる』

 

 物哀しげに戦場を見つめていたリカードは、テオドラの婉曲な引き止めに仕方なさげにしながらも僅かに口の端を持ち上げた。

 

「全てが終わったわけではない。連合と帝国、他にも色々な者達が一つに纏まれたのは確かに良きことではあるが、これで過去の遺恨が全て消えたというわけではない。本当に大変なのはこれからじゃ」

 

 何年もすれ違いによって積み重なった負の感情は、この戦いで全て晴らされるほど生易しいものではない。これまでの間に彼らはあまりにも多くを失いすぎた。

 この傷が癒える日は永遠に来ないかもしれない。この戦いを切っ掛けにしても魔法世界が本当の意味で纏まる日は果てしなく遠い。それまでに何度も争いは起きるだろう。本当に新しい時代を創るには、まだまだ大きな犠牲が必要になる。それどころか完全に纏まる日など、この世界が終わってもあり得ないかもしれない。

 世界の存亡を賭けた一事だって、終わってしまえばそれは確定した事実に過ぎない。あくまで歴史の一ページとして記されるだけだ。

 移ろっていき、揺蕩っていき、変わっていくのが世界の在り様だ。

 

『ですが、戦いは終わったのです。これからのことは私達の肩に掛かっていますが今だけは喜んでもバチは当たらないでしょう』

『そうだな。今だけは皆と喜びを分かち合うとしよう』

「折角の日だからのう」

 

 それでも、目に見えない歴史とか呼ばれるだろう流れの中に大きな区切りが付けられた気がした。今日は多くの人の中で忘れられない一日になる。

 テオドラは二人の言葉に長く張り詰めていた緊張の糸を緩めて深い息を漏らす。目を閉じて席に身を沈めて、大き過ぎる歓声に艦が揺れているように感じながら身を任せる。

 

「生き残ったのならば責務を果たさねばならん。だとしても、今だけは勝利の美酒に酔うとしよう」

 

 例えこれが後のより大きな闘いに向けての僅かな休息に過ぎなくても彼らは生き残ったのだ。生きなければならない。これほどの命が失われてもなお、だからこそ生き続けなければならない。命に目的も役目もない。費やすべきが命ではない。命こそが目的であり、義務なのだから。

 

「艦長、艦と艦隊全ての被害状況の把握を」

「はい」

 

 近くにいた艦長はほっとした顔で、各部と連絡を取り始める。その他のクルー達も気を取り直し、各員の作業に戻っていく。

 クルー達が互いの肩を叩き交わしているのを見た後、戦いが終わった実感を確かめるように再び窓外に目をやる。

 

『後はあそこだけか』

『決着はついたようですが動きは見えないわね』

 

 彼らの視線が向けられているのは、どこよりも激しい戦闘が繰り広げられていた墓守り人の宮殿。今はあまりにも静か過ぎて現実世界から遊離してしまったような感覚があった。

 様々な国籍、人種、種族の戦士達が近くあった艦艇の甲板上に降り立ち、激戦の余韻から抜けられず呆然とした目で、戦闘が終結した驚きをもって、ある者は感動を、ある者は悲哀を、肉眼では何が起こっているか分からないが各々の感情をもって戦闘の光が収まった墓守り人の宮殿を見つめていた。

 生き残った先に何があるのか、まだ誰も知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 手足が異様に重い。感覚も殆どなく、全身の神経を引き抜かれたかのように、体中がぶよぶよとした肉の塊になっている。一点、口端から垂れて落ちていく血の味が現実の質感を肉体に伝えていたが、手を動かして拭う気力は湧かなかった。

 手足が重い。まるで重油の底から引き上げられたかの如く、全身が重い疲労を訴えている。限界だった。

 体はもうどうしようもない状態だった。それが曲がりなりにも生きているのは強い意志が支えているからだろうが、それにも限度があるだろう。自分が呼吸をしているかさえ判らないし、意識も段々と細くなっていっている。

 呼吸に、ごぼごぼといううがいの音が混じっている。呼吸器官である肺が苦しい。酸素が足りないというよりも、もっと根本的な何かが足りない気がした。そのせいで喉が引き攣れて、胸の内部から潰れてしまう様な気がした。

 

「お……あぁ……」

 

 もどかしくて、どぷっと生理的嫌悪を催す音と共に喉に溜まった血を吐き出した。少しだけ呼吸が楽になった気がする。

 全身が鉛のように重くなってはいたが、痛みは不思議なほど感じなかった。それが単にダメージが大きすぎて痛覚が麻痺しているだけなのか、痛みを感じる器官が死んでいるのかは判然としない。

 出血と共に体温が失われてゆくのが、実感として分かる。

 

「あ…………ぁ…………はぁ…………」

 

 声が掠れる。口がまともに動かない。全身が震えるように寒い。思考が纏まらない。これが死。免れようのない絶対の終焉。生命の終着駅。何者をも逃れられない絶対の運命にアスカも呑み込まれようとしていた。

 自分の身体が、ゆるゆると分解されていく。細胞一つずつ、分子一つずつ、魂の至るまで残酷なほどゆっくりと剥離されていく。

 アスカの体内に残されていたなけなしの生命力は、既に枯渇しかかっている。そっと息を吸い、吐くだけのことでも、じわじわと身体が消耗していくのが、はっきりと実感できる。一つの呼吸ごとに生気がごっそり持っていかれるのを感じた。体の芯が何かを失っていくような悪寒。魂ごと霧散していくかのような震え。

 それは強いて言えば、脳髄の中に手を突っ込まれるような感じであった。なのに痛みはなく、少しずつ意識が拡散し、自我が希薄になって認識力が低下する。抵抗できない。喉は雁字搦めで、体は金縛り。指先なんてとっくの昔に感覚がない。

 恐るべきことに不快ですらなかった。苦痛すらもない。自分が誰で、何をしているのかさえあやふやになってくる。ともすれば身体を全部を失っても後悔しないかもしれない緩慢で穏やかな死。ただ、自分そのものが消えていくような漠然とした喪失感だけがあった。まさに死の淵を行き来している気分だった。 

 

「ぁ…………あ」

 

 しかし、まだだ。奇跡的にアスカの意識は残っていた。何時意識が途切れるかも定かではない。

 この意識が止まれば、自分が死ぬ。死が両腕を広げて待っていることに、アスカは気づいていた。もう心の多くが麻痺していたので、恐怖や痛みを感じることも無かったのは幸いだった。

 磨耗しつくして傷ついた心と体は、今すぐに永遠の眠りを欲している。確定した抗いようのない認識と共に、脳裏に去来するのは今までの辛くとも楽しいと思える日々。

 

(生きたい)

 

 こんな時なのに明日が欲しいと思った。生きたいと願った。

 ずっとそんなものは諦めていたというのに、今となっては望む術は無い。どの道、遠からず自分の命数は尽きる。

 不意に恐ろしくなった。これまで死を恐れたことなど無かったというのに、何故今になってこんなに怖いのだろう。彼は生まれたばかりの子供のように、初めて生の世界に触れて震えた。

 今度こそ、帰る場所はどこにもない。もうここが終着点なのだ。

 

(――――それでも)

 

 それでもやってやろうと思う。最後の最後まで。どうせすぐに尽きる命。自棄ではない。ただ、やるべきだから。尽きる命だろうが、どこまでも成すべきことを為そう。最後の死の瞬間まで。

 命と引き換えに世界を救えるのなら十分に釣りが返って来る。懸念は唯一つ。これが最後と考えても、どれぐらい意識と肉体が保つのか。

 始まりはこれからだ。旅立つ時はこれから。

 

「アスカ!?」

 

 明日菜が傷ついたアスカが動くことを案じて叫んだ。

 反対に明日菜を見たアスカの眼には、ただ喜びだけがあった。これからアスカが成すことが成功すれば、魔法世界の呪縛から解き放たれる。その事実を、アスカは深く噛み締めた。そして、気がついた時には体が自然と動いていた。

 世界最強の男とは思えぬほどに震える両手を伸ばし、近づいてきていた明日菜の体を抱き締めた、強く、二度と離さぬように。

 別離を経て、ようやくこうして触れ合うことが出来た。二度と離さないように、手放なさないように二人は互いを抱きしめた。いなかった間の歳月を埋めるように、温かなアスカの手が優しく少女の後ろ髪を撫でる。

 懐かしい温もりに、明日菜はポロポロと大粒の涙を零した。

 言いたいこと、言わなくてはならない言葉が沢山あった。伝えなければならない想いも山程あるのに、何も言葉にならない。沸き上がる想いは、どれも言葉にしてもし尽くせない程あって。

 だから、口から出た言葉は端的にして簡潔。

 

「…………良かった」

 

 ようやく取り戻した温もりを確かめながら言葉が漏れる。

 確かに、造物主の言うようにこの世界は冷たく、厳しく、どうしようもないほど悪意が満ちている。しかし、同時にこの腕の中のように救いもあった。自らの意志で手を伸ばせば、歯を食い縛って前へ進み続ければ、足掻いて足掻いた先に必ず光は存在する。その一筋の光すらも奪い去るほど、世界は絶望的ではなかった。 

 

「……アスカ……」

 

 他の誰よりも辛く苦しい戦いを超えてまで自分を求めてくれたアスカに、抱き締められた明日菜は吐きかけた言葉を呑み込んで応えるようにアスカの背中に手を回した。

 

「終わったな」

「うん」

 

 もう誤魔化しようもなかった。呼吸が苦しくなるほど胸が締め付けられても浮かんでくる涙を堪えることが出来なかった。

 

「やることは分かってるな?」

「…………うん。でも、本当にいいの?」

「是非なんかない。俺は俺の願った為の世界に戦った、周りを巻き込んで。その責任は取るべきだ」

 

 行動には必ず責任が伴う。アスカがしたことは全世界を巻き込んでの行動だった。その為の責任を取るにはアスカの人生と命を賭けたって到底足りるものではない。

 等価交換では決してない。それでも世界を存続させる為ならば帳尻が少しは合うのではないだろうか。

 

「感動の再会をしている最中に水を差すようで申し訳ないのだが」

「墓守り人か」

 

 唐突に現れた墓守り人が抱き合うアスカと明日菜に声をかける。

 

「儀式の核である黄昏の姫巫女が目覚めた以上、完全なる世界発動はありえない」

 

 明日菜が目覚めてしまっては完全なる世界への移行を行うことは出来ない。となれば、今の世界を続けていく為には犠牲が必要となる。

 

「とはいえ、儀式を止めても元の木阿弥。崩壊は止まらない」

「止めるさ。それが造物主を下した俺達の義務だ」

 

 プランは構築されている。多分に希望を含むが、それは残された者達が果たす義務である。去り行く者に出来ることは彼らを信じることだけ。

 

「造物主の鍵は?」

「ここに」

 

 今のアスカはもう一人では立つことすら出来ない。明日菜が支えながら墓守り人が差し出した造物主の鍵を受け取る。

 

「儀式を始める前に今までに完全なる世界に送られた人たちを元に戻さないとね」

 

 造物主の鍵(グレートグランドマスターキー)を手にした明日菜は、アスカの肩を支えながら次に行うべきことを決める。

 

「我、黄昏の姫巫女。創造主の娘、始祖アマテルが末裔アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアの名に於いて命ずる。彼の世界へいる人達をこの世界へ」

 

 造物主の鍵は造物主に次いで使用権限の高い明日菜の命令を忠実に実行する。

 

「ここに戻すわけにもいかないし、元の場所ってのも危ないからこの下でいっか」

 

 足元の地面に複雑怪奇な魔法陣を浮かび上がらせながら呼び戻す人達の出現場所に悩むもあっさりと結論を出す。

 腕を軽く振るだけで魔法陣の輝きが増し、その光景を最も間近で見ていたアスカは荘厳な光景に笑みを漏らす。

 光のヴェールの向こうで輝きが一際増した。

 

「うん、これで大丈夫。みんなも、ラカンさんも戻って来たわよ」

「そっか」

 

 フェイト・アーウェンルンクスに完全なる世界送りにされたジャック・ラカンも戻って来れたのなら一目会いたかったが、流石にそれは高望みというものだろうとアスカは消えていく光を見送る。

 

「アスカ!」

 

 徐々に頭に靄がかかって、自分がどういう状況にあるのか分からなくなってきた中で目覚めたネギが名を呼ぶ。

 声が聞こえた方に顔を向けると魔力の消耗から回復しておらず、立ち上がれない様子のネギが徐々に拡散して薄れていく光越しに座っていた。

 

「ああ、起きたのか」

 

 穏やかなアスカの声にネギは目を瞬いた。視界を埋めるほどの眩い花弁を想起させる光は徐々に色を失い、虚空に薄れつつあった。

 まるで夢を見ているような気分だった。そして実際、その通りなのかもしれなかった。何故なら、ネギの目の前で双子の弟であるアスカ・スプリングフィールドが光の向こうに立っていたからだ。

 その距離は決して離れていないのに、どこまでも遠い。

 

「改めてこうやって向かい合うと、なんかこう、むず痒いな」

 

 光の向こうで声の主がはにかむように笑い、低い言葉が空気を響かせてネギに届く。

 都合のいい幻想だ。この場に在る光が自分の願望に応え、こんな夢を見せているのかもしれなかった。それでも、声の相手が誰か分かっていてさえ、ネギは訊かずにはいられなかった。

 

「アスカ……? アスカなのか?」

「他に誰に見えんだよ」

 

 光の向こうで朧に霞むアスカが微笑んだまま首を縦に振る。

 

「なんだよ、その有り様は。今にも死にそうな面をしてるなんてアスカらしくない」

 

 アスカは何も言わず、ただ終わりを悟ったかのように微笑むだけ。

 

「そんな……! そんなのってないよ。これからじゃないか。これからみんなで幸せになればいいじゃないか!」

 

 込み上げる感情が喉を塞ぎ、先の言葉を掻き消した。泣いている場合ではない。自分の気持ちを全てを伝えなければならない。思えば思うほど目が滲み、子供染みた言葉ばかりが紡ぎ出されてきて、ネギは自分の馬鹿さ加減に絶望した。

 

「後は任せるよ」

 

 もう、道の終点がすぐそこに迫っているアスカに言えるとしたらそんな言葉しかない。

 

「…………冗談じゃない。認めない。そんな頼みなんて聞いてやらないからな」

 

 自分がしてきたこと、なくしてしまったものの重さがネギの胸を潰した。

 いくら悔いても時間は逆戻りせず、失くしたものも二度と戻ってこない。消えてなくなりたい衝動に駆られ、今はそれさえも出来ない自分に気づかされて、ネギは悄然と目を伏せていった。

 

「勝手に決めて、一人で突っ走って、何様のつもりなんだよ!」

 

 まるで神にでもなったしまったような物言いを続けるアスカをネギは認めることは出来なかった。

 これが認められるものか。誰も彼もを置き去りにしていくような身勝手な奴が、英雄などと、自分の双子の弟であるはずがない。何時だって何事も自分以上にそつなくこなしてきたアスカがいなくなるなど許容できるはずがない。

 

「救世主にでもなったつもりかよ………! 少しは周りを見ろ。誰もそんな結末を求めていないんだぞ!」

 

 馬鹿にするな、と心の奥底から溢れ出る思いを言葉に変え、声の限りに叫んだ。

 同じ胎から生まれ、誰よりも同じ時間を過ごしていた半身。アスカ・スプリングフィールドという人間一人が、これからいなくなろうとしている。

 自分が嫉妬するほどに多くの人たちが無事を待ちわびているにも係わらず、世俗を振り切ったような顔で、世界救済なんてことをやり遂げ、この世の外に脚を踏み出しつつある。

 

「こんな不甲斐ない男でごめん」

 

 アスカにとって悔いの残る終わりではない。望みは果たせたし、取り合えず今の自分に出来ること、やるべきことをキチンと終わらせた達成感がある。それに今のネギならナギから受け継いだ想いを託せる。

 

「謝るな! 頼むから謝らないでくれ」

「皆のことを、これからのことを頼むよ、兄貴」

「っ!? こんな時に限って……」

「最後だからな。バトンタッチにするにしたって、ちゃんとしないとな」

 

 弟だと、自分を兄だと思うならそんなことを言わないでくれ。もっと話したいことがある。やっとこれからだったのに、いなくなる人間に謝ってほしくない。

 

「どうしてこんな時だけ弟になるんだよ!」

 

 滲む視界にその姿を捉え、小さな子供のように手を眼に当てて泣きじゃくることしかネギには出来ない。

 言葉にならない涙が、後から後から頬を濡らした。涙に滲む視界で去り行く光を見ていた。もう決して追いつくことの出来ない、それはあまりにも美しい幻像だった。

 

「明日菜……」

「明日菜さん」

 

 そのネギの叫びに目を覚ました木乃香と刹那が、アスカと同じように微笑む明日菜の姿に胸が押し潰されそうな悲しみを感じていた。

 

「ありがとう、二人とも。みんなにも一杯一杯伝えたいことがあったのに、いざとなったら言葉が出てこないや」

 

 目の端に薄らと涙を浮かべながらも、アスカと同じように終わりを見定めてしまった者特有の頑迷さが浮かんでいた。

 明日菜の眼差しを見返して、木乃香は呆然としていた。

 信じられないといった目で、周りを見渡したが誰もが二人を止める言葉を持たず、ただ見守ることしか出来ていなかった。

 彼らはアスカの戦いを見ている。命を賭け、存在を賭け、尊厳を賭けて戦ったアスカを止めることなどできはしない。出来るだけの言葉を持っていない。

 よろめいた視線が再度、明日菜は己に据えられて木乃香の発せられなかった批判に全面的に正しいと内心に認めた。

 

「嫌や。行かんといて」

 

 他に止めようがないから、か細い声で呟く。

 鳥の羽に撫でられるようなか弱さが、今ばかりはどんなに強力な一撃よりも響いた。叶うならば抱きしめたくなる衝動を、明日菜もアスカは必死に堪えた。

 

「心配いらないわよ。直ぐに終わらせるから」

「嘘や!」

 

 木乃香は胸が掻き毟られるような思いに、叫んだ。

 

「さっきなんでか感じたんや。二人ともこのまま魔法世界の礎になる気なんやろ!」

 

 出し抜けに発せられた悲鳴のような甲高い声が、沈黙を吹き散らして過ぎた。

 

「そんなことしなくたってええやないか。魔法世界が滅んでも、明日菜がいないなんて嫌や!!」

「そういうわけにもいかないのよ、木乃香」

 

 木乃香の涙交じりの叫びに、しかし明日菜はゆるりと首を横に振る。

 

「みんなが戦ってくれたのは、世界を続けていく為なのよ。嘘でも滅ぶなんて言っちゃ駄目」

「でも……」

「どっちの道、世界を続けていくには私が支えなくちゃいけないのよ。これは黄昏の姫巫女である私にしか出来ない事なの」

 

 それが正しいことだとは理解しつつも、決して短くはない時を共に過ごした親友がいなくなる現実を受け入れられない。

 

「世界を背負った責任を俺も取らなくちゃいけねぇ。それが造物主に勝った俺の義務でもあるから」

 

 ハーメルンの笛吹きのように、人々を戦場へと導いた責任を取るべきだ。それが英雄として立ったアスカの役目であるが故に。

 掠れた声で呟くと、木乃香は涙で濡れた顔を上げる。

 

「選べるわけないに決まってるやんかっ!! 魔法世界と二人の命…………どっちかを選べやなんて。だって、どっちも重すぎて両方とも失いたくなんかない。どうして片方を選ばないといけないん? どうして両方を選んだらいけないんや!」

 

 木乃香は感情を剥き出しにして叫んだ。

 ここまで駄々っ子のように泣きじゃくる木乃香を見たのは明日菜ですら初めてのことだった。

 木乃香は零れる涙を拭おうともせず、刹那が顔を歪ませて想いを口にする。

 

「これから一緒に笑って泣いて怒って楽しんで…………したいこと、一杯あったはずでしょう。どうして、何もしないまま、さよならなんて言うんですか。私は、私達はこんなことのために、戦って来たんじゃありませんっ!!」

「刹那さん……」

「嫌や……嫌や!! 選びたくなんかないっ!! このままずっと一緒にいるのがいいんや。ずっと……」

「そんなこと出来ないって、分かってるだろ?」

 

 諌めようとした木乃香を、アスカが優しく制止した。

 

「分からんよっ!!」

 

 木乃香は首を大きく振りながら、もうこれ以上は聞きたくないと言わんばかりに両手で耳を塞ぐ。

 そんな彼女を、刹那は悲痛な眼で見つめた。様々な感情を取り除いた個人的な思いとしては同じだった。これからも、ずっと二人と楽しい明日を紡いでいけたらどんなに幸せか。だけど……。

 

「ふざけたこと言ってんじゃないわよ!!!」

「アーニャ……」

 

 イマイチ事情についていけないアーニャにだって、二人が勝手な行動を取ろうとしているのは分かった。

 

「自己犠牲で救われたって、私達にはアンタ達を犠牲にしたって罪悪感と悲しみが残るのよ。ずっと恨まれたくなければ、他の方法を探しなさいよ!」

 

 自己犠牲で人は救えない。誰かを救うためには、自分自身が生き残ることを忘れてはならないのだ。アーニャがずっと昔からアスカに言い続けてきたことは結局、この時になっても直っていない。そんな当たり前のことすら今のアスカには守れない。

 

「今すぐ滅びるわけじゃないんだから、みんなで考えましょう。命を捨てるなんて馬鹿よ。行かないで。もう人がいなくなるのは沢山。生きていれば………生きてさえいれば、どうにだってなるんだから…………」

 

 次第に湿り気を帯びていった声を途切れさせ、アーニャは俯いたきり動かなくなった。近くにいた楓はやり場のない視線をアーニャから逃がした。

 恐らくアーニャの言いようが一番正しい。

 奇妙な成り行きに浮かされるようにしてここまで来ただけのことで、この結末が当初からの目的だったわけではない。既に結果は出た。

 誰もが納得できる結末に至るのならそうするべきだと、そんなことは分かっている。なのに、何故止めろという一声が出せないのかと煩悶する。

 

「もっと話がしたい。話したいことが一杯あるのよ」

「…………そうだな」

「酷すぎるよ、こんなの。戦って、傷ついて、滅茶苦茶じゃないの………! こんな結末で報われるの! 冗談じゃないわ!!」

 

 搾り出した声が嗚咽に呑み込まれ、吐き出しきれない感情が雫になって目から吹き零れた。

 

「俺の為に泣いてくれる人がいるだけで嬉しい。それだけで俺は満足だ」

「だって、このままじゃ!」

 

 その言葉に、彼女はゆっくりと涙に濡れた顔を上げる。

 酷い喪失感。身体の半分が持って行かれたような、ふわふわと現実味のない感覚。逃れようのない現実に意識ではなく存在そのものが拒みたがっているみたいだった。半身が千切れてしまうような痛み。心のどこかで否定したがって泣いている自分がいるのが分かる。

 

「みんな命を賭けて戦ってくれた。俺達はそれに報いたいんだよ」

 

 答えを得ない自問が胸中で渦を巻き、動かない口を無為に引き結んだアーニャはアスカの声を聞いた。

 

「あ……や……」

 

 否定の声があまりに優しかったから、そんな優しいアスカの声を、アーニャは一度も聞いた事がなかった。だから、怖かった。本当に最後なのだと言っている様で認めることが出来なかった。

 ぞっ、と恐ろしいものがアーニャの背筋を駆け上がった。恐怖と悲しみに喘ぎながら首を振った。

 お願いだから、それ以上なにも言わないでと。

 

「他にこれ以上の方法はない。何百年も試行錯誤してきて、ようやく現れたチャンスらしいんだ」

「や、やだ……」

 

 止められないことを悟り、アーニャは擦れた声でアスカを呼ぶ。

 淡く笑ってアスカは空を見上げる。ただ、それだけのことがどうしてこんなにも悲しく見えるのか。

 生きた人間というよりも、精緻な造りの仏像とでも対峙しているかのような、形容し難い違和感を人に与えるアルカイックスマイル。ごく微かな、神韻縹渺たる霧の薄さにも似た微笑。人間を超越して、止めてしまったことで生きている人間特有の生々しさのない菩薩のような笑み。

 いるのに、いない―――――唯一、形になった言葉に冷たい不安が、じわじわと喪失の予感に呑まれてゆく。

 アーニャは瞬きもしないで、アスカから目を逸らさないでいた。視線の先に捉えていないと、次の瞬間にはいなくなってしまいそうな気がした。

 

「俺は直に死ぬ。その結末を変えることは出来ない」

 

 両の拳をしっかり握り合わせて、高畑とクルトはアスカを見ていた。少年少女達の気持ちも分かっていたし、止めなければいけないとも思っているのに、言うべき言葉を見つけられずに立ち尽くしている。そんなもどかしさを湛えた二人の瞳は、それが自分に出来る唯一のことだと信じているかのようだった。

 

「そんなことは……」

「無理なんだよ。全部を出し切った。どんな方法でも俺の結末は変わらない。なら、残った命を世界の為に使いたいって思ってはいけないか」

 

 穏やかな声と共にアスカが僅かに頭を揺らす。視界が霞んでいるのか目がはっきりと見えていないのだろう何度も視線を巡らした。

 

「守らせてくれ、みんなを。もう俺には出来ることはないんだ」

 

 ようやくアーニャを見出したかの如く瞬き、柔らかく微笑んだ。アスカの微笑みに、悲壮な感じはなかった。優しい。けれど、これから起こる全てを受け入れたような殉教者の瞳をしていた。

 

「俺が勝てたのは、強くなれたのは、みんながいてくれたからだ」

 

 ここに立つ自分の足を支えてくれた皆がいたから、自身の意思でここにいるから、この「強さ」はアスカ一人だけで出来ていない。

 

「俺の気持ちを言葉にしたら………ありがとうと言う言葉しか思いつかないんだ」

 

 まるで感情を持たないように淡々とした、だけどどこか物悲しい言葉に聞いた全ての人が胸を突かれた。その視線が見るのは遠く、過去の郷愁か、自身が守った魔法世界の景色か。

 最後に何を話せばいいのか迷っていたはずが、ひとまず口火を切ってみれば、後は次から次へと言葉が沸いて出た。

 

「こんな馬鹿な男に世界を救わせて下さい」

 

 どこか人間臭さが感じられない聖人のような笑みを見て、アーニャは息を飲んだ。

 聞いたアーニャはなにかを言い返そうとして果たせず、濡れた目を唯一の抗弁にしてアスカを見つめ続けた。

 

「うっ……ううっ……うえぇえんっ……!!」

 

 アーニャの頬を一筋の涙が伝うと同時に口から小さな嗚咽が漏れる。まるでそれが合図だったかのように、噛み締めていた唇の隙間から嗚咽が漏れ出し、小さな肩を震わせて只管に嗚咽を繰り返す。

 これが彼女にとって残酷な役割であることは分かっている。けれどアスカには、最初からこれ以外の選択肢は用意されていなかったのだ。

 

「馬鹿よ。アンタ達は世界的な大馬鹿よ!」

 

 抑え切れない感情を吐露するような言葉。身体を折り曲げて泣きじゃくるアーニャの姿が見えるようだった。

 哀しみに暮れる彼女を抱きしめてあげたかったけれど、その意に反してアスカの体は全く動こうとしなかった。まるで見えない泥に全身が浸かってしまったかのように、一歩として動くことが出来なかった。

 終わりの時間が刻一刻と迫ってきている。

 眼の前で泣いているアーニャがいる。ほんの数歩だけ歩けば、彼女に触れられるのにそれすらも出来ない。伝えたいことは山程あるのに、偽りの無い気持ちで言葉をかけてあげたくても歯噛みすることにすら集中を様子する状態ではままならない。

 傷つき、擦り切れ、それでも膝を屈しようとしない、止めようとしない二人の姿を目にしてぎゅっと瞼を閉じ、再び開けたエヴァンジェリンは最後まで付き合うべく腹に力を込めた。

 

(……………)

 

 アスカの姿を目に焼き付けた。例えこの先、どんな終わりが待っていようと忘れぬように、永遠に、この心に焼き付ける。多分、死ぬまで止めなかったことを後悔することを悟りながら止める事が出来なかった。

 

「また、また会えるんやろ?」

「…………」

 

 戻ってくるとも、帰ってくるとも二人は言わなかった。言えるはずもない。

 アスカはまるで切れかけた蛍光灯のように明滅して、命の刻限が間近に迫って死神の鎌が首元に掛けられている状況で、例え世界の機構から外れたとしても無事に帰るなんて不可能なことは言えなかった。

 明日菜だって代理人格である以上は人格を保っていられる保証はない。

 全身無事なところを探す方が難しい血だらけの姿で、溢れる血で口元を汚したアスカの表情に苦痛などなかった。全て悟って受け入れている明日菜の目が「さよなら」を言っているのが分かった。反射的に木乃香は、いや、いや、と首を横に振った。小さな子供のように。

 

「ごめんね」

 

 そんな木乃香に、明日菜は精一杯の笑顔を作って言った。自分はもう戻れないけど、安心してくれと。違う。木乃香が望んでいるのはそんなことではない。

 泣き出しそうに震える瞳。華奢な首筋と、折れそうに細い肩。刹那はただ彼女の肩を抱きしめながら何も言えなかった。

 そんな彼らにひっそりと立っていた墓守り人が口を出す。

 

「もう、時間がないぞ」

 

 ずっと彼女は見てきた、世界の営みを。

 時に愚かで、御しがたく、時に愛おしく、純朴な者達。彼女はずっと見守ってきた。愛おしい自分の子供達を。長い時間の中で繰り返される争いや殺戮………………彼女は終わることのない悲しみを見た。

 想いを貫くために、人は不幸を繰り返す。何も学ばない。愚かな生き物。

 もしかしたら、人は生きる価値のない滅ぶべき存在なのかもしれない。

 それでもない、彼女は自らの肉体を持っていた時に感じた想いを密やかに信じ続けた。愛おしさ。人を愛する気持ち。彼女は人を愛していた。だから、もう一度だけ、人の想いを信じようと決めた。人の手に、人の運命を委ねるために。

 

「そうだな」

「そうね」

 

 そうして二人は頷き、力を束ね合わせる。

 アスカの両腕から発せられる光は、見る者の網膜を焼いてまともに正視できないほどだ。

 明日菜のハマノツルギから発せられる光は、神々しいまでの光は温かく母親の胎内にでもいるかのような温もりと慈愛に満ちていた。

 爆発的に増大する光量は、何時しか恒星の輝きにも匹敵するほどになり、次の瞬間に光が弾けた。

 光輝の乱舞が収束した時、二人は全ての戒めから解き放たれていた。

 

「ぁ」

 

 蛹が蝶に生まれ変わるように、眩いばかりに光り輝く一対の翼が二人を包み込む。光を放つ対の翼はまるで一枚の絵画のようで息を呑むほどに美しい。

 柔らかな光に照らされて、爆発的に拡大する。翼は眩く溢れ出し、墓守り人の宮殿上空の空全面を覆っていった。その光景は、まるで天空に広がる天使の衣のように見え、或いは空を埋め尽くす光のようにも見え、また或いは宝石をふんだんに含んだ雲海のようにも見えた。

 

「ぁぁぁ…………」

 

 無重力の宇宙飛行士のように二人の体がふわりと宙に浮いた。

 世界へ示す確固たる希望の形。絶望も傷跡も振り切るように光の翼が羽ばたく。

 アーニャの手が、木乃香の手が、空中の二人の方へと伸ばされる。しかし、どれだけ伸ばしても手は届かない、掴めない。自分も飛び上がって追えばいいのに出来ない。全てはもう終わった後で、何もかもが手遅れなのだと悟ってしまったから。

 もう二人は数メートルも浮上している。どれだけ手を伸ばしても絶対に届かない距離。それが今の自分達と二人を隔てるものだった。

 

「――――ッ!」

 

 誰かがは叫んだ。ありったけの声で叫んだ。何と叫んだのかは、叫んだ本人ですらも分からなかっただろう。

 

「行っちゃ駄目!!」

 

 アーニャが掴んで引き寄せようとした指が空を掴む。

 犠牲になって消えようとしている辛さを振り払うアスカを、少しでもこの世界に繋ぎ止めたくても、もうその願いさえ届かなかった。

 

「ありがとう」

 

 自身の気持ちが声に現われて張っているのはアスカには直ぐに分かった。

 再会は二度と許されない。温もりがここにあるのに離れていくことがこんなにも悲しい。

 

「お願い、お願いしますっ…………!!!」

 

 二人を見上げて、嗚咽交じりに木乃香が泣きじゃくっていた。

 最後の別れを、ただ悲痛なだけのものにはしたくない。しかし、感情がついていかない。ついてくわけが、ない。

 

「誰か、助けてっ!!」

 

 木乃香の体が揺れて、喉が震えて涙混じりの叫びが世界に伝わっていく。

 既に存在しない希望を求め続ける虚しい声が誰に届くことなく垂れ流される。刹那の肩に、二人から剥がれた光の欠片が落ち、あっという間に消えていく。神様、神様、と祈りを捧げる木乃香に光が舞い降りる光景は幻想的だった。

 

「誰でもいいから誰か!! お願いや、誰か二人を助けて!!」

 

 その絶叫は真実の祈り。悪魔が自らの命を引き換えにすれば助かるのだと言われれば躊躇いもせず差し出す。なのに、応える者はいない。

 

「神様、助けてっ………!」

 

 救ってくれる神様はいないと知りつつも懇願することしか出来ぬ女の瞳が潤み、震えていた。

 捨てられた子犬のようだと、アスカは思った。誰よりも笑顔が似合う彼女に、そんな表情をさせてしまっている自分が恨めしくてならなかったが、同時にそれだけ想ってくれている事が嬉しくもある。

 

「二人を助けて下さい! なにも、なにも悪くないんです!」

 

 なにも悪くないなんてことはない。アスカは世界を扇動し、明日菜は黄昏の姫巫女として多くの人の命を奪った。

 

「二人は、なにもっ、なにも――――――!」

 

 アスカが明日菜のためだけに変えてしまう世界。きっと多くの人が大切な人を奪われ、嘆き、悲しみ、憎むだろう。全ての想いが行く果ては、こんな世界にしたアスカ。そんなアスカが少なくとも消え去る今、これだけの人に惜しまれるなら罪人としては上等な部類だろう。

 

「待って! 行かないで!」

 

 一杯に伸ばされた手を握り、最後に温もりを伝えた二人の光が遠ざかる。薄れゆく温もりを抱き、必死に零れ落ちていく欠片を繋ぎ止めようとする木乃香が上身を折り曲げるも、掴んだ端から解けて消えていく。

 止められない現実を前に背中から号泣を溢れさせる。

 二人を現世へと縛り付けるありとあらゆる鎖は断ち切られていた。もう彼らを制限するものは何もなかった。迷いはなかった。この時の為に生まれてきたのだと信じて、どこまでも己の求める道を突き進む。

 

「これで良い」

 

 アスカにもう恐怖はない。疎外感や嫉妬もない。祈りだけがある胸を抱きしめる。魔法世界を作った当初の造物主も、こんな気持ちだったのだろうか? 内奥から湧き出した想いを肯定するように、虚空に浮かぶ光が無数に煌めかせ始めた。

 世界の為に犠牲になるつもりはない。お涙頂戴の美化された自殺願望ではなく、ただやるべき行動の先にある種の終わりが待ち構えていて、それでも前へ進んだのだという結果へ。

 贖罪ではない。信じたい、可能性を。みんなが生き延びて、二千六百年の絶望が祈りに変わる瞬間を見届けてもらいたい。

 

「巻き込んでしまってすまない」

 

深く期するところのあるアスカは、明日菜に思いの丈を伝えた。

 

「私こそ、ごめんね」

 

 儚くとも暖かみのある想いのやり取りがあった。断固たる決意の確認。

 二人の声のない会話は、断じて絶望に押し流された諦観の遺言ではなく、これから行う最後の大仕事に向けた決意の確認であり、互いへの感謝の気持ちの表れであった。

 

「――――――」

 

 突然、痛みに近い情動が胸を突き上げる。改めて現実を直視した時、胸中に去来したのは細波だった。それはやがて大きなうねりと化し、叩きつけるような勢いでアスカへと襲い掛かっていく。

 世界から切り離されたような孤独感が全身を凍てつかせた。

 いなくなることを受け入れているはずだった。だがしかし、心の何処かで甘受していない部分があったのだろう。その時を迎えるにあたり、心の奥底で燻っていた生への想いが噴出してきたのかもしれない。

 

「――――生きたいな」

「きっと百年後になれば目が覚めることが出来るわよ」

 

 だがそれは叶いそうもない。

 出来なかったこと、やり残したことが他にも沢山ある。もう会えない。話すことも、触れあうことも出来ない。もっとみんなと触れ合っていれば良かった。この目に焼き付けておくのだった。

 アスカがしたことはただの自己満足という名のエゴ。その果てに皆の為に成ればと考えはしても答えは全て自分に帰ってくる。

 彼が守りたかったものは、まるで宝箱のよう。子供がビー玉や金属バッチや、とにかくキラキラ光るものを詰め込んだような、少なくとも他の誰にも価値がなくてもアスカだけにとっては特別な輝き。だから、誰に言われようとも結果に満足している。

 結局、アスカも造物主と同じで我が侭を通しただけだ

 これで全てが変わるとは思っていない。元の木阿弥は歴史上の定番だ。ドラマスティックな手段に訴えれば、思わぬしっぺ返しを食うことだってある。世界は、一人の人が望むようには動かない。自分はそうならないと信じていたはずが、何時しか先達と同じ袋小路に突き当たり、せざるを得ないと諦観の涙に暮れる。そんな日が、人である限りは誰の身にも訪れる。

 だから、可能性がいる。暗い道に微かな光を灯し、希望の所在を告げる可能性が。灯し続ける必要はない。一瞬でも強く輝いて見せればいい。色褪せ、忘れられた頃には、きっと誰かがまた新しい光を灯してくれる。

 

「それでもやらないと」

 

 歯を食い縛り、助けてと叫びたい衝動を辛うじて押さえ込んだアスカは、体に力を込め直して周りを煌めく光に意識を沈めた。

 体から溢れる燐光が激しさを増し、飽和したかの如く弾けたのは、その瞬間だった。体から迸る白い燐光が、新たに噴き出した柔らかな光に包まれ、ゆったりと溶け込んでゆく。

 沢山の色が溢れた。緑色にも、黄色にも、青色にも赤色にも見える沢山、沢山の光が虹にも似たプリズムを周囲に押し広げていった。あらゆる色が互いを打ち消し合うことなく混ざり合い、輝いた。虹色に輝く光の粒が、淡く激しく世界に舞う。

 光が世界を照らしたのは一瞬であったのかもしれない。それとも始めてそれは人類が知覚し得た始まりも終わりもない、永遠の領域であったかもしれない。それはかつて人が神とも仏とも呼んだ光であるのかもしれなかった。

 

「――――明日菜」

「アスカ……」

 

 最後にと振り向いたアスカが、声に反応して顔を上げた明日菜の唇に不意打ちで自身の唇を重ねた。

 血色を失ってカサカサなのに暖かい唇だった。自分の心に相手が直接触れたような、そんな気がした。

 言葉は無かった。アスカはそっと手を伸ばし、弱い力で相手の体を抱きしめる。命をかけて守りたいと願った人の体を抱いた愛しさが切なさを伴って胸を打つ。

 明日菜は一瞬躊躇ったが、おずおずとアスカの背に手を回す。強く強く掻き抱く。その腕は小さく震えていた。目を閉じてのキスは、視界を塞いでいる分、本来なら相手の存在を感じさせるのに何と遠いことか。だけど、温かい口付けに驚きながらも彼女は目を閉じた。

 その瞬間、世界から一切の音が失われ、そして優しい光が広がった。汚れのない―――――純白の光が。

 どのくらいの時が流れたのだろう。五秒か、或いは一分か、口付けを交わす二人には分からなかった。 世界を救うほどの大きな想いとは裏腹に、僅か数秒の呆気ない口付けだった。アスカが唇を離すと同時に蝶の燐分にも似た光は全てが幻のように爆ぜて出し抜けに消えた。

 明日菜の長い髪から、ふわりと甘い香りがした。まだ幼さの残る頬の肌の感触を手の平に確かめた。夢でもいい、と思う。末期にこんな幸せな夢を見れるなら人生も満更捨てたものではない。もう、別れの時はすぐそこで、だからアスカは最期の言葉を紡ぐ為に口を開いた。

 

「明日菜」

 

 大切に、大切に、愛しむように名前を口にする。

 

「愛している」

 

 理由は無かった。思うのは、ただそのことだけだった。消えかけた胸に切なく温かいものが満ちていた。

 消えてしまうと、悲しませると解っていても、どうしても伝えたい想い言葉がある。今までの過去とこれからの未来の想いの全てをこの言葉に籠めて、成すべきことを成し遂げた者にのみ許された無上の笑顔で告げる。

 救世主というよりも、ごく普通の少年のような笑み。

 

「私も、愛してる」

 

 今、一時だけ彼女はただの女に戻れた。

 神楽坂明日菜は、黄昏の姫御子でも、アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアでも、完全魔法無効化能力者でもない。全ての荷物を下ろした、ただ命がけで愛された少女だ。

 ただ魂の発露のように晴れやかで、何もかもから解き放たれたように優しく笑って、この上もない愛を明日菜が返した直後、二人を中心にして再び光が弾けた。

 

『『ありがとう』』

 

 全ての人たちへの気持ちが口から零れ落ちた。心の中には自分がどこにもいなくなることに恐怖を覚えなかった。世界全てへの感謝の気持ちだけが心を満たしていた。

 

「明日菜ぁああああああああ――――――――――ッ!!!!」

 

 誰も立つ者のない墓守り人の宮殿で、木乃香が泣き叫びながら明日菜を呼び続けていた。それは二度と取り戻せないものを失った一個の人間の、整理しようのない感情の迸りだった。

 

「アスカぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――――――――ッ!!!!!」

 

 体を包む気配が消え、虚空に溶け込んだアスカを追い求めて声の限りに名を呼ぶネギの沈痛な叫び声が鳴り響いた。が、それもアスカに届くことはなかっただろう。

 光が溢れる。光は一瞬、より強く輝くと、魔法世界一面に広がる。それは、始まりの光。失われた命を悼むように、傷ついた命を癒すように。世界のこれからを幸福を願うように光が降り注ぐ。

 そして、世界は光に満たされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 戦闘が終結したのか新オスティア空域は奇妙な程の静けさを保っていた。他の者も戦闘が終わったと感じても、喜ぶことも安堵することも出来なかった。敵がいなくなっただけで終わりへの実感が湧かなかったからだ。

 その時、人々は見た。

 光に包まれた。いや、光そのものから成るその存在は、背中に光の羽を広げた。

 

「天使……」

 

 不思議と眩しくない輝きを見つめて長谷川千雨が言う。その光景を目にしたら誰もが同じ思いを抱くだろう

 すると、墓守り人の宮殿に巨大な天使が現れたと思ったら光を放ちながら飛んだ。

 頭上に現れたものは、無限の星の群れのような光の結晶。雪のように、光が舞い落ちる。この世の全ての怒りと不幸せを清めるように、ゆらゆらと揺らめく、

 輝きは茫然と立ち尽くした人間達にも降り注ぎ、その細胞の一つ一つ、その血潮の一滴一滴までも、淡やかな光の祝福で一杯にする。幼き頃に母に抱かれたような安心感、圧倒的な光景に、みなが茫然と我を忘れていた。

 時間の感覚が、どこか降り注ぐ光に紛れて融けて消え去るかのようだ。誰もが何時までも空を見上げた。無数の星達が、際限なく星空から降り注ぐ不思議な光景を。

 おそらく千雨のこれまで生きてきた十四年半の中で、この光景は最も綺麗で心に残る瞬間だっただろう。

 何時までも、何時までも彼女は光を見ていたかった。

 

「あ」

 

 突如として赤・青・黄・緑の光が湧き出して、音も無く世界を包んでいくようにどこまでも広がっていった。空という湖に巨大な意志を投じたかのように、広がっていく波紋の如き光の煌めきが視界一面を染めていくのを、長谷川千雨は目で追いかけた。

 どこか神々しさすら感じ、人知を超えた大いなる意思の存在を感じずにいられなかった。

 神仏にも似た圧倒的な存在を前にしても、見上げる千雨は不思議と恐怖を感じなかった。心が穏やかになったほどだ。

 

「なんなのですか、この光は……」

 

 目の前に振ってくる光の一つに人差し指を伸ばして呻いた高音の声は尻蕾になって消えていく。

 科学や魔法では決して理解できない、神秘の現象。沢山の色が入り混じった、この世のものとは思えない綺麗な、しかしどこか物哀しい光だった。

 吸い込まれるように、誰もがその光を見ていた。沢山の色が入り混じり、渦巻く小さな光は、見つめる者の心に不思議な懐かしさと安らぎを与える。恐怖が、憎しみが、痛みが、現実感と共に薄れてゆく。

 

「綺麗……」

 

 指先が触れるや否や、光は淡雪が解けるように、すうっと消えた。

 千雨は意識だにせず泣いていた。

 さっきまで広がっていた凶暴な光とは異なり、オーロラともつかない穏やかな光に世界が包まれていく。光は圧倒的で苛烈であったが暴力的ではない。喩えるなら、この光の激しさは力強い生命の力だった。千雨には、その光の一つ一つが生命なのではないかと思いついた。

 この光には優しい生命の息吹が宿っているような優しさを感じる。

 

「綺麗、でも……」

 

 込み上げてきた切なさに、ココネ・ファティマ・ロザは隣りで握っていた春日美空の手に力を込める。

 これは終わりの光だ。綺麗な、しかしどこか物哀しい光だった。失われた命を悼むように、傷ついた命を癒すように全てのものに降り注ぐ。

 その幻想的な光景は理解し難く、正に奇跡としか言いようがなかった。まさしく神話。降り注ぐオーロラのような光のカーテンは、まるで宗教画の中の世界にいるような光景だった。

 

「哀しい光、どうしてこんなにも泣きたくなるんだろう」

 

 知らずに涙を浮かべながら美空は空を見上げる。

 この現象は天使が起こしたのだろうか。舞い降りる光が地上を追われて天へと帰るために羽ばたいた翼から落ちたように羽のように思えた。

 千雨の胸中に郷愁にも似た切なさが過ぎ去っていく。それは多分、僅かに姿を見せた天使に憐れみのような感情を抱いたからだ。どんなに望んだところで地上に天使が帰る場所はないのだから。

 

「きゃあっ!」

 

 汚れのない光が世界に広がって輝く光景を前に、飛行船で待ち続ける少女達の瞳の向こうで何かが弾けた。同時に悲鳴が聞こえた。

 千雨が何事かと思って顔を向ける間もなく、 

 

「――――!?」

 

 脳裏に他の少女達が見た物と同じ映像と音が流れ込んできた。幾つもの光景が、数秒の間に脳裏を駆け抜けてゆく。

 それは、剥がれた光の粒子に付着していたアスカと明日菜の記憶の断片であった。

 墓守り人の宮殿に突入してからの数々の激闘。デュナミス、フェイト、造物主と続く死闘に命をすり減らしながら向かっていく姿。希望を信じて、人を信じて、未来を信じ続けた男が駆け抜けた一筋の轍。世界を想って、女を想った男が命を散らした終わりの光。

 同様の現象は、墓守り人の宮殿周辺の新オスティア空域だけに留まらず、魔法世界、そして世界樹を通じて麻帆良にも拡がりを見せていた。

 

「今の……」

 

 佐倉愛衣は涙を浮かべて振り返った。

 

「アスカ、神楽坂……」

 

 世界に広がる光は、終わってしまったアスカの命の輝きであり、明日菜の想いの結晶だった。

 無数の光の羽が舞い散る中、千雨の目から涙が零れた。それ以上は言葉にならなかった。千雨は唇を噛み、船の手摺を殴った。

 

「馬鹿野郎!」

 

 聞こえないと分かりつつ、千雨には怒鳴らずにはいられなかった。

 世界中の人種や種族に関係なく、この戦いが終わりを迎えたことを知って涙を抑え切れなかった。 

 夜が明けようとしているのだろう、上り始めた太陽の光の温もりだけが感じることが出来た。

 

「卒業式、一緒に出るんじゃなかったのかよ!」

 

 抱きしめられない光を引き寄せ、空を抱いた両腕をぎゅっと胸に押し当て混乱し、喘いで溢れる涙を隠そうともしない。駄々っ子のように喚き散らす。

 全知全能を欲し、悪魔メフィストフェレスに魂を売ったファウスト博士然り。願いを叶えるには代償がいる。アスカもまた自身の命を代償にして魔法世界の救世を成そうとしている。

 

「二人で勝手にいなくなるなよ!!」

 

 長い夜だった。或いは終わることのない夜なのかと思っていた。しかし、明けない夜はない。

 空が漆黒から、深い藍色。紺青から群青、そして水色へと変わっていく。朝日が地平の向こうから姿を現して大気の層は透明度を増し、空は徐々に白ばみつつあった。薄明の時間は、全てが曖昧だった。静と動の転換点。夜と昼という二つの世界の境界線だ。

 世界が二人の命を糧として、二千六百年の呪縛から解き放たれて目覚めようとしていた。全てが終わらなくとも陽は昇り、何時もと変わらぬ皆の姿を照らす。

 長い長い夜は終止符が打たれた。

 奇跡は始まり、軌跡は終わる。

 光が太陽の澄んだ白と混ざり合い幻想的な風景を作り上げていく。

 風が、吹く。

 僅かに発光を続ける光と共に、光の粒子が舞い上がる。二人を象っていたそれらは、風に粒子を撒きながら、人の形を失って散っていく。無数の欠片が螺旋の渦を巻き、やがて拡散して溶けていく。さらさらと、風に流れていった虹色の粒子の先には――――――何も、残っていなかった。

 世界中を駆け廻った光は、人々の記憶にその名残を与えつつ、緩やかに霧散していった。

 そこには、もう誰もいない。

 

 

 

 

 




英雄と姫巫女は世界の礎となって消えた。そうして世界は続いてく






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最終話 魔法先生ツインズ+1





―――――――物語はハッピーエンドで終わる





 

 

 

 

 

 陽射しは暖かく、時間は緩やかに、時に責め苦のように過ぎていく。

 年月は瞬きほど、目蓋を閉じて開く。少し眩しい光だった。瞼を透かし、網膜を刺激する淡い太陽の光が真上から降っていた。何時までもどこまでも降り続く薄桃の夥しい桜の花弁達。煌めく春の光を浴びて、華の色はますます鮮やかでさえあった。

 柔らかいお日様の光、陽射しを受けて鮮やかな色を見せる草花、眠気を誘うような緩やかな空気、微かな風がほのかに甘い香りを運ぶ。

 視界には一面の世界樹に咲いた満開の桜の花。春の光だった。

 柔らかな風がその髪を優しく揺らした。スーツの袖の飾りボタンがカチャカチャと心地良く鳴って、広がった袖口がパタパタとはためく。ネクタイがスーツの外に出たいと言いたそうに揺れている。

 

「……ぁ」

 

 世界樹の生い茂る葉の隙間から漏れ出る陽光に晒され、枝から別れを告げた桜の花弁がのんびりと地面に落ちてくるのを見ていた少女―――――アンナ・ユーリエウナ・ココロウァの口から声が零れる。

 誰もが目を奪われて溜息をつかずにはいられぬ風景の中で、小学校の時も感じたが卒業式の前後はどこか空気が違うようにアーニャは考えた。

 まるで都市中が落ち着かない感じ。学園都市なのだから卒業する生徒の中には外部に出る者もおり、数多くの別れが訪れるからだと思う。

 麻帆良学園都市では卒業式と終業式を合同で行う。なので卒業生達に限らず、在校生の教室も慌ただしい。それぞれの一年を振り返ってというわけでもないのだろうが、一年の帳尻を最後に無理矢理に合わそうとしているような印象を受けるのだった。

 多くの者達にとってこの一年は最も慌ただしく記憶に残るだろうが、一先ずこれで終幕。何時か懐かしく思う時が来るまでは、心のアルバムの中にそっとしまわれるだろう。

 

「あれから半年、か」

 

 魔法世界の命運を握る闘いが終わって半年以上の月日が過ぎて、また春になった。風に乗って舞う花弁を眺めながら思う。

 

「卒業式も終わっちゃったなぁ」

 

 今日は麻帆良女子中等部の卒業式。忘れることなんて出来ない。きっとこれから先の何年、何十年と過ごしても決して忘れることなんて出来ない。

 彼女は卒業式が終わった後、まるで行き場を失くしたように一人で麻帆良で一番目立つこの場所へとやってきた。

 

「本当に魔法の樹なら私のお願い、叶えてくれても良いのに」

 

 アーニャは世界樹を見上げて、物言わぬ桜の花を咲かす神木を見つめた。

 魔王を倒した勇者は、最後に囚われていたお姫様を助け出して結ばれ、ハッピーエンドを迎える。互いのために行動した二人の間に特別な感情が芽生えていることは充分にあり得た。確かにそういう結末があっても、不思議ではない。

 アスカと明日菜の間には、特別な感情があって結ばれた。しかし、この場にはいない。何故なら二人は魔法世界を救うためにいなくなってしまったから。

 体を包むフワリとした温もりが胸の底を打つ悲哀を増幅して、漠然とした感情から直ぐに抗いようのない喪失感に取って代わり、血も骨も臓器も、細胞の一粒一粒までもが等しく泣き叫んでアーニャの目元に涙を浮かび上がらせる。

 

「いけない。もう、泣かないって決めたんだから」

 

 これで全てが終わったわけではない。旧世界に魔法世界の存在、魔法使いのことが知れ渡った以上は本当の始まりはこれから。

 世間はそれなりの騒ぎになっているようで、日々はなにも変わらない―――――いや、この学園都市内にいることに限っていえば守られているからこそ彼女、アーニャの平穏は保たれていた。

 常識が変わろうとも……………常識の範囲が広がろうとも人々は何時もと変わらず仕事をし、学校に行き、遊んでいる。

 もう、ただそこにいるだけでほっと出来る、穏やかな春の風にも優しい二人はいない。

 自分が泣いたら二人はきっと悲しむだろう。

 周りの助けもあって最近になってようやく落ち着いてきたのに、また泣きそうになっていることに気づいて、アーニャは考えることを止めた。何日もこれを繰り返して半年も経てば、多少は上達する。溢れた涙を手で拭うと、泣いていた痕跡は全て消えた。

 後は落ち着くために深呼吸を繰り返す。いずれ傷は治る、が。

 

「アーニャちゃん」

「アーニャさん」

 

 精神集中を掛けられた声によって邪魔されて、アーニャは怒りよりも驚きを感じた。ここに来ることを誰かに話した覚えもないし、今の自分が傍目にも分かるほど人を拒絶している雰囲気を出しているのが分かっていたからだ。

 振り返ると、そこに立っていたのは、あれからの自分を支えてくれた木乃香と刹那の姿。

 

「また、ここに来てたんやね」

 

 二人が大分遠くからアーニャの姿が見えても彼女はぴくりとも動かなかった。何も起きなければ、一時間でも二時間でもそうしているんじゃないかと思うほどに。

 

「どうして……」

「姿が見えなかったからここやと思ったんや」 

 

 問いかけに返って来たのは間違いなくここにいると断定するものだった。

 よくよく考えてみれば時間があれば、世界樹に来ているのを思い出して、ぐぅの音も出ない。

 困ったように後頭部を掻く明日菜を二人が笑い、三人で並んで世界樹を―――――正確には世界樹の根の一つに突き刺さっている黒棒を見つめる。

 

「ちょっと感傷に浸ってたのよ。この半年は本当に激動のように過ぎていったから」

 

 あの日から、色々あった。本当に時代が動く激動の中に世界はあった。

 突然の旧世界の魔法の公表や魔法世界の存在。それに伴う、全世界的な被害。しかし、それらが広まったからといって何かが劇的に変わったわけではない。

 

「世界は変わるようで変わらない、か」

「きっとこれからなんよ、変わっていくのは」

 

 旧世界でも魔法が世界に公表されたことで、テレビのニュースなどは一時騒然となるも、元々が表の世界から切り離された裏と呼べる世界の出来事。今まで表だってなかった犯罪が出てきたことはあっても、世界的な大勢に大きな影響はまだない。

 政治家や上層部の人間は各種対外折衝や魔法に関する対応を協議するなど慌しいものがあるが、一般人にまで魔法の影響が出てくるには、まだ時間がかかるだろう。

 旧世界を覆っていた混乱は、民間のレベルでは徐々に回復しつつあるとのことだった。

 アスカが選んだのは、閉じない運命、続いていく時間、なにも変わらない世界。造物主が、閉じる運命、廻り続ける時間、変わる世界を求めた。二人の選択は真逆故に争い、アスカが勝利した。

 アスカの選択の結果が出るのは何年もずっと先のことだ。けれど多くの人が今、当たり前のアスカの夢想を現実にするために動いている。

 

「学園長達は忙しいらしいわね。ネギも久しぶりに見たし」

「仕方ないんやけど体壊さんか心配やわ。お爺ちゃんも何とかうちらの為に無理して卒業式の時間を作ったらしいし」

「ネギ先生とナギさんやアリカさんも方々も飛び回ってるらしいですから」

 

 学園長は旧世界の魔法組織に渡りをつけ、連日会議を行って対応を協議している。ネギも父や母の名と力、新しき英雄のネームバリューを使ってアスカが敷いた世界を守ろうとしている。

 多数の内紛や行き違いが頻発し、戦死者や餓死者も出るのを少しでも抑えようと忙しく各地を飛び回っている。

 過去の悪行を表に出されてガタガタの元老院議員の一部が暴走したり、情報操作にも限度があって大きな対立や戦乱が起こり掛け、あわや両世界を巻き込んだ戦争に成り掛けたのを止めたのもネギだ。その功績で、世論の中ではアスカよりもネギを評価する者も多い。アスカがしたことは性急な面と希望的で楽観視している面があるのは否めないのも理由の一つだ。きっとアスカを英雄と言う者よりもネギを英雄と言う者の方が多いだろう。

 

『僕だけの力ではとても………きっと、誰もが望んだことで力を貸してくれたお陰です』

 

 とある騒乱を話し合いで収めたネギに、取材を行っていた心無いリポーターの一人が向かってアスカを貶したことがあった。

 

『アスカがいなければ今の僕は無かった……………兄として誇りに思いますし、尊敬しています』

 

 若輩の身でありながら多くの有識者に囲まれながら、胸を張って応えるテレビに映ったネギの姿を思い出す。彼もまた多くの哀しみと後悔を積み重ねながらも前を向いてやっていこうとしている。

 

「アスカのしたことは正しかったと思う?」

 

 アスカの選択は是非が分かれている。正しかったのか、間違っていたのか、多くの人々が己が答えを叫び続ける。だからこそ、アーニャは是非を問うた。本当の意味で正否を決められる人がいないと分かっていても。

 

「分かりません。それはこれからのこと次第だと思います」

 

 世界樹を見上げる刹那にはそう答えることしか出来なかった。

 アスカが事前に撒いた種は確実に世界に広がって花を開こうとしていた。きっとこれから世界は変わりながらも、変わらない毎日を続けていくのだろう。それでも、不安と恐怖は誰の胸にもある。誰もがこの先、途方もない破綻が待っているのではと疑わずにはいられない。

 

「アーニャちゃんは戦ったことを後悔してる?」

「後悔はしないわ」

 

 と、木乃香の問いにアーニャは即断した。

 

「停滞した世界で生きるなんて真っ平ごめんだもの。そんな世界じゃ、私達は大人になれない」

 

 アスカが描いた運命は夢のように。それだけに実現せず、破滅を導く可能性は高い。例え実現しても多くの犠牲が出るのは避けられない。魔法が世界に公表されたことで混乱も生まれたし、魔法関係者による犯罪が起こり、民間人が犠牲になるケースもあった。それが世間に報道され、魔法使いへの目が厳しくなるのは仕方のないことで。

 

「変化が反発を生むのは当然のことよ。それでも私達はこの世界を生きていくしかない」

 

 物語の中だけのものだった魔法が実在したことで固定観念が崩れた者、魔法によって被害を受けた者、既得権益を侵された者、明確な理由はなくとも不安から異を唱える者等、魔法の存在を世間にバラしたアスカを悪く言う者も多い。賞賛と非難が拮抗している状態にあり、英雄と大罪人、それがアスカにつけられた対照的な字だった。

 全世界に渡る被害の規模がどれほどだったかなど、想像さえできはしない。どれだけ世界が変わろうとも、影が消えることはない。ただ、その姿が変わるだけで今までと同じ。文化や価値観の違う種族間の共存共栄は一日で成せるものではないが、それでも彼らは互いに理解し合う努力を忘れずに、少しずつ交友を深めていくしかない。

 

「魔法が不幸やなんて思われたくないもんな」

 

 それでも、それでも確かに刹那と木乃光は微笑していた。アーニャもまたぎこちないながら微笑む。

 多くの犠牲を伴いながら、ほんの少しずつであっても、平穏の道を手繰り寄せると信じている。きっと世界はよくなるはずだと、そういう希望を抱いていた。でなければ、あの戦いを、アスカの願いとあの戦いで散った命が無駄になってしまう。

 人は現実にしか生きられない。けど、夢を見ずに生きるものが全てとは思いたくない。だが、夢は大抵、人を裏切る。アスカの夢は世界を滅ぼすかもしれない。それでも手放さずにはいられないもの、それが本物の見るべき夢と言うものではないだろうか。成功するから信じるなんて、単に見返りを期待しているだけで不純な話だ。そんな打算的な心でどれほどのものが手に入られるか。

 世界は幻想を現実にしても変わらない。どうしようもなく変わっていない。醜さも美しさもそのままに、ただ続いている。継続している。命の鎖を危なげにつないで、必死に今を守っている。

 

「不思議ね。今でも毎日来てしまうの。墓なんかじゃないのに」

 

 精密な機械の中身とは裏腹に、遣い手の性格を現すような素朴な剣の柄の表面を撫でつつ、アーニャは呟いた。

 あの墓守り人の宮殿での激闘の際に紛失したはずの黒棒黒棒が何故ここにあるのかという答えは簡単。膨大な魔力によって旧世界の麻帆良学園と墓守り人の宮殿にあるゲートが一時的に繋がり、フェイトとの戦いで手放した黒棒が魔力乱流に乗って流れ着いたのだ。

 

「……そうですね」

 

 応えつつ刹那は当時のことを思い出した。

 

「現代の聖剣伝説かっての。つまらない茶番だわ」

 

 最初に黒棒が見つかったのは、九月末になって皆がようやく魔法世界から麻帆良に帰ってきて直ぐの頃だった。その頃には旧世界でアスカが幼い頃からの経歴を辿るなりして有名になり、当然の如く直前まで滞在していた麻帆良が大騒ぎになっていた。

 アスカが持っていた武器。金儲けのために黒棒を盗ろうとする人間が現われるのは必然だったので、抜くことになったのも必然の流れだった……………のだが、何故か抜けなかった。アーニャにも、刹那にも、木乃香にも、そして他の誰にも。

 血縁も、知り合いも、腕自慢も、噂を聞いた野次馬も、多くの人が抜こうとして果たせなかった。

 多くの人が麻帆良を訪れて挑んでも抜けないことに、人々は『現代のアーサー王伝説』なんて揶揄する者も現われた。主を失った愛刀が彼以外に自身を使わせないために、だとかいう話もある。

 だが、それがまるで墓のようだと言ったとのは果たして誰だったか。

 アスカの遺体もない墓は復興したウェールズの故郷の村にちゃんと立派なものが建っている。世界を救った偉人に相応しい巨大な墓が。  

 だけど、それでも明日菜の言うように黒棒がある麻帆良のこの場所を、アスカを偲ぶ者達が訪れる場所だった。過去にアスカと関わった多くの人達もこの街の世界樹を訪れた。

 

「世界を護る礎になったとしても死んだわけじゃない。こんな墓があったって何になるのよ」

 

 儚げに、今にも散ってしまいそうな雰囲気を放ちながら言うアーニャに二人の胸の方が締め付けられる。

 今でも耳に残っている、二人が消えて泣き叫ぶ誰かの叫び。

 

「毎朝起きる度に、夜にベッドで横になる度に、何か考える時間が出来てしまったその度に死にそうになるの。でもね、本当に怖いのは後悔と絶望が薄らいでいってしまうこと。こんなにも悲しいのに、何時かは二人を想っていることすら忘れてしまうんじゃないかって怖い」

 

 未だにあの瞬間に囚われたままの少女が告白する。

 怖いのは、後悔でも絶望でもなく忘れてしまうことだと。毎日死にたくなるような後悔と絶望が、ゆっくりと消えていってしまうことだと、泣きそうな声で語る。

 事実、麻帆良に帰ってきた当初は歩く屍のような彼女が今では危なげながらも日常生活を普通に送っている。この時点であの時程の思いを抱けなくなっているという証明でもあった。そうでなくても、負の感情に慣れてしまったということなのだろう。

 これが良いことなのか、悪いことなのか。それはきっと誰にも分からないし、決められない、当の本人以外には。

 

「「…………」」

 

 伏せた瞼の下から重力に負けて頬を伝って流れる透明な雫を前にして、木乃香も刹那も言うべき言葉を持てない。雫が音もなく落ち大地に染みて、波紋を作って少女の哀しみを世界へ広げていくようにも思えた。

 彼女にとって忘れることは罪であり、罪悪なのだ。哀しいのは二人も同じだが、アスカを想う思いの強さは彼女に遠く劣る。

 

「今は一人にしてくれるかな……?」

 

 彼女達は今日、卒業式を迎えた。

 二人がいたクラスが卒業してしまうのだ。また一つ、繋がりを失ってしまう。

 消えてしまった二人との繋がりは減りはしても増えることはない。忘れてしまうことと似てどうしようもない。いなくなった者との間に新しい繋がりが出来る事はないのだから。

 そんな彼女の気持ちを刹那と木乃香も分かっているから受け入れるしかない。

 

「分かりました。では……」

「みんなで卒業パーティやるからアーニャちゃんも来てや」

 

 先に刹那が、木乃香が心配気に何度も振り返りながら去って行った。

 互いに握り締めた手から心の痛みが伝わってくるような気がして、二人の目から自然と涙が零れた。自分達では少女の傷を癒すことが出来ないことに涙を零しながら。

 

「…………」

 

 二人が去った後もアーニャは最初から彼女達がいなかったように立ちつくす。

 彼女の瞳は根に突き刺さった黒棒を見ているようで、遠くどこかココではないどこかを見つめるようだった。遠すぎて、かえってここにいる自分自身に思いを馳せるようだった。

 

「分かってる」

 

 愛した人がこの世から去ると、遺された者は不幸だ。愛情は、そっくりそのまま悲しみとなって遺された者の胸を貫く。

 深く悲しんだところで、死者が還ることはない。遺された者がどれだけ手を伸ばしても、死者の背中には決して届かない。溺れるぐらいに涙を流しても、死者は救いの手を差し伸べてはくれない。

 追いつけない。絶対にして永劫の距離、それが死である。

 

「いい加減に前に進まないといけないことも」  

 

 失って涙が止まらなくなるくらいに愛したことを間違いとは思わない。思いを胸に秘めて生きていかなければ二人の想いを無駄にする。

 水を含んで、風が吹いて髪が靡く。

 

「でもね、どうしても寂しい」

 

 そっ、と手が黒棒の柄に触れる少女の言葉が風に流れていく。その声同様に髪が、どこか寂しそうに風に揺れる。

 

「他には何もいらない」

 

 いなくなった人を想う彼女の願いはどこにも行き場所がない。

 誰もが希望に満ちた明日を生きているのに自分はあの日に囚われたまま、一歩も前に進めない。二人がいなければアーニャは永遠に心をあの日に囚われたまま前に進めない。

 強がりではなくて、今の世界こそ、二人が繋ぎ取ったモノなのだと信じられる。ただ、そう信じるからこそ、二人がもういないのだと思い知らされる。

 

「アスカに傍にいてほしい」 

 

 他にはなにもいらない。差し出せるものならなんでも出す。だから返してくれ。と、あの日からどれだけ願ったか。

 

「帰ってきてよぉ……」

 

 声が涙で途切れ途切れに。その瞳からは堰を切ったように涙が溢れ出してきた。二人に帰ってきて欲しいと、そうすれば、もう一度帰ってくるかもと、祈るかのように、いなくなった人を思い、誰にも届かないと分かっても願い、行き先がないと知っていても叫び、せめて届いてほしいと懇願した。

 それは祈りだった。小さな祈りで、物理的な力を持たないかもしれなかった。遠く、細く、長く、その声音は流れていった。

 

「――――――――で、何時までこの茶番に付き合わなくちゃいけないんだ?」

「そうよね。勝手に死んだような扱いにされるのは面白くないわ」

 

 と、少し離れた場所で寸劇を見させられていた二人の人物が心底からつまらないという感情を表しながらベンチに座っている。

 突っ込まれたアーニャは浮かべていた涙をあっさりと引っ込めると、髪を靡かせて不敵に笑う。

 

「アンナ・ユーリエウナ・ココロウァ作、『英雄と姫巫女還らず』のエピローグで悲しむ聖女の演技っぷりはどう?」

「アーニャは聖女って役目からは真反対のキャラだと思うよ」

「演技が大根なネギは黙ってなさい」

 

 リストラされたネギは演技に付き合った木乃香と刹那が苦笑いを浮かべる横で不満げな態度である。

 

「ったく、人の黒棒まで勝手に持ち出して」

「いいじゃない。こう、演劇を盛り上げる為の小道具よ」

「世界樹に勝手に傷つけて後で賠償請求されないかしら?」

「卒業パーティーにはお爺ちゃんも参加するんやし、聞いてみたらどうやろ」

「いえ、これぐらいの傷ならば私が治しておきます」

「流石は刹那。助かるわ」

 

 世界樹の根に突き刺さっている黒棒を抜いたアスカが呆れながらも注意するもアーニャに堪えた様子はない。勝手に世界樹を傷つけたことで賠償しないといけないかもと明日菜が若干の不安を煽るが刹那が符を張って治す。

 

「ほら、みんな。何時までも話してないで卒業パーティーの方に行かないと」

 

 収拾のつかなくなりそうな場をネギが手を叩いて注目を集める。

 

「京都からお父さんとお母さんも来るし、魔法世界からもラカンさん達も一杯来るんだから遅れると後が怖いよ?」

「たかが中学の卒業式に何をみんな張り切ってんだか」

「まあまあ、高校は三界から生徒が集まる学校を新設するからどうしても神経質になっちゃうから今の内にってことだよ」

「私はウェールズに引っ込むけどね!」

「させねぇに決まってんだろ!」

 

 ははは、と一人で駆けだしたアーニャを追って走り出したアスカの後を歩きながら全員が笑顔を浮かべる。

 

「夏の大冒険から始まって、色々とありましたけど無事に卒業式を終えて一安心ですね」

「秋にナギさん達とお父様に会いに行ったら鬼神が蘇ったりして大変やったけど」

「あの時に一番大変だったのは性転換してきた月詠さんに迫られた刹那さんじゃない?」

「お、おおおおお思い出さないで下さいよ!」

「ウルティマホラでのくーふぇいとアスカ君の試合も盛り上がったわよね」

「興奮したラカンさんとお父さんが乱入して武舞台が吹っ飛びましたけど?」

「話を聞いて下さいよ―――――――――私としては体育祭の方が凄かったです。教師借り物でまさか都市存亡の危機になるとは思いもしませんでした」

「ネカネ先生に告白した生徒がフラれて、まさかあんな一大事になるなんてなぁ」

「でも、やっぱ一大事といえば大晦日での魔界だったわよ」

「ああ、あの魔神の」

「でも、どうやって勝ったのか、全然分からないです」

「うちもや。倒したアスカ君に聞いても首を捻るばっかりやし」

「今でも偶に夢に見ますよ、あの強さ。本当にどうやって勝ったのか」

「まあ、倒した相手のことはいいじゃない。大切なのはこれからのことよ」

 

 卒業パーティーが開かれる一際桜が美しく咲いている広場へと向かいながら明日菜は空を見上げて笑った。

 

「お前ら、遅いぞ!」

「ごめん、千雨ちゃん」

 

 言い出しっぺの所為でパーティーの幹事を務める千雨が遅れてやってきた四人に向かって叫ぶ。

 その後ろでは今日の為に集まった大勢の人たちがいて、高校からは別になるクラスメイト達と談笑している。

 

「さあ、パーティーを始めんぞ。準備はいいか!」

 

 既に出来上がってるらしいナギとラカンに絡まれながら、一人で離脱したアーニャを恨めし気に睨みながらアスカがやけくそ気味に叫ぶ。

 

『おー!』

 

 唱和する叫びに、これが戻って来た日常なのだと明日菜は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゆっくりと自身の意識が回復し、アスカが閉じていた瞼を開くと白い光が目の奥に刺さった。

 身体を起こそうとして頭を上げて、ベッドに寝かせられているのに気付いた。

 

「………………」

 

 仰向けから上半身を起こした姿勢で茫洋とした目を前に向け続ける。長いこと眠っていたからか目覚めても思考が働いてくれない。

 

「もう一回寝るか」

 

 こういう時は寝るに限る、思考を放棄してぽとんと柔らかく清潔な枕に頭を落とす。とはいえ、別に眠いわけではないから瞼は閉じない。

 数秒ほど白い天井を見つめていると、ようやく脳細胞が活動を始めて状況を理解してくる。

 

「なんでだ?」

 

 素早く体を起こしながら今の状況に対する疑問を口にする。

 

「ん、んぅ……」

 

 同じ枕のアスカが頭を下ろしたり上げたりした所為で寝心地が悪くなったのか、隣で寝ている明日菜がムニャムニャと言葉にならない言葉を漏らしながら頭の位置を直す。

 

「おい、明日菜」

 

 状況が理解できないアスカは取りあえず明日菜を起こすことにした。

 起こす為に肩を揺さぶると、「後、五分だけ……」とベタな文句を口にしてアスカの手を払う。

 バシンと払われた手を見たアスカは自分が白いシャツを着ていることに気が付く。それはともかくとして、ちょっとムキになったアスカは眉間に皺を寄せる。

 矢を弓に番えたように中指を折り曲げて親指に引っ掛ける。狙いはスピーと息を漏らす明日菜の鼻。

 

「ていっ」

「あいたっ!?」

 

 鼻面に割と本気目なデコピンを放つと、痛みで明日菜の体がベットから一メートル近く飛び上がる。

 やり過ぎたかもと思いつつも、「必殺鼻デコピンか。いいかもしれない」と今度他の奴にもやってみようと細やかな野心を抱くアスカだった。

 

「い、いたひぃ~」

「こんな状況で悠長に寝てる方が悪い」

「だからって、なんでデコピンなんかするのよ!」

 

 ベットの上に蹲って赤くなった鼻を抑えて悶える明日菜の心からの叫びに、そういえばなんでだろうとアスカは首を捻った。

 

「さあ?」

「いいわ。その喧嘩買おうじゃないの。我が聖剣エクスカリバーが光線吹くわよ」

「正直、すまんかった」

 

 ゴゴゴゴゴゴゴ、と謎のオーラならぬ咸卦法で物理的なオーラを発しながらハマノツルギを呼び出した明日菜に、悪ふざけが過ぎたと平謝りするしかないアスカであった。

 お返しとして峰内ちでデコピンの比ではない衝撃を頭に受けて大きなタンコブを作ったアスカを満足げに見下ろした明日菜は、「で、ここはどこ?」と今更ながらの疑問を口にした。

 

「知らん。寧ろ俺が聞きたいぐらいだ」

「じゃあなんでデコピンなんてしたの?」

「今は俺の方がダメージが大きい気がするんだが」

 

 この話題に関してはもうどっちもどっちになってしまったので、二人はアイコンタクトで話題を変えることを了承し合う。

 

「起きたらこんな状況だったんだよ」

「変よね。私達って魔法世界の礎になったんじゃなかったっけ」

「そのはずなんだがな、さっぱり分からん」

「――――――――それはあなた達がいなくても魔法世界が存続できるようになったからですよ」

 

 ベットの上に座りながら顔を突き合わせていた二人は第三者が部屋に入って来たのも当然ながら気づいていて、ドアが外から開けられる前からそちらを見ていた。

 二人は揃って驚愕の表情を浮かべた。真っ先に姿の見えた相手にではない。先の声の人物が乗る車椅子を押す人物にこそ注目していた。

 

「茶々丸!?」

「茶々丸さん!?」

 

 多少の造形が変わり、知るものよりも遥かに自然で柔らかい笑みを浮かべてはいるが確かに絡繰茶々丸その人である。

 

「お久しぶりです、旦那様、奥様」

 

 懐かし気にニコリと笑った茶々丸はそう言って一礼する。

 

「あら、私のことは無視ですか、お二人とも」

 

 車椅子を押してもらって室内に入って来た老女は放っておかれたことに対して、言葉では不満げながらも茶々丸と同じく懐かし気な雰囲気を隠せてはいない。

 アスカはまるで自分達のことを知っているような老女に内心で誰だろうと思ってると、その横で逸早く正体に気付いた明日菜が口を手で覆った。

 

「もしかして、いいんちょ?」

「ええ、そうですわ。あなたの知る雪広あやかその人ですわよ」

 

 いいんちょ→委員長→雪広あやかへと連想ゲームのようにして辿り着いたアスカは、記憶の中にある姿と老女を見比べて、その気配を感じ取って固まる。

 

「ええ――――っ?!?!?!」

 

 やがてその事実を受け入れると口から驚愕の叫びが放たれて部屋を木霊する。明日菜は自分で言った言葉が信じれない様子で口を開けて固まっている。

 

「ふふ、十代のお二人に会えるなんてわたくしとしても不思議な感じですわね」

「本当に委員長なのか」

「その呼び方も懐かしいですね」

 

 学校を卒業してからはあやかと呼ばれていましたから、と二人が驚いている間に茶々丸に車椅子を押してもらいながらベットの近くにやってきたあやかは、ニコニコと微笑みを浮かべていた。

 年齢に変化はあるものの、確かにその表情には二人の知るあやかとの一致がある。

 

「お二人にとっては百年振りでしょうか。長い長いお勤め、ご苦労様でした」

「実感は全くないんだが、ありがとうでいいのか?」

 

 二人にとっては寝て起きた感じでしかない。ご苦労様と言われても対応に困ってしまう。

 

「しかし、百年か。こうやって生きてるとは思わなかったな」

「本当。私なんて人格を塗りつぶされてるもんだとばかり思ってたんだけど」

「どうなんだ、そこら辺」

「どう言ったらいいのかな。明日菜であり、アスナでもあるって感じ」

「わたくしが聞いた話では二つの人格が統合して記憶も経験も継承されていると窺っていますよ」

「そうなのか?」

「そうそう、そんな感じ」

 

 アスカが月日の流れと今こうしている不思議を噛み締めていると、明日菜も所詮は代理人格に過ぎない自分が未だ残っていることを感慨深く口にする。その辺の説明は上手く出来なかったが横から入ったあやかの分かり易い解釈に強く頷く。

 

「二人に触れてもいいかしら?」

 

 あやかに聞かれて別に二人が断る理由はない。

 頷きを返すと、おそるおそるといった様子で車椅子に座ったまま手を伸ばして頬に触れてくる。

 

「分かっていましたが、こうやって二人にまた会えて触れられるとは感激ですわ」

「いいんちょ、恥ずかしいんだけど」

「あら、ごめんなさい。でも、もう少しだけ」

 

 涙を浮かべながら頬を撫でられると恥ずかしい面もあるが、なんでか申し訳ない気持ちにもなる。明日菜が黙ってされるがままになってる横で、アスカも撫でられる任せる。

 すると更に感極まったのか、あやかが徐に車椅子から立ち上がった。

 

「ああ、本当に懐かし過ぎますわ!」

「わぷっ」

「きゃっ」

 

 そのままアスカと明日菜を胸に抱き締める。全く予想もしていなかった二人はあやかのされるがままになり、「大奥様、お年を考えて下さい! その役目は私が!!」とうずうずと自分の番を待っていた茶々丸が慌てた様子で手をワタワタと動かす。

 

「ふふ、115歳まで生きると感情を抑えられなくて。ごめんなさいね、つい」

 

 あやかから解放されても次は茶々丸から抱き締められ、そんなことをさせているのは自分達の所為なのだろうと負い目があった二人はされるがままに任せる。

 茶々丸の抱き締めから解放されて、ようやく落ち着いた心地であやかと茶々丸に向き直る。

 

「嘗ての友人も粗方いなくなって寂しくなっていたところです。お二人の驚く顔が見たくて長生きした甲斐がありました。先に逝ってしまった方々にも良い土産話になりますわ」

 

 感慨深げにそう言うあやかを改めて見れば、百十五歳と言った年齢に違わぬ皺が刻まれた顔が目に入る。

 

「ごめんね、随分と心配かけたみたいで」

「そうでもないですわよ。まあ、アスカさんには色々と言いたいことが山ほどありますけど」

「俺にはあるのかよ」

「他の方々からも預かってますわよ。お聞きになります?」

「結構です」

 

 明日菜にはなくて自分には言いたことがある理由に皆目見当もつかないが、物申したいことが山ほどあるとあやかの後ろに立つ茶々丸の影の映える表情が物語っており、アスカは即座に頭を下げて断る。

 クスクスと笑うあやかに不思議な感じを覚えつつも、年月の流れを感じて少しノスタルジーな気分を覚える。

 

「ねえ、この百年間に起こったことを教えてよ」

 

 アスカがセンチメンタルな気分になっていると、明日菜が率直に聞きたいことを切りだした。

 

「教えられませんわ」

「へ?」

 

 しかし、返って来たのは拒否であった。

 

「もしかして、怒ってる?」

「大奥様も今は怒ってはいないですよ」

「でも、教えてくれないんだろ」

 

 勝手に魔法世界の礎になったことを怒っているのでは戦々恐々としつつ明日菜が尋ねるが、茶々丸は柔らかく違うと否定する。

 理屈に合わないことにアスカが疑問を呈すと、苦笑を浮かべたあやかが「理由があるのですよ」と答える。

 

「だって、お二人には過去に戻って行かないといけませんから」

「はぁ?」

 

 と、この百年後の世界に生きていかないといけないと考えていた二人の口から変な声が漏れる。

 

「過去に戻るだって?」

「ええ、過去に戻る人に未来のことを教えてしまったらタイムパトロールに逮捕されてしまいますわ」

「ええと、いいんちょ。それ、本気で言ってる?」

「本当に想像通りのリアクションを取ってくれますわね」

 

 口元に手で隠しながら上品に笑ったあやかは後ろにいる茶々丸を見た。

 何らかの合図でもあったのか、茶々丸は一礼してあやかの後ろから移動して部屋を出ていく。

 

「どうしたんだ?」

「少しお待ちになって」

 

 アスカが聞くがあやかは答えようとはせず、少し待つとドアの向こうからノックが二回鳴る。

 あやかが入室を促すと、四歳ぐらい小さな少女と更に小さな二歳ぐらいの少年を連れた茶々丸が部屋に戻って来た。

 

「お待たせしました」

 

 少女少女を連れた茶々丸はベットの近くまで戻って来ると、アスカに向かって何かを差し出してくる。

 

「お二人が過去に戻る為の必要な物。航時機(カシオペア)・試作一号機ですわ」

 

 これは何かと聞こうとした機先を制して物体の概要を説明する。

 

「あ、ああ、あれか! 確かにこれなら過去に戻れるな」

「本当に戻れるの?」

「魔力も五十年分は溜まってますから十分に戻れますよ」

「やったな!」

「ええ!」

 

 最初は何を言っているのかと首を捻っていたアスカだったが、名称を言われて機能'82vい出したことで合点が行った。少し訝し気な明日菜も茶々丸の保証もあってアスカと抱き締め合って喜ぶ。

 

「ありがとう、委員長、茶々丸」

「礼なら過去のネギ先生と葉加瀬さんに言って下さい。航時機(カシオペア)を開発したのはお二人ですから」

「はぁ、あの二人がね」

「お二人が百年後に目覚めることは伺っていましたから、それに合わせて作っておいてくれたんです」

 

 流石の天才達と言うべきなのだろうかと考えながら喜びを露わにしていた二人は荷物を下ろしたように晴れやかな笑みを浮かべていた。

 

「未来のことを知っても良くありませんから、名残惜しいですが過去に戻って下さいな」

「ええ~、そう言うこと言っちゃうわけ」

「長居をされると引き止めてしまいそうになりますもの」

 

 少しは未来を体験してから過去に戻ろうかと考えていた二人は、あやかの真剣な眼差しに彼女の本音が垣間見えて深く頷いた。

 あやかと茶々丸の言葉の端々から、過去に戻ってもアスカ達は百年後までには生きてはいないらしいことは分かる。

 二人の気持ちを考えない軽はずみなことを言ったと謝辞すると、苦笑を浮かべたあやかはここは狭いからと外へと誘った。

 

「ほぇ、あれは軌道エレベーターって奴か?」

 

 促されて外に出ると、地上から天へと伸びる長い塔が目に入る。

 

「アマノミハシラと言うんです」

「へぇ、SFみたい。未来も進んでるのね」

 

 百年の年月の変化を改めて感じながら航時機(カシオペア)・試作一号機を茶々丸から受け取る。

 

「設定は既にしてあります。後はこのネジを回すだけです――――本当に戻るのですね」

「ああ」

 

 問いにパチパチと瞬きし、アスカは頷き胸を張って即答した。誰よりも力強く、誰よりも堂々と、それだけは譲れない。己が声を出したという実感は無い。自然に、呼吸をするように口から声が零れ出た。

 今にして思えば一つ一つが愛おしい。振り返るだけで、つい微苦笑してしまうような星の輝きのような時代へ戻ることに何の躊躇もない。

 

「戻っても戦いばかりだとしても、その最期が報われないものだとしてもですか?」

 

 袖の端を握りながら茶々丸が悔しそうに言うのだから、アスカの最期は碌なものではないのだろうとなんとなく推測はつく。

 どれほど幸せであっても、それは一瞬後に破壊されるかもしれない。どれほど恵まれていても、そんな環境なんて直ぐに押し潰されてしまうかもしれない。だったら造物主のように、世界を変革して幸せを確定してしまった方がいいのではないかという考えがアスカの脳裏を過る。

 そういう目にあえば、自分の考えも変わるかもしれない。甘かったのだと、楽天的過ぎたのだと後悔して、真っ当な世界などよりも閉じた世界を望むのかもしれない。

 

「……………それでもさ、やっぱり裏切れないよ」

 

 少し沈黙してアスカは困った風に微笑して、出来る限り真っ直ぐを向いたつもりで、茶々丸の眼を見据えて言う。

 

「報われるために戦ってるわけじゃないし、積み重ねた結果だとしたら仕方ない。俺は俺の信じた道を行くだけさ」

 

 自身の胸の裡を曝け出すように言葉を続ける。

 

「―――――そうですか、旦那様らしい答えです」

 

 ほう、と諦めるように茶々丸は溜息をついた。

 何かしらを悟ったような、そんな感じの溜息だった。空間の悉くに溜息は溶けていった。

 

「頑張ってください。過去の私も、皆さんも、アスカさんの道を全力で応援しますから」

「ありがとう」

 

 感謝を告げると一歩下がった茶々丸の後ろで、何故か彼女の後ろに隠れるように立ちながら見つめて来る小さな少女にアスカは見覚えのあるような気がした。

 

「今更、わたくしが言うことは何もありませんわ。過去のことは過去の人達でどうにかして下さい」

「なによ、いいんちょ。冷たいわね」

「それだけの苦労してきたのです。明日菜さんも直に分かる時が来ますわ」

 

 二人の未来を知るあやかは多くを語らず、笑みだけを浮かべて見送る体勢を取る。

 アスカが言われた通りに航時機(カシオペア)・試作一号機のネジを捻ると、溜め込まれていた魔力が解き放たれて二人の上空に大きな魔法陣が浮かび上がった。

 

「そうそう、言い忘れていましたが、この子らについて」

 

 もう少しで遥かな過去へと送られようとしている二人を前にして、今思いついたようにあやかが少年少女のことを話題に出した。

 

「なにか気づきませんか?」

「つってもな。なんとなくそっちには見覚えのあるような気がするが」

 

 同じ黒髪黒目姉弟というにはあまり似ていない二人の内、何故かアスカを凝視してくる女の子が現れた時から既視感を覚えていた。どこかで会ったことがあるような気がするのだがどうにも思い出せない。

 これぐらいの年齢であれば印象に強く残っているはずなのだが、未来人と会ったことなど一度しかない。

 

「あ」

 

 未来人など一人しか知らない。未来人という縛りで記憶を探れば該当者は一人しかいないし、想起すれば人相合わせは容易い。

 

「超鈴音か」

「ええ、あなた達の…………ええと、何代目後だったかしら。まあ、ともかく子孫ですわ」

「そしてこの子が近衛刀太。鈴音と同じくアスカさん達の子孫ですよ」

 

 驚きも一定の領域を通り越すと平静になってしまうものである。

 子供すらいないのに子孫だと言われてもピンとこないアスカは、指を咥えて見上げて来る刀太とジッと見上げて来る超の傍に屈む。

 

「ははっ、小っちぇの」

 

 頭をグリグリと小さな子供には痛いだろうと思いながら撫でまわすも超は奥歯をグッと噛んで我慢している。

 

「本当ね。あんだけ苦労させられたんだから、どうせなら恨み言の一つでも言おうと思ったけどこんな子供じゃねぇ」

 

 学園祭で超の謀で厄介事をこなさなければならなかった明日菜としては物申そうかと思ったが流石に小さな子供相手にそれをしては大人げない。

 

「いいじゃねぇか。あのことがなければ俺達は分かり合えなかったんだし」

「そうだけどさ」

「私が何をしたノ?」

 

 黙っていた超が唐突に言葉を放つ。

 

「そうだな……」

 

 何と言ったものかと考えたアスカだったが大して気にせずに口を開く。

 

「全力で俺に挑んできた。すんごい悪役振りだったぜ」

「私ガ?」

「俺はそうでもなかったけど、明日菜とか随分と苦労したらしいしな」

「他人事みたいに言うじゃない」

「怒るなって。終わったことじゃないか」

 

 少しムッとした様子の明日菜を焦って宥めるアスカの二人の姿を超はキョトンとした目で見上げる。

 純真な子供の眼差しを向ける超を見下ろしたアスカは苦笑を浮かべながら、ポンと頭に手を置いた。

 

「まあ、そういうわけでお前が大きくなって俺と戦うっつうんなら全力を賭けて挑んで来いよ。遠慮なく叩き潰してやる」

「む、これでも私ハ天才少女の名を欲しいままにしてるネ。逆に叩き潰すヨ」

「これでも世界を背負った英雄様だぞ。小指の先で倒してやるよ」

 

 ニヤリと野生的に笑って、またグリグリと頭を撫で回す。

 

「泣くなよ。別れに涙はいらないぜ」

「これは頭の撫でまわされるのが痛いだけネ」

 

 分かってて茶化したアスカの全身を覆うように魔法陣を照らすように光の柱が立って二人を包み込み、地面から光の輪が何重にも浮かび上がった。

 

「もう時間切れのようですね。お二人とも壮健でありますように」

「お元気で」

 

 体が浮かび上がり、遥かな過去へと送られようとしている二人にあやかと茶々丸が最後の声をかける。

 

「わ、私ハ貴方達に勝つネ! だから――」

 

 まるで、心をぶつけるように。自らの全てをぶつけるように言う思念。思念の渦に混じった幾多の誰かではなく、アスカを求めた声が真っ直ぐに伸びる。

 

「おう、死力を尽くして勝ちに来い。待ってるぜ」

 

 収束していく光の中で自身の身体がどこかに飛ばされていくのを感じながら、アスカは笑って挑戦を受け入れた。

 そしてブラックアウトする。

 距離感の麻痺。時間、上下左右の感覚の喪失。漠然と広がる虚空の先に、青く輝く光がぽつんと浮かんでいる。何もない闇の中にある光に引っ張られるようにして、アスカと明日菜の二人は未来から消えた。

 

「…………行ってしまわれましたね、大奥様」

 

 光の残照が辺りを照らす中で、引き止めることも出来た選択を選ばなかった茶々丸は少し悲し気にあやかに話しかけた。でも、返事がない。

 

「大奥様? ぁ……」

 

 身を沈めるように座る車椅子に上であやかは目を閉じていた。

 

「大御婆様?」

 

 光に満ちた世界に福音の鐘が鳴り響いていた。

 あやかは今は亡き人々を思った。そこで待っているであろうと愛しき人達を思った。

 長い人生という旅を終えたあやかの魂はあるべき場所へと還る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すすり泣く声が木霊する中でネギは逸早く顔を上げた。

 

「帰りましょう、皆さん。それが二人の望みです」

 

 魔力切れから回復はしていないながらも、もう前を歩いていたアスカはいない。

 代わりにはなれなくてもケジメを果たすのはネギを置いて他にはいない。苦しい役割を背負って立ち、俯きそうになる顔を上げ続ける。

 

「でも、ネギ君。みんなにはなんて言ったら」

「僕が伝えます。クラスのみんなにも、お父さんやお母さんにも」

 

 辛い役目であっても最初から最後まで見届けたアスカの半身としてネギがやらなければならないことだった。

 

「――――――後者の二人に関してはその必要はありませんよ」

 

 そこへ失われたはずの声が降りかかる。

 

「あ、アル?」

 

 忽然と一人女性を抱えながら現れたローブの男は、造物主に自爆攻撃をして消え去ったはずのアルビレオ・イマその人。彼の消滅を目撃した高畑が困惑した感じで目を見開く。

 

「いえ、私はアルビレオ・イマではありません。記憶を受け継いではいますが彼の写本。私を呼ぶのならばクウネル・サンダースと呼んで下さい」

 

 高畑の疑問を否定したアルビレオ・イマ改め、クウネル・サンダースは抱えていた女性アリカを離す。

 まるで立つことが久しぶりかのようにぎこちない動きで歩き出したアリカは倒れたままのナギをチラリと見て重い口を開く。

 

「全て終わったのじゃな」

「ああ、アスカは行っちまった」

 

 造物主から体を取り戻しても動かせない様子で答える。

 

「ネギよ、アスカが破滅すると分かっていながら止めようともしなかった愚かな親を罵ってくれて構わん。だから、そんなに抱え込まなくても良い」

「お父さん、お母さん……」

 

 ヨタヨタとネギの下へと歩いたアリカは膝をつき、その身体を抱きしめる。

 細い体と温もり、優しさと覚えていないのに懐かしいと思える匂いにネギの目に涙が浮かぶ。

 

「ごめんなさい、僕がもっと上手くやっていれば」

「自分を責めるな。お前達にそうさせた俺達が全部不甲斐なかった所為だ」

 

 悔し気に唇を噛み、際限なく自らを責めるナギに彼のことを嫌っていたクルトですら何も言えない。

 

「ちくしょう、どうしてこんなことになっちまったんだ」

 

 世界が救われても、これでは誰も浮かばれない。ナギの悔し気な声が全てを物語り、木乃香が親友がいない現実を認められない中で流した涙が風に吹かれて零れ落ちたその瞬間に異変が生じた。 

 

「……え」

 

 少女の吐息が止まる。

 心を慟哭させていた木乃香に、或いは神の気紛れか、悪魔の気紛れか。

 頭上に映っている世界樹が突如、光りだした。

 学園祭の時よりも、決戦の時よりも、激しく光が収斂して蜃気楼の如く空を歪ませるほどに絢爛に輝く。

 朝焼けの空に、そこだけ間近に太陽が生まれたように輝き、細かな上空で紫電を纏わせた上、強烈な風を地上へ吹き付けていた。

 

「……っ」

 

 自然現象としてはありえぬ出来事に、刹那が覆い被さって来るが何故か木乃香は別種の安心感を抱いていた。

 世界樹上空で絢爛と輝き集まった光は何が何だか分からない明日菜を尻目に、限界までエネルギーを溜め込んで遥か上空に打ち放った。

 両世界の中心で虹色の輝きが迸った。

 その輝きの中心に何かが生まれる。同時に耳鳴りにも似た甲高い音を辺りに響かせる。離れた場所と場所とを繋ぐことで生じる空間の歪みの際に稀に生じる発光現象に似ているとは、木乃香には分からない。

 

「―――――!」

 

 無性に胸を焦がす予感と共に見上げていると、眩い輝きが収束すると光の中から人影が姿を現した。

 光は一つの形を成していく。彼女が求め、焦がれ、追い求めた希望。世界樹が、まるで世界を救ったご褒美に彼女が最も求めた人を帰そうとするように。

 光の中から生まれたように転移してきた短い金色の髪の男と亜麻色の髪を黒い布で束ねた少女―――――アスカ・スプリングフィールドと神楽坂明日菜が墓守り人の宮殿へと降り立つ。

 二人は閉じていた目をゆっくりと開いた。

 

「…………帰ってきたよ」

 

 聞き覚えのある――――――大好きな声。

 数秒か、数分か。世界が凍結したかの如く、アーニャは言葉を失っていた。目の前にいる二人があまりにも大切で、大切だったからこそ、迂闊に信じることが出来ないようだった。

 

「ただいま」

 

 悠然と背筋を伸ばしたアスカが放つ声は消して偽物であるはずがなく、自然とアーニャの口元に笑みが零れ落ちた。

 アーニャは胸の中に深く呼気を流し込むと、それを吐き出した。冷たい空気が心地良い。再び息を吸った。今度は、たいして深くはなく。澄んだ空気が、これ以上はないほどに肺を満足させた。

 一歩、小さく、まるで生まれて初めて脚を動かす幼子のようなぎこちなさで、前へ進んだ。

 

「遅いわよ、馬鹿」

 

 アーニャの、みんなの胸で湧き上がる想いは山のようにあって、けれど、喉に上がる言葉は一つだけ。

 どれだけ会いたかったか、どれだけ待たされていたかは、もう意味のないことだ。守り抜いた末に出会えたものがあった。生き抜いた先に尊いものが残った。

 アーニャは崩れるように微笑んで口を開く。

 

「お帰りなさい!」

 

 アーニャの言葉を合図としてみんなが二人に飛び掛かる。

 

「全員で飛び掛かって来るなよ!? 重いっての!!」

「潰れる~っ!?」

 

 押し潰されたアスカも明日菜も、飛び掛かったみんなが笑顔だ。

 

「お帰り、アスカ」

「お帰りなさい、アスカ」

 

 真っ先にアスカに飛びついたネギとアーニャにアスカが返す言葉は一つだけ。

 

「ただいま、ネギ、アーニャ」

 

 帰ってきた事を伝えるただ一つの言葉。待ち侘びた言葉が返って来て、二人の歓びの涙が最上の笑顔へと変わっていた。

 これからは科学と魔法が入り混じった混迷の時代が訪れる。

 未来には無限の選択肢が与えられている。その中の一つを選び、未来へと続く道を歩いて行く。どの道を選んだとしても、そこには沢山の障害が待ち構えている。時には傷つき、足踏みすることもあるだろう。行き止まりになっていて、引き返さなければならない時だってあるかもしれない。結末は誰にも見えない新たな未来の始まり。この先、どれほどの困難が待ち受けていようとも決して足を止めることはない。

 終わりの、その先の物語がこれから紡がれていく。

 

 

 

 

 



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あとがき+各キャラクターのその後

連続投稿を行っていますので日時と話数を確認してからお読みください。





 

 

思えば長い道のりでした。

 

掲載開始は2014年05月05日(月)。三年と少しをかけてようやくここに完結です。

 

予告を抜けば97話、文字数にすれば二百万後半にまで至りました。

 

自分でも何回か一から読み直しましたが長いです。本当に長いです。書いている途中で何度も飽きるぐらいに長いです。

 

途中でネタが切れたり、やる気が無くなったり、方向性がブレブレになったり、何度も止めようと思ったことか。

話数が多すぎて纏めたり、逆に分離したり、構成し直したりと、苦労は多いものです。

特に修学旅行のハワイ編とか。後の展開に影響しないように悩みました。

 

最後までの話の道筋が出来たのは学園祭編の途中からでしょうか。

 

UQホルダーまで組み込んだ所為で余計にこんがらがりもして、『第52話 最悪の敵』から次まで半年も空いたりして。

 

今年に入ってからは割とコンスタントに更新できたのは、今年中に完結出来なければ終わらせられないかもと危機感を覚えた次第でもあります。

 

なんとか無事に完結も出来たことでもあります。

今まで付き合って下さった方々に深い感謝を

 

以下の各キャラのその後は駄文ですので自己責任で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〇アスカ・スプリングフィールド/神楽坂飛鳥

  ・二代目千の魔法使い(サウザンドマスター)と呼ばれ、後の世において人々の口の端から自然と立派な魔法使い(マギステル・マギ)と呼ばれるようになる。

   千人の子供を作った男、神魔殺し、存在がチート、つうかアイツ死なねぇんだけど、金鷲、世界一有名な公務員、時代の破壊者、時代の守護者との仇名がある。

   本来ならば死産となったはずだったが、ネギの泣き声によって生き永らえた。コンセプトは小さなナギ。苦難を笑い、絶望に挑み、悪をも救う正義の味方。

   現実に直面し、過去を受け入れ、世界を知ることで英雄の階梯を登って行った。

   魔法世界最終決戦で旧世界に魔法がバレた張本人にされている(本人は不可抗力と言っている)。その所為で地球の魔法拒絶派、以後『地球主義』に長年恨まれることになる。

   中学三年の大晦日に復活した魔神を倒したことや、大小様々な神魔を倒して来たことで神魔殺しとも呼ばれ、魔神や神魔を崇拝する『魔神教団』の標的にもなる。

   火星のテラフォーミングの為に旧世界の手を借りざるをえず、そのことで『火星独立派』にも狙われる。

   中学校を卒業後、魔法世界と魔界の融和を目的として麻帆良に新設された三界を受け入れる高校に強制入学される。

   高校入学して直ぐに明日菜の妊娠が発覚し、学生の間は節度のある関係をと言い続けていた高畑がブチ切れ、便乗した紅き翼と巻き込まれたネギ達による第一次スプリングフィールド裁判で有罪で宣告され、アスカvsそれ以外全員の戦争が繰り広げられてエヴァンジェリンの別荘が壊れる。エヴァンジェリンがブチギレて場を壊し、明日菜の仲裁のお蔭でアスカはなんとか生き延びる。

   英雄であるアスカの高校卒業後の進路が取り正されるが、夢であった正義の味方になる為、増え始めた魔法犯罪、魔獣・魔法災害に対応するために新設された、世界の垣根を越えた捜査権と逮捕権を有する魔法特別捜査官になる。

   高畑に教えを請いながら捜査官を一年と少し続けていたが、あまりの激務にアスカが倒れそうになるほどで、そこにアリアドネ―を卒業した後で魔法世界の学位が旧世界で通用しないことを知らずに大学を受験しようとして出来なかった夕映を引き込んで助手にする。

   それでも手が足りず、他の面々も続々と引き込む。

   軌道に乗って後進が育っていくと徐々に現場から手を引いていき、NGOを新設して白き翼を作って様々な行動を始める。

   弱点は酒癖の悪さと女関係の不運であるとされている。

   その弱点を突かれて何度も窮地に陥り、死にそうな目にあっても改善されないのは最早運命とすら称された。

   後にスプリングフィールド一族と呼ばれるように彼らが生まれたのは一重にこの件が大きい。

   四十代の時に地球主義、魔神教団、火星独立派の策謀によって召喚された外なる神を異界へと押し返し、そのまま戻って来ることはなかった。

   だが、その後にもアスカの目撃例は続き、新たな神話となる。封印されているアスカの投影体か、外なる世界にいるはずのアスカかは不明。

 

 

 

〇神楽坂明日菜

  ・黄昏の姫巫女、世界で一番有名な英語教師、つうかあの人に魔法消されるんですけど

  ・百年の頸木から解き放たれ、中学卒業後は新設された高校にアスカ共々入学する。本人は至って乗り気で、過去の自分と人格が統一したからか学力が上昇して勉強が楽しいらしい。

   中学卒業前にアスカに襲わせ、妊娠する。ライバルが多いので全ては策略の上である。子供が自分の能力を受け継がなかったことには喜んだが、当の本人が苦しんでいたことには申し訳ないと思っている。しかし、まさか生まれた息子が将来連れて来た相手に彼女もびっくりした。まあ、変な相手を連れて来るよりかは息子を支えてくれた人だから割と受け入れた方。

   人格が統合した所為で価値観まで微妙に変わってしまい、木乃香の策に嬉々として協力する。彼女曰く、側室はべつにいてもいいけど正妻は自分。それが守れるなら家族は多い方がいいじゃない、らしい。

   高校卒業は大学に進んで教育学部を専攻。高畑の背を見てきたので教師、それも英語教師の道を歩んで高畑を男泣きさせた。

   アスカが大人の苦みを醸し出すようになると毎日キュンキュンしまくり、オジサン趣味は真正だった模様。

   中学以来、戦いの場からは完全に遠ざかり、アスカも自身の仕事を手伝わそうとは決してしなかった。周りも非日常に戻ることを望んでおらず、彼女自身は一介の英語教師として定年まで過ごすことになる。

   その最期は子供や孫達に囲まれて安らかに亡くなった。

 

 

 

〇ネギ・スプリングフィールド/宮崎根木

  ・二代目千の魔法使い(サウザンドマスター)の片割れ、魔導学の父、頭脳チート、あの人の頭の中身はどうなってんだ?

   高校には生徒として通い、アスカ達と勉学に励んで日常を楽しんだ。大学は新設されたばかりの魔法学科に進み、葉加瀬と共に安全の為に広められた反魔法場(アンチマジックフィールド)発生装置下でも使える魔法の開発に着手。

   魔導機(マジック・デバイス)を作った葉加瀬が魔導学の母と呼ばれたように、後に魔導学の基礎理論を作り出す。その他にも様々な論文を発表して魔法や魔導学の発展に貢献。

   その他にもマルチな才能を発揮し、アスカの手伝いをしていた。

   こと既存技術の改良と新理論の構築において横に並ぶ者なしと称されるほどになり、歴史の教科書にも偉人として載っていて、百年後においてはスプリングフィールドといえば、まずネギを連想するものが多いほどである。

   六十代後半頃、講演中に魔法存続を叫ぶ少年によって暗殺される。

 

〇アンナ・ユーリエウナ・ココロウァ

   ・英雄の介添え人、スプリングフィールド兄弟の手綱

    中学卒業後はウェールズに帰る気だったが兄弟よって阻止され、仕方なく一緒に高校に通うようになる。英雄級の二人の暴走を止められるのが殆どおらず、周りに被害を出さずに静止できるのが自分一人だけだったため、結局ウェールズに帰ることは出来なかった。

    アスカと明日菜の子供には才能がなく、自分を投影しながら面倒見ていたら好かれ、まさかの十五歳になった時にプロポーズされる。幼馴染の子供と付き合う気はなかったのだが勢いに押されて負ける。婚約者紹介の場で登場してアスカを卒倒させた。

    結婚を機に旦那は人心掌握とカリスマ性を爆発させ、アスカが作った白き翼を二人で発展させていくことになる。

    この二人の子供が超鈴音に繋がっていくことになる。

 

 

 

〇近衛木乃香

    ・極東の姫君、癒しの乙女等々……。

     秋に京都に行った際に鬼神の復活に立ち会うことになったが、味方の過剰戦力の為にポテチを食べながら見学しており、生贄にされるなんてことはなかった。そこに性転換して現れた月詠が刹那にベッタリでやきもちを焼く。

     その状況は数年間続き、このままでは刹那が奪われると思って一計を案じ、アスカを罠に嵌める。この機会にと他にも巻き添えを一杯作り、同年に生まれた子供が多かった。

 

 

 

〇桜咲刹那

    ・姫君の剣士、白翼の貴人、なにか不憫な人

     アスカが立ち上げた白き翼のモチーフになった人。

     月詠に名前を与えたら物凄く懐かれてしまい、ストーカーの被害に遭う。月詠的には木乃香との接し方をこっちの方が良かったんじゃないかと思ったらしい。

     自分を解き放って呪縛から抜けたことで実力がどんどん上がり、このままではいずれ襲われると恐怖感を募らせたところで木乃香の策に絡めとられた。やっぱり元の方が良かったんですか、と聞かれて首を勢いよく横に振る刹那の姿があったとかなかったとか。

 

 

 

〇犬上小太郎

    ・高校卒業後は大学に進学することはせず、千草の結婚を機に泣きながら武者修行の旅に出た。心配してついてきた夏美と数々の冒険を潜り抜け、最後は人生の墓場に収まった。先に待っていたアスカの心の底からの祝福に拳で返す小太郎。

     アスカの仕事を手伝いながらも自己鍛錬に余念はなく、アスカが行方不明になった後は世界最強の男と呼ばれるようになるが彼自身は一度もそのことを認めようとしなかった。

   小太郎は年を取って益々強くなってアスカを越えたと言われるほどになったが、老年になって死病に侵された死期を悟り、引導を渡してもらうために頼んだ四代目千の魔法使い(厳密には魔導士の為、魔法使いではない)との戦いの前に荒れ果てた地で亡くなっていた。その顔はとても満足そうであった。

 

 

 

〇天ヶ崎千草

    ・何故かアスカ達の高校進学に合わせてそちらに移動になり、また担任をやらされる羽目になった苦労人。

     アスカ達の卒業前に酒を飲んだら同僚とゴールインしてしまった。理由は本人達にも分からなかったらしい。

     飛び出して行った小太郎を心配していたが、夏美が捕まえて戻って来たので安心する。

     結局、その後も教師を続けることになり、同僚となった明日菜の指導員もやることになった。

 

 

 

〇宮崎のどか

    ・生涯に渡ってネギを支え続け、ネギもまた彼女一人を愛し続けた。

     夫は暗殺されるが誰も憎むことなく、子供や孫達に囲まれながら暮らしたという。彼女もまた戦いの場に立つことは一度もなかった。

 

 

 

〇長谷川千雨

    ・電子の女王、ツンデレの神、コスプレハッカー、世界最高のPG、人類最後の壁

     高校はアスカ達と別れたが交流は途絶えることなく、中学卒業後は波乱のない学生生活を送っていたがどこか物足りなさも感じていた。

     大学に進学しても物足りなさは消えていなかったが、魔法特別捜査官として働いていたアスカに誘われ、ネット系の仕事を手伝うようになる。

     茶々丸の協力もあってプログラマー、ハッカーとしては世界最高とも称され、彼女が作ったセキュリティは人類最後の壁とまで呼ばれていた。

     木乃香の策に嵌められた一人。

 

 

 

〇ネカネ・スプリングフィールド

    ・アスカ達が中学校を卒業後は教師を止め、高校の寮の寮母となって生活を支える。

     寮母を三年間続けた後はウェールズの村に戻って村の発展に寄与し、言葉通りにアスカのその手中に収める。

     兄弟もどちらも婿入りの為、彼女の子がスプリングフィールドを継いでいくことになる。

     子供はアスカの容姿・能力を最も色濃く受け継ぎ、三代目千の魔法使いと幼い頃から称される。

     性格はネギとアスカが合体したネスカよりも傲岸不遜、だが勉強を嫌がらず、格闘センスはぴか一。強さと魔法使いを両立させ、真なる千の魔法使い。しかも女たらしでハーレム体質で本人に自覚なし。

     様々な女に好かれるが、十五歳の頃、地球主義と魔神教団、火星独立派が作った外なる神の扉を持つ少女と出会い、恋をする。

     神話の怪獣、合成獣魔、神話複合体0号、旧世界同時核爆弾発射、等々、様々な巨大な敵達を打ち倒したアスカだが疲弊したところに、外なる神がいる世界の扉が開かれたことで、その扉を閉じる為に外なる世界に行き、その後戻ってこなかった。

     子供は既に超えたと思っていた父の偉大さと強さを実感し、失った物の大きさを嘆いて発奮して覚醒。

     三代目千の魔法使いとして様々な仲間を率いて世界の為に戦い、地球主義・魔神教団・火星独立派を壊滅させる。

     その後、能力を喪った少女と共に第一次火星開拓団に従事する。

 

 

 

〇エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル/雪姫

     ・英雄の師匠、福音を告げる者

      アスカとネギの師として世界中に改めてその名が響き渡った。正のイメージが広まっても様々な問題が起こるが、彼女はその全てを乗り越える。

      アスカが酒を飲める年齢になって共に酒を飲んだ時に前後不覚になってしまう。その時にUQホルダーの立ち上げを始めたのだが、何故か数ヶ月の間に体が急成長してしまう。

      数年後、彼女の傍らには彼女に良く似た子供が…………。

      二人を育て上げたことで人を育てる喜びを感じ、大学に通って教師となる。日本を気に入っていたこともあって帰化して中学の教師となるとは誰も予想していなかった。

 

 

 

〇ナギ・スプリングフィールド、アリカ・アナルキア・エンテオフュシア

     ・造物主から体を取り戻した後はアリカと共に京都の別荘で静養する。休みごとに訪れる子供達の話を何よりの楽しみとしていたいが、このまま隠居する気かとアスカに尻を蹴り叩かれて魔法世界の様々な問題に着手する。

      アリカは王国の再建を求められたが彼女は一度滅びした自分にはその資格がないと固辞。

      夫婦共に魔法世界のみならず、地球、魔界の三界の交流を促進する。王国の再建はまだ若い夫婦の新しい子供達の手によって果たされることになる。

 

 

 

〇絡繰茶々丸

     ・エヴァンジェリンの従者をしながらもアスカの仕事の手伝いをしたり、アスカに囁いて千雨を引き込んだ張本人。

      アスカの子供達を世話することに無上の喜びを覚え、日々日々感情が豊かになっていく。

      百年後も活動している数少ない一人である。

 

 

 

〇明石祐奈

     ・魔法が明らかになり、母のことも父から聞いて全部を思い出した。

      母が死んだ事件の真相をアスカと共に明らかにし、一晩泣いた。その後は母の後を継いでエージェントとなり、組織を見張るつもりでいたら仕事が一杯一杯になったアスカにアスカに引き抜かれた。

 

 

 

〇朝倉和美

     ・さよの遺言を守り、集めた情報を纏めて発表して世界的ベストセラーを何度も受賞する。ジャーナリストとして真実を常に映し続ける。

 

 

 

〇長瀬楓

     ・鍛錬を続け、高校卒業後は一度里に戻るがアスカの救援に叫びに応え、諜報員といて働くことになる。のだが、何故か故郷に帰ると蒼い目を子供がいたりする。

 

 

 

〇古菲

     ・楓と同じように高校卒業後に国に戻るのだがアスカの声はかからず、自分から売り込みに行った。

      彼女の繋がりが超へと繋がっていくキーパーソンの一つとなる。

 

 

 

〇龍宮真名

     ・アスカが白き翼を立ち上げて難民支援などの行うとその業務に入って来る。長命であることを利用して戦いのみならず、経済の勉強も始める。子供達に笑顔を、という信念は決して揺るぎはしない。

      高畑の跡を継いで麻帆良学園都市の学園長に就任することになる。

 

 

 

〇雪広あやか

     ・アスカの後援者として日夜支え続け、木乃香の策に嵌められちゃった人。でも、子供も孫も出来て割かし幸せだからいいかと開き直った。

      アスカと明日菜から百年後の話を聞き、意地でも生き抜いて見せようと頑張った人。

      超が生まれて来て本家暮らしになった時にクラスメイトの超を思い出して、ちょっといじわるになって苦手な印象を抱かれる。

 

 

 

〇高音・D・グッドマン

     ・愛衣と共にメガロメセンブリアのエージェントとなるが、祐菜に声が掛かったのを聞いて愛衣を引っ張って自分から行った人。生涯、アスカの天敵認定を受けた稀有な人物でもある。

 

 

 

〇高畑・T・タカミチ

     ・明日菜の中学卒業を見届けてしずなと結婚を機に教師を止めてNGOの活動一本に絞るが、高校入学後の明日菜の妊娠にブチ切れ。第一次スプリングフィールド裁判を引き起こした。

      木乃香の策に引っ掛かって第五次スプリングフィールド裁判開いた時は夏休み時よりも次元違いに強くなっていたアスカをして死を覚悟させた鬼ぶりであったという。

      近右衛門の後を継いで学園長になり、その後を真名に託す。

 

 

 

〇近衛近右衛門

     ・最も激動な時代の麻帆良を纏めなければならなかった人。三界共同の高校やら地球は初の魔法大学とか十年間はおちおちと死んでもいられなかった。

      高畑に後を継いだ後はめっきり老けて、曾孫たちに囲まれて亡くなった。

 

 

 

〇クルト・ゲーデル

     ・新オスティア総督から一時は元老院のトップにまで上り詰めるが、アスカ達の妹が冗談で言った王国再興を真に受けて職を辞して奔走する。

      王国を再興し、初代宰相の座に収まった彼の手腕に誰もが絶句した物である。そして魔導学の母の夫としても知られている。

 

 

 

〇トサカ

     ・アスカの紹介でアリカと再会し、感涙に咽び泣く。王国再興に飛びつき、まさか騎士団長になるとは誰も思いもしなかった。

 

 

 

〇ホームレスの亜人少年、ブラット

     ・亜人少年はアスカに感化されて傭兵となり、ブラットと出会って彼に師事してやがて魔剣を受け継ぐことになる。

      三代目千の魔法使いの兄貴分とされる紅い魔剣のよう傭兵かもしれない。

 

 

 

〇フェイト・アーウェンルンクス

     ・情状酌量の余地が認められて死罪とはならず、魔神戦においても大きな働きをしたとして魔法世界のエージェントとして働くことになる。家に帰ると珈琲が淹れるのが巧い少女とメイド服を着た五人組が待っている。

      アスカとは何時までたっても反りが合わず、会う度にメンチを切り合う仲である。

      百年後においては世界の守護者であり、銀河系最強最高の魔法使いとして知られている。

 

 

 

〇ザジ・レイニーデイ

     ・二学期開始と共にひょっこりとクラスに戻ってきた人。魔神戦において大きな役割を果たした人。

 

 

 

〇綾瀬夕映

     ・中学卒業後、アリアドネ―に渡ってそちらを卒業してから地球に戻って来たのだが学位が地球では認められず、就職浪人したところを仕事でてんてこ舞いになっていたアスカに助手として真っ先に引き入れられる。

      捜査の才能を見せ、人に教えるのも上手いこともあってアスカの後釜に据えられた。本人はアイツ逃げやがったと叫んだそうな。

 

 

 

 

 

 

〇超鈴音

     ・アスカと明日菜の子供がアーニャと子供を作って、その子供が古菲の縁を辿って中華系と結婚。本流からは外れたがやがて超が生まれることになる。

      超が生まれて才能を開花させ、本家で家族と共に暮らしていると百年の眠りから目覚めたアスカが初恋。実は相坂さよの転生体。

      アスカが無責任に煽った所為で超が本気になり、学園祭で当の本人が苦労することになる。

      彼女の存在が歴史の規定事項と組み込まれているが、卵が先なのか鶏が先なのか、その問題に突っ込んではいけない。

 

 

 

 

 




これにて完結です。今までありがとうございました。

次回作でまた会いましょう


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