命が惜しくば、俺を好きだと言ってみろ。 (まつりお)
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1 そうして魔王は勇者に手を差し伸べた。

 そこはすべてが終わっていた。

 音も、空気も、命も、景色も、何もかもが終わり果てて朽ちていく瞬間を切り取っている。

 

 崩れ落ちた宮殿だった。今まさに破壊されたばかりのそれは、いずれ廃墟となって大地が満ちる以前の、なにもない虚無に満ちた空間だ。

 遠くからみれば、それが戦闘痕であることがすぐに見て取れるだろう。しかし、未だ破壊されたばかりのそれは熱を持っており、そもそもこの戦闘痕の中心に近づくことは難しい。

 激しい戦闘の痕であると言える。

 

 当たり前だ、この戦闘は、この世界の頂点同士の戦いだったのだから。

 

 宮殿の中央、破壊の中央、戦闘の中心に、二つの影があった。

 

 一つは男だ。齢二十ほどの美麗な面構えと、屈強で精根な体つき。しかし、今はそれが見るも無残なほどに崩壊している。片腕と片足がちぎれ、腹には巨大な空洞がある。死屍累々――まもなく死を迎えるのは疑いようのない状態だった。

 

 もう一つは女。齢は十八とそこら、小娘と美女の半ばにあるような体つき。絶世の美貌は、しかしその半分が血に塗れている。胸には鋭い漆黒の刃が突き刺さっており、こちらも死が間近であることが伺えた。

 

 そのことから、この戦闘が最終的に相打ちに終わったことが理解できる。

 互いに崩れ落ちた柱と瓦礫に背を預け、互いに視線を一切ぶつけることなく――もはやそんな気力すらなく――息は絶え絶え、今にも力尽きるだろう、といった状態。

 

 両者は宿敵としか言いようのない関係だ。なにせ――

 

「――――は、ァ……ぐ、」

 

 にらみつける女に、男が声を書ける。

 

「無理……を、するな……“勇者”――リーンヒルド」

 

 精一杯の薄い笑みを浮かべて語る男に、“勇者”と呼ばれた女、リーンヒルドは吐き捨てるように大きく嘆息をしてから、鋭く男を睨む。

 

「アンタに……言われる、筋合は……ない。“魔王”グレイスヒルター……!」

 

 “勇者”が敵意を持って“魔王”の名を呼んだ。

 それで答えは十分だ。魔王グレイスヒルターと勇者リーンヒルドは激戦の末相打ちとなった。勇者が魔王を道連れにする形で、戦いは終わりを告げる。

 

「ク……ハハ、お前は……最期まで、変わらないな。その顔も、その表情も」

 

「うる、さい……見るな……アンタなんかに、見せるために、こんな顔してる……わけじゃない」

 

 吐き捨てるようにしながら顔を伏せる勇者を、魔王は楽しげに笑いながら見る。その視線がまた不快だったのか、勇者はキッと魔王を睨みつけながら顔を上げた。

 

「アンタが、したことを……許すつもりは、ない……! アンタはここで、アタシと死ぬのが……お似合いよ!」

 

「……」

 

 その言葉に、魔王の笑みがふっと消える。

 なんとも言えない、微妙な顔を魔王はしていた。苦々しいとも、悲しげであるとも、退屈そうにも視えただろう。

 少なくとも、好意的なものではない。

 

「……そうか、お前は最期まで……知らずに逝く、か」

 

「なに、よ……何か、言った?」

 

 その言葉が勇者に伝わることはない。所詮は魔王の独り言。何より聞かせたいとは思えなかった。魔王の言葉など聞き入れるはずがないし――

 

「俺は……お前の選択を、肯定するとしよう」

 

「訳のわからないこと……言ってんじゃないわよ」

 

 魔王は首を横に振って、話を打ち切る。勇者もそれ以上追求することはなかった。少しの沈黙の後、勇者が咳き込む。いよいよ、意識が薄れてきたのであろうことが見て取れる。

 

「……なぁ、勇者リーンヒルドよ」

 

 ぽつり、と魔王はつぶやいていた。

 口にせずにはいられなかったのか、思わず口をついて出ていたのか、喋りだしてなお、それがわからない。ただ、勇者が聞いているにしろ、いないにしろ、魔王の口は止まらない。

 

「この世界は、お前の思っているような世界では……ない。美しくもなければ……正しくもない……だが、お前は、正しい」

 

「なに、を……」

 

「お前のような人間は、正しいのだと、俺は……思う。正義とは、善とは、お前にこそ……相応しい、と」

 

「……私、は、勇者よ。魔王を倒し、世界を……っ、救う」

 

 それ以上、言葉を紡げなかった。勇者は苦しそうに顔をしかめて、魔王の言葉を聞くことしかできない。その手から、急速に力が失われていくのを彼女は感じているはずだ。

 もう、目を開けていることすらつらいだろうに、それでも気丈に魔王を睨みつけてくる。

 

「勇者よ――」

 

 見ていられない。

 きっと、その時の魔王は、そう思っていたはずだ。

 

 

「命が惜しくば、俺を好きだと言ってみろ」

 

 

 口に出していた。

 

「そうすれば、命だけは助けてやろう」

 

 ――ああ。

 

 言ってしまった。

 

 こんなこと、口にするべきじゃなかった、絶対に。だって答えはわかりきっているのだから。聞くまでもない事なのだから。聞くべきじゃなかったことなのだから。

 

 勇者の顔を見れば分かる。一瞬、何を言われたのかわからない、そんな呆けた顔をした後、もう一度こちらを睨み返してきた。

 

 ああ、お願いだ。

 

 

「――――絶対に、嫌よ」

 

 

 そんな顔をしないでくれ。

 命が終わるその一瞬に、敵意だなんてつまらない顔をしないでくれ。

 魔王もまた、意識が薄れてゆく。

 

 気がつけば、二人の間には瓦礫が落ちてきていた。

 

 もう、勇者の顔は覗けない。彼女の目を見ることはできない。魔王は、そのことを最後に悲しんで――

 

 

 そして今生から意識を手放した。

 

 

 <><>

 

 

 それから、三百年の時が流れた。

 時代は代わり、魔王の名は文献の中にひっそりと残されるのみとなった。大陸の覇権が人の手に渡ってから長い。魔族と呼ばれる存在が人々を脅かしていたのは、もう過去の話だ。

 少なくとも、この時代を生きる上でそれを意識したことはない。

 

 平和な時代だ、と思う。大きな戦争もなければ、魔族や魔獣による災害もない。長い人の歴史でみれば、それが幸運な時代であることも、稀有な時代であることも分かる。

 だが、その上で退屈な時代だ。

 

 魔王グレイスヒルター――今生においては公爵貴族グレイス・ヒルドレッドはそう感じていた。

 

 魔王はあの戦いの後、人に生まれ変わっていた。魔王の力の中に、そういった力が存在していたのだ。とはいえ、今のグレイスに魔王としての力はない。他人よりも優れた“魔力”を有し、“魔術”の知識に長けているが、それだけである。

 

 それ自体に不満はないが、今の時代は退屈であるとグレイスは強く感じていた。貴族として生まれ変わり、何不自由なく育てられてきたが、それはグレイスの思い描いていた人の生活ではない。

 人は人と交流する生物なのだ。平民であれば酒場で飲み交わし、貴族であれな社交界で語らうものではないのか。

 それに対して今のグレイスはどうだ。基本、家から出ることは許されず、人との接触などほとんどなく今まで生きてきた。

 

 限界が生じるのは当然。グレイスは従順な少年ではなかったのだ。仮にも、かつては世界を脅かした魔王だったのであるからして。

 

 

 結果、グレイスはその日、ついに家を抜け出した。

 

 

 いくら人の世に疎く、町中に出たことのないグレイスでも知っている。硬貨がなければ買い物はできない。故に家にあった金貨を大量に懐に入れて、グレイスは興味深そうに街を眺めながら歩いていた。

 あえて確認するが、グレイスは公爵貴族である。落胤であるという特殊な事情こそあるが、その出で立ちは貴族然とした、街を歩くにはあまりにも場違いな格好をしている。

 護衛もなし、年格好は成熟しているが、大人とは言い切れない年若い青年貴族がお上りさんのように街を歩いている姿は、当然ながら周囲の視線を集めた。

 

 そんなことつゆ知らず、人通りを楽しそうに眺めるグレイス。スリや盗人に散々その姿をアピールしながら、けれども彼はそんなこと気にした様子もなく街を歩いて――

 

 ふと、人だかりを見つけた。

 

 グレイスの周囲はグレイスに対する不躾で疑問に満ちた視線で溢れていたが、その場所だけは違った。人の意識が、グレイスではないなにかに集中している。

 果たしてそれは見世物か、はたまた大道芸か、よっぽどな光景なのだろうと思ったグレイスはそちらへ足を向ける。人の生活は大変興味深いものだったが、イベントが圧倒的に足りていなかったのだ、興味と若干の興奮でそちらへ近づいたグレイスは――

 

 

「――亜人の娘が! こんなところで何をしている! 汚らわしい!」

 

 

 その叫びに、一瞬で興味を消し飛ばされる。

 

 若干浮かんでいた笑みがさっと引いていく。こんなものを楽しみにしていたのかという自分への嫌悪と、この場に飛び交う感情が悪意であることに気がついて、途端にグレイスはそれが気持ち悪く思えてならなくなった。

 悪意が悪意によって肯定されている。そして彼らはそれを疑問にも思っていないのだ。

 

 ――今の時代、人間が支配するこの大陸で排斥される存在がいる。獣の耳と尾を持つ人間。亜人と呼ばれる種族だ。

 彼らは人と何ら変わらない。ただ人よりも身体能力に優れる代わりに、魔力を有さないという特性を持つだけ。

 

 そんな彼らが、今は弱者として迫害の対象にあった。

 ただ人と少し違うというだけで。魔力を有していないというだけで。

 

「おい」

 

 ――不愉快だ。

 そう思った時、すでにグレイスは動いていた。

 怒りを込めて呼びかける。

 

 途端。

 

 すべての視線がグレイスへと向いた。

 

 ――悪意がグレイスへ矛を向けたわけではない。グレイスが惹きつけたのだ。声が、雰囲気が、形相が、グレイスの怒気を一瞬で群衆に伝えた。

 ただ、それだけのことだった。

 

「な、え――き、貴族様?」

 

 いるはずがない、という困惑の声があちこちから起きる。それはそうだ。ここは平民の街。貴族が一人で歩いているわけがない。少なくとも、彼らの人生においては初めての体験だった。

 

 その上で、貴族が今にも自分たちを殺してしまいそうなほどに睨みつけてくるとしたら。

 

 それはもはや恐怖体験以外の何物でもない。

 

「――通行の邪魔だ、消えろ」

 

 グレイスは端的に告げる。

 効果は覿面。蜘蛛の子を散らすように一瞬で人々はその場から逃げ出していく。もちろん、グレイスはそんな連中に興味などない。

 もっと言えば、亜人の娘とやらにもそこまで興味はなかった。もとより外に出た興が削がれたというのが大きいが、グレイスが気に入らないのは人の悪意であり、亜人の少女ではなかったのだから。

 

 しかし、

 

 ふと、足が止まった。

 

 少女の顔が目に入ったからだ。

 

 端正な顔つきをしていた。目元は愛らしく、けれども強い意志に満ちている。先程ああして大勢に囲まれていたときも、強く相手を睨みつけていたのだろうと伺えた。

 ローブで身体を隠し、耳を隠していただろうフードが取り払われた状態で、赤髪の少女がこちらを呆然と眺めている。

 

 燃えるような赤髪だ。周囲から迫害されるであろう環境で暮らしていながら、一切くすむことのない美貌を伴った髪。

 それもまた、少女の美しさに拍車をかけていた。

 頭には猫の耳。彼女が猫の亜人であることを示している。

 

 しかし、何よりも特徴的だったのは――

 

 グレイスはその顔に、見覚えがあったということだ。

 

 そして同時に、

 

 少女もまたグレイスを見て目を見開いていた。きっとこの時、二人は完全に同じ顔をしていただろう。驚愕に驚愕を重ね合わせたかのような、そんな顔を。

 

「な――」

 

「……んで」

 

 二人は、ついに声を揃えて相手の名を呼ぶ。

 

 

「――どうしてここにいるのよ、グレイスヒルター!」

 

「なぜ、亜人となっている。リーンヒルド!?」

 

 

 魔王、グレイスヒルター。

 

 勇者、リーンヒルド。

 

 ――三百年の時が過ぎ、グレイスヒルターは転生を遂げた。公爵貴族グレイス・ヒルドレッドとして。しかしこの時、彼は思ってもみなかったのだ。

 勇者もまた、転生を果たしているということに。

 

 まるで二人は惹かれ合うかのように。

 

 魔王は貴族として、勇者は迫害される亜人の少女として生まれ変わり。

 

 

 この時、再開を果たす。

 

 

 かくして物語は始まった。

 

 命が惜しくば、自分を好きだと言えと呼びかけた魔王。

 それを絶対に嫌だとつっぱねた勇者。

 

 二人の物語が、もう一度。

 

 

 ここから始まろうとしていた。




<世界観解説>
この世界は、三百年前勇者が魔王と相打ちになり、以降勇者を排出した国が、大陸の覇権を掴んだ世界である。
大陸では魔族と国がお互いを利用しあっていたが、平民である勇者はそのことを知らず、自分の故郷を滅ぼした魔族や、その親玉である魔王を倒すために旅をして、これを成功させた。
現代では一つの国が覇権を掴んだ後、民衆の意志を統一するため、亜人(ケモミミを有し、魔術が使えない種族)を迫害するように仕向けた。
現在はその文化が根付いたまま、表面上人々は戦争などのない平和な時代を築いているが、国は腐敗し限界を迎えつつあった。

<魔王グレイスヒルター→公爵貴族グレイス・ヒルドレッド>
元魔王、現在は人間に転生し、貴族の箱入り息子となっている。
彼は落胤の息子であり、その醜聞を隠すため、本家から隔離されて一人で育てられている。
魔王時代の知識故に魔術に優れ、将来的には軍属か研究者にでもなって家に多少貢献してくれえばいいと思われている。
本人はその暮らしを非常に退屈だと思っており、今回こうして家を抜け出すに至った。
魔王時代から人の暮らしには疎く、常識がない。

<勇者リーンヒルド→亜人の少女リン>
かつて魔王を倒した勇者。どういうわけか転生し、亜人の少女となっている。
勇者だったころは平民の出で、魔族に故郷を滅ぼされた過去がある。
非常に優れた魔力と魔術の腕を有していたのだが、亜人は魔術が使えないため、現在は使えない。
亜人特有の身体能力を有し、肉弾戦は非常に得意。
どういうわけか町中で耳を隠して活動していたが、フードが取れてしまったのか、その存在がバレ人々に攻撃される直前だった。
グレイスに対しては直接の仇ではないため、転生後は転生前の事は分けて接している。


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2 勇者はためらうこと無くその手を振り払った。(一)

 グレイスと勇者は、場所を移していた。

 貴族と猫耳の組み合わせは、それはもう目立つというレベルではない。下手をするとそのままグレイスが猫耳を処刑しなくてはならないような組み合わせだ。

 結果、勇者が先に姿を消して、後からグレイスがその後姿を追う形となった。

 

 物陰で耳を隠し、二人は一度息をつく。

 

「まさか、お前とまた顔を合わせる時が来るとはな、――リーンヒルド」

 

 互いに、薄暗い路地裏で向かい合って壁に背を預けて話す。

 その表情は対照的だ。グレイスは、楽しげに勇者へ笑いかけている。魔王だった頃と比べれば短い人生。その中でようやく見つけた“興味”だった。

 対して、勇者リーンヒルドは、苦虫を噛み潰したような顔で魔王を見ていた。

 

「………………リン」

 

 ん? と魔王が聞き返すと、更にリンは面倒そうな顔をしながらも、

 

「リンよ! 今のアタシの名前。今のアタシはリーンヒルドじゃない。間違えないで!」

 

「おっと、すまなかった……では、リンよ。お前はなぜここにいる?」

 

「アタシの方が聞きたいわ! アンタを道連れに死んだと思ったら、亜人の子供になってた。リーンヒルドだったころの記憶を持って、ね」

 

 そう言って、ため息を付きながらリンは視線をそらした。

 不可思議に満ちたその顔から、現状が不満であるかを読み取ることはできない。勇者だった頃から変わらずグレイスには当たりが強い。しかし、それでも今のグレイスからすると、喜ばしいことが一つあった。

 

「……ふむ、腹が減ったな」

 

 ぽつりとこぼしつつ、路地裏の外に顔を向けながら、ちらりとリンを見る。

 

「アンタの施しなんて受けない」

 

 そう言いながらも、その目に“敵意”はない。かつて、あれほど目の中にあった、どれだけ追い詰めようと消えることのなかったリーンヒルドの敵意が、今のリンにはない。

 そのことが少しだけグレイスは嬉しく、リンの言葉を気にすること無く、外へ向かってあるき出すのだった。

 

 

 <><>

 

 

「さて、手間を書けずに食べるものを調達したい。お前も、酒場に入ってミルクを頼むのは気が引けるだろう」

 

「……そもそも酒が飲めないなら、酒場になんて行かない」

 

 結局、リンはグレイスに付いてくることを選んだようだ。当然だろう、彼女は正義感が強く責任感の塊だ。目の前に魔王グレイスヒルターと同じ顔をした、グレイスを名乗る貴族がいるのなら、彼女はそれを無視できない。

 それが解った上で、あえてグレイスは何も言わずにその場を離れようとしたわけで。

 

 斜め後ろから、恨みがましいリンの視線が突き刺さる。しかし、そこに殺意も敵意も混じっていない今の状況が新鮮すぎて、グレイスはもはやそれすら興味深い感心の対象であった。

 

「なぁ、あれは何だ?」

 

「何って……屋台じゃない」

 

 グレイスが目をつけたのは、広場にある屋台だった。香ばしい匂いが広場には広がっており、食欲をそそるものが、あちこちに見受けられる。

 もちろん、グレイスはそれを始めてみたわけだが。

 

「……アンタ、この年までどうやって過ごしてきたの? 屋台さえみたことないって」

 

「基本的に、屋敷の外に出ることは許されていない。まぁ、もうその規律を守るつもりもないが」

 

「呆れた……どうやったらそんな特殊な環境に生まれ変われるのよ。亜人になったアタシの方がまだありふれてるわよ」

 

 言いながら、グレイスは屋台に近づく。リンに話を聞いて、あれならすぐに食事にありつけるだろうということを理解したのだ。

 途中、列に並んで買え、そのくらい解っているというやり取りをリンとしつつ、適当に興味が惹かれる屋台に並ぶと、注文をする。

 

「あー、この業魔竜焼きというのを頼む」

 

「……いっ!?」

 

「お、おお!? き、貴族様!? こ、このようなところにどういったご用件で!?」

 

「いや、だから業魔竜焼きを……」

 

 グレイスが適当に目についた料理を注文しようとすると、困惑が起きた。店主から困惑されるのは想定内だ、致し方ない。しかしリンが驚いて目を見開くのはどういうわけか。

 首を傾げながら、なんとも言えない顔でグレイスは二人を見た。

 

「そ、そそ、そいつは構わねぇんですが、業魔竜焼き……ですかい? いや、その……初めて頼むには、ちいっとどうかと……」

 

「名前が気に入ったんだがな。魔竜、懐かしい響きだ」

 

「一番辛いって意味よ! 辛いのが好きで好きで仕方ない人向け! 値段だってバカ高い……のは、いいか」

 

 隣からリンがまくしたてる。

 業魔竜というのは“魔竜”と呼ばれる魔獣の一種で、その中でも最も凶暴とされる個体だが、この時代ではそれを辛さの段階として表現しているらしい。

 なお、店主は従者だと思っていた少女がいきなりタメ口でツッコミ始めたことに困惑して二人はどういう関係なのかと両者を見比べている。

 

「辛いのか、そうか。より一層興味がでてきたな。なら店主、それで頼む」

 

「へ、へぇ……」

 

「食べれなくても知らないわよ……」

 

 頭を抱えるリンと、困惑したまま手はちゃんと動いている店主。それを全くよく解っていないグレイス。三人の反応は対照的だ。

 そして、リンが何も言わないでいると――

 

「……と、そうだ。こいつの分も頼む。業魔竜焼きを……」

 

「わーわー! アタシはいいから! こっちの青スライム焼きでいいから! ね!!」

 

「…………そうか」

 

 グレイスはちょっとだけしょんぼりした。

 

 それから少しして、

 

「へ、へいお待ち。業魔竜焼きと青スライム焼き。お題は銀貨二枚と銅貨五枚」

 

「解った……む、おかしいな、出てくるときよりも金が少ない」

 

「スられてる……っ!」

 

 思わず悔しくなってリンは歯噛みした。

 そりゃそうだ、こんな明らかに貴族のボンボンから、スらないスリはいやしない。とはいえ、それでも多少は残っていた。一人で全部盗むのはリスクが大きすぎるという考えだろう。結果、一人が少しずつ持っていって――すごい数のスリにたかられたらしい。

 やがてグレイスは懐から、金貨を一枚取り出す。

 

「そういえば、物価というやつはどうなっているんだ? 銅貨が五枚と銀貨が二枚で何が違う」

 

「銅貨百枚で銀貨一枚よ。アンタの出してる金貨は銀貨百枚……この店は屋台としての値段は適正だから、そこから考えて」

 

「ふむ……悪い、金貨しかないがこれでいいか?」

 

「は、はぁ……」

 

 一応、金貨の扱いができない店ではないので、店主は拒まないが、やはりこうして物価すらよく解っていない貴族のボンボンが街を歩いているというのは異常事態であり、訝しむほかない。

 ともかく金貨を受け取ろう、と親父が手を伸ばしたところに――

 

 

 やたら装飾が豪華な金貨が降ってきた。

 

 

「え――――?」

 

「……ちょ」

 

 金貨の中でも、白金貨と呼ばれるものが存在する。これは少し特殊な金貨で、主に大量の金貨の代わりとして作られたものだ。貴族や大商人が、資産をやり取りするために使われる金貨――一枚で金貨1万枚の価値がある。

 

「む? これではだめか? ちょっとまて、普通の金貨だな? 少し待ってろ」

 

 ――流石に、その気配をグレイスは感じ取ったのか、白金貨をしまって懐を漁る。特に財布も持たずに飛び出してきたものだから、彼の懐は金貨がジャラジャラしていた。

 

「……これしかないぞ」

 

「わ、わー!!」

 

 そして、そう言いながら取り出した大量の白金貨に、店主は卒倒。リンは怒鳴りながら即座にそれを懐に戻させるのだった。

 ――なお、その中に一枚だけ金貨があり、なんとか支払いには成功するのだった。

 

 

 <><>

 

 

 白金貨はそもそも、盗んでも換金できる場所がない、絶対に足がつく。そのためスリたちは懸命にもそれを狙わなかったらしい。

 そんなことをリンから聞きながら、グレイスはリンに“青スライム焼き”を手渡す。リンはため息を付きながらも、今更断れないのか、潔くそれを受け取った。

 

「……ありがと」

 

「なんだ?」

 

「奢ってくれたんだから、礼は言わなきゃダメにきまってるでしょ!」

 

「そうか」

 

 残念ながらグレイスは礼を言う生活なんて一度も送ったことはなかった。そのことに思い至って、リンはもう一度ため息をつく。

 二人して街を歩きながら――相変わらず、すごい勢いで視線を集めながら――それぞれ自分の料理を口につける。

 直後、

 

「……ごふっ」

 

 グレイスが咳き込んだ。

 

「ああ、言わんこっちゃない。家で食べなさいよ。水がないと食べきれないでしょそんなの……」

 

「げほ、ごほ。……いや、辛い、辛いがうまい。あの店主、腕がいいな」

 

「それは……否定しないけど」

 

 正直なところ、あの屋台は当たり中の大当たりだった。リンが食べている青スライム焼きは非常に絶品で、これほどの料理、正直リンは口にしたことはないレベルだ。

 

「これが銅貨五枚って、安すぎでしょ……後でチビたちに買って帰りましょ」

 

「なにか言ったか?」

 

「なんでもない」

 

 それからしばらく、二人は黙々と食事を続けた。業魔竜焼きを口にするたびに咳き込んで、だんだん顔色が真っ赤になっていくグレイスと、そのたびにいい反応を見せながら心配そうにしているリン。

 傍から見るとなかなかにお似合いに視えるのだが、ローブとフードの妖しい少女とボンボン貴族という組み合わせが奇異過ぎて、周りからは変なもの見る目でしか見られなかった。

 

「それで――」

 

 青スライム焼きを食べきって、指をちらりと舌で舐め取りながら、リンはグレイスを見る。行儀が悪いが、なかなかどうしてリンがやると愛らしい動作である。

 

「――なんでアンタはここにいるのよ」

 

 が、それはそれとして話は本題に移る。

 勇者として、それは聞かないわけには行かない内容だった。今は互いに人間で、仮にこの場でリンがグレイスに襲いかかったら、リンは殺されても文句を言えないが、それでも。

 

 相手が魔王である以上、リンは踏み込むしかなかった。

 

「魔王……俺は特殊な力を持っていた。これを魔王術というが――その中に、魂を転生させる術があった」

 

「なにそれ、魔王は殺しても死なないってこと?」

 

「転生できるのは、見ての通り人間だけだ。そもそも、俺は魔王にもう一度転生するなど死んでもごめんだったからな」

 

「何よそれ」

 

 リンはわけがわからないと、眉をしかめた。

 

「その事は別にいいだろう。お前はどうだ、リーンヒルド。なぜ転生した?」

 

「……リンよ」

 

「リンよ、お前はそもそも転生など望むようなやつだったか?」

 

 指摘されて言い直す。そもそもリンとリーンヒルドを区別するために呼び分けたのだが、リンはいささか手厳しかったようだ。

 

「さっきも言ったとおりよ。アタシは何もしてない。勝手にこうなってたの。……アンタがなにかしたんじゃないの? 実際、アンタはアンタの力で転生したわけだし」

 

「偶然巻き込んだ可能性は、まぁ無くな無い。だが、意図してやることなどあるわけ無いだろう」

 

「意外ね。アンタそもそも、アタシに命が惜しくばどうたら、って言ってたじゃない。あれはなんだったのよ」

 

「アレと転生は関係ない。お前が拒否した時点で、お前の意志を無視してことを起こすことなどありえないよ」

 

 そもそも、グレイスは魔王術による転生は自分だけにしか効果がないと考えていた。試したことがなかったのでぶっつけ本番だったのもあるが、少なくともグレイスはリンを巻き込むつもりなど毛頭なかったのだ。

 

「……アンタが、アタシを?」

 

 ふと、訝しむようにリンがグレイスを睨む。

 なにか地雷を踏んだのか、その瞳には、リーンヒルドの時に浮かべていた敵意が、薄くではあるが滲んでいた。

 

「――アタシの故郷を奪ったアンタを?」

 

「それは……」

 

「アタシの国を焼き尽くしたアンタを?」

 

「…………」

 

「アレだけ、多くの人の命を奪ってきたアンタを?」

 

 その瞳は、敵意と、憎悪。

 

 勇者が魔王に向ける瞳だ。

 

 

「誰が、誰の意志を無視しないことが、ありえないって言ってるの?」

 

 

 グレイスは、大きく息を吐いた。

 やはり、根底が変わったわけではないか、と。

 

 リーンヒルドからリンへと転生し、リンの周囲は環境が変わっただろう。今のグレイスが魔王ではなく貴族であることから、直接的な敵意を向ける理由はないと彼女が考えるようになった。

 そのことをグレイスは嬉しく思っていたが。

 

 根底は変わらないのだ。

 

 リンの根底は、今もリーンヒルドのままだ。

 

 ――あの頃から、何も変わらない。

 

「……リーンヒルド」

 

「リンよ!」

 

「…………リン、ここでは視線を集めすぎる、場所を変えよう」

 

 そう、あの頃から――

 

 

 ――周囲に騙され、勇者として祭り上げられ、正義を疑うこと無く散った、あの頃のリーンヒルドから。

 

 

 亜人の少女リンは、何も変わってはいなかった。




<魔族>
かつて大陸の覇権を握っていた種族。単一の個体として存在し、子をなすことはない。
不老であり、非常に強力な魔力を有している。
完全な個人主義のため魔族同士でつながりを持つことはないが、その時もっとも強い魔族は魔王と呼ばれる。
リーンヒルドの時代、魔族は力をつけた人類に取り入って、人類の国家と共に大陸の覇権を握るべく動いていた。
魔王グレイスヒルターはそれに興味を持たず、不干渉であったが人類が攻撃してきた場合はこれを撃退していた。
人類の中から現れた魔族を倒すことのできる個、勇者によってその数を急速に減らし、グレイスとリンが転生した時代では、かつての栄華は衰え、魔族の名を大陸で聞くことはない。

<亜人>
古くから存在していた獣の特徴を持つ人間。身体能力が高く、代わりに魔術を行使するための魔力を持たない特性を持つ。
人との違いはそれだけで、寿命や身体的特徴が大きく変わることはない。
人と個を為すこともできるため、かつては人と同じに扱われてきた。
魔王を討伐し、大陸から魔族の影響がほとんど取り払われた後、覇権を握った国家が民衆の反感を抑えるための存在として、亜人の迫害を推奨、以来大陸では亜人は差別される存在となり、現在はスラム街などに寄り集まって暮らしている。
人前に姿を表すことはほとんどない。


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2 勇者はためらうこと無くその手を振り払った。(二)

 かつて、魔族と人類は、大陸の覇権をかけて争っていた。

 これは間違いではない。ただ、今の時代と過去の時代では、現実に相違が存在している。今の時代、魔族は人類を苦しめる驚異だったと伝えられている。ときには人を騙し、人を陥れた、と。

 しかしそれは正しくない。この時代、覇権を争っていたのは“魔族”と“人類”という二つのククリではない。魔族と人が手を組んで、別の魔族と人の国と争っていたのだ。

 

 魔族は強力な個人である。人は寄り集まった群体である。互いに個の利と数の利でもって結びつき、別の魔族と人間の国を滅ぼそうとしていたのだ。

 今の時代、魔族は人類の国家を操った悪魔として伝えられているがなんてことはない、人も魔族も何も変わらない、欲深く傲慢な生物だった。

 

 しかし、当時から魔族が人類の敵であることを疑わない者たちもいた。学を得る機会のない、一般的な平民達である。彼らにしてみれば魔族は単独で自分たちを皆殺しにできる凶悪な存在であることに変わりなく、そこに他国が絡んでいようが知ったことではない。

 そして、そんな平民の中から魔族を討ち果たすことのできる特別な人間として見いだされたのが勇者――リーンヒルドだった。

 

「当時は否定しなかったが――俺は魔王であって魔族の主ではない」

 

 敵意を向けるリンに、グレイスはきっぱりとそういった。

 路地裏、再び二人きりとなって、リンとグレイスは正面から相対している。もはや言葉に遠慮などイラない。リンの瞳には棘があった。敵意という棘が、今もグレイスを突き刺している。

 

「魔王とは、魔族の中で最も力の強い存在に与えられる称号に過ぎん」

 

「それが、何だって言うのよ」

 

「俺はお前の故郷を滅ぼせと命じたことはないし、人の命を奪えと命じたこともない」

 

「……信じられるか!」

 

 叫ぶ。吠えると言っても良い。それはそうだ、リンは――リーンヒルドは死ぬまでそれを信じ続けたのだから。

 

「……確かに、アタシの故郷を滅ぼしたのは、魔族リヴァイスヒッターだった、でも、あいつは最後にアンタの名を呼んだ!」

 

「あいつは俺を嫌っていたからな、死に際に名前を叫べば、お前は俺が黒幕だと考えると踏んだのだろう」

 

「アタシの国を襲って、人を殺した!」

 

「逆だ。お前の国の軍隊から襲撃を受け、返り討ちにしたのだ。人死にはその結果に過ぎん」

 

 まさか、殺されて殺すなとはリーンヒルドも言わないだろう。

 こうして転生してはいるが、彼女だって最終的にグレイスヒルターを殺害したのだから。正義と大義と、彼女の意志で。

 

「……何よ、なんで否定するのよ……アタシは、アンタを討つことを使命に生きてきたのよ……!」

 

「……リーンヒルドよ、お前も薄々感じていただろう。果たして、本当に自分の行動は正しいのか、とな」

 

「…………」

 

「お前は、純粋すぎたのだ。そして、その純粋さが汚れることのないよう、お前の仲間たちはお前を邪悪から守った。俺はそう感じている」

 

 リーンヒルドは、担ぎ上げられた勇者だった。

 国の都合で、魔族を討ち滅ぼすことができるがために。周囲は彼女を勇者として扱ったが、結局は体の良い鉄砲玉だったということ。

 そんな彼女には仲間がいて、仲間は彼女を国の思惑や邪悪な意図から遠ざけてきた、守ってきた。

 

 少なくとも、グレイスヒルターからみて、リーンヒルドはそんな存在だった。

 

 ――危うい、とは常々思っていた。仲間たちは彼女に過保護だ。彼女が汚い世界を知らないよう遠ざけていた。グレイスとてそれを変えようとは思わなかったが、それはグレイスが魔王であり、彼女たちに干渉するべきではないと考えていたからだ。

 

 そして今、彼女は真実を知った。それを信じることはできないだろう。しかし、同時に心当たりだってあったはずだ。

 

「……皆が、何かを隠していることは、わかってた。でもそれを知ることはできなかったし、きっと私のためなんだろうって思ってた」

 

「それは、間違いではなかっただろう」

 

「だとしても! 私にそれを隠すってことは、あの子達がその分汚いことや嫌なことで苦しんでたんでしょ!? そんなの、悲しすぎるわよ……」

 

 ――そして、その上でこう言えるのがリーンヒルドだったのだ。

 善良で、純朴で、そして思いやりがすぎる。そんなふうに考えてしまうから、仲間たちは彼女のことを危ういと思ったのだろう。そしてグレイスも、そうおもったのだ。

 

 本来なら、触れるべきではなかったかもしれない。知らないなら知らないでよかったかもしれない。それでも触れずにはいられなかった。

 グレイスは人間になったから、リンもまた転生し、互いに人として再開したから。

 

 あのときあった二人の壁はこの時、取り払われていたんだ。だからグレイスは話さなければならなかった。しかし、それを話した後――一体グレイスは、リンになんと言葉をかければいい?

 魔王であったグレイスが、リーンヒルドを見ているだけだったグレイスヒルターが、かけれる言葉は一体何だ?

 

 ここまできて、グレイスは言葉に詰まってしまった。沈黙が、二人の間に流れる。

 

 そして、

 

「――ねぇ」

 

 それを破ったのは、リンだった。

 

「……なんだ」

 

「どうしてアンタ、そんな顔をしてるのよ」

 

「……何のことだ?」

 

 自覚はなかった。

 しかし、リンの指摘で理解する。自分は今――怒りと悲しみと、そして無常で心が支配されている。今のグレイスは、筆舌し難い顔をしているはずだ。

 リンが、見ていられなくて思わず声を書けてしまうほどに。

 

「なんでアンタが、そんな顔をしなきゃ行けないのよ。アンタは魔王よ? アタシの敵よ? そのアンタが――そんな顔をしないでよ」

 

「……リーンヒルド」

 

 本当に彼女は、どこまでもお人好しで、おせっかいだ。

 自分の根底が揺らいだこの状況で、グレイスのことを気にかけるなんて。

 

「……ねぇ、どうしてアンタは人に転生したの? アンタの知ってる人間は、“正しく”はなかったんでしょう?」

 

 ――そして、鋭い。

 他人の情緒を察することができるほど、人付き合いの経験がないグレイスにしてみれば、羨ましくて仕方がないほどに。

 ああ――まったく。

 これは口を開かずにはいられない。

 

 そう思ってしまう何かが、リーンヒルド――リンには確かに備わっていた。

 

「……俺はな、憧れていたんだ」

 

「憧れ……?」

 

「人に対する憧れだ。その野心に興味があった。人は短命でありながら大陸の覇権を手中に収めようとしていた。魔族と手を組み、魔族を蹴落とそうとしていた。その野心はどこからくる? どうしてそうまでして、人は前に進もうとする? その意志の出どころを、俺は知りたかったのだ」

 

 グレイスは積極的に人を害することはなかったが、自分に挑んでくる人間を好意的に感じていた。

 

「かつて、魔族にとって、人は取るに足らない存在だった。それがいつしか、この大陸全てに根を張り、台頭に魔族と交渉し、利用していた。それまでに果たしてどれだけの時間がかかった? 千年か? 二千年か? 気の遠くなるような時間だ。一人の人間の一生など、吹けば飛んでしまうような時間だ」

 

「……」

 

「そんな人間の成長を、俺は中から知りたかったのだ。人が前に進む理由を、直接この身で知りたかった。成長のない魔族ではなく、成長のある人間として、俺は生きてみたかった」

 

 そうしてグレイスは語り終える。

 魔王として望んだ転生を果たし、人としていまここに生きている。であれば当然、

 

「――解ったの?」

 

 答えは出ているはずだ。

 人はなぜ成長できるのか、どうして諦めることをしないのか。

 

「……解らなかったさ」

 

 結論は、出なかった。それが答えだ。

 

「俺が死に、魔族のほとんどは死に果てた。そうなれば、人は完全にこの世界の覇権を手にする。そうした時、人は歩みを止めたのだ。栄華を極め、それで満足してしまったのだ。この時代で――俺はもう一度人が立ち上がることは無いと知ったよ」

 

 人類は停滞していた。

 大陸が一つの覇権国家に支配されたことで、平和が訪れ今の穏やかな時代になった。人々は当たり前のようにそれを謳歌し、疑問に思うことすらしない。

 これでは、人類はグレイスの思うような成長性のある存在ではなかったということになってしまう。

 

「退屈に執着する今の人類が、停滞にもがく今の人類が、俺には見るに堪えない。こんなもの、知るべきではなかった。……俺は、転生したことを後悔しているよ」

 

 それが、何一つ偽りのないグレイスの結論だった。

 そして同時に、これだけは嘘など語る理由のない、リーンヒルドでも分かるグレイスの本音だった。

 

「…………」

 

「リーンヒルドよ……いや、リンよ。お前もそう思うだろう、この時代はつまらん。人は人であることに満足し、亜人を下に置くことで一つにまとまり、結果時間だけを浪費している。あの衆愚を見ただろう、あいつらは――お前が守るような価値のある人間だったか?」

 

「……知らない」

 

 ぽつり、言葉が溢れた。黙りこくっていたリーンヒルドから――顔を伏せていたリンから、ようやく言葉が。

 

「知らないわよ……そんなの、アタシ考えたこともなかった。アタシは、目の前で起きた理不尽が許せなくて……誰かが悲しむことが嫌で、戦ってたのよ」

 

「ならば、何だという?」

 

「アンタの言うことなんて、考えたこともなかった。余裕もなかったし、何より魔族に殺された人は悲しんでた」

 

 吐き出すように、こぼれ落ちるように紡がれる言葉は、時折なんども力を喪っていた。頭の中がぐちゃぐちゃなのだろう、今にもどうにかなってしまいそうなのだろう。

 それでもなんとか口から言葉を吐き出さなければ、彼女もまた停まってしまうのだろう。

 グレイスが愚かだと言い切った、リンを取り囲んだあいつらのように。

 

 それはリンだって嫌なのだ。

 

「それを……アレと一緒にするな! 私達は生きたくて生きたのよ! それに……!」

 

 一歩、

 

 

「アタシはまだ、死んでない!」

 

 

 それは、その瞳には、活力があった。確かに瞳は生きていた。リーンヒルドからリンに転生したこともそうだ。そして、彼女が言うにはきっと――“リン”は生きているのだ。

 今も、まっすぐ前を向いて。

 

「アタシはまだ、アタシの望んだ生き方を曲げてない。アンタは知らないだけよ、人間を、私達を!」

 

「ほう、言うではないか。お前は知っているというのだな? 正しい人の生き方を」

 

「正しさなんか知らない。でも、アタシは今のアタシを後悔してない、それだけよ」

 

 そう言って、リンはフードを脱ぎ去る。猫耳――亜人の証をグレイスに示して言うのだ。彼女は虐げられる立場だが、それでも楽しみはある、人として生きている、と。

 それは、つまり。

 

「ならば、見せてもらおうか。リーンヒルド」

 

「リンよ!」

 

 ――宣戦布告だ。

 リンは、きっと今も迷っているだろう。だが、目の前に自分と同じように迷っている、かつての仇敵が存在したとしたら。

 彼女はそれを放っておけない。何よりも自分のために、自分の迷いを振り払うために。

 

 

 ――グレイスは、その意志の力が何よりも好きなのだ。

 

 

 確かにリンは生きている。

 今もかつてと変わらず、リーンヒルドだった頃から何一つ揺らぐこと無く。グレイスによってリーンヒルドだった頃のことを否定されてもなお。

 

 ああ、それでこそだ。

 グレイスは笑みを浮かべてリンを見た。今、リンの目には“敵意”が宿っている。しかしそれは、宿敵に対するそれではない。

 受け入れられない主張に対する敵意だ。

 

 正義の勇者リーンヒルド、その在り方は今も変わらない。

 

 グレイスは人として転生して初めて、自分が高揚していることを、自覚せずにはいられなかった――

 

 

 <><><>

 

 

 そして、

 

「――おい」

 

「さぁ、やるわよ!」

 

「オイ!」

 

 グレイスは顔をしかめていた。

 ソレはもうすごい勢いで。そして鼻を摘んでいた。

 

「何よ! 今更文句を言うつもり!?」

 

「違う! これは何だ!? 俺は今から何をさせられるのだ!?」

 

 顔をしかめてこそいるが、今のグレイスにあるのは怒りよりも困惑の方が強い。何せ――

 

「何って――」

 

 リンは笑顔で、手にはブラシを持っていた。

 

 

「下水道掃除に決まってるじゃない」

 

 

 そしてこの場所は、凄まじい異臭が支配していた。



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3 魔王は初めて“労働”をした。

 元魔王グレイスヒルターは絶句していた。

 貴族公爵グレイス・ヒルドレッドは唖然としていた。

 

 つまりグレイスはびっくりしていた。

 

 そこはグレイスやリンたちが暮らす“旧王都”の下水道だ。旧王都には古くから下水道が存在し、この下水道のおかげで、街は清潔で綺麗であることが街の誇りと言われている。

 

「俺の知識では、この下水道は特殊な魔術が組み込まれていて、自動的に清潔になるよう毎日清掃されていると聞いたのだが……」

 

「されてるわよ?」

 

 リンがそう言って、手近にあったパネルのようなものに触れる。すると、どこからか水が流れてきて、グレイスとリンの眼の前にある水路を流れていった。

 

「こうやって、手動でもできるけど、一日に三回自動で水が流れてる。この時、さっきみたいに水路だけじゃなく、私達がいる通路まで水が流れるから、もし巻き込まれると死ぬわよ」

 

「先程の水は、魔術で作られた聖水としての機能を有しているのが視えた……では、この異臭はなんだ?」

 

「あっち」

 

 言って、リンが指差す先には――凄まじい量のゴミがドカドカと流れ込んできていた。これまらグレイスは絶句する。流れ込んでくるゴミに再現はない。先程の水が流れるよりも勢いがあるように視えた。

 

「確かに魔術で綺麗にはなってるけど、それより捨てられるゴミの方が多いのよ。だからこうして下層に住んでる貧民……つまりアタシ達が毎日せっせと掃除してるわけ」

 

「やはり人類は愚かなのではないか……?」

 

「今更魔王みたいなこと言わないでよ」

 

 魔王時代、魔族が人類を見下している姿をグレイスは何度も見てきたが、今更になって彼らの気持ちが解ったような気がした。おそらく彼らはそんなこと一切考えてもいないだろうが。

 

「まったく。リンよ、この下水道を掃除することが、人生の楽しみにつながるというのか?」

 

「そうよ。はいこれ、ブラシ」

 

「いらん。俺は魔王だぞ? この程度、魔術を使えば――」

 

 そうだ、魔王であるグレイスならば魔術が使える。今の時代、魔術とは特権階級の権益らしいが、そうだとしてもグレイスは公爵貴族だ。

 魔術を使うことにためらいもない。

 

 しかし――

 

「…………む?」

 

「無駄よ」

 

 ――魔術は、発動しなかった。

 

「なぜだ? 魔術は問題なく発動しているが、それが発動する直前に魔力がかき乱されている。これは一体……」

 

「この下水道じゃ魔術が使えないの。下水道に水を流す魔術と一緒に、そういうものが組み込まれている見たい」

 

「……どういうことだ? ここはかつて、王族が街から逃げ出すための脱出路にもなっていたと聞いたが」

 

 この旧王都は文字通りかつてはこの国の中心だった。そのため、この下水道は生活のためという意味合いの他に、王族が逃げ出すための隠し通路としての役割を担っていたりもする。

 なのに、魔術が使えないのでは、王族を守ろうにも守れないのではないか? というグレイスの疑問は最もだ、しかし残念ながらここにソレに対する答えを持っている人間はいない。

 

「知らないわよ、後から付け足したとかそんなんじゃないの」

 

「誰がそんな無駄なことを……」

 

 しかし悩んだところで答えは変わらない。グレイスはブラシやスコップを使って、あの大量のゴミを掃除しなくてはならないのだ。汚れてもいい服装で来るように、と言われた時から嫌な予感はしたが――なお、そんなものはなかったのでリン達が暮らす下町で適当に調達することになった。

 ちなみに先程使った洗い流しは、次に使えるのは数時間後だ。そもそも使えたところで通路に乗っているゴミには何の効果もないが。

 

「むぅ……人生というのは難しいな……」

 

「流石に考えすぎだと思うけど?」

 

 なんて話をしつつ、グレイスはブラシを持って下水道を進む。鼻がやられてしまいそうなほどの汚臭、魔王時代の経験からなんとか耐えることができているが、下町の人間はこれが日常なのだと考えると、自分との落差にめまいがする。

 それも人の生活と言ってしまえばそれまでだが。

 

「む?」

 

 ふと、グレイスは違和感を感じて足を止める。何事かと振り返るリンに、

 

「いや、足音が」

 

「……ああ」

 

 と告げると、リンは納得した様子で、グレイスが視線を向けている方へと同じように視線を向けた。そう、足音。それも一つではない。複数の足音が警戒にこちらへ近づいてくるのだ。

 

 何事か、リンが察していることから危険ではないのだろうが、グレイスは不思議に思いながらもその足音に意識を傾けて、

 

 

「だーれーだー!」

 

 

 瞬間、それが突如として自分の顔に飛びついてきた。

 

「お姉ちゃーん!」

 

「きたよー!」

 

「ぬ、うお!」

 

 突如として顔に誰かが張り付いたせいで視界を奪われ、グレイスはたたらを踏む。間に手すりがあるとは言え、隣は激流流れる水路。危険極まりない場所で慌てふためくグレイスを、リンが冷静に顔に張り付いた誰かを引っ張って態勢を整える。

 なんとか持ち直して、息を吐く――と即座に汚臭が吸い込まれてグレイスは咳き込んだ。

 

「げほ、ごほ、一体何だ!」

 

「こぉらチビ達! 急に飛びつくんじゃないわよ、危ないでしょ!」

 

「ごめんなさーい!」

 

 綺麗な謝罪が、3つ並んで飛んできた。グレイスの顔から飛び降りた一人を、グレイスは見下ろす。幼い――六歳くらいの少女だった。

 三人の少女がグレイスとリンを笑顔で見上げている。

 

「お姉ちゃん! この人だぁれ?」

 

「お姉ちゃんのカレシさん? ヒュー!」

 

「おめでとーお姉ちゃーん!」

 

「違う! 勝手に話をすすめるな!」

 

 急に現れた少女は、話すたびにぴょんぴょんと跳ねて、とても騒がしい。それぞれ髪色の異なる亜人の少女で、リンを姉と呼んでいるところから考えると――

 

「……お前が保護しているのか?」

 

「正解。血はつながってないけど、私の妹よ。自慢のね」

 

「自慢だぞー」

 

「だぞー」

 

「だぞー」

 

 三人はまるで三つ子なのではないかというくらいに息ピッタリだ。それだけ仲がいいというのもあるだろうが、リンの育て方が良かったのではないかとも思う。

 とはいえ、目につくのは彼女たちの手にある――スコップとブラシだろう。

 

「こいつらも掃除をするのか」

 

「そうよ。下町の人間なんて、この歳から下水道掃除をしてくもんなの」

 

 六歳といえば、グレイスならばまだろくに授業も受けていなかった頃だ。その頃から魔術を個人的に使って吐いたものの、やっていたことなどそれくらい。

 屋敷に幽閉されて、一人で何もない場所で時間を過ごすか、書斎に引きこもって本を読むかしか、当時のグレイスには許されていなかったというのに、

 

「……そういうものか」

 

 大変な話だ、とグレイスは嘆息した。

 なお、自分の置かれた環境が特殊であるとは、グレイスはついぞ考えてはいなかった。

 

 

 <><><>

 

 

「んで、こうやって大きいゴミはこっちに纏めておくの。なんだかんだ自動放水の勢いはすごいから、纏めておけば勝手に流されてくれるわ」

 

「俺達の役目は、こびりついた汚れの掃除と、ゴミの整理なんだな。匂いはキツイが思っていたほど絶望的な作業ではないか」

 

「アンタは下水道掃除を何だと思ってるのよ」

 

「アレを見てまともな仕事だと思えるか?」

 

 今もどんどん放り込まれるゴミの山を指差すグレイスに、リンはため息を尽きながらそれもそうね、と同意する。楽しそうに仕事をしているのはリンの妹たちくらいで、ここでの仕事を楽々とこなせる精神性の人間は少ないだろう。

 リンは苦もなくそれをこなしているが、グレイスは慣れるのにはもう少し時間がかかりそうだった。

 

「いや、でも……アンタは思ったよりスムーズに作業してると思うけど」

 

「普通の貴族なら、今頃お前に切りかかっているだろうな」

 

「え、なにそれ」

 

 ドン引き、といった様子でグレイスから距離を取るリン。

 グレイスは苦笑してから、手近なゴミにブラシを突きつけて、力を込めながらつぶやく。

 

「魔王になるまえの魔族だったころ、魔術もろくに使えなかった時、魔術具は自分の手で作るしかなかった。作業の内容は違うが、地道に数をこなすしかないという意味でそう変わらんよ」

 

「そう変わらない、で一番の問題をスルーしてるアンタは、割とどうかしてるわよ」

 

 そう言いながら、グレイスよりも手早くゴミを片付け汚れを洗い流していくリン。手慣れているのだから当然だが、グレイスは少しだけそれが気に入らない。

 

 ブラシに力を込めると、一気にスパートをかける。

 

「やってみれば、この作業もそうつまらないものではない。体験すれば、見方も変わるのだな」

 

「このくらいで悟られても困るんだけど。っていうか、あんまり勢いつけすぎると、汚れがムラになって残っちゃうわよ。丁寧に一つずつ片付けるの!」

 

「む、むぅ……」

 

 ――結果、即座にリンからダメ出しを受けた。

 

「しょんぼりしてるー」

 

「しょん」

 

「ぼりー」

 

 楽しげに妹たちが指摘するくらいにはしょんぼりしてしまった。申し訳無さそうにムラになっている部分を丁寧にブラシでこする。

 それを、リンは目を丸くして見ていた。

 

「なんだ」

 

 恨みがましく、リンを見る。

 せせこましいにも程があるが、それでも見ないでは居られなかった。

 

「…………いや、アンタがそんな反応するとは思わなくって、ちょっと天地がひっくり返ったくらいびっくりしてる」

 

「そんなにか!?」

 

 愕然とした。

 具体的に言うとここに連れてこられたとき以上にびっくりした。

 そこまでびっくりするのかと、それはもう目を丸くしてしまった。

 

「……ぷ」

 

 ――ふと、リンから笑みが溢れる。

 

「あはは、あはは! なんだ、そういう顔ができるやつだったんだ、アンタ!」

 

「……当たり前だ。俺とお前は、所詮宿敵でしかなかった。お互いのことなど、何も知らんのだ」

 

 それもそうだと、リンも頷く。

 リンが笑う間も、グレイスは黙々と相似を続けている。それでも、リンのペースには到底追いつけそうにはないので、グレイスはまた歯噛みした。

 

「……うん、確かにそのとおりだわ。アタシ、アンタのこと何も知らない」

 

「そうだな」

 

「――だから、アンタの言葉を信じられなかった」

 

 ふと、笑みが混じっていた声のトーンが変化する。

 真面目なものに、グレイスは手を止めて、リンの方を見た。

 

「アンタは何もしてない。ただ魔王と名乗っていただけ。――嘘を言ってないのはわかってんのよ。これでも、目の前でつかれた嘘を見抜けないほど腑抜けてなんかない」

 

「……そうか」

 

「アタシが信じられなかったのは、アタシ自身。だから、知らなきゃいけないと思ったの、アンタを。アンタを知れば、アタシはアタシを信じれると思ったから」

 

「なら、今はどうだ?」

 

 そう、姿勢を上げて問いかける。

 視線を合わせて、少しだけ顔つきが柔らかくなったリンは、

 

「……昔は昔、今は今。そう思えるようになった」

 

「そうか」

 

「そして、そうおもった時――アンタにこれを体験してもらおうと思った理由もわかった」

 

 すっと指をつきつけて、

 

「――アンタ、めちゃくちゃつまらそうな顔してたわよ」

 

 そう、言ってみせた。

 ――ふと、グレイスはそれを見入ってしまった。

 異臭が漂う下水道、服はゴミと汚れで真っ黒になって、お世辞にも綺麗だとは言えないのに、そうやってグレイスを指差したリンは――不思議なほどグレイスを惹きつけたのだ。

 

「…………何よ」

 

「いや――」

 

 ふ、と笑みを浮かべる。

 

「お前は、変わらないな」

 

 なぜ、こうもグレイスは惹きつけられるのか。

 目の前に、かつてと変わらないリンの姿を見せつけられたからだ。勇者リーンヒルドの心根は、未だリンの根底にある。

 そのことが、どうしてかグレイスには嬉しく思えててしょうがなかった。

 

「なにそれ」

 

 それを、リンは変なものを見る目で見る。ピンと来ていない様子だ。とはいえ、グレイスにも特に意図はなかったのだが。

 

 ――旗から見ればそれはどう視えるか、というのは別問題だ。

 

「……やはりお姉ちゃんとこの人はお付き合いしているのでは?」

 

「熟年すぎるのでは……?」

 

「然り然り……」

 

 ――見れば、何故か妹達は距離をとって、二人のことを観察していた。完全に出歯亀のそれは、二人の関係を恋人のそれだとみなしていて、

 

「そういうんじゃない!」

 

「そういうわけではない!」

 

 否定するグレイスとリンの言葉が、ハモってしまった。

 結果、

 

 

「お付きあいだーーーー!!」

 

 

 妹たちはそうやって楽しげに駆け出して、グレイスとリンもそれを驚きながら追いかける。

 

 ――勇者と再開して一日。

 元魔王であり、元貴族。グレイスの日常は、一日にしてあまりにも鮮烈に、退屈から塗り替えられようとしていた――



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4 魔王は初めて“生きがい”を知った。

 下水道掃除を終えれば、リンとグレイス、そして妹たちは下町にやってくる。

 もとより下水道に入るのは下町の入り口から入ることになっているのだが、グレイスがきちんと下町を歩くのはこれが初めてだ。

 街はあちこちが壊れて、それをなんとか補修しているのが見て取れる程度には貧相でボロボロだが、不思議と他にはない活気があった。

 上層の街では、人々はどこか行き急ぐかのように行き交い、会話と言える会話が聞こえてくるのは広場の呼び込みくらいだ。

 いっそ、リンが囲まれていた時が一番喧騒があったと言えるくらいに、上層の街には活気がなかった。

 

 対して、下町は人々の言葉があちこちから聞こえてくる。商売をしているもの、値切りのためにやかましく交渉している者。通りかかった者に挨拶をしてくる者。

 それぞれ様々な理由で声を張り上げて、けれどもそれらが決して衝突しているわけではない。

 むしろ、一つ一つは方向性がバラバラなのに、どうしてか向かっている先が同じであるかのような、得も言えぬ活気をグレイスは感じていた。

 

「お、リンちゃんおかえり」

 

「ただいま、おじさん今日は元気そうね、あんまりお酒飲んじゃダメよ」

 

「あらぁ、リンちゃんが若くてカッコイイ子を連れてるわ」

 

「言っとくけど、恋人とかじゃないから、まぁ、古馴染みよ」

 

 そんな中で、リンも誰かとすれ違うたびに声をかけられる。話の内容は他愛のない挨拶か、隣にいるグレイスのことがほとんどだ。

 中には挨拶をせず、グレイスを睨んで去っていくものもいるが、若い男がほとんどだ。なぜああして睨むのか、グレイスにはよく解らなかったが。

 

「お姉ちゃんね、下町のアイドル? なんだよー」

 

「皆お姉ちゃんが大好きなの」

 

「お兄ちゃん嫉妬されてるよー?」

 

 妹たちが解説してくれた。

 言われてみれば確かに、リンはいい女だ。こういう活気に満ちた場所で、彼女のような存在は輝いて視えるだろう。顔も性格もいいとなれば、リンがモテないわけがないのである。

 

「……ちょっと、何無言でうなずいてんのよ、気味悪いわよ」

 

「そうか?」

 

 首をかしげる。

 

「そういえば、ここは亜人を排斥してはいないのだな」

 

「そんな余裕がないのよ。明日を生きるだけで精一杯。ここにいる人達は魔術も使えないし、むしろ力が強くて体力のある亜人はむしろ重宝されるほうだわ」

 

 なるほど確かに、気にしている余裕もなく、むしろ頼られる存在なのだとすれば、亜人が排斥されないのは納得だ。逆に言うと、ここは亜人が居なくとも亜人と同じくらい排斥される立場の人々の集まりということになるが、一般の市民とはお互いに距離を取っているから、問題は起きないのだろう。

 

「それにしても……こんな場所があったのか」

 

「世界なんて、いつもこんなものじゃないの? アンタみたいな貴族が贅沢な暮らしをしてる裏で、こうやって貧しいながらも慎ましく暮らしてる人もいる。それは、アタシがリーンヒルドだったころから変わらないわよ」

 

「いや、決して貧しいことに感心しているわけではない。ここは、上層の街とは打って変わって賑やかだ」

 

 流石にグレイスだって、貧富の差というやつは理解している。自分が人間の感覚では恵まれているということも。それを捨ててでも、人の生きている姿を見たいという感情が、普通なら貧しい者にとっては失礼なことだということも。

 それでも、グレイスが魔王であったことを知っているリンにとって、それは普通なことなのだが。

 

「……世界のすべてが、あんな場所であってたまるもんですか。それに、上層の人たちだって亜人を迫害するのが常識なだけで、悪辣な人間ってわけじゃないとは思うのよ」

 

「だが、愚かだ」

 

「それは、アンタにとってはそうかもしれないけどさ」

 

 ジトっと、睨むようにグレイスをリンは見上げてくる。咎める、というほどではないが、決してグレイスの言葉を好意的に受け止めてはいない。

 

「ここの人だって、アンタが貴族の格好をして、横柄に振る舞ったらアンタに出ていってほしいと思うわよ。これ、アタシが上で迫害されるのと何が違うの?」

 

「む……」

 

 違う、とグレイスは切って捨てることができなかった。

 

「アンタが見てるのも、今この場が活気に満ちてるのも、一つの側面でしかないの。ピンと来ないかも知れないけど、人って簡単に強くもなれるし、弱くもなれるのよ」

 

「……理解できんな」

 

 魔族は良くも悪くも変化の乏しい種族だった。人を見下し傲慢に振る舞う魔族は、生まれた時からそうだし、グレイスのように無関心な魔族なら、興味をいだいても関わろうとすることはない。中には人に好意的な魔族もいたが、そういう魔族は生まれた時から好意的で、そして裏切られたとしてもその好意を頑なに変えようとはしなかった。

 

 それが、魔族という存在だ。

 

「だが――決して悪くない感覚だ」

 

「そう?」

 

「ああ、お前のおかげだ、リン」

 

 グレイスは自然と笑みを浮かべながら、感謝を口にする。驚くのはリンだ。突然褒められると、彼女は照れてしまう。唇を尖らせて、頬はちょっとだけ赤くなっていた。

 

「きゅ、急に何よ」

 

「この営みを知れてよかった。お前がここで、前を向いて生きていることを知れてよかった。お前と会話して、見識を広めることができてよかった。すべてお前のおかげだ」

 

「ちょ、ちょっと。だから急にどうしたのよ!」

 

「退屈だと思っていた人の生に、初めて意味を見出すことができた。労働、というのは中々どうして奥が深い。それを知れただけでも、こうして転生したかいがあったというものだ」

 

「大げさすぎよ! 一日で人生観変えないでよ、重くて面倒見きれないわ?}

 

「む? そうか? 素直な気持ちなのだが」

 

 グレイスには、どうしてリンが照れているのかわからない。というか、そもそも照れているということもよくわかっていない。

 なにゆえリンが顔を真赤にして慌てているのか、自分の言葉が彼女を困らせてしまっているのか、そのことに意識が向いて、そもそも口にしたことの意味を彼は一切考えていない。

 

「お姉ちゃん口説かれてるー!」

 

「ラブロマンスー!」

 

「ひゅーひゅー!」

 

「ちがわい!!」

 

 周りを走り回ってからかう妹たち。

 まぁ、これはこれで楽しそうならばいいのか? とグレイスは結論づけることにした。残念ながら彼はまだ人としての情緒はまったく育っていないのである。

 

「っていうか!」

 

「む?」

 

「労働だけに人生の意義を見いださないでよ!」

 

 そこで、リンは話を切り替えてグレイスへ突っかかる。かなりリンは本気のようで、グレイスはさっぱり状況が飲み込めないのだが、とりあえず彼女がグレイスの言葉を真面目に否定していることだけはわかった。

 

「確かに、働くことってとっても大事だわ! お金をもらって、明日のために頑張る。素敵よね?」

 

「そうだぞ。俺も労働をして、ようやく人らしい生活を――」

 

「――人間らしい生活がそれだけなわけあるか! 労働ってやりがいはあっても、大変で辛いものなんだから!」

 

 決して、働くだけで人は生きていけないと、リンは言う。

 人生の楽しみを教えるために労働を教えたのではないと、リンは言う。

 つまりどういうことだ? グレイスはまたも首をかしげた。

 

「つまりは、これよ!」

 

 指をさす。

 その先には――

 

 

「一日の終り、疲れと汚れと匂いを洗い流して、新しい明日へ想いをはせる! そう、ここが人生の意義だとアタシは断言する!」

 

 

 ――銭湯があった。

 グレイスはリンによって、ある場所へと案内されていた。それがこの銭湯。下町が共同で経営する、リン曰く人生の意義。

 グレイスにとっては、完全なる未知の世界だった――

 

 

 <><><>

 

 

 銭湯とは命の洗濯だ。

 リンはグレイスにそういった。

 しかし、グレイスはいまいちそれがピンと来ていない。何せグレイスは、生まれてこの方湯船に入ったことがない。富裕層では、身支度とは魔術で済ませるものだ。もっというと、魔王時代も身体を清潔に保つ魔術をグレイスは使用していた。

 根本的に、入浴という文化がグレイスが生きてきた世界には存在しない。

 

 興味もなかったのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、それを聞いたリンはすごい目でグレイスを見てきた。

 

 それはもう、人ではない何かを見る目だった。魔族が人形であるのも相まって、魔王時代ですら、あんな目をリンに向けられたことはない。

 

『アンタ、湯船を知らないなんて人生の半分……いえ、魔王時代を含めれば、百回分くらい人生損してるわよ!?』

 

 とまで言われてしまった。

 であれば入ってみることもやぶさかではないのだが、困ったことがあった。リンは女湯で、グレイスは男湯なのだ。いくらなんでも、そこで女湯に入るほどグレイスは常識知らずではない。

 だが、それはそれとして入ったこともない湯船に、一人で入ることは難しい。リンは中にいるおっちゃんたちに聞けと言われたが――

 

 ――知らない相手に声を書けることを躊躇う意識が、グレイスにも存在した。

 

 中に入ると、脱衣所があり、服を脱いで中に入ると、十人くらいが一度に入れる湯船が目の前にあった。これに入ればいいのだおるか、とグレイスは首をかしげる。

 

「むぅ……」

 

 行くべきか、行かざるべきか。ここまでくれば行かない理由はどこにもない。しかし、どのようにして湯船に入ることが正しいのか、グレイスにはさっぱりである。

 

 湯船の前でグレイスはひとしきり悩んだ。

 よくわからない、どれだけ悩んでも、いまいちピンとこない。入ってみれば分かるということかも知れないが、入ることも少し足踏みしてしまう。

 やがて、意を決して中に入ろうとすると――

 

「ちょっと待ちな」

 

「む?」

 

 声をかけられる。すでに湯船に浸かっていたおっさんだった。つるつるの頭と、立派なお腹が特徴だ。

 

「まず体を洗うんだよ。わかるか?」

 

「むぅ、難しいな……わかった、やってみよう」

 

 そこでそう言えるのは、グレイスがそこそこ素直な性格をしているからか。魔王の威厳というやつが感じられないやり取りだが、そもそもグレイスは今魔王ではない。自分の立場は、湯船に浸かるおっさんと変わらないと思っている。

 

「それと――あっちを見な」

 

 指をさす。その先にかかれているのは「タオルを湯船につけてはいけない」という内容。グレイスはそれに頷くと、恐る恐るといった様子で体を洗うための場所に座る。

 流れるお湯をざばぁと被って、それから備え付けられた石鹸で体を洗う。

 さすがに石鹸の使い方くらいは分かるグレイスである。だが、そもそも貧民街であるはずのこの場所に、石鹸があるという不思議に彼はついぞたどり着かなかった。

 

 そも、石鹸どころかこの銭湯が維持できているのも、不思議と思わなかったのだが、それはさておき。

 

 ――変化に気がついたのは、体を洗って、頭を洗っているときだった。今日一日、グレイスは下水道で掃除をしていた。ついに鼻が慣れてしまったため気が付かなかったが、グレイスはとても汚れていたのだ。

 頭の汚れが洗い流されたことで、その変化をグレイスは理解する。

 爽快だった。

 

 そう感じた上で、もう一度湯船を見る。あれに浸かれば今日一日の疲れはまるっきりなかったことに成ってしまうくらい、爽快なのではないか?

 

 思い至ってしまった。

 

 そうなればもう止まらない。グレイスは石鹸を洗い流すと、すっと立ち上がる。覚悟はとっくに決まっている。未知の存在、湯船。

 しかし同時に、好奇心をくすぐられる対象となっている存在、湯船。

 

 グレイスはそれを初めて体験するのだ。

 

 ――おそるおそる、湯船に脚をつける。その時、間違いなくグレイスの中で革命が起こった。

 

 ああ、そうだ、これは――

 

 

「これが――生きがい」

 

 

 その時、グレイスはリンの言っていたことを魂で理解した。過酷な労働と、その後に待っている体を癒やす湯船の魔法。こんなもの、夢中にならないわけがない。

 そして、大きく伸びをした後、グレイスは周囲を見た。

 

 周囲の視線は、グレイスへ釘付けとなっていた。

 

 ――自分を止めた、つるつる頭のおっさんと目が合う。

 

 

 グレイスとおっさんは、同時にサムズアップをするのだった――



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5 魔王とミルクと風呂上がり

「よぉ、兄ちゃん」

 

「む?」

 

 湯船を堪能するグレイスに、つるつる頭のおっさんが一人、近づいてきて声をかけた。グレイスはそれをみやって、意外そうにしている。

 自分に声をかけるものがいるとは思わなかった、といった様子。

 

「お前さん、他所から来ただろう、一体全体どういうわけでここに来たんだか知らないが」

 

「ああ――」

 

 警戒させてしまったか、とグレイスは納得する。よそ者、たしかに下町の人間からすれば警戒対象だろう。特に自分は身なりがいい、育ちの良さというのは服を変えても隠せまい。

 彼らにとって、自分は異物。溶け込めるほうがおかしいのだ。うぬぼれているつもりはないが、申し訳ないとは思う。

 早めに上がったほうがいいだろうか――

 

「――いや、気に入ったぜ! ああも見事に湯船に感動してくれると気持ちがいい!」

 

「おお?」

 

 意外な反応だった。

 そりゃあ親指グッ、をした中なのだから当然といえば当然なのかもしれないが、ここまで好意的に見られるとはグレイスとしては意外と言う他無い。

 快活なおっさんの笑み、グレイスも薄く笑みを浮かべる。

 

「それに、きちんとマナーを守ってくれるのも好印象だ。あんた、名前は?」

 

「グレイス……グレイス・ヒルドレッドだ、見て分かるかも知れないが、公爵貴族だ」

 

「公爵……!? いいとこの坊っちゃんだとは思ってはいたが、大物すぎるだろ!?」

 

 もしや、自分の立場は彼らが思った以上に高かっただろうか。いや、もちろん公爵ともなればこの国でも一番位の高い貴族なのだから高くて当然なのだが、この場合彼らが想像していたよりもグレイスの立場が高かったということ。

 せいぜいが大きな商店のドラ息子と思われていたのなら、そこまで警戒されないのも、納得――これは、少しばかり失敗したかもしれない。

 身分を隠すのは、彼らにとって誠実ではないと思ったのだが。

 

「いやぁ――」

 

 おっさんは驚きながらも、呆れるような表情を浮かべていた。

 

「お前さん、正直すぎるだろ。まぁリンちゃんが連れてきたヤツなんだから、それくらい素直な方が信頼できるってもんだが……」

 

「……そうか、リンか」

 

 どうやら、彼はグレイスが公爵貴族であると明かしてもそれを受け入れてくれるらしい。それもこれも、リンというこの街でも慕われている存在の紹介だから、という側面が大きいだろう。

 彼女の立場は、グレイスにとって心底ありがたいものだった。

 

「いいさ、よろしくなグレイス。ここではお前さんは一人のグレイスだ、その方がいいだろ?」

 

「ああ、それで頼む」

 

 おっさんは話が分かる人だった。それから、周囲の他のおっさんたちも交えて、話は弾む。グレイスは自分の身の上を話ながら、この街のことを聞いていく。

 人と亜人が当たり前のように隣り合って暮らす街。グレイスにとっては、魔王だった頃は当たり前の――しかし今の時代には貴重な街の話は、非常に興味深いものだった。

 対してグレイスの身の上話は、おっさん達にとっては同情に値するものだったのか――グレイスが魔王として、確固たる自我を形成していなければ、普通歪むような環境だ――親身にグレイスの話を聞いてくれた。

 

 一番盛り上がったのはグレイスとリンの関係だ。

 ここに関しては、話せないこともある、という前置きをした上で昔馴染み――下町を進む道中でリンが知り合いに語っていた関係――を話す。

 リンは幼い頃にチビ――妹たちを連れてこの街にやってきて、以来ずっと住み着いているから、ソレ以前の関係だとすれば、二人は中々に奇縁だろうとおっさんたちは言う。

 実際には、互いに互いを殺して同じ場所で死んだ仲なのだが、これは奇縁がどうとかいう話ではないとグレイスは思った。

 

 ちなみに、グレイスはリンのことが好きなのかという質問のさい、おっさんたちから仄かな殺意をグレイスは感じ取った。大切な娘のような存在であろうから、当然といえば当然だろうが、少しだけ元魔王グレイスヒルターは恐怖した。

 尊敬している、と回答しておいた。玉虫色の回答だ。

 

 そうして風呂上がり、おっさん達はグレイスにこういった。

 

「――風呂の楽しみは、これだけじゃ終わらねぇぜ?」

 

 そういって、くいっと何かを飲む仕草をする。アルハラは勘弁願いたいのだが――

 

 

 <><><>

 

 

「――来たわね!」

 

 出れば、すでに風呂から上がっていたリンが待ち受けていた。

 

「まさかアタシの方が早いとは思わなかったわよ。おっさんたちに捕まってたってんなら納得だけど」

 

「おう、悪いなぁリンちゃん。けど、こいつのことがよくよくわかってよかったぜ」

 

 パンパンと背中を叩かれるグレイス。少しむず痒かった。

 

「それでどうしたのだ。もう日も暮れた、そろそろ解散したほうがいいだろうに」

 

「まだ終わってないのよ! なんにも終わってない!」

 

 頑なにリンはそう言って聞かない。グレイスとしては、わざわざ待たせてしまったことに対する申し訳無さが勝つのだが、リンはそんなこと気にしてもいないようだ。

 風呂から上がって、これ以上なにかあるというのだろうか。

 

「むしろここからなのよ! 労働に寄る疲労を湯船で汚れごと押し流して、さっぱりした後には当然、待っているべきご褒美があるの!」

 

「酒か」

 

「アタシたちは飲めないわよ!」

 

 言いながら、タッタッタとリンはどこかへ駆けていく。

 そうして持ってきたのは、一つの瓶だった。

 

「これ!」

 

「……なんだ?」

 

「ミルクよ!!」

 

 ミルク。流石に言われて見てみれば分かる。そこがわからないほどグレイスも世間知らずというわけではないのだ。

 ただ、言われてもピンと来なかったが。

 

「いや……俺はミルクではなくコーヒーの方が好きなのだが」

 

「この偏食家ァ!」

 

 バシィ、とリンから叩かれるように瓶を押し付けられた。本当に叩きつけたわけではないのが、彼女の人の良さを感じさせる。

 

「分かるから! 飲めば分かるから! 飲んで分かれ! ってか分かれ!」

 

「むぅ、なんかテンションがおかしいぞ。本当に酒は飲めないのだよな? お前……」

 

「雰囲気に酔ってる所はあるわね」

 

 温泉に入ってテンションが上がったからだろう、とリンは笑う。それにしたってテンション上がり過ぎじゃないかというのはグレイスの考え。

 どちらにせよ、飲むまで彼女はここに居座るだろう。

 

 というか、見れば周囲の視線がこっちに集まっている。リンの妹たちも何故か物陰からこちらをじーっと見ているし、おっさんたちも酒を飲みながらチラチラと見ているわけだが。

 なんだろう、湯船に入ったときのような視線だ。

 

 ……ちょっとだけ、期待値が上がった。

 

「まぁ、そこまで言うなら吝かではないが……しかし知らんぞ?」

 

「大丈夫!」

 

「その絶対的な自信はどこからくる……」

 

 言いながらも蓋を開けて、グレイスは中を覗き込む。まずいということはなさそうだが、飲んで見るまではなんとも言えない。

 苦手とはいっても飲めないわけではないのだし、覚悟を決めてさっさと行くべきだ。

 グレイスはそう思い、ミルクを煽った。

 

 ――直後。

 

「……!!」

 

 その目が見開かれる。

 周囲が少しどよめいた。

 

 ごくり、ごくり、ごくり。

 

 喉を鳴らしてグレイスはミルクを飲み干していく。勢いよく、ずずいっと。

 

 そして――

 

「ぷはぁ!」

 

「おおっ!!」

 

 一息で飲み干してしまった。衝動的に、ごくごくと。

 

「……うまい」

 

 ――直後、リンや妹たちから歓声が上がった。おっさんたちも、したり顔でうなずいている。

 一口で、グレイスはわかってしまった。

 

 労働、入浴、そしてミルク。

 

 ああ、たしかに風呂上がりにこれを飲まなければ、銭湯は完結しない。

 コレは確かに――やめられないな。

 

「感謝するぞ、リン」

 

「ふん、トーゼンよ!」

 

 見れば、リンの顔は先程から、ずっと笑顔だった。満面の、華やぐような笑み。ああこれは――可憐だ。気を許したようなリンの笑みに、思わずグレイスは引き込まれるのだった。

 

 

 <><><>

 

 

 それから、グレイスは事あるごとに屋敷を抜け出して、下町に通った。

 グレイスの屋敷には、それを一人で管理する執事がいるのだが、彼の目を盗んで。

 

 疑われても、証拠がでなければいいのだ、そもそもグレイスはいいつけで勉学に励むよう言われているのだが、そのノルマはきちんとこなしている。

 師がやってきて直接講義を受けるときだけ、屋敷を抜け出さずにその講義を受けて、それ以外の日はリンが仕事をしている日はほぼ毎日下水道に通った。

 

 街にも、少しずつ馴染んでいった。旗から見れば金持ちの道楽にしか視えない行為だが、グレイスは天然でそんなこと考えもしなかったというような態度で、周囲の毒気を抜いていた。

 他にもリンの紹介というのもあるが、何よりこの街の顔役をしているおっさんたちに認められたというのもあってか、一気に彼は下町の一員として受け入れられていった。

 

 もちろん、グレイスが真摯に仕事へ取り組んでいたというのもあるし、下町の人間に対して、一切慇懃な態度をしなかったことも大きい。

 人柄と縁。それらが合わさって、グレイスは下町で認められる存在になることができた。

 

 そのたびにリンへ愚直に感謝して、リンを照れさせていたわけだが、風呂上がりの機嫌がいいリンに感謝すると自然とそれを受け入れてくれるということを悟ったグレイスは、風呂上がりにリンを口説くことを覚えてしまった。

 街の若い男たちがグレイスに嫉妬するなか、二人は少しずつ距離を詰めていく。

 

 魔王と勇者。その枠組を取り払ってしまえば、どちらも純朴で天然で、そして前を向いて生きることを望む気性をしている。ようするに馬が合うのだ。

 そうしている内に、時間はあっという間に過ぎていく。

 

 

 ――気がつけば、二月の時間が流れていて、グレイスの手はすっかりゴツゴツとした、下町の人間の手になっていた。

 

 



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