シンプルに五月ルート (アイルライル)
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第1話

 やってしまった。

 いつもの昼食である「焼肉定食焼肉抜き」を持った風太郎は、食堂の席が埋まりつくしている状況を見て、そう思った。いつもは午前最後の授業が終わったらすぐに食堂に来るのだが、今日は授業で少しわからなかった箇所を先生に質問していたから出遅れてしまった様だ。

これが飲食店ならば、少し待てば席が空くのかもしれないが、学校の食堂に限っては食べ終わってからも居残って友人と会話に勤しむという常識知らずなやつがいる為、あまり期待はできない。

 

「一人の素晴らしさを知らない奴らめ」

 

 一人で食べれば、その分味を楽しめるし、食べながら小テストの復習することができる。圧倒的にマルチタスクに向いているこのスタイルをなぜしないのか理解に苦しむ。

 とはいえ、このままぼーっと立っていてもせっかく200円の出費が冷めたご飯になってしまう。

 

「上杉くん、また一人だよ。しかも、席も無いみたい」

「うわ、かわいそう」

 

 自分たちの声が風太郎に聞こえているなんて露にも思っていない同級生たちに心をえぐられながらも、どうしたものかともう一度食堂全体を見回してみた。

 しかし、ものの数分で席の空き具合が変わることはなかった。

 

「まぁ、立って食うしかないか」

 

 残念ながら風太郎には一緒の机を共有してくれる様な友人がいないため、多少行儀が悪いが、さっさと食べて小テストの復習をしよう。

 そう思って、できるだけ人気のないところに向かおうと背を向けた時だった。

 

「あの……座るところがないんですか?」

「ん?」

 

 声をかけられた。久しく学校では先生以外から声をかけられていなかったから、間抜けな顔で振り返ってしまった。

 声音でわかっていたことだったが、声の主は女子でその身体は見慣れない制服に包まれていた。

 

「私の向かいでよければ空いているのですが、す、座りますか?」

 

 最後の方が少しもごもごとして、頬が若干赤くなっていた。真面目そうな生徒だから、異性を誘うということに恥じらいがあったのだろうか。

 

「いや、悪いだろ。厚意はありがたいが、無理してまで面倒見てもらわなくていい」

「む、無理なんかしてません!」

 

 女生徒の大声での反論で、食堂中の視線が急に風太郎たちに集まった。普段女子どころか他人と関わらない風太郎と他校の制服を着た女生徒が話している様子は、話のネタになるのだろう。

 好奇の視線にさらされる中、何かと慣れている風太郎と違って、目の前の女生徒はうつむいて、その身体をプルプルと震わせていた。顔は見えなくなったが、今度は耳まで真っ赤にしている様子に風太郎は折れることにした。

 

「じゃ、じゃあお邪魔させてもらうよ。案内してくれ」

「わ、わかりました」

 

 風太郎の言葉に、ほっとした女生徒はすぐにでもこの場を抜け出そうと早歩きで席に案内してくれた。

 席に着くと、既に彼女の昼食であろうものが置かれていたテーブルに風太郎は思わず声が出た。思わず、自分の持っているトレーの上と見比べてしまう。

 

「どうかしましたか?」

 

 風太郎の異変に気づいた彼女がそう尋ねてきた。

 

「他に誰かいるのか?」

「いえ、私とあなただけですが?」

「そ、そうか」

「それにしてもあなたのお昼少ないですね。お腹空かないんですか?」

 

 平然として、そう言う彼女に風太郎は戦慄した。

 

「俺はこれで平気だ。そっちこそ、そんなに食べれるのか? 太……食べきれないともったいないだろ?」

「私も平気です。さ、冷めてしまう前に食べてしまいましょう。もう既にあなたのお味噌汁からは湯気が見えなくなっていますよ」

 

 思わず、女子に言ってはいけない単語を口にしそうになった風太郎だったが、なんとかそれを避けることに成功した。親切にしてくれたのだから、これくらいの配慮はしなくてはならないだろう。

 先に着席した彼女は早く食べたいと、風太郎の顔を凝視してきていた。

 余程お腹が空いてるのだろう。風太郎も着席すると、揃って「いただきます」と合掌して遅めの食事を取り始めた。

 

「そういえば、まだ名乗っていませんでしたね。私は中野五月と言います」

「俺は上杉風太郎だ。今日は助かった」

「いえ、困っている人を助けるのは当然ですから……って、何を見ているんですか?」

「ん?」

 

 五月は風太郎がテーブルの上に広げた小テストを指してそう言った。

 

「小テストの復習だ。時間がもったいないからな」

「もったいない? そんなに切羽詰まっているのですか?」

「いくらやっても足りないからな」

「勉強熱心ですね。どれどれ……え、ひゃ、百点!? 一体何を復習する必要が……」

 

 五月の見た通り、風太郎の答案には丸しか存在していない。ただ、もう少し解答に改良の余地があった。それを先生に相談していたため、今日は遅れてしまったのだ。

 ただ、それを伝えても恐らく理解を得られないかもしれないので、適当に流した。

 しかし、五月は中々風太郎の答案から目を離さなかった。そんなに百点が珍しいのだろうか。

 

「どうした?」

「恥ずかしい話、勉強は不得意なので羨ましいなぁ、と思って。今度家庭教師の先生が付いてくれるらしいのですが、馬鹿にされるのが少し怖くて」

「そんなに酷いのか?」

「あはは……」

 

 風太郎の問いかけに、空笑いしてどこか遠くを見つめる五月に、何となく察してしまった。

 

「知らないが、家庭教師は仕事なんだから、生徒を馬鹿にはしないだろう」

「わかってはいるのですが、緊張するものはするんですよ!」

「そ、そうか」

 

 あまりの剣幕に驚いた風太郎は、残った味噌汁を飲み干して、一旦呼吸を落ち着かせた。五月の方も大きな声が出たのが恥ずかしかったのか、デザートに残していたプリンを大きな口で食べていた。

 そのまま、数秒の沈黙が走ったところで、耐えられなくなった風太郎が言った。

 

「少し、教えようか?」

「え?」

「いや、あんたには恩があるから、返そうかと思って。それに、勉強できるの羨ましいって気持ちはわかるからな」

 

 風太郎も小学生の頃にあった出来事のおかげで、勉強に対する意欲が強くなった。その姿勢を似たものを感じたから、自分からこんなことを言ったのかもしれない。

 普段の風太郎なら、例え借りがあったとしても自分の勉強に繋がらないことを自ら提案することなどなかっただろう。

 

「いいんですか?」

「ああ。と言っても、放課後はバイトもあるから今から少しだけって感じになるけど」

「ありがとうございます。……本当に酷いでから、お手柔らかにお願いします」

「おう」

 

 昼休みは残り20分程。手元にある教材は風太郎の小テストしかなく、五月の言った通り、風太郎の想像以上に理解の浅かった五月には一つの問題に使う公式を伝えるので精一杯だった。

 

「あの、本当にありがとうございました」

「あ、ああ。教えるのもこっちの知識の確認になるから俺の方も良い復習になったよ」

「……そうですか。上杉くんは優しいですね」

「借りを返しただけだ。普段はこんなことしないぞ」

「それでも、今まで一番有意義な時間だった気がします。どうせなら、このまま家庭教師も上杉くんなら良いと思ってしまいました」

「そ、そうか」

 

 問題が解けたのが余程嬉しかったのか、五月の明るい笑顔に風太郎は自分でもわからないが、目を逸らした。

 風太郎の奇行に小首を傾げた五月だったが、丁度予鈴が鳴ってしまって残念ながらお別れの時間になった。

 

「ふふ、どうせならクラスも上杉くんと一緒になれたら、休み時間も色々聞き放題ですね」

 

 最後に冗談めかしてそう言った五月に「ああ」と何とも愛想のない返事をして、少し速足で風太郎は教室に戻った。

 五月の話では午後から授業に参加するらしいので、クラス分けもすぐにわかるだろう。

 

「何か変な感じだな」

 

 女子と話をしたとかそういう感覚じゃない。同級生にしては、礼儀も勉強に対する姿勢が良いことに対する尊敬とも少し違う。心の内から湧き上がってくる形容し難い気持ちがほんの少しだけ出てきた様な感覚だ。

 自分の席で、授業開始を待っていると担任が入ってきて、その後ろにほんの数分前に見知った顔が教室に入ってきた。一瞬目が合って、小さく手を振ってくるのが見えた。

 流石に振り返すことはできなかったが、小さく苦笑して開いていた単語帳を閉じて、先ほども聞いた彼女の言葉を聞くことにした。

 

「中野五月です。どうぞお願いします」

 

 これが、五月と風太郎のこれからを大きく変える出会いだった。

 

 




 感想くれたらモチベーションに繋がると約束します。


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第2話

「ただいま」

「あ、おかえりー。早かったね!」

「ああ。急にシフトを代わってほしいって言われたんだよ」

 

 家に帰ると、妹のらいはが出迎えてくれた。片手にお玉を持っていたので、夕食の調理中だったのだろう。愛らしく寄ってくる妹に対して、感動的な何かをおぼえていると、らいはは何かを言いたそうな顔をしていた。

 

「なんか良いことでもあったのか?」

「うん! あのね、うちの借金が無くなるかもなんだって!」

「は?」

 

 風太郎の家には借金がある。悪徳金融から借りたものではないから、着実に減ってはいるのだが、そんなすぐに返済完了できる様な額ではない。

 しかし、心の底から嬉しそうに微笑むらいはを見ると嘘ではないらしい。

 

「親父が宝くじでも当てた、とか?」

「ううん。何かね、お兄ちゃんにすごいバイトを見つけてきたんだって!」

「俺に?」

「家庭教師のお仕事なんだけど、最近引っ越してきた娘さんの成績が悪くて困ってるんだって! お給料は相場の5倍! アットホームな職場なんだって!」

「裏の仕事の匂いしかしないぞ」

 

 怪しさしか感じられない誘い文句に軽いツッコミを入れたが、ふと最近聞いたワードが頭に引っかかった。しかも、その職業について話していたのは……。

 

「なあ、その娘さんって、中野って人じゃないか?」

「あれ? 何で知ってるの?」

「……偶然が過ぎるだろ」

 

 風太郎はまさかの出来事にそうぼやいた。一体どんな確率なのか。

 頭を軽く押さえる兄の様子を不思議に思ったらいはは小首を傾げた。

 

「まあ、とにかく良かったね!」

「でもまだ受けるかどうかは……いや、やるよ」

「ほんと? やった! これでお腹いっぱいご飯を食べられるね!」

「そうだな」

 

 そんな風にはしゃぐらいはの頭を軽く撫でて、風太郎も頷く。いつもの風太郎なら断っていたかもしれない。しかし、らいはの言う様に借金が無くなるのなら断る理由はない。それだけ借金は生活を蝕む。

 

「借金の為だからな……」

 

 自分に言い聞かせるように、それを言葉にした。

 決して、五月が生徒だからという訳ではない。出会って数十分話した程度の仲だ。個人的な感情はない。風太郎も勉強に関わりながら、お金を得られる一番合理的な手段だからやるのだ。

 

「あ、じゃあ今のバイト辞めないとかもだな」

 

 五月に一度、教えてみてわかったことだが、彼女の理解の感じでは風太郎はそれなりに五月用の教材だったり、勉強法を考えるのに頭を費やさなくてはならない。

 それを今のバイトを続けながらとなると、明らかにオーバーワークになってしまう。

 

「あ、店長さんにはごめんなさいって言っといたよ!」

「おい」

「大丈夫、お勉強の為って言っといたから!」

「間違ってはないが、俺の返事を聞く前に電話したのか?」

「うん!」

「……」

 

 どうやららいはの手によって、風太郎が家庭教師を断るという選択肢は元々奪われていたらしい。

 策士というか、行き過ぎているというか……。とにかく風太郎はらいはに頭が上がらなかった。

 

「あ、そうだ。今日の晩ご飯はお兄ちゃんの大好きなカレーだよ!」

「そうか。楽しみだ」

 

 お詫びのつもりなのか、家族全員が大好きなカレーを夕食に選んだらいはに苦笑して、風太郎はいつものように過ごすことにした。

 片手に単語帳を持ち、もう一方の手にペンを持つ。少しの時間も無駄にはしない。食事中に勉強をすると、らいはが拗ねることがあったから家ではしないが、できるだけ頭のリソースを勉強に割き続ける。

 これが今の風太郎を形作る全てだ。

 

 

 

 翌日、風太郎は自席で頭を抱えていた。

 視線の先には五月がクラスメイトと仲良く談笑している姿があった。五月は転入生ということもあるし、人の良さから常に周りに人が集まる。その結果、クラス内カーストというものがあるのならば、間違いなく最下位に位置する風太郎が話しかける隙などないのだ。

 

「どうしたものか」

 

 悩んだ結果、五月の周りに人がいる状態では、風太郎がアクションを起こすことはできず、ただじっと狩りをする獣の様に標的に視線を送り続け、機会を待つしかなかった。

 それからどれくらいの時間が経ったかはわからない。五月の周りには数分おきに違う人が現れては消えていく。

 

(何か視線を感じる……)

 

 風太郎は決して隠し事が上手い人間じゃない。本人はこっそり覗いているつもりなのかもしれないが、見られている側はその存在に気づいていた。

 

「中野さんどうしたの?」

「あ、いえ何でもありません」

 

 しかし、転入生の立場はどうしても視線を集める。そのせいで、一際強烈な視線の所在自体はわかっていなかった。

 そんな悶々とした状況が続いていく中で、授業開始数秒前、遂にその時は訪れた。

 

「上杉君?」

 

 授業開始に合わせて、他の生徒が着席するため五月の席を離れた。その一瞬の隙に風太郎は立ち上がり、五月の席に近づいていった。

 そして、そのまま五月の耳元に顔を持っていった。

 

「ど、どうしたんですか?」

 

 急な接近に、転入前は女子校に通っていたため免疫の少ない五月はそのは頬を朱色に染めながら、そう訊いた。

 風太郎はやっと掴んだこの機会に話しかけただけなので、羞恥というものを全く感じておらず、淡々と伝えるべきことだけを耳打ちした。

 

「俺、あんたの家庭教師になった」

「え?」

 

 そう伝えた瞬間、始業のチャイムがなった。風太郎はすぐに自席に戻った。その表情は清々しいものだった。しかし、対象的に五月は風太郎の奇行と発言の内容に困惑して、今にも目が回りそうになった。

 今度は五月の方が風太郎に視線を送ることになるのだが、授業に集中する風太郎がその視線に気づくことはなかった。

 

 

 

 

 放課後、風太郎は五月と一緒に図書館に来ていた。休み時間に話をできればよかったのだが、五月の周りには朝同様多くのクラスメイトが集まっていたので、放課後にこっそりと五月を呼び出した。

 

「それで、上杉君が家庭教師に……」

「ああ、偶然だよな」

「ええ、とても驚きました。もしかしたら、私預言者の才能があるかもしれません。同じクラスになれたらいいと思っていましたし、家庭教師もあなたならいいのにって言ってましたからね」

「それは願望で、預言じゃないだろ」

「ふふ、そうですね」

 

 クスクスと笑う五月は心底おかしそうだった。その柔らかい表情を見て、風太郎も安堵した。内心、あの時の言葉は建前で、本当はプロの家庭教師の方がよかったなんて思っているかもしれないと思っていたからだ。

 

「あ、言っておくと、上杉君にとっては大変な仕事になるかもしれません」

「そんなに心配しなくていいぞ。中野さんは確かに勉強できないかもしれないが、やる気はあるから大丈夫だろ」

 

 素直な感想だった。五月が要領が悪いだけというのはわかっていたが、とにかくやる気さえあれば何とかなるというのが風太郎の経験に基づいた考えだ。

 

「あはは、私だけならそうかもなんですが……」

「ん? どういうことだ?」

 

 どこか遠い目をする五月に風太郎は首を傾げた。一体彼女は何を杞憂しているのだろう。

 

「あ、五月ちゃーん!」

 

 五月の名前が唐突に呼ばれた。静かな空間である図書館の中で、その声はよく響き、その声の張本人は司書の先生に注意されていた。

 

「知り合いか?」

「ええ、その……」

「あれ? 君もしかして……あ、お姉さん邪魔しちゃった? なるほどねぇ、君が五月ちゃんの言ってた……」

「一花!!」

「ほら、図書館では静かにね」

「あんたが言うなよ」

 

 今の会話のやり取りを聞くに、親しい間柄ではあるようだ。体格も声音もなんなら顔すらも姉妹の様に似ている。付き合う人間に似るものなのだろうか。

 

「ち、違いますからね!? 上杉君のことは良い人がいたっていうだけで……別に他意があったわけじゃ……」

「お、おう。よくわからんが一旦落ち着け」

 

 何かの要因で取り乱す五月に事情がわからない風太郎はそう言うしかなく、その様子を一花がにやにやとほほ笑んでいた。

 

「これじゃ、話の続きは無理そうだな」

「話? どんな話してたの?」

「あんたに関係あるのか?」

「まあ、この子のことは大事だからね」

 

 おどけた雰囲気だったのが、急に真剣な面持ちになっ。それに対して風太郎も答えることにした。

 

「俺が中野さんの家庭教師をすることになったんだ。で、その話をしてただけだ」

「家庭教師……へぇ」

「なんだよ」

「ううん、何でもないよ。フータロー君だっけ? またね。ほら五月ちゃん帰るよー」

 

 一花はそうして、五月の手を引いて図書館を後にした。

 

「またね、って俺とあんたが関わることはないだろ」

 

 その呟きは誰にも届くことはなく、風太郎の口の中で転がった。最後の含み笑いは気になったが、ああいう人種もいるのだろうと結論付けた風太郎は手持ち無沙汰になったので、そのまま図書館で自習して帰ることにした。

 

 




 テンポに関しては許してください。


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第3話

「う、上杉君!」

 

 放課後になり、担任が教室から出ると、五月が風太郎の席に駆け寄ってきた。それに大きな声で風太郎の名前を呼ぶものだから、教室内の視線が二人に集中した。

 しかし、五月には余裕がないようで、その視線が全く気になっていないようだった。

 

「一回落ち着け。……で、どうした?」

 

 風太郎の指示に従い、大きく肩を動かして深呼吸をして、心を落ち着かせた五月は要件を切り出した。

 

「今日、上杉君が私の家に来る件なのですが……」

 

 と、五月の口からそこまで出た所で、風太郎は教室中が動揺しているのを肌で感じ取った。

 

「上杉が中野さんの家に!?」

「嘘、信じらんない……」

 

 小さな声の呟きが耳に入ってくる。五月には聞こえていないようだが、普段陰口を言われなれている風太郎の耳にはそれらがしっかりと届いていた。

 

「……中野さん、一回出ようか」

「え? わ、わかりました」

 

 このままここで話を続けると、五月に対して好意を向けている男子が暴動を起こしかねない。

 こんなことを五月に伝えても、そんなことないと軽く流されるかもしれないが、彼女は自分がそんな風に見られているなんて微塵も感じていないだけで、風太郎から見ても容姿は整っていて、誰にでも平等に接する姿勢は男子受けするのだろう。

 

「それで、今日の家庭教師のことだよな? 何か都合が悪くなったとかか?」

「いえ。ただ、上杉君には言っておきたいことがありまして……」

 

 五月の表情が曇った。しかし、五月の言葉が止まることなく、話は続く。

 

「家庭教師は上杉君の前にもいたのです」

「まあ、そりゃそうだろうな」

 

 一学生である風太郎に大金を積んで、仕事を依頼するくらいだ。相当自分の娘の学力を心配しているのだろう。風太郎なんかに頼る前にもっと選択肢はあっただろう。

 だが、そうなると一つの疑問が生まれる。

 

「何で、その人たちは辞めたんだ? 俺が思うに中野さんに教えるのは少し大変かもしれないが、勉強への姿勢は熱心だし、問題は無いと思うが」

「あ、ありがとうございます」

 

 褒められ慣れていないのか、この程度の言葉でも照れてしまう五月に苦笑する。

 

「……すみません、また話が止まってしまいました。それでお話なのですが、大前提に私は上杉君が家庭教師をしてくれることには賛成してることはわかっていてください」

「お、おう」

「ですが、家の中に反対派もいて……。それが今まで他の先生方が辞めてしまった原因なんです」

「お母さんが反対してるのか?」

 

 風太郎の依頼主は五月の父親だ。となると、残るは母親くらいと当たりをつけてそう尋ねた。

 

「いえ、お母さんはもういません。反対してるのは私の姉です」

「……悪い」

「大丈夫ですよ。頭をあげてください」

 

 意図せずにデリカシーの無いことを言ってしまっていたのだと後悔した風太郎は頭を下げた。

 五月の許しが出てもしばらくの間、頭を下げ続けた風太郎だったが、背後から穏やかでない物音が聞こえて、顔を上げて、背後を見やった。

 

「遅かったようです……」

「遅かった? それに、誰だこいつら?」

 

 風太郎が指した方には、四人の女子が立っていた。

 

「ヤッホー、昨日ぶりだね」

「ん?」

 

 その中の一人が一歩前に出てきて、風太郎に軽く手を振る。その顔には見覚えがあった。彼女が言っている通り、昨日五月を連れて行った女子生徒だ。あの時の態度を見るに、五月とは仲が良いようだが、他の三人に関しては全くの初対面である。

 五月の反応を見るに、残り三人も知り合いなのだろう。

 

「ホントに五月ちゃんと仲いいんだね」

「一花!」

 

 一花の言葉に昨日と同様に反応する五月。声を荒げる五月に慣れていない風太郎がただ、呆然とそれを眺めているのに対して、残りの三人は何も動じていなかった。

 

「なぁ、あんたらって中野さんと仲いいのか?」

 

 その様子が気になって、そう尋ねると、三人の内の一人が答えてくれた。

 

「はい! 私たちはとっても仲良しです!」

 

 答えてくれてくれたのは頭に大きなリボンをつけた少女だった。勢いよく答えたせいか、姿勢が前のめりになってしまっている。

 

「あなたが上杉さんですよね?」

「そうだが、誰だ? 何で俺のことを知ってるんだ?」

「おっと、失礼しました。私は四葉という名前です。五月から家で、たくさん上杉さんの話を聞いてます!」

「家?」

 

 五月は転入してきてまだ日が浅い。それなのに、もう家に友達を呼んでいるのか。

 

「いつ仲良くなったんだ? あまり中野さんがクラスのやつ以外と喋ってるのは見たことが無いんだが」

 

 風太郎が休み時間にも教室から出ないのが原因かもしれないが、五月は基本的にクラスの女子と喋っている。

 

「は? あんた五月のことそんなに見てるわけ?」

「ち、違う! たまたま視界に入るだけだ!」

「変態ってこと?」

「違う!」

 

 喋っていなかった残り二人が風太郎にかけた言葉は中々の暴言に近しいものだった。特に長髪で、頭に蝶のリボンをつけている少女は明確に敵意を持っている様に感じた。

 いつも陰からの悪意にさらされている風太郎にとってはあまりにも新鮮な悪意に驚いてしまう。

 

「何変な顔してんのよ」

「こらこら、二乃も三玖もフータロー君をいじめちゃダメだよ」

「そうです! 仲良くしましょう。上杉さんは私たちの家庭教師になるんですから!」

 

 いつの間にか、五月との言い争いが終わったのか、一花が二乃、三玖というらしい少女をなだめた。五月の方は疲れたのか少し息が荒くなっている。

 

「ちょっと待て」

 

 何となく、場の雰囲気が落ち着きそうになっていたが、風太郎は四葉の発言の違和感に気づいた。

 彼女は「五月の」ではなく、「私たちの」と言ったことだ。その言葉が言い間違いである確率はほとんどない。つまり、そのことは限りなく正しい情報ということだ。

 改めて、目の前の五人の女子の顔を見遣る。雰囲気は違う。しかし、意識してみると、不思議なくらいに五通りの顔が一通りに見えてきた。

 

「ん? あんた、まさか知らないの?」

「五月ちゃーん? もしかして、二人っきりで教えてもらおうとしてたのかな?」

「ち、違います! 私は伝えようとしてたのに、一花たちが早く来てしまったから……」

「もー、五月ったらおっちょこちょいだなー」

「四葉に言われたら終わりだね」

 

 まるで一人が五役演じているのかというくらいの声の一致。風太郎の頭の中に信じられない仮説が過ぎる。

 風太郎が狼狽していると、五月が前に出てきた。どうやら、答えを教えてくれるらしい。

 

「実は、私たちは五つ子なんです。だから、上杉君の生徒は私の他に、一花、二乃、三玖、四葉の四人。つまり五人いるんです」

「そ、そうか」

「伝えるのが遅くなってごめんなさい」

「い、いや大丈夫だ。ただ、ちょっと頭の整理をさせてくれ」

「あ、ちなみにあたしたちはあんたが家庭教師になるの認めてないから」

「は?」

 

 あっかんべー、といった様に舌を出して混乱する風太郎に追い討ちをかけてきた。

 少しして、落ち着いた風太郎は二乃の言葉をしっかりと飲み込んで、大きなため息をした。その様子を見た五月が不安そうな表情をしている。

 

()()、大丈夫だ。別に断ったりしない」

 

 五月は言っていた。今までの家庭教師はすぐにやめてしまったと。

 まだ一度も授業をしたわけではないが、風太郎にも何となくこの仕事がかなり辛いものになると直感的に悟った。

 けれど、それは風太郎がこの仕事を断ることにはつながらない。 

 

「えっと、二乃だったか?」

「何? 気安く呼ばないで。大体、五月と仲良くするのも認めないから。あんたみたいな変態が妹に近づくって考えるだけで寒気がするわ」

「二乃! 上杉君に謝ってください!」

「良いのよ、どうせこいつもすぐに辞めるんだから」

 

 二乃はそう言って、不敵に笑う。

 それに対して、今度は臆することなく、風太郎も笑みで返した。寧ろ、宣戦布告ををするくらいの気持ちで五人に向けて言葉を放った。

 

「俺は絶対に家庭教師として、お前らに勉強を教えてやるよ!」

「は? 生意気」

 

 バチバチと風太郎と二乃の間に火花が散った。

 

「まあいい。とりあえず、今日から五月の家庭教師として家に行かせてもらう」

 

 有無を言わせずに風太郎は言う。そして、風太郎の心に変な火がついた瞬間である。その燃料となるのは、二乃の生意気な態度に対する反発心、五月の期待に応えること、そして五人に教えるのだから相場の五倍の給料をもらうのは当たり前だろうという依頼主への小さな怒りだった。




 まだ原作一話に追いつけないことに驚きと恐怖を感じています。


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第4話

「上杉君、二乃たちの説得は任せてください!」

「どうした、急に」

 

 五月の姉妹が帰った後、五月はなぜか残ってくれて、風太郎に力強くそう言った。

 風太郎に顔を近づけて、今にも顔のどこかが触れあってしまいそうなほどである。

 

「一旦離れようか」

「は、はい」

 

 風太郎が制止をかけると我に返った五月も咳払いをして、一歩後ずさった。遅い時間でよかった。周囲に他の生徒の気配はなく、今の軽いハプニングを見られることはなかった。

 己惚れるわけでも、しょうもない感情に流されているわけではないが、さっきの五月との距離は恋仲の様に映ってしまっただろうから、変な勘違いをされないことに風太郎は安堵した。

 

「なんだか、上杉君とは距離感が難しいです」

「俺も偶にそう思うよ」

 

 風太郎の場合は、あまり人と関わることがなく、その上、五月の様な女子との距離感などわかるはずもない。

 

「えっと、話を戻すのですが、私が姉妹を説得してみせます」

「それは助かるが、お前は勉強に専念してても良いぞ?」

「いえ! 私がやりたいんです。上杉君みたいな先生は初めてですから」

「まぁ、俺はプロじゃないからな」

「そういう訳ではありません。今までの先生は仕事だからこそ、二乃のキツイ言葉に立ち向かわずにいつの間にかやめてしまいました」

 

 依頼人の機嫌を損ねる様なことは普通はしないだろうな。

 風太郎もこの仕事をクビになる訳にはいかないが、まだ子供なのだったのだろう。単純に売り言葉に買い言葉で、ムキになってしまったのだ。

 

「それに、二乃に言い返す時に私の方を見てましたよね?」

「あ、あれは……」

「大丈夫です。変な意味じゃないのはわかっています。言葉はありませんでしたが、『絶対にやめないから』って言われている様な気がして、すごく嬉しかったですよ」

「き、気のせいだろ」

「ふふ」

 

 ダメだ。五月の顔を直視できない。折角、丁度良い解釈が自分の中でできていたというのに、あの時の心情が完璧に五月に伝わってしまっていたのが恥ずかしすぎる。

 

「だから、私にできることは何でもします。一緒に頑張りましょう」

 

 五月は手を差し出してきた。それは五月なりの決意表明の様だ。

 風太郎も羞恥を一旦、心の奥に追いやって、五月の決意に応えた。

 

「……」

「どうした?」

「上杉君の手、男の人の手ってすごく心強いんですね」

「……」

 

 五月が変なことを言うので、風太郎も手の神経に集中してしまった。五月の手は自分の様な手ではなくて、柔らかくて少し力を入れれば、非力な風太郎でも潰してしまいそうだ。

 否応なく、身体の違いが風太郎に意識させる。

 目の前の少女は自分の生徒であり、同級生の異性であるということを。

 五月は風太郎がそんなことを思っているなんて、考えもしないのだろう。きっと風太郎のことは純粋に同じ目標を掲げる仲間だと、この奇麗な瞳には映っているに違いない。

 そんな気持ちを裏切るような考えに対して、羞恥を感じた風太郎は心の中で謝罪した。今からはできるだけ、この純粋な気持ちに応えよう、なんて柄にもなく決意するのであった。

 

 

 

 

 

 

「いらっしゃい! さっきはごめんね。やっぱり改めて考えたら、アタシも勉強したいなって!」

「は?」

 

 ドアを開いた途端、風太郎は完全に思考を停止した。

 一時間、だ。目の前で気持ち悪いくらいの笑顔を貼り付けて風太郎に喜々として話しかけてきたのは、先ほど風太郎に侮蔑の籠った視線を向けてきていた二乃だ。

 隣に立つ五月も想像していなかった展開に声が出せない様だった。

 

「ささ、入って」

 

 呆気にとられたまま、風太郎は二乃に押されて中に入った。

 

「あ、フータロー君お疲れー」

「上杉さん! こっちですよ!」

「……」

 

 残りの三人もテーブルに筆記用具を用意して待っていた。若干一人は退屈そうにヘッドホンで音を完全に遮断していたが、一応風太郎のことを待っている。

 

「五月、こいつらどうしたんだ?」

「ち、近いです。……四葉はともかく他の三人の態度は姉妹の私から見ても異質です」

 

 五月の耳元に他の四人に聞こえないくらいの音量で囁く。五月は一瞬頬を染めたが、風太郎の問いかけに答えた。

 あれだけ風太郎が家庭教師になるのを反対していたのが、完全に手のひらを返して、風太郎歓迎ムードになっている。この状況は非常においしい。しかし、あまりにも都合がよすぎて怪しい。

 

「だがまあ、利用しない手は無いか。よし、じゃあ全員席に着いてくれ」

「はいはーい」

 

 二乃は素直に風太郎の指示に従い、姉妹の横に腰を下ろした。五月も怪訝そうにしていたが、遅れて腰を下ろした。

 

「それでは、今日は全員の学力を確認する為の小テストを行わせてもらう」

 

 このテストは本来五月用に風太郎が作っていたものだ。その為、一枚しか用意が無かったので、学校からここに来るまでにわざわざコンビニでコピーしたものだ。

 風太郎にとって、僅かではあっても予定外の出費だったので、どうしても受けさせたかったのだ。

 

「出来次第持ってきてくれ」

 

 一応、制限時間として三十分とったが、五月の学力と残りの四人が似たりよったりなら、制限として意味を為さないだろう。

 

「あ、そこに先生用に飲み物置いといたから!」

 

 テストを初めてすぐに二乃がそう言って、指さした。

 

「そうか。ありがとう」

 

 遅くに学校を出たこともあって、急いで来た風太郎の喉はカラカラだった。それを予測していたとは思えないし、用意が出来過ぎている様な気もするが、疲れていた風太郎は己の欲求に従い、一気に飲み干した。

 

「俺も自分の勉強するか」

 

 どうやら真面目に取り組んでいる様だし、目を離しても問題ない、という判断だった。

 この判断が間違っていた。五人に目を向けることなく、カバンから取り出した単語帳に集中していたせいで、風太郎は気づかなかった。

 風太郎がコップに口をつけた瞬間に、二乃の口角が上がっていたことに。

 風太郎の瞼は次第に重くなっていく。

 

「上杉君、終わりま……上杉君?」

 

 二十分程過ぎたころ、五月が代表して五人分の用紙を持ってきた時には風太郎はテーブルの上に突っ伏していた。

 

「あれ、もしかして疲れちゃったのかしらね?」

 

 そんな二乃の煽り口調も完全に意識を手放した風太郎には届かなかった。

 

 

 



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第5話

「で、これはこの公式を使うんだ。ただ、どちらも正であることの確認だけはする必要がある」

「なるほど。上杉君は本当に教え上手ですね」

「褒めても何も出ないぞ」

「思ったことを言っただけですよ」

 

 放課後、風太郎は図書館の一番入口に近い席で、五月に勉強を教えていた。

 二乃の件があって、昨日の自分が迂闊だったと痛感した。今まで、多くの家庭教師を辞めさせたことを考慮して、もっと注意する必要があったのだ。

 昨日、タクシーの中で覚醒し、五月に事情を聞いた時には思わず頭を抱えてしまったくらいだ。

 

「それにしても、他の奴ら来ないな」

「一応、皆には伝えておいたのですが」

「まあ、昨日の感じで全員揃われても逆に怖いがな」

 

 学校とはいえ、手段を選ばないやつだ。もしかしたら、社会的に殺される可能性だってある。学校でのカーストの低い風太郎にとって、二乃の様な頂点に立っているやつのきまぐれで終わる可能性がある。

 

「あ、元々二乃には声をかけてないですよ」

「そうなのか?」

「昨日、帰った後に少し口喧嘩をしてしまって。上杉君に謝ってほしいといったのですが……」

「まあ、それで素直に謝るやつじゃないだろうな」

 

 風太郎の推測に、五月は頷きを返した。自分の予想通りだったが、それに風太郎はうかない顔で返した。それだけ面相臭いやつが自分に敵対していると考えると、改めて先が思いやられたからだ。

 

「まあいい。とりあえず普通に勉強するか。五月の成績が上がれば、羨ましくて出てくるかもしれないしな」

「が、頑張ります」

 

 風太郎の言葉に五月の身体が強張るのが見える。本当に気負いやすいやつの様だ。

 そのまま、二人で昨日の小テストの復習をした。

 小テストの問題には初めて風太郎が五月に勉強を教えた時の問題も入れておいた。五月はそれを見事に正解しており、教えたことがしっかりと記憶に残っていたことに安堵し、教え方は間違っていないことを確認できたことが昨日の唯一の成果だ。

 と、順調に解説をしていると、ガラガラ、と図書館の入口のドアが開けられた。

 

「あ、五月! 来ました! まだやってますか?」

 

 図書館内とは思えないほどの元気溌剌な声が二人にかけられた。

 急いで来たのか、来訪者の額には薄らと汗が見え、少女は体操着を着ていた。頭には大きなリボンをつけ、軽快なステップで二人の方に寄ってきた。

 

「確か、四葉だったか」

「はい! 部活動の助っ人をしていたら、遅刻しました!」

「それは構わないが、よく来たな。疲れてるだろ」

「疲れてはないですよ。バスケの試合を一試合フルで出ただけなので」

「四葉は体力お化けなので、大丈夫ですよ」

 

 五月の言葉通り、風太郎の目の前の少女は息切れの一つも起こしていない。服と額の汗が無ければ、四葉の言葉が虚言であると思えるくらいだ。風太郎なんて、階段を上るだけで息切れしてしまうというのに……

 

「何をしていたんですか?」

「昨日の小テストの復習です」

「おお! 私もお願いします。昨日のテスト全く分からなかったので!」

「その姿勢は助かるが、自信満々にそう言うなよ」

 

 カバンの中から、四葉のテスト用紙を取り出す。得点の欄には堂々の「8」の数字が書かれており、悲惨な解答の一つ一つを思い出した。

 

「……とりあえず、名前くらいは漢字で書け。そもそもの答えも間違ってるが、漢字の間違いが多すぎる」

「わかりました。やってみます!」

 

 二乃とは真逆の、素直な性格の様で、四葉はノートに自分の名前を書きなぐり始めた。

 それを見て、風太郎はため息をついた。

 

「『葉』は竹かんむりじゃなくて草かんむりだからな」

「え!?」

「五月……全員が言うことを聞いてくれても、無理かもしれない」

「そ、そんなことないですよ! 上杉君の教え方は完璧ですから!」

 

 静かであるはずの図書館に三人の声が響き渡る。一人は落ち込み、一人はそれを励まし、一人は自分の名前の正しい漢字で書く練習をするという地獄絵図が出来上がった。

 他に利用者がいなかったのが救いであったが、司書の先生にはうるさいとこっぴどく怒られてしまった。

 

「今日はこれで、お開きにするか。教えた分は復習しといてくれ」

「お疲れさまでした」

「楽しかったです! また明日もやりましょう!」

「ああ……」

 

 別れの挨拶を交わし、風太郎は先に図書館を出た。その顔からは生気が抜けており、覚束ない足取りであった。

 

「なんだか、上杉さん疲れてましたね」

「教える側も疲れるのでしょうね。明日は軽食でも持って来ましょうか」

「五月、それ食べちゃダメだよ?」

「食べませんよ……お腹がすいてなければ」

「いつもそう言って、食べちゃうよね」

「うっ……大丈夫です! 上杉君の為なら、我慢できます!」

 

 そんな宣言と同時に、五月のお腹からキュー、と音が鳴る。顔を真っ赤にしてお腹を押さえる五月に、四葉はバスケ部の人にお礼で貰ったクッキーをかざしてみると、何も言わずに五月は食べ始めた。

 クッキーはものの一瞬でその存在を無くし……

 

「おかわりはありますか?」

 

 罪悪感など微塵も感じていない様子に、苦笑しつつ残り一枚のクッキーを五月に与えた四葉は確信した。

 

(上杉さんの分、私が持ってきた方が良さそうですね)

 

 結局、その後も五月はコンビニで肉まんを二つ購入し、家に着く前に食べきったのであった。

 

 

 

 

 

 

 四葉と五月に勉強を教えた帰り道、風太郎は酷く困憊していた。

 慣れない人との会話、四葉の想像以上の学力、家庭教師に関する問題が山積みで残ってること。これらの要素が体力の風太郎を襲った。

 

「……どうしたものか、自分の勉強も危ういな」

 

 特にこれが問題だった。自分の勉強と家庭教師としての勉強は全くベクトルが異なっていて、新鮮な反面、言い知れぬ辛さがあった。

 とにかく、今日は疲れをとることに集中しようと思った時、風太郎の携帯に着信があった。

 

「ん? 知らない番号だな。何かの勧誘か?」

 

 友達の少ない風太郎の携帯には父と妹の二人のアドレスしか登録されていない。その為、連絡が来ること自体が稀であるのに、それが知らない番号となると怪しさが拭いきれない。

 

「もしもし?」

『上杉君の携帯であってるかな?』

「あ、はい。そうですが」

 

 間違い電話か何かと思っていたが、どうやら風太郎宛の電話であった様だ。ただ、電話越しの声とはいえ、その声は風太郎の記憶にはないものだ。

 

『おっと、失礼。君の雇用主の中野だ。一応、話を聞いておこうと思って、かけさせてもらったよ』

「中野さん!?」

 

 名前が聞こえた瞬間に、風太郎の背筋はピンと伸び、声も上擦った。すれ違ったおばさんに変な目を向けられたが、許してほしい。

 それだけこの電話は予想外で、とても危険なものだからだ。

 

『どうだい? 家庭教師は順調かい?』

 

 いきなり核心をついた問いかけに、ゴクリと唾を飲み込んだ。特にそういう意図がある訳ではないのかもしれないが、「ここで返答を間違えれば終わる」という確信があった。

 

「も、もちろんです! 今日も意欲的に取り組んでくれました!」

『そうか。なら良かったよ。やはり歳の近い方が良いのかな』

 

 嘘は言っていない。ただ、五人中二人にしか当てはまらないだけだ。

 この後も、いくつかの質問をされる。その度に風太郎の心臓を撫でられる様な感触がして、とてもじゃないが生きた心地がしなかった。

 

『では、これで失礼するよ』

 

 漸くか、とホッと息をついたその瞬間……

 

『そうだ、明確な目標があった方が頑張れるだろう。次の中間試験までに、五教科の赤点回避。それが叶わなければ、クビでどうだい?』

「はい?」

『君の話を聞く限り、どうやら順調な様だ。僕もその成果を見てみたいと思ってね』

「え、その……」

『さっきの言葉が嘘であったとしても、結果さえ出せば問題ないよ』

(バ、バレてたか……)

 

 一介の高校生に大事な娘を預けることがやはり不安なのか、電話越しの声の裏に「風太郎を辞めさせたい」という感情が見え隠れしている。

 話を聞いた限りでは、風太郎の父と中野は付き合いがあるらしく、この仕事も風太郎の父が風太郎を売り込んだのがきっかけらしい。

 風太郎の父は性格が少しアレなので、もしかしたら何か恨みを買っているのかもしれない。

 

『では、頑張ってくれたまえ』

「は、はい」

 

 プツー、と電話はそこで切られた。

 しかし、風太郎は携帯を耳に当てたまま、しばらく動けなかった。疲れ切っていたところに新たに積み上げられた問題は、今までのものと何倍も大きさが異なっていて、風太郎の頭がショートするのには十分だった。

 覚束ない足取りで、そのまま家に向かった。

 結果、夕食を食べ終えると風太郎は電池が切れたかの様に机に突っ伏して気を失ったのであった。

 

 




 そろそろ書く速度上げないと終わらない気がしてきました。


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第6話

「はあ、はあ……」

 

 始業ギリギリで何とか校門にたどり着いた風太郎だが、日ごろの運動不足もたたって、ひどく息を切らしていて、できる限り多くの酸素を取り込むことに全神経を注いでいた。

 別にいつもこんなギリギリに登校しているわけではない。こういう事態になるのは分かっているから、余裕を持って登校しているのだが、今日に限っては昨日色々あったせいで、気を失うように寝てしまい、ついでに日ごろの疲弊も相まって思いっきり起床予定時刻を大幅に過ぎて覚醒してしまった。

 要は寝坊だ。

 

「上杉君?」

「ん?」

 

 風太郎が地面と睨めっこをしていると、後ろから声をかけられた。ちらりと後ろに視線を遣ると、色んな視線が向けられていることに気づいた。

 一人は眠そうで、一人は心底興味がないように、一人はよくわかっていない感じで、一人はこちらにあっかんべーをしてきている。

 

「大丈夫ですか?」

 

 そして、最後の一人、五月は風太郎の傍に駆け寄ってきた。

 

「ああ、ちょっと疲れてるだけだ。心配しなくていい」

「そうですか。なら良かったです」

「あの奥に見える車で来たのか?」

「はい。今日は全員寝坊してしまって送ってもらったんです」

「奇遇だな。俺も寝坊したんだよ」

「ちょっと五月、そんなやつ置いといて行くわよ」

 

 風太郎と五月がしばらく話をしていると、その様子が気に食わなかったのか、二乃も寄ってきて五月の手を引いた。

 何か言い返そうとした五月だったが、始業が近かったため、予鈴が鳴ってしまい、断念した。

 

「早く行った方が良さそうだな」

 

 辺に言い争っていると、遅刻扱いを受けてしまう。五つ子側がどう思っているかは知らないが、五人を卒業させなくてはならない風太郎にとってはマイナスでしかない。

 まあ、そのもうマイナスがどうこう言っていられる状況ではないのだが。

 

「どうしたもんか」

 

 五月たちの後ろをついていきながら、小さくそうぼやいた。

 教室に着き、授業が始まってからも風太郎は心ここにあらずといった状態だった。昨日の電話で受けた実質的なクビ宣告に対して思考を飛ばしていたのだ。

 

「やはり、何とかして全員集めるしかないか」

 

 結局、それが考え抜いた末の答えだった。クビの条件を緩和して貰えるように掛け合うのは怖すぎるし、それで何とか今回の危機を脱したとしても、また同じことが起こるだけだ。

 いっそこのままクビになってしまえば、楽になれるなんて邪な考えが頭を過ったが、五月との約束もある。ここが踏ん張り時の様だ。

 

 

 

 

「よ、よう三玖」

 

 昼休み、午前の最後の授業が終わると、誰よりも早く食堂に向かった。そして入口を張り、三玖を見つけた風太郎は果敢に話しかけのだ。

 

「三百九十円のサンドイッチに、何だその飲み物……」

「いじわるなフータローには教えてあげない」

「俺のどこがいじわるだ」

「勉強教えようとしてくる。人の嫌なこと」

「何で、そんな嫌いなんだ? なんならお前が一番点数良かっただろ」

「知らないよ」

 

 先日風太郎が何とか取り組ませることに成功した小テストで五つ子の中で最も点数の良かったのが三玖だった。五月が一番高いと思っていたので、予想外の結果に疑問を覚えていたのだ。

 

「問一に置いた『厳島の戦いで毛利元就が破った武将を答えよ』なんて、勉強してないやつが解ける問題じゃない。案外好きなんじゃないか? 見た感じ日本史関連の問題は取れてるし、俺ならお前の知らない色んな事を教えてやれるぞ」

「……た、たまたまだよ」

 

 風太郎がからかうつもりで、放った言葉に三玖の瞳が揺れた。言葉を濁して話題を避けようとしているのか、何かを隠している様に見える。

 

(本当は勉強したいが、二乃の圧力に屈している?)

 

 三玖は見た感じ、主張の強い方では無いと思える。あまりに飛躍し過ぎな仮説かもしれいなが、今はどれだけ低確率であったとしても飛びつかなくてはならない。

 

「問二、『中国南北朝時代の南朝梁の昭明太子蕭統が編纂した詩文集は何か?』これはわかるか?」

「は?」

「そ、そうか」

 

 勉強好きが向けてくる類の視線と声圧ではなかった。心底嫌っているのが否応なく伝わってくる。

 急に汗が額を流れ始めた。こちらに対して明確な敵意、嫌悪感を持った相手にどんな応答をすればいいのかが孤独主義であった風太郎にはまだわからないのだ。

 

「上杉さん? ぼーっとしてどうしたんですか?」

「え? いや、俺は三玖と話してて……あれ、どこ行った?」

「三玖ならあっち行っちゃいましたよ」

「マジか」

「上杉さん何か言ったんですか?」

「ん?」

 

 どうやら風太郎が困惑しているうちに、隙を見て逃げられてしまったらしい。遠くに見える三玖の背中にため息をついていると、四葉がそう尋ねてきた。

 

「実は勉強好きなんじゃないのかって聞いてみただけなんだが」

「本当にそれだけですか?」

「何が言いたい」

「姉妹の私にはわかります。三玖は恋する顔をしていました」

「恋? 馬鹿なこと言わないでくれ。勉強もしないで色恋に現を抜かされたらたまったもんじゃない」

「うーん。状況的に相手は一人しかいないんですけど……」

 

 四葉が何か言っているが、この状況はよろしくない。もし四葉の言っている事が事実だったとしたら、風太郎の家庭教師は間違いなく終焉を迎えてしまうだろう。

 

「まあいい。四葉、一応聞くが一花と二乃はまだ俺に対して反抗的なのか?」

 

 一日二日で何が変わる訳でもない。ましてや、大した行動もしていないのだから二人の気持ちが変わっていないのは分かっていても駄目元で聞いてみた。

 

「うーん、二乃はまだぷんぷんしてますけど、一花は上杉さんに興味があるらしいです」

「一花が?」

「五月ちゃんの彼氏候補として興味津々だって言ってました」

「まだそんなこと言ってるのか。五月とはなんでもないと伝えておけ」

「わかりました!」

 

 聞きたいことも聞けたので、四葉と別れ、風太郎も昼食を食べることにした。三玖と四葉と話していて、多少出遅れ気味になったが、僅かにまだ席が空いていたので、急いでいつもの定食を注文して、昼休みを過ごした。

 途中、完全に出遅れてしまった様子の五月がいたので、相席をした。偶然にも初めて会った時と逆の構図になったが、食事の後に勉強を教える構図は全く一緒だったのは言うまでもない。

 

 

 

 

「という訳で四葉の話では三玖は恋してしまっているらしい」

「三玖がですか。意外です。三玖はあまりそういったことに興味がないと思ってました」

 

 昼休みギリギリまで五月に勉強を教えた後、授業が始まるまでの少しの時間で風太郎の席で先程の三玖についての話をした。

 

「だろ? それに四葉は相手が誰かもわかっているっぽくてな。さっきは聞き忘れたから聞いといてくれないか?」

「いいですけど、どうして三玖の好きな人が気になるんですか?」

 

 五月はどうしてか少し怒ったようにそう訊いてきた。

 

「いや、恋愛なんて勉強の妨げになるもの妨害してやろうと思ってな」

「そ、そうですか。でも、そうなると困りますね。姉妹としては三玖の気持ちを優先したいです」

 

 五月の気持ちは当然だろう。一般的に見れば、風太郎が圧倒的に悪者的立ち位置にいるのは間違いない。風太郎もうまく反論ができず、妨害に関しては行わないことを条件に四葉から情報を聞いてもらうことを依頼した。

 

「と、もう授業が始まるな。準備を……ん?」

「どうしました?」

「いや、なんか手紙が」

「手紙?」

 

 用意をしようと机の中を見ると、風太郎のあずかり知らない手紙がポッと出てきた。

 

「これ、三玖からですよ」

 

 五月の言う通り、手紙には三玖の名前が書かれている。

 教室の入口に目を遣ると、まだ担任教師は来ていない。急いで手紙を開くと、奇麗な文字でこう記されていた。

 

『放課後に屋上に来て。フータローに伝えたいことがある。どうしてもこの気持ちが抑えられないの』

 

 読み終えて、五月と視線が合った。お互いに意味もなく牽制をして、程なくして同時に言葉がこぼれた。

 

『俺(上杉君)かーい』

 

 突然奇声を上げた二人に教室中の視線が集まったのも言うまではないだろう。

 




 問二に関しては原作の答えが文選だったので、ウィキペディアを参考(コピー&ペースト)させて頂きました。


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第7話

 長いスランプの割に短いお話です。


「み、三玖!」

「あ、何? びっくりした」

 

 いつも通りだるそうな表情で帰宅して来た三玖が靴を脱いでいる所を五月が駆け寄った。普段はこんなお出迎えは無いので、三玖は肩をビクンと跳ねさせて、目は大きく見開かせた。

 他の姉妹も五月の奇行が気になったようでぞろぞろと玄関に集まっていた。

 

「どうしたの五月ちゃん。三玖お姉ちゃんにそんなに会いたかったのかな?」

「そ、そうなの?」

「ちがっ……違わないです」

「何気色悪いこと言ってんのよ」

「やっぱり、五月は末っ子なんですよ! ほら、四葉お姉ちゃんだよー!」

「か、からかわないでください!」

 

 顔を真っ赤にして大声で子供扱いに抗議をするが、一花の悪ふざけを変に肯定してしまったせいで、四人の姉からの視線は生暖かいものだった。

 しかし、生まれた瞬間から一緒に過ごしている五人はお互いの性格を知り尽くしている。これ以上からかうと本気で五月が拗ねてしまうことを四人は理解していて、渦中の三玖を除いた三人はそそくさと元の位置に戻って行った。

 

「ちなみに何の用なの?」

「三玖と……上杉君のことです」

 

 そして、二人きりになった所で靴を脱ぎ終えた三玖から五月に話を振った。

 

「上杉君宛の手紙を私も見てしまって……」

 

 風太郎の名前を出した瞬間、三玖の体が強張るのが見えたのだろう。申し訳なさそうにそう付け加える五月に、三玖が返したのはいつも通りの素っ気ない言葉だった。

 

「別に……」

 

 何か含みがあると捉えられてもおかしくないが、それだけで五つ子として共に過ごして来た五月には三玖が本当に怒ってないのだと確信するには十分だった。

 三玖の様子を見て、安堵した五月は少しだけ冷静になった。

 

「何があったのか、聞いても良いですか?」

「……」

 

 もちろん、三玖は怒っていない。しかし、それが踏み込んでも良いと言うことには繋がらない。三玖は五月の質問に答えなかった。各々事情がある。姉妹といえど、それくらいは弁える必要がある。

 

「聞き方を変えます」

 

 それでも五月は止まることができなかった。なぜ自分がこんなにも気になってしまうのかを理解しないままに五月はどうにか三玖から話を聞こうと足りない頭をフル回転させる。

 

「三玖が呼び出した、理由だけでいいんです。結果は……我慢します」

「……」

 

 不発。まだ、三玖が答えたくない質問だった。

 

「ぎゃ、逆に上杉君の返事だけ……というのは?」

「……」

 

 撃沈。三玖は答えない。

 

「で、では! 三玖は今、好きな人が居ますか?」

「……?」

 

 空振り。三玖は疑問符を浮かべていた。

 

「え、えっと〜」

 

 五月はテンパっているようで、最後の質問を三玖が理解できていないことに気づかなかった。

 

「五月」

「は、はい! 何ですか?」

 

 だから、三玖の方から動いた。風太郎と自身の密会の理由を問うて来ていた妹が急に方向転換し、三玖の想い人の存在を尋ねてきた。そのことで、妹が大変な勘違いをしているのでは、とふと頭に浮かんだのだ。

 

「五月、私はフータローに告白した訳じゃないよ?」

 

 ここでいう告白は言うまでもなく恋愛的なものである。実際、三玖が行ったのは間接的ではあるが、自身の趣味を伝えるカミングアウト的なものだった。

 思い出す。長女の一花がリビングのソファでくつろぎながら「五月ちゃんに春が来た」と言っていたのを。

 三玖自身、そういった経験が無いので気づかなかったが、目の前にいる妹が明らかに恋する乙女の表情をしているのだと今はっきりとわかった。いつか自分もそんな感情を持ったならば、鏡の前にこんな自分が立っているのだと思った。

 

「え!? そ、そうなんですか?」

「うん。明日、フータローに聞いてみれば良い。それに寧ろ関係は悪くなった。フータローなんて嫌い」

「そ、それはそれで気になるんですが……わかりました。明日、上杉君に聞いてみます」

「うん」

「じゃあ、えっと……入りますか」

「そうだね。良い匂いがするから二乃が何か作ってるのかも」

「ほ、本当です! これは……クッキーです。しかもバターとチョコの二種類!」

「ふふっ、そこまでわかるんだね」

「はい! 二乃のクッキーは最高ですから」

 

 心配事がなくなった途端に食い意地を張る五月に三玖は笑みをこぼした。五月には詳細を教えていない風太郎との屋上での出来事で沈んでいた気分が少しだけ晴れた気がした。



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