王将ファンタジスタ (やまもとやま)
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1、決別

 零れ落ちたのは涙だった。

 対局中に涙が頬を伝うことなどこれまでになかった。羽生将(はぶしょう)はその涙に戸惑った。

 

 くやしさではない。無力さでもない。自分が一体何に涙したのだろうか。

 

 目を上げると、そこには真龍王花(しんりゅうおうか)の澄ました目があった、

 その目は将のことを捉えていない。眼中にないと言った感じだった。さっさとこの退屈な対局を終わらせたいと言わんとするような目だった。

 

 将は目線を盤上に戻した。

 もはや勝ちの筋はない。自分の玉には必死がかかっていた。相手の玉を詰める手はない。

 最後にできる抵抗は角を打ち込んで王手をするぐらい。

 

 相手の応手が間違えれば、逆転。

 

 しかし、そんなことは起こるはずもない。将は投了した。声を出そうとしたが出なかった。

 

 将は目を強く閉じ、最後の涙を絞り出した。もう二度と涙することはない。

 なぜなら……。

 

 この涙は負けたくやしさではなく、長らく付き合ってきた将棋との決別の涙だったからだ。

 

 ◇◇◇

 

 すべてが終わった。将は夕焼けが濃くなった空に映える将棋会館という文字を見ながら黄昏ていた。

 もう二度とこの地を訪れることはない。

 いや、それどころか、二度と将棋の駒を手にすることもないだろう。

 

 将は自分の右手を見つめた。そして、その手を握り締めた。ある限りの力で握り締めた。

 

「羽生君」

「……」

 

 将はかけられた声に反応せずうつむいて黙り込んだ。

 

「どういうことだ、やめるって、いったい……」

「すみません、師匠……」

「羽生君、話してくれ。どうしてだい? 君には才能がある。プロとして必ずやっていける。今日は相手が悪かっただけ。相手が真龍王花さんだったから仕方がないよ」

「……」

 

 将は師匠に背中を向けて歩きだした。

 背後から将を見つめる男、彼は時田流(ときだりゅう)8段。将の師匠で、将が孤児院にいたころから世話になっている。

 時田はタイトル1期を獲得する名棋士だが、現在は一線を退き、後裔の育成に力を入れている。歳は45歳である。

 

 時田は将を追いかけようとしたがあきらめた。

 

「真龍王花……将君の心を粉砕してしまったのか。恐ろしい子だ……」

 

 時田はそう言って将棋会館のほうを見つめた。

 

「たしかに常軌を逸している。女の子とは思えない。もはやトップ騎士は誰も勝てない」

 

 真龍王花。

 史上最年少、弱冠14歳で竜王位を獲得した天才少女。

 異次元のIQの持ち主であり、マスコミも天才美少女として注目していた。

 奨励会に属することなく、アマチュアの将棋界に彗星のごとく現れ、現在最強と言われた藤井4冠を4-0のストレートで下し、竜王位を獲得。

 アマチュア竜王戦から駆け上がった中学生が竜王位を獲得するなど、誰も予想できないことだった。

 

 その後、真龍王花は棋王戦の予選に参加し、同じく天才と称された羽生将とこの日激突した。

 羽生将も若干14歳でプロ棋士になろうとする天才だった。

 

 しかし、真龍王花はそんな将を軽く倒してしまった。

 

 将は真龍王花との対局を前に、最高の研究を用意していた。AIを活用して400時間以上研究した最高の新手を真龍王花との対局にぶつけた。

 そして、真龍王花を止めようと思った。自分の存在を見せつけてやろうと思った。

 

 普段おとなしい将の闘志をそこまで燃え上がらせた背景には、王花が天才としてもてはやされているので、それを倒して注目をかっさらおうという野心以上に、王花への淡い恋心もあった。

 

 将は王花に愛の告白をするような胸中で対局に臨んだ。自分の強さ、棋力を王花に伝えたいと思った。

 

 だが……。

 

 伝わらなかった。王花の目はそもそも将の姿を捉えていないようだった。

 それが、将の闘志を打ち砕いた。

 

 将は激しい失恋に押しつぶされた悲劇のヒロインのような心境で、将棋と決別することを決めた。

 誰よりもこの対局にかけていたからこそ、誰よりも傷ついていた。

 

 ◇◇◇

 

 将は自室に合った将棋盤を打ち砕いた。

 拳で何度も何度も。

 

 拳に血がにじんだ。

 

 狂っていることはわかっていた。頭がおかしい行為をしていることはわかっていた。

 しかし、将は自分の狂気を止められなかった。

 

「ちくしょう……」

 

 将は血まみれになった拳をもう一度将棋盤に振り下ろした。最期の涙にするつもりだったのに、また涙があふれた。

 将棋との決別……同時に王花との決別。

 

 将は自分の人生が終わったことを悟った。

 

「さよなら」

 

 将はさみしそうな目で将棋盤に向けてそうつぶやいた。

 



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2、飛車の妖精現る

 将は入学式に参加するため、部屋を出た。

 将は孤児であり、孤児院で暮らしていたが、師匠の時田の支援を受けて、アパートを借りていた。時田に連帯保証人になってもらったほか家賃や生活費も全額払ってもらっている。

 将はいずれプロ棋士になり、時田に恩返しするつもりだった。

 しかし、恩を仇で返すことになりそうだった。

 

 将は将棋をやめ、普通に高校に進学することになった。プロ棋士の卵だったからこそ、時田も将を支援していた。

 しかし、時田は将が将棋をやめた後も支援すると言ってくれていた。

 

 将は受験を頑張って、東大にでも合格することで時田に恩返ししようと思った。いまさら将棋に戻るつもりはなかった。つもりというか、もう戻れる状態ではなかった。

 

 将は普通の高校生として、東京天照学園に通った。

 ここは関東でもかなり有名な進学校として知られ、各種部活動も強い。男女共に野球部が強いことも有名で、何度も甲子園に出場している。

 

 将は中学時代、成績が優秀だったので、推薦で合格していた。

 

 高校生活がスタートするというのに、将の気分は上がらなかった。

 高校生活にたくさんの期待を詰め込んだ同級生らが、輝かしい目つきで天照学園の門をくぐっていくのに、将の周りだけ闇がかかっていた。

 

 入学式中も、将はぼんやりと時を過ごしていた。どんな人と同じクラスになるのかなんてまったく気にすることもなかった。

 入学式が終わると、将は担任の後について1年D組の教室に入った。

 

 自席に座ってからも、上の空は変わらない。机の上には、「ご入学おめでとうございます」と書かれた天照学園の案内書や学生証があったが、それには目も留めなかった。

 

「あのー、すみません。あなたは、羽生将君ですよね?」

 

 不意に声をかけられた。将はめんどくさそうにその方角に顔を向けた。

 そこにはメガネをかけた童顔の少年が口元を緩めて立っていた。どこかで見たことがあるような気がしたが思い出せなかった。

 

「覚えてますか? 桂慶大(かつらけいだい)です。奨励会で2度対局したことありますよね。1試合目は相矢倉、2戦目は角換わりでした。どちらも僕の完敗でした。いやー、自信のある戦法、しかもどちらも先手だったのに、羽生君は本当に強かったよ」

 

 桂はおとなしそうな顔をしながら、フレンドリーに言葉を紡いだ。

 将は桂のことを一応覚えていたが、将棋のことは何もかも忘れてしまいたかったから、桂のことも忘れてしまいたかった。

 

「羽生君、奨励会をやめたって聞いたけど、どうしてなの? 中学生プロ棋士誕生の期待がかかっていたのに」

「……」

「ごめん、あまり詮索しちゃ悪いよね。僕は才能がないから高1で奨励会はやめちゃったけど、いまは将棋部の部長をしているんです。と言っても、部員は実質僕だけ。あと一人不登校の糸谷君がいるんだけど、学校にも部活にも来てくれなくて、ほとんど幽霊部員状態なんだけど」

 

 桂はそう言ったあと、将を将棋部に勧誘した。

 

「奨励会を抜けたら、将棋部に所属できるんだけど、羽生君、どうかな? 将棋部に入らない? 羽生君が入れば百萬力間違いなしなんだけど?」

「悪いけど、もう将棋はやめたので」

 

 将は暗い顔でそう言うと、顔を窓の外に向けた。

 もう将棋を彷彿とさせるものは何もかも忘れてしまいたかった。

 

「そ、そっか。ごめん。そうだよね、羽生君には羽生君の事情があるもんね。あ、でも部室の場所だけ教えとくね。2号館2階の囲碁部の隣だから、いつでも来て」

「……」

 

 将は行く気がなかった。

 

「あとは真龍王花様に一度でいいから将棋部の始動をしてもらえないかしら」

 

 桂はそう言うと、天井を見上げた。

 

 真龍王花。

 

 将に引導を渡した天敵の名前が聞こえて来たので、不意に反応した。

 

「真龍王花?」

「え、羽生君、知らないの? 真龍王花様は天照学園にご入学されたのですよ。そう、僕のあこがれの女神様が同じ学校に」

 

 桂は2年生だが、まるで新入生のように目を輝かせた。相当、王花にはまっているようだった。「様」をつけるほどだから、もはや宗教のレベルだった。

 実際、将棋を知る者なら、誰だって憧れる。将棋男子がこぞって注目する将棋界のアイドルだった。

 

 しかし、将には、王花の姿はアイドルとしてではなく、デーモンのように映った。

 

「王花様はすでにプロ、高みの存在。将棋部には入れないけど、でも指導将棋をしたい。僕の一生の夢なんだよね」

 

 桂はささやかな夢を胸に込めた。

 

「なんでまたそいつが高校なんかに?」

「インタビューでは、師匠の助言だったそうだよ。白河5段。フリークラスのマイナープロ棋士だけど、でも王花様の師匠というだけでうらやましい。うらやましいぞ!」

 

 桂は嫉妬するように目に火を灯していた。おとなしい性格なのか情熱的な性格なのかいまいちわからなかった。

 

「まあ、ともかく機会があったら、いつでも将棋部に来てください。歓迎しますので」

 

 桂はそう言うと、ルンルン気分で去って行った。王花と同じ学校に通えるようになったのがよほどうれしいようだった。

 

 ◇◇◇

 

 放課後、将は結局将棋部には顔を出さず直帰することにした。

 将は繁華街を歩きながら、将来のだいたいの見通しをつけた。

 

 とりあえず、そこそこに勉強を頑張ろうと思った。いい大学に入れることが師匠の時田への恩返しになる。

 部活は、子供のころに少しだけやっていた短距離走がある陸上部にでも入ろうかと検討していた。将は一応100mを12秒台前半で走ることができた。

 

 いずれにしても、突出したもののない生活。成績は良かったが、全国レベルでは凡人に過ぎない。陸上も宣告レベルでは凡人。

 唯一将棋だけが、将の長所だったが、もうやめると決めた。もう引き返すわけにはいかない。

 

 将はそんな虚しい人生設計にため息をもらした。

 このまま、虚しい人生が続くのだろうか。

 恋人の一人でも出来れば刺激が出てくるかもしれない。しかし……王花の影響か、将は女子に対して畏怖の念を感じずにはいられなかった。いつだって、王花のあの目を思い出すと体が震えた。

 

「ヒレカツ定食、親子丼、きつねうどん、うな重、カツ丼、ざるそば、餃子、からあげ、五目中華そば……」

「……」

 

 将はいま奇妙なものを眼前に捉えていた。

 

「食べたい。食べたいです。食べたいですよぉ!」

 

 妙な格好をした髪の長い女が定食屋のサンプルに張り付いて、そんなことを言っていた。メガネをかけていて目元はわからないが、かなりの美人に見えた。

 1000年以上前の古風な雰囲気の漂う女性だった。ただ、これまでに見たことのない和服に身を包んでいた。

 

 思わず見とれてしまった。

 

 そうしていると、女性のほうが将の目線に気づいた。

 

「むむ? むむむ?」

 

 女性は怪しいものを見るように将に近づいてきた。女性は歩きにくそうな藁草履をはいているが、その女性は驚くことに宙を浮いていた。

 

「あなた、私が見えるんですか?」

「え、そりゃあ……」

「まああああああ、なんということでしょう。このようなところで運命の殿方にお会いすることになるなんて」

 

 女性はそう言うと、両手を合わせてときめいた。何が何だかわからない。

 女性は将の両手を取った。女性の手は透き通るような白さでとてもきれいだった。

 

「運命の人、お名前をお聞かせください」

「えーっと、君はいったい?」

「これは失礼しました。わたくしのほうから名乗るのが礼儀でした。わたくし、飛車の妖精を務めております飛子(とびこ)と申します」

「……飛車? 妖精?」

 

 ますますわけがわからなかった。

 

「はい、飛車の妖精でございます。運命の殿方を探して棋界より降りてまいりました。下界をうろとくのは初めてゆえ、迷子になって困っておりました。お腹もすいてしまい、このままでは死んでしまう思いです。助けを求めたくとも、わたくしの姿は運命の殿方にしか映らないゆえ、もう生きるのをあきらめようとしておりました」

 

 飛子と名乗った女性は悲壮感のある思いを言葉にした。しかし、まったく悲壮感は伝わってこなかった。

 

「ですが、ここで運命の殿方にお会いできるなんて僥倖、運命のいたずらです。殿方、ふつつか者ですが、飛車の妖精としての責務まっとうさせていただきますゆえ、ヒレカツ定食と親子丼ときつねうどんとうな重とカツ丼とざるそばと餃子とからあげと五目中華そばをご馳走していただけませんか。わたくし、このままでは力尽きてしまいます」

「……」

 

 さっぱりわからなかったが、要はお腹を空かしている。そのことだけはわかった。

 一応、将の財布には2万円が入っていた。

 

「話がよくわからないが、おなかが空いているということか?」

「そのとおりでございます。どうか、おにぎりの1つでもよろしいので恵んでください。よろしくお願いします」

 

 新手の乞食だろうか。将はそんなふうに考えながら、飛子に食事をおごることにした。

 将のもとに謎の飛車の妖精がやってきた。すべてが謎に包まれた存在だった。



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3、飛子、食べまくる

 将は定食屋に入り、案内された席についた。

 後ろをついてくるのは飛車の妖精。飛子と名乗ったその妖精は宙を浮いたまま、将の後ろをついてきた。

 明らかに普通の存在でないことはたしか。将はちらちらと後ろを確認した。

 

「将さん、それではオーダーさせていただきます」

 

 飛子はそう言うと、メニューに載っていたものを順番に読み上げて行った。

 

「ヒレカツ定食、親子丼、きつねうどん、うな重、カツ丼、ざるそば、餃子、からあげ、五目中華そば、みたらし団子、いちごパフェ。食後にバニラアイスクリームをお願いします」

「……」

 

 将はどこから突っ込もうと少しの間考えた。

 

「飛子さんと言ったか?」

「はい。どうぞ、わたくしのことは飛子とお呼びください。これから将さんに尽くすことになる飛車の妖精でございます」

「妖精ねぇ……」

 

 どこまで信じていいものかわからないが、飛子は時代錯誤な格好をしていて宙に浮いているにも関わらず、周囲の者は飛子のことを気にも留めなかった。飛子の姿が見えていないのかもしれない。

 

「あんたは一体何者なんだ?」

「それは順を追って説明させていただきます。とりあえず、オーダーをお願いします。このままでは、私お腹が空いて存在が消えてしまいます」

「ヒレカツ定食で良かったか?」

「いいえ。ヒレカツ定食、親子丼、きつねうどん、うな重、カツ丼、ざるそば、餃子、からあげ、五目中華そば、みたらし団子、いちごパフェ。食後にバニラアイスクリームです」

「そんなに食えるわけないだろ」

「なに言ってるんですか、それがわたくしの一人前ですよ。地球人は違うのですか?」

「違うな」

「地球人というのは食が細いと聞いたことがありましたが、そんなに少食なのですか。そんなだから、地球の食品ロスはたくさん出てしまうんですよ」

 

 飛子はペラペラとしゃべった。

 

「ご注文はお決まりですか?」

 

 店員がオーダーの確認に来た。

 

「さあさあ、将さん。ヒレカツ定食、親子丼、きつねうどん、うな重、カツ丼、ざるそば、餃子、からあげ、五目中華そば、みたらし団子、いちごパフェ。食後にバニラアイスクリーム」

「えー、ヒレカツ定食と親子丼ときつねうどんと……」

 

 将は次々と注文していったので、店員は将をフードファイターだと思ったらしい。

 

「ひょっとして、テレビに出られている方ですか?」

「いえ」

「そ、そうでしたか。失礼しました。えーっと、オーダーの確認をします……ヒレカツ定食がお1つ、親子丼がお1つ……」

 

 注文量が多すぎたので、店員も読み上げに苦労した。

 

「改めてお話させていただきます。わたくしは飛車の妖精の飛子です」

「飛車の妖精っていうのは何者なんだ?」

 

 将はお茶を一口飲んだ。

 

「わたくしたち将棋の妖精は棋界の住民です。この地球の第8の次元には棋界という世界があるのですが、わけあって第3の次元へと降りてまいったのです」

 

 飛子は余計に謎めいたことを言った。

 

「理由はただ1つ。立派な飛車の妖精として修行を積み、竜になるためです。飛車の妖精は修行を積み認められた暁に竜の姿が与えられるのです。わたくしはそのために第3の次元に参りました」

「余計に話がわからなくなったが、細かいところは抜きにして聞く。修行とはいったい何をするんだ?」

「はい、運命の赤い糸でつながれた殿方を立派な棋士に育て上げることです。そうすれば、わたくしは竜の姿を手に入れることができるのです」

 

 飛子はそう言うと、将に顔を近づけた。透き通った美しい顔立ちだった。

 

「赤い糸でつながれたお方だけがわたくしの姿を認識することができます。そう、つまり将さんがわたくしの運命の殿方なのです」

「おれ以外は見えないのか、やはり」

 

 将はあたりを確認した。隣の一人客も黙々と食事を取るだけで、飛子のことを目には留めていなかった。

 

「そうです。将さんとわたくしは運命の赤い糸で結ばれているのです。ですから、わたくしは将さんを立派な棋士に育て上げます。前人未踏の8冠王に育て上げてみせます。ぜひ、この飛車の妖精飛子におかませください」

 

 将はお茶を飲みながら、飛子の話を聞いていた。

 信じられないことだが、飛子はこの世界とはまったく別の世界からやってきた存在と見て間違いなかった。

 そして、聞くところによると、将棋に関係する存在らしかった。

 

 将棋。

 

 将にとっては特別な存在。しかし、二度と戻らぬと決めた世界でもあった。

 もう二度と将棋を指さないと決めたばかりなだけに、こんな謎の妖精と出会うのは神の導きなのかもしれない。

 

「将さんは将棋の道を志されているのでしょう? わたくしの運命の殿方なのですから、さぞお強いに決まっています」

「いや、おれは将棋なんてやってねえよ」

「え? ええ? どういうことですか?」

「やめたんだよ、将棋」

 

 将はそう言って飛子から目を背けてお茶を一口飲んだ。

 

「ちょっと待ってください、将さん。それ困りますよ。わたくしは将さんを立派な棋士に育て上げる仕事をまっとうするために、ここに降りて来たのですよ。将棋をやめてしまわれてはわたくしの仕事ができなくなってしまうじゃないですか」

「と言われても困る」

「わたくし、このお仕事を終わらせるまで、棋界に戻れないのですよ。どうしてくれるのですか?」

 

 飛子は困った様子で訴えてきた。

 

「だから困るっての」

「おまたせしました。ヒレカツ定食ときつねうどんです」

 

 そのとき、店員が注文の品を持ってきた。

 大きなヒレカツとたっぷりのキャベツのヒレカツ定食だった。

 

「まあ、なんておいしそうなのでしょう。地球のヒレカツは世界一おいしくて、歴代の立派な棋士たちも愛してやまなかったと聞きます。それにふさわしい姿をしていますね」

 

 飛子は話を中断して、ヒレカツ定食に釘付けになった。

 

「それではいただきます」

「……」

 

 それから、飛子はすさまじい勢いで食べ始めた。

 お箸を使って上品に食べているが、その速度はすさまじく、ヒレカツを1口で半分を喰らいつくしてしまった。

 

「とってもおいしいです。このために生きているのですね。そうです。これが生きる喜びなのです」

 

 飛子はそう言ってヒレカツ定食を1分強で食べつくして、きつねうどんに移った。

 

「このきつねうどんもおいしいですね」

 

 やはり、飛子はすさまじい勢いでうどんをかき込んだ。将があっけに取られている間に飛子は運ばれてきた料理をすべて食べきってしまった。

 

「さあ、ジャンジャン持ってきてください」

「おまたせしました。右のほうから親子丼、カツ丼です」

「カツです、カツ。将棋を制する者にカツありです」

 

 飛子はそう言うと、次から次へと運ばれてくる料理をかき込んでいった。

 

 見えざる存在が食事を取る光景がはたからどう見えているのだろうかとか、そんなツッコミを入れる暇もなかった。

 とても大切な話をしていたはずだったが、しばらくは飛子の食事の鑑賞会になった。その食いっぷりは大食い早食い大会があれば、優勝間違いなしというほどだった。

 

 ◇◇◇

 

 飛子は大量にあった料理を20分ほどで完食してしまった。

 

「将さん、わかりました。将さんがどうしてもと言うなら、わたくし、飛車の妖精からうな重の妖精に転職します」

「なんだよ、うな重の妖精って」

「うな重を食べる妖精です。それはそれで幸せですよね」

 

 店を出て歩き始めると、飛子は将の隣を宙に浮いてついてきた。

 

「一応聞くが、妖精は何ができるんだ?」

「わたくしは飛車の妖精です。飛車の潜在能力を引き出す「飛子マジック」を使うことができます」

「飛子マジック?」

「百聞は一見に如かずなのですが、将さんが将棋をやめてしまわれたならお見せできません。残念です」

「……」

 

 飛子マジック。

 将は強い好奇心を覚えた。飛車の妖精というだけで、規格外の存在なのだが、それが使う魔法というのはいったいどんなものなのだろうか。

 将棋をやめると決めた。二度と駒を手に持たないと決めた。

 

 しかし、飛子マジックを見たいという強い衝動があった。

 将は自分の右手のひらを見つめた。

 

「将棋をやれば見られるのか? 飛子マジックとやらを」

「え、将棋、やる気になってくれたのですか?」

「いや、マジックとやらがどんなものか気になってな」

「飛子マジックは一応本将棋と歩廻りと挟み将棋に対応しております。今ならお見せできると思います」

「そうか。ならば……」

 

 将は足を止めた。そして、もう一度自分の手を見た。

 将棋をやることに抵抗はあった。将棋の駒を見ると、胸が苦しくなるのをわかっているから、それを想像すると辛かった。

 

 しかし、飛車の妖精が自分のもとにやってきた。その運命は将にもう一度将棋の世界に引きずり込もうとした。

 将は飛子と向かい合った。

 

 飛子はきょとんとした表情をしていた。運命の赤い糸で結ばれた相手。

 飛子を見ていると、自分の中に眠っていた棋士道の精神が呼び覚まされてくるかのようだった。将はその運命に導かれようとしていた。

 

「行くか」

 

 将は帰り道の逆のほうを向いた。天照学園の将棋部。今すぐ将棋をするなら、そこが一番手っ取り早い場所だった。

 



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4、飛子マジック

 将は飛子と名乗る飛車の妖精と名乗る謎の生命体に出会った。

 詳細はまったく不明だが、特別な存在であることだけは間違いなかった。

 

 飛子曰く、飛子マジックなる謎の魔法が使えるらしい。

 

 それがどういうものなのか確かめる唯一の方法が将棋を指すこと。

 

 強い決意のもとやめた将棋だったので、もう一度盤面に向かい合うのには抵抗があった。

 しかし飛子という謎の生命体を探るためには、将棋を指すほかない。

 

「将さん、ひとつお尋ねしたいのですが、どうして将さんは将棋をやめてしまわれたのですか? 将棋は大変美しい儀式です。そんな儀式をやめてしまうなんて私には考えられません」

 

 将棋部の部室に向かう道中、飛子が尋ねて来た。

 話せば長くなるし、話したくなかったので、将は何もしゃべらないでいた。

 

「きっと深い事情がおありなのでしょう。これ以上は詮索いたしません。ですが、将さんが今一度将棋界に戻っていただければ、わたくしとしましては大変うれしい限りです」

「……」

 

 将は飛子の話を聞いていて気づいたことがあった。

 

 飛車の妖精なる不思議な存在を確かめたいという気持ちで将棋部に向かっている。

 それが将が今一度将棋を指す動機ということになっているが、それはまったく違うのだということに気づいた。

 

 純粋にもう一度将棋を指したい。

 

 この気持ちは将棋をやめると決意したその日からずっと続いているものだった。

 しかし、将はそれを意思の力で抑えとどめていた。

 素直な気持ちになれば、将はもう一度将棋を指したいという気持ちだった。

 

 しかし、将棋のことを少しでも考えると、真龍王花のことを思い出してしまう。

 体の芯から戦慄するような王花の視線を思い出すと、体が震えた。震えて、駒を掴むことさえできなかった。

 

 世間は将棋界のアイドルだと言って王花を持ち上げているが、将には将棋界のデーモンにしか見えなかった。

 対局した者にしかわからない恐怖心。将は誰よりもその恐怖心を味わっていた。真剣で斬られたかのように、将の心は王花を恐れるようになっていた。

 

 ◇◇◇

 

 将はようやく将棋部の部室にたどり着いた。

 

「たしかここだな」

「ここで将棋が指せるのですか? 楽しみですね」

 

 飛子は将の後ろで嬉しそうにしていた。飛子の姿は将にしか見えない。ここにたどり着くまでに色々な人とすれ違ってきたが、誰も宙に浮いた飛子に意識を向ける者はいなかった。

 

 将は将棋部の扉を開いた。

 

 静かな空間に刺すような駒音が響いた。

 そのほうに目を向けると、将棋部の首相である桂慶大がきれいな正座の姿勢でたたずんでいた。

 

「あっ、羽生君!」

 

 桂は将に気づくと嬉しそうに飛び跳ねて、こちらにやってきた。

 

「将棋部への入部を決心してくれたのですか? ぜひウェルカムです」

 

 桂はさっそく将の手を取って目を輝かせた。

 

「いや、まだ入ると決めたわけではないです。ちょっと見学に来ただけです」

「あ、そうですか。それは早とちりして申し訳ありませんでした」

 

 桂は苦笑した。

 

「いつもそうなんです。僕、昔から早とちりで奨励会でも早とちりで逆転されてダメだったんです。僕の人生は桂の高跳び歩の餌食の連続です」

 

 桂は独特の方法で自虐した。

 

「でも今度こそやってみせます。2五への桂の高跳びを華麗に決め、羽生君を将棋部に導いてみせます。とりあえず、どうぞ」

 

 桂はおとなしそうな顔をしているが、変なところでテンションが上がる性質があった。

 桂は将を中に案内した。

 

「部員は先輩だけなんですか?」

「そうなんです。幽霊部員があと一人いるのですが、不登校のままで音信不通。顧問の先生も囲碁部と兼業で、部員が8人もいる囲碁部にゾッコンなんです」

 

 将棋部はまさに廃部寸前のようだった。

 

「部として認可されるためにはあと2人部員が必要なんです。あと2人。そう、僕が桂馬、羽生君が飛車となれば、あとは銀があれば攻めがつながります」

「おれはまだ入ると決めたわけでは……」

「大丈夫。最悪ニート飛車でもけっこうです。王花様は前回の順位戦、角換わりの将棋でなんとただの一度も飛車を動かすことなく、角、銀の攻めで見事に勝利されました。最悪、幽霊部員でお願いします」

 

 将は桂のテンションになかなかなじめなかった。

 

「見学と言っても見るものは何もありませんからね。一局お手合わせお願いできますか?」

 

 桂はそう言うと、将棋盤の前に座った。

 将棋部の部室には、立派な将棋盤が2つ置かれている。10万円はするであろう立派な将棋盤だった。このまま廃部になって処分されるにはあまりにもったいない。

 将棋の駒も既製品と違い、手書きであるとわかる年季の入った駒だった。

 

「まあ、なんて立派な駒なのでしょう。この駒を造られた棋聖はきっと一流の職人に違いありませんよ」

 

 飛子は駒を見て目を輝かせた。

 

「特にこの飛車。美しくってかわいくって、キュンキュンしちゃいますよ」

 

 飛子はそう言って、飛車にほほえましい視線を向けた。飛子は全体的に古風なイメージのある少女だが、現代人のような感覚も持ち合わせていた。

 

「将さん、これならば立派な飛子マジックをお見せできると思います」

「そうか。その飛子マジックとやらを見せてもらおうか」

 

 将は桂と向かい合うような形で座布団に座った。

 畳のにおい、将棋盤のにおい、そのすべてが懐かしかった。同時に、それらを感じるほどに将棋を指したいという願望が高まった。

 

 将はゆっくりと恐る恐ると言った感じで駒に手を伸ばした。

 その手が玉を掴んだとき、将はこみあげてくるものを感じた。

 目に涙がにじんだ。

 

 ずっとこの感触を追い求めていた。初めて将棋に出会ったときから、この感覚は特別なものだった。最も安らぎを与えてくれる感覚だった。

 

 将は噛み締めるように駒を並べた。

 将の放つ駒音は高く鋭かった。

 

「僕より羽生君のほうが格上ですからね。先手をもらってもいいですか?」

「ええ、どうぞ」

「よーし、成長した僕の将棋を見せるぞ」

 

 桂は丁寧に背筋を伸ばすと、「お願いします」とていねいに頭を下げた。

 そして、桂は歩を掴み、進めた。

 

 8四歩。

 

 角道を開ける歩が前に突き出された。

 

 将は見慣れた光景をどこか懐かしく見ていた。

 

「で、飛子マジックとはなんだ?」

「時が来ればお伝えします。とりあえず、どんどん進めてください」

 

 言われたので、将は普通に駒を進めた。

 お互いに角道が開き、飛車先の歩を進めていく。

 

 角換わりか相掛かりか横歩取りの戦型に進んでいった。

 

 最終的に横歩取りの戦型が決まった。

 

 横歩取りは非常にポピュラーな戦型だが、将の得意戦型でもある。

 将に引導を渡した王花も横歩取りを得意戦型にしている。

 

 桂も居飛車党であり、王花を尊敬しているためか、横歩取りの研究はかなり進めているようだった。

 しばらく定跡通りの手が続いた。

 

 そのとき。

 

「将さん、来ましたよ。来ました」

「ん?」

 

 後ろで飛子が騒ぎ立てた。

 

「飛子マジック、発動できます」

「そうか、ならさっそくやってくれ」

「わかりました。飛子マジックを開放します」

 

 飛子はそう言うと、かけていたメガネを取った。

 メガネをかけていた飛子はどこか可愛らしい顔をしていたが、メガネを取ると、180度変わって、鋭い視線が光った。

 

「主よ、聞きなさい」

 

 将は豹変した飛子に丸い目を向けた。

 

「飛子マジックが開放された。時は止まった」

「どういうことだ?」

「見なさい」

 

 飛子はどこから取り出したのか、センスを手に持つと前に突き出した。将は前を見た。

 

 全体的に空間が赤みがかって見えた。

 何より驚いたのは、桂が静止画のように止まっていたことだった。

 

「桂先輩?」

 

 尋ねても、桂はまったく反応しなかった。

 

「そういうことだ。飛子マジックが開放されている間、すべての時は止まる。そして、わらわは飛車の妖精として、棋譜に介入する権限を持つ。導かれた権限は「飛車の覚醒」だ」

 

 飛子は先ほどまでとはまったく変わって、凛々しい顔つきをしていた。

 

「飛車の覚醒?」

「飛車の覚醒の権限はいたってシンプル。飛車を続けて二度動かす権限である」

「……」

 

 飛車を続けて二度動かす。文字通り受け取れば、それは明確な反則だ。

 

「それは反則だろ」

「飛車の覚醒においては合法となる。百聞は一見に如かず。指してみるがよい」

「……」

 

 もし、いま飛車を続けて二度動かせるなら、敵陣になり込めるだけでなく、桂馬と角の駒得まで確定する。相手が王花であったとしても勝てる。

 だが、それができないから将棋なのだ。いま、将の飛車の先には角がある。その角を取っても、銀で取り返される。その場合、先手有利が確定する。

 

「本当に二度続けて指せるのか?」

 

 将は思い切って、相手の角を取って、飛車を敵陣になり込んだ。これは常識的に見ると悪手。

 だが……もう一度動かす権利があるなら別。

 

 そのまま桂馬を取れば、角と桂馬を得しながらも飛車を龍にできる。

 

 将は反則覚悟で続けて相手の桂馬を取り、8九龍とした。

 

 すると……。

 

 赤みがかっていた空間がもとに戻った。止まっていた桂は動き出した。

 

「えーーーーーーーーーーー」

 

 開口一番、桂は大きな声を上げた。やはりそうだ。反則なのだから。

 しかし、桂は不自然なことを言い始めた。

 

「気づかなかった。そうか、こんな手があったのか。これはもう羽生マジックだよ。いやー、角桂損で香損も確定。すごい手だ」

 

 桂は反則だと認識していなかった。

 

「やっぱすごいね、羽生君は。もう勝ち目ないな。投了します。負けました」

 

 インチキだったはずだが、結果は圧勝という形になった。こんなことが許されるなら、誰にだって勝つことができるだろう。

 

「見たか、主。これが飛子マジックだ。わらわが必ず主を偉大なる棋士へと導こう」

 

 飛子はそのように言って胸を張った。

 

 これが飛子マジックか。

 将はいまだに信じられない様子だった。

 



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5、パワーオブマジック

 飛子マジックの威力はすさまじかった。

 飛車を立て続けに2度動かすことができた。どのような作用なのかはわからないが、相手はそれに対して何の違和感も覚えていなかった。

 将は最初ドッキリか何かかと思っていたが、どうもそうではないようだった。

 

 飛子はとんでもない能力を持った妖精だった。

 飛子マジックが使えれば、おそらく誰が相手でも負けることはないだろう。

 必勝のマジック。

 

 毎局飛子マジックを使うことができれば、名人も竜王も棋聖も王位も、すべてのタイトルを確実の取ることができるだろう。それどころか無敗神話を築くこともできる。

 

 しかし、飛子マジックには1つだけ大きな副作用があった。

 

「お腹空いた。空いた空いた空いた空いた」

 

 マジックは莫大なエネルギーを消費するようであり、対局後、突然飛子が悲鳴のような声を上げて膨大な食事を要求した。

 

「お腹が空いて死んでしまいますー。早くヒレカツ定食とふぐちりと煮込みハンバーグ定食とうな重肝吸い付きを持ってきてください」

 

 死にそうと言いながら、食べたいものを明確に読み上げた。

 将はすぐに近くの定食屋に向かって、10000円分のメニューを注文した。

 

 飛子はその10000円をものの10分ほどで腹に収めてしまった。

 

「ふう、おいしかったですね。ようやく飢餓の苦しみから解放されました。では、デザートにぜんざいとみたらし団子と水ようかんを」

「もう金がねえよ」

 

 飛子と出会って3時間半。将はすでに2万円を使い果たしていた。2万円は普段の将の1か月分の食費にあたる。飛子はそれを3時間半で使い果たしてしまった。

 

「困りますよ、将さん。このあと、夕飯もご馳走になる予定なんですよ。そんな貧乏では妖精を飼いならすことはとうていできません」

 

 飛子は食べることに目がなかった。

 

「大丈夫です、将さん。私がいればタイトルの1つや2つ簡単に獲得できます。その賞金でおいしいうな重を食べればいいのです。将さんがタイトルを100期獲得すれば、晴れて私は立派な妖精として認められます」

「飛子マジックを使えば、素人だって勝てる。何もおれである必要はないんじゃないのか?」

「わかってないですね、将さん。いいですか、妖精は誰でもいいなんていう見境ない野蛮な生き物とは一線を画すのです。運命の赤い糸で結ばれた運命の殿方にだけ清く美しい力を授けるのです」

 

 飛子は上品ぶったが、これまでに重ねた食事量を見れば下品なベヒーモスのようにしか見えなかった。

 

「ですので、飛子マジックは将さんだけのもの。わたくしたち二人だけのシークレットラブパワーなのですよ」

「そうか……」

 

 将はお茶を飲んだ。将は食べ物を一口も食べることなく、すべて飛子に献上したため、今になって空腹感がこみあげて来た。

 

「マジックを使うには、最低でも2万キロカロリーは必要です。美しい力には食べ物の犠牲が必要不可欠なのです」

「よくそんな体でそんなに食えたもんだな」

 

 飛子は見た目とても華奢である。先ほど山ほど食べたにも関わらず、腹が膨れているそぶりもなく、時空の彼方に消え去ったようであった。

 

 色々あったが、飛子マジックを使えば、本当にタイトルの1つや2つを簡単に取ることができる。

 将は自分が手に入れたこの不思議な力をどのように使うのが良いのかを思案した。

 

 正直、こんなインチキで勝ちたくはない。将もこれまで夢中で将棋を指してきた身。いまは一応引退した身だが、棋士としてのプライドがあった。

 

 飛子マジックの正しい使い方とは何か?

 

 将はそんなことを自問しながらアパートに戻ってきた。

 将のアパートは学校近くの1DKのオンボロアパートだ。

 家賃は42000円。東京郊外とはいえ、かなり安いアパートだった。家賃と光熱費は師匠の時田の口座から引き落とされることになっている。

 将棋を引退した後も、師匠の世話になっているのはどこか申し訳ない気持ちだった。

 

 しかし、飛子と出会ってから、将はもう一度将棋の世界に戻ろうという気持ちを強くしていた。

 王花の恐怖を振り払い、将棋界へもう一度戻してくれたのは紛れもなく、飛車の妖精飛子だった。

 

 飛子は将の冷たい心に火をつけてくれた恩師だった。

 

「狭い部屋ですね。タイトルを取った暁にはもっと広い部屋に移りましょう。そして、お部屋で焼肉パーティーを開きましょう」

 

 飛子はそんなことを言った。

 こんなバカっぽいテンションの妖精が恩師というのは悲しくなるが、それでもこの飛子が将に将棋を指す勇気を授けてくれた。

 

 一人では怖くて将棋を指せなかった。駒を見るだけで手が震えた。ましてや、王花の姿を目に映せば、尋常でいられる自信がなかった。

 しかし、飛子と一緒ならば、もう一度王花に挑戦できるような気がした。

 

「将さんの部屋には本当に何もございませんね。将棋盤がなければ将棋を指すこともできませんよ」

「そうだな。将棋盤を買わなければならないな」

 

 将は王花に負けたあと、将棋盤を捨ててしまった。師匠からもらった将棋盤だったが、あのときは感情的になっていた。

 

「しかし、地球にはコンピュータ将棋というのがあると聞きました。コンピュータというものもないのですか?」

「パソコンならあるが……」

 

 将は机の引き出しを開いた。パソコンだけは捨てずに置いてあった。将棋を指していたころは、このパソコンを使って研究していた。

 

 史上最強の将棋ソフト「マングース」がインストールされている。

 マングースは去年のコンピュータ選手権で優勝した最強のソフトで、1秒間に100億と3手を読むことができるという性能だった。

 すでにプロを凌駕する性能を持つソフトを使えば、誰でも最強の将棋士になることができる。

 

 ここで、将は1つ疑問に思ったことがあった。

 

「飛子、コンピュータ将棋に対しても飛子マジックは使えるのか?」

「本将棋、歩回り、挟み将棋ならば、どんな形式にも対応できますよ」

 

 将はコンピュータ将棋でも飛子マジックを試してみたいと思い、パソコンを立ち上げた。

 

「まあ、すごいですね。こんな箱の中に色々なものが入っているのですね。地球は不思議なものばかりです」

「おれたちからすれば、妖精なるものが一番珍しい存在だがな」

 

 世界広しと言えど、要請を飼っている人間は将を除いていないだろう。

 

 将はインターネットに接続して、暇なときによく遊んでいた将棋ゲーム「将棋コロシアムX」にアカウント名「show time」でログインした。

 将棋コロシアムXは全世界2800万人のユーザーを持つ世界最高の将棋ゲームだった。

 将は本格的にはやっていないが、一応将棋連盟は、将棋コロシアムXの世界大会優勝者には、四段昇段の権限を与えており、硬式も認める将棋ゲームだった。

 奨励会所属のガチ勢からアマチュアまで色々な者が参加できる。もしかしたら、プロ棋士も紛れているかもしれない。

 

 将はとりあえず、フリークラスに入って適当な相手を探した。

 将棋コロシアムXは段位制で、九段になった者だけが世界大会に参加できる。

 

 その段位のランク対局で七番勝負を4度制すると、次の段位に上がることができる。

 フリークラスは段位に関係なく誰でも参加できるカジュアル向けのクラスだった。

 

 そこで、将は適当なアカウント名のものとマッチングした。

 

 アカウント名「花子さん」

 

 完全匿名制なので断言できないが、アカウント名からすると女性らしかった。

 

「まあ、花子さんですって。成仏できない幽霊でしょうか」

「よく知ってるな」

 

 飛子は思いがけず地球の文化に対する造詣が深かった。

 

「まあ、適当に飛子マジックを使ってみるかな」

「了解。今なら飛び切りすごいマジックが使えると思います」

 

 将は適当に指した。相手はどうせ素人だろうから、普段は指さない四間飛車の戦型を選択した。

 

「おっ、定跡に詳しいな。素人じゃないのか?」

 

 将が四間飛車を選択すると、相手は36手目まで、最先端の定跡でついてきた。

 

「けっこうな熟練者か、あるいはソフト指しか」

 

 将棋コロシアムXでは、ソフトを使った指し手を禁じていない。世界大会では、メーカーが用意したコンピュータで対戦するので不正は難しいが、カジュアルでは自由にソフトの手を指すことができる。

 フリークラスは持ち時間もフリーなので、自由にソフトを使うことができる。

 

「将さん、飛子マジックチャージできました。いつでもいけますよ」

「もうちょっと待ってくれ」

 

 将は自分の実力だけでしばらく指した。

 将は途中で相手がソフト指しだということを断言した。

 

 相手の手はすべてプロ級で、将は劣勢に追い込まれていった。将は腐っても、もと奨励会3段だ。こんなゲームのフリークラスに将より強い人はいないはず。

 そんな将が手も足も出ないのだから、相手はコンピュータソフトが推奨する手を指しているということになる。

 

「しかし、ソフト指しってのはどういう神経してるんだろうか。こんなところでソフトで勝ったって、何のメリットもないのにな」

 

 将はこんなゲームごときでソフトを使ってまで勝とうとする人の気が知れなかった。

 

「ま、かく言うおれはインチキマジックを使うわけだから人のことは言えんが。せいぜい泡吹いて倒れるんだな、ソフト指しめ」

 

 将はそう言うと、振り返った。

 

「飛子、飛子マジックだ。いま必死をかけられているが、ここから逆転させてくれ」

「了解しました。では行きます」

 

 飛子はメガネを外した。メガネを外すと、飛子はドジっ子から女王様のような風格に変化する。その風格から飛子マジックは繰り出される。

 

「主、飛子マジック「火竜降臨」が解放された」

「火竜降臨? 前回の飛車の覚醒とは違うのか?」

「聞け、主。火竜をいま主の駒台に発生させる。火竜は打つと同時に、竜の利きの範囲内にある相手の駒1つを取ることができる」

「……」

 

 将は自分の駒台に目をやった。

 駒台は将棋コロシアムXのプログラムである。そんなものにどうやって干渉するのかと思ったら、将のあたりが赤いもやに包まれた。

 

 すると、たしかに駒台に赤く輝く謎の駒が出現した。たしかにプログラムされた駒台の中に駒が出現した。

 

「主、それが火竜だ。それを打てば、その利きの範囲内にある相手の駒を取ることができ、火竜はその場にとどまることができる」

「つまり、動かさず駒を取れるということか?」

 

 それは飛車の覚醒に負けない大きなアドバンテージであり、相手からするとめちゃくちゃなインチキだった。

 

「火竜はその後、竜と同じ動きができ、また火竜が取られても、相手の駒台に移動することはなく消滅する」

「それは至れり尽くせりのインチキだな」

 

 将は現れた火竜をマウスでクリックしてみた。すると、それを打つことができた。

 将はいま必死の要となっている相手の角を取るために、4九に火竜を打った。

 

 打ったら手番を相手に渡すことなく、利きの範囲内にある相手の駒を取れる。そこで、将は相手の打った角を取った。

 これで必死は逃れ、逆に相手の玉に詰めろがかかった。

 

 詰めろ逃れの詰めろというのはあるが、必死逃れの詰めろは飛子マジックならではの造語だった。

 本来、相手からすると必死だからこそ、受けを無視して攻めに来ていた。しかし、飛子マジックでそのはしごが外された。

 

 相手は長考に入った。

 

 将は火竜が棋譜にどのように書き込まれたか気になって、棋譜を確認してみた。すると、「△4九火、△7九火(角)」という見たこともない表記で表されていた。

 この世の概念をすべて覆す謎の棋譜が誕生した瞬間だった。

 

 長考の末、相手は受けの手を指してきたが、将は手に入れた角を使い、詰めろ詰めろで相手の玉を追い詰めていった。すると、相手は投了した。

 

「見事な勝利だ、主」

「まあ、飛子マジックを使えば誰でも勝てるからな」

 

 正直、嬉しさはない。ソフト級の相手に勝ったとはいえ、それは飛子マジックという超ソフトの力によるものでしかないからだ。

 

「ところで、飛子。メガネを取るとなぜ性格が変わるんだ?」

「飛車は成ると竜になる。角は馬に、歩はと金となる、そういうことである」

「わかったようなわからなかったような」

 

 将はそう言って、将棋ウォーズを閉じた。

 その後、マジックで疲弊した飛子の夜食のために1万円を使うことになった。



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6、真龍王花

 翌朝、将は本格的に将棋に再起するため、将棋部の入部届に名前を書いた。

 

「将さんが将棋をやる気になってくれて、飛車の妖精として感無量ですよ」

「ああ、感謝してるよ」

 

 将は高校将棋部から、学生名人を目指し、そこから来期以降の棋王戦予選に参加する形でプロを目指すつもりでいた。

 奨励会を経て四段昇段というのが王道だが、最近は大卒のプロやアマチュア大会上がりのプロも増えつつあるご時世だった。

 

 現在、最強の棋士とされる真龍王花もアマチュア竜王を獲得してからの竜王戦制覇という形でプロになった異端児だ。

 将もそれを追いかけて、アマチュア竜王か学生名人がひとまずの目標だった。いや、その前に天照学園将棋部のメンバー集めをしなければならない。

 

 将は学校に着くと、すぐに桂のいる二年四組の教室を訪れた。

 

「やあ、羽生君、いらっしゃい」

「将棋部に入部しようと思いまして」

「入部? 本当ですか?」

 

 桂は小さな子供のように喜んだ。

 その後、メガネを取って何やら一人で回想し始めた。

 

「辛く長い孤独な将棋部でした。部員は僕一人。誰もいない部室でただ一人棋譜並べをするさまはもはや人に非ず。しかし、その時代は終わりを告げました。桂慶大。神に誓って天照学園将棋部を学生名人の頂に導いてみせます」

「あの……」

「すみません、ついに感傷に浸ってしまいました。将棋部ウェルカムです。ぜひ、今日から部室に来てください。羽生君がいれば、どこまでも行ける気がします」

 

 桂は見た目おとなしいが、スイッチが入ると暴走するところがあった。

 その後、将は担任に入部届を出して、正式に天照学園将棋部員になった。将にとっては新しい環境での始動となった。

 

 ◇◇◇

 

 放課後、将は学食で高い昼食を飛子にご馳走して、自分はパンの半分を齧っただけで将棋部の部室に向かった。

 

「いやー、おいしかったですね。この学校のシェフは一流の腕を持っていますよ」

「おれはまったく食べてねえからわからねえがな。しかし、お前といると腹が減るな」

「心配いりません。将棋を指していれば気がまぎれますよ」

 

 飛子は上機嫌にそう言った。

 部室につくと、すでに桂が部室に来ていて、難しい顔をしてパソコン画面に向かっていた。

 

「むむむむ、この手は難しい。僕には理解できない」

 

 桂はぶつぶつと独り言をつぶやいていた。

 

「桂先輩、何してるんですか?」

「ああ、羽生君、いらっしゃい。いまいいところなんですよ」

「いいところ?」

「棋聖戦の挑戦者決定戦ですよ。王花様と郷田七段の火花を散らす横歩取りの激戦です」

 

 桂はそう言うと、パソコン画面を将のほうに向けた。

 

「そうか、もう棋聖戦の季節なのか」

 

 長らく将棋から離れていた将は、将棋界のここ最近を理解していなかった。

 

「王花様が竜王、王将、棋王に続いて挑戦されます。棋聖を獲得すれば四冠王です。四冠王の現役女子高生なんて美しすぎると思いませんか?」

「そうだな……マスコミと馬鹿な大衆は喜ぶだろうな」

 

 将はひねくれた言い方をした。将棋をやめるきっかけになったのが王花。それだけに、王花の存在は将にとって忌々しいものでもあった。

 

「ここで9五歩。一見緩手に見えますが、ソフトは最善手と読んでいます。と金が確定しているところで、端に手をつけるなんて並の棋士じゃ怖くてできませんが、さすがは王花様です」

 

 桂は王花のファンということで、王花を語るときのテンションは高かった。

 将は盤面を見た。

 

 パッと見てどちらが優勢か判断するのは難しいが、コンピュータソフト「マングース」は王花がやや有利と判断していた。

 その後、数手に渡り、王花はソフト推奨手を連発してさらに優勢を広げた。

 

「精密機械みたいなやつだな。表情も出さないし、頭ん中にソフトが埋め込まれてんじゃねえのか?」

 

 将がそう言うと、桂が反論した。

 

「何言ってるんですか、羽生君。王花様はソフト以上ですよ。ソフトの最善手を超える手をこれまでに何度も繰り出されているのですから。王花様は神の領域にあるのです」

「それはすまなかった」

 

 王花は人間らしい表情を浮かべることなく淡々と指し続け、対戦相手は逆転不可能な局面に追い込まれていった。

 昼過ぎだというのに、対戦相手が投了した。銀損の大差がついたため、望みはないという局面だった。

 

「やったー、さすがは王花様。この強さ、しびれるあこがれる」

 

 桂はそう言って飛び跳ねたが、将は舌打ちしたい気分だった。この圧倒的強さに裏打ちされた冷たい表情が癪だった。

 しかし、それだけいまだに王花に影響されているということでもあった。将棋をやる以上、王花は切っても切ることのできない存在だった。

 

 飛子はそんな将の様子を珍しく黙ってみていた。

 

 ◇◇◇

 

 将棋部での活動を終えての帰り道、飛子は突然将の歩くのをふさぐように立ちはだかった。

 

「なんだ、どうした?」

「私、わかりました」

「なにがだ?」

「私がここに来た理由です」

「……?」

 

 珍しく、飛子は真面目な顔をした。

 

「将さんは真龍王花とかいうやつに恋をしている。ズバリ、そうでしょう?」

「な、なんだよ、急に。そんなわけねえだろ」

「ごまかしても無駄です。私も女ですからわかるのです。私たちの運命の赤い糸に複雑にからみついた黒い糸があるのです。私はずっと感じ続けていました。ようやく黒い糸の正体がわかりました」

 

 飛子はそう言って、将の顔を覗き込んだ。

 

「将さん、ご安心ください。将さんをたぶらかすあの女を、この私が切り捨ててみせましょう」

「いやだから、勝手に決めるなって。おれは別にあいつのことを何とも」

「では、あの女を赤の他人と言えますか? 言えないでしょう。あいつの黒い糸は将さんの人生にいやらしく執拗にからみついています。なまじのことでは紐解くことはできません」

「……」

 

 王花を意識していることは否定できなかった。しかし、将は王花に恋心を抱いているという自覚はなかった。

 ずっと倒したい相手として認識してきたが、それは恋心というものなのだろうか。

 最強の棋士としてそこにいたから意識しているだけ。将はそのような認識だった。

 

 しかし、同じ女性である飛子には将の感情が別のものに映ったようだった。

 

「忌々しい女ですね。私たちの運命の糸に干渉してくるなんて。図々しい泥棒猫です。決して許しません。飛子マジックを炸裂させてやりますよ」

「……」

 

 将は一人で熱くなる飛子を無言で見ていた。将は別に飛子に恋心を抱いているという自覚もなかった。

 しかし、飛子が言ったように、将の運命に、たしかに王花がからみついていた。しかし、それは将自らが望んで手をかけた糸だった。王花の目には、将の姿は映ってさえもいなかったはずだ。

 

 ◇◇◇

 

 王花は棋聖戦の挑戦者を決めた。

 感想戦が終わって、マスコミを退けると、王花はようやく自由になった。

 

 王花はしきりにスマホで誰かと連絡を取っていた。

 そのときの王花の表情は、対局中には決して見せない穏やかなものだった。

 

「もうすぐつくよ」

 

 メールの応答が帰ってくると、王花は普段誰にも見せることもない笑顔を見せた。

 

 メールの相手は車で将棋会館に入ってきた。

 冴えないメガネの中年のやせ型の男だった。

 

 白河雪夫。47歳の冴えないプロ棋士の一人である。独身で、恋人などいたこともない。彼がプロ棋士である事実を知っている人はほとんどいなかった。

 24歳でプロになってから、あっという間にフリークラスに転落した実力に乏しい棋士だった。

 生涯勝率は2割前半と低迷し、新しい若手が入ってくるたび、踏み台にされる立場だった。

 

 早々と一線から退いたということもあり、白河は対局ではなくイベントや将棋の流布活動を中心に働いていた。

 良心的な新聞社のおかげで、白河はそうやって細々と暮らしていた。

 

 しかし、この冴えない中年男にはとてつもない弟子が一人いる。

 

 真龍王花。

 

 新聞社の記者らとたまたま、都内の孤児院に将棋を教えに行くという催しに参加していて、そこで金の卵に出会った。

 

 王花を弟子に迎えたのだが、その王花は天才だった。王花が4歳児のときに出会ったのだが、そのときから驚異的なIQを持っていて、特別な訓練をしていないにも関わらず、200を超えるほどだった。

 その頭脳が将棋と出会うとその能力を高め、気が付くと、15歳にして3冠王に上り詰めてしまった。

 

 王花は将棋を始めて1年で白河を超える実力者になり、あとは勝手に最強の棋士にまで上り詰めてしまった。

 白河はただ王花に将棋というゲームの存在を教えたに過ぎなかった。

 

 しかし、王花は白河に絶大な信頼感を覚えたようで、誰よりも良く懐いていた。

 

「ごめん、王花ちゃん。待ったかい?」

「師匠、お待ちしておりました」

 

 王花は白河を見つけると、普段は絶対に見せないような笑顔を作った。

 白河のところまで駆けていくと、白河の胸に飛び込んだ。

 

 小さな子供ならば抱きかかえてもご愛敬だが、王花はもう15歳になったので昔のようにはいかない。

 白河は最近の王花の扱いには難儀していた。しかし、王花は盲目的に白河を愛していた。

 

 王花は親不在で、孤児として暮らしていたこともあり、その心は他の子どもとは違っていた。生まれついての頭脳も影響しているのかもしれない。

 

「私の将棋を見てくださいましたか?」

「うん、いい将棋だったね」

「いいえ、お恥ずかしい棋譜です。悪手を何度も指してしまったのです。もっと気を引き締めなければなりません」

 

 王花はそう言ったが、人間レベルではその手も十分に有効な手の1つだった。しかし、意識の高い王花には許せないことだったらしい。

 

「次こそは完ぺきな棋譜を生み出してみせます。次の対局も見ていてください」

「うん」

「それでは行きましょう、師匠。静かなところがいいです。二人きりでいられる場所へ」

 

 王花はそう言うと、白河の腕に抱きついて引っ張った。

 



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7、それぞれの夜

 その夜、将はパソコンを立ち上げた。

 今日行われた棋聖戦の挑戦者決定戦、真龍3冠対剛田7段の棋譜を解析するために、将棋ソフト「マングース」を起動した。

 思えば、王花の棋譜を調べるのはかなり久しぶりのことだった。王花にコテンパンにされたあの日から将棋を封印していたから、こうして棋譜並べ、棋譜解析をするのはとても感慨深いことだった。

 

「将さん、今日は対局なされないのですか?」

 

 後ろで飛子が尋ねて来た。こうして妖精とやり取りするのにも慣れっこになった。

 

「毎回マジック使ってたら、食費がいくらあっても足りないからな」

「マジックに関係なくお腹空きましたよ」

 

 飛子は帰り道に五平餅を4つも平らげたにも関わらず、食事をせかしてきた。

 将にとって飛子の餌やりをどうするかは目下の悩みの1つだった。飛子曰く、あんまり食事が少ないと餓死してしまうらしい。

 今晩の夕食も策がなければ、また1万円ほどの金が飛子の胃袋に収まることになる。対策が必要だった。

 

「この棋譜の解析が終わったら何か食わせてやるからちょっと我慢してろ」

「わかりました。楽しみにしております。今日はおいしいものが食べられるのでしょうか」

 

 飛子は立派な将棋の妖精になるために、将を一流の棋士に仕立て上げるべくここにやってきたのだが、肝心な将棋にはほとんど興味がなく、頭の中は食べることばかりだった。

 実際、飛子曰く、「私は飛車の動き方しか存じ上げておりません。角? 何それって感じですよ」である。つまり、マジックしか能がなかった。もっとも、その飛子マジックの威力がすさまじいのだが。

 

 将は王花の棋譜を読み込んで1手1手確かめていった。

 調べるほどに、王花の怪物ぶりがあらわになった。

 

「なんだこいつ。ほぼすべてソフトの最善手を打ってやがる。どうなってるんだ?」

 

 人間が指す以上、常に最善の手を指すことなどできない。しかし、王花はほとんどソフトの最善の手を打っていた。

 だが、真に驚くべきことはソフトを超える手を指しているところだった。

 

「79手目。ソフトの最善手は2四歩打だが、真龍の手は8三歩打。ソフトは悪手と判断してるが……」

 

 その手以降を調べると、なぜかどう指しても、王花の優勢がたしかになった。それはソフトの最善手以上に明確な結果だった。

 それはつまり、最強ソフト「マングース」の読みを超える手だった。

 

 完ぺきな棋譜で新鋭の剛田7段を倒しており、付け入る隙はなかった。

 

「勝てる気がしねえ。努力でこいつに勝てる日が来るのか?」

 

 将は頭を抱えた。王花の圧倒的実力にまったくついていける気がしなかった。王花はあらゆる棋士から希望を奪うほどの圧倒的力で君臨していた。

 

「将さん、そんな泥棒猫、飛子マジックでぎったんぎったんのめったんめったんですよ。そう、私たちの愛の力があれば何者も乗り越えられるのです」

 

 飛子が力説した。

 もちろん、王花が相手でも、飛子がいれば必ず勝てる自信がある。飛車を続けて二度動かせれば、必勝できる。

 しかし、そうやって勝つことは勝ちとは言えない。将の棋士としてのプライドが飛子マジックの勝利を受け入れられなかった。

 

 とはいえ……。

 

「いっぺん、こいつを一方的に叩きのめして、ぎゃふんと言わせてやりたいってのはあるな」

「ぎゃふんと言わず、ふんぎゃあ、げろげろと言わせてやればいいですよ。お任せください。飛子マジックであの化け猫をどっかんがらがらにしてやるですよ」

 

 飛子はいちいち謎の表現をした。王花に対する嫌悪感というか、女としての対抗感情には相当強いものがあるようだった。

 

「飛子マジックか……ほんとにとんでもない力を手に入れてしまったな」

 

 将は飛子マジックとどのように関わって行けばいいのか、しっかり考えなければならないと思った。

 

 ◇◇◇

 

 そのころ、将だけでなく全棋士の宿敵である王花は師匠の白河と、とある静かなレストランにやってきていた。

 王花は賑やかな場所を極端に嫌う傾向があったので、不純な男女が密会で使うような人里離れた場所に入っていた。客は3組しかおらず、いずれも訳ありそうな男女の組だった。

 二人もその景色に溶け込んだ。

 

 白河は王花が思春期を迎えたことで、彼女の扱いに難儀していた。王花がまだ幼いころならば問題なかった二人だけの時間も、今後は考えて行かなければならなかった。

 しかし、王花はわかってか、少し背伸びをして白河に色々とアピールしてきた。

 短いスカートを身に付けたり、やたら露出度の高い格好を見せることもあり、白河は対応に困っていた。

 

 白河はできるだけ正規の方向に戻すために、意識的に話題を作った。

 

「王花ちゃん、学校のほうはどうなんだい?」

「まだ入学式を終えて一日しか通っておりませんので、何とも言えません」

「話をする友達とかはできたの?」

「友達? 私にはそのようなものは必要ありません。師匠がいてくれれば、私の心が孤独になることはないのですから」

 

 そう言って、王花は色っぽい目を向けた。

 白河はため息をついた。

 

「王花ちゃん、そんなこと言わず、自分のほうから同級生に話しかけてみたほうがいい」

「ですが、師匠。彼らはろくでもない話題ばかりです。私の夢は8冠を獲得して、師匠に捧げること。そのためにためになる話題などどこにもありません」

「……」

 

 王花は今時の女子高生とは一線を画していた。大きな夢を持っているのはいいことだと思ったが、それに囚われていて、それ以外のものを見ようとしないところがあった。

 白河はもう王花に将棋を教える立場ではない。しかし、まだ教えることがあるとすれば、人間性だった。

 

「王花ちゃん、人生は将棋ばかりじゃない。もっと色々なことを知るべきだ。そのためには、くだらないと決めつけず、色々なものに興味を持ったほうがいいと思うんだ」

「師匠、私は将棋がすべてなんて思っていません。私は将棋よりずっと愛するべきものを知っているつもりです。ですが、それを届けるためには誰よりも強くなければならないのです」

 

 王花はそう言うと、白河のほうをまっすぐ見つめた。

 王花の目には、将棋以上に、目の前の一人の男性を見ていた。白河はそれに気づいていたが、できるだけ意識しないようにした。

 

 白河は話題を変えた。

 

「勉強のほうはどうだい?」

「学問にはあまり興味がありませんが、高校教育課程程度の学力は備えているつもりです」

「そ、そうだったな」

 

 王花は中学時代ですでに、白河の助言で参加した数学オリンピックと物理オリンピックで両方とも世界1位を獲得しており、もはや右に出る者はいなかった。

 

「ともかく王花ちゃん、僕から言えることは、もっと色々な人と関わってほしいと思う。少しきつい言葉で言う。師匠命令として、今月中に5人の同級生に自分から声をかけてみなさい」

「師匠命令ですか……?」

「うん、そして5人の友達を作るんだ。そうすれば、きっと王花ちゃんは今よりずっと輝けるようになる」

 

 白河はそう言ったが、王花はその意図が理解できなかったようである。

 

 ◇◇◇

 

 棋譜並べを終えた将は戦いの場に出向くために、外出の準備をした。

 

「飛子、そこへ行けば好きなだけ何でも食べることができる」

「え、なんですか、その至れり尽くせりの場所は?」

「だが、1つだけ制約がある。45分以内に7キロを完食しなければ罰金1万円。食べきれば賞金1万円だ」

「なんですか、それ。たくさん食べてお金ももらえるなんてまるでパラダイスじゃないですか」

「どうだ? 45分で7キロ。行けるか?」

「そんなのちょー簡単ですよ」

 

 飛子はちゅうちょなくそう言った。

 将が思いついた苦肉の策は、大食いチャレンジで賞金を獲得すること。これで飛子の食費問題が解決するかもしれない。

 だが、飛子と言えど、近所の大食いチャレンジは成功者0人の最強チャレンジ。失敗すると手痛い1万円のロスになる。

 危険な賭けだった。

 

 とはいえ、これも一種のインチキだ。飛子と将の二人がかりで挑戦するのだから、飛子マジックほどではないにせよ、離れ業である。

 しかし、将棋でなければ、将はプライドなど持たなくても問題なかった。

 

「じゃあ、行くぞ」

 

 二人は将棋ではない戦いの場に赴いた。

 



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8、竜王XVS飛子マジック

 火花を散らす戦いが幕を開けようとしていた。

 王将飯店にやってきた将は話題のチャレンジ「竜王X」を注文した。

 これは大量のチャーハンの上に大量の揚げ物を乗せた合計7キロの大盛セットを45分で平らげる魔のチャレンジだった。

 これまで数々の大食いマニアやフードファイターを退けて来た最強のチャレンジだった。

 

 これが最難関とされるのは、大量の親鶏のからあげが非常に硬く、ファイターの泣き所であるあごを徹底的に攻撃する点にあった。

 あごをやられた者は食事速度がみるみる落ちて、チャレンジ失敗となっていった。

 

 そんな最強チャレンジに、飛子が挑むことになる。将はほんの少し添えるだけだ。

 

「むふふふ、楽しみですね。目いっぱい食べられるなんて夢のようです」

 

 飛子は割りばしを持って料理が運ばれてくるのを待った。なお、飛子の食事が外界からどのように映っているかというと、どうも、将が一生懸命に食べているように映るらしい。どういう作用かはわかっていないが、将がスマホで撮影した映像では、飛子の姿が自分の姿になっていた。

 では、将と飛子が同時に食事をすると?

 

 そこまでは将も調べていないが、飛子マジック的な都合で適当につじつまが合うのだろう。

 

「店長、最強チャレンジ「竜王X」に挑戦する猛者がやってきました」

「ぞうさんパクパクか?」

「いえ、知らない少年です。新鋭のファイターかもしれません」

「ふん、プロデビューしたばかりの新人に我が竜王を倒せるはずがない。竜王Xは名だたるファイターを5連覇し、永世竜王の称号を獲得したのだからな。勝てそうで勝てない究極のドラゴンなのだ」

 

 店長は自慢げにそう言った。誰も食べられない現実離れの料理を出すのはきれいではない。食べられそうで食べられない絶妙なラインをついてこそ作り手も褒められる。

 この店長はそういう点で高く評価されていた。

 

「揚げ物オッケー」

「チャーハンオッケー」

「わかめスープオッケー」

「よし、では運ぶぞ。見せてやるぜ、おれの竜王」

 

 店長は3人がかりで、ドラゴンのように揚げ物が盛られた竜王Xを将の前に置いた。それはもはやドラゴンだった。

 将は開いた口がふさがらなかった。

 

 しかし、飛子は驚くどころか喜ぶばかりだった。

 

「私はこれまで一度も満腹になるまで食べさせてもらったことがありません」

「毎日あんだけ食わせて満腹じゃなかったのかよ」

「ですが、今日は満腹になれるかもしれません」

 

 飛子はそう言って、割りばしを引きちぎった。

 どんな食べ物もお箸で食べる。和の心を忘れないのが飛子だった。

 

「制限時間は45分。45分以内に完食すれば賞金1万円。完食の定義はご飯粒を1粒も残さず平らげること。1粒のお残しも許さない。いいか?」

「いいか?」

 

 将は飛子にまた聞きした。

 

「了解です。全部食べます」

 

 飛子の闘争心はオッケーだった。

 

「では、3秒前。2、1、スタート!」

 

 店長の合図で竜王Xと飛子の勝負が始まった。

 

 飛子は始まると、器用に箸を使い、揚げ物を口に放り込み始めた。

 

「おいひーです。おいひー」

「突っ走れ。おれはこっちのわかめスープだけ片付けておく」

 

 将はわかめスープを手に取った。しれっと7キロに加えてついてきたこのわかめスープもラーメンサイズだった。

 

 将がゆっくりわかめスープを味わっている間に、ドラゴンの頭がなくなった。飛子の食事速度は十分トップファイター級だった。

 

「店長、二刀流ファイターのようです。わかめスープとあげものを同時に流し込んでいます。こんな挑戦者は過去にありません」

「むう、フードファイター界の大谷翔平が現れたか。これはかつてない最強の挑戦者になるな」

 

 見守っている店長らは、飛子と将の二刀流を新手の新鋭のように目に写していた。

 

 将はわかめスープを半分飲んだところで、十分な満腹感を覚えた。昔から食が細かった将にとってはラーメン級わかめスープが十分に強敵だった。

 

「飛子、おれは限界が近い。あとは頼めるか?」

「お任せください。むふふ、将さんと間接キッスのチャンス到来です」

「……やはり完食するよ」

 

 将は照れを隠すように、もう一度わかめスープに手をつけた。

 

 挑戦から30分が経過した。ドラゴンの揚げ物は完全に消え、残るは土台のチャーハンだけになっていた。

 しかも、飛子の食べる速度はまるで落ちていなかった。

 

「て、店長。ドラゴンが破壊されました。この速度でドラゴンが崩されるなどこれまでにありませんでした」

「落ち着け。たいていのやつはドラゴンに躍起になって、その下のファイアーで力尽きるんだ。土台のチャーハンはいわば、アルマゴートの地獄の業火よ」

 

 店長は腕を組んで、まだ余裕だった。

 

「ところで店長。最近赤字続きだと言ってましたが、賞金1万円出てっても大丈夫なんですか?」

「そのときはお前の時給から1万円分抜く」

「そんなひどいっすよ」

「何を抜かす。勝った時は賞金、負けた時は罰金。これが勝負の世界の鉄則だ。甘えるな!」

「そんなこと言って、勝った時に一度も賞金をもらったことありませんよ」

 

 店長と学生バイトが言い合いしているうちに、自慢のファイアーも半分が消え去った。

 完食は目前だった。そのころ、将は何とかわかめスープを平らげた。

 

「て、店長、これは完食されそうですね」

「焦るな。6キロを超えて来たところで、胃袋は限界に達する。おれの経験則では、ここで手が止まる。過去の挑戦者もここいらがテトリスの詰みだ」

「と、止まりそうにないっすよ?」

「止まる。止まらないなら、人間じゃねえ」

 

 飛子は人間ではなく妖精だった。妖精には胃袋という概念がなかった。飛子はただひたすら食べ続けた。

 

「て、店長! ダメです。20分残しての完食です、これは」

「ぐう、やつは人間じゃない。ドラゴンだ。おれたちはいまUMAの目撃者になった」

 

 店長はそう言うと、あっぱれという表情になった。彼の言っていることは当たっていた。飛子はたしかにUMAだった。

 

 ついに飛子の手が止まった。

 見ると、目の前の皿には米1粒、あげもののかけら1つさえも残らず、きれいに完食してしまった。

 

「いや、おいしかったですね。しかし、まだ食べ足りません。賞金でゴマ団子と麻婆豆腐と肉まん20個を注文しましょう。帰り道に、コンビニのおでんとたい焼きも」

 

 飛子の言葉に将は開いた口がふさがらなかった。

 

 飛子の食欲は文字通り「無限」だった。将はこのときはじめて無限という概念が実在することを実感した。

 



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9、ストーカー

 壮絶な夕食から帰ってきた将はパソコンを立ち上げた。

 いまは将棋をするにも、パソコンの時代。壊してしまったので、将棋盤がまだないということもあり、将はしばらくパソコンで将棋の研究をするつもりだった。

 

「将さん、元気モリモリ。今なら、最高の飛子マジックを解放することができますよ。というか、解放しないと眠れないほどエネルギーがあふれ出しています。頭から湯気が出ています。わかりますか?」

「お、おう、本当に出てるな。やばいのか?」

 

 飛子はいつもよりヒートアップしていて、たしかに頭から湯気が出ていた。

 

「自分のエネルギーで死んでしまうかもしれません。早くこのエネルギーを解放しないと」

「わかったよ。なら、軽く対局だ」

 

 将棋コロシアムに入り、久しぶりにランク戦に潜ることにした。

 放置していたので、いまはランク最下位のC2組まで落ちていた。

 将はC2がどれぐらいの実力なのかを確かめるために、持ち時間1手7秒の早指しのエリアで対戦相手を探した。

 

 すぐに対戦相手が見つかった。

「将棋マン」というアカウントの対戦相手であった。

 

 結果は……飛子マジックを使うまでもない素人だった。将はあっさりと将棋マンに勝った。

 続いて、「まるじろう」というアカウント。

 こちらも余裕で突破することができた。

 

「将さーん、まだですか? 私もう真っ赤になってますよ」

「もう少し待て。いまC1に上がった。もうすぐ骨のあるやつが出てくる」

 

 早指しで素人相手に連勝した将はC1の相手と対戦した。

 C2よりは定跡を心得ている相手が多かったが、定跡を外して力戦に持ち込むと、問題なく勝てた。

 C1も余裕の突破になった。

 

「将さん、もう我慢できません。体がうずいて、ムラムラしてどうにかなりそうです」

「……なんかやばそうだな。わかった、次の対戦で飛子マジックだ」

 

 将はC1のランク戦を離れて、フリークラスでそこそこレートの高い相手を探した。

 

 すると……。

 

「おっ」

 

 将はすぐにあるアカウントに目をつけた。フリークラスなのに、2700を超えるレートを持っていた。

 

 アカウント名「花子さん」

 

「例のソフト指しか……ランク戦には参加してないようだが、フリークラスで暴れまわってやがるな」

 

 花子さんとは前回対戦したことがあった。圧倒的な実力の持ち主であった。そのことから、将はソフトを使って指し手を再現するいわゆる「ソフト指し」と認定した。

 実際、ちょっと調べてみると、「花子さん」というアカウントはツイッターなどで話題になっていた。

 色々なうわさがあった。

 

「ソフト指しだろ」という将と同じ考えをする者も多かったが、「指し手の特徴から真龍桜花ではないか?」と言った都市伝説的な意見もあった。

 

「真龍桜花がこんなゲームをするわけないだろ」

 

 将はそう考えた。

 とはいえ、飛子マジックを解放するには、ソフト指しは好都合。ソフトゆえに、飛子マジックには絶対に対応できない。

 

「飛子、ちょうどいい相手がいたぜ。マジックを解放してくれ」

「リョーカイ。いまの私ならどんな相手でもぎったんぎったんめったんめったんにさせてやれますよ」

 

 飛子も満腹になったためかいつもより気合が入っていた。

 

「でも、しばらくはおれの実力でさせてくれ。ソフト相手とはいえ、通用するところまではやってみたい」

 

 将は飛子マジックを使わず、花子さんと対戦した。持ち時間1手20秒の早指しでの対戦。

 

 前回は四間飛車などで遊んだが、今回は本気で居飛車を指した。

 後手を取った将は得意の横歩取りに誘導した。

 

「よし、昨日ちょっと研究した定跡を試してみるか」

 

 将は飛子マジックを使わず、ソフト指しの花子さんにどこまでやれるか確かめるため、気合を入れて臨んだ。

 

 だが……。

 

「ダメだ、強すぎる」

 

 将は新定跡で臨んだにも関わらず、花子さんはあっさりとその新定跡を打ち砕いて行った。

 

「まあ、ソフトに勝てるとは思ってなかったが……にしても、こいつ本当に露骨にソフトを使って来やがるのな」

 

 将は振り返って飛子を呼んだ。

 

「飛子、出番だぜ。この絶望的な局面を何とかしてくれ」

「任されたし、主」

 

 メガネを外して別人格になった飛子はどこからともなく取り出した奥義を広げた。

 

「飛車は竜神の使い。かつて、この世界に万物をもたらした12竜神から力を与えられ、わらわはここに舞い降りた。すべてはこの日のために」

 

 飛子はメガネを外すと、普段は言わないような理知的な言葉を紡いだ。

 

「主、王神竜が舞い降りた。いま主の駒台に解き放つ」

「王神竜?」

「いでよ、我が究極のしもべ、王神竜よ」

 

 飛子がマジックを解放すると、あたりが赤いもやに包まれた。

 すると、将の駒台に火花を散らす謎の駒「王龍」という駒が出現した。

 

「主、聞け。王神竜は、竜にナイトが乗り込んだ竜騎士。竜にナイトの動きが加わる。わかるな?」

「チェスのナイトのことか?」

「さよう。加えて、王神竜は盤上に打ち込んだ際に続けて次の一手を指すことができる。さらに歩、香、桂に対してはプロテクトされる。また、駒によって取られたら、そのまま消滅する」

 

 飛子はそのように説明した。

 だいたいのことはわかった。

 要は、竜にチェスのナイトの動きが加わり、打った後続けて行動可能で、歩、香、桂には取られないということだ。取られても消えるので、相手の駒台には置かれない。

 

 将はしばらく考えた。

 王神竜は圧倒的な駒だが、適当に打って活躍できる駒ではなかったので、考える必要があった。

 

「4四に打って5二の馬を抜くか……」

 

 将は方針を決めると、王神竜をクリックして、4四に打ち込んだ。

 そのまま立て続けに王神竜を動かすことができるので、相手の攻めの要となっている5二の馬を取った。

 

 棋譜の表記は以下のようになった。

 

 ▽4四「王龍」5二「王龍」

 

 聞いたこともないプログラムが新たに加わった。

 花子さんは時間ギリギリまで考えて、やがてそのまま投了してしまった。

 

「ふん、ソフトでレートを上げるようなやつに正義の鉄槌を下してやったぜ。金輪際ソフト指しをやめるんだな」

 

 将はそう言って鼻で笑った。

 

「いや、すっきりしました。たまっていましたので、解放するときはとっても気持ちよかったですよ。しかし、たっぷりと魔力を解放したので、またお腹が空いてきました。昨日買い込んだお菓子を食べることにします」

 

 飛子はいつもの調子に戻ると、将が昨日飛子の非常食用に購入していたポテトチップスなどを両手で抱えて持ってきて、さっそく食べ始めた。

 飛子の大食いはいつものことなので、将もいちいち驚かなくなった。

 

 将はパソコン画面を見つめた。

 

 将棋コロシアムにはチャット機能もあり、交流をすることもできる。

 花子さんがチャットを打ってきた。

 

「お前は何者だ?」

 

 よっぽどくやしかったのだろう。ソフトを使えば敵なし。レートを見るに、これまで一度も負けたことがなかったのだろう。

 それがわずかレート933でしかないアカウントに負けたのだから、動揺を隠せないはずだ。

 

 将はこのように返信した。

 

「おれは飛車の妖精だ」

 

 それに対する花子さんの返信。

 

「プロか?」

 

 かなり大真面目に返してきた。

 将は逆におおふざけで返した。

 

「妖精は将棋を指さないのですよー」

 

 語調まで変化させると、花子さんは返信しなくなったが、再戦を要求してきた。

 将はそれに対してこう答えた。

 

「カツカレーが切れたのでまた明日だよー」

「明日のいつごろだ?」

「わからないのですー」

「この時間に来い。待っている」

 

 花子さんはそう言うとログアウトしていった。

 

「変なやつだな。ただのソフト指しにしては意識が高いような気がする」

 

 将は花子さんの正体が少し気になった。

 

 ◇◇◇

 

 花子さんはストーカー並に毎日のようにフリークラスにやってきて、将に対戦を申し込むようになった。

 今日も、飛子に6キロのハンバーガーチャレンジをさせての対戦だったので、将は飛子マジックで花子さんのソフトパワーをほふった。

 

「わからない。どうしてもお前の指し手が理解できない」

 

 花子さんはそのようにチャットをしてきた。

 将はおふざけモード全開で返信した。

 

「将棋の妖精、飛子マジックなのですよー」

「ふざけるな? 何が妖精だ!」

 

 ふざけているわけではない。将は本当のことしか言っていない。いまも飛子は後ろでスナック菓子をほおばっていた。

 

「嘘じゃないのですよ。妖精は本当にいるのですよ」

「本当にいるのか?」

「そうですよー、飛車の妖精には誰もかなわないのですよー」

「会いたい」

 

 やがて、花子さんは出会い系サイトに紛れ込んだかのように、面会を求めて来た。チャットでは個人情報を書くことは禁じられているので、将は次のように答えた。

 

「飛車の妖精は誰にも見えないのですよー」

 

 将はその後、花子さんと関わることをやめることにした。

 対応が面倒くさいというのもあったが、飛子マジックを乱発することに一抹の不安があった。あんまり人に見せびらかすものではないと考え、金輪際、将は花子さんとは関わらなくなった。

 



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10、高嶺の花

 飛子が将のもとにやってきて1か月が過ぎた。

 このころになると、飛子が自分の後ろをついて来ることにも違和感を覚えなくなっていた。

 飛子の存在に慣れていくのと同じように、高校生活にも慣れてきた。

 

 将は師匠の時田に将棋部に入ったことを告げた。

 

「将君なら、どんな環境でもいずれプロになれる。頑張れ」

 

 時田はそう言って、将への支援を継続してくれた。将はみなしごだから、時田の援助を失うと路頭に迷ってしまう身。時田の援助はとてもありがたかった。

 しかし、プロになる気はなかった。なる気がないというより、なれる気がしなかった。

 

 もちろん、いま後ろをスナック菓子を食べながらついてきている飛子のマジックを使えば、誰にでも勝てる。

 しかし、将は飛子マジックでプロになることに強いためらいがあった。

 

 飛子マジックに依存して勝ち続けても、もし、飛子がいなくなれば、引退せざるを得なくなる。自分の力ではない方法で勝利しても棋士としての栄光を掴むことはできないことを理解していた。

 

「何言ってんですか、将さん。私の力は将さんの力。私たちの愛の力ではないですか。堂々と胸を張ってればいいんですよ」

 

 飛子はそう言ったが、将の中では、飛子マジックはインチキそのものでしかなかった。

 

「だいたいですね、将さん。私は将さんを7冠王に導かなければ棋界に戻ることができないのですよ。いえ、もちろん将さんのもとに永遠にお遣いできることはうれしいですけれど、私は二度と立派な妖精になることができません」

 

 飛子は言った。

 飛子がここにやってきたのは将を7冠王にすること。たしかに、その夢を叶えるには、飛子マジックを使うしかない。

 

「それとも、将さんは自分の力だけで7冠王になれる自信があるのですか?」

「ない」

「そんなにきっぱりお認めにならなくても良いではないですか。将さんは羽生家の生まれなのですからチャンスはありますよ」

「まるで関係ないだろ」

「いえ、羽生家の人間は誰にでも7冠王になれる可能性があるのです」

 

 飛子は根拠なく力説した。

 

「まあでも……おえも7冠王になりたい」

 

 すべてのタイトルを手中に収めること。それは将も一度は夢見た領域だった。

 このままいけば、真龍王花は7冠王になれるかもしれないが、将はこのまま王花に将棋界を牛耳らせることに抵抗があった。

 飛子マジックを使わず、王花と対等の実力を得たいという気持ちが強くなっていた。

 

 ◇◇◇

 

 授業が終わり、将はいつものように将棋部の部室にやってきた。

 将棋部が始動して1か月。まだ部員は桂と将の2人だけだった。

 

 将が将棋部の部室にやってくると、いつも桂のほうが先に将棋部にやってきていた。

 

「羽生君、僕は運命の時に臨もうと思います」

 

 桂は珍しくうつむいて、メガネを曇らせていた。

 

「どうしたんです、桂先輩?」

 

 桂の調子がいつもと違っていた。少しうつむいて、メガネで表情は見えなかったが、いつもの桂とは対極的に神妙な趣きだった。

 

「僕には夢があります。わかりますか?」

「学生竜王戦で優勝することですか?」

 

 まもなく学生竜王戦のエントリーが始まる。

 団体戦と個人戦があり、部員が3人そろわなくても、個人戦には出場することができる。桂は将と共に学生竜王戦に参加するつもりだった。

 

「違います。そんなチャチなものではありません」

 

 桂は鋭い視線を向けてそう言った。

 

「ではいったい?」

「真龍王花様の指導将棋を受けることです」

「……」

 

 将は思わず息をついた。

 

「もう我慢できません。僕は胸が苦しい。このまま遠くから王花様の活躍を見守っているだけでは苦しいのです。そう、僕は王花様と将棋がしたい。したいしたいしたい。したいのです」

 

 桂はいつものテンションの高い状態を発揮した。

 桂は王花の重度のファンで、王花の対局をすべてチェックしているだけでなく、昼休みになると、遠くから恋する視線を王花に飛ばす変質者でもあった。

 少し前までは、「遠くから見ているだけで幸せです」と言っていたが、ここにきて、桂の思春期の鼓動が治まらなくなっているようだった。

 

「羽生君、僕は思い切って王花様にアプローチしてみようと思います。ですので、僕桂の跳躍を見守っていていただけませんか? 桂の高跳び、その結果をぜひ」

「まあ、いいですけど」

「では行きましょう!」

 

 桂は気合を入れ直した。

 

 ◇◇◇

 

 王花は5月15日から始まる棋聖戦5番勝負に臨むことになっている。

 今年度はここまで負けなしで勝ち進んでおり、デビューからの連勝を33まで伸ばしていた。

 竜王戦制覇、王将戦制覇、棋王戦制覇で無傷の3冠王に上り詰めると、棋聖獲得も視野に入れていた。

 

 そんな王花は対局がある日は学校を休んでいるが、そうでない日は毎日学校にやってきていた。

 普段どんなふうに過ごしているかは、将も知らない。あえて意識して王花を視界にいれないようにしていた。

 

 まだ、王花に対する恐怖心があって、将は意図的に王花を避けていた。

 体育の時に一度だけ見たことがある程度だった。

 

 桂の話によると、王花は放課後になると、すぐに帰宅せず、友人と図書室で過ごすことが多いという。

 そのため、桂はその足で図書室を目指した。

 将はその後ろ、少し離れたところをついていった。

 

 桂は図書室の先を覗き込んで、そこに王花がいることを確認すると、将に合図を送った。

 

「では、桂、いきまーす。どうか援護をお願いします」

 

 桂はそう言うと、図書室の中に入って行った。

 将は図書室の外から図書室の中を覗くように見た。

 

「まったく、どいつもこいつもあの女ばかりに夢中になって、私は心外です」

 

 将の後ろでは、飛子が不機嫌そうにしていた。

 飛子は王花を女の敵のように見ていて、王花が話にからむといつも不機嫌になった。

 

「将さん、私の目は節穴ではありません。あの女だけはやめておいたほうがいいです」

「何の話だよ?」

「将さんのあの女を見る目が私を見る目と全然違います。それが許せないのです」

「あのな、おれは別に真龍のことなんて興味ないからな」

「その言葉に嘘はありませんか?」

「ああ……」

 

 言いながら、将は誰よりも王花を意識していた。意識していたからこそ、露骨に王花の姿が視線に入らないようにした。

 例の対局で敗れたときから、将にとって、王花は誰よりも特別な存在だった。

 飛子は将のそういうところを見抜いていた。

 

 桂はついに王花の席の近くまでやってきた。

 ついに、桂の高跳びの瞬間がやってきた。

 

 王花は2人の友人を抱えていた。友人Aは背の低い女子で、王花を憧れの目で見ていた。時折王花に話しかけては、一人でときめきを覚えていた。

 友人Bは無口で淡々と本を読んでいた。

 王花は動物の図鑑を広げて友人Aと眺めていた。少し意外な光景だった。

 

「あ、あの、すみません」

 

 桂は緊張を隠し切れない様子で王花に声をかけた。

 王花は反応したが、それよりも先に友人Aが立ち上がって、王花の間に立ちはだかった。

 

「ちょっと、何ですの、あなた。王花ちゃんに話しかけるときは私を通すことになってるんですが」

 

 友人Aは下から突き上げるように桂をにらみつけた。

 

「そ、そうでしたか、すみませんでした」

「で、何の用ですの? 交際を申し込む愛の告白なら、無条件でわたくしのほうから却下させていただいておりますが」

 

 友人Aは慣れた様子でそのように言った。王花のことだから、これまでにもアプローチしてくる男子がたくさんいたのだろう。そのたび、この友人Aが間に入っていたものと思われた。

 

「そうではありません」

「では何の用ですか?」

「いやその、僕将棋部の首相でして。ぜひ、真龍王花さんに指導将棋をお願いできないかなと思いまして」

 

 桂は緊張しながらもなんとか目的を伝えた。

 

「ふーん、そんなことを言いながら下心全開なのでしょう?」

「そ、そんなことありません。僕は純粋に指導対局を……」

「そうはいきませんわ。だいたいですね、そんなに王花ちゃんと対局したいなら、プロになって堂々と対局すればいいのですわ」

「うっ……」

「実力もないくせに王花様にアプローチして、弱いくせに構ってもらおうなんて、男として最低最悪ですわ。出直してらっしゃい」

「うう……」

 

 桂は厳しいところを付かれてこれ以上言葉が出なくなった。

 

「うわあああああ!」

 

 桂は子供のように叫ぶと背中を向けて走り、図書室を出た。ちょうど様子を見ていた将にぶつかると、そのまま廊下に倒れ込んだ。

 

「すみません、桂先輩。大丈夫ですか?」

 

 将はかがみこんで桂の様子を確かめた。

 桂はめがねを曇らせて消沈していた。

 

「頭金で詰まされてしまいました……ぼ、僕はもうダメです」

「何言ってるんですか、しっかりしてくださいよ」

「羽生君……どうか僕の思いを君に……どうか王花様を将棋部へ導いてください……」

 

 桂は無駄に悲壮感を振りまきながら語った。そんなことをこんなところで語られても困ってしまうが、将はこのまま桂を連れて将棋部に戻る気にならなかった。

 

 真龍王花。

 圧倒的な高嶺の花。その王花を見に来て、このまま退散するのがどこかくやしかった。

 桂のためではないが、このまま、王花に何の存在感も示せないまま逃げ帰りたくなかった。

 

「わかりました、桂さん。何とかおれも勧誘してみますよ」

「お、お願いします」

 

 将は桂から思いを受け取った。

 勝算はある。こちらには飛車の妖精がついている。

 

 将は立ち上がった。情けないかもしれないが、王花に立ち向かうためには飛子の力が必要不可欠だった。

 

「飛子、すまないが、力を貸してくれるか? あいつと対局して打ち負かしたい」

「将さん……その意気です。そうです。あんな女、ぎったんぎったんのぺったんぺったんにしてやればいいのですよ。お任せください、飛子マジックをぶちかましてやりますよ」

 

 飛子はやる気満々だった。飛子も王花を打ち破りたい気持ちを抑えられない様子だった。

 

「行きましょう、将さん。私たちの愛の力を見せつけてやりましょう」

 

 将よりも飛子のほうがやる気になっていた。

 



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11、棋力の差

 将は桂に代わるようにして王花のもとにやってきた。

 しかし、王花には2人の取り巻きがいて、特にボディーガードのように周囲に警戒心を振りまいている女子生徒がいて、王花に近づく前に、彼女が将の前に立ちはだかった。

 

「ストップなのですよ、そこの。王花ちゃんにこれ以上近づくことは私が許さないのです」

 

 女子生徒は将の前に立ちはだかってにらみつけて来た。背の低い少女であり、下から突き上げるような鋭い視線だった。

 

「真龍に対局を申し込みたいんだが」

「それをダシに王花ちゃんにお近づきしたいのでしょうけど、そうはいきませんわ。第一、王花ちゃんはそこらの馬の骨の相手をするほど暇ではないのです」

 

 彼女の言い分は正論だった。すでに竜王、王将、棋王の3冠王である王花がアマチュアと対局するメリットはなかった。

 

「おれは素人じゃない。真龍相手にも勝つ自信がある」

 

 将はそう言った。はたから見ると痛い発言に見えるのだが、飛子を引き連れている将は本当に王花に勝てる状態だった。

 

「はあ、あきれたやつですわね。だったらプロになって正式に対局すればよろしいでしょうに」

「まあそうなんだがな」

「王花ちゃんはあなたのような口だけのろくでなしの相手はしないのです。性急にお引き取り願いますわ」

 

 女子生徒はそう言って将を突き放した。

 この女子生徒を突破しなければ王花に近づくこともできなかった。

 しかし、飛子は将にしか見えない。将の実力を誇示するには実際に対局するしかなかった。

 

 将はしつこくアプローチを続けた。

 

「おれがプロにならないのは将棋界のバランスを崩すほどの実力の持ち主だからだ。しかし、どうして真龍と対局したいんだ。一局だけでいい。お願いできないか?」

「しつこい男ですわね。うぬぼれも度が過ぎていますわ」

「うぬぼれじゃない。おれは本当に真龍に勝てる」

 

 将はしつこく食い下がった。

 すると、もう一人の女子生徒と動物図鑑を鑑賞していた王花が二人のやり取りのほうに目を向けた。

 王花は将の姿を視界にとらえたところで立ち上がった。

 

「美紅、交代だ」

 

 王花は女子生徒の肩を叩くと、その隣に出て来た。女子生徒の名前は「美紅(みく)」と言った。

 

「王花ちゃん、いけません。この男、うぬぼれの過ぎる危険人物ですよ」

「問題ない。こいつは知り合いだ」

 

 王花はそう言うと、将のほうに目を向けた。

 

「お前、羽生将だろう?」

 

 王花は将のことを覚えていた。王花にとっては取るに足らない奨励会員だったが、それでも将のことを覚えてくれていた。将は少しうれしい気分になった。

 

「おれのことを覚えてくれていたのか」

「私は一度対局した者のことはすべて覚えている。お前とは昨年の11月16日、棋王戦2次予選で対戦している」

 

 王花は驚異的な記憶力を発揮した。プロ棋士は棋譜を一度読むだけで暗記することができるが、対局した日まで完全に暗記している棋士はおそらく王花以外にはいない。

 

「あれからおれも実力をつけた。どうしても試したい新手があってな。おれと一局、対局してくれないか?」

 

 将は淡々とそうお願いした。しかし、こうして王花と向かい合うと、かつての飛子と出会う前のプロを目指していた自分の心が呼び起こされた。

 自然と胸が高まってきた。対局の申し込みであるが、愛の告白をした後のような高揚感が湧き上がってきた。

 

「奨励会はやめたのか?」

「色々わけが合ってな。いまは将棋部の一部員に過ぎない。だが、プロの道をあきらめたわけではない」

「……」

「王花ちゃん、相手にするだけ無駄ですよ。さあ、戻りましょう、さあさあ」

 

 美紅は王花の両肩を掴むと、席に引き戻そうとした。

 しかし、王花は美紅の手を払いのけた。そして、ジッと将の目を見つめた。

 将の自信に満ちた目から何かを感じ取ったようだった。

 

「いいだろう、一局だけ相手をしてやろう」

 

 王花は将の対局の申し込みをすんなりと受け入れた。意外だった。将はダメ元のつもりだっただけに拍子抜けだった。

 

「王花ちゃん、ダメですよ。しょせんプロにもなれないろくでなし男ですよ。王花ちゃんの体が目当てに決まってますよ」

「美紅、今日のところは舞を連れて帰れ。また明日な」

「ダメです、王花ちゃん。王花ちゃんの身の安全を守るために見届けます」

 

 王花の取り巻きの少女は、王花のボディーガードに熱心なほうが美紅、何となく静かに席に座っているほうが舞(まい)と呼ばれた。

 

「持ち時間なしの1分将棋だ。それでいいな?」

「ああ」

 

 こうして、王花との対戦が決まった。

 

 ◇◇◇

 

 王花とボディーガードらしき女子生徒の美紅が将棋部にやってくると、桂はウキウキ気分で飛び跳ねた。

 

「ま、まさか、本物の王花様が将棋部に来てくれるなんて。か、感動だ。僕はもう死んでいい。羽生君、グッジョブです」

 

 桂は興奮醒めやらない様子で、王花のために座布団を用意した。

 

「お、王花様、ここにどうぞ」

「失礼する」

 

 王花は普段クールで、どことなく近寄りがたい雰囲気があるが、将棋盤の前での振舞いはとても丁寧で美しかった。

 大きくお辞儀をしてから、音を立てずゆっくりと用意された座布団の上に正座した。その所作は、思わず見とれてしまうほどだった。

 王花の隣には、美紅が腰かけた。対して、美紅は将にも桂にも敵対心を向けていた。

 

「王花ちゃん、どうしてこんな連中の相手をするのですか?」

「気まぐれだ」

 

 王花はそう言うと、将棋盤の上にあった王将を取って、自分の陣地の中央に配置した。鋭く高い駒音が弾けた。誰も真似ができないほど美しい駒音だった。

 実際、将が王将を自分の陣地に配置した際の駒音は王花のものと異なっていた。

 

「気まぐれ……王花ちゃんの心がいまだ掴めないのです」

 

 美紅は誰よりも王花に関心を示していた。どういう経緯で知り合ったのかはわからないが、美紅の王花に対する態度は宗教の神様に対するようなところがあった。

 

「それでは僕が棋譜の読み上げをさせていただきます。いやぁ、王花様の対局の読み上げができるなんて夢のようです」

 

 桂はそう言うと、照れ笑いした。王花はそんな桂のほうに横眼を向けた。

 

「わざわざ人を様付けで呼ぶとは丁寧なやつだな。何者だ?」

「僕は桂慶大です。いやぁ、王花様の大ファンでして」

「そうか。ならば、サインでも書いてやろうか?」

「え、本当ですか? いいんですか?」

 

 王花はうなずいた。思った以上にファンに対するサービス精神が旺盛だった。

 王花のサインを受け取った桂はさらに嬉しそうな表情になった。

 

「むふ、むふふふふ」

 

 サインを見て怪しい笑い声をあげた桂に呼応するように、将の後ろに控えていた飛子も似たような怪しい笑い声をあげた。

 

「この私の手であの偉そうな女を跪かせることができるなんて最高です。将さん、いまにあの女の気取った態度を打ち砕いてやりますから楽しみにしていてくださいね」

「……」

 

 将はまっすぐ王花のほうを見た。

 棋王戦二次予選での対局の時に比べると、将は冷静な心持ちで王花を見ることができた。

 将は冷静に王花を見れたから、王花の表情を見ただけであることを悟った。

 

 歴然とした棋力の差がある。

 

 当たり前かもしれないが、将はその差を感じ取って、くやしさを覚えた。

 一度は追いつき追い越したかった相手、しかしもう決して届かないだけの差になってしまった。

 立ち止まってしまった将に対して、王花はこれまで以上に駆け足で棋力を高めていたから、もはやレースにもなりえなかった。

 

 しかし、同時に将は立ち止まっていた自分の足を前に進めたい気持ちにもなった。

 こうして王花と向かい合うと、王花を倒してタイトルを取りたいという強い願望がこみあげて来た。

 

 いまや、真龍王花はすべての棋士の目標。将は自分の原点に立ち返ったようだった。

 

「先手後手、好きなほうをそっちで選べ」

 

 王花はそう言った。

 

「ならば先手をもらうよ」

 

 将はそう言った。できることなら、飛子マジックを使わず、王花に自分の将棋がどこまで通用するか試したかった。

 勝てないことはわかっているが、棋士の片鱗ぐらいは見せたいと思った。



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12、勝利の敗北

 将と王花の対局が始まった。

 将は静かに息を吐くと、自分の持てる力をすべて発揮するために、最も得意としている戦型に向けて、飛車先の歩を手に取って歩を進めた。

 

 初手、2四歩。

 

 初手から居飛車を決定させるため、この手から始まると、戦型はいくつかに絞られる。

 王花の過去の棋譜を調べると、この初手から始まる将棋は、すべて矢倉、相掛かり、横歩取り、角換わりのいずれかになっている。

 

 王花はこれまで一度も飛車を振った経験がないから、ほぼ間違いなく4つのいずれかの戦型になると思われた。

 王花は特に考えることもなく、8四歩と応じた。

 

 王花が駒を動かすと、いつも鋭い駒音が響いた。耳にずっとこだまするよどみのない駒音だった。

 その駒音だけでプレッシャーを感じてしまう。将は努めて冷静を保って、いつもどおりの駒組を進めた。

 

「横歩取り」

 

 戦況を見守っていた桂が独り言のようにつぶやいた。

 桂は将棋部の主将なので、本来なら将の味方だが、同時に王花の熱狂的なファンでもある。桂は立ち位置的には王花の応援団だった。

 この対局には、王花の友人である美紅も来ており、彼女は完全な王花ポジションだった。対局中、美紅はちらちらと将に敵対の目を向けて来た。

 美紅も将棋の心得はそれなりにあるようで、局面をきちんと認識していた。

 

 いま見える中には、将の味方はおらず、将は孤独だった。

 

 しかし、見えざる力が将にはついている。

 将の後ろには現世のあらゆるものを超越する存在がいる。

 その力は現世最強の棋力を持つ王花さえもなぎ倒すことができる。

 

 だが、その力を振り回して勝利しても意味はない。

 将はただ一人で王花に勝ちたかった。

 

 将は背後の圧倒的力に頼らず、駒組みを進めた。

 一分将棋だが、お互い30秒も使わず、定跡を進めた。

 将も一応は居飛車将棋の最新の定跡をインプットしている。昨日行われたばかりの棋譜もちゃんと並べていたので、定跡の範疇なら、王花と対等に戦うことができる。

 

 将は桂と共に横歩取りを研究していた。新しい手もいくつか用意していた。

 その中で一番手ごたえのある手で立ち向かうことにした。

 

 将が新手を放つと、桂がピクリと体を反応した。

 その手は王花との対局が始まる前まで二人で研究していた手だった。コンピュータソフトにかけて、ここから20手以上先までは最善種が指せる自信があった。

 その手を受けて王花は初めて30秒を超えて思考した。

 将の新手にそれなりに脅威を感じているのかもしれない。

 

 手が少し止まったので、王花の付き人である美紅が心配そうに王花のほうを見た。

 

 1分ぎりぎりまで考えると、王花は最善の手で返してきた。

 対して、将はプレッシャーを与えるように、ノータイムで次の最善手を指した。このあたりはコンピュータソフトで完ぺきに研究済みだった。

 将は指した後、それなりの手ごたえを感じた。

 

「おー、将さん、絶好調じゃないですか。私の力など必要ないかもしれませんね」

 

 後ろで飛子がそう言った。

 飛子の棋力は、将の推定では「8級」程度。

 将棋の妖精だが、将棋を少し知っている程度だった。飛子いわく、「私、飛車にしか興味ありませんから。王手飛車をかけられて王手放置して飛車を助けないやつを一生軽蔑します」ということだった。

 

 しかし、それほど甘くはない。定跡の中でわずかにリードしても、それはあくまでも暗記でしかない。

 暗記が通用しなくなるここからが問題だった。

 

 次の手。王花は将が想定していない手を指した。これまでよりさらない鋭い駒音を響かせてその手を指してきた。

 将はちらりと顔を上げて、王花を見た。ちょうど王花も目を上げて、お互いの視線が重なった。

 

 一瞬の王花の睥睨は多くのことを語っていた。その一瞥の意味は100の文字を語っていた。

 

 王花の指した手はコンピュータソフトにおける最善の手ではなかった。しかし、最も紛れの多い手順だった。

 おそらく、王花はこの城跡を完ぺきに心得ていて、将がどう指して来るか確かめようとする手だった。

 

 将は自分の研究手順に王花を引きずり込んで序盤は成功したと確信していた。

 しかし、王花の指した手の意味は将の敗北だった。王花はこの手順をすでに完ぺきに踏破していた。

 

 将は王花に対して最善の手を返したが、王花は最善ではない紛れの多い手を選んで返してきた。

 10手も手が進むと、ついには将の暗記が行き届かない局面になった。ここからは、自分の力で手を見つけ出さなければならない。

 

 完全に自分の土俵から押し出された形になった。

 現局面だけを見れば、将のほうが有利だったが、ここから将は最善の手を自分の力で発見しなければならない。

 

 もし、それができるなら、将はすでにここにいない。とっくにタイトルを獲得している。

 

 さらに10手進むと、完全に局面は逆転していた。

 王花の攻めが確実に決まり、将の攻めは王花のものより遅い形になっていた。ここから普通に指すと、1手差で必ず負ける局面になっていた。

 力の差は歴然だった。ここからの逆転はなかった。

 

 将もそれなりの実力者だったから、現局面が絶望的であることを悟った。

 素人からでは、どちらが優勢かわかりづらい局面だった。

 それだけに、背後の飛子は将に尋ねた。

 

「どうですか、将さん。勝てそうですか?」

 

 飛子はドキドキしながら局面を見守っていた。将の飛車が相手陣地になり込んで竜になっていたから、何となく将が優勢と考えたらしい。

 しかし、局面は王花の勝勢になりつつあった。

 

「100%勝てる局面になったよ」

 

 将はそう答えた。

 

「本当ですか?」

「ああ、負けはない」

 

 将はそう言った。強がりではない。この絶望的な局面をいとも簡単にひっくり返す力が将にはあった。

 

 だがそれは、敗北を認めることと同じ。将は拳を握り締めていた。やはり自分の力だけでは王花を超えることはできなかった。

 

「羽生君、50秒です」

 

 桂が持ち時間があと10秒であることを告げた。

 将は息を吐くと、魔力を解放することにした。

 

「飛子、マジックだ」

 

 将は敗北を宣言し、同時に勝利を宣言した。不思議なことに勝利と敗北の味は完全に同化していた。

 

「私の出番ですね。りょーかい!」

 

 飛子はそう言うと、メガネを外した。メガネを外すと、飛子の雰囲気はがらりと変わる。メガネを取ると人が変わるという漫画表現が飛子にはそのまま当てはまった。

 

「よく健闘した主よ。あとはわらわに任せるがよい」

 

 豹変した飛子は飛子マジックを解放した。

 

 禍々しい赤い光が周囲を包み込んだ。

 飛子は自らの肉体から竜を召喚した。その竜は鋭く赤い眼光で王花をにらみつけた。

 

 飛子マジックは将以外の誰も認識することができない。現に桂も美紅も飛子マジックの演出が見えていなかった。

 だが、王花は何かを感じたのか、竜の睥睨を受けて顔を上げた。

 

「主、飛子マジックが解放された。王神竜が降臨した」

「王神竜? 効能は?」

 

 飛子マジックは多岐にわたり、何が現れるかはその時まで誰にもわからない。飛子本人にもわからないという。

 今回は「王神竜」なるものが降臨したという。これは将も初めて経験することだった。

 

「王神竜は竜神アルマゴートより命じられた竜の王。それは竜とチェス・ナイトの力を持ち、同時に玉を除くすべての駒によって取られることがない」

 

 飛子が王神竜の説明をした。

 

 竜と同じ動きに加えて、チェスの最上位の駒である「ナイト」の動きを持ち、さらに玉以外の駒では取られない。

 

 王神竜は超強力な駒だった。

 その王神竜の駒が将の駒台に浮かび上がった。真っ赤に輝く禍々しい駒だった。駒には「王神」の文字が赤く刻まれていた。

 

 飛子マジックで現れた特殊な駒は原則として、駒台から盤上に打っても、1手とはカウントされない。そのため、盤上に打ち込んだ後、即座にその駒を動かすことができる。ただし、その駒を盤上に打った手番の間、その駒以外の駒を動かすことはできないようになっている。

 また、王手で盤上に駒を打っても、玉に直接触ることは許されない。

 玉という駒は絶対法で守られていて、あらゆるマジックでも不可侵の領域を持っている。

 

 1分将棋だったので持ち時間がもうない。

 将は慌てて王神竜を手に取って、盤上に叩きつけた。

 

「これが飛子マジックだ!」

 

 将は力強く王神竜を叩きつけた。

 

 あたりに衝撃が走った。

 この手を受けて驚かない者はいない。

 

「わおっ!」

 

 思わず、桂が大きな声をあげた。

 

「えええっ、なんだその手」

 

 桂は盤面に近づいてきて、メガネをかけ直した。

 何か錯覚を見ているのかと思ったらしいが、それは現実だった。王神竜が8一に打ち込まれた。時間がなかったので、ともかく相手の8一銀打の厳しい手を受けるために王神竜をぶつけた。

 

 この手にはさすがの王花も驚いたらしい。それもそのはず、これはファンタジーな手である。しかし、マジックの作用により、これらはすべて合法として扱われる。

 

「ちょっと待て、これって逆転じゃ?」

 

 桂もかなり興奮気味に盤面に顔を近づけて、時間を確認するのも忘れて読みふけった。

 紛れもない完全な逆転だった。王神竜は玉以外では取られない。だから、どんな手を指しても、すべての駒を引きはがすことができる。

 もう、将の玉に脅威が迫ることはなかった。しかも、打った直後、すぐに王神竜を動かせるから、将はそのまま、相手の攻めの起点となっていた歩を取り払って、自分の玉を安全にした。

 

 インチキとも言える奇手で、一気に将の勝勢になった。王神竜の前では、コンピュータソフトも解析不能。王神竜の存在を認識できないコンピュータはここで停止。

 王花はコンピュータソフトに近い精度と人間の意思を持っていたから、対局を続行できたが、さすがに信じられないというような顔をした。

 

「時間は?」

 

 王花が横目を向けた。

 

「あ、す、すみません。見てなかった。えっと、22秒です」

「……」

 

 桂は定位置に戻り、王花は一度座り直して、冷静に局面を見つめた。

 だが、もう逆転はない。王神竜を想定していないのだから当然。

 

 王花は局面を読むのをあきらめて、顔を上げて将の目をにらみつけた。

 将は睨み返すように一瞥を返して、口元を緩めた。

 

「お前、まさかshow timeか?」

 

 王花は小さな声でそう尋ねた。

 その応手は将も想定外だった。

 

 show timeは将が将棋ゲームで使っているアカウント名のことである。この名前を知っているということは、王花も同じゲームをプレイしているということになる。

 show timeは有名なアカウント名ではない。フリー対戦で適当に遊んでいるだけである。

 王花がshow timeを知っているということは、考えられることはただ1つ。

 

 「花子さん」のアカウント名で知られる驚異的な気力を持つプレイヤーは王花だった。

 将は王花の問いかけに首を横に振った。



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13、約束

 その夜、王花は繁華街の歩道橋の上で一人たたずんでいた。

 明日、大切な対局があるので早く家に帰るべきだったが、どうしても解決できない問題があって、もどかしさで頭がいっぱいだった。

 

 今日、気まぐれで将と対局した。

 将のことはよく覚えていた。王花は基本的に対局した相手のことはどんな末端の存在でも覚えていた。子供のころ、子供大会の予選で対戦した素人の棋譜さえも鮮明に覚えているほどだった。

 将は終盤に不思議な手を指す棋士だった。しかし、今回はその不思議が不可解に昇華していた。

 

 飛子マジック。

 

 あの手は不可解としか表現できなかった。あんな手は今まで見たことがなかったし、思いつきもしなかった。なぜ思いつかなかったのかさえわからない。

 王花にとって、対局に負けたことはどうでもよかった。それよりも、飛子マジックの謎を解明したかった。

 

「ダメだ、わからん。どうしても有力な手が思いつかない」

 

 王花は頭を抱えた。王花は珍しく思い悩んでいた。

 王花には、飛子が繰り出した飛子マジックがインチキである認識がない。ゆえに、将の繰り出した「王神竜」に対する存在しない応手を探し続けるハメになった。

 

 王花が思い悩んでいると、王花から連絡を受けた白河が歩道橋を上がってきた。

 白河は勝率3割台のフリークラスのプロ棋士であり、まったく冴えたところがない。しかし、王花の師匠ということで、最近はテレビに呼ばれることも多くなっていた。

 白河の最大の功績は、王花を将棋界に呼び込んだことだった。

 

「王花ちゃん、心配したよ。突然、どうしたんだい?」

「師匠、来てくださったのですね」

 

 王花は先ほどまでの悩ましい表情を打ち消して、明るい表情になった。

 王花は人前でほとんど表情を変えない。口数も少なく、いつもクールにふるまっている。マスコミからもクールな棋士だと思われていて、世間の王花のイメージも同じだった。

 しかし、王花は白河に対してだけは、仮面の奥の表情を表した。

 

 王花は白河を将棋の師以上の存在として見ていた。唯一信頼を寄せる存在だった。

 

「こんなところにいると風邪をひいてしまうよ。明日、王位戦の対局があるのに体調を崩したら大変だ」

「そうですね。それならば、師匠が私を温めてください」

 

 王花はそう言うと、白河の腕に抱きしめるようにしがみついた。

 王花の白河への好意は昔からであり、それは白河の悩みの1つでもあった。

 

 王花はまだ高校生になったばかりであり、しかもいまや世界中が注目する名棋士である。すでにいくつもの新記録を達成している。

 

 女性初のタイトル獲得。

 史上最年少のタイトル獲得。

 史上最年少の棋戦優勝。

 史上最年少の竜王、王将、棋王の3冠。

 デビューからの公式戦連勝記録42連勝。

 

 王花はデビューから公式戦ではまだ一度も負けていない。このまま、すべてのタイトルを獲得してしまうのではないかと注目されている。

 

 無敗の3冠王、現役女子高生でルックスも高い。ということで、マスコミの注目も高かった。

 それだけ注目される王花だけに、白河も気を遣うところがあった。

 手をつないでいるところを見られれば、マスコミは必ずスキャンダルとして取り上げるだろう。

 

 だから、白河は王花から意図的に距離を取った。王花のスキンシップには反射的に距離を取るようになった。

 それを、王花は自分に魅力がないから拒絶されていると感じていて、いつも不満そうにした。

 

「と、ともかく車に戻ろう。家まで送るよ」

「師匠!」

「え、何だい?」

「師匠、この前、高市女流二段とはもっと近くで話をしていたでしょう。どうして、私とはそんなに距離を取ろうとするのですか?」

 

 王花は不満そうな表情でそう言って一歩詰め寄った。すると、白河は反射的に後ろに下がった。

 

「私がまだ子供だからですか? まだ魅力に乏しいからですか?」

「いや、そうじゃないよ」

「ではどうしてですか?」

「と、ともかく車に戻ろう。な?」

「……」

 

 白河としては、王花のためを思っての対応だった。変なスキャンダルが流れたら、王花が将棋に集中できなくなる。それは王花にとっても大きな不利益だ。それに、王花の将来を考えても、もう50になる自分に恋心を錯覚させるのは良くないと考えた。王花にはもっとふさわしい相手がいる。

 白河個人のことだけを考えれば、王花に好意をもたれるのは奇跡だった。

 47歳になって独身で、恋人もろくにいない。もうフリークラスで、棋士としてうだつが上がることはない。そんな底辺の中年男にすると、王花が近くにいるのは奇跡以外の何物でもなかった。

 しかし、白河は自分を制して、王花の将来を優先した。

 王花は白河のその思いを理解していなかったから、白河へのアプローチを日に日に強くしていった。

 

 ◇◇◇

 

 白河は王花を家に送り届けるために車を発進させた。

 王花はいま一人暮らしをしている。王花は孤児であり、親がいない。

 

 白河が王花と出会ったのは、今から10年前のことだった。

 当時、37歳だった白河はもうその歳にしてフリークラスに転落しており、将棋界から引退することを考えていた。

 そんなとき、懇意にしていた新聞社の記者の山田に呼び止められた。

 

「私は白河5段の大ファンです。引退は惜しいよ」

「ははは、僕のファンなんて山田さんしかいないですよ。もう僕が将棋界に残っていても意味はありません」

「寂しいこと言わないで」

「いえ、もう今期で引退させていただきます。一応、実家の母の家業を継ぐ必要もありますし、ちょうどいい機会です」

「そうですか……」

 

 山田はさみしそうな顔をした。

 

「それならば、せめて最後に将棋イベントに参加しませんか?」

「イベント?」

「ええ、藤井3冠を招待して、地元の孤児院で将棋を普及するイベントが企画されてるんです。でも、藤井3冠のタイトルマッチと時期が重なってしまいまして、代役が必要だったんです」

「藤井3冠の代役ですか? ははは、とても務まりませんよ」

「そんなことありません。将棋を愛する白河5段の熱意はきっと子供たちに伝わります」

「そうでしょうか……?」

「ぜひ、お願いします」

 

 白河は山田の善意に応えるためにも参加することにした。そのイベントで白河は王花と出会うことになる。

 王花は白河と出会い、将棋を知り、あれから10年。王花は史上最強の棋士となった。

 

 しかし、その史上最強の棋士は浮かない顔をした。助手席にもたれかかって、無言でぼんやりしていた。

 先ほどのことで不機嫌になっているのかと思ったが、それ以外に悩みがあるようだった。

 

「王花ちゃん、疲れたかい?」

 

 白河が尋ねると、王花はぼんやり前を見たまま、

 

「すごく邪悪な竜に噛まれました」

「え?」

 

 白河は王花の言った意味がわからなかった。

 

「すごく邪悪な竜です。きっと近い将来、私を食べにくると思います」

「……」

「きっとこのままでは私は食べられてしまいます。でも、このままでは引き下がれません。師匠との約束、すべてのタイトルを獲得するためにも」

 

 王花は約束という言葉を口にして、かつて白河と結んだ約束の時を思い出した。

 あれはまだ子供のころだった。

 まだ、将棋のイロハを知ったばかりのとき、白河は王花に言った。

 

「将棋には8つのタイトルがあるんだ。名人、竜王、王位、王将、棋王、王位、棋聖、叡王」

「みんなすごく強そうだね」

 

 まだ幼かった王花にはすべてのタイトルが遠くの高みの存在だった。

 

「うん、でも王花ちゃんなら、タイトルに手が届くかもしれない」

「取るよ。絶対。名人」

「うん、その日が来れば楽しみだな」

「じゃあ、師匠。私が8つのタイトル全部取ったら、結婚。結婚してくれる?」

 

 王花は子供心にそう言った。子供心だから、白河も何も考えずうなずいた。

 

「もし、王花ちゃんが8冠王になったら、そのときは王花ちゃんの頼みを何でも聞いてあげるよ」

 

 そのときの白河は、そんなことは絶対にありえないと考えていたが、王花は真剣に8冠王を目指し、それに手が届くまで実力を高めていた。その約束が王花の将棋への原動力のすべてだった。

 



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最終話 結成された将棋部

 将は今日もいつも通り、授業が終わると、将棋部の部室に向かう予定だった。

 将についている妖精の飛子は、将が授業を受けている間、昼寝をしていることが多い。今日も、飛子は宙に浮いたままうたた寝をしていた。

 

「行くぞ、飛子」

「ふあー、よく覚えてませんが、いい夢を見ていた気がします」

 

 飛子がいることにもだいぶ慣れて来た。飛子の姿は将にしか見えないので、話しかけるときは周囲の様子に気を遣う必要がある。あれこれ飛子と会話していると、周囲から頭のおかしい人に思われてしまう。

 

 将は教室を出ると、いつものように将棋部の部室を目指しながら、頭の中では将棋の研究をした。研究は日課になっていた。

 将棋部で将棋に復帰してから、将も真面目に将棋に取り組むようになった。

 特に、3日前に王花と対局してから、将棋熱が高まった。今では授業中でも将棋のことを考えるようになった。

 

 王花との対局では、信じられないことに将が勝利した。最も、将ににとっては喜べることではない。

 飛子マジックを使ったのだ。勝って当然だ。しかし、あの対局を見届けていた桂と美紅は衝撃的な光景を目の当たりにしたことになる。

 何より、王花自身が驚いたことだろう。

 

 勝利した将だけがすべてをわかっていた。飛子マジックに頼っての勝利は実質敗北。だから、将は飛子マジックを使わず、王花に勝利したいという気持ちが誰よりも強くなっていた。

 その道は険しいが、将の大きな夢となった。

 

 1勝でいい。王花に自分の力だけで勝ちたかった。

 

「止まりなさい、羽生将」

 

 部室棟の前で、将は声をかけられて立ち止まった。目の前の声をかけてきた人物を見て、将はため息をついた。

 

「またお前か」

「お前とは言い草です。ちゃんと名乗ったはずです。金竜美紅。ここ天照学園理事長の一人娘ですわ」

 

 美紅はもう一度、肩書きと一緒に名乗った。

 美紅は王花の友人Aで、経緯はわからないが、王花とはとても親しい仲になっており、どこへ行っても、美紅がついてきた。美紅がここにいるということは、王花も近くにいるものと思われた。

 

「何の用だ?」

「これを見なさい」

 

 美紅は懐から何かを取り出した。それは部活動の入部届で、見ると、とてつもなく達筆に将棋部に入部する旨が書かれていた。

 

「今日から将棋部に入ることになりました。お前がずるをしたことはわかっています。AIソフトを使ったのでしょう? そうでなければ、王花ちゃんが負けるはずないのですから」

「……」

「お前がずるをしたから、王花ちゃんがお前と対局したいと申し出ているのです。ありえません。AIソフトでずるをするやつと戦っても意味がないと言っても、王花ちゃんは聞いてくれません」

「……」

 

 将は黙って、美紅がぺちゃくちゃしゃべるのを聞いていた。天照学園理事長の娘ということで、どことなく上品さも感じられるが、その上品さに毒気が強く混じっているところがあって、話を聞いていると、その毒のところがよく見えた。

 

「そこで、お前のずるを暴いて王花ちゃんを説得することにしました。それまでだけ、将棋部に入部することにしたのです。事情はわかりましたか?」

「ああ」

 

 将はどうでもいいように返事した。基本的に、美紅のことはどうでもよかった。

 

「むむむ、この女、将さんをずる扱いするとはなんという無礼者。飛子マジックで処刑してやりましょうか?」

 

 飛子は後ろで憤慨していた。

 

「まあ、ずるは本当だからな」

 

 将は自分でそのことはちゃんとわかっていた。しかし、AIソフトなんかとは比較にならないほど盛大なずるである。

 

「何言ってんですか、将さん。飛子マジックは実力です。私と将さんの愛の絆がもたらすラブパワーです」

 

 飛子はそう熱弁したが、将は首をかしげるばかりだった。

 将は恋愛には鈍感で疎く、基本的に女性の考えは一手先も読むことができなかった。

 

「受け取りなさい。入部届です」

「おれに出されても困るが、顧問の先生に出して来いよ。囲碁部と兼業らしいが」

「顧問の井山先生は出張中です」

「なら、主将の桂先輩に出せよ」

「何も把握していない男ですね。桂先輩はじめ2年生は放課後、実力テストが実施されています。今日は数学です」

「そうだったか」

 

 将はそういうことにまったく意識がなかった。というより、美紅がそういうことに詳しすぎるというほうが正しかった。ダテに理事長の娘ではなかった。

 

「わかりましたか? だから、仕方なくお前に提出するのです」

 

 美紅は丁寧なのか粗末なのかわからない様子で入部届を出してきた。王花に勝利したこともあって、美紅からは大変嫌われてしまったようだった。

 

「一応受け取っておく」

 

 後で顧問の井山に提出するべく、将は入部届を受け取った。

 

「では行きましょう。さっそく、お前に対局を申し込むのです」

「別に構わんが、将棋はできるのか?」

「王花ちゃんに判定してもらいました。私の棋力は10級だそうです」

「……」

 

 それはつまり、駒の動かし方を覚えた程度ぐらいということだった。

 

「金竜と言ったか?」

「金竜さんと呼びなさい。私はお前をお前と呼びます。当然の身分差です」

 

 美紅はいちいち険しい目を向けて来た。ヘイトの感情が直線的に伝わってきた。

 

「何が身分だよ。国民は生まれながらに平等だろう」

「言いますね。では、お前は95歳のご老人にも平等だからとため口、呼び捨てにするのですか?」

「いや」

「そうでしょう。目上の相手をいたわるのはこの国の文化です。私は5月24日生まれ。まもなく16歳になります。お前は9月生まれと聞いています。ならば、私がお上というわけです」

「細かいやつだな。まあいい。金竜さん、飛車角落ちでいいか?」

「何を言っているんですか? 上から目線のハンディなどけっこうです」

 

 美紅はそう言うと速足で歩いて、先に将棋部の部室にたどり着いた。

 将棋部の戸を開き、中を覗き込んだ。

 

「王花ちゃん、あの男を連れて来ましたよ。間違いなくAIソフトを使ってずるをしただけです。たしかにそう白状しましたよ」

 

 美紅は中に向けてそう言った。

 どうやら、将棋部に王花が来ていると見て間違いなかった。

 

「真龍が来ているのか」

「あの女、なんてやつ。将さんの後をつけるストーカーになりやがったんですね。むむむ、許せません」

 

 美紅は将を嫌っているが、飛子は美紅も含め、王花には恋のライバルのような敵愾心を覚えていた。

 

「将さん、何度だって飛子マジックで一刀両断してやりましょう」

「いや、しばらく飛子マジックは使わない」

「えー、なんでですか?」

「飛子マジックを使ったら、素人でも勝てるだろ。それじゃ、実力にならない」

「むー、将さんもわからずや。飛子マジックは将さんの実力そのものだと言いますのに」

 

 飛子は不服なようだったが、将はマジックを実力とは認めていなかった。

 将棋部に入ると、たしかに王花がいた。

 

 王花は立ったまま、壁にもたれかかって、おそらくは将がここに来るのを待っていた。

 将は将棋部に入るなり、王花に目を向けた。というより、勝手に視線が王花のほうに動いた。王花も将に気づいて横目を向けた。

 特に前回の敗戦を意識していることはなかった。王花はいつもどおりのクールな様子だった。

 

「悪いな、邪魔している」

 

 王花はそう言った。

 

「何かおれに用か?」

「私も将棋部の部員になった」

 

 王花も美紅と同じように入部届にとてつもない達筆でサインしていた。

 

「は?」

「日本将棋連盟から通達があった。学生大会の出場はできないが、将棋部に所属することに制限はないとな。だから、入部することにした」

「……」

 

 王花は淡々と話したが、それはとても革命的かつ重大な事実だった。

 デビューからの連勝記録を伸ばし、現在3冠王で棋聖戦もタイトル獲得まであと1勝としており、王位戦もすでに挑戦者決定戦に進出している将棋界のスターが、廃部寸前の将棋部にやってきた。

 桂がその事実を知っているかわからないが、知ったら目を回して卒倒するほどの衝撃だった。

 

「というわけです。私は止めたのですが、王花ちゃんがどうしてもということで、仕方のない決断です」

 

 美紅が口を挟んだ。

 

「それは驚いたな」

「一人で研究するより有意義と思ってな」

 

 王花はそう言うと、将棋盤のほうに目を向けた。

 

「来いよ、対局だ。前回はお前の頼みを聞いて対局したんだ。むろん、私の誘いを断るなよ」

 

 王花が対局を申し込んできた。

 おそらく、王花が将棋部にやってきた目的は飛子マジックだろう。

 あの奇跡の一手を何としてでも越えたいという思いでここに来たに違いない。

 

 王花と将の対局は事実上、王花と飛子の対局だった。

 王花の目は将ではなく、飛子に向けられている。

 

 将はそのことをよくわかっていたから、悔しかった。勝利しても、勝利者は飛子であり、将は敗者である。王花の偽りの目でしか見てもらえない。

 将は本当の目で王花に見てもらいたかった。

 

 だから、飛子マジックを使わず、王花に勝ちたかった。

 

「わかったよ」

 

 将は対局を受けることにした。飛子マジックを使わずに王花に認められたかったから、飛子マジックを封印して王花に臨むことにした。

 

 ◇◇◇

 

 対局は1分将棋で行われた。

 結果は、王花の圧勝。

 序盤から終盤まで、将にいいところはなく、王花が優勢のまま終盤までいき、あっさりと勝利した。

 王花は、終盤に将が妙手を繰り出すのを期待していたのか、対局が終わると首を傾げた。

 

 それから、将をにらむように見た。

 

「どういうことだ?」

 

 王花が尋ねてきた。

 

「どういうこと?」

「いや」

 

 王花は言葉を切って、盤上に視線を落とした。

 この対局からは、前回の対局で感じた禍々しい流れをまったく感じなかった。まるで別人との対局のようだった。

 序盤中盤までは前回と同じだった。しかし、将は終盤に信じられない妙手を放ってきた。しかし、今回はそういう手がなかった。

 

「わかりやすい局面になったからか。3七とが緩手だ。換えて、お前が4六桂と打った場合は……」

 

 王花がその手順で駒を動かして、もう一度尋ねた。

 

「この局面なら、どう応じる?」

「……7九銀が一目だが」

 

 将は自分の棋力のままにそう答えた。

 しかし、それは王花の期待する答えとはまったく違っていた。

 どう応じても、王花の必勝形だが、それでも将はひっくり返す手を導き出すことができると考えていた。

 だが、飛子マジックがない将にはそんな手はなかった。

 

 王花は飛子マジックの魔力を纏わない将に拍子抜けしたようだった。

 

「あれはなんだったんだ?」

 

 王花は自問自答した。

 その後、王花はすぐに局面を動かして、前回の対局の終盤を再現した。ちょうど、飛子マジックを繰り出す直前の局面だった。

 

 将はそれを見て、王花のほうを見た。

 

「私には金合いが紛れのある唯一の手だと思うが、お前はどう応じる?」

「……」

 

 現局面もまた、王花が必勝形であり、基本的に逆転の余地は乏しい。

 将はここで飛子マジックを放ったがために、奇跡的な逆転につながった。

 だが、飛子マジックがなければ、万策尽きた感じだった。

 

「この局面を何度も並べたのだが、どうしても有効な手がなくてな。なぜか、どうしてもわからないのだ。なぜ、私はこの局面から負けたのか」

 

 王花は飛子マジックを事実上突き止めていた。しかし、そこはマジックの魔力が壁となり、こちら側の事情は分からない様子だった。

 

「ですから、王花ちゃん。AIソフトを使ったのですよ。ずるです、ずる」

 

 後ろで見ていた美紅が口を挟んできた。

 

「AIソフトにも繰り返し読ませた。だが、どの手順でもない手順で私は負けた。考えられるすべての手順を試したつもりだが、それではない応手だった」

 

 王花は将を見つめた。

 

「深く考えすぎだ。うっかり詰みを見逃しただけだろ」

 

 将はそう答えたが、王花は首を振った。

 

「違うな。私がここから間違えるはずがない」

「どこから来るんだ、その自信は」

「私は14歳のときに最後の負けを経験してから一度も負けていないんだ。この局面からの詰みをどうして逃すか」

 

 王花は自分の終盤力に相当自信を持っていた。

 王花の言う通り、正規の手順では王花が負けることはない。だが、飛子マジックについてはどう説明しても決して伝わることはないだろう。

 

「疲れてたんだろ。おれも8八金しかないと思う」

「ならば、あれは本当に私のミスだったのか」

 

 王花はそれで納得したようだったが、最後まで解せない様子だった。

 

 王花の次は美紅と対局することになった。

 

「王花ちゃん、見ていてください。ずる野郎に必ず勝ちます」

 

 美紅は気合を入れて、一応王花の真似をして、角道を開ける初手を放った。

 しかし、美紅は素人。将が三間飛車で攻め込むと、美紅は右も左もわからなくなった。

 

「むむむむむむむむ」

 

 美紅は難しそうな顔をしながら、振り向いて王花の力を借りた。

 

「王花ちゃん、次の一手をお願いします」

「人をさんざんずる扱いしておいて、何ずるをしてんだよ」

「私は素人です。少しぐらいハンディをもらって当然でしょう」

 

 美紅はそう正当化したが、当初はハンディなどいらないと言っていた。

 

「王花ちゃん、次の一手」

「7七角だ」

 

 王花は王花であっさりと美紅に最善手を教えた。

 だが、すでに将がかなり優勢になっており、ここからなら、実質、王花が手を考えても勝てるかもしれない。

 将と王花の次の一手をもらい続ける美紅の対局はかなりの熱戦になった。

 

「将さん、勝てそうですか?」

「……詰むか? だが、どうしても読み切れない……」

 

 将はあと少しで勝てそうな終盤戦に持ち込んでいたが、かなり複雑な局面になり、最善手を指しきる自信がない。

 

「将さん、飛子マジックいけますよ。あいつもずるしてるんだから、問題ないですよ」

「それはごもっともだが、何とかする」

 

 将はあくまでも自分の力で指し続けた。

 だが、王花の強力な受けの手で怪しく凌がれ、気づけば攻めが途切れてしまい、代わりに、王花が詰めろをかける手を美紅に教えた。

 

 しかし、そこで事故発生。美紅が王花が指摘したマスとは異なるマスに駒を打ち込んでしまった。

 

「待て、美紅。5四銀だ」

「えーっと、1、2、3、この上でした、申し訳ありません」

「ちょっと待て。待ったはなしだろ」

「なにー? 素人相手に待ったも許さないというのですか?」

「さんざんずるをしておいて何を言う」

「わかりました。ここは王花ちゃんに仲裁してもらいましょう。王花ちゃんはどちらが正しいと思いますか?」

 

 王花は将のほうを見て一言言った。

 

「待ったぐらい認めてやれ。相手は経験の浅い少女だろ」

「……」

「決まりです。では改めて5四銀」

 

 しかし、美紅は6四銀と間違い、ただの銀損の手となった。

 結局、将がその対局を制した。

 

「くやしいいいいいいい!」

 

 桂と将しかいなかった将棋部はとても賑やかになった。

 

 

 

 将棋部始動編終わり。

 

 次回「学生名人戦編」開始まで、しばらくお待ちください。



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おまけ これであなたも8冠王

 王将ファンタジスタは私が作った将棋ゲームです。

 妖精と契約してインチキ将棋で戦います。妖精がいればあなたでも8冠王です。AIも怖くありません。

 

 王将ファンタジスタのルール

 

 1、基本は普通の本将棋です。

 2、ゲーム開始前に妖精を1つ選びます。

 3、先手の場合は15手目、30手目、45手目、60手目……15手目を指した後にマジックを1つ手に入れます。後手の場合は16手目、31手目、46手目……を指した後にマジックを1つ手に入れます。

 4、マジックは手に入れた次の手以降に自由に使うことができます。

 5、先に王様を詰ましたほうが勝ちというのは同じです。

 

 では、妖精について紹介します。

 

 飛車の妖精「飛子」

 

 飛子が妖精のときにあなたがマジックを1つ手に入れるに際して、20面ダイスを1回振ります。

 出た目のマジックが手に入ります。以下。

 

 1の目 火炎竜のトークン駒を駒台に1つ置く。

 2の目 王神竜のトークン駒を駒台に1つ置く。

 3の目 飛車覚醒を行う権利を1つ得る。

 4から8の目 飛車のトークン駒を駒台に1つ置く。

 9から18の目 保留(保留は任意のマジックモードをプレイヤーの好みで追加できる。追加されていない保留は4から8の目が出たときと同じ扱いとします)

 19と20の目 スカ(マジックを得ることができない)

 

 それぞれの効果の説明

 

 トークン駒とは?

 

 トークン駒は普通の駒として扱うが、駒台から盤上に打ったあと、相手によってその駒が取られるか、自分の何かしらのマジックの作用で再び自分の駒台に行く場合は、代わりにそれをゲームから取り除きなかったことにします。

 取られても相手の駒台に乗らないので、駒損しない超強力な扱いです。

 

 火炎竜とは?

 

 火炎竜は普通の「竜」と同じ動きをしますが、さらにあなたが火炎竜を駒台から盤上に打ったとき、その火炎竜の効きのある場所にある駒1つを、火炎竜をそこにとどまらせたまま取ることができます。

 普通、駒は動かして効きの場所にある相手の駒を取るしかありませんが、火炎竜は火炎のブレスでそこにとどまらせたまま、効きにある相手の駒を取れます。この方法で自分の駒は取れません。

 ただし、火炎竜が王手している状態で、王を取ることはできません。

 相手の陣地に入っても成ることはできない。

 

 王神竜とは?

 

 王神竜は普通の「竜」の動きに加えて、チェスのナイトの動きをすることができます。また、歩、香車、桂馬の3つの駒によっては取られません。ただし、と金やなり込んだ香車や桂馬には取られます。

 かなり強力な駒ですが、使いこなすのはけっこう難しく、火炎竜ほど劇的な強さはありません。

 相手の陣地に入っても成ることはできない。

 

 飛車覚醒とは?

 

 あなたが飛車を1つ動かすときに、「飛車覚醒」を宣言することで、その飛車を続けて二度動かすことができます。

 かなり強力なチートで、うまく使えば一気に相手を追い詰めることができます。

 ただし、覚醒により2度目に飛車を動かすとき、相手に王手がかかっている場合、相手の王を取ることはできません。その際、王手放置で反則とならない。

 なので、1回目で王手して、次に王を取るようなことはできません。

 また、飛車以外の駒は動かせません。動かすと宣言した飛車を2度続けて動かすだけです。

 

 飛車のトークン駒

 

 普通の飛車として扱いますが、相手に取られると、トークン駒は相手の駒台には置かれず、そのままゲームから取り除かれるので、駒損しない飛車です。

 

 スカ

 

 スカを引いてしまうとあなたはマジックを得られません。妖精がいるからと確実に勝てるわけではありません。

 

 歩の妖精「あゆみ」

 

 あゆみが妖精のときにあなたがマジックを1つ手に入れるに際して、20面ダイスを1回振ります。

 出た目のマジックを手に入れます。

 

 1の目 あなたはゲーム中、駒台の歩を「と」で打ってもよいという紋章を得る。

 2の目 槍歩兵のトークン駒を2つ駒台に置く。

 3の目 あなたの盤上にある「歩」または「と」を1つ無敵にする。あなたが「歩」も「と」も盤上に置いていないなら、この効果はスカとする。

 4から8の目 歩のトークン・駒を2つ、「金」のトークン・駒を1つそれぞれ駒台に置く。

 9から18の目 保留

 19と20の目 スカ

 

 紋章について

 

 紋章を手に入れると、そのゲーム中ずっと持続する効果となります。

 歩を「と」で打てるようになると、歩が金になるので強力です。とを打つときは二歩の影響を受けません。

 

 槍歩兵

 

 香車と同じ動きができますが、相手の駒を取ったとき、相手の駒の1つ先に駒があるなら、その駒を取るために追加で槍歩兵を1つ前に進めてよいという効果を持ちます。

 いわゆる貫通して攻め込むことができる香車です。その効果は強制ではなく、任意で行える。

 ただし、この効果は相手の駒が連なっている場合だけ有効で、相手の駒が連なっていない場合は、その効果を無視します。

 槍歩兵が相手の陣地に入ったときは「と」に成り込んで良い。その成り効果は槍歩兵の追加で1つ前に進める効果を実行した後、あるいはその効果を行わないと宣言した後に行います。

 

 無敵について

 

 無敵になった駒はそれが盤上を離れるまで、相手の王以外の駒によっては取られなくなる。

 相手の「王」だけは無敵状態の駒を取ることができる。

 無敵状態はその駒が成り込んだ場合でも持続します。その駒が盤上を離れるまで無敵は続きます。

 

 

 角の妖精「妖角」

 

 妖角が妖精のときにあなたがマジックを1つ手に入れるに際して、20面ダイスを1回振ります。

 出た目のマジックが手に入ります。

 

 1の目 雷王馬のトークン駒を1つ駒台に置きます。

 2の目 疾風馬のトークン駒を1つ駒台に置きます。

 3の目 あなたの角または馬1つを選び、それを搭乗駒にする。あなたが角も馬も盤上に置いていないなら、この効果はスカとなる。

 4から8の目 角のトークン駒を1つ駒台に置きます。

 9から18の目 保留。

 19と20の目 スカ。

 

 雷王馬について

 

 雷王馬は「馬」と同じ動きができることに加えて、それは王、飛車、香車、桂馬によってしか取られない効果を持ちます。

 歩金銀をかいくぐることができるのでかなり強力です。

 この駒は相手の陣地に入っても成ることはできない。

 

 疾風馬について

 

 疾風馬は「馬」と同じ動きができることに加えて、それが最初に動かしたとき4マス以上動いた場合、続けてもう一度動かすことができます。

 条件はありますが、二度続けて動かせる強力な駒です。

 ただし、相手の王が王手の状態で2度目にその駒が動くとき、相手の王を取ることはできない。その際、王手放置を無視する。

 マス目の数え方は自分のいる位置からあらゆる方向に関係なく1ブロック先を1マスと定義する。自分の位置から4マス目までの位置まで移動したとき条件を満たします。

 この駒は相手の陣地に入っても成ることはできない。

 

 搭乗駒について

 

 搭乗駒になったとき、王以外の自分の駒はまだ駒が重なっていない状態の搭乗駒の上に重なるように動くことができるようになる。ただし、駒台から搭乗駒の上に駒を打つことはできない。

 搭乗駒は重なっている下の駒として扱います。搭乗駒に配置できる駒は1つだけ。

 搭乗駒が動いたとき、続けて搭乗駒の上に重なっている駒を動かして良い。

 ただし、相手の王が王手の状態で搭乗駒の上に重なっている駒が動くとき、相手の王を取ることはできない。その際、王手放置を無視する。

 搭乗駒の効果はそれが盤上を離れるまで継続する。

 相手が搭乗駒を取るとき、重なっている駒もろとも取ったとみなす。

 角に駒を乗せることができ、二回行動できるようになるので、めちゃくちゃ強い効果です。

 

 

 銀の妖精「銀砂螺」

 

 銀砂螺が妖精のときにあなたがマジックを1つ手に入れるに際して、20面ダイスを1回振ります。

 出た目のマジックが手に入ります。

 

 1の目 銀幕展開の権利を1つ得る。

 2の目 「剣の銀」のトークン駒を1つ駒台に置く。

 3の目 銀の波動の権利を1つ得る。

 4から8の目 銀のトークン駒を2つ駒台に置く。

 9から18の目 保留。

 19と20の目 スカ。

 

 銀幕展開について

 

 銀幕展開の権利を1つ行使すると、あなたの「王」の周囲8マスのうち、空いている場所最大2つを選び、銀のトークン駒を2つ打つ。空きが1つなら1つだけ打ち、空きがないならあなたの手番はパスとする。

 この権利を行使した後、続けてあなたはこの方法で打ったトークン駒のうち1つを動かしてよい。

 ただし、相手の王が王手の状態で、その駒が動くとき、相手の王を取ることはできない。その際、王手放置を無視する。

 

 剣の銀について

 

 通常の「銀」と同じ動きに加えて、あなたが駒台から「剣の銀」を打ったとき、あるいはその銀を動かすと宣言したとき、その銀をその場にとどまらせたまま、銀の効きのうちにある相手の駒1つを取るという選択ができる。

 ただし、この方法で相手の王を取ることはできない。その際、王手放置を無視する。

 これもかなり強力な駒です。

 この駒は相手の陣地に入っても成ることはできない。

 

 銀の波動について

 

 銀の波動の権利を行使すると、あなたの盤上にあるすべての銀をそれぞれ1回ずつ動かすことができる。ただし、成銀は効果の対象ではなく、銀のトークン駒は効果の対象となる。剣の銀なども効果の対象ではない。

 動かす順番はあなたが決めてよい。その際、途中で王手になるなら、王手放置を無視する。

 

 

 以上、王将ファンタジスタのルールを簡単に説明しました。一言で言うと、インチキ将棋です。

 ただし、20面ダイスの引き運しだいなので腕の差が普通の将棋ほどは出ない。初心者でも十分楽しめます。定跡もまだ未開なので、あなたは第一人者になれます。ぜひ、始めてみて。

 ほかの妖精や保留能力はどんどん増えていくので、乞うご期待。

 

 妖精がいれば、あなたも羽生さんや藤井君に勝てるぞ。あなたも夢の8冠王。ソフトにも勝てます。マジックを受けると、ソフトは錯乱してしまうでしょう。

 ただし、それで負けたら赤っ恥なので注意。

 

 

 「学生名人戦編」の執筆が進んでいます。開始までしばらくお待ちください。



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