TS少女の贖罪~女になった逆行元勇者は、勇者パーティーの一員として死に物狂いで戦う~ (恥谷きゆう)
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すれっからしのTS少女と美食家気取りのオーク
1 終わりある命のはじまり


 勇者、という大それた肩書を与えられてからもう百年以上が経つ。それでも俺の肉体は二十歳すら超えていない。

 勇者の魂は悲願である魔王討伐に失敗するたびに過去へと戻される。何度だって、俺の成功も、失敗も、築いた絆も全て忘れ去った人々のところに戻される。

 俺は百年を生きているのではなく、百年ほど似たような失敗の人生を歩み続けている。

 

 これからもそうなのだろうと漠然と諦めていた。しかし、変化はいつも唐突だ。ある日から、俺は女になった。

 

 

 

 

 

 

 

 血をその場に大量にぶちまけたような濃厚な死の匂い。剣戟と何かの爆発音。眼前に広がるのは命を浪費する醜い争い。

 平和な街並みを形成していた石畳が、住宅の外壁が、血の嵐に晒されて朱に染まっていく。

 

 人類と、魔物の軍隊である魔王軍との戦争は佳境を迎えていた。街中に転がるのはほとんどが人間の死体。

 今日のために急遽編成された王都防衛軍は、王国に残存する兵力のほとんどを集結させた決死隊だった。しかしそのほとんどが地に伏せ、二度と動かない。生き残りの貴族も、徴兵されてきた農民も、皆等しく物言わぬ屍になっていく。

 

 元より人ではない魔物達にとって殺す相手の肩書など関係ない。前線にいる奴らは人類を滅亡させるつもりで戦争をしているのだから。深紅の徒花が咲くたびに王都防衛軍には陰鬱な空気が漂う。

 

 しかし俺だけは絶望するわけには、諦めるわけにはいかない。まだ人類は負けてはいない。まだ希望たる勇者はここで戦っている。

 

「オオオ!!」

 

 己を鼓舞するように雄たけびを上げ、目の前の獣を一刀両断する。幾度も血潮を浴びてなお神々しい光を放つ聖剣は、屈強な体を持つ人狼種の魔物の肉体をバターのように切り裂いた。

 

「まだ!負けていない!今一度人の誇りを見せろ!」

 

 俺の後ろで委縮している騎士や兵士たちにがなり立てる。劣勢に立たされている彼らはみな一様に顔色が悪い。

 

「そうだ!勇者様がまだここで戦っていらっしゃる!俺たちも戦うぞ!おい、行くぞお前ら!」

 

 甲冑に身を包んだ男が呼応するように叫ぶ。触発された数十人が、決死の表情で再び異形の群れに突撃する。魔物の元に辿り着くまでに数人に矢が突き刺さり、こと切れていた。きっと彼ら全員、命は長くないだろう。

 勇敢な者から死ぬ。いや、俺が殺したようなものだ。

 また、俺は罪を重ねた。仲間を死地へと送り込み殺し、それ以上の数の敵を殺す。しかし、敵はこちらより圧倒的多数だ。

 

 どちらにせよここで負ければ未来はない。後退はもはやあり得ない。王都が落ちればほとんどの国が魔王軍の射程内だ。ここで負ければ人類の敗北は決まったも同然なのだ。

 負ければ絶滅するか、惨めな奴隷として支配されるかのどちらかだ。

 

 再び、剣を振るい血路を開く。まだだ。頭脳である魔王さえ殺せばこんなものはしょせん烏合の衆だ。だから俺が、勇者に選ばれた俺が今度こそ、あいつを殺さなければ。

 魔王はそう離れたところにはいない。奴の居場所は聖剣が教えてくれている。この軍勢を抜ければすぐだ。

 

 

 眼前の魔王軍の威容を睨み付ける。巨人種などの巨体の魔物たちが並んでいる様は壮観だ。魔王はそのすぐ後ろ、あえて俺の手が届きそうなところに陣取っている。

 俺を苦しめるために。俺が自分のせいで負けたのだと絶望するために。

 

 それでも、俺は魔王のところまでなんとしても辿りついてみせる。少しでも自分を守る肉の壁を増やすために聖剣を高々と掲げ、怒鳴る。

 

「我こそは英雄たらんと思うものは俺に続け!魔王を討ち、この戦いを終わらせる!……グッ」

 

 駆け出した左足の踵に矢。背後から放たれたそれは致命的なタイミングで俺の足を止めた。

 ひるんだ俺の目の前にはパワー特化の巨人族。振り下ろされた無骨な造りの大剣は勇者の加護を貫き、俺の頭蓋骨を破壊し、鼻のあたりまでめり込んだ。

 肉体の再生が間に合わない。致命傷だった。

 

 意識が混濁する。なすすべもなく、とどめに首を撥ねられる。宙を舞う首から、最期の景色を数秒見る。

 回転する視界は真ん中のあたりがひび割れたガラスのようにゆがんでいた。それでもはっきり捉えられた。絶望する人々の顔と、俺を射抜いた射手の顔。そいつはまごうことなき人間で、王城の近衛騎士だった。

 

 何度目か分からない絶望と共に悟る。やはり、王城は、王国の最後の砦はまた人を裏切ったらしい。遠くに聞こえる魔物達の勝鬨が遠ざかっていって、俺は死を迎えた。

 そしてまた、いつもと同じように俺の人生は始まる。そのはずだった。

 

 

 

 

 生きる、ということは罪を重ねることと同義だ、と俺は思う。罪、という言葉が少々固すぎるなら、失敗や失望に置き換えても良い。生きているだけでそれらは積み重なり、俺の心を罪悪感で苛み続ける。俺は罪を重ね続けながら、罪から解放される方法を探し続けている。

 

 どうするべきか。謝罪して赦してもらう?それは正しい。正しすぎるくらいだ。では、謝罪するべき相手とは二度と言葉を交わせないとしたら?

 

 罪を、失くしてしまったものを償う?それも正しい。では、罪が償いきれないほど大きかったら?

 

 罪に対する罰を受ける?それもまあ正しい。では、罪を誰も覚えておらず、誰も罰を与えてくれないとしたら?

 

 屁理屈ではない。俺のことだ。

 

 

 

 

 

「ひどい死に様だった」

 

 誰に言うのでもなく、ポツリと呟いて上体を起こす。喉の調子が悪いのか声に違和感があった。戦場のど真ん中で死んだはずの俺は、どこかの森の中に横たわっていた。

 これが俺の人生。死は終わりではなく、新たな人生の始まりだ。何度でも俺は十五歳の春に帰ってくる。そうしてまた、絶滅的な戦いを強いられるのだろう。

 

 直前の戦いを顧みる。混戦の中、王城からの刺客に踵を撃ち抜かれた俺は致命的な隙を晒して敗北した。

 人類の脅威である魔王に唯一対抗できる勇者はあそこで死んだ。あとはもう、人類は緩やかに滅んでいくだけだろう。改めて本当に守る価値があるのか疑問に思える連中だ。

 

 とはいえその行動にも道理はあるのだろう。合戦の少し前、俺は自分の国の王の首を撥ねた。

 そして、血塗れの玉座の上で、青ざめる王国の重鎮たちに向かって宣言した。

 

「これよりこの国は俺のものだ。俺に従わない奴はこの愚王と同じ姿になるだろう」

 

 勇者なのか魔王なのか分からない。王国の人達は俺の気が狂ったと思っただろう。

 しかし俺としては未来を知っているが故の合理的な行動だった。

 

 王は絶対に魔王軍との取引に応じて、俺の邪魔をしてくる。国を売ろうとするのだ。

 王が魔王に持ち掛けられる停戦協定とはそういうものだ。王国を譲り渡す代わりに王を含めた数人の命を助ける。そういう取引だ。何回繰り返してもそうだったのだから間違いない。

 

 だから先んじて国を取り、国を俺の思い通りに動かす必要があった。王都の防衛線に人類軍の総戦力を集結させる必要があったのだ。

 

 王都防衛の戦力をかき集めることはできた。しかし、一人で一国の軍に匹敵する戦力と目される勇者が気狂いであるなど、人類にとっては悪夢以外の何物でもなかったのだろう。

 王不在の中、勇者の暗殺という重大な決断が下されたようだ。それまでの王城の政策決定までの愚鈍さが嘘だったかのようだ。

 

 今回の顛末から分かったことは、王国は王不在であっても、勇者を殺して魔王に停戦協定を求める腰抜けであるということだろうか。

 また一つ俺は学習した。今度は宰相でも殺せば良いだろうか。本当にクソッタレの世界だ。

 

「まあ変わらん過去を嘆いても仕方ない」

 

 回想を終えて、自分に言い聞かせるように呟いて、腰を上げた。そこでようやく気付いた。

 

 百年以上慣れ親しんだはずの体の重心に違和感がある。見下ろすと、そこには男性にはあるはずのない膨らみがあった。胸のあたりに2つ。そこで思考が真っ白になりかける。

 落ち着け俺。お前は百年もの時を戦いに費やした歴戦の勇者ではないか。落ち着いて、今するべきことをするんだ。

 俺は恐る恐る股間に手を伸ばした。ない。あるべきものが、男には生まれたときから備わっているものが、ない。

 

「ハアアァ!!!?」

 

 森の中に甲高い少女の悲鳴が響き渡った。俺の女としての生が始まった、その日のことだった。

 



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2 女神の使者との対話

早くも反応もらえてめちゃくちゃ嬉しいです
ありがとうございます
とても執筆が捗ります


「あの女神様俺の魂を他人に入れちまったのか?おいおい、この子の魂はどこ行ったんだよ。殺してないだろうなあ」

 

 多少は落ち着いた俺は少しずつ状況を整理していた。

 湖の水面に自分の姿を映して確認した結果、確かに自分の体は女性のものになっていた。

 小柄で華奢な体。胸のあたりには無視できないおうとつが存在する。肩のあたりまで無造作に伸ばされた血のような赤髪。小さな顔は客観的に見て結構整っているように見える。

ただ一点残念なのは、黒い瞳は俺の魂の腐り具合を示すように暗く淀んでいた。

 

 後ろ髪が邪魔に思えたので一つにまとめ、あの人の形見だったリボンで留める。首元がすっきりする。

 リボンで髪を結んだ俺を改めて水面に映すと、やはりただの少女にしか見えなかった。

 

 人生をやり直しつづけて早百年といったところだ。俺の魂は俺の体が死ぬ度に女神の手によって過去の自分の体に戻されていた。

 今まで何度も繰り返してきたが、一度の例外もなく聖剣を抜いて勇者になった年、15歳の春に戻されていた。他人に、それも異性になっているなんて初めてだった。

 

「どうなってんだ……。女神の声も聞こえねえし……」

「今回のやり直しの不備については、私から説明させて下さい」

 

 前触れもなくすぐ近くから声がした。

 人気の無い森の中で突然見知らぬ人間の声が響くのは不気味な光景だったといえよう。

 とはいえ、時間や場所には関係なく女神の言葉が聞こえていた―神託と言うらしい―俺にとってはあまり驚くに値しなかった。

 

 しかし聞こえてきたのはどう考えても男の声で、いつもの女神の声ではなかった。声の元をたどり、服を探ると、ポケットから女神の姿をかたどった木製の像が出てきた。

 

 教会が安値で大量に売り、庶民の間に一時期流行ったものだ。小さな手のひらよりも少し大きいくらいで、彫刻はあまり繊細とは言えない。女神を象った無機質な顔がこちらを見つめ返している。

 

「私好みの可憐な少女に見つめられると照れますね」

 

 ふざけた声が聞こえる。やはり俺は女神像に話しかけられたらしい。

 

「私はあなたの知っている女神からの使者のようなものです。そうですね、ジェーンとでも名乗っておきましょうか」

 

 女神像から落ち着いた男性の声が出る光景はシュールだった。

 

「……ジェーン?お前は女なのか?」

「男女ですか?どちらでもありません。そもそも人間ではありませんので。――まあ、そんなことはどうでもいいのです」

 

 渋い男の声で話すジェーンは、一呼吸置くと話を続けた。

 

「貴女はもはや、夢の中だろうと死後だろうと、女神とは会えません。そのため私があなたと意思疎通するためにここに送られてきました」

 

 女神と意思疎通できるのは勇者だけだ。祝福を受け、神に近い体に作り替えられた勇者だからこそ女神の意志を知ることができる。

 その他に女神の意志を知る機会は、教会が時折神託を受け取る程度だ。それも一方的に女神の言葉を聞く程度しかできない。

 人の身でありながら神に最も近いのが勇者という存在だ。だから唯一女神と言葉を交わすことができる。

 

「それで?どうして俺は他人の体になっちまってるんだ?」

「その私好みの美少女は間違いなくあなたの体です。結論から申し上げますと、女神はあなたを過去に戻すことに失敗しました」

「……詳しく聞かせろ」

 

 話を聞いているうちにだんだんわかっていた。最後の死の時――あの王都のど真ん中で頭をかち割られ、首を撥ねられた時のことだろう――女神はいつも通り転生の儀を行おうとした。そこで叛逆神の妨害が入った。

 

 叛逆神は魔王に力を与える存在であり、女神とは敵対関係にあるらしい。

 転生の儀を妨害された女神はこれに失敗。代わりの策として急遽俺を死体ごと並行世界へ転送。その後このジェーンを名乗る使者を通じて蘇生を行ったらしい。

 

「蘇生は終わったばかりなのでまだ血が残っていますよ」

 

 胸元や足元には致死量を超えるだろう血痕がぶちまけられていた。言われてみれば嗅ぎなれた血の匂いがした。

 魔術を使って軽く血を落とす。体が違うせいか魔術の使用に違和感があった。

 

「普段とはやり直しの仕方が違うことはなんとなくわかった。ただそれなら、ここには十八歳の男の俺がいるはずじゃないか。他人の体になっている説明になっていない」

「最初にも言いましたが、それは間違いなくあなたの体です。同じ時代にあなたの体が二つある矛盾を起こすわけにはいきません。勇者適合者が二人もいるとなると力がうまく得られない危険があります。ですので、別人になっていただく必要がありました」

「同じ時間にもう一人俺がいるのか……。女神だって俺が二人いることは承知してるんだろ?それくらい融通きかないのか?」

「ここにいる女神はあなたと言葉を交わしたものとは別物です。そして私たちにはこの世界の女神と意思疎通を図る手段は最早持っていません」

 

 今までのやり直しとはわけが違うのだ、とジェーンは言う。今までは過去に遡っても同じ女神が存在していた。同じ木から分かれた枝のようなものだ。可能性を探して様々な方向へ枝を伸ばしていたが、大本となる幹と根っこは同じだった。

 しかし今は以前とは異なる全く違う木なのだ。前提となる幹や根っこから違う。世界が違えばそこに存在する女神も違う存在である、ということらしい。

 

「いや、違う。だとしても最大の疑問が解消されていない」

 

 小難しい話はもはやどうでもいいのだ。それよりも最も重要な問題が解決していない。

 俺としては一番気がかりな点について問いかけた。

 

「なぜ!俺は!女になってるんだ!?」

「私の趣味です。体を作り変える際に可憐な少女の方が面白いかなと」

「貴様アア!」

 

 面白いかな、で自分のアイデンティティが揺らぐような大手術を勝手にされてしまった俺は激怒した。ジェーンと名乗った女神像を地面に叩きつけても、理不尽への憤りは晴れなかった。土まみれの女神像は先ほどまでと同じトーンで話を続ける。

 

「いや、貴女が決定的に勇者と異なる存在になるためにはこれくらいしなきゃならなかったんですよ。そも魂は勇者のものと全く同一ですから。その魂を歪めるくらいのことはしなければ」

「待て。俺の魂はお前にもてあそばれてるのか!?おい、俺に何をした!?」

 

「もてあそぶなんて大袈裟な。魂の在り方は肉体に引っ張られます。貴女もご存知でしょうが。結果的に貴女の精神が少女のものに近づくだけです」

「大問題じゃねえか馬鹿野郎!アイデンティティの危機だよ!」

「落ち着いてください。そんな顔真っ赤にしても少女の顔だから愛らしいだけですよ。いやあ、やっぱり私の造った顔の造形完璧ですね。どんな表情していても可愛い」

 

 (無機物ゆえ当然ながら)表情一つ変えずこちらを挑発する使者に怒りを再び爆発させそうになるが、長年の経験からそれが無益なことを悟り、気持ちを落ち着かせる。

 一度大きく息を吸い、吐き出して気持ちを切り替える。こういう人をおちょくることが好きな人種は冷静に対処するに限る。

 それよりも今は聞くべきことがある。

 

「それで?俺は自分では何もしてくれない女神様の使命をまだ全うすることができるんだろうな?まだ魔王を殺せるのか?」

「不可能とは言いませんが、今までの繰り返しの時よりもずっと難しいでしょう。貴女は少し頑丈なだけの一般人でしかないのですから」

 

 理解の追いつかない、否、理解を拒む俺の脳に決定的な言葉が飛び込んでくる。

 

「要するに、貴女はもう女神に選ばれた人類の希望たる勇者ではないのです。あれだけ嫌がっていた人類の救済もあなたの役目ではなくなりました。良かったですね。人類が魔王に滅ぼされるまでの5年ほど優雅な余生をお過ごしください。」

「……は?」

 

 激しい動揺を覚えた。己の今までのあらゆる生が否定されたような感覚。それは要するに、俺の百年以上の人生が無価値だったという宣言だろうか。

 ふざけるな。俺はまだあの魔王を名乗るクソを殺してはいない。あいつを殺すまで俺の人生が終われるはずがない。奪われ、壊されたものがあまりにも多すぎる。

 

 焼け野原にされた国、奴隷にされた人間、俺を信じてついてきた兵たちの、仲間たちの死体。まだ贖えていない、救えなかったもの。

 

 まだその犠牲に報いることができていない。責任を果たしていない。思い返すたびに胸中はグツグツと煮えたぎり、居ても立っても居られなくなる。

 一度、深呼吸して高ぶった気持ちを静める。呼吸が落ち着くと言葉が自然に出てきた。

 

「俺が勇者かどうかなんて関係ない。俺の人生の目的は魔王を殺すことだけだ。別人になろうがそれは変わらない」

「まあ、そう言うだろうとは思いましたよ。貴女のそれはもはや義務とか責任とかじゃなくて、妄執とか復讐とかそういうものですね。

 ……貴女の体は厳密には一般人というわけではありません。魂と体は切っても切り離せないもの。勇者として百年を過ごした貴女の魂を持つその体は勇者の力を少しだけ引き継いでいます。まあせいぜい全盛期の半分以下といったところでしょうか。ついでに精神も年頃の少女の体に引っ張られます。以前よりも大幅に弱くなっているわけですが、何か方策があるわけで?」

 

「勇者は他にいるんだろう?仲間になってついていく。そして魔王のところについたら、聖剣を奪い取って魔王をバッサリだ」

「貴女、神算鬼謀の名軍師みたいな大袈裟な呼ばれ方をされたこともありましたよね?その日暮らしの山賊みたいな計画ですね。体に引っ張られて知能まで普通の少女になりましたか?」

「うるせえよ。お前女神と違っていやに人間臭いな。冗談吐くし」

「悪態ついても罵倒しても可愛らしい少女の声なので微笑ましく映るだけですよ。」

「本当にうるせえな!今度は湖に投げ入れてやろうか!」

 

 悪態をつきながら森を出るために歩き始める。ひとまずはここがどこなのか知りたい。

 見渡せど見渡せど生い茂る木々しか見えない。枝と葉が日光を遮り、森の中は不気味にほの暗い。近くに村でもあればいいが。

 

 歩く、歩く、歩く。景色は一向に変わらず、似たような木々が並んでいる。変化と言えば時折聞こえる鳥の鳴き声くらいのものだ。時折見つけられる虫の観察にも飽きてきた頃、ついに俺は地べたに這いつくばった。

 

「ああクソ、疲れた!どんだけ貧弱なんだよ、俺の体!」

 

 あまりの疲労にたまらず草の上に座り込んだ。足の裏はじんじんと痛みを訴えかけている。森の中を歩き始めて早1時間といったところか。

 勇者の体であれば例え一日中歩き続けていようとも平気だった。それなのにこのざまはなんだ。まだ体の出来上がっていない少女のようだった。

 

「当然です。あなたの体はもうただの人なんですから。まあ一時間もハイペースで歩き続けられるのですから、常人よりは丈夫な体と言えるでしょう。少なくともどこかの馬鹿のように飲み食いなしで3日間歩き続けて魔王城に突入するような無茶は無理ですね」

「……あの時はそうするしかなかったんだ。直接魔王の首取ってくるしか道はなかった。馬鹿だったわけじゃなく、あれしか方法がなかったってだけだ」

 

 あの時は考えうる最悪の状況だったと言える。早々に内側の権力争いで自壊する王国軍。呼応するように次々と突破される砦。我さきにと逃げ出す特権階級。

 

 あの状況で人を救うとすれば、もはや敵首魁の撃破による敵軍の崩壊を狙うしかなかった。

 正直なところ諦めようかと思ったほどだ。それでも、襲われる民衆の大半は罪なき一般人だった。だからこそ、俺は魔王城への強行を決めたのだ。

 

「いやあそれもそもそも貴女が無駄に孤立を選んだ結果だと思いますけどね。一人で無茶しなければならなくなったのは、貴女が差し伸べられた手を取らなかったせいじゃなかったですか?」

 

 俺の思いなど知らないように、冷静にかつての状況を淡々と述べるその声に俺の怒りがグツグツと沸騰する。その手の話題については、俺は自分の感情の高ぶりを抑えることが困難になっていた。

 

 感情のままに立ち上がる。手に女神像を持ち自分の視線に合わせる。無機質な彫り物の目の部分は当然なんの感情も映してはいない。

 

「俺のやり方に文句を付けるっていうのか?傍観するだけで何もしない女神の一派のお前が?どうして!どいつもこいつも俺のやり方にケチをつける!?協力しよう、手を取ろう、頼ってくれ。その言葉に従った時の俺の手元には何も残らなかった!誰も彼もが俺よりも先に死んでいく!俺が殺したようなものじゃないか!それなのにどうしてまた死地に向かうように頼むことができるっていうんだ!?それなのにお前は!お前らは!……違う、悪いのは俺だ。俺がいつまでもいつまでもいつまでも魔王を殺せないばっかりに皆を殺して殺して殺して……」

 

 言葉が俺の意志に反して漏れ続ける。なんと醜いことか。おぞましい感情を垂れ流し続ける俺の口は止まらない。

 昂った感情の制御が効かない。口から出続ける自分の本心を聞くたびにどうしようもなく自分が許せなくなる。

 

 息継ぎのタイミングでポツリとつぶやいた使者の声が奇跡的に頭に入ってくる。

 

「……少し落ち着いたらどうですか?」

「ハアッ……『狂乱よ、静まり給え』」

 

 乱れた呼吸でなんとか詠唱すると魔術が自分の頭に効き始める。本来洗脳魔法や暗示魔術を解くときなどに使う魔術だ。昂った感情を打ち消し、強制的に平静な精神状態に戻される感覚は何度味わっても気持ちが悪い。

 

「不躾でしたか、申し訳ありません」

 

 相変わらず変わらない声音でジェーンが謝罪した。もはやそれに対して俺は何の感情も浮かべることができなかった。心の揺れは魔術で抑えられていた。文字通りの人でなしは、唐突に話題を転換した。

 

「そういえば食べるものすらないですね。どうするんですか?」

「ああ、金も何も無かったな。雑草でも食べるか?」

「普通の人間は雑草食べ続けてたらお腹壊しますよ」

「めんどくさいなあ普通の人間」

 

 何だか全部が馬鹿馬鹿しくなってきて、背中から地面に倒れこむ。

 勇者だったときは気にも留めなかったが煩わしい。以前なら、食事も休息も魔王打倒の悲願のために切り捨てられたのに。鎮静化させられた心ではその苛立ちすら長続きしない。

 

 枝の隙間から覗く青空を眺める。大空を眺めていれば、大きいことも小さいこともどうでもよい、そんな気分になれた。



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3 人の優しさとリンゴ

誤字報告助かりました



 森を抜けると案外すぐそこに村が見えた。こじんまりとした村の中に、農作業をしているらしい人影が見える。

 ちょうどよいのでせめて現在地の確認だけでもしたい。勇者としての活動の際に各地を転々とした俺なら、だいたいの場所が分かれば旅の方針も固められる。

 

「村人に話しかける時には容姿相応の言動をしてくださいよ?一人称は私、語尾にハートマークを付けるような甘ったるい声を意識してください」

「なんでだよ。俺は心まで女になった気はないぞ」

「いえ、でも実際素性を探られたくないならできるだけ不審な点は無くした方が良くないですか?」

「素性を聞かれちゃまずいかよ」

「貴女の過去は今や他人のものですよ?今まで何をやってたのか喋れない、武器を持ってうろついている少女。私なら付近の騎士に報告しますよ」

「あー分かった分かった。不自然じゃない程度に女っぽい言動に寄せればいいんだろ?」

 

 

 

 

「こんにちは、おじいちゃん。今日はいい天気ですね。少し私とお話していただけませんか?」

 

 自分で言ってて背中がむずかゆくなってきた。村への到着前に使者から言われたように容姿相応の言動をするように心がけた。言葉は柔らかく、友好的な笑顔を浮かべて。

 しかし違和感がすごい。ポケットから使者の嘲笑が聞こえた気がした。やはりあいつはあそこで湖にでも投げ捨ててきた方が良かった。

 

 羞恥心に耐えながら、農作業をしていた老人に話を聞いて、自分の現在の状況を把握できた。

 ここは王国の中で、王都からほど近いらしい。王都は慣れ親しんだ場所だ。そこまで行ければ金も食事もなんとかなりそうだ。

 

 そんな想像をしていると体が勝手に反応した。クゥという、小さな虫が鳴いたような音が俺の腹から漏れ出た。目の前の老人に聞こえるか聞こえないか微妙な音量。その音や羞恥心を誤魔化すように急いで会話を終わらせようとする。

 

「教えてくださりありがとうございました。それでは、おれ……私は王都まで行きますので」

「王都まで1人で行くのかい?最近は盗賊団も出るらしいからあまりおすすめはできないよ」

 

 老人曰く、最近このあたりでは王都に向かう貴族の馬車や行商が襲われる事件が多発していて、かなり大規模な盗賊団の存在が仄めかされているらしい。比較的治安のよかった王都周辺も最近は少しピリピリとした緊張感があるという。

 

「大丈夫ですよ。私、腕には少し覚えがありますので」

 

 背中に背負うようにして携帯している大剣を見せる。身長が下がったせいで腰から下げることができなくなったため適当な蔦で体に括ってある。

 殺されたときに予備の武器として下げていたものをそのまま持っていたらしい。予備とはいえそれなりに使い込んでいる。お飾りには見えないだろう。

 肝心の聖剣は持っていなかったが。

 

「そうかい……?ああ少し待ってくれ」

 

 老人は自宅らしきところまで戻ると何かを持ってきた。

 

「昼食の残りだが、リンゴだ。さっきお腹鳴らしてただろう。王都はすぐ近くだから、気を付けてな」

「……あ、ありがとうございます。」

 

 聞かれていたのか。自分の顔が赤くなってきたのが分かる。羞恥で老人の顔を直視できなくなった俺は、足早にその場を後にした。

 

 

 

 

「聞こえましたよ、子犬の鳴き声のような、愛らしいお腹の鳴き声が!何事もなかったかのように話を続けようとする貴女を見つめる老人の目のなんと優しいことか!」

「あああ分かってんだから言うなよ恥ずかしい!」

 

 蒸し返されるので顔の暑さが全然消えない。

 気を紛らわすために先程もらったリンゴにかぶりついた。大きくて甘い。水気を十分に含んだそれに歯を立てるとシャクと気持ちの良い音を鳴らした。こんなに出来の良いリンゴを見ず知らずの人間にあげられるのか。

 

 

 魔王の侵攻が進んでくると、人はみんなこういうやさしさを見せなくなる。領地が減り、食料が減ってくると人類は互いにいがみ合い、奪い合いを始める。物質的な余裕の無さはそのまま精神的な余裕の無さに直結してくる。自分を守るので精一杯な庶民は屈強な魔王軍ではなく隣人から奪い始める。

 後方があんな状態では勝てる戦いも勝てなくなるだろう。

 

 だから俺はそのうち人がみせる優しさも嫌いになった。いざ余裕がなくなれば簡単に投げ捨てるそれが嘘にしか見えなくなった。

 酔っ払った同僚にやれやれなんて言いながら肩を貸して自宅まで送り届ける酒場の男たちも、腹を空かせている子どもにこっそりタダで食事を与える食堂の女も、全て偽善だと思っていた。

 

 でも今は違った。たかだかリンゴ1つ。周りの手を拒絶し続けていた俺が久しぶりに受け取った優しさ。それだけで自分の心が少し温かくなったのを感じた。

 それは数十年ぶりに感じる感情だった。俺はなんとなく今までの自分が間違っていたことを悟った。そして、それを分かっていても自分の生き方は簡単には変わらないことも。

 

 

 

 

 1人での野宿にももうすっかり慣れたものだ。晴れた日であれば焚火を炊けて、横になれる場所があればそれで十分だ。

 

 今日の夜空には雲はあまり見えない。三日月が遮るものなく堂々と輝いていた。少々風があったが、どうせこの体は風邪も引かないし危機が迫れば勝手に目覚めるのだ。少女の体になってからは試していないがさして変わらないだろう。いい加減な思考で寝床を決める。

 

 魔術を使って焚火に火を着ける。

 やはり魔術の発動には違和感がある。利き手ではない左手で文字を書いているような気持ちの悪い感覚。

 こちらも身体能力同様、前の体よりもかなり劣化しているようだ。一番悪化しているのは魔力の燃費だ。かつてのように魔術を考えなしに連発することはできないだろう。

 まあ、それでもただの人間に負けることはそうそうないだろう。

 

 火が強まってきた。名前も知らないきのこを枝に突き刺して、適当に炙る。薄茶色の傘が若干焦げていた。

 

「あっつ!」

 

 灼熱のきのこを食べて、俺は勇者になってから初めて口の中を火傷するという経験をした。口の中まで勇者の加護がなくなっているらしい。

 どうやら今まで通りとはいかないらしいということを実感しながらも、無防備な野営を改める気にはならなかった。

 

「王都に向かうのは良いですが、勇者殿に会うあてはあるのですか?」

 

 女神像の姿をしたジェーンが突然話しかけてくる。他人に興味のなさそうな無機質な声をしているわりに会話は好きなようだ。

 

「この時期なら一度王城に向かうはずだ。そうなれば王都でも噂になるはずだから勇者、というか俺に会う算段も付けられるだろう」

 

 勇者としての最初の役目は王城まで行って資金などの支援を受け取ることだった。ちょうどこれくらいの暖かな春のことだった。今の時期なら幼馴染のカレンと一緒にいるはずだ。

 

「王都で生活する算段はあるのですか?あ、その体を売るのは私が許しませんよ」

「しねえよ!考えただけでもおぞましい!王都なら冒険者向けの魔獣討伐依頼もあるだろう。それで金を稼げる」

 

 女の側で性行為など考えたくもない。

 俺の一番の稼ぎ口はやはり剣と魔術だろう。噂の盗賊団の討伐でも良い。弱くなったとはいえせいぜい数十年程度の鍛錬しかしていない人間に遅れを取るつもりはない。

 

「もういいか?俺は寝るぞ」

「ええ、おやすみなさい。明日の貴女に女神の加護があらんことを」

 

 そんな役に立たない加護はいらない。一度だって俺の宿願を叶えてくれはしなかったのだから。かがり火に水をかける。三日月だけが空から草原を照らしていた。

 

 

 

 

 幕間① 神話

 

 

 かなり昔、自分の体が勇者という名の人外のものに成り果てる前の話だ。俺は故郷の村の神父の話を聞いていた。目の前には文字を読めない平民にも神話が理解できるようにと描かれた絵画があった。

 

 現在の世界の歴史は大神暦が終わり、女神暦が始まるところから語られる。神話として語られる大神暦について、分かっていることは少ない。

 曰く、大神暦には、全知全能たる大神、デウスとその他多数の神々に庇護された人類は豊かで穏やかな生活を享受していた。人々はみな全てにおいて満ち足りていて、争いすら存在していなかった。

 

 しかし、そんな生活はある時終わりを迎える。大神が突然姿を消したのだ。それに呼応するように神々はそのほとんどが姿を消していった。

 

 

 今まで享受していた神からの恵みを享受できなくなった人々は混乱した。理想郷だった大神暦は唐突に終わりを告げた。

 飢餓、貧困、格差、戦争。愚かな人間によってこの世界は終わるかと思われた。

 終焉に向かう世界を救ったのは唯一最後に世界に残った神、審判と断罪を司る正義の女神、ユースティティアだった。

 

 女神は人々に善悪という価値観を与えた。人を殺すな。人から奪うな。富めるものは分け与えよ。正義の女神は人に罪、善悪の基準を与えた。大神という絶対の存在を失い迷走していた人々は女神の教えに縋りついた。

 その教えが広がるにつれて、世界は平穏を少しずつ取り戻していった。今の世界は女神のおかげで存在している。人間は女神と交信することはできなくなったが、世界中に広がった女神教は、彼女の教えを今に伝え続けている。

 

「こちらの一番大きい方が全知全能の大神、デウス様。人類が大きな危機に陥った時には再び姿を現して、我々に手を差し伸べてくれると言われているよ」

 

 そんなものは現れない。俺は人類の終焉を知っている。それはどこにも救いなんてないものだった。全てを救ってくれる神はいないのだ。

 何も知らない幼い俺は、純粋な気持ちで神父に問いかける。

 

「じゃあどうして猟師のおじさんは死んじゃったの?どうして神様が助けてくれなかったの?」

「今は大神様はこの世界にはいないんだ。全知全能に頼りきった人類に愛想を尽かせてしまったんだ。堕落した人類を今も見守ってくれているのは最後の女神様だけさ」

 

 そんなはずはない。猟師のおじさんは良い人だった。堕落なんてしていない。無知だった俺は純粋にそう思っていた。

 

 悩みも苦悩も葛藤も痛みも、そして人の世界を救ってくれる都合の良い神も奇跡も存在しない。そんなことは分かっている。

 それでも愚かな俺は願ってしまう。人類を、罪深くて愚かな俺を、救ってくれる神を、奇跡を。



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4 盗賊団との戦い

 朝早くから、太陽はずっとギラギラと存在感を示し続けていた。昨日から痛み続けている足を引きずって平地を歩き続ける俺の額にはじんわりと汗がにじんでいた。前髪が額に張り付く。

 

「ダアァ!うっとおしいなあこの髪!切り落としてやろうか!」

「ダメです。年頃の少女っぽくないじゃないですか」

「なんでお前に髪型を指図されなきゃなんねえんだよ」

「私の目の保養のためです。貴女を眺めるくらいしかすることのない私の身にもなってください」

「ふざけてんのか!?……というかお前、その木製の目でどうやって見てんだ?」

 

 退屈のあまり俺は無機物と会話を始めていた。温かい平原を一人ぼっちで歩く俺からは、男みたいな口調の少女の声と、抑揚のない男の声がしていた。

 

「それはもちろん、魔法でちょちょいのちょいです。こう見えても女神の眷属ですから、その程度は苦でもないです」

「魔法も使えるってことは、お前ひょっとして戦えたりするのか?」

「不可能とは言いませんが、難しいですね。今の依代はあまり魔法の行使に向いていないので。魔法使いの人間の死体でも持ってきてくれれば、その体を使って今の貴女よりは上手く魔法を使いこなせるでしょう」

「死体……?お前はあれか、悪霊みたいなものなのか?」

「悪霊とは失礼な!仮にも正義の女神の眷属ですよ。天使とか、もっとあるでしょう」

「天使が人の死体に乗り移ったりするか?」

 

 天使は大神歴には存在したとされる、神の使いだ。美しい顔に純白の羽を持ち、慈愛に満ちた心を持つ、と伝えられている。少なくとも他人の性別を勝手に変えるような悪辣さは持っていなかっただろう。

 

「おっと何か聞こえますね」

「話題を逸らしたな」

 

 白々しさを感じながら耳を澄ましてみると、遠くから怒号が聞こえた。続けて剣戟の音。戦いの音、この世の地獄の気配。先日老人が話していた盗賊だろうか。ちょうどいい。路銀に困っていたところだ。盗賊であれば身ぐるみ剝いでも誰にも文句は言われまい。俺の思考はまさしく盗賊のそれだった。

 

 

 戦場にたどり着くとすでに所々に倒れ伏した人影が見えた。目立つのは豪華な装飾の施された馬車。しかし馬車を引く馬は矢を受けて倒れていた。おそらく王都へ向かっていた貴族のものだろう。周囲には騎士らしき人間が倒れていた。剣を抜いた様子もない。不意打ちで騎士はほとんど倒されてしまったようだ。

 

 騎士は魔力で自分の体を強化できる人間たちだ。貴族の警護などを担当するエリートの彼らが、盗賊のような素人相手にそうそう遅れを取ることはないはずだが。その奥では生き残りの騎士たちと、村人のような出で立ちの若者が盗賊と剣を交えている。

 村人と、その後ろに立つ村娘の姿にひどく既視感がある。平凡な黒髪の少年と茶髪に三つ編みの少女。あれはまさか……俺だろうか。盗賊の数が圧倒的に多い。放っておけば騎士たちは全滅してしまうだろう。そうすれば勇者としての役割を果たさないままに俺が、もう一人の俺が死にかねない。仕方がない。俺は盗賊たちを後ろから奇襲するために静かに移動を始めた。

 

 

 

 

 ロジャース盗賊団はすでに勝利を確信していた。計画も、その実行も完璧だった。魔法と弓による奇襲によって騎士たちは壊滅状態。あとは残党を殺して馬車の中の貴族の身ぐるみ剥ぐなり人質にとるなり好きにできるはずだった。

 

 

 小さな影が彼らの背後に迫る。最初に悲鳴を上げたのは最近盗賊団に入ってきた、最後方にいた若い男だった。尋常ではない気配を感じると背後には可憐な少女がその身に似合わぬ大剣を振り上げているところだった。勢いよく振り下ろしたそれは若者の頭に直撃した。

 かち割られた頭蓋から、鮮血が噴水のように飛び出して少女に降りかかる。返り血で真っ赤に染まった少女は笑っていた。まるでこれから死ぬ運命にある自分たちを嘲笑っているかのような笑み。小さな体躯は巨大な猛獣のような存在感を放っている。無法者として暴力で他人を制してきた盗賊たちはその笑みに激しい悪寒を覚える。高い練度で騎士たちを追い詰めていた一団に動揺が走る。

 

「なんだこのガキ!?」

「後ろに新手だ!気を付けろ!」

 

 反撃はすぐさま行われた。少女の傍にいた隻眼の男は、赤髪めがけて大斧を振り降ろした。笑みを浮かべたままで、少女は舞うかのように軽やかに両断を避ける。そして舞踊の続きであるかのように、大剣の重さを感じさせない鋭い突きを放った。少女の一纏めにされた後ろ髪が追従するように軽やかに舞った。隻眼の男の残っていた目に突き刺さる。視界を失った男は痛みに耐えかねて力なく倒れた。軽やかな剣技と矮躯に見合わぬ膂力を見た盗賊たちは、小柄な少女が全力で倒すべき敵であることを改めて悟った。

 

「囲め!一人で相手するな!」

「見た目に騙されるな!近衛騎士を相手にするつもりでかかれ!手練れだぞ!」

 

 事態を察した盗賊たちは一瞬で少女を取り囲む。各々が得物を前に突き出しながらじりじりと前に出た。すかさず矢が少女の動きを牽制するように放たれた。仲間の間を縫うように放たれたそれは、少女に簡単に撃ち落されていく。

 

 盗賊団の迅速な行動は、ならず者の集まりというよりも洗練された騎士団のようだった。それもそのはず、ロジャース盗賊団はもともと敗走した騎士団の残党によって結成された猛者の集まりだ。だからこそ王都の近くで略奪を繰り返すことができた。そして何度も修羅場を乗り越えてきた精鋭の盗賊たちは知っていた。この広い世界には、自分たちではかなわない化け物がいることを。

 この世界には時として神に愛されたとしか思えない人外の力を振るう者がいる。剛腕が地を裂き、超常の魔法が街一つ廃墟にする。そんな勇者に代表されるその化け物たちに自分たちがかなわないことをよく知っていた。そして、化け物を倒すためには数の利が必要であることもよく分かっていた。

 

「先走るなよ!最初に前に出たものから死ぬぞ!」

 

 リーダー格の男が声を張り上げる。もはや盗賊団の目は騎士たちの残党ではなくただ一人の少女に向けられていた。

 緊迫が盗賊たちを支配する。じりじりと擦り足で少女に近づくたびに盗賊たちは死の予感を感じていた。見た目だけは可憐な少女の纏う殺気は研ぎ澄まされている。獲物をいまかいまかと待つ業物の剣のような、鋭利な殺気だった。ついに少女の得物の間合いに足がかかるかといったその瞬間。円を描いていた盗賊たちは一斉に武器を振り上げた。

 

「死にさらせ化け物!」

 

 恐怖を誤魔化すように雄たけびを上げ、得物を振り上げた盗賊の一人は驚愕する。少女は一瞬で自分の足元に潜り込んでいた。そして顎への鈍い衝撃。得物を振るうこともできないゼロ距離からの鋭いアッパーカット。盗賊の目元はチカチカと光る。

 

「舐めるなよクソガキ!」

 

 しかし盗賊はタフだった。少女の位置すら把握できないまま盗賊は脚を鋭く振りぬく。破れかぶれの蹴りが柔らかい肉体に当たった感覚がする。

 

「ゴフッ……。痛い……。痛い!これが普通の人間!あいつらはこんな痛みを感じていたのか!?百年越しに知れたぞ!ハハッ、最高の気分だ!」

 

 鳩尾の痛みに悶えながらも狂ったように笑う少女の大剣が、鋭い蹴りを放った盗賊の首を撥ねる。すぐさま盗賊の死体に自分の体を隠す。次の瞬間には盗賊の死体には多数の刃物が突き刺さった。良識ある常人とは思えない戦法に盗賊たちは目を瞠った。少女は死体を盾にして盗賊の集団へと突っ込んでいった。人外の脚力は単なる体当たりを人殺しの技にまで昇華した。勢いづいた馬車に轢かれたかのように盗賊たちが宙を舞う。多数の断末魔が響いた。盗賊たちの即席の包囲網は一瞬で崩壊した。

 

「まずいな……」

 

 盗賊団の棟梁であるロジャースには現状が正しく把握できていた。人外の力を振るう少女の皮をかぶった化け物。そして化け物に特有の慢心も見られない。さらに悪いことに少女は戦いについてその矮躯に不釣り合いなほどに理解していた。固い絆で結ばれた集団ほど仲間を傷つけることを恐れること。そして人外の力をいかに振るえば凡人を虐殺できるのか。思考しているうちにも盗賊たちが、仲間たちが悲鳴を上げて死んでいく。

 

「全員俺の近くに固まれ!固まって数で圧殺するぞ!」

 

 一瞬で盗賊団が集結する。しかしその数は当初の六割程度だ。死体を巧みに使い突貫を繰り返す少女によって盗賊団の虐殺が進んでいた。

 

「仲間を攻撃することを恐れるな!躊躇していたらいずれにせよ全滅だ!」

 

 盗賊たちは覚悟を決めていた。もはや犠牲を嫌って斃せる相手ではない。仲間を撃つことになろうとも、目の前での化け物を殺さなくてはならない。近距離での武器の扱いになれた者は陣形の前方、少女と相対する位置へ。その後ろには弓の扱いになれた者たち。それから少数の魔法を扱うことができる、貴族崩れの魔法使いたち。もはや貴重な魔法を温存する気もない。肉壁が機能しているうちに剣と槍と矢と魔法で打ち倒す。盗賊団にとっての最善策。

 

 そんな唯人の努力を嘲笑うように化け物は真っ正面から飛び掛かっていった。矮躯の三倍は飛んだだろうかという大跳躍。盗賊の陣形に向かって少女が文字通り飛んでくる。上空の少女をいくつもの矢が、魔法が、投擲された槍が射貫く。蹂躙された少女の身から血が流れ落ち、地上に赤い雨を降らす。常人であれば死んでいただろう。矢と槍が隙間なく小さな体のあらゆる部分を蹂躙する。大剣を握る右手には矢が突き刺さり、体の中央からは槍の持ち手が生えていた。致命傷に見えた。その他かすり傷、刺し傷共に多数。それでも、ただ一人のものとは思えないほどの濃厚な殺気はいささかも衰えた様子はない。この化け物は死ぬその瞬間まで怯むことはないのだろう、と盗賊たちは思った。血反吐を吐きながらも少女は止まらない、止まれない。止まるには、諦めるには、百年を生きた少女の背負った使命と命は重すぎた。

 

「アアアアア!」

 

 単に地面に武器を叩きつけるだけで、地響きが起きる。地響きに耐えられず膝をついたものから作業の如く首を刈り取られる。万全を期した盗賊たちの陣形はただの一撃で崩壊した。

 いつの間にか最初に戦ってた騎士たちも少女と合流して戦っていた。すでに盗賊たちはほとんどが地に伏せている。鎧に身を包んだ男、ロジャースは盗賊団の長として最後まで化け物と剣を交えていた。経験と技術でなんとか切り結んでいたロジャースにも終わりが訪れる。少女の体の捻りを活かした横凪ぎの一閃は、男の剣を真っ二つにした。彼は根本からぽっきり折れてしまった剣を放りだし、両手を上げる。

 

「降参だよ化け物。お前は殺し合いに慣れすぎている」

「降参したから命を助けてくれと?」

 

 少女が軽蔑した目を向けた。対する盗賊の首領の目は、死が目の前にあるとは思えないほどに、透明に透き通っていた。その顔は無心なようにも、安堵しているようにも見えた。

 

「違うよ。ただ、仲間たちを見逃してくれないかと君の良心に訴えている」

「良心なんてある相手に見えたか?」

「見えるよ。君は義務と責任に縛り付けられてしまった、元々は心優しい少女だ」

 

 言った瞬間、盗賊団首領の首が宙に舞った。少女は何か気に障ったように不機嫌そうな表情のままに剣を収めた。首無しの死体を一瞥すると、駆け付けてきた騎士に話しかける。

「騎士様ですね?残党の処理はお願いしてもいいですか?」

 

「あ、ああ。任された」

 

 先ほどまでとは別人のような穏やかな口調に動揺しながらも騎士は答えた。

 

「……どうして、最期まで悪党らしく死んでくれないんだ」

 

 少女の呟きは誰にも届かない。また一つ、罪を重ねる。




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5 もう一人の自分 勇者の誕生

新キャラの登場だけど、彼女の過去の掘り下げでもあったりする


 平和な村で暮らしていた少年オスカーは、この村で生き続けて、猟師である父親の後を継いでいくものだと思っていた。何の変哲もない暮らし。黒髪に黒目の、凡庸な見た目。幼馴染はよく見れば結構カッコいいよ、なんて気を使って言ってくれた。それだけでよかった。父と母がいて、隣に幼馴染がいて、それだけで十分だった。勇者になんてならなくて良かった。

 

 

 劇的な変化が訪れたきっかけは、村に聖剣による勇者選定の噂が届いたことだったのだろう。その噂曰く、今年15になる少年少女の中に勇者に選ばれる者がいる。勇者になる者だけが聖剣を石から抜くことができる。

 神殿に納められている聖剣の元には毎日各地から訪れた少年少女たちが行列を作っているらしい。オスカーとカレンも今年で15だ。村人たちは彼らが神殿まで行くことに喜んで賛成してくれた。小さな村の中で金を出し合い、神殿まで向かう馬車の乗車賃を工面してくれた。

 

「凄い行列だね。アタシはなんか人混みに酔ってきちゃったかも」

「もう少しで先頭まで着くから頑張ろう?」

「うん、ありがとう」

 

 隣で若干顔色を悪くしているカレンの様子を伺う。きめ細やかな茶髪は首のあたりで三つ編みにされて、肩の下あたりまで垂れている。三つ編みは元気の良い時には動き回る彼女の動きに合わせて勢い良く上下する。今はぐったりした様子の彼女に合わせるようにしんなりとしているように見えた。面白いもの、興味深いものが目の前に現れると、まん丸に開いて、キラキラと輝きだす深緑の瞳も今は伏せられている。

 

 帰る前にどこかで彼女を休ませよう。少年はそんなことを思いながら列の先を眺めていた。列は長かったが、止まることなく進み続けていた。先頭に近づくにつれて周りの少年少女の期待は高まっているようだった。御伽噺にも語られる勇者の選定。もしかしたら自分は特別な人間だったのかもしれないという期待。思春期である15の少年少女にとってそれはあまりに甘美な妄想だった。

 

「ねえ、もし本当に勇者様に選ばれちゃったらどうする!?」

「――決めたぞケビン!俺は勇者になったらお姫様と結婚する!」

 

 浮かれ切った喧騒。けれども彼らはみな列の先頭まで辿り着くと、しばらくして肩を落として帰っていく。一方の少年はそのような期待とは無縁だった。村にいた時には見たことのないほどの人の数。それを見れば勇者に選ばれるかもしれないなんて、全く思えなかった。自分はなんの変哲もないただの村人だ。それでいい。そう思っていた。

 けれども、ついに列の先頭に立ち、聖剣を握った瞬間異変に気付いた。手元から伝わる異様な存在感。突如熱を帯び始めた聖剣は自分の手に吸い付くようだった。何かに導かれるように、そのまま聖剣を持ち上げる。神殿にたくさんの驚きの声が響いた。

 

 

 それからは怒涛の日々だった。すぐに少年は王城への招待状を受け取った。昨日まで村人だった少年はこの国の心臓部に入ることが決定された。村に帰って半信半疑だった村人たちに王城からの招待状を見せた。みんなお祭り騒ぎだった。この村から勇者が出たのだ。英雄の村になるのだと。

 

「未来の英雄様に乾杯!」

「いやあ、まさかあのオスカーが勇者だなんて!世の中分からねえなあ!」

「頑張れよ、オスカー!なに、お前ならできるって!俺は信じてるからよ!」

 

 少年が村を立つ前夜は宴だった。大人たちは楽し気に酒を飲み、無邪気に、無責任に少年に激励の言葉を送る。少年は嬉しく感じると同時に、少し前まで気安く話していた大人たちが遠くにいったような気がして少し寂しく感じた。

 

 それでも、自分がもはやただの村人ではないことも分かっていた。聖剣を持ち帰った日から明らかに体が変化した。飛んでいく虫の動きを正確に目で追える。腕力が急に増した。水汲みの効率は以前の比べ物にならなかった。外見上の変化はあまりなかったが、自分の体が別物に作り替えられているようだった。神殿の人間の説明によれば、数日で女神の祝福が体に行き渡るらしい。祝福といっても平凡な村人だった少年には、あまりありがたいものだと思えなかった。祝福を捨てて勇者の任から降りるか、と問われればあっさりと了承しただろう。人類の希望たる勇者という肩書はそれだけ重かった。

 

 

 

 

 一人で王都に向かうつもりだった少年にとって、幼馴染のカレンが一緒に付いていくと言って聞かなかったことは想定外だった。人当たりの良い彼女だが、同時に自分の決めたことはテコでも変えない頑固者という側面も持っていた。

 

「アンタがなんて言おうと付いていくから!」

「遊びじゃないんだよ?僕といれば、絶対に戦いに巻き込まれるんだ。……死ぬかもしれない」

 

 初めて口にした。幼馴染の拒絶。しかし今だけは。彼女を危険に晒すなんて耐えられない。でもその思いは、彼女も同じだった。

 

「でも……アンタが死ぬかもしれない。そう思ったらこの村でのんびりと暮らしているなんてできない。アンタの無事を平和な村で悶々と祈りながら今までの暮らしなんてできっこない!……きっと、アタシが女神様に祈り続けていたのはきっとこのためだったんだよ」

 

 毎日欠かさず真摯な祈りを捧げている彼女の神聖魔法の腕は近隣の村でも噂になるほどだった。治癒魔法に代表される神聖魔法は、信仰心の強さで練度が決まると言われている。大人が匙を投げた重症の患者を魔法一つで治癒してのけた時には彼も驚いた。強い意志の籠った彼女の瞳を見て、少年は説得を諦めた。戦いの場を見れば怯えて村に帰ってくれるかもしれない。そんなことを呑気に思っていた。戦場を甘く見ていたのは少年も同じだったことに気づくのはすぐだった。

 

 

 王都まではなんと領主夫妻の馬車で送ってくれるらしい。馬車には馬に乗った鎧姿の男が何人も付いていた。護衛の騎士たちらしい。急に貴族のような扱いを受けた少年は恐縮した。

 豪華な造りの馬車の中、正面に座るのは生まれながらの貴族。最初は村人だからどんなに馬鹿にされるのだろうかとビクビクしていたが、話してみると案外自分たちと変わらない人間のように見えた。「田舎領主なんて平民の生活と大差ないわ」なんて上質な布で作られた衣装に身を包んだ夫人が、冗談めかしてにこやかに言っていたことが少年の印象に残った。

 

 馬車がいよいよ王都に着こうかという頃、轟音が馬車を襲った。盗賊団の襲撃にあったのだと理解できたのは横転した馬車から這い出ることができた後だった。

 

 

 齢15で勇者というあまりに重い役目を背負わされた少年にとって、盗賊団との戦いは初めての実戦だった。身が竦んだ。怒号や風切り音、命を散らす者の最期の叫び。平和な村で暮らしていた少年には全てが未知で、たまらなく怖かった。その場にいる誰よりも頑丈な体を持っていても、少年の心は弱いままだった。それでも少年は剣を持ち戦場に立った。後ろには家族、姉と慕った幼馴染がいる。逃げるわけにはいかない。

 

「おお?なんだ、犯しがいのありそうな女がいるじゃねえか。――おいそこのクソガキ、どけ。殺すぞ」

 

 盗賊の中でも特に身汚い男だった。ぼろきれのような服に脂ぎった茶髪。落ちこぼれた騎士である大半の盗賊団員たちと違い、スラム街に生まれ、他人から奪い続けて生き長らえてきた男はその身に野蛮な暴力性を醸し出していた。

 そんな男が幼馴染を傷つけようとしている。少年は大切な幼馴染を守ろうと思った。けれども体が思うように動かない。本物の敵意に、悪意に遭遇するのはこれが初めてだったのだ。平和な村で暮らしていた彼にとってそれらは未知の存在だった。怖かった。男の野獣のような瞳も、人の肉を容易く引き裂く剣先も。

 

「どけっつてんだろ!ぼうっとしてんじゃねえぞ」

 

 男が少年の肩を乱暴に押す。されるがままに少年は転げた。そのうちに男が幼馴染の元にたどり着く。

 

「お友達の前で犯してやるよ。いやあ、こんな美味しそうな上玉がいるなんてラッキーだったぜ」

 

 男の脂ぎった顔が欲望に醜く歪む。幼馴染の顔は怯えていた。恐怖に目を見開き、顔は遠くからでもわかるほど青白く、唇は小刻みに震えている。助けなければ。意思に反して足は石のように動かない。体は小刻みに震えるばかりでちっとも動いてはくれない。

 

 その時幼馴染の目がこちらに向いた。唇が動く。助けて、と言われていることに気づいた。少年は初めて幼馴染に助けを求められた。いつも不甲斐ない自分を助けてくれるのはカレンだった。彼女に手を引かれ、臆病だった自分を引っ張ってくれた。でも今は違う。少年は特別な人間になったのだ。きっと自分の体が作り変えられたのも、この時のためだったのだ。大切な人が目の前にいて、自分には助ける力がある。噓のように体が軽い。軽快に動く体は重たかった聖剣を高々と掲げ、男の右腕を裂いた。

 

「ガアアアアア!このクソガキ!」

 

 男が殺意に満ちた瞳をこちらに向けてくる。それを真っ向から受け止める少年にはもはや恐怖や怯えはない。急に勇者に相応しい心が宿ったわけではない。少年には未だに世界を救う決意もなければ、人類の希望となる実感も湧かない。けれども、目の前の大切な人を救える程度には、勇者だった。

 

 

 それからの少年は英雄の片鱗を見せていたといっていいだろう。目の前の男を打倒してすぐに、劣勢だった騎士たちと共に戦い始める。圧倒的だった。祝福を受けた体は敵の攻撃を一切寄せ付けず、ともすれば拳一つで敵を沈めていった。

 

 幼馴染を守ることができた。多くの盗賊を捕らえることができた。しかし、自分の目の前で多くの騎士が亡くなっていった。積みあがった死体は自分の未熟さを証明していた。

 そんな地獄の中、少年は本物の英雄の姿を見る。小さな体が舞うたびに敵が悲鳴を上げて倒れ伏す。赤髪が躍る様は獰猛な狼を思わせた。その少女の体は自分よりも遥かに小さかった。それでいて誰よりも速く、力強く、そして恐ろしいほど合理的に敵を屠っていった。小柄な少女の強さは確かに少年の憧れたものだった。しかし同時に、少年には、少女の強さはひどく不安定で危ういものに見えた。



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6 もう一人の自分、かつての幼馴染との出会い

 戦いを終えて、俺は血を洗い流すため近くの川辺まで来ていた。人前ではあまり魔術を見せたくなかったので、身に付いた血を清めることができなかった。魔法、魔術を使える人間は大抵が貴族の血縁だ。騎士に身元を聞かれても、俺は答えるべき過去を持っていない。余計な詮索は勘弁だ。

 水を汲めるようにずっと持っていたボトルに水を入れ、頭から被る。ひんやりした水が火照った体に心地よい。

 

「痛い……」

 

 そして傷口にも染みた。痛みは消えずに撃たれた箇所を責め続ける。傷が勝手に治り、痛みも感じなかった勇者の頃とは違う。自分を責め続ける痛みが心地よい。あんなにも欲しかった、自分にも背負わせてほしいと願った痛みが、自分を救ってくれる気がした。そういえば今の俺は死ぬこともできるんだっけ。

 

「傷は大丈夫ですか?」

 

 思考が遮られる。唐突に、懐かしい声に呼びかけられた。意識が外界に向けられる。振り返ると、幼馴染がいた。

 

 カレンとは同じ村で育った姉弟のようなもの、だった。年は同じで家も隣。仲良くなっていくのも自然な流れだった。そして勇者になってからも彼女は共に戦う仲間でいてくれた。聖職者としての才能に恵まれていたために少数精鋭の勇者パーティーでも活躍してくれた。仲間内で一番心優しかったのも彼女だった。敵味方の区別なく人を助け、慈しむ。だからこそ俺が手段を選ばずに敵を殺すようになってから真っ先に離れていったのも彼女だった。

 記憶の中の彼女の発言を思い出す。

 

「変わってしまったアンタとはもう一緒に歩けない」

 

 初めて拒絶されたときの冷たい声色も瞳も忘れられない。自分の体感上50年以上、彼女とは絶縁していた。

 

「はい、問題ありません。お……私の身を案じて頂きありがとうございます」

 

 言ってから自分の発言のらしくなさに鳥肌が立った。何が私だ。自分の一人称が気持ち悪い。

 

「本当ですか?少し見せてください」

「あ、ちょっとやめ……」

 

 ズズッと近づいてきた彼女に服を捲られる。目の前に近づいた彼女の頭髪に動揺する。懐かしい彼女の匂いがする。しかし以前ほど、男だった時ほどの動揺はなかった。きっと以前ならあまり無防備に男に近寄るな、なんて照れ隠しをしていただろう。聖職者としての使命を果たしている時の彼女はいつもの天真爛漫な様子はなりをひそめ、ただ楚々と自分の役目を果たす。

 

「ひどい傷ですが塞がり始めてますね……。……『女神の祝福あれ』」

 

 簡略化された治癒魔法がかかる。ほんのりと緑色の光が傷口に現れる。先ほどから続いていた痛みは消えてしまった。腹部の傷は一瞬で治っていた。身を蝕む痛みが温かい光に包まれて消えてゆく心地よい感覚。長らくしていなかった体験だ。

 

「ありがとうございます」

「苦しんでいる人を助けるのは聖職者として当然でしょ?」

 

 朗らかな笑みを浮かべながら、模範のような答えを口にする。王都の中央教会にいる利権と金にしか興味のない聖職者たちに聞かせてやりたいセリフだった。

 

「カレン?その子は大丈夫だった?」

 

 聞きなれたような、それでいて初めて聞く声が聞こえた。それは間違いなくかつての俺の声。凡庸な黒髪黒目の少年。その見た目に不釣り合いなほどに輝く、鞘に納められた聖剣を携えている。そこには15歳の俺がいた。

 

「傷はもう治りかけてるみたい。あ、オスカーはあんまり見ちゃダメよ。水に濡れてだいぶ色っぽい感じになってるから……ていうかこの子なんでこんな無防備なの……?」

 

 カレンがブツブツ言っていたがその意図は良く分からなかった。

 

「重傷に見えたけど、随分丈夫な体だね」

「この子の体、アンタと同じ特別製みたい。傷がちょっとずつ塞がってきてた」

 

 カレンは俺の体を勇者と同種のものと理解したようだが、その見解は概ね正しい。正確には勇者の劣化品だ。それでもこの身体の特異性がなくなったわけではない。

 

 勇者を筆頭に人とは思えない力を持った人間が、神に選ばれたとしか思えない人間がこの世界に生まれてくることがある。頑丈な体や人外の膂力、常人の数十倍の魔力など特徴は様々である。実際これらの超常の力は女神が魔王軍に対抗できるように力を授けたものであり、神に選ばれたという認識は間違っていない。

 

「初めまして、先日勇者に選ばれたオスカーです。さっきは助けてくれてありがとう」

 

 こちらに向き直って……そしてなぜか少し視線を逸らした彼が挨拶をしてくる。そんなことは知っている。多分俺が一番。

 しかし自分と改めて対面するといよいよ別人になってしまったという実感が湧いてくる。彼は自分で口にした勇者という言葉にどこかくすぐったさを感じているようだ。ただの村人が急にそんな仰々しい名前を付けられたのだから当然か。そしてその様子から、彼は人生を繰り返した経験はないのだろうとなんとなく察する。

 

 カレンがそんな様子を微笑まし気に眺めている。それを見ると自分まで恥ずかしくなってくる。彼女を姉のように慕っていたころをぼんやりと思い出した。俺はもうカレンの幼馴染でもなくなった。最後のほうは仲たがいしてばかりだったけれど、それでも故郷に帰れなかった自分にとって特別な存在だった。

 治癒魔法を含む、神聖魔法に優れていて、勇者パーティーを支えてくれた。明るく、快活な笑顔が魅力的な少女だ。それでいて聖職者としての自負があり、自分を曲げることはなかった。だから、どんな手段を用いてでも、どんな犠牲を出してでも魔王を殺そうとする俺とは、最後には決別する運命にあった。

 

「はあ、初めまして私は……」

 

 名乗ろうとして気づく。オスカーはもう目の前にいる。新しい自分の名前。今の俺は何者か。人生のすべてだった勇者の使命はもうない。魔王討伐はただの俺の私怨と成り果てた。では俺に残ったものは何か。自分の失敗だらけの人生を思い返して、俺の人生が何によって構成されていたのか考えた。

 

 答えはすぐに出る。それはきっと、背負ってきた罪だ。記憶が呼び起こされる。初めて自分が殺してしまった少女のことを。贖罪のためにまた罪を重ねて、他人の命ばかりを浪費する自業自得の地獄への一本道を歩む始まりになった、忘れてはならない彼女の名前は

 

「私は、メメと言います」

 

 

 

 

 メメという少女は俺にとって自分の重ねてきた罪の象徴のような存在だ。俺が初めて勇者として先陣を切って戦闘に参加した時のことだった。強敵だった。突如王国内で発生した魔物の大量発生。それでも勝った、はずだった。魔物群はほとんどが死亡。こちらにも犠牲は出てしまったけれども、魔物の練度を鑑みれば快勝と言っていい戦果だった。問題はその戦いが終わった後だった。一部の知性ある魔物の人質となっていた子どもを村まで送り届けていた時、俺は過ちを犯した。

 

 油断していたのだろう。疲れ切った体で子どもを村に送り返すと、みな口々に感謝を伝えてきた。それを見て戦いは終わったと思い込んでいた。最後の少女、メメを村に送り届けた、その瞬間だった。普段なら気づけただろう。後方から飛んできた一本の矢は寸分違わずメメの胸を貫いた。思考が真っ白になる。

 

「ハハハ!ざまあみろ勇者!父を殺した報いを受けろ!お前の生に呪いあれ!」

 

 憎悪に塗れた咆哮を発した小さなゴブリンは騎士の放った魔法で絶命した。敵を倒しても失われた命は戻らない。子どもを目の前で殺された両親は激昂した。どうして守ってくれなかったのか。お前は勇者ではなかったのか。母親のヒステリックな泣き声も、父親の俺の胸元を掴んだ手が震えていたことも、今でも鮮明に思い出せる。

 

 その時に俺は気づいた。俺はこれから罪を重ねていくのだと。子どもを持つ父親であったゴブリンも、平和な村で暮らしていた少女も、殺したのは俺だった。だから俺は、初めて自分の罪を理解したあの時のことをいつまでも忘れられない。俺は俺が関わった全ての死を忘れてはならない。

 

 

 幕間② 神話、五戒と三禁

 

 人の世界における法や規範は神の残した言葉を元に作られていることが多い。代表的なのが、各国の法律の元になっている「女神の五戒」。大神デウス亡き後の混乱期に女神ユースティティアが打ち出した善悪の基準だ。

 

 人を無暗に傷つけるな、殺めるな

 人から奪うな

 人を尊重し、愛せよ

 人を助けよ

 人と幸福を分かち合え

 

 大神のいなくなった後の混乱期にはこの五戒に背いたと見なされた人間には女神の使者が直々に断罪の剣を振るった、と伝えられている。この時の女神の使者が勇者のはじまりである、というのはまた別の話だ。またこの伝説から、今に伝えられる女神は、左手に審判を示す天秤を持ち、右手に断罪を示す剣を持った姿をしている。

 

 混乱期は悪人を殺し尽くして一応の平穏を勝ち取った、らしい。女神が人の世に干渉しづらくなっている現在でも、各国が五戒に背く法を作らないかと、最大宗教である女神教が監視をしている。しかし女神教も動かしているのは人間だ。五戒が完璧に守られているとは言い難い。

 

 

 五戒と比して極めて厳格に守られている禁忌が存在する。歴史上にしか存在しない理想郷、大神暦から続く、今は亡き大神が打ち出した三つの禁忌、「三禁」と呼ばれている。

 

 大神以外のあらゆる存在が命を創ることを禁ず

 あらゆる時間に干渉する試みを禁ず

 神が直接世界に干渉することを禁ず

 

 人のみならず神をも縛る強力な禁忌は、破ればあらゆる人間の侮蔑を免れない。大神はこの禁忌を、定命の者には持て余す権限として一切を禁じた。善人も悪人も例外なく、この禁忌を破ることを本能のように忌み嫌う。実際、かつて禁じられた蘇りの魔術を研究していた魔法使いは火炙りに処されている。蘇りの魔法は「命を創ること」に当たると判断される。

 

 そして女神はこの禁忌を破っている、と言っていいだろう。俺という勇者を「時間に干渉」して蘇生するという「命を創る」行いをしている。女神も例外なく禁忌を厭う本能はあるはずだ。しかし大神暦から千年。女神はどこか壊れているのだろう。大神に会えた暁には私は彼の雷に打たれるのだ、と珍しく感情の乗った声で俺に語っていた。お前が勝手に罰を受けるなら勝手にしろ。それではこの俺は。女神によって時間に干渉して蘇生され続けている俺は、どれだけの罪に問われるのだろうか。

 

 そして人が皆この常識の中で生きている以上、俺は自分が蘇り続ける存在であることを誰かに告げることはないのだろう。何度も繰り返して罪を犯して、それでも懲りずに魔王を殺すために愚直に突き進んでいることは誰にも言えない俺の一番の秘密だった。

 



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7 交流、ナンパ

 あの戦いの後、生存していた馬車の持ち主の貴族からは感謝状をしたためてもらった。本物の貴族の署名付きだ。しかるべきところに持っていけば金をもらえることになっている。盗賊団は王都から来た騎士に引き渡した。彼らがこれから生き延びられるのかは俺の知ることではない。しかし今すぐに殺すことは止めた。

 

 カレン、オスカーと一緒に首都まで向かうことになった。予想以上に血を失っていた俺は少し足元がふらついていたため、一緒にいた方がいいとカレンに押し切られてしまった。肩を貸すという提案を断り、自分の足で歩く。

 太股のあたりの矢の貫通した傷は治療せず放置していた。どうせ時間が立てば勝手に治るのだ。一歩踏み出すたびに痛む傷口から自分が勇者ではなくなったことを改めて実感させる。勇者の体ならば慣れれば痛みは自分の意志で遮断できた。内心カレンに気づかれるのではないかと思っていたが、杞憂だったようだ。彼女は隣にいる幼馴染と初めて遭遇した戦場について話し合っていた。

 

「オスカー凄かったね。敵をどんどんやっつけてさ」

「聖剣が想像以上の切れ味でさ。相手の得物も切れちゃうんだから、改めて勇者っていう肩書の凄さを実感したよ」

「あんなすごい武器があったら案外魔王ってやつもあっさり倒せちゃうんじゃない?」

「そうだといいなあ……」

 

 聖剣はこの世界に存在するほとんどの武器よりも硬くて鋭い。匹敵するとしたら太古の昔に神々が鍛えたと言われる伝説の武器か、魔王が叛逆神から授けられるとされる、魔剣くらいのものだろう。最高峰の肉体に最高峰の武器を備える。それが勇者という役割だ。そして、それらを以てしても倒せなかったのが後に当代最強と言われる十代目の魔王だ。

 

「お二人はどんな関係なんですか?」

 

 交流を図るために分かり切ったことを聞く。社交的なカレンは気軽に二人のこれまでを話してくれた。ずっと一緒だったこと。家が隣だったこと。輝かしい思い出の数々。

 

「それじゃあ二人は15年も一緒にいる幼馴染ってことですか」

「まあそうね。いやー、オスカーは昔から臆病で引っ込み思案だったからさ。私がいないと何にもできなくてさ」

「い、いやそれは本当に小っちゃい頃の話でしょ。僕だってもう15だよ?もうそんな子どもじゃないよ」

「えー本当に?でも15になっても結局一緒にいるじゃない?今だって」

「それはそうだけど。……そういうカレンも結構ダメなところもあるじゃないか。この前宿で寝てる僕を叩き起こしてトイレまでついてこさせたことを忘れたとは言わせないよ」

「ちょっと!初対面の人の前で何暴露してくれちゃってるの!?そんなこと言ってるとアンタの最新のおねしょの話するよ?」

「何年前の話だよ!それなら僕にもとっておきのエピソードが……」

 

 二人は実に楽しそうに言い争いを続けていた。俺としては複雑な気分だった。カレンがこんなに楽しそうにオスカーと会話をしている。彼女はこんなにも愉快そうにコロコロと表情を変え、楽しそうに笑っていたのだ。俺が気づこうとしなかっただけで俺が一緒にいたカレンもきっとそうだったのだ。失くしたものの大きさには気づくのはいつも失くした後だ。当たり前の時間も当たり前の関係も、ずっと享受していた信頼も。

 

 

 

 

 二人の会話が一段落したのを見計らって、二人のこれからの予定について尋ねる。俺としてはなんとかして二人の魔王討伐の道中に同行したい。未だ人生一周目らしい勇者では魔王は倒せないことは俺が良く分かっている。このままでは人類が滅びる。

 

「お二人とも王都に向かっているようですが、何か用があるのですか?」

「王様から王城に来るようにって招待されていてね。だから二人とも王都まではメメと一緒にいれるよ」

「それでは、お二人はこれから王城に向かうのですね」

「そんなにかしこまった喋り方をする必要はないよ。……正直田舎者が突然そんな煌びやかな所に行くのは不安なんだけど……」

「そうかな?まあ向こうから招待されたわけだし、あんまり緊張しなくてもいいんじゃないか……もし良かったら私も付いていこうか?」

 

 

 付いていこうか?なんて普通は軽く入れる王城ではないが、それが勇者の推薦となると話が変わってくる。勇者に付き従い、共に戦う者たちには、勇者と同じように大きな権利が認められる。

 

 歴史上の教訓から、勇者パーティーという名の少数精鋭の集団に多くの権利を認める今の制度に至っている。先々代の勇者の時には、各国が過干渉して勇者パーティーを作った結果、利権のために足を引っ張って魔王討伐が遅れたことがあったらしい。魔王やその幹部討伐の名誉は世界に認められるものであり、場合によっては一国の王になる大義にすらなり得る。

 

 その他の勇者の戦いの歴史を顧みても、少人数で魔王討伐に挑んだ方が上手くいく事が分かっている。勇者の身体能力は抜きんでているので、共に肩を並べられるような人材は限られるのだ。それゆえ現在、勇者に過干渉せずに支援だけすることが各国の間で暗黙の了解になっている。

 

 伝統的に勇者自身が勇者パーティーを招集して魔王討伐にあたることになっている。俺としては王との謁見に同席することをきっかけに勇者パーティーの一員として認められたいという思惑があった。王からそうと認識されれば簡単には俺を追い出すこともできなくなる。すべては魔王を殺すために。

 

 

 ふわふわした提案を受け入れてくれたカレンはついでにボロボロになった服の代わりまで買ってくれるらしい。そういえば勇者様の声が聞こえないと思い視線を向けると、バッチリ目が合った。オスカーは若干頬を赤らめながら目をそらした。

 

「……えっ気持ちわる」

 

 思わず声に出てしまった。二人には聞こえなかったらしい。内心が簡単にわかるのでとても気持ち悪い。同年代の女性がカレンしかいなかったから、女性への免疫がない。話すのも緊張するが、顔を眺めていたのが気づかれた。恥ずかしい。こんなところか。かつての自分の初々しさを改めて見せられるという拷問、そして自分自身に女性として見られているという気持ち悪さ。

お前は隣の大切な幼馴染だけ見ていれば良いのだ。目の前の男なのか女なのか分からない存在に目を向けている場合ではない。後ろで二人が楽しそうに話しているのに背を向けて、俺は王都への道を歩き続けた。

 

 

 

 

 王都パンヴァラは東西に広がるパンヴァナフ王国の中心に位置する、心臓部と言える重要な場所だ。政治の頂点である王城、そして最大宗教である女神教の総本山、中央教会が街の中に存在する。その他にも精鋭である近衛騎士団など、王国の戦力がここに集中している。周辺には整備された馬車道が広がり、各地に素早く戦力を送り込む用意が整っている。

 

 重要な施設ひしめくこの王都パンヴァラは人類の魔物たちとの戦争においての最終防衛ラインである。そもそもパンヴァナフ王国はその成り立ちから魔族との戦争に明け暮れてきた国だ。魔族の生存領域は大陸の北側、極寒の地だ。王国はそのすぐ下、大陸中央を東西に横切るエーギ山脈を隔てた南に位置している。魔王が攻め込んできた時に矢面に立つのは王国であり、そして歴史上最後には必ず勝利してきた。王都は千年近くに渡る歴史の中で一度も陥落したことのない要塞、だった。

 

 そのような関係から、パンヴァナフ王国は人間の国から攻め込まれることはあまりない。末端の土地を争う小競り合い程度だ。常時魔族との戦争状態とも言える王国の軍備は充実している。そして仮に王国の重要な都市を奪えたとしたら、今度は対魔族の戦いを負担することになるのだ。豊かな土地と進んだ産業を持つ王国だったが、侵略して富を奪おうとする国家はほとんど現れなかった。

 

 

 王都前、門番との軽い問答を終えて、正門から王都の中へと入る。王都は田舎の村などとは比べ物にならないほど活気にあふれている。どこを見ても人の姿が見える。田舎の村では見ることのできない光景だ。訪れた者は最初に商店などが軒を連ねる大通りに足を踏み入れることになる。

 

「北部産のとびっきり甘いリンゴ、誰か買わないかね~?」

「あそこの店は貴族様にも人気らしくて……」

 

 都会人たちは忙しい。道を歩く者たちはキビキビと自分の目的地へと向かう。ほとんどが顔の表情は明るく、自分のこれからの人生が幸福であることを信じて疑っていないようだった。二人は見たこともない喧騒に圧倒されている。放っておくと人混みに流されてはぐれてしまいそうだった。

 

「こっちだ。早くいこう」

 

 二人の手を取って、人混みをかき分ける。こればかりは慣れが必要だ。足早に俺たちの進行方向へ向かっている女の後ろにつけて、代わりに人混みを掻き分けてもらう。

 昼下がりの王都を歩いているのは主に買い物のために出てきている主婦たちだ。人が流れ続けている道の真ん中とは対照的に、端のほうでは所々で井戸端会議が開かれていた。記憶にある曲がり角を見つけて、大通りから外れると、服飾店に到着した。二人は慣れない人込みに揉まれて疲れたらしい。壁に背中を預けて休んでいた。

 

「フゥ……。すごいね、このあたりはよく来るの?」

 

 カレンが息を整えながら聞いてきた。俺はそれに、まあとかうんとか曖昧に答える。思えば自分の過去をどう説明したらいいのか分からなかった。首の後ろあたりを搔きながら、とりあえず適当に話題をそらす。

 

「服を一式なんてそれなりにするが、本当に大丈夫なのか?」

「大丈夫。村のみんなが旅費としてくれたお金がまだ残ってるから」

 

 そういえばそうだったか。あの村での生活のことはもはやよく覚えていない。体感で百年ほど前のことなのだ。両親の顔すらあやふやだ。今では村へ行ってもただぼんやりとした懐かしさのようなものを感じるだけだ。

 

「よし、休憩終わり!じゃあさっそく気合入れておめかししちゃおうか!」

「えっいや別にみすぼらしくなければいいんだけど……うわっ」

 

 俺の手を握って勢いよく飛び出した彼女の瞳は未知への期待にキラキラと輝いていた。店内には十代から二十代の若い女が多かった。ハリのある甲高い声が方々から聞こえる。その中にあってもカレンの溌剌とした声は俺の耳に良く届いた。

 

「これ!これとか似合いそう!」

「こんな感じの色合いならその綺麗な赤髪に似合うかも。どう?」

「見て見て、ちょっとエッチな下着!」

「これなんかどうだろう?」

「メメちゃん!君センスが男の子だよ!」

 

 身を着飾る装飾を選ぶ彼女はとても楽しそうで、疲れたからちょっと休ませてくれ、なんてとても言える雰囲気ではなかった。オスカーと同じく同年代の子どもと遊ぶ機会に恵まれなかった彼女は、同年代に見える俺と買い物するというシチュエーションをこの上なく楽しんでいるらしかった。水を差すのも悪い。俺はカレンに手を引かれるがままに店内をくまなく見て回った。

 

 

「どうして女の子の買い物はあんなに長いんだ?何着も試着するのは時間の無駄じゃないか」

「だって選んでいるときが一番楽しいじゃない。というか女の子に言われるとは思わなかった」

 

 そういえば俺も今は買い物が長い種族だった。普段着れる動きやすい服がいくらか、それと見栄えを重視した値の張るものがワンセット。これでひとまず勇者と一緒に王城に行っても門前払いされることはないだろう。お貴族様の服には遠く及ばないが、むしろ変に派手な服を着て行っても本物を知る彼らにバカにされるだけだ。

 

 ようやく服を選んで、オスカーと合流する。装いを改めたカレンに目を奪われているらしい。彼の初心な様子に彼女は満足げだ。自慢気に胸をはってオスカーに問いかける。

 

「何か感想はないのかな?」

「カレンのその服、良く似合ってるね。……なんていうかこういう時なんて言ったらいいか分からないけど、えっと、僕は好きだな」

 

 俯き気味に、首の後ろあたりをボリボリと搔きながら、オスカーはこっぱずかしい台詞を吐いた。見ている俺まで羞恥に襲われそうな初心な姿だ。自信満々の態度で笑っていたのに思わぬ一撃を食らったカレンまでも恥ずかしそうにしている。視線はオスカーと同じように相手の足元。所在なさげな指は自分の三つ編みを意味もなく弄っていた。

 

「えっ、それはあの……ありがとう」

 

 俺もカレンの珍しいしおらしい姿を見れて満足だ。オスカーが彼女の格好を好むのも当然だ。何せ俺の好みで選んだのだから。何年経っても好きな女の子の好きな恰好は変わらないことが証明された瞬間だった。

 

 

 微妙に気まずいような、甘酸っぱい雰囲気を醸し出し始めた二人を尻目に、そのまま王城へと向かおうと歩き出す。

 しかし大通りを少し歩くと、目の前から歩いてきた青年が突如声をかけてきた。軽薄な雰囲気で軽薄そうな話し方をしている。夜の歓楽街にいるような、王都のメイン通りには珍しい人種だ。

 

「あれ、可愛い子たちがいる。良かったちょっとお話していかない?最近できたカフェがすぐ近くにあるんだけど」

 

 田舎上がりで顔立ちの整ったカレンはこういった手合いに絡まれやすい。こういう男たちの手をはねのけるのは俺の役目だった。

 

「私たちはこれから行かなければならないところがある。どいてくれ」

 

 いつものように威圧する意味もこめて肩を軽く押そうとすると、突き出した手を掴まれる。振りほどくのは容易だろう。しかし今までに見たことのない意味不明な行動に困惑する。

 

「強気な子も嫌いじゃないよ?どう?一緒にお茶」

「……?お前は何を言っているんだ?」

「君だって結構可愛いじゃん。俺は好きだよ」

 

 ようやく目の前の男が言っていることが理解できた。これは俺が横で何度も目にしてきたイベント。

 そう、俺は今ナンパされているのだ。手首を掴まれて、お誘いを受けている。

 

「お前!声かける相手間違ってるぞ!?なんで目の前に純正の美少女がいるのにこんな中途半端な奴に声かけてんだ!お前の目は節穴か!?」

 

 男が目を白黒させている。わけのわからないキレ方をしているように映っただろう。しかし俺としては自分がナンパされるということは認めがたいことだった。

 

「いいか?これから大事なことを聞くから、その足りなそうな頭をちゃんと働かせて答えろよ?……俺とカレンだったらカレンを選ぶしかないよな!?」

「?えっと、君も可愛いから自信もっていいと思うよ」

「……おまええええ!!」

 

 俺は怒りに任せて拳を振り上げた。今すぐこいつの頭をぶっ叩いて今の言葉を撤回させなければ。俺が、可愛いなどという戯言を二度と言えないように矯正してやらなければ。

 

「い、行こうメメさん。この人に構う必要ないって」

 

 激昂し始めた俺を見かねてオスカーが俺の腕を取った。

 

「は、離せ馬鹿野郎!一回ぶったたけばこいつだってさっきの妄言を撤回する!一回ぶん殴らせろお!」

 

 彼に引きずられるように俺はその場を後にすることになった。

 

 

「ありえねえ……。あいつ女の形してれば何でもいいと思ってんのか……。有り得ないくらい可愛いだろ今のカレン。それを無視してあいつ……あいつ……言う事に欠いて俺に、かわ……可愛いとか……バカにしやがって!今度会ったらあの不良品の下半身の女センサーへし折ってやる!」

 

 しばらくみっともなく地団太を踏みながらわめいていたような気がする。百年を生きてもこんな経験はなかった。こんな屈辱は無かった。そしてさらに最悪なのは先ほどのような事態はまた起こりうるということだ。俺の男としてのアイデンティティのピンチだった。

 

「お、落ち着いて。えっと気にしないで!アタシはメメちゃんは可愛いっていいうよりカッコいいタイプだと思うよ!」

「え?ああ、うん。ありがとう?」

 

 なんとか慰めようとしてくれているカレンを見てようやく落ち着いた。今までになかったような感情の振れ方をしていた自分の心を、深呼吸して落ち着かせる。先ほどのアイデンティティを揺るがされた事態はひとまず頭の片隅に追いやることにした。

 



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8 王城

 商店で賑わっていた街道を抜けて、門を潜ると貴族街に入る。先ほどまでの喧騒は一気に遠のき、自分たちが石畳を踏む音だけが響く。静謐な街は呼吸すら憚られるほどの独特の雰囲気だ。周囲の建物も先ほどまでと異なり規則正しく並んでいた。居心地の悪さを感じながら街の中央へと向かう。するとひと際目立つ煌びやかな建物が見えてきた。王城。この国で最も身分の高い者の居城だ。

 

 

 他国が強い権力を持つ議会の設置を進めるなど、民主化の道を辿っている女神暦千年に近い現代、王国は未だに世襲制の王が、強い権力を維持し続けていた。地方を治める貴族は各地に存在するが、王の権力は圧倒的だった。これは非常時、すなわち魔王が攻め込んできたときなどには、国が一丸となって戦争に向かわなければならない土地柄が影響している。かなりざっくりと言ってしまえば、この国の王とは、人類の中で最も富と権力を持つ個人だ。

 

 

 王城に入ると静けさは一段と増し、呼吸することすら憚られるほどだった。絢爛な内装はこの城の主の格を示している。オスカーは物珍しさに廊下をキョロキョロと見渡している。恥ずかしいから止めろ、と言うわけにもいかなかったので黙って歩く。

 

 案内役の騎士についていくと、ひと際大きな部屋に通される。この国の心臓部、政治の頂点の集まる玉座の間だ。入口から見上げるような位置、玉座には何度心で呪ったかわからない、王の姿があった。

 利発そうな顔立ちに立派な白いあごひげを蓄えている。豪華な装束に身を包み、こちらを冷徹な目で見据えている。対面する相手に威圧感を与えるような威風堂々とした姿。初めて対面した者は聡明な君主であるという印象を抱くだろう。その印象は間違いではないが、大事な点が抜けている。奴は己の保身のためなら国ごと売れるような冷血漢だ。俺が繰り返した歴史がそれを証明している。

 

「遠路はるばるよく来てくれたな、勇者殿」

「は、初めまして陛下。この度はご招待いただきありがとうございます」

 

 オスカーが形式的な挨拶をガチガチに緊張した声でする。聞いているこっちが恥ずかしくなりそうだ。

 

「それで、勇者殿の戦いの仲間は今のところその二人で良いのか?」

「えっいや……」

 

 まともな受け答えのできそうにないオスカーの代わりに返答する。これは気遣いというよりは俺の王に勇者パーティーの一人として認められたいという思惑ありきだった。

 

「その通りでございます、陛下。カレン殿は優秀な神聖魔法の使い手でございます。さらに、教会の影響を受けない稀有な聖職者です。勇者パーティーの一員として相応しいと言えるでしょう。そして私は剣の扱いには人並み以上の覚えがあります。先だってのロジャース盗賊団討伐の折にも感謝状を受け取っております。さらに魔王領付近の地理にも詳しく、サポートが可能でしょう」

「ふむ、少々若すぎるようにも見えるが……まあ良いだろう。勇者殿、官吏から後ほど必要なものを渡すから受け取ってくれたまえ」

「は、はい。ありがとうございます」

 

 あっさりと王との初邂逅は終わった。無駄を嫌い、効率を重視する王のことだ。平民を相手に体裁を気にする必要もないと考えているのだろう。俺が憎悪を抑えられているうちに退室できて良かった。もう少しあそこにいたら王の首を撥ねているところだった。そうなることが分かっていながら謁見まで着いていったのは考えあってのことだ。

 

「どうしてあんなこと言ったんだ?メメまで僕についてくることになったじゃないか!」

 

 城の外まで出るとすぐにオスカーが鼻息荒く俺を問い詰めてきた。

 

「そのつもりで言ったんだ。王の前で宣言したんだから、まさかおいていくわけにもいくまい?」

「君が戦いに出る必要なんてない。これは僕の戦いだ」

 

 冷たい表情を作ったオスカーが厳しい口調で断定する。隣にいるカレンがハラハラとした様子でこちらを見ているのが視界の端に映った。突き放すことで危険から遠ざけようとしているのだろう。浅ましい自己犠牲。その意図は、他でもない俺だからわかる。でもそれは違う。これは元々俺の戦いだったんだ。

 

「君たちが受け入れてくれなくても私は勝手に戦う。私の人生の意義は魔王を倒すことだけだ」

 

 今更他の何かのために生きるなんてできない。繰り返し繰り返し、敵味方問わず多くの屍を積み上げてきた。

 彼らは今この瞬間には生きているのだろう。それでも俺が殺したことに変わりない。時間を遡ろうとも罪は俺の中に堆積し続け、本懐を果たせとささやき続けている。それは呪いであり、罪であり、俺のただ一つ残った生きる意味、もしくは今ここで死なないことの理由だった。

 

「それに、今のお前たちはあまりに未熟すぎる。そのままではきっと取り返しのつかない失敗をする」

 

 俺が何回も見てきたのだから間違いない。記憶の中の積み重ねた屍がそう語っている。数多の失敗の記憶は俺の魂にこびりついている。

 

「でも、メメが人生を捧げてまでするべきことじゃない!勇者に選ばれたのは僕だ!」

「……知ってるか?未熟な勇者様。弱い奴は戦いの場では何も語る資格はないんだ。死人に口なし。ただ速やかに屍に成り果てるか、その場からみっともなく逃げ出すかのどちらかだ。……俺はお前が止めようと魔王を殺しに行く」

 

 

 

 

 それが今日の最後の会話となった。気まずいままにオスカーと別れ、宿の部屋に入ると清潔に整えられたベッドが真っ先に目に飛び込んできた。物理的にいくらか軽くなった体を投げ込むとベッドは少しきしんだ音をたてる。王城からの推薦で泊まることになった宿はひどく快適だった。

 

「勇者殿に対してずいぶん当たりが強いのではないですか?精神年齢百歳オーバーの爺様とは思えないほどの情緒不安定っぷりですね」

 

 自分1人しかいないはずの部屋に唐突に他人の声が響く。女神像の形をしたジェーンが話しかけてきていた。

 

「あんなに苛立つ会話は初めてだ。あいつは未熟にすぎる。しかも俺には思考が読める分余計に腹が立つ。あんなのが勇者で本当に良かったのか?」

「最初は貴女もあんな感じだったのではないですか?」

「もちろんだとも!でもだからってあいつの未熟さを許せるわけじゃない。確実に人が死ぬんだ。たくさんだ。戦いに赴く勇敢な騎士たちも、何の罪もない無垢な子どもも、例外なんて一つとしてありやしない。止められるのは勇者だけだ。救えたのは俺だけだったんだ」

 

 瞼を閉じればすぐにでも浮かんでくる光景。救えなかった命、勇敢に立ち向かって消え去った命。俺が俺自身の未熟さを許して良いはずがなかった。

 

「あなたはもう勇者ではないのですが。……まあしかしどれだけ彼を嫌おうと、貴女にはもはや1人で魔王軍を打ち倒せるような力は残っていないのですから、協力するしかないのではないですか?」

「……ああ、そうだな」

 

 改めて突き付けられた、絶対零度の真実。何気ないような口調で紡がれた言葉は俺にとって受け入れがたい現実だった。もう本懐を俺一人で果たすことは不可能なのだ。睡眠も食事も、仲間と語り合うときも、あらゆる時間を打倒魔王のために使って、それでも届かなかった。今やただの人であるこの身では試すまでもない。

 

 灯りを消して、瞼を閉じる。体は久しく肉体的疲労を訴えてきている。数分もすれば眠りにつくだろう。暗闇の中で胸に去来した絶望は全く新しい種類のそれだった。届くはずの希望に手が届かないことに絶望し続けていた。今は、希望には自分の手が届くことがないという純然たる事実に絶望していた。それでも、諦めるわけにはいかないのだ。手が届かないからといって、手を伸ばさないわけにはいかない。

 

 

 バッドエンドの記憶 冷酷な合理主義

 

 

 後から考えるとそれは悪夢と呼ばれるものだったのだろう。眠った俺の脳内に浮かぶ回想。俺だけの脳内に、魂に残っている俺の罪、その一幕。

 

 

 王都はここ数日激しい雷雨に襲われていた。飛来する無数の雨粒が地面に突き刺さり、人影がなく喧騒の消えた王都を濡らす。戦況が悪化するにつれて王都からはどんどんと人がいなくなっていた。

 最初は戦地に向かう騎士や魔法使いたちが姿を消した。次に消えたのは王都に滞在していた貴族たち。戦局をいち早く耳にした彼らは我さきにと自分の領地に戻っていった。その次には人の流れを敏感に察知した商人たちが店を畳んで出ていく。そうなれば庶民たちもどこかに出ていかざるを得なかった。

 

 王都はおよそ一月ほどで人影のないひっそりとした場所になった。薄暗いこの場所で今も煌々と明かりが存在するのはこの王城くらいか。俺は目の前に聳え立つ何より高い城を見上げる。城の最も高いところ、その頂点に立てられた王国の国旗に雷が落ちてくる。轟音を響かせるその様は、人類に天罰を下しているようだった。見張りの兵は既に昏倒させた。玉座まではさほど苦労せずたどり着けるだろう。

 

「そこまでだぞ叛逆者!剣を手放し降伏しろ!」

 

 外に響く雷にも負けない声で王が玉座へと向かう俺に吠えた。玉座の上からの叫びは下座にいる俺の耳にもよく届いた。構うものか。あの愚王に、俺に全面的に協力することを確約させればよいだけだ。王の指の一つでも撥ねて脅迫すれば話は済むだろう。

 

 戦況は悪化の一途をたどっている。治癒魔法の使い手が多く所属する中央教会が内側から瓦解した。女神の使者を名乗る魔物の甘言に乗せられた最高司祭が魔物を手引きした。聖職者は今やほとんど生き残っていなかった。

 

 洗脳魔法の一つも自分で防げない世襲主義の生み出した無能が教会のトップであることの危うさは前から感じていた。しかしここまで最悪のタイミングでそれが裏目に出るとは思わなかった。斥候からの報告ですでに魔王軍主力が王都への侵攻を始めたことが分かっている。もはや打てる策は多くない。せめて十分な数の聖職者がそろわなければロクな抵抗もできないままに人類は敗北する。

 ごく一部の貴族のみに使用が許可されている転移陣。あれを使えば国中から聖職者を集められる。王権を使えば不可能ではない。掛かっているのは人類の命運だ。どんな手段を使ってでも成し遂げる。

 

「この女が殺されてもいいのか!?止まれ!」

 

 不穏な一言。慌てて声のした玉座の傍に目を向けると、衛兵に引きずられて少女が見えた。数日前に道をたがえ、中央教会に所属したはずのカレンが、死んだように目を閉じている。所々に傷の跡が見える体を乱雑に引きずられてこちらに来る。まるで罪人のような扱いだ。

 信じられなかった。中央教会の聖職者は一般には高い身分にあり、貴族といえどもぞんざいに扱えないはずだ。ありえない現実が受け入れられず、思考が停止する。悪い夢のようだった。衛兵は見せしめのように剣を高々と振り上げると、カレンの左腕を根本から切り裂いた。

 

「アアアアアッ!!」

 

 その叫び声が痛みに飛び起きたカレンのものだったのか、それとも自分のものだったのか今では覚えていない。ただ、王が保身のためならどんな手段をも用いるということだけは鮮明に記憶残っている。そして俺の勝手な行動のために、何より大切だった幼馴染を傷つけてしまったことはいつまでも覚えている。俺の生にはもはや彼女の左腕に値するような価値はないというのに。



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9 穢れた俺と純真な彼の喧嘩

TS前とTS後の同一人物の絡み
ニッチにニッチを掛け合わせてしまった……


 嫌な夢を見た朝はいつも憂鬱だ。頭は重く、足を前に進めるのにも気力を要する。思えば睡眠欲をシャットダウンするようになったのは、時間を捻出するためだけでなく、悪夢を見たくなかったからだったのかもしれない。

 

 二人とは食堂で合流した。昨日の気まずい雰囲気のままでは良くないと思い、一応言葉の上ではオスカーに謝る。

 

「ああうん。メメさんの言ってたことも事実だったと思うし、気にしてないよ」

 

 彼の中でも一応納得はしたらしい。俺を戦いに巻き込むことを容認したようだ。どれだけ身を案じても最終的には本人の意思を尊重する。そういう人間、だった。でなければ大切な幼馴染と共に王都まで来ていない。それゆえに起こる悲劇を彼はまだ見ていない。

 

「でも僕は、メメさんが自分の幸せのために生きて欲しいと思っているよ」

 

 真剣な声音。言葉を返すことはできなかった。代わりに俺はオスカーにある提案を持ちかけた。

 

 

 

 

「本当に決闘なんてやるの?木剣とはいっても痛いものは痛いんだよ?」

「勇者殿の体は頑丈だし大丈夫だろ。どちらにせよお互いの実力を知っておくのは悪いことじゃない」

 

 王都の正門を出て少し歩くと人影は全く見えなくなる。周囲には穏やかな朝風に吹かれて揺れる背の低い雑草が広がっているだけだ。模擬戦、決闘をするには十分な環境だ。思い切り剣をぶつけ合っても、魔術をぶっ放しても誰にも見咎められない。

 木剣はオスカーが村から持ち出した物をそのまま使わせてもらう。鍛錬のためにわざわざ持ってきたらしい。

 

「本当にやるの?メメさん防具もつけてないけど」

 

 未だ女々しいことを言っているオスカーに少し苛立つ。やはり俺は彼との会話の相性があまりよくないようだ。

 とはいえ、この場には二人だけだ。ここならお互いに、言いたいことをぶつけられる。鬱屈した感情はさっさと吐き出すのが最善だ。だから、あえて神経を逆なでする言葉選びをする。

 

「なあお前、むかついただろう?初対面の女に未熟だと罵られて。腹が立つだろう?この俺に。表面上は和解して、遺恨を残している現状はあまりよろしくない。ここで解消しておこうじゃないか」

「そんなことは……」

「お前が腹を立てていることくらい俺には筒抜けなんだよ。そもそも、お前はこれから人類の希望たる勇者になるんだろ?勇者様がふがいなくてどうするんだ。舐められたら叩きふせるくらいの気概を見せてみろ」

 

 言葉で煽り続けるが、煮え切らない態度だ。彼の態度を見ているうちに本気で腹が立ってくる。

 

「……いいからかかってこいよ腰抜け野郎。女一人倒せないで何が勇者だ?」

 

 直接的な挑発をすると彼も少し表情を変えて剣を構えた。当然だろう。俺が言われて一番腹が立つだろう言葉をぶつけたのだから。

 

「行くぞ未熟な勇者様!」

 

 剣を下段に構えて駆ける。常人離れした脚力で一瞬で彼の目の前にたどり着く。だが目の前の彼もまた常人を逸した体の持ち主だ。下段から振り上げられた俺の剣を正確に切り返す。

 だがその後があまりに無防備だった。打ち合った剣先をすぐに相手に向けて突きを放つ。回避しきれなかった彼の肩先に剣先が突き刺さり、彼の体がよろめく。

 体勢を立て直す前に鳩尾に向かって回し蹴りを思いっきり放つ。体重を乗せた蹴りが直撃したオスカーの体は吹き飛び、地面を二転三転した。思ったよりもスッキリした。

 

「ゲホッゲホッ……。容赦ないね」

「当たり前だろ?俺のむしゃくしゃを全力で込めたんだから」

「君、結構僕のこと嫌いだよね」

「ようやく気付いたか?でもお前も俺のこと嫌いだろ?」

 

 オスカーに問いかける。俺には分かる。俺なら、自分の幸せを掴もうともせずに破滅に向かうやつなんて嫌いになるだろう。勇者の責務もないのに。何の義務もないのに。

 よろよろと立ち上がったオスカーの様子を伺う。先ほどまで咳き込んでいた彼の顔が急に笑みを作った。満面の、人を馬鹿にしたような笑み。

 

「……メメさんの俺っていう一人称、意外と可愛いよね」

「なんだとおまえええええ」

 

 許せない一言に思わず激昂しかけてすぐに彼の動きに気づく。体勢を低くして、喉笛を食いちぎらんと疾走する狼のような姿勢のままに彼は突進してきていた。危うく木剣で剣戟を受け止める。手がビリビリと痺れた。

 

「きたねえ手を使うじゃねえか勇者様!」

「僕だって君のつまらない冗談に腹が立っているからね!どんな手段を使ってもせめて一太刀は入れたいんだ!」

 

 声には苛立ちが乗っていたが、剣にブレはなかった。彼の一撃一撃を律儀に受け止める。朝の草原に木と木のぶつかり合うカツンという軽快な音が断続的に響く。

 素人にしては筋が良いと言えるだろう。彼の剣は重くて鋭い。常人であればさほど苦労なく打ち倒すだろう。でもそれでは足りない。今代の勇者に求められているのはその程度の強さではない。全人類の先頭で、過去最悪の魔王軍と対峙しなければならない。

 

 想いを乗せて、切りかかる。鍛錬の跡は見えるが、オスカーの剣技はやはり拙い。狙いが分かりやすくて、フェイントをかければあっさりと急所を晒す。打ち合えばオスカーが一方的に体に傷を増やしていった。どうせたいして痛くないのだ。構うものか。

 

 一撃、また一撃とオスカーの体に衝撃が走る。流石に堪えたようで、動きが鈍くなっている。俺の体重の乗った一撃を肩先に食らったオスカーは、膝を付いて乱れた呼吸を整えようとしている。

 

「もう体力の限界か?お前、俺に一太刀入れるんじゃなかったのか?口ほどにないな」

「君の方が強いことは良く分かったよ。僕が弱いことも。……次で終わりにしよう。勝っても、負けても」

 

 額の汗を拭いながら、彼は自分の限界を告げた。勇者の人外の腕力は勝手に与えられるものだが、持久力は案外鍛えなければ付かないものだ。呼吸の使い方や、プレッシャーをはねのける胆力が必要になる。

 

 言葉とは裏腹に彼が勝利を諦めた様子はない。瞳は真っ直ぐにこちらを見据えている。その奥には強い闘争心。俺の挑発はよっぽど彼の心に響いたらしい。

彼が剣を大上段に振りかぶる。素人らしい、型もなにもない未熟な立ち姿。よく見ればその両腕は疲労に小刻みに震えている。しかし不安定な立ち姿とは裏腹に、繰り出される一撃は人外の膂力を以て大きな破壊をもたらすだろう。

 

 刹那の硬直。次の瞬間には真剣な顔が目の前に迫ってきていた。脆い人間の体程度なら粉砕できそうな一撃が俺の頭部に迫る。殺す気か?生命の危機すら感じるほどの剛剣。通常であれば問題なく避けられるはずだった。

 しかし、その刹那に目に飛び込んできた予想外の存在が俺の算段を狂わす。剣の辿る軌道を見極めようと視線を上げる。すると、昇ってきたばかりの朝日に目が焼けて一瞬で視界が白に染まる。――まずい。

 

「ハアアア!」

 

 視界を失った俺は反射的に横に転がろうとした。しかし彼の一撃の方が早かった。豪快な風切り音。重たい一撃が左肩を直撃した。肩が爆発したのではないかというほどの衝撃。木剣といえども、その凄まじい威力に俺は思わず尻餅を付いた。座り込んだ俺をオスカーが見下ろしている。

 

「最終的には、僕の勝ち、でいいかな?」

「ハァァァ……そうだな。今回はお前の勝ちだよ、オスカー。でも負けたのはたまたま太陽が目に入ったせいだからな。実力では俺が勝ってた。精進しろよ?」

 

 みっともなく負け惜しみを吐く。

 

「うん、そうだね。最後の動きはおかしかった。でも僕はいつか実力で勝ってみせるよ。……ごめん。必要以上に力が入っちゃったんだ。立てる?」

 

 俺に剣だこだらけの右手を差し出してくる。見上げると先ほど俺の視界を焼いた朝日が彼の気づかわしげな顔を後ろから照らす。あんまりにも眩しいそれから目を背けた俺は、自分の剣を杖がわりにして立ち上がった。

 あるいは、目を逸らしたのは一点の曇りなき太陽のような、罪のない純真な彼への醜い嫉妬だったかもしれない。俺の魂は太陽のように明るいものではなく、汚点ばかりで穢れている。だから、俺はその手を取れない。

 

「やっぱり俺はお前のことが嫌いなのかもしれない」

「僕もそう思った。でも、分かり合えなくても手は取り合えると思ってるよ」

 

 

 

 

 手元の食卓に広がる料理の数々は出来立てで一番美味しい状態であることを示すように、白い湯気を立てている。野菜はみずみずしく、魚は丸々と太っていた。昨日の夕食を含めて二回目の都会の食事に満足げな二人に今後の予定について伝える。昨日の王都慣れした俺の姿を見て二人は一旦パーティーの主導権を俺に渡すことに決めたらしい。

 

「とりあえず王城から優秀な人材の推薦状をオスカーがもらっている。これを頼りにパーティーに加わってもらえるか打診していこう。まずは彼女からで良いだろう」

 

 テーブルの上に上質な羊皮紙を置く。推薦状には勇者パーティーの候補者の名前、それからその人物の簡単な経歴が載せられていた。推薦した相手へと勇者パーティーへの協力を要請する旨の書かれた、王城からの手紙も同封されている。

 

「オリヴィア・バーネット……16歳かあ。ずいぶん若い人を選んだね」

「年を重ねた優秀な人材なんてほとんど何らかの組織と切り離せない関係なんだよ。勇者パーティーに政治やら宗教やらの思惑が入り込むとロクなことにならないぞ」

 

 パンを飲み込みながら返答する。繰り返しの経験からも碌な事にならないことは分かっている。その点、村娘でありながらトップクラスの神聖魔法の使い手であるカレンは、腐った既得権益ナンバーワンである中央教会と関係のない聖職者という得難い人材だ。

 

「その点オリヴィアなら安心だ。貴族ではあるが、若いうえに頭が柔らかすぎて貴族社会に馴染んでいない。出る杭は打たれる、の典型だな」

「知り合いなの?」

「……いや、一方的に知っているだけだ」

 

 誤魔化すようにスープを飲み干した。俺にとっては知り合いどころかそれ以上の関係だったわけだが、彼女にとっては初対面だ。だから他人だ。俺の知る過去なんてどこにもない。

 



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10 オリヴィア①

ここすき、めちゃくちゃいい機能ですね。嬉しい



 件の勇者パーティーに勧誘したいオリヴィアは、今の時期には魔法学院に在籍している、優秀な魔法使いだ。王都に設立されている魔法学院では主に貴族の子女が魔法の扱いを学んでいる。警備は厳しいが、王城からの推薦状を見せればあっさりと通された。

 

 繰り返しの過去において、紆余曲折を経て数年ここで魔法を学んだことのある俺は、慣れ親しんだ校舎を迷いなく進む。廊下は貴族子女の居場所だけあって清潔に保たれている。生徒を満足させるために下働きが多数雇われている。

 

 目指すのは多数の生徒で賑わっている「伝統魔法」の教室ではない。追いやられるように隅にこぢんまりと設立された「実戦魔術」の教室。見慣れたそれを見て胸に浮かぶのは懐かしさ、安心、失ってしまった悲しさ。

 もはやここは俺にとっての居場所ではない。そんな過去はこの世界に存在しない。だから、それを郷愁と呼んでいいのか分からなかった。力を籠めてその扉を開け、俺はまた何度目か分からない初めましてを始めた。

 

 

 

 

 魔法学院には大別して二つの流派のようなものがある。一つは圧倒的主流である伝統魔法派。伝統ある貴族家が特に修めるものであり、長い詠唱と高い効果が特徴だ。魔王軍との戦争の際には特に拠点防衛に高い適正を示すこととなる。率直な言い方をすれば、まわりに肉壁がいなければクソの役にも立たないので、前線に立つのにはあまり向いていない。

 

 主流である伝統魔法と比較してマイナーなのが実戦魔術派だ。詠唱などの伝統や見栄えを重視せず、最短で最高の効率を出すことを目指す、人や魔物を殺すことを念頭に置いた魔術だ。戦争になれば最も役立つのはこの派閥だ。

 ただ、いかんせん修めている人材があまりにも少ない。血統の質が大きく影響する魔法の世界の人間は貴族が9割を占める。伝統魔法の練度は貴族のステータスになる。結果貴族子女がほとんどの魔法学院の生徒はほとんどが伝統魔法派だ。おまけに実戦魔術を野蛮な技術と見下している。

 

 

 

 

 魔法学院を支配する保守的な空気は戦争に移行するにあたっては邪魔でしかない。そのことに気づいた俺は一時期その空気を変えようと、王に頼んで魔法学院に通っていたことがあった。勇者という肩書はあれど、元は単なる村人だった俺は選民思想の蔓延る伝統魔法の教室には入れなかった。学院で迫害され続けている実戦魔術の教室で、俺はオリヴィアに会った。

 

 美しい少女だった。迫害され、誰もが下を向いているその教室で、いつも彼女は背筋をまっすぐに伸ばし前を向いていた。魔力の高い平民や貴族の落胤の中で彼女は正当な貴族然とした振る舞いを崩さなかった。俺にとっては身分の低い人間を見下す凡百の貴族ではなく、彼女こそが最も貴い身分の存在に見えていた。

 

 

 

 

「オリヴィア・バーネット様ですね?初めまして。陛下からの推薦を受けて貴女を訪ねました」

「ああ、噂の勇者様でありましょうか。初めまして、オリヴィア・バーネットと申します」

「いえ、勇者殿はあちらです。私は粗相なきよう仲介を任されています」

 

 オリヴィアの視線がオスカーの方を向く。オスカーはどうしてよいのか分からないらしく、にへらと愛想笑いのような情けない笑みを浮かべた。横にいるカレンがちょっと呆れたような目で彼を見る。

 

 その様子を見たオリヴィアが少し目を細めた。迫力のある端正な顔立ちが一層迫力を増す。己の品位を示すように、見事な金髪を隙なく編んでいる彼女はキツめの美人顔も相まって睨みを効かせるとかなり怖い。そして誰よりも貴族らしさを追い求めている人間だ。そのため、弱腰や情けなさ、曖昧さを見せる人間に嫌悪感を示すことが多い。

 

 まして勇者という肩書には、先頭に立って大勢を先導するような、古典的貴族のような役目が求められることもある。彼女も当然それを知っているだろう。

 

「栄光ある勇者パーティーにご招待いただいたことは大変光栄ですが、私のような半端者が本当に必要ですの?」

 

 俺の目を見てオリヴィアが話す。オリヴィアは学院でおよそ唯一と言える、伝統魔法と実戦魔術の両方を学ぶ生徒だ。彼女は半端者と言ったが、どちらの欠点も良く知っている彼女は戦争において最も頼りになる魔法使いだった。

 

「学院唯一の生徒だから必要なのです。私たちは伝統に囚われた魔法使いも、反骨心だけで修練している実戦魔術師も必要としません。貴女のように誠実に魔法に向き合っている方が必要なのです。貴女の評判は聞き及んでいます。成績は今期トップ。授業で教われることは全て習得していて、その上で学院の在籍期間中は自主研究に励んでいるとの話でした。きっと貴女ほど優秀な生徒は他にいないでしょう。ぜひ、貴女に力を貸していただきたいと思っております」

 

 言うと彼女は若干顔をそむけた。これは常に相手の目を見ている彼女には珍しい反応だ。良く見れば耳がほんのり赤くなっている。努力の量に比して認められた経験の少ない彼女は誉め言葉に弱い。周囲にはほとんど知られていないことだったが、率直に言えば結構チョロかった。正直かつての俺は、悪い男にあっさり騙されそうだなと少し不安に思っていたほどだ。

 

「そ、そこまで言うのなら貴族として協力するのもやぶさかではありません。しかし私、安い女ではなくってよ?」

 

 王城からの援助についてのことや、待遇についていくらか擦り合わせを行うと、彼女は勇者パーティーの一員として戦うことを約束してくれた。そうして俺はまた、彼女を死地へと連れていくことになった。

 

 

 

 

 この世界には存在しない記憶。俺の頭にだけ残っている夢の出来事のようなものだ。

 

 王立魔法学院、実戦魔術の教室は今日も熱気に満ちていた。分厚い書籍を開き、時々何事かメモしている生徒。魔術理論について侃々諤々の議論を繰り広げる生徒たち。自らの手で魔術の可能性を探る勤勉な生徒たち。

 

 ここにいるのはみな貴族社会からは排斥された、訳アリのつまはじきもの。貴族の隠し子、家業を継げなかった子ども、そして、先日王都に来た元村人の勇者。肩書は様々だったが共通点が一つ。血統ではなく己の魔法の才覚一つで秀才集う王都魔法学院への入学を果たした金の卵たちだった。

 

 騒々しい音を立てながら、教室の前の扉が勢いよく開く。扉の前には二人の男子生徒がいた。扉の近くにいる生徒が興奮冷めやらぬといった様子で声を張り上げる。

 

「オリヴィア、オリヴィアー!大変だ!」

「何ですの騒がしい。そんな大声を出さなくても聞こえています」

 

 名前を呼ばれて振り返った少女は、どこか陰のあるつまはじきものの生徒たちの中で異彩を放っていた。丁寧に手入れされて編み上げられた見事な金髪。美しい顔は少し怒ったような表情を作っていて、細められた目が威圧感を出している。「氷の公爵令嬢」の異名に違わぬ氷点下の冷たさを感じる表情だった。

 

「そ、そんなに怒らなくても……。いや、オスカーがマルロに決闘を申し込まれたんだよ!あいつらオスカーのことを農民だなんだと馬鹿にしているからな。血統でしか自分を誇れないあの馬鹿どもの鼻を明かすチャンスだぞ!」

「お口が少々悪くてよ?……しかし、それは確かにチャンスではありますね。マルロの増長は最近目に余るものがありましたから」

「俺が勝てればって話だろ?俺まだここに入って二か月だぞ?魔術には自信ないなあ」

 

 鼻息荒く語る男子生徒の後ろにいたもう一人の男子生徒――まだせいぜい人生20周目程度の未熟な俺――が自信なさげに話す。その様子を見たオリヴィアの眉がわずかに吊り上がる。

 

「オスカー、誰より才能に恵まれている貴方が弱気でどうするんですの?……仕方がありません、私がギリギリまで特別授業を付けて差し上げましょう。感謝してくださいませ?」

「オリヴィアの特別授業かあ……めちゃくちゃ厳しそうだな……」

 

 俺のボヤキを聞きつけたオリヴィアの目がさらに細まった。最初に彼女から学んだことは、美人の睨み顔はとても怖いことだった。

 

 

 それから決闘までの二週間、オリヴィアは付きっ切りで俺に決闘に使えそうな魔術の使い方について教えてくれた。

 

「違いますわ!貴方の頭、どこかに穴が開いているのではなくて!?」

「どうして同じところを毎回間違えるんですの!?いいですか?氷の魔術は固体を構成する魔術。必要なのは明確なイメージですわ。分かったらその出来損ないの万年筆みたいな氷柱を早く消してくださいませ!」

「悪くありません。その調子で精進してくださいませ。……その気持ち悪いにやけ顔をやめなさい!」

 

 授業が終わったらすぐに二人で夜まで教室に籠って繰り返し魔術の練習をする。予想通り厳しかったけれども、とても充実した時間だった。素人だった魔術はたった二週間でみるみる上達した。

 多くの時間を共に過ごして、俺の魔術の上達に一緒に一喜一憂する。記憶に残るのは、教室に積み上げられた魔導書のインクのにおい。それからオリヴィアの厳しいながらも温かみのある言葉。あれが最も幸福だった15歳の秋だったと言っても良いだろう。

 

 

 そして決闘当日。冷え込んできた晩秋の一日としては珍しく温かい日差しのある昼間だった。決闘相手のマルロに指定されたのは学院の中心に位置する中庭。中庭を一望できる校舎のテラスには野次馬がたくさん集まっていた。

 この学園の大半の生徒は伝統魔法派の貴族子女だ。ほとんどがマルロに惨めに負ける平民の俺を嘲笑うために来ていた。血統を信奉する彼らにとっては、ただの村人から勇者という英雄的な肩書を得た俺は認めがたい存在だった。

 

「おいお前ら!誰かあの自称勇者様にも賭けろよ!これじゃ賭けが成立しないだろうが!」

 

 決闘で賭けをしようとしたらしい生徒達の下品な笑い声がテラスに響いた。どちらが卑しい平民なのか分かったものではない。それでも当時の俺にとっては自分を嘲る声はプレッシャーだった。嫌な想像が頭を巡る。失敗した時のことばかりを考えて、全て投げ出したくなる。唐突に、強張った肩にオリヴィアが優しく手を乗せてきた。珍しい彼女のボディタッチに驚く。

 

「あんな貴族崩れを気にする必要はありませんわ。前を向いて、自分が為すべきことを粛々と成してくださいませ」

 

 何者にも左右されることのないような、凛とした声だった。優しくて、でも前に踏み出す勇気をくれる言葉。今でもなお俺を支えてくれている言葉。小さく頷いた俺は、憧れた後ろ姿を真似るように、真っすぐに前を向き、背筋を伸ばして、中庭の中央に向かった。マルロは余裕綽々といった態度で俺を待っていた。

 

「よく逃げ出さずにここまで来たな。今からでも泣いて許しを請うのはどうだ?」

「冗談じゃない。お前程度に勝てずに魔王に勝てるか」

「――ちょっと見ないうちに生意気になったな。後悔させてやるよ」

 

 唇を無理やり上げて慣れない煽り文句を口にすると、マルロは想像以上に憤っている様子だった。今まで馬鹿にされても下を向くだけでロクに反撃もしなかった自称勇者様に歯向かわれたのが不快だったらしい。

 

 

 向き合う距離は10mほど。決闘は開始前から魔法を準備することが許されている。マルロは既に準備した魔法で古びた杖の先端を光らせている。開始の合図を待つ数秒は時間の経過がいやに遅い。脳裏に浮かんでは消えるのは、オリヴィアとの特訓の日々。彼女が見せた貴重な笑顔。

 

 仲介を買って出たオリヴィアの指がコインを弾く。床に金属が撥ねる硬質な音と同時に二人同時に動く。行動が早いのはやはり最初から魔法を準備していたマルロだ。

 

「『穿て』」

 

 起動のキーとなる一句を口にするだけで強力な魔法が発動する。事前準備ができる状況において伝統魔法は優れた能力を発揮する。

 マルロの放った炎は大神暦の伝承にしか存在しない伝説の生き物、龍を象っていた。魔法で作られた業火は中空で勢い良く燃え上がっており、放水されたとしても鎮火しそうになかった。その顎が俺を捉えんと、矢のような勢いで迫ってくる。

 

 でも俺はその魔法を知っている。マルロが最も自信を持っている魔法。最初に放ってくるのはオリヴィアの予想した通り。だから俺は最も効果的な一手を打てる。

 

「『氷で形作られた龍殺しの剣よ、敵を打ち砕け』」

 

 短縮された詠唱から顕現した氷の剣は伝承の龍殺しの大剣を象っていた。鋭利な刀身には冷気がうっすらと漂っている。氷で作られた剣を振り下ろす。龍の頭部に直撃した剣は炎を一刀両断する。

 破壊音も、断末魔もなく、ただ静かな消滅。先ほどまで凄まじい熱気を放っていた炎は、煙だけを残して霧散した。氷の剣は役目を果たした。龍殺しの伝説はここに再現された。マルロの顔が動揺に歪む。この機を逃す手はない。

 

「『氷柱よ』」

 

 突き出した右の手のひらから伸びた氷柱がまっすぐに伸びていく。目視できないほどの速度で伸びていったそれは、マルロの左胸に付けられたバッジを寸分たがわず撃ち抜いた。俺の勝ちだ。どよめきと、それをかき消すような歓声が青空の元響き渡った。

 

 

 その日の実戦魔術派の教室はお祭り騒ぎだった。各々で教室に食料を持ち込んでの大宴会。日頃から目の敵にしてくる伝統魔法派、その筆頭を打ち負かしたとあって誰もが祝福してくれていた。

 

「最高だったぞオスカー!!」

「負けた時のマルロの顔を見たか?渋柿を食っちまったみたいなクシャクシャの顔!」

「うん、ありがとう、みんな」

「勇者様に乾杯!この様子じゃ魔王とやらもあっさり倒せそうだなあ!」

 

 酒なんて一滴もないのに、誰もが酔っ払ったように恍惚とした表情で俺を褒めたたえる。最高の気分だった。祝福のシャワーを浴びて、酩酊のような感覚を覚えていた。

 

「勇者様に乾杯!この様子じゃ魔王とやらもあっさり倒せそうだなあ!」

 

 悪気はなかったのだろう。しかし最後の一言を聞いて急に酔いが醒めたような気分になる。自分がまだ何も成し遂げていないことに気づいてしまった。熱が引き冷静な思考が戻る。そうだ、オリヴィアにも感謝を伝えなければ。冷えた頭に真っ先に浮かんだのは彼女のことだった。

 

 

 騒がしいのが好きではないらしいオリヴィアは、教室の隅っこで開けっ放しの窓からの夜風に当たっていた。風に乗って蜂蜜色の髪がふわふわと揺れる。騒がしい教室の中でこの一隅だけが別空間であるかのような静けさだった。こちらに気づいたオリヴィアが夜景から目を離し、こちらを見る。

 

「オリヴィア、本当にありがとう。今日勝てたのは君のおかげだ」

「いいえ、貴方の努力の結果ですわ。私はその手伝いをしただけ。……私などに構わず仲間の輪の中に加わって来てくださいませ」

 

 真っすぐに俺の瞳を見つめる碧眼にほんの少しの寂しさを見つけたような気がした。オリヴィアは俺の横をすり抜けて、出口に向かおうとしている。背中を見つめていると、初めて彼女が自分よりもずっと小さいことに気づいた。なかば無意識に、この場を去ろうとするオリヴィアの手を取っていた。今、手を取らなければならない気がした。思ったよりもずっと小さい、温かい手。

 

「えっ?あの」

「俺は君と、オリヴィアと喜びを分かち合いたいんだ。決闘に勝てて嬉しいのは、もちろんいけ好かない貴族様の鼻を明かせたこともあるけど、オリヴィアの教えが正しかったことを証明できたことが嬉しかったんだ」

 

 オリヴィアの細くて繊細な手を握ったのはあの時が初めてだった。夜風が優しく彼女の髪を揺らしていた。あの時のオリヴィアの恥ずかしいような照れたような表情を見た時から、俺はオリヴィアに恋していることを明確に意識した。

 戦争が本格化した後も、オリヴィアは勇者パーティーの一人として戦ってくれた。そんな彼女に告白できずにうじうじしていた俺に、彼女の方から告白してくれたのはそれから二年後のことだった。

 



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11 オリヴィア②

 同じ卓を囲んで食事を取ることは、およそ全人類に共通する親睦を深める効果的な方法だろう。勇者パーティーの人員がオリヴィアを入れて四人になった晩、俺たちは食事会をしていた。

 

 比較的安値で量の多い食事を出していることが評判の食堂。店内の酔っ払い達の喧騒が賑やかな空気を形成している。どこか高揚した四人は水の入ったジョッキを持って、乾杯をした。公に酒を飲めるような年齢のものはここにはいない。

 (王国では、酒を子どもが飲んではいけないという法律はあるが、特に厳しく取り締まっているわけでもなく、未成年、18歳以下の飲酒はスラムなどでは結構行われている。けれども中流階級の集まるような食堂では未成年飲酒は周りの大人が咎める程度には許されていなかった)

 

 乾杯して、ジョッキの水を流し込む。個人的には酒の方が飲みたい気分だった。皿の上には何かの肉の揚げ物、塩の染みた芋など、見るだけで食欲がわいてくるような大衆料理が載っていた。

 この体になってからは食欲も人並みには出てきている。揚げ物を口いっぱいに頬張ると、カリッという音と共に、熱々の肉汁が口腔を蹂躙した。

 

 戦争が本格化する前の王都は総じて文化のレベルが高い。食もそうだが衛生、芸術など様々な面に整備が行き届いている。しかし戦局が悪化すると景色が一変する。人のいなくなった食堂では萎びた芋と、アルコール度数の高さだけが売りの安酒しか出なくなり、街は全域がスラムのように荒廃する。

 

 隣を見ると予想通りオリヴィアが初めて見る大衆料理に慌てふためいている。

 

「オリヴィア様、それは取っ手のようになっている骨の部分を素手で掴むのです」

「し、しかし、それはあまりにはしたなくありませんの?」

「郷に入れば郷に従え、です。庶民の食堂なのですから、その作法に従うのは、はしたないことではないでしょう?」

 

 諭すと、オリヴィアは意を決したように揚げ物をむんずと掴むと、小さく口を開けてそれを入れた。よく見ると口の端がわずかに吊り上がっている。お気に召したようだ。相変わらず思わぬギャップを見せて俺を魅了するのが上手な少女だった。

 

「メメちゃんは色んなことに通じているんだね。王様の前でもすごい堂々としてかっこよかったし」

 

 様子を見ていたカレンが親しげに話しかけてくる。

 

「経験だけは人より重ねているんだよ。慣れれば誰だってできるさ」

「そうかな?……そもそも、メメちゃんは今まで何をやってきたの?」

 

 いずれ聞かれると思った、自分の過去。この世界の俺にはそんなものは存在しない。俺のやってきたことは、全部誰の記憶にも残らず水泡のように消え去った。良いことも悪いことも、友情も愛情も、罪も。突然15歳の少女として生を受けたのだ。だから俺の過去について俺は何も語れない。

 

「うーん……秘密だな」

 

 踏み込んでほしくない、と遠回しに伝える。カレンは大人しく引き下がってくれた。カレンに本当のことを言えないことに、心が少し軋んだ。いつものことだ。誤魔化した俺は、無理やりに話題を変える。自分のせいで賑やかな食卓に沈黙が降りるのは嫌だった。

 

「これで前衛役が二人、治癒魔術師が一人、魔術師が一人。最低限の人員は揃ったと言っていいだろう。ひとまずはこの4人で勇者パーティーを結成、魔物との闘いで経験を積んでいこう」

「少なすぎるような気もしますけれど……それに経験豊富な大人をスカウトしなくてよいので?」

「下手に増やして内部抗争でもされたら困る。色んな立場の人間が集まります。それから、多かれ少なかれしがらみに縛られた大人は今は要らないでしょう」

 

 どこかでしたような説明を繰り返すと、貴族社会を見てきたオリヴィアは納得してくれたようだ。

 

「というか、メメさんはその華奢な体であの大きな剣を振るのですか?」

「ああ、腕力だけなら騎士にも負ける気はないぞ……です」

「その取ってつけたような敬語は今は結構ですわ。好きなように話してくださいませ」

「ああ、そう言ってもらえると嬉しい」

 

 礼節に厳しいオリヴィアに合わせて口調を変えていたが、本人から必要ないと言われた。どうにも、この賑やかな食堂で畏まって喋ることには違和感を覚えていたので、正直助かった。初対面の相手でも遠慮なく話しかけられる社交的なカレンがオリヴィアに話しかける。

 

「でも、オリヴィアさんは貴族の家の人なんでしょ?遠出とか許されるの?」

「私は特殊な例なのでご安心を。幼い頃から奔放だったので本家からはいろいろ諦められていますの」

「そんなことあるんだ……」

「貴族様っていうのも色んな人がいるんだね」

 

 オスカーがしみじみといった様子で呟いた。オリヴィアはかなり特殊な例だ。彼女の場合は本人が優秀すぎて、家の人間が中々口出ししづらいのだろう。

 魔法学院主席卒業確定のエリート様なら研究者のような、自分が望む道へ進むことも難しくない。変に干渉して縁を切られたら困るのは公爵家の方だ。

 

 そこまで思い出して、そこまで彼女について良く知っているということを思い出したからだろう。その夜、回想のような夢を見た。

 

 

 

 

 俺が魔法学院に入学して、オリヴィアの同級生として改革を目論んでいたのは、まだ人間社会に希望を持っていた頃だ。人生を繰り返すうちに見えてきた不条理。魔法の最先端である王都の魔法学院で、伝統に縛られて自由な魔術の研究ができていないという事実。どうしても変えたかった。大勢の命を救うために。そこで俺は、俺にとっての理想を彼女に見た。

 

「貴方が農民にしては賢いのは知っているけれど、貴族に噛みつくのは止めておきなさい。ただでさえ決闘騒ぎから目の敵にされているのですから」

「でも、オリヴィアだってあいつらの言ってることが間違っているのは分かっているだろう?」

「貴方が間違っているとは言っていないわ。貴族に噛みつくのは後ろ盾のある私に任せておきなさい」

 

 自分が泥を被ってでも、不条理を、間違いを正すことを躊躇わない。あの時の俺はそんな彼女に惚れていたのだ。それは尊敬の感情が大きく含まれた恋だった。

 結局のところ、本格的に魔王軍との戦争が始まるまでの数年では魔法学院の不条理を克服するには至らなかったが、残せたものはあった。俺とオリヴィアの進めた魔術の研究は王国の魔術のレベルを向上させるのに大きく役に立った。そして数年が経ち、戦争でもオリヴィアは俺の隣で戦ってくれた。

 

 

 

 

「なぜ!?どうして俺を庇った!」

「あらあら、私が告白したことも忘れてしまったのかしら?」

 

 錆びついた風が頬を撫でる戦場の片隅。魔物だった肉片がそこら中に散らばっていた。血の海の中心にはぽっかり穴が開いていて、人間の男女二人がいた。俺の腕の中で力なく倒れるオリヴィアの胸からは禍々しい槍が突き出ていた。血がとめどなく溢れてきて、彼女の頭部を膝の上に乗せている俺の服を濡らした。

 

 彼女の体を蝕み続けている槍には強力な呪いが掛かっている。背中から胸元を貫いているそれは、外傷を与えるに留まらない。体の中から摘出することもできず、肉体から寿命を吸い取り続ける。頑強な勇者をも死に至らしめ得る特別製だ。教会に行くか、聖職者が複数いなければ、治療は不可能だった。血は止まる気配なんて全くなく溢れてきて、それに合わせるように彼女の顔から赤みが消えていく。もうじき、彼女の命はついえるのだろう。

 

「俺なら死ぬことはなかった!俺が……俺が、受けるべきだったんだ。君を傷つけたくなかった……」

 

 胸のあたりを貫かれたような痛みに絶えず苛まれる。肉体の痛みには慣れても、心が痛む感覚にはいつまで経っても慣れる気がしなかった。

 鼻の奥が熱くなって、雫が彼女の新雪のような真っ白い頬に落ちる。やめろ。お前のせいだろう。お前に泣く資格などあるものか。血の匂いのする手の甲で涙を拭っても、すぐにまた目の奥から涙が零れ落ちてくる。

 

「死ななくっても痛いでしょう?心も、体も」

 

 オリヴィアの手が弱々しく伸びてきて、疼痛を訴え続ける胸のあたりにそっと触れた。その言葉は久しぶりに聞いた。まだ繰り返しも十回にも満たなかった頃、カレンが気遣わしげにかけてくれたのと同じ言葉。人ならざる超常の肉体を持つ俺を、同じ人間であるように気を遣ってくれた。俺の胸に触れていた手が力なく落ちる。手を伸ばすこともできなくなった彼女は、静かな声で最期の言葉を伝えてくれた。

 

「……私はもうここまでのようですが、魔王はもう、すぐそこでしょう?……終わらせてきてくださいませ、私の勇者様」

 

 静かな、最期の懇願。結局我儘なんて全然言ってくれなかった彼女のただ一つの願い。血の気の引いた真っ白な頬に手を添えて、くちづけをする。目を閉じてそれを受け入れた彼女は、もう目を開けなかった。胸の痛みはかつてないほどのものだった。いっそ恨んでほしかった。お前のせいだと罵って欲しかった。……そんなにも、慈愛に満ちた表情で逝かないで欲しかった。

 

 

 そうして、魔王の元に向かった俺は、約束を果たせなかった。惨めに負けた俺は、最愛の人の最期の頼みも聞くことができなかった俺の生は、浅ましくも続いている。あの後も彼女とは何度も共に戦ったが、彼女とのくちづけはあの時が最後だった。

 

 

 

 

 涼やかな朝風が肌を撫でるが、額の脂汗は引きそうになかった。とびっきり嫌な夢を見た時には体を動かすに限る。じっとしていると胸のあたりの疼きでどうにかなりそうだった。ベッドから飛び起きた俺は宿の中庭で早朝の素振りを始めた。大上段に構えた剣を真っすぐに振り下ろす。断続的に響く風切り音を聞いていると心が静まってくるのが分かる。

 

「ごきげんよう、朝から熱心ですのね」

 

 先ほどまで夢の中で聞いていた、懐かしい凛とした響き。オリヴィアの声を聞くと、落ち着いていた心があっさり乱れる。振り下ろした剣先が揺れた。

 

「あ、ああ、ご機嫌ようオリヴィア様」

「フフッ、どうしてそんなに動揺しているの?音が聞こえていたけれど、随分と熱心に素振りをなさっていたのね。……あら、血だらけ」

 

 オリヴィアの意外に長い腕がスッと伸びてきて、俺の手首のあたりをガシリと掴んだ。薄くて小さい俺の手ひらは、剣を初めて握る小娘のようにマメが潰れて、血で染まっていた。隠し損ねた。

 

「……貴女はどこか心に余裕が無いように見えますね。何をそんなに焦っていらっしゃるの?」

 

 初めて聞く問いではなかった。初めてオリヴィアを死なせた時からは特に、何度も聞かれてきたことだった。余裕などできるはずもなかった。あの時から俺は今までずっと、彼女との最期の約束に囚われたままだ。

 

 今までなら彼女の問いは、ちっぽけなプライドや、人類の希望たる勇者として弱音は吐けない、そんな意識から答えられなかった。しかし今は。勇者でなければ、彼女を守る男ですらない。ちっぽけなプライドは、自縄自縛を生む自意識は不思議と揺らいでいた。

 そよ風が頬を撫でた。風がやむのをゆっくり待ってから、俺はささやくように、思っていることを口に出した。

 

「……このままでは魔王を倒せない。多くの人を、大切な人を殺してしまう」

「……それは、貴女が背負うことではないのではないですか?」

 

 確かに、今はそうだ。でも、背負わないわけにいかない。オリヴィアの死に顔を思い出す。微笑を浮かべた、穏やかな最期。俺が魔王を倒すことを疑いもしなかった。

 

「そうなのかもしれない。そうかもしれないけど、でも、未熟な勇者と、腐った王国では魔王には勝てない!皆死ぬ!カレンも!オリヴィアも!俺のせいで!俺が!情けないから!俺が!君との約束を果たせないから!」

 

 叫んでいることの支離滅裂さに気づいて我に返る。

 

「……ごめん、変なこと話した」

 

 失敗した。また、オリヴィアに困ったような顔をさせてしまった。二度とこんな表情をさせまいと感情を制御していたのに。気持ちを飲み込む練習をしていたのに。じわりじわりと自己嫌悪が這い上がってくる。ふと顔をあげるとオリヴィアが俺の目を見つめていた。その目はいつかのように慈愛に溢れていて、胸が苦しくなった。

 

「少し落ち着いてくださいませ。……少なくとも今の貴女が目を向けることは結成されたばかりの勇者パーティーを安定させることではありませんの?」

「そうだな……」

 

 それは確かにそうだ。外泊もしたことのないお嬢様のサポート、パーティー内の軋轢の回避など俺が気に掛けなければならないことは多い。結局のところ、破滅を知る俺と知らない彼女らとの意見の相違は変わらないのだ。何度もやってきて分かりきっていたことじゃないか。暗澹たる気持ちになって彼女に背を向ける。

 

 しかし、歩き出そうとすると後ろから手がニュッと伸びてきて、俺の頬を摘まんだ。

 

「はに?」

「あら、思った以上に柔らかい。ぷにぷにしていて触り心地が良いですわ。百点満点です。誇っていいですよ?」

 

 急なボディタッチに顔が熱くなる。冗談めかした言葉が聞こえてくる。恋人だった時以来の間近で見る真っ白な両手が無遠慮に頬を蹂躙してきた。

 

「はっ?にゃにを……や……にゃめろ」

 

 オリヴィアの手を捕まえようとするが、するりするりと避けられる。そしてまた頬を無遠慮に摘まんだり撫でたりしてくる。くすぐったい感触に、強張っていた表情筋が緩む。

 

「それくらい、柔らかい表情の方がいいですよ」

 

 いつの間にか、彼女は目の前に立っていた。頬に手を添えたまま、少し目線を下げて俺の目を覗いてくる。真剣な表情だ。俺を貫く蒼い瞳は何もかも見通してしまいそうなほど澄んでいた。

 

「――余裕のなさは、最初に顔に出るものですわ。だから、せめて笑っていてくださいませ」

 

 決闘の秋のような、俺の背中を押してくれる言葉。俺は照れやら恥ずかしさやらで何も言えず、颯爽と去っていくオリヴィアの背を見送った。若干歩くのが早いところを見ると自分でやっておいて照れているようだ。

 

 ああ、やっぱり好きだなあ。昔の感情が蘇ってくる。しかし昔とは何か決定的に異なる感情。抱きしめたいという感情は浮かんでも、キスをしたいという感情は不思議と浮かんでこない。

 きっとそれは、男が女に恋をするような感情ではなく、尊敬できる人間に対する好意のような感情。女に生まれ変わって、俺が失ったものを実感した。

 

 自分の頬を掴むと、無理やり口角を上げてみた。いびつな笑み。けれども、不思議と気分は少しマシになった気がした。

 



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12 買い物っ!

「買い物っ!行こっ!」

 

 昼下がり、結成間もない勇者パーティーの面々に向けて、カレンが勢い良く宣言した。

 

「買い物って……服なら昨日買っただろ?しかも要らないぶんまで」

「何言ってるの?王都で買い物に行ける服を買ったんだから、今度はいろいろ見に行けるじゃん!」

 

 カレンの瞳は昨日の服屋の時と同じくキラキラと輝いていた。興味のあるものに猪突猛進する時の顔だ。昔散々見た。そんな彼女の姿も嫌いではないが、俺はあまり買い物という気分ではない。

 

「いや、お……私は……」

「いいんじゃない?行こうよ、皆で」

 

 俺の言葉を遮るようにオスカーが言った。買い物なんて別に好きでもないくせにカレンの悲しむ姿が見たくなくて賛同しやがった。俺には分かる。俺もカレンのキラキラした目がシュンと伏せられる瞬間は見たくないからだ。気持ちはよく分かる。分かるが、オスカーのこちらを見る申し訳なさそうな表情を見ると若干腹が立った。

 

「王都でしたら私も案内できますわ」

「本当?ありがとうオリヴィア!」

 

 朗らかに笑うカレンにオリヴィアはまんざらでもなさそうだ。根が真面目なこの二人は結構相性が良い。すぐに打ち解けるだろう。しかしオリヴィアの知っている店は当然ながら貴族御用達の格式の高い店ばかりだ。案内には適しているとは言い難い。

 仕方があるまい。どちらにせよカレンの喜ぶ表情を見ていたら、俺だけ行かないという選択肢は消えた。きっと彼女も悲しむ。

 

「オリヴィアの言ってるのは貴族街の方の店だろ?庶民街の良い店なら私が知ってるよ」

 

 昔カレンに引きずられるように店を巡った成果だ。懐かしい日々を回想して、適当な店を思い出す。ひとまず3人が打ち解けられるようにレストランでも行くか。

 

「みんな、肉と魚どっちがいい?」

「今お昼食べたんだけどまだ食べるの?」

「昨日から思っていましたが、メメさんは結構食いしん坊ですわね」

 

 

 

 

 カフェという文化は最近王都に根付いたもので、店舗の中で軽い食事や紅茶と共に会話を楽しむことができる。まるで貴族のように優雅に紅茶を傾けて茶会をする楽しみは、特に平民の富裕層の、貴族的な生活への憧れをうまく満たしていた。

 最近開店したばかりのここ、「憩いの止まり木」の開放的で明るい雰囲気の中では客の表情もどこか明るい。

 

「見て、オスカー。これ凄いオシャレ!しかも良い匂いがする!」

「そう?僕はカレンのお母さんの出してくれるお茶の方が好きだなあ……」

「なに爺臭いこと言ってんの!バカ!中身おじいちゃん!」

「おじ……」

「なんでメメちゃんがダメージ受けてんの……」

 

 人生一周目のオスカーが爺と言われるのなら俺はどうなってしまうのだろうか。化石か?

 

 カレンのテンションは天井知らずだった。それに釣られてオスカーも楽し気だ。ふと静かなオリヴィアの方を見てみると、目を閉じて紅茶を味わっていた。

 

「平民の店にしては中々といったところでしょうか」

 

 本物の貴族令嬢であるオリヴィアは紅茶カップを傾けているだけで絵になる。窓から注ぐ日光も相まって絵画のような優雅な雰囲気がある。店内の客の目が時折こちらをチラチラに向くのはオリヴィアの影響が大きいだろう。

 

「お気に召しましたかお嬢様?」

「悪くないセンスですわ。褒めて遣わしましょう」

 

 冗談めかして尋ねると片目を瞑ったオリヴィアからご機嫌な答えが返ってくる。彼女がこの店を気に入ったのも当然だ。かつて、お嬢様なオリヴィアをデートに誘うために俺が必死に探し出した店の一つなのだ。しかし、それにしても俺がオスカーだった時よりも最初から態度が柔らかい気がする。

 男だったから警戒されていたのだろうか。それとなく久しぶりに会話をする彼女の様子を観察する。思案の合間に茶菓子を口に頬張った。娯楽としての食事も存外悪くない。

 

「メメは本当にいっぱい食べるね。それ何個目?」

「うるさいぞ勇者様。モグ……お前に一つ教訓をやろう。女性によく食べるねとか太らないの、とか聞くと烈火のごとく怒られるぞ」

「それ、分からない人いるの?」

 

 いたのだ、ここに。カレンは俺の言葉だけ聞いていたようだ。オスカーはカレンが呆れたように言っているのを見て一つ学びを得たらしい。俺の失敗を糧にできるのだ。感謝しろ。

 

 

 

 

 武具を取り扱う店は王都の東に集中している。立ち寄るのは王都に来た田舎の平民騎士や冒険者たちだ。魔物を倒して賞金を稼いでいる彼らは王都にはたくさんいる。

 暴力を生業とする者たちが行き交う通りだけあって王都の中では治安がかなり悪い。ここを通る時はガラの悪い人間に絡まれないようにいつも睨みを効かせながら歩いたものだ。今回も先頭を切って睨みを効かす。

 

「おい、チビ、お前来るとこ間違ってるぞ……イテテ!」

「女ばっかでここに来るとは良い度胸じゃねえか……アアア!指があああ」

 

 絡んでくる相手一人一人に痛みを教えてやっているといっこうに前に進めない。おかしい。数人倒せば誰も絡んでこなくなるはずなのに。疑問に思っているとオリヴィアが遠慮がちに問いかけてきた。

 

「その……メメさんが先頭切って睨み付けるのは逆効果なのではないですか?」

「え?そんなはずは」

「なに見てんだよそこの生意気なクソガキィ……ウワアアア!」

「……オスカー、先頭を頼む」

 

 ふざけたことを言ってきた男をバックドロップで頭から突き落した俺は、自分の過ちを認めた。オスカーは決して威圧感のある風貌ではないが、彼が先頭を歩いていると絡んでくる人間が減った。俺は体が少女のものになったが故の過ちを、ショックを受けながら認めた。不本意ながら。

 

 

 武具店に置かれている商品の質はまちまちだ。実用的で扱いやすい良品から、見た目だけを美しくした粗悪品まで並べられている。知識のない人間がここに来ても店員に騙されて鴨にされるだけだろう。

 

「オスカー、やめとけ、それ粗悪品だ。ぼったくられるぞ」

「でしたらこちらのロビン工房の大剣など……」

「噓つけ。そんな粗悪品がロビン工房製なわけあるか。もうちょっとましな嘘をつけ」

 

 武具店をいくつか巡った俺はこの時期の武器の品ぞろえの悪さに失望していた。比較的平和な現在、武具の需要はあまり高くなく、出回っている品も少なかった。

 

「オスカー、今予備の武器を買うのはやめとけ。レプリカみたいなのしかないぞ」

「でも、あの龍の刻印の付いた剣かっこよかったよ?」

「本当にやめとけ!あんなの雑貨店に置いとくべきレベルだぞ」

 

 そして俺の黒歴史を掘り起こすのはやめろ。あれをかっこいいとか思ってた俺が恥ずかしいだろうが。膝当てや鎖帷子など、パーティー全員分の最低限の防具だけ揃えて退散する。

 

 

「次は魔術具の方を見るか。オリヴィア、どうだ?」

「構いませんが……。しかし庶民街の方に私が興味を惹かれるようなものがあるとは思えませんが……」

「伝統に縛られた魔法使いだったらそうだっただろうな。しかし魔術師が行けばあそこは面白いぞ。実用しても良し、眺めて魔術の使い方の新しいインスピレーションを得るのも良しだ」

「……なるほど。メメさんは詳しいですね」

「ねえねえ、魔法と魔術ってなに?どう違うの?」

 

 カレンの疑問の顔にオリヴィアがすぐに答える。オリヴィアは人にものを教えるのが好きだ。カレンに説明している姿は生き生きとしている。

 

「簡単に言えば魔法は昔から受け継がれる保守的な伝統。魔術はそこからの発展を目指して伝統を壊すことを厭わない革新的な技術ですわね。主に貴族が使う、昔からの詠唱を用いた魔力の行使が魔法。主にそれ以外の魔力を持つ平民が扱う、技術としての魔力の行使を魔術、と呼びますわ」

 

「ざっくり言えば、準備が大変なぶん効果の大きいのが魔法。準備が簡単な分効果の少ないのが魔術だな」

「メメちゃん随分詳しいね?」

「ああ。俺も一応魔術使いの端くれだ」

「そうだったの!?でも盗賊と戦ってた時は使ってなかったよね?」

「あれは……あれはまあ騎士たちに身元を聞かれたくなかったんだ。それに俺の場合は魔術を使うよりも剣を振ったほうが早いことが多いからな。後はまあ慢心だったかもな」

 

 実際以前までの俺なら魔術を使うまでもなかったのだ。あそこまで反撃されるのは想定外だった。

 

「魔術使い、というとメメさんはどこか地方の学院のご出身ですの?」

「あー……いや、どこかに所属していたわけではないんだ。魔術は独学みたいなものだ」

「独学で魔術を!?是非、見たいです!」

 

 オリヴィアが急に鼻息を荒くする。魔法、魔術の話になると彼女は急に前のめりになる。よく言えば研究者気質、悪く言えば魔法オタクだ。もっとも、その気質が彼女を魔法学院トップクラスの魔法使いにしたと言える。

 

「折角だし他の二人にも魔法と魔術がどんなものか見てもらうか。まずは魔術。『火よ灯れ』」

 

 俺の手元に小さな火の玉に生まれた。弱弱しいそれは風に吹かれてあっさり消える。街中で使うならこれくらいの方が良いだろう。

 

「凄い!……けど、なんか随分弱かったね」

「魔力をちゃんと籠めないとあんなもんだ。あれでも煙草に火を着けるくらいはできる。便利だぞ?」

「煙草……?」

「次、魔法。『今は亡き火の神よ、我が掌に一抹の火を灯せ』」

 

 魔法については不得手な俺だが、初歩的な事くらいはできる。今度のは手の平に収まらないほどの炎だった。風に吹かれてもゆらゆら揺れるだけで、消える様子はない。俺が手を閉じると、炎は跡形もなく消え去った。

 

「熱くないの?」

「自分の魔法で傷つくのは三流のやることだ。そんなへまはしない」

「独学としてはあり得ないレベルの魔力の使い方でした……。今からでも王都魔法学院を受験しませんか?私、推薦いたしますよ?」

「そう言ってもらえると嬉しいよ」

 

 かつての師匠に褒められた歓喜を隠すために言葉に抑揚が出ないように気を付ける。思ったよりも嬉しかったからだ。半世紀以上の魔術の修練の結果、素人だった魔術の腕は、ずいぶん向上した。

 

「メメちゃんあんなに剣を扱えるのに魔術まで使えたの!?すごいね!」

「ハハ、ありがとう。でもそこにいる勇者様なら、俺よりもずっと魔術に適正があるはずだよ」

「そうなの?」

「勇者の体は女神の祝福であらゆる適正を与えられている。おそらく魔術に最も適正のある人間はお前だ。……女神から聞いてないのか?」

「女神様から?そんなことはなかったけど」

 

 女神と話をしていないのか?俺の時と違う。後でジェーンと話し合う必要がありそうだ。話が終わるのをうずうずと待っていたオリヴィアが辛抱たまらぬといった様子で話かけてきた。

 

「メメさん!随分と魔力の扱いがお上手ですが、いったいどんな技術を身に着けたんですの!?」

「あ、ああ、私のは魔力を体の一点に集中させることを目的にした技術なんだが……」

「しかしそれだと一瞬でガス欠に……」

「違うんだ、集中させるのは一瞬。ちょっとコツがいるんだが……」

 

 オリヴィアとの濃密な魔法談義は、それから魔術具店に着くまで長々と続いた。長く生きてきた俺だが、多くの書物を読み込んで、伝統的な思想を自分のものにしているオリヴィアとの議論はいつまで経っても新鮮なものだった。何度話しても彼女の思考の深さに驚かされる。

 

 

 

 

 魔術を道具に籠めて、誰でも使えるようにする。魔術具はそんな便利さを求めて作られたものだ。魔術を籠めるには貴重な魔石が必要なので、それなりの値段がする。しかしこれらの道具は庶民にも魔法の恩恵が届くようになるという活気的な発明だった。

 元々魔法は選ばれた人間が神より与えられた力である、という認識が強かった。かつては貴族にのみ使用を許されたものだったのだ。

 

「風の魔術を利用して魔除けのお香を拡散する!?伝統に反する魔術具ですが、これはどうしてまた実用的ですわね……」

 

 魔術具店に着いてからのオリヴィアはずっと一人でぶつぶつと言っている変人と化していた。オスカーとカレンは彼女の印象を大きく変えたことだろう。完璧な貴婦人から魔術オタクへと。オリヴィアが聞けば憤慨するだろうが、親しみやすさという面から言えば、悪くない変化だ。

 

「メメさん、メメさん!この魔術具を見てくださいませ!この設置型の、下から風を噴射する『捲りあげ機』とはいったいどういう品物なんですの!?何故男性に大人気なのでしょうか!?」

「あああ、それには触れるなオリヴィア!それは貴族令嬢が触れてはならない低俗の極みみたいな代物だ!」

「どういう風に低俗なのか教えてくださいませ!」

 

 好奇心旺盛な彼女は目を離すとどこまでも行ってしまいそうだった。

 

「……あの二人仲いいよね」

「うん、姉妹みたい」

 

 

 西日が肌に突き刺さる夕方。オリヴィアは多数の魔術具を買えて満足そうだ。一方の俺は世間知らずのオリヴィアに色々説明して疲れ切っていた。庶民の魔術文化に興味津々のオリヴィアはたて続けに俺に質問を投げかけてきた。今日だけで一年分くらい話した気がする。

 

 一方途中から別行動を始めたオスカーとカレンは二人きりでデートができたようだ。カレンの額には昨日までなかった髪飾りがある。向日葵をかたどった髪飾りが額のあたりで髪を分け、カレンの広い額をさらけ出している。……オスカーのくせにいいセンスをしている。彼のカレンとデートできてご満悦な表情を見ると腹が立つ。羨ましいから一発殴らせて欲しい。オリヴィアとデートしていた自分を差し置いてそんな馬鹿なことを思う。

 

 

 日が沈む時が別れの時である、というのは幼少期の刷り込みだろうか。斜陽を見ているとどこか物悲しい気持ちになる。夕焼け小焼け、影が伸びたらまた明日。意味もなく寂しさに襲われる。弱い自分が感傷に浸っていることそれ自体がどうにも腹立たしい。俺はこんなに弱い人間だっただろうか。

 

「何しているの、メメちゃん!早く私たちの宿に帰ろう?」

「……うん」

「オリヴィアさん、なぜ宿の方へ?」

「私も貴方たちの宿に泊まります。今決めました」

「お嬢様みたいな顔してめちゃくちゃ行動力あるよねオリヴィアさん……」

 

 帰る道に仲間がいる。行く時とまったく変わらぬ顔ぶれが笑い合い、冗談を言い合っている。この幸福は当たり前に見えて存外脆いものだ。魔王との戦争はこんな日常を容易く壊す。だから俺が、守らなくてはならない。

 



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13 入浴!

定番回です


 入浴文化は少し前に王都に入ってきて以来、爆発的な人気を誇る一大コンテンツだ。貴族に広がった文化はいつの間にか庶民社会にまで浸透している。体を洗い、熱々の湯に浸かる。それだけの行為が至福の快感を齎す。一日の疲れを全て吹き飛ばしてしまうような破壊力が、浴槽にはある。

 

 俺は逸る気持ちを必死に抑えながら、男風呂に一直線に歩いていった。

 

「メメちゃん!何やってるの!?君はこっちでしょう!?」

「あ、ああ、やめろカレン!助けろオスカァァ!拉致されるぅぅ!」

「いや、メメは女風呂に行ってよ……」

 

 オスカーと一緒の風呂に入ろうとすると、カレンに女風呂に引きずられる。現実逃避気味に風呂へと向かったが、やはり俺は女風呂にしか入れないらしい。

 

「メメさん、ダメですよ。男はみんな狼なんですから。貴女みたいな可愛いらしい女の子が裸体を見せれば一瞬で貪られてしまいますわ」

「そうそう!メメちゃんはちょっと無防備すぎるよ。中身おじいちゃんのオスカーですらたまに私の胸に視線がいってるんだから!男はケダモノだと思わないと!」

 

 俺だってちょっと前まで狼でケダモノだったので、それは十分わかっているつもりだが。そしてカレンがオスカーの視線に気づいていたという新事実を知った。結構ショックだ。

 女の体となった俺の前で、カレンとオリヴィアが躊躇なく服を脱いでいく。更衣室には目を逸らす場所がない。どこを見ても肌の色。

 

「メメちゃん、早く脱いで!」

 

(当然だが)恥じらいもなくタオル一枚隔てて裸体のカレンがこちらに迫ってくるのを見るだけで顔のあたりがひどく熱い。僅かに目に入った彼女の鎖骨ですら、どこかなまめかしいものに見えてくる。

 

「いや、やっぱり止める!帰る!魔術で身を清める!」

「清浄魔術まで使える腕には感服いたしますが……観念してくださいませ。『風よ、彼の者を生まれたままの姿にせよ』」

「オリヴィアァァ!その魔術誰に教わったのか今すぐ俺に教えろお!ぶん殴ってくる!」

 

 変態御用達の魔術を使ったオリヴィアによってひん剥かれた俺はなすすべもなく浴室に連行される。魔術に関わることは何でも吸収してしまうオリヴィアの無差別な学習能力に危ういものは感じていたが、これほどまでとは。

 

 

 シャワーを浴びて、体の泡を洗い流す。手早く済ませた俺は、隣のカレンから逃げるようにそそくさと浴槽に向かおうとした。

 

「早いよメメちゃん!待って、ちょっとそこに座って」

「いやでも日頃から魔術で綺麗にしてるし……」

「それは羨ましいけど……でもそこに座って!髪はちゃんとケアしよう!綺麗な赤髪なのにもったいないよ」

 

 カレンに無理やり座らされ、されるがままに髪を洗われる。正面の鏡は直視できなかった。人に髪を洗われるという未知の経験。むずかゆくて、でもひどく気持ち良かった。体を洗えば後は浴槽に浸かるだけだ。カレン、オリヴィアと一緒に熱湯に身を浸す。

 

「メメちゃんの腕ほっそ!どうやってあんな力出してるの?」

「やめろ、触るな。ヒャッ!」

 

 カレンの何も纏っていない腕が伸びてきて、俺の二の腕を掴む。……抵抗できない。腕を弾くために彼女を直視したら、腕の付け根の傍、胸のほうに視線がいってしまいそうだ。むずかゆい感覚に変な声が出る。ムニムニと俺の腕を揉みながら、カレンはオリヴィアに話しかけていた。

 

「オリヴィアさんの肌綺麗だよね。きめ細かくて、真っ白」

「有難う御座います。今度お二方に私の使っている美容品を紹介して差し上げましょうか」

 

 湧き上がる湯煙の中、美少女二人と入浴。少し前の俺なら血の涙を流して喜ぶところだっただろうが、今はその歓喜はない。ただ恥ずかしいだけだった。何か大事なものを失った気分だ。それはたぶん、下半身のモノと一緒に消え去ったのだろう。バレないように、二人の方を見る。

 

 カレンのきめ細かい肌は健康的に日に焼けている。普段三つ編みにしている亜麻色の髪は、今は真っ直ぐに下ろされている。いつも快活な彼女だが、今は落ち着きのある大人の美人みたいに見えてドキッとする。そして健康的な肉付きの身体。彼女はたまに自分が太っていないか気にしていたが、一般的な基準に照らせば細いと言えるだろう。肉感のある肢体は男にとってとても魅力的だった。双丘はこうして見ると中々大きい。これから数年でさらに大きくなることを俺は知っている。

 

 オリヴィアの方は流石の肌の白さだ。神秘的と言っても過言ではないその美しさは、何者にも踏み荒らされていない新雪を思わせる。金色の髪同様よく手入れされていることが窺える。貴族令嬢らしく美を追及している。体付きは全体的にスレンダーで、どこか猫を思わせるしなやかさを持っている。胸の膨らみはカレンに比べれば控えめだろうか。こちらも成長途中。ほっそりとした腰付きを見ていると、何だか男の頃の欲望が蘇ってくるような気がして目を逸らした。

 

 最後に自分の体を見下ろす。折れそうなほど細い腕に華奢な体躯。胸のあたりにかなり控えめな膨らみがある。試しにフニフニと触ってみる。ワクワクも興奮もない。虚しくなるだけだった。やはり自分の体にこの膨らみがあることに違和感しかない。そして二人と見比べて分かったが、この体はかなり発育が悪いようだった。女の体、ということを差し引いても胸なら背丈やら小さすぎる。

 

「大丈夫だよメメちゃん!これから絶対大きくなるって!まだ心配するような時じゃない!」

「ちげえよ!全然心配してねえよ!」

 

 浴室から出るとオリヴィアに口うるさく言われて、仕方がなく自分の髪を魔術で乾かす。ついでにカレンのも乾かしてやるとやけに嬉しそうだった。

 女子二人の湯上り特有の色気に頬を赤くするオスカーと合流する。軽く今後の予定について擦り合わせを行って、各々が寝床に就く。俺の寝室は一人部屋だ。

 

「楽しそうでしたね。乙女になったメメさん?」

 

 訂正、女神像の形をした無粋な男が一人この部屋に紛れ込んでいた。

 

「なんだ?楽しそうにしていた俺に文句を言いに来たのか?」

「そんな滅相もない。貴女が幸福そうで私も満足です。折角生き返らせたのに不幸せそうな顔で生きられるのも嫌ですから」

 

 ジェーンの言葉は相変わらず俺の神経を逆なでするのが上手かった。相変わらず言葉に何の感情もこもっていないのが一層腹が立つ。

 

「恩着せがましいな。俺に釘でも差しに来たのか?幸福に浸って本懐を忘れたのではないかと?」

「悲観的ですねえ。何か勘違いしているようですが、私は貴女に魔王討伐を促す女神とは違いますよ。最初に会った時にも言いましたよね?余生を悠々自適に暮らしても良いと」

 

 言われてみれば確かにそうだ。気づいて、ふと疑問に思う。そういえば、こいつは何が目的で俺と一緒にいるのだろうか、と。疑問に思ったが、ひとまず話しかけてきた要件を聞く。

 

「じゃあ何だってそんな嫌味ったらしく話しかけてきたんだ?」

「勇者殿が妙なことを言っていましたよね?女神との対話がなかったとか」

「ああ、そうだった」

 

 勇者は人間として最も女神に近い存在。そんなことはありえないはずだ。

 

「私も色々考えてみました。あの発言から考え得る可能性は二つ。一つ目は勇者殿が嘘をついていること」

「まあ、ないだろうな。嘘を言っている顔じゃなかったし」

 

 真顔で嘘を付ける人間ではないことはよくわかっている。俺も、カレンに嘘を付いてもいつもすぐにバレていた。

 

「もう一つはこの世界の女神の力が弱まっているということ」

「……そんなことあり得るのか?」

「貴女の百年以上生きた世界と、今貴女の見ている世界は酷似していますが、完全に同じというわけではありません。そもそもどこかで違う道を辿った歴史があるからこそ並行世界になっているわけですから」

 

 その差異とやらで女神が力を失っているとすれば、かなりの痛手だ。女神の助けなしに魔王を打ち倒す必要がある。奴は頑なに直接世界に影響を及ぼそうとはしなかったが、時折俺に神託と称して助言を行ってきていた。魔物の位置や自然災害など人では知ることのできない情報のおかげでかなり有利に立ち回れていた。

 

 それでも悲願には届かなかったのだ。魔王討伐がまた遠のいた気がして暗澹たる気分になる。日常が尊いものであることを思い出させられた今だからこそ、その絶望は胸の奥まで深く沈んでいった。

 

「だから、例えばこの世界で勇者が死ねば次なんてないかもしれませんね」

「……それはハードだな」

 

 その可能性には思い至らなかった。しかし今の俺にはあまり関係ないことのような気がした。どのみち今の俺にはもう、この生しかないのだ。

 

「それからもう一つ、一応お伝えしようと。今から一か月後が、デニスの北東村襲撃の時期と推測されます」

「……もうそんな時期か」

「はい。もうそんな時期です」



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14 バッドエンドの記憶 被食

サブタイトル変えました。混乱させたらごめんなさい。

※グロ注意


 オークは人間と豚の見た目を足して二で割って、図体を人の三割増しにしたような風貌の魔物だ。知能が低い代わりに高い生命力を誇っている。強敵ではないが倒すのに一苦労する魔物、というのが一般的な認識だ。

 

 しかし何事にも例外というのは存在する。「美食家気取りのオークたち」、そしてその首魁であるデニスは、著しく知能が発達したオークだ。彼らは陣形を組み、恵まれた体躯を最大限利用して人間を打ち倒す。種族特有の生命力に加えて、戦いを理解している頭脳を持っている彼らは非常に厄介な相手だ。通常の騎士団や冒険者程度では太刀打ちするのは難しいだろう。

 

 そして彼らの最悪な点は、人の肉を好んで食べるという点にある。本能のままに近くにいる人を襲うことがある通常のオークと違い、彼らは人肉を食らうという目的意思を持って計画を練り、無防備な辺境の村を襲う。襲われた村の人間の末路は悲惨だ。「美食家気取りのオークたち」、特に首魁のデニスは人が恐怖に歪んだ顔を見ながら人肉を食らいたいという最悪の性癖を持っている。襲われ、連れ去られた後で村人は絶望する。たっぷりと時間をかけて、自分たちの迎える結末をじっくり理解させられた上で少しずつ体を貪られる。

 

 

 初めてデニスたちと戦った時の俺は完璧に敗北したと言って良いだろう。

 

 

 

 

 分厚い雲が太陽を覆い隠していた。昼下がりだった。報告のあったオークの集団の生息地のすぐ近く、なだらかな丘の傍らの窪みに隠れるように集まっている俺たちの上空はぼんやりと薄暗く、どこか不安な気持ちにさせる。

 

「勇者殿、騎士団の方は準備整っております」

 

 高価そうな鎧に身を包んだ騎士の一人が俺に声をかける。引き締まった顔には、仄かに村人ごときに従わなければならないことへの屈辱が滲み出ている。俺だって好きで従えているわけではないのだが。

 

「それでは行きましょうか。俺がカレンと一緒に敵陣に突撃しますので、騎士団の皆さんは敵を逃すことのないように包囲をお願いします」

 

 カレンを一人にするわけにはいかなかった。平民を見下している騎士団のことだ。田舎の村出身のカレンをちゃんと守ってくれるとはとても思えなかった。

 

「分かっております」

「それでは――何の音でしょう?」

 

 悲劇の始まりは既にそこまで来ていた。違和感を覚えた時には遅かった。見上げる丘の上、その頂上からは巨大な岩が俺たちを踏みつぶさんとばかりに転がってきた。突如目の前に現れた命の危機。予想外の事態に騎士たちは動揺した。

 

「退避だ!急げ!」

「しかし荷馬車が……」

「馬鹿者!置いて逃げろ!死にたいのか!?」

「カレン!こっちだ!」

 

 巨石の着弾。轟音と共に肉の潰れる嫌な音がする。見なくても何人も死んだのが分かった。窪みの中ほどまで這い上がれた騎士たちは、なんとか生き残れたようだ。命の危機から逃れた面々に一瞬弛緩した空気が流れる。しかし本当の危機は既に自分たちに迫りつつあった。辛うじてカレンの手を引いて逃げることのできた俺は窪みの上を見る。そこには食欲にギラギラと目を光らせるオークたちがいた。

 

 

 戦端の開き方としては最悪だった。オークたちの動向を観察していた騎士の斥候はいつの間にか奇襲され壊滅。あまつさえ人質にされる始末だった。奇襲するはずだった俺たちは奇襲を受けることとなった。オークという種族への侮りがあったのだろう。辺境の村を荒らしている程度のオークに戦略など分からない、と。

 

 過ちの代償は大きい。不利な体勢に立たされた騎士たちは一人、また一人と倒されていく。騎士団の練度は決して低くなかったが、高所で包囲網を作っているオークたちを相手するうちに疲弊していき、打ち倒されていった。そして殺されるわけでもなくどこかに引きずられていく。

 

 迫りくるオークを前に聖剣を振るい続けていた俺にもその光景は見えていた。目的不明の行動に恐ろしさを感じる。殺されるという恐怖だけではなく、何が起こっているのか分からないという未知への恐怖。それを振りほどくように聖剣を振るう。輝く刃は嘘みたいな切れ味で、オークの分厚い腹部をもあっさり切り裂く。血に塗れた刃はいささかも切れ味を落とす様子もなく、次から次へとオークの命を奪う。しかし高揚はない。いくら倒しても敵が減っているように見えない。あまりに数が多すぎる。

 

 どこかでカレンをここから脱出させなければ。俺の頭にあるのは、もはやそれだけだった。勝ち負けなんてどうでもいい。カレンを、どこか。一番大事な幼馴染だけは何としても守るのだ。恐怖のあまり思考が最悪を回避することに集中し始める。振り下ろす剣先が揺れる。余計なことを考えたせいだろう。後方のオークからの剛腕による投石に気づかなかった俺は頭に直撃したそれで意識を失った。

 

 

 

 

 肉がちぎれる音、不快感を催すくちゃくちゃという咀嚼音、耳をつんざく断末魔。それから血の匂い。それらが俺の意識を覚醒させた。

 

「やめてやめてやめて!!いたいたいいたいたい!!」

「嫌だ!!食べられるなんていやだ!!助けて女神さま!大神さ……」

「ああああ!左手!俺の左手!返せよおおおお!」

 

 最悪の目覚めをした俺は最悪の光景を目にした。人がオークに食われている。騎士たちが。村人が。貴族も平民も、男も女も等しく食われている。足から、手から、腹から、泣き叫び赦しを乞う頭から。

 捕まった人間は例外なく手足を鎖で縛られていて動けなくされている。醜悪な食事風景を見せられている生き残りは、悲痛な表情で泣き叫んでいるか、絶望して一言も喋らないかのどちらかだ。信じ難い光景に呆然としていた俺ははたと我に返る。そうだ!カレンは!?

 

「あら、目覚めたの勇者様、おはよう。私が指導者、オーク美食団のデニスよ。凄かったわね、孤軍奮闘。私の仲間が結構死んじゃった」

「カレンは!カレンはどこに!?彼女はただ純粋に女神に仕えているだけの聖職者なんだ!頼む、彼女だけは……」

「最後まで連れてた女の子のこと?それならここに……」

 

 デニスと名のった醜悪なオークが巨体の後ろの何かを振り返る。よかった彼女は無事だったんだ。何も悪いことなんてしてない彼女が死ぬなんてあり得ないのだ。

 

「首から下は全部食べちゃった。ごめんね?」

「――え」

 

 見慣れた栗色の髪。無造作に掴まれた顔の首から下には何もなかった。光の無い目は恐怖に限界まで開かれている。頬にはいくつもの涙の跡。唇は真っ青で、大きく開かれた口はこちらになにかを伝えようとしている気がした。

 

「いやあ、あなたの健闘を称えて最期に感動の再会をさせてあげようと思ってたのよ?でも、あなた全く起きなかったじゃない?我慢できずに足から味見したんだけど……想像以上に良い声で鳴くのよこの子!体を齧るたびに、おすかー、おすかーって可愛く泣きわめくものだから、ついつい調子乗って食べ進めちゃったの。気づいたら息がなかったのよ」

 

 耳から入ってくる不快なダミ声が理解できず、ただ目の前でブラリブラリと揺れる生首を見つめることしかできなかった。見慣れた首から下には何もない。

 カレンのほっそりとくびれていて、けれども時々お腹周りを気にしてぷにぷにと触っていたあの体は、暖かったあの手のひらはどこにいったのか、そればかりを考えていた。

 

「なんで……どうして……」

「理由?彼女が死んだ理由?まあ彼女の絶望顔が最高だったこととか悲鳴が綺麗だったこととか色々あったけど……一番の理由は、あなたが私たちに負けて、食われる彼女の目の前で呑気に寝てたことじゃない?」

「――貴様アアアアア!!」

 

 言われたことを理解できた瞬間に体の奥が熱くなる。涙がとめどなく出てきた。目の前の巨体のオークに際限なく怒りが溢れてくる。体は前に行こうとしていたが、足枷がそれを阻む。金属が足首に強くめり込んだ。歯を磨り潰さんばかりに食いしばる。どれだけあがこうと何もできない現実は変わらなかった。

 

「無駄よ。勇者様用の特別仕様だから。それよりも、あなたも良い顔で絶望するじゃない。間違いなくこの子とお似合いよあなた。喜びなさい?」

 

 玩具のようにプラプラとカレンの絶望に歪んだ顔を揺らしながらオークが嗤った。揺らされた頭部から何かが落ちる。見覚えがあった。天真爛漫な彼女に似合うと思って贈った、向日葵の髪飾り。

 

「放せ豚野郎!!お前の汚い手でカレンに触れるな!」

「豚野郎じゃなくデニスと名乗ったはずだけど?というかせめて女郎でしょう。このキュートなリボンが見えないの?」

 

 大きな顔に不釣り合いな赤くて小さいリボンを指さしているらしかった。人を殺しておきながら人間みたいな態度を取るコイツが許せなかった。その不快な声を黙らせて、できるだけ惨たらしく殺してやりたかった。

 しかし今は優先すべきことがあることに気づいていた。憤怒を必死に抑え込んで、殺してやりたい相手に情けなく懇願する。

 

「頼む……カレンは女神教の信徒なんだ。せめて埋葬して大神の元に送ってやってくれ……俺をどうしてもいいんだ……だから代わりに、せめて彼女を安らかに眠らせてやってくれ」

 

 自分の言っていることの情けなさにまた涙が出る。女神教の教えでは、正しく生き、死んだ人間は土に埋葬されたのち、大神の待つ理想郷へと行ける、と伝えられる。せめて彼女に安らかな死を。彼女の清らかな魂に安寧を。

 

「自分の死も顧みずなんて健気なんでしょう。そういうの嫌いじゃないわよ?」

「……ッ!それじゃあ!」

 

 デニスは穏やかそうにニコリと笑ってみせると……カレンの首を大きな口に放り込んだ。

 

「アア……」

「あなたが殺した私の仲間の数は二十人。どうして慈悲なんてあると思ったの?ああ、やっぱりあなた良い顔で絶望するわね。……もう食べる!我慢できない!」

「アアアア!いたいいいい!……早く!早く殺せ!」

 

 デニスが近づいてきて、血の匂いのする口を大きく開けた。俺の右手は手首から先がすっぽりなくなっていた。想像以上の激痛に視界が歪む。わずか一部分で既に耐え難い痛みだった。これ以上の痛みがあるなど想像したくもなかった。そしてカレンが受けた痛みを想像して心まで痛くなった。口の端を血で汚しながら、デニスが満足げに咀嚼しているのが見える。

 

 もうどうだって良かった。食われても良かった。殺してほしかった。この地獄が終わって、カレンのところに行けるならそれで良かった。

 

「つれないのね。……二十人分の死の痛みを味わわせてあげるから安心なさい?」

 

 絶望に際限なんてなくて、絶望の下にはさらに深い絶望があった。足が食われ、腸を食われ、耳が食われる。一つ一つに違う痛みがあって、そして俺の体はその程度では死ななかった。

 

 数十分前に食われた足が再生する。また食われる。デニスにとって俺は無限に肉を生み出す家畜のようなものだっただろう。涙はとうに枯れた。喉が潰れて悲鳴すら出なくなった。時間の感覚は途中でなくなっていた。数時間が経ったのか、数日だったのか。あるいは数年だったのかもしれない。永劫にも思えた地獄の苦しみから解き放たれたのは、前触れもなく女神の神域に戻された時のことだった。



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15 カレンの決意

カレン視点です。
剣と天秤を持った女神の姿はテミスとかアストライアを想像してください。
プロレスはしません。


「――でも、オリヴィアだって忙しいのに、本当に教会への案内なんて頼んでよかったの?」

「授業はとっくの昔に全部取っていますから。学生の身分ですが、学院でやっているのは専ら自主研究ですので、時間はいつでも作れますわよ」

「本当?ありがとう!」

 

 お礼を言うとただ涼し気な微笑を以て返される。相変わらずの気品と風格だった。さらに平民との付き合いまでそつなくこなしている。メメちゃんはどうしてこんな凄い人を知っていたのだろうか。

 教会への道は、朝方にも関わらずたくさんの人がいた。なかには私と同じように白一色の巡礼服姿の人もいた。きっと彼らも中央教会へ参拝に行くのだろう。

 

「でもオスカーもメメちゃんも巡礼には付き合ってくれないなんてひどいよね!オスカーはまた一人で剣を見に行っちゃうし、メメちゃんなんて『教会には絶対に行かない!』とか言うんだよ?ひどくない?」

「メメさんは意外でしたね……。てっきり貴族のご出身かと」

 

 貴族階層はほぼ例外なく女神教の信徒だ。貴族社会で生きていくうえで、女神教とは切っても切れない関係が生まれる。

 

「メメちゃんが貴族?まさかぁ。あんな男の子みたいな女の子初めて見たよ?」

 

 なんというか基本的に言動が男の子なのだ。立ち姿や歩き方、喋り方もそうだし、オスカーと仲良く喧嘩しているときなど、兄弟のようだ。男同士のような遠慮のない距離感を、正直羨ましいと思わないこともない。

 

「まあ普段はそうですが……しかし私と話す時の態度は貴族相手でも失礼のないように配慮されたものでした。礼節を弁えた上流階級の振る舞いと言って良いかと。おそらくどこかで礼節について勉強したことがあるのではないでしょうか。貴族でないとなれば貴族相手の商いをしている商家のご出身でしょうか?」

 

 またもやメメちゃんの謎が増えた。アタシよりも小柄な体。それでも盗賊たちを打ち倒していく姿はとても力強くて大きかった。燃えるような赤髪と、対照的に深く沈んだ光のない瞳。話している時は表情豊かだが、普段のメメちゃんは何を考えているのかよく分からない。無表情で黒い瞳の奥からは何も読み取れない。虚無、という言葉が思い浮ぶ。

 

 でも揶揄うと表情豊かに反応してくれる。可愛い顔をしていて、ガサツな男の子みたいな話し方をする。でも思い返せば、最初に話しかけた時には大人の女性みたいな物腰の柔らかい礼儀正しい態度だった。買い物の時には、オリヴィアと早口で難しそうな単語で会話をしていた。どれが本当のメメちゃんなんだろうか。

 

「それも想像できないなあ。ここに来る前にメメちゃん盗賊団と戦ってたんだけど、すごく強かったんだよ?あの背中のおっきい剣で男たちをばっさばっさって。なんていうか、正直勇者よりも勇者らしかったよ」

「そうだったんですの……。勇者と言えば、カレンさんはオスカーさんの同郷、でしたか?」

「うん、そうそう。年が同じで家も隣の幼馴染」

「どうして、彼についていこうと?」

「どうして……うーん……」

 

 考えていますよ、と示すように自分の顎に手を当てる。理由を聞いていくる彼女の狙いは他にあるように思えた。にこやかな口元はそのままだが、青い瞳が少しこちらの表情を伺うような様子になっていた。見逃してしまいそうなほどの些細な変化。

 

 彼女がオスカーについて聞いてくる理由。勇者を、オスカーという人物を私の目を通じて見定めたいのだろうか。勇者という重大な役割を与えられたオスカーへ向けられる彼女の視線は少し厳しい。彼女としては少し前までただの村人だった彼が勇者の務めを果たせるのか疑問なのだろう。

 

 額の上、向日葵の形をした髪飾りを撫でる。オリヴィアの意図を推測した私だったが、結局思ったままを話すことにした。私はメメちゃんやオリヴィアほど賢くないのだ。だから、素直に思ったことを伝えることにした。

 

「オスカーとは物心ついた頃から一緒だったからさ。正直アイツが村を離れるって聞いた時、思ってたよりショックだったんだよね。ずっと一緒にいたからさ。急にいなくなるって分かって……心にぽっかり穴が開いたみたいだった。でも、一緒にいたいから勇者としての戦いについて行く、なんて簡単に言えないからさ、ガラでもなく結構迷ったりとかしたんだよね。――でもさ、村の宴会でふと見えたアイツの顔がなんか寂しそうだったんだよね」

 

 今でもその光景を思い起こせる。夜の闇の中、村の中心には薪が撒かれ、高々と炎が灯っていた。みんなが篝火の光を浴びて楽し気に笑っている。その中でふとオスカーが光から目を背けるように後ろを向いて、ぼんやりと暗闇を眺めていた。その顔は、その瞳は何かを惜しむようだった。

 

「それを見てたら、肩書が変わっただけでアイツはアイツのままなんだなって何となく思って。急に日常を奪われて大変な役割を担ったアイツは平気なのかなって気になって仕方がなくなって。……せめてアタシが何かしてあげたいって思ったら、アタシも村を飛び出してた」

 

 当たり前の関係が消えることへの恐怖とか、それもあったけれど、そうじゃないのだ。オスカーのことが心配で、何かしてあげたかった。思い返せば、一番の理由はそれだった。

 

「……フフッ」

「な、なんかおかしかった?」

「いえ、良い、微笑ましいエピソードでしたよ。カレンさんは私が思っていたよりもずっと、オスカーさんが好きなんですわね」

 

 微笑んだままに、オリヴィアはとんでもないことを言ってきた。好き、という言葉を聞いて、買い物に行った時のオスカーの顔を思い出した。贈り物の向日葵の髪飾りを、私に似合うと思ったからって言って、顔を真っ赤にしながら突き出してきたあの時。

 

「えっ?す、好き?いやいやいや好きとかそういうのじゃなくって!守ってあげたいとか力になりたいとか!そういう姉みたいな目線の、家族愛みたいなもので!」

「あら、愛であることは認めるんですね」

「……オリヴィアのいじわるっ!」

 

 ごめんあそばせ、なんて笑うオリヴィアの表情はどこか先ほどよりも柔らかかった。その顔は貴婦人というよりお転婆お嬢様と言った方がしっくりくるような、素敵な顔だった。

 

 

 

 教会に近づくほど周囲には私と同じ巡礼服姿があふれてきた。白一色の巡礼服。女神様の象徴、正義を表す曇りなき白色だ。私も昨日シミがないか入念にチェックした。

 それから胸元には秤を象ったシンボルが一つ。こちらは女神様の審判という権能の象徴だ。私のように単に村で女神様にお祈りしていただけの聖職者はこれだけだが、偉くなると剣を象ったシンボルも付けるようになるらしい。

 剣は断罪、力の象徴で、女神様の最も苛烈な側面を示す。罪人を慈悲深い心を以て許したという逸話から想起される慈悲深い側面とは対照的だ。

 

「カレンさん、なんだか楽しそうですね」

「うん!だってあの神話に出てくる中央教会だよ?一生に一度訪れることさえできれば、なんて言われる凄い場所だよ!?」

「貴女が想像以上に真摯な信徒であることは伝わりましたから、少し落ち着いてくださいませ」

 

 クールな声に我に帰る。周囲の白服の人たちが微笑まし気な目でこちらを見てクスクスと笑っていた。思わず羞恥に顔を伏せる。思いっきり田舎者が出てしまった。

 

「恥ずかしい……」

「王都では珍しくもない光景ですから、あまり気にしないでくださいませ」

 

 中央教会は想像以上の大きさだった。昨日の王城も大きかったが、あれとはまた違った。王城の大きさは特に高さが特徴的だった。あちらは頂点が高い位置に位置するように、という思想が読み取れた。

 一方の中央教会。縦よりも横に広い。シミもヒビも一つたりとも見えない白い壁は、その威光を示すように広く展開されている。天井は緩い傾斜を描いていて、半円を描く。頂点には小さいながらも存在感を示す天秤を模した石像。石造りとは思えないほどの精緻さだった。

 

「それでは、行ってらっしゃいカレンさん。王都にいればまた来れますから、長居しすぎないように」

「うん、ありがとう。行ってくる!」

 

 おそらく貴族の巡礼の日にここに来るオリヴィアさんとはここで別れて、一人で中に入る。外から見た時もいたく感動したが、内部の光景を見た感動はそれ以上だった。まず目に入るのは神々しい光。入口正面に設置されたステンドグラスが朝日を反射して、非日常的な輝きを放っていた。

 

 続いて目に入るのはその下、光が当たる位置に設置された女神像だ。反射する光に照らされる女神様は、まるでそこに生きているかのような躍動感があった。右手に高く掲げた天秤は彼女の手の震えに合わせて揺れを起こしそうで、左手に持つ断罪の剣は今にも罪人に向けて振り下ろされそうだった。そしてその表情は慈愛に満ちた優しい笑顔にも見えて、敵対者へと向けた絶対零度の威圧感のある笑みにも見える。素晴らしい。それ以外の言葉が浮かばなかった。凡百の言葉で形容することすらおこがましい美。入っただけで私の心は感動に満たされてしまった。

 

 

 教会の奥に位置していた一室は、絶えず人が行き来している。一面が白い壁で覆われた殺風景な部屋だった。目立つのは部屋の最奥、ひと際大きな天秤と剣が交錯したシンボル。ここが一般に開放されている礼拝所だ。

 ここまでの道中と比べて明らかに異質な、無機質な部屋。これは雑念を払うために、礼拝の場には必要な物以外置かないというしきたりを踏まえた造りだ。前方の女性が去っていったので、前に進みシンボルの下に跪く。手を合わせ、目を閉じる。祈るのは俗世の些事ではない。女神への信仰、女神の加護がこの世に存在すること、それだけだ。

 

 

 

 

 礼拝が終わってからも教会の中をしばらく見て回っていた。満足して中央教会の外に出たころには、西日が王都を赤く染めていた。興奮冷めやらぬままに歩く。絵画、彫刻など、内装のことごとくが私の心を奪っていた。またあそこに行けるのだと思うとそれだけで幸福な気持ちになれる。改めて女神様への感謝の気持ちを強める。

 

 物思いに耽りながら夕暮れの道を歩いていると、ふと子どもの泣き声が聞こえた。道端の街路樹の下、男の子がその場にしゃがみ込んでいた。

 

「どうしたの?」

 

 男の子は話しかけても返事はなく、泣きじゃくるだけだった。

 

「どうしよう……」

 

 初めての経験に戸惑う。小さい子と接する機会は、老人ばかりの村ではあまりなかった。目を合わせて話しかけても、大丈夫だよと言っても、泣き止む気配はない。あたふたしている間に母親らしい人が来て、男の子を抱きしめた。

 

「この子と一緒にいてくださって、ありがとうございました」

「い、いえいえ結局アタシはなにもできなかったですから」

 

 目の前の女性は優雅に笑うとそんなことはないと否定した。

 

「何かしたか、じゃなくて何かしようとしてくれたことが嬉しいのです。一人で泣いているよりも誰かいてくれた方がこの子も心細くなかったはずです。それに、あなたがいなければ悪い人が来てこの子を連れ去ってしまったかもしれない」

 

 母親は男の子と手を繋いで去っていった。振り向いた男の子が満面の笑みでこちらに手を振ってくれた。それを見るとアタシがやったことに意味はあったのだと漠然と思った。

 

「何かしたか、じゃなくて何かしようとしてくれたことが嬉しい、か」

 

 何だか心に残っている先ほどの言葉を反芻する。思い浮かべるのは以前の盗賊団と遭遇した時のことだ。

 

 大人が怒号を上げている様子が怖かった。地響きのような低い雄叫びと、耳障りな金属同士がぶつかり合う甲高い音。何もできなかった。恐怖に震える喉元は詠唱もまともにできなかった。あんなに自信のあった治癒魔法で誰も救えなかった。戦いの後で治療をすると騎士の人たちに口々にお礼を言われた。誰もアタシが役立たずだったことを責めなかった。

 

「……どうしてアタシが治癒魔法で皆を助けられなかったことを責めないのですか?」

「お嬢さんが必死に恐怖と戦っていたことは皆見れば分かるさ。それに今、こんな別嬪さんが俺たちのために必死に治療してくれているのを見て、責める人なんて誰もいないさ」

 

 頑張ってくれている姿が嬉しいんだよ、なんて騎士のおじさんはニカッと笑った。そこまで思い出すと、なんだかこれからも頑張れるような気がした。殺し合いは、怖い。人間も魔物も怖い。でも皆のためなら、オスカーと、メメちゃんと、オリヴィアの顔を思い浮かべる。彼らのためなら頑張れる気がした。



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16 一番の理解者

肩の荷を代わりに背負う話


 王国では、北に行くほど魔物が出やすいと言われている。人に害をなす魔物は北に位置する魔王領から流れてきているからだ。

 このオースティン大森林も魔王領から流れてきた魔物が多く住み着いていることで有名な場所だ。鬱蒼とした森林内部には多数の魔物が潜んでいて、精鋭騎士でも奥まで入るのは難しいとされている。しかし人里が近く物資の補給が容易であることもあり、魔物との戦闘経験を積むために騎士や冒険者などが訪れることも多い場所だ。

 

「『炎よ、我が敵を撃ち滅ぼし給え』」

 

 オリヴィアの短く短縮された詠唱から、小さく抑えられた火球が飛ぶ。猪の形をした魔物の鼻っ面に命中したそれは、勢いよく破裂して命を奪った。彼女が最も適正があるのは氷を用いた魔法だが、天才肌の彼女はそれ以外も器用にこなす。

 

「凄いですね!オリヴィアさんがいれば魔物に負ける気がしません!」

「この程度、女神様に祝福された勇者であるあなたならできるはずですわ」

 

 オリヴィアが不機嫌そうに返事をする。勇者の、あらゆる才能が与えられるという特徴は有名だ。武術も魔法も魔術も治癒魔法も、誰よりも速く上達する。だからといってすぐに熟達者と同等になれるかと言われれば、そこまでではない。

 

 オリヴィアは何も知らないオスカーに少し不満があるようだ。今の彼女を見ていると、初対面の頃のとげとげしい様子を思い出す。

 実際のところ、実戦経験をしていないにも関わらずここまで戦えるのはオリヴィアくらいだ。魔法も魔術も長所と短所を理解してうまく使いこなす。あとは体を鍛えてもう少し機敏に動けるようになればそうそう遅れを取ることはないだろう。

 

 物思いにふけっていると背後から物音がする。振り向きざまに剣を突き出すと、狼の形をした魔物が突っ込んできたので串刺しにする。

 

「メメさんは随分戦い慣れていらっしゃいますね」

「剣の扱いにはいくらか覚えがある。前線で斬り結ぶのは任せてくれ」

 

 力任せだった剣技は、いつの間にかそれなり以上の技量になっていた。しかし以前とは比べ物にならないほど腕力が落ちていることには気を付けなければならない。過去の俺の剣技は祝福を受けた身体能力を以て膂力で相手を圧倒することを前提に成り立っていた。

 

 そして得物も聖剣ではない。ただ形状の似通った大剣。悪い剣ではないが、聖剣の頑丈さと切れ味にはまったく及ばない。直近の戦いを終えたら新しい得物を探すべきだろうか。そこまで考えて、そろそろ姿を現すだろう強敵を相手に未熟な彼らが戦えるのか不安になる。

 

 

 他の面々の様子を見る。カレンの治癒魔法はそつがない。元々村で治癒魔法で人々を助けてきたのだ。加えて大自然を駆け回って育ってきたカレンは田舎育ちらしい脚力を持っている。幼い頃散々やった鬼ごっこで見せた健脚は戦場でも彼女を助けるだろう。

 

 最後にオスカー。肝心の勇者様は、正直なところ見ている俺まで恥ずかしくなってくるような拙さだ。剣を振る速度、踏み込む足の力強さは既に常人のそれを大きく超えている。しかしその優れた能力をまったく活かしきれていない。丈の長い聖剣に振り回されている。まだ勇者として身体能力を自分のものにしきれていない。俺に一太刀浴びせた時の気迫や勢いはどこにいったのやら。

 

「オスカー、自分の周りにある力に集中しろ。勇者の力を使いこなせなければその剣は使いこなせない」

「えっ……うん分かった」

 

 俺の助言を聞いたオスカーが目を閉じると、目に見えない力が集まっていくのが分かった。勇者の人外の身体能力の源は、空気中や地面にある微細な魔力だ。優れた魔法使いでも完全には掌握できないそれを、無意識のうちに自分の身体能力の強化に充てる。女神の祝福を受けた体はあらゆる自然を味方につける。

 彼の周りの空気が変わった。見るものが見れば一目で身の危険を感じるような膨大な力の高まり。オリヴィアの生唾を呑む音が聞こえた気がした。

 

 力を充実させたオスカーは、飛び出してきた猪型の魔物に聖剣を振り下ろす。周囲の木が倒れんばかりの暴風を生み出して、猛烈な勢いで振り下ろされた聖剣は見事に魔物を真っ二つにした。

 そして、オスカーは勢い余って頭から地面に突っ込んだ。嫌な沈黙の中に、べちゃり、と情けない音が響いた。

 

「ハア……」

 

 その溜息は俺の口と、オリヴィアの方から聞こえた。

 

「ま、まあ、しばらくは私とメメさんでも十分対処できると思いますから、そんなに焦る必要はないかと存じますわ」

 

 あまりにも落ち込んだ様子を見かねたオリヴィアがオスカーをフォローする。思わず溜息を付いてしまったことに多少の罪悪感があったのだろう。

 

とはいえ、このままでは多く人を救えないことになる。一周目の俺は自分の未熟さゆえに夥しい数の犠牲を出したのだ。だから今回は、俺が奮闘する必要があるのだろう。勇者パーティー初めての本格戦闘は彼らが思っているほど遠くない。今から一週間もすれば、北東の村がデニス率いる「美食気取りのオーク」の一団に占拠されたという報告が入る。北西での魔物の大量発生に騎士団を派遣していた王国は対応に困り、結成間もない勇者パーティーに協力を要請することになる。そこで俺たちは、最初の戦場を見ることになるだろう。

 

 

 

 

「何落ち込んでんだ、泥まみれの勇者様。顔の泥ならさっき俺が魔術で取ってやっただろう?」

「メメ……」

 

 いかにも落ち込んでます、という哀愁漂う背中を見つけて、つい話しかけてしまった。他の二人は近くにいないようだ。今のうちに少し話しておくべきか。

 

「お前の考えていることを当ててやろう。皆の前で勇者への期待を裏切ってしまった。このままでは皆を守れない。勇者の名に恥じない戦いができると思えない。そんなもんだろ?」

「……魔術っていうのは心も読めるの?」

「できないとは言わねえ。今度やり方を教えてやろう。今回に関してはそんなの必要がないほどお前が分かりやすく情けない顔してたってだけだ」

「容赦ないなあ……」

 

 苦笑いをする顔には隠し切れない不安が見え隠れする。それを見た俺に浮かび上がってきた感情は、同情でも憐憫でもなく、怒りだった。

 どうしてお前が勇者の重責を負っている。それは俺のものだ。一人で背負い込もうとしている態度にイライラが募る。きっとそれは、同族嫌悪であり自己嫌悪だった。

 だから、今の彼にありきたりな励ましを口にしても何の意味もないことは分かっていた。安易な慰めなんて口にしない。お前なら大丈夫だなんて口が裂けても言わない。大丈夫じゃなかった過去の俺が今ここにいる。

 

「――数日前まで平凡な人間だった奴がなに全部背負った気になっていやがる」

「え?」

「なんでお前が皆を守れる気になってるんだよ。お前なんてこの前まで剣も握ったこともなかったただの素人じゃねえか。人を殺したことだってない、平和な社会で暮らしていた平凡な人間だ。違うか?」

「でも、僕は勇者だし……それにこの前盗賊団と戦って……」

「戦って、誰一人殺さなかった。そうだろ?」

 

 俺自身の記憶通りにこいつが動いていたなら、あれが初めて剣を取った時だったはずだ。人を傷つけることは許容できたが、最後まで人を殺すことはできなかった。そんな甘い人間だった頃の俺がこいつだ。

 

「なんでそれを……」

「見れば分かる。いいか?そんなヘタレに世界の命運を全部任せる、なんて言うやつがいたらそいつの采配ミスなんだよ。もしくは間違っているのは世界だ。お前は所詮一人じゃ何にもできないガキなんだろ?何をいっちょまえに責任を背負った気になっていやがる」

「でも僕はただの人じゃなくてって、選ばれた勇者で……」

 

 その表情が、義務と期待を背負って不安に圧し潰されそうな過去の自分に重なった。だから俺は、お前を特別な人間になんてしてやらない。使命を果たす人間はこの俺だ。情けないお前なんかじゃない。

 

「何が勇者だ!くじ引きみてえな適当なやり方で人類の救世主を選びやがって!いいか?女神のお告げなんて嘘っぱちだ!世界を救うのはたかが15年程度しか生きてねえお前なんかじゃねえ!俺だ!人生全部魔王を殺すために費やしてきた俺なんだよ!」

 

 ここまで言ってもオスカーはまだ懐疑的な表情だった。まだ重責を背負って苦しい、という表情だ。俺の苛立ちが際限なく高まっていく。

 

「でも、魔王を倒せるのは聖剣だけって……」

「その棒切れ貸せ!」

「あっ!ダメだよ!」

「――ッ……」

 

 見慣れた聖剣の柄を握ると、とたんに手のひらが焼けるように熱くなった。勇者以外が聖剣に触れると、例外なくそのあまりの熱さに取り落としてしまう、とは聞いていたがこれほどとは思わなかった。

 額から脂汗が噴き出す。熱は体全体に伝わり、骨の髄まで地獄の業火で焼かれているようだった。でも掴んでいられる。この体は勇者の残滓を魂に持っている。常人以上勇者未満の聖剣適合者だ。

 

「俺だって魔王を殺せる!」

 

 痛みは意思と怒りで打ち消す。剣先を太陽に向けるように振りかざして、渾身の力を込めて振り下ろす。嵐が来たかのように木々が揺さぶられ、聖剣に両断された幹は綺麗な切れ目を作って真っ二つになる。

 

「あっちー……」

「なんでこんな無茶したの!?」

 

 あまりの熱さに聖剣を取り落とす。手のひらは焼け爛れて元の肌の色は見る影もなかった。オスカーが心配そうな顔でこちらに近づいてくる。こいつに心配されるとなんだか腹が立った。

 

「分かったか?お前の代わりなんて、ここにいるんだよ。魔王を倒すなんて大それたことを考えるのは俺みたいなのに任せておけ。分かったら無意味に焦るんじゃねえ。……遠くを見据えるんじゃなくて、できることから一個一個覚えていくんだよ。どうせお前は一遍に多くのことを覚えて急成長するような器じゃねえんだよ。だから、できることを全力でやる。分かったか?」

「……うん」

 

 ……その表情ならきっと大丈夫だ。俺と同じ結末なんて俺が迎えさせない。勇者の使命なんて俺に任せて幼馴染といちゃついていやがれ。

 

 

 

 

 思い出すのは悪意なんて少しもない、純粋に意気消沈した俺を励ます言葉。

 

「オスカーならきっと大丈夫。アンタなら何とかしちゃうって、アタシ信じてるから!」

「大丈夫、貴方は女神様に選ばれたんですから。きっと成し遂げます」

 

 仲間たちにかけられた言葉を今でも忘れられない。彼女たちの信頼を裏切った。人類の滅びの運命をなんとかすることなんてできなかった。やはり俺ではダメなのではないか。何度もそう思った。でも俺しかいなかった。なんとかできるのは。魔王を打ち倒す力を与えられたのは、俺しかいなかった。

 

 死ぬ気で頑張った。死んでも頑張った。何回もやって、何回も皆を死なせた。繰り返すたびに温かい言葉が肩に重くのしかかり、俺を一層惨めにさせる。

 だんだんと俺は仲間と距離を置いて戦うようになった。その方が楽だったのだ。守るもののなくなった俺は、以前よりもずっと自由に戦場を駆けまわれた。最短で、最高の結果を。犠牲なんて気にしていられなかった。その何倍もの犠牲を俺は出し続けていたのだから。

 過去に戻れば全部無くなる、なんて都合の良いことは考えられなかった。悲痛な断末魔を、失った人たちの号哭を、覚えている。その感情が、死が、全部無かったことになったなんて俺が思って良いわけがない。一度だって忘れたことはない。俺の心は過去に縛られ続けていたのだろう。愚かな俺は前に進んで、罪を、背負う重石を増やしつづける。なんと愚かな生だろうか。

 



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17 決戦

 北東の村がオークと思われる魔物に襲われたという報告が届いたのは、ジェーンの言う通り、あれから一か月後のことだった。王都からの使者を名乗る男の誘導に従って馬車に乗り込む。

 

「魔物たちは強力で、周辺に配置されている騎士団で討伐するには戦力不足です。王都からも兵力を送る手筈になっておりますが、正直心許ない戦力です。現在北西部でも魔物の大量発生が起こっておりまして、騎士団の手が足りません」

「だからといって、結成間もない勇者パーティーを派遣するというのは、あまり得策とは思えないのですが」

「皆様には勝利よりも帰還を第一に考えて欲しいとの言伝も受け取っております。戦力として活躍してほしいというより、実戦経験を積んでほしいと考えておられるのではないかと」

「それはそれで何だか複雑な気持ちになりますわね……」

「逃げませんよ。皆助けます」

 

 使者の言葉を聞いて、オスカーは気持ちを高ぶらせているようだ。あまりにも青臭い姿に、また俺が恥ずかしくなる。やはり自分の体だったものが全く違う自我を持って行動している現状は想像以上に複雑な気分だった。

 

 

 馬車の中、これまでに今回のオークの集団に襲われたと思われる村の被害についての報告書を読む。王城でまとめられたそれには一定の信ぴょう性がある。俺に関しては読むまでもないのだが、三人に説明するためにパラパラと流し読むふりをする。

 

 襲われた村は、全て村民全員が生還しなかった。襲撃の証人はゼロ。さらには遺体すら残っていないという徹底ぶりだった。オークたちの襲撃は夜だ。夜闇にまぎれて無防備な村を襲う。オークらしくもない狡猾なやり口だ。さらに村を占拠すると一日後には去っていく。人間の、騎士団の襲撃を恐れているかのような迅速な行動だ。明らかに統率された動き。周囲では騎士を増員して警戒していたらしいが、それでも今回の事件が起きた。

 

「魔物にそんな知能があるの?」

「一部の強力な個体は優れた思考力を持っている。人間が常に頭脳で勝っていると思っていたら足を掬われるぞ」

 

 カレンが不安げな表情をする。女神暦がなって以来、戦略や団結力を以て、身体能力で劣る魔物に打ち勝ってきた人類だ。魔物相手に頭脳でも負けかねないと言われれば当然の反応だ。しかし特にこの「美食家気取りのオークたち」の一団に関してはこちらの思考の上で行かれることも想定しなければならない。

 

 魔物といっても知能のない獣から人と変わらぬ思考能力を持った物まで多種多様だが、その中でも特に人間にとって最悪の存在であるのがデニス率いる「美食家気取りのオークたち」の一団だ。今から見た未来において、このタチの悪いオークたちはそう呼称されるようになった。

 彼らの目的は人間をより美味しく食べることだ。恐怖を与え、醜く歪んだ顔を引き出すほどに、人の肉は旨くなるというふざけた哲学を持っている。彼らに敗北した人間は死以上の恐怖を、食われるという体験したことのない恐怖を味わうこととなる。

 

 後手後手に回っていた過去の村襲撃と違い、今回は騎士団がオークの動向を捉えていた。襲撃は昨夜。即応した騎士団は予想以上の敵の多さに一時撤退したらしい。俺たちは第二陣に当たる。しかし動きを捉えられていると分かっていながら村に居座っているのだとしたら、ほぼ間違いなく迎撃準備が整っているということだろう。

 

 俺たちが村人の救出に来ることは予想されていると考えた方が良い、というところまで伝えて、馬車の中の空気に気づく。みな一様に俯いて何事か考えている。重苦しい沈黙に息が詰まりそうだった。脅しすぎただろうか。「美食家気取りのオークたち」は強さだけで言えば魔王軍中枢ほどではない。しかし、初陣の浮足立った状態でやり合えば確実に犠牲が出る。そう思っての警告だったが、逆効果だったかもしれない。

 

「そうだよね。僕が負けたら大勢の人が犠牲になるんだよね」

 

 誰に言うまでもなく、確認するようにオスカーが呟いた。その様子に危うさを感じた。

 

「気負いすぎるんじゃねえ。お前が未熟なのは分かっている。この前言われたことをもう忘れたのか?お前の頭どっか穴開いてんじゃねえのか?」

「わ、忘れたわけないじゃん!でも、僕まだ全然強くなれていないのに……」

「余計な事考えるんじゃねえバカ!そういうのは俺だけ気にしてりゃあいいんだよ。何も考えずに俺に任せろ」

「男よりも男らしいですわね……。では自信満々のメメさんに指揮は任せて、実戦慣れしていない三人は目の前の敵に集中しましょうか」

 

 まだほとんど実戦を経験していない三人は、どこか気負い過ぎているように感じる。意気込みだけがふわふわと宙に浮いて、地に足がついていない。いつもと同じだ。頼るのは己のみ。なんとなしに手のひらを眺める。未だ自分のものとは信じられない少女の手は小さくて薄っぺらい。

 馬車を森の中に停めさせる。おそらく発見されずに接近できるのはこの辺りまでだ。

 

「馬車はここまでの方が良いでしょう。後は4人で歩いていこう」

「では私はここで待機しています。撤退の際にはこちらまで」

「行こうか。大きな音を立てると気取られる可能性があるから、そのつもりで」

 

 あの集団なら周囲の偵察くらい行っているだろう。人間の軍隊を相手にするような気持ちで臨んだ方が良い。

 鬱蒼とした森に四人の静かな足音が溶け込む。ある意味、思いっきり武器を振るえる戦闘よりも疲弊する場面だ。飛び出した小鳥の影にすら過剰に反応してしまう。どこにオークの偵察がいるのか分からないのだ。魔術で探索すれば魔力でこちらの居場所がばれるだけだ。

 足元の小枝を踏むことすら躊躇うような数分。ふいに、俺の視界の端に影が写る。

 

「『氷よ、我が敵を過たず穿て』」

 

 声量を抑えた詠唱で小さな氷柱が飛び出す。打ち出された氷の矢は寸分たがわず森を巡回していたオークの喉元を直撃した。突然首に穴が開いたオークは断末魔を上げることもなく息絶えた。生命力の弱い個体で助かった。

 

「ここからは急ごう。あの死体が見つかる前に強襲する」

 

 森の中の偵察の目はこれだけだろうと推測して先を急ぐ。時間をかけすぎたらどちらにせよ奇襲できない。先ほどまでとは打って変わって、できるだけ素早く移動を始める。すぐに森を抜けて視界が開ける。遠く見えるのは田舎の村らしい素朴な造りの家々。

 

「あれが件の村だな。これ以上は隠れる場所がない。一気に切り込もう」

 

 向こうまでは二百メートルほどだろうか。ここから見えるのは村の中央の広場に座り込んで何かを貪るオーク達の姿。時折オークが一番大きな建物に入っていくと、また新しい人間を引きずっていくのが見えた。遠見と透視の魔術を使う。この距離ならば魔力を感知されることもないだろう。

 

 ほとんどのまだ無事な村人は一番大きな建物に集められていた。守るべきはあそこだろう。中央の饗宴の中には人間の生存者は少なそうだ。しかし魔法をぶっ放して辛うじて生き残っている村人を傷つけるわけにもいかない。俺とオスカーで斬りこむしかなさそうだ。

 

「魔法の偵察なら私に任せていただいても良かったのですが……」

「いや、いい。オリヴィア、一番大きな建物を氷の壁で囲ってくれ。オークたちが通れなければそれでいい。発動後は周囲の警戒に当たってくれ。近辺を偵察していた奴らが戻ってくるはずだ」

「承りました。『今は亡き氷の女神よ、畏れ多くも我に御力を与え給え。望むは……』」

 

 オリヴィアの凛とした詠唱を聞きながらオスカーとカレンの方に向き直る。どちらも緊張した表情だ。

 

「オスカーとカレンは俺についてきてくれ。俺たちが敵の注意を引いたらカレンは村人たちを助け出してくれ。でも、最優先は自分の命だ。カレンはこれからもたくさん命を救うんだからな」

 

 場合によっては自分の身すら顧みず人を助けようとするカレンに釘を差す。ここに待機しろ、なんて言ったら勝手に飛び出していきかねない。オークの足は速くない。カレンなら負傷した村人を治癒しつつ健脚を活かして逃げてくれるだろう。俺たちはそれを守るだけだ。意気込むオスカーも、カレンを守るために戦うのが一番力を発揮するだろう。

 

「オリヴィアの魔法の発動と同時に行くぞ」

 

 沈黙。数刻、オリヴィアの詠唱だけがその場に響いた。魔法の完成を待つ僅かな数秒が嫌に長い。タイミングを見計らって肩に力の入っているオスカーに声をかける。

 

「……それでは、我らの初陣といこうか、未来の勇者殿。――人類の未来のために」

 

 握り拳を突き出すが、オスカーの反応はない。そういえばこの慣習を知っている人間はここにはいなかった。古臭い習慣だ。戦地に向かう男同士で握り拳をぶつけ合って、互いの健闘を祈る。左手でむんずと彼の右手を掴んで拳と拳を無理やりぶつける。久しぶりのジンと痺れる感覚。少し気分が奮い立った気がした。

 

 

 

 

「『何者をも寄せ付けぬ絶対零度の氷よ!あらゆる者を拒む絶壁を造り給え!』」

 

 二百メートル先の建物を正確に囲んで、高さ十メートルほどの分厚い氷の壁が構成される。流石の精緻な魔法の発動だった。

 

「行くぞ!」

 

 三人で平地を駆ける。食事に夢中なオークたちはまだこちらに気づいた様子がない。偵察を過信しすぎだ。距離が近づくと魔術の照準が容易になる。ここからなら村人に当たらない。

 

「『渦巻く炎よ、我が敵を飲め』」

 

 人ひとりくらい軽く飲み込みそうなほどの巨大な炎の渦が、一直線にオーク達に向かっていく。運悪く渦に巻き込まれたオークは火だるまになって転げまわっていた。オークたちに動揺が走る。

 炎に隠れるように、一番手前にいたオークに肉薄、飛び跳ね首筋を一閃した。腕が押し戻されるような重い手ごたえ。薄く入った刃は辛うじて致命傷たり得たらしい。やはり筋力が落ちている。

 

「急げオスカー!体制を立て直される前に生き残りを救出するぞ!」

 

 生き残りの村人のところにたどり着くために進路を塞ぐオークを斬っては捨てる。両腕が疲労を訴え始めた頃、鮮血が地面に染みこみ、文字通りの血路を形成する。ひとまずカレンが通れる道は作れただろう。後は彼女が逃げる時間を作らなければ。

 

 最初に仲間を火だるまにされたオーク達は浮足立って組織的な動きができていなかった。火は死体から燃え広がり、周辺の雑草に飛び火している。オークたちは思うように行動できず、鎮火することもできていないらしい。慌てふためいている様子が伝わってくる。

 

 平静さを奪うことには成功した。こうなれば使い古した戦法ができる。敵が多い方へと突き進む。あえて敵のど真ん中に陣取った。見渡せば全方位に殺意に満ちた目。これで同士討ちを恐れたオークは飛び道具を使えなくなった。拙い造りの弓も、投石も恐れる必要がなくなる。

 人間の食材の分際で中途半端な知性を持ったせいだ。ざまあみろ。後は俺が、奴らを一匹ずつ切り刻んでいくだけだ。

 僅かに震える両腕に再び力が籠る。見覚えのある、不細工なオークたちの顔。何度切り刻んでも満足したことはない。俺は生きているこいつらに会うたびに復讐するのだ。

 

「大人しくしろ人間!」

 

 オークが大斧を振りかぶる。体格の差は歴然だ。巨漢の敵の得物は、雷のように上から降ってくる。だが、それがなんだと言うのか。

 その場でひらりと回り斧を回避すると、膝のあたりを切りつける。巨大な図体を支えられなくなったオークが崩れ落ちる。その隙を逃さずに俺は、渾身の力を込めて最も脆い弱点、首を切り落とした。そうやって作った死体に魔術で火を着ける。油の乗ったオークの体は良く燃えるのだ。身の丈を超えるほどの炎柱。オークたちがたじろぐ。

 

「共食いしろ豚野郎!」

 

 両手を使って投げ込んだ死体が、近くにいたオークに直撃した。火は燃え移り、オークを生きながら灼熱地獄に叩き込んだ。オークたちの殺気が膨れ上がる。そんなにいきり立って前に出てきては、せっかくの知性も生かせまい。この分なら遅れを取ることはなさそうだ。

 

「オスカー!カレンの方を頼んだ!俺があいつらの目を引き付ける!」

 



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18 勇者の決意

 勇者とは人類全ての希望の光だ。魔王という天敵に唯一対抗できる聖剣を扱い、最前線で戦い続けて味方を鼓舞し続ける。

 そんな役割が自分に課せられた、ということが僕は、まったく実感が湧かなかった。聖剣に選ばれた、と分かった時に最初に感じたのは、何故僕だったのかという疑問だった。

 

 御伽噺に語られる勇者の活躍はすごいものだった。聖剣を振るえば大地が割れ、誰よりも大規模な魔法を扱って敵を打ち倒す無敵の存在。話だけ聞いていれば同じ人間とは思えない。

 そんなものに何故僕が。燃えるような正義感なんてない。僕はただ、あの平和な村にいたいだけだった。己の義務を粛々とこなす才覚もない。剣もロクに扱えず、教えてもらった魔術だって中々上達しない。勇者の務めを果たせ、と言われても困惑しかなかった。

 

「おお、オスカー!頑張れよ!村の皆で応援してるぜ!」

「それでは勇者様、貴方のご武運を祈っております」

 

 期待は、巨大な質量を持って僕の肩にのしかかる。善意で放たれた言葉は僕の心を縛り付けて離れず、どんどん重くなっていく。頑張れ、と言われても頑張れなかった。人類のため、なんて大層な題目が僕には全く想像がつかなかった。

 

 盗賊と戦って、初めて命の取り合いがどういうものなのか分かった。負ければ全部を失う。富も絆も尊厳も全てが無慈悲に蹂躙されて、二度と返ってはこない。だからカレンを守るために振るった剣先はずっと震えていた。

 取り返しのつかない死がたまらなく怖かった。皆がどうして僕にあんなに期待するのか分かった。もしも魔王に負ければ人類皆が全てを失う。勇者の役割の重さが、リアリティを持って僕の心にのしかかってきた。

 

 

 義務と恐怖心に挟まれて、どうすればいいのか分からなくなった時に、メメの言葉に救われた。

 

「――お前の代わりなんて、ここにいるんだよ」

 

 嬉しかった。お前は特別な唯一の存在じゃないと言われたことが。凡庸な僕の肩には人類全ての希望なんてとても背負えないと思った。

 頑張れ、役目を果たせ、という励ましではなく、僕を否定するような言葉。自分が代わりに背負うのだと言い切ったメメの不敵な笑みは、僕なんかよりもずっとかっこよかった。

 

 

 肩が軽くなると色んなことができるようになった。自分の力を制御して、思い通りに動かす。やってみれば当たり前のことだったのだ。特別なことなんて何もない。

 

 余裕が出てくると他のことも見えてくるものだ。メメのことが気になった。僕の背負った重圧をなんでもないような態度でひょいと持ち上げて、自分の背中に背負った。彼女自身の内心はどうなっているんだろう。

 

 盗賊相手に華麗に舞った赤毛を思い返す。自分を顧みない苛烈な戦い方。体当たりするように敵に肉薄して、紙一重で攻撃を避ける。死に急いでいるみたいだ、と思った。

 あれはひょっとしたら、期待に圧し潰され続けた僕の姿なのではないだろうか。突拍子もない発想に思えたが、考えるほどしっくりくる。

 

 会った時から、不思議と他人とは思えなかった。ずっと一緒だったカレンよりも良く知っているような不思議な感覚。容姿も性別も全く異なるのに、自分の未来の姿を鏡で見せられているような。

 そう思うと彼女のことがとても気になった。カレンを見る時のような胸の焦がれるような感覚ではない。見ていないと前触れもなく消えてしまうのではないかという根拠のない不安だ。

 

 

 そして今、その小さな体の大きな背中を追っている。敵を蹴散らしながら、少女らしい高い声質で、されど凛とした響きを持って僕に呼びかけてくる。

 

「オスカー!カレンの方を頼んだ!俺があいつらの目を引き付ける!」

 

 やっぱり僕なんかよりもずっと勇者らしい。そして他人の重荷を背負ってしまうほどの優しさを持っていることを知ったのはつい最近だ。だから僕も助けたい。力になりたい。あの時僕を救ってくれた君を救いたい。

 

 でもまずは僕の役目を果たさなければ。僕の後ろには大事なカレンの姿。盗賊に襲われた時と同じだ。でも僕はあの時とは違う。誰かに与えられた役割じゃなく、僕のために大切な仲間たちのために戦おう。もう殺意に満ちた目に怯えることはない。世界を救うなんて未だに想像できないけど、せめて手の届くものだけは守る。決意とともに抜き放った聖剣は、今までで一番軽かった。

 

 

 

 

 大剣は敵を斬り伏せ、両断し、ねじ伏せる。倒しても倒してもきりがない。オリヴィアの魔術支援が届き、殲滅速度は上がるが、オークを全滅させられる気がしない。蟻の巣をつついたようにわらわらと湧いてくる。俺の手はもう疲労による震えを抑えることができなくなっていた。

 

 まずいな。オークを斬り伏せつつ、己の冷静な思考が告げる。殲滅速度が思ったより遅い。計算違いの理由はやはり己の力不足だった。以前なら一撃だったところを二撃、一刀両断できたはずが刃が止まる。

 

「食料風情が!」

「うるせえぞ畜生風情!」

 

 怒声を上げるオークの足の健を斬り、とどめに喉元に大剣を突き刺す。一声も発することができなくなったオークは、静かに死へ向かっていった。

 集結してきたオークの数は最初よりも多い。その中にはひと際大きな体躯、デニスの姿もあった。このままでは連携を立て直されてしまう。

 

「オリヴィア、敵後方の一団に攻撃魔術を!!」

「はっ?……承りました。『灼熱の炎よ、悉くを燃やし尽くせ』」

 

 怒鳴るように指示すると、天に届かんばかりの炎柱が昇った。本隊のオーク達、その前方が消し炭になる。それでも奴らは止まらない。仲間のなれの果てを踏みつけて、ただ愚直に前へ進む。敵軍の頭脳であるデニスは仕留めそこなったらしい。敵が最初よりも増えたことに、俺は冷や汗を垂らした。

 

 

 

 

「カレン、騎士団の左翼がヤバい。向こうの支援を頼む!」

「分かった!メメちゃんも無理はしないでね」

 

 戦いが始まってから早一時間といったといったところか。村人の救出はカレンとオスカーでうまくやってくれた。後は氷の壁の中に閉じ込めている村人さえ助けられれば完全勝利と言って良いだろう。

 

 こちらも王都から来た騎士団との合流も果たしたが、依然戦況はかんばしくない。騎士団も奮闘しているが、オークたちの想像以上の練度に戸惑っている。こちらの武器は分厚い脂肪に阻まれ決定打を与えられず、あちらは的確にこちらの急所を狙ってくる。

 

 さらに対魔物の戦いにおいて特に有効な魔法の使用もうまく牽制されている。詠唱を始めればオークたちは魔法使いの方に殺到して、それを阻止しようとしてくる。オリヴィアほど離れたところから魔法を正確に放てる魔法使いなどそうそういないのだ。敵味方入り混じる混戦で正確に相手を狙い撃つのは困難だ。もう少し犠牲が増えれば騎士団も撤退せざるを得ないだろう。

 

 結局のところ、いつもと同じ方法しかないようだ。指導者の斬首を以て敵を降伏させる。散々やった手口だ。俺はオーク達の首魁、デニスの方に向けて血路を斬り開き始めた。

 

 

 

 

 断末魔が絶えず響き続ける。俺の通った道には多数の死骸。数多の命を無に帰して、俺はやっとデニスの元にたどり着いた。両手の感覚はとっくに無くなっていた。

 

 大柄なオークの中でもひときわ目立つ巨体がオークたちの死骸の中に立っている。目の前に立てば、まるで城壁の前に立ち尽くしているような圧迫感を受ける。耳に付けられた小さな赤いリボンはあまりにも不釣り合いだ。きっとあの体躯は数多くの人の肉からできている。

 美食家気取りのオークたちの首魁、デニスは人間の肉しか食わない偏食家だ。俺にとっては何回殺しても殺したりない仇敵。この世界には存在しない過去の、因縁の相手。夢で何度も聞いた不快なダミ声が聞こえてくる。

 

「あらあら?美味しそうなお肉様が自分から現れたわね」

「ハッ、食糧はお前の方だろう。明日にはお前は俺たちの食卓の上だ。お前の肥え太った贅肉ならそれなりの人間の腹を満たすだろうよ」

「良くさえずるお肉だこと」

 

 憎しみを込めた俺の大剣とやつの大斧がぶつかり合い、火花を散らす。辛うじて拮抗。やはり、以前よりもずっと重たい。力づくでは倒せそうにない。鍔迫り合いのままに腹を蹴り、距離を取る。衝撃はたるんだ肉に全て吸収されたようだ。己の肉体のあまりの貧弱さにストレスが貯まる。

 

「人間の中では強い個体みたいだけど、私に勝てると思った?」

 

 再び切り結ぶが、やはりあまりに分が悪い。剣を交えるたびにこちらには小さな傷が少しづつ増えていくが、向こうはまったく疲弊した様子はない。力で負けている。魔術で隙を作るしかないだろうか。しかし中途半端な火力では厚い脂肪に阻まれるだけだろう。

 思考が詰まる。かすり傷から少しずつ血が流れ出し、俺の思考力を奪っていく。さらにここまでの連戦の疲労も溜まってきていた。かすり傷が徐々に深くなっていく。

 

「お嬢さんにしては力が強いようだけど、それくらいオークの里にはゴロゴロいるわね。それだけなら早くその細腕を味見させなさい!」

 

 デニスが巨体を振るわせて肉薄してくる。見た目に似合わぬ俊敏な動きは俺に熟考の余地を与えなかった。愚かにも、百年間で肉体にこびりついた習慣は、真っ向からの力勝負のために突撃を選ぶ。かつてなら間違いない選択だった。男だった、勇者だった俺ならば。

 

 もはや激突は避けきれぬ段階なってようやく脳の思考が追いつく。まずい。今の貧弱な体ではやつの肉体に打ち負ける。

 思考の次の瞬間、俺の軽すぎる体は宙を舞っていた。世界が反転する。地面が自分の頭に迫ってくる。慣れ親しんだ、死が眼前に迫ってくる感覚。ついに終わるのだろうか。終われるものだろうか。それが意識を保っている間の最後の思考だった。

 



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19 悟り

贖罪の答え合わせです


 こんなタイミングで過去を思い返すということは、きっとそのことに何か意味があるのだろう。

 

 

 

 

 勇者が過去に戻る前には、女神のいる神域に意識だけが飛ばされる。俺の視界すべてが眩い光に包まれている。現実感を喪失する光景だった。神域では、神々しい光の他には何も見えない。地面も、地平も、空も存在しない。自分が立っているのか座っているのかも分からない、気持ちの悪い感覚。

 

 しばらく目を凝らすと、光の奥にぼんやりとした人型の輪郭が見える。あれが女神の姿らしい。見るだけで畏怖を感じるほどの巨大な質量。自分の十倍はありそうな巨大な体躯だが、遠近感を喪失したこの空間では実際どの程度大きいのか分からない。

 

 予期せぬタイミングで過去遡行させられそうになっている俺は激昂していた。

 

「何故だ!?まだ俺は死んでいなかったのに、どうして巻き戻した?」

「あのままでは貴様の精神が死んでいた。肉体は蘇るが精神は一度壊れれば元には戻らぬ」

 

 感情の伴わない女神の声が聞こえる。巻き戻しは女神の一方的な決定で行われている。しかし今回に限ってはその決定に異を唱えずにはいられなかった。

 

「まだ、まだ逆襲の目はあった!!」

「それが間違いであることはお前も把握している。単に感情的になっているに過ぎない」

「そうかもしれない……。そうかもしれないが……」

 

 俺だけが逃げるなんて納得できない。完敗だった。総力戦の末に、勇者パーティーは全員が魔王軍に捕らえられた。蛆虫の這いずる地下牢の中、仲間は一人ずつ殺されていった。腕が斬り飛ばされて、火炙りにされて、一人ずつ嬲り殺される。

 

 何よりも大切だったカレンの悲痛な断末魔を聞いて、誰よりも愛しく思っていたオリヴィアの苦痛に喘ぐ声を聞いた。

 次が俺の番だったのだ。牢から引きずり出されて、足枷の鎖を地面に擦りながら汚い廊下を歩かされる。散々仲間の悲鳴を聞かされた後だった。わめき声、すすり泣き、叫喚、罵声、断末魔。全てが耳にこびりついて離れない。

 

 もはや俺が感じるのは痛みへの恐怖ではなく、仲間の後を追えることの喜びだった。ようやく自分の罪を償える。そもそも俺たちが負けたのも俺のせいなのだ。勇者である俺が何とかできなかったからだ。それなのに、仲間が苦しめられている現状はとても苦しかった。いっそ殺してくれと何度も思った。

 

 暗い地下で俺の頭に浮かんだのは、勇者の使命などではなく、魔物への復讐心だった。どちらにせよ俺は簡単には死なないのだ。拷問でもなんでも受けて油断させて仇を取ってやる。

 しかし、現実逃避にも似た破れかぶれの決意は叶わなかった。気づけば女神の手によって俺はあの世界からいなくなっていたのだ。仲間は殺されて、俺だけが死を、苦しみを、罰を免れた。

 

「であれば……」

 

 思い返すと思考が熱に犯されたようにぼんやりとする。薄暗い牢獄の中での願望が今、口をついてでてきた。

 

「……であれば、お前が俺を罰してはくれないか?」

「……それはどういう意味だ?」

「お前は元々人を裁く神なんだろ!?であれば目の前の俺を消すくらい造作もないだろ?」

「私は罪人しか裁かない。そしてその役目は今は負っていない」

 

「目の前にこれ以上ない罪人がいるだろうが!何人殺したのかお前だって見てきただろう!?人も魔物も殺しまくってここにいるんだよ!そしてやり直せばそれを誰も覚えてない!誰も俺の失敗を糾弾してはくれない!…………もう、終わりにしたい」

 

 ずっと前から考えないようにしていたことが口をついて出てきた。裁かれたい。この罪深い生に終わりを告げて欲しい。死が終わりではない俺の中で、その願望は半ば無意識に形成されていた。しかし、どれだけこちらの言葉に熱が籠ろうとも、女神の言葉は無機質だった。

 

「第一に、先ほども言ったように大神なき今、私が直接人を裁くことはない。第二に、私の、女神の意志の代行者であるお前の行動は全て善なるものだ。是非などない。神の力を授かるとはそういうことだ。……混乱しているようだな。仕方がない。今回の記憶は封印を施しておこう。さあ、もう一度、何度でもやり直そう。正しい人類の歴史のために。魔王という間違いを正すために」

 

 理解できない言葉に呆然としていると自分の周囲の光が輝きを増している。過去への転送の合図だ。

 

「俺の罪を忘れろというのか!?ふざけるな!!そんなのは罪を重ねるようなものだ!頼む!せめて記憶だけは残してくれ!!」

「貴様の旅路に亡き大神の加護があることを祈っている」

 

 神らしからぬ女神の最後の一言が、思い出した最後の記憶だった。十数年ぶりに蘇ったその記憶は、ずっと抱えてきた罪悪感を改めて詳らかにした。

 そうだ、俺は裁かれたかった、罰されたかった。あらゆる人間から忘却されてなかったことにされてしまった罪を清算したかった。そうして終わらせたかった。俺が終わらせてしまった数多の命と同じように、生に終止符を打ちたかった。

 

 

 底なしの泥に飲み込まれていくようなものだ。自らの意識から湧く絶望の泥。四肢には縄が絡みつき、俺を泥の奥深くへと誘う。縄の正体は罪の意識だ。失敗したこと、失望されたこと、果たせなかったこと。それらを自覚するたびに息苦しい泥の中に引きずり込まれていく。

 

 生きることは罪を重ねることだ。思考しているだけで、俺は泥の中に引きずり込まれていく。自縄自縛、という言葉はまさしく俺の今を示している。絶望に、泥に沈み、何も見えず、何も聞こえなくなる。だからこそ俺は救いを求める。厳罰を!自縄自縛を断ち切る、容赦なき罰を。贖罪を!数多の縄を解く、代償行為を。その方法は、罰による贖罪はすぐそこにあった。

 

 

 

 

 意識を取り戻して最初に見えたのは猛烈な勢いで迫ってくる斧先だった。本能が体を横に転がす。重鈍な斧先は俺の脇のあたりを抉った。

 

「グァッ……」

 

 自分の肉が潰れる、激しい痛み。そして先ほど思い出した記憶の中で自分が感じた感情。裁きとは何か。赦しとは何か。それらが結びついたその瞬間に俺の頭はまるで錆び切った思考回路に油をさされたように高速で思考を始め、結論にたどり着いた。

 

「――ああ、そうだ、痛みだ!痛みが俺に罰を与えてくれる!俺の神はここにあったのか!嗚呼、耐えがたい苦痛よ、どうか俺の罪悪をその罰を以て赦したまえ!」

 

 罰は、神は、赦しは、痛みにこそあった!祈りを口にすると血を吐き出す。最高の気分だ。誰も俺を罰さない。誰も俺の罪を赦さない。そんなものは存在しないことになった。だからこの身に這いずる罪悪感を赦してくれるのは、この身の内から生じて、俺を苛む痛みだけなのだ。長年取り組み続けていた難問が突然解けたような感覚。ここまでの解放感はいつぶりだろうか。

 

 己の罪悪感全てが腹部から伝わる痛みによって洗い流されるような感覚。このまま俺の命が終わればどれだけ幸福だろうか。あまりに甘美な想像に胸が掻き立てられる。俺のあらゆる罰は俺の死によって償われる。そんな気さえしてくる。

 

 百年を生きた俺が求めていたのは魔王討伐などではなく赦しだったのかもしれない。初めて何の罪もない村人の少女を殺した時から。初めて何よりも大切だった幼馴染を殺した時から。自分のせいで仲間を殺した時から。

 

 罪の意識は絶えず俺を責め立て、肉体的痛覚以上の痛みを俺に与え続けていた。それら全ての罪、罪悪感、失敗を、失望を、この耐え難い痛みこそが赦してくれる気がした。このまま、幸せなうちに死んでしまおうか。それはあまりに魅力的な想像だった。

 

 

 熱を帯びた思考の間にも、デニスは地面に無様に転がる俺に、執拗にギロチンのような一撃を加えようとし続けている。体は意思に反して致命の一撃を必死に避ける。

 僅かに掠るだけでも血が噴き出し、鋭い痛みが走る。舞い散る砂粒が目に入るだけでも痛みが走る。なんと脆弱な肉体だろうか。俺がこの体に生まれ変わったのは、このためだったのかもしれない。

 

 俺の体が帯び始めた熱は、きっと外傷によるものではなく、歓喜によるものだ。心臓が早鐘を打ち、幸福感が全身を犯す。

 

 体中から血が流れ続けている。この身を貫く痛みは鋭さを増し続け、それに比例して歓喜がどんどん湧き上がってくる。

 俺の高揚した脳内とは裏腹に、体は目の前の敵に殺されないために足掻き続けている。反撃の機会を伺うためにふらふらと立ち上がるが、もはや足は動かなかった。迫りくる死の音が聞こえるようになってくる。一撃、二撃となんとか躱しきる。しかし、血を流し俺の動きが鈍ったところをデニスは逃さなかった。

 

「――やっと捉えた。死にかけのくせにしぶとすぎじゃない?」

 

 体が真っ二つになったかと思うほどの衝撃。切っ先がついに俺の体の中心を捉え、貫いた。背中から地面に叩きつけられる。体はピクリとも動かない。視界が真っ赤に染まる。

 

 先ほどまでとは違う、明確に死を実感する痛み。そして終焉への期待。ついに、終わるのか。この長すぎた生が。ようやく清算できるのか。この罪に塗れた生の間違いを。恐れよりも安堵を感じながら、意識を手放す。

 

 

 

 

 根源的な恐怖を覚える深い闇の中、誰かが俺を呼んでいる。その名前で呼ばれたのがあまりに久しぶりで、違和感を覚えてしまう。いつの間にか俺は、百年間使った勇者としての名前よりも、少女としての名前を受け入れていたらしい。それは、あるいは逃避だったのかもしれない。

 

 思い出せ、とその声が囁いている。聞く者に威圧感すら与えるほど凛然とした、されど背筋を震わせるような甘さを仄かに孕んだその声には聞き覚えがある気がした。

 思い出す。遥かなる記憶を。目を逸らし続けていた記憶を。

 

 

 初めて罪なき人を、村娘のメメを殺されてしまった時の記憶だ。俺の不注意で娘を殺されたメメの両親は、俺を罵ることにも疲れたようで、娘の亡骸に縋りついて泣いていた。泣き声と沈黙。戦勝後の凱旋とはとても思えないほどの、重苦しい雰囲気が村を支配していた。

 

 メメの祖父もまた、孫娘を失った悲しみを堪えていた。年を重ねた者特有の思慮深さを湛えたその双眸には、隠し切れない涙の跡があった。そんな中で、俺に言葉を伝えてくれた。

 

 

「死を忘れることなかれ。この言葉を覚えておいてください」

 

 当然だ、と俺は思った。今でも、俺は自分が関わったあらゆる死を覚えている。孫娘の死を忘れるな。戒めるために、そういうことを言いたいのだと思った。でも、それは違った。メメの祖父は一呼吸置くと、厳かな声で、残酷な言葉を続けた。

 

「貴方にとっても死は他人事ではないでしょう。ひょっとしたら明日にも死は大口を開け、貴方を飲み込むかもしれない。……だけれども、故にこそ、今を懸命に生きてくれ。死がすぐそばにあることを忘れずに。泥臭くても、醜くてもいい。必死に生にしがみついてくれ。孫娘を殺された私から貴方に言えるのはそれだけだ」

 

 

 ――その言葉は死にゆく今の俺に再び力を与えるものだった。ずっと忘れていた。自分の罪、その始まりの時。俺は生きることを望まれていた。どれだけおぞましい罪を犯そうとも。どれだけ醜く穢れようとも。

 

 そうだ。俺が勝手に諦めて死ぬことなんて誰も望んでいなかった。望んでくれなかった。守れなかったものがあった。殺してしまったものがあった。そのたびに俺は責められ、罵倒された。でも最後には皆俺に言ったじゃないか。生きて、魔王を倒してくれと。

 泥臭く、醜く、俺は生き続けて俺が摘み取ったあらゆる命に報いなければならない。

 

 かつて、女神によって繰り返しを強制されている俺にとって死は遠いものであり、現実離れしたものになっていた。でも今は違う。もう女神の祝福はない。砂時計から砂粒が落ちるように、俺の体からは血潮が流れ続けて、視界が黒に染まりつつある。

 

 

 

 

 何がこのまま終われればだ。まだ成し遂げていない。死はまさに今、俺の目の前にある。大口を開けて、俺がそれに飲み込まれるのを今か今かと待ち受けている。故にこそ、俺はこの生を一生懸命に生きなくてはならない。

 

「オオオオオォ!!」

 

 先ほどまで微動だにしなかった体が動く。自分の胸を貫く斧を力任せに引き抜く。ダムが決壊したように血が噴き出し、耐えがたい痛みが体を貫く。絶え間なく襲う痛みは俺が生きていることを実感させてくれた。罪だとか罰だとか、今はそんなものはどうでもいい。それよりもやるべきことがある。自分自身を騙すように、俺は不敵な笑みを作った。

 

「さあ、もう一度だ」

 

 体は不思議と軽くなっていた。生きようとする心に体が応える。もう後がない今ならば、なんでもできるような気がした。

 



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20 決着

醜くとも生きる話


「『女神よ!彼の者に最上の癒しを!』」

 

 聞きなれた声の詠唱。俺の体に眩いばかりの緑の光が灯る。

 

「カレン……どうしてここに……」

「騎士のおじさんたちが助けてくれたよ!あのお嬢さんを助けてやってくれってね!」

 

 彼女の後ろを見ると道を切り拓くように騎士たちが戦線を広げていた。人どうしの助け合い。俺が目を逸らし続けていたもの。

 

「無茶して突っ込んでいったってことは、そいつを倒せばなんとかなるってことだよね?」

 

 戦場の片隅で、少女はいたずらっぽく笑う。ああ、やっぱり俺なんかにはもったいないほどの女の子だ。

 

「……ああ、その通りだ」

 

 彼女を死なせないためにも、デニスを倒さなければ。全員で、笑って帰るのだ。俺の自分勝手な感傷などに浸っている場合ではない。助けるのだ。この場にいる人間全てを。足掻くのだ。この上なくみっともなくとも。

 

「自分から血抜きまでしてくれるなんて、良心的なサービスねえ。早く食べたいんだけど、さっさと倒れてくれない?」

 

 デニスは近場に転がっている同胞の大斧を手にしながら、俺を嘲る。空気を読まない戯言は無視する。

 体力はもうほとんどない。傷口はカレンの治癒魔法である程度塞がったが、失った血は戻らない。視界が定まらず、足元はふらついている。

 けれどもそれで十分だ。逆襲の手段は既に奴の背後から迫ってきている。俺は精一杯のシニカルな笑みを作って、デニスに向けた。

 

「騎士の決闘の作法を知ってるか?豚野郎」

「何それ?知るはずがないじゃない」

「そうか?ちょっと知識のある人間なら皆知っているんだが。やっぱりお前は人間みたいに賢くはないみたいだな」

「私たちのことを知っているみたいな挑発じゃない」

 

 そんな必要ないにもかかわらず、デニスは会話に応じてきた。やはり俺が知っている通りの奴だ。魔物らしい醜悪な顔をして、ひどく人間らしい側面を持っている。

 

「知っているからな。野卑な獣じみた同胞とは自分たちは違う。人間だけを食べて、誇り高く生きていく?その程度で知性の証明になるとでも思ったのか?

 ……ちゃちなおままごとみたいな掟作りやがって。お前の思考のどこが獣と違うんだ?結局のところ食べることしか考えちゃいないじゃないか。食って寝る、ただそれだけ。まさしく獣、家畜だ。俺が負けるとしたら、それはただの獣相手に、だ。お前が人間よりも優れた存在であることの証明にはならないだろうよ」

「それだけ?それだけなら今すぐそのよく回る口ごと肉塊にしてあげるけど」

 

 口では余裕ぶっているが、鼻息が荒い。そもそもがコンプレックスの塊みたいなやつなのだ。何も考えず本能のままに生きることのできる同族の知能の無さを羨み、知性を同族全てが当たり前のように持っていて、それを使って豊かな生活を享受する人間を僻んでいる。

 デニスの迫力が増していて、相対しているだけでも命の危機を感じる。きっと今度の一撃は先ほどとは比べ物にならないほど重く、鋭いだろう。

 

「しかしそんな生意気な俺が負けを認める唯一の方法があるぞ?」

 

 デニスは答えず軽く鼻を鳴らすだけだった。

 

「それが騎士同士の尋常な決闘ってやつだ。興味ないか?」

「……そこまで言うなら、あなたの流儀に則ってその鼻っ面をへし折ってやるのも一興ね」

 

 乗ってきた。自分に何の益もないことを分かっているのに。自分のプライド、尊厳のために。その様は獣などではとてもなく、ひどく人間的だった。

 

「流儀といってもそんな面倒なものじゃない。お前の小っちゃい脳味噌でも理解できるだろうよ。必要なのは決闘を行う二人、それから名乗りだけだ。得物を宙に掲げてこう言うんだ『我誇り高き騎士、メメ。女神に誓って、尋常な決闘を以て汝を打ち倒す』二人の名乗りの後で、己の武術をぶつけ合うって実に単純な代物だよ。でも人間は伝統ってやつが大好きだからな。未だにこういうのを好んでやるんだよ。そも始まりは……」

 

「――御託はいいから、さっさと始めないと後ろのお嬢さんを食べちゃうわよ」

「せっかちだな。餌を前に我慢できない家畜みたいだぞ」

 

 デニスの纏う雰囲気が一層鋭くなる。鋭さを増した殺気は、獣というより熟練の騎士のそれに近い。仕方なく、俺は茶番劇を始める。まだ時間が足りないのだ。できるだけゆっくりと剣先を宙に掲げる。天にいるとされる女神に切っ先が見えるように。

 

「我は誇りある騎士、栄光ある勇者殿の進む道を照らさんとする者、メメ。女神に誓って、尋常な決闘を以て汝を打ち倒す」

 

 俺の宣言が終わると、すぐにやつの野太い声が響く。時間としてはかなりギリギリだ。間に合うだろうか。額から冷や汗が垂れる。

 

「我は誇りあるオーク美食団の首魁、オークたちに啓蒙の光を齎す者。我らの神に誓って、尋常な決闘を以て汝を打ち倒す」

 

 得物を構えて鋭く睨み合う。交錯する瞳に映るのは憎悪。できるだけ惨たらしく殺してやりたい。そう思っているという一点において、両者はまったく同じだった。

 清廉な騎士同士の決闘からは程遠い、どす黒い感情が渦巻く。最後の一撃のために体に残る力をかき集める。逆転の目は揃った。後は醜くとも生にしがみつくだけ、死力を尽くすだけだ。呼吸を整えて、突撃する。

 

「頼んだぞオスカアアアアア」

 

 既に彼は奴の後ろを取れている。茶番で稼いだ時間を使って、彼はここまでたどり着いてくれた。ここに来るまでに立ちふさがっていたオーク達の返り血を浴びているが、聖剣の輝きだけは衰えることなく、彼の存在を示していた。彼に今すぐ仕掛けるように伝える。後ろを振り向いたデニスも事態に気づく。

 

「小賢しい真似をしやがって人間どもがああああ」

 

 怒りに身を任せ、こちらに猛スピードで突っ込んでくる。目で捉えるのも困難だ。砲弾が飛び込んでくるようなものだった。ぶつかればひとたまりもないだろう。肉体は容易く潰れ、俺の生はここで終わる。俺から先に倒して、後に来る未熟な勇者を万全の体制で迎え撃とうという構えだ。望むところだ。

 

 奴の豪脚を止めることさえできれば、万物を切り裂く聖剣がだだっ広い背中に突き刺さるだろう。切り札を切るタイミングがあるとすれば、ここ。

 

 俺は今まで奴に見せていなかった魔術の行使をする。詠唱すれば次から警戒される。魔術を撃つ時はこいつを殺せる時でなくてはならなかった。逆転の目が見えた今、ようやく使うことができる。

 

「『掘削せよ』」

 

 元々鉱山での作業に活かせないかと考案された魔術。それは地面を対象に発動し、デニスの足元に穴を開けた。最小の労力で、最大の成果を。短い詠唱で生み出された小さな穴が足を取り、デニスに致命的な隙を生む。つまずいた巨体が浮き、無防備な体を晒す。

 

「なんだとっ!汚い真似しやがってえええ!!」

「――知らなかったのか?人間ってのは、獣よりもずるいし汚いんだよ」

「――間に合った……『聖剣よ、我が前に立ちはだかる魔を裁き給え』」

 

 オスカーの詠唱で聖剣の神々しい輝きが増す。勇者の力を吸い取って、聖剣は本来の姿、断罪の剣としての機能を強化する。彼が今振りかざしているのは、伝承の女神の姿に描かれる左手の剣、その写しだ。聖剣に力を与えた女神の司る権能は審判、それと断罪。そして魔族、魔に属する者たちは女神の審判において例外なく悪と断じられる。

 

「きさまは!きさまだけは絶対に赦さない!薄汚い人間風情がああああ!」

 

 デニスが俺に向けて絶叫する。正義の女神、ユースティティアの裁きは例外なく悪性を殺す。今代の魔王を除いて、例外は歴史上一つたりとも存在しない。

 

 切っ先は真っ直ぐに振り下ろされ、断罪の剣がデニスの首を撥ねた。転がり落ちた顔は死ぬことへの恐怖で染まっていた。目は恐怖に限界まで開かれて、口は最期の絶叫のままに大きく開かれていた。

 俺はその死に顔を一瞬眺める。そして、地に落ちた首を剣先に刺して、戦い続けるオーク達に見えるように高々と掲げる。

 

「貴様らの首魁は我らが勇者様が討ち取った!貴様らに勝ちの目はないぞ!」

 

 絶対的な指導者を失ったオークたちは、明らかな動揺を見せた。掲げられた生首を呆然と眺めるもの。無謀な突撃を始めるもの。背中を向けて逃走していくもの。

 元来集団行動できるほど頭の良い種族ではないのだ。デニスというカリスマなき今、彼らはただの烏合の衆だ。そして組織立ったオークではなく、単なる魔物の群れであれば騎士団は容易く討伐してみせるだろう。勝負は決した。

 

「助かったよ、いい太刀筋だった」

「……死体を貶めるの?」

 

 助けられた礼を言う。しかしオスカーは俺の行動に不満げだった。生首を剣先で刺した蛮行が不満だったらしい。ああ、魔物にも同情を示してしまうお前の甘さは、反吐が出るほど嫌いだ。

 

「今生きている人間のためならいくらでも貶めるとも。オーク達を降伏させなければ死んでいた命があるかもしれない。ああ、俺が死んだ暁には俺の首を掲げると良い。負けたのはこいつのせいですってな」

「そんなことしない!」

「そうか?……いっそそうしてくれると俺も救われるんだが」

 

 オスカーが怪訝そうな顔をする。この話は終わりだと俺は軽く手を振って、こちらに走ってくるカレンに無事を示すように片手を軽く上げた。

 どうやら、未熟な勇者様は第一歩を踏み出すことはできたらしい。

 



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21 バッドエンドの記憶 歪んだ平穏の末路

幕間みたいな話です
本日二回行動予定


 それは俺の過去の記憶。人生の繰り返し、その一幕。そして存在しないことにされた記憶。それでも魂に刻み込まれて、時折思い出してはすぐに忘れる記憶。

 

 

 

 

 何か嫌な光景を見ていた気がする。何度も何度も、それに絶望していたみたいだ。でも、それら全てを思い出せない。

 

 目を開けると最初に目に入ったのは醜悪なオークの顔だった。眼前に迫ったオークの口の中で凶悪に尖った歯の間で、唾液がぬらぬらと蠢いているところまで見える。

 

 知識に照らし合わせると、それは自分が食べられる直前の光景だった。普通の人間であれば泣いて赦しを乞うただろうか。それとも絶望して放心しただろうか。では、俺はどうだったかというと。

 

「どうぞ食べてください。あんまり美味しくないかもしれないですけど」

「いや抵抗しなさいよ!?」

 

 オークの口元に腕を差し出すと、なぜか軽快に突っ込まれた。

 

「記憶喪失?」

「はい。自分の名前も思い出せなくて」

 

 自分が何者だったのか思い出せない。普通はそれに恐怖を覚え、不安になるのだろう。けれども俺が感じていたのは安堵だった。自分が何者だったのか忘れ、今までやってきたことを全部放り出すことができたこと。それがたまらなく嬉しいらしかった。

 

 一体俺は今までどんな人生を歩んでいたのだろう。見覚えのない肉体の状態から察するに、年の頃はだいたい10代の半ばといったところか。まだ人生に絶望するような年齢でもなかろうに。他人事のように俺は考えた。

 

「名前がないのは不便ね……。じゃあオニクにしましょう!貴方の名前は今日からオニク!」

「分かりました。よろしくお願いします」

「流石に抵抗ある名前だと思ったんだけど……」

 

 ジョークのような名前だったが、特に否定する理由もないので頷く。実際彼らにとって俺は食料に過ぎない。オーク的には面白い名前だったらしい。デニスの仲間たちにもウケて、すっかりその名前は定着した。

 

 彼らは食糧――人間のことだ――を求めて彷徨っている流浪の民らしい。何でも人の肉しか食べないために、オークの里には異端扱いされて、追放されてしまったらしい。不遇な境遇、と聞くだけで何故か同族のような気がしてきた。

 

 

 この集団の中で俺は雑用のような役目を与えられた。主な仕事は清掃だ。彼らは最近オークなのに美意識のようなものに目覚めたらしく、身の回りを清潔に保つことにハマっているらしい。それはまるで人間だった。

 

 俺のやることはもっぱら食べ残しの処理だ。人間の爪、髪の毛、眼球など、食糧にされた人間の残骸をまとめて、住処の遠くまで捨てに行く。常人であれば吐き気を催すような作業だっただろう。しかし、俺にとっては特に苦ではなかった。死体は見慣れているような気がしたし、血の匂いを嗅いでも何も感じなかった。

 

 俺の記憶が違和感を訴えている気がしたが無視していた。今は、誰かの役に立てている。俺が役目をこなすとオークたちが口々に礼を言う。ありがとう。助かった。

 それらを聞いていたら、これ以上良い生活は無いと思った。そう思い込むことにしていたのかもしれない。

 

 時折、片づけている死体の眼球と目が合うような気がした。生気のないその瞳は、お前はそれでいいのかと問いかけられているようだった。

 

 

 

 

 オークたちは外の気候などあまり気にせずに眠れるらしい。今日の寝床は草原のど真ん中だった。遮るもののない平野には時折穏やかな風が吹き抜けていた。

 

 オークたちがうるさく寝息を立てながら寝静まった夜中のこと。うまく眠れなかった俺は、デニスが一人で星を眺めているのを見つけた。広大な草原に一人座っているその様子はどこか寂し気だ。ちょうど話がしたい気分だった俺は、デニスの横に座り込み、彼と同じ景色を眺めた。

 月のない夜に草原から見上げる星々は煌々と輝いていた。

 

「オニク、どうしたの?」

 

 星々から目を逸らさずに、俺の冗談みたいな名前を呼ぶ。常日頃人間をサディスティックに虐めている時とは打って変わって、ひどく穏やかな声だった。俺はこの機会にずっと疑問に思っていたことを聞いた。

 

「……デニスはどうして俺を食べないんだ?」

「なに?食べて欲しいの?」

「いや、まあどっちでも良いんだけど。純粋に疑問だったんだ。あんなに人間を食べるのに、どうしてずっと一緒にいる俺は食べないのかと」

 

 連れてこられて食べられる人間を見るたびにこの生活への違和感が増している。これでいいはずがない。お前の背負ったものはそう簡単に投げ出せるものではなかったはずだ。内側から声がする。

 星を眺めていても、熟睡するオークたちの低い唸り声がこの日常が歪んでいることを伝えてくる。

 

「相変わらず意味わからない死生観してるわね……。いい?私は人間の肉なら何でも良いわけじゃないの。食われるという恐怖に怯えて、歪んだ顔をした人間を食べたいの。分かる?恐怖の顔は美味しく食べるためのスパイスみたいなもの。私たちがその人間を征服したっていう証なの。その点あんたは失格。食べられることを全く恐れていない。歪んだ人間を征服しても何も楽しくない。私が恨んでいるのは、妬んでいるのは、知能と種族が合致して、何不自由なく暮らしている人間なの。不幸せそうな顔なんて飯がまずくなるだけじゃない」

 

 そこでデニスは言葉を一度きった。そうして星空のほうを眺めていた、大きくて丸い目をこちらに向けた。

 

「……だからね、オニク、あんたは生きる意味を見つけなさい。幸せに生きる、その意味を。そうしたら、私が絶望するあんたの顔を眺めながら、美味しく食べてあげる」

 

 デニスは醜悪な顔を歪めて笑顔らしきものを作った。相変わらず醜い顔と左耳に付いた可愛らしいリボンが不釣り合いだと思った。

 俺が生きる意味を見つける日。そんな日が来るとは思えなかった。この夜空に光る星を掴むような、荒唐無稽な無理難題だと思った。

 

 ひときわ明るい一等星に手を伸ばす。どれだけ届けと思っても、届くとは思えなかった。けれども、この居心地の良い生活が続くならそれでも良いと思った。

 

 

 

 

 そんな歪んだ一時の平穏が終わるのは一瞬だった。なんの前触れもなく、俺は女神のいる神域に戻されていた。

 

「あれ……デニス……?」

「ふむ、百年を超えてから記憶の不備が多いな。今回は記憶喪失と来たか。魂の劣化が進みつつあるな。仕方がない。今回の記憶は消去。お前には前回までの記憶を植え付けてやり直しとしようか」

 

 語りかけるというよりは一方的な宣言のようなその言葉。無機質な声が言うのと同時に膨大な記憶が頭に流れてきた。

 勇者の使命、魔王の存在、仲間のこと、デニスへの憤怒、果たせなかったこと、救えなかった命、失敗した記憶、失敗した記憶、失敗した記憶、失敗した記憶、失敗した記憶。思い出したくもなかった記憶の濁流の中に、あの夜のデニスの醜い笑顔が流れていき、消えていった。

 

 

 

 幕間③ 大神の定めた三禁

 

 

 人間の本能にまで刻まれた絶対の法、三禁。全知全能の大神は、定命の者の手に余る事象としてそれを禁じたと伝えられている。破った人間はあらゆる人間からの侮蔑と憎悪を免れない。

 その一つ、「大神以外のあらゆる存在が命を創ることを禁ずる」という項目は、今日の魔物と人間の対立関係を理解する上で重要な意味を持つ。

 

 人間は大神が自ら創った存在だ。伝承によれば泥から最初の二人の男女は創られたらしい。そして人間は自ら子どもを作って子孫を増やしていった。出産による子作りは「命を創ること」には当たらない。なぜならそれは大神が人間を創った際に与えた機能であり、一から命を創りだす行為ではないからだ。だから普通に生活している人間は三禁など破っていない。

 

 それに対して魔物、と呼ばれる生命体は誕生したその時から三禁に反している。魔物は大神に創られた命ではない。魔物の原点を辿れば、全て叛逆神から生まれているのだ。大神亡き後も世界に残り続けた数少ない神。人間が名付けたその忌み名はサタン。大神に真っ向から叛逆した、堕ちた神。この神は大神の作った法に真っ向から叛逆した。

 

 叛逆神は人間に似た形で、されど人間とは決定的に異なる部分を持つ異形の存在、魔物を創り始めた。この事実こそが人間と魔物との対立を決定的なものにしている。人間は三禁に背いた存在である魔物に対する嫌悪感を本能にまで刻まれている。

 

 例えば、魔物と人間のハーフの子どもなど生まれたなら、人間はその子どもを八つ裂きにした上で火炙りにするだろう。領土の争いなどなくとも、人間と魔物は殺し合う運命にあるのだ。

 

 大神亡き後の女神暦はそろそろ千年を数える。叛逆神はだいたい百年周期で魔王と呼ばれる強力な魔物を生み出している。魔王は人間の領土に攻め込んできて、そして歴史上例外なく、勇者と呼ばれる、女神に選ばれた人間によって滅ぼされている。魔王と勇者の殺し合いは、叛逆神と女神の代理戦争と言ってもいいかもしれない。

 



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22 少女の生きる意味

最初に書き上げた第一章、最後の話です


 木の幹にもたれかかるように座り、村の様子を眺める。魔法の余波などで少々建物が壊れているが、元の姿に戻るのはそう遠くない話だろう。

 

 俺はまだ頭が軽くどこか意識がふわふわとしている。傷は一通り治ったが、立ち上がって歩き回るまでは少し時間が必要そうだった。

 あんな惨劇があった後でも村人たちは同じ場所に住み続けるらしい。彼らの逞しさに感嘆する。あの様子なら多くを失った後でもなんとかやっていけるだろう。

 

「本当にありがとうございました!私たちが生きて帰ってこれたのはあなた方のおかげです!」

 

 オスカーが照れくさそうに村長の礼を受けている。終わってみれば信じられないほどうまくいった、と言えるだろう。まだ生きていた、捕まっていた村人のほとんどを救出できた。未熟な勇者様の戦果としては出来過ぎなほどだ。

 

 犠牲になった者を悼むよりも先に、無事を互いに喜びあっている村人の方を見渡す。カレンはまだ治癒魔法をかけるために走り回っているらしい。疲労の滲む顔だが、満足げだ。

 オリヴィアは村人のために急ごしらえの建物を魔法で作っているらしい。土塊が組みあがっていく姿は圧巻だ。こちらも村人に頼られて満足げだ。

 

 俺の時にはこうはいかなかった。勝利は掴めても人質にもっと犠牲者が出ていた。終わった後に残るのはすすり泣きと沈黙だった。きっと犠牲は出るものだと諦めていたのだろう。繰り返すということは慣れるということだ。戦うたびに何か失うことに慣れすぎた俺だからこそ意識的にせよ無意識にせよ、犠牲を容認した最速の勝利を求めていたのだろう。

 

 また一つ自分の罪を自覚させられる。そして湧き上がってくるのは無邪気に喜ぶオスカーへの醜い嫉妬だった。俺はあんなに失敗し続けたのに、彼は一度で成功を収めた。聖剣もまともに使いこなせないのに。魔術の扱いも覚束ないのに。

 

 悪いのは、間違っていたのは俺なのに、悪感情は際限なく湧き出てくる。最終的に行き着くのは自己嫌悪。醜くて汚い自分。罪を重ね続けた自分。

 

 いっそのことその女神の祝福を受けた剣で俺を断罪してくれないだろうか。戦いの中で振り切ったはずの希死念慮が湧いてくる。聖剣を携えるオスカーを眺めていると目が合った彼がこちらに向かってくる。太陽が目に入ったわけでもないのに、反射的に目を逸らしてしまう。彼は確かな足取りでこちらに向かってくる。俯いた俺に、オスカーの弾んだ声が聞こえてきた。

 

「メメ!……ありがとう、皆を守ることができたのは君のおかげだ」

「……えっ?」

「正直僕だけじゃ何もできなかったと思う。それでも、何とか戦えたのは君が一番前で勇敢に剣を振るってくれたおかげだ」

「……」

 

 頭が真っ白になる。先ほどまで醜い嫉妬から、憎悪までしていたオスカーが満面の笑みで俺に礼を言う。久しく聞いていなかった類の言葉を頭が処理しきれない。胸のあたりがむずかゆい。

 

 固まっている俺に、向こうから少女が近づいてくるのが見えた。まだせいぜい十歳といったところか。奥では両親と思わしき二人が少女を見守っていた。少女もまた、満面の笑みだった。

 

「小っちゃいお姉ちゃん、ありがとう」

 

 見間違いようもない。メメだった。俺が初めて殺してしまった罪なき少女。彼女が五体満足で俺の前に立っている。信じられない光景だった。

 

 繰り返しても絶対に死んでしまう少女、それが彼女だった。俺がどれだけ強くなっても、彼女を救うことは一度もできなかった。時には周辺の魔物の大量発生で。時にはデニスに食われて。時には魔王軍の侵攻に巻き込まれて。それが運命であると諦めていた。背後から矢が飛んでくることもない。執拗に周囲の気配を探っても魔物はいない。

 

 信じられない、夢見た光景がどうやら現実らしいということをようやく受け入れられた。

 

「……ああ、どういたしまして、だ……」

 

 礼を言いたいのは俺の方だった。生きていてくれて、救わせてくれてありがとう。胸の中に温かい光が灯り、目頭が熱くなる。涙は男のプライドにかけて我慢した。俺は久しぶりに守れなかったものではなく、守れたものに目を向けることができた。

 

 

 

 

 幸せの渦中だったと言えよう。救って、それを感謝される。久しく感じていなかった喜びを思い出すことができた。満たされている。

 でも、俺はそれだけでは終われなかった。幸福であることに対する違和感。そうとしか言えない奇妙な感覚が、己の胸に巣食っていた。罪に塗れた俺は、自分がただ幸せになることに喜ぶだけではいられなかった。

 

 赦されるべきではない、罰せられるべき存在である俺が幸せを享受していいわけがない。幸福は俺にとっては苦痛であった。相反する二つの感情は矛盾することなく存在し続けていた。罪深いこの身に罰を。

 

 幸福に相反する渇望、それを満たすために俺は、痛覚を以て自分の身に罰を受けることを望んでいた。平たく言えば、被虐願望のようなものか。加護のない、かつてない肉体的痛覚を伴う戦場で、俺は俺の罪を罰してくれる存在に逢ったのだ。唯一俺を救うもの。ずっと望んでいた全てを救う、神。

 

「……いってぇ」

 

 自分で左腕に刺した予備の短剣を引き抜く。愚かな自傷行為。傷口は意識せずとも、少しずつ治っていく。痛みは感じたが、あの時感じたような充足はなかった。二度とやるまい。血を拭い短剣をしまう。

 

 やはり、俺の意識は他者に罰せられることを望んでいるらしい。単なる自傷では満足できない。とはいえ、勇者パーティーの一員としての役目を果たしていれば、俺の渇望を満たしてくれる機会も自然と訪れることだろう。

 

 罰は俺から進んで受けるものではなく、神に与えられるものでもない。他でもない人や魔物、俺が過去殺した生命から受けるものなのだ。俺の罪を忘れ去った者たち。俺を罰する機会を逸した被害者たち。

 

 俺のこの生は、女の身で生きているこの不思議な生は贖罪のためにあるのではないか。答えを見つけたような気がした。戦いの中で痛みが罰であると気づいた時と同じ感覚。まさしく天啓を受けたような思いだった。

 

 俺のこの生を戦場で生きて、痛覚という苦しみで、俺のあらゆる罪を償う。そのための肉体ではないだろうか。であれば、魔王討伐の旅路のなんと好都合なことか。戦場は常に俺を苦痛の中に置き、満足させてくれる。醜く吊り上がった口端をなんとか抑える。この不道徳な欲望を抑えることには、しばらく苦労しそうだった。

 

 

 

 

 人類の生存領域は大陸の南側に位置している。気候は比較的穏やかで暖かく、作物も良く育つ。一方の北側は魔物の生存領域だ。大陸を上下に分断しているエーギ山脈を隔てたこちら側は、南方とは一転、一年を通して厳しい寒さに支配されている。通称「祝福なき地」。生き物が生きていくのには適さない、死の土地だ。

 

 北部領域のさらに北端、大陸の一番上。吹雪舞い散る極寒の地には家屋や田畑は見当たらない。その中で唯一、堂々たる威厳を持って聳え立つ城郭が存在した。魔物たち全般の低い文化レベルからは考えられないほどの精緻な装飾と、暴風にも耐える堅牢な造り。名を魔王城。叛逆神を祀る神殿にして、歴代の魔王が根城としてきた、魔王軍総本部だ。

 

「魔王様。吸血鬼による、斥候部隊の編制が完了したとのことです。部隊は全て飛行能力に優れた個体で編成。今すぐにでも出撃可能とのことです」

「結構。当初の予定通りに情報収集にあたれ」

 

 厳かで凛とした声だった。その声が響くだけでその場にいる者はわずかに緊張に身を固くする。玉座の間には数体の魔物が集っていた。山羊の頭を持った者、背中から翼が生えた者。人間に似た形をしておきながら、どこかに決定的に異なるパーツを持っていた。

 

 異形の傅くその先には、王座がある。座っている女は、一見人間であるようだった。背中のあたりまで真っすぐに伸ばされた美しい黒髪。赤い目に白い肌。顔立ちはゾッとするほど整っていて、見るものを惹きつける不思議な引力を持っていた。黒を基調とする装いは華美すぎず、されど決して粗末ではない。利発そうな表情から、少なくとも獣同然の魔物よりも優れた頭脳を持っていることが分かる。

 

 それだけであれば玉座の前の魔物たちにこれほどの緊張感はなかっただろう。異常なのは纏う雰囲気。餌を目の前にした猛獣のような獰猛さと、あらゆる事象を全て知り尽くしているかのような落ち着き払った聡明さが同居している。

 

 相対するものは、知らないうちに不興を買っていて、自分には考えもつかぬ高尚な考えを元に、今すぐ首元を掻き切られるのではないかという、言いようのない不安を覚える。彼女こそが第十代目の魔王。のちに、疑いようもなく歴代最強の魔王であると全人類に恐怖と共に知られる魔王だ。

 




※彼女は百年かけて拗らせています

これにて一区切りです。長い間読んでくださってありがとうございます。

ここまで読んでどうだったか、良かったら、お気に入りとか評価とか感想とかで教えてくださいませ。励みになります。


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EX 宴会

感想評価などなどありがとうございます。
二つの番外編、最初の明るいほうです。

※軽微なGL要素(精神的NL)注意


「乾杯!」

 

 陽気な酔っ払いの集まる食堂の一角に、楽し気な音頭が響く。もはやお馴染みとなった大衆食堂は今日も盛況だった。

 俺たち勇者パーティーは、祝勝会と称して食事会を開いていた。四人で同じ卓を囲み、互いの無事を祈る。

 

「でも、取り敢えず皆生きて帰ってこれて良かったよね」

「メメちゃんが血塗れだった時はどうなるかと思ったよ」

「心配かけてすまない。カレンの援護がなかったら死んでたよ」

 

 本心から感謝を伝えると、彼女は魅力的にほほ笑んだ。何だか数日前よりも少し大人になったような印象を受ける。初陣を乗り越えた彼らの顔には、どこか自信がみなぎっているようだった。手元のジョッキの水を一気に喉に流し込む。祝勝会、と言われるとただの水すら何か味わい深いものであるかのように感じられた。

 

「オスカー!これ美味しいよ!アンタのにもレモンかけてあげるね!」

「ああ、カレン!レモン勝手にかけるのはダメだって!僕だって許せることと許せないことがあるよ!」

 

 オスカーとカレンはいつにもまして楽しそうにお喋りをしていた。ここ数日の少し暗い雰囲気とは打って変わって表情は明るい。どうやら戦勝後に見せていたナーバスな気持ちは克服できたらしい。

 

 先日の戦いは、勝ったとはいえ死んだ人間がいなかったわけではない。俺たちがたどり着く前に死体も残さずに食われて死んでいった村人。オークとの戦いで散っていた名前も知らない騎士たち。犠牲に心を痛めるのは、優しいとも甘いとも言える二人の特権だろう。それは俺が手放したもので、失くしたものだ。

 

 二人から目を放して、先日は大衆料理に苦戦していたオリヴィアの様子を見る。気品を保ちながらも上手く料理を口に運んでいた。彼女も上手く環境に適応できているようだった。

 

 その様子を見ていると、かつて恋人になった時、彼女が徐々に庶民文化に馴染んできた時のことを思い出した。

 当初は騒がしい庶民街の喧騒に顔を顰めていた彼女は、いつの間にか街行く平民と話すことすらできるようになっていった。高嶺の花だった彼女が自分に近しい存在になっていく。あの時は自分色に染めていくような不思議な感覚を覚えていたものだ。

 処女雪を踏み荒らし自分の足跡を刻むような、背徳的で、征服感にも似た優越感。似た物を感じて何だか感慨深くなる。

 

 彼女と付き合う以前の俺の感情はきっと憧れだったのだろう。何度も触れ合って、笑い合って、ぶつかって、憧れはいつしか恋へと姿を変えていった。自分と同じものを好きになってほしい。相手の好きなものを好きになりたい。一方的ではない双方向の気持ち。思い出すだけで失くした恋心が蘇ってくるように胸が熱くなる。

 

 

 そこまで考えてからようやく自分の体の異変に気付いた。不自然に体全体が熱い。頭がフワフワしている。高揚した、夢見心地。

 まさか、と先ほど口にしたジョッキの匂いを嗅ぐ。覚えのある、アルコールのつんとした香り。店員が一つだけ酒を間違えて持ってきたらしい。驚きと、呆れが浮かんでくる。こんなことにも気づかないとは、俺も自分で思っている以上に高揚していたようだった。

 

 一口飲んだだけで体に違和感を覚えるほどの急速な酔い。どうやらこの体は酒にひどく耐性がないらしい。分析し、自覚した途端にさらに酔いが回る。

 気持ちの良い酩酊は直ちに抗いがたい眠気へと変わっていく。椅子に座ったまま、俺の意識は、否、理性は断絶した。

 

 

 

 

 いつもと違うメメの様子に最初に気付いたのはオスカーだった。少しふらついていて、俯いた顔が初めて見る表情をしている。いつもと違う、言うなれば女らしい、色っぽい表情。

 

「メメ……?」

 

 メメの視線はオリヴィアの方に向いていた。愛おしげで、熱の籠った視線。その表情は普段の彼女とは全く異なる、妖艶さを醸し出していた。

 突然、椅子がひっくり返るのではないか思うほど勢いよく席を立つ。その顔は何故か真っ赤だった。

 

 立ち上がったメメはテーブルの上のサンドイッチをむんずと掴んだ。そしてつかつかとオリヴィアの元まで歩いていくと、突然の行動に困惑している彼女の口にそれを突っ込んだ。

 

「な……ムグッ!」

「良く噛めよ?愛しいオリヴィア」

 

 そのまま背後から割れ物を扱うように優しく抱きつく。オリヴィアの白い顔に赤みが走った。突然の事態にメメを問いただしたいが、突っ込まれたサンドイッチで喋ることもできないらしい。

 さらに体躯の大小には反して、メメの身体能力はオリヴィアよりもずっと上だ。彼女は絡みつく小柄な肢体を振りほどくことができず、熱い抱擁を受け入れざるを得なかった。

 

 蜂蜜色の髪に顔が触れてしまいそうなほどピッタリと密着して、メメはずっと愛しいものを見るようにオリヴィアを優しく見つめていた。恋人を見つめるような、我が子を見つめるような慈愛の瞳。

 視線に晒されたオリヴィアは目を白黒させながらも必死に口をもぐもぐと動かしていた。まずは口の中を空にしないと抗議もできないと考えたらしい。

 

 それはおよそ普段の男らしいメメの様子からはかけ離れたものだった。オリヴィアの背にしだれかかる様子は艶やかで、長年連れ添ったパートナーとの二人きりの時間を過ごしているような甘さを感じる。細い両腕は彼女の細い体に優しく巻き付いて、決して放そうとしない。そのしなやかな体躯は彼女の背中にピッタリとくっついて、彼女の温度を肌で感じ取ろうとしているようだった。

 

 今度はメメはオリヴィアの黄金色の髪を優しく撫で始めた。それは幼子をあやす母親のような、無償の愛を感じさせる手つきだった。オリヴィアの耳元で、メメが艶やかに囁く。

 

「偉いなあオリヴィア。今まで貴族社会で生きてきたのに、頑張って平民と付き合えるように努力して。魔法の研鑽も頑張って。俺はお前が努力家だってことを良く知ってるからなあ……たとえ誰も認めなくても、俺だけはお前を認めるからな……」

「ンッ!ンンン!?」

 

 一方的に言葉責めされているオリヴィアは未だに口の中がいっぱいでしゃべれないらしい。幼子のような扱いを受けた彼女は耳まで真っ赤にしている。

 

「好きだぞ、オリヴィア。愛しているぞオリヴィア。何があっても、何年経っても俺はお前が好きだからなあ……俺を認めてくれたお前を……俺は何があっても肯定するからな……」

 

 メメはうわ言のように甘い言葉を囁き続けている。顔はずっと真っ赤で、目はトロンと垂れ下がって、蠱惑的な表情だった。メメがブツブツと呟き続けている間に、オリヴィアの口がようやくサンドイッチから解放されたらしい。真っ赤な顔で背後のメメを振り向いて、反撃を試みる。

 

「メメさん!お気持ちは嬉しいですが!時と場所というものを考えて――」

「怒った姿も可愛いぞ?我が愛しい人」

 

 メメのほっそりとした指がオリヴィアの艶々とした唇に触れて、そっと塞いだ。オリヴィアの口がピタリと止まる。これ以上赤くなることはないだろうと思われていた顔がさらに赤くなった。メメは艶やかに笑いかけると、とどめに、オリヴィアの額にキスを落とした。

 

「――ッ!うううッ!」

 

 オリヴィアは勢いよく後ろを向くと、テーブルの上に突っ伏した。ノックダウン。それはこれ以上恥ずかしい思いはできないという降伏の意を示していた。そんな様子のオリヴィアを優しい瞳で見つめたメメは、突然カレンの方に向き直った。

 

 突然矛先を向けられたカレンは激しく狼狽する。先ほどまでの蠱惑的な光景を思い出して体が熱くなる。

 

「えっ!?何?怖いよメメちゃん!」

 

 艶やかな笑みをカレンに向けると、メメはオリヴィアの口を塞いだのと同じように、サンドイッチをむんずと掴んだ。

 

「いやああ!?助けてオスカー!壊されちゃう!アタシ、メメちゃんに骨抜きにされちゃう!」

 

 ゆらゆらと近づいてくるメメにカレンがおののく。その姿は恐怖しているようにも、何かを期待しているようにも見えた。オスカーもカレンもその場から動くことができなかった。あまりにも普段の様子とは異なるメメの様子に呆然としていた。

 

 しかし妖艶な様子のメメの足は途中で止まることになる。ふらついていた足元はついにメメの体を支えきれず、その場にバタンとうつ伏せに倒れた。そのまま穏やかな寝息を立て始める。サンドイッチだけは落とさずにしっかり手に持っていた。

 

「寝ちゃった……?」

 

 安心したような、残念なようなカレンの呟きに応じたオスカーが歩み寄って確認する。

 メメは気持ちよさそうな寝顔をしていた。

 

「……なんだかお酒の匂いがするね。もしかして間違えて飲んじゃった?」

「……そういうことかあ。どうりでいつもと様子が違うわけだよ」

 

 カレンが頬をつついても、メメが目を覚ます様子は全くなかった。酒が回った彼女は、固い床の上で深い眠りについているらしい。

 

「よいしょ……うわあ軽い」

「重いとか言ってたらアタシがメメちゃんの代わりにぶん殴ってたよ」

 

 オスカーがメメを背負っても、彼女は微動だにせず眠りについていた。体の力の抜けたメメの体は想像以上の軽さで、オスカーは驚く。小さな体に相応しい軽さ。それは勇ましい彼女の姿からはかけ離れた軽さだった。

 

 全く目を覚まさなかったメメは二人によって部屋まで運ばれることになった。翌日、この一件について全く覚えていないらしいメメは、自分の顔を見るたびに顔を赤くするオリヴィアの様子に首をかしげていた。

 

 

 



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IF メメのバッドエンド その献身は、愛か贖罪か

もしもの話、本編とは違う時間軸の話です

※以下の要素にご注意ください
匂わせて程度の精神的BL要素
軽度のリョナ描写(首絞め)

この話読まなくても次に繋がるはずです。

上記を読んでも読んでくれる物好きな方、ようこそ!


 デニスの足を取った俺は勝利を確信していた。奴の背後から迫りくるは人類最強の兵器、聖剣。疑いようもなくそれで終わり、だった。しかしデニスの心はまだ終わっていなかった。

 最期の力を振り絞ったデニスが、手に持った大斧を投擲する。やぶれかぶれ、狙いなんてつけていなかったのだろう。斧はくるくると回転しながらオスカーのはるか右を通過して、そして、カレンの元へと迫った。

 

「――えっ」

 

 何が起きているのか理解できないという呟き。俺のものであるようで、オスカーのものであるようで、カレンのものであるようだった。斧は奇跡的な確率でカレンの脳天に迫り――鮮血をまき散らした。

 

「――カレン!」

 

 力なく彼女の体が倒れ伏す。デニスの命を奪ったオスカーがすぐに彼女の元に駆け寄った。俺はその場から動けなかった。疲労のせいではなかった。

 どう見ても致命傷だった。カレンの顔に刃先がのめり込み、顔面を二等分している。

 

「メメ、メメ!どうすればいい!?どうすればカレンを助けられる!?」

 

 オスカーが焦燥に溢れた声で俺に呼びかける。初めて聞く声だった。

 

「もう、無理だ……。死者は蘇らない。それは神の領分なんだよ、オスカー」

 

 認めたくなかった現実を突きつけられて、オスカーの瞳から大粒の涙があふれだした。初めて見るようで、散々見た光景であるような気がした。オスカーの号哭が鎮魂歌のように響き渡った。

 

 もうやり直しもできない俺の、初めての取り返すこともできない失敗、罪だった。それを認識した瞬間、俺の中の何かが切れた。摩耗した俺を辛うじて目的へと進ませていた自縄自縛の縄。失敗と失望、罪の意識だけを頼りに魔王を殺すその日まで突き進むはずだった。その原動力は今、引っ張られ続けた縄が徐々にほどけていき、やがて完全に崩壊するように、プツンと切れた。

 

 

 あれから、俺の体からは勇者の力の残滓が一切なくなっていた。鍛え上げた剣技はそのままだ。でももう大剣を振るうような腕力はない。水を汲んだ桶を持ち運ぶだけで疲労に震え始める両手。魔術の才能はやせ細って、戦いに使えそうなものは全て使えなくなった。見た目通りの、ひ弱な少女。それが今の俺だった。勇者パーティーの戦いにはもうついて行けなかった。

 

 俺の魔王討伐という目的はもはや達成不可能になった。俺の人生の意義はなくなったかに思えた。それでも俺がここで生き続けているのは、あの時新たな気がかりが生まれたからだった。カレンが助からないと分かった時のオスカーの顔を思い出す。当たり前だった関係が突然奪われた、茫然自失といった、表情の無い泣き顔。

 

 

 

 

 王都には数日前から小振りの雨が降り続いていた。湿気が充満し、商店街の人々の表情はどこか陰鬱だった。今は小雨は時折思い出したように止んで、束の間の晴れ間を覗かせていた。暗雲は変わらず上空を覆っている。太陽はしばらく見ていない。

 

「ああ、おかえりオスカー。飯ならもうできているぞ」

「ただいま、メメ。ありがとう。すぐ頂くよ」

 

 あの時からずっとやせ細ったオスカーの姿。目の下には僅かに隈が見えた。カレンが死んだあの日から、オスカーの様子はすっかり変わっていた。鍛錬には鬼気迫る様子で取り組むようになった。無口になって、何を考えているのか分からないと周囲に気味悪がられるようになった。

 

 俺にはその気持ちが良く理解できた。分かるよ、なんて薄っぺらい慰みではない。俺はかつて全く同じ状態になったからこそ、彼の状態が良く分かっていた。

 

 自分への失望と世界への怒り。悔いと憤怒。行き場のない爆発しそうな感情の矛先を、彼は魔物たちと魔王へと向けたのだろう。人生の全てを戦いに捧げて、必死に自分の生を意味のあるものにしようとしている。そうでなければ悲しみと後悔に圧し潰されてしまうからだ。目的に邁進していない時は常に後悔がちらつくのだ。天真爛漫な彼女の顔が。

 誰よりも分かる。だからこそ俺が、彼の居場所を作った。

 

「食わないのか?」

「うん、ごめん。なんか食欲なくって」

 

 オスカーがフォークを置いた。カツン、という硬質な音を立てる。食器の上にはあまり減っていない豚肉が残されていた。奮発して少し高い物を買ったのだが。気に入らなかっただろうか。

 

「そうか。それよこせ。もったいないから全部食べる」

「うん、ありがとう」

 

 何に対する感謝なんだか。オスカーはふらふらとシャワー室へと向かっていった。また何もせずにすぐに眠るつもりなのだろう。聞こえないようにこっそり溜息を付く。自分で自分を傷つけても良いことなんてないのに。今日は特に焦燥しているように見えた。俺は今日も彼と話をすることに決めた。

 

 彼の寝室は一人部屋だ。彼は俺と同棲しているわけだが、別に恋愛的な関係にあるわけではない。周囲の人間は、俺がオスカーの身の回りの世話を買って出たという認識だ。もっとも俺たちの肉体関係を噂する下世話な人間も大勢いるが。俺も身を清めて、彼の寝室の戸を叩く。

 

「メメ?どうしたの?」

「いやなに、お前の話でも聞いてやろうと思ってな」

「……話すことなんてなんにもないよ」

 

 俺の言葉を聞いたオスカーはゴロリと寝返りをうって向こう側を向いた。俺はベッドの反対側に歩いていって、再び彼の顔を覗き込んだ。目が合わない。

 

「またなんか失敗してカレンのこと思い出したんだろ?」

「そうだよ……」

 

 諦めたようにオスカーが呟いた。ベッドに腰かけて、オスカーの肩を掴む。少し上を向かせるように肩を押すと、やっと彼と目が合った。

 

「前も言っただろ?カレンが死んだのはあの時俺が動けなかったせいだ。責めるなら俺を責めろ」

「違うよ。守れなかったのは僕だ。……失敗したのは僕だったんだ」

 

 何回も聞いた言葉が返ってくる。その返事を聞いて俺は、また彼の感情を吐き出させる時が来たことを悟った。

 

「ハア……仕方ないか。『我が意に従え』」

 

 頬を掴んでオスカーの顔を固定して、目と目をしっかり合わせてから暗示魔術を発動する。俺の目を直視したオスカーの目が焦点の合わないぼんやりとしたものになる。暗示を受けていれる状態が整ったようだ。俺に残された数少ない使える魔術。戦闘に使えるわけではない魔術については未だ多少使うことができた。

 

「オスカー、お前の幼馴染を殺したのはこの俺だ。その鬱憤をぶつける対象は俺だ」

「メメが……カレンを……」

「お前が感じたあらゆる怒りを、悲しみを、絶望を俺にぶつけるんだ。そうしてお前は全部を忘れて、明日からまた勇者の役目を果たせ」

 

 両手をパチンと合わせた。乾いた音がすると、オスカーが突然俺を押し倒した。固い床に頭を軽くぶつける。その痛みに呻く余裕もなく、俺の細首にオスカーの大きな手が巻き付いた。容赦なく、されどへし折らないような力加減で俺の首を締め上げる。

 

「グッ……そうだ、遠慮なんてするな……コホッ……お前の目の前にいる人間が全ての元凶だ」

 

 オスカーは何も語らず、ただ俺の気道を塞ぎ、俺の苦しむ顔を眺めていた。これももう五度目だろうか。

 

 オスカーに暗示をかけて、日頃感じている鬱憤をここで俺に向けて開放させる。そうしなければならなかった。彼の心を壊したのは俺なのだから。人の命があっさりと消えることを俺は嫌というほど分かっていたはずだった。それなのに過ちを犯した。今回ばかりは本当に償いようもない。俺にはもうやり直す権利はないのだから。

 

 だから俺はせめて、この役目だけは果たすつもりだった。壊れたオスカーが最期まで勇者の役目を果たせるように。彼が快適に、誰にも非難されずに夜を過ごせる居場所を作り、そして彼の心がこれ以上壊れないようにするのだ。

 

 だから俺には、彼のために、こうして彼に殺される義務があった。ギリギリと俺の首を絞めるオスカーが手の力を緩める様子は一切ない。ただ薄っぺらい笑みで俺を観察している。首の痛みにも徐々に慣れてきて、ただ酸素が頭に入ってこないぼんやりとした苦しみのみが残っていた。脳内が冷え切ってくるのとは対照的に、体はどんどん熱くなってくる。酸素がなくなってきて、むしろ鋭敏になっていく思考の中で、俺が浮かべる感情は悲しみでも怒りでもない。――喜びだ。

 

「コフッ……ハァッ……」

 

 本格的に酸素が回らなくなり、頭が真っ白になる。意識が遠のくにつれて俺はついに逝けるのだと思った。脳内が歓喜に湧く。

 

 本当は、オスカーの心なんてどうでも良かったのだ。突然、どこか自分でないところから湧いてきたように、先ほどまでと異なる感情が浮かんできた。俺はただ、彼に裁いて欲しかっただけだ。彼の手で殺して欲しかっただけだったんだ。そのためには自分にも周りにも言い訳が必要だった。俺の最後のエゴを果たすために全部必要だった。

 

 だからやった。この家を毎日綺麗に掃除して、毎日食材の良し悪しを見ながら商店街を念入りに見て回って、美味しい料理を作って、オスカーがせめてここにいる間だけでも快適に過ごせるように努力した。全部俺のためだったんだ。

 

 しかし、俺の意識がついに途絶えようかというその瞬間、突然オスカーが絞殺しかけていた両手を放した。

 

「――ッ……ゴホッゴホッ」

 

 体が急速に酸素を取り戻していく。視界はいつの間にか自然と溢れてきた涙でぼやけていた。また、死にそこなった。

 オスカーは暗示にかかったぼんやりとした目のまま、ベッドへと戻っていき、目を閉じて動かなくなった。しばらく、俺の咳だけが部屋に響いた。俺はふらふらと立ち上がると、自分の寝室へとゆっくりと向かった。

 自分が何をしたかったのか結局分からなかった。

 

 

 

 

 小雨がずっと髪を濡らしていたが、その場から立ち上がる気にもなれなかった。重たい聖剣の鞘を撫でながら、僕は昨日の夢について思案していた。今は戦う力を失って、身の回りの世話をしてくれているメメが出てきた。彼女を、絞め殺そうとする夢だ。

 

 どうしてそんな夢を見たのか分からなかった。カレンが死んでから消沈した僕を、メメは必死に励ましてくれた。綺麗な家を維持して、美味しい料理を作って、僕が心から休める居場所を用意してくれた。僕が今もなんとか勇者の役目を果たせているのは彼女のおかげだ。感謝こそすれど、憎しみなど、まして殺意など抱きようもないのだ。

 

 それでも、と僕は夢の内容を思い出さずにはいられない。僕の手で簡単に覆えてしまう細い細い首は、思いっきり絞めると背骨の感触が手に伝わってきた。戦う力を失ってなお、俯きもせずにただ僕のために一生懸命に尽くしてくれていた彼女。

 苦し気に開かれた双眸からは透明の涙が溢れてきていた。時折苦し気に頭を揺さぶって、彼女の乱雑に一纏めにされた後ろ髪がフリフリと揺れていた。突然いなくなってしまったカレンとは違う。徐々に、僕の手で死にゆく姿。――美しかった。彼女の死にゆく顔は。僕はその顔を眺めながら、息を絶つために首を――

 

「……あれ、僕は何を考えていたんだっけ」

 

 ふいに、頭の中が洪水で全て流されたように、先ほどまでの思考が一切思い出せなくなった。何かに感動していたような、何かを達成できたような。そこまでしか思い出せない。きっと忘れてしまうほどどうでも良いことだったのだろう。それよりも今は、魔王軍のことを考えなければ。もやもやとした思考を一度断ち切ると、僕は未来について考え始めた。

 




彼が彼女を絞め殺した場合、彼は暗示に従って遺体を遺棄して、その記憶を忘却します。

「お前になら殺されていい」と「お前に殺されたい」では意味が違ってきますよね。どちらにせよクソ重いですけど。

本編でこんなクソ暗い話を書く予定はありません……。


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一章終了時点の登場人物、設定

二章前に軽い情報の整理
登場人物→用語→幕間(話の中で小出しにしてた神話)


 メメ

 タイムスリップを繰り返して100年以上魔王討伐に挑み続けた勇者オスカーがTSした姿。勇者としての義務感と、自分が死なせたあらゆる命への罪悪感に縛られている。魔王討伐にのみ自分の人生の価値を見出していて、あらゆる犠牲を許容していた。自殺願望と義務感の板挟みで、被罰願望とでも言うべきものを開花させる。赤髪黒目、十五歳にしては発育が悪い。

 

 オスカー

 聖剣を抜いた勇者。過去のメメの姿とも言える。ただの村人だったが突然勇者という大層な役割を求められる。他人を慮るやさしさを持っていて、仲間の犠牲を嫌う。純粋無垢で素直な少年。メメにどこか自分に近しいものを感じて、何かと気に掛ける。黒髪黒目の凡庸な顔立ち。十五歳。

 

 カレン

 オスカーの幼馴染、村の教会で毎日祈りをささげていた。神聖魔法の熟達者。オスカーに対して愛情とも親愛ともつかない感情を持っている。明るくて快活な笑顔が魅力の少女。村娘らしい平凡な価値観の持ち主。茶髪にお下げ、緑の目、大きめの胸。十五歳。

 

 オリヴィア

 公爵令嬢。誰よりも貴族らしくあろうとする。弱者には手を伸ばし、怠惰な人間を嫌う。苛烈な性格に優しさが見え隠れする。丁寧に結われた金髪に青い目。十六歳。

 

 

 

 

 パンヴァナフ王国

 人類の領地と魔王領の最前線の国。横長に伸びた領土は北に位置する魔王領の防波堤の役割を果たす。王都パンヴァラは中央に位置する。他国は魔王領と隣接するこの国の領地を取っても旨味が少ないので、魔王討伐直後以外は戦争を仕掛けてこない。合理主義者の王と中央教会が結託して万全の統治を行う。魔王軍との戦いが劣勢になると国を売って停戦を求めるらしい。名産品はパン。

 

 魔王

 叛逆神に選ばれた魔物たちの英雄。力を是とする恐怖政治で魔物を統治する。人が絶望にあらがうさまを見届けた上で蹂躙したい、サディスト。

 

 美食家気取りのオーク・デニス

 人をできるだけ美味しく食べることに固執するオーク一派の首領。人を絶望させたうえで食べることで人間へのコンプレックスを解消している。中途半端に開花した知性のせいでオークにもなじめず、放浪していた。

 

 女神ユースティティア

 正義を司る女神。大神なき世界で唯一の神として信仰されている。罪を審判し、それを裁くという役目を大神に与えられた。剣と天秤を持った姿が描かれる。(テミスとかアストライアとかみたいな)唯一人間を見守る最後の女神。

 

 大神デウス

 今は亡き、全知全能の神。全ての人間を救う力を持っていて、大神暦という理想郷を形成した。救いの象徴。万事を解決するデウスエクスマキナ。死後の世界で天国という理想郷を形成している、と信じられている。全知全能ならざる身には余るものであるとして、三禁を作り、本能にそれに対する忌避を埋め込んだ。

 

 

 魔法 

 人が大神に授けられた超常の力。特に大神の血を強く引く者が扱えると考えられる。遺伝性が強く、貴族の家系に強く出る。ただし平民の家系にも突然強い魔力を持った子が生まれることもある。亡き神々に祈り、その力を借り受けていると考えられる。詠唱が長い分強力な効果を得ることができる。

 

 魔術 

 魔法を神の神聖なものではなく、単なる技術として体系化したもの。アレンジを効かせやすい。詠唱が短いが、魔法に比べると効果が薄い。魔法が貴族のものなら、平民のための技術と言える。魔法を特別視しないので、生活を便利にするためにもつかわれる。その際には魔力の籠る鉱石、魔石を使用する。

 

 神聖魔法 

 治癒魔法を主とする、厚い信仰心を持つものが使える魔法。他の魔法とは違い、魔力量ではなく、信仰心によって練度は左右される。そのため貴族以外でも優れた術師になる可能性がある。しかし最高機関である中央教会は既得権益によって腐りきっていて、優秀な術者でも出世できない。そのため必ずしも王都に優秀な術者が集まっているわけではない。

 

 

 

 

幕間① 神話

 

かなり昔、自分の体が勇者という名の人外のものに成り果てる前の話だ。俺は故郷の村の神父の話を聞いていた。目の前には文字を読めない平民にも神話が理解できるようにと描かれた絵画があった。

 

現在の世界の歴史は大神暦が終わり、女神暦が始まるところから語られる。神話として語られる大神暦について、分かっていることは少ない。曰く、大神暦には、全知全能たる大神、デウスとその他多数の神々に庇護された人類は、豊かで穏やかな生活を享受していた。人々はみな全てにおいて満ち足りていて、争いすら存在していなかった。

 しかし、そんな生活はある時終わりを迎える。大神が突然姿を消したのだ。それに呼応するように神々はそのほとんどが姿を消していった。

 

今まで享受していた神からの恵みを享受できなくなった人々は混乱した。理想郷だった大神暦は唐突に終わりを告げた。飢餓、貧困、格差、戦争。愚かな人間によってこの世界は終わるかと思われた。終焉に向かう世界を救ったのは唯一最後に世界に残った神、審判と断罪を司る正義の女神、ユースティティアだった。

 

 女神は人々に善悪という価値観を与えた。人を殺すな。人から奪うな。富めるものは分け与えよ。正義の女神は人に罪、善悪の基準を与えた。大神という絶対の存在を失い迷走していた人々は女神の教えに縋りついた。その教えが広がるにつれて、世界は平穏を少しずつ取り戻していった。今の世界は女神のおかげで存在している。人間は女神と交信することはできなくなったが、世界中に広がった女神教は、彼女の教えを今に伝え続けている。

 

「こちらの一番大きい方が全知全能の大神、デウス様。人類が大きな危機に陥った時には再び姿を現して、我々に手を差し伸べてくれると言われているよ」

 

そんなものは現れない。俺は人類の終焉を知っている。それはどこにも救いなんてないものだった。全てを救ってくれる神はいないのだ。何も知らない幼い俺は、純粋な気持ちで神父に問いかける。

 

「じゃあどうして猟師のおじさんは死んじゃったの?どうして神様が助けてくれなかったの?」

「今は大神様はこの世界にはいないんだ。全知全能に頼りきった人類に愛想を尽かせてしまったんだ。堕落した人類を今も見守ってくれているのは最後の女神様だけさ」

 

そんなはずはない。猟師のおじさんは良い人だった。堕落なんてしていない。無知だった俺は純粋にそう思っていた。悩みも苦悩も葛藤も痛みも、そして人の世界を救ってくれる都合の良い神も奇跡も存在しない。そんなことは分かっている。それでも愚かな俺は願ってしまう。人類を、罪深くて愚かな俺を、救ってくれる神を、奇跡を。

 

 

 

 幕間② 神話、五戒と三禁

 

 人の世界における法や規範は神の残した言葉を元に作られていることが多い。代表的なのが、各国の法律の元になっている「女神の五戒」。大神デウス亡き後の混乱期に女神ユースティティアが打ち出した善悪の基準だ。

 

 人を無暗に傷つけるな、殺めるな

 人から奪うな

 人を尊重し、愛せよ

 人を助けよ

 人と幸福を分かち合え

 

 大神のいなくなった後の混乱期にはこの五戒に背いたと見なされた人間には女神の使者が直々に断罪の剣を振るった、と伝えられている。この時の女神の使者が勇者のはじまりである、というのはまた別の話だ。またこの伝説から、今に伝えられる女神は、左手に審判を示す天秤を持ち、右手に断罪を示す剣を持った姿をしている。

 

 混乱期は悪人を殺し尽くして一応の平穏を勝ち取った、らしい。女神が人の世に干渉しづらくなっている現在でも、各国が五戒に背く法を作らないかと、最大宗教である女神教が監視をしている。しかし女神教も動かしているのは人間だ。五戒が完璧に守られているとは言い難い。

 

 

 五戒と比して極めて厳格に守られている禁忌が存在する。歴史上にしか存在しない理想郷、大神暦から続く、今は亡き大神が打ち出した三つの禁忌、「三禁」と呼ばれている。

 

 大神以外のあらゆる存在が命を創ることを禁ず

 あらゆる時間に干渉する試みを禁ず

 神が直接世界に干渉することを禁ず

 

 人のみならず神をも縛る強力な禁忌は、破ればあらゆる人間の侮蔑を免れない。大神はこの禁忌を、定命の者には持て余す権限として一切を禁じた。善人も悪人も例外なく、この禁忌を破ることを本能のように忌み嫌う。実際、かつて禁じられた蘇りの魔術を研究していた魔法使いは火炙りに処されている。蘇りの魔法は「命を創ること」に当たると判断される。

 

 そして女神はこの禁忌を破っている、と言っていいだろう。俺という勇者を「時間に干渉」して蘇生するという「命を創る」行いをしている。女神も例外なく禁忌を厭う本能はあるはずだ。しかし大神暦から千年。女神はどこか壊れているのだろう。大神に会えた暁には私は彼の雷に打たれるのだ、と珍しく感情の乗った声で俺に語っていた。お前が勝手に罰を受けるなら勝手にしろ。それではこの俺は。女神によって時間に干渉して蘇生され続けている俺は、どれだけの罪に問われるのだろうか。

 

 そして人が皆この常識の中で生きている以上、俺は自分が蘇り続ける存在であることを誰かに告げることはないのだろう。何度も繰り返して罪を犯して、それでも懲りずに魔王を殺すために愚直に突き進んでいることは誰にも言えない俺の一番の秘密だった。

 

 

 

 

 幕間③ 大神の定めた三禁

 

 人間の本能にまで刻まれた絶対の法、三禁。全知全能の大神は定命の者の手に余る事象としてそれを禁じたと伝えられている。破った人間はあらゆる人間からの侮蔑と憎悪を免れない。その一つ、「大神以外のあらゆる存在が命を創ることを禁ずる」という項目は今日の魔物と人間の対立関係を理解する上で重要な意味を持つ。

 

 人間は大神が自ら創った存在だ。伝承によれば泥から最初の二人の男女は創られたらしい。そして人間は自ら子どもを作って子孫を増やしていった。出産による子作りは「命を創ること」には当たらない。なぜならそれは大神が人間を創った際に与えた機能であり、一から命を創りだす行為ではないからだ。だから普通に生活している人間は三禁など破っていない。

 

 それに対して魔物、と呼ばれる生命体は誕生したその時から三禁に反している。魔物は大神に創られた命ではない。魔物の原点を辿れば、全て叛逆神から生まれているのだ。大神亡き後も世界に残り続けた数少ない神。人間が名付けたその忌み名はサタン。大神に真っ向から叛逆した、堕ちた神。この神は大神の作った法に真っ向から叛逆した。

 

 叛逆神は人間に似た形で、されど人間とは決定的に異なる部分を持つ異形の存在、魔物を創り始めた。この事実こそが人間と魔物との対立を決定的なものにしている。人間は三禁に背いた存在である魔物に対する嫌悪感を本能にまで刻まれている。

 

 例えば、魔物と人間のハーフの子どもなど生まれたなら、人間はその子どもを八つ裂きにした上で火炙りにするだろう。領土の争いなどなくとも、人間と魔物は殺し合う運命にあるのだ。

 

 大神亡き後の女神暦はそろそろ千年を数える。叛逆神はだいたい百年周期で魔王と呼ばれる強力な魔物を生み出している。魔王は人間の領土に攻め込んできて、そして歴史上例外なく、勇者と呼ばれる女神に選ばれた人間によって滅ぼされている。魔王と勇者の殺し合いは叛逆神と女神の代理戦争と言ってもいいかもしれない。

 



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拗らせTS少女と貴族気取りの吸血鬼
23 人でなし、襲来


新章もよろしくお願いします


 痛覚とは、体から発せられる危険信号だ。痛みが生じるような状況、すなわち体が何かしらの危機を抱えている時に、脳にそれを伝える。

 歩きすぎた。食べ過ぎた。斬られた。だから、疲れた。苦しい。痛い。脳に正しくない体の状態を是正するように訴えかける。

 

 単にその機能を記述すると実に味気ない。しかし、ただそれだけではないと俺は考える。

 痛みにこれだけの種類があるのは何故なのか。打ち付けられた皮膚はじわじわと痛みを訴えかける。切り刻まれた傷は燃えるように熱い。

 そして心は、チクチクと、じくじくと、燃えるように、貫かれたような、痛みを訴えかける。実に多種多様で、単に体の危機を知らせるためだけの機能とはとても思えない。

 

 それらについて考えた俺は一つの結論に辿り着いた。痛覚とは、痛みとは、創造主たる大神が人間に残してくれた罰なのではないか。そう、考えたくなった。

 生きているだけで罪を重ねてしまう欠陥品である人間。そんな俺たちに与えられた償いの機能。俺があんなにも罪悪感に苛まれていたのはきっと、罰である痛みを感じづらかったからだ。

 

 勇者と名付けられて、中途半端に神に近づいた体は罪だけを重ねて、それに対する罰を拒んでしまっていた。だから気付かなかった。重ねた罪に対する償いの機能は、俺たちの生まれた時から持っている物だったのだ。生きているだけで体が、心が痛む。

 

 嗚呼、やはり痛みとは俺にとっての神だった。女神のような紛い者ではない。無条件に人を救ってしまう、全知全能の大神の如き本当の神。

 それを自ら追い求めるような浅ましい行いはもうするまい。そんなものは罰ではない。待っていれば罰は、救いは訪れる。そして俺は最後にして最大の罰であり、赦しであり、救い、死が訪れるその日まで、粛々と罰を受け続けよう。

 

 

 

 

 晴れ晴れとした朝だった。開け放たれた窓から吹き込む風が優しく頬を撫でる。寝起きのぼんやりとした頭でも、どことなくスッキリとした気分になるような穏やかな陽気。あるいは、自分の気分が上向きなのは、久しぶりに夢を見ないで起床したからかもしれない。

 

 上体を起こす。期待を込めながらチラリと自分の胸元を見ると、そこにはやはり小さなふくらみが存在していた。せっかくいい気分だったのにため息をつきそうになった。

 女になって早二か月。未だに朝起きたら男に戻っていないかと微かな期待をしてしまう自分がいた。

 

 そこまで思考して、窓の方をなんとなしに見る。そしてはたと気づいた。寝る時にはいつも窓は閉めていたはずだ。なぜ開いている。

 ……物取りでも来たのか!?一瞬で思考が冴える。慌てて部屋の中を見渡そうとして、――目の前に見知らぬ男が立っていることに驚愕した。

 

「うわああああああ!?」

「おはようございます、メメさん。珍しく朝からテンション高いですね」

「いや、誰だよお前!急に人の部屋に入ってきてなんでそんな落ち着いて挨拶できるんだよ!?」

 

 思わずベッドから飛び起きて叫んでしまった。男を見上げる。見覚えのない顔だった。

 すらりとした長身。身にまとっている服は良く見れば結構上質そうだ。目鼻立ちのすっきりとした、整った顔立ち。しかし表情は話している間もほとんど動いていない。

 

 上質そうな青髪と相まって、女性に良くモテそうだ。妬ましい。イケメンは滅ぶべし。街を歩けば人目を惹きそうな彼はしかし今、初対面の相手のベッドの脇に立つ立派な不審者だった。

 

「私ですよ、私。貴女にジェーンと名乗った女神の使者ですよ」

「……はっ?ジェーン?あいつは人間ではなく奇妙な喋る木像だぞ」

 

 ジェーンは俺を女の体に改造しやがった文字通りの人でなしだ。しかしあいつは粗悪な木製の女神像の姿をしていたが。

 

「私の言ったこと忘れたんですか?人間の死体さえあれば乗り移れるってちゃんと説明しましたよ」

「ああ……そんな話確かに聞いたな。声も女神像と同じだし……待てよお前、その体は死体なのか?」

「はい、先日のデニスとの戦いの戦死者から、使えそうなものをかっぱらってきました!」

「馬鹿かお前!?人でなし!早く遺族の元に返してこい!」

 

 とんでもないことを言い出したジェーンに驚愕する。正義の女神の使者を名乗っていたが、やはりこいつは悪霊の類なのではないだろうか。

 

「家族のいない人間を選びましたよ。人でなしでも人間の反感を買わない方法くらい知っていますよ」

「いや、でもそれは……遺体の人間的には気分が良い話ではないのではないか……」

「貴女も言ってましたよね。『死人に口なし』。過去の自分に向かって、説教臭く、かっこつけて」

「かっこ……かっこつけてねえし!……というか、生前の知り合いにでも会ったらどうするんだよ。言い訳つかないぞ」

「顔はもう作り変えました。もう過去の彼との共通点なんてどこにもありませんよ」

「……本当に人でなしだなお前」

 

 勝手に顔を作り変えられてしまった彼に同情してしまった。親近感を覚えたと言ってもいいだろう。この悪辣な悪霊に性別まで変えられてしまった同士として、彼が大神の元に行けることを祈った。

 

「まあおっしゃる通りです。……しかし、肉眼で見るとやはり貴女の顔の造形は良いですね。不快そうに細められた目なんて芸術かと思いましたよ」

 

 何やら変態的なことを言いながらジェーンが近づいてきた。距離が近づくと改めて彼の大きさが分かる。俺の頭一つ分、もしくはそれ以上の身長差。身を屈めた彼のごつごつとした手が俺の頬に触れようとする。

 彼の突然の行動の意図が分からず困惑する。

 

 ちょうどその時、部屋のドアが勢いよくノックされた。朝から元気の良いカレンの溌剌とした声が聞こえる。

 

「メメちゃーん!朝だよー、起きてるー?」

「おい、まずいぞ。どっか隠れろ」

 

 思わぬ状況に焦りを覚える。こんなところ見られたらどんな勘違いされるか分かったものではない。ひとまず返事をして不信感を与えないようにしなければ、などと考えていると、ジェーンが何でもないようにドアの方へと向かっていった。

 

「はい、ただいま開けます」

「ちょっ……!」

「えっ、誰!?」

 

 静止も間に合わず、ジェーンは機敏な動作でドアを開けてしまった。見知らぬノッポの男の登場に、カレンが硬直する。無表情にそれを見つめるジェーン。時が、止まった。

 

「お、オスカー!大変!メメちゃんが男の人連れ込んでるー!」

「ち、違う!誤解だー!」

 

 俺は駆け出して行ったカレンの誤解を解くために走り出した。宿の中をどたどたと走る、追いかけっこから始まる騒がしい一日だった。

 

 

 いつもなら質の高い料理の数々に胸躍る食堂。俺はジェーンとの関係をでっち上げることに終止して、疲れ果てていた。噓八百を並びたてて乾ききった口を潤すために野菜のスープを口に運ぶ。

 

「兄のような方、ですか。……つまりご家族の方、と」

 

 オリヴィアが凛とした声で確認してくる。貴族令嬢である彼女はいつものように背筋をピンと伸ばしてこちらを真っ直ぐに見据えていた。

 

「いや家族って言われると微妙な気も……名義上の保護者って程度だよ。兄というか」

「でも、異性を簡単に部屋にあげちゃダメだよ……?」

「いや、こいつと何か間違いが起こるなんてこと絶対ないから大丈夫だよ」

「……メメちゃんはやっぱり女の子としての危機感が足りてないよ!君みたいな小っちゃい子でも気を付けないと!」

「ちっちゃ……」

 

 俺が男だった頃は俺よりも小さかったカレンに小さいと言われて、想像以上にダメージを負っていた。親しくなってから、彼女はまるで俺の姉であるかのように振る舞うようになった。その距離感が幼馴染だった頃のようで、懐かしくて少し嬉しくなった。

 

「今回はこいつが勝手に上がり込んできただけだよ。もうないよ」

「えっ、勝手に上がり込んできたの!?余計危ないよ!?ちょっとジェーンさん!あなた本当にただの家族なんだよね!?危機感のなさに付け込んでメメちゃんを食べちゃおうとしてない!?」

 

 驚いたカレンの追及の矛先はジェーンに向いた。先ほどまでよりも語調が激しい。

 

「勘違いさせてしまい申し訳ありません。しかし今回は、妹分が危険な戦いに赴いたと聞いていてもたってもいられず……。どうしても無事な顔を一目見たかったのです」

 

 しかしジェーンは先ほどまで少しも動かなかった表情筋を動かして、シュンとした顔を作っている。その表情に騙されたカレンはしぶしぶといった様子で引き下がった。

 

「ま、まあメメなら襲った男の方が危ないだろうし……本人たちが納得しているならひとまず気にしなくてもいいんじゃないかな」

 

 オスカーの一言でようやく追及が終わったことを悟った。相変わらず情けない、勇者らしからぬ弱弱しい声での制止だった。しかし長い戦いだった。数日分は話していたような気がする。噓に嘘を重ねるのは困難を極めた。

 今度また改めてジェーンには文句を言わなければ気が済みそうにない。アイツには人間の常識というやつを理解させなければ。

 

 安心して、大きな大きなパンにかぶりつく。視界に広がる、新雪のような表面を見ているだけでも満足だった。さらにそれに加えて口の中で融けてしまうような柔らかさ。ジャムなどの余計なものは不要な、素材を活かした芸術的な美味だった。

 

「それで、私も勇者パーティーの一員として皆さんと共に戦わせてもらえないでしょうか?」

「うーん、手伝ってくれるのはありがたいですけど……。ジェーンさんはどれくらい戦えるんですか?」

「魔法であれば覚えがあります。少なくとも、そこで大きなパンに顔をうずめているメメさんよりは得意かと」

 

 聞き捨てならない台詞だったが、俺にとってパンの方が優先順位が高かった。顔は上げずそのまま食べ進める。オスカーが何やら呟いていた。

 

「すごい……顔がパンに隠れて見えない……」

「お疑いなら彼女と模擬戦でもしましょうか?」

「魔法戦ですの!?ぜひ、見たいです!」

 

 ああ、オリヴィアが食いついてしまった。こうなれば彼女を止めるのは困難だ。どうやらジェーンと俺の決闘は決定事項になったようだ。



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24 魔法戦

「本当にやるのか?怪我させてもしらんぞ」

「貴女こそ。負けて泣く時は私の胸を貸して差し上げましょう。頭を撫でてよしよしと慰めてあげますよ、お姫様」

「……ちょうどいい!お前は前から気に食わなかったんだ!すぐにそこに這いつくばらせてやる!」

 

 わざとらしく挑発する言葉に俺のやる気が増した。せっかくなので今までの恨みを晴らそう。主に勝手に女にされた恨みとか。散々からかわれた恨みとか。

 

 オスカーとチャンバラした時と同じ、王都のそば。背の低い雑草は今日も風にゆらゆらと揺れていた。相対するジェーンは既に詠唱を済ませ、魔法を待機させているようだ。直立している体には既に巨大な魔力が渦を巻いているのが感じ取れる。

 こちらの準備はなし。即応が得意な魔術は、敵の魔法を見てから対処した方が有利だ。

 

 仲介役のオリヴィアが、二人の様子をうかがってから、コインを弾く。硬貨が彼女の手の甲に落ちるその瞬間、ジェーンの低い声が響いた。

 

「『命じるままに、我が敵を打ち倒せ』」

 

 土塊が盛り上がった。彼の周囲の地面が急速に捲りあがる。構築されたのは土の巨人。ゴーレムなどと呼称されるそれは、人間の五倍ほどの巨体を持っている。その魔法は俺の苦手な手合いだった。

 

 魔術使いが魔法に破れるケースとしては、力押しで圧倒されることがほとんどだろう。対処法が分かってもどうにもできないほどの魔力の質量。ゴーレムはまさしくその手合いだ。木の幹のような太腕が迫ってくる。

 

「『氷よ!あらゆる敵を拒絶しろ!』」

 

 展開されたのは分厚い氷の壁。しかしそう長くは持つまい。剛腕の一撃を受けて、甲高い悲鳴のような音を立てながら氷が徐々に崩壊してきている。僅かな時間で対抗策を考えなければ。

 土の巨人を観察する。造りの甘い部分は……ない。憎たらしい程に完璧だ。核にあたる弱点は……見えない。であれば、足回り!

 

「『巨なる氷柱よ!破壊をもたらせ!』」

 

 魔力がごっそりと体から抜けていく感覚。ゴーレムの巨腕にも匹敵するほどの巨大な氷柱が現れる。生み出されたそれは、直ちに射出される。鋭利な先端が土の巨人の脚部に直撃した。何かが砕ける音。砕け散った氷が空を舞いキラキラと光った。遅れて土の破片。巨人の足もまた、氷のように砕け散っていた。重量を支えられなくなった巨人が自沈する。迫っていた拳も俺には届かなくなった。反撃の好機。

 

「『光よ』」

 

 放たれた光の玉は一瞬で飛んでいき、ジェーンの顔の近くで爆発した。陽光の如き眩い光が眼球を直撃した。しばらくは何も見えないはずだ。一気に近づく。魔法に長けた相手には近づくのが一番手っ取り早い。大規模な魔法の行使は自分の体を傷つける危険性があるのだ。

 だからインファイトに持ち込む。魔法の決闘といっても、とどめを魔術で刺せばいいだけの話だ。極論魔術で作った剣で叩けばいい。

 

 剣を携えるように、氷の柱を手のひらから生やす。風を切り、一気に表情まで見える距離まで近づいた。そこまで来てから違和感を覚える。防御のための魔法を使う気配がない。視界を奪われたらひとまず身を守る魔法を使うのが定石のはずだが。

 様子を伺うと目が合った。目が、見えている。

 

「――大神に創られた汚れなき泥人形よ、完全なる肉体を持って蘇り給え」

 

 俺の様子が見えていたジェーンは余裕を持って魔法を構築できたらしい。重々しい詠唱。ジェーンのすぐ手前、俺の進行を遮るように、水を含んだ泥が急速に人の形を作っていく。

 完成されたそれは、先ほどの巨人と違いひどく小さい。四肢や顔の大きさなど全て、人間と変わらなかった。しかしその泥人形の禍々しい存在感は先ほどのゴーレムの比ではなかった。

 

 泥だけで形成された、目鼻のないのっぺらぼうの顔がこちらを向く。表情なんてないのに、泥から剝き出しの憎悪が伝わってくる。

 その動きは一瞬だった。瞬く間に目の前に泥の拳が迫る。間一髪、身の危険を感じる攻撃を氷柱で弾く。かなりの硬度を持たせたはずの氷はあっけなく砕け散った。手に伝わった衝撃は途方もなく重い。

 後ろに大きく飛び、一呼吸置く。

 

「模擬戦でなんてもん出してんだ……!」

「そういえば貴女の泣き顔はまだ見ていなかったので。泣かしてやりたくなりました」

「人でなしが……『絶対零度の氷よ、あらゆるものを切り裂く絶対の刃となれ』」

 

 相手の本気に合わせるように、再び手のひらに氷柱を形成する。刃渡りは一メートルほど。しかし込められた魔力が、密度が先ほどとは桁違いだ。先ほどの拳程度では決して砕けず、研ぎ澄まされた氷刃は人体に振るえば骨すら絶つだろう。今の俺の本気の魔術。

 俺の気が研ぎ澄まされ、土人形を操るジェーンの無機質だった瞳が細められる。

 

「――そこまでです!」

 

 しかし、渦巻く殺気はぶつかり合う直前に霧散する。仲介人のオリヴィアの凛とした声が響いた。

 

「これ以上続ければ命の危機があると判断いたしました。お二人とも熱くなりすぎです」

 

 オリヴィアの冷静な声に強張っていた肩の力を抜く。我に返った俺は氷柱をひっこめた。いつの間にか本気になっていた。ジェーンの泥人形も形を失って地に還っていた。

 

「兄妹喧嘩にしては本気が過ぎませんこと?見ごたえはありましたが……」

「いや、悪い。確かに冷静じゃなかった」

「私も少し熱くなりすぎましたね。ご心配かけて申し訳ありません」

 

 二人で反省の言葉を口にする。正直あれ以上ヒートアップしていたら周りへの被害も考えずに続けていたかもしれない。

 ジェーンもシュンとした顔を作り、わざとらしく肩を落としていた。……いや、あいつは反省してなさそうだな。

 

 オリヴィアの元へと戻ると、彼女はやや興奮気味に今の魔法戦について語り始めた。

 

「メメさんの状況に対応する魔術も素晴らしかったですが、ジェーンさんは珍しい魔法を使いますね」

「私が使うのは、今では古代魔法と呼ばれる代物ですからね。あまり知られていないと思います」

「古代魔法……。話には聞いたことはありましたが、見るのは初めてですわ。確か、かなり特殊な詠唱と才覚が必要で、その分大きな魔力消費と高い効果が特徴だとか」

「詳しいですね」

 

 オリヴィアの言う通り、ゴーレムの魔法はあまりメジャーではないだろう。土魔法は基本的に動かない建物などを作ることのできる魔法だ。操って動かすような使い方は滅多に見れない。そんなことができる魔法使いは、現代にはほとんどいないだろう。

 

 それよりも問題なのは次の泥人形だ。かなり危険な気配を纏っていた。オリヴィアは知らなかったようだが、あれは三つの禁忌、三禁に触れる可能性のあるかなり際どい魔法ではなかっただろうか。

 

 大神に創られた直後、人間が最も神に近かった頃の肉体を再現した泥人形の創造。解釈によっては不遜にも命を創りだしたと取られてもおかしくない。歴史を辿れば禁術に指定されていてもおかしくないだろう。ジェーンは、女神の眷属は、大神を畏れないのだろうか。

 

「――しかしあそこで視界を奪ったメメさんの判断も素晴らしいものでした!……メメさん?」

「あ、ああ。俺みたいな魔術でしか戦えないやつは真っ向勝負しても優秀な魔法使いには勝てないからな」

 

 男の肉体の頃ならいざしらず、今では経験頼りの小手先の技術を使って、ようやくジェーンと肩を並べられるといったところか。

 

「あれ、でもメメちゃんはこの前アタシたちに魔法を見せてくれたよね?」

 

 横で話を聞いていたカレンが尋ねてきた。田舎の村ではお目にかかれなかった魔法に興味があるらしい。

 

「実戦で使いやすいのは基本的には魔術のほうなんだ。応用しやすいからな。それに俺は魔法の長ったらしい詠唱をあまり覚えてないからな。魔術の方が得意だ」

「暗記が苦手ってだけなんじゃ……」

 

 違うのだ。長々と神を讃える魔法の詠唱があまり好きではないので、覚える気にならなかっただけなのだ。

 しかし、それを説明するわけにもいかないので黙って受け流した。カレンにアホだと思われた気がする……。

 

「魔法も魔術も一長一短ですからね。メメさんほど動ける人なら詠唱に取られる時間がもったいないと考えるのも自然な事でしょう」

「ああ、そうとも言うな。剣技の間に使える魔術の方が俺にあっている」

「へえ……。魔法を使える人って皆後ろの方から攻撃してるイメージだったなあ。メメちゃんみたいに斬りこむ人もいるんだね」

「メメさんは特殊例です。普通魔法を生業として扱う人間は生涯魔法の研究と研鑽に費やしますから。大抵が研究者のような人間です」

 

 魔法使いは、研究者というか一人では何もできないお貴族様、とも言える。奴らは魔王との決戦のために魔法の研鑽をしているにもかかわらず、戦場の過酷な環境に耐えられないことが多い。

 粗悪な食事にベッド。いつ敵が来るのか分からず安眠もできない。さらに一日中馬車で移動することもある。慣れない環境に魔法使いが体調を崩すことも珍しくない。

 

 千年近く魔物との戦いに明け暮れていたのだから、王国はこの問題にもう少し真剣に取り組むべきだと思うのだが。

 



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25 オスカーとオリヴィア

俺ガイルばりの面白くて読みやすくて美しい文章が書きたかった……


 少し前まではただの村人だった少年、オスカーは成長途上とはいえまだまだ未熟な勇者だ。体の強化の仕方も、魔力の扱いもおぼつかない。魔術の発動もいまいち安定しない。

 特に魔術について、メメやオリヴィアに少しずつ教わっているが、中々上達しなかった。見かねたオリヴィアは、付きっきりでオスカーに魔術のイロハを叩き込む役を買って出た。

 

 魔術を教えるには魔法書の類があった方が何かと便利だ。そういうわけで、オスカーとオリヴィアは今、貸し切った魔法学院の一室で二人きりだった。

 

 貧乏な平民にはなじみのない、洒落た香水の匂いが隣から漂ってきて少年の鼻をくすぐる。部屋に積まれた魔法書のインクの匂いではとてもかき消せないような魅惑的な匂い。15の少年にはあまりに刺激が強かった。オスカーの内心は、オリヴィアの声が聞こえないほどの高揚と緊張に包まれていた。

 

「――ですので、魔術において詠唱とはあくまでイメージの構築で……聞いていますの?」

「ハッ!もちろん!薔薇の香りっていい匂いだよね!」

「集中してくださいませ!」

 

 怒ったオリヴィアの魔術によって、オスカーの頭上に少量の水が現れた。勢いよく浴びせられたそれによって、彼の黒髪がずぶ濡れになった。

 

 

「全く……しっかりしてくださいませ。戦場で見せた勇ましい姿はどこにいったんですの?」

「いや、せっかく教えてくれているのに申し訳ない。その……女の子が隣に座っている状況に緊張して……」

「あっ……いえ、それは私の不注意でした。指導に熱中し過ぎました。申し訳ありません」

 

 オリヴィアが席を立ち、ススと遠ざかっていき向かい側に座りなおした。先ほどまでとは打って変わってこちらの顔を見ようとしない。オスカーは安心したような残念なような複雑な感情を覚えた。

 切り替えて、真剣に教えを乞う。先ほどは集中できていなかったが、オスカーは魔術を使えるようになりたい、というやる気は持っていた。

 

「ごめん。続けて欲しい。水を被って目が覚めたよ」

「そうですか」

 

 オリヴィアは少しこちらの顔色を観察すると、先ほどまでとは少し口調を変えた。柔らかくて、教師というよりむしろ生徒同士で気軽に雑談するような声音。

 

「……少し切り口を変えましょうか。今まで見た魔法、魔術の中で気になったものはありますか?」

 

 それに応じて、オスカーの声からも緊張が取れる。

 

「今日のメメとジェーンさんの決闘は凄かったね。あの不気味な泥の人形とかはなんだか強そうだったね」

「良く見ていらっしゃいますね。確かに、今まで見た中で一番不気味な魔法でした。しかし、あれは特殊例すぎて私では説明しきれませんね。他には気になったものはありましたか?」

「以前見た、オリヴィアさんの使った氷の壁とかかな?魔法は壊すだけじゃなく人を守ることもできるんだなと思ったよ」

「ああ、いい目の付け所ですね」

 

 感心したように穏やかな口調で言うと、オリヴィアは氷の壁を作る魔術について説明し始めた。詠唱。イメージの構築。集中すべき点。懇切丁寧な説明だった。そして今まで以上に、学のないオスカーでも理解できるような工夫がなされていた。

 

「貴方の扱う魔法ならざる魔術でも十分に人を守ることができるでしょう。少し試してみましょうか。私に続いてくださいませ。『氷よ、万物を阻む障壁となれ』」

「『氷よ、万物を阻む障壁となれ』」

 

 詠唱したオスカーの目の前に、氷の壁が生まれる。大きさは彼の体と同じくらい。ガラスのように澄み渡った氷の表面が、窓から差し込む太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。

 オリヴィアのものと比べれば小さく、厚さもそこまでではない。しかし、こんなにもすんなり魔術が発動したのはこれが初めてだった。

 

「そうです。やはり筋はいいですね。……貴方は最初に防御のための魔術を習得した方が良いかもしれませんね」

「それはどうして?」

「魔法とはイメージの具現。貴方は誰かを傷つけるよりも誰かを守る方が性に合っているのでしょう」

 

 そうなのだろうかとオスカーは自分を顧みる。思えば初めて剣を振るう決意ができたのは、カレンを守る時だった。あの恐ろしいオークと戦った時もカレンを守るために戦って、そして血塗れのメメを救うために剣を振るった。共通する点は誰かを守るために。自分の戦ってきた理由を振り返る。少年はぼんやりと自分の芯となるものが理解できたような気がした。

 

 

 

 

「それでは、今日はここまでとしておきましょう」

 

 オリヴィアの一言を聞いて、疲れ切ったオスカーは机に突っ伏した。勇者は周囲の微細な魔力を自分の魔力にするため、理屈の上では無限に魔術を使える。しかし魔術の発動それ自体にはある程度の体力を使うのだ。

 先日オークのデニス相手に使った聖剣の機能開放などは特に消耗が激しい。せいぜい使えても一日に一度だろう。

 

 室内には既に西日が差し込んでいた。魔法学院も今日の授業を終了したのだろう。先ほどまでは聞こえなかった生徒たちの喧騒が聞こえる。オスカーは力を振り絞って顔だけオリヴィアに向ける。

 

「遅くまでありがとう、オリヴィア」

「いえ、貴方も良く頑張りました。前半の集中力の無さは何だったのかという程に」

「毒があるなあ……」

「……メメさんに感謝すべきですね」

 

 オリヴィアの呟きには反応せず、オスカーが再び顔を机に乗せた。言葉とは裏腹に、オリヴィアの表情は最初よりも柔らかい。彼女は多少なりともオスカーの努力を認めていた。つい厳しくしてしまったが、彼の成長はたいしたものだとオリヴィアは思っていた。

 

 そして何よりも、その努力の方向性が好ましい。誰かを守るためなら、彼は正しく勇者として力を振るえる。まさしく勇者、というべき善良な精神性。

 そんな彼を認めたからこそ、少女は少年に希望を託す。

 

「――オスカーさん、メメさんをよろしくお願いします」

「……メメは僕なんて必要ないほど強いと思うけど?」

 

 否定的な言葉を吐きながら、オスカーには彼女が何を言いたいのか薄々分かっていた。

 

「貴方も分かっているでしょう?肉体的には確かに頑強です。きっと戦いについても良く心得ているのでしょう。しかし、なにか精神的な不安定さが目立ちます。その正体までは分かりかねますが」

 

 そこまで話すと、オリヴィアはくるりと背を向けて窓の方を眺め始めた。その視線の先には、赤い斜陽。

 彼女の言うことはオスカーも感づいていたことだ。何かに縛られているような、何かに追われているような、時折言動に表れる不安定さ。目を離したらどこかに消えてしまいそうな不安に駆られる姿。

 先日の戦いを思い返す。胸部からあふれ出した血液で全身を濡らしたメメは、けれども笑っていた。

 

「できる限りで良いのです。私も協力します。彼女を、彼女の心を守ってくださいませ」

「もちろん」

 

 オスカーにとってそれは言われるまでもないことだった。彼にはメメが赤の他人とは思えなかった。生き別れの兄弟のような、自分に似た誰かがもう一人いるような不思議な感覚。メメを放っておこうとはとても思えなかった。

 そして、彼としてもオリヴィアに同じことを言いたかった。

 

「でも、オリヴィアさんが話すだけでもメメは嬉しそうだよ?」

「……そうですか?」

 

 オリヴィアとしては、メメには何か少し遠慮されているような距離感を感じていた。最初よりはずっと仲良くなれた気はする。しかし言葉の端々から微妙な距離を感じるのだ。

 

「オスカーさんと話している時のような、遠慮のない関係のようなものは築けていないように感じます」

 

 不満げに、白い頬を少し膨らませた。大人びた彼女らしからぬ、子供っぽい仕草だった。オリヴィアは話にだけ聞いていた、平民同士の気の置けない関係というものに憧憬を抱いていた。それこそオスカーとメメのような、お互いに良い感情も悪い感情も遠慮なくぶつけあえるような関係が羨ましかった。

 

「ああ、それはきっとメメが何となくオリヴィアさんに敬意を持っているからじゃないかな?」

「敬意?」

「そう見えるよ。メメがオリヴィアさんのことが好き、とも言えると思う。……というか僕の場合は、遠慮がないっていうか単に嫌われているんだと思う……」

 

 基本的に当たりが強いのだ。情けない言動にいちいち突っかかってくるし、鍛錬の時も鋭い指摘を飛ばしてくる。

 

「そうですか?あれはある種の信頼のようなものの気がしますが……」

 

 オリヴィアから見れば、メメがあんなにも素直に自分の感情を示すのはオスカー相手の時だけだ。いつもよりもずっと、良く笑い、良く怒る。お互いの見方の相違が分かると、オリヴィアはくすりと上品な笑いをこぼした。

 

「こんな所でメメさんについて話していてもどうにもなりませんね。直接、彼女に確かめてみた方が良いのではないですか?」

「それもそうだね」

 

 少し距離の縮まった二人は、柔らかく笑い合った。

 



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26 人でなしの感情

「自罰なんて辛気臭いだけだ。誰も幸せにしない」

 

 そんなことは分かっている。俺は別に幸せになるために生きているわけではない。

 

「お前がいかにも不幸そうな顔をしているだけで周りの人間の幸福を阻害しているのだ。分かっているはずだ」

 

 うるさいぞ。

 

 

 

 

 嫌に不快な夢を見ていた気がする。しかしその内容が思い出せない。ゆっくりと上体を起こして、思考が明瞭になるのを待つ。風の音が耳に入った。

 

「おはようございます、メメさん。遅刻ですよ」

 

 唐突に響く無機質な声。いつぞやのように、ベッドの脇に長身の男が立っていた。

 

「おわああああ!お前寝床に立つの本当にやめろよ!ビビるだろ!」

「ビビり顔が見たかったので。お許しを」

「タチ悪いな!?また勘違いされるだろうが」

「それもそうですね……。次からは控えましょう」

 

 分かっていないような感情の籠らない声でジェーンが言う。またもや、窓は勝手に開けられていた。窓から他人の部屋に入り込むのは、女神の眷属の常識なのだろうか。

 

「武具店を見て回るのでしょう?私の準備はできていますから、早く行きましょう」

「ああ、そうだったな。すまん。着替えるからちょっと待ってくれ」

「はい、待っています」

「……いや出て行けよ!」

 

 ちょっと待てと言われたジェーンは言葉通りに部屋の中で待とうとしだした。前から感じていたが、こいつには人間の常識というやつは全く通用しないらしい。

 

 

 

 

 武具店を見て回るのにわざわざジェーンを連れてきたのは、柄の悪い奴らに絡まれるのを避けるためだ。前回武具店のある王都東を訪れた時には、柄の悪い男たちに随分と絡まれた。

 その時の経験からも女一人であそこに行くのは無謀だと気づいた。大変不本意な事実であろうと認めざるを得ない時がある。

 

 

 武具店の周辺は相変わらず客層が悪い。刺繍を体中にびっちりと刻んだタンクトップの男。下品な笑い声をあげながら友人と話す、縦にも横にも大きい男。体が小さくなって彼らが余計大きく見える。

 しかし、すらりとした長身をピンと伸ばして歩くジェーンを見ると、柄の悪い男たちは目を逸らしてそそくさと逃げていく。彼を連れていくという俺の判断は正しかったようだ。

 

「あそこだ。正面のあの店」

「分かりました」

 

 目当ての店に着く。ジェーンに揉み手しながら近づく店員を尻目に店内を物色する。

 あまり期待していなかったが、やはり品ぞろえが悪い。粗悪な鋼、過剰な装飾。一つ一つ手にとって確かめるが、俺の新しい武器は見つからない。平和な時に実戦に耐え得る武器を探すのは難しい。売り出されても目ざとい冒険者連中などがすぐに買っていってしまうのだろう。

 やはり腕の良い鍛冶屋と直接コンタクトを取るべきだろうか。しかし、今は小娘に過ぎない俺が、腕利きの職人と会話ができるとはあまり思えなかった。腕のいい職人は、概して頑固で人の話を聞かない。俺が行ってもいたずら程度に思われる気がする。

 

「何か良いものは見つかりましたか?」

「いや、さっぱりだ。どれもこれも実用的じゃない」

 

 店員を振り切ったらしいジェーンが近づいてくる。

 

「ジェーン、悪いがそこの短剣取ってくれないか?そう、そこの一番上の奴」

「はい。今のメメさんでは背が足りませんからね」

「……そうだよ。だいたい武器を雑に高いところに置いてる店も悪いだろ」

「剣を扱う人間ならだいたいこれくらいの上背はあるのでしょう。貴女が小さすぎるだけですよ。貴女が」

「うるさいなあ!だいたいこの体を設計したのお前なんだろ?なんでこんな戦いに向かない体にしたんだよ」

「作ったのは顔だけですよ。後のパーツは体を再構築する過程で勝手にそうなっただけです。知りませんよ」

 

 相変わらず口を開けばこちらを揶揄ってくる言葉ばかり。……そういえばジェーンからはこういう言葉を聞くばかりだ。あまり普通に会話した気がしない。こいつがどんな性格なのかなど全く知らない。

 視線を上げて女性受けしそうな顔を見ていると、興味が湧いてきた。予想通り粗悪品だった短剣をジェーンに手渡す。彼がそれを棚に戻すのを待ってから、俺は問いかけた。

 

「――なあお前、なんでわざわざ人間の体なんて持とうと思ったんだ?俗世に興味があるようには見えなかったんだが」

 

 女神像の姿をしていた時も、長身の男の姿になった今も、その声色にはあまり感情が籠っていないように感じる。女神と同じ、人間を超越した存在である、という印象だった。

 百年も生きられない短命の人間とは違う、俗世の些事に囚われていないような無関心。感情を持たない人でなし。

 その返答も、例に漏れず感情を感じられない無機質な響きだった。

 

「そうですね。おっしゃる通り、私は人間の下らない些事には興味がありませんでした。人ひとりの生き死にも、人類の存亡も、私にとってどうでもいいことです。これでも自我を持ってから千年以上経ちますからね。感情なんて機能はとうの昔に擦り切れているはずです。――でも」

 

 自分について語っている時ですら色のない声。しかし、その後に続く言葉には微熱が感じられた。

 

「でも、貴女の生き方には興味が湧きました。その不器用で奇妙な生き方。自分の生き方が間違っていることを嫌というほど分かっていながら、同じ生き方を続けて、擦り切れた心で絶望に抗っていた。――他の人間とは違うと思いました」

「……俺は勇者だったんだ。人と違ったのは当然じゃないのか」

「肉体の強弱なんてどうでもいいことです。どうせ死ねば等しく肉塊じゃないですか。そんな些事ではありません。

 心の、在り方ですよ。勇者とは体を神に近いものに作り変えられた人間です。しかし、心だけは作り変えることはできません。心まで神のものに近づけてしまえばそれはもう、人間ではありませんからね。人を救うのは人でなければなりません。だから、貴女の心はただの人間のはずなのです。しかし、それでも、人の精神を持ったまま、否、人らしい精神を保ったまま、過酷な百年を生きた貴女に興味があるのです」

 

 語調が強まる。言葉に籠る微熱は、確かな熱となった。

 

「そう、私が興味深いのは、貴女のその愚かしさですよ!残酷な世界に精神を蹂躙されながらも、人間らしい精神を頑なに持ち続ける愚かさ!過去の死なんて忘れればいい。そちらの方が合理的です。全部巻き戻るのですから。なのに、貴女は頑として自分の罪だと思い続けている。

 道理がわからない愚かさを貴女は持ち合わせていません。むしろ合理的にものを考える人間だったはず。何故全部背負い込むのでしょう。どうして苦しいほうを選ぶのでしょう。なぜそこまで追い詰められておきながら人間らしい心を捨てないのでしょう!……そんなことを考えているうちに貴女に興味が湧いたのです」

 

 早口で言い切ったジェーンは軽く呼吸が乱れている。初めて見る姿だった。

 

「……そんなに、俺は愚かか?」

「人ならざる私にはそう見えます。おそらく人間にも」

 

 責めるわけでもない、ただ事実を述べるような、感情の乗らない声。ジェーンの言葉はいつもの無機質さを取り戻していた。断じられて、しかし俺は自分の生き方を変えようとは思えなかった。

 

「ああ、勘違いしないでください。非難しているわけではないのです。私はそんな貴女の不器用な愚かさは好きですよ。愛おしいと言ってもいい」

「……なんだ人でなし。急にプロポーズの真似事か?お断りだ」

「真似じゃないですよ。本気です」

「そういうことは情熱を込めて言うんだよ、下手くそ」

 

 冗談でもないことを言う彼の顔を見る。相変わらず頬一つ動かさない。とても本気とは思えなかった。俺の愚かしさを語っている時とは打って変わった、色のない声。

 愛なんて単なる勘違いだろう。その言葉に情なんて感じられなかった。それはきっと、ただの興味だ。

 

 魂の形が肉体に引っ張られるなら、人間の死体を肉体としている今のジェーンにもまた変化が訪れているはずだ。感情に乏しいコイツが久しぶりに持った感情に戸惑っているにすぎないのだろう。どちらにせよ男の体をしているジェーンが俺にプロポーズして何になるというのか。俺の内面を知っているくせに。

 

「帰ろう、ジェーン。これ以上無意味な物色をする気にもなれない」

 

 知りたいことは知れた。促して、店を出ていこうとする。しかし背中を向けた俺へ、今思い出したように彼が言葉をかけてくる。

 

「ああ、せっかくなのでこれだけ伝えておきましょう。先ほどは聞いていなかったようなので」

 

 振り返った俺の視界に映る彼の瞳は、真剣にこちらを見据えている。今朝聞いた時と同じ声だった。

 

「自罰なんて辛気臭いだけです。誰も幸せにしませんよ」

「だから、うるさいぞ」

 



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27 女神の眷属、ジェーンの興味

タイトル変更
混乱させていたら申し訳ない


 ジェーンは、メメを少女にした張本人(?)だ。当初は木製の女神像の姿をしていたが、現在は人間の肉体を得ている。無表情ながら整った顔立ち、それから人混みの中でも頭一つ抜けるほどの長身が特徴的な男の姿をしている。

 

 ジェーン、と今は名乗っているその個体には、名前などついていなかった。ただ女神に従う眷属の一つ。時代によっては天使とでも呼ばれるような、人ならざる超常の存在だった。その眷属の仕事は、主に人間の世界の観察だった。

 

 人の住まう下界の様子は奇怪だった。数多の人が、生まれて、愛し合って、諍い、死んでいく。皆等しく愚かで、ジェーンには何が違うのか分からなかった。

 あまりに長くを生きてあまりに多くを見てきた。感情という機能を擦り切らしたジェーンには、人間が何が楽しくてそんなにも笑っているのか分からなかった。百年もせずに死ぬことを知っていながら、どうしてそんなに生を謳歌できるのか分からなかった。興味も湧かなかった。人の基準に照らせば、その超然とした思考は悟り、とでも言っていいかもしれない。

 

 

 そんな人でなし、とでも呼ぶべき存在にも、ある時興味が芽生えた。それが今はメメと名乗っている、十代目勇者、オスカーの存在だった。

 勇者、という存在は、女神の加護を受ける最も強い肉体を持つ人間だ。そして、何度死のうと時間を遡ってやり直せる存在だ。勇者の大義は、百年周期で現れる魔王の討伐だ。

 そして初代の勇者以降、歴代の勇者たちは、多かれ少なかれやり直しを経験している。

 殺し合いの繰り返し、死ぬという経験を何度もすること。その過酷な使命は、勇者たちの精神をすり減らした。

 

 ある勇者は喚いた。もう無理だ。諦めたい。女神は彼の記憶を消すと、戦闘技術を頭に直接埋め込んで、神域から過去へと送り返した。

 ある勇者は訴えた。あんなものは人間の手には余る。女神様が直接倒してくれないか。そんなことを言われても、神が直接世界に干渉することは不可能だ。三禁によって禁じられているからではない。

 直接世界に干渉すれば、その力の規模によって世界が壊れてしまう。女神はその発想が二度と出ないように勇者の頭を弄ると、神域から過去へと送り返した。

 ある勇者は過酷な記憶に耐えかねて、壊れたように動かなくなった。女神は勇者から感情という機能を取り上げて、ただ魔物を殺す機械と化したそれを送り出した。

 

 困難を極めたが、最後には皆魔王を討伐せしめた。しかし、長くを生きた勇者は皆、どこか心を壊していった。膨大な記憶に耐えきれず廃人になる者。人間の征服をたくらむ者。皆何か歪みを残して余生を過ごした。

 

 

 そんな残酷な歴史の流れの中で、ただの村人だったオスカーが勇者になった。その時代の魔王は、桁違いの強さだった。当人の力もさることながら、並外れた統率力を見せて、まとまりのない魔族を支配していった。彼はそんな魔王の前に、かつてないほどの数の悲惨な結末を迎え、やり直しを経験していった。

 

 合わせて百年以上の戦いの繰り返し。誰よりも過酷な経験だっただろう。彼の前の勇者の繰り返しは、せいぜい十数年だった。それでもほとんどが心を壊していった。

 勇者としてのオスカーが弱かったわけではない。ただ、彼の前に立ちはだかった魔王は、歴代でも最も強かった。悪辣な加虐趣味の魔王の前に、彼の心はどんどんと摩耗していく。弄ぶように仲間を殺されて、大事なモノをことごとく引き裂かれ、そして凄惨に自らの命を散らした。

 

 しかし、他の勇者と決定的に異なる点が一つ。彼の心は決して人間らしさを手放さなかった。彼は善人ではなかった。嘲笑しながら魔物を打ち倒し、必要であれば仲間である人すら殺した。

 しかし、それに対する後悔だけは意固地に持ち続け、自分の心を苛んだ。常に悔やんでいた。

 その苦悩は他の勇者とは違っていた。生と死を繰り返していくと、勇者はどんどん合理的になっていき、余計な感情を挟まなくなっていく。最適解のみを選び、犠牲は鑑みない。合理のみを行動の基準とするその姿は、永くを生きた神に近い、と言ってもいいだろうか。彼女の言葉を借りれば、人でなし、といったところだ。

 

 そんな中で彼だけが、誰よりも繰り返した彼だけは、人間らしい感情を頑なに持ち続けた。合理的な行動を選びつつ感情でそれを否定し続けた。十代目の勇者、平凡な村人だったオスカーの精神はいずれの勇者とも異なった。それは勇者として愚かだったのかもしれない。魔王を倒すのには不要なものだったのかもしれない。しかしその愚かさは、ジェーンに千年ぶりに興味という感情を起こした。

 

 

 ジェーンのいた世界にはある時終わりが来た。魔王の生みの親である叛逆神の妨害。それによって勇者の過去への転送が失敗した。神域に眷属たちのどよめきが走る。女神が神らしからぬ狼狽を見せた。

 しかし、すぐに神らしく合理的な判断を下す。勇者が死に、魔王が生きているこの世界はもう終わりだ。次の勇者を送り出すまでの百年の間に人類は滅亡するだろう。信仰する人間の絶えた世界では女神は存在し続けられない。大神亡き今、女神の存在は人間の信仰によって維持されていた。叛逆神と女神の代理戦争の勝敗は決した。女神とその眷属の、千年以上の存在は終わる。

 

 だから他の世界で、勇者である彼だけやり直させる。女神は迅速に決定した。もう彼には女神の恩恵は届かないだろう。送り出すのは完全に別の平行世界。あちらには別の女神がいて、別の勇者がいる。それでもこの勇者を送り出す。それは最悪の魔王に脅かされる世界を、救うためだったのかもしれない。あるいは、せめて彼だけでも救いたいという、人間らしい感情の発露だったのかもしれない。

 

 そうして、新たに生まれ変わった勇者は、かつてとは違う姿でジェーンの前で目を覚ました。血のように紅い髪。可愛らしい顔。すっかり縮んだ四肢。そして、暗く淀んだ、それでも微かに人間らしい光を孕んだ黒い瞳を見た時に、ジェーンは歓喜した。この人間を観察し続けられることに。

 

 

 

 

「ちょっ、お前、早い早い。もう少しゆっくり歩いてくれ」

「ああ、小さな歩幅に合わせるのを忘れていました。申し訳ありません」

 

 からかっても、メメはジトッと見返してくるだけだった。少し自分の揶揄に耐性が付いてしまっただろうか。残念だ。

 言葉が途切れると、二人の足音だけがその場に響いた。大きな歩幅で歩いていた足音が、その間隔を狭める。武具店の並ぶ通りから少し離れて、周囲には人気がない。喧騒の遠ざかった王都の路地には、独特の静けさがあった。

 

 ジェーンは後ろを歩く彼女の様子を眺める。大股で歩く姿は男らしい大胆さがあったが、小さな歩幅は少女のそれだった。何も知らない者が彼女を見ても、その矮躯の人間離れした膂力で、大きな剣を細枝のように軽々と扱うとは思わないだろう。

 ぼんやりと見ていると、黒い目にじろりと睨まれる。瞳の迫力に反して、顔立ちは愛らしいままだ。

 

「お前、いつまでも俺を挑発してると、いつか痛い目に合わせてやるからな」

「それは楽しみですね」

 

 小さな体を目一杯使って鮮血をまき散らす戦闘時の大胆さとは対照的に、その心の在り方は年頃の少女のように、否、それ以上に脆くて壊れかけだ。毎日のように過去の記憶を悪夢に見ている。因縁のあった魔物などに逢うと、その心内は嵐のように荒ぶっているようだった。どうしてそんなにも頑なに過去に縛られているのか、ジェーンには理解できなかった。

 

 だからこそ、彼なりに手を差し伸べたのだ。人間は恋人や婚姻という関係を形成して、互いに支え合って生きているらしい。彼女を支えたいと思って、恋人という関係の形成を提案した。自分が適役だと思った。彼女の過去を全て知るのは今や自分だけ。どれだけの時間戦ってきて、失ってきて、悩んできたのか知っているのは彼だけなのだ。

 

 しかし千年を生きた彼の感覚はどうやら人の感覚とはずれていたらしい。彼のプロポーズの真似事は「下手くそ」と笑われてしまった。

 彼としては単なる利害からの提案を断られただけのつもりだった。しかし内面には今までにない変化が訪れていた。モヤモヤした、嫌な感情。恋とは似て非なる興味を拒否されて、思い悩む彼の姿は、まさしく人間のそれだった。

 

 

「……なあジェーン、俺とお前の知っている女神はどうなったんだ?」

 

 沈黙していた彼女からの唐突な問いかけ。意外だった。女神を毛嫌いしていた彼女がそのことを気に掛けることは。

 

「貴女という勇者が完全に消えたあの世界の人類はもう終いですからね。女神もそれに合わせて消滅するでしょう」

「……そうか」

 

 その声には、一言では言い表せない複雑な感情が籠められていた。

 

「過ぎたことです。時間を遡ることもできない今の貴女には関係のないこと」

「そんなことは分かっている」

 

 分かっていないようだから言っているのだが。ジェーンは心の中で溜息を漏らした。ああ、やはり性別すら変わっても彼女は変わらない。愚かで、めんどくさくて、責任感が強くて、人間らしくて、興味深い。

 




歩幅とか歩く速度って、結構その人の色々が出ると思いませんか?


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28 ナルティアの街

 王都にばかり滞在しているわけにはいかない。俺たちが勇者パーティーという名の元に集まっているのは、来たる魔王軍との戦いのためなのだから。そして、その影はもうすでに王国にひっそりと迫ってきているはずだ。

 

 

 王都から馬車で北上して二日。道はそれなりに整備されていたとはいえ、長時間の移動は中々に堪える。カレンやオリヴィアは疲れた顔で腰のあたりを擦っていた。馬車からようやく解放された俺たちを迎え入れたのは、俺にとっては見覚えのある街だった。

 

 今回の目的地、ナルティアの街の最大の特徴はやはり、北に位置する鉱山だろう。鉱山には毎日多数の労働者が入っていき、危険な仕事に従事している。

 そして、その作業員たちが多数住んでいるので、街の北側はそれなりに賑わっている。彼らの住居の周辺の酒場、風俗店、商店が、街の北側の猥雑な雰囲気を形成している。

 

 一方街の南側はそれとは対照的に静かで、綺麗な通りに店舗や家屋が整然と並んでいる。こちらには宝石を取り扱う店が集められている。衛兵が頻繫に巡回しており、物取りなどの気配はなかった。

 ナルティアの最大の産業は鉱業だ。街に面する鉱山から取れた鉱物は、そのほとんどが王都近郊に輸送されていく。

 しかし一部の、小さすぎて輸送するほどの価値が認められなかった煌びやかな宝石類は、街の南側でそのまま販売されている。

 

 物好きな貴族や平民の金持ちは、この安価な宝石類やそれを用いた装飾品を求めて、はるばるこの街を訪れる。そういう富裕層を迎え入れるために、街の南側は王都と比べても遜色ないほどに整備が行き届いていた。

 北側の粗野ながらも賑わいを見せる歓楽街と、南側の清潔で静謐な宝石店の並びは対照的で、同じ街とは思えなかった。

 

 

 俺たち勇者パーティーが紹介されたのは、治安の良い南側に存在する宿の一つだった。小奇麗な宿内の様子から、富裕層を迎え入れることを想定していることが分かった。

 セキュリティのしっかりしている宿の部屋に荷物を置くと、皆で街を軽く探索する。とはいっても、オスカーやカレンを満足させるようなものはなかった。整然と並ぶ店はどれも上品で、売り出されているのは装飾品など、基本的に富裕層向けの贅沢品だ。田舎育ちの彼らはどこか居心地悪そうだった。

 オリヴィアは興味深そうにそれを眺めていたが、彼らが興味なさげなのを見ると、あっさりと退散した。どうやら公爵令嬢様のお目に叶うものはなかったようだ。ちなみにジェーンは目もくれなかった。

 

 

 

 

 この静かな街並みには見覚えがある。何度もここで戦い、未熟な時には何度もここで死んだ。今でも昨日のことのように思い出せる。焼ける家屋。断末魔と怒号。奴らの哄笑。

 

 思い出していると、なんだか気分まで当時に戻っていくようだった。変わり果てた人間をこの手で殺した感覚。魔物への果てない憎悪。それらすべてが瞬間的に蘇って、少し気分が悪くなった。少女の体になってから、俺の精神はどんどん脆弱になっているようだった。

 きっと今日は、何か悪い夢を見るだろう。予感があった。

 

 

「何だか上品な街だね。ちょっと気後れしちゃうよ」

 

 カレンがしみじみといった様子で呟いた。新しい物を見つけると猪突猛進していくことも多い彼女だが、珍しく大人しい。今は街の静謐な雰囲気に呑まれているらしい。

 

「この辺の通りはそうだな。でも北側はそれなりに治安が悪いから、カレンは一人で近づくなよ」

「……うわあ。一番女の子としての危機感ない子に注意されちゃった」

 

 失敬な。俺はどうせ一人でどうにかできるからいいのだ。

 街を少し北上すると、少しずつ景色の中に平民にも馴染みあるものが増えてくる。看板が擦り切れた酒場、微妙に汚い食堂。生活感溢れる集合住宅。

 

 その中から、上品さと気安さの両方を含んでいるような、小奇麗な大衆向けの食事処に入る。外観も内装も清潔に保たれていて、初めて入る人間でも気後れしない程度には良い雰囲気だった。しかし時間帯ゆえか、昼過ぎの店内はがらんとしていた。

 

「何がいいかな?」

 

 品書きを眺めていると、王都などでは見ないような料理ばかりだ。この食堂では他国の料理を仕入れ、安価で提供しているらしい。極東の名産である、米を使った料理が多数。それから、名前を見ても想像がつかないような料理がちらほら。

 パンが主食となっている王国においては、米を使った料理はあまりお目にかかれない。この食堂はかなり珍しい部類と言えた。

 

 

 席に座り店内の壁に書き出されたメニューを眺めるカレンに、恰幅の良い女主人が気さくに話しかけてきた。

 

「外からのお客さんかい?ちょっとボリュームはあるけどこの店はカツ丼が美味しいよ」

「本当ですか?じゃあアタシはそれお願いします!」

 

 しばらくして、丼に盛られたカツ丼が届く。女主人の言うように中々のボリュームだ。目を輝かせたカレンが、大きく口を開いて食べ進める。見ているこちらも気持ちよくなってくるような食べっぷりだった。

 それを眺めながら自分のカツ丼を食べ進める。衣を噛むと、サクッという小気味良い音がした。少し味が濃いが、素材の旨味が良く引き立てられている。米も悪くない。

 皆食べるのに夢中になったらしい。しばらく、黙々と食べ進める音だけが卓上に響く。

 

「モグ……オスカーのも美味しそう!一口もらい!」

「ちょっとカレン、はしたないよ……」

 

 カレンの箸が器用にオスカーの器から肉切れを掬い上げた。それに抗議するオスカーの言葉には勢いがない。

 分かるぞ。食べ物を取られた悲しみよりも、間接キスのドギマギが勝っているのだろう?俺もそうだった。

 

「……ジェーンさんのそれ、なんですの……?豚肉……?」

「カエルの丸焼きだそうです。美味しいのでオリヴィアさんもおひとつどうですか?」

 

 ジェーンの手元には形容しがたい独特の形をした食べ物があった。初見なら食べるのを躊躇するようなビジュアル。それを見るオリヴィアは若干引いている。

 

「いえその、私は結構です。見た目があれですし。……この方、結構変な人なのでは……?」

「安心しろオリヴィア。そいつは間違いなく変な奴だ」

 

 

 食器が空になるころ、暇らしい女主人がまたカレンと話し始めた。

 

「いい食べっぷりだったね。この街にはしばらくいるのかい?」

「はい!しばらく滞在するつもりです」

 

 女主人にすっかり気に入られたらしいカレンが雑談を始めていた。

 

「そうかい?女の子たちは街外れの『シュムック』を訪ねてみるといい。安値で可愛らしいアクセサリーが売ってるよ」

「なるほど、今度行ってみます!」

「ああ、男衆はその間は暇だろうからね。『天使の奉仕場』っていう酒場に行ってみるといい。店の女の子たちが可愛くて服装が際どいって人気だよ。未成年でも入れてくれる」

「もう、おばさん!?」

 

 ハッハッハと豪快に笑う女主人に悪びれた様子はない。

 しかし実際あそこは良いところだった。女性しかいない店員たちの、不自然に胸元の開いたメイド服、やたらと短いスカート丈。男たちの目を楽しませる趣向が凝らされていた。

 以前は大変楽しんだが、今の俺が行っても以前のように興奮することもできないのだろう……。俺は失った下半身のモノを惜しんだ。

 

「でもおばさん、こんなに綺麗な街なのにそういうちょっといかがわしい店もあるんだね。ちょっと意外だったよ」

「大きい街には多かれ少なかれあるもんだよ。それにね、この街は北の方に行くとグッと雰囲気が変わるんだ」

「あ、それメメちゃんも言ってたよね」

 

 唐突に話しかけられた。念のためにカレンにもう一度注意を促しておくか。

 

「ああ、わりと粗野な人間も多くなるからな。気を付けろよ」

「まあ確かに乱暴な奴が多いね。でもいい奴もたくさんいるからね。お貴族様は鉱山の作業員たちのことを奴隷かなにかだと思っているみたいだけど、この街の生活は彼らのおかげで成り立っているようなもんだからね」

 

 女主人は溜息をつくと、実感の籠った言葉をしみじみと吐いた。

 

「生まれや仕事がなんだって言うんだ。みんな同じ人間じゃないか」

 

 ああ、全く持ってその通りだ。価値のない人間なんて、死んでいい人間なんて一人もいなかった。みんな何かのために戦って、何かのために生きていた。俺が殺した奴に、死んでいい人間なんて一人もいなかった。

 荒廃したこの街の景色を思い出す。絶叫と哄笑が所狭しと響く、終焉を迎えたナルティアを初めて見た時の記憶。きっとあの時、目の前の女主人だって、犠牲になっていたのだろう。

 

 



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29 バッドエンドの記憶 人だったものを殺す

 予想通り、その日は夢を見た。今日滞在するナルティアの街が蹂躙される夢。そして俺が、カレンを殺す夢。

 

 吸血鬼という魔物は、一体一体が強力で、厄介な相手として知られている。強靭な肉体に、発達した知性、そして個体によっては魔法すら使いこなしてしまう。

 そして何より、その最大の特徴は仲間を増やすことにある。吸血鬼の食事は人間の血だ。そして血を吸った際に、人間を吸血鬼の劣化種、眷属にすることができる。

 眷属とは、長く生きれば吸血鬼になる、赤子のようなものだ。

 

 人間が吸血鬼に成る前の姿、眷属とは一言で言えば歩く死体だ。死んだ体に知性はなく、ただ血を吸いたいという本能のままに彷徨う。しかしその肉体は生前よりもずっと強く、何の訓練も受けていない成人男性くらいなら簡単に押し倒す。

 厄介なのはその繫殖力だ。眷属に血を吸われた人間もまた、眷属となる。放っておけば、大きな街の一つくらい壊滅してしまう。

 

 そして大抵の人間は、同じ人間を殺すことには躊躇うものだ。

 

 

 

 

 夜の空を、月の光が煌々と照らしていた。晴天の夜は普段よりも少し明るかった。

 だから、色々なものが見えた。

 

 吸血鬼が襲来したという報告を受けて駆け付けたナルティアの街は、既に地獄のような様相だった。死体がそこら中に転がっているのではない。そんな見飽きた、ありきたりの地獄ではなかった。

 吸血鬼に血を吸われた人間の死体は動き出して、かつての隣人であった人間に襲い掛かかっている。吸血鬼の眷属を作る能力の影響だ。

 

 吸血鬼に襲われた住民は次々と眷属という名の、歩く死体と成っていた。そして、眷属は眷属を生み出す。街では吸血鬼の眷属がネズミ算式にどんどん増えている。

 他の魔物との戦いとは決定的に異なる、内側からの侵略。街の近くの砦から駆け付けた騎士団も苦戦していた。

 

「待ってくれジュリア!正気に戻れ!俺だ、――ガアアアア!やめろ!やめろジュリア!」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!もう盗みはしないから!ちゃんと言うこと聞くから!ああああああああああ!」

 

 切羽詰まった悲鳴がそこら中から聞こえてくる。大の男も、小さな子どもも、貧乏人も金持ちも、吸血鬼の優れた身体能力の前では等しく無力だった。

 

 それは極めて不平等な鬼ごっこだった。逃げる者が捕まるたびに鬼の数が増えていく。そして鬼の方が圧倒的に足が速い。建物の中に隠れようとも、血に飢えた吸血鬼の鼻は誤魔化せない。捕まれば死よりも醜い、動く死体の仲間入りだ。

 その惨憺たる状況から、街から逃げおおせた者がいるとは思えなかった。

 

 

 街の一角では、座り込み、泣きわめく幼女が抵抗する暇すら与えられず、かつて住民だったものに首筋を嚙まれた。泣き声は悲壮な断末魔になった。それも、しばらくすれば聞こえなくなる。

 やがて幼女だったものがゆらりと立ち上がる。新たな眷属、人間の天敵がまた一つ増えた。

 

 その光景が目に入ってしまったカレンが息を吞む。蹂躙される街では、どこに目を向けても何かしらの悲劇が起こっているようだった。

 

「いやだあああ!誰か!誰か助けてえええええ!」

 

 呆然としている僕らの目線の先で男の子が襲われていた。その背には住居の壁。しかし少し距離が遠い。

 

「急いで助けないと!」

「待ってカレン!先走らないで!」

 

 状況を鑑みれば不注意だったと言えよう。しかしそれは男の子を助けるためには最善の行動だった。俺にはその優しさを咎めることができなかった。カレンはあまりにも凄惨な光景に平静さを失っている。

 駆け出した彼女を追うように俺も聖剣を抜き、地獄への道を駆けだした。

 

 

 かつて人間だったものを両断する。生々しい肉を断ち切る感覚。苦し気な表情を作ったそれは、ばたりと地面に倒れ伏した。

 

「ごめん!」

 

 自分でも何に謝っているのか分からないままに言葉を発する。倒すべき敵を倒しているのではなく、守るべき存在だった人を殺している感覚。

 特別強い個体がいるわけではない。ただ、斬るたびに心に何か重々しいものがのしかかってきた。

 

「『――罰したまえ!』……ウゥッ……」

 

 カレンが瞳に涙を浮かべながらも人を浄化していく。神聖魔法を連発している彼女の体は疲労に小刻みに震えていた。どう見ても、彼女は無理をしていた。

 

「カレン!もういい!あとは俺に任せて!」

「そ、そんなことできない!こんなに苦しんでいる人がいるのに!アタシがちゃんとした終わりを迎えさせてあげないと!」

 

 彼女の心意気はまさしく正しい聖職者のそれだった。しかし、彼女を襲う現実はそれよりもずっと残酷だった。

 

 ――俺はその時の不注意を、どれだけ悔いても悔やみきれなかった。

 数々の吸血鬼とその眷属を切り捨てた俺は疲弊していた。肉体的な疲労もあったが、それ以上精神的な負荷が大きかった。

 明確な敵である魔物ではなく、つい先ほどまで人間だったものを殺すことへの忌避。それに起因する疲弊。それらが俺の注意力を奪って、愚かな罪を犯させた。

 

 俺が気付いた時にはもう手遅れだった。

 神聖魔法の使い過ぎで消耗したカレンの背後から、動く死体と成り果てた女が襲い掛かる。動きの鈍った彼女はそれに気づかず首筋を深々と牙で貫かれた。

 

「カレン!?」

 

 彼女の首にかみついた吸血鬼を斬り捨てる。力なく崩れ落ちた彼女は、俺の言葉に全く反応を示さなかった。牙に深々と貫かれた頸動脈はどう見ても致命傷で、返事がないのは至極当然だった。

 

 そして、認めたくなかった現実が俺に牙をむく。カレンはゆらりと立ち上がると、光のない瞳を俺に向けて、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。

 

「ァ……アア……」

「カレン!カレン!しっかりして!誰よりも女神様を信じていた君が魔に墜ちるなんて絶対にない!頼むよ、正気に戻って!」

 

 それはあまりにも滑稽な戯言だった。目の前にあるのはどう見てもカレンではなく動く死体で、意識なんて残っているはずがなかった。

 貫かれた首筋はどう見ても致命傷で、新鮮な血液が流れ続けている。それでもなおこちらに歩み寄ってくる様は、どう見ても人間ではなかった。

 

 認めがたい、あまりにも悲惨な現実。なかば現実逃避に意識を飛ばしていたのだろう。気付けばカレンだったものの鋭い牙が、俺の首筋に迫っていた。

 

「――『聖剣よ!魔を断て!』」

 

 脊髄反射と言ってもよい、もはや無意識の詠唱だった。眩い光を帯びた聖剣は、違わずカレンだったものの心臓を貫いた。糸の切れた操り人形のようにその場に倒れこむ彼女の遺骸。

 駆け寄ると、宙を向く深緑の瞳は何も映していない。それを見て俺はようやく現実を観測することができた。

 

「アアアア!カレン!カレン!」

 

 自分で殺したくせに、一番大切だった人に呼びかける。返事なんてあるはずもない。ただ二度と意識の宿らない瞳がこちらを見返すだけだった。

 まただ。また俺が情けないばかりにカレンを殺した。自分の内から際限なく湧いてくる罪悪感に襲われる。

 

 繰り返しているくせに、俺は何度他人を殺すのか。何度失敗するのか。

 ぐるりぐるりと、まるで嵐の中の渦潮のように、後悔が脳内で回り続ける。

 俺があの時に駆け出していったカレンを止めることができていれば。

 俺が迫りくる吸血鬼を瞬時に倒すことができていれば。

 俺がカレンに近寄る吸血鬼にもっと早く気付くことができていれば。

 俺が彼女を斬り殺さなければ。

 違う、俺が殺したんじゃない。いや、殺したようなものじゃないか。

 俺が勇者だったから彼女はこの地獄に足を踏み入れた。

 そうだ。俺が勇者になんてならなければ。

 俺が、俺が、俺が、俺が俺が俺が俺が俺が。

 後悔の螺旋に嵌まった俺は、背後から迫りくる牙を抵抗せずに受け入れた。

 

 

 

 

 朝起きると、心臓がうるさいほどに鼓動していた。見たくもない最悪の結末が目の前に立ちはだかった時の、焦燥と絶望が織り交ざった最悪の気分。未だにカレンを斬った時の感触が、右手にべったりと残っているような気持ち悪さ。

 彼女の心臓を貫いた感覚が気持ち悪くて、俺は自分でも目的が分からないままに部屋を飛び出した。

 

 桶を取る。井戸から水を汲んで、手にかける。

 かける。かける。かける。かける。消えない。

 かける。かける。かける。かける。消えない。

 かける。かえる。かける。かける。かける。かける。かける。

 

「消えない!」

 

 水を汲んでいた桶を叩きつけた。木製の桶が石畳に撥ね、カコッ、という間の抜けた甲高い音がした。

 叫んだ自分の声を聞いて、ようやく自分が支離滅裂な行動をしていることに気づいた。

 

 どうすればこの苦しさは消えるのか。どうしてこんなに苦しいのか。

 何度も繰り返した思考がグルグルと回り出す。気分が悪くなってきて、夢の中の記憶が鮮明に蘇ってくる。

 しかし突如、全知全能たる大神からの天啓を受けたかのように答えを思い出す。

 

「――ああ、そうだ。俺はこの人生で苦しみぬいて死ぬんだ。そうやってあらゆる死を償わなければ」

 

 どうしてこんなにも簡単なことを思い出せなかったのか!そう、痛み!痛覚こそが俺を開放する。人生とは苦しみを味わうことなのだ。

 今、ただの人間としての生を受けた俺にはそれを味わう権利がある。義務がある。責務がある。そして痛みの先にある死こそが救いだ。そうであるはずだ。そうでなければならない。幸福など――

 

「あれ、メメちゃん!早いね!」

 

 先ほどまで聞いていたような気がする声。カレンがこちらに歩み寄ってきていた。自らのこれからの幸福を全く疑うことのないような満開の笑顔。起床した直後からずっと離れなかった、手のひらの肉を断ち切る気持ちの悪い感覚が増した。

 

「……どうしたんだ?こんなに朝早く」

 

 自分はいつも通りにふるまえていただろうか。カレンは何でもないような調子で話を続けていた。

 

「いやあ、なんか目が覚めちゃってさ。そうだメメちゃん、今日服買いに行くんだけど、一緒に来てくれない?また服選んであげるよ!」

 

 楽し気に、無邪気に提案してくる。ああ、なんと幸せそうなのだろう。妬ましさを覚えるのも馬鹿馬鹿しくなるほどだ。

 

「ああ、一緒に行こう」

「あれ?また渋るかなと思ってたんだけど。素直だねー」

 

 幸福らしいものに浸ること。それは俺にとって苦しみだ。何度もカレンを殺した。そんな俺に彼女は信頼を向けてくる。胸が苦しい。罪悪感でどうにかなりそうだ。

 だから俺は、カレンと一緒にいることにした。ただそこにいるだけで自分の罪を償うことができるのだ。こんなにも幸せなことはあるまい。

 



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30 紫煙と狼煙の夢、それから羨望

夢の話から
情景描写わりと気に入ってるので見てほしい


 どれだけ絶望の淵にいようとも、そこにごくわずかでも希望がある限り、人間は生き続けることができるらしい。まったく、妬ましくなるほどの逞しさだ。その事実は、勝手に絶望して勝手に諦めかけていた俺を叱咤してくれた。まだ終わっていない。希望が一握でもある限り、人間は死なない。

 

 

 

 俺が聖剣を抜いた年から五年が経った。繰り返してきた俺の長い生の中でも生存時間最長記録だ。既に人類の生存圏最後の防波堤である王都が、魔王軍の総攻撃に陥落して二年が経つ。

 人間と魔族の戦いは人間の大敗北に終わった。ほとんどの人間はそう思うだろう。大陸にある国家はすべて魔王軍の侵攻に既に敗退し、主要な都市は全て魔王軍の管理下にある。

 

 人間もまた、ほとんどが管理下に置かれている。魔王軍の人間領占領においては、人間の愚民化政策が行われていた。曰く、人間が思想を持つことは決して許されない。ただ日々の仕事についてのみ思考し、その合間に子を作ることのみを考えるべし。

 人間が秘密を持つことは決して許されず、あらゆる行動は魔物の監視下に置かれた。抵抗した勇敢な者はことごとく斬って捨てられた。神学者や歴史学者、そして旧国家の指導者たち。知識人たちはそのほとんどが問答無用で殺された。人類反攻の大義は奪われた。何度かあった大規模な反乱も、あっさりと鎮圧されている。生まれながらに魔物の下僕であると定義付けられた人類は、新秩序の絶望の中で、奴隷のような生活を送っていた。

 

 主な仕事は農業や畜産など、魔物の食を支える仕事だ。誰もが、肉体を極限まで酷使して体力の限界まで働かされる。激務に奔走する人々は仕事の合間に子作りをして、後は泥のように眠っている。

 そして魔物に従順な人間ですら、魔物の気まぐれで殺されていく。気に食わない表情だったから。醜かったから。酒がまずかったから。骨を引き抜かれて、血を吸いつくされて、四肢を引き裂かれて、殺されていく。

 

 人類は終わった、とほとんどの人間は思っているだろう。しかしそれは違う。勇者たる俺が生きている限り、まだ終わりじゃない。

 

「何黄昏れてんだよ勇者様、昔の女のことでも思いだしたのか?」

「馬鹿言うな。いまさらそんな思い出に浸ってられるかよ」

 

 揶揄うような声色で男が俺に話しかけてくる。顔を向けると数少ないレジスタンスの生き残り、ジャックがこちらに近づいてきた。元はスラム街の孤児。今ではレジスタンスの幹部の一人。野卑な言動で遠ざけられがちだったが、仲間と認めた人間には不器用な優しさを見せていた。

 近づいてくる彼の泥だらけの靴が何かを踏みつける。それは絵画だった。幾度も踏みつけられたそれは泥だらけで、もはや何が描かれていたのか判別できない。ただ豪奢な額縁だけが、それなりの価値のある絵だったことを教えてくれた。

 

 旧王都の外壁近辺。荒れ果てた、草木一つ存在しない不毛の地。遮るもののない北風が肌に突き刺さった。黒い地表には多数の轍が刻まれている。王都から慌てて逃げだした貴族たちの馬車のものだろう。王都に繋がる主要道路だったこの地には二年前から整備の手が入った様子はない。俺はその傍ら、平たい大きな石に腰かけていた。ジャックが確かめるように俺に問いかける。

 

「本当に今日、やるんだな?」

「ああ、これ以上待ったら、例え魔王の首を獲っても人類の再興は不可能になる。これ以上玩具のように人間が殺されるのを傍観しているわけにはいかない」

「そうかよ。相変わらず責任感が強いことで……ほら、必要だろ?」

 

 ジャックの汚れた手に握られたのは安物の煙草。白い紙袋に入ったそれは、もう十本も残っていない。今では生産されていない貴重品だ。それをひったくって唇の端に咥える。

 

「『火よ灯れ』」

「相変わらずとんでもねえ魔術の無駄使いだな」

 

 呆れた様子のジャックもまた、煙草を咥えこちらに差し出してきたので、火を灯す。煙をくゆらす二人の間に沈黙が落ちる。ふと、不快な匂いが鼻孔をくすぐる。北風が安酒の匂いを運んできた。

 

「ジャック、お前昨日も飲みやがったな?臭いぞ」

「あ?バレたか。まあ、明日死ぬかもしれないって日の夜に飲まずにいられるほど俺は強い人間じゃねえんだよ、勇者様」

「別に俺だって……いや、まあ作戦に支障がないならそれでいい」

「作戦なんて大層なものねえじゃねえか。旧王城にまだ残ってる戦力全部突っ込んで魔王様の首を頂戴する。それだけだろ?」

 

 ジャックはやれやれとでも言いたげに肩をすくめた。レジスタンスは死者の多さから、もはや作戦行動を取れるほどの人員はいない。魔王の位置を把握する、ただそれだけのために、残っていた人員の九割を失った。

 今回の作戦はレジスタンスの人間にとっては自殺も同然の無謀だ。それでも俺に賭けてくれた。きっと人類の希望である勇者が魔王を殺してくれる。きっと全部上手くいく。蜘蛛の糸のように細い、その希望を信じた。

 

「お前はそれでいいのか?今なら逃げ出しても見逃してやるよ」

 

 ジャックに冗談めかして問いかけると、意外にもあっさり笑い飛ばされた。

 

「ハッ!今更何言ってんだよオスカー。レジスタンスの鬼の団長の名が泣くぜ」

「もう維持するべき組織はないも同然じゃねえか。人を掟と恐怖で縛り付ける必要もなくなった。もう俺が冷血漢ぶる必要もないんだよ」

 

 煙草を咥える。吸い込んだ不健康な煙が体に染み渡った。戦いの経験もロクにない人間がほとんどだったレジスタンスの取り纏めは困難を極めた。俺は団長として厳しい規律を作った。

 任務の成功には褒章を与え、失敗には徹底的に罰則を与えた。魔物に降伏しようとする者を見つければ、見せしめに処刑することすらした。そこまでしなければレジスタンスは空中分解すると俺は判断した。魔物の支配する世界において、レジスタンスは信頼と親愛ではなく、規律と恐怖によって辛うじて成立していた。

 

「結構みんな感づいてたぞ。お前の根が案外優しくて、自分で下す命令に傷つくめんどくさい奴だってこと」

「やめてくれ。……もう確かめようもないことじゃねえか」

 

 煙をもう一度大きく吸って、天に向けて吐き出す。紫煙はぼんやりと宙に浮かんで、風に吹かれながらも天へと消えていった。

 

「皆の準備はもう整ったのか?」

「もうできてるはずだ。後はお前の合図だけだぞ」

 

 これ以上待っても状況は好転しない。苦しいだけだろう。レジスタンスの命を賭した一世一代の大博打。しかし俺だけが失うものを持ち合わせていない。

 

「そうか……それじゃあ行くか、ジャック」

「ああ、地獄まで付き合ってやるよ。腐れ縁のオスカー」

 

 ジャックが突き出してきた拳に己の拳を打ち付ける。じんと痺れる感覚。まだ半分以上残っている煙草を地面に落とし、踏みつける。俺の魔術で空高く打ちあがった火球が、上空で激しく爆発する。荒々しい反撃の狼煙。人類最後の魔族への抵抗開始の合図だった。

 

 そうして、地獄の底に垂らされた蜘蛛の糸は千切れた。嫌な事ばかり思い出す。夢見が悪い。

 

 

 

 

 以前戦ったオークのデニスたちを倒した以上、魔王軍は既にある程度の準備を整えていると考えた方がいいだろう。

 あの「美食家気取りのオークたち」は魔王軍にとっては、使い捨ての駒での威力偵察だ。彼らがみな立派な大斧を担いでいたのは魔王軍による援助だ。元々強力な魔物だったデニスたちに武器を授け、それから少しの知恵を授け、そうして人間領で暴れさせる。

 

 しかし冷酷な魔王は、あのオークたちを魔王軍に組み込むことはしなかった。中途半端な知性を持って自律行動しだすオークたちのような魔物など魔王軍に組み込んでも役に立たないと判断したのだろう。

 現場の指揮官たる魔王軍幹部には、戦況を正しく把握する知性と、魔王に対する盲目的な忠誠が求められる。それは魔王のどんな理不尽な命令も、理不尽と理解しながら肯定して従う二重の思考だ。プライドや拘りは、盲信の邪魔になる。デニスたちが適役でないのも頷ける。

 

 次に取る魔王軍の行動は知っている。飛行能力を持つ吸血鬼による偵察。本格戦争前の暗闘だ。

 先のオークの一件は単に人間の戦力を軽く図っていただけだ。今回は人間領の地理や騎士団の練度、それから勇者の脅威度を図るために魔王軍も本腰を入れてくる。

 

 

 

 

 勇者パーティーの一行はナルティアの街のすぐ近く、ここのところ飛行する魔物の目撃が相次いでいるトリギス砦を訪れていた。トリギス砦は王国北部の西側、小高い丘の上に位置していた。少し高い位置から周囲を見渡すように配置された頑強な砦は、外から見るものに威圧感を与える。その威容はすぐ近くに位置するナルティアの街を魔物から守るような位置に存在する。この砦がある限り、街に魔物が侵入することは難しいだろう。

 

「しかし、勇者パーティーの皆様のお手を煩わせるようなことではありませんよ?ただ少し魔物の数が増えてきたというだけのこと。珍しくもないことです」

 

「いえいえ、私どもも未だパーティー発足から日が浅く、未熟もいいところ。実戦経験を積ませていただけるのであればこちらからお願いしたいくらいです」

 

「ハハ、若いのに礼儀正しいことですな。では、力を貸してくださるというなら喜んでお願いいたします」

 

 老齢の騎士は好意的に夜間の砦での滞在を許してくれた。騎士階級特有の下らないプライドに足止めされるかと思ったが、人格者の騎士とコンタクトを取れたようだ。

 しかし本当に不思議だ。過去の経験から、騎士といえば、自分たちの役目を奪う勇者を目の敵にしていてもおかしくないのだが。

 顔に皺の刻まれた騎士の目を伺うと、違和感があった。なぜか生温い視線。瞳に映る感情は……孫を見つめる爺のような、慈愛。

 

 

「――納得がいかない!俺は戦うためにここに来たんだぞ!」

 

「まあまあ、それだけ貴女の容姿が可愛らしいということですよ。これからも騎士たちを籠絡し続けたらどうです?人気者になれますよ」

 

「馬鹿言うんじゃねえよ。中身がこれで籠絡なんてできるかよ」

 

「案外コロッと騙されそうですが。ほら、この前もナンパされてたじゃないですか。しかも一日に二度も」

 

「どっちも目が腐ってたんだろ。いやほんと、なんかの間違いだって……」

 

 思い出しても嫌になる、男の目。情欲の籠った視線とはあそこまで不快だったのかと驚愕した。なぜかカレンやオリヴィアに謝らなければならない気がしてきたものだ。話しながら歩いていると、先ほど通された応接間の扉が見えてきた。

 部屋に入ると、オスカー、カレン、オリヴィアが揃っていた。三人で何事か話している。少し距離が縮まっただろうか。良かった。

 

「――お帰りお二人さん!協力してくれって?」

「ええ、すんなりと。カレンさんの思惑通りでしたね」

「でしょ!やっぱり、おじいちゃん騎士様にはメメちゃんを向かわせればうまくいくって!」

「……」

 

 実際うまくいってしまったのだから文句も言えない。気持ちを切り替えて、空いていた椅子に座ってこれからの話を始める。

 

「確認されている飛行能力のある魔物だが、その特徴から俺は吸血鬼の類だと考えている」

 

 吸血鬼は魔物の中でも知性の発達した種族で、戦うとなれば例外なく厄介な相手となる。個体数は少ないが、一体一体が強力だ。

 

「吸血鬼っていうと、あの人型で、人の血を啜っちゃう強いやつ?」

「ああ、オスカーの想像通りだ。夜行性で、蝙蝠のような羽で飛ぶことができる。そして、吸血鬼は神聖魔法を弱点としている。カレンには言うまでもないだろうがな」

「もちろん!魔を祓うのは聖職者たるアタシの役目だね!」

 

 聖職者の扱う、魔を祓う神聖魔法とは、女神の権能、悪性の裁きを一時的に代行する魔法だ。吸血鬼のように、魔物の一部には神聖魔法が極めて効果的だ。

 この神聖魔法が有効かどうかは、三禁の一つ、「大神以外が命を創ってはならない」にどこまで反しているか、に左右される。

 言うまでもなく、魔物は元を辿れば全て叛逆神に創られた存在であり、三禁に反している。女神の作った聖剣の権能であれば、全て問答無用で裁ける。

 

 しかし、ただの人の身で扱える神聖魔法にはそこまでの権限はない。明確に三禁に反していることがはっきりしている場合のみ、神聖魔法は対象に裁きを下すことができるのだ。

 

 例えば先日戦ったオークは、神聖魔法では裁けない。魔物の中では比較的人間に近い進化をしているからだ。あれは半分は豚だが、半分は人間だ。

 ただし、先日オスカーがやったように、聖剣の権限を解放すれば裁きを下すことも可能だ。

 

 裁きの基準の一つは、蘇った命であるかどうか、だ。吸血鬼とは罪深い人間の死体が蘇った存在として知られている。吸血鬼に血を吸われた人間は、一度命を失い、それから吸血鬼、その眷属として蘇る。その歪んだ肉体と魂の在り方は、神聖魔法でも容易く裁けるほどに不自然な状態だ。

 

「だから、オスカーと俺はカレンみたいな後衛の身を守るのに徹するべきだろう。今回の個体は飛行能力を持つタイプだ。どうせ上空に剣は届かないしな」

 

「私の魔法もあまり効かないのでしょうね」

 

「そうだな、高い魔力を持つ吸血鬼の魔法への耐性は高い。一緒にカレンの身を守ることを考えて欲しい。……そういえばジェーンは神聖魔法を使えるのか?」

 

「ええ、もちろん。ただの人間よりは高い適正があるはずです。まあ尤も、そこのカレンさんには負けるでしょうね」

「えへへ……」

 

 素直に照れるカレン可愛い。……いや、今考えるべきはそれではない。

 

 ジェーンは女神の眷属を名乗っていた。その魂は神のものに近い。神聖魔法は女神の存在に近づくほどに使いこなすことができる。距離というより、魂の高潔さ、とでも言えば良いか。綺麗な、高位の魂であるほど神聖魔法の使い手としての実力は上がっていく。

 

 人間は信仰心を高めて魂を磨き女神に近づくが、ジェーンはそもそも女神の眷属として生まれてきたのだ。最初から魂の在り方が女神のそれに近い。であれば、神聖魔法をそれなり以上に使いこなすだろう。対吸血鬼戦の貴重な戦力と思っていい。

 

 これならばきっと、今の勇者パーティーでも吸血鬼相手に不足はないだろう。

 それに、と今の勇者パーティーの様子を思い返す。オスカーの青い決意、カレンの真っすぐな瞳、オリヴィアの凛とした立ち姿。正しくて優しい彼らはきっと、人を守る戦いにこそ力を発揮するだろう。俺の在り方とは大違いだ。

 



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31 オスカーの逆襲

 吸血鬼を迎え撃つのであれば、戦いは夜だ。昼間は暇を持て余すことになる。そのため、俺はオスカーと剣の鍛錬をするために市街の外に出ていた。互いの手には、いつか喧嘩した時のように木剣。しかし、今日は彼だけがその剣を振るっていた。

 

「オスカー、構えるのは少し上だ。そう。肩の力抜け」

「ちゃんと勇者の力使えよ?違う、いらない力は入れるな」

 

 断続的に、小気味良い風切り音が鳴り響く。オスカーの素振りしている姿は、ちょっと前に比べると見違えるほど様になっていた。見ていないところでも鍛錬はしていたらしい。

 彼の素振りに逐一指摘していく。型通りの剣術が戦場で役に立つとは限らないが、覚えておいて損はない。どんな心理状態でも、繰り返して練習した動作は自然と出てくるものだ。

 

「そうそう、その調子だ。でもその単調な攻撃に頼りすぎるなよ?」

「散々練習させといてなんてこと言うの……」

「剣なんてそんなもんだ。日々地道な鍛錬あるのみ」

 

 俺が言うと、オスカーはガクッと肩を落として、座り込んだ。長い間素振りをしていたので休憩も必要だろう。鍛錬と言えば、と思い出して、オスカーに問いかける。

 

「……そういえば魔術の方は進展したか?オリヴィアが教えているのなら心配ないだろうが……」

「ああ、せっかくだから見てもらおうかな。『氷よ、我が身を守れ』」

 

 元気を取り戻したように立ち上がったオスカーの詠唱が終わると、彼の目の前に氷の壁が立ちはだかった。反り立つそれは、そこまでの大きさではない。せいぜい人ひとり隠せる程度。氷の厚さもそこまででもない。

 しかし、彼は魔術を本格的に習い初めてまだ二週間程度だったはずだ。基礎知識もほとんどない状態から、僅かな期間であっさり魔術を習得したのは驚くべきことだった。

 

「どうかな?これでも上達したと思うんだけど」

 

 氷の壁の向こうから出てきたオスカーが問いかけてくる。声は弾んでいるし、いつもよりも胸を張っている。顔全体がどうだ、と自慢げに語っていた。

 その調子に乗った顔を見るまでは素直に感心していたのだが。

 

「おお、やるじゃん。『炎よ、障壁を打ち砕け』」

 

 俺の魔術で作り出された火球が勢いよく飛び出して、あっさりと氷の壁の中心に大穴を作った。砕け散った氷の破片がキラキラと宙を舞う。

 

「ちょっと!?褒めたそばから壊すことないじゃん!」

「いや、すまん。お前のドヤ顔見てるとなんか苛立って、つい……」

「つい、じゃないよ!やっぱりメメは僕に当たり強くないかな!?」

 

 オスカーがあんまりな仕打ちに憤慨する。至極もっともな主張だった。

 

「ま、まあ使いこなせるようになったなら良かったじゃないか。オリヴィアに教わったんだよな?少しくらい距離は縮まったか?」

 

 無理やり話題を逸らす。憤慨する彼の様子を見ていると流石に俺が悪い気がしてきた。魔術の修練の様子について尋ねる。

 オリヴィアとオスカーを二人にするのは、関係の悪化に繋がるのではないかと少し懸念していたのだ。オリヴィアの自分にも他人にも厳しい態度は、人によってはあまり気持ちの良いものではないだろう。

 しかし、彼の魔術の上達を見る限り、どうやら上手くやれたようだ。

 

「ああ、うん。厳しい人だと思ってたけどちょっと印象が変わったよ」

「そうだろ?あれで努力している人間に対してはわりと快く力を貸してくれるからな」

 

 彼らの関係が良い方向に向かっているようで安心した。オリヴィアはあれで気に入った人間以外には冷たい所がある。俺に魔術を教えてくれていた頃のオリヴィアを思い出していると、だしぬけにオスカーが問いかけてくる。

 

「……ねえ、もしかしてメメから何かオリヴィアに伝えたの?魔術の教え方とか」

「な、なんのことだ?」

「いや、オリヴィアが『メメさんに感謝しなければ』なんて言ってたからさ。あの時は何のことだか分からなかったけど、もしかして君がオリヴィアに指導について何かアドバイスでもしたのかなと思ったんだ」

 

 図星を付かれて動揺する。まさかオスカー程度に見抜かれるとは思わなかった。オリヴィアには一応簡単なアドバイスをしていた。魔術について全く知らない人間に教える際には、なるべく本人の興味に沿った教え方をすること。既存の魔術体系にこだわらない指導をすること。

 

「……まあ、仮にそうだったとしても、それは大して関係のないことだっただろうよ。オリヴィアは優しい奴だった、ってだけだ」

「そう?――メメのそういう不器用なところ、嫌いじゃないよ。でも、皆の仲を取り持ちたいなら、もっと堂々とやればいいのに」

 

 困った奴だ、とでも言いたげな顔。オスカーのくせに、生意気なアドバイスだった。

 

「うるさい。ほら、剣を持て。実戦の練習だ」

「そういう照れ隠しに斬りかかってくる物騒なところは嫌いだな!?いたっ!いつもより痛いんだけど!」

 

 

 当然だ。いつもより強めに木剣を叩き込んだ。訓練なのだから仕方があるまい?

 

「黙って俺に殴られろ」

「理不尽!」

「この前の件の分も一緒だ、忘れたとは言わせないぞ?オラッ!」

「あれは勝手に僕の頭を覗いた君が悪い……いたいいたい!」

 

 しばらくすると、体中に痣を作って倒れ伏したオスカーと、満足げに訓練を終える俺の姿があった。

 

 

 

 

 彼女は怒っていたが、この前の件、というのは別に僕は悪くないと思うのだ。王都でのとある一日を思い出す。

 

 

 勇者、という自分の輝かしい肩書きにはあまりいい印象は持っていない。それは御伽噺に聞く憧れの存在であって、平凡な自分がなりたいとは思えなかった。

 実際勇者なんて、なっても良いことなんてなかった。体は強くなった。でも戦えば痛い。心は強くならなかった。魔物の狂暴な容貌は、見ているだけで身が竦む。代わってもらえるなら誰かに代わってほしいとさえ思った。

 

 しかし今、僕は自分の置かれた状況を冷静に観察して気づいてしまったのだ。僕の現状、美少女たちと共に歩いている状況、これはひょっとして男のロマン、ハーレムというやつなのではないかと。

 

 

 前方を歩く、何やら楽し気に話している三人の女の子を見る。一番右にいるのがオリヴィア。田舎の村では一生お目にかかれないような本物の貴族様だ。

 手入れの行き届いた艶やかな金髪に、宝石のような蒼い瞳が完璧な美貌を引き立てている。立ち振る舞いはお淑やかで、貴族令嬢らしい奥ゆかしさを感じさせる。

 十人に聞けば十人が美少女だと答えるだろう。

 

 真ん中で一番楽し気に話しているのがカレン。僕の幼馴染だ。村では一番綺麗だと評判だった。王都で暮らしていても、その美貌が都会人たちに引けを取っているとは思えなかった。

 事あるごとにコロコロと表情が変わっていって、見ていて飽きない。いつも朗らかで、対面する者を明るい気持ちにさせる気持ちの良い少女だった。十人に聞けば十人が可愛いと答えるだろう。実際とても可愛い。

 

 左側、カレンのスキンシップにたじろいでいるのがメメ。僕たちを助けてくれた、謎めいた少女だ。カレンの手から逃れようと体を揺らすたびに深紅のポニーテールがゆらゆらと揺れている。よく見れば髪の纏め方はわりと乱雑だ。しかしそれはメメを良く知っている僕には、だらしなさではなく男らしい大胆さを想起させる。

 雄々しく戦う姿を見せれば十人に十人がカッコイイと答えるだろう。しかし思慮深くも男らしい大胆さを持つ性格に反して、容姿は可愛らしい少女そのものだ。

 隣に立つ少女たちよりも小さな背中。顔立ちは小ぶりな目鼻から愛らしさを感じる。でもたまに深く沈んだ光のない瞳をしている。

 

 三者三様の美少女たち。彼女らと共にいるこの状況は、実は世の男たちが血の涙を流して羨む光景なのかもしれない。

 試しに、三人に言い寄られている自分を妄想してみた。

 

 少年のそれは、思春期特有のかなり気持ち悪い妄想だった。

 

 

 僕は豪華な金ぴかの玉座にどっかりと座っていて、三人の美少女がそれぞれ蠱惑的な姿で言い寄ってきていた。

 

 右のひじ掛けの僕の手に白魚のような手を重ねて、しだれかかってきているオリヴィア。くびれた腰は、少し反られていることで、一層その細さを強調している。凛としたいつもの姿とは大きく異なる、媚びるような上目遣い。いつものお淑やかは鳴りを潜め、その様はひどく官能的だった。手の届かないはずだった高嶺の花を自分の物にできるという期待は、男の欲望を大いにそそるものだった。

 

 僕の正面に跪いてこちらを見上げるのはカレンだ。上目遣いにこちらを見上げる様子は庇護欲を掻き立てる。いつもの明るい表情ではなく、何かを乞うように上目遣い。いつも元気な彼女の蠱惑的な姿は、僕の心を大きく揺らした。そして僕は彼女を見下ろしているので、衣服から年の割に豊満な胸部が見え隠れする。村にいる頃からついつい目がいってしまっていた双丘は、見れば見るほど男のロマンが詰まっていると思えた。

 

 最後にメメ。右の肘掛けにその小ぶりな尻を乗せて、こちらに顔をぐっと近づけてきている。彼女の小さな手が僕のおとがいにそっと触れている。目を細めた彼女にキスでもされそうな距離。

 普段男勝りな彼女の行動としては違和感を覚える。しかし彼女の様子を伺うと、その顔は熟れたリンゴのように真っ赤だ。自分のために、慣れない女らしい仕草を恥ずかしがりながらしてくれているらしかった。

 可愛らしい顔立ちよりも、折れてしまいそうな細い腰つきよりも、その羞恥に顔を赤らめる様子に最も胸が高鳴る。

 

 

「おい、何やってんだオスカー。早く入るぞ」

 

 メメに話しかけられて、ようやく意識が返ってくる。素晴らしい白昼夢を見ていると、いつの間にか目的の店に着いたらしかった。

 こちらをジトッと見つめるメメの黒い瞳が痛い。なぜだろうか。僕の恥ずかしい妄想が見透かされているような不思議な感覚を覚える。

 

 しかし!今日の僕はいつもと違う!いつも木剣でメメにボコボコにされている僕とは違うのだ。僕にやたらと厳しい彼女に反撃する。脳内で彼女を恥ずかしい目に合わせてやろう!

 

 今日の少年は無意味にテンションが高かった。

 

 

 シチュエーションは話に聞く学校、その教室だ。

 メメに突然呼び出された僕は、放課後人のいなくなった教室で彼女を待っていた。西日の暖かな光が教室を赤く染めていた。カラ、と音を立て、教室の後ろの扉が控えめに開く。そこにいたのは、今日も夕陽のように赤いポニーテールをゆらゆら揺らすメメだ。

 しかしいつもの大胆さは息を潜め、その様子は何やらしおらしい。誰かに見られるのを警戒するように廊下を見渡してから静かに扉を閉めると、メメはそそくさと僕の前までやってきた。

 

「どうしたのさ、急に呼び出したりなんかして」

 

 こんな風に呼び出されたのは初めてだった。いつもなら、要件があれば人目があろうが構わず伝えてくるはずだが。

 問いかけても答えず、彼女は制服のリボンを指で弄っていた。自然開け放たれた第二ボタンの隙間から覗く微かな膨らみに目がいく。慌てて目を逸らしていると、彼女がおずおずと切り出した。

 

「いや、その……こんなこと言うのは、俺には似合わないっていうのは分かっているんだけどな……」

 

 もじもじと髪をいじりながら話す彼女。努めて冷静そうな声で相槌を打つ。

 

「うん」

「その、俺……いや、私、は、ずっと――お前のことが!」

 

 差し込む西日の赤よりも紅いその顔に、僕の期待が膨らむ。いつも真っ直ぐに見据えてくる黒曜石のような瞳が僕の顔を見て、すぐまた逸らす。次の言葉を言うことにためらうように唇がもにょもにょと動く。そして彼女は、僕に愛の告白を――

 

 

「何妄想してやがる!バカ!気狂い!」

「イタタタタタ!」

 

 盛り上がりも最高潮という時、僕の耳が勢いよく引っ張られた。横を見ると、僕の妄想にも負けず劣らず顔を真っ赤にしたメメの顔があった。

 

「ま、魔術で心の中を見たの!?それは反則だって!仲間内で……イタイイタイ!」

「俺だって普段はこんなことしねえよ!お前が気持ち悪い顔で突っ立ってるのが悪いんだろうが!」

 

 メメの怒鳴り声が耳元でキンキン鳴っている。引きちぎれるのではないかというほど強く耳が引っ張られる。僕が痛みに本気で悲鳴を上げ始めてから、ようやく彼女は手を放してくれた。その顔は、多分僕の耳と同じくらい赤かった。

 

「いいか!二度とその気持ち悪い妄想するなよ!女なら勇者パーティーには二人もいるだろうが!」

 

 良く分からない主張をして、メメはずんずんと向こうへ行ってしまった。羞恥に震え、赤面した様子が可愛かったので、またやろうと思った。

 




欲望に従って書きました


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32 吸血鬼との遭遇

 夜の帳が下りた。これからは魔の時間、吸血鬼も活動し始める危険な時間だ。幸いにも、今日はずっと晴れたままで、夜空には雲一つ見えない。宵の空には、星が美しく輝いている。黒い影が現れても、見逃すことはないだろう。

 

 装備を整えた俺たちは、砦の一番高いところ、見張り塔の一角に陣取って、周囲の警戒に当たっていた。灯りを消して、五人で固まって座った。

 季節柄、夜間に外で待機し続けるのはさほど苦痛ではない。しかし生ぬるい夜風が頬を撫でる感覚は、あまり気持ちの良いものではなかった。

 

 夜空にはしばらく何の変化もなく、待機は非常に退屈だった。変化がないまま上空を見張り続けて、もう三時間ほど経っただろうか。

 

「あ、見て見てオスカー!あの明るい奴、村で見てたのと同じやつじゃない?」

「ああ、そうかもね。カレンはすっかり星に夢中だね……」

 

 もう集中力がすっかり限界らしい。少し前までは真面目に上空を監視していた二人は、既に星空の下で楽し気に雑談を始めていた。まあ無理もないか。

 先ほどまで目を細めて監視をしていた公爵令嬢様、オリヴィアの様子を確認すると、いつものキリッとした表情が崩れている。目がトロンと細められていて、覇気がない。時折ハッとすると、いつものキリッとした顔に戻るが、すぐにまた眠たげに目を細める。まじめに見張る気はあるが体がついてこないらしい。

 

 一方、ジェーンのほうは最初と全く変わらない姿勢で上空をじっと見つめていた。永くを生きた女神の眷属にとって、退屈はさして苦痛ではないらしい。一番忠実に哨戒をこなしている。最初からずっと微動だにしないその姿は、木製の彫刻に戻ったかのようだ。

 

 勇者パーティーの面々を全体的に見て、とても魔物を警戒しているようには見えなかった。少し前まで普通の少年少女だった彼らに哨戒任務はきつかったか。見立ての甘さを思い知る。

 

「無理をさせてしまったな、悪い。今日はもう戻ろう」

 

 俺の声に驚いたように、オリヴィアがびくりと体を震わせた。どうやら半分ほど眠りについていたらしい。

 

「あ、ごめんね。全然集中してなくて」

「仕方ないさ。こんなの誰だって飽きる」

 

 どのみち今日すぐに吸血鬼に遭遇するとはあまり期待していなかった。もう何日か張り込むつもりだったのだ。弛緩した空気が漂う。各々が立ち上がり、持ち込んでいた食料などを掴み、撤収準備をしていた。

 座り込んだままで俯いたオリヴィアの頭が、少しずつ下へ下へと沈んでいく。……せめてベッドまで耐えて欲しい。

 

 しかし、緊張が解けて、各々が眠るために戻ろうとしたその時、ジェーンの鋭い警句が場を切り裂き、一気に空気を変えた。

 

「――来ました!吸血鬼です!」

 

 緩んだ空気が一気に引き締まる。全員が一斉に顔を上げた。視界の先には、夜空に浮かぶ黒い影があった。

 

「『光よ、我らの視界を照らし給え』」

 

 眠気を感じさせない、オリヴィアの詠唱が響く。一条の光が夜闇を切り裂き、黒い影の全容が明らかになった。

 まず目立つのは、黒々とした蝙蝠のような羽。硬質で、艶艶とした美しいとまで言えるような大きな双翼は、しかし人型の背中から生えているという事実一点を以て、この世のものとは思えないほどの異物感を生み出している。スポットライトの如く照らされた吸血鬼の顔がこちらを向く。

 

 その美しい顔は、人間の男であるようだった。無駄な贅肉のそぎ落とされた白く細い顔は、非現実的なまでの美麗さだ。白昼の街中を歩いていたら、それだけで注目を集めただろう。しかし、その仮定が現実になることはありえない。あの化け物は吸血鬼。夜に生き、人の血を啜る化け物だ。

 

「気張れよ!折角見つけたんだからきっちり倒すぞ!」

 

 吸血鬼は人の血を啜って眷属を増やすという性質上、生きているだけで人間にとっての脅威だ。生かして帰す理由もない。

 それに、こいつを倒せば吸血鬼の侵攻が始まっていることが王国にも伝えられる。騎士や聖職者の派遣を要請するなど、警戒を促すのも容易になる。

 

「『炎よ、炸裂し、我が敵を打ち倒せ』」

 

 嚆矢の如く打ち出された、オリヴィアの魔術による火球が吸血鬼に直撃し、爆発した。稲妻が光ったように、一帯の闇が一瞬パッと照らされる。

 黒煙の中から姿を現した吸血鬼は、予想通り全く傷を負っていないように見えた。美しい顔を血への渇望に醜く歪めて、こちらを見ている。

 

「来るぞオスカー!受け止めるぞ!」

「うん!」

 

 彼が言い終えるか否かといったその瞬間、俺の体の前に出した大剣を衝撃が襲った。手、どころか腕全体が痺れるような質量。軽すぎる体重をかけて、何とか堪える。

 

「メメから離れろ!」

 

 オスカーが大剣を鋭く振り下ろすと、俺に襲い掛かっていた吸血鬼は素早く上空へと戻っていった。高度を上げていくそれに対して、カレンの神聖魔法が襲い掛かる。

 

「『女神よ、彼の者に天罰を与えたまえ!』」

 

 生み出された神々しい光を纏う弾丸は、対象をかすめて上空へと消えていった。

 仕切り直し。美しい顔を醜く歪めた吸血鬼は、まだやる気のようだ。質量すら感じるほどの殺意を籠めて、こちらを鋭く睨みつけている。

 

「カレン!神聖魔法は味方に当てるつもりで撃っていい!どうせ害はない!」

「分かった!」

「オスカー!次はカレンが狙われるぞ!さっきみたいに素早く動けよ!」

「任せて!」

 

 吸血鬼の禍々しい気配が高まる。それは殺気であり、そしておそらく、人間の食欲に似た吸血欲求の解放だ。蝙蝠のような羽が高速で動き、風が鳴り、人間大の体が冗談みたいな勢いで突っ込んでくる。狙いはカレン。吸血鬼にとって致命的な、神聖魔法を扱う少女。

 

「オスカー!」

「――クッ」

 

 この世で最も強い武器である聖剣と、吸血鬼の爪がぶつかり合う。オスカーの体が凄まじい力を受けて、じりじりと後ろに下がる。吸血鬼のかぎ爪は、聖剣とぶつかり合っても折れる気配はない。決して弱い個体ではなさそうだ。

 

「『女神よ、彼の者に天罰を与えたまえ!』――当たらない!どうして!?」

 

 再び、カレンの溌剌とした詠唱が夜闇に響く。しかし放たれた光弾は、予想していたように体を捩って躱される。俺は苦し気な顔で耐えているオスカーの援護に向かう。

 全力で振り下ろした大剣は、硬質な爪で受け止められる。激突の瞬間に剣先に火花が散った。

 

「――ッ!オスカー!力で押し負けるなよ!カレンが死ぬぞ!」

「分かった!クソッ、押し返せない……」

 

 常人を遥かに凌駕する怪力の人間二人に攻め込まれて、吸血鬼は一歩も引かなかった。片腕一つで俺たちの剣を抑えながら、その体はビクともしない。

 自分の思うように力の出ない細腕が恨めしい。やはり、今の俺に純粋な力比べは向いていない。

 

 苛立ちを籠めて吸血鬼の顔を睨みつける。よく見れば、その吸血鬼の顔には見覚えがあった。この美しくも獰猛な顔は、大戦の終盤まで残って猛威を振るっていた、剛腕の吸血鬼、ナハルではないか。どうやら俺たちは、いきなり強い個体と遭遇してしまったらしい。

 

 オリヴィアの炎が再びナハルの体を燃やすが、あまりダメージを受けているようには見えなかった。カレンの神聖魔法が再び飛ぶが、またもや体を捩って避けられる。

 神聖魔法という明確な弱点がある吸血鬼が厄介な魔物として知られているのは、この俊敏な動きが討伐を困難にしているからだ。

 

「あ、当たらない!どうして!?」

「落ち着けカレン!俺が絶対に隙を作る!」

 

 しびれを切らしたナハルが翼をはためかせ上空へと戻る。その尋常ならざる気配から、血の渇望が最初よりも高まっているようだ。

 きっと今度の突撃は、先ほどまでよりもずっと野性的な、予想のつかない攻撃となるだろう。剣を握る手に力が籠る。激突の瞬間に備えて神経を研ぎ澄ませて、気付く。

 自分の後ろ、先ほどまで息を潜めていたジェーンの魔力が高まっている。

 

「『雷よ、罪科に相応しき罰を与えたまえ』」

 

 古臭い詠唱に応じて、雲一つない晴天の夜空から雷が落ちた。それは狙い澄ましたように、一直線に吸血鬼を撃ち抜く。耳をつんざく轟音が響いた。

 雷。大神暦の記述によればそれは、大神の下す天罰そのものであった。天から落ちる稲妻に撃ち抜かれた蝙蝠の羽を持つ異形は、その場に力なく倒れ伏して二度と起き上がることはなかった。

 

「――すごい」

 

 呆然としたオスカーの声。絶大な破壊力を持った稲妻は、寸分たがわず対象である吸血鬼を撃ち抜き、その歪んだ命を奪った。

 

「すごいですジェーンさん!吸血鬼みたいな強い魔物を一撃なんて!」

「ありがとうございます。ですが私の詠唱は非常に長いので、この戦果は時間を稼いでくださった皆様のものですよ」

「さっきの神聖魔法も古代魔法というものですの?」

「その通りです。現在広く使用されるものとは異なるものですね。隙が多い分効果は折り紙つきです」

 

 話しながらも、雷に打たれて黒焦げになった吸血鬼の遺骸に近づく。間違いなくあの一撃で絶命しているようだった。ピクリとも動かない。生命力も魔力も高い吸血鬼を一撃で屠ったことを鑑みるに、あの荒々しい稲妻は確かに神聖魔法だったらしい。

 

「ひとまず騎士たちに吸血鬼を撃退したことを知らせよう。他にも吸血鬼がいるかもしれない。今のうちに砦に聖職者を集めるように進言しておこう」

「そうだね」

 

 そこまで言ってから、少し思案する。今回のようなケースには覚えがあった。随分と強い個体が一体だけ現れて、トリギス砦で戦闘になる。

 予測は付く。先手を打っておくべきだろうか。迷いが生まれて、ちらとオスカーの様子を見る。彼はまだ何かあるのかと俺の方を見ている。瞳に映るのは、温かく、確かな信頼。……むず痒いことこの上なかった。そんな顔をされては、頼るしかないではないか。

 

「オスカー、一つ頼みがある」

 



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33 死者の熱狂

 寒々とした魔族の生存領域の東部、あまり日の当たらない山の中腹に、吸血鬼たちの集落とでも言うべき住居の集合地帯は存在する。領土を示すように張り巡らされた鉄製の柵の内側は、生い茂る木々がなくなり、荒涼とした大地を晒していた。

 日光を嫌う吸血鬼たちの寝床は主に地下だ。柵の中には、所々に地下への入り口となっている穴が見える。そしてその集落の一番高い所、山頂に一番近い位置には、それらを見下ろすように聳え立つ古城が存在していた。それはまさしく、支配者、王たる者が住むに相応しい城だった。

 山の中に唐突に現れる小奇麗なその城は、装飾も立派で、立地に目を瞑れば人が住んでいてもおかしくなかった。ただ奇妙な点が一つ。夜闇に聳えるその城は、人の気配があるにも関わらず、外から明かりが見えなかった。

 

 

 日がすっかり沈んで吸血鬼の活動時間となった現在、三階建ての城内には、集落にいる全ての吸血鬼が集められていた。集まった人型たちは、顔だけを見れば美男美女揃いだった。されど隠し切れない血の匂いを漂わせる人外たる彼らが敬意を持って仰ぎ見るのは、三百年を生きる最古の吸血鬼、ウラウスだ。

 彼らの主は、ただ座っているだけで色気を醸し出すような美貌を惜しげもなく晒して、玉座に威風堂々たる様子で腰かけていた。顎を僅かに上げ、同胞を見下ろすその姿は一国の王のようだった。

 

「ナハルが死んだ」

 

 重々しい響きで、ウラウスが告げる。吸血鬼たちの間にざわめきが走る。ナハルは彼らの中でも長寿の個体。基本的に長寿であるほど強い吸血鬼の中で、彼は実力者として一目置かれていた。

 

「今代の魔王の命令に従った結果だ。彼は偵察などという軟弱な作戦のために、死んだ」

 

 その言葉には隠し切れない怒りが籠っていた。それは古い同胞が死んだことへの悲しみと、魔王という自分たちの上位者に対する不満から発せられたものだ。

 

「殺したのは今代の勇者パーティーのようだ。忌々しい神聖魔法の使い手が複数存在していたようだな」

 

 吸血鬼たちは忠実に偵察任務を果たしていた。ナハルが交戦を始めた時点でそばを巡回していた吸血鬼が接近。身を隠してその様子を観察していた。ナハルにトドメを刺したのは、長寿の吸血鬼でも見たことのない、空を貫く神聖魔法だった。それは、吸血鬼にとって本能的な恐怖を覚えるような恐ろしい稲妻だったという。

 その情報を聞き及んでいた吸血鬼たちは、自分たち以外の、神聖魔法を苦としない魔物が勇者パーティーを倒しに行くのだと思っていた。しかし、最強の吸血鬼は宣言する。

 

「そして、我らの天敵がいることを分かっていて、私は宣言しよう。我々は、魔王の力なぞ借りることなく勇者パーティーとやらを殺し尽くす、と」

 

 再び、吸血鬼たちがどよめき始めた。今度のものは先ほどよりも大きい。その困難さはもちろんだが、それ以上に、それはほとんど魔王に反旗を翻すと言っているのと同義だったからだ。

 

 今代の魔王は徹底的に魔族の戦力を管理したがっている。許可を得ない侵略を決して許さず、現在は徹底的な偵察任務にのみ力を注いでいる。今吸血鬼が人間領に攻め込んだなら、厳しい罰が下されるだろう。

 その慎重な策略は、先代までの無策に、野蛮に、力に訴えた侵略を繰り返す魔王たちとは全く異なる戦略だった。

 

 一部の血の気の多い種族からは既に不満が漏れていた。魔王が生まれたのにどうして攻め込まないのか。早く人間の肉を食わせて欲しい。人間の豊かな領土を奪い取ろう、と。

 吸血鬼たちもまた、多かれ少なかれ不満をいだいていた。貯蓄された血ではなく、鮮血を吸いたいという本能は、日に日に高まっていた。おそらくナハルが偵察任務中に交戦し始めたのも、吸血衝動を抑えきれなかったのだろう、とウラウスは見ていた。

 吸血鬼にとって吸血衝動を抑えるのは、人間がいつまでも眠ることを我慢するようなものだ。気持ちの問題ではなく、我慢し続ければいずれ生理的限界が来る。

 

 ウラウスの宣告は続く。その静かな声に、聞く者たちは自然と背筋を伸ばしてしまう。

 

「皆も良く自覚しているように、我々は凡百の魔物とは違う。前大戦を生き残った我らは皆百年以上を生きる強力な種族だ。決して、決して犬死していいような卑俗な存在ではない」

 

 吸血鬼という種族は元を辿れば人間の死体だ。吸血鬼が人間の領土に攻め込み、その血を啜ることでしか誕生しない。だからこそ、魔族領に住む彼らが同胞を増やすことができるのは、基本的に魔王が生まれ、共に侵略を始めた時だけだ。

 

 そういう事情から、先代の魔王のいた百年前から、吸血鬼たちの顔ぶれは変わっていなかった。それはつまり、長寿であるほど強くなるという性質を持つ吸血鬼たちは今、恐ろしいほどの強さになっているということだった。

 静かだったウラウスの声に感情が籠り始める。

 

「それにも関わらず……あの魔王は、あの冷血の王は、ナハルの死を報告しても、交戦を避けた偵察を徹底させろなどと!ただそれだけを私に言いつけるだけだった!死んでいった同胞への労りの言葉一つもなかった!」

 

 その言葉には隠しようもないほどの憤怒が籠められていた。報告した時の魔王の様子を思い返す。ただ道具を消費しただけのような冷徹な瞳。思い出すだけでもウラウスは屈辱に震える思いだった。

 吸血鬼は凡百の魔物とは違う。その肉体は鋼鉄のような頑強さを持っていて、永く生きて獲得したその知性は、時に人間の賢者を凌駕する。吸血鬼は、同胞ナハルはこんなところで死んでいい存在ではなかった。

 力強い声で、美貌の吸血鬼は呼びかける。勇ましく、傲慢に、これ以上なく頼もしく。

 

「良いか我が同胞、我がはらから!今代の魔王は腑抜けだ!臆病者だ!故にこそ、見せつけてやるのだ!ナハルの復讐をする!勇者パーティーを我らだけで打倒し、奴など不要であることを証明してやる!我らの神に認めさせるのだ!魔を統べる王たるに相応しいのは吸血鬼の王、このウラウスであることを!」

 

 極めてプライドの高い吸血鬼にとって、ウラウスの行動方針は垂涎ものだった。自分たちだけで人間領を侵略することで、大量の血を啜ることができる。さらに、歴史上誰もなしえなかった勇者パーティーの討伐という栄誉を果たすことで、自分たちこそが最強の種族であることを知らしめることができる。

 ウラウスは饒舌に畳み掛ける。

 

「見返してやるのだ!あの戦略家の真似事をする魔王を!偵察任務などという軟弱な作戦に我らの高潔な血を消費した愚か者を!

 知らしめてやるのだ!我らこそが最強の種族であり、他の魔族全ては我らに首を垂れて分け前を乞うべきなのだと!」

 

 その言葉に、吸血鬼たちの抑えきれなくなった熱が爆発した。夜闇に浮かび上がる城の中からは、湧きたった異形の雄叫びが聞こえてきていた。

 

 

 

 

「つまり、ほどなくこのトリギス砦、そしてナルティアの市街に吸血鬼の総攻撃が迫ってくると?」

「はい。我々の得た情報からそう判断しました。間違いありません」

 

 老齢の騎士の問いかけに対して、オスカーが真っ直ぐに目を見て頷いた。勇者から直接言葉を伝えれば、どれだけ高位の騎士であっても無碍にはしづらい。しぶしぶながらも従ってくれるだろう。例えその言葉が、俺に言わされているものであっても。

 

 不自然に各地で報告される飛行する魔物の目撃情報。先日の吸血鬼との戦闘。ここまでの情報が揃えば、全知ならざる俺でも、何度も繰り返した人生経験から次に起こる事態を推測できる。

 今からだいたい二週間たらずで、トリギス砦へ、というよりもその南方に位置する街、ナルティアへの吸血鬼の総攻撃が迫ってくる。この砦が落ちれば街まで遮るものはない。ここを守らなければ、きっと俺の夢に見たナルティアの街に具現化する地獄は、現実のものとなるだろう。

 

「ただちにこちらの資料の通りに聖職者と騎士をこちらに手配してください。今の防備では耐えきれません」

「しかしな勇者殿、それだけの人を動かすとなるとそれなりの手間が……」

「吸血鬼に人の多いナルティアが落とされれば、そこから大量の吸血鬼が生まれてしまいます。何卒、ご英断を」

「お、お嬢ちゃんに言われちゃ仕方ないなあ。分かった分かった」

 

 この耄碌騎士……!老齢の騎士は相変わらず俺を、孫を見るような目で見ていた。

 いや、落ち着け俺。とりあえず目標を達しただけ良しとしよう。冷静に、クールに、礼を言って何事もなかったようにこの場を去ろう。

 

「ありがとうございます。ご厚意に感謝申し上げます」

「見てオスカー。メメちゃん、笑ってるけど頬がひくひくしてるよ」

「うん。あれはだいぶ頭に来てるね。僕と訓練してる時もたまにああいう顔してるよ」

 

 聞こえているぞ幼馴染二人組。オスカーは後で訓練と称して木剣でタコ殴りにしてやる。カレンは……カレンはまあいいか。

 



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34 カレンの焦り

TSしたら恋敵認定されてしまう展開、好きです


 天秤に、女神に、只管に祈る。祈りには雑念がはいってはならない。浮かべるのはただ女神への祈り、世界が平和であるようにという純粋な願いでなかればならない。それでも、今のカレンには祈りに集中することができなかった。

 いまいち集中できないままに、教会を出た。やはり先日のことを気にしているらしい。彼女はそう自己分析をして、自分のするべきことを結論付けた。

 

「……良し!」

 

 やはり直接頼むべきだろう。うだうだと考え続けても仕方ない。アタシは早速、まずはメメの元を訪れることにした。

 

 

「メメちゃーん、いるー?」

 

 メメちゃんに割り当てられた部屋のドアをノックする。彼女は外で鍛錬している時以外は部屋にいることが多かった。中から、空いてるぞ、という静かな声が聞こえた。

 扉を開け中に入ると、備え付けの椅子に腰かけたメメちゃんの姿が見えた。手元のテーブルに開かれているのは、何やら分厚い書籍。ページに目を落とす彼女の眉間には、少し皺が寄っていた。調べ物だろうか。

 

「ごめん、邪魔だったかな?」

「いや、問題ないよ、どうしたんだ?」

 

 話しかけると、髪をかき上げながら顔を上げ、落ち着いた様子で尋ねてくるメメちゃんは、見ている書籍も相まって、なんだかすごく大人びて見えた。堂々たる態度は、相変わらず小さくて可愛らしい容貌とのギャップがすごい。

 

 ……そんなところにオスカーも惹かれたのだろうか。幼馴染の、想い人の様子を思い出す。彼女と鍛錬した後、仲良さげに二人で帰ってくる彼の姿。

 お互い口は悪いけど、そこには仲の良い友人に向けるような好意的な感情があったように見えた。友人に向ける感情といえ、好意は好意だ。気が気でない、というのが正直なところだった。今までオスカーの周囲には同年代の女の子はいなかったのだ。慣れない状況に、考えれば考えるほどもやもやとした気持ちが湧いてきてしまう。そんな焦燥に駆られて、自分でも思いもよらぬ行動に出てしまった。

 

「……メメちゃんは、オスカーのことが気になっていたりするの?」

 

 気づけば、全く言う気のなかった言葉が口をついて出てきた。すぐに後悔がじんわりと頭を巡る。いったいその答えを聞いてどうするというのか。

 しかし、メメちゃんから予想していたいずれの答えも返ってこなかった。

 

「…………はっ?」

 

 彼女には大変珍しい、ポケッとした顔だった。鳩が豆鉄砲を食ったような、という言葉が似合うような、間の抜けた顔。何を言われたのか分からない、と顔全体が訴えかけてきていた。しばらくして正気に戻ると、すぐに怒涛の言葉が返ってくる。

 

「い、いやいやいやいや!あり得ないだろ!どうやったらそういう話になるんだよ?だいたい、あいつだぞ?弱気で、剣を振るうのもまだ覚束なくて、すぐにビビるオスカーだぞ?」

 

 慌てたように早口で喋る彼女の表情からは、色気のようなものはみじんも感じなかった。少なくとも男女としてどうという感情はないらしい。やっぱりアタシの思い込みだったらしい。やたらとムキになって否定する彼女の様子に、そっと胸を撫でおろす。それには安心したが、同時にその物言いに少しムッとした。

 

「で、でもいいところもいっぱいあるもん。優しいし。真剣な顔すると結構かっこいいし!メメちゃん知らないだけだし!」

「……あ、ああ、悪い悪い。言い過ぎだったよ」

 

 視線を逸らしながら謝る彼女の顔が少し赤い。何か恥ずかしいことでもあっただろうか?

 

「その、俺にはそういう恋愛どうこうみたいな気持ちは無いから、遠慮せずに自分の気持ちに従ってくれ」

「な、なんのことかな?」

 

 今度はアタシが赤面する番だった。まさか、花より団子、色気より食い気、といった言動のメメちゃんにまで、私の気持ちを見透かされているとは思わなかった。咄嗟に否定する私を、何やら優しげな眼で見つめてくる。

 見返して、彼女の黒い瞳がオスカーの瞳によく似ていることに気付く。優し気に細められた瞳は瞬き、次の瞬間には呆れたような目でアタシを見ていた。

 

「……そんなことを聞くためにわざわざここまで来たのか?」

「ああ、違う違う!ジェーンさんって普段どこにいるのか知らない?」

「ん?ああ、最近なら大通りの店を冷やかしにいってるらしいぞ」

 

 

 

 

 言われた通りに大通りを探すと、その姿は案外すぐに見つかった。メメの兄を名乗った男、ジェーンの長身は人混みの中にいても目立つほどだ。何やら店先で商品を物色している彼に声をかける。

 

「ジェーンさん!何してるんですか?」

「ああ、カレンさん。私は特に目的なくぶらついているだけですよ。何か用ですか?」

「その……ちょっと話をしませんか?」

 

 ジェーンさんは特に否定もせず素直に付いてきた。ところ変わって、宿のフロント。備え付けのテーブルに二人で座る。しかし座ってもなお背が高い。

 目線を少し下にして、ジェーンさんは丁寧な物腰で応対してくる。正直なところ、最初は長身で無表情な彼が少し怖かった。でもメメちゃんと話している様子を見ていると、悪い人ではないようだった。

(メメちゃん以外には)礼儀正しくて、怒ったりもしない。というかあまり感情を見せない。だから今回は、彼に思い切って話しかけようという気になった。

 

「実は……この前の雷の神聖魔法、あれを教えてほしくって……ダメですか?」

「……それは何故?」

 

 心底分からない、という風にジェーンさんが首を傾げる。

 

「なぜって、そりゃあアタシだって皆の役に立ちたいし、昨日みたいなのがいっぱい来るかもしれないんでしょ?だったらアタシだって強くならないと!」

「しかしあれはかなり特殊な魔法です。私ができれば十分なのでは?」

「でも、でも、アタシは聖職者なのに何にもできなかったし、皆を助けることができなかった!」

 

 思い出すと、自然言葉が震えた。夜闇に浮かんでいた黒い影。アタシが倒すはずだった。自信のあった神聖魔法が当たればすぐに祓えるはずだった。でも、魔物に神聖魔法を当てることは想像よりもずっと難しかった。

 だから彼の操った雷の神聖魔法をアタシも使えるようにならなければならなかった。そうしなければ皆に、オスカーに置いて行かれてしまうような気がした。

 

「なるほど、焦りがあって、私に頼み込んできた、と。残念ながら私の魔法は人に伝授できるようなものではありません。今の魔法とは体系が違いすぎますから。お力になれず申し訳ありません。……ご用件は以上でしたか?」

「……」

 

 感情の感じられない、一定の間隔で紡がれる言葉に、何も言えなかった。焦っている、というのは全くその通りだった。申し訳なさそうに少し頭を下げたジェーンさんが席を立つ。下を向いて、黙ってそれを見送る。引き留めるような理由も思いつかなかった。

 

「おいバカ、顔だけのイケメン。そんな状況でその場を去る奴がいるか」

 

 いつの間にか、メメちゃんがアタシのすぐ後ろに来ていた。素振りから帰ってきたばかりなのだろうか。木剣を肩に乗せて、額に少し汗がにじんでいる。しかし疲労を感じさせない声で、呆れたように、ジェーンさんに話しかけていた。

 

「お前はやっぱりまだ人でなしだなジェーン。興味はあるくせに感情を理解できてない」

 

 メメちゃんはいつもよりも不機嫌な様子でアタシの対面に座ると、アタシの目を見て話し始めた。黒い瞳と目が合う。

 

「なあカレン、君が元々なんで女神に祈りを捧げていたのか思い出してみてくれないか?」

 

 優しく問いかけられて、考える。何故祈りを捧げるのか。なぜアタシが聖職者の道を志したのか。

 

 きっかけは実に単純だった。五つか六つの頃だっただろうか。いつものようにオスカーと追いかけっこをしていたアタシは、彼とはぐれてしまった。一人になって、日が傾いていることに気付いた。

 幼いアタシはそれが恐ろしかった。逢魔が時の、不安になるような橙色の斜陽も、長く伸びた自分の影も。泣きそうになりながら必死にオスカーを探した。そうして見つけたのは、日暮れの村はずれにポツンと佇む教会だった。

 

 自らの長い影から逃げ込むように教会に入ったアタシを迎えたのが、女神様の石像だった。

 ――運命の出会いだと思った。それはどうしようもなく美しかった。ステンドグラスから差し込む西日に照らされたその顔は、こちらに微笑んでいるように見えた。アタシを守ってくれるように。安心させるように。

 

 ただそれだけだったのだ。偶然、それで興味が湧いたから、神父さんに色々話を聞いた。この石像はどういうものなのか。女神様とはどういう存在なのか。人間はどうやって女神様への信仰を表現するのか。話を聞くうちにどんどん女神様について知りたくなって、信仰を捧げたくなって、気づけばアタシの芯には、女神様への信仰が常に存在していた。

 

「……大それた理由なんて何もないよ。信じたいから、アタシは祈りを捧げている」

「……そうか。そんな、カレンの純粋な心が今扱っている神聖魔法を形作っているんだろ?だったら、その在り方を歪めてまでカレンが強くなろうとする必要なんてない。……我欲にまみれた信仰なんてロクなものじゃない」

 

 どこか遠くを見ているような目をして、メメちゃんが言った。

 

「……俺はカレンの純粋な信仰の籠った神聖魔法の光が好きだよ。カレンには今のままでいて欲しい。血に塗れた戦いなんかのために君の清い信仰をゆがめる必要なんてない。魔物との戦いなんて、経験を積めば嫌でも上手くなっていくもんなんだよ。そして経験を積む時間は、何があっても俺が作ってやる」

 

 温かい光を湛える黒曜石のような瞳は、やっぱり小さな体には不釣り合いなほどに大人だった。

 彼女の言葉を反芻する。私の、自分の信仰の形を歪めない。自分の芯を曲げない。

 ――言われてみればそうだ。私にとって信仰とは、求めるものではなく、ただ当たり前に存在しているものだったはずだ。神聖魔法と治癒魔法はあくまでその結果だ。自分を捻じ曲げて追い求めるものじゃない。

 

 自然と彼女の言葉が胸にスッと入ってくる。ずっと一緒にいた無二の友人に言われたように、不思議なほどアタシの内面を的確に捉えた言葉だった。焦燥が、不安が自分の中でゆっくりと縮んでいく。アタシは自然な笑顔で礼を言うことができた。

 

「うん、ありがとう!」

 




評価、感想などありがとうございます
執筆のモチベーションに繋がっています


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35 バッドエンドの記憶 ウラウス

毎日投稿終了かも?


 以前見た夢の続きを見る、ということは俺にとってそれほど珍しいことでもなかった。

 なぜなら、俺の見る夢とは大抵過去実際にあったこと。それには必ず続きがあって、終わりはない。俺がここで生きている限り、俺の見る悪夢に終わりはない。

 

 そういうわけで、今日も俺は悪夢を見ていた。それは俺が吸血鬼と化したカレンを斬り捨てた後のこと。最古の吸血鬼、ウラウスと初めて遭遇した時の記憶だ。

 

 

 俺は背後から牙を突き立ててきていた吸血鬼を振り向かないままに斬り殺した。女神の加護を受けた体は吸血鬼の牙などでは死ななかった。しかしそんなことはどうでも良かった。

 

「ァアアアア!やり直しやり直しやり直し!女神!今すぐ俺を過去に戻せ!やり直しだ!」

 

 屍の転がる地獄でみっともなく喚く。カレンのいない世界に価値など感じられるはずがなかった。女神からの返答はない。しかし、俺の自分勝手な望みが間違っていることはすぐに思い知らされた。

 助けを求める悲鳴を聞く。眼前には巨漢の男に覆いかぶされ、命を散らす直前の女。力の入らない体を叱咤して駆け寄り、無心で一閃する。女に覆いかぶさっていた眷属は力なく崩れ落ちた。

 

「ああ、ありがとうございます。勇者様!」

 

 純粋な感謝と勇者という呼称。その言葉に気づかされる。何を勝手に諦めようとしていたのか。そうだ。俺は勇者。人類の希望。魔王に唯一対抗できる人間。諦める資格などあるものか。助けた女は止める間もなくどこかに逃げ去っていった。

 

 鮮血をまき散らして倒れ伏したカレンの遺体を、そっと地面に横たえる。瞳はもう明かりを灯さず、心臓からは未だに泉のように血が噴き出していた。それを最後に一瞥すると、俺は希望でも復讐心でもなく、ただ自分の責務に従って、地獄の深いところへと歩を進めた。

 

 それからの俺がどうやって進んだのか覚えていない。何体、否、何人斬ったのか曖昧だ。ただ、手に残る肉を絶つ感覚だけがべっとりと残っていた。

 そうしてたどり着いた。悲劇の元凶。吸血鬼の主、ウラウスのもとに。話には聞いていた。吸血鬼には種族を統べる王がいると。その個体は勇者といえども倒せるか分からない強力な魔物であることを。

 

「おお、表情が険しいぞ、卑しき勇者よ。私に会いに来たのだろう?拝謁を喜び給え」

 

 他の吸血鬼とは比べ物にならないほどの存在感だった。同性でも色気を感じるほどの美貌。人形のように完璧な比率の目鼻は今、ひどく嬉しそうに歪められていた。気取った笑い方。それを気に掛けるほど、俺の中に余裕は残っていなかった。

 

「――ッ、貴様のせいでっ!」

「おお、野犬のような勇ましさだな。――醜い」

 

 激情のままに飛び出した俺を迎えたのは、爪でも牙でもなく、土の奔流だった。魔法で生み出された、身長を遥かに超える土に一瞬で体を囚われる。予想外の事態になすすべもなく自由を奪われる。魔物が人間以上に魔法を使いこなし得ることを、その時に俺は初めて知った。大量の土に流され、口に、鼻に、耳に、土砂が侵入してくる。

 

「カッ……」

 

 奔流に流された俺を襲ったのは、衝撃以上に息苦しさだった。魔法で生み出された土が口と鼻に侵入し、呼吸を妨げている。四肢を動かすこともかなわず、反撃などできるはずもなかった。

 

「くっ……ゴホッゴホッ」

「おお、泥まみれではないか!汚らしいぞ勇者!どれ、流してやろう」

 

 覆っていた土が突如消え、這いつくばり呼吸を整える俺に、今度は土石流のように濁流が押し寄せる。津波を生み出す、大規模な魔法。水に蹂躙された呼吸器が、再び酸素を求めて悲鳴をあげる。

 

 ウラウスの攻撃に対して俺は無力だった。聖剣はあらゆる魔物を切り裂くが、魔法は斬れない。俺には離れた位置にいるウラウスへの攻撃手段がなかった。

 そもそも俺の知っている魔物とは、その優れた身体能力で突進してくるような存在だった。こんなふうに魔法を扱う存在ではなかった。

 

 魔法を自在に扱うものと、剣を振るうしか能のない俺。俺とウラウスの勝敗は決したも同然だった。

 みっともなく地面に這いつくばり、咳き込み続ける。酸素の不足した頭には、もはや眼前の敵へ立ち向かう気概すら残っていなかった。くらくらとした頭が、生きるためだけに呼吸をさせる。

 

「ハッ……ハッ……」

「ハハッ弱い!腰で無用の長物となっている聖剣も泣いておろうぞ」

 

 今度はウラウスの足元から植物の蔦が伸びてきた。力の入らない俺の手足に、蔦が巻き付く。なすすべもなく俺の体が持ち上げられた。

 

「退屈だぞ勇者。少し私を楽しませてくれ」

 

 ウラウスは近場に転がる人間の死体を無造作に持ち上げると、乱暴にその腕を引きちぎった。

 

「ほら、私たちが愛してやまない血だ。飲め」

「グッ……」

 

 蔦が俺の首に巻き付き、締め付け始めた。息苦しさに耐えきれず、呼吸を求めて口が開き、それを突っ込まれる。

 

「――ンンン!」

「血の飲み方にも嗜好というものがあってな?肉ごと食らうそれはスタンダードながら悪くない味わいなのだ」

 

 最初に感じたのは、むせ返るような鼻孔を蹂躙する血の匂いだった。遅れて喉元に絡みつく生々しい肉の食感。今までに感じたことのないほどの嫌悪感を伴う吐き気を催した。しかし吐き出すことは敵わない。

 蔦が俺の頭を固定しつつ顎を強烈に抑え込んでいて、口を開くことができない。錆びた鉄のような匂いと気持ちの悪い食感から逃れることができない。ウラウスは揶揄うように俺の鼻を手で摘まんだ。

 必然俺の呼吸が苦しくなり、抗うことのできない生理的反応として嚥下する。喉を過ぎる肉塊。

 

「ウッ――オエエエエ」

 

 そして、耐えきれず吐いた。血の色をした吐瀉物が俺の足元に降り注ぎ、異臭を放ち始めた。

 

「ハハハハハ!醜い!あまりにも醜いぞ勇者!」

 

 哄笑するウラウスの前に、俺は抵抗する気力すら失っていた。蹂躙された呼吸器は既に生命を維持するのに精一杯で、反撃のために駆け出すことは叶わなかった。

 

「さあ!まだあるぞ!今度は心臓を絞って新鮮な血を飲ませてやろう。私もお気に入りの方法だぞ」

 

 俺の口の中で無造作に取り出され心臓が雑巾のように絞られる。先ほどの数倍濃厚な血が口腔に侵略し――

 

 

「うわあああ!?オエッッ、ウウウウウウ!!」

 

 自分の絶叫で目が覚めた。無我夢中で口の中のものを吐き出そうとした。空っぽの口から唾液だけが飛び出してベッドの脇に飛び散った。

 日はまだ登り切っていなかった。薄明かりの空に残る闇に僅かに恐怖を覚える。しかし俺は急いでトイレに向かった。

 

 

 トイレで座り込み、嘔吐を続ける。鼻の錆びた鉄の匂いが消えない。昨日食べた肉が、僅かに形を残したまま吐き出された。それを見てまた吐き気が強まる。這いつくばる自分の姿は、どこまでも情けない。

 どれくらいそうしていたのか分からなかった。胃の中身を出し尽くしてトイレから出た時には、空には夜闇は少しも残っていなかった。

 

 

「メメ、顔色悪いね。どうしたの?」

「ああ、少し目覚めが悪かっただけだ。気にするな」

 

 重い体を引き摺って向かった朝食の席では、食欲はみじんもわかなかった。なんとか水だけを流し込んでいく。

 

「メメちゃん体調悪いの?いつもはあんなに食べるのに」

「ああ、ちょっとな」

「……ちょっとには見えませんね。少しベッドで休んだ方がよろしいのではないでしょうか」

 

 今日は魔物との実戦を含めた戦闘訓練を予定していた。しかし顔色が悪いと皆から止められて、俺はあてがわれた私室へと押し込まれた。

 

 夢如きに動揺してしまう不甲斐ない自分が情けない。前々から感じていたが、やはり俺の精神に変化が生じている。以前なら過去の記憶に悔やむことはあれど、体調まで崩すようなことはなかった。

 精神は、魂は、肉体の在り方に引っ張られる。今の俺の容易く崩れる心の在り方は、確かに幼い少女のそれだった。

 

 やはり、俺がこの体で再び生を受けたことそれ自体が罰だったのだろう。胃腸の不調を感じながら横になり、確信を深める。

 何度やってもダメで、皆を殺してばかりの俺に課せられた、生という罰。それは俺の臓腑にずっしりとのしかかり、キリキリと痛んでいた。

 




短編小説を一つ投稿してみました。良かったら見てみてください


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36 でえと

 体調不良といえども部屋のベッドでただ寝ている、というのも非常に退屈だった。太陽ももう登り切った頃だ。朝食時に感じていた不快感が収まってきた俺は、読書の続きでもしようかとベッドを立った。

 ちょうどその時、部屋の戸が荒々しく叩かれる。このノックの仕方はカレンか、と思いきや、返事も待たずに扉を開けたのは、意外にもオリヴィアだった。何かいつもと様子が違う。紅潮した頬。普段、深海のように落ち着き払った碧眼は今、興奮に開き切っていた。

 

「体調は戻ったようですね!?メメさん。でえと、というものをしましょう!」

 

 開口一番、不自然なほどハイテンションなオリヴィアが、たどたどしい口調で似合わぬ言葉を言い放った。

 

「……はっ?で、デート?なんでそんな言葉がオリヴィアから……」

「カレンさんに聞きました。庶民のみなさんは、好き合っている二人でどこかに出かけることを、でえと、と言うのでしょう?」

 

 間違いではない。しかしそこには間違いなく無視できない誤解があった。

 

「いや、オリヴィア、好き合っているというのはな……」

「なんですか!?私にあんなことをしておいて、私のことなど好きではないなどとおっしゃるのですか!?ひどいです!」

 

 いや、なんのことだろうか……。オリヴィアは自分の発言に恥ずかしくなってさらに頬を赤らめていた。雪のように白い肌は、今ではすっかり秋の紅葉のような色合いになっている。可愛い。いや、そうではなく。

 

「どうしてそんなことを急にオリヴィアが言い出したんだ?」

「細かいことは良いのです。さあ、この服に着替えて、行きますわよ!」

 

 その大胆さはカレンの姿を彷彿とさせた。きっとこの突然の行動はカレンの差し金なのだろう。オリヴィアに誤解のある形でデートという概念を教えたのも。

 何事にも生真面目なオリヴィアは、一度思い込むと突っ走っていく傾向がある。今回もカレンか誰かに何か吹き込まれたのだろう。俺を元気付けてきて、などと言われただろうか。

 

 やたらとテンションの高いオリヴィアに向き直る。高揚した様子の彼女は、俺のものらしい服を抱えていた。

 

 ……いや待て。なんだその全体的にフリフリの可愛らしさを全面に出した服は。なんだその短いスカートは。そんな女の子みたいな服を俺に着ろというのか!?

 

「待て!そんな服俺は着ないぞ!」

「パートナーのコーディネートもでえとの一環なのでしょう?いいから着てもらいます。『風よ、彼の者を生まれたままの姿にせよ』」

「違う!それもデートの様式かもしれんがその強引なのは絶対違う!やめろおおおおお!」

 

 有無を言わせず、オリヴィアはあれよあれよという間に俺を着替えさせた。

 

 

 ナルティアの北側、宝石類やアクセサリーを売っている区画は静謐な雰囲気に包まれている。未来にはここが阿鼻叫喚の地獄になるとはとても思えないほどの静けさだった。

 

 そんな街の中を、オリヴィアと二人で歩く。彼女に無理やり手を引かれるのが恥ずかしくて、俺は諦めて彼女の後ろを歩くことにした。彼女の歩きには迷いがなく、どこか目的地があるようだった。

 

「なあオリヴィア、やっぱり俺の格好変じゃないか?めちゃくちゃ見られてるんだが……」

「それは今の貴女が魅力的だからでしょう。試しに男性に笑顔で手でも振ってみては?きっとその場で求婚してきますわ」

 

 彼女は男をなんだと思っているのだろうか……。

 

「ひゃっ!」

 

 唐突に突風が吹いてきて、反射的に丈の短いスカートを抑える。

 

「チッ、おっしー」

「赤じゃないか?今の赤色じゃなかったか?」

「馬鹿、それはスカートの色だろ。惜しかったなあ。後少し」

 

 声に反応して顔が赤くなったのが分かった。辛うじてスカートを戻すと、周囲からがっかりした声が聞こえた気がした。声のした方をにらみつけると、男たちが視線を逸らしてそそくさとその場を立ち去っていった。クソ、スカートじゃなければ走っていってハイキックを顎にお見舞いしてやれたのに……。

 

 

 しばらくすると、ずんずんと前を進んでいたオリヴィアの足が止まった。

 

「おそらくここでしょうか」

「『シュムック』……。ああ、昨日女主人が言ってた店か。確かにこれみたいだが……なんの用が?」

「行きますわよ」

「あちょっ、手引っ張んなくても着いてくって!」

 

 無理に振りほどくのも気が引けて、幼子のように引きずられて入店する。

 白で統一された店内は、静けさと上品さを醸し出していた。清潔な店内の棚には、アクセサリーの類が並べられている。小さなサファイアの嵌められたピアス。トパーズの琥珀色の光が上品な美しさを出しているネックレス。ルビーが紅く光る髪飾り。

 

 以前ならみじんも興味が湧かなかったそれらに、少し心惹かれている自分に驚く。

 堂々とした足取りで入店したオリヴィアは、早速物色を始めた。むむむ、と唸るその様子は真剣だ。

 

「お、オリヴィア、終わるまで外で待っていようか?」

「いえ、お待ちを」

 

 オリヴィアは白金色の髪飾りを持つと、俺の方に近づいてきた。髪にひんやりとした金属が押し当てられる感覚。

 

「ふむふむ、赤髪には合いませんね」

「あ、あの……」

 

 止める暇もなく、再び真剣な様子で物色を始めるオリヴィア。ほどなく、一つのアクセサリーを持ってきた。それは小さな髪留めだ。白銀の中心に、小さな蒼。サファイアの嵌め込まれたそれを、オリヴィアは再び俺の頭に当てがった。

 

「良いですね、これにしましょう。店主、これを買いましょう」

 

 再び向こうに行ってしまったオリヴィアを呆然と眺める。一体なんだったのだろうか。慣れた態度で慇懃な店員とのやり取りを終わらせる。買い取った髪留めを持ったオリヴィアがずんずんとこっちに近づいてきた。

 

「メメさん、少し動かないで下さいませ」

 

 髪に何か付けられる感触。いつの間にか目の前に差し出されていたオリヴィアの手鏡で自分の顔を見た。未だに見慣れない自分の可憐な顔。その額をさらけ出すように、髪留めが存在した。

 初めは綺麗だ、と素直に思った。赤色の中にポツンと存在する蒼色は、小さいながらも存在感を示している。しかしそれが自分の顔だと思うと、少しの嫌悪が這い上がってくる。

 

「いかがですかメメさん。中々似合っていると思いませんか?」

「あ、ああ。……わざわざこのために?」

 

 オリヴィアの意図を図りかねて問いかける。彼女は少し微笑むと、穏やかに語り始めた。

 

「私、貴女のことは結構好きです」

「ヒェッ……あ、うん、ありがとう……」

 

 突然の言葉に飛び上がる心臓。――あの時のオリヴィアの死に顔がフラッシュバックする。

 

「礼節があるようで荒々しい在り方も、遠いようで近い不思議な距離感も、箱庭で生きてきた私には新鮮で、とても魅力的に映ったのです」

「あ、ありがとう。その…………ありがとう」

 

 ……俺の語彙力はどこに行ったのだろうか。沸騰する頭は受け答えすらまともにできない。

 

「でも、だから、自分を大事にしない貴女は嫌いですの」

「……」

 

 急速に脳髄が冷える。それは、いつかどこかで聞いたセリフだった気がした。

 

「だから、貴女に戦い以外の自分の価値を見出して欲しかったんです。その髪飾り、貴女の可愛らしさを良く引き出していると思いませんこと?」

 

 オリヴィアは魅力的に微笑む。他人を思いやる、高潔な精神。眩しくて目を逸らしてしまいそうだった。その笑みを見て思い出すのは彼女を看取った数多の記憶。君にそんな風に気にかけてもらうような価値は俺にはないのだ。

 

「あら、また私の嫌いな表情をしていますね」

「ひゃ、ひゃめろオリヴィア、離せ」

 

 白魚のような手が伸びてきて、両側からガチッと頬を挟まれる。サファイアのように、青空のように、澄んだ瞳と無理やり目を合わせられる。全てを見透かすような奥深さ。

 

「貴女の心は本来、宝石のように透き通ったものだったのでしょう。どうしてその輝きを自分で濁らすのです?」

「……俺には、責務があった。今もある」

 

 脳裏に浮かぶ、仲間の死に顔。

 

「貴女はいったい誰に、それを背負わされているのでしょう?」

「……分からない」

「貴族階級に生まれた小娘の戯言ですが、責務とは、他人に強制されるものではなく、自分の誇りを守るために、自分のために背負うものなのではありませんか?――少なくとも、自分を傷つけるために背負うものではありません」

 

 嗚呼、やはり君はいつでも貴族の理想像の体現だ。己の義務を知り、弱者にはためらわず手を差し伸べる。ノブレスオブリージュとでも言うべき、高潔な精神。それは陽光のように眩しくて、目を焼かれそうだった。

 

「……そうだな」

 

 肯定する言葉を吐きながら心中で否定する。その理屈は、正しい君の理屈では、罪深い俺は救われない。

 

「言葉では届きませんか。では……」

 

 オリヴィアは少し腰を屈めると、俺の手を取った。困惑する俺をよそに彼女は俺の額にくちづけをした。

 

「なっ……なん……」

「意趣返し、ですわよ?恨むならお酒に酔った自分を恨んでくださいませ」

 

 真っ赤な耳を隠すように、オリヴィアが足早に立ち去る。背を向けたままで、彼女が語る。

 

「では、私に大事に思われている貴女を、大事にしてくださいませ」

 

 颯爽と去っていた彼女を呆然と眺めていた俺は、店先に立ち尽くしてしまった。心臓はしばらくバクバクと鳴り続けていた。ようやく顔の熱が引いて、冷静な思考が変わってくる。

 

「それでも、俺は――」

 

 

 ◇

 

 

 彼女の燃えるような赤髪は、その気質を良く表していると思った。何かに憑かれたようにその命を戦いに燃やし続ける。だから、その炎に、一点の青が欲しかった。サファイアの蒼は、紅蓮のような頭髪に良く似合っていた。彼女が戦いのためにしか生きられないというなら仕方ないだろう。でも、せめてその心の片隅に、それ以外の心を持って欲しかった。わずかでも普通の少女のよう願望を持ってほしかった。宝石を愛でるような、青空を眺めて心を落ち着かせるような、そんな普通の少女のような側面を持ってほしかった。

 

 髪飾りを彼女の前髪に取り付ける。紅色の中で堂々と光る蒼は、悪くなかった。

 



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37 執着と憎悪

今度こそ毎日投稿はおしまいです。二章終了までは隔日で更新すると思います


 最古の吸血鬼、ウラウスはいつものように堂々とした足取りで、城内を歩いていた。人間領への単独での侵略。その準備はほとんど揃っている。後は機を待つだけだった。

 吸血鬼の力が最も強くなるのは、星も月もない、最も闇の深い夜だ。満月の夜に力の強まる人狼種とは正反対と言えよう。

 だから彼らは雲を待っていた。空の灯りを全て遮り、漆黒を齎す恵みの雲を。

 

 思案するウラウスの元に駆け寄る吸血鬼の姿が一つあった。それはウラウスの前に跪くと、恭しい態度で報告しはじめた。

 

「ウラウス様、ミーミラからまた血液の要望が届いております。いかがいたしましょうか」

「構わぬ。すぐに持っていけ」

「……しかし、恐れながら申し上げますが、ミーミラからの要望はもう今月だけで三度目です。あれはもう必要、というよりもただの贅沢と言えるのではないでしょうか」

「いいや。あれは少々体の調子を崩しているようだった。玉座の間に集った時にも少し様子がおかしかった。血を飲めばいずれ回復するだろう。持っていけ」

「ハッ!」

 

 ウラウスの同胞を見る目に間違いはなかった。尊大な態度を取り、気に食わないことがあれば他の魔物と戦うことすら厭わないウラウスであるが、こと同じ吸血鬼が相手であれば、良い君主であろうとし続けていた。

 前回の大戦で採取した人間の血のストックはまだ残っていた。百年前の大戦の折、吸血鬼は初めて人間の血液の貯蓄を試みていた。ウラウスの提唱した未来の見据えたその策は実を結び、前大戦から生き残った吸血鬼の数は、かつてないほどだった。

 

 仲間に血を分け与えるウラウスの姿は、他種族に対する冷酷で残忍な態度とは全く異なり、ひどく寛大だ。

 ウラウスは、吸血鬼という種族は他のあらゆる生き物よりも上位の存在であると信じていた。吸血鬼こそが他のあらゆる生き物を統治し、支配するべき優れた種族であることを少しも疑わなかった。優れた知性と肉体を鑑みれば、それは当然の結論だったのだ。ウラウスには、他の生物すべてが愚昧で脆弱に見えていた。

 

 だから魔王などにはもう従わない。吸血鬼こそが、その主たるウラウスこそが、王としてこの大陸を制覇し、あらゆる生物を支配下に置き、優れた知性に基づいて統治を行うべきなのだ。その優越感に浸った歪んだ思想は、三百年の時を経て揺るぎない確信に変わっていた。

 思考するウラウスの美貌を、月明かりが煌々と照らしていた。雲の少ない今宵は、満月が夜の主役であると言わんばかりに堂々と輝いていた。忌々しげにそれを一瞥すると、ウラウスは再び思考を巡らす。

 

 同胞ナハルの命と引き換えに得た偵察の情報を鑑みても、吸血鬼の戦力が不足しているとは思えない。目標の砦の常在戦力では、吸血鬼の鋭利な牙の進撃を止めることは叶わないだろう。

 

 そして砦を突破すれば、待ちに待った血の略奪だ。街に侵入し、人家を蹂躙し、弱者を弄び。そして人間を眷属とする。同胞を爆発的に増やした吸血鬼は、もはや誰にも止められない世界最強の軍勢となるだろう。

 そのまま広大な人間領の征服を成し遂げれば、全ての生物が認めるだろう。魔を統べ、人間を支配するに相応しいのは、誇り高い最古の吸血鬼、ウラウスであると。

 そのために真っ先に打ち砕くべきは、勇者だろう。ウラウスは自分の執念めいた想いの起源を思い返す。あらゆる魔物を斬り伏せるあの聖剣の輝きを、ウラウスは二百年経っても覚えていた。

 

 二百年前、ウラウスは当時の八代目の魔王に付き従って人間領への侵攻に参加していた。当時から、ウラウスは強力な魔物だった。その剛腕は鋼をも砕き、ひとたび魔法を放てば百の雑兵を薙ぎ払った。夜しか戦えなかったにも関わらず、戦果は魔王軍随一だった。奢っていたのだろう。魔王以外に自分に勝てる存在はいないのだと。自信は誇りとなり、プライドとなった。

 

 そして、そんなウラウスの心を打ち砕いたのが、八代目の勇者だった。

 

 満月の夜だった。月光によって、ウラウスの力は多少弱まっていた。しかし、それでも尚その爪は骨すら断ち切り、魔法で数多の人の命を弄んでいた。

 その時のウラウスにとって戦争とは、殺し合いとは、遊びだった。自分の強さを、弱者を殺すことで証明する、自尊心を満たす遊び。それはいつも一方的で、命の危機など感じたことがなかった。

 

 月光に照らされた戦場の一角、弱者を甚振り悦に浸るウラウスの前に、それは現れた。彼女は、勇者は、一見他の人間と大して変わりなく見えた。ウラウスは何の感慨もなく、他の人間と同じようにその人間も磨り潰すつもりだった。

 しかし、彼女が黄金色の聖剣を抜き放ち頭上に掲げるとその印象は覆されることになった。全身から発せられる、相対しているだけでも身が震えるような存在感。ウラウスの体は本能的な危険を感じて小刻みに震え出した。

 その満月のような黄金色の剣の光に、ウラウスは初めて本能的な恐怖を抱いた。

 

 実際、勇者の力は圧倒的だった。ひとたび聖剣を振るえば大地すら震わし、魔法を放てば千の魔物を跡形もなく消し去った。

 あまりの迫力に近づくことすらできなかった。戦うまでもなく完敗であることが分かってしまった。ウラウスはそこで、人生で初めての敗北を経験した。

 勇者の手の中で煌々と輝く、満月よりもずっと眩しい聖剣の光。そしてそれを使いこなす先々代の勇者。その輝きに恐れをなしたウラウスは、情けなくもその場から逃げ去ったのだ。

 

 

 

 

 思い出すだけでも屈辱に震える思いだった。ウラウスは歯嚙みする。あの時のウラウスは、無傷で住処まで帰ってこれた。しかし、彼の心はこれ以上ないほど打ちのめされていた。その時のウラウスは自分の生まれ持った強さに絶対の自信と誇りを持っていた。

 誰よりも人間を殺して、あらゆる魔物に自分を認めてもらうのだと意気込んで、人間領への侵略に参加したのだ。しかし結果は無様な敗走。彼は勇者に立ち向かうこともせず、ただ惨めに逃げてきたのだった。その屈辱は、二百年の間プライドの高いウラウスの心を蝕んでいた。

 

 その屈辱は、執着とでも言うべき歪んだ思考をウラウスに刻み込んだ。この手で勇者を殺す。そして、自分の屈辱を清算するのだ。

 会う前から、ウラウスは決めていた。今代の勇者こそ、この手で殺すのだ。自分が勇者に、聖剣に、負けない存在になったことを証明する。ウラウスのそれは、自身の過去への歪んだ執着であり、そしてその衝動は、今の勇者を完膚なきまでに叩き潰すことで完遂されるだろう。

 

 

 

 

 俺のトリギス砦であてがわれた私室には、ベッドの横に小さな窓がついていた。今夜は騎士たちが交代で見張りをしている。本来なら俺は、吸血鬼の襲撃に備えて休みを取るべきだった。しかし眠れなかった俺は、ぼんやりと夜空を見上げていた。

 不眠なのは、最近見ていた悪夢に関係しているのだろう。ぼんやりと、カレンを斬った時のことと、ウラウスと対峙した時のことを思い出した。

 

 夜の風が小さな窓を通り、俺の頬を差した。無益な回想を打ち切り、空を眺める。部屋の小窓からは月や星は見えなかった。今夜は満月だったはずだが、俺の視界に映るのは夜闇だけだった。

 飲み込まれそうな空の黒を眺めていると、再び思い出す。吸血鬼との、ウラウスとの戦いを。強靭な肉体と優れた魔法は未熟な俺を何度も殺した。あれとの戦いに勝てるようになったのは、俺が人生を三十年ほど過ごした後だっただろうか。

 あまりにも勝てなかったので恥知らずにも戦いを避けたことすらあった。そしてその時には大勢の人が死んだ。

 そして今の俺はきっと、ウラウスに勝てなかった頃の俺と変わりない弱さなのだろう。小さな小さな手をギュッと握りしめた。

 

 それでも、あいつだけは俺の手で殺さなくては。蘇ってくる記憶の渦が復讐心を訴えかけてくる。爪に貫かれた記憶。牙にかみ砕かれた記憶。焼き尽くされた記憶。血に溺れさせられた記憶。人の肉に窒息させられた記憶。

 

 そしてそれら全てに付随する、アイツに人を殺させられた記憶。あいつを殺すのは俺の贖罪なんかじゃない。俺は人の生を弄んだあいつを殺して、全ての命に捧げなければ。それが俺の、見殺しという罪を犯した俺の責務だ。

 無意味な回顧に、意味もなく感情が昂る。憎悪の渦巻く脳内は沸騰して、どうにかなりそうだった。意味もなく、夜闇を打ち砕くように拳を宙に強く突き出す。星も月も、それを見てはいなかった。



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38 夜闇の防衛戦

 俺がどれだけ過去の想いに囚われようとも、時間は進む。

 

 日の落ちたトリギス砦には、かつてないほどの人の気配があった。勇者からの進言通りに集められた騎士と聖職者が砦に詰めている。

 

 今宵の空はどんよりとした雲に覆われていた。月も星も夜を照らしていない。それはつまり、光がなくなるほど強くなる吸血鬼が活動するのに最適な環境と言えた。

 そういうわけで、トリギス砦は今できる限りの警戒態勢を取っていた。俺たち勇者パーティーも起きて待機。俺の経験則から言っても、襲撃は今夜だと予想できた。

 

「僕の一言でこんなにも沢山の人が動くんだね」

「勇者の機嫌は損ねたくないんだろうよ。少なくともお前が何か失敗しない限り、王国はお前の意見を最大限尊重するだろうよ」

 

 それこそ機嫌を損ねて勇者に王国の乗っ取りでも画策されたら大変だ。俺のように。しかし、今回の進言が的外れだったなら次からは耳を貸してくれないだろう。

 

 ……しかし本当に俺の知る通りに歴史が動くだろうか。考えていると急激に不安になってきた。この世界は厳密には俺の知る世界とは違うものである、ということは以前ジェーンから聞いた。吸血鬼の行動パターンが変化する、ということは有り得ない話ではない。いやしかし、街が襲われるのを対策もせず見過ごしては下手すれば王国が危うい。

 

 吸血鬼の主、ウラウスは条件さえそろえば人類を滅ぼし得るほどの強力な個体だ。眷属を増やせば吸血鬼の軍勢の進撃を止めるのが困難になる。魔王軍全体が動き出す前に殲滅しておくべきだ。

 でも、進言が間違いだった時に責を問われるのは今度は俺ではないのだ。思えばどうしてあんなに無責任なことができたのか。俺が、俺なんかがオスカーの名声を汚すというのか。彼はまだ、罪に塗れていないというのに、この俺が。頭の中が混沌としてきて、思考が坩堝と化す。

 

「メメさん」

 

 ジェーンの無機質な声に思考が外界に向けられる。混迷した思索をひとまず脇に置くことができた。

 

「……なんだよ」

「いえ、なんかまためんどくさいこと考えていそうだったので声をかけました」

「……めんどくさいってなんだよ」

「貴女の立派な仲間たちの顔でも眺めたらどうですか?」

 

 ジェーンは問いかけには答えずに促す。俯いていた顔を上げると、彼らの顔が良く見えた。

 

 オスカーの顔には過去の戦いのような浮ついた様子は見られない。ただじっと夜空を見上げる表情は落ち着いていて、来るべき戦いにただ静かに備えていた。

 カレンはオリヴィアに話しかけていた。いつもながら陽気な姿だったが、適度な緊張感が見られる。不安などのネガティブな感情はあまり見られない。

 オリヴィアの落ち着いた様子はいつもとあまり変わらないようだった。ただそれは、初陣の時のような緊張から無口になっているわけではなく、カレンとの雑談を適度に楽しんでいるようだった。

 

「貴女が信頼されているからこそ落ち着いて敵を待っているのではないですか?」

「……そうか?」

「ええ、感情には疎い私から見てもそう見えますよ」

 

 信頼されている、というのは確かに嬉しい。嬉しいが、それは同時に畏れ多さと、失望されることに対する恐れを想起させる。俺の予想は間違っていたのではないか。俺のせいで勇者パーティーが批判されるのではないか。

 

「ああ、まためんどくさいこと考えてる顔してますね」

「……めんどくさいこと考えてる顔ってなんだよ」

「その、目がどんどん濁っていく顔ですよ。余計なことを考えている顔です」

「余計なことっていうか、考えなければならないことが多いだけだろ。俺が一番知ってるんだから。魔物のこと、戦いのこと、未来のこと、全部だ」

 

 そしてそれら全部を知っていて尚、俺は失敗し続けたのだから。

 

「なるほど、そういうことですか。それなら簡単です。私に任せてみてください」

「……はっ?」

「というか貴女は不自然なほどに人を頼らなすぎですね。一回言ってみたらどうですか? 失敗するのが怖い。戦うのは辛い。平穏に暮らしたい。別に恥じらうことでもありません。今の貴女は庇護されるべき愛らしい少女であり、戦う義務すら負っていないのですから」

「……そんな情けないことできるか」

 

 俺の言葉を聞いたジェーンはやれやれとでもいうように肩をすくめた。似合わぬ人間味のある仕草だった。

 

「情けないとかプライドとか、人間はそんな何の役にも立たないことが大好きですね。なぜですか?」

「なぜ、と言われてもな。それは俺自身が納得できるかの問題だ。理屈じゃない」

 

 そう、理屈じゃない。貧相な体で魔王軍を戦おうとしているのは、ただの私怨だ。──それから、仲間のためだ。思い浮かぶのはオリヴィアの赤い顔。カレンの満面の笑み。オスカーの情けない顔。

 

 理屈じゃなく、俺は俺の感情に従って戦おう。例えその末に、死が待っているとしても。

 ──本当にそうか? 俺はそんな綺麗な感情のために戦っているのか? それはただの遠回しの自殺に過ぎないのではないか。俺を監視する俺の自意識が問いかける。

 無垢とも言える信頼を俺に向けてくる仲間たち。それを裏切って俺は、破滅への道を喜々として向かっているだけじゃないか? 自問自答にはいつだって答えなんて出ない。ただモヤモヤとした気持ちが胸の底に沈殿するだけだ。

 

 視界の端で、俺の表情を観察するジェーンが、やれやれと溜息をついたのが見えた。

 

 

 

 

「来たぞ! 吸血鬼だ! 数え切れないほどいるぞ!」

 

 見張り役の兵士の鋭い声に立ち上がり、砦の北方を見やる。篝火にぼんやりと照らされた夜闇に映るのは、数多の影。羽を有して上空に位置しているもの。地上で列をなしてこちらに猛然と突っ込んでくるもの。

 

「敵に大規模な魔力の反応あり! でかいのが来るぞ!」

「相手は魔物だろ!? なんで魔法が飛んでくるんだ!」

「おい、魔法使いはいるか!? すぐに防御態勢を!」

「私が、出ます」

 

 混沌とした砦に響くその声は不思議なほどよく聞き取れた。その主はオリヴィア。静かに燃える瞳には決意が見られた。

 

 砦に夜空を覆いつくさんばかりの炎の矢の雨が迫ってきていた。流星のように飛んでくるそれは、直撃すれば頑丈な砦の壁でも容易く破壊してしまうだろう。魔族の扱う魔法に多い、大雑把で効果の高い魔法。迎え撃つのは、同世代最強クラスの魔法使い、オリヴィアだ。

 

「『今は亡き、慈悲深き水の神よ、畏れ多くもお願い奉る。願うは広大な空を覆い尽くす偉大な壁。あらゆる炎の厄災を退け我らに救いを齎す絶対の守り。我が魔力を以て顕現させたまえ。水の壁よ、我ら全てを守り通したまえ!』」

 

 長い詠唱を経て膨大な魔力を解放した。見る者が見れば感嘆のため息を漏らすほどの、完璧な魔法の発動。それに呼応して、砦を丸ごと覆うように半円状の水のドームが展開された。破滅をもたらすはずだった無数の炎の矢は、全てそれに阻まれあっけなく消滅した。視界に映る黒い空、全てが中空に浮かぶ水の向こうでユラユラと揺れていた。

 戦争中でも滅多に見れないほどの大規模な魔法だった。最高峰の魔法使い、宮廷魔法師にも匹敵するような完璧な魔法。流石オリヴィアだ。……しかし、この時期の彼女にこれほどの力があっただろうか。

 

 大規模な魔法に対する防衛魔法としては完璧だったが、水の障壁は入ってくる吸血鬼までは拒めない。翼を背負った人型が、次々と砦に飛んできていた。吸血鬼の群れの先陣を切るのは、翼の扱いに長けている、機動力のある個体だ。後からは、地上を走る吸血鬼が恐ろしいほどの数で迫ってくる。

 

 厳重な防御態勢を整えたトリギス砦でも危ういと思えるほどの戦力だ。そもそも吸血鬼は単体でも脅威とみなされる危険な魔物なのだ。それが徒党を組んで、戦略的に砦を落とそうとしてくる。勇者の進言に半信半疑だった騎士たちの危機感が高まる。

 

「大砲をすぐに稼働させろ! 足止めできれば十分だ!」

「待機中の騎士と聖職者を直ちに招集しろ! 出し惜しみできる状況じゃないぞ!」

「王都に伝令を走らせろ! 魔王軍の総攻撃の可能性もあるぞ!」

 

 一気に砦の緊張感が高まる。甲冑をガチャガチャと鳴らしながらせわしなく人が行き来する。大戦前の、人員が十分にいる時期だけあって、騎士の練度は高そうだ。これなら吸血鬼相手だろうと上手くやるだろう。

 夜間にしか十分に力を発揮できない吸血鬼相手の防衛戦は、夜の間砦を守り切れればこちらの勝ちだ。終わりの見えない籠城よりもずっと楽と言える。ただし、一体一体が強力な吸血鬼の攻撃は苛烈を極めるだろう。

 

 騒がしくなった砦の中で、素早く勇者パーティーの仲間たちに指示を送る。

 

「ジェーン、砦の上から全体の支援を行ってくれ。集団戦では大規模な魔法が鍵だ。飛行する個体を優先して狙ってくれ」

「お任せを」

「オリヴィアも同じだ。通常の魔法では決定打は与えづらいだろう。騎士たちが戦いやすいようにうまく援護してやってくれ」

「もちろんです。メメさんも気を付けて」

「カレンの神聖魔法は敵陣に斬りこむ時に必要だ。危険だが、一緒に突っ込んでもらう」

「任せて!」

「オスカー、死ぬ気でカレンを守るぞ。俺も出る」

「言われるまでもないよ」

 

 こういう時に勇者に求められる役割は一つ。敵の頭脳となっている個体の撃破だ。いくら勇者が優れた能力を持っていようとも百の魔物を同時に殺すことは不可能だ。勇者の個として優れている能力は、防衛戦向きとは言えない。それに、今回はウラウスという危険極まりない魔物がいる。きっと最初の魔法もあいつの仕業だろう。

 だからこそ俺たちの、勇者パーティーの戦いは防衛ではなく反撃だ。最も危険な所に赴き、敵の最も危険な存在を刈り取る。最短で最高の戦果を出す、危険なギャンブル。チップは勇者の命、それから人類の未来だ。

 

「それじゃあ、行くぞオスカー。人類の未来のために」

 

 拳を突き出すと、今回は力強い拳で返された。



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39 憎悪の視線

 砦からは神聖魔法の神々しい光が次々に放たれて、吸血鬼を凄まじい勢いで墜としていった。最初から吸血鬼が来ると分かっていれば、対策も立てられる。

 

 吸血鬼といっても飛べる個体ばかりではない。地上を歩いてくる個体はあまりにも数が多く、神聖魔法も追いついていない。幸い、そちらについては直接斬り伏せることもさほど困難ではない。俺たちも道を塞ぐ吸血鬼を切り伏せていった。

 しかし、いくら援護があるといっても打ち漏らしはある。地を行く俺たちにとって問題なのは上空、急降下して襲い掛かってくる強い個体だった。

 光のない闇夜から、黒い影が降ってくる。漆黒の翼を背負い、女の顔をしたそれは牙を剥き、俺を同族に迎え入れようとしていた。

 

「単純だぞ蝙蝠野郎!」

 

 迫りくる体を撃ち返すように大剣を振る。地面から垂直に振り上げられた刃が吸血鬼に迫り、双方の勢いを利用して勢いよく突き刺さった。醜い断末魔をあげながら死体に還っていく、吸血鬼と名付けられた人間の死体。

 

 自分に迫る影が存在しないのを確認してから、オスカーの様子を確認する。宵闇の中でも、輝く聖剣が躍っている様子だけは克明に見えた。彼に群がる吸血鬼たちはその輝きに本能的な畏れを抱いているようだった。どこか動きが鈍く、近づくのをためらっている。

 

 そんな状況の中で、カレンの神聖魔法は一定の間隔で、確実に成果を出していた。詠唱が終わるたびに神々しい光が飛び出し、周辺の吸血鬼たちを倒していく。神聖魔法を受けた吸血鬼たちはその歪んだ魂を浄化され、ただの死体に戻る。それは俺やオスカーに倒されたものよりもずっと綺麗で、穏やかな死体だった。

 

 勇者パーティーの外に目を向ける。騎士や聖職者が俺たちと同じように砦の外に出て戦っているのが見えた。騎士たちは何も砦に引きこもっていれば良いわけではない。後方には街があるのだ。砦を抜けて街の方に向かっていく吸血鬼は、直接刃を交えなければならない。俺たちの周囲でも、ところどころで甲冑姿が戦い、神聖魔法が飛び交っていた。

 平原を駆ける。より血の匂いの強い方へ。より敵の多い方へ。光がなく足元が見えないので、油断していると転んでしまいそうだった。そんな中で、オスカーもカレンも問題なく俺についてきていた。

 

 三人で突撃する最中、視界の端に苦戦する騎士たちの姿が辛うじて見えた。想像以上の敵の物量に、聖職者の援護が遅れている。援護するには少し遠いか。下手に魔法を撃てば味方に当たりそうだ。

 強力で、剣で軽く刺された程度では死なない吸血鬼相手に騎士たちではジリ貧のようだ。辛うじて保たれていた均衡が破れ、吸血鬼の扱う強烈な魔法に断末魔もなく前衛が倒れる。素早く死体に駆け寄った吸血鬼が、その体に牙を立てた。騎士たちの狼狽が伝わってくる。

 やがて、一度倒れ伏した騎士が不自然な挙動で起き上がった。表情のない顔、目には血への渇望。それはかつての同族の血を求める鬼と化していた。

 

「はやく倒せ!今なら剣で倒せる!」

 

 思わず、遠くから声をかける。血を吸った吸血鬼は今度はカレンの方に向かってきて、オスカーと刃を交えていた。あの生まれたての眷属さえ倒せれば彼らは生き残れる。

 しかし、騎士たちは明らかにかつての仲間に剣を振るうことをためらっていた。動きが鈍い。パンデミックの予感。あのままにしておいたら騎士の姿をした眷属が増える。

 

「アタシが助けに──」

「ダメだ!オスカーの援護を止めるな!死ぬぞ!」

 

 カレンの言葉に、一瞬夢がフラッシュバックする。そのせいで震えた声が嫌に響いた。落ち着け。動揺は後だ。一瞬で頭の中の余計な感情、焦りを無理やり排除する。

 冷静に判断しろ。最適解を選べ。それは未来を知る俺しかできない。いつもそうだ。

 

「『炎よ!我が敵を穿て!』」

 

 俺の打ち出した炎は遠くにいる眷属の頭に直撃し、それを首無しの死体へと変えた。

 

「き、貴様──」

 

 目の前で仲間を燃やされた若い騎士が激昂していた。怒りのままにこちらに駆け出そうとするも背後の騎士に止められる。

 

「馬鹿止めろ!そんなことしてる場合じゃないだろ!」

「そうだ!目の前の敵に集中しろ!俺を許さなくていい!」

 

 若い騎士の憎悪の籠った視線にどうしようもなく高揚する。罪深き俺を断罪するような、嫌悪の瞳。体がカッと熱くなり、麻薬のように幸福感が全身に漲る。嗚呼、俺は今、正しく俺の罪を罰せられている。

 

「……メメちゃん……大丈夫?」

「……?ああ!最高の気分だ!」

 

 だって、彼が俺を背後から貫くその時まで生きなければならないではないか。断頭台への十三階段を登る俺の、なんと幸せなことか!

 ウラウスのいるだろう方に向けて駆けだし、高揚感のままに剣を振るう。期待よりも信頼よりも心配よりも、その憎悪は何より俺を高揚させた。

 

「二人は左の一体を頼む!俺が右側を抑える!」

「無茶だよメメ!数が多すぎる!」

 

 脳内が幸福で満たされている今なら何でもできる気がした。三体の吸血鬼の前に躍り出ると、すぐさま鋭利な爪先が襲い掛かってきた。速い。先ほどまでの平凡な個体と同じと考えて突っ込んだのは得策ではなかったかもしれない。

 一つを避け、一つを剣で弾き、もう一つは俺の腿のあたりに突き刺さった。

 

「──ッ……オオオオオ!」

 

 嗚呼、痛覚!罰!幸福で弾け飛びそうな脳髄はしかし、最適解を選び取っていた。爪が俺の体に突き刺さり、一瞬動きの止まった吸血鬼の心臓を貫く。二百年以上生きているような、特別強い個体でもなければこれで殺せる。

 

 すぐさま反撃が飛んでくる。今度は二つ。致命傷になり得る牙に剣を突き出して、もう一つの爪は俺の眼球を掠め、左の視界を奪っていった。視界の半分が赤に染まり、何も見えなくなる。やはり、肉体の脆弱さが目立つ。──望むところだ。

 吸血鬼の食いついた剣はそのままに、左手に氷柱を形成する。今なら一体は倒せる。俺は頭上から迫りくる爪を無視して、目の前の吸血鬼の心臓に氷の剣を突き立てた。怨嗟の声を上げながら吸血鬼の体が沈む。そして俺は、迫りくる爪に──

 

「メメちゃん!伏せて!」

 

 体が反射的に言葉に従って、身を屈める。夜闇を切り裂く光が頭上を通った。カレンの放った神聖魔法が寸分たがわず吸血鬼の頭を打ち抜き、その体を打ち倒した。

 

「大丈夫!?傷見せて!」

 

 カレンがすぐに駆けてくる。その表情は真剣だ。

 

「たいしたことないよ。心配してくれてありがとう」

「たいしたことあるよ!アタシにその顔と足の傷が見えてないと思ってるの!?いいから座って!」

 

 すごい剣幕のカレンにその場に座らされる。すぐさま治癒魔法が俺の体にかけられた。

 

「……もう、あんな無茶しないでよ」

 

 ぽつりとカレンが呟いた。

 

「ああ、できる限り怪我は避けるよ。心配してくれてありがとう」

「本当に分かってる!?あの調子で戦っていたらいずれ死んじゃうよ!アタシも助けられない時がある!どんな怪我でも治せるわけじゃないんだよ!?」

 

 ──分かっている。

 

 

 

 

 闇の中には血の匂いを漂わせる怪物たちが蔓延っている。時折、曇り空に雷鳴が響き、それに貫かれたいくらかが倒れ伏すが、それでもなお数が多かった。

 徐々に俺たちへの反撃が激しくなっていく。間違いなく敵陣の中枢まで来ている証拠で、頭脳であり、最も強い吸血鬼のすぐそばまで来ている証拠だった。

 

 今から見れば未来の話、魔王軍の全容が明らかになった時に、その個体に与えられた識別名は「貴族気取りの吸血鬼」。名乗る名前はウラウス。数多の人間を眷属として人間領に侵攻しようとする、三代前の魔王の頃から生き続けている強力な魔物だ。

 人類は歴史の中で幾度となくコイツと戦っている。しかし今にいたるまで三百年近く、討伐できていない。時の勇者と遭遇したこともあるにもかかわらず、毎回上手く逃げおおせている。

 

 

「そんなに急いでどこに行くのかな?今世紀の勇者、未熟な者よ」

 

 ふいに、上空から声がした。聞く者が思わず身をすくめるような、威厳に溢れた声。王国の王とはまた違った、相対するすべての存在が思わず平伏してしまうほどの傲慢な自信に溢れていた。

 声をかけてきたそれは、上空に、立っていた。重力など存在しないように振舞いながら、漆黒の双翼はびくともしていない。微動だにせず空中でとどまっている。今まで見た吸血鬼と比べて、それは明らかな異質さだった。そして俺は、そいつを良く知っている。

 

「あれが話にあげていた吸血鬼、ウラウスだ。オスカー、迂闊にカレンから離れるなよ」

 

 声が少し硬くなったのが自分でも分かった。剣を握る手に力が籠る。果たして今の俺に倒せるのか。不安が募る。思わず後ろの二人の顔を確認したくなった。

 しかし、そんな感情の揺らぎすらも、ウラウスの顔を見れば吹き飛んだ。幾度も殺してやろうと思った、美しい顔。手も足も出ずにただ弄ばれた時の記憶が蘇り、その時の憎悪で、他の感情は流されていくようだった。

 

 戦端を開いたのは俺だった。重心をグッと下に溜め、一気に跳躍する。一直線に中空のウラウスの元に飛び込み、大剣を突き出す。直撃すれば生命力の高い吸血鬼といえど重症は免れなかったであろう神速の突きは、しかし真正面から素手で受け止められた。俺の背後から追従するように神聖魔法の光が飛ぶが、ウラウスはひらりと身を躱してしまった。

 重力に従って地面に舞い戻る。やはり腕力が足りないらしい。そしてウラウスの俊敏さも相変わらずだ。今の俺では捉えられるか怪しい。

 冷や汗を垂らす俺を、ウラウスは黙って見下ろしていた。背中に汗が滲む。しかし、俺の心は激闘の予感に昂っていくばかりだった。どうやら長い戦いになりそうだった。

 

 



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40 最古の吸血鬼

 メメの攻撃を受け止めたウラウスは、今度は僕の方に文字通り飛んできた。風を切るその速度は今まで見たどんな魔物よりも早い。辛うじて見えた、突き出してきた鋭い爪を辛うじて聖剣で受け止める。後ろに吹き飛んでしまいそうなほどの衝撃。なんとかその場にとどまる。

 ウラウスの、同性でも惹かれてしまいそうな美しい顔がすぐそばに迫る。近づいたから分かる、邪悪な気配と濃厚な血の匂い。死を予感させる雰囲気は、相対しているだけで圧倒されそうだ。

 

 それでも、後ろに下がるわけにはいかない。後ろにはカレンがいる。絶対に彼女を守る。僕の戦う理由はそれだけでも十分なのだ。

 勇ましい決意とは裏腹に、その足が地面を抉りながら滑っていく。獰猛な大猪の突撃を受け止めているような、とんでもない力だった。

 押し切られる。そう思った瞬間に、ウラウスの背後からメメがすごい勢いで迫ってくるのが見えた。人体を容易く両断できそうな大剣の振り下ろし。当たった、ように見えた。

 

 僕の体がいきなり前につんのめる。ウラウスの体はいつの間にかその場から消え失せていた。否、体を霧にしたらしかった。事前に聞いていた吸血鬼の特徴を思い出す。強力な吸血鬼の特徴、一時的に体を霧にして移動できる。

 状況を察した僕とメメは、すぐにカレンとの距離を詰める。今最も警戒すべきことを考えた結果だった。

 

 案の定、カレンの背後に禍々しい気配が現れる。霧から実態を取り戻したウラウスは、鋭い爪をカレンに振り下ろす。

 突き出した聖剣とぶつかり合って、硬質な音を響かせる。やはりその爪は、人類最強の兵器を以てしても斬れる気配はない。ウラウスの背後からメメの豪快な横なぎが迫っていた。ウラウスは重力など存在しないかのようにふわりと避けると、一度距離を取った。

 

「ハハッ。泥臭い攻撃は醜くていけないな!」

 

 ハリのある声が辺り一帯に響き渡る。気品を感じさせる、嫌味な声だった。

 

「ハッ、死肉を貪る吸血鬼が何ぬかしてんだ」

 

 メメの挑発が耳に入ると、ウラウスは眉を吊り上げた。

 

「死肉を貪る!そんなにも下品が表現で我々の食を表されてたまるか!我らはただ、血を飲むという食事の一つのアクセントとして貴様らの肉を食ってやるに過ぎない。あまり下品な表現は止め給え。不愉快だ」

 

 ウラウスが言いながら腕を軽く振るうと、信じられない規模の竜巻が起こった。天に昇るようなそれは、一瞬でメメの小さな体を包むと、遥か上空まで連れ去っていった。

 

「メメ!」

「卑しい人間らしく、地に堕ちて死にたまえ」

 

 暴風で全く近寄れなかった。風がやむと、重力に従って彼女が墜落を始める。慌てて駆け寄るが、距離が遠い。受け止めることが、助けることができない。

 しかし彼女の矮躯が地面に勢い良く衝突するその直前、竜巻を再現するように、上向きの強烈な風が発生した。メメの魔術だろう。彼女は上手く風を操って、辛うじて手足を使って着地した。

 未熟な僕の意識がメメのほうに向いているうちに、ウラウスはいつの間にか次の魔法を完成させていたらしい。僕たち三人に向けて、凄まじい勢いの濁流が迫る。災害としか言いようのない、人の力を超えた現象。それに反応したのは、またしてもメメだった。

 

「『土塊よ!何物も寄せ付けない障壁となりたまえ!』」

 

 僕らの身長よりも遥かに高い壁が反り立つ。濁流は土壁にせき止められたらしかった。見たことのないほどの魔法の応酬に手も足も出ず、呆然と眺めていると、いつの間にかメメが僕の近くまで来ていた。

 彼女の暴風に晒された赤髪はいつも以上にボサボサだ。竜巻に巻き上げられた泥で顔は真っ黒。連続で魔術を行使したせいで呼吸は荒く、肩を上下させている。しかし、その黒い瞳だけは、夜闇の中で爛々と輝いていた。今のメメの端正な顔からは、殺気すら感じた。

 

「オスカー、この前見せた氷の障壁は今出せるか?」

「うん、でもあんな大規模な魔法防げないよ?」

「お前とカレンだけを守れれば十分だ。できるな?俺は次の攻撃で仕掛ける」

 

 短く要件を伝えると、メメは素早く僕のところから離れていった。カレンを守るのは僕に一任されたらしい。急にプレッシャーが僕の胃に重くのしかかってくる。

 思い出せ、僕の鍛錬を。自信を持て。魔術はイメージだ。カレンを守るんだ。それだけは、守ることだけは、あの辛口なオリヴィアにも褒められたじゃないか。

 緊張に鼓動を早める僕に、次の厄災が迫る。今度は、先ほどの土の壁への意趣返しのような土石流だった。大量の土砂の中には大ぶりの岩石が複数含まれている。まともに食らえば人間などあっさり死んでしまうだろう。

 

「『氷よ!我らを守る障壁となれ!』」

 

 震えを必死に抑えながら詠唱する。あまりにも小さな、等身大の盾。でも、僕にとって一番自信のある魔術。

 土砂が、殺到した。氷にヒビが走り、甲高い悲鳴のような音を上げる。時折岩石が直撃して、鈍い音を立てる。永劫にも思えた数秒後、それは泥の奔流を抑えきり、ついには僕とカレンの身を守りきった。

 

「『光よ!』」

 

 どこかから響く鋭い声。以前にも見た、メメの目くらましの魔術が発動する。夜闇を切り裂く光が迸る。それはウラウスの目元で爆発し、ひるませた。これまでウラウスが見せなかった、決定的な隙。息を潜めていた様子を見ていたカレンは、その瞬間をしっかり捉えた。

 

「『女神よ、彼の者に天罰を与え給え!』」

 

 これまでの戦いで何度も繰り返された光弾。それはウラウスの体に確かに届いた。しかし、僅かに浅い。見えないながらも必死に身を捩ったウラウスは、決定的な一撃を辛うじて右手で受け止めた。手首から右手が吹き飛んで、その美貌が苦痛に歪む。それまで余裕を見せていたウラウスの動揺。

 ひるんだウラウスに、メメが舞った。

 

「死に晒せ!」

「くっ……」

 

 メメの大剣は違わず頭部へと迫っていったが、辛うじて、無事だった左腕に受け止められた。僅かに決定打には届かなかったメメが、仕切り直しとばかりにこちらに戻ってくる。

 

「……なりふり構っていられんか。我が同胞よ!我らの天敵がここにいるぞ!打ち倒せ!」

 

 遮るもののない戦場に、その怒声は響き渡った。その号令に応じて、周囲の気配がこちらに近づいてくるのが感覚で分かった。多数の血に飢えた視線を感じる。敵陣の真ん中で、僕たちは吸血鬼たちに囲まれてしまったらしかった。

 

「オスカー、カレン!周りの雑魚を任せた!」

 

 振り返りもせずに僕らに呼びかけて、メメはウラウスへと飛び出していった。脇目も振らず一番危険なところに突っこんでいくその様子は、いつ見ても変わらず危うい。

 

「カレン、すぐに終わらせてメメを助けよう!」

「うん!」

 

 

 ◇

 

 

 極めて強力な個体であるウラウスに自由に動かれてはカレンの身が危ない。プレッシャーをかけて魔術を使う隙を与えないために、防御を捨てて攻勢に出る。ウラウスの鋭い殺気が全身を突き刺す。心地よい感覚に、俺の唇が捲りあがり醜い笑みを作った。

 

「うっとおしいぞ羽虫!」

「蝙蝠も似たようなものじゃねえか!さっさと堕ちろ!」

 

 爪と大剣がぶつかり合い、闇の中で火花を散らした。ウラウスに常に張り付いて、魔法を発動させる余裕を与えない。二人を守るためにはこれしかない。ウラウスは余裕を演じるのをやめたらしく、地上に降りてきて俺と打ち合い始めた。その体にピッタリくっつくように、斬撃を叩き込む。

 しかしその代償に俺の負傷が増えていく。爪が腕を掠めて鋭い痛みを感じる。跳ね上がった長い脚が顎を直撃して頭が揺れる。気絶しそうになるのを必死に堪える。ウラウスの攻撃は苛烈になる一方で、生傷は加速度的に増えていった。

 

 しかし、状況としては悪くない。後ろにはオスカーとカレンがいる。俺が時間を稼いでいる間に、二人が周囲の敵を蹴散らしている。彼らの姿は俺には見えないが、それは確信できた。そしてカレンの手が空けば、こんな吸血鬼など敵ではない。

 

 そして、なによりも、この痛み!罰!全身が訴えかけてくる絶え間ない痛みが俺を幸福の絶頂へと誘う。安酒などよりもずっと気持ちの良い酩酊感。嗚呼、脆弱で罪深いこの体に呪いあれ!

 血が流れるほどに、表情を取り繕うのが困難になっていく。口角は上がりっぱなしで、気づけば笑い声が飛び出していた。

 

「ハハハ!楽しいなゾンビ野郎!お前の爪の冴え最高だぞ!」

「気持ちの悪い顔をしおって。野犬のようだぞ人間。そんなに死にたいのなら一人で野垂れ死にたまえ」

 

 心底軽蔑したというウラウスの表情。そうだ、俺を蔑め。俺もお前が最高に嫌いだし、死ぬほど恨めしい。

 幸せになる価値のない俺にふさわしいのは、痛みと軽蔑だ。

 決して、決して信頼なんかじゃない!

 

「気どるなよ亡霊!」

 

 俺の叫びに応えるように、唸りをあげる剛腕が俺の耳元を掠める。死がすぐそこにある実感。最大の救いである終わりと背中合わせの状況は、俺の居場所が戦場であることを教えてくれる。

 

 飛び出して打ち合うたびに鮮血が飛び散る。その大部分は俺の体から噴出したものだ。出血し続ける体は痛みを訴え続けていたが、舞うのに不都合はなかった。体が傷つくたびに俺の脳は快楽に犯され、冴え渡っていく。爪の先端まで見える。ウラウスの表情の変化を細部まで読み取って、次の行動を予想できる。

 

「ちょこまかとうっとおしいぞ駄犬!さっさと地にひれ伏せ!」

「──ッ」

 

 予想外の動きだった。長い手が伸びてきて、爪先が肩を浅く抉る。傷は浅いが凄まじい衝撃だった。体が吹き飛ばされ、無防備な体を晒す。

 

「『風よ!』」

 

 即興の魔術でなんとか体を動かし、致死の一撃を辛うじて避ける。着地して一呼吸置く。しかし、そのまま休んでいる暇もなさそうだった。

 

 ウラウスの急速な魔力の高まり。ここで大規模な魔法を放たれるわけにはいかない。すぐさま俺は体当たりするように突進する。

 何度目か分からない、大剣と爪の激突。とうに感覚を失った両手は、なんとか柄を手放さなかった。ウラウスは未だ余裕そうな表情。今のは危なかった。もう少し遅かったらカレンを殺されていたかもしれない。

 俺が殺されるのは良い。ただ、カレンやオスカーが俺の目の前で殺されるのは許容できそうになかった。不安に胸が食いつぶされそうだ。あまりの焦燥に、無策にウラウスに突撃していきたくなる。

 

 落ち着け俺。焦ってもいいことはない。カレンとオスカーをこいつと戦わせるわけにはいかない。俺が死ぬのは今じゃないだろう。

 ウラウスの視線は時々カレンの方に向いている。彼女を殺す隙を探しているようだ。あの時とは違う。今度は、守る。

 

「いい加減堕ちたらどうかねボロ雑巾女。諦めれば我々の血液タンクくらいにはしてやるぞ?処女の血は美味いからな」

「気色悪いこと言ってんじゃねえぞ。お前が人間の血を吸う機会なんて二度と訪れないぞ」

 

 戯言を交えながら、本気で剣と爪を打ち合わせる。ウラウスの長い脚が跳ねあがってきたので、俺の脚を合わせる。右足に走る鈍い衝撃。それだけで思わず大剣を取り落としてしまいそうだ。

 

「戦力差は分かっているだろう?諦めたらどうかね」

「……ッ!」

 

 数えきれないほど得物を打ち合わせて、殺意をぶつけ合う。しかし傷を負うのは俺ばかりだ。全身が悲鳴を上げている。

 

 それでも、と俺は夢にまで見た宿敵を殺意を籠めて睨みつける。俺には復讐の機会が与えられている。それはとても恵まれていることだ。

 惨たらしく殺されたあの日のカレンにはそんな権利与えられなかった。彼女だけでなく、あらゆる人間がそうだ。だから、俺に諦める権利なんてないのだ。そんな権利は勇者になった時に失ったのだろう。あるのは前に進む義務だけだ。

 

「なぜそんな瞳をする?貴様の如き卑しき人間が何を背負うというのかね」

 

 突然、ウラウスが抽象的な問いを投げかけてくる。どこか、オリヴィアのものにも似た問い。それは挑発というよりも、単純な疑問であるようだった。知能の高い魔物によく見られる、遊びが余裕といった無駄、人間らしさの発露。好都合だ。時間を稼げる。

 

「俺が背負うのは、人の想いだ。好悪問わずな。お前みたいに自分に対する無根拠な自信ではない」

 

 聞いておきながら、ウラウスは嘲笑する。自信満々に。傲慢に。

 

「人の想い!面白くない冗談だ。そんな不確定で曖昧で、何よりも下らないもののために、貴様は地を這いつくばってでも進むとでも?」

「お前がそれをどう思うのかなど関係ない。俺にとってはそれが価値があるというだけだ」

「フン、理解できない考え方だ。そんな偽善者ばかりだから無責任で愚かな人間はここまで蔓延ったのか?」

「人間の存在意義なんて知らねえよ。ただ、俺とお前は天敵同士で、殺し合う必要がある。それだけだろう?」

「……やはり野蛮だな。会話が成立したと思った私が馬鹿だったよ」

 

 その嫌悪に呼応するように、ウラウスの爪は一層鋭さを増して俺に襲い掛かってきた。辛うじて弾いた大剣の柄がびりびりと震え、取り落としそうになる。

 しかし、それでも、こんな奴に負けるわけにいかない。優等種族気取りの傲慢なコイツに、人間を蹂躙させるわけにはいかない。弱っていく体を叱咤するよう叫ぶと、再び突撃する。

 

「オオオオオ!」

「……まだ力が衰えぬか」

 

 大丈夫だ、戦える。戦場にいる限り、俺の罪を罰せられている限り、俺の頭は少しでも長い酩酊を求めて最適の動きを選べる。醜く、生き汚く、戦う。

 

 

 

 

 戦いの喧騒響く夜闇に火花が舞い散る。疲労と出血を重ねた体は熱を失いつつある。俺の終わり、心臓が動きを止める時が刻一刻と近づいているようだった。その予感に恐怖し、そしてどうしようもないほど期待する。嗚呼、死が近づいてきている。醜い俺に罰を、救いを下さんと、首筋に迫ってきている。

 

 決定的な異変が起きたのは、何度目かわからない、唸る剛腕をいなした時だ。多幸感に浸り続けていた俺は気付かなかった。自分の体の危険信号の変化に。

 

「あ?」

 

 体がグラッと揺れる。手足が言うことを聞かない。隙だらけの状態を見逃すはずもなく、無防備な腹部に、爪が深々と突き刺さる。

 

「ガアアアア!ハッ!ハハハハハ!」

 

 臓腑を搔きまわされるような痛み。今までとは決定的に異なる、死を覚悟するような激痛。剛腕に持ち上げられた俺は身動きを取れそうになかった。しかし──

 



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41 夜の終わり

 僕の視界の端で高速で飛び回る赤い影。メメは休むことなく縦横無尽に動き続けてウラウスを翻弄し続けていた。大剣と爪が交錯して金属質な音を奏でる。両足で大地を踏みしめるメメに対して、ウラウスは重力など存在しないように中空にいられるようだった。常に高い位置からこちらを見下ろすその姿は、高貴さと傲慢さを想起させた。

 

「貴様などに用はない!忌々しい勇者と偽神の信徒を殺させろ!」

「勇ましいな臆病者!もう聖剣から逃げ回るのは止めたのか?」

「なっ──貴様!」

 

 メメの挑発にウラウスの迫力が増す。メメの体を爪先が掠め、僅かな血潮が夜の空を舞った。しかしその動きは衰えていない。

 彼女の体は、重力など存在しないように縦横無尽に飛び回り、それに合わせるように赤いポニーテールが跳ねていた。闇夜に舞う二つの影。目で追うのも困難なその光は、素早く動き目で追うのも困難だ。

 

「『彼の者に必滅の罰を!絶対の裁きを下したまえ!』」

 

 周囲の吸血鬼の隙を縫って、いつもよりも長い詠唱。闇を切り裂くカレンの朗々とした声が響く。飛び出した光弾はカレンの体よりも遥かに大きい。ウラウスに向かっていった光弾はひらりと躱されてしまう。カレンが歯噛みする。きっと彼女は切り結んでいるメメの身を案じている。

 

 彼女の剣は見ている者を不安にさせる。自分の身を顧みる様子が全く見られないのだ。その傾向は以前よりも強まっているように見えた。爪が頬を掠めるのを気にも留めない。鋭い蹴りが腹に突き刺さるのを全く避けもせず、突き出された脚に剣を突き立てようとする。細い体も、端正な顔も、既に傷だらけだ。

 

 泥臭い、なんて言葉では足りない気がした。傷を増やすために戦っている、と言ってもいいかもしれない。

 僕も加勢したいけど迂闊に動けない。周囲にいる敵はウラウスだけじゃない。号令によって集った吸血鬼は増える一方で、倒しても倒してもキリがなかった。夜闇にまぎれて亡霊たちは、天敵であるカレンの命を狙っているようだった。

 

「カレン、三時の方向!近い!」

「『女神よ、彼の者を罰したまえ!』」

 

 ウラウスの方はメメに任せざるを得ない。闇の中からは、光に群がる羽虫のように、数多の吸血鬼たちが近づいてくる。夜闇に響く足音は未だ多数。神聖魔法を繰り返すカレンの体力も心配になるほどの物量だ。

 

「──ッ、カレンに近づくな!」

「『女神よ、彼の者を罰したまえ!』オスカー、メメちゃんが!」

「分かってる……!」

 

 メメが地面に墜落していくのが見えた。助けにいきたいが、ウラウスの意識が常にこちらを伺っているのが分かる。致命傷になる神聖魔法を扱うカレンを殺す機会を虎視眈々と伺っていた。そうなることが分かっていたから、メメも僕に迂闊に動かないように言ったのだろう。

 

 ウラウスの他には、あれほど強い個体はいないようだった。聖剣とまともに切り結ぶような硬質な爪の持ち主は存在しなかった。カレンの神聖魔法も極めて効率的に敵を浄化していた。こちらの状況だけ見れば、順調といって良かった。問題なのはその数。あまりにも時間がかかりすぎだった。

 

 

 

 

 聖剣で吸血鬼を貫く。神々しい光が飛ぶたびに黒い影が倒れ伏す。もう少しだ。迫ってくる吸血鬼は徐々にその数を減らしている。もう少しでメメの助けに入れる。彼女は目を離すたびに傷を増やしているようだった。最初よりも明らかに動きが鈍っている。可憐な顔は今では血に覆われて見る影もない。

 

 そこにいたのは、小柄な少女ではなく、悪鬼のようだった。全身から発せられている、刺すような憎悪と嫌悪。どす黒い血に塗れた顔の中で、目だけが爛々と輝いて鋭く相手を見据えている。

 

 最後の吸血鬼の一団にカレンの神聖魔法が直撃する。三体がまとめて浄化されたのが見えた。もう周囲に敵の気配はない。

 

「メメ、下がって!」

 

 今にも死んでしまいそうな彼女に声をかける。見ているほうが肝を冷やすほどギリギリで致命傷を避けている。しかし僕の言葉への返答は、予想外の方法で帰ってきた。

 メメの体の動きが不自然に鈍る。ウラウスの爪が、ついにその中心を捉えた。重々しい、肉を貫いた音。致命傷に見えた。

 

「メメ!?」

「ガアアアア!ハッ!ハハハハハ!」

 

 しかし、メメの動きはそれで止まらなかった。死にかけの体で、腹を貫かれたままでウラウスの腕を掴む。メメの穴の開いた腹部と両腕が、ウラウスの腕を拘束した。死にかけの体からは嘘みたいな迫力が発せられていて、彼女は死ぬまでその腕を離さないのだろうと思った。

 

「は、離せ!野良犬!見苦しいぞ!」

「カレンッ!」

「ッ!『女神よ、彼の者に天罰を与えたまえ!』」

「有り得ない!貴様のような何者でもない、勇者でもない人間に殺されるなどあり得ない!」

 

 あまりにも捨て身の攻撃に面食らったウラウスは、死に物狂いの拘束から抜け出せないようだった。そのまま、カレンの発した光の弾が直撃する。ウラウスの全身から力が抜ける。

 

 あまりにもあっけない幕切れ。メメの体に腕を突っ込んだままで、ウラウスは地面に倒れ伏した。その瞼はもう、二度と開くことはなかった。最古の吸血鬼は、今ここに300年の生を終えた。その表情は屈辱にまみれていて、その最期がひどく不本意であったことが窺えた。

 

 折よく、空が白みはじめていた。

 

 

 ◇

 

 

 ウラウスはもう二度と動かない。神聖魔法をまともに受ければ、どれだけ強力な吸血鬼であろうとも絶命は免れない。それは三百年を生きたウラウスとて例外ではない。俺の内臓の破壊と引き換えに、奴はその仮初の命を落とすことになった。

 朝が来るまでに砦を落とせなかった以上、吸血鬼たちの敗北だ。朝日の元では彼らは満足に活動できない。あとはもう、騎士団だけでも十分だろう。

 

「メメちゃん大丈夫!?」

 

 カレンが駆け寄って来たのが分かったが、返事をする気力はなかった。ウラウスの死体と共に地面に落ちた姿勢のまま、俺は瞼を閉じた。

 

 

 

 

 俺が目を覚ましたころには、太陽はすっかり真上まで登っていた。砦の一室らしきところで寝かされていた俺は、ゆっくりと上体を起こす。そして頭痛に顔を顰める。全身が倦怠感を訴えかけてきていた。しかし自分の体を見下ろしても外傷はもうなかった。治癒は済んでいるらしい。体の状態を確認した俺は、自分が見知らぬ服を着ていることに気付いた。

 

 白い、これといった特徴のない服だ。そして、今の俺の小さな体にはサイズが合っていない。少し体を伏せると、ぶかぶかのシャツが垂れ下がり、下着に包まれた貧相な胸部がチラチラ見えた。

 ……誰が着替えさせてくれたのだろうか。赤子のように服を取り換えられる自分の姿はあまり想像したくなかった。

 

 ズボンの裾を何回も折って、足をなんとか出す。ようやく歩けるようになった時に、カレンが部屋に入ってきた。

 

「あ、メメちゃん起きたんだ!良かったぁ」

「カレン……。どうしてここに?」

「メメちゃんのお世話はアタシが請け負ったからね。あ、その服ぶかぶかでごめんね。予備の服、男の人のサイズのやつしかなくってさ」

 

 俺はカレンに着替えさせられたのか……。その絵面を想像して羞恥心を感じながらも、現状を聞く。

 

「あの後何事もなかったか?」

「うん、あの一番強いやつを倒した後は、騎士の人たちがあっさり吸血鬼たちを撃退しちゃった。今も警戒してるらしいけど、もう大丈夫だろうってさ」

「……被害はどうだった?」

「騎士の人たちと聖職者の人たちが何人か殉職しちゃったって。でも敵の規模のわりに大した被害にならなかったって言ってた」

 

 大した被害じゃない、ってなんだろうね、とカレンは独り言のように呟いた。

 

「メメちゃん、お腹は空いてる?水ならここにあるよ」

「ああ、頂くよ」

 

 

 持って来てもらった食事を始めてからも、カレンは部屋を離れようとはしなかった。何故かニコニコしながら俺がパンを咀嚼する様子を眺めている。

 

「……俺の食事なんて眺めてて楽しいか?」

「うん!その豪快な食べ方を見てると、なんていうか生きてる、って感じがする!」

 

 なんだそれは。満面の笑顔で返答されてしまう。視線に若干のやりづらさを感じながらも、やや硬いパンをもしゃもしゃと食べ進める。

 しばらくの沈黙の後、その笑顔の質を少し変えたカレンが、ポツリと呟いた。

 

「でも、メメちゃんが元気で良かった。正直、このまま起きないんじゃないかな、なんて思っちゃったよ。ハハ」

 

 冗談めかして笑うが、彼女の目は真剣だった。

 

「──本当に、良かった。あそこで倒れたメメちゃんを見て、もう起きないんじゃないかと思ったから」

「……そうだな」

 

 しばらくの沈黙。カレンは何かを考えこむように少し俯いていた。

 

「ねえ、メメちゃん」

「なんだ?」

「どうして君は、あんなに自分を大事にしないの?」

「……」

 

 それは俺が、数多の失敗の、罪の上に立っているからだろう。答えはすぐに出たが、口にすることはできなかった。

 

「メメちゃんは見ていて不安になるよ。目を離したらどっかに行っちゃうんじゃないかって思う」

「どこにも行かないよ」

「うん、そうかもしれない。ただの根拠のない不安なのかもしれない」

 

 根拠のない俺の言葉に、でもね、とカレンは透き通った声で続けた。

 

「君が何を思っているのか、どうして戦うのか、話してもらえないかな、って思う」

「──それは、できないよ」

 

 できるはずがない。蘇りが禁忌だからではない。俺が俺の罪を全てさらけ出すなど、怖くてとてもできない。醜い俺に対して、カレンの言葉はどこまでも暖かい。

 

「でも!アタシはメメちゃんの言葉に救われた!君に手を差し伸べられたアタシは、君にも何かしてあげたい!困っているなら、苦しんでいるなら、手を差し伸べたい!…………そんなお節介、図々しかったかな」

 

 そんなことないよ、と否定したかったが、言葉は出なかった。何も言えずしばらく無言でいると、俯いていたカレンは急に立ち上がった。

 

「ごめん、変な事言った!メメちゃんはしばらく安静にしててね。じゃあ!」

 

 こちらも見ないで言うと、カレンは部屋を出ていった。何も言えなかった。

 手元のパンを口に入れる作業を再開する。硬いパンは嚙んでも嚙んでも、中々喉を通らなかった。最後に彼女が吐露した想いが、頭の中を反響していた。

 




第二章、これにて完結です


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EX 天使の奉仕場

二章の番外編は、例によって明るい話と暗い話の二本です


「オスカー!今すぐ出る準備しろ!いい所連れてってやるよ」

「ノックも無しに僕の部屋入ってくるの止めない!?」

 

 オスカーの宿の部屋に突撃すると、開口一番文句を言われた。今更お前に隠すことなんてないだろ。たとえ俺が失った下半身のモノを丸出しだろうと構わん。

 

「行くってどこにいくのさ。もう夜だよ?」

「夜しか開いてないんだよ。後悔はさせないから、いいから付いて来いって」

「相変わらず強引だなあ」

 

 二人連れたって外に出る。ナルティアの街、その北側は夜でも多くの店に灯りがあった。最も数が多いのは酒場だ。外からでも大きな話し声が聞こえてきている。賑やかなその様子から、繁盛していることが窺える。

 続いて多いのが風俗店。こちらは酒場に比べて光が少ない。店先では煽情的な服を着た女たちが客引きをしていた。ちょろそうなオスカーの姿を見て呼び込もうとしていたが、俺の姿を確認するとすごすごと引き下がっていった。

 いや待て。何が「チッもう女つきか」だ。誰がこいつの女だ。ふざけたこと言いやがって。

 オスカーは街の独特な様子に少し不安げだ。時折周囲をキョロキョロと見渡している。情けないからやめて欲しい。

 

「ねえメメ、本当に僕たちこんなところに来てよかったの?昼間と雰囲気が全然違うんだけど」

「気にすんな気にすんな。どうせ俺たちのことなんて誰も見てない。……着いたぞ。ここだ」

「『天使の奉仕場』……ここ、話に出てたいかがわしいお店だったよね!?」

「いかがわしい?何言ってんだ。ただの飲食店だよ。ただ店員がやたら露出度が高くて、ちょっと値段が高いだけだ」

「いやグレー!こんなところ僕たちが入っていいの!?」

 

 答えずに扉を開けると、繁盛している中の様子が目に入った。席に座る客は全て男だ。誰も彼も店員と会話するたびにだらしなく鼻の下を伸ばしている。

 応対する店員たちの服はやはりいつ見ても煽情的だ。ベーシックなメイド服を基調としている。しかしそのスカート丈はこれ以上ないほど短い。そして上半身は胸のあたりまでしか布で覆われておらず、肩、それから胸の上部を露出している。相変わらず刺激が強い。店員たちはみな一様に綺麗な顔立ちで、朗らかな笑顔で接客をしていた。

 

「め、メメ。なんかすごいところだけど、本当に入っていいの?」

「いいから行くぞ」

「あちょっと、手引っ張んないでよ!」

 

 オスカーを引きずりながら入店すると、すぐに店員に声を掛けられる。

 

「いらっしゃいませ。二名様ですか?」

「はい」

「こちらへどうぞ」

 

 俺の背丈に合わせて、店員が僅かに屈んで話しかけてきた。前のめりになったことで、その大きな胸部が露わになる。後ろでオスカーが息を呑んだのが分かった。

 どうだ。お気に召しただろう。なんたって俺の男の頃のお気に入りの店だ。まだ精神的に余裕があった頃は、よくここに来たものだ。カレンにバレて白い目で見られたっけ。

 

「おいオスカー、何注文するんだ?早く選べ。時間がもったいないだろうが」

「テンション高いね……。全部高価だなあ。オムレツとか?」

「おお、それを選ぶとは分かってるなあ」

 

 しばらくするとオムレツが二つ運ばれてくる。黄色い表面はフワフワで美味しそうだ。

 

「それでは、愛情を込めさせて頂きますね」

「えっ?」

「お願いします!おいオスカー!よく見てろよ。職人技だぞ!」

「メメはなんでずっとテンション高いの……」

 

 店員はケチャップを持つと、俺のオムライスにそれをかけはじめた。

 

「美味しくな~れ」

「ああ、ありがとうございます!ほら見ろオスカー!この愛の籠った詠唱!そして絶妙な角度で屈んで強調される胸部!これこそチラリズム!パーフェクトだ!」

「ねえメメ、お酒飲んでないよね?キャラ変わってるよ?」

 

 二人のオムレツにケチャップがかけられた。黄色いキャンパスには赤いハートマークが綺麗に描かれていた。

 

「いただきます。……おお、やっぱりうまいな」

「うん、高いお金取るだけあるね」

 

 しばらく二人で、脇目も振らずに食べ進める。話し声もなく、食器の擦れる音だけが響いた。そしてほとんど同時に食べ終わる。どちらの食器も綺麗に空っぽだった。

 

「それで、どうして僕をここに連れてきたの?」

 

 最後に水を飲み干して、オスカーが不思議そうに尋ねてくる。

 

「お前こういうの好きだろ?鍛錬と戦いばっかじゃ疲れるからな。息抜きさせてやろうと思ったんだ」

「す、好きじゃないけど……」

「目がめちゃくちゃ泳いでるぞ。さっきから店員の方チラチラ見てたじゃねえか」

 

 言われるとオスカーは少し顔を赤くして俯いた。……その表情やめろ。他人として見るとかなり気持ち悪い。

 しかし、彼の戦場に立つ姿は少しずつ様になってきたように思う。先日のオスカーのカレンを守る姿を思い出す。悪くない剣さばきだったし、悪くない気迫だった。

 

「まあ、あれだ。お前は結構頑張ってる。だからたまにはいい思いさせてやろうと思ったんだ」

「……」

 

 オスカーは信じられないものを見たように、あんぐりと口を開けて固まっていた。なんだ、せっかく褒めてやってるのに。

 

「……なんだ、その鳩が豆鉄砲を食ったような顔は」

「いや、僕に優しいメメなんて偽物かなと思って」

「失礼だな!」

 

 あんまりにもあんまりな言い草に少しムッとしてしまう。そんなに俺は厳しかっただろうか?

 ──であれば、少しくらい素直に気持ちを伝えるのも良いか。

 

「……これでもお前のことは見直したんだよ。あの時、カレンのことを守りきってくれただろ」

 

 俺と違って。未熟ながらも懸命なオスカーの姿を思い出す。必死な姿は中途半端に擦れた俺とは違って、今この瞬間に全力だった。それは俺がいつしか憧れた勇者の理想像で、いつしか諦めてしまったものだった。嫉妬するのも馬鹿馬鹿しくなるほどの、正しい在り方。

 

「それは……メメが僕の前で戦ってくれていたから頑張れたんだよ。僕一人だったらきっと、頑張れなかった」

 

 その瞳は真剣で、真っ直ぐに俺を見据えていた。むずかゆい信頼。それを嬉しいと思う自分と、重い、と思う自分がいた。

 

「ま、まあ、お前が頑張っていたからな。それに対する褒美みたいなもんだよ。今日は」

「まあ気持ちは嬉しいけど。……まさか女の子にこういう店に連れてこられるとは思わなかったよ」

「好きだろ?」

「…………まあ」

 

 カレンには見られたくないなあ、などと彼はぼやく。恋人でもないくせに何を言っているのやら。

 

「でも、この店のこと詳しそうだったね。前に来たの?」

「ああ、だいぶ昔にな」

「メメのだいぶ昔って、かなり小っちゃい頃かな?ジェーンさんとでも来た?」

「誰が小っちゃいって!?」

「敏感すぎるでしょ!今のメメが小っちゃいとは言ってないよ!?」

 

 聞き捨てならない言葉が聞こえた気がしてつい反応してしまった。しかし、しまったな。過去の話をしようとするとどうしてもボロが出てしまいそうだ。

 

「まあ、俺は大人だからな。色んな経験をしてるんだよ。お子様なお前と違って」

「まあ、何かと経験豊富なのは分かるけど」

 

 でも大人って言われるとなあ、などとぼやくオスカー。何だか納得していない様子だった。まあ、何が言いたいのかというと。

 

「──だから、お前は前だけ向いて、自分のしたいことをしてくれ。下らないことは俺に任せればいい」

 

 正しいことを。下らない些事に囚われるのなんて俺だけでいいのだ。必要な犠牲を考えるのも、無能な味方を切って捨てるのも、穢れた俺がすればいい。お前は妬ましいほどに俺の理想であり続けてくれ。

 

 そんな俺の思いが試されるのは、案外すぐだった。

 



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IF メメのバッドエンド 彼女亡き後

本編とは違う、もしもの世界の話です




「メメちゃん大丈夫!?」

 

 慌てた様子のカレンが倒れ伏したメメの元に駆け寄る。しかし、返事はなかった。凄惨ともいえる生傷に顔色を変えて駆け付けたカレンの眼前にあったのは、もはや物言わぬ屍だった。

 

「──ッ!メメちゃん!」

「そんな……メメが……」

 

 カレンが絶叫し、オスカーが呆然と呟く。両者の声は、受け入れ難い結末に震えていた。そんなわけがない。あんなにも勇ましかった彼女が、こんなところで死ぬわけがない。オスカーの思い込みは、しかし彼女の死に顔を見てすぐに否定された。

 

 ようやく登り始めた太陽に照らされたメメのもう動かぬ顔は、未だ苦痛に喘いでいるようだった。痛みに絶叫していた口からは大量の血が飛び出した跡が見られる。見開いた目は何を映さず、ただそこには光のない黒のみが存在した。

 その表情には、救いなどどこにもないようだった。

 

「『女神よ!最上の癒しを!』『っ女神よ!最上の癒しを!』うっうううう『女神よ!」

「もういいよカレン!フラフラじゃないか!」

 

 何度目か分からない暖かい光がメメの死体を包んだが、もう治せる傷は治った後だ。変化はない。心臓は動かず、その体が起き上がることは、もうなかった。

 オスカーに止められても、彼女は詠唱をやめなかった。瞳からは絶えず涙が流れ続け、その顔は唇まで真っ青だ。神聖魔法の使い過ぎで、明らかに体調不良を起こしている。

 

「なんで!傷は塞がってるのに!心臓が動いてくれない!どうしてなのオスカー!?ねえ、アタシはどうすればメメちゃんを助けてあげられる!?」

「カレン!落ち着いて!」

「そんなの嫌だよメメちゃん!アタシを助けるだけ助けて、助けさせてくれないなんて絶対許さないから!『女神よ!彼の者に最上の癒しを!』」

 

 カレンの狂乱は、騎士たちが死体の回収に来るまで続いた。オスカーにはそれを止める術はなかった。

 

 

 ◇

 

 

 人が死ぬとはこんなにあっけないことだったのか、とオリヴィアは感慨に浸る。あの後、メメの遺体は速やかに棺に納められ、土葬された。家族など身元の確認は取れず、葬儀は小規模に行われた。

 メメの兄を名乗っていたジェーンという男は、彼女の死と同時に姿を消していた。オリヴィアに驚きはなかった。きっとそういう人間なのだろうと思っていた。メメのこと以外どうでも良いと思っていたあの人は、今どうしているのだろうか。それだけが少しだけ気になった。

 

 

 何度訪れても、集合墓地は人気がなくひっそりしている。

 オリヴィアは墓前に跪き、花を手向ける。物言わぬ彼女は、それに対して彼女は何も返してくれない。言葉も、気持ちも、想いも。オリヴィアの手元には、彼女に贈ったはずの蒼色の小さな宝石の嵌まった髪飾りだけが残った。

 

「初めて、でしたのに」

 

 ぽつりと呟く。感情の籠った言葉は誰にも聞き咎められず、空へと消えていった。

 初めてだった。身分の高い、人よりも優れた才能を持って生まれた、自分の瞳を臆せずに真っ直ぐに見つめてくれる人。公爵令嬢としてではなく、単なるオリヴィアを見てくれる人。

 その何物にも左右されない毅然としたあり方に親近感を覚えた。そして、その苛烈なあり方に危ういものを覚えた。

 

 墓標の表面、簡素な石碑をそっと撫でる。冷たくて硬い感触が、自分たちの取り返しのつかない失敗を責めているようだった。

 

 きっと、もっとちゃんと止めるべきだったのだ。オリヴィアは彼女らしからぬ後悔を続ける。メメの危うさに気づいたその時に、無理やりでも止めるべきだったのだ。

 分かっていたではないか。彼女はもう戦場に立つべき人間ではないのだと。過酷な命のやり取りをするには、その心は擦り切れすぎていた。

 だからきっと、自殺紛いの特攻をしていったのだろう。オスカーから聞いた話を思い出す。相手を殺すことを何よりも優先して、自分の命すら顧みなかったメメの最期。話を聞くだけでも胸を締め付けられる思いだった。どうして彼女の背負っていた何かを代わりに背負ってあげられなかったのか、と。

 

 墓石からそっと離れて、いつも持ち歩いている髪飾りを撫でる。あの時彼女に贈ったもの。鈍色の中央に、サファイアの青い光。きっと自分は、この髪飾りに自分を重ねていたのだろう。オリヴィアは彼女がいなくなってから自分の無意識に気づいた。

 彼女の燃えるような赤髪とは対照的な、理性を示すような蒼い光。自分が彼女にとっての激情のストッパーに、踏みとどまる理性になりたかった。

 彼女が自分を不自然なほどに大切にしてくれているのは分かっていた。口ぶりはいつも柔らかく、自分を見る目はいつも優しげだった。

 だから、大切にしてほしかった。自分から渡された髪飾りを、大切にしてくれると思った。しかしきっと、大切に思う気持ちよりも彼女の燃えるような憎悪の方が強かったのだ。だから、取り返しのつかない結末を迎えた。

 

 サファイアにそっと指をあてる。宝玉のツルツルとした表面は、人肌には冷たすぎた。

 

 

 ◇

 

 

「カレン、もう少し食べようよ。また痩せてるよ?」

「ううん、いいの。心配してくれてありがとうオスカー。じゃあ、アタシは教会に行くから」

 

 そっけない態度のカレンが食卓を去ってしまい、オスカーは歯噛みする。また、彼女に何もしてあげられなかった。後悔する少年の心に浮かぶのは、一人の少女の姿。ああ、メメならこんな時、あっさりと悩みを解決してみせるのだろう。

 

 オスカーは、これ以上目の前の料理に手を付ける気になれず、そっと食器を置いた。どうして自分だけが生き残ってしまったのか。後悔だけが残っていた。

 

 オスカーにとってメメは憧れだった。何をやっても自分よりも上手くやってみせる頼もしい背中。オスカーにとっての理想の勇者像だった。だからだろう。彼女ならどんな状況でも切り抜けてくれると思ってしまった。その結果が、あのざまだ。

 彼女が何か重いものを背負っているのは分かっていた。時折言動に表れる不安定な心。何かに囚われているようだった。分かっていながら何もできない。それどころか、オスカーは自分の重荷まで背負ってもらった。

 メメの、勇者の代わりくらい務めてやるという、傲岸不遜な宣言。その時の、勇者よりもずっと勇ましい姿に失念していたのだろう。彼女はただの一人の少女なのだと。気づいたときには彼女は二度と起き上がることはなかったのだ。

 

 聖剣の横、腰に差した大剣の柄を撫でる。メメから受け継いだそれは、恐ろしいほど聖剣のサイズにそっくりで、手に馴染んだ。しかし、その硬質な手触りが、オスカーにはどうしても自分の持ち物だとは思えなかった。

 

「メメ、せめて君の意志だけは継いでみせるよ」

 

 オスカーは考えたのだ。どうすれば彼女に償えるか。どうすれば彼女を殺してしまった贖罪をできるのか。答えは彼女の言葉の中にあった。

 魔王を殺す。彼女はそれに自分の人生全てを賭けていると言っていた。であれば、それを手向けとしよう。魔王を殺したとしても彼女が蘇るわけでもない。しかし、そうでもしなければ、彼は自分を赦せる気がしなかった。

 

 黒い双眸に決意の炎が灯る。暗く濁った瞳は、赤髪の少女のそれと酷似していた。




ジェーンはメメが死んだ時点でこの世界に存在する意味を無くしました

ちなみにメメは赤髪黒目、オスカーは黒髪黒目です。(野暮な説明でしたか?)

三章開始はとりあえず一週間以内を目途に頑張ります


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夢見がちTS少女と偶像気取りの人魚
42 勇者


 勇者という名前は、女神暦千年の間ずっと人類の希望だった。魔王という人類の天敵を倒す、最強の人間の呼称。人の身でありながら、最も神に近い存在。

 勇者の魔王討伐の戦いには人類全てが協力して、その戦いを後押しする。金を出し、騎士たちを動員する。勇者が負ければ人類は魔王に蹂躙されるのみとなってしまうからだ。魔王を倒せるのは勇者が扱える聖剣のみ。

 人間の国々は必ずしも良好な関係を築いていたわけではなかったが、勇者の戦いを後押しすることにおいてのみ、比較的上手く協力してきた。

 誰もが勇者という名前に希望を見出す。魔王という闇を払えるのは勇者だけだ。誰もが、その名前に幻想を抱く。きっと自分たち全てを完璧に救ってくれるに違いない。しかし、勇者もまた、他の人間と同じように、不完全な人間なのだ。

 

 

 

 

「オスカー!早く早く!もう始まっちゃうよ!」

「そんなに焦らなくても大丈夫だぞカレン。開演まではもう少しある」

「カレンさんは随分楽しそうですね。そんなに演劇が好きなんですの?」

「だって、ジャウェンの劇なんでしょ?子どもの頃から聞いてた御伽噺の世界が舞台で見れるなんて、楽しみに決まってるじゃん!」

 

 いつも元気なカレンはいつも以上に機嫌がよく、その声は弾んでいた。俺たちの進む王都の劇場への道は、多くの人が同じ方向に向かって歩いていた。朝日に照らされる彼らは、全体的に身綺麗なものが多いだろうか。王都の中でも比較的裕福な層が集まっているようだ。演劇は、ものによっては貴族が楽しむような高尚な趣味だ。チケット代も、娯楽に費やすには少し高めに設定されている。

 

 俺たち勇者パーティーの面々がその観劇に赴いているのは、劇場からの招待状が届いたからだ。手紙を送ってきた劇場の主曰く、勇者の士気高揚のために、歴代の勇者にも今回の演目を見てもらっているらしい。俺の時も勇者パーティーの元に招待が届いていた。

 

 今回俺たちが見る演目、『ジャウェンの冒険』とは、初代勇者ジャウェンの活躍を描いた英雄譚だ。原初にして最も名高い勇者、ジャウェンの活躍を壮大に、勇敢に、完璧に演出していると王都でも評判らしい。

 そのあらすじは有名だ。勇者として一人魔王討伐の旅に出たジャウェンが、初代魔王からの刺客を様々な方法で撃退していく。痛快な討伐劇は、子どもに聞かせる御伽噺から王都の演劇に吟遊詩人の詩まで幅広い方法で伝えられている。王国民ならその大筋を誰もが知っていると言っても過言ではないだろう。俺も幼い頃聞かされていた。

 

 ──そして今は、俺はこの物語が大嫌いだった。

 

 

 劇場は中も外も丁寧に整備されていて、その小奇麗な様子は、建国から存在するような歴史ある建物に見えなかった。

 

「かなり良い席に招待されましたね。舞台前は貴族でも中々席を取れないものです」

「なるほど、座席が十個も前になると値段が跳ねあがるのですね。この程度の距離に価値を見出すとは、人間は相変わらずよく分からないものに価値を付けますね」

「お前のそのぶっ飛んだ価値観まだ治らないの?もう結構ここで暮らしてるよなお前」

 

 ジェーンは相変わらず独特な価値観を有しているらしかった。無表情に奇妙な事を言うその様子は、かなり奇人だった。

 

 開演前の劇場は、これから始まるエンターテインメントへの期待でいっぱいだった。客席では、抑えられた話し声が所々から聞こえてくる。声量は小さいが、隠し切れない興奮が感じ取れる。

 

 

 

 

 やがて、数多の視線を集めて、深紅の緞帳がゆっくりと昇る。幕が上がりきり、観客の視線が舞台の中央に向かう。舞台の中心で一人魔道具のスポットライトを浴びているのは、整った、されど勇猛そうな顔をした演者だ。

 彼は、初代勇者ジャウェンは、高らかに宣言する。

 

「おお、天におわせし女神様!我々人類の最後の神よ!貴女から授かったこの神聖なる剣を以て、私は必ずや、悪しき魔の王を打ち倒してご覧にいれましょう!」

 

 彼は女神に誓いを立てるように、黄金色の剣を天に向けて掲げる。聖剣を模しているらしいそれは、本物の輝きには劣るが立派な造りだ。

 

 ジャウェンは一人、魔王討伐の旅に出る。極めて神に近い体を持つ彼は、仲間を必要としなかった。聖剣を携えて単身魔族領へと向かうジャウェンには、多くの魔物が殺到した。劇の見せ場、殺陣のはじまりだ。

 

「悪しき者どもよ、聖剣の輝きに倒れろ!」

 

 ジャウェンの持った模造剣が振りかざされ、羊の頭部の被り物をした演者を打ち倒す。殺陣の出来は、演劇にしては中々のものだ。黄金色の輝きが舞うたびに異形の化け物は派手に倒れ伏す。魔法の演出は派手で、舞台道具で再現された魔法が飛び交うたびに、観客から感嘆の声が漏れ聞こえた。

 ジャウェンの戦う様は圧倒的で、苦戦する様子など少しもなかった。最初の宣言通りに、彼は魔王を倒すために次々と魔物を打ち倒していった。豪快な剣技と規格外の魔法は敵を寄せ付けず、その体には傷一つ付いていないらしかった。

 

 

 物語も中盤になると、悪辣な魔王によって様々な試練が次々と与えられたが、彼はそのいずれも完璧に打ち倒して見せた。

 村に襲い掛かる大量のゴブリンの群れを全て斬り捨て、人体の三倍はありそうな巨人を大規模な魔法で沈める。人間の女のふりをして近づいてきた魔物には膝を付いて手を差し伸べて見せて、正体を見せたそれには容赦なく対処した。

 そこには一つも犠牲はなく、ただ勇者が勝利を収める姿だけが表現されていた。

 

 ──反吐が出る。

 

 物語も佳境となり、真祖を名乗る一際強い吸血鬼を倒した後、初代勇者はついに魔王と対面することになる。ついに対面した、対決を宿命付けられた二人は芝居がかった会話劇を繰り広げる。

 

「おお、魔を統べる王よ!貴様は何故、無辜の民を襲うのか」

「それは私が破壊と混沌を何よりも好むからだ。人の悲鳴が聞きたい。血の匂いには興奮する。殺し合いは何よりの娯楽だ。分かったら忌々しい聖剣を持つ勇者よ、私に道を譲るのだ」

「なんと邪悪な事か!もはや貴様を生かしてはおけぬ!ここに、正義の女神、ユースティティアの名の元に、裁きを下す!」

 

 魔王が混沌を好むわけがあるまい。豊かな人間の領地が欲しいだけだ。むしろ魔物を統率しようとするはずだ。

 分かりやすい悪らしい台詞を吐いた魔王が勇者に襲い掛かる。今までにないほどの派手な演出と、迫力ある剣のぶつかり合い。

 

「何と禍々しい気配か!叛逆神の呪いを受けた悲しき者よ!この世界のために静かに眠り給え!」

「我らに降り注ぐ神の祝福を否定するな!それは貴様の瞳が偽神の与える光に眩んでいるに過ぎぬ!」

 

 舌鋒もまた剣先と同じく鋭く、両者が和解することはないのだろうと観客は予感した。そして、激戦の末に、魔王は勇者の聖剣に切り捨てられた。醜い断末魔と共に、魔王は最期の言葉を残す。

 

「忘れるでないぞ忌々しき勇者よ!我らの神は死んではおらぬ。貴様の寿命が尽きる頃、必ず次の魔王が立ち上がることだろう!」

 

 斯くて、魔王という悪は討滅され、人の世には平穏が戻った。勇者はその後、現在のパンヴァナフ王国を建国し、次の魔王軍との戦いに備えて国を発展させていった。

 めでたし、めでたし。

 

 現実とは比べることもおこがましいほどの、あまりにも都合の良い物語。けれども初代勇者は、それを成し遂げるだけの力があった、らしい。

 当時は女神暦に移行してまだ数年だ。大神の影響が濃く残る世界では女神の加護は人類全てを包み、とりわけ勇者が女神から賜った力は、今の勇者の比ではなかったらしい。ジャウェンの力のすさまじさは、後世にも詳細に語り継がれている。歴史の叙述が正しければ、その力は後代の勇者の何倍もあったのだろう。

 

 ジャウェンの冒険の後も、魔王と勇者の戦いは何度も行われている。

 魔王を倒した後、聖剣は女神の加護の光を失い、ただの剣になってしまう。そして次の魔王が現れた時、人の世に新しい聖剣と新しい勇者が誕生する。これが十代も続いてきた勇者の歴史だ。

 

 

 そして今代の勇者は今、ここに座っている。俺の隣に座るオスカーは、劇が終わった後でもどこか呆然としていた。

 

「オスカー!凄かったね!……オスカー?」

「あ、ああうん。カレンと一緒に聞いていた御伽噺の通りだったね」

 

 その様子に、カレンが少し首をかしげる。言いながらオスカーはとても高揚しているようには見えない。不安を、不満を隠すように、無理して笑っている。

 見覚えはなかったが、覚えはあった。俺にはその心理が誰よりも理解できた。演劇を通して、勇者という名前、その重さを改めて見せつけられた気分。自分もああならなくてはならないのかという焦燥、絶望。

 当たり前のように人を救い、苦戦もせず魔物を倒し、ただ人のために尽くす、完璧な存在。初代勇者はまさしくそんな人類の希望の象徴だ。とても、俺や彼のような村人の少年になれるものではないのだ。そしてその偶像の姿は、人々の勇者という存在への期待を端的に表している。

 

「楽しんでいただけましたか、勇者様?」

 

 オスカーの様子を眺めていると、近くから声がした。見ると、俺たちを劇場に招待した者、劇場の支配人がこちらに歩いてきていた。白髪の老人で、杖を突きながらも背筋がピンと伸びた紳士然とした上品な爺様だ。

 

「ええ、貴重な機会をいただきありがとうございました」

 

 表情を改めたオスカーがすぐに立ち上がって礼を言う。応対する彼の畏まった態度も板に付いてきた。その礼儀正しい姿は村人にはとても見えず、上位の貴族でもない限り文句は言われないだろう。オリヴィアに叩き込まれた成果が出ているようだ。

 

「それは良かった。このジャウェン様の劇は伝統的に当時の勇者様に見てもらっているのですよ。かれこれ九百年ほど続く伝統です」

 

 どこか遠くを見るように言う支配人に、オスカーの顔が少し陰った。九百年。その言葉の重みは今代の勇者だからこそズシリと重く感じる。勇者という名前にのしかかる歴史の重さ。

 暗い表情のオスカーの代わりにさっさと会話を打ち切るように試みる。

 

「支配人様、本日は貴重な機会をいただき誠にありがとうございました。私どもはこれにて失礼いたします」

「おお、そうですかな。──それでは、勇者様がかのジャウェン様のように勇猛に活躍されることを祈っております」

 

 ……この爺、一番言われたくない台詞を最後に言いやがった。オスカーの顔が明らかに陰った。

 薄暗い劇場の客席を出て、日の当たる表通りに出る。しかしオスカーの顔は陰ったままだ。

 

「オスカー、あんまり外野の言うことを気にするなよ。あんなの何の責任もない他人の戯言だぞ」

「……うん、ありがとう」

 

 ……まあ、そう言われても気にすることくらい分かっていたが。しかし外からこのうじうじした様子を見ていると腹が立ってくるな。思わぬ所で過去の自分を客観視して、俺まで少し憂鬱になる。

 

 しかしあの言葉にこそ、人の無責任な期待が詰まっている。全部を助けて、全部を打ち倒す、無敵の存在。しかしいくら勇者といえどもあんな風になれないのだ。千年前とは訳が違うのだ。戦う過程で人は死ぬし、勝てないこともある。

 まあ、今回は俺がいる。少なくともオスカーのせいで人が死ぬのはできるだけ避けてやることもできるだろう。きっと、そのはずだろう。

 いつの間にか登り切っていた太陽は、真上から俺の楽観的な嘘を見ているようだった。

 




だいたい週一更新予定です


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43 憧れ

「随分っ!打ち合えるようになったじゃねえか!」

「僕だってっ!成長してるんだよっ!」

 

 ガツン、ガツンと木製の剣がぶつかり合う重たい音が、夏の平原に響く。王都外壁の周辺、少し前にジェーンと魔法戦をしたそこは、今ではすっかり背を伸ばした雑草に囲まれていた。風に揺られる瑞々しい緑が足元をくすぐっている。

 

 そして、俺と相対するオスカーもまた、酷暑に晒されながらも逞しく成長する雑草のように、見違えるほどに強くなっていた。以前のように俺の剣になすすべもなく翻弄される姿はそこにはない。剣の一振り一振りには気迫が乗っていて、相手の動きも良く見えている。もう並みの騎士などよりも技量はずっと上だ。未熟な勇者様、なんてもう呼べないかもしれない。それでも。

 

「まだ経験の少なさが出てるな!」

「ッア!」

 

 オスカーの木剣を掬い上げると、何時ぞやの彼のように肩口を叩く。衝撃に晒された彼はそれに耐えられず尻もちを着いた。

 

「また俺の勝ちだな。六十勝、一敗。最初の時から負けはなし、だ」

「メメ、あの時負けたこと未だに気にしてるの?」

「いーや、全然!──ほら、馬鹿な事言ってないで立て」

 

 手を差し伸べると、素直にそれを掴む俺よりも大きな手。彼の手のマメはすっかりタコになって、ゴツゴツとした手のひらを作っていた。

 

 

 

 

「フゥ……そういえば、メメはあの劇どうだった?面白かった?」

 

 訓練にも熱が入りお互いに呼吸が乱れてきた頃、俺たちは一休みすることにした。二人で草むらに腰を下ろし、夏風に揺られて体の熱を冷ましていると、唐突にオスカーが話しかけてきた。手に持っていた木剣で肩を叩きながら、なんと言うべきか少し考える。

 面白かったか、と問いかけておきながら、オスカーはそれへの答え以外を求めている気がした。あの劇について話したいこと。──勇者という名前、その重さについてだろうか。

 

「……おいオスカー、いらん感傷に浸るのは止めろよ?自分はあんな風になれない、とかな」

 

 自己分析と勘に従って言葉を紡ぐと、オスカーが気まずげに顔を逸らした。どうやら図星だったらしい。

 

「……メメはなんでもお見通しだね。それも魔術?」

「いいや、今回もお前が分かりやすかっただけだ」

 

 お前の考えることなど大抵俺の通った道だ。分かるに決まっている。だから、その悩みが無意味であると断言できる。

 

「──偶像と自分を比べることに意味なんてないぞ。理想に圧し潰されそうになるだけだ」

「……それは君の経験談?」

 

 俺もまた核心を突かれて、息が止まる。思い出すのは、無責任な期待の目線と、勝手な失望のため息。反射的に動揺を隠そうとして、しかし俺の心の揺れはこちらをじっと見つめるオスカーの黒曜石のような瞳に見抜かれていることに気づいた。

 

「……お前に読心の魔術教えたか?」

「なんとなく分かっただけだよ」

「……それは、なんだかムカつくなっ!」

 

 素早く立ち上がって剣を振り上げる。休憩していた彼の隙をつくように木剣を振るうと、一瞬で立ち上がった彼の力強い振り下ろしが返ってきた。

 

「チッ、もう騙し討ちは通じないか」

「流石にメメのやり口には慣れたよ」

 

 それはいい。きっと卑怯な人間のやり口に慣れることは、戦場でお前を助けるだろう。

 未熟だった彼の成長を喜ぶのと同時に、少しの恐れを覚える。勇者としての成長。魔物殺しの技能を高めること。人殺しの技術を修めること。それは彼が、俺のような穢れに塗れた人間に近づくということではないだろうか。

 立ち上がった彼の顔を見る。その目線は俺の目線よりもやや高い。俺が失った上背が少し妬ましい。

 

「しかしお前、勇者の力の使い方にも慣れてきたな。何かコツでも掴んだのか?」

 

 先ほどから何度も打ち合って改めて思ったが、ここ最近の彼の成長は著しい。剣術や魔術の上達もそうだが、勇者の力を活用した身体能力の強化も上達している。

 

「そ、そうかな?……まあ最近気づいたことなんだけど」

 

 そこで一度言葉を切ると、俺の方をチラと見る。

 

「仲間を、人を守るためなら僕はこの力を使いこなせる気がするんだ」

 

 かっこつけすぎかな、などと照れ笑いをするオスカー。その純朴ながらも真っ直ぐな姿は、今まで以上に勇者らしかった。

 正しい動機のために、正しく剣を振るえる。その精神性は、劇に描かれる初代勇者の高潔な精神のように、現実離れしていて理想的だ。俺の憧れた勇者の姿。俺のなれなかったもの。自分が無意識に歯ぎしりしていたことに気づき、それに自己嫌悪を覚える。

 

「そうか。……じゃあ、もっと強くならないとな!」

 

 もやもやとした感情を振り払うように木剣を叩きつけると、オスカーの力強い剣先に受け止められた。力の押し付け合いになる鍔迫り合いを嫌って一歩下がると、ついつい想いが口をついて出てきた。

 

「──お前は、俺みたいになるなよ」

「それはどういう──うわっ!」

 

 その口を塞ぐように、再び剣をぶつける。しかし俺の意図とは裏腹に、剣を交えながらもオスカーの口は止まらなかった。

 

「でも、僕だってメメみたいに強くなりたいんだよ!僕はまだ弱い!君みたいにいつも最適解を選べるわけじゃない!何にも知らないから失敗だってする!だから、強い君に憧れたんだ!」

 

 熱の籠った、もう一人の自分の正直な気持ち。俺の頭がカッと熱くなる。揺さぶられやすい俺の、少女の体の精神は、その言葉に過剰に反応して、怒りを生み出してしまう。その言葉を否定したい気持ちと自己嫌悪が結びついて、どうにかなってしまいそうだった。

 

「……フゥー」

 

 少し上がってしまった息を整える。心も体も仕切り直して、木剣を構え直す。俺の雰囲気が変わったことを悟ったらしく、木剣を構えるオスカーの雰囲気も変わる。交錯する瞳にはお互いに強い感情が込められている。模擬戦とは思えないほどの気迫と緊張感が漂った。

 

 彼の強い意志の籠った瞳を眺めながら、想う。その憧れは、決して許容できない。お前は俺みたいになってはだめだ。それでは、それでは、俺の辿った間違った道が俺の唯一の可能性であったことを証明してしまうようではないか。だから、許容できない。認めない。

 

 己の内から湧き出る醜い感情を叩きつけるように、俺は剣を振りかぶる。呼応して、オスカーの両腕が唸りを上げる。強風を生みながら振りぬかれた横なぎの一閃を防いだ俺は、それに応えるように、力を籠めて、負けず劣らずの勢いで剣を振るう。

 

「失敗するのは、お前がまだ失敗してないからだ!──それでいいんだよ!未熟なままでいい!少しずつ成長すればいい!細かいことを、下らないことを考えるのは俺に任せればいい!」

「でもそれじゃあ君が間違った時に、誰が止められるの!?誰が助けられるの!」

「俺を助ける!──生意気だぞ未熟者!」

 

 頭が一瞬で怒りに支配される。ここ最近で一番の怒りを込めた木剣は、彼の体を勢い良く吹き飛ばした。草原を転がる彼の体が土と草まみれになる。それでも、俺の憤りは収まらない。

 

「俺を助けるのは俺だけだ!今までも!これからも!お前なんかに心配される俺じゃない!」

 

 痛むはずの体を引きずって、オスカーは立ち上がり剣を取った。俺の言葉を受け止めるように、震える体で必死に構えを取る。

 

「メメは僕たちを助けてくれた!僕たちが君を助けたいと思うのが自然なことだよ!それに!──それに、君は放っておくといつか消えてしまいそうだ!治るからってどうして躊躇なく傷を負えるの!?僕にはその怖さが良く分かる!どうして幸せを感じると苦しそうな顔をするの!?──そんなに自分を許せないの!?」

 

 オスカーの言葉に体中の水分が沸騰するような熱い憤怒が湧きたってくる。

 

「許せないに決まっている!お前は俺の何も知らないだろうが!」

 

 今日一番の鋭い突きが、防御をかいくぐってオスカーの鳩尾に突き刺さった。呻きながらうずくまる彼の体。

 

「余計なこと考えるなって言っただろう。……お前は前だけを向いて理想の勇者でいてくれ。……俺のためにも」

 

 俺の身勝手な言葉に、オスカーの答えはなかった。しかし苦痛に呻く彼は、這いつくばりながらもその黒い瞳だけをこちらに真っすぐに見つめてきていた。まるで、醜い俺を全て見透かすように。

 




理想とする人間が目の前にいたかどうかが二人の違いの一つ


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44 相対的に穏やかな日常

彼女のこれまでと比べて


「──それで、最近微妙に不機嫌だったわけですか」

「……そうだよ」

「オスカーさんとの些細な喧嘩で心乱されるのはまさしく年頃の少女といった様子ですね」

 

 悪いかよ。表情なく言葉紡ぐジェーンに指摘されて腹が立ったので、大口でステーキを食らう。重厚な肉の食感とソースの旨味が一気に口の中に広がり、多少気分が上がった。たまたま昼食のタイミングがあった俺は、ジェーンと同じ食卓を囲んでいた。

 

「でも、最近貴女のオスカーさんへの態度が柔らかくなっていましたね。多少気に入ってきたんじゃないですか?」

「……まあ、そうかもしれないな」

 

 彼の成長自体は魔王討伐の大願を抱えた俺にとって喜ばしいことだ。余計な思考を持ってしまったのはともかく。

 口の中の肉塊を飲み込んで、彼の無表情な顔を見る。

 

「そういうお前も、最初に比べて随分あいつらに興味を持ってるんじゃないか?」

「ああ、そうかもしれませんね。少なくとも、人混みで見ても顔の判別はつくようになりました」

「お前の基準おかしいよ」

 

 どうして認識が一度二度会ったことのある人間程度なのだろうか。

 

「千年近くも人間を観察していると顔の違いなんて些細なものに思えてきますからね。これでも進歩したのです」

「本当か?……じゃあ、この前話してたカレンの印象はどうだ?」

「カレンさんですか?以前はただ平凡な少女にしか見えませんでしたが……最近、彼女のおかげでパーティーの雰囲気が良くなっていることに気づきました」

 

 確かにそうだ。カレンの明るい雰囲気は、話している人間まで明るい気分にさせてくれるような魅力がある。命懸けの戦いをしているからこそ、平時のメンタル状態は大事だ。それは俺も過去の経験からよく分かっている。

 

「そういえば繰り返してた頃、カレンと一緒に居なくなってからはパーティーの雰囲気が重くなったな……」

 

 カレンとの決別が決定的になったのは、俺が犠牲を出してでも勝利を求めだしてからだったか。優しい彼女とはどうしても相いれなくなってしまった。

 

「でも、今の貴女は彼女とも一緒にやっていけていますね」

「そうだな。…………きっと、あの時彼女とよく話すべきだったんだろうな」

 

 決別が決定的だと決め込む前に。もしくは過去に戻った時に、胸の内をさらけ出すべきだったのだ。失ってしまった時間。時間を遡ったからといって、その失敗を俺は忘れるわけにはいかなかった。

 

「……繰り返しについては、話さないのですか?」

「話さない。……それは、誰にも話さない」

「そうですか」

 

 無表情に呟くと、彼は水を飲んだ。俺もステーキを口に運ぶ。僅かな沈黙。

 

「オリヴィアとは話したか?彼女の印象は?」

「少し話しましたが、ある意味で分かりやすい人間ですね。持って生まれた者の責務に忠実で、責任感が強い。あの年にしてはとても冷静です。それから、貴女のことが好きですね」

 

 彼の最後の一言に、思わず肉を喉に詰まらせかける。

 

「ンッ……。それは聞いてない!」

「そんなに動揺することないじゃないですか。昔は恋人同士だったのでしょう?」

「そうだったが、今は違う」

 

 恋仲だったのは一度だけだ。でも、当時の記憶は今でも鮮明に思い出せる。苦労もたくさんあったが、幸福な時間だった。彼女が死ぬまでは。魔王を倒すと彼女に約束するまでは。

 無意識に彼女のくれた髪飾りを触っていることに気づき、手を下ろす。

 

「人でなしからのアドバイスですが、彼女に対しては遠慮なんて要らないと思いますよ」

「……そうかよ」

 

 顔を逸らして肉を頬鳴る。旨い。

 

「次はオスカーさんでしょうか。やはり、貴女にそっくりですね」

 

 水を流し込んでいると、ジェーンの方から話し始めた。何やら馬鹿げたことを言っている。

 

「……本当にそうか?もう一度良く話した方がいいんじゃないか?」

「いいえ、そっくりです。変に責任感の強いところとか」

「変にってなんだよ」

「鏡でも見たらどうです?もしくはオスカーさん」

「あいつは俺の生き写しでも何でもねえよ。元が同じでも経験が違えば別人だろ」

「確かに別人ですが、根本的に似ていますよ」

「そんなわけないって……」

 

 最後の肉片をフォークで突き刺し、一口で飲み込む。やや冷えた肉は、まだ旨味を残していた。

 

「俺は、仲間のために頑張ることを一度諦めたんだ。アイツとは違う」

 

 清々しいほどに真っ直ぐな、彼の宣言を思い出す。それは夏の太陽のように熱くて、直視できないほどに眩しかった。

 

「そうですか。……最後に貴女ですが、最初に比べて随分柔らかくなったんじゃないですか?」

「そうか?俺の思考は変わってないと思うが」

「そうかもしれませんが、なんというか、顔です。顔が柔らかくなりました」

「本当か?」

 

 自分の頬を摘まんで伸ばしてみる。おお、柔らかい。

 

「その調子で、罰が何だととかめんどくさいこと言い出さないようになればいいのですが」

「それはありえないな。俺が俺である限り、それは変わらない」

「……でしょうね。いつになったら貴女のその頑固さは治るのやら」

 

 変えられるわけがないだろう。ジェーンはやれやれといったような表情を作る。……こいつ、呆れ顔作るの上手くなったな。腹立つぞ。

 

 

 ◇

 

 

「ここに来るのも何度目だろうね」

「魔物との戦闘訓練にうってつけだからな。今後ともお世話になると思うぞ」

 

 俺とオスカーの会話にぎこちなさはない。まるで先日の会話などなかったかのようだ。あの日交わした言葉は忘れる。二人の間にそんな制約が交わされたかのように、あの話はめっきりしなくなった。きっと彼も、分かり合えないということが分かっているのだろう。それゆえの沈黙。それゆえの先延ばし。

 

 いや、それは今考えるべきことではないのだろう。思考を隅にやり、周囲の警戒に戻る。いつしか、俺がオスカーの代わりに魔王を倒すことを宣言した地、オースティン大森林。木々に覆われた森は、昼間でもうっすらと暗い。

 

「大きいって聞いてたけど、結構見つからないね」

「ここもそれなりに広いからなあ。目立つと行ってもそう簡単に会えるわけじゃない」

 

 今回、冒険者向けの討伐依頼があったこともあり、戦うことになった魔獣の名前はヒュージコンガ。赤色の体毛を持つ、森にはそぐわぬ色味をした獣だ。

 

「いや、噂をすれば、だな。前方にいるぞ」

 

 俺の言葉に、皆が気を引き締める。全員が前方を注視する中、そいつは現れた。

 その体躯を見て、まず真っ先に連想するのは猿の姿だろう。四足歩行に長い尻尾。丸い頭部には人間にも似た顔が付いている。

 しかし、デカい。四足歩行で移動しているにも関わらず、その頭部は俺たちを見下ろすほど上に位置してる。向こうもこちらに気づいたらしく、顔が向いた。野蛮で獰猛そうな顔立ちは、戦場に慣れていない常人であれば腰を抜かすほどの迫力だ。

 しかし、今の俺たちにそんなものを恐れる者はいない。魔王討伐の大義を背負った勇者パーティーは、順調に成長してきていた。

 

「キアアアア!!」

 

 ヒュージコンガが威嚇のための咆哮を上げる。耳が痛くなるほどの大音量。周囲の木から鳥たちが飛び去った。

 

「う、うるさーい!アタシこいつ嫌いかも!」

 

 耳を塞いだカレンが嫌そうに叫んだ。同意しないでもない。

 

「オスカー!行けるな?前で抑えるぞ!」

「うん!」

 

 オスカーと共にヒュージコンガの前に躍り出る。最初に攻撃されたのは俺だった。

 

「クッ……」

 

 踏み出された巨大な前脚が俺の短剣を震わせた。今回、俺は試しに得物を変えていた。大剣とは違い、短い剣先から衝撃が直に手を震わす。

 

「『炎よ!』」

 

 短い詠唱から繰り出されたオリヴィアの魔術が、醜悪な顔面を直撃する。黒煙を上げるその様子は、あまりダメージを負っているようには見えない。

 

「オリヴィア!こいつは炎に耐性があるみたいだ!」

「かしこまりました!」

 

 下がりながらオリヴィアに伝えていると、素早くオスカーが飛び掛かっていった。

 

「ハッ!」

「グオオオ……」

 

 聖剣の切っ先が届き、ヒュージコンガの体表に傷をつける。しかしその厚い脂肪が致命傷を避けたようだった。胸部のあたりから血を流しながらもまだ元気そうなヒュージコンガが体を震わる。聖剣を突き刺し、体に接していたオスカーは吹き飛ばされた。決して小さくない彼の体が中空で弧を描く。

 

「オスカー、動けるか?」

「うん、なんとかね」

 

 俺の傍らに吹き飛ばされてきたオスカーに手を貸す。ゴツゴツとした手を引き上げると、ヒュージコンガの戦意が高まっていくのが分かった。荒々しい鼻息がこちらまで聞こえてくる。手傷を負って、我が身の危険を感じたらしい。

 

「『女神よ、彼の者に癒しを』」

 

 カレンから放たれた光がオスカーを癒す。どうやらこちらもまだまだやれそうだった。

 仲間たちの状況をすばやく確認する。後方の損耗は無し。魔力もまだ潤沢にありそうだ。ジェーンの大規模な魔法も完成しそうだ。攻撃の起点にできるだろう。

 前衛は二人とも少し疲弊があるか。癒えたとはいえ攻撃を受けたオスカー。それから俺は、新しい短剣に少し罅が入っていた。どうやらこの粗悪品は一戦で限界のようだ。

 

「ジェーンの魔法と一緒に仕掛けよう!」

「「了解!」」

 

 息の合った返答。そして、ジェーンの古代魔法が完成する。

 

「『万物を打ち砕く岩石よ!我が敵を打ち倒せ!』」

 

 詠唱の完了と共に、頭上からは大きな岩石が降ってきた。隕石のように超高速で落下するそれは、違わずヒュージコンガの頭を直撃する。脳を揺らされて、動きを止める巨獣。

 

「『氷よ、地を進む者の足を止めよ』」

 

 続いてオリヴィアの魔術。体毛だらけの豪脚が氷に包まれ、動きを制限される。忌々し気に唸るヒュージコンガに、オスカーの聖剣が迫った。

 

「ハアアア!」

 

 凄まじい気迫と共に、再び胸部に叩き込まれる黄金色の刃。巨大な肉の塊の深部まで食い込んだそれは、今度こそ巨獣の命を奪った。力ない呻き声をあげて崩れ落ちるヒュージコンガ。魔獣狩りのスペシャリスト、冒険者の間でも危険視されるヒュージコンガは、強くなってきた勇者パーティーの前に、あっさり沈んだのだった。

 

「やったね!完勝!」

「良い連携だったのではありませんの?大きな傷を負うことなく勝つことができました」

「そうだな。敵の強さを考えると出来過ぎなほどだ。オスカーの斬りこみも良かった」

「そ、そう?……良かった」

 

 だがその照れ顔はダメだ。気持ち悪い。

 

「しかし俺の短剣はダメだな。もう壊れかけだ」

「メメの馬鹿力に耐えられる武器なんてそうないんじゃない?大人しく前の大剣に戻したら?」

「確かに、そうだな」

「ちょっとオスカー!乙女に馬鹿力はないでしょ!デリカシーってものを知らないの!?」

 

 俺はあまり気にしなかったが、女性的には許せなかったらしい。オリヴィアもやれやれと首を振っていた。

 

 

 こうして、俺たちのかけがえのない日常は過ぎていく。戦い続ける日常は平和とは言い難かったが、それでも冗談を言い合って笑い合える程度には穏やかだった。

 



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45 女子会!?

 それは、王都でのある休日のことだった。昼下がり、いつものように素振りを終えて宿に戻ってきた俺は、どうやらオリヴィアに待ち伏せされていたらしい。出会って開口一番、威勢よくオリヴィアが言った。

 

「メメさん!どうして私と二人きりになるのを避けるのです!?またでえと、に行きましょう!」

 

 相変わらず怪しい発音で、オリヴィアが熱心に俺をデートに誘う。……そろそろカレンに彼女のデートの認識の間違いを正してもらった方がいいかもしれない。俺から言うのは、少し気まずい。

 

「い、いやだ!……いや、嫌じゃない!でも、二人きりは止めよう!そ、そうだ、カレンも誘っていこう!」

 

 何やら鬼気迫る様子のオリヴィアに、俺は二人きりになることに若干の恐怖を覚えていた。宝石店での一件以来、彼女は時々こういう様子を見せるようになった。彼女の情熱的な態度に、額の熱い感覚が蘇って自分の顔全体が熱くなってしまう。

 

「それではでえと、にならないではありませんか!いいから行きましょう!また服を脱がされたいのですか!?」

「毎回毎回上手くいくと思うなよ!分かっていれば防御だってできる!」

 

 思わず自分の体を抱く。強硬手段に訴えかけてくる彼女が怖い。お淑やかな貴族令嬢然とした姿を取り戻して欲しい。

 魔法が関わっている時のような、蒼い瞳をギラギラさせた情熱的な彼女の様子に困惑する。いったい何が彼女を変えてしまったのか分からない。彼女とは短くない付き合いで、その行動はある程度読める程度には知っているはずだったのだが。やはり、彼女は俺の知っている彼女とはどこか少し違う。……いや、今回は結構違う。

 

「二人とも何やってるの……?」

 

 偶然通りすがったカレンが声をかけてくる。ラッキーだ。これならオリヴィアの暴走は抑制できる。

 

「あ、カレン!カレンも一緒に行こう!また新しいカフェができたらしいぞ!」

「もちろんいいけど……。メメちゃんから誘ってくるなんて珍しいね」

 

 カレンが俺の誘いに頷くと、オリヴィアが少し肩を落とした。しかし別にカレンが一緒に来ること自体に不満はないらしい。すぐに気を取り直すと、待ち合わせや行きたい店などについて擦り合わせ始めた。

 

 

 

 

 王都にできた新しいカフェは、以前入ったそれと比べると陽気な雰囲気だ。店内には管楽器の演奏によってアップテンポな曲が鳴り続け、それに合わせて客の話し声も少し大きくなっている。

 

 俺の手元にあるコーヒーという嗜好飲料は、南方からはるばるこの王都まで輸入されてきているらしい。とある豆から作られる黒々としたその液体は、独特な香りに苦みと酸味が特徴的だ。

 

「メメちゃん、それ苦くないの?」

「苦いけど美味しいぞ。カレンも一口どうだ?」

「カレンさん、砂糖を少し入れてみると案外美味しいですよ」

 

 茶菓子を頬張りながら会話する。俺の飲むコーヒーは十代半ばの少年少女には、少し大人の飲み物であるという印象だろうか。カレンはコーヒーを飲む俺に羨望の籠った視線を向けてくる。

 そういえば、昔の俺は飲めもしないブラックコーヒーを飲んで、カレンに見栄を張ろうとしたっけ。一口飲んだ途端に咳き込んでしまってカレンに笑われたのは、今となってはいい思い出だ。

 

 思い出に浸りながら黒々としたそれを一気に喉に流し込むと、熱さと苦さが喉を通過した。遅れて香りが鼻の奥を通る。

 

「砂糖入れても苦かったんだよね。アタシには合わないのかも」

「そうか。まあ、無理に飲む必要もないよ」

「ムムム……。そう言われると何だか大人の余裕が見えるなあ。……オスカーもメメちゃんのこういう面が好きなのかなあ」

「ンンッ……」

 

 カレンの呟きに、思わず飲んだコーヒーを吹き出しそうになった。まだそんなこと思ってたのか。俺にとってそれは馬鹿げた思考なのだが、カレンの表情はわりと真剣だ。

 茶菓子をつまみながら、彼女になんと言うべきか考える。オスカーが俺を好きになるなど、湖面に映る自分の姿を好きになるようなものだぞ。あり得ない。どうすればカレンがそういうことを思わなくなるだろうか。こういうことは、当事者の俺が変に発言しても事態を拗らせるだけだ。

 

 どうにかできないかとカップに口を付けながら思案を巡らせていると、突如、コーヒーによって冴え渡った俺の頭に全部解決する名案が浮かんできた。そうだ。せっかくだからこの際、俺が相談に乗って、カレンに想いを成就させてみれば良いのではないか。彼女の恋愛相談の相手に俺は正しくうってつけと言える。なんせ意中の相手のことは誰よりも知っている。

 その思いつきは、考えれば考えるほど名案に思えてきた。オスカーとカレンは結ばれてハッピー。俺は余計な疑いを掛けられなくなる。完璧だ。

 

 フッ、仕方ない。この推定年齢百歳の俺が、大人の余裕というやつで相談に乗ってやろう。俺は椅子に浅く座り直すと、背中を伸ばして、テーブルに手を付いた。カレンの端正な顔が少し近づく。新緑の瞳が良く見えるようになる。

 

「カレン、せっかくだからこの際想いを伝えてみたらどうだ?案外上手くいくかもしれないだろ?」

 

 俺が言うのだから間違いない。奴は即オッケーするだろう。俺の言葉を聞いて、カレンが目に見えて狼狽した。

 

「えっ!?い、いやあ、でも今の関係が壊れるのもちょっと怖いというかなんというか……」

 

 ごにょごにょとカレンが言い訳をする。声は小さかったが、体は大きく動く。無意味に手を空中でわちゃわちゃと泳がせ、上体が動揺を示すようにふらふらと揺れていた。

 

「それに、オスカーがどんな気持ちかなんて分かんないし……」

「でも、傍目から見て両想いに見えますよ。お二方なら上手くいくのではありませんの?」

 

 オリヴィアも追い打ちをかけるように言うと、ついにカレンは真っ赤な顔を伏せてしまった。栗色の前髪が垂れ下がり、カーテンのように顔を隠す。

 

「二人とも、結構意地悪だよね?アタシを恥ずか死させる気……?」

「恥ずか死……?いやなに、力になれたらと思ったんだが……迷惑だったか?」

「め、迷惑じゃないけど……」

 

 そう言ってから少し黙ると、カレンの雰囲気が硬くなった。沈黙の後、伏せていた顔を上げ、しかし目は伏せて、硬質な口調で言葉を紡ぐ。

 

「──でも、オスカーはそういう話されると迷惑かなって思ってさ。ただでさえ勇者っていう役目を背負って大変なのに、アタシなんかが余計な事で迷わせていいのかなって思ったりとかさ……」

「カレン……」

 

 正直、少し驚いた。カレンがそこまで深く考えていたとは。どうやら俺は少し彼女を侮っていったらしい。心中でだけ反省して、言葉を探す。過去の経験から言葉をゆっくりと紡ぐと、自分の素直な想いが口をついて出てきた。

 

「……まあ、そんなに硬く考えなくてもいいんじゃないか?相手の意志だけ確認して、想いが通じていることを互いに認識するだけでもいいじゃないか──じゃないと、いつか後悔するかもしれない」

 

 付け足した俺の言葉に、カレンが硬い表情で頷いた。

 

「後悔……うん、そうだね……」

 

 俺たちの戦いは決して安全なものではない。戦っていればいつか死ぬかもしれないし、意中の相手が死んでしまうかもしれない。だから、せめて、後悔のない選択を。先達である俺から言えるのは、それだけだ。

 

 再び重い沈黙が落ちるかと思ったが、突然オリヴィアが勢いよく立ち上がった。いつもの淑女然とした態度とはかけ離れた行動に、俺もカレンも驚く。

 

「私は!メメさんのこと!好きですよ!」

「わ、分かった分かった!伝わってるから!これ以上なく伝わってるから!」

 

 ……いったい彼女はどうしてしまったのだろうか。行動の意図を聞いても、「メメさんが悪い」の一点ばりだった。

 




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46 狂人の襲来

更新加速します


 分厚い雲が太陽を覆い隠し、昼下がりの空から光を奪っていた。ここ数日の王都は不穏な騒がしさに包まれていた。抑えきれない興奮と、それに押し隠された不安。その原因は、最近王都を駆け巡ったある情報だろう。

 

 王都にいれば国外の情報もちらほらと入ってくる。まして他国の新しい宗教の誕生という一大事ともなれば、噂は一瞬で駆け巡る。危険な宗教団体の成立と、それに伴うテロの危険性を示唆する、共和国からの通達。

 

「共和国で新しい大神教の成立ですか……。これはまた一大事ですわね」

「大神教……えっと、共和国に女神教以外の宗教ができたってこと?」

「ええ、革命が起きたようで。……これは王国の女神教が黙っていないでしょうね」

 

 王国に深く根付いている最大宗教、女神教は異教を徹底的に弾圧して、現在人間領で最も力を持った宗教となっている。他国で新宗教が立ち上がったのなら、女神教の総本山、王都の中央教会が黙っていないだろう。

 女神教が人界最大の宗教として君臨し続けているのは、他の宗教を弾圧し続けてきたおかげだ。最後の女神、ユースティティア以外の神を崇めることを、女神教は、そしてその総本山たる中央教会は決して許さなかった。

 

 他の宗教の弾圧の際に戦力として動員されるのが、王国の騎士たちだ。

 歴史を辿ると、王国が他国に侵攻してまで宗教弾圧を行った例はそれなりに存在する。魔物との闘争に忙しい王国だが、女神教のためなら騎士を派遣することすら厭わない。

 

 それには王城と蜜月の関係にある、女神教の総本山、王都に存在する中央教会の力が及んでいる。中央教会によって地位を保証されている王と、王国によって厳重に保護されている女神教の関係は古くから強固だ。

 かつては南に行っては国に根付く土着信仰を叩き潰し、西に行っては女神信仰の在り方が歪んだ国教を解体した。そして多かれ少なかれ女神教の影響を受けている人間領の国々では、それを拒むことも難しい。今回の共和国の大神教との戦争も、その延長線上にあると言っていいだろう。

 

「大神信仰っていうと……歴史の話にも出てきたよね。確か、間違った宗教だったって書いてあった」

「大神信仰の名前自体は歴史に何度も出てきます。根強い信仰ですから。しかし全て女神教に潰されていますね」

 

 共和国で興った大神信仰、それ自体は昔から根強く存在するものだ。大神教が掲げる神は全知全能の大神、デウスだ。この神は女神教の神話にも出てくる創造神であり、そして今は存在しない、亡き神だ。

 女神教では現在、大神を信仰の第一対象とすることを厳しく禁じている。なぜなら大神は既にこの世界に存在しないからだ。人間のために最後まで世界に残ってくれている女神を差し置いて、いなくなったものを信仰することは不敬である、というのが女神教の言い分だ。

 

 そもそも女神教の伝える歴史において、大神がこの世を去ったのは、その全知全能に頼り切った人間の堕落を嫌ったからだと伝えられる。だから、女神教は大神の存在を肯定しながら、それに縋ることを厳しく禁じている。大神を信仰できるのは死んだあと。天国で大神と再会した人間のみだというのが女神教の主張だ。

 

 そういうわけで、大神教、大神信仰は女神教に厳しく禁じられている。その信仰には容赦なく制裁が加えられ、女神教へと改宗させられてきた。

 

「ということは……また女神教と戦争になっちゃうってこと?」

「うん、きっと今回もそうだね」

 

 オスカーに頷くカレンの表情は硬い。聖職者である彼女は、当然女神教の血生臭い歴史を知っているはずだ。栄華を誇り、孤児など弱者にも手を差し伸べてきた女神教だが、その歴史は他宗教の弾圧と併合の連続だ。今回も、そうなる。

 

 そして、まだ誰も知らないことだが、共和国に成立した大神教の背後には、魔物の存在がある。彼らを扇動しているのは、とある魔物だ。魔物の手先となった大神教信者たちは、やがて王都へ攻撃を仕掛けてくることになる。

 そしてその時に彼ら大神教信者たちと戦うことになるのが、勇者だ。魔物と人間の生存を賭けた戦いではない、人間同士の、無意味で愚かで醜い戦い。それに加担することは、きっと未だ潔白な心を持つオスカーに影響を及ぼす。そう、思った。

 

 

 

 

 数日前から、王都は他国との諍いの予感への熱に包まれていた。戦いの予感に隠し切れない興奮を声にのせる住人たち。

 大神教の信仰が一部から広がりつつある共和国。それに対して王国が黙っているわけがなかった。

 

「それで、どうしてオスカーが担ぎ上げられなきゃならないんだろうね!?」

 

 カレンが憤る。王都の噂話は専ら勇者の参戦を決定事項のように話していた。今も、遠くからそんな声が聞こえてくる。

 

「──最古の吸血鬼を倒した勇者様が王国のために戦ってくださるぞ」

「それなら王都も安泰だな」

 

 その話し声をかき消すように、彼女も承知しているだろう話を確認のようにする。

 

「女神教の象徴みたいなもんなんだよ、勇者っていうのは。存在そのものが女神教の正当性を表すようなものだ。特に聖剣なんかは神の奇跡そのものだからな」

 

 大神暦の遠い今、最も神に近い肉体を持つのが勇者だ。勇者は、敬虔な信徒なら一目で分かるほどの女神の加護を纏う。そして何より、勇者とセットで語り継がれている聖剣の神々しい光は、見る者を圧倒する。千年前から歴史上に存在する二つの奇跡は、女神教の正当性を主張するのにうってつけなのだ。中央教会に勇者の派遣を命令する権利はないが、きっと世論の高まりは勇者の働きを強制するだろう。

 

 あの最古の吸血鬼、ウラウス討伐の件からオスカーの名声はかなり上がっている。吟遊詩人は彼のために新たな詩を作り、女神教は熱心に彼の活躍を宣伝している。

 今ではオスカーは街を歩いていると声をかけられることすらあるくらいだ。俺も経験があるが、全くどうしてそんなに勇者という存在に好意を抱いて近づいてくるのか。

 

 

「あ、勇者様!勇者様だ!」

 

 そんなことを考えていると、また一目勇者を見てやろうという物好きが現れた。柔らかい表情で近づいてくる若い男は、握手を求めるように片手を前に突き出してきた。満面の笑みでこちらに近づいてくる。一見穏やかそうな様子で、人畜無害に見える好青年だ。

 対するオスカーは照れを含んだ苦笑いをしながらもそれに応じようとしていた。──ああ、相変わらず、未熟で純粋だ。

 

「──調子に乗るなよ邪教の走狗」

「カッ……」

 

 片手を突き出したままの若者の腹を、剣で一突きする。呻き声と男が崩れ落ちる音。先ほどまで平和な街の構成要素の一つだった彼は、鮮血を垂れ流しながらその場に倒れ伏した。

 王都の一角での突然の流血沙汰に、空気が、凍る。

 

「め、メメ!?」

「な、なにやってるのメメちゃん!」

 

 地べたに這いつくばる男を拘束する俺に、仲間からの信じられないという視線が突き刺さった。その目に、過去の経験を思い出した気がしたが、気にせずに今の話をする。

 

「共和国、大神教からの使い様だよ、見ろ」

 

 若者の先ほど見せなかった片手を掴むと、そこには小さなナイフが隠れていた。表面はてらてらと輝いていて、何らかの毒物が塗られていることが窺える。

 

「そ、そんな!?」

 

 オスカーの驚愕する声。

 

「大神教にとって勇者は邪魔者でしかないからな、これからは少し身の回りに気を付けろよ」

「で、でも、何もいきなり刺すことなかったんじゃない!?」

「ああ知らないのか。よく見てろ」

 

 俺が若者の拘束を解くと、彼は自分の右腕を天高くつき上げた。

 

「偽りの女神に天罰を!」

 

 それが破滅の魔法のトリガーだった。若者の体は眩い光に包まれると、轟音を立てて大爆発を起こした。

 

「ヒャッ!?」

 

 俺が魔術で展開したドーム状の氷が、爆風と四散する人肉を受け止める。

 内部で爆散した肉片が飛び散り、俺の作った氷の障壁に張り付く。薄く張られたそれは、障壁内部の惨状を余すことなく外部に伝えていた。

 信じられない量の血液が滴り、内臓も骨も無造作にまき散らされている。氷にめり込んだ眼球から、暗い瞳がこちらを見ていた。狂信者の末路。そしてそれは彼自身が望んだことだった。

 

 あまりにも突然のことにカレンは腰を抜かしたらしく、オスカーに支えられている。いつも毅然としているオリヴィアですらも、わずかに視線を逸らして少し気分が悪そうだ。

 

「分かったか?オスカー、ちゃんと対処しなければお前じゃなくて周りの人間が死ぬんだよ……この光景を良く覚えとけよ」

 

 騒ぎを聞きつけたらしく、騎士たちがぞろぞろとやってくる。無造作に散らされた人一人分の血液と肉片を見た彼らが顔色を変える。

 どうやら俺が事情を知っているとみたらしい。威圧感のある騎士が二人こちらに詰め寄ってきたので、大人しく同行することにした。

 




要約
大神教←敵
女神教←味方


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47 理想と現実

 騎士の詰所での事情の説明は長引いた。当然だろう。平和だった王都のど真ん中で、突然人が爆散したのだから。中々信じてもらえなかったところを、勇者パーティーの名前を出すなどしてようやく納得してもらった。結局のところ帰れたのは、日も傾いてきた頃だった。

 

 時間はかかったが最終的に何が起こったのか納得してもらえたらしい。これなら大神教の散発的な襲撃(信者の暴走とも言う)に対して王都が無防備になることはないだろう。詰問は面倒だったが、今日の成果だ。

 しかし、夕暮れの帰路につく俺の脚は重かった。仲間の前で人を殺した記憶。驚愕する仲間たちの顔。過去の記憶と重なるそれは、俺の気分を重くさせた。

 

 ゆっくりと宿に帰り、意図的に誰にも会わないように一直線に自分の部屋に向かう。斜陽に照らされる宿の廊下には人の気配はなく、静けさだけが俺を迎えていた。

 ほとんどずっと座っていただけの肉体はさして疲労していないはずだったが、俺の瞼はひどく重かった。

 

 何もする気になれない。俺は部屋に着いてすぐ汗ばんだ服を乱雑に投げ捨てると、体に軽く清浄魔術を掛けてベッドに入った。瞼を閉じてから眠りに落ちるのに、さほど時間はかからなかった。

 

 

 

 

「あ、あれ!?メメちゃんなんで裸なの!?」

「んあ……?」

 

 起きたら既に日が落ち、そして日が昇った後だったらしい。朝日を受けて顔を白く輝かせたカレンが俺のタオルケットを引っぺがしていた。……ちょっと寒い。

 

「うわほっそ、しっろ……。あ、メメちゃん、昨日そのまま寝たでしょ!服がめちゃくちゃ散らかってるよ!」

 

 タオルケットを俺の体に掛け直すと、カレンが世話焼きの姉のように、怒った風に言う。プンプンしながらも散らかった衣類を畳み始めた。そこには少しも蟠りなんて感じられない。

 過去の、彼女ではない彼女との決別を思い出す。優しい彼女は、最後まで俺が人間を殺すことを肯定することはなかった。

 その様子がかつて決別した彼女の姿と重ならなくて、俺は不思議に思った。

 

「……なあカレン、昨日の件、何とも思ってないのか?」

 

 聞くと、カレンは少し動きを止めて俺の方を見た。こちらを向いたカレンの顔が日光に照らされ、一層白く見える。その表情には陰りはなかった。

 

「確かに、メメちゃんが突然人を殺しちゃったことには驚いたよ?でも、あれが最善の行動だったことは流石にアタシでも分かったから、咎めるなんて偉そうなことはできないよ」

 

 淡々と述べていたカレンは、でもね、と少し口調を変えて続けた。

 

「一言、アタシに、皆に、伝えて欲しかったな」

 

 切実な想いを孕んだその言葉に、俺は簡単に返答することができなかった。それはあの日、ウラウスを倒して意識を失った時の、頼ってほしいという言葉と似たものを感じた。皆を頼れ。皆に伝えて欲しい。その正しい願いに、俺は言葉を返すことができない。そうするには、俺の過去の罪は重すぎた。

 

「……」

 

 また、何も言えない。カレンはそれを予期していたように、俺の衣服を畳み始めた。彼女の背面にはずっと陽光が注いでいて、背中すらも白く輝いていた。

 

 

 

 

 ノロノロと新しい服を着ていると、再び部屋の扉が開いた。

 

「カレン、メメは見つかった?……うわあ!」

 

 着替えながらオスカーの声に振り替えると、顔を真っ赤にした彼の姿があった。

 

「馬鹿!馬鹿オスカー!ノックくらいしろ!」

 

 なぜか怒ったカレンが手に持っていた俺の服を投げつける。それは寸分違わずオスカーの顔に直撃し、彼の頭の上にのった。……いや、俺の服……。

 

「ご、ごめん」

 

 落ち込んだ声でオスカーが謝り、服が顔にかかったまま部屋を出ていった。……いや、俺の服……。

 

「メメちゃんも!少しくらい隠して!?」

 

 カレンが向き直って、悲鳴のように言う。下を見て自分の恰好を確認する。下は下着のまま。上半身は中途半端にシャツを着ていて、腹がだらしなく出ていた。

 

「……ああ、ごめん」

「気のない返事だなあ……」

 

 オスカーに見られたところであまり何も感じないからな。感覚としては鏡に映る自分の姿を見るようなものだろう。……違うか?

 

 

「オスカー、もういいぞ」

 

 服を着て、オスカーを招く。彼はおずおずと扉を開き中に入って来た。

 

「なんでメメちゃんの服を大事そうに持ってるわけ?」

 

 カレンがジト目でオスカーを見る。いや、カレンが投げたんじゃ……。しかしオスカーは反論するでもなく気まずそうに顔を逸らした。……なんだその後ろめたそうなリアクションは。

 

 

「……オスカー、ちょっと話をしよう」

 

 俺の少し硬い口調に、オスカーも真面目な雰囲気になった。ベッドに腰かける俺の前に座って、こちらを見上げてきた。

 

「昨日の件、覚えているな?」

「もちろん」

 

 忘れるわけもないか。平和な街の中で突如爆散する人間。笑顔の下に隠した殺意と狂気。

 

「これからああいうのが増えることが予想される。……対処できるか?」

「うん」

 

 真剣な表情のオスカーは、もうすでに答えを見つけていたように返してくる。

 

「……お前の周りで人が傷つくかもしれない。……大丈夫か」

 

 問うと、少し表情を崩したオスカーが笑った。

 

「メメは結構過保護だよね」

「過保護……?」

「うん。僕のこと、虫も殺せないとでも思ってる?」

 

 思っていない、と即答できなかった。オスカーは再び真剣な表情をすると、自分の想いを語り始めた。

 

「メメ、僕が戦えるのは皆のためだからなんだ。初代勇者様みたいに世界のために、なんて大それたことは考えられない。カレンが笑っていられるために。メメが幸せになれるために。オリヴィアが自由にいられるように。ジェーンが想いのために生きられるために。そんな身近な理由のためなんだ」

 

 続く言葉は俺の、オスカーに抱いていた夢想とも言える妄想を打ち砕くものだった。

 

「そのためなら、僕はきっと人も殺せるよ。……僕は清廉潔白な勇者様じゃないからね」

 

 少し自嘲気味に笑った。しかしそれは卑屈さを感じさせない、確かな自信に溢れた宣言だった。

 

「メメは僕のことを少し見くびっていたんじゃない?」

 

 いたずらっぽい笑みを見せるオスカー。返す言葉もなかった。全くの図星で、俺と彼の違いをまざまざと見せつけられた気分だった。それは嬉しい。オスカーがこんなにも逞しくて、たまらなく嬉しい。

 ──嗚呼、俺はどうして罪を重ねる前に彼のようになれなかったのだろうか。

 

 

 

 

 バッドエンドの記憶 狂気の伝播

 

 

 

 

 王都の一角、騎士たちに言われるがままに防衛任務に就いた俺は、未だに覚悟を決めかねていた。今回の敵は魔物ではないのだ。ただ騙されただけの、普通の人々だ。それを殺すことへの忌避感を、俺はどうしても拭えていなかった。

 

 外出を制限されている王都の人通りはまばらだ。屋外にいるのは、せわしなく道を歩く、武装した騎士たち。それから極小数の一般住民らしき人影だけだ。

 閑散とした大通りを見ていると、嫌でも緊急時であることが感じ取れる。やはり王城は、数日中には王都に大神教徒の襲撃があると読んでいるようだった。街全体にどこか不安げな雰囲気が蔓延っている。その独特な空気は俺の精神までも苛み、見回りの任務を無意味に疲弊するものにした。

 

 

 事が起こったのは、月のない夜だった。その時見張りをしていた俺は、疲労感に伴う欠伸を噛み殺しながら人のいない通りを歩いていた。長時間の見回りに伴う倦怠感、それと眠気が集中力を奪っていた。それゆえ、俺は悲劇のはじまりに気づくことができなかった。

 

 静寂の夜に突如爆音が響き渡った。魔力の高まりのような予兆の見られない、物理現象としての爆発。鼓膜が破れんばかりの大音量は、どうやらすぐそばで爆ぜたものらしかった。あまりにも突然の事態に硬直し、しかし騎士たちの怒号にすぐに我に返る。

 

「来たぞ!マルキン通り!急げ!」

「あれだけとは限らない!他の場所にも伝令で最大限の警戒を促せ!」

「馬鹿野郎必要ない!爆音で全員飛び起きてるよ!」

 

 爆心地には、中から血の垂れる甲冑が転がっていた。騎士の犠牲者。先ほどまで何でもないように俺の隣を歩いていたであろう彼は、あっさりと屍になった。

 

「明かりを灯せ!」

 

 叫びに呼応して、魔法で作られた光源が中空に展開する。そして、俺たちは驚愕することになる。既に街には、多数の不気味な黒ローブの姿があった。その手には剣や斧などが握られ、敵意を明確にしている。間違いない、大神教の信者たちだ。

 

「多数いるぞ!間違いない、手引きした奴がいる!おい、内通者は誰だ!?」

「内通者!?おい、それは誰だ!?俺は誰を信用すればいい!」

 

 騎士たちに動揺が広がる。最近の王都では、大神教の侵攻を警戒して人の出入りを制限していた。門では素性と荷物の検査が厳格に行われていて、不審人物が爆発物や刃物など持ち込めるはずもなかった。

 こんなにも多数の敵が出てきたのは、内から手引きした者がいるのは明白だった。しかし、今それを言うのは混乱を生むだけだ。続々と響く爆発音も相まって、動揺が彼らの間に伝播する。

 

「落ち着け!小隊内での連携を密にせよ!内通者については後で考えればいい!おい、そこの騎士、止まれ!何を……ガッ」

 

 騎士の上官らしき人影が諫めようと声を荒げると、それに近づく顔を隠した甲冑姿があった。真っ直ぐに近づいたそれは、騎士の鎧の隙間に長剣を突き刺した。浮足立つ騎士たちに、更なる混乱の種が撒かれる。

 

「裏切者だ!内通者がそこにいるぞ!捕まえろ!」

「どこだ!?探せ!」

「アイツだ!早く殺せ!」

「貴様かああ!」

「違う!今の奴が内通者だ!ガアアアア!」

 

 突如出現した王国の甲冑に身を包んだ敵に翻弄される王国の騎士たち。元々魔物との戦いのスペシャリストである騎士たちは、近年人間同士の戦いがなかったこともあり、人間との戦いの経験値に乏しい者が少なくない。知性の劣る魔物ばかりを相手にしていた年若い騎士たちにとって、こんな搦め手で攻め込まれるのは初めてだったのだろう。

 

 黒ローブは騎士たちの混乱の間に暗躍しているようだ。彼らの主な目的は攪乱のようだ。少しでも多く騎士が同士討ちするように声を上げ、爆発物を街中に仕掛けている。秩序あった王都の通りが、爆音と断末魔に包まれる。爆発した住居の壁面が崩れ、通りに瓦礫が落ちてくる。混沌とした王都には、もはや安全地帯など存在しなかった。時間が経つにつれて騎士だけでなく、住居に籠っていた一般住民にも被害が出る。

 

 俺もまた戦いに加わったが、正直な所どうして良いのか分からなかった。魔法使いまで倒されているらしく、王都の光源はどんどん減っていて、周囲の状況が分かりづらくなっていた。

 黒ローブの姿も近くに見えず困惑していると、突然騎士が襲い掛かってくる。暗闇の中でなんとかそれを視認した俺は、辛うじて剣を弾く。

 

「お前か裏切者!」

「違う!よく見ろ!お前たちの妬んでいる勇者のツラを忘れたのか!」

「うるさいうるさいうるさい!王国に仇成す者は全て殺さなければ!」

 

 その騎士の様子は、とても正気とは思えなかった。開き切った瞳孔は、俺を見ているようでどこか遠くを見ているようだった。鍛錬を重ねた騎士のものとは思えない、ふらふらとした剣を弾く。そのまま騎士の頭部を掴んで、思い切り地面に叩きつけた。屈強な騎士と言えども勇者の力には耐えきれず昏倒する。

 

「どういうことだ……?何かの魔法か……?」

 

 よく見れば、俺の周囲の騎士たちはみな正気を失っているように見えた。かつての味方どうしで罵声をぶつけ合いながら切り結ぶその姿は、大神教の狂信者と変わりないように見えた。しかし魔力の気配はない。よく見ると、夜闇にはぼんやりと霧のようなものが舞っていた。魔法によらない、薬物による混乱の誘発。

 

「やめろ!そんなことしてる場合じゃない!」

「貴様に指図されることではない!平民勇者は黙っていろ!」

「クソッ、こいつもか……」

 

 殺すわけにもいかず、甲冑の上から拳をぶち当てる。カーン、と高い音を立てながら、金属が中まで衝撃を伝え、正気を失った騎士は卒倒した。

 しかし、これではキリがない。周りを見れば、もはや暴徒と化した騎士が多数。それから街を破壊して回る黒ローブ。放っておけば、一般住民にも多大な被害が出てしまう。

 

 

 騒動を鎮圧するために、黒ローブと騎士たちを昏倒させながら周囲を見渡す。混沌とした王都を鎮めるために走り回っていると、俺は決定的な瞬間を目撃してしまった。

 

 光に照らされた視界の先には、襲い掛かる黒ローブと、尻もちをついた子どもの姿。おそらく、家出してしまったのだろう少年が、戦場となった王都に取り残されていた。家族に反抗した些細な冒険の対価は高くついた。黒ローブが剣を振り上げ、子どもを殺そうとする。しかし、俺ならまだ最悪の結果を避けることができる。石畳を蹴って、黒ローブに飛び掛かる。

 

 ──ギリギリだ。殺すしかない!

 

 初めての明確な殺人の決意はしかし、体には伝わりきらなかった。自分の剣が人間を殺すさまを一瞬想像してしまう。躊躇し、わずかに鈍る右腕。首元へ振り下ろしたはずの聖剣は、黒ローブの右腕を吹き飛ばすにとどまった。鮮血がシャワーのように吹き出る。それは黒ローブの右肩、それから──子どもの首からだった。

 

「ああああああああ!」

 

 守れなかった。黒ローブの絶叫と、俺の慟哭が混じり合う。それがあまりにも不快で、俺は黒ローブを睨みつけた。彼は焦点の定まらない目でこちらを見てきた。

 

「お前お前お前!俺様の!これからとっておきのおもちゃで遊ぶはずだった俺の右手を!せっかくいい子どもの死体が手に入ったのに!これじゃあ目玉を引き出すことも、脳髄を覗くこともできないじゃないか!ウウウ……いたいよお……」

 

 おいおいと、さも悲しそうに泣く男。おぞましいことを言うその言葉には偽りの気配は一つとしてなく、それが歪んだ真実だったことを示していた。

 俺は自分の決定的な過ちを思い知った。俺は、こんな人間を殺すことを躊躇って、子どもを殺してしまったのか?先ほどの瞬間がフラッシュバックする。首を綺麗に両断されて、倒れ伏す子どもの体。涙と絶望を湛えた悲痛な顔。それを思い出した俺は、頭が沸騰するほどの怒りを覚えた。それは目の前の男に対するもの。それから自分へのものだった。

 

 不自然なほどに感情が昂る。怒りのままに聖剣を振り上げた俺は、躊躇いなくその男の首を撥ねた。それが俺にとって初めての殺人で、そしてそれが大義ではなく単なる自分の怒りのために行われたものだったことを、俺は嫌という程よく覚えている。

 



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48 騎士団長

 じわじわと身を蝕む熱さから目を逸らすように、進む先に聳え立つ二階建ての建物を見上げる。王都の騎士団員は、そのほとんどがここ、兵舎で生活をしている。

 そして俺が今回尋ねようとしている相手、騎士団長アストルの部屋は兵舎の中、その一番奥に位置している。彼に会うアポイントメントは、勇者パーティーの名前を出すとあっさりと取れた。

 

 兵舎の手前、騎士の訓練所となっている中庭を、先導する騎士についていく。中庭では、多数の騎士が集って鍛錬をしていた。木剣を打ち合わせる鈍い音。時々響く、怒声のような号令と、剣を振るう若者たちの力の入った雄叫び。熱気に溢れるそこは、まさしく人類を魔物の群れから守る防人たちの待機所だった。

 

 鍛錬する騎士たちの振るう剣は、どれも鋭く、重そうだ。騎士という名誉ある職に就ける人間は、多かれ少なかれ魔力を持っている。そしてその魔力を、特に身体能力を強化することに扱える者が騎士となる。

 騎士である彼らは、詠唱などなしに、体の延長であるかのように体内の魔力を使いこなす。踏み込む足の力を強化したり、撃たれた箇所を守ったりとその用途は様々だ。そのため彼らは皆、常人とは一線を画す身体能力を発揮する。

 

 だからこそ、騎士とは本来ただの平民に、大神教の信者に負けるような存在ではないのだ。しかし、魔物との戦いとは異なり、人間同士の争いには搦め手や策略が横行する。大神教はそれをよく理解した戦いができる集団だ。狂人の集まりとは言え、その頭脳部分は理知的な判断力を残していることが窺える。

 

 

 訓練する騎士たちが、見知らぬ部外者である俺をチラチラと見ているのが分かる。なぜかそわそわとしている若者たちは、上官らしき騎士に叱責されていた。集中しろ。

 

 多数の視線にうんざりしながらも、ようやく目的地にたどり着いた。無骨な騎士の勤め先らしからぬ豪華な造りの扉。案内役の騎士がノックをして、部屋に入っていく。一瞬中の様子が見え、中にいる彼と視線が合った。

 冷ややかな表情に、鷹のような鋭い瞳。彼こそが、その若さにも関わらず王国の騎士団長という重役に抜擢された秀才、アストル。俺の知る限り、最も強い騎士だ。

 

 招かれたので部屋に入り丁重に挨拶をするが、彼は眉一つ動かさず俺を見ていた。貴族相手でも失礼のないように挨拶をしたはずだが、返事はない。顔を少し上げると、刺すような鋭い瞳と目が合う。

 

「それで、勇者の使いがいったいなんの用かね?」

 

 ずっしりと腰かけたアストルが嫌そうに問いかけてくる。その顔にはありありと、早く帰れ、と書いてあった。

 

「はい、先日の共和国のクーデター、及びそれに伴う王国への攻撃の可能性について、です」

「それは私も良く把握している。素人に何か言われる筋合いはない。帰れ」

 

 バッサリだった。王国で最も王都の防備に詳しい男への進言だ。不機嫌になるのも無理はない。しかし言わねばならない。普段優れた思考を発揮する彼が見落としている可能性について。

 

「確かに、貴方は人間相手の防衛戦だろうが素人ではないかもしれない。しかし貴方の部下たちは?大半の騎士は、魔物殺しのスペシャリストたちは、姑息な人間との殺し合いについては素人ではないでしょうか?」

「それこそ、貴様のような素人に言われる筋合いはない」

 

 間髪入れずに彼が言葉を返してくる。しかしその程度の言葉で帰るわけにはいかない。

 

「騎士の中に内通者がいる可能性がある、と言ったらどうでしょう?」

「ほう……」

 

 眉をひそめた彼の雰囲気が変わる。間違いなく、悪い方に。

 

「部外者が我ら騎士団の結束を疑うというのか?──大きく出たな」

 

 鷹のように鋭い目は、今や俺を射殺さんばかりに睨んでいた。見れば分かるほどの激しい怒り。であれば、俺も礼節を気にしている必要もあるまい。

 

「ハッ。貴族のボンボンを押し付けられ続けた今の騎士団に結束だと?末端の一員まで完璧に制御できているとでも?お前もぼんくらが機密に触れられる現状が良くないことくらい分かっているはずだ」

 

 俺の言葉を聞くと、ようやく彼の表情が少し変わった。意外なものを見たように眉を少し釣り上げる。

 

「……詳しいな。話くらいは聞いてやろう」

 

 アストルは座りなおすと、こちらに視線を向けてきた。その鋭さは、怒りから観察へと質を変えていた。

 

「いいか?騙されたと思って俺が名前を出した騎士を探れ。何らかの動きがあるはずだ」

 

 数人、名前を挙げる。いずれも実家から騎士団に厄介払いされてきた、利己的で怠惰な貴族階級の人間だった。その名前を聞いたアストルの眦が僅かに吊り上がる。心当たりが無いわけではないらしい。

 

「それから、精神干渉の魔法か薬物に気を付けろ。その影響が騎士団内部に入り込んでいる可能性が高い」

「そこまでハッキリ言われれば調査もやぶさかではない。しかし、間違いだったら騎士団を疑った貴様はただでは済まさんぞ?」

「好きにしろ。火炙りにでも串刺しにでもすればいい」

 

 俺の言葉をつまらない冗談と取ったアストルは、軽く鼻を鳴らすだけだった。

 

 そうして、あまりにも短い騎士団長様との面会は終わった。彼の無駄を嫌う性格は貴族階級には嫌われているようだが、俺としては非常に好ましかった。やはり騎士の中では、まだ話が通じる。冷たい男だが、合理的であるというただ一点においては信用できる。これで多少は大神教の襲撃があった時に騎士団は上手く動いてくれることだろう。

 

 しかし、おそらくこれでも共和国の浸透を完全に防ぐことはできない。俺の知識も完璧ではないのだ。これでも入り込んできた狂信者どもは……斬り殺すしかあるまい。剣の柄にそっと触れる。慣れ親しんだ聖剣ではなく、ただの大剣。であれば、今回は聖剣を人間の血に濡らす必要はあるまい。オスカーの決意がどうであれ、俺は俺の理想を汚させたくはなかった。

 

 

 騎士団長との面会を終えた俺は、自室に戻って大神教の対策について思考を巡らした。

 

 大神教は一度に動員できる数が多いという点だけ見れば魔王軍をも上回る。時に自殺すら命ずるあの宗教が信徒を獲得しているのは、教祖となっている魔物の能力と、依存性のある薬物を使っているからに過ぎない。

 甘い言葉で誘われた者は、彼らの本拠で薬を嗅がされ、正常な判断能力を失う。そうして、じっくりと大神教への忠誠を刷り込まれるのだ。

 

 だから、彼ら相手に躊躇している暇などない。しかし、いくら決意を決めたとはいえ、仲間たちの、特にオスカーの剣先が鈍らないとは限らない。人を殺す覚悟を決めることと、人を殺すことの間には、大きな隔たりがあるのだ。その大きな隔たりは、時に大きな過ちを生む。

 だから俺こそが先陣を切って敵を殺さなければ。この身をもって示すのだ。相手が何であろうと、容赦なく切り伏せるのだと。

 

 ふと、カレンの言葉を思い出す。頼ってほしい。一言伝えて欲しい。仲間としての、正しい願いを思い出す。逡巡して、すぐにそれを否定する。──あり得ない。それは、嫌だ。

 

 大神教との戦いは、テロ、ゲリラとの戦いと言っても良い。個々人はたいして強くない。信徒はただ正気を失っている一般民衆に過ぎないのだから。しかしその躊躇いの無さ、熱意と勢いは本物だ。死ぬまで止まらず、死を恐れない。

 だから俺は、できるなら今の優しい勇者パーティーに戦ってほしくなかった。

 

 

 ◇

 

 

 俺の想いとは裏腹に、勇者パーティー全てに声がかかる。予想外の出来事に、俺は勇者パーティーを戦いに巻き込まない選択肢をあっさり奪われてしまった。まさか、あいつが直々に来て、止める間もなく全員に言い渡されるとは思ってもみなかった。

 

 狂信者からの王都の防衛。その重要な任務は、騎士団長アストルその人の口から伝えられた。

 

 

「王城からも要請があった。貴様らに担当してほしいのは、王城前、貴族街のメイン通り防衛の支援だ」

 

 鷹のような鋭い目をした男、騎士団長アストルは開口一番そう告げた。

 

「あそこは特に広い。騎士たちだけでは手が回るか怪しくてな」

「内通者の炙り出しはできたんだろうな?」

 

 有無を言わさぬ口調に少々反感を覚えて少しキツめに問うと、アストルはバツが悪そうに少し目を逸らした。

 

「ああ、お前の情報通りだった。全く、今回の件は騎士団の歴史の汚点だな。現在、騎士団全体を対象とした調査をしている。しかし結果は芳しくないな。想像よりもずっと根が深かったし、数が多い。俺の予想だと、お前の言う大規模な襲撃当日までに全部見つけ出すのは無理だな」

 

 栄光の王国騎士団も地に堕ちたものだな、とアストルは自嘲気味に笑う。いつも毅然とした彼らしからぬ態度からは、名高き騎士団の腐敗が衝撃だったことが伝わってくる。

 だから、俺はそんな彼に強くでれる。

 

「俺に少しくらい恩は感じたか?」

「……ああ、だからこうして直接出向いている」

 

 騎士団長自ら出向いてきたのも、どうやら彼なりの誠意だったらしい。であれば、一つくらい頼みを聞いてもらえるかもしれない。

 

「恩ついでに一つ頼まれてくれないか?」

「……内容にもよるな」

 

 凄まじく嫌そうな顔はされたが、拒否はされなかった。

 

「オスカーに、勇者に剣を教えてやってくれないか?」

「勇者殿の?」

「……僕?」

 

 二人が怪訝な顔をする。

 

「王都でも活躍を噂されている勇者殿に、俺から教えることなどあるのか?」

「こいつはまだ剣を握って半年程度なんだよ。勝負勘はあるが、剣術の基礎は正直お前のような一流の騎士には劣る。お前の指導は、今後こいつが生き残るのに役に立つはずなんだ」

「……お供の女に好き勝手言われているが、勇者殿はいいのか?」

「メメがそう言うなら、僕は信じます」

 

 オスカーはアストルを真っ直ぐに見返す。彼の鷹のように鋭い視線にも怯える様子はなかった。

 信じる。言葉にされるとあまりに無垢で、それを向けられるとむず痒い。しかし、今回は話を進めるのに好都合だろう。無垢ではない俺は、彼の気が変わらないうちに話を進める。

 

「この前の件を借りと思ってくれるのなら、受けてはくれないか?」

「……承諾した。ただし私も忙しい身だ。多くは時間を割けない」

「よろしくお願いします」

 

 アストルは少しオスカーの様子を見た後、こちらに向き直った。

 

「これで貸し借りは無しだぞ、図々しい女」

「ああ、それだけ聞ければ十分だ」

「そうか。……では、詳細については追って連絡をよこそう。その時が来たらよろしく頼む」

 

 短く挨拶すると、アストルは足早にその場を後にした。せわしないその背中は、もう次の用事のことを考えているようだった。

 

「メメ、いつの間にそんなこと考えてたの?」

「ああ。……勝手に決めてしまってすまない」

 

 突然アストルが訪ねてきたものだから、慌てて頼んでしまった。腕の良い騎士とコンタクトを取る貴重な機会だったとはいえ、流石にオスカーに一言くらい言えば良かった。オスカーの様子を伺うと、彼はただ苦笑を浮かべていた。

 

「メメがこの機を逃すまいと焦ってたのはなんとなく分かったからね。責めるようなことはしないよ」

「……助かるよ」

 

 穏やかな表情の彼に、俺はただ感謝の言葉を述べることしかできなかった。

 



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49 信頼の理由

 日光に照られた皮膚から汗がジワリと滲む。それを手で拭うと、僕は目の前の建物を見上げた。メメの紹介で僕が騎士団長から招待されたのは、なんと兵舎の中だった。部外者の立ち入りが禁じられているそこに向かうと、すぐに案内役の騎士が礼儀正しく話しかけてきて、騎士団長の元へと案内される。

 ……正直意外だった。王都の騎士たちの、どこか平民を見下しているような雰囲気は僕も感じていた。そして勇者という肩書への、嫉妬に似た悪感情も。だからこんな丁寧に対応されるとは思ってもみなかったし、僕も技を盗む気で来たのだ。どうやら、騎士団長を指名したメメの判断は正しかったらしい。

 

 相変わらず冷たい雰囲気を全身に纏っている彼、騎士団長アストルに会うと、挨拶もそこそこに中庭に連れ出されて木剣を持たされる。口よりも剣で語ると、目の前の男は言っているようだった。

 

「細かいルールはなしだ。全力でかかってこい」

「はい。──フッ!」

 

 勇者の力を使って脚力を強化する。踏み出した足が砂ぼこりを散らした。肉薄し、剣を振るう。しかし、アストルの木剣が正面に飛び出してきて、あっさり受け止められる。固い木同士がぶつかり合う音が響き渡る。鍔迫り合いになり、いっそう腕に力を籠める。しかし、微動だにしない。アストルの剣は、力強さだけでいえばメメ以上だった。……彼女以上の怪力の人間は初めて見た。

 手汗で木剣が滑りそうになる。アストルの表情は涼しいままだ。

 

「──ッ」

「力の入れ方が雑だな。身体能力の強化は闇雲にすればいいものではない。──こうだ!」

 

 次の瞬間、爆発的な衝撃を受けた。視界が飛んだかと思うと、いつの間にか尻もちをついていた。ようやく、自分が鍔迫り合いの状態から吹き飛ばされたことが分かった。

 

「剣の筋は悪くない。しかし自分と同じくらい力が強い者との戦い方がなっていないな。魔物は正面から叩き伏せられる相手ばかりではないぞ」

「……はい」

 

 アストルの言葉に、今までの魔物との戦いを思い出す。印象に残っているのは、吸血鬼の驚異的な膂力だ。力比べでは勝てず、聖剣は硬質な爪に防がれた。

 

「身体能力の強化がばらつきすぎだな。必要なところに必要なだけ集中させろ」

「……それはどうやってするのでしょう?」

「さっき見せただろう。言葉で伝えられるものではないのだ。よく見ろ!」

 

 再度、アストルの体がぶれ、すさまじい勢いで飛び掛かってくる。木剣を合わせると、先ほど以上の衝撃が手に伝わって来た。なんとか押しとどめるが、打ち合わせている木剣が折れるのではないかと思うほどの力でグイグイと押される。

 

「俺の体の力の動きをよく見ろ。総力はお前より少ないが、力を一点に集約しているからお前よりも力が出せる」

「……よく、分かりません」

「一日で分かれば苦労はないなっ!」

「うわっ!」

 

 別方向への力が加わったかと思うと、僕の木剣は手を離れ、宙を舞ってしまった。アストルの剣が僕の首筋に突き付けられる。

 

「実戦ならこれでお前の死だな」

「……返す言葉もありません」

 

 正直、甘く見ていた。これまでの僕の剣の師匠、メメよりも強い人間がいるとは思ってもみなかった。

 

「この通り、俺は体に覚え込ませる指導しかできないからな。ついてこれるか?」

 

 木剣で肩をトントンと叩きながら、アストルが挑発的な口調で言う。

 

「もちろんです」

 

 望むところだ。それが仲間を守るためになるならば、僕はきっと頑張れる。木剣を握る。途方もなく大きなアストルの姿を確認すると、僕は彼めがけて一直線に走り出した。

 

 

 

 

 あれだけ煩わしかった太陽は、いつの間にか沈みかけていた。影がすっかり伸びた頃、ようやくアストルは訓練の終了を告げた。僕は疲れ切った体を休めようと、その場に座り込んだ。日光にさらされ続けた中庭の地面からぼんやりとした熱が伝わってくる。

 

「帰る前に、少し話をさせてくれ」

「ああ、はい」

 

 座ったままで返事する。意外だった。無駄話を嫌いそうなこの男が、何を話そうというのか。こちらに向き直るその目は相変わらず鋭く、あまり雑談という雰囲気でもなかった。

 

「今代の勇者パーティーというのは、俺が出向いた時の五人で全てなのか?」

「はい」

「あの女、メメとやらが主導権を握っているのか?」

「その通りです」

「何故だ?」

「なぜ、ですか」

 

 こちらを見るアストルの目は変わらず鋭い。

 

「僕とカレンは田舎の村の出身で、戦ったことなんて一度もなかったんです。それで、初めて盗賊と戦った時に出会ったのがメメで、それからずっと助けてもらってます」

 

 そう、助けてもらっている。あの時から彼女に助けてもらっている僕は、彼女に何か返せているだろうか。

 

「たまたま、か。──勇者殿、あの女の言うことばかりあまり鵜呑みにするなよ」

「……それは、どういう意味ですか?」

「考えてもみろ。知識を豊富に持っていて、さらに戦い慣れもしているのだろう?勇者殿がたまたま会うにしては、出来すぎなほど優秀な人間だ」

 

 言われて、その考えに初めて至る。僕に必要だったものを持ち合わせていたメメとたまたま出会ったこと。その都合のよさ。思えば、未だにメメは謎が多い。今まで何をしてきたの語ったことはないし、その豊富な知識の出どころも謎だ。──いや、それでも。

 

「でも、僕はメメを信じています」

「……なぜだ?」

「また、なぜ、ですか。…………はっきりした理由はありませんよ。僕たちのために命懸けで戦ってくれること。勇者パーティーのために力を尽くしてくれていること。……色々ありますが、一番は目、でしょうか」

「……目?」

「伝わってくるんです。色々なことを経験して、それでも折れない何かが彼女の中にあるのが分かるんです。それがある限り、メメは僕たちと一緒に戦えると信じています」

 

 暗く淀んでいる時も明るく輝いている時も、その黒い瞳の奥には常に何かが存在していた。それは綺麗で暖かくて、メメの根底にある善性の何かであると僕は確信していた。──それは、或いは正義、と言ってもいいかもしれない──メメに言えば笑われてしまうだろう。自分を信じすぎだと戒められるかもしれない。それでも、その芯が揺るがない限り、彼女は信頼に値する人だと確信していた。

 

「……解せんな」

「そう、でしょうね」

 

 他人に納得できる話ではないのは分かっている。でも、信頼なんてきっとそんなものだ。

 

「勇者殿、仲間を疑うことも覚えた方がいい。君と同郷のカレン殿、それからオリヴィア殿は、王国でも身元の確認が取れている。ただし、メメという女とその連れのジェーンという男は経歴が全くの謎だ」

「……調べたんですね」

「当然だ。勇者パーティーの一員という立場は、栄誉を手に入れたい者にとっては非常に魅力的だ。過去には魔王軍のスパイ行為を働いた者すらいるんだぞ」

「栄誉にはメメもジェーンも興味なさそうですが」

「君の感想は聞いていない」

 

 取り付く島もない。しかしなんとなく、このぶっきらぼうな男が彼なりに僕のことを心配しているのが分かった。その口ぶりは、僕に用心するように言い聞かせているようだった。それでも。

 

「僕の仲間のことは、僕が決めます」

 

 強い意志を籠めて、鋭く細められた目を見つめ返す。少しすると、アストルは軽く溜息をついた。

 

「意思は固そうだな。では、俺が指導できる間に彼らに負けないほど強くなってもらうとしよう。構わないな?」

「……よろしくお願いします」

 

 言うべきことは言ったとばかりに、アストルは素早く背を向けて去っていった。その様が彼の人となりを示しているようで、僕は少し笑ってしまった。

 いつの間にか太陽は沈み切ってしまったようで、少しだけ冷たい風が僕の汗に濡れたシャツを揺らした。立ち上がる。帰ろう。僕の帰るべき場所に。

 

 

 ◇

 

 

 共和国のとある海辺には、長い年月を経て天然の洞窟が出来上がっていた。そして人目に付きづらい位置に出来上がった自然の要塞は今、とある宗教集団の拠点として利用されていた。

 彼らの名乗る名は大神教。人の世に蔓延る女神教という悪を打ち破ることで世界を救う、自称正義の集団である。

 

 薄暗い洞窟の中には所々に篝火が設置され、ぼんやりとした光を放っている。その最奥の小部屋には、一様に目に狂気を宿した信者たちが集っていた。彼らが仰ぎ見るのは大神の預言者を名乗る教祖だ。預言者を名乗る女は白いベールの先に座っていて、信者たちにはシルエットしか見ることができなかった。神秘的な雰囲気を醸し出す彼女は、泰然と信者の報告を受ける。

 

「預言者様、当初の予定通り信徒たちの武装は整いました。しかし内通者が予想以上に摘発されており、王国内部、特に騎士団についての情報収集は予定よりも捗っておりません」

「結構よ。予定通りに襲撃を実行。不足はあなたたちの信仰心で補いなさい。できるでしょ?」

「もちろんです!」

 

 信者の目に迷いはなかった。薬物に思考を毒された彼には、もうすでに正常な思考能力は残っていなかった。

 

「では、聖戦前最後の信仰の儀を」

「ハッ!……同志よ!時は来た!今こそ地上から女神信仰を排し、真なる信仰を取り戻すのだ!

 勇気を示せ!信ずるもののために万事を為す勇ましさを!

 慈愛を示せ!今なお偽の女神の信仰に囚われる人類への果てしない愛を!

 そして何よりも、忠誠を示せ!我らに真の信仰を示してくださった預言者様に恩を返すのだ!」

「「オオオオオ!」」

 

 洞窟──大神教本部に集った信者たちの目に迷いはない。彼らは信じるもののためなら何でもできるだろう。その刃は女子供すらも害し、自分たちの理想の世界の礎とする。その信仰が、一人の魔物に作られものだと気づくことすらなく。

 



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50 王都襲撃

 王都の見回りに参加して数日が経った。勇者パーティーの面々は騎士たちに混じって粛々と見回りと警戒の任務を実行していた。

 人の出入りが規制され、少し人通りの減った王都はいつもと違った雰囲気だったが、仲間たちにあまり気にした様子はなかった。きっとそれは、過去の俺とは違い頼れる仲間が隣にいたからだったのだろう。

 

 

 そして、その日は驚くほど唐突に、なんの前触れもなく訪れた。はじまりは記憶の通りだった。夜空に響く、突然の爆発音。静かだった夜の王都が、混乱と狂騒に巻き込まれる合図。

 

「皆いるか!?」

「ここに!」

「アタシたちも無事だよ!」

 

 素早く近くにいる仲間たちの安否を確認する。警戒を怠っていなかったおかげで、周囲に敵影はないようだった。しかし夜闇の中に浮かび上がる、王都に突如現れる多数の黒ローブ。黒布の下では、皆一様に狂ったような笑みを浮かべていた。

 

 不気味な様子に仲間たちが動揺するのが分かった。騎士たちもまた、突然現れた侵略者たちに戸惑っているようだった。動揺すれば狡猾な策に簡単に騙されてしまう。──だから俺は、彼らに良く見えるように手近にいた黒ローブを斬り捨てた。

 

「ガッ!」

「よく見ろ!相手は魔力の扱いもロクにできない雑兵だぞ!しっかりしろ騎士ども!」

 

 切り裂かれた黒いローブから鮮血が舞い石畳に落ちる。俺の目の前で今、命が一つ失われた。

 人殺しに対する仲間たちの忌避は、今回は感じなかった。それにどこか安堵してしまう自分がいる。

 正気を取り戻した騎士たちが動き出す。

 

「素早く取り押さえろ!」

「水魔法を使え!爆発物を封じられるぞ!」

 

 騎士たちが先頭に立って狂信者たちを斬り捨て、高所に待機していた魔法使いたちから援護が届く。この徹底された統制、どうやら騎士団の堕落を嘆いていた騎士団長直々に指導が入ったらしい。記憶よりもずっと機敏に、適切に動く騎士団に安心する。そうでなくてはあの恐ろしい男を挑発した意味がないというものだ。

 

「俺たちも援護するぞ!魔力の反応のある敵には気を付けろ、自爆する可能性が高い!」

 

 発破をかけて、前に出る。すかさず目の前には黒衣の男が飛び出してくる。その虚ろな瞳は俺を見ているようで、どこか遠くを見ているようだった。

 

「偽神の走狗め!我らの裁きを受け入れろ!」

「黙れ」

「──ガハッ!」

 

 人間の肉は、魔物の重厚なそれと比べて遥かに刃が通りやすくて斬りやすい。しかし、どうしても重く感じる。彼らは言葉の通じる人間なのだ。彼らは共存できる同じ人間なのだ。そのことは決して忘れてはならない。自分を戒めながらも、迷いなく男を斬り捨てる。

 

 ふと気になって、オスカーの方を見る。ちょうど狂信者に斬りかかる時だった。

 

「偽神の信者よ!その禍々しい剣を捨てるのだ!」

「……すいません」

 

 謝りながらも、聖剣は狂った笑みを浮かべる男の首を正確に刎ねた。しかしオスカーの表情に曇りはない。高揚するでもなく、絶望するでもなく、ただ己の為すべきことを為すために、少年は人を殺めていた。……心配はなさそうだ。

 

「『炎よ、我が敵を穿て』」

 

 オリヴィアの魔法も、冷静に敵の命を奪っていた。その表情に変化はない。氷のような無表情でただ敵を屠る。彼女は強い。義務のためなら、必要なこと、為すべきことを毅然とこなすだろう。

 

「『土の巨人よ、我が敵を打ち倒せ』」

 

 ジェーンの目には敵への同情や憐憫は一切見られない。やはりこいつは、根本的には人と違う視点の持ち主なのだろう。人ひとり殺した後だろうと、そこに一切の感情の揺れを感じない。

 

「……大神よ、彼の者を楽園へと迎えたまえ」

 

 人間への攻撃手段をもたないカレンは、人同士の醜い殺し合いを、ただじっと見つめていた。そして、死者の幸を願う。

 聖職者に殺人はご法度だ。もし人を殺めれば、その魂は穢れ、二度と神聖魔法を使うことはできないだろう。カレンには最初、この戦場には来ないように言ったのだ。しかし、彼女はそれを毅然と断った。

 

『アタシだけ目を逸らすなんてできない。皆のことは私が治すよ』

 

 強くなった、と思った。盗賊に怯えていたかつての彼女は、そこにはいなかった。

 

 冷静に対処さえできれば、大神教徒はそこまで怖い敵じゃない。俺たちも騎士たちも、確実に敵を沈めていった。

 

「オリヴィア、九時の方向!数が多い、頼んだ」

「承りました」

「オスカー、出すぎるな!自爆に巻き込まれればお前もただじゃ済まないぞ」

「分かった!」

 

 俺の大剣が肉を切り裂く。もう何人斬ったのか分からなかった。俺から見える範囲では、被害はあまり出ていない。黒ローブたちは破壊工作や騎士の攪乱をする前に、速やかに騎士たちに斬り伏せられ、囚われていった。爆発音も明らかに減り、王都は静けさを取り戻しつつあった。

 

 金属のぶつかり合う音とけたたましい爆音も数を減らし、そろそろ騒動も収束するかと思われた時、それは現れた。

 王都に耳を劈く轟音が響き渡る。それは爆発音とはまた違った、重々しい何かが墜落したような音だった。

 

「オスカー、ここは任せた!俺が見てくる!」

「……うん!」

 

 閑散とした王都を駆け抜ける。どこに向かえば良いのかは、濃厚な血の匂いが教えてくれた。一歩進むごとに濃度を増していくそれは、ただならぬ事態が起こっていることを俺に伝えてきていた。恐ろしい予感に鈍ってしまいそうな足を叱咤して、進む。

 やがて、広場の一角に足を踏み入れる。そこには騎士たちの血液が乱雑にまき散らされた跡があった。

 

「ウッ……」

 

 あまりの血生臭さに気分が悪くなる。しかし、躊躇している場合ではなさそうだ。

 血霧の中心には、巨人がいた。二メートルを超える身長とそれに見合う巨躯は、遠くからでもはっきりと見える。人間離れした長身と重厚な肉体だったが、それは確かに人間だった。

 上半身には何も纏っておらず、その巨大な筋肉は岩石を思わせる。として四肢もまた、巨体に見合う大きさと太さだ。手足には鮮血がべったりとくっついていて、その恐ろしい容貌の迫力を増している。蹴りや殴りすらも直撃すれば容易く命を奪うだろう。大神教の切り札。薬物投与による改造人間の完成系が、そこにはいた。

 

「──まずい」

「うわああ!嫌だ!死にたくない!」

 

 巨体の目の前には、尻もちをついた騎士の姿があった。数秒も立てばその命を無為に散らすだろう。その場にいる最後の生存者を助けるために走った俺は、絶対絶命の騎士の前に立ちふさがった。相対すると、改めてその馬鹿げた巨躯の威圧感に慄く。しかし、下がるわけには、負けるわけにはいかない。

 改造人間の剛腕が唸る。

 

「ウオオオオ!」

 

 人間のものとは思えないほどの巨腕と大剣が激突する。肉と金属がぶつかり合ったとは思えないほどの高音が響き、その衝撃にたたらを踏んだ。

 

「ダメだ!そいつの体は剣より硬い!」

「分かってる!」

 

 言いながら、大きく回り込む。大きな体を持つ分愚鈍なそれの背中に大剣を叩きつけると、岩でも切りつけたような衝撃が両腕に返ってきた。

 

「クソッ!」

「グオオオ!」

 

 お返しとばかりに飛んできた大きな拳を、間一髪避ける。僅かに掠った頬には、刃物で切ったような傷跡が残っていた。やはり、今の体では純粋な力押しに対抗するのは難しそうだ。

 先ほど助けた生き残りの騎士は、素早く離脱したようで、足を引きずりながらも遠くから俺に声をかけてくる。

 

「待っていてくれ!すぐに応援を呼んでくる!」

「無理だ!そんな余裕今の騎士団にないだろうが!」

「しかし!」

「いいからお前は離れろ!」

 

 大急ぎで、古い記憶から魔術を構成する。時間をかけてコイツに街中で暴れられるわけにはいかない。せっかく秩序を取り戻しつつある王都に、こんな化け物を解き放ってたまるか。

 必要なのは圧倒的な破壊力。かつての俺なら聖剣を振れば事足りたそれを、魔術を行使して補う。

 

「『硬化せよ』」

 

 まずは、自分の大剣に硬化の魔術をかける。あまり得意な魔術ではないため一撃程度しか持たないだろうが、十分だ。魔力の動きを感知した改造人間が、巨体を揺らしてこちらに向かってくる。一歩踏み出すたびに石畳は粉砕され、地響きが起こる。

 

「『炎よ、我が意のままに、衝撃と共に炸裂せよ』」

 

 遅延発動型の魔術を大剣に付与、巨体へと剣を突き出す。直後襲い掛かる勢いの乗った強烈な右ストレートを辛うじて身を捩って避けると、剣を胸の中心に突き出す。先ほどは弾かれた剣先は、硬化魔術の効力で、辛うじて体内に入り込んだ。

 

「グオオ!?」

 

 改造人間の醜く歪められた顔が驚愕に歪むが、分厚い脂肪に阻まれ決定打にはなりそうになかった。しかし、俺の狙いはここからだ。

 

「『爆ぜろ!』」

 

 トリガーの一句と共に、剣先が大爆発を起こした。巨人の体内で爆発したそれは、衝撃を巨体の中心に伝えた。さらに、肉体という密閉空間での爆発はその勢いを増す。俺の魔力以上の威力となった大爆発は、断末魔を発する余裕すら与えず、巨体を文字通り四散させた。

 そして当然、爆心地にいた俺までも吹き飛ばす。視界が赤に染まったかと思うと、俺の体は宙を舞っていた。

 

「ガッ!」

 

 そして、壁面に背中から打ち付けられる。一瞬、呼吸が止まった。見下ろすと、俺の体は全身が真っ赤だった。もはや自分の負傷と吹き飛ばした改造人間の血液の区別もつかない。体はあまりのダメージに麻痺して動かない。今もじくじくと身を蝕む痛みだけが、自分の体の状態を伝えてくれていた。

 

「──ハハッ!これはいい!どうしてこんなにも良い方法を今まで思いつかなかった!敵を屠ることができて、俺は罰を受けることができる!最高じゃないか!ハハハハハ!」

 

 あまりの痛みに、俺は歓喜した。嗚呼、痛みが俺を蝕んでいる!死が刻一刻と迫ってきている!

 自分の哄笑を他人事のように聞きながら、俺の意識は次第に薄れていく。周囲が徐々に静まってきているのを鑑みるに、どうやら騒動は収まりつつあるらしかった。であれば、俺が意識を保っている必要もあるまい。

 どうせもう、勇者は他にいるのだ。ゆっくりと、俺は痛覚の地獄の中で意識を閉ざした。

 

 

 ◇

 

 

 俺の体の傷は、どうやら思ったよりも大したことはなかったらしい。再び目を覚ます頃には傷は完全に治療されていて、体にも違和感がなかった。さすがカレンの治癒魔法とでも言うべきか。

 寝かされていたベッドから起き上がると、いつぞやと同じように、服が変えられていた。……これもまたカレンだろうか。戦うたびに着替えさせてもらうのは忍びないのだが。

 たくさんの血を失い若干ふらつく足で外に出る。王都は損傷のあった建物の修復をする人で溢れていた。道端には大量の木材や石材が詰まれ、そこら中から土木作業の騒がしい音がした。少し見渡すと、晴れやかな大通りで、損壊のあった建物の再建を手伝うオスカーの姿が見えた。それを眺めていると、向こうからこちらに気づいたようだった。

 

「メメ!体はもう大丈夫なの?」

「ああ、カレンのおかげでな。お前たちの方は大丈夫だったか?」

「うん、皆無事だよ。あ、ちょっと待ってね」

 

 オスカーは慌ただしく担いでいた木材をどこかに持っていった。人外の身体能力は土木作業でも遺憾なく発揮されているらしい。身長以上の長さの木材を運んでいるにも関わらず、その後ろ姿はあっという間に遠ざかっていった。

 

 彼を見送って、復興作業に勤しむ大通りを眺める。爆発物によって損壊した建物はそれなりに存在した。しかし、記憶にある最悪の状況よりもずっと被害は抑えられたようだ。騎士団長様様といったところか。人々の顔色も、記憶にある最悪の状況よりずっと明るい。困っている人間がいれば余裕のある者が助け、復興作業は順調に進んでいるようだった。

 

 そして、聞こえてくる人々の話し声を聞くと、どうやらオスカーに助けられた者がそれなりに存在するようだった。勇者様が暴漢を退治してくれた。勇者が作業を手伝ってくれた。勇者様万歳、などなど。

 どうやらオスカーは王都の人々を助けることができたらしい。よかった。少しの妬ましさを胸に仕舞い、俺は彼を素直に賞賛してやることに決めた。ちょうど、オスカーがカレンを引き連れてこちらに向かってくるのが見えた。

 

「オスカー……」

「メメちゃん!体に違和感はない!?」

 

 しかし、その声はカレンの声に遮られた。スタスタと走って来た彼女は、そのままペタペタと体を触り始めた。

 

「カ、カレン、大丈夫だから。治癒魔法はちゃんと効いてるから」

「本当に?体に違和感はない?」

「ちょっとふらつくだけだよ。心配ないよ」

「ふらつくならベッドに入ってないと!」

「少しだから!カレンは心配しすぎだよ」

「心配しすぎなことないよ!メメちゃんの姿を最初見た時、アタシ死んじゃったんじゃないかって本当に思ったんだから!」

 

 言い募る彼女の瞳には、わずかに涙が浮かんでいた。それに気づいて、罪悪感を覚える。

 

「心配かけてごめん。でも、もう大丈夫だから」

「……分かった」

 

 しぶしぶ、といった様子でカレンが引き下がる。代わりに、オスカーが提案してくる。

 

「メメ、どこか座れるところで話をしよう。被害の程度とか、知りたいでしょう?」

「ああ、助かるよ」

 

 

 

 

 ところ変わって、いつも使っている食堂。ここには被害は出なかったらしく、繁盛しているようだった。賑やかな室内で腰を下ろして、適当に食事を注文する。

 

「建物がいくつか崩れちゃったみたいだけど、一般の人達に被害はほとんどなかったってさ……あの怖い騎士団長がメメに感謝を伝えてくれってさ」

 

 オスカーは苦笑しながら言った。あいつのことだ。しぶしぶと、仏頂面で感謝を伝えてきたのだろう。

 

「本当に、メメのおかげだよ」

 

 しみじみと、オスカーは呟く。その様子には、少しの葛藤があるようだった。

 

「なんだオスカー、自分が賞賛を受けることがそんなに不満か?」

 

 言うと、彼は動揺を見せた。やはり図星だったらしい。

 

「不満ってわけじゃないけど……。傷だらけになって戦ったメメよりも僕が褒められるのはなんだか違和感があってさ……」

「その葛藤は無意味だぞオスカー。俺は賞賛されたいから戦っているわけじゃない」

「……やっぱり、メメはそう言うんだね」

 

 分かっていた、とでも言いたげにオスカーは呟く。それっきり、彼は口を閉ざした。

 

「でも、これから何回も王都が襲われるようなことがあるのかな?」

 

 カレンの言葉が沈黙を破った。その表情には不安が見え隠れしている。

 

「放っておけば、そうなるな。──だから、俺たちで反撃しよう」

 

 



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51 人魚

 東西に領土が大きく広がる王国は、その東西の端を海に囲まれている。そのため、海産物の漁が頻繁に行われ、新鮮な魚介類が王都まで届くことも珍しくない。しかしこの大陸で漁を行う際に注意しなければならないのが、海に住まう凶暴な魔物の存在だ。

 

 王国の北西部、その湾岸には、アルパと呼ばれる漁港が存在する。この地の海は、珍しくて美味な魚介類が取れることで有名だ。しかしながら、その漁港を行き来する船の数はあまり多くない。

 

 アルパの漁師といえば、稼げるがとても危険な仕事であることであまりにも有名だ。この地の荒れ狂う海が航海を困難にしているのはもちろんだが、何よりも漁師たちを苦しめるのは海に住む魔物たちの存在だ。

 例えば、イカのような形をした、巨大な魔物。船よりもずっと早く泳ぎ、人間の肉を食らおうと襲い掛かってくる巨大魚。その他にも人間を食料とせんとする魔物が多数生息していて、例をあげればキリがない。

 だから、この地の漁師といえば、冒険者のように魔物と戦うことができるほど腕の立つ者しか生き残れないことで有名だ。

 

 アルパの漁師とはすなわち、単に漁の技術を身に着けているだけでなく、魔物との戦闘技術をも習得している強者たちの呼称だ。

 

 

「十二時の方向!巨大イカがいるぞ!」

「投擲準備を急げ!初撃で仕留めなければ全員死ぬと思え!」

 

 荒れ狂う海上、その船の上で複数の人影がせわしなく動き回る。向かう先には、船にも匹敵するような巨大な魔物の影が聳え立っていた。

 この危険な海域で漁を続けていられた漁師たちの動きは機敏で、船上での戦いにおいては王都の騎士をも上回る練度を見せていた。

 屈強な男たちが、一斉に銛を構える。海中の強力な魔物も仕留められるように魔石を仕込んだ特別性だ。

 

「放て!」

 

 号令と共に、一斉に投擲が始まる。凄まじい勢いで投げられた銛は、一つ残らず巨大な影に直撃した。突き刺さった銛は、ただちに事前に籠められた魔術を発動させる。巨大イカの体内に侵入した切っ先から、体内の水分が凍っていく。水分を凍らす魔術は、水上で戦う彼ら漁師にとって使い勝手の良い魔術だ。その効力を発揮する魔石を、漁師たちは金を惜しまず購入して船に搭載していた。

 白く透き通るような体表から、鋭い氷柱が突き出す。巨大イカが苦し気に身を捩るたびに高波が発生し、船を大きく揺らした。

 やがて、巨体が力を失って水面に浮いてくる。体内から氷の塊に蹂躙された巨大イカは、あっさりと人間によって討伐された。

 

「でかした!今回のはデカいぞ!」

 

 銛を突き刺し巨体を回収する男たち。手慣れたその様子は、何度も巨大イカを討伐してきたことを示していた。

 難敵を倒し安堵した船内には弛緩した空気が流れ、男たちは雑談に興じ始めた。その時だった。どこからともなく、歌が聞こえてきたのは。

 

「あれ?なんですかこれ。若い女なんて船に乗ってたんですか?」

 

 若い漁師は、ヘラヘラしながら年配の漁師に聞く。しかし返答はなかった。経験豊富な漁師は、皆一様に顔色を変え、唾を飛ばしながら指示を出し始めた。

 

「港に戻るぞ!急げ!」

「海に飛び込もうとするやつがいたら止めてやれよ!二度と戻ってこれないぞ!」

 

 巨大イカにすら動揺を見せなかった漁師たちのただならぬ様子に、若い漁師はおずおずと尋ねた。

 

「……なにが起こってるんですか?」

「決まってるだろ!人魚が近くにいるんだよ!」

 

 それだけ言ったきり、老年の漁師はどこかに行ってしまった。若い漁師は人魚という存在がどんなものなのか分からず、困惑した。

 巨大イカすら倒してしまうアルパの漁師たちが、いったい何を恐れるというのか。吞気に考えている若者の目の前に、突如中年の漁師が飛び出してきた。その瞳は定まらず、正気でないように見えた。

 

「あの……」

「どけ!うわああああ!」

 

 若者を突き飛ばした中年漁師は、船の端まで走っていくと、そのまま荒れ狂う海へと飛び込んだ。

 

「……はっ?」

「一人飛び込んだぞ!」

「もう助からない!見捨てるんだ!」

「可能な限り耳を塞いでいろ!歌を聞きすぎるとさっきのやつの二の舞だぞ!」

 

 犠牲者が出て、船内はいっそう慌ただしさを増す。混沌としだした船内を呆然と眺めていた若者には何が起こっているのか分からなかった。どうして歌一つに彼らが動揺しているのか分からない。こんなにも美しい歌なのに──

 混乱する若者は、愚かにも歌を聞いてしまった。美しい旋律だった。悲しいようで嬉しいようで、何かを懇願するような、寂しさを感じさせる歌だった。

 脳内が自分のものではない思考に犯されていく感覚。しかしそれを不快に思うことすら叶わず、ただ旋律に酔いしれる。若者は、なぜか海中に向かわなければならないような気がした。

 

「う、うわあああああ」

 

 海に飛び込む。荒れ狂う海中はとても泳げそうになかったが、若者には少しも不安はなかった。

 歌のところに行けば。歌に向かって進めばいい。海中でも旋律はずっと頭の中で流れ続けていて、若者を誘っているようだった。必死に手足をばたつかせて音の元へと向かった若者は、そこで人魚を見た。

 

 

 

 

 アルパの漁師たちには、代々海に住まう魔物達の生態とその対処法について事細かに口伝えされている。その中でも人魚の伝承については、危険度の高いものとして、海に出る漁師は良く聞かせられる。(先ほどの若い漁師は、老年の漁師の話をあまり真面目に聞いていなかった)

 

 美しい歌が聞こえてきたら気を付けろ。深海に住まい人を食らう、恐ろしい人魚様のお出ましだ

 

 第一に、陸を目指せ。その日の稼ぎは捨てろ。

 第二に、歌を聞くな。耳を塞げ。魔力を持った歌を完全に防ぐことはできないが、助かる確率は上がる。

 第三に、歌を美しいとおもうな。それは邪悪な魔物の甘い誘惑だ。たとえどれだけ美しい旋律であっても、感じ入るな、聞き入るな。

 最後に、海に飛び込んだ仲間は見捨てろ。もう絶対に帰ってこれない

 

 ◇

 

 

 海の中には、既に歌に引き込まれた人間が複数漂っていた。酸素を失いだらんと体を投げ出した彼らには素早く影が迫り、その体をどこかに連れ去っていく。その泳ぐ影こそが、屈強な漁師たちの恐れる人魚。人の女のような上半身をしながら、人を捕食する魔物だ。

 深海にその艶艶とした尾ひれを横たえて、その人魚は今日も今日とて捕まえた人間を貪っていた。長い間海中にいた男は既に息がなく、されるがままに体を捕食されていた。その傍らには、それを見上げる子どもの人魚がいた。

 

「お母さん、それ美味しいの?」

「あんまり美味しくはないかなあ」

 

 苦笑する母親は、太い右腕を咀嚼しながら答えた。

 

「でも、生きていくためには食べないとだからね」

 

 人魚たちの生態はある意味で魔物らしいものだ。生きるために、人間を殺し、食らう。絶対に人間とは相いれない種族。

 

「お母さんは人間が嫌いなの?」

「嫌いじゃないわ。嫌いだから殺すんじゃないの。……昨日聞かせたお話、覚えてる?」

「うん!人魚のお姫様が人間の王子様に恋する話!」

「あの話みたいにね、私たちは人間と恋ができるの」

 

 その口ぶりは、できる、ではなく、したい、と言っているようだった。年若い容貌をした母親の表情は、恋に恋する少女のようだった。無邪気な子どもはそれには気づかない。

 

「お母さんは恋したことあるの?」

「それがないのよ。いつも顔を見る前に食べちゃうから」

 

 クスクスと、母親が笑う。少女のような顔で。

 

「……でもね、セレネ。私の可愛いセレネ。あなたには、恋をしてほしいの。私たち人魚に恋はできない。あんなに綺麗な二本の足は持っていないから愛してもらえない。でも、あなたはなんの奇跡かそれを授かった。──だからねセレネ。人間と愛し合って、そして、子どもを産むの。半分が人間のあなたなら、きっと人間と子どもを産むことができる。──そうして、私たちの人魚に生まれるという呪いを、終わらせてほしいの」

 

 切実な声で少女に語りかけていた母親の人魚が人間に謀殺されたのは、それから数日後のことだった。

 

 

 

 

 バッドエンドの記憶 洗脳

 

 

 

 

 騎士たちと共に馬車に揺られること数日、俺たちはついに、大神教の本部に辿り着くことができた。人気のない海岸の一角、その洞窟はひっそりと存在していた。

 

 入口に集い、突入しようとする騎士たちにはピリピリとした緊張感が漂っていた。先日の自爆攻撃すら厭わない大神教の攻撃は記憶に新しい。同じ人間とは思えないほどの彼らの狂気は、俺の心に深く印象づいたいた。

 王都の被害は決して軽くなかった。彼らの目的だったらしい女神教の最高司祭の殺害は阻止できたが、騎士、一般人、共にそれなりの死者が出てしまった。騎士たちの厳重な警戒の中で、だ。その事実は騎士たちのプライドを傷つけ、同時に彼らから慢心を奪った。

 

 現場の指揮官が声を張り上げる。

 

「総員、気を引き締めろ!今回の目的は捕縛ではなく殲滅だ!生け捕りは考えなくていい!全力で剣を振るわなければ仲間が死ぬと考えろ!──突入!」

 

 甲冑姿の男たちが洞窟の狭い入口に殺到する。俺もまた、騎士の背を追って薄暗い洞窟の中へと入っていく。

 じめじめとした暗い洞窟内は、ずっとここにいたら気が滅入ってしまいそうだった。通路は大きく、三人程度なら横になっても歩けるほどだった。時折目に入る松明が、この洞窟が日常的に使用されていることを教えてくれた。

 

「敵がいる!灯りを!」

「囲め!数はこちらが上だ!」

 

 暗い通路を進み続け、暗闇にも目が慣れてきた頃、前方には王都でも見た黒ローブの姿が見えた。素早く散開し、躍りかかる影たち。各々の武器を構えた彼らは、暗闇の中でも機敏に動いて騎士たちを翻弄していた。

 しかし彼らは元々ただの平民。騎士たちの鋭い剣先に、信者たちは一人、また一人と倒れ伏していった。その後数度接敵したが、仲間を殺された騎士たちの集中力と気迫はすさまじく、俺には剣を振る機会すら与えられなかった。

 

「灯りがあるぞ!こっちだ!たくさんいる!」

「油断するな!盾持ちから先に出ろ!」

 

 一方的に信者たちを倒して、やがて辿り着いたそこは、洞窟の最奥だった。退路のない内部には、追い詰められたらしい信者たちが数十名集っていた。その姿を認めた騎士たちに容赦はなかった。

 

「仲間たちの仇だ!行くぞ!」

「一人残らず殺せ!」

「偽女神の手先どもがノコノコ現れたぞ!殺せ!」

「くそっ、真なる信仰を解さぬ愚か者どもがあああ!」

 

 怒号が響き、決して広くない洞窟の中で反響する。搦め手など介入する余地のない、閉所でのぶつかり合い。身体能力、魔力ともに優れた騎士たちが負ける道理はなかった。黒ローブに身を包んだ影が次々と倒れ伏す。血飛沫が舞うたびに騎士たちは歩を進め、やがて立っている信者は一人もいなくなった。

 

「これで全員か?」

「油断するな。相手は卑劣な狂信者どもだぞ」

 

 先ほどまでの喧騒が嘘のように洞窟が静かになる。静寂の中、生き残りを探す騎士たちは最奥に存在した白いベールに目をやった。洞窟の一角を隠しているそのベールは、先ほどまで殺戮の真っただ中にあった洞窟内に存在するにはあまりに不釣り合いだった。清潔感のある絹の布地には、血一つ付いていない。

 

 騎士たちが布地の向こうを注視する。騎士たちの血走った目を集め、気品すら感じさせる白いベールが、ゆっくりと幕を上げた。

 その奥にいたのは、一人の女だった。大きな瞳に、蠱惑的な厚い唇。背中に流された艶やかな蒼髪。何気ない仕草一つにすら色気を感じさせるほどの、美しい女だった。

 彼女はたおやかな仕草で幕を持ち上げると、自分を見つめる数多の目線を認める。すると、劇役者さながらに騎士たちにウィンクをくれてやった。その余裕に溢れる態度は、血生臭い洞窟の中で極めて異質だった。

 

「生き残りだ!殺してやる!」

「待て、捕虜かもしれない。話を──」

 

 不自然に途切れる声。その騎士たちがそれ以上声を上げることは二度となかった。──血が降り注ぐ。二人の騎士は、お互いの首を撥ね、刺し違えていた。

 

「なっなにを……」

 

 そして、気づく。緊迫した洞窟内に、歌が流れていることに。

 

「LaLa──」

 

 美しい歌声は、ベールの奥から現れた女のものであるようだった。それは、これ以上美しい旋律は存在しないと思わせるほどの、至高の歌だった。ひとたびそれが耳に入れば、その歌に酔いしれ、何も考えられなくなってしまうほどの、美しいメロディー。

 

 呆然と、歌に酔いしれる。いつの間にか体は動かなくなっていった。驚愕に顔を歪めることも、声を上げることすら叶わない。他の騎士たちも同じように石像にでもなってしまったように動かなかった。

 

 歌が止む。再び洞窟に静寂が訪れる。先ほどまでとは打って変わって、この場を制圧しているのは屈強な騎士でも選ばれし勇者でもなく、妖艶な女ただ一人だった。

 

「勇者様が出張ってきていると聞いたのだけど、案外あっけなかったわね」

 

 石像のように動かなくなった騎士たちの間を縫って、女が歩いてくる。全てが時を止めたように動かなくなった世界で、女だけが優雅に足を進めていた。

 嗜虐的な光を灯した瞳は、疑いようもなく俺に向いていた。明らかに自分に害意を持っている相手が目の前にいる。しかし命の危機を察知しても、体は全く動かなかった。

 

「──!」

「その剣、切れ味が良さそうね。──ちょっと試し斬りしてくれない?」

 

 女の言葉を認識した途端、俺の右腕が勝手に動き出す。聖剣を握った手が振り下ろされたのは──隣に立っていた騎士の体だった。

 断末魔を上げることすら許されず、倒れ伏す騎士の体。殺した。俺の手で、殺した。

 

「──!──!」

「あらあら、勇者様の反乱なんて、大変ね」

 

 女が嘯く。あまりにも軽い、ふざけた言葉。ありったけの力を籠めて女に斬りかかりたいのに、動けない。自分の体が制御できない。

 

「少し、お掃除に付き合ってちょうだい」

 

 再び、体が勝手に動き出す。振り下ろされる聖剣が身動き一つしない騎士を甲冑ごと斬り捨てる。悲鳴も怒号も上げることは許されず、洞窟にはただ騎士たちが倒れ伏す音だけが響いていた。

 

 

 

 聖剣の剣先から血が滴り、水音が静まりかえった洞窟の中に響いた。眼下に折り重なるように積み重なった騎士たちの死体は、全て俺が殺したものだ。

 操られた俺の手は、極めて効率的に棒立ちした騎士たちを殺していった。人体の急所である首を作業の如く機械的に切り裂く様は、とても自分の体の行ったこととは思えなかった。それは、自分という存在の確証すら揺らぐような根源的な恐怖だった。

 

「アハハハハハ!何が勇者よ!そのへんの凡人と変わりないじゃない!」

 

 言い返すことも、斬りかかることもできなかった。どれだけ力を籠めても体を動かすことはできず、俺は騎士たちの殺戮劇を特等席で見ることとなった。

 

「でも単調すぎて飽きちゃった。少し、趣向を変えましょう」

 

 女が指を鳴らす。パチンという音が洞窟に響くと、処刑を待つばかりだった騎士が一人だけ動き出した。

 

「うわああああ!」

 

 おぞましい光景を見せられ続けていた騎士は、一目散に出口へと走り出した。しかし、その彼の背を操り人形となった俺の体が追う。

 

「やめろ!来るな!あああ死にたくない死にたくない死にたくない!」

「安心して?簡単には殺してあげないから」

 

 興奮にうわずった女の声を聞くと同時に、聖剣が振り下ろされる。その軌道に、違和感を覚える。先ほどまでは首筋に真っ直ぐに向かっていたのに、今回の剣先は──

 

「アアアアア!」

「アハハハハ!最高ね!」

 

 人類の切り札たる聖剣は、騎士の左足を切り飛ばした。足を失った騎士が、全力疾走の勢いのままに地べたに倒れる。俺の体が、這いつくばる騎士の顔を覗く。彼は転倒の衝撃で血だらけになった顔を、俺に向けてきた。

 

「頼む殺さないでくれ。お前を馬鹿にしていたことは謝るから。だから許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ……」

 

 足を振りあげる。そして、ブツブツと繰り返す騎士の脳天を、勢いよく踏みつぶした。物言わなくなる騎士。しかし息はまだあるようだった。そのまま、二撃、三撃。

 騎士の髪を掴み引き上げる。自分の血で真っ赤に濡れた顔だったが、しかし瞳だけが涙に光っていた。そして、叩きつける。べちゃっという音がして、それ以来その騎士が起き上がることはなかった。

 

 

 その趣味の悪い演劇は女の満足のいくものだったようで、それから俺は何度も凄惨な劇に付き合わされることになった。手足を切り飛ばされたまま放置された騎士。素手で絞め殺ろされた騎士。死ぬまで殴られ続けた騎士。冗談のような死に方をした騎士たちが美術品の如く並べられて、女は至極満足そうだった。

 もうやめて欲しい。願望はいつしか懇願にまで変わっていたが、俺の口がそれを伝えることはなかった。そうして、俺の両手はかつてないほどの血に塗れることとなった。

 

「あー面白かった。あなたは?どんな気持ち?」

「……早く、殺してくれ」

 

 本心からの言葉だった。既に罪に塗れた俺の手はかつてないほど穢れて、それでもなお諦めずにいられるほど俺は強くなかった。

 俺の言葉を聞いた女が嘆息する。

 

「つまらない回答ね。……ねえあなた、死ねば全部リセットできるとか思ってる?自分の不甲斐なさのせいで殺した命をなかったことにできるとか思ってるでしょ」

「思ってなんか……」

「いいや、思ってる。三百年を生きる人魚から助言してあげる。──せいぜい百年程度の人の一生を終わらせるくらいで自分の罪をなかったことにできるなんて思わないことね」

 

 それは、人生を繰り返す俺に重くのしかかる言葉だった。返す言葉もなく、沈黙する。

 

「……多少いい顔するようになったじゃない。諦めより絶望の方が好きよ?じゃあ、最期に自分を殺してね」

 

 

 体は全く動かないのに、心臓だけがどくどくと命の危機を訴えかけてきている。目を逸らすことも耳を塞ぐことも許されない。

 

「ああ、勇者様だっていうから期待していたんだけど、結局最後まで私の支配下だったわね──無様ね」

 

 女の唇が弧を描く。クスクスと嫌な笑い声が洞窟に反響した。

 

 聖剣を握り直す俺の手。切っ先は自分の心臓へ。そのまま突き出された刃は真っすぐに俺を貫いた。

 



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52 洞窟の激突

 俺だって無意味に失敗を重ねてきたわけではない。魔王軍の主要な魔物の特徴は全て覚えている。彼らの取りうる戦術も、ほとんど分かっている。(思考の切れる魔王は、俺の百年近い経験を時に凌駕する戦術を取ることもある)当然、今回の大神教の本部がどこにあって、どうすれば攻略できるのかも分かっている。

 

 正直敵の本陣への攻撃自体は、騎士団との兼ね合いを気にする必要のある王都防衛よりも簡単だ。

 今問題なのは、俺自身の弱さだろう。大神教に強い人間はいないが、その裏にいるのは、正真正銘の魔物だ。名前はセレネレーン。人魚と人の特徴を併せ持つという、極めて珍しい半端者だ。しかしその実力は普通の魔物を遥かに凌駕する。

 

 

「本当にこんなところにその転移陣があるの?」

「ああ。忘れ去られたものだから管理もされていない。……あったぞここだ」

 

 鬱蒼とした森の中で生い茂る雑草を掻き分けること数分、ようやく青白い薄明りを灯す転移陣を発見することができた。強力な魔力の籠められたそれは、長い時が経っても未だ光を放っている。放置されて数百年は経っているにも関わらずその役割を果たすことができるようだ。

 

 王国内の転移陣──ある地点とある地点を結ぶテレポーターのようなもの──は全て王城に管理されていて、その許可なしには使用できない。

 しかし、実際王城も全ての転移陣を把握できているわけではない。まだ管理が杜撰だった頃に貴族が勝手に設置したものなどは放置されているケースもある。今回俺が見つけたものもそんな未管理の転移陣の一つだ。

 

 繋がる先は驚くことに、共和国。国同士の関係が今よりも良かった頃に設置されたのだろう。国同士の微妙な関係性から転移陣を直接繋げられない現代では考えられないほどの利便性だ。人気のない森の中にひっそりと存在しているそれは、百年近くを過ごした俺でもなければ発見することは困難だっただろう。

 

「メメはどうやってこの転移陣の存在を知ったの?」

 

 オスカーが問いかけてくる。……当然の疑問だろう。しかし、それを説明するには、俺の過去を洗いざらい話す必要がある。

 

「……たまたま、古文書を漁って知っただけだよ」

 

 視線を逸らし、曖昧な答えしか返せない。思えば、自分の過去について問われるたびにこんな返答をしている気がする。……いや、不誠実なんて今更だ。俺は最初から彼らを魔王討伐のために利用しているじゃないか。

 

「でも、本当に私たちだけで行くのですか?ジェーンさんもこの場にいないようですし……。騎士団に協力を仰いだ方が良いのではなくて?」

 

 オリヴィアは流石に冷静だ。少人数で大神教の本陣を急襲するリスクを懸念している。実際、過去の俺は騎士団との協力を試みた。でも。

 

「大人数で押しかけると敵に逃げられるかもしれない。実際、今の敵陣の場所が分かっているのも奇跡なんだ」

 

 加えて言えば、敵の首魁、セレネレーンはむしろ大人数で襲い掛かってもこちらが不利になるだけだ。奴の歌を使った洗脳は強力で、魔力を持ち魔法に耐性のある騎士ですら奴の虜になってしまう可能性が高い。

 

「……人を頼らない悪癖は変わりませんわね」

 

 オリヴィアの呟きが耳に入ってきたが、意図的に無視する。違う。これは合理的な判断だ。

 

「とにかく、早く行こう。敵の位置が分かっている間に」

「……ねえメメ、少し焦りすぎじゃない?もう少し情報を集めてからでも……」

「ダメだ。それじゃ遅いんだ」

 

 ああ、うるさい。どうしていつもいつも俺の言うことに従ってくれないんだ。誰も彼もそうだ。勝手に失望して、勝手に戦って、勝手に死ぬ。

 焦る俺とは違って、オスカーは冷静に話しかけてくる。

 

「……メメがどうしてもっていうなら、僕は従うよ。でも、せめてどうしてそうしなければならないのか、理由を教えてくれないかな?きっと僕は君の役に立てると思うんだ」

 

 君は一人で背負いすぎではないか。オスカーが気遣わし気に呟く。どうして?そんなのは簡単だ。

 

「──全ては魔王を殺すためだ。信じてくれるか?勇者様」

「……望んだ答えではなかったけど、いいよ。信じよう」

 

 オスカーの黒い瞳を真っ直ぐに見つめ返して答えると、彼は少しの失意を滲ませながらも首を縦に振った。オスカーの後ろにいた二人もその答えに追従するように、頷いた。──ああ、信じる。なんて純粋で、無垢で、重い言葉なのだろう。俺がそれを裏切り続けた過去を。彼らは知らない。

 

 転移陣の上に4人で乗る。

 

「『飛べ』」

 

 起動のための詠唱を行うと、すぐに光に包まれる。転移陣から放たれる眩い光に一瞬視界を失う。目が見えるようになる頃には、俺たちの姿は遥か遠い地、共和国にあった。

 

「えっ、もう終わり?こんな一瞬で移動できちゃうなんて……」

 

 カレンの呟きを聞きながら周辺の気配を探るが、人の気配はなかった。こちら側の転移陣の移動先もまた、鬱蒼とした森の中だった。風に揺られる葉の擦れ合う音に混じって、潮騒が僅かに耳に届く。海岸に出るのに苦労はないだろう。

 

「これから向かうのは敵陣のど真ん中だ。気を引き締めて行こう」

 

 促すと、3人は少し表情を引き締めて頷いた。……心配はいらなそうだ。

 

 息を潜めて森を歩く。虫や鳥の鳴き声がよく聞こえるほどの沈黙のままに、森を抜けて砂浜へ。

 森を抜けた途端に視界いっぱいに広がる海。水平線を初めて見ただろうオスカーとカレンが僅かに息を飲んだのが分かった。しかし驚いている暇はない。大神教の本陣、海辺の洞窟はすぐそこだ。

 

 砂浜を進む。左側からの穏やかな波の音を聞きながら、右側に聳える崖を注視して歩くと、突如としてぽっかりと穴が開いている部分を発見した。

 

「──ここだな」

「……見張りの一人もいないけど、本当にここにあの人たちが?」

「まさかもう拠点がバレてるなんて思ってもないんだろうよ。呑気なことだ」

 

 陽光に照らされ暑かった砂浜とは打って変わって、洞窟内部の空気はひんやりとしていた。記憶にある通りに、洞窟の暗闇を進む。

 道中には時折黒ローブの姿があったが、俺とオリヴィアの魔術によってあっさりと無力化できた。やはり、ただの平民に過ぎない彼らには魔法での攻撃が有効だった。

 そうして、俺はあの人魚モドキと何度目か分からない再会をすることになる。

 

 

 

 

 暗い洞窟を、息を潜めて歩き続ける。しばらくすると、俺たちの足音以外の音が僅かに聞こえてきた。うっすらと聞こえていたそれは、足を進めていくとはっきりと聞こえるようになる。それは、美しい歌だった。暗くて殺風景な洞窟には不釣り合いなほどに華やかな旋律は、しかし俺にとっては自分の失敗した過去を連想する歌だ。

 

 記憶の通り、洞窟の最奥、小部屋のようになっているそこには、多数の信者たちが集っていた。皆一様に呆然とした表情で、同じ影を見ているようだった。

 

「気持ちよく歌ってたのに闖入者だなんて、あんまりにも無粋じゃない?」

 

 中央に立つその影は、一見人間の女であるようだった。服の上からでもはっきりと体のラインが分かるほどの、発育の良いしなやかな肢体。そしてその美しい顔は、見る者全てを魅了するような不思議な魅力があった。ぷっくりとした桜色の唇。垂れ下がった瞳は、見つめていると吸い込まれるような錯覚を覚える。何も知らない人間が彼女を見れば、きっと庇護欲を抱くのだろう。

 

 彼女、人魚モドキのセレネレーンの周囲には、黒ローブを羽織り、ぼんやりとした顔をした男女が数十名いた。彼女の声に反応した信者たちが、一斉にこちらを向く。人形じみたその動作は不気味で、同じ人間とは思えなかった。

 彼女が信者たちに何事か語り掛ける。途端、信者たちは操り人形のように、こちらに一斉に飛び掛かってきた。

 

「剣に絶対に触れるな!猛毒が塗ってある!」

 

 仲間たちに大きく叫ぶのと同時に、一人目を斬り捨てる。魔物でも生霊でもないその女は、悲痛な断末魔を上げて、倒れ伏す。その顔は恐怖に固まっていて、その瞳は涙でいっぱいだった。体の奥が冷え切ってしまうような、罪悪感。何度斬り捨てようとも体を苛むそれは、しかし俺の動きを阻害することはなかった。

 

「我らが正義の邪魔をする不届き者めが!」

 

 好き勝手叫びながらこちらに突っ込んでくる信者たち。その剣先は決して鋭くはない。回避して、貫く。剣を交えて力を籠めれば、あっさりと吹き飛んでいった。

 

「出すぎるなよオスカー!囲まれたら後ろが危ない!」

「分かった!」

 

 オスカーの剣先は鈍る様子もなく信者たちを切り裂いているようだった。聖剣の重たい一撃は、脆い人間の肉体をあっさりと破壊していった。

 信者たちが一人、また一人と倒れていく。しかしそれを黙ってみているセレネレーンではなかった。

 

「LaLa──」

 

 旋律が洞窟に響き渡る。徐々に女に近づいてきていた俺とオスカーには、その音色がはっきりと聞こえてきた。

 

「魔力を耳に集中させろ!歌を聞くな!」

 

 彼女の、というより人魚の歌は、その効果を最初から知っている者に対しては効果が薄い。そのことはかつて訪れたアルパという地の漁師たちが教えてくれた。魔力も持たずに魔物と渡り合っていた彼らの積み上げていた知識は、俺にとって貴重なものになった。

 

「歌が……効かない……?」

 

 俺たちに歌の効き目がないことにセレネレーンが驚きの声を漏らす。しかし、歌を聞いた信者たちの動きは明らかに変わった。ただの暴徒だった一団が、統率の取れた集団になっていく。一人を切り裂けばもう一人が槍を突き出してくる。死体の影から新しい影が飛び出してくる。その場にいる全員が同じ意思を共有しているような、恐ろしいまでの連携。

 

「オリヴィア!壁を!」

「はい!『氷よ、我が敵を拒め』」

 

 地面から急速に氷の壁が盛り上がり、俺たちの視界を埋め尽くした。俺たちに迫りくる信者たちが道を塞がれ立ち止まる。

 しかし、すぐさま響く、オリヴィアとはまた違った詠唱の声。それは先ほどまで美しい旋律を響かせていた女のものだった。

 

「『亡き炎の神に、お願い奉る。願うは炎の槍──』」

「魔法使いが敵に!?」

「大丈夫だ、オリヴィアの援護を信じろ」

 

 オリヴィアに慌てる様子はない。彼女なら大丈夫だ。

 飛来する炎が、着弾し、轟音を立てながら氷の壁を食い破った。穴が開いた部分から、信者たちがなだれ込んでくる。

 死を一切恐れていない様子で突貫してくる信者たちを切り裂く。時折魔法がこちらに飛んできたが、オリヴィアの魔術はそれらすべてをかき消し、打ち壊し、弾き飛ばした。

 

 仲間たちに歌に惑わされる様子はない。皆出立前に話した人魚の歌対策をちゃんと実行できている。順調に事を運べている。

 しかし、このまま終わってくれる相手でもなかった。

 

 小部屋の入り口、現在オリヴィアとカレンのいる場所に、突如として巨大な気配が現れる。背後から迫ってきていたのは、王都にも姿を現した巨人のような肉体をした改造人間だった。

 

「──オスカー、前を任せた!」

「また一人で……ああもう、分かった!」

 

 跳躍する。目標は、オリヴィアへと振りかぶられた、巨大な拳だ。

 

「オオオ!」

 

 鋼鉄のような拳に大剣を打ち合わせると、凄まじい衝撃が両手に伝わってきた。あまりの勢いに吹き飛ばされそうになるのを、なんとかこらえる。

 

「メメさん!」

「オリヴィア、オスカーの援護を……」

「──こっちは大丈夫!メメのことを援護して!」

「承りました!『炎よ、我が敵を穿て』」

 

 オリヴィアの撃ち出した炎が、巨人の胸に突き刺さる。呻き声を上げるが、致命傷には遠い。

 

「オリヴィア、こいつに魔術の効き目は薄い。オスカーの援護を……」

「──そうやって一人で戦って死にかけて帰ってきたんでしょ!黙って皆に助けてもらってよ!」

 

 オリヴィアに言いかけると、オスカーから叫び声が飛んできた。彼らしからぬ、少し怒ったような語調。反射的に言い返しそうになる。喉元まで言葉が出かけて、辛うじて思い直す。道理はどう考えても彼にあった。

 

 冷静さを取り戻すために一つ深呼吸する。俺は意識を前に向けると、再び巨人に飛び掛かった。

 

 

 

 

「『氷よ、地を進む者の足を止めよ』」

「グオオオ……」

「ハッ!」

 

 地面が急激に凍っていき、巨人の足を封じ込めた。すかさず俺の剣先が巨体に傷をつける。オリヴィアの援護は的確だった。効き目が薄い攻撃魔術を撃つのは止め、代わりに足止めを中心とした搦め手で俺を支援してくれている。

 そして、既に何度も攻撃を受けて大量の血を流している巨人の動きは、明らかに鈍ってきていた。そろそろ、とどめを刺してやるべきだろう。

 

「『硬化せよ』」

 

 まずは魔術で大剣の強化を行う。これなら、あの分厚い脂肪を貫くことができるだろう。爆破の魔術は無しだ。洞窟が崩落して全員仲良く下敷きになる可能性がある。

 

「オリヴィア、これで最後だ!足止めを頼む!」

「お任せを!」

 

 地面を蹴っ飛ばして、改造人間へと突撃する。オリヴィアの魔力が高まっているのを感じながら、俺はその太い首筋に向けて跳躍した。

 

「『稲妻よ、我が敵を貫け』」

 

 雷が背後から飛んできて、目にもとまらぬ速さで俺を追い越していった。そして、巨体に直撃する。電流を食らった巨人の動きが一瞬だけ止まる。決定的な隙。

 

「ハアアアア!」

 

 真っ直ぐに突き出した剣先は、狙い通り巨人の喉元に直撃する。痛みに悶え、しかし声を出すことすらできなくなった巨人は、その場に倒れ伏し、二度と動かなかった。

 

 

 

 

 難敵を倒してしまえば、後は魔力も持たない平民を蹴散らすだけだ。オスカーと共に剣を振るい、信者たちを斬り捨てる。

 時折、女から魔法が飛んできたが、それは全てオリヴィアによって防がれていた。そしてついに最後の信者が倒れ、道が開ける。最奥にいたセレネレーンの顔は、憤怒に歪んでいた。

 

「なんて使えない下僕なのかしら」

 

 その言葉に、オスカーが顔を顰める。

 

「そんな言い方はないんじゃないですか?皆必死に戦ってましたよ」

「ハハッ、必死?それは当たり前よ。皆もう思考する能力なんて残ってないんだから。命令を全身全霊で実行する人形たちなの。そのうえでここまで使えないのだから、全く救えない」

 

 女は心底呆れたといった様子で吐き捨てた。オスカーが顔を引き締め、剣を構える。

 

「……ここで、斬らないといけない人みたいですね」

 



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53 人魚の末路

 セレネレーンはあてもなく放浪していた。母の死んだ今、人間の足を持つ彼女にとって深海で生活する意味はなくなった。母のいない海の生活は実に退屈で、何の意味もないものだった。

 地を踏みしめて、歩く。その新鮮さは彼女を高揚させた。

 

 既に先ほど食い尽くした村からは遠く離れただろうか。血生臭いげっぷを一つして、少女は空を見上げる。海と同じ色をした青空は、ひどく新鮮に映った。

 

 少女は母親の言葉を思い出す。愛を見つけて欲しい。そして、子どもを産んでほしい。それが母の願いだった。人間との愛。それを口にした母は、人間に騙されて殺された。

 

 彼女の最期を考えると、それは滑稽な望みだったのだろう。それでも、少女には母親の託してくれた願いの他に何も持っていなかった。富も、栄誉も、快楽も、少女には興味のないことだった。ただ唯一、愛だけを求めて、少女は歩き続けた。

 

 歩き続けた少女は様々な人間に会った。善人がいた。身寄りのない少女を気遣い、食事と居場所を与えてくれた老婆がいた。でもその人間は女だった。きっと彼女と愛を見つけることは、子どもを作ることはできないのだろう、と少女は老婆を食った。

 悪人がいた。見目麗しい少女を捕まえて、犯そうとした。少女には情欲に滾った男の様子に愛を少しも感じられず、男を食らった。

 

 しばらく人間の世界を彷徨って、少女は困惑した。一向に愛を見つけられない。男たちは揃いも揃って見目麗しい彼女に下卑た目を向けるばかりで、純粋な愛を見つけられる気配はなかった。

 愛を見出すことができなかった人間たちを、少女はことごとく食らっていった。歌で人間を操れるセレネレーンにとって、人間を殺すなど造作もないことだった。不要な人間など殺せばいい。少女にとって人間はその程度の価値しかないものだった。

 

 結局のところ、人間と対等に愛をはぐくむことを望みながら、少女は人間を自分よりも下等な生物とみなしていた。自分の歪みも理解できないままに放浪を続けていた彼女は、ある時小さなカルト集団に出会った。

 

 その集団は、海辺の洞窟でひっそりと祭事を行っていた。セレネレーンの故郷、海の近くのロケーションが気に入った彼女は、その人間たちを食うのを止め、こっそりと観察を始めた。

 彼らは奇妙な集団だった。身なりも年代も異なる彼らは、決まった日になるとひっそりと集まり、何やらもごもごと祈りの言葉らしいものを唱和していた。神とやらもそんな陰気臭い祈りは嫌だろう、と少女は思った。

 

 暗い雰囲気の彼ら大神教の信者たちだったが、しかしその祈りは真摯だった。観察して、やがて参加するうちに、少女は気づいた。彼らの示す、信仰。これはすなわち、愛なのではないか。

 

 確信した少女は必死に考えた。どうすれば信仰を、愛を得られるだろうか。必死になって考えた結果が、大神の預言者という立場を得ることだった。

 

 まず、少女はそこにいた数十人を歌で操り、一人一人に中毒性のある薬物を嗅がせた。薬物は以前少女の誘拐を企んだ人間が使っていた物だ。彼らならず者の根城を制圧した彼女は、それを大量に持っていた。

 思考力を失った彼らに、少女はもったいぶって大神の言葉を告げた。あっさりと彼女の言葉を信じた彼らは、彼女の預言を泣いて喜んだ。すっかり彼女の手足となった彼らに信徒の獲得を命じると、教団はすさまじい勢いで規模を増していった。

 

 数年後、教団は行き場のない浮浪者などを中心に信徒を獲得していった。少女から女に成熟したセレネレーンは満足だった。皆が自分を仰ぎ、拝む。皆が自分を見て、自分のために尽くしてくれる。

 これこそ、愛に違いない。少女はそう思おうとしたが、何か違和感があった。しかし人ならざる彼女には、その違和感の正体が分からなかった。

 

 ある時、成熟した女性となった彼女の元を、魔王軍からの使者を名乗る者が訪れた。その姿は人間のものだったが、気配は魔物のそれだった。

 要件は、自分たちの存在を露わにして、王国への攻撃を行ってほしい、という頼みだった。女は最初それを一蹴した。女にとってそれに何の益もないと思ったからだ。しかし、使者は言葉巧みに女を煽った。

 

「どうやら、貴女は現状を良しとしつつも何やら満たされていない様子ですね?」

「……なぜそれを?」

「人間の表情を読むことなど私にかかれば容易いことです。たとえ中身が魔物でもです」

「……ふん。それで?」

「貴女のその欲求を満たしてくれる相手がいるとしたら、興味がありませんか?勇者、という名前は、遠い地にいる貴女でも聞いたことくらいあるでしょう」

「その勇者という者が、私の欲求を満たすと?」

「勇者の体は女神に愛された特別製です。彼なら、貴女のその能力に抗えるかもしれない」

「……なるほど」

 

 それは確かに面白い話だ。思えば、彼女は歌に抗える人間に一度も会ったことがなかった。その表情を伺いながら、使者は畳みかける。

 

「貴女の欲求がなんなのか、私は知りません。しかしながら、魔物の欲求をぶつける相手がただの人間では、弱すぎて耐えられないでしょう。そういう意味で、勇者という相手は適当でしょう」

「その話を持ってきて、お前は私に何を願う」

「ただ、王国への攻撃の時期について私たちの言う通りにするだけでいいのです。簡単でしょう?」

「……いいだろう」

 

 勇者といえどたかが人間。そう甘く見た結果、女は今、勇者によって追い詰められていた。

 

 

 ◇

 

 

「歌が全く効かない!?私が、人間などに……!」

 

 数度歌による洗脳を試みたが、勇者パーティーには何故か全く効果がないようだった。

 セレネレーンはここに来てようやく自分の慢心を悟った。あまりにも危機感のないその様子は、生まれながらに人間相手に絶対有利だった人魚という種族ゆえか。追い詰められ、焦燥した彼女は、使者から受け取っていた丸薬を懐から取り出した。

 

「『命の危機を感じた時には使ってください』」

 

 あまりに怪しい代物だった。薬物を使って人間たちを意のままに操っていた彼女すら見たことのない、未知の薬。しかし、もう頼るべき人間もいない。意を決し、丸薬を飲み込む。その瞬間、女の思考能力は吹き飛び、彼女の馬鹿にし続けていた薬物に自我を崩壊させられた人間と変わらぬ姿となった。

 

 

 ◇

 

 

 懐から取り出した何かを口にした瞬間から、女の気配が明らかに変わった。超然とした様子はすっかりなくなり、代わりに獣の如き荒々しい気配を纏う。

 人のようで人ならざるその五体に力が籠る。飛んだ。そう認識した次の瞬間には、俺の視界いっぱいに肌色が広がっていた。

 

「ガッ……!」

 

 単なる掌底。いや、張り手とでもいうべき拙い攻撃。攻撃の稚拙さも関わらず、その右手にはとんでもない威力が籠められていた。

 巨大なハンマーにでも打たれたような衝撃を顔面に感じる。耐えきれずに背中を地に打ち付けると、すぐさま彼女が俺に向かって跳躍してきた。──潰される。

 

「オオオオオ!」

 

 しかし、オスカーが、その砲弾のような突撃を受け止める。雷鳴のような轟音。暴風が俺の頬をなぞった。

 

「メメ、立てる!?」

 

 オスカーの切羽詰まった声。その背中は、いつの間にかひどく大きくなっていた。頼もしい。素直にそう思う。

 ──しかしそれ以上に、俺は腸が煮えくり返るような怒りを覚える。何故俺が守られている。お前を俺が導くのだ。お前に、お前に守られる俺ではない!

 

「オスカアアア!代われえ!」

 

 手足が震え始めた彼に代わって、女に斬りこむ。素手に大剣を叩き込むと、まるで鉄板にでも剣を叩きつけたような硬くて重い感覚が返ってくる。大神教の教祖、セレネレーンの俺の知らない姿。こんなことは一度もなかった。初めての経験。そして脆弱な体。──上等だ。

 

「見てろオスカー!俺を守るなんてふざけたこと二度と言えなくしてやる!」

 

 絶叫が洞窟を反響する。極めて感情的で不合理な叫びは、しかし不思議と俺の四肢の力を復活させた。力づくでセレネレーンの体を突き飛ばす。彼女は空中で半回転すると、器用に両足で着地を決めた。ダメージはなさそうだ。

 

「ああああああああ!」

 

 美しい歌声を響かせていた女は、見る影もない金切声を上げながら再び突っ込んでくる。その動きに合わせて突き出した大剣は、しかし女の獣じみた機敏な動きの前にあっさり空を切った。

 行き違い、背後に回った女に向き直り剣を構え直すと、視界がぐにゃりと歪んだ。ああ、頭がクラクラする。先ほどのダメージが思ったよりも響いている。この体調、油断すれば倒れてしまいそうだ。でも、倒れるわけには、オスカーに任せるわけにはいかない。合理とか信頼とかそういう問題じゃない。俺のプライドの問題だ。

 

「メメ、無理はしないで!」

「メメちゃん、今私が──」

「カレンとオリヴィアは近づくな!動きが速すぎて守りきれない!」

 

 治癒魔法のために近づこうとするカレンを制止する。そして、オスカーがこちらを気遣う言葉をかけてくる。ああ、なんて惨め!あんな未熟なやつに心配されるなんて!

 

 そんなことを思っているうちにも、女は体勢を整えて、猪のように突っ込んできた、その動きは先ほどと変わらぬ速さで、目で追うので精一杯だ。今度は標的をオスカーに定めたらしい。彼の反応が僅かに遅れる。女の突き出した拳が、オスカーの脇腹のあたりにめり込んだ。オスカーが呻きながら転倒する。

 

「どけええええ!」

 

 オスカーに追撃をかけようとする女の頭蓋へと、大剣を振り落とす。しかし女は猿のように機敏に飛びのいて、攻撃を回避してみせた。

 

「ありがとうメメ、助かった」

 

 素早く立ち上がりながら礼を言ってくるオスカー。

 

「オスカー、あいつの動きは速いが直線的だ。うまく誘導すれば叩けるぞ」

「うん」

 

 大声で作戦を話すが、セレネレーンはそれすらも聞こえていないようだった。完全に理性を失っている。しかし、だからといって恐れる必要のない敵とは言えないだろう。先ほど攻撃を食らって分かったが、腕力など身体能力が軒並み向上している。どんなトリックを使ったのか分からないが、その破壊力は勇者の体すら突き破り得るだろう。

 

 でも、負けられない。俺の憎かったセレネレーンは、もうそこにいないようだった。目の前にいるのは、ただ人間の形を模しただけのケダモノだった。どれだけ力が優れていようとも、あの悪辣な人魚モドキよりも怖くはない。

 

 セレネレーンの肢体に力が籠る。

 

「来るぞオスカー!お前の方だ!」

「アアアアア!」

 

 赤布に突撃する猛牛の如く突っ込んできた女の拳を、オスカーが紙一重で躱す。顔面すれすれを通った拳が、彼の頬に浅く傷をつける。しかし女の行動を予測できていたオスカーは、既に反撃の準備を整えていた。

 

「フッ!」

 

 短い裂帛と共に、女の腹部に膝を押し付ける。自身の突撃の勢いのままに、女は膝蹴りをもろに食らった。

 

「──カハッ!」

「メメ!」

「任せろ」

 

 吹き飛んだ女に素早く迫り、大剣を振るう。今度こそ、剣は違わずに女の首を撥ねた。かつて冷徹な理性を灯していた瞳は、狂乱した様子のまま二度と動かなくなった。──ようやく、終わった。

 

「やったあ……」

 

 オスカーは疲労困憊といった様子でその場に座り込んだ。

 

「よくやったな、オスカー」

「ありがとう」

 

 オスカーに近づくと、その額に大量の汗が流れているのが分かった。余裕そうに見えたが、こいつなりに必死だったらしい。──ああ、良かった。

 浅ましい思考を断ち切って、自分の額の汗を拭う。見ると、カレンがオスカーに治癒魔法をかけているところだった。処置が済んだらしい彼女がこちらに向く。

 

「さあ、今度はメメちゃんの番だよ。怪我を隠すとかなしだからね」

「いや、カレンには悪いが、早いところ王国に戻ろう。──俺の予想が正しければ、魔王軍が、来る」

 



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54 進軍開始

 王国からやや離れた場所に位置するだだっ広いヤカテ平原。そこには今、大地を覆い隠さんばかりの多数の魔物たちが集結していた。彼らは魔王軍、その先発隊として選ばれた精鋭隊だ。

 晴天の空の下、魔物たちはついに待ちに待った人間領への攻撃の日を迎えていた。

 

「──それでは諸君、勝利への進軍を開始しよう。ついに我々魔族がこの大陸を支配する時が来たのだ」

 

 数千にもおよぶ魔物たちの視線を一手に受けて、その魔物は演説していた。人型の体の頭部には角が生えている。四頭身のずんぐりとした体躯は、重力に逆い中空で停止していた。何かしらの魔法が働いているようで、ハリのある声は不自然なほどに反響して、最後列まで届いている。

 

「我々が人間領の豊かな土地と資源を手に入れる。奪い取るぞ、人間たちが享受している大地の恵みを。──ゆくぞ!」

 

 異形の軍隊が前進を始める。エーギ山脈から王国へと続く、だだっ広いヤカテ平原。そこを覆うばかりの魔物たちが一斉に行軍するその様は壮観だ。

 

 その先頭を疾走するのは、とにかく数が多いことで有名なゴブリンたちだ。彼らゴブリンは、一体一体の力は大したことはない。しかしその繁殖力は魔物の中でも随一で、たとえ他の種族と諍いになったとしても対等に戦い得るほどだ。

 そこから少し遅れて、こちらも数の多いオーク達。変わり者のデニスたちの放浪についていかなかった個体、そのほとんどがこの進軍に加わっていた。大きな体躯を持つ彼らは、ただ進む先に己の食事、すなわち獲物となる人間がいることに歓喜し、ただ愚直に進む。

 

 その後ろからも、様々な種の魔物たちが行軍していた。種族間で頻繁にいがみ合っていた蛮族たる彼らの姿はそこにはない。ここにいる魔物たちは、皆一様に魔王という絶対者への忠誠を誓った身だ。かの偉大な王に付き従いさえすれば、この大陸を制覇できる。魔物たちはそう信じて疑わなかった。

 

 

 先ほどまで演説をしていた魔物は、その行軍を上空から見守りながら、これから始まる戦いへの高揚を抑えきれずにいた。事前の情報通り、王国の手前、ヤカテ平原の警備はなくなっていた。これなら人間たちに準備する暇を与えることなく砦まで突貫できるだろう。あの恐ろしい魔王の言う通りだった。今度はいったいどんな手練手管を使ったのやら。敵すらコントロールしてみせる魔王の手腕に、また畏敬の念を抱く。

 

 平野を少し進めば、すぐに王国の姿がぼんやりと見えてくる。王国の最北端、プロメ砦はすぐそこだ。きっと今頃、突然現れた魔王軍の威容に恐れおののいていることだろう。魔物はほくそ笑む。

 

 魔王軍の狙い通り、大神教に王都が襲撃されるという非常事態があってから、多数の騎士が王都の警備に派遣され、各地の砦に配置される騎士の数は減っていた。このままいけば、脆弱な守りの砦は陥落、魔王軍は初陣を勝利で飾ることとなっただろう。

 未来を知るイレギュラーが王国に居なければ、だ。

 

 彼らの右手、とある山の頂上で魔法が完成しつつあることには、誰も気づかなかった。

 

 

 ◇

 

 

「メメさんの言った通りでしたね。規模も時間もぴったりです」

 

 魔王軍が地響きを鳴らしながら進軍する様子を観察するジェーンに動揺の色はなかった。彼は一人、魔王軍のいるヤカテ平原を一望できるダラム山の頂上にいた。メメの指示通り、彼は数日前からこの山にこもり、特大規模魔法を準備していた。

 彼の周囲には、あらかじめ魔法陣が描かれていた。王都の魔法使いから見ればそれは古臭い技術なのだろう。しかし神代の魔法を知るジェーンの手にかかれば、魔方陣は術者に膨大な魔力を供給するブースターの役目を果たしていた。

 

 輝く五芒星の中心に立ち、魔力の補助を受けている彼の体には、見る者が見れば驚愕するほどの魔力が渦巻いている。

 そして、魔法を完成させる最後の行程を終わらせるために、彼は詠唱を始める。神と共にあった時代の魔法が、今ここに解き放たれようとしていた。

 

「『今は亡き天を司る大神よ、謹んでお願い奉る。願うは地を穿ち破壊を齎す巨石。我が魔力を贄として、その姿をここに現し給え』」

 

 ジェーンが口を閉じるのと同時に、突如雲を突き破る影が現れた。落雷の如く凄まじい速度で地上へと迫るそれは、巨大な隕石だった。真っ直ぐに魔王軍へと迫るそれに気づいた魔物たちは、慌て、大騒ぎを始めた。

 

「なんだあれは……デカすぎる……」

「敵の攻撃だ!魔法を使える種族は応戦を!」

「あんなの止められる訳がないだろ!?」

「逃げろおおお!」

 

 地上の小さな影の様子など全く関係なしに、巨石は地上へと一直線に迫る。やがて、着弾。地上へと激突した隕石は、凄まじい爆風と轟音を周囲へとまき散らし、辛うじて直撃を避けた魔物たちを紙切れのように吹き飛ばした。

 

 やがて凄まじい砂ぼこりが晴れ、全容が明らかになる。平原に立っている魔物はごくわずか。数千の魔物から構成された魔王軍先発隊は、およそその九割が隕石によって無慈悲に殺された。血飛沫を大量に浴びた巨大な隕石が、戦果を誇るように平原に堂々と鎮座していた。そのあまりの惨状に、残った魔物たちはあっさりと戦意を喪失した。

 

「てっ、撤退だー!」

 

 どこからともなく上がった声に追従し、魔族領の方角へと帰っていく魔物達。その姿を認めたジェーンは、安堵のため息を吐いた。

 

「これでメメさんに申し付けられた仕事は達成できましたかね」

 

 魔王軍の先発隊をたった一人で退けてしまった英雄は、そんな自覚なしに彼女は満足してくれるだろうか、などと呑気なことを思いながら下山を始めた。

 

 

 

 

「先発隊が壊滅!?馬鹿な、一日で壊滅していい数じゃなかったはずだぞ!」

「偽の情報でも掴まされたんじゃあないのか?どこかの種族が戦果を独り占めしようとしているのだろう」

「しかし、現に複数の種族が謎の魔法で部隊は壊滅したと言っているぞ」

「我が同胞はどうなったのだ!?我らの精鋭部隊は、いったいどこに!?」

 

 魔王城に激震が走る。必勝を期して送り出された先遣隊が、たった一日で壊滅して帰って来た。それは、今まで恐ろしいほどに完璧だった魔王の施策の、初めての失敗だった。集った幹部たちがざわざわと話し合う中、魔王その人は冷静だった。

 

「静まれ」

 

 ただの一言だけで、混沌とした玉座の間は静まり返った。この場に魔王の機嫌を損なうような愚行を為す馬鹿は存在しなかった。

 

「まずは原因の調査が先だ。我々の動きが人間領に漏れていた可能性がある。情報の管理状態についてもう一度洗いなおせ。それから、先発隊の生き残りからの聞き取りを急げ」

「ハッ!」

 

 好き勝手に話し合っていた魔物たちは、その一言を受けて秩序正しく動き始めた。

 

 

 彼らの迅速な調査の結果、魔王はすぐに事態を把握することとなった。ただ一つの魔法によって、先発隊は壊滅。そしてその魔法を放ったのは、ジェーンという勇者パーティーの一人だった。

 

 後に報告を受けた魔王は次の一手を指示する。再びの全面攻勢と同時に強力な魔物の投入して、勇者パーティーを壊滅させる。

 

 

 ──季節が一つ変わった頃、魔王城に歓喜と共に報告が入る。栄光の勇者パーティー、その一人を殺した、と。

 

 

 ◇

 

 

 転移陣を使って王都へと急いで戻る。俺の経験から言って、魔王軍の第一陣が攻め込んでくるのが今日のはずだ。しかし、駆け抜ける王都には慌てた様子はない。今頃騎士たちが慌てて出ていく頃だと思ったのだが。

 

「メメさん、おかえりなさい」

「ジェーン、魔王軍は!?」

 

 ジェーンの姿がひょっこりと目の前に現れた。なぜかひどく落ち着いた様子の彼に問いかける。魔王軍の足止めを頼んだはずだが、上手くいかなかったのか?

 

「もう撤退していきましたよ」

「──は?なんで?」

 

 思わぬ言葉に、思考が停止する。ジェーンは相変わらず呑気に言葉を続けた。

 

「なぜって、部隊が壊滅したからでしょうねえ。いやあ、敗走する彼らの慌てた様子は見物でしたよ」

「壊滅……?まさか、お前ひとりで……?」

 

 半信半疑で問いかけると、彼はなんでもないことのように頷いた。

 

「はい。そういう指示でしたよね?」

「……いや、任せるとは言ったけど、まさかあの数を一人で倒したのか……?」

 

 こちらの様子を見て首をかしげるジェーンは、俺の驚きをあまり理解していないようだった。

 

「……メメちゃん、ジェーンさんを別行動させてたのって、魔王軍の迎撃をさせるためだったの?」

「ああ。……万一に備えての保険だったんだけどな。まさかそれが、魔王軍の第一波を壊滅させるとは思わなかったが……」

 

 しかし、冷静に考えれば納得もできる。吸血鬼を相手取った時もそうだったが、ジェーンの古代魔法は、事前準備できる状況であれば、現代魔法をはるかに上回る効果を期待できる。まさに迎撃にうってつけの能力と言えるだろう。

 

「ハハッ、気を張って帰って来たのが馬鹿みたいだ」

 

 どっと力が抜けるような感覚を覚える。いよいよ魔王軍との直接対決だと意気込んできたのに、とぼけたような態度のジェーンと、馬鹿げた戦果。何だかこのままベッドで寝たいような気分だ。

 

 思えば、ジェーンは俺の知る歴史には存在しないイレギュラーだ。彼が存在することによる想定外も当然発生するだろう。まさかこんなに嬉しい想定外が起こるとは思わなかったが。

 

「……ハハハッ」

 

 久しぶりの、本当に久しぶりの予想外の嬉しいことに、俺は笑い出してしまった。

 




三章本編、これにて終了です


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IF ヒロイン、メメ

本編とは関わりのないもしも、の話です

精神的BL要素があります
苦手な方は読み飛ばしてください


「あ──」 

 

 死が、すぐそこにあった。別人のように素早い動きをするセレネレーンが、地べたに座り込んだ俺を潰さんと迫ってくる。凄まじい力で繰り出される体当たりは、俺の小さな体を完膚なきまでに押し潰す、はずだった。

 

 

 いつまで経っても衝撃が訪れず、目を開ける。猛スピードで突撃してきていたセレネレーンが動きを止めている。

 諦めかけていた俺の目の前に立ちはだかったのは、オスカーのあまりに大きな背中だった。彼が俺を庇うように立ちはだかり、聖剣で突撃を受け止めていた。

 

 その頼もしい姿を見た瞬間、心臓が今まで経験したことのない跳ね上がり方をしたのが分かった。とくとくと、疲労でも緊張でもない不思議な鼓動を始める。──これは、一体なんだろう。

 

「メメ、大丈夫?」

 

 ああ、オスカーが俺を気遣う言葉を投げかけてくる。──嬉しい。

 なぜだろう。少し前までの自分なら、むしろ生意気だ、などと不快に思ったはず。それなのに、俺の心臓が歓喜に震えるのが分かった。理由は分からないが、不思議と胸は温かかった。

 

 それからのオスカーの働きは凄まじかった。素早い動きで女を抑え、一人でトドメまで刺してしまったその姿は、まさしく人類の希望たる勇者と呼ぶに相応しいものだった。

 

 そして俺は、そんな彼の背中を目でずっと追ってしまっていた。躍動する背中は今までよりもずっと大きく見えて──頼もしかった。

 その思考は、彼を導こうと、彼の上に立とうとしていた今までの俺とは到底かけ離れたものだった。今までの俺と決定的に異なる思考。しかしその正体が掴めずに、俺はただ彼の背中を眺めていた。

 結局、俺の手などほとんど借りず、彼はセレネレーンを倒してしまった。

 

 

 そして、王都に帰ってからもずっと俺の体はどこかおかしかった。ぼーっと、食事を進めるオスカーを見る。野菜が口元に運ばれて、彼の頬が満足げに緩んで……。

 

「どうしたのメメ、珍しくあんまり食べてないね」

「ひゃいっ!い、いや別になんでもない……」

「……そう?ならいいけど」

 

 オスカーに急に話しかけられて、驚いて変な声が出てしまった。ああ、やっぱり俺の体はずっと変だ。どうしてオスカーと話すだけでこんなに緊張するのか。どうして頬がこんなにも熱くなるのか。どうして鼓動がこんなにも跳ねるのか。

 

 その謎を解決するために、俺は彼女に相談することにした。

 

 

「カレン、ちょっといいか?相談したいことがあるんだ」

 

 夕食の後に呼び止めると、彼女は不思議そうな顔をした。

 

「メメちゃんが相談?珍しいね。何かな?」

「……ここじゃないほうがいい」

 

 夕食時の食堂は騒がしく、人の目がたくさんあった。

 

「じゃあ、アタシの部屋でいいかな?」

「ああ」

 

 宿の部屋まで来ると、カレンはベッドに座って、俺に隣に座るように促してきた。素直に従うと、興味津々な彼女の顔がぐいと迫ってきた。

 

「それで?相談って?」

「実はさ、この前の戦いから、俺、変なんだ」

「変?」

 

 続く言葉を出すのに、意味もなく緊張する。自分が何を恐れているのか分からないままに、俺は言葉を切り出した。

 

「うん。なんかオスカーを見るたびに不自然に心臓が跳ねるっていうか、とくとく言い出すっていうか……」

「……つまり、恋してるってこと?」

「こっ恋!?」

 

 その言葉を聞くと、また心臓が跳ねあがる。鼓動が早まり、頬が熱くなる。慌てて、否定する。

 

「い、いやいやいや。別にそういうのじゃないと思うんだ。ただオスカーを見てると心臓がとくとくして……」

「だからそれ、恋じゃん」

「うっ……」

 

 相談して、自分の状況を口に出して、気づかないふりをしていたことに気づいてしまう。最近の自分の体の異変の数々、それは完全に恋をしているということなのではないだろうか。

 

 最近の自分の心の動きを、できるだけ客観的に分析する。男だった時とはまた違う、不思議な感覚。男だった頃の恋は、言うなれば所有欲にも似た何かだった。しかし今の気持ちは、その逆、所有されたい、独占されたいとでもいうのか……

 

「ち、違う!俺はオスカーなんかにっ!」

「うわっびっくりした」

 

 思わず立ち上がると、カレンがびくりと肩を震わせた。

 

「いやあ、メメちゃん、やっぱりかあ。怪しいと思ってたんだよねえ」

「……そうなのか?」

「うん。なんていうか。やけにオスカーについて詳しいっていうか、よく見てるっていうか」

「まあそれはそうかもしれないが……」

 

 しかしそれは、俺の自己分析に基づくものなのだが。しかし、考えてみれば、今の彼は過去の俺とは随分違うように思える。前向きで、仲間想いで、優しくて、そしてかっこよくて……

 

「……って違う!」

「また!?」

 

 再び叫びながら立ち上がる俺に驚くカレン。いや、申し訳ない。

 

「でも、メメちゃんが自分の想いに気づいたってことは、アタシたちライバルだね」

「ライバル……」

「そう、恋のライバル。いくらメメちゃんが魅力的な女の子だからって、負ける気はないからね」

「いや、俺なんかよりカレンの方が……」

「もう!メメちゃんのそういう変に暗いところ、アタシ好きじゃないよ!……よし、そうと分かればメメちゃん、明日服買いに行こう?いっぱいおめかしして、オスカーに可愛いって言ってもらおう?」

 

 オスカーに可愛いと言ってもらう。それは……悪くないな。

 

 

 

 

 大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。俺は覚悟を決めると、目の前の戸を叩いた。

 

「お、オスカー、今いいか?」

「えっうん。大丈夫だよ」

「そうか。ありがとう」

 

 ドアを開けて、自室でくつろいでいたオスカーと対面すると、彼少し驚いたような様子を見せた。

 

「……どうしたのメメ、珍しいね。スカート履くなんて」

「……変か?」

 

 やや緊張しながら問いかけると、彼は少し戸惑ったような様子を見せながらも言葉を返してくれた。

 

「いや、良く似合ってるよ」

 

 その言葉に、大きく心臓が揺れるのが分かった。頬がだらしなく綻んでしまうのを抑えるために、なんとか言葉を続ける。

 

「そうか。……ありがとう」

 

 素直に返すと、オスカーは何か面くらったように、少し黙り込む。やがておずおずと言葉を切り出してくる。

 

「……なんか今日のメメ、いつもと違うね」

「え?」

「なんていうか、しおらしい?」

 

 彼に言われて、改めて実感する。今の俺にはもう、かつてのように気軽に彼と話すことができなくなってしまった。彼と話していると、心臓が、たまらなくうるさい。不思議な熱がずっと体の内から湧き出ていて、頬のあたりが暑い。平静を保つことなんて、できるはずもなかった。

 

「それで、どうして僕の部屋に?」

 

 そうだ。カレンに後押ししてもらってまでこの部屋に来たのだ。言わなければ、正直な気持ちを。伝えるんだ。俺のこの熱を。

 

「その……お、俺は、お前のことが──」

 

 

 

 

 朝日に照らされた俺の意識が急激に覚醒する。俺は衝動のままに、力いっぱい枕を叩きつけた。

 

「乙女かっ!!」

 

 バンッという力強い音にやや溜飲を下げた俺は、額に浮かんでいた寝汗を拭う。なんだろう。夢の話とはいえ、何かとてつもなく気持ちの悪いものを見せられてしまった。

 

「メメ、なんか大きな音がしたけど大丈夫?」

 

 夢の中で聞いたのと同じ、オスカーの声がする。青年になりかけの少年のやや低い声を聞いていると、夢の中で感じた熱が意味もなく蘇ってきた。

 

「問題ない!来るな!」

 

 それだけ叫ぶと、枕で自分の頭を叩く。

 

「どうかしてるって……」

 

 何をそんなに気にするのか。あれは夢だ。今の俺とはなんの関係もない。そう自分に言い聞かせるが、鼓動はとくとくと早鐘を打ち、不自然に上がってしまった体温は下がりそうになかった。

 

 

 それから数日、頑なにオスカーと顔を合わせることを拒否するメメの姿があった。その顔はなぜか真っ赤で、カレンだけは何かを悟ったように「やっぱりね」などと呟いていた。




彼女は本編と別人です


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IF メメのバッドエンド 皆殺し

例によって暗い方のIFの話です



「LaLa──」

 

 人を惑わす美しき旋律が、洞窟に反響する。でも大丈夫だ。歌を聞かないように、魔力を集中させて──

 

「──な、なんで」

 

 体が、動かない。考えてもみなかった最悪の事態に、体が芯から冷えていくような感覚を覚える。対策さえ分かっていれば簡単に防げるはずだった魔性の歌が、俺の身を蝕んでいた。

 

「まって──」

 

 そして、最悪の時が始まった。

 まず俺の体は、振り向きざまに一閃。大剣はオスカーの右腕をあっさりと切り落とした。

 

「ああああああ!」

 

 オスカーの悲痛な絶叫が洞窟に反響する。それは、勇者パーティー崩壊の序章に過ぎなかった。

 痛みにうずくまるオスカーを尻目に、俺の体はオリヴィアに向けて突っ込んでいく。近接戦闘の覚えのない彼女は、全く動きについてこれていなかった。

 

「オリヴィア、よけ……」

「──アアッ!」

 

 言葉が届く前に、鮮血が飛ぶ。腹部を深々と突き刺されたオリヴィアの瞳は滅多に見せない涙でいっぱいだった。ああ、彼女がうずくまる。

 

 その優雅な金髪を、俺は土足で踏みつけた。彼女の顔面が勢いよく地面に押し付けられる。彼女の頭を踏みつける足に徐々に力が籠っていく。彼女の痛みに呻く声が少しづつ小さくなっていき、やがて、めき、と頭蓋骨の割れる音がした。

 

「──ああ」

 

 それ以来、彼女は二度と起き上がってくることはなかった。彼女の遺体を踏みつけていた足がようやく退く。

 

 彼女の控えめで、だけど嬉しそうに笑った顔が頭によぎった。その魅力的な表情を俺が見ることは、もう二度となかった。

 

 

 俺の内心など関係なく、体は次の獲物を探すようにキョロキョロと辺りを見渡した。しかし、突如体ががくりと動きを止める。足元を見ると、カレンが俺の脚に縋りついていた。

 

「お願いメメちゃん、正気に戻って!」

 

 勇気を見せた彼女の肩は、小刻みに震えていた。しかしそれを認識した俺の体は、煩わし気に足を振るう。たったそれだけの動作で、カレンの軽い体は宙を舞い、地面に勢いよく落下した。

 

 仰向けに倒れる彼女の腹を、俺の足が踏みつける。足がどんどんとめり込んでいくほどに、カレンの顔色が悪くなっていく。

 

「ぐっ、苦しいよ……」

 

 苦悶の表情を浮かべる彼女が、掠れた声と共に血を吐く。

 

「メメちゃ──」

 

 苦し気に、懇願するように俺の名を呻いたのが、彼女の最期の言葉だった。ギロチンの如く振り下ろされた大剣が彼女の顔面に突き刺さり、その端正な顔面を見る影もないものにした。

 

 記憶の中にある彼女の優しい言葉の数々を思い出す。散々救われたくせに、結局一度も彼女を救えたことなんてなかったな。

 

「ああああああメメえええええええ!」

 

 オスカーの悲鳴のような絶叫が洞窟に木霊した。幼馴染みを目の前で殺された彼の瞳は、憎悪に燃えていた。──ああ、お前が殺してくれるか。

 

 意思とは裏腹に、体は迅速に迎撃体勢を整える。右手を失いふらつく彼だったが、その剣筋は見たことないほど苛烈で、彼の怒りが痛いほど感じられた。

 

「あああああ!」

 

 憎悪の籠った刃を、仲間の血に濡れた大剣が受け止める。左手一本で大きな聖剣を振るう彼と、数度、切り結ぶ。彼の殺意の籠った剣先は、鍛錬の時には、見たことがないほど苛烈で、命の危機を感じるほどの凄まじいものだった。

 

 凄味を感じさせる剣筋だったが、右腕を切断され、血液が今なお右肩から流れ出る彼の顔は真っ青だ。俺にも経験があるから分かる。四肢の切断なんて、すぐに立ち直れるような怪我じゃないはずだ。

 

「くそっ!なんで届かない……!」

 

 気迫こそ凄まじかったが、左手一本では彼も本領を発揮できていなかった。俺と切り結んでいくほどに、彼の体に生傷が増えていった。

 やがて、俺の剣に絡めとられた聖剣が彼の手から放り出され、遠くへと飛んでいく。続けて、俺の蹴りが無防備な彼の体を吹き飛ばす。聖剣を失った彼は、諦めたように抵抗しなかった。

 

 

 俺とオスカーの最期の決闘はあっさりと終わりの時を迎え、後はオスカーの死を待つだけになった。無様に地面に転がる彼だったが、その瞳はずっと憎悪を湛えて俺を睨んでいた。取り返しのつかない罪を犯してしまった俺を断罪するような、絶対零度の瞳。

 

 倒れ込んだ彼に、剣を振り下ろす。女神の加護を受けた勇者の体は頑丈で、ただの剣で少し斬られた程度では簡単に死ねない。それを知っている俺の体は、何度も何度も攻撃を加える。

 

「ガッ!ウゥ……」

 

 畑を耕す農夫の如く、何度も何度も剣を振り下ろす。すぐには死ななかったから、何度も斬った。頭を斬った。顔を斬った。首を斬った。胸を切り裂いた。腸を切り裂いた。足を切り落とした。いつしか彼の悶絶の声が聞こえなくなっていた。彼の体は血だまりに沈み、その呼吸も止まっていた。

 

 彼の憧憬の瞳を思い出す。こっちの気も知らないで俺に憧れるような目を向けていた彼は、最期には俺を恨み、憎み、殺意すら抱いて死んでいった。

 

「なんで……なんで……」

 

 口からはひたすら意味のない言葉が流れ続ける。頭の中ではずっとぐるぐると今見た最悪の光景を繰り返していた。

 

「無様な女の子ね。うるさいから早く死んでね」

 

 セレネレーンの言葉が耳に入ってきて、体が動き出す。右手を上げ、仲間の血に塗れた大剣を自分に向ける。

 絶望のままにそれを迎え入れようとした時に、気づく。否、気づいてしまった。──体が、自由に動く。そのことを認識した瞬間、俺は半ば無意識に大剣を彼女に振り下ろしていた。

 

「なッ何故……」

 

 言葉少なく沈んでいくセレネレーン。しかしそれを見る俺に歓喜はなかった。ただ、取り返しのつかないことをしてしまったという喪失感。慣れたはずのそれは、しかしかつてないほどの鋭い痛みとなって俺の体を蝕んだ。

 

 他ならぬ自分の意思で、剣先を自分の胸に向ける。償いを。贖罪を。俺の頭にあるのはそれだけだった。仲間に、皆に、最大限の詫びを。

 先ほどまで見ていた地獄がフラッシュバックする。オリヴィアの倒れた体と踏みつけた頭の感覚。カレンの手の感覚と破壊された顔面の残骸。オスカーの憎悪に燃える瞳と切り刻まれた死体。

 

 その全てから解放されるために、俺は剣を握りしめた。怖くはない。死への恐れはなかった。俺の自決を妨げるものなど、何もないはずだった。

 しかし、俺が永遠の眠りに就こうとした瞬間、光のないオスカーの瞳と目が合った気がした。

 

「──あ」

 

 その瞳は、もう何も映していないはずだった。それでも、俺には感じ取れた。──逃げるのか、と言っているようだった。死という安息に逃げて、僕たちを殺したことをなかったことにでもできると思っているのか、と言っているようだった。

 

「じゃあ、どうすれば、どうしろっていうんだよ!!」

 

 絶叫は、俺の他に物言わぬ死体しか存在しない洞窟に虚しく反響した。虚ろな穴倉には、他に何の音もなかった。

 




彼女が歌に抵抗できなかったのは、自分の生理による体調不良を考慮できていなかったからです。百年を生きた彼女も、性別が変わったことによる不調は考慮しきれていなかった。そんなもしもです。


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浮かれがちTS少女と武人気取りのワーウルフ
55 幸福な日常


新章です


 勇者パーティーの面々がいつも食事を取っているのは、安くて量が多いことから人気を博している大衆料理を出す食堂だ。

 しかし、今日訪れている料亭、『スズメの羽休め』はそれよりも高級な料理を出す、王都の有名店だ。

 

 食卓の上には既に大皿に載せられた料理がいっぱいに並んでおり、香ばしい匂いを漂わせていた。

 

「それじゃあ、勇者パーティーの今までの戦果を祝して、乾杯!」

 

 カレンの音頭に合わせて、皆でグラスをぶつけ合う。その中身は水だ。それを一口飲むと、みんなワクワクとした様子で目の前のご馳走について話し始めた。

 

「アタシこんな豪華な食事初めて見たよ。どれから食べようかな」

「オリヴィア、これはなんの料理なの?」

「ああ、それは──」

 

 皆の楽しそうな様子を見ていると、こちらまで嬉しくなってしまいそうだ。その幸福そうな景色を眺めながら、水を飲む。それが喉を通ると、アルコールなんて少しも入っていないのに、どこか高揚した気分になれた。

 

「ジェーン、お前も食べたらどうだ。そもそもこれはお前の挙げた戦果を祝っての食事会なんだから」

「そうですね、いただきましょうか」

 

 促すと、相変わらずの無表情で応えた彼が食事に手を付け始める。それを見届けた俺も、うまそうな匂いを漂わせていた食事を取り始めた。

 

 共和国の洞窟での一戦、それからジェーンが魔王軍を撃退してから、数か月が過ぎた。秋らしい穏やかな気候から一転、王国には寒々しい風が吹き荒れ、時折雪すら降るようになっていた。

 

 あれから、魔王軍は何度か王国への攻撃を実行してきていたが、人類側に大きな損害はない。やはり初戦での大敗が痛手だったのか、敵の動きが鈍いのだ。

 大規模な魔法で攻撃されることを警戒するように、攻撃は散発的で、まとまりがない。ジェーンの魔法による大戦果は、すっかり抑止力として働いているようだった。王都の噂話でも、彼の健闘が称えられている。

 

 俺の長い人生の中でも経験したことのないパターンだった。そもそも、俺の知る限り人類側にジェーンほどの大規模な魔法を放てる魔法使いなど存在しなかった。俺の知識に存在しないイレギュラー、女神の眷属たるジェーンの存在は、魔王軍との戦いにおいて予想以上に良い影響をもたらしていた。

 

 魔王軍と王国の戦争は何度も見てきたが、こんなにも人類が優勢だったのは見たことがない。まだまだ戦争は始まったばかりとはいえ、かれこれ百年以上過ごした中でも、最も魔王討伐に近づいているような感覚。──惜しむべきは俺の手元に聖剣がないことだろう。

 

 とはいえ、今の聖剣を持った勇者、もう一人の俺たるオスカーの成長は目を見張るものがある。十分魔王に肉薄することはできるだろう。

 

 ご馳走を楽しむオスカーの様子を見る。その表情は緩み切っていて、いざ戦場に立てば千人分の力を発揮するという勇者様にはとても見えない。

 ……大丈夫かなあいつ。俺が真面目に考えているのにすっかり楽しんでいる様子の彼に何だかムカついたので、いたずらすることにした。

 

「オスカー、こっち向け」

「どうしたの──ムグッ!」

 

 こちらを向いたオスカーの口に自分のフォークを突っ込む。

 

「ハハハ!熱々のじゃがいもに口内を蹂躙される気分はどうだ!」

「あっつ!ひどいよメメ!」

「ふん!お前はそうやって不幸な目にあってるくらいがちょうどいいんだ。……ムグッ」

 

 彼の慌てふためいた姿に満足したので、自分のぶんのじゃがいもを口に入れる。美味い。

 

「あ、メメ、そのフォーク……」

「なんだオスカー。言いたいことがあるならハッキリ言え」

「うわあメメちゃん、たまにあざといよね」

「ですね。どうして色々鋭いのに変なところで鈍いのでしょうか」

 

 何やら言われていたが、聞き流す。俺は料理を味わうのに忙しいのだ。

 食事を嚥下し、水を流し込んでいると、オリヴィアが話しかけてきた。

 

「ところでメメさん、私の口も空いていますよ?」

「……ん?」

 

 問いかけの意図が分からず、困惑する。

 

「ですから、私の口を塞いで情熱的な言葉を囁くことができますよと言っているのです!さあ!」

「……なあカレン、オリヴィアは何を言ってるんだ?」

「メメちゃんも罪な女だよねえ」

「……答えになってないんだが」

 

 カレンはなぜかしみじみと俺に語り掛けてきた。……言葉の意味がよくわからん。何かを期待するようにチラチラこちらを見ているオリヴィアから目を逸らして、食事に戻る。

 

 

「そういえば、この前メメはまたアストルさんと話していたね。何を話していたの?」

「ああ、あいつ俺がどうやって魔王軍の動きを察知したのかしつこく聞いてくるんだよ。たまたま予想が当たっただけだって言っても聞かなくてな」

「……それはそうだろうねえ」

 

 しみじみとした様子で、オスカーが呟く。彼がアストルとの鍛錬を始めてからかなりの月日が経っている。アストルの性格も分かってきたのだろう。

 彼はその冷たい態度から誤解されがちだが、根底にあるのは王国を守りたいという真摯な願いだ。王国の防備のためになることならなんでもしたいのだろう。

 

「オスカーはどうだ?アストルとは上手くやれてるか?」

「うん、日々勉強させてもらっているよ」

 

 それならいい。俺も時々オスカーと剣を合わせているが、その実力は日々着々と伸びている。──いつか俺を追い抜かす日が来るのかもしれない。

 

「アストルさんのおかげで、メメと対等に肩を並べられる日もくるのかなあと思えるよ」

「……対等、か」

 

 反射的に何か言い返そうとしていた。言葉を飲み込むために、水を飲み込む。そもそも素質という点でいえば、勇者たるオスカーの方が圧倒的に上だ。俺が追い抜かされる日もいずれ来るのだろう。

 人生を繰り返した経験もないようなのに順調に成長していくオスカーの姿は、失敗続きの俺の目にはひどく眩しく映る。

 ……ああ、油断すれば思考がネガティブになるな。せっかくの祝いの席なんだ。暗いのは無しにしよう。

 

 豪華な食事を勢い良く掻き込んでいたカレンが、ハリのある声をあげる。

 

「そうだ!今度行くところはあの有名なイーアロスなんだって?あれだよね、温泉が有名で、『祝福の花畑』のあるところ!」

 

『祝福の花畑』とは、綺麗な花がみられることで有名な観光地だ。女神暦以前、大神自ら祝福を授けたという伝説の残っている土地だ。大神の祝福とやらの影響か、そこに咲く花々は異常に生命力が高く、冬でも枯れない。

 

 加えて言えば、大陸中に神と関わりのあった地は多数存在するが(例えば、王都の中央教会は女神ユースティティア降臨の地であるとされている)、大神デウスが関わったことが明らかなのは、この花畑くらいなのだ。女神教に表立って崇拝することを禁じられている大神だが、庶民の人気は高い。何せ自分たちの死後の面倒を見てくれる神だ。観光地に行くだけなら、女神教に大神崇拝を咎められることもない。

 

 そんな背景もあって、『祝福の花畑』は非常に有名な観光地で、魔王軍の侵攻が始まる以前であれば連日たくさんの観光客が押しかけていたことだろう。

 

「そうだな、時間があれば観光に行けるかもな。でも、遊びに行くわけじゃないぞ」

「わ、分かってるよ。魔王軍を押し戻すため、だよね」

 

 今や王国のあちこちで発生している魔王軍との戦いにおいて、勇者パーティーは王国からの応援要請に応じる形で各地の戦場を転々としている。

 そのため、向かう先は基本的に押されている、苦戦している戦場だ。しかし、そんな状況でもこの勇者パーティーは勝利を納め続けていた。

 

 一人として欠けることなく、戦いの日々を過ごすことができている。それがどれだけ奇跡的なことなのか、彼らは知らないのだろう。──でも、それでいいのだ。

 

 彼らの幸福そうな顔を眺めていると、ジェーンが小声で話しかけてきた。

 

「……メメさんは彼らの緊張感のなさを危惧しているのですか?」

「……いいや、それは俺が気を付ければいいだけの話だ」

「……一人で背負うなと散々言われていたのでは?」

「……うるさいぞ。人の感情も分からないやつは黙ってろ」

 

 ジェーンだけが、俺の考えていることを的確に言い当ててきた。その事実になんだかイラついた俺は、少し強めに言い返す。

 俺の様子に、彼は呆れた、というように肩をすくめた。……こいつ、振る舞いがどんどん人間らしくなってきていやがるな。

 

「メメちゃんとジェーンさんも!早く食べないとなくなっちゃうよ!」

 

 三人の目の前には、今日の締めである巨大なケーキが置かれていた。いそいそとケーキを切っているカレンの声は楽し気に弾んでいる。他の二人もワクワクとした様子だ。それは、幸福という言葉を体現したような光景だった。

 

「あいつらはあのまんまでいい。そうは思わないか?」

「……そう、ですか」

 

 言葉少なく顔を背けたジェーンは、すたすたとケーキの方に歩いていった。……変なヤツ。

 



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56 この世界の女神

 貴重な王都での休日を過ごしていたある一日のことだった。俺は珍しいことにジェーンに呼び出されていた。

 彼が待ち合わせに指定したのは、王都の国立図書館だった。歴史書、様々な記録、魔法の教本など、貴重な書物を多数収めている王国随一の図書館であるここは、一般人の立ち入りは原則的に禁止されている。しかし俺たち勇者パーティーは、その立場を利用して出入りすることが可能だ。

 

 利用者が限られていることもあり、国立図書館の中はいつも静かだ。足音を立てることすら憚られる空間を、ひっそりと歩く。静謐の空間に時折どこからか紙を捲る音が聞こえてきて、それがどこか心地よい。

 王国中の歴史書の類が集められている、二階の一角。ジェーンはそこで、いくつかの本を用意して俺を待っていた。

 

「それで何の用だ?このあたりにある本なら、繰り返しの間にだいたい読んだぞ」

 

 歴史書、特に魔王軍との戦いの歴史については、何か学べる事はないかと読み込んでいた時期があった。その内容も未だに覚えている。正直一般的な貴族と同じくらいにはこの国の歴史には詳しいつもりだ。

 

「それは知っています。しかし、この世界に来てからは足を踏み入れていないでしょう?なので、私が確認していたのです。この世界と私たちのいた世界の差異、違いについて」

 

 その言葉に、俺は久しぶりに今いるこの世界と、俺の繰り返した世界は違う存在であることを思い出した。あまりに知識通りに、変わりなく進んでいく歴史に、そのことを忘れかけていた。

 

「そうか、なるほど。それで、何か分かったのか?」

「はい、これを見てください」

 

 ジェーンが取り出したのは、俺にも見覚えのある王国公式の歴史書だ。その巻は歴代の勇者の活躍について触れたもので、俺の前、九人の勇者の活躍について、正確に記録されている。パラパラとページを捲りながら、彼は俺に語り掛けた。

 

「勇者様が歴史書にどのように語られているのか、貴女は覚えていらっしゃいますか?」

「ああ、歴代勇者の主要な活躍、特徴、それから勇者パーティーのメンバーくらいなら空でも言えるぞ」

「それなら分かるでしょう。歴代勇者についての記述に、相違点が確認できました。いくつか違いは確認できましたが、決定的なのはこのあたりでしょうね」

 

 彼が示したページは、二百年前、八代目の勇者の活躍の記録だ。名前をミランダという。彼女は勇者の中でも優秀と評されている人物だが、その狂気的と言える戦い方が有名な人物だ。

 俺の知る伝承によると、その身を切られ、燃やされ、潰されようとも笑いながら敵を倒していくような人物だったらしい。その恐ろしい姿は味方からも恐れられ、「血塗れのミランダ」と畏怖を籠めて呼ばれていたらしい。

 

「ここにあるように、彼女の異名が変わっていますね。『博愛のミランダ』。相手の肩書きに関わらず平等に接する、優しい心を持った勇者だと伝えられていますね」

「……俺の知る歴史とはずいぶん違うな」

「そうでしょう。他の勇者も、幾分か記述が変わっていますね」

 

 他のページを指さしながら、彼の説明が続く。俺の知るよりずっと早く魔王を倒せた九代目の勇者。戦いを終えた後に王国に叛逆することのなかった七代目の勇者。魔王討伐後にひっそりと姿を消した五代目勇者。その他、勇者の活躍について多数の記述の差異が読み取れる。

 

「違いがないのは初代勇者だけですね。彼の偉業だけが、全く変わらず語り継がれている」

 

 最後にページの最初のあたりを指して、ジェーンはそう言った。

 

「歴史書の記述が違うってのはよく分かった。それで、お前は何が言いたいんだ?」

「──結論から申し上げましょう。この世界の勇者たちは、やり直し、時間遡行を経験していない可能性が高い、ということです」

「……ほう?」

 

 勇者という存在は、皆多かれ少なかれやり直し、時間遡行を経験している、というのは以前女神からも聞いたことだ。しかし、この世界の勇者が違うとでも言うのだろうか。

 

「私の記憶の中では、歴代勇者の中で繰り返しを経験していないのは初代勇者のジャウェンだけです。そしてその彼だけがその歴史に変化がなく、それ以降の勇者たちの活躍は皆何かしら変化がある。そして、彼ら二代目以降の勇者の人格面の記述については覚えがあります。おそらく、彼らはみんな一周目の時の性格のままで、魔王討伐を終えている」

 

 ジェーンはそこまで言って、一呼吸置いた。そして、本題に触れる。

 

「おそらく、この世界の女神は禁忌に触れていない。時間や生死を操るという大神の禁じた事をしていない。言い換えれば、女神はまだ壊れていない。千年前の大神との約定を違えずに、ただ世界を見守っている。──そしてそれはきっと、今代の勇者についても同じなのでしょう」

「何が言いたい?」

「前に言った、この世界の勇者が繰り返しをしないという仮説がより確実になった、ということです。この世界のオスカーさんは、繰り返しをしない」

 

 それは、ハードだな。前に聞いた時と同じことを、思う。繰り返さずに、あの魔王を倒す。失敗し続けた俺には、想像もできないほどの難題に感じる。

 

「しかし、同時に良い知らせもあります。女神が禁忌を犯していない、要するに壊れていないということは、女神の持つ力は私たちの知る以上のものでしょう。つまり、勇者に授けられる力も増します。──オスカーさんは、貴女以上の力を授かっているでしょう」

「本当か?あいつの力が俺よりも上だなんて感じたことないけどな」

「百年かけて勇者の力の制御の仕方を学んだ貴女と一緒にされても困るでしょう。素質が上か下か、という話です」

 

 口を閉じたジェーンは、突然俺の顔をじっと見つめ出した。何か言うことを躊躇うような、らしくない仕草。

 

「なんだよ」

「──だから、貴女が彼に劣等感を持つなんて見当違いですよ」

 

 言葉に、詰まる。

 

「……お前なんぞに見抜かれるなんて、そんなに分かりやすかったか?」

 

 吐き出すように、言葉を紡ぐ。表情を取り繕う気力もなかった。きっと情けない顔をしている。

 ジェーンが本を閉じ、パタン、という音が静かな図書館に響いた。

 

「いえ、むしろ分かりづらかったですね。しかし、考えてもみてください。貴女の人生全てを知っている者はもうこの世界には私以外存在しません。──私は、今や貴女の全てを理解する唯一の者ですよ」

 

 そう言って向けられる瞳に籠っているのは、いったいどんな感情なんだろうか。心配か、興味か、同情か、それとも恋情か。そのいずれも不快に思った俺は、顔を背ける。

 

「ただ俺の来歴を知っているだけで理解したと言い切られるほど、俺は単純な人間じゃない」

「そうですかね。……いえ、ご不快にさせてしまったなら、申し訳ございません」

「別に謝ることもないが」

 

 そう、謝ることなんてない。悪いのはきっと、見当はずれの感情を抱いている俺の方なのだから。

 

「お詫びついでに、この前できたカフェ行きませんか?」

「お前実は謝る気ないだろ」

「美味しいスイーツが好評らしいですよ」

「……行く」 

 

 ジェーンが少し口角を上げた。……なんだか腹の立つ表情だ。

 

 

 ◇

 

 

「ここですね」

 

 指差したのは、色とりどりの装飾で明るい雰囲気を醸し出している、王都の人気店だ。店内には若い客がたくさん並んでおり、甘ったるい匂いが店外まで漂ってきていた。

 

 しばらくそれを眺めていたメメさんは、こちらを訝しげに見てきた。

 

「お前、なんでこんな店知ってたんだ?」

「メメさんが知ったら目をキラキラさせて喜ぶと思いまして」

「……そんなことないだろ」

「いえ、結構嬉しそうですけどね」

 

 見たまんまを告げると、メメさんは自分の頬を手で押さえた。女になってからの彼女が甘い物を好むようになったことはよく知っている。それを少し恥ずかしがって隠したがっていることも。

 

「いいから、とっとと入ろうぜ」

 

 足取りは早く、彼女のワクワクとした気持ちを表しているようだった。

 

 若い女性特有の甲高い声がそこら中から聞こえてくる店内で、彼女は一心不乱にケーキを掻き込んでいた。

 

「おお、見ろジェーン!あの席の山盛りのパフェ!あれうまそうだぞ!」

 

 後方の客を眺めてはしゃぐ彼女の姿は、外見通りの幼さに見えた。そのキラキラした目が他に向いているのがもったいなく感じて、私は声をかける。

 

「メメさん、自分の分も食べましょう」

「おお、そうだった」

 

 くるりとこちらを向く彼女の後頭部で、一纏めにされた髪がふわと揺れた。今の彼女なら、簡単に機嫌を損ねることもないだろう。私は、少し踏み込む。

 

「もう、悪夢は見ていないのですか?」

「……ん?ああ」

 

 言葉少なく答える彼女の声には覇気がない。私の言葉よりも、目の前のケーキに夢中なようだ。以前の彼女なら、自分の弱さについて言及されたなら怒りそうなものだったが。

 

「……なんでそんなこと聞くんだ?というか、お前にそんなこと話したか?」

「私は元々貴女の懐に入っていた女神像ですよ。寝言の一つや二つ聞いていますよ」

「ああ、そうだったな……ムグッ……過去を回想することは、減ったかもな」

「……それは、いいことですね」

 

 彼女が最も苦しそうな顔をする時。それは過去を回想している時のようだった。それがなくなったというなら、それはきっといいことだ。

 手元の紅茶を啜り、ケーキに夢中な彼女の様子を観察する。フォークを動かす手は早く、みるみるうちにケーキが小さくなっていく。

 

「そういえば、お前はまた女神像の姿に戻ったりするのか?」

 

 聞いているわりに興味無さげに、彼女は問いかけてきた。

 

「無理、とは言いませんが戻ることはないでしょうね。魂の移し替えはそれなりに手間のかかる魔法なので」

「じゃあ、お前はずっとその体で生きていくんだな」

「そうですね」

 

 生きていく、と言われてもあまり実感は湧かなかった。この意識が稼働しはじめて千年

 近く。今更百年足らずの人生を過ごすというのも、なんだか不思議な感覚だ。

 

「……つまり、少なくとも一人は、貴女のことを理解している人間が傍にいるということですよ」

 

 語り掛けると、彼女は静かにスプーンを置いた。

 ずっと楽しげだった彼女の雰囲気が変わる。私は踏み込みすぎたことを後悔した。

 

「さっきも言ったが、俺のことを知っているってだけで理解しているって考えるのは傲慢なんじゃないか、人でなし?」

 

 瞳に映るのは、混じりっけのない拒絶の色。柔らかくなったとはいえ、彼女は彼女だった。その相変わらずの様子に、ため息交じりに言葉を吐き出す。

 

「相変わらず、人に頼ることや人に助けられることは苦手そうですね。まあ愚かな貴女らしいですが」

「うるせえ」

 

 つんとそっぽを向く彼女の頭に渦巻くのは、きっと長い時間の中で培われた自責の念だ。だから私は、今できる最大限の歩み寄りをする。

 

「何かあったら、私に相談してもいいんですよ。愚痴だって構いません。私は貴女の役に立ちたいのですから」

 

 返答はなく、彼女の視線はこちらを向くことはなかった。彼女のフォークが少し乱暴にケーキをつつく。

 

 ──ああ、頑固で、愚かで、やっぱり愛おしい。

 




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57 氷雨の戦い

 先日ジェーンが魔王軍を一掃した日以来、魔王軍との戦闘は散発的に発生していた。規模は比較的小さいとはいえ、その勢いは苛烈で、全く油断はできない。今回俺たちが参加するのもその一つ、人類と魔物の生存競争だ。

 

 

 冷たい雨が、草原に降り注ぎ、視界を白く染めていた。生憎の雨にもかかわらず、魔物たちの勢いは全く衰えることはなかった。連日襲撃をかけてくる狼の形をした魔物たちは、倒しても倒しても湧いてきて、俺たちをうんざりさせた。

 

「クソッ!こいつら死ぬのが怖くないのか!?」

「気を抜くな!一人死んだら陣形が瓦解するぞ!」

 

 雨と同様に絶え間なく襲い掛かってくる四足歩行の化け物たちに、騎士たちの声にも苛立ちがのっている。

 悪天候で視界の悪い中だが、彼らは上手く戦っていた。決して突出せず、上手く固まって防衛ラインを構築している。白刃が閃くたびに、獣たちは血を流して倒れ伏し、そして同族の足場となった。

 

「フッ!──ああクソ、キリがない!」

 

 氷雨にかじかむ手で剣柄を握りしめ、魔物を打ち倒す。四足歩行の狼たちは、頭部が人間の腰程度の高さだ。しかしその低身長ゆえに、下半身に向かって突っ込んでくる突進は脅威だ。足に嚙みつかれ引きずり倒されれば最後、喉笛を噛み切られるまで抵抗することなど不可能だろう。

 

 だから、対抗する人間たちは皆姿勢を低くし、決して足を取られないようにする。腰を屈めながら魔物と相対する皆の表情は真剣だ。誰か一人死ねば、それだけ戦いが不利になる。それが分かっているからこそ、逸らず、冷静に立ち回っている。

 しかし、どれだけ気を付けても予想外が発生するのが戦場という場所だ。

 

「おい!一匹抜けたぞ!」

 

 切羽詰まった騎士の声。見ると、俺たちの展開する前線をすり抜けて、一匹の魔物が後方部隊へと突進していた。人間領の守護者たちに緊張が走る。今日一番の危機。

 雨で視界が悪い中では、精密な制御を必要とする魔法による攻撃が難しい。そんな状況下で、素早い魔物が聖職者と魔法使いで編成された後方部隊へと襲い掛かれば、誰も止められなくなる。下手をすれば、一匹相手に壊滅する可能性すらあった。

 

 しかし、そんな時でも頼りになる彼女の名を呼ぶ。

 

「──オリヴィア!」

「『雷鳴よ、地を這え!』」

 

 溜めの短い魔術を十全に扱えるオリヴィアは、その一匹を決して逃さなかった。紫電が地を這うように走ると、狼の体に直撃した。

 

「──キャンッ!」

 

 断末魔を上げて倒れる魔物。伝統に囚われない魔術だからこその戦果。オリヴィアのお手柄だった。

 

「ありがとうございます!」

「かたじけない!次は通しません!」

 

 緊迫していた空気が、一瞬安堵に包まれる。感謝の言葉を短く伝えた騎士たちは、すぐに視線を前に戻し、一層の集中力を持って戦い始めた。

 

 

「てりゃあああ!」

「メメ!前代わって!」

「いい!お前は騎士たちの援護を欠かすな!」

 

 雨も魔物も、全くその勢いが衰えることはなかった。冷たい雨に晒されながらも、人間たちは驚異的な集中力で魔物を撃退していた。

 灰色の空の下、怒号と甲高い鳴き声が混ざり合い、騎士たちの甲冑に付いた返り血は瞬く間に雨に洗いながされた。

 

 魔物たちの断末魔が数えきれないほど響いた後、ようやく戦いは終わりを迎えた。

 

「ワオオオゥ!」

 

 雨中に獣の遠吠えが響き渡る。それを合図に、狼たちは一斉に踵を返し、魔物領の方へと去っていた。勝どきは上がらない。もう声を上げるほどの元気は、誰にも残っていなかった。

 

 

 

 

 魔物たちが退散してから、騎士たちは最低限の見張りを残して、あっという間に兵舎へと帰っていった。

 冬の雨の中長時間戦っていたのだ。体が冷えて仕方なかったのだろう。見張りを押し付けられた騎士たちは、仕事を押し付けた同僚たちに恨みがましい目を向けていた。

 

 

 俺たち勇者パーティーも、足早に雨から避難した。集まるのは、宿の共用スペースの暖炉の前だ。俺たちの泊まる宿は、観光客の激減によって勇者パーティーの貸し切りのような状態になっている。そのため、いくら共用スペースを占有したところで、文句の一つも言われなかった。

 

 燃え上がる暖炉の火は、外気の寒さをものともせず、暖かい空気を提供していた。

 みんな手を暖炉に近づけて幸せそうな顔をしている。例外はジェーンだけだ。彼は一人傍らに立ち、この寒い中なぜか氷をバリバリ齧っていた。……あいつ、寒さとか感じないのか?

 

「結構倒してるはずなんだけど、どんどん攻めてくるね。あの狼たち、どれだけ数がいるんだろう」

「数が多いうえに連携まで取ってくるからな。うっとおしいことこの上ない」

 

 うんざりとした様子で言うオスカーに、心から同意する。イーアロスを守る戦いは、当初の想定よりもずっと長引いていた。

 理由はやはり圧倒的な狼型の魔物たちの数の多さだ。もう三日は戦っていて、かなりの数を殺している。それでもその勢いは全く衰えない。いつ見ても、魔王軍の物量はすさまじい。ジェーンの魔法による被害は、決して少なくなかったはずだが。

 

 他の皆の顔にも、どことなく疲労の色が窺える。敵は決して強くない。しかし断続的に襲撃をかけてくる狼たちに、仲間たちも、共に防衛にあたる騎士たちにも疲労の色が見えた。

 

「なんかさっき騎士の人たちが話してたんだけど、ワーウルフの姿が確認されたってさ」

「ワーウルフって?」

 

 興味深そうに、カレンが聞いている。そうか、ワーウルフはあまり知られていない魔物だったか。

 

「狼と人間の容貌を足したような魔物だな。二足歩行の狼とも言える。それと、狼たちの指揮も取れる厄介なやつだ」

「へえ……人狼とはまた別物なんだね」

「別物だが、一緒に行動していることも珍しくないな。……ワーウルフがいたのなら人狼の出現も警戒したほうがよさそうだな」

 

 人狼の最大の特徴は、満月の夜以外は人間と変わらない容姿をしていることだろう。人間領に紛れ込んでいることも少なくなく、魔王軍のスパイとして活動されると非情に厄介だ。狼たちが攻めてきていたことから、どこかにいる可能性は考えていた。しかしワーウルフがいたとなると本格的に警戒する必要があるだろう。

 

「騎士たちにも進言したほうがいいな。トップは……チッ、アストルのやつは来てないのか。話を通すのがめんどうだな」

 

 騎士たちはその気位の高さから、平民の話などまともに聞かないやつも多い。(オリヴィアが出向いた場合、騎士のことに女が首を突っ込むなとやんわりと言われて追い返される)合理主義者の騎士団長様なら話は早かったんだが……。

 

「あ、それならこの前アストルさんが騎士団内に勇者パーティーの言うことに従えって命令を出してくれたってさ」

「……本当か?」

 

 騎士団長といえども、騎士団の中で家格が最も高いわけではない。だから全ての騎士が素直に言うことを聞くわけではなく、上から命令を出すとそれなりに反感を買う。

 そんなリスクを押してまで、勇者の肩を持つとは珍しい。少なくとも俺の時はそんなことしてくれなかった。

 

「……訓練つけてる間にオスカーにほだされのか?」

 

 俺ではなく彼だったからこそ、あいつは勇者を信じることにしたのか?

 答えは分からない。ただ、俺よりもオスカーの方が上手くやった。その事実だけが俺に分かることだった。

 

「……いや、僥倖だな。じゃあオスカーから騎士団に人狼のスパイがいる可能性について報告しておいてくれ」

「分かった」

 

 思案はひとまず飲み込み、今考えるべきことを考える。

 なんとなしに見た暖炉の炎がちろちろと動き、その下の薪がぱき、と小気味良い音を立てて崩れる。

 

「……そろそろジェーンの大規模魔法でも見せつけてやって牽制するのもいいかもな。ジェーン、できるか?」

「この場はさほど魔法陣の展開に向きませんから、この前の規模では無理ですね」

「……古代魔法ってのも不便なものだな」

 

 以前聞いた話によれば、大規模な古代魔法の発動には、地脈の魔力を魔法陣によって吸収して使うそうだ。そのため、発動には準備期間と都合の良い土地が必要となる。ジェーンがこの前の超大規模魔法を放ったダラム山は、魔法陣を敷くのに適したものだったそうだ。

 

「それじゃあこれまでと変わらずに牽制目的じゃなく殲滅目的で魔法の行使を頼む」

「承りました」

 

 頷くジェーンに不安の色は見られない。

 ……しかし、消耗戦となると騎士たちの士気もそうだが、皆の体調も心配になってくるな。オスカーは体力があるだろうから心配はしていないが、オリヴィアやカレンなどの後衛は特別体を鍛えているわけではない。俺が気にかけるべきだろう。定期的に体調について聞いておこう。

 

「……大丈夫、だよな」

 

 終わりの見えない、敵の底の見えない戦いは、疲労との戦いだ。今まで優位な戦いを続けていた勇者パーティーにとって、受難の時となるかもしれない。

 



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58 湯けむりと幸せ

 大地を踏みしめる音が重なり、戦場となる大地に土埃が舞った。多数の騎士たちと共に、俺たち勇者パーティーは今日も今日とて人類の敵、魔物と相対していた。

 最近の相手は、ずっと狼の姿をした魔物たちだ。四足で大地を駆けるその動きは素早く、油断すれば喉笛を嚙み切られてしまいそうだ。

 

 目の前には、群れと言うべきほど大量の狼たち。黒々とした獣が群れる姿は、一つの巨大な影にも見える。

 

 瞳に殺意を滾らせ、地を這うように突撃してくる狼。その姿を捉えていた俺は、飛びかかってくるタイミングに合わせて、四足歩行の影に大剣を突き出してやる。猛スピードで突っ込んできた狼型の魔物は、俺のカウンターに対処できず、小さく鳴き絶命した。

 

 自分の周りに敵の姿がいないのを確認して、周囲を見渡す。仲間たちは──大丈夫そうだ。しかし俺たちのやや後ろ、前線で戦う騎士たちがやや苦しそうだ。

 

「カレン、破邪の結界で騎士どもを援護してやれ!」

「任せて!『聖なる女神にお願い奉る──」

 

 長い詠唱を経て、カレンの規格外の神聖魔法が展開する。半透明の壁が、相対する騎士と魔物の間を隔てる。聖なる力の籠った障壁に激突した狼たちは、一瞬にして体を灰と変えて消えていった。やはり、低級の魔物相手なら破邪の結界はとても有効だ。自分の百年の積み重ねで得た知見が正しかったことを改めて確認する。

 

「グルルルル……」

 

 カレンの神聖魔法を警戒するように、狼たちが足を止める。──狙い通りだ。

 

「オリヴィア!」

「はい!『氷よ、我が敵を穿て!』」

 

 待っていた、と言わんばかりにオリヴィアの魔術が打ち出される。これまで俊敏な狼たちに翻弄されていた彼女は鬱憤が溜まっていたのだろう。その威力は凄まじく、魔物たちは矢の如く殺到する氷柱に一瞬にして体中を穴だらけにされて絶命していった。

 

「メメ!こっちの数が多い、支援をお願い!」

「応!『炎よ、爆ぜろ』」

 

 俺の魔術が空中で爆ぜた。爆炎が狼たちの進路を塞ぐ。一瞬止まる獣たちの足。その隙を逃すオスカーではなかった。

 

「はああああ!」

 

 裂帛と共に振り下ろされた聖剣が、素早く魔物の首を刈り取っていく。その動作は堂に入っていて、とても戦場に経って一年足らずの新人には見えない。勇者という名に恥じぬような、堂々たる活躍だった。

 

「勇者パーティーに続け!騎士の意地を見せるぞ!」

「おおおおお!」

 

 俺たちの働きに触発されたらしく、騎士たちの動きにも勢いが戻ってきた。士気の高さは戦場での優劣に直結する。次々と絶命していく魔物たち。やがて、みるみるうちに前線は上がっていき、狼たちはその数を激減させて魔族領の方角へと逃走していった。

 

「やったぞ、俺たちの勝利だ!」

「勇者様、助けてくださりありがとうございます!」

「勇者パーティー万歳!」

 

 勝利の歓喜に湧く騎士たちの多くが、オスカーへの感謝を告げていた。熱狂の中心にいる彼は、それを照れくさそうに受け取っていた。皆に慕われる、あるべき勇者の姿がそこにはあった。

 

 一通り感謝の言葉を受け取ったオスカーが、こちらに歩いてくる。少し疲れたような顔をしているが、その足取りは軽い。

 

「人気者だな、オスカー」

 

 俺とは違って。……いや、これは必要のない感傷か。

 

「や、やめてよメメ。僕だって皆のおかげでここまでやってこれたことくらい良く分かっているよ。……というか本来ならメメも感謝を受け取ってもいいと思うんだけどね。どうしてあんなに騎士を嫌うの?」

 

 ……さすがにオスカーには気づかれていたか。百年以上の繰り返しの経験上、どうしても俺は騎士たちを好きになることができなかった。それが態度に出ているからだろう。騎士たちは俺には近寄ってこない。俺からも必要以上に近寄らない。

 

「……仲良くする必要もないだろ。騎士は騎士。俺たちは俺たちだ。人気者はお前だけで十分だ」

「ハァ……。メメはそういう変に強情なところがあるよね」

 

 よくわかってるじゃないか。オスカーの呆れたような目は、しかしどこか温かさを孕んでいた。それがひどくムズ痒くて、俺は足早にその場を後にした。

 

 

 

 

 終始優勢だった戦いがあっさりと人類の勝利に終わり、俺たち勇者パーティーは休息することになった。

 イーアロスで体を休めると言えば、王国民はそのほとんどが温泉を思い浮かべるだろう。俺たちも例外ではなく、カレンやオリヴィアなどはいそいそと温泉へと向かった。……俺を連行して。

 

「なぜ皆で!温泉なんだ!別に俺1人で来たって良かっただろ!」

「四の五の言わないでくださいませ!ほら、バンザーイ」

 

 甲斐甲斐しく世話をしてくるオリヴィアにされるがままに、服を脱がされていく。くっ、屈辱だ。かつて冷酷無比の勇者と王国中に恐れられた俺が、こんな幼子みたいな扱いを受けるなんて!

 

「うわあ、何回見てもほっそーい。どこからあんな力出てくるの?」

 

 既に衣類を脱ぎ終わったカレンが俺の二の腕をふにふにと触ってくる。ひんやりと冷えた彼女の指がくすぐったい。

 

「や、やめろ。それは俺の特異体質みたいなものだ。触っても何も分からんぞ」

「ふーん」

「やめろって!」

 

 くすぐったいからやめて欲しい。しかし俺の顔を窺ったカレンは、いたずらっぽい笑みを浮かべると、俺の腕を撫でる速度をさらに上げた。な、舐められてる……。

 くそ、思えばカレンはこうやって俺を揶揄ってくることが増えた気がする。……ここらで一つ、反撃でもしておこうか。

 

「カレン」

「ん?──あっ」

 

 彼女の華奢な肩を押すと、彼女はあっさりと倒れ込んだ。床に倒れ込む前に、彼女の後頭部に手を回して受け止める。華奢な体を横抱きすると、彼女の顔が近くに迫った。さらにぐいと顔を近づけてやると、彼女の潤んだ瞳が良く見える。

 

「俺のこと撫でまわしたんだから、覚悟はできてるんだよな?」

「……ど、どういうことかなメメちゃん。何か顔が怖いよ」

 

 彼女のまっさらな肢体が目の前に無防備に横たわっている。その事実は、俺に無くしたはずの欲望をもたらしてくれる気がした。生唾を飲み、陶磁器でも扱うように彼女の頭をそっと持ち上げる。

 

「ふー」

「ひぁっ!く、くすぐったいよメメちゃん」

 

 耳元に息を吹きかけると、顔を赤くしたカレンが弱弱しく声をあげる。……なんだろう、普段快活な彼女の弱った顔を見てるとゾクゾクするな。

 

「ふっ」

「ひぁぁ……勘弁してよメメちゃん、さっきのことは謝るからさ」

「カレンならやめろって言ってもやめないよな?」

「そ、それは……」

 

 言葉に詰まった彼女の髪を掻き上げてやる。心なしか、彼女の吐息が大きく聞こえる。上気した頬がほんのり赤い。潤んだ瞳がこちらを弱弱しく見上げてくる。

 

「──もっと、くすぐったいことしてやろうか」

「メ、メメちゃん……」

 

 弱り切った、だけど何か期待するような声を上げる彼女の唇を、俺は──

 

「──お二方?」

 

 絶対零度。そうとした形容できない声がした。尋常ではない気配に恐る恐る振り返ると、そこには完璧な笑みを張り付けたオリヴィアの姿があった。

 

「ひえっ」

 

 目が、笑ってない。カレンの先ほどまでとはまた違った怯えを感じさせる声が後ろからする。オリヴィアの恐ろしい様子に、俺もまた唾を飲み込む。俺は断罪を待つ罪人のように、彼女の唇が次の言葉を紡ぐのを待った。

 

「……早く、行きますわよ」

 

 硬直した空気は、オリヴィア自身によって壊された。足早に、彼女は浴場へと向かっていった。

 

「……こわかったぁ」

 

 心底安堵した、というように、カレンが声を上げる。その言葉に心から同意する。確かにあれは怖かった。

 

 

 体の汚れを落とし、湯の中に身を沈める。温泉は有名なだけあって広くて大きい。俺たち三人入ってゆったりするスペースは十分にあった。

 湯の中に身を沈める。こうしてゆっくりしていると、気分が落ち着き、疲れも取れてくるような気がする。立ち昇る湯けむりを眺める。体が芯から温まるような心地よさに、大きく伸びをしていると、カレンがしみじみといった様子で話かけてきた。

 

「ふぅ……王都の浴場も広かったけど、イーアロスの温泉はそれ以上だねえ。開放感が気持ちいいー」

「観光地として有名なだけあるな。……今は人がいないが」

「イーアロスは特に魔王軍と開戦してからの客入りが激減しているらしいですわね。前回の戦争でも魔王軍との戦いの最前線でしたからね。戦いが終わるまでは、イーアロスが賑わうことはないのかもしれないですわね」

 

 王国の北部に位置するイーアロスは昔から観光地として有名だ。温泉も人気のはずだが、浴場には俺たち以外の客の姿はなく、がらんとしていた。きっと常であれば浴場には人が溢れかえり、賑わっていたのだろう。魔王軍との戦いの影響は、こんなところにも出ていた。

 

 話が終わり、少しの沈黙が下りる。水音を聞きながら体の力を抜く。あまりの心地良さに、なんだか自分の体が水に溶けていくような感じすらした。

 

 唐突に、カレンが言葉を紡ぎだした。その声音には、なんだか彼女らしからぬ大人っぽさがあった。

 

「──でもさ、こうやって静かな温泉でゆっくりとしてると、この瞬間だけは平和だなあ、って感じがするんだよね」

「……平和か?ついさっきまで戦ったばかりじゃないか」

 

 訝しんでカレンの方を見ると、彼女は慌てたように手を横に振った。

 

「あっ違うの。今が平和だって言ってるわけじゃないの。アタシだって、今までの戦いで何人も目の前で亡くなった人、助けられなかった人を見てきたからね。これでも戦争の、命の取り合いの怖さとか、虚しさとか、ちょっとずつ分かってきてるつもりだよ」

 

 少し口調を早めて、彼女は言った。その言葉には、実体験を経た者にしか出せない重さがあった。治癒魔法を扱う聖職者である彼女のことだ。戦場にいて、きっと何回も助けられなかったことがあって、何人も見送ってきたのだろう。

 しかし、それでも、彼女は言葉を続ける。

 

「……でもさ、ううん、だからこそ、……今この時、この瞬間が、どれだけ貴重で儚いか分かるっていうかさ、なんていうんだろ──今が、幸せだなって!」

 

 そう言って、彼女は笑った。幸福を噛み締める喜びに、喪失を恐れる恐怖が少し混ざったような笑み。それがひどく大人っぽくて、俺は彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。

 

「へ、変だったかな」

 

 しばらく見つめていると、彼女は少し顔を赤らめて聞いてきた。

 

「ああいや、違うんだ。なんていうか、大人になったなぁってさ」

「ムム、出会って一年もしていないのにその感想、アタシのことどれだけ子どもだと思ってたの?」

「ハハ、ごめんごめん……ふふっ」

 

 むくれる彼女の顔が、先ほどまでの大人っぽい表情とかけ離れていて、つい笑ってしまう。それを見た彼女は、ますますむくれていってしまった

 




幸せは、立ち昇っては消えていく煙みたいに儚いのかもしれない


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59 狼の王者

 人間領への攻撃を継続している狼たちは、エーギ山脈の南側、とある森の中を仮の住処としていた。人の手の入った様子のないそこは枝が伸び放題で、昼でも薄暗い。しかし、そこを駆ける狼たちに迷う様子はない。

 

 今日の人間領への攻撃を終えた狼型の魔物たちは、自分たちが忠誠を誓う首領の元に集っていた。

 

「……減ったな」

 

 集う狼たちの様子を見てポツリと呟いたのは、二足歩行の狼、とでもいうべき魔物だった。ワーウルフ。狼型の魔物たちの上位種とでも言うような存在だ。数十いるワーウルフ。その中で首領としての地位を確立しているその魔物は、名をクヴァルと言った。

 

「初日から損耗が止まりません。もう既に群狼隊は四割が死亡した模様です」

「……くそっ」

 

 配下のワーウルフからの報告を受けたクヴァルは、同胞の死を心から悼む。彼らは四足歩行で言葉も話せないが、紛れもなくクヴァルの同胞だった。

 

「……やはり、あの魔王に従ったのは間違いだったのでしょうか。もしや、我らの力を削ぐためだけにこの作戦を……」

「くどいぞ。あの魔王は強い。だからこそ、我らは従属の道を選ぶと決めたであろう」

 

 しかし、とクヴァルは言葉には出さずに思う。我らワーウルフが加勢すれば、同胞にあんな絶望的な戦いを強いることもなかったのに、と。

 

 ワーウルフは、狼たちよりも知能も身体能力も優れた魔物だ。ワーウルフが戦場まで出向けば、狼たちの統率を取ることも可能となる。数が数十しかいないという欠点はあるものの、一体一体が強力な魔物であり、多数の人間を相手にしても遅れを取ることはないだろう。

 

 しかしワーウルフは、魔王の命により人間たちとの交戦を禁じられていた。魔王曰く、現段階の作戦で必要なのは少しでも人間たちの戦力を探ることなのだと言う。ワーウルフのような貴重な戦力を失うと、今後の侵攻に差し支える。クヴァルはそう説明されていた。

 

 強者であるワーウルフの出撃を禁じ、弱者である狼たちを無為に死なせる。そんな味方を見捨てるような作戦に、同胞の間でも不満の声は多い。

 

 首領であるクヴァルの制止がなければ、ワーウルフたちは魔王に反乱を起こしていただろう。それでも尚、クヴァルが魔王に従う理由はただ一つ。あの魔王は、あまりにも強すぎるのだ。反乱など起こせば、同胞はたちまち皆殺しにされてしまう。

 ワーウルフの首領とはつまり、人狼種の中でも最も強い個体のことだ。最強のワーウルフであるクヴァルだからこそ、魔王との歴然とした力の差に、気づいてしまった。

 

 魔王と初めて会った時、魔族の各種族の長たちが初めて魔王の元に招集された時のことを思い出す。

 

 

 

 

 長い間主不在のまま放置されていた魔王城には、約百年ぶりに灯りが灯っていた。既に招集された魔族の各種族の長たちが玉座の間に集い、豪華な造りの玉座には、今代の魔王が座っていた。

 ただの人間の女のような容姿の魔王は、冷めた目で集う魔族を眺めていた。

 

 ──勝てない。クヴァルは、魔王の眼を見たその瞬間、直感した。その冷然とした瞳は、同族を見る目ではなく、下等種を見つめる嘲りの瞳だった。それは傲慢さゆえの奢りではなく、事実として自分たちを下等な存在だと見ているようだった。

 

 突如、集った魔族たちの中からダンッ、と不満を示すように床を叩く音がした。

 

「貴様のような小者が魔王として我らを従えるだと?ふざけるな!」

「ほう、不満か?」

 

 クヴァルと同じように、魔王の瞳に嘲りの色を認めたのだろう。怒号を上げながら立ち上がったのは、巨人種の長だった。

 その図体は異形ぞろいの魔物の中でもひと際大きく、立ち上がるだけでも天井に頭がつきかけていた。人間の三倍はあろうかという背丈で、魔物としては比較的小柄な、人間程度の身長の魔王を見下ろす。憤怒に燃える瞳と冷徹な瞳が交錯する。

 

「貴様の如き、小さき者が玉座に座るなど、我ら巨人種は決して認めんぞ!」

 

 彼ら巨人種の、図体の大きい者に従うという習性は有名だ。例えば先代の魔王などは小柄だったため、巨人種は服従を拒否し、人間領侵攻にも参加していなかった。

 そんなプライドの高い彼らを、図体の決して大きくない魔王が玉座の間まで呼びつけたのだ。何事もなく巨人種の長が従うわけがなかった。

 

「ほう?ではどうするのだ?」

「貴様が我らに服従を要求するというのなら、ここで死んでもらう!」

「そうか。では貴様とはここでお別れだな」

 

 巨人種の長が吠える。魔王は冷静にそれに応えた。

 魔族による魔王への反乱。歴代の魔王の時にも少なからず起こったことだ。過去には、反乱によって魔王の首が挿げ替わったことすらある。魔王とは、必ずしも魔族の中で最も強い者とは限らないのだ。

 今代の魔王の力を図る良い機会だ。周りの魔物たちはそう判断し、巨人種の長を止めることはなかった。

 

 巨人が歩を進める。巨体が足を踏み出すたび、魔王城の頑丈な床が震える。図体の大きさはそのまま破壊力に直結する。ただ歩くだけでこれほどの地響きを鳴らす巨人種の長の一撃は、一体どれだけの威力なのだろうか。想像力を働かせた魔物たちは、戦慄した。

 

 ゆっくりと歩いていた長い足は、徐々に歩幅を広げていき、やがて走り出した。地響きを鳴らしながら長い脚で駆け、一瞬で魔王に肉薄した巨人種の長は、勢い良く大きな棍棒を振るった。

 人間程度の身長の魔王に、その三倍はあろうかという巨躯の巨人種の長が迫る。魔物たちは、激突の瞬間を見逃すまいと、魔王の姿に集中した。そして、誰もが自分の目を疑うこととなった。

 恐ろしいほどの破壊力の籠められていた棍棒は、何の前触れもなく動きを止めた。

 

 ──全ての魔物が愕然とする。魔王は、攻撃に対して全く動かなかった。防いだ。あの膂力では並ぶ者のない巨人種渾身の一撃を。真正面から。魔法だけで?しかし、どうやって。

 

 魔王が何をしたのか、誰にも分からなかった。巨人種の長も呆然としていた。沈黙。凍り付いた時間の中で、魔王だけが悠然と言い放った。

 

「貴様のような木偶は要らんな。死ね」

 

 魔王の目の前に黒い光が迸ったかと思うと、巨人の体が宙を舞った。大きな音を立てて魔王城の床に倒れ込んだ巨人種の長は、もう息をしていなかった。

 

「なっ──」

 

 死んだ。その膂力だけでなく、耐久力も魔物の中で随一の巨人種が、あっさりと死んだ。その事実は集った魔物たちの肝を冷やした。自分たちも、あの魔王の魔法一つで簡単に殺されるかもしれない。生存本能の訴えかける命の危機に、身を震わす。

 

 凍り付いた時間の中で、厳かに、魔王が宣言する。

 

「聞け我が下僕たちよ、叛逆者の末路は今示した通りだ。まだ歯向かう愚か者は、今ここで手ずから殺してやろう。出てこい」

 

 出向く者などいるはずもなかった。血の気の多い魔物たちは、魔王の正体不明の力を目にして、一瞬の内に抵抗する意思を失っていた。

 この日、魔王は一瞬にして魔族を掌握したのだ。

 

 

 

 

 回想し、改めてクヴァルは確信する。あの魔王に歯向かっても、殺されるだけだ。今はまだ粛々と、作戦をこなすべきだ。あと三日だ。同胞を無意味に殺される日々は、三日で終わりを迎える。そうすれば、気高き狼たちの反撃を始められる。魔王は未だにワーウルフの出撃を禁止している。

 しかし、満月の夜ならば、ワーウルフは魔王を黙らせるほどの戦果を持ち帰ることができるだろう。満月の夜とは、ワーウルフの獣性が高まり、高い能力を発揮できる日だ。月光の力を借りて、大戦果を持ち帰り、魔王に直談判する。そうすれば、狼たちが消耗品の如く浪費される日々を終わらせることができる。

 

 一人昂るクヴァルは、月に吠える。月が満ちる時、人狼種が最も力を発揮できる夜は、すぐそこだ。

 




ここすきは僕の監視下にあります(ありがとうございます)


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60 バッドエンドの記憶 月下の決闘

 満月の夜には気を付けろ。狼男が襲ってくるぞ。そんな話を父親に聞いたのは、いったいいつのことだっただろうか。おそらくそれは、幼い子どもを怯えさせ、夜間に勝手にどこかに行ってしまわないように戒めるための作り話だったのだろう。

 でも俺は、その教訓を忘れるべきではなかったのだ。

 

 そんな後悔をしたのは、ちょうど初めてオリヴィアを死なせてしまった次のやり直しだっただろうか。

 

 狼たちによる人間領への攻撃は、ここ数日ずっと続いていた。

 相次ぐ狼たちの襲撃で、騎士たちの間にも次々と犠牲者が出ていた。襲撃が四日、五日と続くたびに、陣営には陰鬱な空気が漂うようになり、毅然としていた騎士たちの表情も暗くなっていった。

 

 戦いの日々の中の、束の間の休息の時。月の下を、オリヴィアと二人で歩く。二人の間には体一つ分程度の空間が空いていて、二人の距離を示していた。

 

「騎士の皆様は疲労の色が濃いですね。オスカーさんは大丈夫ですの?」

 

 オリヴィアの心配そうな、だけど他人行儀な言葉を聞く。オスカーさん、なんて彼女は呼ばなかったのに。……いや、親しかった、恋人だった彼女はもう死んだんだ。

 自分の体感では、あれからまだ半年も経っていない。目を閉じれば、今でもあの光景を思い出せる。胸に大きな槍が突き刺さった彼女。血の気の引いた唇から最期に告げられた言葉。

 

「……オスカーさん?」

 

 気遣わしげな彼女の声に、意識を今に戻される。ああ、違う。俺が見るべきは、今ここにいる彼女だ。

 

「大丈夫だよ、ありがとうオリヴィア」

 

 笑ってみせるが、彼女の顔は心配そうなままだ。

 

「……時々、オスカーさんは不思議な顔をしますね。懐かしむような、もの悲しいような、そして何かを焦るような、不思議な表情をしています。……私でよろしければ、話を聞きますわよ?」

 

 ああ、また優しい彼女に心配をかけてしまった。こんなはずじゃなかったのに。

 

「オリヴィアに心配してもらうようなことじゃないよ。ありがとう」

「……そう、ですか」

 

 残念そうで、だけど微笑んでくれる彼女の顔を見ると、罪悪感で胸が痛む。せめて何かもう少し言おうと思考を巡らす。今の彼女にかけるべき言葉。心配をかけないためにはどうすればいいのか。

 悩んだ俺は、煌々と輝く満月を眺める。しかし、過去に囚われた俺には、何も考えつかない。

 

 ──その時の俺は、確かに油断していたのだろう。連戦の疲労と、回想と、彼女と話したことによる感慨。それら全部が、俺の常に持っていた緊張感を奪っていた。

 

 突如オリヴィアに肩を押され、よろめく。同時に、ごう、と寒気がするような風が鳴った。それに慌てて向き直った時には、全てが終わっていた。

 前触れもなく現われた二足歩行の影が体を掠めて高速で過ぎ去る。──オリヴィアの首が、宙を舞っていた。

 

「は──」

 

 思考は追いつかなかったが、目の前に魔物の姿を確認した俺は、半ば無意識に動いていた。聖剣を魔物の影に振り下ろす。硬質な音が響き、聖剣が弾かれた。

 

 思考が追いつく。脳の奥が一気に冷えていく感覚。

 オリヴィアが死んだ。また、俺の目の前で。また、俺を庇って。

 

 地面に倒れたオリヴィアの姿を見る。首から上が存在せず、体だけが横たわっている。どう見ても即死だった。

 夜目の効く魔物を利用した奇襲。おそらく勇者の殺害を試みたのだろう。そして、代わりにオリヴィアが犠牲になった。

 頭がようやく追いついてくる。そして俺の胸に湧き上がってくるのは、御しがたい己への憤怒だった。

 

「──ッ!クソオオオ!」

 

 自分への憤りをそのままぶつけるように、魔物へと聖剣を叩きつける。しかし返ってきたのは、肉を絶つ感覚ではなく、硬い手ごたえだった。

 

「──つまらないな。腕力頼りの単調な攻撃など、俺には通用せんぞ」

「ッ!」

 

 殺意を籠めて睨みつけるが、夜闇に浮かぶ魔物の顔は涼し気なままだった。そこまで来てようやく、相手がどんな魔物なのかが見えてきた。

 狼の顔面と人間の顔面を足して二で割ったような狂暴な顔が、こちらを見ている。ワーウルフ。あるいは、狼男。幼い頃聞いた御伽噺の中の怪物が、俺の目の前に立っていた。

 

「黙れ黙れ黙れ!奇襲なんてしやがって腰抜けが!」

「女1人守れない勇者などに言われたくないな」

 

 激しい感情を孕んだ刃と爪がぶつかり合い、激しい衝撃が剣柄から伝わって来た。女1人守れなかった。今の俺の状況を端的に表した言葉に、再び激情が迸る。

 

「ふざけるな!ふざけるな!ふざけるな!貴様が殺したくせに!奇襲なんかに頼って女1人殺す程度しかできないくせに!」

「仲間を守れなかった負け犬の遠吠えにしか聞こえんぞ無能な勇者!」

 

 そうして、激情をぶつけ合う殺し合いが始まった。つかみ合いでもするように体を密着させて、得物をぶつけ合う。吐く息すらも克明に聞こえてくるような近距離の打ち合い。互いに一歩も引かず、両者にかすり傷が少しずつ増えていく。

 

 殺し合いに一層熱が籠ってきた頃のことだ。剣と爪の鍔迫り合いの状態のまま、ワーウルフはこちらに話しかけてきた。

 

「勇者の名を授かった愚か者よ!俺の名はクヴァルという!中身はどうあれ強者と戦えること、幸運に思うぞ!」

 

 興奮気味な言葉は、何かに酔っているようだった。

 

「奇襲を仕掛けておいて尋常な立ち合いを所望するなどと抜かすつもりか!?貴様に名乗る名前などない!」

「仕方があるまい、魔王直々の命令だったのだ。俺だって奇襲などしたくはなかった」

「御託はいい!お前はオリヴィアを殺した!それだけで十分だ!」

 

 怒りに任せて振り下ろした聖剣の勢いはかつてないほどだったが、ワーウルフのクヴァルはそれに対して真っ正面から右腕を突き出してきた。いなすだけだった今までの打ち合いとは違う動きに違和感を覚える。

 

 体毛に覆われた二の腕部分に、黄金色の刃が激突する。しかし、斬れない。手ごたえはなかった。

 おそらく、激突の瞬間に腕を引き、うまく衝撃を逃がされた。人間の武術にも通ずるような、緻密な戦闘技術。優れた腕力に任せて攻撃を仕掛けてくる普通の魔物とは、明らかに異質だった。

 クヴァルがニヤリと笑う。鋭い犬歯が覗いた。

 

「どうだ?我ら人狼種が代々研究し続けた人狼戦闘術は。貴様と同じように自分の身体能力にのみ頼る野蛮な魔族共に打ち勝つために、我らは日々研鑽を重ねている」

 

 どうだっていい。そう言葉にするのも億劫で、ただ剣を振るう。またもや、衝撃を受け流される。暖簾にでも剣を叩きつけているような感覚に、俺の苛立ちは増す一方だった。

 

「ハハッ!どちらがケダモノなのか分かったものではない!貴様の知能は狼にも劣るな!」

「うるさい!ッ!クソッ!」

 

 オリヴィアの仇が目の前にいるのに、倒せない。殺せない。しなやかに動くクヴァルの肢体を捉えられない。聖剣が空を切るたびに、胸中の焦りが増大していく。

 

 焦燥に駆られ、心は一層不安定になっていく。やがて、激情のままに聖剣を振り回していた俺に、決定的な隙が生まれる時が訪れた。剣を振るために踏み込んだ足が滑り、態勢を崩す。

 それを見逃すクヴァルではなかった。

 

「──フンッ!」

「カハッ!」

 

 勢いよく突き出された左腕が俺の腹部を直撃し、突き立てられた爪が皮膚を食い破った。強烈な痛みが体を走り、口から血が飛び出る。

 しかし、勇者の体はこの程度では死なない、死ねない。クヴァルもそれを分かっているのだろう。勝ち誇ったような笑みを見せた獣は、俺の腹に爪を突き刺した状態で、体を持ち上げだした。

 

「グッ……コハッ!」

 

 気持ちの悪い浮遊感と共に、爪が一層体内に侵入してくる。腹部に異物が入ってくる気持ち悪さに、俺はまた血を吐いた。空中に上がった俺の体を見上げるクヴァルが、自慢げな顔で語り始めた。

 

「貴様のように死ににくい化け物を倒すために考案された技だ。とくと味わえ」

 

 俺を持ち上げる左腕はそのままに、右腕の爪を俺の顔面に突き立てた。

 

「──アアアアアア!」

 

 そうして、宙ぶらりんで無防備な俺の体は蹂躙された。爪が俺の右目を潰す。激痛が走る。爪が俺の鼻を潰す。激痛が走る。爪が俺の左目を潰す。激痛が走る。爪が俺の俺の額に刺さる。激痛が走る。爪が──。

 

 どれだけの時間を、空中に突き上げられたまま過ごしたのか分からなかった。やがて、支えを失った俺の体が地面に激突する。叩きつけられた体のそこら中が痛みを訴え続けていた。

 

 思考が混濁する。痛みに支配された脳は正常に動かない。今自分が何をしていて、何をするべきだったのか。それすらも思い出せなかった。

 誰かの静かな声が聞こえる。

 

「──最期に、残す言葉はあるか?」

「……オリヴィア……どこだ?」

 

 目玉は蹂躙され、視界は全て失われていた。真っ暗闇の中で、彼女の名を呼ぶ。どんな状況でも、愛しい彼女さえいれば生きていける気がした。

 そうだ、さっきまで彼女と一緒にいたんだ。激痛に思考が鈍るが、それだけは思い出せた。ズルズルと、痛む体を引きずる。自分の血の匂いの中に、彼女の匂いが一瞬混ざった気がした。

 

「……ここか?オリヴィア……」

 

 這って進むと、何かに手が当たった。それになんとか擦り寄ると、なんだか温みを感じるようだった。息を吐くことすら億劫になるような激痛の中で、彼女に自分の想いを伝える。そうすれば全て救われるような気がした。

 

「オリヴィア……ずっと、一緒に居てくれ……」

「──では、さらばだな」

 

 クヴァルの声がして、俺の意識は途絶した。

 

 

 木の幹に縋りついた血塗れの死体を前に、月下の狼は静かに呟いた。

 

「滑稽、だな」

 

 

 ◇

 

 

 朝日を浴びて、目を覚ます。心臓の動きは嫌に早い。それは何か嫌な夢を見ていた時の俺の体の特徴だ。でも、思い出せない。俺は一体何を夢に見ていたのだろう。

 

「……まあ、いいか」

 

 悪い夢ならば、無理に思い出す必要もないのだろう。俺はゆっくりと起き上がると、朝日に向けて大きく伸びをした。

 



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61 祝福の花畑

「今日は何故か狼どもの襲撃はありませんね。戦い続きでしたし、勇者パーティーの皆さまも今日くらいは休んでみてはいかがですか?」

 

 騎士の元に今日の戦況を聞きに行った俺たちを迎えたのは、意外な報告だった。

 

「姿がない?まだ姿を見せていない、もしくはこちらを油断させる罠などの可能性は?」

「それはもちろん考えたのですが、斥候をいくら放っても姿が見えないのです。どうやら、人間領の近くには来ていないようですね」

 

 騎士の目を見ながら話を聞いていたが、嘘を言っている風でもなかった。自分たちが戦果を挙げたいがために勇者パーティーを追い出そうとしているのかと少し邪推したのだが。

 

「ですので、いつも我々を助けていただいている勇者パーティーの皆様にも偶には休んでいただきたいと思ったのです。見張りは我々に任せて、休養を取ってください」

「なんだか悪いような気がしますね……」

 

 オスカーが何やら余計な事を言い出す。くれるというのだから黙ってもらってしまえばいいのに。

 

「いえいえ、特にオスカー殿には、我々は何度も助けられていますからね。雑事は私どもに任せ、休暇を満喫してください」

 

 口調柔らかに言う彼には、含みなど何もないようだった。オスカーに向ける瞳には、どこか敬意が見て取れる。

 ……俺の時には、ついぞ見なかった表情だ。騎士なんて、つまらない嫉妬で勇者を敵視するばかりで協力なんてできない相手だと思っていたが。

 

「貴女の見てきた騎士とは随分違う。そう思っていますか?」

 

 後ろからひっそりと、ジェーンが話しかけてきた。

 

「……ああ」

 

 こいつ、人の感情を推し量るのが上手くなったか?

 

「オスカーさんはここ数日の戦いでずいぶん騎士を助けましたからね。でも、感謝されているのは貴女も一緒だと思いますよ。試しに騎士たちに敵意の籠った目を向けるのを止めてみたらどうです?きっと今なら仲良くできますよ」

「いいや。前に言っただろ。人気者はオスカー一人で十分だ」

 

 だから、俺のつまらない嫉妬なんて必要ないのだ。

 

「……やれやれ、私は貴女のそういう愚かなところも好きですけどね?」

「気色悪いこと言うな」

 

 ジェーンの考えは未だによく分からない。その無機質な瞳に映る感情を、俺は分かりきれずにいた。

 

 

「──そういうことなら、皆で『祝福の花畑』を見に行かない?」

 

 思考の海に沈んでいると、カレンの溌剌とした声が耳に入ってくる。向き直ると、彼女はキラキラとした瞳で続けた。

 

「アタシ、イーアロスに行けるって聞いてからずっと行くの楽しみにしてたんだよね。お休みっていうなら、皆で見に行ってみたいなぁ」

 

 体を休めるのを優先するべきではないか、なんてカレンの顔を見ていたら言うことはできなかった。……案外、宿で大人しく休んでいるよりもリフレッシュになるかもしれない。

 カレンが期待したような表情でこちらを見てくる。他の皆も、俺の顔を窺っているようだった。

 

「いいんじゃないか。あそこなら近いし、すぐ帰ってこれる」

「やった!」

 

 俺の返事を聞いて、仲間たちはみんな嬉しそうだ。俺は行かない、なんて言える状況でもなかった。仕方ない。久しぶりに観光というやつを楽しむとしよう。

 

 

 

 

 冬らしくもない、穏やかな気候だった。真上に昇った太陽から温かな光が地上に降り注いでいる。

 少し汗ばみながら小高い丘を乗り越えると、ようやく視界が開ける。すると、色とりどりの花畑が視界いっぱいに広がった。

 

「わあああ!すっごーい!」

 

 嬉しそうなカレンの言葉に、心中で同意する。何度見ても、ここの景色には圧倒されるばかりだ。平野いっぱいに広がる花々。ラベンダー、ひまわり、バラ、アネモネ。違った季節に咲く花たちが並んで咲く光景は圧巻だ。まさしく、大神の残した祝福が為した奇跡の光景と言えよう。

 

 多種多様な花々が多彩な色味を出し、平原を彩る。天国なんてものが本当に存在するならこんなところなのかな、なんて最初見た時に思ったっけ。

 

「もっと近くで見ましょう」

 

 オリヴィアがスタスタと歩いていく。一見冷静そうに見える彼女にも、どこか高揚した様子が見える。公爵令嬢として色々な美麗なものに触れてきた彼女にとっても、この花畑は綺麗なものだったらしい。

 

 彼女の横顔を見て、ふと遠く昔の記憶を思い出した。大事な記憶。彼女と初めてここにデートに来た時。あの時も彼女は、こんな顔を見せてくれたっけ。

 今目の前にいるオリヴィアに、かつての彼女の姿が重なる。けれども彼女は、俺の恋人だった彼女とは別人だった。

 

「メメさん、早く早く!」

 

 珍しく少し焦ったような口調で、オリヴィアが俺を呼ぶ声がする。その声に遠い昔から今に呼び戻された俺は、足早に彼女の元に向かった。

 

 

「ほら、見て見てオスカー、花冠」

 

 ふわりと回転してこちらを向いたカレンの頭には、丁寧に編まれた花冠が乗っていた。……そういえば彼女は、昔故郷でああいうものを作っていたっけ。色とりどりの花畑を背景に花冠を被る彼女は、いつも以上に美しく見えた。

 カレンの様子を見たオスカーが、狼狽しながら言葉を返す。

 

「かわっ……ふ、ふーん。まあ似合ってるんじゃない?」

「あれあれ?今何を言いかけたのかな?ねえねえ」

「な、何も言ってないし」

 

 イチャイチャし始めた二人を遠目に見る。カレンの嬉しそうな表情がオスカーの方を向いているのを見て、俺は改めて安心した気持ちになった。彼女と決別してしまった俺とは違って、彼は上手くやれている。

 今眼前にいる彼女ではない、俺を拒絶した彼女の顔を思い出す。その瞳には、長年一緒にいたはずの幼馴染への不信が籠っていた。ああ、何年経ってもあの瞳は忘れられない。信頼を裏切るとはこんなにも苦しいことなのだと、俺はあの時初めて気づいたのだ。

 

「──メメさん、こちらへ」

「あ、ちょオリヴィア!?」

 

 物思いにふけっていると、オリヴィアにガシリと手を掴まれて、どこかへ引っ張られる。彼女らしからぬ行動に驚きながら、無理に抵抗して怪我させるわけにもいかず、大人しく連行される。

 

 

 無言でずんずん花畑を進む彼女に、黙って手を引かれる。オリヴィアは口を開かなかった。色とりどりの花々に囲まれた道を進む彼女の後ろ姿は、不思議と大きく見えた。

 

 キョロキョロとあたりを見渡す彼女は、やがて行きたい場所を見つけたらしい。まっすぐに進んでいく。周囲には季節外れのひまわりが咲き乱れ、俺たちの小さな背丈程度なら隠せてしまいそうだった。ガサガサと緑を搔き分けて、その中へと侵入していく。

 

 垣根のように咲くひまわりに囲まれたそこは、花園の中心にできた密室のようだった。恋人同士の逢瀬のようなシチュエーションに、内心動揺する。

 

「どうしたんだ、オリヴィア?」

 

 ようやく手を解放されたので、聞いてみる。

 

「……オリヴィア?」

 

 彼女は何を言うべきか考えるように、少し視線を巡らせた。キッパリと物を言う彼女らしからぬ仕草。やがて、その視線が俺の顔で止まる。その瞳には僅かな迷いが見えた。

 

「……正直、何か話したいことがハッキリとあってここに連れてきたわけではありませんの」

「……なんだ、それ」

 

 らしくない。そんな恋人みたいに馴れ馴れしい言葉を胸に仕舞う。

 

「ただ。ただ、オスカーさんとカレンさんを見つめる貴女の目がどこか遠くを見ているようで。それを見ていたら、なんとなく貴女が遠くに行ってしまうような気がして。……だから、せめて今だけでも私の手に収めておきたかったんです」

 

 こちらを見つめるオリヴィアの瞳には、なんだか不思議な感情が籠っていた。その奥に潜むものは、いったいなんだろう。

 

「ごめん、言いたいことがよく分からないよ」

「ええ、私も良く分かりません。でも一つだけ確かに言えることがあります。──私は、メメさんにどこかに行ってほしくないんだと思います。……貴女に会ってから、時々こんな感情を抱くことがあります。変、ですわね」

「……」

 

 胸に去来する感情を抑え、何か言おうとする口を閉じて、ただ頷くだけにとどめる。

 

「貴女がどこか遠くを見ている時に何を想っているのか、私は存じません。貴女はきっと教えてくれないのでしょう。──だけど、せめて、黙ってどこかに行かないでくださいませ」

「……ああ、きっとな」

 

 死が二人を分かつまで、なんて縁起でもない言葉が思い浮かぶ。でも実際、彼女との別離はいつも唐突だった。彼女が死んでしまった時。俺が先に死んだ時。戦いの日々の中で、最期の言葉を交わす余裕すらなく離別することは特段珍しいことでもなかった。

 

 俺の消え入るような言葉を聞いたオリヴィアが、少し不満げに眉を下げる。

 

「……貴女はいつだって核心に迫ると曖昧に答えを返してきますわね」

「自分の核心なんて、死んでも話したくないからな。許してくれ」

 

 醜い自分を他人に語るなんて、それこそ死んでもごめんだ。

 

「話せば楽になるかもしれない、なんて使い古された言葉はお嫌いですの?」

「嫌いだな。話せば苦しくなることだってあるだろ」

 

 俺の苦しみを人に共有する、晒すなんて、そんなに苦しいことがあるだろうか。

 オリヴィアは、俺を見たまま少し黙り込んだ。冷たい風が吹き、葉が擦れる音がした。

 

「……いえ、踏み込みすぎでしたね。申し訳ございません」

「謝ることなんてないよ」

 

 そう、彼女は悪くない。悪いのは俺だ。

 

「……貴女を見ていると、私の胸の内にある何かが疼くんです。その何かは、貴女はもっと幸せになるべきだと絶えず囁いてくるのです。だから、貴女がどれだけ拒絶しようとも、私は貴女に手を差し伸べることをやめません」

「そうか」

 

 ありがとう。

 

 

 

 

 一通り花畑の中を見回っただろうか。俺たちは、満開の桜の木の下にあるベンチで一休みすることにした。

 

「いやーいい思い出になったよ!快く送り出してくれた騎士の人たちに感謝しないとだね!」

 

 突風が吹き、桜の木が揺れる。季節外れの桜吹雪を背景に、カレンが笑う。昨日までタフな戦いをしていたとは思えないほど溌剌とした様子に、皆の口角が自然と上がる。

 

「カレンは大はしゃぎだったね」

「何オスカー、アタシ一人ではしゃいでたみたいな言い方やめてよ。アンタだって結構楽しそうにしてたし、それにオリヴィアとかいつもの二倍くらい元気だったよ」

「わ、私そんなにはしゃいで見えていましたの!?」

 

 うん、見えてたな。言葉にはせずに思う。いつもは大人しい彼女は、今日は口数も多かったし表情もコロコロ変わっていた。彼女がここに来た時の楽し気なリアクションは、何度見ても飽きない。

 ふと気になり、後ろにいたジェーンに問いかける。

 

「……ジェーンは?」

「楽し気な貴女の顔を眺めるのも悪くないですね。いつも辛気臭い顔ばっかりなので」

「花を見ろよ!というかやかましいわ!」

 

 ……楽しそうだっただろうか。ジェーンの言葉を聞いて気づいたが、俺も花よりも仲間たちの楽しそうな顔ばっかり見ていた気がする。

 

「まあ、いい思い出づくりにはなったかな」

 

 道中手に取ったハナニラを掲げる。花弁が、少し傾いた太陽に照らされていた。

 

「ねえねえ、面白かったから、ここ、春にも来ない?」

「また来るのか?もう見れるところは全部見たぞ?」

「そうだけど、でも季節が違ったらまた違う見え方がすると思わない?」

 

 桜の木の下で、彼女は無邪気に提案する。俺たちがこれからも一緒にいることを、全く疑わないように。

 

「まあ、時間が経ったらまた違った景色が見れるかもな」

 

 思い返せばこの花畑は来るたびに少しずつ景色を変えていた気がする。いくら季節外れの花が咲くとはいえ、咲く花の移り変わりはあるようだ。

 

 再び風が吹き、桜吹雪が舞った。宙に舞うピンク色を背景に、彼女は笑う。

 

「よし、じゃあ約束しよ!皆で、またここに来るの!」

 

 カレンが華やいで笑顔で言う。

 

「仕方ないね」

 

 オスカーが苦笑する。

 

「ぜひ、来ましょう」

 

 オリヴィアが微笑する。

 

「私もですか?分かりました」

 

 ジェーンが遅れて返事する。

 

「ああ、皆で、来よう」

 

 きっとまた、この桜の木の下へ。

 




俺ガイルの二次創作を投稿してみました
良かったら読んでみてください(TSあり)


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62 勇者の戦い方

 僕がメメに教わったことは多くある。剣の振り方、魔術の使い方、戦場での立ち振る舞い、心の持ち方。彼女の知識は多岐にわたり、未熟な僕を導いてくれた。その中でも印象に残っているのは、戦いへの考え方だ。

 

「いいか、オスカー。お前は強くなった。剣の腕はそこらの騎士には負けないだろう。魔術の腕だって、勉強を始めて一年も経っていないとは思えないほどだ。でもな、オスカー。だからこそ、お前は戦いに飲まれちゃダメだ。戦いに、殺しにロマンや悦楽を求めるな。戦いは娯楽じゃない。俺たちはやりたいからじゃなく、必要だから殺すんだ」

 その言葉は、不思議とどの教えよりもずっと僕の頭にすんなりと入って来た。初めて戦いに赴いた時からずっと感じていた戦いへの忌避感。それを肯定してくれるような考え方が、僕は好きだった。

 

 

 

 

 勇ましい遠吠えが冬の晴れ空に響いた。いつもと変わらず、怒涛の勢いで攻めてくる狼たち。それに対処する騎士たちも、もう流石に手慣れた様子だ。綺麗に隊列を組んで、一体一体倒している。

 しかし、いくら騎士たちの動きが洗練されてきているとはいえ、犠牲はゼロでは済まない。

 

「──ロビン!クソッ、1人持っていかれた!」

 

 声に振り替えると、1人の騎士が狼に足を噛まれ敵陣に引きずり込まれる所だった。人間1人引きずっているにも関わらず魔物の動きは素早く、あっという間に姿が見えなくなる。

 

「ダメだ、アイツは諦めろ!」

「しかし──」

 

 騎士たちの間に狼狽が走る。そこにいる人間たちは決断を迫られていた。仲間を見捨てるか否か。

 しかし、連れ去られた彼を助けに行くには、北側、敵陣のど真ん中に突っ込んでいく必要がある。あまりにも無謀。きっと、見捨てるという判断が正しい。誰も口にはしなかったが、騎士たちはそう予感していた。

 ──しかしそれは、ここに凡人しかいなかった場合だ。

 

「僕が、行きます」

 

 女神の加護を受けた勇者の体なら、救出は決して不可能ではない。深呼吸を一つして、気持ちを落ち着ける。大丈夫、僕ならできる。聖剣を振るい狼たちを蹴散らすと、僕は敵陣のただ中へと走った。

 

 

 進むべき道は、血の跡が教えてくれた。どうやら連れ去られた騎士は、足を噛まれ決して浅くない傷を負っているらしい。赤の示す道を、ひたすら走る。時折狼たちが飛び出してきたが、僕は足を止めずにそれらを斬り捨てた。

 やがて赤い線を追って辿り着いたのは、森の中だった。人間の居住地からやや離れたそこは、人の手が行き届いておらず、木々から枝葉が好き勝手に伸びて道を塞いでいた。

 

 視界が悪くなったので、走るスピードを少し緩め、周囲への警戒を強める。生い茂る枝葉を掻き分けて、血の匂いの元へと走る。どんどんと強くなってくる血の匂いは、連れ去られた彼の負傷の深刻さを物語っていた。急がなければ。

 

 走りながら、迫ってくる枝を払いのける。野生そのままの森は、いくら勇者といえど走りづらい。枝が顔を叩き、木の根に転びそうになる。

 

 足元と前方の両方に気を取られていた僕は、それの接近に気づくのが遅れてしまった。

 

「ハッ!」

「──なっ!?くっ……」

 

 突如、正面の木の陰から飛び出してきた腕を、何とか避ける。鈍い痛みが走り、頬のあたりに切り傷ができる。振り返り、足を止めて剣を構える。すると通り過ぎた木の陰から、殺気立った人型の影が出てきた。──気づかなかった。

 

「なかなかいい勘をしているではないか。少しは期待してもいいか?」

 

 その影は、二足歩行の人型のフォルムをしていた。しなやかな全身は体毛に覆われ、獣じみた印象を受ける。そして狼の顔面にも似た顔は、獲物を狩る肉食動物のような鋭い光を灯していた。ワーウルフ。メメに聞いた特徴通りの魔物が、目の前に立っていた。

 

「騎士の人は……」

「弱者の心配か?残念ながら手遅れだったな」

 

 ワーウルフが視線を斜め後ろへと向けた。その先を見ると、狼が騎士の甲冑を剥ぎ、中身の肉体を食らっているところだった。首筋からは血がとめどなく溢れていて、彼がもう手遅れであることを示していた。

 ──間に合わなかった。落胆はひとまず飲み込み、自分の目の前に立っている魔物に意識を集中させる。

 

「……せめて、仇くらいは取らせてもらいますよ」

 

 聖剣を構え直すと、ワーウルフは獰猛に笑った。どのみち、目の前のこの魔物を倒さないと、僕はこの場を去ることはできそうになかった。相対しているだけでビリビリと伝わってくるプレッシャー。背中など向ければ、一瞬のうちに首を刈り取られてしまいそうだ。

 

「ゆくぞ!」

 

 地を蹴ったワーウルフは、一瞬にして僕の目の前に来て爪を振り上げていた。聖剣を上にかざし、衝撃に備える。爪が聖剣に当たる。重い一撃は刃に弾かれ、甲高い音が鳴った。ワーウルフが態勢を崩す。

 

「ハアアア!」

 

 逆襲の好機。聖剣を振り下ろすのは間に合わないと判断した僕は、腹部めがけて右足を振り上げた。──当たった。しかし手ごたえがない。

 僕のハイキックを見たワーウルフは、素早く後ろへと下がっていった。足場が悪いにも関わらず、その足取りには隙がない。追撃の機会を見失う。視線を鋭くこちらに向けたまま、ワーウルフが口を開く。

 

「──良い動きだ。まだ荒いが、確かな研鑽を感じる」

「……戦っている間におしゃべりなんて、随分余裕ですね」

 

 彼の言葉からは、こちらに対する敬意のようなものが窺えた。魔物が人間に向けるにはあまりに不自然な感情。

 

「余裕?違うな。──嬉しいんだよ。俺の積み上げた武を披露する機会が、今ここに最高の形で現れた。……我々の交戦はまだ禁止されているが、不意の遭遇だ。クヴァルの奴も文句は言えまい」

 

 1人興奮したようにブツブツ呟くワーウルフは、突如こちらに向き直った。

 

「貴様、名をなんと言う」

「……オスカー」

「よろしい!俺の名はカクサル。勇者を倒し歴史に名を刻む俺の名前、よく覚えておけよ」

 

 ニヤリと笑うカクサルの口元から、鋭い犬歯が覗いた。

 

 

「先手はもらうぞ、今代の勇者!」

 

 野性味のある突撃を仕掛けてきたのは、またもやカクサルの方からだった。しかし、先ほどのような単調な攻撃は仕掛けてこない。カクサルはその身をかがめたかと思うと、四足歩行のような体勢で突っ込んできた。

 

「その動きは、狼たちで散々見ましたよ……!」

 

 突撃に対して、素早く横に躱して、剣を突き出す。狼型の魔物はだいたいこれで対処できた。

 しかし、ワーウルフのカクサルはひと味違った。直線に走っていた体は、突如僕の方へと急カーブしてきた。

 

「なっ──」

 

 衝撃。低姿勢のカクサルに、足を掴まれる。鋭い爪が皮膚に食い込み、痛みが走った。僕の決して軽くないはずの体が持ち上げられる。僕を持ち上げたまま、カクサルは走り、手近な木に思いっきりぶつけてきた。

 

 先ほどの比ではない衝撃が背中に走った。呼吸が止まり、視界がチカチカと点滅する。

 拘束を解かれた僕は、体に力が入らずその場に座り込む。

 大きなダメージに呻く僕の上体に、カクサルが両手を伸ばしてきた。その手先には鋭い爪があり、僕の首くらい簡単に切り裂けそうだ。

 眩む視界でなんとかそれを捉えた僕は、その毛むくじゃらの腕を掴む。

 

「ほう、しぶといなオスカー」

「体の頑丈さは僕の数少ない取り柄なので……!」

 

 なんとか、強がりを言う。そうだ。この体の性能だけなら、あのメメにすら勝ちうる。未熟者の僕が胸を張って誇れる数少ない強みだ。彼女がどれだけ血に塗れようとも笑っているのなら、僕がこの程度でくたばってたまるか。

 腕を握りつぶすつもりで、手に力を籠める。カクサルは掴んだ手を振りほどき僕の首に手をかけようと力を籠めてきている。

 

 純粋な腕力勝負。膠着状態が数秒続く。

 

「……ッ!」

 

 腕の痛みに僅かに身じろぎしたのは、カクサルの方だった。一瞬力が緩んだのを見逃さず、腕を押し返す。形勢逆転。体勢の崩れたカクサルに、すかさず座ったままで足払いをかける。

 バランスを崩したカクサルは無防備な体を僕に晒していた。すかさず、足元に転がる聖剣を拾い上げ、胸の中央めがけて突き出す。──獲った!

 

「……まだだ!」

 

 しかし、そこからのカクサルの動きは僕の想像を超えてきた。カクサルが右腕を突き出してくる。僕はその腕ごと胸を突き刺そうとした。しかし、右腕に接触した聖剣は、それを貫くことはなく、不自然に軌道を逸らした。

 

「ッ!?」

 

 軌道の逸れた聖剣は、カクサルの右肩を切り裂くにとどまった。今のは……武術……?魔物が扱うにはあまりに不釣り合いな技。負傷して少し下がったカクサルは見たか、と得意げに笑った。

 

「我らが人狼戦闘術の真髄を見たか?貴様のように力任せで我らを圧倒するような化け物を相手取るための技だ」

 

 興奮気味に語るカクサルは本当に楽し気で、心の底から戦いの技術を披露できることを喜んでいるようだった。

 

 ああ、やっぱりそうか。カクサル楽しそうな様子を見ていると、自分の心が冷え込んでいくのを感じた。

 

「……理解できない」

「何?」

「いえ。ただ、あなたの楽しい時間はもう終わりにしましょう」

 

 聖剣を握りしめる。あまり決着を長引かせると敵の増援が来るかもしれない。だから今ここで終わらせるのは、きっと合理的判断だ。

 積極的に攻撃を仕掛けてきていた先ほどまでなら、詠唱する隙もなかった。しかし、今なら。カクサルは手傷を負い、僕の出方を窺っている。彼我の距離は十歩程度か。おそらく、足りる。口を開く。今度は無駄口を叩くためではなく、この戦いを終わらせるために。

 

「『天におわす我らの女神にお願い奉る。正義たるユースティティアの権限をこの剣に宿し、地に蔓延る悪を──』」

「な、なにを!?やめろ!」

 

 カクサルが詠唱に慌ててこちらに駆けてくる。しかし、その俊敏な動きを以てしても間に合いそうになかった。

 

「『──聖剣よ、我が前に立ちはだかる魔を裁き給え』」

 

 聖剣が、その輝きを増していく。人の世に落とされた神の道具は、今ここに本来の権能を取り戻そうとした。

 この世のものとは思えないほどの神々しい光が、目の前に迫って来たカクサルを照らす。やがて、得物の交錯する距離まで近づく。僕は、眩い光を放つ聖剣を、真っすぐに振り下ろした。

 

「おおおおお!──なっ!?」

 

 カクサルが先ほどと同じように聖剣に右腕を突き出してきた。しかし、逸らせない。権能を解放した聖剣は、あらゆる魔物を断つ。それはもはや地上の生き物には抗うことのできない、神の御業だった。

 

 手始めに、正義の剣は小細工などものともせずに、カクサルの右腕を両断した。抵抗はほとんどなく、バターでも切っているようだった。

 研鑽を積み重ねた技があっさりと打ち破られたカクサルの顔が驚愕に染まる。そのまま、光り輝く刃は顔面を真っ二つにした。致命傷を負ったカクサルの体が、力なく倒れる。顔面の破壊は、いくら屈強なワーウルフといえど耐えられなかったらしい。

 

 死に際のカクサルの口がパクパクと動く。卑怯者。そう言っているようだった。

 

「卑怯……?──命の取り合いに卑怯も高潔もあるものか!」

 

 絶叫は、僕以外に誰もいない森に虚しく響いた。騎士を連れ去った狼は、いつの間にかどこかに逃げ去ったらしい。

 叫んだところで、僕の胸の内にあるモヤモヤとした感情が消えることはなかった。戦いに、殺し合いに、特別な価値なんてあるはずがない。武を披露できて嬉しい? そんなふざけた理由で命を奪ってたまるか。どうして命の取り合いをあんなにも楽しそうにできるのか、僕には全く理解できなかった。

 

「……帰らないと」

 

 感傷をひとまず胸に仕舞い、僕は聖剣を鞘に納めた。役割を果たした黄金色の刃は、もう神々しい光は灯していなかった。

 

 聖剣の権限解放。やったのはオークたちと戦った時以来だろうか。やはりすさまじい疲労だ。体中の魔力、活力を全て持っていかれたような気がする。今の状態で敵と会えば、僕はあっさりと敗北して殺されてしまうだろう。本来こんな敵陣のど真ん中で使うような力ではないのだろう。それでも、僕はあの魔物とあれ以上会話をしていたくなかった。

 

 騎士の亡骸を担ぐ。僕が助けられなかった人。僕の失敗、罪。それを持ち帰るべく、僕は森の中を駆け出した。

 



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63 温かい居場所

 なんとか持ち帰った騎士の亡骸を渡しても、騎士たちは僕に文句の一つも言わなかった。ただ、彼の遺体を持ち帰ってくれてありがとう、なんて悔しさを必死に隠した表情で礼を言うだけだった。いっそ罵ってくれたなら楽だったのに、なんていうのはきっと僕の我儘なのだろう。

 

 冬の風が肌に突き刺さる。仲間たちの待つ宿舎に戻るため、僕は先を急いだ。

 

 

「お帰りオスカー、遅かったね」

「ああ、ただいま、カレン」

 

 宿舎の共用スペースにある暖炉には、いつものように仲間たちが集っていた。僕の姿を認めたカレンが、パタパタと僕の方に走ってくる。

 

「寒かったでしょ!アンタのためにアタシが暖炉の目の前を譲ってあげる!ほら早く!」

 

 笑顔で言うカレンに促されて、暖炉の目の前に座る。かじかむ手を暖炉にかざしていると、冷え切った心すら溶けていくような気がした。

 

「お疲れさん、オスカー」

 

 僕の右手に座っていたメメが、珍しく労いの言葉をかけてくる。いつも鋭く僕を見てくる視線が、少し柔らかい。

 

「……どうしたのみんな。なんか優しいね」

「何があったかは知らんが、大変だったんだろ。そんな顔してるぞ」

「……そう、かな」

 

 メメはどうしてそんなに僕の内心を見抜くのが上手いのだろうか。彼女と対面していると、時々思慮深い老人とでも話しているような気分になる。

 彼女はそれ以上声をかけてこなかった。誰も何も聞いてこないのをいいことに、暖炉を眺める。火の後ろでゆらゆらと揺れている影を目で追っていると、自然と言葉が口を突いて出てきた。

 

「今日、ワーウルフと会ったんだ。それで。それで、騎士の人を助けられなかったんだ」

「そっか」

 

 カレンの言葉は、常と違い静かだった。

 

「僕なら助けられるはずだったんだ。勇者の、僕なら」

「オスカー」

 

 メメの言葉もまた静かだ。

 

「勇者ってのは万能の人間じゃない。何でもできるわけじゃないんだ」

「分かってるよ!でも──」

「──オスカー!助けられるはずだった、じゃないんだ。その騎士は、戦うっていう自分の選択に殉じたんだ。──その死を、お前が背負う必要なんてないんだよ」

「……」

 

 いつだって、メメの言葉には実感が籠っている。だから、彼女の言葉は胸の中にスッと入って来た。戦うのを選んだのは騎士自身。だから、僕がそれを背負う必要はない。

 でも僕は、普通の人よりも恵まれているんだ。勇者という肩書きの重さ。だから。だから──。

 

 暖炉の火がパチパチと音を立てる。その音で、ようやく自分が黙り込んでいたことに気づいた。

 

「……うん、ありがとう。今はそう考えることにするよ」

「そうか?……お前の周りには仲間がいる。だから、困ったら相談したらいいんだよ」

 

 そう言って、メメは男前に笑った。ああ、きっとその少し細められた黒い目は、僕の葛藤をも見透かして、その上でそんな言葉をかけてくれたのだろう。全く、敵わない。僕のことを分かってくれている人が、ここにいる。それが分かるだけで、僕の気持ちは少し楽になった。

 葛藤と後悔と自己嫌悪とをまとめて吐き出すように、僕は大きく息を吐いた。

 

 僕の雰囲気が変わったからだろう。暖炉に集まる仲間たちの間にも、どことなく弛緩した空気が漂い始めていた。そんな中、ジェーンが新しい爆弾を放り込んだ。

 

「……しかしそれは、困っても相談しない筆頭である貴女の口から言われたくないのでは?」

 

 そんな言葉をかけられたメメが、ピタリと動きを止めた。

 

「そうですわ!全然!何も話してくれない貴女がそれをいいますか!?」

 

 突然立ち上がりながら、オリヴィアが声を荒げた。それを聞いたメメが、居心地悪そうに身を竦める。ジェーンに言われた時は不満げだったが、オリヴィアに言われると途端にメメは身を小さくした。やはりメメはオリヴィアに弱いらしい。

 

 オリヴィアはそのままつかつかとメメに近づいた。

 

「いや、別にそんなことは……」

「ま、まあまあ。メメちゃんだって話したくないことはあるだろうし」

「まあ、それはそうですが……」

 

 オリヴィアを制止したのはカレンだった。僕はそれを少し意外に思う。

 

「……全く、この口は何も話してくれないのですから」

「いひゃいオリヴィア。どうしていつも俺の頬をひっひゃるんだ」

 

 オリヴィアがメメの頬を引っ張ると、柔らかそうな頬がミヨーンと伸びた。オリヴィアの手からなんとか逃げ出して、メメはジェーンの方へ向き直った。その顔は不満げだ。

 

「お前が余計なこと言ったからだぞ」

「余計なこと?いえ、至極まっとうな指摘をしたつもりですが」

「それが余計なんだよ!よ、け、い!」

 

 ふん、と鼻を鳴らして腕組みをするメメ。そんな仕草をも、ジェーンは優しい目で見つめていた。やっぱり、彼は彼女を見る時だけ優しい目をしている。

 

 表情があまり変わらないから分かりづらいけど、やっぱり彼にとってメメは特別みたいだ。彼は自分のことをメメの兄のようなものと名乗っていたけれど、まさしくそんな感じだ。優秀で、だけど不器用な妹を見守るような、そんな目だ。

 

 メメの方にも、どことなく彼への信頼を感じる。彼に対しては口も態度も悪いけど、それはきっと彼のことを信頼しているからなのだろう。彼女の遠慮のなさは、そのまま信頼の深さに繋がっている。そんな気がする。

 

「ふん!トイレ!」

 

 豪快に言い放って、メメはずんずんと立ち去っていった。暖炉から離れた彼女は一瞬ぶるりと体を震わすと、少し足を早めて遠ざかっていく。

 

「ジェーンさん、メメさんの悪癖を指摘してくださり、ありがとうございます」

 

 メメの姿が見えなくなった後、穏やかな声で言ったのは、オリヴィアだった。

 

「いえ、感謝されるようなことでは」

「いいえ、それでも、です。メメさんのことをちゃんと見ている人が1人でも多くいて、私は嬉しいのです」

 

 そう言うオリヴィアの顔は、常よりも一層大人びている。それは例えるなら、母親の慈愛のような優しさを感じさせるものだった。

 

「……」

 

 ジェーンはいつもの無表情を僅かに崩し、少し動揺したような様子を見せていた。少しの沈黙の後、彼はゆっくりと口を開いた。

 

「しかし、私はメメさんにあまり好かれていないようですからね。私が彼女を見ていた所で、あまり喜ばれないでしょう」

「──そんなこと、ないと思いますよ」

 

 黙っていられず、つい口をはさんでしまった。ジェーンの無機質な瞳がこちらを向く。

 

「僕も彼女の遠慮がないというか、ぶっきらぼうな態度に騙されていたのですが、あれはどうも信頼の裏返しみたいですよ」

「……そう、でしょうか」

 

 僕も勘違いしたものだが、彼女はむしろ距離の遠い相手には馬鹿に丁寧に接する。だから、彼女の遠慮のなさ、気安さは信頼の表れなのだ、と僕は分析している。

 常と違い、ジェーンの返答は揺れていた。なんだか人間らしい彼の仕草に、自分の口角が少し上がるのが分かった。

 

「私の目から見ても、メメさんはジェーンさんに他の仲間とはまた違った信頼を置いているように思います」

「確かに!アタシもそんな気がする!」

 

 オリヴィアとカレンも同調する。やっぱり皆同じようなことを思っていたようだ。僕たちの様子をぐるりと眺めたジェーンは、少し考えるように動きを止めた後、ぽつりと呟いた。

 

「ありがとうございます、皆さん」

 

 微笑する彼は、なんだか嬉しそうだった。

 

「──あっ」

「どうしたのカレン」

 

 突然声を上げたカレンに聞くと、彼女は黙って僕の後ろを指さした。振り返る。そこには、何やら俯いたメメがいた。その顔は真っ赤だ。

 

「……!」

 

 僕らの方をちらと見た彼女は、くるりと後ろを向き、再びどこかに行ってしまった。その様子を見ていたジェーンは、彼女の後を追いつかつかと歩いて行った。

 

「メメさん、私は貴女に信頼されているらしいのですが、実際のところどうなのでしょう」

「うるさい」

「メメさん、ぶっきらぼうな態度は実は好意の裏返しだったって本当ですか?」

「そこまで言ってなかっただろ!」

「メメさん、実際のところ、私のことをどう思っているのですか?メメさん?メメさん?」

 

 不毛な追いかけっこをしながら、二人は宿の奥へと消え去っていった。

 

「……仲いいなあ」

 

 カレンの呟きは、暖炉から流れてくる暖かい空気に溶けていった。

 



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64 狼たちは満月に吠える

 その日の魔物たちの襲撃は、深夜だった。

 

「起きろ寝坊助ども!顔を洗って表に出ろ!お客様のお出ましだぞ!」

 

 表から騎士の怒鳴り声がする。その内容を理解した俺の頭は急速に覚醒する。素早く外套を羽織り、ベッドの脇に立て掛けていた大剣を手に取る。

 真っ暗な外に出ると、ちょうど松明を持った騎士が仲間たちを叩き起こしているところだった。

 

「状況は!?」

「森に総攻撃だ!今までで一番激しい!」

「了解!」

 

 仲間たちの到着を待たず、1人で先に戦場へと向かう。既に怒号と遠吠えが聞こえた。松明と白刃の煌めく戦場は、確かに今までで一番の激しさを見せていた。

 

「光魔法はまだか!?視界が悪すぎる!」

「『光よ』これで十分か?長持ちはしないが」

「あ、ああ。助かったよ──」

 

 返答を待たずに、狼の群れへと斬りこむ。そして、気づく。今までは四足歩行の狼だけだったのに、今は敵の中にワーウルフの人型の姿がある。どうやら、敵も今回は本気らしい。おあつらえ向きに、今夜は満月だ。ワーウルフ、人狼の力は、満月の夜に最も高まる。奴らからしたら、攻め時なのだろう。

 

「ワオオオオ!」

「フッ!」

 

 迫りくる四足歩行の影を斬り捨てる。

 

「光源の届くところまで下がれ!今回の襲撃は敵も本気だぞ!」

 

 ワーウルフの加わった魔物たちは、明らかに統率が取れるようになっている。今までの襲撃と同じような感覚で対処していれば、遅れを取ってしまうだろう。

 相次ぐ襲撃で、騎士たちは良くも悪くも狼型の魔物の対処に慣れてきている。急に攻め方の変わった狼たちの動きに苦戦しているようだった。

 

「ワオオオオ!」

「く、来るぞ!」

 

 ワーウルフの遠吠えを合図に、一斉に突っ込んでくる狼たち。深夜の襲撃に未だ人員が揃わない騎士たちでは、対処が間に合わないだろう。素早く思考を巡らし、この状況に最適な魔術を使う。

 

「『炎よ、障壁となれ!』」

 

 短く詠唱する。暗闇に、炎のカーテンがかかった。視界いっぱいに広がるそれは、飛び込んできた狼たちを一瞬で丸焦げにしたらしい。こちらに転がってきた狼は、全て息絶えていた。少なくない魔力を使ったことで、少しの脱力感を覚える。

 

「た、助かりました、メメ殿」

「──まだだ、来るぞ!」

「ォオオオオン!」

 

 夜空に飛ぶ影が見えたので、鋭く警告する。俺の作った炎のカーテンの高さは、人間の二倍ほどの高さがあった。しかし、四足歩行の獣たちは宙を舞いそれを飛び越えた。

 小さな、されど獰猛な獣の影が、鳥のように空を飛んでいる。そして、重力に従って凄まじい勢いでこちらに迫って来た。

 

「クソッ!──ガッ!」

 

 天より落ちる顎に対処できず、1人の騎士が頭から噛まれる。鮮血が夜闇に迸った。

 俺の元にも、狼が落下してくる。重力の力を借りて猛スピードで突っ込んでくるそれを、

 辛うじて躱す。爪が僅かに顔を掠め、痛みが走った。

 

 

「畜生!今までそんな芸当見せてこなかっただろうが!」

「ワーウルフがいるんだ!敵に人間の司令塔がいると思え!」

 

 叫びながら、落ちてきた魔物に対処する。おそらく今のは狼が跳躍したのではなく、ワーウルフによる狼の投擲だろう。同族を敵の元に投げ入れるという判断を一瞬で下した。奇襲の優位が覆らないうちに、少しでもこちらの戦力を削ろうという魂胆だろうか。相変わらず、嫌になるほど知能が高い。

 

「来るぞ!第二陣だ!」

 

 地上に降り立った狼たちへの対処も十分にできないままに、再び獣たちが宙を舞っていた。

 

「──まずい」

 

 地上と空中からの同時攻撃。今の騎士の数じゃ対処できない。

 

「──『氷よ、我が敵を穿て』」

 

 混沌としてきた戦場に、凛とした声が響く。打ち出された氷柱が、宙を舞う狼たちの無防備な躰に突き刺さる。

 

「オリヴィア!」

 

 頼もしいオリヴィアの姿。その後ろには、オスカーとカレン、ジェーンの姿もあった。

 

「勇者パーティーが来たぞ!」

「これなら勝てる!おいお前ら、気合入れ直せ!」

 

 頼もしい援軍に、騎士たちの士気も上がる。

 

「メメちゃん!その傷は大丈夫なの!?」

 

 言われて初めて気づく。額から伝う血がこめかみを伝い、顔を濡らしている。

 

「かすり傷だよ。問題ない」

「『女神よ、彼の者に癒しを』大したことなくてもアタシに言ってよね!その傷でメメちゃんが死んじゃったら悔やんでも悔やみきれないよ!」

「ああ、ありがとう」

 

 カレンに背を向け、戦場の様子を眺める。炎のカーテンを飛び越えてきた狼たちの対処もオスカーやジェーンの力で進んでいる。勇者パーティーの面々が到着した後も、起き出してきた騎士たちが続々と戦線に加わっている。

 ひとまず、この場をしのぐことには成功したようだ。とはいえ、敵はこの炎の向こうにまだたくさんいることだろう。

 

「俺の魔術がそろそろ切れる!警戒しろ!」

 

 おそらく、勢いの弱まってきた炎のカーテンの向こうでは、獣どもが突撃の時を今か今かと待っていることだろう。

 

「オリヴィア、炎が切れるのと同時に魔法を放ってくれ!」

「承りました!『──今は亡き氷の神よ──』」

 

 少しの静寂。オリヴィア、それにジェーンの詠唱だけが、朗々と響いた。人類の守護者たちの緊張が高まる。

 やがて、煌々と燃えていた炎が切れる。その瞬間、狼たちは解き放たれた。

 

「オオオオオウ!」

「『──我が敵を穿ち給え!』」

 

 姿勢を低くし疾走する狼たちに、オリヴィアの放った氷柱が殺到した。獣たちの鮮血が舞ったが、それでも全滅させるには魔物達の数は多すぎた。

 

「『大神に創られた完全なる泥人形よ、完全なる肉体を持って蘇り給え』」

 

 ジェーンの重々しい詠唱が完了し、いつだか見た泥人形が姿を現す。禍々しい存在感を放っているそれは獣の本能を刺激したようで、狼たちは動きを僅かに怯ませた。

 

「ハアアア!」

 

 その隙に、すかさずオスカーが斬りこむ。聖剣の黄金色の輝きが夜闇に舞い、魔物たちを蹴散らした。

 

「『女神よ、彼の者に癒しを』」

 

 カレンは負傷し後ろに下がった騎士たちを、素早く治療していた。次々と回復した騎士たちが戦場へと復帰していき、前線は徐々に安定感を取り戻していった。起きてきた騎士たちも続々と合流してきて、人間たちは徐々に異形の軍隊を押し戻していく。

 

 このまま今日の襲撃も乗り越えられるかと思った、その時だった。

 

「う、後ろだ!人狼が紛れこんでる!」

 

 混沌を呼び込む叫びがした。

 

 

 

 

 恐れていた事態だった。人狼は普段はほとんど人間と同じ容貌をした魔物だ。それゆえ、人間の中にスパイとして紛れ込まれると、非常に厄介な存在となる。

 情報を流すなどのスパイ行為はもちろん、戦闘力にも優れている人狼は、人間たちの背後に突然現れるだけでも脅威となる。

 加えて、今回は奇襲を受けている戦況での発覚だ。

 

「ッ……マズいぞ!後方に割けるような人員なんていないぞ!」

「オスカー、1人で耐えれるか?」

「僕は大丈夫!──メメ、1人で行かないで!」

「私が付いていきましょう」

「ジェーンさんが付いていくなら安心ですわね。こちらは大丈夫なのでお願いいたします」

 

 素早く戦場を離脱して兵舎や宿舎のある街の方に走ると、素早くジェーンが付いてくる。仲間たちの安全を可能な限り確保したかっただけに、予想外の増援に悪態をつく。

 

「余計な事言ってくれたな。アイツらがやられたらどうするんだよ」

「彼らなら大丈夫でしょう。というか、あれだけ仲間たちに心配されて、また強情に1人で行動する気だったのですか?」

 

 その通りだ。その言葉に理があるのは分かるが、しかし合理だけで動けるほど俺の心は強くなかった。

 

「……心配なのは俺も一緒なんだよ」

「伝わってると思いますよ」

 

 その後は、無言で走った。俺もジェーンも話さず、ただ後方の拠点へと向かう。

 やがて、騒がしい音が聞こえてくるようになった。音の出どころでは、戦場に出遅れ、兵舎に残っていた騎士が既に戦っていた。

 

「ハッ!──グッ!クソッ、こいつら強いぞ。援軍は来ないのか!?」

「うろたえるな!助けが来るまで持ちこたえるんだ!」

「ワオオオオ!」

 

 獣の如き咆哮を上げる人型の姿が、そこにはあった。人狼。満月の夜には本来の姿を取り戻すその種族は今、獣じみた姿で騎士たちに襲い掛かっていた。数は三。しかし人狼の強さを考えれば、多すぎるくらいだ。

 

「どけ!『氷よ、我が敵を穿て』」

 

 氷柱は真っすぐに人狼の顔面に迫ったが、ひらりと躱される。

 

「右の一体は受け持つ!耐えてくれ!」

「援軍か、助かる!」

 

 人型の影に、勢いづけて斬りかかる。大剣を迎えたのは、騎士のものと変わらない長剣だった。

 

「クソッ、魔物のくせに一丁前に武器なんて使いやがって!」

「ガアアアア!」

 

 咆哮を上げる人狼と、剣を交える。力強い手ごたえ。簡単には倒させてくれなそうだ。

 

「ジェーン!」

「準備に時間がかかります!しばしお待ちを!」

 

 騎士たちは強力な人狼相手に劣勢だ。数人がかりで人狼にかかり、何とか持ちこたえてくれているが、長くはもたなさそうだ。ジェーンの魔法が間に合うかは分からない。

 となると。俺が、一体でも倒して状況を好転させなければ。

 

「──ォオオオオ!」

 

 下段から剣を振るうと、力強く突き出された長剣に受け止められる。剣からは伝わってくる力は凄まじく、単純に腕力で勝負しても決着はつきそうになかった。鍔迫り合いの状態でにらみ合う。

 人狼の口が、わずかに弧を描いた。きっとこいつは気づいている。俺を押さえておけば、他の人狼が騎士たちを倒す、そうなれば俺を数の差で押し切ることも可能だ。全く、嫌になるほど知能が高い。

 

 となれば、俺がこいつの想像の上を行かなければ。

 

「『光よ!』」

 

 鍔迫り合いの状態のままで、目くらましの魔術を放つ。夜闇に唐突に現れた光が、両者の間で輝いた。目を閉じるが、瞼の上から目を焼かれる。

 人狼と俺、両方の視覚が潰れる。状況的には五分五分。しかし、相手は突然のフラッシュに怯んでいるだろう。

 見えないままに、己の勘に従って大剣を振るう。どこかの肉を割く感覚。

 

「グガアアア!」

 

 人狼の悲鳴がする。作戦は成功したらしい。

 しかし同時に、俺の右腕に鋭い痛みが走った。傷は浅い。戦うのに支障はなさそうだ。どうやら、がむしゃらに振るった爪に掠ったらしい。

 

 先に視界を取り戻したのは、夜目の効く人狼ではなく、俺の方だった。

 

「フッ!」

 

 がむしゃらに振るわれる両腕をかいくぐり、大剣を胸の中心に突き刺す。固い筋肉を突き破って、剣先が人狼の息の根を止めた。

 

「一体討ち取ったぞ!加勢する!」

 

 あえて大声で叫ぶと、人狼たちが目に見えて動揺した。

 

「『──土の巨人よ、姿を表せ』」

 

 ジェーンの魔法もようやく準備が終わったらしい。彼の周辺の土が盛り上がっていき、やがて人間の倍ほどの大きさの土の巨人が姿を現した。

 

「──いける」

 

 俺の博打じみた戦法が成功して、状況は一気に好転している。このままいけば勝利を収めることは容易い。

 

 その、はずだった。

 



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65 彼の気づきと彼女の後悔

 北の大地、にポツンと存在する魔王城、その玉座の間には、魔族二体の姿があった。一つは、この城の主である魔王。もう一つの影は、褐色の肌を持つ人型の魔族だった。魔族が、魔王に向けて何事が報告する。魔王は、それを聞いて興味深げに聞き返した。

 

「つまり、貴様はあの隕石を落とす魔法を模倣できると?」

「はい。先日ダラム山で発見された敵が破棄したと思われる魔法陣の残骸、それから我が長い生涯で集めてきた魔石のストックを使い切れば可能でしょう」

 

 希少な種族、ダークエルフの長であるロゼッタは、内心戦々恐々としながら言葉を紡いだ。魔王の、女として敗北感を感じずにはいられない美貌が、ロゼッタの顔をじっと見つめている。

 視線から、心臓が竦みあがるような凄まじいプレッシャーを感じる。ロゼッタは自分の額から冷や汗が垂れないかとびくびくしていた。

 

「確かにそれが本当なら私の計画を変更するのもやぶさかでない。どのみち、勇者パーティーの殺害など、クヴァルの奴には荷の重い任務だしな。……しかし、その模倣魔法とやら、一度しか放てないとは随分ケチな事だな。連発すれば人間領を火の海にすることも可能ではないか?」

 

 こいつ、今から奪う土地を焼野原にするつもりか!?

 ロゼッタは魔王のとんでもない言葉に内心でツッコミを入れたが、絶対に口には出せなかった。どんな気まぐれで殺されるか分かったものではない。

 

「は、私の持つ魔力ではあの規模の魔法などとても放てず。魔石と魔法陣による補助を受けてようやく一発放てる程度でございます。それでも出せる威力はせいぜい元の十分の一程度。全く人間はどうやってあの魔法を発動したのか……」

「我らが神によれば、あれは神代の魔法に近いものらしいな。どうやったかは知らぬが、人間たちは失われた技術を取り戻したらしい。最も、完全に神代の魔法を取り戻していたのなら、我々は今頃やつらに絶滅させられているだろうがな」

 

 はは、と魔王は実に楽し気に笑った。この魔族の親玉、自分たちが絶滅する可能性を笑い飛ばしやがった!

 ロゼッタには魔王の笑いのツボがどこにあって、逆鱗がどこにあるのか全く分からなかった。余計な事は言わず、ただ頭を低くして、言葉を続ける。

 

「あの魔法の原理を解明することは叶いません。しかしながら、模倣は我が一生をかけて極めた極意。隕石を落とす奇跡、我らダークエルフの誇りにかけて実現してみせましょう」

「──貴様らの誇りなどどうでもいい」

 

 突如、魔王の雰囲気が変わった、先ほどまでの楽し気な雰囲気は一瞬にしてなくなり、そこにはただ冷徹な瞳があった。ロゼッタは息を飲む。

 

「問題は、標的を違わず殺せるかどうか、だ。貴様はその事実だけを、ただ端的に述べればよい」

「は、はい」

 

 一層頭を下げて、ロゼッタは震える声で返事をした。魔王が何に怒ったのか全く分からなかった。これだから怖いのだ。ロゼッタは心中で毒づく。

 

 何を考えているか分からない。それが魔族たち共通の魔王への印象だった。配下のなんでもないような言動に激怒し、かと思えば誰も思いつかなかったような奇策を生み出す。

 きっと常人とは思考の域が違うのだろう、と魔族たちは結論づけていた。

 

 逸れかけていた思考を戻して、ロゼッタはただ事実のみを述べる。その声は少し震えていた。

 

「隕石の魔法が優れていたのは、破壊力はもちろんですが、何よりもその飛距離です。現代の魔法の応酬のおよそ十倍にもおよぶロングレンジからの攻撃。魔力の高まりを感知することすら叶わない狙撃は脅威です」

「そうだな。だからこそ、魔王軍は未だに大規模な軍隊を編成しての攻撃ができていない」

 

 そもそも、どうして魔王軍があの日あの場所から攻撃を仕掛けるということが知られたのか未だに分かっていない。

 魔王の策が初めて敗北したという事実は、衝撃を持って魔族たちに受けいれられた。完璧な策だったはずだったのだ。王都で騒動を起こさせ、王国の戦力を王都へと戻させる。そのタイミングでの、魔王軍初の本格侵攻。

 奇襲の強みを活かした魔王軍は少なくない損害を王国軍に与え初陣を勝利で飾る、はずだった。

 

 しかし、結果は完全な敗北。精鋭を集めた魔王軍先発隊は、たった一つの魔法によって壊滅させられてしまった。この報告を受けた魔王は、方針を変更。恐ろしい隕石の魔法の術者について調べさせていた。

 

 力押しするばかりだった歴代の魔王とは違い、今代の魔王は人間領へといくつもの目を放っている。人間に紛れることに長けた魔族や、空を飛ぶ魔物による偵察は順調だ。

 その調査の結果、隕石の魔法の術者は、勇者パーティーの一人らしい、ということが分かっていた。

 

「例の術者の名前はジェーン、というらしい。今代の勇者パーティーの内、素性が良く分かっていないのは、赤髪の女と長身の男だけだ。ジェーン、という女性名から、おそらく術者のジェーンとは赤髪の女のことだろう」

 

 聡明な魔王にも、まさかジェーンという名前が男女が曖昧だった人外の者が適当に名乗った名前だとは読み切れていなかった。

 

「だから、貴様がその魔法で殺すべきは赤髪の女だ。既に今、狼種に命じて人間領への攻撃をさせている。その混乱に乗じて、ジェーンとやらを殺せ」

 

 かくして、命令が下された。それが数日前のことである。

 

 

 

 

「──ここをこうして、と。良し、繋がった」

 

 魔王からの命令を受けたロゼッタは、人間領の端、ダラム山に来ていた。

 秋頃に魔王軍先遣隊を壊滅させた隕石の魔法は、この山の頂上から放たれたことは既に調査で判明していた。そして調査の中で、術者が使用したらしい魔法陣の残骸も発見されている。

 

 人類側では衰退して扱える者のほとんどいなくなった魔法陣だが、魔族、ダークエルフの間ではその技術は継承され続けていている。使用後の魔法陣を見れば、放たれたのがどんな魔法だったのか推察くらいはできる。

 

 そして、ダークエルフの長であるロゼッタが極めているのは、魔法の模倣、再現だ。長い時を生き研鑽を重ねたロゼッタの手にかかれば、およそどんな魔法も模倣することが可能となる。

 

 しかし魔法陣の復元にひどく時間が掛かってしまった。なんとか魔法を放つ準備が終わったのは、ちょうど満月に乗じて人狼種が本格侵攻を始めた夜だった。

 

「全く、あの頭空っぽの狼どもは、魔王の言うことに背いて侵攻なんてどうかしてるっての……よし、間に合った」

 

 準備を整えたロゼッタは、戦場へと向き直り、魔法の行使を始める。

 そして、神代の魔法は、ここに再び蘇る。使うのはダークエルフの秘奥。模倣の魔法だ。

 

「『我が一生を捧げし外道の魔法よ、今ここに発動し、ここより放たれた魔法を模倣せよ!』」

 

 詠唱を終えた瞬間、ロゼッタの体からは凄まじい魔力が流れ出た。遥か上空に隕石が出現したことを、感覚だけで把握する。

 

「クッ!劣化してこの魔力量、どんな人外の魔法だっての……!」

 

 あまりの魔力放出量から激痛に苛まれながらもなんとか意識を保ち、魔法の標準を付ける。既に発動していた千里眼の魔法で、ターゲットは補足していた。

 

 赤髪の少女の姿を確認。周囲には人狼の姿もあった。このまま魔法を発動すれば、人狼も巻き込まれるだろう。しかし、構わない。誇り高いダークエルフであるロゼッタには、人狼のような野蛮な種族を殺すことに躊躇いはなかった。

 

 しかし、嗚呼、憎い人間を殺すこの瞬間の全身を突き刺す興奮!何度やってもたまらない!ロゼッタは、興奮に震える声で、魔法の完成に向けて最後の言葉を放った。

 

「『堕ちろ!』」

 

 トリガーとなる一句を紡ぐ。そうして、勇者パーティーに死をもたらす超級魔法は、ついに放たれた。

 

 

 ◇

 

 

 その瞬間のことを、俺はいくら悔やんでも悔やみきれなかった。

 

「──メメさん!」

 

 切羽詰まった叫び声と共に、突然後ろから体を突き飛ばされる。直後、俺の背後で寒気がするほどの轟音が響き渡った。何か巨大な物が地面に墜落したような音と共に、爆風が俺の軽い体を吹き飛ばす。浮遊感が体をつつみ、その後重力に従って地面に激突。地を二度、三度と転がる。

 

 地面に打ち付けられた体のそこら中が痛みを訴えかけてきていた。しかし、今の俺にはそんなことは重要ではなかった。できるだけ早く立ち上がり、状況を確認する。ひどく嫌な予感がした。

 

「あ──」

 

 禍々しい巨大な隕石が、すぐそばに墜落してきていた。

 ──そしてその下には、下半身を無惨に潰されたジェーンの姿。一目見ただけで分かるほどの、致命傷。息が、詰まった。

 

「──ジェーン!?」

 

 戦場に突如現れた隕石は、この場で戦っていた騎士も人狼も区別なく殺し尽くしたようだった。隕石の直撃を食らった人狼の体毛に覆われた腕が隕石の下から出ている。爆風に吹き飛ばされた騎士は、木に叩きつけられて息絶えていた。

 

 辛うじて生き残ったのは、ジェーンに助けられた俺だけ。

 

 死につつある彼の体に必死に駆け寄る。近づいて、改めて分かる。隕石の下敷きとなった下半身は、完全に潰れていた。明らかな致命傷。きっと、どんな治癒魔法でも間に合わないだろう。

 投げ出されている彼の手を取る。冷たい。

 

「ジェーン!おいジェーン!なんでお前が俺なんかを庇ったんだ!」

 

 力なくうつ伏せに倒れる彼の顔は真っ青で、死が急速に近づいていることを示していた。取った手を、強く握る。彼は握り返してはくれなかった。

 

「はは……メメさんは焦った顔も魅力的ですね」

「冗談言ってる場合じゃねえだろ!?」

 

 無理に笑顔を作ろうとするジェーンの顔が、苦痛に歪んだ。それでも尚笑おうとする彼が、引きつった笑みを見せる。

 その態度が、かつて見送って来た仲間たちの死に顔に重なって、鼻の奥がツンとなる。

 

「……なんで……どうしてだよ……なんでお前まで俺を庇うんだよ。お前は俺の体が人より頑丈なことくらい知ってただろうがよ……」

 

 お前は俺の過去を知っていたはずだ。俺が庇う価値なんてない人間だってことも。俺の言葉を聞いて、またジェーンが緩い笑みを見せる。

 

「……それでも傷ついて欲しくない、と思うのが自然な人間の思考なのではありませんか?──まして今の魔法は、私の魔法の劣化コピーです。今の貴女では死んでしまうかもしれませんでした」

「それでも──それでも俺は、目の前で死んでいく仲間なんてもう見たくなかったんだよ……!」

 

 今度こそ全部上手くいくと思ったんだ。カレンと仲たがいしないで、オリヴィアもついてきてくれて、誰一人欠けずにここまで来れた。もうやり直しの効かない最後のチャンスで、俺は悲願を達成できると思ったんだ。

 

「貴女の仲間はまだ一人も死んでないですよ。コフッ……。人でなしが一人死んだだけです」

「ふざけるな!お前も仲間に決まってるだろ!」

「……それは、光栄ですね」

 

 どんどん血の気の引いてくる彼が、血反吐を吐いた。なんとか顔を上げた彼が、無理やり口角を上げる。

 

「でも、私は貴女たちのことを仲間だなんて思ってなかったですよ。だから、私のことはあまり気にしないでください」

「そんな見え透いた嘘で俺を騙せるとでも思ったのか!?」

 

 人の気持ちの分からない人でなしの癖に、今わの際に俺を気遣うのはやめろ……!

 

「……そうですか。では、率直に申し上げましょう。……私の死を、貴女の傷にしないでください。迷惑です」

「お前……」

 

 どうして、お前はそんなにも俺に気を遣うんだ。口には出さなかったはずだが、彼は俺の心中に答えるように口を動かす。

 

「前に伝えたはずですよ。私は貴女のことが好きなのです。だから、貴女に傷ついて欲しくない。──こういうのを、人間らしい感情、と言うのでしょうか」

「……ああ、そうだな。お前はもう、人でなしなんかじゃない」

 

 俺の言葉を聞いた彼が、自然に笑う。嬉しそうに。そして、その気づきが遅すぎたことを悔やむように。

 力なく目を閉じた彼が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「──さようならメメさん。楽しかったですよ」

 

 最期に自分の感情を吐露し、彼は呼吸を止めた。

 

「──ッ!クソッ……クソッ!」

 

 ようやく人間らしさを見つけた彼のこれからが絶たれたこと、それから己の不甲斐なさに、俺は地に拳を叩きつけた。

 



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66 迸る激情

「『氷よ、我が敵を穿て!』」

「オスカー、治癒を!『女神よ、彼の者を癒したまえ』」

「ありがとうカレン!」

 

 夜闇の中でも変わらず眩い光を放つ聖剣で拳を弾き、拙い魔術を放つ。首ほどの太さのある氷柱はワーウルフの顔面を直撃し、脳髄まで破壊しつくした。

 僕はカレンの声に応えて少し下がる。すると負傷した足を温かい光が包み、やがて鈍痛が消え失せた。

 

 狼たちに混ざってこちらに攻撃を仕掛けてくるワーウルフは難敵だった。目で追うことも困難な素早い動き。しなやかな体から繰り出される拳は、容易く甲冑をぶち抜いてきた。

 さらに、こちらの剣を素手で受け流す不思議な技術を持ち合わせていた。その強さは、剣の腕に長けた熟練の騎士でも手を焼くほどだ。

 しかし、弱点は存在した。光源を確保した魔法使いたちが攻撃を開始すると、ワーウルフたちはあっさりと倒れたのだ。魔法への耐性が低い。それが夜闇に紛れて鋭い攻撃を仕掛けてきていたワーウルフたちの決定的な弱点だった。

 

「結局、後方で何が起きたのか情報はないんですの!?」

「皆忙しくてそれどころじゃないみたいだね!」

 

 オリヴィアはメメと彼女に付いていったジェーンの身を案じているようだ。彼らが向かった先では、先ほど凄まじい轟音が響いたのだ。何か大規模な魔法の行使があったに違いない。一向に戻ってくる気配のない二人がどうなったのか、戦い続けている僕らには分かりようもなかった。

 

 思考を巡らしながら後方へと視線を一瞬向けると、光源の外からふらりと現れる影があった。燃えるような赤髪。メメだ。

 

「メメ!良かった、無事だったんだね!……メメ?」

 

 しかし、彼女は僕の呼びかけに全く応えてはくれなかった。ただ未だ攻勢を仕掛けてきている狼とワーウルフたちの元に、静かに歩みを進める。

 

「──オオオオオオ!」

 

 抜剣し、駆け出した彼女の瞳には、かつてないほどの憎悪が滾っていた。姿勢を低くし走る彼女は一瞬で魔物の群れの元に到達し、多勢に向けて果敢に突っ込んでいった。

 

「まずい、援護しないと。オリヴィア!」

「もちろんです。オスカーさんもメメさんの元に!」

 

 メメの元に走る。今の彼女を一人にするわけにはいかなかった。以前までの彼女とは何か決定的に異なる雰囲気。今まで以上の危うさが、今の彼女からは感じ取れた。

 

「ハアアア!──メメ、それ以上は危ないよ!」

 

 彼女は僕の言葉に全く耳を貸さなかった。その戦い方は、苛烈の一言に尽きた。まず、迫りくる攻撃を避ける気配がない。狼の牙を左腕で受け止め、噛みついてきている狼を大剣で両断する。ワーウルフの爪を腹に食らい、血反吐を吐きながら放ったクロスカウンターが敵を昏倒させる。

 血潮に塗れながら、確実に敵の数を減らしている。その様は、魔物などよりもずっと獣じみていた。

 

「──オスカー!付いてこなくていい!」

「でも!」

「いいからお前は騎士たちを助けろ!」

「メメはどうするの!?」

「敵の頭脳を叩く!俺一人で十分だ!」

 

 言ったっきり、彼女は脇目も振らずにどこかに駆け出してしまった。

 

「くっ……」

 

 彼女の言葉を無視して付いていこうかとも考えたが、後ろを見ると騎士たちがワーウルフの混じった狼の群れに苦戦している様子が見えた。

 メメの身は心配だが、それ以上に目の前で今まさに命の危機に立たされている騎士たちを見捨てるわけにもいかない。僕は踵を返すと、騎士たちの援護へと向かった。

 

 

 ◇

 

 

「オオオオオ!――どこだクヴァル!出てこい腰抜け!」

 

 目の前に立ちふさがったワーウルフを腕ごと両断して、俺は叫んだ。挑発すればアイツは自分から出てくることはよく分かっている。

 

 狼どもを三匹ほど斬り捨てると、目の前に濃厚な殺気を纏った獣が現れた。

 

「腰抜けとは、随分な挨拶ではないか、人間」

 

 現れたのは、最強のワーウルフ。狼の王者、クヴァルだった。堂々たる足取りには、自分の力量への確固たる自信が見て取れる。記憶の通りの鋭い眼光と引き締まった筋肉に覆われた体。──その姿を最近見たような気がするのは、きっと気のせいなのだろう。

 

「ハッ!こっすい狙撃なんぞしやがって。魔法で仲間を殺させておいて自分は後方で呑気に待機してるやつが腰抜けじゃなくて何だっていうんだ!」

「……なんのことだ?」

「話もまともに通じないのか、けだもの。──もういい。ここでお前を殺して、俺はちっぽけな達成感を得るとするよ」

 

 魔物と話すなんて、やっぱり無駄だった。剣を構えるとクヴァルも身構える。人間と変わらない、されど体毛に覆われた体躯で、筋肉が隆起する。

 俺はよく知っている。その膂力は勇者にも匹敵し、その戦闘におけるセンスと直感は百年戦っている俺をも凌駕する。

 

 それでも、俺は俺自身の手でこいつを殺さなければ気が済みそうになかった。

 

「『炎よ!』」

 

 最短の詠唱で、魔術を発動した。炎が中空を迸り、クヴァルの元へと走った。

 

「フッ!」

 

 しかし、俊敏な動きで振るわれた右腕が、炎を弾いた。あまりにも速く振り抜かれた右腕には、火傷の一つもない。

 

「狂人の娘よ、何をそんなに苛立っている?」

「仲間を殺すような気狂いに言われたくはない」

「先ほどから何を言っているのだ。我らワーウルフは、仲間を見殺しにしたりしない。純粋な戦いの中で倒れたのであれば、それは我らの本望だ」

 

 話が嚙み合わない。しかし、俺には関係のないことだ。

 

「ハアアア!」

 

 激情に任せ、俺は持てる力全部を使って、大剣を縦に振り下ろした。しかし剣は右腕に防がれる。いつかのやり直しのように、剣は暖簾にでも打ち付けたように手ごたえがなかった。衝撃の受け流し。体格や腕力では他の魔物に劣るクヴァルが強敵たり得る、決定的な理由。俺には百年経ってもできなかった芸当だ。

 

「猛々しい娘よ、悪くない太刀筋だ。しかし、何をそんなにも焦っている?せっかくの綺麗な剣が台無しだぞ」

「戯言を……!」

 

 ああ、いつ会っても、こいつとだけは仲良くなれる気がしない。どうして戦いを、殺し合いをそんなにも好むことができるのだ。痛くて、怖くて、苦しいだけだというのに。

 

 乱れた呼吸を整えるために一呼吸置くと、少しだけ冷静になれた。ダメだ。焦っては、過去の失敗と一緒だ。冷静に状況を観察して、勝機を探れ。

 観察する。クヴァルの目は、俺の一挙手一投足を見逃すまいと夜闇に爛々と輝いている。

 

「『光よ!』」

「──なっ!?」

 

 詠唱と共に、光弾が最短で走り、クヴァルの目の前で爆発した。目つぶし。最も手軽で効果的な戦法。

 しかし、クヴァルには通用しなかった。

 

 フラッシュと同時にクヴァルに駆け寄った俺を出迎えたのは、右足による猛烈な蹴りだった。

 

「ゴホッ!くっ……」

 

 脇腹に直撃した右足が俺を吹き飛ばす。身を捻らせ、なんとか受け身を取る。仰向けに倒れた体に鈍痛が響く。咳き込みながらも視線を前に戻すと、もうクヴァルがこちらに突っ込んできているところだった。

 

「くっ……くそっ!」

 

 四足歩行にも似た前傾姿勢で突っ込んできたクヴァルが、こちらに全身でのしかかろうと跳躍した。拘束されれば最後、死ぬまで体を切り刻まれるだろう。

 

「終わりだ卑怯者!」

「『炎よ!』」

「──!」

 

 辛うじて発動が間に合った炎球が、中空のクヴァルに直撃し、その体を吹き飛ばす。僅かに黒煙を立てるクヴァルは、素早く立ち上がった。即興の魔術ゆえ、十分な魔力は籠められなかったらしい。俺も痛む体をなんとか動かし、立ち上がる。

 

 クヴァルが吠える。その言葉には、激しい憤りが籠められていた。

 

「なぜだ!お前のその太刀筋、長い年月を経て洗練されたもののはず。その激情と冷徹の入り混じった精緻な剣、生半可な訓練で得られる物ではない!それなのになぜ、魔法などという軟弱な手段に頼るのだ!どうして純粋な闘争を楽しもうとしない!純粋な武と武のぶつかり合い!それこそが戦いであるべきだとは思わんのか!?」

「黙れ!俺にとって武とは勝利のための手段であって目的ではない!貴様のように戦いを楽しむ奇癖は持ち合わせていない!」

 

 いつ聞いても、クヴァルの理屈は全く理解できなかった。

 平和な時代であればそういう考え方をする武芸者もいただろう。しかし、今俺たちは殺し合いをしているのだ。人類と魔物の生存競争の真っ只中にあって、こいつはいつもこんな妄言を吐いている。全くもって、相容れない。

 苛立ちを籠めて、再び魔術を構成する。今の俺では、搦め手を抜きにはこいつに勝てそうにない。何と言われようと、俺は俺の持つ全てを使ってこいつを殺す。

 

「『燃え盛る炎よ、分かち、我が意に従い敵を穿て!』」

 

 体からごっそり魔力が抜けていく感覚。虚脱感に、少しの眩暈を覚える。

 生み出した火球の数は6。その全てに、耐久力に劣る魔物であれば一撃で燃やしつくほどの火力が籠められている。

 この体の貧弱な魔力量では、二度も放つことはできないだろう。──この魔術で、決める。

 

 クヴァルに殺到する火球は、全て狙い通りに飛んでいった。3つを彼の体の中心に。もう3つは逃げ場を塞ぐように右、左、上に飛ばす。

 

「ハアアアアア!」

 

 さらに、俺自身もクヴァルに向けて突貫する。完璧に隙のない攻勢のはずだ。しかし、クヴァルがこれだけで倒れてくれるとは思えなかった。

 

「アオオオオン!」

 

 狼らしい遠吠え。それで気合を入れたらしいクヴァルは、俊敏な動きで火球に対処し始めた。

 まずクヴァルは、体毛に覆われた右腕を一閃。腹部に真っ先に迫っていた火球を拳で打ち付けると、火球はあらぬ方向へと飛んでいった。

 続く火球は、身を翻し避ける。しかし、避けた先には既に別の火球が迫っている。クヴァルは目にも止まらぬ足を振り上げると、火球を蹴り飛ばした。

 

 しかし俺にもその程度予想できていた。クヴァルが身を翻して避けた2つの火球。それに意識を集中させると、火球はUターンを決めてクヴァルの背後から迫った。放った魔術をもう一度制御する。魔術を六十年近く研究して会得した技術だ。やつも初見のはず。──獲ったか!?

 

「──フッ!」

 

 しかし、数十年戦って尚未だ見た事のない動きを、この魔族一の武芸者は見せてきた。クヴァルは後ろを見もせずに背後から迫る火球の1つを身を捩じり躱すと、もう一つに裏拳を叩き込んで俺の方へと飛ばしてきた。

 

「なっ!?」

 

 制御を失い、猛スピードで俺に迫る火球。俺の慌てた様子を見たクヴァルが、犬歯をむき出しにして獰猛に笑い、突っ込んでくる。回避するために態勢を崩せば、クヴァルに身を引き裂かれるだろう。絶妙なタイミングでの反撃だった。

 

 必死で思考を回す。目に映る景色がスローに映り始めた。膨大な経験の中から打開策を探る。魔術、剣術、体術、小細工。俺が習得した全てから可能性を見出す。そして、極限の集中の中で、俺の出した結論は愚かとも言えるものだった。

 

「うおおおおお!」

「ッ!?──莫迦者が!」

 

 直撃。回避もせずに突っ込んだ俺の体に、火球が突き刺さる。凄まじい衝撃と灼熱が腹部に走った。しかし、止まらない。俺の背負ってきた罪は、つい先ほど背負った罪は、この程度で立ち止まれるほど軽くはない!

 身を焦がす炎を纏ったままに、俺は渾身の一太刀をクヴァルの体に叩き込む。虚を突かれたクヴァルの防御は間に合わず、その身に深い傷を刻んだ。

 

「ハアアアアア!」

 

 トドメに、胸を一突き。全身の体重を乗せた攻撃をするとともに、血反吐を吐く。

 

「ぐっ……貴様の愚かさを見誤った俺の負けか……」

 

 血を吐きながら、クヴァルが囁く。しかし俺にはそれに応じれるような体力は残っていなかった。体に力が入らない。仰向けに倒れる俺の腹部で、炎が煌々と燃え続けていた。

 ああ、身を焦がし、痛みを与え続ける炎が、今は心地よい。立ち昇る黒煙を見て俺が思い出すのは、ついさきほど見送ったジェーンの死に顔だ。

 

「……ああ、俺は、学ばないな」

 

 どうしてまた、仲間を殺してしまったのだろう。どうして俺は、こんなにも愚かなのだろうか。

 また、罪を重ねた。身を蝕む罪悪感はここしばらく感じていなかったもので、とびきり不愉快だった。

 身を焦がす炎に身を任せる。目が覚めたら、あの黒煙のように天にでも昇っていたならいいのに。そう願い、俺は目を閉じた。

 



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67 メメの傷

 勇者パーティーの三人が集まれたのは、狼たちとの戦いがようやく終結した頃、朝日がそろそろ昇ろうかという早朝のことだった。

 この頃の戦いの後いつも集まっていた宿の共用スペース、その暖炉の前に、オスカー、カレン、オリヴィアの三人が座っている。しかし、暖炉の火は消えていた。人気のなくがらんとした宿には、冬の夜の冷気が未だ漂っている。

 

「ようやく、勝てたね」

「うん」

 

 オスカーの声に反応するカレンの声には覇気がない。オリヴィアも、ただ黙って首肯するだけだった。ただ疲労しているだけでないような、重い沈黙。

 

「──ジェーンさんは、助けられなかったよ」

「……そっか」

 

 カレンが三人の一番の関心事に触れた。やはりか、とオスカーが小さく相槌を打つ。

 

「私が辿り着いた時には、もう息を引き取ってた。……神聖魔法は、死者に対しては何もできない」

 

 カレンが悔いるように言葉を紡ぐ。

 死んだ人も、助けられたら良かったのに。それは、多くの人の最期を見届けてきた治癒魔法術者である彼女の切なる願いだった。

 

「……僕にもっと力があれば、メメとジェーンさんのほうに、もっと人をよこすことができたのかな」

 

 オスカーがぽつりとつぶやく。その顔には、深い苦悩が刻まれていた。勇者たる自分が。この中で最も才に恵まれた人間である僕がもっと戦線を上げられたなら、後方での戦闘に人を割けたかもしれない。メメはあんなに重症を負わなかったかもしれない。ジェーンも、死ななかったかもしれない。

 再び重い沈黙が三人の間に降りる。そんな中、オリヴィアが口を開いた。

 

「……メメさんの容態は、どうなんですの?」

「命に関わるようなことはないと思う。治癒魔法はかけたけど、今回は簡単には治らないだろうね。全身の切り傷もそうだけど、何より上半身の火傷がひどい。しばらくは大人しくしてもらう必要があるね」

「そうですか……」

 

 その言葉を聞いたオリヴィアは少し黙り込むと、やがて静かに言葉を発した。

 

「体の容態はもちろん心配ですが、それ以上にメメさんの精神面が心配ですわね。今回の状況を鑑みるに、変なところで真面目な彼女ならジェーンさんを守れなかったなどと気に病みそうです」

 

 その言葉に顔を上げたのはオスカーだった。

 

「メメのことだからあり得るね。……最近ようやく精神的な不安定さが少しずつなくなってきたと思った矢先にこれだからね。……本当に、どうしてこんなことになっちゃったんだろう」

 

 深々とため息を吐くオスカー。

 再び沈黙が場を支配した。やがて、カレンが常の元気な様子とは違う暗い口調で話し始めた。

 

「アタシさ、ジェーンさんが死んじゃって、初めて身近な人が亡くなって、なんか改めて死が身近にあるんだなって思っちゃった。なんていうか、初めて会う騎士の人たちが目の前で亡くなっていくのとはまた違った、もっと違った怖さがあると思ったんだよね。……なんだか、今まで助けられなかった騎士の人たちに、申し訳ないっていうか、人が死ぬことって、こんな怖いことだったんだなって」

 

 そう言って、カレンは少し体を震わせた。そんな彼女の様子に、オスカーが優しく語り掛ける。

 

「……カレンの言いたいことは僕も分かるよ。言葉を交わして、人となりをよく知った人が突然いなくなるって、こんなに虚しいことなんだね。──改めて、人間を守るっていう勇者の役割がどれだけ重い物なのか、分かった気がする」

「オスカー……」

 

 目を合わせる幼馴染の二人は、何かを確かめ合ったようだった。その様子を確認したオリヴィアは、小さく頷く。

 失ったモノは多かったが、少なくともこの二人は、きっと前へ進めるのだろう。今日の喪失を、死を、敗北を糧にして、前へと進む。これ以上失わないために。これ以上負けないために。

 

 しかし、メメさんは、彼女はどうだろうか。この二人よりもずっと強いように見えて、その実壊れそうな心を必死に取り繕って戦い続けている彼女は、今日の喪失を糧に、前に進めるだろうか。

 オリヴィアの懸念は、まさしくそれだった。何かに囚われたような、何かに追われるような、彼女の姿。彼女がもし、ずっと過去に囚われているのならば、きっと今日のことも大きな傷になる。

 

「彼のことを悼むのは良いことですが、それに囚われることは、きっと望まれていませんよ。メメさん」

 

 オリヴィアの独り言は誰にも聞き咎められず、冷たい空気に溶けていった。

 

 

 ◇

 

 

 喪失感と共に意識が浮上する。──ああ、また生き残ってしまった。

 

 目を開けると、ぼやける視界に天井が映った。慌ただしく動きまわる人々の声と、ベッドに寝かされた怪我人の気配。周囲の状況から推測するに、ここは病室らしい。落胆と共に立ち上がろうとすると、途端に眩暈が襲ってきて、俺は再びベッドに倒れ込んだ。

 

「……じ……ゴホッゴホッ……」

 

 喋ろうとすると喉に猛烈な痛みが走り、咳き込む。目が覚めても体が治っていない。いつになく不調の体に、俺は気絶する直前の光景を思い出した。

 闇夜に燃え盛る炎。倒れたクヴァル。

 

 そして。そして、ジェーンの穏やかな死に顔。

 

 せめて、あの戦いの顛末を聞かないと。彼の生死を確認しないと。あり得ない可能性を夢想した俺は、仲間を探すために病室を飛び出した。

 

 魔王軍との戦闘のあった直後の病院では、治癒魔法を扱う聖職者たちがせわしなく動き回っていた。誰もが自分の仕事に忙しいらしく、足を引きずりながら歩く俺に目もくれない。

 

 一歩進むたびに胸のあたりに痛みが走る。断続的に訪れる眩暈に、その場にうずくまってしまいたい気分だ。

 それでも、確認しなくては。思うように動かない足を必死に動かして、病院の中を歩く。

 

 いた。オスカーだ。

 

「ォスカァ……ゴホッゴホッ!」

 

 上手く発音ができない。言葉を発した途端に喉に激痛が走って咳き込む。

 

「メメ!?そんな状態で何やってるの!?早くベッドに……」

 

 俺の肩を掴もうとするオスカーの手をがっちり掴む。力が入らず、指先がわずかに震える。

 

「ぉれはどうでもいい!ゴホッ……そ……も、ジェーンはっ!」

「……」

 

 オスカーが黙って顔を逸らす。その気まずそうな態度は、答えを言っているようなものだった。それでも俺は、彼に詰め寄る。

 

「ジェーンは!?」

「……亡くなったよ」

 

 ポツリと、でも確かに、彼は言った。

 その言葉を聞き届けて、糸が切れたように全身の力が抜ける。辛うじて動いていた体が、崩れ落ちる。ジェーンは、死んだ。俺を庇って。俺のせいで。

 

「メメ!?」

 

 暗くなっていく視界の中で、オスカーが慌てたように俺の体を支えようとしているのが最後に見えた。

 

 

 ◇

 

 

 思い出す記憶はたくさんあったが、特に記憶に残っているのは、彼とのなんでもないような会話だった。

 

 

「そういえばジェーン、この女神像はもう必要ないのか?」

 

 そう言って、古びた木製の女神像を取り出す。少し前まで低い男の声を出していたそれは、ジェーンが人間の体を得てから、うんともすんとも言わなくなった。

 

「要らないですね。捨ててしまって構いませんよ?」

「いや、少し前までお前だったものを捨てるのもなんか抵抗あるんだが……」

「出会った直後は湖に沈めようとしていなかったですか?……まあ、そういうことならお守り代わりに持っておいてください」

「信心のない俺が持っていてもいいことは無さそうだけどな。そもそもあの女神は俺を一度だって守ってはくれなかったぞ」

「では、女神の代わりに私が守る、ということで」

 

 そう言って、ジェーンは口角を上げた。いつも表情のあまり出ない彼の、珍しい顔。それがやけに印象的で、俺はその時の会話をずっと覚えていた。

 

 

 ◇

 

 

 木製の女神像の無機質な目を眺める。穴が開くほど見つめようとも、あの声は二度と聞こえてはこなかった。

 

「本当に俺を守るなんて、思いもしなかったな」

 

 呟きは、曇天の墓場に消えていった。手元の女神像から目を離して、目の前の墓石を眺める。ジェーンの墓は質素だった。周囲に作られたものとほとんど変わらない、これといった個性のない墓石。刻まれるのも、名前と短く刻まれた彼の功績だけ。

 

 唯一の身内とされた俺が望んだことだった。以前、ジェーンは人間の葬式や埋葬について、疑問を漏らしていた。曰く、「死ねば皆同じ屍なのに、なぜそんなにも死を装飾するのか分からない」とのことだ。──彼らしい。

 だから俺は、ジェーンなら盛大な葬儀は好まないだろうと思い、ひっそりとした葬儀を望んだ。……彼がいなくなった今、それが正解だったのかは分からない。

 

 手を合わせるわけでもなく、ただ墓石を眺める。女神像と同様、何か話してくれるようなことはない。

 

 墓石に刻まれた文字を意味もなく目で追っていると、思考がここ数日ずっと考えていたことに回帰した。すなわち、俺の失敗、罪についてだ。

 

「そうだ、何をそんなに舞い上がっていたんだ」

 

 たまたま全部が上手くいっていたから。みんなが死んでいなかったから。──勇者の重責が、俺のものではなかったから。理由を上げればキリはなかった。

 

「なぜ罪を、罰を、忘れることができたんだ」

 

 緩んでいた。思い返せばそうとしか思えなかった。そうだ。前の俺ならば、あの魔法にだって気づけたんじゃないか。空中から飛来した隕石には、魔力の高まりのような前兆はなかった。あんな魔法、見たことがなかった。

 それでも。それでも、常に周りの注意を払っていたかつての俺ならば。

 やり場のない感情を持て余した俺は、拳を握りしめる。爪先が自分の手のひらに突き刺さった。

 

 考える。自分の罪を、分析する。ジェーンが死んでしまった理由を、解析する。見た事もない魔法。初めての出来事。知らないとはいえ、推測くらいはできる。

 空から隕石を突き落とす魔法は、確かジェーンが魔王軍を壊滅させた時に使ったと言っていた魔法だったはずだ。それが、敵から飛んできた。

 

 思い当たる節が一つあった。魔法の模倣。それを極めることによって、多彩な魔法を放つことができるダークエルフがいた。ロゼッタ。そう名乗っていたはずだ。長かった繰り返しの中でも印象に残っている魔族だ。模倣を極めただけに多彩な魔法と、膨大な魔力量を上手く使い、こちらを翻弄してきた。

 

 ──そうか、あいつが。あいつが、俺の仇か。

 

「……待ってろジェーン。俺がすぐに仇を取ってくるからな」

 

 墓石に語り掛けても、言葉など返ってくるはずもなかった。しかし、俺の脳内にジェーンの言葉が蘇った。

 

『──私の死を、貴女の傷にしないでください』

 

 歯を食いしばる。そんなこと、できるわけがないじゃないか。

 

 立ち尽くす俺の頭に、ぽつりと雨粒が落ちてきた。雨粒はその数をどんどんと増やしていき、やがて雨となった。見上げると、雨雲が俺を嘲笑っているような気がした。それから目を逸らすように下を向き、俺は墓石に背を向けて歩き始めた。

 

 氷雨は、俺を濡らし続けていた。

 




四章、完結です
番外編まで少しお待ちを


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IF メメのハッピーエンド ジェーンと共に

本編とは違う、もしもの世界線の話です


 人類の宿敵である魔王は倒された。長かった戦争は終わったのだ。勇者パーティーは、誰一人欠けることなくその責務を全うした。

 王都への凱旋を果たした勇者パーティーは、今は各々が新しい仕事に就いている。けれど、交流がなくなったわけでもなく、今でも定期的に大衆食堂に集まるような仲だ。

 

 さて、魔王軍との戦いが終わっても、人間による魔道の探求は続く。それは同じ人間との小競り合いのためであったり、百年後に再び現れるだろう魔王の討伐のためであったり、あるいは日々の暮らしを少し便利にするためであったりと、目的は多岐にわたる。

 

 王国における魔道の探求、その最前線と言えば王都の魔法学院だ。この学院には、魔王討伐以降ある変化が起きていた。魔王軍との戦いが終わったにも関わらず、生徒数が以前よりも増えているのだ。

 

 元々、貴族子女以外の入学は難しい魔法学院は、入学者も限られていた。入学試験の突破が、普通の平民にはあまりに困難だったのだ。

 読み書きと高度な専門知識を必要とする筆記試験。魔法の実技は、入学前から魔法の指導を受けていなければ合格は絶望的だ。

 

 しかし、そんな血統主義的な学院も無視できない出来事があった。最近ようやく終結した魔王軍との戦いで、伝統に囚われない平民の魔法、実戦魔術の優秀さが証明されたのだ。

 

 古典的な詠唱に囚われない柔軟性。固定観念を壊すような大胆な魔力の行使。実戦魔術の優秀さは、勇者パーティーのメンバーがそれを使いこなしていたことで注目されだした。

 

 さらにその後、学院では日陰者として低俗とされていた実戦魔術を学んでいた平民出身の生徒たちが戦場で活躍しだすと、魔法教育の最前線を自負する王都魔法学院としては、教育方針について考え直さざるを得なかった。

 

 加えて、勇者パーティーの一員という肩書きを引っさげたオリヴィアが、なんと魔法学院の理事長に就任。血筋に囚われない教育の実施を後押しした。

 時代の流れ、それから柔らかい頭を持った理事長の就任によって、伝統を重んじていた魔法学院は、生徒の採用方針を変更。読み書きや魔法の基礎教育などの教養の不十分な平民でも入学できるような入試制度が採用された。

 

 その結果、平民出身の少年少女を中心に生徒数は急激に増加した。平民として生まれたがゆえに生まれ持った魔力を腐らせていた彼らは、自分たちの持った才能を活かすべく、必死に勉学に励んでいる。

 

 貴族子女ばかりだったかつての魔法学院とは違い、さまざまな場所から集った生徒たちの集う学院は、賑やかな喧騒に包まれていた。上品な言葉ばかりが交わされる静かな空間だった頃とは大違いだ。

 頭の固い貴族であれば、伝統ある魔法学院に相応しくない光景だ、と眉を顰めたかもしれない。

 けれど俺は、この騒がしい学院が好きだった。

 

 

 教壇に立ち、真剣な表情をして俺の話を聞く生徒たちに語り掛ける。実戦魔術のA組の教室は今日も満席だ。もう授業にも慣れたもので、話すべき内容はすらすらと出てくる。

 

「──というわけで、魔術は魔法に対して詠唱が短く、消費魔力が少ないという点で圧倒的に有利だ。逆に、魔法は準備時間と魔力を余計に食う分その効果は魔術を凌ぐ。だからな、最近巷で聞く魔法と魔術の最強論争は不毛とも言える。優れた点が違うんだよ。もしお前らがその論争をしたいのなら、まずはオリヴィア理事長みたいに両方を極めてから物を言うんだぞ。……ああ、終わりか」

 

 王都魔法学院に、今日の授業の終わりを伝える鐘が鳴る。俺は、生徒たちに課題を告げると、職員室へと向かうべく廊下に出た。

 少しすると、廊下は賑やかな生徒たちで埋め尽くされた。廊下が狭く感じてしまうほどの生徒の多さだ。

 

 魔王討伐の後、戦争中に実戦魔術を使いだした第一人者として、俺は魔法学院の教師となった。懐かしい教室に今は教師として配属されている。なんだか現実感がなくて、未だに夢でも見ているような気分だ。

 

「お、メメ先生! さよなら!」

「おお、さようなら。気を付けて帰れよ」

「あ、先生いたのか。小っちゃすぎて気づかなかった!」

「やかましいわ!」

 

 挨拶を返しながら、生徒だらけの廊下を歩く。結局身長は全然伸びなかった俺は、自分よりも背の高い生徒の群れに潜り込むようにして前へと進んでいた。

 すると、突然目の前に大きな影が立ちはだかる。

 

「メメさん、お疲れ様です」

「お、ジェーンか。お疲れ」

 

 挨拶を済ませると、ノッポな背中が俺の前でくるりと回り、職員室の方へと歩き出す。その後ろに付いて歩くと、先ほどまでよりもずっと歩きやすくなった。

 ジェーンは、扱う魔法の特異性が認められ、俺と同じように魔法学院に教師として雇われていた。今では俺とコイツの関係性は職場の同僚となっている。

 

 前を向いたまま、ジェーンが話し始める。

 

「メメさんは相変わらず生徒の人気者ですね。羨ましいです」

「人気者っていうか舐められてるだけな気がするけどな。……全く、誰かさんがこんなちんまりした体にしてくれたせいだぞ」

「いやあ、その姿の方が、元の修羅みたいな風貌よりずっと接しやすくていいと思いますがね」

 

 一理ある。しかしそれを認めるのも癪だったので、話題を変える。

 

「そういうお前は、とっつきにくい風貌のわりに人気者だよな。自由参加の講義、いつも満席だろ?」

「ああ、あれは私が人気というよりも講義内容が目新しいのでしょう。千年前の魔法のことなんて、私以外教えられないでしょうから」

 

 ジェーンの伝える古代魔法の全容は、魔法学院に賞賛と共に受け入れられた。現代の伝統魔法の源流とでも言うべき、原初の魔法。伝統魔法を研究する学者たちは鼻息荒く彼の元を訪れ、今では彼の講義を最前列で聞いている。

 そんな彼の大きな背中を見ていると、ふと生徒に聞いた話を思い出した。

 

「そういえばこの前生徒に聞いたぞ。女子生徒に告白されたんだって? やるじゃん、色男」

「まあ、そうですね。……正直、困るのですがね」

 

 ジェーンの声音に、少し感情が籠った。

 

「おお? なんだ色男。自慢か?」

「いえ」

 

 人混みをスラスラと進んでいた彼が、突如として立ち止まり振り返った。少し遅れて立ち止まった俺は、少し上にあるジェーンの顔を見上げる。

 

「私が貴女以外に惹かれる未来が見えないので」

 

 気障なセリフを吐く彼は、相変わらずの無表情に見えた。でも、よく見ると口角が少し上がっているようにも見える。

 

「……三十点だな。顔が微妙」

 

 冗談めかして言ってやる。俺の言葉を聞いた彼の表情には、あまり変化がなかった。何事もなかったかのように、彼はまた前を向いて歩きだした。

 しかし、その背中は少し曲がっているようにも見えた。

 

「メメさんは男に厳しいですねえ。そんなんじゃ結婚できませんよ?」

「ほっとけ。というか俺が結婚できるわけねえだろ」

「いやあ、未来は分からないですよ。魂の在り方は体に引っ張られるものです。いつか心まで乙女になるかもしれません」

 

 怖いことを言う。相変わらず、ジェーンの言葉には抑揚がなく冗談なのか本気なのかよくわからない。でも、さっきの告白紛いの言葉は冗談ではなかったらしい、ということは長い付き合いの俺には分かった。

 

「まあ、少なくとも今はこの関係で満足ですよ」

 

 今までの会話で一番感情の籠った声だった。きっと本心なのだろう。

 

「勇者パーティーの誰一人欠けずに魔王討伐を達成して、メメさんが傷つくことがなかった。私とメメさんは、同僚の教師としてそれなりに仲良くやれている。それだけでも十分なくらいです」

「……そうだな」

「だから、多分私は今、幸せなのでしょう」

 

 ジェーンは、喧騒に溢れた廊下でしみじみと呟いた。

 



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IF メメのバッドエンド 貴女は私の特別

本編とは違う、もしもの話です


「ジェーンは!?」

「……亡くなったよ」

 

 オスカーの言葉を聞いた途端、自分の体の力が抜けるのが分かった。思うように動けず、満身創痍の体を床に横たえる。

 ただ負傷していて体が限界を迎えたというだけではない、何か自分の中にある大事な力が抜けていくような、決定的で致命的な感覚。しかしその喪失に抗うことすらできなかった俺は、ただ力なく瞼を閉ざすことしかできなかった。

 

 

 ◇

 

 

 私がメメさんのお見舞いに行けたのは、あの戦いの日から五日経った時のことだった。

 狼たちとの決戦で、今までにないほどの重症を負い、未だに安静にしているというメメさん。彼女が今どんな風に過ごしているのかを聞くと、カレンさんは、力なく首を横に振り、オスカーさんは悲し気に笑っていた。そんな仲間たちの態度に、悪い予感はしていた。

 

 一度立ち止まり、深呼吸。病室のドアを開ける。メメさんはベッドから上体を起こして窓から空を見上げているようだった。昼下がりの太陽が、真上からメメさんを照らしていた。

 

 振り向き、私の姿を認めたメメさんは、目だけで私にベッドの隣の椅子に座るように促してきた。私に対して丁寧な態度をあまり崩さない彼女らしからぬ行動に少しの違和感を覚えながら、メメさんの傍らに腰を下ろす。静かに私を見つめた彼女は、問われるまでもなく自分の状況について語ってくれた。

 

 

「……もう戦えない、ですの?」

「ああ、腕力も魔力もすっかりなくなっちゃってさ。年頃の娘となんら変わらなくなっちゃったよ」

 

 力なく笑うメメさんの目には、深い諦観が沈殿しているようだった。彼女を突き動かしていた何かが尽きたように、その体には覇気がなく、ともすればこのまま消えてしまいそうだった。

 

 メメさんの体の状態は思っていたよりもずっと悪いようだった。信じがたいことに、彼女はその規格外の身体能力、それと魔力をすっかり失ってしまったらしい。

 

 その影響で、入院期間も今までの負傷以上に延びている。メメさんが今まで何度も重症を負ってもすぐに戦いに出れるほどに回復していたのは、その体の凄まじい自己治癒力が大きな働きをしていた。今回はそれがない。

 カレンさんは相当に腕の良い治癒魔法術者だが、治療には手間取っているという。メメさんの腹部の火傷跡は、一生残るのだそうだ。

 

「でもさ、この火傷跡は、なくならなくて良かったんだよ」

 

 メメさんが入院着を捲り、見るからに痛々しい火傷跡を私に見せながら、彼女は暗い表情で言った。

 

「きっとこれは、俺がジェーンを殺してしまった罪人であることを証明する烙印みたいなものなんだよ。──俺があいつを忘れないための目印、と言ってもいい」

 

 そう言うメメさんは自分の中で完全にそれを確信しているらしく、私はその独白に口を挟むことができなかった。きっと、その言葉に口を挟めるのはもう死んでしまった彼だけだ。

 

 病室に重い沈黙が降りる。私はかける言葉を思いつかず、ただメメさんの暗い顔を見ることしかできなかった。

 再び、彼女が口を開く。

 

「本当、何もできなくなったんだ。今まで必死になってできるようになったこと、全部だ」

 

 ぽつりと、消え入りそうな声で彼女は呟いた。

 

「剣術だって、最初はまるで素人だったんだ。それでも、実戦を繰り返すたびに少しずつ上達していった。俺の剣は、オリヴィアが想像するよりもずっと長い期間でようやく身に付いたものなんだよ。それが今では何の役にも立たない。それから、オリヴィアとは魔術についていっぱい話しただろう?あれもそうだ。俺の魔力はすっかり消え失せて、今じゃ火の一つも起こせやしない。──必死に努力して、俺の魔術の先生に誇れるほどの腕になったっていうのにな」

 

 魔術の先生、と言いながら、彼女は私を見ていた。その顔はひどく悲しそうで、見ていられなかった。

 私が目を逸らすと、彼女は目線を窓の外へとやった。その目はどこか遠くを見ていた。そのまま、ぽつりと呟く。

 

「……俺、どうしてまだ生きているんだろうな」

 

 ──その言葉を聞いた瞬間、私はほとんど無意識に彼女を抱きしめていた。華奢な体を包み込むように、きつくきつく、抱きしめる。腕の中の彼女は、かつてないほど小さかった。

 

「どうして……そんなことを言うんですの……?」

「オリヴィア……俺はもう、君に心配してもらうような人間じゃないんだよ。勇者パーティーの一員になれるような特別な人間じゃない。立派な君なんかとは、もう関わる価値なんてない人間なんだよ」

 

 そう言ってメメさんは笑顔を作るように顔を歪ませた。心からそう思っていることが分かる、切実な声だった。

 

「……勇者パーティーの一員になれるような特別な人間であることが、そんなに重要ですの?」

「ああ、俺の悲願のためにも、重要だったんだ。もう、それは叶わないけどな」

「私と関わるのに、価値を地位もいりません。どんな貴女でも、私は変わらずお付き合いできます」

「でも、俺は特別なんかじゃ──」

「──!」

 

 思わず、立ち上がってしまった。私を見上げるメメさんの瞳は、わずかに潤んでいるようにも見えた。ああ、本当に、彼女らしくもない。

 

 自分が言うべき言葉を、言いたい言葉を、瞬時に考える。弱っている彼女に、自分の言葉を伝えるのは正直怖い。もしこれで拒絶されたらと思うと、不安で胸がいっぱいになる。

 それでも、言わなければ。私の特別な貴女を、貴女に否定させたままにはさせないために。

 

 彼女の黒い瞳をしっかり見据えて、私は言葉を紡ぐ。

 

「いいですかメメさん。貴女がどんな人間であろうとも、私にとっての特別は貴女なのです!」

 

 彼女が目を見開いて私を見ている。その瞳には、今まで見たことないほどの複雑な感情が渦巻いているようだった。そう。どこか遠くを見ないで。私を、今ここにいる私を見てくださいませ。

 

「貴女に自覚はないかもしれませんが、公爵令嬢という特別な人間である私を、ただの、1人の人間である私として見てくれたのは貴女が初めてですの!それに!私の大切に思う貴女を大切にしてほしいと、以前も申し上げましたわよね!?あの気持ちは今だって変わっておりません!」

「でも俺は、もう何もできなくて──」

「いいえ、そんなことありません!確かに貴方は、多くを失い、色々なことができなくなったのでしょう。──それでも、私はそばに居て欲しいのです!」

 

 私の言葉に、メメさん顔を上げる。面白いほどに驚愕に満ちた顔だった。

 

「……今の俺じゃ、君に釣り合わないよ」

「私に釣り合うのが誰なのかなんて、私が決めます。誰にも、貴女自身にだって文句を言うのは許しません」

「今の俺じゃ君に何もしてあげられないよ」

「何かしてほしいのではなく、私の傍に居て欲しいのです」

「迷惑をかけるかもしれない」

「貴女の言う迷惑程度、問題ありません」

「でも──」

「もう!男らしくて勇ましくて、でも可愛らしい貴女はいったいどこに行ってしまったんですの?」

 

 私は手を広げて、彼女の頬を両側から抑えた。私に押さえつけられるあまりタコのようにすぼめられた彼女の唇が、何か言おうともにょもよと動く。

 彼女の反論を物理的に抑え込んだまま、私は言いたいことを言うことにした。

 

「──だから、私と一緒に生きてくださいませんか?」

 

 その言葉を伝えた途端、メメさんの目から一筋の涙が流れた。透明なそれはツツ、と真っすぐ頬を伝った。

 

「俺、生きていてもいいのかな?」

「当然です。たとえ世界すべてが貴女を否定したとしても、私が貴女を肯定しましょう」

「そっか。……ありがとな」

 

 メメさんは私の胸に顔を押し付けると、静かに泣き始めた。

 それは、私の初めて見るメメさんの無防備な姿だった。

 

 

 ◇

 

 

 長かった冬が終わり、王国にも春が来た。季節が変われども、私たち勇者パーティーのやることは変わらず、魔王軍と戦い続けていた。

 

「ハアアアアア!」

 

 迫りくる魔族たちを相手に一歩も引かず、オスカーさんが最前線で聖剣を振るう。黄金色の刃が躍るたび、魔物や魔族が命を散らしていく。──しかし、少し劣勢だろうか。

 

「オスカーさん、援護を!『氷よ、我が敵を穿て!』」

「ありがとうオリヴィア!」

 

 ジェーンさんとメメさんが勇者パーティーからいなくなってから、オスカーさんは一層逞しく、頼もしくなっていた。剣の腕はかつてのメメさんを既に越しているように見える。私に教わっている魔術の習熟も順調だ。

 彼なりに、仲間を死なせてしまったことに思うところがあったのだろう。身長もぐっと伸びた彼は、かつてのメメさんと同じくらい頼もしかった。

 

「騎士の皆さん、力を貸してください!一気に攻め落とします!」

「おう!」

 

 後ろに控える騎士たちに勇ましく呼びかけるその姿は、まさしく人類の希望である勇者といったところか。

 

 

 勇者の獅子奮迅の働きもあり、今日の合戦はあっさりと魔族軍が退き、私たちの勝利となった。

 

 夕日に照らされながら、自分の宿の部屋へと向かう。体は疲れていたが、彼女にまた会えると思うと、足は自然と早くなった。

 素早くドアを引き、部屋へと入る。中にいたのは、メイド服を着たメメさんだった。

 

「おかえりなさい、オリヴィア」

 

 メメさんが優雅にお辞儀をする。……上位貴族の接待もできそうなほどの綺麗な仕草だ。仕込んだ私も鼻が高い。

 

「ただいま戻りました、メメさん」

「紅茶を入れる準備はできてるぞ」

「お願いいたします」

 

 小さく頷いた彼女は、手慣れた様子で紅茶を入れはじめた。部屋に紅茶の香ばしい匂いが立ちはじめる頃、彼女が目線を下にやったままで話しかけてくる。

 

「……しかしオリヴィア、何も俺がメイド服を着る必要はないんじゃないか?」

「雰囲気作りだと申したでしょう。私が社交界に復帰したら、貴女にはその恰好で付き従ってもらうのですから。それに、良く似合っていますわよ。男が見たら放っておかないくらい」

「そんな馬鹿な男いないだろう」

 

 はは、とまるで私が冗談を言ったかのように、彼女は笑った。

 ……相変わらず、警戒心が欠落している。かつての彼女なら襲い来る男など一蹴できただろうが、今の彼女は見た目通りの可憐で非力な少女だ。私が守らなくては……。

 

「できたぞ、お嬢様」

 

 ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、紅茶の入ったカップを音を立てないように丁寧にソーサーに置く。ふんわりと漂ってきた紅茶の香りが、私の気持ちを落ち着かせた。やはり、メメさんと一緒にいる時間が、私は一番好きだ。

 礼を言おうかとメメさんを見上げる。すると、ちょうどその後ろにある夕日が目に入り、逆光で彼女の顔が見えなくなった。

 私は問いかける。

 

「──メメさん、貴女は今、幸せですか?」

「ああ、オリヴィアと一緒にいれて、俺は幸せだよ」

 

 相変わらず夕日が眩しくて、彼女の顔は良く見えなかった。それでも、その口元が笑っているのはよくわかった。

 

「私も、貴女と居られて幸せです」

 




無力になり、悲願を遂げられず、仲間を死なせ、それでも満面の笑みで「俺は幸せだ」と言えるのか。答えは彼女の胸の中に


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死に急ぎTS少女と断罪者気取りのダークエルフ
68 とある新米騎士の初陣


新章です


 魔王軍の動きは、気候が穏やかになるのに合わせて本格化していた。小手調べのようだった冬の戦いからは一転、春の大攻勢が始まっていた。

 まるで魔王軍の抑止力となっていた、超大規模魔法の術者であるジェーン殿が死んだことを知っているかのような動きだった。

 

 騎士団、魔法使い、聖職者、それから勇者パーティーによって構成される王国軍は、冬の間に夜闇に紛れて襲ってくる狼たちを一掃した。春になり、次に侵攻してきたのは、ゴブリンを中心とした大量の魔王軍だった。

 

 

 春の穏やか日差しの下、魔物と人間の軍隊がぶつかり合い、血飛沫がそこら中で舞っていた。

 

「前進せよ、前進せよ!貴様らの前にいるのは脆弱な人間だけだ!どうして我々が足を止める必要があるのか!」

「怯むな、勇敢な騎士たちよ!この戦場には我らが勇者様がいらっしゃる!どうして敗北を恐れる必要があるか!」

 

 魔物の側からも、勇ましい檄を飛ばす声が聞こえる。数は多いが知能に劣るゴブリンのような魔物の後ろに、高度な知能を持つ魔族が控え、指揮を取っているようだ。

 

 

 しかし、今日初めて戦場に立つ新米騎士である自分にはそんな雲の上の話は関係がないだろう。

 怒号と悲鳴が入り混じる戦場のど真ん中。俺は震えそうになる手で必死に剣を握り、眼前に迫る恐ろしい魔物を見た。

 

 俺の方へと迫ってきているのは、一匹のゴブリン。魔王軍の中でも弱く、下等な魔物だ。しかし、今目の前に迫ってきているゴブリンは、とても弱そうには見えない。人間の腰ほどまでしかない緑色の矮躯。しかし赤い瞳は、凄まじい殺気を放っている。手に持つ短剣が鈍い光を放ち、俺を威圧しているようだった。

 

 あたりを見渡す。周囲の騎士たちは、自分の目の前にいる魔物の相手で忙しそうだ。誰も助けに来ない。

 

「ギィギィギィ!」

「……クソッ!やってやるよ!」

 

 ゴブリンが、怯える俺を笑うように、醜悪な声を上げる。この春から騎士になった俺にとっては、初めて相対する魔物だった。

 正直、舐めていた。厳しい訓練を乗り越えた自分ならば、ゴブリンのような低級の魔物なんて簡単に打ち倒していけると思っていた。

 しかし、初めて見た本物の殺意は、俺の体を鉛のように重くさせた。ゴブリンの赤い瞳に滾る、野蛮な憎悪と殺意。

 命の保証のあった訓練とは明らかに違う命の取り合いの気配は、俺の体を重くさせた。

 

「う、うおおおおおお!」

 

 全身にへばりつく恐怖を振り払うように、俺は雄たけびを上げながら剣を大上段に構えた。それを見たゴブリンの顔が、醜悪に笑った。

 

「おおおおお!」

 

 そして、剣を渾身の力で振り下ろす。しかし、手ごたえはなかった。

 

「ギィギィ!」

「なっ!?」

 

 ゴブリンは俺の一撃を俊敏に避けると、そのまま背後にまわってきていた。思い切り剣を振り下ろした直後の俺は、ゴブリンに対してあまりにも無力だった。

 死の予感に頭が真っ白になる。ゴブリンは聞くに堪えない醜い笑い声を上げると、俺の背中の中心めがけて短剣を突き出してきた。思考が加速し、迫りくる短剣がゆっくり見える。──死ぬ……!

 

「──ハアアアアア!」

「ギィ!?」

 

 しかし、死を覚悟した俺の目に赤髪が飛び込んできた。ビュンと風を切る音。その太刀筋は、加速した思考でも全く捉えられなかった。

 その影は、細枝でも扱うように軽々と大きな剣を振るうと、あんなに恐ろしかったゴブリンの小さな体を真っ二つにした。体の動きに追従するようにふわりと舞う赤色のポニーテールに目を奪われる。勇ましいその横顔は、驚くほどの美しさだった。

 

「め、メメ殿……」

 

 言葉が思うように出ず、ただ茫然とその名前を呟く。勇者パーティーの一員。雲の上の存在。最も狂気的な戦いをする人類最高峰の剣士の姿が、そこにあった。

 鮮烈なその姿をぼんやりと眺めていると、暗い瞳を細めた彼女が小さく呟いた。

 

「──ケビン」

「なぜ、俺の名を──」

「おい新兵!こんなところで何をしている!」

 

 俺の問いかけは、メメ殿の荒々しい言葉に遮られた。それでも自分の名前を知っていた理由について問いかけようとすると、絶対零度の黒い瞳に睨まれる。強者の放つ凄まじい威圧感に、思わず口を閉じる。

 

「なぜこんなに前に出てきた!早く自分の部隊に帰れ!いいな!?」

「しかし、仲間がどこにいるのかも……」

「騎士どもはあっちだ、馬鹿が!命の危機に何回も助けが来ると思うなよ!分かったらさっさといけ!」

「……はい」

 

 俺の返答も待たずに、メメ殿は背を向け、魔物の群れへと突っ込んでいった。少し、その背中を眺める。目で追うのも困難なほど高速で動く影が到達するたびに、魔物たちは死体へと成り果てる。それは、接触したもの全てを破壊しつくす、巨大な嵐のようだった。

 

「──綺麗だ」

 

 その背中は、いくらでも眺めていられるほどに美しかった。重力など存在しないように軽やかに舞う足も、流れる水のように滑らかに動き続ける両腕も、それを支える、柳のようにしなやかな腰まわりも。返り血に塗れ、それでも尚ギラギラと殺気を発し続けている顔も。全てが彼女の魅力を増しているようだった。

 

「……いかん、戻らないと」

 

 彼女に言いつけられたことを思い出すと、俺は自分の部隊を探して、戦場を駆け始めた。

 

 

 ◇

 

 

 戦いを終えた騎士たちが真っ先に向かう先と言えば、兵舎に存在する大浴場だ。メメ殿のおかげで初陣を生き残れた俺は、湯に浸かり、自分がまだ生きていることの喜びを噛み締めていた。

 湯の中に体を沈め、なんとなく自分の体を見下ろす。体質なのか、長い訓練を経ても体はあまり大きくならなかった。やや太い程度の足に、細い腕。正直、騎士としては及第点ギリギリだろう。まあ、田舎上がりの凡人にしてはよくやっている方だろう。

 

 物思いに耽っていると、俺の横に大きな影が現れた。

 

「おお、ケビン。お互い生きて帰ってこれて良かったな。お前が部隊から離れたどっか行っちまった時は、死んだもんだと思っていたぜ」

 

 大きな手のひらが軽く俺の背中を叩く。隣に腰かけ、話しかけてきたのは、同じく新米騎士、マイクだった。

 

「ああ、正直俺も終わったと思ったよ。でもさ、俺に女神様がほほ笑んだんだよ」

「不信心もののお前には珍しい言葉だな。何があったんだ?」

「聞いて驚くなよ。あの勇者パーティーのメメ殿が助けてくれてたんだよ!」

 

 浴場に軽く反響するほど声を張り上げたが、マイクの反応は薄いものだった。

 

「なんだ、メメ殿か……」

「なんだその反応の薄さは。雲の上の人だろ」

「いやまあそうなんだけどな。せっかくならオスカー殿なら良かったのになと思ってな。ああ、ただの平民から人類の救世主へと成り上がった十代目の勇者!平民上がりの騎士の希望だよ!」

 

 メメ殿の話をしたのに、なぜかマイクはオスカー殿を賞賛した。

 

「なんでだよ。可愛いだろ、メメ殿」

「いや、容姿がやたらいいことは認めるが。しかしあの見る者全てを敵だと思っていそうな冷たい目、正直俺は怖いぞ」

 

 メメ殿は、騎士の間では近づき難い人間と認識されている。勇者パーティーの仲間と話している時以外にはほとんど口を開かず、味方であるはずの騎士に向ける視線には、時折殺気すら混じっているように見える。

 そんな態度に反感を覚える騎士も少なくない。プライドの高い騎士などは、「どこの馬の骨とも分からぬ小娘が生意気だ」と言ってはばからない。

 

 マイクが言葉を続ける。

 

「頼もしいのは確かなんだけどな。強いし、周囲をよく観察してるし。実際、お前みたいにメメ殿に守られた騎士はいっぱいいる。──でもさ、彼女の戦い方、恐ろしくてたまらないと思わないか?」

「いや、綺麗だったが」

 

 戦場で垣間見た、彼女の戦いを思い出す。紙一重で敵の攻撃を避け、一撃で敵を沈めるその様子は、今でも鮮明に思い出せる。

 

「カーッ!お前もその口か!信者タイプ!」

 

 マイクは呆れた、とでも言いたげに、自分の額を叩いた。大きな手のひらに叩かれた皮膚が、いい音を鳴らす。

 

「……信者タイプ?」

「メメ殿のあの、死なんて恐ろしくもなんともないって戦い方に魅了されちまうやつのこと!」

「そんなやつがいるのか」

「いるらしいぞ。それで大抵長生きしない。あんな狂人の戦い方を真似するもんだから、みんなあっさり死んじまう。──あの英雄様は、ある意味死神だよ」

 

 勝手に憧れられて勝手に死なれるメメ殿も気の毒だな、なんて言葉に出さずに留める。また異常者を見る目で見られそうだったからだ。

 それに、俺は信者か、と言われるとそうではない気がする。

 

「いやでも、俺は別にメメ殿に憧れて死に急ぐような勇ましい人間じゃないぞ」

「本当か?」

「ああ、彼女の戦い方が綺麗だったのは確かだが、自分もああなりたいとは思わないな。正直、今日の初陣で自分の無力さは散々味わったしな」

 

 過酷な訓練を乗り越えた、という自信は、あの殺意漲るゴブリンと対面した時点で粉々に砕かれた。俺はきっと、戦争の主役になれるような特別な人間ではない。

 

「──瞳がさ、壊れそうだったんだよ」

「は?」

 

 戦場で言葉を交わした、その美しい顔を思い出す。燃えるような赤髪とは対照的に、黒い瞳は深い闇を湛えていた。

 

「メメ殿の黒々とした瞳はさ、目の前にある死をしっかり見据えていて、その上でなお、死に向かっていっている。──それが、たまらなく綺麗だったんだよ」

 

 つい熱くなって語ってしまって、すぐ我に返る。湯の熱さにあてられただろうか。

 マイクが胡散臭いものを見る目で見てくる。

 

「……何言ってんだお前」

「……何言ってんだろうな、俺。初陣のプレッシャーでおかしくなったのかもな」

 

 ハハハ、と誤魔化し笑いをする。それを見たマイクは、本当に大丈夫かよなどと言いながらも肩まで湯に浸かり出した。

 ……マイクがねちっこいタイプじゃなくて助かったな。正直、自分でも何言ってんのか分からなかったし。

 

 手で軽く湯を掬って、顔にかける。雲の上の人間にばかり気を取られるのは止めて、自分のことに集中しなければな。明日また、俺は一歩間違えば死んでしまう戦場に行くのだから。

 

 そんな俺の考えは、あっさりと無駄になった。

 

 

 浴場を出て、マイクと雑談しながら歩いていた俺を迎えたのは、意外な人物だった。

 

「め、メメ殿……?」

 

 見覚えのある、小さな影だった。周囲の騎士たちの目を惹く赤髪が、こちらの姿を確認すると、ずんずんと近づいてきた。誰を探しているのかと思えば、メメ殿の黒い瞳は真っすぐに俺を見つめているようだった。やがて、俺の目の前で彼女が止まる。

 平時に会うと、メメ殿の背が案外小さいことが分かった。

 慌てて、上官にするように敬礼をする。

 

「敬礼などいらん。俺は騎士じゃない」

 

 凛とした声だ。簡潔に言いたいことだけを言うその態度は、彼女の無駄を削ぎ落した剣術にも似ていた。

 

「ハッ。……何用でしょうか?」

 

 ぞんざいに手を振ったメメ殿に、問いかける。黒い瞳は、ずっと俺の目を見ていた。

 

「単刀直入に言おう。ケビン、お前は明日から魔法学院に通え。推薦状はもう書いた」

 

 小さな口から出てきたのは、想像もしていなかった言葉だった。

 

「は?しかし、平民出の自分には魔道の学など──」

「騎士団長から許可は取った。お前が首を縦に振れば今すぐにエリートの魔法使いの仲間入りだ。よかったな」

「いや、しかし自分は騎士として……」

「お前には才能がある。魔道を極めれば、その細腕で剣を振るうよりもずっと人を助けられる。俺が保証しよう」

 

 人を助けられる。その言葉に、心が大きく揺れる。それは、俺が騎士になった理由そのものだ。けれど、それだけで唯々諾々と首を縦に振るほど俺は単純じゃない。

 

「なぜそんなこと──」

「あいっかわらず女々しい奴だな!お前が魔法学院で成功できなかったら、俺が何だってしてやるよ!いいから行け!」

「はい」

 

 ふん、とメメ殿は軽く鼻を鳴らすと、スタスタと去っていった。呆然と眺める騎士たちの目線など、気にも留めていない。こちらの事情など斟酌することもなく、ただ言いたいことだけ言って去っていった。まるで嵐のようだった。

 

「なあケビン、本当にあの英雄様がいいのか?」

 

 マイクの呆れたような問いかけ。もちろん、答えは決まっている。

 

「なんでも!してくれるって!」

「何期待してんだ馬鹿!」

 

 マイクの太い腕が俺の頭を叩き、いい音を鳴らした。

 

 

 ◇

 

 

 メメ殿と出会ったその日、俺は不思議な夢を見た。

 

 そこは戦場の一角のようだった。曇天の下の崖上にいる俺からは、眼下に広がる命の取り合いを一望できる。吹き付ける風の音にも負けず、怒号と慟哭がここまで聞こえてきた。

 

 なぜか魔法使いのようなローブを羽織った俺は、オスカー殿の背中を見ていた。戦場を眺めていた彼が振り返り、黒い瞳が俺を捉えた。

 目があった瞬間、不思議な確信があった。──これは、オスカー殿ではない。メメ殿の目だ。ボロボロで、壊れそうで、でもひたむきに前を向こうとしている、今にもバラバラになりそうな黒曜石。

 

「ケビン、捉えられたか?」

「ああ、黒髪の女、凄まじい魔力を持つ魔族。あれだろうな。捉えたぞ、魔王の姿」

「そうか。流石、遠見と探索の魔術だけはオリヴィアをも凌ぐ天才なだけあるな」

「だけは余計だ。それに、比較対象が我が校の主席様じゃあ俺なんて未熟者の魔術師だよ」

 

 軽口を叩く俺は、親し気にオスカー殿の姿をしたメメ殿と話していた。

 夢を見る俺に、ぼんやりとした記憶が流れ込んでくる。魔法学院での仲間たちとの研鑽。彼との競争。そして、戦地で散っていく同級生たち。

 

「本当に、あのヤバそうな魔王のところで突っ込むのか?」

「ああ。王国の騎士団は崩壊寸前。他国もこの期に及んで人間同士で争っている愚鈍さだ。いや、それも魔王の策略だったのかもしれないがな。──とにかく、もう俺がやるしかないってことさ」

 

 やるしかない、と勇ましく事を言う彼は、しかしその手を小刻みに震わせていた。

 俺は、そんな彼の背中を勢いよく叩いた。

 

「イッタ!何しやがるケビン!」

 

 憤慨しながら振り返る彼に、静かに語り掛ける。

 

「人類が滅ぶとしたら、それはきっとみんなが愚かだったからだ。だから、お前が背負う必要なんてねえよ、勇者様」

「──それでも、俺は勇者だ。人類の希望だ」

 

 頑なな彼の瞳は、自分が全てを背負っているのだと言っているようだった。

 

「……重症だなあ。何がお前をそうさせたんだ?」

「さあな。ほら、お前はさっさと下がれ。俺はあの魔王の首を獲って帰ってくる」

「馬鹿言うなよ。ここでお前と一緒に死ななかったら、俺はいつ死ねばいいんだ?」

 

 俺の言葉に、彼は目を見開いた。その瞳に、葛藤が生まれ、やがてそれは諦観へと変わった。

 

「……感謝はしないぞ」

「いらねえよ。俺の魔術を合図に突っ込む。いいな?」

「ああ」

 

 俺は彼と拳をぶつけ合うと、崖下へと身を躍らせた。

 



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69 痛みこそ救いなり

 春になり、人類領と魔族領を隔てるエーギ山脈に積もった雪が溶ける頃のことだった。魔王軍は、昨年までの大人しさが嘘であったかのように、大規模な攻勢を仕掛けてきていた。

 現在の戦地は、秋にジェーンが魔王軍を一掃したヤカテ平原だ。だだっ広い平原には、大地を埋め尽くさんばかりの魔物が並んでいた。

 俺にとってはもはや見慣れた光景だ。

 

 

 今日も今日とて、魔物を切り裂き、魔族を魔術で狙撃し、騎士どもに目を配る。

 

 死が、俺の目の前にある。魔物たちが俺を殺そうと殺到してくる。時折掠める攻撃に、俺の脆い体から血が流れる。

 ──ああ、やはり俺の居場所はここにあった。この世の地獄である戦場で、俺は俺の罪への罰を受ける。痛覚だけが、俺の身を蝕み続ける罪悪感を赦してくれる。

 どうしてこんな大事なことを忘れていたのだろう。どうしてジェーンが死ぬまで思い出せなかったのだろう。

 

 魔物を蹴散らし、傷を受けながら戦場をひたむきに前に進んでいくと、気づけば周囲には魔物の姿しかなかった。殺気立つ魔物たちの目が俺を囲み、襲い掛かる時を今か今かと待っていた。

 孤立無援。あるいは絶対絶命。そんな言葉が今の俺には相応しいだろう。

 

 やがて、数えきれないほどの小柄な影が俺を囲む。その正体はゴブリンだ。魔物の中でも最弱に近いような弱い種族だが、とにかく数が多いのが厄介な種族だ。

 知能に劣るゴブリンは、目の前にいる獲物を相手に我慢できなかったらしい。取り囲んだにも関わらず、一体が、醜い雄叫びを上げながら、突出してくる。

 

「フンッ!」

「ギギャ!」

 

 手始めに、飛び掛かってきたゴブリンを斬り捨てる。勢い良く振り下ろした大剣は、ゴブリンの薄い体を容易く切り裂いた。

 まずは一体。だが、敵はまだまだたくさん襲い掛かってきている。

 

 息絶えたゴブリンの体を持ち上げ、火を着ける。油の乗った体は、煌々と燃えだした。そして俺は、燃え続けるゴブリンの死体を、同族の元に投げつけてやった。

 密集するゴブリンの群れに着弾した燃焼する死体。炎はただちにゴブリンたちの体を包み、その体を伝って延焼していく。勢い良く燃え上がる炎が、ゴブリンたちの緑色の矮躯を蹂躙した。

 

「ギィアアアアアアアア!」

 

 次々と上がる悲鳴が、まるで合唱のように戦場に響き渡る。黒煙が狼煙のように戦場の一角に上がり、あたりを悪臭が漂った。

 

「ハハハ、臭いな。ゴブリンの丸焼き。とても食えそうにない」

 

 肩をすくめて言う。すると、人語を理解する頭はあったらしいゴブリンたちの瞳が、憎悪に染まった。その数も相まって、なかなかの迫力だ。

 炎に蹂躙されたとはいえ、まだまだ生き残りは多い。俺は、胸中を支配する高揚に任せて、高々と叫んだ。

 

「ハハッ!いいぞ、来い!」

「ギィ!」

 

 ゴブリンたちは、その身に似合わぬ知能を発揮し、息を合わせた攻勢を仕掛けてくる。

 正面から三体。左右に一体ずつ。さらに、息を潜めて後ろから一体迫ってきている。

 

「『炎よ!』」

 

 正面から突っ込んでくるゴブリンに、火球を放つ。一体に直撃し、その身を燃やす。先ほどの惨事を見ていたゴブリンたちの足が鈍った。

 

「そこだ!」

 

 動揺するゴブリンへと走り、素早く剣先を突き出す。確かな手ごたえ。さらに、翻り一閃。背後から迫ってきていたゴブリンが、醜い断末魔を上げた。

 切り裂いたゴブリンの体からは血と臓物が飛び出し、俺の体を濡らした。強烈な悪臭に、俺は哄笑した。

 

「ハハハハハ!」

 

 血の赤に包まれる視界に、憎悪に顔を歪ませたゴブリンたちが殺到してくるのが見える。いつの間にか数は先ほどよりも増えて、十体以上いた。その勢いは凄まじく、戦えばきっと俺は無傷では済まないだろうと予感した。

 

「──ああ、最高だ」

 

 俺は目の前の死へと向けて、一歩踏み込んだ。

 

 

 

 

「──ハッ!」

「ギギャッ!」

 

 頭上に掲げた大剣を振り下ろす。剣の重さを利用した一撃は、ゴブリンの脳天に直撃すると、頭蓋骨ごと脳を破壊せしめた。

 赤黒い肉片を体に浴びながら、俺は大剣を大きく振るい、血を払った。疲労した腕に走る痛みに少し顔を顰めながら、周りを素早く見渡す。

 

 あれほど群れていたゴブリンは、俺の周囲で骸と化していた。死骸に死骸に積み重なり、悪臭が漂っている。その異様な光景に恐れをなしたのか、他の魔物たちは近づいてくるのを躊躇しているようだった。

 

 死骸を踏みつけて、俺は新たな獲物を探すべく、一歩を踏み出した。すると、仲間の死体を踏みつけたことに怒っているかのように、ゴブリンたちが再び押し寄せてきた。先ほどの再現のような光景に、俺は違和感を覚えた。

 

 ゴブリンのような知能の低い魔物は、自分よりも遥かに格上だと悟った相手に対しては、逃げ腰になるのが普通だ。野蛮な種族だからこそ、強者に対して決して立ち向かうことはせず、上官の命令を無視してでも逃亡し始める。

 

 違和感はそれだけではなかった。先ほどから思っていたことだったが、知能の低いゴブリンたちにしては、統率が取れすぎている。

 ただ野蛮なゴブリンを力で従えているだけではないような感覚。記憶の中から似た状況を探し出し、推察する。ゴブリンの裏にいるのは何か。

 

「ゴブリンロードか……」

 

 ゴブリンロードは、ごく一部の長い時を生きたゴブリンが成長した姿だ。ゴブリンらしからぬ知能と戦闘能力を持ち、下級のゴブリンたちの指揮を執ることができる厄介な個体だ。あれがいるなら、このゴブリンたちの息の合った攻撃にも納得がいく。

 

 思考を巡らしている間に、いつのの間にか囲まれていた。見渡す限りの、ゴブリンたちの敵意の籠った目。

 

「……ちょうどいい。どの道俺から出向くつもりだったんだ。来いよ、劣等種」

「ふざけるなよ脆弱な小娘が!仲間の仇、取らせてもらうぞ!」

 

 勇ましい声と共に、駆け出してくる。ゴブリンたち。……仇、か。

 

「──仇?それは俺の台詞だ!」

 

 同じ思考を抱きながら全く相いれない両者は、やがて激突する。たとえゴブリンたちが固い絆に結ばれていて、死者の無念を晴らそうとしていたとしても、それは俺には関係のないことだ。そんな葛藤は、とうの昔に切り捨てた。

 

 ゴブリンの粗末な短剣を身を屈めて避ける。頭上を掠めた刃先が、髪を数本切った。攻撃を終え無防備なゴブリンに、俺は低い姿勢のままで体当たりをかました。緑色の矮躯が吹き飛ぶ。俺はそれを追うことはせず、素早く振り返った。

 視界いっぱいに映る、ゴブリンの姿。十を優に越えるそれは、並みの騎士ならば死を覚悟する光景だろう。でも、俺にとってはもはや見飽きた光景だ。

 

「炎よ!」

 

 先ほども見せた詠唱をするふりをすると、俺の周りの惨状を見ていたゴブリンたちの動きが鈍る。しかし俺は魔術を発動するわけではなく、大きく飛び、弧を描きながらゴブリンたちの元へと向かう。

 

「魔法じゃないのか!?……クソッ、迎え撃て!」

 

 魔術が来ると思い、逃げようとしていたゴブリンたちは、俺の突貫への対処が遅れていた。

 

「ォオオオオオオ!」

 

 中空から振りかぶった大剣を、着地と同時に力任せに地面に叩きつける。地が震え、ゴブリンたちがふらつき、転倒する。

 隙だらけのその体を作業の如く切り裂いていく。だが、敵もやられっぱなしではなかった。

 

「調子に乗るなああああ!」

 

 態勢を立て直した小さなゴブリンが、短剣を突き出してくる。ちょうど他のゴブリンの腹を掻っ捌いている所だった俺は、それを避ける手段がなかった。

 

「グッ……クソがっ!」

 

 脇腹に突き刺さる短剣。体に異物を差し込まれたままで、俺は決死の反撃をしてきたゴブリンを殴り飛ばした。人外の力で振るわれた拳は、その矮躯を軽々と吹き飛ばした。

 これ以上の反撃を警戒して周囲を観察した後で、俺は痛みの元である短剣を引き抜いた。とたんに、傷口から血が溢れ出してきて、服を赤く染めた。……痛みの他にも体に違和感がある。じくじくという痛み。脳に靄がかかったように、考えが纏まらない。これは毒か……?

 

 毒物の類は、勇者だった頃の俺には全く効かなかないものだった。女神に祝福された体は、人間の作った毒程度に害されるほど柔ではなかったのだ。しかし今、俺の体は魔物の作った毒に冒されている。

 

「……悪くない」

 

 継続的に痛みに苛まれる体。奪われていく思考能力。──失敗した俺にふさわしい罰だ。

 

 僅かに震える両手できつく剣柄を握りしめ、俺は再び駆け出す。足元の感覚はなんだかふわふわとしていたが、俺の体は確かに目の前にある魔物の大群という死に向かって、確実に歩んでいた。

 

「──ああ、最高の気分だ!」

 

 

 



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70 ゴブリンロード

 体内に侵入した毒に犯されたままに、俺はゴブリンたちを蹴散らしていた。毒の影響か、吐き気は止まらず、全身に力が入りづらい。刺された脇腹のあたりはずっと痛みを訴えかけてきていて、振るう剣はいつもよりも遅く、勢いがなかった。

 それでも、ゴブリンを蹴散らすだけならなんとかこなせた。相変わらず凄まじい数で俺を包囲してきたゴブリンたちだったが、精細を欠く体で、なんとか倒していく。気づけば、俺の周りは死屍累々で、濃厚な血の匂いが充満していた。

 

 しかし、普通のゴブリン相手に鎧袖一触とも言える俺に、危機が迫っていた。

 

 その襲来は、あまりにも突然だった。目の前にいる緑色の矮躯に大剣を振り下ろした、その瞬間だった。

 

「ッ!」

 

 尋常ならざる気配に、全身の毛が逆立つような感覚を覚える。直感に従って、素早くバックステップ。すると、先ほどまで俺の立っていた所に、巨大な何かが飛来した。

 大きな体が、俺を押し潰さんと空から落下してきていた。それは轟音と土煙と共に着地すると、地面をへこませ、ビリビリという衝撃が離れた俺にまで伝わってきた。

 

 やがて、その巨大な影は俺に向き直る。

 

「……ついに来たか、ゴブリンロード」

 

 通常のゴブリンとは比べようもないほどの、巨大な躰だった。俺の倍はありそうな高さに位置する目玉がぎょろりと俺を見る。殺気の籠った黄色い瞳。

 

 

「オデの家族を殺したのはお前かああああああああ!」

 

 滑舌の悪い叫び声を上げたかと思うと、太くて長い足が一瞬で地を駆ける。瞬く間に俺の元までたどり着いたゴブリンロードから、信じられない速度で棍棒が振り下ろされた。

 

「ッ!相変わらずの馬鹿力だな……!」

 

 素早く飛び退き、攻撃を避ける。棍棒が地を揺らし、衝撃に足を取られそうになる。地面を強く踏みして、なんとか攻撃の姿勢に移る。

 棍棒の着弾地点から飛んでくる土砂に向かって進んでいき、攻撃直後で隙だらけの巨躯に、大剣を突き刺す。

 ──確かな手ごたえ。脇腹から突き刺した剣先は、内臓まで届いたようだった。

 

「ガアアアアアア!」

 

 鼓膜をビリビリと揺らす悲鳴。しかし、生命力に長けたゴブリンロードは、これくらいでは倒れてくれないだろう。

 

「まだ!」

「──オデを、舐めるなああああ!」

 

 引き抜いた大剣を、今度は振りかぶる。対するゴブリンロードは、一撃もらったのにまだ元気そうだ。

 力強く振り下ろされる棍棒に、大剣を打ち合わせる。吹き飛ばされてしまいそうな衝撃だった。地面に踏ん張る足が、僅かに後退する。

 

 力比べは少し分が悪かったが、ゴブリンロードは駆け引きの類のできない脳筋だ。ここから崩せば──!

 

「オオオオオオ!オデの!家族の仇ィィ!」

「クッ……」

 

 その言葉に、全く動揺しなかったと言えば嘘になる。

 得物を打ち合わせている状態から、僅かに俺が押し込まれる。

 言ってしまえばそれは、気迫の差だったのかもしれない。

 

「カッ!」

 

 そして、最悪は重なる。俺の体を巡っていた毒の効果が、最悪のタイミングで体を蝕んだ。吐き気と共に、剣を支えていた両手の力がガクリと抜ける。

 ゴブリンロードが、そんな隙を逃すはずもなかった。

 

「グオオオオオ!」

 

 拮抗状態から解き放たれた棍棒が、大きく振り上げられる。落雷の如く勢いで振り下ろされたそれは、俺の脳天を直撃した。

 頭が潰れたかと思う程の衝撃と共に、視界に火花が散る。生温い鼻血が飛び出て、顔を濡らした。

 意識が朦朧とする。思考を巡らすことも、体を動かすこともできない。自分が立っているのか座っているのかすら分からなくなっていた俺には、追撃を防ぐ術などあるはずもなかった。

 

「これで!トドメだああああああ!」

 

 ゴブリンロードの叫びが、耳鳴りの奥でぼんやりと聞こえた。

 風切り音と共に迫ってきた棍棒が、俺の腹部を直撃する。横なぎからアッパースイングに変わった棍棒に、物干し竿にかけられたボロ布の如く張り付いた俺は、そのまま上空高々と打ち上げられた。

 

 錐揉みしながら浮き上がった俺は、空中でようやく意識がはっきりとした。重力に従い、凄まじい勢いで迫ってくる地面。

 落下地点では、ゴブリンロードが棍棒を構え、俺が落ちてくるのを今か今かと待ち受けていた。落下の勢いに合わせて棍棒でも打ち付けられれば、今度こそ耐えれる気がしなかった。

 

 ──死が、眼前で手をこまねている。救いが、手の届く所に存在する。その状況に、俺の全身の細胞が騒ぎ始めた。

 やっと、終われる。救いが、目の前にある。

 

「──違う!まだだ!まだ、俺は生という償いを、全うできていない!」

 

 全て諦めて、この苦しいだけの生に終止符を打とうと囁きかけてくる本能に否を突き付けて、俺は考え続ける。この状況を打開する、最善策。

 長い間で蓄積した記憶を手繰る。頭から落下して死んだ記憶。受け身に失敗して足の骨が砕けた記憶。魔術を利用して宙を舞った記憶。空中から奇襲を仕掛けた記憶。──これだ。

 

「『風よ!』」

 

 なけなしの魔力で、風を発生させる。ただし、上に、ではなく、下に、だ。

 

「馬鹿な!死ぬ気か!?」

 

 落下する俺の体が、風に乗って加速する。無防備に落ちてくる俺を打ち付けるだけのはずだったゴブリンロードが、驚愕の声を上げる。

 目指すは、巨大な緑色の体躯の真上だ。俺は大剣を突き出して、自由落下に身を任せた。

 

 加速する。加速する。加速する。重力に囚われた体は、ゴブリンロードへ向けて進み続ける。──この攻撃が外れれば、きっと俺は地面のシミとなるだろう。

 

「ォオオオオオオ!」

「グッ……」

 

 やがて、ゴブリンロードの巨体が目の前に迫ってきた。空中からの突きを繰り出した剣先に、ゴブリンロードは器用に棍棒を合わせてきた。──しかし、その程度では止まらない。

 

 急降下した大剣の勢いは全く衰えず、突き刺した棍棒を真っ二つにした。

 

「クソッ!オデはまだ、子分たちの仇を取れていないのに……!あああああああ!」

 

 迫る死を目にしたゴブリンロードの最期の言葉はそれだった。

 大剣が顔面に勢いよく突き刺さり、そのまま体内深くへと侵入する。

 顔面から腹部まで深々と刺されたゴブリンロードは息を止め、地面へと倒れ込んだ。その呼吸は、もう止まっていた。

 

 ゴブリンロードの柔らかい体に剣を突き刺すことで勢いを殺した俺は、なんとか地面に降り立つことができた。

 巨体に深々と突き刺さった大剣を、渾身の力を籠めることでなんとか抜き出す。へばりついた血を払うために軽く振るうが、柄の付近までついた血痕は完全には取れなかった。

 

 

 今しがた殺したゴブリンロードの体を見下ろす。その顔は、死ぬことへの絶望と苦痛に染まっていた。

 復讐を志し、成し遂げることなく死んでいったゴブリンロード。その死にざまが他人事とは思えなかった俺は、その亡骸に近づき、見開かれた瞼をそっと閉じた。

 

 

 ◇

 

 

 俺がゴブリンロードを倒してすぐ、魔王軍は撤退を始めていた。その手際は見事なもので、きちんと固まって下がっていく魔王軍に、王国軍は追撃を諦めざるを得なかった。

 正直、満身創痍だった俺はなんとか助けられたと言っていいだろう。──助かってしまった、とも言える。

 

 毒は、どうやら俺の体に残った勇者の力の残滓が少しずつ分解してくれたらしい。拠点に戻る頃には、吐き気も倦怠感もめまいもすっかりなくなっていた。

 

 ゆっくりと歩いて帰ってきた俺を迎え入れたオスカーは、少し眉を下げて声をかけてきた。

 

「おかえり、メメ。……すごい血の跡だね」

「ああ。『水よ、身を清めよ』」

 

 湧きだした水が俺の体を洗い流すと、体中に刻まれた傷に沁みた。

 

「……魔術もいいけど、カレンたちとお風呂に入ってきたらどう?疲れてるでしょう」

「いや、いいよ」

 

 背を向けて断るが、オスカーは俺の肩を掴んできた。意外にも力強い右腕に、彼の方を振り返る。

 

「でもさ、メメ。君は最近ずっと戦い続きで、疲れているんじゃない?一度、みんなと話でもしながらゆっくり体を休めたらどうかな?」

「俺のことは気にしなくて大丈夫だ。お前らはしっかり体を休めろよ」

 

 オスカーの提案を断り、足早にその場を去る。その様子を遠くから見ていたカレンとオリヴィアが、何か言いたそうにしていた。

 

 

 自室まで帰ってくると、疲れ切った体をベッドに横たえる。陽はまだ沈み切っていなかったが、疲労とダメージの蓄積した体は、すぐにでも眠りにつけそうだった。

 今日くらいは、悪い夢を見ないかもしれない。

 そんな期待は、あっさりと裏切られることになった。

 



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71 バッドエンドの記憶 ダークエルフとの邂逅

 今の俺にとっての仇、ダークエルフのロゼッタと初めて出会ったのは、ちょうど今と同じくらいの時期、同じヤカテ平原で戦っている時のことだった。

 

 

 

 

 平原に広がる見渡す限りの緑色。自然の緑よりもずっと毒々しいそれは、おびただしい数のゴブリンの群れだった。

 

「ま、まだあんなに敵がいるのか……? 無理だ! 無理に決まってる!」

「弱音を吐くな! これまでに散っていった勇士たちに顔が立たないだろうが!」

 

 ゴブリンを迎え撃つ騎士たちに間には、動揺が見られた。当然だろう。敵の数は全く減っている様子を見せず、反対に騎士の数は日を追うごとに減っているのだから。

 

 連日の平原での総力戦は、王国の騎士たちに少なくない損害を与えていた。息絶え、平原のシミとなった騎士。行方知れずとなった騎士。治癒魔法でも治せないほどの重傷を負い、前線を退く騎士。

 高い損耗の要因をあげるとすれば、やはり圧倒的な数で攻めてくるゴブリンたちの存在だろう。

 

 広々とした平原に展開されたゴブリンの数は、騎士たちの十倍にも及ぶ。死力を尽くしている騎士たちだったが、圧倒的な数の暴力に押されて、1人、また一人と命を落としていった。

 

 そんな苦しい現状を思い出しながら、俺は剣を携え、ゴブリンたちの襲来を待っていた。そんな時、後ろに控える騎士のひそひそ声が、風に乗って聞こえてきた。

 

「……なあ、やっぱりこっそり逃げださないか? 今ならまだ間に合うって!」

「馬鹿、そんなことしても、貴族様に殺されるだけだぞ!」

「あの薄汚いゴブリンに殺されるよりずっとましだ! それに、そっちの方が生き残る確率だってずっと高い!」

 

 ──まずいな。士気の低下もいよいよ無視できない段階になってきている。主に平民出の、新米の騎士を中心に、暗い雰囲気が漂っている。

 それも無理ないと思う戦況なのは確かだが、騎士の敵前逃亡を許してしまえば、いよいよ戦線が崩壊してしまう。

 

 やはりこういう時は、勇者の出番だろうか。深呼吸を一つして、覚悟を、他人を死地へと追いやる覚悟を決める。

 

 俺は整列した騎士たちの方へと向き直ると、黄金色の光を放つ聖剣を抜き放ち、天に向けて掲げた。

 そして息を大きく吸い込んで、最後列まで届くように叫びはじめた。勇者の規格外の肺活量から発せられる宣言が、大気をビリビリと揺らした。

 

「──恐れるな! 勇敢なる人類の守り人たちよ! 女神様の寵愛を受けたこの俺が、十代目の勇者たる俺がここにいる! 我らの戦いは女神様に見守られている! 勝利は約束されたも同然だ! そのことを、この俺が! 身をもって証明してみせよう! ──いくぞおおお!」

「……オ、ォオオオオオオ!」

 

 聖剣は天に掲げたまま、俺は雄たけびと共にゴブリンの群れの元へと突っ込む。すると後ろにいる騎士たちの方からも、気合の入った叫びが聞こえてきた。

 ああ、なんとかこの合戦までは騎士団は持ちそうだ。

 

 チラと後ろを見る。後ろにいる騎士に背中を押されるように前へと進む新米騎士と思われる影。──俺が殺すようなものだった。

 

 

「いけえええええ! 押し込めええええ!」

「劣等種どもが殺されるために来たぞ! 捻りつぶしてやれ! 我ら魔王軍の方が優れていることを、証明するぞ!」

 

 金属がぶつかり合う音がする。やや遅れて、魔物と人間の断末魔。やがて敵味方入り混じる混戦が始まり、戦場には濃厚な血の匂いが漂うようになった。俺は人類の最前線に立って、魔物たちの肉体を切り裂いていた。

 誰よりも多く魔物を殺し、後ろにいる騎士たちへと血塗れの背中で語り掛ける。まだ、人類は終わってない。魔王を殺して、死んでいった奴らに報いることはまだできる。

 

 しかし魔王軍は、圧倒的な力を持つ勇者を野放しにはしなかった。

 

 突如として、戦場中に高々と声が響き渡った。声は魔法で拡張されているように不自然に大きく、殺し合いのさなかにある俺の耳にもはっきりと聞こえた。俺は目の前の大柄なゴブリンの喉元を切り裂いてから、耳をすます。

 声の主は、ゴブリンたちの肉壁の後ろにいるようだった。

 

「──聞け、愚かな人間ども! 私はこの醜いゴブリンどもの指揮を任された、魔王軍の幹部だ! 先ほど勇ましい声を上げていた勇者とやら! 強者同士、正々堂々と決着をつけようぞ!」

 

 その声に応じて、横に大きく展開していたゴブリンたちの壁に、突如として穴が開いた。ゴブリンの間を通り、敵の本陣まで来いということらしい。

 

「……罠、だろうな」

 

 しかし、先ほど騎士たちを鼓舞するために自信に満ちた宣言をした手前、逃げるわけにもいかなかった。ここで俺が逃げだしてしまえば、辛うじて保たれている騎士たちの士気が決壊してしまう恐れすらある。

 

 俺は挑発に乗って、危険だと分かっていながらもその道を進む。

 

「人間……?」

 

 血走った目で俺を眺めているゴブリンたちの傍を通り、やがて見えてきたその影は、一見人間の女であるようだった。

 最初に目を引いたのは、褐色の肌だった。引き締まった体には、余分な脂肪は少しもないようだった。

 やや切れ長の目と、現実離れした美貌には、見るものを圧倒する迫力がある。

 恐ろしいほどに整った顔だが、違和感が一つ。暗い青色をした瞳は、右目のだけ不自然なほどに光り輝いていた。

 褐色の肌とは対照的な純白の髪が、背中に流れている。

 

 そして、その身に纏う魔力は途方もなく、勇者である俺にも匹敵するほどだ。

 

 しかし注意深く眺めていると、決定的に人間と異なる点が見つかった。耳だ。両耳が、不自然に横に伸びている。

 ああ、これがエルフか。

 初めて見る姿だったが、そう理解できた。

 

「私を薄汚い人間と同じにするなんて、随分な挨拶だな。殺してやりたいくらいだ」

 

 その口調には、ありありと憎悪が籠っていた。それは俺個人に対するものというよりも、世界全てに対するものであるようだった。

 

「随分と人間が嫌いみたいだな。エルフは昔は人間と同じ暮らしをしていたと聞いたが」

「ああ。詳しいな勇者。我らエルフはかつて下等な貴様らと同じ場所に暮らし、時に助け合いをしていた。しかし! あの女神教なるものの宣言で、全て奪われた! 奴らはエルフは人間とは異なり、大神に創られた存在ではない、正しい存在ではないなどと言いだした! 薄汚い人間どもはこぞって我らを捕らえ、殺そうとしてきた! 平和に暮らし、人間に害を為すことなど一度もなかった我らをだ!」

 

 声高に、そして憎悪の籠った口調で、ダークエルフは自分たちの来歴を語り始めた。

 

「結果、我らは魔族領へと逃亡した。今代の魔王から、人間を根絶やしにする手伝いを頼まれた時、喜んで賛成したとも! ああ、これで我ら一族の四百年の恨みを晴らせるとな!」

 

 その瞳には、たしかに四百年の時で熟成された憎悪が沈殿しているようだった。

 

「だから、私たちは復讐するのだ! 浅ましい人間どもに! 偽りの正しさで人を扇動した女神教に! だから、お前をここに呼んだ」

「俺が、女神に祝福された者だからか」

 

 勇者とは、単に魔王を倒す存在というだけでなく、女神に最も近い存在とされ、女神教でも崇められる。

 しかしダークエルフは、俺の言葉を鼻で笑った。

 

「祝福! アッハハッ! 冗談だろ! 貴様の体にかけられたそれは、呪いと言う方が相応しいだろう! 私には貴様の魂の歪みが分かるぞ! 全てお見通しだとも! 貴様、時を遡り、何度も過去に戻り魔王討伐をやり直してきたのではないか!?」

「──なっ!?」

 

 初めて見破られた。数多の魔物と出会い戦ってきたが、俺が何度もやり直していることを指摘されたのは初めてだった。──それだけは、誰にも知られたくなかった。

 動揺する俺の様子を見て、ダークエルフの女はさらに言い募る。

 

「アッハハハハ! これは傑作だ! 勇者なんて大層な名前を付けられて、その実悪辣な女神の玩具にされているだけではないか! ──おい、聞いたか、連れの女!」

 

 俺の後ろの方を見て、女は言い放った。その言葉に、俺は心臓を直接掴まれたような恐怖を覚えた。

 恐る恐る、後ろを振り返ると、そこには遥か遠くで戦っていたはずのオリヴィアの姿があった。

 

「……そんな耳障りな大声を出さずとも、聞こえております」

「オリヴィア、どうしてここに!?」

「あなたを一人にするのは不安だったので」

 

 彼女の表情は、硬かった。

 

「オスカーさん、先ほどの話は本当ですの?」

「……ああ」

 

 恐る恐る返した俺の答えを聞いた瞬間、彼女の表情が見た事もない形相になった。拒絶、失望、嫌悪、その他あらゆる悪感情の籠った声で、彼女は俺を否定した。

 

「信じられません! あなたがそんな神の道に背くものだったなんて! そんな呪われた体で、よく人類の希望を名乗れたものですね! ──恥知らず!」

 

 初めて聞くオリヴィアの拒絶は、俺の胸にズシリと響いた。自分が勇者として為してきた全てが否定されたような感覚。それは、俺そのものの否定に他ならなかった。

 

「アッハハハ、おいおい、醜い人間同士で諍いか?」

 

 ダークエルフの女の声が、遠くで聞こえた。しかし、俺の頭ではずっとオリヴィアの言葉が反響していた。普段よりもずっと、心が動いてしまう。

 ──今思えば、それは不自然なまでの心の動きだった。魔法の干渉を疑うほどの。

 

「あ、ああああああああ!」

 

 やがて、直視できない現実に直面した俺は、半ば無意識に魔術を放った。

 火球の魔術。ひどい精神状態から放たれたその炎はひどく不安定だった。しかしオリヴィアならば軽々と防げたはずのそれは、あっさりと彼女に直撃し、その腹をぶち抜いた。血を吐いた彼女が、地面に倒れ込む。その瞳は、光を失うまでずっと俺を睨みつけていた。

 

「──え……なんで」

「ぷっ……あっははははははは! なんで!? なんでだろうなあ! おい勇者様! お前の連れの女はなんで死んだんだろうなあ! おいおいおい!」

 

 おかしくってたまらない、とでも言いたげに。女は喚く。

 それがあんまりにも不愉快だった俺は、ありったけの殺意を籠めて魔術を放った。

 

「『氷よ! 我が敵を穿て!』」

 

 高笑いする女の胸のあたりに氷柱は飛んでいった。命中、したように見えた。しかし、氷はその肉体を貫くことはなく、女の体を貫通していったようだった。

 

「あっははは! なんだ、その児戯みたいな魔法は! 勇者の名が聞いて呆れるな!」

「ッ! クソッ! 何故だ!?」

 

 哄笑していた女は、突如俺の目の前から姿を消した。──見えなかった。勇者の目を以てしても。

 俺の後ろに姿を現したダークエルフの女は、俺と全く同じ詠唱をした。

 

「『氷よ、我が敵を穿て』」

「くっ……」

 

 飛来した氷柱を、なんとか聖剣で弾き飛ばす。

 重たい手ごたえだった。両手にビリビリという感覚が残っている。おそらく、俺の同じ魔術よりも威力が高い。

 俺がなんとか魔術を防ぐ様子を見ていたダークエルフの女は、ふたたび嘲るような口調で語り始めた。

 

「アッハハ! 分かるか、人間! 私の使う魔法はお前ら人間の模倣、再現だ! 貴様らのような愚かな生き物には、自分たちの作り上げた技術で死に絶えるのが最もふさわしい! ……死に絶えろ!」

 

 今度は詠唱はなかった。女の後ろに、竜の形をした炎が顕現する。……見たことのある魔法だ。しかしかつて見たそれには、あれほどの大きさも迫力もなかった。離れた場所からでも伝わってくる熱量。明らかに、威力が高い。

 

 巨大な炎の竜が、俺の頭上から迫る。

 あの大きな顎に飲み込まれれば、全身を炎で包まれた焼け死ぬことになるだろう。

 

「『氷で形作られた龍殺しの剣よ、敵を打ち砕け』」

 

 いつかの決闘で使った、氷の剣を創り出す。あの魔法が相手ならば、これが一番有効なはずだ。

 

「──ハッ!」

 

 聖剣と同じくらいの大きさにした氷の剣を、巨大な炎の竜に突き出す。

 突き出された剣先が、そのまま竜を顎から切り裂ける、はずだった。

 

「なっ……くあっ!」

 

 氷の剣と接触したはずの炎の竜は、全く減速することなく、俺の体を包み込んだ。

 一瞬で俺の体に着火した炎は、速やかに体中を蹂躙しだした。

 

「ああああああああ! 熱い熱い熱い熱い! ゲホッ! ゲホッ!」

 

 熱さに絶叫すると、口内に煙が入ってきて咳き込んだ。

 全身が耐えがたい熱さに包まれる。煙が目に入り、痛みに涙が勝手に溢れ出した。

 ──そうだ、魔術で消火を! 

 

「『水よ……』ゲホッゲホッ! ァ……喉、が……」

 

 詠唱のために再び口を開けると一瞬で煙が入って来て、喉を焼いた。

 詠唱が中断され、魔術は不発となった。

 そこまできてようやく、俺は悟った。体を焼かれ煙に包まれた今の俺には、魔術を発動することすら叶わない。

 

 

 そうして、もはや頑丈な体と役立たずな聖剣しか持たない俺は、ただ炎の責め苦に地面をのたうち回ることしかできなくなった。全身が熱い。痛い。のたうち回っても全く楽にならない。

 炎で直接焼かれたのはこれが初めてだった。地獄のよう、という表現は、この瞬間のためにあったとさえ思えた。

 

 そして、何よりも、水が飲みたい! 喉が痛い、喉が痒い。全身が熱い、体中の水分が奪われているようだ、──ああ、水が欲しい! 

 

「ァァ……」

 

 なかなか死なない勇者の体が灼熱に晒されてどれほど経っただろうか。もはや体のどこにも力が入らなくなった。

 辛うじて生き残った聴覚が、ツカツカと歩み寄ってくる存在がいることを知らせてくれた。

 

「み、ずを……」

「……ふんっ」

 

 返答は、顔面への足蹴りだった。抵抗する気力も体力もなかった俺は、されるがままに地面を転がった。

 そして、乱暴に体を揺らされたことで、辛うじて生きながらえていた俺は限界を迎えたようだった。遠のいていく意識。最期の視界に映ったのは、俺を見下ろし、嘲笑するダークエルフの女の姿だった。

 

 

 

 

「ああああ! 水が欲しい水が欲しい水が欲しい水が欲しい!」

 

 飛び上がるようにベッドから起き上がり向かった先は、井戸だった。春先の早朝の井戸の水は、良く冷えている。それでも、夢の中の感覚が体にこびりついた気持ちの悪さを感じていた俺は、それを頭から被った。

 

「……夢だ。あれは、夢だ」

 

 自分に言い聞かせると、少し気が楽になってきた。もう一度水を掬い、口の中に大きく含む。冷たい水が喉を通過すると、夢から覚めてからずっと続いていた喉の疼きは治まっていた。

 

「……でも、あれは実際にあったことだ」

 

 オリヴィアに拒絶されたこと。オリヴィアを殺したこと。

 ……いいや、分かっているのだ。あのあまりにも不自然な状況。オリヴィアらしからぬ顔と、言葉。

 きっとあれはダークエルフお得意の幻術や精神干渉系の魔法の生み出した幻影だったのだろう。

 魔術について一層理解を深めた今なら、そんな推測は簡単にできる。

 

 しかし、だ。もう、俺にはあれが現実だったのか幻影だったのか、確認しようがないのだ。

 オリヴィアに拒絶されたのか、拒絶されていないのか。オリヴィアを殺したのか、殺していないのか。もう分からない。

 ──だから俺は、時間遡行によるやり直しを、誰にも口外できない。あの優しいオリヴィアにすら拒絶されてしまうのならば、誰にも話せない。

 

 ……前なら、こんな気持ちになった時にはジェーンと話をしていたっけ。思えば、俺の事ならほとんどなんでも知っているアイツは、俺にとってもっとも遠慮のいらない話し相手だったのだ。

 

 ……ああ、失ってからこんなことに気づくなんて、俺は馬鹿だな。

 



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72 前へと進む少年少女

 勇者パーティーの面々は、出来る限り夕食はみんな揃って取る。そんな慣習は、彼らが集結してから自然と決まり、ずっと守られてきた暗黙の了解だった。

 

「メメちゃん、今日も来ないね」

「うん。疲れてたみたいだから、もう寝たんじゃないかな」

 

 食卓についたカレンが言うと、オスカーが苦笑いをして返した。それを聞いたオリヴィアは、少しだけ眉を下げて下を向いた。

 

 テーブルの上には、四人分の食事が置いてあった。三人の前に置かれた食事と、もう一人分。今ここにはいない、メメの分だった。彼女は自分の分の食事は要らないと他の面々に伝えていたが、彼らは頑なに彼女の分を用意していた。

 

「ジェーンさんが死んでから、ずっとこうですのね」

 

 オリヴィアが悲し気に言う。原因がはっきりしているだけに、歯がゆい思いだった。

 

 ジェーンが死んだ。それは勇者パーティー全員にとって、大きな出来事だった。

 このパーティーで唯一の年長者で、優れた魔法使いだった彼の死。オスカーもカレンもオリヴィアも、衝撃を受けた。そして何よりも、悲しかった。

 けれど、自分たちが受けた衝撃は、メメに比べれば大したことないのだろうと思えた。

 

 メメとジェーンの二人の間に簡単に言い表せないような深い絆があることは、三人とも感じていた。それは家族のようだったかもしれないし、恋人のようだったかもしれない。

 あるいは、一番の理解者と言っても良かったかもしれない。

 何か三人には知りえないような特別なものがあることを、薄々と感じていた。

 

「……まあ、三人だけでも、ひとまず食べようよ。……いただきます」

 

 食事を始めてしばらく、会話はなかった。全員が黙って食事を進める時間は、やけに長く感じられた。

 全員の食器の中身が半分ほどになった頃、オリヴィアが口を開いた。

 

「……そういえば、今日も騎士の方々に感謝をいただきました。オスカーさんのおかげで命を救われたと、とても嬉しそうでしたわ」

「そっか。それなら僕も、戦っているかいがあるね」

 

 オスカーは心から嬉しそうに、ほほ笑んだ。その返答を聞いたオリヴィアは、少し安堵した。

 

 やはり彼は、勇者の器のある人間だ。オスカーの笑顔を見て、オリヴィアは確信する。

 人のために戦い、人のことを思える。ただ敵を打ち倒すだけでなく、人類の希望そのものとなる、勇者。

 彼のような人格者なら、その役目を果たすことができるだろう。

 

 カレンも似たような想いを抱いたのだろう。しみじみと、オスカーの成長を讃えた。

 

「オスカーもすっかり逞しくなっちゃったよね。メメちゃんの後ろをおっかなびっくり付いていってた昔が嘘みたい」

「そ、そんなに僕情けなかったかな……」

「まあ、あながち間違いでもありませんね。聖剣に振り回されて尻もちをついていたこと、私はよく覚えております」

「女性陣はみんな僕に厳しいよね……。勇者ってもっとチヤホヤされるものじゃないのかな……?」

 

 美人の幼馴染に好かれているのだから、十分ではないか。オリヴィアはしょんぼりとするオスカーを眺めながらそう思った。

 

「しかし、実際オスカーさんがもうメメさんの助けを必要としなくなりつつある、というのは少し気がかりですわね」

「……僕はいつでもメメのことを頼もしく思ってるけど……どういう意味?」

 

 オスカーが訝しむ。オリヴィアは、真剣な表情で言葉を続けた。

 

「メメさんは、オスカーさんを導くという自分の役目が終わったと思っているのではないでしょうか。──つまり、ジェーンさんの死に続いて、メメさんが死なずにいる理由がまた一つなくなった、というわけです」

「随分怖い言葉を使うね。……メメちゃんが死にたがっているってこと?」

「ええ、おそらく」

 

 おそらく、という言葉を使ったが、オリヴィアはそれを確信しているようだった。

 

 オリヴィアが出会ったばかりの頃は、戦いの経験も乏しく、剣士としても魔術師としても未熟だったオスカー。かつての彼は、体が強いだけのただの村人だった。

 しかし今では彼は、立派な勇者だ。それは彼がひたむきに努力してきた結果が実ったと言えよう。

 

 メメから剣術を学んだ。決して優しいとは言えない彼女の指導に、必死で食らいついていた。何度地を舐めようと立ち上がる姿を、オリヴィアはよく覚えている。

 

 魔術について、オリヴィアから学んだ。無学な平民だった彼は最初は勉強に苦労していたが、勘を掴むとどんどんと上達していった。オリヴィア自身も、一生懸命なオスカーに魔術を教えるのは楽しかった。

 

「オスカーさんがメメさんから学んだのは剣の扱い方だけではない。そうですよね?」

「そうだね。戦いへの心構えとか、勇者のあるべき姿とか、もっと根本的なことを彼女の背中は教えてくれた気がするよ」

 

 教えてくれた、とオスカーは過去形で話した。

 それはつまり、彼はもうメメの教えから羽ばたきつつあるということだろう。オリヴィアは推測する。

 

 オリヴィアは説明を続ける。仲間たちに、メメがどういう状況にあるのか知ってほしいから。どうすれば彼女を救えるのか、一緒に考えて欲しいから。

 

「例えば、死に向かって進み続けるメメさんを現世に繋ぎとめる鎖があったとしましょう。ここで言う鎖とは、人との関係性のことです。しがらみと言ってもいいかもしれません。例えば、オスカーさんに必要とされているという鎖。ジェーンさんとの絆という鎖。そんな大事なものがなくなった結果、メメさんは一層死へと突き進もうとするのではないでしょうか」

「今生きている僕たちとの絆っていう鎖だけでは、メメは踏みとどまってはくれないのかな」

 

 オスカーは真剣な表情で問いかけた。

 

「きっとメメさんにとって死の引力が強すぎるというだけです。私たちが絆を紡げなかったわけではないと、私は確信しています」

 

 だからこそ、歯がゆい。彼女を繋ぎとめる鎖となることができなかったことが。彼女が自分を大切にする理由となれなかったことが。

 

「……それじゃあ、アタシたちには何ができるのかな」

 

 カレンの言葉も真剣だった。だからオリヴィアも、気休めではなく真剣に答える。

 

「……今の彼女の様子では、私たちから何か語っても無駄でしょう。彼女が自分で変わるのを待つか。私たちが彼女に離れず付いていき、彼女を守るか」

 

 そこまで言ってから、オリヴィアは少し声音を変えた。高々と、彼女は一番言いたいことを言ってのける。

 

「──もしくは、彼女が死んでしまう可能性のあるこの戦争をさっさと終わらせてしまう、なんていうのはどうですの?」

 

 彼女は笑いながらそう言った。沈痛な顔をしていたオスカーとカレンは、その言葉を聞き、ハッとしたような顔をした。

 

「──いいね。一番単純で、分かりやすい」

 

 オスカーは、獰猛に笑った。その表情を見たカレンも、笑みを浮かべる。

 重い空気に包まれていた食卓が、少しだけ明るい雰囲気になった。

 

 二人の様子を見ていたオリヴィアは、改めて自分の発言が正しかったことを悟った。

 そうだ。難しく考える必要なんてない。全部終わらせてしまえばいい。彼女が死んでしまうリスクを排した後で、ゆっくりと彼女の気持ちを紐解けばいい。戦いの後ならば時間なんていくらでもあるのだから。

 

 そうして、少年少女は前を向いた。解決を未来の自分たちに託して、今できることをする。前向きで、希望に溢れていて、未来志向な考え方だった。

 では、失敗続きの少女は。過去の死に囚われ、己の罪の重さに呻き、復讐を志す少女は、いったいどこへ向かっているのだろう。

 



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73 夢にまで見た出会い

 俺が夢に見た過去には、人間たちはゴブリンたちの物量に押されて劣勢だった。しかし今俺の生きているこの時間の王国軍には、あの時よりもずっと余裕がある。

 理由は明らかだ。魔王軍の先遣隊を吹き飛ばした、ジェーンの超大規模魔法。あの時に魔王軍の物量はそれなりに削られたのだろう。

 記憶にあるどの時よりもずっと勢いがない。ジェーンの挙げた戦果は、まさしく人間たちを救った。戦後にその功績を称えられたはずの彼は、もういないが。

 

「押せ押せ押せ! 魔物どもはビビっているぞ!」

 

 勇ましい声と共に、前進する騎士たち。その顔には生気が漲り、足取りも軽い。

 

「下がれ愚図共! 遅れたものから死ぬぞ! おい、ダークエルフどもの魔法はまだか! 押し負けるぞ!」

 

 ゴブリンなど知能の低い魔物たちを指揮する高位の魔族たちは声を張り上げている。しかしその魔族の元に、人間側から放たれた魔法が着弾し黒煙と共に絶命する。

 騎士たちの後方から魔法を放つ魔法使いたちには、ほとんど被害は出ていない。後方支援は十分に行き渡っている。

 

 魔法使いや聖職者の人員は、開戦からほとんど減っていない。後方での支援に徹する魔法使いや聖職者たちが死亡する原因は、人狼など、人間の中に紛れ込める魔王軍のスパイたちによる暗殺などだ。

 しかし、俺は何度も繰り返すうちに人狼などは見分けることができるようになっている。王都に紛れ込んだ人狼たちは、俺が未然に倒しているので、被害はほとんど出ていない。

 繰り返しの経験は、確実に俺を強くしている。けれど、誰も死なせずにいられるわけではなかった。

 

 

 

 

 足並みを揃えて攻撃を仕掛ける騎士たちと一緒に、俺も最前線で剣を振るっていた。意識は目の前に存在する魔物に集中。けれど、周囲の状況に気を配ることも忘れず。

 戦場では、視覚外から攻撃が飛んでくることも珍しくない。しかし、攻撃に気づくことと対処できることは別物だ。

 

 

 唐突に、急激な魔力の高まりを魔族側に感知した。警告を飛ばす間すらなく、魔法が飛来する。

 巨大な火球だった。人間の魔法使いが普段飛ばしているそれの五倍はあろうかという、破壊の化身。加えて、上空を飛ぶ速度すら規格外だ。

 その強力な魔法は、精鋭である宮廷魔法師ですら防ぐことは叶わなかっただろう。着弾した場所から轟音が響き、悲鳴が上がる。

 

「……来たか」

 

 あの鋭く戦場を抉ってくる強力な魔法。間違いなく、やつだ。ダークエルフの長、ロゼッタ。

 

 

「散らばれ騎士ども! 次が来る!」

 

 俺の声に反応した騎士たちが、慌てて散開する。再び、隕石のように巨大な火球が戦場を抉り、不幸な騎士数名の命を散らす。

 

「あんな強力な魔法が連続で……!」

 

 魔法に精通しているはずのオリヴィアから驚愕の声が漏れる。

 

 大規模魔法を二度行使して魔力が一旦尽きたのか、追撃は訪れなかった。

 しかし、安心もできないだろう。後方で安全に守られた魔法使いというのは、魔石を消費することで瞬時に魔力を回復することができるのだ。

 

 おそらく、少しのインターバルを経て次が来る。

 

「……元をさっさと叩くべきだな」

 

 俺が決意と共に火球の飛んできた先へと向かおうとする。

 しかしそれを妨げるように、オスカーが俺の肩を掴んできた。

 

「一人でどこに行くの、メメ」

「決まってるだろ。術者を直接殺しに行くんだよ」

 

 振り返り、意思を籠めてオスカーを睨むが、彼は一歩も引かなかった。肩に置かれた手は力強い。

 

「もしかして、術者がジェーンさんを殺した魔物だと思ってる?」

「そうだ」

「やっぱり……。メメ、冷静になって。僕だって行く。ジェーンさんの仇を取りたいのは、君だけじゃない」

「俺は冷静だ」

「違う! 僕の師匠のメメは、無理をすることはあっても無茶な突貫はしなかった! でも今の君は違う! 単に死に急いでいるだけだ!」

「しつこいぞオスカー! 時間がないんだ。俺がどう思ってるかなんて関係ない! 俺は行く!」

 

 肩に置かれた手を乱暴に振りほどくと、俺は前へと踏み出す。後ろからは、オスカーとカレン、オリヴィアが付いてくる気配がした。

 

「なんで付いて……」

「メメさん」

 

 ヒートアップした脳に、オリヴィアの静かな声が染み渡った。足は止めないままに、振り返る。オリヴィアは、静かな声で続けた。

 

「何を恐れているのか、私に教えてはくれませんの?」

 

 核心を突かれた俺は、思わず足を止めてしまった。オリヴィアの、全てを見通してしまいそうな澄んだ瞳が、俺の狼狽を映しているだろう瞳を捉える。

 

「私たちが一緒に進むことによって何か不都合があるのなら、今ここで全部言ってしまえば良いのではないでしょうか」

「……それは」

「できないというなら、私は付いていきます」

 

 凛とした態度で放たれた言葉には、一歩も退く気はないという意思が籠っているようだった。

 そんな彼女の態度に、俺の口から自然と言葉が漏れる。

 

「……俺の知られたくないことが、知られてしまうかもしれない。──失望されるかもしれない」

 

 ああ、言ってしまった。オリヴィアが、驚いたような顔をしている。飛び出た自分の言葉があまりにも情けなくて、俺は激しい後悔に苛まれた。

 

「もういいだろ! 時間がない! 俺は行く! どうしても付いてくるっていうなら勝手にしてくれ!」

「うん」

 

 俺のやけくそ気味な言葉を聞いてもオスカーは表情を変えず、確かな足取りで俺の後ろを付いてきた。

 

「……走るぞ!」

 

 ゴブリンを中心とする魔物の壁へと駆け出した俺たちを迎えたのは、無数の殺気に満ちた目だった。

 

「──舐めるなあああ!」

 

 足にありったけの力を溜め、跳躍する。地を歩くことしかできないゴブリンたちは、空高く飛ぶ俺を呆然と眺めるだけだった。

 空中にいる数秒間に、素早く敵陣を確認する。──いた。ゴブリンの壁の先。ぽっかりと穴が開いたように空白の部分があって、その中心に凄まじい存在感を放っているエルフがいる。

 

 重力に従い、地面へと着地。土埃が舞い、付近にいたゴブリンたちが衝撃に足を取られ、その場に倒れ込んだ。

 俺は後ろを振り返ると、仲間たちに向かって叫んだ。

 

「いた! このまま12時の方向へ直進する!」

「分かった!」

 

 進むべき道が分かり、いざ前進しようとした、その時だった。

 

「メメさん! 上です!」

「なっ!? ……ッ!」

 

 見上げたそこには、途方もない大きさの岩の壁があった。戦場を二分するほどの巨大な壁。

 ギロチンの如く落下してくるそれは、直撃すれば俺の体など真っ二つにされてしまいそうだった。

 

「クソッ! どけ!」

 

 上空から迫りくる死に気づいていないのか、俺と同じく落下地点にいるゴブリンたちはこの期に及んでまだ俺に斬りかかってくる。時間がないので、俺はそれらを体当たりで蹴散らしながら前へと進む。

 

「オオオオオオ!」

 

 ゴブリンたちの突き出してきた錆びた剣先が浅く刺さり。血が流れる。しかしそれどころではない俺は、それらを無視してがむしゃらに前に進む。

 

 やがて、墜落。轟音を立てながら落下した岩の壁は、地響きを立てながら地面に鎮座した。

 

「……分断されたか」

 

 後ろを見れば、分厚い岩の壁が戦場を二分している。

 ……デカい。そして、長い。オリヴィアの魔法もオスカーの聖剣も、これを突破するには時間がかかりそうだ。

 

「メメ無事!?」

 

 壁の向こう側から、オスカーの声が聞こえてくる。

 

「無事だ! そっちは?」

「大丈夫! でも囲まれてて、簡単には壁を突破できない!」

 

 そうだろうな。

 俺という前衛が一人いない状態で戦場の真ん中に取り残された彼らは、周囲の敵の対処でいっぱいいっぱいのはずだ。

 

「焦らずに一つ一つ対処しろ! 壁の攻略は二の次でいい!」

「……焦らずなんて君に言われたくないかな!?」

 

 ……本当にな。

 

 俺はそれっきり言葉を打ち切ると、前へと歩き出した。わざわざ俺だけ分断したということは、ロゼッタの狙いは俺だろう。魔法に長けた相手なら、距離を詰めないと俺が負ける。

 壁のこちら側には、魔物はほとんどいなかった。どうやらあらかじめこうなることを予想して戦力を配置していたらしい。

 

 やがて、平地の先には、夢にも見た顔があった。

 

「──やっと会えたな、ロゼッタ」

 

 俺が名前を呼ぶと、ダークエルフの女は怪訝そうな顔をした。

 



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74 復讐者と復讐者の出会い

「貴女のような小娘に名乗った覚えはないわね。どこかで顔を合わせたかしら?」

「気にすんな。今から死ぬお前には関係ない話だ」

 

 相対するのは、もはや見慣れた顔だった。細身の体。褐色の肌。整った顔立ち。横に伸びた耳。切れ長の目は、嗜虐的に細められている。

 

 ロゼッタは、少し考えこむように黙り込むと、やがて得心がいったようにぽんと手を叩いた。

 

「ああ、見覚えがあると思ったら、隕石であの男を殺した時に一緒にいた女の子ね。生きてたんだ」

「ああ。やっぱりあの魔法はお前だったのか」

「ええ、そうよ。どうして分かったのかしら。……あら、もしかして、あの男を殺したこと、怒ってるの?」

 

 俺の顔を伺ったロゼッタが、耳障りな高音で聞いてくる。沈黙で返すと、ロゼッタは突然笑い出した。

 

「アッハハハハハ! そう、そうだったの! じゃあ今ここに来たのは、さしずめ復讐のためといったところかしら? じゃあ、せっかくだから教えてあげましょう。元々殺すのは赤髪のあなたのはずだったのよ。私自身、情報の齟齬でターゲットがあなただと思っていたからね。それがあのノッポの男に邪魔されて、いやあ、任務失敗かと思って焦ったけれど、ターゲットのジェーンとかいうのはあの男の方だったらしくって、本当に助かったわよ! だからね、あなたには礼を言わないとね」

 

 そこで言葉を切ると、ロゼッタは満面の笑みで聞いてきた。

 

「男に守られて気持ちよかった? 無能なお姫様」

「──貴様ァ!」

 

 その挑発は、俺にとって聞き流すことができなかった。

 

「『炎よ、我が敵を燃やし尽くせ!』」

 

 小さな火球を出して、ロゼッタに撃ちだす。それと同時に、二十歩程度の彼我の距離を詰めるべく、俺は走り出した。

 

「『炎よ、我が敵を燃やし尽くせ』」

 

 ロゼッタの方からも全く同じ詠唱が聞こえてくる。生み出される火球は、俺のものとは比べ物にならないほどに大きかった。炎が交錯し、衝突する。爆音が響き渡り、爆風は俺の方へと飛んできた。

 

「ガッ……クソッ!」

 

 軽い体が容易く吹き飛ばされる。地面にしたたかに打ち付けた背中が痛んだ。俺は素早く立ち上がり、ロゼッタの方へと向き直る。

 しかし、追撃は訪れなかった。

 

「……期待外れね」

 

 心底失望した、と言いたげに、ロゼッタは呟いた。

 

「勇者パーティーのメメってあなたよね? 魔王様直々に殺せって命令が来るくらいだから、もっと虐めがいのある人間が来ると思ってたんだけど、こんなひ弱そうな小娘だなんてね」

「不満か」

「ええ、もちろん。魔力は貧弱。体の丈夫さは勇者に遠く及ばず。拷問したら一時間も持たずに死んじゃいそう。期待外れで、つまらない」

 

 ロゼッタの言葉には、徹頭徹尾失望が籠められていた。

 

「──ハッ。くだらないな!」

 

 再び、地面を蹴って走る。ロゼッタは魔王軍の中でもトップクラスに魔法の扱いに長けている。距離を縮めなければ、一方的になぶり殺されるだけだ。

 

「アッハハハハハ! 直進しかできないのか!?」

 

 当然、ロゼッタからは凄まじい威力の魔法が飛んでくる。正面からは砲弾のような大きさの岩石。そして左右からは同じようなサイズの火球だ。

 

「──舐めるなあああああ!」

 

 お前の技なんて、何度食らって何度死んだと思ってるんだ。狙うべきは、巨大な岩石。俺は正面へと突進すると、岩石に向かって思い切り大剣を振り下ろした。

 勢いづいた岩石は、俺など軽く圧殺しそうな迫力があったが、しかし強度は大したことはなかった。俺の振り下ろした刃と接触して、あっさりと真っ二つに砕ける。

 

 ──ロゼッタは、トドメを刺すのに炎を使う傾向がある。だから、岩石は張りぼてのフェイクだと信じていた。きっとコイツは、隕石の魔法を覚えられていることから俺が岩の方を警戒すると思ったのだろう。

 

 目論見通りに魔法による迎撃の第一陣を乗り越えた俺は、全速力でロゼッタに肉薄する。

 

「近づけば勝てるとでも思った!?」

 

 接近すれば当然、魔法の発動から直撃までのタイムラグはなくなる。回避は一層難しくなるだろう。

 続けて発動された、放射状に広がる炎に対して、俺は素早く魔術を行使する。

 

「『水よ! 燃え滾る炎を清めたまえ!』」

 

 次に炎が飛んでくるのも、予想済みだ。俺は魔術で水を出すと、前方へと広げる。消火に特化した水は、速やかに俺とロゼッタの間を隔てる炎を消し去った。

 相手の戦略を知り尽くしているような俺の動きに、ロゼッタの顔が驚愕に染まる。

 

「──もらった!」

 

 最後の一歩を踏み出し、突き出した剣先は、真っ直ぐにロゼッタの首筋へ。魔法の扱いはトップクラスのロゼッタだが、本人の身体能力はさほど高くない。

 

 相手が慢心しているうちに、一撃で、決める。

 しかし、俺にとっての想定外は、勇者の頃よりも少しだけ剣先が届くのが遅いことだった。最大の力を籠めて放たれた刺突は、あとわずかのところで阻まれた。

 

「ッ!」

 

 詠唱すらなく瞬時に形成された薄い岩が、一瞬で俺とロゼッタを隔てる。等身大の小さな岩壁は、しかし俺の剣を弾くには十分すぎた。

 予想外の障害物に、剣が弾かれる。それに伴い、俺の体勢も崩れる。──その僅かな隙は、ロゼッタが反撃するには十分すぎる時間だった。

 

「劣等種があああああああ!」

 

 暗い感情の籠った声と同時に、ロゼッタの反撃が始まる。

 先ほど防御のために形成された岩壁は、すぐさま攻撃のための武器となった。まるで生き物のように一瞬で形を変えた岩壁から、無数の棘がせり出してきた。勢いづいたそれは、一つ一つが俺の大剣の一撃と同じくらいの威力が籠められているようだった。

 状況から不利を察した俺は、後ろに引こうとしたが、全く同じ岩壁が背後からも迫っていることに気づいた。

 ──その構図は、さながらアイアンメイデンと呼ばれる拷問器具のような形状だった。

 

「くっ……」

 

 身を翻し、横へと飛ぶ。挟み込むように迫りくる棘が、俺の右肩のあたりを鋭く抉った。

 

 ──痛い。しかし、それどころではない。

 地面へと倒れ込みながらロゼッタの方を向いた俺の目に映ったのは、視界を埋め尽くさんばかりの灼熱の炎だった。

 まずい、魔術を──

 

「ッ『水よ──』」

「遅い! 燃え尽きろ!」

 

 瞬間、俺の体は信じがたいほどの高熱に犯された。

 

 

 

 

「おい小娘。死んでないのだろう? 今からが私の楽しみの時間なのだから、早く起きろ」

 

 声に起こされて、俺は自分が意識を失っていたことに気づいた。覚醒と同時に、痛みにもう一度意識を失いそうになる。焼けただれた全身が、稼働を拒んでいる。

 こちらに呼びかけてきたロゼッタの声は、そう遠くなかった。気づかれない程度に顔をあげ、状況を確認する。俺の身を包んでいた、全て焼き尽くさんばかりの炎は、いつの間にか消えていた。

 ──まだ、動ける。

 

 俺の体の丈夫さを、ロゼッタは見誤ったらしい。勝利を確信しているらしいロゼッタは、俺の動きを警戒する様子はない。

 今は勇者という肩書きを持っていないことが、ロゼッタの慢心を生んだだろうか。

 

 好機。けれど、俺の体の状態は決して軽傷とは言えない。高温に炙られた体は痛くない場所を探す方が難しいくらいだったし、朦朧とする意識は、油断すれば飛んでしまいそうだ。

 

 でも、動ける。それだけで十分だ。

 ロゼッタの軽い足音が少しずつ近づいてくるのを、息を殺してじっと待つ。俺はどくどくとうるさい心臓の音がロゼッタに聞こえないか心配になるほどに緊張していた。

 

 次の一撃を決めなければ、このまま嬲られながら殺されるだけだ。そのことは、身をもって知っている。

 やがて足音が、手が届きそうなほどの距離まで近寄ってきた。

 

「おい小娘、拷問の時間だぞ……」

「──ハアアアア!」

 

 慢心から無防備に近寄ってきたロゼッタに、素早く大剣を突き出す。

 自分の魔法の威力に自信を持っていたらしいロゼッタは、驚愕に顔を歪め、慌てて回避行動を取る。──しかし、遅い。

 

「あああああああ!」

 

 剣先は胸元に深々と突き刺さり、たちまち鮮血が溢れ出した。

 目を閉じ、後ろ向きに倒れていくロゼッタ。

 

「終わったか……?」

 

 俺は魔法の予兆を見逃さないように、ゆっくりと倒れたロゼッタへと近づく。仰向けに倒れたロゼッタは力なく瞼を閉じていて、一見死んでいるようだった。

 

 トドメを刺すために、俺は大剣を高々と掲げた。

 ロゼッタの閉じられた右目が、不自然な光を放っていることに気づかないままに。

 



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75 ロゼッタの過去 

 剣に穿たれた胸元が、高熱を持っているようだった。

 エルフとして生を受け、そして、ダークエルフに生まれ変わってから、初めてと言っていいほどの大きな傷だった。あまりの痛みに、そのまま意識を失ってしまいそうなほどだった。

 死に瀕したロゼッタの脳裏には、急激に過去の記憶が流れ出した。思い出す過去は、いつも一つ。ロゼッタが人間に復讐しなくてはならない理由、その原点だ。

 

 

 

 

 四百年前、今はダークエルフと呼ばれている彼らは、エルフと呼ばれ人間領で暮らしていた。自然を好み森と共に暮らすエルフは、人間領の中でも開発の進んでいない西部の森に、ひっそりと暮らしていた。

 

 背の高い木々の中にポツンと存在する小さなログハウス。質素な造りのそれは、枝葉の間から漏れ出る陽光に照らされ、温かい空気に包まれていた。

 

「ママ! お帰りなさい!」

「ただいま、ロゼッタ。いい子にしてた?」

 

 白い肌に、透き通るような銀髪。美しい容姿のエルフの親子が、そこにいた。母親のエルフは、美しい十代の少女のような容姿をしていて、人間の基準ではとても一児の母親には見えない。

 娘の方は十歳程度といったところか。こちらは見た目通りの年齢だ。

 寿命が長く、あまり体の成長しないエルフは、皆一様に若々しい見た目をしている。娘──幼いロゼッタが、少し舌足らずな口調で言葉を紡ぐ。

 

「ママの言っていた爆破の魔法、できるようになったよ! 見て見て!」

「ロゼッタは本当に魔法が得意だねえ。でもちょっと待ってね。家の中で爆発は起こさないでね……」

 

 今にも魔法を発動しかねないワクワクとした様子の娘に、母親は僅かに冷や汗をかいた。我が家炎上の危機だった。

 

「じゃあ、ちょっと村はずれで見せてもらおうかな。行こっか」

「うん!」

 

 いつもと変わらない、穏やかなエルフたちの日常。幼いロゼッタは、この日までそれが突然壊れることなど、少しも想像していなかった。

 

「……何かしら?」

 

 母親のエルフの長い耳が、不自然な物音を捉えた。遠くから聞こえる、野性的な怒号。諍いのない穏やかなエルフの森には、あまりにも不釣り合いな気配だった。

 続いて、隣家に住むエルフの叫び声が聞こえてきた。

 

「大変だ! 人間たちが攻めてきたぞっ!」

 

 その怒号が引き金になったように、突如として森の中に火矢が飛んできた。木の幹に突き刺さったそれは、不自然なほどに燃え上がり、次第に周囲の木々へと延焼していった。

 

「ママ……」

 

 森が、故郷が、燃えている。日常的に眺めていた景色が、ごうごうと音を立てて崩壊していく。

 怯えるロゼッタは、母親の顔を見る。見た事もないほどに真剣な表情に、ロゼッタは事態の深刻さを思い知った。

 

「ロゼッタ、あなたはおじいちゃんの家の方に行って、ここであったことを伝えてちょうだい」

「ママは……?」

「私はみんなとここに残って、ここを守る」

 

 ロゼッタの母親は、魔法に長けたエルフの中でも優秀な魔法使いだ。娘であるロゼッタは、その凄さが良く分かっていた。

 けれど、不安は尽きない。

 

「ママも一緒に行こうよ! 逃げよう!」

 

 娘の必死な様子に、母親は目線を合わせるように屈むと、優しい表情で語り掛けた。

 

「ロゼッタ、ママたちもすぐに追いつくから、今は逃げてちょうだい」

 

 そっと頭を撫でられると、ロゼッタはそれ以上我儘を言うことができなくなってしまった。

 

「……絶対だよ」

「うん。……じゃあ、また会おうね」

 

 最後まで優しい口調で言うと、母親は立ち上がり、怒号の方へと向き直った。その背には、先ほどまでの優しい雰囲気など少しもない。ロゼッタの好きな、母の勇ましい姿だった。

 それを見て、ロゼッタは少し安心した。この様子なら、きっと母親が負けることはないだろう。

 

 隣家のエルフが、母親に話しかける。彼もまた、覚悟を決めた表情をしていた。

 

「行きましょう」

「ええ。子どもたちの元に、帰るわよ」

 

 その後、ロゼッタが生きた母親に会えることは二度となかった。

 

 

 

 

 どうやら、エルフの住処としている森はほとんどが襲われたらしい。祖父の家へと向かったロゼッタは、遠くから祖父の住む森に火の手が上がっていることを確認すると、今度は親戚の住む森へと走った。

 

 まだ十歳の彼女には過酷な道のりだったが、得意の魔法で風を生み出すと、追い風に背中を押されながら走った。

 

「ここもダメ……」

 

 ロゼッタの知る限り、最もたくさんのエルフが住んでいた森ですらも人間たちの手中にあるようだった。煌々と燃え上がる森は、既に人間たちに取り囲まれているようだった。

 

 走る。次の森へと走る。追い風の力を借りて走る彼女の顔には凄まじい風が吹きつけ、涙が風に乗って流れていった。

 

「あった……無事な森……!」

 

 いつの間にか、日は落ちかけていた。息を切らす彼女の目の前には、こじんまりとした森がポツンと存在している。

 中にいるエルフたちに大声で呼びかけながら、ロゼッタは歩いた。

 

「誰か、誰かいませんか!?」

 

 ロゼッタを迎えるのは、怯えた顔の子どもエルフばかりだった。その様子に、嫌な予感がする。まさか、戦える大人のエルフはもうみんな人間に敗れた後なのではないか。

 

「誰か! 母を助けてくれる方はいませんか!?」

 

 喉がヒリヒリと痛み始めたころ、ロゼッタはようやく叫ぶのを止めた。顔を出すのはまだ幼いエルフばかりだった。薄々気づいていたことだ。ここにいるのは、皆逃げてきた力ないエルフだけなのだ。

 

「ハァハァ……」

「クララ! クララ、いるか!?」

 

 突如として、ロゼッタの声だけが響いていた森に、成人男性らしい声が響く。ハッと顔を上げたロゼッタは、素早く顔を上げると声の主の元に向かう。背の高いエルフ。間違いない。戦える大人だ。

 

「あの! ……あ」

 

 近づくと、分かってしまった。そのエルフは、右腕を無くしていた。ひどい火傷跡が出血を抑えている。しかしその顔は、遠目でも分かるほどに真っ青だ。とても戦えそうになかった。

 

「パパ!」

 

 ロゼッタの背後から、背の小さなエルフが走ってきて、右腕のないエルフに抱き着いた。

 

「クララ、クララ! ああ、無事だったのか、良かった……!」

 

 残された左腕で娘をしっかりと抱きしめるその顔は、真っ青ながら本当に嬉しそうだった。

 

 親子の感動の再会。それが見ていられなかったロゼッタは、ぶしつけに声をかけた。

 

「あの……みんなは、どうなったのですか……?」

 

 感涙に潤んだ目をこちらに向けた男エルフは、少し気を取り直したようにこちらに向き直った。けれど左腕は娘を抱きしめたままだ。

 

「俺の知る限り、この森にいるみんなが最後の生き残りだ」

 

 ロゼッタは、目の前が真っ暗になったような感覚を覚えた。

 

 

 夜まで待っても、この小さな森に来た大人は右腕を失ったエルフだけだった。彼は逃げてきた子どものエルフたちを集めると、作戦会議を始めた。

 

「いいかい? おそらく夜が明けたら、人間たちはこの森にも襲撃をかけてくる。だから、早朝のうちに逃げるんだ。人間のいない魔族領へと」

「で、でも、魔族はみんな怖い人たちだから近づいちゃいけないって……」

「人間どもよりはマシだ!」

 

 それまで落ち着いた様子で言葉を紡いでいた男エルフが豹変した。憤るような、怯えるような大声に、子どもたちがびくりと肩を震わす。

 

「ああ、ごめんね。……話を続けよう。このまま人間どもに見つかれば、皆殺されるか、死ぬよりひどい目に会うだけだ。だから。日が昇るのと同時に、魔族領へと向かう。いいね?」

 

 先ほどただならぬ様子を見せた男エルフに、否を唱える子どもは誰もいなかった。

 けれど、ロゼッタにはどうしても聞いておきたいことがあった。

 

「……せめて、ママがどうなったのか確認させてもらえませんか?」

「……ダメだよ。戻れば殺されるだけだ」

 

 男エルフは複雑な感情を押し殺したような声で答えた。

 

「でも、ママがまだ生きてるかも……」

「無理だ! きっともう生きていない!」

 

 声を荒げた後に、男エルフは少し申し訳なさそうに声を潜めた。

 

「ごめんね。でも、君が戻ることを、きっと君の母親は望んでいないよ」

 

 ロゼッタは、他人に母の意志を勝手に語ってほしくなかった。けれど男エルフの目は真摯に自分の身を案じていることが分かったから、何も言えなかった。

 

「早朝になったら出発するから、それまで休んでいてね。じゃあ、お休み」

 

 男エルフは甘えるように縋りついた来た娘を左腕一本で抱き上げると、夜の森へと消えていった。

 それを少し眺めたロゼッタは、身勝手な羨望を必死に抑え込む。私だって、母の胸に飛び込みたかった。でもこれは身勝手な感情なのだ、と唇を噛んで、自分に用意された寝床へと向かった。

 

 

 この森の外から逃げてきた子どもエルフたちは、村の集会場らしき大きな家に集まって雑魚寝をしていた。いつもと違う天井に、ロゼッタは落ち着かない気分になり中々眠れなかった。

 

「ママ……」

 

 思わず呟いてしまった言葉は、幸い誰にも聞き咎められなかったらしい。ロゼッタは自分に言い聞かせる。弱音を吐いてはダメだ。親を亡くしたのはみんな一緒だ。辛いのは自分だけじゃない。

 そう自分に必死に言い聞かせるが、脳裏に浮かんでくるのは、母親との幸福な記憶ばかりだった。

 

 どうして自分がこんな目に会うのだろう。そう考えたロゼッタの頭に浮かんできたのは、ある夏の日の母との記憶だった。

 

 

 

 

 夏のきつい日差しが枝葉の間から差し込む故郷の森で、ロゼッタは母親に問いかけていた。

 

「ママ、どうして鳥さんを殺しちゃったの? かわいそうだよ!」

 

 母親のエルフの手には、矢を受け絶命した鳥が握られていた。力なく目を閉じるその様子があまりにも憐れで、今よりも小さなロゼッタは、少し声を荒げた。

 母親のエルフは利口な娘のらしくない姿に少し困ったように笑うと、しゃがみ、娘の目線の高さになってから、語り掛けた。

 

「いい? ロゼッタ。私たち生きとし生ける者はみんな、何かを犠牲にして生きているの。例えばこの鳥さんだって、きっと虫さんを食べて生きている。その虫さんは、きっともっと小さい虫さんを食べて生きている。私たちの食べるものは。いや、この世界は、そうやって何かの犠牲で成り立っているの」

 

 幼いロゼッタには難しい話はよく分からなかった。だから、思ったままを口にする。

 

「でも、やっぱり可哀そうだよ!」

「そうね。どれだけ言い繕っても、可哀そうだね。だからせめて、ロゼッタは犠牲になるものへの感謝を忘れないでほしいの。いつも食べる前に、いただきます、って挨拶するでしょ?」

「うん!」

「そうやって、犠牲があることを知って、感謝を忘れないでね。それが自然と共に生きる私たちエルフの昔から続く生き方よ」

「分かった!」

 

 

 十歳になり、母を失ったも同然のロゼッタは、今になってその意味が分かった。世界は、犠牲の上に成り立っている。

 数々の動物を、植物を犠牲にして生きてきたエルフが、今度は犠牲になる番が来てしまったのだ。だから、母は死んだのだ。

 

 ロゼッタは、ずっと頭から離れなかったモヤモヤがようやく溶けた気がした。どうして母が死ななければならなかったのか。その答えが、ようやく分かったからだろう。

 今なら、眠れる気がした。涙を堪え、目を閉じる。けれど、最後にある疑問がロゼッタの頭に浮かんだ。

 ──人間たちは、エルフの犠牲に感謝をするのだろうか。

 

 

 

 

 日も登り切らぬ早朝に、生き残りのエルフたちは森を出た。目指すは、北。険しいエーギ山脈に分かたれた、魔族領だ。

 幼く体力の少ない者も多いエルフの一団は、かなりゆっくりとしたペースで北上していた。所々で休憩を挟み、再び歩き出す。

 ノロノロとした動きに、先導する右腕を失ったエルフには僅かに苛立ちを覚えているようだった。

 死にかかった者と、安全地帯に逃がされた者。その意識の差は、やがて致命的な隙となった。

 

 

 早朝から歩き続け、太陽が真上まで上がった頃。エルフたちは、人間領最北端の国、パンジャナフ王国を抜け、エーギ山脈へと続くヤカテ平原を歩いていた。人間のいないところまで抜け出し、少し気が緩んだ頃だった。

 

「ッ! 走れ!」

 

 右腕を失ったエルフが叫び、一目散に駆け出した。その左腕には、愛娘をしっかりと抱きよせていた。エルフの一団の頭上には、火矢が迫っていた。

 

「キャアアアア!」

 

 ロゼッタの目の前にいた背の小さなエルフの肩に、矢が刺さる。すると、その体は瞬時に燃え上がった。

 

「ああああああ! あつい! あつい! あつい! あつい!」

 

 聞いたことのないような絶叫を上げて燃え上がる子どもエルフを、ロゼッタは助けようと試みた。

 

「ま、待ってて、今助ける! 『今は亡き水の神よ──』」

「次が来る! 走って!」

 

 後ろにいたエルフに手を取られて、ロゼッタは引きずられるように走り出した。次の瞬間、先ほどまでロゼッタが立っていた場所に矢が突き刺さった。

 

「あの子を助けないと!」

 

 手を引くエルフに叫ぶと、後ろを向いたままで切羽詰まった声が返ってきた。

 

「ダメ! そうやって仲間を気遣った人から死んでいくんだよ!」

 

 重たい実感の籠った声に、ロゼッタは口を噤んだ。後ろをチラと見ると、甲冑に身を包んだ人間たちの集団が俊敏に走ってきていた。

 

「撃て撃て撃て!」

 

 緩やかな弧を描く矢が次々と迫りくる。それらが足元に突き刺さるたび、ロゼッタの背筋は凍り付いた。それでも尚気丈に走り続けることができたのは、手を引いてくれるエルフがいたからだった。

 

 けれど、その追いかけっこの均衡は崩れることになる。飛んでくる火矢が、ついにロゼッタの前にいるエルフを捉えた。その体が瞬時に燃え上がる。

 

「うわああああ!」

 

 悲痛な金切り声がロゼッタの足を止める。

 その時だった。背後から、おかしくてたまらない、といった様子の嘲笑が聞こえた。それは例えるなら、酒の席で下品な冗談を笑い飛ばすような、そんな品のない笑いだった。

 

「え……?」

 

 命の取り合いの場にはあまりにも不釣り合いな声に、ロゼッタは耳を疑った。

 

「おい、見ろよあれ! 『うわああああ!』だってよ!」

「「ハッハハハハハ!」」

 

 楽しげな笑い声だった。ロゼッタには、何が起こっているのか分からなかった。

 

「おい、受け取れよ下等種」

「え……?」

 

 投げつけられた物が何なのか、最初は分からなかった。球体のそれは、一回二回と地面を跳ねると、コロコロと地面を転がり、ロゼッタの足にコツンと当たった。

 やがてそれが何だったのか分かると、ロゼッタは心臓が止まったような気がした。

 

「──ママ?」

 

 見慣れた母の顔。その生首だった。美しかった顔は、恐怖と苦痛に歪み切っていて、たった今地面を転がされたせいで泥だらけだった。でも、ロゼッタがそれを見間違えるはずもなかった。

 もはや自分がどこで何をしていたのかすら忘れて、ロゼッタはその場に立ち尽くした。そんな彼女の様子に、人間たちは面白い物を見つけたと言わんばかりに笑い出した。

 

「ハッハハハ! 『ママ』だってよ! もしかしてお前コイツの子どもだったのか!?」

 

 震える体を動かして、嘲笑う人間の顔を呆然と見つめる。

 

「そいつは一番厄介だった耳長だったからな! 俺たちも念入りに殺したんだ! 体を燃やして、四肢を切断して、体をバラバラに切り刻んでやった! その時の悲鳴といったらまあ、聞くに堪えないものでな! お前にも聞かせてやりたかったぜ!」

 

 男はまるで今日の料理の作り方でも語るように、母親のエルフの殺し方を喜々として語った。

 あまりのことに、現実感すら喪失していた。呆然とそれを聞いていたロゼッタは、半ば無意識に言葉を紡いでいた。

 

「感謝、は……?」

「は?」

 

 震える唇は上手く言葉を紡げなかった。それでも、ロゼッタには確認しなくてはならないことがあった。

 

「ママは、犠牲には感謝をしなきゃって! だから、ママが犠牲になったのなら、その感謝を人間のみんなは……」

「アッハハハハハ!」

 

 人間たちの口から、今日一番大きな笑い声が出た。ちょうど、滑稽な喜劇が目の前で繰り広げられたような、そんな笑い方だった。

 

「感謝! 俺たちが、お前ら耳長にか!? そうだなぁ、面白い死に方をしてくれたことに対してなら、感謝していいぞ? ──なあ!」

 

 ビュン、という風切り音。顔面への衝撃と、同時に、視界の半分を失う。少しして、ロゼッタは、自分の右目に矢が突き刺さっていることに気づいた。遅れてやってきたその激痛に、ロゼッタはようやく現実への回帰を果たした。

 

「あああああ! ママ! ママ! ママ! どうして!? なんで優しかったママが死ななきゃいけなかったの!? どうしてあの怖い人たちの方が生きているの!? どうして! どうして! どうして!」

 

 首だけとなった母から答えなど返ってくるはずもなく、代わりに醜く顔を歪めた人間から、嘲笑に塗れた答えが返ってきた。

 

「そりゃ、ママの言ってたことが間違ってたんだろうぜ! だって、お前ら耳長は、人間に搾取される運命にあるんだからな!」

 

 身勝手な理屈を叫んだ男は、恐怖を煽るようにゆっくりと少女へと近づいていった。少女は、左目から透明な涙を、矢の突き刺さった右目からは赤色の涙を流していた。

 まだ娘ほどの年に見えるエルフの娘が、泣いている。しかしその光景を見た男に、罪悪感など少しもなかった。

 相手は耳長。人間を見下し、あまつさえ人間の国を乗っ取ろうと密かに画策していた大罪人の一族だ。男は教会からそう聞かされていて、それを少しも疑おうとしなかった。

 

 長剣を構え、振り下ろす。その切っ先は、少女の細い足へと向かった。少女はうなだれて、抵抗する意思を失ってしまったようだった。

 手始めに四肢の一つでも切って、その端正な顔を絶望に歪ませたい。男の心は、自らの醜い欲望を満たすことしか考えていなかった。──それゆえ、反撃されることなど少しも想定していなかった。

 

 虐殺の場になるはずだったそこに、地獄の底から響いているような、低く、憎悪の籠った詠唱が響いた。

 

「『──炎よ、我が敵を穿て』」

「ハッ!? うわああああああ! あついあついあついあつい!」

 

 少女の目の前にいた甲冑姿の男は、突如として内部から凄まじい勢いで燃えだした。ニヤニヤと男の蹂躙を眺めようとしていた人間たちの顔色が変わる。幼くて無力だと思っていたロゼッタからの反撃。エルフを見下しきっていた人間たちからすれば、到底許せることではなかった。

 

「──てめえ、耳長がああああああああ!」

 

 男たちが剣を取り、少女へと殺到する。 その身に纏う甲冑は魔法への耐性の高い特別性だ。一人程度ならともかく、十人がかりで襲い掛かった人間たちに、敗北する道理はない、はずだった。

 

 ロゼッタの詠唱が響く。その声にはもはや震えはなく、ただ純粋な憎悪に漲っていた。

 

「『今は亡き炎の神よ、我が憎悪を贄とし、お願い奉る! 願うは我が怒りの如き炎! 我が身全てを食らいつくし、この世の全てを蹂躙せよ!』」

 

 その詠唱は、ロゼッタの知識にあるものではなかった。ただ、どうすれば目の前の憎い人間たちを殺すことができるのか、脳が擦り切れるほどに考えていた時、突如として頭の中に浮かんできたものだった。

 それは天啓、というものだったのかもしれない。

 

 ロゼッタから放たれた真っ赤な炎は、蛇のように地面を這い、やがて人間たちの元へと殺到した。

 しかし、人間たちに恐れはなかった。広範囲に拡散する魔法は、概して威力が低くなりがちだ。この特別性の甲冑なら身を守ってくれる。そう思っての突撃だった。

 しかし、その慢心は灼熱の炎に身を炙られることで償わされることになる。

 

「うわあああああ!」

 

 男たちの身が規格外の威力を持った炎によって焼かれる。炎の勢いは凄まじく、まるでロゼッタの身を焦がす憎悪のようだった。

 その凄惨な死にざまを見たロゼッタのうちに湧き上がってきたのは、抑えがたい喜悦だった。

 

「アッハハハハハハハハハハ! なんて醜い! なんて無様! ああ、人間よ、どうしてそんなにも愚かなんだ! ハッ、アッハハハハ!」

 

 笑う。笑う。笑う。まるで醜い人間のように。醜さを見せつけるように。

 母のいた優しい世界にいたロゼッタは、もうここにはいない。少女の身に滾る憎悪は、もはや少女の善性の一切が消え失せるほどだった。

 

「……なんだ、もう死んだのか」

 

 気づけば、ロゼッタの最大の仇だった人間たちは燃え尽きていた。手前にいた男の死体を踏みつけて、少女ではいられなくなったエルフは考える。どうすれば、自分の中に燃え続ける憎悪の炎は消えるのか。答えは分からない。

 

 ただ、命の危機に瀕して魔法の才が覚醒したとはいえ、今の自分では人間を根絶やしにするには到底及ばない。

 ひとまず、あの山の先へ行こう。エルフは北へと向くと、魔族領への道を歩み始めた。

 

 ロゼッタが六代目魔王の下で喜々として人間領への侵攻に加担し始めたのは、それからそう遠くない未来だった。

 



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76 怨霊

「まだ……」

「ッ!」

 

 ロゼッタの青ざめた唇が言葉を紡いだのを見て、俺は素早く後ろに下がった。

 まだ、生きてる。死に瀕した敵ほど、何をしてくるか分からない。

 そのことを経験から良く分かっている俺は、重傷のロゼッタを前にしても油断なんてできるはずもなかった。

 

「ハッ……アッハハハハハハハハ! 私が、人間なぞに負けてたまるかアアアアア!」

 

 天にも届くのではないかというような高笑いだった。そして、何か重々しい感情の籠った慟哭だ。少なくとも、胸に重傷を負った女の出す声には聞こえなかった。

 

 変化はすぐに訪れた。仰向けに倒れたままのロゼッタの体が、高密度の魔力に包まれる。ロゼッタを取り巻く禍々しい気配の魔力は、薄っすらとした黒色で、さながら繭のようにその体を包んでいた。

 

 やがて、限界まで高まった魔力が晴れ、羽化を迎えた蝶の如く、ロゼッタが姿を現した。血の気のなかった先ほどまでとは打って変わって、その顔には殺気が漲っている。しかし傷が治ったわけではないらしい。胸に空いた穴からは、血液が垂れ流されている。

 そして、何よりも目を引いた部分。右目が、不自然なまでに光り輝いていた。瞳が薄紫色に光る様子は、不思議と見る者を不安にさせる何かがあった。何か、この世にあってはならないものを見たような、そんな感覚だ。

 

「……殺されるのを行儀よく待っていたのか人間」

「それはさっきまでのお前だろ。大人しく死ぬまで地面に這いつくばっていればよいものを」

「……ふん」

 

 先ほどまでとは打って変わって静かな様子のロゼッタ。その様子に、俺は内心動揺していた。

 元々ロゼッタは、精神的な不安定さが弱点となっていた。だからこそ、勇者だった頃の俺は、勝利を得ることができたのだ。

 そんな、ロゼッタの唯一といっていい弱点が突然なくなった。重症を負わせているとはいえ、俺は勝利が遠のいたのを感じた。

 

 ただならぬ様子に、攻撃を仕掛けることもできずにじっと観察する。隙が見当たらない。一歩踏み込めば、その瞬間に体を引き裂かれそうな迫力だ。

 膠着状態の中、ロゼッタの不自然に輝いた右目が、俺を見て大きく開かれた。

 

 その瞬間、俺の体に奇妙な悪寒が走った。まるで、何者かに体の深いところまで全部見透かされているような、不思議な感覚。

 

 すぐに不思議な感覚の正体に気付く。あの目は、ロゼッタの薄紫色に輝く右目は、俺の何か深いところまで見抜いている。

 そして、俺の予想は的中する。何かを悟ったらしいロゼッタは、高笑いを始めた。

 

「アッハハハハハ! ああ、見える見える見える見える! 見えるぞ! 肉体も魂も全部、そして、お前の死の記憶まで全部だ! ハ、ハハハハハ! なんだその歪んだ魂は!?」

 

 狂ったように笑いながらも、その発光する瞳は、俺をじっと見据えていた。

 

「……なるほど、人類に何度裏切られても魔王討伐を志す、悲劇の勇者様。さらに神の使徒によって女の体に移されて、なお魔王討伐を志すか。泣かせるな。憐れな神の走狗」

「……お前には、関係のない話だ」

 

 ロゼッタが俺のやり直しを見抜くことは知っていた。だからこそ俺は仲間たちを遠ざけて、俺のループを暴露されることを止めようとしたのだ。

 

 けれど、ロゼッタの暴き立てるものはそれだけではなかった。

 

「アッハハハハ。その落ち着きよう、貴様、以前にも私に会ったな? だが、今ここにいる私には、それ以上の真実が見えるぞ。ハッキリ言ってやろう。──今のお前、怨霊に憑かれてるんじゃないか?」

「……は?」

 

 思わぬ言葉に、一瞬思考に空白が生まれる。その隙間に、ロゼッタの言葉は恐ろしいほどにすんなりと入ってきた。

 

「お前の魂、体の女性化に伴って、何か別のものが入り込んでいるぞ。まあ、神の位階に近い勇者の魂を、凡人のそれに変質させたのだから、多少の変化はあるだろう。しかし、どうにもそれだけでは説明がつかんな。お前の魂には、もう一つ人格が入り込んでいるように見える。自覚はないのか?」

「なにを……」

「自分の奥底に別の誰かがいるような感覚。あるいは、誰かが自分を責めているような感覚。そんなものがあるのなら、それはきっとお前が殺してきた人々の怨念に他ならん」

「……」

 

 心当たりがない、と断言することはできなかった。だって俺は、常日頃から自分の過去の行いを悔いている。あの時助けられなかった誰かを、いつか死なせてしまった仲間を、思っている。それが、俺の心に巣食った亡霊の仕業だったと言いたいのか。

 

「なあ、憐れな元勇者様よ。時空を超えてもなお怨霊に憑かれ続けているお前は、本当に今ここで戦い、生きている価値のある人間なのか?」

「……」

「魂になって尚恨まれ続けているお前は、なぜ戦うのだ? まだ罪を重ねる気か?」

「……」

 

 嘘だ、とすぐに断言できなかった。

 分かっている。敵の言うことにいちいち耳を貸すのが、馬鹿げていることは。

 

 しかし俺は知っている。人間を毛嫌いし、それよりも優れた存在であろうとするロゼッタは、潔白であろうという意思が強い。だから、まず嘘は吐かない。たとえ敵を陥れるためだとしてもだ。

 であれば、俺は本当に死なせてしまった人たちの亡霊が──。

 

 

「というわけで死ね」

 

 余計な思考に勤しむ脳の空白を縫うように、ロゼッタの魔法が飛んでくる。威力に欠ける、なんでもないような魔法。

 

「『水よ、燃え盛る炎を鎮めたまえ』」

 

 慣れ親しんだ詠唱から出た水流が迎え撃つ。けれど、その魔術は俺の想定よりもずっと弱弱しく、ロゼッタの魔法を防ぐに至らなかった。

 

「がっ……」

 

 炎が俺の体を撫でる。想定外のダメージだ。

 

「アッハハハハハ! おい小娘、知らんのか。魔法の基本はイメージだ。確固たる自信だ。それなくして魔法は成立せず、発動すらままならん。とても精神が揺らいだ状態で扱えるものではない」

「うる、さい……」

 

 そんなことは分かっている。もう一度、意識を集中させる。確固たるイメージを。何度もやってきたことだ。形成するのはいつもの氷柱。強度は十分に。

 

「『氷よ、我が敵を穿ちたまえ!』」

 

 しかし、打ち出した氷はひどく小さい。もはや拳程度の大きさにしかならなかったそれを、ロゼッタは魔法すら使わずに手で払いのけた。そして、嗜虐的な笑みを浮かべて俺に話しかけてくる。

 

「おいおい、お粗末な魔法だな。思い悩むことがあるのか? 私が聞いてやろうか?」

「黙れ……!」

 

 言葉と同時に、魔法が飛んでくる、今度のは、拳大の岩だ。けれどその速度は凄まじく、常人であれば即死しかねない威力だ。

 魔術での迎撃を諦めた俺は、大剣でそれを裁いていく。体の中心に飛んでくる岩を弾き、身を翻して腕を掠める弾を避ける。しかしその対処に夢中になっていた俺は、ロゼッタの魔法の前兆を見逃してしまう。

 

 突如として俺の踏みしめている地面が揺れ出した。立っていることすらままならない大きな揺れに、俺は無様に地面に倒れ込んだ。

 

 

「アッハハハハハ! なんという無様! それでこそ人間だ! 貴様らには、己の無力を嘆きながら地面に倒れ伏しているのが相応しい!」

 

 

 うつ伏せに倒れこむが、なんとか両手を付き、顔面が地面と衝突するのは免れた。しかし、安堵する間もなく俺の頭上に現れた何か大きなものが、影を作る。

 

 見上げた先にあったのは、まるで巨大なシャンデリアのように、陽光を受けてキラキラと輝く氷の塊だった。

 ──まずい、対処が間に合わない。

 

「貴様ら人間が踏み潰してきた虫のように、無様に潰れろ」

 

 侮蔑と嘲笑に塗れた声と共に、俺の体の五倍はあろうかという氷の塊が、自由落下を始めた。魔力の籠ったその攻撃は、間違いなく俺の体を押し潰し、破壊するだろう。

 

 それを見た俺が最初に感じたのは恐怖でも焦りでもなく、安心感だった気がする。

 やっと死ねるのだ、という安堵。これまで幾度となく感じてきたそれは、今この時もっとも高まっているようだった。

 

 体が痛いだとか、迫りくる死が怖いだとか、俺が誰に復讐したいだとか、俺が本当は何者かだとか、俺の責務だとか、どうでも良く感じるような、不思議な解放感。

 けれど、諦めかけた俺の耳に、遠くから聞こえてくる声があった。

 

「──メメ!」

 

 

 ◇

 

 

 我ながら完璧な詰めだった。ロゼッタはそう分析する。魔王直々に討ち取ってこい、と送り出されたターゲット。

 最初は想像以上の力量の低さに油断していた。おかげで手痛い一撃をもらってしまった。

 

 しかし、魔眼を解放してからのロゼッタは終始優勢だ。まあ、神からの授かり物である魔眼を使って負けるわけにはいかないのだが。そんなのは、誇り高く敬虔なエルフの在り方に反する。

 

 魔眼を解放したロゼッタは、メメの記憶を一瞬にして読み取った。そして、驚愕した。十代だと思っていた目の前の少女は、百年を超える記憶を所持していた。一瞬で全て解析するには、あまりに時間が足りない。ロゼッタは瞬時に、メメの記憶から、何をもっとも恐れているのか解析した。

 その結果、ロゼッタは的確にメメの嫌がる言葉を吐くことができた。

 

『──お前、怨霊に憑かれてるんじゃないかか?』

 

 メメの中にあった、自分の救えなかった命への罪悪感。それを刺激する推測を伝えてやると、あっさりと動揺を誘えた。

 

 精神が揺らぐと、精神魔法のつけ入る隙が生まれる。

 ロゼッタは高度な魔法戦を繰り広げるのと同時に、少女への精神干渉を図った。

 人間にしては魔力が多く、その扱いにも長けていた少女の精神干渉への耐性はなかなか強固だった。おかげで、完全に掌握するには至らず、効果は暗示と言える程度となった。

 しかし、元からネガティブな気質を持っていた少女の動きは明らかに変わった。

 

 剣先がわずかに伸びてこない。魔法の威力がわずかに落ちた。

 高い集中力を維持する少女は大きな隙を見せなかったが、精神干渉の影響は少しずつ出てきていた。

 この様子なら、戦闘のうちに精神を完全に掌握するに至るかもしれない。

 狂気的に笑いながらも、ロゼッタは常に冷静に思考を続けていた。

 

 だから、想定外の援軍が来たとて、冷静に対処できた。

 



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77 動揺する心は、脆く不安定

「うおおおおおおお!」

 

 甘んじて死を受け入れようとした俺の目の前に、突如として黄金色の光が翻った。

 

「──オスカー!?」

「メメ、立って!」

 

 手を引かれるままに後方へと下がると、すぐに魔法が豪雨の如く襲ってきた。オスカーは、俺の手を掴んだままでそれを弾いていく。

 

 ああ、こいつはもうこんなに強くなっていたのか。

 

「『──守り給え!』」

 

 オリヴィアの鋭い声。地面からせり出した土の壁は、俺たちの身長をあっさり追い抜き、魔法の雨を堰き止めた。

 

「メメ、メメ! どうしたの!? 立てる!?」

 

 目の前で繰り広げられる魔法の応酬を、俺はただ眺めているだけだった。オスカーの言葉でようやく現世に意識が戻った俺は、オスカーに腕を掴まれ助け起こされる。

 まだ現実感がない。自分が死んだようだった。

 

「メメ! しっかりしてよ! まだ敵は生きてる!」

 

 オスカーの言葉に、呆然と前を見る。健闘するオリヴィアの姿。

 けれど、不思議と俺の体には力が入らなかった。

 ……そんなにも、ロゼッタに言われたことがショックだったのだろうか。あるいは、俺の体内にいる怨霊の意思で……。

 

 グルグルと回る思考はもはや自分では止められず、嫌な想像ばかりが頭を駆け巡る。

 すると、爆音を鳴らしながらオリヴィアと魔法戦を繰り広げていたロゼッタが、再び高笑いをした。

 

「アッハハ! 人間にしては良い術者だ! ──しかし、お前らの必死に守っているそいつに、果たして本当に守る価値があるのか?」

「そんなこと、あなたに問われるまでもありません」

 

 ロゼッタの挑発に対して、オリヴィアは静かに返した。自分の言葉に、少しも疑問を持っていないような態度。

 しかし、ロゼッタはなおも言い募った。

 

「いいや違う! お前らは知らない! そいつの過去を! やってきたことを!」

 

 激しい言葉に、俺は激しい動揺を覚えた。

 

「ま、まて──」

「そいつは大神の禁忌を破った罪人だ! 時間遡行という不遜な行いをして何食わぬ顔して突っ立ってる裏切り者だ!」

 

 振り返り、仲間たちの表情を確認する。

 驚愕を張り付けたような彼らの表情に、俺の中の動揺は一層増した。

 トドメとばかりに、ロゼッタは言葉を続ける。

 

「さらに! 今はなき過去において、そいつは罪なき人を殺した罪人だ!」

「ッ! ロゼッタあああああああ!」

 

 それ以上自分の罪を聞いていたくなかった俺は、なりふり構わず突撃を開始した。

 

「アッハハハハハ! 先ほどまでとは比べ物にならないほど冷静さを欠くな! そんなに嫌だったか!?」

「ッ!」

 

 言葉には応えず、ただ突撃する。先ほどようやく確信を持てたが、俺の精神にロゼッタが少しずつ干渉してきている。

 動揺が増えて、ネガティブな思考が常に頭の中を漂っている。

 やはり俺がロゼッタの言葉に動揺して、隙を見せてしまったのが大きいだろう。魔術で解除してもいいが、時間がかかる上に、耐性の低くなっている今の状態では、どのみちまた食らってしまう。

 

「『今は亡き炎の神にお願い奉る! 願うは神代生物の復活! 我が復讐の炎を贄として、今一度顕現せよ! 炎の龍よ! 再びこの世に暴虐をもたらせ!』」

 

 俺に向かって小さな岩石を鋭く飛ばしながら、ロゼッタは大規模な魔法の詠唱を完了してみせた。

 噴き出た炎は伝説上の生き物である龍を形どり、オスカーたちの方へと向かっていった。

 

「くっ……メメ! 援護は難しい! 突出しないで……」

 

 切羽詰まった声に、ちら、とオスカーたちの方を確認する。後ろに置いてきてしまった三人の方へは、先ほども見た炎の龍が迫っていた。自律して動くそれは、巨大な躰を翻しながらオスカーの聖剣を上手く回避していた。

 先ほどまでのロゼッタの魔法とは、明らかに威力が違う。

 

 オスカーは二人を守るためにその対処にまわっていて、手一杯なようだ。

 三人の動きもまた、どこか精彩に欠けるように見えた。

 ……ロゼッタは四人同時に精神干渉を試みているのだろうか。相変わらずの強敵っぷりだ。

 

 けれど、彼らがこちらに構う余裕がないのは俺にとって好都合とも言える。今、彼らから拒絶の言葉を突き付けられれば、冷静に戦える自信がない。

 

「はあああああ!」

 

 靄がかった思考では、複雑な戦術なんて考えられない。ロゼッタが他の三人を抑えているうちに、最速で叩くのみ! 

 

「『荒れ狂う炎よ! 我が敵を燃やし尽くせ!』」

 

 ロゼッタの鋭い詠唱と共に、炎の渦が目の前に殺到する。──しかし。

 

「この程度で俺を止められると思ったか!?」

 

 見せかけだけの低威力の魔法だと見抜いた俺は、防御を捨てて炎の中に躍り込む。身を焼く熱は、しかし炎に焼かれて死んだ時よりもずっと弱い。

 

「オオオオオ! ……ッ!」

 

 炎によって視界の遮られたロゼッタからは、俺の突撃は目視できないはずだ。そう思い飛び込んだ俺の目の前に現れたのは──オリヴィアの姿だった。

 

 予期しなかった光景に、一瞬思考が止まる。

 突然目の前に現れたオリヴィアが、嫌悪に顔を歪ませながら言葉を紡ぐ。

 

「恥知らず! 人殺し!」

 

 一瞬、頭が真っ白になった。でも。

 

 違う! こんなに感情を露わにして人を罵るのは、オリヴィアじゃない! 

 

「あああああああ!」

 

 あらん限りの声で叫ぶ。自分を鼓舞するために。震える手から剣を手放さないように。俺が今からすることから目を逸らすために。

 大剣を振りかぶった俺は、それをオリヴィアの幻影へとまっすぐに振り下ろした。

 

「カハッ……ひきょう……もの……」

 

 恨み言を吐きながら倒れるオリヴィアの死体は、しかし良く見えると細部に違和感がある。やはり、偽物だった。

 

 しかし、そちらに注意の向いていた俺は、ロゼッタの背後からの攻撃に全く気付けなかった。

 

「『──穿て』」

 

 迫りくるのは、無数の氷柱だった。下手な剣よりずっと鋭いそれは、俺の身を切り裂かんと飛んできた。

 

「くっ……ガッ!」

 

 一つ二つとなんとか身を翻して避けるが、あまりにも数が多かった。両足に一本ずつ突き刺さり、膝を付く。氷柱が脇腹を貫く。その他多数の氷柱が身を切り裂いた。痛みに集中力が途切れる。

 

 俺は痛みを感じるより先に、それ以上の凄まじい感情の波にさらされた。突然現れた深い絶望の感情が、脳を侵食していく。

 ──精神干渉が防ぎきれない。まずい。

 

 視界が黒に染まっていく。体の自由が奪われていく。

 

「アッハハハハハハ! さあ、とっておきの悪夢に落ちろ!」

 

 そして、俺の意識は途切れた。

 



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78 最悪の夢

 気づけば俺は、見覚えのない場所に立っていた。まず視界に入るのは、地平線の先まで広がる、燃えるような夕焼けだった。

 雲は一つとして見えず、空にはただ橙色が漠然と続いている。

 不思議と、不安になってくる光景だった。

 

 ふと足元に違和感を覚え、下を見る。──そこには、視界いっぱいを埋め尽くすように、人骨らしきものがちりばめられていた。白いそれは何層にも重なっているようで、底が見えない。いったい何人分の骨が俺の足元に転がっているのか、見当もつかなかった。

 異常な光景に、唾を呑む。

 この不気味な場所は、地獄、なんて言葉が形容するのに一番相応しいかもしれない。

 

 

 唐突に訪れた状況に、頭を捻る。

 俺は元々どこにいて、何をしていたんだっけ。

 ……ああ、思い出せないということは、きっとこれは夢だ。夢だと分かれば、この状況にも説明がいく。見覚えのない景色と、連続しない記憶。

 

 でも、こんな夢は初めて見た。いつからだか悪夢しか見なくなった俺だが、その悪夢とは、つまりは過去の経験に他ならなかった。

 失敗した記憶たち。死んでしまった記憶たち。成し遂げられなかった記憶たち。それらが警告のように脳裏に浮かび、俺の心を刺激してくる。それが俺の悪夢だ。

 

 けれど、今見ている夢はいずれの過去とも違った。見覚えのない場所と、見覚えのないシチュエーション。

 そして何よりも、感触がある。足元にはゴツゴツとした感触があり、自分の頬をつねれば痛みが走った。

 

 とにかく、歩こう。俺は足元に積み上げられた人骨を踏みしめながら、あてもなく歩き始めた。

 

「どうして直前の記憶がない? 戦いの最中だった気はするが……」

 

 ブツブツと呟きながら、ゆっくりと歩く。応える人などいるはずもなかった。風すら吹かないこの場所には、俺が白骨を踏みしめる音だけが響いていた。しかし。

 

「……なんだ?」

 

 唐突に、目の前の景色には変化が訪れた。

 

 俺の前方に敷き詰められていた人骨が、竜巻のように巻きあがった。人の身長程度の大きさの、小さな竜巻だった。

 螺旋のように浮かび上がった人骨は、やがて意味のある形を為していく。

 

 頭蓋骨の下に、背骨。肋骨が付いていき、人体の形が浮かび上がる。そして、どこからともなく皮膚が構成されていき、人骨はやがて一人の人間となった。──いや、そこにいたのは、カレンだった。

 

 しかし、様子がおかしい。首元には大きな傷があって、そこから新鮮な血を流し続けている。

 

「カレン? 何をやっているんだ。治癒魔法を……」

 

 しかし、言葉は途中で打ち切られた。虚ろな目をしたカレンが、殺意を持って俺に襲い掛かってきたのだ。

 

「カレン!?」

 

 ひとまず彼女を組み伏せようと素手で応戦しようとした俺は、そこではたと気づいた。

 聖剣が、俺の手の中に収まっていた。それを認識すると同時に、俺の腕が意思と反して持ち上がった。まるで、聖剣を振り下ろす前動作のように。

 

「まっ……」

 

 そして、俺はカレンめがけて聖剣を振り下ろした。最悪の感触と共に、目の前にいるカレンは、血を流して倒れ伏した。倒れる直前まで、彼女の虚ろな瞳は俺を捉え続けていた。

 息絶えたカレンの幻影は、急激に分解されていった。皮膚がなくなり、内蔵が消え失せ、骨だけが残る。それもバラバラになって、足元に敷き詰められた人骨の中に紛れていった。

 

 ……ああ、最悪だ。守るべきものを殺すのは、何度やっても最悪の気分だ。

 しかし、今の出来事には見覚えがあった。確か、初めて吸血鬼と戦った時もこんな事があったはずだ。

 ということは、やはりこれは過去の記憶の再現。

 

 けれど、何かいつもの悪夢とは決定的に異なる何かを、俺はすでに感じていた。

 なんというか、この空間自体に誰かの悪意を感じるのだ。ただ自然に発生する悪夢とは根本的に違うような、そんな予感。

 

 そんな思考を巡らせていると、再び目の前で人骨が小規模な竜巻に巻き上げられていた。

 

「……今度はなんだ」

 

 正直見たくもなかったが、いつの間にか、俺の体は一切動かなくなっていた。後ろを向くことも、目を塞ぐこともできない。どうやら俺に身体の自由はないらしい。

 やがて、人骨が人の形を取った。その姿は、あまりにも見覚えのあるものだった。

 

「……オスカー?」

 

 もう一人の勇者。あるいは、過去の俺。黒髪黒目の少年は、暗い瞳で俺を見つめていた。

 

「……なるほど、今までの悪夢とは違うわけだ」

 

 今までが俺がオスカーとして体験した過去だったのに対して、今回の悪夢にはオスカーが登場した。

 さて、どんなことが起こるのか。少しも体を動かすことができないままで俺が見ていると、オスカーが口を開いた。

 

「──メメ」

 

 声には、溢れんばかりの憎悪が籠っていた。そして、口調からは、どこか俺ではないオスカーらしさがあった。

 俺は確信する。こいつは俺じゃなくて、俺がメメとして出会った、あのオスカーだ。

 

「君の記憶を全部見た」

「そうか」

 

 なら、口調に乗る憎悪も当然か。

 やがて、静かに言葉を紡いでいたオスカーが、感情を爆発させる。

 

「──どうして君は平気な顔で生きていられるんだ!? カレンを殺して、オリヴィアを殺して、数えきれない人を殺して、それでよく勇者だなんて名乗れたものだな!」

 

 お前が、俺を否定するのか。俺の原点である、お前が。

 誰に言われた言葉よりも、オスカーの言葉は俺に重くのしかかった。

 だって、それは俺のやってきた全ての否定に他ならない。俺自身が俺を否定するのなら、俺のやってきたことはいったいなんだったのだ。

 

「何が魔王を殺すためだ! 何が人類の未来のためだ! なかったことになった過去の私怨を勝手に引き摺っているだけじゃないか!」

 

 だからなんだ。黙れ。

 

「足元を見てみなよ! 見渡す限りの骨骨骨! これは君が殺した人たちの骨だ! 君のせいで死んでいった人たちの成れの果てだ! 全部全部全部、君が殺したんだ! なかったことになったからって、君の罪が消えたわけじゃない!」

「──分かってる!」

「いいや! 傲慢な君は何も分かっていない! どうしてのうのうと生きていることができるんだ! どうしてカレンやオリヴィアと何事もなかったように話すことができるんだ! 恥知らずのクソッタレ! 今すぐにでも腹を掻っ捌いて死んで詫びろ!」

 

 その言葉がキーとなったのだろう。聖剣を持った俺の腕が、ゆるゆると動き出す。切っ先は、自分の腹へ。ああ、比喩でもなんでもなく腹を搔っ捌いて死ねということか。しかし。

 

「……止まった?」

 

 まさに自分に刃を突き刺そうかというその直前、刃は俺の目の前で停止した。途端に、体の自由が戻った。けれど俺は、剣を下ろす気にはなれなかった。

 

「……自分で死を選べと、そういうことか」

 

 急に、選択の自由を与えられた。そのことに、俺は何か大事な意味を感じ取った。

 例えば、この悪夢が誰かの悪意によって与えらえたものだったとして、ここで俺自ら自害させることが目的であるような、そんな予感がするのだ。

 

 ちら、と先ほどまで凄まじい形相で俺を罵っていたオスカーを見る。彼は、先ほどまでの剣幕が嘘だったかのように、黙って俺を凝視していた。

 その目には憎悪が凝縮されていて、俺が自ら死を選ぶのを、絶対に見届けてやるという意思を感じた。

 

「俺が今ここで死ねば、終わるのか?」

 

 オスカーは、黙って頷いた。

 かつての俺なら、あっさりと一蹴できる誘いだっただろう。しかし今の俺は、少し黙って考えてしまう。

 

「この、敷き詰められた人骨が全部俺が殺した分だって言ったな」

「そうだよ。これは君が百年以上かけて積み上げた罪の数だよ」

 

 覚悟はずっと前から決まっていた。けれど、改めて見ると自分の罪の重さに震えてしまう。慣れたはずの罪悪感というやつに押し潰されそうになる。

 

 俺がしばらく黙っていると、目の前のオスカーが静かに口を開いた。

 

「少し整理しようか、臆病者。君がここで死ななければならない理由。君の罪深さについてだ。勇者としての君の罪の重さについては、さっき話したな。でも、君の失敗はそれだけじゃない。つい最近のことだ。君は、油断のためにジェーンを殺した。過去に学ばずに、油断した結果だ。しかもそれは、覆らない。取り返しがつかない」

「……そうだな。あいつが死んだのは、俺のせいだ」

「次に、君は怨霊に憑かれてるとロゼッタに言われたな」

「……そうだった、気がする」

 

 なぜか、そのことを思い出そうとすると、頭に靄がかかったように中途半端にしか思い出せなかった。

 

「その怨霊というやつが形を持ったのが、僕だ。僕は君に殺された命たちの恨みの集合体のようなものだよ。君に向けられた恨みや妬み、怨嗟、殺意は蓄積し、やがて怨霊と呼べるまでに成長した。まあ、百年も戦い続けていれば当然だね。つまり君は、たとえ世界を越えようとも君の罪からは逃れられなかったんだ」

「……もとよりそのつもりだ」

「本当にそうか? 過去の自分を教え導くなんて息巻いて、カレンやオリヴィアと仲良くして、本当に君は一秒たりとも自分の罪を忘れたことなんてないと断言できるのか?」

「それは……」

「君の魂に憑いていたものとして断言するよ。答えはNOだ。君は、自分の罪深い過去を忘れて未来に生きようとしていた」

「……」

「そして、そんな恥知らずな日々ももうおしまいだ。君の仲間たちは、君の過去を知った。君が罪人であることを知った」

 

 そう、だった気がする。そのことを思い出そうとすると、また思考がぼんやりとしてくる。

 

「君は魔王討伐を以て自分の贖罪を遂げようとしていたな。しかし、それは君の過去に報いることにはならないよ。なぜなら今君が倒そうとしてるのは、君が何十回も挑んだ魔王じゃない。ジェーンに言われただろう。今いるこの世界は、君の生きた世界とは違うんだって」

 

 厳粛に、最終判決を告げる裁判官のように、そいつは断言した。

 

「だから、君のできる贖罪は、今ここで惨めに死ぬことだけなんだ。分かっただろう?」

 

 不思議と言葉が胸にすんなり入ってくる。オスカーの、自分の姿をした存在に言われているからだろうか。

 俺の胸に浮かんだのは、深い深い、納得だった。

 そうか、死ぬべきなのに生きているから、こんなに苦しいんだ。生きているから、恨まれる。生きているから、罪を重ねる。だから。

 

「──そう、だな。俺は今ここで、死ぬべきだ」

 

 決意が決まると、周囲の骨たちがカタカタと音を立て始めた。風一つないこの空間で振動するその様は、まるで俺の死に喝采しているようだった。

 

 最期に語る言葉は自然と出てきた。

 

「俺の過去に、贖罪を」

 

 握った聖剣に力を籠めて、俺は──。

 



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79 奇跡の邂逅と、与えられた救い

「──待ってくださいませ」

 

 凛としていて、けれど背筋を震わせるような甘さを孕んだ声だった。それは俺の背後から、優しく呼びかけてきた。でも、己の腹に迫る剣を持つ手を止められるわけもなかった。

 

 しかし、背中に温かいものが当たるのと同時に、俺の剣を握った手は、後ろから伸びてきた小さな手に包み込まれてしまった。それを振りほどくことができず、俺は呆然と動きを止めた。

 その柔らかい手の感触に、ふと思い出す。ああ、この声の主はデニスと戦って死にかけた時、思い出せ、と語り掛けてきた人物だ。

 あの時の声のおかげで、俺は今日まで生きながらえた。この声の主のおかげで、俺は諦めることなく戦えた。ちょうど、今この瞬間と同じように。

 

 声の主がこの場に現れたのと同時に、骨はカタカタという音を立てるのをやめていた。憎悪に染まった顔で俺を見ていたオスカーの姿も、跡形もなく消え去っていた。

 彼女が囁く。優しくて、凛としていて、そして、俺への深い深い感情の感じられる声だった。

 

「もう、十分でしょう」

 

 その言葉があんまりにも優しくて、俺は思わず背後の影に身を任せてしまいたくなってしまった。

 でも、そんなこと許されるはずがない。

 

「いいや、俺の償いはまだ終わってない」

「どうして、自分を赦すことができないんですの?」

 

 声には、泣きたくなるほどの懐かしさがあった。

 

「君には分からないほどの罪を重ねてきたからだよ。誰だって、俺の全部を知ったら軽蔑して拒絶するに決まっている」

「いいえ。私はあなたの全てを見てきました」

「え?」

 

 断ずる声には少しの震えもなくて、彼女が確信を持ってそう言っていることが窺いしれた。

 思わず、振り返る。──そこには、優しそうな表情をしたオリヴィアが立っていた。

 そして俺は、一目見て確信した。ああ、彼女は唯一俺が愛して、恋人になったオリヴィアだ。魔法学院で出会って、俺に初めて魔術を教えてくれた人だ。

 彼女と別れて五十年以上経つが、不思議と確信できた。

 

「全部です。あなたの百年以上を、全部」

「そんな、はずは……」

「オスカーさん。あなたは、その魂に不純物が混ざっていると言われたでしょう」

 

 彼女は俺のことを懐かしい名前で呼んだ。

 ああそうか。彼女にとって俺は勇者オスカーなんだ。

 

「ああ……」

「それは私です。あなたの魂に入り込んだもの。不純物。それが私です」

「え……? でもさっきのオスカーは……」

「あれは、この夢を作ったロゼッタの悪意そのものです。あなたの恐れているものをそのまま映す鏡のようなもの」

「でも、ロゼッタは怨霊が憑いてると……」

「あなたの魂の中に存在した私の存在を怨霊と勘違いしたのでしょう。全く、失礼な話です」

 

 冗談めかして言って、オリヴィアは少し笑った。そんな表情を見るのも久しぶりな気がして、俺は少し見惚れてしまった。

 

「でも、君がどうして俺の中に? なんで夢の中に?」

「一言で言えば、愛の力でしょうか」

 

 恥ずかしいセリフを吐いたオリヴィアは、僅かに身じろぎした。

 

「あなたに戦場のど真ん中で看取られた時のことです。体が死ぬのと同時に、私の魂もまた、消滅するはずでした。──しかし、奇跡が起きたのです」

 

 オリヴィアは、自分の胸にそっと手を当てて、穏やかな表情で話した。

 

「あなたを想い、添い遂げたいという気持ちを最後まで持ち続けていた私の魂は宙を漂い、直後に死んだあなたの魂を見つけ出しました。そのまま、天に昇っていくそれと共に逝こうとしました。けれど、あなたの魂はただ死んでいくのではなかった」

「……」

「気づけば、私は過去のあなたの体に、一緒に収まっていました。時間遡行を共にしたのです。女神様ですら気づかないほどに小さな魂の残滓だった私は、あなたと共にいろんなものを見ました。魔王軍の威容。人間たちの愚かさ。そして、勇者という責務の重さ。あなたと半ば同化した私は、私が死ぬ前を含めて全ての記憶を見ました。そして、思ったのです。──この人は、どれだけ多くを背負っているのだろうと」

「……それが、俺の責だからだ」

「確かに、責任感の強いあなたならそう言うでしょう。たとえその重みに潰されそうになろうとも、それこそ死ぬまでそれを持ち続けるでしょう。──でも、いいんですよ」

「え……」

「全部見た私が断言します。あなたは、自分を赦すべきです。だって、あなたはあんなにも懸命、だったじゃないですか」

 

 オリヴィアの言葉には、今までにない熱が籠っていた。

 

「でも」

「私の言葉が信じられないんですの? あなたが愛した私の言葉を?」

「……大胆だな。オリヴィアらしくない」

「あなたが私をこんな女にしたのです」

 

 そんな物言いも、懐かしくて愛おしかった。

 

「何度だって言います。たとえあなたがどう言おうと、全部見てきた他でもない私が、あなたを赦します。……これでもダメだというのなら、私はあなたを叱らなければなりませんね」

「……」

 

 少し、考えてしまう。

 

「でも、俺は」

 

 なおも言いよどむ俺に、オリヴィアは決定的な言葉を放った。

 

「あなたは自分を赦さなくても、私が赦しましょう。だから、前を向いて、今を生きてください。あなたの幸せが私の幸せですわ」

「……ああ。そうだな」

 

 聖剣を持つ手は下がっていた。もう、自害をしようなんて気は起きなかった。

 大切な君にそんなことを言われたら、赦すしかない。前を向くしかない。

 ──俺は、このオリヴィアを看取った時以来ずっと背負って来たものを下ろせた気がした。

 

 俺がオリヴィアの言葉を受け入れた時だった。足元に敷き詰められていた人骨は、いつの間にかただの白い床に変わっていた。真っ白で何も映さないツルツルとした表面は、どこまでも広がっていて、まるで俺の未来を表しているようだった。

 空すらも、透明な青色になっていた。

 

「……綺麗だな」

 

 やがて、俺の体が手足の先から徐々に透明になっていく。消失した部分からは黄金色の光が立ち昇って、突き抜けるような青色の空へと消えていった。

 それはこの夢から抜け出す前兆のようだった。そして同時に、別れを意味している気がした。

 

「もう、君とは会えないのか?」

 

 不意に不安になって、俺は問いかけた。

 今を生きるオリヴィアではない、俺の愛したオリヴィアは、寂しそうに微笑んだ。

 

「少しの間のお別れですわ。あなたの過酷な生に比べれば、ほんのわずかの。きっと、死後には大神様が私たちめぐり合わせてくださいます」

「……そう、かな」

 

 手足は既にこの世界から消失していて、彼女を抱きしめることすらできなかった。

 

「でも、見守っています。私の勇者。どうか、負けないで」

「ああ。──ありがとう」

 

 あの時と同じように、彼女は俺のことを私の勇者、と呼んでくれた。勇者という呼称はずっと嫌いだったが、彼女の唇から紡がれるなら悪くない気がした。

 

 光になっていく俺の額に、彼女は静かに唇を落とした。

 

 

 ◇

 

 

 赤髪に、女性らしい小柄な体躯になったオスカーさんは、光の粒となって私の目の前から消え去っていった。

 きっともう、生きている彼に会うことはできないのだろう。

 

 私は別れにため息を吐くと、空を見上げた。先ほどまで橙色で塗りつぶされていた空は、いつの間にか青空に変わっていた。

 頬を伝った一滴もそのままに、私は空を見る。

 胸にぽっかりと穴が開いてしまったように痛い。私と死別した時のオスカーさんも、こんな気持ちだったのだろうか。そうだったなら、申し訳ないことをした。

 

 正直なところ、オスカーさんがあんな風になることに一端の責任は感じていたのだ。私が最期に残した遺言。魔王を倒して欲しいという願い。彼の励みになればと思って言ったその言葉は、そのまま彼を縛り付ける呪縛となってしまった。

 

 私と死別してからの彼の焦燥ぶりは、正直見ていられないほどだった。沈痛な面持ちで、一層苛烈な戦いをするようになった彼。記憶にあったかつてのやり直しの彼よりも、ずっと辛そうだった。

 

 だからせめて、彼が自分を赦す助けになればいいと思った。今はもう亡き身である私が彼に会えるのは、これが最後なのだから。

 奇跡の再会は、きっと二度と訪れない。彼が再び自分の内面世界に魂を閉じ込められることなど、もうないだろう。だから、この世ではもうお別れだ。

 

「オスカーさん……」

 

 もっと一緒にいたかった。もっと言葉を交わしていたかった。もっと愛を確かめたかった。──もっと、彼を救いたかった。

 私の言葉は確かに彼の救いになったかもしれない。でも、彼が本当の意味で過去の呪縛から解き放たれるには、彼自身が彼を赦すしかないのだ。

 だから、私は最後に呟いた。

 

「きっと、最後に貴方を救えるのは、貴方自身です」

 




10、11話の回想に登場した彼女の再登場でした
19話の声の主でもあります


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80 断罪は訪れた

 覚醒と同時に目に入ってきたのは、ちょうど俺の大剣と同じくらいの大きさの氷の刃だった。

 

「ッ!」

 

 反射的に突き出した大剣に、氷の刃が激突した。そのまま砕け散る氷。剣柄を握る手に、ビリビリという衝撃が伝わってきた。

 危機一髪だ。あと少し目覚めが遅かったら、あと少しあの夢から抜け出すのが遅れていたら、死んでいた。

 

「……どうして諦めていない?」

 

 驚きを隠せていない声だった。ロゼッタは、信じられない、という表情でこちらを見つめてきていた。まるで、死んだはずの人間が化けて出てきたのを見てしまったような顔だ。

 

「あり得ない! 貴様は確かに自らの業に押し潰されて精神の死を迎えるはずだったのに、なぜ!?」

「ああ、確かにそのはずだったな」

 

 確かに俺は、あそこで死ぬはずだったのだろう。

 あの夢のことを思い出す。

 俺が死なせてしまった人たちの白骨に囲まれた時を、思い出す。俺の罪は、俺には背負いきれないほどに深くて、膨大だった。

 オスカーの憎悪に満ちた顔を、思い出す。俺の原点とも言える彼からの否定は、俺の根幹を揺さぶった。

 全部が正しくて、全部が俺を否定していた。

 

「でも、救いはあった」

 

 体が今までになく軽い。背負っていた重荷を降ろしたような開放感があった。今なら、なんでもできる気がした。

 ロゼッタは、ぽかんと口を開けて俺を見ていた。その目は、信じられない、信じたくない、と言っているようだった。

 

「……救い! 救いだと! 私と同じ目をしているお前の口からそんな言葉が出てくるとはな! そんなものがあるはずはない! そんなものが存在していいはずがない! ──だって、私にはそんなものなかった!」

 

 悲痛で切羽詰まった言葉と同時に繰り出された魔法は、激情を表すように真っ赤な炎だった。

 けれど、今の俺にとってそれは脅威には映らなかった。

 

「『水よ! 燃え盛る炎を鎮めたまえ!』」

 

 放出された水が、炎を瞬時に掻き消した。俺の精神が安定したことで、魔法の威力も戻ってきている。

 同時に、ロゼッタの魔法の威力に陰りがあるように思えた。精神の不安定さは、魔法の発動に悪い影響を及ぼす。ロゼッタ自身が指摘した通りだ。

 

「クソ、往生際の悪い……私が言ったことを忘れたわけではあるまい! 貴様の業は、怨霊という形で貴様に……」

「ああ、もしかしたらそうだったのかもしれない」

 

 思い出す。悪夢の中での出来事を。俺を凄まじい形相で罵ってきたオスカーの姿。あれはきっと、俺に向けられた悪感情の集積だ。あのオリヴィアは否定したが、俺はロゼッタの言っていることも全く見当違いではない気がしている。

 俺は過去の経験から知っている。ロゼッタの精神干渉とは、要するに見たくないものの可視化だ。忘れたい記憶。嫌な思い出。そんなものを増幅して責め立てるようなものだ。俺の負い目が、見たくないものが集積したもの。それはきっと、怨霊と言えるものだったのだろう。

 自罰の地獄。かつて彼女は自分の堕とす悪夢のことを、そう呼称していた。

 

「でも、もういいんだ。自分を無意味に責めるのは、もうやめた」

「なに?」

 

 今までの俺なら絶対に吐けなかったようなセリフを、しみじみと呟く。ああ、こんなことを言えたのも、彼女のおかげだ。本当に、彼女にはどれだけ感謝しても足りないほどだ。

 穏やかな心情のままで、俺はロゼッタに問いかける。ずっと過去に囚われ続けている、俺によく似た暗い瞳をしたダークエルフへと。

 

「なあ、ロゼッタ。お前には、今のお前を受け入れてくれる人はいなかったのか?」

「──ッ!」

 

 その言葉を聞いた途端、ロゼッタの怒気がかつてないほどに膨れ上がった。四百年溜め続けた憎悪を凝縮したような、凄まじい感情のうねりが、肌をビリビリと刺激した。

 感情の昂りを表すように、質量すら感じるほどの魔力が渦巻き、ロゼッタの周りには不穏な風が集まり始めた。嵐の前兆のような、恐ろしい光景だった。

 やがて、それは爆発した。

 

「私をッ! 憐れむなあああああああああああ!」

 

 激情は、そのまま叩きつけられる炎へと変わった。津波のように襲い掛かって来た炎は、先ほどまでの炎よりも一層熱く、激しかった。

 でも、もう遅い。俺の仲間たちが炎の龍を攻略してこちらの援護に向かってきているのは、先ほど確認済みだ。

 

「オリヴィア!」

「ッ! はいっ! 『聳え立つ岩壁よ! 彼の者を守りたまえ!』」

 

 オリヴィアの生み出した岩壁が、俺の目の前に一瞬で立ちはだかり、業火を遮断した。

 

「カレン! 俺に治癒を!」

「うん!」

 

 これまでに受けたていた傷が塞がっていく。

 オリヴィアの魔法の守りを。そしてカレンの治癒魔法を信じる。俺は岩壁の頂上へと跳躍して、中空へと身を躍らせた。重力の力を借りた俺は、ロゼッタへと一直線に近づいていく。

 一瞬で炎を攻略して迫ってくる俺の姿に、ロゼッタが顔を焦りに歪ませた。けれど右目の不気味な光は、衰える様子はない。

 

 先ほどまでとは一転、有利に立った俺だが、慢心はできない。かつての経験から、俺は知っている。本気を出し、魔眼を使用しているロゼッタは、魔法で相手の思考すら読み取れる。

 

 ロゼッタの輝く目、魔眼は神謹製のものだ。その効果は、人間如きが及びものではない。接近戦を挑めば、魔眼に思考が全て読み取られてしまう。だから、剣は見切られて簡単には当たらない。──でも、同じ神の道具を持てばその限りではない。

 チャンスは一度きり。そして、ロゼッタが動揺している今が、最大の好機だ。

 

 はるか後方、負傷した足を引きずりこちらに近づいてきているオスカーに、叫ぶ。

 

「オスカー! 聖剣を! 俺に!」

「う、うん!」

 

 逡巡の後、俺の切羽詰まった声に背中を押されたオスカーは、俺に向かって聖剣を放り投げた。

 

「おおおおお!」

 

 俺は、手元にダイレクトに飛んできた聖剣を掴む。瞬間、手に信じられないほどの熱を感じた。聖剣の拒否反応。勇者の残滓である俺は、聖剣の正当な持ち主ではない。それでも。

 

「お前を殺すには、これで十分だああああああ!」

 

 詠唱すら唱えず、慣れ親しんだ聖剣の権能を行使する。使うのは断罪の権能。魔に属するものを悉く滅する、神の刃だ。

 俺の手の内収まった聖剣が、黄金色の輝きを増していく。神に造られ人の世に堕とされた道具が、神の位階へと戻っていく。その神々しく美しい光の前には、この世のあらゆるものが無価値にすら感じられた。

 そんな黄金色の輝きに相対したロゼッタが、眩しそうに目を細めた。

 

 その目には、もう憎悪は映っていないように見えた。

 

「せめて、死がお前の復讐の終着であるように」

「──あ」

 

 驚くほどにすんなりと、刃はロゼッタの首を両断した。疑う余地もない致命傷。

 落ちた首が地面をコロコロと転がり、俺の足に軽くぶつかった。それを見下ろす。ロゼッタの表情は、殺された者のものとは思えないほどに穏やかだった。

 ──終わった。ロゼッタを、倒したんだ。

 

 かくして、叛逆神に従い罪人となったダークエルフは、正義の女神の刃の元に、その400年の命に幕を下ろした。

 やがて俺の手から、聖剣がポトリと落ちた。聖剣の拒否反応で焼け爛れた手では、もう剣を持つことはできなかった。

 散々戦ってきた強敵との最期の別れに、俺は静かに言葉を紡いだ。

 

「……お別れだ。俺とよく似た復讐者。お前は確かに人間に復讐する権利があったかもしれない」

 

 ロゼッタの過去を知ってしまった俺には、その思考を否定することはできなかった。きっと故郷を追われ、母親を無惨に殺されたロゼッタには、人間を断罪する権利があった。そのこと自体は否定しない。

 

「──でも、未来は、未来を向いている者のものだ」

 

 今までの俺と同じく、ロゼッタは過去に囚われ続けていた。復讐に四百年も拘泥していた。そんなロゼッタに、まだ見ぬ未来を楽しみに日々を過ごす人間の可能性を閉ざさせるわけにはいなかった。

 

 くるりと振り返ると、驚いたような顔をした仲間たちの姿があった。

 

 晴れ晴れしい気持ちで、俺は言った。

 

「帰ろう」

 

 

 ◇

 

 

 迫りくる聖剣の神々しいまでの光を見た瞬間、ロゼッタは自分の死を直感的に悟った。ああ、きっと復讐という間違った道を進んだ私は、あの正しすぎる光に裁かれるのだ、と。

 

 死を悟ると、迫りくる刃が急激にゆっくりに見えてきた、同時に、ロゼッタの脳内には過去の記憶が走馬灯のように駆け巡った。

 

 母との楽しい日々の記憶。幸福だった村での暮らし。

 それがたったの一日で奪われたしまった日の記憶。

 復讐の日々の記憶。人間を殺すたびに、ロゼッタはいつも高笑いをしたが、本当に楽しかったのか、今となってはもう分からなかった。

 そして、今代の魔王との出会い。魔族の内でも恐れられていた強者であるロゼッタを、あっさりと平伏させた圧倒的実力者。けれどその瞳は、ロゼッタと同じく暗く冷たかった。──思えばあれは、ロゼッタと同じ復讐者の目だったのかもしれない。

 最後に、ロゼッタの秘術を打ち破り、今まさに聖剣を振り下ろそうとしている、メメと言う名の少女。その魂には勇者としての記憶が宿り、その力の残滓を振るい、ロゼッタを追い詰めた。

 最初にその目を見た瞬間、ロゼッタは鏡でも見ているような気分だった。暗く沈んだ目。己を仇として、捨て身の攻撃をしてくる苛烈な姿。その姿は、人間に復讐するロゼッタの姿によく似ていた。無意識のうちに、ロゼッタは少女に親近感にも似たものを覚えていたのかもしれない。

 

 だからこそ、許容できなかった。そんな少女が夢から覚めた時、過去のしがらみから解放されたような顔をしていたこと。穏やかな表情で、救いは存在したと語ったこと。

 だってそれは、ロゼッタはどれだけ望んでも得られなかったものだ。自分によく似た少女だけが、それを手にした。赦せなかった。思えば、1人の人間にあそこまで大きな感情を抱いたのは初めてだったかもしれない。

 

 刃がゆっくりと迫る。死をもたらす断罪の剣が、ついにロゼッタの首に触れた。

 最後にロゼッタが思い出したのは、故郷や母のこと、復讐のことではなく、魔王のことだった。──思えば、ロゼッタは魔王にもまた親近感に似た感情を覚えていたのかもしれない。復讐者の、過去に囚われた者の目をした魔王に。

 四百年の生が終わる瞬間、ロゼッタは魔王への警句を浮かべていた。

 

 ああ、我らの美しくも恐ろしい王よ、気を付けろ。──勇者は、二人いる。

 



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81 これまでの話、これからの話

 戦いは一応の終わりを迎えた。

 やはりヤカテ平原に展開していた魔王軍の指揮を執っていたのは、ロゼッタだったようだ。ロゼッタが死んだ後の魔王軍は秩序を失い、やがて散り散りになって逃走を始めた。

 

 終始優勢で戦いを進めていた騎士たちには、目立った損害はない。……本当に、俺が繰り返してきたどの歴史よりも魔王討伐が近づいているのを感じる。

 

 そして苦戦を強いられ少なくない傷を負った勇者パーティーだったが、今度は誰一人欠けることなく戦いを終えることができた。

 そのことが、俺は何よりも嬉しかった。

 

 

 ロゼッタとの激しい戦いで受けた傷が完治した頃、勇者パーティーの面々は、俺の部屋に集っていた。

 

「メメが自室にみんなを招くなんて珍しいね。どうしたの?」

 

 オスカーの不思議そうな顔も当然だ。今までの俺なら、自分から進んで彼らを招き入れることなんてなかっただろう。

 きっと、俺は無意識に彼らと壁を作っていたのだ。自己の深いところまで話すことを避け、本心を語ることを恐れていた。どんなところから自分の過去の話になるか分からないからだ。

 でも、そんな日々ももう終わりだ。

 

「ああ。みんなに聞いて欲しい話があるんだ。ロゼッタの言ったこと。俺の過去についてだ」

 

 俺が人生をやり直していたこと。俺が罪のない人を殺したこと。それらを聞いた仲間たちは、少なくない衝撃を受けたはずだ。

 

「……無理して言わなくてもいいんだよ」

 

 オスカーは、躊躇いがちに俺を気遣った。カレンもオリヴィアも、少しだけ首を縦に振った。ああ、本当に優しい仲間たちだ。

 

「いいや、話す。これは俺のためなんだ」

「……そっか」

 

 きっと俺は、今ここで俺の過去を話さなければ、胸を張ってみんなの仲間だと言うことができない。

 大きく息を吸って、俺は話を始めた。

 

「──俺はかつて、オスカーという名の勇者だった」

 

 仲間たちが大きく目を開くのが見えた。けれど俺には、拒否されることへと恐怖はもうなかった。

 

 

 話にはかなりの時間がかかった。当然だ。俺の長い人生なんて、簡単に言い表せるものじゃない。俺にとって重要なことをかいつまんで話しても、なかなか終わらない。

 でも仲間たちは、ずっと真剣な表情で聞いてくれた。

 

 自分がオスカーという名の勇者だったこと。女神の手によって何度も人生をやり直していたこと。色々な経験を積んで、少しずつ強くなっていったこと。みんなとも交流していたこと。それでも勝てなくて、みんなを死なせていたこと。

 過去ばかり気にするようになったこと。罪を償うことばかり考えるようになったこと。手段を選ばずに魔王討伐を目指し、時には人間すら手にかけたこと。

 

 百年以上経った頃、ジェーンの手によってこの世界に女として転送されたこと。みんなと出会ったこと。素性を隠して戦っていたこと。ロゼッタの魔法で精神的に追い詰められ、今度こそ死ぬと思ったこと。そんなところを、かつて恋人だったオリヴィアに救われたこと。

 話し終える頃には、俺の喉はカラカラだった。

 

「……よく、話してくれたね」

 

 最初に口を開いたのは、カレンだった。

 

「きっととても勇気のいることだったんだと思う。だって、時間遡行も命の蘇りも禁じられたことだもんね」

 

 時間遡行や蘇生を禁じる三禁を破ることは、人間の間で忌避感が強い。正直なところ、俺は今すぐに石を投げつけられてもおかしくないくらいだ。

 特に忌避感の強そうだった、敬虔な信徒であるカレンは落ち着いた様子で話した。

 

「メメちゃんがそのことを真剣に考えていて、負い目に思ってたことはよくわかったよ。だから私はそれを否定したりしない」

 

 カレンの言葉には、ただ盲目的に女神の言葉に従う信徒というだけではない、彼女自身の意思が籠っていた。

 

「だって、メメちゃんはあんなに頑張っていたんだもん。きっと、昔だって同じくらい頑張っていたんでしょ? だから、メメちゃんが否定される理由なんて、どこにもない」

 

 ああ、良かった。

 強い意志の籠った瞳で話す彼女は、やっぱり俺が幼い頃に焦がれたカレンだった。

 突然、俺の体は優しい温かさに包まれた。優しい顔をしたカレンが、俺の体に抱き着いてきていた。

 

「よく、今まで一人で戦っていきたね」

 

 涙声で、カレンは俺の耳元で囁いた。その温もりに、俺は呆然とした。どうして、君が泣くんだ。

 カレンは、俺の受けた苦しみを自分も味わったような顔で、涙を流した。

 ああ、本当に、優しい女の子だ。つられて俺の目頭も僅かに熱くなってしまったではないか。

 そっと彼女の背に手を伸ばし、恐る恐る抱きしめる。

 

 黙ってその様子を眺めていたオスカーが、口を開いた。

 

「僕は、メメの言ったことは、正直実感はあまり湧かない。君が元々僕で、百年生きたなんて、言葉の意味は分かっても、それがどういうことなのか完全に理解するには、もう少し時間が掛かると思う」

 

 オスカーの言葉に、俺は黙って頷いた。当然の反応だろう。すぐに理解されるとは、俺も思っていない。

 

「でも、少し納得はできたよ。ああ、僕が君に感じていた不思議な親近感は、こういうことだったんだって」

「同族嫌悪に陥らなかったか?」

「君じゃないんだから、そんなこと思わないよ」

 

 オスカーは苦笑しながら言った。俺の彼に対する自己嫌悪に似た同族嫌悪なんて、お見通しだったらしい。

 それっきり、オスカーは黙り込んでしまった。きっと彼なりに今聞いた話を整理しているのだろう。もう一人の自分が目の前にいるなんて事実、簡単に理解できるとは思わない。

 

「メメさん」

「……なんだ?」

 

 静かに呼びかけてきたオリヴィアの表情は硬かった。

 

「あなたの恋人だった私に、あなたは救われた気がしたとおっしゃいましたね」

「ああ」

「その人のことが、私ではない私のことが、今でも忘れられませんか?」

「ああ。きっと、忘れることはない。それだけ、俺は彼女に救われたんだ」

 

 彼女が生きていた頃も、彼女が死んでからも、俺は彼女に救われた。

 

「それは、あなたがまだ過去に囚われている証拠ではないのですか? あなたは未だに自らの過去に、そして罪に囚われているのではないですか?」

 

 オリヴィアの真剣な表情は、俺のことを真摯に案じているようだった。ああ、いつ会っても、どの時間のオリヴィアも、鋭くて、優しいな。

 

「そうかもしれない。そもそも、俺が過去を完全に忘れるなんて、不可能だ」

 

 多分俺は、死ぬまでこの記憶を忘れることはできない。仲間を殺したことを。無辜の民を死なせてしまったことを。心ある魔族を倒したことを。

 

「でも、もう囚われない。必要以上に、気にしない」

「そう、ですか」

 

 オリヴィアの目を見て断言してみせると、彼女は嬉しそうに笑ってくれた。

 

「そして、俺が本当の意味で過去に囚われずに未来に生きるために、みんなに頼みたいことがある」

「何?」

「魔王を、俺の百年の因縁の相手を、倒して欲しい」

「任せてよ」

 

 俺の身勝手な願いにも、オスカーは笑って応えてくれた。

 

「でも、どうやって?」

「ああ。──もうすぐ、最大の好機が訪れる」




これにて五章本編は終了です
一章執筆時から書きたかったことも書けて、物語としても大きな転換点となりました
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます!



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EX バッドエンドの記憶 復讐者たち

過去編です


 それは、俺の記憶の中だけに存在している過去の記憶。

 苦々しくて、痛くて、でも大事な記憶の一つ。

 

 

 先日の記録的な豪雨によって、王国中の川は氾濫直前まで水位を上げていた。清流がどす黒い色をした濁流へと姿を変え、川幅を広げながら押し進む。

 

 追手から逃げるために川に飛び込んだ俺にとっては好都合だった。

 

 体中の傷は勇者の加護によって塞がりかけていたが、血液を大量に失った俺は未だに意識がはっきりとしなかった。ただ流れに身を任せ、川の中で脱力する。正直、窒息死していないのが奇跡だった。

 そんな俺の体は、突然水の中から押し上げられる。水中から突如として岩の柱が立ちあがり、俺の体を宙へと浮かせたのだ。

 俺の体は一瞬で空中へと投げ出され、そのまま地面へと叩きつけられた。

 

「ッ! ゴホッゴホッ……」

 

 背中からの衝撃に咳き込むと、口から水があふれ出た。口が新鮮な酸素を求め、パクパクと動く。

 そして、倒れ込む俺の顔を覗き込む人影があった。

 

「……なんだ勇者、生きてたのか。しぶといな」

 

 黒い肌に、長い耳。美しい顔は、嗜虐的に歪んでいた。

 そこにいたのは、魔王軍での屈指の実力者、ロゼッタだった。

 

 

 未だに酸欠で頭は朦朧としていたが、俺は反射的に腰に手を当てていた。聖剣を、取らなくては。戦わなければ。

 しかし、右手は空を切った。ない。聖剣が手元に、ない。

 

「探し物はこれか、勇者」

 

 ロゼッタが楽し気に言うと、魔法で操られているらしい蔦のようなものがこちらに近づいてきた。その先には、聖剣が絡めとられていた。

 

「あっ……」

 

 思わず伸ばした手は、ロゼッタに踏みつけられた。痛みに、短く呻く。

 どうやら俺は、コイツに抵抗する術はないらしい。ロゼッタは剣なしで倒せるほど甘い相手ではない。俺は、自らの敗北を早々に悟った。

 

「そんなに殺気立つなよ勇者。私はな、話をしにきたんだよ」

「話だと……? 俺に話すことなんて何もない。殺すなら早く殺せ」

 

 俺の言葉も、楽し気なロゼッタは全く意に介していないようだった。

 

「聞いたぞ勇者。貴様、守るべき人類に裏切られたらしいじゃないか」

「……お前には関係ない」

「そんなこと言うなよ。なあ、勇者オスカー。お前、私たちと共に人間に復讐しないか?」

「……」

 

 否定の言葉は、喉から出ていかなかった。

 

「俺がどうして王国に追われているのか、お前は知っているのか?」

「ああ、斥候が情報を掴んでいるな。……なんともまあ、愚かなことだよ」

 

 しみじみと、噛み締めるようにロゼッタは言った。宙を見つめるその瞳は、遠い過去を見ているようだった。

 

「……どちらにせよ、俺は生殺与奪の権を握られている状態だ。好きにすればいい」

 

 拷問されるか、半殺しにされるか。覚悟を決めていた俺の耳に入って来たのは、意外な言葉だった。

 

「そうか。じゃあ、飯を食うぞ」

 

 ロゼッタが手をひと振りすると、途端にテーブルの形をした氷が目の前に現れた。その上に、ゴブリンの下っ端に持たせていたらしい小奇麗な皿を並べていく。その後ろからは、バリエーションに富んだ未加工の食材たち。

 俺は、ただそれを呆然と眺めるだけだった。

 

「……お前、何をやっているんだ?」

 

 思わず、俺は問いかけていた。

 

「お前は何を聞いていたんだ? 飯を食うんだよ」

 

 落ち着いた様子で言いながら、下っ端のゴブリンから差し出された肉を丁寧に切って(ナイフも魔法で作られた氷だ)皿の上に並べていった。

 見栄えにすら気を遣われたその料理は、こんな何もない川辺にはあまりにも不似合いだった。

 

「早く座れ」

「……ああ」

 

 戸惑いのままに席に座る。どのみち俺に選択の余地など与えられていない。俺はこの機会に、ロゼッタがどんなやつなのか見定めて次に活かすことにした。

 俺の様子を観察していたロゼッタが手を合わせる。

 

「いただきます」

 

 大事そうに、噛み締めるように、ロゼッタはその言葉を口にした。本当に犠牲になった食材に感謝しているような、心の籠った挨拶だった。

 そのまま肉を一欠けら頬張るロゼッタを眺めていると、不思議と話がしたい気分になった。

 

「エルフは肉食をしないと聞いていたんだがな」

「ハッ、いつの話だ。自然と共存するエルフが肉食を解禁したのは、私が生まれる以前のことだ。五百年前のことだぞ」

 

 それだけ、人類のエルフに関する情報が更新されていなかったということだろう。

 俺も氷のフォークに手を付ける。思えば、しばらく何も食べていなかった。

 

「待て無礼者。貴様もいただきますを言え」

「……いただきます」

 

 変なこだわりだな、と思ったが、ロゼッタの顔は真剣だった。俺は手を合わせて久しぶりに食事の挨拶をする。

 それを眺めていたロゼッタが、満足げに頷いていた。

 

「そうだ、それでいい。人間は犠牲にしたものへの感謝が足りなすぎるのだ。自然と共存した我らを見習え」

 

 言葉には、俺には窺い知れないほどの重さがあった。

 でも、納得はできなかった。

 

「でもお前は、人をたくさん殺した」

 

 俺は、こいつが哄笑と共に人を殺してきた様を散々見てきた。生きた人間を火で炙り、死にかけの人間に電流を流しのたうち回る様を笑いながら観察して、果敢に挑んできた騎士を氷漬けにした。

 その様には単に敵対者を殺すというだけではなく、それ以上の憎悪が籠っているように見えた。だからこそ、今コイツが俺と会話しようとしていることが不思議だった。

 

 ロゼッタが怪訝そうな顔で問い返してくる。

 

「貴様と戦場で会ったことはなかったはずだが……?」

「でも知っている。嬉しそうに人を殺すお前を」

 

 俺の記憶の中には、はっきりと残っている。

 

「人間は別だ。貴様らが私に殺されるのは、罰だ。自然の摂理だ。踏みにじったものに踏みにじられることが、思いあがった愚か者どもに相応しい末路だ」

「……騎士にだって、家族がある。大切な仲間がある。それに、エルフが人間に踏みにじられたなんて聞いたことない──」

「それはっ! 人間どもが隠しているからだ!」

 

 突然立ち上がったロゼッタが、感情の籠った大声を上げた。それは、戦場でも見た事のないほどの感情の昂ぶりだった。

 ハッとしたような顔をしたロゼッタが、静かに座り直す。けれど、瞳に灯った暗い炎は全く衰えていなかった。

 

「厚顔無恥な勇者よ、お前は何を敵に回したから守るべき対象から追われているのだ?」

「……教会のタブーに触れたからだ」

 

 数日前、王国側からもっと援助を、戦力を引き出せないかと考えた俺は、中央教会へと忍び込んだ。一般人は深くまで入れないそここそが、最も王国の知られたくない情報を握っていると考えたからだ。一般人は忍び込むなんて畏れ多くて考えもしないだろう。

 何か王城を脅迫できるような情報を握ろうと、俺は立ち入り禁止の区画に忍び込んだ。

 実際、中央教会は情報の山だった。国立図書館にすらなかった情報がすぐに出てきたのだ。

 王国の闇に葬られた歴史。恥ずべき歴史。勇者の本当の戦いの記録。それが記された禁書を手に入れた俺は、しかしすぐに王国中から指名手配されることとなった。

 

 結果として、俺は王国の騎士たちに追われることとなった。かつての仲間と戦う俺の手には迷いが残っていて、重症を負いながらも逃げることになった。

 

「そうだ! 中央教会だ! 憎らしい王国の真ん中に居座り続けている癌だ! あれこそが私とお前を虐げた原因だ! 貴様は見たのだろう!? 王国の後ろ暗い歴史を、恥ずべき振る舞いを!」

「……ああ」

「私たちエルフも王国の、教会の言いがかりでほとんどが死に絶えた! だからこそ私は復讐し続ける! 例え四百年前の人間が全員死んでいたとしても、末代まで殺し尽くしてみせる!」

 

 言葉には四百年分の重さが籠っていて、その言葉に一片たりとも嘘がないことが分かった。

 今の俺には、人間に裏切られ、追われている今の俺には、不思議と共感できる気がした。

 

「……お前の話、詳しく聞かせてくれ」

 

 俺が切り出すと、ロゼッタが嬉しそうに笑った。その顔には、同類を見つけたという仄暗い喜びがあった。

 

 

 気づけば、大盛りの料理は全て無くなっていた。俺はロゼッタの話を一通り聞いて、改めて王国がどれだけ腐っているのか思い知った。

 そしてそれを語るロゼッタの顔はどこまでも真剣で、憎しみに満ちていた。

 きっと、その顔は魔王を殺すことに取り憑かれた俺の顔と、よく似ていたのだろう。だからこそ、俺はコイツに抱くべきではない親近感を抱いた。

 

 人類史の闇についての大演説を終えたロゼッタは、満を持して、俺に語り掛けてきた。

 

「──だからな、勇者よ。人間に裏切られたオスカーよ。私とお前は似た物同士だ。貴様が人間に復讐したいというのなら、私は貴様と共に戦いたい。……私と同じ、過去の事ばかり気にしているお前なら、分かるだろう?」

 

 言葉も表情を真剣で、本気だった。きっと、今ここで俺が頷けば、こいつはすぐにでも魔王軍に俺を受け入れるのだろう。俺は、俺を裏切った人々への復讐が果たせる。

 

 ──それでも、俺の答えは決まっていた。

 

「──それでも俺は、無辜の民の味方でありたい」

 

 瞬間、俺の胸の中央に衝撃が走った。

 

「カハッ……」

 

 サーベルのように突き出された氷が、俺の胸を貫いていた。

 俺は口から垂れ出る血もそのままに、ロゼッタを見上げる。──彼女の顔には、透明な涙が一滴流れていた。

 その表情に、胸が痛む。俺はせめて、最後に話をしようと思った。

 

「コホッ……お前と俺は同じだと言ったな」

「ああ、私はそう信じていたんだ」

 

 流れる涙に気づいていないように、ロゼッタは呆然と呟いた。

 

「それはほとんど正しい。俺もお前も人に裏切られた。──でも俺は、お前のように無実の人に復讐することはできない」

 

 瞬間、俺の意識はさらなる闇へと突き落とされた。視界いっぱいに赤が広がる。どうやら俺は、さらに顔面に氷柱を突っ込まれたらしい。血の味が広がり、あらゆる感覚が失われていく。

 最後に浮かんだ思考は、楽し気な表情で俺と話をするロゼッタの姿だった。

 

 ──ああ、お前が魔王の側に付いていなければ、俺はお前を救えたのかもしれないのにな。

 



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EX 勇者は悩む

 自分にしか世界を救えない、と言われたら、多分誰だって頑張れると思う。

 

 大切な人が、思い出の場所が、蹂躙されるのを阻止することができるのが自分だけなら、剣を執るだろう。

 それは勇敢だからとか、自信があるとかじゃなく、仕方がないからだ。

 

 僕にとって勇者の役目とはそういうものだった。

 僕にしかやれないから。僕にしか聖剣は持てないから。僕にしか魔王を倒せないから。

 僕は剣を執った。魔物を殺した。人を殺した。

 

 でも、そんな日々を過ごしている時にひょっこりと代役が出てきたとして、しかも自分よりも強くて賢いとしたら、剣を手放そうと思うのは当然ではないだろうか? 

 

 ──僕がメメに全て託したいと思うのは、自然ではないか? 

 

 真っ暗な夜闇の中で、月だけが僕を照らしていた。虫の鳴き声すら聞こえない今夜は、不気味なほどに静まり返っていた。

 聖剣を振るう。虚空に振り下ろされた分厚い刃は、ぶおん、と重たい音を立てた。少し、剣先が乱れているだろうか。今日の素振りも二百回を越えたところだ。僕は一旦剣を下ろすと、一息ついた。

 すると、頭の中はただちに先ほどまで考えていたことでいっぱいになる。

 僕は、勇者であり続けるべきなのか。もっと相応しい人間に役目を明け渡すべきではないか。でも、聖剣に本当の意味で選ばれたのは僕で、でも、彼女はそんなこと関係ないほど強くて。でも、でも、でも。

 

「オスカー」

 

 僕が思考を断ち切れずにいると、突然女の子らしい高音に呼びかけられた。

 声の主に目をやる。夜闇の先に目を凝らすと、そこにはメメの姿があった。

 昼間に彼女の過去を洗いざらい聞いて以来の顔合わせだ。僕は彼女とどう接すればいいのか、少し迷った。

 

「ああ、メメ。……オスカーって呼んだ方がいい?」

 

 僕が問いかけると、メメは呆れたようにため息を吐いた。彼女は夜闇の中から抜け出すと、僕の目と鼻の先まで近づいて来た。

 

「オスカーはお前だろ。俺はもう、メメだ。お前はお前で、俺は俺。そんなこと考えているから太刀筋が鈍るんだ」

「……見てたんだ」

「少し前からな。俺の話を聞いて、お前がなにを思うのか少し気になった」

 

 メメの言葉は、自分が受け入れられないかもしれないという不安には聞こえなかった。彼女はどうやら、僕を案じているようだった。

 そんな彼女を見て、僕は素直に聞きたかったことを聞くことにした。

 

「そっか。……メメ」

「なんだ?」

 

 目を見て話しかける。彼女の黒々とした目は、あの時から光を良く反射するようになった気がする。ちょうど夜闇にぽつんと浮かぶ月が煌々と光を放つように、メメの瞳の中には確かな光があった。

 それを見ていると、僕の口は自然と動いていた。

 

「君から見て、僕は聖剣を預けるに足る人物だろ思うかい?」

 

 僕が問うと、メメは一瞬だけ僕を観察した。おそらく僕の事をもっとも理解する相手を視線に、わずかに緊張する。

 メメの黒い瞳が僕の目を捉える。夜闇と同じ色をしたそれは、僕のなにもかもを見通してしまいそうだった。

 

「──ああ、なるほど。つまりお前は、自分が本当に勇者オスカーに相応しいのか、疑っているわけだ。俺に聖剣を渡した方がいいんじゃないか、とかな」

「……鋭いね。流石僕。全部知ってるわけだ。本当に君は、勇者に必要なものはなんでも持っているんだね」

「別人だって言ってるだろ。まして俺は勇者じゃない」

 

 彼女は、頑として僕から勇者である資格を受け取る気はないようだった。でもそれは、億劫だったり臆病だったりとか、そんな理由でもない気がした。

 

「でも、きっとメメの方が聖剣を上手く扱えるよ。みんなを上手く導けるよ」

「お前も見ただろ? 今の俺は、もう勇者の資格をほとんど失っている。持つだけで大やけどする聖剣なんて持ちたくねえよ」

「じゃあ、僕が持ち運ぶだけで……」

「オスカー」

 

 弱い僕の言葉は、メメの強い言葉にピタリと止められてしまった。

 

「いつか俺は言ったな。お前の代わりは俺にも務まる。だから頑張れって」

「うん」

 

 あの時のことを思い出す。今よりもずっと未熟な僕に、重責に押し潰されそうだった僕に、救いの言葉をかけてくれてメメのかっこいい姿は、今でもよく覚えている。

 

「でも、今のお前にはもうあの言葉は必要ないと思ってる。だって、もうお前は自分の足で、その責務を背負うことができる。今まで戦ってこれたのが、その証拠だ」

「そう、かな……」

 

 断言されて尚、弱い心はふわふわと所在なさげに彷徨っているようだった。そんな僕に、メメは力強く語り掛けてくる。

 

「一度も失敗してないんだ。俺みたいに失敗を恐れ、引きずる必要なんてない。仲間がいるんだ。俺みたいに人を信じられなくなったわけじゃない。みんなを頼れ」

「メメ……」

 

 彼女の言葉は、僕に少なくない衝撃を与えた。君でも、失敗を恐れたり人を信じられなくなるのか。いや、なっていたのか。いつだって彼女は自信に溢れていると思っていた。いつだって彼女は人に頼る必要がないほど強いんだと思っていた。

 それは、僕が初めて触れた、メメの弱い面だった。

 思わず、メメの顔を見る。──見たこともないほどに、優しい顔だった。

 

「それに、お前は百年以上勇者やってた俺なんかよりもずっと優れたものを持っている」

「それは?」

「……知らん。自分で考えろ」

 

 急に口調を変えたメメは、優しそうだった顔をぷいと背けてしまった。僕はなんだかご馳走を目の前で取り上げられたような気分になった。

 

「えー! なんだよそれ! もうミステリアスぶる必要なんてないだろ!? 教えろよお!」

 

 肝心なことだけ教えてくれないメメの態度にイラついた僕は、彼女の肩を揺さぶってせがんだ。肩が想像よりずっと小さくて柔らかくて、思わずドキッとしてしまったのは、彼女には内緒だ。

 

「やかましい! お前だいぶ図々しくなったな!?」

「だって僕自身だからね。遠慮する必要なんてないだろ?」

 

 僕が今気づいた事実を自慢げに告げると、メメはなんだか怒りとむずがゆさが混ざったような表情になった。

 

「……それはそうだが、お前に舐められてるのは癪だな!」

 

 メメは理不尽なことを言うと、掴みっぱなしだった僕の手を乱暴に振り払った。そして、僅かに顔を逸らしてポツリと言った。

 

「それだけ元気なら、大丈夫だ。──お前が勇者だ、オスカー」

「……分かったよ」

 

 僕の信じる君がそう言うのなら、僕も僕自身を信じることにする。

 決意を新たにした僕は、なんとなく手に持ちっぱなしだった聖剣を見下ろす。いつ見ても見事な黄金色の輝きをした刃に、ゴツゴツとした持ち手。いつも重くて仕方ないと思っていたそれが、今は不思議と軽く感じた。

 

 いつの間にか、メメは僕に背中を向けて歩いていた。夜闇に消えていくその背中に、僕は心中で語り掛ける。

 

 ああ、やっぱり君は、僕であって僕じゃないんだね。改めて、納得した。

 きっと僕だけだったら、こんなに簡単に僕自身を納得させることなんてできなかった。

 



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EX 俺は男だ!

 僕の幼馴染、カレンは意外と足が速い。小さい頃から僕と一緒に村の中を駆けまわって遊んでいたからだろう。

 単純な速度で言えば流石に男には負けるかもしれない。でも、特にちょこまかと細かく方向転換しながら走るのが異様にうまい。すばしっこいと言えばいいだろうか。小さい頃二人で鬼ごっこした時には、木々の間をグルグルと回る彼女に翻弄されたものだ。

 

 だから彼女は、多分狭い室内で追いかけっこすればそうそう負けることはない。例え相手が人外の身体能力を持っていたとしても、だ。

 

「ッ! カレ、ン! もういいだろ!」

「メメちゃんが諦めてくれればいいんだよ!」

 

 どたどたと、騒がしい音がする。メメは息も絶え絶えでカレンから逃げていた。有り余る身体能力も、狭い室内では発揮しづらいらしい。宿の共用スペースは、彼女が全力を出せば色々なものを壊してしまうだろう。

 一方追う側のカレン。すばしっこい動きで確実にメメとの距離を詰めている。足の早さでは敵わないはずのメメを追い詰めるその表情には余裕すら見える。

 そしてその手には、何かひらひらとしたものを持っていた。

 

「捕まえ、た!」

「くっ……」

 

 カレンがメメの両肩をしっかりと掴んだ。そのまま抱き着くようにして全身を拘束する。

 メメはカレンに怪我させまいとしているのだろう。大した抵抗はせずに立ち止まった。けれど、代わりに元気に喚いて抵抗していた。

 

「カレン! その服は着ないって何回も言ってるだろ!?」

 

 カレンの手に握られていたのは、白を基調としたワンピースだった。大きく開いた胸元。丈は短く、膝上ほどだろうか。所々に派手な色の装飾が施されている。

 一言で言えば、とても女の子らしい服だった。

 

「なんでよ! 可愛いじゃん! ほら!」

 

 頬を膨らますカレンは、メメの体にワンピースを当ててみせた。サイズはぴったりだ。

 

「可愛すぎるからだよ! 俺は男だって言ったよな!?」

「メメちゃんはメメちゃんだよ! 可愛いからこれ着て?」

「着ないって!」

 

 メメの反論なんて少しも意に介していないように、カレンは着用を促した。平行線の二人の話し合いは、まだまだ続きそうだった。

 僕はそれから意識を逸らすと、先ほどのカレンの言葉を思い出していた。

『メメちゃんはメメちゃんだよ!』

 なんの疑いもなく、彼女は言った。メメの過去を一通り聞いた上で、カレンはそう断言してみせたのだ。別人だった過去なんて、今のメメには関係ない。彼女はそう割り切って、今まで通りに接している。

 これは結構すごいことだと僕は思う。元々男だったなんて聞いたら少しくらい戸惑うと思う。カレンの素直さ、というか自分の信じたものを信じぬく力というものは、やっぱりすごい。

 そんな彼女の態度も後押ししたのだろう。メメのカミングアウトの後でも、僕らは変わらず良好な関係を築くことができていた。

 

 そんなことを考えているうちに、カレンとメメの口論は決着が付いたらしい。……というか、カレンが強引にメメの手を引っ張って連れて行っていた。

 メメがこちらに助けを求めるような顔を向けてくる。

 

「あああああ! 見てないで助けろオスカー! ああ、俺は男だあああああああああ!」

 

 メメの最後の主張は、可愛い衣装に夢中なカレンの耳には届いていないらしかった。

 

 

 

 それにしても、仲良くカレンと口論していたメメに、あんな過去があるなんて思わなかった。

 ずっと謎めいていた彼女の過去は、想像よりもずっと過酷で、壮大で、衝撃的だった。

 けれど、話を聞いていれば、メメの謎めいていた部分は全部説明がつく気がした。その小さな体には似合わぬ強さと気迫も、どこから得たのか分からない知識をいくつも持っていることも、ときたま見せる、女の子とは思えないほどの無防備さも。

 

 信じ難いことに、メメは僕自身だったのだと言う。正確には、僕が死んではやり直しを繰り返して百年以上経った姿、だったか。急にそんなこと言われても、実感はあまり湧かなかった。

 でも、そんな衝撃的な事実も時間が経てば少しずつ納得できた。そして、そのことを隠していた彼女を、責める気はない。

 

 けれど、僕はどうしても納得できないことがあった。

 

 ──君が僕自身だとしたら、僕が君という異性に感じていたドキドキとか、そういう感情をどう処理すればいいんだ!? 

 別に恋というほどに意識しているわけではなかった。ただ、可愛らしい見た目をした彼女を目で追って、少しの癒しを得ていた程度。

 ああ、今日は機嫌良さそうだな、とか。美味しい物を食べている満足そうな顔が可愛いな、とか。

 そういう日常的に感じていた僕の感情は、要するに自分自身を見ていた、ということらしい。

 ……いや、どういうことだ!? 

 僕はオスカーで、でもメメもオスカーで、メメは今は女の子で、でも前は男で……。

 ……分からない! 

 長い歴史の中で、僕と同じ悶々とした感情を抱いたことがある人がいたら、是非とも会って、悩みを共有したい。

 可愛いな、とか思っていた女の子が実は自分自身で、男だったんだ、などと発覚した経験のある人は他にいないだろうか。……いないだろうな。

 

 やがて、どたどたという騒がしい足音が帰ってくる。

 カレンの普段の三割増しで元気な声が、僕の耳に入ってきた。

 

「オスカー! 見て見て!」

「やめろ見るな! くっ、殺せえええええ!」

 

 髪と同じくらい顔を真っ赤にして僕の前に現れたのは、白いワンピースを着こなしたメメだった。

 体が小さい彼女には、幼さとか純粋さを想起させるこのワンピースはとても似合っているように見えた。……性格との乖離はともかく。

 鎖骨のあたりが露出したデザインだ。細い首に、小さな肩。細い体にフィットするように、白い布地が彼女をふんわりと覆っている。丈は短く、膝上程度か。健康的な膝小僧が顔を出している。

 

 ……可愛い。

 

 ……ハッ! 違う。彼女は男。彼女は僕。彼女は男。彼女は僕。

 僕が思考を混乱させていると、後ろから出てきたカレンが誇らしげに胸を張った。

 

「どうよオスカー。私のコーディネート力は?」

 

 ……悔しいが、これは。

 

「いいね!」

「やめろ恥ずかしい! お前に言われると一番恥ずかしい! うわあ、なんだこの感情、鳥肌がすごい!」

 

 メメは新しいタイプの羞恥に悶えているようだった。

 なんだかメメが表情豊かに話しているのを見るのも久しぶりな話がして、僕は少しだけ嬉しくなった。

 カレンは僕に見せて満足したのか、着飾ったメメの手を引いて外へと出かけて行った。……その時のメメの顔は、あらゆることを悟ったような諦め顔だった。

 



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EX オリヴィアは、また一歩踏み出す

 オリヴィアの実家、バーネット家は、王都に別宅を所持している。別宅とは言え、その豪華さは、周囲の住宅を軽く凌駕する。三階建ての家屋の白い壁には、シミ一つない。周囲に広がる庭園には、整備されつくした芝が美しく並んでいる。正面の門から内部を覗くだけでもその格式高さが思い知れる。

 なるほど、流石公爵家の所有物だと王都の人々は口々に賞賛した。

 

 けれどオリヴィアからすれば、こんなものは浪費の最たるもので、無駄の結晶だと思っていた。

 せいぜい一年に一度使う程度の別宅。それを維持するためにメイドを雇い、執事を配置し、庭師を働かせている。なんという金の無駄遣いか。その金があれば、いったいどれだけの魔法についての参考文献が買えただろう。

 だからオリヴィアは、この美しい別宅が特段好きではなかった。

 

 けれども、一度だけでいいから、メメをここに招待してみたくなった。

 きっと、全部明かしてくれた彼女に何か返したかったのだ。大事な秘密を、自分たちを信じて打ち明けてくれた彼女に、自分ができることはなんだろうと考えた。

 考えたオリヴィアは、今までそれとなく隠していた自分の公爵令嬢という一面を曝け出したみることにしたのだ。

 

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 

 ピシッとした執事服に身を包んだジェームズが、恭しく頭を下げる。その様は、公爵家の執事らしく、完璧だ。けれど、幼少の頃から付き合いのある私には分かる。彼は久しぶりの来客に僅かに高揚しているようだった。

 

「お客様も、バーネット家の邸宅にようこそおいでくださいました」

「そんなにかしこまらなくて結構ですよ。こちらは平民の出です」

 

 朗らかな表情で、メメさんはやんわりと言った。

 教養がないなりに精一杯畏まっている。そんな仕草を見せたメメさんに、ジェームズが視線を僅かに柔らかくした。

 

「私の部屋は使えるようになっていますの?」

「もちろんでございます。ご注文のティーセットも、用意してあります」

「よろしい。私はこれからメメさんと二人きりでお茶会を楽しむつもりです。直ちに準備を」

「承知いたしました」

 

 私の言葉を聞いて、ホールに集まっていた使用人たちが一斉に動き出した。久しぶりに主人がいるからか、彼らの動きはいつも以上に機敏だった。

 

「メメさん、すぐに準備ができるでしょう。私の部屋まで案内いたします」

「ああ。……なんだか、オリヴィアがこんなに貴族らしく振舞っているのは初めて見た気がするな」

 

 そう言って、メメさんは嬉しそうにはにかんだ。少し前までなら、見なかったような表情だった。

 

「百年以上観察していてもですの?」

「まあ、四六時中一緒だったわけじゃないからな。それに、いつもオリヴィアは、公爵令嬢としての自分を隠していた気がする。もちろん、君も」

 

 どうやら、私はメメさんとどんな風に出会ったとしても、貴族令嬢としての自分をみせたがらないらしい。

 

「やはり、気づいていましたか。……大層な理由ではありません。ただ、平民である貴方方に少しでも距離を感じて欲しくなくて、少し躊躇っていただけです」

「ああ、その思いやりは、良く伝わってきていたよ。ありがとう」

 

 また、優しい笑み。ああ、やっぱり彼女は、いつになく素直だ。言葉だけでなく、その顔すらも自分の内心を素直に語っているようだった。つられてこちらの口角まで上がってしまう。

 今まで彼女が無意識に作っていた壁が壊れたような、そんな印象を受けた。

 

 さあ、彼女にもっと嬉しそうな顔をしてもらおう。私は気合十分に自室のドアを開けると、メメさんを二人っきりのお茶会へと招き入れた。

 

「これは……よく整備された部屋だな。それでいて、使いやすいように配置が考えられている。なんというか、オリヴィアらしい部屋だ」

 

 メメさんは私の部屋を一通り見渡したかと思うと、そんな感想を残した。

 

「……普段私はこの部屋を使わないので、見せかけだけの部屋だけですわ。掃除しているのも使用人ですから」

「そうなのか。……なんか、オリヴィアらしいとか見当はずれなこと言ったかもな」

 

 ポリポリと、メメさんは気恥ずかしそうに頬を掻いた。また、初めて見る表情。

 

「貴女にも、知らないことがあるんですね」

 

 思わず私は、呟いていた。何を聞いても必ず答えが返ってくるから、いつしか私は彼女がなんでも知っていると思っていたようだ。それはひょっとしたら、底の見えない彼女に勝手な幻想を抱いていたのかもしれない。

 

「当然だろう。例えば、昔のオリヴィアはどんな子供だったのか、とか知らないな」

 

 なんでもないように言うメメさん。どうやら、恋人になっても私は子供の頃のことは隠したらしい。

 

「思えば私たちは、長い時間を一緒に過ごしているようで、互いのことについて話す機会がなかったのかもしれませんね」

 

 私も、知らない。メメさんがどんな子供時代を過ごしたのか。どんな両親だったのか。どんなものが好きだったのか。

 彼女はずっとそういうことを話すことを避けているようだった。だから彼女はミステリアスなまま、底の見えないままだった。

 でも、話してくれた。どうしてあんなに強いのか。どうしてそんなに賢いのか。どうしてそんなに辛そうに生きているのか。

 だから私は、もっと知りたいと思った。

 

「紅茶でも飲みながら、貴女について教えてください。今日は、そのために呼んだのですから」

「もちろん。でもその分、君にもいっぱい話してもらうからな」

 

 私が笑いかけると、メメさんはいたずらっぽい顔で笑った。

 

 

 紅茶を注いだ使用人が退室していく。残されたのは、私とメメさん、湯気を立てる紅茶が二杯。茶菓子が少々だ。

 

 どちらからでもなく、カップに手を付けて一口。美味しい。平民の暮らしも面白いが、やはり嗜好品の質は実家が勝る。

 紅茶で湿った唇を動かして、私はまず一番気になっていたことを聞いた。

 

「本当に、オスカーさんたちの里帰りに付いていかなくて良かったんですの?」

 

 オスカーさんとカレンさんは、一度近況報告も兼ねて故郷の村へと帰っていった。メメさんも、両親の顔だけでも見ないか、と誘われたのだが。

『いいや、俺にはもう必要のないことだよ』

 微笑を浮かべて、メメさんはただ静かに言った。その時の顔を見ていたら、なんだかメメさんが再び遠いところに行ってしまった気がした。

 

「ああ。今の俺とはもう関係ないんだ。あそこにいるのは、他人で、知らない人たちだ」

 

 目を閉じて紅茶を味わいながら、落ち着いた様子で応えるメメさん。家族に対する情のようなものは、もう残していないのだろうか。やはりこの話題になると、メメさんは達観した態度を見せる。遠くの人に見えてしまう。

 メメさんに他の表情を見せて欲しくて、私は話題を変える。

 

「そうだ、私と恋人になった後、最初に何をしたんですの?」

「なんか話しづらいけど……そうだなあ……」

 

 メメさんは本当に優しそうな顔で、思い出を語り始めた。きっと五十年以上昔の記憶のはずなのに、メメさんの虚空を見つめる瞳は、昨日の出来事を見つめているようだった。

 

 

 

 

 私は熟考していた。机上には、既に中身のなくなった紅茶のカップが二つ置かれていた。私の対面には、豪華で大きな椅子には少し不釣り合いなほどに小さな体つきをした少女が座っていた。

 眠っている。メメさんは瞼をぴったりと閉じて、すぅすぅと寝息を立てていた。

 

「……リラックス効果があるとはお伝えいたしましたが、睡眠薬の類はいれていませんよ」

 

 返事は当然なかった。

 もしや彼女は、疲れていたのだろうか。あの戦いの日から随分経って、傷は完治したはずだ。でもメメさんは、オスカーさんに稽古をつけたり、魔術の研究をしたりしているようだ。

 そんな日々の疲れが、このお茶会で出てしまったのだろうか。だとしたら、少し申し訳ないことをした。本当なら彼女は、自室でゆっくりしていたかったのだろうか。

 

「……柔らかくなったとはいえ、無茶するところは変わらないんですね」

 

 メメさんの新雪みたいに真っ白な頬をそっと摘まんで、少し伸ばしてみる。柔らかい。

 額にかかっていたひと房の赤髪を払って、いつになく穏やかな顔を見つめる。

 とても無防備なその姿は、今までの彼女ならきっと晒してくれなかっただろう。

 メメさんの眠った顔は、いつも険しくて、何かに耐えているようだった。いつだって、ボロボロになって帰ってきて、気絶するみたいに眠っていた。

 今は違う。平和な日常の中で、彼女はふいに眠りについてしまった。

 私はそこに、今までの彼女とは決定的に異なる何かを感じていた。そしてきっと、それはいい変化だ。

 

 彼女のあまりにも穏やかな寝顔を見ていると。私は彼女が語った彼女の過去について思い出した。

 勇者として戦いの日々を送っていたこと。様々な出会いと別れを経験したこと。何度も失敗したこと。そして。

 

「メメさん、貴女は男の子、なんですの?」

 

 返事は当然ない。ただ、小さな口から漏れ出る呼吸音だけが、静かな部屋に流れていた。無言でしばらく待って、私は彼女が起きないか観察する。

 ……やはり、熟睡している。それをいいことに、私は一人で話を続ける。

 

「貴女が男の子だとしたら、私のこの胸の感情にも、明確な名前が付けられそうです。そして、許されそうですね。ねえ、メメさん」

 

 心配というには自分勝手で、憧れというには切実すぎる、胸を焦がすこの感情は、きっと。

 返事はない。彼女の意識はない。だから私は、一人静かに宣言した。

 

「過去の私になんて。貴女の恋人だった私になんて、絶対に負けてあげませんからね」

 

 今は、このままでいい。

 けれど、この戦いが終わった後でも彼女と一緒にいたい。そう、願ってしまった。

 



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最終章 吹っ切れTS少女と神様気取りの魔王
82 祭りの朝


最終章です


 夢を見ないだけで、起床とはこんなにも快適なものだったのか。目はパッチリと開いていて、頭が冴えている。朝日を見ると、それだけでなんだか気分が高揚してくる気がする。

 こんなにも晴れ晴れしい気持ちで朝を迎えることができるようになったのは、やはり彼女のおかげだ。

 

「メメちゃーん! おはよう!」

 

 どんどんどんどん、と威勢のいいノックと共に、俺の名前が元気に呼ばれる。ああ、なんだかこの声を聞くだけで一日が始まったって気がするな。

 

「おはようカレン。そんなに焦らなくても起きてるよ。ちょっと待ってくれ」

「ちょっとメメちゃん、何吞気なこと言ってんの? 今日が何の日だか分かってる?」

 

 カレンの声はいつも以上に元気が良くて、ワクワクしているようだった。

 

「ああ。今日は、創世祭だろ」

 

 創世祭とは、大神がこの世界を創ったとされる、初春の日を祝う祭りのことだ。世界の始まりの日、天地創造の日とされていて、女神教の信仰される国では、盛大に祝われる。(女神教を信じるということは、大神を信じることと同義だ)

 

 特にここ王都では、王城の権威を示すように大規模な祭りが催される。

 大通りには今日限りの出店が並び、酒やジャンクフードが販売される。特に酒の需要は凄まじく、王都にいる成人のほとんどが酔っ払う、と冗談交じりに語られる。

 加えてこの日のために王都に集まった大道芸人やサーカス団員たちが、浮かれる人々に芸を見せる。

 創世祭の王都で芸を見せ、多数の観客を集めるのは芸に生きる者たちにとって一種のステータスらしい。王都には比較的裕福な平民が集まっているので、観客の目も肥えているそうだ。腕利きの芸者たちがこぞって芸を披露する様は壮観だ。

 

「そうだよ、創世祭! 早く行かないとお祭り終わっちゃうよ!」

「そんなすぐ終わらないって……」

 

 カレンは田舎の村出身なので、見るのも初めてだろう。ドア越しでも、彼女のウキウキという熱気が伝わってくる。

 俺は立ち上がると、着替えを掴みながらカレンに話しかけた。

 

「俺はいいから、オリヴィアを誘ってきたらどうだ?」

「オリヴィアは実家の方で顔を出さないといけないんだって。夕方には合流するってさ」

 

 そうだった。貴族たちの方には、平民の祭りとは違う集まりがある。

 確か、この日に地方の貴族を呼び寄せて、懇親会をするんだったか。

 今までずっと戦いについてきてくれていたオリヴィアだが、この日には貴族子女としての勤めを果たさなければならないらしい。

 けれど夕方には合流できるということは、貴族たちの夜の舞踏会には参加しないのだろう。

 

「じゃあオスカーは?」

「オスカーは……その、祭りの日に二人っきりとかなんか勘違いされそうじゃん。メメちゃんも一緒に来て」

 

 ああ、そういうことか。

 

「照れくさいのか」

「……いや全く! ぜんぜんそんなことないけど!」

 

 カレンの慌てた声を聞いていると、なんだか楽しくなってきた。

 

「なんだ。むしろカレンの方こそ準備を入念にしてきた方がいいんじゃないか。服は本当に今のでいいのか? 化粧は? 今日くらいいつもと違う感じにしてきたらどうだ? 俺がデートの邪魔か? 安心しろ。俺は途中ではぐれたふりして遠くで見てるから。協力は惜しまないぞ。俺はこれでも二人には感謝してるんだ。だからさ、カレン」

「な、なに?」

「──デート、成功させろよ?」

「うううう、うるさいよメメちゃん⁉」

 

 ドアの向こうから、どたどた、という音がしてきた。俺はその音にニヤニヤしながら服を着替え始める。

 

「おいおいカレン、そういう可愛い声はオスカーに聞かせてやれ」

「メメちゃんなんか意地悪じゃない!?」

「ああ、もしかしたら俺も浮かれてるのかもな」

 

 思えば、魔王を倒すことに憑かれていた時には、祭りなんてものうるさいだけで無益なものだと思っていた。浮かれた人々は昼間から酒に酔ってまともに動けなくなる。

 騎士たちですら、一部の熱心な者を除いて飲み始めるのだから、王国の防備を考えている者としては、やってられないという気分だった。騎士団長のアストルも、祭りの期間中はいつもの五割増しで視線が鋭かった気がする。

 

 支度を終えた俺は、ドアを開ける。すると、俺の視界にはいつもよりも可愛らしい恰好をしたカレンの姿があった。よく見ると、その顔には薄っすらと化粧が施してあるようだ。

 ああ、心配するまでもなく彼女は今日を特別な日だと認識していたらしい。

 

「終わったぞカレン。じゃあ、意中のオスカーを誘いに行くか?」

 

 俺がニヤニヤとしながらカレンに聞くと、彼女はちょっとだけムッとした表情をして言い返してきた。

 

「……そういう揶揄いばっかりしてくるの、メメちゃん女の子っぽいね」

「……」

 

 カレンの手痛い反撃に、俺は口を噤んだ。

 

 

 オスカーとは、いつもの食堂で落ち合った。

 料理が運ばれてくるまでの間、オスカーはカレンの顔を見たり目を外したりを繰り返していた。その頬は、少しだけ紅潮している。

 カレンもその様子を見て、なんだか挙動不審だ。多分、お互いに相手が何か言うのを待っている。

 俺が咎めるような視線を送っていると、ようやくオスカーが口を開いた。

 

「カレンはなんだかいつもより綺麗だね」

 

 ヨシ! よく言った! 

 俺はオスカーの勇気を心中で褒め称えた。

 

「あ、ありがとう……」

 

 タジタジなカレンを見れただけでも、ここまで付いてきたかいがあったというものだ。二人の間には、沈黙が下りていた。気まずそうで、それよりも甘酸っぱい静けさだった。

 俺は最後のパンを丸飲みすると、口をもごもごとさせながら席を立った。口を手で押さえながら発声する。

 

「じゃあ、俺は一人で出店を冷やかしてくるから」

「ちょっとメメちゃん!」

 

 カレンが慌てたような様子で俺の肩を掴んだ。

 なんだよ。二人のイチャイチャを邪魔しないように行動したつもりなのに。

 

「この雰囲気でアタシを置いていく気!?」

「もぐ……なんだよ、いい雰囲気だったじゃんか」

「どこが⁉ アタシもオスカーも、何言えばいいか分からなくて困ってるんだけど⁉」

「気にせず二人で回ってきなって」

 

 俺は出口へと向かおうとしたが、カレンの手がさらに強く俺の肩を掴んだ。

 

「あ、アドバイスをちょうだい!」

「アドバイス?」

 

 カレンの囁いた言葉に振り替える。

 

「そう、メメちゃんは元々オスカーだったわけでしょ? だから、どんなことを言えばいいのかとか、教えてほしいの」

「……別に、カレンの思うままに話せばいいと思うけど」

「それが分からなくなってるからお願いしてるの! ね、頼むよ」

 

 そんな必死にお願いされたら、断る道理もないのだが。ただ、カレンが何を迷っているのか、いまいちわかりかねていた。

 俺は、少しだけ彼女に踏み込むことにした。

 

「……オスカーと何かあったか?」

「あったというか……」

 

 カレンが視線を彷徨わせる。その顔には、明るい彼女らしからぬ不安が広がっていた。俺は、長い間見てきた彼女の初めて見せる表情に、少しだけ動揺した。

 そのままでしばらく待っていると、やがて彼女は勢いよく宣言した。

 

「とにかく、今日一日、メメちゃんは田舎者の私たちに王都の祭りを案内すること! ……ダメかな?」

「まあ、カレンがそう言うなら構わないけど……」

 

 俺が肯定すると、オスカーも近寄って来た。

 

「僕からも頼むよ。僕一人じゃ、元気溌剌のカレンを制御できそうにないや」

「ちょっとオスカー! アタシのこと猛牛か何かだと思ってるの!?」

 

 オスカーの遠慮ない言葉に反応するカレンの様子は、いつも通りに見える。

 けれど、彼女が先ほど見せた、あの不安な表情はいったいなんだろうか。

 

「……まあ、聞けばいいことか」

 

 いつかの過去とは違い、俺はカレンと良好な関係を築けている。きっと、今日一日付き合えば、彼女の見せた不安の正体も分かることだろう。

 遠くからは、気の早い群衆の歓声が聞こえてくる。朝早くからご機嫌なようだ。俺は食堂から一足早く出ると、祭りの空気を吸うために大きく深呼吸をした。

 



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83 男らしさを説く少女

 活気に湧く王都は、歩いているだけでもなんだか楽しい気分にさせられてしまうような、不思議な魔力のようなものがあった。

 見渡す限りの、人人人。大通りに人が多いのはいつものことかもしれないが、今日は熱気が違った。

 活発に駆ける少年たち。その手元には、出店で販売されるジャンクフードが大事そうに握られている。

 顔を真っ赤にした酔っ払いども。肩を組み意味をなさない歌を斉唱する彼らは、もはや今自分がどこにいるのかすら分かっていないようだった。

 雑談に花を咲かせる主婦たち。いつも通りの風景に見えたが、よく見れば彼女らの頬すらも薄っすら赤い。少なからず酒が入っているらしい。

 

「すっごーい! お祭りって、こんなに人がいっぱい出てくるんだ!」

 

 カレンがウキウキとした足取りで、俺たちの先を行く。俺はその様子に思わず苦笑しながら、一応注意をする。

 

「カレン、あんまりはぐれるなよ。離れ離れになれば最後、祭りが終わるまで落ち合えないぞ」

「はーい!」

 

 聞いているんだか聞いていないんだか。彼女は相変わらず足早に群衆を搔き分けるものだから、俺とオスカーも速足で彼女の後を追う。

 

「楽しそうだなあ……」

 

 オスカーはそんなカレンの様子を見て、ご満悦のようだ。

 

「やっぱり好きだな、お前」

「なっ! 別にそんなこと! ……いや、隠しても無駄か」

「そうだな、お前が俺に隠し事するなんて無理だぞ。なんたって全部お見通しだからな」

 

 その道は、既に俺が通った道だからな。

 

「この前、さ」

「うん?」

 

 オスカーの声音が変わる。真剣な口調に、俺も居住まいを正す。

 

「カレンに、正直に想いを告げたんだ」

「な、なにーっ⁉」

 

 俺は天地がひっくり返ったみたいに驚いた。正直、ここ数十年で一番の衝撃だった。

 

「えっめちゃくちゃ驚くじゃん。僕の事は全部お見通しじゃなかったの?」

「いや、それは予想外だったっていうか、俺はそこまで行かなかったっていうか……」

 

 まさかコイツが俺よりも進んでいるとは思わなかった。ショックだ。

 

「それで、返事を期待してたんだけど、カレンはちょっと待ってほしいって言ってさ。なんかずっとソワソワしてるんだよね」

「それは……大変だな」

 

 正直、他にかける言葉が見つからなかった。俺も経験したことないことだからだ。

 

「メメは、女性の心の扱いには慣れていたの?」

「……いや、剣握ってる時間がほとんどだったからな。正直お前とそんなに変わらないと思うぞ」

 

 まともな女性経験なんて、オリヴィアと一度だけ付き合った時だけだ。その期間も、結局そんなに長くなかった。

 

「よしオスカー、作戦会議をするぞ」

「えっ、でもメメもあんまり経験ないって……」

「やかましい! 男二人で額を突き合わせて案を出し合えば、少しくらいカレンを喜ばれることだってできるはずだ」

「気持ちは嬉しいけど、君は今女の子じゃん」

 

 いちいち一言多い奴だ。そんなんじゃカレンに嫌われるぞ。

 

「二人とも何コソコソしてるの? せっかくのお祭りなんだから、楽しもうよ!」

 

 カレンは、オスカーの悩みなんて知らないような笑顔で言った。そして、何かを見つけたように通りの端へと走っていった。

 

「おじさん、これ三つ!」

「はいよ。落とさないように気を付けろよ」

「うん、ありがとう!」

 

 カレンが持ってきたのは、ホットドッグのようだった。包み紙に包まれた中身から、美味しそうな匂いが漂ってくる。

 

「はい、オスカーの分!」

「あ、ありがとう」

 

 少しどもりながら受け取るオスカー。なんでもないような接近にも彼は動揺しているようだ。告白はできたくせに、そういう度胸はないらしい。

 

「はい、メメちゃんも! 一番おっきいやつ!」

「おお、ありがとう」

 

 気持ち大きめのホットドッグを受け取り、礼を言う。

 流石にこの人混みの中で食べ歩きは難しい。俺たちは少し道の端によると、家屋の壁にもたれかかった。

 

「はー。なんか楽しそうな人たちを見てるだけでもお祭りって感じだねえ」

「雰囲気っていうのは大きな要素だよな。活気あってこその王都の祭りだな」

 

 それっきり会話が途切れ、三人の間に沈黙が下りた。けれど嫌な感じではなく、その場の雰囲気を楽しんでいるような沈黙だった。

 

「そういえば、さ」

 

 カレンの静かな声は、ともすれば群衆のざわめきに紛れてしまいそうだった。

 

「この前の返事」

 

 オスカーが息を吞む。横にいる俺にも緊迫感が伝わってくるようだった。

 

「今日の夜までにはするから、待ってて」

 

 静かな言葉からは、彼女がどんな返事をするのか想像することもできなかった。

 オスカーはその言葉に大きく目を開くと、短く返事した。

 

「分かった」

 

 二人の間に、再び沈黙が訪れる。今回の静けさには、形容しがたい緊張感があった。

 

 

 ホットドッグを食べ終わり、三人並んで歩く。俺を挟んで歩くカレンとオスカーの間に、会話はない。

 

 ふとこちらを見たカレンはお手洗いに向かう旨を告げると、遠くへと消えていった。俺たちは道の端に立ち止まって、彼女の帰りを待つことにする。すると、その時を待っていたようにオスカーが俺に詰め寄って来た。

 

「ど、どうしようメメ! カレンが、今日返事するって!」

「どうするって、待つしかないだろ」

 

 オスカーは、滑稽なほどに狼狽していた。

 

「でも! もし断られたら⁉」

 

 それは……あまり想像したくないな。

 今やカレンは、オスカーの幼馴染である以上の役割を果たしている。勇者パーティーに同伴し、治癒魔法をかける聖職者。一年近くを共に戦い、戦場でもすぐに意思疎通できる貴重な人材だ。そんな彼女が、オスカーを振ったらどうなるか。魔王討伐を目前にして、勇者パーティーに大きな溝ができる。

 

「断られたら……まずいな」

「まずいっていうか僕はもう立ち直れないよ! あああ、どうしよう!」

 

 あわあわとしだす彼は、もう祭りを楽しむ余裕がなさそうだ。

 

「……でも、断られるのが怖くても告白できたんだな」

 

 正直、そこが一番不思議だった。

 オスカーは恋愛において腰抜けだ。かつてオスカーだった俺が断言できる。幼馴染の気持ちに薄々気づいていても一歩が踏み出せない。オリヴィアと近しい関係になっても、こちらから告白できたことなんて一度もない。その他、恋愛関係になるほど距離の近かった女性などいなかったのだ。

 我ながら情けない限りだ。

 

「それはまあ、改めて自分は死と隣り合わせなんだなあ、って思ったっていうか……」

「……」

「それに、こんなに強いメメが一回も勝てなかった魔王に挑むって考えると、なんだかこの胸の想いを伝えておかないとって焦燥に駆られて。気づけば、口から言葉が出てきてた」

「ああ、俺の話がいらんプレッシャーを生んだかもな。すまない」

「いや、メメが全部話してくれたこと自体はとても嬉しかったんだ。でも、同時に改めて勇者の使命の過酷さを思い知ったっていうかさ。……ああ、この前もこんなことメメに話した気がするな。やっぱり、僕はまだ臆病みたいだ」

「馬鹿みたいに勇敢な奴より、臆病な奴の方がずっとマシだ」

 

 それに、お前は少なくとも俺よりもずっと勇敢だ。だって、想いを告げられたのだから。

 

「メメ、さ。その、カレンにそれとなく返答を聞きだしておいてくれない?」

 

 そんなことを思っていたのに、オスカーは急に女々しいことを言いだした。

 

「……お前、俺から告白の返答聞いてどういう気分になるんだ?」

「だ、だって! 怖いじゃん!」

 

 なんだか駄々をこねる子どもみたいだ。オスカーの情けない態度に、なんだか俺はイラついてきた。

 

「なんだよお前! 告白する勇気はあるのに返事を聞く勇気はないとか矛盾してるぞ! だいたい、カレンは返答を保留したんだろ? 少なからず意識されてるってことだ! 男らしく堂々と待て!」

「君に男らしさを説かれたくないな!」

「なんだとコノヤロー!!」

 

 聞き逃せない挑発に、俺は憤慨した。右手に力を籠め、勢いよくチョップ。オスカーのとんちんかんな頭に直撃するはずだったそれは、彼によって白刃取りされてしまう。

 

「ぐぐぐ……。離せえ……! とんちきな頭を叩いて直してやる……!」

「メメこそ諦めなよ……大人げないよ……!」

 

 互いに譲らず、均衡状態が訪れる。手がプルプルと震え出し密着した二人の手が共振しだす。

 俺とオスカーは、互いの目を観察し合い、次の手を模索し始める。次はどうする? 足払いか? 左手を使うか? ……いや、どっちも読まれそうだな。

 俺とオスカーは、度重なる剣の稽古で互いの技をだいたい見ている。その経験が取っ組み合いにも活きた。オスカーの目は、俺の行動を見逃すまいと観察してきている。

 さて、どうやって裏をかこうか。俺が新しい一手を模索していると。突然冷たい声が隣から聞こえてきた。

 

「──二人とも、仲良さそうだね」

 

 聞いたことのないほど低くて冷たいカレンの声に、俺とオスカーは飛び上がりそうになった。

 慌てて姿勢を直し、カレンの方に向き直る。

 

「お、遅かったなカレン。おかげで待ってる間にちょっと遊んでたんだ」

「そ、そうそう。メメがじゃれついてきてさ。僕は仕方なく付き合っていたんだ」

「ふーん、じゃれてたんだ。二人で。仲良く」

 

 馬鹿、余計なこと言うな! 愛想笑いを浮かべているオスカーは、カレンの顔の温度が一層下がったことに気づいていないようだった。

 

「人の気も知らずに全く……こっちは真剣に悩んでいるっていうのに、なんでいつも通りの訳? 返事聞きたくないの……?」

 

 ぼそぼそと呟くカレンの声は、辛うじて俺の耳に入って来た。冷や汗を垂らしているオスカーは気づいていないようだ。

 ──これは、結構勝算高そうだぞ、オスカー。

 俺は内心、オスカーに賛辞を贈った。……それはそうと、さっきの挑発の借りはどっかで返すからな。

 



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84 祭りの夜、想いの行方

 飲食店を冷やかし、大通りの見世物を楽しみ、人混みに流される。

 そんなことをしているうちに、気づけば日が傾きつつあった。祭りの今日は、夕暮れを見た時の感慨も、ひとしおだ。

 日が暮れる頃になったら、待ち合わせをしよう。オリヴィアとそう約束していた俺たちは、集合場所である通りの端っこに集まって、彼女が来るのを待っていた。

 

「皆さん! ようやく合流できました……!」

 

 オリヴィアは、珍しく焦った様子でこちらに走り寄って来た。

 

「おお、よく来た……ッ!」

 

 彼女の装いに、俺は思わず息を飲んでしまった。普段のオリヴィアの、上品さを保ちつつ動きやすさを確保する服装ではない。今の彼女は、ドレス姿だった。

 

 赤を基調とした、派手なデザインをしたドレスだ。足元まで覆うスカートは、ふんわりと広がっている。コルセットを巻いているのだろうか。細い腰は、触れれば折れてしまいそうだ。袖の部分からは、白くて小さい肩が出ている。

 今日は化粧をしっかりとしているのだろう。いつもより血色がよく見えるし、唇は瑞々しい赤色だ。

 今までが比較的質素な格好をしていたから、違いがよく分かる。今のオリヴィアは、気安く話しかけることすら躊躇われるほどに美しかった。

 

 初めて見る艶姿。それは、俺の恋人だったオリヴィアすらも見せてくれなかった顔だった。

 

「はあ……申し訳ありません。この靴では走りづらく……思ったより時間が……!」

 

 確かに、今の彼女は踵の高いヒールを履いていた。

 近づいて来た彼女に最初に反応したのは、カレンだった。

 

「すごい! めちゃくちゃ綺麗だね! なんか、正にお嬢様、って感じ! 普段のイメージと違うのがすごい特別感がある! 靴からドレスまで全部高そうだけど、こんなところまで来てよかったの?」

「いえ、良くはないですね。制止する家の者は振り切ってきましたので」

 

 晴れ晴れとした表情で、オリヴィアはとんでもないことを言い始めた。

 

「振り切ってきた⁉ それは後々大丈夫なの⁉」

「まずいかもしれませんが、この一夜に比べれば、大した問題ではありませんよ」

 

 ふんわりと笑う彼女は、装いが違うこともあり、大人びて見えた。

 

「……静かですね、メメさん」

 

 いつの間にか近づいて来ていたオリヴィアが、俺の顔を下から覗き込んだ。嗅ぎなれない香水の匂いが鼻に届き、俺の心臓が大きな音を立て始めた。

 視界いっぱいに広がる彼女の顔が、いたずらな笑みを作った。──それは、過去一度も見たことのないオリヴィアの表情だった。

 

「いや、少し驚いたんだ」

 

 まだ、俺の見たことのないオリヴィアがいたことに、驚いた。

 

「ふふ、やはりこの格好は一度も見たことがなかったようですね」

 

 オリヴィアは得意げにほほ笑んだ。そんな何気ない動作にすら、目を奪われてしまう。

 

「どうせ私のことですから、いくら男女の仲になったとしても、いや、むしろ男女の仲になったからこそ、貴族としての自分は隠すでしょう。身分差なんて心の距離が離れるでしょうからね。だからこそ、私が貴族令嬢としての姿でここに来ることに意味があったのです」

「……何の話だ?」

「私のライバルの話です」

 

 それ以上何かを語る気はないらしい。いつもより綺麗になったオリヴィアは、俺の顔を観察するのをやめると、楽しそうに宣言した。

 

「さあ、行きましょう。庶民の皆さんの最大の楽しみであるという、キャンプファイヤーへ!」

 

 

 夜の帳が下りようと、祭りが終わることはない。いやむしろ、あたりが暗くなってからが祭りの本番だろう。

 祭りに集った王都の住民は、まるで光に群がる虫のように、夜闇に煌々と聳え立つ炎の元へと集まりだす。

 

 王都の創世祭におけるメインイベント、キャンプファイヤーのはじまりだ。広場のど真ん中に設置されたかがり火を囲むように、人々が集っている。

 人が集まると、そこら中からアルコールの匂いが漂ってくる。どうやら昼間散々飲んだのにまだ飲んでいるらしい。

 酒に脳を犯された馬鹿どもは気づいていないかもしれないが、キャンプファイヤーの炎にも意味がある。

 

 創世祭の起源に関わる話だ。世界創造の時、大神は人間を泥から作ると同時に、火を与えたと言われている。

 大神は、人間に火の扱い方を教えた。そのエネルギーをさまざまなことに活かせることを教え、同時に扱いを間違えば自らを傷つけることも伝えた。火は単に便利なものではなく、危険なものであることを、人類は大神直々に教えられていた。

 

 けれど数千年が経ち、大神の去った地上で人間たちはしばしば火の扱いを誤ってきた。料理、焚火など生活する上で、どうしても間違い、失敗は生じる。

 さらに言えば、人間同士の野蛮な殺し合いにすら、火は利用されてきた。

 だから、この人間が火を授かった日に、改めて火の起源、大神の言葉を思いだそう、というのがコンセプトだ。……もっとも、火を囲みバカ騒ぎする彼らがそんな話を覚えているのか甚だ疑問だが。

 

 火の周囲には、秩序のない会話ばかりが重なり喧騒を作っていた。けれど、彼らの話し声は一瞬で止むことになる。

 

 管楽器の美しい音色があたりに響き渡る。不思議と人の心を奪うその音色は、人々の注意を集めた。音は、やがて音楽へと変わっていく。穏やかで、ローテンポな音楽だった。それを聞いた民衆は、一人、また一人と踊り始めた。

 庶民には踊りの文化など存在しないので、みんな適当にステップを踏み、がむしゃらに手を振るっているだけだ。

 けれど、中央の火の周りには、男女ペアがたくさん存在した。社交ダンスの真似事のような不格好な踊りばかりだったが、篝火に照らされる彼らは、キラキラと輝いて見えた。

 

「オスカー」

 

 分かっているよな、と促すと、彼は覚悟を決めたらしく小さく頷いた。彼は踊り出す人々に見惚れているカレンの視界を遮るように前へと踊り出ると、膝を付いて片手を差し出した。

 

「僕と、踊ってくれませんか?」

「……喜んで」

 

 後ろからではカレンの表情は見えなかったが、声には静かな歓喜があった。

 

「どうしたのですかあの二人、なんだかいつもと違いますね」

「ああ、なんかオスカーが告白して、カレンはその答えを今日出すんだってよ」

「え⁉ まあまあまあ!」

 

 オリヴィアは珍しい興奮した声をあげた。

 

「あの二人、ちょっと見ないうちにそんなことになっていたのですね! 私も空気を読んで、今夜に二人には近づかないでおきましょう。でもメメさん、感動の瞬間はしっかり目に納めましょうね!」

「すごい嬉しそうだな……」

「だって、ずっと見ていたあの二人が幸せになるのですから、当然でしょう!」

「……まあ、そうだな」

 

 別に幸せになると決まったわけではないが、あの二人なら悪い結果にはならないだろう。

 

「ところで、オリヴィアは踊らないのか?」

「あらあらメメさん、台詞が違いましてよ」

 

 いつになく上機嫌なオリヴィアが、弾むように言う。見れば、彼女の白い手が俺へと差し伸べられていた。

 

「メメさん。私と、踊ってくれませんか?」

「……どうしたオリヴィア、相手を間違ってるぞ」

「もう! メメさん!」

 

 オリヴィアは可愛らしく頬を膨らませた。なかなか見ない表情だ。

 でも、俺の指摘は別に間違っていないと思う。

 

「オリヴィアは知らないかもしれないが、庶民の間でやるダンスっていうのは、男女ペアでやるもんなんだよ。だから、オリヴィアがどうしても踊りたいっていうなら俺が粗相しない程度の良識ある男を連れてくるから、ちょっと待って……」

「いいえ、メメさん。私はこの日のためにちゃんと下調べしてきております。はじまりの炎を表すキャンプファイヤーの周りで踊るのは、愛の契り。告白の場でしょう。今は形骸化していますが、庶民の中にはそういうロマンチックなものに期待してここに訪れている人も少なくないはず。だから、私の言葉は間違っていません」

「え?」

「メメさんは、男の人だったのでしょう。たとえ今は少女の姿をしていようとも」

「……オリヴィアは、そう思ってくれるのか」

 

 俺の来歴をどういう風に取るのかなんて人によって違うだろう。俺は俺で、過去なんて関係ないと肯定してくれたカレン。もう一人の自分、なんて気持ち悪く感じてもおかしくないはずなのに、あっさりと納得してくれたオスカー。

 そして、オリヴィアは俺はかつてオスカーという男だった俺を、認めてくれるのだろうか。

 

「……それでも、俺は中途半端な人間だよ」

 

 男であることはもうできず、かといって女になりきることもできない。宙ぶらりんのまま、はっきりしないままだ。

 

「けれども、あなたの魂は何一つ変わっていないのではありませんか?」

「魂、か……」

 

 それは、姿形の変わった俺にとってただ一つ変わらなかったものだ。

 

「女神教の聖典によれば、死後、人の魂は天へと昇り大神様の元へと向かうとされています。それが正しい死であり、決して変えてはいけない、と。けれど、貴女だけはそうではなかった。貴女の世界の女神が、その摂理を捻じ曲げた」

 

 オリヴィアの口調には、少しばかりの憎悪が乗っているようだった。それはおそらく、俺の世界の女神に対するものだったのだろう。いつも冷静沈着な彼女らしからぬ口調に、俺はまた驚かされる。

 

「貴女がそのこと自体に、負い目のようなものを感じていることはよく分かりました。それに、百年も繰り返しの時間の中を生きていれば今を生きている実感というものも薄れて当然でしょう。けれど、メメさん」

「……なんだ」

 

 オリヴィアの穏やかな語り口には、不思議な重さがあった。

 

「私は、今を生きているあなたに幸せになってほしい。──手始めに、私と踊ってくださりませんか?」

 

 真剣に語り続けていた口調が、最後の最後で砕けた。冗談めかして差し伸べられた手は、俺の全部を包んでしまいそうなほどに大きく見えた。だから俺は、精一杯の見栄を張った。

 

「そこまで言われて断ったら、男が廃るよ」

 

 手を、取る。温かくて、小さくて、綺麗な手を。オリヴィアは控えめに笑ったかと思うと、すぐに俺の手を引いて煌々と燃える炎の方へと歩き始めた。

 

「メメさん、随分社交経験を積んでいるようでしたが、ダンスの経験はありますの?」

「いや、さっぱりだ。俺のはあくまで貴族相手にも交渉事ができるように身に着けた付け焼き刃だ。教養だとか芸事の嗜みだとかは、オリヴィアに遠く及ばないよ」

 

 付け焼き刃も数十年続けていれば様になってくるもので、今では貴族相手でも舐められない程度の立ち振る舞いは身に付いた。けれど、俺は未だに16の少女であるオリヴィアに遠く及ばない。

 

「よかった。そこまで完璧だったら、私の立つ瀬がないところでした」

 

 嬉しそうに笑ったオリヴィアが、急に俺の手を振り回した。不意打ちに、俺はなすすべもなくオリヴィアを中心に半円を描くように振り回される。そんな俺の動きにピタリと追従してきたオリヴィアが、俺のもう片方の手も取る。するとすぐに、音楽に合わせて軽快なステップが始まった。

 

「お……うおっ……オリヴィア! 無理無理! 俺こういうの苦手なんだよ!」

「そんなこと言いながらお上手ですよ。ほら、そこです」

 

 オリヴィアの手足が、俺の手足の動きを指示するように動く。しばらくの間それを続けていると、ようやくこれがリードされている、ということなのだと気づいた。

 慣れない動きに四苦八苦する俺は、なんとかオリヴィアに問いかける。

 

「お、オリヴィア。男役は俺の役目じゃないか?」

「いいえ。先導なんて、優れた人間がすればいいのです。メメさんだって、ずっと勇者パーティーを引っ張ってきたじゃないですか」

 

 楽しげにステップを刻むオリヴィアは、俺の言葉を聞き入れる気なんて全くないようだった。その洗練されたダンスは、身に纏う真っ赤なドレスも相まってとても美しかった。

 

「おっと。うおっ! オリヴィア! 踏むって! そろそろ足踏むから!」

「あらあら、まだまだこれからではありませんか。……おや」

 

 止まる様子のなかったオリヴィアが、突然足を止めた。何かと思い彼女の視線の先を追うと、その先にはオスカーとカレンの姿があった。篝火の先にいる二人は、明るい中心から逃げるようにして茂みの方へと向かっていった。

 

「告白でしょうか⁉ 追いましょう、メメさん」

「オリヴィア、行儀悪いぞ」

 

 一番オリヴィアに効くであろう言葉で制止したが、彼女は聞く耳を持たなかった。

 

「これは覗きではありません。応援です。それに、メメさんも見たいでしょう?」

 

 それは、もちろん見たい。好奇心という意味ではもちろん、何よりも、かつてオスカーだった俺は、彼の告白の先を見届けなければならない気がする。

 もし成功したなら、過ぎた日の俺の想いが、少しだけ報われた気がするだろう。

 

「……行くか」

 

 結局、俺はオスカーの告白を見届けることにした。

 

 

 騒がしい炎の周りから一転、茂みの先は、祭りの王都とは思えないほどの静けさだった。喧騒が、音楽が、どこか他人事のように聞こえてくる。何よりも、この空間には簡単には言い表せないような緊張感があった。

 

 茂みに隠れる俺たちの視線の先で、オスカーとカレンは静かに見つめあっていた。最初に口を開いたのは、カレンだった。

 

「オスカー」

「うん」

 

 二人の言葉には、言いようのない迫力があった。覚悟を決めたような、決意を固めたような、強い意志の籠った口調だ。

 

「あの時の答えを、ここで出したい」

「……待ってたよ」

 

 カレンの言葉に、オスカーはもう動揺を見せなかった。その顔は、凪の湖面のような穏やかさがあった。ああ、どうやら彼は腹を括ったらしい。

 

「アタシは、オスカーの感情に、言われるまで気づかなかった。いや、気づこうとしなかったと言ってもいいかもしれない」

 

 カレンは、静かな独白を始めた。

 

「ずっと一緒だったから、ずっとこのまま、このままで関係が進むんだと思ってた。そうやって、都合のいい方に逃げて、居心地のいい関係のままでいようとした」

 

 言葉には、隠し切れない自己嫌悪があった。

 

「でも、オスカーに改めて気持ちを言葉にして伝えられて、それで、アタシはそんな考えが間違っていたことに気づいた。関係は、どうやっても変わる。年齢が変わって、居場所が変わって、属する社会が変わって、幼馴染は、幼馴染のままではいれなくなる」

 

 ──それは、俺がオスカーだった時にも寂しさと共に考えていたことだった。だから、今目の前にいるオスカーも、きっと同じことを考えていたのだろう。

 

「メメちゃんと初めて会った時、アタシはきっと嫉妬していた。村には、アタシと同年代の女の子なんていなかった。あんなにも簡単にオスカーと仲良くなる女の子なんていなかった。それで、アタシは初めて幼馴染じゃダメなんだっていう焦りを覚えた」

 

 そこまで言うと、カレンは自虐的な笑みを浮かべた。

 

「他の女の子がいないと自分の気持ちすら理解できないなんて、馬鹿だよね。それでも、アタシは今の関係が壊れるのが怖くて、勇者パーティーの一人、っていう立場に甘んじていた」

 

 カレンの様子に、オスカーは思わず、といった様子で詰め寄った。

 

「──それは、僕だって同じだよ。カレンとの居心地の良い関係に甘んじて、勇者っていう立場を利用してカレンとずっと一緒にいようとした」

「……じゃあ、オスカーはどうしてアタシとの関係を変えようとしたの?」

 

 カレンの目には、涙が浮かんでいるようにすら見えた。けれど、オスカーに動揺はなかった。

 

「僕がいつ死ぬのか分からないって、改めて思ったからだよ」

「え?」

「メメの話を聞いて、僕はそれを他人事とは思えなかった」

 

 オスカーは、その時の感情を思い出すように目を瞑った。

 

「敗北と、死と、別れが、僕らの日常の傍らで常に大口を開いて待ち構えている。そう思ったら、僕はこの胸の感情をこのままにしておけないって思った」

 

 オスカーは、また一歩、カレンに近づいた。

 

「だから、僕はカレンとの、この先の関係を望んだ。幼馴染じゃなく、勇者パーティーの仲間じゃなく、恋人として、カレンと一緒にいたいと思った。ずっと同じ時を刻みたいと思った。……返事を、聞かせてほしい」

 

 いつの間にか、カレンの頬には透明の涙が流れていた。

 

「でもアタシ、メメちゃんみたいに賢くも、強くもないよ」

「カレンは、カレンのままがいいよ」

「オリヴィアみたいに、優雅でも美しくもないよ」

「カレンにはカレンの良さがあるよ」

 

 一つ一つ、確かめるようにして二人は言葉を交わし合っていた。

 

「……オスカー!」

 

 震える唇で、彼女は言葉を紡ぐ。愛おしそうに、涙を決壊させて。

 

「何かな?」

「アタシも、オスカーが好き! 多分ずっと好きだったし、これからもずっと好きだと思う! もう、幼馴染じゃ嫌! アタシは……アタシは、オスカーの一番でありたい!」

「カレン……!」

 

 オスカーは、今まで見た中で一番嬉しそうな顔を見せた。つられてカレンも笑顔を見せた。

 

 やがて、夜闇の中で、二人の顔は重なり合った。

 

「……オリヴィア、行こう」

 

 これ以上見ているのは野暮だろう。俺が声をかけると、オリヴィアは小さく頷いた。

 

「──良かったな、オスカー」

 

 自分の口から出た言葉が、彼に向けた言葉だったのか自分にかけた言葉だったのか、俺には分からなかった。

 



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85 大嘘と本音と信頼と

 祭りは終わり、人々は日常に戻っていった。祭りの翌日、昨日の景色が嘘だったように、王都は今までの暮らしへと戻っていた。出店はすべて撤収していて、芸人たちも姿を消した。道端に落ちる酒の空き瓶だけが、辛うじて祭りがあったことを示していた。

 

 昨日無事カレンと気持ちが通じ合ったオスカーは、今頃どうしているだろうか。嬉しくて有頂天になっているだろうか。……いや、多分恥ずかしさに悶えている頃かな。告白の言葉を振り返り、自分はなんて恥ずかしいことを言っていたのだろう、などと考えていることだろう。俺には分かるぞ。

 

「……でも、これからは余計にあいつのことが分からなくなるかもな」

 

 カレンと結ばれ、幼い頃からの気持ちが報われたあいつは、もう俺と同じ思考回路をしていないだろう。でも、それでいい。あいつは俺みたいにならなくて、いい。

 

「……さて、浮かれ気分はおしまいにして、俺もやるべきをやらなくちゃな」

 

 待ち合わせ場所は、すぐそこだ。俺は人の目がないことを確認すると、素早く大通りから路地へと入り込んだ。華やかな王都の景色から一転、薄暗い裏通りには、人の気配がない。しかし、奥の方からはがっちりした体格の男が一人、こちらに歩いてきていた。

 

「……本当にいるとはな」

 

 その男、騎士団長のアストルは、鋭い視線で俺を観察していた。

 

「お前こそ、平の騎士の伝言を素直に飲んでこんなところまで来たんだな。騙し討ちにでもあったらどうするつもりだったんだ?」

「同じ人間相手に遅れはとらん。それで、わざわざあんな手を使って俺を呼び出したんだ。くだらない要件じゃないだろうな?」

 

 彼の鋭い視線が、俺を貫いた。噓をつけば、今すぐにでも斬り捨てられそうな迫力だ。

 

「呼び出しに応じたってことは、俺の言ってることに心当たりはあったんだろ?」

 

 俺が平の騎士を通じて彼に伝えたのは、昨日の事件の事だ。昨日の創世祭の裏で、もぬけの殻になった騎士団の兵舎には、不審者が侵入した。

 幸い、祭りの日まで生真面目に警備をしていたアストルが発見し、あっさりと撃退。情報を持ち出されることはなかった。

 しかし、不審者は捕まると、ためらいもなく口内に仕込んだ毒薬で自決。騎士団は不審者が何の目的で侵入したのか分かりかねていた。……と、ここまでが俺の過去の経験から得た知識だ。

 

「ああ。……貴様の情報源は興味深いな。是非とも兵舎で聞かせてくれないか?」

「そのまま地下牢で拷問か? 勇者パーティーと騎士団の決裂だな。魔王討伐が遠のくぞ」

「……そこまでは言っていない」

 

 アストルはわずかに顔を逸らした。近しいことは考えていたらしい。

 

「まあ、人間を切り捨てる手口から察するに、中央教会だろうな。あいつら、魔王討伐が近づくと、王国内の情報収集に勤しみ始めた。大方、少しでも討伐に貢献した実績が欲しいんだろうな」

 

 歴史的に見ても、人類の大義、魔王討伐に貢献したという実績にはかなり影響力がある。

 平民であれば爵位が授けられ、貴族であれば領土の拡大、王族の降嫁すらあり得る。歴史的に見ても、魔王討伐に貢献した人間はその後栄転を果たしている。

 王国内では既に盤石な権威を持つ中央教会だが、どうやらまだ権力が欲しいらしい。

 

「騎士団の情報を探っているところを見るに、間違いないだろうな。強欲な最高司祭様だろうよ。特に魔王が目の前に出てきた時に一番気を付けた方がいい。やつら、下手すれば騎士団の背中を刺すぞ」

「流石にそんなことは……いや、あの人でなしならやるかもな」

 

 考える様子を見せたアストルは、やがて納得したように頷いた。

 

「しかし、やはり解せんな」

「……なんだ?」

「貴様の情報量だよ。普通の平民なら、まず最高司祭の顔すら知らないはずだ。ましてや教会が騎士団を目の仇にしていることも」

 

 中央教会は一般の信徒には見せられない強欲な顔を持ち合わせている。それは、一般的な王国民は知らないことだ。

 ああ、ここに来て、やはりこいつが俺を信用できないことが足を引っ張るか。

 調べても素性の出てこない、正体不明の女。警戒するにも無理はない。

 だがしかし、こいつがそう言うのも予想済みだ。準備はしてある。

 

「……なあ、お前」

「なんだ?」

 

 俺は真面目な顔でアストルを見つめた。さあ、ここからだ。俺は、この男に今から大噓をつく。緊張を気取られないように取り繕いながら、俺は口を開いた。

 

「俺が貴族の影武者だったって言ったら、信じるか?」

「なに……?」

 

 衝撃を受けた顔のまま、固まるアストル。俺は、彼に考える余地を与えないようにたたみかける。

 

「俺は今は存在しない王国貴族、ヴィルノー家の出身だ。と言っても下働きだがな。だが当主様に目を付けられた俺は、奔放で自由なお嬢様の代わりに式典の類に出席させられていたんだよ。もっとも、お前も知っての通り、家は反乱で潰れたがな」

 

 ヴィルノー家は既に存在しない。かつてのヴィルノー家の悪政の噂は王都まで轟くほどだったらしい。高い税による搾取に、領内での奔放な振る舞い。子どもの我儘で平民の首が何度も飛んだらしい。

 困窮した領民たちは反乱を起こす。それを抑えられなかったヴィルノー家の人間は、一人残らず放火された屋敷の中で焼け死んだらしい。その後、王城は隣の領のバーネット領にヴィルノー領に併合させたようだ。

 

「つまりお前は、貴族令嬢としての教育を受けて育ったと?」

「そういうことだ。影武者だったから、当然名前は知られていなかった」

 

 できるだけ堂々と、俺は嘘を吐いた。けれどアストルは、まだ半信半疑のようだ。

 

「しかし、それではお前の戦闘力の説明がつかないぞ?」

「俺は身代わりだけじじゃなく、お嬢様の護衛も務めていたからな。時には敵をおびき出して撃退する役目も担っていた」

「貴族家に属していたにしても騎士団の内情に詳しすぎるようだが」

 

 アストルは畳みかけてくる。

 

「ヴィルノー家で諜報を担当していた奴らとは未だに交流がある。今は王都の闇市で情報を売りさばいている奴らだ。金と引き換えに情報を受け取っている」

 

 貴族家が情報屋を雇っているのは珍しくもないことだ。特にあくどいことをしていたヴィルノー家なら、情報には気を遣っていただろう。……いや、悪名高いヴィルノー家にそんな知能があったかは分からないが、少なくともアストルに嘘をつくぶんには問題ない。

 

「……筋は通るが、しかしな……」

 

 アストルは、何やら深く考えているようだった。

 その様子を見た俺は、彼が熟考しないうちに次の言葉を紡ぐ。正直、本当に信じさせたいのは、信じてほしいのは、先ほどの言葉ではない。

 

「──でも、重要なのはその事実じゃない。俺が、お前に誰にも言ってなかった事実を告げた、ということの方だ。これは信頼の証だ。俺はお前を信頼するから、お前も俺を信頼しろ」

 

 信頼の証、と言いつつ先ほど真っ赤な嘘を吐いた俺だが、実際のところ、アストルは信頼できる人間だと知っている。

 魔王討伐という俺の目的に、もっとも真摯に協力してくれる大人は、多分こいつだ。だから、こいつに接触した。

 

「嘘か本当か分からない身の上話を聞かされて、どう信頼しろと?」

 

 アストルはにべもない。ここまでは予想済み。問題は、ここからだ。この言葉をどう受け取られるかで、運命が大きく変わる。

 俺は緊張を覆い隠して、口を開いた。

 

「少なくとも、俺は魔王討伐という大義のためなら、騎士団の長であるお前と協力し、信頼合えると思っている。これだけは、信じてほしい」

 

 できるだけ素直な言葉を伝え、俺はアストルの鋭い視線を見つめ返した。今度の言葉は、紛れもなく本当の気持ちだった。そのことを、目に力を籠めて伝える。

 

 アストルは再び黙り込んでしまった。その鋭い目は、俺を観察し続けているようだった。俺の胸の緊張は、もはやピークを迎えていた。信じてもらえなければ、魔王討伐が遠のいてしまう。騎士団の協力がなければ、俺たちの作戦のリスクが跳ねあがる。

 

 たっぷり十数秒が経った頃、アストルはため息を吐きだした。

 

「分かった。お前を信じる。……それで、今度は俺に何をしてほしいんだ? 言っておくが、勇者殿の訓練はもう教えることが無いぞ」

 

 その返答に、俺の胸は歓喜と安堵でいっぱいになった。アストルに「信じる」と言われたのは、これが初めてだった。これもきっと、俺が人間をもう一度信じることができるようになったから、オリヴィアが俺の目を覚ましてくれたおかげだ。

 

 逸る気持ちを抑えて、俺は努めて冷静に彼に告げた。

 

「ああ、助かる。お前には、俺と一緒に王国が魔王討伐のために一致団結するための手助けをしてもらいたい。手始めに。中央教会の平和ボケした頭を殴り倒すぞ」

 

 



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86 神様気取りの魔王

 あの山を越えた先、マルス渓谷には、この世のものとは思えないような綺麗な花が咲く。誰も見た事のないその花を見ることができたなら、願いが一つ叶うらしい。

 

 そんな噂は、周辺地域の村や街の住民なら誰もが知っていた。

 けれど、子どもたちはマルス渓谷には行かないように言いつけられていた。周囲の森が深くて、危ないから。川が深くて危険だから。危険な魔物が出るから。大人たちは、口酸っぱく子どもたちに言いつけていた。

 

 しかし、子どもというのは禁止されたことをやりたくなる生き物だ。

 

 その日、エマは孤児院を抜け出して噂の花を見に行った。

 エマはみすぼらしい身なりの少女だった。背の丈から察するに十歳ほどか。着ている質素な服はボロボロ。よく見ると、その肌には痛々しい傷跡があった。長い黒髪はところどころが痛んでいる。顔のそこらじゅうに泥をつけていて、それを気に留める様子もない。

 

「ハァ……ハァ……」

 

 ただ一心不乱に、少女は噂の花を求めて山の中を走っていた。方向すら見失ってしまう程の深い森にも、エマは怯えない。初めて来る場所、初めて見る景色。それに触れる彼女は、危険性など見ていなかった。

 奇跡的に、危険な魔獣に見つかることもなく、エマは山を越え、森を抜け、渓谷に辿りついた。

 道も知らない少女は、まるで何かに導かれたように渓谷に辿り着いたのだ。

 それは、或いは運命の導きだったのかもしれない。

 

「渓谷の中……花はどこ……?」

 

 少女はうわ言のように呟くと、よろよろと斜面を下り渓谷へと入った。河原の石が、エマのボロボロの靴に踏みつけられ音を立てる。

 既に体力が限界に近いにも関わらず、エマの赤い目はギラギラと輝き、噂の花を絶対に見つけようという気迫に溢れていた。──それは、無垢な少女が噂話を追いかけている、というにはあまりにも必死な様子だった。

 

「どこ? ……私の救いは、どこ?」

 

 もはや体力ではなく気力のみで、エマは足を動かしていた。

 河原を歩き、地面に目を凝らす。石だらけのそこには、花なんて咲くようには全く見えなかった。けれどエマは諦めずに川の方へと近づいていく。

 やがてエマは、念願の物を見つけた。

 

「あった……!」

 

 それは、特別美しくもない、ありきたりな花だった。白い花弁と、良く成長した茎と葉。「この世のものとは思えないほど美しい花」とは程遠い。けれど、疲労困憊なエマにはそれこそが救いであるように見えた。

 よろよろと近づいていったエマが、花の目の前に跪く。女神像を前にした敬虔な信徒のような、真剣な様子だった。

 

「願いを叶える花、どうかお願いします。──世界を、滅ぼしてください」

 

 渓谷に、春とは思えない冷たい風が吹いた。少女の耳元を吹き抜けた風は、切実な願いなど知らないように流れていく。エマは黙って手を合わせていた。

 

 当然、どれだけ待っても世界には何一つ変化などなかった。滅びる様子などどこにもなく、渓谷は平和な景色のままだった。

 

「はぁ……」

 

 エマは、深く深く、溜息をついた。この世界に絶望したような、十歳ほどの少女には不似合いの疲れ果てた溜息だった。

 

「やっぱり、馬鹿のする噂話が本当のわけなんてない、か」

 

 嫌悪に満ちた言葉には、深い諦観があった。自分の道筋が無駄だったことを知っても、エマはその場から立ち上がることができなかった。もう、自分の人生なんてどうなったっていい。そんな感情が胸中を支配し、彼女の意識を朦朧とさせる。

 渓谷に風が吹く。冷たい風は少女の失望など関係なしに吹き続けていた。

 

「──え?」

 

 ふと、エマは声が聞こえた気がして、顔をあげた。深く沈みこんだ心にも届くような、迫力のある声だった。エマは風の向こうに聞こえた声に、もう一度意識を集中させた。けれど、その声はエマの内側から聞こえているようだった。

 

『世界を滅ぼしたいという願い、偽りはないか?』

 

 悪魔の囁きというものがあれば、こういうものなのだろう、とエマは思った。声は身を震わせるほどに低く、威厳に満ちて、それでいて甘美な魅力を纏っていた。

 興奮に震える唇で、エマは言葉を紡ぐ。

 

「偽りはない。私は、こんな世界を滅ぼしたい」

『なぜ、そのように思う』

 

 声は、エマの本心を知りたがっているようだった。

 

「人間はみんな、愚かで幼稚で利己的で打算的で愚昧で口汚くて粗野で暴力的で、どうしようもなく愚かだからだ!」

 

 エマは、日頃胸にため込み続けていた悪態を吐き出した。本心をぶちまけたのは、これが初めてだった。

 こんなことを言えば、子どもに厳しく当たり、躾けた気になっている馬鹿なシスターに折檻されるに決まっているからだ。寒くて暗い物置小屋に閉じ込められ、一日中何も食べられない痛みを、あのシスターは知らないに決まっている。

 同じ孤児院の子どもに言っても無駄だ。彼らは幼稚で、自分の言葉を半分も理解しない。そのくせ背の丈や腕力で自分より優れているから、何かあればすぐに暴力を振るってくる。昨日なんて、エマの顔が気に入らない、という理由だけで面白半分にリンチされた。

 

 エマは、彼らが嫌いで仕方なかった。だから、彼ら人間の生きる世界なんて滅びればいいと思っていた。

 

『人間の娘よ、貴様は違うとでも言うのか?』

 

 声は、エマの言葉を面白がっているようだった。

 

「私も同じだ。醜い人間だ。けれど彼らと違い、私は自分が醜いことを知っている」

 

 人間は、どうして自分の心を映す鏡を持っていないのだ、とエマは事あるごとに思っていた。自分の心を鏡で見れたら、きっとその醜さに卒倒してしまうに決まっている。

 そして見えていないからこそ、あんなにも醜いのに胸を張って生きているのだ、と確信していた。

 

「この世界を滅ぼしてあいつらに復讐できたなら、私は死んでいい。私のすべてをなげうってでも、私はあいつらを殺して、滅ぼしてやりたい」

 

 10歳程度の少女にはあまりにも不釣り合いな願い。真っ当な大人が聞けば、きっと眉をひそめて少女と話をしようとしただろう。

 けれど、声は。魔族の神、叛逆神は、ただ喜ぶだけだった。

 

『──善い。その歪んだ魂の在り方、とても善い。人間を巫女とするのは初めてだが、貴様のような魂を持つ者ならば適応できよう。最後に、確認するぞ』

「なんだ」

『魔王となって世界を滅ぼす気はあるか?』

 

 エマは、唇を曲げて笑った。昏い決意の籠った、会心の笑みだった。

 

「もちろん」

 

 次の瞬間には、少女の姿は渓谷のどこにもなかった。川辺に咲くクレソンだけが、静かにゆらゆらと揺れていた。

 

 

 ◇

 

 

『冷酷な魔王様が玉座で吞気に昼寝か? 配下に寝首を搔かれるぞ』

「うるさい」

 

 魔王は、脳内に直接響く神の声に、意識を覚醒させられた。目を開けると、見飽きた魔王城の装飾が目に入ってくる。

 ちょうどその時、部屋のドアがノックされた。

 

「魔王様、定時報告にあがりました」

「入れ」

「ハッ、失礼します」

 

 入って来たのは、六つのギョロ目が特徴的な魔物だった。長い顔の中で六つの眼球が絶えず動き続ける様は不気味で、常人なら気味悪がって当然のものだった。

 しかし、人間だったはずの魔王に動揺はない。そんなもの、見慣れているからだ。

 

「第一部隊は壊滅。それに伴い、後方支援を担う第三補給部隊も半壊しました。これで東部戦線は敗北。魔王軍は後退を余儀なくされました」

「そうか」

 

 悲惨な戦況にも、魔王は眉一つ動かさなかった。今更魔物がいくら死のうと知ったことではなかった。

 

「……あなたの指揮のせいで、仲間たちは死にました」

「そうだな」

 

 六つの瞳が、魔王を責めるように睨みつけた。けれど、無表情が少しも揺らぐことはなかった。

 

「ッ! やはり、貴様なんかに魔王軍を任せるわけにはいかない! 貴様に任せていたら、魔王軍は負けてしまう! おい、入ってこい!」

 

 六つ目の魔物が叫ぶと、途端にドアから魔物が雪崩れ込んできた。その数は十を超え、皆殺気に満ちていた。先ほどまで昼寝できるほどの静けさだった玉座は、一瞬にして熱気に包まれた。

 

「絶対者なんてもういらない! 今から魔王軍は、俺たちの合議で動かす! 貴様には玉座から退場してもらう!」

「ハッ、貴様らが何百匹集まろうと私よりも良い策が思い浮かぶとは思えんがな」

「くっ……とことん見下しやがって! おい、やるぞ! ここで魔王の首を獲り、俺たちが玉座につくぞ!」

「おう!」

 

 六つ目の魔物に扇動された魔物たちが、得物を構えた。それに対して、魔王はただ静かに立ち上がり、腰の魔剣に手を当てた。

 

「一つ忠告すると、私と貴様らの戦力差すら理解できない貴様らに、戦略を考える王の座は無理だぞ?」

「うるさい! 貴様に仲間を無意味に殺され続けるよりも、ずっとマシな結果を出してみせる!」

「そうか。……正直、興味ないな」

 

 お前ら魔物がどれだけ死のうと、最終的に人間が滅べばそれでいい。魔王の本心は、突き詰めればそんなものだった。

 

「はああああ!」

 

 魔物の鋭い爪が迫るのを一瞥すると、魔王は軽く剣を振るった。瞬間、玉座の間に暴風が吹き荒れた。ただ剣を振っただけとは思えない、嵐のような風だった。

 

「がっ……」

 

 まっさきに襲い掛かった魔物は、あっさりと崩れ落ちた。屈強な体には巨大な切り口が出来ていて、そこから緑色の血液が流れ出していた。

 

「なっ……」

 

 魔物たちの間に、動揺が走った。覚悟はしていたはずだった。魔王は頭脳だけでなく戦闘においても最強の魔物。そう認識したからからこそ、志を共にする精鋭を十体以上集めた。準備を整えて、殺すつもりでここに来た。

 しかし、ただの一太刀を見ただけで自分たちの足は震え、本能がここから逃げ出すことを訴えかけてきている。

 

「う、うおおおおおおおお!」

 

 己の中に湧き出た恐怖を誤魔化すように、魔物たちは咆哮した。同時、十を超える魔物たちが魔王へと殺到した。

 どのみち、反乱を起こした自分たちを待っているのは冷酷な魔王による処刑だ。引けない。引くわけにはいかない。

 そんな雄々しい突貫に、しかし魔王は冷静だった。

 

「『粘性の闇よ。荒れ狂い、破壊せよ』」

 

 重々しい詠唱に呼応して、魔王の手のひらからは真っ黒な泥が湧き出てきた。それは意思を持っているかのように独りでに蠢くと、反乱分子たちに襲い掛かった。

 

「くっ……『今は亡き水の神よ、世界の穢れを浄化したまえ』」

 

 後方に構えていたダークエルフが詠唱すると、大量の水が泥へと襲い掛かった。しかし、魔法を放ったダークエルフはすぐに驚愕することになる。

 

「馬鹿な! 水の効き目がない!?」

 

 蠢く黒い泥は、水と接触すると、ジュッという不気味な音を立てて水を吸収し始めた。

 泥、土を扱う魔法には水をぶつける。そんな魔法のセオリーを覆された衝撃は凄まじかった。

 やがて、不気味な泥が魔物たちに襲い掛かった。獣のごとく飛び掛かった泥は、魔物の口部分に入り込むと、呼吸する隙間を完全に奪った。

 

「──ッ! ァ……」

 

 声にならない悲鳴をあげて倒れ込む魔物たち。正体不明の、魔法に長けたダークエルフすら知らない魔法に、反乱分子たちは抵抗する術を持っていなかった。

 

「ハッ……ハッハッハッハ! 先ほどまでの勇ましい態度はどうしたのだ!」

 

 もはや魔王の挑発に応えられる魔物など、一体たりとも残っていなかった。物言わぬ屍と化した魔物達が、玉座の床を汚していた。

 

「ふん、もう死んだか」

 

 魔王は一人ごちる。

 

「私に任せていたら魔王軍は負けてしまう、か」

 

 先ほどの愚かな魔物の言葉を思い出す、自然、魔王の頬は吊り上がっていた。

 

「何を言うか。私がいる限り、負けるわけがないではないか」

 



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87 王城魔王討伐会議

 王都の中心に存在する王城。その絢爛な内装は、何度見ても飽きないほどに見事なものだ。壁にかけられた絵画の一つ一つは美しく、目を奪われる。端っこの方に置かれた壺は、見るからに高そうな装飾だ。煌びやか廊下には、当然塵一つ落ちていない。

 

 俺とアストルは、先導する近衛騎士の背を追って、王城の廊下を歩いていた。目指すは玉座の間、この国の心臓部だ。

 

「貴様、いくら貴族として育ったとはいえ、王城を我が物顔で歩くとはどういう神経をしているんだ? 怖いもの知らずか?」

「なに、目の前に迫ってくる殺気立った魔物に比べれば、こんなのどうってことない」

「恐怖の種類が違うと思うのだがな」

 

 隣を熱くアストルは。呆れたように言った。共に作業するうちに、口調から少し硬さが取れただろうか。いい傾向だ。

 

「そういうお前は、緊張した様子はないな」

 

 アストルは、相変わらずの仏頂面だった。

 

「馬鹿言え。陛下との面会だぞ。緊張しているに決まっている」

「……お前、緊張することあったんだな」

「貴様は俺を何だと思っているんだ? 腕っぷしには自信があるが、他は至らぬ点ばかりだ。こんな俺を信用してくれている陛下には頭が上がらん」

 

 それは、俺が初めて見るアストルの一面だった。こいつはもっと、全てにおいて完璧な人間離れした存在だと思っていた。

 その思いを素直に言葉にする。

 

「意外だな」

「そうか。俺はお前と話していて意外なことだらけだがな」

「俺がか?」

 

 思わず、俺は彼の顔を見た。

 

「ああ。身の上話もそうだが、何よりもお前は思ったより真摯な人間だったことだな。最初に腹の探り合いをした時よりも、ずっと印象が柔らかくなった」

 

 アストルの言葉には、確かに感情が籠っていた。

 

「多分、あの時のお前と今のお前は違うんだろうな。何かいいきっかけがあったのだろう。良かったな」

「……いいことばかりでは、なかったけどな」

 

 いいことは、あった。でも、そんな俺の脳裏にジェーンの死に顔がよぎる。俺は、今の幸福を完全に手放しで喜ぶ気にはなれなかった。

 そして同時に、自分の口から後悔の言葉があっさりと出てきたことに驚いた。仲間といる時は、努めて言わないようにしていたのに。

 

「……ふむ、年配者として話を聞いてもいいが」

 

 アストルの意外な言葉に、俺はまた驚かされる。

 

「らしくもないことしようとしなくていいぞ」

「貴様の中の俺がどんな人間かは知らんが、迷える若者の話を聞くくらいできるぞ。これでも部下は多いからな」

「そう、か……」

 

 アストルの鋭い視線には、見たこともない優しい光が灯っていた。

 気づけば、久しぶりに、本当に久しぶりに、俺の口からは弱音が飛び出していた。

 

「以前、仲間が一人死んだ。ジェーンという名前だった。……大事な、仲間だった」

 

 生前、ふざけ合って、罵り合っていた時には気づこうともしなかったが、俺はあいつのことを大事にしていたようだ。自分をこんな姿にした彼へ、恨みすら抱いていたはずなのに、気づけば彼のことを失いたくないと思っていた。

 

「今度こそ、全部がうまくいくと思っていた。そんな俺の、つまらない慢心が原因だった。そのせいで、あいつは俺を庇って死んだ。俺は、無能な自分を恨んだ。……ああ、でもその自罰思考は、ほどほどにすることにしたんだ。彼女に諭されたからな。──でも、後悔までなくなったわけじゃない」

 

 呼吸を一つ。自分の気持ちを見つめ直して、俺は言葉を紡いだ。

 

「俺は、今でもあいつが死んでしまった時のことが忘れられない」

 

 真摯な瞳で俺を見つめていたアストルは、やがて重々しく口を開いた。

 

「ふむ。……数え切れないほどの部下を持つ私に言わせれば、そんな後悔、取っておくだけ無駄だぞ」

 

 アストルの言葉は、常の態度と同様に冷たく、無駄がなかった。その態度に、俺の胸中で何かが弾けた。

 

「でも! 俺にとってあいつは、かけがえのない仲間だった! お前とは違う! 状況が違う、人数が違う、想いが違う!」

「いいや、違わない。私にとっても、部下は全員かけがえない仲間だ。どれだけ数が増えようと、あいつらは俺にとって大切な存在だ」

「じゃあ、なんで耐えられる? 仲間が何百人と死んで、お前はどうしてまだ前を向いていられるんだ」

 

 ずっと疑問だった。アストルは、騎士団長という重圧にどうやって耐えているのか。部下を、仲間を失う悲しみに、どうやって抗っているのか。

 大人だからか。理性的だからか。冷酷だからか。

 でも、俺の憶測は一つだって当たっていなかった。

 

 真っ直ぐに俺を見つめて、彼は言い放った。

 

「──あいつらのためだ。俺が信頼した部下は、死んでいったあいつらは、誰一人として俺が下を向いてうずくまることなんぞ望んでいなかった。だから俺は、どれだけ死なせようと前を向く。戦い続ける。例え糾弾されようと地獄に落ちようと、関係ない」

「……そう、か」

 

 それもまた、一つの答えなのだろう。死んでいった者たちのために、贖罪ではなく、望まれた自分を全うすることで報いる。

 それは、俺には決して辿り着けなかった境地だった。けれど、そうやって前を向いている人がいること自体は俺にとって励みになった。

 

 ふと、俺はジェーンの最期の言葉を思い出した。

 

『私の死を、貴女の傷にしないでください。迷惑です』

 

 簡単には受け入れられなかったその言葉が、今なら飲み込める気がした。

 胸の中に残っていたモヤモヤが少しだけ溶けていく感覚を覚える。俺は、また一つ自縄自縛の縄を切れたようだった。

 

「アストル」

「なんだ」

「ありがとうな」

 

 少し気恥ずかしてて、視線を逸らす。アストルは、ただ静かに頷いただけだった。

 

「……じゃあ、気を取り直していくか」

 

 気づけば、玉座の間の扉は目の前にあった。

 俺は、一度深呼吸して、気合を入れ直した。

 

 

 

 

 豪華な扉を開き、正面に見えたのは、相変わらず豪華な装いに身を包んだ王の姿だった。口ひげを撫でながら、こちらを観察している。

 その横には、白い修道服に身を包んだ小太りの男がいる。あれが最高司祭。中央教会の最高権力者にして、最低のクズだ。

 

 俺とアストルは、礼儀通り入口で跪く。

 

「この度は、拝謁の機会をいただき誠にありがとうございます」

「つまらん儀礼は構わん。入れ」

 

 王はぞんざいに言い放った。

 

「はい、失礼いたします」

 

 入ると、文官らしき人物が、俺とアストルの分の椅子を引いた。豪華な装飾の椅子は、座るのを躊躇ってしまいそうだ。

 

「文官は退室せよ。此度の会議は内密とする。警備はアストルがこの場にいれば十分であろう」

「ハッ! 失礼いたします」

 

 控えていた文官が退室し、部屋には沈黙が訪れた。最初に口を開いたのは、小太りの男、最高司祭のヴェネリオだった。

 

「しかし陛下、アストルはともかく、どこの馬の骨とも分からぬ平民の娘までここに招き入れるのはやりすぎだったのではありませぬか?」

「ヴェネリオ貴様、王の采配に否を唱えるのか?」

 

 アストルが諫めると、最高司祭ヴェネリオは大袈裟に手を広げた。

 

「まさか、まさか! しかし、私は懸念していたのだよ。頭まで筋肉の籠った騎士団長が、王を害そうとしているのではないか、とな」

「最高司祭様は気が利くな。頭まで贅肉が詰まっているだけある」

 

 無表情のアストルの言葉に、ヴェネリオは顔を真っ赤にして立ち上がった。

 

「貴様──」

「よせ、ヴェネリオ」

 

 王は、ただ静かに手を上げただけだった。けれどその体から発せられる不機嫌そうな空気は、ヴェネリオを一瞬で黙らせた。

 気まずい雰囲気などまるで気にしていないように、王は重々しく言葉を紡いだ。

 

「それで、勇者パーティーからの提言を聞こうか」

 

 立派な口髭を蓄えた王の顔が、俺を見た。流石に、少しばかり緊張する。首を撥ねたことすらある相手だが、こうして真正面から話す機会は少なかった。

 

「はい。私どもで進めております、魔王討伐作戦について、王城から至急、最大限の支援をいただきたく存じます」

 

 王が、少しだけ目を見開いた。

 

 

「ぶ、無礼な!」

 

 またしても立ち上がったのは、最高司祭のヴェネリオだった。

 

「勇者パーティーは既に王から十分な援助を受けているではないか! まだ欲しいとぬかすのか、この乞食めが!」

 

 興奮した彼は、唾の飛びそうな勢いで喚いていてた。

 俺は努めて表情を殺して、彼に応える。

 

「貧しき者たちを救う教会のトップとは思えぬ物言いですね」

「なにを⁉」

 

 お前の言う乞食にも手を差し伸べ、助けているのは教会の聖職者たちだ。貧しい者にも等しく治癒魔法をかける聖職者たちは、正しく女神の教えを全うしようとしている。その努力を踏みにじるようなことを言うな。

 言葉は心中にだけとどめ、俺はあくまで王と会話をする。

 

「今までの支援には大変感謝しております。けれど、魔王を滅する絶好の機会に、王には後を考えぬ最大の支援をお願いしたく存じます」

「絶好の機会、とな」

 

 興味深い、と言いたげに王は先を促した。俺は大きく息を吸う。ここが正念場だ。息を整え、真面目な表情を作った俺は、できるだけ厳かに言い放った。

 

「魔王は、マルス渓谷の花が咲くころに彼の地を訪れるでしょう」

 

 予言めいた言葉に、王は静かに俺を見つめ続けていた。

 

「根拠は?」

「女神様の神託です。彼の方が勇者殿の夢枕に立ったそうです」

「では、なぜ勇者殿が直接来ない。どうして貴様が来た」

 

 王は、俺を疑っているようだった。けれど、その反応も予想の範囲内だ。

 

「王を前に堂々と提言できる度胸のある者など、そうおりません。平民出の勇者殿には荷が重いでしょう」

「そういうお前はやけに慣れた様子だな」

 

 王の言葉に、俺はただほほ笑むだけで応えた。

 

「それに、この会議に来る以上礼儀を弁えた人間が必要でしたからね」

 

 俺は一瞬だけ最高司祭の方を見る。彼に無礼を理由に面会の終了を告げられても困る。

 ……先ほど挑発してしまったのは、百年の恨みが少し漏れてしまっただけだ。王が俺の挑発をスルーしたということは、この場は許されたのだろう。

 

「では、具体的に何を望む」

「王の権限による、騎士団の総動員。できれば、貴族お抱えの精鋭騎士も可能な限り招集していただきたい。それから、中央教会からも腕利きの治癒術師を動員していただきたい」

 

 俺は、王の顔ではなく最高司祭の顔を伺った。案の定、彼の顔は再び憤怒に染まっていた。

 

「なぜ誇り高き中央教会が貴様の指図を受けなければならぬ! 私は認めぬぞ!」

 

 予想していた反応だ。最高司祭は単にプライドから断っているのではない。中央教会の利益を考えて、俺の提案を突っぱねているのだ。

 

 基本的に、教会の収益は大きく分けて二つだ。

 一つ、信徒たちから日常的に受け取っている献金。こちらは月に納める額はだいたい決まっていて、大きく変化することはない。

 もう一つが、治癒魔法を行使した際に受け取る礼金。怪我人からのお礼だ。

 支払いは義務ではないが、特に騎士のような裕福な者は、治癒に対して大きな対価を支払うことが多い。

 こちらの礼金の額は、情勢によって大きく変わる。端的に言えば、人類が魔王軍に苦戦し、負傷者が増えるほどに教会の収益は増えるのだ。だから、教会の理想は、騎士団に負けない程度に苦戦してほしいのだ。

 

 だから俺は、まず強欲な最高司祭の慢心を正さなければならない。

 

「それでは、どうして今、支援をいただき、この最大の好機に魔王を倒さなければならないかを説明いたしましょう」

 

 俺は、持ってきていた書類をテーブルの上に広げた。

 

「こちら、中央図書館にも纒られております、過去の魔王軍との戦いによる死者数の記録でございます」

 

 記録が必ずしも正確とは言えないが、概ねの規模感を知ることはできる。第一回、第二回、第三回。死者数は第一回からだんだんと減っている。多少の上下はあるが、死者数は緩やかに減っていた。これはずっと魔王軍相手に勝利を収めているがゆえに経験を蓄積した結果だ。そして同時に、最高司祭の慢心の原因でもある。

 

「第九回魔王討滅作戦の犠牲者数は約1万。そして、今回の戦争の犠牲者は、こちらです」

「五万⁉ 馬鹿な! 戦況は終始優勢ではなかったのか⁉」

 

 最高司祭の言葉に答えたのは、アストルだった。

 

「戦いには勝利していますが、敵の数が過去とは比べ物になりません。どれだけ優勢でも、犠牲は出るものです」

「それにしても、五倍とな……間違いないのか、アストル」

「はい。残念ながら」

 

 王は腕を組み、少し考えるような仕草を見せた。しばらくの沈黙の後、彼は重々しく口を開いた。

 

「私は了承しよう。……だが、教会の方はヴェネリオと交渉するように」

 

 絶対王政を敷いた王国と言えども、教会の権力は絶大で、王の指図一つでは動かせない。やはり俺は、強欲な最高司祭様を説得しなければならないようだ。

 

「当然、認めぬぞ! 勝てているのだから、教会は今までと変わらぬ仕事をするだけだ! 我らの行動を、貴様のような卑しき人間が指図できるとは思わぬことだ!」

 

 鼻息荒く話すヴェネリオは取り付く島もない。俺は小さくため息を吐くと、仕方なく、切り札を取り出した。

 懐に手を伸ばした俺の手元から出現したのは、大きな大きなかぎ爪だった。それを豪奢なテーブルの上に放り出す。衝突と共に、硬い音が鳴った。

 

「ひっ! ……何をする! 危ないではないか」

 

 情けない声をあげたヴェネリオに、俺は努めて冷静に話を始めた。

 

「これは、魔王軍の中で空中戦を担当する魔物、ハーピーの死骸から剝ぎ取ったものです」

 

 俺はかぎ爪を持ち上げると、ヴェネリオに良く見えるように彼の目に近づけた。鋭い爪先が、彼の贅肉だらけの顔に接近する。俺が少し手を動かせば、彼の眼球はあっさりと潰れるだろう。

 

「はっ⁉ やめろ! 近づくな!」

「いいえ、よく見てください、最高司祭様。これが、騎士たちを攫い、殺した爪です。──明らかに、過去の記録にあるものよりも鋭く、大きいです」

 

 俺は説明したが、ヴェネリオはそんなこと少しも聞いてはいないようだった。

 

「ひ……おいアストル! 警備は貴様の仕事だろ! 早くこの小娘を摘まみだせ!」

「彼女は必死に説明しているではありませんか。静かに、聞いてやってください」

「くそ……陛下! 危険人物です! 今すぐ近衛騎士の招集を!」

「ヴェネリオ、彼女の話が良く聞こえん。もう少し静かにしろ」

「そんな……」

 

 この場に一人も味方がいないことを悟ったヴェネリオは、絶望したように天井を見上げた。好機と見た俺は、すかさず畳みかける。

 

「最高司祭様。何も私とて好きで熱弁を振るっているわけではないのです。ただ、一度だけ首を縦に振ってほしいだけのこと。それだけでこの会議は終わるのです。この時間は終わるのです」

「この貧民が……」

 

 何か言いかけたヴェネリオの顔に、一層かぎ爪を近づける。眼球の直前で止まる爪先は、照明を反射してキラリと輝いた。贅肉だらけの顔が、恐怖に染まる。

 

「──もう一度聞きます。最高司祭様。此度の魔王討滅作戦に、全面協力してくださいますね?」

 

 視線をあちらこちらに巡らせたヴェネリオは、やがて力なく頷いた。

 その言葉を聞き遂げた俺は、思わず満面の笑みを浮かべてしまっていた。

 

「──では、聖剣のレプリカ、出してくださいますね」

「なっ⁉ 貴様なぜそれを──」

「最高司祭様」

 

 再び俺は、ハーピーの爪をぐい、と近づける。

 

「貴方は全面協力をすると約束くださいました。誇り高き貴種たる方に、二言はありませんね?」

 

 もはややけっぱちのような表情で、彼はゆっくりと頷いた。

 



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88 勇者パーティー最終作戦会議

「上手くいったな」

「よくそんなこと言えるな。ほとんど脅迫みたいなものだっただろうが」

 

 アストルはこめかみに指をあて、深々と溜息をついた。

 

「あれでもヴェネリオは権力者だ。魔王討伐後、勇者パーティーという後ろ盾のなくなったお前に復讐しに来るかもしれんぞ。そこまで考えていたのか?」

「魔王討伐後、か……」

 

 アストルの何気ない言葉に、俺はなんだか感慨深くなった。

 

「その反応、まさか何も考えていなかったのか……?」

「あ、いやいや違う違う! 考えてた! 考えてたから!」

 

 慌てる俺に、彼はまた呆れたような顔を見せた。

 

「なんならそのまま騎士団に入るか? 貴様なら実力的にも十分だ。私の部下になるなら、守ってやることもできる」

「お前……意外と優しいな」

「意外とは失礼な」

 

 正直、実利のないことには首をつっこまないやつだと思っていた。

 

「正直、俺自身も驚いている。同じ目的に向けて準備する中で、仲間意識などというものが芽生えたのかもしれん。……言っていて俺自身鳥肌が立ちそうだがな」

 

 似合わぬ言葉を吐いたアストルは少し身じろぎした。

 

「……フッ……似合わな」

 

 耐えきれずに俺が笑いをこぼすと、アストルは不機嫌そうに眉を顰めた。

 その様子がおかしくて、俺はまた笑ってしまうのだった。

 

 

 

 

 斯くて、運命は動き出す。俺が欲してやまなかった王国からの支援。それは、俺がアストルを信頼することがきっかけで引き出すことができた。

 さあ、百年の繰り返しの格子からの脱却は、すぐそこだ。

 

 会談の翌日、俺は勇者パーティーのみんなを宿の部屋に招いた。ドアの鍵をかけてもらうと、俺は声の漏れないように、オリヴィアに結界を張ってもらった。

 いつにもない用意周到さに、みんなが少し緊張感を高めた。

 

「それでは、勇者パーティーの作戦会議をはじめる。当初の計画通り、騎士団長を仲間に付けることができた。さらに、王城、中央教会の王国のトップ三権の協力も取り付けた。ここまでは俺の想定通り。いや、むしろ出来過ぎなくらいだ」

「よくそんな偉い人と対談できるよね。君は本当に僕だったのかい?」

「こんなの、年数重ねれば誰でもできるさ。さて……」

 

 俺テーブルの上に地図を広げた。王国の地理を詳細に記したそれは、アストルに持ってきてもらった軍事作戦にも用いられる貴重品だ。

 

「まずは目標地点、マルス渓谷の地形について解説しよう」

 

 俺は王国の西部を書き記した地図の上の方を指さした。

 

「渓谷は二つの山に囲まれてできたものだ。谷間はそんなに深くはない。底には川が流れていて、これも足首程度の深さしかない浅いものだ。足場はそこまで不自由ではないだろう」

 

 みんなの顔を確認しながら、俺は説明を続けた。

 

「一方で周囲の山に生い茂る森は深い。こちらは歩きづらく、重武装の騎士が歩くのには少々苦労するだろう。馬で乗り入れるのも厳しい。……逆に言えば、逃げ出しにくい地形といえるだろう」

「……なるほど、奇襲するにはうってつけってわけだね」

「そうだな。まあただ、あの魔王相手に背後から剣を振るえばそれで終わり、ってわけにはいかない」

「……権限を解放した聖剣で斬れないものはないんじゃないの?」

「本来ならそうだ。ただし、相手もまた神の力を持つものだと話が変わってくる」

 

 女神の力の籠った聖剣を防ぐものなど、大神の見捨てたこの世界には存在しない。ただしそれは、叛逆神という例外がなければだ。

 

「魔王には、勇者と同種の祝福がかけられている。……呪いと言ってもいいがな。身体能力の向上、魔力の上昇。それから、魔剣を扱う権限の付与だな」

「魔剣……御伽噺に語られる、地上最硬の剣だよね」

「そうだ。あらゆるものを切り裂く聖剣と対をなすような性能をした、魔王の切り札だ。相手も聖剣を持っていると考えていい」

「……なるほど、神の加護を受けているのは向こうも同じなんだね」

「ああ」

 

 オスカーは、難しい顔をして黙ってしまった。その様子を、カレンが心配そうに見つめる。

 

「でも、魔王は孤独だ。マルス渓谷の花の咲く頃に、あいつは一人であの谷に来る。……理由は、未だに知らないけどな」

 

 何度かあの谷で襲撃をかけたこともあるが、結局のところ魔王が何をしに来ていたのか、全く分からなかった。

 

「お前には、仲間がいる。──それに、聖剣はもう一本ある」

「え⁉」

 

 オスカーは素っ頓狂な声をあげると、こちらを凄い目で見つめてきた。

 

「聖剣がもう一本⁉ そんな話、僕一度も聞いたことないよ!」

「そうだろうな。教会が秘密裏に進めてきたことだ」

 

 神のつくりたもうた聖剣を模倣するなんておこがましい。普通の人間ならそう思うだろう。

 けれど、中央教会だけは違った。もっとも信仰心の厚い信徒であるはずの彼らは、最も徳の高い信徒である自分たちこそが女神の御業に近づくに相応しい、と思いあがった。

 その結果、代々の勇者の聖剣を観察し、分析し、模倣を始めた。

 作成を開始した三代目勇者の頃から700年。聖剣のレプリカは、ついに完成した。けれど、教会には聖剣を扱える人間がいなかった。

 

「……聖剣を扱える人がいないのに、どうやって聖剣のレプリカを作ったの?」

「レプリカは本物ほど拒否反応が強くないからな。常人でも持ち運ぶくらいはできる」

 

 レプリカは、完成と同時に聖剣としての役割を全うしようとした。勇者以外の者の手に触れることを拒むようになったのだ。だからこそ、中央教会は今まで自分たちの私利私欲のためにレプリカを使用することができなかった。

 不完全な偽物であるそれは、本物ほどの力を持てなかった。──それはつまり、不完全な勇者の残滓を持つ俺にこそ相応しいだろう。

 

「で、その力を振るうってなるとやっぱり拒否反応ができるらしい。だから、そんな不要なものなら俺が代わりに使ってやろうってわけ」

「メメには使えるの?」

「直感にはなるが、可能だ。今の俺に残る勇者の魂の残滓でも、レプリカは誤認してくれるだろうよ。だから、これで聖剣の担い手は二人だ。どうだ? 魔王一人くらいなら倒せそうな気がしてきたか、オスカー?」

「そう、だね。確かに、メメが魔王にトドメを刺せるのなら、戦術の幅が広がりそうだ」

 

 オスカーが安心したように呟く。どれだけ励まされようと、やはり不安なものは不安だったらしい。

 

「ただ、出力はオリジナル以下だろうな。試してみなければ分からんが、魔王にトドメを刺せる権限の解放はよくて一度きりだろう。それに、耐久性には不安が残る。土壇場まで隠しておいて、確実に魔王を仕留められる時だけ使うことになるだろうな」

「試してない? メメは聖剣のレプリカを使ったことはないの?」

「……ああ。手に入れられたのは、これが初めてだ」

「そうだったんだ」

 

 オスカーは意外そうに目を見開いた。

 

「あれは教会の重要秘密だからな。露呈すれば、下手したら信徒の信用を失いかねない」

 

 神の御業の模倣とは、中央教会の権威を地に堕としかねないほどのスキャンダルだ。

 

「レプリカを手に入れようとしたとき、俺は王国と敵対するはめになった。それ以来、教会をむやみに刺激するのはやめたんだ」

 

 中央教会が指示すれば、人類は勇者ですらも敵として討つ。そのことを、俺は身をもって思い知った。

 

「じゃあ、今回はどうして無茶をしてレプリカを手に入れようとしたの?」

「まあ色々あるが……一番大きかったのは、アストルと協力関係を築けたことだな」

「あの騎士団長様と?」

「ああ。前提として、教会と騎士団は権力争いをする関係にある」

 

 会談中にも、アストルとヴェネリオは決して良好な仲には見えなかった。

 

「どうして? どっちも王国のために働く組織でしょ?」

 

 カレンが純粋な目で聞いてくる。真っ直ぐな態度に、俺は少し次の言葉を躊躇った。

 

「……だからこそ、だ。どちらも王に近い位置にあり、多くの権力を持っている。だからこそ、争ってるんだ。どちらが王の信頼を得られるのか、どちらが多くの金を持つのか、どちらが多くの人員を持つのか。まあ、馬鹿が見栄張り合ってる、とも言えるな」

「アストルさんはそういうことしなそうだったけど」

 

 オスカーの見立ては正しい。けれど、話はそう単純じゃない。

 

「あいつ自身はくだらないと思ってるんだろうよ。でも、騎士団全体では面子を気にする奴も多い。元々、貴族出身のやつが多くいる組織だからな」

 

 アストルは騎士団長という立場だが、騎士団全てを意のままに動かせるわけではない。アストルよりも家柄の高い者もいるし、副団長もそれなりの権力を持っている。

 

「まあ、そんなこんなで騎士団と中央教会は仲が悪い。王の前ではどちらが彼の信任を得るのかいつも競っている。だから、騎士団長が提案したことに王が乗り気だった場合、最高司祭は否定がしづらい。規模も名声も同クラスの組織だからな。無碍にもできない」

 

 あの場でアストルが俺の味方をしてくれていなかったら、最高司祭は俺の要求に一つも答えてくれなかっただろう。

 

「なるほど、アストル様を味方につけることができたから、ヴェネリオ様に要求を通すことができたのですね。しかしながら、それなら過去のメメさんにもできたのではないのですか? アストル様の公明正大な人間性は、貴族社会でも有名です。魔王討伐という大義のためなら、協力できたのではありませんか?」

「今考えると、そうなんだろうな。けれど、思い返せば、今までの俺は人間を信じられなくなっていたんだろう」

 

 以前の、あのオリヴィアに諭される以前の俺は、人が信じられなくなっていた。失敗し続けた俺には、大人は全て敵に見えていた。あのアストルさえも。

 

「だから、アストルと協力することはあっても、信じて頼るなんてことはなかった。だから、今回の成功は、俺の目を覚ましてくれたあのオリヴィアのおかげなんだ」

 

 俺がしみじみと言うと、オリヴィアは何かを考えているようだった。けれど発言する気配はなかったので、俺は話を続ける。

 

「──今までで一番上手くいっている。俺自身は今までよりも弱くなっているはずなのに、そんな予感がするんだ。……犠牲は、あったけどな。だからこそ、俺はこの作戦に全てをなげうつつもりだ」

 

 俺の言葉を、みんなは真剣に聞いてくれていた。少し語りすぎた事に気恥ずかしさを覚えてた俺は、話を戻す。

 

「さて、マルス渓谷の地形はさっき言った通りだ。奇襲にはうってつけで、大部隊が入りづらい。だから、俺たちの作戦と同じタイミングで騎士団にはヤカテ平原で魔王軍相手に思い切り戦闘をしてもらう」

 

 これこそが、今までの俺とは違うところだ。騎士団の協力を取り付けられたので、魔物の援軍を気にせずに余裕をもって戦える。

 

「騎士団の人たちにこっちに来てもらわなくていいの? アストルさんとか凄く心強そうだけど」

「あまり大人数だと魔王に気取られる恐れがある。連携の取れる少人数の方がいい」

 

 そこは俺も悩んだところだが、連携のことを考えると、やはり勇者パーティーで事に当たった方がいいだろう。

 

「それじゃあ、もっと具体的な話をする。まずは、魔王の取り得る行動について」

 

 俺たちの会議は、それから長く続いた。

 




別にTSものの小説を投稿しています
良かったら読んでみてください

https://syosetu.org/novel/291324/


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89 バッドエンドの記憶 魔王との戦い

 忘れもしない、恋人だったオリヴィアを看取った後のことだ。未来において魂だけになった尚俺を助けてくれた、優しい彼女が、俺を庇って倒れた時。

 

 死にゆくオリヴィアは、血の気の引いた唇で、俺に言葉を遺した。

 

『……私はもうここまでのようですが、魔王はもう、すぐそこでしょう? ……終わらせてきてくださいませ、私の勇者様』

 

 その言葉を胸に大事にしまった俺は、すぐそばで待ち構えていた魔王に挑んだ。

 これは、大事な一人守れなかった俺が宿敵に挑んで、無様に負けるまでの過程、それを思い出す夢だ。

 

 

 

 

「終わらせる……終わらせる……この戦いを、終わらせる……」

 

 それだけを自分に言い聞かせて、俺は歩き続けていた。最愛の人を失った今の俺にとって、自分の足を支えるものなどそれしかなかった。大切な人を守れなかった情けない自分に、ただ一つ残ったもの。

 満たされていたはずの心にはぽっかりと大穴が開いたようで、歩くことすらひどく億劫だった。

 オリヴィアが何も言葉を遺さなかったなら、きっと俺はあの場に座り込んだままだっただろう。

 でも、彼女は俺に告げた。終わらせて欲しいというただ一つの願いのために、俺は歩き続ける。

 思い返せば、それは祝福のようであり、呪いのようでもあった。

 

 

「グオオオオオオ!」

 

 思考する俺の目の前に、魔物が現れた。屈強な巨人族。魔王軍の中でも主力級の強力な魔物だ。俺の進む道を塞ぐように立ちふさがるそれに、俺はひどく苛立った。

 

「どけえええええええ!」

 

 怒りを力に変えて、俺は聖剣を高々と構えて突撃した。

 

「オオオオオ!」

 

 巨人族は棍棒を構え、俺を迎えんとする。明らかに体躯で負ける相手。けれど俺は、真っ正面から突撃した。

 

「はあああああああああ!」

 

 棍棒と聖剣が正面から衝突する。凄まじい衝撃と共に、聖剣の倍はあろうかという大きさの棍棒が、真ん中のあたりから真っ二つになった。

 

「グオ!?」

「死ねっ!」

 

 自慢の棍棒が打ち砕かれ動揺する巨人族に、俺は聖剣を突き刺した。

 

「オオォ……」

 

 巨人族の体は、ぐらつくと、そのまま地面に倒れ込み轟音を立てた。強敵を倒せたにもかかわらず、俺の心は晴れないままだった。

 違う。こいつじゃない。魔王を、魔王を殺して終わらせなければ。

 再び、歩き出す。執念に燃える俺には、もう先ほど倒した巨人族のことなど頭になかった。

 

 

「これはこれは勇者様。ご機嫌うるわしゅう」

「……お前が、魔王か」

 

 俺は最初、それが目の前にいることに気づかなかった。強大な魔物ほど、図体がデカくなる。そのセオリーを裏切るように、魔王の見た目は人間と変わらないように見えた。

 

「いかにも。私こそが、貴様と同じように神の代行としてこの世界での役割を与えられた十代目の魔王だ。貴様が死ぬまでの短い間だが、よろしく頼むよ」

「余裕だな。俺は、お前を殺しに来たんだぞ」

 

 余裕綽々という態度は、今の俺にはひどく不愉快だった。コイツの仕掛けた戦争のせいでオリヴィアが死んだというのに、なにをのうのうと生きているのか。

 威圧を籠めて言い返すが、魔王はあくまで悠然とした態度を崩さなかった。それどころか、こちらを挑発してくる。

 

「ああ。なにせ恋人一人守れない腑抜け相手だからな。気も抜けるというものだ。──なんだ、勇者とはこの程度か、とな」

「ッ、貴様あああああああああ!」

 

 ちょうど、空洞だった心にハンマーでも打ち付けられたようだった。俺の犯してしまった過ちを指摘された俺は、考える間もなく魔王へと突撃していた。こんなにも心が怒りで満たされたのは、これが初めてだった。

 

「ッ!」

 

 力いっぱい聖剣を振り下ろすと、伝説に謳われる魔剣が迎え撃ってきた。固い。岩壁にでも剣を叩きつけたように手が痺れる。

 素早く下がり、俺は少し冷静さを取り戻した。

 こいつは今まで戦ってどの敵よりも強い。様々な手を試さなければ。

 

「『光よ!』」

 

 飛び出した光弾が、魔王の目の前で爆発した。事前に目を瞑っていた俺にも感じられるほどの眩い光。魔王の視界を奪ったことを確信した俺は、再び聖剣を手に斬りかかる。

 

「『壊れろ』」

 

 不気味で、聞きなれない詠唱だった。魔王が短く呟いたかと思うと、途端に何かが爆発したような音がした。一瞬、変化がないように見えて、俺は魔王が狙いを外したと思った。

 しかし、走る俺の左腕に、信じられない痛みがあることに遅れて気づく。

 

「アッ……あああああああああ!」

 

 左腕が、肘のあたりから捻じれていた。あり得ない方向に曲がった肘から皮膚が割け、血が流れ出す。よく見れば、赤の中に骨の白が垣間見えていた。自分の体とは思えない惨状に、思わず目を逸らす。

 

「おお、勤勉な勇者様はわざわざ学院で魔法を習得したと聞いたが、今のも防げないのか。たかが知れているな」

「──なぜ、それを」

「よっぽど、教える者の腕が悪かったのだろうなあ」

 

 にやにやと、魔王は問いかけてくる。まるで、俺に魔術を教えた師が誰なのか分かっているように。

 

「ッ! オリヴィアを、馬鹿にするなあああ!」

 

 片手で剣を振り下ろすが、もはや打ち合うことすら叶わなかった。魔王は軽く身を捻ると剣を躱し、俺の腹を強烈に蹴り上げた。

 

「ごほっ!」

 

 体の中心に大穴でも空いたような衝撃だった。嘘みたいな量の血反吐が出て、地面を汚す。

 痛みに力が入らなかった。俺はなすすべもなく、地面に倒れ込んだ。

 

「ハッ……ハッハッハッ! その様子、情けない貴様では、しばらく立ち上がることすらできるまい」

「ま、だ……」

 

 血の味でいっぱいの口からは、掠れた声しかでなかった。

 

「ああ、そう無理をするな。せっかくの機会だ。私と話をしようじゃないか」

「カッ……話……?」

 

 お前と話すことなんてない。そんな言葉も出ないほど、今の俺は消耗していた。

 

「そうだ。十代目の勇者。人間を越えた力を持つお前ならば、常人とは違う視点を持てるのではないか? たとえば、本当に人間に守る価値はあるのか、という疑問とかな」

「なぜそんなことを……」

 

 どうして、今から人間を滅ぼそうとしている奴からそんな言葉が出たのか、俺には分からなかった。

 

「私はな、疑問だったのだよ。貴様は使命と共に力を得た。人間の手には余るような、凄まじい力だ。只人にはお前の行動を止められない。制止できない。それなのに、お前は人間を守らんと努力している。なぜ貴様は、醜い人間を守るのだ?」

 

 魔王は、人間を醜いとハッキリ言った。その言葉の根底には、揺るぎない確信があった。

 でも、俺はそうは思わない。

 

「醜くなんてない……! 俺にとって、大切な人たちだからだ……」

 

 優しい人がいた。優しくない人もいた。尊敬できる人がいた。尊敬できない人もいた。そして、誰にでも人間らしく生きる権利があった。俺はそう信じている。

 

「では! お前の大切な人が死んだあとなら? 尊敬できる人間がいなくなった後なら?  現にお前は今、大切な人とやらを亡くしたばかりではないか」

「ッ!」

 

 その一言に、俺の心は大きく揺れた。そうだ。俺に大事なことを教えてくれたオリヴィアは、もういない。

 それでも、まだ守るのか? 俺を馬鹿にしていた伝統派の奴らを? 平民の俺を見下し続けていた騎士たちを? 救われるばかりで何もしてくれない平民を? 

 少なくない年数を繰り返してきた俺は、人間の醜い面をいっぱい見てきた。

 それでも。

 

「……確かに、人間には醜い面もある。人を蹴落とすことも、騙すことも、足を引っ張ることもある。それでも! 俺は人間の善性を信じる! 醜い奴らのために、無実の人を守ることをやめることはない!」

 

 人間には希望がある。そのことを、他ならぬオリヴィアが教えてくれたのだ。戦いの日々を繰り返し心が擦り減っていた俺に、本当に素晴らしい人間とはどういうものなのか教えてくれた。──だから、彼女の最期の願いは絶対に叶える! 

 

「あああああああ!」

 

 動かないはずの体を動かすと、痛みで意識が飛びかけた。しかし、聖剣だけは手放さないように右手をきつく握りしめていた。

 がむしゃらに、剣を振る。彼女から受け取った想いだけを糧に。最期の願いを叶えるために。

 でも、現実は俺に冷たい事実を突きつけた。

 

「がっ……」

 

 魔王は俺の必死に振った剣を軽く避けると、魔剣で斬りつけてきた。避ける余裕すらなく、俺の右腕は切断された。

 

「う、あああああああ!」

 

 腕を失う感覚は、何度味わっても最悪だった。絶望的なまでの痛みと、もう戦うことができないという絶望感に苛まれる。今の俺の負傷では、もはや剣を握ることすら叶わなかった。

 

 今度こそ、俺は痛みに立ち上がることができなくなった。右腕を失った俺はバランスを崩しながら倒れ込んだ。

 自分の体を支えることすらできず、地面に這いつくばる俺に、魔王は嬉しそうに問いかけてきた。

 

「それで、その役にも立たない理想論は世界を変えることはできたのか? 貴様は今、地面を舐めているようだが」

「ァ……」

 

 背中に押し付けられる魔剣の感覚に、俺は呻くことしかできなかった。もう、自分の考えを口に出す気力すら湧かなかった。

 倒せなかった。終わらせることができなかった。オリヴィアの最期の願いを叶えることができなかった。その事実が胸にずっしりとのしかかり、自分の不甲斐なさに死んでしまいたい気分になる。

 

 ごめん、ごめん、ごめん、ごめん。

 ごめんオリヴィア。恋人の最期の願いすら叶えてあげられない、勇者失格の人間でごめん。

 心の中で、意味もなく謝罪を繰り返す。もう、彼女はいないのに。

 深い喪失感の前には、もはや涙すらでなかった。ただ絶望的な事実だけが突きつけられて、自分が今どうして生きているのかすら分からなくなる。

 

 物言わなくなった俺に、魔王が上から語り掛けてくる。静かに、重々しく。

 

「本当に人間が善性に溢れ、正しく、素晴らしい存在だったのなら、貴様は人類を滅ぼさんとしている私を打倒しているはずだ。──だからな、人類。人生は醜くて、救いなんてない。そのことを証明するために、今から私が人類を滅ぼす。勇者という名で呼ばれる貴様は、一足早く地獄で待っているがいい」

 

 それっきり、俺の耳にはなんの音も聞こえなくなった。けれど、魔王の最後の言葉だけはいつまでも耳から離れなかった。

 




ここから最終話まで毎日更新です
是非、最後までお付き合いを


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90 前夜、月下にて

 嫌な夢を見た日というのは、いつも憂鬱な気分になる。今日は特にひどかった。夜になってもずっと夢の景色が忘れられず、胃の中に重たい石でも入っているようだった。

 

 

 夜の王都は静かだ。いつものうるさいほどの喧騒は鳴りを潜め、虫の鳴き声すら耳に入ってくるようになる。

 俺は、王都の路地でひっそりとアストルと会っていた。

 

「──それでは、結果は三日後だな。騎士団の方でも準備を進めている。配下にも、この一戦で魔王軍を滅ぼすつもりで準備するように言っている。陽動には十分過ぎるくらいだろう」

「ああ、助かる。それから、当日は悪天候の可能性が高い。そのつもりで準備した方がいい。火薬を使う武器なんかは使い物にならないぞ」

「雨季でもないのにか?」

「……勇者様の神託だよ」

「……便利なものだな、神託は」

 

 アストルは少し怪訝な顔を見せたが、最終的には俺を信用することにしたようだ。これまでに積み上げた信頼が役に立っただろうか。

 そう、当日は雨が降る。季節外れの豪雨は、魔王の五感を制限してくれるだろう。奇襲にはうってつけだ。

 

「それで、俺は本当に魔王討伐に参加しなくても良かったのか? 自分で言うのもなんだが、俺は強いぞ」

「知っている」

 

 敵として剣を交えた時に、それは嫌と言うほど実感した。

 

「でも、お前がいるかいないかで騎士団の連携の練度は変わるだろう」

「それは……まあ、認める」

 

 コイツは一人でも優秀だが、何よりも指揮官として優秀だ。未だに倒していない強力な魔物も多い。魔王軍との全面激突にこいつがいないのはまずいだろう。

 それに、俺はともかく勇者パーティーのみんなはこいつと面識が薄い。連携も難しいだろう。

 話すべきことも終わったので、俺は帰る姿勢を見せる。

 

「夜も遅い、気をつけて帰れよ」

「ハッ、誰に言ってんだ」

 

 俺は思わずおかしくて笑ってしまった。そんな普通の少女にかけるような言葉、他人に言われるのは初めてな気がしたからだ。

 けれど、アストルはあくまで真面目な顔のままだった。

 

「人類の悲願達成を目の前にして怪我でもされたらたまらんからな。じゃあな、武運を」

「ああ」 

 

 ごつんと拳をぶつけ合うと、じん、という痛みが手の甲に走る。相変わらず力が強い。俺とアストルは背中を向け合うと、お互いに帰る場所へと帰っていった。

 

「夜に気を付けろって……本当に誰に言ってんだろうな」

 

 ぶつぶつと呟きながら、夜道を歩く。首元を撫でる夜風が嫌に冷たい気がした。

 

「悲願達成目の前、か」

 

 口にすると、その言葉はいっそう首元を寒くするような気がした。何度も目指し、叶えられなかったもの。それが目の前に横たわっていて、掴み取らなければならないと考えると、寒気がする。

 先の見えない夜闇に目をつぶって飛び込むようなその感情は、おそらく不安と呼ばれるものだったのだろう。

 

 暗い夜道を歩いていると、視界に光が映った。目指していた俺たちの宿の明かりだ。けれど、俺の心は晴れないままだった。胸の奥に、何か重たいものが沈殿している気がする。

 重い足取りのまま、入口へと向かう。けれど、そんな俺を呼び止める影があった。

 

「メメ、おかえり」

 

 オスカーは、静かな声で俺に話しかけてきた。その手には、むき出しの聖剣。素振りでもしていたのだろうか、息が少しばかり上がっている。

 

「……明日のために寝た方がいいんじゃないか、勇者様」

「君こそ、ひどい表情だ。君に不安を打ち明ける前の僕みたいだよ」

 

 ……それは、ひどいな。

 

「やっぱり、百年以上追い求めたものが目の前にあると、緊張する?」

 

 オスカーのこちらを窺い、いたわるような表情は、今は不思議と不快ではなかった。

 

「緊張、か。……不安、ではあるな。もう俺にはやり直す資格もない。だから、失敗できない。今までだって失敗できないと思ってやってきたけど、やっぱり後がないっていうのは不安だな」

 

 素直な言葉が、するすると出てくる。ちょっと前までなら、こんなことできなかっただろう。

 

「そっか」

 

 オスカーは少し考えるような様子を見せたと思うと、真剣な表情を作った。耳元に吹く夜風にも負けないように、彼は力強く言葉を紡いだ。

 

「メメ、君が不安になるのは無理もないことだ。だって君は、僕には想像できないほど失敗してきたんだろう。その苦しみを、不安を、僕は完全に分かってあげることはできない。それでも、僕は今だからこそ、言えることができる。──僕もいる。僕を、信じて」

 

 いつか俺がオスカーを励ましたように、彼は言葉を投げかけてきた。信じる。オスカーを、信頼する。

 いつから彼にはそんな余裕ができたのだろうか。カレンと結ばれたことが、彼に余裕を与えたのだろうか。

 そんな彼の態度に、なんだかこちらの調子も崩れる。俺はガシガシと頭を掻く。まいったな。導くつもりが、いつの間にか導かれるようになっているなんて。

 

「……なあ、オスカー」

「なに?」

 

 静かで真剣な口調に、俺は全部さらけ出すことを決意した。

 

「俺は怖いんだ。今まで何回も失敗した俺なんかがいて、この信じられないほどうまくいっている時間が、台無しになってしまうんじゃないかって」

 

 口に出してみると、改めて自分の中にどんな感情があるのか明らかになってきた。我が事ながら驚愕する。俺は、どうやら根拠のない妄想に怯えてくるようだった。

 

「意味のない妄想だって分かってるんだ。でも、俺はもう、悲願を達成できない星の下に生まれたんじゃないか。気づけばそんなことを考えているんだ。何度も思って、どうしようもない不安に襲われる」

 

 馬鹿げた妄想だ。けれど、それでも。焦燥が胸いっぱいに広がり、気持ちの悪い吐き気にえずきそうになる。ああ、なんて俺は愚かなんだろう。

 

「……君がそういうことを思うようになったこと、僕は決して否定なんてしないよ。だって君は、僕の想像のつかないほどに辛い思いををして、苦しんで、それを覚え続けているんだろうからね。──でも、君は一人じゃない」

 

 一人じゃない。オスカーは、その実感の籠った言葉を大事そうに紡いだ。

 

「僕がいる。情けなくて、経験不足の勇者だけど、それでも君のおかげで敵の前に堂々と立つことができるようになった。カレンがいる。敵と戦うには優しすぎる彼女だけど、最前線で駆け回れるまでになった。きっと、君の背中を見ていたおかげだろうね。オリヴィアがいる。いつも落ち着いている彼女は頼もしかったけど、立ち振る舞いが僕はカレンとは違いすぎて近寄りがたかった。でも、メメが仲を取り持ってくれたおかげで、今ではかけがえのない仲間だ……ジェーンさんだっていた。見たこともない魔法を駆使する彼はとっつきづらかったけど、何よりもメメを信じていた。だから僕たちは、彼を信じることができた」

 

 そこまで言ったオスカーは、俺の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。俺によく似た黒々とした瞳に貫かれる。

 

「みんながいるのは、君のおかげだ」

 

 彼の言葉は、確信に満ちていた。

 

「僕だって、カレンだって、オリヴィアだって、君がいたからここまで来れた。ジェーンがついてきてくれていたのは君のおかげだ。今の勇者パーティーがあるのは、間違いなく君のおかげだ。他ならぬ僕が断言しよう。ここまで来れたのは、君がいたからだ。だから、君が君を否定することなんてない」

 

 断言する彼を、俺は見上げる。眩しすぎて目を逸らしてしまいそうな彼を、俺は必死に見上げる。

 彼の言葉に、俺の心にはたくさんの感情が渦巻いていた。

 ああ、他ならぬお前が俺を肯定してくれるのならば、俺はこの胸中に巣食う不安にも、立ち向かえる気がする。

 

「ありがとう」

 

 様々な感情が渦巻く胸中。けれど俺の口から出たのは、そんな単純な言葉だけだった。けれど、その五文字には俺の感情が全部籠っていた。

 

「うん」

 

 オスカーは、全部分かっている、と言いたげに静かに頷いた。それだけで、似た者同士の俺たちは通じ合えた。

 

「じゃあ、僕は戻るから」

 

 オスカーは、宿の入り口へと向かう。俺はその背中を追うことはせず、ただ静かにその場に佇んでいた。なんだか、無性に月が見たくなったからだ。

 

「温かくなってきたとはいえ、夜は冷えるよ。月見もほどほどにね」

 

 オスカーの気遣いの言葉に、俺は何も言わずにただ夜空を眺め続けていた。

 



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91 雨天決行

 天上から巨大なバケツをひっくり返したようだった。雨粒が、視界を白に染めるほどに細かく打ち付けている。五感の内、視覚、聴覚、嗅覚を制限するほどの、雨。この環境の中では、どれだけ優れた感覚を持つ者でも、背後から迫りくる影に気付くことは難しいだろう。

 

 ここマルス渓谷においても、悪天候は例外ではない。

 

「静かにだぞ……静かに……静かに……」

 

 木々の間を歩くたびに、緊張が増していくようだった。森の中を身を屈めて歩く四人の影。俺の声は、ひょっとしたら仲間たちには聞こえていないのかもしれない。けれど俺は、呟き続けていた。

 

 体が重たい。それは、ぐっしょり濡れた雨のせいでも大剣とは別に背中に背負っている聖剣のレプリカのせいでもなく、多分気持ちの問題なのだろう。

 これから向かう先に、過去最も強い敵がいる。何度も負けた、因縁の相手だ。

 

「──待て」

 

 俺が手をあげると、仲間たちはピタリと動きを止めた。大きな雨粒に白く遮られる視線でも、確認できた。渓谷の中、河原に佇む長身の女。けれど、纏うオーラは人間のそれではない。間違いない。俺たちが倒すべき相手、魔王だ。

 

 手はず通り、準備を始める。手始めに、オリヴィアの魔力が静かに高まる。魔王に気づいた様子はない。

 俺とオスカーが前へとそろりそろりと歩く。一歩一歩と近づくごとに、俺とオスカーの緊張感は高まっていくようだった。勢い良く打ち付ける雨粒すら気にならないほどに、視線の先の敵に集中する。

 やがて、オリヴィアの準備が整ったことを悟った俺は、大きく手を上げ、勢い良く振り下げた。

 

 いけっ! 最高の一撃を叩き込め! 

 

 雨中の先に微かに聞こえるオリヴィアの詠唱。やがて、極大の氷が、砲弾の如く飛び出した。

 同時に俺とオスカーは駆け出す。魔法と、聖剣を持った二人による奇襲。魔王が勢い良く振り返る。その美しい顔に、動揺はなかった。

 

「『──壊れろ』」

 

 魔王の静かな詠唱が、雨音の先に聞こえた。同時に、オリヴィアの魔法で創られた氷が破壊される。けれど、俺たちの剣先が届く。

 

「オオオオオオ!」

 

 豪雨にも負けないように雄たけびを上げ、俺は大剣を振り下ろした。

 返ってきたのは、硬い金属の感触だった。渾身の力を込めて振り下ろした大剣は、禍々しい形をした長剣、魔剣に防がれていた。

 

「オスカー!」

「ハアアアアア!」

 

 続けて、オスカーの聖剣が魔王の首元めがけて振り下ろされた。けれど、当たらない。魔王は素早く俺の剣を弾き返すと、オスカーの攻撃を身を捩って避けた。

 

「ッ! クソッ!」

 

 初撃は失敗だ。仕切り直し。俺とオスカーは一度下がる。けれど、魔王の側はそれを許さない構えだ。

 バックステップを刻む俺の目の前に黒い刀身。凄まじい勢いで迫る魔剣を見た俺は、思考するよりも早く、右に飛んだ。

 地面に叩きつけられた魔剣が、轟音を立てた。傍らで聞いているだけでも寒気がするような一撃に、肝を冷やす。

 

「オスカー、絶対に俺と呼吸を合わせろよ! 一人で戦うな!」

「メメこそ! はやらないでよ!」

 

 叫び合い、再び魔王へと肉薄する。前後から同時に剣を突き出す、挟撃。けれど、魔王の反応は早かった。

 体を捩ると同時に、俺の方へと魔剣が飛んでくる。砲台から飛び出してきたような、凄まじい勢いの突きだった。辛うじて大剣を合わせ、魔剣の軌道を変える。腕に魔剣が掠り、鋭い痛みが走った。流石の反撃。けれど、背中はがら空きだ。

 

「ハアアアア!」

 

 気合を入れたオスカーの手元で、聖剣が光り出す。権限の解放。詠唱はないので、効果は半減だが、手痛い一撃になることには間違いないだろう。完璧なタイミングでの背後からの攻撃。オスカーの今まで積み上げてきた経験の活きた、最高の一撃だった。

 

 俺はオスカーの攻撃の成功を確信していた。仕留めるところまでいかなくとも、ダメージを与えるはずだと思っていた。

 だから、俺は次の展開を全く予想していなかった。

 

 魔王の体が一瞬で翻り、長い脚が目にも止まらぬ早さで突き出される。それは、伝統的な舞踊のように洗練された動きだった。

 蹴りは踏み出しつつあるオスカーの無防備な体へと吸い込まれていって、彼の体をぼろきれの如く吹き飛ばした。明らかに普通ではない威力。一瞬で魔法で強化したのか。

 

「オスカー!」

 

 オスカーの尋常ではない吹き飛び方に、俺は反射的に彼に駆け付けようとする。彼がここまでの激しい攻撃を受けたのは、初めてのはずだ。

 しかしすぐに、目の前にいる強者の存在を思い返す。

 

「ハッ!」

 

 脚を振りぬいたままの魔王へと、再び大剣を振り下ろす。今回は反撃はなかった。大剣は魔剣に受け止められる。

 

「よくもやってくれたな、傲慢なクソ野郎……!」

 

 恨みを籠めて大剣を押し付けるが、相手の魔剣はびくともしなかった。やはり、勇者ではなくなった俺には、魔王との力比べは分が悪いらしい。しかし引くわけにはいかない。俺は一層足に力を籠めた。

 

「貴様は……」

 

 ふいに、魔王が口を開いた。何度も聞いた、女にしては低い声。その裏には、深い深い疑念が籠っているようだった。

 

「なぜ、馴れ合っている? 私と同じ諦観と破滅願望を有した人間ではないのか? 勇者パーティーのメメとやらよ」

「お前も、ロゼッタと同じようなことを言うんだな」

「ふむ、私とあのダークエルフでは視点が違うな。まあ、人類の不幸を願っているという点においては私とあいつは同志だったがな。お前も、そうではないのか」

「決めつけんな。諦めて、勝手に裁定を下す気になっているお前とは違う」

「裁定とは言い得て妙だな。もしかして、どこかで会ったことがあったか?」

「ああ、お前の記憶の外でな!」

 

 再びの、激突。鍔迫り合いはやはりこちらは不利か。けれど、俺も無策で突っ込んだわけではない。

 

「『雨粒よ! 大事に恵みを齎す希望の雨よ! あらゆるものを穿つ剣となれ!』」

 

 オリヴィアの詠唱と共に、凄まじい量の魔力が一体に迸る。はたして、その効果はすぐに現れた。

 

「雨が……氷柱に……?」

 

 魔王の頭上に降り注ぐ雨が、一瞬にしても氷柱へと姿を変える。天高くから落ちてきた雨だった氷は、落下のエネルギーを使い存分に加速している。俺は素早く魔王から離れると、魔法の効果を窺った。

 

 無数の氷柱が魔王の体に直撃し、白い霧が立つ。魔法の効果が終わったのを見計らった俺は、再び魔王へと肉薄した。オリヴィアの魔法の完成度は高かったが、これで仕留められたと慢心できる相手ではない。オスカーが離脱した今、俺が追撃をしなければ。

 

「オオオオオオ!」

 

 最大の威力を叩き込むために、大上段に大剣を構える。助走の勢いを活かして、全力の一撃。しかし、返ってきたのは硬い感触だった。

 

「そんな甘い攻撃をするために、お前は人間と馴れ合っているのか?」

 

 白い霧の先で、魔剣がギリギリと音を立てて俺の剣を防いでいた。

 

「メメさん!」

 

 オリヴィアの鋭い警句が聞こえた直後、俺の上体は横殴りにされていた。

 

「ガッ……」

 

 鳥が飛ぶような勢いで、吹き飛ばされる。その間、不思議なことに景色はスローに見えていた。降りしきる雨粒すら止まって見える。自分の吐き出した血が空中に止まっている。遠くで地べたに倒れ込んだオスカーを、カレンが必死に治療している。

 そして、魔王は。ゆっくりと、だが確実に、魔法を放った直後のオリヴィアの元へと歩んでいた。

 

「──ッ」

 

 その光景に、かつての光景がフラッシュバックする。血に塗れたオリヴィアの姿。死に別れた、恋人だった君。最悪の記憶。

 

「まだああああああ!」

 

 空中で無理やり体を捻る。肋骨のあたりに、鋭い痛みが走った。でも、この程度で止まるわけにはいかない。

 

「『氷よ!』」

 

 最短の詠唱で、最低限足場にするのに必要な氷を空中に形成する。それを踏みしめると、俺は空中で大きく軌道を変えた。

 

「ッ、アアアアア!」

 

 もう一度、大剣を握りしめて突貫する。その先には、先ほど俺を吹き飛ばした魔王が堂々たる佇まいで俺を待ち構えていた。

 

「無理するな、小娘」

 

 突き出した左手からは、真っ黒な光が爛々と輝いていた。

 

「『全てを飲み込む闇よ、外敵を吹き飛ばせ』」

 

 一度魔術を使い、無防備に突っ込んでいた俺には、迫りくる黒い光を防ぐ手立てはなかった。闇と衝突すると同時に、俺の体には先ほどと同じような力がかかる。痛みと共に訪れる浮遊感。

 まずい。このままでは、空高くまで打ち上げられてしまう。オリヴィアが、死んでしまう。

 けれど、彼女はその状況を正しく認識していた。

 

「『草木よ、彼の者を捕らえたまえ』」

 

 オリヴィアの足元から飛び出た蔦が伸びると、俺の体に巻き付いた。そのまま、俺の体はゆっくりと地面に降ろされた。

 安堵の息を吐く。間一髪。あのまま魔法で吹き飛ばされていたら、今度こそオリヴィアが殺されていた。

 

「助かったよ、オリヴィア」

「いえ、当然のことをしたまでですから」

 

 短く言葉を交わし、二人で魔王の次の行動を観察する。次はどんな攻撃を仕掛けてくるのか、予兆を見逃さないように観察していた。けれど、魔王はその場に立ち止まったままだった。

 

「ふふ……」

 

 魔王は、肩を震わして笑っているようだった。

 

「ハッ……ハッハハハハ!」

 

 やがて、それは哄笑へと変わった。

 

「助け合い! ああ、なんて滑稽なんだ、人間! 己が不完全な存在であるばかりに他人に頼るばかりで、しかもその弱点を美徳とまで捉えている。どうして自分たちが無能であることに気づけない? どうしてそれを恥じもせず生きている?」

 

 魔王は、俺たちの行動はおかしくてたまらないようだった。

 

「人でもないアナタに何が……」

「オリヴィア」

 

 憤慨する彼女の肩を、そっと支える。

 

「あいつは元人間だ」

「え⁉」

 

 驚愕したオリヴィアが振り返る。

 そして魔王は、俺の言葉がひどく気に入らないようだった。

 

「なぜ、貴様は私のことをそんなにも知っている。私の過去を知る者など、もはやいないはずだが」

「ハッ! 知っているとも。百年以上追い求めた相手だからな。小さな手がかりから全部見つけたとも。なあ、無口で不気味な変わり者の孤児、エマ」

 

 俺が彼女の名前を呼ぶと、魔王は不快そうに顔を歪めた。

 



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92 眉を顰めた魔王は、感情を露わにする

「なんだ貴様は。気持ち悪いにも程があるぞ」

「気持ち悪い? いいや、これは執念だよ」

 

 俺はこれ見よがしに笑ってやる。魔王の威圧感が、一層増した。その様子に手ごたえを感じた俺は、さらに畳み掛ける。

 

「なあお前、孤児だった魔王。気味悪がられたから、拒否されたから、人間から逃げたのか?」

「違うな。私が、あいつらに失望したんだ。愚昧で見栄を張ることしか脳のない、あいつらに」

 

 嫌悪に満ちた答えは、俺の予想通りだ。

 

「だが、結局お前は逃げたじゃないか。孤児院から。人間社会から」

「違う。私は戻って来た。やつらを葬り去るために。愚かな人間たちに、貴様らは不要だと突き付けてやるために」

「詭弁だな。親に駄々をこねる子どもみたいだぞ」

「……良く回る口だな、人間」

 

 魔王はなんでもないように言うと、魔剣を体の前で大きく振った。一見平静そうに見えるが、どうやら挑発には成功したらしい。

 ……もう少し、時間稼ぎが必要だろうか。俺はチラと後方で倒れているオスカーの様子を確認する。カレンが付きっ切りで治癒をしてくれている。きっと回復してくるはずだ。

 

「貴様の不快な演説会は仕舞いだ。さっさと土に還れ」

 

 途端、爆音と共に魔王が突っ込んできた。

 

「『岩石よ、敵を潰したまえ』」

 

 オリヴィアの魔術が飛んでいき、魔王の体に直撃する。けれど、その体はいささかも怯んだ様子がなかった。

 

「フンッ!」

 

 横なぎの一撃を、辛うじて大剣で受け止める。けれど、油断はできない。魔王はいつの間にか剣から片手を話していた。再び、その手先から黒い光が迸る。

 

「二度も同じ手は食わん! ッ!」

 

 間一髪、上体を逸らすと、顔の横を黒い光が過ぎ去っていった。遅れて風が吹き、俺の髪が大きく揺れた。

 俺が上体を逸らしているうちに、魔王はまた新たな手を講じているようだった。

 

「『粘性の闇よ。荒れ狂い、破壊せよ』」

 

 大きく後ろに下がった魔王の手のひらから溢れ出した泥のような闇が、辺り一帯にまき散らされる。雨粒と接触した泥は、ジュッ、という燃え尽きる炎のような音を立てている。泥は、どうやら雨を吸収しているようだった。

 地面に落ちた黒い泥は、意思を持っているように蠢きだすと、俺とオリヴィアへと襲い掛かってきた。気味の悪い光景に、鳥肌が立つ。

 

「オリヴィア! こっちに!」

「はい! 『水よ、穢れを洗い流せ』……効果なし、ですの⁉」

 

 オリヴィアの打ち出した水が泥へと襲い掛かるが、それは雨粒と同様に吸収されているようだった。

 泥、土を扱う魔法には水をぶつける。魔法のセオリーがあっさりと裏切られた光景に、オリヴィアが悲鳴のような声をあげた。

 

 一度魔王から大きく距離を取る。オリヴィアと合流し、彼女を後ろに庇う。そうこうしている間にも、不気味な泥はこちらへとズルズルと近寄ってきていた。俺は大剣を振るって、なんとか泥を遠ざけた。

 オリヴィアを庇いながら俺は、あの泥の攻略法を必死に思い出していた。黒い泥。魔王しか使っているところを見たことのない、特異な魔法。決して使う頻度が高いわけではないが、厄介な魔法だった。あれに出会い、突破方法を見つけたのはいつだ。考えろ。思い出せ。

 

 ──そうだ、あの時だ。頭の中に古い記憶が浮かぶ。失敗した記憶。泥に窒息死させられた記憶。そして今、成功するため、勝つための記憶。

 

 豪雨に負けないように、俺は叫んだ。

 

「オリヴィア! 炎だ!」

「はい! 『炎よ、我が敵を燃やしたまえ』」

 

 オリヴィアの魔術によって生み出された炎は、蠢く泥に直撃すると、勢い良く燃えだした。雨中にあっても消えない炎はたちまち泥を燃やし尽くした。威勢よく動き回っていた泥は、炎に巻き込まれると一瞬で姿を消した。

 

「危なかった……」

 

 魔法のセオリーの外にある魔法。これも、叛逆神からの賜りものだろうか。魔王の様子を見ると、ようやく黒い泥を生み出すのを辞めたらしく、再び魔剣を構えていた。

 

「……これもダメ、か。では、剣で今一度語ることにするか」

 

 再び、魔王の体が躍動する。今度は、より早く、より強かった。

 瞬く間に飛び込んできた剣先に、自分の剣を差し込む。信じられない力。同時に、確かな技量に裏打ちされているそれは、簡単には押し返せない。

 

「クッ……さっきまでは手加減してたってか……?」

「準備が整ったまでだ。無粋な貴様が奇襲をしていなければ、もっと早く終わっていた」

 

 言葉の通り、先ほどまで以上の迫力が魔王から感じられる。先ほど俺たちが泥に対処している隙に自分の体を強化する魔法でも行使したのだろうか。俺も身体能力の魔術は使っているが、かなり劣勢だ。

 

「ッオオオ!」

 

 精一杯の力を籠めて、魔王の体を押し返す。お互いに剣の間合いから外れてにらみ合う。均衡状態、というには俺が不利すぎるだろうか。けれど、俺の後ろには頼れる仲間がいる。

 

「オリヴィア! 合わせてくれ!」

「お任せを!」

 

 その様子を見た魔王の顔には、侮蔑の笑みが浮かんでいた。身体能力の向上が完了し、余裕ができたらしい。

 滑りやすい、濡れた河原を踏みしめて、一歩。加速を得た俺の体が、疾風の如く魔王の目の前へと躍り出た。

 

「ハッ!」

「単調だな」

 

 幾度目か分からない衝突に、魔王は退屈そうですらあった。けれど、すぐにオリヴィアの援護が届くはずだ。そう思い待つが、一向にその気配はなかった。

 後ろに飛び退き、一瞬後ろを見る。──その先には、倒れ込んでピクリとも動かないオリヴィアの姿があった。

 

「オリヴィア⁉」

 

 彼女の傷ついた姿に、俺の心は激しく動揺する。過去の失敗がフラッシュバックして、胸が苦しくなる。魔王は、そんな俺の様子を見て楽しんでいるようだった。

 

「ハッハハハハ! 攻勢に転じている魔法使いほど無防備なものはない。小娘、まさか知らなかったとは言うまいな」

 

 ……その通りだ。魔法使いは、同時に二つの魔法を行使することが難しい。だから、攻撃する時が最も無防備になる。そんなこと、嫌と言うほど知っている。

 動じる俺のことを、魔王は心底面白い、といった様子で眺めていた。そして、嗜虐的な笑みを浮かべて、魔王は言い放つ。

 

「お前の稚拙な策が、薄っぺらい信頼という網が、あの娘を傷つけたくのだ。まさしく人間の愚かしさが敗北したと言えよう。私が何を言いたいか、分かるか、メメとやら」

「……なんだ」

「だからな。薄気味悪いお前。思い出せ。よく思い出すんだ。あの娘は、そして、最初に倒れた少年も、お前が殺したも同然なのではないか?」

 

 その言葉に、俺は一瞬頭が真っ白になった気がした。

 



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93 聖剣の輝きを、もう一度

 思い返せば、俺が仲間を、人間を頼らなくなったのは、信じられないからではなく、傷つけたくなかったからではなかっただろうか。

 俺は、今になって回顧する。カレンの死に顔を、もう見たくなかったから。オリヴィアの死に顔を、もう見たくなかったから。俺を信じる仲間の死に顔を、もう見たくなかったから。

 そして俺は、仲間たちを頼ることを決めた今の俺は。そのことから、目を逸らしていたのかもしれない。

 

 

「どうした! 覇気がないぞ!」

「くっ……ッ!」

 

 魔王の剣の勢いは、明らかに最初よりも増していた。避けたはずの剣先が、俺の皮膚を掠る。剣で攻撃を防ぐと、両手に凄まじい衝撃が走り、思わず剣を取り落としてしまいそうになる。

 それだけの勢いが、今の魔王の剣にはあった。まるで、俺の醜態を見て勢いづいたようだった。

 

「『炎よ……』」

 

 たまらず、俺は魔術を発動しようとする。剣術での不利をどうにか覆そうとした結果だった。けれど、魔王はそれも読んでいるようだった。

 

「フッ!」

 

 魔術の形成に集中している俺の胸元に、鋭い突きが迫っていた。慌てて魔術を中断し、身を捩る。しかし、剣先は高速で曲がって来た。

 

「くあ……」

 

 胸元、心臓に近いところへの一撃。今までのかすり傷とは明らかに違う、手痛い一撃だった。

 よろよろと後ろに下がる。手足に力が入らない。胸からは絶えず血が流れ出している。目線だけはなんとか魔王の姿を捉えたままだったが、今すぐにでも倒れ込みたい気分だった。

 

「諦める気になったか?」

 

 魔王は、悠然と問いかけて来た。余裕のない俺は精一杯の悪態をつく。

 

「はっ……らしくもないな。余裕綽々で問答か?」

「貴様に私らしさを説かれる筋合いはないが……しかし、そうだな。確かに私は、お前をこの場で殺せることに高揚している」

 

 美しい顔を朱に染めて、魔王は語る。最高の美酒に酔っているような、恍惚とした表情だった。

 

「私の過去を見抜かれたのはお前が初めてだ。だから、お前が憎くて仕方ない。私の生涯において唯一恥じるべき点、人間だった過去を暴いたお前は、何度殺しても殺したりないくらいだ」

「奇遇だな。俺もお前が憎い」

 

 二十年も生きていないお前なんかよりもずっと、俺はお前が憎い。強い意志を籠めて、睨み付ける。この程度の憎悪の感情をぶつけられたところで、怯みはしない。例え殺されることになっても、心だけは屈しないつもりだった。

 けれど、魔王はそんな俺の決意を嘲笑うような言葉を吐いた。

 

「本当に、殺しても殺したりないくらいだ。──だから、私はお前よりも先に、まず仲間の方から殺すことにするよ」

「貴様──」

 

 その言葉に、体が急激に冷える感覚を覚えた。それは、当然存在すると思っていたものが急に失われるような、そんな寒気のする恐怖だった。

 

「では手始めに、最も脅威となる勇者から排除するとするか」

 

 魔王は悠然と歩いていく。オスカーの元へ。オスカーを治癒するカレンの元へ。

 

「まっ……ゴホッゴホッ……」

 

 立ち上がり、その背中を追おうとして、気づく。足が思うように動かない。視界がかすむ。胸元から流れ出る血と一緒に、俺の活力までもが流れ出ていっているようだった。

 ああ、また俺は失敗するのか。絶望に胸がいっぱいになりそうになる。

 

 遠くで、カレンが必死にオスカーを起こそうとしている声が聞こえてくる。

 早く。立ち上がれ。立ち上がれ、俺の脚。せめて、魔術で足止めを……。

 けれど俺の口は激しく咳き込むばかりで、全く詠唱を紡ぐことができない。

 

 やがて、ゆっくりと、俺を苦しめるように歩を進めていた魔王の足が止まる。その真下には、オスカーとカレンの姿があった。

 魔剣が振り上げられる。その先にはオスカーの姿。勇者と言えど、魔剣の一撃を食らえばただでは済まないだろう。

 

「──!」

 

 声にならない叫びが喉から漏れでた。

 そして、魔剣がギロチンの如く振り下ろされ──

 

 

 

 

「ダメええええ!」

 

 カレンの絶叫がその場に響き、同時に眩いほどの光があたりを包んだ。

 

「くっ……鬱陶しい!」

 

 魔王は、謎の光を警戒したのだろう。大きく下がる。間一髪、オスカーの命は救われた。俺は胸をなでおろす。

 

「オスカーは、アタシが守る!」

「カ……レン……」

 

 己の震える足をしかりつけるように、彼女は勇ましく言い放った。

 出立の前に渡した魔道具、閃光玉は正しく作用したようだ。しかし、あの魔道具は単に光を放つだけだ。時間稼ぎが関の山だろう。急がなければ。

 全身の力を総動員して立ち上がる。震える足を、一歩二歩と踏み出す。カレンが見せた勇気に励まされたように、俺の体は再び動き出した。

 

「オ……オオオオオオ!」

 

 そして、疾走。魔術の力も借りて、俺の体はもう一度加速を始めていた。

 

「チッ……死にぞこないが……」

 

 魔王が俺の方に向き直る。その顔には、先ほどまでよりもずっと濃厚な憎悪が乗っているようだった。よっぽどカレンの勇ましい姿が癪に障ったか。立ち姿には、一片の隙も見当たらない。

 

「くっ……」

 

 オスカーとカレンを救うため、がむしゃらに飛び出してきたが、正直突破口が見つからなかった。迷いのままに、剣を突き出す。しかし、助けは思いもよらぬところからやってきた。

 

「メメっ!」

 

 気絶していたはずのオスカーが、立ち上がり再び聖剣を構えていた。俺は一旦安堵の声を飲み込み、彼に呼びかける。

 

「合わせろ!」

「了解!」

 

 二人で魔王を挟み込む。構図としては最初、オスカーが手痛い一撃をもらった時と同じだが、しかしオスカーの気迫が違った。その黒い瞳には見る者を圧倒するような強い意志が籠っていて、全身に力が漲っているのが少し見ただけでも分かる。

 カレンに助けられたことで目が覚めた、ということだろうか。今の彼なら、魔王相手でも遅れを取ることはなさそうだ。

 

「ふっ!」

 

 最初に剣を合わせたのはオスカーだった。聖剣と魔剣がぶつかり合い、金属音を立てる。魔王のがら空きの背中に、俺は剣を走らす。

 

「ちっ」

 

 舌打ちした魔王は聖剣を弾き返すと、今度は俺の方へと斬撃を放ってきた。予想していた俺は、余裕をもって回避する。すると、すぐにオスカーが攻撃を加える。

 流石に手が足りないのか、魔王は大きく下がっていった。迂闊に詰めることはせず、ひとまず仲間の状況を観察する。

 

 オスカーは一度ダウンしたとはいえまだ戦えそうだ。むしろ、カレンに介護されたことで力が漲っている。

 オスカーの手当を終えたカレンの顔は、少し疲れ気味か。けれど、すぐに倒れるようなことはないだろう。

 気になるのかオリヴィアだが……いつの間にか、彼女は立ち上がっていた。けれどその額からは、血が垂れてきている。血に濡れた顔は、普段の優雅な様子からはかけ離れて、好戦的に見えた。

 

「ふん……勢揃い、か」

 

 呆れたように、魔王は呟く。その美しい顔を、醜く歪めて。この世界で最も醜いものを見た、とでも言いたげに。

 

「なぜ貴様らはそんなにも信頼し合っている?」

「なんだ、羨ましくなったのか?」

「馬鹿を言え」

 

 否定の言葉には、極寒の嫌悪感が混じっていた。

 

「信頼なんて、そんなに難しいものじゃないだろ。長い間一緒にいれば、自然と芽生えてくるものだ。……逃げたお前には、分からないかもしれないがな」

「何度でも言うが、私は逃げたのではなく失望しただけだ。人間の愚かさに。粗暴さに。だから私は、愚か者どもを暴力で根絶やしにする」

 

 凝り固まった思想には、つけ入る隙すら見えなかった。きっと、こいつの思想はたとえ百年かけたとしても治すことはできないのだろう。

 だから、ここで決着をつける。この美しい、人間社会からの落伍者に、神様みたいな超越者を気取っているこいつに、否を突き付けてやらなければ。

 

「なあ、エマ」

「その名で呼ぶな」

 

 魔王が猛犬のように顔を歪めるが、俺は構わず話を続ける。

 

「人生は、そんなに醜くて、救われないものだったか?」

「当たり前だ。人生は、人としての生は、醜くて、救いなんてどこにもないものだった」

 

 吐き捨てるように、孤児だった魔王は言った。

 

「……俺も、少し前までそう思っていた」

 

 魔物を倒せず、魔王を倒せず、人にすら裏切られた俺は、こんな人生いらないと思っていた。百年間失敗し続ける人生なんて、醜くて、救いのないものだと思っていた。

 

「けれど、全部受け入れてくれて、肯定してくれる人がいた。付いてきてくれる仲間がいた。協力してくれるみんながいた」

「……だからなんだ」

「だから、お前に他人の人生を終わりになんてさせない。もう、奪わせない」

「……ハッ! それだけか⁉ やはり愚かな人間の言葉など聞いて損したな! 『我らが神より出でし闇よ、この世界を破滅に導く力よ。神の代行者たる我に従え。願うは暴虐の力。我が身に宿り、その力を与え給え』」

 

 今まで見た中でも一番大きな魔力が、魔王の周囲に浮かび上がった。それは、先ほどの黒い泥のような形状をしていた。渦巻くそれは、やがて魔王の体と一体になっていく。そして、現れたその姿は、鎧のようだった。暴食の鎧。伝承にだけ伝えられるそれは、魔王の切り札と呼ばれるものだ。──そしてこれは、魔王に余裕がなくなった証拠だ。

 

「メメ! 終わらせよう! 戦争も、君の百年も!」

「ああ!」

 

 静かに言い、俺は大剣を構える。同時に、背中に吊るしたもう一振りの剣に意識をやる。それも一瞬で、俺はオリヴィアの魔法が魔王に向かって放たれたのを見ると、すぐに駆け出した。

 

 走る。走る。走る。もはや雑念はなかった。ただ、あの首を目指して前へ前へと進む。極限の集中の中では、もはや豪雨の音すら聞こえず、ただ魔王の姿だけがくっきりと捉えられていた。

 隣を走るオスカーが先行し、聖剣を振るう。今回のは本気だ。オスカーは詠唱すると、聖剣の権限を解放した。聖剣が眩い白光を放つ。

 

 それを見た魔王も何事か詠唱すると、途端に魔剣が黒い光を放った。魔剣の権限解放。その権限は、破壊。あの黒い光には、勇者でもなければ対抗できないだろう。

 魔王は本気を出したオスカーに夢中になっている。

 

 つまり、今が最大の好機。俺は大剣を捨てると、背中から聖剣のレプリカを抜き放った。ずっしりと重くて、懐かしい感触。

 

「『聖なる剣よ、悪を裁き給え』」

 

 レプリカが白い光を放つ。本物の聖剣には及ばない。光は時折点滅していて、刀身には早くも罅が入ってきている。

 でも、この一撃を決められればそれでいい。

 

「なぜ貴様がそれを⁉」

 

 魔王の目が驚愕に見開かれる。その戦略眼で人類を翻弄し続けた魔王ですらも、予知できなかった、二本目の聖剣。

 二振りの聖剣に囲まれた魔王には、もはや逃げ出す道がなかった。起死回生を狙い、俺に向かって魔剣を振り下ろしてくるが、身を捩って避ける。

 がら空きになった魔王の体。

 

 様々な感情を籠めて、俺は剣を振り下ろした。首を断ち切る、確かな感覚。

 

「──」

 

 河原に、重たいものが落ちる音がした。

 それを見た俺は、万感の想いを籠めて空を見上げた。雨は、いつの間にかやんでいた。

 




次話のエピローグで最終回です


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最終話 未来へ

 魔王討伐の報は、王国中を駆け巡った。それはつまり、王国民が魔物の侵略に怯えながら暮らす生活が終わりを迎えたことを示していた。

 

 けれど、王国に侵略してきていた魔物が全て死んだわけではない。

 魔王討伐のあの日、騎士団は豪雨に紛れて王国に入り込んでいた魔物を急襲した。騎士団長直々に指揮を執った作戦は成功。壊滅した魔王軍は、散り散りになって逃げたそうだ。

 今は、その残党を追う段階にある。

 

 

 魔王軍の残党を倒すための戦いに赴く前、俺はオスカーと話をしていた。俺の背中には、もはや使い慣れた大剣。そして、体のところどころには高そうな防具がついていた。これは、俺が騎士団に入ってから与えられたものだ。

 

「本当にメメは騎士団に入るんだね」

「ああ。ひとまずは魔王軍の残党を討伐するまでって約束だがな。……騎士なんてガラじゃないと思ったんだが、まあアストルに借りもあるしな」

 

 それに、魔王亡き後の魔物がどんな攻撃に出るのか分からない。王国の犠牲を減らすためにも、俺の知識を活かしたい。

 

「それに、もう誰にも死んでほしくない。……まあ、理想論だがな」

「いいと思うよ、その理想論。青臭くて、メメっぽくないけど、いい」

「……そうか」

 

 オスカーは空を見上げた。つられて俺も青空を見上げる。突き抜けるような、雲一つない快晴。それは俺の未来の如く、どこまでも広がっていた。

 

「オスカーは、もう進む道は見つけたのか? 元勇者の名前があれば、引く手あまただろう」

「いや、まだ迷っているよ。勇者の力を失った今の僕になにができるのか、考えているところ」

「そうか。まあ、力がなくなっても剣の振り方を忘れたわけでも、魔術の使い方を忘れたわけでもない。好きにすればいいさ」

「……一つ、漠然とやりたいことがある」

「おお、なんだ」

 

 魔王討伐後のオスカーがどうするのか、俺は聞くのを楽しみに待った。

 

「メメみたいに、誰かを導く人になりたい。自分の経験を活かして、誰かに剣や魔術、戦いについて教えることができればいいって。……まあ、未熟な僕にできるかは分からないけどね」

「いいんじゃないか。俺にできることがあれば手伝うよ」

「ありがとう」

 

 オスカーには剣の先生なんて似合うかもしれないな。彼の言葉を聞いて、俺は漠然とその姿を想像した。きっと、優しくて人の気持ちを考えられる彼は、自分が直接戦うよりも、誰かを助けることの方が向いている。

 

「カレンとは話し合ったのか?」

「うん。まあでもカレンは中央教会に入って忙しそうだからね。中々会う機会がなくって」

 

 カレンは、一番人を助けられるから、と治癒などの依頼が最も多く来る中央教会に所属していた。評判も良く、彼女は聖職者としての名声をどんどん高めているようだ。魔王軍の残党との戦いでも、最前線に立って治癒をしているそうだ。

 このまま頑張っていれば、そのうち中央教会内での発言権もどんどん増すだろう。

 

「カレンには魔物の後処理が落ち着いたら中央教会の浄化を内部から手伝ってもらうからな。多分もっと忙しくなるぞ」

「うわあ、メメのむちゃぶりに付き合わされるカレンは大変だなあ」

「失礼な。カレンならできるさ。他人のために一生懸命になれる、優しいカレンならな」

 

 オスカーは俺の言葉に同意するように静かに頷いた。きっと、彼も同じように思ったはずだ。

 

「オリヴィアの方は、カレン以上に栄転しているみたいだね」

「ああ、魔法学院の卒業から一年で教授の地位に定着だからな。前代未聞だよ」

 

 魔法学院の教員としてのオリヴィアの評価は高いらしい。分かりやすい授業と、生まれで差別しない平等な態度。

 彼女は今、体系化の進んでいなかった魔術について、誰でも習得できるようにテキストにまとめているらしい。

 俺も、どうすれば魔術を分かりやすく伝えることができるのか、アドバイスを求められたりしていた。

 彼女の教える実践的な魔術は魔法学院に新たな派閥を作り、今では「実戦魔術派」ではなく「オリヴィア魔術派」という大層な名前まで背負っているらしい。きっと、歴史書に彼女の名前が載る日もそう遠くない。

 

「でも、どんどん道を切り開いているオリヴィアの目にはメメしか映っていないみたいだね」

「そうなんだよなあ……まったく、どうしてああなったのか」

 

 オリヴィアは、事あるごとに俺に会いに来る。さらには、家に養子として来ないか、とか一緒に魔法学院で教鞭をとらないか、とか色々とアプローチをかけてくる。俺も彼女のことは好きだから構わないが、彼女の将来を考えると色々と不安だ。

 

 未来へと進んでいる仲間たちの華やかな姿を思い返していると、なんだか急に自分が彼らと同じように前へと進めているのか、不安になった。

 

 俺は、本当に過去を清算して未来に生きることが赦されるのだろうか。

 

「なあオスカー」

「なに?」

「俺は、贖罪できたのかな。彼らに、報いることができたのかな」

 

 死に続けて殺し続けて、それでも俺は未来を歩いていいのか。オスカーは、俺の突然の言葉にも真剣な表情で答えてくれた。

 

「……百年生きてない僕には、分からないよ。──でも、それよりも大事なことがある」

「それは?」

「それは、メメはこの世界でたくさんの人を救ったってことだよ」

「そう、か」

 

 何人殺してしまったのかではなく、何人救ったのか考えるべき。オスカーの端的な言葉は、俺の胸に優しく染みた。少しだけ気持ちの晴れた俺は、オスカーの目をはっきり見て告げた。

 

「じゃあ、もう少しだけ人を救うことにするよ」

「うん、頑張ってね」

「ああ、頑張るよ」

 

 より良い未来のために、俺は今を生きるとしよう。

 




ここまで付き合ってくださって皆様、本当にありがとうございました!

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また、完結記念に活動報告も更新するので良かったらそちらも覗いてみてください。


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