アグネスデジタル門 (絡刻)
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アグネスデジタル門

 ある日の暮方の事である。一人のトレーナーが、トレセン学園の玄関前で雨やみを待っていた。

 

 広い玄関の前には、この男のほかに誰もいない。ただ、コンクリート製の、大きな柱に、蝉が一匹とまっている。この玄関が、トレセン学園で最も行き来が多い以上は、この男のほかにも、雨やみをするウマ娘やトレセン務めのスタッフが、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。

 

 何故かと云うと、この八月、トレセン学園では夏休みとか夏期合宿とか帰省とかの真っ最中である。実際、トレーナーが担当しているウマ娘も短期の帰省中だ。もちろん昼には清掃員や事務員がこの玄関を行ったり来たりしているのだが、もうこの時間になると人通りはほとんどない。もっとも、夏でなくても、この時間になると人が少なくなるのだが、それも相まって静か過ぎる学園に少々の恐ろしさを感じるウマ娘もいるらしい。しまいには「この時間ね……出るらしいよ。奴が。」みたいな七不思議じみた噂がウマ娘間で広がり、より一層夏季休暇中は人が寄り付かなくなったのである。

 

 その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い屋根のさらに上を啼きながら、飛びまわっている。ことに学園の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、猫と連携してマチカネフクキタルのやる気を一段階下げに来たのだろう。――もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。トレーナーは、マチカネフクキタルのトレーナーが「合宿に行く」と言っていたのを思い出した。鴉達もそれについて行ったのだろう。トレーナーは玄関口にあるちょっとした段差に、尻を据えて、右の手で耳を触りながら――これはトレーナーの癖である――、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。

 

 作者はさっき、「トレーナーが雨やみを待っていた」と書いた。しかし、トレーナーは雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。勿論、家へ帰ろうとは思っている。所が、普段なら朝から担当ウマ娘のトレーニングをするのだが、明日はその予定はないのだ。前にも書いたように、担当してるウマ娘は現在実家に帰省している。もちろん割り振られた事務の仕事はあるが、まあ実質暇を出されたみたいなものだ。だから「トレーナーが雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられたトレーナーが、しばらく予定がなくて、仕方なくトレーニング内容を考えて暇を潰している」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この学園で働くトレーナーのSentimentalismeに影響した。午後5時過ぎからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、トレーナーは、何をおいても差当り明日以降のトレーニング内容をどうにかしようとして――云わば今考えてもすぐには実行出来ない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから学園にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。

 

 雨は、学園をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、学園の屋根が、斜につき出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支えている。

 

 トレーナーの中には、あらゆる物事を、ウマ娘のトレーニングに生かせるトレーナーもいるらしい。トレーナーはそういった考えをするのが少々下手であった。だがしかし、トレーニング教本に従ってばかりでは、担当するウマ娘のためにならないとは分かっている。思いつきさえすれば――トレーナーの考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。トレーナーは、経験をトレーニングに生かす事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、具体的にどのようなことをすれば良いのかが分からないままなのである。

 

 トレーナーは、大きなあくびをして、それから、大儀そうに立ち上った。夏とはいえ、雨に濡れた体は少々冷える。今日は風も少しあり、玄関口へ風が入ってくる。コンクリートの柱にとまっていた蝉も、もうどこかへ行ってしまった。

 

 トレーナーは、首をちぢめながら、ジャージの尻に付いた塵を払って、玄関のまわりを見まわした。風が強くなってきたので、建物の中に入ってしばらく過ごそうと思ったからである。すると、玄関の先にある見知った廊下が眼についた。学園に人がいたとしても、せいぜい警備員くらいである。どうせなら散歩でもして気分転換をしようと思い、トレーナーはそこで、少々暗めの廊下をゆったりと進むことにした。

 

 それから、何分かの後である。広々とした空間に出る、幅のある廊下の隅に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、廊下の先の様子を窺っていた。廊下の天井にある非常口の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚をもつ、整った顔に付く頬である。トレーナーは、始めから、この学園にいる者は、事務員くらいだろうと高を括っていた。それが、廊下を二三十歩進んで見ると、廊下の曲がり角の先では誰かライトを付けて、しかもその明りをそこここと動かしているらしい。これは、その明るい、白めの光が、隅々まで掃除された廊下に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この廊下で、ライトを揺らして一点に留まっているのは、どうせただの者ではない。

 

 トレーナーは、ヤモリのように足音をぬすんで、やっと廊下を、ゆっくりと進んでいった。そうして体を出来るだけ、横にしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、曲がり角の先を覗いて見た。

 

 見ると、廊下の先には、いつも通り、清掃されて綺麗な床と壁が広がっているが、廊下の隅にダンボール箱が二三箱置かれていた。それは、破棄する予定のトレーニングシューズが入ったものである。事務の仕事で、この箱を別の場所に運ぶ事がよくある。トレーナーは、ダンボール箱の中身が気になって一度開けて見た事、そして中から使い古されて土臭くなったそれらを鮮明に覚えていた。

 

 トレーナーは、それらの土の匂いが漂ってきたことに思わず、そちらに気が向いた。しかし、次の瞬間には、もう積まれたダンボール箱の事を忘れていた。ある強い視覚情報が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。

 

 トレーナーの眼は、その時、はじめてその廊下の隅に蹲っているウマ娘を見た。トレセン学園の制服を着た、背の低い、ピンク色の髪を持つ、中等部のように見えるウマ娘である。そのウマ娘は、右の手にスマホを持って、そのシューズの一つを覗きこむように眺めていた。スマートフォンのライト機能で照らされたシューズを見るに、あれは使い古されたシューズであろう。

 

 トレーナーは、あのウマ娘がアグネスデジタルであろうことを勘づいた。担当はしていないが、何度か学園ですれ違ったことがあるのである。そもそも学園にピンク髪を持つウマ娘は少ない。それに、多数の意味で有名な彼女を知らない者はおそらくいないであろう。

 

 するとアグネスデジタルは、スマートフォンを、ダンボール箱の上に置いて、それから、今まで眺めていたシューズに両手をかけると、丁度、知恵の輪を解くように、その長い靴紐を一本ずつ抜きはじめた。靴紐は少し力を入れれば手に従って抜けるらしい。

 

 その靴紐が、一本ずつ抜けるのに従って、トレーナーの心には、恐怖が少しずつ増えて行った。彼女は何をしてるんだろうと、果てしなくそう思った。そうして、それと同時に、このアグネスデジタルを止めなくてはという気もちが、少しずつ動いて来た。――いや、この場合はアグネスデジタルを思っての行為と言うと語弊があるかも知れない。トレーナーは、無意識に、この疑問を自分の担当ウマ娘のトレーニングに生かせるかもしれないと思ったのである。この時、誰かがこのトレーナーに、さっき玄関でこの男が考えていた、どのような経験がトレーニングに生かせるかという問題を、改めて持出したら、恐らくトレーナーの中では、答えが出たこと事であろう。それほど、この男の好奇心は、担当ウマ娘のことをほっぽいて、勢いよく燃え上り出していたのである。

 

 トレーナーには、勿論、何故アグネスデジタルがシューズの靴紐を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかしトレーナーにとっては、とりあえず止めるべき行為であろう事だった。これがトレーニング内容に関わってくるなど、しっかりと理解はしていない。だが、トレーナーは、さっきまで自分が、トレーニング内容に悩んでいた事なぞは、とうに忘れていたのである。

 

 そこで、トレーナーは、両足に力を入れて、いきなり、廊下を飛び出した。そうして幻惑のかく乱を発動させながら、大股にアグネスデジタルの前へ歩みよった。アグネスデジタルが驚いたのは云うまでもない。

 

 アグネスデジタルは、一目トレーナーを見ると、まるでゲートから出るのを失敗したように、飛び上った。

 

「おい、どこへ行くんだ。」

 

 トレーナーは、アグネスデジタルがシューズにつまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞いで、こう罵った。アグネスデジタルは、それでもトレーナーをつきのけて行こうとする。トレーナーはまた、それを行かすまいとして、押しもどす。アグネスデジタルは垂れウマ回避を持っていない。二人はダンボール箱の横で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、はじめからわかっている。トレーナーはとうとう、アグネスデジタルにねじ倒された。普通に考えてウマ娘に勝てるわけも無い。トレーナーも分かってはいた。

 

「何をしていた。云え。云わぬと、これだぞ。」

 

 なのでトレーナーは、布石を発動した。アグネスデジタルをやさしくつき放すと、いきなり、スマートフォンでたづなさんの電話番号を表示し、画面をその眼の前へつきつけた。けれども、アグネスデジタルは黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球がまぶたの外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗く黙っている。これを見ると、トレーナーは始めて明白にこのアグネスデジタルの今後が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた鋼の意思を、いつの間にか冷ましてしまった。後に残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、トレーナーは、アグネスデジタルを見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。

 

「俺は巡回の先生じゃない。今し方この玄関を通りかかったトレーナーだ。だからお前を先生に突き出して、どうしようと云うような事はない。ただ、今時分この廊下で、何をして居たのだか、それを俺に話しさえすればいいのだ。」

 

 すると、アグネスデジタルは、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとそのトレーナーの顔を見守った。八方にらみ発動時のような、鋭い眼で見たのである。それから、美人な顔に付いている唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。喉から、ゴクリと唾を飲む音が聞こえる。その後、その喉から、乾いていたのか、少しだけ掠れた声が、トレーナーの耳へ伝わって来た。

 

「……この靴紐を抜いて、自分の物にしようと思ってたんですよ。」

 

 トレーナーは、そういう事が聞きたいんじゃないと思いつつ、マジでこの娘は何を言ってるんだろうと思った。先ほど行動を見ていたから何をしていたかは分かるのだが、言葉にされると、まるで異世界に来たような気もちになった。すると、その気色が、先方へも通じたのであろう。アグネスデジタルは、片手に、靴紐を引き抜きかけているシューズを持ったなり、つぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。

 

「……成程。何をやってるのか分からないと言うのですね? これは……そう、今後自分で使用しようと思って。あ、いや、違くて。その……ここにあるシューズは別に盗んだって訳じゃないですよ。これは元々ここにあったもので……使い終わってボロボロになったシューズがそのまま捨てられるのもなんだかなあ、と。偶然誰かが捨て忘れたシューズがここに置いてあって、これはウマ娘ちゃんの神様が私にくださった物だと思って。いや、違うんです。これは実は今後のトレーニングに必要なんですよ。使い終わってそのままポイーっていうのもかわいそうじゃ無いですか。私が拾って、そうです拾いものみたいなものです。使える物は使っていきましょう! この無残に捨てられたシューズちゃん達を活用するからには、先生達も、大方私のする事も大目に見てくれるはずです!」

 

 アグネスデジタルは、大体こんな意味の事をオタク特有の早口で云った。

 

 トレーナーは、幻惑のかく乱の効果時間が切れたので、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、自分の耳を触りながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、トレーナーの心には、ある考えが生まれて来た。それは、さっき玄関口で、この男には思いつかなかったことである。そうして、またさっきこの廊下へ来て、このアグネスデジタルを捕えた時に考えていたことを、肯定的な方向に動かそうとする考えである。トレーナーは、担当ウマ娘のトレーニング内容に、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、これをトレーニングの参考にされる担当ウマ娘の心なんて、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。

 

「きっと、そうか。」

 

 アグネスデジタルの話が終わると、トレーナーは嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を耳から離して、アグネスデジタルを差しけん制しながら、諭すようにこう云った。

 

「なら、俺がそれを貰おうと恨まないよな。俺もそうすれば、担当してる娘の為になるからな。」

 

 トレーナーは、すばやく、アグネスデジタルの足元にあったシューズの山から数個を手に取った。それから、全て私の物だと言わんばかりに足にしがみつこうとするアグネスデジタルを、手荒く廊下へ蹴倒しようとしたが、流石に問題になるのでやめた。玄関口までは、まあちょっと進めば着く距離である。トレーナーは、手に持ったシューズ達をわきにかかえて、またたく間にオールボディオールゴーストで玄関から夜へ駆けた。

 

 しばらく、死んだように倒れていたアグネスデジタルが、夏でもひんやりとした廊下から、その体を起したのは、それから間もなくの事である。アグネスデジタルはつぶやくような、うめくような声を立てながら、非常口の光をたよりに、玄関口まで、這って行った。そうして、そこから、ピンク髪を横にして、玄関の外を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。

 

 トレーナーの行方は、今日は誰も知らない。



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