黒髪黒目の男というだけで女マフィア達に狙われている (生カス)
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第1章:長い一日
01.Robbers


 耳をつんざくような怒鳴り声が聞こえる。

 窓辺から差す、おそらく朝日であろう陽の光には似つかわしくないほど、今の俺は酷く、恐ろしい状況にあった。

 

 平たく言ってしまうと、俺は誘拐された。言葉も通じないような、外国人の二人組にだ。

 ここはどこなのか。なんでこんなことになったのか。なんでこんなことをするのか。きっとそんな問いを目の前にいる彼女らにしたところで、俺の現状は悪い方向に行くだけだろう。

 

「―――! ―――!!」

 

 恐らくホテルの部屋の中で、目の前にいる、誘拐犯である小太りのおばさんが俺に何かを捲し立てている。聞いた限りでは英語に似ているようだが、文法や単語が聞き覚えのないものばかりで――俺が勉強不足なだけかもしれないが――何を言っているのかさっぱりわからない。

 聞き取れない言語だからか、縛られて身動き一つもとれない俺は、いつの間にかそれをBGMに、誘拐されたときのことを思い出していた。

 

 

 ◆

 

 

 恐らくだが、大した時間など経ってないだろう。体感的には、つい数時間ほど前のことだと思う。

 俺は定職についてない男で、かと言って何か精力的な活動をしているわけでもない……まあいわゆる、フリーターだった。

 ただその日の生活を賄うために、その日限りの何の展望も望めないような仕事ばかりを、ただただ惰性のようにこなしていた。

 要領が悪いからロクに仕事なんてできないし、媚びと身体を売るくらいしか能がなかった。何も考えず、与えられたものに疑問も抱かず、言われたままのことを繰り返して、二束三文を稼ぐ日々だ。

 そんなもんだから、貯金なんてないし、ましてや代わりに先立つようなものなんてあるはずもない。自分の生活費すらロクに賄えない有様だ。

 

「……海ってのは、夜は本当に真っ暗なんだな」

 

 俺は深夜の、家から電車で一時間ほど、更に最寄駅から2時間ほど歩いた先にある、浜辺に来ていた。時期的にお盆だからだろうか、人一人もいない、周りに灯一つ無いその場所は、吸い込まれるような静寂と暗闇に満ちていた。

 月なんて気の利いたものも、今日は生憎の曇りだから、その姿を拝むことも当然できない。

 なんで浜辺なんかに来たんだっていうのは、なんてことはない。家にいると両親の冷ややかな目に耐えられないっていうのと、ネットの掲示板で、海は異界に繋がってるなんて話を聞いたものだから、ほとんど現実逃避のためだ。

 きっと両親は、俺のことを完全に見限っていることだろう。当然だ。

 もうすぐ20歳になるというのに、嫌なことから逃げてばかりで、何かを成そうともしない者などに、愛情を与えるべき道理なぞないのだ。

 

 愛情を得るには、必要な資格がある。容姿とかの話ではなく、もっと根本的に必要な資格が。

 それが、俺の短い人生の中で学んだ、数少ないものの一つだった。

 

「ッ……クソ!」

 

 

 俺は地面の砂を蹴る。そんなことをしても、何にもならないのはわかっているはずなのに。

 もしかして一生、このままなのだろうか? ふと、そんなことを考えた。

 定職もなく、大事な人も作れないまま、このまま一生日銭を稼いで、誰に看取られることも無く老いて死んでいくのだろうか。

 いや、そもそも老いるまで生きていけるのだろうか? いつもそんな不安があった。

 

 きっとこのままだと、ずっとこのままだろう。ずっと、ずぅっと、誰にも気づかれず、何者にもならず、ただただ、死にたくないからという理由だけで生きていくのだろう。

 

 気づけば、さざ波の音すら聞き取れない、完全な静寂だった。

 

「……どうすりゃいいんだ」

 

 それは無意識の内に静かに口に出て、しかし腹の底からの本音だった。

 なんでもいい、この現状が全部ひっくり返るような、そんな変化が、俺は心の底から欲しかった。

 そんなことをしていて、どれくらい経っただろうか。

 海の向こうにぼうっとした光が見えた。

 

(……なんだアレ、船?)

 

 よせばいいのに俺はその光がどうしようもなく気になって、その光に近づいていた。

 光は波に揺られているのか、幽霊のようにゆらゆらと移動して、少し離れた場所に座礁した。

 光に近づくと、やはりそれは船だった。小さく古びた、お世辞にも清潔とは言えないような、漁船だった。

 俺はなんでこんな時間にと不思議に思い、より漁船に近づいてみる。

 その時だった。

 

 ガツンッと、鈍い音と衝撃が、俺の後頭部を襲った。

 

「がッ……あ……!?」

 

 俺は声にならないうめき声をあげ、そして意識を手放した。

 

 

 ◆

 

 

 そして、今に至る。おばさんはまだ何か俺に捲し立てているようだが、言葉が通じないと分かったのか、共犯者であろう、食事をとっている最中の老婆のところに行った。

 すると彼女は、老婆と一言二言言葉を交わし、何か錠剤のようなものを貰った。

 再びおばさんは俺の方に来て、いきなり俺の顔を掴んだ。

 

「ンぐ……!」

 

 俺は思わずうめいて、少しだけ口を開けた。その隙をおばさんは見逃さず、錠剤を俺の口に押し込み、無理矢理呑み込ませた。

 

「ぐ……ゲホッ!」

 

 吐き出そうとしたしたころにはもう遅く、錠剤はもう喉を通り過ぎてしまっていた。

 

「ようし、あんた、アタシの言葉がわかるね?」

 

「ゲホ……え……なんで?」

 

 何故なのかわからないが、先程までわからない言語を話していたおばさんが、いきなり日本語を話し始めた。

 いや、日本語に聞こえると言った方が正しいかもしれない。よくよく聞くと言ってる言葉は変わらないのに、何故か瞬間的に日本語だと、脳が勝手に解釈している感じだ。

 言葉が通じるのを確認したからか、おばさんは少しだけ機嫌を直して、老婆の方を向いた。

 

「さすがにベルのやつの薬だねぇ。あの女、クズだが腕は確かだ」

 

「まったく高くつくね。薬の値段分以上は、しっかり仕込むんだよ」

 

 仕込む、という言葉に、俺は言いようのない悪寒を覚える。俺の怯えた顔を見て、おばさんは嬉しそうに話しかけてきた。

 

「黙ってな。痛い思いはもうしたくないだろう?」

 

 そういって彼女は、何らかの薬液が入ってるのであろう注射器を、これ見よがしに俺の目の前に持ってきた。

 

「何を……するつもりなんだ?」

 

「アンタには2つの選択肢がある。ここであたしらにレイプされるか。それとも大人しく薬漬けになって、金持ち共のペットになるか」

 

「な!?」

 

 今コイツらは何と言った? レイプ? 薬漬け? 女が男を?

 そういう話は日本でも全く聞かないことも無いが、ここまで暴力的な話は聞いたことがない。しかしあながち冗談でもないらしく、おばさんは非常に強い力で俺を服を掴み、そして無理矢理脱がせ始めた。

 

「ああ、たまんないね。決めたよ、売る前に味見しようか」

 

「ほどほどにしなよ」

 

 未だ食事をしている老婆にそう言われながらも、おばさんは充血した目で俺の服を脱がしてきた。

 

 恐ろしい。叫びたいはずなのに、声が出ない。過呼吸になりそうだ。

 おばさんは手近なタオルを俺の口に突っ込んだが、そんなことをされなくても、うめき声一つ上げられそうになかった。

 俺が何をした? こんな、こんな目に遭うくらい、許されないことをしたっていうのか?

 

「大人しくしてな、ビッチ」

 

 助けてくれ、チクショウ誰でもいい、誰か……!

 

 

 

 ――コンコンコン、と、ドアが3回、そして少し間をおいて4回、ノックされた音が部屋に響いた。

 

「……出な」

 

 老婆にそう言われたおばさんは、舌打ちをして俺から離れた。

 おばさんはドアスコープを覗いた後にドアを開けて、ノックした客人たちを部屋に入れた。

 

「おはよう、朝食中に失礼」

 

 そう言って、部屋に入って来た一人と、俺は目が合った。

 

 

 

 淡くきめ細かい、一切の陰りもないホワイト・ブロンドのショートヘア。

 陶磁器のような肌にはめ込まれた、フォスフォフィライトを思わせる薄緑の瞳は、ぞっとするほど美しかった。

 ミリタリージャケットにジーンズという格好も相まって、中性的でどちらともとれる。けれど、声から察するに女の子なのだろう。

 触れてはいけないとさえ感じさせる、ガラス細工で出来たナイフのような、男装の麗人だった。

 

 

 

「……こいつは?」

 

 これが、俺こと梁木緑郎(はりぎ ろくろう)と、少女イトとのファーストコンタクトだった。

 




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02.Girls

 時刻は少し遡り、朝の7時半過ぎの、とある安ホテルの廊下。日差しが宙に舞う埃を小さく、チカチカと光らせていて、床はいつ崩れて足を踏み外してもおかしくはない。そんな廊下を、二人の少女がゆっくりと歩いていた。

 

「ねえ、あの話……聞いた?」

 

 片方の、ウェーブのかかった髪を携えた小柄な少女が、もう片方に聞いた。ミニスカートをフリフリと揺らしながら、少々溜めて聞くものだから、きっとそれは言いにくい類のものなのだろう。

 

「……なにが? またポルノ映画に男を誘ってフラれた女の話?」

 

 そう聞く片方は金髪のショートヘア。その容姿と相まって、ジャケットにジーンズというラフな格好なものだから、一見すると美少年にも見えるだろう。

 

「違うって。イト、知らないの? うちらのグループのやつが、ロジーのババアのオトコに手ぇ出して、ワニのいる池に突き落とされた話」

 

「あぁー、嫌んなるくらいよく聞いたよ。それが?」

 

 心底辟易したように、イトと呼ばれたショートヘアの少女は相づちを打つ。ロジーとは、彼女らのパトロン。いわば、大ボスのようなものである。

 彼女ら二人は、いわゆるストリートチルドレンと呼ばれる子供たちだ。身寄りもなく、頼れるものもなく、日銭を稼ぐために大人たちの危ないお使いをこなすだけの存在。毎日毎日、ただただひたすらにドブをさらうような日々。今回彼女らが、こうやってホテルの廊下を歩いているのも、その『危ないお使い』のためなのだ。あるいは、イトのその態度は、そんな現状を鑑みてのものかもしれない。

 

「なんでも、健康法だか何だかって言って、男に指のマッサージをしてたら、ババアに見つかったんだってさ。バカもいいとこ」

 

「……なに? ちょっと待て、ルーラ。手ぇ出したって、指をマッサージしただけ? それで『手を出した』って?」

 

「そうだよ、何さ?」

 

 何を当然のことを聞いてるんだと言わんばかりに、ルーラと呼ばれた、ウェーブの髪の少女は首を傾げる。それを見て、イトは頭痛がしてきたのか、こめかみを指で押さえた。

 こんなやり取りをしているが、この世界ではルーラの反応こそが一般的だ。彼女らがいる世界において、若く綺麗な男は、希少性と有用性が高い『商品』であり、人が当然に持てる自由や権利など、望むべくもなかった。件の少女の行いは、マフィアの大切な『商品』に、無断で手垢をつけたに等しい。

 この世界の社会と歴史は、『力』を持った女が作っている。

 

「なあなあなあなあ、ちょっと、じゃあなに? 私たちは今、男の指を触ったからって、貰えるはずだった50ラルをふいにして、ベーグルを食べることも我慢してこんな朝っぱらから馬鹿みたいに歩いてるわけだ? たったそれだけのことにあのババアは癇癪起こして、払うべき金も払わねえわけだ! あの油ぎったクソババアはよぉ!」

 

「声がでかい、バカ! しょうがないじゃん、断ったら何されるか、散々見てきたでしょうよ」

 

「ッ……ああ、クソ!」

 

 相当苛立ったのだろう。イトは壁を勢いよく殴った。

 前述の通り、彼女らはストリートキッズだ。彼女らが死んで騒ぐ遺族など居るはずもない。それ故に、俗に言う法に触れる仕事、とりわけ命の保証がないような仕事に、パトロンたちは彼女らをよく使っていた。

 学もなく、地位も保証もなく、そして消えればむしろ、社会から感謝されるような存在だ。そんな彼女らを、大人たちが積極的に使わないはずがなかった。

 

「イト……」

 

 癇癪を起こしたイトに、ルーラは呆れたような、それとも心配したような声色で、イトを見る。

 

「……悪いルーラ、落ち着いた。さっさと終わらせよう」

 

「はぁ……終わったらさ、ベーグル御馳走するから。ほら、リバーサイドのレストランの」

 

 ルーラが溜息をつきながらそういうと、イトは呆れたような目で彼女を見た。

 

「あのチョコを掛け過ぎてベッタベタの?」

 

「そう、あの異常にくどい」

 

 そう言い合うと、二人はお互いに、乾いたような笑顔を見せた。それはどこか、現実を少しだけでも忘れられるようにと、そう願っているような、ある種の虚しさが潜んでいた。

 イトとルーラはそれ以上何も喋らず、廊下を抜けてエレベータのボタンを押した。

 

(……いつまで、こんな生活しなきゃならないんだろうか)

 

 エレベータを待っている間、イトはふとそんなことを考えていた。

 こんな、一歩間違えれば死体も残らないような仕事を毎日していて、手に入るのは、貰えないよりはマシな程度の金だけだ。

 そんな風に、昨日一緒に愚痴っていた仲間が、今日は下水道に浮いている。

 少し前は、明日は自分の番じゃないかと考えて、眠れなくなった日も少なくなかった。

 最近はそれに加えて、よしんば生き残ったとして、歳をとって老婆になってもこの生活なのか? と、それはある意味死ぬより恐ろしいように思えて、より大きな不安が頭を支配する。

 不安が無かった日など、果たして自分の十数年の人生であっただろうか。イトは、自嘲でもするようにそんなことを考えた。

 

 イトは、変化が欲しかった。

 なんでもいい、この生活が一変するような、そんな変化なら、なんでも。

 

 エレベータの到着した音がフロアに響く。イトはその音を聞いて、ひとまずそれ以上考えることを止めた。二人は中に誰もいないことを確認して、エレベータに乗った。

 

「……ルーラ、準備」

 

「うん……」

 

 イトは腰の部分に、ルーラはジャケットの懐にそれぞれ手を回した。

 

 彼女らは手にした『錠剤』を一粒だけ飲み込んだ。

 イトがリボルバーを。ルーラがオートマチックの拳銃を抜き出す。

 弾倉の弾を見る。イトは6発のマグナムを、ルーラは7発のパラベラムを。

 ルーラはセーフティを外す。

 イトは撃鉄を引き、ワンアクションで撃てるようにする。

 お互いが銃を再びしまった頃、ちょうど、エレベータの表示が目的の階になる。

 

 チン、と、エレベータがついた音がした。

 イトが、ロジーから聞いた部屋番号の場所へ向かう。

 

「……237号室、あれだよ、イト」

 

「……嫌な数字の並びだぜ」

 

 それは望んでも無いのにすぐ見つかり、二人はその扉の前にそうっと忍び寄る。

 

「いくよ」

 

「OK」

 

 ルーラの承諾を聞いて、イトは扉を3回、そして少し間をおいて4回、ロジーに聞いた通りのリズムでノックする。すると、中からロックを外した音が聞こえた。

 扉が開く、その時点でイトからは、扉を開けた老婆と、そして朝食をとっている小太りの中年女性が見えた。

 

「おはよう、朝食中に失礼」

 

 イトは憮然とした態度でそう言って、中に入っていく。

 中に入ったとき、彼女はあるものを見て、動揺したように、目を見開いた。

 黒髪黒瞳の、若い青年がいたのだ。

 



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03.Fixer

 ホテルの部屋に入ったイトは、ほぼ半裸にまで衣服を脱がされた緑郎を見て、少し……いや、かなり動揺した。もちろん、それが周りに悟られないように、ではあるが。

 

「……で?」

 

「あ、ああ……コイツは、買ったんだよ」

 

 イトの高圧的な態度にややたじろいだ中年女性は、バツが悪いようにそう言った。

 

「買ったぁ? 黒髪黒瞳の若い男を?」

 

 イトはそう言いながら緑郎をじっと見つめる。

 見れば見るほど、濡れガラスのような見事な髪に、黒曜石のような瞳だと、彼女は素直にそう感じた。

 イトたちのいる世界では、男はただでさえ希少な愛玩動物だが、その上容姿が優れているとなると、それこそセレブたちのオークションで、億では効かないほどの値段で競りに出されるレベルになる。

 その中でもとりわけ黒髪と黒瞳は、世界中からかき集めても、両手の指で数えられる程の希少さを持つ、トップレベルにレアな『品種』なのだ。

 それを『買った』などと言うものだから、イトは思わず鼻で笑ってしまった。

 

「ルーラ聞いた? とんでもないセレブだぜこいつら。買ったんだとさ、黒髪黒瞳を。世界に10人もいない激レアを」

 

「すっごいね~! そんなにみすぼらしいナリしてるくせに。西海岸にデカい別荘でも持ってんの?」

 

 ルーラは部屋の奥の窓がある方に行っており、いつの間にか、二人が出口を全て塞いだ形になった。

 

「そ、そんなのどうだっていい! 何しに来たんだ!」

 

「焦んなって、今話すからさぁ」

 

 いかにも焦っている女性とは違い、イトは一貫して落ち着いた様子で部屋を見回し、そして、老婆が座っているテーブルの、朝食に目をつけた。

 

「……なあ、何喰ってんの、それ?」

 

 イトは抑揚のない声で、老婆に聞く。

 

「あ、ああ……モーニングセットさ。デリバリーの」

 

「どこのデリバリーだって聞いてんだよ」

 

「その……『ラ・シャルティエ』だよ」

 

「『ラ・シャルティエ』! ここら辺じゃ一番の高級レストランじゃないの! あそこ、シフォンケーキも絶品だろ?」

 

「あ、ああ……美味かったよ」

 

「へえぇ、そうなんだ。まあ、私は高くて食ったことないから知らないけど」

 

 上っ面は楽しそうに、友達とでも喋るかのように、イトは老婆にそう言った。よく見ると、その薄緑の瞳は全く笑っておらず、それが老婆と女性には不気味でしょうがなかった。

 

「なあ、実はさぁ朝飯抜いて今ここにきてるんだよ。せっかくだし味見してもいい?」

 

「ああ……どうぞ」

 

「どうも……うん、美味い! ルーラ、アンタも食えよ。スモークサーモンってやつだぜ、これ」

 

「悪いけど、そいつが使ったフォークで食べたくない」

 

 ルーラの返答を聞く間もなく、実にリラックスしているかのように、イトは老婆の対面に立ち、2枚目のスモークサーモンにフォークを刺した。

 そこへ、いい加減しびれを切らしたのか、中年女性がイトに近づく。

 

「アンタ、誰だか知らないけどいい加減に……」

 

 

「『ロジー』は知ってるだろ?」

 

 

 女性の言葉に被せるように、イトは自分たちのパトロンの名を口にした。それを聞いた瞬間、女性と老婆はみるみるうちに顔が青ざめていった。

 

「私たちはロジーの身内のモンだ。アンタら、一週間ほど前にあいつに高い『錠剤』を売ったんだよな。忘れたか? あ?」

 

「あ、ああ。覚えてるとも、もちろん」

 

 イトの問いに、老婆は目を合わせないでそう答えた。

 

「じゃあ話は早い。ロジーが言うにゃな、金を振り込んだのに未だにブツが届かねえって言うんだよぉ」

 

 それを聞きながら、老婆はゆっくりと手をテーブルの下にやる。中年女性も同様に、物音一つ立てずに、備え付けの棚へと近づく。

 

「なんかさぁ、私も面倒くさいしさあ、気も進まないけど、朝飯も食わしてもらったわけだし、ここらで穏便に済まさない?」

 

「ほう……穏便って、具体的には?」

 

 ゴト、酷く小さく、重いものを持ったような音が二つ。それに覆いかぶせるように、老婆はイトにそう聞く。

 

 

 

 

「殺す」

 

 

 

 

 セリフ後コンマ1秒足らず、老婆はイトに、女性はルーラにそれぞれ銃を向ける。

 

 イトは机を蹴り上げた。辺りに食器と料理が散らばる。

 

 彼女は身をかがめる。

 頭のあった場所に、銃弾が通った。

 ルーラも同様、一瞬で身を低くし、女性の銃の一発目を逃れた。

 

「コイツら『錠剤』を飲んでるよ!」

 

「ヤク中共がァッ!!」

 

 老婆と女性がそれぞれ叫び、2発目の照準を合わせる。

 女性がルーラに向けて、引き金を引く。

 

 寸前

 

 

「よく狙えよ」

 

 

 イトが女性に向けて撃った。イトが呆れた声でそう言い終わる前に、女性の側頭部に赤黒い穴が開いた。

 

「ガキどもがァ!」

 

 そう言い放ち銃を振り回す老婆に、イトはすかさず銃口を向ける。しかし、それはルーラも一緒だった。

 

「イト!」

 

「ッ! まだ殺すな!」

 

 イトがそう叫ぶも、もう遅かった。

 甲高い発砲音。

 ルーラが老婆に放ったそれは、見事にその左胸を打ち抜いていた。

 

「イト、大丈夫!?」

 

 ルーラはイトを心配して、彼女に近づく。しかしそんなルーラの心情とは逆に、イトは彼女の胸ぐらを掴んだ。

 

「なんで殺した!? まだ『錠剤』の場所を聞き出してないんだぞ!」

 

「なッ……助けてやったのに何さ、その言い草!」

 

「ブツがなきゃ、どっちみちロジーに殺されるんだぞ! 私だけじゃなくアンタまでッ!」

 

「ああそう、ああそう! 死んでまでババアに気に入られたいんなら、勝手にすれば!」

 

「……クソ!」

 

 それを最後に、イトはルーラを離した。

 

「……それにさ、他に考えなくちゃいけないこと、あるんじゃない?」

 

 ルーラはそう言って、部屋の隅で憔悴しきった顔をした男、緑郎を見た。

 

「あいつ、どうする?」

 

「……わからない、このままってわけにもいかないだろ」

 

 イトは緑郎に近づき、口に突っ込まれたタオルをとってやる。

 

「アンタ大丈夫? 名前は?」

 

「はっ……はあ……梁木、梁木……緑郎」

 

「ハリ……長いな、ハリでいいや」

 

 イトは勝手にそう決めるが緑郎……ハリはそんなことに突っ込む気はないし、そもそもそんな気力もなかった。

 

「私の名前はイト。ハリ、アンタ、あの女どもが錠剤か何か持ってたの、見てない」

 

「そ、それなら、あの婆さんの方が、ジャンパーの内ポケットに、そんな感じの袋を持ってるのを見たよ」

 

「ありがとう」

 

「な、なあ……俺逃げていい?」

 

「ダメ、逃げようとしたら後ろから撃つ」

 

 黒髪黒瞳の貴重な男、そもそも殺人現場の目撃者とあっては、絶対に逃がすわけにはいかない。

 イトのその答えを聞くと、ハリは夢も希望もないという具合に、ぐったりとうなだれた。

 

「ルーラ」

 

「探してるよ」

 

 ルーラはすでに、老婆の着ているジャンパーをまさぐっている。するとハリの言っていた通り、内ポケットに『錠剤』がいくつか入った透明袋があった。

 中には、青いバラを模した、宝石のような『錠剤』が入っていた。

 

「きれい……」

 

 ルーラは、まるで魅せられたかのように、まじまじとその『錠剤』を見つめる。

 

 

 

 そんな彼女の腕を、斃れていた老婆がいきなりつかんだ。

 

 

 

「わあぁッ!」

 

「ルーラ!」

 

 ルーラが思わず悲鳴をあげる

 イトは拳銃を構えるが、引き金を引く寸前のところで、老婆が何かぼそぼそと喋っているのが聞こえた。

 

「―――……」

 

「……なんだ?」

 

 

 

「……これ、で、逃げれ……る……『クリーピーローズ』。あとはあの男さえいれば、こんな生活、から……」

 

 

 

 

 それを最後に、老婆はルーラから手を離し、そして、今度こそこと切れた。

 あの男。そう言った時、老婆はハリを見ていた。

 

「イト……今の……」

 

「……とにかくもう、帰ろう。疲れたよ」

 

 イトはルーラにそう言いながら、ハリの拘束を解いた。

 

「ああそうだ、ハリ。腹へってる?」

 

「……まあ」

 

「くどいベーグルは好き?」

 

 そう言った彼女の腹から、空腹を示す音が聞こえた。

 



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04.Safe

 今の俺の表情は、第三者から見たとして、どんな風に見えているのだろうか? とりあえずは、まず間違いなくハッピーな顔じゃないことだけは確かだろう。

 誘拐犯から解放されたはいいものの、俺は未だ、自分の置かれた現状をまったく把握できていなかった。

 少なくともわかっているのは、――窓の外から空を見た限りでは――今の時間が朝くらいで、俺は今、街中を走っている車の、その後部座席に座っているということだけだ。

 俺を助けてくれた……と思っていいのかはわからないが、イトと名乗った女の子の車らしい。だいぶ使い込まれた旧いタイプの、それこそ昔の洋ドラでよく見るような、アメ車のセダンだった。

 どう見たって高校生くらいの子が、なんで自前の車を持っているんだ、という疑問もあったが、あんなハリウッド顔負けの銃撃戦をやってのけた子たちだ。普通じゃないのはさすがにわかった。

 

「あ、あの、ちょっといい?」

 

 俺がそんなことを考えていると、助手席にいる、イトと一緒にいる女の子が俺に話しかけてきた。

 ウェーブのかかった、プラチナブラウンのミドルヘアを持つ。小柄で可愛らしい子だった。

 ホワイトブロンドでショートヘアのイトが男装の麗人という印象なのに対し、この子はまさしく美少女と言うにおあつらえ向きだろう。

 二人で並ぶところを見れば、それは大層、絵になることだろう。俺はそんな、状況に合ってないことを考えてしまった。

 

「あ、えっと、ゴメン。まだ名乗ってなかったっけ? わ、私ルーラ。そこのイトの仲間」

 

 ルーラと名乗った彼女は、そう言いながら、イトの方を指さした。なんでかはわからないが、先程のイトと話してた時と比べて、どうにもぎこちない話し方だ。顔が少し赤いし、バックミラー越しにこちらを見ている割に、こちらが見るとすぐに目をそらす。それを少し不思議を思いはしたが、とりあえずは彼女の問いに素直に応答することにした。

 

「え、ええ、もちろんです。遅れましたが、さっきは助けてくれて、本当にありがとうございます」

 

「いやいやそんな、全然……」

 

「……早計じゃないか? まだ助かっただなんて思わないほうがいいぜ」

 

 運転していたイトが、ルーラの言葉に被せてそう言ってきた。

 ……やはりまだ助かってないのだろうか?

 先程から懸念していた不安が再び出てきた。

 確かに薬漬けにされて売り飛ばされることだけは回避できたが、それはあくまで、あの場だけでの話だ。さっきの場面から見ても、この目の前にいる二人がカタギの人間ではないことは十分すぎるほどわかる。

 なにより、目の前の二人が人を殺す場面を見てしまったのだ。

 ……そう、殺人だ。未だに先ほど起こったことに現実感がない。

 連れ去られたこの場所がどこかはわからないが、少なくとも現代社会においては、大体の国において殺人は罪となるはずだ。

 そう考えると、現場を目撃した俺に対して、彼女らが同じことをしない保証などどこにもないのだ。薬漬けどころか臓器を全部抜かれる可能性すらある。

 そう考えていると、彼女ら二人はひそひそと小声で話し合っていた。……もしかして、これから俺をどうするか相談しているのかもしれない。

 

――ちょっと、何その態度! もうちょっと気の利いたこと言えないわけ?――

 

――な、なんだよ……しょうがないじゃん。本当のことだろ?――

 

――あの言い方じゃうちらまで『そういう目的』みたいに聞こえるじゃん! せっかく会えたいい男に嫌われるなんて冗談じゃないからね!――

 

――んなこといったって、男となんか接してきたことないんだから、どう言えばいいかなんてわかるかよ……――

 

――ハアッ!? そんなんだからアンタ、未だに男と手を繋いだことも無いバージンなんだよ!――

 

――バッ……!? それはお前もだろうが! いい加減カビが生えるくらいとっといてるくせによぉ!――

 

 ……何やらバージンだなんだと言っているみたいだが、ひょっとして裏社会の隠語か何かなのだろうか? わからないが、恐ろしいことにあのひそひそ話で俺の将来が決まるかもしれないのだ。それならば、ちょっとでも口をはさんでみて、なるべく悪い方向を避けてもらうよう言ったほうがいいだろう。

 ……そもそも冷静に考えれば、あの誘拐犯たちがずいぶんと奇特だっただけかもしれない。俺はただの20歳前の男性で、そういう、性的な需要なんてのは薄いはずなのだから。今日見たことは話さないと、口の固ささえアピールすればその辺で降ろしてくれるかもしれない。

 我ながら随分と甘い考えだとおもう。そんなことで見逃してくれるのならば、さっきあのホテルで逃がしてくれてたはずだと。けれども、今はその一縷の望みに賭けるしかなかった。

 

「あ、あの、ちょっといいですか、ルーラさん?」

 

「え、あ、うん! ルーラでいいよ、なに?」

 

「その……よくわかんないんですけど、俺、今日見たことは誰にも絶対話しません。だからその、その辺で降ろしてもらえませんか?」

 

 一瞬、イトの運転がぶれた。

 

「「……は?」」

 

「……え?」

 

 それは威圧としてのものではなく、本当に純粋に『何を言ってるんだコイツは?』と言う類の声だった。

 しかし、まずいことを言ってしまったことには違いないのだろう。それがかえって恐ろしく感じてしまい、思わず口を噤んでしまった。

 

「……お前自分が何言ってるかわかってる?」

 

 イトがバックミラー越しに俺を見て言った。

 

「いや、ホントに、絶対誰にも喋りませんから」

 

「そこじゃない。いや、それもあるけど、そこはそんなに重要じゃない」

 

 何だかよくわからなくなってきた。口封じが重要じゃないというなら、他に何があるのだろう?

 単純に臓器が目的? いや、でもなんだか、言い方に違和感がある。

 まさか本当に、さっきの誘拐犯と同じ? 

 ……自分で考えてて馬鹿らしくなってくる。そんなはずないだろう。それこそまさかだ。ハッキリ言って、この子達はどっちも超が付く美人だ。百歩譲って彼女らの目的が『そういうこと』だとしても、わざわざあの誘拐犯達みたいなことをしなくたって、男の方からいくらだってすり寄ってくるはずなんだから。

 

 ……しかし、どうやら彼女たちはそう思ってはいないらしく、ミラー越しに俺を見るその目には、一切の冗談気はなかった。

 そんな俺の考えを裏付けるように、イトは言った。

 

「アンタが道端に立ってたらどうなる? 隣に現金輸送車がドアを開けて札束見せびらかして停まってたって、みんな目もくれずアンタの方に行くよ」

 

「な、なんでそうなるんですか? 俺はその辺に腐るほど転がってる、ただの一般人なのに」

 

「いやいやいや! 君が腐るほどいたら、この世のセックスワーカーはみんなとっくに廃業してるって!」

 

 俺がイトに答えたことを、ルーラがぶんぶんと手首を振り、思い切り否定する。

 ……なんだろう、嫌な予感がする。先程からかなり、いや全てにおいてと言っていいほど、認識の齟齬がある気がしてならない。

 焦っているのか、俺はいつの間にか、語気が少し強くなっていた。

 

「だからなんでそう言う話になるんです!? 俺はただの一般の男性だ!」

 

「男性って時点で、もう一般じゃないだろ」

 

「…………は?」

 

 どういうことだかわからない、といった様子の俺に、イトはさらに追い打ちをかけた。

 それは思っていた以上の特大の追い打ちだった。

 

 

「男の人口は、世界で約5百万人。これは世界人口の1%未満だ」

 

 

 イトはいつの間にか、路地裏に車を入れ、そして道端に停めた。

 そして、俺の方に振り返って、話を続けた。

 

「今じゃ、宝石やプラチナなんて目じゃない『超高級品』なんだよ」

 

 ……ここにきて、俺は一番忘れちゃいけないはずの疑問を思い出した。

 

 ここはどこなんだ?

 



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05.States

 かの伝説的な物理学者が提唱した相対性理論いわく、時間というものは、それを享受する人間によって速度が変わってくるらしい。つまらない仕事をしているときは遅く感じるし、遊んでいるときは逆に短く感じるというのは、大抵の人の身に覚えがあるものだろう。

 俺がホテルで目を覚ましてからここに来るまで、いろいろなことがあり過ぎた。そんなもんで体感的には1日以上経っているように感じたが、しかし現実にはまだ――ここに入る前にチラリと外を見た限りでは――太陽がまだ昇り切ってすらいなかったのだから、やはり相対性理論というのは正しいのだと、実感せざるを得ない。

 

「どうした、大丈夫か?」

 

 俺がそんな現実逃避をして天井をぼうっと見ていると、向かいの席に座っているイトがそう言ってきた。

 

 俺たちは今、車から出て、イトたちが隠れ家に使っているという路地裏のパブ、その奥の部屋にいた。

 イトたちが言うには、俺の存在は絶対に人に見られたくないらしい。このパブは建物の地下にあって目立たないし、今の時間は誰もいないから、ということで、俺はそこに通されたのだ。

 

「ああ、いや、大丈夫ですよ。どうも」

 

「そうか。でも人が死ぬところを見たわけだし、辛いなら言えよ?」

 

 彼女はそう言いながら、その薄緑の瞳で俺を真っ直ぐと見ていた。

 俺はそれに、とりあえずただ首肯した。

 はっきり言って、まだショックが抜けてないといえば噓になる。今まで画面の中にしかなかったガン・ファイトが現実になるというのは、思っていた以上に俺の精神を削ったようだ。

 

「……ま、大丈夫ならいいんだけどさ」

 

 強がっていやしないかと疑っているのだろう。イトは俺の対応に今一つ納得できないようで、腕を組みながら、訝しんだような目をした。

 

 ……これはただの願望だが、彼女はひょっとして良い人なのではないかと、そんな甘い考えが俺の思考をよぎった。それにイトがどう思っていようと、結果的には俺の恩人なのだ。無論、それでも今朝あったばかりの彼女を、まだ信頼できているとはとても言えないが。

 考えていると、小走りでこちらに向かってくる足音が聞こえた。

 

「お待たせ、コーラが冷えてたよ。ハリくん炭酸飲める?」

 

 どうやらあの子……ルーラが、冷蔵庫から飲み物を持ってきたらしい。彼女の腕には3本、瓶のコーラが抱えられていた。彼女はイトの隣に座り、コーラをテーブルに置いた。

 

「はい、ありがとうございます、ルーラさん」

 

「だから呼び捨てにしてって、なんかむず痒いし。敬語もいらないからさ」

 

「……まあ、確かに私もそうしてくれた方が助かるかな、何だかやりにくいし」

 

 ルーラとイトが俺にそう言ってきた。

 正直な話、まだ少し抵抗はあるが、特段断る理由もないだろう。俺は素直に敬語とさん付けを取っ払ってしゃべることにした。

 

「わかりま……わかった。じゃあイト、とりあえず本題に入っていいか?」

 

「……いいよ。お互い、聞きたいことが山ほどあるだろうしな」

 

 イトはそう言って、顔を少し強張らせる。ルーラにいたっては緊張しているのか、姿勢を直して聞く準備をしていた。

 とりあえず俺は、もっとも聞くべきことを最優先で聞くことにした。

 

「まず一つ目。ここはどこだ? アメリカか?」

 

 アメリカか? と聞きながらも、俺はきっと違うだろうと考えていた。もちろんそう聞いたのには理由がある。さっき車に乗っていた時、窓の外から見えた景色が、まるで80年代の洋画に出てくるアメリカの街並みにそっくりだったのだ。

 そう、『80年代』のアメリカだ。街で見た建物も、車も、看板も、どれもこれもまるでタイムスリップしてきたかのような、ノスタルジックにすら感じる造形のものばかりだった。たまたまそういう場所だったというわけでもないだろう。そこそこ大きな道路で、何十という車とすれ違ったにも関わらず、全部が全部80年代以前のデザインなんて、それこそ有り得ない確率だ。

 

「あめりか? いや、聞いたこともない地名だ」

 

 しかしイトから出た言葉は、俺の予想よりもずっと衝撃的だった。

 

「……アメリカを知らない? 本気で言ってるのか、あのアメリカ合衆国だぞ?」

 

 普通に生きてきて……少なくとも、いかにもなほど文明の豊かさが見て取れるこのこの場所で、あの超大国アメリカを知らないなんていうことが、果たしてあるだろうか?

 普通だったら俺だって、ジョークのセンスが悪いねなんて言って、歯牙にもかけないような対応をするだろう。

 けれど、イトの本気でわからないという顔が、俺にそれを許さなかった。

 

「こんな時に冗談言うかよ……。だいたい、合衆国なんてこの『エルドラ』しかないだろ?」

 

 『エルドラ』、イトの口から聞きなれない、恐らく国の名前を聞いた俺は、思わず真顔で黙ってしまう。その態度で察したのだろう。イトは説明を続けた。

 

エルドラ合衆国(United States of El Dolado)、これが今、お前がいる国の名前だ。……聞いたことは?」

 

「……ない」

 

 俺は動揺したが、しかしはっきりとそう答える。驚いたのはイトとルーラも同じようで、俺の言葉に眼を見開いた。

 エルドラ。黄金郷を意味するその単語は、しかし俺の知る限りでは国の名前ではなかった。

 少しばかりの、気まずい静寂。

 それの数秒後、イトは言いにくそうに口を開く。

 

「ハリ……お前の思いつく範囲でいい、世界中の誰もが知っていると思えるものを、できる限り言ってくれ。宗教でも歴史の出来事でも。それと、お前がなんて言う国から来たのかも」

 

 彼女は恐らく、ある考えが浮かんでいるのだろう。それはきっと俺と同様のものだ。

 

「生まれ故郷は、日本っていう国だ。知ってるか?」

 

 俺の言葉に、イトもルーラも首を横に振る。それを見て、ある考えへの不安がより一層、俺の頭の中で大きくなった。

 冷や汗が出る。『そんなこと』は有り得ないだろうと、SFの見すぎだと、もしこの場で誰か茶化してくれたらどれだけいいだろうか。

 

「イギリス、ドイツ、イタリア。ハリウッド、カリフォルニア、サンフランシスコ。アインシュタイン、ピカソ、エジソン。キリスト教、仏教、イスラム。ベトナム戦争、フランス革命、第二次世界大戦、911テロ。……この中で一つでも、知っている単語は?」

 

「……いや、どれもこれも聞いたことすらない」

 

 それを聞いて、俺はある予感がした。イトも同様のようで、参ったとでもいうように、こめかみを手で押さえる。

 本当は盛大なヤラセなんじゃないかとさえ、未だに思っている。実はこの街も全部セットで、イトたちも実は俳優で、どっかのハリウッド映画みたいに全員で俺をダマしてるんじゃないかとさえ。

 けれど、そうじゃないのだろう。全く持ってあり得ないが、きっと『そうじゃない』のだ。

 

「え、えぇ? どういうこと? わかんないよ、イト。説明して」

 

 ルーラはそう言いながら、イトの服をつまんで、彼女の顔を覗いた。

 

「……ルーラ、やばいよ。SF映画の見すぎだって言われても、私は否定できそうにない」

 

「だから何が!」

 

「……三つ考えられる。ハリがとんでもなく情報が統制されたド田舎から拉致られたか。それか、とっくに薬漬けにされて脳がダメになっているか」

 

 イトはそう言い含めて、一本、二本と指を立てながら説明する。

 

「三つめが一番突拍子がないけど、一番、今の状況にしっくりくると思う」

 

 彼女は三本目の指を立て、言った。

 

「それか、ハリが全く別の世界から来たか」

 

 やはりそうなのだ、ここは。

 ここは、俺がいた場所とは違う世界。

 俗に言う、異世界だ。

 



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06.Male

 異世界、俺が住んでいた場所とは、全く異なる遠い世界。今俺がいる場所は、その異世界であるという。

 漠然とだが考えていたその可能性は、イトの話によってより具体的に、そしてよりはっきりとした可能性として、俺の前に立ちはだかった。

 

「ち、ちょっと待ってよイト、じゃなに? 今目の前にいるハリくんは、宇宙人ってこと!?」

 

 イトの話についていけないとでもいうように、ルーラは彼女に問い詰める。

 無理もないだろう。俺だってまさかまさかと思っている。今だって、ひょっとして大がかりなセットまで使って俺をダマしてるんじゃないか、と思っている部分があるのだから。

 

「そこまではわからないっての。ただ、ここまで常識がすれ違ってるんだ。ハリが、私たちの知らないような遠い場所から来たのは、間違いないだろうよ」

 

 しかしイトは、慌てているルーラに冷静に、しっかりと彼女を見て言った。

 彼女はきっと聡明なのだろう。こんなわけのわからない状況の中で冷静に、俯瞰的に見て、ちゃんと話をすることができるのだから。

 

「うぅ~……まあ確かに、男の子一人で街の外に出ようとするなんて、絶対有り得ないけどさ」

 

 ルーラが言った言葉をきっかけに、俺は先程からのどうしようもない違和感の正体に気が付いた。

 そうだ、ここに来る前に、イトは言った。この世界は男が希少で、全人口の1%しかいないと。『超高級品』だと。

 とても信じられないが、俺が車から降りたいと言ったときの、彼女らのあの慌てようは、明らかに普通じゃなかった。それが嫌な方向に信憑性を増していた。

 

「……あのさ、さっきから疑問なんだけど。男一人で街を出歩くことって、そんなにやばいのか?」

 

「ハアッ!? マジで言ってんの、世間知らずすぎでしょ!?」

 

 俺がその疑問を口にすると、ルーラは机に身を乗り出し、俺に叫んだ。

 俺がルーラの勢いに驚いてのけぞっていると、イトは頬杖をついて聞いて来た。ルーラとは対照的に、あくまで静かな声色で。

 

「……お前さぁ、自分がどういう存在かわかってる?」

 

「どういうって……、俺が『男』ってことか?」

 

「そう。お前はなんて言うか、その、自分が男だって自覚が少しもない気がするんだよ。それも、黒髪黒瞳の美男子っていう、警察だってベルトを外しながら追っかけるような、特大オプションまでついてるのにだ」

 

「びな……ッ!? あー……えーと、さっきから思ってたけど、俺の男っていう部分をやけに強調してやいないか?」

 

 ノーガードのところをいきなり褒められて狼狽えてしまったが、俺は寸でのところで気を取り直し、逆にそう聞いた。

 するとイトは、やれやれといった感じで、それに応える。

 

「……ここに来る前のさ、車の中で話したことは覚えてるだろ?」

 

「……男は希少って、話だよな?」

 

「そう」

 

「……悪いんだけど、そうは言われても、未だにそれがどういう意味を持ってるのか、まだ掴みきれてないんだ。その辺も説明してくれないか?」

 

「わかった。……じゃあルーラ、説明して。私はコーラ飲むから」

 

「いや、え? 今アンタが説明する流れじゃん!?」

 

 ルーラはいきなり振られたことに突っ込むようにイトに掴みかかるが、当の本人は無視を決め込んで、コーラを口につけ始めた。

 それを見たルーラは溜息をついて、イトの服を離した。そして俺の方を見て、まだ対面して喋ることになれてないのか、大げさに咳ばらいをし、緊張した様子で話し始めた。

 

「ゴホン……。えーと、じゃあハリくん。この世界の男って、どういう存在だと思う?」

 

「どうって……イトの言った通り、めちゃくちゃプレミアのついた存在って話じゃないのか?」

 

「そうだけど、それだけだと説明不足。まず、ハリくんのいた場所ではどうなのかは知らないけど、少なくともこの世界で『男を持ってる』って言ったら、それだけで社会で成功したようなものなの」

 

「そんな、そこまで……」

 

「大げさじゃないよ。実際男の子っていうのは、ヘロインよりも人を惑わす『ドラッグ』なんだから」

 

 ルーラは一回コーラを口に含んで、話を続けた。

 

「ハニートラップに利用して、ライバル会社の偉い人から情報を盗んで、一気に大きくなった会社の話なんて、イトからたくさん聞いたし。それにどうやってか知らないけど、男娼を数人持って、一晩だけで高級車が買えるような値段をふっかけて、十代遊んでも使いきれない金を稼いだ成金だっている。男は成功者に不可欠なツールで、持ってることは成功者を意味するステータスなんだよ」

 

 ……あけすけない言い方をしてしまうと、酷く荒唐無稽な話だと思ってしまった。だってそうだろう。男を持って使えば、金も地位も全部手に入るなんて、そんな脚本の映画があったら酷評は免れないだろう。

 

 

「……なあ、ひとつ聞いていいか?」

 

 すごい話だと思った俺はルーラの話を聞いて、ぬぐい切れない違和感があった。

 彼女は当然それに気づいてないみたいで、だからこそ小首をかしげて、俺に続きを促した。

 

「さっきから、男をまるでモノか何かみたいに言ってる気がする。人権がないみたいな口ぶりだ」

 

「あ……それは、その……」

 

「……そりゃあ、実際に人権がないからな」

 

 言い淀んだルーラの代わりに、コーラの瓶を空にしたイトが、恐ろしいことを答えた。

 

「ま、ちょっ……イト! そんなハッキリ……」

 

「どっちみち、この国で一晩過ごしゃわかることだろ。……男に人権っていうものは存在しない。男をどんな目に遭わせたって、殺したって殺人にはならないんだ。なるとしたら、『器物損壊罪』が関の山だな」

 

「そりゃあ、ハードだな……」

 

 俺はあまりの衝撃で、思わずそんな憎まれ口ともとられるようなことを言ってしまった。

 男に人権が存在しない国。そんなものが果たして、俺がいた世界にあっただろうか。

 似たようなものはたくさん聞いて来たし、見てきたと思う。けれど、殺しても殺人罪にすらならないなんて、いくらなんでも極端だ。

 

「だからって、理不尽に意味なく虐げる奴は少ないよ。いないわけじゃないが、ただでさえ貴重なものだしな。それに、男にだって感情がある。懐いてくれた方が得が多いんだから、持ち主はちゃんと世話してるやつがほとんどさ」

 

 俺を気遣うでも責めるでもなく、ただただ淡々と事実のみを、イトは述べているのだろう。ただ俺にはそれが、世界の常識としてそれがあるということ自体が、既に恐ろしかった。

 

「……アンタたちも、同じように思ってるのか?」

 

「あ、いや、それは……」

 

 俺が思わず言ったことに、イトは珍しくを口をどもらせて、言いにくそうにしていた。

 俺はしまったと思いながらも、その言葉の続きを待っていた。

 

「……すまない。男って、自分に縁のないモンだと思ってたから、どこか遠い世界のことみたいに考えてたんだ。傷つけたんなら、謝る」

 

「その、うちもゴメン! 変な言い方しちゃって。い、言っとくけど、うちもイトも、男相手にそんなひどいこと、全然思ってないから!」

 

 イトもルーラも、バツが悪そうに俺にそう言った。

 

「いや、大丈夫だ。ありがとう」

 

 俺はなるべく無事に見せるように、乾いた笑い顔をしてみせた。少しひきつっているだろう、イトもルーラも、俺の顔を見て少し驚いているようだった。

 

「……え、どうした?」

 

「……ね、ねえ、今の顔もっかいやってくんない?」

 

「え?」

 

「とにかく!」

 

 ルーラの言ったことを聞き返そうとしたところで、イトはやや大きい声を出して、ジャケットのポケットから、ある袋を取り出した。

 今朝、あのホテルで誘拐犯からとってきた、『錠剤』だ。

 

「話の限りじゃ、少なくともハリが誰かの男ってことはないだろう。ならやることは二つだ。ハリをこれからどうするかと、『コイツ』をロジーに渡すことだ」

 

 イトがそう言ってテーブルに置いた『錠剤』。それはあの老婆が、『クリーピーローズ』と言った薬だ。

 その薬と、イトのセリフを聞いて、俺はようやく、もっと早く聞くべきことを思い出した。

 

「……なあ、俺、結局どうなるんだ?」

 

「まだ何とも。ひとまずはここを出よう。そろそろ開く時間のはずだ」

 

 そう言って彼女は空き瓶をカゴに入れて、席を立った。

 俺は自分の未来の明暗を心配しながら、同じように空き瓶を片付けて、彼女についていくしかなった。

 



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07.Hate

 大理石が敷き詰められた、白くて長い廊下を渡る。私は昔から、この廊下が大嫌いだった。

 いや、廊下だけじゃない。玄関も階段も、ところどころに飾られているガーベラの香りさえ、私は嫌いで嫌いでしょうがなかった。

 郊外の広い敷地に建てられた、悪趣味な白い豪邸。ロジーの屋敷に、私は今運びたくもない足を運んでいた。

 

 突き当りの、けばけばしい白いドアまでたどり着く。その両サイドに、豚みたいに太った厚化粧女のリドーと、ゴリラみたいな女のレックスが偉そうにふんぞり返っている。ドアの向こうにいる『ババア』の護衛だ。

 

「ババアに報告だ。どけろよ、豚ゴリラ」

 

 私がそう言うと、じろりと、豚女の方だけがこっちを見て、ニタニタと笑いながら言った。

 

「あぁら、誰かと思ったら、イト『坊や』じゃなぁい。随分とまた生意気な口を利くようになっちゃって。また昔みたいに、ハイにして可愛がってあげようかぁ?」

 

 クソ豚リドーが、見るな気持ち悪い。男が手に入らないからって、近場の子どもまで見境なく食い散らかしたペド女が。

 ああ、嫌だ。コイツを見るだけで『思い出しちまう』。コイツが近くにいると思っただけで吐き気を催す。だが、ここで吐きでもしたら、かえってこの豚を悦ばせちまうことになる。それだけは勘弁だ。

 

「ああ、なんだよリドー、まだ豚がヤらせてくれないのか? 残念だなぁ、きっと相性最高なのによ」

 

「……なんだとこのクソガキ!」

 

「やめろ」

 

 リドーのやつがわかりやすくキレたところに、レックスが横やりを入れてきた。

 

 リドーとレックス。私たちストリートキッズを使い走りにしてるマフィア……すなわちロジーの側近をしている二人組だ。

 もっとも、腕が立つのはレックスの方だけだ。

 

 リドーについては、私達みたいな、なんにでも使えて好きに使い捨てられるストリートキッズを拾ってきて、ロジーに提供するための、いわゆる『調達屋』だ。そのおこぼれで子供を自分の『趣味』に使っている、下衆な豚女でもある。

 こんな奴が側近になれているのは、単純にその方が渡す時に煩わしくなくていいかららしい。

 

「イト、ここでは言葉遣いに気をつけろと、何度も言ってるはずだぞ」

 

「わかった、わかったよ。ママ・ロザリアに報告だ、入れてくれ」

 

 レックスは、露骨に渋い顔をしながらも、面倒事は御免だったのだろう。私の言うことを素直に聞いて、目の前のドアをノックした。

 

「……ママ、イトが来ていますが」

 

「入りなさい」

 

 中から大嫌いな声が聞こえた。ドアが大仰に開かれ、私はその中に足を踏み入れる。

 その部屋にあるものは、普段と特段変わらない。カクテル用の酒が置かれた棚に、悪趣味な調度品の数々と、変わり映えのない観葉植物、ガーベラの香り。普段通り、吐き気がするような場所だ。

 

「おはよう、イト。思ったより来るのが早かったわね」

 

 ママ・ロザリア、通称ロジー。一代で世界有数規模の麻薬カルテルをつくった張本人で、その巨万の富で若い男を何人もコレクションしているらしい。

 ……最近じゃ、その男たちを使って、軍の高官や政治家相手に商売も始めたんだとか。当然、あいつ自身も倒錯するほどに使っているのだろう。反吐が出る。

 赤黒い血のような色の長髪と、50、60のババアとは到底思えない、どう見ても20代にしか見えないその不気味なほど若い見た目と相まって、コイツと話す時は、化物の腹の中にいるような気分になる。

 

「急がないと、アンタが老衰でぽっくり逝くかもって思ったらね」

 

「フフ……いい茶葉が届いてね、今ちょうど、アールグレイを入れていたのよ。貴方も飲まない?」

 

「紅茶はティーバッグの以外嫌いでね。それよりほら、これ……」

 

「イト?」

 

 薬をポケットから出そうとしたその瞬間、底冷えするような声が私に向けられた。

 

「前も言ったわね? 私と話す時は、ジャケットを脱ぐか、ポケットのものを全部出してからにしなさいって。覚えてないかしら?」

 

「……そんなビビんなよ、心配しなくったって、ほら、ご注文通りのモンだよ」

 

 私はそう言いながら、なるべくゆっくりと、ポケットから例の『錠剤』を取り出し、それをロジーに見せつけた。

 

「あらあら、そう言うことではないのよ。礼儀と作法のお話、わかるでしょ?」

 

 そんなロジーの言葉を無視して、私は黙って袋を渡す。ロジーは袋の中を見て、確認できたのか、私の方を見て微笑んできた。相変わらず、ぞっとするような笑顔だ。いつまでたってもこれには慣れない。

 

「確かに、注文通りの品物ね。ご苦労様」

 

「これで手打ちでいいよな? 私んとこのやつがアンタの男にしたことは」

 

「ええ、約束を守る子は好きよ。せっかくだし、貴女も見ていかない? 私の可愛い『コレクション』」

 

「ヒッピーのライブでも見てたほうがマシだね」

 

 ロジーの『コレクション』とは、言わずもがな奴がせっせと汚い手で集めた『男娼』だ。若いブロンドから妙齢のプラチナシルバーまで、およそオークションで手に入る種類は全部揃えたと、前に酔っぱらって自慢していたのを聞いたことがある。さすがに黒髪黒瞳はいないようだったが。

 一度だけそいつらを見たことがある。私を見たときのあの目、程度の差さえあれ、あれはまさしく、ケダモノでも見るような、そんな目だった。

 

 ……考えてみれば、ハリはそんな目で私を見てなかった。私をただ、そこらへんにいるティーンエイジャーが友達に向けるような目で、私を見ていた。

 ……なんだろう、変な奴だな、アイツ。

 

 そんなことを私が考えている間も、ロジーは先程からずっと、目の前にある、宝石のような青いバラの錠剤から目を離さない。私はそれが気になって、思い切って聞いてみることにした。

 

「……なあ、結局それ、何の薬なんだ」

 

「……知りたいのかしら?」

 

 途端、ロジーは低い声でそう答えた。『お前が知る必要はない』。それは言外にそう言っていた。

 

「別に。ただの世間話さ」

 

「あらそう、ならいいわ」

 

 ……結局、収穫は何もなしか。まあいいさ、借りを返しただけでも良しとしよう。

 

「何も無いなら、私はもう行くぜ」

 

「あら残念ね、朝食でも一緒にと思っていたのに」

 

「犬の餌でも食ってな」

 

 私はそう言って、ドアノブに手をかけた。

 

 

「他に何か、手に入らなかったの?」

 

 

「……」

 

 私はその言葉を聞いて、ドアノブに伸ばした手を止めた。

 束の間の静寂

 私はロジーに振り向いて、言った。

 

「他ぁ? 連中が持ってたのって、薬だけじゃないのか?」

 

「……いえ、何もないならいいのよ、ゴメンナサイね。ごきげんよう」

 

 ロジーのその言葉に返事をせず、私はドアを開ける。

 

「じゃあな豚ゴリラ、ご苦労さん」

 

 そう言うと睨んでくる豚女とゴリラ女の視線を背中に浴びながら、私は屋敷の外へと出た。

 

 ……ひとまず、ハリとルーラに合流して、あの薬局に行かなければいけない。

 『ベル』なら何か知っているはずだ。

 

 私は内ポケットにしまった、ひとつだけくすねた『青いバラの錠剤』の存在を意識して、そんなことを考えた。

 



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08.Dirty

「チッ、あのガキ、あのガキが! 『便所』になるしか能がなかったくせに、このアタシをコケにしやがって!!」

 

 イトがロジーの屋敷から出てしばらく、護衛のリドーとレックスは、休憩がてらサロン室でコーヒーを飲んでいた。

 先程のイトが相当癇に障ったのだろう。リドーは、空になった紙コップを壁にぶつけて、癇癪を起していた。

 

「いい加減に落ち着けリドー、大人げないぞ」

 

「いいや、もう我慢ならないね。クソ、今度は上だけじゃねぇ、下の口に鉄筋をぶち込んで、使い物にならなくしてやる」

 

 品性の欠片もないようなリドーの言葉に、レックスは心底うんざりしていた。とは言え、彼女はイトに対して何かしらの感情を持ち合わせているわけではない。彼女にあるのは、ただ面倒事だけは起こさないでほしいという気持ちだけだ。

 イトは、ママ・ロザリアのお気に入りだ。万が一リドーがやつを壊しでもしたら、こちらにまでそのお鉢が回ってきてしまう。それはレックスにとって一番避けたいことだった。

 

「ずいぶん荒れてんじゃぁん? 何かあったん?」

 

 すると、リドーのものでもレックスのものでもない、第三の声が、入り口のドアから聞こえてきた。リドーとレックスがその方向を見ると、そこには、二人組の美人な少女たちがいた。

 

「……リネン、ラミー、何しにきやがった。アタシは今イライラしてんだ」

 

「ヤバぁ、そんな怒んないでよ。せっかくの化粧が崩れちゃうよ?」

 

 先程から喋っている方の名前はラミー。ストレートロングの金髪に、ルビーのような赤い瞳。ひらひらとしたミニスカートに、胸元を大きく開けた服と、いかにも『遊んでいる』と言った感じの少女だ。

 

「ママから連絡があった。イトのことだ」

 

 もう一人の方の名前はリネン。ラミーとは対照的な、銀髪のセミロング。切れ長の目にパールのような瞳がはめ込まれており、ホットパンツにパーカーというシンプルな服装をしていながら、しかし近寄りがたい印象を与えるような少女だ。

 

「イトの? どういうことだ、リネン?」

 

 レックスがそう聞くと、リネンは静かにそれに答える。

 

「イトが『男』を手に入れたかもしれない」

 

「なんッ……!?」

 

 それを聞いたリドーは、言葉を詰まらせるほど驚く。レックスはリアクションこそ薄いが、瞳孔が開いており、リドーと同じくらい動揺していた。

 男を得る。それがこの世界で意味することは、現実の世界とは比べ物にならないほど大きい。

 社会的な地位、普通に生きていればまず一生追いつかない額の金。

 

「マぁジずるいよね。しかもイケメンって話だし、私にも一晩貸してくんないかなぁ」

 

 そして、それらを可能とする根源である、性的欲求をいくらでも好きに吐き出せる場所。この世界で男というものは、そう言う認識だった。

 

「……それはどうでもいいが、問題はイトが男を利用してのし上がることだ。それだけは絶対にあっちゃいけない」

 

 忌々し気に、リネンが吐き捨てるように言う。

 リネンとラミーの二人は、どちらもイトがボスを務めているストリートキッズのグループに入っている。しかしどうにもイトがボスという現状には納得していないらしく、お互いの関係はお世辞にも良いとは言えなかった。

 特にこのリネンと言う少女は、少し幼い言い方をしてしまえば、イトのことが大嫌いだった。

 

 イトはもともと、彼女たちのグループに後から入って来た、いわゆる新参者だった。しかしその聡明さとカリスマ、更には中性的な、男装の麗人としてのその美貌も相まって、瞬く間に頭角を現し、あっという間に彼女はストリートキッズのボスとなった。

 リネンは、それが全く以て気に喰わなかった。特に、イト自身はボスになりたくなんてないのに、他の奴らが持ち上げたから仕方なくボスになった……と言う経緯が、その気に喰わなさに拍車をかけていた。

 

「男だと? あの便所風情が、大人しく跪いて媚びてりゃいいものを」

 

「で、何故それを私たちに? 場所でも割らせようってのか?」

 

 リドーの言葉を聞き流しながら、レックスはリネンにそう聞く。しかし、リネンは首を横に振って、続けて話す。

 

「いや、場所はもう割れてる。アンタらの部下をいくらか貸してほしい」

 

「仕事が早いな。いつの間に調べたんだ?」

 

「いや、調べたんじゃない。ママから聞いた。ママは何でも見てるし、何でも知っている」

 

 そう言ってリネンは、親指で自身の後ろを指さす。その方角は、ロジーがいる部屋だ。

 

「ああ、それと、男は必ず傷ひとつ付けないで持って来るようにと。ママから直々に要望があった。絶対にだ」

 

「ママが? 珍しいな、あの方がそこまで欲しがるなんて」

 

「普通なら言わない」

 

 リネンは含みをはらんだ言い方をした。それにレックスは疑問を感じていると、代わりにラミーが大げさに話した。

 

「なぁんとなんと、その子は世界に一桁しかいない、黒髪黒瞳なのでーす。きゃー!」

 

「……嘘だろ?」

 

「……黒髪黒瞳って、都市伝説じゃなかったのか?」

 

 リドーもレックスも、お互いに先程以上の衝撃を受けた。

 天然の黒髪黒瞳、彼女らの世界において、幻と言っていいほどに希少だ。

 

 この世界において、男と言う『商品』は貴重なものだ。しかしその男の中にもランクはある。

 老いた者よりは若い者が。醜い者よりは美しい者が。ブラウンヘアよりはプラチナブロンドが。その希少さや単純な需要の多さによって、値段は文字通り、桁違いに変わってくる。

 そんなランク付けの中で言えば、黒髪黒瞳の美男子と言うのは、そのランクの中でもトップ、そのさらに上澄みの上に置かれる、希少性、需要が共に高い『フラッグシップ』だ。

 

 ハリはその『フラッグシップ』として、十分な年齢と容姿をしている。そんな彼がもしオークションに出されようモノなら、小国のGDPを凌駕するであろう値段になることは確実だ。

 

 当然、それが生み出す利益は、売値の何十倍にもなって返ってくることだろう。酷く大げさな言い方をしてしまえば、黒髪黒瞳を手に入れるということは、世界中の富にアクセスできる権利を手に入れることと同義なのだ。

 

「黒髪黒瞳を私たちで手に入れる。それがどういう意味か、アンタらならわかるだろ?」

 

 リネンは、レックスとリドー両方にそう聞く。それにリドーは、にやりと笑った。

 

「一気にのし上がれるんだ。この組織も、私たちのポストも」

 

「……よし、わかった」

 

 レックスは少し笑って、リネンの願いを快諾することにした。彼女としても当然、自分の出世のチャンスを、それも一生かかっても使いきれないような富を得られるチャンスを、みすみすフイにするつもりはないのだ。

 

「私の部下を貸そう。捕らえたときは、私らの名前をママに言うこと、忘れるなよ」

 

「当然だ、リドーは?」

 

「もちろん乗るさ。ああでも、イトもなるべく殺すなよ。男と一緒に楽しむからね」

 

「男はダメだ。だが、イトのことは殺さなければ何をしてもいいと、ママから承諾を得た。『お楽しみ』はイトだけで我慢しろ」

 

 リネンがイトの名前を口に出す度、彼女は明らかに不愉快になりながらも、リドーに釘を刺す。リドーはそれに舌打ちをしたが、さすがにロジーには逆らえないのだろう。しぶしぶといった様子で了承した。

 

「……じゃあ行こう、ラミー」

 

「イエーイ! アガってこー!」

 

 そう言いながら、二人はそれぞれの『得物』に手を伸ばす。

 リネンは、ボディーバッグの中にある、二本のククリ刀を。

 ラミーは、ホッケーバッグに詰めた刀を。

 二人は手に持ち、その刃の輝きを確かめた。

 



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09.Both

 いつの間にやら、もう夜のとばりがおり始めていた。街灯が点き始めて、レストランやらパブやらのネオンサインがせわしなく自己主張を繰り返している。そんな地上を、空は我関せずとばかりに、みるみるうちに薄暗い赤紫色が黒に塗りつぶされてゆく。

 そんな夜の時間帯に、俺はフードを目深くかぶり、マスクをつけて――要は顔がほとんど見えない状態で――余り治安がよろしくなさそうな裏通りを歩いていた。すぐ前にルーラが、そしてすぐ後ろにイトが、一緒に歩いている状態でだ。

 

「……いいか、まだ絶対喋るな。背を丸めて、なるべく小柄に見せろ」

 

 後ろからイトが、ごく小さな声で耳打ちしてくる。俺は指示通り、なるべく息を殺して、猫背になって歩いていた。

 俺たちは今、この街の有力者であるという、『ベル』と呼ばれる医者に会うため、なるべく人目につかないよう病院を目指していた。

 目的は俺を保護してもらうことと、『青いバラの錠剤』を調べてもらうためだ。信頼できるのかという不安がない、といったらウソになる。

 

『この辺のやつらは、みんなベルから薬を貰ってる。よっぽどマジにキレたやつでもない限り、あいつの家を襲うようなのはまずいないさ』

 

『わかった。けど、そのベルってやつ自身は、どうなんだ? その……言える立場じゃないのはわかってるけど、大丈夫なのか?』

 

『そこは……まあ、頑張ってくれ』

 

 そんな会話を、出発する前にイトとしたわけだが、『頑張ってくれ』とはどういう意味なのだろうか? 少なくとも強姦されたり、ドラッグ漬けになるようなことはないとは言われた。しかしベルについて話していた時、イトもルーラも何とも渋い顔をしていたのが、いやに気になった。

 

「ここだよ、段差があるから気を付けて」

 

 ふと気づいたら、ルーラが建物のドアの前に立っていた。

 グルグルと考えているうちに、どうやら到着したらしい。暗くてよくは見えないが、簡素な白塗りの、けれどところどころ塗装が剥げている建物だった。

 少しだけ段差のある入り口。その味気のない蛍光灯で照らされたドアに、これまた無機質な、赤い十字マークが描かれている。ここが件の病院のようだ。

 

「……なあ、ハリ」

 

 周りに誰もいないから大丈夫だと判断したのだろう。後ろで警戒していたイトが、俺に話しかけてくる。俺は少しだけ反応が遅れて、彼女の方を振り向いた。

 

「ベルのことだけどさ、その……本気でいやだったり、どうしても無理そうなら言ってくれよ。別の方法だって、無いわけじゃないからさ」

 

「……いや、大丈夫だ。ありがとう」

 

 ここまで来て、今更わがままを言う気もない。もう今朝みたいなことはごめんだし、何よりここまで骨を折ってくれている彼女たちを、困らせるようなことはしたくなかった。

 俺の言葉を聞くと、彼女は小さくうなずいた。

 そうしているとルーラがドアをノックして、そして返事も待たずにドアを開けた。

 

「ベルー、いるー? おーい」

 

 玄関に入る。建物の中は少々古びてはいるものの、いかにも町病院の待合室、といった光景が目の前にあった。

 そんな病院をきょろきょろと見回して、しばらく。ルーラが三回目の呼びかけをしようとしたところで、奥の方からサンダルを履いた人が、のそっとした動作で、猫背になって出てきた。

 

「……なんだね一体。時間外だよ、君たちィ」

 

 そう言いながら、こちらに近づいてくるその人は、白衣を着た妙齢の女性だった。毛先の部分が少し外側にハネた、余り手入れをしていないような茶色いセミロングの髪と、黒ぶちのメガネをしているのにも関わらず、隠しきれない隈を携えていた。

 こんな時になんだが、ダウナーな色気のあるお姉さんだと、つい思ってしまった。

 彼女がきっと、ベルなのだ。

 

「イト、ルーラ。『錠剤』が切れたんなら明日また来たまえ。十倍の深夜料金を取られたくはないだろう?」

 

「まだ8時前だよ、ベル。年寄りのアンタにゃ深夜かもしれねえけどさ」

 

「何度も言わせるな、君とは2、3歳程しか歳が離れていないはずだろう? ……おや、そのずいぶん大きい人は誰だい、新顔かね?」

 

 そう言って、ベルさんは俺を指さす。

 イトは俺の方を見て、小さく簡単なジェスチャーをした。顔を出せとのお達しのようだ。

 俺は意を決して、マスクをとって、フードを脱いだ。

 

「……なにかの冗談かね、これは?」

 

 まさに絶句といった表情を見せながら、ベルさんはイトにそう聞いた。

 

「……いろいろ、立て込んでてな。奥で話そう、頼みたいことがある」

 

 そう言ってイトは、ベルさんの返事を待つことなく、俺とルーラを連れだって奥へ歩いていった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「ふぅむ……それはまた、難儀なことに巻き込まれたものだな」

 

 奥の診察室で、イトは今朝からの出来事を大まかに話した。ベルさんはそれを、いつの間に持ってきてたのか、飲みかけのビール瓶を片手に、実に興味深そうに聞いていた。

 

「端的に言う。ハリの保護と、この『錠剤』の調査を頼む。アンタならどっちもできるだろ?」

 

 そう言いながらイトは、ごくごく小さな紙袋を懐から出して、その中身をベルさんに渡した。

 

「ほう……これが件の『クリーピーローズ』とやらか。本当に『錠剤』なのかね、これは?」

 

「さあな。できれば、そこも含めて調べて欲しい」

 

 イトにそう言われながら、ベルさんは青いバラの形の錠剤、『クリーピーローズ』を興味深そうに見つめる。

 

「ふむ……なるほど、わかった」

 

 彼女はそう言って、薬を紙袋に戻して、それを机に置く。

 すると、今度はゆっくりと俺の方に向き直して、にやりと笑って、俺を見た。

 

「しかしまさか、タダでやれなんて言わないだろう?」

 

「……なにがお望みですか?」

 

 その言葉に、俺は息をのんで、戦々恐々としながらそう聞いた。思い出すのは、今朝あの誘拐犯たちにされかけたこと。震えそうな声を、何とか耐えた。

 

「ハリくんにちょっとでも変なことしてみろ。その頭かち割って、ケツに入れてやる」

 

 普段の様子からは想像できないような低い声で、ルーラは言った。イトも言葉こそ発しないが、いつ銃を抜いてもおかしくないくらい、殺気立った目でベルさんを見ている。

 そんな彼女たちの様子をからかうように、ベルさんはあっけからんと、両手をひらひらとしていた。

 

「アハハハ、やれやれ、私をその辺の下品な輩と一緒にしないで貰いたい。心配せずとも、ハリくんには指一本触れるつもりはないよ」

 

「……では何を?」

 

 俺が緊張しながらそう聞くと、彼女は間髪入れず言い放った。

 

 

「欲しいのは君の精液だ」

 

 

「…………あー失礼、今何と?」

 

 聞き間違いだろうか? できれば聞き間違いであってほしい。

 そう考えながら両隣を見ると、先程の殺気は消えたが、イトはそれはそれは深いため息をこぼし、ルーラにいたっては本気で引いているのだろうと安易に想像できるほど、顔をゆがませていた。

 

「精液だよ、精液。いや体液なら何でも欲しい。血、涙、汗、鼻水、尿などなど。君から出るありとあらゆる液体を私に無償で提供してくれるのであれば、この話考えてもいい」

 

「あー……イト、説明してもらえるか?」

 

「コイツ、頭は良いのにえげつない変態で有名でさ。あーつまり……」

 

「……つまり?」

 

 そう聞くと、イトは勘弁してくれとでもいうように、頭を抱えて、心底疲れた表情で言った。

 

「……『イチモツ』を生やそうとしてんだよ。自分の身体に」

 

 俺はそれを聞いて、もう何も言えなくなった。

 

「変態とはなんだ! 君たちは男性器より敬虔で神聖なものがあるというのかい!?」

 

 何やら酔いが回って来たらしく、興奮した状態で叫ぶベルさん。俺はそれに何かしらリアクションなどできるはずもなく、ただその様子を眺めていた。

 恐らくは、俺が考えていた不安は杞憂に終わったのだろう。俺はなるべくそう思うように努めた。

 



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10.Surprise

 ――安心できたことなんて、今まで一回もなかったけれど、それでも休まなきゃいけない時がある。不安の中ででも休息を取らなきゃ動けなくなるっていうのは、人間の不便なところのひとつだろう。

 

 束の間のセーフハウス。

 私たちはベルの病院へ転がり込んで、ようやく一息つける状態となった。今はただ、『クリーピーローズ』の成分分析の結果待ちだ。

 今は待合室に3人とも放り出されたわけだが、いきなりなにもやることがない、となると手持ち無沙汰になるもので、私は壁に寄りかかって、時計をぼうっと見ていた。

 緊張続きの糸が一気に切れたからか、それとも朝に呑んだ『錠剤』の副作用が今更になって現れたのか。大きい疲労感が体を襲った。

 

「――……ふわ……ぁ」

 

「……おい、大丈夫かイト? ふらついてるぞ、こっちで寝るか?」

 

 ……これはいけない。

 少し身体が怠くて、あくびをしてしまっていたみたいだ。ハリは自分が座っていたソファから立って、心配そうな顔で私にそこに座るよう促してきた。

 なんなのだろうか? 今までこんなこと一度だってなかった。疲れた素振りなんて、誰かに付け入るスキを与えるだけだから、絶対にしないようにしてるのに。

 いつもと違う自分に困惑したからか、素直にハリのそれに甘えればいいのに、私は強がって、首を横に振る。

 

「いいから座ってろよ。お前こそ慣れないことの連続で、へとへとのはずだろ」

 

「……すまない、俺のせいで」

 

「……なんだよ、何謝ってんだ? 謝ったらまた迷惑かけ放題ってか?」

 

「いや、そんな……そうだな、無神経だった。悪い」

 

 バツが悪そうに目を細めて、ハリはまた私に謝った。言いようのない罪悪感が湧いてくる。

 

「……だから、謝んなって」

 

 あぁ、バカ。私は一体何をイラついてるんだ? ただハリに、そんな顔しないでほしいだけなのに。

 『大丈夫だ』って、『気にするな』ってそう一言、ハリに言えば済む話なのに。

 謝ろうとしても、なんでか上手く言えなくて、私はハリからつい、目をそらしてしまう。

 

「不機嫌だねえ、イト? まあ、どうせまた後先考えずに強めの『錠剤』を飲んだのだろう?」

 

「いつか絶対、過剰摂取(オーバードーズ)で死ぬよ、イト? あ、ハリくん気にしないでね。コイツ薬が切れたらいっつもイライラして、誰かに八つ当たりすんだから」

 

 ベルが診察室から出て来るや否や、ニヤニヤしながらそんなことを言ってきた。非常にウザイ。

 ルーラまでそれに乗っかってくるものだから、二乗でウザイ。ただでさえ『錠剤』の副作用でイラついているのだから、勘弁してほしい。

 

「うるせえバカ。それよりどうなんだよ、ベル先生? 結果は?」

 

「待ちたまえ、そんな30分やそこらで成分分析なぞできるはずなかろう」

 

「しらばっくれんなよ。アンタなら、もう結構いいとこまでいってるんじゃないか?」

 

「……進捗70%というところだ」

 

 さすがだ。偏屈な変態モグリだが、やはり腕だけは特級品らしい。

 

「……ねえイト。そもそもなんでロジーの薬を勝手に持ち出したりなんてしたのさ? ばれたらただじゃ済まないの、わかってるでしょ?」

 

 ルーラから聞かれたその質問で、私は今朝のことがフラッシュバックした。

 思い出すのは、あの二人組。ハリをどっかから拉致ッて来て、ロジーの『クリーピーローズ』をくすねようとした。あのチンピラ共だ。

 

「……そもそもだ。なんで今朝の二人組は、せっかく高く売りつけられた薬を出し渋ったんだ? そんなことしたら脳天吹き飛ばされることぐらい、日陰の世界で生きてるならわかってるはずだろ」

 

「あー、言われてみれば……」

 

 私がそう言うと、ルーラも納得したようだ。

 少なくとも裏の人間同士においては、契約というのは厳に順守すべきものだ。破った者は罰を受ける。死か、もしくは死んだほうがマシだと思うような罰を。そうやって、この場所は最低限の秩序が保たれている。

 しかも相手はあのロジーババアだ。高額の取引を不意にしてまで、やつに盾突くリスクに比べれば、それで得られる金など微々たるものだろう。

 では何故、あの二人組はその『鉄の掟』を破ったのか? その解答自体は、実に簡単なものだ。

 

「薬を使って、もっと稼げる方法を見つけたってことか。そんなやばいリスクを飲み込めるくらいの」

 

 意外なことにハリが、私と同じ結論に辿り着いていた。

 

「そうだ。……ここからは勘だけどな、あの『クリーピーローズ』、ロジーの入れ込みようからして、相当ヤバい薬だと思う」

 

「……ちょっと待ってくれ。君、それが本当なら、成分分析している私も相当危険な立場ではないかね?」

 

 ここにきて、ベルがようやく気付いたらしい。もう遅い、諦めてこっち側についてもらおう。

 ベルもそんな意図を私の顔から読み取ったのか、盛大に溜息を吐いた。

 

「……報酬は弾んでもらうしかあるまいな?」

 

 ベルはそう言って、ぐるんとハリの方を見た。連鎖でもしているのか、ハリもまた、盛大に溜息をこぼした。

 すまん、ハリ。ちょっとだけ身体を張ってくれ。

 

「それで? あとどのくらいで終わりそう?」

 

 

「そうだな、あとは……………………ッ」

 

 

「……ベル?」

 

 

 何故か中途半端なところで、ベルは話すのをやめた。

 ベルの顔からにやけ面が消える。その目は、私じゃなく、外を見ていた。

 

「イト」

 

 一瞬の静寂

 遠くから車の音

 降りる音

 大量の足音

 撃鉄を降ろす音

 

 

 

 

 しまった!

 

 

 

 

「伏せろぉッ!」

 

 

 

 

 私の叫びを、轟音がかき消した。

 

 ガラスが割れる音

 機関銃の音

 跳弾の音

 

 爆音と、衝撃の暴力

 

 それらがまぜこぜになって、私たちの鼓膜を襲った。

 

 

 

「ストップ、ストーップだっつってんじゃん!」

 

 

 

 どこかからか、轟音に紛れてそんな声が聞こえた。

 聞き覚えのある声だった。ここじゃ絶対、聞きたくない声。

 その声がして間もなく、重火器の音はぴたりとやんで、衝撃も失せた。

 

「クソ……無事か!?」

 

「ああ……たく、なんてこった。私の病院が……」

 

「ゲホッああもう、最悪!」

 

 身を低くして、周囲を見回す。どうやらベルもルーラも無事だ。

 

 ……まて、アイツは?

 ハリはどこだ!?

 

 

 

「久しぶりだな、『オトコ女』」

 

 

 

 声がする方向を、私はとっさに見た。

 

 そこにハリはいた。

 

 銀髪の女から、ククリナイフを首に当てられた状態で。

 

「……リネン」

 

「やだぁ、イト。私のこと無視しないでよぉ」

 

「ラミー……」

 

 最悪だ、クソ、しくじった。

 『よっぽどマジにキレたやつでもない限りここに来ない』? チクショウ。

 

 いるだろうが、ぶっちぎりでキレた奴らが。

 

「わあ! ホントにイケメンじゃぁん! こりゃ帰った後が楽しみだねぇ」

 

「触るなラミー。コイツはすぐママのところに持っていく」

 

「……イト、逃げろ」

 

「……黙ってろ、ハリ。すぐ助ける」

 

 リネンとラミー。絶対に会いたくなかった、特に今この場では。

 何でバレた? いつバレた? いや、今考えるのはそれじゃない。

 

「そいつを離せ」

 

 今はハリを守ることだけ考えろ。

 

「……ラミー、黒髪黒瞳を連れていけ」

 

「あいあーい。さ、お姉ちゃんと一緒に行こーねぇ」

 

「クソ、イト! さっさと逃げろ! アイツらを連れて!」

 

 ああもう! 黙ってろって、頭が真っ白になるだろうが!

 

「安心しろ、殺しはしない。手足の3、4本は覚悟してもらうかもしれないがな」

 

 リネンはそう言って、私の目の前に立つ。

 奴はポケットから『錠剤』を取り出し、噛み砕く。

 そして、二刀のククリナイフを構えた。

 

「……ああそうかい、じゃあお前は頭だけにしといてやるよ」

 

 銃を構える。

 『錠剤』を取り出して、飲み込んだ。

 

 奴がククリを振りかざす。

 

 私はそれにただ

 

 

 撃った。

 



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11.Snatch

 『錠剤』。

 

 正式名称は、『錠剤型特化第1類医薬増強剤』。

 それは昔、ほとんどの男性が消えたこの世界において、女性だけで社会を回すためにつくられた、苦肉の策である。

 非常に即効性、有効性の高い身体強化を望める女性専用の薬品であり、元々は軍隊などで、女性兵士を最大限運用するために開発されたものである。

 その効果は実に様々だ。筋力増強、視覚聴覚の鋭敏化、恐怖心の希薄化、痛覚鈍化、治癒力の強化、などなど。それは、我々の現実世界で存在している、男性の社会的役割を代替するのに十分すぎる効果を持っている。

 

 無論、そこまでの強大な力を、何の見返りもなしに求められるべくもない。

 

 『錠剤』はその突出した効果と共に、非常に強い毒性、中毒性を持つ。『錠剤』の過剰摂取で脳がイカレて廃人になった者、急性中毒になって死んだ者、飲んだ瞬間に血を1リットルも吐いた者。『錠剤』の犠牲者の名を書き連ねるとすれば、辞典みたいに分厚いノートを買ったってまったく足りやしないだろう。

 そのため、現在一般的な病院などで手に入るものは非常に濃度を薄めた物のみで、濃度の濃い『錠剤』は裏社会でのみ使用、売買されている。

 裏社会での『錠剤』は、濃度ごとにカテゴリー区分が設けられている。個人の許容量に合わせてこれを服用するのだが、裏社会では過ぎた力を求めるものは当然多く、前述した惨事になることは決して少なくない。

 

 

 

 ――――イトとリネンが用いた『錠剤』は『カテゴリー:A5』。

 

 

 

 ――――効果、危険性共にトップクラスのモノである。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 世界がストップモーションに見える。

 きっと走馬灯とはこういうものなのだろう。

 だがそれはきっと、向こうも同じなのだ。

 

 

 ククリナイフの刃が、私の目の前にあった。

 

 

「クソッタレ!」

 

 紙一重で躱す。毛先がわずかに切られたのが見えた。

 距離をとって、転がるような姿勢のまま、私は引き金を引く。

 照準は、リネンの顔。

 

 撃鉄が降りる。

 リコイル。

 それを3回。3発。

 

「チッ……!」

 

 リネンは舌打ちをしながら、ククリを素早く振る。共に聞こえたのは、甲高い音、跳弾。

 弾きやがった、この距離で撃った銃弾を。本当に人間かよ……。

 

「どけ! お前の相手してる暇なんざねぇんだよ!」

 

 こんなことしている間にも、ハリが連れて行かれてる。

 チクショウ、もうアイツの姿が見えない。ラミーに連れて行かれたんだ。あの女、ぶっ殺してやる。

 

「ドライブに行きたいなら免許証を渡せ、腕ごとな」

 

 どうやらリネンは、何が何でも私とやり合いたいらしい。そんな暇ないっつってんのに。

 ……変わんねえ、コイツは。初めて会ったときから、何も変わんねえ。

 

「……ハッ、10年早えんだよ、『お嬢ちゃん』」

 

 私がそのワードを口にした途端、リネンの眉間にしわが寄る。

 飽きるほど、見てきた表情だ。

 

「……お前は前からそういう奴だよ、イト。そうやって、いつも他人を見下しやがる」

 

 あからさまに語気が強くなる。それは誰から聞いても、憎悪に満ちていた。

 

「後から来たくせに、当たり前のようにリーダー面しやがる! 私のことをガキみたいに扱いやがって!」

 

 ……コイツは本当に、いやになるほど変わっていない。私のことが気に入らなくて、私のことが憎くてたまらなくて、隙あらば殺してやろうと考えている。単純な力量は上がってるが、そこらへんは少しも変わってない。

 

「銃を構えろ! 二度と歩けないようにしてやる!」

 

 大声で、リネンはククリを構えてそう叫ぶ。

 お前はそういう奴だよ。こんだけ手勢を引き連れているのに、わざわざ決闘みたいなことして。きっと自分でイト()を倒してこう言いたいんだろう。私の方が上だ、私がボスだって。

 

 リネン、お前は強いよ。私への殺意が、お前をそこまで成長させたんだろうさ。大したもんだ、本当に。

 

 

 

 だから、お前は負けるんだよ。

 

 

 

「離乳食を卒業したら勝負してやるよ。『お嬢ちゃん』」

 

 瞬間、リネンが突進してくる。

 ククリナイフを振りかぶって、ものすごいスピードで向かってくる。

 もはや眼で追いきれない。

 きっとブチ切れているに違いない。

 最初に言ったセリフも忘れて、リネンは私を殺りに来てる。

 コンマ1秒後には、何もしなければ、私の首は飛んでいることだろう。

 

 

 ほら、やっぱり我を忘れて『首を切りに来た』。

 

 

「ッ……!?」

 

 私はリネンの腕を掴んで、刃が首に届く寸でのところで止めた。それが予想外だったのだろう、リネンは見るからに焦った顔で、眼を見開いていた。

 

「言ったろ? 10年早え」

 

 私はそう言って、リネンの腿に銃口を向け。

 引き金を引いて、撃った。

 

「ウグッ……!」

 

 リネンはうめいて、その顔を歪ませる。露出した白い足から、赤黒い液体が飛び散った。

 

「安心しろ、動脈は避けてる。『錠剤』ありなら、一晩で治るさ」

 

 私はそう言って、リネンの腕を離す。すると力が抜けたみたいに、リネンはバタリと仰向けになって倒れた。

 

「……殺してくれ」

 

「……急いでるっつってんだろ」

 

 クソ、一晩に2錠。完全に過剰摂取だ。効き目が切れるまであとどれくらいだ?

 さっさと残りの手勢を片付けて、追いかけねえと

 

 

 

 

 

 ドン

 

 

 

 

 

「ッ!? ……あッ……!?」

 

 なんだ、激痛? 後頭部に? 何かで殴られた。ダメだ、倒れ……。

 

「やっと油断してくれたねぇ、坊や?」

 

 この声……リドー、豚女め……!

 

「なんの、つもりだ……リドー……」

 

「そりゃこっちのセリフさ、リネン。血が上ってくだらない決闘ごっこなんかして。何のための手勢だい、ばかばかしい」

 

 リドーは倒れてるリネンの髪をわしづかみ、顔を自分の方に向けさせる。

 

「使えないんなら黙ってな。この役立たずが」

 

「……チクショウ」

 

 リドーはにべもなく、リネンを離す。今度は私の方に近づいてくるみたいだ。

 手に持ってるもの、鉄パイプか。あれで殴られたのか。

 

「なあ、イト? 手勢ってのはもっと有効に使わなきゃね、あんな風に」

 

 そう言うと、リドーはあごを使って、向こうを見ろとジェスチャーをする。私は嫌な予感がして、その方向を見た。

 ……なるほど、有効だ。反吐が出るくらいに。

 

「……イト、ごめん」

 

 やはり防ぎきれなかったのだろう。ルーラとベルが、リドーの手下たちに銃を突きつけられていた。

 

「立ちな、イト。立てるんだろう? アイツらの穴を増やしたいってんなら、別にいいけどね」

 

 選択肢はなかった。

 私は急激に重くなった身体を何とか立たせて、リドーを睨み付ける。

 頭から血が流れる。それが目に入って、片方が見えなくなった。

 

「ギャハハハ! 懐かしいねぇ、昔の『便所』そのものじゃないか!」

 

「……とっとと煮るなり焼くなり好きにすればどうだ?」

 

 私がそう言うと、リドーは鼻で笑った。本当、やることがいちいちムカつく豚だ。

 

「焦るんじゃないよ。屋敷に戻ったら、お望みどおりにしてやるさ。あの男と一緒にね」

 

 そう言うと、奴は手下を2人呼び出し、私を拘束させた。

 

 ハリ……。

 ごめん、守れなかった。

 助けるから。

 必ず助けるから。

 

「車に乗せな。あのガキ共もだ。撤収するよ」

 

 やつの命令通り、手下のチンピラ共は、私たちを外に連れ出し、車に押し込んだ。

 外は、いつの間にか雨が降っていた。

 



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12.Rule

 外では雨が強くなっている。

 恐らくは郊外に当たる場所なのだろう。近くに街灯がないのか、窓の外を見ても真っ黒で、ただゴウゴウとうねりのような音が響くだけだった。

 それが却ってある程度、俺の腹を据わらせたのかもしれない。俺は、抜き身の『日本刀』をこっちにちらつかせながら、一緒に歩いている少女を見た。

 

「……ん、どしたの? まさか、私のおっぱい気になっちゃったりしてるぅ?」

 

 イトからラミーと呼ばれた少女は、大きく開いた胸元を見せつけるようにして、ケラケラとからかうように俺にそう聞く。

 彼女は何と言うか、派手な娘だった。きっと丹念に手入れしているのだろう。イトとはタイプの違う、まさに金色と呼ぶにふさわしいブロンドのストレートロングを携えており、その整った顔には、ルビーのような赤い瞳がはめ込まれている。表情は軽薄な薄ら笑いを崩さないで、蛇のようなその長い舌を、時折見せびらかすように出していた。

 先程病院で、彼女と一緒にいたリネンと呼ばれる子もそうだったが、彼女ら二人は、まさに『獰猛』という言葉が似合うだろう。

 その美貌を狂暴な表情で歪ませるその様は、イトを見たときとは別の意味で、近寄り難いくらい様になっていた。

 そんな彼女に連れ去られてから、一体どのくらい経ったのだろうか。俺は今、いやに豪華で広い屋敷に降ろされ、ラミーと一緒にその廊下を歩いていた。

 

 イトは果たして、無事だろうか?

 ルーラは? ベルさんは?

 そんな俺の胸中を見抜いているのか、ラミーは嘲笑うような表情を俺に見せる。

 

「ねぇ~、そんなにあの『オトコ女』が気になるの? 好きなの? あんなのが」

 

「……少なくとも、アンタよりはな」

 

 俺はラミーを睨んで、できる限りの精一杯の憎まれ口を叩く。だが、それもただの強がりだと気づかれているのだろう。

 彼女は持っていた刀を鞘に納めた。すると、いきなりほぼゼロ距離まで俺に近づいて、舐めまわすような目で俺を見た。

 

「えぇ、もったいない。ねえ、今からでも私に変えない? 絶対その方が良いっしょ。……もちろん、アッチのほうもさ」

 

 ラミーはにやけた顔でそう言うと、ゆっくりと俺の身体に手を這わせてきた。

 

「なんッ……!?」

 

 俺はそれに面食らい、フリーズしてしまう。固まっているうちに、ラミーは俺の手を掴み、そして自分の胸を触らせてきた。

 

「ね、イトのよりおっきいっしょ? 私に『飼われる』んなら、全部満足させてあげる。心も、カラダも、ぜぇんぶ」

 

 彼女の手が、俺の腰に回される。

 ねっとりとした口調で、彼女は誘うように俺に密着してくる。

 

 改めて考えさせられる。この世界の男とは、やはりこういうものなのだろうか。

 イトとルーラから聞いた、この世界のこと。素直にそれに即して考えるならば、彼女は今、俺を手に入れて、その先の成功を考えているのだろう。さらにその先にある、手に入らんばかりの欲望のことも。

 

「……悪いけど、ギャルっぽい子はタイプじゃないんだよ」

 

「……ふぅん?」

 

 ……本当に、彼女にそれが当てはまるのだろうか?

 先程までの表情とは一転して、ラミーは酷く無感情な顔で俺を見上げる。まるで俺を試すような、下手な嘘をついた子供を見るような、そんな無機質な顔。

 キスができそうな距離まで、顔を近づける。ルビーのような瞳の奥は、空っぽだった。それが嫌に恐ろしかった。

 

「何をしている、ラミー」

 

 すると廊下の奥から、別の女性の声が聞こえてきた。

 俺は声がした部分を見る。すると、長身で、そのスーツの上からでもわかる筋肉質な体躯をした女性が、ラミーを睨み付けていた。

 

「ラミー、そいつは真っ先にママに渡す手はずだろう。余計な面倒を増やすような真似をするな」

 

「いいじゃん、減るもんでもないし。アンタもどう、レックス? 黒髪黒瞳に触れる機会なんて、一生あるかないかだよ?」

 

「いい加減にしろよビッチ、火遊びで焼け死にたくないだろう?」

 

 少しの静寂。

 するとラミーは「ハイハイ」と、拗ねるように口をとがらせながら、俺から離れた。

 

「……身内が無礼を働いた。ママ・ロザリアに会ってもらう。来い」

 

 レックスと呼ばれたその女性はそう言うと、踵を返して、廊下の奥に歩いてゆく。

 ついていきたくなど毛頭ないが、よくない結果になることは目に見えているので、俺は素直に彼女と同じ方向を歩くしかなかった。

 

 歩いていくと、廊下の突き当りにある、大きな扉の前に来た。レックスと呼ばれたその人はドアを数回ノックする。すると、奥から聞き覚えのない声が聞こえた。

 

「レックスかしら?」

 

「はい、ママ。ご注文の『品物』が届きました。ご確認を」

 

「その子を通しなさい」

 

 それを聞いて、彼女はドアを人一人が入れる程度に開け、そして俺を見て、無言で入るようジェスチャーをする。

 後ろを振り返ると、ラミーはそれをつまらなそうな目で見つめている。どうやら入るのは俺一人だけらしい。

 意を決して、俺はその部屋に入る。

 部屋の中は、まるで『フォーチュン』でインタビューを受けるセレブでも住んでそうな、豪華ながらも品の良い調度品が揃っている。その一つであるソファに、恐らく先程の声の主であろう。女性が足を組んで座っていた。

 

「あら、よく来たわね」

 

 そう言って彼女は俺に微笑む。

 襲撃までしておいて、『よく来たわね』などと、それこそよく言えたものだ。

 

「手荒な真似をしてゴメンナサイね。イトったらおイタが過ぎるものだから、つい」

 

「……イトは、彼女らは無事なのか?」

 

 イトの名前をその女性から聞いて、俺は思わずそう聞く。それを聞いたその人は、その微笑みを崩すことなく、口を開く。

 

「ええ、無事よ、他の子たちも。今こっちに来てるところよ」

 

 その言外の意味を含んだセリフに、俺は閉口する。こっちにきてる……つまり、拘束されたのだろう。

 とは言え、少なくとも生きてはいるみたいだ。俺は安堵し、思わず息を漏らしてしまう。

 

「もっとも、これから先は、アナタの態度によるかも」

 

 俺はその言葉に息を止めた。

 女性の顔を見る。その赤黒い長髪を携えた美貌は、底冷えするような笑い顔をして、俺を見ていた。

 

「貴方、イトと一緒にいたのなら、この薬は見たことあるでしょう?」

 

 そう言いながら、女性はソファの前のテーブルにある、お茶請け用の菓子が入っている皿から、あるモノを取り出した。

 それはあの青いバラの錠剤、『クリーピーローズ』だった。

 

「……貴方、世界の買い方を知っている?」

 

 女性は、俺に突拍子もないことを聞いた。彼女は続ける。

 

「ひとつだけ嘘をつくの、『世界は貴方のもの』っていう嘘。それを世界中で読まれる新聞紙に載せるの。そうすれば、一行だけしかないその見出しをみんな信じるわ」

 

 彼女はひとつ、ふたつと、皿にある『クリーピーローズ』を手で拾ってゆく。長くきれいなその手の動作は、いやに様になっていた。

 

「結果的に、世界を思い通りにできるのは、最初にひとつの嘘をついた人。そんなはずないって思う? けれど本当よ」

 

 そう言って、彼女はその手を、俺に差し出した。掌に乗っている薬が、宝石のように輝いていた。

 

「みんな、この世界を支配したがっているんですもの」

 

「……なにが言いたいんですか? 俺に何をしろと?」

 

 俺は彼女にそう聞くしかなかった。今わかっているのは、下手なことすればイトたちが危ないということ。少なくとも、俺の行動ひとつで彼女らの生死が決まるということだ。

 女性は、俺のその言葉にただ、ひとつだけ答えた。

 

 

「この薬を、飲みなさい」

 

 

 



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13.Reflex

「ああもう、痛いっての! ホリョの扱いも満足にできないわけぇ!?」

 

「黙ってろルーラ、この裏切り者のアバズレが!」

 

 最悪だ。

 私は横で、リドーの手下のチンピラと口喧嘩しているルーラを見ながら、そんなことを考えていた。

 病院で捕まってから、もう数十分ほどは経っただろうか。私たちは車に乗せられて、今目の前にある、反吐が出るような屋敷に連行されていた。

 全く最悪だ。1日に2回も、あのババア(ロジー)の巣に入らなくちゃいけないなんて。

 後ろの方を見ると、ベルも私と同じように銃を突きつけられて、苦笑いでやれやれといったような顔をしていた。勘弁してほしいという気持ちだけは、どうやら私とあいつとで合致しているらしい。

 しかし全く、雨だと言うのだから傘くらいはさしてほしい。こっちは腕まで縛られているのだから。

 

 重々しい玄関の扉が開く。

 中からわずかに匂ってくる、ガーベラの香り。私は顔を僅かに歪めた。

 

 扉を開けた先、私の目の前には、ロジーが立っていた。

 

「お帰りなさい。随分と時間がかかったわね?」

 

 全部を見透かすような、まるで勝ち試合のチェスでも打ってるような顔をして、ロジーは私に笑いかけた。

 『おかえり』だと? ジョークにしちゃあんまりにも最低だ。

 

「ハリ、と言ったかしら? あの子もお待ちかねよ、イト」

 

 ハリ……! クソ。

 

「お前! アイツに指の一本でも触れてみろ! 話すのもおぞましいような殺し方をしてやるぞ!」

 

 そう言った途端、いきなり腹部を蹴られる。私に銃を突きつけてた、リドーの仕業だ。

 

「ウグッ……!」

 

「口の聞き方に気をつけな、便所坊や」

 

 私はそれに言い返すこともできず、その場に伏して、無様に咳き込むしかなかった。

 クソ、こいつも絶対殺してやる。

 

「リドー、程々にしなさい?」

 

 ロジーが一切表情を変えずそう言うと、リドーは焦ったような、怯えたような態度で「ハイ」とだけ言った。

 

「……さ、中に入りなさい。体が冷えたでしょう」

 

 ロジーはそう言うと、屋敷の奥に引っ込んだ。私たちも同様、ではないが、チンピラ連中に引っ張られ、ロジーの屋敷へと食われていった。

 

 

「まったく、イト。貴方は本当に良い子ね。まさか、あんなにすごい手土産を持って来てくれるなんて」

 

 屋敷の中を歩きながら、前を歩くロジーは顔こそ見えないものの、実に上機嫌にそう宣った。

 私はそれに何も答えない。きっと返答などハナから求めてなかっただろう。ロジーは続ける。

 

「それに、その子が『クリーピーローズ』と同時に手に入るなんてね。あんまりに出来過ぎてて笑っちゃうわ」

 

 ロジーはわざとらしく肩をすくめていった。それが何を意味するのか、よく分からない。

 どういうことだ? ハリとあの『錠剤』に、因果関係なんてないはずだろう。

 

「……少し聞いても良いかな、ママ・ロザリア」

 

 私が考えていると、後ろにいるベルがそう聞いた。

 

「おい、余計な口を開くな!」

 

「いいわ」

 

 怒鳴るチンピラを諌めて、ロジーはベルを見る。

 

「何かしら、ベル博士?」

 

「どうせ知ってるだろうから言うが、私はあの『クリーピーローズ』を成分分析したんだ。完全にではないがね」

 

 ロジーはそれを聞いて微笑む、ベルは続けた。

 

「そこまで調べた限りでは、はっきり言って、私の病院を壊すほど価値のあるものとは思えなかったよ」

 

「……へえ、というと?」

 

「あれは、ただの媚薬だ。それも市販されているようなレベルのね」

 

 ベルのその言葉を聞いて、私は目を見開いた。

 媚薬? ただの媚薬だと? そんなことがあるのか?

 じゃあなぜ、ロジーはこんなにあの薬に拘っているんだ?

 

「具体的にいえば、主な有効成分はシルデナフィルクエン塩酸・・・・・・すなわち、バイアグラだ」

 

 バイアグラ。その名前は私でも聞いたことがある。確か、世にも珍しい男性用の媚薬だったはずだ。元々は狭心症の人間のために作られたと言うのを、パルプ誌か何かで見た記憶がある。

 

「無論、男性用の薬品だし、滅多に出回らない代物だ。しかし、それでも一般的なオフィスレディが少し背伸びさえすれば買えるんだぞ。よもや貴女のような上流階級の更に上澄みが、手に入らないはずもあるまい」

 

「……まあ、貴女ならそう思うでしょうね」

 

「ただ、確かに奇妙な部分もあった」

 

 ベルは、そう言って縛られた手の片方、その人差し指を静かに立てた。

 

「先程も述べた通り、バイアグラに含まれる成分はシルデナフィルクエン塩酸。だが、あの『クリーピーローズ』という薬は、それ以外にもいくつか『まったくわからない』成分が入っていた」

 

 誰もそれに反論をしない。

 少しの静寂。

 ベルは続けた。

 

「あれはなんだ? まったく未知の性質を持っていた。貴女はあれで、一体何を望もうというのだい、ママ・ロザリア?」

 

 ベルはロジーを見据える。それにロジーは何も答えない。アイツはただ、全てを小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべて、ベルの視線を一身に受けるだけだった。

 何秒ほどそうしていただろうか。ロジーは静かに、口を開いた。

 

「解いてあげなさい」

 

 なんの前触れもなくそんなことを言ったものだから、私は思わず面食らってしまった。チンピラ連中もそれは同じなのか、困惑しながら、またはロジーの顔色を伺いながら、私たちの手の拘束を解いていった。

 

「……貴女たちはもういいわ。リドーだけ残して、残りは解散しなさい」

 

 拘束を外すのをみると、ロジーは私たちに銃を突きつけていたチンピラ連中にそう言った。当然それに不必要に逆らう奴などおらず、連中は私たちとリドーを残して、ゾロゾロと屋敷の奥に姿を消していった。

 

「……見せたいものがあるのよ。こちらに来てくださる?」

 

 そう言って奴は踵を返して、リドーを連れて地下へと続く階段を降っていった。

 

「……どうする? 逃げるかね?」

 

 ベルのその問いに、私はただ首を横に振った。

 

「ハリが捕まってる。アイツを助けなきゃ」

 

「……無事かなあ、ハリくん?」

 

 私の言葉に、ルーラは小さくつぶやいた。

 無事でいてくれなきゃ困る。必ず連れて逃げ出すんだ。今度こそ、必ず。

 是非もなく、私たちはロジーに従って、地下へと降りていった。

 

 

 初めてきた者なら、1階の豪華絢爛な見た目から、この部屋は想像もできないだろう。地下は薄暗く、コンクリートが打ちっ放しになっている、殺風景という言葉を体現したような場所だ。

 私はここに何度も来たことがある。思い出したくもない記憶だが。

 

「ここよ。ほら、あそこ」

 

 ロジーが指を刺すその先。

 

 そこには、ハリがいた。

 憔悴しきった状態で。

 

「ッ……ハリ!」

 

 私は思わず、ハリに近づく。

 それをなぜか誰も止めない。あのリドーですら。

 けれども私は、そんなことを気にしてる余裕もなかった。

 

「大丈夫か!? 怪我したのか? アイツらに何をされた?」

 

「……イ、ト」

 

 ハリは、弱り切った顔を上げて、私を見てきた。

 

 

 

 ……なんだ? なんだ、この感じ?

 

 

 

 違和感があった。まるで、脳に強い信号は走ったような。脳が何かを直接命令しているような、そんな感じ。

 

「ダメだ、逃げろ……。アイツら、お前で……」

 

 なんだ? ハリの声が遠くなる。鼓動が急に速くなる。

 私は、何をするんだったけ?

 

「お前で……試す、つもりだ。ここにいちゃ、ダメだ……」

 

 ハリを見つけて、その後、どうしなきゃいけないんだっけ?

 

 何言ってるんだ、そんなの決まってるだろ。

 

「イト、離れ……!」

 

 

 

 犯せ。

 

 

 

 ハリの言葉を聞く間もなく、私は抱きしめて。

 その口を、自分の口で塞いだ。

 

 



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14.Fears

 自分を守っていた存在がいきなり襲ってくるという恐怖は、およそ体験したものにしかわかり得ないだろう。

 そんな映画を昔観たことがある。狂った父親が、母親と息子を殺そうとする話。

 今の状況は毛色こそ違うものの、それを想起するには十分だった。

 

 イトは俺に口づけをした。攻撃的で暴力的な、噛み付くような口づけを。

 

「ブハッ! イト、正気に戻れ、おい!」

 

 俺は口づけをなんとか振り払い、彼女を見た。目の焦点が定まっていない。瞳孔が開いており、苦しさを感じさせるほど息が荒い。

 どう見たって、正気ではなかった。

 

「ハァッ……ハリ、ハリ!」

 

「ああクソ、チクショウ!」

 

 イトは聞く耳も持たず、次は俺の首筋に噛み付いてくる。

 激痛が走る。彼女のそれはもはや、喰いちぎるかのような力だった。

 抱きしめる力が強くなる。肉がえぐれそうなほど痛い。

 

 彼女のそれはもはや、甘い感情を抱かせるものではなかった。

 捕食。

 文字通り彼女は、俺を喰おうとしていた。

 

「クソッタレ!」

 

 否応もなく、俺は彼女を蹴り飛ばすしかなかった。

 

「ガハッ!?」

 

 さすがのイトでもそれには耐えられなかったのか、俺から離れてその場にへたりこんだ。

 彼女を見る。口には首筋を噛んだときについたのであろう、俺の血がこびりついていた。

 

「アッ……ハ……!?」

 

「……お目覚めか?」

 

 恐らく正気に戻りかけているのだろう。イトは俺を見て、愕然としている。ルーラが彼女に近づく、信じられないものを見たような顔をしていた。

 

「何やってんのさイト! あんた正気!?」

 

 その鬼気迫る問いかけに、イトは何も答えない。いや、何も答えられなかった。

 

「ハリ……あ、私……」

 

 俺から流れる血を見て、彼女は自分のしたことをだんだん理解したのだろう。それは、およそ普段の彼女からは想像のつかないような、怯えたような表情だった。

 

「イト、いいか落ち着け。大丈夫だ、な? 大丈夫……」

 

 俺はできる限り平静を努めてそう言った。しかし意味もなかっただろう。彼女の顔を見ればわかる。

 イトはただただ震えていた。自分の口についた俺の血を拭いながら。

 

「……ママ・ロザリア、どういうことだい、これは?」

 

 奥の方から、ベルさんの声が聞こえた。あの赤毛の女性もいるようだ。

 

「もう気づいているのでしょう? あれが、あなたの知りたがってたことの正体」

 

 彼女は飄々とした態度を崩さず、ベルさんにそう答えた。彼女は続ける。

 

「『クリーピーローズ』とは、男性用の『錠剤』。あれは、『嘘』を支配する薬よ」

 

「……生憎、コミック作家のような詩的表現は専門外でね。具体的に説明して頂きたいのだが?」

 

「そうね、ええ……私、彼をここに連れてくる前に、ちょっとしたイタズラをしたのよ」

 

「『クリーピーローズ』を飲ませたのだろう? そういうことではなく……」

 

 ベルさんがそこまで言うと、赤毛の女性は彼女の唇に手を当て、その先を遮った。代わりと言わんばかりに、女性は口を開く。

 

「飲ませた後、私は彼にこう言ったわ」

 

 女性はほんのチラリと、俺を横目で見た。

 少しの静寂。

 彼女は続けた。

 

 

「『貴方に近づいた女は、貴方が愛しくて仕方なくなってしまう。愛しくて愛しくて、唇を欲し、血を欲し、最後には食べてしまおうとしてしまう』」

 

 

 遠目なのでよくは見えないが、何も言わない様子からして、ベルさんは絶句しているのだろう。

 

「……テレビドラマの話ではないのかい? 流行りそうにもないな」

 

「あらあら、科学者が可能性を否定するなんてらしくありませんわよ、博士?」

 

 ベルさんが信じられないのも、仕方ないだろう。俺だって未だに理解しきれてないのだ。

 だってそれは、まさに予言をつくるようなものだ。

 俺に近づいた誰かの行動を、自在に操ることができる薬。

 そんなものは薬じゃない。もはや、魔法だ。

 

「とは言え、誰にでも使えるわけではないわ。行動を操れる対象は、一定量の脳内ドーパミンが出ている者のみ……つまり、服用者に対して、好意的な感情を持つ者にしか使えない」

 

「……なるほど、だから『彼』か」

 

 ベルさんは嫌なものでも見たような、しかし何か確信したような顔で、俺の方を見た。それを見て、赤毛の女性は可笑しそうに笑った。

 

「本当に、素晴らしい手土産を持ってきてくれたものよ、イトも」

 

 彼女がそう言った時、ルーラに支えられていたイトが、身体をビクリと震えさせる。見ていられなかったのだろう。俺はそんな彼女から、思わず目を逸らした。

 そうして数秒間。

 赤毛の女性が口を開く。

 

「50億ラル」

 

「……何?」

 

「うちの経理部門が算出した、あの『クリーピーローズ』を使ったことでもたらされる収益価格。その『最低』予想価格よ」

 

「……凄まじいな。小国のGDPを超えているじゃないか」

 

 彼女たちから聞こえてきた話は、およそ聞きたくもないような、あんまりに馬鹿げた内容だった。

 『ラル』と言う単位はよくわからないが、価格と言っている当たり、恐らくエルドラ合衆国の貨幣単位なのだろう。ベルさんの言う通りちょっとした国以上となると、おそらく億という単位で足りるかも怪しい、そんな現実感のないレベル。

 バカげたことに、俺にその価値があるのだと、あの赤毛はのたまっている。

 

「ベル博士、私、世界を買う予定ですの。貴女も一口乗りません?」

 

「……ふむ、私になにをしろと? ママ・ロザリア」

 

「科学者として、興味があるのではないかしら? あの薬の可能性に」

 

「ちょっと、待ってよ!」

 

 女性とベルさんの会話を聞いていたルーラが叫ぶ。イトは、ただ項垂れただけで、何も反応しない。

 

「ベル、まさかあんた裏切るの!?」

 

「異なことを言うな。私は薬を調べただけだ。君たちについたつもりはない」

 

「ふざけ……!」

 

 ルーラは言い切る前に、思い切り殴られた。赤毛の女性と一緒にいた、大柄な人だ。

 

「イギッ……!」

 

「静かにしな。焦らなくったって、アンタらにはまだお楽しみがたっぷり残ってるさ」

 

「リドー、テメエ……!」

 

 ルーラは頬から血を流しながら、リドーと呼んだ女性を睨みつける。

 赤毛の女性は、イトに近づいて、実に冷徹な目で見下ろす。イトは彼女を見上げた。実に怯えた顔で。

 

「そろそろ効果が切れてきたでしょう? 薄めに配合したのよ」

 

「あ……違う、私は……」

 

 イトは何かを言い返そうとしていた。けれど、言葉が詰まって、もはやそれ以上の言葉は出てこない。

 

「何が違うのかしら? 貴女ひょっとして、自分があの男の子を護る騎士(ナイト)か何かだとでも思っているの?」

 

 何も言い返せないイトに、女性は更に言葉を続ける。追い詰めるように、一言一言しっかりと。

 

「そんなわけないじゃない、イト。だって、今の彼を見てみなさい」

 

 イトは、ゆっくりと俺の方を見る。初めて見る表情だった。受け入れ難いものを見たような、涙を流さないで泣いているような。

 

「彼を見なさい。首から流れるあの血を。貴女が傷つけたのよ」

 

「ッあ、あ……」

 

 

「貴女も、他の女と同じ。薄汚れたその手で、彼を穢したいだけなのよ」

 

 

「ッ……う、おぇ……」

 

 耐え切れなかったのだろう。イトは目に涙を溜めながら、胃の中のものを吐き出した。

 

 そんなことはないと、言うべきなのだろう。

 イトのに近づき、その手を取って、君は俺を守ってくれたんだと、そう言うべきなのに。

 俺はただただ、彼女のその姿に、ただ呆然とすることしかできなかった。

 

「……リドー」

 

「はい」

 

「イトたちの再教育をお願い。『彼』は傷つけないようにね」

 

「ええ、喜んで、ママ・ロザリア」

 

 そんなやりとりを終えると、赤毛の女性はベルさんと一緒に部屋を出て行った。

 

 イトは、ただ弱々しく震えるばかりで、伏せてしまったまま動かない。

 俺はそんな彼女に、どんな言葉をかけてやればいい?

 

 神様、もしいるのであれば、教えてくれ。

 



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15.Temptation

 雨が降りしきる中。

 パトカーのサイレンが、遠くから響いてくる。

 繁華街の光が、縦に細長く、けれど鬱陶しいほど眩しい。

 リネンはそんな路地裏の、ゴミ箱の横で倒れていた。

 

「こんなトコにいたのぉ? きったなぁい」

 

 リネンの耳に、聞き覚えのある声が聞こえた。彼女にとって、今は聞きたくなかった声だった。

 彼女は忌々し気に眉をひそませながら、顔をあげた。

 そこにはラミーが立っていた。いつもと変わらない軽薄な笑い顔で、彼女を見下ろしている。

 

「……何の用だ? 後始末か?」

 

 彼女はそう言いながら、ボディバッグにあるククリナイフの、その柄を手に取る。

 

「違うってぇ、迎えに来ただけ。首切るんならとっくにそうしてるっての」

 

 ラミーは「ハァ」とため息を吐いて、リネンに肩を貸して無理矢理立たせた。

 

「たく、勝手に移動しないでよねぇ。探すの面倒だったんだから」

 

「バカ言うな。あのまんまだったら、どっちにしろ留置所に行って、今ごろ晩飯にありついてたさ」

 

 拗ねたように口を叩くリネンを、ラミーは実につまらなそうな顔をして、横目で見た。

 

「イトみたい。その言い方」

 

「……次同じこと言ったら、なます切りにしてやる」

 

「ハイハイ」

 

 ラミーは、睨み付けるリネンを軽く流しながら歩き始める。歩く先は、繁華街の光とは反対の方向。薄暗い闇の中へ。

 

「……リネンさぁ、マジでいいの?」

 

「なんの話だ?」

 

「本当にこのまま、あの男の子をロジーババアに渡していいの?」

 

 ラミーは自分の顔をリネンに向けた。リネンはそれに見返すこともせず、ただ顔を伏せているだけだった。

 

「当たり前だろ、私たちはのし上がるんだ。あの黒髪黒瞳さえ手に入れば、組織もデカくなる。私たちだって、その中で幹部になるのも夢じゃない。世界中がひれ伏すであろう組織の、幹部にだ。そのためには何だってしてやるさ」

 

 どこか酔ったように、欲に溺れたように、リネンはそう宣った。

 ラミーの顔は先程と同様、酷くつまらなそうな、冷めたような表情をしていた。そんな顔をしながら、彼女は言った。

 

「バカじゃないの?」

 

「……なんだと? て、うわ!?」

 

 リネンが低い声で聞き返した途端、ラミーは彼女を肩からはがした。当然、バランスを崩したリネンはその場に尻もちをついてしまう。

 

「お前、何のつもり……」

 

「なぁにが幹部さ! トップに媚びへつらって、男娼共の上前ハネるのの何が面白いんだよ!」

 

 まるでセキを切ったような話しぶりで、ラミーは捲し立てた。

 リネンは驚いていた。ラミーがこんなふうに怒るのを見るのは、初めてだったから。

 

「アンタさぁ、ボスになるって言ったよね? イトもロジーも潰して、私がトップになるんだっつってたよねぇ? それが何みみっちいこと言ってるわけ?」

 

「う、うるさい! お前に何がわかるって……!」

 

「私は! アンタをボスにするためについてってんだよ!」

 

 ラミーはリネンの胸ぐらを掴んで、そう叫んだ。

 

「ボスになるんでしょうが! 南国に豪邸建てて、遊んで暮らすっつったでしょうが! ちゃちいこと言って妥協してんじゃないっつーのこのヘタレ!」

 

 リネンはそんな彼女に何も言えず、睨み付けはしたが、その口は噤んだ。

 少しの静寂。

 ラミーは息を整えて、続けた。

 

「チャンスは転がってるじゃんか。来世があったってもう望めないような、ドデカいチャンスがさ」

 

「……お前、まさか」

 

 リネンは息をのむ。

 

「ママから奪うつもりか? 自分の言ってる意味が分かっているのか!?」

 

 リネンは目を見開いた。ラミーの言っていることは、それはすなわちママ・ロザリアを敵に回すということだ。

 彼女はラミーの正気を疑った。ラミーはリネンの言いたいことを理解したうえで、彼女を睨み付けた。

 

「なにさ、ビビってんの?」

 

「そうじゃない! そうじゃないが……そんなの自殺行為だ」

 

「……案外、そうでもないかもよ?」

 

 ラミーは言いながら、リネンの胸ぐらを離して、代わりに彼女に手を差し伸べる。

 リネンはそれに何も言わず、ただ手を掴んで、その場に立った。

 やや気まずいような間が少し。

 リネンはラミーに聞いた。

 

「どういう意味だ?」

 

「さっき、ババアの屋敷にいたときに聞いたの。アイツ、今日の10時から出掛けるみたい」

 

「出かける? どこにだ?」

 

「多分、他の組織との会合だと思う。いつも通りだとすると、2時間ちょっとは出ているはず」

 

 リネンは考える。ママ・ロザリアが外出する。これはつまり、レックスを含めた複数の精鋭たちが護衛として出払うということ。結果的に、屋敷の警備が比較的薄まるということになる。

 

「……本気なんだな?」

 

「しつこいなぁ」

 

 ラミーは口をとがらせてそう言った。いつの間にやら、完全にいつもの調子に戻っている。

 リネンはそれだけ見て、長い長い溜息を吐いて、言った。

 

「……まずは銃と『錠剤』の補充だ。ツテがある、来いよ」

 

「そう来なくっちゃぁ」

 

 ラミーはそう言って、いつもの軽薄な笑みを浮かべる。

 二人はそのまま歩いて、闇の中へと消えていった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 私はきっと、取り返しのつかないことをしたんだと思う。

 きっと、軽蔑されて当然のことをした。

 

 神様、もしいるのであれば、どうか私を許さないで。

 

「……ふん、おやおや、『マグロ』になっちまったみたいだねぇ、イト?」

 

 リドーが、鉄パイプを持って私を見下ろしている。

 多分私は仰向けに倒れているんだと思う。きっと、あいつの持っているやつで、結構な回数を殴られたのだろう。

 

「う……ひっく……」

 

 横を見ると、ルーラがしゃくりあげて泣いていた。相当乱暴されたらしい。服はほとんど剥かれて、肌には打撲痕がいくつも見られた。

 私も同じような状況だった。両手に手錠をつけられて、それを頭の上にある、水道管か何かに縛り付けられていた。服だってもはや、その機能をなさないくらいにボロボロだ。

 

「……てくれ」

 

「あん?」

 

「殺してくれ……」

 

 私はか細く、無意識にそう言った。それは腹の底からの本音だった。

 

 私はハリに、最悪なことをした。

 私が軽蔑した、汚れた大人たちとまったく同じことを、ハリにしてしまったのだ。

 もう嫌だ。もうたくさんだ。

 どれだけ汚れたって、汚す側に回るくらいなら、死んだほうがマシだ。

 

「へえ、殊勝なことを言うようになったねえ? そうだ、じゃ、ビール瓶を突っ込んで、どれだけアンタの可愛いのに入るか試してみるかい?」

 

 嗜虐的で下卑た笑いをしながらそう言うリドーに、私はむしろ、安心さえしてしまった。

 ああ、そうだ。そうやって好きなだけ汚してくれ。

 救われようとしたのが間違いだったんだ。

 もう、変な希望を持たずに済む。

 

「……ねえ、お姉さん」

 

 おそらくその声は、ハリのものだった。私がそっちを見ると、私たちと同様縛られながら、リドーを挑発的な眼で見ていた。

 

「……なんだい坊や、その目は? アンタも後で丁寧に相手してやるから、楽しみに待ってな」

 

「後でじゃなくて、今がいいなあ。そんなマグロ女より、絶対楽しいと思うよ」

 

「……へえ?」

 

 ……なんだ? ハリは何をする気なんだ?

 諦めて、ロジーの庇護に入るつもりなのだろうか。

 ……その方が良いかもしれない。こんな汚れた女にそばに居られるよりかは。

 

「いいだろう? 俺の舌はもっぱら評判なんだ、絹のような心地良さだってね」

 

 そう言って、ハリはゆっくりと舌なめずりをする。それは酷く、蠱惑的で、艶めかしくて、目が離せない。

 

「だからさ、手錠を取ってよ。いいでしょ? 気持ちよくしてあげるからさ」

 

「……いいだろう。ちょっとでも変な気を起こしたら、いくら男でも容赦しないからね」

 

 リドーはハリの様子に、生唾を飲み込みながらそう言った。

 奴は手錠の鍵を持って、ハリに近づく。

 私は再び、ハリの方を見る。

 

 きっと気のせいだろう、縛られているはずのその手元から、一瞬光が反射したように見えた。

 



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16.Regret

 人を刺した経験がある人など、一体どれだけの数いるだろうか?

 

「早く外してよ、お姉さん。うずいてきちゃったよ」

 

「ちょっと待ってな坊や、今楽しませてあげるからね」

 

 俺はふとそんなことを考えながら、このリドーと言う女が、俺の手錠を外すのを待った。

 

 突発的にやってしまった人、不意の事故で、結果的に刺してしまった人なら、きっとたくさんいるだろう。実際、そういう話はよく聞いたことがある。

 

「動くんじゃないよ。怪我でもしたらフイになっちゃうからね」

 

 リドーはそう言って、俺の手錠に鍵をつけて、開け始める。

 

 計画的にやるとなると、その数は一気に減少することだろう。明確な殺意を持って、冷静に相手の首元を狙って刺せる者など、ごく一部だ。

 

「ほら、開いたよ」

 

 そう言われて俺は、手が自由になったことを確認する。そしてすぐ、手のそばにあったものを、取った。

 

 

 

 ……まさか自分が、その『ごく一部』になるだなんて、思いもよらなかったけれど。

 

 

 

「……は?」

 

 リドーはあっけに取られている。それもそうだろう。

 

 いきなり自分の首筋に刃を刺されて、気丈に振る舞えるのなら、それはきっとこんな奴じゃないさ。

 

 それに気づいたのはついさっきだ。老朽化した水道管の破片か、はたまた何か拷問道具の片づけわすれか。とにもかくにも、力いっぱい突けば刺せる程度には鋭利なものが、まこと都合よく、俺が縛られたすぐそばにあったのである。

 

「……が、テメェ。クソガキィ……!」

 

 ……しかし、やはりそこまで都合のいい話なぞないようだ。

 先端が潰れていたのだろう。刺し傷が思っていたより浅い。

 

 急がなくてはいけない。

 

 俺はリドーの近くによる。

 狙いはただひとつ、手錠の鍵。

 奴がまだ混乱している間に、あの手錠を取って、イトたちを助けなくちゃいけない

 間に合うか? 取れるか? いや、取らなきゃいけない。

 クソ、悩んでる暇はない。

 

(神様……!)

 

 俺はここぞとばかりに神に祈って、カギを取ろうとした。

 

 ……神に祈った程度でそんなに上手くいくのなら、誰も苦労しないだろう。

 

「ガキがァッ!」

 

 重い蹴りが、俺を襲った。

 軽く吹き飛ばされる。

 

「ガハッ……!」

 

「ハリくん!」

 

 ルーラの悲痛な声が聞こえる。

 チクショウ、痛え。

 鍵は……クソ、ダメだったか。

 

「このゴミが! たかだかオスのくせに、優しくしてりゃあつけ上がりやがって!」

 

 リドーはそう言いながら、倒れた俺を、激しく何度も蹴ってくる。

 

「このゴミ! ゴミが! テメエみてえなのは、黙って女のをなめてりゃそれでいいんだよォ!」

 

「ぐ……グァッ……!」

 

 あーあ、ボスに傷つけるなって言われたのに。

 もう何回蹴られただろうか。他人事のようにそんなことを考えてしまうくらい、もはや痛みで意識がもうろうとしてきた。

 蹴られている最中、何かがカツンと落ちる音がしたが、そんなことを気にする余裕もない。

 ああ、本当に死ぬのだろうか? ふと、そんな考えが頭をよぎった。

 

「フゥッ……フゥッ……! 起きろガキ!」

 

 ひとしきり蹴ってある程度気が晴れたのか、リドーは俺の髪を掴んで、無理矢理顔を上げさせる。

 

「おい、まだ寝るなよガキ。どうだ? あたしが受けた痛みと屈辱はこんなもんじゃねえぞ。望み通り、朝までたっぷり楽しませてやるさ」

 

 きっと俺の姿は今、ずいぶんと無様なものだろう。

 悪い、イト、ルーラ。

 あんまり、助けてやれなかった。あんなに助けてもらったのに。

 すまない。

 

 

 

 

「おい」

 

 

 

 

 そんな声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。

 

「あん?」

 

 リドーがそう言って、声がした方向を見る。

 

 

 

 瞬間、彼女の首に、刃物が突き刺さった。

 イトが、その首を刺していた。

 

 

 

「アッ……ゴボッ……!?」

 

 しかも今度は、さっきみたいに浅くない。喉を貫通するのではないかと言うくらい、深く深く、刃物の根までを突き刺していた。

 

「どうだ? あたしが受けた痛みと屈辱はこんなもんじゃねえぞ」

 

 ひどく冷徹な、突き刺すような目をリドーに向けて、実に抑揚のない声で、イトはそう言った。

 

「ッ……」

 

 リドーは何も言えず、ただ口をパクパクとさせながら、イトの方に手を伸ばす。

 あれはもう、助からないだろう。

 

 俺は黙って、イトの方を見た。

 彼女がリドーに向ける目は、憎しみと怒りに満ちていた。

 

 リドーはそのまま地べたを這って、ズルズルとイトに近づく。

 1歩、2歩、3歩。

 その途中まで、足を動かしたところで、彼女が伸ばした手は、地面に落ちて。

 

 そして、こと切れた。

 

「……ざまあみろ、豚女」

 

 感情の無い声で、静かにイトはそう言った。

 きっとそれは怒りだったろうし、憎しみだったろう。彼女が未だリドー『だった』ものに向ける目は、憎悪と恨みが込められている。

 けれど、なぜだろうか。

 俺はそんな彼女を見て、酷く哀しい気持ちになった。

 親とはぐれて泣きじゃくってる子どもを見るような。

 何故だか、そんな風に見えた。

 

「ハリくん!」

 

 俺がイトを見ていると、ルーラが俺の方に駆け寄ってきた。ひとまず、見た目ほどダメージはないみたいだ。

 

「ハリくん、大丈夫!? 怪我は!?」

 

「いや、平気だ……ていうかイト、ルーラ、お前ら手錠は?」

 

「さっきリドーが、イトの近くに落としたんだよ。アイツ、ハリくんを蹴るのに夢中になって、落としたことにも気づかないでやんの」

 

 ……そういえば、蹴られてる最中に、何か硬いものが落ちた音がした気がする。あれが手錠の鍵だったんだ。

 となると、俺の行いも案外、まったくの無駄だったというわけでもないようだ。

 

「とにかくここから出よう。ルーラ、銃は?」

 

「リドーがアッチの部屋に持ってってった。多分取ってこれると思う」

 

「わかった」

 

「イト! アンタもボーっとしてないで……イト?」

 

 ルーラのその言葉に、イトは何も反応しない。先程から顔を伏せて、その表情すら読み取れない。

 

「イト、どうした? どっか痛いんじゃ……」

 

「ハリ」

 

 イトはそうやって食い気味に、俺の名前を呼んだ。彼女はそのまま顔を上げる。

 酷い顔だった。まるで涙を流さないで、泣いているような。

 

 

「お前さ、もうロジーのものになれよ」

 

 

 彼女はその顔のまま、そんなことを言ってきた。

 

 ……イトのその言葉に、俺はしばらく反応できなかった。

 俺はただ目を見開いて、彼女の泣きそうな顔を見ていた。

 

「……ハ? ハァッ!? 何言ってんのアンタ! こんな時にふざけないでよ!」

 

 イトのその言葉に、ルーラは激昂する。しかしそんな彼女にも、イトは何も反応せず、ただただ俺から目を逸らしている。

 

「……本気なのか?」

 

 俺は静かに、なるべく刺激しないように、イトにそう聞いた。彼女は震えたように、口を開く。

 

「だってさ、見たろ、お前も? ケダモノみたいに、お前に襲い掛かる私をさ」

 

「何言ってんだ。あれは薬に操られて……」

 

「違う!」

 

 イトは突然、叫んだ。それは半分泣いているようにも聞こえた。彼女は続ける。

 

「違うんだよ、薬のせいじゃない。あれが本当の私なんだ。醜い化物の……」

 

 彼女はそう言って、自分の肩を抱く。俺の知ってる彼女だったら、絶対しないようなポーズだ。

 

「……どういう意味だ?」

 

「……今回みたいなことは初めてじゃないんだ。小さい頃から何度も、私はリドーやロジーにここに連れてこられて、その度に何度も殴られながら『便所』になった」

 

 なるほど、彼女がリドーに向けた目の意味が分かった。

 トラウマ。幼少期の頃からここに連れてこられて、それはそれは酷い目に遭ったのだろう。

 

「殺してやりたいほど憎んだ。でも違う。違ったんだ」

 

「……違う?」

 

「殺されるべきなのは、私だったんだ」

 

 独白、という言葉がこの状況に似合うだろう。

 いつの間にやらイトは、自嘲と悔恨、そのどちらともつかないような表情をして、涙を流し始めた。

 

「私は、ハリを犯そうとした。お前を見た瞬間、全部を忘れて、犯したくてたまらなくなった。私を犯してきた、殺したいほど憎んだあの化物共と同じ、私も化物だったんだよ……」

 

 ポタポタと、涙がこぼれ始める。

 

「……だから、ハリは私と一緒じゃダメだ。一緒に居たら、私はきっとまた、」

 

 彼女はそう言って、また顔を伏せた。

 

「イト……」

 

「……つまり、一緒にいると傷つけちゃうから、それならさっきの赤毛のところに行けって、そう言ってんのか?」

 

 ルーラの呼びかけにも応じないイトに、俺はただそう聞いた。

 

「……ロジーのところなら、私と一緒にいるよりはマシさ。黒髪黒瞳だし、そこそこいい扱いをしてくれるはずだ」

 

 ……なるほど、彼女は本気で言ってるのだろう。

 自分といると傷つけるから、それならと。

 きっと彼女も断腸の思いで言っているだ。ここまで固い意志で言われてしまったら、もはや仕方ないだろう。

 

「イト」

 

 俺はイトの名を呼んだ。すると彼女は、ビクリと震えて、その言葉の先を待っている。

 やることも決まった。後はただ、彼女に一言二言、言うだけだ。

 

 

「ふざけんな」

 

 

 俺はそう言って、彼女のボロボロの服の、その両肩を掴んだ。

 



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17.Awkward

 私の短い人生の中で、誰かが私の身体を触る時、大概どんなシチュエーションなのかが決まっていた。

 リドーやその客みたいな奴らが、私を『男役』にして弄んだとき。リネンみたいに私に恨みをもっている奴らが、私の首を絞めて殺そうとしたとき。ロジーが私にお仕置きだといって、私の腹を蹴ってきたとき。大体どんな時も、身体を触るやつは私を空っぽの眼で見下ろした。

 だから私は、そういうものだとずっと思っていた。身体を触るということは、誰かを支配したり、攻撃したりするためのものだと。

 

「ふざけんな」

 

 私はハリの言葉に、なんて返せばいいかわからなかった。こんなふうに肩を掴まれて、真っ直ぐと私を見てくる奴なんて、誰もいなかったのに。

 支配するためでも、攻撃でもない。今までなかった身体の触られ方に、ただ困惑するしかなかった。

 

「ッ……!」

 

 ハリの眼が、黒曜石のようなその瞳が、私の眼の奥を覗いてくる。それはまるで全部を見透かしてくるようで、思わず目を逸らしてしまう。

 

「冗談じゃないぞ、イト。じゃあなんでお前は、あの時俺を助けたんだ?」

 

「え……?」

 

 思わずそんな返事をした。言葉の意図が読めなかったから。

 ハリは静かに怒っていた。怒っていて、けれどそれは、私が今まで向けられたことのない怒りだった。

 

「あの時、アンタらは俺を助けた。ホテルのドアを開けて、レイプされる寸前の俺を助けたんだ」

 

 でも、と、彼は続けて言った。

 

「今ここで赤毛のところに行ったら、それは助けなかったのと一緒だ。お前は扉を開けず、俺はレイプされてどこかに売られたことになっちまうんだ」

 

「……助けようとして、助けたんじゃない」

 

「けれど助けた。お前がどう思ってようと、あの時、ホテルのドアを開けたんだ。なら最後まで責任もって助けろ」

 

「これ以上どうしろってんだよッ!」

 

 私は叫んだ。地下深くとはいえロジーの屋敷の中だということも忘れて、グチャグチャになった感情に身を任せるしかできなかった。

 

「やるだけやったさ! その結果がこれなんだよ! お前もルーラも巻き込んで、怪我させて、これ以上足掻いたって酷くなるだけだろうが!」

 

 息が苦しかった。我ながら、なんて酷い有様だろう。

 ハリは黙って、私をただ見ていた。感情の読み取れないその目で。

 その目は何だか、私の全部を覗いてくるみたいで。

 それに耐えきれなくて、目を伏せた。

 

「……じゃあ俺を撃ち殺せ」

 

 するとハリは、そんなことを言いだした。

 

「な……!?」

 

 私とルーラの声が重なる。ハリはそれになんの反応もせず、淡々とその先を続ける。

 

「どうせ生き残っても、誰かの慰み者になるだけなんだ。ならいっそここで殺してくれ、銃ならあっちだ」

 

「……どうかしてるぞ、自分の言ってる意味が分かってるのか?」

 

「……ここに来る前、俺はずっと、暗い谷の底みたいな人生を生きてきたんだ」

 

 そう言うハリの眼は少し、遠くを見ていたように思う。それは望郷とはまた違う、悔恨を思わせるような表情だった。

 ここに来る前……恐らくニッポンという国にいたときの話だろう。

 

「要領が悪くて上手くできることなんか何にもなくて、誰からも見限られて、このまま一人で誰にも気づかれず、空っぽに生きて、死んでいくんだと思っていた」

 

 肩を掴む力が、段々と強くなる。さっきまで逸らしていたはずのハリの眼が、何故か今は目を離せない。

 

 

「でもあの朝、イトがドアを開けた」

 

 

 その言葉は、ストンと私の胸に落ちてきた。私は多分今、目を見開いていると思う。

 彼が私の方を掴む力は、もはや痛みを感じるほど強くなってて、けど何故かその痛みが、心地よくて、離し難いもののように思えた。

 

「……一度奈落の底から救ってくれたのに、また落とすなんて勘弁してくれ。救うんなら、最後まで頼むよ」

 

 ……ああ、コイツはなんてわがままなやつなんだろう。一回手を差し伸べたなら、最後まで面倒見ろだなんて、ずいぶんと横暴じゃないか。こんなわがままな男見たことない。とんでもない奴を助けてしまったものだ。

 

 ……いいのだろうか?

 ……お前と一緒に、私も救われても、いいのだろうか?

 

「……いい加減離せよ、痛え」

 

「あ、ああ、悪い……」

 

 そこでようやく気付いたのか、ハリは申し訳なさそうに私の肩を離した。さっきの剣幕からは想像もつかない顔だ。

 

「イト、俺は……」

 

「……銃を取りに行こう。鍵はリドーの服の中にあるはずだ」

 

 何とか平常心を取り戻して、私はそう言った。正直このセリフを言うのはバツが悪かったが。

 

「……ありがとう」

 

「よせよ……ルーラ、装備の確認を手伝ってくれ」

 

「オッケー」

 

 リドーだった死体から鍵を漁ってから、私たちは小部屋に移動した。

 

 

 

 小部屋のドアの鍵を開けて、中へと入る。

 

「暗いね。イト、その辺電気ない?」

 

「待ってろ……これだ」

 

 暗い中で壁をまさぐっていると、スイッチと思わしき突起物を見つける。どうやらこの部屋は非常用の倉庫らしい。電気をつけると食糧や、日用品などが所狭しと入っていた。そして案の定、入り口のすぐそばの机に、私のリボルバーとルーラのオートマチックが無造作に置かれていたのが見えた。

 

「……もう大丈夫?」

 

 ルーラが自分の銃を取って、チェックをしながらそう聞いて来た。

 

「ああ、悪かった。もう大丈夫だ」

 

「そ……あんなに取り乱したイト、初めてみたよ」

 

「幻滅したろ?」

 

「全然? かわいいとこあるじゃんって思った」

 

「うるせえ」

 

 そんな軽口をたたき合いながら、私たちは装備を確認する。

 ……弾はよし。動作も問題ない。『錠剤』もまだストックがある。

 ……今日だけで2錠、これを含めれば3錠。もし無事にここから逃げ出せたら、しばらくは禁薬生活をしないとマズイだろう。

 

「銃も『錠剤』も大丈夫だ。そっちは?」

 

「うん、こっちも大丈……あ」

 

 ルーラが何かに気づいたような声をあげて、私は思わず彼女の方を見た。

 ……その声の理由は、すぐにわかった。

 

「服……どうしよう……」

 

 地下部屋が薄暗くて気にしてなかったが、私もルーラも、リドーの拷問のせいで服がダメになってしまったんだった。

 ルーラはほとんど下着だけだし、私にいたっては、ジャケットは取られたし、シャツは切り裂かれてボロボロだし、何よりその……下がスースーするような状態だった。

 

「イト、ルーラ、大丈夫か? 装備はちゃんと……」

 

 と、何とも間が悪いことに、ハリが様子を見にきた。

 

「あッ……」

 

 バツが悪そうに、ハリはそんな声を漏らした。

 さっきも言った通り、さっきの薄暗い場所と違って、この小部屋の電気はしっかりとついている。

 つまり、まあ言いたくはないが……バッチリ全部見えてしまっている状態だった。

 どうにも居心地が悪くて、私はつい、破れたシャツの裾を伸ばす。

 

「……なにマジマジ見てんだよ」

 

「いや、その……なんだ、悪い。俺のシャツ貸すよ」

 

 ハリはそう言って、いきなり自分のTシャツを脱ぎ始めた。

 

「ちょ、待て待て待て! お前が肌出すのが一番ヤバい!」

 

「は? いやでも女の子がその恰好は……」

 

「男の子が上半身裸の方がダメでしょうが!」

 

 私とルーラが焦って止めると、ハリは納得いかないような様子で、自分のシャツを元に戻した。

 ……今に始まった話ではないが、私たちとハリの間には、やはり価値観のズレがある。

 

「とにかく、この部屋だったらシャツの1枚や2枚くらいはあるだろ。倉庫なんだしな」

 

「あ、ああ、わかった。ところで、どうやって逃げるか算段は付いてるか?」

 

「ああ、それなら……」

 

 私が言おうとした瞬間。

 

 バンッと、地下の入り口の方から音が聞こえた。入り口の大扉を破壊した音だ。

 

「ッ!」

 

 私とルーラは即座に銃を構える。

 

「な、なんだ?」

 

「し! 静かに」

 

 いきなりのことで動揺するハリにそう言って、倉庫のドアに隠れる。

 

「……? なんだ、撃ってこない?」

 

 位置的にこっちの存在はもうバレているはずなのに、一向に何かしてくる様子もない。

 不審に思って、私はドアを少し開けて、その隙間から覗いてみる。

 

「!……お前ら」

 

 すると、ずいぶんと最近見た顔が2人。壊された大扉と、その奥にある地上へと続く階段をバックに、そこに立っていた。

 

「……なんだその恰好、ふざけてるのか?」

 

「はろ~、さっきぶりぃ!」

 

 リネンとラミーが、重装備でそこにいた。

 




仕事の関係で次話の投稿は土曜の朝くらいになります。ごめんなさい。
感想いただけると嬉しいです。


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18.Traitor

 ――同時刻。

 

 エルドラ合衆国屈指の都市部である『スティル・ヨーク』。その中央にある高級ホテルの最上階レストランにて、彼女らは円卓を囲む形で座っていた。

 彼女ら……ママ・ロザリアをはじめとする、いわゆる『調停者(フィクサー)』と呼ばれる富裕層の女性たちは、外部から秘匿すべき話は必ずここで行う。

 後ろ暗い者たちの話し合いと言うのは、往々にして秘密に行われるものだ。スティル・ヨークの夜景を一望できるそのロケーションも、豪奢なレストランのレイアウトも伊達ではなく、全てはプライバシ・セキュリティの質の表れなのである。

 

「……つまり、『プロジェクト』は予定を繰り上げて行えると、そう言いたいのですね?」

 

 妙齢の女性は、そう口を開いた。上品を絵に描いたような人だが、その目は鷹のように鋭く、見るものを思わずひるませるような厳格さがあった。

 ママ・ロザリアは、その問いに対し微笑みで返す。

 

「ええ、そう解釈して頂いて構いませんわ、ミス・スタンフィールド」

 

 スタンフィールドと呼ばれたその女性は、それに是と取れるような、ゆっくりと静かな首肯をした。

 スタンフィールド。彼女の役職は、エルドラ合衆国トップの補助を行うもの……すなわち、『大統領首席補佐官』と呼ばれるものである。

 それ以外にも、この場所には層々とした面子が揃っていた。陸軍大将、財閥の重鎮、エルドラ民主党議員。まさに国そのものを動かせる上級役職(エグゼクティブ)たちが、ある『ひとつのこと』を話すために、一堂に会しているのである。

 

「とにかく、予定にはなかったことですが、思わぬところから黒髪黒瞳の特上品が手に入りました。これによって、『クリーピーローズ』の服用者探しについては、ひとまず解決したと言ってよいでしょう」

 

「そうですか。しかし、何とも幸運なお話ですね。神の思し召しと思えるほどです」

 

「ここまで話が美味いと、神よりも悪魔の誘惑に思えてくるわね」

 

 スタンフィールドの言葉に答えながら、民主党議員の女性は、手に持っていたシャンパンを傾ける。

 

「その黒髪黒瞳は大丈夫なのかしら? そのような特上のレアもの、どこぞの権力者が所有していて然るべきでしょう。面倒なことにならなければいいけど」

 

「当然、その点は現在調査中です。しかし今のところ、『彼』の所有者に該当する人物は見つかっておりません。その部分に関しても、問題はないと考えてよろしいかと」

 

「……本当に、怖いほど美味い話ね」

 

 議員はそう言うものの、その顔には安堵の色が濃かった。目先の小さな不安以上に、自分の投資が返ってくる目途が立ったのだから、無理もないともいえる。

 

「兎にも角にも、これで『プロジェクト・ローズ』は一気に最終段階まで進めます。後は、薬の最終調整を残すのみ」

 

「……我々の悲願が叶う時も近いですね。祝杯をしましょう」

 

 ママ・ロザリアにそう答えたスタンフィールドは、シャンパングラスを掲げ、シャンデリアの光を通して、その美しさを見つめていた。

 他の面々もそれに従い、グラスを傾け、出された料理を口に運ぶ。

 彼女らは酔っていた。目前の成功に。鼻の先にある勝利に。きっとこの酔いも悦も、しばらくは続くことだろう。

 

 ある一人以外は。

 

「失礼します、ママ!」

 

 扉の音と共に、ママ・ロザリアの側近であるレックスが入ってくる。焦っているようで、その動きは冷静ではあるが、しかし余裕を感じられなかった。

 

「どうしたの?」

 

「実は……」

 

 神妙な顔をしたレックスは、ママ・ロザリアの傍により、彼女の耳元であることを囁く。レックスがある程度まで話すと、ママ・ロザリアは目を見開いた。

 

「……失礼、急なアポイントが入りまして。どうぞ皆さまは、このままお続けくださいませ」

 

 そう言って、彼女は席を立ち、踵を返す。

 

「それは残念ね。また会う機会があれば、貴女の『コレクション』を見たいものね、ミス・ロザリア」

 

「……ええ、ぜひまたいらして下さいませ。きっと、満足なさいますわ」

 

 議員に対してそれだけ言い、彼女はレックスと共にレストランから出た。

 

「状況は?」

 

「かなりひっ迫しています。屋敷から『奴ら』の射殺許可を聞いてきてますが」

 

「許可する。見つけ次第殺しなさい。『彼』は絶対傷つけないよう」

 

 ママ・ロザリアは歩きながら、忌々し気に親指の爪をかじる。その表情からは、普段の余裕は感じ取れない。

 

 

「リネン、ラミー……代償は高くつくわよ」

 

 

 そう言って彼女は、乱暴にコートを羽織った。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 薄暗い中に砂埃が舞う。それはなかなかに煙たくて、普段なら咳き込みでもするところだが、そうも言ってられなかった。

 リネンとラミーが立っている。ご丁寧に機関銃やグレネードまで持った重装備でだ。

 正直な話、なんてタイミングの悪いことだろうと思った。壊れた入り口の光が逆光になって、二人を不気味に照らすものだから、余計にそんな思いも強くなる。

 

「……お前ら、何のつもりだ、『後ろのそれ』は?」

 

 イトは銃を構えながら、困惑した声色でそう聞いた。

 後ろのそれとは、一体何のことなのだろうか? イトの方を見ると、彼女は唖然と言った表情でリネンを……。

 ……いや、これはそのさらに奥の方を見ているようだ。

 

(なんだ? 何を見てるんだ?)

 

 不思議に思って、その目線の先を覗いてみる。

 

 死体だ。

 

 俺は愕然とした。

 リネンたちの後ろに、あの赤毛の手下であろう死体が、『なます切り』になってバラバラになったモノが、おおよそ2、3人分散らばっていた。

 

「なん……これッ……!」

 

「見るなハリ、お前にゃキツ過ぎる」

 

 イトはそう言うが、しっかり見てしまった後に言われてももう遅い。

 胃の中が逆流しそうになったのを耐えながら、俺はリネンの方を見る。

 

「……なんだ、意外と情けない男だな、黒髪黒瞳」

 

 ひどく見下したようなにやけた顔で、彼女は言った。表情こそ冷めていたが、その奥にある獰猛さが見え隠れしている。そんな顔だった。

 

「おい、まだ質問に答えてねえぞ。後ろの死体はなんだ? お前らとうとう敵と味方の区別もつかなくなったのか?」

 

「……口の減らないやつだ。その服だけじゃなく肉ごと削いでやってもいいんだぞ?」

 

「あぁッ?」

 

 イトが銃を構え、リネンがククリナイフを向ける。

 時間が止まったかのような、ひりついたその静寂。

 一触即発の、爆発する寸前。

 

 

「コラッ!」

 

 

 ……と、思っていた矢先、ゴンッという派手な音が聞こえた。

 何故かはわからないが、ラミーが日本刀の柄で、リネンを殴ったのだ。

 

「痛っ!? な、何すん……!」

 

「ケンカァしてる場合じゃないっしょ! ロジーババアが帰ってくる前に、この子ら連れて逃げるんでしょうが!」

 

 ……どういうことだ? 話についていけてない。

 

「あのさ、何がしたいわけ?」

 

「ショートコント見せに来ただけなら、2丁目のライブハウスでやってくれ」

 

 どうやらルーラとイトも同じようで、二人とも困惑半分、呆れ半分の目をしながらリネンたちを見る。

 

「違うってぇ! 私たちは加勢に来たの、アンタらの!」

 

「……何?」

 

 そう言ったのはイトだったのか俺だったのか。少なくともどちらだとしても、ラミーの言葉が予想外のものだったのは間違いないだろう。

 そんなことを考えていると、殴られた頭を抱えてしゃがんでいたリネンが立ち上がって咳払いをした。

 

「……ゴホン、そういうことだ」

 

「……わかんねえな。ロジーを裏切るってのか?」

 

 リネンはそれに黙って首肯する。

 イトは訝しんだ。それもそうだろう、数時間前に敵だった奴らが、どういう心境の変化なのか。

 俺がそう考えていると、リネンが俺を指さす。

 

「その特大の金づるを、わざわざ奴に渡す道理もないって気づいただけだ」

 

「……結局はハリ目当てかよ。どいつもこいつも」

 

「ならどうする? 私たちはこのまま帰ってもいいんだ。お前、そいつを守りながら、この屋敷の包囲網をどう突破する気だ?」

 

 イトは痛いところを突かれたように口を噤む。

 はっきり言って、事実だろう。いくらイトとルーラとはいえ、二人だけで、しかも俺と言う足手まといをつけた状態で、この屋敷の外に逃げられるとは流石に考えにくい。それはルーラも同じようで、彼女はイトの方を見る。

 

「……イト、どうする?」

 

「ほら、どうした? もうすぐ連中が騒ぎに駆けつけるころだぞ?」

 

 リネンの言う通り、確かに出口の方からけたたましい警報が聞こえる。このままでは彼女の言う通り、あの赤毛の手下がすぐにこっちに向かってくることだろう。時間があまりないのは明白だった。

 

「……ああ、もう面倒くせえ」

 

 ルーラの問いにもロクに答えないまま、イトは頭をガシガシと、片手だけでかきむしる。それを数秒行った後、まるで諦めをつけたかのように、「ハァ」と短いため息をついて、リネンを見た。

 

「ちょっとでも変な動きしたら後ろから撃つぞ、いいな?」

 

「構わない、その時は叩き切ってやる」

 

 リネンがそう言い終わると、イトは無言で、渋々といった様子で銃を下げた。

 

 

 ――数分も経たない時間で、イトとルーラはリネンたちが持ってきた装備を身に付けていた。

 アサルトライフル、ショットガン、フラググレネードなどなど、このまま戦争でも始めるかのような出で立ちだ。

 

「屋敷にいる敵の数は?」

 

「100人以上はいる。恐いのか?」

 

「ひえぇ……神様、助けて……」

 

「いいねぇ、バッキバキにアガってこっかぁ」

 

 イト、リネン、ルーラ、ラミー。四者四様に、それぞれが戦いの準備を終わらせる。

 

「……ハリ」

 

「どうした?」

 

 イトに呼ばれて、俺は彼女に近づく。近くで見ると、その長いまつげと薄緑の瞳が、しっかりと俺を捉えているのがわかった。

 

「私のそばを離れるなよ。絶対だ」

 

「……でも、それじゃ足手まといになるだろ? 銃を貸してくれよ。自分の身くらい自分で守らなきゃ」

 

「ダメだ」

 

 にべもなく、彼女はそう言い放った。俺がそれに少々困惑していると、彼女は俺を真っ直ぐ見た。

 

「お前は私が守る。もうリドーの時みたいな無茶は絶対するな。いいな?」

 

「……わかったよ」

 

 俺の言葉を聞くと、彼女は少し柔らかい表情で、俺を見つめた。すぐに逸らされてしまったが。

 彼女はその表情を険しくして、他の3人の方を見た。

 

「『錠剤』を飲め! 始めるぞ!」

 

 号令ともいえるその声と同時に、彼女らは『錠剤』を飲み込み、あるいはかみ砕き、その身体に入れた。

 

 長い夜の、最後が始まる。

 



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19.Brianstorm

 安全というものを手に入れるためには、安くない対価を払う必要がある。それは多くの場合、おびただしい量の血だ。真っ当に生きてるやつらがどうかは知らないが、少なくとも私の今までの人生で、寝床ひとつ分の安全を買うためには、実に何百ガロンに及ぶ他者の血を払う必要があった。

 

 ――うんざりすることに、今日1日だけで、その総量を更新できそうだ。

 

「誰か! クソ、応援を呼――」

 

 目の前にいる敵が言い終わる前に、その首と胴体がきれいに別れた。周辺にいる奴らも同じ。次々に肉が削がれて、周りを赤黒く染めてゆく。

 

 ――リネンが、全てを切り裂いてゆく。

 

「ハァハハハハ……!」

 

 掠れるような笑い声を出しながら、アイツは舌なめずりをした。

 

「気をつけろ! コイツら特上の『錠剤』をキメてるぞ!」

 

「死ねえ! ヤク中共がァッ!」

 

 別方向からの怒号。

 振り向くと、そこにはサブ・マシンガンを装備した連中が5、6人ほど。

 私はハリを連れて、とっさに壁に身を隠す。

 瞬間、けたたましい銃声が屋敷中に響く。

 

「イト!」

 

「大丈夫だハリ! 私がやる!」

 

 私は『ある銃』を手に取って、勢いよく壁から飛び出す。

 奴らが、その銃口の先を壁から私へと変えた。

 完全に捕捉されるその寸前。

 『ある銃』を構えた。

 狙いは、大体でいい。

 どうせ、全て『吹き飛ぶ』。

 

「――ッシ!」

 

 私は引き金を引いた。

 

 ――奴らの一人の、その上半身が『吹っ飛んだ』。

 

「な、なんだア――」

 

「チクショウ! あんなの聞い――」

 

 吹き飛ぶ。

 吹き飛ぶ。

 また、吹き飛ぶ。

 仲間の無残な姿に狼狽する暇もなく、他の奴らも次々と、あるいは肩から上が、あるいは腹が全て。私の銃が轟音を出すたびに、消えていった。

 

「増援を! 場所は本館の――」

 

 最後の一人、その頭も吹き飛んだ。

 

 

 ……銃声が止んだ。残ったものは、尚もいじらしく大音量で鳴り響く警報と、そのアラートがいかに無意味かを見せつけるような、屋敷中に広がる血の海だった。

 

「……スゲエ銃だな、それ」

 

 ハリは、私が持っている銃を見つめて、感心したような表情をしていた。

 

「まったくだ、『フルオート・ショットガン』なんて、どっから引っ張ってきたんだか」

 

 銃身が焼き付いたそれをみながら、私はそう言った。リネンたちが持ってきた銃は、毎分300発を発射できる連射型ショットガンだった。威力の高いスラグ弾が使われていて、効果は今やった通り。

 確か警察で開発中の最新式だったはずだ。一体どうやってかっぱらってきたのやら。

 

「お、終わった……かな?」

 

 マシンガンを構えていたルーラが、願望のようにそれを呟く。

 私もそうだったら嬉しいのだが、きっとそういうわけにもいかないだろう。

 

「んなわけないじゃぁん、まだうじゃうじゃって出てくるって」

 

 手をワキワキとジェスチャーさせながら、からかうようにラミーは笑う。ルーラはそれを見て、心底に辟易としたような表情になる。

 実際、ラミーの言う通りだろう。ここはただでさえ広い屋敷だから、私たちを探すのに手間取ってるだけだ。

 けれど、場所もさっきのやつの無線で気づかれただろう。敵の増援がここに来るまで、数分もないはずだ。

 

「しかも、ママがもうすぐ増援を引き連れてやってくるときたもんだ。そろそろ勘付いてるだろうからな」

 

 リネンがククリナイフについた血を払いながら、私たちの方に歩いてくる。

 確かにコイツの言う通り、この騒動はもうロジーの耳に入っていると考えた方が良いだろう。

 

「で、どうすんのぉ? やっぱ全員殺す?」

 

「無理に決まってんでしょ! そう言うんじゃなくって……」

 

「ガレージに向かう」

 

 そう言うと、ラミーとルーラが会話を中断して、こちらを見る。

 

「足の速い車を手に入れて、それで逃げるんだ。当然、他の車は全部ぶっ壊したうえで」

 

「……それしかないだろうな。幸い、ぶっ壊す道具ならたんまりある」

 

 ずいぶんと珍しいことに、リネンが私の意見に賛同した。とは言え、私と違って『ぶっ壊す』の部分に魅力を感じてるらしく、体中に取り付けてるグレネードを、奴はこれ見よがしに見せつけてきた。

 

「えぇーつまんないなぁ」

 

「ここで死にたいならそうしろ、ラミー」

 

「わかったってばもぉ、いじわる」

 

 ラミーの方は不満そうだったが、リネンに窘められると、口をとがらせながら渋々折れた。

 ラミー、リネンとも知り合ってそこそこ長くなるが、何と言うか、未だにラミーは何を考えてるかわからないところが多い。リネン(相方)の方はこんなにわかりやすいのに。

 

「とにかく、やることは決まった。ガレージまで進む。邪魔な奴は撃て」

 

 リネンの言葉を聞きながら、私はショットガンに弾を込め直す。

 遠くから騒がしい音が聞こえる。どうやらもう増援が来たようだ。

 

「……そら、おかわりが来たぜ」

 

 私はそう言いながら、グレネードのピンを抜いた。

 奥の角には、たくさんの人間。

 何も考えず、私はそこへ思いっきり投げる。

 

「ッ! グレネードだ!」

 

「伏せ――」

 

 言い切る前に彼女らの身体は四方に飛び散る。

 大量の血と、硝煙の匂い。

 またこうやって、何百ガロンという血を、私は安全へと捧げる。

 ただ、いつもと違うのは。

 

「……絶対離れるなよ、ハリ」

 

「……ああ、わかってるって、イト」

 

 捧げる相手が、一人増えたということだ。

 

 

 

 ――撃ち殺して、刺し殺して、切り殺して。そんなことを繰り返していくうちに、私たちはひとつの部屋に辿り着く。確かここは昔、サロン室のひとつだったはずだ。しかし、部屋の近くから、何やら薬品の匂いが漂ってくる。医務室にでもなったのだろうか?

 

「この部屋か?」

 

「ああ、ここを通るのが一番近いはずだ」

 

「そうか……む、カギがかかってるぞ」

 

「蹴破れるか?」

 

「舐めたことを聞くなよ、オトコ女」

 

 リネンは私にそれだけ答えて、ドアの前に立つ。

 もしここ数年の間で間取りに変更がなければ、今私たちがいる部屋を通って、裏手から真っ直ぐ進めば、ガレージに辿り着く。恐らく、一番時間のかからない道のはずだ。

 

「……よし、行くぞ」

 

 全員が武器を準備したのを確認してから、リネンは扉を勢いよく蹴って、強引にこじ開けた。

 

「……なにここ?」

 

「すっごぉい」

 

 ルーラとラミーが感嘆したような声をあげた。とは言え私も似たような心境だ。

 その部屋は何と言うか、まるで大掛かりな研究室のようで、試験管や顕微鏡、はたまたよくわからない装置が所狭しと並んでいた。まさに、フィクションの中のマッド・サイエンティストが暮らしてるような、そんな部屋だ。

 

「おやおやおや、そこにいるのはひょっとして、イトたちじゃないか?」

 

 声がした場所に、私は即座にショットガンを向ける。

 

「おおっと、ずいぶんとおっかないモノを向けてくれるじゃないか。恐くて泣いちゃいそうだよ」

 

「……ベル」

 

 私が銃を向けた先には、ベルがいた。

 コイツがいるということは、おそらくこの場所で『クリーピーローズ』を調べでもしていたのだろう。こんな状況なのに相も変わらず、ムカつくようなニヒルな表情を、コイツは私に向けてきた。

 

「ベル……アンタさっきはよくも!」

 

 私の隣で、同じように銃を構えたルーラが叫ぶ。当然だが、ベルの裏切りには――そもそも味方だったのかと聞かれると微妙なところだが――相当オカンムリのようだ。

 当人はといえばたいして気にしてない様子で、銃を向けられてもどこか芝居じみた動きをしている。

 

「……いいよルーラ、ほっとけ」

 

「でも、イト!」

 

「今は逃げることが最優先だ。こんなのにかまけてる暇ねえんだよ」

 

 私がそう言うと、ルーラは悔しそうに舌打ちをして、銃を降ろした。

 正直、私もまったく思うところがないわけではないが、この際仕方ない。こうしてる間にも追っ手が迫っているのだから、コイツと楽しくお喋りしてる場合でもないのだ。

 

「……なあ君たち、ハリくんを連れて、ここから逃げるのかい?」

 

「そうだよ、何、邪魔しようっての?」

 

 あからさまに嫌悪の目を向けて、ルーラはベルの質問に答えた。しかしそんなことを歯牙にもかけない様子で、ベルは少し考えるような仕草をした。

 それを2、3秒。

 彼女はあっけからんと、こう言った。

 

「私も連れて行ってくれないかね?」

 

「……はあ?」

 

 私とルーラの声が重なる。それも仕方ないことだろう。

 何なんだ? 一体何を言い出すんだこのマッド・サイエンティストは?

 

「……お前、ロジーについたんじゃねえの?」

 

「そんなこと一言も言ってないだろう? 私は『彼』を持っている側につくだけだよ」

 

 彼女はそう言って、腕を組みながらハリの方を見る。その表情は張り倒したくなるようなニヤけた顔だった。

 

 

「私は、彼の体液が欲しいんだ。最初からそう言ってるだろう?」

 

 

 ……やはり撃ち殺したほうがいいんじゃないだろうか? そんな考えが脳裏をよぎった。

 



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20.Permanent

この度はタイトルに関するアンケートにご協力いただき、誠にありがとうございました。
今回でプロローグは終了となります。
楽しんで頂ければ幸いです。


 ――『僕は現実の中で、夢を見ているんだ』

 

 いつか観た映画の主人公が、そんなことを言っていたのを思い出す。彼は映像の中でずっと、『ここではないどこか』を求めて彷徨っていた。

 もしその主人公に、今の俺の状況を教えることができたら、一体どんな顔をするだろうか。きっと『ハリウッド・アクションか、じゃなきゃ三文小説の見すぎだよ』なんて言って、苦笑いをすることだろう。

 彼は映画の最後で国を出て、『虹の彼方へ』という曲と共に、ヨーロッパへと向かうシーンで幕を閉じる。その後の彼はどうなったのだろうか。彼の向かった新天地に、彼の求めた『ここではないどこか』は果たして在ったのだろうか。

 

 ――俺はどうだろう? 俺も日本にいたときはずっと今の状況が嫌で、逃げるように『ここではないどこか』を求めていた。けれど、今はどうだろうか?

 

 

 ◇

 

 

 車がズラリと何台も置いてある広いガレージの中。俺を含めた6人は、ガンオイルと人の血で濡れながら、ここまでやって来た。

 

「追っ手は?」

 

「さっき斬った奴らで最後だ。今近くにいる分はな」

 

 リネンは無愛想な顔でイトにそう答えた。

 このガレージに着くまで、俺は何百リットルもの血と、大量の人の死にざまを見てきた。イトとルーラが撃って、リネンとラミーが斬って、彼女らは大勢の敵を血のカーペットの材料にして、ガレージまでの道に敷き詰めた。けれど何故か、そんな場面にいてもなお、不思議と恐いという感情は薄かったように思う。渦中の人間となってしまったからか、はたまた自分勝手極まりないが、彼女たちが守ってくれているという安心感のせいかもしれない。

 

「それで、車はどれにするの? これなんて速そうじゃん、かっこいいし」

 

 そう言ってルーラは、ノーズの長い、いかにもスポーツカーという様相の、真っ赤な2ドアクーペを指さした。確かにまあ、速そうではあるが。

 

「ばぁかじゃないの? こんなんオフロードに入っちゃったらそれまでじゃん。大体、どうやってこれに6人も乗るってわけぇ?」

 

 ラミーの容赦ない指摘に、ルーラは「ウグッ……」という声を漏らす。だが正直、俺もその通りだと思う。ああいうタイプの車は確かに馬力こそあるが、悪路でのパフォーマンスは普通の車以下だ。逃げれる場所をわざわざ限定させるのは、あまり得策とは言えないだろう。

 

「……でもかっこいいもん」

 

 ルーラはうつむいて、拗ねたようにそんなことを呟いた。ひょっとしてああいう車が好きなんだろうか? まあ、気持ちはわかる。長っ鼻のスポーツカーは俺も好きだ。

 

「とは言え、バギーみたいな気の利いた車はさすがに見当たらないようだね。どうするんだい、イト?」

 

 ベルがそのニヒルな顔を崩さず疑問を投げると、イトはすでに答えが出ていたようで、数ある車の中から、大きめの白のセダンを指さした。しかしラミーはそれに納得がいかないようで、眉をひそめてイトを見る。

 

「えぇ、あれぇ? 遅そうじゃない? 確かに詰めりゃ6人くらいは乗れそうだけど……」

 

「エルドラで一番走ってる数が多い。街中に入って追っ手を撒くには一番だ」

 

 イトが指さしたそれは、確かにこれといった特色のない、いわゆる普遍的なフォルムの車だった。確かにあれならば、目立つことも無いだろう。

 

「それにな、ここみたいにドラッグを生業にしてるとこじゃ、決まってああいうのをチューンナップしてんだ。『緊急』に備えてな」

 

「なんでもいいからとっととエンジンに火を入れろ。それ以外をぶっ壊すぞ」

 

 そう言いながら、リネンはボディバッグから小さい物体を取り出す。それには何やら物々しい注意書きが書かれており、容易に爆弾であることを想像できた。

 

「……プラスチック爆弾なんてどこで調達してきたんだ?」

 

「今それが重要か、イト? 敵の増援が迫っている中で聞かなきゃいけないほどのことなのか?」

 

「ああ、あぁ、わかったよ。さっさと始めよう」

 

 リネンから答えを聞くことを諦めたのか、イトはプラスチック爆弾を一つ手に取り、早速リネンと共に取り付け作業に入った。

 

「ルーラ、ラミーと一緒にガレージの外に行って、周りの明かりを壊してきてくれ。ああ、サプレッサーをつけろ、そこらにあるオイル缶を使え」

 

「えぇー、ルーラとぉ?」

 

「うちだって嫌だっつーの! ほら行くよ!」

 

 ルーラとラミーは口げんかしながらも、なんやかんやとイトの指示通り行動し始めた。

 

「何をぼさっとしている、黒髪黒瞳。お前も手伝え」

 

 それを眺めていると、リネンが近づいてきてそう言ってきた。手にはいくつかのプラスチック爆弾が乗っかっていて、それを俺に突きつける。

 

「あ、ああ、悪い……」

 

 俺は悪びれながら、彼女が差し出してきた爆弾を恐る恐る手に取ろうとした。

 ……が、寸前で、イトが割り込んできて、彼女の爆弾を取った。

 

「ハリにやらせんな。危ないだろ」

 

「……お前、さっきから思っていたが、この黒髪黒瞳に甘すぎるんじゃないか? いくら男とはいえ」

 

「……別に、そんなんじゃねえよ」

 

「大丈夫だよ、イト。俺も手伝う」

 

 俺がそう言うも、イトは「けどよ……」と納得いってない様子だ。しかし、ここまで来て自分は何もしないというのは今一つ気が引ける。何より、一刻も早く逃げるなら、人手が多いに越したことはないはずだ。

 

「ただ車のそばにそっと置くだけだ。さすがにそのくらいできるさ」

 

「……わかった。けど、必ず私の見えるところでだ。いいな?」

 

「わかったってば」

 

 ……リネンに同調するつもりではないが、確かにイトはちょっと過保護気味になっている気がする。もっとも、俺が頼りないのがそもそもの原因ではあるが。

 

「ふむ、時間がないからな、頑張ってくれたまえ」

 

「お前はとっとと手伝え、ベル」

 

 それからの時間は、さっきの銃撃戦からは想像もつかないほど静かなものだった。時たま、ルーラとラミーが街灯を割る音が遠くから聞こえる程度で、それをBGMに、俺たちは粛々と爆弾を取り付ける。

 時間にしてきっと5分かその程度だっただろう。けれどその時間は、敵が迫っているというのが信じられないほど、ゆっくりとしたもののように感じた。

 

 ここまで来れば、後は逃げるだけだ。あのロジーというマフィアを振り切って、追っ手の来ない場所まで逃げるだけ。

 

 ……逃げたその先に、何を求めればいいのだろうか? そんな場合でもないのに、俺は爆弾を取り付けながら、そんなことを考えていた。

 

 

 

 ――そこからは、実にスムーズに事が運んだ。爆弾を取り付けた俺たちは、白のセダンに6人、少々詰めて乗って、ガレージを出た。

 遠くから叫び声のようなものが聞こえる。恐らく、新たな追っ手だろう。車のことはまだ気づかれていない。

 車がガレージから少し離れところで、リネンはラミーを見た。

 

「……よし、やれ」

 

「オッケェ」

 

 リネンの言葉を合図に、ラミーは爆弾のスイッチを押す。

 地鳴りのような、重く大きい音が、後ろの方で鳴った。備え付けのバックミラーで後ろを見ると、ガレージのあった場所が、ゴウゴウと大きい炎がうねっているのが見えた。

 速度を上げて、なるべく短時間で距離を稼ぐ。炎がみるみる遠くなって、叫び声も聞こえなくなって。そして、あの大きな屋敷が見えなくなるくらいの遠くまで、とりあえずは離れることができた。

 追っ手は来ない。ひとまず、カーチェイスの心配はなさそうだ。

 

「……これさ、逃げきれたってことでいいのかな?」

 

「多分な、『今のところは』がつくが」

 

 運転しているイトにそう言われると、後部座席に座っているルーラは、まだ緊張が解けきれてないような、しかしとりあえずは窮地を脱したことに安堵の息を漏らした。

 

 ――逃げる。

 ――逃げる、か……。

 こんな時だというのに、そんな場合でもないというのに、俺はあの映画のラストシーンを思い出していた。居場所のない主人公が、居場所を求めて『ここではないどこか』へと向かったあのシーン。

 俺はあれを観たとき何故か、彼がどんな場所に行っても、求めたものは見つからないのだろうと、そんな確信を持っていた。

 それが今の状況に当てはまっているような気がしてならなかった。

 

「……何か不安なことでもあるのか、ハリ?」

 

 恐らく顔に出ていたのだろうか。イトは前を向いたまま、俺に聞いて来た。

 

「イトはさ、こっから逃げた後、どうしたいとかってあるか? 何か、求めてるものってないのか?」

 

「……それ、今聞くことか?」

 

「……そうだな、悪い」

 

 俺はしまったと思いながら、彼女に謝った。案の定、彼女は眉をひそませてしまって。俺は気まずくて思わず前を向いた。

 

 

「……別に何もねえよ。お前がいれば、それでいい」

 

 

 イトのその言葉を聞いて、俺は思わず彼女を見た。車内が暗くてよくは見えないが、彼女は居心地が悪そうに口をもにょもにょと動かしながら、前を向いていた。

 

 ――車内の時計を見ると、時刻は日付を跨ごうとしていた。俺があの浜辺で誘拐されてから、ようやく1日が経つ頃だ。

 

 

 俺は日本にいたときはずっと、『ここではないどこか』を求めていた。けれど、今は違う。

 今日だけで、こんなに恐い目にも、痛い目にも遭ったというのに、『彼女』を見たその時から、『それ』を求める気持ちは、いつの間にか無くなっていた。

 それにようやく、彼女の言葉を聞いて気付けた気がした。

 

 

「……ふむ、それでイト、結局どこに逃げるつもりなんだね? この近辺にいる限り、ママ・ロザリアからは逃げられんぞ」

 

 後ろからベルさんが聞いてくる。どうにもむず痒い空気になっていたので正直助かった。それはイトも同じようで「あ、ああ……」と少々狼狽えながらそれに答える。

 

「とりあえず、ロジーの活動圏からなるべく離れる。具体的な場所は決めてないが……」

 

「西海岸だ(っしょ)」

 

 リネンとラミーが同時に、割り込むようにイトにそう言った。それを聞いたルーラが、「えぇ!?」と驚いた声を出す。

 

「冗談でしょ!? あそこはヤバすぎるって!」

 

「彼女の言う通りだな。あそこはあそこでゴタゴタが多いぞ?」

 

 ルーラとベルさんから言われても、リネンは特に動じず、淡々と自分の考えを口にする。

 

「だからこそだ。あそこならママも迂闊に手は出せない。それに、私にツテがある。逃げるなら西海岸しかない」

 

「それにぃ、あそこなら黒髪くんも結構自由に動けるんじゃないかなぁ?」

 

「……わかった。そこに行こう」

 

 イトは頷いて、車の進路を変える。それにルーラは頭を抱えながら「ひえぇ……」と怯える声を出した。

 ……どうやら、相当厄介な場所らしい。今のうちに褌を締め直した方が良いだろう。

 

「そんな恐がんなよ、ハリ。大丈夫だって」

 

 イトはどこか優しい、柔かい声色で、俺に言った。

 

「ブリトーが美味いらしいぜ、あそこはさ」

 

 俺は再び彼女を見る。その顔は、重い何かから解放されたような、そんな憑き物が落ちたような表情だった。

 

 

 

 ――この一日で、俺の周りは全てがひっくり返るくらい変わった。奇しくも、昨日同じ時間に浜辺で思っていたことが、現実となったのだ。

 

 俺はずっと、変化が欲しかった。

 周りは変わった。後は俺が、変わらなければいけないのだろう。

 俺はようやく、この世界で生きる覚悟を決めた。

 

 進路は、西海岸へ。

 




第1章『長い一日』


―終―


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第2章:男の使い道
21.Heaven


天国ではみんな、海の話をするんだ。


『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』より


「男の人は、女の人の肋骨からできたんだって」

 

 月明りの夜中、酷く寂れた田舎の廃教会に、一人のきれいな少女がいた。彼女はそこらにいるロウ・ティーンとは全くかけ離れた特徴を持って、窓から漏れる月明りに照らされながら、その十字架の前に立っている。

 

「シスターがそう言ってたんだけどね、それはわかるの。そもそも誰でも女の人から生まれるもん。『私みたい』な子だってさ」

 

 ひとつは、彼女には『耳』があった。それは人の耳の形ではなく、その淡いベージュの髪の毛から突き出している。髪と同じ色の毛で覆われているそれは、まるで獣のような、けれどそう言うには少々冒涜してるようにも感じる、どこか歪でとがった大きな耳だ。

 

「でも、それは間違ってると思うの、きっと違う。男の人は、『へその緒』だったのよ。人と人を繋げる、私たちの手を優しく取ってくれる『(よすが)』だった。だからみんな、彼らをとっても求めるの」

 

 獣耳の少女はそう言いながら振り向いて、十字架の反対方向に歩く。足元からは、びちゃびちゃと水音がした。

 

 

「貴女たちだって、そうでしょ?」

 

 

 もうひとつは、この世界でももはや歴史博物館でしか見られないような、大きな直剣を持ちながら、血と臓物を踏みつけているということだ。

 

「あ……グッ……!」

 

 少女の足元、そこには瀕死になった、スーツ姿の女性が仰向けに転がっている。他にも数人いたのだろう。彼女の周りに、様々な人体のパーツが『飾られて』いた。

 彼女たちは、ママ・ロザリアの部下の人間……転じて、イトたちの追っ手だった。

 彼女たちがなぜこのような夜中に、このように教会になぞ居るのか? それに大した理由はない。

 追ってる途中、彼女たちは教会の近くを通った。『それだけ』だ。

 

「ねえ、貴女もそう思うでしょ?」

 

「……た、頼む、許してくれ。も、もう……話せることは全部話した……」

 

 唯一生きている、いや、『運悪く』生きている彼女の様子は、それは酷いものだった。手足を切られ、腹の皮を剥がされ、もはや生きているのが不思議なほどだった。

 少女はその生きている追っ手に、あどけない顔を見せる。

 

「……ねえ貴女、天国には誰がいると思う?」

 

「……は?」

 

 追っ手は意味がわからないという顔をする。けれど、少女はそんなことにお構いなしだ。

 

「天国にはね、私のパパがいるんだって。それで、百年に一度下界に居りてきて、私を天国に連れてってくれるんだって」

 

 

「私、やっと見つけたわ!」少女は天真爛漫な笑顔を、血まみれの追っ手に向けて、そう言った。

 

「ありがとう! お礼に、私が天国に連れてってあげるね!」

 

「……た、助け――」

 

 少女は剣を振った。

 同時に聞こえるのは、肉と骨が斬り潰された音。

 血が勢いよく飛び散る。

 それは存外に遠くまで飛び、十字架をも染め上げた。

 

「……やっと会えるね、パパ」

 

 彼女は無邪気に笑いながら、追っ手の一人から奪った写真を、愛おしそうに見つめる。

 

 そこには、ハリが写っていた。

 

 

 

 

 CHAPTER.02:The way of life for hooker

 

 

 

 

 ――屋敷での逃走劇から一週間後。

 

 太陽が容赦なく照り付ける街中、ヤシの木と白い砂浜の海辺が近くにあるような、まさに温暖な西海岸の気候を体験できる場所だ。

 そんな場所で、ベルは汗をかきながら、眉をひそませて、とある店先に立っていた。

 

「……なあ、オイオイ聞き間違いかね? いいかいもう一度聞くがね、君はこのハンバーガーが1個8ラルもすると、そう言ってるのかね?」

 

「さようでございます、お客様」

 

 ベルの目の前には、いかにもつっけんどんな言動をした店員がいる。店員のその答えを聞くと、彼女は厭味ったらしいくらいの苦笑いをした。

 

「これで8ラル? ガーリック・クラブやグリル・ロブスターを挟んでるわけでもない、この薄いパティをテキーラでフランベしたわけでもない、少ないチーズとピクルスしか入ってないこれが8ラルもすると?」

 

「さようでございます、お客様」

 

「……ああ、そお」

 

 店員の態度が一向に変わらないのを見てついに折れたのか、ベルは拗ねたように頬を膨らませる。

 

「お買い上げになりますか、お客様?」

 

 シレっとそんなことを聞く店員を前に、ベルは考える。

 ここ以外でこの近くの飲食店といえば、あとは高いレストランが並ぶばかりだ。安いチェーン店などという気の利いたものは州を跨ぐほど遠くにしかない。スーパーマーケットは? ダメだ。この辺は高い食材しか売ってないし、第一料理なんかつくれる奴がいない。ただでさえ手元が寂しい現状を鑑みると、選択肢はもはやないだろう。

 そこまで思考を巡らせて、彼女はため息を吐いた。

 

「ああ、ああ、買うとも。8ラルのハンバーガーを6つ、大至急だ」

 

「ありがとうございます」

 

 全くひどい散財だ。そんなことを考えながら、ベルはおもむろに空を見上げる。目には実に見事な青色が映り、それはインドアな彼女の思考をネガティブにするに十分な力を持っていた。

 

(ジリ貧だな、このままだと)

 

 ロジーの屋敷から逃げて一週間、イトたちは西海岸に位置する『ウィンストン・ヒルズ』という場所に来ていた。西海岸で特に高級住宅が多い場所で、裕福な住民が多いためか、エルドラ合衆国の中でも一等治安が良いことで有名だ。

 

 ……と、言うのが観光協会などが銘打つ『ウィンストン・ヒルズ』の評価だが、実際は大分違う。

 暇なセレブが多い故か、金にモノを言わせた怪しいパーティーやら集会やらが頻繁に行われているらしく、下手を打てばチンピラやマフィア連中以上に厄介な輩が多い。

 

 どうにしろ、イトたちのようなストリート・キッズたちにとっては、この場所は拠点とするには相当に適さない。

 物価は高く、かと言って彼女たちのような人間ができるような仕事もなく、何より普段使っているような、高濃度の『錠剤』がどこにも売ってない。

 リネンが『ツテがある』などと言ったものだからこの場所に来たわけだが、ひょっとしてフカシだったのではなかろうか? ベルは汗をぬぐいながら、そんなことを考えていた。

 

「お待たせいたしました。こちら48ラルでございます」

 

 思考にふけっていると、注文のハンバーガー6つの入った袋が、ベルの前に差し出される。

 

「ありがとう、味わって食べさせてもらうよ」

 

 ベルはそう言って袋を受け取り、足早にその店から離れた。

 

 

 ――高級住宅街から少し歩いた場所、街の中央からやや外れた場所に、ここ数年で廃業したばかりの小さなホテルがある。まだほとんど新しく、再利用するためか解体されるような様子もないような場所だ。イトたちは、ひとまずその廃ホテルの1室に身を隠していた。

 ベルは袋をもってトントンと階段を登ってゆく。

 階数にして3階、その奥の角にあるドアまで行き、ノックを2回、3回、1回の順で叩く。

 ドアの奥から足音。

 少しの間の後、カチャリと、カギを外す音がする。

 ドアが開く、そこには、黒髪黒瞳の青年、ハリがいた。

 

「おかえりなさい、ベルさん」

 

「ただいま。イトたちの具合はどうだね?」

 

「起きたら、結構マシになってましたよ。まだ怠そうではありますが」

 

「ふむ、この調子なら、明日になれば回復するだろう」

 

 そう言いながら、ベルは部屋の中に入る。

 スタスタと廊下を歩いて、リビングに入ると、彼女は袋を掲げて、声を張った。

 

「餌の時間だぞ! イト、ルーラ、リネン、ラミー!」

 

 

「……大声出すな、頭に響く」

 

「ハァ……きっつ……」

 

「飲まないぞ……私はもう二度と飲まない……」

 

「おっそぉい! お腹減ってやばいんだけどぉ」

 

 ベルが声を出すと、名前を呼ばれた4人はそれぞれ――ラミーを除いて――非常にグロッキーな様子で、彼女を睨み付けた。ルーラはもとい、あのイトとリネンでさえ、普段の気丈さからは想像もできないほど衰弱した様子を見せていた。

 

「まったく、1日に強い『錠剤』を2錠も3錠も飲むからそうなるんだ」

 

「しょうがねえだろ、いっぱいいっぱいだったんだよ……」

 

 イトがベルに答えた通り、彼女らがこうなった原因は、ハイ・カテゴリの『錠剤』の過剰摂取だ。

 イトたちは一週間前のあの日、これ以上ないような大激闘、連闘を繰り広げ、自身の許容量を超えた『錠剤』を服用した。

 その結果待っていたのが、非常に大きな反動だった。

 体中を襲う酷い激痛に、嘔吐、呼吸困難と、正気でいられないような苦痛に見舞われた。今でこそ二日酔いの程度にまで回復しているが、逃げ出した直後は、それこそ――特にイトは――生死を彷徨うような状態だった。

 ちなみにラミーだけが平気そうな理由は、特になんてことはない。彼女だけはあの日、屋敷を脱出する際の1錠しか飲んでおらず、単純に許容量を超えなかったからというだけだ。

 

「ほれ食べたまえ、1個8ラルのハンバーガーだ」

 

 そう言って、ベルはテーブルに袋を無造作に置いた。

 

「店員にイチャモンをつけて値引きさせようと思ったのだがな、ダメだった。なかなか頑固なものだったよ」

 

「みっともねえことするなよ……ああ、クソ。悪いハリ、水持ってきてくれないか?」

 

「ハリくん、私も……」

 

 もはや突っ込む気力もないというイトとルーラが、頭を抑えながら、枯れた声でハリにそう言った。ハリはそれに何も言わず、コップを2つ取って、台所に水を汲みに行った。

 ベルはそれを見ながら反論する。

 

「とは言うがな、我々はただでさえ金がないんだ。本当はそんな高いハンバーガーを買う余裕なんてどこにもないんだぞ?」

 

「チクショウ……リネン、お前『ツテがある』っつってただろうが。いい加減何なのか教えろよ」

 

 イトにそう言われると、リネンは彼女を睨みながら、寝転んでいたソファに座り直す。

 

「喋るなら声を小さくしろ、イト。頭がグワングワンする……」

 

「知らねえよ。で、結局ツテって何なんだよ?」

 

「ああ、なに、簡単だ……おい、黒髪黒瞳」

 

 リネンは前触れもなくハリを呼ぶ。それに何なのかとイトが首を傾げていると、ちょうどキッチンから水を取ってきたハリがいた。

 

「なんだよ、リネンも水か?」

 

 彼がイトとルーラに水を渡しながらそう聞くと、リネンははっきりと、こう口にした。

 

 

 

「お前、私と寝ろ」

 

 

 

 パリン、と、そんな音が部屋に響いた。イトが、ハリからもらった水入りのコップを割った音だ。

 全員がリネンに顔を向けた。全員が、信じられないものを聞いたような顔をしている。

 そんな中で、少しだけの静寂。

 それが十秒ほど経った後。

 

「…………は?」

 

 ここ一番の低い声色で、イトはリネンにそう言った。

 



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22.Bicker

 ――お前、私と寝ろ。

 

 部屋が静寂に包まれる中、リネンが俺に向かって言ってきた言葉を、頭の中で反芻する。逆に言ってしまえば、あんまりに予測してないことを予測していない相手に言われたものだから、答えることもできず、ただただ固まることしかできなかった。

 イトが落としたコップが、水びたしになって床に散らばっている。それが嫌に今の空気を重くしている気がして、息苦しかった。

 

「……おい、聞いてるのか?」

 

 俺がダンマリしていることが気に喰わなかったのか、リネンは眉間にしわを寄せて、首を傾げて俺を睨み付ける。

 

「あ、ああ……その、つまり?」

 

「何度も言わすな。私と寝ろ黒髪黒瞳。そうすりゃ、ハンバーガーだろうがブリトーだろうが好きなだけ喰えるようになるさ」

 

「ちょっと待てオイ」

 

 割り込むように、イトが声を発した。何故か妙に殺気立っており、その声はいつもよりも1オクターブほど低い。正直、少し怖いと思った。

 

「お前ついにクスリのやりすぎでアッパラパーになったのか? ハリがお前とヤることと金を稼ぐのに何の関係があんだよ?」

 

「そ、そうだよ! アンタただハリくんと、その……シたいだけなんじゃないの!?」

 

 イトの言い分に、顔を真っ赤にして同調するルーラ。怒っているというよりも、この手の話題に耐性がない、という感じだ。

 

「そーだそーだぁ! ヤるなら私も混ぜろー!」

 

「ややこしくなるから黙っててよラミー!」

 

 ついにラミーまで悪乗りし、収拾がつかなくなってきた。状況に追いつけてない俺は何かを喋るタイミングなどわかりようもなく、ただ困惑しているしかできない。どうしたものか……。

 

「……君の言う『ツテ』と関係があるのだろう?」

 

 そう言ったのはベルさんだった。イトたちはピタリと話を止め、もしゃもしゃとハンバーガーを食べている彼女を見る。

 

「大方、ハリくんを使ってこの辺を占めている連中に媚びを売るというところか。彼は餌としては最上だしな」

 

 ベルさんがそう続けると、リネンは「ハァ」とため息を吐いて、口を開いた。

 

「言い方は大いに気に喰わないが、概ねそんなところだ。食い物と寝床をねだる程度なら、釣りがくるくらいの献上品だろ?」

 

「しかし、危険ではないのか? そいつらが取引を無視して、彼を強奪するなんてことになったら――」

 

「ない。連中は私とイトを知っている」

 

 ベルさんが言い切る前に、リネンはそう断言した。その顔は自信のそれすらなく、ただ『当然のことだ』といわんばかりの表情だ。イトの方を見ると、彼女はリネンの方を見て、気に喰わなそうな顔をしていた。

 

「いくら美味そうな肉があるからって、腹をすかせた虎が2匹もいるような檻に、入るようなバカはいないさ」

 

 そう言うリネンの眼には、凍えるような冷酷さがあった。つい今までグロッキーになっていたとは思えないほどの圧だ。

 

「……待てよ、全然質問の答えになってねえ」

 

 しかし、イトはそんなリネンの雰囲気を何ら気にすることも無く、彼女を指さして口を開く。それに対しリネンは、面倒くさそうな目でイトを見つめ返した。

 

「なんだ、指をさすなよ」

 

「お前の言う『ツテ』ってのはわかったよ。何を考えて『ウィンストン・ヒルズ』くんだりまで来たのかってのもな」

 

「けどよ」イトは続ける。その先のことは妙に言いづらいようで、ほんの少しだけ、前半に比べてどもっている。

 

「なんでそれが、お前がハリと、その、あー……寝るってことになるんだよ」

 

「別に、必ず本当にファックしなきゃいけないわけじゃないさ。文字通り『私と寝る』だけでもいい」

 

「だとしてもだ、全然繋がりが無いだろ?」

 

「……その……やっぱ、個人的にシたいとか?」

 

 ルーラが恥ずかしそうに、人差し指をツンツンとさせながらリネンに聞く。そこまで恥ずかしがってまで聞くほどのことでもないと思うが、どうなのだろうか?

 

「ふん、そんなわけないだろうが、この発情腰ぎんちゃくが。お前と一緒にするな」

 

「……え、発情腰ぎんちゃくって何、うちのこと!?」

 

 予想外のリネンの一言に、ルーラは思い切り憤慨した。いやまあ、確かに随分なネーミングセンスだとは思う。

 リネンはそんなルーラを気にも留めず、テーブルにある袋からハンバーガーをひとつ取り出して、包み紙を乱暴に開く。

 

「別にファックするのが私じゃなくたっていいんだ。重要なのは毒見だ」

 

 そう言いながら、彼女はハンバーガーを頬張る。

 

「……ピクルスが入ってる」

 

 ボソッと、そう呟くのが聞こえた。少しだけ顔をしかめているのを見るに、きっと嫌いなのだろう。

 イトはそれを気にした様子もないが、ただリネンの言ったワードに疑問を持つ。

 

「毒見?」

 

「そうだ。お前はママ・ロザリアになるべく近づかないようにしてたから知らないんだろうが……」

 

 リネンがママ・ロザリア……ロジーの名前を口にした途端、イトは顔を険しくする。

 それに構わず、指についたハンバーガーのカスを舐めながら、リネンは続けた。

 

「ママが他の富裕層相手に、『例の薬』をプレゼンしていたのを、何回か見たことがあった」

 

 俺もイトも、その言葉に目を見開いた。『例の薬』、それは言うまでもなく……。

 

「……『クリーピーローズ』」

 

 俺の思考のその先を、ベルさんが先回りして口に出した。

 『クリーピーローズ』、それは対象を意のままに操る『錠剤』。服用者本人ではなく、服用者に近づいた人間をマインド・コントロールするという、まさに魔法のような薬だ。

 ベルさんは合点がいったような顔で、その先を続ける。

 

「なるほどな。あの薬の恐ろしいところは、近づいただけで効果が出るということだ。本人がいくら毒を盛られることに気をつけていようがな」

 

「そういうことだよ博士。今の話で分かったと思うが、すでに何人かの金持ち共の間では『クリーピーローズ』は知れ渡っていると思っていい。ママの支配外のこの西海岸でもだ」

 

 リネンはそう言って、再びハンバーガーを口に運び始める。

 

「当然、私の『ツテ』だってそうさ。だから、黒髪黒瞳に毒が入ってないことを証明しなくちゃいけない」

 

「……お前の言い分はわかったよ。何がしたいかも理解できた」

 

 そう言いながらも、イトの顔はどこか納得していない様子だ。それにはリネンも気づいているようで、食事の手を止め、イトを睨み返す。

 

「なんだ? まだ何か言いたいことでもあるのか?」

 

「……ハリの意思はどうなんだよ? お前さっきから、コイツを使う話なのに、コイツを無視して話してばっかだ」

 

「何を言うかと思えば……」

 

 心底呆れかえったような視線を、リネンはイトに向ける。

 

「なぜ男の意見なんぞ聞かなきゃいけない? お前は車に乗る時に、いちいち車のご機嫌を取ったりするか?」

 

「なぁんか、イトって変だよねぇ。男の子を人間みたいに扱うじゃん。それはちょっとやりすぎじゃなぁい?」

 

 リネンの言葉に、ラミーも同調する。

 ……しばらくなかったから忘れかけていたが、そうだ、この世界で男というのはこういう扱いだったんだ。

 基本的に道具と同じ。需要と希少性はあるから理不尽に虐げられることこそないものの、やはり女性との間には絶望的な上下関係がある。

 いまさら驚くことも無いが、この価値観の違いをまざまざと見せつけられると、やはりここは異世界なのだと改めて実感させられる。

 

「……もう一度言ってみろ」

 

 まるで抜き身のナイフのような、明確に殺意のこもった声を発して、イトはリネンたちを睨み付ける。

 それはルーラも同様で、今にも喰って掛かりそうな雰囲気だった。

 

「落ち着きたまえ、イト」

 

 そう言ったのは、ベルさんだった。

 イトは彼女の方を向く。

 

「このままママ・ロザリアから逃げていても、いずれは窮する。その前に他の大きい勢力の庇護下に入るしかないんだ。君の言い分はわからないでもないが、手段を選んでいる場合ではない、だろう?」

 

 まるで聞き分けのない子供に諭すように、ベルさんはイトを説得する。

 すると、イトは困ったような顔で俺を見た。困ったような、納得していないような、そんな顔。

 ……そんな顔しないでくれ。俺だってやらなきゃいけないことは、わかっているつもりだ。だから、俺はこうやって言うしかないのだ。

 

「イト。俺は出来るよ」

 

「でも、ハリ……」

 

「生きるためだ。それに、俺だってそろそろ、ブリトーを好きなだけ食べれるくらいの金は欲しい」

 

 思わず俺は、そんな茶化すようなことを口に出してしまった。が、強がっていると思わせてしまったらしい。イトは俺を見て、酷く悔しそうな顔をした。

 何かフォローを入れるべきなのだろうが、何も言葉が浮かばない。

 

「……ハリくん、いいの?」

 

「大丈夫だよ、今度は俺が身体を張る番だ」

 

 俺は心配そうに見るルーラにそう言って、リネンとラミーの方に顔を向ける。

 

「それで? 毒見はリネンがしてくれるとして、実際にお出しする人は誰だ?」

 

「……ここらへんでは『レザボア・ハウンド』なんて呼ばれている。ごく最近、世代交代があった『モンタナ・ファミリー』のボスだ」

 

 レザボア(reservoir)ハウンド(hound)……どういう意味だ? そのまんまならさしずめ、『溜池の猟犬』という意味だが、まだ何か別の意味がありそうな……。

 

「鼻の利く、『獣人』の女さ」

 

 そう言ってリネンは、ハンバーガーの最後の一切れを口に入れた。

 ……『レザボア・ハウンド』、『モンタナ・ファミリー』。色々物騒な名前が次々出てきた。

 ただ、これだけは聞かなければいけないだろう。

 

「リネン」

 

「なんだ?」

 

 

「……『獣人』って何?」

 

 

「……お前、義務教育受けてないのか?」

 

『この世界のは』と言いたかったが、話がこじれそうなのでやめた。

 

 そんなもんで、リネンが心底呆れたような顔を向けてくるのを、俺はただ甘んじて受け入れるしかなかったのだった。

 



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23.Hooker

『見た目をしっかり整えとけ。今夜さっそく売り込みに行くからな』

 

 時刻はもう夕方。リネンに言われたことを思い出しながら、俺は今、熱いシャワーを浴びていた。廃業したホテルだがまだインフラの機能は失われてないようで、冷水に凍えずに済んだのは、素直に嬉しいところだ。

 結局『獣人』が何かという問いは、『会えばわかる』の一言で一蹴されてしまった。一抹の不安はあるが、こうなった以上、腹をくくるしかないだろう。

 

(しかし、異世界に来てまでこんなことするハメになるとはな……)

 

 打ちっぱなしのコンクリートの壁に手を置いて、日本にいたときのことを思い出す。

 ……別に、こういうことは初めてじゃない。日本にいた頃も似たようなことをしていた。文字通り、そういう仕事。

 きっかけが何だったのかは曖昧だ。ロクに何もできず職にあぶれていたというのもあるが、何よりあまり家に居たくなかった。だから、なるべく帰らずに済むこのアルバイトを、自然と続けるようになってしまっていたのだ。

 

(日本の時と違うのは、上手くやらなきゃあとがないってことか)

 

 その辺のオッサンおばさんを相手にするのとはわけが違う。俺が相手をするのは――その前にリネンが『毒見』をするらしいが――この街一番の有力者であるギャング『モンタナ・ファミリー』の女ボス。少しでも機嫌を損ねようものなら、豚の餌にされる可能性もあるという。

 しかもそれは俺だけの問題ではない。俺が失敗すると、それにイトたちも巻き込んでしまうのだ。つまるところ、決して大げさではなく、彼女たちの生死は俺にかかっているということになる。

 

 シャワーを止めて、バスタオルを取る。曇った鏡の前に立って、その曇りを手で拭うと、そこには黒い髪と黒い瞳の、一人の男の顔が映っていた。

 

「……なんでこんなのに、みんな躍起になってんだかな」

 

 誰に言うでもなく、俺は鏡に映る自分を見て、そんなことを独り言ちた。元いた世界じゃ見ない日が無いくらいたくさんいた、黒髪黒瞳の男。それが希少な世界があるなんて、ドラマにだって使えなさそうな話、一体誰が信じられるだろうか?

 けれども、そんなことをいまさら言ったところで、現実は変わらない。やるべきことは何も変わらないのだ。

 イトたちは命がけで俺を助けてくれた。今度は俺が命をかけなきゃいけない番なのだろう。

 置いてあるクシを取って、俺は今夜のお相手に気に入られるべく、準備を進めた。

 

 

 ――髪を整え、髭の剃り残しのチェックをすること、約15分。久しぶりにしっかり気合の入れた外行用の見た目を作り終えてから、俺は洗面台からリビングへと移動した。

 

「お待たせ、終わったよ」

 

 そう言うと、リビングにいた全員がこちらを向いた。リネンが腕を組んで苛立っていることから察するに、結構待ちぼうけにさせてしまったみたいだ。

 

「遅いぞ! もう時間が――ッ!?」

 

「ああ悪い、髪が纏まんなくってさ……なんだよ、どうした?」

 

 リネンが俺を見るや否や、驚いた表情で口を噤んでしまった。いわゆる絶句だ。

 リビングを見渡すと、他の反応も何だか妙だ。

 ルーラは顔を赤くして口を両手で隠しているし、ラミーはにやけた面をして俺をじろじろ見ている。ベルさんにいたっては「ほほぅ」と何かに感心したような声を出した。何なんだよ。

 イトは……何故か俺を見た瞬間顔を逸らしてしまったから、表情がうかがえない。

 

「……なに、なんだよ。化け猫でも見たような顔しやがって。何か変なとこあるならそう言ってくれよ」

 

 そう言うと、固まっていたリネンは我に返ったようで、軽い咳払いをした。

 

「アッ……ゴホン! な、何でもない。準備ができたなら行くぞ、そろそろ約束の時間だ」

 

「ああ、案内はさっき話した通り、リネンだけ?」

 

「そうだ、ゴロ巻きに行くわけじゃないからな。必要最低限で行く必要がある」

 

 それを聞いて、数刻前、話し合った段取りを思い出す。

 『モンタナ・ファミリー』の屋敷へ、午後7時に。行くのは俺とリネンだけ。今話した通り、相手の敵愾心を刺激しないための処置だ。

 

「いいか、粗相をするなよ。もし何かあったら、お前が黒髪黒瞳とは言え、無事じゃ済まない」

 

「わかったよ、そっちも『毒見』はちゃんとしてくれよ?」

 

「ッ……! あ、ああ、そうだな。うん、そうだ……」

 

 昼の時とは打って変わって、リネンは『毒見』というワードを出した瞬間、借りてきた猫のようになる。本当に大丈夫なんだろうか?

 

 そんな不安を抱えながら、俺たち2人は靴を履き、玄関の扉を開ける。

 外は、心地いい夜の風が吹き始めていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「リネンだな? 案内する、付いてこい」

 

 ――時刻は午後6時40分ごろ。門番の言葉を聞いてから、私たちは『モンタナ・ファミリー』の屋敷へと入った。

 

 『ウィンストン・ヒルズ』にある、『モンタナ・ファミリー』の根城であるプール付きの豪邸に、私たちは通されていた。さすがに一大マフィアの巣なだけあり、右にも左にも、銃を持った護衛がゴロゴロといる。一歩間違えれば、生きて帰ることさえできなくなるだろう。

 

「なあ、そろそろ教えてくれよ。ボスってどんな感じの人なんだ?」

 

「だ、黙ってろ。会えばわかるって言ってるだろ」

 

 だと言うのに、私の心中は未だ平静を取り戻せないでいた。原因はわかってる。

 私の横で、平和そうな顔をしたこの男のせいでだ。

 

 ……正直な話、私はこの黒髪黒瞳を、延いては男というものを、何故誰も彼もあんなに欲しがるのか、わからないでいた。

 男はただの成り上がるための道具、それ以上の認識はなかったし、その根底にあるものを見ようとも思わなかった。

 だからこの黒髪黒瞳そのものには、特段興味はなかったし、ましてコイツのことをしっかり見たことなんて一度もなかった。

 それなのに。

 

「……リネン、なんかぎこちなくないか? 大丈夫?」

 

「ッ……!? こ、これ以上喋ったらぶつぞ」

 

「わかったよ、わかった。悪かったよ」

 

 いきなり黒髪黒瞳が顔を覗き込んできたもんで、私はコイツの顔をしっかりと見てしまった。

 数時間前まではもう少し野暮ったい感じなはずだったのに、外行用に容姿を整えたコイツは、まるでモデル誌かグラビア・ポスターから飛び出してきたようだった。

 濡れガラスのような黒髪と、端正な顔にはめ込まれた闇色の瞳はどこか艶めかしくて、改めてこの男の顔をよく見ると、忌々しいことにあの腰ぎんちゃく……もといルーラが『毒見』に関して喧しく喚いていた理由が、ほんの少しだけ分かった気がした。

 

 ……そうだ、毒見をしなくちゃいけないんだ。いまさらこんなことで動揺してどうする。

 気合を入れろ、これから『レザボア・ハウンド』に会わなきゃいけないんだ。

 こんな男を意識している暇なんて、私にはこれっぽっちもないのだから。

 

「リネン」

 

「ッ!? な、なんだ!?」

 

「なにビックリしてんだよ……着いたぜ、この部屋だってさ」

 

 黒髪黒瞳がそう言って顔を向けると、目の前にはいつの間にか扉があった。どうやら頭でぐるぐると考えているうちに、『レザボア・ハウンド』の部屋まで来てしまっていたようだ。

 門番の一人がドアをノックすると、中から声が聞こえた。

 

「何?」

 

「ボス、リネンが来ました。お話通り、黒髪の男も一緒です」

 

「う、うん……通して」

 

 ぎこちない、まるで生娘のように落ち着きがない声だ。この眼で見るまでは半信半疑だったが、やはり世代交代の話は本当だったのだろう。私が言うのもなんだが、酷な話だ。だって彼女は、まだ……。

 

 ――と、考えている途中で、ドアが開かれた。

 

「……行くぞ黒髪黒瞳。粗相をするなよ」

 

「あ、ああ……」

 

 私は思考を中断し、黒髪黒瞳を連れて『レザボア・ハウンド』の部屋に入る。

 入るとすぐに、彼女の姿が見えた。

 

 亜麻色の髪に、とんがった獣のような大きな耳を乗っけている。

 少々歪で、狐とも猫とも似つかない、ただ『獣』としか形容できないような耳。

 『獣人』の特徴をしっかりと持っているロウ・ティーンの少女が、彼女の体躯にはやや大きすぎる椅子の上で、無理をしてふんぞり返っていた。

 

「……初めまして、貴女がリネンね? ママから話は聞いてるわ」

 

「どうも、先代にはお世話になりました」

 

 どうやら現『レザボア・ハウンド』は、先代ほど恐ろしい人間じゃないようだ。私は内心胸をなでおろした。

 思っていたよりつつがなく終われるかもしれない。私はそう思いながら、通り一遍の挨拶をして、黒髪黒瞳を紹介しようと、奴の方を見る。

 ……が、何やら奴はひどく驚いたように、目を丸くして、『レザボア・ハウンド』の方を見ていた。

 

 

「……こ、子ども?」

 

 

 何を思ったのか、それとも思わずなのか、奴はいきなりとんでもない失言を、『レザボア・ハウンド』の前で、ぼそりと呟いたのだ。

 



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24.Kill

 言った瞬間、俺は『しまった』と思った。が、今更どうしようもない。脳裏にこのワードがよぎった場合というのは、往々にして手遅れな時だけだ。

 目の前にいる『レザボア・ハウンド』、『モンタナ・ファミリー』の女ボスと思われる、中学生……下手すれば小学生に見えるくらいの女の子を前に、俺は思い切り『子供』という単語をはっきり口に出してしまった。

 相手の機嫌を損ねるには十分な効果があったようで、現に目の前にいる彼女は、狐の耳らしきものを――そもそも耳なのか疑問だが――ピクピクと動かし、その下にはシワのよった眉間と、つり上がった目がついている。

 ……長ったらしくなったが、つまり今の状況を一言で言うと、『やっちまった』だ。

 

「ええ、えぇ。貴方の言う通り、私はお酒も飲めないお子ちゃまよ。それで、何? こんなミルクの匂いがするロウ・ティーンと寝るのは嫌だって、そう言いたいわけ?」

 

 やや早口で、拗ねたように『レザボア・ハウンド』は捲し立てる。その姿はまるでぶう垂れた子供そのものだったが、次は間違いなく豚の餌にされてしまいそうなので、流石に俺は口を噤んだ。

 

「も、申し訳ありません……!」

 

 リネンは少女に頭を下げながらも、横目で俺を思い切り睨み付けていた。

 何も言われずともわかる。『よくもやってくれたな』という言葉が、彼女の顔だけで嫌というほど伝わって来た。

 

(チクショウ……だからどんな人なんだって聞いたんじゃねえか)

 

 リネンの態度に若干腑に落ちない部分もあったが、それでも俺がやらかした不始末なのは確かだ。俺は何も言わず、彼女に倣い少女に深々と頭を下げる。

 

「申し訳ありません。大変失礼なことを……」

 

「……顔を上げて」

 

 『レザボア・ハウンド』は静かに言った。それに逆らう道理なぞあるはずもなく、俺は言う通り下げた頭を上げ、彼女を見る。

 

 先程も述べた通り、小柄で、華奢な印象を持たせる。まだあどけなさが多分に残っている少女が、不釣り合いなほど大きな椅子に座っていた。

 亜麻色のミディアム・ヘアの上に乗っかっている、哺乳獣類を思わせる、大きくとんがった耳が目を引く。恐らくは、あれがリネンの言っていた『獣人』と呼ばれるもの。『見ればわかる』と言っていた、その大きな特徴なのだろう。

 

 彼女は、不機嫌な顔をしたまま、じろじろと俺を、まるで品定めでもするように見てきた。

 脚、腰、腕。下から順に、彼女は俺の全身をチェックする。

 

「……へ、へぇ」

 

 小さく、『レザボア・ハウンド』はそんな声を漏らす。その顔は先程の不機嫌な表情が崩れつつあり、代わりになにやら、緊張した顔色へと変わっているように見えた。

 そんな表情のまま、彼女の目線は胴から、首。そして、顔へ。

 彼女の眼が、俺の眼を捉える。

 思い切り、目が合った。

 

「ッ……!」

 

 が、その瞬間、彼女は目を見開き、固まってしまう。それはなにやら、ある種の衝撃に駆られたようだった。

 ……確証は持てないが、恐らくは、お気に召してもらえたのだろうか?

 そんな不安が頭を悩ませていると、『レザボア・ハウンド』は咳ばらいをした。

 

「ふ、ふん、まあいいわ。『お土産』を持ってきてくれたリネンに免じて、今回だけはその非礼、許したげる」

 

 少々似合わない大ぶりの動作でふんぞり返って、彼女は許しの言葉を口にしてくれた。

 俺は内心で胸をなでおろす。どうやらそれはリネンも同じようで、横目で見ると、そこには安堵の表情が見て取れた。

 

「ありがとうございます、ボス。何とお礼を言えばいいか……」

 

「エレーミアよ、これからはそう呼びなさい。『モンタナ・ファミリー』にようこそ、貴女の仲間共々、歓迎するわ」

 

 『レザボア・ハウンド』……改めエレーミアは、得意げな笑顔で、俺たちにそう言い放った。

 少なくとも、今のところは豚の餌にされずに済みそうだ。

 ……ともあれ、気が抜けはしない。ここから先が、俺にとっての本番だ。

 

「……それで、その、リネン?」

 

「はい?」

 

「ど、『毒見』の方を、早速やってもらっていいかしら?」

 

 エレーミアからその台詞を聞いた途端、リネンはピシりと、石になったように固まった。ひょっとしなくても、毒見のことを完全に忘れてたんだろう。

 ……一緒に行動して分かったことなのだが、彼女はその……戦闘以外では、少々抜けている部分が目立つきらいがあった。良い言い方だと天然となるだろう。案外、ラミー辺りがその部分をフォローしていたのかもしれない。合わなそうに見えて、結構いいコンビだったみたいだ。

 ……と、そんなことを考えている場合でもなく、エレーミアはどこか照れた表情をしながらも、どんどん話を進めている。

 

「部屋は別に用意したわ。テープ・レコーダがあるから、それで、その……撮ってきてもらえる?」

 

「ろ、録画するんですかァ!?」

 

「あ、当たり前じゃない! 直接見張らないだけ温情だと思いなさい!」

 

 もはや先程までの張りつめた空気はないが、今度は別の意味で居心地が悪い。

 どうやらエレーミア自身、色事に関しては年相応のようらしい。ここだけ切り取ると、普段ククリを振り回したり、ギャングのボスだったりが信じられないくらい、彼女らが、色めきだっている普通の女の子に見えた。

 

(……ていうかこれ、どこまでやるべきなんだ?)

 

 リネンが言ってた通り、『寝るだけ』なら楽なんだけど。そう思いながら、俺はことの成り行きを見守るしかなかった。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 ――そこから部屋に移動するまでは、特に語るべきところもない。用意された、やや大きめのベッドがある部屋に案内され、リネンと2人きりで、そのベッドに座っていた。

 憂慮すべきは、かれこれその状況が10分以上続いているということだろう。

 

「……なあ、リネン」

 

「なん!? な、なんだ!?」

 

 それだけで、いつもの切れたナイフのような性格は見る影もなく、非常に緊張しておられるのが見て取れた。

 

「何にそんな焦ってんだよ。アンタらに取っちゃぁ男なんてただの道具なんだろう? 道具相手にテンパってどうすんだよ」

 

「う、うるさい! 逆になんでお前はそんなに余裕なんだ!」

 

「余裕ってこたぁないけど……まあ、『昔の仕事』で慣れてんだよ」

 

「お、お前……普段からこんなことしてるのか?」

 

 しかし、こんなに慌てふためくくらいなら、なんで自分から『寝る』だなんて言い出したんだろうか。

 まあ、どうにしろ、このままでは埒が明かない。俺はそう思い、まずは適当に話をして、リネンを落ち着かせることにした。

 ちょうど、聞きたいこともあったわけだし。

 

「なあリネン、話は変わるんだけどさ。エレーミアさんの、あの耳って……」

 

「あ? ああ……『獣人』の耳だろう?」

 

 『獣人』。彼女の口から、再びその名詞が出てくる。結局ここに来るまで聞き出せなかったその単語について、俺は彼女に聞くことにした。

 

「さっきから聞きたかったんだけど、『獣人』って何なんだ?」

 

「えぇと、そうだな……『獣人』っていうのは、平たく言うと、人体実験の成れの果てだ」

 

 ……思っていたより100倍くらいヘビーな言葉が、彼女の口から語られた。もしかしたら、情事の前の会話としては、少々胃もたれするものだったかもしれない。

 俺のそんな考えをよそに、彼女は続ける。

 

「『錠剤』がない時代のものらしくてな。何百年も前にほとんど消えた男の代わりに、女の身体を強くしようとして、人体改造を行っていたらしい。まあ、『獣人』ってのはその子孫だな」

 

「……その実験ってのは、成功したのか?」

 

「……お前、さっきのエレーミア以外、獣人を見たことあるか? 奴らの少なさと、『錠剤』が主流になってる今を見れば、わかるだろ? 差別されたり迫害されたり、浄化だなんだっつって殺されたりで、もうほとんど数も残ってないさ」

 

 そう言うリネンは、酷く寂しそうな、自嘲したような雰囲気を持っていた。

 差別に迫害。その言葉は何故か、彼女が言うと、妙な重みがあった。彼女にとっても、どこか思うところがあるのかもしれない。

 もしくは、何かしら苦い思い出があるのか。

 ……やはり、情事の前に聞く内容ではなかったようだ。

 

「悪い、変なこと聞いたな……」

 

「……いいさ、おかげで落ち着けはした」

 

 リネンはそう言うと、ベッドから立って、部屋の端にある、備え付けのテープ・レコーダの録画ボタンを押した。配線を辿ると、天井にカメラがある。どうやらあそこで撮るらしい。

 レコーダが動作するのを確認すると、彼女が再びベッドに座る。

 深呼吸をして、俺の方を見た。どうやら、腹を決めたようだ。

 

「……嫌ならすぐ言えよ?」

 

「我慢してやるよ」

 

 彼女はぶっきらぼうにそう言った。彼女に近づくと、そのパールのような瞳が、少し震えているように見えた。

 俺は彼女の頬に触った。

 

 

 

 ギィィ……と、ドアの蝶番がきしむ音。

 それが不意に、後ろから聞こえた。

 気になって後ろを振り向くと、そこにはエレーミアさんがいた。

 

「……エレーミアさん? どうして?」

 

 俺が聞いても、彼女は何も反応しない。

 ドアが完全に開く。彼女の全身が見えた。

 

 

 彼女は剣を持っていて。

 血まみれで、笑っている。

 

 

 エレーミアさん。

 いや違う。

 

 

 誰だ?

 

 

 

 

「やっと見つけた、パパ」

 

 

 

 

 その女はそう言って。

 こちらを見て、笑った。

 



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25.Bill

 ――ああ、コイツはヤバい奴だ。

 剣を持った、エレーミアさんとよく似た少女が部屋に入ってきたとき、俺は真っ先にそう思った。

 血塗れとなったブラウスとスカート。それに不釣り合いな、無垢を感じるあどけない顔つき。右手に持った、真っ赤に染まった剣には、何やら(はらわた)のようなものが巻き付いている。

 狂人だ。出会って1分も経ってないが、それと決めつけるには十分すぎる判断材料だと思う。

 ……そこまで思考が回っているはずなのに、何故か体は金縛りにあったみたいに、一歩も動けなかった。

 

「……フフ、パパどうしたの? 怖い顔して」

 

 彼女はクスクスと笑いながら、腸付きの剣を引きずり、こちら近づいてくる。

 1歩、2歩、3歩。

 ゆっくり、ゆっくりと、俺の眼をしっかりと捉えて、まるで待ちわびたかのような表情で、ズルズルと、剣を引きずっている。

 

 ベチャリ。

 剣に巻き付いた腸が、床に落ちた。

 

「……だぁれ? その女の人?」

 

 彼女の瞳孔が、一気に開いた。

 そのまま剣を、振り上げる。

 

 

「ッ! どけ、黒髪!」

 

「グェッ!?」

 

 リネンが、急に俺を押しのけた。俺は拍子に床に転んで、それでようやく、金縛りが解けた。

 彼女が布団から飛ぶ。

 

 ドン、と、重く鈍い音。

 

 リネンが、少女を力の限り蹴り飛ばした。

 少女がよろめく、けれど、大したダメージはなかったのだろう。剣は握ったままだった。

 

「おい黒髪黒瞳! 何なんだアイツは!?」

 

「クッソ……お前ら以外の知り合いなんざいねえよ!」

 

「じゃあ誰なんだよ、お前のことパパだとか言ってたぞ!」

 

「あんなデカい娘がいる歳か、俺が!」

 

 いかん、リネンとこんな言い合いをしている場合じゃないだろ。兎にも角にもまず逃げなきゃ。

 ……ああ、クソッタレ、そうだよ。入り口の前にあの女の子が立っているんじゃないか。どうすりゃいいんだ。

 

「……パパぁ」

 

 いやに間延びした、甘えたような、緊張感のない声。それが今の状況には、酷く恐ろしいものに聞こえた。

 俺は少女を見た。

 エレーミアさんによく似た顔立ちが、そこにあった。

 けれど、その年齢以上に幼く見える表情は、似ても似つかない。

 眼でわかる。

 この子はヤバい。本能が、そう訴えかけてきた。

 

「……なんだ君は、ママ・ロザリアの手先か?」

 

 俺はよろよろと立ち上がってそう聞くと、少女はキョトンとした顔を作って、小首をかしげてみせた。

 

「何言ってるの? 私はフランシスだよ? 私、パパを迎えに来たんだから」

 

 ……どういうことだ? さっきから俺のことパパ、パパって。

 少なくとも、あの赤毛のロジーの手下ではないみたいだ。だからこそわからない。

 俺の存在をどこで知ったのか、どうやって俺たちの居場所を割ったのか。

 わからない、フランシスと名乗る彼女は、得体が知れなさすぎる。

 

「……おいクソガキ」

 

 そうしていると、リネンが俺とフランシスの間に立ち、ドスの効いた声を彼女に向ける。

 

「その男にこれ以上近づいてみろ、その目玉抉り取って――」

 

「……ましないで」

 

「あ?」

 

 

「邪魔しないで」

 

 

 一瞬。

 コンマ1秒のその間。

 その声と共に、フランシスはリネンに思い切り『突進』した。

 

 轟音。

 衝撃。

 

 彼女の直剣が。

 リネンの肩を貫いた。

 

「ッ……が!?」

 

「リネン!」

 

 リネンがうめき声をあげる。直後、彼女の服の、剣に貫かれた部分が赤黒く染まり出した。

 フランシスはそんなことを気にする様子もなく、無造作に剣を抜く。

 

「アグッ……!」

 

 その痛みに悲痛な声を上げて、リネンは力なく膝をついた。

 それを見て、フランシスは酷く冷たい目を、リネンに向ける。

 

「ねえ、誰なの貴女? さっきから私とパパの邪魔ばっかり。貴女、悪い女の人?」

 

 彼女はそう言いながら、剣の持ち方を逆手へと変える。切っ先を、リネンの顔に向けて。

 フランシスは大きく振りかぶった。

 

「クソッ……」

 

 リネンは、動けない。

 

「貴女、私のママみたい。私、ママ嫌いなの」

 

 それは酷く温度のない声だった。

 ダメだ、チクショウ、マズイ!

 

「待て、フランシス!」

 

 俺はとっさに、彼女の名を呼んだ。すると彼女は、その瞳孔が開いた目をこちらに向ける。

 その目は、今まで見たことのないような眼だった。ぞっとするほど澄んでいる、狂気を含むような、銀色の瞳。それは異様な圧があって、思わずたじろぎそうになる。

 

 ――が、そんな俺の心中とは対照的に、彼女は天真爛漫な笑みを俺に向けた。

 

「パパ! 私のこと、名前で呼んでくれた!」

 

 フランシスはそう言うと、剣を持った手を降ろして、俺にトテトテと近づいて来た。

 さっきリネンとの会話からは想像もできないくらい、それは明るい口調だった。それこそ、親に甘える子供のような、無邪気ささえ感じさせる、そんな声。

 

「嬉しい! 私、名前を呼んでもらったの、お姉さま以外では初めて! ねえ、もう一回呼んで!」

 

 ……わからない。

 なんなんだこの子は? 何が目的なんだ?

 今まで、俺を狙った来た奴は、その目的がはっきりしていた。あの『赤毛のロジー』でさえ、俺を狙う理由は、酷くわかりやすいものだった。

 だが、彼女は、フランシスは違う。全く持って得体が知れない。

 だからこそ、何をするか全く予想ができない。

 

「……もちろんだよ、フランシス」

 

 自分の恐怖心を何とか抑えて、俺はなるべく、彼女を刺激しないような声を出すことに努めた。

 

「……! ずっと待ってた。私、今幸せよ、パパ……!」

 

 妙にちぐはぐな気がする、その言葉。

 それを言うとフランシスは剣を背中の鞘に収め、俺を抱きしめた。

 彼女の顔が、俺の胸にうずくまる。ひとまずは、下手に逆らわない方が良いだろう。俺はそう思い、されるがままに、彼女の抱擁を受け入れた。それは意外と弱く、先程まで直剣を振っていたとは思えないくらい、その華奢な身体に相応な力だった。

 

「……ねえパパ、私見せたいものがあるの」

 

 フランシスはうずくまった顔を俺に向けて、笑ってそんなことを言いだした。

 

「ああ、なんだい?」

 

 そう聞くと、彼女は「フフ……」とはにかみ、心底楽しそうな顔をしてみせる。

 

「あのね、ここじゃダメ。一緒に教会に来て。いいでしょ?」

 

 ……是非『嫌だ』と言いたいところだが、それを言ってしまったら最後、俺もリネンも切り殺される可能性は高い。

 俺だけならともかく、リネンの命もかかってる以上、選択肢はないだろう。俺はなるべく、彼女に思考を気取られないよう、やわらかい声で答えた。

 

「あ、ああ、もちろんいいとも」

 

「ほんとう!? じゃあ、早速行きましょう!」

 

 そう言って、フランシスは俺の手を取り、部屋から出ようと、ドアに近づいた。

 その横で、リネンが膝をつき、傷ついた肩を抑えながら、こちらを見ている。そこには酷く悔しそうな表情があった。

 

「クソ、黒髪……」

 

 ごく小さい声量で、彼女は俺を呼ぶ。

 ……俺は目の前にいるフランシスを確認する。彼女が俺から目を離すのを見計らって、リネンに向けて、唇の動きだけでこう言った。

 

 ――イトたちに、救援を――

 

「ッ……!」

 

 リネンは俺の意図に気づいたようで、小さく頷いた。どうにか伝わったようだ。

 俺はそのままフランシスに手を引っ張られ、部屋を出た。

 

「……チクショウ」

 

 後ろから、リネンのそんな声が聞こえた気がした。

 

 

 

 ――部屋から出る。その瞬間、辺りは酷く、生臭い匂いに包まれていた。

 

「……ねえ、パパ。これぜぇんぶ、私一人でやったの。凄いでしょ?」

 

 フランシスは照れくさそうにそう言った。

 

 目の前にあったのは、死体の絨毯。

 切り殺された者。

 刺し殺された者。

 頭を潰し殺された者。

 その中には、さっき俺たちを案内してくれた、門番もいた。

 

「ッ……!」

 

「ねえ、凄いでしょ、私。ね?」

 

「……ああ、そうだな」

 

 気絶してしまえばどんなに楽だろうか。けれどそれもできない。俺は何とか踏ん張って、フランシスが望んでいるであろうレスポンスを返す。

 すると彼女は満面の笑みで返し、満足したとばかりに歩を進める。俺の手をしっかりと繋いで、実にご機嫌に、血と臓物を踏み潰していった。

 

(……生きて帰れよ、リネン)

 

 俺はその手を振り払うこともできず、ただ無力に、怪我をした彼女の無事を、祈るしかなかった。

 



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26.Jane

試験的にタイトルを変えてみます。
ややこしくて申し訳ありません。


「……なあ、ベル。なんか面白い話、無いか?」

 

 夜の8時半ごろだと思う。ハリとリネンを見送って2時間以上が経った現在。ホテルに残された私たちは……まあ、有体に言って暇だった。

 

「……こんな話がある」

 

 ベルはそう言って、読んでいたらしい小難しそうな本を閉じて、私の方を見た。どうやら付き合ってくれるようだ。

 

「あるところに、空から降ってくるワニを自分のイチモツで突き殺す男がいたんだが――」

 

「悪い、やっぱ黙っててくれ」

 

 言っておいてなんだが、やはりベルにジョークなんて求めるべきじゃなかったと痛感した。なんだその話? 冒頭から情報量が多すぎる。

 

「なんだね、イト? ハリくんがいなくて寂しいのはわかるが、私に八つ当たりをするのはやめたまえよ」

 

「……いや、ちげぇし。適当なこと言うんじゃねえよ」

 

 ベルがあんまりにも見当違いなことを言うもので、私は思わずため息が出た。10やそこらのガキじゃあるまいし、アイツが数時間出掛けてったくらいで、いちいち寂しがるわけないだろうが。

 ……にしても遅いなあ、ハリ。

 

「ハリくん、大丈夫かなあ……」

 

 ルーラが間延びした声で、ハリの安否を心配する。

 

「大丈夫っしょ、リネンもいるしぃ」

 

 ソファに寝っ転がっていたラミーが、顔だけ向けてそう答えた。個人的に言えば、リネンがいるからこそ不安なところがあるわけだが。

 ……寝るのどうのという不穏なことも言っていたわけだしな。

 

「あーぁ、にしてもついに、リネンも男の味を知っちゃうわけかぁ」

 

 途端、ずいぶんと聞きたくもなかった話題が、ラミーから発せられる。私とルーラは思わず奴の方に顔を向けた。

 ルーラがだいぶ焦ったような顔をしている。多分、私もだろう。

 

「ッ……や、やっぱそうなっちゃうのかな?」

 

 ルーラがそう聞くと、ラミーは何か悪いことでも思いついたようなニヤケ面をして、口を開いた。

 

「そりゃぁそうでしょ。まさか、ホントに寝るだけで済ますと思ってんの? 黒髪くんとやれるせっかくのチャンスなんだよ?」

 

「……でも、リネンだぜ? あいつそういうのに興味ないんじゃねえの?」

 

「アッハッハ!」

 

 私の言葉を聞いた途端、ラミーはカラカラと笑い出した。

 

「んなわけないじゃぁん。あの子実はめっちゃくちゃムッツリなんだから」

 

「……マジで?」

 

 ムッツリ? あのリネンが? そんな感じ、おくびにも出していた記憶はないけど……。

 

「あんな性格だから、オープンにできないだけだって。私、あの子が駅の端っこのロッカーに、えっぐいエロ本隠してんの知ってんだから、それも何十冊も」

 

「え、エグイって、どんな? どんな!?」

 

 私が知りたくもなかった事実に閉口している隙に、ルーラはラミーに顔を近づけて、話の詳細を促していた。

 ……なんか、目が爛々(らんらん)としてないか、アイツ? あのラミーが若干引いてるぞ。

 

「あー……うーん、本の内容はねー――」

 

 ラミーが本の内容を話そうとした。

 

 ――が、それが語られる前に、ノックの音が、部屋に響いた。

 2回、3回、1回。

 それは、私たちで決めた、身内を示す合言葉代わりのリズムだ。

 これが聞こえたということは、ハリとリネンが帰って来たということになる。

 

「……答えは本人に聞いてみたまえ。その方が確実だろう?」

 

 まるで地獄のような提案をして、ベルは玄関へと向かう。私はそれに呆れはしたものの、特に何も言うことはなかった。

 私も彼女についていこうとしたが、何故かハリとリネンが一緒にいるところを見たくなくて、やめた。……『本当に寝たのか?』なんて、聞きたくもないことを聞いてしまいそうだから、なんて理由も、ちょっとだけある。

 ベルはドアスコープを除いた。

 ……何故だか、少しだけ間があって。

 そして彼女は慌てたようにドアを開けた。

 

「……説明してもらえるかな、『レザボア・ハウンド』?」

 

 それは、少なくとも今の状況じゃ絶対に聞くことのないだろう名前だった。

 思わずソファから立って、玄関の方を見る。

 

 そこには、肩を負傷したリネンと、それを支える『レザボア・ハウンド』という、実にミスマッチな光景があった。

 

「なんッ……リネン!?」

 

 それを見たラミーが、大慌てでリネンの方に駆け寄った。リネンの表情は、苦しそうだった。

 

「リネン、大丈夫? 怪我したの?」

 

「安心して、止血は済んでる。命に別状はないわ」

 

 そばにいる『レザボア・ハウンド』はそう言って、ラミーを宥める。

 彼女はリネンを支えながら、リビングへとゆっくり入っていった。

 

「頑張りなさい、もうすぐよ。ほら、ここに寝なさい」

 

「うぅ……」

 

 リネンはうめき声を上げながら、ソファに寝かされた。

 

「リネン……」

 

「すまんが、どいてくれ、肩を見たい」

 

 ベルは不安そうなラミーにそう言って、リネンに近づく。

 

「貴女、お医者様?」

 

 『レザボア・ハウンド』がそう尋ねた。

 

「内科医だがね。素人よりはマシだろう」

 

 つつがなく、けれど焦燥感のあるそんな会話が流れていると、リネンが私に向かって、口を開いた。

 

「クソ、イト。黒髪黒瞳が……」

 

「……ハリ?」

 

 そうだ、ハリはどこだ? さっきからどこにも見えない。

 ひどく嫌な予感がした。そのせいか、私はつい、リネンに対して強い語気が出てしまった。

 

「おい、ハリはどこだよ。一緒じゃないのか!?」

 

「……連れ去られた。剣を持った、イカれた『獣人』の女にだ」

 

「ッ……クソ!」

 

 私は思い切り壁をぶん殴った。

 ……チクショウ、私のせいだ。

 なんで目を離した? なんでアイツを誰かに任せきりになんかした?

 ハリが狙われているのは、わかり切っていたことなのに……!

 

「……すまない」

 

 リネンは静かに、私に向けたそう言った。

 コイツが謝罪の言葉を口にするなんて初めてだ。普段なら悪態のひとつでもついてやるところだが、今の私にそんな余裕はなかった。

 

「……お前は休んでろ、あとは私がやる」

 

 私はリネンにそれだけ言って、玄関へ出た。

 

「え……ち、ちょっと待ってよイト! 何しに行く気さ!」

 

「ハリを探すに決まってんだろ!」

 

「ちょっとちょっと、落ち着きなって!」

 

 ルーラの抑止を聞く余裕もない。私はそのまま、玄関のドアに手をかけた。

 

「待ちなさい」

 

 すると、不意にドアを開けようとしたものとは反対側の手を掴まれた。振り向くと、『レザボア・ハウンド』が、私にそう言ってきたのがわかった。

 

「……邪魔すんな」

 

「どうするつもりなの? 誰がどこに連れてったのかもわかっていないでしょうが」

 

「うるせえ! ハリが待ってんだ! いいからどけ――」

 

「頭を冷やしなさいと言ってるの!」

 

 『レザボア・ハウンド』は叫んだ。その小柄な体躯からは想像もできないような、まさに鶴の一声というに似合うもので、不覚にも、私はそれに固まってしまった。

 

「……中に入って、あの男の人が心配なのはわかるけど、場所がわからなきゃどうしようもないでしょ?」

 

 彼女は先程とは対照的に、私を真っ直ぐ見て、静かにそう言った。

 

「……誰がやったんだ?」

 

 そう聞くと、彼女は無言で、部屋に戻るよう促した。

 ……頭が冷えた私は、それに今更逆らう道理もなく、素直にリビングへと戻ることにした。

 

 

 

 ――私は壁にもたれかかっていた。冷静にはなったが、椅子に座ってられるほど落ち着くこともできなかったから。

 ルーラも座ってこそいるものの、そわそわと落ち着きがない動きをしている。ラミーは、ベルの治療を受けているリネンのそばに座って、彼女を心配そうな目で見ていた。

 全員に共通するのは、目の前に座っている『レザボア・ハウンド』を意識しているということだ。

 

「……犯人は、恐らく教会に行ったわ」

 

 彼女は静かにそう言った。

 『恐らく』という副詞をつけてはいるものの、その口調には何か、確信めいたものがあった。

 

「……なんでわかる?」

 

「私が、聞いたからだ……」

 

 私が質問すると、『レザボア・ハウンド』ではなく、リネンが弱々しく答えた。

 

「リネン、大丈夫……?」

 

「平気だ、ラミー……奴が黒髪黒瞳を連れ去る時、言っていたんだ。『一緒に教会に行こう』と」

 

「確かか?」

 

「間違いない。ブラフを吐いてる様子でもなかった」

 

 なるほど、犯人直々と来たか。自分から場所のヒントを言っている辺り、あんまり計画的な奴とは言えなさそうだ。

 

「……でもさ、教会ったって範囲が広すぎない? この『ウィンストン・ヒルズ』にだって、そこら中にあるじゃん」

 

 ルーラがそう言いだしたが、私もそれはもっともだと思う。手分けして探したとしても、しらみつぶしにやるには、あまりにも数が多すぎる。

 

「……そもそも、なんで教会なんかに行ったんだ?」

 

 ルーラが聞いた場所(where)に加えて、私はそいつの目的(why)を、『レザボア・ハウンド』に聞いた。

 

「ッ……」

 

 ……すると彼女は、何故か、酷くつらそうな顔をした。

 何か、言い淀んでいるようだった。

 少しだけの静寂があって。

 ただ静かに、彼女は口を開いた。

 

「……場所は、もう誰もいない田舎町。『ウィンストン・ヒルズ』から30km先にある、『レイニー岬』の廃教会」

 

「……なんでわかる?」

 

 私がそう聞くと、彼女は何故か、酷く哀しそうな目をした。

 

「あの子は……」

 

 そう言った彼女は、何かを、憐れんでいるかのようだった。

 彼女は続ける。

 

「『契り』を交そうとしている。あの男の人と、繋がりたがっているから」

 

「……どういう意味だ?」

 

 言葉の意図がわからず聞くと、彼女は何かを思い出しているような、遠い目をしていた。

 それは悔恨か懺悔かは、わからないが。

 

「きっと、これは罰ね。あの子が私に科した罰……」

 

「……そいつを、知ってるのか?」

 

 『あの子』と、先程から彼女はそう言ってる。それが気になって私はそう聞いてみた。

 それに対して、彼女は少しだけの涙声で、答えた。

 

「……名前は『フランシス』。私の妹、この世でたった一人の家族」

 

 彼女の頬に、細く、涙が伝った。

 

 

「父親を、愛情を欲しがっていた。私のせいよ」

 



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27.Francis

 私たちは負傷したリネンと、看病係のラミーを部屋に残して、レイニー岬へと車を走らせていた。

 運転している最中、町を離れるごとに月明りがいやに明るくなってるように感じて、それが何だか、不気味に感じた。

 

「……フランシスがああなったのは、私のせいなの」

 

 『レザボア・ハウンド』は静かにそう呟いた。

 余りに重い、後悔の言葉と共に、彼女は続ける。

 

「貴女達も、私みたいな『獣人』が、普段どんな扱いかは知ってるでしょう?」

 

「……まあな。で? それがどうしたんだ?」

 

 私は端的にそう聞いた。それでいいはずだ。彼女だってわざわざ、同情を誘うために話してるわけでもないだろうから。

 

「……昔の話、私たち姉妹がまだ、ようやく涎掛けを卒業できたくらいの年齢の頃。お母様が、まだ『モンタナ・ファミリー』のボスになっていない時」

 

 お母様。それが意味するのは十中八九、先代の『レザボア・ハウンド』のことだろう。

 私も人づてに聞いたことがある。酷く珍しい『獣人』のボスで、切れ者だと。

 そして、何よりも冷酷だとも。

 

「お母様は、野心がとても強い人だった。『獣人』の弱い立場を克服するため、使えるものは何でも使った」

 

「それが、腹を痛めて産んだ子供でも……話の続きはこんなところかね?」

 

 ベルが、不意にそんな言葉を口にした。それ聞いた『レザボア・ハウンド』は、獣耳を立て、眼を鋭くして、奴を睨んだ。

 

「デリカシーのないことを言って申し訳ないが、生憎、貴女の感傷に付き合っている暇もないんだ。要点を言ってくれ」

 

 ベルの言うことは不遜ではあるが、もっともだとも思った。実際のところ、攫ったフランシスとやらが何を仕掛けてくるかわからないから、こうして聞いてるだけなのだから。

 

「……ある日、『モンタナ・ファミリー』が資金難に陥った時に、こんな話がお母様の元に舞い込んだの」

 

 『レザボア・ハウンド』は少し声を震わせて、続ける。

 

「私かフランシスの、どちらかを『女優』にするっていう話」

 

 『女優』。その単語を聞いた瞬間、通常意味するそれと違うものであることが、容易にわかった。

 映画やドラマに出る『それ』とは違う。キッズ・ポルノやスナッフ・ビデオに出て、度し難い変態たちを悦ばせる、そんな仕事だ。

 ……なんてことはない、この世界ならよくある。反吐が出るような、そんな話。

 

「それに、フランシスが選ばれた、と?」

 

 ベルが言うと、『レザボア・ハウンド』はただ静かに、顔を伏せて首肯した。

 

「……お母様は、将来私たちのどっちが使えるかで、天秤にかけたのよ。あの子はちょっと不器用で、勉強が苦手で……それだけだったのに」

 

「つまり、彼女を人柱にして、『モンタナ・ファミリー』は資金難から逃れたわけか。それで、手柄を立てた先代はそれをきっかけに上り詰めていったと、そんなところかね?」

 

「そうね……あまり言いたくはないけど、概ねそんな話」

 

 ベルが導き出したあらすじに、彼女はただそう言った。

 

「……それを考えると、フランシスが『モンタナ・ファミリー』を襲ったのは、復讐のためってことか?」

 

「いいえ」

 

 私の問いに、しかし彼女は否定した。彼女はその理由を言うためか、口を開く。

 

「あの子は、そうすれば私が喜ぶと、本気で思ってるの。残酷な殺し方をすればするほど、それを見た人は喜ぶって。そう、教えられてきたみたいだから」

 

 その話を聞いて、私は掃きだめの中にいるような気持ちを思い出した。

 まだ10にも満たない子供の時から、変態どもの悦ばせ方を教え込まれ、いつかそれに順応して、壊れてしまう。

 結果出来上がるのは、笑いながら人の皮を剝ぐ化物だ。

 

「……あの子は、泣きじゃくってお母様に聞いたわ、『私を愛してないの?』って。でも……でもお母様は、『愛してない、私を喜ばせられないなら、愛してもしょうがない』ってッ……!」

 

 言いながら、彼女は泣いて、自分の肩を抱く。それはきっと、懺悔によるものだろうか。

 

「その日から、大人たちに連れて行かれる日まで、あの子は繰り返し、見たことも無いお父様の話を私にしたわ。あの人なら私を愛してくれるって。たくさん喜ばせれば、私を愛してくれるって」

 

「……それで、さっき言ってた『契り』ってのもそれと関係あんのか? ハリに何をやらせようってんだ、そいつは?」

 

 そう聞くと、彼女は少しだけ間をおいて、自分を落ち着かせてから、涙をぬぐって口を開いた。

 

「あの子は、きっと、彼に自分を殺させるつもりよ」

 

「……なんで?」

 

 後ろの席にいるルーラの問いに、彼女は静かに答えた。

 

「それも大人たちに教わったことかもしれないわね。殺せば殺すほど、自分を愛してくれるようになる。そして最後に殺されれば、その人は永遠に自分を見てくれるようになるって……」

 

「私のせいよ……」彼女はそう呟いた。

 

「私が抱きしめなくちゃいけなかった……私は貴方を愛してるって、そう言わなきゃいけなかった……お母様が怖くて、結局私も、貴女にきつく当たってしまった」

 

 

「ごめんね」と、彼女は何度も繰り返す。いつの間にか大粒の涙をこぼしていた。

 それはこの車の中にいる誰に対してのものでもない。

 壊れてしまった、実の妹に向けた言葉だろう。

 

 ……無事か、ハリ?

 お前なら、こんな時なんて言えばいいか、わかるんじゃないか?

 もしそうなら、教えてくれ。あの日私を、救ってくれた時みたいに。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 『モンタナ・ファミリー』襲撃からおよそ1時間も経っていない頃。俺は、フランシスが殺した連中から盗んだ車に乗せられ、その運転役をやっていた。

 助手席に乗る、道順を指示する彼女への恐怖心と、慣れない左ハンドルで精神を疲弊させて、早40分くらい。

 

「あそこよ、パパ!」

 

 陽気な声を上げて、彼女は前に映る教会を指さす。

 

「……パパ、この辺で停めて」

 

「……なんでだい? 教会にはまだ距離があるよ?」

 

「その前にやらなくちゃいけないことがあるの。いいから!」

 

 駄々をこねる子供のように、彼女は俺にそう言ってきた。何を企んでいるのかは知れないが、下手に逆らっても良くない方向に転ぶだけだろう。そう考えて、車を道の端に寄せて、砂利の上に停車させた。

 

「こっちよ、パパ」

 

 フランシスはそう言って、車から降りる。俺もそれに従って、車の外に出てみる。

 月がいやに明るかった。だからだろう、遠くの方に見える海が、やたらを綺麗に見える。それを背景にした、古い教会が、まるで灯台のように岸の上に建っていた。

 反対側を見てみると、もはや使われていないような古い住宅が2、3件ある程度で、あとはただただ、広い平原が続いている。

 『スティーブン・キング』の小説に出てきそうな、恐ろしいほど、静謐(せいひつ)なロケーションだった。

 

「何してるの、パパ? 早く来て!」

 

 景色に見惚れていると、いつの間にやらフランシスが俺の手を引っ張っていた。

 

「あ、ああ、すまない。行こう」

 

 俺は差し出された彼女の手を握る。すると彼女は目を細めて、住宅がある平原の方へと、俺を引っ張っていった。

 

「何をするつもりなんだい?」

 

「私、ずっとやりたかったことがあるの。パパが天国から来てくれた時に、ずっと一緒にやりたかったこと」

 

「……それは?」

 

 『天国から来てくれた』。そのワードに俺は違和感を感じつつも、その疑問を投げた。

 それに彼女は答えず、ただ満面の笑みを見せただけだった。

 

 

 

 ――フランシスが案内した、平原にある小さい家の中に入ると、当然ながらそこは、誰も使っていない廃屋だった。

 電気も点いてないが、今夜は月明かりがあるおかげで、どこに何があるか

はっきりわかる程度には明るかった。

 いや、誰も使っていないというのは語弊があっただろう。ボロボロのベッドやテーブルにそれほど埃が溜まっていないのを見るに、フランシスは普段ここで生活しているのだろうことが見て取れた。

 

「パパ、ほら、こっちこっち」

 

 そういって彼女は、部屋の奥へを俺を誘う。

 

「ああ、今行くよ」

 

 何をされるかわかったものではないが、ここまで来て逃げられるはずもない。観念して、俺は彼女がいる場所に足を進めた。

 

「……それで、何を?」

 

 辺りを見てみる。その部屋の中で見つけたのは、シャンプーと石鹼、そして、簡素でボロボロな湯船だった。

 ああ、ここは風呂場か。

 そう思っていると、フランシスは俺を見て微笑んだ。

 

「……パパ、見て?」

 

 彼女はそう言うと、いきなりブラウスのボタンを外し始めた。

 

「お、おいなにを――」

 

「いいから」

 

 俺の戸惑いも構わず、彼女は粛々と服を脱いでいく。

 ブラウスのボタンを全て外し、彼女はスカートを下に降ろす。

 俺は思わず目を逸らした。けれどその間も、布が擦れる音と、落ちる音が続く。

 

「……ダメ、ちゃんと見て」

 

 どこか悪戯っ子のような、そんなからかうようなトーンで、彼女は言った。

 布の音はもう聞こえない。全て脱ぎ終えたのだろう。

 俺はゆっくりと、彼女の方に視線を戻す。

 フランシスの身体を見た。

 

 一糸まとわぬ彼女の身体には。

 信じたくないほど。

 

 

 おぞましい、『悪意の手術痕』が在った。

 

 

「ッ……!?」

 

 俺はそれを見て、思わず目を見開いた。

 フランシスは、そんな俺を見ながら、尚も微笑んでいる。

 

「フフ……パパは男の人だから。男の人は『これ』で喜んでくれるって。昔、大人の人が言ってて、それで、やってくれたの」

 

 少し照れくさそうな顔をして、フランシスは『それ』を見せつける。

 『それ』は、あまりに異常で、彼女の全てを踏みにじったかのような、吐き気を催すような、グロテスクとすら形容できない『手術痕』。

 

 ……何なんだ、これは?

 フランシスは大人たちと言った。『それ』の処置をしてくれた人がいたと。

 そいつらは何を思って、この子にこんな残酷な仕打ちをしたんだ?

 こんなこと、人間にすることじゃない。

 なんでここまでする? なんでここまでできる?

 

「パパ、喜んでくれた?」

 

 なんでこの子は、ここまでのことをされて、笑っていられるんだ?

 

「フランシス、それは……」

 

「パパ」

 

 俺が言うことを遮って、彼女は俺を呼んだ。

 すると、彼女は太陽のような笑みを見せた。

 

 

「きっと『これ』で、パパも私を愛してくれる。パパ、私、パパに愛してもらえるようになったの」

 

 

 ……ああ、そうか。

 さっきから感じていた、彼女への恐怖と、違和感。その正体が、何となくだがわかった気がする。

 彼女の本心が、垣間見えた気がした。

 

「フランシス」

 

 俺は何とか気を持ち直して、彼女の名を呼んだ。

 身をかがめて、フランシスと目線を合わせた。彼女は、きょとんとした顔をして、俺を見つめる。

 

「……どうしたの、パパ? 悲しそうなお顔してる」

 

 なんでだと思う、フランシス?

 きっとそれを今言っても、君は理解してくれないだろう。

 でも、これは言わなきゃいけないと思った。

 

 

「君が何をしても、しなくても、君を愛することとは、何も関係ないんだ」

 

 

 そう言って、俺は彼女を抱きしめた。

 そうしなければ、いけない気がした。

 




次回から本業の方が立て込むため、週2回ほどの更新頻度になります。
ご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありませんが、よろしくお願いします。


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28.Affecion

「……どうしてそんなこと言うの?」

 

 フランシスを抱きしめている最中、耳元で震えた声が聞こえた。

 彼女はきっと、俺に失望したのだろう。

 けれど言わなきゃいけないと思った。

 ここで彼女の考えを否定しないのは、彼女に対してあまりに不誠実だと思ってしまったから。

 

「パパ、私いい子だよ? パパが喜ぶこと、たくさんしてあげられる。なのに愛してくれないの?」

 

 彼女は今にも泣きそうな声色でそう言う。

 俺は彼女から離れて、その顔を見た。

 声の通りの表情で、彼女の目には涙が溜まっている。

 彼女は口を開く。

 

「私、パパが言ってくれれば誰だって殺せる、どんな風にだって殺せる。パパが欲しがってるもの、全部あげられるのに、愛してくれないの?」

 

「フランシス、聞いてくれ……」

 

 俺が言っても、彼女は言葉の勢いを増してゆく。

 

「これでだめなら、もっとたくさん色んなことできる! もっとパパにあげれる! ねえ、これなら私のこと愛してくれるでしょ!? ねえ、パパ――」

 

「フランシス!」

 

 俺は大きな声で、彼女の名を叫んだ。

 

「ッ!?」

 

 すると、彼女はびっくりして、押し黙る。

 少しだけ、気まずい沈黙が流れた。けれどそれは、彼女が俺の言葉に耳を傾けてくれた証左でもある。

 俺はこれ以上怖がらせないよう、声を静かにすることを意識して、言った。

 

「……フランシス、なあ。そんなこと、しなくたっていいんだ。そんなことしなくても、君に愛情を与えてくれる人が増えるわけじゃないんだ」

 

「でもこうすれば、みんな愛してくれるって……」

 

「そんなの愛情じゃない。成功しなきゃ与えられないなんてものが、愛情であっていいはずがないんだ。そんなことしたって、君は救われない」

 

「……わからないよ。パパの言ってることが、全然わからない」

 

 フランシスは怯えたような表情でそう言った。

 それもそうかもしれない。俺だって自分で言ったことに、思わず自嘲しそうになった。

 ……君は救われないだと? どの口が言ってるんだ。

 俺が、彼女の考えを否定したいだけじゃないか。

 心のどこかではわかっている。いや、どころか、自分の人生で嫌というほど学んだはずだ。彼女の言う通りなのだ。方法はどうあれ、愛情を得るためには、何かを成さなきゃいけない。それは、身をもって知っていたことのはずだ。

 ただ俺がそれを認めたくないから、彼女に八つ当たり紛いのことをしているだけだ。

 彼女を救おうなんて、あまりにおこがましい。

 俺が救われたいだけじゃないか。

 

「パパ、パパは私のこと、嫌い?」

 

 フランシスは不安そうに聞いた。

 

「……そんなことないよ」

 

 俺は彼女にそれだけ答えた。

 フランシスは、はっきり言って恐ろしい。

 笑いながらたくさんの人を殺して、『錠剤』なしとは言え、あのリネンでさえも負かした狂人。

 だけれど、自分でも不思議だが、俺はこの子を嫌いになれなかった。

 けれど俺が彼女に向けるそれは、愛情じゃない。きっと、憐憫だ。

 

「パパ、ねえ。私、お勉強が苦手だから、パパの言ってることがわからないの。大人の人達に教わったことしか知らないから、それ以外は何にもできないの。それでも、パパは私のこと愛してくれる?」

 

 彼女は縋るように聞いてくる。俺はそれを拒むことができなかった。

 

「……もちろん、愛せるよ」

 

 自分の言ってることに寒気が走る。よくもまあそんな上っ面なことが言えるものだ、と。

 酷い話だ、ここで否定すると、自分が信じたいものまで否定されるから、乗っかっているだけだなんて。

 

「じゃあ、私のお願い、聞いてくれる?」

 

 フランシスはそう言って、俺の服の裾をつまんだ。

 

「なんだい?」

 

「身体を洗ってほしいの。頭からつま先まで、全部」

 

 それには誘っている様子も、媚びている様子もない。ただ本当に、そう願っているように聞こえた。

 

「……わかった」

 

 俺がそう言うと、彼女は微笑んで、俺をバスルームまで引っ張ってゆく。

 

「大好きよ、パパ」

 

 彼女はそう言って笑う。

 なぜ彼女は、俺のことを『パパ』と呼ぶのだろう? そんなことを今更ながら思う。

 どうやって俺を知ったかもわからない。

 ただ単に、俺が男で、たまたま見かけたから。案外そんなものだろうか?

 

「どうしたの? ぼうっとして」

 

「……何でもないよ、フランシス」

 

「変なパパ」

 

 ……ひょっとしたら、何か通じるものを感じたのかもしれない。

 そんな独りよがりな願望めいたことを考えながら、笑う彼女を見た。

 

 

 ◇

 

 

 フランシスの身体中についた返り血を洗い流して、一体どれだけの時間が経っただろうか。

 シャワーから上がった後、彼女は服を着替えて、俺を引っ張って教会に移動した。

 

「パパ、開けてみて。きっと気に入るわ」

 

 彼女はそう言って、俺を教会の扉の前に案内する。

 何やら嫌な予感がする。

 俺はある程度心の準備をして、扉を開く。

 

「これは……」

 

 扉を開くと、すえたような腐敗臭が漂ってきた。

 教会の中を見てみる。

 

 そこには、女性の死体が何体も、まるで儀式のように飾られていた。

 

「ッ……!」

 

「ね、素敵でしょ?」

 

 フランシスは俺の顔を覗き込んで、そう聞いて来た。

 俺はそれになにも答えれず、ただ口を手で覆って、月明りに照らされた、その死体を見た。

 

(あの服……確か『赤毛のロジー』の……)

 

 死体となった彼女らが着ていたのは、依然見た、『ママ・ロザリア』の手下が着ていたものと同系統のものに見えた。

 

「なあ、彼女たちは……?」

 

「うん、綺麗でしょ? あの人たちがパパのこと教えてくれたの」

 

 彼女の言葉を聞いて、点と点が繋がった気がした。

 つまり、フランシスは彼女たちを捕まえて――なんでそうしたのかはわからないが――何かしらで彼女たちから、俺の情報を聞いたのだ。

 そう考えていると、彼女は喜々として、あの死体について口を開く。

 

「だからね、私、パパを教えてくれたあの人たちを、ああやって飾ってあげてるの。ああやって着飾れば、みんな、天国の扉をノックした時、気づいてもらえるのよ?」

 

 彼女はそう言って、教会の奥へを歩いてゆく。

 カツカツと、彼女が足を動かす度に、硬質な音が教会中に響く。

 そうして、彼女は十字架の前で止まった。

 十字架は、血しぶきでも当たったのか、大部分が真っ黒に染まっていた。

 

「……パパ、こっちに来て」

 

 彼女にそう言われ、俺は恐る恐ると、彼女の元へ近づく。

 ステンドグラスから入る月光が、十字架までの道を淡く照らす。

 もし天国への階段があるとしたら、それきっとこんな感じだろう。そう思った。

 

「私知ってるの」

 

 俺が彼女の元へ着いた途端、彼女はそう口を開いた。彼女は続ける。

 

「パパはホントは、私のパパじゃないって」

 

 彼女は唐突にそんなことを言いだした。なぜ今になってそんなことを話すのか。それがわからないでいると、俺の考えを見透かしているのか、彼女は目を細めて微笑んだ。

 

「でもそんなの、関係ないの。パパを一目見たとき、この人と一緒なら寂しくなんてないって思ったわ。私のことを愛してくれるって」

 

「……フランシス、俺は――」

 

 

「だから、私と繋がりましょう、パパ?」

 

 

 彼女はそう言って、大きい直剣をすらりと抜いた。

 

 

「フラン、シス……?」

 

 俺が突然のことに困惑していると、彼女は柔かい笑みで、俺を見てくる。

 

「『契り』を交しましょう、パパ? お互いの愛を永遠にする、とっても素敵な誓い」

 

「待て、フランシス、何を……」

 

「この剣で、お互いのお腹を切って、中の『へその緒』で、お互いを結ぶの。そうすれば、私たちはずっと一緒になれるの」

 

 俺はその言葉を聞いて、戦慄を感じた。

 中のへその緒……ひょっとしなくても、腸のことだろう。一体誰が、彼女にそんな悪趣味なことを教えたのだろうか。いや、そんなことは今問題じゃない。

 問題は、フランシスがそれを本気で信じているということだ。

 

「パパ、私のお腹、切って?」

 

 彼女はそう言って、剣を差し出す。でも俺は、それを受け取れない。

 俺は恐怖心で早くなる鼓動を感じながら、彼女の顔を見た。

 ……さっきと変わらない。無邪気で、寂しそうな、子どもの顔だった。

 

「フランシス、やめよう、こんなこと。こんなことしたって……」

 

「怖がらないで、パパ、大丈夫……そうだわ、じゃあ私が最初に、パパのお腹を切ってあげる」

 

 そう言って、彼女は剣の持ち方を順手に戻す。

 ああ、ヤバい。選択肢を間違えたな。

 一回言うことを聞いて、彼女の剣を奪えばよかったじゃないか。

 10秒前の自分を恨んだ。でも、10秒前でももう遅い。

 

 彼女は、剣を構える。背後の十字架と相まって、まるで断罪人のように見えた。

 ああ、死ぬな。そう思って、俺は思わず目をつぶった。

 

「天国に行きましょう。パパ」

 

 

 すまない、イト……ッ。

 

 

 

 

 

 銃声が、突然響いた。

 

 

 

 

 

「ッ……!?」

 

 同時に聞こえたのは、甲高い、金属に当たったような音。

 重い金属が、落ちたような音。

 眼を開くと、振るはずだった剣が床にあって、フランシスは、険しい顔をして、俺の後ろの方、教会の入り口を見ていた。

 

「誰!?」

 

 フランシスは、恐らく入り口にいるだろう人物に、そう叫ぶ。

 俺は、ゆっくりと後ろを振り向いてみた。

 

 

「一人で死ぬのが嫌なら、カタコンベで首でも吊ってろ、クソガキ」

 

 

 そこには、拳銃を持ったイトが、月夜に照らされていた。

 



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29.Knock

 まるで宗教画のような、酷く美しい光景に見えた。

 今日は月光がひと際明るいからだろうか。

 青い光に包まれて立っている彼女が、俺には一瞬、天使に見えた。

 けれども、彼女は死者を迎える天使などではない。

 天使なぞが、こんな場所に好き好んでくるはずもない。

 彼女が構える白銀のリボルバーこそが、何よりの証左だろう。

 

「イト……」

 

 俺は彼女の名を呼んだ。

 宝石のような薄緑の瞳。彼女はその目を、寂しそうに細めて。

 

「……悪い、待たせた。ハリ」

 

 イトはそう言って、微笑んだ。

 なぜだろうか、一日も経ってないのに、ずいぶんと久しぶりに彼女に名前を呼ばれたような、そんな気がした。

 

「……何なの」

 

 後ろから、震えたような声が聞こえた。

 共に、金属が擦れるような、重く、けれど硬い音。

 振り返ると、フランシスが落ちた剣を拾って、イトを睨んでいた。

 

「なんで? なんで!? さっきから、みんなみんな、私とパパの邪魔ばっかり! みんな私のパパを横取りしようとする! いい加減にしてよ!」

 

 フランシスはその直剣を構えて、あらん限りの声で叫ぶ。

 声が震えていた。剣を掴んでないもう片方の手で、スカートを握りしめていた。

 それが何だか、とても傷ましく感じてしまった。

 

「……よく言うぜ、勝手に人様から盗ってったくせによ」

 

 イトはそう言いながら、ゆっくりと、俺たちに近づいてくる。

 

「ねえ、帰ってよ。私からパパを取らないで……」

 

「寂しいなら、私がピーカ・ブーでもしてやるよ。その後勝手に腹でも掻っ捌け」

 

「……そんな意地悪言うなら、もういい」

 

 それを最後に問答が終わる。イトの足は止まらない。

 それに呼応するように、フランシスは剣を水平に持ち直した。

 彼女の獣耳が鋭く立った。

 

「貴女なんか」

 

 剣の刃が、月光に照らされる。

 拳銃の銃身が、青白く輝く。

 互いが、互いの眼を見据える。

 

 

 

「地獄に堕ちればいいんだわ」

 

 

「ここが『そう』なんだよ、独りぼっち(Miss Lonesome)

 

 

 イトが、指をはじいて、『錠剤』を口の中に入れた。

 瞬間。

 

 閃光。

 轟音。

 

 フランシスが、一気にイトと距離を詰めた。

 それはリネンの時と同じ、見えない突進。

 

「ッ!?」

 

 流石のイトも面食らったらしい。ほぼゼロ距離に来たフランシスを見て、目を見開いていた。

 まずい、このままじゃ!

 

「さよなら、あとで銀貨をあげるわ」

 

 そう言ってフランシスは。

 剣を、振った。

 

「イトォ!」

 

 俺は彼女の名を叫んだ。

 けれど、その声は。

 

 

 激しい衝突音に、搔き消された。

 

 

 ……そう、『衝突音』にだ。

 

「なん……!?」

 

 フランシスが、そんなふうに、困惑した声をあげた。

 俺はもう一度、彼女らをよく見てみる。

 フランシスが振った剣、刃が到達したその先。

 

 

「……決め台詞はな、殺した後に言うもんだ」

 

 

 イトのリボルバー、そのトリガーガードが、フランシスの剣を受け止めていた。

 金属同士がきしむ音。

 銃口の先には、フランシスの額。

 イトは、引き金を引いた。

 

 コンマ数秒の間。

 乾いた発砲音。

 4回、4発。

 

「ッ!」

 

 その刹那の時間に、フランシスは後ろに飛びのく。

 4発の銃弾は、全て床を焦がした。

 

「ッ……! クソ、面倒くせえ……」

 

 イトはフランシスを睨んで、そんな悪態をついた。その声は明らかに、何かを耐えている声だ。

 見ると、彼女のだらんと垂れた腕から、ポタポタと黒い液体がこぼれてゆくのが見えた。

 

「イト、血が……!」

 

「わかってるッ……」

 

 チクショウ、やっぱり無事じゃ済まなかったんだ。しかもよりによって、あれは利き腕の方だ。

 彼女は顔をしかめて、負傷した腕を庇う。

 マズイ、このままじゃやられる。

 

「嫌いよ、みんな!」

 

 泣きじゃくっている子供のように、フランシスは叫んだ。

 その叫びには、明確な怒りがあった。

 彼女はそのまま、声を荒げる。

 

「私はただ、パパに天国に連れてって欲しいだけなのに、一緒にいて欲しいだけなのに! 何で取ろうとするの!? 取らないでよ! 私のパパなのに!」

 

「ふざけてんじゃねえ!」

 

 すると、イトが彼女に向かって叫んだ。

 フランシスは驚いたのだろう。びくりと体を震わせ、イトの方を見た。

 

「さっきから聞いてりゃ勝手なことばっか言いやがって! お前が誰にすがろうが知ったこっちゃねえ」

 

「けどな」イトはそう言った。声が少し、震えていた。

 

 

「ハリは、そいつだけは、私のだ!」

 

 

 イトは、息が切れそうなほどの大声で、フランシスにそうはっきり、宣言した。

 ……こんな時に、まったくもって変な話ではあるが。

 俺はその言葉を聞いて、何故だか救われたような気分になってしまった。

 数秒だけの、沈黙が流れる。

 

「……パパ」

 

 すると、フランシスが、俺の方に振り向いて、呼んだ。

 彼女の顔は、今にも泣きだしそうな、助けを求めているような、そんな表情だった。

 

「パパ、パパは私と一緒に居たくないの? あの女の人と一緒にどっかへ行っちゃって。また私を独りにするの?」

 

 それは、質問に見せた懇願だった。行かないでくれと、一緒にいてくれと、言葉の節々から、その思いが如実に伝わってくる。

 俺はこれに、どう返すべきなのだろうか。何もわからないくせに、俺は彼女に口を開く。

 

「……フランシス、俺……俺は――」

 

「ハリ、そいつの話を聞くな」

 

 俺が言い淀んでいると、イトが被せてきた。

 

「そいつはな、もう手遅れなんだよ。もう、何が怖かったのかもわかってねえ。『天にまします我らが主よ』って言いながら、神様を憎むようになっちまってるんだ」

 

 彼女はそう言って、負傷した腕をもう片方の手で握りしめて、何とか出血を止めようとしていた。あれじゃもう、銃は使えないだろう。

 フランシスはそれを、ただじっと見つめていた。先程とはうって変わって、微動だにせず、見つめていた。

 ……いや、イトじゃない。

 フランシスは、イトのさらに奥側、教会の入り口を見ている。

 

「そうだろう? 『レザボア・ハウンド』」

 

 そこにいたのは、拳銃を構えた、エレーミアだった。

 その銃口は、フランシスを狙っている。

 

「……お姉さま?」

 

「フランシス……」

 

 姉妹たちは、お互いのことを静かに呼んだ。

 (フランシス)は呆然としたように、(エレーミア)は覚悟を決めたように、互いを見つめ合っている。

 

「……ふぅん、お姉さまも、私を殺しに来たのね」

 

 フランシスは急に、実に淡々とした声色で、そう言った。

 それは明らかな、敵意と、失望の声だった。

 

「邪魔だったものね、私。ママもお姉さまも一緒、私が嫌いだったものね!」

 

 エレーミアを見た途端、フランシスは堰を切ったように喋り出した。その口調はさっきとは違って、どこか自虐的だ。

 ……エレーミアは、ただそれを、辛そうな顔をして聞いていた。俺はそれに、何も言えそうにない。

 

「それで今度は、私からパパまで取ろうって言うんだ! そこの女の人と一緒になって、また私から全部持っていくんだ!」

 

 彼女の言葉が、段々とちぐはぐなものになってゆく。恐らく、エレーミアを見て、全て思い出してしまったのだろう。

 絶望も、憎悪も、悲痛も、空虚さも、寂しさも、全部。

 ……正直、見ていられなかった。

 彼女が怒声を放つその姿は、泣きじゃくることもできなくなった、子どもの成れの果てなのだ。

 ……どうしてだ?

 

「ねえ、何とか言ってよ、お姉さま!」

 

 どうしてこんな小さな女の子に、世界はこんなにもつらく当たるんだ。

 

「ねえッ!」

 

 

 

「……ごめんね」

 

 

 

「……え?」

 

 エレーミアの言葉に、フランシスは思わずといったように、声を出す。エレーミアは、そんな彼女に近づきながら、その先を続けた。

 

「本当は、ずっと謝りたかった。もっとずっと前に、やるべきことだった。なのに……」

 

 そう言ってエレーミアは、フランシスの目の前にまで近づいた。はっきり言って、それはすごく危ない位置だ。

 なのに、俺もイトも、ただ教会の真ん中に立っている、二人の姉妹を、黙って見ていることしかできなかった。

 

「ごめんね、フランシス。もっと早く、こうしなきゃいけなった」

 

 彼女は大粒の涙を流して、涙声になって。

 

 

「ごめんね、フランシス。愛してるわ」

 

 

 そして、フランシスを抱きしめた。

 

「ッ……!?」

 

 フランシスは、それにどう対応していいかわからないのだろう。彼女は微動だにせず、されるがままだった。

 

「……まだ間に合うわ。いっぱい美味しいものを食べて、いっぱい遊んで、フカフカの布団で寝よう、ね?」

 

 エレーミアはただ静かに、フランシスの背中をポンポンと叩いた。

 きっとこのままいけば、俺やエレーミアが望んでいるような未来が来るのだろう。

 彼女ら姉妹で、マフィアの切り盛りをして、夜の世界を姉妹で駆け抜けて。

 稼いだ金で豪勢な食事を姉妹で食べて。

 フカフカのベッドで寝て。

 時間ができたら二人で遊んで。

 きっとそんな、笑えるような未来が、待っているのだろう。

 ……ああ、神様。

 

 やはりあなたは、最低だ。

 

 

 

 肉が斬れる、音がした。

 

 

 

「ッ……!?」

 

 俺は目を見開いた。

 フランシスが、剣を思いっきり、振り上げていた。

 

 ベチャリと、俺のすぐそばで音がした。

 思わず、音のした方を見る。

 

 腕があった。

 切断された、拳銃を持ったままの、エレーミアの片腕。

 肩の部分が赤黒く、染まっていた。

 

「……遅いよ」

 

 フランシスが、エレーミアを見つめて、泣きながら、静かにそう言った。

 エレーミアが膝をつく、苦痛に染まった顔で、フランシスを見上げている。

 

「フランシス……!」

 

「嘘よ、そんなの嘘に決まってる」

 

 そう言いながら、フランシスは剣を上にあげる、そのまま振り下ろせるような態勢になる。

 ダメだ、チクショウ! このままじゃ……。

 

「フランシス、待て!」

 

「だってそれなら、あの時……」

 

 ダメだ、聞こえてない……。

 イトは動けない、どうする、このままじゃエレーミアが……。

 ダメだ、クソ、そんなの! 何かないか、何か……。

 

「……!」

 

 俺の手に、不意に何かが当たった。

 切り落とされたエレーミアの片腕、それが持っていた『もの』。

 こんなモノしかないのか、よりによって、こんなモノしか。

 

「『あの時』、なんでそう言ってくれなかったの?」

 

 フランシスはそのまま、剣を振る。

 

 俺は、『それ』をもって、すかさず彼女に向けた。

 

「フランシス!」

 

 俺が呼んだ瞬間。

 フランシスは、手を止めて、俺を見た。

 手を、止めたんだ。

 

 ……だったのに、それなのに、もう遅い。

 

 

 

 俺は、エレーミアの銃で、彼女を撃った。

 彼女の、左胸を。

 



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30.Door

 フランシスが、俺を見る。

 その胸には、パラベラムで開けられた、俺が開けてしまった、黒い穴があった。

 

 俺がやったことの報いが、まざまざとそこに在った。

 

「いや、フランシス……ッ」

 

 エレーミアが震えた声でその名を呼んだ。

 彼女はそれに答えない。

 

 剣が床に落ちた。

 音が、いやに響いて聞こえた。

 

「……パパ」

 

 フランシスが、俺を見る。銃を構えた。自分を撃った張本人を。

 彼女から見て、俺はきっと、酷い顔をしているだろう。怯えた顔をして、思わず引き金を撃つような、卑怯者の顔をしているに違いない。

 

 だというのに。

 そのはずなのに。

 

「ほら、やっぱり。私が言った通りだわ」

 

 フランシスが、俺を見る。

 笑って、俺を見た。

 笑った口から、血が滴り落ちてゆく。

 

「嬉しい、ねえ」

 

 やめてくれ、もう喋らないでくれ。

 お願いだから、その先の言葉を、言わないでくれ。

 

 

 

「天国に連れてって、パパ」

 

 

 

 彼女はそう言って、力なく、膝から崩れていった。

 白いブラウスが、赤黒く染まり始める。

 それは明確な、カウントダウンの始まりだった。

 

「フランシス!」

 

 エレーミアが名前を呼んで、フランシスを抱きかかえる。

 

「待って、ダメ、フランシス! 大丈夫、まだ助かるから……すぐに治療すれば治るから、ね?」

 

 彼女はそう呼びかけながら、フランシスの手を握って、その顔を見た。

 眼に力がない。苦しそうに息を吐いているその姿を、ステンドグラスの前にさらけ出していた。

 それは、ようやく待ち望んでいたものが来たかのような。

 そんな表情だった。

 

「……お姉さま」

 

「フランシス! 待ってて、すぐにお医者様を呼んでくるから、だから――」

 

 言い切る前に、フランシスはゆっくりと、エレーミアの口に指をあてた。

 彼女は力なく微笑む。

 

「フランシス……?」

 

 彼女は不安そうに自分を呼ぶ姉を見て、静かに言った。

 

「邪魔しないで……」

 

 その言葉に、エレーミアは何も言えず、ただ目を見開いて、涙をこぼしながらフランシスを見るしかできなかった。

 フランシスはこう、続けた。

 

「なんで、助からなきゃいけないの……? 助かって、生きて、それでどうするの……?」

 

 彼女はゆっくりと、言葉をつづってゆく。

 ブラウスが、みるみるうちに赤く染まる。

 だというのにエレーミアは、彼女の言葉に耳を傾けることしかできない。

 

「私ね、わかってるの……普通の人達の中じゃ、私は多分生きていけないって。心がもう、手遅れだって……お姉さまも、きっと、あの日死なせておけばよかったって思える日が、きっと来るわ……そうでしょ?」

 

「何言ってるのよ、そんなこと……」

 

 ない、と、そう言おうとしたのだろう。けれど、エレーミアは言葉にしなかった。言えなかった。

 思い出したのだろう、きっと。自分がフランシスを捨てた過去を、思い出してしまった。

 その過去が、彼女の言葉を遮ったのだ。

 

「……もう嫌だよ」フランシスは言った。

 

「もう、誰かに『いらない』って、捨てられて……そうまでして生きたって、何にもいいことないじゃない」

 

 フランシスのその言葉に、エレーミアは最早、言い返す言葉もないというように口を噤んで、ただ、涙を流しながら、顔を伏せた。

 

 

「……ごめんなさい」

 

 

 エレーミアは、静かに、しかしはっきりと、そう言った。

 それは懺悔の言葉であり。

 

 けれども、明確な諦念であった。

 

 ここにきて彼女は、ついに、妹の望みを優先することにした。

 フランシスの死を、受け入れ始めたのだ。

 

「……ハリ」

 

 俺のそばに、イトが近づいてきている。彼女はどこか、悲しそうな目をしている。

 

「イト……」

 

「……自分を責めるな、ハリ」

 

 俺の呼びかけに、彼女はそう答えた。きっと彼女は、俺の胸中に気づいているのだろう。

 もしくは、表情に現れているのか。

 彼女は続ける。

 

フランシス(あいつ)はもう、とっくの昔に手遅れだったんだ。今お前が撃たなくたって、いずれは同じ結果になったはずだぜ」

 

「……でも、俺が呼んだ時、彼女は止まった」

 

「大声に一瞬反応しただけだ。どっちみちあそこで撃たなかったら、レザボア・ハウンドは殺られていた」

 

「ハリ」彼女ははっきりと俺の名を呼んで、俺の眼を見る。

 

「お前は、人を殺したんじゃない。お前は解放したんだよ。一人の子供を、救ったんだ」

 

 イトはまるで、子どもに言い聞かせでもするように、そう言った。

 姉妹の方を見る。

 エレーミアと、目が合った。

 けれど、きっとさっきの話を聞いていたのだろう。彼女は目を腫らして、ただ黙って目を逸らした。

 ……彼女もきっと、もうどうしようもないと思っているのだ。

 フランシス自身が、死を望んでいる。

 だからきっと、もうそれを叶えたほうが良いのだと、そう考えているのだろう。

 

「……パパ」

 

 フランシスが、俺の名を呼ぶ。その間にも彼女の胸から、血は流れ続けている。

 一体あと、どれくらい持つのだろうか? きっと、長くはないだろう。

 

「フランシス……」

 

 俺が呼ぶと、彼女は力なく、ニコリと微笑んだ。

 

「パパ、天国のお話をして。天国って、どんなところ?」

 

 彼女は心の底から幸せそうに、そう聞いて来た。

 ……ああ、彼女はもう、救われたいんだ。

 痛い思いも、苦しい思いも、彼女はもう十分すぎるほどしたじゃないか。

 だからもう、楽にしてやるんだ。

 もう、終わらせてやるんだ……。

 

「……フランシス」

 

 

 

 ……冗談じゃない。

 

 

 

 

 

 そんなの、冗談じゃない。

 

 

 

 

 

「君は、絶対に天国になんか行けやしない」

 

 

 ――俺は淡々と、その言葉を放った。

 

 きっと、裏切られたと思っただろう。

 なんて自分勝手なことを言うんだと、そう思っただろう。

 

 フランシスはまるで、言葉の意味がわからないというように、目を見開いた。

 

「……パパ、何言って――」

 

「イト」

 

 その困惑した声にも構わず、俺はイトの方を見た。

 

「ベルさんを呼んできてくれ、どうせ来てるんだろ?」

 

「……正気か?」

 

「まだ間に合うんだ、頼む」

 

 そう言うと、イトは少し呆れたようなため息をして、頭を無造作に掻いた。

 

「ハァ……ルーラと一緒に、民家の方を見てたはずだ。銃声でもうこっちに来てるだろう。呼んでくる」

 

 それだけ言って、彼女は教会の出口へと向かっていった。

 俺はそれを見送ることもせず、フランシスの方に向き直った。

 見ると、エレーミアが呆然とした表情で、俺を見ていた。

 

 何のつもりだと、そう言いたいのだろう。これ以上妹を苦しめるのか、と。

 俺もその通りだと思う。

 彼女は死んだ方が幸せなのだろう。

 今綺麗に終わったほうが救われるのだろう。

 

 でも、そんなの納得できるか。

 

 俺が、まっぴら嫌なんだ。

 

「フランシス……」

 

 俺は彼女の名を呼んだ。

 すると彼女は、酷く哀しそうな表情をして、俺を見る。

 

「パパ……なんで? 私、ようやく、天国に行けそうなの。扉をノックできたの、なのに……」

 

「フランシス、ノックしただけじゃ、扉なんか誰も開けてくれやしないんだ」

 

 彼女の言葉に被せて、俺は言葉を紡ぐ。

 きっとちぐはぐなことを言っているだろう。上手く文章に出来ていないだろう。

 けれど俺は、言わなきゃいけない。

 

「ノックして、オープン・セサミを唱えてるだけじゃ、天国の扉は開いちゃくれないんだよ」

 

 彼女はきっと、俺なんだ。

 あの日、イト達がドアを開けなかったら、俺は彼女になっていたんだ。

 

「……じゃあ、どうすればいいの?」

 

 ひどく弱った言葉になって、彼女はそう聞いた。

 

「たくさん殺したわ。それで幸せになれるって、言われたから。たくさん痛い思いをしたわ、それで天国に行けるって、言われたから。これ以上、何をすればいいの?」

 

 彼女の言葉に、俺はただ、こう答えた。

 

 

「生きるんだ」

 

 

「ッ……!」

 

「最後まで生きて、痛みも弱さも、全部背負った奴だけが、天国の扉をこじ開けられるんだ」

 

「……パパは、私を天国に連れてってくれないの?」

 

「連れてってやるさ、だから――」

 

 俺はそう言って、不安そうな顔の彼女を見ながら、続けた。

 

「――死ぬな。俺のせい(銃弾)で死んだら、きっと俺は地獄行きになっちまう」

 

 俺は彼女を真っ直ぐ見て、その先を続けた。

 

「……まだ一緒に、生きていてくれ。このまま死んじゃったら、君を天国に連れていけなくなる」

 

 彼女はもうきっと、自分で扉を開けられない。

 真っ暗い部屋でうずくまって、ただその苦しみが終わるのを、じっと待ってることしかできないんだ。

 

 

 ――だったら俺が開ける。

 フランシスが嫌がろうと、知ったこっちゃない。

 これは俺のエゴだ。

 あの日イトが、そうしてくれたように。

 今度は俺が、扉をこじ開けるんだ。

 

 

「……勝手よ、パパ」

 

 フランシスが、涙声でそう呟く。

 その目には、涙が溜まっている。

 

「やっと諦められると思ったのに……終わらせられるって思ったのに、最後の最後で、そんなこと……ッ」

 

「ずるいよ」そう言った彼女の顔は、大粒の涙が溢れ出していた。

 

 

「ずるいよ、パパ……」

 

 

 途端、フランシスは、子どもみたいに、堰を切ったように泣きじゃくった。

 ――それは、どこか枷が外れたように、見えてしまった。

 

 今ここにいる彼女は、大量殺人鬼で、心が壊れて。

 

 

 

 けれど、生きる執着が今更になって出てしまった、一人の普通の女の子だ。

 

 

 

「……フランシス、天国の話をしてやるよ」

 

 俺はふと、思い出したことがあって、フランシスにその話をしようと思った。

 遠くから足音が聞こえる。どうやらイトが、ベルさん達を連れてきてくれたみたいだ。多分、その安心感もあったと思う。

 俺の言葉に、フランシスは、気力なく、けれど不思議そうな顔で、俺を見つめた。

 それに、俺はただ答えた。

 

「天国では、みんな海の話をするんだ」

 

 続きは病室で、フランシス。

 



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31.Pray

――ルディ、話があるんだ。

――わかってる、僕が言うよ。何も怖くないさ。



『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』より


 昔、子どもの頃に、母親によく海に連れて行ってもらっていた。

 砂浜と、端っこにテトラポッドが積まれている、そんな海辺だ。

 とは言っても北国の生まれなものだから、そこはとても泳げるような場所じゃない。

 けれど、昼下がりに見た、雲一つない空の下の水平線は、今でも記憶に残っているくらいには綺麗だった。

 天国では、みんな海の話をするという。もしこの話が本当だとするならば、俺はフランシスに昼下がりの海の話を聞かせたい。

 

 ……いや、違うな。聞かせるんじゃない。

 見せよう。

 いつか彼女を連れて行って、昼下がりの海を見てもらおう。

 彼女が本当に天国に行ったときに、仲間外れにされないよう。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 空が赤紫に染まっている。西の空では陽がオレンジ色を引き連れて沈みかかっているのが見えるに、時刻はもう、夕暮れだ。

 俺は『モンタナ・ファミリー』の屋敷、その屋上に立って、ただその夕暮れを明かりがつき始めた街並みと共に、ぼうっと見ていた。

 西海岸の特徴なのか、温暖な気候の割に、海から運ばれる潮風は程よい冷気を帯びている。

 あとはタバコの一本でもあれば、黄昏るのにこれ以上ないシチュエーションだろう。

 

(とは言え、無いものねだりをしてもしょうがないか)

 

 そんな、正直取るにも足らないようなことを考えていると、後ろの方から、風の音に紛れて足音が聞こえた。誰か来たんだろう。けれど、何故か俺は振り返る気になれなかった。

 

「上手いことやったみたいじゃないか、黒髪黒瞳」

 

 それはリネンの声だった。どうにも感情の読み取れない、淡々とした、そんなトーン。

 彼女はそのまま、俺の隣に来て、フェンスの上に手を置いた。彼女もまた俺の方を向かず、明かりがつき始めた街をじっと見ている。

 

「肩は? 大丈夫なのか?」

 

「あんなもの、怪我のうちにも入らない」

 

 そっけなく、リネンは言った。

 

「『錠剤』さえ使えば、大抵の傷は自然治癒で済む。寝てれば痕もなく勝手に治るんだから、神様に祈るのがどれだけ無駄かってのがわかるな」

 

「そりゃあいいな、これからはチャック・ノリス・ファクトでも唱えとけよ」

 

「なんだ、それ?」

 

「お祈りさ、神様より強力なやつ」

 

 しょうもない応酬をしながら、俺はリネンを横目で見た。今の彼女はタンクトップを着ているから確認できるわけだが、確かに、昨日あんなに抉られたはずの肩の傷が、まるで嘘だったかのように消えている。

 『錠剤』というものがどういう薬なのか、実のところ俺はよくわかっていない。しかし、あれを一粒飲めば、マーベル・ヒーローもかくやというような身体能力を、一時的にだが手に入れられるという。便利だが、同時に不安を煽る話だ。

 

「……悪かったな」

 

 言いづらかったのだろう、リネンはとても小さく、そう呟いた。

 

「……何の話だ?」

 

「とぼけるなよ、お前を守るどころか、殺される寸でのところを助けられた。おかげで、この様だ」

 

「ああ、そういう」

 

 そこまで聞いて、ようやく彼女の言っていることがわかった。多分、最初にこの屋敷に来た時のこと。フランシスに会ったときのことを言っているのだろう。

 

「気にするなよ。お互い生きてるんなら、ことも無しさ」

 

「……それじゃダメなんだよ。それじゃあ、私がイトに負けたことになる」

 

 彼女は落ち込んだトーンで言った。

 

「アイツがお前を守れるのに、私は守れないなんてこと、あっちゃいけないんだ。アイツができることで、私ができないなんてこと、あっちゃいけない。そんなことになったら、私は永遠に、アイツに見下されるだけだ」

 

 ……なるほど、どうやら彼女が謝ったのは、俺への罪悪感というより、自分のプライドとコンプレックスの問題らしい。まあ、彼女が俺に罪悪感なぞ抱くわけもないだろう。何だか、少しでも心配したのが馬鹿みたいに思えてしまった。

 

「……お前、本当はイトの大ファンだろ?」

 

「ハアッ!?」

 

 俺が意趣返しとして言うと、リネンはずいぶんと素っ頓狂な声をあげた。

 

「だってお前、何かにつけてイトを引き合いに出してるじゃないか。自分で気づいてるのかはともかく、相当憧れてるんだと思うよ」

 

「違う! 勘違いもいい加減にしろ! ただ私がアイツより下に見られてるのが、納得できないだけだ!」

 

「ああ、わかったよ。そういうことにしとこう」

 

 結構面白いなコイツ。そう思っていると、彼女は俺を睨みつけながら、両の手を握りしめていた。どうやら、仕返しの言葉がなかなか見つからないようだ。

 

「ッ……そんなことより、お前はどうなんだ? お前、あのイカレた獣人女を、エレーミアの側につかせたみたいじゃないか」

 

 リネンは少しムキになったようで、指をさしながらそんなことを言ってきた。

 

「フランシスのことか?」

 

「それ以外にないだろう。それで、どうやって奴を誑かしたんだ? この女ったらしが」

 

「人聞きの悪いこと言うなよ。別に、俺が何かしたわけじゃない。逆だよ、俺のわがままを、あの子が聞いてくれただけ」

 

「はあ?」

 

 リネンは納得いってない声を出した。まあ、そんな反応にもなるだろう。

 

 結果だけ言うと、フランシスは生き延びた。

 昨日の夜、教会でのフランシスとの問答の後、すぐにベルさんが来て、彼女に応急処置を施した。彼女が『獣人』ということもあってか、寸でのところで一命をとりとめ、今はウィンストン・ヒルズにある病院の、集中治療室(ICU)に放り込まれているらしい。

 とりあえずのところ、命に別状がなくなった程度には快復の兆しが出ているらしく、胸をなでおろしたのを覚えている。

 

「……まあ、どうにしろ、フランシス(やつ)が生き延びたんなら、それはそれで面倒なことが待ってるぞ」

 

 意味深に、リネンはそう言った。

 『何故?』とは聞けない。その予想は、おおよそ俺と同じものだろうから。

 

 ――するともう一度、屋上のドアが開く音。

 俺は今度こそ、そっちの方向を見た。

 

「……なんでお前がハリといんだよ、リネン?」

 

 見ると、不機嫌そうな顔をした、イトがこちらに歩いてきていた。

 

「お前にそんなこと、いちいち教える義理なんてあるか?」

 

 売り言葉に買い言葉。ただでさえさっきの話題で不機嫌になったのか、今度はリネンがそう言った。

 

「ああ、また誰かに連れ去られちゃ困るからな」

 

「フン、あれは少し油断してただけだ。次はしくじらない」

 

「いらねえよ、今後は私が守る」

 

「……ハッ、大した面倒見の良さだ。そのまま下の世話もしてやればどうだ?」

 

「あ?」

 

「……あー、イト?」

 

 流石にこのままじゃ埒が明かないので、俺は二人の話に割って入った。

 

「何か、俺達を探してたんじゃないのか? 急いでるみたいだったけど」

 

「ああ……レザボア・ハウンドがお呼びだぜ。多分、『今回の件』だ」

 

 今回の件、それは言うまでもなく、フランシスのことだろう。

 

「……まあ、楽しい話ではないだろうさ、覚悟はしておくんだな」

 

 リネンはそう言って、足早に昇降口の扉へと向かう。俺とイトもその後についていった。

 

「……なあ、さっきリネンと二人で、何の話してたんだ?」

 

 ふと、イトがそんなことを聞いて来た。その言葉は『二人で』を妙に強調していて、どこか刺々しい。

 

「別に、なんてことない話だよ」

 

「……あっそ」

 

「……なんかあったか?」

 

「何でもねえよ」

 

 イトが何故か不機嫌になって、そっぽを向いてしまった。

 何かまずいことでも言ってしまったのかもしれない。エレーミアの話が終わったら、それとなく謝っておこう。

 ふと、振り返って、ウィンストン・ヒルズの街並みを見る。

 夕暮れのその街は、その灯の裏側にあるものを全部覆い隠して、酷く静謐で、神聖なものに見えた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「ああ、ハリくん、こっちこっち」

 

 シャンデリアに照らされたサロン室。その扉を開けると、ルーラが俺を見つけて手招きをしているのが見えた。

 四角いテーブルを囲う形で、ロの形のレイアウトに配置されたソファに皆座っているようだった。手前のソファが空いていて、右側にルーラとベルが、左側にラミーが。

 そして奥のソファには、エレーミアが足を組んで座っていた。

 

「座って」

 

 彼女は静かにそう言った。

 言われるがまま、空いているソファに座る。俺とイトが手前のソファに、リネンがラミーの隣に座った。

 

「……揃ったことだし、そろそろ始めてもいいかしら?」

 

 その言葉に皆返答せず、ただ黙ってエレーミアの方を見る。それこそが開始の合図だ。

 

「まずは、今回のフランシスの騒動について、巻き込んでしまったことへの謝罪と、彼女を助けてくれたことへの感謝を述べさせていただくわ。ありがとう」

 

「……前置きは結構だ」

 

 エレーミアの言葉に、イトがそう被せてきた。

 

「お言葉だが、通り一遍の挨拶が長いのは、アンタの欠点だよ、レザボア・ハウンド」

 

「おい、イト」

 

 リネンがそれを制止しようとするものの、それに構わず、イトは言葉を続ける。

 

「どの道もう、『持ちつ持たれつ』になるのは避けられねえだろ。言えよ、まだ私たちに出て欲しい演目があるんだろ?」

 

 イトがぶっきらぼうにそう言うと、エレーミアは一瞬目を逸らした。

 ちょっとだけの沈黙。

 その後、彼女は口を開いた。

 

「……はっきり言うわ。『モンタナ・ファミリー』に入ってもらいたいの」

 

 俺達を見回して、彼女は明確にそれを口にした。

 彼女はその先を続ける。

 

「今、うちはかなり危ない状況なの、知ってるでしょう?」

 

「……君の妹のことだろう?」

 

 彼女の問いかけに答えたのはベルさんだった。

 フランシスが? どういうことだ?

 多分、そんな疑問が顔に出てたんだと思う、ベルさんは俺を見ると、そのニヒルな表情を崩さず、説明を始めた。

 

「ハリくん、教会でフランシスが殺した、『ママ・ロザリア』の手下の死体を見ただろう?」

 

 俺はそれを聞いて、ある考えが脳をよぎった。

 それを見て、彼女は嬉しそうに頷いた。

 

「今察したとおりだ。カルテルの構成員を、特殊な事情があったとは言え、別のファミリーの身内が拷問紛いの殺しをした。これは非常にマズイ。特にこの世界では一等にマズイことだ」

 

「……戦争になるかも、てことですか?」

 

「『かも』じゃないわ、なるのよ。このままだと確実に」

 

 俺の問いに、エレーミアがそう補足した。

 ママ・ロザリア。赤毛のロジー。最初に俺を拉致して、『クリーピーローズ』の服用者にしようとした。大規模麻薬カルテルのボスだ。

 

「しかも追い打ちで、フランシス自身が『モンタナ・ファミリー』の構成員の大部分を切り殺しちまった。今のまんまじゃ、組の存続自体はおろか、レザボア・ハウンドの命も危ういってわけだ」

 

「当然、その妹もな」イトはそこまで言って、あごに手を当てる。わかってはいたつもりだが、ずいぶんと良くない状況のようだ。

 

 ……フランシスを助けて、大団円でハイ終わり、等というわけには当然いかない。今起こっている事態は、間接的にではあるが、俺が遠因を作ってしまったんだ。

 

「……勝手なことを言っているのはわかってる、けれどお願い。貴方達が味方についてくれたら、ファミリー復興までの時間が、かなり稼げる」

 

 エレーミアはそう言って、真っ直ぐと俺を見た。

 

「フランシスが帰れる場所を、守ってほしいの。あの子に、自分の罪を償うチャンスを与えて欲しい」

 

 彼女ははっきりとそう言った。その言葉は、家を守るボスとしての責任であり、また姉としての、妹への愛情を測るに十分なものだった。

 

「……だ、そうだが、いかがかね、諸君?」

 

 どこか芝居がかった身振り手振りをしながら、ベルさんは俺達をざっと見まわした。

 

「なんでアンタが仕切ってるんだ? ……もともとそのつもりだったんだ、異論はないさ」

 

「リネンが良いならぁ、私もオッケー」

 

 リネンがぶっきらぼうに、ラミーが笑いながら、それぞれ同意を口にする。

 

「……まあ、このままじゃどっちにしろジリ貧だ。寝床と餌さえくれるんなら、文句ないさ」

 

「わ、私も! ちょっと、恐いけど……」

 

 イトは腕を組んで、ルーラはちょっとひきつった笑いをして、同様に賛同の意を示した。

 

「……貴方はどう、ハリさん?」

 

 エレーミアがそう言って、不安そうな顔で俺を見た。

 ……そんな顔をされても、言えることなんて決まってる。

 

「反対する道理もないよ。それに、まだフランシスに話したいこともある」

 

「……ありがとう」

 

 ずいぶんと遠回りになったが、これで、とりあえずは当初の目的である。『モンタナ・ファミリー』への参入を達成できたわけだ。

 ただ、これは終わりじゃない。きっと、更に大きな渦の入り口、またそこに立っただけなのだ。

 

(……フランシス)

 

 キミに海の話ができるのは、いつになるんだろうか。

 昼下がりの海の、雲のひとつもない水平線を見せられるのは、一体いつの話になるのだろうか。

 どうか、もう少しだけ、頑張ってくれ。

 留守番は、しっかりしておくから。

 

「……ハリ、どうした。ぼうっとして?」

 

 話し合いが終わって、緩慢とした空気が流れ始めるなか、イトは俺を見て、そう聞いて来た。

 

「いや、ただ……」

 

「ただ?」

 

 不思議そうな顔の彼女に、俺はこう答えた。

 

 

 

 

 

「きっと、綺麗だ」

 

「え?」

 

「昼下がりの海は、きっとさ」

 

 

 




第2章:男の使い道

―終―


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幕間:番外編
32.Eat


小休止のコメディ回です。数話ほど続きます。


 その日の午前は、温暖な晴れだった。ゴツいラジオからなかなかに陽気なナンバーが流れていて、少々ヴィンテージを思わせるシンセサイザーの音とこもったバスドラムが響くそれは、まるで『アーハ』と『ティアーズ・フォー・フィアーズ』の中間のような――とはいえ、ボーカルは女性だけれど――古き良き往年のアメリカン・ポップスを彷彿とさせた。

 もっとも、今俺がいる場所はエルドラ合衆国であって、アメリカという国自体が存在しない世界ときたものだ。先に言った両バンドはおろか、この世界には『レッド・ツェッペリン』も『バグルス』も『デッド・オア・アライブ』も存在しない。まあ、『デッド・オア・アライブ』はそんなに好きじゃないから、構やしないけどもさ。

 

「ハリ」

 

 不意に横から声が聞こえる。

 

「どうした? ぼうっとして」

 

 いつの間にやらラジオを聴き入っていたらしく、隣に座っていたイトが、俺の顔を覗き込んできた。

 

「好きなのか、この曲?」

 

 彼女はちょっとキョトンとした顔で言った。

 

「いいや、知らない曲だよ。でもそうだな、結構良いと思う」

 

「ふぅん」

 

 イトはそれだけの生返事をしたら、テーブルの上を指さした。

 

「飯、もう来てるぜ?」

 

 その言葉に倣ってテーブルを見てみると、確かに、テーブルには所狭しと、ウェイトレスが運んできた料理が並んでいる。とは言え、ルーラ、リネン、ラミーが来た端から口に運んでいるため、すでに空の容器がいくつかあるが。

 

 俺達が『モンタナ・ファミリー』に入って、おおよそ数日くらい経った。

 近いうち、ママ・ロザリアとの全面抗争が起きるだろう、という実に顔を真っ青にするにうってつけな話があったわけだが、今のところ、身の回りに何か大きなトラブルは起きていない。

 まあつまり、油断できないとはいえ、いつ終わるかわからない束の間の安息を手に入れたわけで、俺達はボス(エレーミア)から頂いたお小遣いを存分に使って、刹那の休暇(インスタント・バケーション)を過ごしているというわけだ。

 

 今もその最中で、俺達はベルさんを除くいつもの5人で――用事があると書置きがあって、起きたときにはもういなかったのだ――『モンタナ・ファミリー』が経営しているらしいレストランにて、少し早めの昼食を摂っているというわけだ。しかも、エレーミアが便宜を図って今の時間を貸し切りにしてくれた。こういう融通が彼女の声ひとつで決まるのを目の当たりにすると、やはり彼女はマフィアのボスなのだということを思い出す。全く持って、頭が上がらない。

 

 ……などということを考えている間に、テーブルの上がずいぶんと寂しくなってしまっていた。ついさっきまで、具のたっぷり詰まったクラムチャウダーや、揚げたてのバッファローチキンが在ったはずの皿はどれもこれもソースのカスが少量ついてる程度で、それ以外のものは全部彼女らの胃袋に入ってしまった後だった。

 まだ料理が来て10分も経ってないはずだが、目の前のご馳走を、俺以外の4人はものすごいペースで食べていた。

 

「お前らなぁ、もうちょっと上品に食べるってことできねえのかよ?」

 

 そんなことを言うイトも、アボガド入りのチリビーンズ・ホットドッグをもう9つも平らげている。

 流石に普段あれだけ動き回ってるからなのか、それとも久しぶりにありつけた食事だからか。とにかく一つ言えるのは、彼女らはその外観にそぐわないくらい、健啖家だということだ。

 

「ハリくん、食べないの? 美味しいよ?」

 

 ルーラが俺を気遣って、まだ手を付けてないスパゲティの皿を差し出してくれた。

 

「ああ、ありがとう、頂くよ」

 

 俺は皿を受け取って、その中身を見た。スープとアサリがたっぷり入ったボンゴレだ。出来立てを示す湯気が出ていて、湯気と共に広がるアヒージョオイルの香りが食欲をそそる。態度にこそ出てないが、正直なところ俺自身も、ここまで気合の入った飯にありつけるのは本当に久しぶりだったため、かなり気分は昂っていた。

 

「そんな風にもたもたしてるから、飯にもありつけないんだ。今までママに食べさせてもらってたのか?」

 

 リネンが、追加のバッファローチキンを咥えながら、そんなことを言ってきた。憎まれ口のつもりで言ってるんだろうが、食べ方がなかなか汚いのと、テーブルナプキンのかけ方も相まって、完全に子供が生意気言っているようにしか聞こえなかった。正直、少し微笑ましいとさえ思った。

 

「……何笑ってるんだ、お前」

 

「いや、悪い悪い。そうだな、うん、食べるのが遅いのは、俺も気にしてるんだ」

 

「ふん……」

 

 リネンはそれだけ言って、チキンの入ったバケットを持つ。何を思ったのか、それを俺の方に渡してきた。

 

「……え?」

 

「食えよ」

 

「あ、ありがとう……けど、なんで?」

 

「別に……お前は細すぎるんだ。もっと食った方が良い」

 

 彼女はそのまま、俺のそばにバケットを無造作に置いて、あとは席に戻って再びチキンをむさぼり始めた。そっぽを向いてしまうというオプションはついていたが。

 『一体どういう風の吹きまわしだ?』そんな疑問を持ったのは俺だけではないようで、イトとルーラも、訝しんだような目をリネンに向けていた。

 もっとも、何故か俺よりは不機嫌な顔つきではあったけど。

 

「ふぅん……」

 

 すると唯一、ラミーがそんなふうに呟いて、リネンをニヤニヤと見つめていた。リネンがそれに気づかないはずもなく、彼女を睨み付ける。

 

「……なんだよ? 何か文句あるか?」

 

「いやぁ、べっつにぃ?」

 

「ただねえ」彼女は手に持っていたオレンジジュースを飲み干して、続けた。

 

 

「やっぱ一回寝ると、好きになっちゃうもん?」

 

 

「ンぐッ……ゴホッゲッホ!?」

 

 途端、リネンが盛大に(むせ)た。

 

「「ハア!?」」

 

 そのほとんど同時に、イトとルーラの両人が、大声を上げて席を立った。いくら貸し切りとは言え、レストランでその大声は正直どうなんだ?

 が、あまり人のことは言えないだろう。俺ももう少しでスパゲッティを吹きだしそうになったのだから。

 つまり、そうだ、あれだ。彼女らは、俺とリネンがフランシスに襲われたこと自体は知ってるが、それが『抱いた後か先か』までは知らないんだ。いや、というより、十中八九リネンが抱かれた後だと考えているのだろう。なんでかはわからないが、きっとそうなのだ。

 

「なん……! 何言いだすんだ、いきなり!」

 

 不意打ちにずいぶんとお怒りのご様子で、リネンがそうやって掴みかかりはしたものの、ラミーはあっけカランとしていた。

 

「えぇ? でも寝たんっしょ? ねえ、ぶっちゃけどうだった? よかった?」

 

「いや、それは、だから……」

 

 ラミーの質問を聞いた途端、リネンはうって変わってしどろもどろになってしまった。

 様子が変わったのはイト、ルーラも同様で、さっきの大声が嘘みたいに、席に座って興味津々にリネンの回答を待っていた。

 大抵のティーンエイジャーの女の子というのは、どんな世界でも色事はニューズウィークの一面レベルに大事に扱うらしい、といういつか聞いた話は、どうやら本当のようだ。

 

「ねえ、どんなプレイしたの? エッグいことやった? どうよ? まさか『後ろの方』まで使ったとか!?」

 

 リネンの態度にも構わず、ラミーはまるでマーフィーもかくやというようなマシンガントークで問い詰めた。

 

「……てない」

 

「ん?」

 

 リネンは消えるような声で言った。が、それで聞こえるはずもなく、ラミーは無情にも聞き返す。

 ……さすがにここまで来ると可愛そうだな、そう思って、俺は助け船を出すことにした。

 

「その、だから――」

 

「抱いてねえよ」

 

 リネンの声に被せて、俺はそう言った。すると、全員が俺の方を見た――何故か遠巻きに見てたウェイトレスまでだ――それに一瞬気圧されそうになったが、どうにか俺はその先を続けた。

 

「抱く寸前に、フランシスが来たんだ。あとは、わかるだろ? あの後に続きを再開できるほど、俺もリネンも余裕がなかった」

 

「……ふぅん」

 

 さっきリネンに言ったものと同じイントネーション。だが、その顔は正反対に、実につまらないと言った表情を貼っていた。

 横でイトとルーラが気の抜けたようなため息を吐いた。それとリネンが、何故か俺を悔しそうな表情で睨み付けた。お節介だったのかもしれないが、流石にその態度はあんまりなんじゃないの?

 

「つまんなぁい。じゃ結局、リネンもまだバージンってわけか」

 

「……さっきからさぁ、食事中にしていい内容じゃないでしょ」

 

 不貞腐れてるラミーに、ルーラが辟易としたようにそう言った。が、ラミーはそんな彼女を気にも留めず、ただテーブルに頭を載せて揺らしていた。なにやら、思案しているようだ。

 

「うーん……目の前に黒髪くんがいてさあ、全員バージンって、こんなバカな話ある?」

 

 その言葉に、返答するものは誰もいない。とは言え思うところはあるらしく、俺以外の3人は、どうにも気まずそうにしていた。

 そんな時間が十数秒ほど。

 

「うん、ダメ! これじゃダメっしょ!」

 

 ラミーは突然起き上がって、そんなことを言いだした。

 

「みんな、今日どうせ暇っしょ?」

 

 何やら考えがあるらしく、ラミーは全員にそう聞いて来た。まあ確かに、全員用事というものはない。イトとリネンはトレーニングと得物の手入れぐらいだろうし、ルーラも街を散歩はするが、大体は二人と似たようなものだ。俺にいたっては迂闊に街にも出れない。

 つまるところ、全員が暇を持て余してるかと問われれば、正直その通りだとしか言えないのだ。

 全員がその考えに至ったのだろう。俺達はラミーに対して、ただ無言で頷いた。

 ラミーはそれを見て、悪戯っ子のように笑った。

 

「ここがウィンストン・ヒルズってのが最高だよね」

 

 彼女はそう言って、目を爛々と輝かせて、こう言いだした。

 

 

「『売春街』に行こう!」

 

 

 ……正直、いやな予感が当たったと、俺は思った。

 



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33.Boys

 ウィンストン・ヒルズは、エルドラ合衆国の中でも特段に富裕層が多く住んでいる地域らしい。

 資産家、映画スター、ヒットチャート常連のミュージシャン、そう言った成功者たちがこの場所にデカいプールや高級車を何台も詰めたガレージ付きの豪邸を建てているという具合らしく、エレーミア曰く、『合衆国の資本主義が成せた街』というわけだ。

 まあそんな街なものだから、金と暇を持て余した住民というものが当然湧き出てくるわけだ。

 

 売春街。

 古い日本では花町なんて呼ばれ方もしていた。有体に言ってしまえば、風俗店が集中している場所だ。

 とはいえ、この世界は男が総人口の1%しかいない世界。

 俺が知っているような風俗とは、また勝手が違うだろうことは、すぐに想像できた。

 

 

 

 ――今は午後の5時くらいだろうか。暗くなり始めた街中では街灯がポツポツとついていて、空は青よりもオレンジが目立ってきていた。

 そんな中、俺たちの目の前には、実に華やかな――ともすればケバケバしいとすら言える――派手なデザインの看板やネオンサインがちりばめられている店が、所狭しと並んでいる光景だった。

 ここは売春街、だが、俺の知っているそれとは、やはり若干違っていた。

 

「悪趣味だな」

 

 イトが街を一目見て、悪態をついていた。そっけない感じを出そうとしているが、どこかそわそわしたような、落ち着きがない様子だ。

 そう、街の中には看板や壁の至る所にグラフィティが描かれているわけだが、おっそろしいことに、描かれているものの大半が『男の裸体』なのである。

 セクシーなポーズ――ということにしておこう――をしているもの、きわどい服装をしているもの、股間を強調しているものなど、どれもこれも、眉目秀麗な男が、女性の性欲を刺激しようと躍起になっている構図ばかりだ。

 

「うはぁ、すっごい……」

 

 俺の横にいるルーラが、そんな声を漏らしていた。彼女を見てみると、感嘆としながらも、どこか気後れしてしまっているような、そんな表情だった。

 

「何をビビってるんだ、まったく」

 

 それを聞いていたらしいのか、リネンはそう言った。彼女を見てみる。

 

「たた、たかだか男の横腹や腹筋程度でななな何を驚いてるんだ、は、ははは恥ずかしい奴め……」

 

 彼女はどうやら恥ずかしい奴になっていた。その目はしっかり見開かれており、男娼のグラフィティを見て、気恥ずかしそうに目を逸らし、また別のモノを見て……という動作を忙しなく行っていた。

 どうやら彼女もこういう場所には特に慣れていないらしい。言うと怒るだろうから決して言わないが。

 

「なぁにみんなしてつっ立ってんのさぁ? はやく行こぉ!」

 

 この場で唯一、ラミーだけは高めのテンションでいた。

 結構浮かれているらしい。売春街の入り口で、実に楽しそうに手をブンブンと振っている。

 

「何だってあいつはあんなに自然体なんだよ……アイツもその……『まだ』のはずだろ?」

 

 イトが半ば愚痴のようにそう言うと、リネンはため息をして、それに答える。

 

「こっちが聞きたいね、そんなもの。アイツがアガったとこなんて、私だって一度も見たことないんだ」

 

「へえ、まあらしいっちゃらしいか」

 

 俺は思わずそんなことを口に出すと、リネンはこちらを見て、どこか可笑しそうに口角を上げた。それはまさに、吹きださないように耐えていますと言わんばかりの表情だ。

 

「フフン……お前は全然らしくないな、その『髪』と『瞳』」

 

「わかってるよ、うるせえな……」

 

 そう、リネンの言う通り俺は今、金髪のウィッグと碧眼のカラーコンタクトを付けていた。眉とまつげもウィッグの色に合わせて、マスカラで簡単にだが染めた。一晩だけだが、これならよっぽどのことがない限りはバレないはずだ。

 

 リネンに教えてもらった話だが、ウィンストン・ヒルズは合衆国の他の地域に比べると、男性が街を歩きやすい街だ――無論、それでも夜道に一人で歩けば、襲って下さいというようなものらしいが――特にこの場所は、男性が多くいる売春街ということで、男が一人ぶらぶらと歩いていたところで、妙に思うやつはいないということらしい。

 

 とはいえ、それでも『黒髪黒瞳』となると話は違ってくる。流石に世界に10人もいないような奴をほっつき歩かせるのはバカもいいとこだというのは、外出許可を出した時のエレーミアの言だ。

 俺の世界で言うと、泥棒相手に『ここにクリスティーズやサザビーズでだってお目にかかれないようなお宝が、護衛も強化ガラスケースも無しに歩いてるよ! ほら、みんな!』なんて触れ回ってるのと同じというわけだ。恐ろしいことである。

 

 ……と、まあ長くなったが、要は無用な面倒を起こさないために、俺は金髪碧眼に変装しているというわけだ。

 

「だから何ぼうっとしてんだってば! ほら!」

 

「わ、わかった、引っ張るな!」

 

 流石にラミーがしびれを切らしたのか、リネンの手を引っ張って、あれよあれよという間に、売春街の奥へと移動していった。

 

「……覚悟決めろよ、ルーラ」

 

「ぅわ、わかってるって……」

 

 イトに言われて、ルーラは両手で頬をぺちぺちと叩いて、硬い動作で歩を進め始めた。

 イトはイトでルーラに(げき)を飛ばしたわりには、やはり緊張しているらしく、動きがどこかぎこちない。

 

「大丈夫かよ、イト?」

 

 そう言うと、イトがこっちを振り向いた。やはり緊張しているらしい、顔が強張っている。

 

「あ、ああ……ていうか、お前はどうなんだよ? 平気なのか?」

 

「ああ、まあ……慣れてんだよ、こういう空気は」

 

「え?」

 

「言ってなかったっけ?」

 

 イトはその問いに、ちょっとだけ食い気味に頷いた。彼女の眼は俺を見ていて、『詳細を聞かせろ』と無言で言っていた。

 隠す理由もないので、俺はそれに答えることにした。

 

「日本にいたときにさ、他に金の稼ぎ方も知らなかったから、ちょくちょくやってたんだよ。意外と儲かるんだ、これが」

 

「……それってよぉ、その――」

 

 イトは少し言いづらそうに言葉をどもらせる。

 

「やっぱりその、『跨ったり』とかは、シたわけ? 色んな奴にさ」

 

「……まあ、そりゃあ、そう言う仕事だしな」

 

「何人くらい?」

 

「いちいち数えちゃいねえよ……まあ、それなりに」

 

「……ふぅん」

 

 イトはそれだけ言うと、踵を返して売春街の方へゆっくり歩き始めた。

 不機嫌……というよりは、実に面白くないといった様子で、俺はまるで、そっぽを向かれたような気分になった。

 

「……何してんだよ、さっさと行くぞ」

 

「ああ、ああ、わかったよ」

 

 ……嫌だったのかなあ、やっぱ。

 あからさまにへそを曲げたようなイトの声を聞きながら、俺はそんなことを思った。

 

 

 

 ――売春街の中身は、入り口以上に華やかで、またあからさまだった。

 露出の多い格好をしたコールボーイが、タバコをふかしたおばさんを誘って、100ラル札を受け取って、そして店の中に入る。

 日本にいた頃にも実によく見た光景で、それは俺にとってどこか、懐かしささえ感じる光景だった。

 

 煙たい安タバコの香りと、客が味もわからないのに見栄だけで買った酒の味、へべれけどもの喧騒と、箸休めのように吹いてくる、涼しい風。

 ふと空を見ると、ネオンサインに明るさを全部吸われたみたいに、真っ暗になっていた。

 

 ここはもう、眠らぬ夜の王国だ。

 

 

 ……なんて雰囲気に酔いしれている内に、俺は迷子になっていた。

 

「ヤッベえ……」

 

 どうやら街のアレコレに目移りしているうちにはぐれたらしく、周囲を見渡しても、イトたちの姿が見当たらなかった。

 これはちょっとマズイのだ。

 というのも、イトについ先ほど『離れるな』と口酸っぱく言われたばかりなのだ。いくらここが男が歩いても比較的大丈夫な場所で、俺が変装しているとしても、やはりそれで安全が保障されているわけでもない。

 ……と、言うことは思わないでもないが、俺が一番懸念しているのは、これでイトがまた不機嫌になってしまうことだ。

 一度へそを曲げると、彼女はなかなか機嫌を直してくれないのだ。俺を心配してくれてのことだというのは十分わかっているが、それでも彼女はここ最近、どこか過保護気味な気がする。

 兎にも角にも、イトたちを早急に見つけなければいけないだろう。

 

「どうしよっかなあ……」

 

 と、そんなことを独り言ちたその時。

 トントン。

 そんな調子で、軽く肩を叩かれた。

 イトか? そう思って振り向くと、違った。

 そこには、俺より一回り年上くらいの茶髪のコールボーイが立っていた。しかも、何故か少し怒っているかのような表情で。

 

「おい、何こんなところで油売ってんだ!」

 

「はぁ?」

 

 思わず素っ頓狂な声を出したが、それにも構わず、コールボーイは続けた。

 

「なんだよ、その態度。今日来る予定のヘルプだろ? 早く来い! 急げ!」

 

 彼はそう言って、いきなり俺の腕を掴んで、どこかへ連れて行こうとしだした。

 何やら誰かと勘違いしているらしく、俺は大慌てで腕を振り払うべく、身をよじる。

 

「いや、ちょっと! ちげえよ! 勘違いだ!」

 

「いいから来い! ショーまで時間が押してるんだ!」

 

 が、思った以上に力が強く、また焦っているのか俺の話を聞いていないらしいのも相まって、俺はなすすべなくコールボーイに連行されてしまった。

 ショーって何なんだ? この世界のショーってどんな感じだ?

 バカか俺は、その前に考えるべきことがあるだろう。

 ああ、そうだ。

 

 ひょっとして、また面倒ごとに巻き込まれてるんじゃないか、これ?

 



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34.Call

申し訳ありません。仕事と体調不良が続いたため、更新が遅れてしまいました。
謹んでお詫び申し上げます。


「クッソ……! どこほっつき歩いてんだあいつは……」

 

 神様も卒倒するような、ケバケバしい夜の街。売春街のど真ん中で、私は思わず呟いてしまった。すれ違った幾人が腫れ物に触るような顔をしていたのを見るに、今の私の顔は、おおよそフレンドリーなものではないのだろう。

 それもこれも、全部ハリのせいだ。あんなに離れるなって言ったのに……。

 

「んーまあ、大丈夫っしょ?」

 

 横にいたラミーが、そんなことを言ってきた。

 『目に良い衣装』の男たちに中てられたのか、顔がだいぶ緩んでいる。

 

「お前なあ、ハリが一体今まで何回連れ去られたと思ってんだ。んな呑気言ってられるかよ」

 

「でも、今回は変装してるわけじゃん? それに場所が場所なんだし、男の子一人歩いてても、特に不自然なことはないんじゃなぁい?」

 

「そうかもしれないけどよぉ……」

 

 確かに、今のハリは金髪碧眼に変装してる。加えて場所が場所だし、男が一人で歩いてても、特段怪しまれることも無いだろう。

 ラミーが呑気にそう言うのもわかる。

 わかるが……。

 

「イト」

 

 考えてる途中で、そんな声が後ろから聞こえた。ルーラの声だ。

 振り返ってみると、ルーラとリネンが人波をかき分けて、こちらに向かっているのが見えた。

 彼女らは、ハリを探すために街の入り口まで戻ってもらっていたのだが、どうやら戻ってきたのが二人だけなのを見るに、あまりいい結果ではなかったみたいだ。

 

「どうだった?」

 

 念のため、私はそう聞いた。

 

「ダメだった、入り口にもいない。どこ行ったんだろ……」

 

 案の定、返ってきた言葉は予想を裏切らないものだった。

 想定通りの答えにも関わらず、私はそれを聞いて、余計宙ぶらりんになったような、言いようのない不安に駆られる。

 チクショウ、ハリ。あの野郎、私を心配させる趣味でもあんのか?

 

「……そんなに心配か? あの男が」

 

「当たり前だろ」

 

 リネンの問いに、私はただそれだけ答えた。

 が、それが何か気に障ったのか、奴はふん、と鼻息を吐いて、口を開いた。

 

「いくら男とはいえ、あいつだって赤ん坊じゃないんだ。少なくともチョコベーグルを買って、つまみ食いしないで真っ直ぐ家に帰るくらいの能はある。違うか?」

 

「あぁその通りだろうさ、帰る途中に『懐を膨らませたやつ』に会わなきゃな」

 

「……イト、お前が思うほど、黒髪黒瞳は守られてばっかりのやつじゃない。男にしちゃ、なかなか肝が据わってる方だ」

 

 リネンはそう言って、どこか呆れたような、嘲笑うようなそんな顔をして、再び鼻息を短く鳴らす。

 何故かはわからないが、奴の言葉がいつも以上に癪に障った気がした。

 そのせいか、思わずムキになって、口を開いてしまう。

 

「んなこた、お前に言われるまでもなく知ってんだよ。確かにアイツには硬えダイヤのハートが宿ってるさ。でもな、それで済む話じゃねえ。護身がなきゃ、結局は話になんねえ」

 

「……もっともらしいこと言ってるが、要はお前、アイツを信じられないだけなんじゃないのか?」

 

「なん……!?」

 

 どこか嘲笑するようなリネンの言葉を聞いて、私は何故か言葉が詰まってしまう。

 『そんなことない、私はハリを信じてる』。それは紛れもない本心のはずで、たったそれを言えばいいはずだ。

 なのに、たったそれだけのはずなのに、私はその言葉を、口に出来なかった。

 

「そんな、こと……」

 

「……まあ、別に何でもいいけどな」

 

 リネンはにべもなく言いながら、話は終わったとばかりに、私を横切る形で歩き始める。

 私は何故か固まってしまって、横切る奴を目で追うことも出来なかった。

 

「どこ行くのさ?」

 

 ラミーの問いに、リネンは短く答えた。

 

「もう一度通りを一周してくる。案外、入れ違いで入り口に行ってるかもしれん」

 

 リネンはそう言ったが、ラミーはそれに返事をせず、少し考えるそぶりをした。

 

「……なんだよ、文句あるのか?」

 

 リネンはそれを訝しんだのか、少し不機嫌になってそう聞く。

 ラミーは、少しもったい付けたように口を開いた。

 

「うーん……もっとさぁ、別のアプローチを試してみてもいいんじゃない?」

 

「別のアプローチ?」

 

 リネンが小首を傾げながら言うと、ラミーはからかうようなにやけ面で、目の前にある建物を指さした。

 

「お前……」

 

 意図を察したのだろう、リネンはラミーを見て、実に呆れたような顔をしながらそう言った。

 大変に不本意なことだが、私も同じ気持ちだった。

 

「……マジ?」

 

 ルーラに関しては、妙にテンションが上がっていたが。

 

「街のことは街のやつに、男のことは男に。でしょ」

 

 ……いやになるほどアホらしい理屈だ。アホらしい理屈だが、現状このまま何の手掛かりもなく、街をさまよい続けるよりは、まあマシな案だろう。

 リネンも私と同じような、辟易とした表情だった。

 私たちは二人同時に、ため息を吐いて、『プレイ・ボーイ』と書かれた看板を携える、その厚化粧な建物に入ることを決意した。

 

 

 

 ――『プレイ・ボーイ』は、一言で言うとデカい『ホスト・ストリップクラブ』だった。

 店に入ってすぐに見た限りでは、薄暗い中に、派手なネオンが輝いている、過剰な広さとゴージャスさを持った広間の中で、大勢の男たちが目まぐるしく動いていた。上半身が裸で、下にジーンズだけを履いたコールボーイたちがポールダンスをしたり、客の女たちに接待をしているのだ。

 それは初めて見るような光景で、酷く非現実的だった。

 

「すっご……」

 

 ルーラがそんな声を出した。見ると、声に出さない――いや、出せないのか?―ーものの、リネンも同じような、絶句と言った表情をしていた。

 無理もないだろう。私達みたいなストリート・チルドレンは、生まれてこの方映画館だってロクに入れることもないんだ。

 『実はここにあるものは全部夢で、本当のあなたは川を飛んでる蝶なんですよ』なんて戯言すら信じてしまいそうな、そんな、夢のような場所だ。

 

「いらっしゃいませ、4名様ですか?」

 

 すると、不意にそんな声が聞こえた。声のした方を見ると、どうやら従業員らしいコールボーイが、私のそばに立っていた。

 

「ご予約はされておりますか?」

 

「え、あ、いや、悪い。客じゃないんだ、人を探してて――」

 

「ちょっとくらい良いだろう、減るもんじゃなし!」

 

 突然、そんな声が店の奥から聞こえてきた。

 聞き覚えのある、けれどあんまり聞きたくない声だった。

 よせばいいのに、私はその声がした方向を見てしまった。

 

 そこには、へべれけになったベルが、数人の男を侍らせている姿があった。

 

「なあ、いいだろう? 私はそのジッパーの先の地平線に興味が尽きないんだ」

 

「えぇ、見せてもいいけどさぁ、お姉さん。だったら僕、もうちょっと高いお酒飲みたいなぁ」

 

「なんだい我がままだなあ! いいともいいとも! 金はたくさんあるんだ! ありったけのシャンパン持ってきたまえ!」

 

 コール・ボーイの猫なで声に言われるがまま、ベルはウェイターに陽気な声で高い酒を注文していた。

 『こうはなりたくないな』と思えるような大人の姿を、私たちはまざまざと見せつけられた。

 

「……ねえ、イト」

 

「黙ってくれルーラ、何も言うな」

 

 私は頭を抱えて、どうしたらいいものかと考える。

 ……うん、よし、他人のふりをしよう。ハリは別の店で探すとして、私たちはこの店で何も見なかったことにしよう。

 それでこの世は天下泰平、みんなハッピー、よし。

 

「あれぇ? そこにいるのはイトたちではないかね? おぉい!」

 

 やっぱりアイツは一回張り倒した方が良いな。

 そんな考えも虚しく、ベルはこちらに向けて、実に陽気に手をブンブンと振っていた。やめろ恥ずかしい。

 

「お、お連れ様でしたか、失礼いたしました。それでは、お楽しみください」

 

 さっきまで応対していたコール・ボーイは苦笑いをして、私たちをベルがいる席へと促した。

 渋々その席に近づく――ラミーとルーラは結構乗り気だったことをここに記しておく―ーと、顔を真っ赤にしたベルが、アルコールの匂いを充満させて、私に隣に座るよう指で指示した。

 確かにここで立ちっぱなしというのも何なので、私たちはそれぞれ適当な場所に座った。

 

「いやあ、何だい、イト! いつも仏頂面してる割に、やっぱり興味津々じゃないか!」

 

「うるせえ黙れ殺すぞ」

 

 ウザイ。普段ですらウザいのに、今のベルはそれに加えて、酔っ払い特有のウザさも併せ持ってもはや最強だ。

 我の道を阻むもの無しといった感じで、できればそのまま独走して遠くまで行って帰ってこないでほしい。割と本気でそう思った。

 

「まあまあイト、いーじゃん。せっかくだしご相伴にあずかろうよぉ」

 

 ケラケラと言ったように、ラミーは笑いながらそう言った。

 ちなみにラミー以外の二人は借りてきた猫のように大人しくなっており、小さくなって俯いていた。いきなり大勢の男に囲まれたものだから、どうしていいかわからないのだ。

 まあ、それは私も似たようなものだけど。

 

「おや? そう言えばハリくんはどこだい?」

 

「迷子だよ、ベル。この店に来てなかったか?」

 

「いやぁ、見てないな。見たらすぐ気づくだろうし」

 

「その有様でよく言うぜ」

 

 ウォッカと消毒液の区別すらつかなそうなほど泥酔しているというのに、その根拠のない自信は何なのだろうか?

 とはいえ、言ってることは恐らく本当だろう。なんだかんだベルは勘が良いほうだ。いくら金髪碧眼に変装しているとは言え、ハリを見たらすぐ気づくはずだろう。

 ということは、ここにはいないということだ。無駄骨だったらしい。

 

「わかった、じゃあ私は別の店を探してくる。飲み過ぎんなよ――」

 

 そう言って席を立とうとすると、ベルに手を掴まれた。

 

「なんだよ、気色悪い」

 

「まあ待ちたまえ、せっかくなんだ、コール・ボーイたちにいろいろ聞いてみなさい。手がかりくらいは聞けるかもしれん」

 

「それにだ」ベルは不敵な笑みを浮かべて、続けた。

 

「面白いショーをこれからやるらしい。ちょっとくらい観ていってもいいんじゃないか?」

 

「ショー?」

 

「世界が誇る美貌、金髪碧眼の美男子『ニードル・ノット』のストリップ・ダンスさ」

 

「へえ」

 

 正直、興味がない……わけでもないが、そんなものにかまけている暇もない。

 こうしている間にも、ハリがどこぞをほっつき歩いてるんだ。もし私たちがいない状態で、アイツが黒髪黒瞳なんて知れたら、えらいことになる。

 いくらアイツが今、金髪碧眼に変装してるからって……。

 

 

 

 ……金髪、碧眼?

 

 

 

「……なあ、ベル」

 

「なんだい、イト?」

 

「さっき言ってた『ニードル・ノット』の口上、もう一回言ってくれないか?」

 

「聞き逃したのかい? いいかい、世界が誇る美貌――」

 

 私とは打って変わって、ベルの言葉を一言一句聞き逃さないように耳を傾ける。

 聞こえてきた言葉は、思っていた通りのものだった。

 

 

「『金髪碧眼』の美男子、さ。それがどうかしたのかい?」

 

 

「…………いいや、別に」

 

 ひどく嫌な予感がした。認めたくないが、往々にしてそういうものは当たるもんだ。

 これはあくまで『予感』だし、ともすれば外れてる確率の方が高いレベルのものだ。

 けれど、私は不安をぬぐえなかった。だってそうだろう。あいつは『そんな話あるか』を地で行く男なのだから。

 今の私の頭には、たった一つ、この言葉。

 

 

 お前はどれだけ面倒ごとに巻き込まれりゃ気が済むんだ、ハリ。

 

 



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35.SaturdayNight

 俺の人生は、基本的に『順風満帆』なんて言葉とは無縁のものだ。

 金はない、仕事もない、家族には腫れもの扱い等々……。

 それに加え、ここ最近は異世界転移で死にかけてばっかりだったわけで、そろそろ身に起きた危険を書き綴れば、本が1冊できるんじゃないかという気にもなってくる。

 そして、非常に不本意極まりないのが、今夜また、その本に1ページ追加されるかもしれないということだ。

 

「よく逃げ出さなかったもんだな、え? ニードル・ノット?」

 

 俺を『ニードル・ノット』なる人物と勘違いしているらしい、目の前にいる、何やら高そうな3点スーツを着たオッサンが、俺にそう言ってきた。

 ここはホストクラブの楽屋か何かだろうか? 化粧品が乱雑に散らかっていて、それを使っているのであろう派手な格好の男衆が、こぞって俺を見て……というより、睨み付けていた。

 そしてダメ押しとばかりに、スーツ姿の中年くらいの男――おそらくここの店主か何かか――が俺を今にも殺しに来そうな目をして、俺を見下ろしている。

 ……まあ、もう少し今の状況をわかりやすく、端的に説明しよう。

 

 俺は椅子に括り付けられて、目の前の男にナイフを突きつけられちゃっているわけだ。とっても怖い。

 

 ……俺はあと何回、面倒ごとに巻き込まれればいいんだろうか? そんなことを考えて、俺は思わず、ため息を吐いてしまった。

 

「……ずいぶんと余裕だな? 目の前のことに集中できないタチか?」

 

 どうやらそれがお気に召さなかったようで、オッサンは持っているナイフを、俺の首に押し込んできた。

 余裕なんてもちろん、あるはずもない。これ以上刺激するのは得策ではないだろう。俺はどうにか言葉を選んで、この状況を抜けるためのコミュニケーションを試みることにした。

 

「いや、その……何度も言うようですけど、俺はその『ニードル・ノット』じゃない、勘違いだ。別人だよ」

 

「お喋りが好きみたいだな、おい」

 

 あぁ、なるほど、だめそうだ。流石に今の言い方は自分で言っててどうかと思ったものな。全く聞く耳を持ってくれない。

 

「事務所の金を盗んだ時点で馬鹿だとはわかっていたが、そんな言い訳が通用すると信じているのか。もはや哀れに思えてきたよ」

 

「待ってくれ、そんな――」

 

「黙れ」

 

 男はさらに、俺の首に刃を押し込んだ。少し切れたのだろう。首元に熱い感覚が走る。

 

「……ッ」

 

「金髪碧眼の顔だけ野郎。そんな奴がこんな狭い街に何人もいると思ってんのか?」

 

 ……今の話を総括すると、どうやら、『ニードル・ノット』なる人物は俺と容姿が似ていて、そんでもって金を盗んでトンズラこいたらしい。おかげで俺は今こうやって、人の顔もロクに覚えられない間抜けなオッサンに捕まって、窮地に立たされているというわけだ。

 全く持って、冗談じゃない。

 

「今ここで、お前を半殺しにして、取った金の場所を吐かせてやってもいい」

 

 ナイフの刃が更に立てられる。首の鋭い痛みが、更に強くなっていった。

 このまま、彼がナイフを数センチ横にスライドさせれば、俺の喉はパックリと裂かれるだろう。

 迫りくる『死』が、明確なリアルとして俺の前に立ちはだかる。

 緊張と恐怖で声も出せないまま、俺は目の前の男の、その無機質な眼を見ることしかできなかった。

 死は、目の前に。

 

「……だが、今じゃない」

 

 そう言うと、男はナイフの刃を俺の首から離した。

 

「ッ……ハア、ハア」

 

「今夜は大事なショーがある。話はその後だ」

 

 男はそう言って踵を返して、楽屋の出口へと歩いていく。

 

「おい、このバカにメイクをしておいてやれ」

 

 周りの若い男たちにそれだけ指示を出して、えらそうな革靴の音を響かせながら、楽屋を出て行った。やはり逃げることも、弁明も、どちらも叶わないらしい。

 ……ああ、神様。

 一体俺が、何をしたというんだ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「ねえ、お姉さんはどっから来たの?」

 

 私の隣に座った男が、マルチーズみたいな人懐っこさを見せながら、そう聞いて来た。

 

「……スティル・ヨーク」

 

「へえ、凄いじゃない! じゃあ、都会の人だね」

 

「……別に」

 

「いいなあ、やっぱり都会には、お姉さんみたいに綺麗な人、たくさんいるんだね!」

 

「……ハハハ」

 

 ……きつい。男と話すのが、実にきつい。

 まずどう接すればいいのかわからない。男とこんなふうに話したことなんか全然ないし、何を話したいかもパッと思い浮かばない。むしろ、下手なことを言って引かれたらどうしようとか、マイナスなことばかり考えて、結果コンピュータみたいに聞かれたことにただ答えることしかできなくなってしまっている。

 耐え切れなくなって、思わずルーラたちの方を見た。

 

「いや、マジで可愛いよその服、ルーラちゃんセンスあるねぇ」

 

「えー本当? ありがとー!」

 

「ねえラミーさん、今晩マジで買ってくれません? サービスしますから!」

 

「えぇ、どうしよっかなぁ?」

 

 どうやら私以外はしっかり男とお喋りができているようだ。ラミーやベルはもとより、ルーラもさっきまで油がさされてないみたいにガチガチだったくせに、もう普通に話してやがる。

 

「……」

 

 ……私以外は、というのは少々語弊があった。よく見ると、リネンは私と同じように、仏頂面でジンジャーエールをチビチビと飲んでいた。

 普段の不遜さはどこへやら。今のアイツは借りてきた猫より大人しい。

 

「やあやあ、イト。楽しんでいるかね?」

 

 そんなふうにしていると、ベルが私にそう言ってきた。随分酔っぱらっているらしい。彼女の目の前に、シャンパンの空瓶が2、3本あるのが見えた。

 

「へえ、これが楽しそうに見えるか? 一回眼科か精神科に行った方がいいぜ」

 

「憎まれ口にいつものキレがないねぇ、まさか君がここまで初心だったとは」

 

 マジで一回シメてやろうか。ケラケラと笑う彼女を見て、私はそんなことを考えていた。

 

「……と、そろそろのようだぞ」

 

 すると、ベルは店の奥にある、装飾がたくさんついたステージ――これがまた白々しい派手さだ――を見ながら、呟いた。

 次の瞬間、店中が暗くなった。停電というわけではなく、演出だということがわかるような照明の消え方だった。

 

「な、なになに?」

 

「お! 始まる始まる!」

 

 驚いたルーラをしり目に、ラミーが待ってましたと言わんばかりに、ステージの方に顔を向けた。ちなみにリネンは我関せずとばかりにジンジャーエールを飲み続けていた。

 

「フフン、イト、これなら少しは楽しめるんじゃないか?」

 

 落ちた照明、店の静かさと、それに相反するような客のざわめき、テンションの高いラミーとベル。

 全員の目線は、いつの間にやら、スポットライトがあてられたステージへ。

 

 『ニードル・ノット』のショーが、これから始まろうとしていた。

 

 壇上に、マイクを持った司会らしき男が一人、スポットライトの中に入って行った。

 彼はマイクを顔に持ってきて、こう言った。

 

「淑女の皆さま。今夜は、この素晴らしいショーをどうぞお楽しみください」

 

 拍手の音が、店中に響き渡った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「さあ、今夜の夜を彩るのは、その悩ましい身体で全てを魅了するこの男――」

 

 垂れ幕の向こう、ステージの裏側で、俺は司会の慣れたような口上を聞いていた。

 これから、ショーが始まるのだという。

 本来は『ニードル・ノット』とかいう金を持ち逃げした男が行うはずだった、大人気らしいストリップ・ショー。

 何の因果か、俺はそれをやらなくちゃいけないのだ。見てくれが似ているらしいからという、最近じゃハリウッドだって買わないような間抜け極まる理由で。

 何度だっていうよ神様。俺が何したって言うんだ。

 

「怖いのか、今更?」

 

 すぐ近くから、そんな声が聞こえた。俺の衣装の最終調整をしている、コールボーイのものだ。

 

「下手なことは考えない方がいいぜ?」

 

「下手なことって?」

 

 緊張しているのか、もはや捨て鉢になってしまったのか、俺は思わず、そんなことを聞いてみた。

 

「ショーの最中に逃げ出す、とかさ。できっこないんだから」

 

「試した奴がいるのか?」

 

「何人もな」

 

 事も無げに、そのコールボーイは言った。そこにはどこか、諦観の念が込められている気がした。

 

「……みんな、訳ありでここに来るような奴ばっかりさ。金がない奴、親に売られた奴――」

 

「店の金をかっぱらったやつ?」

 

「ハハハ、そうそう」

 

 彼は乾いた笑いをしながら、俺の靴の位置を弄っていた。

 

「お前も、バカなことをしたもんだな。よりにもよって、うちの店から金を盗むなんてな」

 

「だから、人違いだっつの」

 

「どうにしろ、うちの支配人に目を付けられたら、おしまいさ」

 

 支配人……さっき俺にナイフを突き立ててくれた、3点スーツのオッサンのことだろう。

 

「そんなにヤバい奴なのか? あのオッサン」

 

「ああ、なんせ、ここらで一番デカいマフィアがバックにいるらしいからな、誰も逆らえねえよ」

 

「そりゃあ、おっかない」

 

 マフィアがバックか……マズいのに因縁付けられたかもしれない。これ以上モンタナ・ファミリーにもエレーミアにも、迷惑かけられないというのに。

 

「おっと、そろそろだぞ」

 

 コールボーイのその言葉通り、いつの間にか司会の口上は終わっていて、その穴を埋めるように、ブラスバンドが陽気な音楽を演奏していた。

 それはつまり、『ニードル・ノット』の出番が近づいていることを示していた。

 

「しっかりな、金のある女に買ってもらえれば、支配人も少し融通利かせてくれるかもだし」

 

 衣装の気付けをしてくれたコールボーイは、俺にそう激励してくれた。

 買ってもらう、か……。

 アピールして、媚びて、腰を振って、誰かに買ってもらう。

 

「ここにきても、やることは変わんねえんだな……」

 

 俺は思わず、そんなことを呟いた。

 

「何か言ったか?」

 

「別に、じゃあ、行ってくるよ」

 

「ああ」

 

 そのやり取りを最後に、コールボーイは楽屋へと戻って行った。

 直後、ステージの垂れ幕が上がって、まばゆい光が、ステージに入り始める。

 

「……やることは、変わらない、か」

 

 どこに行っても、たとえ異世界にまで行ったって、何か突然できるようにはなったりしない。

 夢も希望もない話だが、世の中には、噛まれるだけでスーパーヒーローになれるクモなんていないし、ある日突然超能力に目覚めたりもしない。

 なんとかかんとか、ただでさえ少ない手札で、必死にやりくりするしかないのだ。

 

「……やれることは、やんなきゃだよなぁ」

 

 溜息を吐きながら、そう呟く。ひょっとしたら、ここで目立てばイトたちが見つけてくれるかもしれない。そんな願望にも近い、藁の中の針を見つけるみたいな可能性に縋って踊ることしか、今の俺にはできないのだ。

 

 

 拍手喝采の音が聞こえる。それがBGM。

 

 黒いスリムなスーツを着て、俺は観客の前に立った。

 

 



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36.Lust

「……おい、なんなんだあのバカは、ふざけてんのか?」

 

 リネンはステージの方を見るなり、口に含んだジンジャーエールを吹きだして、そう言った。

 

「それだったら私も怒りようがあるんだけどな……」

 

 その言葉に、私はそう答えるしかなかった。

 だってそうだろう? 何故かステージの上に、ハリが立ってるんだから。それも、いやにめかし込んだ、女受けがよろしいような、スリムな黒スーツなんて格好で。

 人違い? 顔は金髪碧眼に変装してるとは言え、アイツの顔を見間違えるはずもない。

 全くもって、こんな状況、ふざけてる以外になんだと言うんだ。私だってそう思う。

 

「……え、ハリく……え!?」

 

「……なんでぇ?」

 

 いくら何でもこの事態は予測してなかったのだろう。ルーラはもちろん、さっきまでコールボーイ共と愉快に話していたラミーでさえ、ステージで司会者に紹介されているハリを見て、困惑の色を強くしていた。

 私が比較的冷静にいられるのは、きっとハリのことをよく知っているから。……いや、うすうす気づいていたからだ。

 あいつの、どうしようもないほどの巻き込まれ体質を。

 

「おやおやおやおや……なあ彼、あんなに目立ちたがりだったかい? 確かにショー受けは大変良さそうだがね」

 

 こんな中でもベルはまだ呑気に酔っぱらっているようで、空のシャンパングラスを片手に、私に聞いて来た。

 

「大外れだよこのクソバカ。どうせまた、なんかの因縁付けられたに決まってる」

 

「まあ、それもそうか」

 

 しかし、ほんの数十分離れただけでこうなるとは、ハリはトラブルを呼び寄せるフェロモンでもあるのか?

 今度からは、絶対はぐれないように、手を繋ぎでもした方が良いだろう。そう考えた。

 …………できれば、の話ではあるが。

 

「どうしたね、顔が少し赤いぞ?」

 

「な、なんでもねえよ! うるせえ!」

 

「まあ落ち着きたまえよ……それにしても、あれがハリくんとなると、これは本格的に頑張らねばなるまい」

 

 ベルはそう言いながら、シャンパングラスをテーブルに置く。その顔はいつものにやけ面ではあったが、なぜか、いつもよりも真剣さが増している印象だった。

 

「え、ど、どういうこと?」

 

「あれぇ? ルーラちゃんたち、知らないで今日は来たの?」

 

 ルーラの問いに、隣に座っていたコールボーイが得意げな顔でそう言った。

 

「な、何が……?」

 

 顔をずいと近づけられたからか、ルーラは僅かに、困ったように眉をひそませながら、しかしコールボーイにそう聞き返す。

 

「今回の目玉さ。ニードル・ノットのダンスショー」

 

「それは聞いたよ、そうじゃなく……」

 

「まあ最後まで聞いてよ。問題はショーの後」

 

 コールボーイのその言葉に、ルーラは――ついでに聞いていたリネンとラミーも――みんな一様に首を傾げた。それをひとしきり確認して、彼は続けた。

 

「ワンナイト・オークションがある。ダンスショーの後にね」

 

「なに、それ?」

 

「一番高い額を払った淑女が、彼と一晩をともにできるってこと」

 

「……は?」

 

 

「「はぁ!?」」

 

 

 ルーラの声で、私とリネンの声で掻き消された。

 一晩をともに? それってつまり……あれか? その……。

 

「つまりセッ――」

 

「わざわざ言い換えるな!」

 

 ラミーが意気揚々と口に出しかけた言葉を、リネンが無理矢理制止した。でも確かに、ラミーの言おうとしたことは、きっと間違えてるものでもないだろう。

 

「な? 『頑張らなきゃ』だろう?」

 

 ベルはそう言って、私を見る。ようやく、コイツが何を言いたいのかがわかった。

 溜息が出るくらい間抜けな話だ。だが、ハリがああなっている以上、私たちは間抜けな話に、乗らなくちゃいけないわけだ。

 

「……お前たちさ、手持ちは?」

 

 私はルーラたちの方を向いて、こめかみを抑えながら、そう聞いた。

 アイツはもう、今後一切目を離さないようにしよう。そう心に誓いながら。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 銀幕の先にあったものは、大量の舐めまわすような視線と、『脱げ』だの『ヤらせろ』だの直球なヤジだった。ここがセレブの住む街だっていうのを忘れてしまいそうだ。

 はっきり言って、今すぐにでも逃げ出したい。そもそもこんなことをする義理もないのだし、あの奥に見える扉を開ければ、全部なかったことになって、イトたちと合流してハッピーエンド。

 そんなことは当然できないから、俺は今ここにいるわけだ。

 

「いッ……!」

 

 先程切られた首元の傷が、またヒリヒリと痛みだす。

 今逃げ出すことはできない。このクラブの支配人らしい、三点スーツのオッサンが目を光らせているからだ。

 出口は当然、果ては排気口やらなんやら、外に繋がる穴全部に人を配置させ、更にあのオッサン自身が、店の片隅で俺に目を見張らせているときたものだ。

 あのオッサン、人の顔もわからないくらい間抜けなくせに、手は抜かない性分らしい。

 結局、俺に今できることは、このステージで踊るしかないということだ。

 

「さて、それでは皆様、お待たせいたしました」

 

 俺の横で長々とニードル・ノットのことを紹介していた司会者が、ついにそんなことを言ってきた。

 つまり、いい加減始まるということだ。

 

「ニードル・ノットのダンスナイト、スタートです!」

 

 そういって司会がステージから降りる。

 その瞬間、ステージの照明が派手に光り出し、重低音を利かせた、アラビア音階のいかにもな音楽が流れ始めた。

 

 腹をくくるしかないだろう。

 

 俺は流れる音楽に合わせて、身体を動かした。

 観客は、どこか面白半分な、からかうような視線で、俺の踊りを見ている。

 

 わかっている。俺の踊りは、稚拙とすら言えない代物だ。

 即興で完璧なダンスができるんなら、俺は人生に絶望しないで、ムーランルージュを夢見るティーンエイジャーにでも成れてたろうさ。

 彼女らも、決してダンスなんか見たいわけじゃない。もしそんなものを本気で見たい奴がいるなら、そいつはこんな場所よりもカーネギーホールみたいな場所に行けば済む。

 

 彼女らの視線は、もっとわかりやすいものを求めている。

 それを感じたから、俺はネクタイを緩めて、ワイシャツを少しだけ乱雑に開けた。

 

 生唾を飲み込む音が、どこかから聞こえた気がした。

 

 それは暗に『もっと脱げ』という意思表示だ。

 こういう場所に来る人達は、少なくともバレエの審査員みたいに踊りのクオリティなんか見ちゃいない。

 求めるものはよりシンプルだ。

 どれだけエロいか。単純だけど、重要なことだ。

 望んだわけではないが、それに関しては、日本にいたときの経験で心得ていた。

 

 音楽がより盛り上がる、いわゆるサビと呼ばれる部分に入った。

 俺は見せびらかすように、ジャケットを脱いで、スラックスのベルトを外した。

 

「ワオッ」「ヒューッ!」

 

 瞬間、ある種掛け声のようなものが、そこかしこから聞こえた。こうして聞く限り、今のところは好印象のようだ。

 心の中だけで、安堵の息を漏らす。ここで変なへまをすれば、あのオッサンに今度こそ首を掻っ捌かれかねない。何とかこのまま、無事に終わればいいが。

 

「……」

 

(……ン?)

 

 ふと、踊っている最中に、バーカウンターの隅の席に座っている客と目が合った。暗くてよくはわからないが、柔和な雰囲気の、妙齢の女性だ。長い髪をしているように見える。

 誰だ? 他の客と何だか雰囲気が違う。妙に気になった。が、それを考えている余裕は無い。兎にも角にも、今はこのステージを終わらせなければ。

 

 

 

 

「……ふふ」

 

 

 

 

 そんな声が聞こえた。瞬間、謎の悪寒が走った。

 なぜだろうか、こんなにうるさい場所なのに、こんなに大音量で音楽とヤジが鳴り響いてるのに。あんなに遠いのに。

 

 

 そのこぼれるような小さな笑い声が、はっきりと俺の耳に届いた。

 



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37.Auction

 ハリが踊っている様を見るのは、一言で言ってしまうと、実に苛立たしかった。

 アイツに対してのものではない。むしろ逆だ。

 舐めまわすような視線でアイツの露出した肌をガン見するやつ、下品なヤジを飛ばすやつ、もう金を出してアイツを『買う』準備をせかせかとしてるやつ。

 人のことをどうこう言える身上でもないが、それでもやはりハリに手を伸ばそうとするすべてが、実に面白くなかった。

 

「わ、わあ……すっご……」

 

「あはぁ、やっぱいイイなあ、あの子」

 

 ルーラとラミーは私と少し違うようで、周りと同じようにハリの一挙一動を熱心に観察していた。ルーラは少し照れくさそうに、ラミーは慣れたような舌なめずりをして。

 苛立たしいと私は言ったものの、眉目秀麗な男がストリップをしているのだから、本来はこれが多数派の反応なのだろう。だからと言って、そんなもの溜飲が下がる理由にもならないが。

 

「…………」

 

「……瞳孔開いてんぞ、リネン」

 

「えッ!? あ、そ、そんなことない!」

 

 リネンにいたっては、生唾を飲み込みながら、どこか息を荒くして、ハリを見ていた。私が指摘した途端、さも気にしてないかのようにそっぽを向いて、ジンジャーエールをごくごくと飲み始めたが、まだチラチラとハリを目で追っているのがバレバレだった。酷いモンだ、初めてエロ本を見た中学生の方がまだ余裕がある。

 ……とはいえ、私もその気持ちが全く分からないと言えば、嘘になる。

 ハリは、黒髪黒瞳ということを抜きにしても、かなり見てくれが良い。外見だけなら、この金持ちの街ウィンストン・ヒルズの、この高級店のコールボーイの連中と比べたって、まず間違いなくトップに食い込めるレベルだろう。

 そんな奴が、演目の上でとは言え、服を脱いで手招きしている。

 それを目の当たりにして、『汝、姦淫するなかれ』なんて言って、十字を切れる奴が一体どれだけいるって言うんだ?

 

 それができないから、みんなこんな場所にいる。くだらないことだ。

 人のことなんぞ、言えるほどの徳などないが。

 

 そんなことを考えていると、かかっていた音楽が、大げさなブラスバンドを最後に、止まった。

 

「……さあさ、そろそろお楽しみだぞ」

 

 ベルがいつものニヒルな調子で、そんなことを呟いた。それに呼応するように、ステージに再び、さっきの司会者が出てきた。

 

「さあ、今宵のダンスショーお楽しみいただけたでしょうか? まだご満足いただけない? ご安心を」

 

 どっかのバラエティ番組のまねごとみたいに、司会者は芝居がかった口調で、言葉を続ける。

 

「なんと今宵は特別! 今踊ってくれたこの男、ニードル・ノットとのワンナイト・ラヴの権利を、お一人様限定、オークション形式にて、贈呈いたします!」

 

 その言葉を皮切りに、店中が歓声で溢れかえる。そう、つまりこれから始まるのだ。勝手にハリを賭けた、クソみたいなオークションが。

 ようく見ると、司会者の話を聞いたハリが、驚いたような表情をしていた。恐らく今この瞬間まで、オークション云々の話は聞かされていなかったのだろう。酷い話だ。

 

「イト」

 

 そんなことを考えていると、ルーラが私に話しかけてきた。

 

「終わったのか?」

 

「うん」

 

 そう言って、彼女は私の前に、そこそこの量の札束と、少量の小銭を出した。

 ルーラには先程、全員の手持ち金の話をした時に、金を集めて集計してもらうよう言っておいた。こう見えてルーラは、金勘定やものの読み書きが――私たちみたいなストリート・チルドレンの中では――かなり得意な方だ。実際のところ私も、何度か教えてもらったことがある。こういう時の彼女は、実に頼りになる。

 

「いくらだった?」

 

 私がそう聞くと、ルーラは得意げな顔をした。

 

「5250ラル。ベルのも合わせると1万以上になるよ」

 

 1万以上……風俗で、男娼と情事を行うための相場はわからないが、おおよそ200から300ラル程度と聞いたことがある。そう考えると、この金額は、恐らく十分ハリを買える金額だろう。

 まだ安心はできないが、これなら万が一のことがない限り、ハリが誰かの手に渡ることも無いだろう。

 

「ところでだがね、イト、彼が買えたら、私が抱いてもいいのかい?」

 

 いきなりベルがそんなことを言いだした。はったおそうと思いながらそっちの方を向くと、彼女の頬に水がなみなみ入ったデカいポットが押し付けられているのが見えた。押し付けているその主を見ると、リネンだった。

 

「……なんだね、一体?」

 

「チェイサーが来たぞ、博士。一回これで酔いを醒ませ」

 

 何ともむすっとした表情で、リネンはベルにポットを押し付ける。傾けてるのは不慮か故意か、ともかくそのせいでベチャベチャとベルの頭に水がこぼれていってる。

 

「わかった! わかったから一旦それを降ろせ! 冷たい!」

 

 それはそれは実に愉快極まる光景ではあったが、残念ながら今の私には、水を被ったベルを嗤う余裕はない。私は気を取り直して、ステージの方を見た。

 

「さて、それでは今から、オークションを開始します! では100ラルから――」

 

 司会者が言い切る前に、その言葉が他の観衆の声に飲み込まれた。最低価格がわかった瞬間、皆一斉に値段を叫び出したのだ。

 

「200!」「350よ!」「1000だ!1000出す!」

 

 とはいえ、聞こえてくる値段の中に、予想を超えて高いものは存在しなかった。今聞いた限りの値段だったら、十分に勝てる。

 

「イト、最初はどうする?」

 

 ルーラの問いに、私は。

 

「1万ラル。マックスだ」

 

 そう言った。するとルーラは、驚いたような顔をした。

 

「だ、大丈夫なの? まずは出方を伺った方が――」

 

「いや、最初からどでかい金額にした方が、周りへの牽制にもなっていい。速攻で勝負に出る」

 

 そうだ、四の五の言ってる暇はない。もしもたもたしているうちに決まっちまったら、ハリが知らない女に抱かれることになる。

 それはダメだ、それだけは絶対にダメだ。

 

「さあ1000が出ました! 他にはいないですか? 他は?」

 

 1000ラルで一回値段の提示が止まったからか、司会者が他に1000ラル以上の額を出すやつがいないか確認する。

 まずい、とっとと言わねえと。私はそう思って、思い切り声を張り上げた。

 

「おい待て! 1万ラル――」

 

 

 

「10万」

 

 

 

 突然、そんな声が聞こえた。

 アレだけの騒ぎの中で、声を張っているふうでもないのに。

 その声は、酷くはっきりと、聞こえた。

 

 私は思わず、その声がした方向に顔を向けた。よく見ると、周りも同じように、私と同じ方向を見ていた。いつの間にか、先程の喧騒が嘘のように、しんと静まり返っている。

 視線の先に、一人の女がいた。長い、月光のような銀色の髪をしていた。

 そんな中の静寂が数秒。

 女はふっと、口を開いた。

 

「……もしもし、6ケタ以上の数字わかります?」

 

 呆然とする司会者にむけて、彼女は静かに、しかしよく通るその声で、そう言った。

 

「え? あ、ああ……じ、10万ですね。他にはどなたかいらっしゃいますか?」

 

 我に返った司会者が、思い出したかのように、そんな決まり口上を口にする。

 

 なんなんだ、あの女?

 10万だと? ふざけるな、高級車が買える金額だぞ。

 何なんだよ、あの女、一体誰なんだよ!

 

 そんな脳内で繰り広げられる問いに、答えるものなどもちろんいない。

 何も言えない。なにもいい考えが浮かばない。

 結局、誰も何も、一言も発しないまま。

 

 ハリの落札は、この女で決まってしまった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ……どうしてこういうことになったと、思わざるを得なかった。

 オークションだと? 買った奴が俺と寝るだと?

 支配人の男、あの間抜けなクソ野郎め。仕事の内容もまともに伝えられねえのか?

 

 ……などという通り一遍の愚痴を心の中で呟いたところで、俺はようやく、自分の置かれた現状を把握する程度の落ち着きを取り戻せた。

 

「さ、この部屋でしょうか? こちらへ」

 

 そうしていると、目の前を歩いている、俺を買ったらしい女がそう言ってきた。

 俺はこの女に買われた後、すぐにこの場所に連れてかれた。ホストクラブの上の階、エレベータを使わないとしんどいくらいの階数にあるそこは、なかなかに設備の良いホテルだった。

 廊下の淡いピンク色の壁には、柔らかな明るさの間接照明がつけられており、下品にならない程度にセクシーな雰囲気を演出している。

 やはり富裕層の街なだけあって、清潔で、しかも豪華だ。そこらの安モーテルとはやはり違う。

 

「どうしました? ご気分がすぐれませんか?」

 

 どうやらぼうっとしてしまっていたらしい、俺を買った女が、どこかあくまでも柔和な表情をして、俺の顔を覗き込んできた。

 一瞬、今なら逃げれるんじゃないか、逃げようかとも考えたが、やめた。ここで逃げれるなら、とっくの昔に出来ている。あのオッサンが、ここで警備を甘くすることなどないだろう。

 

「あ、ああ、いや……大丈夫です。すみません」

 

 とりあえずそれだけ言うと、彼女はただ黙って、目の前の扉を開けた。しかし、彼女は部屋に入らず、身体を少しだけドアに寄せて、再びこちらを見た。先に入れ、ということらしい。

 

「……お邪魔します」

 

 それに逆らう道理もひとまずはないので、俺はひとまず部屋に入った。

 部屋はそれなりに広かった。廊下と同じ淡いピンクの壁に、洒落たカーペット。廊下と違うのは、材質を見るに、防音性が高いものだろうということ、そして、キングサイズのベッドがあるってことだ。

 

「ふう、慣れませんね、ああいう場所は」

 

 女はそう言って、いつの間にかベッドに腰かけていた。

 その声を聞いて、やはりと思った。吐息のような小さな声量なのに、いやにはっきりと聞き取れる、その声。

 さっき踊っていた時、目が合った女だ。

 

「……そんなに怖がらないでください、黒髪黒瞳くん。別にとって食べたりはしません」

 

 彼女はそう言って、そのアメジストのような瞳を、俺に向けた。

 

「ッ……!」

 

 全身に悪寒が走った。さっきも感じた、真綿で首を絞められるような、あの嫌な感じ。

 その理由が今、はっきりわかった気がした。

 何故だ? 一体、なんで?

 

 

 俺が、『黒髪黒瞳』だと知っている?

 

 

「……アンタ、誰だ?」

 

「……かわいそうに、そんなに怯えないでください」

 

 女は俺をただ見据えて言った、それは実に平坦な口調だった。

 そして、立てた人差し指を口に当てて、『静かに』のポーズをしながら、呟くように、こう続けた。

 

「ミス・ロザリアには、黙っておきますので」

 



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38.Lady

「……ロジーの追っ手か、アンタ?」

 

 オレンジ色の照明に仄暗く照らされた、小奇麗なホテルの部屋で。

 俺がそう言っても、フワフワとした大きなベッドに腰かけたその女性は、ただ微笑むだけだった。

 こちらの質問に答える気は無いということだろうか。まあ、当然だろう。盗人が『盗人か?』と問われてハイと答える道理など、まずないのだから。

 

「……俺を、攫いに来たのか?」

 

 不毛とわかっていながら、俺は再びそんな質問をした。無駄なことは承知の上で、しかし探れることは探りたいと思ったのだ。

 

「いいえ」

 

 けれど今の質問は、どうやら意外なことに、功を成したようだった。その月光のような銀色の髪を弄りながら、女性は明確な否定をした。

 彼女はこう言った、『ミス・ロザリアには黙っておく』と。

どういうことだ? 彼女は、あの『赤毛のロジー』とは関係がないっていうことか?

 だけど目的が俺の奪取ではないとしたら、俺に接触した狙いはなんだ?

 そう考えていると、彼女は少し笑いながら、口を開いた。

 

「これはこれは……ご安心を。貴方はご自分で思っているほど、皆から求められておりませんから」

 

 口調はあくまで柔和で、平和的だ。だがなぜだろう、言葉尻ひとつに、どうにも棘があるように感じた。

 それはきっと、敵意に近い何かだ。

 わからない……わからないが、彼女からは何か、恐ろしさを感じる。

 得体の知れない、ドロッとした悪意のような……。

 

「……人がなぜ争うのか、貴方はご存知ですか?」

 

 唐突に、脈絡なく、彼女はそんなことを聞いて来た。

 

「宗教勧誘なら間に合ってる」

 

 俺は自分の焦りと怯えが悟られないように、そんな冗談じみたことを言ってみた。

 

「パンフレットでもあげましょうか?」

 

 それを全部見透かすように、彼女はそんな風に言った。

 溜息を一回。

 それだけして、彼女は続ける。

 

「その程度のもので理解ってもらえるのなら、きっと世界はもっと平和で、素晴らしいものになっているのでしょうね」

 

「……何が言いたいんだ?」

 

「先程の続きですよ、どうして人は争うのか、憎み合い、殺し合うのか」

 

 そう言う彼女の顔は、先程から何も変わらない、柔和な微笑みのままだ。

 ああ、まただ。また感じた、何か言いようのない、粘り気のあるような恐ろしさを、彼女から。

 彼女のその瞳は、答えろと、言外に強く俺に言ってきていた。

 

「さぁな、そういう性ってだけじゃないのか?」

 

「残念ながら、全くもって違います」

 

 俺がその場で言った答えに、彼女は強く否定した。

 彼女は淡々と、その先を続けた。

 

「それは、信じる神が違うからです」

 

「……なんだって?」

 

「神はひとつだけでよい、ということですよ」

 

 とは言われても、どうにも言っていることの意図が読めず、俺は眉をひそませる。それを見て、理解できていないことが伝わったのだろう。彼女は小さく咳ばらいをし、説明を始めた。

 

「……人と人が争う理由の一番は、主張の相違です」

 

「……」

 

「ではなぜ、主張に相違ができるのでしょう?」

 

 彼女はそう言って、人差し指を静かに立てた。

 

「それは、信じる神がそれぞれ違うから」

 

 彼女は先程とは打って変わって、つらつらと諭す様に言葉を並べ立てる。昔嫌いだった養護教諭の婆さんを思い出した。だからだろうか、妙に癇に障る物言いに感じた。

 そんな俺の心情など知ったことではないだろう、彼女は続ける。

 

「信じるものがそれぞれ違うから、人々は分裂し、憎み、争うのです。歴史が何度も証明しているでしょう?」

 

「……それを言うなら、土地と飯が欲しくてやる奴らだって多いんじゃ?」

 

「それこそ、神が違うからこそ起こることです。皆、信じるものが一緒ならば、土地も食料も分け合い、共存できるはずです。違いますか?」

 

「なあ、結局何が言いたいんだ、アンタ?」

 

 彼女の説教じみたその問答に、俺はただそう答えた。何というか、彼女の言葉をこれ以上聞いていたくなかった。

 

「アンタ、俺を攫うつもりはないって言ってたよな。じゃあ本当の狙いはなんだ? まさか、俺に説法を解くために、10万ラル払ったわけでもないだろう?」

 

 そうだ、言いながら思い出したが、彼女は俺を10万ラルで買ったのだ。

 1ラルは、日本で言うと100円くらいの価値がある。つまり10万ラルは、単純に計算すると、1千万円ほどになる。

 そう、1千万だ。たった一晩に、1千万。

 残念ながら、『赤毛のロジー』の名前を出され、1千万で買われ、なお何もされないだろうと高を括れるほど、俺の脳ミソは愉快にできていなかった。

 

「……もう一度聞くよ」

 

 俺は彼女を目をしっかりと見ながら、言葉を続けた。

 

 

「アンタは、どこの、誰なんだ?」

 

 

 俺はゆっくりと、ひとつひとつの言葉をはっきりとさせて、そう聞いた。

 彼女は答えない。またさっきのように、微笑むばかりだ。

 少しだけ、静寂が流れる。

 数秒。

 

「ふぅ……」

 

 彼女はため息をついた。どこか疲れたような、呆れたような、そんなニュアンスを含んだため息を。

 

「……黒髪黒瞳というのは、とても綺麗ですよね」

 

 ゆっくりと、彼女はそう言った。その目は、俺ではなく、どこか遠くを見ているような気がした。

 何の話をしているんだ? そう思っている間も、彼女は言葉を続ける。

 

「濡れガラスのような漆黒の髪に、宇宙を想わせる暗黒の瞳、それはまさに、神と呼ばれるにふさわしい」

 

 そう言うと、彼女は音を一切立てず、ベッドから立った。俺を、見つめながら。

 彼女の顔は、微笑んだままだった。べったりと、張り付けられたみたいに、そのままだった。

 

「そう、それは神になるものだけに与えられる、絶対の(しるし)、唯一無二のものでなければならないのです」

 

 ぞくりと、悪寒が走った。前にも感じた、恐ろしい感覚。

 なんだ、一体? さっきから支離滅裂なことばかり、なんなんだ、コレは……。

 

「……言ったでしょう? 神はひとつだけでよい」

 

 彼女はそう言って、俺を、指さして。

 

 

 

 

「貴方は、いらない」

 

 

 

 

 瞬間。

 

 強い、衝撃。

 

 それが、後頭部を襲った。

 

「ッ……!?」

 

 衝撃に耐えきれず、俺はその場に倒れた。

 何だ、何をされた? 誰だ!?

 

「ぐ……クソ……!」

 

 意識がもうろうとする。視界がぶれる。

 クソ、マズイ。

 

「悪いな、ニードル・ノット」

 

 聞き覚えのある声が、揺らぐ視界の中で聞こえた。

 この声、忘れもしない。

 けど、なんで、ここに?

 

「お手数かけしました、支配人さん」

 

 彼女が、突然現れた支配人のオッサンに、そう言っているのが見えた。

 ダメだ、状況の理解が追い付かない。

 なんであのオッサンがここにいる?

 何故俺は今殴られた?

 何だ? 何が起こってる?

 

「……それでは、後は頼みますね」

 

「ええ、もちろん、後処理まで、全てこちらにお任せください、マダム」

 

 彼女はオッサンとそんなやり取りをした後、出口の方へ向かっていった。

 ……こんなにご丁寧に状況が揃っているんだ、もう否が応でもわかる。

 クソッタレ、何のことはない、嵌められたのだ。

 

「さようなら、偽物さん」

 

 彼女はドアの前で振りむいて、倒れてる俺を見下ろした。

 酷く、冷たい目だった。

 

 

 

「神は、『彼』だけでいい」

 

 

 

 そう言って彼女は、部屋をあとにした。残ったのは、俺と、俺を殴った支配人のオッサンだけ。

 

「……さて」

 

 オッサンはそれだけ言うと、俺の上に馬乗りになった。そして、俺の首に手をかける。

 ここまでされて、今から何をされるか、察さざるを得なかった。

 ああ、ダメだ、死ぬ。このままじゃ、絶対マズイ。

 

「ッ……やめ……!」

 

「ほう、まだ喋れるだけの元気があるのか」

 

 彼はそう言うと、思い切り、拳を振り上げた。

 

「黙れ」

 

 その言葉と共に、思い切り顔面を殴られた。

 

「うグッ……!」

 

「できればもう少し稼がせてからでも良かったが……もうそれもどうでもいいか」

 

「……どうして、こんな――」

 

「黙れと言った」

 

 再度、顔面に拳を入れられる。

 さらに一発。

 もう一発。

 また一発。

 

「ッ……!」

 

「まったくぼろいな。こんなゴミ一人殺せば、俺もセレブの仲間入りってわけだ」

 

 薄れゆく意識の中で、オッサンがそんなことを、嬉しそうに言っているのが聞こえた。

 

(ああ、そういうことか……)

 

 ここで一つ、さっきまでの疑問のひとつが、解消できた。

 あの女性の目的。10万ラルで俺を買った目的。

 俺を攫うことじゃない。

 

 

 俺を、殺すことだったんだ。

 

 

 ……けれど、なんでだ?

 俺を殺すってところまではいい。けれど、それで誰が、どんな得をするって言うんだ?

 

(……ああ、クソッタレ)

 

 もう、それを考える時間も残されてない。今度こそ、万事休すというやつだ。

 

「……さあ、後がつっかえているんだ、もう終わらせよう」

 

 オッサンはそう言って、もはや言葉を発する気力もない俺の、その首を、強く掴んだ。

 

「アッ…………」

 

「じゃあな、ニードル・ノット。死体は養豚場にでも捨ててやる。いいだろう?」

 

 首を絞める力が強くなる。視界が段々、暗くなっていく。

 ああ、チクショウ……もう、ダメなのか? ここまでなのか?

 

 ……イト。

 ごめんな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「楽しそうなことしてんな」

 

 

 

 

 

 

 

 そんな声が、入り口から聞こえた。

 

「ッ!?」

 

 瞬間、オッサンの首を絞める力が、少し緩んだ。見ると、彼は自身の後ろ、出口の方に顔を向けていた。

 その場所を、俺も見た。

 

 

 

「私たちも混ぜてくれよ? な?」

 

 

 

 イトたちが、そこに立っていた。

 全員が、酷く殺気立った状態で。

 



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39.Torture

幕間がコメディと言いましたが、嘘です。申し訳ありません。


 蛇に睨まれた蛙という、実によく使われる慣用句がある。とは言っても、それが散見されるものの大半は、マンガや小説などのフィクションだ。現実でそんなふうに生命の危険を感じるほどの誰かに見られることなど、大抵の人は経験をしていないと思う。

 ……しかしながら、今の『彼』の状況を表す言葉として、これ以上適切なものもないだろう。

 

「……どうした? 何で手を止める?」

 

 殺意。それがありありと伝わる声だ。

 イトの言葉はこれ以上ないほどドスが込められており、静かに、しかしはっきりと部屋中に響いた。

 

「な……なんだお前ら!? どこから……」

 

 実に震えたその声で、つい先程まで俺を殴っていた、支配人のオッサン支配人はそう言った。

 

「イト……」

 

 俺はかすれた声で呼んだ。

 イトはゆっくりと、俺に視線を移した。

 彼女は俺を見て、僅かに目を細めて、口を開いた。

 

「……離れるなって、言ったはずだぜ」

 

「あぁ……悪いな、いっつも」

 

「まったくだ。いい加減、手綱でもつけた方が良いかもなって思い始めてるところだよ」

 

「それは……勘弁してくれないか? 犬みたいだ」

 

「犬の方がまだ安心できるかもな」

 

 何事もなかったかのように、そんなふうにイトと喋る。

 口調でわかる。ありゃ相当怒っている。相当心配をかけてしまったらしい。

 

「お、おい、無視すんじゃねえ!」

 

 会話を遮る形で、オッサンが叫ぶ。声量は上がったが、声自体はやはり震えている。

 それもそうだろう、カタギじゃない人間が5人もいて、その全員が殺気立った目で見てくるのだ。恐くない方が稀というものだ。

 

「お、お前ら……何のつもりか知らないが、俺に手を出したらどうなるかわかってるんだろうな! うちのケツモチが誰か、知らないわけじゃないだろう!?」

 

 オッサンのその言葉で、そういえば、彼には強力なマフィアのバックがいるという話を思い出した。

 ああ、なるほど、オッサンがまだ強く出ていられるのは、そういうことか。

 

「……ふん」

 

 すると、先程まで静観していたリネンが、おもむろにこちらに近づき始めた。

 

「な、なんだ……」

 

 オッサンの言葉を無視して、リネンは歩を進める。

 何を思ったのか、俺を一瞥した後、素通りして、部屋の奥にあるテーブルの前で、足を止めた。

 彼女はテーブルにあるいくつかの食器をマジマジと見ている。

 

「……いいグラスだな」

 

 そう言って、彼女は目の前にあった、ワイン用のグラスを手に取り、意味ありげにそれを見つめ始めた。

 

「ワインの味はグラスによって、美味くもマズくもなる。ロクでもないグラスに淹れると、香りが閉じ込められ、そのポテンシャルを発揮できなくなってしまう。それを考えると、これは実に美味いグラスだ、そうだろ?」

 

「ワイン飲んだことないじゃん、アンタ」

 

「黙ってろ」

 

 ラミーのツッコミを流したところで、リネンはどこかで聞き齧ったらしいウンチクを止め、咳払いをひとつ。そして彼女は、そのワイングラスをもって、今度こそ俺たちの方に近づいた。

 彼女の足元が俺の顔に触れそうになったところで、彼女は足を止め、俺に馬乗りになっているオッサンを見た。

 

「おい、中年男。これはいいグラスだ、だろ?」

 

「……なんなんだ、お前たちは」

 

 オッサンは、リネンのその全く状況に合っていない質問に対して、そう聞き返した。

 

「なんのつもりだ、一体誰だ! 私が誰なのか知っているのか!」

 

「……なあ聞いてるんだが、これは『いいグラス』か?」

 

「知るかぁ! これ以上ここにいるつもりなら、私のバックが黙っていな――」

 

 

 ガシャンッ。

 

 

 そんな、大きな音がした。

 水飛沫のようなものが、俺の顔にかかった。

 よく見ると、水じゃない。

 血だ。

 それに混じって、ガラスの破片。

 

「ッ!? ガッ、あ……!?」

 

 起こったことはシンプルで、しかし俺にとってはいささかびっくりするようなことだ。

 

「やはりいいグラスだな、割れる音もいい」

 

 リネンが殴ったのだ。

 手に持っていたワイングラスで、オッサンの顔を思いっきり。

 

「ギャアァ…アガッ……!」

 

 オッサンがガラスと血まみれになった顔を抑えて、バタバタともだえる。その拍子に俺の拘束が解けて、ようやく立てるようになった。

 

「ハリくん、大丈夫!?」

 

 すると、ルーラが駆けつけてきて、俺を起こしてくれた。

 

「あ、ああ、大丈夫だ、悪い」

 

「そう思うんなら、もうちょっと危機感持ってよ!」

 

 珍しく、ルーラは俺に向かって、そんなふうに怒っていた。反論の余地もない。

 

「……おい、口きけなくしてどうすんだよ」

 

 イトのその言葉に、リネンが無表情でこう返した。

 

「なにを聞こうって言うんだ? 殺され方?」

 

「んなもの選ばせるかよ」

 

 そう言いながら、イトは痛みでもだえているオッサンに近づいた。

 オッサンは彼女に気づくと、慄きながら、少しだけ後ずさった。

 

「オイ、あの銀髪の女、誰だ?」

 

「ぐ……ひ、ひぃ……!」

 

「知らないのか?」

 

「し、知らない、客のことなんかいちいち覚えているわけないじゃないか……」

 

「……そうか、ならしょうがない」

 

 イトはそう言うと、ゆっくりとオッサンの頬を撫でた。

 

「……?」

 

 オッサンはその行動が不可解なようで、怯えながらも、怪訝な顔をする。

 

 

「なら思い出させてやる」

 

 

 直後、イトはオッサンの顔についたガラスを、思いっきり深く刺しこんだ。

 

「ッーーーー!?」

 

 声にならない悲鳴が、部屋中に響き渡る。思わず目を覆いたくなるような、実に痛々しい光景だった。

 

「で?」

 

「し、知らない! 本当だ! 俺は頼まれただけでーー」

 

「あっそう」

 

 ザクリ。

 そんな音が聞こえた気がした。

 今度は更に大きなガラス片が、オッサンの顔にまた刺された。

 比例するように、より大きな悲鳴が、また響く。

 

「……な、なあイト」

 

 言えた身分でもないが、このままでは本当に殺してしまいそうな勢いだった。

 流石にまずいんじゃないか、そんな思考がよぎって、俺は思わずイトを呼んだ。

 すると彼女はピタリと手を止めた。目端で捉えられる程度に、俺の方を向く。

 

「……なんだよ、ハリ? まさかお前、さっきまで自分を殴り殺そうとした奴を、『可哀想だ』なんて思い始めたわけじゃないよな? 悲鳴を上げてるのを見て、赦すつもりになったわけじゃないよな?」

 

 有無を言わせない、絶対零度のその声。それに押し黙らせられそうになるのをなんとか耐えて、俺は口を開いた。

 

「そうじゃない……けど、そいつの言ってた『バック』が気になる。そいつを殺したら、でかい組織を敵に回すことにーー」

 

「関係ない」

 

「え?」

 

 俺がそんな声を上げると、彼女はオッサンに向き直り、その胸ぐらを乱暴に掴んだ。

 

「殺そうとした、汚ねえ手でアザができるまでお前をブン殴った。便器を舐めるよりも屈辱的に殺してやる」

 

 チグハグで、しかしそれだけに寒気がするような迫力があった。イトは思っている以上に怒っている。それこそ冷静じゃいられないくらいに。

 

「……止めちゃダメだよ、ハリくん」

 

 不意に、横にいるルーラが俺にそう言ってきた。その顔はいつもと違い、酷く冷めたように無表情で、実に荒んだ目で、イトの拷問を受けているオッサンを見ていた。

 彼女は言葉を続けた。

 

「これが最適解だよ、ぬるい報復で済ますと舐められる。舐められると、もっと惨い、酷い目に遭わされる」

 

 とうとうと、言い聞かせるような声色で。けれどその顔は、思い出したくないものを思い出したような、そんな苦い表情だ。

 

「誰かに殴られたら、二度とそんな気が起きないくらい殴り返さなきゃ、安心して寝られもしない。君が思ってる以上に、平和には暴力が必要なんだよ」

 

「ま、イトの受け売りだけどね」ルーラはそう付け加えて、寂しそうに笑ってみせた。

 ……改めて、彼女らの世界がどれだけ過酷かを認識させられた。

 夜中に安眠など望むべくもなく、一寸先の闇に触れればたちまち呑み込まれ、惨死体となって、誰に見向きもされない。

 彼女らは、そんな世界で生きているのだ。

 俺と言う、足手まといを守りながら。

 

(……俺は、本当にここにいていいのか?)

 

 考えてみれば、俺がいるせいでイトたちは死に目にあってばかりじゃないか。

 彼女らの助けになれたことが何かあったか? 何か俺ができたことがひとつでもあるか?

 ない。俺は、彼女らにとって、足枷でしかない。

 俺は……。

 

「……死ぬぞ、貴様ら全員。こんなことして、俺たちのボスが黙っていると思うか!?」

 

 オッサンがそう叫ぶのを聞いて、俺の意識は現実に引き戻された。

 そうだ、どうあれまたデカイ組織に目をつけられることは確実だ。まずこれについて考えなきゃ。

 

「まぁ、実際また面倒な敵が増えるのは間違いないよねぇ、どうする?」

 

 ラミーが退屈そうに、誰に言うでもなくのたまう。

 

「……いや、ひとまずその心配はいいんじゃないかな?」

 

 それに答えたのは、先ほどまで静観していたベルさんだった。

 

「どういうこと?」

 

「それはまあ……いや」

 

 ルーラが聞いてもまともに答えず、ベルさんは何故か、出口のドアの方を見た。

 ……なんだ? 足音?

 こっちに近づいてきて……。

 

「本人に聞きたまえ」

 

 ベルさんの言葉と同時に、ドアは開かれた。

 そこに見えたのはよく知ってる、『獣耳』がついた、『片腕が無い』小柄な少女……。

 

「……え、エレーミア?」

 

 何故か全くもって不可解なことに、エレーミアがそこに立っていた。

 俺だけじゃなく、ルーラにリネン、ラミーも、その姿を見てポカンとしていた。

 

「やあ、すまないね」

 

 唯一、ベルさんだけがすまし顔で、エレーミアにそんなことを言っていた。

 エレーミアはジロリと彼女を見て、一言。

 

「ずいぶん豪遊してるみたいね。面倒おこしていいなんて、言った覚えないのだけれど」

 

「落ち度は向こうさ。聞いてみたまえ」

 

 ベルさんはそう言って、オッサンとイトがいる方を指さした。

 

「……はあ」

 

 そんな溜息をして、エレーミアはそちらに近づく。

 しっかり顔を認識できる距離まで来て、彼女は止まった。

 

「……ボス」

 

 オッサンが、『エレーミアを見て』、確かにそう言った。

 

 

「ビッチ野郎」

 

 

 一瞬聞き間違いかと思ったが、しかしはっきり、彼女はオッサンを、そう呼んだ。

 




感想をくださる方、いつもありがとうございます。
大変励みになっております。


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40.Crappyday

今回で番外編は終了です。
予定外に長くなってしまいました。
次回から本編に戻ります。


「……飼い犬に小便をかけられた気分よ、酷いものね」

 

 苦虫を噛み潰したような顔で、エレーミアはそんなことを、目の前にいるオッサンに言い放った。

 

「え、な……へぇ?」

 

 それを言われたオッサンはといえば、言われたことに理解が追いついていないのか、素っ頓狂な声をあげていた。さっきの威勢は何処へやら、だ。

 

「え、ちょっと待って、ここって『モンタナ』の傘下だったの!?」

 

 全くもって俺も同じことを考えている。

 ルーラが驚きながら言ったその言葉は、ここにいる大半の人間の心情を代弁したものと言っていいだろう。

 

「末端の方だけどね。担当の集金係が死んじゃったから、引き継ぎに時間がかかってたんだけど……」

 

 言って、エレーミアはオッサンに視線を戻す。端から見えたその顔は、呆れ返って物も言えないと言った様子だ。

 

「イト、その男を放してあげて。そんなのでも、ここの大事な支配人さんなの」

 

「こんなのが? ハッ……もう少しマシなのはいなかったのかよ?」

 

「……いたら、私だってこんなところに出張ってないわよ」

 

「……」

 

 イトはエレーミアとそんな問答をして、今まで掴んでいたオッサンの胸ぐらを離した。

 するとオッサンは、弱々しく這いずりながら、エレーミアに近づいた。

 

「ボ、ボス……」

 

「……酷い様ね、グレゴリー」

 

 あのオッサン、グレゴリーって名前なのか、初めて知った。

 

「ボス、あの男です。あのニードル・ノットが、店の金を盗んで、しかもあろうことか、女を連れてきて俺にこんな仕打ちを……どうか、どうか報復を……」

 

 その妙にミュージカルのような口ぶりで、オッサンは自分に起こったことがいかに不当で不幸かということを、エレーミアに熱弁した。

 ……そうだ、そういえばあのオッサン、まだ俺がニードル・ノットだと思っているんだった。

 どうにかエレーミアにそのことを弁明をした方がいいのかなと考えていると、彼女は静かに口を開いた。

 

「……私ね、どうしても許せないものがあるの」

 

 彼女はオッサンを見ながら、実に柔かい声色で話し始める。

 なぜだろうか、その優しい雰囲気の中に、威圧感を感じる気がした。

 

「ひとつは、道端でゲロを吐かれること。あれは本当に最悪な気分になるわ、今日がいくらいい日だったとしても、寝る前にそれを見ちゃたらもうおしまいよ」

 

 彼女はそう言いながら、自分の懐に手を入れる。

 

 

 

「もっと許せないのは、嘘をつかれること」

 

 

 

 そう言って、彼女は拳銃を出した。

 それを見て、オッサンは酷く困惑した顔をする。

 

「ッ……!?」

 

「嘘は良くないわね、グレゴリー。全く以て良くないことよ」

 

 エレーミアはそう言いながら、オッサンの眉間に、銃口を向けた。

 嘘? 勘違いならわかるが、嘘とはどういうことだ? 

 

「あなた最近、ずいぶん羽振りがいいみたいじゃない? 恋人にあげたエメラルドのネックレスは、気に入ってもらえたのかしら?」

 

 エレーミアがそう言った瞬間、オッサンはみるみるうちに血の気が引いていってるのが見て取れた。

 『何故そのことを?』そう顔が言っているようだった。

 エレーミアもそれに気づいたのか、言葉を続ける。

 

「……ここ最近、妙にこのお店の上納金が少なくなってる気がしてね、気になって、ここで働いてる人の支出を調べさせたのよ」

 

 オッサンから脂汗がダラダラと出てくる。『メン・イン・ブラック』の最初の映画で、あんな感じの宇宙人がいた気がする。

 そんな今にも黒服に連行されそうなオッサンを、エレーミアは事実確認でもするように、冷ややかな目でじっと見ていた。

 

「実に不思議なことなんだけどね、グレゴリー。上納金が少ない月の、その翌月に必ずと言っていいほど、貴方は大変な大盤振る舞いをしていることがわかったのよ」

 

「い、いや、それは……」

 

「更に更に不可解なことに、つい最近ようやく、お店の帳簿を見させてもらったけど、上納金が少ない時の売上は、むしろ上がっていた」

 

「ッ……」

 

「……数か月前にその理由を、使者を通して聞いたはずよ? 盗られたなら盗られたで、何故その時報告しなかったの?」

 

 エレーミアがそうやって話しているのを聞いて、ようやく彼女の言いたいことが何なのかわかってきた。

 つまるところ、彼は店の売り上げをピンハネしていたということだろう。

 それがバレそうになったから、俺……もとい、たまたまイベントに招待されたニードル・ノットを適当に強盗にでっち上げて、とりあえずは難を逃れようとした、と言ったところだろうか。

 ……なんというか、まあ。

 

「救えねぇ~……」

 

 ラミーがそんな無気力な声で、しかし俺の気持ちを代弁してくれた。確かにまあ、俺が言えた話でもないが、そんな俺から見ても、少々短絡的に思える。

 恐らくだが、オッサンのその考えを、俺を買ったあの女性は知らないのだろう。そう考えるのが妥当だ。どこの誰が1千万円相当の金を払って、このオッサンの罪を清算しようとするだろうか?

 

「ボ、ボス! 本当なんです! アイツに金の居所さえ吐かせれば、全部解決します! お願いです、まだ俺にチャンスを!」

 

「……なあ、金の居所ってどう言い繕うつもりなんだろう?」

 

 未だに何とかこの場を逃れようとするオッサンを見て、俺は思わず、ベルさんにそう耳打ちした。

 

「そこはほれ、さっきの女の10万ラルがあるだろう? 入金されるまでの時間を稼ごうという腹積もりじゃないか? 先方が本当に払うつもりがあればの話だが……」

 

「ああ、なるほど……」

 

 言われて、確かにそれなら無理矢理ではあるが筋は通る。この土壇場で、よくそんな頭が回るものだと感心した。彼もまた、この夜の街を長いこと生き抜いてきただけはある、ということなのだろう。

 

「……まだ私の話を理解してないみたいね、グレゴリー」

 

 しかし、そんなオッサンの努力も虚しく、エレーミアは無表情で撃鉄を降ろした。

 

「ッ!?」

 

「私はね、言ったはずよ、『嘘をつかれる』ことが何よりも許せないって」

 

「ほ、本当です! ボス! なぜ信じてくれないんですか! 今この男がこの場にいるのが、何よりの証拠でしょう!? なぜですッ!」

 

 もはや体裁も何もない。オッサンは死に物狂いで命乞いをしていて、なんとかして、エレーミアの矛先を俺に向けようと必死だった。

 

「……はぁ」

 

 そんな彼を見て、エレーミアは深くため息をした。

 少しだけ、気まずい沈黙。

 するとエレーミアは、振り返って、俺の方を見た。

 

「ハリ、ウィッグとカラコン、外しなさい」

 

「え……いや、でも……」

 

「いいんじゃねえか、このままじゃ埒が明かねえ」

 

 エレーミアの提案に、イトも乗っかってきた。

 確かにこのままじゃ、夜が明けてしまっても終わらないかもしれない。

 

「……わかった」

 

 俺はそう言って、ブロンドのウィッグと、ブルーのカラコンを外した。

 

「なっ!?」

 

「彼? ああ、彼はね、ウチのお気に入りなの」

 

 黒髪黒瞳となった俺の姿を見て、オッサンは絶句した。

 わけがわからないと言った具合に、口をパクパクさせて、俺とエレーミアを交互に見ている。少し面白いな、なんて思ってしまった。

 

「え……じゃあ、ニードル・ノットは……?」

 

 オッサンは弱々しく、エレーミアにそう聞いた。

 彼女は、きょう何回目かわからない溜息を吐いて、口を開いた。

 

「……ニードル・ノットの噂は私も気になっててね、チラシに書いてた、彼の事務所に連絡を取ってみたの」

 

「そしたらね」エレーミアは鼻で笑って、続けた。

 

 

「その電話番号を繋いでみたら、スティル・ヨークの『老人センター』に繋がったわ」

 

 

「「……はぁ?」」

 

 俺とオッサンの声が、不覚にも重なってしまった。

 どういうことだ? そう考えていると、エレーミアは少しだけニヤリと笑いながら、種明かしを続ける。

 

「いないのよ、『ニードル・ノット』なんて人間は。グレゴリー、貴方がチラシを見てイベントに呼んだその人物は存在しない。依頼料だけふんだくって雲隠れする、初歩的な詐欺だったわけね」

 

 ……なんと、そう、言えばいいのか。

 

「…………」

 

 オッサンもそんな感じ……いや、俺とは比較にならないくらいショックらしく、開いた口が塞がらないような状態だった。

 まあ、無理もないだろう。ニードル・ノットが存在しないってことは、つまり。

 

「で? もう一度聞くけれど、誰になんのお金を盗まれたんだっけ?」

 

 ……まあ、つまり、そう言うことになってしまう、ということだ。

 

「さて、上納金をピンハネした挙句、その言い訳づくりのためにウチのお気に入りの顔に傷をつけたわけだけど……どういう落とし前を付けるべきかしら、イト?」

 

 もはや魂の抜けたようなオッサンをしり目に、エレーミアはイトにそんなことを聞いた。

 

「刻んで豚の餌にしろよ。豚にファックさせてから殺してもいいぜ?」

 

「ルーラは?」

 

「普通に殴り殺せばいいんじゃない?」

 

「リネン」

 

「焼いてのたうち回ってる様を全員で鑑賞しよう」

 

「ラミー」

 

「ナニを切って食べさせてみるとか?」

 

「ベル」

 

「精巣を切除させてくれ、麻酔無しで」

 

 五者五葉。実におっそろしいことを楽しそうに提案する。こういう場面を見ると、なるほど彼女らもこの裏社会で生きてきただけあると感じた。全く持って容赦がない。恐い。

 

「ハリ、貴方は?」

 

「いや俺は……その……」

 

「……おい黒髪黒瞳、まさかビビッてるんじゃないだろうな?」

 

 俺の言葉に、リネンが実に不満げにそう漏らした。

 実際彼女の言うとおりだったから、俺はそれに答えられず、沈黙せざるを得なかった。

 復讐だ何だというのは、はたから観る分には気持ちがいい。何より、さっきルーラが言った通り、今後の抑止力になるという、とても実利的な側面もある。

 今起きてるこれがフィクションだとしたら、このおっさんが半殺しにされたら胸がすくだろうし、俺と全く同じ言動をするキャラクターがいたとしたら、俺はそいつを、『なんて偽善者ぶった胸糞悪い、情けない奴なんだ』と思うだろう。

 だが、今こうして自分がその立場になるとわかる。無抵抗の他人の頭に、バットをフルスイングできるやつなどそうはいない。

 いつか何かで読んだそんなセリフを、痛いほど実感した気がする。認めたくはない。だがどうやら俺は偽善者ぶった胸糞悪い、情けない奴だったらしい。

 リネンはそんな黙っている俺に、しびれを切らしたらしかった。

 

「いい加減にしろ、自分を殺そうとした相手だぞ! そもそもお前、私たちと一緒にいるくせに、まだ自分だけキレイでいようって――」

 

「リネン」

 

 言葉を遮って、イトは冷たい声をだした。

 

「やめろ。それ以上は、何も言うな」

 

 だが、なぜだろうか、つづけた言葉はほんのわずかだが、どこかか細く、震えているように聞こえた。

 

「……まあ待ちたまえよリネン」

 

「あ? なんだよ、どいつもこいつも」

 

 イトの言葉に続くように、今度はベルさんがリネンに話しかける。

 

「ハリくんの気持ちもわからないでもない。彼は私たちと違って、暴力が遠い世界で生きてきたのだ。そんな子にいきなりスプラッタなリアリティショーを観させるのは、いささか大人げないとも思わないかい?」

 

「個人的にはそれも美味しいと思うがね」あっけからんとしながらベルはそう言って、リネンをたしなめた。

 『私たちと違う』。何の気なしにベルは言ったが、改めて、その事実が重くのしかかった気がした。

 

「……フン、もういいよ、軟弱野郎め」

 

 リネンはそう言って、俺から目を離し、部屋のソファに乱雑に座った。

 

「うーん、じゃあこうしましょう」

 

 先ほどのベルの言葉を聞いたエレーミアは何か思いついたようで、手をポンと叩いて、続けた。

 

 

「彼が慣れるためにちょっとずつ残酷性を上げながら、最後はイトたちが言ったことを全部やる。ということで」

 

 ……余計トラウマになりそうだな。

 

「起きなさい、グレゴリー」

 

 エレーミアはそう言って、放心状態だった彼の頭をペしぺしとはたいた。

 

「は!? い、一体……?」

 

「グレゴリー」

 

「え? ボ、ボス……?」

 

 

 

「今夜は楽しみましょうか」

 

 

 

 その時のエレーミアの顔を、その後のオッサンの悲鳴を、攻めに転じたイトたちの恐ろしさを、俺は多分忘れることはできないだろう。

 エレーミアが『レザボア・ハウンド』なんてゴツイ名前で呼ばれる理由が、今日何となくわかった気がした。

 

 ある程度ことが終わった後、俺はふと、イトのほうを見た。視線が合った。

 

「……そう怯えるなよ」

 

 どこかさみしそうに、彼女はそう言った。

 




幕間


―終―


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第3章:羊たちの籠
41.Martyr


光の剣振り下ろす時
我が手は審判を得る
我が敵に復讐を誓い
これを倒すであろう
主よ、我を聖人の一人にお加え下さい


―『処刑人』より―


「ねえ、せんせい」

 

 ある日、昼下がり。今日もこの幼稚園は、いつも通りだ。

 私がいつも通り遊んでいる園児たちを見守りながら、いつも通り園長に提出する日報を書いていると、男の子が一人、私に向かって話しかけてきた。この施設で預かっている、児童の一人だ。

 

「どうしたの?」

 

「えっとね、今日、ジェニファに言われたんだ」

 

 ジェニファというのは、彼と同じく、この施設で預かっている女の子だ。その子とこの男の子……マシューは、しょっちゅう言い争いをしては、大抵マシューが言い負かされて、私に泣きついてくるのだ。これもいつも通り。

 

「なんて言われたの?」

 

「……男の人は、昔ワルいことをしたから少なくなったんだって。だからボクも、絶対ワルい人になるからって、たたかれた」

 

 ……この話題は、いつも通りではなかった。

 思っていたよりは重い喧嘩の内容に、私は頭を抱えつつ、しゃがんで、彼の眼を真っ直ぐ見た。

 

「どうしてそんな話になったの?」

 

「ここにはたくさん男の子いるのに、どうして外には女の人ばっかりなんだろうって言った。そしたら、昔たくさんワルいことしたから罰が当たってるんだって」

 

「……あのね、マシュー」

 

 眼に涙をためているマシューを何とか宥めるよう努めた。この子は泣きだすと長いのだ。

 

「そんなこと、あるはずないわ。男の人が少ないのは、悪いことをしたからではないの」

 

「じゃあ、なんで?」

 

「昔々に、とっても大きな戦いがあってね。男の人達はみんな戦いに行って、頑張って戦ってたの」

 

「じゃあ今も戦ってるの?」

 

 数百年前の戦争従事者をまだ生きていると思うあたり、やはりまだかわいげのある子どもだなと思う。

 

「いいえ、今は天国で平和に暮らしてるわ。頑張った御褒美としてね」

 

「……男の人が少ないのは、女の人の方が偉いからじゃないの?」

 

「もちろんよ。どちらかが偉いなんてことは絶対にないわ。だって、どちらも必要だから、神は両方ともお創りになられたのよ」

 

 はっきり言って、この世界は歪んでいる。

 この世界は、数百年前の戦争で男性が死に過ぎて以降、男女比は極端に偏った。

 そのせいで――ジェニファとマシューの一件もそうだけど――数がごくわずかの男性は、人権という当然の権利が剥奪され、完全にモノ扱いされている。そして、皆それが当たり前だと、疑問にすら思わないよう教育を受けている。

 その方が政府が管理するのに都合がいいから、ということらしいが、なんと狂気じみた残酷で、恐ろしい話だろうか。国ですら、そんな有様だ。

 この施設は、そんな世界に異を唱えるべく、男性の人権取得を訴える団体が創った、特殊な養護施設だ。

 せめてこの施設の中では、男の子も女の子も、等しく『人間』として扱われて、そして男女は平等だとする教育をする。

 今の世相とはあまりにかけ離れているからか、この施設の思想には批判の声も多い。中にはカルト宗教だと言ってくる連中もいる。

 けれど私は思うのだ、神様が創ったのだから、それに格差などなく、等しく皆尊くあるべきだと。

 それを信じてるから、私は今こうして、この施設で働いているのだから。

 

「大丈夫、貴方は悪いことなんて、これっぽっちもないの。堂々と、この世界に居ればいい」

 

「……うん」

 

 まだよくわからない、という様ではあるけど、何とか元気は戻ってくれたようだ。

 この世界は歪んでいる。それを示すように、ゆっくりと人口が減り続け、衰退してきている。絶滅するのも遠くはないだろう。

 そんな世界を救うための、あの子たちは希望なのだ。

 そう信じて、私は今日も、彼らを見守らなければいけないのだ。

 

「……よし、じゃあお庭でみんなと遊んでおいで!」

 

「うん!」

 

 すっかり元気を取り戻したマシューに、向こうにいる施設の子たちと遊ぶように、檄を飛ばす。きっと一緒に遊べば、一緒に喧嘩していたジェニファとも仲直りできるに違いない。だって知っているんだから、ジェニファがマシューに気があることを。

 そんな呑気なことをニヤニヤと考えながら、私は向こうの庭で遊んでいる園児たちの方を見た。

 

 

 

 大人が、立っていた。

 

 

 

「……ッ――っ」

 

 その大人は、黒いローブで全身を包み、深くフードを被りながら、ブツブツと何か言っていた。

 

 誰? いやそれよりも、どうやって入ってきたの?

 ここの警備は下手な銀行よりもずっと厳重なのに。

 まずいと思い、急いでドアを開け、庭に出た。

 

「せんせぇ、この人誰?」

 

 園児たちが、ローブの不審者を遠巻きに見ている。

 

「……みんな、お部屋に戻りなさい」

 

「えー、まだお昼寝の時間じゃないよ?」

 

「雨が降りそうだから、ね?」

 

 何とか不審者を刺激しないように、あくまで静かな声色で、児童に部屋に戻るよう言った。

 どうしよう? 園長に報告? いや、遅い。防犯グッズが確か……いやまず、警備の人達に連絡を……。

 

「……――」

 

 ブツブツと、また何か言っているのが、聞こえた。

 

 

「主のために守らん。主の御力を得て。主の命を実行せん。川は主の下へ流れ、魂はひとつにならん……」

 

 

 そして、その不審者はローブを脱いだ。

 見えたのは、やせ細った、色白い女の顔と、

 

 

 

 

 体中に巻き付いた、大量の爆弾。

 

 

 

 

「ッ!?」

 

 すると、彼女の手に、スイッチらしきもの。

 

「……主はただ一人、他は全て、滅するのみ」

 

「みんなッ! 逃げ――」

 

 

 

 

 そして彼女は、スイッチを押した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 CHAPTER.03:Prison for prayers

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……怪我はもう平気なのか?」

 

 まだ午前中の時間だろうか。

 ウィンストン・ヒルズが一望できる、モンタナ・ファミリーの屋敷の屋上。

 まだ高い場所にある太陽に照らされた、雲一つない晴天の中。

 そんな空を仰いで、イトは俺にそう聞いた。

 

「ああ、まだ沁みるけどな」

 

「ま、あんだけ殴られりゃあな」

 

 イトは素っ気なく、そっぽを向きながら言った。

 屋上で呆けてるときに偶然鉢合わせてからこっち、一度も顔を合わせてくれない。

 やはり、先日のことがまだ尾を引いているのだろう。

 

「……なあ、イト」

 

「お前さ」

 

 イトは、ここで初めて顔を俺に向けた。その表情はどこか不安がってるように物憂げで、薄緑のその瞳が、いつも以上に儚く見えた気がした。

 彼女は言葉を続けた。

 

「……昨日、私たちがしたこと、どう思ってる?」

 

 昨日したこと……というのは、先日俺が中年のオッサンに殺されそうになったとき、そのオッサンをイトたちが半殺しにしたことを言っているのだろう。

 徹底的にやっていたのを覚えている。それこそ、命以外の全てを奪ったんじゃないかと思うくらい、殺した方がまだマシだったんじゃないかと思えるくらい、徹底的にだ。

 

「どうって……」

 

「幻滅したか? 何であそこまでやるんだって」

 

「……別に」

 

 何故か、ただそれしか言葉が出なかった。

 俺は多分、こう言わなければいけなかったのだ。『そんなことない。あれは俺のためにやってくれたことなんだろう? それに見せしめをしなきゃいけない。君のしたことは全く間違っていやしないんだ』と。

 けれど、何故か言葉が詰まった。そんな理屈を全部わかっていたうえで、何も言えなかったんだ。

 

「……なあ、どうすりゃよかったんだ?」

 

 イトは無気力な声で俺に聞いた。フェンスの上に頭を乗せていて、どこかダウナーだ。

 彼女は続ける。

 

「私たちみたいなストリート・チルドレンはさ、あれが普通なんだよ。脅されたらその倍脅す。殺されそうになったら殺す。裏切られたらやっぱり殺すか、殺すより残酷なめに合わせる。そういう生活が普通で、それが当たり前だった」

 

「でもさ、お前は違う」そう言うイトは、とても寂しそうな目をしていた。

 

「ハリ、お前は私たちと違うよ。少なくともお前は、自分が生き残るために、他の誰かを殺したり、人生をダメにしたりなんかしない」

 

「……怯えてただけだよ」

 

「……できるなら、あんな姿、お前に見せたくなかった。人をいたぶって、得意気になってるような、あんな姿を」

 

 彼女は言ってすぐ、口を噤んで、顔を俯かせる。

 静寂が、少し。

 彼女は、静かにこう続けた。

 

「私は恐いかな、ハリ?」

 

 そう言った彼女の声色は、少し震えていたように聞こえた。

 

「そんなこと――」

 

「ハリ」

 

 言う前に、俺の言葉はイトに遮られた。まるでそれ以上喋るな、とでも言うように。

 

「……もう時間だ、行こうぜ」

 

「……わかった」

 

 これ以上はもう、許されないだろう。これ以上の言及は諦めよう、そう思った。

 潮風が吹きすさぶ、普段だったら気持ちよく感じるはずのそれが、今日はいやにべたつくように思えた。

 

「ちゃんと身なりは確認しろよ?」

 

「ああ」

 

 そんな生返事をして、俺はイトと共に、昇降口へと入っていった。

 ネクタイが曲がってないかを、確認しながら。

 

 

 

 ――カツ、カツと、硬い革靴の音が廊下に響く。

 そろそろ正午だというのに、屋敷の中は妙に薄暗い。空が窓を青一色にしているのが、妙に夢うつつで、8ミリフィルムの映像の中に入り込んだみたいに思えた。

 会議室の前までつくと、エレーミアたちが既に揃っていた。

 みんな――俺とイトも含めて――いつもの私服じゃない、黒いスーツで固めた、コーザ・ノストラを参考にしたみたいな恰好だった。いかにもというような、マフィアの姿だ。

 

「遅いぞ、何やってる」

 

 リネンが俺達にそう言ってきた。『これからのこと』に緊張しているのか、いつもより声が硬い。

 

「お祈りをしてたんだよ、お前がビビッて小便漏らさないようにって」

 

「そうかそうか、なら私は今度、お前が泣いてクソをひり出さないよう祈っといてやる」

 

「あ?」

 

「やめなよ、こんな時くらい!」

 

 イトとリネンがいつもの喧嘩を始めようとしたところに、ルーラが割って入った。この光景もずいぶんと見慣れたものだ。ラミーがそれを見てあくびをしているのも、ベルさんがからかうようにニヒルに笑っているのも、全部含めて。

 

「……もう全員集まってるわ。部屋で待たせてる」

 

 エレーミアが横目でチラリと会議室のドアを見ながら、そう言った。

 背筋が凍る感覚が走る。この先に、『彼女』がいるのだ。

 今回の会合、それを開いた理由ともいえる、『彼女』が。

 

「準備はいいわね?」

 

 エレーミアはそう言って、俺達の顔を見回す。それを見て、全員が小さく首肯した。

 

「……ハリ、開けて」

 

 確認が終わると、彼女は俺に言った。俺はそれにただ従い、会議室の大きいドアを、ゆっくりと、静かに開けた。

 

「お待たせしたわね」

 

 エレーミアは開けたドアから会議室に入ると、既に座っている人物に、そんな簡単な挨拶をした。

 イトたちが続いて会議室に入り、最後に俺が入って、そしてドアを閉める。

 部屋の奥を見た。

 よく知っている顔が、できれば二度と会いたくなかったその顔が、そこにあった。

 

 

 

 

「……お久しぶり……というほどでもないわね、イト」

 

 

 

 

 『赤毛のロジー』、ママ・ロザリアはそう言って、妖艶に微笑んでいた。

 



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42.Intrigue

仕事だったり私事だったり対馬で蒙古を斬ったりで遅くなりました。申し訳ございません。



 俺はその顔を見て、思わず身体が強張った。以前見たときと全く変わらない、血で濡れたような赤い髪、その不自然に美しく妖艶な(かお)には、ルビーのような瞳がはめ込まれている。

 ママ・ロザリア、赤毛のロジー。彼女は側近を一人だけ傍に立たせて、優雅な佇まいで椅子に座っていた。この恐ろしいカルテルの大ボスには、できれば二度と会いたくはなかったが。

 

「あれ? レックスじゃぁん、久しぶりぃ」

 

 ラミーが妙に気の抜けた声で、ロジーの側近を見て言った。レックスと呼ばれた、スーツの上からでもわかるその体格の良さに、俺は見覚えがあった。そう……確か、ロザリアの屋敷にいたときに会った記憶がある。

 

「……よくのうのうと顔を出せたものだな、お前ら」

 

 レックスはそう言って、リネンとラミーを睨み付けた。

 

「裏切り者共が……今まで世話してやった恩を忘れやがって」

 

「覚えてるってぇ、『格下の相手には立場を自覚させろ』……とか? 教えてもらったことは、ちゃあんと実践してるじゃぁん?」

 

「ニャハハ」と舌を出しながら挑発するようにラミーは嘲た。

 

「クソガキがッ……」

 

 静かだが、実に圧を感じる声で、レックスはそう言った。眉間に深いしわが刻まれたその顔は、今にも殴りかかってきそうだ。

 一触即発、こんな場なのに、どっちが武器を抜いてもおかしくないようなそんな空気に、俺は思わず息を飲んだ。

 

「やめなさい」

 

 そんな中、よくとおる声が、部屋の中に響いた。声の主はエレーミアだった。

 少しの静寂。

 溜息をして、彼女は続ける。

 

「今が羽目を外していいかどうかぐらい、わかるでしょ? わきまえて」

 

「えぇ~? でも向こうが先に――」

 

「ラミー?」

 

「……はぁい」

 

 これ以上は食い下がれないと思ったのだろう。エレーミアに窘められると、ラミーは拗ねたように唇をとがらせて、しかしそれ以上は何も言わなかった。

 

「不用意に突っかかるな」

 

「わぁかったってば」

 

 リネンが小声でラミーに言うと、彼女はもういいでしょと言わんばかりにそっぽを向いた。こんな場面でもブレないその胆力は、正直大したものだと思う。

 そんなことを思っていると、今度はロジーが口を開いた。

 

「貴女もよ、レックス。どんな相手にも品性をもって接しなさい」

 

 それは実に穏やかな、子どもを諭すような優しい口調で、だがそれが逆に、得体の知れない恐ろしさみたいなものがある気がした。

 

「ほら、謝りなさい」

 

「……はい、申し訳ございません」

 

 ロジーはレックスが――不服そうではあるが――エレーミアに頭を下げるのを見ると、満足したかのように微笑んで、エレーミアの方に再び顔を向けた。

 

「ごめんなさいね、真面目過ぎるきらいがあるのよ、この子」

 

「……いいえ、こちらも無礼を働きました、お詫びします」

 

「いいのよ、それに……」

 

 言いながら、彼女は目を細めて、あごに手をゆっくり当てる。

 

「償うべきは『別のこと』よ、そうでしょう?」

 

 ママ・ロザリアからその言葉が出た瞬間、辺りの空気が、一気にひりついたような気がした。

 当然俺以外もその空気を感じ取って、全員が顔を強張らせている。

 ここからが本題。

 即ち、フランシスがロジーの部下を数名惨殺した、先日事件についての釈明だ。

 

「今回はそれをお話したくお伺いした次第ですわ、ミス・ハウンド」

 

 どこかからかうような、試すようなその口調。

 問われた当のエレーミアは、しかし欠片も動揺している様子無く、口を開いた。

 

「ええ、存じております。我々ファミリーの身内、フランシスがそちらにしたことは、掟に背いた許されざることです」

 

「では――」

 

「しかし」

 

 何か言いかけたロジーの言葉を遮って、エレーミアは強い語気で言った。

 

「しかし、それはフランシスが責任能力を有していた場合です」

 

 静かだが、強い意志を感じるその声。

 それは、これから下るであろう処罰に異議を唱える、弁明のものだった。

 

「何をバカなことを!」

 

 そう叫んだのは、ロジーの隣にいるレックスだった。

 

「そんな理屈で逃げれると思っているのか! 貴様ら身内の都合など知ったことかッ!」

 

 それは乱暴な言葉だが、しかしことこの場においては正しかった。彼女の言う通り、法治国家の裁判ならともかく、血の掟を最も重要視するような裏社会で通用するとは思えない。

 どういうことだ? エレーミアにそれがわからないとは思えないが……。

 

「よしなさい」

 

 すると、ロジーがただ一言、レックスにそう言った。

 言われた彼女はそれに何も反論せず、不満げな顔のままただ頭を下げ、再びロジーの後ろに控えた。

 少しの沈黙。

 ロジーは再び口を開く。

 

「……確かに、彼女(フランシス)の精神状態に問題があるということは、聞き及んでおります。それを理由に罪を帳消しにできるとお考えでしたら、それは難しいでしょうね」

 

 ロジーは少しだけ口角を上げ、続けた。

 

「もし贖罪をする気がないと申すようでしたら、『連合』に調和を乱す存在として報告せざるを得ませんが、いかがかしら?」

 

 それを聞いていたエレーミアが、僅かに目を見開いた。その表情は『連合』という単語を聞いた瞬間、変わったように見えた。

 

「……あの、『連合』って何ですか?」

 

 そのワードが気になり、俺は隣にいるベルさんに小声で聞いた。

 彼女は俺を横目で見て、同じように小声で答えてくれた。

 

「エルドラ中のマフィアやシンジケート組織の統括機構だよ。勢力が偏らないよう秩序維持をするのが目的だが……やり方が過激でな、その圧倒的な規模と力も相まって、裏じゃ『処刑軍』だなんて言われてる」

 

「つまり、連合に目を付けられたら終わりってことだ」

 

 ベルの言葉を補足するように、反対隣りにいるイトが、聞こえる程度の声量で呟いた。

 彼女は言葉を続ける。

 

「ただでさえ綱渡りな状態なのに、このまま奴らに目の敵にされちまったら……」

 

「……綱は切れて、モンタナ・ファミリーはお終いってことか」

 

「マフィアとしては、な」

 

 俺の言葉に、イトはそう付け加えた。

 

「ハナから全面戦争は覚悟の上だ。ハリ、お前も腹を括れよ」

 

「……そうだな、悪い」

 

 やはりというか、当然というか。この会合でお互い話し合えば、『じゃあしょうがない』と赤毛のロジーが言って、全部水に流してくれてめでたしめでたし……なんてことにはやはりならない、なるはずもない。

 この場所は、明確な意思を確認するためだけの場所なのだろう。俺達(モンタナ・ファミリー)と赤毛のロジーが敵対関係になるということを、はっきりさせるための場所。この話し合いは、きっとそういう意味しかないのだ。

 

「……確かに、これだけで放免されるのは難しいでしょうね」

 

 すると、エレーミアが静かに、口を開いた。

 彼女は冷淡とも思えるその声で、続ける。

 

「しかし、フランシスが誰のせいでああなったかを知れば、また話は変わってきます」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ロジーが僅かに眉をひそめたように見えた。

 エレーミアはそれを知ってか知らずか、少し怒気がこもったような声色で話し始める。

 

「リドーをご存知でしょう」

 

 その口から出たのは、実に意外な人物だった。

 それを聞いた途端、隣にいるイトの顔が、僅かに険しくなった。

 リドー、赤毛のロジーのカルテルの、幹部だった女だ。

 金になりそうな子供を調達するのが仕事で、時々『おこぼれ』でもらった子供に性的な虐待をしていた、外道と呼ぶには十分な奴だったのを覚えている。

 だが、彼女はもういないはずだ。

 死んだのを、首をパックリと切られ力尽きたのを、俺達はこの目で見たのだから。

 なぜその名前が、エレーミアの口から?

 

「……確かにいましたが、それが?」

 

 ロジーは眉一つ動かさずその続きを促した。

 エレーミアはそれに、独白でもするように、ぽつりぽつりと話し始める。

 

「……フランシスが精神に異常をきたすようになった原因は、小さい頃に『女優』の仕事をさせられていたから……これが意味することは、貴女なら当然おわかりですよね?」

 

「ええ、もちろん。それは災難でしたわね……しかし、それが今回の話とご関係が?」

 

「まだわかりませんか?」

 

「……ああ、なるほど」

 

 ロジーは面白くなさそうな表情で、少し低い声でそう呟いた。

 それに構わず、エレーミアは少し口調を荒げて続けた。

 

「ママ・ロザリア、貴女のカルテルにいたリドーが、お母さ……先代レザボア・ハウンドにこの話を持ち掛けたんですよ」

 

 前のめりになって、エレーミアは圧の強い声でそう言った。

 それは最早弁明というよりも、糾弾と呼ぶべきものだった。

 自分の妹を壊した者への、これ以上ない憤りを感じた。

 

「『連合』の血の掟に従うのであれば、他のファミリーに手を出した貴女がたこそ処罰の対象になるはず。違いますか?」

 

「バカな……何の根拠があって――」

 

「証拠ならあります、部屋が一つ埋まる分くらいは」

 

 レックスの言葉に、エレーミアは即答した。彼女はそのまま続ける。

 

「先代は貴女方と余計な事を構えたくないからと隠していたけど、こうなった以上その必要もないでしょう。そちらがこれ以上ウチに落とし前を求めるなら、こちらも同様に要求します!」

 

 バンッと、エレーミアは派手に机を叩いた。

 

「……初耳だぞ」

 

 俺は誰に対してでもなく、思わずそんなことを呟いた。

 実際、かなり驚いている。彼女(リドー)がロクでもない女だというのは知っていたつもりだったが、まさかフランシスを壊した原因だったとは……思っていた以上に、彼女がああなったのは、因果応報ということなのだろうか。

 

「アイツ、死んだ後もウザったいな……」

 

 辟易とした顔で、イトはそう呟いた。その奥を見ると、どうやらルーラも彼女を思い出したらしく、呆れたような顔をしていた。

 

「……とはいえ、これはひょっとしたひょっとするかもしれんぞ」

 

 ベルさんは感心したような顔で、ぼそりとそう言った。俺はそれが気になって、聞いてみることにした。

 

「血の掟がどうの……てやつですか?」

 

「そうだ、さっきも言った通り、この界隈じゃ『連合』の力は絶対と言っていい。そんな連中に『赤毛のロジーが血の掟を破りました』なんて言ってみろ。カルテルの存続も危うくなる」

 

「つまり……俺たち(モンタナ・ファミリー)とことを構えてる場合じゃなくなる?」

 

「そう言うことだ」

 

 そうか、つまりエレーミアは考えていたのだ。

 どうすれば赤毛のロジーから逃れるようにするのか。

 いやそれどころか、自身の妹の仇であると知り、一矢報いようとまでしたのだ。

 

「……しかし」

 

 そう考えていると、ベルさんはどこか、いぶかしむような表情でつぶやいた。

 すると、だ。

 

「……それで、それを『連合』に報告させない代わりに、アナタ方は我々に何を求めているのでしょう?」

 

 ロジーが、何の気なしにそう聞いてきた。まるで、レストランでワインの銘柄でも聞くみたいな態度だ。

 なんだ、この感じ? ……なにか、いやな感じだ。

 

「不可侵条約を結んで頂きたい。この先、何があろうと、我がモンタナ・ファミリーとロザリア・カルテルの間には、どのような介入も許されない。それを明文化し、盟約として『連合』に提出してもらいます。いやとは言えないはずよ」

 

 エレーミアは一字一句をはっきりとさせ、そう言った。

 つまり、こちらは手を出さないから、向こうも今後一切手を出してくるなということだろう。破れば、『連合』とやらの恐ろしい罰が待っている、ということだ。

 これなら確かに、如何にあの赤毛のロジーと言えど、手を出せなくなるかもしれない。

 甘い考えかもしれないが、話を聞いた限りでは、相当な牽制になるのは間違いないはずだ。

 

 

「……なるほどね」

 

 

 それを見た瞬間、悪寒が走った。

 まただ、この感じ、化物の腹の中にいるような、この感じ。

 赤毛のロジーを初めて見たときもこんな気分になった。得体の知れない、いや底の知れない、不気味で恐ろしいものを見たような気持ちだ。

 

「ねえ、ホントに大丈夫かな?」

 

「……どうだろな」

 

 ルーラが呟いたことに、イトはただそう言った。

 とはいえ、確かにエレーミアの言った通り、いやとは言えないはずだ。

 どう、出るつもりだ?

 

 

 

「ええ、わかりました、それで吞みましょう」

 

 

 

 すると、赤毛のロジーは、実に朗らかな声でそう言った。

 のっぺりとした、張り付けたような笑顔を作って。

 




いつも読んで頂きありがとうございます。作者です。
ここ最近時間と精神が不安定なため、今後もしばらく不定期更新となると思います。
最低でも月一回以上の更新を目指しますが、楽しみにして頂いている皆様には多大なご迷惑をおかけしてしまうことをお詫びいたします。
それでは、これからも読んで頂けると幸いです。


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43.Desire

三か月近く空いてしまいました。誠に申し訳ございません。
もしまだ待ってくださっている方がいましたら、読んで頂けましたら幸いです。


 あの会合が終わって、時刻はもう昼過ぎ、俺とイトは二人、モンタナ傘下のダイナーにて、少々遅めの昼食を摂っていた。

 というのも、赤毛のロジーがまだモンタナの屋敷にいるのだ。彼女が帰るまで、なるべく俺を離したい。ということで、またまた金髪のウィッグを付けて、イトに連れてこられた、というわけだ。

 時間帯にしては少々寂しいダイナーの中、イトは俺の対面で、足を組んでソファに座っている。

 口を一文字にして、目を細めたその鋭い表情は、きっと眠気のせいではないだろう。

 

「……どう思う?」

 

 彼女はテーブルにある山盛りのパンケーキ、それをナイフとフォークで丁寧に切りながら、俺に聞いてきた。

 

「どう……て、今朝のことか?」

 

 対面に座っていた俺は、ただ単にそう聞き返した。

 するとイトは、そのフォークに刺した一欠けらを口に運ぶのを一旦止めて、俺の方を見る。

 

「決まってる」

 

 彼女は改めて口にパンケーキを入れた。

 

「んむ」

 

 彼女はそんな、満足げな声を発した。メープルシロップとバターがたっぷりかかったそれがいたく気に入ったのだろうか。イトの不機嫌な表情が、幾分かマシになったように見える。

 ――今朝のこと、言うまでもなく、今朝の赤毛のロジーとの『お話』についてだろう。

 モンタナ・ファミリーと、ロジーのカルテルとの、不可侵条約を結ぶことになった、早朝のあの会合。

 結果だけ見れば、万々歳だ。結果『だけ』を見れば。

 

「十中八九、彼女(ロジー)は何か仕掛けてくると思う」

 

「……へえ、何故そう言える?」

 

「試すみたいに言わないでくれよ。イトだってそう思ってるはずだ、赦しと寛容なんて、彼女には一番不釣り合いな言葉だって」

 

「いい台詞だな、司会者になれるぜ」

 

 そう言いながら、イトはコーヒーに砂糖を入れる。

 

「そんな言葉が似合うやつなんていねえよ。神様にすら荷が重い、そうだろ?」

 

 砂糖を4つ、入れ終わった彼女はそれを大雑把にかき混ぜる。ミルクは入れないようだ。

 そんな他愛もないことを考えていると、イトは俺に聞いてきた。

 

「とはいえ、お前のその意見は、赤色をただ『赤だ』って答えているみたいなもんだ。私が言いたいのは、『そうあれかし』より、もうちょっと具体的なことだよ」

 

「……ロジーがいつ、どう攻めてくるかってことか?」

 

「そうだ」

 

 イトはそう言って、コーヒーを慎重に啜る。

 

「アッツ……!」

 

 彼女は舌を出しながら、小さくそう呟いた。聞かなかったことにした方が、良いだろう。何となくそう思った。

 彼女は咳払いをして、言葉を仕切り直した。

 

「……その、なんだ……多分あの女は、直接攻撃みたいな、そんな単純なことはしてこないはずだ」

 

「でも、ただの嫌がらせだけで満足できる器でもない」

 

「よくわかってるじゃないか、ハリ。きっとアイツは蛇みたいに近づいて、そして蛇みたいに毒を盛ってくる」

 

「そうだな……」イトはあごに手を当て、考え込む。ほどなくして、彼女はこう言った。

 

「例えば、何か『内通者』を送り込んでくるとか。私がアイツならそうする」

 

 言いながら彼女は、パンケーキをまた頬張った。どうやら最後の一欠けらのようだ。いつの間にやら、山盛りだったパンケーキは、皿からきれいさっぱり無くなっていた。

 

「内通者って……誰だ?」

 

「それがわかれば苦労しねえよ。まあ、ここ最近……私たちが加入した後とかにファミリーに入ってきた奴がいたら、要注意だろうな。そんくらいだ」

 

 それもそうだ。いつどこから敵が来るのかみんな知ってたら、この世は情報戦なんていらないだろう。

 とはいえ、イトやリネンに対抗できるような化物である可能性は高いだろう。そんな奴、そうそういるはずもない。

 一体、誰が……。

 

『――次のニュースです』

 

 ふと、そんな声が耳に触った。ダイナーにあるテレビからのものだ。内容は、声で聞いた通りの、昼のワイドショーの前後に映るような、特段ケレン味のないニュース番組だった。

 何の気なしに、俺とイトはそのニュースを見てみる。画面には、何かの施設なのか、特に特徴のなく老朽化した、けれど手入れがされているであろう、コンクリートの建物が映っていた。

 

『グレービーサイドにある児童養護施設にて、プラスチック爆弾による爆破が行われました。この爆破事件にて、現時点で職員、児童含む24人が死亡、18人が重症を負いました。警察は過激派組織『神託の種子(ヴォルヴァ・デ・セミラ)』による自爆テロとみて、捜査を進めています』

 

 流れてきたのは、ずいぶんと痛ましい事件だった。実行したらしいのは、何やら聞きなれない、過激派組織のようだ。

 イトはニュース映像を見ながら、ふと呟く。

 

「グレービーサイドか、こっから近いな……」

 

「物騒だな、今更だけど……『神託の種子(ヴォルヴァ・デ・セミラ)』だっけ、イトは知ってる?」

 

「ああ、最近色んなとこで名前を聞くぜ。『男は自分たちが認めた1人以外不要だ』って言って、男がいる場所を片っ端から壊してってるらしい。あの施設も、きっとそうなんだろう」

 

「スゲエな、そりゃ。終末でも求めてるのか?」

 

「どうだかな……そんなことしなくたって、今の世界はとっくの昔にラッパが鳴り響いてるさ」

 

 イトはそう言いながら、パンケーキに乗ってたミントの葉を咥えた。どういうことだろうと、彼女の言葉の意味を考えていると、彼女はそのまま言葉を続けた。

 

「……男が大半いなくなって早数百年、人口なんてザルに入った砂みたいに減り続けてる。そりゃそうだろう、種がないんだから子供(ガキ)なんてできるはずもない。あとまた数百年もすりゃ、人類は滅亡するだろうって、偉い学者の話だ」

 

「そりゃ……ヘビーだな、ずいぶん」

 

 俺がそう言うと、イトは興味がなさそうに「そうだな」とだけ言った。

 どうやらこの世界は、俺が思っているよりもずっと、アポカリプス一歩手前な状態らしい。イトの反応を見るに、この世界の人にとっては、俺の世界で言う石油問題みたいな実感のわかない問題なのかもしれないが。

 そんなふうに考えていると、イトは咥えていたミントを口の中に入れて、冷めたコーヒーを一気に飲んで、こう言った。

 

「明日生きれるかもわかんねえのに、数百年後の話しても締まらねえよ。嵐の後に凪があったって、嵐で死んでちゃ世話ねえさ」

 

「凪にしちゃあ、風が強い」

 

「まあな……そろそろ帰るぞ、もうロジーもいい加減帰ったろう」

 

 イトはそう言いながら、席を立ち、ジャケットを羽織る。

 

「そうだな」

 

 俺はただそう言って、余っていた自分のコーヒーを飲み干して、席を立った。

 粛々とレジで代金を払ってから、俺達は店の外に出た。

 時刻は夕方になる手前くらい、まだ明るいが、この辺はホワイトカラーが多いからか、人通り自体はそれほど多くもなかった。

 

「……なあ、ハリ」

 

 帰路につくと、イトは静かに、声を発した。

 その声と顔は、今朝、屋上で見たそれと、同じものだった。

 

「どうした?」

 

「いや、悪い、呼んでみただけだ」

 

 そうは言うが、イトの顔は、そう言ってない。

 喧騒が少し遠くなり、二人分の足音が、妙に大きく感じた。

 

「……今朝のことなんだけどさ、一番言わなきゃいけないことを、俺は忘れてた」

 

 いつになく歯切れが悪い彼女に、俺は何を思ったのだろうか。気づけば、俺の口は自然と言葉を発していた。

 

「助けに来てくれて、ありがとう」

 

「……」

 

「それと、すまない。君たちの世界の流儀も知らずに、浅い倫理観で出しゃばったことを言った。……悪い、君を傷つけるつもりは、無かったんだ」

 

「……わかってるよ」

 

 イトは静かに、そう答えた。歩きながら、彼女の方を見る。するとその顔は、寂しいような、笑っているような、そんな表情をしていた。

 

「誰だって、自分の一番恐ろしい部分を指摘されたら、がむしゃらに否定したくなるもんだ。今朝の私みたいにさ」

 

「……イト、これだけは言える。俺は君のことを、恐ろしいと思ったことは一度だってない」

 

 一字一句はっきり、俺はイトにそう言った。言わなきゃいけないと思った。

 

「ッ……」

 

 すると彼女は立ち止まり、俺の方に顔を向けた。まるで何かに締め付けられるかのような、そんな表情で、目を細めていた。

 

「……イト?」

 

 どうしたのだろうか。ひょっとすると、俺はまた何か言葉を間違えたのだろうか。

 そんな猜疑心と少しの自己嫌悪に勝手に陥ってると、イトが口を開いた。

 

「な、なあハリ」

 

 そんな風に、俺の名前を呼ぶその声は、何だか震えていた。

 

「ぜ、全部終わったら……その、私と……」

 

「あ、ああ……?」

 

「私と――!」

 

 

 

 

 

 

 

 カツン、カツン、と、硬い靴の音が、いやに響いて聞こえた。

 何だ? そう思って、前に向き直す。

 

 

 

 

 

 

 

 黒いフードとローブを着込んだ、『誰か』がいた。

 

「ッ! ハリ、下がれ!」

 

 イトにそう言われる前に、俺はすでに後ずさっていた。

 わからない、だが何故か、そうせざるを得ないように感じた。

 本能が、目の前の『誰か』を拒絶していた。

 

「そっから一ミリでも前に出てみろ、着てるもんブルーシートに変えてやる」

 

 イトは即座に銃を抜いて、威嚇をする。周りの人たちの注目を集めてしまっているが、そんなことを気にしている場合でもない。

 すると、『誰か』が声を発した。

 

「イト、イト、だな? お前、イトだ」

 

 なんだ、コイツ、イトが狙いなのか?

 それはその体躯に似つかわしくない、子供の声だった。けれど、何か違う。まるで、機械で再生したみたいな……。

 

「何? お前、何もんだ?」

 

「……お前の膵臓、腎臓、肝臓、心臓」

 

「あぁ?」

 

 

 

 

 

「ずっと、食べてみたいと思ってた」

 

 

 

 

 

 『誰か』はそう言いながら、どこからか『錠剤』を取り出した。

 そこには、ただこう書いてあった。

 

 

 

 

 『S2』

 

 



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44.Wimper

長らくお待たせしました。


 フードの女が動いてからの、イトの行動は早かった。

 コンマ1秒の後、気づけば銃声が辺りに響く。

 硬く、爆ぜる音。

 けれど銃弾はそいつじゃなく、そいつがいた場所のコンクリートを抉るのみだった。

 瞬間、凄まじい速度で、そいつはイトとの距離を詰めた。

 そいつの懐から、何かが飛び出した。

 

「ッ! クソ――」

 

 金属が削られるような、甲高い音。

 イトとそいつの間に、火花が飛び散ったのが見えた。

 

「ハハ、ハハ」

 

 鍔迫り合いになった状態で、そいつはどこか無機質な、けれど幼い声で辿々しく笑う。それがどうにも人の発するものに聞こえなくて、俺は息を呑んだ。

 

「なに、笑っ、てんだ!」

 

 イトがそう言って、そいつを思い切り蹴る。耐えれなかったのか、はたまた避けるためのわざとなのか、そいつは蹴られた方向そのままに吹っ飛んで、再び両者は距離を取った。

 そこで初めて、俺はそいつが持ってるものをみることができた。

 

「丸鋸……?」

 

 俺は思わずうそぶいた。それは工事現場で使われるような、電動で動く丸鋸、ヤツはそれを両手に一つずつ携えていた。普通の丸鋸と違うところは、安全用のカバーが外れていること、刃がはるかに肉厚であること。

 ……そして、血の痕がべったりついていることだ。

 

「まーた刃物かよ、どいつもこいつも……」

 

 イトが辟易としたように悪態をつくのを見て、そいつは被っているフードの下で肩を震わせ、笑って、そしてイトと俺を交互に見た。

 気づけば、遠くから悲鳴が聞こえるのみで、辺りに人はいなくなっていた。

 そいつは言った。

 

「ハハ、ハ….…いいだろ、なあコレ。包丁、包丁とかより……ハハ使いやすい、な?」

 

 フードを被ったそいつは、さっきに比べて明らかに呂律が回ってなかった。機械みたいな声のせいでよくわからないが、恐らく極度の興奮状態なのだろう。

 

「お前!」

 

 いきなり、ぐりんと首を回して俺に向け、そいつは大きな声で俺に叫んだ。

 かなり驚くのも束の間、そいつは矢継ぎ早に言葉を続ける。

 

「お前、お前動くなよ、イトと遊んでるの邪魔したら、切るぞ? 切るなって言われたけど切る、ハハハハ」

 

 そいつはフラフラしながらそう言って、俺に丸鋸を向けた。

 

「……ヤバ」

 

 フードを被ったままだが、それでも向けられたその目が、相当イってることがわかった。

 

「……余所見してナンパたぁ余裕だなおい、変態野郎」

 

 イトがそう言うと、そいつは彼女の方に向き直した。イっちゃった目と表情のセットはそのままだ。

 

「ハハ、ハハ、いいだろ、いいだろハハつれない……もっと、凄いこと、できるんだ。見せる。見せる」

 

「びっくり人間コンテストならよぉ、テレビ局行けよ。それとも続けるか!?」

 

「続ける……? それで? それで?」

 

「あ……ッ!?」

 

 その問答で、イトと俺は気づいた。

 彼女のリボルバーが、惨たらしいほどひしゃげてしまっていた。銃本来の機能を果たさないことが、容易に想像できるほど。

 あの時だ、フードの女と鍔迫り合いになった時、イトはあの銃で受けた。

 

「余所見、余裕」

 

 そいつは凄まじい力で地面を蹴って、加速した。まずい!

 

「避け……!」

 

 イトに向けたその言葉は、その言葉は、しかし間に合わなかった。

 

 そいつは彼女を、その十全な速度で思い切り蹴った。

 

 酷く、鈍い音がした。

 

「ッ……!」

 

 皮膚が裂ける。

 肉が抉れる。

 骨が砕ける。

 

 それを想起させるのに十分なほどの鈍重な音と共に、イトは吹き飛んだ。

 吹き飛んだ先にあった看板や空びんが、派手な音を立てて砕け散る。

 いや、そうじゃない。

 そんなこと言ってる場合じゃない。

 

「ッ……ク、ソッ……!」

 

「イト!」

 

 イトは……生きてる。だが怪我がひどい。腹の部分が大きく、赤黒く染まっている。

 あいつはなんだ? 強すぎる。あのイトが、手も足も出ないままやられた。あいつは何者なんだ?

 

「……終わり、終わり? 嘘だろ?」

 

 フードを被った女は、ゆっくりとイトに近づく。その手にある丸鋸はけたたましい機械音を響かせながら、ブレードを高速で回転させていた。

 

「……びっくり人間が」

 

 イトの弱々しい悪態も、ブレードの回転音にかき消される。

 あいつは何者か?

 違う、そんなことは今どうでもいい。

 

 このままじゃ、イトが死ぬ。

 

「……もう少し、もう少しできると思ってたのに。残念、残念だ」

 

 フードの女は言いながら、イトの目の前で止まる。彼女を見下ろし、さっきより無気力気味に、丸鋸を持った腕を上げる。

 

「Aランクじゃ、やっぱ無理」

 

 ブレードのがなるような回転音は、きっと聞こえてるはずだろう。

 イトは、けれど、動けなかった。

 

 

 気づけば、俺の足は動いていた。

 

 

「んお!?」

 

 全身を使って、がむしゃらに体当たりをかました。

 想定外の出来事だったのか、女はそんな声を出してバランスを崩し、俺と一緒に地面に倒れた。

 女とぶつかった衝撃、身体がコンクリートに擦れる痛み、殺される恐怖。

 全てがゼロ距離にあるのに、全てが今はどうでもいいことのように思えた。

 

「バカ……ハリ……やめッ……」

 

 イトの声が聞こえた気がした。けれどそれを気にかける余裕は、今の俺の脳にはなかった。

 

 こいつを殺さなくては。

 

 俺の頭はその言葉に支配されていた。気づけば俺はフードの女に馬乗りになって、その首に手をかけていた。

 手に力を入れて、首を絞める。

 

 殺さなきゃいけない。

 

 殺さなきゃ、イトが死ぬ。

 殺さなきゃ、間接的にイトを殺すことになる。

 

 だから殺せ、殺すんだ。

 そうだ、もっと手に力を入れろ。

 首を絞めろ。骨を折るくらい絞めろ。

 早く殺せ、早く殺せ。

 

 早く!

 

 

 

「ゲホッ」

 

 

 

 フードの女は咳をした。

 それだけだ、それだけのことなのに。

 それをきっかけに、一瞬絞めた首から、体温と脈を感じた。

 感じてしまった。

 

 もし誰かが俺の死体を見て、ことの顛末を知ったら、『こいつはなんて底無しに腰抜けなのだろうか』なんて思うことだろう。

 

 俺は一瞬、絞める力を緩めてしまった。

 

 

 

「甘い、甘い」

 

 

 

 腹に、鈍痛が走った。

 

「ガッ……!?」

 

 膝で蹴られたのだ、という状況を把握する暇もなく、俺はコンクリートに放られた。

 フードの女はゆっくりと立って、俺を見下ろしながら言った。

 

「今日、今日は、ガッカリばっかり」

 

 無機質な幼い声を発しながら、そいつは俺の眼の前でしゃがみ込んで、続けた。

 

「頭、頭でいくらイキってても、魂、魂が弱くちゃ、意味ない。だから、だから成せない、動けない、殺せない」

 

 責めるでもない、嘲るでもない、ただただ事実を羅列するようなその口調は、しかし何より俺の不出来さを抉るものだった。

 俺は女を睨んだ。それしかできなかった。負け犬の遠吠え以下の行為だが、それでもそうしなければいけない気がした。女はどこか、壊れかけのおもちゃを見るような目を俺に向けていた。

 

「……ん~」

 

 女は俺を見て、まるで品定めでもするみたいに唸っている。何を考えているかはわからない。それを考える余力は、今の俺にはなかった。

 

「……まぁ、まぁ、いい。あんまり遊ぶと、怒られる」

 

 女はそんなことを言った後、ゆっくりと立ち上がって、ゆっくりとイトの方に歩いてゆく。

 イトを見る。生きてはいるが、気を失っているようだった。

 

 

「なに……する……きだ……」

 

「安心、安心。殺さない、今のとこ」

 

 女は振り向かないまま、ただそう答えた。

 女は歩を進める。

 周りには、俺たち以外もう誰もいない。

 

 

 

 

「いやぁ、殺るなら早めがいいよぉ、そいつ」

 

 

 

 

 瞬間、声、影。

 (ブレード)

 

「!?」

 

 女が振り向く。

 金属、激突音、火花。

 見慣れた、ロングのブロンド。

 

 

「ラミー……!?」

 

 ラミーだ。一体どうしてここに?

 

「は!? うっそぉ!?」

 

 ラミーはそう叫んだ瞬間、後ろに飛びのいた。あの丸鋸にやられたのであろう、ぼろぼろに刃こぼれした自分の日本刀を見て、わなわなと震えていた。

 

「これお手入れしたばっかなんだけどぉ! あー、最悪ぅ!」

 

「……増援、増援?」

 

 いきなり現れた第三者に、フードの女は怪訝な顔をしていた。が、当の本人は気にした様子もなく、俺に振り向いた。

 相変わらず、黄金のようなブロンドとルビーのような瞳が、その獰猛さを表現していた。

 

「おっすーハリくん、だいじょぶぅ? ……じゃないっぽいね」

 

「ラミー……」

 

「家でも外でも血に事欠かないねぇキミ。ま、私的にはそっちのが捗るからいいけどぉ」

 

「さてさてぇ」ラミーはそう言いながら、女の方に向き直る。

 

「悪いけどぉ、うちの男は持ち帰りやってないんだよねぇ。帰って一人でマスタベってなよぉキャハハハハ!」

 

 刀を女に向け、挑発するように彼女は言った。

 

「……お前、お前、下品」

 

「うっせぇし! そんなゲテモノみてぇな武器振り回してる女に言われたくないし!」

 

「品性、品性、ゼロ」

 

「何お前ぇ、ムカつくんだけど、殺すよ? ムカつかなくても殺すけど」

 

「……残念、残念、お前と遊ぶ時間、ない」

 

 すると女は、イトを肩に担いだ。

 

「イト、イト、持ってかなきゃ」

 

「なん……!?」

 

 俺は思わずそんな声を発した。どういうことだ? 初めから俺じゃなく、イトが目的? でも、何のために?

 いや、そんなことより、まずい。

 

「ちょいちょぉい、逃がすと思ってんのぉ? 勝てなくて尻尾巻くってぇ?」

 

 ラミーが挑発するようにそう言う。

 だが、女はそれに対して、ただただフードの下からにやけた顔を見せるだけだった。

 

「逃がす、逃がす、違う、追いつけない」

 

「は?」

 

 ラミーが言った、その瞬間、地面に大きな衝撃と、爆風が走った。

 

「「!?」」

 

 俺とラミーがそれに驚いた、一秒にも満たない時間。

 目の前から、イトと女が消えていた。

 

「……え、どゆこと?」

 

 ラミーもさすがに困惑しているようだ。

 見ると、彼女らのいた場所が、大砲でも直撃したみたいに抉れていた。

 

「……飛んだ、のか?」

 

 俺は思わずそう言った。信じられないが、状況証拠と、あの人の理から逸脱したような強さを目の当たりにした後では、あながち冗談ともいえないだろう。

 ……いや、そんな話をしたいんじゃない。

 今は、もっと考えなきゃいけないことがある。

 

「イト……」

 

 イトが連れ去られた。

 何の目的で、誰の手引きで、どこに。

 一秒でも早く、情報を見つけなくては。

 彼女が何かされる前に、一刻も早く。

 

「クッソ……!」

 

「ちょいちょぉい、無理しないの。いったん帰って立て直さなきゃ」

 

 ラミーがそう言いながら、俺に肩を貸してくれた。

 蹴られた腹部の痛みを感じながら、俺はあの女に言われたことを思いだした。

 

 

『魂が弱くちゃ、意味ない。だから成せない、動けない、殺せない』

 

 

「……でも、ホントにベルの言った通りだったねぇ」

 

「ベル……さん?」

 

 ラミーの言ったことに、俺は思わずそう聞いた。すると彼女は不思議そうに俺を見て答える。

 

「え? うん、『なんか嫌な予感がするから見て来てくれたまえ』って。どう、似てるぅ?」

 

「……そうか」

 

「どったの?」

 

 彼女の問いの答えになるような違和感が、あった。でも、今言うべきじゃないと思い、俺はただ首を横に振った。

 

「いや、何でもない。そうか、ありがとう」

 

「さぁ、一旦アジトに戻ろぉ。パトカーも来てるしぃ」

 

 俺たちはそのまま、人気のない裏道を通って帰路についた。

 

 ……散々見てきたはずだった。そうしなきゃいけない理由もあった。

 なのに。

 何故、あんなときに限って、一瞬でも。

 

 命なんてものを、思い出させるのか。

 

 弱い魂。

 その短い言葉が、俺の中をいつまでもグルグルと回っていた。

 



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45.Cocoa

一年以上、まったく投稿できずすいませんでした。
今後は、細々ながらもなるべく続けていきたいと思います。
もしまだ読んでくださっている方がいたら、幸いです。


 ――カツン、カツンと、硬い音が規則的なリズムで聞こえた。

 暗い、何も見えない。

 何を、していたんだっけか。思い出せない。生暖かい泥の中にいるみたいに、意識がぼんやりとしている。

 何か、大事なことがあったはずだ。なのに思い出せない。なんだか今はもう、ひどく疲れてしまった。

 温かいものが飲みたい。できれば甘いものがいい。ほんの小さい子供の時に、ボランティアだか何だかで、いいとこのお嬢様学校の学生たちがココアを出してくれた。

 あいつらはいけ好かなかったが、冬の真っただ中に飲んだそれは、本当に美味かった。ルーラと何度もお替りしに行って、結局最後は腹下したっけか。

 ハリも飲んだら気に入ってくれるだろうか。あいつ、甘いの好きだったらいいんだけど。

 ……ああそうだ、なんで忘れてたんだ。

 あいつを守らなきゃ。

 そのために走ってきたんだろうが。

 寝てる場合じゃないだろ、起きなきゃ。

 起きて、逃げて、逃げて逃げて、そして、あいつと一緒に。

 

 ……逃げる? 逃げれるのか? これ以上、どこに?

 

 もしかして、私たちはずっと、逃げれない場所をぐるぐるしてるだけなんじゃないか?

 ずっとこのまま、最後に誰かに殺されるまでこのままなのか?

 そんな簡単に、生き方なんか変えられるのか?

 どうしよう、ハリ。わからなくなってきた。

 教えてくれ、お前の出す答えなら、納得できるような気がするんだ。

 ハリ――

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「起こしてください」

 

 そんな声とともに、頭に冷たい衝撃が走った。水をかぶせられたのだろう。髪と服が水を吸って重くなるとともに、寒さと不快さを感じた。

 不本意だが、それのおかげでもうろうとした意識がクリアになってくる。状況を確認するために、顔を上げた。

 打ちっぱなしのコンクリートの部屋だった。窓はベニヤ板で打ち付けられていて、外が全く見えない。

 そして、目の前に女が一人。

 

「おはようございます、よく眠れましたか?」

 

 癪に障るような薄い笑いを浮かべて、女は言った。

 銀色の髪と、紫の瞳を持つそいつを見て、一目でわかった。

 ああ、こいつはロジーと同類だと。

 

「眠る、眠る、大事。お肌にいい」

 

 不意に横から聞こえた声。聞き覚えのある、ぶち殺したい衝動に駆られる声。

 見ると、さっきまで戦ってた、フードのイカレた丸鋸女がいた。

 

「てめッ!」

 

 無意識に体に力を入れると、体に痛みが走る。

 間抜けな話だが、ここでようやく、私は首と手に拘束具のようなものを付けられていることに気づいた。特に首は、リードのようなもので壁につながれている。少なくとも素手で壊せるものではなかった。

 

「落ち着いて、イト。大丈夫よ、貴女をどうこうするつもりはありませんから」

 

「馴れ馴れしく呼ぶんじゃねえよ、誰だお前!」

 

 なだめるようにほざいてくる銀髪の女に対し、私は無駄な抵抗とわかっていながら噛みついた。

 それを当たり前のように無視して、銀髪女は丸鋸女のほうを見る。

 

「あなたもあなたです、ニカ? こんな怪我だらけにしちゃ、怒るなっていうほうが無理な話じゃないですか」

 

「……あい、すいません、ルナさん」

 

 あの戦闘時の狂いっぷりが嘘のように、丸鋸女は素直に、ルナと呼んだ銀髪女に謝罪した。

 

「それにいつも言ってるでしょう? 部屋の中くらい、フードを外しなさいと」

 

 丸鋸女はそう言われると、自らの頭からおずおずとフードをはがした。

 意外にも整った顔立ちだったが、ボサボサの髪と、底の見えない虚ろな目が、女の異質さを物語っているようだった。

 

「さて」銀髪女は言いながら居直し、私を見下ろした。

 

「改めまして、お初にお目にかかります。私たちの名は、神託の種子(ヴォルヴァ・デ・セミラ)。知ってるでしょうか」

 

「ああ、陰謀論狂いのおばさんが、あんたらのこと褒めてたぜ、よかったな」

 

 今朝、ハリといったダイナーのニュースで流れてた、正真正銘のいかれた集団。男は自分たちが認めた一人以外不要という考えを持って、男がいる施設を自爆テロで見境なしに襲っている。神様もドン引きするような狂信者どもだ。

 皮肉が通じてないのか、通じたうえでそうしているのか、銀髪女は私の答えを聞くと、にっこりと笑った。

 

「あら、覚えが良いみたいで何よりですね」

 

「ハッ、それで? セミラ様だかセサミ様だか忘れたけど、私に何の用だよ、男と間違えたか?」

 

「ふふ、そんなこと。こんな可愛らしい女の子を、男と間違えるはずありませんわ」

 

 のらりくらり、弄ぶように答える銀髪女。

 埒が明かない、そう思って私は、横の丸鋸女に聞くことにして、顔をそちらに向けた。

 ちょうど、聞きたいこともある。

 

「……おい丸鋸女、私と一緒に男がいたはずだ。そいつはどうした?」

 

 丸鋸女はそれに無機質に、ただただ淡々と答えた。

 

「知らない。途中、途中で、日本刀持った下品な女が来た。相手する時間、時間ないから、放って帰った」

 

 日本刀持ちの下品な女……ラミーで間違いないだろう。

 なんであいつがそんないいタイミングで来たのかは疑問だが、あいつが来たということは、少なくともハリは無事だと考えていいだろう。

 とりあえずは、安心できた。

 

「そう、その子! その男の子のことで、ちょっと貴女にお手伝いしてもらいたいのです」

 

 銀髪女は話に割って入り、実にわざとらしいしゃべり方でそう言った。

 それを聞いた瞬間、体に力が入るのがわかった。

 いや、そうだ、わかりきっていたことだ。結局こいつも、ハリ狙いってことだ。

 

「貴女、彼をママ・ロザリアに引き渡してくれないでしょうか?」

 

 

「…………は?」

 

 

 私の予想に反して聞こえてきたのは、そんな話だった。

 なぜ、こいつがロジーの名を?

 あっけにとられた私に構わず、銀髪女は話を続ける。

 

「数日前に、貴女達が囲っている件の男の子と会って、お話しできる機会がありました」

 

 まるで思い出話に華でも咲かせるように、ニコニコと話す女。

 話す機会? いつだ? こんな女近づかせた覚えは――

 そこまで考えて、あることを思い出す。

 クラブでハリを助けたあの日、あいつを買った女。

 そうか、こいつが。

 

「素晴らしいですね、彼は。純粋で強がりで、そして美しい。モテるでしょう。それこそ傾国と言ってもいいくらいに。いつか、彼の一言で、万を超える人間が動くことになる。そんな力を秘めています」

 

「だから、彼は籠の中に居てほしいのです」先ほどと全く変わらない。楽しそうな声色で、女は宣う。

 

「彼は危険です。いつか、あの方にとって障害となる。穢れた悪魔になってしまいます。だから、悪魔になってしまう前に、その羽と角をむしってあげないと。貴女もそう思いませんか? 隣人が悪魔になるなんて、耐えられないでしょう?」

 

 何を言っているんだ、この女は? それが率直な感想だった。

 ロジーとはまた違う、一寸のよどみもない、最も質の悪い悪意。

 狂信。こいつはまさにそれを体現していた。

 

「あのババアとどういう関係なんだ?」

 

「ビジネスパートナーというところでしょうか。裏を取りたいなら、本人に聞いてみてください」

 

「……ケッ。つまり、自分のボスにとって不都合だから消したいってことだろ?」

 

 そう言った途端、銀髪女はさっきのにこにこ顔とは一転、張り付いたような無表情になった。

 

「結局アイツに黒髪黒瞳のお株を奪われるのが怖いってわけだ。随分とみみっちい奴の下について――」

 

 瞬間、鈍い音と衝撃が、自分の下腹部に入る。

 

「ガッ……!」

 

 腹を蹴られたということを脳が認識する前に、私の口からは嗚咽が漏れた。

 

「……取り消しなさい」

 

 もう一度、同じ場所を蹴られる。

 

「あの方は!」

 

 蹴られる。

 

「貴女がたのような害虫が!」

 

 蹴られる、蹴られる。

 

「量っていいものじゃあ、ない!」

 

 蹴られる、蹴られる、蹴られる。

 

「殺す! 殺す! 殺してやる! あの方を愚弄するものは、全てェ!」

 

 同じ人間とは思えないほど、銀髪女は怒り狂った表情で、怒号で、万感の力を込めて私を蹴りまくった。

 

「アッギィッ……!」

 

 やばいな、こいつ。少し笑えて来るくらいだ。

 せっかく覚めたのに、再び薄れゆく意識の中で、私はそんなことを考える。

 また、蹴られる。

 

 

 ――と思ったが、なぜか腹に痛みが来ない。見ると、丸鋸女が私の前に立ち、銀髪女を制止しているのがわかった。

 

「ルナさん、それ、それ以上は、ダメ。計画」

 

「……ごめんなさいニカ、頭に血が上ってしまったようです。私もまだまだですね……計画もいいですが、その前に彼女に聞いてみましょう」

 

 銀髪女は、先ほどの激情が嘘のように、ニコニコ顔に戻っていた。

 気色悪い。この女と十数分話した感想は、これに集約されるだろう。

 計画? 何企んでるんだ、こいつら。

 女は取り繕うように咳ばらいをして、再び私に向き直った。

 

「貴女もごめんなさい。でもわかったでしょう? 私の前であのお方を愚弄してはいけませんよ?」

 

 まるで子供に言い聞かせるようなそれに、私は舌打ちで答える。

 

「……本題に入りましょうか、イト。お金はいくら欲しいですか?」

 

「はあ?」

 

 さっきと全然つながらないその問いに、私は思わず素っ頓狂な声を上げた。

 そんな私の考えを察したのだろう。銀髪女は微笑んで、話を続けた。

 

「簡単に言うわ。あの黒髪黒瞳の子がオークションで売られる値段の、さらに倍出しましょう。それで、あの子をママ・ロザリアに渡してください」

 

 聞こえたのは、あまりにも現実味のない話だった。

 ハリを売る。黒髪黒瞳を売る。今更いうべくもないが、それで発生する金額は、少なくとも私の人生を何十回何百回買ったところで釣りがくるだろう。

 

「……信じられるかよ」

 

「大丈夫よ」

 

 私の話を遮り、銀髪女はさらに話を続ける。

 

「今言った金額を、全額前金で出します。そして、仕事が終わったら、さらに同じ額を渡します。これなら問題ないでしょう? もちろん、値段に納得がいかなかったら、いくらでも増額してあげます」

 

 それを聞いて、私は目を見開いた。

 こんな世界で生きてきたから、嘘をついてるかどうか、そいつの顔を見ればある程度分かるようになった。

 だからわかってしまった。この女はいかれてるが、嘘はついてない。

 

「もちろん、ママとも話はついていますから、仕事を終えれば、不可侵条約の話抜きに、ロザリアのマフィアから追われることもなくなりますよ。どうでしょうか?」

 

 不可侵条約の話を知っている。ということは、ロジーとつながっているのも嘘ではないだろう。

 突如舞い降りた、もう一生ないだろうチャンス。

 真っ当な人生を買えるチケット。

 何も言えなくなった私に畳みかけるように、銀髪女は優しい声色で続ける。

 

「辛かったですね、イト。黒髪黒瞳の男を手に入れれば、裕福な人生が待っている。それで、貴女はここまでひたむきに頑張ってきたのでしょう。もういいのです、もういいの。私たちが代わりに、貴女の人生を買い戻してあげましょう。これでもう、血みどろの生活から抜け出せます」

 

 抜け出せる?

 そうか、抜け出せるんだ、この生活から。

 生傷が癒えなくて、いつも腹を空かして、寒い。そんなゴミ溜めのような生活から、抜け出せる。

 

 そもそも、なんで私はハリを守っている? なんでこんな血みどろになってまで、あいつを守る?

 あいつが黒髪黒瞳の男だから。価値があるから、あいつを利用すれば成り上がって、良い人生を買えるから。

 

「わかるでしょうイト。この選択は貴女だけじゃない。貴女の大切な仲間も救える話なのですよ? こんなローリスクでみんなを救える。素晴らしいことではありませんか?」

 

 ああ、そうだ、ハリは弱いし、私を信頼しきってる。今日みたいに二人きりで出かけて、人気のないところで眉間に一発ぶち込めばそれで終了。リネンとラミーも、金の話を聞いたら多分納得するだろう。金さえあれば、この国では伸し上がれる。こんな簡単な話もない。

 

「……具体的な額は?」

 

「ええ、ええ、そうですね……このくらいでしょうか? もちろん、さっきも言いましたが、いくらでも増やせるますから」

 

 銀髪女が懐から紙切れとペンを出し、乱雑に書いた無数のゼロ。それは大多数の人間が生涯、拝むことすらできない金額だった。

 

 ……これで全部終わる。

 自由になったら何をしようか。

 そうだ、まず故郷で家を買おう。

 昼の仕事をして暮らして、週末の夜になったらレストランに行って美味いものを食べる。

 冬になったら、ルーラあたりを連れて、またあのボランティアのところに行ってみよう。まだやってたらいいけど。

 子供のころに貰ったココアの銘柄を聞いて、マーケットで買って、濃い目にして飲もう。

 そして……。

 そして――

 

 

 

 ハリって、甘いの好きだったっけ?

 

 

 

 気が付くと、目の前の銀髪女の顔に、何やら液体がかかった。

 初めてこいつが驚いた顔をしたのと同時に、自分が何をしたのかをようやく理解した。

 

 ああ、私は今、こいつに唾を吐いたのか。

 

「……どういうつもりで?」

 

 低い声で銀髪女は聞いてきた。

 私はそれに、なるべくバカにするように、ただ答えた。

 

「お前んとこのヤリチンのケツでも差し出しとけ、バーカ」

 

 銀髪女は、愉快なくらいわなわなと震えている。

 数秒間の沈黙。

 丸鋸女が、ため息をして言った。

 

「では、では、計画に変更なく……」

 

「ッ……ええ、そうですね。彼女に知性が少しでもあることを、期待した私がバカでした」

 

 瞬間、また腹を思いきり蹴られた。

 やはり痛い、だがなぜか、悪くない気分だった。

 

 確かに大馬鹿かもしれない。金も人生も、仲間のチャンスまでフイにして、ハリ(あいつ)を守るメリットって、何なんだろうか?

 目の前のチャンスを全て捨ててでも、私はあいつに、昔飲んだココアを飲ませることを優先した。

 

 なんでそこまで?

 その理由の名を、私はまだ知らない。

 



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46.Transition

「「イトが連れ去られたぁ!?」」

 

 ルーラとリネンの声が、部屋の中に響いた。

 モンタナの屋敷の中。その奥にあるエレーミアの部屋で、俺は先ほどの一部始終を、いつもの面々に語っていた。

 満身創痍の状態でラミーに連れられて帰ってきたときは、なぜそうも生傷が絶えないのかと先に叫んだ二人に怒られたわけだが、今その話は割愛しよう。

 議題にするべきは俺の生傷の原因、今ここにイトがいない理由だ。

 

「待て、おい待てよ、黒髪黒瞳。お前を攫うんならまだしも、なんでそのフードはあのオトコ女を持ってったんだ? そいつは目の前にあるダイヤとガラス玉の区別もつかないクソバカってことか?」

 

「わからない。ただ、間違えてというよりも、最初からイトを攫うのが目的なように見えた」

 

 リネンのもっともな疑問に、俺は現状そう答えるしかなかった。

 ここまできて自意識過剰だなどとは言えないだろう。俺――いや、というより、黒髪黒瞳の若い男という『属性』は、この世界において同質量のプラチナよりも遥かに高値が付くものだ。

 イトのことをガラス玉だとは思わないが、だとしても彼女が狙われる理由があるとすれば、それはなんだろうか。

 

「強いて考えるならば、こちらの戦力の削減かしら」

 

 まるで察したかのように、エレーミアは口を開いた。

 

「彼女は今やモンタナの――というより、この世界じゃかなり上のランクにいる実力者だしね。イトを殺せる人がいるなら、その名前は聖歌隊に謳われるような伝説となる、なんて与太話もあるくらいよ」

 

「……イトって強いとは思ってたけど、そこまでなのか?」

 

 エレーミアの言葉を受けて、俺はリネンにそう聞いた。なんで私に聞くんだ、と言わんばかりの表情をしながらも、どうやら答えてはくれるようだった。

 

「聖歌隊うんぬんの話はただのデカい尾ひれだろうけどな。ただ、アイツの化け物じみたタフさはお前も知ってるはずだ。その辺のチンピラ数十人に軽機関銃持たせようが、10分も持たねえだろうよ」

 

「ま、私が相手の場合は話が違うけどな」と言いながら、リネンはふん、と息を吐いた。

 

 女性が強いこの世界でも、彼女が頭一つとびぬけた存在であることはわかっていたつもりだったが、どうやら想像以上のものだったようだ。

 

「確かに、強さという一点でいうなら、イトはハリとは違う需要があるわね」

 

 エレーミアは顎に手を添え、深く考えるようなそぶりで続ける。

 

「『A5』の錠剤を服用できる人間なんて、私なら敵方にいると考えただけで嫌になるわ。その中でもあの子はとびっきり。できれば無力化しておきたいというのはわかるけれど」

 

 『錠剤』。この世界に蔓延る、そしてこの世界を形作る、身体強化用の薬。

 即効性と効果は折り紙付きだが、それ以上に強い負荷を精神と肉体に与える。

 以前ベルさんに聞いた話だが、錠剤のカテゴリはE~A。そこからさらに細かく1~5まであるらしく、一般社会で服用されるのは、最高でもDまでらしい。

 『A5』は最上位。与える力は凄まじいが、その負荷は致命的で、ほとんどの人間は服用した時点で血を吐いて死ぬか、運が良くても脳を焼かれて廃人になるからしい。イトやリネンのように常用できる人間は、ベルさんが知ってる中でもこの二人だけとのことで、天才的だとさえ言っていた。

 ちなみにルーラは『C4』、ラミーが『B5』らしい、それであの強さなのだから、Aカテゴリがどれほどのものか計り知れない。

 

「と、いうのがボスの見解だが、ハリくん、君はどう思うね? 現地にいたものとしての意見を伺いたいね」

 

 すると、腕を抱えて静観していたベルさんが、話のバトンを俺に渡してきた。この人が俺に意見を求めるなんて、珍しいこともあるものだ。

 

「……正直、理由としては弱い気がする。第一、襲ってきたあのフードの女は、悔しいけどイトを圧倒していた。その場で殺すんならともかく、あんな戦力を持った奴らがわざわざイトを生かして連れ去ったってことは、ほかに理由があるはずだ」

 

「まあ、それもそうなのよねぇ」

 

 俺の答えを受けて、エレーミアが嘆息する。彼女自身も自分の答えに納得していなかったようだ。ただ肝心な『ほかの理由』がわからないために、思考が振出しに戻っただけだが。

 

「ベルさんこそ、何か知らないか? あんただったらイカレたテロリストの思考だって模倣できそうな気がするけど」

 

「失礼だなあ君も。いくら私が聡明でも、そんなもったいないことをする奴らのことなんて、理解したくもないね」

 

 ケラケラとからかうように、ベルさんは俺に笑って見せた。

 少しだけ、冷や汗が出る。

 

「あん? それってどういう――」

 

「いいじゃぁんもう、メンドクサイなぁ」

 

 リネンの言葉を遮って、ラミーがソファから立ちあがり、伸びをしながら言った。軽くあくびもして、続ける。

 

「あのクソフードの目的とか知らないっつーのぉ。やることは一つ! アイツら全員ぶち殺して、そしてついでにアイツら全員ぶち殺す。んでさらについでに、まあ時間があれば、イトも生きてれば助ける。それだけっしょ」

 

 まるでイタズラを考え付いた子供のような、楽しそうな笑顔を浮かべる。

 

「いや、最優先で助けてよ」

 

「それにぃ?」

 

 ルーラの突っ込みを無視しながら、ラミーはそばに置いていた自身の日本刀を持つ。さやから少し出した刃は、先ほどのフード女との闘いで、ボロボロになっていた。

 

「こいつの落とし前付けてもらわなきゃさあぁ」

 

 ああ、それが本音だなと、この場にいる全員が考えたと思う。

 

「……まあ、ラミーの言うとおりね。理由を探るのはイトを助けてからでも遅くはないわ」

 

 少し呆れた口調ながらも、エレーミアもそれに同意した。

 確かにそうだ。今最優先にすべきは、なぜこうなったかではなく、イトを助けるためにどう動くべきかだろう。

 

「わざわざ攫ったということは、すぐ殺すようなことはしないはず。街の連絡網を使って、情報を集めてみるわ。あなた方も少しでも何かわかったら、すぐに連絡を入れるように。独断での行動は許さない」

 

 エレーミアは立ち上がり、よく通る声で、この場にいる全員に指示を出した。ロウティーンでありながらたぐい稀なる才能と、それがあってなお余りある過酷な環境によって育てられたその風格は、裏社会のボスというにふさわしい。

 

「いい? 勝手に死んだりしたら許さないからね。解散」

 

 だが最後に出たその願望にも似た警告は、彼女にまだ残っている子供の部分だろう。できればずっと残していてほしいと思うのは、俺のわがままだろうか。

 

「何よその目は、ハリ? 言っておくけど特にあなたに言ってるんだからね? 悪いけど当分外出は許さないから、そのつもりで」

 

「ウッ……すまない」

 

「……怪我もしたんだし、今は休んでなさい」

 

 エレーミアはそう言うと、なぜか少しバツが悪そうに部屋を出て行った。

 実際彼女の言うとおり、俺が出て行ったって足手まといにしかならないだろう。家の中でニュースなり新聞なりで、少しでも関係がありそうな情報を探す。歯がゆいが、今の俺ができることはきっとそれくらいだ。

 

「大丈夫だよハリくん! イトは必ず私たちが助けるから」

 

 ルーラが俺を見て、明るく笑ってそう言った。

 俺が自分を責めないようにしてくれているのだろうか。ありがたいのと同時に、気を使わせてしまったことへの申し訳なさを感じる。

 

「お前に助けられるようになっちゃ、いよいよアイツもおしまいだな」

 

「言えてるわぁ」

 

「うっさいよあたおかコンビ! じゃあ私たちも街に行ってみるから、期待して待っててね!」

 

 そう言いながらリネン、ラミーとともに、ルーラも部屋を出て行った。

 これで、今部屋にいるのは、俺とベルさんだけになった。

 少しの静寂。

 クスクスと相変わらずの笑い方をして、ベルさんは静かに口を開いた。

 

「フフン、今更ながら、君のモテっぷりはすごいな。こりゃ本気になれば国だって傾けられるんじゃないか?」

 

 とても面白るような顔をして問いかけてくる。先ほどと打って変わって他愛ない雑談だが、それが今は少しありがたく、少し乗っかることにした。

 

「そんなんじゃないでしょう。この身体があくまで億万長者へのチケットだからですよ。そりゃあ、誰でも欲しがるに決まってる。それがあるから、みんなだって俺を守ってくれてるんだろうし」

 

「いやいや、まあ、イトたちもほかの3人も、最初はそのつもりだったろうがね……多分あの子たちはもう、無限の金を積まれたって、君を売ることはしないだろうさ」

 

「なぜです?」

 

「それは自分で考えたまえ、ハリくん。少なくともイトは、テロリストに殺されかけてまで、金を欲しがるような女じゃないさ、そうだろう?」

 

「……そうですね、その通りだ」

 

 ベルさんはイトたちのことを、結構昔から知っているのだろう。

 薬を売ってその代金をもらう。それだけの関係で、イトたちもベルさんもそれは否定しないはずだ。

 けれど、彼女たちと話すときのベルさんは、心なしか楽しそうに見えるのは、俺の願望だろうか。

 多分そうだろう。ベルさんには、彼女たちのことは好きでいて欲しかった。

 

「ふむ、まあ、彼女たちのことは大切にしてやりたまえ。さて、私も街にでも行って――」

 

「ベルさん」

 

 

 

 

「なんであのフード女がテロリストだって知ってるんだ?」

 

 

 

 

 好きでいて欲しかったよ。

 

「……」

 

 数秒が、永遠に感じるような沈黙。

 ベルさんは、表情を少しも変えず、一片のブレも見せず、ただただ静かに聞いてきた。

 

「君が言ったんじゃないかね、私ならテロリストの思考もわかるんじゃないかって」

 

「襲ってきたのがそうだとは言ってない」

 

 『内通者』。イトが話してくれた。ロジーが仕掛けるであろう毒。

 ただの杞憂であって欲しかった。万一そうだとしても、俺の知ってる人の中にはいないだろうと。

 ダイナーのテレビで見た、神託の種子(ヴォルヴァ・デ・セミラ)というテロ集団の事件。

 嫌な予感がするといって、ラミーをよこしたベルさん。

 きっとそうはならない、そんな予感がしていた。

 

「なんで、テロリストなんて単語を出したとき、まったく疑問に思わなかったんだ?」

 

「……」

 

「なんで、襲ってきたのがそいつらだって、知ってるように今喋ったんだ?」

 

 だってそうだろう? 俺が話したのはあくまで、フードをかぶって丸鋸を持っためっぽう強い女に襲われて、イトが攫われた。これだけで、テロリストなんて単語は一回も出さなかった。

 実際のところ、俺もあの女が神託の種子かどうかなんて知らない。ただ近場であの事件が起きたタイミングで、今回の襲撃。どうしても無関係が気がしなくて、ベルさんにカマをかけてみただけだ。

 『テロリスト? 襲ってきた奴がそう名乗ってきたのかい?』なんて質問を投げてくれれば、俺の勘違いとして、謝罪すればそれで終わりだった。

 

 そんなもったいないことをする奴らのことなんて、理解したくもないね。

 テロリストに殺されかけてまで、金を欲しがるような女じゃないさ。

 

 今目の前にいるこの人はそう言った。まるでそいつらを知っているかのように、まるでその顛末を知っているかのように。

 

「ベルさん、俺はハッキリ言ってアンタみたいに頭が良くない。今言った話だってたくさん穴がある。『勘違いだ』と一言言ってくれれば、アンタを疑ったこと、謝るよ」

 

 そう言う俺の顔は、きっと情けない顔だろう。こんなことを言いながら、俺はこれが勘違いで、彼女がそれについて憤ることに期待していた。

 

 

 

「……ククッ……クハ、ハハハ!」

 

 

 

 それとは正反対だ。

 彼女はまるで、耐えきれないというように、腹を抱えて、静かに笑い始めた。

 

「ベルさん……?」

 

 俺の呼びかけに応えず、彼女は声を殺すようにして、そのまま笑い続ける。

 ひとしきり波が収まるまで笑い続け、そして落ち着いたと思ったら、息を整え、俺のほうを見た。

 その顔は、いつもと全く同じ、ニヒルな笑みを浮かべていた。

 

「私は嬉しいよ、ハリくん」

 

 ベルさんがソファを立ち、対面から、俺の隣に座り直す。

 

「これで気づいてくれなかったら、もうだめかとも思っていたんだが」

 

 にじり寄りながら、手を、俺の下腹部にあててくる。

 

「これならば、ママ・ロザリアもきっと喜ぶだろうさ」

 

 顔が近づく、俺の頬に、彼女はもう一方の手を添える。

 

「心配するな。彼女がきっと、君を一端の男に変えてくれるはずだ」

 

 鼻と鼻が触れるくらいに、唇が触れる寸前くらいに、彼女の貌がある。

 

「偶然じゃない。やはり君は、この地獄に来るべくしてきたのさ」

 

 ……今更、本当に今更ながら、気づいた。

 

「ハリくん」

 

 

 

 

「夜の王に、なってみないかい?」

 

 

 

 

 ベルさんの目は、眼鏡と隈に縁どられたその瞳は。

 底が見えないほど、暗く、黒い。

 




今更!
よくわかる『錠剤』のカテゴリ

E:一般医療で使われるレベル。オフィスワーカーの体力不足解消に使われる程度。
D:肉体労働従事者が主な服用者。用法用量には要注意。
C:強化幅も負荷もかなりのもの。大半は軍用に使用され、横流し品が闇で大量に出回っている。
B:人智を超えた動きができるようになるが、適性がないとすぐ廃人になる。
A:現状で最高ランク。飲めばたちどころにマーベルヒーローみたいな強さとタフさが手に入る。残りの寿命がいらないあなたに。


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47.Speculation

 夜の王。

 目の前にいる彼女が、その深い隈が刻まれた目を、しかし爛々とさせて放った言葉。この言葉が意味することは果たして何だろうか。

 いや、きっとこれは、今考えるべき事柄ではないだろう。

 問題は、内通者がベルさんだったということ。

 とても端的で、わかりやすい。嫌になるくらいだ。

 

「……詩的な表現は苦手じゃなかったっけ? いつもみたいに、俺程度の頭でもわかるように言ってくれないか」

 

「声の震えが感じ取れるぞ、ハリくん?」

 

 そう言うベルさんの表情は、まるで俺を品定めするかのようだった。実に楽しそうで、こんな場面なのに、この人はまさにショッピングでも楽しんでるかのようだ。

 

「だが、それもまた良い。男だって強がることすらできないようじゃ、私も困ってしまうからねぇ」

 

 捕食者のような、しかし自身がそれであることを寸前まで気づかせないその狡猾さは、ヘビのようにも思える。俺のことなんていつでも丸呑みにできる、とでも言いたげな目が、より一層それを想起させた。

 俺のことをひとしきり眺めたベルさんは、一区切りついたかのように息を吐き、向かいのソファに戻った。

 

「さてハリくん、今君は私に聞きたいことが二つはあるはずだ。なぜ私が君たちを裏切ったのか、それはいつからか――だろう?」

 

 今の現状を整理するように、ベルさんは微笑みを崩さず、ただただ淡々と述べた。

 この余裕な態度を見るに、やはり先ほどまでの言動は、意図的に俺が答えにたどり着くように誘導したというところだろう。

 

「教えてくれるんなら、ぜひそうしてくれよ。話のあてにコーヒーでも淹れるかい?」

 

 動揺してる場合ではないだろう。裏切りに対していちいち落胆しているような余裕もない。

 俺は努めて平静を装って、ベルさんを見つめ、次の言葉を待った。

 彼女は楽しそうだ。どんな時でも楽しそうだ。それ以外ないだろうとでも言うように。

 彼女は口を開いた。

 

「是非と言いたいところだが、こんな無粋な、淹れてくれたものも冷めてしまうような時でなく、もう少しロマンチックなタイミングでお願いしたいね」

 

「さて」彼女は足を組みなおし、顎に手を当てる。

 

「では回答だが――そもそも裏切ってないと言ったら、どうするね?」

 

「……最初からロジーのスパイだった、ていう解釈でいいのか?」

 

「半分だけ正解だ」

 

 半分だけ、それはどういう意味だろうか。

 考えても仕方がないだろう。答えはすぐに彼女が発する。

 

「あの夜、君たちとロザリアの館でやった、グレート・エスケープと言ってもいい素晴らしい脱出劇。あの演目を果たした直後から、私は彼女にコンタクトを取っていた」

 

「なんだと?」俺がそういった瞬間、彼女は人差し指を俺の口に当ててきた。あせらず最後まで聞け、という意思表示だ。

 

「使者を通して私はロザリアにある契約を持ち掛けた。我々の行動を逐一報告する、その褒美として、(ハリ)がロザリアの手に渡った時は、私に組織内で研究職の最重要ポストと、君を最優先でいじくれる権利を与えること……まあ、つまりだ」

 

 ベルさんは首を小さくかしげて、指を空中でくるくると回す。考えをまとめるルーティーンを、何でもないようにしているのは、ことこの場において少しも緊張していない証だ。

 

「わかるだろう? モンタナがママ・ロザリアに潰されれば、私は君を研究できる。万に一つ君たちがロザリアから逃げおおせたとしても、私は君のそばにいて、いつでも弄りまわせる」

 

「どう転んでも、アンタは勝つってことか」

 

「その通り。どこにオールインしても大当たりなルーレットだ。やらない阿呆もおるまいよ」

 

 おそらくだが、ロジーはベルさんを本当に重用するつもりだ。

 『クリーピーローズ』。運用さえ間違えなければ、大抵の人間を意のままに操れる。魔法の錠剤。どうやってあの錠剤ができたかなど知らないが、ロジーのあの求めようからして、多分まだ、ゼロから生産することはできないのだろう。

 ベルさんは素人の俺が見てもわかるくらい、化け物じみた薬学の知識を持っている。錠剤を取り扱う闇医者の中でも、常軌を逸しているレベルの科学者だと、以前イトが言っていたことを思い出した。

 生産方法が確立されていない薬、その課題を高いレベルで解決できるであろう科学者、その科学者の目的。

 ベルさんがロジーと通じるための要素は、最初から否定しようがないほどに揃っていたのだ。

 

「……前々からつかみどころがない人だと思っていたけど、なるほどな、とんだコウモリ女だったわけだ」

 

「アッハッハッハ! 酷いなあ、だが的を射てる。意外とそんなセリフを吐けるところも好きだよ」

 

 ベルさんは乾いた、演技じみた大げさな笑い方をした。

 彼女の胸ぐらにつかみかかりたくなる衝動を、睨みつけることを代替として耐える。いま彼女をひっぱたいたところで、何も解決するわけではないだろうから。

 

「――それで、裏切者の私を、君はどうしたいね? 組み伏せて殴りながら犯しでもするかね? それはそれで素敵だ」

 

 そんな俺の感情を知っているかのように、ひとしきり笑った彼女は言った。それは開き直りともまたちがう。開き直るという行為は、やらかした行為に多少なりとも罪悪感があるやつがすることだ。

 この人はそういう人じゃない。世間の倫理を知識として理解しているが、それと自分の目的を比べた時、秤にかけるまでもなく後者を選ぶ、そんな人間だ。

 きっと彼女は、裏切るという感覚を知らないだろう。そんな気がした。

 沸いてくるようなこの感情には折り合いをつけよう。まだ聞きたいことは終わってないのだから。

 

「待てよ、まだ聞けてないことがある。あのフード女にイトを襲わせたのは、アンタの指示か?」

 

「無論だ」

 

 にべもなく、ベルさんは言った。俺は今苦虫でもかみつぶしたような顔になっただろうか。

 

「そう怒らないでくれたまえ。あの子を殺そうとしたわけじゃない。ほどほどに弱らせて家でおとなしくさせて欲しいといっただけなのに、やれやれ全く彼女らときたら加減というものを知らない。ラミーを送ってなかったら、どうなってたことか……」

 

 フード女に愚痴りながら、ベルさんは嘆息をした。彼女が、あるいはロジーがどうやって『神託の種子』と繋がって、それを使役できるようにしたかなど知らないが、あんなカルト教団を動かしてまで、イトを生け捕りにした。

 なぜそうしたか。決まっている。

 

「イトが絡めば、俺が逆らえなくなる。そういう魂胆だろう?」

 

 言うと、ベルさんはクスリと笑った。

 

「違うのかね?」

 

「だとしたら?」

 

「念のために言っておくが、君が協力的な態度をとってくれない場合、イトの生死は保証できない。ああ、彼女の強さは今回あてにしないほうがいい。神託の種子の実力は君も見ただろう?」

 

「……そんな前置きはいい。つまるところアンタは俺にどうしてほしいんだ? 一緒にロジーのところに行って、あのババアを慰めてやれってか?」

 

「ロザリアに下ってほしいのは合ってるが、足りないな」

 

 ベルさんはソファから身を乗り出し、俺の膝に手を置いた。

 さらに顔を近づけて、耳元で俺に囁いた。

 

「言っただろう? 『夜の王』だ。君にはそれになってほしい」

 

 再び出てきた、その単語。一体それはなんだというのか。

 俺が沈黙するのを見て、彼女はしようがないとでも言うように、言葉を続けた。

 

「ハリくん、私の目的は以前話しただろう」

 

 ベルさんが話してた目的。確か、男性のナニを自分に生やして……だとか言っていただろうか? 聞いたときは、正直酔っ払いの戯言とばかり思っていたが。

 

「本気だよ、私は」

 

 その声のトーンは先ほどまでと違い、圧があるように感じた。視界は彼女の横髪だけ映して、その表情はうかがえない。

 

「ハリくん私は、私は完全になってみたいんだよ。女であり男であり、人であり人ではあり得ない。そんな矛盾すら超越した存在だ」

 

 耳元で、息の音が大きくなる。興奮してきているのか?

 そう思った、矢先。

 途端。

 彼女は俺の肩を痛いほどの力でつかみ、俺の目の前にその顔を見せる。

 恐ろしさすら感じる、恍惚として表情だった。

 

「すべての快楽を享受したい、全ての痛みを味わいたい、全ての倒錯を手に入れたい。そして、そしてそしてそしてぇ、全て手に入れ、全てのオーガズムで満たされ! 囲まれ! 果て! 生を遂げる! それ以外に何が要るという! 生物として、それ以上に重要なことなど何があるというッ! それは神秘だ、それは神話だ! ああ素晴らしい素晴らしい素晴らしい! 巷で蔓延っているお上品なイデオロギーや主義主張などクソの役にも立たん! 私の脳を破壊するほどの、圧倒的な悦楽ぅ! 人間としてのプライドなどただの傲慢でしかないと思い知らされるほどの、全てを踏みしだく絶頂ぉ! それが、それこそが生命ぃ! その極地なのだよぉ!」

 

 すさまじい勢いでまくしたてられた彼女の目標という名の狂気。それに飲まれ、俺は言葉を失ってしまった。

 話はほとんど理解できなかったが、わかったことが二つ。ベルさんが思っていた以上に重度の倒錯者だったこと。そして、だからこそ、そこに至るための手段を選ぶ人間ではないということだ。

 一通り言い終えたベルさんは、ふうふうと肩で息をして、クールダウンし始めた。

 

「……だから君、夜の王になりたまえよ」

 

 先ほどとは一転して、まだ顔色は紅潮しているものの、彼女は余裕のある声色へと戻る。

 

「ハリくん、君は素晴らしい逸材だ。貴重な美男というだけではない。イトたち(アウトロー)を心から従わせるそのカリスマ性。ロザリアが持つ環境と資金力を利用すれば、大勢の人間を動かせる立場になれる」

 

「……アンタが言う『夜の王』ってのは、つまり――」

 

「そう、ロザリアのファミリーの幹部、大量の美男美女(サンプル)と、それらを使った実験を可能にする、人身売買のトップさ。君ならそれができる」

 

 総括すると、つまり彼女はこう言いたいのだ。自分の研究のために、俺にあのリドーのまねごと、それも質も量も大幅に上げた人身売買をしたいから、神輿になれと。そのためにロジーに下り、さらに体を好き放題に弄らせろと。そして、断るなら神託の種子にイトを殺させると。

 ……イト、君たちの周りの人間は、こんなのばっかりだな。自分の悦楽のために手段を選ばないような。その度に君たちが、その業をおっ被ったのだろう。

 

 うんざりだよな、いい加減。

 

「それで? まだ返答を聞いていないが……」

 

 ベルさんは小首をかしげて、俺に問いかける。その言い草は、断られることなど微塵も予想していないような、癪に障る感じだ。

 

「ああ、いいぜ」

 

 言った自分でも驚いたくらい、俺の声色はあっけからんとしたトーンだった。

 ベルさんも少し面食らったのか、俺を見ながら、わずかに目を見開いた。

 

「……ほう、もう少し苦渋に選ぶものと思ったが」

 

 確かにそうだ。これでもう二度と、俺の人生は暗闇になるかもしれないのに。イトたちにももう二度と会えなくなるかもしれないのに。結局力あるものには勝てないという、夢も希望もない結末の始まりだというのに。

 

 

 

 

 理由は明白だ。それは違うから。

 

 

 

 

「ベルさん」

 

 この世界では、自分の安全が何より高い。ベッド一つ分、一晩分の安全を手に入れるために、大量の血を払うことだってザラだった。

 幸か、不幸か。俺の身体(黒髪黒瞳)は、この世界では血を凌駕する価値がある。

 俺自身が、重要なカードになれる。

 イト、本当に、安全ってのは高いもんだな。

 今夜は俺が、君に奢るよ。

 

 

 

 

「一つ、提案がある」

 

 

 

 




ベルが特に好きです。
出番があってよかったです。


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48.Snooze

 あの女に唾を吐いて蹴り飛ばされてから――もとい私が神託の種子に捕らえられてから、およそ一週間ほどが経った。窓も時計もない部屋でなぜわかるのかというと、自分の腹が空く時間と、それに合わせて奴らが持ってくる食事、その回数で計っているに過ぎない。だから"およそ"。

 ここでの扱いは意外といっていいくらいには悪くなかった。とは言え、『最悪ではない』という程度だが。飯はパサついて不味いし、外の光が一切入ってこない古びた部屋は陰鬱でかび臭い。シャワーに至っては、氷みたいに冷たい水で、犬みたいに洗われた。しかもあの丸鋸女に。

 とはいえ、だ。特別何か拷問をされるわけでもなく、まして洗脳や調教も――そもそも一週間かそこらでできるものでもないだろうが――されるわけでもない。

 何度やってもできなかったことは脱出のみ。実に"平和な"日々だった。

 

「で、いつまでここでお前とハネムーンしなきゃならないわけ?」

 

 今日も今日とて冷たいバスルームで冷たいシャワーを浴びせられる。いい加減いやになって、ここ最近毎日のように、私の身体をスポンジで石鹸まみれにしてくる丸鋸女に聞いてみた。私の腕は安っぽい結束バンドのような手錠を付けられていて、使えない。

 

「黙って、黙ってろ」

 

 相も変わらずこの女は、そっけなく答えるだけだ。私はこいつのことは、今みたいに死んだ目で機械的に動いているときと、丸鋸を振り回して狂喜乱舞している姿しか知らない。テンションが0か100しかない奴というのが、現在のこいつの印象だ。

 

「つれないこと言うなよ。ここ最近ずっと上げ膳据え膳で、さすがに悪いと思ってるんだぜ? 何してほしいのかくらい、いい加減教えてくれてもいいんじゃねーの?」

 

「どうせ、どうせすぐにわかる」

 

 返ってくるのは同じような返答ばかり。当然か。わざわざ教えるようなメリットなんてないんだから。

 ため息が出る。

 となると、やはり、目的は私の監禁、もとい無力化そのものと考えていいだろう。理由は何か? 最も考えられるのは、モンタナ・ファミリーの戦力減だ。

 こいつらにはロジーの息がかかっている。この間のルナとかいうやつの話を聞いた限り、連中の目的はハリを殺すことだ。

 あの守銭奴ロジーがそんなこと許すとはとても思えないが、どうせ後で口八丁で事なきを得るか、裏切るかするのだろう。どうでもいいが。

 とにかく、奴らの理由がそうだとして、ではどんな手に出るのかと考えると、モンタナへの襲撃と考えるのが妥当だ。

 自分でいうのもなんだが、私はあそこにいる誰よりも強い。あと脅威になるとしたら、リネンくらいだろう。

 モンタナが弱ったところに、神託の種子が襲撃し、ハリを強奪。というのが、大まかな筋書きだろうか。神託の種子がモンタナを攻撃すれば、ロジーは不可侵条約を破ってないことになるだろう。あいつが共謀の証拠を残すようなへまをするとも思えないし。

 それどころか、あっちにハリが渡ったが最後、不可侵条約によって、逆にこちらがロジーに手出しできなくなるということだ。

 きっと、あの不可侵条約を持ち出されたとき、ロジーは内心ほくそ笑んでいたに違いない。忌々しいババアだ。

 

「何、何、考えてる?」

 

 不審に思ったのか、丸鋸女は私にそう聞いてきた。いつの間にかシャワーの水が止まっている。どうやら終わったようだ。

 

「あ? お前が黙ってろっつったんだろうが」

 

「……まあいい、立て。体を拭く」

 

 言われるまま立つと、丸鋸女はバスタオルでぎこちなく私の身体を拭き始める。

 服を着せられるが、袖は腕が拘束されてるため通さない。部屋に戻る。

 

「食え」

 

 そう言われて丸鋸女が出したのは、これまた特に代わり映えのない、安いテレビディナーだった。せめてレンジで解凍くらいしろっての。

 そう思い横を見ると、私と同じ凍ったままのものを、丸鋸女はお構いなしに噛み砕いていた。いろいろとあきらめた私は冷たい夕食――おそらく今は夜だろう――に、犬みたいに口を付けた。もう少しいいものを食いたいものだ。

 

 ――ちょっと待て、そもそも、なんでこいつらは私の世話をする必要があるんだ?

 私を襲撃したこと、あれはわかる。ある程度大きな勢力を相手取るとき、まとめて相手するよりも、ある程度分散したところを個別に倒していくというのは、理にかなってはいるだろう。それで私という戦力を無力化するっていう目的もわかる。

 わからないのは、なぜ私のあの時殺さなかったのか、ということだ。

 ハリを売れって交渉をするためだったとして、決裂したあの時点で殺されていないのはなぜだ?

 ひょっとして私は、何か重要なことを見逃しているんじゃないのか?

 わからない、それはなんだ?

 

「イト、イト」

 

 丸鋸女が、かすれた声で私を呼んだ。一旦、思考を中断する。

 

「なんだよ?」

 

 無視してもよかったが、情報を何かこぼさないかと思い、念のため聞き返すことにした。

 

「聞きたかったんだが……お前、お前、なんであの黒髪をそこまで守りたがる?」

 

 聞かれた話は意外なことで、私は少々面食らってしまった。

 

「なんでって、決まってるだろ。そりゃあ――」

 

 そこまで言って、私は次の言葉が出なかった。思いつかなかったというのが正しいかもしれない。前に聞かれたときもそうだったが、私はなんで自分がハリを守っているのか、わからないでいた。

 理由はある。それは断言できる。だがそれが何なのか、自分でもわからない。

 黙っているのを見かねたのか、丸鋸女は先に口を開いた。

 

「お前が、あの時、黒髪売らなかったの、驚いた。絶対、絶対、売ると思った」

 

「はあ?」

 

「だって、だってそうだろう? 男なんて、その程度の価値だ。金の成る木。それだけ。弱くて、利己的な、醜い生き物」

 

 ……こいつの思想について今更どうこう言うつもりもない。むしろこの考えは――ここまで過剰ではないもの――今の世間一般の考えだと言えるだろう。

 だが、なぜか、無性に腹が立った。

 

「一つ忠告しといてやるよ。あいつをほかの男と一緒にすると、痛い目見るぜ?」

 

「なぜ、そう言える? お前に、なにがわかる?」

 

「わかるさ。少なくとも、お前よりかは」

 

「ハッキリ、ハッキリ言って、あれは足手まといだ。とっとと殺したほうがいい。あんな役立た――」

 

「おい」

 

 それはなぜか、考えるより先に発した声だった。

 

「それ以上言ったら喉元噛み千切るぞ」

 

 そう言うと、丸鋸女は口をつぐんだ。気圧されたというより、何かを思案している様子だった。

 クソ、私も私でバカなことをしたもんだ。こんな奴の言葉にいちいちムキになるなんて。

 

「確かに、私に掴みかかってくるくらいの度胸はある。あの女の言うとおりだとしたら、あるいは――」

 

 ボソボソ聞き取れない声で何かを呟いているようだったが、如何せん内容まではわからない。

 『あの女』、という単語が出てきたが、それはロジーのことだろうか?

 そんなことを考えていると、丸鋸女は再びこちらに顔を向けることなく、ただ呟いた。

 

「まあ、なら、好都合」

 

 いつの間に食べ終わっていた、空っぽになった容器を持ち、丸鋸女は何も言わずに席を立つ。何も言わず、その場からいなくなった。

 

「どういうことだ?」

 

 奴は『好都合』といった。さっきまでの問答で、何かあいつにとって、もとい神託の種子にとって都合がよくなる情報があったとでもいうのだろうか?

 ……わからない、何を考えるにも、情報が少なすぎる。

 脳がこんがらがって、天井を見上げる。

 時間が止まったような感覚が、数秒間。

 

「役立たず、か」

 

 ふと、あの女が言いかけていた言葉を思い出す。

 それを言ったら、私もお前もそうじゃないか。この世界の足手まとい。死にたくないから生きて、そのためにたくさん殺してきた。表の人間どもにとっちゃあ、いなくなったほうがいい社会の癌だ。

 真っ当な人間は、『錠剤』でヤク中になったりしない。真っ当な人間は、人が死んで安心したりしない。

 真っ当な人間は、明日のために人を殺したりしないんだ。

 

「ハハ」

 

 そんな風に小さく笑ってみる。

 ここ最近いろいろなことがありすぎて、すっかり忘れていた。そうだ、私たちは死んだほうがマシな存在で、死んだほうがマシな世界で生きている。

 私は今ここで、この場所で死にそうですなんてことを言ったとして、それを知ったやつらは、どう思うのかな?

 ルーラはまあ、ため息くらいはついてくれるだろう。ひょっとしたら悲しんでくれるかもしれない。リネンとかラミーは『へえ』くらいで終わりそうだ。

 ハリは、あいつはどう思うだろう?

 少しは残念がってくれるかな?

 それとも、私がまだ生きてるって知ってたら、まだ助けられるって聞かされたら。

 ひょっとして――。

 

「バカか」

 

 妄想が着陸する寸前に、考えるのをやめた。

 ハリが、私のために――。

 そんなこと、あるはずがない。いや、あっちゃいけないんだ。

 だって、アイツがそんなことしたら、それこそ、取り返しがつかないことになるから。

 

『私たちといるのに、まだ自分だけキレイなままでいようとするのか』

 

 以前、リネンがハリに吐いた言葉を思い出す。

 あいつはキレイなままでいるべきだ。アイツは『そんなこと』しちゃいけないんだ。

 そう自分に言い聞かせる。だってそうだろう、そのために全部壊してきた。そのために全部殺してきた。ハリを私の都合で、私のわがままで、汚すなんてことがあったら。それこそ、私は取り返しのつかないくずになってしまう気がする。

 だから、あっちゃいけない。万に一つも考えちゃいけない。ハリが来てくれるなんて。

 

 ――でも本当に、来てくれたら?

 

「ッ!」

 

 テーブルに思いきり、頭をぶつけた。飯がほとんど残っているトレーが、音を立てて少し位置がずれた。

 

「……食べよう」

 

 誰に言うでもなく、不便で冷たい食事を再開した。

 味はほとんどしない。ちょうどよかった。自分の呆れかえるほど馬鹿な妄想を、沈めてくれるから。

 ふと、明かりが明滅した。それは何だか、私が今日も結局、ここから抜け出せなかったことを、あざ笑っているように見えた。

 



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