トレーナーが亡くなり遺されるウマ娘の短編集 (ツレの人)
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スペシャルウィーク

 眉間に皺を寄せたお医者さんが首を横に振りました。私、スペシャルウィークのトレーナーさんが倒れてから数ヶ月後のことでした。

 

 

「私の……私のせいだ……!」

 

 

 お医者さんが去って少し、この数ヶ月の間、思っても絶対に口に出さなかったこの言葉を、ついに口に出してしまいました。

 

 体調が優れないのに、私に付きっきりで夜遅くまで仕事を、無理をしたからトレーナーさんは。

 

 

 そう考え絶望する私の肩に手を乗せ、お医者さんとは違い安らかな表情で首を横に振ったのは、トレーナーさんのお母さんでした。

 

 

「この子は昔から病気がちで、身体が弱い子でね」

 

 

 開いたお母さんの目には涙が浮かんでいました。

 

 

「だから元気よく走るウマ娘の夢を支えたい、そうしてこの子はトレーナーになったの。って、スペシャルウィークさんならもう聞いているかもしれないわね」

 

「……」

 

「だからスペシャルウィークさんの専属トレーナーになった時も、あなたが日本ダービーを勝った時――いいえ、どんなレースを勝った時だって私たち家族に連絡をくれてね……。私たちもすっかりあなたのファンになってしまったの。あなたがとても家族想いな優しいウマ娘だってことも知っているのよ」

 

「……そう、なんですか。その……ありがとうございます」

 

「わかるかしら。この子にとってあなたは本当に、本当に誇れるウマ娘だったのよ」

 

 

 ……そうだ。

 

 

『最初からずっと私の夢を信じて……応援してくれたトレーナーさんにとって。今の私は、どう映りますか?』

 

『もちろん――あなたは私の誇りだよ』

 

 

 お母ちゃんも言ってくれた、私の誇りだよって言葉をかけてくれたトレーナーさんが。

 

 

「だから自分のせいで、なんて思わないで。きっと、いえ、絶対にそんなこと、この子は思っていないわ。もちろん私たちも。……ねえ、スペシャルウィークさん。この子に話しかけてあげて。これが……っ、最後かもしれない……から」

 

「……はい、ありがとう……ございますっ」

 

 

 そうです。きっとそうに違いありません。

 

 そんなことにも気がつけなかった私に、親御さんは気を利かせてくれて、病室を出ていきました。

 

 外から鼻をすする音が聞こえます。結局私は、親御さんに励まされて、そして、お礼を言うことしか出来ませんでした。

 

 

「……でも」

 

 

 だからこそ、トレーナーさんにはしっかりと、伝えなきゃ。

 

 

「トレーナーさん、トレーナーさん、スペシャルウィークです」

 

 

 まずは、そう。

 

 

「トレーナーさんがスカウトする時に私にかけてくれた言葉、今でも覚えてます。私の夢を支えたい、って」

 

 

 トレーナーさんが私の走った選抜レースを見てくれて、そして私が日本一のウマ娘になりたいという夢を話して、そして。

 

 

『あなたの夢を支えたい! 私の担当ウマ娘になって!』

 

「トレーナーさんはその言葉通りに、私を支えてくれました。私が落ち込んだりして、調子が悪いときは――」

 

『じゃあやりたいこと全部やろう! 食べたいもの全部食べて、行きたいところ全部行こう!』

 

「そう言って私の調子が良くなるようにしてくれました。レースの駆け引きが下手っぴな私に――」

 

『セイウンスカイとレースをするのにレースの駆け引きを学びたいなら……よし、セイウンスカイを見て学んじゃおう。きっとそれが一番の近道だと思うよ』

 

 

 エルちゃんと走ったジャパンカップでも。

 

 

『エルコンドルパサーは確かに強いウマ娘よ。でも彼女は先行策を得意としていて、末脚はスペシャルウィーク、あなたのほうが遥かに鋭いわ。直線の長い府中の2400mならきっと大丈夫。あなたの走りをしておいで!』

 

 

 グラスちゃんの走りを見て、有記念前に自信を失った私に。

 

 

『確かにあなたよりも強いウマ娘はいるし、あなたより才能あふれるウマ娘だっているかもしれない。それでも私が選んだのはスペシャルウィーク、あなたなんだよ。私がずっと傍で見てきて、その夢を応援してきたのもあなたなの』

 

 

 でも一番印象的なのは。

 

 

「日本一のウマ娘になる、ってどういうことなのか……私、ようやくわかりました!」

 

「セイちゃん」

「キングちゃん」

「エルちゃん」

「グラスちゃん」

 

「負けないよ」

 

 

 私の宣言を穏やかに見守ってくれて、頷いてくれるトレーナーさんの姿。

 

 

「恥ずかしいから言えませんでしたけど、まるでお母ちゃんみたい、ってずっと思ってました」

 

『もちろん――あなたは私の誇りだよ』

 

 

 この言葉が、お母ちゃんと重なります。

 

 

「だからっ」

 

 

 言葉が詰まりました。この言葉を言ったらトレーナーさんが本当に手の届かない場所に行ってしまいそうで。

 

 ……トレーナーさんにはしっかりと伝えるって、決心したばかりなのに。

 

 

「本当にっ、本当にっ」

 

 

 言おう。言うんだ!

 

 

「ありがとうございましたっ。今まで、私の夢を、支えてくれてっ。見守って、くれて! 日本一のウマ娘になるっていうのはっ、お母ちゃんに約束したからっていうだけじゃなくて、トレーナーさんとの約束でもあるんですっ。だから、見ててください。私は絶対……っ、絶対に、誰にでも誇れる、日本一のウマ娘になりますから……!」

 

 

 うん、とトレーナーさんが頷いてくれたような気がしました。そして心電図の機械がピー、と。私はすぐにナースコールを押してトレーナーさんのお母さんを呼びました。

 

 

「お亡くなりになられました。……眠るように旅立たれたのですね」

 

「……そうですかっ。ありがとう……っ、ありがとうございます。スペシャルウィークさん、きっと、きっと、あなたのおかげね」

 

 

 トレーナーさん、私、スペシャルウィークは絶対に、絶対に日本一のウマ娘になります。

 

 

「うっ……ううっ……あぁ……」

 

 

 私を産んでくれたお母ちゃんと一緒に、天国から見守っていてくださいね、お母ちゃんは見ていてくれていると思うけど、いっぱい私のことを話してあげてください。怪我もしないように気をつけます。辛いことだってあるかもしれません。でも元気に走ります。見ている人も元気になれるように、私に夢を見られるように、私も、そんな私のことを誇れるように。そのためにも、辛いことだって次の日には乗り越えてみせます!

 

 

「……うああああああああああん!」

 

 

 だから、これからトレーナーさんがいない悲しみを乗り越えるために、今日だけはいっぱい、いっぱい、泣かせてください。

 

 



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サイレンススズカ

「トレーナーさんは……トレーナーさんだけで、静かできれいな場所へ行ってしまったんですね」

 

 

 葬式の場になって、ようやく「本当に自分のトレーナーはもういないのだ」という実感が心中に湧いてきて、思わず口にした言葉だった。

 

 

 車道に飛び出し、車に轢かれそうになったウマ娘の子供を助けての死だった。毎日王冠の後の件などから薄々思っていたが、彼はウマ娘のこととなると向こう見ずなところがあると思う。

 

 あった、のだ。もう彼はこの世にいないのだから。

 

 

「2人でならこの先の限界も越えていけるんじゃないか、って話をしたのに……。私がもう限界、ってなった時、誰が支えてくれるんですか?」

 

 

 静かで風の音と心臓の鼓動だけが聞こえる、自分1人だけの世界が何より大切な景色だった。しかし、それが少し変わった。変えたのはトレーナーだった。レースでも、開けた視界の先にトレーナーがいる。その姿が最後の力を出させてくれていたというのに、彼はサイレンススズカの世界を変えた責任を最後まで果たさずに逝ってしまった。

 

 

「一体誰が、私の理想を否定せず、私に先頭の景色を見せてくれるんですか」

 

 

 涙が出ないのはもう泣き尽くしたからだろう、とサイレンススズカは思っている。大切な人が亡くなったら自分はどうするのだろう、なんて考えたこともなかった。しかし、ひとしきり泣いたあとは落ち着き、自分の一部が無くなったかのような喪失感を覚える、そんな1人の人間、いやウマ娘として普通の反応をするのに実は少し驚いた。走ること以外への感情が希薄だと思っていたためだ。

 

 周りからはトレーナーさんが死んだことに対しての感情が希薄だと思われているかもしれないかもしれない、とサイレンススズカは考えている。サイレンススズカはトレーナーが亡くなった直後、走っては泣いて、泣いては走ってを繰り返していた。泣いている様子を同室のスペシャルウィーク以外に見せることはなかったから、周りからは変化が見受けられなかったのではないだろうかと。

 

 もっとも実際、サイレンススズカを慕うウマ娘は、誰もがサイレンススズカの受けたショックに気がついていたが。

 

 

「覚えてますか。秋の天皇賞のあと」

 

 

 サイレンススズカは、秋の天皇賞の第三コーナーにおいて一瞬脚が動かなくなった。身体的な理由もあるが、それよりも精神的な要因が大きかった。次の一歩を踏み出したら自分は終わってしまうかもしれない、走れなくなってしまうかもしれない。見たい景色はすぐそこにあるのに。

 

 そんな中私の名前を呼ぶトレーナーの声が聞こえた。その声で急に出走前にした約束を思い出した。トレーナーがゴールで待っている。その約束を思い出したら、トレーナーのもとに帰るため、次の一歩が踏み出せていた。

 

 

「もう終わったことだから、とあのときは言いませんでしたが、第三コーナーで脚が動かなくなった時、実は私あの時そんなの関係ない。死んでもいいから走ってしまおう、って一瞬思ったんです。でもスペちゃんともトレーナーさんとも約束していたから、私は帰るための一歩を踏み出すことが出来ました」

 

 

 しかし死んでもいいから走ってしまおうと一瞬思ったサイレンススズカの頭に、一瞬「死の先の景色は自分が求めた静かできれいな景色なのではないか」という考えがよぎったのは事実だった。

 

 

「トレーナーさんが亡くなって、その時の感覚を思い出して、思ったんです。その時帰ってくるための一歩じゃなくて、走ってしまおうって一歩踏み出していたら、約束は守れなかったけど、こんな気持ちになることはなかったのにな、って」

 

 

 とどのつまり、自分が先に死んでいればトレーナーを看取る必要はなかったのに、ということである。健全とは言い難いが、身近な人間を亡くし苦しむ者なら、考えたくなることではあった。

 

 

「でも今はやっぱり帰ってこれて良かった、って思います。スペちゃんも、エアグルーヴも、タイキも、フクキタルも、エルさんも、グラスさんも、ファル子さんも、ブルボンさんもいますから」

 

 

 しかしサイレンススズカはそれを乗り越えた。乗り越えられたのはライバルたるウマ娘たちがいたからであった。レースでは散々後方に置き去りにしてきた彼ら――トレーナーを喪ったサイレンススズカを気遣ってくれた友達思いな仲間、を『置いていかなくて良かった』とはじめて思った。

 

 

「だから1人で先にいってしまったいじわるなトレーナーさんは見ていてください。トレーナーさんだって知ってますよね。私、最後には先頭の景色は譲らないんですから。トレーナーさんが今じゃないって言うでしょうから今だけです。今だけは譲りますけど最後には追い抜きます」

 

 

 静かできれいな場所に、先にトレーナーが1人でいってしまったと考えると実に業腹だが、自分だって差す走りに経験がないわけではない。トレーナーならきっと今は仕掛け時じゃないというだろうから脚を使わないだけなのだ。自分はトレーナーさんが抑えろと言うだろうから追いつかないだけで、私が大逃げをしたらトレーナーさんなんて置き去りですよ、そこのところを覚えておいてくださいねという思いでサイレンススズカは空を見た。

 

 ……いや、違う。自分はトレーナーにそんなことが言いたいのではないのだ。抑える走りで伸びなかった自分に大逃げを提案し、いつだって自分の望む景色を見せてくれたトレーナーに言いたいこと。

 

 考えてみればひとつ。簡単なことであった。サイレンススズカは改めて空を見た。

 

 

「私は。トレーナーさんが見せてくれた景色……きっと、これからも忘れることはありません。今まで本当にありがとうございました。これからも私のこと、ゴールで待っていてくださいね」

 

 

 トレーナーはゴールで待っている。ならばサイレンススズカは、これからも、いつだって、大けやきの向こうから、帰ってくるための一歩を踏み出すことが出来るのだ。

 



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トウカイテイオー

 難産と迷走とちょっとばかりのレオ杯の育成追い切りで遅くなってしまいました。その間にお気に入り登録が100件に到達したとか。非常に嬉しいです。ありがとうございます。


 ある日、ウマ娘のトレーナーにステージ4期の末期肺がんが発見されたというニュースが流れた。

 

 ウマ娘ならまだしもトレーナーの疾病がニュースになったのは、そのトレーナーが『皇帝を越えた帝王』、『URAファイナルズ中距離部門初代覇者』であるトウカイテイオーのトレーナーだったからだろう。

 

 『天才を最強にした』と称されるトレーナーの疾病の発表は世間に衝撃をもたらした。だけど当然、誰よりも衝撃を受けていたのは担当ウマ娘であるトウカイテイオーだった。

 

 

「先生、トレーナーは治るよね!? 治る……んだよね?」

 

 

 普段は病院でトウカイテイオーが大声を出そうものなら、トレーナーから注意が飛んだだろうが、今はトレーナーは眠っており、その声もない。

 

 普段しているであろうやり取りがないだけで、トレーナーの死を意識した自分の頭に、トレーナーはただ眠っているだけだ、と言い聞かせた。 

 

 

「……トウカイテイオーさん。ステージ4期の末期がんというのは、様々な判断基準がありますが、概ね遠隔転移が見られる状況で、普通の手術等は身体への影響が大きく、行えないステージです。つまり抗がん剤治療や免疫治療でがんの縮小を目指し、ステージ3期以下の症状になった場合に手術を行います」

 

「ボクに出来ることはない!? ……んですか?」

 

「寄り添ってあげてください。がんの治療は……こう言うと根性論のようですが、諦めないことがすべてです」

 

「諦めないことだったらトレーナーは得意だよ! ボクがダービーの後に脚を痛めて菊花賞に出られないかもっていう時でもトレーナーは諦めなかったんだから!」

 

「そうですね。あなたのその溌剌(はつらつ)さもきっとトレーナーさんが生きる一助になるでしょう。我々も手は尽くします」

 

「うんっ!」

 

 

 そしてすぐにトレーナーに対する抗がん剤治療が始まった。

 

 副作用としてすぐに吐き気や発熱の症状が出た。

 

 一週間もしないうちに食欲不振や下痢などの症状が出た。

 

 二週間もしないうちに口内炎などの症状が出始め、一ヶ月もしないうちに脱毛や皮膚の角化などの副作用が出て、副作用が出るたび、トレーナーは精神的に弱っていった。 

 

 

「トレーナー、お散歩行こうよっ! すっっごくいい天気だよ今日!」

 

「うん、そうだね」

 

 

「今日ネイチャがさ――」

 

「そっか」

 

 

 トレーナーの口数は以前よりずっと少なくなった。笑わなくなった。下を向くことが多くなった。

 

 

◇◇◇

 

 

 抗がん剤治療が続くある日、トレーナーが病室で泣きじゃくっていた。トウカイテイオーはすぐにトレーナーに駆け寄った。

 

 

「どうしたのトレーナー!? どこか痛いの!?」

 

「ううん、わたし、情けなくって……!」

 

「情けないってなにがさ! トレーナー情けなくなんてないよ! 治療も頑張ってるし、歩いたりだって出来るじゃない! ボク調べたけど化学療法って本当に大変なんでしょ! トレーナーは頑張ってるよ!」

 

 

 きっとトレーナーは治療が辛くて弱気になっているに違いない、とトウカイテイオーは思った。トウカイテイオーは、応援が人に多大な力を与えることを知っている。しかし、一般論として「すでに頑張っている人間に頑張れという言葉は毒となる」ことも知っている。だから「頑張っている」。そう言葉をかけるのが一番だと思って激励した。

 

 

「そうじゃないの。テイオーはまだまだ未来あって、これからも強くなれるのに、もうすぐ死んじゃう私に付き合わせちゃって、それが情けないの!」

 

「……えっ……?」

 

 

 しかしトレーナーから返ってきた言葉から伺える涙の真意はトウカイテイオーの予想とは全く違っていて、彼女はトレーナーが何を言っているのか、一瞬理解が出来なかった。

 

 トレーナーは諦めない。トウカイテイオーはそう思っていた。まだトレーナーがトウカイテイオーのトレーナーになる前、模擬レースでシンボリルドルフに負けた夜のこともそうだし、日本ダービー後に脚を痛めて菊花賞への出走が絶望的かと思われたトウカイテイオーの脚を入念に気遣い、菊花賞への出走を叶えた件もそうだ。今のトウカイテイオーがあるのは、トレーナーが諦めなかったからなのに。

 

 今のトレーナーは諦めてしまっている。自らが生きること、それそのものを。

 

 

「だから――」

 

「トレーナー!」

 

 

 だから、に続く言葉がなんだったのかは分からない。分からないし、聞きたくもなかった。

  

 しかし、どうしたらいいのかなんて分からず、とにかく、トウカイテイオーは自分のトレーナーが、生きることを諦めて死のうとしていることを認めたくなくて、抱きしめた。 

 

 

「諦めないでよトレーナー! ボクはがんの辛さも治療の辛さも分からないから無責任かもしれないけど、それでも諦めないで、って言う! キミはボクのトレーナーなんだよ! 無敵のトウカイテイオーのトレーナーなんだ! 菊花賞の時だって、春の天皇賞の時だって、ボクはキミが諦めなかったからカイチョーを越えられた! 夢を叶えられたんだ! だから……!その!」

 

 

 何を言いたかったのかも、分からなかった。とにかくトレーナーに諦めてほしくなくて、トレーナーはこんなにすごくて自分を支えてきてくれた、そしてトレーナーが凄い理由は、トレーナーが絶対に諦めないからだ、と言ったつもりだった。

 

 

「…………ありがとう、テイオー。励ましてくれて。弱気になってたね、私」

 

「……そ、そうだよトレーナー! 弱気になるなんてらしくないなー! これからもよろしくねトレーナー!無敵のテイオー伝説には絶対にキミが必要なんだからっ!しっかり頼むぞよ!」

 

「うん、そうだね」

 

 

 トウカイテイオーの励ましで、トレーナーが生きる気力を取り戻していないことは、ひと目で分かった。

 

 

 人の気持ちなんて全然察せられないほど、ボクが愚かだったら、こんなに辛い思いをすることなんてなかったのに。

 

 

◇◇◇

 

 

 それからもトレーナーは日に日に弱っていった。医療用帽子を被り、トウカイテイオーと散歩をしたことも数えるほどしかなく、ほとんどは寝たきりの生活になった。

 

 

「カイチョー、ボクはどうしたらいいんだろう」

 

思案投首(しあんなげくび)と。それで私のところに助言を求めにきたのかテイオー」

 

 

 トウカイテイオーは自分とトレーナーの現状についてシンボリルドルフに話した。トレーナーに何もしてあげられない無力さから自分は調子を落とし、それを見たトレーナーが自分を責める、そんな悪循環に陥っている、と。

 

 

「ふむ、難しい問題だな」

 

 

 シンボリルドルフの困り顔から、相槌とかじゃなくて、本当に難しい問題だと思っているんだと感じた。

 

 

「まず第一にテイオー、これはキミ1人で抱える問題ではないだろう。キミのトレーナーにも御両親やご友人といった、その人を想う人がいるのでは?」

 

「親御さんはもう亡くなってるみたいだし、友達もちょっとお見舞いにくるくらいで……今のトレーナーにはボクしかいないんだ……!」

 

 

 トレーナーは少なくともこの3年間、トウカイテイオーに付きっきりだった。なんでそんなことが可能だったかを考えれば、自ずからトレーナー自身の交友関係を理解することができた。

 

 

「……そうか。確認だが、テイオーも、テイオー自身がこの問題を解決したいと思っている、これは間違いないな?」

 

「うん」

 

「ならばやはり私から言えることは少ない。ウマ娘とトレーナーは一蓮托生。ウマ娘の困難を共に乗り越えるのがトレーナーなら、トレーナーの困難を共に乗り越えるのがウマ娘であると、それを示すしかないように思う」

 

「トレーナーの困難を共に乗り越えるのがウマ娘……」

 

 

 トレーナーがウマ娘にとっての杖である、なんて言われる。トウカイテイオーは、トレーナーを物だと思ったことなどなかったが、ウマ娘の杖が不調なら、その不調に向き合うのもウマ娘にとって大切なことなのかもしれないと思案する。

 

 

「どうしたらいいか、というキミの問いに答えられずすまないな」

 

「……ううん、ちょっと分かった気がする。――カイチョー」

 

「なんだ? テイオー」

 

「4月のファン感謝祭、エキシビションレースでボクと走って」

 

 

 トレーナーがなぜ生きる気力を失ってしまったのか、その理由の全てはわからなかったが、しかし、あの時トレーナーは確かにもうすぐ死ぬ自分に突き合わせてしまうのが申し訳ないと言った。 

 

 それはつまり、自分につきあわせることで、つきあわせた期間トレーニングが出来なくて自分が弱くなったり調子を落としたり、伸びしろが潰されたり、そういうことが申し訳ないということなのではないか。

 

 なら、そんなことはないということを、ボクの走りで示そう。

 

 

◇◇◇

 

 

「さぁいよいよ始まりますトレセン学園エキシビションレース!注目は前年有記念の再来、トウカイテイオーとシンボリルドルフ会長の再対決! 勝負の結果は果たして!」

 

「皇帝ー! リベンジ期待してるぞー!」

 

「帝王ー! 王座を守ってー!」

 

 

 エキシビションレース当日は大盛況で学園のエキシビションレースにも関わらず報道が入るほどだった。とはいえ、それも王道距離路線のトップ2人であるトウカイテイオーとシンボリルドルフが走るのだから当然といえただろう。

 

 歓声は気持ちいいものの、今日のトウカイテイオーは、絶対に一着が欲しかった。負けてもいいと思って臨んだレースはないけど、それでも今日だけは。

 

 

「テイオー。キミがこのエキシビションレースに並々ならぬ思いを持っているのは知っている。その上で私は勝ちに行くよ。大舞台ではないが、輸攻墨守(しゅこうぼくしゅ)といこうじゃないか」

 

 

 シンボリルドルフは12月以降、いつかのトウカイテイオーとの再戦に向けてトレーニングを積み重ねていたはず。世間は皇帝が帝王に挑む構図を推しているが、挑戦者はきっとトウカイテイオーのほうだった。

 

 

「……負けないよカイチョー」

 

 

 早々にトウカイテイオーに背を向けたシンボリルドルフに、トウカイテイオーは絞り出すような声で呟いた。

 

 

◇◇◇

 

 

「ゲートイン完了。各ウマ娘出走の準備整いました! さぁいよいよ始まります、トレセン学園エキシビションレース今……スタートしました!」

 

 

 スターティングゲートはトウカイテイオーもシンボリルドルフも完璧だった。

 

 シンボリルドルフはレースの前半、後ろめについて脚を溜める。いわゆる差しの走りを得意としている。しかしスタートが不得意であったり、出遅れがちというわけではない。むしろ完璧にスタートを切って、序盤少しオーバーではないかというくらいにスピードを出し、前に出る。序盤後方に位置取るはずの皇帝が思いの外前にいる。そうすると他のウマ娘は焦り、作戦を乱す。シンボリルドルフお得意の、ほかのウマ娘を牽制し、レースそのものを支配する走り。

 

 今日もシンボリルドルフの威容に当てられたウマ娘が前に出た。シンボリルドルフはスッと後ろに下がり9人だての7番目、トウカイテイオーは4番目に位置取る。先行策、好位差しを得意とするトウカイテイオーは逃げのウマ娘2人と最初からペースの早いもうひとりの先行ウマ娘の後ろ。ここが一番だ。

 

(なんだ、テイオーの調子、悪くなさそうじゃないか)

 

 周りのウマ娘を牽制したシンボリルドルフだが、今日はもとよりトウカイテイオー以外眼中にない。

 

 今一度頂点へ。そのことだけを考えてこの4ヶ月を過ごした。久々に挑むものとしてトウカイテイオーを研究した。

 

 

 トウカイテイオーは先行策を得意とし、脚を溜める差しの走りをしたシンボリルドルフと末脚を比べた場合、シンボリルドルフに軍配が上がるだろう。

 

 つまりはシンボリルドルフはトウカイテイオーに逃げられるほど離されず末脚を残せれば良い。

 

(向こう正面から少しペースを上げてみようか)

 

 

「先頭から後方までおよそ10バ身ほど、コーナーを曲がります」

 

 

(バ群は長すぎず短すぎず。カイチョーはいつもどおり後ろめ。有記念と同じ。逃げの子たちに置いていかれず、カイチョーに差されないように。いつもどおりだ。いつもどおりだけど)

 

 いつもどおりの走りをすれば良いとは言うが。いつもどおりの走りで今日の自分は勝てるほど調子が良いだろうか。調子は悪くないが、調子が悪くない程度で皇帝に勝てるだろうか。分からなかった。

 

(最後は……根性勝負だ。ボクらしくないけどそれでも良い、勝てれば。勝てればいい)

 

 

「さて」

 

 

 そんな声が聞こえた気がした。きっとトウカイテイオー以外にも聞こえていただろう。向こう正面、まだスパートには早い地点でシンボリルドルフがペースを上げた。

 

 それにともないバ群全体のペースが上がる。まずい。シンボリルドルフを、皇帝を前に出しては勝てない。そんな考えが全員にあったのだろう。

 

 そうしてスパート前でトウカイテイオー以外のウマ娘は体力を残せなかった。

 

 

「さぁ直線、シンボリルドルフとトウカイテイオーの一騎打ちとなりました! さぁどうなるか、皇帝が頂点を奪還するか、帝王が王座を守るか!」

 

 

 前述の通り末脚でシンボリルドルフに劣るトウカイテイオーも、他の全員と同じく中盤にシンボリルドルフの進出を許すわけにはいかなかった。

 

 ラストスパートをかける体力はあるが、それもギリギリ。ダービーを勝ったときのように軽やかに踊るような走りとはとても言えない。息は絶え絶え、頭はブレているし、姿勢だって倒れそうなほど前傾で。

 

 ここ数ヶ月のトレーニング量が違う、と諦めることだって出来ただろう。

 

 それでも諦めたくなかった。シンボリルドルフより、トウカイテイオーのほうが勝ちたい気持ちが上だった。

 

 

 着差はクビ差。トウカイテイオーの勝利だった。

 

 

◇◇◇

 

 

「……トレーナー」

 

「見てたよ、おめでとう」

 

「……ありがとう」

 

「……」

 

「……」

 

「……トレーナー」

 

「なあに?」

 

「キミはもうすぐ死んじゃうのに自分に付き合わせて申し訳ないって、そう言った。でもそれは違う」

 

「……」

 

「キミがっ……! キミが諦めなかったウマ娘、トウカイテイオーは! キミのことを諦めなくたって強いんだ! いや、キミのことを諦めなかったから今日のレースでは勝てたんだ! だから、だからさ、そんなに簡単に自分のこと諦めないでよぁ……! ボクには絶対キミが必要なんだ……!」

 

「……なんだか告白みたいだね」

 

 

 そういってトレーナーが久々にクスリと笑った。それを見てトウカイテイオーは泣き腫らした目を擦って目を丸める。

 

 

「あのエキシビションレース見てる時ね。私なぜか泣いてたんだ。フォームもグチャグチャで、根性だけで走ってるようなテイオーとルドルフの競り合いを見てね。なんでなんだろうって思ってた。でもテイオーの今の言葉を聞いてわかった」

 

 

 トレーナーが改めてトウカイテイオーに向き直った。

 

 

「私、今日テイオーは勝てっこないと思って見てたの。テイオーのトレーナーなのに。私にいっぱい付き合わせちゃってトレーニングも満足にできてないと思ってたから。でもテイオーは勝った。あの走りはテイオーが私に諦めないっていうのはこういうことだ、って示してくれてて、それが私にもまだ分かったんだね」

 

「トレーナー……!」

 

「もうちょっと前向きに頑張ってみようかな、って。思えた。ありがとう……!」

 

「トレーナー! そうだよ諦めずに頑張ろう!」

 

 

◇◇◇

 

 

 その後もトウカイテイオーはトレーナーを支え続けた。トレーナーもトウカイテイオーの支えを受けながら出来る限りトウカイテイオーのトレーニングメニューを考えたり、前向きに生きた。

 

 

「トレーナー!」

 

「あ、テイオー。今日のメニューは終わった?」

 

「うん、トレーナーもはやく休んでね、頑張るのは良いけど無理はダメだからね!」

 

「わかってるよ」

 

 

 日常。

 

 

「トレーナー、今日は何してるの?」

 

「うん、今日は遺書。あとはちょっとPCデータの整理とかも手をつけ始めたいかも」

 

「……」

 

「ちょっと、そんな暗い顔しないでよ、終活ってやつ。やれるうちに出来ることやっておいたほうがこれからどのくらい生きられるにしても安心して生きられるってなにかで読んだからやってるだけだから! あぁテイオー泣かないで!」

 

 

 これも日常。そんな日常をトウカイテイオーとトレーナーはいくつも積み重ねることが出来た。

 

 

 しかし、あまり食べ物を食べなくなったり、水を欲しがる機会が増えたり。時々なにかを見ているような眼差しをしたりだとか、いわゆる兆しのようなものが現れてから数週間。トレーナーは亡くなった。

 

 

「トレーナー……」

 

 

 臨終の場に立ち会ったトウカイテイオーが、前よりも冷たくなったトレーナーの手を握り語りかけた。

 

 

「諦めなくたっていつかこの日が来るのはわかってた。わかってたけど……辛いね」

 

 

 兆しがあったからだろう、心構えが出来ていたのか、トウカイテイオーは涙を流しはすれど、泣き崩れたりはしなかった。

 

 

「でもボクがずっと悲しんでることをトレーナーが望まないのも分かるんだ。だからボク、これからも頑張る。トゥインクルシリーズを走りきって、ドリームトロフィーリーグも走る。これから、何があってもボクは諦めない。だから見てて」

 

 

 誇れるボクのトレーナーが諦めなかったトウカイテイオーというウマ娘は、これからも最強で無敵だから。

 

 




 迷走(スペちゃんはトレーナーの死を乗り越えるために泣いたけど、テイオーには「自分の行為でトレーナーが充実した余生を過ごしたという実感を得る」ことで乗り越えてもらいたいなという衝動)と難産(ガン描写やレース描写などを要したため、衝動に対する力不足)とレオ杯育成という感じでした。
 ただガンとレースは薄口な割に描写カロリーが高かったので今後は出来る限り使わない方向で行きたいな……。


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マルゼンスキー

お気に入り200件越え、ありがとうございます。続き物でもないニッチ需要の短編集が3話目にしてここまで読んでいただけるとは思っていませんでした。


「お・ま・た、トレーナーちゃん。今日の調子はどう?」

 

 

 マルゼンスキーは自分のトレーナーが入院している病室の扉を若干無遠慮に開けた。 

 

 

「おかえりマルゼンスキー。今日は結構調子いいよ。久々にトレーニングメニューも作れたんだ」

 

 

 そんな無遠慮な開閉を気にすることもなく、トレーナーはマルゼンスキーを病室に迎え入れた。

 

 

「あら、ありがとう! ――トレーナーちゃん、調子がいいならちょっと歩かない?病院内のサテン(喫茶店)とか……動けるうちは動いたほうが良いんでしょ?」

 

「うん、お茶くらいなら飲めるし、行こうかな?」

 

 

 マルゼンスキーのトレーナーは不治の病に罹っている。正しくは罹っていた病が増悪し、急激に体調を崩した。余命は半年、と宣告されてから4ヶ月経ったため、宣告どおりならあと2ヶ月ほどの余命になるだろうか。

 

 

「マルゼンスキーはいつも通りレモンスカッシュ?」

 

「モチのロン! やっぱサテンっていったらレスカでしょ?」

 

「好きだねぇ」

 

 

 マルゼンスキーが念のためトレーナーに手を貸しながら、二人はエレベーターに向かって廊下を歩いていく。足元が覚束ないわけではないものの、転んで大事に至ることは避けなければならないためだ。

 

 

「トレーナーちゃん、日用品とかは平気?」

 

「うん、そこらへんはこの前買ってきてもらったのでまだ足りそう。必要そうなら連絡するし」

 

 

 そんな会話をしつつ、エレベーターに乗って1階へ向かう。途中で人が乗ってきたため、トレーナーがエレベーター側面についている開ボタンと閉ボタンを操作する。それをマルゼンスキーは少し心配そうな目で眺めるが、別になにか問題が起きたりすることはなかった。

 

 

 エレベーターが1階に到着し、トレーナーとマルゼンスキーは喫茶店に入った。

 

 

「あ、マルゼンスキーさんとトレーナーさん、こんにちは」

 

 

 すっかり顔馴染みになったバイトの女の子がマルゼンスキーとトレーナーに挨拶をしてきた。トレーナーはこんにちは、と微笑む。 

 

 

「コニャニャチハ、バイトちゃん!」

 

「こにゃ……」

 

 

 一方マルゼンスキーはだいぶ独特の挨拶で返した。顔馴染みとはなったものの、マルゼンスキーの挨拶にはまだ違和感を抱くようだ。

 

 

「最近シフト多いらしいじゃない、無理はしてない?」

 

 

 マルゼンスキーはカウンターに上半身を預けながら雑談を始めようとする。店員さんにそれをするのはダル絡みの類だとトレーナーは思ったが。

 

 

「全然大丈夫ですよ、このくらい普通です。マルゼンスキーさんはいつも通りですか?」

 

 

 バイトの彼女のスルースキルが高いことを知っているためトレーナーもスルーだ。

 

 

「えぇ、レスカお願いね! トレーナーちゃんは?」

 

「私はアイスティーを貰おうかな」

 

「かしこまりました~!」

 

 

 今はもうレスカが何のことかも理解できるバイトの女の子から、レモンスカッシュとストレートのアイスティーを受け取ると、二人は席につく。

 

 

「で。これが今日作ったトレーニングメニュー」

 

「なるへそ~。……うーん、個人的にはもう少し走っても良いと思うんだけど」

 

「前回が結構坂路とか走るのが多かったからね。私が見て上げられないのもあるからあんまり足は使いすぎたくないの。だから今回はプールとか多め」

 

「まぁトレーナーちゃんがそういうなら……」

 

「いや、でもマルゼンスキーが走りたいならそういう方向でもトレーニング考えてみようかな?」

 

「いいのトレーナーちゃん? ありがと~!」

 

 

 全部が全部、穏やかで大切な日常だった。

 

 マルゼンスキーは心の中で、どうしても未だに思ってしまう。なぜ、この日常がいつまでも続くことが許されないのだろうか。

 

 いつまでも続けばいいと思う日常もいつかは終わるというのは、言葉にしてみればそれは当然のことだと誰にでも分かる。しかしそれが言語化されるというのは、裏を返せばいつまでも続いてほしいという願いが存在するからだ。トレーナーの余命が宣告されてから、マルゼンスキーはそのことを強く意識するようになった。

 

 4か月前と違ってある程度の理解はしている。人は誰であろうと死ぬ。それがいつであろうと、理由がなんであろうと。死ぬのが自分のトレーナーで、死ぬのが2か月後程度で、不治の病が原因で死ぬのだとしても。

 

 4か月前はまったくもって納得出来なかった。どうして自分のトレーナーが。何も悪いことをしたわけでもない、自分のトレーナーがなぜ。

 

 トレーナーがそれを聞いて「あっちゃー、そっか」というような顔をしているのも納得出来なかった。ずっと共にあった病気だからいつかこうなることが分かっていたせいだ、と説明されても。

 

 しかし、2か月程度でマルゼンスキーはトレーナーの日々のサポートに注力出来る程度に余裕を取り戻した。そのおかげで今こうしてトレーナーが転ばないように手をとって歩くことが出来て、一緒に喫茶店でお茶を出来るわけで。マルゼンスキーは自分のトレーナーに出来る限りみっともないところを見せたくないという先輩肌とでも言うべきものに感謝した。

 

 

「じゃあ今日はもう帰るわね。困ったことがあったらなんでも言うのよ~?」

 

「分かってるよ。じゃあね、マルゼンスキー」

 

 

 そうしてマルゼンスキーが帰ると、一気に病室が静かになった。病室は個室で、同居人もいないためだ。

 

 トレーナーは静寂から生まれる孤独感に呑まれないように、よし、と声を上げ、自ら頬を叩くとマルゼンスキーとの約束通りトレーニングメニューを組み始めた。

 

 

 マルゼンスキーは愛車のタッちゃんに乗りながら考えていた。残り少ないトレーナーとの時間をどう過ごすべきなのだろうか、と。

 

 自分はトレーナーの調子が良い時に喫茶店まで一緒に歩き、その日のことを共に話したり、トレーナーの前でレスカをすするだけでも十分だが、トレーナーはどう思っているのだろう。病院内だけでは退屈ではないだろうが。

 

 考えはまとまらなかった。夜景は流れていく。

 

 

◇◇◇

 

 

 そんな一幕があってから数日ののち、トレーナーの様態が悪化した。

 

 

「近く、峠かと……」

 

 

 医者が無情な言葉を告げた。

 

 

「そんな……」

 

 

 余命とはあくまで医者の宣告であり、数か月後に必ず亡くなるというものでもなければ、数か月は生存が保障されるというものでもない。余命を上回り生きる人もいれば、余命を待たずして亡くなる人も当然にいる。

 

 

「面会は可能です。……こう申し上げるのは心苦しいですし、私たちも最善は尽くしますが、お心残りのないようお過ごしください」

 

 

 そんなことを言って医者が去るやいなや、マルゼンスキーは病室に駆け込んだ。

 

 

「トレーナーちゃん!」

 

「あ、マルゼンスキーどうも」

 

「どうもって様態は……大丈夫なの?」

 

「うん、大丈夫。お医者さんも大げさなんだよね」

 

 

 そういってトレーナーは腕をブンブンと回してみせた。腕をブンブンと回せることが無事の証左なのかはマルゼンスキーには分からなかったが。だが、自分の想像する垂死の姿ではないトレーナーを見て安心する。

 

 

「よかったわぁ……その……お医者さんから聞いてるかしら?」

 

「うん、近いうちが峠だなんだって。いつか来るとは思ってたけど早かったね」

 

「……トレーナーちゃん」

 

「お? どうかした?」

 

「……ううん、なんでもない」

 

 

 トレーナーは自分がいつかこうなることに納得していた。ならばマルゼンスキーに何かを言う権利はない。そう考え、言葉をつまらせた。

 

 

「心残りがないように、っていうのは前々から考えてたから特に困らないけどね」

 

「それって?」

 

「マルゼンスキー、あなたの走りが見たいな」

 

「…………」

 

「マルゼンスキー? 調子が悪いなら当然今日じゃなくても良いんだけど」

 

「……いえ、トレーナーちゃん。外出許可、貰ってくるわね」

 

 

 外に出ようと病室の扉に手をかけたマルゼンスキーがそうだ、と振り返った。

 

 

「どうかした?」

 

「……ううん、なんでもない」

 

 

 心残りの無いように。医者からそう言われたのにも関わらず、喉に鉛が詰まったような感覚が無くならなくて、マルゼンスキーは聞いておきたかったことも聞けなかった。

 

 

 マルゼンスキーの走りが見たい。きっとトレーナーの言うマルゼンスキーの走りとは、走っている自分が楽しみ、見る人も楽しむいつもの自分の走りだろう。今の自分に、トレーナーの見たい走りが出来るだろうか。

 

 そんな悩みは走ってみれば解決した。

 

 風を切る。悩みも嫌な考えも何もかもを置き去りに、思い切り走る。

 

 

「もっと……もっと! もっと速く!」

 

「あぁ、そう。そう。これだけが惜しいなぁ」

 

 

 マルゼンスキーの走りを見るトレーナーの目に一筋の涙が流れる。余命を宣告されてからはじめての涙だった。

 

 

「出来ることなら、もっとこの走りを見てたかったな」

 

 

 ああ、しかもトレーニングメニュー、渡せなかったし。心残り、出来ちゃったなぁ。

 

 

 そして数日後、マルゼンスキーのトレーナーは亡くなった。

 

 

◇◇◇

 

 

「たづなさん、今夜、空いてる? ちょっと話したくて」

 

「マルゼンスキーさん……はい、空けておきます」

 

 

 トレーナーの葬式などもひと段落したある日、マルゼンスキーは駿川たづなに電話をかけた。

 

 

「たづなさん、ありがとうね」

 

 

 その夜、たづなとマルゼンスキーは行きつけのバーで会った。

 

 葬式以来の顔合わせだが、思っていたよりやつれておらず、たづなは内心ホッとする。

 

 

「いえ、トレーナーさんの件はその……ご愁傷さまでした」

 

 

 駿川たづなは、担当ウマ娘の死亡や引退により遺されたトレーナーをそれなりの数見てきた。しかしトレーナーに先立たれ遺されたウマ娘という稀有な例に、気の利いたかける言葉は見つからなかった。

 

 

「うん、ありがとう」

 

 

 カランカラン、とニンジンジュースに入った氷を鳴らしながらマルゼンスキーが礼を言う。少なくとも今のマルゼンスキーに特別気の利いた言葉などは要らなかった。

 

 

「それで今日はどのような?」

 

「……やーね、たづなさん、管巻きに来たのよ〜、わかってちょ」

 

「……えぇ」

 

 

 思ったよりやつれていないとはいえ、マルゼンスキーの笑みと言葉にはいつものような明るさはない。

 

 

「ねぇ、たづなさん」

 

 

 寂しげな笑み。

 

 

「はい」

 

「トレーナーちゃん、死んじゃったのよね。なんだか一段落したらそれが現実だってわかっちゃって辛いの」

 

「……はい」

 

「もう、会えないのよね。私ね、トレーナーちゃんといたらどこへでも行けそうで、なんでも出来そうで、どこまでも走れそうで、そんな気持ちになれたの。でももう会えないのよね」

 

「……」

 

「夢とか目標とか無くてもいい、楽しく走ればそれが誰もが追いたくなる背中だからって、そんなあなたの走りを私はただ見たかった、って、そう言ってくれる人はもういないのよね」

 

「……そう、ですね」

 

「はぁ、そうよね〜」

 

「……マルゼンスキーさん」

 

「そう、そう……なのよね……ううっ……うあああああん!」

 

 

 堰がきれたように泣き出したマルゼンスキーの背を、駿川たづなが優しく擦る。涙。トレーナーが亡くなると分かってからずっと、トレーナーには決して見せなかったものだった。



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フジキセキ

 One always proclaims the wolf bigger than himself.という言葉がある。これは狼を見た人はいつも大きく報告するということわざで、日本風に言えば幽霊の正体見たり枯れ尾花、といったところか。

 

 怖い怖いと思って枯れ尾花を見ると幽霊に見えてしまう、という心理を語ったことわざだが、フジキセキは枯れ尾花を幽霊だと見間違えた人に対して、枯れ尾花で良かったね、とだけ言って済ませるのは間違っていると考える。

 

 枯れ尾花が幽霊でなかったことは良いことだが、だからといって枯れ尾花を幽霊だと思って見た瞬間の恐怖は本物だからだ。しっかりと癒されなくてはならない。

 

 長々とつまりどういうことかといえば、フジキセキはトレーナーに驚かされた仕返しを考えていた。

 

 ことは昨日に遡る。

 

 

◇◇◇

 

 

「やれやれ……」

 

 

 その日。正確にはその日と言えるほど一朝一夕に出来たものではなかったが、トレーナー室には山がいくつかあった。資料、書類、書籍、そういったものが高低差200mの坂か何かのようにそびえたっている。

 

 そしてこれらが山と呼べるほど盤石のものであれば良かったが、崩れたこれらにトレーナーが何回か埋まりかけたこともある。そしてなにより最近トレーナーの咳が酷いように思う。もともと咳っぽいトレーナーだが、トレーナー室が埃っぽいのが原因ではないだろうか。それらをやんわりと指摘してもトレーナーは改善をしない。

 

 ならばもうフジキセキが片づけるほかないだろう。

 

 パイプ式ファイル、フラットファイル、クリアファイルは大量に用意したフジキセキは、見る見る山を崩していく。資料は同系統の内容をまとめ、書類はファイルごとに、書籍も資料と同様に同系統の内容のものを本棚の同じような場所へ。マザーグースの詩集なんてものもあった。こういうものを読むタイプだとは思っていなかったが、自分の影響だろうか。フジキセキは少し嬉しくなる。

 

 そして山が丘へ、丘がちょっとした勾配程度の高さに変わったころ、一枚の紙がフジキセキの目に付いた。あまり見覚えのない紙だったが、記載されているのはトレーナーの健康状態のようだった。

 

 

「健康診断の紙……に近いものかな」

 

 

 何の気なしにフジキセキは内容に目を通す。

 

 そこにはステージ4期肺がんという診断が書かれていた。

 

 

「……え?」

 

 

 フジキセキは驚いて紙を取り落とす。

 

 なんだこれ。どういうこと。トレーナーが、がん? しかもステージ4期、つまり末期がん?

 

 天地がひっくり返ったような感覚というのはこのことを言うのだろう。

 

 

 茫然自失としたままフジキセキはその日、寮の自室に帰った。手には健康状態が記載された紙を持ったままだ。

 

 せめて、せめて知りたかった。本当に末期がんなのか。だとして自分はあとどれくらいトレーナーと一緒にいられるのか。これでも自分はクラシック級、シニア級1年目と非常に話題になったウマ娘だ。トレーナーの担当ウマ娘であることを証明できれば親しい者として病院側から情報を貰えるかもしれない。

 

 スマートフォンで紙に書いてあった病院を調べる。

 

 

 そんな名前の病院は出てこなかった。

 

 

「……あれ?」

 

 

 もう一度、誤字脱字が無いかを確認して検索する。やはり病院の名前は出ない。ということはつまりそんな病院はない、ということだろうか。

 

 

「つまりこれは……偽物?」

 

 

 トレーナーがこんな偽物を作る理由を考えてみる。学園側への報告に使う、というのはまずないだろう。そんな虚偽報告をすればトレーナーが職を失いかねない。かといって学園以外でトレーナーの健康状態を気にする者。家族か。いやだとして何の意味がある。あのトレーナーに素行不良があるとも思えない。蒸発を目的とするということも考えにくい。だとして他に健康状態を気にする者なんて――。

 

 自分だ。

 

 と、いうことはこれは。これは、自分に対するドッキリか。

 

 一気に身体の力が抜ける。少し泣きそうだ。良かった。様々な感情が溢れ出してへたり込んでしまう。深呼吸をした。

 

 そして落ち着いてくるとちょっとした怒りの感情が沸いてくる。確かに自分はいつもトレーナーを驚かせている。普段の仕返し、というのも微笑ましいことだ。フジキセキとしても驚かされる側に回ることも別に忌むことではない。が、しかしこれはさすがにやりすぎというか、こんな仕打ちを受けたら、仕返しが必要な案件ではないだろうか。それも少し入念なものが。

 

 

◇◇◇

 

 

 そうして冒頭に戻る。一晩考えたが、安心感が先行して入念な仕返しドッキリが思い浮かばなかったため、今日も考えているといったところだ。入念というのがいけないのだろうか。いくつかに分けてドッキリを仕掛けることで仕返しとするほうが良いのかもしれない。まずは、トレーナーがドッキリを仕掛けてきたタイミングでカウンター的に一つ、そう。トレーナーの予想をはるかに上回る号泣をするというのはどうだろう。そのあとなんちゃって、と舌を出せば動揺もするだろうし驚きもするだろう。

 

 と、そんなことを考えたあたりでガラリ、とトレーナー室の扉が開き、昨日留守にしていたトレーナーが帰ってきた。

 

 

「フジキセキ、話したいことが……部屋を間違えたか」 

 

「トレーナーさん? 間違ってないよ?」

 

「いや、でもうちのトレーナー室は資料、書類、書籍がそれこそ山のように積みあがっているはず……」

 

「その山なら私がちょっとした魔法でちょちょいのちょいと片づけておいたのさ。私はいつだって君に喜んでほしいからね」

 

「……そうか、それは……良かった」

 

「トレーナーさん?」

 

 

 心なしか、しみじみと感じ入るかのような良かった、という呟きにこれは、と思う。

 

 少し思わせぶりな態度。これはドッキリの前触れだと確信する。そうに違いない。そういえば紙には肺がんとあった。そう考えると最近咳が酷そうだったのも、これの複線だったのだろう。

 

 

「フジキセキ、これを見てくれ」

 

「トレーナーさん、これは……?」

 

 

 これを待っていた。あとは然るべきタイミングで計画通り号泣しよう。 

 

 トレーナーから差し出された紙には昨日見た紙に書いてあったことと同じことが書いてあった。ステージ4期肺がんの診断。

 

 そして、診断の病院名にはフジキセキも知る大きな病院の名前があった。

 

 ――つまり、これは本物だ。

 

 

「……え……?」

 

「……ステージ4期、つまり末期の肺がんだ。……余命は3か月らしい」

 

 

 つまりフジキセキがドッキリだと誤解したのはこういう理由らしい。

 

 体調の変化を感じたトレーナーは一度小さな病院――検索エンジンにも引っかからないような病院、で診断を受けた。その際、レントゲンでステージ4期の肺がんを診断された。しかし医者から改めて大きな病院で診察を受けるよう言われて、昨日それに行ってきたと。そして改めて末期肺がんの診断を受けた。

 

 ドッキリなどではなかった。改めてフジキセキは天地がひっくり返ったような感覚に襲われる。しかし。

 

 

「そう……なんだ」

 

 

 トレーナーが見ていたからだろうか。それともその衝撃を受けるのが2回目だったからか。はたまたその両方か。へたり込んだりせず、フジキセキはあくまで動揺しただけというポーズを保つことが出来ていた。

 

 一世を風靡したスターウマ娘、フジキセキのトレーナーが末期のがんであるというニュースは学園内のみならず世間を驚かせた。

 

 その当のトレーナーはというと、抗がん剤治療をしつつも、フジキセキの手を借り、粛々と終活を進めていく。

 

 

「悪い、フジキセキも動揺しているだろうに。抗がん剤治療を始めてからさすがに身体が動かなくてな……」

 

「いやなんの。ヴォードヴィルはいつか幕を閉じるものだ」

 

 

 それに、とフジキセキは手を止めトレーナーに向き直る。

 

 

「トレーナーさんは舞台袖で私と共に在ってくれた大切な人だ。なら私もトレーナーさんにとって舞台袖にいる者でなくちゃいけないと思う。ヴォードヴィルがこれからも続くならそれを支え、幕を閉じるなら相応の閉じ方を模索する。ともあれトレーナーさんが納得いく形なら私はどういう結果も受け入れるさ」

 

「そうか、そう言ってくれると……少しは気が楽になるよ」

 

 

 君を遺して逝かなくてはならないのが心残りだったから、とトレーナーは力なく笑った。

 

 ……その笑みに対して、自分はいつものような笑みで返せているだろうか。

 

 納得などしていなかった。受け入れたくなどなかった。ただ、受け入れることがトレーナーの重荷を減らすだろうと考え、そう振舞っただけだ。

 

 だっておかしい。私は1人だと思い込んでいた1人じゃないウマ娘だったのに、トレーナーは自分を担当している間、1人でその身体の違和感と戦い続けていたということではないか。それはあまりにも不幸で、不公平ではないか。

 

 

「おや……これはバッジ入れかい?そういえば、君の落としたトレーナーバッジが、私たちの出会いの始まりだったね。ふふっ、懐かしいな」

 

 

 そんな内心とは裏腹に、口が勝手に思い出を振り返るような言葉をこぼす。これではまるで私がもうトレーナーとの別れを認めているようではないか。

 

 いや、これでいい。トレーナーが受け入れているのだったら共に受け入れろ。トレーナーの心残りになるな。笑え。

 

 そうしてフジキセキとトレーナーの日常において、フジキセキは表面上何も変わらなかったかのように過ごした。

 

 そして、そんなある日、フジキセキは美浦寮長であるヒシアマゾンに声をかけられる。

 

 

「……なぁ、フジ。ちょいと今夜面を貸しとくれよ」

 

 

 言葉だけ聞いたら喧嘩の誘いのようだが、ヒシアマゾンはタイマンが好きなだけで喧嘩が好きというわけではない。喧嘩の誘いでないことはすぐに理解できた。

 

 

「おや、ヒシアマ。何か相談事かい?」

 

「いや、まぁちょっとね。それでどうだい? 空いてるかい?」

 

「うん、空けておこう」

 

 

 普段は果断と言って差し支えないヒシアマゾンの少し切れの悪い返事が気になりはしたが、フジキセキは夜の約束を了承した。

 

 その夜。

 

 

「で、話っていうのは?」

 

「単刀直入に言うけどフジ、アンタ無理しすぎちゃいないかい?」

 

「……無理、というと?」

 

「アンタ、自分のトレーナーがもうすぐ死ぬっていうのに普通過ぎる。絵にかいたような無理な振る舞いだよ、それは。アンタまた自分が1人だと――」

 

「……だとして」

 

「ん?」

 

だとしてどうしろっていうんだい!?

 

 

 聞いたことがないようなフジキセキの怒声にヒシアマゾンは気圧される。フジキセキはヒシアマゾンの胸倉を掴みかけていたことに気が付き謝罪した。

 

 

「――! ごめん、ヒシアマ」

 

「いいけど……アタシくらいには聞かせちゃくれないかい?」

 

「いや、私はいつも通りさ。いくら親しかろうと人はいつか死ぬものだもの。……ごめんね、ヒシアマ。用事を思い出した」

 

「お、おい、ちょっと!」

 

 

 手品の種が割れていたところで、手品師はそれを原因にステージから降りることなど許されない。エンターテイナーは最後まで観客を楽しませるという心によってこそ、エンターテイナーたりえるのだから。

 

 こんなことがありつつ、フジキセキは"フジキセキ"らしくトレーナーとの最後の日常を送り続けた。

 

 

「遺書はこれでいいのかい?」

 

 

 ずいぶんと薄い遺書を箱に入れながら、フジキセキはトレーナーに尋ねた。 

 

 

「あぁ。まぁ、もとより言葉を遺す相手もいないしな」

 

「そうかい? まぁ、トレーナーさんがそう言うなら」

 

 

 ある日も。

 

 

「家財の処分、終わったよ」

 

「悪いな、こんなことまで」

 

「なんの、お安い御用さ。でもこれからトレーナーさんは籠の中の暮らしというわけだね」

 

「あぁ、そうだな。――まさか俺がジュリエットになるとは」

 

「ふふ、ロミオをご所望なら喜んで。ご入用ならロレンスも演じようじゃないか」

 

「……新郎と神父の一人二役は無理があるんじゃないか?」

 

 

 そして別れの日も。

 

 

「トレーナーさん」

 

「……あぁ、フジキセキ……」

 

「うん、ここにいるよ、トレーナーさん」

 

「ふ、最後に何を言うかとか……考えてなかったよ」

 

「……あなたの舞台が良いものであったと思えるのなら、きっと、言葉なんて要らないんじゃないかな、トレーナーさん。一つ礼をして、それで終わり、というのもそれはそれで」

 

「……そうだな。フジキセキ」

 

「……はい、トレーナーさん」

 

「今まで、ありがとうな」

 

「…………うん、こちらこそ」

 

 

 そしてフジキセキの言葉を聞いたトレーナーは、満足そうに目を閉ざし、息を引き取った。

 

 

「薔薇は赤く、スミレは青く、砂糖は甘く、あなたは素敵だ。……私は、本当にそう思っていたんだよ。トレーナーさん」

 

 

 いつかのバレンタインにフジキセキがトレーナーに言った言葉。あの時のトレーナーはこの言葉を知らなかったのか、自分の思ったような反応をしてくれなかったが……今だったらどうだろう。 

 

 誰もいなくなってしまった病室で、フジキセキは初めて涙を流した。

 

 

◇◇◇

 

 

 トレーナーが亡くなり、死後の色々がひと段落した頃。

 

 

「フジ、これ」

 

 

 ヒシアマゾンがフジキセキに何かを差し出す。

 

 

「おや、ヒシアマ。……これは?」

 

 

 差し出されたものは封筒に入った手紙のようなものだった。

 

 

「アンタのトレーナーからの預かりものさ。中身は見てないけど手紙かなんかじゃないかな。自分が死んだら渡してくれ、って言われてたのさ」

 

「……ありがとう。あとで読ませてもらうよ」

 

「おうさ、アンタは1人じゃないと泣けないだろ」

 

「そんなことは……いや、あるかもしれないね」

 

 

 その夜、フジキセキは封筒の封を開けた。

 

 

 フジキセキ。この手紙を読んでいる時、俺はもうこの世にいないだろう。ヒシアマゾンにそう頼んだからだが。一度言ってみたい言葉だろ、これって。これは遺書というより君に対しての最後の言葉を少し綴ったものだ。あまりこの手紙の言葉を負担に思ったりはしないでくれ。

 

 まず、俺ががんだということが発覚しても、いつも通りだった君に感謝を。君のおかげで俺は良い最後を迎えることと思う。だが、同時に心配もしている。君は良くも悪くも演技が上手い。エンターテイナーのフジキセキである前にウマ娘のフジキセキを想う人がいるということを忘れないでくれ。

 

 この3年間、いついかなる時も俺を楽しませてくれた君に感謝を。この3年間、俺も1人ではなかった。これからの君もいついかなる時も1人じゃないということを覚えておいてくれ。君にはヒシアマゾンも、君がポニーちゃんと呼ぶ君を慕うウマ娘たちもいる。

 

 最後に、君のこれからの人生に幸があり、順風満帆であらんことを祈って。

 

 薔薇は赤く、スミレは青く、砂糖は甘く、そしてあなたも。さようなら、フジキセキ。

 

 

「……っ!」

 

 

 自分が無理をしていたこと、トレーナーさんにはバレていたようだ。きっとヒシアマも本当はこの手紙を渡してきたトレーナーさんの顔を見て私の無理を察したんじゃないだろうか。

 

 トレーナーさんは1人じゃなかった。1人で暗闇の中、戦っていたわけではなかったのだ。良かった。

 

 トレーナーさんは私の人生に幸があるように祈ってくれた。……後を追うことという選択肢が、一瞬でも頭をよぎらなかったと言えば嘘になるが、この手紙を読んでそんな選択肢は無くなった。

 

 薔薇は赤く、スミレは青く、砂糖は甘く、そしてあなたも。トレーナーさんは私を愛していてくれていた。

 

 

「なら私、これからも。これからも頑張るよ、頑張る。頑張るから見てて。トレーナーさん。いつかまた会った時に、私のヴォードヴィルは最高だったって、胸を張れるように」

 




 Roses are redは一般に愛を伝える常套句で、バレンタインのシーンでフジキセキが「薔薇は赤く、スミレは青い。砂糖は甘く、あなたは素敵だ」という訳でトレーナーに対して発言しています。
 そのシーンではトレーナーはその言葉に特段反応しないんですが、のちにRoses are redの意味を知り、どう返すのが正解かを考えた時に「バラは赤く、スミレは青く、砂糖は甘く、そしてあなたも」というRoses are redの最も一般的な訳で返すのが一番綺麗だと思い最後の手紙に記した、という妄想が今回の下地に存在します。


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オグリキャップ

 それはよくある真夏の悲劇であると共に、よくあると評するにはあまりに悲劇的なものだった。

 

 

「だれか……たすけ……っ!」

 

「オグリー!」

 

 

 遠泳のトレーニングをしていたことは覚えている。しかし、気が付いたら沖合にいて、使っていたビート板も波にさらわれ。意識が朦朧とする中、泳ぎが得意でないはずのトレーナーが自分の名前を呼んで。

 

 

「……ここは」

 

「おぉ、オグリ、目ぇ覚ましおったか! クリーク! たづなはんに!」

 

「はい!」

 

 

 スーパークリークがあわただしく部屋から出ていく。気が付けばオグリキャップは知らない部屋にいて、ベルノライトとイナリワン、そしてタマモクロスが心配そうにオグリキャップの顔を覗き込んでいた。

 

 

「みんな……私は」

 

「ここは病院。あんた、海で溺れたのをトレーナーに助けられたんでぇ」

 

 

 イナリワンが簡潔に現状を説明する。そうだった、とオグリキャップは気を失う前のことを思い出した。

 

 

「……そうだ! トレーナーは!?」

 

 

 少し遅れてトレーナーの安否に考えが及ぶ。あの時自分を助けてくれたのはトレーナーだった。しかし、トレーナーは泳ぎが得意ではなかったはず。

 

 

「……あの、落ち着いて聞いてください。トレーナーさんは――」

 

「いいえ、ベルノライトさん。そこから先は私が」

 

 

 ベルノライトの言葉を遮るように、スーパークリークに呼ばれた駿川たづなが部屋に入ってくる。

 

 

「オグリキャップさん。あなたのトレーナーさんは、あなたを助けて……お亡くなりになりました」

 

 

◇◇◇

 

 

 ほどなくしてトレーナーの葬式があった。

 

 ベルノライトは号泣していた。中央にスカウトされたオグリキャップに、付いてくるようにトレーナー研修生として中央に編入したベルノライト、2人をまとめて面倒を見てくれたのが亡くなったトレーナーだ。尊敬もしていたし、慕ってもいた。

 

 オグリキャップは涙も流さず呆然としていた。自分のせいでトレーナーが死んだ。その事実に打ちのめされ、何も分からず、何も考えられなかった。

 

 そして夏が終わり、秋。9月。残暑こそあれど少しずつ涼しさがその顔を覗かせる。世間は秋のトゥインクルシリーズへの期待も然ることながら、稀代のスーパースターウマ娘オグリキャップのトレーナーが夏合宿で亡くなったというニュース、またオグリキャップ秋の天皇賞出走はどうなるのだろうか、というニュースで持ちきりだった。 

 

 トレーナーの死亡が伝えられてすぐ、しかしあなたが無事で良かったです、と駿川たづなから言われたことが、いやにオグリキャップの印象に残っている。

 

 それはつまりトレーナーは死んでも良かったのか、と激する言葉が喉元まで上がってきたが、他意がないということは伝わってきたため、怒声を飲み込まざるを得なかった。

 

 本当は喚き散らし、泣き叫んでしまえれば良かったのかもしれない。そうすれば全身に鉛が付いたような感覚も振り払えたのかもしれないと思うが、後の祭りだ。時間が経って、オグリキャップは少しだけ冷静になってしまったからだ。

 

 亡くなった人は誰に当たり散らそうが、戻ってこない。人はいつか死ぬものだから、遺された者はそれを乗り越えて生きていかなくてはいけないのだ、と。言い古された話だが、同時に正しいからこそよく言われることなのだ、と。

 

 オグリキャップはこの後、生前トレーナーと懇意にしていたトレーナーの元に移籍し、これまで通りのローテーションで走るということで、現トレーナーとの間でも合意が取れていたが、それも実はよく分かっていなかった。

 

(全身が重い……食欲も沸かない)

 

 秋の天皇賞、ジャパンカップ。大きなG1のレースだ。期待されている。レース。レース? 期待? 走るってなんだ? 歩くよりも速く動くこと? 右足を踏み出して、左足を踏み出す。腕を振る。なるべく速く。これが走ることか。そうだった。

 

 

「仕掛けたオグリキャップは6番手、ヤエノムテキ1着! メジロアルダンわずかに届かず!」

 

 

 秋の天皇賞。1番人気に推され6着。オグリキャップ初めての掲示板外。

 

 

「3人並んだ、わずかに真ん中か!いまゴールイン!」

 

 

 ジャパンカップ。4番人気に推され11着。オグリキャップ初めての2桁番台。実況に名前を呼ばれることもなかった。

 

 走ることと、走れること。そして走って勝つこと。この3つには当然、大きな隔たりがある。勝利に届かない、という言葉すらおこがましい惨敗だった。

 

 

◇◇◇

 

 

「私はもう……走れないのか……?」

 

 

 世間の「もうこれ以上オグリキャップは走るべきではない」という声が反響する。

 

 批判するわけではなく、トレーナーを失って精神的負担を受けている自分にこれ以上無理をさせるべきではない、という意味の言葉であることはオグリキャップにも分かる。しかしそれと同時に「オグリはもう終わった」という声が一定数あることも知っている。

 

 自分は、もう走れないのか。走ることが出来ないのか。

 

 自分は、世間から走ることを許されないのか。

 

 自分は、自分のせいで命を落としたトレーナーに、走ることを赦されるのか。

 

 

「もういっそ、逃げてしまおうか」

 

 

 大声を出すわけでもないのに、大樹のウロまで来ていた。

 

 

「ううん、それは違うと思う」

 

「……」

 

 

 ベルノライトがいた。オグリキャップは葬式の日以来、ずっとベルノライトを避けていた。

 

 ベルノライトにとっても、トレーナーが大切な人だったことは知っている。だから、トレーナーを死なせた自分とベルノライト、合わせる顔がなかったためだ。

 

 だから今日も踵を返そうとしたのだが。

 

 

「逃げないで、オグリちゃん。私と話そう?」

 

「……やめてくれ、ベルノ。私はトレーナーを死なせたウマ娘だ。ベルノにとってもトレーナーが大事な人だったことは知っている。トレーナーを死なせたこと、責める権利がある。でも今ベルノにまで責められたら私は、私は本当にダメになってしまいそうなんだ。だから――」

 

「責める気なんてないよ、オグリちゃん!」

 

「――え?」

 

「トレーナーさんが亡くなってから、ずっとオグリちゃん、ずっと、ずっと落ち込んでて。それが心配で私……」

 

 

 ぽろぽろと小粒の涙をベルノライトが流す。それを見てオグリキャップの目にも涙が浮かぶ。

 

 

「……そう、だったのか。ごめん、ベルノ、私はてっきり……そうか。ベルノは、私のことを、責めてないんだな。赦して、くれるんだな」

 

 

 トレーナーが亡くなってから数か月、オグリキャップが涙を流したのはこれがはじめてだった。

 

 

「なぁ、ベルノ」

 

「なに、オグリちゃん」

 

「私は、もう走れないんだろうか」

 

 

 しばらく2人でひとしきり涙を流したあと、ベルノライトは缶コーヒーを、オグリキャップはおにぎりとお茶を口に運びながら、ベンチに座っていた。

 

 

「……私は、まだオグリちゃんに走ってほしいと思ってる」

 

 

 ベルノライトはオグリキャップにもたれかかりながら話す。

 

 

「私、オグリちゃんの立って走れるだけで奇跡、走れるから走るって理由、聞いたとき本当に感動したの。そんなに純粋な理由で走るんだ、って。それで勝っちゃうオグリちゃんに夢見てる。だから走ってほしい」

 

 

 でもね、とベルノライトは言葉を続ける。

 

 

「それでも、オグリちゃんが走りたくないなら、それも良いんだと思う。見ている私たちが勝手に夢を見ているだけだから。その夢を背負う必要なんて、本当は無かったんだと思う。だから、もう走りたくないなら走らなくていい。逃げてもいい。でも、走れないんだろうか、っていうことは心の中では走りたいと思ってる。そうでしょ?」

 

 

 その通りだった。まさしく、今のオグリキャップにとって再び走れるようになることはすなわち、トレーナーの死を乗り越えることだからだ。

 

 

「だから、オグリちゃんには後悔しない選択肢を選んでほしい。……でも、これだけは覚えておいて。どんなに上手く逃げ隠れても、自分の心からは逃げられない」

 

「そう……だな」

 

 

 そうだ。

 

 

「『私は、遠く離れた故郷の人と、私を優しく見守ってくれるキミのために走る』。そうトレーナーと約束した。私はその約束から逃げたくないし、トレーナーも約束を守ってくれる人だ。だからきっと、トレーナーは今も見守ってくれている」

 

 

 そう思うと少し身体が軽くなった。だから。

 

 

「ベルノ。私、有記念、勝つよ。見てて」

 

 

 その言葉を聞いてベルノライトは微笑む。

 

 

「そうだよね。あなたは走る。だってあなたは、オグリキャップなんだもの」

 

 

◇◇◇

 

 

「オグリキャップさん、有記念、ご出走されるということで、勝算のほどはございますか?」

 

「負けてよいレースなんてものはないと思う。だからいつも勝とうと思って走る。有記念も同じだ。今度こそ私が勝つ」

 

「ご体調のほどは?」

 

「大丈夫だ。だが……秋の天皇賞とジャパンカップでの結果を踏まえ、正直、引退を考えなかったと言ったら嘘になる。それでも私は――私に夢を見てくれる人がいる限り、走りたい。だから有記念の出走を辞退しない」

 

「なるほど。期待させていただきます。ありがとうございました!」

 

「あぁ、期待しておいてくれ」

 

 

 普段のオグリキャップの語りと比べるとだいぶ饒舌だったが、それだけ、次の有記念へ想いが強いということを伝えたかった。

 

 その思いが伝わったのか、オグリキャップは、前走、前々走の結果を経てなお、4番人気に推された。

 

 そして。

 

 

「ゲートイン完了。各ウマ娘出走の準備整いました! さぁいよいよ始まります、年末の大一番――」

 

 

 有記念が。

 

 

「さぁゲートが開いてスタートがきられました!16人が揃ってキレイなスタート、それほど思い切っていくウマ娘はいないようです」

 

 

 始まった。

 

 皆、いいスタートだった。その中でもオグリキャップは特にいいスタートだった。スローペースの集団の中で思いのほか前に出る。

 

 重かった身体が軽い証左だった。

 

 

「さぁゆっくり、ゆっくりと、オグリキャップはやくも3番手から4番手」

 

 

 実況の声が聞こえ、少し平静を取り戻す。勝てるかなんて分からない。分からないが、勝つためにも、今日は一番強かった自分の走りをしよう。その時は、そう。自分はもう少し後ろに位置取っていた。

 

 

「さぁ3コーナーから4コーナー、一周目の4コーナーにかかりますが」

 

 

 位置は相変わらず。しかしオグリキャップはふと、秋の天皇賞やジャパンカップでは忘れていた感覚を思い出した。トレーナーが一緒に走ってくれているような、心強い感覚。最近、忘れていたあの感覚。そう、自分にはベルノライトだっている。自分は1人ではない。

 

 

「さぁ4コーナーを回って一周目の直線。URAファイナルズへ向けて、すっかり装いを新たにした中山レース場のスタンド前に、16人が差し掛かります。さぁオグリキャップは中団、5番手から6番手。夢、期待、願い、様々な思いが幾重にも重なり、大きな声援となって、中山レース場に響き渡ります。17万人の大観衆の前を、今、第1コーナーに向かう16人!」

 

 

 この中のどれくらいが自分に対して夢を見ている人の声なのだろうか。どれだけの人が自分の勝利を期待してくれている人なのだろうか。

 

 

「さぁ、16人、後続は少し離れましたが、向こう正面向こう側、ここにオグリキャップがいます。現在6番手!」

 

「じゃあ……」

 

「3コーナーカーブの手前ですが、先頭は変わらず、さぁ若干後続が前に出た!前に出た! そしてオグリキャップ! オグリキャップも行きました!さぁ、澄み切った、師走の空気を切り裂いて、最後の力比べが始まります!」

 

 

 そろそろ行こうか、トレーナー。

 

 実況のボルテージが上がるにつれ、ウマ娘たちの速度も少しずつ上がっていく。みなスパートをかけ始めている。そしてそれはオグリキャップも同様だった。オグリキャップの一番強い走り、大外からの怪物の末脚を、今またここに。

 

 

「さぁオグリキャップ行った! オグリキャップ行った! さぁ第4コーナー! メジロアルダン! アルダン先頭か!」

 

 

 すでに疲労が見えるアルダンを少し前に見て、地を踏みしめる。

 

 

「オグリキャップ先頭に立つか! 第4コーナー回って直線、大歓声です!」

 

 

 大歓声に迎えられ、邁進する。

 

 

「さぁオグリキャップ先頭に立つか! 先頭に立つか! オグリキャップ先頭に立つか!」

 

 

 脚はどうだ。心肺はどうだ。心臓はどうだ。まだ私は走れるだろうか。

 

 

「オグリキャップ! オグリキャップ先頭か! 200を切った!」

 

 

 ドクン、ドクン、と鼓動が聞こえる。大丈夫。いつも通りの拍動。これなら駆けていける。

 

 

「オグリキャップ先頭! オグリキャップ先頭! オグリキャップ先頭!」

 

 

 『私は、遠く離れた故郷の人と、私を優しく見守ってくれるキミのために走る』

 

 あなたとの約束も。私のあの時の決心も。それを裏切ることはしたくない。

 

 

「オグリキャップ先頭! しかしメジロライアン来た! ライアン来た! しかしオグリキャップ先頭! オグリキャップ先頭!」

 

 

 この胸に息づく"走りたい"という熱い花は枯れてない。

 

 だから、まだ、諦められない。その一心でゴール板を駆け抜けた。

 

 

「オグリ1着! オグリ1着! オグリ1着! オグリ1着! 見事に復活、復活の花道を飾りました! なんというウマ娘! オグリキャップです!」

 

 

 『思い浮かぶものは、いつか形になるよ。可能性が1でもあるのならね。そして、それを結実出来るウマ娘が、オグリキャップだと、私は思う』

 

 いつか、トレーナーがそんなことを言っていた。トレーナーの言葉は事実だったと言える。

 

 

「トレーナー、見てる? 私、走ったよ。これからも……走るよ」

 

 

 オグリキャップは、トレーナーと拳を突き合わせるように天に拳を掲げ、宙を仰ぎ見た。オグリの名前を呼ぶコールは、いつまでも止まなかった。

 

 




 シンデレラグレイというかもうオグリキャップの物語が面白すぎる。


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ゴールドシップ

 1月13日

 

 

 ついに余命が宣告された。少しこっ恥ずかしながら自分の生きた証を残したかったこともあり、日記をつけようと思う。

 

 そして今日は家にゴールドシップの来襲を受けた。

 

 

「余命宣告を受けたってことはこれからは籠の中の鳥だってこったろ? じゃあアタシが楽しみ用意してやるしかねえよなぁ!?」

 

 

 と叫びながら大量のミステリー小説を持ってきた。逐一読んだことのあるなしを聞いて、読んだことがあると答えるとゴールドシップは一輪車(猫車というらしい、ゴールドシップがそう言っていた)の中に本を戻す。

 

 そして俺が検査の後でベッド上から動けず、ゴールドシップを止められないのをいいことに、置いて行くミステリー本を全部ネタバレして帰っていった。この世にはマジで許せないこともあるということをいつか教えなくてはなるまい。

 

 だが「アキレウスの盾から見るシシカバブーの串」はネタバレを受けてなお、純粋に文章が巧く面白かった。文章の巧さで小説を評価したのは「六畳半神話体系」以来かもしれない。良い小説に出会わせてくれた功績をたたえ、いつかの制裁は少し緩めにしてやるとしよう。

 

 

 

 1月28日

 

 

「動けるなら動いたほうが良いんだろ?」

 

 

 動けるなら動いておいたほうがいいのは事実だ。しかし、俺が眠っている間に無人島に連れ出すのは良いか悪いかで言えば悪い寄りの行為だと思われる。

 

 しかも連れてきた挙句何かをするわけでもなく、ほら動けよ、と来たものだ。ゴールドシップは俺を虫か何かだと勘違いしている節があるか。人権を持つ人間であることを教えてやらなくては。

 

 ともあれここがどこなのか分からない以上、ゴールドシップに従わなくては帰ることも出来ないわけで、素直に『動く』こととした。

 

 それからしばらく砂浜を散策していると、ちょうどいい大きさの非常にきれいな貝殻を見つけた。ゴールドシップはファンの言葉を借りれば『黙れば美人、喋ると奇人、走る姿は不沈艦』という生命体だ。ネックレスにでもすれば映えるのではないだろうか、と思い持ち帰ることにした。

 

 そして結局疲れ果てて寝てしまったところで、目が覚めたら自宅のベッドの上にいた。無人島に行ったのは夢かとも思ったが、ほのかに身体に残る疲労感と貝殻が夢でないことを証明している。あいつは本当になんなんだ。いかなる手段をもってしてもいつか聞き出す。

 

 

 2月3日

 

 

 たづなさんと話している時にトークアプリに通知があった。

 

 ゴールドシップからのメッセージ。鬼、という一言と共に夜のトレセン学園の廊下で笑顔でこちらに走ってくるたづなさんの画像付きのメッセージだった。あまりにもタイミングが完璧すぎて鼻の奥から変な音が出た。

 

 たづなさんに心配されたが理由が理由だけに説明することも出来ずごまかすことしか出来なかった。今日ゴールドシップが珍しく少し疲れた顔をしていた理由がこの時分かった。節分だからといってそこまで身体を張らなくても。

 

 

 2月14日

 

 

 今年のバレンタインデーは何があるのかと思ったら、ゴールドシップは普通にチョコを持ってきた。内心ぶったまげていると

 

 

「最近コーヒー飲んでなくてポリフェノール取ってねえだろ? ポリフェノールだ食えよ」

 

 

 とのことだった。語調はさておき、珍しく率直な気遣いに感謝し、口に運ぶとあまりに苦い。

 

 

「アタシ特製のカカオ99%チョコだ、もうカカオマス齧ったほうが早いかもしんねえレベルまでカカオ純度上げるの結構大変なんだぜ」

 

 

 健康を気遣うにしてももう少し甘みが欲しかったが、気遣いに対しそんなことは言えない。

 

 ゴールドシップの顔を見ると、気遣いに対しとやかく言えないだろという顔をしていたので非常にとやかく言いたくなった。いつかゴールドシップが粗相を働いた時にまとめて言おう。

 

 

 2月20日

 

 

 今日は珍しく相当体調が悪い。ゴールドシップも察してくれたのか、ノリがどこか爆発的ではなかった。

 

 

 2月24日

 

 

 少し体調が回復した。体調が悪いこの数日間、ベッドの上で生きることと死ぬことについて考えていた。

 

 おそらく人が当然に持っている生存本能程度の死にたくないという気持ちもありつつ、人はいつか死ぬのだから、そういうこともあるだろうという気持ち。

 

 これは俺が心残りが思い浮かぶほど充実した人生を送っていないということなのか。いや、ゴールドシップと過ごす日々は退屈しない。この日々を失うのは……惜しい。

 

 

 2月27日

 

 

「そういや体調悪いってことはニンニクとショウガはすべてを解決する説を立証するチャンスだろ? ニンニクを一番美味しく食べる方法知ってるか?」

 

「……ジョージア料理のシュクメルリがそんな売り出し方されてた気がするな。それじゃないか?」

 

「何言ってんだラーメンだろ何年アタシといんだ? 鈍いやつだな、買ってから一度も研がなかった包丁かよ」

 

 

 それは鈍いの意味が違う。

 

 ともあれ、日々をゴールドシップと過ごしているとこういう「この問題はこの本の何ページ目に書いてあるでしょう」みたいな問題をまま出される。しかも今回はニンニクを一番美味しく食べる方法というヒントに見えるものがあったからなおタチが悪い。

 

 それはさておき、ゴールドシップのラーメンはいつぞやの辛すぎるニンニクラーメンと比べ、非常に仕上がっており、美味しかった。

 

 前回のアレは亜寒帯の食いもんだった、さすがのゴルシちゃんも悪かったと思ってる。今度は温暖湿潤気候に合わせたニンニクラーメンだから平気だ、と語るその言葉に嘘はなかった。

 

 いや、ショウガは?

 

 

 3月3日

 

 

「3月~は、ひな祭り~で、酒は飲まねえけど騒ぐことは出来らぁ!」

 

 

 酒は飲まないというか飲めないの間違い……だよな? ゴールドシップの年齢はトレーナーである自分も知らないため、もしかしたら成人済みである可能性もある。可能性があるだけで低いとは思うが、ゴールドシップの身長やスタイルがゴールドシップだけに考えられなくもない。

 

 それでどう騒ぐかを問うと、

 

 

「いつまでもゴルシちゃんにそこらへん考えさせるなよ。今日はゴルシちゃんめんどいからトレーナーがなんか考えてくれよな。変な案出しても安心しろよ、マッシュしてコロッケにするくらいで済ませてやるからよ」

 

 

 と丸投げしてくる始末。

 

 まぁ、何の気なしに提案した回り将棋で大いに盛り上がったため良かったのではないだろうか。

 

 

 3月19日

 

 

 また体調が悪い。日記を書く気力もない。

 

 

 4月10日

 

 

 今日はファン感謝祭だった。ゴールドシップは相変わらず走り回っていた。ファン感謝祭の時のあいつのはっちゃけっぷりマジでヤバい。去年は木魚ライブだったが、今年はライブの音にりんと数珠が増えた。仏具で攻めるのも罰当たり的な観点からしてもどうかと思うし、確かに数珠はジャラジャラやればシェイカーやマラカスみたいな音が鳴るが、数珠を楽器扱いするのもどうかと思う。生命力が溢れてればなんでもいいのかあいつは。

 

 しかも木魚ライブ改め仏具ライブだけじゃなくゴールドシップはファン感謝祭中ずっと走り回っている。そのため自分もゴールドシップの所業を把握しきれていない。そしてそれは生徒会などの運営側も同じで、ファン感謝祭の時にゴールドシップが仕込んだ何かがファン感謝祭終わってから爆発することもある。そうすると捕まらないゴールドシップは当然謝らないため俺が平謝りとなる。日記を書いてる今から憂鬱だ。

 

 どうでもいいが、リンカーンはアメリカンコーヒー三杯飲んだって覚えるとマジで鬱の字書ける。ちょっと感動。

 

 というのは現実逃避。変なもんは体調良い時に見つかってくれ~。

 

 

 4月17日

 

 

 ファン感謝祭から一週間経つが、何も見つからない。ゴールドシップ、お前今年は何もしてないって信じて良いんだよな?

 

 

 4月27日

 

 

 ファン感謝祭という大きなイベントを終えると。つまりは後片付けも終え、普段通りの生活に戻ると、自分の余命のことが頭をよぎる。

 

 あと1か月。そろそろ、死ぬことについて、もっと考えなくてはならない。最近は慢性的に体調が悪い。もっと日記も分量を書きたいのだが、割とそうも言っていられない。

 

 

 

 5月3日

 

 

 今日はトレーナー室の整理を行った。おそらく一般的なトレーナー室よりは綺麗だろう。身体を壊す前はゴールドシップに連れられて外にいることが多く、トレーナー室に籠りきり、ということが少なかったからだ。

 

 しかしまさかゴールドシップが片づけなんていう退屈そうなことを手伝ってくれるとは。礼をしないとな。

 

 

 5月10日

 

 

 遺書はさておき、遺言書も念のため書いておくことにした。自分は中央のトレーナーで収入は良い。ゴールドシップのアレコレで出費がかさむことは少々あったが、それにしても資産はそれなりにある。書けるなら書いておいた方がいいだろうと思い正確な書き方を調べるとこれがまた少し複雑だった。

 

 人がいつ死ぬかなど分からないはずなのに、死ぬということはどうしてこうも煩雑で大変なのだろうか。

 

 

 5月20日

 

 

 ついに家にいられず入院することとなった。1月13日の日記でゴールドシップに籠の中の鳥と言われたことが書いてあったが、これからは掛け値なしに籠の中の鳥ということになる。まぁゴールドシップにネタバレされたミステリー小説のうち、読み切っていないものがまだまだある。これらを読んだり、とここまで書いてふと思った。これらを読み切ることは多分出来ないのだろうな、と。

 

 少し残念に思う。まぁネタバレはされているから最悪読めなくても後悔は少ないが。

 

 

 5月22日

 

 

 今日はゴールドシップの襲来を受ける。ゴールドシップは破天荒だが、常識的な振る舞いが出来ないタイプではなくしないタイプで、病院のパブリックスペースだと大人しい。その分というかなんというか、ゴールドシップは俺の病室に入った瞬間いきなりゲームを取り出して叫んだ。

 

 

「3秒以内にどのゲームやるか選ばねえとアタシがいる間簀巻きにしてやる」

 

 

マンカラ、ドット&ボックス、リバーシ。知名度的にむしろリバーシが浮いていた。とりあえず数時間簀巻きを避けるため、マンカラを選ぶ。負ける。

 

 結局マンカラから今日記で並べた順に全部やった。全部負けた。二人零和有限確定完全情報ゲームで完敗するのは本当に完敗なのでこれはリベンジしたい。

 

 したいが、そんな時間が自分に遺されているのだろうかと考えると……おそらくそんな時間はないのだろう。

 

 

 5月26日

 

 

 今日はなんとなく日記を読み返してみた。日記を書いている当日には気が付かなかったが、日記に書いてあるのはたくさんの心残りだった。

 

 ミステリー小説を全部ネタバレしてきた件についてゴールドシップに何も言っていないし、ゴールドシップカカオ99%チョコの件もそうだ。トレーナー室の片づけの件もそうだ、礼も出来ていない。リベンジも。心残りばかり。

 

 2月24日の日記では心残りが浮かぶほど充実した人生を送ってきていないのだろうか、と書いていたが、これほど心残りが増えたというのは。理由は一つだ。

 

 

 5月30日

 

 

 おそらく、最後の日記だ。実は手を動かすのも億劫というか、動かしにくくなっている。

 

 何があったわけでもないが、自分の寿命というのは不思議と分かるもので、そろそろ、なんというか、いわゆるお迎えが来るだろうと、そういう直感がある。

 

 だから普段は書けないゴールドシップへの感謝を。お前といられて俺は、こんなにも心残りが出来るほど充実した生活を送れた。その心残りを果たすことは出来ないが、それでもいい。こんなにも楽しかったのだから。

 

 俺はお前と出会えて、人生楽しかった。お前が俺と出会ったことによって、お前の人生が少しでも楽しくなっていたら、この上ない喜びだ。

 

 

◇◇◇

 

 

「なぁゴールドシップ、そういや、お前なんで俺をトレーナーにしたんだ?」

 

「おま、最後に聞いておきたいことがそれでいいのかよ、もっとなんかこう、なかったのか?」

 

「いいだろ、最後くらい真面目に答えてくれ」

 

「いや、なんていうかまぁ……すげーヒマそうなヤツがいるなって思ったんだ」

 

「マジでその理由かよ」

 

「マジでその理由だよ。……でもどうよ。アタシと出会えてアンタの人生、面白くなっただろ?」

 

「――。あぁそうだな。本当にそうだ。……なぁゴールドシップ、俺が死んだら、いつでもいい。俺の日記を読んでくれ。伝えたいことは全部そこに書いたから。俺は……ちょっと寝るよ」

 

「……そっか。おやすみ」

 

 

 

 

 それからほどなくしてトレーナーはこの世を去った。

 

 遺言通り、ゴールドシップは日記をめくる。1ページ1ページをかみしめるようにゆっくりと。

 

 

「あぁ、そっか。めっちゃ人生楽しめてるじゃねーか。良かった。良かったよ。さよなら、トレーナー。アンタと出会えて、アタシの人生もちゃんと面白くなったよ」

 

 



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ウオッカ

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 トレーナーのバイクでトレーナーとタンデムする。欧州に行く前からやっていたため、始めてから割と長い。もう日常と言っていいだろう。

 

 

「まだ……信じらんねえよ」

 

「なに、ウオッカ! なんかあるなら大きな声でお願い!」

 

「……なんでもねぇ!」

 

 

 変わらず日常を過ごしているとどうにも実感が沸かない。トレーナーがもうすぐ死ぬなどと。

 

 バイクで走っていると涼しいが、止まるとライダースーツが少し暑い4月の夜。夜桜を脇目に、公道の制限速度をしっかり守りながらも爽快感は感じる速さでトレーナーはバイクを駆る。ハンドルを握るトレーナーは、欧州から帰ってすぐ、余命の宣告を受けていた。

 

 余命の宣告を受けたトレーナーの姿をウオッカは忘れないだろう。

 

 口では「まぁ、そういうこともあるかぁ」と言っていた。口元は困ったように笑っていた。しかし目は大きく開いていた。

 

 

「さて、私には余命が宣告されました!」

 

 

 余命の宣告を受けた次の日。トレーナーの開口一番はそんな言葉だった。はい拍手、とでも続きそうな調子の言葉にさすがのウオッカも言葉を失う。

 

 

「というわけでトレーニングメニューを組みなおしてきました。病院とか体調悪いとかで私がいない日のトレーニングはこれでお願いね。それから――」

 

「お、おい!」

 

 

 そしてウオッカが唖然としているのをいいことにトレーナーはどんどん話を進める。さすがに待ったをかけた。

 

 

「アンタ、余命宣告受けたばっかなのに、そんな、大丈夫なのかよ!? ってか余命宣告ってどういうことか、わかってんのかよ!」

 

「分かってるよ」

 

 

 激したウオッカの目を見るトレーナーの目は、穏やかかつ優し気でありながら、形容しがたい強さのようなものに満ちていた。

 

 

「だからこそ、変わらない日常を過ごしたいんだ。心残りがあるからね。ウオッカと行きたいのにまだ行ってないところがたくさんある。見せたい景色もたくさんある。教えてほしい場所もたくさんある。だから凹んでなんていられない。忙しいんだから」

 

 

 アンタ、ほんとにつええな、とウオッカは心の中でため息をついた。そしてブレずにその意志を貫き通す様は、自分の目指すカッコいい生き様そのものだとも。日頃から自分のことをカッコいいと言い続けるトレーナーは、ウオッカが目標とする強さとカッコよさの両立を果たしていた。

 

 どうすれば自分もそうなれるだろうか、そしてそんなカッコいいトレーナーが余命を宣告され、これから困難に直面するであろう、そんな時に支えになれるようなウマ娘でありたいと考えたとき。

 

 大人になりたい、とウオッカは初めて思った。

 

 

◇◇◇

 

 

「なぁ、トレーナー」

 

「ん、なに?」

 

 

 走行途中、見つけた自販機の側にバイクを止め、ちょっとした休憩をしている最中にウオッカはトレーナーに尋ねた。

 

 

「大人って、どうしたらなれんだろう?」

 

「おっと、難しい話が来たね」

 

 

 フルフェイスのヘルメットを外しコーヒーに口を付けたトレーナーが、驚いた様子でこちらを見やる。

 

 

「まず答えは一つじゃないと思うんだ。だからこれは私の持論ね」

 

 

 トレーナーはいつもそうだ。打てば響くとはおそらくこのことで、ウオッカの質問や要求にすぐに応えてくれる。トレーナーとウマ娘は一心同体だからね、なんでも頼ってよ、というトレーナーの言葉に頼りっぱなしの形だ。

 

 

「大人になるっていうのは……子供でいられなくなることだと私は思う」

 

「子供でいられなくなる? じゃあ大人ってのはやむを得ずなるもんなのかよ」

 

「うん、私はそう思う。社会に出ると色々あるわけですよ、手続きとか納税とか、まぁそういう面倒くさいことがさ。昔は親がやってくれてた色々を、全部自分でやらなきゃいけなくなってくる」

 

「あぁ」

 

 

 生返事だ。そこらへんはまだよくウオッカには分からない。レースに勝てば賞金が出るが、その賞金は一度トレーナーが預かり、将来のための専用の口座に貯金されている。税金やそういったことも基本的にはウマ娘ではなくトレーナーが管轄している。

 

 

「そういうの一個一個、面倒くさいなぁって思いながら受け入れていって――」

 

 

 そこで何かに気が付いたようにトレーナーは言葉を区切った。

 

 

「あぁ、そうだ。わかりやすく一言で言うと、受け入れていくことだよ、大人になることっていうのは。少なくとも私はそうして大人になったと思う」

 

 

 本当に大人なのか、って言われると今でも分からないけどね、と一言トレーナーは付け加えた。

 

 

「じゃあ俺も何かを受け入れていけば大人になれんのか?」

 

「私としてははじめて私とウオッカが会った時から比べるとウオッカもめっちゃ大人になってると思うけどね。っていうかなに、ウオッカ大人になりたいの? なんで?」

 

「いや、その、なんていうか……ちょっと気になっただけだ!」

 

 

 会った時から比べると大人になっていると褒められたことによるものと、トレーナーに憧れて大人になりたいと思ったとは本人の前で言いにくいという二重の照れを隠すウオッカ。自分でもこりゃ大人には遠いなと内心失笑した。

 

 

「ま、なる時にはなるもんだよ、大人になんてね。じゃ、行こっか」

 

 

 照れ隠しをするウオッカを、トレーナーは見守るように微笑んだ。

 

 

◇◇◇

 

 

 それからウオッカの様々なことを受け入れる日々が始まった。

 

 

「やっぱキツイなぁ抗がん剤。いや、キツイとは聞いてたけどよもやよもやって感じ……」

 

「身の回りのこととかでなんか困ったことあれば言えよ、俺がどうにか出来ることはしてやるからよ」

 

「あんがてぇ……じゃあまず5000兆円欲しいな」

 

「そんだけ軽口叩けりゃ平気だよなぁ?」

 

 

(でも5000兆円はまだしも……結局のところ、俺は何にもしてやれねえんだな……)

 

 苦しむトレーナーに対し、直接的に何も出来ないことを少しずつ受け入れた。

 

 

「あら、ウオッカ、今日は1人?」

 

「おう、スカーレット。トレーナー、今日は病院だ」

 

「……そういえばそうだったわね。その……なんていうか、気を落とさないでね」

 

「うわ、どうしたお前急に気味悪ィ」

 

「はぁ!? 心配してやったのに何よその言いぐさ!」

 

 

 トレーナーが傍らにいない、1人でのトレーニングや毎日を少しずつ受け入れた。

 

 

「おう、トレーナー、来た――トレーナー?」

 

 

 ある日、久しぶりにトレーナーとのトレーニングが可能ということでウオッカはトレーナー室を訪ねた。

 

 

「――ッ! ウオッカ、ちょっと待ってね」

 

 

 トレーナーが泣いていた。頼りになる相棒の涙を見てウオッカも少なからず動揺する。

 

 

「お、おい、大丈夫かよ、どっか痛むのか?」

 

 

 差し当たって考えられる可能性を尋ねる。痛みで涙を流すような人物だとはあまり思っていないが、抗がん剤治療というのは辛いらしいからありえない話ではないだろうと考えた。

 

 

「いや、ちょっとあんまり眠れてなくてね。あくび連発してたらこの有様って感じ。ちょっと待ってね、涙拭くから」

 

「――そうかよ」

 

 

(ぜってー嘘じゃねえか)

 

 ごまかされているのは明白だった。しかし、かといって自分に何が出来るだろうか。

 

 頼りになるトレーナーが本当は弱っていること、そして弱っている時に自分を頼りにしてくれないことを受け入れるほかなかった。

 

 

◇◇◇

 

 

(俺がもっと大人だったら、トレーナーも頼ってくれたのかな……)

 

 大人という言葉が日々ウオッカの中で大きくなっていく。

 

 トレーナーが死ぬ。これを受け入れられればウオッカは大人と言えるだろうか。そんな思考が頭の中でぐるぐるとめぐり、ウオッカは頭をかきむしりながら叫んだ。

 

 

「あぁーーーーー!!!!」

 

「わッ、何よ急に大きい声あげて!」

 

 

 同室のダイワスカーレットにも当然ながら驚かれた。

 

 

「あ、わ、わりぃ」

 

「アンタ、最近……ってそうよね、ごめん」

 

「あぁ、そんな気を遣わないでくれよ、ムズムズすっから」

 

「で、でも」

 

「……うーん、だったらちょっと聞いてくれよ」

 

 

 そう言ってウオッカはダイワスカーレットにことの顛末を話した。余命の宣告を受けてもブレずに自分のやりたいことをやろうとするトレーナーの強さとカッコよさに改めて憧れを抱いたこと。自分もそうなりたいと思ったこと、そして自分もそうなるため、また、そんな憧れのトレーナーを横で支えるために大人になりたいと思ったこと。

 

 そして大人になるにはどうすればいいかをトレーナーに聞いたところ、自分は色々なことを受け入れて大人になった、と言われそれから様々なことを受け入れるようにしてきた。

 

 しかし、トレーナー室でトレーナーが泣いていた時、ごまかされてしまった。それで色々と分からなくなった、と。

 

 

「って、こんなことお前に話すなんて、俺も大概参ってんな……」

 

「そうね。アタシも話を聴いててアンタ参ってるんだな、って思ったわ」

 

「おい」

 

「だってそうでしょ。いろんなこと受け入れて大人になろうなんて、アンタらしくない。そりゃ受け入れなきゃいけないことだって、世の中にはたくさんあると思うわ。――気を遣うなって言ったから気を遣わず言うけど、アンタのトレーナーさんが亡くなることだって、避けられないことかもしれない。でもそれを受け入れるんじゃなくて乗り越えるのが、アタシの知ってるアンタだわ」

 

「……」

 

「……ウオッカ? ちょっと言いすぎちゃった……?」

 

「……いや、平気だ。あんがとな、スカーレット。ちょっと、なんかわかった気するわ」

 

「そ、そう。なら良かったけど」

 

「じゃ、おやすみ」

 

「……えぇ、おやすみ」

 

 

 翌日。ウオッカはトレーナー室にいたトレーナーに声をかけた。

 

 

「トレーナー、ちょっといいか」

 

「お、ウオッカ。どうしたの?」 

 

「これからちょっと……そのこっぱずかしい話をする。わりいけど聞いてもらっていいか?」

 

「うん、わかった」

 

 

 トレーナーはいつもそうだった。普段は冗談を言ったり飄々としているタイプなのに、ウオッカが真面目な話をしたいときはその気配をしっかり感じ取って、決して茶化したりしない。

 

 そしてウオッカは昨日スカーレットに話したように、トレーナーにもすべてを話した。トレーナーは相槌だけを打ちながら真摯に耳を傾けた。

 

 

「スカーレットに言われて気が付いたんだよ、俺はそういうヤツだって。認めたくねえモンは認めたくねえ。受け入れたくないモンは受け入れたくねえ。でもそういうこと、認めなくても、受け入れなくても、乗り越えてここまでやってきたって。トレーナー。俺はつれえこといつまでもナヨナヨ引きずるダセえウマ娘かよ?」

 

「いいえ」

 

「そんなよええウマ娘かよ」

 

「いいえ」

 

 

 俺はダセえか。弱いか。そうウオッカに聞かれたトレーナーはハッキリと否定する。

 

 

「そうだよね、本当にそう。ごめん、ウオッカ。トレーナーとウマ娘は一心同体とかなんとか言いながら全然ウオッカに頼れてなかったし、最近は私の死をウオッカは乗り越えられるのかなとか、そんなふやけたことばっかり考えてた。ウオッカがそんな弱いウマ娘じゃないっていうの忘れてた」

 

「あぁ」

 

「だから、これからはちゃんと一心同体で行こう。いっぱい面倒かけるだろうけど、よろしくね」

 

「あぁ、俺たち2人、最後までタンデムで行こうぜ」

 

 

◇◇◇

 

 

「なんてこともあったねぇ」

 

「あぁ、そうだな」

 

 

 そう昔のことでもないのに、昔を懐かしむように語るトレーナー。すっかり細くなったトレーナーの手を握りながら、ウオッカは優しげにうなずく。

 

 

「あぁ言ってみてどうだった? 手間のかかるトレーナーだったでしょ」

 

「んなこたねえよ、アンタはいつでも……いつまでも、頼りになる俺のトレーナーだ」

 

「ふふ、お世辞なんてどこで覚えたの」

 

「そんなんじゃねえって、マジだ」

 

「……」

 

「……トレーナー?」

 

「……ん、大丈夫、だよ」

 

「……疲れたなら、寝てもいいぜ」

 

「…………そう、だね、そろそろ、そうしよう、かな」

 

 

 そう言ってトレーナーは目を閉じようとした。 

 

 

「……待ってくれ、トレーナー!」

 

「どうかした……?」

 

「今まで、本当に、本当に、ありがとうございました!」

 

「……うん、こちらこそありがとう、ウオッカ。誰よりも先に、あなたのカッコよさに惚れられたことを、私は誇りに思うよ」

 

 

 そう言ってトレーナーは今度こそ目を閉じた。

 

 ウオッカはいつまでもトレーナーの手を離さなかった。

 



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ダイワスカーレット

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 今日も授業を終え、トレーナー室に向かう。天皇賞秋を経て、自分が目指す『1番のウマ娘』とは何なのかが理解でき、そういった意味でも気分が良かった。

 

 

「おう、おつかれスカーレット」

 

「えぇ、お疲れさま、トレーナー」

 

「早速今日もトレーニングでいいか?」

 

「えぇ、もちろんよ。今日もしっかり厳しく、お願いするわ」

 

 

 恒例となったやり取りを経て今日もトレーニングに向かう。

 

 人々の記憶に残り続ける1番のウマ娘になる。そのための努力を怠るわけにはいかない。1にトレーニング、2にトレーニング、3と4もトレーニングで5あたりに休養。正しい努力と才能の先に目的は達成できるのだ。

 

 

「あいよ。じゃあ今日は――」

 

 

 返事をしながら立ち上がったトレーナーが突然よろめき、ダイワスカーレットに向かって倒れこんだ。

 

 

「ちょっと!」

 

 

 スカーレットは驚きながらトレーナーを受け止めた。

 

 

「ったく、大丈夫? アタシのトレーナーなんだから体調管理くらいはしっかりと――トレーナー?」

 

 

 受け止めて、小言を言おうとしてトレーナーの顔を見てみて、事態に気が付いた。

 

 

「ちょっと、トレーナー、どうしたの!?」

 

 

 トレーナーの様子が尋常ではなかった。呼吸が荒く、脂汗を流し、気を失っている。

 

 救急車、保健室、いや、それよりもまず人を? 分からない。まずは保健室へ連れていき指示を貰うべきか。

 

 ダイワスカーレットは周りの視線も気にせずトレーナーを抱きかかえ、保健室へと走った。

 

 

◇◇◇

 

 

「……ここは」

 

「救急車です。ダイワスカーレットさんがトレーナー室で倒れたあなたを保健室に運んできてくださいました」

 

 

 トレーナーの問いに付き添いで乗った養護教諭が答える。トレーナーが目を覚ましたのは養護教諭が呼んだ救急車の中だった。養護教諭の隣にはダイワスカーレットも座っていた。

 

 

「俺は……そうか、倒れたのか……」

 

「そうですよ、トレーナー室で立ち上がった瞬間に。トレーナーさん、そんな素振り見せてなかったけど無理してたんじゃないですか?」

 

 

 ダイワスカーレットが気丈に振舞うの上手いんですね、とからかうように笑う。ひとまず無事であったことに安心したようだった。

 

 

「あぁ悪い、心配をかけた」

 

「いえ、トレーナーさんが無事で良かったですよ」

 

 

 ダイワスカーレットが柔らかな笑みをトレーナーに向ける。態度やその笑みこそ養護教諭の手前、猫を被ったものだったが、無事で良かったというのは真意だった。

 

 

◇◇◇

 

  

 救急車から病院に運び込まれ、トレーナーは診察を受けた。

 

 

「……こう言ってはなんですが、もっと早くにあなたはどこでもいいから病院にいらっしゃるべきだった、そう言わざるを得ません。余命はどの程度なのか、というところまであなたの身体は蝕まれています」

 

「そう……でしたか、そんなところまで……」

 

 

 トレーナーの様態はトレーナー自身が思っていたよりはるかに深刻だった。

 

 

「すぐにでも入院を。ご準備を手伝ってくれるご家族様はいらっしゃいますか?」

 

「いえ、家族は遠いのですぐに、とは……」

 

 

 トレーナーの家族は地方住みで行くにしろ来るにしろ飛行機か長時間の新幹線を用いないといけない。費用はこちらが持つから、などと言わずとも来てくれるだろうとは思うが、それでもすぐにとはいかないだろう。

 

 

「今回搬送の付き添いの方は親しい方ですか?」

 

「……親しいといえば、親しいですが」

 

「でしたらその方にご準備等手伝っていただくと良いでしょう」

 

 

◇◇◇

 

 

「トレーナーさん、どうだったんですか?」

 

 

 相変わらず猫を被ったダイワスカーレットが様態を尋ねてくる。

 

 

「……俺の容態だが――」

 

 

 トレーナーは今しがた医者から語られたことをそのままダイワスカーレットと養護教諭に話した。ダイワスカーレットと養護教諭の顔がみるみるうちに驚愕の色に染まったことは言うまでもない。

 

 

「……個人的に聞きたいことはありますが、私は今回の件やトレーナーさんの容態を学園に報告するためにトレセン学園に戻ります。ダイワスカーレットさんも、門限までには学園に戻ってくださいね」

 

「……はい」

 

 

 そう言って養護教諭は病室を出ていった。トレーナーは内心でダイワスカーレットと二人きりにしてくれる心遣いに感謝しておく。

 

 

「ということで俺の家の鍵を渡す。メッセージアプリで住所とリストを送るからリストにあるものを持ってきてもらえるとありがたい」

 

「……分かったわ」

 

 

 ダイワスカーレットもそう言って背を向けた。

 

 

「……ありがとう、よろしく頼む」

 

 

 ダイワスカーレットが何も言わなかったのが不思議だったが、トレーナーは病室を出るダイワスカーレットを止めなかった。

 

 自分にもスカーレットにも事態を受け止めるための時間が必要なはずだ。

 

 

 ダイワスカーレットは病室を出てすぐ、頭を抱え、しゃがみこんだ。

 

 余命、という言葉がダイワスカーレットの頭の中を反響する。言葉の意味は知っている。しかしそれが身近な人物――ともすれば今現在両親より身近かもしれない自分のトレーナーという人物に関わりがあるものとなるとは。

 

 1番のウマ娘を導く1番のトレーナーになるという言葉。

 

 まだ、夢を叶えてきっていないのに。まだ、夢を叶えきってあげられていないのに。  

 

 思考がまとまらなかった。しかし、今はトレーナーからの頼みがある。スマートフォンに住所を打ち込み家の場所を確認する。

 

 そう遠くなかった。荷物のない行きは走って行って問題ないだろう。

 

 ダイワスカーレットは病院を出て、何かを振り払うかのようにがむしゃらに走り出した。

 

 

◇◇◇

 

 

 トレーナーの家は何の変哲もないマンションの一室だった。生活感が薄い。寝に帰る家なのだろう。自分というウマ娘に相応しいようにという努力を怠っていなかった様子が窺い知れる家を見て、ダイワスカーレットは改めて気分が沈む。

 

 なぜ自分のトレーナーが不幸にならなくてはならないのだろう。

 

 口にはあまり出せないが、ダイワスカーレットは自分のトレーナーのことを非常に優秀で、人格的にも非の無い人物だと思っている。

 

 いや、少し抜けたようなところがあったり、物事を背負い込みがちで、もっと自分にもトレーナーを大事にさせてほしいとか、そういった想いはあるが、マイナスと言える要素ではない。

 

 って、そんなことはいいのだ。優秀で人格的にも非の無い自分のトレーナーが、なぜ。

 

 走っている間も、これからどうなるのだろうといった未来の心配などは考えられず、ずっとなぜ自分のトレーナーが、という疑問ばかりを考えていた。なぜを考えても詮の無いことだと分かってはいるが、今も物を取る手を止めるとなぜばかりが頭をよぎる。

 

 かぶりを振る。今はトレーナーのために動かなくては。

 

 ダイワスカーレットは手早くリストに書かれたものをナップザックとスーツケースに詰め、マンションを出た。

 

 病院に向かうバスの中ではどうにかして別のことを考えようなどと思いながら。

 

 

◇◇◇

 

 

 有記念とは暮れの中山で行われるグランプリレースである。出走ウマ娘はファン投票から選ばれ、クラシック三冠とトリプルティアラを走り終えたクラシック級ウマ娘と、シニア級の最大目標である天皇賞秋を終えたウマ娘たちがぶつかる掛け値なしの日本一決定戦。

 

 すでにファン投票の結果は出ており、天皇賞秋を勝利したダイワスカーレットはファン投票1位に選ばれている。

 

 名実ともに1番のウマ娘と言われるには避けて通れないレースだ。しかし今朝までの自分ならともかく、今の自分にはとてもではないが、そんな大レースを、ファンの期待を背負って走り切れる気がしなかった。

 

 バスの中で『なぜ』を考えないようにしようと思い、何か生産的なことを、と思い次の有記念について考えようとしたが、結局考えて分かったことは心にぽっかりと穴が開いたような自分がいることだけだった。

 

 

 

「ありがとう、スカーレット。助かった」

 

「……このくらいならお安い御用よ。体調は少し落ち着いた?」

 

「あぁ、だいぶな。……余命がどうのこうのとか、言われるとは思えないくらいだ」

 

 

 そう語るトレーナーの表情はいつもの無表情に見えつつも真面目なことが伝わってくる表情で、嘘をついていないことはすぐに分かった。

 

 

「アンタ、身体の不調とかはなかったの?」

 

「なかったと言えば嘘になる。君を担当し始めた頃から少しずつ。最近酷い時は起き上がることにすら苦労することもあったが、恥ずかしながら、君に心配をかけたくなかった。誰よりも頑張る君の足を、引っ張りたくなかった」

 

「……アンタねぇ!」

 

 

 声を荒げたダイワスカーレットだったが、その先の言葉が出てこなかった。言いたいことは山ほどあったのだ。それでアンタが死んだら世話の無い話だ、とか、もっとアタシにもアンタを大事にさせろ、だとか、他にも。

 

 しかし、自分が落ち込んだ時も、辛かった時も変わらず寄り添ってくれて、今、ほぼ3年間連れ添ったダイワスカーレットでなければ分からないであろう、かすかに落ち込んだ表情を浮かべるトレーナーに一般論をぶつけることは、ダイワスカーレットには出来なかった。

 

 

「あぁ。その結果がこうだ。本当にすまない」

 

 

 加えて謝られてはもう何も言えない。

 

 

「……とにかく! なんかあったらアタシにしっかり言うこと! アタシってそんなに頼りないかしら!?」

 

「いや。キミよりしっかりしているウマ娘などそういないさ」

 

 

 こういうことを恥じらいもなく言ってしまうのがトレーナーの良いところでもあり、悪いところでもある。

 

 

「……あぁ、もう、これからはちゃんとアタシのこと頼りなさい! わかった!?」

 

「あぁ、もちろんだ」

 

「ならいいわ。――門限があるからアタシはもう行こうと思うけど、何かあったら連絡ちょうだい。フジ先輩に言って外出許可もらうから」

 

「そこまではしなくてもいいと思うが」

 

「そこまでしなくていいを慢性的に言ってたせいで今こうなってるんでしょうが!」

 

 

 トレーナーの少し抜けたような言動にダイワスカーレットがツッコミを入れる。それがいつもどおりのやり取りのようで、今日、すべてが変わってしまったような感覚を抱くダイワスカーレットに、変わらないものがあるという安らぎをもたらした。

 

 

 トレーナーと別れたダイワスカーレットは病院から寮まで走り、問題なく門限までに寮に辿りついたところで、同室相手のウオッカに廊下で話しかけられた。

 

 

「よう、スカーレット! 今日大変だったんだって?」

 

「……ウオッカ。えぇ、大変だったわよ」

 

 

 大変だった。そんな一言で片づけてしまっていいものだろうか。正直言って現実味がなかった。今日1日のことを思い返してみる。普段通りに授業を受け、普段通りにトレーナー室に向かい……トレーナーが倒れた。救急搬送され、それから入院することになり、入院の手伝いをし、今、こうして寮に帰ってきた。

 

 どっと疲れが溢れてくるのを感じる。やはりどうやら無理をしていたようだった。

 

 

「何があったんだ? いっつもやべえトレーニングしてるスカーレットがいねえってことでちょっと噂になってたぞ?」

 

「……聞きたいなら明日話すわ。今日はちょっと休ませて」

 

 

 そうとだけ言ってダイワスカーレットは自室へと戻った。

 

 

「……マジで何があったんだ?」

 

 

 誰よりも早く起きて誰よりも遅く寝るを信条としているスカーレットが、こんな早くから休むなんて。 

 

 小声で呟くとウオッカもダイワスカーレットに続き部屋へと入っていった。

 

 

◇◇◇

 

 

「マジかよ……余命ってそんな……」

 

 

 ことの顛末を聞いたウオッカが悲痛の表情を浮かべながらつぶやいた。 

 

 

「マジよ。しかも見て、これ」

 

 

 そう言ってスマートフォンの画面をウオッカに見せる。

 

 

『おはよう、スカーレット。昨日の今日だが、もし朝のトレーニングをするならこのメニューをこなしてくれ。昨日の件で疲れてしまっている場合は当然やらなくても構わない』

 

 

 そんな文言と一緒にトレーニングメニューが列挙されていた。

 

 

「マジかよお前のトレーナー……。やっぱお前のトレーナーだけあるな」

 

「どういう意味よそれ。っていうかさっきからマジかよしか言ってないわよアンタ」

 

「……で、お前それやんのか?」

 

「え? もちろんやるわよ」

 

「おま、マジかよ」

 

「……。マジよ。せっかくトレーナーがメニュー作ってくれたんだもの。無駄に出来ないわ。っていうか、アンタ海外行く準備は進んでるの?」

 

「あぁ!? やってますぅー! 言われるまでもねえよお前は俺の母ちゃんか!」

 

「前みたいにギリギリになって手伝わされるのがごめんだから言ってるのよ!」

 

 

 トレーナーが普段通りにトレーニングメニューを考えたのも、ダイワスカーレットがそのトレーニングメニューをこなすのも、互いに現実逃避染みた思いがあったかもしれない。普段通りの日常を送っていれば差し当たってはトレーナーの余命という向き合いたくないことに向き合わずに済む。ゆえにどちらも、口には出さなかったが、今まで通りの日常を送ろうと、そんな合意に似た思いがあったのは事実だろう。

 

 しかし、転がり始めた玉が簡単には止まらないのもまた事実である。トレーナーの体調は、昨日を皮切りに、玉が坂を転がり落ちるように悪くなっていった。

 

 

『すまない、今日は体調が悪くてトレーニングメニューを作れなかった。コース研究をしておいてくれ』

 

『わかったわ』

 

 

 またある日は。

 

 

『今日はあまり足を使わない自主トレをしておいてくれ。最近本当にすまないな』

 

『大丈夫よ、ゆっくり養生して』

 

 

 日に日に自主トレの頻度は増えていった。

 

 そして有記念も近づいてきたある日、見舞いに行ったダイワスカーレットに、トレーナーがぽつりと呟くように語りかけてきた。

 

 

「なぁスカーレット。そろそろ、だと思う」

 

「そ、そろそろって何よ。……そうよ、トレーナー。有記念、もうすぐよ! アタシそろそろアンタの組んだメニューをこなしたいんだけど、どうにか――」

 

「スカーレット」

 

「やめて! いやよ、聞きたくない! アタシを支えてくれるような変なやつはアンタしかいないの! 死ぬだなんて言わないで! ずっと一緒にいて、一緒に1番に……一緒に……」

 

 

 気付けば子供のように喚いていた。恥だとか外聞だとか、そんなものは知ったことではない、嫌なものは嫌。ダイワスカーレットは、優等生のフリが上手いだけで、大人ではなかった。

 

 

「……スカーレット。俺はもう君の隣にいてあげることは出来ない。それでも、君が1番になることは出来る」

 

「嫌! 1番のウマ娘の隣には1番のトレーナーが、アンタが!」

 

「――Eclipse first, the rest nowhere」

 

「……え?」

 

「トレセン学園の校訓だ。君ならその意味も覚えているだろう」

 

「……唯一抜きん出て……並ぶものなし……」

 

「そうだ、1番のウマ娘は孤独にだって耐えられる強いウマ娘でなくてはならない。唯一抜きん出て1番にならんとするウマ娘に、並び立てるものはないんだ」

 

「……1番のウマ娘はひとりぼっちってこと……?」

 

「あぁ。だから俺がいなくなるのは、これまで君が夢を叶えるために越えてきたものと同じ、壁の一つに過ぎない。君は、俺の死を些事だと笑って走っていかなくてはいけない」

 

「む、無理よそんな!」

 

「いいや、君は真面目で、優雅で、強いウマ娘だ。出来ないことなんてないさ」

 

 

 トレーナーがダイワスカーレットと視線を合わせ、微笑んだ。

 

 

「君が1番のウマ娘になることは、俺の夢でもあるんだ。重いかもしれないが、一緒に背負って走ってくれないか」

 

 

(……卑怯よ、そんなの)

 

 これまでずっと自分と同じ夢を見て、ずっと自分のことを想い、支えてくれたトレーナーからそんなことを言われて。

 

 

 走らないなんて、ウマ娘じゃない。

 

 

「……わかったわよ、トレーナー。アタシ、頑張るわよ。だから見てなさい。絶対、目を離さないで! 私が勝って、1番のウマ娘になったら、誰よりも喜んで! 私が負けたら悔しがって奮起して、次こそ1番を譲らないと心に刻み付けて! いいわね!」

 

 

 涙を拭いながらダイワスカーレットは叫んだ。

 

 

「当たり前だ。俺は、君のトレーナーなんだぞ」

 

 

 トレーナーの声は、ダイワスカーレットが知る、いつもの穏やかな声色だった。 

 

 

◇◇◇

 

 

 ダイワスカーレットに手を握られ、薄れはじめた意識の中でトレーナーは思考する。

 

(すまない、スカーレット。1番のウマ娘は孤独にだって耐えられなくてはいけない。それは嘘だ)

 

 だってそうだろう。担当ウマ娘が1番に強くても、その隣にはトレーナーがいる。孤独ではない。

 

 1番のウマ娘は、ひとりぼっちではない。

 

 だからこれは、ダイワスカーレットが夢を叶えるための呪い。自分の死でスカーレットが歩みを止めてしまわないように。先に進むための呪い。

 

(だが、きっと、きっとスカーレットなら大丈夫だ。この呪いを解いてくれる人が、スカーレットの隣に立ってくれる人が絶対にいる。現れる。あんなに真面目で良い娘なんだから)

 

 トレーナーは掛け値なしにそう思う。

 

(だとしても……当たり前だ。俺は、君のトレーナーなんだぞ、か。どの口が言えたか。俺は君のトレーナー失格だよ、スカーレット)

 

 

「すまないな……本当に」

 

 

 それがトレーナーの最後の言葉だった。

 

 

 

 

「勝ったのはダイワスカーレットォォォォ! 久しく成されなかったティアラ路線ウマ娘の有記念制覇! 夢の扉が今開かれた!」

 

 

 4コーナー早めに仕掛けた先行集団のウマ娘全員を捻り潰すかのように振り払い、最初から最後までハナを譲らなかったその有記念は、ダイワスカーレット史上最強の走りと言われ、ファンの心にいつまでも残るレースとなった。

 

 ウィナーズサークルでダイワスカーレットは一本指を掲げて宣言した。

 

 

「アタシが……1番!」

 

 

 ダイワスカーレットの夢。人々の記憶に残り続けるウマ娘になること。それはつまりトレーナーを1番のウマ娘の1番のトレーナーにすることでもあり、夢は確かに今ここで、叶った。

 

 

(でも本当に、本当にそうなの、トレーナー。1番のウマ娘には、1番のトレーナーが、隣にいるべきじゃ……ないの……? いちゃ……いけなかったの……?)

 

 ダイワスカーレットは泣き崩れる。果たしてそれは夢を叶えた嬉し泣きだっただろうか。

 

 夢を叶えたはずなのに。最も心の晴れる瞬間であるはずなのに、ダイワスカーレットの心のうちには染みのような何かがこびりついて離れなかった。

 

 

 

 

 



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