幼馴染みの天才トウカイテイオーと天才アプリ版トレーナーが無敵のテイオー伝説を始める話 (シグこれ)
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 夢というのは麻薬のようなものである。とは例えるにしては陳腐にすぎて、誰もが(かぶり)を振って失笑するであろう。たとえに挙げる言葉もさながら、清い言葉のあとに真逆の汚い言葉で印象づけようとしている。とか。厳密には言葉に良いも悪いもないが、どちらが正でどちらが負だと問われれば、誰もが返す答えは想像にたやすい。

 しかしながら。

 陳腐でありながらもなるほどとうなずけなくもない。現代において大多数の人々が麻薬というものを経験したことがないだろうにその恐ろしさを知っている。一時的に快楽を与えるかわりに一度はまれば抜け出すのは難しく、深みにはまればはまるほど、抜け出そうとした際の苦しみは大きくなる。

 夢もまた同じようなもので。志し、歩き出した時がもっとも幸福感、充実感にあふれ、目指す場所へ走り出し近づこうとすればするほど摩耗していき、あきらめようにも夢破れるつらさは身体を引き裂かれるに等しいと無意識での恐れから介錯なしでは止まれないなんて話はざらである。夢の大きさから到達距離は変わるだろうが、夢なんて言葉を使うのだ。その在り処なぞ、えてして遠いものだろう。

 だが。

 夢と麻薬が決定的にちがうところは麻薬はどれだけやってもなにひとつ足しにならないが、夢はもしやつかめる可能性があるということである。希望があるのが逆に悪辣だ。あまりに荒唐無稽ならともかく。

 結局のところ。

 疑問なのだ、夢を追いかけることは素晴らしいと思われがちであるがそうなのだろうかと。

 心身を削って一握りの到達者になろうと進み続ける人生が、はたして本当に幸福と言えるのだろうかと。

 

 

 

 それでも。

 夢を追いかける人々が。

 輝きに魅せられた人々が。

 後を絶たないのはきっと――――

 

 

 

 

 

 

 

 

「なーに読んでるのっ?」

 

 かけられた声と重圧に待ち人が来たことを理解した。

 幾分下がり、固定された頭をむりやり持ち上げ俺は返事をする。

 

「重い。どいてくれ」

「あーっ! 女の子にむかって重いって言ったなー!? ホントにキミってやつは、デリカシーのないやつだなあ!」

「男だろうが女だろうが頭にのしかかられて重くないわけないだろう。そんなこともわからないのか?」

「重くたって重くないよって言うんだよー!」

「たとえ軽くても重いと言ってやると誓っていてな」

「なんで!?」

 

 現在放課後。の図書室である。

 静寂に包まれていた部屋は鈴のような甲高い声が跳ね回り、一気に騒々しくなった。

 誰もいないのが幸いである。

 

「まったくお前はうるさいやつだな、テイオー」

「まったくキミは屁理屈がひどいね、ゲンゾー」

 

 立ち上がって我が幼馴染みの顔を睨んでやるが、彼女は何が楽しいのか、その腰の尾のような髪をゆらしてころころと笑っていた。

 

「で、なんで新聞? 新聞なんてここ、おいてたっけ?」

「職員室の机に置いてあったのを借りてきた」

「むだんで?」

「誰もいなかったからな」

「それセットーってやつぅ……」

「安心しろ、指紋は残していない」

「ケーカク的!」

「目撃者は始末した」

「さらに罪をっ!?」

 

 まあ新聞ラックに最新号が無かったので、誰かが読んでそのままだったのがこれだろう。

 あとでしっかり片付けておくので多目にみてほしい。

 

「で、そっちはどうだった?」

「ふっふーん。聞いちゃう? それ聞いちゃう? 仕方ないなあ~。いいよ、教えてしんぜよう。もっちろん! サイキョームテキであるワガハイの――」

「えぇ……なんでこのウマ娘が十一着……? 妙だな……」

「聞ーきーなーよぉーッ!!」

「いだだだだ!? わかった、わかった!」

 

 髪を引っ張られ、紙面に向けていた顔が強制的にテイオーに向き直される。

 どうどう、と頬を撫でて落ち着かせた。

 

「む~! ボクが話してるんだから他の娘見てないでちゃんと聞いてよね!」

「ああはいはい、ストレッチはしたか?」

「……したけど」

「前に言った、フォームは意識したか?」

「……くずれてないと思う」

「まあ、崩れるほどスピードを出すこともないか。一応聞いておくが身体に違和感は? 脚に痛みはないだろうな?」

「な・い・け・どぉ~……!」

「なんだ。やはり診ておくか? マッサージしておくか? なら、そこに座れ」

 

 今まで座っていた席に促す。

 なぜかテイオーは、ボクとっても不満ですと言った風に頬を膨らませていた。

 

「勝敗! なによりボクが勝ったかどうか聞くのが先なんじゃないの!?」

「いや聞くまでもないというか……勝ったんだろう?」

「そっ! まあこのテイオー様は天才であるからして~? トーゼンの結果だけどね~。 これでこの学校ではメージツともにボクが一番かな!」

「はあ」

「……ちょっと、なにその返事。もっとボクのこと褒めてもいいんじゃない?」

「相手が悪すぎて褒めようがない」

 

 普通の初等部の同年代や上級生にいくら勝利を重ねようがテイオーの才は圧倒的であり、まさしく当然の結果であり、納得はしても驚嘆するにはやはり、今更にすぎていた。

 それは俺だけではなく、この学校に在籍するウマ娘たちも同じように受け止めている――どれだけ気炎を上げて挑もうとも恰好だけであり、彼女たちにはとうの昔から諦めが見えていた。

 

 少しでも離されれば力を抜く。

 そもそもゴールまで走り切らない。

 

 別に、ここは上を目指す者が集う場所ではない。彼女たちにとっては本能に従った遊びだ。それが悪いとは思わないし、それでもいいと思える。……ただ、そんな相手に勝ったところで誇れるものなどありはしない。何を褒めろというのか。

 

 ようは気に入らないのだ。

 そんな相手たちとも笑いあうテイオーに。

 少し、寂しそうな顔をさせている奴等のことが。

 

「前から言っているが、ここで競っても意味はないぞ。トレセン学園で通用するのはお前だけだ、併走トレーニングにもなりはしない。先を見据え、成長途中の今に合わせて故障しにくいより頑丈な身体を作るべきなんだ。脚も消耗する、あまり無駄遣いするんじゃない」

「コムズカシーことはいいの。いいから褒めなよ」

「ヒューッ! さすが天才無敵のトウカイテイオー様、お前がナンバーワンだ!」

「イェーイッ、そのとーりっ! ありがとーっ!!」

 

 わー、とウイニングライブのようなナニカ。

 

「まあ中等部には負けてたから無敵じゃないがな」

「むぐっ!? い、今それ言わなくていいじゃんか!」

「いや調子乗ってるから釘を刺しておこうと」

「さすタイミングぅ! あれは仕方ないじゃん! ノーカンだよノーカン!」

「あと今のダンス手先の表現が微妙だな。いつも通りステップだけは完璧だが」

「えー、これは絶対こっちの方がいいってー。自由な表現ってやつ?」

「基礎を守ってこその自由だろう。ついでに言うと音程まで自由にするな」

「ちょっと声が裏返っただけだよ! それこそカンケーないし!」

「そうだな。負けた現実を見ようテイオー様」

 

 あまりに敵がいないのでそこらの中等部に忍び込み、つかまえたウマ娘を舌先三寸で丸め込み、走らせてみたのだがまあ負けた。同年代でも小柄な方のテイオーではさすがに体格差がありすぎた。とはいえ、あちらもそうだったがこちらも本格化を迎えていないので番狂わせなどあるはずもなく、予想できた結果である。

 ……それでもついていくことはできていたあたり、あらためて天才だと実感したけれども。

 

「才能に任せて好きに走って勝てれば世話はないということだな」

「むぐぐ……! い、いいもんべつに! 次やったらぜぇーーーったい天才のボクが勝つんだから!」

「ならレース中の戦術や駆け引きを頭に入れろ。何もしなくともお前はいずれ大成するだろうが、勉強しといて損はないぞ」

「タイセーってなに?」

「……すごいウマ娘になるって意味だよ賢さG」

「賢さG!?」

 

 とりあえず、もう少し勉強に取り組ませようと思う俺だった。

 

「そんなだからゲンゾーは、いつまでたっても友達いないんだよ!」

「今の話にそれ関係あるのか……? 特にコミュニケーションに苦労した覚えはないが」

「ふーん、じゃあ今日一日ボク以外とおしゃべりした?」

「……隣の席の鈴木くんが消しゴム落としたから拾ったらお礼を言われた」

「ごめんねゲンゾー……つらいこと聞いて……」

「哀れそうにこっちを見るな」

「やっぱりボクがいないとゲンゾーはだめだな~! この幼馴染みたるワガハイの存在に感謝するぞよ?」

「嬉しそうにこっちを見るな」

 

 情緒不安定だ。

 掛かっているかもしれない。

 

「ていうかさー、そーんなイジワル言うんだったらゲンゾーも走ってみればいいよ。昔はウマ娘目指してたんだし」

「おい、それは口にしない約束だったよなぁ……!?」

「さあて、忘れちゃったー。でもボクぅ、現実は見た方がいいと思うな~?」

「ライン……そのラインは走るに適していない……!」

「ねえ? 長い黒髪がすてきなゲンゾーちゃん?」

 

 玄蔵は激怒した。必ず、かの邪知暴虐のウマ娘を除かねばらならぬと決意した。玄蔵には政治がわからぬ。けれどもウマ娘に対しては人一倍敏感であった。ウマ娘とは人と比べ物にならない身体能力を持つ存在である。たとえ自動車並の速度で走り、たとえ200キロのバーベルを細腕で持ち上げるような超人であろうとも、しかし本格化を迎えていないのならばどうか。まだいけるのではないか。いやいくしかない。こやつにはわからせる必要があるのだ。男子(おのこ)の脅威をわからせる必要があるのだ。

 

「はぁ、はぁ……。ふん、今日はこのくらいにしておいてやる。これに懲りたら二度と言うんじゃないぞ」

「いや勝ったのボクだよね!? この状況、どう見てもボクが勝ってるよね!?」

 

 まだ負けてない。

 ウマ乗りにされ、両手を抑えられ、身動き取れず拘束されども心はまだ負けてない。

 

「そう、挑むことこそが重要なんだ……」

「ホントこりないよね……。もう何勝したかおぼえてないよ」

 

 わからせられるのが好きなのかな、とテイオー。

 なぜか機嫌良さげに笑う彼女に手を貸され、立ち上がる。

 

「まあジッサイのとこ、ゲンゾーはもっとボクに優しくしたほうがいいと思うんだよね」

「どうした急に」

「ウマ娘は感情にキビン? なんだからさぁ」

「甘やかしの領域に突入するぞ」

「このボクのトレーナーなんだから、そこはもっと気を使ってもらわないと困るよ」

「……いやトレーナーではないが」

「トレーナーだよ! だってもういろいろ教えてくれてるし!」

「わからないやつだな。それについても何度も言ってるだろう。仮にトレーナーだとしてもお前がトレセン学園に入るまでだ」

「わかってないのはゲンゾーの方だね。天才のくせに」

「まあ天才だが」

「天才のボクと天才のキミが一緒ならさ――きっとどんなレースにだって勝てるはずだよ!」

「…………」

 

 確かに自分は天才で、トレーナー志望で、今この時でさえそこらの新人トレーナーに比べれば、よっぽどうまくやれる自信はある。その道行きを支え歩む知識がある。

 だから、夢想したことはある。

 

 ――俺が先に生まれていたならと、どうにもならないもしもを。

 

 しかし。

 

「テイオーは、『夢』とかあるか?」

「『夢』?」

「『目標』、と言ってもいいが」

「急にどうしちゃったのさ」

「だって、とにかくレースに勝ちたいなんてのは、メイクデビューを果たしたウマ娘全員が思うことだろう?」

「まあ……」

「それにな、どんなレースにも勝てるウマ娘になろうとするなら、『才能』と『努力』。そしてなによりも『運』が必要だ」

「『才能』と『努力』と……『運』?」

「そう『運』。まあこれは曖昧すぎるし、それを補うために……いやとにかく。もっと明確にこうしたい、こう在りたいとか」

「え、えぇっと……! ちょっとタイム!」

 

 俺たちは天才だから、お互い離れたとしてもいいところまで行くことができるだろう。

 それでも上を目指せば同じように才能溢れた者がいて、それ以上の存在もいて。そんな一流のウマ娘たちでもターフを駆ければ勝者と敗者に分かたれる。

 レースに絶対はない。才能と努力だけではいずれ歩みは止まる。

 ならば勝者になるためにどうすれば? 栄光をつかむために必要な条件は?

 

「んぅ~、なんかG1? レースにいっぱい勝つ! とかどう!?」

「言ってることが変わらないんだが?」

 

 きっとそれが、俺たちに足りていないのだと思う。

 

 

 

 

 

 



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「ただいま戻りました」

 

 下校時間をとうに過ぎていたため早々に帰路につき、テイオーを自宅まで送りとどけ、ようやく俺は玄関で帰宅を告げた。

 扉を開けた瞬間から鼻孔を突き刺すスパイスの香りにやや上機嫌になりつつ、中へと上がる。

 

「おかえり玄蔵、ちょっと遅かったな」

「はい。少しテイオーと話し込んでしまいました、父上」

「おぉ、よくぞ戻った我が息子よ。本日はカレーである。疾く手を洗い居間へと馳せ参じるがよい」

「はい。しばしお待ちください、母上」

 

 言われた通り手を洗い戻る。

 テーブルに食器を並べ、料理を並べて支度を手伝い席に着く。三人で手を合わせてから食事を始めた。

 

「どうだ、学校は楽しいか?」

「はい父上。学校が楽しいかは微妙ですが、テイオーと話すのは楽しいです」

「そうか、それはよかった。……いやよくはないな。まあお前たちはそれぞれ抜きんでたところがあるからな。ウマが合うんだろう」

「そうかもしれません。話し方は同年代と変わらずとも、やはり視点がやや似ているように感じる時があります」

「然り。あの娘もまた優秀であるがゆえ。いまだ幼子でありながら三冠バもかくやと地を駆ける姿はこの儂も、眼を疑ったものよ」

「……いつもながら、厳めしい口調と表情が釣り合ってなくて頭がバグりそうになるな。息子も武士みたいになったし」

 

 訛りというか日本かぶれだな、と父。

 自分は物心ついた頃からこの調子なので特におかしいとは感じないが、父はそうとは思わないらしく、朗らかに微笑む母と俺を見て苦笑した。

 

 母はイギリス出身のウマ娘である。

 かの国の由緒あるレースにて、たいそう優秀な成績を残したウマ娘だったらしく、その経験を生かして今はトレーナーとして活動している。その実力は現役時代と遜色なく輝き、母国からはたびたび戻ってくるよう懇願されているとは聞くがはたして。

 

 父はそんな母を支えたトレーナー……ではなく医者である。正確にはウマ娘専門のスポーツドクター。

 かつて現役時代の母は重要なレースをひかえて故障し、出走は絶望的であると診断された。

 荒れに荒れ、泣きに泣き。どうにもならぬと涙を飲んで出走を取り消そうとした際に現れたのが異国のドクター。

 父はトレーナーと共に母を励まし付き添いながら足を全盛……とはいかずとも七割まで戻すことに成功。走れるのならば必ず、と恐ろしいまでの執念で勝利をもぎ取り、その勢いのまま父までもぎ取ったとかなんとか。

 というのが顛末らしいがはたして。

 

「そういえば父上。このまえ頂いた医学書で少しわからないところがあるので、あとで伺ってもよろしいでしょうか?」

「ああ、いいぞ。俺はこう見えて実は割とすごいからな。なんでも答えてやるぞ」

「母上、このまえ手伝いを申し出たデータ整理が終わりましたので、確認の方をお願いします」

「なんと、もう終わらせたというのか。まさに神童、いや麒麟児……。とかく我が懐刀は頼もしいかぎりである」

『……懐刀って、もしかしてサブトレーナーって言いたいのか?』

『ええそうよ。完璧な訳だと思いませんこと?』

『いやサブトレーナーはそのまま言えばいいだろ……。というか玄蔵はサブトレーナーじゃないしな』

『いやだわ私ったら。そうよね、玄蔵はもうトレーナーみたいなものよね』

『もっとちがうだろ! いやまあ知識はともかくライセンスが……』

『あら、飛び級のレコードを知らないのかしら? 私の教え子たちにも評判はいいし、望めばこの子はきっと……』

 

 まあ、そんなわけで二人とも忙しい毎日を送っている。

 今でこそ落ち着いたがかつては家にいないことも多く、お手伝いさんに世話をされながら過ごす日々も少なくはなかった。俺が早熟の理由なぞわかるはずもないが、知識に関しては二人の蔵書を絵本代わりに読んでいたからだろう。

 と。

 なぜか英語で話し始めたと思ったらやたら早口になってきて、さすがに聴き取れなくなってきたので自室に退散しようと片付け始めることにする。

 

『『玄蔵はどう思う!?』』

「はいっ!?」

 

 なにごと!?

 顔を上げれば二人の顔が至近距離で驚き、おもわず声をあげてしまった。

 そんな俺を見るとそれぞれ一言謝罪をし、元の位置に戻る。そしてひとつ咳払いをすると、まず父が口を開いた。

 

「玄蔵」

「は、はい」

「玄蔵はテイオー君のことが好きなんだよな?」

「ぶっふぉっ!?」

「「玄蔵!?」」

 

 何言ってるんだ!?

 不意打ちにもほどがある問いかけに思わず吹き出し、すぐさま反論しようと息を吸い込むと気管に唾液をつまらせ、咳き込んでしまい言葉にならない。水をくれ、水を。

 あわあわ慌てている両親に水を所望し、渡されたグラスを一気に飲み干してようやく落ち着いた。

 

「す、すまん。ちょっと言い方が悪かったな。その、あれだ。玄蔵はテイオー君と仲が良いよな?」

「はー……死ぬかと思った……。えぇ、はい。仲は良い方だと思っています」

「で、玄蔵は将来トレーナー志望」

「はい」

「テイオー君になにかとアドバイスしたりしてる」

「まあ……現状だと本当に大したことのないものばかりですが……」

「このままでいいのか?」

「? このままで、とは?」

「時が過ぎれば、テイオー君はいずれ中央に行くことになるだろう」

「中央……」

「説明するまでもないよな。トレセン学園だ」

 

 日本ウマ娘トレーニングセンター学園。

 通称トレセン学園。

 国民的スポーツ・エンタテインメントであるトゥインクルシリーズでの活躍を目指すウマ娘たちが集まる中高一貫校。地方にもトレセン学園はあるが一般的に指されるのは中央で、事実ここに在籍する者たちはエリート中のエリート。それはウマ娘に限った話ではなく教職員もである。

 外見はとにかく華やかであるがしかし、中身はそんな別格揃いがさらに鎬を削り、厳選され研ぎ澄まされてゆく。振り落とされるものは後を絶たない……いわば魔境といっていい場所だ。

 

 だが――

 

「――テイオーなら、大丈夫だと思います」

 

 彼女の才もまた別格だ。

 

「テイオーは本当にすごいんです。今はまだ小さく、本格化も迎えておらず、戦術も駆け引きもないから、トップに立てるとはどうしたって言えないけれど――逆に言えば、彼女はそのままであの実力なんです。何も磨かれていない原石なのに……輝く宝石のような娘なんです。適切に導き、躓かぬよう支えることができる人物がいれば、テイオーはきっと――」

 

 ――それは、俺ではないだろうけれど。

 

「――玄蔵」

 

 黙って父と俺をみつめていた母が呼ぶ。 

 

「ぬしは実に聡明だ。才気に溢れながらも弛まず驕らず、恵まれた環境を存分に使い挑戦し続け、さらに高みへ昇ろう邁進す――我が誇りそのものよ」

 

 で、あるが。と言って。

 

「早熟、などと評されながらもやはりぬしは若輩者というわけか。聡明も過ぎると返って童と変わらぬとは……いや摩訶不思議。だが許そう。千尋の谷へは御免被るが、今一つ背を押すだけならばやぶさかもなし」

「母上……?」

「熱だ。玄蔵」

 

 熱を帯びえど進む道は無し。

 その時至らば、我らを頼るが良い。

 と。

 口調とは裏腹の、とても優しい眼差しで俺に笑いかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――幼い頃、俺はウマ娘になりたかった。

 

 なんていうと、完全に語弊がある。過去の自分に言い方を考えろ、そもそもなぜ気づかないのだ間抜けと罵声を浴びせたくてしょうがない。

 正確にはウマ娘のようにターフの上に立ちたい。

 ウマ娘のようにウイニングライブを披露したい。

 である。

 ……これでも少々、今では口に出すのは気恥ずかしいが――しかし嘘ではない。偽りのない本心である。むしろ憧れない方がどうかしている。

 だってそうだろう?

 ウマ娘のレースが国民的人気を博しているのはなぜか。それはたったひとつの勝利をつかみ取るためゴールに向かって全身全霊をかけてぶつかり合う彼女たちの姿が美しく、格好よく、感動を呼ぶからだ。

 

 レースの為に鍛え上げられた身体を見ろ――そこに込められた努力を考えるだけで尊敬を抱く。

 誰もが勝ちたいと入れ替わり前へ前へ突き進む走りを見ろ――気づけば声を張り上げ声援を送っている。

 一着を取って歓喜に打ち震える勝者を見ろ――いつのまにか両腕は空に上がっている。

 二着以下のウマ娘は脇役か? ――そんなことはない。たとえ掲示板に乗らなくたって脇役はいない。悔しさを滲ませながらも最後まで走り続ける懸命な姿。観客はゴールを駆け抜けるウマ娘たち全員に手を叩き続ける。

 そしてウイニングライブ。

 煌びやかに踊り、歌声を届かせ、レースとは違った熱狂と感動をくれるステージは本当に魅力的で、あんなふうに多くの人から受け入れられたら、それはなんて幸せな瞬間なんだろうと心からそう思う。

 

 ウマ娘のレースは、夢が詰まっている。

 躍動する足の筋肉。

 振りし切られる腕。

 流れるままの汗。

 蹄鉄が蹴り出す土の音。

 走る為の動作一つ一つが、この世で最も美しいものだ。

 内部はただ華やかなだけでないとしても、見る者すべてに夢を与えられる素晴らしい輝きに溢れているのだ。

 

 ……だから、あの場に立つことは叶わないと理解した時俺は、幼心に絶望した。周りにいたのが優しい人ばかりで長引かせたのがかえって傷を深くした。どれだけ努力しようとも、そもそもスタートラインに立つ資格さえなかったのに。

 長髪は名残だ。風になびかせ走る姿が格好よかったから、ライブで光を反射してキラキラするのが綺麗だったから、ああなりたいという単純すぎる理由。

 ……思い返せば、肉体の内側で何を燃料にしているのかわからない爆発から生まれるエネルギーが、身体を突き動かしていた気がする。

 とはいえ、すべては幼い時分の話。

 残ったのはウマ娘への愛情と、レースへ携わりたい意思と、彼女たちを支えたい志し。

 いい思い出……というにはあまり思い出したくないが、すでに終わった笑い話だ。

 

「熱。か」

 

 考える。

 おそらくモチベーションだ。母が俺に指摘されたのは。

 しかしモチベーション? 幼い夢は破れたが、俺はいまだウマ娘に魅了されている。

 そもそも、何に対しての指摘だったのか。そんな漠然とした理想では頂点を究めることなど不可能だと言いたいのか? そうかもしれない。だけど、それの何がいけない。彼女たちの世界に寄り添って生きて行く。いいじゃないか。それは決して間違いなんかではないはずなんだ。

 ……テイオーに言った言葉を思い出す。

 夢があるか。

 どう在りたいか。

 俺が本当にしたいことは――

 

「ん~、とくに熱はないと思いますなぁ」

「…………」

「ボクの診察によると~……ムムっ、これは30度くらい!」

「…………」

 

 ぴとり、と額に押し当てられた右手。

 逆の手は自分の額をおさえて的外れにもほどがある診察結果を披露していた。

 30度って。

 

「先生、俺は健康ですか」

「健康です。お代は一千万円です」

「そんな、払えません」

「ならキミの命はもって数時間です。バクダンはすでに作動しました」

「テイオー様、人質だけはなにとぞなにとぞ」

「ほう、それはワガハイのキブン次第になるぞよ。キミにこのテイオー様を動かすことができるかな?」

「今度カラオケに行くことでどうでしょうか?」

「その言葉が聞きたかったー!」

 

 どこの闇医者だよ。

 途中から医者ですらないしな。

 

「検温くらいまともにしろ。これが平熱以下の体温か」

「ぴえっ!?」

「平熱は大体36.6度くらいだ、覚えておけ」

「ぴええ!? わかった、わかったからはなれてよぅ!」

 

 テイオーの前髪をかき上げ、あらわになった額に額をくっつけ教えてやった。

 

「び、びっくりした……。もう! ゲンゾーってば、ホンットーにデリカシーってのがわかってないよね!」

「デリカシー【delicacy】。感情、心配りなどの繊細さ。微妙さをあらわす。出典:umapedia」

「もー! そーいうことじゃないよー!」

「悪かったよ。この通り謝るから許してくれ」

「まったく、コピペ禁止なんだからね!」

「そっちなのか……!?」

 

 と、そこでふと気づく。

 

「テイオー。今日は髪、結ばないのか」

「ああこれ? んっ……と。はい」

「はいじゃないが?」

「えーいいじゃんかー。できるでしょ? 自分だって結んでるんだし」

「俺はポニーじゃないけどな……。じゃなくて、理由はなんだよ」

「ちょーっと寝坊しちゃって、ちょーっと待ち合わせに間に合わないかもーってね、へへ……」

「お前また夜更かししたな。いつも言ってるだろう、休日だからってリズムを崩すような真似はするなと。今の俺たちにとって睡眠がどれだけ重要か説明したことをもう忘れたのか? お前はただでさえ平均より小さいんだからもっと先を見据えて身体のことをだな――」

「わああっ、知ってますわかってますごめんなさい、いいからいいから、ねっ? ねっ?」

「……はあ、仕方ないな」

 

 話をむりやり打ち切って俺が先程まで座っていたベンチに座るテイオーにため息を吐きつつ、受け取ったリボンと櫛を手に背後へ回り込んだ。

 

「……いつもの公園だし。そんなに遠くないんだから慌てなくていいんだぞ」

「あわてるよぉ。ずっと前に遅れたとき、ゲンゾーすっごい怒ってたし。時間を守る大切さについて、すっっっごくオセッキョーされたし」

「あれは三十分以上も遅れるからだ。遅刻はよくないが、それならせめて一報入れて落ち着いて動け。危ない」

「このテイオー様なら別にだいじょーぶだってば。にししっ、もしかしてぇ、心配してくれてる~?」

「している」

「へっ?」

「時間を守るのは当然だが、俺との約束なら遅れてもかまわない……一報入れろというのは何かあったのかと心配になるからだ。落ち着いて動けというのは慌てるとロクなことにならないからだ。お前の身体能力は知っているが、どこかにぶつけた、転んで怪我をした……なんて事態になってみろ。悔やんでも悔やみきれん」

「へっ、へぇぇぇー? なんだか、えらくボクのことが大切みたいだね?」

「大切に決まってるだろう……前々から言いたかったんだがお前はもっと自分の身体を丁寧に扱うべきだ。俺がいくら気遣ったとしても本人がそれでは意味がない」

「ふっ、ふぅぅぅぅん? そっかー……そうなんだー……」

「おい、尻尾で殴るのやめろ」

 

 どれだけ優れたウマ娘であっても故障に泣かされターフを去るなんてありふれた話である。

 才能と機会に恵まれないウマ娘は多い……その中で二つが揃ったのに、結果も出せず『運』に嫌われ、終われなくても終わるしかないなんて、あまりに酷い話だ――俺は絶対にそんな事態にさせたりしない。

 

 ……というか髪結う時間はなかった割に尻尾の手入れだけは万全な気がするな……気のせいだろうか。

 バシバシ腹に当たる尻尾に視線をやりつつ、髪のセットを終わらせた。

 

「ありがとっ! うん、バッチリ!」

「これからは時間通りに起きて自分でやれよ。俺はいつまでも面倒見られないからな」

「え、なんで? 朝はいつも迎えに来てくれるじゃん」

「それはお前が寝坊したり忘れ物したり遅刻しないようにだな……」

「『早く寝たか~、準備はできているか~、朝食は食べたか~、なに~食べてない~? 一日の活力は~、身体づくりの基本は~』」

「そんなお経もかくやな話し方はしていない!」

「内容は認めるんだね」

 

 気を取り直して咳払い。

 

「……いずれテイオーはトレセン学園に行くだろう? 寮に入るとなったら全部自分でやることになるんだぞ?」

「えぇーっ、そこはゲンゾーも一緒じゃないと!」

「無茶言うな、あそこウマ娘だけだから実質女子高みたいなものだぞ……」

「じゃあボクの服貸してあげる!」

「サイズが合わな……じゃない、お前俺に女装しろと!?」

「いけちゃう、いけちゃう! 天才だし!」

「天才だけどな!」

「ボクも天才だし!」

「お前関係ないだろ!」

 

 どうにもテイオーは才能をフィジカルに振り過ぎているきらいがある。

 大体、服を着ただけで人とウマ娘の違いを誤魔化せてたまるか。

 トレセン学園の門戸開き過ぎか。

 

「でもゲンゾーはボクのトレーナーじゃん!」

 

 しかしテイオーは納得いかないようで、いまだ言い募る。

 

「もちろんトレーナーなら男でも入れるが……だから、俺はトレーナーじゃない。わからないやつめ」

「わからないのはゲンゾー! ゲンゾーがいなきゃ誰が今みたいにボクのメンタルケアをするのさ! トレーナーにとって重要な能力のひとつがウマ娘のメンタルケアって言ったのはキミなんだぞ!」

「今のはメンタルケアというより、ヘアケアだが――」

 

 いや、そんなことはどうでもいい。

 どうあれ、たまたま傍にいた、たまたま知識を持っている幼馴染みの自分を求めてくれるのは、正直いつも嬉しくて胸が一杯になる。

 何度も何度も手を伸ばしてくれるその度に――歯を食いしばって溢れそうな言葉を飲み込み押しとどめる。

 現実を見よう。

 最良の未来を目指そう。

 

「テイオー。いつも言ってるだろう」

 

 普段通りに。

 仕方なさそうに。

 俺は説明する。

 

「時間だ、問題は。俺はトレーナーになれる力はあるだろう。しかしお前がメイクデビューを飾って栄えある賞をいくつも取って、トウカイテイオーの名を世間に知らしめた時、それでも俺はまだトレーナーという肩書きすらないただの一般人である可能性が高い」

「でもゲンゾー天才じゃん」

「ああ。ひけらかすつもりはないが、持つ者として生まれてきたと思う」

「ボクも天才じゃん」

「ああ」

「言ったよねボク。天才のボクと天才のキミが一緒ならさ、きっとどんなレースにだって勝てるはずだって」

「――ああ、そうだな。そう思うよ」

 

 足りない部分はお互いまだまだ多い。けれどテイオーと一緒なら、誰も見たことのない場所まで、どこまでも翔んでいける――そんな錯覚を覚えるくらい。

 

「だけどな」

 

 そうはならない。

 そうはならないんだ。

 

「トレセン学園にいるトレーナーはエリートなんだ。実際に見たことはないが、俺のような天才が数多くいるはずなんだ、しかも経験に裏打ちされたとてもすごい人たちが。きっとお前を的確に導き、必ず偉大なウマ娘として大成させてくれる――だからな、テイオー。だから、もう、だな……」

 

 

 伝えなければならない言葉が近づくにつれ尻すぼみになっていく。

 喉に痞えて声が出ない。それでも言わなければならないのだ。

 

 

 

 もう、俺のことは――

 

 

 

「ああああーーーっ!?」

 

 なけなしの勇気も、絞り出そうとした声も、すべてがテイオーの絶叫にかき消された。

 

「な、なんだ!? どうした!?」

「じ、時間! 電車! 電車が間に合わなくなる!」

「なにぃ!? しまった!」

「ゲンゾーがユーチョーにしてるからだよ!」

「そもそもテイオーが遅刻するからだろ!」

「はぁ!? してないし! 時間通りだし!」

「でも髪のセットをやらせたよな!?」

「い、いいから行くよ! ボクはともかく、ゲンゾーの足だとギリギリアウトかも!」

「うぉおおおおおーーー!! ちくしょうーー!!!」

 

 

 

 

 



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3

 

 

 

 

 

 人の群れ。と形容すべきか。春の東京レース場はとにかく人がごった返していた。あらゆる人が一目見ようとこの場に集い、まだ何も始まっていないレース場は、すでに電光掲示板に着バが表示された後のように熱気に溢れていた。

 だがそれも納得できる。

 なぜなら本日開催されるのは東京優駿――日本ダービーだ。

 

「にほん……だーびー?」

「日本ダービー。重賞レースの中でも最高ランクに位置する『G1』の一つだ」

「あっ、ふーん……重賞、重賞ね。まあ、ダービーとか知ってたけどね……」

「お前ちょっとは勉強しろよ。言っておくが、トレセン学園は座学も厳しいぞ」

 

 テイオーのあからさまな知ったかぶりに呆れてしまう。

 こいつ頭の方ではじかれるんじゃないだろうか。

 

「で、でもなんかすごいね! いつもよりみんな、わくわくしてるっていうか……こっちまでわくわくしてウズウズしてきたよ!」

「わかるぞ、俺もまだ画面越しでしか見たことないからな……! G1レースは他にもあるが、やはり日本ダービーは別格ということなんだろう」

「ベッカク? なんでこれだけベッカクなの?」

「どのレースも頂点を決めるのは変わらないが、日本ダービーは文字通り、クラシック級の『頂点』を決めるレースだからだ」

 

 ――その戦いに勝てれば、やめてもいいと言うウマ娘がいる。

 ――その戦いに勝ったことで、燃え尽きてしまったウマ娘がいる。

 ダービーの頂点に立つ。それは中央トレセン学園総生徒数二千弱、地方も合わせればそれ以上。そのクラシック級すべてを降すということ。

 ――つまり日本一。

 G1レースを勝てばG1ウマ娘と呼ばれる。しかしダービーを制すればダービーウマ娘と呼ばれるのだ。

 ウマ娘誰もが一度は夢を見ると同時に――果てしなく難しい目標である。

 

「ふえぇ……! そりゃあ、こんな雰囲気にもなるよね! 納得! 来てよかったよ、ありがとう!」

「まだ始まってないけどな。でもその気持ちもわかるぞ。俺こそありがとう、だ!」

 

 『熱』について探るため、ひときわ人気のダービーを観戦してみようと誘ったのは大当たりだったようだ。

 本当に、すごい熱気だ。

 これがまだレース前なんて冗談みたいだ。

 数十万もいる観客一人一人の興奮が伝染し、さらに大きく膨れ上がり、そられが会場全体を渦巻いて、まるで大きなひとつの生物のように感情を共有している。

 『熱』がある。

 ただそこにいるだけで落ち着かない。いてもたってもいられなくなる途轍もないエネルギーがこの会場には存在していた。

 

「ゲンゾーは誰を応援してるの?」

「誰を、っていうのはないな。さすがダービーだけあって、誰もがいい仕上がりだとは思……ああいや、10番はよく見ておいた方がいいだろう」

「10番?」

「ああ――シンボリルドルフだ」

 

 スタンドの最前列で手すりに身体をあずけ、俺は言う。

 

「一番人気シンボリルドルフ。成績はここまで五戦五勝」

「えぇ! ムハイじゃん!」

「そう、無敗なんだ。しかも皐月賞を制した一冠バ。……もし、これを制すれば無敗で二冠か」

「一冠バ? 二冠?」

「……クラシック三冠というのがあってだな。まあ、ざっくり言えばただダービーを取るだけ以上に難しい偉業……すごいことを、途中まで進めてるわけだ」

「しかも負けなしで!」

「しかも負けなしで」

 

 まあ、ここまで無敗だから二冠も取れる、なんてダービーを舐めるわけもないだろうが。

 

「皐月賞は『最も速いウマ娘が勝つ』と称されている……距離が短いからな、スピードが重要なわけだ。が、ダービーになると距離がのびる」

「えっと、スタミナも必要ってこと?」

「正解だ。ダービーは中距離レースの中でも距離が長い。スピードとスタミナ……ただ速いだけでは駄目だ。先を見据えた調整ができなければ」

「へぇー、ちなみに日本ダービーはどんなウマ娘が勝つの?」

「『最も運のあるウマ娘が勝つ』、だ」

「じゃあボクの勝ちかな!」

「どういう理屈だよ」

 

 そして三冠――ここまで来れば『最も強いウマ娘が勝つ』菊花賞は当然視野に入っているだろう、さらなるスタミナの強化は急務といっていい。

 だが目の前のレースは未来に目を向けた状態で勝てるほど甘くはない――だからこそ、トレーナーが必要なんだ。

 道行きを支え、勝ち筋を示すトレーナーが。

 

「あっ、きたよ!」

「おお……」

 

 会場に響き渡るファンファーレ。

 合わせて打たれる手拍子、投げ掛けられる歓声を背景に、ターフに降りたウマ娘たちはゲートへ向かった。

 

 

 

 ――息苦しさを感じる。

 

 

 

 一人、また一人、と入場していくにつれ会場は静まり返り、心臓の音が大きくうるさいほど耳に届く。

 ――圧倒されていた。

 会場を渦巻く観客全員の『熱』に匹敵するそれが彼女たちの内にあり、18人のウマ娘の纏う空気が歪んで見える。『熱』は収まりきらず肉体の外側へ滲み出し『気迫』となって、さざなみのような静けさをもたらしていく。

 

 

 

 ――空気が張り詰めていく。

 

 

 

 俺もテイオーも。眼が離せなかった。

 観客も、ターフ上のウマ娘も、緊張感に包まれていた。

 こんなにも人がいるのに、こんなにも静寂だなんて。

 もしかしたら皆、死んだのかもしれない。

 なんてありえない不安が頭をよぎる中――

 

 

 

 ――ゲートが開いた。

 

 

 

 彼女――シンボリルドルフはとても落ち着いているように見えた。

 

 

 

 

 

 

 

『ゲート前にてスタートが切られました! シンボリルドルフ、シンボリルドルフはいいスタートを切りました!』

 

 瞬間、息を吹き返す。

 ゲートが開いた瞬間先程までの緊張は一気に吹き飛ばされ、静寂が嘘のように臨界点に達した歓声が洪水のごとく会場に溢れかえった。

 

「わあ……! わああ……!」

「うお……! うおお……!」

 

 テイオーと俺の口から、歓声ともいえないうめき声のようなものが漏れた。

 ――これが日本ダービー。

 画面越しではない、誰もが手をのばす日本最高峰の夢の舞台。

 

『シンボリルドルフ、前の方に行かず、抑えて中間につけました! バ場の内の方を走ります!』

 

 ――呆けてる場合じゃない。

 

 頭を冷やし腹に力を入れる。

 状況の分析を開始する。

 シンボリルドルフが走るコースは芝の2400m。中距離だ。

 距離は問題ない。見たところ彼女は長距離にも適性がある。スタミナは十分足りるだろう。

 ダービーを走るウマ娘は18人。

 その中でもシンボリルドルフの能力は上方に位置する。

 他と隔絶した差……とまではいかないが、脅威は半数以下といったところか。

 

 第二コーナーを回る。

 依然シンボリルドルフは似た位置で走っている。

 前の上りがやや早い。

 シンボリルドルフの作戦はおそらく先行だろう。俺がトレーナーならそう指示する。

 しかしもう少しペースを上げるべきではないのか?

 このままだと抜けきれなくなるのでは?

 

『三コーナーから四コーナーに向かうところ! シンボリルドルフは今先頭から七、八番手でありますが、いまだ動きはありません!』

「おい、なんでだ……!?」

 

 おかしい。やや後方、先頭を塞がれバ郡に飲まれかけている。

 さすがに上りが遅すぎる。

 位置取りも悪い。

 

 ――いや待て、そもそも先行じゃないのか!

 

『四コーナーを回ります、四コーナーを回った! 最後の直線、後方も一気にやってきた! シンボリルドルフ外に回った! 残り200!』

「無理だ! 抜けるはずがない!!」

 

 これは『差し』だ! 差すつもりなのだシンボリルドルフは!

 明らかな作戦ミスでしかない!

 この場にいたって差そうなど距離がまったくもって足りていない!

 ペースの維持すら失策だ!

 自分と相手の能力を分析すれば差しは分が悪いなんてわかるだろう!

 あいつのトレーナーは一体何をしている! 戦う相手を見ていないのか!

 

 握りしめた拳を柵に叩きつける。

 ただの観客でしかない、しかしいずれ彼女たちを導く道を選んだ身として憤り、

 

「――――は?」

 

 そして自身の眼を疑った。

 

『ッ外からルドルフ! 外からルドルフ! 外からシンボリルドルフがくる!』

 

 迫る。

 迫る。

 後方から、とんでもない勢いで迫りくる。

 

『シンボリルドルフ、グングン迫り先頭へ! これは強い! これは強い!』

「あそこからッ!? どうなってるんだ冗談だろ!?」

 

 三人抜いたあたりでさらに恐ろしい爆発力で加速する。

 シンボリルドルフが物凄い末脚でその差を一気に詰めている。

 何かに押されるような圧倒的な追い上げ。

 こんな走りが存在するのか……!?

 

「い、いけ……っ!」

 

 ありえないっ……ありえないけど現実だ!

 ありえないスピードでシンボリルドルフは走っている!

 俺の想像しえない『力』を纏ってゴール目掛けてつっこんでくる!

 

『な……並ばない! 並ばない! シンボリルドルフなんなく抜き去り頂点へ! これは強い! 誰も追いつけない!』

「いっっっけぇええええーーーーー!!!!」

 

 気が付けば俺とテイオーは。

 両手を振り上げ。

 衝動のままに叫び声を上げ。

 他の観客と同じように。

 無敗の二冠バの誕生を見届けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――疲れ切っていた。

 気が付けば、自分が走ったわけでもないのに汗びっしょりで、身体を動かすのが億劫で、今すぐその場に座り込みたいくらいに疲弊していた――なのに。

 

「テイオー!」

「ゲンゾー!」

 

 お互いの名を呼び顔を見合わせる。

 

「み……見たか、今の? しっかり見たか!?」

「み……見た! 最初から最後までぜんぶ見た!」

「「カッコよかったーー!!」」

 

 疲労なんて忘れて両手をつないで思わず飛び跳ねた。

 

「俺……俺……もう無理だと思った……! あそこから巻き返すなんて無理だと思った!」

「むりじゃない! むりじゃなかった! 後ろから内側から外側にすーって! 後ろから内側なのに外側にすーって!」

「ああ、わかる! おかしいと思ったんだ! 先行でつけるなら後ろ過ぎるし、位置取りは悪いし……バ群にのまれたのかと思った!」

「あのね! あのね! あそこね! ……ぐってなったら、どんってなって、びゅーんって!!」

「ああ、わかる! 最初は作戦ミスだと思った! でも違ったんだ……ッ! 俺には見えてない部分があった……! それが見えていたんだ! 彼女と彼女のトレーナーには!」

「すっごくはやくてね! もう、す~~~~っっっっごくはやくてね!!」

「ああ! わかる、わかるぞ! あんな走りができるなんてな! あんなウマ娘が存在するなんてなぁ!!」

 

 言いたいことが多すぎてまとまらない。

 支離滅裂なことを言っていて。微妙に会話になってなくて。

 それでもこの思いを伝えたくて、とにかく共有したくて。

 互いの手を握りしめたまま、胸の内から湧き上がる感動を言葉にし続けた。

 

「はあ~……カッコよかったな……」

「はあ~……カッコよかったね……」

 

 ふと、時間を確認する。

 人の流れからそう大してと予測できたが、本当にあのレースからほとんど時間が経っていない。

 レース自体はおよそ2分30秒くらいの出来事だったのだ。それが信じられない。信じられなくて、もしかしたら夢だったのではないかと頬をつねるなんて古典的な事もしてしまう。

 おかしな話だが、あっという間だったのにとても長かった。

 あのレース中に短い自分の人生をもう一回り繰り返したといっていいくらい、酷く濃密な時間だった。

 震えの残る左手を見る。全身が気だるい疲労感に包まれていて、今すぐベッドに潜り込みたい。

 しかしいざ差し出されたとしても、ベッドなんかいらないと即答で突っぱねられるだろう。

 

 身体は疲労を訴えていても、それを上回る充実感があった。意味もなく大声を上げて走り出したかった。

 無性にやりたかったことに手を付けたかった、諦めてきたすべてに手を伸ばしたくて仕方なかった。

 

 ここは夢ではなく、とても心地良い現実だった。

 

「よぉおーっし! いくよ、ゲンゾー!」

「うわっ! いきなりどうしたテイオー!?」

 

 繋がれたままだった右手を引っ張られ、人混みをかきわけ先導するテイオーの後ろをついていく。

 どこに向かっているのだろうか?

 

「シンボリルドルフさんに会いにいく!」

「……え! ちょ、ちょっと待て、誰に会いに行くだって?」

「だーかーらっ。シンボリルドルフさんだよ!」

「聞き間違いじゃないのか!? い、いや気持ちはわかる、うん。興奮がまだ冷めてないしな。俺も正直、話をしてみたいけれどもだな……」

「ん~と、どこに行けばいいのかなぁ?」

「……落ち着けテイオー。野次ウマ根性で行くのはまずいんだ。シンボリルドルフさんに迷惑をかけるだけだ」

 

 さすがにそれは看過できないと足をふんばり、歩き続ける身体を止めた。

 本気で抵抗されれば俺の身体なぞひきずっていかれるが、テイオーはぴたりと足を止め、こちらを振り返り、

 

 

「――野次ウマじゃないよ。ボク、決めたんだ」

 

 と。

 揺れることのない、まっすぐにこちらをとらえた瞳を向けて、そう言った。

 

 

 

 

 



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「いや、やっぱり絶対にまずい気がする……」

「まずくないよ。野次ウマじゃないもん」

「言うのは本人だけで変わらないんだよな……」

 

 遠くに見える目的とフラッシュライトと人の壁。

 関係者でもない俺たちがこれを抜けて最前列まで行くのだ。レース会場の時とはわけが違う。

 なのにテイオーは笑顔のままだ――今まで見たことのない瞳のままで。

 

「もう、じゃあボク一人で行けってのかい?」

「そもそも行くなと言いたい」

「それは無理だね。決めちゃったし」

「まず決めたことを教えろよ」

「んー、一緒に行けばわかると思うよ?」

「つまり教える気はないんだな……」

「だって、なんだかんだ言ってゲンゾーはついてきてくれるでしょ?」

「…………」

 

 がしがしと左手で頭をかく。右手は繋がれたままだ。

 

「行くか、テイオー」

「そうこなくっちゃ」

 

 覚悟を決めて、勝利ウマ娘インタビューの最前線に向けて身体を潜り込ませていく。 

 

「ふんぎぎぎ~……!」

「すみません、通して下さい」

 

 当然だが、無理やり壁を突破しようとするテイオーに逐一視線が落とされる。それは俺にも同じなので声をかけて頭を下げていく。通りやすくなったかは微妙なところ。

 なんせ、この壁の正体は記者である。記者の仕事は記事を書くこと。記事を書くため取材をするのだ。目線は前で下に向くことはない。後ろから申し訳ない、と声をかけつつ歩みを進める。

 人の壁が薄れて前方が見えるにつれて顔が強張っていくことを自覚する。心臓はバカみたいな速さで鼓動を刻み、口の中はカラカラに乾いていて唾を飲み込むのも一苦労。汗ばむ手のひらなんて気にする余裕もない。

 

「おや……?」

 

 ――そしてたどり着く。

 最前列。

 壇上に立つのはおそらく彼女のトレーナーと関係者のウマ娘。

 そして遠目から見えていた、目的の人物は不思議そうな顔をしていて、

 

「おい君たち、ここは関係者以外立ち入り――」

 

 後ろで誰かが何かを言っているがよく聞こえなかった。

 他に視線をやる余裕もなかった。

 身体がすくんでいた。

 無意識に委縮していた。

 きっと、そんなつもりはないのだろうけれど、その身から滲み出る威圧感……後に考えてみれば、自身の中に芽生えていた彼女への『憧れ』もあったのだろうけれど、誰かの心をつかむ『カリスマ』とでも称される存在感に、圧倒されていた。

 平時ならそんな自分に対し気恥ずかしさを覚えたかもしれないが、重ねて言うがそんな余裕はなかった。逃げ出そうという気さえも起こらない。

 こちらを見やるその人の、どこかテイオーに似た瞳に吸い込まれそうになっていた。

 

「あ、あの……お、僕は……」

 

 何か言わなければと口を開くも声が震える。そもそも何を言おうとしたのかもわからない。まるっきり動揺を隠せてはいない。寄る辺なく恐怖すら感じた。

 声の出し方も。

 呼吸の仕方も。

 一秒ごとに忘れていく。

 

 ――吞まれていた。

 

 この場を構成するすべてに。

 あのレースが始まる直前、数十万の観客たちが、たった18人のウマ娘たちの気迫に口を閉ざしたように。

 あの時はどうやってまた声を出せたのか。どうやって呼吸を再開できたのか。

 きっとこの場を握るのはシンボリ――

 

「あのっっ!!」

 

 大きく響いた鈴のような声に、はじかれたように顔をあげた。

 霞がかった頭はハッキリと活動を再開する――あのレースの始まりのように。

 張り詰めた緊張を払拭したのは――テイオーだった。

 

「ボクは、ボクは……っ!」

 

 握りしめられた右手に一際力が入った。

 

 

 

「――ボクは、シンボリルドルフさんみたいな強くてカッコいいウマ娘になりますっ!!!!」

 

 

 

「――――」

 

 周囲から笑い声が起きる。微笑ましいと思ったのかもしれない。

 

 堂々と、ではなかった。

 ここまで笑顔だった。

 進む足取りには弾みすらあった。

 しかし紛れもなく真剣で――それが不安を感じていない証明ではなかったのだ。

 俺と同じように委縮し、顔を強張らせ、小さな身体をさらに縮こませていた。

 それでも。

 それでも負けじと顔を起こした。

 眼を逸らさなかった。

 これまで見たこともなかった必死な顔つきだった。

 『憧れ』をまっすぐに見つめ、拙い言葉で自らの決意を一生懸命に伝えきった。

 

 ――――『熱』だ。

 

 幼い頃から常に一緒だった彼女に、あのレースに参加したウマ娘たちにも負けない『熱』が宿っていた。

 そう在りたいという『憧れ』が。

 必ず、そうなってみせるという『夢』となり。

 肉体の内側で燃え上がり、爆発を起こし。

 トウカイテイオーの身体を突き動かしていたのだ。

 

「きみ、それは大変よ? ルドルフちゃんみたいになるには『才能』と『努力』と『運』。この三つが完璧に備わってないと。だからね?」

「『才能』と『努力』と『運』……」

「マルゼンスキー、まだ子供にはわからないよ。いいかい、それにはまずトレセン学園に――」

「――いえっ! わかります! トレセン学園にも入学するつもりです!」

 

 繋いだ手から。

 

「ほう? すごいじゃないか」

「『才能』もだいじょーぶです、ボクは天才なので! 『努力』……は、ちょっと足りてないかも……。で、でもこれからがんばります!! 『運』はだれにも負けません! だってボクはもう――」

 

 向けられた瞳から。

 

「『ボクだけ』のトレーナーを見つけることができたから!」

 

 テイオーの燃えるような『熱』が俺の身体に伝染(つたわ)ってくる。

 

「――トレーナー? その子が、君のかい?」

「――はい! 名前はサギミヤゲンゾーって言うんですけど、すっごくすっごく、すごいんです! ただ走るだけじゃだめだってボクがもっと強くなれるトレーニングを考えてくれたり、走り方とか姿勢とか整えてくれたり、食生活とか睡眠のジュウヨウセイを教えてくれたり!」

「おい……テイオー」

 

 テイオーは言う。

 かつて俺が教えたことを。

 

「レース中のセンジュツとかカケヒキとかおぼえとけーって勉強させてきたり、ちょっときびしー時もあるんですけど……ホントはすっごくやさしくて! ケガも故障もしないようにってストレッチとかマッサージとかもしてくれたり、待ち合わせに遅れそうになっても危ないからあわてるなって心配してくれたりして――」

「テイオー、やめろ」

 

 テイオーは続ける。

 かつて話した未来を。

 

「――あと『才能』と『努力』と『運』のこととかも、実はゲンゾーに聞いたことがあったから知ってたんです。トレセン学園のことも、全部ゲンゾーが教えてくれたんです。将来必要なことだからって……お前は絶対タイセーするって、すごいウマ娘になるって……。ホントにいつも、ボクのこと、考えて、くれて……ホント、すごくて……っ!」

 

 

 本当になんでもない日常を。

 誇らしげに。

 ひとつ、ひとつ

 宝物のように。

 

「テイオー」

 

 俺はなおも続けようとする彼女の頬に左手を上げ――

 

「だから……だから一緒に……っ!」

「テイオー、もういい。もう大丈夫だ」

 

 

 

 ――滑り落ちた涙を受け止めた。

 

 

 

 ――勝手に期待しておきながら自分は現実を口にした。

 ――才能も環境も恵まれていながら賢しげに諦めた。

 ――伸ばされた手を幼い思考と決めつけた。

 ――知った風な口を聞いて彼女の願いを無碍にし続けた。

 

 濡れた目元をぬぐってやる。

 涙がこんなにも熱く感じることを知らなかった。

 

「ああ――」

 

 

 

 ――何もわかっていないのは、俺の方だった。

 

 

 

「――まったく。ほら、泣くな泣くな。シンボリルドルフさんの前だぞ」

「ぐすっ……ごめんねゲンゾー……。なんかわかんないけど、胸がいっぱいになっちゃって……」

「ウマ娘は感情に機敏なんだろう? 出会えたことが嬉しすぎて涙を流すこともあるだろうさ」

「そうかもぉ……」

 

 鼻をすするテイオー慰めて、俺は気遣わしげにこちらを伺う視線へ頭を下げた。

 

「すみませんシンボリルドルフさん、トレーナーさんたちも。勝手に入ってきて、騒がせてしまって……。栄えある舞台を邪魔してしまって、本当にすみませんでした」

「いや、気にすることはないよ。こういった場だ、緊張するのも無理はない。むしろ、よく来たと褒められるべきじゃないかい?」

「シンボリルドルフさん……」

 

 安心させるように冗談を交えながら微笑むシンボリルドルフさん。

 

「ところで」

 

 と。

 野次ウマでしかない俺たちにかけられた優しい言葉に、立ち去ることを忘れて感動していると彼女は言ってきた。

 

「つまり君は……トレーナーを目指している。ということで、いいのだろうか?」

「……はい、そうなります」

「ふむ……」

 

 シンボリルドルフさんは顎に手を当てて、俺とテイオーを見て何事かを考えていた。

 

「そうか……いや、そうだな。これもまた一つの……」

「……?」

「ああいや、すまない。……先ほど、こちらのマルゼンスキーが言った『才能』と『努力』と『運』の話なのだが……私は間違ってはいないと思っているが、同時に正解ではない……正確には足りていない、と考える」

 

 なぜか少し逡巡した様子を見せたシンボリルドルフさんは、唐突に彼女の傍にいるウマ娘――マルゼンスキーさんがテイオーに示した言葉を引き合いに語り始めた。

 

「我々ウマ娘という存在は速く走ることができる。もちろんそれぞれに個人差はあり、生まれつきより速く走れる能力を『才能』という。しかし『才能』というのは程度はあるが存外ありふれていてな? 研鑽しなければ他者の上に行くことなどできはしない、これを『努力』と呼ぶ。であれば、『才能』に『努力』をいっそう重ねれば勝てるのか? 怪我や故障がいつ起こるかわからないのに? 日々の、レース当日のコンディションさえ『運』の要素が含まれるのに?」

「ひとりでは限界があるということですか?」

「――なるほど、君は随分と賢い子のようだ」

 

 単純な話だ。足りないのならその三つに加えて必要なものを追加すればいい。

 

「どこを伸ばすか、どうトレーニングするか『才能』をこと細かく分析し、効率よく『努力』することで、身体の状態、不具合を見抜いて体調を整え未然に防ぐことができる。『運』による部分を減らすことができる」

 

 と、言って。

 

「では仮に――それらを補うことができれば我々はひとりで走ることができると思うかい?」

「…………」

「ウマ娘は信じるから走れるんだ――信じ合えるからこそ全力で、限界を超えてゴールを目指して走り続けることができるんだ」

 

 シンボリルドルフさんは隣にいる彼女のトレーナーと視線を交わした。

 

「その娘が類い稀な『運』に恵まれているのは間違いないよ。得難きものを、すでに得ているのだから――君たちの関係がどういった形であろうとも、それを覚えていてほしいんだ」

 

 ……ああ、なるほど。

 いい人だな、やっぱり。

 人生の岐路というのはこういうものなのか、なんて自身の年齢を思い出すと、未熟なのに早熟とはおかしな話だけれど――今日この場に来れてよかったと、心の底からそう思える。

 

「シンボリルドルフさん」

「なにかな?」

 

 握られるままだったテイオーの左手を、負けないように強く握りしめた。

 

 

 

「――俺は、シンボリルドルフさんのような強くてカッコいいウマ娘を目標に、その道を支え歩めるトレーナーになります」

 

 

 

 俺は言った。

 迷いなく。

 

「だから、ありがとうございました」

「そうか――いや、こちらこそ」

 

 シンボリルドルフさんは何処か嬉しそうに笑っていた。

 

「最後に君たちの名前を聞いてもいいかい?」

「鷺宮玄蔵です」

「ト、トウカイテイオーです!」

「覚えておこう。――トレセン学園で、君たちと会えることを楽しみにしているよ」

 

 笑って。

 俺たちの憧れの人は、優しく頭を撫でてくれたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやもうとにかく今回は本当に肝が冷えたという話なんだ」

 

 日も暮れて――その夕方。

 俺たちは行きと同じように電車に乗って歩き、日本ダービーを見に行くために待ち合わせをした公園の中にいた。互いのテンションもすでに一定の落ち着きを取り戻し、気づいてみれば身体は多分に疲労を覚えていて、加えて今になってシンボリルドルフさんに会いに行くという名目での野次ウマ行為、取材陣を割っての乱入行為、と致してしまった事実に震えてつらくなってきたので再び二人してベンチに腰を下ろしていたのだった。

 

「うん……ボクもなんか、すごい体験したなーって思う……」

「だな……」

 

 腰を下ろすというより、もはやだらりと身体を預ける始末であった。

 

「みんな……カメラ持ってたよね。……映っちゃったりしてるのかな」

「心配しなくともさすがにそれはないだろうが……」

「シンボリルドルフさんと映りたかった……」

「そっちなのか……」

 

 あのあと拍手が起こったからな……一体何に対しての拍手かまったくわからなかったが。

 一時のテンションに身を任せると場合によっては恐ろしいということを学んだ俺たちであった。

 

「でもさ」

 

 身体を起こして俺は言う。

 

「カッコよかったよな」

「カッコよかったよね」

「あの人、あんなにすごい走りをしておいて涼しい顔をしていたな」

「あんなに速いのに、きっとまだ速くなるんだよ」

「知ってたか? 今日のレース日本ダービーなんだぞ?」

「知ってるよ。日本一はシンボリルドルフさんってこと」

「二冠だってな。今日を見ると三冠も夢じゃない」

「それにムハイ。負けたことないんだって」

「一緒に映りたいって気持ち、わからなくもないぞテイオー。むしろ俺も映りたい」

「じゃあゲンゾー、また一緒に会いにいこ? シンボリルドルフさんはトレセン学園でボクたちと――」

 

 そこでふと、言葉が途切れた。

 

「……なんだ?」

「……べつに、なんでもないけど」

 

 尋ねてみるも、なんとなく歯切れが悪く、会話はそれきり止まってしまった。

 空気が重いといったわけでもないが、それ以上追求する気にもなれず、俺も前を向いて口を閉ざした。

 基本的にはお喋り好きなやつなので、俺と彼女の間に会話が絶えるということは珍しいことであった。

 ぼんやりと公園の風景を眺める。

 犬の散歩をする人。自主トレをするウマ娘――そして隣に座る幼馴染み。

 幼い頃から変わらない景色。

 

「ねえ」

 

 テイオーは言う。

 

「シンボリルドルフさんにさ、言ってたよねゲンゾー。将来の目標……」

「……ああ、今までもトレーナー志望だったが……情けない話、自分が何をやりたいのか、どう在りたいのかをようやく気付くことができた」

「気付く……?」

「ああ」

「……ゲンゾー、ちょっと変わったかも」

「変わった?」

「なんか……レース場の雰囲気みたいな」

「……それを言うならお互い様だと思うがな」

 

 お互い気合が入ったということだろう。

 

「ありがとう、テイオー」

「え?」

「あの場に連れて行ってくれて。俺一人では、シンボリルドルフさんと話すなんてことにはならなかった」

「い、いいってそんなの。ボクだって、ゲンゾーに誘ってもらわなきゃあそこにいなかったんだし……お礼を言いたいのはこっちだよ」

「そうか?」

「そうだよ」

 

 そこでまた会話が途切れる。

 どうにも調子がおかしいテイオーだが、ただ口を閉ざしたというでもなく、何処かためらうような、何事かを迷い言いあぐねている風であった。

 

「なあ」

 

 俺は言う。

 

「俺、お前に言わなければならないことがあるんだ」

「…………」

「もっとも、今更言うのか、と思わなくもないが……やはり今更だとしても、俺はテイオーに言いたいんだ」

 

 言って深呼吸をひとつ。

 緩やかな血流を意識する。

 ……決めたとはいえ、やはり少し緊張してしまう。

 暴れ出そうとする心臓を宥めかせ。

 震え出そうとする手足を抑え付け。

 意識と身体を統一する。

 さあ――言うぞ。

 

「ま……待ってっ!!」

 

 ……本日二回目である。またしてもなけなしの勇気を立ち上がってまで遮られた。しかし一回目と違うのは、テイオーは先ほどとは打って変わった、何かを迷う様子は消えていて、意を決した、覚悟を決めたどこか悲壮な雰囲気漂う表情で――悲壮?

 

「ボク……わかったんだ。ゲンゾーが言ってた『夢』とか『目標』の意味」

 

 と、疑問を挟む余地もなくそのままテイオーは話し始めた。

 

「レースを見て、シンボリルドルフさんを見て、こんな風になりたいって思ったんだ……そしたらなんだか、わーっておっきな声で叫びたくなって、今すぐ走りだしそうになって――とにかくあんな風になれるなら、なんでも頑張れちゃうって思って……ああ、これなんだって」

「…………」

「だからみんな、あんなに速く走れるんだって。全力で――ゴールを過ぎて倒れこんじゃったりするくらいホントに最後まで全力で、力を振り絞れるんだって」

 

 唐突ながら、たどたどしくも自分が感じた『熱』がどういったものであるかを説明し。

 

「ありがとうゲンゾー、キミがいなきゃわからないことがたくさんあった」

 

 ありがとう――と眼を伏せて。

 

「ボク、がんばるから。キミのこと、これからもずっとずっと見てるから――」

 

 かと思いきや顔を上げると無理やり作ったような笑顔を見せて。

 

「だから、いつか――ううん。これから、ゲンゾーもがんばって!」

 

 言ってテイオーは、背中を見せて走り出し――

 

「いやちょっと待て!」

 

 ――走り出しかけたところをあやうく捕まえた。

 ベンチから咄嗟に立ち上がって、である。

 あぶなかった。

 なんでこいつ逃げようとしてるんだ。

 走り出したウマ娘に追いつけるわけもなく、本当にギリギリ、反射的になんとか腕をつかめたといった具合であった。

 

「や……やだっ、はなしてよぅ!」

「お、おい……っ! だから待てって、一旦止まれ!」

 

 それでもテイオーは、身をよじりながら逃げようとしていた。

 身体能力で勝てるはずもなく、ずりずりと引きずられながらも落ち着けようと説得する。

 

「どこに行くんだ! 俺はお前に言うことがあると言っただろ!」

「聞きたくない!」

「自分だけ言い逃げなんて許さんぞ、聞けぇ!」

「やだぁ!」

「なんで!」

「なんでも!」

「なんでもってなんだ!」

「なんでもはなんでもなんだもん!」

「何言ってんだこいつ!」

 

 ……だめだ、握力がもたない。

 暴走しかかっているテイオーの力はさらに増してきており、両手を使っていてもこのままでは振り切られてしまう。

 無理だこれは。

 人がウマ娘に勝てるわけがないのだ。

 今は落ち着くまでそっとしておいて、明日また言おう――なんて。

 

「今ここで言えなきゃいつまでも言えないよなぁ……!」

 

 残った力を総動員。身体を全力稼働。

 大きく胸に息を吸いこんで腹に力をこめて声を張る。

 

 

 

「俺はっ! お前が欲しいんだぁあああっ!!」

 

 

 

 ……公園中に響き渡った俺の声に、ちらほらといた人影が視線を向けてきたがそんなことはどうだっていい。

 勢いあまってあらぬ誤解を生みそうな言い方をしたが、いや決して間違いではないのだ問題ない……!

 

「……………………ふぇっ?」

 

 今重要なのは俺の必死の叫びに逃げる身体がようやく停止してこちらを向いたということなのだ。

 この機を逃すな、言うべきことをすべて言うんだ!

 

「いいか、よく聞けトウカイテイオー! 俺はバカだった、お前の言う通り天才なのに何もわかっていなかった! 頭の良さを鼻にかけ、現実を何もかもわかった風に見て、道を模索することを諦めて、お前の将来を気遣う振りをして、自分の本当にやりたいことにフタをしていた大バカ野郎だ!」

 

 才能も環境も恵まれていた。

 全力で手を伸ばせば届かない距離ではなかったのだ。

 

「そんな有様で! 半端にトレーナーを気取って! あまつさえ何度もお前の手を振り払った!」

 

 そうだ。

 教えることをやめればよかったのだ。

 手を払うのではなく。

 本当に彼女の未来を思うなら。

 母にでも頼み込んで最適な環境を用意する手伝いをすればよかったのだ。

 でも。

 それはできなかった。

 

「俺はお前に! 心底惚れこんでしまってたんだ!!」

「…………っ!?」

 

 まだ何物でもない、まったく磨かれていない状態でありながら、これ以上ないほど輝く原石。

 どうしようもなく魅了されていたのだ。とっくの昔から。

 誰よりも速く楽しそうに走る姿に。

 彼女がターフを駆け、よりいっそうキラキラと輝くさまを見たい――それを隣で見てみたいと。

 

「だからお願いだ、トウカイテイオー」

 

 これまで自分は、わがままというものを言った覚えがない。

 両親に何かをねだることはあっても、それはわがままというより、巡り巡っていつかは役に立つような――真に自分が得をするためだけの、感情に任せた発言をしたことがない。

 唾を飲み込む。

 勢いに任せても臆病な自分が躊躇する。

 

「そんなバカな俺を許してくれるのなら、俺がお前を……いや違うな。俺に、でもなくて……そうだ、俺と――」

 

 思えばすべて。

 俺の心が弱かったのが原因だ。

 身体は前へ向かっていたのに、心がついていけていなかった。

 でもそれも終わりだ。

 両手を腕から肩へ。

 テイオーの両肩をしっかり持った。

 

 

 

「俺と一緒に――夢を翔けてくれ!!」

 

 

 

 『熱』はすでに満たされた。

 何があっても、どんなことになろうとも前へと進み続ける――必ずそこへたどり着くという強烈な意志の力。

 精神が肉体の限界を突破させるように。

 壊れた脚でも勝利を掴めるように。

 それを表す言葉は数あれど。

 それが奇跡さえ呼ぶのだと。

 

「…………」

 

 ――と、一世一代の渾身のスカウトをかましたわけであるが。

 

 ……反応がない。

 目の前にある表情を伺えば、そんなに力を入れて逃げようとしたのか真っ赤に染まっているし、眼が泳ぎきっている――漫画的な表現をすれば、眼がぐるぐると回っている。

 というか、俺の手はいつのまにテイオーの両肩を持ってしまっていたのだろうか。感情に任せすぎて自分の行動を覚えていなかった。

 

「おい……テイオー、聞こえてるか? 今のを聞いてなかったと言われると、かなりつらいものがあるんだが……」

「……だ、だいじょーぶ。うん、聞こえてる……うん……はっきり聞いた……うん……」

 

 そのまま揺らすとやや呆けたような返事であったがひとまず安心し、手を離す。

 あとは了承されるかどうかである。

 フラフラとまるで腰が抜けかけたような危なげな素振りを見せていたが、やがて眼の焦点も戻ってきた。

 

「ええっと……つまりゲンゾーは、ボ、ボクとこれから先もずっと一緒にいたいってことなのかな……?」

「まあ、そうだな」

「じゃ、じゃあ、トレーナーにもなってくれるってこと……?」

「? それはそうだ。なってくれる、ではなくなりたいんだ」

「でも時間が問題って……」

「それは俺の言い訳だった。これから俺は使えるものは何でも使ってライセンス取得に動く。大体予想はつくが、それでも厳しい道のりになるかもしれない。だがやる。やると決めた。足りない力をつけて、メイクデビューを果たすまでに必ずテイオーの隣に相応しいトレーナーになる」

「ボ、ボクのために……!?」

「いや厳密には俺がやりたいから俺のためであるが」

「で、でもボクと、ボク『だけ』と一緒にいたいからってことだよね……!?」

「まあ……そうなるな」

「~~~~ッ! ちょっとタイム!」

 

 背を向けるテイオー。

 何がタイムか。またもや逃げられないか。とやや戦々恐々としながら後ろ姿を見つめていたが、その兆候はなさそうである。

 なにやらブツブツと独り言は漏れていて、様子がおかしいのは変わらなかったが。

 

「……で、俺はお前のトレーナーにしてもらえるのか?」

「あっ……うん。ごめんね」

 

 こちらへ向き直り、こほんと咳払い。

 

「……まったく、キミはひどいやつさ。今まで何回も誘ったのに全部振っておいて、いざボクが身を引こうとしたらこれだもん、ボクのジュンジョーをもてあそんでくれちゃってさ」

「む、それについては重ね重ね申し訳……いや待て、様子がおかしかったのはそういう?」

「そ。ボクってば理解のあるイイ女だから。そーいう気遣いもできちゃうんだ」

「あのわがままなテイオーが気遣い……? どういうことだ……?」

「わがままは余計だよ! ……ゲンゾー言ってたじゃん、シンボリルドルフさんに。ボクもだけど、本気で目標を目指すなら、いつまでも無理言ってちゃよくないよね」

「……それがなぜ俺の話を遮って逃げることに?」

「だって……もしゲンゾーからあらためて真剣に断られちゃったらさ……」

「テイオー……」

「じゃあ先に、さよならしよっかなって」

 

 さよならして、明日からがんばって、いつかまた一緒になれたらと思ってた。

 うん。

 俺は間一髪だったようだ。

 この関係を悪い方向へ崩してしまう一歩手前だった――そう聞くと、やはり今日という日は俺にとって分岐点なのだろうとしみじみ思う。

 自惚れでなければ俺は。

 この幼馴染みを悲しませてしまっていたのだ。

 

「だからさ……ホントにいいの?」

「お前が良ければな」

「トレセン学園に入ればもっとすごいウマ娘がいるかもしれないよ?」

「それはお互い様だろう」

「シンボリルドルフさんの担当になれるかも」

「どんな世界線だ……」

「もしそうなってもボクのことずっと見ててくれる?」

「当たり前だ」

「他の娘見ちゃだめだよ?」

「専属だからな」

「浮気は許さないからね?」

「えらく念押しするな、もちろんだ。……浮気?」

 

 どこか認識に齟齬がある気がしなくもない、微妙にズレのある質問が混ざっていたが、まあ問題ないだろう。

 目指す場所は、きっと同じなのだから。

 

「そういえば、目標はシンボリルドルフさんみたいになるんだったな」

「うん、ボクはシンボリルドルフさんみたいに強くてカッコいいウマ娘になるんだ! だから二冠をとる!」

「二冠をとるって、中途半端な目標だな……。さっきも言ったが、あの人は三冠取ると思うぞ」

「じゃあ三冠とる!」

「しかも無敗でな」

「しかもムハイで三冠とる!」

「お前さっきから俺の言うことを繰り返してるだけだろう」

「ぎくっ」

「ぎくって口に出すやつ初めて見たな……。シンボリルドルフさんは確かにすごいが真似するだけではなく、シンボリルドルフさんを見習ってどうするかを考えろ」

「んー……とにかくレースに勝つ!」

「ずいぶん前に戻ったな……」

「ちがうちがう。まずムハイで三冠とって、そのあともず~っと誰にも負けないムテキのテイオー様になるってこと!」

「――なるほど、伝説を打ち立てようというわけか」

「それが言いたかった!」

 

 嘘をつけ。

 まあ、でも悪くはない。

 俺もシンボリルドルフさんのようなウマ娘を目指し、支えることができるトレーナーになることを掲げていくわけだが――俺の中の彼女はすでに無敗で三冠を取っているし、その後も敗北している姿がどうにも想像できない。

 些か第一印象が鮮烈過ぎたな。

 だが目標は高い方が良いのは間違いない。

 

「Eclipse first, the rest nowhere……」

「えっ、なに? なんて言ったの?」

「唯一抜きん出て並ぶ者なし。母から聞いた……ことわざにして栄光、だな」

「? ふーん?」

 

 いつか必ず、その場所へ辿り着いてみせるのだから。

 

「じゃあ始めるか、無敵のテイオー伝説。二人で歴史に名を刻んでやろう」

「うんっ。これから一生よろしくね、()()()()()!」

 

 

 

 

 

 幼い頃から変わらない景色。

 夢を見て、夢に破れ、そして再び夢を掲げて走り出す。

 時に振り返り、時に間違い、時に迷いながらも一歩一歩踏みしめて。

 変わらない景色を変えていく。

 ひとりではなく、ふたりでなら、辛く険しい道程さえもきっと素晴らしい。

 隣で歩き続ける幼馴染みと共に。

 夢を翔けていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




続くなら幕間からの学園になりますが書ききれる気がしないのでとりあえず完結です。
読んでくださったすべての人に感謝を。ありがとうございました。


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おまけ

人物解説です。
作ってたキャラ設定を編集して載せるだけです。

性癖が多分に混じってるのでウマ娘の綺麗なイメージが著しく損なわれる可能性があります。ご注意ください。
それでもよろしければどうぞ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 鷺宮玄蔵

 

 アプリ版トレーナー(幼)

 テイオーを笑顔のままにし続けるアプリ版トレーナーが本当に有能すぎてどういう出自にしたらいいか考えたらこうなった。医者も止めた菊花賞走らせるだけじゃなく勝たせて三冠取らせるとかチートすぎんか? 幼馴染みとして幼年期から消耗抑えて骨密度上げるくらいしか思いつかない。

 

 ウマ娘のための教導知識と医学スキルがつめこまれた天才の経験以外SSRトレーナー(仮)。頭が良すぎて割とネガティブ。天才とは己を鼓舞する言葉。大人びて見えるが外見だけで年相応にはしゃぐしビビる。むしろ怖がりなので話がややこしくなった。

 

 ステータスが見えているわけではないが見えているかのごとく詳細に能力を分析できる

 ただしスキルはわからないのでシンボリルドルフが事故ったと思ったら汝、皇帝〜を発動して爆速で一位取ったことにめちゃくちゃびっくりしてファンになった。史実の日本ダービーもすごかったのでみんな見ようね。

 

 好きな作戦は逃げと先行。嫌いな作戦は差し。だって事故るからね。黙れパワーは足りてるだろうがうるせえ賢さだ賢さを上げさせろ。

 

 趣味はウマ娘グッズ集めとコスプレ(女装)

 ウマ娘のぬいぐるみとかコラボ TシャツとかライブBDとか買いがち。

 現実の子供が戦隊モノや仮面ライダーになりたいと憧れるようにウマ娘に憧れ、ウマ娘の勝負服レプリカとか買って純粋に楽しむので結果的に女装する。このため長髪は名残であるが映えるという理由もあって切らない。推しのシンボリルドルフの真似を自室でやる。恥ずかしさはもちろんあるので家に誰もいない時にするけどテイオーに見つかって弱みを握られ嫌がるも女装を強要されて定期的に辱められ写真も動画も増えて身動き取れなくなりしっとりねちねち愛でられるとすっげえはかどるんだけどお前はトリコ?

 

 マゾヒストなので彼は今日も幸せです。

 

 

 

 

 

 トウカイテイオー(幼)

 

 ヒロイン。

 概要がすべて。

 感動なんかいらないからとにかく笑顔でいてほしい。

 アニメで何度でも立ち上がる姿は本当に何回も泣いたし周りのキャラにも泣かされたし尊さで死ぬとか冗談あるけど本当に死にそうになるからまともに見れなくなった。OP聞くだけで泣くからやめてくれ。それは俺に効く。やめてくれ。

 アニメ見てない人は見ようね。

 

 主人公と幼馴染み。なんかウマ娘になるとか言ってる変な奴いるなと思ったら走るのはともかく、歌もダンスも割とすごかったので張り合ってたら楽しくなってきてこうなった。

 天才なので感覚派。

 その場に合わせたパフォーマンスができるが理論派の主人公とは相性が悪い。カラオケで歌い踊り、一日中バトって友情を芽生えさせる流れを何十回もやっている。

 

 主人公による肉体改造と生活習慣の監視により身体がとても健康に丈夫になってきた。菊花賞を骨折せずいけるかもしれない。はちみー? 言語道断である。

 

 今作のテイオーも二次でだいたい付与されるしっとり属性。書いてたらなんかじわじわしっとりしだしてきた。スキル独占欲。ただし悲しい笑顔とか昏い笑顔とかとにかく病んでる顔は見たくないのでスッキリ明るいさわやかしっとり。どういうこと?

 

 主人公のことが好き。ただし厳密にはラブかライクかわからない。でもまあこれくらいの年齢の子はそういうもので、好きかなー? と思ってたら好きだなーってなったりします。経験あるでしょ? 僕はないです。

 

 幼馴染み設定なのはラブコメが見たかったから。雌の顔が見たかったから。幸せとは愛なのでレースとあんま関係ない頭からっぽの青春ラブコメにしたかったのになんかちがう。けど結果的にテイオーが幸せそうなのでOKです。

 

 

 

 

 

 キャメロット

 

 主人公の母。

 キャメロットという名は馬名としては非常にありふれているらしいが、イギリス競馬界の史実で三冠を逃した二冠のキャメロットの名を拝借した。

 主人公をチートにするためにはどうすればいいのか考えた結果、因子継承にたどり着いた。

 競馬の知識がほぼないけどイギリスがなんかすごいことは知っていた。のでイギリス産にしよう。からのかの伝説エクリプスもイギリスか、やっぱすげえや。の流れ。

 

 ツリ目の上品なお嬢様が奥様になりました。嘘です実は貧困層の生まれ。ヤンデレ。

 イギリスは紳士淑女の国であるがまあアレなところがあり、アレな扱いを受けてきたことにより、必ずこいつらを見下してやると本物を目指して走った努力で出来た偽物。

 

 気性が荒い。レースになると本性が出る。聞いたこともないような英語のスラングで罵倒してくる。下品なやつ。デバフスキルもりもり。

 結果を出してくると才能に惹かれて乗っかろうとしてきた気合の足らないトレーナーを何人も再起不能に追い込んだ。

 頭が悪い意味でとても良いので眉をひそめられる行為の証拠を残さない。相手を必要以上に傷つける。顔を見るのも恐ろしいレベルで心を折る。ボクシングさせると親指を相手の眼に突っ込んでそのまま殴り抜ける。

 

 ただ走る才能よりも、なにより困難を苦と思わない目標へと進み続ける『熱』が凄まじい。そのため、だいたい自分ひとりでなんとかしてきた。

 この経験がのちにトレーナーとして生かされる。

 

 所詮、誰もがひとりぼっちで生きてひとりぼっちで死んでいくのだと拗ねながら生きてたら肝心な時に故障して、結局生まれが悪ければ為したいことも為せないのか、と自分の足を切り落とそうとするまで病んだが主人公の父の献身的な治療と看護によりコロッといかされた。

 隣を見る余裕ができれば立ち止まることもでき、後ろを振り返る余裕もできた。

 するとそこには自身をライバルと呼んで共にターフ上を駆けるウマ娘たちや、身を案じてくれた幾人もの善良な人々の姿があった。

 必死に走り続けてきた彼女はもうひとりぼっちではなかったのだ――

 

 とかいい話っぽい過去エピがあるけど、今は息子が本気出して家を空けることになったので、毎晩夫婦でうまぴょいしてる。上にのりがち。

 やや年の離れた妹が生まれることを主人公はまだ知らない。

 

 好きなものは時代劇。

 実はイギリス無敗の三冠ウマ娘。

 

 

 

 

 

 鷺宮玄黒

 

 主人公の父。

 なんとなく影がうすい。ポジティブ。

 高名なウマ娘専門のスポーツドクターとして主人公に手ほどきをするチートにするための因子継承要素その二。

 なんでもは治せないが、治せる可能性がゼロでないなら望む結果の半分までは確定で手繰り寄せられる。ブラッ〇ジャックもどき。それ以上はサイコロを振ってください。

 

 もともと医者の家系で名医を輩出する一族の出であり、本人もとても優秀だったがウマ娘に魅了される。ウマ娘専門になりたいと説得したが受け入れられず、人間至上主義の気があった実家に嫌気がさし、家出する。

 家を出る際に改名したため本名ではない。父の口座からウマ娘への慈善団体へ金が流れていくようにした。三割減ったところで気づかれた。毎年年賀状には家族の幸せな写真を送り付けてやっている。お前なんかが家を出ても野垂れ死ぬだけだと言われたため、幸せな姿を見せつける嫌がらせである。

 

 ウマ娘のために世界を飛び回っていた時に主人公の母と出会う。

 当時は切れたナイフだった主人公の母のなんとも悲しい瞳に寄り添いたいと思う。思って色々やったら殴られるわ骨は折られるわ監禁されるわ最終的に刺された。こんな格言を知ってる? イギリス人は恋愛と戦争では手段を選ばない。

 

 優しさが勘違いされていつのまにやらハーレムを築き、愛ゆえに病んだ主人公の母との命がけのラブコメを繰り広げたが愛なら仕方ない。可愛いウマ娘に言い寄られてハッピーとしか思わない頭ハッピーセット。

 結局無理やりうまぴょいされたが彼は彼女を愛していたので何も問題はなく、この世界は今日も愛に溢れて素晴らしい。

 

 先祖代々マゾヒストなので彼は今日も幸せです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




完結と書きましたがエタる可能性が高いためのとりあえず完結なので、幕間と学園一話までくらいの構想自体はあります。
何分競馬の知識がないのとレースの描写が難しいので。

読んでくださる方は期待しないでおいてください。
ありがとうございました。


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幕間 前

 

 

 

 幼馴染みであるトウカイテイオーと鷺宮玄蔵の関係が変わったあの日から、時は流れてトレセン学園へ入学、あるいは配属される前の、俺と彼女、その周りでのそれまでについて語ろうと思う。いわゆる日常というやつである。と言っても、俺にとっては目標に邁進する充実した日々であったが、聞かされる方にとってはなんら面白味のない変わり映えしない毎日であり、わざわざ前置きしてまで畏まって語ろうだなんて、お前たちの日常にそんな価値があるのかと問われると、こちらとしても首をひねって唸るだけしかできないのであるが、それでもこうして語ってしまうのは、正直それをうまく伝えられる自信がないのだけれど、なんというか、幼馴染みと言うだけあって俺と彼女は幼い頃から長く付き合ってきたので、自分にとって印象深い記憶にはたいてい関与しているし、たとえ彼女が直接登場しない記憶だとしても、なんらかの形で付随して彼女のことを思い出してしまうからなのだ。それほど密接に、お互いの性格などを熟知しており。

 ああ言えばこう。

 こう言えばこう。

 といった具合に毎度同じ質問をするわけではないが、おおよそ何を好み、何を嫌い、どういった答えが返ってくるかを予測できるくらいには互いを知り尽くしているのである。結局それが何の関係がと言われると、それができなくなってきていた。という話である。

 まったくの的外れ、というよりはややズレがあるというか、こいつはこんな反応をするようなやつだっただろうかといった具合に、一瞬テンポが遅れるというか、意識に空白ができるというか。決して悪い意味で言っているのではなく、ただただ戸惑いを感じるようになってきており、考えてみればそれはあの日以降であると、俺は思い至ったのだ。

 日本ダービー。

 シンボリルドルフ。

 そして分岐点。

 変わった、もとい追加された新たな関係は、担当ウマ娘と専属トレーナー。

 とはいえ当時は身分も何もない、ただの口約束でしかない子供のままごとでしかないもの。互いに手を取り合い、目指す場所が一致した程度のいまだ夢の話だった。

 だが、その程度であったとしても、俺にとってはまたひとつ脳裏に深く刻まれた劇的な出来事であったし、きっとテイオーもそうだろうと思っている。やや大袈裟だが、あの東京優駿開催日は、俺にとって『運命の日』とでも呼ぶべき、そんな変化をもたらしたのだ。

 しかし。

 それはあくまで(・・・・)俺目線の話であり。

 あの日を共にした彼女の内心など正確には知る由もない。

 だから今思い返せば。

 彼女にとっての変化というのは。

 肩書だけのものでなく。

 突然のものでもなく。

 それは俺自身が気付かない俺の心情さえ(・・・・・・・・・・・・・・・)

 あの頃から徐々に変わり始めていたのだ――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幕間 それからとそれまでの話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ただいま戻りました」

 

 いつものように玄関で帰宅を告げた。

 扉を閉めて、ほっと一息つく。我が家の空気に触れることで自覚のなかった微細な身体の強張りが、解けていくことを実感する。

 鼻孔を突き刺すスパイスの香り……は今日はしないが、代わりに焼けた野菜の甘い匂いと焦げた肉の食欲をそそる香りに急激に空腹感を覚えた。

 なんだかんだと受け止めるには大きすぎる出来事が立て続けに起こったため、本日はもう疲労困憊である。腹の虫もそれはもう元気よく鳴くものだ。あまり褒められたものではないだろうが、こう見えて育ち盛りであるからして、致し方ないのである。

 

「おぉ、よくぞ戻った我が息子玄蔵よ。本日はウマ娘ならば誰もが垂涎のまなざしを送るであろう、にんじんハンバーグである。くっ、儂が堪えている間に疾く手を洗い居間へと――……」

 

 ひょっこり奥から顔を出した母がいつも通り朗らかな笑顔で出迎えてくれた――と思いきや。

 俺の姿を視認すると、ふと真顔になる。そして真顔のままなぜか玄関先――俺の前までわざわざ歩いてきた。

 

「…………」

「は、母上?」

 

 そのまま何を言うでもなく、無言でまじまじと顔を見つめられる。

 母はとにかく優しい人なので恐怖を感じることなどありえないが、それにしても急な変化と今までになかった出来事に意図が読めず、困惑してしまう。

 何か怒らせるようなことをしたかと考えてもみたが、そんなことがあるはずもない。そもそも俺は今まで怒られたことがなかった。

 なのでどうしたものかと思案していると。

 

「玄黒ーーーーっ!!」

 

 母が叫んだ。

 

「母上!?」

「玄黒、玄黒をここに! 出会え出会え! 我が愛に応えよ!!」

 

 言って玄関に飾られていた法螺貝をつかみ取ると吹き鳴らし始めた。

 ぶおお~と、現代社会において、ほぼ聞くことのないであろう音色が一般住宅街に響き渡った。

 現在の時刻は夕暮れをほぼ回っている。

 近所迷惑すぎて呆気に取られてしまった。

 

「……一体なんなんだ、うるさいな。ていうかなんで日本の一般家屋で法螺貝の音を聞くんだよ。なんで法螺貝が玄関に飾られてるんだよ。どんな家だ」

 

 父が当然の突っ込みを入れながらやってきたが、ここは我が家である。

 

「玄黒、なにを悠長にしている! なぜ疾風の如く参じない! もしや儂を愛していないと申すか!! 次第によってはその首が泣き別れになると理解しての狼藉であろうな!?」

「理解していない。俺は母さんも玄蔵も愛している。だからその模造刀を置け」

「……ならばよし」

 

 満足そうに模造刀を鞘に納め、玄関に飾りなおした。

 我が家は別に武家屋敷でもなんでもない、本当に普通の家だ。

 ちなみに端の方に兜もある。

 趣味に走り過ぎだ。

 

「で、どうしたんだ?」

「うむ。百聞は一見に如かずである。我らが息子を見るが良い」

「んん……?」

 

 母が俺を指し示し、父が先ほどの母と同じように、まじまじと俺の顔を覗き込む。

 とにかく困惑がおさまらない俺。

 

「玄蔵、腹が減っただろう?」

「はい、とても」

「それに結構疲れてるな?」

「まあ。色々ありまして……」

「でも顔色は悪くない、むしろすっきりしたように見える。うん、今日はゆっくり風呂に浸かって早めに休みなさい。なんなら俺が全身マッサージしてやるぞ?」

「本当ですか! ……いえ、父上にそんなことをさせるわけには」

「別に初めてじゃないだろ、それに勉強の一環だ。自分で体験しておけばテイオー君にもまたしてやれるだろう? 復習だ復習」

「む……確かにそうですが」

「復習という建前でかわいい息子を甘やかしたい父の不器用な愛だ」

「それは言ってしまっては駄目なのでは?」

「おっと、失敗失敗。不器用だから愛情も教育も両方こなしてしまった」

「それはむしろ器用なのでは?」

 

 はっはっは、と笑いながらぐりぐり頭を撫でられる。

 ……俺も男なので、かわいいと言われても嬉しいどころか些か複雑な気分である。

 だが、内に秘めるなんて意味が分からないと言わんばかりに、照れずにはっきりと口に出す、父のこういったところが好きだった。

 

「たわけぇ!」

「うわびっくりした!」

 

 しかし母はお気に召さなかったようである。

 

「なんだよ、この心温まる親子のコミュニケーションに何か文句でもあるのか?」

「ありませんけど!? むしろ私も混ぜてほしいですけれど!?」

「おい、言葉遣いが普通になってるぞ。日本かぶれはどうした」

 

 父はさらっと流した。

 俺は母が普通に話したことに割と衝撃を受けた。

 

「ええい、見るべきは体調ではない! 顔をよく見るがいい!」

「もう見たよ。お前にそっくりだな」

「ならばわかるだろう。男子三日会わざれば刮目して見よなどと、玄蔵ほどの才であれば一日もいらぬというわけだ」

「……?」

「……もしや、我が子がまたひとつ龍へと近づいたことに気が付かぬのか!?」

「……玄蔵、母さんは何を言ってるんだ?」

「さあ、父上がわからなければ俺からはなんとも……」

 

 比喩やらことわざやら、とにかく遠回しなので話が進まない。龍がどうとか言われても、そもそも当の本人がピンと来ていないのに、父が気づくとか無理があるのではなかろうか。

 というか龍になれるのなら、ウマ娘になる方がずっと簡単だろう。俺もそちらの方が嬉しい。

 まあ。

 内容的に、おそらく成長に関することを言いたいのだと思うが。

 

『すまない、結局さっきから何を言いたいんだ?』

『もう、玄蔵が朝と違うことはわかるでしょう?』

『まあ、なんだか吹っ切れたような顔つきというか……雰囲気が現役の頃のお前に似ているな』

『相変わらず鈍いんだから! それがわかるなら、玄蔵が覚悟を決めたことくらいわかりなさいな!』

『覚悟?』

『きっと、自分の本当の想いに気付くことができたのよ』

『――なるほど、テイオー君か』

『それしかありえません。ま、本当に欲しかったものはすでに手元にあるんですもの――なら、たかが困難ごとき(・・・・・・・・)に屈するなんて、ありえませんわ』

『さすが、先駆者の言うことは違うな。……やっぱり玄蔵はお前に似ているよ、キャメロット』

『あなたにも似ていますわよ。玄黒』

『俺はどうにもそういう感覚的なものは苦手でね――つまり、玄蔵もまたひとつ、大人になったってことか。言ってくる前に準備しとかないとな』

『ええ。ですがここはあえてウマ娘に習い、『本格化(・・・)』を迎えたと言ってさしあげましょう』

 

 また何事か英語で会話し始めたので、いい加減靴を脱ぐ。

 すごいな。

 帰ってきてからここまで、まあまあ長いこと話していたが、いまだに俺は玄関先で靴も脱がずに直立していたんだぞ?

 夕飯が本番だとすれば、前説だけで尺を半分くらい使ってしまってそうだ。

 前みたいに早口にはなっていないので聞き取れる範囲ではあるが、無意識に聞き流せるほど習熟しているわけではないので意識しないと頭に入ってこない。とにかく疲労の色が濃いので、父の言う通り早めに休もう。

 二人の横を通り抜ける。

 言うべきことは両親にもあるが今日はだめだ。体力が足りない。失敗率90%越えは確実――

 

「「玄蔵!」」

「は、いぃいいい!?」

 

 何事!?

 後ろから捕まえられたと思ったら、目線が一気に高くなって心底驚いた。

 天井が近い。

 よく見れば、脇から持ち上げられていて、眼下に父と母の顔がある。持ち上げているのは母だった。

 というか。

 たかいたかいの状態だった。

 

「ぬしの決断、ぬしの決意! すべてを我らは愛しく思う! 破れぬ道理なぞ叩き斬らんと立ち上がるその姿、如何なる時も誇りそのものよ!」

「父はそれほど大げさじゃないけれど……おおむね同じ気持ちかな。まったく、いじらしいやつめ。必要なら何でも言いなさい。お前のためならなんだってしてやりたいよ」

「然り! 我らは常に寄り添い、常にその邁進を見守護ろう! いつでも頼るが良い、愛いやつめ!」

 

 そのまま母の胸に落とされ抱きしめられ頬擦りされる。

 背中側からは父が同じように抱き着いていて、両側から両親に挟まれる形になっていて、いつしか玄関先で三人でもみくちゃになっていた。

 何があったか知らないが、やたらテンションが高まっている二人だった。

 …………。

 うん。

 なんだかわからないが、とにかく父と母のありがたい言葉に感謝しつつ。

 俺は言った。

 

「いい加減、中に入らせてください……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 甘い匂いがする。

 と言われたら、人は何を連想するだろうか。

 一般的な感覚から言えば、まずお菓子が頭に浮かぶだろう。それも砂糖をふんだんに使った、甘みの強いチョコレートやクッキー、それにケーキといった洋菓子だ。食べれば匂いは残るだろうし、作ってみればそれはより顕著だろう。人によっては刺激が強く、苦手と捉えられるのにも無理はない。一定の理解を示せているのは育った環境ゆえか、もしくは男性だからか。父は昔から強い甘味が得意ではなかったとのことなので、はたまた遺伝なのかもしれなかった。

 もっともそれは、あくまで想像上のものであり、この場においては正しくない。

 この匂いの出どころは。

 甘味の類ではない。

 

「すぅー……すぅー……」

 

 鼻を擦る。

 部屋中に充満する甘い匂い。

 甘いと表現したものの、それが正しいのかはわからない。

 自分の家とは違う匂い。

 自分の部屋とも違う匂い。

 お菓子のようにはっきり甘いとは言えず。

 それでもくらりと脳を刺激する。

 しいて言うなら少女の匂い。

 彼女以外を知ることなく嗅ぎなれないそれを、短い人生経験であらわす言葉は他になかった。

 

「すぅー……むにゃ……」

 

 そっと近づき、ベッドの傍で立ち止まる。

 部屋の主はシーツにくるまり無垢な寝顔を見せている。

 あらためて眺めてみれば、見慣れた顔は確かに愛らしい。

 明るい性格も相まって、男女問わず人気者なのも頷けた。

 

「にへへ……ゲンゾぉー……ボクの……」

「ふっ……」

 

 むにゃむにゃと何か寝言を言いつつ笑っている。

 まるで赤ん坊のようだとこちらもつられて笑ってしまった。

 そんな幸せそうな彼女を微笑ましく思い。

 思わず口付けしてしまいそうになるほど顔を近づけ――

 

「起床ーーーーっ!!」

「ほびゃああああああーーっ!?」

 

 面白いくらいに勢いよくテイオーが飛び起きた。

 

「な……なになになに!? 火事か!? 地震か!? いったいなんなんだーっ!?」

 

 ベッドの上に立ち上がり、枕を片手に周りを警戒していた。

 

「いや、朝だぞ」

「朝ぁ!? おはよゲンゾー!」

「おはようテイオー」

「それより大変だよゲンゾー! 朝だよ、はやく逃げないと!!」

「諦めろ。月曜の朝からは逃げられない」

 

 今頃電車に乗れば、誰もが死にそうな顔で俯いていることだろう。

 

「って、あれ? ゲンゾー?」

「ああ」

「なーんだ、夢か。もっかいねよ……」

「おい、寝るな」

「いや、夢ならなにかイタズラしてやるのも……」

「おい、やめろ。……どこ触ってるんだ触るな! 起きろ!」

 

 べたべたと身体を撫で回してきたテイオーを振り払う。

 この状況でまだ夢だと思えるのか。

 というか、夢の中で二度寝しようとするやつがいるのか。

 

「って、あれ? ゲンゾー?」

「この流れもう一回するのか?」

「あ! なんだ夢だったのか!」

「夢じゃないけどな」

「え? ふたりで同じ夢を見てたってこと?」

「見たのはお前の寝惚け姿だ」

「なんだろ……。忘れちゃったけど、この人と夢の中で会った気がする……」

「忘れるな。現実で何年も会ってるわ」

 

 ありがちな台詞で幼馴染みの存在を亡き者にするな。

 

「ゆ、夢じゃない!? なんで!? なんでボクの部屋にいるの!?」

「起こしに来たんだよ。いつものことだろう」

「いつもは部屋までこないじゃん! 時間……なんだ、まだ全然ヨユーあるじゃん」

「余裕ではあるが……」

「あと一時間は寝れるじゃん」

「寝れるか。お前そんなだから俺が来てるんだぞ」

 

 ギリギリに起きて、最低限の身支度をして、食パンくわえて猛ダッシュ。

 いつの時代の漫画だ。

 

「そして曲がり角でぶつかるボクと転校生のゲンゾー」

「間違いなく病院送りだろうな」

「で、教室で会ってボクは言ったよね『あーっ、今朝の!』」

「対する俺の返事は『訴えてやる』だ」

 

 きっと松葉杖を突きながら、なんならいたるところ包帯巻きで、憎悪に満ちた目をしていると思う。

 

「……! ちょ、ちょっと後ろ向いてよ!」

「は、どうした急に?」

「よく考えたらボク、パジャマだし、まだ顔も洗ってない!」

「――はあ?」

 

 突如、両手で顔を隠して言うテイオー。

 本当にいきなり何を言っているのか理解できなくて、心の底から、純度百パーセントの、疑問しかない声が、自然にするりと出てしまった。

 

「パジャマ……おかしいところがあるのか? 可愛らしいデザインが似合っていると思うが」

「ぴえっ!? そ、そーいうことじゃなくってぇ……!」

「顔を洗っていないのも別に、今更だろう? 寝起きの姿なんて何回も見ているし……まあ目ヤニくらい付いているかもしれないが、お前が人前で平気で鼻水垂らしてる頃からの付き合いだ。それくらい、俺は気にしない」

「…………」

 

 思えば、俺がハンカチとポケットティッシュをしっかり常備するようになったのも、テイオーの影響なのか。

 何かと世話をしてきた過去がよみがえる。

 妹がいたらこんな感じなんだろうか、と一時期は本当に兄気分だったな。

 テイオー小さいし。

 そのおかげで、弟か妹がいる生活に少しばかり憧れがあったりする。

 

「……い」

「い?」

「いいから、でてけーーっ! ゲンゾーのバカぁあああーっ!!」

「うおおっ!?」

 

 叩き出された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「んもー……ゲンゾーってばホントに……。んもー」

「悪かったよ、謝る。ほら牛になってるぞ」

 

 むくれるテイオーをなだめる。

 なぜ機嫌を損ねたのかわからないが、とりあえず謝りながら道を歩く。

 

「ホントに悪いと思ってるの?」

「思ってる。俺の頭はトレーニング用の蹄鉄並みに重くてな。下げるべき時にしか下げられないんだ」

「……じゃあ、ボクがなんで怒ってるか言ってみなよ、天才のゲンゾーくん」

「…………」

「…………」

「……知ってるか、テイオー。世界はとても広くてな。人間はもちろん、ウマ娘だって、まだまだ未知の部分がたくさんあって、現在も日夜研究は進められてるんだ」

「……それで?」

「…………天才にだって、わからないことくらい、ある」

 

 はぁぁあああ、と。

 とてもとても重苦しいため息を。

 テイオーは吐いた。

 長々と。

 これ見よがしに。

 

「よくボクのこと、わからないやつーって言うけどさ。やっぱりわからないのはキミだよ。バカだよゲンゾーは」

「なに? この俺がバカだと?」

「ばーかばーか。デリカシーのたりない、ばーか」

「ぐぬぬぬ……! 賢さGのくせしてなんたる屈辱……!」

 

 ギリギリと歯ぎしりする俺。

 このクソガキ丸出しのテイオーより、頭が足りていないとでも言うのか。

 

「だいたいさー、なんで今日にかぎってこんなに早いのさ。いつも出る時間くらいじゃん。部屋にまで来るし」

「決まっている。朝食をしっかり食べさせるためだ。つまり生活習慣の監視だ」

 

 胸を張って言う。

 

「……え? それだけ?」

「それだけとはなんだ。今まで俺が散々お前に説いたことを忘れたのか」

「おぼえてるけど……」

「覚えてるけど?」

「理由としてはちょっと弱いかなー、なんて」

「――なるほど、ちょうどいい。これを見てくれ」

 

 立ち止まり、懐からスマホを取り出した。

 理解の足りてなさそうなテイオーに、目的の画面まで操作して渡す。

 

「……献立表?」

「そうだ。今テイオーに必要な栄養素を考慮し、一日どのくらい摂取すれば良いか考え、レシピを揃えてみた。ただ栄養を取るだけではなく食事の美味しさ、そして楽しみも入れたくてな。甘いものは充実させている」

「うわ、すご!」

 

 持たせたまま指をスライドさせる。

 

「そしてこっちは一日のスケジュールを一週間分だ。限られた時間を使い、成長を阻害しない範囲でひとまず組んでみた。無理のないようプライベートにも配慮しているが、緩いとはいえ管理される生活が必ずしもストレスフリーとはいかないだろう。どちらも変更は応相談だ。忌憚なき意見を所望する」

「えっ、うん」

「ただ、考えておいてなんだが、これらの困ったところは現時点にて実行するのが難しいというところだ。特にここだ。トレーニングはともかく、生活のスケジュールにおいて食と睡眠の管理が難しい。本当なら居住地をできるかぎり合わせるのが理想で常日頃からすべてを世話してやりたいが、あいにくそういうわけにもいかないのが現状だ。給食があるから弁当も作ってやれない。テイオーがしっかり最低八時間寝ているかどうかさえも見てやれない。くっ、俺の年齢がもっと高ければ」

「あっ、ちょっ、ねえっ」

「だが、ないものねだりは無駄でしかない。諦めるなど論外だ。そうだろうテイオー、俺は出来ることからやっていくぞ。まず、テイオーの母上に話を通し、できるかぎりこの献立表、栄養に近いようお願いした。次に早朝から家に来訪し、起床から朝食まで隣にいることの許諾を得た。間に合うから良いなんて怠惰は許さん。『好きにやっちゃって!』とのありがたい言葉とサムズアップを頂いた。お前の父上から住み込みの提案も受けたがさすがにそれは固辞した。色々問題がある。まあさすがに冗談だろうけどな。テイオーだけならともかく、他家の生活に口出ししている時点で既に心苦しいものがあるんだ。さすがにそれは俺もつらい」

「ママ、パパ!? ちょっ、ちょっ!」

「さあ、次はいよいよトレーニングメニューだ。これこそ俺が独自で考えてしまったからな、参考程度に聞いてくれ。互いの意見と認識を特にすり合わせたいんだ。まずお前の才能と現時点での能力を分析し目標到達点に必要な――」

「ちょっと待ってーっ!!」

 

 両手を振り上げ、バンザイの姿勢でテイオーが叫んだ。

 身体全体を使っての会話中断だ。

 

「なんだテイオー。話はまだまだこれからだぞ」

「な、なんかもー、色々ツッコミたくて、言いたいことがまとまらない……」

「ツッコミだなんて、そんなそんな。少し熱が入ってしまったが、おかしいところは何もないぞ。ああ理由が弱いなんて断じてない。お前の考えが足りないだけでな」

 

 にやりと笑い、勝ち誇る。

 バカはお前だテイオー。

 確かについこの間、自分が大バカ野郎とか言ったが、それとこれとは話が別だ。

 過去を反省し、過ちを糧としてさらに先へと進めていけるのが、真に賢き者なのだ。

 つまり俺だ。

 それを踏まえてすべてを悟り、覚醒を果たしたこの俺が。

 どれだけ真摯に。

 どれだけ綿密に。

 どれだけ熱意をもって。

 俺たちふたりがそこに至るまでの将来を見据えているか――わかったか、トウカイテイオー!

 

「んー、色々言いたいことはあるけどさー、一番はそこだよねー」

「なんだと?」

「突然朝から部屋まで来たり、おっきな声で起こしてきたり、いっぱい計画立ててみたりさ。にしし、このボクのトレーナーになれたんだから、嬉しいのはトーゼンとして――」

 

 ニマニマと意地の悪い笑顔を浮かべて。

 テイオーは言った。

 

「――実は、めちゃくちゃはしゃいじゃってるよね、ゲンゾーって」

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

「あれあれ? そっぽ向いてどうしちゃったのかな?」

「うるさい」

「耳が赤いぞよ~? これは掛かってしまっているかもしれませんな~?」

「やかましい」

「ぷぷっ。普段大人ぶってるくせに、ボクに言われるまで気がついてなかったんだー。かっわいー、頭なでなでしてあげるねゲンゾーちゃん。ねえ今どんなきもち? ねえ今どんなきもち?」

 

 ブチリ、と頭の中で何かが切れる音がした。

 

「――そうだな。確かに俺は、はしゃいでいるみたいだな。うん、そうだ、嬉しいからな。仕方ないよな、はしゃぐのもな。ちょっとスマホ返せ」

「え、ゲンゾー?」

「俺は無敵のテイオー様と一緒にやっていけるのが本当に嬉しくてね。うん、気が付いてなかったよ。うんうん、認めます。掛かってました、賢さGは俺でした。でもさすがだよテイオー様。そんな俺の内心を見抜いて受け止めてくれるだなんて、さすがさすが。だからもっと甘えさせてもらいます――献立から甘味全部抜いてやる」

「え、ちょ、ええ!?」

「まだやるには早いとか厳しいとか、甘い顔をした俺がバカだった。明日、いや今日から内臓強化を始めてやる」

「内臓強化!? なにそれこわい!」

「消化吸収、免疫アップ。強靭な胃腸を作ることにより栄養を効率的に摂取、回復力を高めて疲労に強い身体を目標とする。くくく、実は良い漢方があってな。とびきり苦い代わりに効果はてきめんで、これを毎日――」

「ごめんなさい! ボクがバカでしたー!」

 

 勢いよく頭を下げた。

 勢いよすぎて俺の前髪が風で揺れるほどだった。

 

「まったく、今が通学途中でよかったな。時間があれば拳でわからせてやったものの」

「そっちのがぜんぜんいいよ、うん。今度こそじっくりわからせてあげたのに……」

「まあ漢方は冗談だ」

「よ、よかった……。内臓強化って、もう聞くだけでヤバさしかないもん」

「いや内臓強化は冗談じゃないぞ?」

「えっ」

「今までも少しずつ肉体改造していたが、本腰を入れるなら食トレも並行してやっていくつもりだ」

「ボクの身体どうなっちゃうのぉー……?」

 

 というかボクの身体を知らないうちにいじってたの? とテイオー。

 その言い方は人聞きが悪すぎるからやめろ。

 下手をすれば、お前のトレーナーが前科持ちになるぞ。

 いや、そもそもそんな奴はウマ娘のトレーナーになれないんだけれども。

 

「しかしまあ。はしゃいでいるのか、俺」

 

 再び俺たちは歩き出し、呟いた。

 気が付かないものだな。

 本当に。

 テイオーのトレーナー(仮)になれたことが嬉しいのは本心なので、別に恥ずかしいことではないはずだが――はしゃいでいると言われるとなあ。

 俺は子供ではあるが、幼さまで年相応になったつもりはない。

 まあ、完全に意識の外側からくらった不意打ちのせいだろう。羞恥の感情――思わず動揺してしまった原因としては。

 うん。

 きっとそうだ。

 

「自覚したらなんだか甘いもの食べたくなってきた。やはりテイオーの甘味は全部俺が食うか」

「トートツにおやつ横取り宣言!?」

「仮計画とはいえ頭を回したからな。糖分が足りていない」

「ボクのを横取りする意味は?」

「お前はよく糖を摂取するだろう。体調が心配なんだ」

「ダウト」

「ちっ、バレたか」

「バレないわけないじゃん……。ま、どんなウソついたって意味ないんだけどね。ゲンゾーのことなんか、このテイオー様はなんでも知ってるしー」

「ダウト」

「ざーんねーん」

 

 ぴん、と人差し指を立てて片目を閉じて、「幼馴染みだもん」と彼女は笑った。

 

「実は甘いものがだい、だい、だーいすきってことくらい、ワガハイもちろん知ってるぞよ?」

「…………」

 

 別に、隠していたわけではないが、おおっぴらに甘いものが好物と言うにはなんとなく羞恥心があったため、とりたてて誰かに言うつもりもなかった秘密のようなものが、知られてしまっていた。

 そしてテイオーは立てた指をそのまま俺の胸に突き付けた。

 

「いけないのに、こっそり持ち歩いてるお菓子もまるっとお見通しってね。さーて、ボクは上着の内ポケットに隠してある、はちみつキャンディをもらおっかなー」

 

 まるっとお見通されていた。

 ふむ。

 幼馴染みというのはどうやら、侮れないものであるらしかった。

 

 

 

 

 



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幕間 中

 

 

 

 

 

 全力で駆け抜けるウマ娘に対して美しいと感動することは至極当然のことであり、誰もが共通して抱く感情であり、眼を奪われてしまう理由をいちいちあげつらうまでもなく、そこになんら疑問や疑念が挟まる余地が無いことなど、もはや語るまでもあるまい。

 万国共通。

 世界共通。

 などと言えば世の中には大袈裟なと笑う人が少なからずいて、理解者は今のところ父だけであるのだが、感情というものはどうしたって慣れが生じるもので、どれだけ心を揺さぶる光景だったとしても、繰り返し、何度も見慣れてしまえば、感動は少しずつ薄れていってしまうからなのだろう。

 たとえターフ上でなくとも。

 彼女たちの走る姿は、あんなにも素晴らしいというのに。

 世の人々は、ウマ娘という存在がどれほどの奇跡であるかを認識し切れていないのだ。当たり前であるからと無為に流し続けてしまった結果が、感動に大なり小なりと順序をつけてしまったのだ。

 仰々しい舞台など不要。

 ただ走る。

 それだけで彼女たちは誰もが特別な輝きを伴っていることを、今一度見つめ直して欲しい――

 

「だから俺のためにも、もっと走れ」

「ぜぇ……ぜぇ……! もうむりだよ! なんかいいっぽいこと言ってもだまされないからーっ!」

 

 休日のお昼過ぎ。

 気が付けば、太陽も頂点を越えた時間帯の校庭で、俺の正面にて息を荒げてへたりこむ、ジャージを着たテイオーの姿がそこにはあった。

 

「騙すだと? 心外にもほどがあるぞテイオー。良いも悪いも結局は受け取り手次第なんだ。考えなしに他人を批判するのはやめておけ」

「あれ? まともなこと言いだした?」

「俺は常に聞き心地の良い言葉しか言っていない」

「なんかあやしくなってきた!」

「俺、俺! 俺だよ俺俺!」

「やっぱり詐欺だ!」

「でもそれってあなたが勝手に勘違いしただけですよね?」

「詐欺ミヤゲンゾーだっ!」

「人の名前をあたかも詐欺師のように呼ぶな」

 

 というかお前、詐欺って言葉知ってたんだな。

 同じサギだからか?

 首から下げたストップウォッチから手を放し、同じくジャージ姿の俺は言う。

 そして持ってきた荷物の中からスポーツドリンク入りのボトルを手渡してやると、テイオーは喜んで飲み始めた。

 無理と言う割には元気だ。

 叫べるならまだ走れる。

 

「ていうか感動に大なり小なりって、それこそ当たり前じゃん。フツーだよ。お客さんいっぱいのレース場で日本ダービーを走るのと、こんないつもの校庭で一人で走ってるのを一緒にされちゃボクだってたまんないよ」

「まあそうだな」

「ボクを褒め称える大歓声が無いとだめだよ」

「そっちなのか……」

 

 重賞とか会場とかはいいんだな。

 運動会か?

 

「あと何気に俺のためにとか言ってるしー」

「他人がどうだか知らないが、俺は好きだからな。美しいものに見惚れることに場所は関係ないだろう」

「うつっ……! も、もう! またそーいうことさらっと言っちゃって! もー!」

「それだけ暴れられるならやはり元気だな。休憩は十分だろう? まだノルマの半分も行ってないぞ」 

「これだけ走ってまだ半分もいってないの!? やだやだやだ! もーむり、立てない! おんぶ! だっこ! かたぐるまー!」

 

 座り込んだ状態から仰向けに寝転がって、ついにじたばたと手足を動かし始めた。

 思っていたより数段元気な様子なので、若干能力値を修正。調整は順調である。引き続き計画を推し進める。と同時にやや見直しが必要か。

 ……というか肩車ってなんだよ。

 遊びたいのか?

 

「ほら立て、テイオー。あとでチョコレートやるからそれで機嫌治せ」

「えーチョコぉー? チョコよりパフェがいいー」

「無茶言うな、パフェなんか持ち歩いてるわけないだろう……」

「じゃあ立てませーん。なんでボクを立たせられなかったのか、明日までに考えといてくださーい。ふぉっふぉっふぉ。モノで釣ろうだなんてまだまだ甘いのう。チョコより甘々じゃのう、ゲンゾーや」

「…………」

 

 ガキがよ……。

 にやにやと腹の立つ笑顔で寝転んだまま言うテイオー。

 あまりの幼稚さに、お望み通りこのまま殴りかかって15分一本勝負でもしてやろうか、と青筋を立てそうになるが、いかんいかんと首を振り、深呼吸。

 

「……なら、どうすればやる気が出るんだ? この愚かなわたくしめにどうかお教えくださいませ、テイオー様」

「いいね! ゲンゾーがボクにへりくだってるのを見ると、ゾクゾクしちゃうなぁ~!」

「さっさと教えろ。このテイオー様野郎」

「んー……なんか元気が出ること言ってくれればいいよ」

「元気が出ること? なんだそれは」

「そこは自分で考えてもらわないと!」

「面白いことか? 面白くないことか?」

「まさかの自分でハードルあげてきた……」

 

 じゃあ面白いこと、とテイオー。

 ふむ。

 俺はトレーナー(仮)であって芸人ではないのだがな。

 まあいいだろう。

 

「んんっ、んっんっ。あーあーあー」

「? どしたのゲンゾー?」

「『私は皇帝……シンボリルドルフ!』」

「えっ!?」

 

 声の切り替わりに。

 がばり、とテイオーが起き上がった。

 

「『我の前に道は無し……なればこそ、勇往邁進! 道はみずから切り開く!』」

「めちゃくちゃ似てるぅ!? シンボリルドルフさんだー!?」

「『どうしたテイオー。何をそんなに驚く? 私は私。そう私は皇帝……シンボリルドルフ!』」

「すっごーい、なんで!? どうなってるの!?」

「『見たか……これが皇帝の物真似だ!』」

「あはははは!」

 

 興が乗ってきたので仕上げに、びっ、と指を突きつけポーズを取る。

 テイオーは立ち上がって、身体を飛び跳ねさせて大ウケしていた。

 

「『聞いたぞテイオー。トレーニングをサボっているらしいな。私みたいになるんじゃなかったのか?』」

「あ……違うのシンボリルドルフさん。ちょっとボク休憩したくって……」

「『ふむ、休憩か。確かに休憩は大事だ。無理をして身体を壊してしまっては元も子もない。だがトレーナー君に迷惑をかけてはいけないと思うな』」

「うん、そうだよね……ごめんなさい……」

 

 反省した素振りを見せるテイオーの頭をシンボリルドルフさん(俺)が撫でた。

 

「『ふっ……そんな顔をするな。きっとトレーナー君もわかってくれているさ。また頑張ればそれでいい』」

「シンボリルドルフさん……!」

「『まあ私は休憩とか必要ないんだが。なぜなら私は皇帝……シンボリルドルフ!』」

「かっこいいーっ!」

「『肩慣らしに三冠取ったらなぜか三十冠取っていた。やれやれ、また皇帝の神威を見せてしまったか』」

「すごすぎるーっ!」

「『そんな私が皇帝たる所以(ゆえん)……それは言えん(・・・)!』」

「シンボリルドルフさんはそんなこと言わない」

 

 真顔だった。

 真顔で解釈違いを指摘された。

 

「まあ最後のはただのお遊びだ」

 

 やれやれ、と肩をすくめる。

 いかにも仕方のないと言った素振りであるが。

 最後どころか、最初から楽しく遊んでしまっていたのは俺も同じだった。

 

「それでどうだ、満足したか?」

「大満足! なになに、いつのまに練習してたの? ゲンゾーがあんなにシンボリルドルフさんの真似が得意だなんて知らなかったよ~」

「ふふん、そうだろう。つい最近始めたからな。思考が煮詰まった時とか、気分転換で真似たりしてみるんだ、たまにな」

「たまにであんな似せれちゃうんだね! さっすが天才!」

「ふはは、もっと褒めていいぞ。まあシンボリルドルフさんは、どちらかというと声が低めだし。声音もなんとか似せられるくらいだから、天才だけどたまたまだ、たまたま」

「またまたケンソンしちゃって~。今度練習するときは呼んでね、ボクも一緒にやるから!」

「え! い、一緒にか!? いやそれは……き、機会があればな! うん!」

「なんで焦ってるの?」

 

 きょとん、とした顔をするが、なんでもないと手を払って誤魔化した。この幼馴染みというのは厄介なもので、どこからどうやって嗅ぎつけてくるかわからない。慎重に振る舞わなければ。

 秘さなければならない趣味というのは年を重ねれば誰しもひとつはあるだろう。

 テイオーには悪いが、その機会は一生訪れないであろうことは確定なのである。

 何としても。

 断固としてだ。

 

「それにしてもさ」

 

 と、テイオーは言う。

 いつでも走り出せるようにか、独特の、俺たちの間で言うところの、軽やかなテイオーステップを踏みながら。

 

「まさかホントにムハイで三冠取っちゃうなんてね。あの時ゲンゾーの言ったとおりだったなー」

「ああ……」

 

 シンボリルドルフ。

 皐月賞、東京優駿、そして菊花賞とクラシック三冠レースに出場。これを制し、トゥインクルシリーズ史上において数少ない偉業を果たし――そして唯一無二を成し遂げた。

 歴史にその名を刻んだ『無敗』。

 圧倒的な走りと強さから、ついた異名は『皇帝』。

 

 『無敗の三冠ウマ娘』――『皇帝』シンボリルドルフ。

 

 ――レースに絶対はない。だがそのウマ娘には絶対がある。

 いつしか囁かれ始めたその言葉を疑うものはおらず、誰もが畏敬の念を禁じ得ない。

 今では世代最強、いや現役最強との呼び声が高い――後世においても燦然と輝くであろう、最も偉大なウマ娘の一人である。

 

「あの日が実際にあった事だなんて――夢みたいだよな、本当に」

 

 言葉を交わし、背中を押された。

 なんて贅沢な瞬間だったんだろうと、思い出せば今でも身体は震え、胸が熱くなる。

 彼女が何を考え、どういった思惑で道を示してくれたのかはわからない。もしかしたら、物を知らない子供へのリップサービスの一環だったのかもしれないけれど。

 覚えておくと。

 楽しみにしていると。

 あの人にかけられた言葉もまた、俺の『熱』となり――この身を休むことなく突き動かし続けている。

 

「菊花賞でのウイニングライブの気合の入りようすごかったもんね。ハッピ着てハチマキまいて、サイリウム指にはさんで両手合わせて八本持ち」

「お前も同じだっただろうが」

 

 なんならうちわも自作したしな。

 もちろん主役はシンボリルドルフさん。もといステージ上のウマ娘たちであるため、節度を保った上でだが、誰よりも大きな声で声援を送らせてもらった自負がある。

 まあテイオーと比べると貧弱な人の子供でしかないので、体力には雲泥の差があるのだが、それでも負けじと根性で頑張ったのは記憶に新しかった。

 

「あー! なんかシンボリルドルフさんのこと考えてたら、すっごく走りたくなってきた! よーしゲンゾー、もう一本いくぞー!」

「お、乗ってきたなテイオー。いいぞ。俺一人で悪いが、応援は任せろ」

 

 ボトルを受け取り、ストップウォッチを構えなおす。

 俺の考案したメニューはいまだ未熟な体躯の成長期である彼女の負担になりすぎないよう調整されているとはいえ、決して軽いものでもない。それに素直に従い、憧れを目標にトレーニングに励む彼女はなんだかんだ言って、真面目なのだ。気分屋なところもあるけれど、そこはそれ。相棒たる俺が制御してやればよい。体調にやる気にと、常にベストコンディションだなんてありえないのだから、脇目も降らずとにかくがむしゃらにトレーニングだけに打ち込むというのは無理な話であるし、間違いである。

 体力を十分に確保することで怪我や故障のリスクを減らし。

 モチベーションを高く保って最大限の成果を得る。

 惰性で勤しみ得られるものなんて達成感だけであり、そんなものに多大なリスクを払ってやる意味などない。

 無意味。

 無駄である。

 しかしそれが、まるで素晴らしいものであるかのように尊ばれる風潮は、この国から残念ながら完全に払拭されたとは言えず、いまだ残り続けているふしがある。俺が生まれた時にはすでに前時代的、いや前々時代的と言えるほど古臭い考えであることが広まって久しかった為、知ったところで理解こそすれ納得はできないのだが。

 だが納得できずとは言えど、世間一般には実際そういった考えが燻っているわけで。

 たとえば、俺が学校の大人たちにあまり好かれていないのは、そういった理由なのだろうと思われる。

 優秀であるが鼻につく。

 実に可愛げのない子供であろう自覚はある。

 効率より感情が優先される場面、真逆の理解はしても納得はできない不満の残る顔を往々にして目にしてきていた。

 ……まあ。

 それでも両親があんな感じなので、世間一般との差をつい忘れそうになるし、現在進行形で感情を優先させた身であるため、必ずしもそれを否定できないのであるが――

 

「こらー! 応援がないぞー! またどーでもいいこと考えてないで、ちゃんとボクだけ見ててよゲンゾー!」

 

 ……つい思考がそれてしまったようだ。

 眼を離したつもりはないが、俺の声が響かないことにテイオーはお冠のようである。

 頭を使うことに慣れていると、並列して別のことを考える癖ができるのはありがちなのだろうか。

 なんて。

 またテイオーが言うところのどうでもいい思考に入りかけた俺は、今度こそ彼女だけを見つめて声を張り上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ストップだテイオー。フォームが崩れてる」

 

 太陽がさらに傾き、足元の影がやや伸び始めた頃。

 もう何度目になるか、俺の前を通り過ぎようとしたテイオーに声をかけた。

 

「え、そう? まだそこまで変じゃないと思うけどな」

「いや、だめだ。今日はここまでにしよう」

「ええーっ!? だいじょーぶだって、まだまだ走れるよ!」

「終わりだ。お前的には問題ないのかもしれないが、何度か踏み込みが深すぎた。深すぎて身体が左右にブレていた。バランスが乱れ、フォームが崩れ始めればそこから体力も一気に消耗する。消耗すれば故障のリスクも上がる。今これ以上追い込む必要はない」

「……はあ、わかったよぉ。大切なボクのことになるとホンット過保護だなーゲンゾーは」

 

 汗を滴らせたテイオーは口をとがらせるとその場に座り込んだ。

 

「まったく、ゆるーく走らせ続けたと思ったら徐々にペースを上げてったり、ペースを上げて走らせたと思ったら急にダッシュさせたり、かと思ったらまたゆるーく走ってみたり。ボク疲れちゃったよー」

「言いつつまだ走れるくらい余裕あるんだろうが。それより、足に異常は? 痛みはないか?」

 

 同じく座った俺は、触るぞと一言断ってからテイオーの足首を持った。

 無いとは思うが、だからといって油断はしない。見落としが少しでも無いように、念には念を押しておく。

 

「だから、だいじょーぶだってば。キミはちょっとシンパイショーすぎるよ。ちょっと変に走ったからって何かあるわけないじゃん。ボクは人より身体が柔らかいんだしさー」

「そう、それだ」

「でしょでしょ? ジューナンセーがあるとケガしにくいなんてジョーシキだよね~。ふふん、ボクだって勉強はちゃーんとしてるんだから、いつまでも賢さGとかわけのわからないこと――」

「違う。逆だ賢さG」

 

 調子に乗りかけたテイオーを即座に切って捨てる。

 何もわかってないなこいつ。

 

「テイオー。お前が天才であることは言うまでもないが、具体的に自分のどこが優れているかわかっているか?」

「存在!」

「そうだ。生まれ持った身体の柔軟性と強靭でしなやかな筋肉だ」

「ボクの話聞いてる?」

「ああ。聞いたうえで無視した」

 

 頷けるがそういう話じゃない。

 

「他にも優れている部分はあるが、やはり特筆すべきはその二つだろう。まさに天賦の才だ。全身を文字通りバネのように使い、ただ走るのではなく、一歩一歩弾むように美しく駆けるテイオーの姿はこれからきっと、多くの人々を魅了することだろう。初めてお前を見た時の感動を、俺は一生忘れない」

「~~~ッなになに急になに!? 真面目な顔してやめてよ、はずかしいっ!」

「だがその柔らかさが問題なんだ」

 

 手に持った足首を動かしてみる。

 前横後ろとつっかえることなく、可動域がとても広い。彼女自身も特に痛みを感じていな……たぶん、感じていないとは思う。両手を頬に当て、顔を赤らめているのは該当の表情とは違うだろう。おそらく。

 

「はっきり言って、この柔らかさは異常だ。足首だけじゃない、関節すべてがだろう? 普通ならできるはずのない態勢からでも力強く蹴り出すことができる……足にかかる反動が半端じゃないはずだ」

 

 本来ならブレーキがかかる場所でもテイオーにはそれがない。並外れた柔軟性がフォームを大きくしても許容してしまい、蹴り出す際のみならず着地の位置さえも、無茶を無茶と気付かず出来てしまう――落下の衝撃すら足に多大な負荷をかけてしまう。

 

「お前の才はいわば諸刃の剣だ。それがお前を天才たらしめる最大の武器だとしても、そのまま続けていればいずれ牙を向く。ダメージの蓄積は著しく影響を及ぼし――テイオーの選手生命はきっと、とても短いものになるだろう」

 

 成長期の真っ只中で、それでいてテイオーは発育良好とは言い難い。それを受け止めるだけの土台がまだ出来上がっていないのだ。なのに力強さに身体が追いついていない現状を顧みなければ、のちに思い当たる弊害は多々あるが、可能性として高いのは、年齢からして十分な骨密度を確保できず成長してしまい故障――骨折しやすくなってしまうことだ。

 ただの骨折ならまだしも、足が折れやすいとなると、どこがどうなるかわからない。一度の骨折が致命傷になるやもしれない。

 そも選手生命が短いと評したが、その短い期間すら満足に走ることができるのか――

 

「へー、そーなんだ」

「……俺の話聞いてたか?」

「聞いたうえで無視したー」

「おい」

 

 しかし当人は手から自由になった足首をぐるぐる回し、俺の懸念をそんな調子で聞き流していた。

 

「真面目な話なんだ。こればっかりは流していいものじゃない」

「だって話が長いしむずかしーんだもん。なに? モロヘイヤのツルギって? 苦いのやだから食べたくない」

「モロヘイヤは優秀な野菜だぞ。β-カロテンはにんじん以上だし、さらに骨折の発生率を下げるビタミンKはパセリとしそに次いで多い。ぜひともお前に食べさせたい野菜で――」

「それにさー、それって結局ゲンゾーがいなかったらの話じゃん」

 

 と熱が入り、栄養学へと逸れ始めた話を容赦なく断ち切って。

 

「ゲンゾーはボクの隣にいるんだから、そんなことにならないでしょ?」

 

 テイオーは至極真面目な顔であっさりとそう言った。

 世界のどこかでそういったことがあれど、自分には何一つ関係ないことだと、本気で信じているかのような――まっすぐでつぶらな視線を俺へと向けていた。

 あまりにも自然に、鷺宮玄蔵という未熟な存在への信頼を突き付けられ、思わずひるみ――

 

「――なら、ない、ことは! 確かだが! いつか言ったように、俺だけがいくら気遣っても意味がないんだ! 正しいフォームにしろ足の消耗にしろ自覚を持て!」

「なんで顔赤いの? おこってる?」

「怒ってる! まったく、テイオーはまったく……水分補給するか? それとも塩飴食べるか? 塩分だけじゃなく、糖分とクエン酸配合で疲労回復に効果ありだ。なんなら今度からレモンのはちみつ漬けを作ってきてもいいぞ?」

「なんで機嫌良いの? ホントにおこってる?」

 

 ……まあ、テイオーの言う事も間違いではない。

 細く長く生きるより、太く短く生きる方が良い。なんて言われがちであるが、俺に言わせればどちらもごめんだ。どちらも諦めず、良いとこ取りをさせてもらう。

 ああ、そうだ。

 俺が隣にいる限り――トウカイテイオーに悲劇など起こさせない。

 

「……というか、今言ったことはすべて以前言ったはずなんだがな」

「? 聞いてないよ?」

「お前が忘れてるんだよ!」

 

 可愛らしく小首をかしげるテイオーに誤魔化されず、今度こそ俺は怒った。

 

「いや待て待て。じゃあもしかしてお前、トレーニングの内容とかこれからの指針とか、この前やったミーティングの内容全部抜け落ちてるわけか?」

「ぎくっ」

「自分の口でぎくとか言うやつに二回も遭遇するとは思わなかったな……」

 

 しかも同一人物だし。

 思わず天を仰ぐ。

 えー。

 本気かよー。

 この調子なら三回目のぎくを聞きそうだなー。

 

「ち、ちがうよ!? ちょこっと忘れてるよーな感じなだけで、全部わすれちゃったわけじゃなくてぇー……!」

「いや、まあ、いいよ。考えてみれば言葉だけで一気に説明して終わってた俺も悪かったしな」

 

 とてもよく見知った相手なのだから予想できたことであるというのに、自分基準で考えてデータを渡しておかなかった俺のミスである。

 アナログだが、いっそのこと紙にでも記すか?

 端末が無くとも見れるので、それはそれで悪くはないが。

 

「まあ後でいいか。とりあえずテイオーに必要なことだけおさらいしよう」

「おっ、タブレット端末。持ち歩いてるんだね」

「クリップボードを使うより便利だからな」

 

 いそいそと荷物の中から取り出し起動させる。

 画面を操作しながら俺は言う。

 

「大前提として、俺たちが目指すのはシンボリルドルフさんと同じ場所というのは言うまでもないな?」

「うんっ! ムハイの三冠ウマ娘にボクはなる!」

「結構。では三冠とはどのレースを指すかはわかっているか?」

「皐月賞、日本ダービー……で、菊花賞!」

「よろしい。トウカイテイオーに10点。その三つの距離は?」

「えっと。中距離、中距離、長距離!」

「具体的にメートルも聞きたかったが……まあいい。トウカイテイオーに5点」

「さっきから何の点数?」

 

 基本中の基本だな。

 さすがにこれくらいはという質問だ。

 

「自分の適性距離は理解しているか?」

「中距離!」

「ひとつ劣るが長距離もいける。2点。脚質は?」

「差し!」

「先行だ。いくらシンボリルドルフさんがすごくても、差しなんか絶対やらせん。10点減点。ここまでを踏まえて、現在どこを中心に伸ばすトレーニングをしている?」

「誰よりも何よりも速くイチバンでゴールするスピードだー!!」

「スタミナだ、わからないやつめ。10点減点。ゲームオーバーだ」

 

 残念賞のポケットティッシュを取り出し顔に投げつけてやった。

 

「ちなみに優勝賞品はなんだったの?」

「一生俺が何でも言う事聞く券が20点で貰えた」

「ッッッ!?」

「座ってろ」

 

 冗談のつもりが過剰な反応を見せたテイオーに少し引きつつ、話を続ける。

 

「で、だ。要するに、長距離である菊花賞を見据えて動いているわけだ。菊花賞は3000メートル……今のお前では走り切ることすら困難だろう」

「うーん……ジッサイ走ったことないけど、キツイのかなーやっぱ」

「現状、余裕を持たせて走れるのは2000ってとこだな。成長すれば、おのずと2500くらいまでは伸びるだろうが……走れるのと余裕があるのとでは違うからな」

 

 スタミナを強化すればスピードが衰えることはない。結果的に速さも上がる。

 体力を枯渇させ、息も絶え絶えになりながら走るのは言うまでもなく論外であるが、後ろの方でジョギングして完走することを走れるとも言わないのだ。

 

「がんばって今から準備しとけば長距離もラクショーってことだね」

「まあそんな感じだ……。時にテイオー。お前、ゲーム好きだよな?」

「ゲーセンいくの!? 今日こそゲンゾーに勝ち越してやるかな~!」

「行くか。そうじゃなくて、ソシャゲとかもやってるだろう?」

「こないだ爆死したから課金しよっかな……」

「するな。したらアプリ削除するからな。いいからこれを見てくれ」

「? なにこれ、ステータス画面? なんのゲームの……」

 

 向けられたタブレット画面を首をかしげながら見ていたテイオーが、何かに気付き、徐々に驚愕の表情へと変化するまで、そう時間はかからなかった。

 

「これっ、ボクの名前っ! ボクのステータス画面なの!?」

「その通りだ」

「どーしたのこれ!?」

「作った」

「作ったぁ!? なんで!?」

「わかりやすいだろう」

「わかりやすいけど! なんでこんなの作れるの!?」

「天才だから」

「理由になってないーっ!」

「天才がやることの大体は天才だからで済むんだぞ。お前が速く走れるのと同じようにな」

「あっ、そっかー。……そっかぁ?」

 

 馴染みのある物に例えた方が頭に入りやすいだろうと、以前から暇を見つけて制作してみた次第である。

 とはいえ、さすがの俺も一からすべて作り上げたわけではない。

 既存の有名どころを参考に組み上げただけにすぎないうえ、ただの静止画だ。誰かがもうやっているのだ。天才だからと言いつつ、天才じゃなくてもやればできるだろう。

 

「しかしこのSDテイオーだけは我ながら会心の出来だ……」

「え、えー……、わかりやすいだけでここまでするんだ……」

「これは遊び心だ。可愛らしいだろう?」

「えへへ、そーお?」

「お前じゃないぞ」

「そっちもボクじゃんかっ!」

 

 デフォルメされたテイオーが元気良く右手を突き上げて笑っている前で少し照れている本物。こいつは顔が良いのでモデルとして映えるのである。

 そして今後の課題はこのちびテイオーを動かすことである。

 さておき。

 タッチペンを指示棒代わりに使いながら、俺は言う。

 

「で、この五つの項目に注目。主にこれらに沿って伸ばしていくわけだが」

「スピード、スタミナ、パワー、根性、賢さ。……なんか低くない? 全部Gになってる」

「高くしすぎると後々インフレするだろ。あくまで仮定だが、これを現在のテイオーの基準として、本格化を迎えれば無条件でもう一段階進むと考える」

「Fになるってこと?」

「G+と言ったところか。わかりやすさ重視で、細かい数字は省いているから振れ幅が……ああ当然だが、賢さだけはいくら身体能力が上がろうが変わらないぞ」

「うへぇ、やっぱり勉強しなきゃ賢さはGのまま……ってこれかー! ゲンゾーが賢さG賢さGって言ってたの!」

「俺の頭の中を簡略化したのがこの図だからな」

 

 根性も精神由来の曖昧な部分であるが、健全なる精神は健全なる身体に宿るということで、程度の差こそあれ強化された肉体に追随していくことだろう。

 

「うーん、ほかのキャラ……じゃなくてウマ娘のステータスがわかんないから、これじゃあ良いのか悪いのかなー」

「重ねて言うが、お前の為だけのわかりやすさを求めているからな。そうだな……俺から見てテイオーは星三つの強キャラだ」

 

 三ツ星レストランだ。

 現時点で本場パリでも10件しかない栄誉だぞ。

 

「ボクのやってるゲームだと☆3は低レアなんだけど。☆5が最高で一番強いよ?」

「そうなのか? ならちょうどいい。ひとまずの小目標として、トレセン学園入学までにステータスを最低オールFにまで底上げすることを考えている。これを条件としてクリアした暁には晴れて五ツ星にしよう」

「☆を増やすなんていいの!? 低レアも最高レアにできちゃうなんて夢みたい! ガチャに泣かされることもなくなるんだー!」

「ただし、そう簡単にはいかないぞ。星を増やすのは本当に大変なことなんだ。一つ増える度に覚醒したと言っていいくらい前後で変わる。暫定的に覚醒レベルと呼ぶが、それを二段階も上げるわけだ……身体に気を遣い、ただの校庭を走るような整った環境とは言い難い限られた現状では、時間をかけるしかない」

「ふうん。でもま、そーだよねー。カンタンに上げれたら、レア度の意味ないし。もともと強い☆5キャラのありがたみーってやつがなくなっちゃうよねっ」

「ああ。厳正な審査で星を獲得するだけでも難しく、三ツ星が次の年には二ツ星に降ちる悲劇もあるなかで、二つ飛ばして前代未聞の五ツ星なんて……。想像もつかない味の高みだろうな……」

「キミさっきからちがう話してない?」

 

 欲を言えばスタミナだけでもEを目指したいが、それこそ覚醒レベルを三つ上げるようなものか。

 トレセン学園の充実したトレーニング環境に思いを馳せる。

 きっと最新のトレーニング器具とか大きなプールとか、本物さながらのレース場とかあるのだろうなあ。

 芝だけじゃなくダートコースも走れたりしてなあ。

 周囲には傾斜のきつい階段の神社とか、坂の長い丘とか山とかあるのだろうなあ。

 しかも使い放題だろう? やれることのバリエーションが豊富すぎて羨ましさしかない。

 入学までにかけた時間で倍の成果が得られそうで、なんとも口惜しい話である。

 

「スタミナをジュウシしてトレーニングしてオールF。結局ボクはどれくらいの強さになるの?」

「……入学したての同学年ではまず敵無しだろうな。それがより圧倒的になる予想だ」

「天才だからね! うむうむ、良きにはからえ~!」

 

 まあ、場所はかのトレセン学園だ。同じだけの才がいる可能性は捨て切れないが、それでも負けることはないと思われる。

 

「じゃあ、しばらくはレースに出ることもなくトレーニング漬けかぁ。一着をとってみんなに褒められたかったなー」

「誰がトレーニングだけだなんて言った。レースにだって出走するぞ」

 

 えっ。という表情を横目にスマホを取り出し指を滑らす。

 名のある所からマイナー所まで西へ東へ中距離長距離と、あらかじめ目星をつけてリストアップしておいたレースがずらりと並ぶ。

 特に地方で顕著だが、傾向としてこういったアマチュアレースで名を上げた者が中央へとやってくる。遊びの草レースと比べたら、競う相手としては十分だ。

 

「一応の予定としては、これらに出走するつもりだぞ。場所によっては遠征だ」

「遠征!? で、でもでも、フォームが~とか、足の消耗が~とかはいいの?」

「実践に勝る訓練なし。もちろんテイオーの仕上がり具合と相談だが、レース勘を養うためにも走る必要がある」

「長距離の?」

「だけじゃない。たとえば、今感覚で(おこな)っていることを明確にするとかな」

 

 出走するコースをどういった配分――体力と速さで走るか。

 どのあたりにつけ、どのラインを選び、どこで息を整え、どうかわして、どこで勝負を仕掛けるか――とか。

 イメージを固めて確立させることで、アクシデントや他のウマ娘による妨害にも揺るがず対応できるようにしていきたい。

 これは確信だが――いずれテイオーは、誰からも徹底的にマークされることになるだろうからな。

 

「というわけで、長距離適性をBからAへと目指しつつ、主戦場である中距離もより盤石にしていくぞ」

「BからA……あっ、これか。距離のコーモクもあるんだ」

「そして」

 

 にやりと笑う。

 視線を彷徨わせるテイオーに指示棒代わりのタッチペンを突き付けて。

 

「――なあテイオー。日頃から掛けられる、この抜かりのない天才の相棒による称賛だけでは物足りないんだったな?」

「そんなこと言ってないじゃんっ! たっくさんの人に、ボクってすごいんだぞーって思わせたいし、言わせたいだけだよ~!」

「はは、いい自己顕示欲だ――喜べ、お前に不特定大多数の称賛と喝采の場を約束しよう!」

 

 ――最近気づいた事として。

 俺は意外と熱い性格なのかもしれない。

 今までは一歩引いて冷静に物事を見定め、あんなにも発する言葉を選んでいたというのに。

 それをせず。

 徐々に高ぶる感情を受け入れて。

 抑えようだなんて微塵も思わなかった。

 

「――出走するレースをことごとく総なめにする! 地に着くことなく頂点だけを取り続ける! メイクデビュー前の下積みだから良いなどと言うものか――無敵のテイオー伝説、序章の開幕だ!」

 

 胸に溢れる熱に突き動かされるまま立ち上がり、言葉へ乗せて吐き出した。

 テイオーは、そんな熱に浮かされた俺へ呆気にとられた顔をすると。

 一拍置いて。

 ぶるりと身体を震わせ勢いよく立ち上がり。

 にんまりと口元を弧に描いた。

 

「とぉーっぜん! ボクはサイキョームテキのテイオー様なんだから! どーんとまかせちゃってよねっ!!」

 

 言って、ピースサイン――いや。

 立てた三本指をこちらに突き付けた。

 それはシンボリルドルフさんが一冠、二冠、そして三冠バと成る度に、ひとつひとつ指を増やし、天高く突き上げたパフォーマンスで――

 それに対して俺も三本指を突き返す。

 俺も彼女も口を開かずそのまましばし無言。

 どちらの行動にも、もちろん特に意味もなく。

 

「くく、くくく」

「ふふ、ふふふ」

「はははは!」

「えへへっ!」

 

 なんとなく、最後にはどちらともなく、なぜか笑い出していた。

 何が面白いのかわからないまま、そのままで。

 

「――さて。少々話しすぎたな」

 

 しばらく笑った後に、気を取り直して俺は言う。

 おさらいだけと言いつつ、思った以上に時間がかかった。クールダウンは忘れずしないといけない。

 一本結びにしていた髪をほどき、ポニーテールにすべく、また髪をまとめていく。

 

「へへー、おそろいおそろいっ。いっつもそーしてればいーのに」

「遠慮しておく。なんか、女の子っぽいだろう」

「そっかな。サムライーって感じがしなくない?」

「ああ……そういう見方もあったか」

 

 その場合は確か総髪と称されたか。時代劇でも髷の代わりに髪を束ねる人物をしばしば見た覚えがある。

 なら女子のイメージが強いのは、普段テイオーを見慣れてしまっているせいだろうか。

 

「最近ゲンゾーも一緒にダウンするけど、どーしたの?」

「ん、まあ、トレーニングにはどうしたって付き合えないから。これくらいはな」

「? 付き合ってくれてるじゃん」

「横にいるだけだろう」

「全然そんなことないけど。トレーナーだし、フツーじゃない?」

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。だ。……できてないがな」

「はえ?」

「ウマ娘とトレーナーは一心同体というわけだ」

「???」

 

 とりあえず水分補給。ジョグ。からのストレッチ。あとはアイシングとか――だが、そこまで強度を高く追い込んでもないし、そもそも氷嚢を持ってなかった。まあテイオーには風呂に入る際、足に冷水をかけておくよう言っておこう。

 あとはマッサージができれば完璧だが――しかしいくら幼馴染みで、ある程度家の人に話を通しているとはいえ、夜分に他人の家へお邪魔するのはどうだろう。さすがに弁えた方が良いので、そこもテイオーには自分でやってもらうしかない。つくづく現環境と自分の年齢に歯痒さを覚える。

 早く大人になりたい――などと考えつつ、髪を完成させるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、クールダウンを終わらせ帰路についた。

 

「……つまり、実際に行動し、経験することで、言の葉に説得力を持たせたいというわけだな?」

 

 途中ゲーセンに行きたがるテイオーをなだめながら、俺の結った髪先を猫のように叩くテイオーを諫めながら、まだ帰りたくないと駄々をこねるテイオーの口にチョコレートを放り込んでやりながら、あの手この手で言う事を聞かせ、ようやく自宅へと送り届けた後の帰宅である。

 玄関に荷物を置き、またすぐに出て行こうと挨拶を屋内へ投げたところ、母から呼び止められていた。

 

「俺はテイオーのトレーナーですから。彼女のことを、少しでも多く理解したい」

「なにゆえそうも、と疑問だったが、近頃鍛え始めた理由はそれか……」

 

 走り込むのは悪くないが、もうじき夕餉である。と難色を示す母。

 ウマ娘とトレーナーは一心同体だと母に教わった。俺はそれをテイオーにも伝えたものの、結局のところ理想論でしかなく、不可能である。

 いや。

 正確には、ウマ娘ではない俺には不可能なのである(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 何と言っても俺はウマ娘ではない、ただの人の子供だ。

 もっと言えば、女性ですらないのだ。

 そんな俺が彼女とうまくやれているのは、ひとえに幼馴染みという付き合いの長さゆえでしかない。積み重ねた年月が軽いわけではないが、過ごした時間に甘んじて驕れるほど、俺は愚かではなかった。

 いつか必ずたどり着くとは言えど。

 その頂きは、遥か遠く険しい。

 

「基本的にトレーナーは新人だとしても人生の先達で、まがりなりにも導くことができますが、俺は違う。俺はどうしたってテイオーの先に立って歩くことはできない」

 

 テイオーの手を引いてやることはできない。

 知識に比例する年の功がなにひとつなく。

 トレーニングひとつ取っても、母のように、やってみせる(・・・・・・)ことはできないのだから。

 ならせめて、隣に立てるように。

 共に頭を悩ませ、いつだって肩を支えて、彼女の辛さも苦しみも分かち合えるような対等な存在に、俺はなりたい。

 

「こんな、テイオーとは比べ物にもならないトレーニングをしたところで、理解は遠く及ばず、母上みたいになれるわけでもないだろうけれど、それでも俺は――って、どうしました母上?」

「いや……我が息子の健気さに思いもよらず……」

 

 顔に手を当て、天を、というか天井を仰ぐ母。

 意識とハードルが高すぎますわ、と言う呟きが聞こえた気がしたが、たぶん空耳だろう。

 

「ウマ娘とトレーナーは信頼関係こそが重要だと、母上のみならず、シンボリルドルフさんからも教訓を得まして。ならばハリボテの俺では足りず、いずれ綻びが出てくるのかと……」

「シンボリルドルフ……ああ、例の」

 

 そういうわけか、と納得したように瞑目し、腕を組む。

 

「……確かに信頼と言うのは一朝一夕で獲得できるものではあらず。誠の無い美辞麗句を並べるだけでは響かず、しかして肝要なのは時ではない。繋がる意思なくして、橋はかからぬ」

「はい」

「で、あれば。長きを寄り添い、既に互いを想う心が(はざま)に確と存在するならば、これ論に及ばず。誠意を持ちてさらに励むべし」

 

 して玄蔵。と母は瞼を上げた。

 

「なぜ共にせぬ?」

「なぜと言われましても」

「本日はテイオー姫の鍛錬日であると記憶しているが」

「テイオー姫……」

「ん?」

「いえなにも」

 

 いつになっても違和感しかない疑問の残る呼び方である。

 

「まさしくその通りだからですが。テイオーにはテイオーのトレーニングがあります」

「ぬしのは大した量ではなかろう。わざわざ市街へ取って返す意味はなんだ」

「付き合わせてしまいます。彼女は既に自分のことをやりきっているのだから」

「ふむ?」

「一刻も早く、家に帰して休ませてやらないと」

「ぬしのことよ。追い込んだでもあるまいに」

「俺はトレーナーです」

「仕様が無いのう。帰って即座に出て行くなどと、姫の呆れ顔が目に浮かぶわ」

「しませんよ。知りませんし」

「なに?」

「だって、俺が勝手にひとりでしていることですから」

「勝手に? ひとりで?」

「ええまあ……やるのは俺で、テイオーには特に関係ないので、知らせる意味がありません」

「…………」

「は、母上?」

 

 開いた眼が、再び閉じられそうなほど細められていく。

 加えて口元は歪んでいて、母が俺に向けるものとしては今まで見たこともないような表情で、思わず動揺してしまう俺であったが、しかしそれはどこか既視感があり――

 そう。

 怒っているというよりは、次はこのままため息の一つでも吐きそうな――テイオーが俺に割とよく向ける、呆れの表情に似ているのだった。

 見覚えがあるわけだ。

 と納得するも、それはそれで動揺を隠せない。

 

「玄蔵」

「は、はい」

「智恵を授ける」

「……!」

 

 しかし母はテイオーと違ってため息は吐かなかった。

 

「とはいえ今のぬしでは理解はすれど納得が……いや。理解すら及ばぬかもしれぬ。だが折り合いを付けるのは世の理。酸いも甘いも噛み分けた先達が、こうしてぬしの眼前に立つまで培った秘訣……秘伝である。心して聞くが良い」

「っはい!」

 

 先達の智恵。

 その言葉に意図せずとも背筋が伸びる。

 息子とは言え見るに堪えない迷える未熟者であろうこの俺を、呆れるどころかレースに挑まんとする現役のウマ娘を相手に助言を与えるかの如く、厳かな雰囲気を纏わせる姿はまさに一流のトレーナーだ。

 ごくりと唾を飲み込む。

 俺にとって世の中には理解しても納得が難しい事柄は多いが、両方とは一体。

 

「いいか、妙な見栄を張るな」

「見栄……ですか?」

「そうだ。自身の理想に基づき行動したところで、伴わないのであれば、尚更である」

「……?」

 

 理想。

 つまり自身のこう在るべきと考えるトレーナー像に縛られ過ぎている、ということだろうか。

 

「わからぬか? 恰好をつけるなと言っている」

「恰好など――」

「対等を謳いながら何もかもを自身の内で完結させるな、と儂は言っている」

 

 ぬしが言う通り、どれだけ才に溢れていようと手を引くことは叶わぬのだから、と母は俺に言い聞かせるようだった。

 ……確かに。

 考えてみればテイオーを支えると言いつつ、なんとか先に立とうと動いている気がする。

 倒れることを前提に、先に立ち、その身体をいつだって受け止められるよう太く大きく構える在り方は、まさしく杖。

 転ばぬ先の杖。

 でも、道から石を取り除き、平らにし、とにかく躓かぬよう動くことが間違いだとは思わないけれど――

 

「必要無いのだ、知識も経験も。より深く強固に結び付きたいと望むなら、真に必要なのは対話。ふたりの間に関係の無いことなどありはしない」

「対話……」

「それに考えてもみよ。何も言わず身を削る様を、ただただ見ているしかない状況を。ぬしならどう感じるか?」

「…………」

「サプライズなどとのたまい、例えばプレゼントや指輪の購入計画を黙って(おこな)った結果、すれ違いから不審が募って崩壊が始まる展開が、儂は死ぬほど嫌いである」

「急に俗な話になりましたね?」

 

 わかりやすいけど。

 そういえば、テレビに向かって激怒している姿を何度か見たことがあった。

 

「あれほど馬鹿な話にもなるまいが、度が過ぎればいずれそうなろう。よいか玄蔵。相手を想い、分かち合うのと背負い込むのは違うのだ。どちらが正しい、ではなく。共に対等なるものとして歩むならば、ぬしの苦悩も分け合わねば。弱さを隠さず、時に甘えてみせる。それが背中を預けるということよ」

 

 背中を預ける。

 相手に対する最大限の意思表示。つまり信頼関係か。

 言ってることは細かく情報共有を徹底しろという単純なものなんだけれど、考えさせられるというかなんというか、やはり人生経験の少なさ故の未熟というのはどうしようもないようだ。

 無駄を省き、効率を求め続けた結果が遠回り――最悪、破綻するなど皮肉が効きすぎてあまりに恐ろしい。

 身につまされる話である。

 ……実を言うと、余計な気遣いなどで頭を悩ませないよう配慮したつもりだったのだが、それこそ無意識のうちの『格好つけ』だったということに気付きを得てしまい、テイオーに対して自身をより良く見せようと、なぜか『妙な見栄を張っていた』事実を眼前に突き付けられた気分で、頭をしこたま壁に打ち付け転げまわりたい気分だった。

 

「……ですが母上。それでは納得がいきません」

「理解はしたか。うむ、さすが我が息子。一を聞いて十を知るとはこのことか」

「それは違うような……いえ、理解も少し。だって俺はあくまで支えたいのに――支える側が、弱くて甘えを見せるような存在なら、頼れない相手を前に、心はむしろ離れてしまう――」

「そこが要点よ」

「え?」

「常に寄り添うこと。一心に見つめること。何事も素直に包み隠さず、自身の柔らかい場所すべてを曝け出すこと。服従の姿を見せろというわけではない。健気で、献身で、無防備で、他ではありえない顔を許す、言わば自分だけが特別であること。それこそ儂が何よりも眼を奪われ、苛烈さを捨て、こうして幸せを噛み締めることになったと学んだのだ」

「……秘訣ってあの、今より先に進めることのですよね? 信頼関係を深める話ですよね?」

「無論。関係をより深く、ふたりをまばゆい遥か未来(さき)へと進める秘訣である」

 

 

 

 

 



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幕間 下(1)

どれだけ削ってもゆうに二万字こえてきてそれでも終わらなくて一話の量じゃない小説なんもわからんとなったので分割いたします。
 見通しが甘く申し訳ありません。


 

 

 

 

 

 水を入れたケトルを火にかける。

 空気を多く含んだ新鮮な汲み立ての軟水を使い、ぬるすぎず、熱すぎず、沸騰したてを狙って調整する。

 その間、用意しておいた食器に湯を通す。抽出用の透明なガラス製ポット、もう一つサーブ用の白い陶器製ポット、そして同じ陶器製のカップ。それらをあらかじめ温めておくのを忘れない。冷たい容器ではせっかくの熱湯が5℃ほど下がってしまうらしい。たった5℃と侮るなかれ。それだけで大きく違いが出てしまい、顰蹙を買うことは避けられない。

 ケトルに目を向ける。

 小さな泡がやや立ち上がり、もうしばらくといった状態に。

 温めておいたガラスのポットから湯を捨て、取り出したるはティースプーン。それを使い茶葉を掬う。約3グラムで一人分。目安としては一匙。茶葉の大きさで中盛か大盛か変わるらしいが、盛りなどまさしく匙加減なので、まあこれでいい。目分量で投入していく。

 ケトルを手に取り中身をポットへ。

 ボコボコと大きく泡立つ熱湯と化したタイミングを逃さず注ぐ。目盛りがついて透明なので慣れてなくとも計るに容易く、茶葉の上下運動――ジャンピングがしっかり起こっていることを確認できた。酸素が多く含まれているから起こる現象らしく、これが汲み置きの水だったり、沸騰しっぱなしだったりすると、酸素が抜けていて茶葉が沈んだままになり、美味しいお茶が淹れられないとかなんとか。

 次は蒸らし作業。

 確かこの茶葉はOPタイプとかいうのだったので3、4分ほど蒸らしてやる必要がある。ティーコジーと呼ばれるニット帽のようなものをポットに被せ、温度が下がらないように保温し、タイマーをセットする。

 合間に茶菓子の用意にかかる。

 一般人の想像通り。と言うとさすがに声が大きいかもしれないが、茶会の茶菓子と言えばショートケーキだったので、謎の納得感と共に皿に移していく。よくよく考えてみればマカロンやスコーンなどの選択肢に気付いたが、やはり王道なのだとさらに納得感が追加された。

 タイマーが鳴り響く。

 ニット帽……ではなくティーコジーを外し、スプーンでポットの中を軽くひとまぜ。底に寝た茶葉を起き上がらせ、均一に中が混ざるようにする。そして陶器のポットから湯を捨てると中に茶殻が入らないよう茶こしを使ってそこに注ぎ込む。最後の一滴であるゴールデンドロップ、またはベストドロップと呼ばれるうまみが凝縮された最後の一滴まで絶対に入れるべし。

 完成。

 諸々の細かな準備を済ませ移動を開始。テラスへ向かって歩き出す。

 鳥のさえずりが耳に届く。

 木々は青い空に涼しげに揺れていて、色とりどりの花々は鮮やかに目に映る。席につく人物は何をするでもなく庭園を眺め、木を、もしくは花を、あるいは自然そのものを愛でているのかもしれなかった。

 テーブルにトレイを置くと早々に持ってきたものを並べ、カップに茶を淹れて差し出す。

 まず色を見て、次に香りを楽しむ素振りを見せてから口に含み、採点するよう吟味した後にひとつ頷き微笑んで、彼女は言った。

 

「まあまあですわね」

「まあまあなのか……」

「始めの頃と比べると良くなっていますわ」

「それはどうも」

「紅茶のゴールデンルールはマスターしたようで」

「まあ、覚えるくらいは簡単かな」

「それを踏まえて言わせていただきますわ――まあまあですわね」

「なぜ二回も言った……」

「あなたも飲んでみると良いですわ」

 

 つい、と対面の席に促される。

 言われるまま着席すると自分の分の紅茶を注ぎ、飲んでみた。

 ……苦味。渋味。

 これが紅茶特有の美味しさに分類されるのだろうけれど、自分にはまあまあどころの話ではないので、顔をしかめながら砂糖を入れた。対面の彼女がくすりと笑う。理解のできない事柄は、知識だけに限らず多いものである。

 

「淹れ方はまだしも、飲み慣れてすらいないのは少々意外でしたわ」

「別にまったく飲まないとは言わないが、こうやってちゃんとした形ではまあないよ」

「あなたのお母様は英国出身では?」

「母上は紅茶はあまり飲まない」

「そうなのですか?」

「俺のように慣れていないわけではないが、なんだろうな……慣れてはいても、馴染みはないといった感じだ」

「? 不思議なことをおっしゃいますわね。かの国ではどの家庭でも親しまれ、国民に幅広く根付いているはずですが」

「まあ、俺の勝手な所感だよ。向こうの文化はよく知らないが、習慣にならなかったんじゃないか?」

「そのようなことがあるのでしょうか……」

「母上は昔のことをあまり語りたがらないしな。代わりに緑茶はよく飲むぞ」

「随分と馴染んでおられるようで」

「そして家に茶室を作ろうと画策している」

「馴染みすぎではありませんか?」

 

 日本かぶれ、という父と同じ評価は飲み込まれたようだった。

 ちなみに俺はほうじ茶が好きである。

 

「しかし正しい手順で完璧でないのは、おかしくないだろうか」

「それが紅茶の奥深さですわ」

「きっとルールが間違っているか、不足しているかだな」

「自分にミスがあるかもとは考えないのですね……」

「仮にあったとしても誤差の範囲だろう。個人の裁量を奥深さで片付けられるのは不公平だ」

「いいえ。どれだけ正確なデータ、緻密な作戦があったとしても、レースに絶対はないのと同じです」

「む……ならどうすれば正解を導き出せる?」

「それを考えるのが、あなたの目指すものではなくって?」

「…………」

 

 まあ、そう言われると言葉が無い。

 現況のルールの中で勝ち筋を見つけるは当然として――しかしながらそれを当然とするならば、確かに、間違いも不足もひっくるめて先行きを考慮せねばならないだろう。

 何と言っても土俵は皆同じなのだ。それがトレーナーにとって重要な能力であり優劣を量るバロメーターであるなら、それはもはや不備不足を列挙する前に、俺が克服すべき課題なのだ。

 ウマ娘とトレーナーは一心同体。

 ウマ娘たちがレースで切磋琢磨するように、トレーナーたちは彼女らを如何に輝かせられるかを競い合う――勝たせるではなく、輝かせるというのが肝で、そういった類の考えを持つトレーナーは個人的に優れていると思っている。

 なぜならウマ娘のレースとはただ走るだけではなく、熱い戦いのあとのキラキラとしたウイニングライブも含めてのレースであり、人気のあるウマ娘がその歌声とパフォーマンスを評価され自身のオリジナルソングをリリースしたりするように、人によってはそちらの方を重視する見方もあって、ただ勝てばそれでいいと身体能力を上げるばかりで歌やダンスのトレーニングを疎かにするなど、俺個人だけでなく、いちトレーナーとしての観点からでも言語道断としか言いようがなく、一朝一夕で身につくものでないのだからこそ普段からこういった細やかな取り組みがどれだけ大切か――

 

「……いや、やはりその理屈はおかしい」

「あら、気付きましたか」

「気付かいでか」

「そのまま平行して精進してくださればよかったのですけれど」

「なんで紅茶の正解も考慮しなきゃならないんだ。俺の目指すものはトレーナーだ。普通に答えを教えてくれたらいいんだ。不備も不足も列挙するし不平不満も言っていいんだ。こんなのどう考えても必要ないだろうが」

「何事も出来ないより出来る方がよろしいとは思いませんか?」

 

 にっこりと、思わず見惚れてしまう笑顔で言う。

 それはそうかもしれないが、話をすり替えられ、体よく誤魔化されるところだったことを考えると白々しいものである。

 紅茶を一口。

 いい茶葉なんだろうけれど、庶民の舌では良いも悪いもわからない。そもそも砂糖がなければ美味しいとさえ思わない。野菜の苦味はまだ栄養があるので耐えることができるが、嗜好品を無理やり楽しもうとするのは合っているのだろうか。甚だ遺憾であるが、まさしく猫に小判といったところで勿体無いと思うのだが――

 

「というか、俺は一体何をしているんだろう……」

「あなたがこの場にいる状況を指しているのであれば、それは回想を挟みつつ、一から説明づけていく必要がありそうですわ」

「ご丁寧な前振りありがとう。でも俺が今言いたいのは()()についてだよ」

 

 いや、すべてにおいて何故と言いたい気持ちはあるのだが――それらは言っても仕方がない。

 自分のカップを指ではじく。

 爪が当たって甲高い音が鳴った。

 

「なんで俺はトレーナー志望なのに、執事の真似事なんかしているんだ?」

 

 行儀が良く、気品があり、いかにも名家のお嬢様といった風貌の――同じウマ娘にしても幼馴染みであるトウカイテイオーとは似ても似つかない理知的な瞳。

 

「なあ――マックイーンさん」

 

 どこまでが庭と言っていいのかわからない敷地内。

 一般庶民の俺にとって縁も所縁もないはずの。

 正真正銘の名家たる『メジロ』が所有する広大なお屋敷。

 の、一角。

 テラス席にて。

 俺はその御令嬢。

 『メジロマックイーン』に首をかしげたのだった――

 

「執事ではなく、ただのお茶汲みですわ」

「あっはい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 話を遡らせる。

 シンボリルドルフさんと出会い、夢を追いかけることを誓い、我が幼馴染みとトレーニングに励み、古今東西レースを荒らし回ることしばらく。

 以前までのような細々と控えめに行われていたものとは違う、真・トウカイテイオー育成計画は、ひとまずの落ち着きをみせていた。

 彼女の才ならば当然。と言ってしまえばそれまでだが、およそこちらの想定していた以上の成長性でいて、何度も高く見積もり直した目標すら軽々と飛び越えていく躍進ぶりは、彼女の両親を除けば、きっと誰よりも理解しているだろう自負がある俺でさえも、あらためて驚嘆せしめる成果を叩き出していた。

 彼女が走る姿と同じく。

 まさに天を駆けるようだった。

 とにかくもろ手を挙げて褒め称えることしかできなかった――まあ、あまりに褒めすぎると今度は度を越して調子に乗り出すので(経験上、慢心しすぎてサボり出す)、ほどほどに内心で留めることの方が多かったけれども。

 それでもやはり声を大にして、本人のみならず周囲に言って回りたい気持ちはあるのだ――俺の相棒、トウカイテイオーは本当にすごいウマ娘なんだぞ、と。

 まあ、そういうわけで。

 あまりにハイペースに事が進み過ぎたので休暇……というわけではないが、経験もそこそこに積めたので、これ以上の足の消耗を抑える意味でもレースに出走する頻度を落とし、しばらくはトレーニングに専念させることにしていた。

 そんな余裕が生まれるくらい順調で――順調すぎるほどに、日々を過ごしていた。

 

 かつて、何もしなくともいずれ大成すると彼女に言った、過去の己の言葉が。

 時を越えて。

 自分自身の胸へ、深く突き刺さって来るくらいに。

 

「……で、ここに一体何の用事なんですか父上?」

「いい質問だ玄蔵。さすが俺と母さんの息子だと言わざるをえないな」

 

 場所を訪ねただけでえらい褒められようである。

 逆に自分の息子が何までわからないと思っているのだろうかと、少し不安になりつつ――俺はその建物の、校舎さながらに巨大な建物の、これまた大きな門扉を見つめるのだった。

 

「…………」

 

 車で移動すること数時間。

 俺は父・鷺宮玄黒と共に、メジロ家のお屋敷に来ていた――メジロ家と言えば世に名だたる名家である。トゥインクルシリーズにおけるG1レースを制する、いわゆる『G1ウマ娘』数多く輩出し続ける一族であり、その名家たりえる本質はレースのみならず、この場に至るまでの道中で、というか現在進行形でひしひしと感じている。

 一流のウマ娘とトレーナーになるべく上を目指す人生を選んだのだから、いずれ相見えることになるだろうと予感はしていたものの、このような形で関わろうとは誰が想像できようか。

 インターホンにて来訪を告げれば重厚な門がひとりでに開いたり、玄関の立派な扉から出てきたメイドさん(本物!)に応対されたり、中へ通されれば豪奢なエントランスホールに眼を奪われたり――なんだこの財力。どう見ても大富豪だぞ。住む世界が違いすぎる。

 

「ここにはな、俺なんかよりもずっとすごいウマ娘専門医がいるんだ」

「父上より優秀な医師なんて存在するんですか?」

「う、うん。たまにその無邪気な信頼が重く感じることがあるな……」

 

 いるよ、いくらでも。

 と、先を歩くメイドさんの後ろでそんなことを話しつつ、とある一室へと案内される。

 室内へと促され父に続いて扉をくぐれば、そこには既にひとりの男性がいて――父よりも一回り以上は年上だろうか? やたら鋭い眼をしたその人に父は妙に親しげに話しかけると挨拶もそこそこに、俺へと振り向き言った。

 

「紹介しよう。こちら主治医さんだ」

「主治医です」

「あ、はい。初めまして。鷺宮玄蔵と言います」

 

 ……いや。

 主治医って名前じゃなくないか?

 

「この主治医さんはすごいんだぞー。なんせ俺の師匠に当たる人だからな!」

「そうなんですか!?」

「違います」

「まだ若く、家を飛び出したはいいがウマ娘に対して無知だった頃の俺はこの人に頭を下げて、日々後ろに付いて学んだものさ……」

「そうなんですか……」

「勝手に押しかけてきて、勝手に学んでいきました」

「とにかく素晴らしい腕の持ち主でな。たとえば骨折にしても、すぐにギプスが取れるレベルに回復させられる。情けない話だが、独り立ちしたあともしばらくは俺一人でどうにもならない場面に助言を乞うことがあった。何度も助けられたんだよ?」

「そうなんですか?」

「連絡してきて好きに話して自分で気付いて終わりです。というか、あなたは患者の無茶な要求を聞きすぎです」

 

 さっきから何一つ肯定されていないが大丈夫なのか?

 

「そんな主治医さんも今ではあの名門メジロ家の主治医だ。腕を買われ、専門の使用人が数多く揃う中で医師部門のトップに立つ。いわば筆頭医師なんだぞ」

「へえ、それは確かにとてもすごいですね」

「身に余る光栄です」

「すごいだろう。だからそんなすごい人たちがいる下で勉強していいぞ。やったな玄蔵。数日経ったら迎えに来るから」

「……はい?」

 

 あれ?

 何かさらっと意味の分からないことを言ったぞ?

 

「そういうわけで師匠。あとはよろしくお願いします」

「師匠ではありません。主治医です」

「ちょ、ちょっと待ってください。数日ってどういうことですか?」

「ん? お前なら数日で足りると思うが。最大で一週程度。ひと月となると、さすがに予定が……まあ、なんとかしよう。好きにやりなさい」

「日程の短さに不満があるわけでなく! 俺がここでご厄介になるという話です!」

「? あらかじめ勉強をしにいくって言ったじゃないか」

「言ってましたけれども!」

 

 何をそんなに息巻いているのかと不思議そうな顔をしているが、勉強しにと言われて、それがこの豪邸への滞在に繋がるとは思わないだろう!?

 ましてやここ、一応他人の家だし!

 口ぶりからして俺だけが置いていかれそうだし!

 

「まあまあ、そう焦るな。心配せずとも、もちろんメジロ家の方にはちゃんと話を通しているし、ひとまずこの週末だけはと気楽に考えろ。人はもちろん設備にしても、これほどの場所はそうないんだ。より成長するにはもってこいだぞ?」

「う……。で、でも、わざわざこちらの方たちのお手を煩わせなくとも、父上がいたら、いいじゃないですか」

「俺か?」

「だって父上はすごいから、今までも俺に手解きをしてくれているし、それで十分に知識をつけることができてるし……」

「ああ、そういうことか」

 

 父は首を振った。

 やや拗ねたような、自身が脱却しようと心掛けている子供のような物言いを、ついしてしまった俺に対して、

 

「それではだめなんだ」

 

 お前が求めるお前になるにはな――と言う。

 

「玄蔵、お前は紛れもなく天才だ。いまだ初等部の歳でありながら、一端とはいえウマ娘を支える医学を解し、トレーナーとして最低限導けるだけの知識を備えている。実際小さくも記事に取り上げられるほどテイオー君と幾多の勝利を重ねることができている。同じような天才が他にいるのか? いや世界を見渡せば存在するんだろう。もちろんテイオー君の力が大きい事も重々承知している。その上できっと数えられるほどだ。そんな器を誰が凡才と呼べる」

「父上……?」

 

 突如向けられた、真剣な表情。

 いつもは笑みを湛えた顔しか向けない父の、見ることのない顔だった。

 

「しかし、にもかかわらず、天才たるお前でもそれではと俺が言うのは、なぜかわかるか」

「……いいえ、わかりません」

「たとえば仮に、人生に難易度というものがあるとするならば、玄蔵のそれは非常に優しいものだ。本当なら人生なんて容易く一口に語れるものではないが、額面だけ見れば恵まれた才と環境で、他人が何年もかけてようやく辿り着けるかどうかの瀬戸際を、始まる為の狭き入り口を、その先に辿り着く権利をとうに得ているのと変わらないのだから」

 

 大した苦労を知らず。

 大きな傷もつかず。

 毎日を健やかに正しく過ごし、誰もが羨む順風満帆な、絵に描いたような豊かで幸せな人生を謳歌することが出来るだろう――普通なら。

 

()()()()()()()

 

 言葉を短く区切って。

 俺の積年の苦悩を父は指した。

 

「玄蔵はトレーナーになれる。テイオー君の隣に立てる。ここまでは間違いない。疑うべくなく当たり前のように為される事象として、今更議論することに意味はない――しかしだ玄蔵。お前の目指すゴールは、そこじゃあないだろう?」

「――はい。俺の目指すべき場所は、さらに彼方へと続いています」

 

 トレーナーとなって、テイオーと共にトレセン学園へ向かうことを夢見ていた。

 だがそれは無理なことだと、かつての俺は目を背けていた。

 拗ねた子供のように――見ないふりを必死になってし続けていた。

 そして今。

 『熱』をもらい、結局は俺の意思次第で、腹が決まれば如何様にも越えられることに気付いた今。

 そこはすでに――通過地点でしかない。

 

「……そうだな、通過地点だ。だが通過地点と言えど、無理を通さねばならないことに変わりはない。お前のことだ。目指すゴールまでに存在する壁を如何に越えていくか策を巡らせてはいるだろう。テイオー君とのあれこれもその下準備だとわかっている。だから聞こう。その道中は? 進み続ける為についてはどう考えている?」

「? どうって……」

 

 道中?

 パッと思い付くのは、目標とするレースを勝利する作戦の構築、そのために必要な能力をテイオーに身に付けさせるトレーニング……であるが、これは道に立ちはだかる壁の攻略法と言え、おそらく父の求む問い掛けの答えとは違うはず――

 

「やっぱりか。お前は天才と呼べるほど賢い子だが、ただ賢いだけだな。試験で満点を取れるだけで何の意味もない。理解が足りない。見通しが甘い。想像力がまるで及んでいない」

 

 唐突に、父が。

 父が――俺に向かって。

 辛辣な言葉を、放った。

 

「何か勘違いしているようだが、無理というのは一度通せばそれで終わりとはならない。目の前に現れた障害を壁として例えるのとはわけが違う。いいか、『無理』なんだ。本来できるはずのない行いを、既存のルールを捻じ曲げて押し通すんだ」

「……そ、こに。生じる弊害を、俺は捉えきれていないと?」

「そうだ」

「制度や常識、モラルといった面で難しいことはわかっています……ですが、それらを覆すに足る実力を示せば――」

「通して終わらないと言っただろう、わからないやつめ」

 

 空気が張り詰めていく。

 指先がチリチリと痺れ、肩が石のように強張り重い。

 

「――世界というのはな、そんなにも優しくはない」

 

 冷たい声。冷たい眼差し。

 いつも優しく笑顔を絶やさず、常に前向きで、そこにいるだけで誰かを励ませるような明るい父が――そんなことを言った。

 じり、と後ずさる。

 その言葉を聞いて俺は――慄いてしまった。

 ひどく冷徹な言葉に。

 

「ライセンスの取得。トレセンへの合格。提示された条件をいくらクリアしようとも認められるのは形だけであり、周囲の眼は厳しくなっていく。絡めとろうと伸ばされる手がどんどん増えていく。お前はそれを知り始めているはずだ」

「…………」

 

 学校。

 思い出すのはそこにいる大人と子供。

 誰も口に出すことなく、誰も彼もがと言うこともなく、もはや学ぶ必要もないカリキュラム以外通うことに何の憂いもないけれど。

 ああ、これが出る杭というやつか――と勉学以外に学ぶ場面はどうしても、あるのだった。

 

「これから玄蔵はすべて一足飛びに越えていく。真の意味で突き抜けるんだ……ケチなんてつけるところはいくらでもあるし、抑え付けようとする力はこれまでの比じゃなくなる。だがそれは妬みやっかみだけでなく、担当するウマ娘への憂慮もあってしかるべきだろう――()()()()()()()()()()()()()()()()、という当然のな。そしてそれは正しい」

 

 担当を変え、結果的に何度でも挑戦できるトレーナーと違い、ウマ娘たちのトゥインクルシリーズは一度きり。

 それがあのテイオーとくれば、何の実績もない、しかも子供なんぞに任せられないと特に義憤に駆られるのも無理はない、と言う。

 俺がいなくとも、いやいたとしても、トレーナーからすれば是が非でも自分がと手を上げる。彼女からすれば引く手あまたでより取り見取りではあるが――

 

「もうわかったろう。単なる馴れ合いではないと、()()()()()()()()()()()()()()()

「……そのためには時間も、力も、不十分ですか」

「年齢ゆえに驚嘆するが、逆に言えばそれだけだ。順当に磨けば一等輝こうとも今は違う。だがそれは言い訳にならないぞ。自分のわがままで他人の人生を左右するのだから」

「俺は、テイオーと共に往くと誓ったあの日から、責任の転嫁など考えたことがありません」

「ああ。お前は臆病だけど卑怯じゃない。一歩一歩、震えながらも決して歩みを止めない勇気がある。でもな、それでは間に合わないんだ。正しい道だけでは間に合わない。なりふり構わず無茶をしろ。目指す光を求めて愚かに悪路すらも駆け抜けろ――それができなければ、周囲の声よりも先に、」

 

 自身の内から生じる声に耐え切れなくなるぞ――

 

 と。

 ずぐり――と心を深くえぐる一言に。

 俺は。

 生まれて初めて。

 父が怖いと――

 

「ま、そういうことだ」

 

 ぱん、と胸の前で手を打ち鳴らし。

 今までの冷たい雰囲気を霧散させ、この話はこれでおしまいとでもいった風に、あっけらかんと父は言った。

 

「良くないな、どうにも。結局のところ向いてないんだ俺には」

「……あれ?」

「見ろ玄蔵。主治医さんも話の長さと暗さに辟易としていらっしゃる」

「いえ、その方は先程から本当に何一つ、表情すら変わったように見受けられないのですが……、ではなく父上?」

「どうした? ああやっぱり要領を得なかったか? まあ分かりやすく、今時の子に合わせて言えばだ」

 

 すうっと、父は息を吸い込んだ。

 

「必要ステータスが常に高くてこのままだと後々きつくなってくるから、序盤に有用スキルを取れるだけ取って補おう! ということだ!」

「父上、軽すぎる!」

 

 わかりやすいけれど!

 ゲーム的な例えは確かにわかりやすいけれども!

 うちの両親はシリアスな話が微妙に続かないなあ!

 

「決して軽く考えているわけではないが、これ以上暗い話を暗くすることに何の意味がある。重みを持たせたところで、玄蔵はすでに理解しただろう?」

「いや、まあ……。ですが本当に驚きました。いつもの父上とは全然違くて……」

「現実の厳しさを深く知るからこそ、常に前を向く。俺は父親だから母さんと違って優しいことだけを言えないんだ」

「…………」

「でもそれはそれとして、無駄に威圧して息子に嫌われたくない。説教つらすぎる」

「ですから、そういうことを言ってしまっては駄目なのでは?」

 

 本気でつらそうな父に、黙って横で控える主治医さんの動かない表情から呆れの色が伺えるのが、初対面の俺でも読み取れてしまった。

 

「段階を飛ばすだけなら如何様にもなろうけれど、加えてテイオー君がな……。たとえ十数年かかる道を五年そこらで踏破できる天才だとしても、それでもハンデが大きすぎる。だから、これが今、()()()()()()()()()()()()()()()

「…………」

 

 きっと。

 先ほど父が言った、人生の難易度の話は俺だけの話ではないのだろう。栄光に満ち溢れた輝かしい未来を、彼女は順風満帆に歩んでいくはずだ。普通ならそこに俺はいないし、そこに俺は必要じゃない。俺たちは同じ舞台を夢見ていても、同じ時間を共有することは無いはずで――でも。

 でも。

 差し出されたその手を、俺は選んだのだ。

 ああ、足りないというなら、負けないようさらに成長してやる。天才の横に並び立つのは天才であると決まっている。外野が何と言おうと誰にも譲る気はない。つまらぬハンデなぞ、いくらでも飲み干してやるさ。

 

 トウカイテイオーの隣に相応しいトレーナーになる。

 あの日の誓いは、未だ揺るぎなく。

 俺の心に刻まれている。

 

「さて、長々と蚊帳の外ですみません主治医さん」

「いえ、あなたの親としての顔が見れたのは興味深いものでした。しかし十分な説明はあらかじめしてあげなさい」

「はっはっは。これもまた経験です。いずれメジロ家とは別にお礼をしますので」

「結構です。そんなことより、いい加減実家に顔を見せなさい。御父上があなたのこと、後悔していらしましたよ」

「はて、鷺宮玄黒は天涯孤独のはずですが? とはいえ仮にそんなものがいるのなら、ウマ娘に対する侮辱と非礼の数々を詫び続けながら朽ちてゆけと、そうお伝えください」

 

 父は主治医さんとそんな会話をすると、「じゃあそろそろ」と言った。

 

「も、もう行ってしまうのですか」

「そんな顔をするな玄蔵。やっぱり怖がりだけは年相応だな」

「うぐ、自覚はあります」

「これは経験則だが、思い切ってひとり飛び出してみれば度胸も付く。動じない心というのもこれから必要なものだ」

「! なるほど、つまりこの環境すべてが成長に繋がると父は考えて……」

「あと最近俺も少し忙しくなってきていてな。ここに連れてきたのは見てやれる時間が、といった理由もあったりする」

「忙しい?」

「うん、実は――いや。玄蔵、俺の仕事は何かわかるか?」

「? ウマ娘専門のスポーツドクターです」

「いいや、違うな」

 

 にやりと笑って父は言った。

 

「俺の仕事は、『ウマ娘に夢を取り戻すこと』だ。だからこそ、お前を見習って俺も挑むのさ」

 

 ではな、と。

 言うべきことは言ったとばかりにあっさりと、わかったようなわからないような、しかしかっこよさと尊敬だけは感じてしまう挨拶を口にして――父は去っていった。

 ウマ娘に夢を取り戻す。

 俺を見習って父は一体何に挑むのだろうか。医師なのでおそらく故障や病と推測するけれど――むしろ俺が父と母を見習って挑戦しているのだと思うのだけれど。

 あんな風に見習って――ウマ娘の為に生きられたらと。

 なんて考えながら、父が出ていった扉を見つめていたが――しばらくして。

 この部屋にいるのは、俺だけではないことを思い出した。

 

「…………」

「あ、あの……?」

 

 ぎぎぎ、と振り返ると、もうここに来てから一切変わることのない無表情がジッと俺を見つめていた。

 俺が怖がりとか関係なく、この鋭い眼で射抜かれると普通に怖いと思うのが……しかし父はこの人を信頼しているようだったし、俺も覚悟を決めて、とりあえず会話を試みる。

 

「え、ええと、父からどう聞いているか……俺は本来医師ではなくトレーナー志望でして、片手間というわけではありませんが、わざわざメジロ家の主治医さんの手をわずらわせるほどなのかと申し訳なく……いえそれでも俺には必要なんですけれども」

「存じております。すべては()()と大奥様の間で話がついておりますので、玄蔵様は何もお気になさらず」

「あ、()()?」

「あなたの御父上でございます」

 

 子供の俺に対しても丁寧すぎる口調の中で、あまりに雑な個人を指す言葉に思わず聞き返してしまったが、特に嫌悪の感情がある感じではなさそうである。

 むしろ気安い感じで――そこにまた疑問が浮かんでくる。

 

「あの……ちらほらと家に関する話が出ていましたが、父と主治医さんはどういった繋がりなのでしょうか。恩師というだけではなさそうで……俺は先程まで父が家出したことも知らなかったし……、そもそもなぜ主治医で通しているのですか?」

「あなたが御父上から何も聞いていないのであれば、私からは申し上げられません。どうかご容赦を」

「…………」

 

 父も母も、常日頃から俺に対して愚痴や悪口など暗いネガティブなことを言わないようにしている。そういった方向に話が進みそうになると口を噤んだり、逸らしたりしているのをなんとなく察していた。だから、明確に確認したわけではないが、ふたりがあまり過去を語りたがらないのは――

 

「それではさっそく、玄蔵様にお教えする使用人を紹介いたします」

「え? うわ! どこから出てきたんですかこの人たち!?」

「こちら右から当家お抱えの、理学療法士、鍼灸師、シェフ、パティシエでございます」

「後半よくわかりませんけど……って」

「そして私、主治医となっております」

「待って、なんで注射器持ってるんですか!?」

「それは私が主治医だからで、私が主治医なのはメジロ家の主治医であるからです」

「だからよくわかりませんけどぉ!? というか、え? 父上は主治医さんだけの下で学べと言ったわけじゃなかったのか!?」

 

 なんかいきなりぞろぞろと表れたけど、全員目付きが怖い!

 なんか虚空見てるし!

 

「玄蔵様にはこれより、ワンランク上の能力を身につけていただきます。時間は限られておりますゆえ、ゆるやかにとはいきません。何卒ご了承くださいませ」

「…………テイオー」

 

 親愛なる幼馴染みにして相棒。

 お前に置いていかれないようにする前に。

 俺は再び、お前に会えるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「会えるに決まっているでしょう。我が家を何だと思っているのですか」

 

 回想終了。

 そんなわけで訪れ、滞在しているメジロ家のお屋敷である。

 マックイーンさんは呆れた表情で俺に言った。

 呆れ顔ひとつ取ってもテイオーのそれとは印象が全然違うのが、育ちの良さということなのだろうか。

 具体的に言うと頭にくるクソガキ感がまったくしない。

 

「でも全員に三白眼でじっくり見つめてこられるとさ……」

「生死を危ぶむのはあなたくらいだと思います」

「そうか……?」

 

 テイオーも似たような感想を抱くと思うが。

 俺と同じように囲まれたら、ひとりにしないでと涙目になっているはず。

 

「あと単純にハードだというのもあった」

「それは仕方ありません。ごく僅かな時間ならそうもなります」

「途中から何故か君の爺やさんが加わったのが拍車をかけたんだけどな」

「鷺宮先生の言う通り、すごい人たちの下で学べてよかったですわね」

「否定はしないけど、だからいらないだろう、紅茶の淹れ方とかさ……」

 

 理学療法士、鍼灸師の先生たちは言うまでもなくとても為になり、そして意外なことにシェフ、パティシエの先生たちにも今では感謝している。

 初めは短慮にも必要なのかと懐疑的であったが、あらゆる運動競技、ひいてはそれに限らず日々の健康にて素人から玄人まで気を払う身体作り――つまり『食』において飛躍的な成長を遂げた。

 栄養知識に追いついていなかった料理の腕が上がった。

 無添加低カロリーで美味しいお菓子とか作れるようになった。

 より健康に満足させられると気付いたその瞬間から、テイオーに披露するその時が、実に楽しみになってしまった。

 

「そんなことはありません。先ほど申し上げました通り、できないよりできる方が良いに決まっているのです」

「それはそうだが……」

「紅茶だけでなく、正しいテーブルマナーなども必要なかったかもしれませんが、しかし知識は役立てど困ることはないでしょう? 玄蔵さんの将来を思えば、そういった機会が増えるかもしれませんし」

「む、確かにフォークとナイフに関しては普段あまり使うことがないからな。そこは素直に感謝している」

「わたくしも友人への手助けができて何よりですわ」

 

 いや爺やさん、けしかけたの君かよ。

 と突っ込みそうになるが、優雅にカップを傾ける淑女然とした仕草につい眼を奪われ何も言えず、出掛かった言葉を飲み込むと、俺はあらためて目の前のウマ娘――メジロマックイーンを見る。

 メジロマックイーン。

 名家の御令嬢である。

 お屋敷に滞在する以上誰かしらと遭遇するだろうと踏んではいたが、たとえばトレセン学園の寮などの別の場所にいるのか今のところ彼女以外の一族の人を見てはおらず、なので顔を合わせてからそう時間は経っていない。

 整った顔の作りをしていて、見るからに頭が良さそうで、すらりと足の長いモデルのようなプロポーションをしていて、たおやかな振舞いと落ち着いた雰囲気が歳の近さを感じさせない。所作にいちいち美しさがあり、ふと気付けば一挙一動を眼で追ってしまっている、近寄りがたいクールな美人――ではあるが。

 友人。

 そう呼んでくれるくらいには気安くて、話し上手で、なるほど上流階級と納得できる大人びた社交性を有していた。そんなお嬢様だというのに、酔狂にも、出会ってそう間もない俺なんかの淹れた茶で、アフタヌーンティーを共に過ごすまでに至った理由としては――とにかく彼女は教養が高かった。

 マックイーンさんは、とても俺と話が合う知性豊かなウマ娘だった。

 

「眼」

「え?」

「眼の動きというのは、本人が思う以上にわかりやすいものですわ。たとえ一瞬だったとしても、繰り返そうものなら尚更」

「……俺、そんなに見てた?」

「じろじろと付け加えても過分でなく」

「あー……失礼。気に障ったのなら謝る」

「特に不快な感じはしませんでしたけれど、女性は視線に敏感ですから気を付けた方が良い。とは忠告させていただきますわ」

「へえ、初耳だな」

 

 テイオーもそうなのだろうか。

 視界にいることが当たり前になっているので考えたことがなかった。

 

「いや違うんだ。不躾だったが変な意味じゃない」

「その心は?」

「綺麗だなと思って」

「まあ、お口もお上手でいらっしゃること」

「お世辞じゃないぞ。純粋な感想だ」

「すべて黒ならそれもまた純粋と言えるでしょうか」

「からかわないでくれ……。当然だが、俺の周りにはマックイーンさんみたいな人がいなかったからさ」

「物珍しさからつい見てしまうと」

「だから違う。美しいものに眼を取られるのは自然なことだろう? ほら、美術品で言えば誰もが知っている最も有名な美人画としてモナリザがあるけれど、お目に掛かることができたのならきっとマックイーンさんを見た時と同じくらい見惚れて感嘆のため息が出るんだろうし、実際の人物もマックイーンさんみたいな淑女だったからこそダ・ヴィンチも気合が入って、今なお世界中から評価される絵画になったのだろうな。と思ったんだ」

「…………」

 

 あれ。

 黙ってしまった。

 

「……玄蔵さんは、もう少し、自身の発言を顧みた方がよろしいかと思いますわ」

「? 的外れなことを言っただろうか?」

「ええと、的外れではないと申しますか、いえ、肯定すればわたくしがそうと認めてしまっているような……ああもう、デリカシーが足りませんわ!」

「流行ってるのか? それ」

 

 無神経。無頓着。配慮無し。

 なにひとつ俺に当てはまらなくて、まったくわからない。

 しかしテイオーだけならいざ知らず、マックイーンさんまでもが言うのであれば、一考すべきなのかもしれない。今度父に聞いてみよう。

 と、並列思考しながら、遺憾な気持ちを慰めるべくケーキを一切れ口に放り込む。

 ……うますぎて一瞬思考が全停止した。

 テイオーが食したのなら、さぞ目を輝かせて全身で喜びを表現したことだろう。

 

「こほん、取り乱しましたわ……。それで、全体的な進捗はどうでしょうか?」

「ああ……もちろんその道の人には敵うはずもないけれど、使用に足りうる引き出しを増やすことはできたと思う」

 

 できることが増え、できていたことが洗練されて、鷺宮玄蔵のサポートレベルは期待以上に上昇した。

 まあ、エリート揃いのトレセン学園のトレーナーからすれば、この程度は当然と鼻を鳴らすかもしれないが、()()()()()ではないと示せるくらいにはなったのではないだろうか。

 

「ですが本当に一週程度ですべて形にできるとは思いませんでしたわ」

「教師がみんな一流だからな。教え方が良かったんだ」

「学びが良いのも一因でしょう」

「まあ俺はてんさ……真面目だからな」

「ええ。真摯に取り組む姿は実に仕込み甲斐があると、爺やも褒めていました」

「頼むから仕込まないでくれ……」

 

 とはいえ小手先と言われれば否めないし、器用貧乏とも言えてしまう。トレーナーとしての本分であるレースに直結する能力にしては、やはり、些か自信のほどがない。

 自信というか確信が持てない。

 勉学に励み、知識を深め、いくら勝利を積み上げようとも、それは本当に意味があるのだろうか。

 彼女の才によって勝てているだけで、実際のところまったく力になれていなくて、トゥインクルシリーズでは何も通用しないただの重荷なのでは――なんて不安がどうしても拭い切れないのは、俺の積年の悩みにして大敵である『時間』と常にセットになっている『経験』が原因であるのだ。

 きっと、どうにもならない。

 

「わたくしも、玄蔵さんは尊敬に値する方だと思います」

「ん、え? 尊敬? 俺を?」

「己に課した使命を果たさんと、過酷ながらも自身を磨き続ける姿にどうしてそう思わずにいられましょうか」

「し、使命って……俺のはそんな大袈裟じゃない」

 

 やりたいことや、成したい夢は誰だって何かしらあるだろうし、それに向かって努力するのも皆同じだろう。

 目標が目標なだけに傍から見ればよくやっているように映るのかもしれないが、必要なだけである。

 理由にしたって、特に御大層なわけでもない。

 俺はただテイオーと――

 

「ほらまた。例の幼馴染みさんのことを考えています」

「え。……なんでわかるんだ?」

「顔に書いてありますわ」

「俺はそこまで表情豊かじゃない」

「もうずうっとですもの」

「ずっとって、いやいや……マックイーンさんの鑑識眼が優れているだけで、まさかそんな」

「いいえ。短い付き合いですがあなたはいつだって彼女のことを想っている。自分に足りないものを嘆き、何ができるか常に迷い、力になれる方法を悩みながら、それでも誠実に向き合い励み続ける。そんなあなただからこそ尊敬し、信頼に足る人物だと感じるのですわ」

「…………俺が言うのもなんだが、マックイーンさんはまだ子供とは思えないな」

「あなたより年上ですから」

 

 一切音を立てずカップをソーサーに戻すと、マックイーンさんは柔らかな微笑みを浮かべて言った。

 大して変わらないくせに、と言い返してやりたかったがそこはかとなく顔面が熱く、うまく口が動かなかった。代わりに変な呻き声が出た。

 咳払いをして気を取り直す。

 

「それを言うなら俺だって君のこと尊敬してる。マックイーンさんは、すごくカッコいい」

「わ、わたくしがカッコいい……?」

「ああカッコいい。さっきも言ったけど、俺のは使命なんて大それたものじゃないんだ。でもマックイーンさんは積み重ねられたものを受け継いで、さらに先へ進めようとしてるだろう? まさに使命だ。その肩に掛かる重圧がどれほどのものかなんて俺には一生わからないだろうが、君がメジロ家に強い誇りを抱いているのは顔を見るまでもなくわかる。だから、恐れず期待に応えようと頑張っているマックイーンさんを見ていると……俺もそう強く在りたいと、感じるんだ」

「…………さっきのセリフ、そっくりそのままお返しさせて頂きますわ」

「俺はトレーナーだからな」

 

 ウマ娘の良き理解者なのさ。とにやりと笑ってみせるとマックイーンさんは一瞬、虚を突かれた顔をしてから「わたくしたちは、お互い良い巡り合いをしたのかもしれませんね」と俺の冗談に笑ってくれた。

 違いない。

 思わぬ場所で、思い掛けない友人を得たものだ。私生活で困ることはなかったが、俺の構築する人間関係において友人とまで呼べる存在は皆無であった為、殊更嬉しく思う。

 テイオー? テイオーは友人ではなく幼馴染みである。

 

「そのトウカイテイオーさんとも、良き友人となれるでしょうか」

「そうだな、あいつもマックイーンさんも距離は違えど才能は素晴らしいものがあるからな。話は合うんじゃないか? もしかしたら気は合わないかもしれないが」

「気が合わない?」

「俺みたいなのを想像していると大間違いだぞ。言動は年相応……より幼いくらいか? やかましいやつで、もう本当に子供で、わがままさに頭に来たことも少なくない。正直マックイーンさんの落ち着きや優雅さを分けてやってほしい。かれこれ何度取っ組み合いの喧嘩をしたものか。まあ俺は一度も負けていな――と、少し失礼」

 

 ぶぶぶ、とポケットに入れたスマホが震えるのを感じ、一言断ってから取り出し画面に目線を落とし、届いたメッセージに茶会の終焉を悟りながら俺は返信すべく文字を打つ。

 

「なら」

 

 しかしそんな俺に構わず。

 マックイーンさんは、

 

「ならトウカイテイオーさんではなく――わたくし、メジロマックイーンのトレーナーを目指す。というのはどうでしょうか?」

 

 ――どういった意図であるか。

 突如間合いを切り込むように。

 さりとて、そこに籠められた感情を一切感じさせぬまま――と言った。

 思いもよらぬ声に引っ張られたように顔を上げた。暗紫色の瞳が俺を射抜いていた。それは不意の言葉というより――突然の告白のようだった。

 驚愕に沈黙が流れる中――反して高速回転する脳内で。

 俺はようやく口を開き――

 

「――だから、あまりからかわないでくれないか……?」

 

 ようやく――返す言葉を思いあてる。

 

「あら、面白くはなかったですか?」

「真に迫りすぎて笑えない。大した女優ぶりだよ」

「主演の座は譲れませんわ」

「名優の貫禄だ……」

「それで返答は如何に?」

「非常に魅力的な提案だが、謹んで遠慮させていただく」

「魅力的? どう断ろうか必死で考えていたのに?」

「それは――」

「不満がおありではないのですか?」

「あいつが俺に不満を持つことがあったとしても、逆はないよ」

「では彼女を選ぶ理由をお聞かせください」

 

 そして魅力的な提案だと言うのも嘘じゃない。

 共に歩む未来があり得たのなら本当に悪くはない。時と場所、そして立場が違えばマックイーンさんの隣を目指していたかもしれない。才に驕らず誇りを胸に気高く道を征く強さ。知性ある会話ができるうえ、綺麗でお淑やかな彼女に抱くこの感情を定義するならば、憧れというに他ならない。

 だけどそうはならず、選べと問われたのなら、俺は何度だってあの子供っぽくて生意気な幼馴染みを選ぶだろう。

 真逆の選択をしてしまう理由なんて、トウカイテイオーがトウカイテイオーである。ただそれだけで十分だ。

 なぜなら俺は――

 

「決まっている――鷺宮玄蔵は、トウカイテイオーの専属トレーナーであるからだ」

「――やはりあなたは、わたくしが見込んだ通りの方ですわ」

 

 席を立つ。

 とはいえここは依然道半ば。果ての光景は影も形も捉えられていない。

 夢を夢で終わらせないために、再び飛び立つ時が来た。

 

「俺はそろそろ行くよ。じゃあなマックイーンさん。()()()()()()()()()()()()()()

「ええ、玄蔵さんもご武運を。必ずやトレセン学園で会いましょう」

 

 眼や顔を穴が空くほど見つめたところで、俺は心境を読めたりなんてしないけれど。

 その笑みが、俺が彼女の良き友人となれた証拠だと信じたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「と、言うのがここ数日のあらましだ。最初はどうなるやらと焦ったが、うん、終わってみればとても充実した毎日だった。やはり父上に間違いはない。レベルアップを肌で感じることができるというのは、とても気分が良いものだぞ」

「究極テイオーパンチ!」

「いてえ! なにすんだこいつ!」

 

 説明しろというから説明したら殴られた。

 

「ボクの天才力をこぶしにこめて殴るパンチ、それが究極テイオーパンチ!」

「天才力ってなんだ! 明確にただの右ストレートだろうが!」

「落ち着いて説明したいからーって放課後まで待ってみれば、急に学校にこなくなった理由がまさか知らない女の子とイチャイチャしてたからだなんて、さすがのテイオー様も手がでちゃう……!」

「何がさすがだ。お前はすぐ手が出るやつだ」

「ボクを怒らせる誰かさんだけにしかでませんよーだっ!」

「誰だろうな。イチャイチャとか人の話を聞かない愚か者の言う事は理解できん」

「聞いてたよ! しっかり聞いてイカリシントーのドーナツ店だよっ!」

「理不尽なクレームでも入れられたのか?」

 

 たぶん怒髪天と言いたいんだろうな。

 テイオーの言う通り、会って早々説明を求められたがまあ長くなること必至なので、人気のない屋上――は閉鎖されているので、そこに繋がる階段の踊り場に陣取って、これまでの事をつらつらと話していたのだった。

 

「知ってるかテイオー。階段の踊り場というのは、ウマ娘がダンスの練習を日頃から出来るよう設けられたウマ娘だけのための場所であるということを」

「へえー、そうなんだ! じゃあトレセン学園の階段はいつもにぎやかなんだろうね!」

「今のは全部嘘だ」

「なんでいきなりそんな嘘つくの!」

 

 まあできなくもないかなーと、ふと思って。

 

「しかし急にとは言うが、メッセージの返信はしっかりしていたはずだが?」

「一日に一回くらいしか返ってこなかった! しかも『さらなる成長のため修行中だ』、『天の道を勇往邁進むしろ爆進』、『夢であるがこれは現実という名の覚めない夢である。もしや悪夢か?』、『今時の夢はもっと俺を(おもね)るべき。俺は今後ゲームはノーマルモードしかやらない』。とかどんどんおかしくなってくし! わけわかんないよーっ!」

「ああうん……疲れてたんだなきっと……」

 

 突き付けられたスマホの画面に俺の錯乱ぶりが表示されていた――というか毎日瞬く間に積み上げられている二桁以上の未読をどう返せと言うのだ。一回程度にもなるわ。

 そんな忙しい中で彼女との出会い、そして語らいが癒しになっていたわけである。地獄に仏、いや女神。やはりウマ娘は素晴らしい。

 

「あーっ! またボク以外の娘のこと考えた! 誰なのマックイーンって、このテイオー様以上の天才なんていないの! ゲンゾーはボクだけ見てればいいのー!」

「なんでお前も俺の思考が読めるんだ……? ではなく、だからマックイーンさんはようやく出来た俺の自慢の友人だ。あの人はすごいぞ。生粋のステイヤーというやつだ」

 

 ステイヤー。

 長距離を得意とするウマ娘を表す言葉。

 その才覚は一級品で、滞在中に少しばかり走る姿を拝見する機会があったがなるほど、あの歳にしてメジロ家が大きな期待を寄せるのも頷けた。テイオー以上とは言わないが、同格の才を持つのは間違いない。テイオーは誰にも負けないけれど、もしも相手の土俵で戦うことがあれば一筋縄ではいかないであろう強力なウマ娘だ。

 俺だけでなく、テイオーも切磋琢磨し合える友人となれば良いのだ。

 

「究極テイオーパンチ!」

「今度はなんだ!?」

「言ったそばからほかの娘ほめてー! いいよ、マックイーンは今日からボクのライバルだ! レースで会ったならけちょんけちょんにしてやる! 泣いちゃってもしらないから!」

「けちょんけちょんって」

 

 知能指数が一気に下がった気がした。

 やっぱり子供だなあ、としみじみ安心感すら覚えてしまう。

 まあ、友人と書いてライバルと読まなくもないから、いいとは思うけど。

 当人に会ってもいないのに何がそんなにお前を駆り立てるんだよ。

 マックイーンさんという優雅さの権化を知ってしまったあとだからなおのこと際立つ。

 

「究極テイオーパンチぃー!!」

「おい、三度目はもう許さんぞ!」

「許さないのはこっちのセリフ! ボクにあ、あんなこと言っといてぇ……! 浮気するようなわるいゲンゾーには誰が一番なのか、わからせる必要があるみたいだね!」

「人聞きの悪いことを言うな! お前浮気の意味わかってるのか!」

「ゲンゾーがボクのしらない遠いところで女の子にデレデレすること!」

「色んな意味で違う!!」

 

 浮気とは、一つのことに集中できず心が変わりやすいこと。配偶者、婚約者などがありながら、別の人と情を通じ、関係を持つこと等々。

 やはりテイオーは雰囲気だけで言葉を使っている節があるようだ。配偶者云々は言うまでもなく、浮ついた心など存在しようはずがない。俺の行動理念に一点の曇りもない。

 誰が一番かだなんて、もうずっと幼い頃から変わらない。

 

「だがお前はマックイーンさんの爪の垢をそのままダース単位で飲め……!」

「なに、まだ言うつもり? よわよわのゲンゾーちゃんはやっぱりボクに勝てっこないのに、そんな口を聞いていーのかな?」

「ふん。勝ち誇るのは勝手だが、勝敗はまだついていないぞ」

「へへ……強がっちゃって、かわいいねー」

「どんな状態からでも入れる保険があるように、俺はこの状態からいつでも勝利できることを忘れるな」

「いや、この状態からはどーやってもむりだよ!?」

 

 うつ伏せになる俺の背にのしかかり、背後から両手を抑えられながらいつも通り拘束されていた。耳元にかかるテイオーの荒い吐息がくすぐったい。

 

「いーかげんっ! 負けをみとめろっ、このぉー!」

「あだだだだ! ち、ちくしょう! やっぱりマックイーンさんを選んでおけばよかったあーー!!」

 

 なんだよ幼馴染みって! そんな日常の一部なんかポッと出のクール系ヒロインが大体メインヒロインで大正義でストーリーによっては徐々にフェードアウトして空気だったりするだろう! だから負けヒロインとか言われがちなんだ! セーブポイントからやりなおさせろ! 選択肢選ばさせろぉ!!

 うつ伏せになった相手の背中に乗り、首から顎を掴んで相手の体を反らせるキャメルクラッチ――別名、ウマ乗り固めとも呼ばれる関節技をかけられながら、俺は絶叫するのだった。

 やや置いて。

 

「はあ……でもホントにさ。連絡受けてても急に学校来なくなるとか心配するからやめてよね。どーしてるのかなーってそわそわしちゃう」

「受けてもそれなんだ。俺がお前に遅刻するなら一報入れろと言う気持ちがわかったろう」

「う……それはまあ……はい」

 

 仕切り直して階段に並んで座り。

 ぽつりぽつりと会話を再開させる。

 

「先生に聞いてもカテーのジジョーとしか言わないしさー。この場合カテーのジジョーっていうのかな?」

「まあ父上がうまく取りなしたんだろう。どうせここで学ぶことなんて今更無い……学校側も気にしないだろうさ」

「テストで百点しかとらないもんね!」

「目隠ししても百点取るぞ」

「逆立ちしても百点とっちゃう?」

「ブリッジしながらでも百点取るな」

 

 ノリだけの適当な会話。

 

「だからというか……別にもういいんだ」

「よくはないでしょ。ゲンゾーがそんなこというなんてめずらしーね」

「そうか? ……そうかもしれないな。ま、とにかくだ」

 

 立ち上がる。

 尻を払って直立したままテイオーに向き直ると、

 

「俺、お前に言わなければならないことがあるんだ」

 

 と言った。

 

「……なに、急に?」

「なんだその身構えてるんだが身構えていないんだか妙なポーズは」

「ゲンゾーがそう言うときは、だいたいすごいことを言う」

「……まあ、わざわざ改まってるわけだから、相応の告げ事はある」

「良いこと、悪いこと!?」

「必要なことだ」

 

 良くなるか、悪くなるかは。

 今後俺の努力次第だろう。

 

「――よく聞けトウカイテイオー。俺はイギリスへ行くことにする」

 

 

 

 

 



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幕間 下(2)

最多文量を更新し続けているのでまたしても分割します。
残り一割なのに想定の三倍くらい入っていくのは、やはり見通しが甘いです。
申し訳ありません。


 

 

 

 

 

「おい貴様。どうやら俺が今まで幾度も説いた忠告を、まだ覚えていなかったようだな」

「なになにゲンゾー、いきなりキサマ呼ばわりしてくれちゃって~。まあそーやって持ち上げられて悪い気はしないけど、キミとボクの仲なんだから、普段通り気安くテイオー様でいーよっ」

「貴様は『貴』と『様』がついているからといって相手をとりわけ敬う尊敬語じゃないうえに、気安くと言いつつ様付けを常用させるな。どんな仲だ」

 

 某月某日。

 天気は良好。

 東の空に太陽在り。

 休日のいつもの公園内部にて。私服姿の俺は同じく私服姿の幼馴染みの前に立っていた――正確には腕を組んで仁王立ちしていた。まるで学校で、遅刻をした生徒を叱る教師さながらのごとく。

 言うまでもなく俺は遅刻などしていない。

 きっちりと。約束の時間通りに、いや十分前にはつくよう家を出た。

 待ち合わせによく使われる互いの家からほど近いこの公園は、のんびり歩いたとしてもそう時間はかからない。なのに常日頃と変わらず早めの行動を心掛けているのは不測の事態に備えるため、万が一にでもテイオーを待たせないようにするため、説教するなら自分自身が手本であるため――といった、ごく当たり前の考えに基づいた結果である。

 

「いいか、テイオー。ようく聞け」

「もちろん聞いてるよ。ボクが今までゲンゾーの話を聞いてないことなんてあった? いや、ないねっ。えっへん! このテイオーイヤーは、ワガハイへのショーサンとゲンゾーの声を絶対に聞き逃さないのだ~!」

「……俺は、俺との待ち合わせなら遅れてもかまわないとは言ったがな」

 

 確かに性能でいえば俺より遥かに良いから聞き逃そうはずもないのだろうけれど、聞いたそばから内容が頭から抜けていけば何の意味もないだろう、と指摘するのはとりあえず置いといて。

 すごいでしょ、と言わんばかりに腰に手を当て胸を反らす得意げな姿を無視し、公園に設置されている背の低い時計塔を指差した。

 

「それは遅刻をしていいと言っているわけではない」

 

 俺がテイオーへ悪印象を抱いて接し方や評価が変わることはないというだけであり、約束事を反故にしてよい理由になり得るわけがあろうはずもない。しそうな場合、してしまった場合に関しての対応も常々言っている。

 時計の針は、待ち合わせ時刻から十分ほど過ぎていた。

 

「そりゃトーゼンだよ。ボクは約束を守らないヤなやつなんかじゃない。遅れないよう言われた通り五分前行動を意識してるし、もし遅れそうならイッポー入れることだって、ちゃーんとおぼえてる」

 

 あわてず落ち着いて動くってこともね、とテイオーはひとつ頷き。

 そして言った。

 

「うん、なにも問題なし! パーフェクトっ!」

「明らかに問題があるだろうが!」

 

 どのあたりをもってパーフェクトだ、俺がなんで時計を指したと思ってる!

 あと五分経っていたら、こちらから連絡を入れていたところだぞ!

 

「え? だからちゃんと伝えたじゃん、遅れるって」

「なに? しかしスマホに何も連絡は来ていなかったはず……」

「べつにメッセージも電話もしてないからね」

「じゃあなんだ、お前はいきなりテレパシーに目覚めて熱心に言葉を送っていたとでも言うのか?」

「テレパシー! 天才なのに超能力まで使えちゃったらムテキすぎる……!」

「テレパシーでどう無敵になるつもりだ」

「いついかなるときでも脳内にかたりかけてやるぞよ〜?」

「なんと。何時如何なる時でもか」

「ふっふっふっ。おはようからおやすみまで、ワガハイにおそれおののくがよい!」

「たとえば、どんな風にだ?」

「(この動画、すっごくおもしろいからゲンゾーも見てみなよ!)」

「スマホを使え」

 

 脳内にURLを貼るな。

 無敵の意味が分からないし、やってることは今と大して変わらないのだった。

 

「この前約束したとき言ったはずだけど?」

「来るのはこの時間だとお前は言ったな」

「そのあとそのあとっ」

「……? 記憶する限り、他に待ち合わせに関する指示はなかったはずだが」

「おやおや? ゲンゾーくんは人によーく聞けっとか言っといてぇ〜。自分はボクの話を聞いてなかったのかな〜?」

「ぬう。立場が逆転したか」

「ほら、テイオー様ごめんなさいは?」

「お前が何と言ったか聞いてからだ」

「素直じゃないなあ。ま、いいよ。そのあとボクはこう言ったのさ。『遅れたボクをゲンゾーがどんなふうに迎えてくれるかたのしみ〜』ってね」

「覚えてるかそんなこと!」

 

 というか今思い出した。時間を指定した側があらかじめ遅刻を示唆するなんて冗談でしかないと、俺も冗談で返してそのまま忘れていたことを。

 だから遅刻したくせに満面の笑みで「ごめんごめん、待った〜?」なんて言ってきたのか。てっきり巌流島での宮本武蔵よろしく挑発しているのかと思って、負けないように必死に冷静さを取り繕ってしまっていた。

 

「しかしだテイオー。間に合わないとわかっているなら、初めからその時間を指定しろ」

「間に合わないじゃなくて、間に合わせなかったんだよ」

「なぜそんな無意味なことをする」

「無意味? はぁ〜あ。がっかりだよゲンゾー。今までボクに意味のないことなんてあった? 長い付き合いなのに、そんなこともわかってないなんて」

「長い付き合いだから言わせてもらうけど、大言壮語も甚だしいな、お前」

 

 俺からすれば無意味で理解不能なことだらけで、突拍子もない行動に振り回された日々が今に続いている。

 

「いーい? 待ち合わせする時はね。女の子はちょっと遅れて来るものなんだよっ」

「また妙な知識を仕入れてきたな。男女平等って知ってるか?」

「すーぐそーやって屁理屈こねるー。やれやれ、これだからフゼーヲカイサナイボクネンジンは困っちゃうよね〜」

「お前絶対、風情も朴念仁も適当に言ってるだけだろう……?」

 

 そのよくわからない理屈に比べれば別に屁理屈でもないしな。

 肩をすくめて上から目線の半笑いが神経を逆撫でするが、まるっきり棒読みが隠せてなくて、そこだけ合成音声みたくなっていて、のんべんだらりとした声のせいで中途半端に怒気が削がれる。

 こういうところが得してるよなあ、と密かに思う。気の抜ける口調の話ではなく、憎めないやつというか、天性の誰かに好かれやすいキャラ付けというか。明朗快活。愉快活発の元気印。幼く可憐な容姿も相まちどこに行っても人気者。天は二物を与えずなんて嘘である――まあ、俺はそんなの知るかと怒ったり、喧嘩したりもするけれど。もしかしたら、俺だけなのかもしれなかったけれど。

 

「…………」

 

 トウカイテイオー。

 幼馴染みのすっかり元気な普段通りの姿を見つめ、あの日のことを思い出す――イギリスへ向かう、それはつまり、ただ日本を離れるだけでなく、幼い頃からずっと隣にいた彼女との別離にもなるということである。

 告げた直後はもちろん揉めた。

 まあ当然、と言うと自身の存在の大きさを誇るようで憚られなくもないけれど、二人三脚でやっていこうと言っておいて、相方が急に肩から腕を外して単身、別ルートを走ろうとしているとなれば、両者の内に存在する感情を差し引いても当然と言わざるを得ないだろう。当事者としては偏に言葉を尽くし、伏して許しを請い、その身に究極テイオーパンチを甘んじて受けるのみである(計六発)。

 母より薫陶を受けたにもかかわらず、こうして事後報告になってしまったことを言い訳させてもらえるのなら、この話を貰ったのがメジロ家から帰宅してすぐのことであり、実に情けないのだが、自身の臆病さから下手に日を置いて彼女の顔を見てしまえば、決意が揺らいでしまう恐れはあまりに想像に容易かった為、即断即決と至った次第である。

 今以上の自分に必要だと頭で分かっていても、他家にお邪魔するのとは訳が違う。

 トウカイテイオーの能力は既に目標とした水準にほぼ到達している――なんて、だからと言って、どんな理由や保証があろうとも、日常が削り取られるのは誰だって耐え難いことなのだから。

 故に。

 故に――揉めた。

 翌日以降も持ち越して、不機嫌をあらわにつんとした態度を崩さない冷戦状態になるほど揉めた。幾度となく喧嘩を繰り返してきた俺たちだが、こうも長期に、それも一方的なものは、初めてだった。喧嘩の多くは長くても一晩寝れば忘れるようなつまらないものばかりで、禍根を残すようなことは断じてなかったのだ。

 ……すぐにというわけではないが、もはやそう時間があるわけでもないのだ。喧嘩別れなどしたくはない。

 今までなかったことに、彼女の両親といった近しい人たちからも心配の声が寄せられていた。

 だから俺は、そんな彼女に戸惑いながらもなぜイギリスへ行くのか、どうして必要なのかを誠心誠意、根気強く、時間の許す限り説き続け、それが功を成したのか――もしくは周囲の取り成しがあったのか。ややぎこちなさを残しながらも、ようやく会話くらいはできてきたところである日、トウカイテイオーは言ったのだ。「今度の休日。ボクに全部ちょうだい」と。

 どれだけ弁舌を駆使してもいまいち手応えがなく、もはや俺だけではどう現状回復をすればよいのか、はっきり言って途方に暮れかけていたのが現状だった――兆しを掴めたのみならず、向こうから何かしらの歩み寄りをしてくれるのならば、こちらとしてはただ首を縦に振るのみである。

 ……まあ。

 だからと言って。

 『行くことをやめる』。

 『一緒に連れて行く』。

 この二つの要望だけは、どれだけ険のある態度を取られようとも、頷くことはできないのだけれど。

 

「女だとか風情がどうとか、人を待たせていい理由なんてない」

「理由はなくても、そーいうものなのっ」

「暗黙の了解か? 了解してないぞ」

「アンモクじゃなくてお約束ーってやつだね」

「んん?」

「それよりゲンゾー。今日のボクを見てどう思う?」

「どうって……」

 

 見せつけるように両手を広げるテイオー。

 話の脈絡の無さに些か困惑するが、とりあえず言われた通り、あらためて見ることにする。

 本人がなんと言おうが今回は余裕を持って遅刻しただけあって、身嗜みはきちんと出来ているようだ。

 顔は目ヤニも鼻水もついていないし、しっかり睡眠を取れたか隈もなく血色も良い。いつかと違い髪も整えられて、トレードマークのピンクのリボンは定位置である頭の頂点付近で結われている。

 ふりふりと髪と一緒に揺れている腰の尾も手入れは万全のようで、綺麗に梳き流されたそれは見事なまでに艶やかで、まるで鏡のように一面、光を反射していた。

 服装に関しては特に言及するところもない。

 見慣れた動きやすい服――これから向かう場所というか、俺と遊びに出掛けるとなれば、大体やることは決まっているため、それが適していると言えよう。まあ、そんなものを抜きにしても、活動的なテイオーはスカートをあまり選ばないけれど。

 とまあ。

 一通り上から下まで眼を通し、悩む素振りをしてみたが。

 正直言われるまでもなく、一目見た時からわかっている。

 

「テイオー。髪、切ったんだな」

「!」

「似合ってるぞ」

「……えっへへ! やっぱりゲンゾーはさすがだなぁ~。ほかの人とは目の付け所がちがうよね!」

「当然だ。さっき朴念仁とか言われたがな」

「パパなんかボクが髪切ったことしってるのに、『どこ切ったの?』なんて言うんだもん。もー、失礼しちゃうよね」

「あっ。ま、まあほら、人それぞれだろうが、男性はそういうことに気が付きにくいというかだな」

「キミだって男の子じゃん」

「俺は髪が長いから手入れをよくするというのもあってだな……」

「でもボクのこと毎日見てるんだよ?」

「ん、んん、そう言われると擁護が……とりあえず、大目に見てあげてもいいんじゃないか?」

「ボクネンジン! って言っといたよ!」

「お前あんまりきついこと言うなよ……。泣くぞ、あの人また」

 

 テイオーのお父上は、というか両親共々だが、テイオーのことを溺愛……とまでは言わないが、かなり可愛がっている。

 逸話の一つに俺の真似をしてパパママ呼びをやめてみたら泣いた。という衝撃のエピソードがあるのだが、大の大人ふたりが目の前で膝から崩れ落ちてむせび泣く光景は、いまだに忘れられそうにもなかった。

 

「ってそんなことより、ほらゲンゾー! はやくいこっ!」

「お、おい、急に引っ張るなテイオー!」

「時間はユーゲンだからね! いつまでもゆっくりしてられないよ!」

「ゆっくりしてたのはお前の遅刻が原因だからな!」

「遅刻じゃないもーん! ちゃんと言ったもーん!」

「あんなものは言ったうちに入らん! というか結局、何のお約束なんだ!」

「そりゃあ決まってるよ!」

 

 俺の手を取って駆け出すテイオーは首だけ傾けて振り返り。

 片目をつむって、楽しそうに笑って言った。

 

「女の子が男の子を待たせていいのはね――デートの時だけだよ!」

 

 デート。

 日時や場所を定めて好意を持った二人が会うこと。逢い引きとも言う。

 具体的にはどこかに出かけて食事したり遊んだりと、一緒に楽しむといった内容であることが多いが、これらの行為そのものよりも、それを通して互いの感情を深めたり、愛情を確認することを主目的とする。単純に異性同性問わず遊びに行くことを指す場合もあるが、やはり一般的には、お互いのことをより深く知ることを前提とした恋愛的な約束とされている――――。

 …………。

 断じてデートじゃない!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえねえ! これどうかなっ!?」

 

 しょうもないお約束とやらに翻弄されて無駄に時間を食わされるはめになったが、遅れながらも街に繰り出した俺たちは、というか俺が、発端となる当人に手を引かれてまず向かったのは、街の一角に位置するセレクトショップである。店内に陳列された衣服類の数々を余念なくチェックすると、テイオーは眼を引かれた洋服を片っ端から試着していく。

 

「ああ、いいんじゃないか?」

「何点くらい?」

「七十二点B評価」

「びみょー!」

 

 遊びに来ているのだからテンション高く浮かれ気味のもわからなくはないが、何ともまあ現金なやつだと突っ込みたくなってしまう。一体どんな取り成しをされたのやら。

 そしてここまで急転直下だと、逆に寂しさのようなものが胸にくすぶるのだから、果たして本当に現金なのはどっちなのやら。

 

「いいって言うわりには全然じゃん! テキトーな返事してない?」

「失敬な。俺がそんな怠慢をするはずなかろう」

「じゃあなんで百点満点じゃないのさー」

「これ以上は俺の好みの問題だ」

「不正な審査を堂々としてる!」

 

 カジュアルな雰囲気がテイオーの子供らしい活発さとマッチしている点が良いと言う理由であるが、さほどファッションに精通している訳でもない俺の審美眼をアテに採点を求めるのであれば、主観を多分に含まれても致し方無い。

 

「好みってアレでしょ? ゲンゾーが今着てるみたいな大人っぽいやつ」

「そうだな。付け加えると清楚な感じなのも好きだ」

「むー、大人っぽくて清楚な感じってどんなだろー……」

「まあ、気が済むまでやってみろ」

 

 元が大人っぽさとは無縁なので無理だろうけど。とは内心で呟きながら試着室へと送り返す。

 完璧な例を挙げればマックイーンさんなのだが、テイオーは見たことがなく、名前を出せばまた不機嫌になるので、そこは口を噤んでおいた。

 ちなみにセレクトショップでの買い物が安く済むわけもなく、当然ながらウインドウショッピングであるが、着道楽に関しては俺も多少の理解があって、当人が楽しそうなので良しとしよう。本当に冷やかしに来ただけになってしまうが。

 ……まあ、テイオーと街へ出かけると両親へ伝えるたびに、なぜか月々のとは別に多すぎる小遣いを渡してくるので俺なら買えなくもないのだけれど……子供が持つような金額ではないので手元にはない。

 『玄蔵なら正しく扱えるから』とは言うが、ほぼヘソクリに回すばかりの何が正しいというのだろうか。

 

「じゃじゃーん! どーお、大人っぽいんじゃない? これならゲンゾーも好きだよね!」

「ん、おお、確かにさっきより、は――……」

 

 いつもと違って大人っぽい、というよりは女の子っぽい清純な白の衣装に身を包んだテイオーは、くるりと一回転するとモデルのようにポーズを取った。じゃじゃーんとか言って目の前に出てきた時点で中身は子供全開だが、とにかく素材が良いので様になってしまうのが癪である。あとは落ち着きさえ備えれば文句なしに高得点をつけてもいいのだが――

 

「テイオー」

「清楚とか大人っぽいとかはわかんないけど今度は自信あるよ~? 九十点越えは確実かなっ!」

「それは良くない」

「……えっ?」

「良くないと言ったんだ」

「えええーっ、なんで!? 理由は!? 絶対かわいいのにーっ!」

「ああ、よく似合っている。似合ってはいるが――」

 

 ふい、と目線を横に外して。

 

「少し、裾が短すぎる」

 

 普段見ることのない幼馴染みのミニスカート姿に。

 俺はもう一度、良くないと繰り返した。

 

「…………へえ」

「何をニヤニヤしている」

「へぇー、ふぅーん、ほぉーん」

「なんだ……何か言いたいことでもあるのか」

「べっつに〜。気になるんだなーと思って~」

「……言っておくが、俺はどうも思ってないからな。ただ客観的な意見としてそんなに足を出し過ぎるのは眼が行く、じゃなくて眼のやり場に困る、でもなく、その、ほら、それにだ。そんな丈だと完全なガードを望むべくもないから動けば奥の方が……」

「見ないでよ、エッチー」

「激しく誤解だ!!」

「あはははっ」

 

 けらけらと笑うテイオーだが、謂れのないレッテルを貼られる方はたまったものではない。

 

「そっかー。ゲンゾーってば、こーいうのが好きなんだー……。今度ママと買いにこよーっと」

「おい、俺の話を――」

「じゃ、着替えてくるねーっ!」

 

 聞いてないな。

 言い終わる前にテイオーは試着室へと駆け込んで行ってしまった。

 

「……何なんだいったい」

 

 ああ。

 調子が狂う。

 

 

 

 

 

 

 そんな風に服やら小物やらを見て回ることしばらく。続いて手を引かれた先は小洒落た外観にやたら可愛らしい内装の、男性一人で入店するには度胸が試されるような、ある意味肝試しに近しいカフェである。現在位置はその店内における二人席、向かい合って俺とテイオーは座っていた。まだ少し早い時間だからか客足はまばらだが、男と女の二人組がちらほら見受けられていた。

 

「やはりテイオーと一緒だとこういう店に入れるのが利点だな」

「あまいものが好きってバレてから躊躇がなくなったよね……」

 

 周囲よりも今は眼前に居並び俺を待つスイーツ達に舌鼓を打つ方が大切である。

 感謝しなよね、となぜか膨れっ面でジャンボチョコパフェにスプーンを突き立てるテイオーだが、バレてからとは言うが、俺は吹聴するつもりがなかっただけで隠し立てした覚えはない。

 

「よく言うよ。昔からコソコソしてたのに」

「コソコソ? コンコンの間違いじゃないか?」

「キツネの真似でもしてるの?」

「つまりお前の主観でしかなく何も正しくはないな」

「そーだね、字が似てるだけで何も正しくないねー」

「母上に『我ら日の本に生まれし侍としてかくあるべし』と躾られたこの俺が、そのような振る舞いをするとでも?」

「うん、いろいろ言いたいんだけどさ。まず日本ってどこまでが日本かしってる?」

「俺の母上は日本かぶれの外国人とでも言いたいのか!」

「キミの母上は日本大好きイギリス人であってるよ!」

 

 ていうかテンション高いなあ! とテイオーは言う。

 ややハイになっているのは多数の甘味を前にしているからである。

 そして母上の魂の故国は日本らしいので何もおかしくはないのである。

 

「隠してないなら、もう部屋の机の引き出し三段目奥にお菓子をためこまなくていーんじゃない?」

「なぜ知っている」

 

 またひとつ秘密のようなものを知られてしまっていて戦慄する俺だった。

 

「ところでリスゾー」

「誰が栗鼠だ」

「あまいものに夢中なのはわかるけど……もっとなんかないの?」

「なんかとはなんだ」

「なんかこう……今どんな気持ちっていうかさぁ」

「気持ち? 何に対して?」

「お店とか、ふいんきとか?」

「雰囲気だ。変換できないぞ」

「お店とか、雰囲気とか、あとボクとか?」

「要領を得ないな。現環境への感想が欲しいのか?」

「んー……そんなかんじ?」

「それはこのふわふわパンケーキより重要か?」

「だからあまいものはいったん置いといてよ!」

 

 置いておくとせっかくの出来立てが冷めそうなのだが、仕方がない。

 理由はいまいちわからないが、これ以上機嫌を損ねられても困るので、パンケーキから目線を外し、テーブル越しにこちらを見つめるテイオーを見つめ返す。

 ふむ。

 

「女子が好きそうな室内調度が特徴的。可愛らしいのは嫌いではないが、ここまでだとテイオーは良くても俺は場違いな気がしなくもない」

「なんでボクはいいの?」

「お前は可愛い女の子だからだろうが」

「かわっ……ふっ、ふーん? それで?」

「散見する男女組はソファ席にわざわざ並んで座り、イチャついているのが妙な気まずさがある」

「気まずさがある? どうしてどうして?」

「言葉にさせるな。とはいえ大事なのは甘味なので周りはそう気にならないが、そのレベルにまで落とせているのは先程も言ったがテイオー、お前のおかげだと思う。……が、だからというか、むしろというか。やはりどこか落ち着かないのは否めない」

「ぐ、具体的にはなんで落ち着かないのかな?」

「推測するに、ここは恋人と来るような店だからだ」

 

 あのベタベタと見るに耐えない密着状態の席はいわゆるカップルシートというやつで。

 まあ限ったわけではないだろうが、全体的に甘ったるい雰囲気なのはそういったコンセプトに基づいているからなのだろう。

 入店する際に店員やすれ違う客からなぜか微笑ましげに見られたのは、おそらくそういうことだ。

 

「今なお店員がこちらに来るたび温かい眼差しを向け続けるのは関係を勝手に想像してというわけだ。何ともむず痒くて仕方がない。そう思わないかテイオー、お前もたまたま選んだ店がこんな感じで予想外だったろう?」

「…… ソ、ソーダネー。ビックリシチャッタナー」

 

 こういった店だから、そういった思考に寄りがちなんだろうが、せめて好奇心に満ちた視線は隠すべきじゃないか?

 何も言ってこないので否定することもできやしない。

 自分から言うのも変な話だしな。笑みがより深くなりそうだ。

 やれやれ――

 

「ま、まあボクは全然ヘーキっていうか……ううん、むしろボクはゲンゾーなら、べつにかまわな――」

「俺とテイオーにそんな浮ついた感情があるわけないだろう。……いや決して俺がそれを理解できないわけではないが。男女が親しくしていれば安易に結びつけようとする輩とその風潮をどうかと思うわけだ。ましてやこんな子供に恋だの愛だの、そんなものはまだ早い。何歳だと思ってるんだ、まったく。……いや歳はともかく俺はもう子供でもないが」

「…………」

 

 昔からどこに行っても囃し立てる声は絶えないが、都度そう思うのだ。

 俺たちは幼馴染みにして今や相棒。共に夢を目指すもっと崇高な関係であるというのに。

 メディアで垂れ流されるような一山いくらの軽い気持ちではなく、本気の思いで一緒なのだ。

 

「……はぁ」

「なんだその顔は。なぜそんな眼で見る」

「頭がよくて落ち着いてて、色んなことができてすごいけど、やっぱりまだ子供だなぁ……」

「なんだか知らんがお前にだけは言われたくない」

 

 お前よりは大人と呼べる存在だ、と言うが。

 しかしテイオーは頬杖をつきながら。

 

「大人になりたがってるうちは子供だよ」

 

 当たり前だけど。

 なんて言うものだから、らしくなく妙に含蓄のある言葉に、俺はまじまじと彼女の顔を見つめてしまうのだった。

 

 

 

 

 

「さあーって! ここからがよーやくの本番だよーっ!」

 

 どこが気に入らなかったのか、俺の返答を聞いたのち拗ねたように投げやりな態度を取るようになったテイオーであるが、仕方なしに俺のふわふわパンケーキを口元に持っていってやると目に見えて機嫌が直り、二口、三口と同行為を続けてやると完全に元のテンションへと戻っていた。餌を待つ雛鳥かお前は。まあ甘味はやはり心に平穏をもたらすということなのだろう、きっと。

 そして現在。

 テイオーの言う通り、あちらこちらへの寄り道を経てようやく目的地たるゲームセンターに辿り着いたのである。

 街へ繰り出してとなれば、専ら俺たちの遊び場と言うのはここの事だった。

 

「なーんか久しぶりに来た気がするな〜。にししっ、うではなまってないよね?」

「誰に物を言っているのやら。お前こそ、準備は万全なんだろうな?」

 

 いい時間になったので店内の混雑はなかなかであり、あらゆるゲームが音を立てるやかましい電子音、客たちの発する興奮と高揚で程よい熱気に包まれたゲーセン特有の空気に充てられていく。

 と言いつつ。

 中に入らず軒先にて言葉を交わしているのは、目当てのゲームが店外に設置されているからである。

 テイオーはひらりと筐体ステージに飛び乗ると、淀みなくコインを投入し、手慣れた様子で画面を操作して決定。

 

「ボクはいつだってベストコンディション! このボクこそがナンバーワンってこと、今日こそおしえてあげるよっ!」

「いいだろう、先手は譲ってやる」

 

 聞き覚えのあるメロディーが流れ始め、画面には譜面が表示され、テイオーがそれに合わせて軽やかにステップを踏んでいく。

 これこそは大人から子供まで長年愛され、俺たちが熱を上げる体感型音楽ゲーム。

 

 ――俗に言う、ダンスゲームであった。

 

「ふん。言うだけあって、以前よりは腕を上げているか」

 

 後方にて腕を組んで呟く俺。

 いかにも主人公に対するライバルのようなポジションである。

 まあ正確には上がったのは腕ではなく、反射神経や身体能力なんだけれども。

 日々のトレーニングの成果が反映されて動作のキレが増しているが、故にダンス自体の練度はさほど変わってはいなかった。当然だ。だってまだメニューに組み込んでないからな。

 それでも元々が趣味として高いレベルを維持しており、ただゲームをクリアするためだけの単なる足踏みではなく、元気良くとても楽しそうに舞い踊るテイオーは、その走りと同様に誰もを魅了する。

 筐体は入り口付近に設置されている為、足を止めるゲーセン目的の客がちらほらと現れ始めていた。

 

「これでっ、おし――まいっとぉっ!」

 

 くるくると所狭しに跳ね回るテイオーは、最後のノーツを踏む瞬間――画面を背にし、俺へ向かってのピースサインでゲームを終了させた。

 ノールック決めポーズにまばらな拍手と感嘆の声が耳に届いていた。

 

「ふっふっふ。どーだゲンゾー! おそれをなしたかー!」

「最後ズレてたぞ」

「ああっ!? ホントだパーフェクトじゃないっ!?」

 

 フルコンボではあるが満点ではないことに頭をかかえるテイオー。

 決めた割に決まり切らない結果である。

 

「くっくっく、無様だな。そんな有様でこの俺に敵うとでも?」

「なぁにぃ〜〜?」

 

 馬鹿な奴め、とそんな恥ずかしい幼馴染みをせせら笑う。

 無駄なアピールにかまけてスコアを疎かにするとは。

 慢心したなトウカイテイオーよ。

 油断大敵――冷徹な頭脳こそが勝利を導く鍵であると、いい加減理解するがいい。

 

「でもキメキメにキメるならキメポーズはぜったい必要じゃんっ!」

「それはそうだ」

 

 秒速で頷く俺。

 

「ただのゲームなんだからキッチリ踊る必要なんてない――しかし格好つけずして何がダンスか。そうだろうテイオー」

「しゅたっ、きゃぴっ、ぶいっと!」

「しゃきんっ、きりっ、びしっと!」

 

 唐突に始まる擬音だけの会話。

 理想とするカッコいいポーズで意気投合した。

 

「だがすべては完走できての話。肩慣らしで選んだ難易度の低い曲で、それは一体何の冗談だ?」

「ぐぬぬぬ……!」

「ふはは、頂点は常に一人――やはり最強は依然、この俺というわけか」

「〜〜っいいよ! じゃあみせてもらおーじゃんっ!」

 

 もはや主人公に対するライバルどころか、最終的に立ち塞がるラスボスのような芝居がかった語り口で、ねちねちと挑発していると、焦れたようにテイオーが降りて来た。

 ……あれ?

 

「いいのか? まだ遊べるだろう?」

「いいよー。あとで一回やらせてくれれば」

 

 思わず素に返って聞いてしまう。

 キミがプレイしてるとこ見るのも好きだし、とテイオーは続けた。

 

「ただし! ダンスでも一番すごいのはこのボク! それは間違えないでよねっ!」

「ほう? 向かってくるというのか、この俺に」

「キング――ううん、クイーンの座はぜったいゆずらないぞー!」

「――ふっ、いいだろう。そこで見ているがいい、クイーンよ」

 

 にやりと不敵な笑みを演出しつつ、ステージに上がる。

 ステージと言えど所詮はゲームの筐体なので段差ひとつ分の高さしかない。それでも照明やスピーカーがついていて、ぐるりと見渡せば見物客もいる。

 テイオーと同じ曲を選択して、自身の身体を確かめるよう足を踏み鳴らす。譜面は頭に入っているし、そらで歌えるし、振り付けだって一つのミスもなく完璧にこなすことができるだろう――なぜならこの曲は、ウイニングライブで幾度となく聞いた曲だから。

 ウイニングライブで。

 歌われている曲なのだから。

 

「……ははっ!」

 

 腕を広げ。

 床を蹴って。

 再び流れ始めたメロディーとノーツに合わせてステップを踏むたび胸中でも踊る昂揚感。

 髪を振り乱し、歌詞を口遊む表情はこの上なく綻んでいるに違いない。

 楽しかった。

 俺が憧れの場所に立つことは一生なく、けれどこの比べ物にならない矮小なステージでも、今この瞬間だけは、あの場に立つ誰かになれる。

 あの輝かしい舞台に己を重ねることができるのだ。

 だから俺はダンスゲームが好きだった。

 

「これで――終わりだ!」

 

 先程のテイオーを再現するようにフィニッシュを決める。

 キメキメにキメたキメポーズ。

 画面を背にしている為スコアを見ることは出来ないが、テイオーの顔を見れば結果は自ずと察せられ、口角が釣り上がるのがわかる。

 その悔しそうな表情。

 なんて気持ちの良さ。

 

「はぁーっはっはっは! クイーンなどとは笑止千万! 見たかテイオー、俺がキングだ!!」

「うぬぬ……くやしーけどやっぱりうまい……!」

「楽しかったぜぇ? お前とのダンスゲームぅ!」

「も……もっかいやろ! はやく、もっかい!」

「もっかい? ワンモア? くくく、何度でもかかってくるがいい。結果は変わらないだろうがなぁ~?」

「まだ始まったばっかだし! そーいうのをソーケイって言うんだよ、おしえてあげる!」

「はっ、俺に物を教えようとは。大きく出たなトウカイテイオー。――いいだろう。お前の敗北と絶望に彩られたその表情(かお)を、もっとこの鷺宮玄蔵に味合わせろぉ!!」

「ねえさっきから何キャラ!? 誰なのさーっ!?」

 

 最高に気持ち良すぎて、ついには高笑いまでし始める、まごうことなき悪役がそこにはいた。

 というか俺だった。

 などと合間合間に茶番を繰り広げながら二人して代わるがわるプレイを続けていく。ゲームには数多の曲が収録されているが、基本的に俺たちはウイニングライブで披露される曲しか選ばないので、これもまたトレーニングの一環と言えなくもない。

 純粋な体力と反射神経に物を言わせたプレイを得意とするテイオーは、譜面を覚えていないくせに高難易度でも優れたリズム感と超反応でノーツを捉え、クリアする。生まれ持ったセンスの影響が大きい。それゆえ感情が乗りやすく、他者に伝わるダンスができるのだろう。まあ、ようするに好きに踊っているというわけだ。

 対して俺は体力も反射神経もテイオーには遠く及ばない。俺の才は知能に全振りされている。だから当然頭を使う。

 立ち回り研究、テクニック考案、譜面対策、振り付け習熟、実検証――やるべきことは目白押し。何事も日々の努力が勝利を掴むのは変わらない。

 すなわち鍵となるのは情報と分析であり、すべては理屈と法則に従っているというわけであった。

 

「ついこのあいだ雑誌で特集記事を読んだんだ。トゥインクルシリーズどころかトレセン学園に入る前から頭角を現す有力選手をまとめたものだった」

「どうした急に」

「少し前からジュニアのレースでとあるウマ娘が噂されていた。2000を主軸として走る圧倒的な実力を持つウマ娘だ」

「それなら知っているぞ。一定の地域ではなく古今東西あらゆるレースに出走し、一位を取り続けるやつだな」

「そうだ。ネットでもしめやかに話題になっていた(くだん)のウマ娘だが、記事によれば既に専属トレーナーがついているらしい」

「さすがだな。しかし才ある原石にトレーナーがつくのは、ままあることだろう」

「驚嘆すべきは大人が関わっていないということだ」

「なんだって?」

「眉唾物としか思えないが――いや、やめよう。天才は二人いた。もし本当なら新たな時代を予感させる。その二人の名前がたしか――」

 

 不意に、自身の名を呼ばれた気がして振り返り、そして気付く。

 まばらにしかいなかった見物客もいつしか結構な数が集い始めていて、それでいて中心地である俺たちの周辺だけはぽっかりと穴の開いたような状態となっていることを。

 

「これもベストスコア更新! へへーん、この曲のランキングはボクがイッチバ~ンって……なんか今日、すごい囲まれてるね?」

「ああ、ちょうど今日から新稼働している格ゲーの筐体があるらしい。それで客が多いんじゃないか?」

「ふーん? ま、ギャラリーが多いのはいいことだよねっ。ダンスでもやっぱりボクってすごいから、みんながいーっぱい褒めてくれるし〜!」

 

 萎縮などするはずもなく、逆に笑顔で手を振って応えるテイオー。途中から魅せることに力を注いでいたので満足気だ。

 幾多の視線が集まっているのを感じる。

 ゲームを占領するつもりはないので、順番待ちをしているならもちろん譲るつもりだったが、プレイするたび湧き上がる歓声やどよめきはあれど、遠巻きにして近付いてくる者は一切おらず、そのような意図は感じられなかった。

 ううむ。

 

「俺はお前と違って、目立ちたがり屋というわけではないのだが……」

「言うわりに自分だって魅せプしてたけど〜?」

「歌やダンスは自身の内面を映し表す鏡である――昂るこの心を他者へ伝えようとすれば、そうなるのは当然だ」

「みんなの声がうれしくて、ウキウキにはしゃいじゃってるわけだね」

「簡単にまとめないでもらえるか?」

 

 ウキウキとか言うな。

 否定できないだろうが。

 

「だけどもまあ、声援というのは心地良い。確かにその通りだなテイオー」

「お? めずらしく素直になった」

「ひねくれ者がと言いたげだな?」

「ヘリクツ屋さんではあるよね?」

「何を言う。お前が常日頃から注目を浴びたがる気持ちを、俺はしかと理解しているぞ」

「でなきゃ、ウイニングライブにあこがれたりしないよねぇー……。つまり?」

「つまりこの状況――俺も本気を出さねばなるまい」

「本気? ……あっ、まさか」

 

 何かを察したテイオーに代わってステージに上がり曲を選択。

 僅かなロード時間に眼を閉じた。

 

 これより舞うは真髄。

 世界の真実を顕す至極の舞。

 しかしてこの身はどうしようもなく偽物。なれど、この胸に抱いた思いは何より本物。

 奇跡のようなこの世に捧ぐ。

 ウマ娘にあらずとも。女子にあらずとも。

 輝き目指して走り続ける。

 ありがとう。

 ありがとう。

 そしてLOVE……。

 

 さあ群衆よ、刮目せよ。

 今こそ宿れ、ウマソウル。

 

 ――――愛してる、ウマ娘。

 

 始まりを告げる声に、俺は弾けんばかりの笑顔で眼を開けた。

 

「これこそが――うまぴょいである」

 

 

 

 

 



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幕間 下(3)

 

 

 

 

「くっそー、結局ゲンゾーに勝ち越しできなかったー! なんでボクより体力なくて弱いくせに、そんな動けるのさ〜!」

「テイオー、俺は何度も言ってるだろう? 才に頼りすぎだと。そうやって直感だけでプレイするからこそ、身体能力で劣る俺に勝てないんだ」

「ふん! べつに負けてはないもんね! 頭をつかえってゲンゾーは言うけれど、ゲームなんだから楽しんでやらなきゃ意味ないじゃん!」

「お前がそれでいいならいいが……」

「ダンスはスコアじゃないの! ハートなの! どれだけみんなを楽しませられたかが重要なんだよ!」

「それを言ったら俺の方が盛り上がってたけどな」

「今から直感でゲンゾーに勝っちゃおうかなぁー?」

「今すぐその握り込んだ拳をほどけ」

 

 お前のそれは直感じゃなくて直情の間違いだ。

 

「アレ踊る時のゲンゾーはすごいよね、いろいろと……」

「やっておいてなんだが、あまり掘り返さないでもらえると助かる」

 

 十八番であることは確かだが。

 あまりに自分というものを捨て過ぎていて、普段の俺とは別人と言っていいくらいにキャラが違うと思う。

 

「そっかなぁ、そんなに変わらなくない?」

「俺の事ちゃんと見てるか幼馴染み」

「いつもよりニッコニコでかわいいとは思う!」

「やめろ。言及するんじゃない」

 

 可愛らしいのは振り付けで俺じゃない。

 「嘘じゃないのに」とテイオー。

 

「ちっちゃい子も『おねえちゃんかわいいー』って言ってたよ」

「……まあ髪が長いからな。幼い勘違いをいちいち訂正するまでもない」

「ちょっと迷ったけど、ボクも『だよねー!』って親指たてといた!」

「迷わず訂正しろ」

 

 同調するくらいなら正せ。

 

「やっぱりダンスゲームっていいよねー。ただ楽しく踊ってるだけで、みんなに褒めてもらえるんだもん。最高だよ」

「あとは歌唱採点機能があれば完璧だな。ピンマイクとか使ってだ」

「いいね! むしろカラオケにゲームがおいてあるとか? あー、カラオケ行きたくなってきたー。ホントなら今日、カラオケも行けたらよかったのに」

「さすがに子供だけでは入れん――まあ、中等部に上がれば俺たちだけでも大丈夫だから、もうすぐだ」

「中等部……」

 

 というか俺の方が盛り上がったことを否定しないどころか、逆に機嫌良さげなのが謎である。目立ちたがりのくせに。

 なんて。

 そんなふうに一日を振り返り、感想を言い合いながら夕日に染まる帰路を行く。

 それは特別なものなどない。

 何度も繰り返した日常だった。

 

「もうちょっと、おしゃべりしない?」

 

 互いの家への分岐点となるいつもの公園付近でテイオーは言う。

 どうせ家に帰ってもメッセージは送ってくるし、なんなら通話だってよく付き合っている為、おはようからおやすみまでテイオーとのコミュニケーションはほぼ途切れることがないのだけれど、それでも彼女はそう言った。

 逡巡は数秒。断る理由はなくもなく。

 しかし付き合わない以外の選択肢は即座に除外されたので、日没までの残り時間――そして何気ない風を装った小さな笑みの心中を。

 考察しながら公園へと移動する。

 

「変わんないよねー、ここも」

 

 過ぎ去った年月を感じさせる塗料の剥げかけたブランコに腰掛けて、地に足をつけた状態でゆらゆらと前後に揺れながら、視線を遠くテイオーは呟いた。

 歓楽街から少し離れた閑静な住宅街にてその公園は存在している。あるのは砂場とブランコと鉄棒、そして背の低い時計塔とベンチだけの小規模な公園――と見せかけて、敷地内部は走り回れるくらいの面積を誇っている。

 誇っている――と言いつつ、ここら一帯の子供が遊べる唯一の場所として機能するよう設けられたこの場所は、実のところ、近年の情勢により危険な遊具とやらが撤去された末の広さであるらしく、内情としては空き地とあまり差異が無い。

 変わらないというよりは、既に変わり果てたと言うべきなのかもしれなかった。

 というより。

 

「それはそうだろう。ここに訪れるようになって数年しか経っていないのだから」

「……はぁ〜。キミってやつは、ホンットしょーがないやつだよねっ。ボクの気持ちを理解してないよ」

「ノスタルジックなところ悪いけど、俺たちまだ過去を懐かしめるほど歳を重ねてないからな」

「そーいうことじゃないんですぅ~。デリカシーがたりないって言ってるんですぅ~」

「いい加減聞くけど、お前の言うデリカシーってなんだ」

「ボクがほしい時にほしい言葉をくれること!」

「そんなもん足りなくて当たり前だ!」

 

 NEW! デリカシー【delicacy】 トウカイテイオーが欲しい時に欲しい言葉を掛けてあげることを指す。出典:umapedia

 そんなお前次第の言葉があってたまるか。

 

「でもさゲンゾー。数年しかって言うけど、一年ってフツーに長いと思わない?」

「ああ、まあ。大人になると時間の流れが早く感じるとは聞くが……」

「時間って、みんな一緒のものじゃないの?」

「また深い疑問だな……。まあとにかく、その意見には同意する。長いよな」

「うん」

 

 とっても長いんだよ、と言ってテイオーは立ち上がると、突っ立ったままだった俺の横を通り過ぎ、時計塔にもたれかかって夕月の浮かぶ空を見上げた。 

 

「中等部になれば――トレセン学園に入れば、ここに来ることもなくなっちゃうね」

「しばらくはな」

「でもそれより先に、こうしてふたりで過ごすことが、なくなるんだね」

「……しばらくはな」

 

 テイオーに追従して時計塔に背中を預ける。

 昼間は子供たちの遊ぶ姿が見られたが、今現在すでに人影は見当たらず、ひっそりとした公園内には互いの声だけが響いている。

 

「いつ帰ってくるの?」

「……桜が咲いたら」

「春ってこと?」

「テイオーがトレセンに入学したらだ」

「まわりくどいよ」

「風情があるだろう?」

「フゼー? なにそれ、わけわかんない」

「もう忘れたのか……」

「わけわかんないし――長いし」

「きっと瞬きの間だ」

「そんなわけないじゃん。いかなくていいよ」

「いいや、行く」

「じゃあボクもいく」

「それは駄目だ」

「なんで」

「俺は必要でも、お前はそうじゃない」

「……しってる? 天才はイギリスにいくとタイホされるんだって」

「へえ、知らなかったな」

「でも天才だからいかなくてもだいじょーぶなんだってっ」

「そうなのか、よかった」

「ねー! よかったよねー! だからいかなくていいんだよ? いっちゃだめだよ?」

「いいや、行く」

「っじゃあ、ボクも――」

「テイオー」

 

 テイオー。

 ただ一言名前を呼ぶだけで、いやに明るい声が止んだ。

 それだけで、ずきりと胸が痛んだ気がした。

 けれど。

 いつまでも無駄な問答を。

 これ以上続けるつもりは。

 ない。

 

「何度繰り返しても答えは変わらない。俺はイギリスに行くし、お前を連れていくことはできない。勝手に決めたことは悪いと思っている。相棒であるお前に不義理を働いたことはどんな理由があろうとも俺の落ち度であり、責められる謂れはもっともだ。それに対して言い訳をするつもりはない。いくらでも責めてくれて構わない――でもなテイオー。何度でも言うが、俺は決して約束を違えるつもりはない。いつかと違って、距離が離れても進む道が分たれる事はないんだ。……だから、テイオー。俺は――」

 

 ――俺は、何をしているんだろう。

 

 押し問答に苛立ちを抱くことはない――ただ元通りの心地良い関係に戻れるならそれでいいのに。

 そこまで言ってから、別の事を考えている自分に、ふと気が付いた。

 しかしそれは、今この場においてまったく関係のないもので。眺める夕焼け空に今日の晩御飯はなんだろう、といったどうでもよいことで。

 あまりの不誠実さに愕然として――彼女の心を傷付けているのが己であることに、ついには現実逃避を始める弱い自分に、かつてなく辟易とする思いだった。

 

「ゲンゾーは」

 

 先程までの不自然な明るさは鳴りを潜めた静かな声で、テイオーは言う。

 

「必要って言うけれど。わざわざイギリスにいく意味って、あるのかな。天才だもん。日本にいたままでも、十分成長できるんじゃないかな」

「……かもしれない。向こうに行ったところで、本当に今以上の成長が望めるかはわからない。もしかしたら環境の違いについていけないかもしれない」

「じゃあやっぱり――」

「だが父上と同じく母上もまた、これが今自分にできる最大限の手助けだと言っていた。自分の培ってきたものをすべて利用して、最高の環境を用意してみせると」

 

 置き去りにしてきた過去を。

 呼び戻してまで。

 

「なら俺は、妥協したくない」

 

 この選択が正しいのかはわからない――でもこの道を選ばせてくれた父と母を信じている。

 成長の余地など欠片も残すつもりはない――全力で叩き上げ、全霊を傾けて挑むのだ。

 望むのは馴れ合いではなく対等。

 打てる手を打たずして、あの時ああしてればよかったなんて。

 くだらない後悔だけは、したくないから。

 

「……あははっ」

 

 唐突に笑い声が聞こえた。

 やっぱりゲンゾーはゲンゾーだなあ、と続けてテイオーは言った。

 

「ごめんねゲンゾー、いじわるしちゃって」

「え――いや。そんな、ことは?」

 

 この話の流れでどうして笑い出したのか、テイオーから謝られたのかわからず、俺は戸惑う。

 戸惑って、ついテイオーの方を見ると、彼女は時計塔に預けていた体重を戻して俺の前に回り込んできて、

 

「だってこんなの、ただのヤキモチだもん」

 

 ヤキモチで――わがままだもん。

 と言った。

 

「ホントはわかってたんだ、ゲンゾーの言ってること。まあ、あれだけ説明されればそりゃさすがにわかるでしょって感じかもだけど。でも、ジッサイはわかってなかったっていうか、わかりたくなかったっていうか……ゲンゾーは真剣に先のことを考えてるのに、ボクはただイライラしてただけなんだよね。結局やつ当たりでしかないんだよね。サイテーだよね」

 

 まくし立てるように言うテイオーの言葉には自己嫌悪が詰め込まれていて、急にとても気弱な表情になっていて――俺の発言次第では取り返しがつかないほど、壊れてしまいそうな雰囲気があった。

 夕暮れの薄暗さが錯覚させているのだろうか。

 

「ヤキモチ――って、何に対してだ?」

「……ゲンゾーの頭が良くて、いろいろ考えてちゃんとやってることに」

「色々? ちゃんと?」

「うまく言えないけど――正直ボクもこれがヤキモチってやつなのか、やっぱりよくわかんないけど、そう言ってたから……」

 

 誰が、とは聞かなかった。

 

「それがとてつもなくムチャでわがままなことはしってたよ。でもボクはずうっとゲンゾーにトレーナーになってほしかった。だからこの場所でボクのトレーナーになりたいって言ってくれたとき、うっかり気絶しそうになるくらい、うれしかったんだ」

「…………」

「あの日はねむれなかったよ。ねむれるようになっても、ずっとうれしい。ゲンゾーも同じ気持ちで、だからすっごくがんばってくれてて、ボクのために本気の本気で、ボクといっしょにトレセン学園にいこうとしてるんだって……。なのに、ボクってやつはさ」

「……テイオー」

 

 恥ずかしながら。

 先程まではテイオーが何を言いたいのかまったくわからず、彼女が何を不満に思っているのかいまいち理解できなかった――助言はすでに貰っていたのだ。少し頭を回せば辿り着けようものなのに。

 

「あの時も言ったが、厳密には俺がやりたいからやってるだけで、別にお前のために頑張っているわけじゃない」

「でもボクと、ボク『だけ』といっしょにいたいからだよね」

「……ああ、そうだな」

「それなのに――あっさりとイギリスにいっちゃうんだね」

 

 つまり、そういうことだった。

 ヤキモチで――わがまま。

 らしい感情の揺らぎで拍子抜けだ――と言ってしまうのは簡単だが。取るに足らないと終わらせてしまうには、悔恨の情に溢れて本当に申し訳なさそうにするテイオーの姿が、あまりにも正視に堪えないものだった。

 

「……なあテイオー。俺がイギリス行きを即決したのは、言語も人種も何もかも違う土地への恐怖からだけだと思っていないか?」

「……?」

 

 思わずため息を吐いてしまい、何を勘違いしたかテイオーはさらに顔を曇らせた。

 わかっている。

 活力に満ちて溌剌と生きる彼女にこんな姿をさせているのは、誰のせいなのか、わかっている。

 忠言を承っておきながら同じ過ちを繰り返す。余計なプライドや羞恥心を捨てきれない。それが俺の疎ましくも子供としての側面――未熟さなのだ。

 眼に映る光景は、鏡を見ているようだった――

 だとしても。

 未熟だとしても――項垂れるよりも先にすべきことがあるはずだ。

 脳裏に浮かぶは父と母。

 覚悟を決めて、勢い良くテイオーの両肩を持つと、小さな身体がびくりと跳ねた。

 

 父上。そして母上。

 あなた達を思えば。

 俺はいつだって、言葉が足りていないのですね――

 

「俺はお前と離れるのが嫌だ」

「……え」

「鷺宮玄蔵は、トウカイテイオーと一緒にいられないことが、とても寂しい。と言っている」

「…………えっ?」

 

 口に出すとより女々しさが強調されて、段々と顔が熱くなってくる。

 格好をつけるつもりはないが、これはいくらなんでもあんまりだろう――しかし止めるわけにはいかない。

 素直に生きるとはなんと難しいことなのか。

 

「勘違いしているようだが、俺は何よりもお前への執着心から動けなくなることを恐れて二つ返事で願ったんだ」

「しゅ、シューチャクって……」

「感情を共有しきれていないと思ったか? 躊躇なき選択がその証拠だと? ――認識が甘いぞ幼馴染み。俺はお前が思うよりもずっと、そしてお前が抱くよりもきっと。お前と過ごす日々を何ものにも代え難く――奪われたくないと感じているぞ」

 

 過去の納得させようとしていた自分が今では信じ難い。

 失ってから大切だったことに気付くという頭の悪い文言を初めて聞いたとき、俺は鼻で笑ったものだけど、失いかけて死に物狂いでしがみつくあたり、そう的外れではないのだろう。

 しがみつかずにはいられなかった。

 溢れるようなこの想いが。

 

「本当は、小さなせまいコミュニティしか知らないから相対して優秀で魅力的に見えているだけかもしれない。大きくなって、ちっぽけな世界が広がって、社会に出れば見方は変わるのかもしれない」

 

 ここまでリスクを取る必要性の有無など今更口にするまでもない。

 理由をあげつらわれたらすべて頷くことしかできなくて、反論なんてろくに出来もしないくらいに無茶苦茶で、お互い選択の正しさなんて最初から無きに等しいものなのだ。

 

「でも駄目だ。俺はもうそんな正しさを認められない」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 熱に浮かされ、大人であろうとする俺はどこかへ行ってしまった。けれど、それが今の俺にとっての正しさだった。

 なあテイオー。

 そんな顔をするなよ。

 お前のそういう、何度諭そうがいつまでも認めない子供染みたわがままが、果たす力と手段をくれたんだ――諦めなかったからこそ先に繋がったんだ。

 ヤキモチだろうが、わがままだろうが、思うがままにすればいい。

 

 お前は知らないだろう。

 差し出された手が、どれだけ嬉しかったことか。

 伝えてくれた熱に、どれだけ涙を堪えたことか。

 共に駆ける現在(いま)を、どれだけ夢見ていたことか。

 

 お前はこの先、一生知ることはないだろう。

 本気で未来を語り合える存在に、俺がどれだけ孤独感から救われていたことか――

 

「もしも距離が空くことでの心変わりという万が一、億が一を心配しているのなら杞憂と言わざるをえないぞ。なぜなら俺の覚悟はそんな生半可な物ではないからだ」

 

 募り続ける想いに果てはなく。

 胸中に渦巻く感情は、名前を付けることもできずにどこまでも大きくなっていく。

 テイオー。

 トウカイ、テイオー。

 眩しくて、暖かな。

 お日様みたいな女の子。

 

「いいか、テイオー。ようく聞け。俺は二度と……もう二度と――トウカイテイオーの手を離すような真似はしたくない。だからこそ、イギリスへ行くことを選んだんだ」

 

 誰からも奪われないように。

 何からも引き離されないように。

 確たる意志を以って闘い、望まぬ現実を変えてみせる。

 己の理想を貫き通す。

 善意にも悪意にも抗って。

 それが鷺宮玄蔵の、誓いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あのねゲンゾー。ボクはべつに天丼ギャグがやりたいわけじゃあないんだよ。いやふつうのギャグがやりたいわけでもなくてね? シリアスな場面はシリアスのままでいたいし、キメるところはキッチリとキメたいわけ。ダンスゲームと一緒でね。なのにさぁ、ゲンゾーはいっつもいきなりさぁ、めちゃくちゃびっくりすること言うわけじゃん? 肩はぐわしってつかんでくるし、顔はずずいって近づけてくるし。ねえたのしい? ボクの心臓をきゅーってさせるのはそんなにたのしい? いーかげんにしてよ、前置きがなさすぎるのキミにはー。まったく、これだからゲンゾーは仕方ないやつなんだ。次はないから気をつけるよーに。わかった?」

「何一つわかるか」

 

 なんで俺がお前の勝手な反応で駄目出しされねばならんのだ。

 恥を忍びに忍んで、言いたくもなかった本心を言ったわけだが、当の本人と言えばいつかの再放送の如く反応がなくなり、どれくらい反応がないかと言えば、先程までのしおらしい表情とは打って変わって、よほど衝撃的な何かを見たのか目を見開き、口を半開きにした呆け顔で石化状態となっていた。

 ここだけ見れば、間抜けな顔してるなあと写真撮影でもしてやるのだが、そんなコミカルな場面では断じてなく、このままだと俺自身へのスリップダメージがきつすぎて絶命しかねないので、ゆさゆさと揺すって覚醒を促したが、なぜか先にテイオーが崩れ落ちた為、わざわざベンチにまで運んで座らせてやったのに、この言い草である。

 飛ばせるものなら意識を飛ばしたいのはこちらの方だ。

 本当に。

 

「ボクとそんなに一緒にいたいなら、もっと大事にしたほうがいいよ〜?」

「しっかり聞いてるなら口に出すなよ!!」

 

 眼の前に立って思わず叫ぶ俺。

 もしかすると聞いてなかったかもしれないという不安半分、期待半分だったのだが、バッチリ記憶に残っていた。

 

「くっ……! なんて恥ずかしい……!!」

 

 俺史上、最高の情けなさをテイオーに披露するダメージは想像を絶するものだった。

 二度と言いたくないし、そもそも伝わらなければ意味がないのでそれで良いのだけれど、納得したようにすっきりとしたテイオーに対して、俺は非常にげんなりとした気分である。

 後に何度も擦られそうな黒歴史。渾身の恥。これでまだ駄目だとしたら、いよいよ証拠品なども提示しての曝け出しを始めなければならなかったことを考えると身震いが止まらない――しかし。

 まあ。

 恥だけですべて足りるなら、何よりであると考えてしまうあたり。

 考えてしまえるあたり。

 優先順位を見極めることはできているのだろう。

 

「イギリスにいったらどーするの? 生活とか。まさか一人暮らし?」

「まさか。まず母上と渡英して、しばらく様子を見て問題無さそうだったら俺だけ残る。住処に関しては母上の伝手でそこに預けられるようだ」

「伝手?」

「ああ。現役時代の縁らしく……詳しくは知らないが、面倒をみてもらえると」

 

 いつものことながら、昔のこととなると口数が極端に減るので本当に行ってみないとわからない。

 なんとか聞き出した情報によると、お世話になる方はウマ娘だということ。

 事前情報としては僅か過ぎて誰であろうと不安しか浮かばないのもさることながら、口調はともかくいつも朗らかな母上の、その方についてはなんとも嫌そうな雰囲気だけが色濃く記憶に残っている。

 とはいえ。

 どういう関係だろうと最高の環境を構成する一つとして選んだのならば、きっと何も心配することはないはずだ。

 

「よくもまあそれだけで遠い国にいこうって思えるね」

「それだけで十分なのが俺という男の大きさだ」

「ま。黒くんがなにも言わないならだいじょーぶか」

「……お前今、黒くんって言ったけど、もしかして父上のことか?」

「あっ。ち、ちがうちがう。キャメロットちゃんもちょっと変わってるだけで頼りになるよねっ」

「キャメロットちゃん!?」

 

 うちの両親と仲が良いのは知ってたけど、他人の親をくんとかちゃん付けで呼ぶことは一般的にありふれたことなのか?

 俺がいない時にどんな会話をしているか、わかったものではない。

 

「ともかく……ゲンゾーは学校とかいくんだよね?」

「まあ行くだろうな、トレーナー養成施設とか。飛び級して」

「……じゃあさ、いろんなウマ娘とも関わり合いになったり、するのかな?」

「そうだな……」

 

 勉強してライセンスを取るだけならそんなにもならない気がするが。

 しかしテイオーとの本番に間に合わせる為の最高の環境なのだから、どういった形になるかは定かでなくとも、実施訓練みたいなことは想定されるか。

 

「まあ、するんじゃないか?」

 

 そもそもお世話になる方がウマ娘であるし。

 

「おばさんはイギリスのウマ娘についてなにか言ってなかった?」

「え? ああ確か……よくわからないが、俺が猛毒になる可能性があるから優しくし過ぎるなって」

「……おじさんは?」

「重いのがとても良いって」

「…………なんか不安になってきた」

「おい、懸念は払拭されたんじゃなかったのか」

 

 ゲンゾーはウマ娘大好きだし、とテイオーは俺が目の前にいるのに独り言のように呟いた。

 そこだけ聞くと不埒な女好きみたいな響きがあって風評被害がえらいことになりそうなので、他人のいる場でうっかり言ってしまうとかは絶対にやめてほしい。

 そんな俺の切実な訴えを無視してふいに彼女は立ち上がると、頭のリボンに手をやり、しゅるりとそれをほどいて髪を下ろすと、

 

「あげる」

 

 と言った。

 

「は?」

「あげる」

「……は?」

「あ・げ・る!」

 

 唐突に突き出されたピンクのリボン。

 むっすりとした表情のテイオー。

 繰り返される譲渡の言葉。

 …………。

 

「いや、わからん」

「これ以上説明いる!?」

「主語と脈絡をよこせ」

 

 いきなり沸騰されてもわかるか。

 幼馴染みだからと言って何でもかんでも伝わると思うな。

 

「ボクのリボンをゲンゾーにあげます」

「うん」

「ゲンゾーはこれをつけます」

「うん?」

「これからず〜っと肌身離さず、毎日、ぜっっったいにつけましょう」

「ちょっと待ってくれるか?」

 

 もう駄目だ。かかっているのかもしれない。

 当てにならないので一旦、落ち着いて状況を整理してみよう。

 ええと、向こうでの俺の環境を想像してみた。父と母からのよくわからない注意と感想を聞いた。それがテイオーのよくわからない不安と不満の引き金をひいた。そしてよくわからないままテイオーからリボンを渡された。

 で、これをつける。

 誰が? 俺が。

 リボン。

 ピンク色の。

 

「わからないことしかないのは、俺が子供の証拠なのか……?」

「なに?」

「いやだってリボン……。そも意図はなんだ?」

「虫よけ」

「…………」

 

 忌避剤でも染み込ませてるのか、これ?

 

「俺がつけるにはちょっと……」

「嫌なの?」

「ち、違う違う。ほら、お前のトレードマークだから貰うと悪いなって」

「まだあるから大丈夫」

「いやでもピンク……」

「……ボクと一生一緒にいたいって言うのは嘘――」

「嫌じゃないからありがたく貰おう!」

 

 つけてあげるから後ろ向いて、と言うので渋々背中を見せる。

 本心を曝すというのは弱みを握られるに等しいと身をもって理解した。さっそく持ち出してきやがる。

 一生一緒にとは言っていない。

 

「こーやってキミの髪をいじるのも、ちっちゃい頃以来かな」

「俺にとっては日課だがな……」

 

 伸ばした髪はその分手を掛けた時間と労力と美意識の表れなので、人によっては下手に触れられることに心理的抵抗があるだろうけれど、まあ、言わずもがな関係のない話。

 

「ゲンゾーが毎朝勝手にやってんじゃん。ボクはごはん中なのに」

「半分寝ながらいつまでも食ってるからだ」

「だってねむいし。朝の占いは見たいし」

「占いは好きにしても毛量多いんだから整える時間を削るな」

「食べてるボクの髪をせっせと梳かす幼馴染みに、さすがのパパとママも思わず苦笑い」

「任せっぱなしの娘にだと理解しろ。そして自立しろ」

「理解してるよ。ゲンゾーがいなくなっちゃうこと」

 

 髪留めが外れる。

 ほどかれた髪が散らばった。

 

「もう朝からゲンゾーはこなくなるもんね。あーあ、また全部自分でやらなきゃ」

「…………」

「迎えにきてくれないからなにもしてくれない。髪だけじゃなく、早くからうるさい声で起こしておはよって言うことも。キッチンでママとごはんの用意してて、ボクがテーブルに座ればこぼすなよってカップを渡してくれることも。それどころか一緒にお花見しながら散歩したり、海にいって泳いで競争したり、芋掘りに参加して焼き芋したり、雪をかき集めて遊ぶなんてことも全部全部――」

「……あのなテイ――おっ?」

 

 振り返ろうとすれば背面から押されるような衝撃に、つんのめりかけて押しとどまる。

 見下ろせば、両脇から回された腕が腹の前で交差して俺の身体を固定していた。

 

「――でも、だいじょーぶ。言われた通りキソクタダシー生活をちゃんとやる。安心してゲンゾー、ボクはひとりでもぜんぜんヘッチャラさ。キミが隣にいない毎日なんてちょっと想像できないけれど、少しいなくたってどーってことない。どうせ帰ってくるんだもん。帰ってきてお小言いわれないようにがんばる。……がんばろーって、そう信じさせてくれるから」

「…………」

「だからね、なにも……なにも心配いらないよゲンゾー」

「……そうか」

 

 まあ今は通信技術も著しく発達している。離れてもそう遠く感じることもないだろう――俺の言葉を信じてくれるのならば、必ず応えてみせるのみ。

 途中、小さく鼻をすする音は聞かなかったふりをして、背中に感じる暖かさに、より強固な決意を改めるのだった。

 そのまましばらく。

 彼女が次に言葉を発するまで好きにさせ、

 

「はいっ、でーきたっ!」

「できちゃったか……」

「こっち向いていいよ?」

 

 言われるがまま振り返る。

 見慣れた公園の風景が満足げな幼馴染みの姿へと移り変わり、遠心力によって一瞬宙に浮いた髪がふたたび重力に従った。

 ピンクのリボンによって束ねられた髪が、下がって落ちて、背中に当たった。

 

「ねえねえ! いいかんじにできたでしょ~!」

「うわ……」

 

 いつもと同じく一本結びにされた髪を胸元に垂らして見てみると、不覚にも言葉を失ってしまった。

 いや……思った以上にピンク!

 今まであまり意識したことはなかったけれど、自分がつけるとなるとピンク味が強すぎるのではないだろうか。

 あとつける位置が違うからか、テイオーの頭にあった時よりリボンが大きく見える気がしてなおさらきつい。

 総評として。

 俺のおしゃれレベルが低いせいか、やはりピンクのリボンへの抵抗感が拭えない!

 しかし――

 

「……似合うか?」

「うん、かわいい!」

「可愛いか……」

「これからはそのリボンがゲンゾーのトレードマークだからね!」

「トレードマークなのか……」

「えへへー、そしてボクとおそろいっ!」

「そうかペアルックでもあるのか……」

 

 じわじわと羞恥心をあおってくるな、この幼馴染み。

 パートナーのウマ娘とおそろいのリボンとか相当恥ずかしい気がするんだが。

 ゲージを徐々に削られていく気分だった。

 だがここまで嬉しそうにされると水を差すわけにもいかないだろう。今更外させてくれとは俺には言えない。

 まあまあ、俺の象徴としてつけることによりサムライブルーならぬ、サムライピンクになったのだと前向きに考えよう。

 …………。

 いや駄目だな。やはりピンクが大きすぎる。そもそもこれはリボンだ。

 覚悟とか。決意とか。

 この鷺宮玄蔵。男として色々したつもりだったけれど、ここにきて新たに腹を括らねばならないようだった。

 あるいはそれの連続が、人生なのかもしれなかった。

 

「あ、あのさゲンゾーっ!」

 

 俺がどんよりと賢さを上げていると妙に上擦った声で名を呼ばれた。

 結われたリボンから視線を戻すとテイオーはそわそわと落ち着かない様子で、決して夕映えのせいだけではないだろう赤みの差した頬が眼を引いた。

 

「ボク、キミに言わなきゃならないことがあるんだ!」

「? なんだ急に」

「…………いやあの。言わなきゃならないことというか、言いたいことがあるというか。……言っとければいいなあ、みたいな……?」

「なんだ、それ?」

 

 ――本当に今日のテイオーは表情がよく変わり、読めなくて、どうにも調子が狂う。

 いや。

 今日だけではない。あの分岐点の日から彼女についてわからないことが増えていく。

 今は些細なズレとは言えど、それが段々と広がれば、やがては大きな溝となろう。そんな事態を避けるために話すことが大切なのだと母上から智恵を授かり、十全とはいかなくとも決定的な何かだけはさせまいと未熟ながら努めてきたが……俺はこれからイギリスに向かうのだ。

 離れた距離が心の距離などありえない。

 そんなことで揺らぐ信頼関係などでは断じてない。

 しかし生来の性格が、得体の知れない一抹の不安をよぎらせていた。

 

「あああぁ~~……やっぱりダメだぁ。むりだよママぁ、キャメロットちゃぁあん……」

 

 なのに宣言してきた当の本人は後が続かないどころか、あーだのうーだの唸ったり、何事かブツブツ独り言を言ったり、その場で前を向いたり後ろを向いたり、テイオーステップを踏んでみたりと。何がしたいのかさっぱりわからない状態に陥っていた。

 挙動不審という言葉がこれほどにまで当てはまると、かえって面白いものである。

 が。

 

「テイオー」

「ぴえっ!? な、なに! どしたの!?」

「言いたいことがあるんだろう?」

「えっ、あっ。ま、まあ、なくもない……かな?」

「だったら躊躇わずに言ってくれ」

 

 どんどん尻すぼみになっていくな、と思いつつ。

 

「俺は、お前とはどんな些細なことでも話し合える仲だと思っている」

「そ、それはボクだってそうさ!」

「遠慮はいらない。けれど無理強いもしない。ただ俺は、如何なる内容であろうと真摯に耳を傾けよう。理解に努めよう。……俺が単なる幼馴染みだけでなく、共に歩む相棒であることは言うまでもないな?」

「っ……!」

 

 眼を逸らすことなく、力強く見つめて言った。

 相棒。

 相棒なのだから思い悩む必要などないのだと――自分自身に言い聞かせるように。

 それを聞いたテイオーはようやくひとまずの落ち着きを見せ、深呼吸をひとつして、「ゲンゾー」とふたたび名を呼んだ。

 

「ボクはキミに言いたいことがあるんだ」

「ああ」

「でもごめん。これを言うのはちょっとちがう……タイミングじゃなかったよ。だってボクたちのやりたいことは始まったばかり――ううん、まだ始まってすらないんだもん。……余計なこと言って、困らせるなんて、もうしたくないし」

「――そう、か」

 

 言ってはくれないのか。

 また一つ、ズレが生じる。

 わからないことが増えていく。

 目の前の彼女は常に隣にいたはずなのに、なぜ俺の中の彼女と嚙み合わない。

 せっかく憂いは解消されたのに、ここにきて再び心は戸惑い次第に昏く沈みゆく――

 

「だからいつか言える日がくるように、今は代わりにこう言うよ」

「え……?」

 

 居住まいを正し、胸に手を当て。

 それはまるで誓いを立てる乙女のように。

 

「忘れないで。どれだけ遠く長く離れても、キミの帰る場所にはボクがいて、ボクがキミの帰る場所なんだってこと――」

 

 髪を下ろしているせいなのか、染められた頬のせいなのか、この場を形成するすべてが要因か。

 如何に理由を付けようとも、俺の認識する子供らしく子供染みたトウカイテイオーはそこにおらず――しかし知らないはずの幼馴染みの姿は、不思議と誰かの面影を感じさせていた。

 

「……いってらっしゃい。ちゃんと、待ってるからね」

 

 そう、その柔らかく包み込まれるような優しい微笑みは、大人の女性である母と同じもので――

 

「ああ、そうか……」

 

 小さな声で呟く。

 心臓は一際強く鼓動を打ち、胸は詰まったかのように息苦しい。

 かつて、そびえ立つ記者の壁を抜け、シンボリルドルフさんに会いに行った際と似た感覚は、それとは異なり不快なものでなく――ただ純粋に見惚れていたのだ。

 ――そこで初めて自覚する。

 よく知る相手の知らない反応。調子の狂う答え。増え続けるズレ。

 俺が無力であることを赦せず飛躍を望んだように、いつまでも同じままではいられない。

 変わりゆくのは互いの関係のみならず。

 背は伸びて、身体は差異を示し、心は今までなかった何かを伝えたがっている。

 話すことが大切だと説いた母の言葉を今一度思い出す。

 それはごく当たり前の成長で――

 

「――もうじき中等部になるんだよな」

 

 時が過ぎれば幼かった彼女も大人になっていく。

 そんな当たり前のことを、俺は永らく忘れていたのだった――

 そういうわけで。

 こういった風に。

 俺の初等部生活は、間の抜けた自覚と似合わないピンクのリボンを以って終わりを告げた。

 しかしそれに伴い、俺の人生において新たな始まりでもあるのだと思う。

 課程の区切りというわけでなく。

 たとえこの先どんな未来が待ち受けていようとも、どんな将来を迎えようとも、彼女にもたらされたこの成長は、俺にとってまたひとつ脳裏に深く刻まれた決して忘れることのできない出来事だったから。

 鷺宮玄蔵が、以前と同じようにトウカイテイオーを見ることができなくなったのは、この瞬間からだったのだろう、という今までの在り方を揺るがす劇的な。

 俺たちは夢を追って大人になっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




外部から多大な刺激を受けた天才キャラは大体闇属性。
第二次性徴を迎えてクソデカ感情に名称と指向が付与され始め持て余す姿からでしか摂取できない栄養素があります。
あとは入りきらなかったネタをおまけとして供養できたら良いと思います。
学園編は書ききれる気がしないので例によって終了です。
読んでくださったすべての人に感謝を。
長々とお付き合い頂きありがとうございました。


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