秒読みの契約 ~あなたに三つの冠を~ (雲ノ丸)
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第1話 秒針動く

 仮眠スペースとは何と偉大なものだろうか。

 誰に咎められるでもない。視線もない。ただ、この微睡がだらりと続くことが、かけがえのないものだ。

 仕事、時間、約束、人付き合い。そんな束縛全てから解放される。

 

 現実から切り離された夢の居場所。

 

「おや、先客がいらっしゃいましたか」

 

 全ての始まりは、そんな声と、開くはずのない扉が開いてのことだった。

 

「ふむふむ、トレーナーさんとお見受けしますが。私はここをお昼寝ポイントと定めていまして」

「……好きにしな。ただしソファは譲らん」

「じゃあ、私はベッドをいただきますねー。……え、何であるのベッド?」

「秘密基地ならベッドの一つ二つあるだろ?」

「それもそっか。それじゃ、おやすみなさーい」

 

 男の前だというのに。

 薄緑の毛の少女はベッドの上で丸くなる。警戒心がまるでないのは、ウマ娘としての身体能力を過信しているのか、それとも意識さえされていないのか。

 

「はいよ、おやすみ」

 

 どちらにしても、使わないベッドに執着もない。

 のんびりとソファの上に寝っ転がりながら、腹の上に置いたパソコンをぼーっと眺める。イヤホンを耳につけ、外界と自分を切り離した。

 

 

 

 トレーナー室というのは、存外に自由が利いた。

 同僚の目も、生徒の目もなく、仕事場として自由な模様替えが許された。仮眠用のベッドの搬入程度は何も言われない。ただ、どうにもベッドより、備え付けのソファーの方が居心地が良く、搬入したまま使う機会はなかった。

 

 そうして、だらけるようにソファーに寝転んでやることは、もっぱら動画の再生だった。

 今はブルネットのボブカット、白い前髪、同色の三つ編みのハーフアップが特徴のウマ娘が走っているところだ。つい先日の模擬レース、弾丸のように飛び出す差し足がきらめくレースだった。

 

 動画越しに風でも吹き抜けるような錯覚を覚える。この差し足を封じるにはどうするか。

 逃げならどうやって振り切る? 先行ならどうやって突き放す? 同じ差しならどうする? 追込ならどうやって突き抜ける?

 

 少なくとも、凡庸な人間に答えは出せない。この映像ひとつでは、判断を下しきれない。

 

 また別の動画を再生する。

 先ほど注目した子……スペシャルウィークだったか。彼女だけでなく、栗毛のセミロング……どこにでもいそうで、しかし一つ一つ、所作が丁寧な様子が特徴なウマ娘、キングヘイローが走っている。

 

 同じ差しの作戦で、対抗意識か、それともプライドか。キングヘイローはあまりに早く仕掛けて、これに釣られる形でスペシャルウィークも飛び出した。

 その走りは迷いと躊躇いにあふれていた。

 自分のペースではない、不恰好な走行。スタミナが足りるのか不安なのだろう。先ほど見た動画の最高速度にはまるで及ばず、ロングスパートを中途半端にかけているような状態だ。

 

 そんなガラス細工よりも脆い走りで一着が取れるはずもなく、他のウマ娘に差し返されて沈んでいった。結果は言うまでもない。最下位争いだ。

 

 勝負勘は発展途上。

 まだ自分のペースに自信がなく、周囲によって掛かり気味になるのが弱点か。

 先行や同じく差しで競うなら、加速を二度に分けて消耗させるのもいいだろう。

 逃げの理想は大逃げだが、アレは脚への負担が大きく、必要なスタミナもバカにできない。普通に突き放さないなら、レース後半に差し掛かるにあたってわずかにペースを落とし、相手の脚を故意に余らせるのもありだろう。前提条件として、スパートされたら逃げ切れるだけの脚を残す必要があるが、万全に挑まれるよりは遥かにマシだ。

 

(まぁ、そこまで冷静にレースを運べる逃げウマ娘なんて早々いないが)

 

 逆に、逃げウマ娘というのはどうにも考えるのを疎かにしがちだ。自分の本領を最大限発揮する。そればかりを意識して、先頭集団のメリット……レース運びを操れる、という点を見落とすウマ娘のなんと多いことか。

 

(必死に走っている中で、冷静にそんなこと考えながら十全の力を発揮する)

 

 言うは易し、行うは難し。

 他のウマ娘からのプレッシャー。レース場の熱。走っている最中の高揚感。それら全てを押さえつけて、的確にレースごとに変わる最適解を考えて、それを実行する。そんなことをぽんぽこ出来るなら、とっくの昔にトゥインクルシリーズは逃げウマ娘が覇権を取っている。

 

(……追込は、ロングスパートで消耗させる? いや、そんだけポテンシャルあるならそもそも)

 

 小細工をする必要がなくなる。

 追込なら、その真価を発揮して、先頭まで貫くことを意識した方がいいだろう。下手な小細工よりも、後ろで研ぎ澄ました誰よりも鋭い差し足で迫る方が、何倍も勝率が高い。

 

「スカウトするなら、やっぱり」

 

 栗毛の長髪、おっとりした様子のウマ娘グラスワンダー。どこか得体の知れない恐ろしさを感じさせる差しウマ娘。

 茶よりの黒の毛。何より特徴的なプロレスラーのつけるようなマスクをつけているのは、エルコンドルパサー。直線での驚異的な末脚と加速力には目を見張るものがある。

 

 薄緑のショートカット、作戦を弄して走り抜けるのはセイウンスカイ。策を考え、レース中にそれを弄する胆力に、地頭の良さは他とは一線を画する特徴と言える。

 

「キングヘイロー。この子なら、きっと」

 

 負けん気は上々。勝利への渇望は熱く、何とか自分のペースに持ち込んで勝とうとする気概は凄まじい。空回りが過ぎるのは、レース勘と知識の体得でどうとでもなるだろう。

 

「……ただ、なぁ」

 

 懸念があるとすれば、新人トレーナー如きのスカウトを受けてくれるか、ということが一点。

 加えて、お互いの目的が噛み合うかどうか。

 

(世代最強のウマ娘にする、って言っても)

 

 新人如きの言葉、信じるウマ娘が居るのか。

 そんな甘言に、自分のレースウマ娘としての生を賭けてくれるのか。

 

(まぁ、そんなのNOだろうが)

 

 期待はしない。手出しは極力控えよう。

 だが、可能性が僅かにでもあるのなら。

 

「まずはスカウト。あれこれ考えるのは、そのあとだ」

 

 ちょうど自主練中のウマ娘たちが走る時間。

 さっさと用事を済ませようと、足早に部屋を後にした。

 

 

 

 ◆◇◆

 

 

 

 その男は今日もトレーナー室に引っ込んでいた。

 ソファの上にごろりと寝転がり、ブランケットの代わりか、パソコンを腹の上に置いて動かない。

 

(やばいなー、どうしようか)

 

 画面に視線を向けたまま、彼は頭を悩ませていた。

 悩みの種とは、先日スカウトしに行ったキングヘイローのことである。

 

 キングヘイローと対面して、別段門前払いを受けることはなかった。ただ、有名なウマ娘の娘ということもあって、競争率がダントツに高く、集団面接のような形になってしまったのは致し方ないことか。

 問題は、キングヘイローの方針であった。

 

『一流のウマ娘たるこの私のクラシック三冠、その栄誉の手助けをする権利、どなたが欲しいのかしら』

 

 あかんわこれ、と真っ先に思ったのは彼だったに違いない。

 別に高飛車な性格なのは問題ない。慢心があったとしても、それを矯正するのもまたトレーナーとして、最低限は行える。

 

 だが、「クラシック三冠」を達成するのだけは困難を極める。

 キングヘイローというウマ娘は、お世辞を抜きにして世代を牛耳れるだけのポテンシャルを持っているだろう。その可能性を彼は見出していたが、それが完成するのは「秋のシニア三冠」――天皇賞、ジャパンカップ、有記念――、即ち3年目の10月後半の時期になってからだ。

 

(クラシック4月の皐月賞の距離は2000と短いが、5月後半のダービーは一気に伸びて2400だ。それまでに必要なスタミナと、差し切れるだけのスピード、そしてレース運びに綻びが生まれないだけの戦略を叩き込む? いや、いや。あの面子の中でダービーまでに?)

 

 どれだけ綿密に計算、皮算用をしたところで、勝率を5割近くまで上げることはできないと彼は断言する。

 

(座学を放棄して、あとは本人の判断に委ねれば……いや、どう考えても、どう考えてもトチるだろ、この子)

 

 座学は必須。だが、中途半端なものではいけない。他のウマ娘の追随を許さないレベルの戦略と、柔軟な思考を身につけさせなければ、賢さが無駄な贅肉になりかねない。

 

(それだけの思考能力を鍛えるなら……いやでも、ダービーの上り坂どうするんだ? 減速しないだけのパワー鍛えたら、スタミナが足りないし)

 

 末脚の伸びない差しなど、恐れるところがまるでない。

 

(しっかり言い含めれば、いける? 作戦を理解できる程度の座学を仕込んでおけば、後は……いや、作戦を伝えたとして、その通りにレースが進むわけ……)

 

「でも、惜しいな」

 

 これだけ巨大な悩みの種を抱えながらも、それでもキングヘイローのスカウトを、彼はどこか諦めきれていなかった。

 

「ビビッときたんだ」

 

 対面した瞬間のことであった。

 すっぽりと、木組みでもするように軽快に、しかし音もなくハマったのだ。

 

 この子とならやれる、と。

 

 根拠のない自信が溢れ出てきた。

 だが、そんな自信があったとしても、それを納得できる言語に落とし込むことはできず、彼は自分からキングヘイローをスカウトすることが出来なかった。

 

「クラシック三冠……三冠、か」

 

 秋のシニア三冠で妥協してくれんかな、と彼は声に出さないもののそう思う。当然無理だと本人もわかっている。

 

(入着ならいける。1着も皐月賞か、菊花賞に絞れば何とかなる。皐月賞の距離なら差し切れる。菊花賞なら、そこにだけ絞れば長距離用の基礎が出来上がっている。ダービーは、時期とコースが不味い)

 

 彼は息を吐いて脱力する。ソファの横から手をだらりと垂らして、ぼーっと寝転んだまま天井を見つめた。

 

「おやおや? クラシック三冠、って聞こえましたが」

 

 思わぬところから声を掛けられる。

 声のしたベッドの方に視線を向ければ、先日から昼寝ポイントとして居座っているウマ娘……セイウンスカイが、寝転びながら顔だけ彼に向けて聞いてきていた。

 

「クラシック三冠の約束なんて出来るわけあるか、って嘆いてただけだ」

「あー……あはは、もしかしてキングのこと?」

「なんだ、知っているのか」

「学友ですから。何々、トレーナーさんはもしかして、キング狙いですか?」

「いや。声も掛けていない」

「ありゃ。やっぱりクラシック三冠が目標だから、新人の自分には手に負えません、ってことでしょうか?」

「大体合ってる。キングヘイローにクラシック三冠取らせるのは……まぁ、俺の育成方針なら2割あれば万々歳だ」

「へぇ? セイちゃんとしては、2割も三冠達成できる可能性があるのは凄いと思いますが。そりゃまぁ、キングに高いポテンシャルがあるのは否定しませんが。どれだけ才能があったとしても、クラシック三冠は難しいと思うわけですよ」

「そして、努力でもどうにもならない部分がある」

 

 特に問題なのは、皐月賞から日本ダービーまでの期間は一ヶ月半しかない、ということが挙げられる。

 これは他のウマ娘に関しても同様の条件だが、クラシック期間というのはまだ身体が出来上がっていないウマ娘が多い。そんな中で向き不向きが出てくるのは、才能という一つの要素だ。

 

 このウマ娘はスタミナに優れている。

 このウマ娘は最高速度、スピードに優れている。

 このウマ娘は加速力、パワーに優れている、など。

 

 ウマ娘それぞれに個性があり、成長過程ではそんな尖った才能が、一つのレースの勝敗を決めることは珍しくない。

 

 皐月賞ではスピードが求められ。

 日本ダービーでは程よいスピードに、最後の坂で振り切るだけのパワーと、2400を走れるだけのスタミナが求められ。

 菊花賞では、底なしのスタミナと二度の坂で減速しないだけのパワーが求められる。

 

 日本ダービーは5月後半。菊花賞は10月後半ということもあり、およそ5か月の期間が空いている。そのため調整は可能だが、先述した通り、皐月賞と日本ダービーの間は1か月半と非常に短い。

 たかが400ではない。400も違うのだ。その距離の差はあまりにも大きく、必要なスタミナを鍛え上げるだけの期間に1か月半は、あまりにも短すぎた。

 だからこそ、スピードが足りず皐月賞で勝てなかったウマ娘が、日本ダービーで快勝するという事例は実のところ珍しくない。逆に、皐月賞で快勝したウマ娘が、日本ダービーでは惨敗、というのもよくある話だ。

 

 

 ならば日本ダービーを見越して、皐月賞より前からスタミナを鍛え上げればいいかと問われれば、そうなると皐月賞で最も重要なスピードが疎かになる。

 その余剰スタミナを計算した上で、スパートを正確に切って走り抜けるだけの判断能力に勝負勘があれば話は別だが、所詮はクラシック。そんな時期に、レース勘も、それだけの判断能力も身に着けられる筈がない。

 

「大人しくサブトレーナーでもやっとくべきかね」

「ほうほう。ちなみにですが、来年のクラシックは誰が三冠取れるとお思いで?」

「誰も取れない」

「その心は?」

「有力ウマ娘が多い。その上で、突出した才能は見当たらない。いや、才能は間違いなくあるが、誰も頭一つ飛び越えられるほど、圧倒的な差があるわけじゃない」

「うーん、私としてはスペちゃんとか如何でしょう? あの子の差し脚は強烈ですよー」

「だが、それを完全に活かせるだけの判断能力が足りない。見た感じ、言い含めてどうにかなりそうな子でもなさそうだし。クラシックまでに勝負勘を鍛えるのは難しい」

「思ったより辛口! じゃあ、エルちゃんは?」

「……エルコンドルパサーか?」

「そうそう」

 

 しばらくの間が空いた。

 どこか言葉を吟味しているのか、それとも答えを出していなかったのか。

 

「……なんというか、なぁ」

 

 歯切れの悪い言葉。

 それでも沈黙を保っていれば、彼は独り言でもこぼすように。

 

「三冠に興味なさそうだからな」

「ほう? クラシック三冠、実力ある子なら誰でも狙う称号だとは思いますが」

「彼女の目標は世界最強、だったか。日本最強ならクラシック三冠、春の三冠、秋の三冠を目指すが、世界の方に行くなら凱旋門賞を目指す。無理にクラシック三冠を取る意味がどこにもない。着順によっては、海外進出の妨げになるからな。特に菊花賞は長すぎる」

「なるほど、なるほど。もしもクラシック三冠に来たら?」

「皐月賞と日本ダービーはぶち抜ける。調整すれば菊花賞もかなりの勝率だろう。本当にデビュー前か疑わしい勝負勘もある。ただ、菊花賞の調整をしたなら、海外進出は最低でも半年は遅れる」

 

 距離3000の菊花賞に対して、目標となり得る凱旋門賞は2400だ。わざわざ中距離ではなく、長距離のレースに挑むメリットが一体どれだけあるのか。そして、長距離を走れるだけのトレーニングをしたとして、再び中距離に慣れるためには、一体どれだけの時間が掛ることか。

 

「つまり、トレーナーさんの見立て的にはエルちゃんが一番強いって感じ?」

「中距離までなら間違いなく。同じレースに当たったら不幸としか言えない」

 

 彼は言い切ると、大きく息を吐いた。

 

「トレーナーさん、何でエルちゃんをスカウトしないわけでしょう?」

「海外行きまで面倒見るなんて、新人トレーナーにできると思うか?」

「あー、そういう事情でしたか」

「それに、俺はみっちりとトレーニングを決めるような方針じゃない。故障しないか、って見守ったり。どこが足りない、とかの指摘はするが、トレーニングメニューなんて作る気はさらさらない」

「不真面目トレーナーさんですねー」

「それくらいが丁度いいんだ。それがダメ、っていうなら相性の問題だ」

「それでしたら」

 

 そこで声を上げたのは、セイウンスカイだった。

 彼女はどこかやる気を出したように声を高く上げたが、ベッドから身体を起こすことはなく、そして動くこともなく言葉を紡ぐ。

 

「セイちゃんとお試し契約してみませんかー? 育成方針は、とーっても都合がいいものでして」

「俺はまだ、キングヘイローのスカウトは諦めていないが」

「じゃあ、キングと本契約決まるまで、で構いませんので。自分で言うのも何ですが、私はこう見えて有力ウマ娘の一人です。今ならお買い得ですよー!」

「言っとくが、仮契約程度なら『伸ばすための指導』しかしないぞ」

「それで良いですとも。今はまだ、セイちゃんは伸び盛りですから」

「わかった」

 

 そう了承するなり、彼はパソコンを再び弄り始めた。

 当然、セイウンスカイとてすぐに指導が来るとは思っていない。何か言われるとも思っていない。だから、「トレーナーさんとの仮契約成立ー」などと呑気にだらけていた。

 

「じゃあ、次から走る時はストップウォッチ片手に走るように」

「……はい?」

 

 だから、不意に言われたことを理解するのに、彼女は数秒の時間を要した。

 

「君の本領は逃げだろう? なら、ラップタイムはコンマ単位でズレなく刻めるようにな。最初は1ハロン13秒だ。とりあえず、1ハロン13秒を狂いなく刻めるように、そのペースで走りながらストップウォッチを押すように」

「……えっと、あのー。セイちゃんの聞き間違いじゃなければ、今わたくしめは、一定間隔のスピードを維持しながら、自分でストップウォッチを押して正確に測れるようになれ、と指示を出されたという認識なのですが?」

「別に重りつけろ、とか。最高速度常に維持しろ、とかは言っていない。ただ、頭を常に使えって言ってるだけだから、肉体的な負担はあまり変わらない」

「平然と言ってますけど、それどれだけ難しいかご存知ですか!?」

「最初から完璧にやれとは言っていない。1年くらい続ければ勝手に身につくから、頑張れ伸び盛り」

「鬼! 悪魔! 新人トレーナー! というか、1ハロン13秒ってかなりハイペースなのですが!?」

「スタミナがつくだろ?」

「そういう問題じゃなーいッ!」

 

 たまらず、セイウンスカイは飛び起きた。尻尾を天について毛並みを逆立たせ、ソファに寝転がっているトレーナーに近づいていくと。

 すぐ目の前まで来たところで「ほい」とトレーナーから何かを手渡される。

 

「……はい?」

 

 反射的に、セイウンスカイはそれを受け取った。

 白銀のメタリックフォルムが眩しい、手のひらにピッタリ収まるような羅針盤のような形の計測器。

 

 それは間違いなく、ストップウォッチであった。

 

「…………はい?」

 

 少しだけ機能を確認してみれば、100分の1秒計である。

 通常計測,積算計測,ラップタイム計測,スプリットタイム計測,カウントダウン計測……様々な計測機能がついている、非常に高性能なモデルである。

 

「とりあえず、壊れるまで返しに来なくていいぞ」

「――」

 

 セイウンスカイは言葉を失った。

 何に、といえば。100分の1秒計という、到達できなさそうなゴールをいきなり設置したトレーナーに対して言葉を失った。

 

「セイちゃんの やる気が 下がった」

「そうか。不調でも誤差をなくすトレーニングなんて、いきなりストイックだな」

「セイちゃんの! やる気が! 下がった!」

「絶不調でも誤差をなくすっていう意思表示だな? よしよし、それが出来れば最強も夢じゃないな」

「トレーナーさんのっ、鬼ィィィ!」

 

 うわぁぁん! と、声を上げながらセイウンスカイはトレーナー室を飛び出した。それを「頑張れー」と気楽な様子で見送る彼は、ソファから一向に動く気配を見せない。

 

 

 

 しかし、隙間風というか、通りかかる生徒たちからの外の視線が気になって、数分してようやく彼はソファから動く。

 トレーナー室の開けっぱなしだった扉を閉める。そしてまたソファに戻る……かと思えば、その横を通り過ぎ、執務机の前に座りながら、机に背を向けて窓の外を見つめた。

 

「まぁ、仮契約中の指導はこれだけでいいだろ」

 

 彼は空がオレンジ色に染まるまで、一人の少女の影を視線で追い続けた。

 

 

 

 



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第2話 止まった針

 逃げウマ娘とは、ただ前に行くだけで勝てるほど甘くない。

 前に、前に、ただひたすら先頭に。そんなことを思いながら走って、重賞レースで一着を取れるのはそれこそ、才能に満ち溢れた宝石のようなウマ娘だけである。

 

 そして、そんな才能任せで突っ込むウマ娘たちの脚の寿命は総じて、短い。

 人間とそれほど変わらない姿形ながら、繰り出される最高時速は70㎞を超える。ずっとそれほどの速度で走るのではないにしても、3000のコースであれば常時時速50~55㎞ほどのスピードの維持が必要になる。

 

 特に、逃げウマ娘はラストスパートを切る総距離の3分の1に至るまで、他の脚質よりも速く走る。その時速は55~60㎞ほどだと言われている。

 それほどの速さで、人間に似た骨格を持ち、肉体強度もそれほど違うとは言えない少女たちが、およそ3分間も走り続けるのだ。

 

 そして距離が短くなれば、道中の速度も右肩上がりとなる代わりに、当然ながら1レースの時間は短い。距離3000が3分3秒~5秒とすれば、距離2000はおよそ1分58秒前後となる。単純に時間が3分の2にならないのは、それだけウマ娘たちがスピードを出しているということであり、瞬間的な負荷は距離が短くなるほど増していくことの証左である。

 具体的には、距離2000の場合の道中スピードは、逃げウマ娘でなくともおよそ時速55~57㎞の速度に至るのだ。

 

 たかが時速一桁㎞と思うかもしれないが、それは大きな間違いだ。

 人間の100m短距離走選手の世界最高レベルの瞬間トップスピードが44.7㎞である。到達タイムは9.58秒のため、平均時速は37.6㎞。

 では、仮に平均時速37.6㎞に時速1㎞加算されればタイムはどうなるのか?

 

 何と、時速1㎞加算されるだけで、100mのタイムはおよそ9.32秒に縮まるほど、明確な違いが現れる。

 時速5㎞も違う、平均時速42.6㎞になれば……100mのタイムは8.45秒という、何と100mという短い間隔ですら1秒以上の違いが現れる。

 

 それをウマ娘は100mの20倍、30倍という距離を、時速15~20㎞、ラストスパートに至っては時速35㎞以上も加算して、数百メートルあるいは1キロほどの距離を走り抜けるのである。

 

 逃げウマ娘と、他のウマ娘の道中速度の違いは、たかが一桁㎞だが。

 その一桁㎞の時速を加算して㎞単位を走る彼女たちの負担は、想像を絶するものがあることに間違いない。そしてその負荷を掛けたまま、ラストスパートは他のウマ娘と同じような速度で走らなければ勝てないのが、レースである。

 

 故に。

 休む暇なく、常に過負荷を掛けられる逃げウマ娘の脚は、櫛の歯が欠けるように綻び、壊れていくのである。

 

 尚、上記のウマ娘たちの道中時速などは全て、G1レースを想定されたものであることを記しておく。

 

 

 

 

「ふっ――」

 

 息を吐き、片手にメタリックカラーの計測器を握りハロン棒を過ぎ去る。同時にカチリ、と手の中で音を立てて、次のハロン棒へ走り込む。

 突風を巻き起こし、薄緑のショートカットにしっぽを揺らして、彼女は三つのハロン棒を抜けたところで減速していき、コースから一度脇に避ける。

 

「さてさて、結果は――ありゃ」

 

 計測器が叩き出した数字は「12.94」「13.01」「13.00」と、何とも締まらない結果である。特に最初は、勢い余って足を進めすぎたことが伺えるブレがある。

 

「もうちょっと、なんですけどねー」

 

 このトレーニングを始めて半月。早くも成果は出始めていることに手応えはあれど、彼女にとってそれが納得できる結果かどうかは話が別である。

 

「もう一本、いきますか」

 

 もう一度、コースの中に入って走り出す。

 カチ、カチ、とハロン棒に合わせてリズムを刻み、コンマの世界に足を踏み出すのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナー室に訪れると、まるで根っこでも生やしたように動かないトレーナーが、ソファーに寝転がったまま出迎える。既に一ヶ月近い付き合いになろうという頃合いになっても、彼女はトレーナーがそこから一歩でも動いた光景を見たことがなかった。

 

「こんにちはー。今日もお昼寝にやってきましたよーっと」

「はいよ。そしておやすみ」

 

 そんな風に挨拶すれば、変わりない返答がいつものように返ってくる。この男はもはやアンドロイドか何かか、と思わせるほどに、本当に変化がない。干渉してきたのは、最初の指導の1回だけで、それ以降は特にセイウンスカイとコミュニケーションを取ろうとするような、そんな素振りは見せなかった。

 

「今日も私とトレーナーさんは、一緒にサボりましたとさ」

「めでたしめでたし」

 

 しかし、セイウンスカイが何とは無しに声を出せば、反響するように言葉を返してきた。放任主義、というやつなのだろう。過干渉よりはよほどいいと、彼女も今の関係には満足しているところだ。

 

「そう言えば、聞きましたー?」

「何も」

「……愛バにはもうちょっと、愛想を振りまくべきだとセイちゃんは思うわけですが」

「冷たくなきゃいいだろ」

「そのスタンスが既に結婚数年で冷めきった夫婦関係を彷彿とさせるのですが」

「誰が夫婦だ、誰が。よくて年の離れた兄妹だろ」

「おぉ、つまり反抗期の兄に冷たくされて落ち込む妹……ってことで。そんな可愛い可愛い妹のお話を、お兄さんは聞くべきだと、妹分は思うのです」

「じゃあどうしたんだ?」

「……糠に釘とはこのことか」

 

 お互いにそんな遣り取りを口にしながら、片やソファで寝転がり、片やベッドで寝転がる。全く動こうとしない怠惰な二者の話し合いは、どこか雲を掴むような雰囲気なのだが、当然ながらそれを良しとして受け入れるのもまた、その二人である。

 

「キング、トレーナー決まったってさ」

 

 ドン、と打ち付けるような鈍い音にセイウンスカイは「わっ!?」と声を上げ、耳と尻尾が天をつく。跳ねるように彼女がそちらを向いてみれば、トレーナーがソファーからずり落ちて、背中と尻を床に打ち付けて、悶絶している姿がそこにある。ぐォォ、と亡者のような声から、一体どれだけの痛みだったのか。

 

「と、トレーナー? だ、大丈夫?」

「ォォ……む、無理。腰が……」

 

 まるで溺れているかのように手を宙にさまよわせ、痛みのせいか身体は小刻みに震えている。

 しかし、腰が、などと言われてしまうと、セイウンスカイも非常に対処に困った。

 

「えっと、ソファに抱え上げた方がいいのでしょうか?」

「いや、そこまではっ。大丈夫、大丈夫……ぐぅ」

「どう見ても大丈夫に見えないのですが!」

「あ、あと1分……1分で、一人で立てる……」

 

 などと言ってのけるが、痛みに悶絶するトレーナーの声を聞き続ける、というのは流石に心地の良いものではない。

 

「……仕方ありませんなぁ」

 

 よっこいしょ、と掛け声ひとつ。セイウンスカイはふわりとベッドから起きて立ち上がると、特別急いだ様子もなくトレーナーの前まで歩を進めて。

 

「よいしょ!」

 

 などと軽快に掛け声を上げると、一息にトレーナーを横抱きに抱え上げた。次の瞬間には、彼女はトレーナーをもとの位置に降ろして、満足そうに二度頷いた。

 

「まったく。トレーナーさんもおっちょこちょいなところがありまして」

「ぐぅぅ……あり、がとう。助かった……」

「お礼は貸しひとつということで」

「それ、絶対に高くついてるだろ……」

 

 尻尾を大きく揺らしながら、彼女は人差し指を立てて言ってのける。言った後も、その人差し指をくるくると宙で回して尻尾も揺らす。

 トレーナーは眉をひそめながらも、仕方ない、と頷くしかなかった。

 

「キングヘイローのトレーナー、マジで決まったのか?」

「え、もう話戻します? いやまぁ、別に構いませんが。セイちゃんとしては、もうちょっとおふざけ気分に浸っていたかったのですが」

 

 仕方ない、と道化じみた大仰な動きで肩を竦めると、彼女はベッドまで戻りごろんと寝転んで、気だるげに声を上げる。

 

「昨日、無事に決まったみたいでして。いやはや、私としましては、むしろ遅かったなぁ、くらいの感想なわけですよ。引く手数多のキングが、これだけ吟味していたわけですから。何かあったのかなーって、セイちゃん的には勘繰りを入れたくなっちゃったり」

「その結果は?」

「なんと、なんと――坊主です! ドドン!」

「引き延ばしておいてそれかぁ……」

「まぁ終わったことですし。何を知ってどうしようと、今更どうしようもないわけで」

「ごもっとも」

 

 そっかぁ、と彼は小さく呟くと、口を閉ざした。

 手のひらを宙にかざして、彼は天井よりも遠くのどこかを見つめている。

 

 それを横目に見ていたセイウンスカイは、しばらくジッとその様子を見つめた後。

 状況が全く動かないことを察して、口を開いた。

 

「大体、トレーナーさん。ちゃんとキングにアピールしました? というよりスカウトしました?」

「……してない」

「ですよねー。もうとっくにデビュー戦が終わっている子がいて、ジュニアのG1レースに出走するなら、このあたりが限度なわけでして」

「まぁ、確かに」

「つまり、もうトレーナーさんがスカウトできるウマ娘というのは、事実上ほとんど残っていないわけなのですよ。あ、いや溢れちゃった子たちとかそりゃいますけど。キングを狙うようなトレーナーさんですし。かなーり厳しい基準を持っていそうなことは、想像に難くないわけでして」

「……そう言えば、君は他のトレーナーとの本契約とかは取っていないのか?」

「私は全く。何分、凡庸なウマ娘はスカウトなどに縁がないわけです」

「凡庸……凡庸?」

「そう。凡庸なのです。周りから見た私はまさしく、凡庸なのです」

「そう、か」

 

 トレーナーは考え込むように、数秒の空白を生み出すと。

 吟味したのか、それともこぼれ落ちたのか。

 

「三冠、いけるかもな」

 

 彼はそんな言葉を口にしたのだ。

 ピクリと耳を震わせた彼女は「おやおや?」と、おどけたような、からかうような調子で口を開く。

 

「トレーナーさんは、セイちゃんを高く買っていただけるみたいで。自分で言うのも何ですが、うだつの上がらないウマ娘だという評価は、今のところ正しいと思うわけでして」

「そしてそのズレた外部評価が、最高の仕掛けになっている」

「……ほう?」

「皐月賞と日本ダービーの時点で、勝負勘が定着するのは稀なことだ。そして、稀だからこそ逃げウマ娘はペースメーカーとして、他のウマ娘のペースをかき乱しやすい」

「でも、それだけで勝てるほどクラシック三冠は甘くありませんが」

「君の地力なら出来る。エルコンドルパサーのような子は……バ群の中に埋めてしまえ」

「なるほど、なるほど……え?」

 

 あれ、とセイウンスカイの頭の中で警鐘が鳴り始める。

 何かこの流れ、前にもなかったっけ、と。

 

「だから、まずデビュー戦は『差し』か『追込』で勝つように。重賞レースに出走するまでは『逃げ』と『先行』は使わないようにするんだ。ただし、『差し』から徐々に『先行』の位置までレースを運ぶのは構わない。セイウンスカイは掛かり気味の『差し』ウマ娘だ」

 

 やっぱり! と、セイウンスカイは思わずベッドから跳ね起きて、トレーナーの方を向いて声を上げる。

 

「……ちょっと、ちょっと、ちょっと! トレーナーさん、それ正気ですか!? 本番、それも大切なスタートダッシュでそれをやれとおっしゃってます!?」

「『差し』のように見せかければ、結果的に『先行』と変わらないような形になる。それなら、君の得意分野だろう?」

「確かにセイちゃんは先行も出来ますけど! できますけど!」

「なら問題ない。大切なのは出遅れないことだ。出遅れれば、スタートに失敗した先行のように見える。スタートダッシュは確実に、ただし立ち位置は『差し』を意識して、徐々に『先行』の位置に進んでいくんだ。それだけやれば、掛かった差しウマ娘の完成だ」

「セイちゃんのレース勘とか、そういうものを伸ばすおつもりはないと?」

「勘より論理だ。逃げウマ娘なら尚更な。あとは君次第だから、頑張れ未来の三冠ウマ娘」

 

 トレーナーはあくまで、ソファから動く様子を見せない。声に熱量のようなものはなく、どこか投げやりなようで、どうでもよさそうに、「今日は晴れだな」などと当たり前のことを口にするように、平坦な声だった。

 

「……なら」

 

 トレーナーの言葉を受けて、彼女はしばらくの沈黙の後に口を開く。

 

「もしも私が三冠ウマ娘になったら、トレーナーさんはご褒美を用意するべきだと思います」

「俺が? ……いや、まぁたしかに。『君を伸ばすための指導』しかしない、って言ったからな。勝つのは君の仕事となれば、その達成を祝福するぐらいは当然か」

 

 ふむ、と彼はイヤホンを外してから、宙に視線を向けた。

 その沈黙の間、彼は一切動くことがない。身動きひとつ、指一本、瞬きひとつも行わない。

 

 そして、パチン、と気だるそうに半開きだった目が瞬きをしてから。

 

「まぁ、三冠ウマ娘の言うことなら何でも聞こうか。あのメンバーの中でその偉業なら、それくらいが妥当だろ」

「おっと、セイちゃんとしては豪華なご飯を奢ってもらう程度に考えていましたが、これは思わぬ収穫……言質は取りましたので、やっぱりなし! なーんて聞きませんよ?」

「それでいい」

 

 それだけ言うと、彼はイヤホンをまた耳につけて、パソコンの中に視線を戻した。

 あまりにも淡白すぎる反応に、セイウンスカイのウマ耳がピクリと反応する。不満に頬を膨らませ、「ぶーぶー」と抗議でもするように声を上げる。

 

「もうちょっと焦ってくれないと、セイちゃんも張り合いが無いと言いますか、やる気が下がると言いますか」

「……なら、期待に応えて」

「お、トレーナーさんもついに乗り気に」

「デビュー戦終わったら1ハロン12.5秒な」

 

「  」

 

 文字通り、セイウンスカイは絶句した。

 必ず目の前の邪智暴虐な新人トレーナーを打ち倒さなければならない。

 

 しかし、セイウンスカイにはトレーナーの日常も人となりさえわからない。

 セイウンスカイはウマ娘である。道を走り、釣りをして、知恵を働かせながらも気楽に遊び暮らしてきた。

 けれども智略に関しては、人一倍の関心があった。

 

「この 鬼! 悪魔! 意気地なしの甲斐性無し!」

 

 グサ、とどこかで音を立てたが、それは彼女に聞こえない。

 そんな憎まれ口に悪口を叩きながら、セイウンスカイは風の如く、瞬きの内にトレーナー室を飛び出した。

 

「……」

 

 トレーナーが動いたのは、それからしばらく後のこと。

 今日も彼は、一人になってから立ち上がる。

 

 



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第3話 風に乗った雲になろう

 トゥインクルシリーズのデビュー戦はフルゲート(最大出走人数)9人での出走で行われる。

 格式高いG1レース……例えばクラシック三冠の皐月賞、日本ダービー、菊花賞ではフルゲート18人であり、現在のトゥインクルシリーズでフルゲート割れ――出走ウマ娘が18人に満たなかったこと――はまず起きないと言っていい。

 

 デビュー戦のフルゲートはG1レースの半数にまで絞り込まれているが、これはトゥインクルシリーズが狭き門である……というわけではない。むしろ、可能な限り広い門にするための措置である、と言ってもいい。

 何故なら、同レースで現れる勝者というのは、完全同着という異例を除いてたった一人だけなのだ。1レース中に18人走れるとしても、デビュー出来るのは1人だけ。それ以外は未勝利戦から勝ち上がるしかない。そうなれば、必然的にトゥインクルシリーズを駆け抜けられるウマ娘は、フルゲート計算して半数になってしまう。これでは、競技人口が減るだけでなく、逆に狭き門となってしまう。

 ならば、デビュー戦の回数は多くして、フルゲート9人という設定にした方がいいというのは必然だと言えるだろう。

 

 そもそもの話、デビュー戦を迎えるウマ娘たちというのは、いくらトレーナーの指導があろうとも、中央トレセン学園の高い倍率を抜けてきた全国屈指のウマ娘たちと言えども、新人なのだ。例えエリート中のエリートという立場であろうと、クラシック世代と比べてさえ、レースに関しては初心者と変わらない。

 

 そんなレース初心者たちが、初のシリーズデビューを懸けた初陣で、果たして18人というライバル達を意識しながら、自分の実力を十分に発揮できるだろうか。

 

 当然、出来るはずがない。

 

 クラシックはおろか、シニア世代のG1ウマ娘たちでさえ、フルゲート18人での出走の中、バ群に呑まれて思うように走れなかった、という事例は枚挙に暇がない。

 バ群に呑まれない、好位置に控える、適切なスパートで一気に先陣を切り抜ける。そんなものは、練習を積み重ね、シミュレーションを重ね、レースを重ね続けることで伸ばしていくものであり、間違っても最初から万人に身についている「当然のもの」ではないのだ。むしろ身についているのなら、そのウマ娘は「天才」という評価をする他にない。

 

 だからこその、フルゲート9人。

 バ群に呑まれにくく(そもそも固まることが少なく)、個々の才能を思う存分に発揮出来て、且つ競技性(駆け引きやライバル関係など)が失われず走れる最低限のライン。それこそが、フルゲート9人なのである。

 

 

 

 そして、そんなフルゲート9人、という点に目をつけたウマ娘が一人。

 

「さて、ほどほどにがんばりましょうー、っと」

 

 ゲートに入りながら、掴みどころのない様子で気の抜けた声を上げる。

 宙に浮いているような、風に吹いて飛ばされそうな印象。気迫とは無縁の様子。その証拠に、誰も彼女に注目していない。

 

 つま先を二度、ゲート内の地面につけてから、彼女はゲートの中でスタート体勢を取る。

 

『ゲートイン完了。出走の準備が整いました』

 

 そんな軽い調子の彼女だからこそ。

 

『今、スタートが切られ――』

 

 一陣の風が吹き抜けるように、誰よりも前に抜きん出る。

 そして吹き抜けた風がピタリと止まれば。

 

 彼女はまた、ゆっくりとそよ風に乗った雲のように、マイペースに脚を溜めるのだった。

 

 

 

「スカイさん。デビュー戦、まずは一勝おめでとう」

 

 整備された芝の練習コース。今日はどうしようかなー、と他のウマ娘たちの練習風景を座って見ていた彼女の前に影が差した。

 見上げてみれば、そこに立っているのは学友でありライバルでもあるキングヘイローであった。「キングじゃーん」と気の抜けた返事と共に手を上げたセイウンスカイは。

 

「ありがとねー。ちょっと危なかったけど、勝てて本当に安心したよー」

 

 これまた気の抜けた、そよ風のようにお気楽な調子の声で返す。

 

「アナタは相変わらずね。それに、『差し』を選択するなんて、このキングに対する挑戦状ってことかしら?」

「ありゃ、バレちゃいました?」

「えぇ! わざわざこの私と同じ脚質を選ぶなんて。でも忘れないことね。同じレースに当たった時、勝つのはこの私、キングヘイローよ! おーほっほっほ!」

「確かに、このままキングと当たったら、勝つのは難しいかなー」

 

(『差し』なら、ね)

 

 いい傾向だと、セイウンスカイは間の抜けた表情の裏に笑顔を隠す。仕掛けの第一歩は好調、といったところだろう。

 

「キングの方も凄いって聞いたよー。大差勝ちだってね。さっすがー」

「えぇ。でも、ここで止まってなんていられないわ。だって、私はキングだもの。このまま、勝利に向けて突き進むわ」

「いいねー。やる気十分、って感じ」

「……スカイさんは、もう少しやる気を出した方がいいんじゃないかしら」

「えぇー。セイちゃん、頑張ったら三か月はお休みもらいたーい」

「またそんなことを言って。本当に、私が圧勝しちゃうわよ」

「ま、それはレースがどう転ぶか次第、ってことで」

 

 それもそうね、とキングヘイローは引き下がる。

 

(おや?)

 

 いつもなら小言が始まる場面。しかし、それが始まらないのは一体どういうことか。

 もしかすれば、お互いに学友ではなくライバルになったことで、過干渉を控えているのかもしれない。なるほど、確かにそれなら納得はできる。

 

「……それはそれとして。スカイさん、アナタ、ちゃんとトレーナーが居たのね」

「え? どしたの急に」

「別に。ただ、いつの間にトレーナーを決めたのか、気になっただけよ。他意はないわ」

「うーん、成り行き?」

「……そんな調子で大丈夫なの?」

「なるようになりますとも」

 

 そう言いながら、セイウンスカイは立ち上がる。そしてポケットに手を入れたところで……思いとどまり、その手をポケットから出してキングヘイローに手を振った。

 

「じゃ、私は用事があるのでこれにて。またねー」

「えぇ。レースで当たること、楽しみにしているわ」

 

(……ホープフルステークス、出ようかな)

 

 キングヘイローに背を向けて、宙を見て歩きながら、セイウンスカイは考える。

 

 「ホープフルステークス」。

 格式高いG1レースの中でも、ジュニア期のみに出走が可能なフルゲート18人、中距離2000の中山レース場で行われる、一生に一回しか出られないレース。開催時期は12月後半、年末付近に行われる。

 ジュニア期のG1レースは、この「ホープフルステークス」を除いて、12月前半に開催される「朝日FS」と「阪神JF」だけであり、この二つのレースはマイル1600の阪神レース場で行われる。同時期の開催ということもあり、この「朝日FS」と「阪神JF」はどちらか一方にしか出走登録が出来ないようになっている。

 

 この「ホープフルステークス」の特徴的なところは、あのクラシック1冠目の「皐月賞」と同じ距離、同じレース場で開催されるということだ。天候に左右されることもあるが、条件は同じ。また、この「ホープフルステークス」には次のクラシック三冠を狙うような強豪ウマ娘たちが出場しやすい傾向にある点も見逃せない。

 ただし、ジュニア期といえども最もグレードの高い「G1レース」であることに違いはない。もしもセイウンスカイが出場するとなれば、デビュー戦1位だけでなく、余剰に1レース、どこかで走り1着を取る必要があるだろう。そうでなければ、そもそも出場権がもらえない可能性さえ出てくる。

 

(出るなら「芙蓉ステークス」か「葉牡丹賞」だけど……)

 

 当然、他の「紫菊賞」など、中距離2000のレースは開催されているが、こちらは開催場所が「京都」ということもあり、移動時間がどうにも負担になりやすい。さらに言えば、レース場が違うせいで全く参考にならないのだ。

 そうなれば、千葉の中山レース場に行く方が、移動の負担も少ないのは明白。セイウンスカイが候補に挙げた二つは、どちらも中距離2000の中山レース場開催のレースである。

 

 違う点を挙げるとすれば。

 

 「芙蓉ステークス」は9月後半に開催されるオープン戦であり。

 「葉牡丹賞」は、11月後半に開催されるプレオープン戦である。

 

 実績として、プレオープンよりもオープン戦の方が比重は重い。しかし、開催時期は9月後半。

 今は、真夏の猛暑が照り付ける8月の後半である。

 

(オープン戦に仕掛けも何もないけど……予行演習、実感と勘を養うなら)

 

 レースはできるだけ近い感覚で行いたい。

 幸い、セイウンスカイは重賞レース(G3、G2、G1レースのこと)以外で「逃げ」を使おうとは思っていない。すべて「先行」に近い「差し」で勝負を進めるつもりである。脚の負担は、「逃げ」よりも軽く、消耗の方はそれほど気にする必要もない。一ヶ月も間隔が空いているならなおさらだ。

 

(でも、「芙蓉ステークス」なら二着でも多分、「ホープフルステークス」の出場権はもらえる、はず)

 

 いやいや、とセイウンスカイは拳を握り考えを改める。

 

(「葉牡丹賞」で一着取れなきゃ、どっちにしたってダメだ。「差し」でだって、私は勝てる。あの子たちが居なければ、今はまだ、通用する)

 

 それに、とセイウンスカイはようやく前を向いて、確かな足取りで歩きはじめる。

 

(まだ、回数が足りない。もっと走らないと、わからない)

 

 方針は決まった。

 あとはトレーナーに考えを伝えて、彼女は彼女の戦いをするだけである。

 

 だから。

 いつもの位置についたら、トレーナー室に向けて走り出す。

 

 カチ、カチと音を立てながら、彼女は着実に、前に進んでいくのであった。

 

 

 

 

 

 



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第4話 スタート特急

『さぁ、残暑も過ぎ去り、秋の訪れを感じさせる中山レース場、芝2000。ターフは絶好の良バ場となっております!』

 

 ゲートの外でストレッチ。柔軟運動を欠かさずに、しかし意識とウマ耳はしっかりとアナウンスに向けている。

 

『3番人気は――』

 

 彼女の名前は出てこない。

 

『2番人気はこのウマ娘――』

 

 また、彼女の名前は出てこない。

 しかし、肝心なのは次だ。次のアナウンスで、これから先の指針が決まる。

 

 セイウンスカイは柔軟を終えると、誘導に従ってゲートに入る。

 

『そして1番人気の紹介です。セイウンスカイ! スタートに定評のあるウマ娘です!』

『私も一押しのウマ娘です。本日はフルゲート18人の出走ですが、冷静なレース運びが出来るのか、注目していきたいところです』

 

 あちゃー、とセイウンスカイは天を仰ぐ。手で顔全体を覆って、上がってしまう口角を何とか隠し通す。

 

(柄じゃないけどさ)

 

 瞑目して一度、大きく息を吸って吐く。

 

「期待通り、頑張りますか」

 

 そう、期待通りでいい。

 つまらない結果にこそ、値千金の価値がある。

 

 スタートダッシュで抜きん出て。

 脚をためながら好きな位置に陣取って。

 どうすれば差し足を最大限に活かせるか、何をされると失敗するかを考える。

 

 そうやって、理想の形に持って行ってから。

 溜め込んだ末脚で差し切る。柄ではないが、地力の差をもってねじ伏せる。

 

 セイウンスカイはずっと、ずっと前だけを見つめていた。

 

 

 

 オープン戦と言えども、有力そうなウマ娘は記事になることが多い。レース結果を報じながら、このウマ娘が良かった、あのウマ娘は光るものがある、などと書き連ねる。

 

『スタート特急セイウンスカイ! 前に突っ切る差し足輝く!』

 

 その記事は、オープン戦にしては思いの外大きく掲載されていた。たかがオープン戦の一勝を、まさか一面に飾るなんて誰が思っただろうか。零細のスポーツ新聞社の記事ではあるものの、世間のウマ娘に対する関心は極めて高い。その記事が全国に広がるのもまた、時間の問題なのかも知れない。

 

「おぉー、ホントにセイちゃんの輝く新聞記事だー!」

「……どっから発掘してきたんだ、これ」

 

 トレーナー室。己がデカデカと映った新聞を二部持ってきた彼女は、その一部をトレーナーに渡して、もう一部はベッドに寝転んで自分で熟読し始めた。時折ヤジを飛ばしながらも、彼女にとっては思いの外、好感触のようである。

 

「いや、実はじいちゃんが見つけて電話してきてさー。次の日になったらこの新聞が届いていたってわけ」

「それはまた、何というか。ベタ甘だな」

「そうなんですよねー。セイちゃんが可愛くて可愛くて仕方ないみたいで」

 

 記事の内容は、思いの外シンプルな切り口だった。生でレースを見た人間に対してではなく、あくまで読み物として現場の熱を伝えていることによって読みやすい。

 

 要点もまとめられており。

 1.今年のジュニアにスタートで右に出るものはいない。

 2.爆発力ではなく、安定した末脚は見ていて気持ちがいい。

 3.掛かり気味ではあるが、残った末脚を見てもステイヤーとして輝く素質があるだろう。

 

 などと、そんなことが書かれている。

 

「いやー、こうして見るとおかしくて、ついつい笑っちゃって、隠すのが大変でして」

「笑うくらいは良くないか? 大胆不敵、で押し通せるだろ」

「お、それも確かに。オープン戦1勝したわけですし、それでいきますかー」

 

 上機嫌に、彼女は鼻歌を口ずさむ。さすがウイニングライブを二度も乗り切っていることもあってか、音程はしっかりと合って、心地の良い音色になっている。

 

「ちなみに、走り心地はどうだ?」

「うーん、違和感とかはないけど、やっぱ大変だねー。特にスタート失敗した子って、だいぶ無茶しないとダメだね。前から脚をためる分には、結構楽なんだけどさー」

「そうか」

 

 鼻歌と、キーボードを叩く音だけが室内に響く。

 各々が好き勝手に、ただそこに居座っているからこそ。会話が続かないことにお互い、思うところはない。調和を気にするほど、二人は神経質ではなかった。

 

「あ、ところでさ」

 

 思い出したように、セイウンスカイは彼の方を見て声を上げる。

 

「トレーナー、ずっとパソコン触ってるけど、それ何してるの?」

「勉強」

「うわぁ、真面目! 不真面目だけど真面目! 真面目に不真面目!」

「やめろ、絵本か。あと最後意味違うだろ。それと大人になったって、勉強からは逃げられないんだよ」

「えぇー、セイちゃんは逃げ切りたーい」

「諦めろ。専業主婦になろうが会社に勤めようが、どっちにしたって勉強だからな」

「いいえ、逃げますとも。一生遊んで暮らせるだけの賞金稼いで逃げ切ります」

「何冠取るつもりだ……」

「うーん、9冠とか。なんちゃって。さすがのセイちゃんでもねー……」

「そりゃ、あのシンボリルドルフの大記録を打ち負かす、って宣言だからな。URA決勝も勝って、10個の冠取って万歳でもしてみるか?」

「あはは、クラシック三冠取ったら考えてもいいかなー。あ、でもそんなことしたら、じいちゃん心臓発作で本気で倒れるかも……」

「7冠達成した時点でそうなりそうだけどな」

「……ホントに興奮し過ぎて倒れるかも」

「いいね、愛されウマ娘」

「いや、全然よくないし! だからやっぱり、そんな計画なしなし!」

「そうか」

 

 残念残念、と他人事のようにトレーナーは呟く。その間も、キーボードを叩く音は一度たりとも鳴りやまなかった。

 そんなトレーナーを、どこか恨めしそうにジッと見つめながらも、セイウンスカイはそれ以上動こうとはしなかった。ベッドから降りるなど以ての外である。

 

「あぁ、そうだ。ひとつだけ」

 

 珍しく、トレーナーから声が上がった。

 えっ、と驚いて、思わずセイウンスカイはトレーナーを二度見する。しかし、彼は別にセイウンスカイの方に視線を向けているわけではない。

 

「ホープフルステークス。誰が出るかは知らんが……もしもキングヘイローが出走したなら」

「……したなら?」

 

 同じ『差し』で競え、とでも言うのだろうか。

 それとも、『逃げ』をもって全力で勝ちに行け、とでも言うのだろうか。

 

 とにかく、レースに関わる重要なことなのだろう。セイウンスカイが真剣に、耳を傾けていると。

 

「レース中に彼女が掛からなかったら、皐月賞のライバルは暫定でキングヘイローだ」

「……へ?」

 

 え、それだけ? と、セイウンスカイは訝しんだ。しかし、次の言葉を待って黙っていても、それ以上彼が口を開くような気配は微塵もなかった。

 

「え、もっとないんですか? 作戦はこうしろー、とか。レース展開はああしろー、とか」

「ない」

 

 バッサリと、瞬きする間もなく切り捨てられた。そのことに、えぇ……とセイウンスカイは困惑の声を上げると、しばらくしてから、ため息を大きく吐いて枕に顔を埋めてしまった。ぶん、ぶん、と尻尾を揺らして、足をパタパタと動かして。

 ピクピクと時折震えて動く耳には、相変わらずキーボードの音が、よく聞こえてきた。

 

「トレーナーさん、さぁ」

 

 しばらくして、やっと顔を上げて……それでも、顎を枕に乗せたまま、彼女は呆れたように声を上げる。

 

「放任主義が過ぎません?」

「手が掛からなくて助かる」

「……そうですか」

 

 へにゃり、とベッドの上で力を抜いた。

 それでも、耳は時折ピクリと動き、尻尾はやはり、メトロノームのように揺れ動く。

 

「おやすみなさーい」

「おやすみ」

 

 瞼を落として、考える。

 「ホープフルステークス」。初のG1レースは、どの脚質で挑むべきか。

 その前に余剰に参加する「葉牡丹賞」は、何を試すべきだろうか。

 

 一朝一夕では思いつかない。それでも、こうしてリラックスしながら考えることで、天からこぼれるように、アイデアが湧いてくることがある。

 しかし、もしもアイデアが湧いてこなかったのであれば。

 

 

 

 意識は自然と深くに落ち込み、いつの間にか寝息を立てる。

 耳は畳まれて、尻尾は垂れて動かない。ウマ娘は思いの外、狸寝入りでもしていない限り、眠ったのが人間よりもわかりやすい。

 

「10冠……か」

 

 彼はぽつりと呟くと、キーボードを弄る手を止めて、いくつかの動画を開き始める。

 それはある逃げウマ娘の動画。あまりにも速すぎるために、そのウマ娘がいるだけでフルゲート割れどころか、その3分の1にも満たない人数で開催された重賞レースがあるほどの、歴史上、最高峰と言わざるを得ないウマ娘。

 

 それらをいくつか視聴したところで、ため息を一つ。

 彼はまた、キーボードを叩きはじめるのであった。

 

 

 

 



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第5話 地固め

「じゃじゃーん! セイちゃん、新聞デビューしちゃいましたー!」

 

 大々的に、同期たちが集まる中で嬉しそうに、彼女は自分が載った零細新聞を取り出して彼女たちに見せつける。

 おぉー、と同期三人……スペシャルウィーク、エルコンドルパサー、グラスワンダーは声を上げた。

 

「あ、ほんとにセイちゃんが写ってるー! すごいすごーい! これってこの前のレースのやつだよね!? いいないいなー!」

 

 そんな中で、大きくはしゃぎ回るように声を上げたのはハルウララだった。桃色のポニーテールを揺らしながら、新聞に一等星に負けない輝きを持つ瞳を向けている。

 

「あははー、それほどでも……あるかなー」

 

 そんなハルウララの天真爛漫な様子に、セイウンスカイも満更でもなさそうに胸を張り、尻尾を揺らした。

 

「新聞……レースに勝ったら、新聞に載っちゃうんだ」

「スペちゃんには私、期待してるよー?」

「うえっ!? え、えっと、が、頑張ります?」

「そこ! もっと声高らかに!」

「えぇ!? えっと、は、はい! 頑張ります!」

「うん、その調子その調子!」

 

 どこか他人事のように見つめていたスペシャルウィークに、セイウンスカイは活を入れて気合を入れさせる。それは半ば冗談のようなものだったが、彼女のピンと張りつめていた尻尾は、今は余計な力が抜けていた。

 

「ワタシも負けていられません! 次のレース、必ず勝ってもっと大きな記事になってみせマース!」

「おっ、やる気だねー。新聞に載ったら是非、セイちゃん宛に一部くださいな」

「はい! その時はみんなに配りマース!」

 

 対抗意識を燃やしてきたのはエルコンドルパサーだった。自分もそれくらいの活躍はしてみせる、という自信とやる気を漲らせ、今にも走り出しそうなほどそわそわした様子を見せ始める。尻尾が勢いよく揺れているのが、その表れともいえた。

 

「しかし、勝って兜の緒を締めよ、とも言いますよ。嬉しいのはわかりますが、程々にしないと、『差され』てしまうかもしれませんね?」

「うっ、グラスちゃんがそれ言うと、シャレになってないから。それに、セイちゃんは安定感が持ち味の子なんですー。そんな光のように差されたら、どうしようもないので。これからも気楽にいきますよーだ」

 

 そして引き締めてくるのが、グラスワンダーだった。喜びに共感したうえで、彼女は善意からの忠告を口にする。そこには何の悪意もないからこそ、セイウンスカイも無下にするのは忍びなく、そんな風に誤魔化した。

 

(――って、みんなからは見えるのかな)

 

 慢心と喜びの仮面の奥で、セイウンスカイは手応えを覚えている。

 当然、こうやって同期のみんなとわちゃわちゃと学園生活を楽しんでいる、その感情は本物ではあるが。

 

 本物の中にこそ、一滴のスパイスを入れるのだ。

 

(隠し味は……さてさて、どんな味になるのでしょうか)

 

 安定感が売りのウマ娘。

 そこに嘘はなかった。ただ、「安定したレース運び」に定評があるわけではない。世間一般ではそういった評価をされているのかもしれないが、セイウンスカイの自己評価とはまるで違う。

 

 だからこそ、その瞬間に向けて頑張れる。

 「安定感」は地を固めるところから。

 

 そうして走りやすい地面を作ってから、彼女は走り出すのだ。

 

 

 

 

 

 

 育成方針、というのはトレーナーによって、ウマ娘によって千差万別だ。

 とにかく熱血指導にやる気を出すウマ娘もいれば、それでやる気の下がるウマ娘もいる。

 トレーニングメニューを組むことを望むウマ娘もいれば、自分で組んだものを推敲してほしいという子がいれば、全く口を出すな、というウマ娘が居ることも事実だ。

 トレーナーが四六時中監視していなければ、危ういようなウマ娘もいることだろう。

 

 例えば、スペシャルウィークのような右も左もわからないウマ娘に、自分でトレーニングメニューを考えろ、というのは酷であり、それは指導として明確に間違いだと言える。自分で考えさせるにしても、まずはトレーナーが補助輪となるべきだろう。

 グラスワンダーのように、無茶をしがちなウマ娘には目を光らせながらも、寄り添う姿勢が大切だろう。

 エルコンドルパサーであれば、目標と成長段階、そして本人のやる気に合わせた練習メニューによって、みっちり鍛えるのが良いかもしれない。

 

 そして、その成否の一端が垣間見えるのが、レースという彼女たちの舞台である。

 実戦を経て、何が足りないか。何が敗因か。逆に何が良かったのか。それらを洗い出していくことで、次の指導に活かしていくことは、共通して大切なことだ。

 

 それらをすべて、自分で出来てしまうウマ娘が居ることもまた、事実。

 専業にしているトレーナーよりも、質は落ちるかもしれない。それを考える時間が負担になるかもしれない。

 だが、それら全てを客観的に捉えて、自分自身に落とし込むことが出来れば、どうだろう。

 

 

 自分の状態を万全に把握出来て。

 自分に足りないものを己で客観視することが出来て。

 それらを解消する方法と、自分の疲労状態を、自分であるからこそ誰よりもコントロール出来て。

 

 それら全てを踏まえた上で、本番に練り込んで計画を立てることが出来るとすれば。

 

 果たしてトレーナーは、そんなウマ娘に何をしてやるべきなのか。

 

 

 

 

 セイウンスカイ、彼女を仮にも担当しているトレーナーならば。

 

「手の掛からない子ですから。次も安心して、座っていることにしますよ」

 

 試合前の会見に同席した彼は、パリッと糊のきいたシャツとスーツに身を包み、人の好さそうな、清涼感溢れる様子でそう語った。

 

(うわ、誰この人)

 

 などと、隣のセイウンスカイは彼をチラッと見て内心引いていたが、それは余談というものか。

 

「そうですねー。トレーナーさん、今日は植林されちゃったようでして。いつもは根っこ張ってるんです」

「こらこら、本当のこと言っちゃダメでしょう」

「え、それ自分で認めちゃいます?」

「事実ですから」

 

 ははは! と会場が和やかな笑い声に包まれる。ふわり、ひらりと記者の質問をかわしながら、二人は非常に親しそうに、互いに掛け合いを飛ばして己のペースに持ち込んだ。

 

「先の『葉牡丹賞』では堂々の一着。手応えは?」

「ずばり、期待通りできたと思います。期待の新人ウマ娘として、これからも頑張りますとも」

「次のホープフルステークス。ここまで同じく3連勝中のキングヘイローさんが出走を決めていますが、自信のほどは?」

「うーん。正直、キング相手には厳しいかなー、って。同じ『差し』でも、切れ味では負けるかも」

 

 でも、とセイウンスカイは言葉を続ける。

 

「安定感抜群! それがセイちゃんの売りですから。どんなレースでだって、崩れたりしませんとも。だから、蓋を開けてからのお楽しみ、ということで」

「安定感と本人は言ってますけど、ここまで3戦とも、『差し』にしては上がり過ぎですからね。巷では暴走特急なんて渾名もついたみたいで。私としては、もっと腰を据えてほしいですが」

「担当の弱みペラペラしゃべっちゃいます普通? いいんですー。私はアレが走りやすいんですー」

「ほら、この調子です。だから、前に上がり過ぎてたら言ってやってください。セイウンスカイのエンジンがまた『掛かった』ぞ、なーんて」

 

 再び、会場は笑いに包まれた。

 そんなペースで進めていけば、会見……G1レース、ホープフルステークス前のそれは、あっという間に終わってしまった。

 

 そして会場から引っ込んだ後、舞台裏で二人は視線を合わせて、一度頷いた。

 

 彼はネクタイを緩めて、少女は大きく伸びをして。

 

「じゃあ」

「帰ってダラダラしましょー。あ、私は先に車の中で昼寝もします」

「安全運転には定評があるぞ」

「それは重畳」

 

 宣言通り、セイウンスカイは助手席で眠りこけ、彼はゆっくりと、出来る限り車体を揺らさないように車を走らせる。

 この時ばかりは、彼も運転に集中して、何かをする様子は微塵もない。

 

 昼寝のゆりかごは学園に着くまで、彼女を優しく揺らすのであった。

 

 

 



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第6話 対抗意識

 セイウンスカイは、堪えきれない笑みを堂々と表に出して、パドックに上がった。青空と白い雲、夏の清涼な風を思わせる、ふわふわとした勝負服を身につけて、その上に羽織っていたジャージを脱ぎ捨てて、自身の仕上がりをお披露目してみせた。

 

「これは……」

「バランスが良い。これなら、来年のG1にも期待できるな」

「ただ、差しウマ娘にしては……少し物足りないな」

「しかしあの表情、間違いなく絶好調だ」

 

 ウマ娘の耳は非常に良い。そんな評判が聞こえてきて、彼女がますます笑みを深くすれば、おぉ、と歓声を上げる者が現れるほどに、その佇まいは堂々としていた。

 

(うーん、流石に筋肉までは誤魔化せないかー)

 

 そんな飄々とした内心を強気な笑顔の仮面に隠して、彼女は次の子に譲るように、パドックの舞台から降りた。ジャージを回収することも忘れていない。

 

 壇上から降り切る前に、彼女は最前列に陣取った、折り畳みの椅子に座ったトレーナーと視線を合わせる。しかし、交差したのは一瞬のことで、彼はすぐにお披露目されるウマ娘の肉体の方に視線を移した。

 

「ありゃ、振られちゃいましたっと」

 

 おふざけ気味に声を上げながら、セイウンスカイもまた、パドックの方に視線を向ける。ふむふむ、と訳知り顔で頷いてはみせるものの、彼女は生粋のレースウマ娘である。ウマ娘の肉体を見ただけで、正確な強みやら、成長やらがわかるわけではない。

 

 それでも、見ないよりはマシだとジッと見ていれば。

 

『キングヘイロー』

 

 とうとう、ライバルが登場した。

 深い緑の勝負服に身を包み、彼女はジャージを脱ぎ捨てると、優雅にカーテシーを披露してみせた。ひゅう、とセイウンスカイは口笛を吹きながら、ジッと彼女のことを見つめた。

 

(いや、これは素人目でもわかっちゃうなぁ)

 

 やれやれ、と首を振っていると、聞こえてくるのは。

 

「本当にジュニアの仕上がりか?」

「これは、来年の皐月賞ウマ娘は彼女かもしれないな」

「これだけ力強く、それでいて均整の取れた肉体とは……素晴らしいな」

 

 評価は一瞬にして塗り替えられた。他の全ての参加ウマ娘を差し置いて、彼女こそが王者だと言わんばかりの空気が形成されていく。

 

(ホント、神様は理不尽だよね。セイちゃん、結構頑張ったのになー)

 

 才能の差というのは、かくも残酷なものなのか。セイウンスカイとキングヘイローの肉体の完成度は、ジュニア期12月とクラシック3月ほどの差が存在する。

 それを、セイウンスカイは具体的には理解していない。それでも、隔絶した肉体の完成度であることは、否が応でも理解が出来た。レースウマ娘としての本能か、それとも勘か。圧倒的な差を、突風を受けるように感じ取った。

 

 ちらりと、もう一度トレーナーの方を見てみれば。

 

「……」

 

 彼は真剣に、キングヘイローのことを見ている。見透かすように、あるいは睨みつけるように。

 

(あー、おっかないなぁ……)

 

 普段の怠けたような瞳でも、猫を被って笑った瞳でもない。

 剣の切っ先を喉元に突きつけるような、あまりにも鋭利な瞳が、王者の姿を射抜いている。

 

「……あら」

 

 そんな瞳に、キングヘイローは気づいたのか。それともただの挨拶なのか。

 どこか意味深長な笑みを浮かべると、彼女ははじめと同じように、しかし先ほどよりもほんの少しだけ彼の方に向いて、カーテシーを披露して、ジャージを拾ってから壇上を降りていく。

 

 キングヘイローが壇上から降りた後しばらく、彼の視線はキングに向いていたが。

 

『――』

 

 次の子のお披露目になった時には、カチリと音を鳴らすように切り替わり、パドックに視線を戻した。

 どこか気だるげで、つまらなさそうな瞳が表に出たのも一瞬で。

 

 瞬きの後には、外向きの笑顔に戻っていた。

 

(ま、トレーナーさんには悪いけど)

 

 パドックのお披露目が終われば、選手入場口となっている地下道に、彼女はさっさと足を進める。

 後頭部で両手を組み、如何にもリラックスしてますよ、といった体を見せつける。

 

「セイちゃんは、今日も平常運転だよ」

 

 そして事実、彼女に気負うところは何もない。

 尻尾は気ままに横に揺れ、その唇は勝者の歌をハミングしながら。

 

 セイウンスカイは、レース場に足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

 ゲートに入る前。その時間がどうにも、セイウンスカイは好きになれない。

 柔軟運動をすることが苦なわけではない。怪我をしないためにも必要なことだ。運動をする前の仕込みだと考えれば、それはそれとして楽しむことが出来た。

 

『3番人気は――』

 

 ただ、これからゲートに入るんだ、ということを意識するとどうにも、気分が落ち込み気味になるのは避けられない。

 だから、柔軟運動をしっかりしているように見せて、彼女はゲートに最後に入る。

 

(……あ、結局、キングは絡んでこなかったなー)

 

 セイウンスカイもキングヘイローも、お互いにライバルであるという認識に齟齬はない筈だ。

 キングヘイローの性格上、ライバルに向けて宣戦布告だとか、開戦前に挨拶一つでもしてくると思っていたが、どうやら当てが外れたらしい。

 

『2番人気はこのウマ娘。セイウンスカイ! 今日も最初に抜きん出るのは彼女なのか!』

 

 それでも、セイウンスカイがやることは変わらない。

 

(だからって、私はムキになったりしないよ?)

 

 まぁそんなこと考えてないだろうけど、と胸の内で呟きながら。

 近づいてきた係員から逃げるように、彼女もまたゲートに入る。

 

『そして1番人気はこのウマ娘! キングヘイロー! 王者に相応しい貫禄、その魅力をこのレースで刻み付けることはできるのか!?』

 

「おー、煽りますなー」

 

 そう言いながら、彼女は時間を持て余し、ゲートの中でも柔軟運動に励んだ。目をつむって、軟体動物でも真似するように、道化の如き動きで体をほぐす。

 

(うん、よし)

 

『ゲートイン完了。出走の準備が整いました』

 

 彼女が頷くと同時に、出走前最後のアナウンス。

 二度、余裕をもってその場で跳ねてから、息を吐く。

 

 スタート姿勢に移り、瞑目は一瞬のこと。

 彼女は前を見つめて。

 

 目の前に光が差し込んだと同時に。

 

「ふっ――」

 

 一陣の風となって、いつも通り、誰よりも前に抜きん出た。

 

 

 

『スタート! やはり最初に飛び抜けたのはセイウンスカイ! 今日はどの位置まで下がるのか!?』

 

(それは、居心地がいい場所まで、ってね)

 

 ペースはわざと抑え気味。

 セイウンスカイは拳を握り締めて、息を吐くと共に親指を曲げる。その頃には、もう先行組の先頭にまで順位が落ちる。

 

 もう一度、親指を曲げれば先行組の後方にまで下がり。

 さらにもう一回それを経ると、差し組の先頭の位置まで流れることが出来た。

 

 その様はまるで一塊の雲が風に運ばれるように、どこまでもマイペースな流れであった。

 

(っとと、これ以上は、ね)

 

 握りこぶしを解き、指をピンと伸ばして彼女は走る。ペースを上げて、現状を維持できるだけの最低限の力で、脚を温存し始める。

 そして、その位置にまで来て初めて、捉える音があった。

 

(――おっと?)

 

 ドン、と大地を抉り飛ばす鈍い音が聞こえたかと思うと。

 セイウンスカイの横を、風が吹き抜ける。深緑の影は、彼女のやや前方に躍り出た。

 

(それは、早くないかなー?)

 

 先行組の最後方。そこまで位置取りを上げたのは、キングヘイローだ。

 ちらりとセイウンスカイが後ろを見てみるも、団子になっているような様子は何処にもない。

 

(うーん……?)

 

 内心で首をひねりながら前に視線を戻すと、キングヘイローは差し組先頭、先行組最後方の2バ身ほど空いたスペースに陣取っていた。それ以上前に行く様子はなく、掛かっている、とは言い難い状況だ。

 

 キングヘイローは、仕掛けてきたわけではなさそうだ。

 

(――なるほど、ね)

 

 

 

 意識されている。

 キングヘイローの位置はちょうど、先行組と差し組にできた狭間であり、彼女は今、どちらのタイミングでも仕掛けられる状況を作り出している。

 

 リードを許さない、と。

 堂々たる走りを見せながら、彼女はセイウンスカイを常に間合いに収めている。

 

 セイウンスカイが上がってこなければ、自分のタイミングでスパートを切るつもりだろう。

 セイウンスカイが上がってきたなら、それに合わせて足を進めて、手遅れになるような状況を作らないつもりなのだろう。

 

(やってくれたね、キング)

 

 冷静さに、思わず舌を巻く。

 

 既にレースは後半に差し掛かっているが、残り1000で仕掛けるのは、今のセイウンスカイでは早すぎる。かといって、手をこまねいていては地力をもってねじ伏せられるのは時間の問題だ。

 

 

 

 前を見る。

 先行集団は5人。コース内に寄っているウマ娘が3人と、その隣で並走するような形をとるウマ娘が2人。競い合えば、いずれは先行集団と団子になる。

 つまり、内側には壁があるような状況だ。駆け上がりながら競うなら、圧倒的に外側が有利なのは間違いない。

 

 即ち、キングヘイローより前に行くためには、他のウマ娘の壁に彼女をつっかえさせるのがベストであり。

 

(仕掛けるなら、今――ッ!)

 

 拳を握り締め、親指をわずかに曲げる。

 ほんの少し内に寄り、足を前に押し出し、呼吸を合わせる。

 

 そして、ちょうど第三コーナーに差し掛かったところで、セイウンスカイは前を目指した。

 

 

 

『セイウンスカイ! ここで上がってきた! もうエンジンが掛かってしまったのか!?』

 

 セイウンスカイはキングヘイローに並び立つ。お互いに一定の距離を保っているものの、セイウンスカイは外側、キングヘイローは内側と、競い合う形でペースは徐々に上がっていく。

 

『キングヘイロー、並走! セイウンスカイと並んで離れない!』

『良いライバル関係です。どちらが先に前に抜き出るか、勝負の決め手はそこになるでしょう』

 

 突風を切り裂き、前に、前にと並んで進む。

 外を進む彼女は、空に向かって飛んでいく鳥のように大らかに。

 内を進む彼女は、一歩一歩を喝采の如く響かせるように力強く。

 

 そんな二人の視線が、示し合わせたかのように交差する。

 

(逃がさないわ)

(主導権は譲らないよ)

 

 にやり、とお互いに不敵な笑みが顔に浮かぶ。闘争心を煽る競り合いに、腹の奥底から腕に、脚に、熱い血潮のように力が漲ってくる。

 

 セイウンスカイは、親指を曲げると同時に、キングヘイローよりも前に抜きん出る。

 これを、並走する形でキングヘイローが追いかけようとしたその瞬間。

 

 前を見たキングヘイローの顔が、確かに強張った。

 

『キングヘイロー! 正面に先行集団が迫っている! これでは団子状態――』

 

(掛かったッ!)

 

 第四コーナーに差し掛かる手前で、彼女は風を切る。一息に、外側から先行集団をごぼう抜きにしていき、残すは逃げの4人だけ。その一人も、先行集団先頭のすぐ前まで垂れていて、難なく追い抜いた。

 

 あと3人。それを追い抜くだけで一着に。キングヘイローは、もはやあの集団からは抜け出せない。よしんば抜け出せたとして、相当なロスと体力の消耗を強要される。

 

 そうなれば、もはや肉体の仕上がり具合など水泡と帰す。

 

 第四コーナーの遠心力に身を任せ、外に膨らみながらもその勢いのままに先頭集団を追い抜いていく。

 最終直線に出るより少し前。あと一人追い抜けば先頭だと、いよいよ、スパート体勢に入り加速する。最後の逃げウマ娘を捉え、横並びに――なる間もなく抜いた! と思ったその瞬間。

 

『第四コーナー終盤! ここで先頭は――』

 

(――えっ)

 

 ウソ……、とセイウンスカイは全力で足を進めながらも、思考の空白が出来てしまう。

 確かに埋めた筈だ。どうしようもないバ群に突っ込ませて、詰みの状況にしたはずだ、と。

 

 それが、どうだ。

 

『キングヘイローだ!』

 

 内側から、深緑の王者が飛び抜けた。

 キングヘイローは、その壁をまるでなかったかのように、先頭に躍り出てきたではないか。

 

(ッ、でも、ここまで来たなら消耗してるはず!)

 

 どうやってあの状態から抜け出したか、前に居たセイウンスカイにはわからない。

 それを考えるのは、レースが終わってからでいい。

 

 

 

 だから、ただ前に行け、と。

 最終直線に、二人の影が並走する。

 

 しかし、並走はほんの少しのこと。

 ジリ、ジリ、と。半歩の差が、一歩の差が、一歩半の差が。

 

 同じく走っている筈なのに、生じ始める。

 

(どうして!?)

 

 位置取りに間違いはなかったはずだ。

 『差し』として、そして『先行』としても、嫌な位置に追い込んだはずだ。まともなスパートを切れないような場所に、埋めたはずだ。

 

 突破されたのは、まだ理解できる。

 だが、それでもより鋭い末脚が残っている事実だけは、受け入れたくなかった。

 

(――ッ!)

 

 もう、最後の勝負は高低差2.4mの急坂だけだ。それ以外には、ここまで残した末脚と、地力の差が物を言う。

 

 がむしゃらに、前を目指すしかなかった。

 大きく口を開けて、腕を振るって、足をずっと前に押し出して。

 

 どれだけやっても埋まらない差を見ながらも、彼女は走るしかない。

 急坂を上るところで、足が鉛のように重たくなっても、止まらない。

 

 ――差は、縮まらない。

 

『キングヘイロー! 差し切って今、ゴールインッ! 集団を堂々と突き抜け、王者の風格を魅せつけた! 年末の中山で希望の星に輝いた!』

 

 セイウンスカイは数歩、王者には及ばなかった。

 

 

 

 

 

 

(でも、わかったよ。キング)

 

 悔しさを顔に滲ませながら、その裏でセイウンスカイはほくそ笑む。

 『差し』では敗北を喫してしまった。全力で、レース展開に合わせた策を弄したとしても、二人の差は埋まらなかった。

 

 しかしこの敗北には、値千金の価値がある。

 キングヘイローの身体能力、諦めない底なしの根性は、あまりにも驚異的だ。

 

 しかし、対抗意識が過剰過ぎるその性格は、何も変わっていない。

 

(やっぱり、映像見るのと実際に走るのじゃ、全然違うね。百聞は一見に如かず、ってね)

 

 呼吸が整ってきたところで、顔を上げる。

 会場は大きな歓声が響いており、キングヘイローを讃える声ばかりだ。それがより、勝者と敗者の溝を実感させる。

 

 電光掲示板を見ても、結果は変わらない。

 セイウンスカイは二着。キングヘイローとの差は、2バ身。

 

 その現実を見て、瞑目すること数秒。

 カチリ、と意識を切り替える。いつもの調子に自分をリセットしてから、彼女はキングヘイローに手を振りながら近づいた。

 

「いやー。キング、やっぱり速いねー。一足早いG1勝利、おめでとー」

「ありがとう。……でも、満足できる結果じゃなかったわね」

「えぇ! ちょっとー、セイちゃんに勝ってそれはないんじゃないのー?」

「勝ってしまったからこそ、ね。あの壁に阻まれたとき、前の子が運よく崩れてよれたのよ。そのおかげで、突破できた」

 

(……そっかー)

 

 そう言うこともあるのか、とセイウンスカイは一瞬驚いたものの、ストンと納得がいった。

 レースだからこそ、何が起きるかわからない。目の前に壁があったとしても、一人が崩れたくらいで突破されるのでは、余裕で食い破られる。

 

「アナタの思惑にまんまとハマったわ。それを、私は運だけで解決してしまった。そんなの、キングの走りじゃないわ」

 

(運だけ、じゃないかな)

 

 キングヘイローの走りは、まるで後ろから喝采が近づいてくるかのように、凄まじい圧迫感がある。それがジワリ、ジワリと見えないところから近づいてくるのだ。

 前のウマ娘が、それに怖気づいて崩れてしまうのもまた、仕方のないことだった。

 

「またまたー。私はキングの実力だと思ってるよ。ま、次当たった時は、お手柔らかにね」

「えぇ。次こそは、完全勝利をアナタに突きつけてあげるわ」

 

 そう言って髪を靡かせると、キングヘイローは観客の方に。

 セイウンスカイは、地下道の方に。

 

 それぞれが背を向けて、歩きはじめた。

 

 

 

 

 

 

 拳を強く、強く握りしめて。

 嫌に足音の響く地下道を彼女は進む。

 

 俯いて、それでも足取りはしっかりと、前に進む。

 

「お疲れ」

 

 地下道を抜ける前に、声を掛けられた。ちらりと、顔を上げずに視線だけ向けてみれば、彼女のトレーナーが壁に背を預けていた。

 

「うん。負けちゃいました」

「負け?」

「そう、負けです。セイちゃんの、敗北です」

「冗談」

 

 思ったより滑らかで、柔らかい手がくしゃりとセイウンスカイの頭に置かれた。

 わっ、と驚きに声が上がる。突然のことに、セイウンスカイは非難するように彼の方に視線を向けると。

 

「よく耐えた」

 

 恐ろしく真剣に、力を入れた囁きが耳を打つ。

 鋭く、前だけを見た瞳を、セイウンスカイは見た。

 

「君の勝ちだ、セイウンスカイ」

 

 その言葉が、セイウンスカイの心の傷によく沁みた。

 拳からは力が抜けて、逆立ち張っていた尻尾が、力を失い下に垂れる。

 

「そっか」

「あぁ、そうだ」

 

 意味があったんだと、セイウンスカイは強く実感する。

 なら、俯いているなんてらしくない、と。

 

 彼女は顔を上げて、トレーナーに向けてにやりと笑う。

 

「セイちゃんの頭、無断で撫でるとは、良い度胸をしてますねー?」

「おう」

 

 悪びれた様子もなく、彼は両腕を上げて降参だ、というポーズをとった。

 潔くて大変結構、とセイウンスカイはひとつ頷くと、彼女は地下道の先に向けて足を進める。

 

「ウイニングライブ、ちゃんと見てください。それでチャラにします」

「はいよ。ミスがないか監視してるからな」

「えぇー? そこは、セイちゃんの可愛い姿を見る場面では?」

「そりゃあ、後のお楽しみだろ」

「そうですか。……そうですね」

 

 でも、とセイウンスカイは振り向いて、不敵な笑みを浮かべて口にする。

 

「それはセイちゃんの勇姿ですから。可愛いセイちゃんは、今日だけですよー」

「そうか?」

「はい。期間限定ですから、見逃すと損ですよ?」

「じゃあ、そこも見とく」

「良い返事です。じゃ、行ってきまーす」

「はいよ」

 

 お互いに手を振った後、セイウンスカイは一歩を踏みしめる。

 地下道を抜けて、夕日に照らされながら。

 

「よし」

 

 彼女はひとつ頷いて。

 微笑みをたずさえながら、いつもの調子で前に進むのであった。

 

 

 



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第7話 必勝祈願

 ウマ娘の闘争本能と勝利への執着。

 これらは動物的な生理現象に近いものがあり、個人差があるものの、どんなウマ娘でも少なからず備えているものだ。

 この二つが特筆されて挙げられるのは、「人間」よりもこれらに対する執着が強いからであり、それは様々な形で現れる。

 

 例えば、「速さ」に自信があるウマ娘は、それが高いプライドとして表れることがしばしばある。自分は誰よりも速いんだ、と後ろを置き去りにすることに快感を覚える逃げウマ娘がいる。

 同じ事例で、誰よりも速いからこそ、全てのウマ娘をごぼう抜きにしてやるとやる気を見せる、追込ウマ娘もいる。

 

 これらのプライドが発揮されるのは、大概がレース中である。上記の「速さ」へのプライドなら、逃げウマ娘は先頭争いに躍起になり、後続の先行ウマ娘から多大なリードを引き起こすことがある。よく「掛かり気味」などと言われるが、それは基本的に「ウマ娘としての本能」が引き起こす生理現象のようなもので、抑えるためには強靭な理性が要求されるのだ。

 

 逃げウマ娘なら、自分の前に誰かが居ることが許せない。

 追込ウマ娘なら、早く抜かしたくて堪らない。

 

 ざっくりと言えば、そんな人間の三大欲求に近い感情が「掛かり」を引き起こす。当然、人間のようにパニックを起こした「掛かり」というものもあるが、大概は本能からくるものであることは間違いない。

 そんな暴走状態に陥ることもあれば、大きく失敗をしたときには全てを諦めてしまい、やる気とパフォーマンスが地に落ちることもある。

 

 当然、これらの本能は決して悪い方向ばかりに向くわけでもない。

 

 例えば、サイレンススズカというウマ娘がいる。彼女は根っからの逃げウマ娘であり、目の前に誰かが居ることを許容できないタイプのウマ娘だ。

 そんな彼女は、誰よりも速く、誰よりも真っ直ぐに、先頭を走ろうとする。無理をしているわけではなく、本能が先頭の景色を求めて、無意識的に前に、前にと向かっていく。

 彼女は、走ることで一種のゾーンのような状態に入る。他の言葉を借りるなら、「精神が肉体を超越する」のだ。

 

 そうなった逃げウマ娘は、それはもう強い。本人はそれほど体力を消耗している意識はないくせして、「大逃げ」のようなリードでレースをちぎるのだ。誰も前に行けず、誰も追いつけず、決して垂れない、究極の逃げウマ娘が誕生してしまう。

 

 当然、これ以外にも様々な事例は存在する。逃げウマ娘になったのは、周りに誰かが居る状態で走りたくない、だとか。自分のペースで走っていたら逃げだった、とか。挙げればキリがないほどに、本能の表出の仕方は千差万別である。コンプレックスがウマ娘の本能と合わさり、逆に力を発揮する……などもあるが、それは余談というものだ。

 

 

 端的に述べるのであれば。

 ウマ娘はレースに勝利したくて仕方がない。どんな形であれ、それは大概変わらない。

 だから、レースには誰もが全力で挑むし、今ある限界の手札を以て勝利に走る。そうすることで、ウマ娘は大きな力を発揮するのだが。

 

 もしも、手札が複数枚あって。

 そこに、明確な優劣が存在して。

 勝利に対して万全とは言えない手札を、意図的に選ばなければならない場合。

 

 そこにはどれだけ、強靭な理性と忍耐が求められることか。

 それは正しく、断腸の思い、といって差し支えない苦しさが伴うことは、想像に難くない。

 

 

 

 

 

 

 カチ、と音を立てながら、少女は次のハロン棒に向けて走り出す。

 身を刺すような寒風を切り裂き、それに負けない熱に任せて彼女は進む。歯を食いしばりながら、力強く前を見ながら。

 それから1分も経たないうちに、減速しながら脇によけて、いつものようにストップウォッチを確認してみれば。

 

「……よしっ」

 

 ぐっと、手に力がこもる。

 そこには、「12.50」「13.00」「12.50」「13.00」「12.50」と、あまりにも綺麗に数字が並んでいた。

 それは、彼女のこれまでの努力の集大成だった。

 

「あと一本、いきますか」

 

 その成功体験を忘れないうちにもう一本。

 大粒の汗を垂らしながらも、彼女は前に進む。

 

 空に浮かぶ雲は、決して同じ場所にはとどまらない。

 

 

 

「どうもー、今日もお昼寝にやってきましたー」

 

 がちゃん、と遠慮無用とばかりにセイウンスカイはトレーナー室の扉を開ける。割と冗談のつもりだったため、トレーナー室が開いたことに「えっ」と声を失い。

 

「はいよ。おやすみ」

「――」

 

 ソファに根っこを生やしたトレーナーが居ることに絶句した。

 そう、冗談だったのだ。実家に帰省しなかった本日元旦。どうせトレーナーは居ないだろうと高を括って、開いていないことを確認するため扉に手を掛けただけなのに。

 

「……」

 

 ぶるっ、と身体が震える。室内の暖かさと、外の寒さに挟まれたせいだった。問題を棚上げにして、彼女はとりあえず部屋に入り、扉を閉める。そして、何事もなかったかのようにベッドの上に寝転んでから。

 

「――いやいや。え、なんで? トレーナーさん何でいるの?」

 

 至極まっとうな疑問を口にする。もはやほとんどのウマ娘が、トレーナーが帰省している元旦に、どうして仕事部屋であるトレーナー室に居るのか。

 

「ここはトレーナー室だ」

 

 セイウンスカイの焦ったような声に、トレーナーはいつもの調子で答えた。当たり前のような態度に、彼女の焦りも鳴りを潜めていくが、代わりに冷静になったせいで思考が高速回転し始めた。

 

「……もしかして、トレーナーさんここに住んでます?」

「トレーナー寮に決まってる」

「ホントにどうして居るの!?」

「寮に居てもやることがない」

 

 あっ、とセイウンスカイは思わず声を上げた。

 そして数秒考えたあと、にやりと口元を緩めて。

 

「つまり、ボッチというやつでしょうか?」

 

 核心をつく。良心といたずら心の均衡は、いとも容易く後者に傾いていた。

 流石のトレーナーも、何かしら反応するだろう。そう、期待に首を長くしていると。

 

「今は違うな」

 

 セイウンスカイは口を閉ざした。

 そうして、しばらくの沈黙が流れた後にようやく。

 

「……そうですか」

 

 とだけ返して、枕に顔を埋めた。

 尻尾が揺れる。足がパタパタと忙しない。掛かり気味、と揶揄されそうな様子を受けても、彼は沈黙を守る。

 

 その守られた沈黙は、まるで子守唄でも聞いているように落ち着くものだ。

 縛られない時間。何もかも、気にしなくていい、止まり木のような場所。

 

「キング、掛からなかった」

 

 ぽつりと、彼女はこぼす。

 彼は「そうか」とだけ相槌を打って、それ以上は語らない。

 

「対抗意識は凄かったけど、視野は狭かった。だって、セイちゃんに釘付けで前見えてなかったし。最初に追いかけてこなかったのは、あの位置まで降りてくる、って確信してたのかと」

 

 対抗意識に燃えていたキングヘイローは、ある程度の決め打ちこそしていたものの、セイウンスカイが掛かれば彼女まで釣られて掛かるくらい、危うさがあった。

 

「私が掛かったら、キングも掛かる。私が降りてこなきゃ、キングは進出する。そんな、意地っ張りなレースだったんだけどさ」

 

 そこでまた、沈黙が挟まれる。

 熟考するかのように。言い淀むかのように。空白の時間がしばらく続いてから。

 

「キングは、強いよ」

 

 そう吐き出した。

 精一杯を詰め込んだ、短い言葉だった。

 

「当たり前だ」

 

 それを、彼はいつもの調子で即答してみせた。

 

「あはは……トレーナーさん、そこはセイちゃんを褒めるところですよ?」

「よく耐えた」

「……昨日と同じで、セイちゃんの感動は半減しました」

「十分だろ?」

「でも、セイちゃんの好感度は上がりませんでしたとさ」

 

 そうか、と彼が淡泊に答えれば、また沈黙が訪れる。

 今日はもうお昼寝しちゃおうかな、と。ゆっくり、ゆっくりと瞼が閉じそうになる。疲れに痺れていた身体からも、力が抜けてきた、そんな頃合い。

 

「賢い子だ」

 

 子守唄のように、それは聞こえてくる。

 

「辛抱強い子だ」

 

 非常に穏やかで、小さな声。

 

「努力家で、ひたむきな子だ」

 

 それは、しっかりとウマ耳に届く。何せ、ウマ娘の耳は、人よりもずっと聞こえやすいのだから。

 

「……次は、1ハロン12秒だな」

 

 ちょっと待て、と言いたくなるような言葉が聞こえてきたが。

 もう、意識は肉体からほとんど剝がれている。頭以外に感覚は薄く、もう間もなく眠りにつくのだと、セイウンスカイは自覚している。

 

「今はゆっくり休め、セイウンスカイ」

 

 彼女の意識はそこまで聞いてプツリと途絶える。

 安眠がやってきたのだ。

 

 

 

 

 ぐつぐつ、と何かを煮込むような音と、鼻につく芳醇な味噌の香りを受けて、セイウンスカイは目を覚ました。何やら美味しそうな匂い、と食欲に任せてちらりと半目を開けて覗いてみれば。

 

 ソファの前。客人が来た時のためのテーブルの上に、鍋がセットされていた。

 茶色い味噌鍋だ。ただ、その隣には真っ白で丸いフォルム。しかし、頂点にはこんがりと焼き目のついた、定番のそれが、二つの皿に分けられて三つずつ置かれている。

 

「良い匂いですねー」

「食べるならそろそろソファにつけ」

「はーい」

 

 のそり、と起き上がると、セイウンスカイはトレーナーとは対面のソファに座る。

 

「おー、お雑煮でしたか」

「正月だからな」

「おせちにしなかった心得は?」

「囲むなら鍋だ」

「なるほど」

 

 慣れた手つきで、トレーナーは漆塗りの御椀にお雑煮を二人分装い、片方を彼女の方に置いた。丸餅からはまだ湯気が立っており、焼き立てだということが伺える。

 

「あ、そうだ。トレーナーさん」

 

 思い出したように、セイウンスカイは声を上げる。

 彼は食事の準備を終えると、セイウンスカイの方を向いて「どうした」と聞く。

 

 彼女は、晴れやかな笑みを浮かべて言った。

 

「明けましておめでとうございます。今年の方は何卒、よろしくお願いしますね?」

「当然だ。明けましておめでとう。今年は最高の一年になるから、楽しみにしてるんだな」

「えぇ。それじゃ、三冠いただきまーす」

 

 三つの丸餅をお雑煮に入れて、彼女は一口、その前にふぅ、ふぅと念入りに息を吹きかけてから、それを啜る。

 

「おぉ、これは期待以上……ふむふむ」

「お気に召しましたようで何よりでございます」

「よきにはからえー」

 

 そんな、くだらないやり取りを続けながら、二人の正月は過ぎていくのであった。

 

 

 

 1月1日。時期は既にクラシック。

 一冠目の争いはもう間もなく、訪れる。

 

 

 



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第8話 プライドの咆哮

 「弥生賞」。

 3月前半に開催される、中山レース場の芝2000のレース。G2レースという格式の高さを持つ一方、クラシック三冠の一冠目を飾る「皐月賞」とはほぼ同条件。季節的にも近い。そのために、G2レースでありながら、「弥生賞」は「皐月賞」のための調整、前座であるという見方がされるのは、トレーナーや出走ウマ娘たちの視点である。

 

 ウマ娘のレースファンは純粋に、この「弥生賞」から、次の「皐月賞」ウマ娘が誰か、と遠慮無用に予想する。あるいは自分の推しを見つける春の訪れになることもある。

 少なくとも、ファン達にとっては期待のレース。今後のレース界隈を見極めるためのもの。様々な考えはあるものの、重要である、という認識は共通であると言っていい。

 

 

 

 だからこそ、誰が思う?

 

(このセイちゃんが、なんとまだ2回の変身を残しているなんて。その意味は……私とトレーナーさん以外知りません、ドドン!)

 

 これからの成長次第では、変身は2回と言わずにさらに増えるだろう。

 そして、あと少しで、最高の舞台が待っているのだと思うと。

 

「さてさてー。今日もゆるっと、セイちゃんらしく頑張りましょー」

 

 当然のように、胸が躍る。心がはやりそうになる。

 それを努めて抑えるように、自分のペースを本能に渡さないように。

 

 マイペースに呑気なことを言いながら。

 彼女はパドックに、その姿を見せつけるのであった。

 

 

 

 

 

 

 レース場に続く地下道。

 セイウンスカイは呑気に、勝利の歌をハミングしながら歩いている。ほぼ早歩きになりながら、レース場向けて進んでいると。

 

「調子は?」

 

 その途中で声が掛かったことで、彼女の歩みがピタリと止まる。

 

「おや、トレーナーさん。珍しいですね」

「大事なレース前だからな」

 

 トレーナーは壁に背を預けてそこにいる。

 普段は根っこを生やしたように部屋から動かないくせして、レースの時だけは絶対に現地に来る。あまりにも律儀で、セイウンスカイは思わずくつくつと喉を鳴らした。

 

「トレーナーさん、過保護すぎません?」

「放任主義を自負してるが」

「おっと、そうでした。担当ウマ娘のレースに、トレーニングに、ほとんど口を挟まないくらい放任主義でした」

「口を出すことが少ないからな」

「……まったく」

 

 セイウンスカイは、にやりと笑う。

 大胆不敵に、自信満々に。笑いながら、言ってのける。

 

「ここらで一つ、差しで勝ちにいきます」

「それくらいがちょうどいい」

「む、セイちゃんが珍しく本気なのに」

 

 いいですよーだ、とセイウンスカイは言いながら歩みを進めた。

 

「本気なら、見届けるだけだ」

 

 トレーナーはそれだけ言い残して、革靴を打ち鳴らし、セイウンスカイとは真逆に進んでいった。

 

「……だからこそ、勝ちにいきますとも」

 

 力強く、しかしゆっくりと、彼女は前に進む。

 闘争心を煽られた表情を隠そうともせず、セイウンスカイはレース場にその姿を現すのであった。

 

 

 

 

 ゲートに入る前の柔軟運動だけは欠かさない。

 セイウンスカイはいつも通り最後にゲートに入る。入る前に、キングヘイローとは視線が合ったが、お互いに何かを口に出すことはなかった。

 

 そして、もう一人のライバル。

 スペシャルウィークは……柔軟運動に励んでいるものの、どこか動きがぎこちない。重賞レースに緊張しているのか、それとも武者震いというやつか。

 

「さぁてと。今日も……うん。ゆるっと、ゆるっと頑張りましょう」

 

 ペースはそれでいい。

 差しで行くなら、ゆるっとぐらいが丁度いい、とセイウンスカイは今までのレースを思い返しながら反芻する。

 

『さぁ、中山レース場芝2000、G2レース弥生賞。皐月賞の前、勝利を飾るのは果たして誰だ!?』

 

 セイウンスカイはゲートの中、大きく伸びる。手持無沙汰を誤魔化すように、ゲートの中でも柔軟運動に励む。

 

『三番人気はセイウンスカイ! 本日は落ち着かない様子でしたが、果たして今日もエンジンは掛かるのか!?』

 

(おー、好きに言ってくれますなー)

 

 二度、つま先で地面を蹴り付ける。

 

『二番人気はこのウマ娘! スペシャルウィーク! きらめく差し脚、今日はどこまで突き抜ける!?』

 

 踵で二度、地面をこする。大地に足の裏をゆっくりとつけると、彼女はゆっくりと瞼を閉じる。

 

『そして一番人気はこのウマ娘! ここまで無敗、キングヘイロー! 王道を阻む者は果たして現れるのか!?』

 

 息を大きく吸って、吐き出した。

 

『ゲートイン完了。出走の準備が整いました』

 

 目を開き、スタートの体勢に入る。

 その瞬間だった。

 

 すっ、とセイウンスカイの世界から色が抜け落ちる。

 まるで野原が高速で延焼して焼け落ちるように。

 

 彼女の世界から音が消えた。

 そのウマ耳には何も入ってこない。ただただ無音に、何かを感じ取ろうと、体中の神経が研ぎ澄まされる。

 

 その世界に、一条の光が差し込んだ時。

 

 彼女は既にゲートの中から飛び出して、誰よりも前に駆けていた。

 

 

 

『セイウンスカイだ! やはりこのウマ娘が先駆ける! 2バ身……いや、3バ身差! スタート直後に後続と差をつける! これはもうエンジンが掛かっているのか!?』

 

(え、え!? もうあんなに前に!?)

 

 聞いていたよりずっと速い、とスペシャルウィークははやる脚をぐっと抑え、一呼吸おいて何とか冷静さを取り戻す。

 

(トレーナーさんに聞いた通りならこの後、きっと――)

 

 落ちてくる。

 逆流する川に押し流されるように、前からポジションを決める。

 

 それが、セイウンスカイのこれまでの常套手段。ならば、焦る必要は一切ないと、スペシャルウィークは自分のペースを守り続ける。

 

 ハロン棒を一つ、二つ。

 最初の坂を超え、第一コーナーを抜けたところで、セイウンスカイは逃げの先頭集団から落ちてきた。

 

(でも、まだあんなに前に……?)

 

『セイウンスカイ、今ようやく先頭集団から落ちてきましたね』

『最初の400m、非常にハイペースな展開になりました。あのまま行けばコースレコードでしたよ』

『しかし、そのまま行かないのがレースです。さて、第二コーナー。先頭から――』

 

 第二コーナーに差し掛かったところで、セイウンスカイの順位がガクンと落ちる。

 先行集団にごぼう抜きされていく。それを、セイウンスカイは張り合おうとせず、ただ流れるように順位を下る。

 

(……もう、目の前)

 

 レース中盤。そこでようやく、セイウンスカイはポジションを決めて、スペシャルウィークより二つ前の先行集団と差し集団の溝に陣取った。

 その溝は、逃げと先行の集団がスタートダッシュを決めたセイウンスカイに引っ張られたことにより出来たものだった。リードを広げようとするウマ娘と、足をためようとするウマ娘が生んだギャップが、絶好のポジションを生み出していた。

 

 それに果たして、気付いた者は居たのだろうか。

 

 

 

(そこに、来ると思っていたわ)

 

 否、虎視眈々と息をひそめていた王者だけは、それを見極めていた。

 

 キングヘイローは気づいていた。セイウンスカイがスタートダッシュを決めるのは、逃げと先行を最初に引っ張るためだと。

 いくらセイウンスカイに「暴走癖」があるとわかっていても、「逃げ組」だからこそ序盤のリードを意識する。最初に開いていく差に焦った逃げ組が追い付こうとペースを上げて、それに引っ張られて先行集団も足を速める。

 そうして出来た、先行と差しの間に広がったスペースに自分が入り込もうとしているのだと。

 

 内側に入らないのは、序盤のハイペースのせいで垂れてきた先行組に巻き込まれないため。やや外側に陣取るのが、セイウンスカイの走り方。

 その術中にハマってしまい、そのカラクリに運良くも気づいてしまったキングヘイローだからこそ、見抜くことの出来た策略。セイウンスカイの、あまりに型破りな差し走法。

 

(キングに、同じ手は通じないわ)

 

 だから、キングヘイローは後ろにピタリとつく。風の抵抗を流すために。そして、併走することによってポジション不利を背負わされないために。

 

 王者は冷静に、そして着実に、レースの主導権を手繰り寄せる。

 

 

 

(おー、セイちゃん火傷しちゃいそう。乙女の柔肌に跡なんて残したら、キングには責任を取ってもらわないとねー)

 

 背中からヒリヒリと感じる熱と気迫に、セイウンスカイは「さてさて」と舌を巻く。思いの外、キングヘイローが冷静なことに、嬉しいような、それでいて今は厄介だなと、走りながらも考える。

 

(スペちゃんも掛からなかったかぁ。まぁ、先行組じゃなかった時点で仕方ないか)

 

 親指を曲げる。これで都度4回目。

 最初はほぼ掛かり気味になったことに反省を覚えつつも、脚はいつも以上に残っている現状。

 

(これ、キングは相当に脚が残るかな。スペちゃんも結構残ってる。私もいつも以上に残ってはいるけど、二人ほど余ってるわけじゃない)

 

 ずばり、仕掛けるならいつか。

 セイウンスカイが勝つためには、キングヘイローとスペシャルウィークの差し脚を鈍らせる必要がある。それは、バ群に引っ掛けるという方法もありだろう。敢えてペースを上げて、「掛からせる」というのも手の一つ。

 

(……なるほど、ね。ペースコントロールの権利は、一回だけか)

 

 実際にこの状況に陥って、はじめてわかることも多い。

 そしてこれから取れる手は、どれも相手に大きく依存する。そこはセイウンスカイの揺さぶりの手腕に掛かってはいるのだが。

 

(キング、これもう掛からないよね。セイちゃんを盾に、スリップストリームまで使っちゃってさー)

 

 なら今からペースを上げて、セイウンスカイも風よけを手に入れるのか。

 

(いやいや。結局キングには脚で負ける。そんな消極的なことやってらんないね)

 

 だけど、とセイウンスカイはちらりと後ろを見て、確認する。

 

(スペちゃんは……もうちょっと内か。よし)

 

 カチリ、とそこにはない筈のボタンを親指で押し込む。

 セイウンスカイは長く、長く息を吐き出して。

 

(――負けるもんか)

 

 理性の竈の中で、闘争心をくべて火をつける。

 

 隠してきた感情は剥き出しにして。

 見せつけるように、威嚇するように、圧倒するように、ただ負けたくないと本心から内で叫び続け。

 力強く大地を蹴り付けるように見せかけて、ほんの少し内に寄ってから。

 

「絶対に、負けない」

 

 あとはぼそりと、自分でも驚くほど低い声を出してみせれば完成だ。

 

(今日は、特別に頑張る日だから)

 

 力をためる、脚をためる。

 出し抜くタイミングは一瞬だ。勝利の糸はあまりに細く頼りない。

 それでも、可能性はゼロじゃない。

 

 なら、セイウンスカイは走り続ける。

 ただ勝利に向かって、か細い糸をたどって進み。

 

 おひとり様専用の出口に乗り込もう。

 勝機はもうすぐ、迫りくる。

 

 

 

『レースも後半に差し掛かりました。前半に比べ、非常にペースが落ちてきましたね』

『後続との差も徐々に縮まってきました。これから終盤に向けてどれだけ差が縮まるか、気になるところです』

 

 確かに、キングヘイローは内側に追いやられることによって、先行集団の壁に当たったことはある。

 しかし、その状況はセイウンスカイがうまく自分には当たらない位置に調節していた。下準備があり、自分は不利にならない。博打ではなく、計略を以て事に当たっていた。

 

 だから、キングヘイローはこう思い至った。

 

(アナタの背中が、王道を引くのよ)

 

 セイウンスカイの横ではない。真後ろこそが、スタミナを残しつつも、セイウンスカイの小細工をすべて退ける、無敵の盾になるのだと。

 そう信頼して、実践するほど、キングヘイローはセイウンスカイというウマ娘のことを認めている。

 

 認めているからこそ、全力で勝ちに行く。

 余計なことを考えず、ただスパートを仕掛けるタイミングだけ念入りに。

 

 いっそ惚れ惚れするほど、肌が焼き付くような闘争心を剥き出しにしたセイウンスカイの背中を。

 キングヘイローはジッと見つめながら、ピタリと距離をを保ち続ける。

 

 

 

(また、セイちゃんに釘付けになったね?)

 

 先行集団の壁がすぐ目の前まで迫ってきているのに、キングヘイローは外側に避けようとはしない。

 それは即ち、前が見えていない、ということ。

 

(――勝ち筋、通すよ)

 

 だから、足音を響かせる。

 キングヘイローほどの迫力に及ばずとも、それは感情を剥き出しにすることでカバーする。

 

(こんな博打、セイちゃんの柄じゃないのになー)

 

 それでも、勝つためにはこれしかない、と矢のように真っ直ぐ目指し続ける。

 

 先行集団は4人。垂れてきて先行集団と混ざりそうになっている逃げウマ娘が4人。

 親指を曲げた時には、もういつでも併走出来るほど先行集団が近くに迫っていた。

 

(でも、通すから)

 

 内から2番目。先行集団の一人を、徹底的にマークする。

 獲物を狙う蛇のように視線で射抜き、露骨に足音を響かせ近づいているように思わせ、闘争心を剥き出しにプレッシャーを掛け続け。

 

「――ッ」

 

 狙っていたその一人が、前に上がった。

 心臓に掴みかかってくるようなプレッシャーに、背中を焼き尽くすような勝利への執念。後ろから確実に迫ってくる足音。ジッと耐えてきたが、もう限界だった。爆発しそうな心臓も、いつも以上にかいた汗。仕掛けるタイミングを計る前に負けてしまう、と心の余裕を削られていき。

 それらに追われるようにして、そこに居た彼女は前に上がってしまった。

 

(掛かったッ!)

 

 糸が通った。

 曲がりくねった道なれども、誰にも塞がれることのない道に一つ、光の筋が確かに通り抜けた。

 

 セイウンスカイは、その一本。勝利の糸に従って。

 先行集団に出来た綻びを射抜いた。

 

 

 

『先行集団に居たサンドコマンドが上がっていく! まだ先は700もあるが、果たしてスタミナはもつのか!?』

『サンドコマンドが上がったところで、セイウンスカイも飛び出しました! まるで上がるのがわかっていたように、先行集団を中央から射抜いていく!?』

『しかし、先行集団と先頭の逃げ集団は、もはや団子状態。セイウンスカイ、ここで失策か?』

 

 否、失策に非ず。

 それは彼女の掌の上。

 

 先行集団に出来た綻びを一歩、また一歩、縫って走って駆け抜けて。

 先行組全員を追い抜いたところで、逃げ集団の壁に当たる。逃げの四人は内寄りに、縦長。越えなければいけない壁は、逃げ組一番後ろの併走した二人だけ。

 

(――ッ!)

 

 第四コーナーに差し掛かったところで、セイウンスカイは遠心力に任せて外側に膨らむ。

 一息に逃げ集団の二人を追い抜き、そこから徐々に、徐々に内へと寄りながら。

 

「信じていたわよ」

 

 セイウンスカイのさらに外側を、風が吹き抜けた。

 

『最終直線! 先頭に並んだのはセイウンスカイ! キングヘイロー!』

 

 またか、またなのか、とセイウンスカイは前を見つめる。

 併走する王の足音。その迫力。間違いなく隣にいる彼女を意識して、ギリと音を立てて歯噛みする。

 

(こんな、こんなところで――ッ!)

 

 キングヘイローがどうやって来たのか、そんなことはどうだっていい。

 事実並んでおり、もはや小細工無しの勝負をするしかない状況。

 

 セイウンスカイはただただ、己の全力を注ぎこむ。今までためた末脚をすべて出し切る勢いで、その直線を突き進む。

 

『後ろから、後ろからッ! スペシャルウィークが閃いた!』

 

 最後の急坂。

 セイウンスカイは咄嗟に歩幅を狭め、小刻みに足を動かした。未だに横に並ぶキングヘイローから少しでも抜け出ようと、この日出せる最後の奥の手を切り出した。

 

(もう、少し――ッ!)

 

 ここで勝つんだ、と己を奮い立たせる。

 ここで勝てなきゃずっと認めることになる、とセイウンスカイはプライドを剥き出しに走っている。

 

 セイウンスカイだって、一人のウマ娘であり、一人の少女だ。

 だから、認めたくないことがある。折り合いをつけたように見せかけても、心の内で悔しさが燻るのも仕方ない。

 

(私だって、真正面から――勝てるんだッ!)

 

「――ぁああッ!」

 

 急坂を終えたところで、気合に声を吐き出し、前傾姿勢を以て加速する。

 

『坂を越えて、三人のウマ娘が並び立つ! 熾烈なデッドヒートがゴール前で繰り広げられる! 後ろとの差は5バ身! 誰が、誰が一歩を抜きん出る!?』

 

 セイウンスカイの末脚は、決してガス欠を起こさなかった。

 序盤にペースをかき乱し、中盤には逃げと先行集団が乱されたペースのせいで垂れてきた。中盤から終盤に至るまで、セイウンスカイは追い抜きの加速を除いて、決してペースを上げなかった。

 

 だからこそ、脚は残っていたが。

 それでも、キングヘイローが、スペシャルウィークが。

 

『ゴールイン! 僅かに抜き出たのはキングヘイロー! スペシャルウィーク! これは写真判定か!? 一歩及ばず、セイウンスカイ! 素晴らしい好走、闘志を見せつけました!』

 

 一歩、抜きん出る。

 

「は、は……」

 

(やっぱり、柄じゃないよ)

 

 走り終えて空を仰げば、憎たらしいほどの青空が広がっていた。

 たかだかG2レース。それでも、ライバル二人と走った舞台で、優劣の結果は出た。

 

『勝ったのは! 勝ったのは、スペシャルウィーク! ハナ差、キングヘイロー! アタマ差、セイウンスカイ!』

 

 セイウンスカイの敗北だった。

 同時に、セイウンスカイは勝ち取った。もはや皐月賞までに覆すことの出来ない前評判に実績を、物の見事に打ち立ててみせた。

 

(もう確定だよ。キング、スペちゃん)

 

 こみ上げそうになる笑いを、悔しさをもって嚙み潰す。

 今すぐ声を上げて笑いたいが、それは後のためにとっておく。

 

(舞台は整った。仕込みも完璧に出来た。キングの手札も見れるだけ見た。スペちゃんの差し脚も実感した)

 

 やりたいこと、試したいこと、全て惜しまず出し切れた。

 狭い隙間を縫ってキングヘイローの追走を振り切るつもりだったが、それさえ物ともしない堂々とした走りで、彼女は見事セイウンスカイに並んで、追い抜いてみせた。

 スペシャルウィークの視界を塞ごうと軸を合わせたものの、それに惑わされることはなく、彼女は自分のペースでスパートを切ってみせた。

 

 そうした戦略、策略を出し切ったうえで、手札に残ったのは、スペードのエースが1枚に、彼女に向かって微笑むジョーカーが1枚。

 

(最後に笑うのは、私だから)

 

 カチリ、と頭を切り替える。

 これから先に必要なのはプライドではないから。

 

 綿密に、ずっと前から用意し続けた計略。それを黙々と進め続ける理性と、どんな状況にも対応する柔軟な思考こそが肝となる。

 逸って、カードをペアで出すのは悪手も悪手。

 

(――計画通り)

 

 プライドを理性で覆い隠して。

 彼女はずっと、ずっと遠くを見つめた。

 

 

 

 

 



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第9話 大船からの絶景を

 トレーナー室に入った時、ソファの上には必ずトレーナーが寝転んでいる。

 セイウンスカイが入室すれば、必ずその光景が目に入った。それ以外が有り得なかった。

 

 好きな時にふと立ち寄れば、必ず開いている。変わらずそこに居る。

 

 

 

 その日、セイウンスカイが授業をサボったのは気まぐれだった。あるいは、単なる好奇心かもしれない。

 すっかり春の陽気漂う4月。皐月賞ももうすぐ、といったところ。新入生も多く、トレーナーや教職陣は一際多忙な時期となっている。トレーナーならスカウトに目を光らせ、教職陣は新しい生徒を受け持つことは言わずもがな。

 

(そろそろ一年かー)

 

 あっという間だったように思える1年間。されども、その内容は色濃くセイウンスカイの記憶に、身体に刻まれている。

 

(1ハロン12秒なんて。トレーナーさんの鬼っぷりは健在でして)

 

 そのくせ、目標だけ言って彼は何も口を挟まない。トレーニング方法も、何を鍛えろ、とも言ってこない。ただ、手渡されたのは目標タイムとストップウォッチだけ。

 

(キングとか、絶対この指導向いてないでしょ。スペちゃんは言うまでもないけど。グラスちゃんなんか絶対バチバチさせそう……おぉ、こわっ)

 

 もしものことを考えて、セイウンスカイの背筋に悪寒が走り、尻尾の毛が逆立った。

 

(あ、でもグラスちゃんは逆にお尻叩いてでもトレーナーさん働かせそう……いや、ないかー。あのトレーナーさんだもんねー)

 

 もしもの想像が止まらない。

 

(エルちゃんは……ありかも? いや、いやいや。そんなハマり方したらセイちゃん泣いちゃうから)

 

 ただでさえ、ここまで無敗、そして圧勝で切り抜けてきているエルコンドルパサーのことだ。直情的で明るく、あまりに積極的な彼女は、実のところ頭が回る。フィジカルも、頭脳も抜群な相手にあのトレーナーとは、いったい何の冗談か。

 

(ま、いいけど。今回の相手はキングとスペちゃんだけ。他の子には悪いけど、負ける気は全くしないし)

 

 クラシック4月。ふとポケットから取り出した止まったストップウォッチは、今も「12.00」「12.01」「12.00」「11.97」「12.00」で数字を止めている。

 

(感覚は掴めたけど…)

 

 まだ足りない、それが率直な感想である。

 もはやこの数字の世界では、カチリと押し込むタイミングさえ考慮に入れなければならないのだが、まさしく、それ込みでトレーニングなのだと、セイウンスカイはそう解釈している。

 

 そして、目標を2回クリアしたと言っても、慣れるものでもない。難しいものは難しい、とセイウンスカイは肩をすくめてひとり戯けると、ストップウォッチをポケットに入れる。

 

「さて、今この時、トレーナーさんは……」

 

 トレーナー室の前に立ち、セイウンスカイは少しの間、意味のなさそうな溜めを作る。息を吸って、大きく吐くまさにその瞬間に。

 

「いますとも」

 

 声と共に息を吐き出し。

 彼女はいつも通り開く扉と、全く変わることなくソファに寝転がる彼に苦笑を浮かべて、いつも通りベッドを占領するのであった。

 

 

 

 ソファとベッドの距離は、まるで対岸にある島のように離れていそうな錯覚を思わせながら、その実、声を上げれば届く程度には近い現実と隣り合わせだ。

 

 お互いに、動こうとしない。動くのは、相当に何か用事があったり、辛抱し切れず声をかけてやろう、と思った時ぐらいで。普段は一切、お互いに距離を詰めようとしない。特に、トレーナーは根っこを生やした大木か、というくらい動かない。部屋の中では、まさしく彼は木のような存在だった。

 

「ついに来ますねー、皐月賞」

「そうだな」

 

 短く返してくる彼に対して、セイウンスカイはいつものように、間延びした声で続ける。

 

「もしも先行策を取られた時、セイちゃん的には厳しい立場になっちゃうな、って思うわけですよ」

「そうなのか」

「そうなのです。だって、セイちゃんはずっと『掛かり』気味の差しウマ娘で通してきましたから。今までの結果を見ての通り、競り合うのは苦手でして」

 

 彼はそれを聞いて、キーボードを叩く手を止めた。

 ちらり、とセイウンスカイの方を見た後。

 

「つまり、勝てるだろ」

 

 そう迷いなく言ってのけた。

 ほう、とセイウンスカイは思わず声を上げる。続けて。

 

「その心は?」

 

 などと聞いてみれば。

 

「原因がわかっているなら、あとは簡単だ」

 

 彼は何でもないように、そう言ってのけるのだ。

 これに、セイウンスカイは口を閉じて、トレーナーの方を見た。彼はもう、キーボードを弄ってパソコンだけを見ている。

 

「トレーナーさんには、何が見えているのやら……」

「見えていることだけだ」

「……トレーナーさん、その自信どこから来るんです?」

「君以外にあるか?」

 

 セイウンスカイは、またも口を閉ざした。

 頭を載せていた枕を抱えて、仰向けに寝転がる。ピコピコと動くウマ耳を自覚しながら、ここで唸り声を上げるのも負けた気分がするせいで。

 

「はぁ……」

 

 彼女は、大きくため息を吐くことで誤魔化した。

 

「トレーナーさんの期待が重たいと、セイちゃんは思うのでした」

「トレーニング効果が上がるな。ダービー終わったら1ハロン11.5秒だからな」

「……セイちゃん、足も重たいかなーって」

「パワーも一緒に鍛えるとは流石だな」

「セイちゃん、頭も重たい」

「これ以上賢くなって、どんな作戦を繰り出すのか楽しみだな」

「……トレーナーさん、そこは風邪を心配してくれるところだと思いまーす!」

「小腹が空いたなら、執務机の脇に置いてる袋から取り出してくれ」

「ちーがーいーまーすー! トレーナーさんはもう少し、セイちゃんを甘やかしてくれてもいいと思いまーす!」

「えぇ……?」

 

 甘やかせ、それは何とも難しい注文だと、トレーナーは困惑の声を上げる。

 ウマ娘。G1レースの勝利が期待されるトップクラスのレースウマ娘。競技選手といえども、彼女は世間一般でいう女子高生。今を時めく乙女な少女。

 

 新人で若いといっても、男の彼には、そんな少女の甘やかし方などわからない。

 

「……子守唄とか?」

 

 数秒の沈黙の後のトレーナーの答えに、セイウンスカイは思わず彼に胡散気な視線を向けてしまう。

 

「――熟考してその答えが出ることに、驚きを隠せないのですが……」

「……新しい寝具の調達?」

「いえ、そういうおねだりとは違いまして……」

「……よし。じゃあ執務机の椅子に置いている鞄の中のファイルを進呈しよう」

「あの、トレーナーさん? 暗に仕事押し付けようとしてません?」

「もう終わった仕事だから、後は読むだけのものだな」

「その、せめて自分でセイちゃんに渡そうって、そういう優しさ、ありません?」

「俺は根っこが生えて動けないんだ。頼んだ」

「嘘だ! 絶対嘘だ! トレーナーさん、お正月にちゃんと動いてましたよね!?」

「いや、君の前でソファから動いた覚えは一度もないが」

「……そうでしたね。トレーナーさん、お雑煮もソファに座りながら配膳してましたもんね! いいですよーだ。鞄の中身、全部セイちゃんに漁られたってクレームは受け付けませんよーだ!」

「中身めちゃくちゃにするなよー」

 

 セイウンスカイは立ち上がって執務机に向かいながら考える。どうすれば、この暴虐怠惰極まりないトレーナーに一泡吹かせられるかと。

 悪戯か。いや、いつもこの部屋に根を張るトレーナーにそんな隙はない。待ち合わせをサボろうか。いや、このトレーナーとそもそも待ち合わせをしたことがなかった気がする。記者会見の時も、レース場に向かうため車を出す時も、セイウンスカイからこのトレーナー室に訪れたのであって、待ち合わせはおろか……そうだ、そもそも連絡先を知らないじゃん、とセイウンスカイは思わず唸る。

 

(……大体、全部! トレーナーさんが、ずっとトレーナー室に居座ってるのが悪い! うん、そうですとも)

 

 責任転嫁に勤しみながら、彼女はさっさと鞄の中を見て……そこに目的のファイルしかないことに固まる。別ポケット、ファスナーを開いてみても、書類はおろか、ポケットティッシュさえ入っていない。

 営業系サラリーマンが持っているような、黒い手持ちのカバンの中身が、それである。もはや、これを普段持ち歩いているとは思えない中身。しかし、持ち手をよく見れば擦り切れて変色したり、外面が剥がれているなど、年季は入っている。代わりに、中身には一切のほつれも皺も見受けられない。

 

 セイウンスカイは、大きくため息を吐いてファイルを取り出す。その中の書類を引っこ抜きながら、彼女は愚痴の一つでも口にしようとして。

 

「……これ、って」

 

 そんなつまらないことは、全部喉元を通り過ぎて、代わりにそんな言葉が出てしまう。

 

「……、……!」

 

 セイウンスカイの尻尾が大きく揺れた。風を起こし、はらはらと書類の端を波打たせ、しかし彼女は口を開くことなく真剣に、それを熟読していく。

 

「……トレーナーさん」

「不足でもあったか? それとも、現場の人間との食い違いってやつか?」

 

 さらりと、何でもないように彼は言う。

 しかし、セイウンスカイの手には、ずしりとその書類の重みを感じる。肌に纏わりつくように、冷たい何かがゾクリと腕から背筋にかけて走る。

 

「いつ、これ作りました?」

「何言ってるんだ?」

 

 心底気のない返事だった。

 くしゃり、と小さな音を書類が立てるも、慌てて彼女はかぶりを振って頭を冷やす。そして、もう一度。

 

「セイちゃん、トレーナーさんが偵察に行った、なんてこと。まったく! 知らなかったわけですが?」

 

 セイウンスカイが持っている書類には。

 ライバル達の、事細かなデータが纏められていた。

 

 どんな作戦が得意か。どんな性格か。スタミナはどれだけあるか? 最高スピードは? 坂は得意か苦手か。1ハロン何秒が適切か。皐月賞、日本ダービー、菊花賞では、どんなタイムでどこでスパートを切るのが理想型なのか。どこまで成長するのか。

 一度読んだだけでは、いくら何でも鵜呑みに出来ないようなことがつらつらと、さも当然のように記されている。

 

「景色がいいんだよ、この部屋」

「……はい?」

「よーく見えるんだ。朝日も、眩しいターフも、夕日も、月光も。こっからは何でも見える」

 

 セイウンスカイは、この部屋から見える景色に目を向けたことがなかった。

 気になって、ふとそちらにやって見てみれば。

 

「……うわぁ」

 

 どこか感動したような、それでいて呆れているような、どちらにしても気の抜けた声が彼女の口から漏れていた。

 

 その景色はセイウンスカイにとって、まさしく絶景といって間違いない。そんな光景が、いっぱいに広がっていた。

 

 練習場で走るウマ娘も。

 校門から出るウマ娘も。

 実技の授業に勤しむウマ娘も。

 

 歓談を楽しむ子たちも。

 チームでランニングに勤しむ姿も。

 

 そこには、トレセン学園のきらめきが詰まっていた。

 

「言っただろ? 秘密基地だ、って」

「なるほど、なるほど」

 

 口角が、思わずにっとつり上がる。

 自分が悪い顔をしているなぁ、という自覚はあるものの、セイウンスカイは笑みを堪えきれなかった。

 

「早めのハッピーバースデーだ。あとは君に任せた」

「……えぇ。えぇ。他ならぬ、私のトレーナーさんの頼みですし」

 

 セイウンスカイは振り返り、トレーナーの方を見る。

 トレーナーもまた、ソファから顔だけ出して、セイウンスカイの方を見ていた。

 

「どーんと、大船に乗ったつもりでいてください」

 

 にこり、と夕日に照らされて花が咲く。

 彼もまた釣られるように笑い。

 

 

 

 どちらからともなく、お互いに拳を向け合った。

 

 



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第10話 前半のぬかるみ

 大空を自由に羽ばたいているかのように、体も気持ちも軽かった。

 軽すぎて、現実味を喪失しかけている。夢の中、雲のようにふわふわとしていて、それでいて頭はいつも以上に熱を持ってよく回る。

 

 それが心地の良い高揚感であることに、セイウンスカイは気づかない。ただ、言葉にはできない自信というものが、体の芯から溢れてくることはよくわかった。

 パドックに上がってからも、そよ風に吹かれる雲のような心地のままだった。いつも通りに、機械的に鍛え上げた肉体と、二度目となる勝負服をお披露目しながら、彼女はぼーっと青空を見ていた。

 

 周りがそんな様子に騒ついても、セイウンスカイの心は地につかない。

 

 そんな彼女の意識を現実に引き戻したのは、ライバルのパドックでの姿であった。

 

(……うーん?)

 

 スペシャルウィークとキングヘイロー。二人の佇まいを見た後も、セイウンスカイの心までは地につかない。

 

(不調、なわけじゃないかなー。妙にスッキリしてるような。なんだろ、これ)

 

 レースでやることは簡単だ。

 頭の中で何度もシミュレーションを繰り返す。それを繰り返すたびに、むむ、と彼女は眉をひそめる。

 

(ちょっと都合良く考えすぎかなー。うん、キングとスペちゃんが先行策を取ってきた時、どうするのか考えましょう)

 

 そこでようやく、心も現実に引き戻されて、彼女の世界は広がり、音が戻ってきた。

 

(さて。大物を釣り上げましょう。大物を、ね?)

 

 仕掛けは万全。

 やれることはやり切った。

 

 後は走り抜けて結果を示す。

 セイウンスカイは小さな笑みを浮かべながら、レース場に歩み出た。

 

 

 

 柔軟運動を済ませて、いつも通り係員から逃げるように最後にゲートに入る。

 

 ゲート特有の寒気というものがある。暗くて、狭くて、それまで誰もいなかったからとどまってしまった、冷たい空気。それが、熱くなっていたセイウンスカイの頭を冷やし、渋滞した思考は瞬く間に透き通っていく。

 

『三番人気の紹介をしましょう――』

 

 アナウンス。そこに、セイウンスカイも、キングヘイローも、スペシャルウィークの名前もなかった。

 おや、と頭の中でカチリと音が鳴り、興味の視線がゲートの暗い天井を見上げた。

 

『二番人気はこのウマ娘、キングヘイロー! 弥生賞では見事なレース運びをみせました! その末脚で、今日はどれほど地を鳴らすのか!』

 

「あー……」

 

 セイウンスカイは困ったように声を上げて、髪の毛を梳くように指の腹で後頭部を掻いた。

 ふとゲートの隙間からライバルたちを見てみれば、バチバチと火花を散らせているのはキングヘイローとスペシャルウィークだ。

 

(うわっ、火傷しそう。間に挟まってなくてよかったー。縮こまってゲートから出られなくなっちゃいそう)

 

 鋭い差し脚勝負、とでも考えているのだろう。

 セイウンスカイの頭が、涼しい空気にさらされながらも、熱を持っていく。

 

(となれば、作戦は一択)

 

 グッと拳を握り、セイウンスカイは視線を前に向ける。

 

『一番人気はこのウマ娘! スペシャルウィーク! 弥生賞では見事なごぼう抜きでレースを制しました! クラシック期待の一人、その驚異的な爆発力に期待が高まります!』

 

 セイウンスカイは、姿勢を低くスタート体勢を取る。

 ゲートの隙間から口元が見えないように、低く、それでいて、前だけを見つめて。

 

『ゲートイン完了、出走の準備が整いました』

 

 にぃ、とセイウンスカイの口元は、確かにつり上がっている。

 それでいて、息をひそめるように気配は希薄。

 

(今まで、さ。好き勝手に。ほんとーに、好き勝手、言ってくれちゃって。勝手に、話が進んじゃってて、さ)

 

 三番人気にさえ、セイウンスカイの名前はなかった。

 キングヘイローとスペシャルウィークに、万が一にでも勝てない、と思われたのだろうか。弥生賞のあの一回で、全力を出し切ったのだと、思われてしまったのだろうか。

 

 ――真実は違う。

 事実は、セイウンスカイのパドックでの見え方が、あまりにも悪かったせいだ。肉体は確かに仕上がっている。今までのレース成績も悪くない。だが、あまりにも心ここにあらず、「不調」に見えたせいで、彼女の評価は落ちていただけなのだが。

 

 それを、彼女が知る由はない。

 しかし、三番人気からさえあぶれたという事実が、秘めたる闘争心に火をつけて、大火となって燃え上がる。

 

(全部、ひっくり返すよ)

 

 

 

 音を立てて、ゲートが開いたその瞬間に、セイウンスカイは誰よりも前に飛び出した。

 

『スタートしました! セイウンスカイ、早くも二バ身、いえ、三バ身の差を開き、先頭に抜けていく!』

『いつも通り、気持ちのいい好スタートですね。今日はどんなレース運びをするのか、注目していきたいところです』

 

 注目、それはレースペースをどれだけ乱すのか、ということか。

 それとも、まだ何かしてくれるだろう、というわずかな期待の表れか。

 

 

 

 カチリ、とセイウンスカイの頭の中では音が鳴っていた。

 最初の200mを過ぎた合図だ。曲げた親指に若干の違和感が残っていたものの、それを彼女は気にしない。少なくとも――

 

(手札は切る順番が大切。速すぎたら、いつもの事かで終わっちゃう。遅過ぎたら、私の脚が残らなくなる。だからあの場所までは、誰よりも速く!)

 

『セイウンスカイ、ペースが速い! 既に後続とは5バ身差を開いて独走状態だ! 最後までスタミナがもつとでも言うのか!?』

『このまま行けばワールドレコードは確実ですが、レースは始まったばかりです。このまま突き進むのか、順位を下るのか。レースペースに注目していきたいところです』

 

 そんなペースでワールドレコードを出せる力があるのなら、セイウンスカイは知略をめぐらしてレースを運んではいない。大逃げで全てを置き去りに、ただそれだけで勝てるなら、考えること自体が必要なくなる。

 

 誰よりも、セイウンスカイは己の弱さと向き合ってきた。

 だから、そんな夢物語に自分の足を預けない。計画を立て、仕掛けを施し、盤石となった完璧な道でこそ、彼女は全力で大地を蹴り付けるのだ。

 

 親指をもう一度曲げる。カチリ、と音が鳴る。

 

(まだ、まだだ! もっと、もっと!)

 

 いつもなら、ペースを絶対に落とす場面でも。

 セイウンスカイは、ここだけは! と目が飛び出るようなハイペースを維持した。

 

 

 

 いつもとは違う、ほんの数秒だ。

 しかし、作戦として逃げを選択していたウマ娘たちは、とても届きそうにない背中を見続けていた故に、心臓を撫でられるような違和感を覚え始める。

 

 そして、次のハロン棒が見えたところで。

 

「あっ」

 

 逃げウマ娘の一人が、思わず声を上げた。

 そして決して縮まらないどころか、さらに遠くなっているセイウンスカイの背中を見て。

 

 気が付けば、その足をさらに前にと進めていた。

 本能が足を動かした。何もできずに負ける、という強烈なビジョンが浮かび、駆り立てられるように前に進んだ。

 

 いつもと違うと、そびえ立つハロン棒が彼女たちに囁いた。

 

 そんな囁きに、駆られるように前に出た者もいれば。

 我慢の限界、とばかりに足を使う者も現れる。

 

 その、あまりにも異常な光景に。

 中山レース場は、声援とは違ったざわめきに包まれ始める。

 

 

 

 どろりと、どこかぬかるんだような空気が、晴れ渡る空が照らす中山のターフに紛れ込んでいた。

 差しの位置で足をためていたキングヘイローは、その異質な空気に眉をひそめる。

 

(……何かしら、この、違和感は)

 

 キングヘイローの位置は、差し集団の先頭。セイウンスカイがいつものように作ろうとしたものの、いつも通りだと思われたせいか。各々が自分のペースに専念した結果、弥生賞ほど隙間が出来なかった、先行集団のすぐ後ろ。その広さ、およそ1バ身ほどの空間である。

 

 キングヘイローからは先行集団の様子がわかっても、逃げの先頭集団のことまでは見えなかった。分厚いウマ娘たちの壁に阻まれて、今、先頭がどんなペースで進んでいるのかわからない。

 

 セイウンスカイが下ってこないことに、キングヘイローは別段、違和感を覚えてはいなかった。これほど狭いスペースだ。差しの位置に戻ろうとしたが、狭すぎて戻るに戻れず、前方集団に取り残されてしまったという可能性は、十二分にあり得る。後ろに行き過ぎるよりも、前方集団に居残った方が勝ちが拾える、と考えたのも納得がいく。

 

 ならば一体、何が問題なのか。

 キングヘイローは先行集団に追従しながら考えるものの。

 

(何にしても、私は私の最高のスパートを決めるだけ。勝つのは、このキングヘイローよ)

 

 違和感の正体はわからない。それでも己の走りを貫き通そうと、前方を冷静に見つめながら、彼女は走る。

 

 

 

(……あれ?)

 

 数えて四つ目のハロン棒が見えた時、スペシャルウィークは内心で首を傾げていた。同時に、まさか、と背筋に悪寒が走る。

 

(太っちゃって、体力まで落ちちゃった!?)

 

 勝負服のファスナーを上げきれない。数値にしてみれば僅かでも、そんな確かな証拠を添えた状態。

 スペシャルウィークは太り気味で皐月賞を迎えていた。

 

 足がいつもより重たいと感じている。まるでターフではなく、荒れたダートでも走っているように。あるいは、芝の重バ場に足を取られそうになるような、そんな重たさがまとわりついて離れない。

 

 いつもとは違い、万全とは言えない状態の彼女は。

 走りにくいのは、自分が太ってしまったからだと、思い込んでいた。

 

(とにかく、今は前についていかないと)

 

 位置を下げ過ぎれば、不利になるのは自分だと言い聞かせながら。

 スペシャルウィークは、キングヘイローに追従するように走り続ける。

 

 

 

 

 

 

 ぬかるんだ空気が、足元にまで充満し始めたことに、誰も気づかないまま。

 レースは、後半に差し掛かろうとしていた。

 

 いや、ただ一人。

 そんなぬかるみの中であろうと関係なく、正しく己のペースを貫くウマ娘が先頭にいる。

 

 ざわめく会場など何のその。

 興奮気味に現状を伝える実況の言葉など耳に入らない。

 

 

 

 ――掛かったね?

 

 

 

 内心でそう呟く彼女は。

 親指を曲げて、ゆっくり、ゆっくりと、リールを巻いた。

 

 

 

 観客席の中から、そのレース展開を見ていた彼は、ぽつりと呟く。

 

「やってやれ、セイウンスカイ」

 

 覆水盆に返らず。

 

 

 

 

 トリックスターが、にやりと笑った。

 

 



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第11話 後半の消えた200m

 カチリ、と5回も親指を曲げた時には、セイウンスカイは逃げ集団に追いつかれていた。

 チラリと後続を確認してみれば、先行集団も逃げとはほんの少し距離をとって追従している。ほんの少し外側に寄ってさらに後続まで確認すると、そこには団子になったバ群が形成されていた。

 

 にやり、とセイウンスカイは堪えきれない笑みを浮かべながら、ここぞとばかりに足を緩めて順位を下る。

 

(セイちゃん、いつも通りのペースになっただけなのになー?)

 

 するり、とセイウンスカイは先行集団の先頭、逃げ集団の最後尾の間にその身を滑り込ませ、前のウマ娘にピタリと張り付く。

 風を避け、ペースを戻し、それによって先行集団もセイウンスカイに潰されるようにペースが落ちて垂れていく。無理をした逃げ集団も、先頭を取り戻したことで落ち着きを取り戻し、しかし体力を使いすぎたせいか、少しずつペースが落ちてくる。

 

(……1000から1ハロン目、12秒50……かな?)

 

 中盤ペースとして、それは遅めではあるものの、まだ現実的なタイムだ。クラシック1冠目の皐月賞と言えども、終始ハイペースで進むわけではないのだから。

 

 後ろの様子をまた、ちらりと覗く。そこには、横二列、あるいは三列になるまで広がり、前をこれでもかと塞ぐ、バ群が固まりつつあった。

 

 それが、逃げ集団のペースダウンに伴って。

 潰れていく。

 隙間が塞がれていく。

 

 逃げも、先行も垂れ切って、先行に追従していた差し集団が巻き添えを喰らう形で更に垂れる。先行と差しの集団が、混ざりかけている。

 

(あーあ、やっちゃったねー?)

 

 セイウンスカイは力を抜くように息を吐き、呼吸を整える。

 

 カチリ、と次の音が頭の中で鳴った時には。

 垂れてきた逃げウマ娘を避けるように、外側に少し膨らみ、自分のスローペースを維持し続ける。

 

(13秒……と。さてさて、セイちゃんはもう、ペースが戻ってきましたが)

 

 第3コーナーに入った時、セイウンスカイはもう、先頭のウマ娘の近くまで上がっていた。

 追い抜かれていく逃げウマ娘たちの表情は、驚愕に染まっていた。

 

 どうして、と。

 もうそんな残り距離なのか、とハロン棒を確認して。

 目を見開き、その瞳が揺らぐ者も居た。

 

(さぁて、もうちょっと、私のペースに付き合ってもらいましょう)

 

 既に、上り3ハロン。

 レース距離にして、残り600を切っている。

 

 

 

 大物は、すぐ目の前まで迫っていた。

 

 

 

 

 

 

『セイウンスカイ! 前半戦の大逃げから、ついに捕まった! ずるずると順位を落としていき、先行集団の先頭に収まった!』

『まさかこれほどのハイペースを維持するとは。前半戦55.0は……本当に、このウマ娘にはいつも驚かされます』

 

 中山レース場がざわめきに包まれる。そのハイペースに歓声を上げる者も居る。セイウンスカイが落ちてきたことに、あぁ! と悲鳴のように声を上げる者も居た。

 

 そんな中で、彼は声を上げないものの、目を見開き、そのレースをジッと見つめている。

 

(……1ハロン11秒、偶然か?)

 

 頭の中にあるデータと照らし合わせても、理論上、今のセイウンスカイが上がり3ハロンでそのタイムを維持するのは不可能だという結論が出る。

 だが、それは上り3ハロン……つまり、体力を使ったレース終盤の話である。

 

(だから、前半戦か。後半に足は残らない。だが、前半戦なら万全の状態で足を使える。それに――)

 

 カチリ、とストップウォッチを止めてみれば、「12.50」のタイムが狂いなく刻まれた。

 

(ここから3ハロン。息を整えるには、足を戻すには十分だ)

 

 当然、万全の末脚を使うには、前半に体力を使い過ぎだろう。

 だが、セイウンスカイの武器は末脚なんかじゃない。

 

『非常にハイペースな前半から一転、反動を受けたようにスローペースになってきましたね』

『先頭のバ群も垂れてきました。そのせいもあってか、差しのウマ娘たちは、苦しい混戦を強いられるかもしれません』

 

 彼は少し俯いて、口元を手で覆い隠してから、その口元を大きくゆがめた。

 

(最高だよ、セイウンスカイ)

 

 セイウンスカイが仕掛けた三つの釣り針。

 その真の意味に、果たしてどれだけの者が気づけたのだろうか。

 

 

 

(くっ、まんまとやられるなんて……!)

 

 キングヘイローは、内から逃げるように外に膨らんで後半戦を走っていた。そこでようやく、セイウンスカイの背中を見つけて、彼女は自分がしてやられたことに気が付いた。

 

 ぬかるみは幻覚などではなかった。

 あのぬかるみのような異様な空気は、キングヘイロー自身の残り体力が引き起こしたものであった。

 

(私たちが認識しない間に、レース展開が加速していたなんて……やってくれるわね、スカイさん)

 

 状況証拠から、キングヘイローはそう結論付ける。

 

 キングヘイローは先行集団と差し集団の間に陣取り、先行集団の最後尾に追従した。

 だから、逃げ集団の先頭までは見えなかった。

 

 見えなかったが、セイウンスカイが先頭に立って何か細工をしたのだということは、よくわかった。

 根拠は、今までのレースから。それだけで十分だった。

 

(足が重い……早めのスパートなんて切れないわ。でも、ここから後ろに下がったら、それこそスカイさんの思うつぼよ)

 

 キングヘイローが今からペースを戻したとして、考えられることは二つ。

 

 同じくペースを戻そうとして垂れてきた先行集団と差し集団に揉まれて混戦を強いられること。

 意地を張ってペースを維持した集団に置いてけぼりをくらい、最下位から仕掛けなければならないかもしれないこと。

 

 特に、前者の場合は立ち位置を間違えれば、もう二度と浮上することが出来ない。

 後者の場合、そんな位置から先頭集団に追いつけるだけの走りを見せることが出来るのか。そして、前に居る誰にも引っかからず、万全の末脚で前に行けるのか。

 

(……無理ね。今から戻したとして、スパートを切れるのは残り500から)

 

 追いつけない、と後者の選択肢をキングヘイローは切り捨てる。

 だが、このまま燻っていても活路は見いだせないことも事実。

 

 だからこそ。

 

(――勝負よ)

 

 キングヘイローは、息を整えながらより外側に膨らんだ。

 

 残り1200で気づけていたのなら、まだやりようは多く残されていただろう。

 残り1000で先行集団先頭にまで躍り出ていれば、まだ対等な勝負になったことだろう。

 

 すべては、後の祭り。

 これでもかと不利を背負っても。

 

(勝つのは、このキングヘイローよ)

 

 王者は決して、膝を折らない。

 

 

 

 

 はぁ、はぁ、と息を荒げて走っていたのは、弥生賞を制したスペシャルウィークであった。

 キングヘイローに追従しながらも、重たくなる足。ハロン棒を思わず確認してみれば、後半に入って次のハロン棒が見えてきていた。

 

(やっぱりおかしい)

 

 鉛のように重たくなっていく足に、スペシャルウィークはようやく自分が勘違いしていたのだと気が付いた。

 

 当然、太っているのは事実であり、覆しようのない現実だが。

 そうではなく、足が重たくなっている原因は、太っている以外にもあったということだ。

 

(みんな、速すぎるよね? 私もそれに釣られちゃって……)

 

 体重の変化に焦っていた。いつもの走りが出来ず、勘違いしていた。

 言い訳はいくらでも思いつく。だが、今は関係のない話。

 

(……一度、冷静になって。全部、私のタイミングで)

 

 だから、スペシャルウィークは難しいこと全てを放り投げた。

 彼女は、ペースが速いことに気付いたからといって、それを考えて最高の走りが出来るような、そんな器用なウマ娘ではない。

 

 しかし、余計なことを考えず、誰よりも目の前のことに集中することには長けていた。

 

 キングヘイローが外側に足を運ぶのを見ても、スペシャルウィークはもう追従しない。

 息をひそめて、呼吸を整え、足の調子を確かめながら。

 

(勝ちたいから)

 

 誰よりも自分を貫いて、勝利を見据える。

 何せまだ、レースは終わっていないのだから。

 

 彼女は彼女の走りを、見せつける。

 

 

 

 残り500になったころには、またもセイウンスカイが先頭に立っていた。

 異様なのは、それまでにまだ、誰もスパートを切ろうとしないレース展開になったことか。

 

 逃げウマ娘たちが垂れていく。

 巻き込まれて先行ウマ娘が下がり、かわした者は進出を始める。

 差しウマ娘が、垂れてきた先行ウマ娘とぐちゃぐちゃに混ざり合う。辛うじて外側に膨らんだ者たちは、垂れてきたバ群を横目に順位を上げていく。

 

(ここからが本番だね?)

 

 だが、焦らない。

 セイウンスカイは後ろから進出するウマ娘たちの気配に気づきながら、まだ足をためる。

 

 前半に足を使うと決めた時から、セイウンスカイは600m地点でのラストスパートを諦めていた。そこからスパートを切ったところで、最後まで走り切れないことはよく理解していた。息を整える時間も足りないだろう。

 

 だからこそ。

 たった2ハロンのラストスパートこそが、セイウンスカイが決めた勝負の土俵。

 

 

 

 大逃げし続けて、焦ったウマ娘たちをセイウンスカイが引っ張る形でまず、体力を奪う。もとからそこまで走る、と決めていたセイウンスカイと、焦ってスパートのように足を速めたウマ娘たちでは、根底から精神的余裕や、足の使い方がまるで違う。

 それこそが、1つ目の釣り針。速すぎるペースの中でも、それを己のものにして計算していたセイウンスカイと、何も知らず走らされたウマ娘たちとの、消費体力の違いが引き起こしたトリックだ。

 

 次は足をため、呼吸を整えるためにスローペースに入った。あらかじめ、3ハロンは維持すると決めていた計略。後半の1ハロン目は風を避けて呼吸を整え、2ハロン目は垂れてきた前方のウマ娘をよけながら足を休めて、3ハロン目であわよくば先頭に出ようと目論んだ。

 それこそが、2つ目の釣り針。前半の超高速ペースによる体力の回復。あらかじめ計画していたからこそ、狂いなく安定した走りを行って、呼吸も足も整えることが出来る。誰よりも冷静に、落ち着くことが出来る。

 

 そして最も肝心なのは、消えた200mにある。

 本来、距離2000に対してラストスパートを切るタイミングは、セオリーとして600m付近である。もちろん、そこまでスタミナを鍛えられていないウマ娘たちは、スパートを遅らせるしかないのだが、皐月賞を勝利出来るようなウマ娘たちは、まずその位置からスパートを切る。

 しかし、今回のセイウンスカイにおいては、そんな距離からスパートを仕掛けられない。前半に大逃げをしてしまったために、そんなスタミナは残されていない。

 だからこそ、二つの釣り針を利用した。この二つを用いて全体のスタミナを削ったことで起動する最後の仕掛け。

 

 三つ目の釣り針こそ、セイウンスカイの大本命。たった2ハロンのラストスパートでの大勝負に持ち込むこと。自分が最も得意とするフィールドに、相手を誘い込むこと。

 

 

 

(――なーんて、それだけだと思いました?)

 

 

 

 違うのだ。

 三つの釣り針の真の意味は、そうじゃない。

 

 一つ目の釣り針は、二つ目の釣り針に獲物を引っかけるための仕掛けなのだ。

 大逃げしたのは、確かに他のウマ娘たちのペースを速めるためだ。体力を奪うためだ。しかし、真の意味は。

 

(私が最初に暴走するなんて、みんなわかってる。だから、400まではあまり効果がない。500を過ぎても、あれ? って思うだけ。でも、600を過ぎたら――)

 

 あぁ、それは逃げウマ娘にとっての悪夢だろう。

 下ってくると思っていたウマ娘が、いつまで経っても、自分を突き放してくる。

 

 自分が遅すぎるのか。

 気づかない間に距離を取っていたのか。

 このまま、逃げ切られるんじゃないのか。

 

 そんな焦りと現実が、前半にずっと続いていた。

 700を越えればもう限界だっただろう。逃げウマ娘たちは、ペースを上げる。

 

 ――ただでさえ、セイウンスカイの背中を無意識に追い続けて、いつもより上がっていたペースを、さらに速くするのだ。

 

 それこそが、一つ目の釣り針の真の意味。

 無意識に、全てのウマ娘たちをハイペースな展開に巻き込み体力を消耗させる。先行も差しも関係なく、何の疑いもなく逃げウマ娘のペースに乗せて、あたかも「自分たちのペースだ」と思い込ませる。そうして、先行と差しのギャップを出来る限り狭めることが肝であった。

 

(そのためには、先行と差しの中間を引っ張るフックが必要だけど……いつも、私に追従していた王様がいるし、ね?)

 

 たとえ失敗したとしても、差しと先行との間に生まれた前半いっぱいの溝に、焦るだろう。焦って、前半は控えていた者たちもペースを上げるのは間違いない。そうでなければ「追いつけない」と思わせるだけのリードをしたつもりだ。

 そうして差し組がペースを上げたところに、二つ目の釣り針でペースを落とした先行と逃げ組がぶつかる。結果は一緒だ。

 

 

 

 そして二つ目の釣り針。

 その真の意味は、一つ目の釣り針を利用した後続の完全な団子化である。

 

 ペースを上げてセイウンスカイに追いついた、追い抜いたウマ娘たちも、急には止まれない。そこを狙いすまして、セイウンスカイは道を譲るように外側に膨らんでから、ペースを落とす。そうすることで、セイウンスカイは何の苦労もなく、順位を下ることが出来る。

 順位を下れば、あとは適当な位置に入り込むだけだ。前述した通り息を整える。足をためる。

 

 前半の1ハロン11秒という圧倒的なハイペースの中、一人だけ悠々と、先行ウマ娘たちの前に立って、1ハロン13秒にまでペースを落とした。

 先行ウマ娘たちは思うだろう。

 

(なんか足が重いな、って。だから、セイちゃんを追い抜こうなんて、思わないよね?)

 

 そうしてペースを緩めたセイウンスカイが前に立つと、先行集団が潰れるように垂れていく。足の疲れから、このペースでもいいや、とセイウンスカイが思わせた。

 先行集団が垂れれば、ギャップのなくなっていた差し集団も垂れていく。ただでさえスローペースなセイウンスカイの1ハロン13秒。さすがの差し集団も、それ以上の速度を落とそうとは、早々思うまい。思ったとして、それで垂れていけば、セイウンスカイとしては儲けものだ。

 

(体力を削った後、さらに後ろに控える差しウマ娘なんて、怖くないよね)

 

 あとの逃げ集団の展開は、セイウンスカイにとってはどちらでもよかった。

 セイウンスカイが二つ目の釣り針でやることは、「後続の団子化」と「自分のペースの維持」だけだ。付き合わされた逃げウマ娘がいずれ垂れてくることはわかっている彼女にとって、焦る理由は何もない。彼女が先頭に出たのは、自分のペースを維持していたら勝手に前に上がったから。ただ、それだけなのだ。

 

 

 

 そして三つ目の釣り針の真の意味。

 消えた200mというのが、皐月賞における作戦の肝であったことに間違いない。

 

 スパートが遅れれば遅れるほど、前方でリードをキープするウマ娘が有利になるのは、レースの常である。

 例えば、残り600m地点からスパートしたとして、最高速度が300m地点で到達するウマ娘は、理想としてその残り300mをずっと、最高速度を維持しながら走ることになる。仕上がったウマ娘であれば、そこからさらに最高速度を超えた、スピードの先にたどり着ける者も居るだろう。

 

 なら、ここから200mが消えたらどうなる?

 

 即ち、400m地点からスパートした場合、同条件下でそのウマ娘が最高速度到達に掛かる距離は300mだ。

 つまり、最高速度で走れる距離が、たった100mしかなくなる。

 

 三つ目の釣り針。

 それは、ウマ娘の「最高速度」で走れる時間を200mも削ることこそが、真なる意味となる。

 

 

 

 だからこそ、「消えた200m」なのだ。

 たったの「2ハロン(400m)」なのだ。

 

 

 

(――今だッ!)

 

 第四コーナーで、ついにセイウンスカイが風となる。

 

『セイウンスカイ! セイウンスカイだ! 大逃げをしていたセイウンスカイ、ここで風に運ばれるように前に躍り出た!』

『まだ体力が残っていた! しかし最後の急坂を上り切れるのでしょうか!?』

 

 即座に直線に躍り出て、セイウンスカイは一陣の風となった。

 これこそが、セイウンスカイだと。そう言わんばかりの、見事な加速とレース運びをみせつけて、彼女はターフを思い切り蹴り付ける。

 

 

 

 その、後ろから。

 雷鳴の如き差し脚が轟く。

 

(あなたの好きにさせないわよ――ッ!)

 

『キングヘイロー! キングヘイローが今直線に足を踏み入れた! 凄い末脚だッ! セイウンスカイとの距離を瞬く間に詰めていく!?』

 

 そこにあった差は、3バ身。外側に膨らんでバ群から逃れていたキングヘイローは、着実に順位を繰り上げていたのだ。

 

 

 

 

『内から突っ込んできたのはスペシャルウィーク! やや出遅れてのスタートだが間に合うか!?』

 

(なんとか、抜けたけどッ!)

 

 スペシャルウィークは真正面から、バ群を食い破っていた。持ち前の瞬発力とパワーをもって、わずかな隙間を見逃さず突き進んできたのだ。

 しかし、機を窺っていたせいもあって出遅れた。キングヘイローとの差は3バ身。残り距離は300を切っている。

 

 その末脚をもって、何とか抜け出ようと大地を蹴り付けるが。

 

(縮まらない!?)

 

 むしろ、離される。

 重い足のせいで、思うように前に進めない。いつものように、うまく大地を蹴ることが出来ない。

 

 体が半歩前にしか出ていないような錯覚に陥る。

 足が恐ろしくゆっくり動いているような気がしてくる。

 

(まだ、まだ、諦めない!)

 

 それでも、彼女は前を見据えて、走り続ける。必ず勝機はあるんだと、己を奮起させて立ち向かう。

 

 

 

 

『セイウンスカイとキングヘイロー! その差はわずか1バ身! またキングヘイローが差し切るのか!? それともセイウンスカイが逃げ切るか!?』

 

 あと1バ身。その差はもはや、あってないようなものだった。

 キングヘイローは、あと一歩で、自分が最高速度に到達できるという確信があった。その速さをもってすれば、必ず、セイウンスカイを追い抜ける自信があった。

 

 残りの足も、十分とは言えないまでも、何とかゴールまで駆け抜けることは出来るだろう。

 

(そこよッ!)

 

 加速のための最後の一歩。

 ここで完全に置き去りにしてあげる、とキングヘイローが最高速度に到達する、その一歩。

 

 

 

 トリックスターが、その口に弧を描いた。

 

 

 

 キングヘイローは、危うくその足を踏み外しそうになった。

 体勢を整えて、何とか崩れることなく一歩を踏み出した時には、加速力をくじかれた。

 

「ッ!」

 

 キングヘイローは歯を食いしばり、一歩を踏みしめる。真っ直ぐではない、斜めになった蹴りにくい足場を、蹴り付ける。

 セイウンスカイの背中に、近づけない。小刻みに足を動かし、手を動かす、その姿が遠くなる。

 

(ッ、諦めないわ、絶対に――ッ!)

 

 それでも、王者の心は決して折れない。

 最後の急坂に牙を剥かれたとしても、彼女はそれさえ根性ではねのけて、前に足を進める。

 

 急坂が終わり、最後の平地で、全身全霊をかけて前に抜け出ようとするものの。

 

 

 

『――セイウンスカイ、今ッ、ゴールインッ! 二着、キングヘイロー! 三着、スペシャルウィークッ!』

 

 キングヘイローは一歩、届かない。

 加速に対して最大の切り札、レース場を、セイウンスカイが味方につけた。

 

 

 

 

 アナウンスと共に、電光掲示板に着順とタイムが表示される。

 再び、会場がざわつき始める。

 

『こ、このタイムは――』

 

 ――『1:59.0』

 それは、かのシャドーロールの怪物、ナリタブライアンが皐月賞で刻み付けた、レコードタイムと同じもの。

 

 

 

 セイウンスカイはその結果を目で見て、にやりと笑う。

 不敵な笑みのまま、指を一本立てて、観客席にアピールしてみせた。

 

 ドッ、と歓声が轟いた。

 

 それを聞いて、彼女はますます笑みを深くする。勝ったんだと、やってやったと、みんなにみせつける。

 

 

 

 セイウンスカイに、鋭い末脚は存在しない。

 それでも、自分を差しウマ娘と誤認させた彼女は、誰からの注目も集めることなく、万全の仕掛けをもって皐月賞を制した。

 たとえ真正面から勝負が出来なくとも、時計を刻みレースに勝てると証明してみせた。

 

 予見された運命をひっくり返すのに、誰よりも多くの時間を費やした。

 これで彼女も、皐月賞ウマ娘。

 誰も彼女から目を離すなんてことは出来ないだろう。

 

 それこそが、次の釣り針であろうと、誰が気づけることか。

 己の勝利も、およそ1年を費やした彼女の計略の内。

 

 セイウンスカイは逃げウマ娘だ、と誰かが口にしたのなら。

 それは違う、と答えよう。

 

 セイウンスカイは。

 観客全てを魅了する、稀代のトリックスターである。

 

 

 

 日本ダービー。

 クラシック二冠目。

 

 運命さえも、笑って飛ばせ。

 

 

 



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第12話 勝利のジンクス

 皐月賞。

 セイウンスカイが見事に勝利をおさめ、レコードタイムと並んでみせた歴史的なレース。

 

 セイウンスカイの勝利。ここに用いられたあまりにも綿密に仕組まれた戦略は、レースを見返せば気づく者もそれなりにいるだろう。

 しかし、彼女が最後の最後に仕掛けた魔法には、果たしてどれだけの者が気づけただろうか。

 

 少なくとも、それに真正面からハマったキングヘイローは気づいている。セイウンスカイの最後の魔法は、あまりにも計画的すぎる策略であったのだと。

 

 それに、名前をつけるとするのなら。

 

(魔法の、急坂)

 

 気がついたキングヘイローは、初めてその身を戦慄に震わせた。

 それは最初から最後まで、連綿と続く、しかしまず誰も気づけない落とし穴。

 

 最も鋭い差し足を持つ、キングヘイローを狙い撃った……少なくとも、彼女はそう感じるほどに。作戦に気がついた時の心境は、筆舌に尽くし難いものがあったと言える。

 

 最高速度に到達する、その寸前。

 そこに、あまりにも正確に設置された急坂。

 そして、消えた200mのスパート距離。

 

(私はまた、してやられたのね。完膚なきまでに)

 

 くじかれた加速力は必然だった。

 キングヘイローが最高速度に到達する寸前に、セイウンスカイが明確な意図をもって仕掛けた罠だった。

 スタミナを削り、コースを潰し、差し足を潰した上で更に、セイウンスカイは、最後の勝機まで摘み取ってみせた。

 

 急坂を前にしては、かのミホノブルボンでもなければ減速は必至。それほどに、急坂というものは足に負担を強いるものだ。

 それが、最高速度に到達する最後の一歩……最も油断し、最も姿勢が不安定になる瞬間ともなれば、尚更だ。

 

(完敗よ)

 

 認めざるを得ない。

 キングヘイローだけでなく、他の誰もが、負けるべくして負けたのだと。

 

 それでも。

 

「キングに諦めなんて言葉はいらないわ」

 

 それだけ言うと、キングヘイローはテレビを消して、ゆっくり外へと向かっていく。

 これ以上の言葉はいらないと。

 

 王者は、その瞳に闘志を燃やしながら、背中で語る。

 

 

 

 

 

『皐月賞ウマ娘セイウンスカイ! 大逃げトリック大披露!』

 

 新聞の一面に大きく飾られた、今年の皐月賞ウマ娘の記事。

 掛かり気味の差しから一転、前に前にと行く作戦には意表を突かれた。誰も予想できない逃げ足。二冠目となる日本ダービーでは、どんな作戦を見せるのか。消えた1ハロン、見事な策略……などなど。

 

 記事を取り上げたメディアの切り口は千差万別であった。被っているところも多々あるが、注目している部分がまるで違う、といったところか。

 

 消えた1ハロンに注目したメディアがあれば。

 差しから大逃げへの大転換に焦点を当てたものがあり。

 計算されたポジション取りは鮮やかの一言、など。

 

 セイウンスカイの作戦について、様々なことが書かれている。

 まるで、違うレースのことでも書かれているかのように、全く切り口も意見も違っている。

 

「次の会見で、種明かしといきましょうか」

 

その新聞を、いつものようにトレーナー室のベッドの上で読んでいた彼女は、ぽつりとそんなことを呟く。

 

「やる必要があるのか?」

「ダービーからは大逃げなんて出来ませんから。流石のセイちゃんも、2400で大逃げするのは厳しいかなーって」

 

 鈴を転がすように高い彼女の声音に、トレーナーは口元を緩めるだけで、それ以上は何も言わなかった。

 

「ですが、皐月賞ウマ娘のセイちゃんも、次のダービーには不安なことも多いわけです」

「たとえば?」

「ズバリ、はじめての2400であることです。スパートを掛けるなら800からがベストなわけですが、800って、セイちゃんにとっては長すぎると言いますか」

「それは……まぁ、困ったな」

「困り果てて、こうしておサボり中なわけです」

 

 彼はキーボードを叩く手を止めて、うんうん唸り始める。それに合わせるように、セイウンスカイもまたうーん、うーん、と唸り声を上げる。

 

 うんうん、うーん、うんうーん、と、室内になんとも間抜けな声が充満していく。

 その声をピタリと止めたのは、トレーナーからだった。

 

「遊んでないか?」

「バレちゃいました」

 

 悪びれる様子もなく、セイウンスカイはそう言ってごろり、と寝返りを打つ。ちょうど、トレーナーを視界に収められるように。

 

「まぁ、解決方法から舞い込んでくる」

「……その心は?」

「ダービーは、最も幸運なウマ娘が勝つからだ」

 

 えぇー、と彼女は不満そうな声を漏らしていると、彼は再びキーボードを叩きはじめる。

 

「セイちゃんは運に頼ったことなんてないですよーだ」

「……運、っていうのはな」

 

 どこか拗ねたように、彼女がそう言っていると。

 彼は片目だけセイウンスカイの方に向けてから。

 

「引き寄せるものだ」

 

 淡々とそう言葉にして、口を閉ざした。

 

 セイウンスカイはその言葉の意味をしばらく考える。

 相変わらず、ソファーに寝転がるトレーナーのことを見ながら。しかし、穴が空くほど集中しても、答えが見えてくることはない。

 

「……じゃあ、セイちゃんはお昼寝します。果報は寝て待て、といいますので」

「はいよ。おやすみ」

 

 ごろりと、仰向けになってから目を閉じる。

 今この時だけは、まぁいっか、と背負った荷物をすべて降ろして休息に落ち着くのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 最終直線「529.5m」。

 東京レース場芝2400におけるそれは、セイウンスカイにとってまさしく最悪の条件といっても過言ではない。

 

 彼女の主戦場は直線における末脚勝負などでは断じてない。ナリタブライアンと同じレコードタイムを出した実績があろうとも、それは変わらない。

 下味をつけるところから始まっているのだ。ここまで連綿と、必ず繰り返してきた作戦が肝となる。だが、そんな彼女でも一つだけ、1年という長い歳月をかけても一つだけ、足りないものがあった。

 

 

 

「わぁ……三人が表紙になっていますね」

 

 トレセン学園の食堂。

 ライバルとはいっても学友同士。それはみんな変わらない。特別、ライバルになったから交流を断つ、といったスタンスを取る者は、黄金世代と呼ばれる彼女たちの中にはいなかった。

 

「あー、それ? セイちゃんの評価が不当に高くてさぁ……マークとか絶対に嫌なんだけどなぁ」

 

 グラスワンダーが手にした雑誌を見て、セイウンスカイは「うへぇ」と嫌そうに眉をひそめてみせた。口からは文句を垂れながら、食後のデザートとなるアイスキャンディーにかじり付く。

 

「あはは……セイウンスカイさん、キングヘイローさんにマークされてますもんね」

「そうなんだよー。もう、ただでさえキングから狙われてるのにさー。セイちゃん、人気者で困っちゃう。……いや、ほんと困っちゃうなぁ」

 

(ま、困ってるのはそこじゃないけど)

 

 セイウンスカイに対してマークなどと。それは自らレースの勝機を手放すような愚行である。

 彼女にとっては、むしろ「意識された方がやりやすい」のだ。

 

「それよりもさ。エルちゃんもダービー参加ってどういうことさ。皐月賞に出てなかったじゃん」

「みんなと雌雄を決するには、ここしかないと思いましたから! 世界最強になるために、まずはスペちゃんも、セイちゃんも、キングも、超えてみせマース!」

「えー。エルちゃんからも狙われてるの? うわぁ……」

 

 げんなり、といった様子で肩を落として見せながら、セイウンスカイはまた一口、アイスキャンディーにかじり付く。

 

(思ってたより反応薄いかも。いや、みんなレースに対しての干渉はしたくないから、敢えて避けてる?)

 

 ここはもう一つ、攻めに転じる必要があるか。

 ならばと、セイウンスカイは「それにさー」と気だるげにアイスキャンディーを口から離して。

 

「あのナリタブライアンさんと一緒のタイム出しちゃったじゃん? セイちゃんとしては、注目され過ぎるからそれが不幸と言いますか」

「ふふ。そうでもないと、私は思っているわ」

 

 その声は唐突に掛けられた。

 えっ、と目を丸くして四人がそちらを見てみれば。

 

「マルゼンスキーさん?」

 

 スーパーカーの異名を持ち、現役として、トゥインクルシリーズよりもさらに上の舞台「ドリーム・シリーズ」で活躍しているレジェンド選手、マルゼンスキーが居た。

 ウマ娘ファンなら、そしてレースウマ娘も、誰もが知っている「現役最強の逃げウマ娘」が、声を掛けてきた。

 

「……えっと、それは、好走に違いないから、ということでしょうか?」

 

 セイウンスカイの警戒心が、ほんの少し上がる。

 マルゼンスキーはこの学園最高峰のチーム、「チームリギル」に所属している。

 同じく、グラスワンダーやエルコンドルパサーも「チームリギル」に所属している。

 

「そういうこと。あのブライアンと並ぶなんて、本当に凄いわ。おめでとう」

「あ、あはは……セイちゃん、凄い御方に褒められてません?」

 

 照れくさそうに、おどけたように、そう言いながら。

 セイウンスカイは、その心の内から燃え滾る感情を愛想笑いの奥底に隠す。自分でも、どうしてそんなものが頭をカっと熱くさせるのかわからないまま、彼女は道化師のように仮面をかぶる。

 

 マルゼンスキーは、そんなセイウンスカイの心情を知ってか知らずか。柔らかく微笑みながら、でも、と言葉を続ける。

 

「ダービーはスピードも確かに大切。でも、皐月賞以上にスタミナも必要になる。そして、最も幸運なウマ娘が勝つ、とも言われているの」

 

 

 

 幸運とは何だろうか。

 セイウンスカイは今までのレースにおいて、不幸だと思ったことは一度もない。負けたレースは、どれも順当にそうなるような走りしかできていなかった。ライバルたちを出し抜けるような、そんな走りではなかった。

 

 逆に、勝てたレースにおいて幸運だと思ったこともない。

 それらは全て、セイウンスカイが仕込みを行った結果に過ぎない。アクシデントはなく、アクシデントだと思われることさえ、その全てが彼女の仕掛けた罠だった。

 だから、勝てるレースとはすべてが必然。計算しつくされた戦略、戦術、そして作戦に己の身体能力。ライバルたちの能力さえも、それに含み勝ち取った、努力の結晶だ。

 

 およそ幸運という言葉から、最も遠い走り方をしてきた。

 レースの内容全てを必然だと言い張れるほどの仕込みで、皐月賞には勝利した。

 他のレースも、地力の差というどうしようもない暴力と、多少の作戦で思い通りに展開を運んで、勝利してみせた。

 

 負けたレースは、どれも明確に足りないものがあった。そもそも、確実に勝てると言ってのけられるほど、万全の準備が出来たレースでさえなかった。

 

 ならば、負けたレースにおいて、何か一つでも幸運であったなら、結果はひっくり返ったのだろうか。

 

(……ないない)

 

 幸運などと、そんなものだけで勝てるほど、ホープフルステークスも、弥生賞も甘くはなかった。

 

「うーん……」

 

 新人トレーナーの彼からはともかく、レジェンドと呼べるウマ娘のマルゼンスキーからも、同じ言葉が出てきた。

 ジンクスか、それとも本当に「幸運」が勝利に寄与するのか。アイスをぱくりと頬張りながら考える。

 

 考えても、答えが出てこない。

 

「あっ、当たった!」

 

 ラッキー、と。

 アイスの棒に記された「あたり もういっぽん!」という文字を見ながら彼女はそう思う。

 

 小さな幸運が降ってきて、考えるのがバカらしくなってきた。

 レースの幸運について考えるのをやめて、彼女は席から立ち上がる。

 

「じゃあ、私はもう一本貰ってくるねー。みんなは先行っててねー。寄り道するし」

 

 その手とアイスの棒を振りながら、セイウンスカイは席を後にする。

 そんな彼女の横に、ピタリとくっついてくるウマ娘が一人。

 

「ね、もしよかったら、後でドライブに付き合ってくれないかしら?」

 

 マルゼンスキーが、内緒話でもするように小声で話しかけてくる。

 思わず胡散気な視線を向けてしまうものの、セイウンスカイはカチリと切り替え視線を切り、「いえいえ」と首を横に振る。

 

「せっかくですが、私はダービーを控えている身なので。あまり遊び歩いていると、トレーナーさんに怒られちゃいますから」

「ふふ。トレーナーくんは、そんなこと言わないわ」

「……はい?」

 

 思わず、セイウンスカイはマルゼンスキーの顔を、まじまじと見てしまう。

 

「お散歩でもいいわよ。お礼は、私と秘密の模擬レース、なんてどうかしら?」

 

 美しく、花のように咲いた微笑み。

 しかし、そのエメラルドグリーンの瞳には、朝焼けのように澄んだ感情を含ませて。

 

 マルゼンスキーは、セイウンスカイの反応を待っている。

 

「……」

 

 セイウンスカイは考える。メリットと、デメリットの二つを天秤にかけて。

 すぐに、「まぁいっか」と納得しながら。

 

「お互いに秘密を守れるなら、ぜひとも」

「オッケー。じゃあ、今日の門限一時間前なんて、どう?」

「はい。でも、私はお洒落な服装で来ませんので」

「えぇ。私も、オシャレはしないわ。ふふ、でも、楽しみにしているわね」

 

 それじゃあ、と言ってマルゼンスキーはセイウンスカイの横を過ぎ去って、食堂を後にした。

 

(……なんか、変なことになったかも)

 

 なんだかなぁ、と微妙な気持ちを内に秘めながら。

 

「あ、すみませーん。アイスもう一本、おねがいしまーす!」

 

 もらえるものはもらっておく。

 そして戦利品を持ったまま、今日も彼女は、いつもの場所に向かうのであった。

 

 

 



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第13話 紅の怪物

 トレーナーさんにお裾分けです、と。

 昼休み、わざわざアイスキャンディーを届けにきたセイウンスカイは、どこか緊張しているようだったと、彼はそう見てとった。

 

 武者震い、とでも言うのだろうか。尻尾はピンと張り詰めて、その毛はいつもよりも外側に広がり、ウマ耳は時折ぷるりと震えていた。

 表情や声音はいつも通りであったが、その肉体は緊張からか動きが硬くなっている。筋肉がこわばっている、といった具合であった。

 

「……」

 

 もらったアイスキャンディーをくわえながらも、彼はキーボードを叩く。

 

(早かったな)

 

 その原因に、彼は心当たりがあった。

 彼が「世代最強のウマ娘」の育成を目標にしていた理由でもある。今となっては萎んでしまっていたエゴが、心の隙間から顔を出す。

 

 それを、彼は扉を閉めて塞ぎ込む。今やることじゃない、と理性のかんぬきをもって固定する。

 

「俺は仮にも、あの子のトレーナーだからな」

 

 言い聞かせるように、誰もいない室内でそう口にする。

 

 アイスキャンディーを食べ終えて、キーボードを叩き終わった頃には、すっかり夕焼けの見える頃合いになっていた。

 

「さて、さて」

 

 ソファから立ち上がり、窓の前に立って、トレセン学園を一望に収める。この時間まで残っているウマ娘は、ほとんどが有力選手達である。彼にとってはゴールデンタイム、といったところか。

 

「……は?」

 

 双眼鏡を片手にある場所を見て、彼は目を丸くして声を上げた。

 一度肉眼で見て、また双眼鏡越しに見てから、それが蜃気楼でも幻覚でもないと気づく。

 

「……」

 

 ビデオの準備は間に合わない。

 つとめて冷静に、彼は机の上にあるメモ帳とペンを手に取ると、椅子に座って、その様子を見守ることにした。

 

 かりかりと、騒がしいペンの音だけが、室内に響くのであった。

 

 

 

 

 

 マルゼンスキーに会う前に、セイウンスカイは自室に戻る。汗ばんだジャージを脱ぎ捨てて、タオルで汗を拭き、制汗スプレーで泥臭さを隠す。そして新しいジャージを着込んでから、彼女は正門に向かう。

 

 どこで落ち合う、とは決めていなかった。ただ、お互いに確実に顔を合わせるならここだろう、とセイウンスカイは考えていた。

 

「……ちょっと早かったかな」

 

 先輩を待たせることがなかったことに安堵するべきか。それとも掛かり気味になったペースを反省するべきか。

 

「時間ぴったりね。予想もバッチグー!」

 

 静かに、それでいてテンション高く、セイウンスカイの背後から声が掛かる。振り返れば、同じく赤いジャージに身を包んだマルゼンスキーが、涼しい顔して立っていた、

 

「それじゃ、約束通り。散歩に行きましょう」

 

 そう言って、マルゼンスキーはくるりと反転して校舎の方に向かう。セイウンスカイとしては否もなく、静かにその後に続く。

 

「それで、どうしたんです? しがないウマ娘の私を捕まえて、散歩に誘うだなんて」

 

 マルゼンスキーの一歩後ろを歩きながら、セイウンスカイはそう口にする。

 

 考えられる二択のうち、果たしてどちらか。

 そう身構えていることを露ほども悟らせない、後頭部に両手を組んで、如何にもリラックスしてますよ、といったポーズで歩いていると。

 

「ふふ。あなたがしがないウマ娘だったら、うちのブライアンの立つ瀬がないわ。もちろん、私も、あなたのライバルも、ね?」

「……私、他人から評価されるのはすごく苦手でして」

「とってもわかるわ。でも、私たちが居るのはそんな世界なの。だから、早めに慣れないといけないわ。謙遜も過ぎれば厭味よ」

「……善処します」

「うーん……まだ硬いわねぇ」

 

 質問をかわされる。これは世間話のつもりか、それとも牽制されているのか。

 見えてこない目的が不気味であった。もっと切り込むべきか、それとも流れに合わせるべきか。

 

 そんなことを考えていると。

 

「あなたのトレーナーが、私の元トレーナーくんだった」

「……はい?」

 

 不意を突かれて、あまりにも鋭い直球がセイウンスカイの耳に届く。

 思わず聞き返して、目を白黒とさせた。そんな彼女に背を向けたまま、マルゼンスキーは口を開く。

 

「研修生として1回。サブトレーナーとして1回だけね。それに、教えてもらったことも1つずつ……全部で2つだけだった」

 

 そう言って、マルゼンスキーはジャージのポケットから、紅のストップウォッチを取り出した。

 それを見て、セイウンスカイの疑念がすべて、ストンとあっけなく落ちていった。代わりに、納得にも似た安堵がその口から漏れ出た。

 

「トレーナーくんって、凄く不器用なの。でも、ちゃんと良い人よ」

「……えっと、もしかして、それだけ?」

 

 全身から力が抜けていく。

 ただの後輩思いの先輩で、トレーナー思いのウマ娘。なんだ、ただそれだけか、とセイウンスカイは息を吐いた。

 

 くるり、とマルゼンスキーが振り返る。

 長い茶髪を翻して、少し驚いたように目を開いて、しかしその口元を柔らかく綻ばせながら。

 

「ふふっ。それだけ、じゃないかな」

 

 そう言いながら、しばらくの沈黙に包まれながら二人は歩く。

 

 

 

「後輩くんへのプレゼント。教育や指導、なんて器用なことは出来ないから」

 

 マルゼンスキーが、誰もいないターフの上に降りる。

 チリっ、と首元に走る熱を受けて、セイウンスカイの尻尾がピンと逆立った。

 

 マルゼンスキーは振り返る。夕日に赤く照らされたスーパーカーが、瞳の奥に炎を宿す。

 

「芝2400、ついてこれるかしら?」

 

 エンジンをふかすように轟く気迫。

 ジッと見つめられたセイウンスカイは、握りこぶしを作って震えていた。震えながら、彼女もまたターフの上に降りていく。

 

「頑張りますとも」

 

 

 

 お互いにスタートの位置につく。セイウンスカイが内側に、マルゼンスキーが外側に。

 

「スタートの合図は譲るわね」

「……どうも」

 

 チリ、と頭に上りそうになる熱を抑え込み、炎のような息を吐く。

 いつものように柔軟運動を欠かさず、準備を進める。作戦をどうするか考えて、すぐにやめた。今日の主旨はそこじゃない。

 

(全部、全部、盗んでやる)

 

 蓄えてきたもの。長い経験。昇華された技術の数々。

 見逃すものかと、セイウンスカイはスタートの体勢に入る。横を見れば、マルゼンスキーもまた、スタートの体勢に入っている。

 

「それじゃ、いきますよ。よーい――」

 

 ドン、と。

 明らかに有利なスタートダッシュ。声を出すと同時に飛び出すだけの、簡単な最速のスタート。

 

(えっ?)

 

 たった五歩の出来事だった。

 真紅の軌跡が横切り、セイウンスカイの髪を風が弄ぶ。

 もう、彼女の視線の先には、夕日に照らされた紅いウマ娘が走っていた。

 

(速すぎませんかね!?)

 

 それほど有利な土台の上に居たとしても、ウマ娘マルゼンスキーはいっそ笑えてくるような加速力をもって序盤の1ハロンを駆け抜けていく。スタートにおいて右に出る者がいない、とまで言われたセイウンスカイはその時点で、2バ身半の差をつけられていた。

 

(地力の差? それとも何かの技術? ダメだ、わからない)

 

 わかることと言えば、加速力においてセイウンスカイでは手も足も出ない、といったところか。

 

(1ハロン11秒切ってる! こっちは11秒なのに――!)

 

 壁がない分、よく見える。遠ざかっていく背中が、追い付けない現実がセイウンスカイの視線の先にある。

 マルゼンスキーの背中を、セイウンスカイは無理に追いかけることが出来ない。2400という長距離手前の距離を完走するには、皐月賞のようなハイペースで挑んではすぐにガス欠になってしまう。何より、マルゼンスキーが落ちてくる保証がどこにもないせいで、ガス欠覚悟で走ったとしても、追い付けない可能性まである。

 

(……これは、勝負じゃない。だから、今は――)

 

 カチリ、と見えないボタンを親指で押し込み、ペースを落とす。自分に出せる限界のラップタイムで、マルゼンスキーから距離を置く形で走る。

 

(1ハロン12秒。今の私じゃ、2400を走り切るならこれが限界――!)

 

 果たしてセイウンスカイは、自分がそれだけ出来る、という自負を持っている真の意味を理解しているのだろうか。

 

 皐月賞。レコードタイムを叩き出したナリタブライアンは、日本ダービーも制している。

 当日の芝の状況は良好であり、天気も晴れ。即ち、晴れ・良バ場という状況。

 

 ここでナリタブライアンが出したタイムは、2分25秒7である。

 

 1ハロンとは200mのことであり、日本ダービーは12ハロン。

 即ち、セイウンスカイはナリタブライアンのタイムを1秒7も更新出来る、という自負を既に持っているのだ。バ身差で表すのであれば、10バ身を超えて「大差」と表記されるほどだ。

 最初の1ハロンを11秒で駆け抜けたことを考えれば、2秒7という差にもなるが、それは今は置いておこう。

 

 当然ながら、レースは一人でやるものではない。数多くのライバルたちと同時に走り、選手たち全体の流れによってタイムが大きく変わることも少なくない。

 事実として、セイウンスカイはその集団を操るようにレースを進めてきた。全体の流れがレースに与える影響が絶大であることは、誰よりも理解している。

 

 たった二人が走ることを、一人で走ることを、レースとは呼ばない。

 セイウンスカイは、そのことをよくわきまえていたのか。

 

 カチリ、と己の走りを刻む。

 走りながら、計りながら、意識しながら、マルゼンスキーの観察をやってのける。

 

「……」

 

 マルゼンスキーとの差は、たった3ハロンの間に5バ身にまで膨れ上がった。

 差は開いているものの、絶望的と言えるような差ではない。

 

 ちらり、とマルゼンスキーは後ろのセイウンスカイの様子を見るように視線を向けてきた。1ハロンを越えるごとに、確認するように。

 

 その事実が、ぎりっ、とセイウンスカイに大きく歯噛みさせた。

 

(合わせられてる)

 

 さらに3ハロン。1200を過ぎ去ったところで、セイウンスカイとマルゼンスキーの差は、2バ身差にまで縮んでいた。

 セイウンスカイは全くペースを上げておらず、事実正確なラップタイムを刻んでいるにも関わらず、マルゼンスキーとの差は1ハロンごとに1バ身ずつ、縮んでいたのだ。

 

 まるで、よく見ていなさい、と言わんばかりに。

 マルゼンスキーの背中が目の前から離れない。大きな背中が、つかず離れずそこにある。

 

(……ダメかも)

 

 まるで参考にならない、とセイウンスカイは結論づけた。

 マルゼンスキーは、小手先の技術を積み重ねて強くなったウマ娘ではないのだと、確信する。

 

 恵まれた体格。恵まれた運動神経。走ればただ速かった。そんな、天然の天才こそが、マルゼンスキーというウマ娘なのだと、走りを見て理解した。

 

(トレーナーさん、こんな御方に教えられることってなんなんです?)

 

 だからこそ、わからない。一体、こんなウマ娘に教えるべきことなどあるのか、と。

 天才の姿をまざまざと目の当たりにしながら、セイウンスカイは初めて、どうしようもない敗北に打ちひしがれていると。

 

 気がつけば、レースは終盤の残り800に入っていた。

 

「見ていなさい!」

 

 萎んでいくセイウンスカイに活を入れるように、そんな言葉が掛けられる。頬を叩かれるような言葉の圧力に、ハッと顔をあげてみれば。

 

「これが私の」

 

 マルゼンスキーの足が、通常より大きく振り上げられる。

 歩幅はこれ以上なく大きく、その足を振り下ろすと同時に、彼女もまた獣のような前傾姿勢に移り。

 

「フルスロットルよ!」

 

 落ちゆく夕日の中に、紅い残像が溶け込んだ。

 

 セイウンスカイの目の前から、マルゼンスキーの影が消える。

 へ、と間の抜けた声がこぼれ落ちる。ほんの2バ身先にいたマルゼンスキーを、その瞳は見失っていた。

 

「……は、え?」

 

 見つけた時、セイウンスカイは全身から力が抜け落ちるような錯覚に陥った。

 彼女がマルゼンスキーを見つけたのは、まだ最終コーナーが1ハロンも残っている中での出来事だった。

 

 マルゼンスキーは、最終直線に抜け出ていたのだ。

 あっと声を上げる間も無く、気を抜けば視界から消えそうになる様は、F1レースを彷彿とさせるような、スピードのその先に突き抜けたような。少なくとも、セイウンスカイの理解の範疇を超えた場所を、マルゼンスキーは駆け抜けている。

 

(体重を、全部加速力にした? え、コーナーの遠心力に振り回されずに……? 重心の移動? それに)

 

 パン、とセイウンスカイのすぐ目の前で何かが破裂した。

 全身が急激に力みながら、ラップタイムの維持も忘れた彼女はその正体を見て、目を見開く。

 

(……土!?)

 

 それも、緑色の混った土であった。

 

(どっから……周りに、誰もいないし……っ!)

 

 その可能性に思い至った時、セイウンスカイはマルゼンスキーの位置を確認して、一瞬だけ視線を後ろに向けた。その場では何も見つからなかったが、そうであろう、という確信が生まれる。

 

(蹴り上げた時に、飛んでったの!?)

 

 まるで怪物の如き脚力。

 加速する時、当然地面には足をつく。大地を蹴り上げ、その力をもって加速する。

 

 その加速するための一歩が、土を天に飛ばして、意図せずセイウンスカイの目の前に着弾した。

 普通なら後ろに飛んでいくものを。抉ったターフを、真上に跳ね上げるほど強く、マルゼンスキーは踏み込んでいた。

 

 その事実に気づき、セイウンスカイは真の意味で、マルゼンスキーが「怪物」とまで呼ばれた理由を理解する。現役最強の逃げウマ娘、という評価の一端を理解する。

 

 速いだけじゃない。

 身体能力だけでもない。

 そんなものに任せていたなら、これだけの持て余すような力、どれだけ故障率が上がるかわかったものではない。

 

(全部、全部……!)

 

 マルゼンスキーというウマ娘は、己に秘められた怪物の力を、全てその手中に納めている。自分でしっかりとコントロール出来ている。

 

 マルゼンスキーの力が、怪物なのではない。

 マルゼンスキーこそが怪物なのだ。

 

 あぁ、これは勝てない、と理解する。

 

(どうやったって、今の私じゃ勝てない)

 

 でも、とセイウンスカイは大きく足を振り上げる。

 歩幅は自分にできる最大限。重心は前に押し出し、足の先は少しだけコーナーに沿わせて。

 

(仕掛けくらいなら、できるっ!)

 

 獣の如く姿勢を低くし、大地をめいっぱいに蹴り上げて。

 セイウンスカイは、迫る影から逃れるように、夕日の中に飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 窓から見ていた彼は、夕日が沈み切ってからようやくペンを置き、走り書きしたメモを見返した。それが読めること、記憶にある内容と違わないことを確認してから、彼は逆再生でもされるように、定位置のソファの上に寝転がる。

 

「さて」

 

 どうしたものか、とパソコンを腹の上で起動しながら、メモを何度も見返した。起動が終わればいくらか操作して、またキーボードを叩き始める。

 

 

 

 ウマ娘たちの寮の門限から一時間。

 彼はようやくのそりと起き上がると、とっとと身支度を整えて、トレーナー室を後にするのであった。



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第14話 コラテラルダメージ

「逃げウマ娘に最も重要なことって何だと思う?」

 

 はい? と、セイウンスカイはトレーナーからの唐突な質問に声が漏れる。

 脈絡のない質問だった。いつも通り、トレーナー室に入ってゴロゴロしていたところ、虚空から降って湧いたかの如く飛び出した質問。

 

「……そんなの、人それぞれじゃありません?」

 

 逃げウマ娘と一口に言っても、まるでタイプが違うのだ。

 例えば、セイウンスカイは限界まで策を練って、盤石となったレースで、自分の優位に進めていこうとするタイプのウマ娘だ。そんな彼女から言わせてもらえば、レースによって変わります、としか言いようがない。

 

 しかし、一般的な逃げウマ娘とは、先頭に居座り続けて、そのペースのまま逃げ切る、と考えられることが多い。こんな場合には、最も重要なのは速さ、とでも答えるだろう。

 あるいは、ただ自分の思う通りに走っていたら、たまたま逃げの作戦をとっていた、というウマ娘もいるだろう。そんな子は、自分のペースが大切、とでも答えるのか。あるいは気持ち良く走ること、とでも言うのか。

 

 逃げの中にはもう一つ、大逃げという部類も存在する。

 最初から最後まで全力疾走。ただ走り抜けるだけの力業。そんなウマ娘に聞けば、もっと体力が欲しいとでもいうのか、それとも疲れる前にゴールできる速さが大切、と答えてしまうのか。

 

 しかし大凡、競走相手のことは気にしない。セイウンスカイは特別意識しているが、大抵の逃げウマ娘は、最初から競走相手のことを視野に入れて考えようとはしない。レース中、前に立たれて初めて考えることの方が多いだろう。

 

「いや、これはどんな逃げウマ娘にも共通して当てはまる」

「……ふむ」

 

 即ち、個人の特徴に関係のない部分。逃げウマ娘の共通事項、といったところか。

 ペースをキープする、は違うだろう。それでは大逃げする者に当てはまらない。誰よりも先頭を走る、となればセイウンスカイに当てはまらない。

 

 そうなると、もっと根本的な部分なのか。

 セイウンスカイが頭を捻っていると。

 

「怪我をするような無茶をしないことだ」

 

 トレーナーが答えを言った。

 えぇ、と声を上げて、セイウンスカイはどこか責めるような視線をトレーナーに投げつけた。

 

「それ、作戦とか関係ないと、セイちゃんは思うのですが」

「いいや、これは逃げウマ娘だからこそ言えることだ」

「……その心は?」

 

 ここまで言い切るなら、何か訳があるのだろう。

 興味深そうに、真剣にセイウンスカイが耳を傾けていると。

 

「逃げウマ娘は、他のどんなウマ娘よりも、限界を超えた速度に到達しやすい。良くも悪くもマイペースなウマ娘ばかりだから、大体が無自覚だ。ランナーズハイ……脳内麻薬がドバドバ出てる中で、走る以外に考えないような奴なんか、自分が序盤や中盤にどんな走りをしたかも、どれだけ足に負担を掛けたのか、なんかも知らずに、更に負担をかける。そして、ポッキリとやってしまう」

 

 大真面目に、そんなことをつらつらと語り始めたのだから、セイウンスカイも少しばかり面食らう。

 

「……それで、トレーナーさんはどうしてまた、そんな話をセイちゃんにしたわけでしょうか」

「たまには、トレーナーらしい説法でもと思った。重要なのは、総合的な負担を出来る限り減らすことだ」

「……なるほど、なるほど」

 

 セイウンスカイは自分の額に手のひらをのせて考える。

 簡単なシミュレーションだ。体力の最大値を決めて、あとはどこでどれだけ体力が削れるのか考える。ゴールに到達するまでに、ゼロにならなければゲームクリア。

 

 普段ならなんて事のないお遊びが、この日は特別難しかった。

 

「リードを取って逃げ切るのも一つ。鍛えた加速力と溜めた足で、飛んでいくのも一つ。どっちが正しいなんてこともない」

「……ほうほう」

 

 沈黙しているセイウンスカイに投げかけられた言葉が、思いの外、好感触だった。

 彼女はニヤリ、と口元に弧を作ると。

 

「トレーナーさんも悪い人ですねー。セイちゃん、珍しくやる気になっちゃいました」

「勝ったらVサインでも決めて調子に乗ってるように見せようか」

「うーん、それはちょっと。皐月賞の時、一本指立てちゃいましたから。後追いって、セイちゃん的には苦手だなぁって」

「そうか。やりたいパフォーマンスがあったら、今から考えた方がいい」

「……なんか、さらっと重くありません?」

「……? 重い?」

 

 トレーナーはパソコンから顔を上げて、きょろきょろと室内を見渡した。窓の外を確認して、エアコンを確認して、壁の室内計を見て。

 

「まだ梅雨入りしてないぞ」

「いや部屋の空気とかじゃなくて。……ま、別にいいですけど」

 

 首を傾げながらも、トレーナーはしばらくして何も続かないとわかるや、またパソコンに顔を戻した。

 

 セイウンスカイは横になりながら、そんなトレーナーのことをぼーっと見つめる。

 視線に気づいているのか、気づいていないのか、それとも気にしていないのか。彼は数分経っても、特に反応を返さない。

 

 

 

(やること、多いのかな)

 

 微睡のような時間が、漠然と流れていく。

 特に何もない、そんな空白に。セイウンスカイは寝転んでいた。

 

(……あっ)

 

 ふと視線が合った。

 パソコンの位置を調節したからか、ほんの少し視野が広くなった彼と見つめ合う。

 

 セイウンスカイは反射的に、入り口の方に目を逸らして、しかし何かそれもバツが悪くて、またすぐに彼の方に視線を戻した。

 すると、彼はセイウンスカイの視線を追っていたのか、入り口の方に視線を向けていた。数秒して何もないとわかるや、今度は投げかけるような視線が彼女と交差する。

 

 うつ伏せの彼女は両腕に口元を埋めると、そのまま窓の外に視線を移した。すぐに視線を戻せば、また彼は後を追うように、窓の外に視線を向けていた。そこにも何もないとわかるや、責めるような、呆れたような視線を彼女に向けて、彼は肩をすくめるとパソコンに視線を戻した。

 

 そんな彼の様子を、セイウンスカイはまたジッと見つめる。まるで風に流れる雲を見つめるように、軽く取り留めのない視線。

 時間が流れるにつれて、パタ、パタ、と尻尾が音を立てて揺れ動く。

 

「……何かあったか?」

「いえ。トレーナーさん、頑張ってるなぁ、と見ていました」

「そうか」

 

 尻尾がピタリと止まった。短い会話の後、しばらくするとまた、その尻尾は音を立て始める。

 

「……記者会見、どうするつもりなんだ?」

 

 彼は手を止めて、セイウンスカイに視線を向けると、もう尻尾はピタリと止まっていた。まるで何事もなかった風を装って、しかし間抜けにも重力に逆らってピンと斜めに伸びた状態で。

 それを見て、思わず飛び出そうになった笑いを、考える風を装って口元を手で覆って隠し通す。

 

「セイちゃん、逃げの才能があるかも? なーんて戯けてみまーす」

「じゃあ、こっちはいつも通り茶々入れるか」

「はい。セイちゃんの前評判は、暴走特急の暴走宣言、くらいにしましょう」

「あぁ……だったら、ちょっと匙投げた風にするか」

「演技がお上手でして」

「必要ならやる。それだけだ」

「……でも、それってトレーナーさんの評判に傷がつきません?」

「まさか」

 

 セイウンスカイの心配を、彼は口元の手を宙でひらひらと踊らせると、一笑しながら答えた。

 

「最後は笑ってるさ」

 

 今もじゃん、なんて茶々をセイウンスカイは入れなかった。

 胸の奥からそわそわするような、くすぐったさが溢れてくる。彼の自信ありげな顔を見ていると、余計にくすぐったい。

 

 堪らず、強引に視線を切ると、彼女は枕に顔を埋めて小さく唸り声を上げ始める。人には聞こえないような、小さな声だ。

 足も上下に動いて、尻尾は千切れんばかりに左右に振れる。

 

「あぁ、前にも言ったけど。ダービー終わったら、1ハロン11.5秒だからな」

「……台無し!」

 

 セイウンスカイは顔を上げて吠えた。それはもう、めいっぱいの感情を全て声にのせる勢いで、声量だけでベッドからソファにいるトレーナーの髪をわずかに揺らすほどに。

 

「そこはもっと、こう! 褒めるところですよね!?」

「あぁ、それも面白いな」

「面白い!?」

「……口が滑った。なしなし」

「この、このトレーナーさんは、ほんとに……!」

 

 この横暴を許してなるものか、とセイウンスカイはとうとう立ち上がって、力強くトレーナーに視線を向けた。

 上から少し離れた位置を見下ろす形になるわけだが、そこからなら彼の表情がよく見えた。

 

 モゴモゴと口を動かしながら、パソコンの中に意味もなく視線を泳がせる。頬は緩みそうになっており、キーボードに置かれた手は動いていない。

 

「……ふーむ?」

 

 まさかこれは、とセイウンスカイはわざとらしく声を上げながら近づいた。

 彼はその顔を、わずかに引き攣らせたように見えた。それでも、ソファから動く気配は微塵もない。

 

「ふむふむ」

 

 もうソファの隣にまで近づいても、彼は動こうとはしなかった。

 代わりに、キーボードを叩き始めた。文字を打っては、バックスペースで消すを繰り返す。

 

 にやり、とセイウンスカイの頰が緩む。

 

「トレーナーさん?」

「……どうした」

 

 ひょいと、少し屈んで画面の中を覗き込んでみれば、真っ白な文書ファイルが映し出されていた。そこに文字が入れられては、消えていく。意味のない文字の羅列が。

 

「もしかして、照れてません?」

「……何に照れるんだ?」

 

 セイウンスカイはベッドの横に膝立ちになると、顔を並べるように彼と同じ画面を覗き込む。

 その口元を緩ませながら、彼女は右手の人差し指でその画面を示して口を開く。

 

「いやぁ、考えればおかしいと思いまして。だってトレーナーさん、前にもその目標、セイちゃんに聞かせましたよね?」

「……まぁ、そうだな」

「無駄口叩かないトレーナーさんが、まさかまさか二度目なんて。引き締めというには、トレーナーさんの説法がそれに当たるわけでして。そしてそして、さっきのセイちゃんは絶好調だったわけですし?」

「分かりきっているな」

「そして、このパソコンの白紙と、キーボードを打つフリというわけです」

「考えをまとめるなら、手を動かして文字にすると、思いの外整理がつく」

「でも、セイちゃんが居た限りでは今まで一度も、そんな素振り見せませんでしたから。つまり、それはトレーナーさんのブラフ。その上で、セイちゃんは気づいちゃったわけですよ」

 

 彼は特にセイウンスカイの方に視線を向けない。画面の中を見たまま、頑なに視線も顔も動かさない。

 それをチラリと横目で見て、ますます彼女の笑みが深まった。

 

「可愛いところあるじゃないですか、このこのー」

「……何を考えついたのか知らないが」

 

 男に可愛いとはなんだ、と。根負けしたようにトレーナーは彼女の方に顔を向けて。

 

「……」

 

 ぐに、と頬に何かが食い込む感覚が襲う。

 セイウンスカイは、それはもう清々しいほど晴れた顔で、にしし、と笑いを漏らした。

 

「掛かりましたね? トレーナーさん」

「……」

 

 彼は口を開かなかった。代わりに、抗議の視線をジッと向けたまま動かない。

 そんな視線を受けても、セイウンスカイは涼しい顔で、ふふん、と勝ち誇り、ぐりぐりと左の人差し指を軽くトレーナーの頬に押し込む。

 

「…………」

 

 それはもう、抗議の視線が更に力強くなったが、彼は口を開かない。

 

「にゃはは。セイちゃんのやる気は有頂天! と、いうわけで、練習行ってきまーす」

 

 もう一回、彼の頬を指で押した後に、彼女は素早く反転してそのまま部屋を出ていった。

 扉はまた開けっ放しである。

 

「あ、それと」

 

 ひょっこりと、セイウンスカイは開け放った扉から顔だけ出して口を開く。出て行ってわずか数秒のことだ。トレーナーは変わらず彼女を責めるように視線を送っていると。

 

「説法は確かにお聞きしましたので、珍しく、なんとなんとセイちゃんが珍しく! 素直に聞き入れましょう。トレーナーさんは、ゆっくり休んでくださいね?」

 

 ではではー、とセイウンスカイは今度こそ、扉を閉めてからどこかに行ってしまった。

 

 

 

 彼は固まったまま、しばらくは動かなかったが。

 本当に彼女が戻ってこないとわかると、頭を抱えるように額に手を当て、声にならない呻き声を上げた。

 

 しばらく続くその様子を、誰にも見られなかったのは幸運か。

 

「コラテラルダメージだ……」

 

 そう呟くと。

 彼はパソコンをそっと閉じて目をつむる。

 そしてそのまま不貞腐れたように、何をやるでもなく、ただ寝転び続けるのであった。

 

 

 

 

 



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第15話 王者

 カメラのフラッシュが何度となく焚かれる中、セイウンスカイは涼しい顔で勝負服を纏いポーズを決めていた。

 前方に居る記者たちを気にした風もなく、しかし地面に直立した尻尾は彼女が動いても揺れ動くことがない。

 

「皐月賞の好走もあり、次のダービーは堂々の一番人気ですが、自信のほどは?」

「うーん、皐月賞もやっぱり危なかったし、何より横から要注意ウマ娘が参加表明してきたしで、あんまり自信はないかもなー、って。ライバルがライバル、ですし」

 

 宙に視線を泳がせながら、迷うように彼女は言葉を紡ぐ。

 

「今まで差し一辺倒から、突然の逃げ先行への転向。一体どんな心境の変化が?」

「いやー、あの時は何か走ってたら気持ちが昂っちゃいまして。気づいたら結果の通りです」

「いつもの暴走癖です。いっそのこと、ずっと暴走してた方が強いのかもしれませんね」

 

 セイウンスカイの回答に追従するように、トレーナーが両手を上げながら困ったような顔と声音でそう言ってのける。

 うわー、とそんなトレーナーにセイウンスカイは声を上げて。

 

「皆さん聞きました? トレーナーさんったら、もう匙投げちゃってるんですよ。暴走したなら、それを止めるのがトレーナーの役目なのに、この人職務放棄してまーす!」

「いやぁ、いっそのこと自由に走らせた方が強いのかなぁって」

「まぁ? 私ももしかしたら逃げが得意だったのかも?」

「暴走した方が強いなら、こちらとしてはやることがないわけで。つまり、職務放棄ではありません、とだけ」

「じゃあ、次は私の好きに走るとしましょう!」

「堂々と暴走宣言されると、トレーナーとして立つ瀬がないといいますか」

 

 やれやれ、と肩をすくめる様子に、しかし会場から笑い声は漏れてこない。

 

「……まぁ、そうですね。彼女のファンに、ライバルに。全てのレースファンの皆様に向けて、トレーナーとして真面目に一言だけ、添えさせていただきます」

 

 トレーナーと、セイウンスカイの視線が交差する。

 一度、何気なく縦に振られた尻尾を、彼は見逃さなかった。

 

「唯一抜きん出て並ぶ者なし」

「うぇ!?」

 

 彼女から飛び出た素っ頓狂な声も、会場のざわめきに掻き消された。

 

 外向けの仮面が剥がれていた。

 トレーナーは、その好青年のような明るい笑顔を引っ込めて、目つきを鋭く、声を低く、口元には邪悪とさえとれる笑みを浮かべて、堂々と言い放ったのだ。

 

「……学園の校訓に相応しい走りを見せる、と?」

 

 会場内がやや落ち着いてきて、そう聞かれた時。

 

「レースを見れば分かります。セイウンスカイの本領、どうかお見逃しのないように」

 

 彼はもう外向きの、爽やかな笑顔と穏やかな口調に戻っていた。

 横から受ける苛烈で刺々しい視線さえそよ風のように受け流して、矢面に立つ。

 

 セイウンスカイに焚かれるはずのフラッシュが、トレーナーに向けられる。

 彼女の注目を、たった一言で、全て奪い去る。

 

 会見もいよいよ終了時刻に迫っていたところで、最後の質問者が手を挙げ、許可を受けてから口を開いた。

 

「そこまで言わせる理由は?」

「非常にシンプルです」

 

 そう前置きしてから。

 

「誰よりも彼女を知っている自負がある。それだけです」

 

 彼はおもむろに腕時計を見ると、時間ですね、と聞こえるように声を上げると。

 セイウンスカイに一度視線を向けて、舞台裏の方を見て合図を送る。

 

「彼女の勇姿、くれぐれもお見逃しがないように」

 

 くるり、と彼が反転すると、セイウンスカイも同様に背を向ける。

 嵐のような声の雨霰を無視して、二人は堂々と会場から立ち去るのであった。

 

 

 

「やり過ぎなんですけど!?」

 

 帰りの車の中で、セイウンスカイは水中から顔を出した時のように、勢いよく声を上げた。

 とんでもない言葉を使ったトレーナーには問いただしたいことが山ほどあった。その全てを込めた抗議の一言に。

 

「如何にも、実力差、って聞こえるな」

 

 彼はそんな言葉と共に、口元を歪めて見せる。

 セイウンスカイはその反応にパチクリ、と一度はっきりと瞬きしてから、数秒固まった。

 そして、ようやく動き出したと思ったら、頭を抱えながら自分の尻尾までその腕の中におさめて。

 

「そうですけど、そうじゃなくって!」

「皐月賞でナリタブライアンのタイムと並んだのが良い味を出した。もう、彼女を除いて誰も、君の策には気づかない。いや、策なんて発想が出てこない」

 

 彼の放った一言は、それだけインパクトの大きい言葉であった。

 大雑把に意訳するなら、「セイウンスカイの大差勝ち。他は誰も続かない」と言っているようなものなのだ。

 

 当然、そんな堂々と宣言されれば、誰もがこう思う。

 

「セイウンスカイの実力は、どれだけ凄いのか。みんながそこに注目する。奇抜な作戦の印象なんて、あの言葉の前には霞んでしまう」

 

 セイウンスカイはこれまで、何度となく最速のスタートと、序盤からポツンと先頭に立つような、暴れウマっぷりを見せてきた。

 そして、トレーナーの言葉が合わさり、皐月賞のタイムがその裏付けのように作用する。

 

「セイウンスカイの暴走癖は、紛れもなく実力に相応しい走りなのかもしれない、と思われる」

 

 ならば、注意すべきことは何か。

 注意したとして、それがただの考え過ぎだった時、どうするべきか。

 

 横槍を入れるでもなく、セイウンスカイはそのウマ耳をピク、ピクと反応させながらも、動かない。亀のように丸まったような姿勢のまま、思考の海に沈んでいる。

 

「注意すべき相手は、わかるな?」

「……当然ですとも」

 

 お互いに言葉に出さずとも、その想像が一致していることに確信を持つ。

 そして、分別もついている。

 

 注意すべき相手が居るのは確かだが。

 それとは別に、策にはめるべき相手が居るのも確か。

 

 そこを混同しては、勝利に手が届かなくなる。

 

 お互いの認識のすり合わせが終わると、車内は環境音を除いて沈黙に包まれる。

 

 一人は思考の海に潜り込んで。

 一人は安全運転に気を配る。

 

 

 

 セイウンスカイさえ気づかなかった、彼の言葉に盛られた毒。

 それは腐り落ちる果実のように、時を経ることで効果が浮かび上がる。

 

 中身の詰まった果実が傷み始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 汗に塗れて、泥を被って、その端正な顔をぐちゃぐちゃにしてしまおうとも。

 

 走り続ける姿は凛々しく、あまりにも直線的で、あっ、と声を上げる間も無く魅せられる。

 不撓不屈に心を燃え上がらせ、陽炎が立ち上るようにさえ見える気迫には、思わず息を呑み込んだ。

 

 地鳴りはおろか、神鳴りの如きはまさしく一蹴。

 隠さず、臆さず、退かず、目指す場所には一直線。

 

 余裕は持たず、慢心捨て去り、全ての力を注ぎ込む。

 

「……キング」

 

 それはまさしく、絶対王者の行進。

 魅せつけ、惹きつけ、その後に続きたいと思わせる。

 

 理想と模範を詰め込んだようなその姿。

 程なくして、彼女は一息ついて身体を休める。温いドリンクを飲み下し、自ら足の負担を減らすマッサージを施術する様には余念なし。

 

 声さえ掛けるのが躊躇われる。しかし、魅せつけられる。

 そんな彼女の前に飛び出して、興奮したように話しかける少女が一人。

 

 王者は寛容で、しかし己に妥協は許さず、やるべきことに抜けはないまま、言葉を交える。

 時間になれば断りを入れて、何か頷いたかと思うと走り出す。話しかけた勇気ある少女は、その後に続く。

 

 

 

「……」

 

 窓からその様子を見ていた彼は、日光のせいか、額に汗を滴らせる。つぅ、とそれが頬に、首筋にと落ちていく。そんな些事に構う暇はなく、彼はその姿を見続ける。

 

 すっ、と。

 

 炎よりも熱く、太陽のように眩しい瞳と、目が合った気がした。

 息を呑み込んだ時には、もう彼女は前を向いていたが、その口元に浮かんでいるのは、不敵な笑み。

 

「……」

 

 

 

 波乱は間も無く。

 運命の日本ダービー。クラシック二冠目のレース。

 

 その開催は、目の前に。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第16話 ライバルたち

『唯一抜きん出て並ぶ者なし』

 

 どこに行っても、そんな一面が目についた。

 大言壮語と笑う者がいる。あのスペシャルウィークが、あのエルコンドルパサーが、あのキングヘイローが。そんな立ち並ぶ強敵相手に、そんな言葉を吐き捨てるなんて。

 やるかもしれない、と期待と不安に胸を膨らませる人々がいる。あのナリタブライアンと同じレコードタイムを出したウマ娘だぞ、と。シャドーロールの怪物を超えるかもしれない、という期待は大言に見合うだけ膨らんでいく。

 

 注目が集まっている。かつてないほどの期待が降りかかる。

 しかし、いくら降りかかろうとも。

 

「いつもどーり、セイちゃんはやりますとも」

 

 空に浮かぶ雲には届かない。

 どんな雨も雲から降り注ぐのだから。雲より高くからは降ってこない。

 

 どんな期待も、思いも、パドックに出た少女の上から降るものはなく。

 誰よりも自然体でお披露目を終えれば、彼女は空を見上げた。

 

「おっ」

 

 空の先には、真っ白な入道雲がもくもくと天高く膨らんでいた。

 遠くの出来事だ。今はまだ、関係のない話だ。

 

 闘志に滾るエルコンドルパサーも。

 肉体を仕上げてきたスペシャルウィークも。

 堂々とした振る舞いで、鍛え抜いた身体を見せつけるキングヘイローも。

 

 セイウンスカイは一瞥するだけで、あとはまるっと無視を決め込んだ。対抗意識に燃えられても、セイウンスカイには返すものがどこにもない。

 

 何せ今の彼女は、他のどんなウマ娘も後に続けさせないウマ娘。

 闘志に返礼するのは、確かにライバルとしては正しい。ドラマとしても盛り上がる。

 

 だが、全てを置き去りにする圧倒的強者としては、相応しくない。

 だから、一瞥だけすればあとは視線も向けない。眼中にない、とポーズを取る。

 

(尻尾から火が出ちゃいそう)

 

 どれだけ視線が強くなろうと、彼女はマイペースを譲らない。先頭だって譲るつもりは毛頭ない。

 

「……すぅ」

(っ!)

 

 たとえ、ふと背筋に強烈な悪寒が走ろうとも。まるで、首筋に鋭利で冷たいものが押し当てられたような、そんな錯覚を覚えたとしても。

 セイウンスカイは前を向く。振り返るのは、レース本番になってからでも間に合うのだから。

 

「ふん」

 

 つん、とした態度を表すように聞こえてくる息遣い。

 それが何に対してのものだったのか、セイウンスカイにはわからない。ただ、言わんとしていることは、耳に届いたからこそ、おおよそわかる。

 

(怖い怖い。ほんと、怖いよね)

 

 チラリと客席に視線を向ければ、最前列に立っている彼がすぐに見つかった。視線もぶつかった。

 彼は一度頷くだけで、それ以上は何も返さない。動こうともしない。特に助言をするような様子は全くない。

 

 セイウンスカイは、彼に頷き返しさえしなかった。今はその方が都合がいいと思った。

 彼女はレース場に繋がる地下通路に入り、悠々と歩く。ゆったりと尻尾が揺れながら、ウマ耳は時折ピクリと動く。

 

 レースが終わるまで、セイウンスカイがトレーナーと対面することはなかった。

 

 

 

 エルコンドルパサー。

 G1レース、NHKマイルカップにて堂々の1着をとり、ここまで4戦4勝の負け知らず。最終直線における爆発力は他の追随を許さず、一息にちぎるのが特徴的な走り方。

 

 しかし、NHKマイルカップは芝1600である。日本ダービーの2400を走り切るためのスタミナもそうだが、そもそもペース配分自体が全く異なる。いくらG1レースに勝ったといえども、ならば日本ダービーに勝てるのかと聞かれれば、首を傾げざるを得ない。

 それどころか、もはや土俵違いも甚だしい。NHKマイルカップは5月前半。日本ダービーは5月後半。その間にマイルから中距離への調整など、本来できるはずもない。無謀な挑戦、と一蹴されても仕方のない、めちゃくちゃな出走である。

 

 ……などと、そう考えた者から足を掬われるだろう。

 そもそも根底が違うのだ。何故なら、エルコンドルパサーの目指すは凱旋門賞。芝2400のレースこそが、彼女の目標レースであり、レース人生通してされてきた調整は、むしろ日本ダービーこそが最も適しているとも言える。

 

 NHKマイルカップはいわば前座。戦績だけを見れば直近のマイルに目がいくが、主軸は決してそこではない。

 

 そんなエルコンドルパサーは、レース前に闘志が漲っていた。彼女の近くにいるだけで数度、暑いと思うくらいには燃えている。

 そして、その視線はスペシャルウィークに、キングヘイローに、そして飄々としたセイウンスカイに向けていた。

 

『セイウンスカイに惑わされるな』

 

 しかし、トレーナーから釘を刺されてもいた。

 皐月賞に強烈なタイムを刻みつけ、専属トレーナーからは校訓に相応しいとまでいわれる実力。

 流石に意識するな、というのは無理がある。エルコンドルパサーも、同期のセイウンスカイのことはライバルだと認めている。ならば惑わされるな、の意味とは何か。彼女がトレーナーに聞き返せば。

 

『あの男はとんだ狸だ。対抗意識を燃やすのは構わない。だが、ライバルが他にいることも忘れるな』

 

 つまり、セイウンスカイにうつつを抜かして他に抜かれるな、とでも言いたかったのか。

 エルコンドルパサーはそれにしっかりと頷き、向けすぎていた意識を、他のライバルにも分散させた。

 

 今にして思えば、トレーナーの指摘は真に正しかったのだと肌身で感じている。

 スペシャルウィークは皐月賞の時よりも洗練されている。垢抜けた、とでも言うべきか。どこか緊張している様子が抜け落ちて、目の前のレースを懸命に走ろうとしている。改めて見ても、強敵だと理解できる。

 

 そして何より、キングヘイローは別格だった。

 垢抜けた、どころではない。レースに挑む覚悟が、海を挟んでいるかのように違って見えた。一瞥しただけでもわかる。ぶるり、と武者震いが全身に駆け抜けるほどだ。鳴りを潜めているように見えるが、目の奥を見ればわかる。くつくつと燃え滾る闘志が、その瞳を通して肉体に漲っている。

 

 対極的に、セイウンスカイは全く掴めない。何を思っているのか、やる気がないのか。そもそも、ライバルと認識さえされていないのか。

 何も知らなければ、思わず挑発を掛けていてもおかしくなかった。私を見ろ、と叫んでいたかもしれない。

 それがブラフなのか、それとも不調によるものか。エルコンドルパサーは、その明暗をレースに委ねることにした。結果、セイウンスカイが先を行くなら、己がそのさらに先を行く。そうして、見たか、と胸を張ればいい。

 

(何があっても、勝つのはこの私デース!)

 

 その意気込みも、その結果も、違えるつもりはない。

 わからないことは、全てレースに置いてある。

 

 口元を緩めて、彼女はぐっと拳を握り、本バ場に向かうのであった。

 

 

 

 

 スペシャルウィーク。

 北海道から単身で上京してきたウマ娘であり、弥生賞で堂々の1着に輝いたウマ娘。レースの駆け引きに乏しく、しかしながら秘めたる素質に荒削りながらも光る差し脚が特徴。

 

 それは即ち、誰よりも未成熟である、という意味でもあった。未成熟故に、伸び代に優れ、飛躍的な進化を遂げる可能性を持っている。

 そんな彼女が、およそ完璧ともいえる調整を終えて立っている舞台こそ、日本ダービー。くすぐったさのような脚の疼きは、絶好調の合図。柔軟をしながら、待ちきれない、と言わんばかりに足踏みをする姿は一見愛らしくも、その実は闘争心の溢れ出た証拠である。その瞳の奥には、一等星に負けない光を灯している。

 

 皐月賞では1着を逃したものの、それは伸びきらない末脚……太り気味の弊害によるものだった。体重数㎏の変化が、慣れ親しんだ走りに及ぼす影響は絶大だ。思うように足が前に出ない、まるで水中にいるように体が重い。追いつけるはずなのに、背中が遠くなっていく。自信と現実とのギャップに打ちのめされた。

 

 万全じゃなかった。一発勝負のレースで、そんな言い訳が通用するはずもない。スペシャルウィークの感じた悔しさは、尋常ならざるものだった。

 丸一日は恥ずかしさと悔しさで、何をするにしても身が入らなかった、転びかけた回数は両手の指では足りず、話しかけられた時は三度目の呼び掛けでようやく気づく、というのはザラだった。

 調子が戻ったのは2日目のことだ。まだ皐月賞のことを引きずっていて、練習に身が入らない状況。そんな彼女を見かねてか、トレーナーが掛けた言葉がきっかけだった。

 

『気合い入れろー! そんなんじゃ、ダービーだってセイウンスカイに逃げ切られるぞ!』

 

 カチンと、頭が沸騰するような激情に駆られるまで一瞬だった。

 プライドが刺激されたのだ。勝てないわけじゃない、その差は大きかったものの、万全ならば追いつけた。皐月賞の日、もしも太り気味じゃなければ、勝負は分からなかった。勝っていた可能性もあった。自信が生み出した己の影なら、もっともっと前に行けたと確信している。

 

 断言される謂れは微塵もない。

 だが、本番に何もできなかった自分を思えば、その自信にも揺らぎが生まれる。水面に小石を投げ込んだ時の波紋のように、心が震える。

 

『皐月賞も、ダービーも、たった一度の舞台だ。そんな舞台を二度もデブって負けたなんて、そんなことになったら一生笑いものだぞ! というか俺が笑う!』

 

 そのトレーナーの言葉が、スペシャルウィークの何かをプツリと切れさせた。

 その激情たるや、今まで感じたことがないほどの力を秘めていて。まさしく瞬間湯沸かし器のように頭も顔も熱くなって。

 その勢いのまま、全力で坂路を往復したのは昨日のことのように思い出せる。大好きな実家からの人参も封印して、普段の食事も大きく制限して、その体重は普段より−1.5kgという、考えうる限り理想的な肉体を作り上げることに成功した。

 

 それだけの辛い思いをして……まさしくハングリー精神をダービーの舞台に持ち込んだ彼女は、これ以上なく集中していた。余裕がないわけではない。ただ、この舞台にかける思いは並々ならぬものがある。今までのフラストレーションが溜まりに溜まって、今にも爆発しそうだ。

 

 だが、その勢いを乗せるのは今じゃない。

 冷静に、真っ直ぐに、スペシャルウィークは一生に一度の舞台に上がる。

 

 目を瞑り、数度の深呼吸。

 次に目を開いた時には。

 

 まるで、遠足を楽しみにする子どものように、目をキラキラと光らせ、その口元に心からの笑みを浮かべるのであった。

 

 

 

 キングヘイロー。

 誰よりも負けず嫌いな努力家であり、プライドもとにかく高いウマ娘。

 

 本来であれば、その高すぎるプライドと生来の負けず嫌いが齟齬を起こし、努力に見合わぬ牛歩の成長。あるいは、散らかった成長によってまとまり切らない力に振り回されることになるのだが。

 彼女のプライドと負けず嫌いな性分が、たった一つのきっかけによって噛み合った。元は違った一つのピースが、きっかけという研磨機に掛けられて、まるで初めからそこにハマることを想定されたかのように繋がった。

 

 彼女に「慢心」という二文字はない。「驕って」みせるわけもない。

 キングヘイローはただ、「受け入れた」のだ。

 

 敗北を素直に受け入れた。

 相手の実力をしっかりと受け止めた上で、それでも前に進んでいった。

 

 有用な作戦だと舌を巻いて、次は看破すると、レースを振り返りながら己の粗を探した。

 差し足勝負に負けた時は、己の脚の力不足だと素直に認めた。スタミナもほんの少し足りなかったかもしれない。何より脚の溜め方というものがなってなかった。セイウンスカイに振り回された結果が、あの弥生賞なのだ。

 

 皐月賞に至っては、まさに飛んで火に入る夏の虫、といった言葉が相応しい。気付くのが遅すぎた。あまりにも巧妙な作戦だった。自分が真の意味で、何も分かっていないのだと突きつけられた。

 

 そして、思い出すのはあの顔だ。あの示し合わせたかのように立てられた人差し指と、まるで当然だと言わんばかりの表情には、はらわたが煮え繰り返るような思いを抱いた。

 どうして、と。なんで、と。出来るなら手を伸ばしたかった彼女は、弱い自分を激情の渦に巻き込むことで誤魔化した。

 

 宣戦布告のカーテシーも、もはやするだけ滑稽だった。それをやるにはもう一度、冠を手にしなければならない。ありったけの思いを、「へっぽこ」と恨言を囁くなら、勝たなければいけない。負けて口にすればただの負け惜しみ。勝利を飾って口にすれば、見返してやったと、格好もつく。

 

 ライバルと競う以上に。

 これは、キングヘイローの意地である。

 

 意地を押し通すためには、誰よりも速くなければいけなかった。

 誰よりも強いのだと、レースで証明してこそだった。

 

 そうしなければ、受け入れたくないたった一つの現実を目の前に突きつけられることになる。

 だから、どれだけ敗北の辛酸を味わおうとも、彼女は決して止まらない。膝を折らない。その心の炎だけは途絶えさせない。必ず勝ってみせると、何度だって奮い立つ。

 

「勝つのは、このキングヘイローよ」

 

 本バ場に、誰よりも厳かに足を踏み入れる。

 彼女の周りだけ、空気がねじれているかのようだった。

 

 それでも、その覚悟を決めた表情だけは。

 誰の目からもよく見えるのであった。

 

 

 

 

 間も無く日本ダービーの出走。

 全員のゲートインが終わり、黄金世代と呼ばれた四人は、もう自分のことに集中する。気を取られて、出遅れるなんてミスはしない、とばかりに。

 

 そうしてゲートが開き、最初の3ハロンを越えた時には、もう波乱の兆候が見えていた。

 

 

 先頭、セイウンスカイ。

 

 

 中団やや後ろ、スペシャルウィーク。

 その外やや後ろ、エルコンドルパサー。

 

 

 

 最後方、キングヘイロー。

 

 

 

 

 

 運命がねじれ始める。

 後に、過去最高とも呼ばれる黄金の日本ダービー。

 惜しむらくは、ここにグラスワンダーがいないことか。

 

 誰もの記憶に刻み込まれるライバルたちの激闘が。

 ようやく、始まったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第17話 鈍足と狂騒

『さぁ、今スタートが切られました! 好スタートを見せて突き抜けるのはセイウンスカイ! 今日も気持ちのいいロケットスタートを見せる!』

 

 その突出したスタートダッシュは、どこまでも変わらず健在であった。

 最初の1ハロンを越えた時には、二番手と4バ身半の差が広がっている。

 

 しかし、あくまで序盤の話。加えて、この舞台の参加券を手にしたウマ娘たちは、誰しもがセイウンスカイに注目している。特に、その奇天烈な走り方のことは、作戦において逃げを選んだ誰しもが頭に入れている。

 

 ――セイウンスカイは必ず、一度は先頭を譲る。

 

 セイウンスカイが走ったレース、その全てにおいて、彼女は最初にハナをとって威勢のいい走りを見せたかと思えば、必ず後ろに下がるのだ。

 だから、逃げを選んだ彼女たちはもう、先頭争いに固執しようとは思っていない。勝手に譲ってくれるなら、わざわざそこにこだわる意味がない。自分のペースで走るだけだと、マイペースを決め込んだ。

 

 逃げウマ娘は、先頭を見据えながらも、そのペースを忠実に守り抜く。いつも通りの2ハロンを越えて、3ハロン目にも足を踏み入れた。

 

「……あれ」

 

 そんなことを、思わず誰かが呟いたかもしれない。歓声と足音にかき消されて、もはや誰が言ったのか、そもそも声が出ていたのかさえわからないが。

 

 セイウンスカイの背中が、迫ってきていた。

 彼女たちはペースを上げたつもりは微塵もない。事実、脚に特別な疲れは感じない。

 

 つまり。

 

(もう降りてきた)

 

 なら、ここで追い越しを狙うかと考え、それはないと呼吸を入れる。またペースを上げて意地の張り合いにでもなったら共倒れだ。なら、いくら逃げでも脚を使うのはここじゃない、と結論づける。

 

 勝手に降りろ、と相手にされない。

 ジリジリと、目の前にまで迫っている背中を見ながら、己のペースを崩す者はどこにもいない。

 

 

 

(ま、そうなるかなーって、セイちゃんも予想はできたわけでして)

 

 息を吐いて、脚を緩める。それこそ、本当に誤差と呼べるような力の抜き方。走っている中、まず認識できないような小さな食い違い。

 

 セイウンスカイは、1ハロンを越えてからすぐに、ペースを徐々に、徐々に落としていた。ただ、先頭だけは譲らないように、最内ではなく、人一人が通り抜けられないようなスペースを空けた位置取り。

 内から追い抜くには狭く、外側から抜こうとすれば抜く側が不利を背負わされるような絶妙な位置。

 

 加えて、4ハロンを越えて先頭集団が団子になりかけても、誰も追い抜きにはかからない。お前が降りろ、と心のチキンレースが密かに繰り広げられている。

 

(スペちゃんも、エルちゃんも、キングも。スローペースになっても先頭には出られない。誰も見えない先頭で自分のペースをキープするのって、すっごい難しいからね)

 

 後ろからの強襲を、セイウンスカイは警戒していない。まだこの段階では、自分のペースを維持したといっても、逃げ集団に交ざるのは早すぎる。もしもその後に逃げ集団がハイペースになれば、それに翻弄されて脚が残らない、なんて事態もあり得るのだ。

 仮に逃げ集団がハイペースになったと自覚して、大人しく順位を下れるような相手なら、皐月賞でセイウンスカイは負けていたかもしれない。今この場でそんな相手がいるなら。

 

(居るのならまぁ、利用しますけど、ね?)

 

 後ろをチラリと確認してみれば、やはり団子になった先頭集団。セイウンスカイを先頭に他5人の逃げウマ娘。3位周辺では、どうやらセイウンスカイが落ちた後に有利を取ろうと、併走するように外側に膨らんでいる。

 

 例えるなら、鍋の蓋のように。あるいは開いた傘のように。

 そんな無茶な走り方をすれば、本来はレース後半に垂れていく。ずるずると、まるで後ろに引きずられるようにバ群に呑み込まれていく。

 

(でも、今日は垂れない)

 

 セイウンスカイはニヤリと笑う。

 先頭集団は、セイウンスカイを守るための傘であり、後方集団を封じるための蓋である。

 

 これが逃げ2人などの展開になれば、さらにペースを調整しながらも、レース展開をぐちゃぐちゃに掻き乱していたところだが。

 今の展開は、逃げ5人の超スローペース。1ハロン13.5秒を強いる海の中。

 

 そんな超スローペースだからこそ、無茶な走り方をしても「まだいける」と思い込む。事実、脚が残っているからこそ、余計に気付かない。無茶をした分の帳尻合わせでいつも通りに走れているなどと錯覚を起こす。

 

 ウマ娘も人間も、疲れに対しては敏感だ。自覚しやすく、地面を蹴るたび、後どれくらい走れるのか、頭に浮かぶ者だっている。

 だが、疲れていないことを自覚するのは難しい。より正確に言うなら、どれだけスタミナが余っているか、それを認識するのは非常に困難である。脚が余っている、いつも以上に走れるから絶好調だ、くらいにしか思わない。正確なスタミナ量を認識することはあまりにも難しい。

 

 だから「大丈夫」だとか、「まだ走れる」などと、曖昧な感覚に満足して、レースペースに気づかない。セイウンスカイは必ず落ちる、というこれまで繰り返されてきたレース展開もあって、誰もペースをあげようなどと焦らない。逆に、焦ったら負けなのだと、思わされた。

 

(さて、さて。スペちゃんとエルちゃんは……)

 

 ちらり、と少し後ろを確認するものの、ライバルたちの姿は全く見えない。気迫を近くに感じるようなこともない。先頭集団に先行組が追いつきそうだが、先行組前方には姿がなかった。

 

(差し、ってことかな、キングも先行してなさそうだし。なら、もうちょっと)

 

 5本目のハロン棒を越えたところで親指を曲げる。

 カチリ、と彼女にしか聞こえない音が鮮明に鳴り響く。

 

(もっと、もっと、遅めに参りましょう)

 

 冷静に、着実に。

 彼女は脚を緩めながらも、先頭だけは譲らない。

 

 

 

 

 

 

 

 あまりにも巧妙だった。

 スペシャルウィークは3ハロンを越えたあたり。第一コーナーから第二コーナーにかけてのバックストレッチを走っている最中。魚の小骨を飲み込んだような、小さな違和感を覚えた。

 

(なんだか、長い気がする)

 

 別に小骨は喉に刺さっていない。ただ、するりと飲み込んだような違和感だ。今特別な不都合があるわけでもなければ、喉元過ぎ去った故に深く考えるようなことでもない。ただ、あれ? と勘違いに首を傾げるような、小さなものなのだ。

 加えて、今走っているレースは日本ダービー。芝2400であり、皐月賞の芝2000とは距離が全く違う。その差400のせいにすれば、あぁなるほど、と納得できてしまう。

 

 だから、スペシャルウィークは長く感じたレースに、ただ慣れていないだけだと結論をつけた。今はこの余った脚の使い所を探すべきだと、目の前に集中し始める。

 

(……今の調子なら、早めにスパートだって切れる)

 

 ならば、重要なのはタイミングだ。

 バ群に阻まれないポジションが必要だ。競り合いになる前に一歩抜き出る、絶妙な位置での加速が必要だ。無駄を省いて、誰にも邪魔されず、ただ真っ直ぐ一着まで閃くような強さが必要だ。

 

 一言でいえば大外。加速すると同時に一直線に走り抜けられるポジションセンスが不可欠だ。

 ラストスパートまでの道のりはまだ長い。見極めるには十分な時間だと、彼女は虎視眈々と前を見据えて道を探る。

 

(焦っちゃダメ。前に出たってきっと、道は見つからない。だって、先頭はきっとまだ――)

 

 あの背中はまだ見えてこない。

 先行集団よりもずっと先に居る。そうでなければ、中団やや後ろから見える景色に、そろそろ彼女が見えてくるはずなのだから。

 

(――スカイさんが落ちてきたら、切り返す。落ちてこないなら、道を見つけて一直線)

 

 五つのハロン棒を越えても、スペシャルウィークは焦らない。

 たとえ覚悟が決まろうと、肝が据わろうと、垢抜けたように見えたとしても。

 

 彼女は難しいことが苦手だ。レースペース、ハロン棒の本数、脚の余り方、バ群の具合、先頭との距離、後方の気配。それらすべてに気を配って走り抜けるなんて器用な真似はできやしない。

 

 だから、絞り込むのだ。

 自分が最高の走りをするために、最も必要なことを選んで突き抜ける。そんな思い切りの良さと、レース勘を頼りにターフを駆ける。

 

(もっと、もっと、まだ、もっと良い道があるから――!)

 

 前に形成された中団のバ群。そしてその先に待ち受ける集団の影。外に膨らんでも、一直線には駆け抜けさせない壁を見つめながら、スペシャルウィークはすぅ、と鋭い息と共に、入りそうになる力を抜いた。

 

 少しずつ、しかし着実に近づいてくる影の壁を見ながらも。

 それでも彼女は浮足立たない。

 どっしりと、ターフに跡が付くような身構えをもって、星の種を植える。

 

 輝く花を咲かせるその時まで。

 溜めて、溜めて、溜めて。

 

 スペシャルウィークは、ただ前だけを見据えるのであった。

 

 

 

 

 

 

 やられた、と己の作戦ミスを逸早く悟ったのはエルコンドルパサーであった。

 最初の3ハロン。ここでエルコンドルパサーは、ライバルたちの足並みを見て、位置取りを上げるか、現状維持かを決めるつもりであった。前方のセイウンスカイのペースもそうだが、何よりスペシャルウィークとキングヘイローの作戦を見てから、自分が勝つためのレースペースに持ち込むつもりだったのだが。

 

(スペちゃんはそのままデス……でも)

 

 キングヘイローの影が、どこにも見えない。スタートから今まで、キングヘイローが前に抜き出る姿は見ていない。

 つまり、敢えて様子を見るために後ろ目に陣取ったエルコンドルパサーよりも、さらに後ろにキングヘイローが陣取った。

 

(このレース展開で追込のキング)

 

 ぶるり、とレース中だと言うのに武者震いが走る。

 エルコンドルパサーからは、逃げ集団の正確な人数は把握できない。ただ、先行集団は、少なくとも4人はいることが分かる。

 

 後方の差しの位置には、エルコンドルパサーにスペシャルウィーク含めて5人。差しの更に後ろにも、陣取っているウマ娘はいくらか居るだろう。何せ、フルゲート18人での出走なのだから。

 

(いつもなら、スローペースになるほど逃げが有利……)

 

 だが、エルコンドルパサーは気づいていた。

 先行集団が、こんなスローペースにも関わらず垂れてきていることに。

 5本目のハロン棒を越えたあたりで、先行と差しのギャップはもうなくなっていることに。

 

 こうなってしまえば、もう逃げが有利などとは言ってられない。いち早くスパートを切り、より長く、より速く、駆け抜けたウマ娘が勝つ。逃げも、先行も、差しも、追込も関係ない。

 

(いいえ、違いマス……!)

 

 などと、そんなことは断じてない。

 このレース展開になってしまえば、有利なのは逃げと追込の両極端。

 

 先行と差しは、先頭集団が垂れてきたことによって、巻き添えを喰らう形で集団そのものがぐちゃぐちゃに混ざりつつある。そんなバ群をかわしながら、位置取りを見極めながら、誰にも邪魔されずラストスパートに入らなければならない。

 

 一方で、逃げは己のペースでラストスパートを切るだけでいい。

 追込もまた、溜めてきた脚を爆発させるタイミングを考えて、あとは目の前のバ群を後ろから観察した上でよけて、通り抜けるだけでいい。

 

 ここで追込が不利だと言えないのは、結局、先頭との距離は一定に保たれているからである。

 先行集団が垂れてきたのは、間違いなく逃げ集団が原因だ。逃げの壁が、先行のウマ娘をジリジリと後ろに下げた。つまり、結果的に逃げも位置取りは下げている形である。

 

 その下がった分だけ、追込も位置取りを下げれば、追込は誰に邪魔されることもなく、不利を背負うことなく、ラストスパートを切ることができる。

 

(今からワタシも位置を下げる? それとも上げる? でも、今ここで上がっていけば――)

 

 エルコンドルパサーにはパワーがある。冷静に考え抜くだけの頭脳がある。何より、どの位置からであろうと調子を崩さないだけの、万能の走りを自負している。

 だからこそ、選択肢が多かった。今からどの位置にいっても、ベストポジションをキープできるという自信があった。

 

(問題は、後ろに行くならスパートを切るタイミング。前に行くなら、最速でスパートを切れるだけの脚が残るか、どうか。何より――)

 

 ちらり、と後方に視線をやるものの、目的の少女の姿は見えない。他のウマ娘の姿は見えたが、彼女の姿だけは見えない。

 

(――後ろに行くなら、あのキングに真っ向から打ち勝たないと)

 

 前門のセイウンスカイ。

 後門のキングヘイロー。

 

 ドクリ、と鼓動が大きく鳴る。

 キングヘイローとの真っ向勝負。それだけで心を沸き立たせる魅力があった。やってみたい、と熾烈な勝負を望む闘争本能が騒ぎ立てるが。

 

(でも、勝つためには)

 

 下がれない、と冷静な頭脳が導き出した。

 最高の走りをするのであれば、このリードを維持したまま突き抜けるしかない。脚を溜めるよりも、今此処で前に居る利点を活かした上で、全てを食い破ってゴールに至るのが一番速い。

 

 そのためにはやることが多い。精神をやすりで削られるような苦しさを覚えながらも、それを押し殺す我慢を強いられる。そんなコンディションの中で、誰よりも冷静に最高のポジションをキープし、新たな道を見つけ次第駆けつけるだけの洞察力が必要だ。現状維持ではなく、順を追って飛躍する展開にするため、自ら進まなければならない。

 

 結論、主導権を取り戻す必要がある。

 

 口の端が、吊り上がる。

 鋭い眼差しが仮宿を見つけて、一息に踏みしめる。

 また目敏く、次の宿を見つけて、スペシャルウィークを追い抜いて。

 

(世界最強は! エルコンドルパサー! デースッ!)

 

 誰よりも鋭く、ターフを舞う怪鳥。

 軽やかに、くるりと滑らかに、そして一息に挿し込む鋭さをもって。

 

 エルコンドルパサーが羽ばたいた。

 

 

 

 

 

 

 

 雌伏雄飛。

 その玉座には遠くとも、彼女は盤上を見つめるかのように、全てお見通しであった。

 

 セイウンスカイが大逃げを貫き通したのであれば、初手の時点で敗北は必至であった。

 どれだけ見積もりを甘くしても、クビ差で届かない。全力をもってしても、あと半歩、前に行けない。

 

(それで、このキングを巻き込んだつもり?)

 

 甘い、と断言する。

 そんな作戦は何度も体験してきた。見切ったと思ったつもりで、バ群に埋められそうになった。何度だって、そうなってきた。

 

 ならば、とキングヘイローは突飛であるものの、あまりにも有効な作戦を実行した。

 

(最後方なら、どんな作戦も意味がない)

 

 強がりだ。大逃げだったなら、勝負をする前に負けていた。

 だが、ここに居るのはキングヘイローだけじゃない。スペシャルウィークに加えて、エルコンドルパサーまで参戦してきたのだ。

 

(あなたなら、そうして策を練ってくるって、信じていたわ)

 

 だからこそ、こうなることは確信していた。

 誰よりもその策、落とし穴に掛けられたからこそ、わかっていた。

 

 問題は、あまり得意とは言えない追込での走行に、脚が馴染むかといった懸念はあったが。

 

(悪くないじゃない)

 

 最後方。そこから絶対の走りをもって、全てを抜き去り王冠を戴く。

 その姿がどれだけ雄々しく、凛々しく、美しく、そして泥だらけであるか。

 

(そんな走りこそ、このキングに相応しいわ)

 

 大どんでん返し。

 下剋上をするのなら、それくらい華々しい勝利の方が合っている。

 

 誰よりも後ろから、誰よりも広く見渡しながら。

 すぅ、と息を吸って、吐き出した時。

 

(ここからは――)

 

 嘶いた。

 地を裂き、天を轟かせる天下無双の足音。

 

(――このキングヘイローの時間よ)

 

 最も後ろから、ターフを蹴り付け進撃する王の凱旋予告。

 刻一刻と迫る、たった独りの行進曲。

 

 絶対の走りを魅せるため。

 その少女、まさしく王とならんため。

 

 狂瀾怒濤の足音を響かせる。

 

 

 

 

 

 

 

 後の祭りとはこのことであった。

 大胆不敵な作戦に、舌を巻いた。それをやり切ろうとする胆力に手を打ち鳴らしそうになる。

 

 超スローペースの日本ダービー。皐月賞とは打って変わった展開。

 今このレースで主導権を握っているのは誰なのか。

 

 思惑が混ざり合っている。主導権を譲るまいと、考えながら走っている。

 レースは止まらない。思考も決して止まらない。

 

 だからこそ。

 

「勝機はまだある」

 

 レースはいよいよ、後半戦に差し掛かる。

 

 

 



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第18話 駆け引きの消失

『スペシャルウィーク』

 

 鋭い差し脚が脅威ではあるものの、まだ磨ききれていない原石。

 3月後半から太り気味の所見あり。歩幅と姿勢の切れ味が落ちている。弥生賞勝利での油断か、皐月賞においては大逃げをしたところで捕まることはないだろう。

 

 しかし、日本ダービーにおいては要注意すべき相手である。

 坂路に対するアプローチはトレーナーから克服させる。パワーとスタミナはどちらも見違えたものになる。よーいどん、の真っ向勝負など勝ち目がない。

 だが、坂路で加速できるほど洗練されることはないだろう。

 

 また、本人の気質上、多くに気を配ることはまずしない。したところで何も成さずに終わるだろう。

 日本ダービーにて目覚ましい姿を見せるとはいえども、やることは一極集中。セイウンスカイが何をしようと、走りを変えるとは全く考えられない。

 

 

 

『エルコンドルパサー』

 

 直線に抜け出した時の爆発力は他の追随を許さない。

 皐月賞への不参加は判明しているので詳細を省く。

 

 日本ダービーにおいては、最終直線でリードキープが出来ていないのであれば、そのまま抜き去られることは間違いない。その末脚は直線においてはスペシャルウィークにさえ並び、あるいは初動においては彼女が一歩先を行くだろう。

 特筆すべきは闘争心の高さ故の悪癖があるところ。しかし、決して地頭が悪いわけではなく、頭脳明晰でありながら勝負勘を備えているところを考えるに、生半可な策略は軽々と飛び越えられるだろう。

 

 凱旋門賞を目標にすると思われる手前、日本ダービーへの出走は間違いない。そして、作戦は「差しやや後ろ」での様子見を取るだろう。

 相手の全てを見極めてから勝つ。相手の全力に真正面から打ち勝つ。その闘争心故の癖から、逃げ先行の選択は有り得ない。途中、スペシャルウィークが先行を選択したのであれば、そこまで上がる可能性はあるが、レース展開に委ねるものとする。

 追込に関しては、今までスペシャルウィーク、セイウンスカイ、キングヘイロー三名が誰も選択しなかったことから、その選択はないと判断。

 

 坂路に対しての苦手意識は特になし。得意というわけでも、対策をとっているとも見られない。

 

 

 

『キングヘイロー』

 

 クラシック三冠において、最大の壁として立ちはだかる存在。

 身体能力は間違いなく同世代最強であり、走行フォームにおける悪癖さえ抜ければ、もはや勝ち目さえ潰れるだろう天賦の才能を持ち合わせている。過剰な足音は彼女の走行フォームの悪さが原因だ。

 

 皐月賞では格付けは済ませたと思われている可能性が高いため、特別な対策は取ってこないものと考えられる。

 しかし、皐月賞で彼女に土をつけたのであれば、それ以降、もはや作戦は全て看破されると考えた方がいい。

 

 日本ダービーにおける作戦は、逃げ以外と予想がされる。先行策によって逸早く対策に乗り出せるようにする可能性もある。無難に差しを選び、その実力をもって差し切ることも考えられるが、弥生賞の結果を見るに、確率は先行より低めと見ていい。

 そして、最も注意すべきは「追込」を選択してきた時である。

 

 中途半端に順位を繰り上げた追込ならどうとでもなる。

 しかし、もしも最後方に位置取り、レースを俯瞰するような作戦を取ってきた場合。

 

 第三コーナー終わりまでに対処しなければ。

 セイウンスカイに勝ち目はない。

 

 

 

 

 

 まだか、まだか、と背中がジリジリと焼けつくような焦りが生まれ始める。

 レースは後半に差し掛かろうとする上り坂。第三コーナーより少し前の地点から、先頭集団はペースこそ変わらないものの、砂利が擦れ合うような音が聞こえ始める。

 無論、幻聴だ。ただ、確かに精神力は削れていっている。早く脚を使いたいと、本能が叫び続けてやまない。

 同時に、勝つなら待て、と理性が悲鳴を上げている。

 

 しかし、それで我慢を続けられるほど冷静なウマ娘ばかりではなく。

 虎視眈々と、彼女たちは狙っている。

 

 先頭争い。逃げの華道。あるいは、王道を自らが敷くためのその地位を、あの場所で覆すんだと意気込んだ。

 

 ゆるい上り坂。そこを越えれば下り坂。

 

 バン、と下り坂の勢いに乗って、3位争いをしていた三名が飛び出した。

 慌てて、その音を聞いて状況を察した2位の少女が、ほんの少し遅れて加速し、追い抜き態勢に切り替えた。

 

 四名がほぼ同時に追い抜こうとした故に、先頭集団は横長に、それでいてお互いに隙間はほとんどなく、競り合うように広がっていく。

 

 追いついた!

 一息に千切る!

 絶対に先頭に!

 早いけど、今行かないと!

 

 そこには確かに駆け引きがあった。

 二位だった少女は、後ろの三人に追われるように飛び出す、不本意な加速であった。しかし、そこで行かなければ手遅れだと、勝負勘が囁いた。

 

 この先頭争いが勝負を分ける。まさしく分水嶺だと足を進める。全力は無理だが、ここで抜き出ると力を込めた。

 

 

 

 カチリ、と親指を曲げながら。

 ちょん、と小さな力で、セイウンスカイは速度を上げる。

 

 今までの遅すぎたペースを、ただのスローペースに戻すだけ。

 それだけで、セイウンスカイは頭ひとつ分抜き出た。

 

『レースも後半の下り坂、先頭集団がペースを上げた! 激しい先頭争いだ!』

『ようやくエンジンが温まってきましたね! 後続の子達も、釣られるようにペースを上げています!』

 

(今回だけは、絶対に先頭は譲らないよ?)

 

 レートをつり上げる。まるでオークションのように、横並びになった相手が速度を上げるたびに、そこにほんの少しだけ、後出しで上乗せして先頭だけは保ち続ける。

 

 それは本来デッドヒートだ。普通のレースならば、セイウンスカイは一度先頭を譲って、自分のペースを維持するだけでいい。そんなものに付き合うのは体力を浪費するだけの罰ゲームだ。

 しかし、今回ばかりは違うのだ。

 

(余ってるよね? そりゃそうだ。セイちゃんだって余裕は十分!)

 

 超スローペース。

 走るという行為にあたって、当然ながら遅いより速い方がスタミナ消費は激しくなる。足の消耗が早くなる。それはどんな人間もウマ娘も共通事項であり、例外があるとすれば「自分のペースに合った最適の走り」と誤差が生じた時くらいのものだ。

 

 故に、前半通して繰り広げられたレースペースによって、今この場に居る誰もがスタミナ過剰に陥っている。どれだけペースを上げようが、3ハロンは絶対に尽きないスタミナを、各々が余らせている。

 

 そのスタミナ過剰こそが肝である。

 激しい先頭争い。速度という名のチップレートを後出しでつり上げ続けるデッドヒートは、もはや不毛な争いではない。今から終盤にかけて、いわば助走をつけているような形となっている。

 本来、そんな無茶な走り方をすれば一瞬でスタミナを擦り減らし、垂れていく。しかしその無茶を押し通せるだけのスタミナを――

 

(掛かったね?)

 

 ――セイウンスカイは、意図的に他のウマ娘に与えた。

 当然、逃げ集団が上がってしまえば、今まで垂れていた先行集団まで釣りあげられるように上がってくる。それに追従するように差しも、追込もペースを上げるのは間違いない。

 

 そうなってしまえば、レース後半から終盤の間、1200m地点から1600m地点の間に、バ群の詰まりが解消されてしまい、そもそも仕掛けの意味がなくなってしまう。

 

(って、思うじゃん?)

 

 しかし、それはあくまで各々の仕掛けるタイミングがバラバラであった場合の話である。

 ウマ娘のレースにおける仕掛けどころとは、基本的にはレース終盤における、自身の残りスタミナからゴールまで全力で走れる区間、そのスパート開始前後を指す。

 当然ながら、道中における抜きつ抜かれつ、といったポジション争いにおける仕掛けどころというものも存在するが、それはセイウンスカイが超スローペースの展開に持ち込むことで完全に潰されてしまった。

 

 何せ、逃げ集団がしかけ始めたのは第三コーナー手前の下り坂から。開始地点からおよそ1330mの場所であり。

 

(もうぜーんぶ、後の祭りってね!)

 

 セイウンスカイの真の狙いは、ただ単純にバ群同士を詰めさせてライバルを埋もれさせる。そんな半ば博打じみたものでは断じてない。

 序盤、中盤における駆け引きの凍結。バ群を詰まらせ、それを維持したまま後半に突き進み、誰もが同じスパートを切らざるを得ない状況に追い込む、仲良しこよしのラストスパート。

 

 自分以外の全員に競り合いを強制させ、自分だけが悠々と抜け出る最高の一手。

 布石は、今まで全てのレースを通じて打ってきた。

 

(『セイウンスカイは必ず下がる』? そんなの、セイちゃんの気分ひとつで変わりますとも!)

 

 デビュー戦から皐月賞まで続けてきたセオリーを、セイウンスカイからひっくり返した。そんな走りの傾向があると思わせることで、レース後半になるまで誰も彼女を抜かそうと思わなくさせる。今はまだダメだ、と逆に理性で制止させる。2400という距離もまた、体力の消費を避けさせた。

 目の前に見える、しかし一度も切らなかった手札。先頭キープという罠を、誰も看破できるはずがなかった。そもそも、皐月賞まで「逃げ」すら見せてこなかった彼女の変則的な走りから、そんな予想をしろというのが無理だった。

 

(でも、もうちょっとだけ、セイちゃんの気まぐれに付き合ってね?)

 

 カチリ、と親指を曲げてレートをつり上げる。

 セイウンスカイは、止まらない。

 

 

 

 

 

 

 そんな彼女の後ろから、刻一刻と迫るは無双の地響き。

 雷の如き足音を轟かせる行進曲。

 

 逸早く羽ばたき、避けて進み、翼を休めず飛び続けた鳥の風切り音。

 

 音すら上がらない閃きは、まだ雌伏の時をやり過ごし。

 

 

 

 

 いよいよ、レースは決着に向かう。

 

 

 

 

 



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第19話 裏切り

 坂路において、スペシャルウィークは意図せずバ群をかわして、先行集団から抜き出て順位を一息に繰り上げた。

 トレーナーとの坂路対策のトレーニングが功を奏した。誰もが減速する上り坂で、彼女だけは加速して突き抜けた。詰まったバ群も、冷静に流れを見極めていたからこそ鋭く射抜くことができた。

 

 そうして下り坂に入る前に、スペシャルウィークとエルコンドルパサーが並んだ。

 

(エルちゃん……!)

 

 スペシャルウィークは内側。そしてエルコンドルパサーは大きく外側。止まる気配のない風切り音を聞きながらも、スペシャルウィークはすぐに視線を切って前を見つめた。

 

 ――あっ、と。

 下り坂に入った直後に、スペシャルウィークは思わず息を吐いた。

 

 目の前の逃げ三人が、早くも加速した。この下り坂こそ勝負どころだとばかりに、今までの鈍足を感じさせない鋭い脚で上がっていく。上がりながら、外側に膨らんでいく。

 

 そうして、前が開く。

 

(スカイさんが見えた!)

 

 セイウンスカイは先頭、最内。勝負を仕掛けてきた逃げ三人に加えて、更にセイウンスカイの横にもう一人。

 

 その五人が、真横に広がった。

 

(……あっ)

 

 スペシャルウィークはようやく気づいた。

 策がはまった瞬間を見せつけられて、やっと何が起こったのかを理解した。

 

 自分の脚が余り過ぎている違和感の正体、その全貌を思い知らされた。

 

 壁なのだ。スペシャルウィークの目の前にあるのは、広がった鉄壁だ。

 有利に追い抜くことを許さない。追い抜こうとすれば、その更に外へ迂回しろと強制する壁。

 

 セイウンスカイなら悠々と先頭に出られるだろうに。

 わざわざ彼女は、競り合う他の子に合わせて走っているーー!

 

 がつん、と頭が震える。

 今から外側に移動しても間に合わない。エルコンドルパサーが既に迂回している。その更に外に行くのは、今から最終直線までコーナー続きの東京レース場では自殺行為だ。遠心力に体をもっていかれる。たとえ耐えたとしても、外側に回るためのロスは致命的な差を生み出す。

 

 これが三人までなら、まだどうとでもなった。自慢の差し脚をもって一息に突き抜ける、と覚悟を決められた。

 しかし、五人に加えてエルコンドルパサーの計六人。並んだ更に外側に行くことが、どれだけ不毛なことか。

 

 スペシャルウィークはすぅ、と空気を吸い込む。青々としたターフの香りの中に、泥臭さと喉を焼くような熱気が混じっていた。

 

 スペシャルウィークは内側を突き進む。セイウンスカイのすぐ後ろについて走る。

 

(スカイさんは必ず、最高のタイミングで前に行く!)

 

 だから倣って、食い破れとペースを上げる。

 仕掛けるタイミングは一瞬。その刹那を閃いて差し切るのだと。

 

 スペシャルウィークは覚悟を決めた。

 

 

 

 

 

 

 レース後半に差し掛かる、その上り坂。

 エルコンドルパサーは何度となく、前に潰され垂れてくる他のウマ娘をかわして追い抜きにかかりながら、思考を必死に働かせていた。

 

(やっぱり、垂れ方が異常デス……次の下り坂で一気に抜かないと――!)

 

 エルコンドルパサーは順位を繰り上げるうち、自然と外側に追いやられていた。垂れてくるバ群の塊を避けるために、内から食い破るスペースがなかったせいだ。

 そんな状況に置かれて、エルコンドルパサーはジリジリと胸を焼かれるような衝動に駆られる。早くいけ、と本能が急かしてくる。

 

(わかってる! でも、こんな上り坂で脚を使い過ぎたら――ッ!)

 

 下り坂で加速が利かなくなる。

 いや、加速したとして終盤のラストスパートを走り切れなくなる。

 

 エルコンドルパサーほどのパワーがあれば、横三人に広がった先団を追い抜きにかかることは……ギリギリではあるが出来る。

 問題はその後。そんな無茶をした脚のまま、加速し続けなければいけないことである。

 

(仕掛けどころが下り坂なんて、誰でもわかる! ソコしか仕掛けるタイミングがないッ!)

 

 それは、東京レース場の特徴のせいだ。

 日本ダービーの舞台、東京レース場の芝2400mにおいて、上り坂は約1130mほどの地点から始まる。レースが後半に差し掛かる手前といったところだ。一方、下り坂の開始は約1330m地点と、実に200mの坂が続くのだ。

 もちろん、心臓破りの坂などと言われるような大層なものではない。むしろ、緩いといって差し支えのない上り坂。それでも、200mという距離が続くのであれば、そこに全力を出し続けることは出来ない。一瞬ではなく持続して、緩いとはいえども上り坂を加速し続けることの、いかに難しいことか。

 

 更なる問題はここから。

 下り坂が入ってからすぐ――約1370m地点から、コーナーに入る。

 

 どれだけ緩いコーナーであろうと、まっすぐ走ることは出来ない。直線と違って、速度を上げれば上げるほど、遠心力に振り回される危険が嵩を増す。

 そして、このコーナーを境に。

 

 最終直線、525.9mを残して、直線は訪れない。

 

 先述した通り、コーナーとは危険を伴う。人間の速度であっても、全速力でコーナーを曲がり切るのは難しいのだ。

 それが、ウマ娘の速度ともなれば、一体どうなるのか。

 

 鍛え上げられた体幹、人間よりも頑丈な肉体をもってしても、振り回される。

 強いウマ娘であればあるほど、コーナーの負荷は増していく。

 

 だから、仕掛けるなら終盤を迎える前の最後の直線。その下り坂の他には存在しない。

 

(駆け引きなんて、初めからなかったッ)

 

 最善の選択をするために後ろに陣取ったはずが、気が付けば最悪の手札を掴まされた。

 

(今から抜くとしても、横並びになった三人の横――)

 

 考えていたら間に合わない。

 放置したらどうなるか、エルコンドルパサーの直感が叫ぶ。ここでいかないと、勝負にすらならない、と。

 

(ッ! 勝つのはこの、最強ッ! エルコンドルパサー、デスッ!」

 

 本能からか、それとも闘争心の発露か。

 エルコンドルパサーが飛び出した。先団手前に燻っていた位置取りを、一息に押し上げようとターフを蹴り上げる。

 

 一瞬、スペシャルウィークが内側に居たのを目の端に捉えたが、今のエルコンドルパサーにそれを気にする余裕は残っていない。

 怒涛の追い上げとはまさにこのことか。上りの坂路も知ったことかと、覚悟を決めて風を切る。あと一息、と先団の三人に迫る。あと、3バ身。あと、2バ身――と、その差を詰め切ろうと、さらに勢いを乗せようとした、第一歩。

 

「――ッ!」

 

 その第一歩よりも一歩早く、先団三人が風になって駆け抜けた。

 やられたッ! と、即座に状況を理解したのは、今までの状況をしっかりと見ていたエルコンドルパサーだ。

 

 上り坂で事前に加速していったエルコンドルパサー。そのパワーは、他の同世代のウマ娘を歯牙にかけないほどのモノを持っていたが。

 ここで前と後ろの位置関係の差が、エルコンドルパサーに逆風となって襲い掛かる。

 

(速くッ!)

 

 エルコンドルパサーもまた、下り坂に足を踏み入れて、加速する。

 詰めていた差は振り出しにもどっていたが、それを気にしている余裕はない。更に、前方の三人が外側に膨らんでいるのがよく見えた。

 

 逆風の位置関係とは、上り坂と下り坂のギャップだ。

 先団の三人は、エルコンドルパサーよりも当然前に居る。前に居れば必然、上り坂を後ろのエルコンドルパサーよりも早く駆け抜ける。後ろの彼女よりも、下り坂に早くたどり着ける。

 

 つまり、どれだけエルコンドルパサーが踏み込んだところで、本命の仕掛けどころに先にたどり着くのは、前に居る三人だった。

 下り坂、地形の有利に乗っていち早く加速した三人に、上り坂という地形の不利を背負って加速するエルコンドルパサー。

 

 肉体の仕上がりは当然エルコンドルパサーに軍配が上がるものの、それだけのギャップを背負ってしまえば、五分に持ち込むことはまず不可能だ。

 結果として、エルコンドルパサーは出遅れるような形にはめられた。

 

 間に合わず、コーナーに入り。

 

「あっ」

 

 エルコンドルパサーの目の前に現れたのは、壁だった。あるいは、鳥籠というべきか。

 最内にいるセイウンスカイを筆頭に、広げられた翼のように真横に広がる五人のウマ娘たち。付け入る隙のない絶壁を前にして、カッと一瞬で頭が沸騰するような激情に駆られた。

 

 前半にも関わらず、垂れてきたウマ娘たち。

 先頭に居座り、悠々とターフを駆けるセイウンスカイ。

 仕掛けどころを失い、しかし誰もが逸早く仕掛けた下り坂。

 

 レースを俯瞰するように走っていた彼女は、誰に、何をされたのか、理解した。

 もしもこれに逸早く気づけたなら、エルコンドルパサーは様子見などすぐに切り上げて、先頭集団にまですぐに駆け上がっていた。しかし、それももはや後の祭り。

 

 壁に綻びが生まれたときには……手遅れだと、直感が叫ぶ。

 もう、エルコンドルパサーに残された手札は、一つしかない。

 

(その作戦ごと)

 

「食い破るッ!」

 

 エルコンドルパサーもまた、翼を広げる。

 大翼の先を担い、そのまま突き抜けようと息巻いたものの、やはり、と彼女は眉を顰めながらも、懸命にターフを踏みしめる。

 

(っ、身体が、外に……!)

 

 それはまさしく、ハリケーンに晒されているかのような感覚だ。ぶつかり続ける風の障壁と、遠心力に身体があらぬ方向に吹き飛びそうになる。加速すればするほど、その力は強くなり、元来のパワーを活かせない。活かそうとすれば、身体が耐えられない。

 

 普通のウマ娘なら、そんな大外からコーナーを走り抜けること自体、長くは続かない。すぐに無理だと悟って、後ろに下がり機会を窺うものだが。

 

 エルコンドルパサーはなまじ、その才能が膨大であり。闘争心がウマ一倍強かったこともあり、そんな障害に耐え切りながら走れてしまう。退くという選択肢が頭に浮かぶたびに、それを薪に力を生み出す。

 

 そして、彼女は地頭も優秀である故に、この根比べに勝てると確信してしまった。勝ち抜いて、最終直線に入る前には食い破れると、自信を持ってしまっていた。

 だから、この作戦を打ち破れるのだと、エルコンドルパサーは疑わない。

 

 足元に、大きな落とし穴があることにも気づかずに。

 決して同条件ではない、不利条件のギャップにまで気づくことなく。

 

 あるいは、彼女は敢えて見ないふりをしていたのかもしれないが。

 

 意地に根性、闘争心。その全てを力に変えて、コンドルは嵐を突き進む。

 

 

 

 

 

 掛かったね、と。

 セイウンスカイはその口元に笑みを浮かべながら、カチリと親指を押し込んだ。

 

 大翼の先にエルコンドルパサーが位置どったのはすぐにわかった。それしか選択肢がないことは、仕掛け人のセイウンスカイが一番わかっていた。そろそろ来るだろう、と思って視線を向けてみれば、彼女は確かに大外から猛進しようと歯を食いしばっている。

 

(他の子に自分の勝敗を委ねるなんて、エルちゃんは絶対にしない。いつ垂れるかわからない子なんて、待っていられる筈がない)

 

 もしもエルコンドルパサーが、先行策によって構うものかと先団を食い破っていたのなら、セイウンスカイはなす術もなく負けていた。どんな修正案を思いついたとしても、取り返しのつかない状態になっていた。小細工を仕掛けたところで、よくて勝率は2割あったかどうか。

 

 綻びなんていくらでもある作戦だった。逃げが2人しかいなかったのなら、すぐに大逃げに切り替えるか、集団を団子にした上で逃げ切るか。あるいは、上り坂の時点からペースをぐちゃぐちゃにかき乱すか。どれを選択したとしても、スペシャルウィークを、エルコンドルパサーを、キングヘイローを。三人の誰か二人は、どうやってもフリーにしてしまう。

 

 もしも、もしも、何てキリがない。レースに絶対なんてありえない。

 だから、セイウンスカイがやることは単純だ。

 

(敵を知り己を知れば百戦危うからず、ってね)

 

 何をやったら、誰が、どう動くのか。

 そして、自分がどこまで実現可能なのか。

 

 ひたすらにそれだけを考えた。それだけの布石は今まで積み上げてきた。

 セイウンスカイは徹底的に、作戦の精度を突き詰めただけだ。

 

 ここから先は、もはやセイウンスカイのウイニングランだ。

 

(大差勝ちは……まぁ、ごめんね。でも――)

 

 ――3バ身差。

 

 ぐうの音も出ない完全勝利というには、些か足りない差ではある。

 だが、ここまで積み上げてきた作戦のすべてが型にはまり、その上で予定通りに勝てたのであれば。

 

 それは実質、セイウンスカイの完全勝利であることに疑いはない。

 

(今から、証明するよ)

 

 ――時計は持った。

 握りしめる。

 

 ――描いた地図に誤りはない。

 道案内は完璧だ。

 

 ――準備は?

 

「いいよ」

 

 

 

 レースは終盤に差し掛かっている。

 それでも、セイウンスカイは横に並んだ相手に合わせてペースを上げる。そろそろ最高速度(あたまうち)に達する相手も現れる頃合い。

 

 デッドヒートという名の助走を続けた。意地の張り合い、この先頭争いこそが勝敗を左右する。そう思い込ませたのは他ならないセイウンスカイだ。仕向けたのは、仕掛けたのは、セイウンスカイだ。

 

『続く、続く! いまだに続く! デッドヒートが止まらないッ! このままゴールまで熾烈な先頭争いを続けるというのか!?』

 

 だから、彼女だけは最後の仕掛けどころを心得ている。

 

 早すぎてはダメだ。外に居るエルコンドルパサーに隙を見せれば、食い破られる。

 遅すぎてはダメだ。後ろから迫っているであろうキングヘイローに蹴散らされる。

 

 タイミングは一瞬だ。瞬き一つの遅れが致命傷になる。

 

 最終コーナーに入っても、まだ溜める。

 

 ――すぅ、と。

 セイウンスカイは力を抜いた。

 吸い込んだ熱気は血潮の流れに乗って力が漲る。青々としたターフの香りは、濁った思考を透き通らせる。

 

『ここで外の5番――後ろに下がるッ! 大外のエルコンドルパサーが内に詰め寄った!』

 

 カチリ、と。

 スイッチが入る。親指を押し込んだのと同時に、セイウンスカイは確かにその音を聞いた。

 

 音は、最初の一歩と重なって。

 

 

 

 内ラチを、疾風が迸る。

 

 

 

『セイウンスカイが飛び出した! セイウンスカイが抜け出した! 頭一つ、いや、1バ身――2バ身ッ! 内からセイウンスカイが飛び抜けた! 後続を置いてけぼりに、今! セイウンスカイの一人旅――』

 

 飛び出したそのわずかな隙間。

 今か、今かと息を潜めていた彼女が閃いた。

 

(――来たッ!)

 

 セイウンスカイが抜け出た隙間を射抜き、飛び出したのはスペシャルウィークだった。

 スペシャルウィークは、この機会をずっと待っていた。外側から追い抜くのが無理だと悟ったその瞬間から、彼女はこの瞬間だけをずっと待っていた。セイウンスカイが抜け出すタイミング。そこからの大逆転、巻き返しだけを狙って、ずっと、ずっと足を溜めていた。

 

 その末脚の爆発は、まさしく一閃。

 雷の如くセイウンスカイの横まで射抜いた彼女は、しかし衰え知らずに更なる加速をもって、追い抜きに掛かる――!

 

『飛び出したのはスペシャルウィークだ! 鋭い閃光がセイウンスカイに追いついたッ! ここまでかセイウンスカイ!? スペシャルウィークが、あっという間に――』

 

 

 

(ここからが、私の全身全霊ッ!)

 

 スペシャルウィークのスパートは、まさしく最高のタイミングだったと自負できるほどのものだった。

 一瞬の狂いもなく、息を吐く暇さえ与えずに、抜け出た瞬間に彼女は飛び出した。

 

 完璧な奇襲だ。

 スペシャルウィークの考えは当たっていた。セイウンスカイの最高のタイミングに、彼女もまた便乗する。そこだけに集中出来たからこその、瞬きさえ許さない光の強襲。

 

 踏み出すタイミングさえ、一致していた。

 呼吸は落ち着き、その脚は力強く大地を蹴り上げる。

 

 セイウンスカイが仕掛けて、抜け出したと確信する。確信して、さらにギアを上げる正念場。

 そのギアを上げるまさに第一歩目に、スペシャルウィークが並んだ。

 

 並んだ瞬間、先に大地に足をつけたのはスペシャルウィークだった。

 

(これで――ッ!)

 

 その一歩で、セイウンスカイを置き去りにできる。

 もう、セイウンスカイは修正不可能だ。スペシャルウィークはまさに、息を吐く暇も与えずに奇襲した。ここで追い抜けたなら、もはやセイウンスカイは巻き返せない。その雷の如き刹那の力は、スペシャルウィークの特権だ。

 

 勢いに乗ったウマ娘の加速力は、競り合うそれよりも遥か先を行く。上り坂と下り坂、あるいはスタートダッシュとラストスパート。勢いに乗るとは理不尽なもので、それはある種「ゾーン」に至るような恐ろしい力を生み出し続ける。

 

 だから、ここでスペシャルウィークが勢いのままに走れたのであれば。

 追い抜かれ、逆に勢いをくじかれたセイウンスカイという構図になったのであれば。

 

 そのギャップを埋めることは絶対に敵わず、セイウンスカイの敗北は免れない。

 

 

 

 ――だから、必然なのだ。

 

 

 

(えっ)

 

 セイウンスカイが、笑った。

 獲物を見つけた狩人のように。あるいは、陰に潜む道化師(ジョーカー)のように。

 

 ドン、とかつてないほど力強い足音が、スペシャルウィークの耳から腹の奥まで響いたかと思えば。

 

「っ」

 

 横に並んで、先に大地を蹴り上げた筈のスペシャルウィークが。

 

『――並ばないッ! セイウンスカイが逃げ出したァ!』

 

 明確に一歩、追い抜かれた。

 一歩だけではない。息を呑んだスペシャルウィークを尻目に、セイウンスカイは第二歩を大きく、誰よりも力強く、ターフを抉り飛ばす勢いで蹴り上げる。

 

 そして三歩目。

 これがまさしく分水嶺だった。

 

 最終コーナー終わり間際。

 三歩目で、いよいよ最終直線に出るところ。

 

 大きな一歩が、コーナー終わりに強引にねじ込まれる。

 その一歩だけで、体の向きを変える。最終直線に身を乗り出す。

 勢いを殺さず、勢いのままに加速しながら、真っ直ぐに。

 

 水流の如きコーナリング。

 激流となりて、最終直線に飛び込んだ――ッ!

 

『セイウンスカイ、完全に抜け出したッ! 後続はまだ4バ身後ろ!』

 

 最終直線、525.9mの長丁場。

 いち早く、誰よりも鋭く、誰よりも速く、駆け出したのはセイウンスカイ。

 

 勢いのままに、彼女は千切る。全身全霊を絞り出し、ラストスパートを駆け抜ける。

 

『スペシャルウィーク、最終直線に抜け出した! しかし先頭とはまだ5バ身、いや6バ身差があるぞ! 後ろの子たちは間に合うのか!?』

 

 誰もいない。

 前にも、横にも、すぐ後ろにも、セイウンスカイを取り囲むのは空白だった。

 

 何も遮るものがなく、邪魔立てするものは誰もいない。

 

 故に、革命は成立した。

 ここから先は小細工無しの力の押し合い。積み上げてきた勝利の風に乗って、暴風となりて突き進む。

 

 青いターフに吹き荒れる。

 たった一人の足音響く。

 

 セイウンスカイの一人旅。

 

(これで、私の完全勝利――)

 

 太陽が、雲に隠れた。

 サッと、セイウンスカイの世界から色が抜け落ちる。

 

 あと、たったの1ハロン。

 勝負のタイムリミットが迫る中。

 

 ダン、ダン、と後ろから地響き届く。

 音は大きく、複数、迫りくる。

 

 ドクン、と心臓が大きく鳴った。

 

(まずい)

 

 必死に、セイウンスカイは両手を、両足を動かした。

 

(まずい、まずい、まずい)

 

 地響きが、足の裏まで伝わってくる。

 

(まずいまずいまずいまずい、まずい――ッ!)

 

 歯を食いしばる。

 スローモーションの世界の中で、全てを出し切りがむしゃらに走る。

 

 早く、早く動け、と苛立ちさえ力に変えて、前のめりに駆け抜ける。

 

 すぐ横で、足音が轟いた気がした。

 すぐ横に、誰かが閃いた気がした。

 さらに横で、嵐の吹き抜ける音が聞こえた。

 

(――前にッ!)

 

 たった半歩を、前借する。

 ほんの一瞬、瞬きよりも短い時間。身体がふわりと軽くなり、前を行く。

 

 そしてそのまま、セイウンスカイは突き抜ける。

 

 逃げる、逃げる、逃げ出した。

 音が聞こえなくなるまで逃げぬいて、ぐちゃぐちゃの視界ながら必死に前を見て。

 

 

 

(……あ、れ?)

 

 ゴールが見えなくて。

 次のコーナーに足を踏み入れそうになって、彼女はようやく足を止めた。

 

 キョロキョロと、呆然とした様子で周りを見て、ようやく耳に届くのは歓声だ。

 声援ではない。勝利を祝う歓声が、やっと耳に届いた。

 

 後ろを振り返ってみれば、ライバルたちが困惑した様子で、少し遠くから彼女を見ている。

 

 慌てて、電光掲示板を見るために顔を上げた。

 

 

 

 ――3着、キングヘイロー。ハナ差

 

 ――2着、スペシャルウィーク。ハナ差。

 

 ――1着、セイウンスカイ。

 

 

 

 頭の中が、真っ白になった。

 

 

 

 

 

 

 完璧な筈だった。

 

 ロケットスタートを決めて先頭で突き抜け、ペースを落として先頭集団を垂れさせた。巻き添えを食らわせる形で、先行、差しの位置関係をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。

 先頭は絶対に譲らなかった。意固地な先頭争いの可能性は、「セイウンスカイは必ず一度後ろに下がる」という、これまで一貫して行い続けた作戦を餌に潰してみせた。

 

 中盤の直線に入った時には、もう後の祭りだった。上り坂までの距離は1ハロンを切っている。いくら垂れているとはいえども、先行差し集団もまた距離を取ろうともがいていた。仕掛けるにはまだ早い、とレース前半というまやかしがブレーキをかける。まさか、最初のコーナーで本格的に仕掛けるわけがない。上下3人前後、左右ほんの少しの軸の調整が精々だ。

 そうして仕掛けどころを見失ったところに、現れるのは上り坂。そこで誰もが気づくのだ。「次の下り坂で仕掛けないと間に合わない」と。

 

 その傾向が顕著だったのは、先頭からほんの少し距離を取った逃げの三人だった。彼女たちはセイウンスカイが下がるその瞬間に駆け上がる算段をしていた。しかし、いつまでも下がる気配がない。そうしてジリジリとゴールが迫るうちに、レースは後半に突入。先の長いコーナーに、すぐ目の前の上り坂。そして少し先の下り坂。

 ここで気づくのだ。「あれ、セイウンスカイの下がるタイミングってどこ?」と。

 

 上り坂で減速するならまだわかる。体力の温存に違いない。しかし、下り坂とコーナーで後ろに下がる意味があるのかどうか。

 行きつく先は一緒だった。「下がる気がない」と。あるいは上り坂で下がるのかもしれない、と様子見はそこまでに切り上げた。

 

 セイウンスカイが仮に下り坂以降で下がるのだとしても、もう彼女たちには関係なかった。

 何故なら、間に合わないから。その下り坂でもしも先行組に抜かされ呑まれようものなら、勝ち筋は完全に消えてしまう。そんな負け筋を放置したままに出来るはずもない。後ろから誰かが迫っていることは、走っている彼女たちにはよくわかっていた。

 

 そうして、下り坂で逃げ全員が仕掛けたデッドヒート。誰もが脚の余っている中、最初で最後の勝負所。これにて、エルコンドルパサーを、スペシャルウィークを、後ろに居る全員を阻む壁が完成した。エルコンドルパサーは大きく消耗する外側に追いやられ、スペシャルウィークはセイウンスカイの後手に回る。

 この壁を時が来るまで維持し続けた。これは、セイウンスカイの隙を守るための砦だった。

 

 こうしてエルコンドルパサーは封じた。ならば、あとはスペシャルウィークとキングヘイロー。

 

 セイウンスカイは、意識の隙を突いた。

 位置を調整して、スペシャルウィークが横に並んだその瞬間から三歩。その三歩で、最終直線に抜け出せるような位置で、一息に加速する。

 

 追い抜いた! と、確信した瞬間に、抜き返してやるのだ。

 確信と現実にズレが生じた時、誰しも少なからず動揺するものだ。その動揺は、綺麗に循環していた呼吸を乱し、息を呑ませる。そのたった一度の呼吸の乱れは、勢いをくじき、加速に刹那の綻びを生み出すには十分すぎた。

 

 たとえ動揺しなくても問題ない。追う側と、追われる側。コーナーから直線に抜け出たと同時にトップスピードに到達したセイウンスカイと、これからまだ加速が必要なスペシャルウィーク。その差だけで、3バ身の差は固いと踏んでいた。

 

 ここまでくれば後の祭りだ。

 

 エルコンドルパサーは消耗しきっている。

 スペシャルウィークにはもう抜かせない。

 キングヘイローは、最終直線に出るまで、どれだけ前に行こうとしてもセイウンスカイの築いた砦にぶつかる。最終直線で外側に行って抜け出したとしても、そこから加速するキングヘイローでは、トップスピードで先に行くセイウンスカイの影は踏めない。

 

 そうだ。

 セイウンスカイの作戦は、面白いほど綺麗にはまったのだ。

 

 

 

(……はまった、のに)

 

 レース場に繋がる地下通路。ふらふらと、セイウンスカイは心ここにあらずといった様子で歩いていた。

 既に他のウマ娘たちはそれぞれの控室に戻っている頃合いだ。今この場にはセイウンスカイか、あるいは。

 

「おめでとう、セイウンスカイ」

「……トレーナー、さん」

 

 彼女のトレーナーくらいのものだった。

 彼は柔らかく微笑みながら、彼女の横に位置取り歩きはじめる。

 

「そうだな、先にこれも言っておこうと思う」

 

 顔を上げないセイウンスカイに、彼は何とも気楽な様子で。

 

「三冠おめでとう。君はもう、菊花賞に勝っている」

「……はい?」

 

 何を言っているんだ、と思わず顔を上げたセイウンスカイが見たのは。

 意地悪く笑っている、彼の顔だった。

 

「菊花賞は、最も強いウマ娘が勝つ。怪我さえなければ『逃げる』だけで君が勝つ。この結果は覆らないさ」

「……そんなの、わからないと思いますけど。今日だって、スペちゃんに、キングに……負けそうでしたし」

「それでいいんだ」

 

 えっ、と弱々しい声が、彼の声に掻き消える。

 

「ここで大差勝ちしたなら、他のウマ娘からの意図的なブロック。序盤のデッドヒート。対策に対策を重ねられ、あるいは無謀な大逃げ。評判だけが独り歩きして、レースペースもへったくれもなくなっていたかもしれない」

 

 それだけじゃない、と彼は続ける。

 

「スペシャルウィークとキングヘイローだって、他の子たちにとっては要注意ウマ娘だ。その注目がすべて、セイウンスカイに向いた時……そんな展開はあまり、考えたくない」

 

 絶対の強さを誇る注目。

 確かに、セイウンスカイはそんな注目のされ方を、今までされたことはない。どちらかと言えば作戦を必死に積み立てて、何とか勝利をもぎ取ってみせたウマ娘。人を寄せ付けない孤高のウマ娘ではなく、親しみを持たれやすい前評判というのが実情だ。

 

「だから、このダービーは最高の結果だ。もう、世間には誰が勝つのかなんてわからない。またセイウンスカイが何かやるのか? それともスペシャルウィークが今度こそ差し切るか? キングヘイローが玉座に座るか? なんて、大盛り上がりするだろう」

 

 そして、と彼はそのペースのまま口を開き。

 

「確かにダービーに勝利した期待は乗っかるが、その期待を大言壮語がクッションになって、悪目立ちを避ける」

「……っ」

 

 まさか、とセイウンスカイはこぶしを握り締める。

 大言壮語というのは間違いない。日本ダービー前の記者会見で、トレーナーが吐いた言葉のことだ。

 

「唯一抜きん出て並ぶ者なし。この黄金世代でそれをやってのけられるウマ娘? 居るはずがない」

 

 セイウンスカイの足が止まる。

 彼はそのことに気付いて、彼女の二歩先で止まって、振り返る。

 

「……よく」

 

 絞り出すように、セイウンスカイは言葉を紡ぐ。

 

「よく、考えたら。そうですよね。セイちゃんだって、それくらい、わかってる」

「言葉は使い方が命だ。だから、この塩梅がちょうどいい。君の世間の評判は、菊花賞の勝利をもって完璧になる」

「……トレーナーさんの評判は?」

「考慮に入れる価値がない」

 

 ぷつん、とセイウンスカイの何かが切れた。

 

「ふざけないでよッ!」

「ふざけてなんてない」

 

 地下通路の中をキン、と高く反響するほど大きな声が飛び出した。

 そんな声が急に飛び出したにも関わらず、彼はあくまで波風立てない冷静な声音で否定する。

 

「私だって! これでも真剣にやってる!」

「わかってる」

「わかってない!」

「いいや、誰よりも俺が知っている」

「ならッ!」

 

 ヒートアップするセイウンスカイに向けて、トレーナーは大げさに首を振る。

 そして、彼は表情を落として口を開くのだ。

 

「所詮は仮契約だ。君の将来に一切の支障をきたさないことは約束する」

「違うッ! 私が言いたいことは――」

「いいか、セイウンスカイ」

 

 淡々と。

 どこかズレた論点を用いながら、肌に刺すような冷たい声音で彼は言う。

 

「所詮は仮契約だ。そして、トレーナーっていうのはウマ娘が強くなる、勝つための手助けをするだけだ。それ以外は全て不純物だ。勝手な同情も、憐れみも、気遣いも」

 

 ギリ、と音を立てる。それは歯噛みだったのか、それとも拳を握り込んだ音か。あるいはシューズが地面に擦れた音だったのか。

 

「……じゃあ、トレーナーさんはどうして、トレーナーなんですか」

「…………」

 

 彼はセイウンスカイの言葉に、すぐには答えなかった。

 代わりに、彼は抜け落ちた表情の上から、どこか曖昧な表情をつぎはぎして貼り付けて。

 

「忘れた」

 

 泣きそうな顔だった。

 悲しそうな顔だった。

 無理に笑っているような口元だ。

 頬が強張っている。

 

 どこまでも不器用に、彼は笑って答えた。

 

「っ……!」

 

 かつん、とセイウンスカイは地面を強く蹴り付ける。まるで癇癪を起した子どもが、やり場のない感情を叩きつけるように。

 

 そして、セイウンスカイはそれ以上口を開くことなく、彼を横切って控室に戻っていった。

 

 

「……最後の仕上げだ」

 

 彼は静かに、ぽつりとそう呟くと。

 背筋を伸ばして、ただ真っ直ぐ、出口の方に向かうのであった。

 

 

 

 離縁の毒が、しみ込んだ。



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