AdeN(エデン)~公安第五課~ (夏野 雪)
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一饋十起
対象を護衛するには有り難い場所だ。
今回の依頼者は珍しく若い男性だった。
何故警護を必要としているのか不思議ではあったが、ボディーガードの私にとっては関係のないことだ。
男は怯え切った様子で周囲を気にしていた。
近くには不審な人物も居なければ、不審物も見当たらない。
彼は一体何に対して、こんなにも恐怖を感じているのだろうか?
その時、私の視界の端に何か赤い液体のような物が映った。
何が起こったのか分からないままに視線を液体が飛んできた方へと向けた。
そこで私の目に映ったものは胸の辺りを両手で押さえている依頼者の男だった。
男の手の隙間からは赤い液体が漏れ出し、彼の着ていた白いTシャツにも徐々に赤い染みが広がっていた。
何が起きたのだろうか。
それは血だった。
それもそのはずだ。彼の胸にはサバイバルナイフのような物が真っ直ぐ突き刺さっていたのだ。
どうして。
彼の傍には誰も居なかった。
何もなかった。
なのに...どうして...。
彼はそのまま歩道に倒れこんでしまった。
我に返った私は応急処置をしようと急いで彼の傍に屈みこんだ。
傷口を確認しようと手を伸ばした時に血だらけの彼の手が私の腕を掴んだ。
彼は私の掌に何か文字のようなものを書こうとしているようだった。
それはローマ字のような気うがした。
「A...N...? 」
目が覚めると自室のベッドの上だった。
見慣れた散らかったその場所は紛れもなくパターソンの部屋だった。
何度見ても慣れない夢。
最後となった仕事。
忘れたくても忘れることが出来ない記憶。
落ち込んだ気分と寝汗を流すために、ベッドから起き上がると風呂場へと向かった。
レイン・パターソンは元々私設のボディーガードとして働いていた。
彼女は武術や剣術、おまけに銃の扱いのも長けており、開業以来依頼者を護れなかったことは一度もなかった。
その評判はあっという間に業界内に広まり、依頼は予約でいっぱいになるほどに仕事は順風満帆だった。
そう。あの日までは...。
彼女が遭遇してしまった事件は捜査は継続中ながらも未解決状態のままとなっていた。
捜査が難航している大きな原因は犯人を見た者が誰一人として現れなかったことにあった。
それもそうであろう。すぐ真横に居たはずの彼女でさえ犯人を見ていないのだから。
勿論、警察はパターソンを第一容疑者として目をつけていたのだが、現場近くに設置されていた防犯カメラ、少なかったが通行人の証言によって、彼女の無実が証明された。
だが、防犯カメラにも、通行人も依頼者の男が倒れる瞬間は見ていたのに、犯人の姿を見たという証言は最後まで出てこなかったのであった。
シャワーを済ませ、着回している何時ものスウェットに着替えると、化粧をすることも無く私は玄関に向かった。
スマホに表示されていた時刻に目をやった。
そこには『10:15』と表示されていた。
よし。もう店は開いている時刻だ。
パターソンは仕事を辞めてからは廃人のような生活を送っていた。
幸いにも貯えはそれなりにあったので、働きもせずにほぼ毎日の様に駅前のパチンコ屋に通っていた。
人とも交わることなく、ただただ怠惰な生活を送っていた。
そんな生活を初めてから、彼此一年半が経過しようとしていたのだった。
ワンルームマンションのエントランスを抜けると、彼女の気分とは裏腹に外の世界は今日も良い天気だ。
雲一つない空に浮かぶ太陽に恨めしい視線を送っていると、背後から男の声が聞こえてきた。
「レイン・パターソンさんですね? 」
振り返ると黒塗りの車の傍に背の高い男が立っていた。
それは見た事もない男だった。明るめのスーツに黄色のストライプのネクタイをした高身長のイケメンであった。
「君は…誰なの? 」
パターソンは隠すことなく警戒心を剥き出しにしていた。
「おっと。これは失礼致しました。僕はこう言うも者です。」
スーツと同じ様な色の髪を靡かせながら、男は名刺をパターソンに向かい差し出した。
『警視庁公安部公安第五課 課長 オリバー・エバンス』
「警察? わ、私は何も悪いことはしていないぞ。」
その名刺はパターソンの信頼を勝ち取るどころか、逆に警戒心を強める結果となってしまった。
「あはは。安心して下さい。貴女を逮捕しに来た訳ではありませんよ。とりあえず、近くでお茶でも飲みながら話しませんか? 」
そう言うとオリバーは笑顔で車の助手席を開けた。
「えっ...まさかナンパ? 」
「まぁ...あながち間違ってないかもしれませんね。」
警戒しながらも車に乗ったパターソンはお洒落なカフェへと連れて来られていた。
『
オリバーは馴染みの店らしく、マスターと思わしきカウンター内の男性と仲良さげに挨拶を交わしていた。
マスターは長髪を後ろで束ねており、顎髭を生やしていた。
オリバーに負けず劣らず高身長のイケメンであった。
ただ、オリバーよりも年を重ねているように見えて、イケオジと言うジャンルに入るのかもしれないとパターソンは思っていた。
カウンターに並んで座った二人はアイスコーヒーを注文した。
「ここは水出しなので、とても美味しいんですよ。」
相変わらずの笑顔でオリバーが話しかけてきた。
「本当にナンパなんですか? 」
「パターソンさんは『公安五課』って聞いたことありますか? 」
「ないですね。と言っても警察組織に詳しいわけじゃないですけど...。」
カウンターの奥では大きな砂時計のような形の水出し用のドリッパーからグラスにコーヒーを注いでいた。
「そうですよね。実は『公安五課』と言うのは設立されたばかりの部署で、担当する事件は未解決になったままの事件や人知を超えたような事件を捜査する部署なんです。」
「なんか厄介ものを押し付けられてるみたいですね。」
「ハハハ。良い表現だな。その通りかもしれないな。」
声を上げて楽しそうに笑うオリバーとパターソンの前に綺麗なグラスに入ったアイスコーヒーが置かれた。
オリバーはガムシロップとミルクを入れるとゆっくりとかき混ぜた。
パターソンも同じようにかき混ぜてから、口に運んだ。
普段コーヒーを飲まないので、これが通常より美味しいのかどうかは正直分からなかった。
「はぁ。やっぱり水出しは美味いね。マスター。」
「当ったり前よ。」
マスターはドリッパーに水を継ぎ足しながら満足そうな笑みを浮かべていた。
「単刀直入に言ってしまおう。パターソンさん。貴女をスカウトしに来たんだ。僕たちと『公安五課』で働いてくれないか。」
「はい? 何言ってるんですか? 」
パターソンがオリバーに視線を向けると彼の顔からは笑顔が消えていて、いつの間にかに真剣な表情へと変わっていた。
「『公安五課』の人事は僕に一任されていてね。貴女の名前は極めて優秀なボディーガードとして以前から知っていたんです。既に何人かのプロフェッショナルをスカウトしているんですけど、僕たちの任務を遂行する上で貴女の身体能力がどうしても必要なんです。給料も悪くない。福利厚生もしっかりしている職場です。」
現在無職のパターソンにとって、苦せずして安定した職に就けるということは願ってもないことではあった。
「...なんで私が警察で働かなくちゃいけないんだ。」
オリバーはそんなパターソンの言葉を予期していたかのようなタイミングで一つのファイルを彼女の前に差し出した。
「中を見て下さい。」
言われるがままにパターソンがファイルを捲ってみると、そこには『
現場の写真や目撃者の証言に彼女自身の証言までもがしっかりと残されていた。
唖然とした表情で資料を見つめていると、オリバーが追い打ちを掛けるように優しく話しかけてきた。
「勝手ながら貴女のことを少し調べさせてもらった。この事件も『
パターソンの強く握られた右手の掌にあの日の感触が蘇ってきていた。
それは彼が最後に残した生暖かく、赤い液体の感触だった。
「今すぐに返事を聞かせてくれとは言わない。一週間。一週間後までに返事を聞かせて下さい。僕らのオフィスは警視庁の二十三階にあるので心が決まったら、私に直接伝えに来て下さい。」
パターソンの表情を観察していたオリバーはそう言うと伝票とファイルを手に取り立ち上がった。
「流石にこの資料を貴女に預けておくという訳にはいかないので今日は持ち帰らせてもらいます。もし、ウチで働いてくれると言うなら貴女にこの資料は預けるよ。それでは良い返事を期待していますよ。」
オリバーは手短に会計を済ませると、パターソンの方を振り返ることなく店を出ていったのだった。
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臥薪嘗胆
パターソンは『公安第五課』と書かれた真新しいプレートが掲げられた扉の前に立っていた。
そこは五日前にオリバーに指定された場所であった。
それにしてもこの場所はどういう所なのだろうか。
辺りには他の部署の部屋が有るわけではなく電気室や倉庫なような部屋が並んでいて、その中に突如として現れるのがこの『公安第五課』の部屋だった。
肩書に似つかわしくない雰囲気に若干の怪しさを胸に抱きながら一度深呼吸をして、パターソンは静かに扉を開けた。
「失礼しまーす。」
中はだだっ広い部屋だった。天井のダクトや空調設備などが剥き出しになっており、壁はコンクリートの打ちっぱなし状態。
広い部屋の真ん中に四つのデスクが対向式に置かれており、その四つのデスクを見渡せるような場所にもう一つデスクがあった。
その隣には応接用のソファとローテーブルも用意されているようだ。
対向式になっているデスクの一つ。入り口から一番近いデスクでは赤髪と黒髪の二人の男が何やら難しい顔でデスク上のPCモニターを見つめていた。
部屋に入ってきたパターソンの声も届いていないようだ。
何か捜査の資料を見ているのだろうかと気になったパターソンは二人の後ろに近付いてモニターを覗き込んでみた。
そのモニターに映っていたのはゲーム画面だった。最近流行っている銃火器を使ってプレイヤー同士が撃ち合うようなゲームのようだ。
入り口からでは良く見えなかったのだが、二人の手にはしっかりとコントローラーも握られていた。
さらに良く見るとモニターの横には色彩豊かなエナジードリンクの缶たちが放置されている。
ゲームの結果に一喜一憂しながら、何とも楽しそうに二人は遊んでいた。
パターソンが唖然としていると、離れたデスクの方から声が聞こえてきた。
「こちらです。パターソンさん。」
そこには笑顔で手招きをしているオリバーが座っていた。
オリバーのデスクは目の前の二人とは対照的に綺麗に整理整頓されていたのだが、デスクの片隅に場違いな高さ二十センチ程の蓋つきの陶器の壺が置かれているのがパターソンには気になって仕方なかった。
「オリバーさん...それ何ですか? 」
パターソンは我慢できずに壺を指差しながらオリバーに尋ねてみた。
彼女の指先を確認したオリバーは「ああ。」と言うと壺の蓋を開けて見せた。
蓋を開けた途端に紫蘇の香りがフワリと二人を包み込んだ。
パターソンが中を覗き込んでみると、本格的に漬け込まれた梅干しが大量に入っていた。
「梅...干し? 」
「ええ。僕の好物なんですよ。お昼ご飯や夜食を食べる時に一緒に食べるんですよ。所謂マイ梅干しってやつですかね。」
そう言いながら笑うオリバーを見ていたパターソンの表情はつい何十秒前と同じような表情へと戻っていた。
「そうだ。ここに来てくれたと言うことは腹が決まったってことですよね。」
「ええ。決心して来たつもりだったのだが、この部屋に入って決心が揺らいでいる。と言うか不安でいっぱいなんですが...。」
「大丈夫ですよ! 警察と言ってもパターソンさんは捜査協力的なポジションですし、僕も含め分からないことがあれば、しっかり指導していきますから。」
「いや...。そういう不安じゃないんだが...。」
不安要素の認識の誤差を解決できぬ間にオリバーはデスクの引き出しからファイルを取り出した。
それが五日前にカフェで見た例のファイルだった。
「これを...受け取りに来たのではないですか? 」
そして、あの時のようにオリバーの表情も真面目モードに素早く切り替えられていた。
「...勿論だ。その事件を捜査できるなら私は何でもするさ。」
パターソンはオリバーの差し出したファイルを受け取った。
それを見たオリバーの表情は再び満足そうな笑顔へと戻っていた。
「契約成立です。ようこそ『公安第五課』へ。
席から立ち上がったオリバーは右手を差し出した。
パターソンは何も言わずにその手を握り返した。
「では、レイン君のデスクはここでお願いします。」
オリバーが指定したデスクは二人がゲームをしているデスクのはす向かいのデスクだった。
他のデスクの上は物があるのに対し、そのデスクは新品同様の状態であった。
「それとあっちでゲームをしているのがローレン・イロアス君とアクシア・クローネ君だ。赤っぽい髪色がローレン君で黒髪がアクシア君だ。二人とも。こちらが今日から公安第五課に入るレイン・パターソン君だ。」
オリバーに名前を呼ばれた二人は流石に反応して、デスク越しに立っていた二人の顔を見た。
「あ。課長が話してた新人さんか。俺はアクシアって言います。よろしくです。」
「おお! 女性をスカウトするなんて、流石エバさんだなー。」
笑顔で手を振る二人に対して、パターソンは何とか引き攣った笑顔でそれに応えた。
「こう見えても二人とも優秀な警察官だから安心してくださいね。ローレン君は捜査一課の超新星でアクシア君は交機隊のエースなんだから。」
人は見かけによらないとはこの事なのだろう。今の二人の姿からは全く想像できない紹介であった。
「またまた。その若さで課長になってる人が言っても、ただの嫌味にしか聞こえませんよ。」
ローレンがそれだけ言い残すと、二人は再びモニターへと視線を戻した。
「二人の席はレイン君の向かい側の二席で捜査時もバディで動いてもらってる。」
「それじゃ。私のバディはオリバー課長ですか? 」
「そうしてあげたい気持ちは山々なんですが、レイン君のバディは右隣のデスクの方です。」
オリバーの視線の先には書類と怪しげな薬瓶が並ぶデスクがあったが、そこには誰も座っては居なかった。
パターソンはデスク上にある物を見て言い知れぬ不安に苛まれていた。
「こ、この人は出かけてるんですか? 」
「いや。あそこに居るよ。」
オリバーは振り返りフロアの奥をも見つめた。
そこには出入り口とは別の扉があったのだが、パターソンは言われるまでその存在に気がつかなかった。
その扉には『無断で入るな! 』と乱暴な手書きの文字で書かれた紙が張られていた。
それを見たパターソンはキャパシティーオーバーした不安のせいで、胃の辺りに痛みを覚えていた。
二人が見つめていると扉から一人の男が出てきた。
青い髪にシンプルな眼鏡を掛けた白衣を纏ったその男はブツブツと何か独り言を言いながら、こちらへと近付いてきていた。
「丁度良かった。レオス君。こちら新人のレイン・パターソン君だ。君とバディを組んでもらうことになるからよろしく頼むよ。」
「え。ああ。どうも。」
オリバーに呼び止められたレオスは立ち止まりパターソンの顔を一瞥してから、それだけ言って自分のデスクへと向かって言ってしまった。
「私...嫌われてます? 」
「いや。彼は考え事をしているとあんな感じだから気にしないで大丈夫だよ。彼はレオス・ヴィンセント君。元々科捜研の優秀な主任でね。さっき彼が出てきたのは彼専用の研究部屋なんだ。少し気難しい部分もあるけどね。」
パターソンは胃痛に引き続き、気が付けば頭痛も併発していた。
「あ。そうだそうだ。」
何かを思い出したようにオリバーは自分のデスクへと戻って行ったと思うと、引き出しから何かを取り出した。
それは先ほどパターソンが受け取ったファイルと同じような別のファイルだった。
ファイルを手にしたオリバーは自分のデスクの近くで立ち竦んでいたパターソンの元に戻ってくると、そのファイルをパターソンへと差し出した。
「何です? これ。」
パターソンはそれを受け取ると中身を見てみると、それは何かの事件の記事のようだった。
「僕からの就任祝いです。」
中身に目を通したパターソンの手は微かに震え始めていた。
『突如現れた刃!? 自殺の可能性も? 』
『とある配信者が配信中に謎の死。「告発」と銘打って始められた配信の中で重大な何かを話そうとした時だっどこからともなく現れたナイフのようなものが配信者の胸に刺さった。その瞬間は数千人の人間が同時に観ていたのだが、誰一人としてナイフがどこから現れたのか、第三者がいたのかどうかを見なかったという。警察では自殺の可能性も含めて捜査中とのことだ。尚、当日に死亡した配信者が何を話そうとしていたのかも明らかにされていない。』
「オリバーさん...これって。」
呟くように漏れ出た声はパターソンが今出せる精一杯の声量だった。
記事に釘付けになったままで彼女の思考はクラクラと眩暈を起こしてしまっていた。
「その事件が起きたのは先月のことです。場所はこの都内。レイン君の求めている答えは君が思っているよりも近くにあるのかもしれませんよ。」
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運否天賦(前編)
次の日、パターソンは非常勤職員と言う形で『公安第五課』へと出勤していた。
「おはよーございまーす。」
元来、朝は得意な方ではなかったんのだが、無職時代にパチンコ屋通いのお陰で幾分かは鍛えられていた。
「おはよう。レイン君。」
彼女に返事をしたのはオリバーだった。今日も変わらず四人が見渡せる場所から爽やかな笑顔を皆に向けていた。
パターソンが着いたのは八時半頃だったが、ローレン以外のメンバーは既にデスクに座っていた。
彼女の対面に座るアクシアは缶コーヒーを片手に何やら書類に目を通しており、右隣にいたレオスも何やら慌しそうにパソコンで何かを入力していた。
「...っまーす。」
何を言ったのかは分からなかったが、あからさまに眠そうな表情をしたローレンが部屋に入ってきた。
オリバーとパターソンだけが返事をする中でローレンはデスクに座るなり、すぐにデスクに顔を埋めてしまった。
本当に自由で素敵な職場だなと心の中で精一杯の嫌味をぶつけていた。
特に仕事の指示も出ていないので、パターソンはデスクの引き出しにしまっておいたファイルを取り出した。
自分が体験した奇妙な出来事が他で起きているなんて思いもしないことだった。
記事の中には動画配信を視聴していた目撃者のインタビューも載っていた。
『急に何もないところからナイフが出てきたんです』
この視聴者Aの気持ちは痛いほどパターソンには理解できた。
「ああ...この事件かー。」
「きゃっ! 」
パターソンは記事に集中していて後ろで記事を覗き込んでいるレオスに全く気付かなった。
「君が何でこの事件の記事を見ているんだ? 」
「えーと...何と言うか...ヴィンセントさんも知ってるのか? この事件。」
レオスは眼鏡のブリッジ部分をクイッと人差し指で持ち上げた。
「まぁね。科学者として何もない空間に物質が突然現れて人に刺さる事象を解明する楽しみって言ったらないだろう? 」
「はぁ...。犯人の正体とか理由は知りたくないんですか? 」
「レイン君。科学というものは『
そこでレオスは一度言葉を止めて、記事からパターソンの顔へと視線を移した。
「わ、私なのか!? 」
「そうなんですねー。君はもっと『
「すいません。」
レオスが熱っぽく早口で何かを説こうとした時だった。部屋の出入り口の方から聞き慣れない声が聞こえてきた。
ローレン以外のメンバーがそちらに顔を向けると、そこにはスーツを着ている眼鏡の小男が立っていた。
「こちらが『公安第五課』でよろしかったでしょうか? 」
「ええ。間違いないですが、失礼ですがどちら様でしょうか。」
そう言いながらオリバーが立ち上がり、男の方へと近付いて行った。
「わたくしは
脇村は丁寧な口調で胸ポケットから名刺を取り出すとオリバーへと差し出した。
「は、はぁ...。まあ。こちらで詳しく聞かせてください。」
名刺を受け取るとオリバーは脇村を応接用のソファへと誘った。
二人がソファで話し始めて十数分が経っていた。
オリバー以外は相も変わらずに自由に過ごしていた。
ローレンはいびきをかきながら眠っており、アクシアはPCモニターを使ってゲームを始めてしまっていた。
遊んでいるのはローレンと遊んでいたFPSゲームのようだ。
レオスも奥の実験部屋へと姿を消してしまい、パターソンは先ほど彼が言いかけた言葉の続きを聞きそびれてしまっていた。
一人になってしまったパターソンは自分のデスクの上に用意されていたデスクトップパソコンを起動させた。
事前にオリバーから教えられていたログインIDとパスワードを入力すると無事に立ち上がった。
デスクトップは幾つかのアプリが入っているだけでスッキリとしたものだった。
取り敢えず、インターネットで先月末発生したという配信者の刺殺事件を調べてみることにした。
事件発生から一か月程しか経っていなかったため、取材記事やまとめサイト、個人による考察のページやら多くのページを見つけることが出来た。
パターソンはその中の被害者の経歴などがまとめられたページを開こうとマウスを動かした。
「レイン君! 」
その時、デスクの向こうにある応接用ソファにいたオリバーが声を掛けてきた。
「はい! 何でしょう。」
少し驚いた様子で立ち上がったパターソンを見たオリバーは「こっちへ」と言うと彼女に向かって手招きをしていた。
パターソンが首を傾げながらもソファの方へ向かっていると、オリバーはキョロキョロと辺りを見渡してから実験部屋に狙いを定めた。
「レオスくーん! 」
パターソンを呼んだ時よりも少し大きな声を聞いたレオスが部屋から顔を出した。
「なんでしょう? 」
オリバーはレオスにも同じように手招きをしてレオスをソファの所へ呼んだのだった。
ソファは二人掛けだったので、オリバーとレオスを座らせ、パターソンは傍に立つ形で話が再開した。
「二人とも『
オリバーがそう言いながら一枚の写真を二人の前に置いた。
写真には白い長い髪を後ろで結んだ制服姿の可愛らしい女の子が写っていた。
「いや。僕は見たことも聞いたこともありませんねー。」
レオスはあからさまに興味の無さそうな表情で写真を眺めていた。
「私は以前に動画配信サイトで名前を見たような気もするんですけど...。」
パターソンは無職の間、暇な時間は動画配信サイトを良く見ていた。その時に配信自体を見たことはなかったのだが、そんな名前を見かけた記憶があった。
「おお。レイン君の言う通りで彼女は動画配信サイトで配信者として活躍している子なんだ。」
「課長。それがどうしたんですか? 」
早く実験部屋に戻りたいのか、レオスが急かす様にオリバーに尋ねた。
「実は彼女には
「不思議な力? 」
パターソンがオリバーの言葉を疑問符を付けてオウム返しすると、対面に座っていた脇村が口を開いた。
「そうなんです。課長さんにはお話したのですが、彼女は我々の間で『預言者』と呼ばれているのです。」
「ほぅ。『預言者』ですか。」
その単語にレオスの目には見えない触角がピクリと反応したようだった。
「ええ。元々彼女は配信内でも豪運として知られていました。それも一度や二度ではなく、確率も尋常ではないものでした。それを見ていた一人の若者が面白半分で自分が選挙に出るタイミングと地域の選択を彼女に委ねてみたんです。その若者が彼女の言う通りにしてみると選挙経験や地盤も無かった若者が見事に当選してしまったのです。」
「へー。でも、運が良かったってだけじゃないのか? 」
腕組みをしながら話を聞いていたパターソンも興味あり気に脇村に尋ねた。
「そうですね。しかし、その話を聞いた数人の議員や議員志望の人物たちが次々に彼女の元を訪ねた。そして、漏れなく全員が当選することとなるのです。」
「全員がか!? 」
パターソンの驚いた様子を見た脇村はなぜか満足気な笑みを浮かべながら話を続けた。
「ええ。
「凄い事は分かったのだが、それが我々と何の関係があるんだ? 」
「レイン君。それが出来てしまったんだよ。脇村さんの話によると彼女は数日前に襲われたらしいんだ。怪我などはなかったことと彼女からの申し出もあって、警察には通報しなかったらしいが、心配になった海泉議員が警察関者のお友達に相談した結果、我々の元へやってきたという訳なんです。」
オリバーが話し終わると脇村は急に立ち上がると三人に向かって深々と頭を下げた。
「お願いします! 私たちは彼女を失うわけにはいかないのです。どうか彼女を守って、首謀者を突き止めては頂けないでしょうか。」
突然の事に呆気に取られていたレオスとパターソンにオリバーが笑顔を向けた。
「と言うことなんで、君たちには彼女の身辺警護をお願いしたいんだ。」
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運否天賦(中編)
レオスが運転する車は椎名が泊まっているというシティホテルへ向かっていた。
助手席に乗っていたパターソンは自分の服のお腹辺りを懐かしい思いでゆっくりと擦っていた。
彼女とレオスはオリバーの指示で防刃ベストを服の下に着けていたのだ。
以前にボディーガードをしていた頃に着用したことがあったのだが、まさかこんなところで再び着ける日が来るなんて思ってもみなかった。
「君が元敏腕ボディーガードだったとは...。人は見かけによりませんねー。」
レオスはお気に入りの煙草を咥えながら、カーナビを確認していた。
「ええ。ヴィンセントさんぐらいなら即制圧出来ると思います。」
「それは頼もしいですねー。まぁ。その素晴らしい能力の
レオスは少し開けていた車の窓の隙間を目掛けて嫌味混じりの紫煙を吐き出した。
「ローレンさんとアクシアさんたちと首謀者の捜査が良かったのか? 」
「まぁ...
「でも、首謀者を探すのは『
車内に暫しの沈黙が流れた後でレオスは紫煙を深く、大きくそのまま吐き出した。
その煙は外へ逃げることなく車内に充満すると、彼の気持ちを代弁するようにパターソンの喉へ向かって攻撃的な刺激を与えたのだった。
問題のホテルへ到着した二人は地下の駐車場に車を止めると、事前に脇村から教えてもらっていた部屋へと向かった。
フロントで事情を説明すると話が事前に通っていたのか、すんなりと通ることができた。
二人を乗せたエレベーターは椎名が泊まっているという最上階へと到着した。
「全く...制服姿の子供がシティホテルの最上階にご宿泊とは世の中どうなっちゃってるんでしょうね。」
薄暗く長い廊下を進んでいる中でレオスが恨めしそうに呟いた。
「私も再就職先...早まっちゃっかもしれないな。」
「まぁ。今に分かることでしょう。」
取り留めもない会話を続けている内に気が付けば二人は目的の部屋の前に到着していた。
レオスは目の前の部屋番号を今一度確認してからインターフォンを押した。
「はぁーい。」
少し気だるそうな声で扉を開けて中から出てきたのは写真で見た制服姿の女の子だった。
綺麗な白い髪に写真では分からなかったが、その髪の色に負けないぐらい透き通った白い肌が眩しくすら感じられた。
「椎名唯華さんですね。私たちは警視庁公安第五課から来たレオスと申します。こちらはレインです。」
そう言いながらレオスは警察手帳を提示した。それを見ていたパターソンもレオスの言葉に合わせるようにして慌てて手帳を取り出した。
この手帳も事前にオリバーから手渡されていたのだが、こんなにも早くに使用する機会が来るとは思わなかった。
「おお。ホンマに来たんか。呼ばんでええちゅうたのになー...まっいっか。どうぞー。」
「失礼します。」
椎名の許可を得たところで、二人は室内へと足を踏み入れた。
玄関からすぐの部屋は広々としたリビングルームだった。正面には大きな窓があり、部屋の中央あたりには座り心地の良さそうなアンティーク調の三人掛けのソファが向かい合うように一組とその間にはテーブルも置かれていた。
椎名はその手前の方のソファへ仰向けに寝そべると二人を気にする様子も無くスマホを弄り始めた。
傍のテーブルには食べかけのスナック菓子の袋に飲み終わったペットボトルが放置されていた。
二人はソファの近くで立ち尽くしていたのだが、とても命を狙われているような人物には見えなかった。
「あの...何と言いますか。随分とリラックスされてますね。扉を開けられたのも早かったですよね。そこに居たのが私たちだから良かったものの...。」
「扉を開ける前から安全なのは分かってたから。」
レオスの疑問にスマホを見たままで椎名は答えた。
「『開ける前から』? 」
「あれ? 聞いてへんの? あたしのこと。」
パターソンの言葉を聞いた椎名がようやくスマホから二人へと視線を向けた。
「『預言者』のことですか? 」
「そうそう。えーと...レオスやったっけ? でも、あたし嫌いなんよな。その言い方。」
「どうしてです? 」
「えー...と...似てんねんな名前が二人共。覚えにくいわ。レインちゃんやったか。あたしは別に未来が見えるわけじゃないんよ。ちょっと先の『
「ほぅ。扉を開ける前から我々がそこに居るのが分かったと? 」
レオスは子供の御伽噺を話半分で聞いているかのように嘲笑していた。
「そんな感じやね。『
そう言うと椎名はソファから立ち上がると少し離れた場所に置いてあった自分のカバンの中から長方形のプラスチックのケースを取り出した。
「何ですか。それ? 」
「ただのトランプやで。」
レオスと違って、好奇心旺盛なパターソンは椎名に近付きプラスチックケースから取り出されるトランプを見つめていた。
椎名はトランプの束からランダムに九枚のカードを取り出した。それは『ハートの2』、『クラブの4』『スペードの4』、『ハートの7』、『ダイヤの10』、『ダイヤのQ』、『ハートのK』、『クラブのK』、『スペードのA』と本当に適当なカードだった。
それを裏返しにテーブルに並べると、最後に束の中から一枚のカードを選びテーブルの上に置いた。
レオスとパターソンがそのカードを確認すると、それは『JOkER』であった。
椎名は何も言わずにそれを裏返して九枚のカードの中に加えた。
そして、目を瞑ってテーブルの上に並べられた合計十枚の裏返しのカードをかき混ぜ始めた。
「よし。二人も混ぜてええよ。」
混ぜ終わって目を開けた椎名はニッコリと笑いながら二人を見た。
「それじゃあ」と言いながらカードを混ぜ始めたのはパターソンだった。
何度かグシャグシャとカードをかき混ぜると、レオスも黙って彼女に続いた。
三人の目の前にはテーブルの上には向きも場所もバラバラに置かれた裏返しの十枚にカードが置かれていた。
「じゃあ。行くで。」
そう言うと椎名は何の迷いもなく、一枚のカード目掛けて手を伸ばすと、手に取ったカードをその場でひっくり返した。
椎名が裏返したカードは『JOKER』だった。
「えっ。」
パターソンの短い感想を聞き流して椎名は『JOKER』を裏返すと、再び同じ様に目を瞑ってカードをかき混ぜ始めた。
そして、同じ様にその中から一枚のカードをひっくり返す。
それはまた『JOKER』なのだった。
「ウソ...。」
驚き唖然としている二人の前で、その行為は続けられて最終的に十回繰り返された。
椎名は二人が見ている目の前で十回連続でJOKERを引き当てて見せたのだ。
「まぁ。こんな感じよ。」
椎名は満足げな表情で二人の顔を交互に見渡していた。
「どうなってるんだ...ヴィンセントさん。」
混乱するパターソンがレオスに助けを求めると、レオスは顎に手を当てて考え込んでいるようだった。
その表情には、つい数分前までにあった余裕は無くなっていた。
「1/10を十回連続で当てる確率は...百億分の一。0.0000000001%ですね。」
「百億分の一!? 」
「ちなみに、ジャンボ宝くじの一等が当たる確率が二千万分の一と言われていますね。」
「な、なんか目印みたいなものがついてるんじゃないのか?」
パターソンは散らばっていたトランプを集めると、一枚一枚を丁寧に確認し始めた。
表も裏も隅々まで確認してみるものの、意図的に付けられたようなマークや汚れや折れ、青い唐草模様のような裏面の柄にも違いは見つけられなかった。
「無駄やで。みーんな同じカードやもん。これで少しは分かってもらえた? あたしの力。」
椎名はどうだと言わんばかりの表情で食べかけだったスナック菓子を食べ始めていた。
「確率は低かろうがゼロではない。百億分の一の事象が目の前で起きたまでの事なんですよ。」
「ヴィンセントさん...それ本気で言ってます? 」
レオスは何も言い返せずにパターソンの手の中のトランプを睨みつけるだけだった。
その時、椎名の客室のインターフォンが鳴ったと同時に男の声が聞こえてきた。
「恐れ入ります。フロントの者ですが椎名様へお届け物が御座います。」
一気に室内に沈黙と緊張が広がっていったのだが、更に椎名の一言が追い打ちをかけていく。
「開けんほうがええで。」
しかし、その椎名の警告も虚しく扉は開かれた。
中にいる人物が開けたのではない。扉の前に立っている人物が、どう言う訳か椎名の部屋の鍵を開けたのだ。
扉が開くとほぼ同時に部屋の中へ二人の男が勢い良く入ってきた。
部屋の入り口から四、五メートル程離れた場所にあるテーブル周りに居た三人目掛けて男たちは突進してきていた。
「ヴィンセントさん! 椎名さんを! 」
パターソンの声よりも先にレオスは既に椎名の前に庇う様に立っていた。
「君に言われずとも分かってますよ! 」
パターソンが若い女と見るや、その正体も知らずに男たちが彼女に狙いを付けた。
二人の手にはそれぞれ短刀が握られており、刃先は真っすぐに彼女に向いていた。
明らかに目つきの変わったパターソンは態勢を僅かに低くして、胴体を庇う様にして両腕を構えた。
一人の男の腕が無言でパターソンの腹部を目指して迫ってくる。
彼女は引く事なく、刃物を持つ男の方に向かっていった。
てっきり後ろへ逃げるだろうと思っていた男は意表を突かれ、短刀の軌道がややパターソンから反れていた。
それを見逃さなかった彼女は構えていた左の上腕部分を素早くスライドさせて相手の右上腕へと当てた。
相手は全力でこちらへ向かってきていたこともあり、腕を当てた僅かな力にも関わらず男は態勢を立て直せずにバランスを崩してしまった。
もちろん、刃先は既に明後日の方向に向かっており、彼女はそのまま相手の腕を両手で掴むと捻るように男の腕を回すようにして瞬く間にテイクダウンさせた。
「やるやんか。」
レオスの背後からリーンするように、一連の流れを見ていた椎名が思わず呟いた。
しかし、まだ終わってはいなかった。
残ったもう一人の男はパターソンの思わぬ反撃に焦ったのか、本来のターゲット目掛けて素早く方針転換を決めた。
無論、それは椎名であった。
レオスの背後に椎名の姿を確認すると、今度はレオス目掛けて突進を始めた。
「ヴィンセントさん! 拳銃は!? 」
パターソンは最初の男を取り押さえており、今からでは助太刀することが出来なかった。
「言いましたよねー! 私はそう言うことは専門3外なんですよー! 」
もしかしたら、恐怖で動けなかっただけかもしれないが、そう叫びながらも椎名の前から動こうとしなかった。
「
「えっ? 」
それは背後から聞こえてきた声だった。
「右に飛んで。」
誰よりも落ち着いた、静かな言葉で椎名がレオスに伝えた。
レオスには迷ってる暇も、確率を考えている時間は残されていなかった。
態勢を変えて、椎名を抱きかかえたレオスは言われるがままに右側へと飛んだ。
男も負けじと二人が飛んだ方へ向かって行こうとしたのだが、方向転換するために男が足を踏み出した先の床には偶然にも一枚のトランプが落ちており、それに足元を掬われてしまったのだった。
足を滑らせた男の頭部は為す術もなくテーブルの角へとぶつかり、男は白目をむいて気を失ってしまった。
威勢良く部屋に突っ込んで来た割には何とも間抜けなオチであった。
レオスは椎名を抱えたまま床に倒れこんでいたのだが、その一部始終をしっかりと見ていた。
彼は腕の中でほくそ笑む少女に視線を移した。
「君...まさか『
「『神はサイコロを振らない』んでしょ? 」
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運否天賦(後編)
パターソンは自分がねじ伏せた男に手錠をかけると、慌てて倒れていた二人に駆け寄った。
「大丈夫か!? 君たち! 」
レオスの腕の中に収まっていた椎名はそこから抜け出して立ち上がった。
「へーきへーき。それにしてもレインちゃん見かけによらずに強いんやね! 」
椎名はなぜか嬉しそうにパターソンの肩をポンポンと叩いて、彼女の奮闘を称えているようだった。
レオスはと言うと床に寝そべったままの少し間抜けなスタイルとは不釣り合いな、嫌に真面目な顔で何かを考え込んでいるようだ。
「ヴィンセントさん。大丈夫か? 」
レオスの顔を覗き込みように前かがみになりパターソンは右手を差し伸べた。
「ああ...すまない。」
彼女の手を握り引き起こされたレオスだったのだが、未だに心ここに非ずと言った様子で椎名の顔を見つめていた。
「
レオスの表情を観察していたパターソンは彼の肩に手を置きながら厳しい口調で警告した。
「はっ? 」
「女子高生に手を出したら、流石に駄目だ。しかし、恋してしまったというなら...。」
少し顔を赤らめながら熱心に何か語りだしたパターソンを無視することにしたレオスはスマホを取り出してどこかへと電話を掛けた。
「お疲れ様です。レオスです。賊を二名確保しましたので連行をお願いしたいのですが。ええ。ええ。そうですね。ローレンたちに取り調べさせるのが良いでしょうね。はい。ではお願い致します。」
電話を切ってパターソンを見ると、何やら嬉しそうに椎名と話をしているのが見えた。
自然とレオスの口からは大きな溜息が漏れ出していた。
レオスがオリバーに連絡を入れてから三十分と経たない内にローレンとアクシアがホテルへと到着していた。
「二人共、ご苦労様です。」
アクシアが笑顔で二人に労いの言葉を掛けている後ろではローレンが無言で項垂れる二人の男を引きずる様にしながら扉の方へと連行していた。
「それにしてもパタさん強いんだねー。」
男たちを引っ張りながらもローレンがパターソンに向かって話しかけてきた。
「いや。それほどでもないですよ。私が倒したのは一人だけですし。」
「一人でも凄いよ! 今度で良いから護身術教えてねー。」
笑顔で手を振りながらローレンとアクシアは二人の男を引き連れて部屋を去って行った。
「お二人とも面白いですね。」
パターソンも手を振り返しながら笑顔で見送っていた。
「はぁー...疲れたわ。あたし寝てもええかな? 」
椎名が大きく伸びをしてから欠伸をしていた。
「構いませんがこんな事が起きたばかりですので、我々は室内で警護させて頂きますよ。」
「ええよ。じゃ、おやすみー。」
「無神経と言うか肝が据わっていると言うか。不思議な子だな。」
パターソンが呟きながらベッドに視線を向けてみると、そこには気持ち良さそうに夢の世界に旅立った椎名が横になっていた。
「レイン君。一つ聞きたいことがあるんです。武術的な観点から相手が向かおうとしている先を相手が動き出す前に予測することは出来ると思いますか? 」
「ん? どういうことだ? 」
二人はソファに向かい合って座っていたのだが、レオスは立ち上がると身振り手振りを付けて話し始めた。
「例えば、敵意ある人物と相対している時に相手が左に舵を切ろうとしていたら、それを動き出す前に察することは出来るかどうかと言うことです。」
「なるほど。それなら視線の動きや膝の入り方、重心の移動だったりを観察していれば出来ないことは無いだろうな。」
「そうか。それならいけるのか。」
「ただし、それは相手が先に動いた場合だぞ。自分が先に動いてしまっては意味が無いからな。」
レオスは先ほどの場面を思い出していた。記憶の録画を巻き戻して再生してみると、あの時確かに椎名は相手が向きを変えて動き出す前に声を掛けてきていた。
いや、もしかしたら敵の足元に落ちているトランプを椎名は見えていたのかもしれない。
そうだとしてもだ。移動した男がトランプを踏んだのは偶然だ。踏まない可能性だってあった。
つまり、彼女には『左に移動した世界』と『右に移動した世界』の結末が見えていて、そこから『安全な世界』の方を選択したということなのだろうか?
「...本当に見えているというのか。両方の世界。
「ん?
怪しげなことを呟きながら眠る椎名を見つめるレオスにパターソンは一人の女性として、いつでもレオスを拘束できるように警戒態勢を取っていた。
「こんばんは。」
その声は突然聞こえてきた。
先程の様に部屋のインターホンが鳴るでもなく、扉が開く音や気配など一切が存在することなく、本当に湧き出たかのように聞こえてきた。
「えっ? 」
レオスとパターソンも一度お互いの顔を見合った後に声の聞こえてきた方に顔を向けた。
それは部屋の入り口の扉の方からだった。
二人が目を向けると、そこには室内側の扉の前に一人の人物が立っていた。
男は真っ黒いフード付きのローブのようなものを纏い、顔には白い仮面を着けていた。よく動画配信者などが付けているような目の部分だけが開いている仮面だった。
「いつの間に!? 」
驚きも声を上げながらもパターソンは素早く臨戦態勢に入ろうとソファから立ち上がり直ぐに仮面の人物の前に立ちはだかった。
「ヴィンセントさん! 彼女を起こして! 」
レオスも唖然としていたようだが、パターソンの声を合図にベッドの方へと走り出していた。
仮面の人物は微動だにせずに目の前に立つパターソンをじっと見つめていた。
『
パターソンの直感が彼女にそう囁いていた。
仮面の人物が目に見えて武器を持っているわけでは無いし見るからに体格が大きいというわけでも無い。
強いて言葉にするなら、それが仮面の人物から感じる気配だった。
色々な
その背後でベッドまで辿り着いたレオスは声を掛けながら椎名の体を揺らした。
「椎名さん! 起きて下さい! 」
「んん...何? 」
あからさまに不機嫌な様子で体を起こした椎名は目をこすりながら、部屋の中を見渡していた。
寝起きのぼんやりとした思考と視界の中にいる彼女にも部屋の中で起きている異変に気が付けたようだ。
「ああ...これはあかんわ。」
パターソンのアラートを裏付けるように椎名が仮面の人物を見つめながら呟いた。
そして、それが正しかったと言うことは直ぐに証明されることとなるのだった。
相手の隙を探ろうと凝視していたはずのパターソンの視界から仮面の人物が忽然と姿を消したのだ。
それは後ろで見ていたレオスや椎名の視界からも消えていた。
「きえ...。」
一瞬にして姿を消した仮面の人物はパターソンが何かの言葉を口にしようとしていた瞬間に再び姿を現したのだった。
その間、僅か十数秒だったであろう。
仮面の人物が姿を現したのはパターソンの目の前だった。本当につま先がぶつかりそうな程に近くに立っていたのだ。
パターソンは身動き一つすることが出来ず、現状を把握すらままならなかった。
彼女が自身の腹部に重く深い痛みを感じた時には既に手遅れだった。
薄れゆく意識の中でパターソンが最後に見たものは仮面の人物の青色の瞳だった。
「レイン君!! 」
レオスや椎名の目からも、その光景ははっきりと確認できた。
突然姿を消した人物がパターソンの前にいきなり現れたと思った次の瞬間、彼女が膝から崩れ落ちて動かなくなってしまったのだ。
床に倒れこんでしまったパターソンを無言で見つめていた仮面の人物が二人の方へと視線を向けた。
レオスの脳内の信号が彼に指示を与えようとしている間に気が付けば仮面の人物は二人の目の前に移動していた。
「何が起きているんだ。」
「刑事さん。」
レオスの背後に隠れていた椎名がまた小声で話しかけてきた。
「見えるのか?
「見えるで。コイツは無理やな。刑事さんは絶対に動かないでな。」
「君...何をする気なんです? 」
「刑事さんは仲間を助けてな。」
レオスが椎名に聞き返そうとしたのだが、椎名はそれ以上何も言わずに扉に向かって走り出した。
「なっ!? 」
レオスが止めようと手を伸ばした時には彼女は既に手の届く範囲には居なかった。
仮面の人物は動揺する様子もなく、何も言わずに目で彼女の後を追っているだけだった。
そのまま椎名は部屋の外へと迷わず飛び出した。
部屋の外。扉の所で一度立ち止まるとレオスに視線を送った。
そして、椎名はニッコリ微笑むと彼女はエレベーターホールの方へと向かって再び走り出した。
「えっ? 」
椎名の最後の笑顔を見ていたのは数秒の間のはすだった。
それなのにレオスが室内に視線を戻した時には仮面の人物は姿を消していた。
嵐が過ぎ去った室内には残されていたのは立ち尽くすレオスと倒れ込むパターソンの二人だけであった。
パターソンは自身のデスクに座りながら自身の腹部を摩っていた。
彼女は腹部に強い打撃を受けて気を失っていただけで命に別条はなかった。
しかし、幾ら思い出してもあの時、腹を殴られた記憶もなければ仮面の人物が動いたことすらもパターソンは判断出来なかった。
あれは何だったのか。
「大丈夫ですか? 」
話しかけてきていたのはオリバーだった。彼はデスクの傍に立っていたのだが、考え込んでいたパターソンは全く気が付かなかった。
その考え込んでいる表情を見て、オリバーも声を掛けてくれたのだろう。
「あ。ありがとうございます。大丈夫です。あの。椎名さんは...。」
オリバーは静かに首を横へ振った。
「ええ。レオス君から連絡を受けて直ぐにローレン君たちと捜索したんですが見つかりませんでした。君たちが見たという仮面を着けた黒いローブの人物もです。」
「そうですか...課長。彼女を守れずに本当に申し訳なかった。」
パターソンは立ち上がるとオリバーへ向かい頭を下げた。
それを見たオリバーは彼女に優しい口調で語り始めた。
「君はよくやってくれましたよ。パターソン君たちが無事で居てくれたなら、僕はそれだけでも十分ですよ。」
「でも、政治家の先生や警察上層部はお怒りなのでは...。」
パターソンの声は少し震えており、今にも泣き出しそうなように見えた。
「そう言う人たちに頭を下げるのが僕の仕事でもあります。レイン君は二人の暴漢から彼女を守れたんです。自信を持って下さい。でも、無理だけはしないで下さいね。」
そう言いながらニッコリと微笑むオリバーは彼女の机の上に何かを置き、自身のデスクへと戻っていった。
パターソンが机の上を見ると、それは小皿に乗った一粒の梅干しだった。
きっと例の壺に入っていたものなのだろう。
「一つある。」
「えっ? 」
その声は隣に座って何かの資料を読んでいたレオスのものだった。
「速すぎたから消えたように見えた。」
「はい? 」
「いや。でも、そうなると...。」
どうやらレオスはパターソンへと話しかけたわけではなく、ただ単に独り言だったようでぶつぶつと何かを唱えながら研究室の中へと吸い込まれていった。
「ねぇねぇ。あいつ
ローレンは自分の遊んでいるアプリ仲間を見つけたと思い嬉しかったのか、はす向かいのデスクから興味深そうに顔を覗かせていた。
「さぁ。この間は女子高生の胸をエベレストって言ってましたよ。」
「ちょ。その話詳しく聞かせてよ! 」
公安五課では何事も無かったかのようにいつもの通りの光景が広がっているだけだった。
そんな彼らが居る建物の前の道路を黒いワゴン車が通り過ぎていった。
「はぁー...よー寝た。」
車の後部座席を占領していた椎名が大きな欠伸をしながらむくりと起き上がった。
「本当によく寝るんですね。」
その声は運転席から聞こえてきたのだが、運転席と後部座席の間には仕切りがあり、運転手の姿は椎名からは確認出来なかった。
「元はと言えば、あんた達があたしの貴重な睡眠の邪魔をしたからやん。」
「仕方がないことです。貴女を薄っぺらい政治家たちの道具として終わらせる訳にはいかないので。」
「えー。気楽でそれなりに稼げたんやけどなー。」
椎名は頬を少し膨らましながら、窓から外を眺めていた。
「あの二人も『
運転席からの質問に椎名は暫く黙ったまま答えずにいた。窓の外を眺めながら、何もないどこか遠くを見つめ続けているだけだった。
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飛花落葉(前編)
俺は声も出さずに静かに目を瞑った。
自分の胸にはナイフが刺さっており、そこからは夥しい血が出ているのが見える。
余りにも一瞬の出来事で自分自身でも自分に何が起きたのか理解出来ていなかったが、ナイフと血液を俺自身が認識したことで初めて激痛が脳と体を襲った。
痛みと混濁する意識に俺は膝から崩れ落ちるようにして、その場に倒れ込んでしまった。
無理もないことだが、混乱し慌てた様子で隣に居た女性が俺の顔を覗き込んでいる。
そんなに心配そうな顔をせずとも、もうどうしたって助からないであろうことは自分自身が一番分かっていた。
この女性とはビジネスで知り合ったばかりで縁や思い入れが在るわけではない。
それは勿論、彼女にとっても同じ事だ。
それなのに...。
気が付けば、俺は血まみれの手で彼女の腕を掴んでいた。
そして、彼女の掌の中に血のインクで文字を刻んでいった。
俺が知ってしまった一つの真実を...。
またあの夢だ。
パターソンは起きたばかりのベッドの上で右手の掌を確認した。
掌は寝汗で薄っすらと湿ってるだけだった。
赤い文字も、不気味な生温さも、そこには残っていなかった。
「おはよーございまーす。」
パターソンが挨拶と共に部屋に入ると、いつもと変わらずに室内は賑やかだった。
爽やかなオリバーの挨拶に朝から元気なローレンとアクシアの二人の掛け合い。
それと、難しい顔でPCに向かって独り言を言うレオス。
これがパターソンにとってのスタンダード。新たな日常になろうとしていた。
「あー! アクシア見ろよ! やっと限定SSR出たぞ! 」
パターソンがデスクに座ると、向かいのローレンが嬉しそうにアクシアにスマホの画面を見せびらかし始めた。
彼女は今朝の夢を思い出しながら、変わらぬ日常の有難さを噛み締めていた。
そんな公安第五課に来訪者が現れたのは、何事もなく平和な半日が過ぎようとした午後の事だった。
現れたのは一人の女性であった。
今その女性はパターソンとレオスの前に座っていた。
「本日は何故このような場所に? 」
パターソンの隣に座っていたレオスが女性に尋ねると彼女は事情を話し始めた。
今回は課長の指示でレオスとレインが担当することとなり、応接用のソファに並んで座っていたのだ。
「はい。私は都内で専業主婦をしている
「『
パターソンが首を傾げながら小さな声で復唱するのをレオスが肘で小突いて止めさせた。
志津香は一度大きく咳払いをするとレオスに向き直り話を続けた。
「えーと。何でしたっけ。そうです。主婦をしているんですけど、娘が帰って来ないんです。」
「娘さんが? つまり...行方不明と言うことですか? 」
「行方は分かっています。『
「
聞きなれない言葉に再びパターソンが復唱しながら首を傾げたが、今回はレオスの肘は飛んでくるようなことはなかった。
「はい。私たちの地区では少し有名な家で庭に美しい紫陽花が咲いているのですが、その家に足を踏み入れた者はその家から離れられなくなってしまうという噂があって、そう呼ばれるようになりました。その噂を確かめようと友達と二人で娘が不帰の家に行ったのですが、娘だけが帰って来なかったのです...。」
そこまで話すと志津香は下を向き、泣き出してしまった。
「その一緒に家に行ったというお友達は帰ってきたんですか? 」
レオスが彼女に構うことなく会話を続けようとすると、彼女は持っていたハンドバッグから白いハンカチを取り出すと涙を拭うと再びレオスの方へと向き直った。
「はい。その友達にも話を聞いたのですが、娘自身が『帰りたくない。私はここに残るから』と言って動こうとしなかったと言うのです。友達も娘の様子が急変してしまってこともあり、恐ろしくなって一人で逃げ出したということです。」
「そう...ですか...。」
話を聞く限りでは事件性が無いようにも思えていた。娘さんが自主的に家に残った理由は分からないが、所在もハッキリしているし監禁されているなどということもなさそうだ。
レオスは総合的に判断して、捜査依頼を何とか断ろうと言葉を選んでいる時だった。
「娘は...
轟はソファから勢い良く立ち上がると二人に向かい頭を下げた。
彼女の大きな声を聞いたオリバーが自身のデスクから不安そうに覗き込んでいた。
「何で引き受けちゃったんですかねー。」
自身のデスクに座っていたレオスが短い溜息と共に頭を抱えていた。
「いや、だって泣いていたし、あんなに頼まれて断れないだろう? 」
慌てて言葉を返したパターソンはオリバーのデスクの近くに立っていた。志津香の件の経緯などをオリバーに報告していたのだ。
「まあまあ。他の部署にも聞いてみましたが、轟さんは色んな部署に相談しに行って盥回しにされたあげく、ここに辿り着いたみたいですね。」
「相も変わらずに厄介者の終着駅なんですね。ここは。」
レオスの嫌味にオリバーは苦笑いを浮かべながら白いマグカップを口へと運んだ。
「はぁー...美味しい。で、何でしたっけか? そうだ。君たちを待っている間に僕なりに調べてみたのですが、ここ二か月間で『不帰の家』に行ったきりで戻らず、警察に何かしらの届けが出ているケースが他にも三件ありました。」
「三件もですか!? 」
パターソンも内心ではそれほど深刻視していなかったようで、意外な件数に驚いているようだった。
「届出がある件数だけで三件です。もしかしたら明るみになってないだけで実際はもっと多い可能性もあります。ですので、返事をして正解でしたよ。レイン君。」
レオスとレインは志津香から教えてもらった住所を頼りに閑静な住宅街を彷徨っていた。
「この辺のはずですねー。」
スマホに表示されているマップを見ながらレオスはパターソンの少し前を歩いていた。
「ああ。あそこじゃないか? 」
辺りをキョロキョロと見渡していたパターソンは前方に小さな庭に綺麗な紫陽花が咲いている家を見つけて走り出した。家の前には小さな格子型の黒い門扉があり、その横には『静』と黒字で書かれた白い表札も出ていた。
「表札も
マイペースに歩いていたレオスも少し遅れて門扉の前に到着していた。
「そうですね。では、お話でも聞きに行ってみますか。」
そう言うとレオスは門扉を開けて、玄関先まで向かった。
左手に鮮やかな紫と青の二色の紫陽花を眺めながら十数歩進んだところが玄関だった。
「綺麗な色の紫陽花ですねー。特に紫に」
パターソンが紫陽花に見惚れている間にレオスは玄関扉の横にあったカメラ付きのインターホンを押していた。
『はい。どちら様でしょうか? 』
インターホンから聞こえてきたのは少し幼さの残る可愛らしい声だった。
「突然申し訳御座いません。警視庁から来ましたレオスと申します。家主の方に何点かお聞きしたい事が御座いまして。」
『け、警視庁ですか。少々お待ちくださいませ。』
そこでインターホンは切れてしまった。
「随分可愛らしい声でしたね。」
いつの間にか背後に立っていたパターソンがインターホンのカメラを覗き込んでいた。
「最近警察も信用が無くなってるんですから、変な行動はせずに大人しく待っててくださいね。不審者だと思われてしまいますよ。」
パターソンは少し不服そうに頬を少し膨らませながら顔をカメラから遠ざけていった。
すると、それを待っていたかのように玄関の扉が開いた。
扉の向こうに立っていたのはメイド服姿の可愛らしい女性と言うよりは女の子であった。インターホンから聞こえてきた声とぴったりのイメージではあった。
藍色のメイド服に真っ白のエプロン胸には大きなリボンが付いており、そのリボンの上やエプロンの裾の部分などには白い花がアクセントのようにあしらわれている。
「はわわ。お待たせ致しまして申し訳御座いません。」
そのメイドは落ち着きのない様子で二人に向かい頭を下げた。
「あの...えーと、家主の方ですか? 」
レオスの言葉を聞いたメイド服姿の女性は頭を上げると、自身の顔の前で物凄い勢いで手を横に振り始めた。
「とんでもないで御座います! わたくしはこちらにメイドとしてお仕えしておりますエリー・コニファーと言う者です。」
落ち着きを取り戻したエリーはエプロンを両手で広げるとカーテシーをしてみせた。
「メイドさんでしたか。家主の静さんは御在宅ですか? 」
「ここに居ますよ。」
声と共に玄関から真っすぐ伸びた廊下の奥のドアから一人の女性が出てきた。
庭に咲いていた紫陽花の色にも似た紺色のブレザーの制服に同じ色合いのショートヘアの持ち主は優しい微笑みは浮かべていた。
その笑みは彼女自身の背格好よりも大人びた雰囲気だった。
「あなたが家主なんですか? 」
「いけませんか? 」
レオスに向けられた言葉は女性の柔らかな表情とは裏腹に鋭さと圧が込められていた。
「いえ...そうですね。失礼致しました。私は警視庁公安第五課から参りましたレオスと申します。こちらはレインです。」
気持ちをすぐに切り替えたレオスが形式的に手帳を取り出したが、女性は動揺する素振りも見せずに変わらぬ様子で口を開いた。
「ご苦労様です。私は
そう言うと彼女は背後のドアを開けると、再び奥の部屋へと姿を消した。
「どうぞ。お履き物もご用意いたしましたので、中にお入り下さい。」
二人の前の上がり框には、いつの間にかに二組の紫色のスリッパが並べられていた。
少し頼りなく見えてはいたのだが、エリーは仕事の手際の良さは確かなもののようだ。
「ありがとうございます! 」
パターソンは笑顔でエリーにお礼を告げると、エリーも照れくさそうに笑いながら二人を奥の部屋へと誘った。
エリーが開けたドアの向こうは広々とした明るいリビングだった。
部屋の中央には白い大きな長方形のダイニングテーブルとセットであろう白い椅子が長辺に二脚ずつが向き合う形で計四脚セットされていた。
テーブルの近くには見晴らしの良い窓があり、そこからは庭に咲いていた紫陽花が一望することができた。
静はその内のドアから一番遠い窓側の椅子に静は座っており、その向かいの椅子に『どうぞ』と言うように手を差し出していた。
レオスとパターソンは静に指示されるがままにダイニングテーブルの椅子へと腰を下ろした。
二人が座るのを見届けてからエリーはリビングにある別のドアへと向かって行った。
「良いお宅ですね。庭もキレイだ。」
パターソンが目を輝かせながら席の正面にある窓を覗き込むようにして庭を見渡していた。
「ありがとうございます。エリーが一生懸命に手入れをしてくれてますから。ところで今日はどのようなご用件でこちらへ? 」
「それなんですが、こちらの方々に見覚えがありませんか? 」
そう言うとレオスは四名の人物の写真を静の前に順番に並べた。
それは不帰の家。つまり、この家に行って戻って来ずに警察に届けがあった人物の写真だった。
その中には直接公安第五課に相談に来た轟京子の写真も含まれていた。
パターソンもまじまじと写真を見るのは初めてであったのだが、こうやって並べてみると高校生だったり大学生、フリーターと職業も性別も年齢もバラバラであることが改めて実感させられた。
もし、敢えてこの四人の共通点を上げるとすれば、写真の中の人物がとても
静はピシッと背筋を伸ばした姿勢を崩すことなく、視線だけを四枚の写真へと向けていた。
左から右へと順番に写真の人物を確認しているようだった。
「ええ。知り合いではありませんが、存じ上げていますよ。」
静が答えたのと時を同じくして、テーブル左手にあるドアが開いた。
そこにはシルバーのトレイを持ったエリーが立っており、トレイの上には青いティーカップが三つ乗っていた。
エリーがダイニングテーブルまで運び終えると、レオス、パターソン、静と順番にティーカップを置いて回った。
カップからは甘いリンゴのような香りが立ち上っており、やや緊張し始めていたテーブル周辺の空気を一気に和ませていった。
「こちらはカモミールのハーブティーで御座います。」
エリーの言葉と笑顔がミルクのように場に溶け込むと、雰囲気はより一層穏やかになっていくようだった。
彼女はテーブルの傍で一礼をしてから、出てきたドアへと帰って行った。
恐らく、あの奥がキッチンになっているのだろう。
「良い香ー...頂きます。」
パターソンが早速口に運んだ。香りははっきりとリンゴのようなものだったが、口に含むとそこまでリンゴの味はしなかった。
それほど甘くもなく、飲んだ後に鼻を抜けるフローラルな香りとまろやかさが心を落ち着かせていくのを実感していた。
レオスと静も続いてティーカープを口へと運んでいた。
「良い香りですねー。えーと...四人全員を知っているということで間違いありませんか? 静さん。」
レオスは一息つくと、カップをテーブルに置き本題へと話を戻した。
「ええ。そうです。ここ二か月ぐらいの間に私の家に来ましたよ。この家は私も借りている立場なので詳しくは知りませんでしたが、何やら『
「そして、全員が『帰ってこなかった』。」
レオスの言葉を聞いた静は表情を変えることなく、ハーブティーを一口飲むと微笑みを浮かべた。
「以前にも保護者の方や友人の方々が警察と一緒に来たりしましたけど、私の家からは何も見つかりませんでしたし。誰もいませんでした。私から言えることは一つだけです。写真の方々は確かに家に来ましたが、最終的には皆様お帰りになっていますよ。」
「では、四人全員があなたの家を訪れた帰り道に何らかの事件に巻き込まれたり、自発的に失踪したと仰るのですか? 」
「さあ...どうなんでしょうね。なんでしたらこの家を調べていただいても構いませんよ。レオスさん? 」
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飛花落葉(中編)
あのように強気な態度を取られると、二人は何としても見つけてやろうと思うタイプであった。
つまり、挑発行為には滅法弱いタイプなのだ。
レオスとパターソンはエリーの案内の下で『不帰の家』の捜索をすることに決めた。
静はエリーに一言二言だけ指示をすると二階にある自室へと戻っていった。
「一階には特別な部屋は御座いません。全部で四部屋です。こちらは御覧の通りの何の変哲もないリビングダイニングルームで御座います。」
三人が立っていたリビングダイニングは玄関から真っすぐに伸びた廊下の先にあり、部屋の形がL字型のようになっていた。
先ほどまで座っていたテーブルがあるエリアと隣接しているソファとローテーブルがあるエリアに分かれていて、所謂リビングダイニングと呼ばれる部屋になるのだろう。
部屋の所々に大小の可愛らしい木製のチェストも置かれていたのだが、バラバラにでもしない限り、とても人間を隠せそうにない大きさのものばかりだった。
レオスはその中の一つのチェストにランダムで近付いて行き引き出しを開けてみるも、やはりと言うべきか当然と言うべきなのか人が入っているようなことはなく、一方でパターソンも他の家具と違って花々が刺繍された鮮やかな絨毯を捲ってみたりしたものの隠し部屋や床下収納スペースの類が見つかるようなこともなかった。
「ヴィンセントさん。やっぱり他の警察官も調べてるみたいですし、本当にこの邸内には誰も居ないんじゃないのか? 」
ニコニコと微笑んだまま待機しているエリーを尻目にパターソンがレオスに小さな声で耳打ちをした。
「...メイドさん。確か玄関の方にもドアがあったと思うんですが、あそこは? 」
レオスは黙って少し考え込むような仕草を見せたのだが、それは彼女の言葉を考慮してのことではなく、自分自身の記憶を整理していただけのようだ。
「はい。こちらへどうぞ。」
エリーは玄関へと続くドアを開けて進んで行き、二人もそれに続いて進んで行った。
三人が辿り着いた玄関の前の廊下には確かに一つのドアが存在していた。
「こちらには主にわたくしが使用しているガーデニング用具を仕舞っている場所でして物置として使用しているだけなのです。」
そう話しながらエリーがドアを開けると、確かに中には青いゴムホースや小型のスコップ、シルバーのステンレス製の
物置は玄関から見て右手側、丁度リビングエリアに隣接する場所にあり、大人であれば三人ほどが頑張れば入れそうな程の広さだった。
レオスとエリーが物置内に入っていてレオスが壁などを叩いたりして確認してみたが、ここでも怪しい場所を発見することが出来なかった。
「どうやら普通の物置のようですねー。」
「だから、そう言ったじゃありませんかー。」
眉間に皴を寄せたレオスと苦笑いのエリーの二人が物置から出てみると、パターソンが物置のドア横の壁をじっと見つめていた。
「レイン君。何を見ているんです? 」
「あ。ヴィンセントさん。ここ開きそうなんですよ。」
レオスがパターソンの背後から壁を凝視してみると、確かに白い壁には黒く丸い小さなノブのようなものが付いていて、薄っすらと枠のような黒い溝があった。
彼女がそれを手前に引っ張ってみると、そこには幾つかの女性物の靴が並んでいた。どうやら只の靴箱のようだ。
その靴箱は五段分、横に並べて二足入れられるようになっていたのだが、スニーカーやヒール、パンプスなど八足分が収納されているだけだった。
「なんだ...ただの靴箱じゃないですかー。」
はぁーと短い溜息をつくレオスと違って、パターソンは靴箱を見た時に何か
『なんだろう...。』
目の前にあるのは何の変哲もない靴箱のはずなのに、何かがおかしい様な気がしてならなかった。
「ああ! 」
突然声を大きな声を上げたのはエリーだった。レオスとパターソンは何事かと驚きの顔でエリーの方へと振り返ったのだが、靴箱に集中していたパターソンからは驚きの余りに小さな悲鳴も上がっていた。
「はわわ! も、申し訳ございません。突然大きな声を出してしまって...。あの少しわたくしにお時間を頂いてもよろしいでしょうか。」
二人の視線で我に返ったエリーが慌てて頭を下げると、先に調べた物置の中へと入っていった。
唖然とした様子で二人が眺めていると物置からシルバーの如雨露を手にした笑顔のエリーが出てきたのだった。
エリーの後を追って二人は庭に出ていた。
彼女は楽しそうに鼻歌交じりに紫陽花に水やりをしていたのだが、先程の叫び声は水やりの時間を思い出したことによるものだった。
パターソンはエリーのすぐ傍で気持ち良さそうに水浴びをする紫陽花たちを見つめていた。
近くで見ていて改めて思うが、本当に綺麗な色をした紫陽花だった。
家を取り囲みようにして立つ身の丈程の白い塀に沿うようにして三メートル程の距離で青と紫色の紫陽花が植えられていた。
緑の芝生の庭には他にも白や赤、黄色などといった名前は分からぬものの可愛らしい花々が植えられていたのだが、どれも活き活きとしているのを見るにエリーが如何に大切に世話をしているかというのが伝わってくるようだった。
紫陽花の近くに立つ二人から少し離れた所で地面に屈みこんで芝生を撫でていた。
「これじゃあ...無理ですねー。」
小さく呟いたレオスの声は二人には届いていないようだ。
定時の水やりを終えて三人は室内へと戻ると、一階の残りに部屋であるキッチン、風呂場、トイレを隈なく調べるも人を隠せるような場所を見つけることは出来なかった。
「残るは二階ですねー。」
レオスが見上げている二階へと続く階段は風呂場とトイレが並んでいる廊下の奥にあるのだが、この廊下はリビングの奥にあるドアから行くことが出来た。
エリーを先頭に二階へと上がると二階には丁字に伸びる廊下に面して六つのドアが見えてきていた。
階段を上がった正面に二つ。もう一方の伸びた先には左右に二つずつの計四つのドアがある。
「正面にあるのがトイレと物置です。そして、曲がった先にあるのが私と静様のお部屋です。」
「残りの二つの部屋はどうなってるんだ? 」
パターソンは丁字部分を曲がり、四つのドアを興味深そうに順々に見渡しながらエリーに尋ねると彼女は廊下左側手前のドアを開けた。
「ご覧の通りに空き部屋になっています。この隣が静様の部屋です。向かい側はわたくしがお借りしている部屋です。その隣の部屋も空き部屋になっています。」
エリーが開けた部屋は家具など一切置かれていない空間だった。もちろん人が隠れるような場所もなかった。
そのまま廊下右側奥の空き部屋も見てみると同じように何もない空間が広がっていた。
「なるほどですね。エリーさん。申し訳ないのですがエリーさんの部屋も調べさせてもらってもよろしいですか? 」
「はわわ。お、お恥ずかしいですが、隠すような物もありませんので構いませんよ。レオスさん。」
空き部屋から少し顔を赤らめたエリーと一緒に二人は隣の彼女の自室へと向かって行った。
エリーの部屋は実に可愛らしい部屋だった。
ベッドの傍らには大小のぬいぐるみが置いてあり、部屋のインテリアは花柄で統一されていた。
「可愛い部屋だねー。私とは大違いだな。」
恥ずかしそうに顔を赤らめたまま下を向くエリーの横で雑誌や脱ぎ散らかした衣服が点在する自室を思い出しながら思わずパターソンが呟くとレオスは静かに首を横に振った。
「君は『
「ん。どういう意味だ。」
レオスはパターソンの言葉を無視して、引き続き室内を見渡していた。
当然のことながら令状などが有る訳ではなく、飽くまで任意で確認させてもらっている現状であれやこれやを動かしたりして開けたりすることは出来なかった。
それでも、やはり四人以上の人間が隠れられるような場所は間取り的にも無さそうな事は確かだった。
パターソンとレオスはエリーの部屋を出ると、残す一部屋の前にやって来た。
それは家主である静の部屋の前だ。
レオスがノックをすると、すぐに中から静が現れた。
「あら。刑事さん。どうでした? 面白いものは見つかりましたか? 」
「いえ。素敵なお庭と綺麗なお部屋しか見つかりませんでした。あとは貴女のお部屋を見せていただければ終わりなんですけどねー。」
静の挑発的な言葉と微笑みに負けることなくレオスが優しい笑顔で応戦していた。
「そうですか。では、どうぞ。」
そう言うと静は部屋のドアを開いて、二人を室内へと招き入れた。
「わたくしはこちらでお待ちしておりますね。」
エリーは部屋の外で待機するようで、一礼をすると二人をその場で見送ったのだった。
静の部屋に入った二人が感じていたことは、恐らく同じようなことだっただろう。
『何もない』
室内には皴一つない清潔感溢れるシーツが敷かれている窓際に置かれたベッドと部屋の隅にある木製の書斎机。
机の上にも本が一冊乗っているだけで、それ以外に見る限りでは何も乗っていなかった。
あと部屋に見当たる物と言えば、カーテンぐらいしかない。
物が無さ過ぎる。その部屋には余りにも生活感が無さ過ぎたのだ。
「気の済むまで調べて貰って構いませんよ。」
立ち尽くす二人の正面の窓の傍に立つ静は勝ち誇ったように満面の笑みを浮かべていた。
不帰の家の玄関でエリーにお礼と別れを告げてから二人は夕暮れの住宅街の中を歩き出した。
「見つかりませんでしたね。京子さん。」
「そうですねー。まぁ我々が『
そう言いながらレオスが指さしたのは住宅街の外れにあった一軒のコンビニだった。
コンビニの前に着いたレオスは軒先に設置されていたスタンド灰皿の前に直行して、ポケットからお気に入りの煙草を取り出すと美味しそうに吸い始めた。
我慢していた反動なのか、あっという間に一本目を吸い終えると二本目に火を着けていた。
暇を持て余していたパターソンは彼の顔をぼんやりと観察していたが、本当に幸せそうに煙草を吸うんだなあ。と呆れ半分、関心半分の気持ちになっていた。
ぼんやりと眺める彼の顔の先でコンビニの自動ドアが開いて中から人が出てきてたり、入ってきたりしている。
時間帯的に学校帰りや仕事帰りの人々が入れ違いに行き来していた。
「ああ...そうだったのか。」
何も考えずにその光景を見ていたパターソンの記憶の中に残っていた一つの疑問の答えが出てしまったのだった。
「ヴィンセントさん! 」
「ああ。はいはい。これで終わりますから。」
「そうじゃない! 戻りましょう。あの家に! 」
レオスは煙草を咥えたままでキョトンとした顔でいきなり興奮しだしたパターソンを見つめていた。
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飛花落葉(後編)
夜の帳が下りたことにより、より一層静けさを増した住宅街の一角に二人は戻ってきていた。
それは勿論『不帰の家』の前だった。
「レイン君。一体どうするつもりですか? こんな時間では相手方も眠ってしまっているんじゃないですか。」
「ヴィンセントさん! こっちこっち。」
パターソンは小さな声で囁くと物音をなるべく立てないよう静かに門扉を開けると、不帰の家の敷地内へと勝手に入ってしまったのだ。
「んー...どう考えても嫌な予感しかしませんね。」
開けっ放しになっていた門扉を閉めるとレオスは重い足取りで暗闇に消える彼女の後を追いかけて行った。
パターソンが暗闇の中で立ち止まった場所は小さな擦りガラス窓の前だった。
彼女は躊躇うことなく窓に手を掛けると、そのまま窓をスライドさせたのだが、驚くべきことに窓には施錠がされていなかったようで開いてしまったのだ。
「レイン君...まさかとは思いますが。」
パターソンはレオスに向かいウインクをして見せた。
「万が一の時のために部屋を見せてもらっている間にこっそり開けておいたんだ。」
どうやら彼女はレオスからのお褒めの言葉を期待しているようだったが、レオスから発せられてのは大きな溜息だけだった。
「あのね...。って、ちょっと! 」
咎めようと言葉を選ぶレオスを他所にパターソンは窓の中へと体をねじ込んでおり、そのまま中へと入って行ってしまったのだ。
彼女一人を中に行かせては何を仕出かすか分かったものではなかったので、仕方なくレオスも幾分狭い非常口に体をねじ込んで行った。
「ふー...ここはトイレでしたか。」
窮屈な入り口を抜けるとそこは一階のトイレだった。
パターソンはゆっくりとトイレのドアを開けるとキョロキョロと左右を確認すると忍び足で廊下へと出て行ってしまった。
彼女はどこに向かっているのだろうか。廊下の先にあるリビングへと続くドアを抜けて行く。
昼間に訪れた時と違って窓のカーテンは閉められていて、真っ暗な世界が広がっていた。
物音一つしない部屋を突っ切り、パターソンは玄関の方へと真っすぐに向かっているようだ。
二人は静やエリーとは遭遇することなく無事に玄関の前まで辿り着くことが出来た。
「ここを開けた時に変だなって思ったんだ。」
そう言いながらパターソンは壁に埋め込まれていた靴箱を開けていた。
「確かに靴箱として上がり框の先にあるのは不自然ではありますが、それ以外に何かあるんですか? 」
「ヴィンセントさん。この隣の部屋が何か覚えていますか? 」
「物置ですよね? 確かガーデニング系の道具が沢山ありましたねー。」
レオスはエリーと中を確認した時のことを思い出していたのだが、普通のガーデニング用具たちが並んでいるだけで特に変わった様子は無かったはずだ。
「その倉庫と同じ面にあるなら、きっと...。」
パターソンがレオスに話しかけながら収納してあった靴を全て廊下に出してから靴箱の背板部分の隅を叩いてみたり、指で縁をなぞる様な仕草をしていた。
レオスが黙って行く末を見守っていると彼女の手がある場所でピタリと止まった。
そして、そのままパターソンが背板を手前に引っ張ると見事に背板が外れ、その先にはぽっかりと穴が空いた空間が広がっていたのだ。
「おお。やるじゃないですか。よく分かりましたねー。」
レオスが突如として現れた空間には小さな地下へと続く階段が伸びているのが見えた。
「最初に靴箱を見た時に違和感があったのだが、さっきヴィンセントさんとコンビニに行った時にぼんやり自動ドアを見ていて思ったんだ。よくよく考えれば横にある倉庫と同じ面にあるのに対して、壁に埋め込まれている靴箱の奥行きが短いんじゃないかって。もしかしたら自動ドアみたいに手前が開いて奥があるんじゅないかとね。」
「なるほどですね。根拠としては限りなく薄いですが、素晴らしい着眼点ですよ。」
「素直に褒めれないのか。君は。」
自信満々に胸を張っていたパターソンであったのだが、手応えの無いレオスの反応に背中を少し丸めやや不満げそうに口を尖らせてしまった。
それを全く気にする様子を見せないレオスはスマホを取り出すとライト機能を使い、階段の先に広がる闇を照らし出した。
階段は十数段、距離にして四メートル程続いており、その先には木製のドアも見えていた。
「行ってみましょうか。」
レオスが今日二度目なる狭い通り道を抜けて、自身の足元をライトで照らしながら慎重に階段を下って行く。
パターソンも気を取り直してレオスと同じ様にスマホのライト機能を使いながらレオスの背中を追いかけた。
木製のドアに近付くにつれて、二人を一つの異変が起きているのを感じていた。
それは臭いだった。微かにではあったのだが、土の臭いに混じって何かが腐敗しているよう刺激臭がレオスとパターソンの鼻腔に襲い掛かっていた。
「ヴィンセントさん...これって。」
心の準備をするかのように先を行っていたレオスは地下ドアのノブに手を掛けたまま固まっている。
「最悪の事態は覚悟しておくべきでしょうね...良いですか。開けますよ。」
「ああ。私は大丈夫だ。」
パターソンの言葉を聞いたレオスが静かにドアを開けた。
やはり、臭いの発生元はこの部屋で間違いなかった。
ドアを開けた途端に中からハッキリと分かる程の強烈な臭いが室外へと向かって解き放たれた。
二人は腕で鼻を押えながら、手元のスマホのライトを前方へと向けた。
そこに広がっていた光景は強烈な臭いすらも忘却させるようなものであった。
この部屋の天井からは触手のような植物の根っこが壁伝いに伸びていて、その根先は五体の人間らしきものに絡み付いていた。
人間らしきものはミイラのように干からびており、性別や年齢などは判別できる状態ではなかったが、身につけている衣服やアクセサリーはそのままだったので、辛うじてそこから人間であったことは推測出来る。
無数に伸びた大小の根が絡みついている様子は、映画や漫画の世界で見る宇宙人や親和性ぬ触手に捕まってしまった哀れな人間の姿のようにも見えていた。
それ程に二人にとって目の前の光景は想定外かつ現実味の無い光景なのだった。
「ヴィンセントさん。これは...なんだ。」
「まるで『
その時、二人は目の前に広がる異様な光景に気を取られていて、後ろから近付いてきていた足音に全く気が付いていなかった。
「あらあら。駄目じゃありませんか。」
背後から聞こえてきたその声で初めて後ろの人物の存在を認識し、急いでライトを階段の方へ向けた。
「まさか...君の方だったんですか。これを隠していたのは。」
光の中に浮かび上がった人物を見つめながらレオスが呟くと、ライトに照らされた人物はニッコリと微笑んだ。
「エリーさん。何で君が。」
意外な人物の登場にパターソンはライトを地面に向けたままで固まってしまった。
「レイン様。理由なんて一つです。お花さん、紫陽花さんのためですよ。紫陽花さんに人間を与えると凄く、凄く綺麗な色になるのです。とても鮮やかな紫色になるのですよ。」
「そんなことのために...こんなにも大勢の人を。」
「およよ...『そんなこと』と仰いましたか? そんなこと...そんなことなのではありません! 」
エリーの大きな怒号が地下に響き渡った。今までの彼女の姿や仕草からは想像できぬボリュームと鋭い目つきへと豹変した。
「お花さんはわたくしの命です。如何に美しく、活き活きと咲かせられるか。それが世界の全てなのですよ。それ以外の人間なんてちっぽけな存在を気にするだけ無駄ですわ。」
エリーの声は徐々に元のトーンへと戻り、それに合わせるように彼女表情も笑顔が戻ってきていた。
しかし、その笑顔から以前のような癒しや安心感を得られることは無かった。
「まぁ。人間がちっぽけな存在と言うことには同意できますね。それにしても、家主の静さんに見つかることなく、こんな場所に人間を隠したり、ここで亡くなっている人々のほとんどが自発的に家から離れなかったと言う証言もあります。一体どんな方法を使ったんですか? 」
「ここを見られたレオス様に隠すようなことも御座いませんね。こちらですわ。」
エリーが右手に持っていたシルバーの木管楽器を二人に見せつけた。
レオスの照らすライトの光を浴びて輝く楽器はフルートのように細長い形状をしている。
不思議そうな顔で楽器を見つめる二人に対して、エリーは少し低い声で話を続けた。
「わたくしはこの楽器の音色で一時的に他人を操ることが出来るのです。そこに居られる皆様もこの音色を聞かせて、この家に留まらせてからこちらへ連れてきました。因みに、静様も元々はこの家を訪れた人間のお一人なのです。警察などの対応に便利だと思いまして仮初の家主として存在してもらっているだけなのですよ。」
「それは興味深いですねー。しかし、私たちに決定的な証拠を見つけられ、追い詰められての苦し紛れのハッタリだとすれば随分とお粗末なものになっちゃいますよ。」
「百聞は一見に如かずと申しますからね。」
レオスの挑発的言葉にも動じることなくエリーは落ち着いた様子で手に持っていた楽器を口元へと運ぶと、一拍遅れて美しい旋律が流れ始めた。
今までに聞いたことのないその旋律はとても聞き心地が良く、頭の中の奥深くへと水流のように滑らかに流れ込んで来るようだった。
『あれ? 』
彼女の奏でる旋律に聞き惚れていたパターソンは自身の体に起こり始めた異変に気が付いた。
体が動かない。
金縛りと言う現象を経験したことは無かったのだが、よく聞くそれと同じような状態になっていた。
手も足、唇さえも自分の意志で動かすことが出来ない。
辛うじて動かせるのは眼球だけであった。
眼だけを動かしながらレオスの方を見ると、レオスも同じ様に直立不動のままでエリーの方を見つめている。
どうやら彼も同じ現象に見舞われてしまっているようだった。
エリーは演奏を止めて楽器を下した。しかし、二人の体はまだ自由を取り戻せずにいた。
「お二人もお花さんの養分となって頂こうかとも思いましたが、お花さんには健康でストレスをあまり抱えていない人間の血が好ましいのです。そこに並んでいる皆様は無邪気で実に穢れの無い方々たちでしたが、レオス様からはおタバコの匂いが致しますし、レイン様には深く暗い何か感じます。ですので...。」
エリーは再び楽器を口元へと運ぶと、先程とは少し違う旋律を奏で始めた。
一つ前と同様に心地良く聞きやすい旋律ではあったのだが、体が動かない事以外にパターソンにはまだ変化は起こっていなかった。
だが、どうやらレオスはそうではないようだ。
体を百八十度回転させたと思うと、虚ろな目つきでパターソンへとゆっくりと近付いてくるのだった。
「うぁ...。」
パターソンは彼の名を呼び掛けようとしたが唇が動かない。喉から声にならない鳴き声のような音だけが空しく口から漏れ出てきた。
レオスはそのまま彼女の目の前まで来ると腕を上げ、パターソンの首を両手で強く締め始めたのだ。
パターソンは驚き動けないながらも肩にグッと力が入る。
レオスは彼女を見つめたままで力を緩めることなく首を締め続けていた。
抵抗も出来ない。声も出せない。このままでは本当に...。
目の前が赤黒く歪んでいく。耳からはエリーの奏でる美しい旋律が絶えず流れ込んできている。
そんな天国と地獄の狭間で彼女の意識は遠く消えかけようとしていた。
「イーヒッヒッ! 仲間に最期を看取られるなんてレイン様は幸せ者じゃないですか。」
一度演奏を止めたエリーは見た目に似つかわしくない高らかな笑い声を上げていた。
「では、どうか安らかに...。」
階段から二人を見下ろしていたエリーは左手で宙に十字を切ると、止めを刺そうと楽器を持ち上げた。
しかし、エリーの演奏が始まる事は無かった。
それと同時に新鮮な空気がパターソンの鼻と口から一気に流れ込んでくると、パターソンは膝からずれ落ちてしまい咽るように激しく咳き込んでしまった。
「わ、私は一体...れ、レイン君! 」
彼女の首を握り潰さんばかりに掴んでいたレオスも我に返ったようで、目の前で屈みこんで咳き込むパターソンを見つけ驚いているようだ。
「はー...だ、大丈夫だ。流石に死ぬかと思ったが。それより何で...。」
レオスの差し出した手を握りながら立ち上がったパターソンの顔色はまだ青白いままだった。
パターソンの状態も気にはなったのだが、確かに何故体の自由が戻ったのか。
二人がほぼ同時にエリーが立っていた階段へと視線を向けた。
そこにはエリーが楽器を持ったまま立ち尽くしていた。まるで、先程までの金縛りにあっていた自分たちを見ているような気分だ。
二人が見つめる中でエリーは左手で自身の背中へと回した。
「これは? 」
エリーは左手を背中から自身の顔の前に持ってくると小さな声で独り言を呟いた。
何が起こったのだろうか。
ただ一つだけ分かったことがあった。
レオスとパターソン、そして、エリー自身でさえも。
背中に回したエリーの左手が真っ赤に染まっていた。
それはエリーの血だった。
エリーの右手から楽器が零れ落ちて行った。
カランと乾いた高い音を立てて階段を転げ落ちていく楽器を追いかけるかけるかのように、エリーの体がドミノのように前方へと倒れ階段を転げ落ちて行く。
体の自由が戻ったはずなのに、その場から動けずに立ち尽くした二人の前には楽器とうつ伏せになったエリーの体が並ぶようにして地面に転がっていた。
エリーの背中からはじんわりと赤い染みが現在進行形で広がっている。
ついさっきまでエリーが立っていた階段の少し後ろには別のある人物が立っていた。
「娘の...京子の仇よ! 」
そこに立っていたのは轟志津香だった。彼女のその手には赤い血に染まる包丁が握られている。
志津香は泣きながら叫び声を上げると、糸の切れた操り人形のように力を失いその場に崩れ落ちてしまった。
「お花...さん。お花。」
地面に横たわるエリーは天井から伸びるグロテスクな植物の根に向かい手を伸ばした。
彼女の目からは涙が零れ落ちていく。
今まさに儚く散ろうとしれいる彼女が精一杯伸ばす手は、多くの人間をを殺めてまで維持し続けた永遠の美を約束されていたはずの庭に咲き誇る花々にも、天井から伸びるその根にさえも届くことはなかった。
最後に何かを呟いたエリーの手が力無く床へと落ちた。
二人が無言で見つめている中で彼女の身体は完全に動かなくなったのだった。
数台の救急車と多数の警察車両が不帰の家に集まってきていた。
パターソンは一台のパトカーの中で救急隊員からの手当を受けていたが、幸いにも二人の怪我は軽いものであった。
隣に止まっているパトカーにローレンとアクシアに連れられた志津香が乗せられているところだった。
志津香は魂が抜けてしまったかのように口をパクパクと動かしながら何もない一点を見つめている。
パターソンの乗っていたパトカーの近くではオリバーとレオスが事件経過の説明をしていた。
「レオス君は体の方は問題無いですか? 」
「ええ。大丈夫です。課長。エリー・コニファーは。」
オリバーは静かに首を横に振った。
「間に合いませんでした。地下にあった五体の遺体はDNAなどを調べて見ないと分かりませんが、身に着けている衣服などを確認するに届けが出ていた行方不明者たちで間違いなさそうです。」
二人が見つめる不帰の家の玄関からはシーツに包まれた遺体が次々と運び出されていた。
オリバーはここへ来る途中で買っておいたレオス愛用の煙草をパッケージから一本取り出し彼に差し出すと、レオスは目を見開きながら少し驚きながらもオリバーの手からその煙草を笑顔で受け取った。、
「お疲れでしょうと思いましてね。買っておきましたよ。」
「これは助かりますねー。有難く頂きます。」
レオスは煙草に火をつけると大きく夜空に向かい紫煙を吐き出した。
「本当に美味しそうに吸うんですね。そうだ。家主とされていた静さんはこの家を初めて訪れてから今までの間の事は覚えてい無いそうです。彼女は家族とは疎遠になっていて発覚を免れていたようです。では、私もローレン君たちの方へ行ってきます。」
レオスに手を振ると、オリバーは颯爽と車に乗り込み現場から走り去った。
「課長なんだって? 」
手当を終えたパターソンがパトカーから出てきており、レオスの傍に立っていた。
「ああ...それより首は大丈夫ですか。レイン君? 」
「まぁ少し痛むが大丈夫だぞ。」
パターソンは笑いながら大袈裟に首に巻かれていた包帯をポンポンと叩いていた。
「本当に申し訳なかったですね。」
「...信じられないけど、操られてしまっていたんだ。私自身も全く動けなかった。あれは一体何だったんだ。」
そう言いながらパターソンは庭に咲いている紫陽花を見つめていた。
「違うんですよ。」
「え? 」
「実は...君の首に手を掛けている時に意識が戻ってからも、しばらく
「えっ? えっ? ヴィンセントさん? それは...。」
再び大きく夜空に紫煙を吐き出すと、慌ただしく行き交う警察官の群れの中へ彼女の弾丸なような言葉から逃げるように姿を晦ませてしまった。
Bar Derasのカウンター席でオリバーが一人で酒を飲んでいた。
彼はお気に入りのスコッチウィスキーが入ったロックグラスを持ち上げて口にした。
口の入れた途端に広がり、鼻から抜けるこの強烈なピート香が本当に素晴らしい。
このスコッチウィスキーは希少なもので一般の店ではまず出会えることがないのだが、マスターに無理を言って仕入れてもらっていた。
そんな落ち着いた安息の時間を打ち消すようにスマホが激しく振動し始めた。
オリバーがディスプレイを確認すると『ある人物』の名前と電話番号が表示されていた。
勤務外では掛けて来て欲しくないものだが、無視する訳にもいかずにオリバーは短い溜息をした後にその電話に出た。
「もしもし。お疲れ様です。ええ。ええ。そうですね。申し訳御座いません。目標の確保に失敗した原因は彼女たちに問題があったのでは無く、被害者の母親が我々を信用せずに現場の家を単独で見張っていたことにあります。ええ。そうです。母親は彼女たちが家に侵入するのを物陰から見ていて、密かに二人の後を追ったそうです。その先で娘の変わり果てた姿を見つけて、衝動的に隠し持っていたナイフで目標を刺してしまったという顛末になります。そうですね。目標はかなり有能な力の持ち主でしたから確保はしたかったのですが...。」
それから少し何かを話した後でオリバーは電話を切った。
今度は大きな溜息をつくと、残っていた琥珀色の液体を一気に喉へと流し込んだ。
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普天卒土(前編)
一台の黒いセダンが雑居ビルの前に止まっている。
運転席に座るアクシアとその隣に座っている助手席のローレンは無線で送られてくる指示を待っていた。
「このビルの中に容疑者が潜伏してるっての? 」
ローレンが窓ガラス越しに五階建ての古びた雑居ビルを見上げた。
雑居ビルの入り口には各階に店を構えているのだろうスナックの看板が疎らに掲げられていた。中には真っ白に塗りつぶされていて空き店舗になっているのだろう箇所も何個か見受けられる。
「まぁ。潜伏するには丁度良さそうではあるよなー。」
アクシアはそう言いながらドリンクホルダーからペットボトルを持ち上げると、その新発売のロイヤルミルクティーを美味しそうに飲み始めた。
『こちら本部。応援班聞こえるか。』
その時、待ちに待った無線からのメッセージが届いた。
「はい。こちら応援班。どーそ。」
ようやく動けると思ったローレンが嬉しそうな笑みを浮かべながら無線に応答した。
『情報はガセだったようだ。張り込みは終了して本部に戻ってきてくれ。以上。』
「はぁーーー...。」
無慈悲にも乱暴に切られた無線に向かって、ローレンは特大の溜息を漏らしながら天を見上げてしまった。
「まぁ。仕方ないね。これが俺らの仕事。帰りましょう。」
頬杖をつきながら不貞腐れたように外を見つめるローレンを尻目にアクシアはペットボトルをホルダーへと戻すと車のキーを回そうと手を伸ばした。
「...おい。アクシア。あれ。」
項垂れながていたローレンは何かを見つけたようで窓ガラスの外を見ながらアクシアに呼び掛けていて、彼もその言葉に誘導されるようにして窓の外へと視線を向ける。
そこで二人が見たものは問題の雑居ビルに入ろうとしている真っ黒のローブを羽織っている人物だった。
「ローレン。確かヴィンさんたちを襲ったのってさ。」
「ああ。黒いローブに青い瞳の奴って言ってたな。」
自然と二人の足は車から降りて雑居ビルへと向かっていた。
黒いローブの人物は二人の存在に気付く事なく、ビルの入り口奥にあった小さなエレベーターに乗り込み二人の前から姿を消してしまったのだ。
ローレンは急いでエレベーターの前に向かうと、扉の上部にある階数表示のランプを見つめていた。
『2』、『3』と表示ランプが進んでいき、『4』のところでランプの移動が停止した。
「アクシア! 四階だ。」
ローレンが振り返るとアクシアはどこかへ電話を掛けながら駆け足で近付いてきているところだった。
「ええ。そうです。ヴィンセントさんの事件の容疑者らしき人物を偶然発見しました。今からローレンと追跡します。えっ?...はい。はい。失礼します。」
アクシアは通話を切ると不服そうにスマホの画面を睨みつけていた。
「おい。アクシア。誰と話してたんだ? 」
「ああ。オリバーさんだよ。追跡する事を報告したんだが、オリバーさんが現場に来てくれるらしいんだけど、それまで待機していろだってさ。」
「はぁ? そんなことしてたら逃げられちまうよ。アクシアはどう思ってんの? 」
ローレンの言葉にアクシアはエレベーターの階数表示のランプを見つめる。
階数表示のランプは『4』のまま動いていなかった。
「そんなもん。追うに決まってんだろ。そうだろ? ローレン。」
アクシアがニヤリと笑うとローレンに視線を移してみると、鏡を見ているかのようにローレンも同じような笑みを浮かべていた。
「流石は俺の相棒だな。よし! 俺はあっちの階段で四階に向かう。アクシアはエレベーターに乗って四階に向かってくれ。インカムマイクで通話を繋げとこう。何かあったら直ぐに報告だ。」
「オッケー。じゃあ行こうか。」
アクシアが右手の拳をローレンの方へと差し出しすと、それを見たローレンも同じ様に右手の拳をアクシアの拳へコツンと軽くぶつけた。
それを合図にローレンはエレベーターの脇にあった狭い階段を駆け上がっていき、アクシアはエレベーターの『△』のボタンを押した。
ローレンはあっという間に四階までの階段を駆け上がっていた。
「はぁ...流石に一気はキツイな。アクシア。こっちは四階に着いた。狭い廊下に幾つかの扉。黒ローブは見当たらない。」
駆け上がりながら耳に装着したインカムに向かいローレンが報告をすると直ぐにアクシアからの返事があった。
『了解。こっちは無人で戻ってきたエレベーターに乗って向かってる。もうすぐ四階だ。」
ローレンが階段近くのエレベーター上部の階数表示を確認すると確かに『2』から『3』に移動しているところだった。
見る限りでは階段は一か所。エレベーターも黒ローブが乗ってから動いていない。
つまり、奴はまだここに居るはず。
ローレンの脳内でアドレナリンが分泌されていき、心臓の鼓動が高鳴っていく。
その原因は緊張でもあり、恐怖でもあり、興奮でもあった。
アクシアの乗ったエレベーターが到着しようとしていた時、ローレンの背後から何か物音が聞こえてきた。
四階の廊下注力していたローレンだったが、身構えるようにして素早く音が聞こえた方へと振り返るとそこには誰もいなかった。
どうやら音が聞こえたのは階段の上階からのようだった。
つまり、五階だ。
この雑居ビルに第三者が居ないとも限らないのだが、黒ローブが四階でエレベーターを降りてから階段で五階に向かった可能性も確かに残されている。
ローレンがアクシアへと連絡を入れようと思ったタイミングでエレベーターの到着を伝える電子音と共にエレベーターの扉が開いた。
「お。ローレン。どうだ。」
中から周りの様子をうかがうようにしてアクシアが降りてき、ローレンの傍へと近付いてきた。
「今な。上から変な音が聞こえたんだ。俺はこのまま上に行ってみるからアクシアは四階の捜索を頼む。」
「よし。分かった。気を付けてな。」
「アクシアも。」
二人は再び別れると、アクシアは廊下の奥へと、ローレンは上階へと進み始めた。
今度は慎重にゆっくりとローレンは五階へと上がっていく。
時刻は十三時過ぎでスナック、飲み屋の並ぶビルの中は実に静かなもので五階の廊下は四階に比べると半分ほどしかなく、扉も四か所しか見えなかった。
エレベーターは表示ランプを見るに四階からは移動していないようだ。
ローレンが廊下を進んで行きながら左右二か所ずつの扉を順番にノブを掴み開くかどうかの確認をして行く。
三か所の扉には店の名前が書かれていたり、小さな店の看板が扉の近くに置かれたりしており、営業している形跡が確認出来た。
勿論、そのどの扉もしっかりと施錠されていて、空き店舗のような残りの扉にも施錠がされている。
念のために、扉にインカムをしていない方の耳を当て、中に聞き耳を立ててみるも物音一つ聞こえてくることはなかった。
と、なると四階に黒ローブが潜伏している可能性が高い。何も報告が無いことも相まって、アクシアの事が気になりだしたローレンはインカムマイクに向かい呼び掛けた。
「アクシア。どうやら五階はハズレみたいだ。そっちはどうだ? 」
『こっちは扉が六ヶ所あって順番に調べてみてはいるが、どこも施錠されてるし人の気配も無いな。』
「そうか...。」
直ぐにアクシアからの返事があったことに安心感を得ると共にある疑問点も同時に浮上してくるのだった。
では、黒ローブは何処へ消えたのか?
『ん? ローレン。一番奥の扉が...開いてるな。これ。一か所だけ施錠されてないぞ。』
ローレンの疑問を解決するような解答が直ぐにアクシアからもたらされた。
「マジか! 俺も急いで外で見張っててくれ。四階じゃ窓からも逃げれないだろう。」
アクシアからの『了解』の言葉を聞くよりも前にローレンは階段に向かい走り出していた。
廊下を突っ切り、そのままの勢いで階段を下ろうとした時だった。
ローレンの目の端に何かが映ったのだ。
階段を下ろうと一歩踏み出したところで急ブレーキを掛けて自らの体を止めると、何かが映った方向に視線を向ける。
それは五階より上。恐らくは屋上へと伸びているであろう階段の踊り場。
そこに立っていたのは黒ローブの人物なのだった。
フードを目深に被っているので顔を確認することは出来ないが、確かにローレンの方を向いている。
そして、ローレンにはハッキリと分かった。
目どころか顔すらも視認することは出来ないのだけれども、確かに黒ローブはローレンを見下ろしている。
階段の踊り場からローレンの姿をジッと見つめているのだ。
まるで、時が止まったかのように数秒間、静止する二人の間には沈黙だけが流れていた。
そんな中で先に動き出したのは黒ローブだった。
黒ローブはローレンに対して何をするわけでもなく、何かを告げるでもなく、踊り場を介して百八十度に折れる階段の続きを上っていってしまったのだ。
「お、おい! 待て! 」
我に返ったローレンも急いでその姿を追った。
階段を登り切るとそこには一枚の扉があり、半開きの状態になっていた。
その隙間からは外の光と風が漏れ出している。やはり、この先は屋上なのだろう。
ローレンは一度息を整えてから、迷うことなくその扉を開けた。
「はぁ...はぁ...追い詰めたぞ。」
ローレンが見つめる先。高いフェンスで囲われた小さな長方形のスペースの真ん中に黒ローブは立っていた。
太陽の高いこの時間の屋外でもフードの中の顔は見えなかった。
まるで、そこに顔なんてものは無く、ただただ闇が広がっているのではないだいろうかと思えてしまう程だ。
それでもローレンは感じ取ってた。
『絶対に黒ローブは俺を見ている』
「どう考えてもデットエンド。大人しく俺と署で素敵な午後のティータイムを過ごすのが懸命だと思うよ。」
見渡す限りの唯一の出入り口である扉の前に陣取ったローレンは絶対にここを動くまいと脚に力を込める。
「
それは黒ローブの声だった。
声色から考えれば男の声だろうか。
黒ローブからの初めての反応に驚きと緊張がローレンを包んでいく。
「へー。残念だな。どうせなら女の子がよかったな。」
それを気取られないようにローレンは強い言葉で返した。
「いや。光栄な事だと思いな。『未来の王』に謁見出来たんだから。」
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普天卒土(後編)
「これは...参りましたね。」
額に手を当てて頭を抱えるオリバーを見ていたパターソンが自分のデスクに座ったままで話しかけてきた。
「オリバーさん。何かあったのか? 」
「ええ。大変申し訳ないのですが...。」
そう言いながらオリバーはメモした住所を別の紙に複写し、それを持ってパターソンのデスクまで持っていくと彼女へと手渡した。
「この住所までレオス君と二人で大至急向かってくれませんか。僕も直ぐに向かいますので。」
「わ、わかった。」
パターソンは何時になく深刻な表情のオリバーからメモを受け取ると、レオスが籠っているであろう研究室へと走った。
パターソンの背中を見送ると自分のデスクへと戻ると椅子に腰を下ろす。
机の上に置いたままになっていたスマホを手に取ると、どこかへと電話を掛け始めた。
「...お疲れ様です。いきなりで申し訳ないですが緊急事態発生です。」
施錠されてないドアの前には『スナック ぶるーず』と書かれた青い立て看板が置かれていて、ドアには『準備中』の札が掲げられている。
どうやら現在も営業を続けている店舗のようだ。
アクシアは握っていたドアノブを少し手前へと引く。
少し開いたドアの隙間から中を覗き込んでみると、まず二卓のテーブル席が見えたのだが、そこには人影らしきものは見えなかった。
そのままドアを開けていくと、バーカウンターと四、五席ぐらいのカウンター席が見えてくる。
そこでアクシアは自身の心臓がドクンと大きく跳ねたのが分かった。
『誰かいる』
カウンターの奥に誰かが立っていたのだ。
どんな人物か、男なのか女なのかも分からなければ、何をしているのかも定かではないのだが確かに誰かがいる。
まだこちらの存在には気が付いていないようだったので、アクシアは音を立てないようにドアを一度閉めた。
「ローレン。聞こえるか。四階に誰か居る。今どこだ。」
出来るだけ小さな声でインカムに呼び掛けるが返事がない。
「ローレン? 」
いつもならこちらが聞かずとも話し始めるローレンなのだが、こちらから二度話し掛けても反応がなかった。
『便りが無いのは良い便り』とは良く言うが、ローレンの場合は話が違う。
アクシアは直前にローレンから報告があった時に「こっちに向かう」と言っていたことを思い出した。
それにしては遅い。遅すぎる。
これは何かあったに違いないとアクシアは確信したが、目の前に居る人物の正体も確認しなくてはいけない。
「こりゃ二者択一って感じか? 」
アクシアはエレベーターの方を振り返るも、そこには人影も見えなければ気配すら感じられない。
「まー...迷うまでの事でもないか。」
今度は一気に最後までドアを開けると、奥に居る人物の方へと警察手帳を突き付けた。
「動かないで。警察です。」
アクシアが勢い良く突入すると、奥にいた人物は呆気にとられた表情で固まってしまっていた。
「あの...まだ準備中なんですけど。」
カウンターの奥で綺麗なグラスを持ちながら立っていたのは黒髪で覇気の感じられない若い男性だった。
「どーも。」
無気力な黛の声に見送られながらアクシアは店を出た。
中に居たのは、この店の店員で
前日の片付けが残っていて、早めに店にやって来ていたようだ。
身分証の確認も出来たし、ロッカーなども見せてもらえたが黒ローブの類も見つからなかった。
どう考えたって完全な一般市民で間違いなだろう。
四階もハズレ。ローレンは五階もハズレだと言っていた。
アクシアは廊下を歩いて階段まで辿り着き上階を見上げる。
「ローレン? 聞こえるか? 」
相変わらずインカムからは何も聞こえてこない。
エレベーターも動いていないし、あの段階で黒ローブが階段を下っていればローレンと鉢合わせてしまう。
つまり、残されているのは。
アクシアは薄暗い階段を駆け上がった。
五階には目もくれずに全力で階段を駆け上がっていく。
息が少し切れてきた頃に屋上へと通しているだろうドアが見えてきた。
やはり、ドアが半開き状態だ。
きっと、この先に。
屋上に出たアクシアの目を日中の強い日差しが襲う。
白い光の世界から解放されてからアクシアが最初に見たものは、グレーの床の上にうつ伏せで倒れている見慣れた赤髪の男の姿だった。
「ローレン! 」
「んっ...痛ってぇー...。」
ローレンが目を覚ましたのは見慣れぬ部屋のベッドの上だった。
まだ僅かに混濁する意識の中で周囲を見渡すと、意識を取り戻したローレンを見て驚いた様子のパターソンがベッドの傍の椅子に座っていた。
「ローレン! 良かった。目を覚ましたのか。」
パターソンの声を聞いて、彼女の後ろに立っていたレオスもローレンの顔を覗き込んだ。
「取り敢えずは良かったですね。では、先生とオリバーさんを呼んできましょうか。」
そう言うとレオスはスタスタと病室を出て行ってしまった。
どうやらオリバーの姿こそ見当たらないが、一緒には来ているようだ。
ローレンは自身の手を握ってみたり、足先を動かしてみたりしてみるも、特に痛みや違和感はなかった。
体調面での不調を強いて言えば、頭が鈍く、重いこととぐらいだ。
「パタさん。俺は一体...。」
「覚えていないのか? 君はアクシア君と黒ローブを偶然見つけて後を追った。アクシア君と分かれて黒ローブの捜索をしていたが、急に君からの連絡が途絶えた。前後の報告から屋上に向かったアクシア君が屋上で倒れている君を見つけた。丁度そのタイミングで私とヴィンセントさん。オリバー課長が現場に到着したって感じだな。」
パターソンの話を聞いていたローレンの記憶が徐々に甦ってくる。
屋上へと続く半開きのドア。降り注ぐ日差し。そして、目の前に立つ黒いローブの人物。
遠くから何かが聞こえてくる。
声?
「大丈夫か? まだ調子が悪いのか? 」
虚空を見つめて固まってしまったローレンを見かねてパターソンが声を掛けた。
「ああ。いや...大丈夫です。そう言えば、アクシアは? 」
「アクシア君か。彼も最初はここに居たんだが、君の命に別状がないと分かると、オリバーさんの制止も振り切って飛び出して行ったよ。『黒ローブは俺が捕まえる』ってね。」
アクシアのその行動が嬉しくもあったのだが、同時に心配でもあった。
自分が実際に対峙したあの人物。
霧が晴れるように鮮明になっていく記憶の中で、ローレンは黒ローブから感じた得体の知れぬ恐怖を思い出していた。
その時、病室に白衣を着た見慣れぬ女性とオリバー、それにレオスの三人が入って来た。
「おお。良かった。意識が戻ったんですね。」
オリバーは嬉しそうにベッドの傍まで駆け寄ってきてくれている。
「ちょっと失礼しますね。」
オリバーを押し退けて、後ろから現れたのは薄いピンク色の髪をツインテールにしている可愛らしい白衣の天使だった。
彼女はローレンの手首から脈拍を確認したり、瞳孔の確認、体の各箇所の痛覚の確認などテキパキと手際良く自分の職務をこなしていった。
「うん。大丈夫そうね。入院の必要も無いとは思いますけど、念のために今日一日だけ入院しましょう。」
「
オリバーの言葉を聞く限りでは白衣の女性は看護師ではなく、どうやらドクターだったようだ。
健屋は「お大事に」と言い残して颯爽と病室を後にした。
オリバーは彼女の背中に一礼をして見送ると、パターソンの隣にあったもう一脚の椅子に腰掛ける。
「ローレン君。もし体調が大丈夫そうなら、何があったのか教えていただけますか? 」
「はい。大丈夫です。アクシアがオリバーさんに連絡を入れた後...。」
ローレンは雑居ビルに入る黒ローブを偶然見つけた時から話を始めた。
二手に分かれて追跡して、五階で聞いた音。そして、問題の屋上。
三人に状況を説明していると、頭の中で響いていた声が大きくなっていく。
「...。...な事......いな。......に謁見出....だから。」
白昼の屋上にも関わらず、真っ黒なフードの中。
「...。光栄な事だと思いな。......に謁見出来たんだから。」
あの時。確かにローレンは聞いた。
「いや。光栄な事だと思いな。未来の王に謁見出来たんだから。」
「
『えっ? 』
屋上で黒ローブと対峙した所まで話したローレンが急に黙り込んだと思えば、突然脈絡のない言葉を発し始めたので聞いていた三人はほぼ同時に同じ様な声を上げてしまった。
「オリバーさん! 俺は屋上で
完全に記憶が戻ったローレンは興奮気味にオリバーの腕を掴んだ。
「容疑者と会話したんですか? 」
急に腕を掴まれ幾分驚いた様子のオリバーだったが、その動揺よりもローレンの発言への関心が優っているようだ。
「はい! 顔は見えなかったんですが、声を聞きました。
三人がローレンの次の発言を固唾を飲んで見守る中で彼の口が動く。
「一つだけ確かな事。それは黒ローブは『女』です。」
「...女...? 」
そう一言呟いたオリバーの声と表情が、彼の横に座っていたパターソンには一瞬、とても動揺しているように見えたのだった。
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忙裡偸閑
平和な昼下がりの公園。
大きな池に広い芝生エリアもあって、休日になれば子供を連れた家族たちで賑わっており、敷地内には全長一キロのランニングコースも設けられていた。
そのコースを黒のランニングタイツと黒のハーフパンツ、タイトな赤いランニングシャツを身に着けたパターソンが気持ち良さそうに走っている。
ボディーガードをしていた時は空き時間を見つけては体力づくりのために走っていたりしていたのだが、仕事を辞めたと共にその日課も失われた。
しかし、非常勤とはいえ警察官として働き始めたこと、そして何より椎名唯華の事件に遭遇した時に感じた無力感。
その日からパターソンはランニングルーティンを再開していたのだ。
爽やかな風と穏やかな陽射しを全身で浴びて、パターソンの走る速度も自然と上がっていく。
ついでに、ランニングウェアのせいで意図せず露になってしまっていたボディラインに注がれる男性たちの視線だけは慣れた身のこなしでスルリと華麗に躱していった。
間もなく一周目を完走しようとしていたパターソンは百メートル程続く並木道に突入していた。
この並木道を走り切ったところが走り始めの地点。つまりはゴールでもあり、一キロ完走となる場所なのだ。
道の左右には等間隔でベンチも設けられており、夏などの暑い日には木陰となるこの場所では人が小休止をしているのを見掛けることも多かった。
今日は日中ではあるが涼しいということもあってか、人影はあまり見当たらなかった。
あまり見当たらない。と言うよりは、パターソンの目には少し先の右側のベンチに座る一つの影しか見えていなかった。
そのベンチに徐々に近付くにつれて、そこに座っていた人物がはっきりと認識できるようになっていく。
「えっ? 」
パターソンは思わず驚きの声を上げてしまったのだが、その理由はベンチに座る人物の姿にあった。
白とピンクのボーダーのパーカーにミニスカート。黒のガーターストッキングを履いた可愛らしい女の子だ。
これだけ聞けば何ら異変はないのだが、問題は彼女の頭部。
そこには耳がついているのだ。所謂ネコ耳と言うやつだ。某夢の国で販売しているカチューシャのようなものでも付けているのだろうか。
しかし、彼女との距離が縮まって行くにつれて、その耳が穏やかな風を受けてピクピクと動いているのがわかった。
どういうことだろう。電池か何かで動く仕様なのかもしれない。
そして、更に距離が縮まっていくと、彼女が手に何かを持っていることも見えてくる。
「えー...。」
少し前とは別の感情を抱いたパターソンの口から戸惑いの声が漏れ出してきてしまった。
彼女が手に持っていたもの。それは『
焼きたてなのだろうか。風に乗って少し焦げたバターの香りがパターソンの鼻先まで届いていた。
直感的に関わってはいけない人物だと認識したパターソンは走る速度を上げながらベンチの前を通り過ぎようとした時だ。
「ねぇ? 」
パターソンの目論見は敢え無く失敗に終わった。
周りに自分以外に誰もいない。そして、彼女は明らかにパターソンを見つめている。
「は、はい。なんでしょうか。」
訝しげな表情で立ち止まったパターソンに向かって、彼女は屈託の無い笑顔と持っていたナンを差し出した。
「食べる? 」
気が付けばパターソンは手にナンを持ったまま、彼女の隣に座ってしまっていた。
「食べないの? 私の手作りだから美味しいよ。」
「えっ? 君の手作りなのか。このナン。」
「うふふ。凄いでしょ。」
確かに良く焼けているし、食欲をそそられる様な香りもしているのだが...。
「変なものは入ってないよ? 」
彼女の無邪気で真っすぐな視線に耐え切れずに、パターソンは持っていたナンを小さく千切ると遂に口へと運んだ。
「...美味しい。」
決して物凄く美味しいと言う訳ではなかったが、温かく、素朴な味でパターソンは自然と二口目を口に運んでいた。
その姿を見ていた彼女は満足げな笑みを浮かべて、隣に置いてあった大きなプラスチックケースから自分用にもう一枚のナンを取り出して食べ始めた。
「お姉さんって何時もこの道走ってるよね。楽しい? 」
「んっ? 『
食べかけのナンが喉に詰まりそうになったのを回避しながら、パターソンは自身の記憶を掘り返してみる。
確かに走り始めてからこのコースを変えたことはなかったのだが、今までに彼女を見掛けた覚えは全くなかった。
ここまで特徴的な彼女を見落としていたと言うことは考えにくい。
だけど、何故彼女は自分を知っているのだろうか。
「そうだな。もしかしたら楽しいのかもしれないな。それより、君は前に私をここで見掛けたのか? 」
「ん? 何回も見てるよ。私、だいたいここでナン食べてるから。」
そんなはずはない。
この並木道は全く人が居ない訳ではないが、そんなに多い訳でもなかった。
彼女がここに座って居れば、今日のように自然と視界に入るはずだ。
「そうなのか? 私は今日初めて君を見掛けたと思ったんだが...。」
考え込むように顎に手を当てるパターソンを見つめていた彼女が楽しそうに笑い出した。
「ふふーん。お姉さんに良い事教えてあげる。目を瞑ってみて。」
「えっ? こ、こうか? 」
今日会ったばかりのはずの怪しげなネコ耳女性に言われるがままにパターソンは目を瞑った。
並木道の間を強い風が抜けていく。
相変わらず、焦げたバターの香りが漂っているのが伝わってくる。
「もーいいーよ。」
それは間違いなく彼女の声だった。
パターソンはゆっくりと目を開けると、目の前には見慣れた並木道が広がっていて、自身の手元には彼女から貰った食べかけのナンも握られたままだ。
「あれ? 」
パターソンは目の前で起きた一つの変化にようやく気が付いた。
彼女が見当たらない。
声が聞こえたのは目を開ける直前だったはずなのに周囲を見渡してもどこにもいないのであった。
「あの子...帰っちゃったのかな? 」
「
「えっ? 」
彼女の声が聞こえに反応して横を見てみると、パターソンの横には先ほどと同じようにナンを持った笑顔の彼女が座っていたのだ。
「あれ? いつの間に...。」
「お姉さん。私はね。どこにでも居て、どこにも居ないの。」
「んん? それはつまり...どう言うことだ? それに君は今どうやって私の横に。」
波のように押し寄せる疑問に溺れそうになりながらも手を伸ばすパターソンをスルリと躱して、彼女はベンチから立ち上がった。
「そうだ。お姉さん名前はなんて言うの? 」
「ああ。レインだ。レイン・パターソンだ。」
独特なオーラとマイペースさに知らず知らずのうちに誘引されてしまっていたパターソンは素直に自己紹介を始めてしまっていた。
「じゃあ。パタ姉で決まりね。私は
首を傾げながら微笑む環のネコ耳が、まるで本物のネコの耳のようにピクピクと周りの音に反応を示していた。
「よ、よろしく。ところで、環君のその耳は...。」
「ん? 耳だよ? 触る? 」
そう言うと環はパターソンの方にお辞儀をするように頭を下げて両耳を差し出した。
少し戸惑いながらもパターソンは恐る恐る手を伸ばして彼女の耳を触ってみる。
「うわっ!? 」
驚きの余りパターソンは悲鳴にも似たような声をあげてしまった。
その耳の感触は正しく動物のそれと同じだったのだ。
フサフサとした感触に思わずパターソンは何往復か撫でるように触っていた。
「うふふ。くすぐったいよ。」
小さな肩をぶるっと震わせてから環が頭を上げた。
「ああ。ごめん。余りにも触り心地が良かったので夢中で触ってしまった...って、それ本物の耳なのか!? 」
「当たり前じゃん。でも、もうパタ姉には触らせてあげられないかも。」
「えっ? どうしてだ? 」
環は相変わらずニコニコと目を細めながら笑っている。
「もしかしたら、次にパタ姉と会う時は敵同士かもしれないから。」
その言葉は環の容姿や表情とは、かけ離れている言葉だった。
「敵? それはどう言う...って。あれ? 」
パターソンが一度だけ瞬きをして、次に瞼を上げた時には環の姿はなかった。
ほんの一秒前。いや、もうしかしたら一秒未満だったかもしれない。
左を見ても右を見ても、前にも後ろにだって環の姿は見当たらなかった。
昼下がりの平和な公園の一角で白昼夢に魅入られていたのではと思うパターソンだったが、自身のその手にはナンが握られており、辺りには焦げたバターの残り香も漂っている。
夢や幻ではない。間違いなく彼女はここに居た。
パターソンには何もかもが分からないままだ。
でも、ただ一つ確かなことがあった。
それは文野環がここに存在していたという事実だけだった。
狭く、暗い裏路地で椎名唯華が肩で息をしながらビルの外壁に寄りかかっていた。
「ほんまに...あたしを...巻き込まんといてぇな...。」
壁にもたれながらビルとビルの合間から見える歪な形をした空を見上げた。
「みーつけた! 」
暗い路地の奥から女性の声が聞こえてくる。
「何でや...あたしはちゃんと『
奥からゆっくりと椎名に近付いてきたのはニコニコと微笑む環だった。
「それはね。私がどこにも居ないからだよ。でもね。」
楽しそうに話す環の左右別々に動いていたネコ耳がピンとまっすぐ立ちながら椎名の方に向いた。
「だから、どこにでも居るんだよ。」
「はぁー...だっる。」
微笑みながらじりじりと距離を詰める環を見た椎名はそう一言呟くと、踵を返して残り僅かな体力を振り絞りながら全力で走り出した。
その背中を見つめる環は走って追いかけることもなく、焦ることもなく首を傾げた。
「あれ? もしかして、椎名ちゃんは犬派なのかな? 」
裏路地を抜けて大通りに出た椎名が後ろを振り向いた時には、そこには既に誰も居なかった。
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変態百出(前編)
公安五課のオフィスに五人以外の警察官の姿があるのは本当に珍しいことだった。
オリバーが応接用ソファに座っている珍客の前にコーヒー入りの紙コップを置く。
「ああ。悪いね。」
「いえいえ。それより『
オリバーの前でコーヒーを啜っている男。警視庁捜査二課長の
警視庁捜査二課の課長と言えば『警視総監への登竜門』とも呼ばれている役職だ。
オリバーとは肩書こそ同じであれど厄介モノ処理班の課長のオリバーとでは目には見えぬ大きな格差が存在しているのが現実なのだった。
「いやー。久し振りに君の顔を見たくなってね...と言う訳ではなく、仕事のことでね。」
そう言いながら社はグレーの紙ファイルをオリバーに向かい差し出した。
「その中にはとある特殊詐欺事件の資料が入っているんだが、その事件を君たちに託したいんだ。」
「特殊詐欺? そんな事件だったら、正に君らの十八番中の十八番なんじゃないんですか? 」
オリバーは受け取ったファイルを開いてみると事細かに情報が記載されており、とても捜査が行き詰っているようにも思えなかった。
「まあね。事件自体は有り触れた霊感商法で死んだ人間でも生きてる人間でも憑依させることが出来るって言う手口で金を集めてるんだが、実際に捜査していた捜査員が言うにはそれが『本物』らしいんだよ。」
「『本物』? 」
怪しげな言葉に反応して顔を上げたオリバーは、至って真面目な顔でこちらを見つめている社と目が合った。
「ああ。本当に死んだ人間でも何でも呼び出せるらしい。そこで実際に体験した捜査員が何を言われたかは知らないが、余程ショックだっようでそいつは自分で退職願を出して辞めちまったんだ。」
「そこまで精神的なダメージを受けるなんて...その捜査員は何を見たんだ? 」
背筋をしっかりと伸ばして姿勢良く座っていた社だったが、ソファの背もたれに体を預けるような態勢に座り直すと大きな溜息を吐き出した。
「さぁーねー。最後まで喋らなかったよ。俺はありのままを上層部へ報告した。その結果、この事件は二課から公安第五課へと引き継がれることになって、俺が『こんなところ』まで足を運ぶことになったって訳さ。」
「そう言う事でしたか...。」
社は「さて」と呟いてから、僅かに残っていたコーヒーを飲み干すと徐に立ち上がった。
「生憎と俺も忙しい身でね。そろそろ失礼するよ。」
「忙しいと言うとは良いことです。こちらは任せてください。辞めてしまったという君の部下の為にも頑張らせてもらいますよ。」
「ああ。よろしく頼む。」
そう言い残してオフィスを去る社を見送り。自分のデスクに戻ると社から受け取った資料を今一度確認してみた。
『容疑者は自称巫女を名乗っており、彼女は口寄せを用いてあらゆる人物を自身に憑依させられるという。その口寄せ料金は多額であるが、実際に目にした人物は彼女の力を妄信するようになる。』
『容疑者:
資料に目を通していたオリバーはその中に貼られていた容疑者らしき人物の写真に目を留めた。
それは隠し撮りされたと思われる写真で、写っていたのはピンクの腰ほどまで伸びた長い髪を靡かせ、大きめな建物に入ろうとしている青い瞳の少女の姿だった。
「貴女も
珍しい来客が帰ってしまいオフィス内は元の静けさを取り戻していた。
公安第五課のオフィス内は良いか悪いかは一旦置いておいて、五人の人間しか居ない割には賑やかな空間だった。
しかし、今日は非常に静かな空間となっていた。
なぜなら、ローレンが検査のため病院へ行っており、ヴィンセントは研修の為に大阪へ出張中で不在。
アクシアもローレンの事件の捜査で不在だったために、オフィス内にはオリバーとパターソンの二人だけしか残って居なかったのだ。
そんな中でパターソンはパソコンを使って、配信者死亡事件を調べていた。
ここを初めて訪れた際にオリバーが教えてくれた事件だ。
事件で亡くなったのは
とは言っても、パターソンが調べる限りでは彼の評判は最悪なものだった。
彼が配信で使っていた内容は他の配信者の黒い噂だったり、裏の顔を暴露したりして再生数を稼ぐ過激なスタイルのようだ。
「これは...酷いな。」
モニターを食い入るように見つめながら鳥神の情報を集めていたパターソンからも思わず声が漏れた。
鳥神が取り上げる内容は事実と異なる出鱈目な情報が多く、対象の相手や企業から訴えられることも珍しくなかったみたいで、彼の悪評はSNSや掲示板を少し除けば簡単に見つけることが出来るほど視聴者からも嫌われていたのだが不思議と彼を崇拝する視聴者も一定数存在していることも同時に確認出来た。
「何時、誰に刺されてもおかしくないってことか。」
問題の日。
彼は事件前日に『物凄い情報が手に入った』とSNSなどで大々的に告知をしていたことが資料にも記載されていた。
しかし、それより先の肝心の当日の配信動画はネット上でも軒並み削除をされており、幾ら探しても見つけることが出来なかったのだ。
おまけに警察の事件資料にも残されていない。
「誰かが...隠そうとしている? 」
「何を...ですか? 」
「うわぁ! 」
背後からの声にパターソンは思わず椅子から飛び上がると狼狽えながら後ろへ振り返った。
「び、びっくりするじゃないか! オリバーさん! 」
そこに立っていたのは怪しげな微笑みを浮かべているオリバーであった。
「これは失礼しました。実はパターソン君に仕事をお願いしたくてですね。」
「えっ? でも、ヴィンセントさんは出張中だぞ? 私一人でってことか? 」
「安心して下さい。一人じゃありませんよ。」
「じゃあ誰...って、まさか。」
パターソンが次の言葉を発するより前にオリバーが右手を差し出した。
「よろしくお願いしますね。パターソン君。」
助手席のオリバーのナビを頼りに車を走らせていたパターソンはとある建物に前に到着していた。
目の前に現れたのは大きな木製の棟門と白い塀に囲まれた二階建ての和風建築の建物だったのだが、どこからどう見ても金持ちか堅気でない方の屋敷にしか見えない。
「オリバーさん。ここが例のインチキ霊能力者の家なのか? 凄い豪邸だな。」
パターソンは隣に座るオリバーと屋敷を親と一緒にテーマパーク前に立つ子供のように交互に見遣っていた。
「羨まし限りです。随分と儲かるみたいですね。『霊能力者』と言う仕事は。」
「儲かっているのは『霊能力者』じゃなくて『詐欺』なんじゃなかったのか? 」
「おっと...そうでした。では、早速参りましょうか。」
今回はオリバーが周央側に対して、詐欺事件に関しての任意での事情聴取をする旨を事前に連絡しており、今日の日付と時間を指定されたのだった。
立派な棟門の脇には『周央』と黒の行書体で書かれている表札に門と表札の雰囲気とはあまり似つかわしくない最新型のカメラ付きインターホンが備え付けられていて、門の前に到着したオリバーがインターホンを鳴らすと直ぐに反応が返ってきた。
『はい。』
「わたくしは先日連絡した警視庁公安第五課のオリバーと申します。本日は周央サンゴさんからお話をお伺いできると言うことでしたので参りました。」
そう言いながらオリバーはインターホンに付属されているカメラに向かって警察手帳を提示していた。
『かしこまりました。そちらでお待ち下さい。』
そこでインターホンは切れてしまったが、直ぐに観音開きの重々しい門扉の左側が解放され、開かれた扉の奥から白装束姿の若い女性が姿を見せた。
「お待たせいたしました。どうぞこちらへ。」
二人の前に現れた女性は周央サンゴではなかった。社から受け取った資料には数名の関係者の写真が載っていたのだが、その誰にも該当しない人物なのだった。
「失礼ですが、貴女は? 」
透かさずオリバーが尋ねると、女性は二人に向かいゆっくりと一礼をしてから答えた。
「わたくしはサンゴ様の下で修行をしている者です。」
「しゅ、修行? 」
「はい。霊能力の修行です。」
さも当然の事のように語る彼女に対して、パターソンはそれ以上に話を広げることを諦めた。
白装束の女性に連れられて邸内に入った二人が小さな池も見えるような日本庭園の間を抜ける石畳の上を進んで行くと本宅の玄関が見えてくる。
その玄関の引き違い戸の前には別の人物が立っていたのだが、その顔に二人は見覚えがあったのだ。
穏やかで柔らかな表情と金色の腰まで伸びた長い髪。服装は黒髪の女性と同じ白装束だ。
「あれは確か...。」
「
パターソンが思い出そうとしているとオリバーが先に答えを出した。
『東堂コハク』。社が持ってきた資料の中にも写真付きで載せられていた人物の一人で周央サンゴの側近で彼女の秘書のような立場の人間と書かれていたはずだ。
「ここからは私がご案内致します。どうぞこちらへ。」
東堂は二人に深々と頭を下げてから玄関の戸を開けた。
パターソンたちが案内されたのは十畳ほどの和室だった。
四角い座布団だけが置かれている殺風景な和室で二人は東堂に言われるがままに並んで座っていた。
「東堂さん。周央さんとは直接お会いできるんでしょうか。」
東堂は入り口の襖を閉めてから二人の正面に置かれていた座布団へと腰を下ろした。
「えー...オリバーさんですよね。勿論サンゴ様はこちらにお越し頂くことになっていますが、お二人に先にお尋ねしたいことが御座います。今回サンゴ様に会いたいと言う理由はサンゴ様のお力がインチキで我々が詐欺紛いの行為をしているとお考えなのでしょうか? 」
「えっ? 」
東堂の余りにも真っすぐな質問と視線にパターソンは少し驚いてしまっていたのだが、一方でオリバーは動揺する様子もなく東堂に負けじと真っすぐに彼女を見つめていた。
「はい。そうです。私たちは周央サンゴさんが霊感商法を用いた特殊詐欺を働いていると考えています。」
オリバーの言葉を聞いた東堂は大きな目を細めて微笑んだ。
「オリバーさんはとても聡明なお方のようで安心しました。サンゴ様のお力を言葉でご説明するよりご覧頂いた方が早いと思いますので、お二人には特別にサンゴ様のお力をご覧頂こうと思っています。」
「と言うと、私たちの前で見せてくれるのか。あの、その...く...く、くちなし? 」
「
「そう! 口寄せだ! 」
オリバーの助けを借りて、喉につっかえていたものが取れてスッキリした様子のパターソンは嬉しそうに東堂へ尋ねた。
「ええ。実際にご覧頂ければ、サンゴ様のお力が詐欺などではないとご理解頂けると思いますので。」
東堂は相変わらず柔らかな笑顔を浮かべていたのだが、オリバーにはその柔らかさが絶対の自信からくる余裕にも見えていた。
防水加工が施されたグレーの床と頭上に広がる青い空。
正面に立つ真っ黒い人物。
頭の中に響く声。
それは女の声。
この声は...。
聞き覚えがある。
しかも...。
つい最近の記憶。
彼女は直ぐ傍で
この声は...。
「ローレンさーん? 大丈夫ですか? 」
ローレンがハッとして目を開けると、そこは病院の待合室だった。
目の前にはローレンの肩に手を置いている健屋が心配そうな顔で立っている。
「ああ。先生。すいません。」
「眠っちゃってたみたいですね。随分とお疲れなようなので、さっさと診察終わらせちゃいましょうか。」
健屋はポンポンとローレンの肩を軽く叩くと診察室の中へと姿を消したのだった。
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変態百出(中編)
東堂は一枚の紙とボールペンを二人の前に置いた。
「お手数をお掛け致しますが、この紙に口寄せして欲しい人の個人情報を記載してください。その方はご存命の方でも、既に亡くなってしまっている方のどちらでも構いません。ただし、本当に実在する人物でなければ口寄せは成立しませんのでご注意下さい。」
パターソンが畳の上に置かれたA4サイズの紙を手に取ってみると、そこには『氏名』、『性別』、『年齢』、『関係性』、『関連エピソード』、『聞きたい事』と項目ごとに記載するスペースが設けられている。
「まるでアンケート用紙だな。」
「本当ですね。折角なのでパターソン君が思い浮かんだ人を書いてみて下さい。」
「ええ!? 私がか? 」
「はい。」と笑顔で答えるオリバーであったが、パターソンにはその笑顔からは何時もの優しさではなく、サディスティックな一面が垣間見えている気がしてならなかった。
パターソンが突然の無茶振りで、まず頭に浮かんだ人物は『あの人』だ。
彼女が護れなかった『
彼は何故死んでしまったのか。
自分に何を伝えたかったのか。
彼の最期の顔が脳裏に甦ると同時に右の掌がズキンと痛む。
ここで全てが分かるかもしれない。
パターソンはペンを取ると、『氏名』の項目にそのペン先を置いた。
「『レオス・ヴィンセント』さん。でよろしいですか? 」
パターソンから紙を受け取った東堂が記入漏れやミスが無いかを確認しているところだった。
「はい...大丈夫です。」
『大丈夫』と言うその言葉とは裏腹にパターソンの声からは明らかに覇気が失われていた。
結局パターソンには彼の名前を書けなかった。
年齢などの詳しいプロフィールを知らないと言う最もらしい言い訳はあるにはあるのだが、どうしてもペンが、右手が彼の名前を書くことを拒絶しているように感じたからだ。
「彼はまだ生きている人間なのですが、それでも大丈夫なんですか? 」
「ええ。問題ありませんよ。オリバーさん。では、サンゴ様をお呼び致しますので、こちらでもう少々お待ちください。」
そう言って東堂はパターソンが記入した紙を持って、入ってきた時とは別の二人の正面にある襖の奥へと姿を消してしまった。
「何で...レオス君の名前を書いたんですか? 」
「...パッと頭に浮かんで来たからか...な? 」
そうは答えてみたものの本心は違う。
オリバーは自分の過去の事件を知っているから隠すようなこともないのかもしれないけれど、先程のペン先と同じ様にパターソンの口から彼の名前が出てこなかったのだ。
「僕は
「はぁ!? な、何を誤解してるんだ! 」
本来の勢いを取り戻した大きな声で慌てて否定するパターソンの頬は本心とは裏腹に紅潮してしまっていた。
それを見て微笑むオリバーから今度はハッキリとサディスティックなオーラを感じたパターソンなのだった。
そんなことがあってから五分ほどが経った時、東堂が入って行った襖が前触れもなく開かれた。
その先は二人が座っている和室と同じような十畳の部屋になっていて、襖の傍には東堂が立っている。
そして、部屋の奥には壁を覆い隠すように赤い布が天井から垂れ下がっており、その前には珊瑚の刺繍が施された淡い青の着物を身に纏った少女が座っていた。
ピンク色の長い髪が特徴的な少女はしっかりと正座をしたままでパターソンたちをじっと見つめていた。
「あれは...周央サンゴだな。」
パターソンが前を向いたままで隣に座るオリバーに囁くと、オリバーも周央から視線を外すことなく小さな声で「ええ。」と一言だけ返した。
「初めまして。私はこの珊瑚亭の主であり、迷える方々を導く巫女の周央サンゴと申します。」
可愛らしい見た目には反した丁寧な挨拶を済ませると、周央はパターソンらに向かい座ったまま頭を下げた。
「私は警視庁公安第五課のオリバー・エバンスです。こちらはレイン・パターソンです。本日は貴重なお時間を頂きまして感謝申し上げます。」
それに応えたオリバーも自己紹介を済ませるとゆっくりと頭を下げて見せ、隣のパターソンも慌ててオリバーに合わせるように頭を下げた。
「本日は私の力について何かお聞きになりたいということでしたね。」
「ええ。周央さんの『力』について詐欺なのではないかと嫌疑がかかりましてね。」
東堂の時と同じ様に臆することなく、本人を目の前にして尚もオリバーは直球勝負を仕掛けていった。
「それは誠に残念なことですね。私は迷い、悩み、苦しんでいる方に手を差し伸べているだけなのですが...。」
「確かに。周央さんに救われた人が居るのは事実かもしれません。だが、それと引き換えに多額の報酬を受け取っていると言うのもまた事実。」
「『報酬』と言う呼び方が正しいのかは分かりませんが、わたくし共は『謝礼』と言う形で受け取る場合はありますが、私が幾ら払えだの、力を見せる前に支払えだのと申し上げた覚えはありません。皆様が私の力を見て、納得した上でのことです。何も問題無いとは思うのですが? 」
オリバーの速球も目を見張るものがあったのだが、それ以上にずっしりと構えて真正面からそれを受け止める周央もまた負けてはいなかった。
「まあ。オリバーさんのように私の力に懐疑的な方々は少なくありません。コハクからも説明があったとは思いますが、私の力を実際にご覧頂くことが何よりの説得材料になるはずですので、本日は特別に私の力をご覧頂こうと思います。」
そう言うと周央は立ち上がり、着物の衿合わせから一枚の紙を取り出してみせた。
それはパターソンが記入した例のアンケート用紙だ。
「今からこの『レオス・ヴィンセント』さんを私自身に憑依させてみせましょう。」
周央は紙を足元に置くと、そのまま背後の赤い布の裏へと消えてしまった。良く見てみれば、壁を覆っていた赤い布は左右二枚に分かれてい、周央が座っていた辺りである丁度真ん中で折り合うような形になっていたのだ。
二人の前から周央が姿を消してから僅か十数秒後、再び赤い布が揺らめいたと思った直後に誰かがそこから出てきた。
「えっ? 」
突然の出来事にパターソンはそれ以上の言葉を発することが出来なかった。
「これは...。」
常に沈着冷静だったオリバーさえも驚いた様子で固まってしまっていた。
周央が消えたはずの布の後ろから二人の前に現れた人物。
それは紛れも無くレオス・ヴィンセントなのだった。
「どうしたんです? 二人とも? 」
不思議そうな顔でレオスが話しかけて来たのだが、驚くべきことにその声もレオス・ヴィンセントそのものなのだ。
「ど、ど、どうもこうもない! 君は誰なんだ? 」
「レイン君。私がレオス・ヴィンセント以外の何者に見えるって言うのですか? 」
ありえない事だとは分かっている。分かってはいるのだがパターソンの思考は現実に追い付けずにいた。
「そう言えば、今日は私に何か聞きたいことがあるんですか? 」
『言葉を失う』と言う表現があるが、今のパターソンの状態がそうなのだろう。
口を半開きにし、目の前に立つ男を凝視ししたままで固まってしまっていた。
「レイン君。大丈夫ですか? 」
「えっ? あ...ああ。すまない。オリバーさん。これは一体。」
オリバーの声で我に返れたパターソンだったが、頭の中は未だに混沌としたままだった。
「よろしければ、ここから先のやり取りを私に任せてもらっても良いですかね? 」
「その方が良いかも知れない...すまない。」
「大丈夫ですよ。レイン君は彼の一挙手一投足を見逃さぬように注視して下さい。」
「分かった。」
パターソンとオリバーはお互いのするべき事を確認し合うと、視線を目の前の見慣れた見知らぬ男へと戻すのだった。
「レオス君。聞きたい事は職場についてなんだ。君は今の職場について、実際はどのように思っていますか? 」
「おや。オリバー君の方でしたか。職場に関しては...そうですねー。可もなく不可もなくと言ったところですかね。私は警察としての仕事も興味深くはありますが、やはり私は科学を探求したいのです。科学の力で世界中のあらゆる疑問を解き明かして行きたいのです! 」
駅前で自身の存在価値を一生懸命に演説する政治家のように自信に満ち溢れる態度と言葉は、オリバーたちが課内で良く見掛ける彼の姿ではあった。
「申し訳ございません。そろそろお時間になります。」
直立不動で様子を伺っていた東堂が久し振りに口を開いた。
「おっと。それではこの辺りで失礼しますね。諸君、ではお疲れさま。」
オリバーが彼を制止しようと動き出す前にレオスは、再び赤い布の後ろへと姿を消してしまった。
そして、登場と同じように姿が見えなくなって十数秒経って、そこから出てきたのは青い着物を着た周央サンゴなのだった。
「皆様。これで私の力を信じて頂けましたでしょうか? 」
声も元の彼女の声へとしっかりと戻っている。
「もし差し支えなければ、その赤い布の裏側を拝見出来ますか? 」
「ええ。構いませんよ。」
そう言うと周央は赤い布を捲り上げてみせた。
そこは人一人が入れるほどのスペースしかなく、壁には窓や扉のような物も見当たらない。
このスペースだけど使って、人が入れ替わったりするような事は出来そうにもなかった。
「どうです? 次は私の着物でも脱がしますか? 」
勝ち誇った様子でニッコリと微笑む周央だったのだが、目の前の二人。特にオリバーには全く動揺しているような事もなく、周央の顔を真っすぐに見つめていた。
そして、隣に座るパターソンの口からも意外な一言が発せられたのだった。
「
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変態百出(後編)
パターソンの言葉が十畳の和室内に一瞬の静寂をもたらしていた。
「レイン君。どこが違ったんでしょうか? 」
その中で口火を切って話し始めたのはオリバーであった。
「さっきの奴は『科学の力で世界中のあらゆる疑問を解き明かして行きたい』と言っていたが、ヴィンセントさんは科学とは『なぜ起きたのか』ではなく、『どのようにして起きたのか』を探求するものだと私に教えてくれた。そんな彼が『あらゆる』なんて言葉を選ぶはずがないと思う。」
「流石彼の相棒ですね。何だか私も嬉しいですよ。周央さん。私も貴女が巫女でもなければ、口寄せも出来ない人間なんじゃないかなと考えているんです。」
そう言いながらオリバーは周央サンゴを見つめニヤリと笑った。
「な、何を仰ってるんですか。お二方も目の前でご覧になったじゃないですか。」
周央はじっと正座をして口を真一文字にしたままだったが、その代わりに東堂がやや取り乱したように口を開いていた。
「我が国における口寄せの能力を持ち合わせた巫女と言うものは東北地方を中心に実際に存在しています。青森県恐山のイタコと呼ばれる方々が有名です。そのイタコが行う口寄せとは自身に霊を憑依させるもので、呼び出した人間との会話などは基本的に出来ないようになっていると言われています。憑依したイタコが相手に向かって一方的に話すだけです。勿論容姿も変化はしません。」
「それがどうしたって言うんですか。」
完全に表情が豹変してしまった東堂がオリバーを鋭い目つきで睨みつけるもオリバーは相手にする気配もなく周央に対して言葉を続ける。
「私は貴女に才能が無いとは思ってはいません。貴女の才能。それはずば抜けた演技力です。」
「あの短時間で役になりきったって言うのか...いや、待ってくれオリバーさん。容姿は無理だろ? 何なら背も伸びてたぞ。」
パターソンの言うように周央サンゴの身長は百四十センチ後半ぐらいだが、ヴィンセントは百八十センチ。
その差約三十センチ。例え高いヒールやシークレットブーツを履いても届かぬ差であろう。
「私は『
「へ、変態!? ってこんな少女を捕まえて、あんまりじゃないのか。確かに変態的な演技力ではあるとは思うが。」
「レイン君。変態は『形や形状を変える』と言う意味の変態のことです。私が考えるに周央サンゴは『自身の身体を自由自在に変形させる』ことが出来ると考えています。」
「...フフフ。」
緊張感が高まっていく十畳の空間内に異質な笑い声が響いた。
その声は周央サンゴのものだった。
今まで一切の反論をせずに黙ってオリバーたちの会話を聞いていた周央が突然笑い出したのだ。
「サンゴ様...? 」
側近の東堂さえも意外な出来事に戸惑っているようだった。
「オリバーさん。貴方...ご存知のようですね。
「ええ。だから、私はここにいるんでしょうね。」
パターソンと東堂には二人が何について話しているのか全く分からなかったが、オリバーと周央の間には一時的な信頼関係のようなものが出来ているようにも見えていた。
「全く...普通の警官なら造作も無かったのになー。オリバーさんの仰る通りでンゴは変態が出来ます。ンゴは演技が大好きなんです。もっと演技が上手くなりたい。もっと役に没入してみたい。そう思っている内に気が付いたら、この能力を手に入れていました。この能力とンゴの演技力があれば何にでもなれる。」
周央は誰に話し掛ける訳でもなく、膝の上に置いた自身の手を見つめ喋り続けた。
「試しにイタコの真似事をし始めてみたら相手は涙を流しながら喜んでくれました。そして、謝礼として大金が手に入ったんです。それからはンゴの存在が口コミで広まっていき、色々な人脈がどんどん出来てきました。その中から警察やお役所の偉い方々の力を借りて様々な個人情報を閲覧できる権限も貰いました。今ではそれを使ってコハクに依頼者の情報を集めさせることで、ンゴの巫女としての精度と信頼は上がっていったんです。ンゴは...ンゴは何にでもなれる。やっと...やっと掴んだこの力。ここで諦める訳にはいかないのです。」
小さく、力強く呟き顔を上げた周央はオリバー、パターソン、東堂が見つめる前で目を瞑り、何かに祈るように手を組んだ。
すると、周央の身体が徐々に歪んでいく。水面に映る影のようにユラユラと揺らめきながらその形を変えていく。
自身の頭がおかしくなってしまったかのような錯覚に恐怖を覚えながらもパターソンは後ろに居る二人を守ろうと自然と身構えた。
「さ...んご...。」
「東堂さん!? 」
東堂も周央の真の姿を初めて見たのであろう。その恐怖に抗うことが出来ずにパターソンたちの後ろで畳の上に倒れこんでしまった。
オリバーが直ぐに彼女の元に駆け寄り、倒れこむ彼女を抱きかかえた。
どうやら気を失ってしまっているだけのようだ。
ふっとオリバーが周央へと視線を戻すと、そこには変態を完了させた周央の姿があった。
「まさか...。」
オリバーは大きく目を見開き、珍しく動揺していた。
周央は
「な...なんで。」
目の前の信じられない光景にパターソンはその一言を絞り出すのが精一杯だった。
粘土の様に体の一部を伸ばしたり、縮ませたり、歪に形を変えながら周央は最終的に若い男へとその姿を変えていた。
端正な顔立ちに金色の長髪を後ろで束ねた背の高い見覚えのある男性。
そう。それはパターソンがどんなに忘れようとしても忘れられない人物。
彼女が護れなかった男。その人物なのだった。
「あ...あ。」
上手く声が出せない。
強く握り締め過ぎた右手の掌に爪が食い込んで出血しそうになっている。
強張った両肩も微かに震え始めた。
男は不気味な笑みを浮かべながら、ゆっくりとパターソンへと近付いてきていた。
『私は彼の事を書いていない。何故、周央が彼の事を知っているんだ。』
パターソンは口には出せない言葉を心の中で叫んでいた。
どうして知っているの。
何を伝えたかったの。
護れなくてごめんなさい。
雪崩のようにパターソンの心に流れ込む感情は彼女を飲み込んでいく。
身動きが取れないパターソンの目前で男は立ち止まり、パターソンの右肩に優しく掴んだ。
「後悔...していますか? 」
声も同じだ。
パターソンの目から涙が零れる。
何故涙が流れたのは分からない。生理現象の如く、何の感情も抱かぬ内に涙は流れ落ちていた。
そして、畳に零れる涙を追いかける様にパターソンは膝から崩れ落ちてしまった。
「レイン君! 」
目の前で畳に崩れ落ちた彼女を見ていたオリバーが叫んだ。
オリバーも概ねパターソンと同じ様な疑問を抱いていた。
『周央は何故彼の事を知っているんだ』
しかし、今はそれよりもパターソンの万が一に備えなくてはいけない。
「しっかりするんだレイン君。彼は...
パターソンの元へ走ろうと東堂を畳の上に優しく寝かせると、それを見ていた周央は崩れ落ちたパターソンの横を全力で走り抜けた。
「くっ...待て! 」
急いで伸ばしたオリバーの手は周央の体を僅かに掠めたのだが、一歩届かずに彼女は襖を抜けてオリバーの視界から姿を消してしまった。
部屋に残すことになる二人も気になったが、オリバーは彼女の後を追うべく急いで部屋を飛び出した。
「きゃっ! 」
勢い良く部屋を飛び出したオリバーは誰かと出合い頭にぶつかってしまった。
「っと...貴女は。」
オリバーとぶつかって廊下に尻もちをついていたのは屋敷の入口で案内役として現れた黒髪の若い女性だった。
「も、申し訳ございません! 見知らぬ男性が飛び出してきたので怖くて動けなくって...。」
「その男はどっちに行きました! 」
黒髪の女性は慌てふためきながらも「あちらです」と玄関を指差していた。
「本当にすいませんが、後程事情は説明します! 」
そう言い残すとオリバーは再び走り出すと閉まっていた引き違い戸を開けて棟門へと続く石畳を駆け抜けて行く。
如何なるモノに変態しようとも本人の体力は変わらないはずだ。
走って逃げているなら追い付けるはず。
オリバーは石畳の上で急ブレーキを掛けて今し方飛び出した玄関を見つめた。
「はぁ...私としたことが...。」
額に手を当てて自己嫌悪に陥るオリバーが見ていたのは、開けっ放しになった玄関と誰も見当たらない廊下だった。
一刻を争うように逃亡した人間が玄関の戸を律儀に閉めるだろうか。
実際にオリバーは開けっ放しにしている。
そこまで辿り着けば自ずと直ぐに答えが出てきた。
そう。廊下でぶつかった彼女が周央サンゴの変態した姿だったのだ。彼女は廊下に出ると直ぐに黒髪の女性へと再度変態したのだろう。
こうなってしまえば、オリバーには白旗を掲げることしか出来ないのであった。
男の言葉を聞いてからパターソンの記憶は曖昧で、それが鮮明になったのは病院のベッドの上だった。
そこはローレンが運ばれた病院と同じ場所で担当の医師も同じ健屋という女医だ。
「気分はどうですか? 」
カルテに何かを書き込みながら健屋が話し掛けて来る。
「あ...はい。多分...いや。問題ないです。」
「うーん。そうね。今回は私の担当外かもしれないわね。私も専門外だからハッキリとは言えないのだけど、貴女の問題はどうやら心にあるようね。」
「...先生。死んだ人は生き返りませんよね。」
突拍子しもないことを呟き出したパターソンに健屋は面を食らって目を丸くしていたのだが、微かに震えるパターソンを見かねて優しく微笑みながらパターソンの肩を軽く叩いた。
「大丈夫よ。一度死んでしまった人間は戻ってこないの。医者の私が保証するわよ。」
ポンポンとパターソンの肩を二回叩くと、彼女はそのまま病室を後にしたのであった。
「そうだよね。そう...。」
健屋の励ましで気分が楽になってきたパターソンの頭の中で和室での出来事が少しずつフラッシュバックしていく。
粘土のように変形していく周央...彼女が変身した男の姿...そして、オリバーの声...。
「あれ? 」
そこで、あの時は気が付けなかった『ある疑問』にパターソンは直面してしまう。
「
周央は偽りの口寄せで集めた現金を銀行へは預けずに自身で保管していた。
その現金が何処にあるのかは、ごく一部の人間にしか知らされていなかった。
珊瑚亭から少し離れた場所にある二階建の木造アパートの二階の角部屋。
『203
ここが現金の隠し場所なのだった。
日も暮れてすっかり暗くなった中でボロボロに錆びた外階段をカツカツと自己主張の激しい音を鳴らしながら一人の女が上がっていく。
ピンク色の髪をツインテールにしてオーバル型のサングラスを掛けた若い女性は二階に上がると203号室の前で立ち止まった。
女は鍵を開けて部屋に入ると、カーテンも閉まっている薄暗い室内で肩から掛けていたブランド物のハンドポーチからスマホを取り出した。
取り出したスマホのライトを使い、部屋の右奥にあった押入れへと向かい静かに襖を開けた。
「皆様ー。迎えに来ましたよ。」
上下二段に分かれている押入れの中にはビッシリと札束が詰め込められている。宛ら金の壁と言ったところだろうか。
金の壁を前にして女の体がユラユラと揺らめきながら、周央サンゴの姿へと戻っていった。
周央は愛しい恋人に触れるように、その壁を優しく何度か撫でている。
「本当に
誰も居るはずのない狭く、暗い部屋の中。
周央は自身の背後で何かが激しく光ったのを感じた。
それは小さな花火のような、電気がショートしたような閃光だった。
「あれ? 」
目の前の金の壁にさっきまでは無かった染みが出来ている。
赤黒く、何かが飛沫したような染み。
そして、周央は自身の腹部の辺りが徐々に熱くなっていくのを感じた。
「何ですか? これは? 」
左手で腹部を抑えてみると、左手は真っ赤に染まっていた。
その時、誰も居ないはずの背後から声が聞こえてくる。
「残念だが...ここで終演なんだよ。」
自分の側近しか知らないはずの隠れ家で周央が消えゆく意識の中、最後に見たのは見知らぬ
『Bar Deras』のカウンター席には何時ものようにオリバーが座っていたのだが、今日は珍しく隣の席にも誰かが座っていた。
「取り敢えず、お疲れさん。」
ロックグラスをオリバーに向けて傾けていたのは社だった。
「お疲れ様です。」
オリバーもそれに応えるように自身のロックグラスを差し出されたグラスへ軽く当てた。
「死体が見つかったのは『ハイツセレイネ』って言うボロアパートの二階。大家の話では『遠北』と名乗る人物が借りていたらしい。周央は失血死。胸部に銃創があって、右手には拳銃を握っていたことから自殺ってことになったよ。」
「拳銃自殺で胸部を撃ちますかね? 」
「さぁなぁ。拳銃自殺なんてしたことも、しようとも思ったこともないから分らないな。」
社は薄ら笑いを浮かべながらグラスを口へと運んでいた。
「一般的な話をしてるんです。部屋には大量の現金もあったらしいですね。」
「ああ。たんまりな。まぁ...この事件の幕はこれで降りちまった。アンコールもなければ、次回公演もないんだ。」
そう言うと社はカウンターに一万円札を一枚置いて立ち上がった。
「じゃあ。ありがとうな。釣りは取っといてくれ。」
出口へと向かう社に大柄なマスターがカウンターの中から「まいど。いつもありがとな。」と挨拶を送っていた。
「社さん。それは違いますよ。これは
一人になった店内で今度はオリバーが薄ら笑いを浮かべながらグラスを持ち上げると、グラスの中で気持ち良さそうに漂っていた丸氷がカランと音を立てる。
その丸氷はスコッチに溶け込み歪な形に変形してしまっていた。
病院から戻ったパターソンは公安第五課のオフィスに来ていた。
勤務時間をとっくに終えたオフィス内には誰も居らず静かなものだった。
パターソンは自身のデスクに座ると事件資料を閉まっていた引き出しを開けると、オリバーから受け取ったボディガード時代の事件資料を取り出した。
「やっぱりだ...。」
デスクの上に資料を広げて目的の情報を見つけ出すことが出来た。
『被害者の氏名不詳。持ち物にも身分を証明するような物なし。』
そうなのだ。
パターソンの記憶の中では彼は自身のことを『
「あの時...課長は確かに『ハジメ君』って...。」
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点睛開眼(前編)
緊張した面持ちのオリバーと対照的に興味津々な様子で目の前に座る女性を見つめるパターソンが応接用のソファに並んで座っているのだが、二人の前には明るい青緑色の長い髪をポニーテールに纏め、パンツスタイルのレディーススーツを身にまとった女性がジッと二人を見つめていた。
「私みたいな美人を目の前にして、なんちゅう顔してんねんな。」
「あー...いやー...はい。光栄です。樋口捜査一課長殿」
男社会の代名詞とも呼べる警察内で女性初の捜査一課長課長になった人物。
就任の際は彼女の容姿と若さも相まって、全国ニュースや新聞、雑誌など各報道機関でも取り上げられた有名人なのだ。
楓はたたき上げでここまで上り詰めただけあって、捜査能力、身体能力もピカイチなのだが何と言って凶悪犯罪者や同僚の男性警官にも負けず劣らずの勝ち気な性格と彼女の放つオーラが最大の持ち味なのであった。
噂のオーラを全開にしながら身を乗り出した楓は真顔でグッとオリバーへと顔を寄せていった。
「せやろ? 」
「...はい。全くでございます。」
オリバーの返事を聞いた楓は満足そうに体を引くと「よいしょ」とソファへ座り直した。
「冗談はこれくらいにして、そろそろ本題に入ろか? 」
そう言いながら楓は一台のタブレットを二人の前に差し出す。
オリバーとパターソンがタブレットを覗き込んでみると、そこには胸から血を流しながら道端に倒れている男が写っていた。
年齢は四、五十代と言ったところだろうか。恰幅が良く、黒いビジネススーツに赤いネクタイをしっかりと締めているところを見るにどこかの会社の役員といった感じだった。
「殺人事件ですか? 」
「まぁ...
オリバーの何でもない問い掛けに妙に歯切れの悪い答えを返した楓は組んでいた足を組み直した。
「彼は小さな探偵事務所を経営している
楓がタブレットをフリックさせると同じような写真が写し出された。
今回は白いTシャツにデニムのパンツ。どこかの室内で女性が倒れている。
女性は見事に額を撃ち抜かれており、年齢は二十代ぐらいのとても若い感じだった。
「彼女は週刊誌の記者をしている
「あの...樋口課長。失礼ですが、この二件の事件と私たちに何の関係が? 」
黙って成り行きを見守っていたパターソンが初めて口を開くと、楓がオリバーを見つめていた時とは明らかに違うオーラを出しながらパターソンに視線を移した。
「貴女が...レイン・パターソンね。」
「は、はい。」
楓に見つめられると自然と背筋が伸びて、敬語になってしまうから不思議なものである。
「まぁ。まず順番に行こか。これは一般には公開してないんだけど、実はこの二件は予め警察に犯行予告がされてたのよ。」
「そう言えば...どこかでそんな話を耳にしましたね。」
「流石は公安第五課のオリバー課長。お耳が早いことで。最初の予告は八日前。つまりは事件発生の前日。警視庁に『都内に住む江戸原 昆という男を明日の十四時に殺害します。』と男の声で電話があったんが全ての始まり。当初警察は良くある類の性質の悪い悪戯だろうと放っておいてしまった。なんせ、警察への通報は年間約184万件。その内の緊急性がないものや悪戯は約三割。つまり年間約55万件が事件と無関係なんやから。」
「そんなにですか? 」
ついこの間まで一般人であったパターソンは自身が想像していた件数より遥かに多い数に驚きを隠せなかった。
「せやろ? 正味な話、こんなん一々相手しとったら体が幾つあっても足らん。でも、本当に指定された日時に同じ名前の人物が殺されてしまったんだから大騒ぎ。慌てふためく警察をおちょくるかのように二日後には同じ声で二件目の予告が届いた。内容は『都内に住む毛利野 園子という女を明日の十四時に殺害します。』だとさ。今度は本気で捜査を始めた警察は直ぐに毛利野を見つけて、彼女に了承を得て自宅内外に指定の時刻まで警官を待機させることに成功した。完璧な警護状態。
楓はそこで口を噤み、タブレットの中で仰向けに倒れている毛利野を見つめている。
「でも、殺されてしまった。と...。」
オリバーの言葉に反応して視線を上げた楓はぐしゃぐしゃと自分の頭を乱暴に搔き毟った。
「そこが問題やねん。まずは江戸原の事件。現場は駅前の繁華街。時刻は予告通りの十四時丁度。多くの人が行き交う中で江戸原氏は
「えっ? 」
パターソンから思わず声が漏れ出る。
それを予測していたのか、楓はパターソンの表情の変化を見逃していなかった。
「江戸原氏が倒れた時には十数人の通行人も居た。近くには防犯カメラもあった。でも、カメラも通行人も彼が撃たれる瞬間は見ていなかった。発砲音すら聞いてへんねん。」
「二人目の毛利野氏も同じような状況だったんですか? 」
オリバーも隣に座るパターソンの表情を気にしながらも楓との会話を続けた。
「彼女の場合は更に不愉快かつ不可解かな。さっきも言ったように、現場は彼女の自宅リビング。リビング内には彼女以外に五人の警察官が居合わせながら、そんな中でリビングに面していた大きな引き違い窓から撃ち込まれた一発の銃弾が彼女の額のど真ん中を貫いた。だけどや、居合わせた五人の警察官は誰も容疑者も見ていなければ、発砲音も聞いていないっちゅう江戸原氏の時と同じパターン。銃創とガラスに残った跡から科捜研に弾道を推測してもろったんやけど、発射先は空中やったわ。」
「空中? 」
「そや。オリバー。科捜研の見解では空中から発射されたか、弾が意思を持っているかのように途中で曲がったかのどっちかやってさ...ねぇ。レイン。」
「は、はい! 」
油断していたパターソンの背筋がピンと伸びた。
「レインはどう思う? この事件。」
「どうと言われましても...。」
「似てると思わへん?
楓の瞳がパターソンをしっかり捕らえている。その瞳はどこまでも真っすぐで、どこまでも澄み切っていた。
パターソンは僅かに戸惑いながらも比較的に冷静に記憶を辿った。
「そうですね...確かに私が体験した事件と似ている気がするのだけど、どこか違う気もするんです。私の事件の凶器は銃弾ではなく刃物でしたし、なんか...上手く説明できないんですけど...。」
「うーん...私もそう思うよ。」
『えっ? 』
突然聞こえてきた聞き覚えのない声に三人は一斉に声を上げた。
その声は楓の方から聞こえてきたので、オリバーとパターソンは楓が喋ったのかと思ったのだ、声質が明らかに楓のものではなかった。
それに、その楓自身も驚いた様子で二人を見ていたのだ。
どうやら声は楓の後ろから聞こえてきたようだった。
楓が後ろを振り返ってみると、そこには見知らぬ女が愛らしい微笑みを浮かべながら立っていた。
「なっ!? 」
驚きの余りソファから楓が立ち上がると、オリバーとパターソンの視界にもその女の姿が飛び込んできた。
「貴女は...。」
そう呟いたのはパターソンだった。
パターソンには見覚えのある姿なのであった。
そこに居たのはあの公園で遭遇したネコ耳女の文野環だったのだ。
彼女の頭に生えているネコ耳がピンと立って三人の方に向けられている。
「やっほー。パタ姉。お久ー。」
環はニッコリと笑いながらパターソンに向かい手を振っていた。
「お知合いですか? 」
「いや...なんだ。知り合いではあるんだが...。」
オリバーの質問にパターソンは何と説明して良いものか分からずに曖昧な答えを返すことしか出来なかった。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。今日はね皆に伝言をしに来ただけだから! 」
「伝言だかなんだか知らんけど、お前はどこの誰で、どうやってここに入ったんや。気配や音は全く無かったで。」
いつの間にかに楓は敵意剥き出しの表情とオーラに変化してしまっていた。
「ああ。ごめんごめん。私は文野環。どこにでも居るし、どこにも居ないからここに居るんだよ。そんなことより本題なんだけど、今まで警察に殺人予告をしていたのは私たち『
「ほー...つまり自首しに来たっちゅうことで良いのかな? 」
会話を続けながら楓はジリジリと環との距離を詰めていくが、環はネコ耳だけを機敏に動かしながら余裕の微笑みを浮かべたままだった。
「違うよー。私は何もしてないもん。私は三人目のターゲットを教えに来たんだよ。」
「三人目...だと? 」
環の悪意無き無邪気さに楓の目つきがより一層鋭くなる。
「うん。三人目は都内に住んでる
「ええ加減にせぇよ。この野良猫が! 」
距離を詰めていた楓は我慢ならずに環に向かって飛び掛かった。
最後のアウトを取ろうと白球に向かいダイビングキャッチを試みる高校球児のように、環に飛び付いた楓の両腕が彼女の細い身体を捕らえた。
楓には確かにその感触があった。
飛び上がった楓の体が受け身も取れず床に落ちていく。流石の楓も床への衝突の瞬間に目を閉じてしまう。
床に打ちつけられた体の痛みに耐えながら、ゆっくりと目を開けた楓の腕の中には誰もいなかった。
楓が痛みも忘れ、慌てて起き上がり辺りを見渡すも環の姿をどこにも見当たらない。
「一体...どうなってんねん。」
呟きながら楓は自身の両手を見つめていた。その手にはしっかりと何かに触れた感触が残っていたのだった。
三件目の殺害予告が直接届いてしまった事で、楓は急いで一課へと戻ってしまったのだが去り際にパターソンを今回の事件の捜査に加えて欲しいとオリバーへ言い残していた。
「私が居ない間に何だか色々あったようですねー。」
オリバーのデスクの周りにはパターソンと煙草を吸うために席を外していたヴィンセントも加わり集まっていた。
「ええ。色々ありすぎて何から話せばいいのか分からないのですが、まずはレイン君。君はどうしたいですか? 」
「私は...過去の事件と少しでも関係がある可能性があるのなら捜査に加わりたいと思っている。」
オリバーに向けられていた彼女の真っすぐで強い意思を持った瞳は、つい先程までソファに座っていた誰かを彷彿とさせるものがあった。
「...わかりました。レオス君。レイン君と一緒に捜査一課の事件の応援をお願いします。楓さんには私から連絡を入れておきます。」
「良いでしょう。研修やら何やらで鈍ってた私の頭脳を呼び覚ますには十分な事件でしょう。」
「二人とも...ありがとう。」
パターソンは二人に向かい頭を下げた。
「別に君のためじゃありませんけどね。さぁ行きますよ。」
レオスはオリバーに一礼してからスタスタと先に一人でオフィスを出て行ってしまった。
「あっ! ヴィンセントさん! 待ってくれ! 」
頭を上げたパターソンは彼の背中を追い掛けるように慌てて走り出した。
オフィスを出る直前にパターソンは突然足を止めた。
「そうだ。オリバーさん。」
「はい。どうしました? 」
振り返ったパターソンの瞳を見たオリバーは再び誰かさんの面影を感じていた。
「この間の周央サンゴの事件の時に周央が変身した男のことを『ハジメ君』と呼んでいなかったか? 」
「...すいません。覚えていませんね。」
二人の間に静かな時間が流れる。
「レイン君! 行きますよー! 」
そんな中で廊下からはパターソンを呼ぶレオスの声が聞こえてきた。
「あ! はい! 今行きます。オリバーさん。急に変なことを聞いてすまなかった。忘れてくれ。では、行ってくる。」
「ええ。大丈夫ですよ。お気を付けて。」
オリバーはニッコリと微笑みながら急いで廊下に飛び出すパターソンを見送ると、机の上に置いてある壺から梅干を一つ取り出して口に含んだ。
「全く...似るのは目力だけにしてもらいたいものです。」
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点睛開眼(中編)
「どうしたんだよ。随分と深刻な顔して話したいことがあるなんて。」
アクシアの前にはこの店名物の俵型ハンバーグが乗った鉄板が運ばれてきた。
鉄板の上では食欲をそそる音を立てながら二つのハンバーグが熱せられている。
「ああ。実はな...。」
ローレンの前にも同じ物が運ばれてきた。
アクシアは一足先に専用のソースをハンバーグに浴びせると、香ばしい匂いと音が一気にテーブル上に広がっていった。
「アクシア。俺な。あの時、屋上で会った黒フードの正体が分かっちまったんだ。」
俵型ハンバーグにナイフを差し込もうとしていたアクシアの手がローレンの告白を聞いて止まる。
「...マジ? 」
ローレンは目の前の早く食べてと魅惑の音を立てるハンバーグには手を付けずにジッと見つめ続けていた。
「ああ。マジだ。それがな...。」
ローレンの口から出てきた人物。
それは余りにも意外な人物の名前だった。
11:00 犯行予告時刻まで三時間
警視庁の地下二階にある大会議室。
三人掛けの会議テーブルがズラリと並ぶ中にパターソンとレオス、それに楓が座っている。
「ここが我々の『
レオスがだだっ広い部屋の中を見渡しながらポツリと呟いた。
「そうや。ここは地下で窓もなければ、どこもかしこも警官だらけ。トム・クルーズやってそう簡単に入れへんで。おまけにこの部屋に不破を匿うことは数人の警官にしか知らせてない。」
楓はまだ不破の姿すらも見ていないのに、既に勝ち誇ったような笑みを浮かべながらスマホを眺めていた。
彼女がこんなにも余裕なのは警察が二件目の事件のように不破の所在を既に突き止めていたからなのだ。
不破湊。彼の正体は都内有数の繁華街にある人気ホストクラブのナンバーワンに君臨している超有名ホストであった。
警察が彼を訪ねると最初こそ訝し気な表情を浮かべていたものの、最終的には警視庁への同行の了承を得ることに成功していた。
楓が不破をここへ連れてこようとしたのには二つの理由があった。
まずは二件目の犯行は被害者の自宅の中と言う究極のプライベートな空間で行われたこと。
犯行方法は未だに謎とはなっているのだが、ターゲットを自分たちの完璧なテリトリー内に入れることで少しでも有利に状況を進めようという考えからだ。
次に今回の犯人が犯行予告を律儀に守っているということ。
逆に考えてみれば、予告された日時までは絶対に手を出して来ないのだ。なので、来るその時までに万全の準備を整え易いようにしたと言う訳なのだった。
「失礼します! 課長。不破さんをお連れ致しました。」
威勢の良い声と共に会議室の扉が開かれると、そこには二人のスーツ姿の男に挟まれた若いイケメンが立っていた。
「ご苦労様。
「はっ! 」
不破を連れて来た高城と佐島と呼ばれた刑事たちは楓に向かい敬礼をすると指示通りに会議室を後にした。
一方で、一人この場に残された不破はレオスと同じ様に興味深そうに部屋中を見渡している。
「貴方が不破湊さんですね。」
立ち上がった楓が不破に近付いて行った。
「はい。話はさっきの人たちから聞きましたが...何で俺が? 」
「それについて少しお話を聞かせて頂けませんか。」
「まぁ。貴女のようなお美しい方とお話が出来るなら喜んで。」
不破は満面の笑みを浮かべながらの了承を某ファーストフード店並みの事務的な笑顔で返す楓を見ていたレオスが二人には聞こえぬようにパターソンに語り掛けた。
「相手の正体を知らずに...知らぬが仏ってとこですかねー。レイン君。」
話し掛けられたパターソンは返事もせずに楓と不破を見つめたまま固まっていた。どうやらレオスの小粋な嫌味も耳には入っていないようだ。
「あ、あの! 」
固まっていたパターソンが突如喋りだしたかと思うと、不破の傍へと駆け寄る。
「ん? 俺っすか? 」
「はい! あの
いきなり見知らぬ女性に脈絡の無い事を言われた不破は目を丸くしながら驚いているようだった。
「...貴女のような可愛らしい方なら忘れるはずがありません。ですから、きっと初めましてですよ。」
直ぐに接客モードに切り替えた不破は柔らかな笑顔でパターソンに手を差し伸べていた。
「そうか...いや、いきなりすまなかった。」
一転して恥ずかしそうに俯きながらパターソンは不破が差し出した手を握り返した。
11:20 犯行予告時刻まで二時間四十分
数ある会議テーブルの内の一つに座らされた不破の前に江戸原が映し出されているタブレットを楓が置いた。
「不破さん。この男に見覚えはありますか? 」
「いやー...ないっすね。」
楓の問いかけにタブレットを凝視ししていた不破は首を横に振ってみせた。
「では、こちらの女性は? 」
続けてタブレットに映し出されたのは毛利野の姿だ。
江戸原の時とは違い、毛利野の顔を見た瞬間に、不破は「あっ」と声を漏らした。
「この女性なら覚えてますよ。記者さんでしょ? 確かー...繁華街のホストの特集をしたいとかでお店に来たんだっけかな。」
「そのときに彼女が何か変わったことを言っていたり、おかしな様子はなかった? 」
「いやー...特には。その時に聞かれたのも一日のルーティンだったり、給料のことだったりで言っちゃなんだけど、ありきたりな質問ばかりでしたよ。」
不破の答えを聞いていた楓が残念そうに「そう」と短く呟いた後で腕時計を確認した。
「お二人さん。私はちょっとお偉方の会議に顔を出さないといけないの。しばらくの間、彼の護衛を頼むわ。と言うても十四時までは何も起きへんと思うけどな。」
「そうですね。まぁ警戒するに越したことはありませんからねー。」
「ええ心掛けや。レオス。」
楓が笑顔で会議室を去ると、残された三人は互いに様子を窺うようにお互いの顔を見合っていた。
そんな中、パターソンとレオスの顔を交互に見ていた不破が口を開く。
「もしかして、お二人は恋人同士だったりするんすか? 」
「ぬわっ!? オリバーさんも君も何で同じようなことを言うんだ! 同僚だ。同僚。ただの同僚! 」
頬を染めながら大慌てで否定するパターソンを見て、不破は思わず吹き出してしまった。
「失礼かもしれませんが、あと数時間で自分が殺されてしまうかもしれないと言うのに随分と余裕そうですね。」
対照的に不破の冗談などどこ吹く風といった様子で冷静に眼鏡の奥から不破を見つめている。
「そっすねー。まぁ言ってもここは天下の警視庁様。俺が犯人なら自殺願望でも抱いていない限りは諦めて、他の人を殺しに行っちゃうと思んすよ。だから、あんまり心配してないってのがホンネっすね。」
「全く同感ですねー。先に殺されてしまった二人との関係性は薄そうですし、貴方に
「喜ばれることはあっても恨まれることはないと思うけど、もし俺が誰かを殺したい程に恨んでいるとしたら、誰も居ない真っ暗な夜道で背後から襲うけどね。」
レオスの嫌味を持ち前の笑顔で受け流すと、正論カウンターを見事に決めて見せた。
「確かに不破さんの言う通りだな。もし、私がヴィンセントさんを殺そうと思ったら誰も居ない所で闇討ちするもんな。」
「レイン君...不満は溜め込んでは体に毒ですよ。言いたいことは言い合いましょうね。」
「例えだから安心してくれヴィンセントさん。そんなことより自分の身を危険に晒してまで人前で殺す理由って一体何なんだ? 」
「それなら一つでしょうね。」
パターソンの襲撃を恐れて声に張りの無くなっていたレオスだったが、それが例えだと分かったレオスの口調にはいつもの自尊心が戻ってきていた。
「『
レオスはパターソンを見つめながら話していたのだが、レオスの言わんとしていることを彼女は理解していないようだった。
13:00 犯行予告時刻まで一時間
堅苦しいだけで実の無い上層部との会議と遅めのランチを食べ終えた楓に待ち受けていたのは、又もや会議であった。
元来椅子に座って頭を捻り、顎で指示を出すことよりも現場の最前線で体を動かしながら腕を振るう方が性に合っているのだが、今の楓には立場がある。
自分の理想の風通しの良い組織を作るために必要な我慢だとは分かっていても、やはり面倒なものだ。
だが、今回は予告殺人の捜査進捗確認と不破の襲撃に備えての各配置と動きの最終確認という午前中の会議とは比べものにならない程に重要な会議だ。
お腹が膨れたことにより襲い掛かってきていた眠気を振り払い、楓は会議が行われる部屋へと入って行った。
13:10 犯行予告時刻まで五十分
「いやー。案外イケてましたね。ここの中華。」
満足そうな言葉と笑みを浮かべながら不破が目の前の空になった食器を眺めていた。
「だな。餃子が旨かったな。」
その近くでパターソンも幸せそうな顔で自身のお腹を摩っている。
三人の元に届けられたのは警視庁御用達の中華の出前だ。
この日は天気も良かったのでお洒落なテラスで素敵なランチタイムと行きたいところだったが、楓から外出許可が出る訳もなく、この部屋での寂しい昼食に落ち着いていた。
不破とパターソンは最初こそ不服そうな表情をしていたのだが、いざ実食となるとパターソンも不破も競う様に食べ始めたのだった。
「レイン君。時間まであと一時間切ってるんですから、もうちょっと緊張感を持ってください。」
「はーい。でもヴィンセントさん。具体的にはどんな作戦で行くんだ? 良く考えてみれば何も聞かされてないぞ。」
「それなら後で樋口課長から指示があるはずです。」
「なら、今私たちは何をどうすれば良いんだ? 」
「それは...。」
パターソンと不破の視線が注がれると、レオスは眼鏡のブリッジを人差し指で持ち上げてから再び口を開いた。
「取り敢えず、落ちて割れると危ないので机の上の食器を片付けましょうか。」
二人が無言で見つめる中、レオスは自身が食べ終わった定食の食器たちをテキパキと壁際の床へと運び始めたのだった。
13:35 犯行予告時刻まで二十五分
「と言うことで、各自十分前までに所定の位置に就くこと。スタンバイが完了したら必ず各班長に連絡を入れること。班長たちは全員の配置を必ず確認した後で私に連絡をするように! 」
『はい! 』
多くの刑事たちの前に立ち、臆することなく大きな声で楓は指示を飛ばすと、野太い男たちの声が直ぐに返ってくる。
「ここは難攻不落の要塞であるが決して油断しないように! 前回も私たちの目の前でマル害は殺されている。どこの誰なのか。どんな手段を使ってくるのかわからない。だから、小さな異変でも必ず報告をするように。以上。よろしく! 」
『うっす! 』
楓の号令を合図に屈強な男たちは気合十分な様子で部屋を飛び出していった。
「さて、私も行くか。」
自身の腕時計を確認しながら楓も二人と不破が待つ会議室へと向かおうとした時だ。
「課長...。」
「ん? 」
背後から誰かに話しかけられた楓が振り返ってみると、そこに立っていたのは高城警部補だった。
彼は佐島巡査部長と共に不破を会議室まで連れて来た内の一人で楓はこの二人を信頼しており、今回の作戦で不破の居所を知っている数少ない人物の一人であった。
他の刑事たちには警視庁内に不破を匿っていることは伝えているが、具体的な場所は知らせていなかった。
「おう。高城か。どうしたん? 」
高城は楓よりも年上ではあったが、女性だとか年下だとかを一切気にせず礼儀正しくも明るく楓に接してくれていた。
「俺...見てしまったんです。」
しかし、目の前の高城は明らかに様子がおかしく、下を向いて何か思い詰めたような顔をしている。
「高城...大丈夫か? 何を見たんや。」
「俺...信じてたんすよ...。」
「はっ? 」
わけのわからない事を呟きながら、高城は右手をジャケットの左の懐に潜らせた。
高城が左の懐から取り出したのは拳銃だった。
そして、有ろう事かそれを楓に向かって構えたのだ。
「...高城。お前...今自分が何してるか分ってんのか。」
突然の出来事に声が詰まった楓だったが、何とか持ち直すと冷静に高城へと語り掛けた。
「おい! 高城! 何してんだお前! 」
近くに居た他の刑事もその異様な光景に気が付き、動揺して大きな声を上げながらも高城を取り押さえようと身構え始めている。
それを横目で見ていた高城はゆっくりと拳銃のハンマーを下した。
「皆聞いてくれ! 俺は見たんだよ! 」
周りの刑事たちの怒号に負けず劣らずの声を荒げながら高城が叫ぶ。
「だから、何を見たんやって聞いてんねん! 」
自身が拳銃を向けられてるとは思えぬ程の威勢と迫力で誰よりも大きな声を出したのは楓だった。
その覇気を纏った言葉は異様な状況が続く室内に一瞬の静けさと平静を与えていた。
「...とぼけても無駄ですよ。課長。俺は
微かに手を震わせ、涙を浮かべる高城の口から出てきた言葉に室内に明らかな動揺が広がっていく。
13:45 犯行予告時刻まで十五分
「なぁ。ヴィンセントさん。楓課長が遅過ぎないか? 」
会議室内壁に掛けられていた白い丸時計を不安そうに何度も見返しながらパターソンが口にした。
「そうですねー。まぁ...まだ時間はありますからね。」
全く慌てた様子もないレオスは静かにその時が来るのを待っているようだ。
不破もレオスと同じように慌てた、取り乱す様子もなく、つまらなそうな顔でスマホをいじって時間を潰していた。
『トントントン』
その時、待望のノックが室内に響いた。
「噂をすれば何とやらですね。どうぞー。」
「もー。遅いですよ。楓...あれ? 」
レオスの返事と共に開いた扉の向こうに立っていた人物を見たパターソンが首を傾げる。
そこに立っていたのは楓ではなく、先ほど不破を連れて来た佐島と呼ばれていた刑事だった。
そして、佐島の横にはもう一人の男が立っていたのだが、それは高城ではなかった。
見覚えのない方の男は不破と良い勝負の若いイケメンだ。
寝癖なのか天然パーマなのか所々跳ねた明るい色の毛先。左目の目元にある泣きぼくろと少し垂れた目。それと特に目を見張る異質なものを左手に抱えていた。それは猫の形をしたクッションのようなものだった。
そのクッションも相まって、彼から発せられる雰囲気は周りに優しさと癒しを与えているような柔らかさを持ち合わせていた。
「どうぞ、こちらへ。」
佐島がその男を部屋の中へと誘った。
「えーと...佐島刑事でしたっけ? そちらの方は誰ですか? 」
パターソンの質問に佐島は何も答えない。謎の男の隣で直立不動のまま動こうともしなかった。
「初めまして。」
佐島の代わりに口を開いたのは謎の男の方だった。
「僕の名前は
三人が不思議そうな顔で話を聞いていると、叶と名乗った男は猫のクッションの背中に右手を突っ込んだ。
「
目を細めながらニッコリと微笑む叶が猫のクッションの中から取り出したものは拳銃だった。
叶はそれを不破に向けて構えると迷わずにその引き金を引いた。
13:48 犯行予告時刻まで十二分
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点睛開眼(後編)
13:50 犯行予告時刻まで十分
高城と楓の間では依然として膠着状態が続いている。
「高城。本気で言ってんやろな。状況的にもう『
照準の定まらぬ拳銃を必死に構える高城は、まるで銃口が自分へ向けられているかのような錯覚を抱く程に楓の迫力に圧倒されそうになっていた。
「ええ。分かってます。だから貴女を逃がす訳にはいかないんです! 」
「おい。お前落ち着けよ。良く考えるんだ。江戸原の事件発生時には俺たちはこの事件の捜査すら始めていないんだぞ。」
その声の主は二人を取り囲む刑事の中から一歩前に出てきた一人の男だった。
彼は高城を刺激しないようにゆっくりと静かに語り掛けていた。
「でも...見たんです。ハッキリと頭の中にその時の映像が浮かんできます。撃たれたのは江戸原。そして...。」
高城は拳銃の凹型の照準を盾にして目の前の楓を睨みつけた。
「拳銃を握っているのは樋口課長。貴女だ。」
「じゃあ。なんで今更になってそんなこと言い出したんだ? おかしいだろ。」
「ありがとうな。危ないから下がってて。後は私に任せてな。」
勇気を出して一歩を踏み出してくれた男の話を遮るように楓が彼に優しい笑顔を向ける。
この状況下で尚、笑顔で部下を気遣う楓の姿を見た男は口から出かけた言葉を飲み込むと大人しく群れの中へと戻っていった。
「高城。ハッキリ言ったるわ。江戸原の事件が発生したその日、その時間。お前は私と一緒にファミレスに居た。賭けに負けた私の奢りで旨そうに俵ハンバーグを食うてたはずや。」
楓の言葉で高城の脳裏に別の映像が再生され始める。
その映像も鮮明だった。
鉄板から出る肉の焼ける音、食欲をそそる香ばしい匂い。
そして、不貞腐れたようにハンバーグを頬張る楓の姿。
「あれ...でも...。」
高城は左手で頭を抱えたと思えば、次の瞬間には我武者羅に髪を掻きむしり始めた。
それを見ていた楓は僅かに高城の方へと近付いていく。
「くそっ...。何で...何で記憶が二つ...。」
明らかに狼狽えている高城の様子を見た楓は態勢を低くして、ラグビーのタックルの様にして一気に高城に突進すると、周りの刑事たちも高城を取り押さえようと彼に飛び掛かっていったのだった。
怒号と喧騒に包まれる室内に一発の銃声が響き渡る。
13:48 犯行予告時刻まで十二分
一瞬の出来事だった。
叶以外の誰も一歩も動くことすら出来なかった。
一発の銃声が鳴り響き、叶の構えている拳銃の銃口からは微かな硝煙が上がっている。
最悪の結末を想像したパターソンは不破の方へと目を向けてみる。
どうやらレオスも同じ気持ちだったようで、彼の顔も不破の方へと向けられていた。
二人の視線が交差する点に立っていた不破は何事もない様子でその場に立ち尽くしている。
正確に言えば、動いていないと言うよりは動く余裕すらなかったのであろう。
「不破さん。無事...なのか? 」
パターソンの呼び掛けに不破は声を出さずにコクコクと二回首を縦に振って無事だと返事をした。
では、放たれた銃弾はどこへ行ったのか。外れたのか。それとも空砲だったのか。
その答えは直ぐに明らかになった。
この部屋の中に一人だけ床に倒れている人間が居たのだ。
それは佐島だった。
叶は前方の不破に向けて拳銃を構えていた。今もまだその銃口は不破の方へと向けられている。
だが、倒れている佐島は叶の真横に立っていた。実際に彼は叶の横でうつ伏せに倒れているのだ。
そして、彼の体の周りには血だまりが徐々に広まっていた。
「不破君はまだ時間が来ていないから殺さないよ。僕はその辺はしっかり守るタイプだから安心して。」
「警視庁内部で拳銃を使って警官を殺しておいて『
「あー...そう? なら、もっと笑いなよ? 」
数秒前までの笑顔が完全に消えた叶の銃口がレオスへと向けられる。
上辺では強気に振舞っていたレオスも拳銃を向けられると、流石に腰が引けてしまったようで数歩後ろへと下がっしてしまった。
「どうして...どうして彼を殺す必要があったんだ! 犯行予告にはなかったぞ! 」
佐島の死を認識したパターソンが薄っすらと涙を浮かべながら叫んだ。
「残念だけど仕方ないよ。殺しておいてくれって頼まれちゃったからさ。」
「意味分んない。全然分んないけど...。」
パターソンはレオスと不破の前に両手を目一杯に広げて立ちはだかった。
「もう誰も殺させないから。」
強い意志を持った鋭い視線を向けられた叶は嬉しそうに笑っていた。
「僕はアンフェアな勝負は嫌いだから教えてあげるね。僕は自分の放った銃弾を自由に操作出来るの。曲げることも、上下に高低差をつけることも、全て自由自在。僕の視認出来る範囲内なら僕の意思通りに弾を動かすことが出来る。こんな風にね。」
そう言うと叶はパターソンに向いていた拳銃の引き金を再び引いた。
強烈な破裂音と花火のような閃光が炸裂してから一発の銃弾が放たれると、パターソンに向かって銃弾がまっすぐに飛んできている。
もう駄目だと思ったその刹那、銃弾はゆっくりと軌道を変えてパターソンの体を左に避けて通過して、S字を描くような軌道で飛び続けて後ろに立っていたレオスの右腕を貫いたのだった。
「うぐっ!? 」
パターソンは目の前で起きた現象の処理が脳内で追い付かないままで後ろを振り返ると、そこには右腕から血を流しながらレオスが蹲っていた。
「ヴィンセントさん! 」
「言ったでしょ? 僕の『エイム』は絶対なの。逃げられないよ。だから、もう諦めて僕に殺されなよ。まぁ...あと五分で終わるけど精々足掻いてみても良いけどね。」
満面の笑みを浮かべる叶は三人が居る方向とは真逆の壁に向けて三度目の銃弾を放った。
銃弾は壁に向かって一直線に進んだかと思ったのだが、壁に当たる直前に直角に曲がり、そのままレオスの左足へと一直線に着弾したのだ。
「痛っ!? 」
レオスの左足から真っ赤な鮮血が飛散し、青白くなった彼の顔が苦悶に歪む。
パターソンには目の前で撃たれ続ける彼を救う事も、庇う事も出来ない。
ただただ、弱っていくレオスを眺めているだけ。
「お願い...。」
無力で
惨めで
まるで
「もう...。」
溢れ出る涙がパターソンの頬を伝っていく。
あの日の
あの時の
あの人のように
「やめて!」
右手を握りしめながらパターソンが絶叫する。
放たれたパターソンの言葉が部屋に乱反射したかと思えば、握り締めていた彼女の右手が微かに光り始めた。
部屋の中を満たしていた怒号と喧騒が一発の銃声で消し飛んでいた。
高城に向かい飛び掛かった刑事たちが自分の体の無事を確認しながら、少しづつ離れていく。
そして、その中心で最後まで残っていたのが楓と高城だった。
床に仰向けに倒れる高城に馬乗りになっている楓。
右腕から血を流しながらも楓はしっかりと高城の両手を床に抑えつけている。
楓が高城を押し倒す直前に放たれた銃弾は楓の右腕を掠めて壁に着弾していた。
「どうや。気が済んだか? 高城。」
楓に見下ろされた高城はガタガタと体を震わせるだけで何も答えなかった。いや、答えられなかったのかもしれない。
宛ら、蛇に睨まれた蛙といったところだろうか。
「あのな。
高城の右手に握られたままとなっていた拳銃を取り上げた楓は徐に高城の胸倉を掴み、グッと自分の顔の傍まで高城を血が滲む手で持ち上げた。
「そんで、
楓の腕の出血を見て慌てて近寄ってきた刑事たちに「大丈夫」と礼を言いながら高城の身柄を引き渡した楓が腕時計を見ると、時計の針は『14:00』を差していた。
「あかん。最悪や。」
14:00 犯行予告時刻
二発の銃弾に貫かれたレオスの意識と視界が徐々に薄れていく。
混濁する意識のせいなのか、歪む視界のせいなのか、自分を庇いながら立ちはだかるパターソンの顔が何故か別人のように見えていた。
意識を失ったレオスの前で虚ろな目をしたパターソンが右手を高く上に挙げる。
すると、何も無いはずの空中に光が集まりだした。
「なるほど。こう言うことかー。」
まるで、花火でも眺めるかのように叶が空中に集まる光たちを見つめながら呟いていると、その光の中から一本の人間の手が出てきてパターソンの掲げていた右手を掴んだのだ。
「これ...僕ヤバイんじゃないの? 」
そんな叶の悪い予感は的中してしまう。
自分の直感を頼りに叶が伸びる手へ目掛けて素早く引き金を引こうとしたのだが、硬直してしまったかのように指が動かない。
気が付けば、声も出せなくなっている。
口が動かない。
どうやら今、
いつの間にか光の中から出てきた手は消えて、パターソンも右手を下ろしていた。
彼女は虚ろな目のままで何かを口遊んでいるようだ。
何かの歌だろうか。その音は小さくて、叶には聞き取れなかった。
そして、パターソンに向けていた拳銃を持った右手が叶の意思に反して、勝手に動き始めた。
無力な操り人形と化した叶は自分の蟀谷に向かい拳銃を向ける。
動かなかったはずの引き金に掛かっていた指がゆっくりと動き始めたのが分かった。
声を出すことも、目を瞑ることも出来ない。
パターソンは無表情で何かを口遊みながら叶を見つめ続けていた。
『話が違うじゃない。』
叶が心の中でどこかの誰かに悪態をついた時だった。
パターソンの背後から手が伸びてきたと思えば、その手は彼女の額を鷲掴みにした。
14:03
楓は右腕の手当もせずに、数人の部下を連れて会議室に辿り着いていた。
部屋に入る前の廊下に居ても血と硝煙の臭いが漂ってくる。
楓は頭の中で最悪の事態を想定しながら、会議室の扉を開けた。
会議室には三人の人物が居て、楓の目に最初に飛び込んできたのは扉の近くで血だまりの中に倒れていた佐島の姿だった。
彼の姿を一目見れば手遅れであろうことは容易に想像が出来てしまう。
けれど、諦めきれない楓は佐島の傍に跪き、恐る恐る彼の体へと手を伸ばす。
「どうして...佐島...答えてや。」
冷たい。
冷たくなった血だらけの佐島の手を楓がどれだけ強く握ろうとも答えが返ってくることはなかった。
「課長! こちらはまだ息があります! 」
佐島の手を優しく床に戻すと、楓は急いで残りの二人の元へと駆け寄った。
あれは一体何だったのだろうか。
何故私は手を掲げたのだろう。
何もない空間から出てきた手は誰のものなのだろう。
その手を繋いだ時に遠くから小さく女性の声が聞こえてきた気がする。
『パターソン様。またお会い出来て嬉しゅう御座います。』
聞き覚えのある声。
...駄目だ。
ここから先のことを何度も思い出そうとしても何も思い出せない。
パターソンは病院のベッドの上で上体を起こして自身の右手の掌を見つめる。
そこには身に覚えのない傷が出来ていた。
得体の知れない恐怖を感じたパターソンは体を震わせた。
「大丈夫? 」
「えっ? 」
いつの間にかベッドの傍には健屋が立っており、震えるパターソンを心配そうな表情で見ていた。
「あ。先生。」
「まったく...こんな若い内から病院の常連客になるなんておススメしないわよ。」
健屋は大きなため息をついていたが、落ち込んでいるパターソンを励まそうとした彼女なりの優しさだったのかもしれない。
「あはは。すいません...あっ! 先生。ヴィンセントさんは! 」
「無事やで。」
声が聞こえてきた病室の入り口を見ると、そこには花束を持った楓が立っていた。
「樋口課長!? お、お疲れ様です。」
「体に問題はなさそうだから、私はこれで。」
楓の雰囲気から空気を察して健屋が病室から出て行ってから、入れ違いになるようにして楓がベッドの傍にやってきた。
サイドテーブルに花束を置くと壁に立てかけてあったパイプ椅子を開き、そこに腰掛けた。
「レオスは腕と足に銃弾を受けたけど、命に別条はないようよ。」
「本当ですか...良かった。本当に。」
俯きながら小さな声を漏らすパターソンの目には涙が浮かんでいた。
「レイン。私は何があったのか知りたいの。いや、知らなきゃいけないの。辛いのは百も承知やけど、何があったか出来るだけ教えて欲しいんや。頼む。」
パターソンの手を握りながら、強くハッキリとした声で楓が懇願しながら頭を下げている。
「樋口課長...。」
パターソンは暖かく、強い楓の手に勇気と決意を貰えた気がして、自分の覚えている限りの事を全て話し始めた。
佐島に連れてこられた叶と言う男。その不思議な力。撃たれた佐島のこと。レオスが同じ様に撃たれたこと。
そして、自身の頭上から現れた手のこと。
楓は質問を挟みながらも茶化すことなどせずに、最後までパターソンの話を真面目な表情で聞き続けた。
「ってことは、予告を出して犯行を続けていたのは叶って男になりそうね。レインはその男の顔は覚えてる? 」
「はい。覚えてます。」
「オッケー。後で専門の子を呼んでくるから似顔絵作成せなな。そんで、その空中に手が出てきた後は覚えてないってことよね? 」
「...すいません。」
佐島を殺された楓の気持ちを汲むと、自身の不甲斐なさと悔しさで胸が苦しくなってしまう。
「ええんよ。ありがとうな。私たちが部屋に突入した時には叶っちゅう男も不破も消えていた。酷なことを言うけれど不破はもう...。でも、何で死体をそこに残さなかったんや。それに高城や。不破を迎えに行ってからの記憶が混濁しとるようやし...。」
顎に手を当てながら楓は考え込んでいた。
パターソンの記憶の中でも不破の存在が途中から消えてしまっている。レオスが撃たれている間や手が現れている時、彼はどこに居たのだろう。本当にあの部屋に居たのだろうか。
パターソンはブルブルと憑き物を祓うように頭を左右に振る。
何を考えているんだ。居たに決まっている。
一緒に中華を食べたし、話もしていた。
「まぁ。私は減給アンド停職処分やから、その間に『
椅子から立ち上がった楓はベッドの上のパターソンに向かい、深々と頭を下げた。
「うわっ! 何言ってるんですか。私がしっかりしていなかったからなのに。」
「いいや。レインは自分の仕事をしっかりした。全ては私のミス。責任は私が取る。」
頭を上げた楓はパターソンに笑顔を向けると、そのまま病室を後にした。
「責任も、仇も私がしっかり取ったるからな。」
病室を出た楓は誰も居ない病院の廊下で決意を固めた。
病院の入り口付近の壁に寄り掛かりながらスマホを片手に誰かと通話していたのはオリバーだった。
「悪いお知らせと良いお知らせがあります。まずは悪いお知らせですが、奴は姿を消してしまいました。ええ。そうですね。間違いなく生きいるでしょうね。かなり厄介な能力ですから早急に対応する必要がありそうですね。」
「おっ? オリバーやん。あっ...電話中やった? 」
背の高いオリバーは目立つようで、病院から出てきた楓が彼を見つけて声を掛けてきたのだ。
「構いませんよ。樋口課長。お見舞いに来てくれたんですか? 」
素早くスマホを下におろしながら、オリバーは笑顔で応対した。
「当たり前やろ。せや。大事な部下をこんな形で巻き込んでしまって、ホンマに申し訳なかった。」
楓は先ほどパターソンに向かって頭を下げたようにオリバーにも深々と頭を下げた。
「頭を上げて下さい。悪いのは樋口課長じゃありません。自分を責めすぎないで。」
「...ありがとう。はぁー...公務員で高身長でイケメンで優男か...もし、警察をクビになったら嫁にしてくれへん? 」
「ええ。喜んで。と言いたいですが、貴女は刑事を辞められませんよ。きっと。」
「なんやねん。私は一生独身ってこと? 勘弁してや。」
オリバーとの会話で楓の顔にはいつもの笑顔が戻っていた。
別れ際にもう一度頭を下げてから立ち去った楓の背中が小さくなるのを見届けて、オリバーはスマホを耳元へ戻した。
「もしもし。ええ。もう大丈夫です。何でしたっけ。そうそう。良いお知らせでしたね。良いお知らせは彼女が遂に開眼したことです。相手に先手を打たれる前にコチラ側に引き込みます。ええ。その時が来たようですよ。」
そう言いながらオリバーは病院を見上げていた。
「ローレン。マジで言ってんの? 」
「冗談だとしたら趣味が悪すぎるだろ。」
ローレンとアクシアに挟まれたハンバーグたちが早く食べてと急かす様に肉の焼ける音は激しさを増していた。
「でも...どう言うことだよ。黒ローブの正体がパタ姉って...。 」
「俺も未だに信じらんねぇけど、何度思い返しても黒いフードの中の顔はパタ姉なんだよ。」
アクシアがローレンの相棒になってからまだ日が浅かったが、ここまで深刻な表情のローレンを見るのは初めてのことだった。
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中原逐鹿(前編)
都内の高級中華料理店の個室内で四人の人物が円形のターンテーブルを囲んでおり、その中の一人である環が美味しそうに炒飯を頬張っている。
「この餃子も美味しいよ。」
環の右隣の席に座っていた叶はニッコリと微笑みながら餃子を口に運んだ。
「昼間っからこんな豪華な食事とは有り難いっすねー。でも、叶さんが餃子を食べれているのも俺のお陰ってこと忘れないで下さいね。あそこであの子の記憶を消しとかなきゃ、叶さんの頭を無くなってたかもしれないんだから。」
「ばーか。お前のためにあの警官を殺したんだぞ。逆にお前が僕に感謝するんだよ。」
叶は隣に座る不破の言葉とウインクをいなして目の前の点心を堪能し続けていた。
「でも、不破っちの能力って便利だよねー。右手で相手の額に触れられれば、相手の記憶を好きなように改竄出来るんでしょ? 私も欲しいなー。」
「何言ってんすか。環さんの能力の方が遥かに便利じゃなですよ。俺の能力なんて不安定だし、短期的なものですから。」
外向きになった猫耳に頬っぺたには米粒を付けた状態の環が右手をブンブンと振り回しながら笑っていた。
「そうそう。永続的じゃないから佐島と高城っていう警官を始末しなきゃいけなかったんだから。佐島って方はバレる前に僕が処分したけど、高城って方はなんだかんだ生き残っちゃってるんだよなー。」
「いやー。そうなんすよね。上手いこと警官同士で相打ちになってくれるかなーって思ったんすけどね。まぁ。目的だった
愚痴をこぼしながら不破はターンテーブルを回して、フカヒレの姿煮を自身の前に移動させた。
昼飯をこんな優雅に食べたのは本当に久し振りのことだ。
楓は目的の人物との話を終えて、カフェのオープンテラスで食後に出されたサービスの紅茶で喉を潤していた。
停職中の楓が個人的に会った相手は江戸原の知人だった。
彼の話によると江戸原は亡くなる数週間前から頻繁に毛利野と密会していたようで、江戸原の目的は毛利野から『ある人物』に関する情報を買うことだったらしい。
楓は洒落たティーカップをテーブルに戻すと、会話の内容をメモした手帳に目を向けた。
そこには死の間際に江戸原が文字通りに必死になって探っていた人物の名前が書かれている。
『不破湊』
「どうやら只の被害者じゃないみたいやな。あのイケメン君。どうやら思ってたんより長い休暇になりそうや。」
腕時計を確認した楓は次の約束の場所へ向かうべく伝票を手に取った。
お昼を過ぎると公安第五課のオフィス内にはレオス以外の四人が勢揃いしていた。
パターソンは自身のデスクに座って自分の右手の掌を隠すように巻かれた包帯をじっと見つめている。
物思いに耽っていたパターソンは、はす向かいから彼女の顔を真剣な目で観察しているローレンには気付いていない様だ。
ローレンは迷っていた。パターソンに自分が見たことを話すべきなのか。それに自分に顔を見られているはずなのに何故自分に何もアクションを仕掛けてこないのか。
そんなローレンが躊躇している間に別の方向からパターソンに声が掛けられた。
「レイン君。ちょっといいかな? 」
この部屋の中でローレンの他にも彼女の顔を見つめていた人物がもう一人居たのだ。
それはオリバーだった。
オリバーは自身のデスクに座ったままでパターソンを呼びながら手招きをしていた。
「先...越されちまったな。」
ローレンの隣で様子を窺っていたアクシアが少し身を寄せてきて囁いた。
しまったと焦る一方で、ローレンは得も言われぬ安堵感を覚えたのだった。
ローレンとアクシアの会話など聞こえていなかったパターソンは「はい」と返事をしてからオリバーのデスクの傍へと向かった。
「オリバーさん。何かあったのか? 」
「右手...痛むんですか? 」
「えっ...いや...平気だ。」
穏やかで、どこまでも先を見通しているようなオリバーの笑顔をパターソンは初めて畏怖の念を抱いていた。
「全く...君もレオス君も本当に頑張り屋さんですね。レオス君なんてもう歩き出してリハビリを開始しているんですから頭が上がりませんよ。」
「本当にな。すごい人だ。私なんて...。」
そう呟くパターソンのは自然と自身の右手に巻かれた包帯へと視線を落としてしまっていた。
「レイン君。今夜食事に付き合ってくれませんか? 」
「え? あ、ああ。」
「ええー。二人だけでズルイじゃないっすかー。俺らも旨いもん食いたいよなー。ローレン。」
「お、おう。そうだな。」
オリバーからの意外な誘いにパターソンが戸惑いを見せていると、アクシアとローレンが二人の会話に割り込んできた。
どうやらオリバーの声がアクシアのデスクの方まで聞こえていたようだ。
「あら。聞こえちゃいましたか? 今回は仕事の話なのでごめんなさい。今度レオス君が復帰したら皆で快気祝いに行きましょう。その時は勿論私が奢りますから。」
「そうなんすかー。じゃあ...快気祝いは派手にお願いしますね。」
不服そうに口を尖らせながらアクシアは渋々身を引いてから、オリバーは少し抑えた小さな声でパターソンに今夜の集合場所と時間を伝えた。
楓が次に会っていたのは不破の同僚ホストの一人だった。
不破とは違ったタイプの短髪でやや色黒のイケメンはニコニコと営業スマイルを浮かべながら楓と会話を続けている。
ホストクラブと言う場所を初めて訪れた楓だったが、目の前に広がる煌びやかで華やかな浮世離れした空間に圧倒されながらも、その桃源郷に心惹かれると言うことも今のところはなかった。
彼は不破が入店するまでは店のナンバーワンを張っていた人物だったのだが、不破の登場により今ではナンバーツーへと陥落していた。
彼も颯爽と現れた不破に抜かれたことが悔しかったようで、抜き返そうとより一層の営業努力を続けたのだが、結局最後まで不破を抜き返すことは出来なかったのだ。
「楓さん。あの事件以降不破が姿を消しちまったことは残念だし、勝ち逃げされたみたいで癪なんだけどさ。ぶっちゃけちゃうとホッとしている自分も居るんだよね。湊には勝てないんだよね。こっちは何をしてもさ。」
「貴方も優しそうやし、顔もええのに彼は何がそんなに凄かったん? 」
ホストは「ありがとう」と嬉しそうに微笑むとシャンパングラスを口に運んだ。
その中身は楓が『
楓にとっては見ず知らずの男に高い酒を飲ませるぐらいなら、部下と一緒に高い肉を食いに行った方がより幸福なのだ。
「信じてもらえるか分からないんだけど、湊は超能力者なんですよ。どんな相手であろうが一度湊が席に着けば、皆が忽ち湊の虜になっちゃうんです。相手の心の隙間に入り込むっていうか、相手の心をコントロールしちゃうというか...。」
「心を...
ホストの言葉を聞いた楓の頭の中ではシャンパングラスの中でゆらゆらと揺らめきながら消えて行く銀色のあぶくのように高城の不可解な言葉と行動が立ち上っては消えて行っていた。
「ええ。そうなんですよ。あれは営業努力とか見た目の魅力、会話術とかの言葉で片付けられるもんじゃない。
ホストから受け取った名刺をポケットティッシュ感覚で鞄に仕舞い込み、楓が店を出た時には辺りはすっかり暗くなり、繁華街は仕事帰りのサラリーマンたちで賑わい始めていた。
「江戸原は毛利野を使って不破を調べていた。何のために? 超能力...心をコントロール。高城と佐島は不破を迎えに行っている...。」
「樋口さん。」
ブツブツと独り言を呟きながら歩いていた楓は誰かに声を掛けられた。
街中を歩いていて男から声を掛けられることは楓にとって珍しい事ではなかった。
如何わしいバイトの勧誘だったり、単純にナンパだったりと大抵は楓の正体を知らない間抜けな男が多かったが、今回のケースはどうやら違うようだ。
相手は自分の名前を知っている上に、その声には聞き覚えがあったのだ。
振り返った楓がそこで見た人物はスーツ姿の社だった。
パターソンが店に到着した時にはオリバーは既にカウンター席でグラスを傾けていた。
時間を間違えてしまったのかと思ったパターソンがスマホで時間を確認してみたのだが、約束の時間の五分前であった。
「大丈夫ですよ。私がお酒を飲みたくて早く来すぎたんです。どうぞ。こちらへ。」
オリバーが指定した店は大柄なマスターが出迎えてくれる何時ものバーだった。
パターソンは促されるままにオリバーの隣に腰を落ち着かせるとマスターへ注文を伝えた。
「オリバーさん。今日は急にどうしたんだ。」
「その右手の掌の傷は
「...どうして。」
「差し支えなければ...包帯を解いて傷を見せてくれませんか。」
オリバーの超能力のような一言にパターソンは驚きを隠せなかった。
何故オリバーは私の掌の傷のことを知っているのであろうか。傍に居たヴィンセントにすらも見せていないのに。
「お待たせ。」
右手の包帯を強く握りしめたままのパターソンの前に黒糖梅酒のロックがマスターによって届けられた。
魅力的な香りと色の液体を口にしてみると幾分かパターソンの緊張を解してくれた。
梅酒から勇気を貰えた気がしたパターソンは右手の包帯を静かに解いていく。
完全に解けた包帯をカウンターの上に置くと隠していた右手の掌が露わとなった。
パターソンの右手の掌には大きな赤い引っ掻き傷が出来ていた。
その傷に心当たりが無いだけでも気持ち悪いのだが、その傷をより一層不気味にしている原因は傷の形にあった。
引っ掻き傷は右手の掌の上にローマ字の『A』を描いていたのだ。
気のせいなんかではなく、赤い色鉛筆で描いたかのようにはっきりと文字として認識できるレベルなのだった。
「スティグマータ...。」
「えっ? 」
パターソンの掌の傷を見たオリバーがポツリと呟いた。
「日本語では
「わ、私はボディーガード時代から無神論を貫いてきているんだ。そんな傷とは無縁のはずだぞ。」
焦りだろうか、それとも不安なのだろうか。気が付けばパターソンは強い口調でオリバーに詰め寄ってしまっていた。
「レイン君。私は貴女に一つ隠していたことがあります。」
こんなにもパターソンが動揺していたのは、脳裏で
『君にある人物が傷を見せてくれと言うはずだ』
そう。その人の言葉通りになっているのだ。
「私は本来は公安第五課の課長ではなく、『
「エデン? 」
「A.Cの『A』、見つけると言う意味のdetectの『de』、無効にする者と言う意味のNullifierの『N』を取って命名された組織です。目的としては『A.C』の発見と壊滅をするために秘密裏に集められた集団なんです。」
オリバーは店の紙ナプキンに三つの英単語を書き込み、その頭文字に順番に丸印を付けていった。
「単刀直入に申し上げます。レイン君。我々の組織に入ってもらえませんか。」
これもやはりある人物の言葉通りだ。
『AdeNと言う組織が君を勧誘してくるはずだよ』
それは今日の朝のこと。
パターソンが出勤しようと自宅であるワンルームマンションを出たところで出会ったのだ。
そこは以前にオリバーと初めて出会った場所でもあった。
「あなたは...。」
彼女が対峙した人物は身に覚えのある服装だった。
真黒なローブ。フードを目深に被っていて顔は見えない。
レオスと椎名唯華と対峙した黒フードと間違いなく同一人物だ。
「やあ。久し振り。レイン・パターソン。」
「どうして...。」
パターソンはゆっくりと臨戦態勢に入るが、どうしても椎名の時の悪い記憶が蘇ってきて肩や足に余計な力が入ってしまう。
「いやね。今日は君と戦いに来たんじゃないの。俺は君を救いに来たのよ。」
「はっ? 何をい...。」
真っ暗闇の中から現れたのは若い男だった。
ローブとは対照的な白い肌に白い髪。吸い込まれそうな深紅の瞳。
暗闇から抜け出した白髪の若い男は眩しそうに朝の空を見上げている。
「お前は一体...誰んだ。」
男は太陽からパターソンへと視線を戻すとニヤリと笑った。
「俺は
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中原逐鹿(後半)
一通りの料理を食べ尽くしたテーブルの上から空になった食器たちが順々に回収されていく。
「それにしても本当にあの子をうちのメンバーに入れるの? 」
満足そうに中国茶を啜っていた叶は正面の座る黒ローブ姿の葛葉に問い掛けた。
「ああ。お前も見たろ? 彼女の能力。」
「葛葉さん。あれはヤベェっすよ。まじで。下手したら...
不破がブルッと肩を震わせながら口を挟むとニコニコと笑みを浮かべた環も続けて口を開いた。
「私はパタ姉加入に大さんせーい! またパタ姉と遊びたいなー。」
「まぁ。何にせよ葛葉が決めたことに僕は従うよ。」
最後の叶の言葉を聞いた不破と環が同意の言葉を口にしたのを聞いた葛葉は楽しそうに笑った。
「じゃあ...後は『是非に及ばず』って感じか。どこのポケットに入るかはあいつ次第ってことよ。」
空の皿しか乗っていないターンテーブルを葛葉がルーレットのようにして勢い良く回した。
夜の繁華街には何とも似つかわしくない男と対面していた。
「捜査二課のエリート課長がこんな場所で何してるんですか? 」
「この近くにお気に入りのバーがありましてね。そこへ行こうとしていたら見覚えのある人影を見つけたんで声を掛けてみたんですよ。」
停職中の自分がしていることがバレても面倒だと考えていた楓はいち早くこの場を立ち去りたかった。
「そうですか。では、私はこれで失礼します。」
三十六計逃げるに如かずだ。一礼をしてから楓は社に背を向けた。
「是非に及ばず。」
社の声に楓が振り返ると社は同じ場所に立ったまま楓を見つめていた。
「樋口さん。自身のキャリアと命を守りたいなら、それ以上は踏み込んではいけない。」
酔っ払ったサラリーマンたちの愚痴や若者たちの無秩序な笑い声に客引きの呼び声が轟く中で、社の言葉は妙にはっきりと楓に聞こえていたのだった。
「なんの...話をされているんでしょう? 社さん。」
「今ならまだ間に合う。どうか賢明なご判断を。」
そう言いながら楓に向かって一礼をする社を見て、楓は無意識の内に両手の拳を力強く握りしめていた。
「社さんが仰られている意味は分かりかねますが、私は自分の信念を曲げるつもりはありません。それに部下の命の代償は耳を揃えて払ってもらうで。相手が誰であろうとや。」
「...そうですか。残念です。本当に。」
それ以上は何も言わずに社は夜の喧噪の中へと消えていった。
何かを考え込むように沈黙してしまったパターソンの顔色を窺いながら、オリバーはウイスキーを口にしてから話を続けた。
「レイン君も今まで見てきたから分かると思いますが、この世界には人知や科学を超えている能力を持ち合わせた人間が一定数存在しています。」
「能力...。それって椎名さんやエリーさん、周央さん。今まで私が携わってきた事件の容疑者たちのことですか。」
パターソンは今までに出会った容疑者たちの顔を思い浮かべていた。
その中には名前を上げなかった環や叶、葛葉の顔もあった。
「そうです。彼らは人知を超える力を持ってしまったがために歴史的にも差別、迫害、淘汰されてきました。そんな彼らに...いや、彼らの能力に目を付けた一部の権力者が能力研究を目的としてある施設に彼らを保護するようになったのです。その施設は『
「別に『
葛葉は未だに状況が飲み込めないパターソンを他所に、遠い過去を懐かしみながら再び空を見上げた。
「でもさ。ある日思ったんだ。俺らの力を上手いこと使えば『
自信と熱意で燃える葛葉の赤い瞳はどこまでも真っすぐに、遠くを見据えているようだった。
空の向こう側を見つめたまま葛葉は言葉を続ける。
「これは正当な権利の行使なんだ。俺等が俺等らしく幸せに生きるための。誰にも邪魔されずに俺等だけの国を作る。そのために闘うと決めた。あんたも目覚めたばかり見たいだけど、こっち側の人間なんだろ? 」
そう言うと葛葉の赤い視線が空からパターソンの右手に移った。
「私は...分からない。」
否が応にも包帯が巻かれた右手の拳に力が入ってしまう。
「迷ってるなら面白い事を一つ教えて上げようか。君が守れなかった人。渋谷ハジメも元『A.C』の人間なんだ。つまり、彼も能力者だったってことよ。」
「それ...本当なのか? 」
葛葉によって次々と明かされる真実。パターソンにとっては渋谷ハジメと言う男の本当の名前すら初めて知ることなのであった。
「彼の最期を見たら俺等がどんな扱いを受けてきたか分かるでしょ? わりーことは言わないから、俺等の仲間に入りなよ。渋谷ハジメみたいな体験したいって言うドMじゃないんなら、こっちに来なよ。」
葛葉はニヤリと笑いながらパターソンに向かって右手を差し出した。
「ある日、一部のグループが施設を抜け出しました。彼らは自分たちの力を使い自分たちだけの国を創ると権力者に宣言したのです。彼らは自分たちを『One Color』を皮肉って『
「その『AdeN』に私も...? 」
「そうです。レイン君。私たちには君の力が必要なんです。大袈裟な言い方に聞こえるかもしれませんが、世界平和のためにも私たちには力を貸してくれませんか? 」
バーカウンターの椅子に腰かけたままではあるが、オリバーはパターソンに向かって深く頭を下げる。
パターソンの頭の中で今朝の葛葉との邂逅と現在進行形で続くオリバーの告白が綯交ぜとなって押し寄せて来ていた。
「一つ...聞きたいことがあるんだ。オリバーさん。」
「なんでしょうか? 」
「渋谷ハジメのことだ。全て知っていたのか...最初から。」
『渋谷ハジメ』と言う単語を境に二人の表情は逆転してしまった。
目を見開きながら驚くオリバーの横でパターソンは迷いを振り切るように残っていた梅酒を一気に飲み干した。
「彼は...渋谷さんは『AdeN』に処分されたってこと? 」
「さぁ。どうなんだろうね。あんたの上司にでも聞いてみなよ。兎に角、死んじまった奴の話をしたって何にもならないんだ。未来ある人間の話をしようぜ。結局のところ、あんたはどうする? 」
前を向き続けている葛葉の右手は未だにパターソンに向かって差し伸べられたままだ。
「私には『A.C』のことも『AdeN』のことも分からない。この右手のことだって...分からないんだ。もしかしたら、君が正義なのかも知れない。でも、今の私には...とてもじゃないけど決められない。決められるわけないだろ!? 」
今まで抑えていた感情を爆発させるようにパターソンが叫ぶと葛葉は短く、小さなため息を吐き捨てた。
「そっかー...残念だな。マジで。」
「ハジメ君のことは知っていました。彼は元々『One Color』に居た一人であり、『A.C』に所属していた人物でした。」
オリバーはカウンターの上のロックグラスに目を向けてみるとロックグラスの中では、琥珀色のウイスキーの表面に氷から溶け出した水が透明な薄い層を作ってしまっていた。
「やっぱり...知っていたのに私に黙っていたのか。」
オリバーには抑揚の無いパターソンの話し方が彼女の中で込み上がっている怒りと失望を逆に際立たせているように思えてならなかった。
「そのことに関しては申し開きのしようもありません。ただ、私はレイン君を騙そうなど思っておりません。その時が来たら打ち明けるつもりでした。」
「オリバーさんは私の能力が目覚めたから話してくれたんだよな。それって、私が能力に目覚めなかったら教えてくれなかったってこと。つまり、オリバーさんは『
「それは違います! 『AdeN』では時として非道な決断を迫られる場合があります。だから、無関係な人は巻き込まないに越したことありません。だから...。」
珍しく感情的になったオリバーがパターソンの右腕を縋るように掴み訴えかけたのだが、パターソンは彼の手を躱して静かに立ち上がる。
「すいません。少し...考えさせてくれ。」
目に涙を浮かべたパターソンは振り返ることなく逃げるようにしてバーを飛び出して行ってしまった。
「追いかけないのかい? 」
バーカウンターの中で一連の流れを見届けていた大柄なマスターがオリバーへ声を掛けた。
「ベルモンドさん。私が彼女を追いかけたとして、何と声を掛ければ良いんでしょうか。我々の何を伝えれば...。」
「さぁな。俺にも分かんねぇな。今はまぁ。」
ベルモンドはオリバーの前にある二層の液体が入ったロックグラスを取り上げると、そこに綺麗な琥珀色一色の別のグラスを置いた。
「美味い酒を飲むか、神様にでも祈るかしかねぇんじゃねぇかな。」
一人取り残されたオリバーはベルモンドが出してくれた新しいグラスを持ち上げると、半分ほどを一気に飲み干した。
繁華街を後にした楓は自宅とは別方向にあるファミレスに居た。
ボックス席に一人座る楓の前に二枚のプレートが届けられた。
このファミレス名物の俵型ハンバーグが二つ並んだ二枚のプレートが楓の前に一枚。それと対面の誰も座ってない席の前にもう一枚と置かれる。
プレートを置いた店員の不思議そうな表情も気にも留めずに楓は鉄板を見つめていた。
店も、席も、頼んだメニューも、あの日と全く同じだった。
ただ一つ違うのは、目の前の席に賭けに勝って勝ち誇る生意気な部下が居ないことだけだ。
ジュージューと勢いを増していく二枚の鉄板に向かって、楓は目を瞑ると静かに手を合わせる。
「高城、佐島。見とってな。」
固い決意とともに目を開けた楓はナイフとフォークを手に取り、目の前にある俵型ハンバーグにナイフを入れて少し遅くなってしまった夕食を食べ始めた。
パターソンは何も考えずに無心で走っていた。
夜の闇を駆け抜けたパターソンが行き着いた場所は見覚えのある公園だった。
そう。いつもランニングをしていたあの公園だった。
人影の無い公園の真ん中で、肩で息をしながら頬を伝う涙を服の袖で拭う。
自分はどうするべきなのか。
AdeNとはなんなのか。
A.Cとはなんのか。
自分の力とはなんなのか。
静寂に包まれる公園とは真逆に様々な疑問と疑念が騒がしくパターソンの脳内を駆け巡っていく。
帰巣本能と言うものは恐ろしいもので考え事をしながら無心で歩いていたパターソンは、いつの間にかランニングコースの最後の直線の並木道に立っていた。
「パタ姉。大丈夫? 」
左右に幾つかのベンチがある道でこの声に話し掛けられるのは二度目のことのはずだった。
パターソンが声の聞こえた右の方に顔を向けると、心配そうにパターソンの顔を覗き込む環がベンチに座っていたのだ。
「環君...。」
「あー! 名前覚えててくれたの? 嬉しいな。」
嬉しそうにニコニコと笑う環の姿には確かに不気味さもあったが、どこかホッとさせられるような一面も持ち合わせていた。
「今日はね葛葉からの伝言を伝えに来たの。」
「伝言? 」
「そう。えーとね。『二日後の今朝と同じ時間、同じ場所で正式な返事を聞かせてくれ』だってさ。」
パターソンはオリバーへと返事と同様に葛葉に対しても明言を避けていた。
その時の葛葉は何も言わずに去っていったのだが、どうやら悠長にいつまでも待ってはくれないようだ。
「じゃあ。またね。私もパタ姉と一緒に遊べるの楽しみにしてるね。」
そう言い残すと笑顔のまま環はパターソンの前から姿を消してしまったが、それに関しては最早何も感じなくなっていたのだった。
「二日後って...勝手なことばっかり。」
暗闇の中で途方に暮れたパターソンは環が座っていたベンチへと腰を下ろす。
そこには姿を消した環の温もりだけが微かに残っていた。
「私はどうすればいいんだ...誰か教えてよ。」
パターソンは神に助けを乞おうと夜空を見上げた。
真っ暗な夜空には細々と輝く星々と丸い月が
...二つ?
月だと思ったそれは月などではなく光の輪だった。
そう。あの日に見た光の輪。
空を見上げたまま固まっているパターソンの顔の五、六十センチ上空に出来た光の輪は見る見る内に大きくなっていき、あの時のように輪の中心からは白い人間の手がパターソンの顔を目掛けて伸びてきている。
無意識にパターソンは自身の右手を挙げて、その手を握った。
「はー...ひっさしぶりに声出せたわ。」
手を握った瞬間に光の輪は消えてしまい、その代わりに聞き覚えのある声と姿がベンチの前に現れたのだ。
「君は...。」
パターソンは我が目を疑った。ベンチの前に現れたのは椎名唯華だった。
「また会えたな。レインちゃん。」
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哭岐泣練
光の輪の中から現れた椎名は「寒っ」とボヤキながらパターソンに体をぴったりと寄せて座った。
どうやらパターソンの体温で暖を取ろうとしているらしい。
「で。今日はどうしたん? 」
「えっ? な、何がどういうことなんだ。」
「なんや。あたしは用も無いのにこんな寒い中呼び出されたん。まぁ...久々に人と会話出来るからええか。」
パターソンの反応を見た椎名は不服そうに口を尖らせてはいたのだが、その体は人恋しそうにパターソンにピッタリと寄り添ったままだ。
「レインちゃんは最近元気してた? あたしは御覧の通り。ホンマ酷いと思わん? 」
「ああ。私はボチボチ...じゃなくて! どうして光の輪から椎名さんが出てきたんだ。」
「そりゃ。あたしが
「えっ?
椎名の言葉の意味を直ぐに理解することはパターソンには出来なかった。
死んだ?
彼女は何を言っているのだろうか。
パターソンの左半身には確かに椎名唯華の体の温もりが伝わってきているというのに『死んだ』とはどういうことなのだろうか。
「こんな若かくて可愛らしい乙女を殺そうとするとかありえんやろ? ホンマまだ美味しいもん食べたりしたかったのになー。あの葛葉っちゅう奴はマジで無茶苦茶やで。」
「葛葉? 椎名さんは葛葉に殺されたのか!? 」
「ん? 葛葉のこと知ってんの? それなら話が早いわ。あいつはあたしを『A.C』に加入させるためにホテルから攫ったらしいんよ。でも、あたしはそーいうのめんどーやから断ったんよ。そしたら急に『入らないなら消すわ』とか言い出しよってさ。必死に逃げてたんやけど猫娘みたいな子に追い詰められちゃった時に慌てて道路を横断しようとして事故っちゃたんよ。焦って力を使い忘れたんが運の尽きやったね。」
「はぁー」と項垂れて溜息をついていた椎名は悔しそうに両手の拳を自身の膝に叩きつけている。
「えっ...と...そうすると椎名さんは幽霊ってこと? 」
「せやで。ってホンマに分かってて呼んだんちゃうんや。」
「...全く。」
「マジでか!? あんた凄い能力者なんやで。なんたってその右手で触れたことがある能力者の力を一時的に使えるようになるんやから。」
「能力者の...力を? 」
「せやねん。相手が生きている間にレインちゃんの右手が触れていれば問答無用で呼び出せんで。ただし、
まるで、自分の力であるかのように椎名はドヤ顔でパターソンに秘められた本人も気が付いていなかった力について教えてくれた。
だが、パターソンは直ぐに椎名の言葉を信じることは出来なかった。
今まで二十年以上生きてきて、そんな経験をしたことはなかったし、匂わせるような出来事も体験していなかったからだ。
その時、パターソンは叶と対峙した際に現れた手を掴んだ時に聞こえてきた声が頭を過ぎった。
『パターソン様。またお会い出来て嬉しゅう御座います。』
そうだ。あれは...。
確かにエリー・コニファーの声だった。
その言葉と共にエリーの優しい笑顔がフラッシュバックする。
椎名の言っていることは事実なのかも知れない。パターソンはそう思い始めていたが、他にも気になることが残っていた。
「椎名さんは何でそんなに私の力について詳しいんだ? 」
「ああ。それはレインちゃんの力を前はな
「椎名さんも『One Color』に居たのか。でも、何でその力を私が使えるんだ? 」
「そうそう。ワンカラーや。短期間でレインちゃん随分詳しなってるな。で、使える理由っ言われてもあたしがそんなことまで知るわけないやんか。」
「そう...だよね。ごめん。」
軽い感じで笑って受け流していた椎名の横で、パターソンがあからさまにガックリと肩を落としていた。
一見すると椎名が生者で、パターソンが死者であるかのようであった。
「...レインちゃんがあたしを呼び出したってことは、なんかしらの問題があったってことや。とりあえず、何があったか話してみ。」
そう言うと椎名はパターソンの右手の掌を優しく握った。
アクシアの運転する車がローレンの自宅の前に到着した。
「悪いなアクシア。助かったわ。」
オリバーとパターソンのデートに割り込めなかった二人は作戦会議がてらアクシアの車で共に帰宅することにしたのだ。
「どうせ帰り道の途中だから気にすんなよ。そんなことよりも明日はパタ姉と直接対決ってことでいいんだな。ローレン。」
「ああ。ウジウジと悩むぐらなら真っ正面から行った方が俺らしいって思ってさ。付き合わせちゃって悪ぃな。」
ハンドルを握るアクシアに笑顔で感謝を伝えたローレンは車から降りて行き、助手席の窓ガラス越しに別れの挨拶を伝える。
「じゃあ明日な。おやすみ。」
少しくぐもって聞こえたローレンのその言葉に手を振って応えていた丁度その時、アクシアのスマホがあるメッセージの受信を告げた。
ローレンの背中が小さくなったのを確認したアクシアが上着の内ポケットからスマホを取り出してみると、画面には短い一件のメッセージが表示されていた。
『ローレンの様子は? 』
椎名はパターソンの右手を握ったまま最後まで話を聞き続けた。
叶の事件の話。自身の右手の変化。そして現れた光の輪と手。葛葉との出会い。オリバーの告白。
普通の人に話したって到底信じてもらえないような話なのだが、相手が『
「なるほどなー。せやからレインちゃんはあたしを呼んだってことか。」
「えっ? どういう事だ? 」
椎名は握ったままのパターソンの右手を持ち上げた。
「叶っちゅう奴の時もそう。この右手はレインちゃんがピンチになると力を発揮する。つまり、今回はあたしの力で何かを解決したかったってことにならん? 」
そこまで言われてパターソンは椎名の不思議な力を思い出した。
彼女の力。それは『正しい選択肢を選べる』というものだ。
「そうか...。」
パターソンの口から思わず言葉が漏れる。
葛葉なのか、オリバーなのか。
自分が進むべき道はどちらなのかを教えて欲しかった。
「そうだよ。椎名さん。力を貸してくれないか。私は...私はどっちに。」
「あかん。」
思ってもみなかった椎名の拒絶にパターソンは、しばし言葉を失ってしまう。
「レインちゃん。あたしはきっと正解を教えてあげられる。でも、レインちゃんが納得しないであたしが決めた道に進んだとしてや、本当に後悔せんか? 本当に幸せになれるんか? レインちゃんは『
何も言い返せなかった。
『そんなことはない』
喉から出掛かったその言葉を何かが堰き止めていた。
「あたしは今までずーーーーっと正解を選び続けていたのに最後の最後で力を使わずに事故にあってこの有様や。でもなレインちゃん。あたし後悔はしてへんねん。」
椎名は夜空を見上げながら笑った。
「本当の意味で初めて自分で決めたことなんやから諦めもつく。すこーし悔しいけどな。だけど万が一、力を使った先の未来がこれやったらあたしは納得いかんてブチ切れてるわ。要するにや、神様にサイコロなんて振らせるんやない。自分の手で振るんや。神様の出番なんてサイコロを振る直前と直後ぐらいで丁度ええんよ。」
空を見上げていた『神様』は握っていたパターソンの手を放して立ち上がる。
「ちゅうわけやから。あたしはそろそろ帰るわ。久々に話が出来て良かったわ。ほな、またな。」
立ち上がった椎名がパターソンへ向けて右手を差し出した。
パターソンは彼女の笑顔を黙ったまま暫く見つめてから、ニッコリと微笑んだ。
「椎名さん...ありがとう。」
差し出された彼女の右手を握ると二人の掌の中から光が漏れ出し始める。
「ええって。レインちゃんがどっちを選んだとしてもあたしはレインちゃんがホンマに困った時は、ちゃんと助けたるから安心してな。」
ベンチの前に少し強い夜風が吹き抜ける。
気が付けば、パターソンが差し出した手の先に居たはずの椎名の姿は消えていた。
次の日、公安第五課のオフィスにパターソンの姿はなかった。
直接対決と意気込んでいたローレンは見事に肩透かしを喰らい、前日から貯め込んでいた気合の発散先を探すかのように世話しなく体を動かしている。
オリバーも心ここに非ずと言ったような様子でスマホを何度も確認するも、パターソンからの連絡が無いのは勿論、オリバーが送ったメッセージの返信も朝から無いのであった。
そんなオリバーの表情を気にしながらもアクシアはローレンの不安と興奮を宥めるための話し相手をしていたのだった。
「流石だなヴィンセントさん。もうこんなに回復しているなんて。」
その頃、パターソンが居たのはレオスの入院している病室だった。
「私を誰だと思ってるんですか? これでも遅いぐらいですよ。」
痛々しく包帯が巻かれた体に反して、レオスは自信満々の表情を浮かべている。
「ヴィンセントさん。椎名唯華のことを覚えてるか? 」
「なんですか。突然。覚えてはいますよ。あの多世界少女ですよね。」
「
「ああ...えーと、未来が見える少女ですね。」
パターソン頭の上に大きな「?」が見えたレオスが言葉を選び直した。
「そうそう。昨日の夜に彼女と偶然再開したんだが、何だか面白いことを言っていたんだ。彼女は未来が見えると言っていたろ? 」
話の要点は全く見えないけれど、レオスは「ええ」と相槌を打ちながら大人しくパターソンの話を聞き続けた。
「そんな彼女が面白いことを言っていたんだ。『神様にサイコロなんて振らせるな。自分の手で振れ。神様の出番なんてサイコロを振る直前と直後だけでいい』って言うんだ。未来が見えるはずの彼女がだぞ。」
『面白いこと』と言っている割にはパターソンが浮かべる笑顔は何処か影がある様にもレオスには見えていた。
「確かに...そうですね。この世界はあらゆる可能性が多世界となって重なり合いの状態で存在していると言われていますね。それはどんな小さな選択だとしてもです。会社を辞めて新たな地を選ぶ時も、ギャンブルをしている時も、自動販売機の前で何を買おうか迷っている時も、どんな場合でも須らく同じなんですねー。その全てに正解して生きていくことなんて到底出来ません。ですから、本当に大切な事は『サイコロでベストを振り続けること』ではなく『出た目でベストを尽くし続けること』ってことじゃないですかね。」
「出た目で...。」
毎日聞いていると煩わしく感じるようなレオスの早口なのだが久し振りだからなのだろうか、それとも別の要因なのかは分からないがパターソンは彼の早口をやけに心地良く、素直に聞くことが出来ていたのだった。
「この世界は光子でさえも時間を逆行することは出来ません。叶わぬ多世界のリセマラを願う時間があるのなら、選ばれた世界で一歩でも前に進める方法を見つける方が賢いやり方だと言うことです。だから私はリハビリを全力でしているんです。自分が撃たれなかった世界を妄想して拗ねていても、私の足は動きませんからねー。」
そう言うとレオスはベッドに掴まりではあったが、パターソンの前で自分の両足だけで立ち上がって見せたのだ。
「これは神様の力でも超能力でもありません。私自身の頭脳と体力がもたらした結果なんですね。」
立ち上がったレオスは笑っている。
まだ痛むのかもしれない。
彼の笑顔は幾分か引き攣っているようにも見えた。
そのことが可笑しくて、パターソンもつられて笑ってしまった。
可笑しいはずなのに何故だろうか。
パターソンの両頬には一筋の涙が流れていた。
そして、彼女は自分で選んだ世界でベストを尽くすことを決心した。
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飛龍乗雲(前編)
約束の朝を迎えた。
あの日と同じ気持ち良く晴れた爽やかな空気の中、葛葉は同じ場所で待っていた。
「答えを聞きに来たんだけど、腹は決まったかな? 」
「ああ。勿論だ。」
パターソンの言葉にもう迷いはなく、しっかりと正面を見据える瞳がそれを証明していた。
彼女の表情を見つめていた葛葉にもパターソンの決断は伝わっているようだ。
「で? どうなの? 」
葛葉は前回の別れの時のつまらなそうな表情と違い、期待に満ちた表情で楽しそうに笑っている。
「私は知らない内に
「『
「そうね...。でも、私は今の仲間のことも、能力者のことも諦めたくない。だから、私は君ともオリバーさんとも組まない。君たちがそうしたように私も私のやり方で答えを出して見せるよ。」
出来るわけない。
そんなことはパターソンにも分かっていた。
たった一人の人間すらも守れなかった自分が言っても説得力のないことはパターソン自身が一番分かっている。
それでもこれが椎名やレオスのアドバイスから得たパターソンの答えなのだった。
「それさぁ...マジで言ってんの? 」
ある意味で予想通りの言葉が葛葉から返ってきた。
口元こそ笑ってはいたが、葛葉の赤い瞳は狩りに興ずる前の獣の如く、パターソンを鋭く捕えている。
「マジだよ。私は君たち『Any Color』も救ってみせる。」
「オーケー。オーケー。分かったよ。そっちがその気なら交渉は決裂。」
そう言いながら葛葉がパチンと指を鳴らすと、パターソンは背後から人の気配が近づいて来るのを感じ取った。
てっきり『A.C』の援軍だと思い込んだパターソンが急いで振り返ったのだが、後ろから近付いてきていたのは歩きスマホの女子高生とロングコートを羽織ったサラリーマンだ。
恐らく二人ともこの先にある駅に向かっているのだろう。よく考えてみれば丁度通勤通学の時間帯と重なっている。
でも、おかしい。
葛葉が指を鳴らすまでは誰も通っていない。
それに、思い出してみれば二日前も二人が会話をしている時に第三者は通っていなかった。
「あ? 気付いた? これね。俺の能力なの。俺は一時的に時間の流れを止められんの。まぁ。正確に言うとちょーっと違うんだけどねー。」
パチンと乾いた音が再び鳴ったかと思えば、後ろから近付いて来ていたはずの二人の足取りが、パターソンの見ている目の前でピタッと止ってしまったのだ。
「実は前に不破と椎名を攫いに行った時にも見せてたんだけどね。あの時は黒ローブを被せた不破を部屋に向かわせて、後ろで俺が時間を止めてたんだけどね。」
葛葉の言葉でパターソンの中である一つの疑問が解決した。
不破と警視庁の地下で初めて会った時に感じたこと。
『以前にどこかで私と会ったことがありませんか? 』
パターソンが初めて不破に会った時に言った言葉だ。
彼女にそう言わせていた記憶。それは椎名の事件の時に仮面の人物と対峙した際に見た仮面の奥から覗いていた青い瞳だった。
不破はパターソンの質問を上手く躱していたが、やはり会っていたのだ。
「これは
葛葉の指がゆっくりと動く。
先ほどまでハッキリと聞こえていたはずの指の鳴る音が遠くに感じた。
次の瞬間、パターソンの目の前から葛葉の姿は見えており、止まっていた二人の通行人も何事も無かったかのように再び動き出したのだった。
公安第五課のオフィスには久し振りに五人の姿が揃っている。
応接用のソファに座ったレオスは対面に座っているオリバーへ復帰報告をしていた。
レオスの横には相棒であるパターソンも同席しており、ローレンとアクシアは自身のデスクに座りながらソファの様子を窺っているようだ。
職場復帰まではもう少し時間が掛かると思われていたのだが、医者も驚く回復力と気力でリハビリをこなしていたレオスは考えうる上での最短コースを通り職場復帰を果たしたのだった。
「おかえりなさい。随分と頑張っていたみたいですね。」
「この程度大したことありませんね。普段から体も鍛えていましたし、効率良く栄養を取りながら体を動かして行けば良いんですよ。」
ニコニコと嬉しそうに笑うオリバーに対して、レオスは何とも涼しげな顔で聞いてもいないのに自身の手足を動かしながら体の構造についての説明を始めてしまっていた。
「まぁまぁ。その話は今度個人的にゆっくり聞かせてもらうとして、実は二人に探してもらいたいものがあるんですよ。」
「探しもの? 事件の証拠か何かなのかオリバーさん。」
パターソンの言葉を聞いたオリバーが微かに笑った。
「いいえ。二人に探してもらいたいもの。それは『
同じく謹慎が解けて職場に復帰した楓が最初に向かった先は畑違いの捜査二課のオフィスだった。
突然現れた楓に騒めく刑事たちの中を脇目もくれずに社のデスクまで楓が突き進んでいくが、その様子を座ったまま見つめていた社は慌てることなく、座ったまま待ち構えている。
「おはようございます。樋口課長。今日から復帰ですか? 」
全く気持ちの込められてない社の社交辞令を受け流した楓は、社のデスクの上に叩きつけるように両手を置いた。
楓の掌とデスクの衝突するバンッと言う強い音が二課のオフィスに響くと、騒がしかった二課は水を打ったように静かになった。
「社課長。どういう事ですか? 」
「...何のことかな? 」
「聞きましたよ。高城の取り調べは一課が担当していたはずなのに私が休んでいる間に二課に移ったらしいじゃないですか。」
「ああ...その件ですか。樋口課長が居らっしゃらなかったので課長代理に話は通しているはずですが? 」
楓は右手をもう一度デスクに叩きつけたが、やはり社は表情一つ変えることはない。
「...ちゃう。手続き云々の話をしてるんやなくて、なんで今になってアンタらが首突っ込んでくるんかって聞いてんねん。」
「そう興奮なさらずに。私は上に言われた通りにしただけですよ。警察官なら私が言っていること分かりますよね? 樋口課長。」
飄々をした社の顔を見つけていた楓は唇をギュッと噛み締めるだけで何も言い返せなかった。
せめてもの抵抗で楓はデスクに腕を振り下ろして三度目となる快音を二課に響かせると、入ってきた時と同じ様に早足に二課を出ていってしまった。
パターソンはオリバーの言葉に我が耳を疑った。
「今...『ドラゴン』って言ったのか? 」
「ええ。言いました。」
オリバーは至って冷静な口調でそれを認めてしまったのだ。
「レイン君。私が入院している間にパンダのように中国の山奥か何かで龍が発見されていたんですか? それは凄いことですよ。是非お目にかかりたいですねー。」
「えぇ....いや、そんな話は聞いたことは...。」
「それがあったんです。目撃情報が。」
『えっ? 』
半分冗談で聞いたつもりだったレオスもパターソンとほぼ同時に驚きの声を思わずあげていた。
「警察にも何件か都民から『赤いドラゴン』を見たとか、『ドラゴンに乗った青い髪の少女』を見たという通報が何件かありましたし、実際に赤いドラゴンに襲われて入院中の方も居るんですよ。」
「『
「いやいや。流石の私も『ドラゴン』が実在しているとは思っていませんよ。私がお願いしたいことは『ドラゴン』の正体を調べて欲しいんです。ローレン君とアクシア君たちにも先に捜査してもらってるんですけど、まず二人にはドラゴンに襲われたと証言している被害者に会いに行ってもらいたいんです。」
そう言うとオリバーはレオスに病院の名前と住所が書かれたメモを手渡した。
「ふむ。とても興味深いですね。では行ってみましょうか。レイン君。」
オリバーからメモを受け取り立ち上がったレオスは、隣に座るパターソンへと言葉を掛けるが彼女はまだソファに座ったままだった。
「すまない。先に行っててくれないかヴィンセントさん。直ぐに追いかけるから。」
「...そうですか。では車で待ってますから出来るだけ早く来てくださいねー。」
パターソンの真剣な目に何かを察したレオスは、それ以上は何も聞かずに一人でオフィスを出ていってくれた。
「オリバーさん。この間のお話なんですが、お断りさせていただきます。申し訳ない。」
パターソンは座ったままでオリバーに向かい頭を下げた。
「それは...
やけに落ち着いた口調でオリバーが尋ねると、パターソンは頭を上げてオリバーの目を見つめながら話を続けた。
「いや。そうではないんだ。私はどちら側も助けたいんだ。あっちとかこっちとかは分からない。でも、私は私が立っている
「君が立っているソコが一番辛く、一番苦しい場所だとしてもですか? 対極で争う者たちは迷った時、苦しい時に寄り掛かったり休める為の『
「立ち続けてみせます。」
パターソンの短い言葉に込められた強い決意と想いの言霊はしっかりと伝わったようだ。
「そうですか。わかりました。」
「失礼します。」
パターソンは立ち上がり、再度オリバーに頭を下げてから廊下の方へと向かって行った。
「レイン君。それでも私たちは待ってますから。いつでも声を掛けて下さいね。」
部屋を出ようとしたパターソンの背中に言葉を掛けたオリバーに振り返ったパターソンは「はい」と笑顔で答えた。
少女は黄昏の世界がゆっくりと広がる街をスカイツリーの天辺から見下ろしていた。
天辺と言っても展望台などではなく、文字通りの天辺。真っすぐに伸びた塔の先端。
白い円形のステージとそれを取り囲むように金網が立っているスペースがそこにはあった。
どうやって侵入したのか少女は日本一高い白いステージからぼんやりと模型のような街並みを眺めている。
「はぁー...。強くなりたいなぁ...。」
彼女の小さな声は風の音にかき消されていった。
その時、白いステージと少女を黒い大きな影が一瞬で覆い隠したのだ。
少女は影に気が付いて振り返ると影の主を見つめて笑った。
「迎えに来てくれたの? ありがとー。」
影は嬉しそうに両翼を大きく広げた。
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飛龍乗雲(中編)
BARデラスの入口には『CLOSE』の札が掛かっていた。
まだ日付も変わる前だと言うのにだ。
と言っても、この店は不定休となっていたので稀にある事ではあった。
いつもと違ったのは『CLOSE』のはずの店内。一番奥のテーブル席に三人の人物が座っていたことだ。
「なるほどな。レインの嬢ちゃんも随分と男らしい決断したもんだな。」
手狭なテーブル席に窮屈そうにオリバーと仲良く並んで座っているベルモンドは手に丸い氷だけが残った空のロックグラスを持っている。
「ええ。いつの間にあんなにも強くなったのか...。」
「オリバーさん? 女の子を甘く見ない方が良いですよ! 」
自嘲気味に微笑むオリバーの前に座っていた女性はそう言いながら飲んでいた果実酒のグラスを勢い良くテーブルに置いた。
「先生。大分酔ってるみたいだけど、グラスは割らんでくれよ。」
「なにいってるんですかぁ。私はまだ酔ってませーん。」
ベルモンドから『先生』と呼ばれる女性。二人の前で顔を真っ赤にしながら酒を飲んでいたのは健屋であった。
普段の凛々しい白衣姿ではなく、ゆったりとした黒いオフショルダーのワンピースと言う可愛らしい姿でお気に入りの果実酒を嗜んでいるようだ。
二人がオリバーとここで酒を飲んでいる理由。
何を隠そうベルモンドも健屋も『AdeN』の一員なのだった。
ベルモンドは普段この店のマスターとして潜伏しているが、持ち前の身体能力を活かして対A.C殲滅作戦の最前線で鎮圧部隊の隊長的な役割を担っていた。元々は機動隊の隊長を務めており、カリスマ的な統率力と戦術に憧れて、彼の隊に入隊を志願してくる者は一人や二人ではなかった。
健屋の方は若き名医としてその天才的な腕前と医学に関する知識量や応用力を買われて、A.Cとの戦闘で負傷した者を関係機関への煩わしい報告なしに治療を施したり、保護した能力者の解析研究を担っていた。
「でも、私は諦めません。彼女の力は我々に必要になってくるはずですから。」
「オリバーさん。しつこい男は嫌われちゃいますよぉ。」
ご機嫌そうな健屋は笑いながら残っていた果実酒を一気に飲み干したタイミングで店の奥にあるお手洗いから出てきたのは黛だった。
「あーあー。もう完全に出来上がっちゃってるよ。」
「黛さーん。こっちこっち。一緒に飲みましょー。」
呆れ顔の黛を余所に健屋は空いている自分の椅子をポンポンと嬉しそうに叩いている。
黛も元警視庁のサイバー犯罪対策課に所属していた天才ホワイトハッカーで、健屋とはAdeN加入以前からの知り合いらしく良く二人で話していた。
彼がローレンと黒ローブが屋上で出会った雑居ビルに居合わせたのも偶然ではなかった。
AdeNの
黛たちはそのある人物の到着を待っていたのだが、予定の時間を過ぎても一向に姿を現わさないのだった。
病院に到着しパターソンとレオスは『赤いドラゴン』に襲われたと主張している男の病室を訪れていた。
男は二十代前半ぐらいだろうか短髪の髪を金色に染めて、ふてぶてしくベッドに寝そべっている。
「
パターソンはベットに近づくと金髪の男に向かい警察手帳を提示しながら話し掛けていたのだが、暇を持て余していた金髪の男は玩具を与えられた子供のように目を輝かせて上体を起こした。
「刑事って言うからむさ苦しいオッサンが来ると思ったけど、お姉さんみたいな可愛い刑事さんなら大歓迎よ。ねぇねぇ。なに話す? お姉さん彼氏いるの? 」
金髪男の無神経な言葉を聞いたパターソンの左手の拳に力が込められていくの見つけたレオスは、しばらく見守ってみようと差し出しかけた手と言葉をサッと引っ込めてしまった。
「彼氏はいませんけど...ってか必要じゃないし...じゃなくて! 『赤いドラゴン』に襲われた時の話を聞かせて下さい! 」
「『
顔を髪の色と同じぐらい真っ赤にしていたパターソンに思わずレオスが呟くとパワーが十分に充填されていた彼女の左ひじがレオスの
完全な流れ弾を喰らったレオスの小さな呻き声など気に留める様子もなく、金髪男はパターソンの顔や体に視線を這わせつつ会話を続けた。
「マジッ!? あとでLINE教えてよー。で、なんだっけ? ああ。あの赤いドラゴンね。あれは俺がバイトが終わって家に帰っている途中で、時間が夜の十時半ぐらいだったかな? 小さな公園のベンチに女の子が一人で座ってたのよ。青い長い髪をツインテールにしている幼い感じの可愛らしい女の子が寂しそうに下を向いてさ。」
その公園は遊具もない何をして遊ぶための場所かも分らぬ程に小さかった。
東もバイト帰りに公園内にあるベンチに腰掛けてタバコを吸ったり、スマホをいじったりしていたのだが、寂しい闇夜の中で可愛らしい少女が一人で問題のベンチに座っているのを見つけたのだ。
エメラルド色のワンピースを来ていた少女は寂しそうに自分の足元の地面をジッと見つめていた。
東が女性を素通りする訳もなく、連絡先を聞き出そうと少女に近付いて軽いノリで話し掛けると驚いた少女から短い悲鳴が上がる。
そんなことではへこたれない東が少女の隣に腰かけた時、ベンチの周りに広がる夜の闇がもう一段階暗くなった気がした。
「あっ。」
きょろきょろと辺りを確認する東の横で怯えて黙りこくっていた少女が初めて声を発したのだ。
外見のイメージにピッタリのおっとりとした声で彼女は後ろを振り向いたまま固まっている。
彼女が背後の何かを見つめているのを見て東は初めて気が付く。
ベンチ周辺が暗くなった原因。
それは大きな影だ。ベンチを丸ごと覆い隠すような大きな影。
次の瞬間、東は背中に当たる生温い風と獣の唸り声を耳にした。
東はそこで話を止めると徐に入院服を脱いで自分の背中をパターソンとレオスへ向けた。
彼の色白の背中には痛々しい赤黒い火傷の跡が残っていたのだ。
「これが『ドラゴン』が居たって証拠。俺が振り返ろうとした時に背中がめっちゃ熱くなった途端にスゲー力で吹っ飛ばされたんだよ。で、公園の端から端まで飛ばされた俺を見ていた青い髪の女の子の後ろにデッケー翼の生えた赤いドラゴンが立ってたっていう嘘みたいな本当のお話。」
「なるほどですねー。ちょっとよろしいですか? 」
話を終えて脱いだ入院着を再び着ようとしていた東を呼び止めたレオスは彼の背中の火傷の具合を確かめ始めた。
背中の火傷の跡は波紋状に広がっており、その中心部分に近付くほどに重度の傷となっているようだった。
「どうやら嘘ではないようですね。」
「は? 当然じゃん。そんな意味分かんない嘘ついても仕方ないでしょ。ってそうだ。しっかり話したんだからお姉さんの連絡先教えてよね。」
背中を確認し終えたレオスの言葉に冷たく返事をしていた東は直ぐに女性用モードに切り替えて、期待に満ちたキラキラとした目でパターソンを見つめていた。
「ありがとうございました。それでは失礼します。」
途轍もない早口と身のこなしで一礼をしたパターソンはレオスさえも置き去りにして目にも止まらぬ速さで病室を出ていった。
ポカンと口を開けて固まる東に若干同情をしたレオスが自分の名刺をポケットから取り出すと東に手渡した。
「これ。私の名刺です。寂しかったら何時でも連絡下さい。」
とある高層ビルの屋上で青い髪の少女は溜息をつきながら今日も街を見下ろしていた。
「派手にやっちゃったみたいだね。あまみゃ。」
彼女に後ろから声を掛けてきたのは不破だった。
「あー...不破っち。どーしよー。ボス怒ってるかなぁ。」
「いや。大丈夫っしょ。だってズハ君が『
潤んだ瞳で縋る少女を不破は慣れた口調で笑顔で宥めると少女は長い溜息を一つつく。
少女の名前は
幼さの残る容姿をしているが、彼女もまた『A.C』のメンバーの一人なのだ。
「でも...ボスに言われたのは『AdeN』のメンバーを襲えって言われたのに、全然関係ない人を襲っちゃったんですよぉ...。」
「まぁまぁ。あまみゃが手を出した訳じゃないんだし...。」
不破がそう言った直後だった。
不破は自身の背中に生温い風が当たるのを感じて、恐る恐る振り返ってみると目の前に赤いドラゴンの鼻先が大迫力で迫って来ていた。
「ちょいちょい! 俺は仲間だっての。」
「あーあ。ダメだよ。その人は悪い人じゃないから落ち着いてー。大丈夫だよ。」
後ろへ仰け反るように後退する不破を庇うように天宮が前に出て、興奮した様子のドラゴンの鼻先を優しく撫でると彼女に撫でられたドラゴンは気持ちよさそうに目を瞑り、荒れていた鼻息も穏やかになっていったのだった。
まるで、ペットの小動物をあやすかの如く自分の何十倍もの大きさのドラゴンを手懐けられる力。
それが天宮こころに宿る力だ。
彼女はドラゴンと心を通わせることで彼らに指示を出せることに加えて、ドラゴンたちもまた彼女を慕い、積極的に彼女の力になろうとしてくれていた。
そして、不破に威嚇をした雌の赤いドラゴンは一番付き合いも長く、天宮と心の通い合うドラゴンなのだった。
天宮もまた彼女の事を『ドーラ』と名付けて、常に行動を共にしていた。
東に公園で話しかけられた時もドーラが独断で彼女に近付く破廉恥な輩から守ろうとして攻撃を加えたのだ。
落ち着きを取り戻したドーラを見て、天宮も愛おしそうに自身のおでこを彼女の鼻先へと頬摺りするように当てる。
すると、ドーラも嬉しそうに大きな両翼をバサバサと羽ばたかせていた。
ドラゴン事件の捜査を終えたローレンとアクシアは少し遅めの夕食を済ませて帰宅している途中だった。
二人は例の小さな公園近辺での聞き込みを実施して、何件か公園の方が急に明るくなった。とか、夜中に獣の鳴き声のようなものが聞こえた。などの証言を得ることが出来たのだが、その中に有力と呼べるような情報は一つも無かった。
アクシアの運転する助手席ではローレンが大きな溜息を漏らしていた。
「なー。アクシア。本当にドラゴンなんて居ると思うか? ドラゴンだぜ。ドラゴン。まだツチノコ探して来いって言われた方が見つけられそうな気がするよな。」
進行方向の信号が黄色から赤へと変わり、車はゆっくりと停止線の手前で止まった。
「まぁーなー。RPGや御伽噺の世界でしか聞かない単語ではあるよな。俺もドラゴンが居るんなら背中に乗って空でも飛んでみたいね。」
「運転大好きアクシアさんでも流石にドラゴンは操縦したことは無いんだな。」
二人が待っていた信号機の色が赤から青へと変わった。
彼らの乗車している車以外には前にも後ろにも他の車は止まっていない。
それなのにアクシアはアクセルを踏むことなく、ハンドルを握ったままバックミラーを見つめて固まってしまっている。
「おい。どうした?? 信号青だぞ。」
「ローレン...後ろ。」
「あ? 」
目を見開き小さな声で囁くアクシアの言葉に従い、後ろを振り返ったローレンが見たものは大きく口を開いた赤いドラゴンの姿だったのだ。
想定外の出来事に言葉を失う二人。
二人が見つめる先であるドラゴンの口の奥では小さな炎が渦を巻きながら徐々に大きくなっていっている。
「アクシア! 出せ! 」
ローレンの大声を合図にアクシアは思いっきりアクセルを踏み込んだ。
アスファルトとタイヤが擦れる音と白煙が上がると車は猛スピードで走り出したのだが、車体は既にドラゴンの口から放たれた炎に半分ほど飲み込まれてしまっていた。
間一髪のところで炎から逃れられた車は勢いを落とすことなく暗い夜道を直進して行く。
しかし、アクシアの車の走行スピードよりも速いスピードで飛んできたドラゴンにあっという間に追い抜かれてしまい、そのまま赤いドラゴンは車の進行方向を遮るように仁王立ちで向かってくる車を待ち構えるように立ちはだかったのだ。
「おい! アクシア! 」
「クソッ! その動きはチートだろうが。」
フロントガラスの向こうに見えるドラゴンはその太く大きな腕を天高く振り上げたが、その矛先は明らかに二人の乗る車であった。
瞬時に状況判断をしたアクシアは急いでブレーキを踏むと同時にハンドルを思い切り切る。
すると車体は横向きになった状態でドラゴンの足元へと滑りだした。
運転席に身を振られたローレンの短い悲鳴を聞きながらアクシアは再びアクセルを踏み込んだ。
車体はV字を描くようにして百八十度向きを変えたのを確認してから、そのままスピンしてしまわないようにハンドル捌きとペダルの踏み込みを駆使しながらアクシアは見事に車体を安定させることに成功していた。
だが、無情にもドラゴンの手が薙ぎ払うように振り下ろされ、距離を稼げなかった車体後部へとヒットしてしまう。大きな衝撃を受けた乗用車は、まるでミニカーかの如く吹き飛ばされてしまい、運転席の方からガードレールへと物凄い衝撃音と共に衝突してしまったのだった。
完全に運転席側が半分潰れてしまい動かなくなった車を見つめたドラゴンは満足気に咆哮し、翼を広げ漆黒の夜空へと飛び立っていった。
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飛龍乗雲(後編)
22:03 BARデラス
いくら待っていても最後の一人は現れなかった。
「遅いなー。あいつ。どうする? オリバー? 四人だけで進めちゃうか? 」
隣に座るオリバーに話し掛けたベルモンドの前にはロックグラスどころか、気が付けばスコッチウイスキーの空き瓶が一本出来上がってしまっていた。
「いや。大切な話なので日を改めましょうか。連絡を送っても返って来ないですから。」
オリバーがスマホを見るも、その人物へと送ったメッセージには未だに既読の文字は付かないままだった。
今夜は解散の決断が下されたので黛は足元の覚束ない健屋を送るため先に店を後にしたが、片付けの手伝いを申し出たオリバーはベルモンと一緒にドテーブルに残った空きグラスと空き瓶を片付け始めた。
オリバーはロックグラスをシンクへ運ぶと袖を捲り、シンクの隅に置かれたスポンジに洗剤を数滴垂らす。
「オリバー。」
「はい? 」
ベルモンドはテーブルを拭いたままシンクに対して背を向けている状態だった。
「『絶対に諦めない』って言ったが、あんた...まだ忘れられねぇのか。あの娘のこと。」
ベルモンドの言葉を聞いたオリバーの脳内で愛くるしい少女の笑顔と元気な声がフラッシュバックする。
『先生! 』
オリバーの手に握られていたスポンジが見る見るうちに手の中で形を変えていく。
「...忘れられませんよ。
ベルモンドは振り返らずに「そうか」と一言だけ呟くとテーブルを拭く作業へと戻った。
22:35 遊歩道
楽し気な健屋とぼんやりと夜空を見上げる黛は静かな夜道を恋人にしては遠く、友達にしては少し近い、そんな絶妙な距離感を保ちながら並んで歩いていた。
「約束の時間に来ないなんて珍しいですよねー。何かあったのかなぁ? 」
「さぁー...どうだろう。」
腕組みをして心配そうな顔で首を傾げる健屋と違い、黛は遠くの誰かさんよりも隣に居る足元が覚束無い女性の方が心配で仕方なかった。
「黛さんは相変わらず冷静なんですねー。羨ましいですよ。」
「健屋だって白衣を着ている時は沈着冷静で常に的確な判断をしてるじゃない。」
「そんなことないですよ。他人の人生や命に関わること。健屋は実はそういう風に見せてるだけなんですよ。もし『どんな病気や怪我を治せる』能力なんてものがあるんだったら授かりたいです。」
世間からは『天才女医』などと謳われる彼女の中にある孤独がほんの少しだけ黛には理解できる気がした。
彼もまた『天才ハッカー』と呼ばれていたが、一方ではハッカーとクラッカーの違いが分からない人々からの偏見を常に受けていたからだ。
誰もが羨む才能を持ち合わせた孤独な二人は暫く無言のまま歩いていた。
それが特に気まずいとか雰囲気が悪い訳ではなく、二人は妙な居心地の良さを感じていたのだった。
だが、その穏やかな時間は長くは続かなかった。
二人の前を猛スピードで何か大きな影が横切って行ったのだ。
「きゃっ! 」
大きな影が巻き起こした風に思わず目を覆った二人が次に目を開けた時に見たものは十数メートル先に鎮座する真っ赤なドラゴンだ。
「なに...これ? 健屋が酔っ払っちゃっただけ? 」
「いや。俺にもしっかりと見えてるよ。」
心と思考が現実に追いつくよりも前にドラゴンから放たれた巨大な炎の渦が健屋と黛を包み込んでいった。
21:46 事故現場
車体の半分が潰れて黒煙を上げる乗用車の脇の車道に黒い二つの影が転がっている。
「生きてっか...アクシア。」
アスファルトの上に大の字で倒れこむローレンは幾つかの擦り傷や痣こそ出来ているものの手足は何不自由なく動いたことに一安心していた。
「ああ...お前のお陰だ。ローレン。」
彼の隣で同じような格好でアスファルトに寝転んでいたのはアクシアだった。
ドラゴンに薙ぎ払われて車がガードレールに衝突する直前、ローレンが運転席のアクシアを引っ張って助手席側から間一髪のところで飛び出していたのだ。
「なぁ...労災って物損にも適用されたっけ? 」
そう言いながら起き上がったアクシアは無残にひしゃげた自身の車を見つめていた。
「物損は適応外だぞ。てか、俺らの怪我の労災も何て申請すりゃいいんだよ。『容疑者のドラゴンに襲撃されました』なんて申請したら『
「笑い事じゃねぇよ。マジで。とりあえず、オリバーさんに報告すっか。労災の相談も込みで。」
乾いた笑いを浮かべたまま大の字で寝ころんだままのローレンにアクシアが手を差し伸べると、その手をしっかりと握ってローレンはようやく立ち上がったのだった。
22:21 公園
パターソンとレオスは東が襲われた小さな公園のベンチに並んで座っている。
日の暮れた公園でアフターデートと言うロマンティックな状況ではなく、二人はオリバーが来るのを待っているところだった。
遡ること一時間ほど前のこと。東との面会を終えた二人は東の証言の裏取りをしてから公安第五課のオフィスに報告のために戻ってきていた。
二人の聞き込み捜査の結果、当日の東の証言に嘘や偽りは無いようだ。周辺の防犯カメラの映像、バイト仲間の証言などの目撃証言とその時間も彼の証言通りだった。
「戻りましたー...って誰もいませんよ。ヴィンセントさん。」
「おや。珍しいですねー。」
二人が珍しく誰もいないオフィスを眺めていると一人の制服警官が後ろから声を掛けてきた。
「お疲れ様です! お二人にオリバー課長から伝言を預かっております! 」
見覚えのない元気の良い彼が言うには『見せたいものがあるから、22:30頃に東が襲われた公園に来てほしい』とのことだ。
そして、その結果二人はこんな夜更けにベンチに座ることになったという訳だった。
「寒くなってきたな。それにしてもこんな時間に見せたいものって何なんだ。」
寒さに肩を震わせながらパターソンは腕時計を確認していた。
「そうですねー。」
何故かそれほど寒くなさそうにしていたレオスは上着の両サイドのポケットからカイロを取り出し、それをパターソンに見せつけるようにして自身の両頬に当てて一人で暖を取り始めた。
「あー! ずるい。一つ貸してくれ。」
「嫌です。これは私が自腹で自己防衛のために用意したものですから。」
「...ケチ。こんなにもか弱い乙女が華奢な肩を震わせていると言うのに君はそれを見過ごすというのか? 」
パターソンの悲痛な訴えを聞いたレオスはワザとらしくキョロキョロと辺りを見渡す。
「あれー? おかしいですねー。私の目にはか弱い乙女の姿が見えないのですが、一体全体どこに居るんですか? 」
寒さとは全く別の理由で震えだした拳をレオスの脇腹へとパターソンが振り下ろそうとしたその時だ。
「あのぉ...。」
二人は誰かに声を掛けられた。だが、それは二人が待っていたオリバーとは明らかに異なる声だった。
聞こえてきたのは女の子の声だ。
二人が見つめる先に立っていたのは一人の少女だった。
青い髪をツインテールにしたエメラルド色の服を着た少女。
彼女の姿に二人は見覚えがあった。いや、聞き覚えがあった。
それは東の証言に出てきた少女の恰好そのものだ。
固まっていたパターソンたちが口を開こうとするより前に少女がぽつりと小さく呟く。
「ごめんね。」
その言葉を合図に彼女の背後に一匹の大きな赤いドラゴンが夜空から舞い降りてきたのだ。
ゆっくりと大きな翼を閉じると鋭い目で二人を見据える。
その姿は恐ろしくも神々しくい姿のドラゴンが地面を揺らす程の大きな咆哮と共に二人に向かって真っすぐに飛んでくるではないか。
ギリギリのところでドラゴンの巨体を躱したパターソンはベンチの左に立っていた桜の木の後ろへ、レオスはベンチの右の公衆トイレの裏へと何とか姿を隠すことが出来た。公衆トイレは男女兼用で一つの個室しかない小さな建物であった。
ドラゴンが通過した地面には轍のような跡が一筋出来上がっていて、二人が直前まで座っていたはずの草臥れていた木製のベンチは木っ端微塵となっていた。
「レイン君! 生きてますかー! 」
レオスはトイレの後ろからFPSゲームのキャラクターみたいに上半身と顔を覗かせながら、パターソンが隠れているであろう桜の木方へ向かって叫んだ。
「ど、ドラゴンだぞ! ヴィンセントさん! 飛んでるぞ! 」
興奮するパターソンの視線の先で赤いドラゴンは大きく旋回しながら空高く舞い上がり、弧を描くようにして再び公園の真中へと舞い戻ってきてしまった。
突如として現実に姿を見せたドラゴンはレオスが隠れていた公衆トイレに背を向け、桜の木の後ろに隠れるパターソンの方に向かい二本の足で器用に歩きながら近づいて行き、木の前まで着くと右腕をゆっくりと高く掲げた。
どうやら、桜の木諸共吹っ飛ばそうと言うつもりのようだ。
「レイン君! 逃げて! 」
ドラゴンの背後から様子を窺っていたレオスが危険が迫っていることを伝えようと叫んだのだが、パターソンは木の後ろから一向に姿を現さない。
逆にドラゴンがレオスの声に反応してしまったらしく、まるで第三の腕のようにして公衆トイレに目掛けて巨大な尻尾を振り下ろした。
「ひじょーに...マズイですね。」
ドスンと言う大きな地鳴りと共に尻尾が振り下ろされ、公衆トイレだった場所には砂埃が舞い上がる中には建物の影は綺麗に無くなってしまった。
ドラゴンは背後の出来事など意に介すこともなく、桜の木に向かい勢い良く平手打ちを繰り出す。
その大きな掌が桜の木の幹を捕えようとした瞬間、桜の木の後ろから人影が飛び出してきた。
これまで色々な人間を冷酷に淡々と攻撃してきたドラゴンが、その人影を見た途端に目を大きく見開くと自身の腕をピタリと止めた。
桜の木の傍で両手を広げる立っていた人物は青いツインテールの長い髪。エメラルド色の洋服。
そこに立っていたのは、どこからどう見ても天宮こころなのだった。
ドラゴンは天宮の目と鼻の差目と鼻の差で寸止めしたまま固まってしまっていた。
どうして自分の主が桜の木の後ろから出てきたのか。
ドーラは心の中で主に問いかけたが、一向に主は答えてくれない。
いつもの自信無さげな潤んだ瞳でジッとこちらの目を見つめているだけだ。
どうして答えてくれないのか。
どうして...。
一人の少女の登場により元の夜の静けさを取り戻した夜中の公園。
しかし、その僅かな静寂の時間を劈くように一発の銃声が鳴り響いた。
何が起こったのかを理解する前にもう一発の銃声が響き渡り、それと同時にドーラのけたたましい慟哭が夜空を貫いていく。
その場にいた皆の視線がドーラに向けられる。
ドーラは両翼を大きく広げていたのだが、そこには大きな二つの銃創が出来ていて、痛々しくも大量の血が噴き出していたのだ。
「ドーラちゃん!! 」
慌ててドーラに近付いくる天宮。
だが、おかしい。
ドーラの目の前の木の横には手を広げたままの天宮が立っているままだ。
それなのに涙を流しながらドーラの足にしがみ付いた天宮は自分の後ろ側から走り寄ってきていた。
「ドーラちゃん! 大丈夫! 」
混乱するドーラは公園の向こう側の三階建ての建物の屋上に光る何かを見つけた。
危ない。
ドーラは直感的にその光が自分の翼を貫いた張本人であると悟り、天宮を急ぎながらも優しく抱え込み最後の力を振り絞り両翼を広げて空へと飛び立つと、凄いスピードで空の彼方へと去っていった。
公衆トイレの瓦礫の傍で伏せながら一部始終を見ていたレオスが立ち上がった。
タッチの差で尻尾から逃れることに成功していたようだ。
「なぜ同じ少女が二人...。? 」
青い髪の少女は倒れていたレオスが見えていなかったのか。起き上がった彼の無事な姿を確認すると小走りに傍へと駆け寄ってきた。
「ヴィンセントさん! 大丈夫なのか!? 」
近付いてきた少女の声は確かにドラゴンが現れる少し前に聞いたそれと同じではあるのだが、その口調には聞き覚えがあった。
そう。先程から姿が見えないもう一人の人物。
「君は...レイン君なのですか? 」
レオスの言葉を聞いた少女は不思議そうな表情を見せた。
「あれ?...そうか。ヴィンセントさんは会ってないんのか。」
レオスの見ている目の前で身体の線をぐにゃりと歪ませて形を変形していったと思えば、いつの間にか少女はレイン・パターソンの姿へと変わっていた。
「...ルパン三世にでも弟子入りしたんですか? 」
既にドラゴンと言う現実味のないものを見ていたお陰だろうか、レオスはパターソンの変身に対して冗談がいえる程度には落ち着いているようだ。
「なるほど。
そう言いながらパターソンの背後から姿を現したのは周央サンゴだった。
最初のドラゴンの突進を避けて木の裏に隠れた時のこと。
パターソンは別の場所に逃げるか、レオスの元へ向かうべきか判断を迷っていると、頭上に光の輪が現れ前回のようにそこから一本の手が伸びてきたのだ。
藁にも縋る思いで掴んだ手をパターソンが引っ張ると、光の輪の中から出てきたのが周央であった。
「パタちゃん! あの子に変身するのです! 」
それからは周央の言葉に従い、彼女の能力を借りて天宮の姿になってからタイミングを見計らって飛び出したという訳であった。
「貴女は...周央サンゴ? 確か特殊詐欺事件で亡くなったはずでは? 」
レオスが混乱するのも無理はなかった。周央サンゴの事件時には不在で周央とは初対面となる上に、パターソンの能力を目の当たりにすることも初めてのことなのだ。
「ああ...そうだな。これからゆっくり説明するよ。」
「レイン君。是非そうして頂けると助かりますが、その前にドラゴンの両翼を撃ち抜いたアレも君がやったんですか? 」
「いや...あれは私じゃない。私が青髪の少女に変身すればドラゴンの攻撃を一時的に止めれるかもと思ってはいたんだけど...ぶっちゃけ飛び出した後のことは考えてなかったんだ。だから、あの攻撃に関しては私も分からないんだ。」
三人はドラゴンが飛び立つ直前に見つめていた公園の反対側に立ち並ぶ建物を見つめたのだが、そこには夜の闇が広がっているだけなのだった。
公園の反対側の中の一つである三階建ての雑居ビルの屋上。
夜の闇の中に潜んでいたのはオリバーとベルモンドだ。
ベルモンドは屋上に伏せた状態で公園に向けられていた対戦車ライフルから手を放した。
「ふー...何とか間に合ったな。それにしても...こんな
立ち上がったベルモンドは額の汗を袖口で拭っていた。
「流石の腕前でしたよ。それにしても黛くんと健屋さんにアクシア君とローレン君への襲撃。更にはレイン君にレオス君。A.Cはどうやら本気でAdeNを消しにきたようですね。」
オリバーは公園の状況を確認するために覗いていた双眼鏡から目を放し、横に立っていたベルモンドへ自身の無地の白いハンカチを手渡すとベルモンドは笑顔でそれを受け取った。
「おっ? サンキュー。宣戦布告ねー...どうやら本気で行かねぇとヤベーみてぇーだぞ。オリバー。」
「そうですね。こちらも本気で行かせてもらいましょう。もう...
オリバーは一人の少女の笑顔を思い返しながら、A.C殲滅を心に誓うのだった。
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開巻劈頭(前編)
「どーも。」
治療を終えた黛は脱いでいたシャツを着直した。
「全く...もうこんな無茶しないでよね。」
彼の背中を治療していたのは健屋だ。
黛の怪我はドラゴンに襲われた時に健屋を炎から庇って負ったものだった。
幸いにも初動の攻撃での火傷の程度も軽度で乗り切れ、炎から逃れた後も偶然通り掛った通行人の悲鳴を聞いたドラゴンが二人への追撃を諦めて空の彼方へと消えたことも怪我が軽く済んだ要因であった。
「それを言うなら、健屋も無茶な飲み方しないことだね。」
「あー! もー! はいはい。健屋が悪かったです! 申し訳ございませんでした! 」
珍しく白衣姿で顔を真っ赤にしながらブツブツと何かを呟く健屋を残して黛は診察室を出て行った。
「よぉ。思ってたより元気そうじゃないの。」
診察室の外で黛を待っていたベルモンドが笑顔で出迎える。
「いや。普通に痛いんですけど。そう言えば、アレは役に立ちました? 」
「おお? アレか? 役に立ったどころじゃないさ。アレのお陰でレインの嬢ちゃんも救えたし、敵の本丸まで分かっちまった。良くあの状況でGPS発信機なんてドラゴンに付けられたな。」
「運が良かっただけですよ。GPSも通行人も。」
黛はドラゴンが通行人の悲鳴に驚いて飛び立つ直前、盗難対策で自身の鞄に付けていたGPS発信機をドラゴンに向かって投げつけていたのだ。幸運にもそれがドラゴンの足に引っ掛かり連絡を受けたオリバーとベルモンドはドラゴンの行き先である公園へと辿り着くことが出来たのだ。
更に、ドラゴンが逃げた後も発信機が落ちることは無く、ドラゴンが帰還した先まで突き止める事が出来たと言う訳なのだった。
「運が良いってことは悪いことじゃない。運命の女神様は俺たちに微笑みかけてくれてるってことよ。これから乗り込むための作戦会議をオリバーが開くみてぇだけど出れそうか? 」
「まぁ...お腹が空いてる以外は問題ないかな。」
「それなら店でなんか作ってやるよ。」
「そりゃどーも。」
ベルモンドが笑いながら黛の肩を叩くと二人は揃って病院の出口へと向かい歩き始めた。
とある建物の屋上で天宮は最後の包帯をドーラの翼に巻き終えると額の汗を拭う。
ドラゴン用の医療用具など有る訳も無く、犬用の止血剤と包帯を使って天宮が額に汗をかきながらも一所懸命にドーラの両翼の手当をしていた。
「ふー...終わったよ。痛かったよね。」
天宮が包帯の上からドーラの傷口を優しく撫でると、くすぐったいのか痛むのかドーラの鼻先がピクリと動いて反応を示した。
「ごめんね。私が弱いから...いつもいつもドーラちゃんばっかりがこんな目に遭っちゃって...。」
確かに天宮の能力は強力なものだが、実際のところ天宮が直接何かをするような能力ではなく、ドラゴンの力に頼る能力だ。
なので、天宮は自分自身のことを『弱い人間』だとか『A.Cで最弱の人間』とよくぼやいていた。
傷口を撫でていた天宮の手が止まる。
「ごめんね。」
天宮の声は微かに震えており、同時にポツポツと涙が地面に零れていく。
ドーラは彼女の小さな顔に鼻先を近付けて擦り付けてから零れる涙を器用に鼻先で拭ってみせた。
「うぅ...ありがとう。」
音にはならないドーラの言葉を聞いた天宮はそう呟くとドーラの鼻先を力強く抱き締めるのだった。
そんな二人の姿を屋上へ通ずる扉の隙間から密かに見つめていた人物がいた。
「不破っち。そんなとこで何してんの? 」
声に反応して不破が振り返ると叶が階段を上がってきているところだった。
「ああ。かなかなか。キレイだから見てみなよ。」
「んー? どれどれ? 」
扉の前を叶に譲るように移動すると、交代で叶が扉の隙間から屋上の絵画のような光景を覗いた。
「...確かに。美術館か映画館に居るみたいな気分になるね。」
少し悲しそうな表情を浮かべた叶が扉から顔を離そうとした時、後ろで待ち構えていた不破が叶の額を鷲掴みにしたのだ。
「実は叶君
レオスは黙ってパターソンの話を聞いていた。
自身の能力のこと。葛葉との邂逅。『A.C』のこと。
パターソンは敢えて『AdeN』のことは話をしなかった。なぜなら、自分が話すべき事では無いと考えたからだ。
「と言う話だ。信じられないとは思うんだが、全て事実なんだ。」
てっきりパターソンは反論されるか、否定されるだろうと思っていた。
しばらく黙ってパターソンを見つめていたレオスの口から出てきた言葉は意外なものだった。
「信じますよ。」
「...えっ? 」
「信じますよ。私は自身の目でレイン君の『能力』というものを見せつけられました。科学において観察や観測で確認された事実と言うものは絶対なんです。ですから、君たちの能力を認めた上で、今の私の興味はそれを解析研究することに移ってるんですね。」
どうやらパターソンを信じているのではなく、科学の真理のようなものをどこまでも信じているらしい。
「ありがとう...。」
そうだったとしてもだ。本人には絶対に伝えたくなかった言葉がパターソンの口から不意に漏れ出していた。
「ちょっとちょっと! ンゴのことを放置しないでもらえますか? 」
頬っぺたを膨らませたご立腹の周央がパターソンの上着を背後から思いっきり引っ張った。
「あ。ああ。助けてもらったのにすまなかった。本当にありがとう。」
「まあね。ンゴにかかればドラゴンだろうか、麒麟だろうが余裕ってこと。それはそれとして、ンゴは帰る前にパタちゃんに伝えておきたい事があるの。」
「ん? 伝えておきたい事? 」
さっきまでのふざけた様子とは打って変わって真顔になった周央の口から思ってもみなかった言葉がパターソンに告げられた。
「そう。それはね。ンゴを闇討ちで殺した人たちの正体。」
公安第五課の自身のデスクに座り、レオスのことや周央の言葉を思い出していた。
「...-----。」
「えっ? 」
考え事をしていたパターソンの耳に小さな声が聞こえてきた。
今ここに居るのは自分とオリバーしか居ない。
と言うことはさっきの声は...。
パターソンがオリバーに視線を向けてみると、オリバーは珍しく自身のデスクに顔を埋めて座っている。どうやら眠ってしまっているようだ。
音を立てないようにそっとオリバーに近付いて行ったパターソンはデスクの上にあるオリバーお気に入りの梅干しが入った壺の蓋が開けっ放しなことに気が付いた。
「大分疲れてるようだな...。んっ? 」
壺の蓋を閉めてあげようとパターソンが蓋に手を伸ばした時、蓋に隠されていたあることに初めて気が付いた。
それは蓋の裏に貼られていた一枚の写真だった。
写真は証明写真程度の大きさで一人の少女が満面の笑みでピースをしている。少女は黒色のショートヘアの頂点には黄色い鶏冠のようなものがあり、同じ色のメッシュが左右に入っていた。それに前髪の辺りには魚のヘアピンを付けた可愛らしい女の子だ。
年齢は中学生か高校生かと言ったところだろうか。
「...ぺトラ...。」
今度ははっきりとオリバーの寝言を聞き取ることが出来た。
この少女の名前なのだろうか。パターソンは勿論初めて耳にする名前だった。
三年前
自分はある程度の知識と教養を身に付けていたつもりだった。
そんなことがちっぽけな一人の人間の傲りに過ぎないことをまざまざと思い知らされた場所。
『One Color』
この施設では人知を超えた能力を持つ者たちが集められ、秘密裏に隔離生活を送っているのだ。
極々選ばれた一部の人間にのみ知らされている極秘施設でもあったのだが、何を隠そうオリバー・エバンスもその選ばれし人間の一人なのだった。
警視庁からも未来の幹部候補生数名がここに派遣されていた。
「君たちには、ここに居る能力者の世話、教育、交流をしてもらいたい。」
それが警視庁のお偉い方々から与えられた仕事内容だ。
そして、ここがオリバーが彼女と初めて出会った場所でもあった。
オリバーが施設に派遣されてから半年の月日が流れていた。
最初こそ能力者たちとの接し方や扱い方に戸惑い、苦戦していたものの、慣れてみれば普通の人間と変わりなんてないことに気付かされた。
どんなに不思議な力を持っていようとも、皆どこにでも居るような一人の学生であり、一人の社会人なのだった。
「せーんせー! 」
廊下を歩いていたオリバーの背後から猛スピードで突進してくる小さな生き物。
「うわっと! 」
オリバーは後方からの強烈なタックルに前に倒れこみそうになるのを何とか踏ん張って後ろを振り返ってみると、小さな女の子が自分の腰辺りに顔を埋めてくっ付いている。
「Petra.If I've told you once, I've told you a thousand times.I told you that you shouldn't use your abilities against people.(ぺトラ。何回言ったら分かるんだい? 人に向かって使っちゃ駄目って言ったろ。)」
広い背中から顔を上げたぺトラはニッコリと笑った。
「No worries.I don't use it for anyone but Professor Oliver.(心配無用よ。オリバー教授にしか使わないから。)」
「Um...That’s great.(あぁ...それは素晴らしいね。)」
オリバーが頭を抱えて大きなため息をつくのを見たぺトラはクスクスと笑いを堪えているようだ。
彼女の名前はぺトラ・グリン。海外で確認された能力者の一人で、オリバーが担当している内の一人でもあった。
ぺトラの能力は水中を物凄いスピードで進むことが出来て、そのスピードは時速十キロを超える程の速さにもなる凄い力なのだ。
幸か不幸か、地上ではその能力は発揮されないためにオリバーの腰は一命を取り留めていた。
オリバーは英語も堪能だったため、主に海外で確認された能力者たちを任されていたのだが、その中でも特に懐いているのが彼女だ。
ぺトラと出会ってからまだ数か月しか経っていないにも拘わらず、既に彼女にとっては世話係と言うよりも友達や年の離れた兄妹のような感覚なのだろう。
「おお? 相変わらず仲が良いな。お前らは。」
声を掛けてきたのはオリバーと一緒にこの施設に警視庁から派遣された世話係の内の一人の男だった。
楓は警視庁の資料室のパソコンのモニターとにらめっこを続けていた。
彼女は社が何かを知っているのではないかと睨み、社の経歴などを探っている最中なのだが今モニターに映し出されているのは警視庁に所属する警官の経歴が確認出来るページだった。
無論、許可など取ってはおらず、見つかれば注意だけでは済まないだろう。
楓は辺りを警戒しながらも素早く目的のページまで急ぐ。
『社 築』
見つけた。楓はそのページを迷わず開いた。
「どれどれ...二課の課長になったんが一年半前か...ん? 」
楓の視線がある地点で止まった。大学卒業後から特に問題なく続いていた経歴がある時点で不自然に途切れていたのだ。
それは今から三年前から二課の課長に就任する一年半前までの間だった。
「なんや...この空白の一年半は。」
試しに他の警官の経歴を確認してみることにしたが、楓自身や他の課長クラスの人間たちをランダムに確認してみるも誰の経歴にも社のような空白の期間は確認出来なかった。
空白の謎は解けないままにページを閉じようとした楓の目に見知った一人の名前が飛び込んでくる。
『オリバー・エバンス』
何の気なしにクリックしてみた楓は驚いた。
彼にも社と同時期に空白の期間が出来ていたのだ。ただし、社よりも空白の期間が半年ほど短かった。
「どういうことや...。」
「Oh! ヤシロ先生! 」
にやけ顔でこちらを見ていた社に向かってペトラが手を振った。
「こんにちは。ペトラ。オリバーのお世話しっかり頼んだよ。」
「任せてよ! 」
社の言葉にペトラは嬉しそうに右手を額に当てて敬礼をして見せると、社もしっかりと敬礼を返していた。
「因みに、社さんは今から何処へ行くんですか? 」
「あ? 俺は葛葉んとこだけど? 」
質問をしたオリバーと社の答えを聞いたペトラは互いに顔を見合わせ、同時にニヤリと口角を上げる。
「またゲームですか? 」
オリバーがさっきのお返しとばかりに社に聞こえるようにワザとらしくため息をついた。
「仕方ないだろ。俺は葛葉に誘われて仕方なく付き合ってやってるだけだ。」
「ヤシロ先生? 『
ペトラの悪意なき煽りに少し顔を紅潮させた社は「じゃあな!」と捨て台詞を残して、廊下の奥へと足早に去って行った。
社の背中を見つめながらクスクスと笑うペトラ。
この可愛らしい笑顔も
背中にズシリと重くのしかかるタックルも
失うことになろうとは、この時は夢にも思わなかった。
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開巻劈頭(中編)
ベルモンドお手製の炒飯を平らげた黛は満足そうに両手を合わせた。
「ご馳走様。」
「おう。お口には会いましたでしょうか? 」
「うん。美味しかった。」
黛の料理の感想を聞いて満更でもなさそうに笑みを浮かべたベルモンドはカウンター越しに空になった皿を受け取っていた。
今日は前回出来なかった会合を行う予定だったのだが、今度は肝心のオリバーが遅刻をしていたのだ。
「オリバーさんが遅刻なんて珍しいね。」
「まぁ状況が一変して旦那も色々と忙しいんだろうよ。確かに連絡が無いのはらしくないけどな。」
二人がそんな会話をしていると店の扉が開く音が聞こえてくる。
「お待たせしましたー。って、あれ? オリバーさんまだなの? 」
「おう。アクシアか。とんだ災難だったな。車はお釈迦だって? 」
店に現れたのはアクシアであった。
「そーなんすよ。ベルさん。聞いてくださいよ。金ないのにさぁー...。」
ベルモンドの『車』と言う単語に敏感に反応したアクシアが会社の愚痴を発散しに来たサラリーマンの如く、カウンターの席に座るなりベルモンドと横に居る黛に対して熱を込めて語り始める。
警視庁公安第五課所属、元交通機動隊員のアクシア・クローネ。
彼もまた『AdeN』の一員である。
雑居ビルで黒ローブと出会った時に黛たちに連絡したのも、ドラゴンとの遭遇をオリバーに報告したのもアクシアがしていたことなのだった。
そして、前回の会合で皆はアクシアがドラゴンに襲われているとも知らずに彼が来るのを待っていたのだ。
二年半前
社がオリバーたちと共に施設に来てから半年が経っていたのだが、その間にこの廊下を何度往復したことか。
今日も今日とて社は一人の能力者の部屋へと呼び出されていた。
目的の部屋の前に到着した社が部屋をノックすると「開いてるよー」とお馴染みの返事が聞こえてくる。
「遅かったじゃないっすか。社さん。」
狭い部屋の中でゲームの準備を完璧に済ませて社を出迎えたの葛葉であった。
この施設で出来た新たな社の日課。
それが葛葉とゲームで遊ぶ時間だ。
社には詳しく知らされていないのだが、葛葉は上層部も特に気に掛けている能力者の一人だった。
それが故に葛葉の要望は聞き入れやすく、彼の部屋には現時点での最新のゲーム機や高スペックの最新型のパソコンが揃えられており、認めたくはないが社の部屋よりも豪華であった。
「
そう言いながらワイシャツの袖を捲ると葛葉の横に座り、用意されていた2P側のコントローラーを握る。
「へっ。その減らず口を直ぐに黙らせっから。」
楽しそうに笑う葛葉も1P側のコントローラーを握り操作をすると、大きな薄型モニターには有名格闘ゲームのオープニングが流れ始めた。
最初に話しかけたのは社だった。
何をしていてもどこかつまらなそうにしていた葛葉を気にした社が声を掛けたのが始まりだ。
初めは面倒くさ気にしていたのだが、社の趣味がゲームで腕前も中々のモノだと分かると二人の距離は急速に縮まっていき、社が職員として初めて葛葉の部屋に招待されたのはそれから間もなくの出来事だった。
その日から二人は時間を見つけては葛葉の部屋でゲームをする日々が始まったのだ。
たかがゲーム。されどゲーム。
彼らは時には絶対に負けられないライバルとなり、時にはお互いのスキルを信頼し合える仲間となり、常に本気でゲームを楽しんでいた。
夜な夜な葛葉の部屋から雄叫びや悲鳴が聞こえる日もしばしば...。
こうしてぺトラがオリバーを信頼しているように葛葉は社に厚い信頼を寄せるようになっていったのだ。
ゲームを始めてから社は直ぐに葛葉の異変に気が付いていた。
何と言うか元気が無いと言うか、今一集中していないと言うか...。
密かに理由を探りつつゲームをこなしていた社だったが、動きがあったのは二人が得意としていた格闘ゲームで葛葉が二試合連続でストレート負けをした時だった。
葛葉が徐にコントローラーを手放してしまったのだ。
「ん? どうした葛葉? 俺が強すぎて拗ねちまったか? 」
「ヤシキズさぁ。ちょっと話したいことがあるんだよね。」
「何だよ。そんな顔してもハンデはやらんぞ。」
こんな言葉を聞けば普段なら直ぐに煽り返してくる葛葉だったが、今は静かに社の顔を見つめていた。
「俺さぁ...明日の夜に仲間と一緒にここから抜け出そうと思ってんだ。」
葛葉が施設に連れて来られた時は能力についても、それを誰が利用しようとしているのかなどに興味はなかった。
施設内では自分が望んだものを与えれられ、働かなくても食べるものにも困らずに生きていくことが出来るのだ。
だが考えてみれば、そうまでして求められる力を自由に使えれば、自分たちがより快適に、より自由に暮らせる場所が得られるのではないか。
その小さな想いは日に日に葛葉の中で大きくなっていき、どうにも抑えられなくなってしまう。
最初に言葉にして話した相手は叶だった。叶は「いいね。面白うそうじゃん」と言ってくれた。
そこから二人は周りの仲間に声を掛けていき、叶のように面白そうだからと言って乗ってくる者、現状の生活に不満がある者、自分の力を試したいと言う者が次々に参加の意欲を示した。
そして、職員たちも気付かぬ内に今のA.Cの原型が密かに創り上げられてしまったのだ。
多種多様な能力を駆使した脱出計画が夜な夜な全員で集まっては練られ始める。
この施設では今まで能力者が暴れたり、反旗を翻す行為など一度も起きていなかった。その結果、外からの侵入に対しては鉄壁のガードを誇っていたのだが、内から外への警備は気の緩みも含めて手薄になっていたのが現状だった。
確実に隙はあった。脱出計画は決して夢物語ではないのだ。
葛葉は何故社に計画を打ち明けたのか。
ともすれば計画の発覚。延いては計画の失敗に繋がりかねない背反行為だ。
理由は葛葉自身にも分かっていなかった。
もしかしたら、社にだけには別れの言葉を告げたい。
その想いが彼の口から絶対に伝えてはいけない秘密を紡ぎ出していたのかもしれない。
『2P WIN』と表記されたまま止まったゲーム画面を無表情で見つめていた社が静かにコントローラーを置いた。
「そっか...まぁ...死なない程度に頑張ってみろよ。」
「はぁ? 」
社は葛葉に向かい優しく微笑見ながらそう言った。彼の余りにも意外な言葉とリアクションに暴露をした方の葛葉から思わず困惑の声が上がった。
てっきり怒鳴られるか、止められる。もしかしたら、殴られるかもしれないとも思っていたのに、社から出てきた返事は葛葉の背中を押す言葉であった。
しばしの沈黙が流れた後で再び無意識に葛葉の口が動き出した。
「なぁ。あんたも俺らと一緒に来ないか? 」
楓は小細工だとか、根回しだとか、そう言ったことが苦手だ。
そんなことをしている暇があるならば直接ぶつけた方が手っ取り早いからである。
「今回はどう言ったご用件ですか? 樋口課長。」
社は会議室に入ってくるなり、うんざりとした様子で中で待ち構えていた楓に尋ねた。
「すまんね。お忙しいのにこんな場所まで。」
「そう思うなら早く済ませてください。」
「はな。単刀直入にお伺い致しますが、社課長は捜査二課の課長に就任する前はどちらの部署でどんな職務をされていたのでしょうか? 経歴を拝見しましたが、約二年半程空白の期間がありましたよね? 」
楓の問い掛けを聞いた社の表情が明らかに変化した。その変化は驚きや困惑などではなく、感情を失ってしまってかのように妙に落ち着き払っていた。
社はそのまま楓を見つめ何も答えなかった。
逆に楓は社の態度に手応えを感じていた。
「それに同じように空白の期間があった人物がもう一人。公安第五課のオリバー課長。ひょっとして...お二人は同じ部署に。」
「樋口課長。」
沈黙していた社がやや強めな口調で楓の言葉を遮る。
その反応だけで楓は自分が想定していることが間違っていないのではないかと確信に近いものを感じていた。
「俺はね。
「....は? 」
「俺は
社は楓の方を向いてはいるのだけれども楓の後方にあるどこか遠くの一点を見つめているようだ。
「りちょう? えんしょう? 」
ハッキリとは思い出せないのだが、この二つの単語を楓は遥か昔にどこかで聞いた気がしていた。
「だからね。樋口さん。俺にはこれ以上...何も言えないんですよ。」
社はそれだけ言うと呼び止める楓の言葉を聞かずに会議室を出て行ってしまったのだった。
二年半前 事件発生前夜の葛葉の部屋
社は能力者でもなければ、彼らを利用しようとする権力者たちでもない。
二つの勢力の間のどこでもない場所に立っている何も出来ない一人の人間でしかない。
「折角だけど俺は遠慮しておくよ。でも、誘ってくれてありがとうな。」
社が葛葉の誘いを断ったのは自分の身を案じての事ではなかった。
本来なら自分は葛葉を止めるべき立場の人間だ。
そのためにこの施設で仕事を任されていると言っても過言ではない。
なのに、最初に口をついて出てきた言葉は自身の使命に反するものであった。
それは葛葉が兄や父のように社を慕っているように、社もまた葛葉を弟や息子のように思っていたからでもある。
しかし、それだけではなかった。
どちら側にも立たない社は観測者になることを選んだのだ。
葛葉の計画が成功したとしても、失敗したとしても、これから起こるだろうことの全てを客観的に見届けて記憶する。
それが自分に出来る全てだろうと考えたからだった。
計画決行当日
社は葛葉たちの計画を上司は報告しなかった。それどころかオリバーにさえも打ち明けていなかった。
ほとんどの人間が気付かぬ中で葛葉たちは計画の実行に移る。
「さぁ。行こうか。」
葛葉の号令を合図に叶や周央、不破、そして葛葉自身の能力を駆使して進んでいく。
ある程度分かっていたことなのだが、こんな施設を脱出することなど造作も無いことなのであった。
「みんなぁー! こっちでーす。」
外に出ると天宮の声を頼りに集まってきたドラゴンたちの背中に乗り込んでしまえば、もう誰も彼らを追いかけることすら出来はしない。
この時、葛葉の中で抱いていた一つの希望的観測が確信へと変わった。
「是非に及ばず。ってか...。」
自分たちの能力を使えば、自分たちの本当の自由を勝ち取れる。いや、世界地図すらも書き換えられるのではないか。
ドラゴンの背中に跨り、仲間と共に大空を舞う葛葉の心臓の高鳴りはしばらく鎮まることはなかった。
その頃、事件が発覚した施設内では一握りの職員たちだけで密かに緊急の対策会議が開かれているところだった。
「まずいですね。」
幸いにも脱走を試みたのは一部の能力者だけで、それが誰なのかも調べることが容易ではある。そんなことよりも世間には公表していなかった能力者と言う存在が例えたった一人であったとしても野に放たれたこと自体が大問題なのである。
それを国ぐるみで秘密裏に隔離し、研究していたということが露見すれば、あらゆる方面からの批判は免れない。
逃げた能力者の問題などは後からどうとでもなるが、施設の存在や纏わる真実が晒されることだけはどうしても避けなくてはならなかった。
「やるべき事は...分かってますよね。」
全力で保身へと走る権力者たちの答えは既に決まっていたのだ。
オリバーや社を含めた十数名の職員たちは夜中だと言うのに慌ただしく私物を纏めて施設正面へと集まっていた。
「申し訳ないが、直ちにここから退去してくれ。私物以外のものを絶対に持ち出さないでくれ。それと能力者たちにも知らせるな。五分後に施設正面に集合すること。以上。」
上司たちからの言葉はそれだけだった。
オリバーが施設正面に着くとそこには数台のワゴン車が止まっていて、既に上司と数名の職員が乗り込んで待機している。
「一体...何が起きてるっていうんだ。」
その時だった。
オリバーの呟きを合図にしたかのように施設から大きな爆発音と真っ赤な大きな炎と黒い煙が立ち昇る。
何も知らなかった職員たちから悲鳴や驚愕の声が上がったのに対して、社や上司たちは何も起きていないかのように大人しく座ったままだ。
「クソ! 何がどうなってるんだ。」
しばし唖然としていたオリバーは我に返ると中に残っているであろう能力者たちの救助に向うために施設内へ戻ろうと走り出した。
「オリバー君。早く車に乗りなさい。行きますよ。」
彼を静止させた声を掛けてきたのは近くのワゴン車内で座っていた上司の一人だった。
その言葉と態度を見たオリバーは直感する。
『消すつもりなのか』
急な退去命令。集まっている人間に能力者たちが見当たらないこと。燃え盛る炎と崩れる施設。
オリバーはギュッと握り拳に力を込めて、上司の顔を睨みつけた。
「乗りなさい。」
上司はそう繰り返すだけで、涼しい顔でオリバーを見つめていた。
「お断りします。」
オリバーはきっぱりと強い口調で返事をすると、燃え盛る施設の中へと走って行ってしまった。
「オリバー...すまない。」
施設内に消える同期の背中に向かって発した社の言葉は誰に届くこともなく炎の中へと吸い込まれて消えた。
ぺトラは一人で燃える廊下の真ん中で人生の終わりが近付いてきているのを察した。
偶々深夜にお手洗いに起きたぺトラは大きな地鳴りと爆発音に驚きトイレを出てみると、既に施設内には煙と炎が充満し始めていた。
急いで仲間が居るであろう各部屋へと向かってみたのだが、なぜだかその各部屋を中心にして謎の爆発は起きているようで部屋のドアは吹き飛び、部屋からは穴倉から飛び出している生き物のように炎が上がっていて見るも無残な状態になっていた。
「Oh my god...What's happened?(何があったの?) 」
ぺトラは必死に仲間の名前を叫んでみるも誰一人として返事をするものは現れなかった。
もしかしたら、自分だけが逃げ遅れているだけで、もう皆は避難した後なのかもしれない。
そう信じてぺトラは走り出すしかなかった。
「もう...ダメなのかな。」
しかし、ぽつんと廊下の真ん中に取り残された少女の前方は激しい炎の渦が畝うをあげ、後方ではついさっき天井が崩落してしまった。
この施設に来るまで一人で寂しく過ごしていた。能力から変な目で見られたりもしていたが、ここに来て同じような境遇の仲間に出会い、自然に笑顔が出せる日常を送れていた。
所謂走馬燈と言うやつだろうか。仲間の笑顔と思い出が脳裏を過ぎる。
そして、もう一人。
「先生...。」
ぺトラの目から涙が溢れる。立ち昇る煙が染みたのだろうか。
泣いている少女のことなど構うことなく、廊下に面していた窓ガラスが熱に耐えられず一斉に割れ始めた。
「きゃぁっ!?」
ぺトラが悲鳴を上げたのは割れた窓ガラス片が降り注いできたことに加え、そのガラスの割れた窓から黒い大きな影が彼女の目の前に飛び込んできたからだ。
「I made it. Sorry I'm late. Petra.(間に合った。遅れてごめんよ。ぺトラ。)」
信じられない光景だった。
ぺトラの前に炎の中から現れたのは、直前に想い続けていた人物。
オリバーであった。
オリバーはぺトラを安心させようとしているのか、体の至る所に火傷を負いながらも何時ものように優しい微笑みを浮かべていた。
「せん...せい...。」
その瞬間、ぺトラが心の中で必死に抑え込んでいた感情が一気に溢れ出すのを止めることは出来なかった。
オリバーの大きな体に抱き付くと、ぺトラは恥ずかしさなど忘れて大きな声で泣いていた。
「...怖かった...怖かったよ。」
「もう大丈夫ですから。」
目の前で震える小さな頭をオリバーは優しく何度か撫でながら辺りを見渡す。
彼女の背中側の廊下は天井が崩落しており、とてもじゃないが進めそうにない。自身の背中側は炎にこそ包まれているが何とか進めるかもしれない。しかし、その先がどうなっているかは分からない。
かと言って、今自分が飛び込んできた窓の向うの部屋の入口も自分が通った後に瓦礫で塞がってしまっていたはず。
こうなればイチかバチか後ろの炎の中に飛び込むしかなさそうだ。
「あっ...。」
「えっ? 」
一言そう呟いたのはぺトラだった。周囲を確認していて気が付かなかったのがぺトラは不安そうな表情でオリバーの顔を見上げていた。
自分が無意識の内に怖い顔をしてしまっていたのだろうか。急いで取り繕うとしたのだが、ぺトラはオリバーの体から離れて一定の距離距を取ったのだ。
彼女がオリバーから距離を置いた理由。それは直ぐに判明することになる。
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開巻劈頭(後編)
二年半前
また会うことが出来るなんて思ってもみなかった。
先生は崩れる建物の中を、燃え盛る炎の中を助けに来てくれたのだ。
こんな私のために。
ぺトラは無意識の内にオリバーに泣きながら抱き付いていた。
怖かった。寂しかった。そして何より嬉しかった。
泣き顔を見られるのは恥ずかしかったけれど、オリバーの顔を見て安心したくてぺトラは顔を上げた。
「あ...。」
顔を上げたぺトラは恐ろしい光景を目撃してしまう。
オリバーの顔越しに見える奥の廊下の天井。
炎に包まれていた通路の天井に大きな亀裂が現在進行形で入り始めていた。
自分たちの後ろの廊下は既に天井が崩れて通れない。
残された唯一の道が今まさに閉ざされようとしている。
What am I gonna do? (どうしよう?)
ぺトラが見上げていたオリバーはあまり見たことのない表情になっていた。眉間に皺を寄せて鋭い目で辺りを見渡している。
恐らく逃げ道を探してくれているのだろう。
私のために。
こんな炎の中を。
Oh...I see.(ああ...そっか。)
Things I should do.(私のすべき事。)
ぺトラはオリバーの体から手を放すとオリバーの姿を目と記憶にしっかりと焼き付けると自身の両足と小さな握り拳にギュッと力を入れて踏ん張った。
それは突然の出来事であった。
さっきまで弱々しく泣いていたはずのぺトラの体がもの凄い勢いでオリバーの体にぶつかったのだ。
それはいつも廊下で挨拶代わりに背中に喰らっていたタックルそのものだった。
しかし、炎の中を走り回って疲弊していたことに加えて、完全に虚をつかれたオリバーの大きな体は小さなぺトラの一撃を諸に受けてしまい、炎の壁を越えて後方へと綺麗に吹き飛ばされてしまった。
虚を突かれてはいたが、しっかりと受け身を取って直ぐに立ち上がったのは流石の身のこなしと言ったところだろうか。
だが、オリバーとぺトラは炎の壁を挟み、離れ離れになってしまっていた。
「何をするんですか! 」
オリバーが彼女に対して、本気で怒鳴ったのはこれが最初のことだったかもしれない。
そして、それは最後の出来事でもあったのだ。
炎の向こうに見えるぺトラは頬に涙を伝えながらもニッコリと笑っていた。
「Professor Oliver.(オリバー先生。)」
普段と何も変わらない可愛らしい彼女の笑顔。
「ずっと大好きだよ。ありがとう。」
ペトラの想いにオリバーが返事をする間もなく、劇の終わりを告げる幕が下ろされるように二人の間の廊下の天井が崩れ落ち、二人を完全に遮断してしまった。
「ぺトラ! 大丈夫ですか! 今行きますから! 」
あまりに突然のことに唖然としてしまっていたオリバーは我に返ると大声で叫びながら崩れた瓦礫を素手で動かし始めた。
しかし、瓦礫は大量で大きさもとてもじゃないが一人の人間が動かせるようなものでもなかったが、それでもオリバーは諦めることなく血が滲み始めた手を止めなかった。
いや、正確には止めたくなかっただけなのかもしれない。
けれど、想いだけでは瓦礫は動かない。炎も消えるはずもなかった。
ただただ、指先から血が流れるだけで己の無力さを痛感し続けるだけだった。
何より瓦礫の向こうからぺトラの反応が全く返ってこない。
あんなにも元気なぺトラの気配を微塵も感じることが出来ないのだ。
無情にも突き付けられる現実に耐えかねて、遂にオリバーは膝から崩れ落ちた。
「ぺトラ...どうして...。」
オリバーは持てる力を振り絞り瓦礫を血まみれの手で叩きつける。
『なぜ自分は能力者でないのだろうか。』
彼の渾身の一撃を瓦礫は無言で受け止めた。
『なぜぺトラは能力者なのだろうか。』
オリバーの問いに瓦礫も、炎も、神も、誰一人として返事をすることはなかったのだった。
パターソンはオリバーの居なくなったオフィスで一人だけになっていた。
オリバーはパターソンの気配に気が付き飛び起きたと思えば、時計を見るなり慌ててオフィスを飛び出して行ってしまった。
一人になったパターソンは周央の言葉を思い出していた。
『ンゴを闇討ちしたのはAdeNのメンバーであるベルモンドという大柄の男とパタちゃんのお仲間であるアクシアって若い男よ。』
ベルモンド...確かオリバーの行きつけのバーのマスターの名前だったはず。
大柄と言う特徴も一致しているし、オリバーが通っている理由にも納得できる。
それよりだ。まさかアクシアが既にAdeNのメンバーだったとは思いもしなかった。
それに、本当に能力者を抹殺していたなんて...。
AdeNは本気でA.Cや能力者を抹消しようとしていることに驚きと恐怖を感じていた。
「お疲れーっす。最近病院に言ってばっかりだな。全く...。」
「ああ。おかえりなさい。ローレン。」
ブツブツと独り言をぼやきながらオフィスに一人で戻ってきたローレンは、同じく中で一人っきりだったパターソンからの挨拶に僅かに言葉を詰まらせたように見えた。
「パタ姐...今一人? 」
「ん? ああ。オリバーさんがさっきまで居たんだが、良く分からないが慌てて帰ってしまったよ。」
「そっ...かー。ちょっとパタ姐に聞きたいことがあるんだけど、今時間ある? 」
ローレンは緊張しているのか、今までに見たことがない真面目な表情だった。
「うん。構わないぞ。私に答えられることなら。」
「それじゃあさ。何で...
「んん? あの時? 屋上? 何のことだ? 」
本気で困惑するパターソンを他所にローレンは彼女の真意を探っているのかパターソンの瞳の奥をジッと見据えていた。
二年前
『One Color』の施設は上層部の思惑通りに誰にも知られぬままに跡形もなく消え去った。
勿論、中で隔離されていた能力者たちの多くも亡くなったのだが、その事実は公表されていない。
そのために誰が生きていて、誰が亡くなったのかも分からないのだ。
事件から一か月が過ぎた頃、オリバーは日本では珍しい教会の傍らにある小さな墓地の中にある十字架の掘られた墓石の一つの前で静かに手を合わせていた。
『Petra Gurin』
彼女の事を絶対に忘れないためにオリバーは自費で墓石を立てていたのだ。
事件後、『One Color』の上層部はその組織を一度解散させていた。
上層部の面々は解散後のオリバーの処遇として交通課の課長職の席をご丁寧にも用意していたのだが、これは贖罪の類なんかではなく悪魔の契約なのであった。
あそこで見たものを決して他言させないよう、何より自分たちの目の届く範囲に置いておくためだ。
本来ならば、オリバーには捜査三課の課長の席が用意されていたのだが、最後に命令に歯向かったことで交通課に変更されていた。
「申し訳ありませんが、辞退させて頂きます。」
会議室に呼び出されたオリバーのまさかの言葉に上層部は激高していた。
オリバーは警察を去ることになっても構わない。そう決意していた彼は怒り狂う上司を尻目に会議室を出たのだった。
一方、運命に逆らわないと決めていた社は事件後もプロジェクト再建に向けて上層部の指示通りに動き続け、最終的には出世街道のトップを走る捜査二課に就くことになった。
「オリバー・エバンスだね。」
背後から名前を呼ばれたのは墓石の掃除と献花を終えた頃だ。
オリバーが振り返ってみると、そこには黒いスーツにサングラスを掛けた見知らぬ男が立っていた。
年は三十代だろうか。茶色の髪に左頬に大きな傷痕がある見るから怪しげな風貌であった。
「...失礼ですが、どなたでしょうか? 」
「そうだな...ネメシス。君にとっての
不敵な笑みを浮かべたスーツの男は一枚の名刺をオリバーへと手渡した。
そこには『警視庁警備局警備企画課 課長
「これはまた...全く身に覚えがない上に『ネメシス』とは? 」
「そのままですよ。私はね。オリバー君。君たちが『
この時、オリバーは彼が自分に処罰を与えに来たのかとばかり思っていたが、続けて天海寺の口から出てきた言葉は意外なものだった。
「それでだ。
「処分...ですか? 」
「ああ。『彼ら』は私たちがコントロールできるようなものではない。それは無能力者の大きな驕りだ。だからと言って放置して世間に知られることも避けなければいけない。故に私たちは人類の秩序と安寧を保つために密かに能力者処分するための組織『AdeN』を作ろうと思っているんだ。」
そこから天海寺は警視庁上層部に天海寺たちの処分派と『One Color』を創った保護派の派閥が対立抗争していること。施設を自爆させた保護派上層部の真意を打ち明けてくれた。
更には葛葉たちがその原因を作り出して、今も逃走中であると言うことも。
「どうです? オリバー君は許せますか? 他の能力者たちを見捨てて、自分たちだけが自由に生きようとしている葛葉君たちのことを。彼らが変な気さえ起こさなければぺトラさんは死なずにすんだんだ。」
オリバーの脳裏にぺトラの最期が蘇る。
炎のと瓦礫の中で頬に涙を伝えながら微笑む姿。
「オリバー君。君は能力者と交流し、生態研究をしている上に保護派の内情も知っている。そのアドバンテージを『AdeN』のために使ってくれるというなら、私たちは君に復讐の機会と術を与えられることが出来る。まさに
そう言うと天海寺はオリバーに右手を差し出した。
『ずっと大好きだよ。ありがとう。』
オリバーは天海寺が差し出した右手を力強く握り返したのだった。
そして、同時に保護派と葛葉たちへの復讐をぺトラの墓石へと誓う。
天海寺は『AdeN』の隠れ蓑として『公安第五課』と言う部署を新たに作り出し、オリバーを課長に据えた。
そこからのメンバーは集めは各部署のスペシャリスト情報を天海寺がオリバーへ伝え、彼が直接スカウトへ向かう形で集められていったのだ。
そうして作り上げられた少数精鋭の部隊は施設から逃げ出した能力者の抹消が始まると能力者の目撃情報や絡みのありそうな事件を意図的に公安第五課へ天海寺が流し、オリバーは進捗と結果を天海寺へ報告する流れが出来上がった。
ローレンはあの日の屋上での出来事を思い出していた。
あの日も今日も目の前に対峙しているのはパターソンだった。
「ローレン。私には君が言っている意味が本当に分からないんだ。」
「俺とアクシアが黒ローブと雑居ビルで遭遇した日。黒ローブを追って屋上に着いた時、俺は確かに見たんだ。パタ姐が黒ローブを纏って屋上の真ん中に立っているのを。胡麻化そうとしてもムダ。」
「いやいや! 良く考えてみてくれ。あの時、私はオリバーさんに言われてヴィンセントさんと雑居ビルに向かってるんだぞ。確かに君は屋上で気を失っていたから分からないだろうが、私が屋上に居なかったことはオリバーさんも、ヴィンセントさんも、何より君を助けてくれたアクシアだって証明してくれるはずだ! 」
とても演技だとは思えないパターソンの訴えにローレンの記憶の映像にノイズが走る。
映像の中のノイズはフードを脱いで不敵に笑うパターソンの顔に覆い被さるように現れては消えてを繰り返す。
フラッシュ点滅を繰り返していた彼女の顔が一瞬ノイズの後ろで別の顔に変化した気がした。
紅い瞳に...白髪...。
「いや。光栄な事だと思いな。『未来の王』に謁見出来たんだから。」
そして、あの時の台詞も聞こえてくる。その声は...。
「
脳内の映像にうなされていたはずのローレンの口から声が漏れた。
「男がどうかしたのか? 」
その声はパターソンの耳にもしっかりと届いていたが状況を打開するためには拙すぎる一言だった。
「そんなはずじゃ...だって、俺は。」
今となってはパターソン以上に混乱しているローレンが対峙しているのは彼女ではなく、記憶の中に突如として現れた謎の男となっていた。
白髪の若い男は不敵に笑いながら、あの時の屋上に立ったままだ。
「どうしたんだローレン。大丈夫なのか? 」
明らかに様子がおかしくなったローレンを心配してパターソンが一歩前へと踏み出した。
「動くな! 何か...したのか? 」
ローレンの大きな声に驚き戸惑いながらも冷静かつ静かな口調でパターソンは話しかけていた。
「落ち着いてくれローレン。私は君に何もしていない。と言うか触れてすらいないんだぞ。」
「ごめんパタ姐...。」
頭を抱えたローレンはそう言い残すと逃げるようにオフィスから走って出て行ってしまったのだった。
またもや一人取り残されたパターソンはただその場に立ち尽くすことしか出来なかった。
一年半前
とあるメールがオリバーに送られて来たのはベルモンドや健屋に黛、そしてまさに今スカウトに成功したアクシアと『AdeN』のメンバーが順調に揃いだした頃のことだった。
そのメールの送り主は渋谷ハジメと名乗る人物で公安第五課のオリバー宛に届いたのだが、どうやってアドレスを入手したのかも気になるのところだが、それよりもメールの内容に驚かされた。
その内容は『自分がOneColorに隔離されていた能力者で葛葉たちと脱走したメンバーの一人であるのだけれど、他の能力者たちへの罪悪感とあるメンバーに対する不信感から抜け出したい。葛葉たちの情報を提供するから抜ける手助けと保護をして欲しい。』と言うものであった。
罠の可能性もあったのだが、黛によるアドレスからの逆探知の情報、その結果からの天海寺からの裏取り情報を踏まえると書かれている内容は事実のようだ。
早速彼と接触を試みようと考えたオリバーは隣の県の利用したこともない喫茶店を待ち合わせ場所に指定した。
仲間を裏切ろうとしている彼を直接警視庁に呼び出す訳にも行かなかった。
公安第五課のオフィス内でオリバーとベルモンド、黛、アクシアが応接用の机を取り囲み、渋谷ハジメの件で打ち合わせをしていた。
「まぁ。それが賢明だろうな。」
喫茶店周辺の地図を睨みながらベルモンドが小さく頷いたのだが、オリバーは険しい表情のまま顎に手を当てて何かを考えているようだった。
「ただ...彼を一人にしておくのも危険だと思うんですよ。かと言って、我々や警備部に頼んだりして、警察関係者が迎えに行き同行するのも目立ってしまう...。」
「そーだな...それならボディーガードってのはどうだ? 」
「ボディーガード? 私設のと言うことですか。ベルモンドさん。」
オリバーの問い掛けにベルモンドは何かを思い出すように天井を見上げた。
「そうそう。噂で聞いたことがあんだよなぁ。私設で警視庁警備部も真っ青の凄腕ボディーガードが居るって。確か名前は...レイン。レイン・パターソンっつったかな? 」
「ああ。確かに交機の先輩も何か話してた気がしますね。女性のボディーガードですよね。」
ベルモンドの横で話を聞いていたアクシアも心当たりがあるようだ。
オリバーは聞いたことがなかったのだが、どうやらかなり名の知れた人物らしい。
「ありましたね。どーぞ。」
一人黙々とノートパソコンを弄っていたオリバーの隣に座っていた黛がノートパソコンのモニターをオリバーへ向けたのだが、そこには話題の人物であるレイン・パターソンの私設ホームページが映し出されていた。
「...なるほど。」
そして、あの事件起こった。
渋谷ハジメは最期に何を伝えようとしたかったのか。
今となってもそれは分からないままなのだった。
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陳勝呉広(序)
一人は圧倒的に不利な状況で仲間を守りたいと願いながら次の一手を必死に考えていた。
彼女の前には様々な選択肢が広がっていて、その中から瞬時に正解を選ばなければいけない。
対峙するもう一人は右手には拳銃が握られている。彼は余裕の笑みを浮かべながら残された時間を楽しんでいるようだった。
ここから自分が負けるなんて露程も思っていないのだ。
彼女に打つ手がないと見たのか、男は全てを終わりにするために右手の拳銃をゆっくりと目の前の女に向けて構えた。
その時だ。
ただ一人冷静に刻々と動き続けていたはずの時計の針がゆくっりと停止した。
一年半前
オリバーが渋谷ハジメの能力を知ったのは彼が亡くなった後のことだ。
何度か施設内で顔を見たことがあったような気がしていたのだが、ハジメの能力までは把握はしていなかった。
それをオリバーに最初に教えてくれたのは天海寺だった。
オリバーと天海寺は日差しの心地良いテラス席でコーヒーを飲んでいた。
BARデラス。この店も天海寺が情報収集とメンバーの会合のために用意した場所で、以前からBARを経営するのが密かな夢だったと言うベルモンドがマスターとして立候補したという流れになっていたのだ。
「今回は残念だったな。」
あまり気持ちの込められていないことを言いながら天海寺はコーヒーを啜った。
元々能力者を排除したいと思っていた天海寺にとってはハジメが生きて葛葉たちを消すための情報をもたらそうが、先に殺されようが本来の目的を果たすことが出来るのだから当然だろう。
「私の考えが甘かったことが原因です。申し訳ありません。」
そう謝罪したオリバーは違っていた。
オリバーの目的は葛葉たちに対する復讐だ。本心では能力者の完全排除は望んでなどいなかった。
それが故にハジメからもたらされるはずだった情報を失ったことは手痛い失態なのだ。
「ところで、オリバー君は渋谷ハジメがどのような能力を持っていたのか聞いているかな? 」
「いえ。私は彼の名前と顔ぐらいしか...。」
「そうか。我々が入手した資料と情報によるとだ。彼は『
「死んだ...能力者を? 」
明らかに驚き、動揺するオリバーのリアクションが思っていた通りだったのか、天海寺の口角が嫌らしく上がった。
「ああ。しかもだ。どうやらその力は『
「ちょ、ちょっと待ってください。と言うことは...。」
「お察しの通りだよ。オリバー君。渋谷ハジメの能力を持った誰かが居るかも知れないってことだ。」
それからオリバーがパターソンに目を付けるまでに時間は掛からなかった。
「オリバーさん。これ。」
黛が見つけたものは渋谷ハジメ襲撃場面が映っていた防犯カメラの映像だ。
そこに犯人の姿などは映っていなかった。
しかし、倒れた後のハジメがパターソンに何かをしている様子が映っていた。
「黛さん。ここアップにできますか? 」
「ええ。」
画像編集ソフトを手慣れたよ様子で操作すると、黛はオリバーが指示した箇所。倒れた後のハジメを拡大表示させる。
格段に見やすくなった映像内でハジメは介抱しようと近付いて来たパターソンの手を掴み、彼女の右手の掌に何かを自分の血を使い書いていた。
「これ。彼女の掌の文字は見えないですか? 」
「うーん。ちょっと元の映像からではここまでが限界かな。」
「そうですか...有難う御座いました。黛さん。」
確証を得ることは出来なかったけれど可能性は高くなった。
もしかしたら、レイン・パターソンが渋谷ハジメの能力を受け継いだ人間なのではないか。
そう考えたオリバーは彼女をスカウトすべく動き出した。
オリバーが本来敵対すべき能力者である可能性が残されているパターソンをAdeNに誘った本当の理由。
天海寺やAdeNのメンバーに説明した『A.Cに対抗する力を欲していた』と言うのは建前だ。
オリバーの目的は彼女の能力だった。
ハジメの『死者を蘇らせる能力』を...。
それがどんなに小さな可能性だったとしてもオリバーは縋るしかない。
もう一度。
もう一度。
ぺトラに会って謝ることが出来るなら。
だが、オリバーは知らなかった。その力が『
つまりぺトラに会ったことのないパターソンにはぺトラを呼び出すことは出来ないのだ。
今も尚、オリバーはそのことを知らないままで、パターソンもまたオリバーの目的を知らないままなのだった。
一人で謎を追い続けていた楓の元に一通のメールが届いたのは昨日のことだ。
そのメールは楓の個人スマホに見知らぬ番号から送られてきたものだった。
『貴女の求めている情報を提供します。明日の午後一時にチューリップ公園に一人で来て下さい。』
こちらの情報はダダ漏れ。それなのに相手の情報は皆無。そこに一人で来いとのお誘い。
チューリップ公園とは楓の自宅付近にある小さな公園の名前だったはずだ。
怪しさ全開なのは重々承知な上で、楓は待ち合わせに指定された公園で得体の知れない誰かが来るのを待っていた。
「樋口さん...ですよね。」
その声は時間通りに聞こえてきた。
「あ? アンタか? 季節外れのサンタクロースは? 」
楓の正面から歩いてきたのは何ともパッとしないグレーのスーツを来たサラリーマン風の男だった。
本当に特徴がない男で眼鏡も掛けてなければ、髪も黒い短髪。清潔感はあるが香水や整髪料の香りもなし。年齢は若く二十代後半ぐらいだろうか。勿論、楓は見たこともない男だ。
「確かに幸せを運んで来たサンタクロースかもしれませんが、ともすれば不幸を運んで来た貧乏神かもしれませんよ。」
男はそう言うとA3サイズの大型茶封筒を楓に差し出した。
意外と重いその封筒を受け取り、楓が中身を覗き込んでみると中身は冊子のような紙の束が入っているのが分かった。
その冊子は『OneColor プロジェクト』とだけ書かれた紙から始まっているようだ。
「ワン...カラー? 」
「樋口さん。」
楓が意図せずに呟くと男は強い口調で楓の思考を突然遮った。
「な、なんや? 」
「中身は後程一人でじっくりご覧下さい。決して、決して他の人間と一緒に見たり、公共性が高い場所で見ないようにして下さい。そうしなければ...。」
「しなければ? 」
挑発的な笑みを浮かべている楓に負けずに男も不気味に口角をゆっくりと上げる。
「あなたも...私も今年のクリスマスは迎えられないでしょうね。」
笑みを浮かべている男の声はその表情とは裏腹に微かに震えているように楓には聞こえていた。
公園を離れた男はビルの合間を無作為に左右に曲がりながら歩いている。
歩いている最中や曲がり角を曲がる際にさり気なく後方を確認しながら進んでいるようだ。
誰も付いてきていないことを確信すると男はとあるコインパーキングへと入って行った。
男はそのままパーキングエリアに停めてあった黒塗りのベンツの助手席へと乗り込む。
「どうだった? 」
男が車のシートに腰を沈めて一息つくなり、後部座席から話し掛けて来たのは天海寺だった。
「問題ありませんよ、課長。でも、良かったんですか? あんな極秘資料を彼女に渡してしまって。」
「細工は流流仕上げを御覧じろってな。まぁなんだ。この種が芽吹くのはまだ先の話だ。今は静かに見守ろうじゃないか。さぁ俺らは遅めの昼飯でも食いに行こう。」
一年半前
葛葉、叶、不破の三人が葛葉の部屋に集まっていた。
「それって本当なの? 不破っち? 」
「いやー。俺も信じられんかったんやけど、どうやらマジっぽいんだよな。」
叶と不破が何やら深刻な表情で話し合っていると黙って聞いていた葛葉が口を開く。
「ハジキが俺らを裏切って、あの施設の奴らに俺らの情報を渡そうとしてるってことで間違いないんだよな? 」
「みたいだね。どうするの葛葉? 」
叶の言葉に葛葉は考え込むように再び沈黙してしまった。
「俺らの居場所がバレると流石にマズイでしょ。やっちゃうなら俺も手伝うよ。」
「もちろん僕も手伝うよ。あんなつまらない場所に逆戻りなんてごめんだからさ。」
不破の意気込みに叶も直ぐに続いた。
一度本当の自由を覚えてしまった誰もが、もうあの場所には戻れない身体になってしまっていたのだ。
「オーケー。やっちゃおっか? 義を見てせざるは何とやらってね。」
何かを吹っ切ったように葛葉の顔には気が付けば少年のような笑顔が戻っていた。
慌てて店に飛び込んで来たオリバーを茶化しながらAdeNメンバーの会合は始まっていた。
「と言う訳で黛さんが仕掛けてくれたGPSを追跡した結果、都内郊外にある大型の商業施設が現在のA.Cが拠点としていう場所で間違いなさそうです。」
オリバーが説明をしながら、四人が座っていたテーブルの中央に資料写真を並べ始めた。
写真には三階建ての大型の建物が写っており、良く見る中にフードコートなどを併設している大型ショッピングモールのようだ。
「なるほどね。潰れちまったショッピングモールね。良いところ見つけたもんだねぇ。」
ベルモンドは嬉しそうに笑みを浮かべながら施設の平面図や写真を手に取り、念入りに隅々までを確認していた。
「でもちょーっと厄介じゃない? 相手の人数に対してカバーしなきゃいけないスペースが多すぎるんじゃないの? 」
「だな。俺らも頭数が揃ってる訳じゃねぇーからなー...。」
横からベルモンドの見ていた資料を覗き見ていたアクシアの見立てにベルモンドもより一層迫力の増した顔で資料を睨んだまま同意を示した。
「まぁ...その辺はどうにかなるかも。」
相変わらず覇気のない声で頼もしいことを言っているのは黛だ。
黛は並べられた資料の防火設備や警備システムの資料をぼんやりと眺めている。
「黛さんマジで無敵っすねって...ん? 」
アクシアが黛に話し掛けたとのほぼ同じタイミングで彼の内ポケットにあるスマホが振るえ始めたので取り出してディスプレイを確認してみると、そこには『ローレン』と『着信中』の名前が表示されていた。
「ローレン? ちょっと失礼しますね。」
三人に一言断りを入れてからアクシアは電話を取った。
「よう。お疲れさん。どうしたん?...えっ? 」
明るい表情と口調で電話を始めたアクシアであったが、その表情は見る見る内に真剣なものへと変化していく。
その様子は周りに居た三人にもしっかりと伝わっていた。
「ああ...ああ。分かった。すぐに行くから待ってろ。それまで変なこと...考えるなよ。」
頻りに相槌を打ち続けていたアクシアが電話を切ると三人はアクシアの次の一言を静かに待っているようだ。
「オリバーさん...ローレンがパタ姐に言っちゃったらしいっす。」
「おいおい。それってあの屋上の件か? 」
オリバーよりも先に反応したのはベルモンドだった。
「ええ。ローレンもかなり動揺している感じでしたね。ちょっと俺行ってきますわ。」
そう言ってアクシアが席を立ち上がるとオリバーも同じく直ぐに立ち上がる。
「私も行きます。お二人は少し待っていて下さい。行きましょう。アクシア君。」
「はい! 」
二人は荷物や資料をそのままにして、慌てて店を飛び出して行った。
一年半前
ハジメはとある人物に夜中に呼び出されて商業施設の屋上に呼び出されていた。
「さみー...こんな時間に。」
ハジメはふっと夜空を見上げた。
潰れてしまったこの商業施設の周りにはあまり民家などもなく、雲一つない夜空には綺麗な星々が輝いている?
「こんな広い空に星か...見れるなんてな。葛葉に付いてきて本当に良かった。」
「お待たせ。」
空を見上げたハジメが独り言を呟いていると後ろから声が聞こえてきた。
この声は間違いなく自分を呼び出した男の声だ。
独り言を聞かれていないか少し心配しながらハジメは振り返ったのだが、その先でハジメが見たものは男の顔ではなく真っ暗な闇だった。
その時にハジメは男に額を鷲掴みにされていた。彼の額を掴んでいたのは不破湊であった。
「...ハジメさん。すいませんが俺のために
不破はハジメの記憶を『葛葉が金のためにハジメを保護派に売ろうとしている』と改竄してしまったのだ。
ハジメの額から手を放すと不破はハジメがそうしたように夜空を見上げる。
「葛葉君は甘いんだよなぁ。もっと試したいんだよ。俺は。」
ハジメが次に目覚めた時には屋上には不破の姿はなくなっていた。そして、ハジメは逃げるように商業施設を抜け出すのだった。
天宮の様子を見に来た叶の記憶を改竄し終えた後で誰も居なくなった屋上で不破は黄昏の時を満喫していた。
「やっと準備は整ったかな。真の王が誰か決めようじゃないの。葛葉君。」
不破はあの時と同じように黄昏色の空を見上げながら笑った。
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盤根錯節(破)
オリバーを助手席に乗せたアクシアの車が目的地であるローレンの自宅前へと到着した。
ローレンの自宅は二階建ての小洒落たアパートの二階。一番奥の角部屋だった。
二人は直ぐに車を降りると階段を駆け足で上り、廊下の先にある玄関に向かった。
「ローレン? 俺だ。アクシアだ。」
アクシアが玄関の戸を叩きながら室内に居るであろうローレンへと呼び掛けると、中から柄にも無く青い顔をしたローレンが現れた。
「悪ぃなアクシア...って、あれ? オリバー課長も来てくれたんすか。申し訳ないです。」
「私のことは良いんです。そんなことよりローレン君は大丈夫なんですか? 」
本気で心配しているだろうオリバーの表情を見たローレンは心配させまいと笑みを浮かべているのだが、その笑顔は明らかに引き攣っていて無理矢理に作っていることが透けて見えてしまっている。
「無理すんなって。俺らに気使っても仕方ねぇだろう。とりま、話聞くから中に入ってもいいか? 」
「...そんな恥ずかしいことを対面で言うなっつーの。入ってくれ。課長もどうぞ。」
相変わらず引き攣った笑顔ではある。だけど、幾分かすっきりとした様子のローレンが二人を室内へと招き入れた。
自宅に戻った楓はスーツが皴になってしまうかもしれないことなどお構いなしにベッドへと身を投げ出した。
しばらくそのまま大の字になった状態で無心で天井を眺めていると力を失った瞼がゆっくりと沈んでいく。
「あー...あかんあかん。」
間一髪の所で現実に戻れた楓はベッドに寝ころんだまま手を伸ばし、床に放り投げた鞄の中からサンタクロースからのプレゼントを取り出す。
「どーれ...鬼が出るか蛇が出るか。」
ベッドの上でクルリと回りうつ伏せに体勢を変えると分厚い資料の一枚、一枚に目を通して行った。
それからどれ位の時間が経ったのだろうか。
資料の中身は楓の想像を超えるものであった。
「まるで小説か映画のシナリオやな。」
それが楓が資料を読み終えた後の率直な感想だ。ここに書いてある内容を全て鵜呑みにして受け入ることは直ぐに出来そうにはない。
「せやけど...。」
楓はパラパラと資料を捲っていき問題のページに辿り着いた。
『施設及び能力者管理担当:社 築(幹部候補生)、オリバー・エバンス(英語圏可、幹部候補生)』
経歴に不自然な空白がある問題の二人であることに加え、その期間も資料に記載されている時期と一致する。
それだけなら偶然として片づけることも出来るかもしれない。
しかしだ。
また資料を捲っていき『
『叶、不破港、文野環...』
能力者と記載されている人物の中に見覚えのある氏名があった。
高城と佐島が犠牲となったあの事件の関係者の名前が『能力者』として記載されている上に、その人物が保有している能力も一緒に記載されているのだ。
「不破湊。
楓はもう一度クルリと体を回転させると天井を見つめる。
確かに鵜呑みにする事は出来ない。けれど、これで全てに説明がつけられる。しっかりとハマった最後のピースによって大きな一枚の画が完成してしまったのだ。
「ホンマ...とんでもないプレゼントやで。サンタさん。」
起き上がった楓は少しでも頭の中をクールダウンさせようとシャワーを浴びに風呂場へと向かった。
ローレンの自宅ダイニングの赤いソファに案内されたオリバーとアクシアの前で床に胡坐をかきながら淡々と話すローレンの告白を聞いた二人には直ぐに不破の顔が思い浮かんでいた。
「それについてなんですが、一つローレン君に話しておかなくてはいけない事があるんです。」
頭を抱えるローレンへオリバーが優しく語りかけ始めた。
ここまで来る車中でも二人で話していたのだが、オリバーとアクシアは彼に自分たちのこと。AdeNのことを打ち明けることを決めていたのだ。
公安第五課の存在意義。能力者の存在。それに対するAdeNの構成メンバーと目的。
ローレンは唖然とした様子で話を聞いていたけれども、オリバーの話を遮るようなことはしなかった。
「...これが真実です。と言っても現実として受け入れられないと思いますが。」
「そりゃそんな御伽噺みたいな話を信じろってのが無理ですよ。オリバーさん。」
「ですよね。当然のリアクションでしょう。それを承知でお願いがあるんです。ローレン君。我々と一緒に戦ってはくれませんか? 」
「えっ? 」
オリバーの意外な言葉に驚いたローレンがソファに座る二人の表情を見つめた。今までは余りにも現実離れした話を脳内で処理する事で精一杯で二人の表情を観察する余裕なんてなかった。
改めて観察してみるとオリバーの表情からはいつもの柔和な優しさは消えていて、真剣かつ鋭い視線をローレンに向けていたのだった。
オリバーの眼差しからは『懇願』や『切望』と言った感情ではなく、『執念』や『怨嗟』のような感情がローレンには伝わってきていた。
もしも、心霊写真に今のオリバーの目だけが写りこんでいたとして、それを霊媒師が鑑定したなら『怨念』や『呪怨』だとかの言葉を選ぶことになるだろう。
「私たちのAdeNに加入してはくれませんか? 」
オリバーが深々と頭を下げるとアクシアがソファから立ち上がり、床に座っていたローレンの隣へ近寄ってきた。
「やろうぜ! ローレン! 俺もお前と一緒に戦いたいんだよ。」
束の間の沈黙が続いた後でローレンが小さくため息をついてから口を開いた。
「ダメだ。」
「...そうですか。」
導き出されたローレンの回答を聞いて肩を落としたオリバーが立ち上がった。その時、再びローレンが口を開く。
「
「えっ? どういう意味だ? ローレン。」
隣で心配そうな表情をしているアクシアを見てローレンは笑って見せた。
「何をするにも俺はパタ姐に謝らなきゃ。俺の頭ん中をいじった奴にケジメをつけさせるのはそれからよ。」
「それじゃあ...。」
「一緒にやってくれるんだろ? アクシア。対よろ。」
何時もの笑顔が戻ったローレンは右手の拳をアクシアへ差し出すと、アクシアも嬉しそうに笑い自分の拳を軽く合わせた。
「ああ。対よろ! 」
二人の様子を眺めていたオリバーも満足そうに笑った。
「また一歩。もうすぐだ。」
誰にも聞こえないような小さな声でオリバーはそう呟いていた。
葛葉は不破に施設のとある一室に呼び出されており、彼が来るのを一人で待っているところだった。
呼び出されたのは建物二階中央辺りの六畳ぐらいの窓もない部屋で、恐らくはセレクトショップの倉庫か何かで使用されていた場所だろう。
「二人だけで話したいことって何だ? 今は忙しい時だってのにさ。」
文野からAdeNがここを突き止めて攻め込もうとしているとの情報があったのだ。
ノコノコやって来る奴らを迎え討つ作戦を立てなくてはいけないというのに...。
「よっ! ズハ君。ごめんな。こんな時に。」
不破は約束通りの時間に姿を現した。
「オッケーオッケー。そんで? 何かあった? 」
「そのことなんだけどさ。」
次の瞬間、葛葉を小さな違和感が襲った。それは例えるなら首の辺りを何か虫のようなものに刺されたような感覚だ。
良く見れば部屋の扉が開いている。不破の姿の奥。部屋を出た先に誰かが立っているのが幽かに見える。
「あれ? 」
どうしてだろうか。葛葉は自分の目が霞んでいくのを感じた。
遠くに幽かに見えるあれは叶のように見えたのだが、それを判断する前に葛葉の意識は途切れてしまった。
「おやすみ。葛葉君。」
力を失った葛葉が床に倒れたのを不破は笑顔で見下ろしていた。
翌日、ローレンは朝か深々と頭を下げることになった。
「ほんとーーーーーに、ごめん! 」
彼が頭を下げていたのはパターソンであった。場所は庁内にある職員専用の小さな休憩スペースだ。
「あ、頭を上げてくれローレン。A.Cの連中に記憶を変えられたんだろう? それなら君は悪くないし、私も全然気にしてないぞ。むしろ、君の記憶が戻ってきて嬉しいとさえ思ってるんだ。」
パターソンはあたふたと戸惑いながらも笑顔でローレンにそう告げた。
「...ありがとう。これで心置きなく前に進めるよ。」
頭を上げてニッコリと笑うローレン。その笑顔は以前の明るさを完全に取り戻していた。
「ところで、ローレンはAdeNに正式に加入したんだって? 本当にそれで良かったのか? 」
「ああ。殴られっぱなしってのも性に合わないんでね。それに、アクシアが居る。俺がまたおかしくなってもアイツが止めてくれるだろうし、俺もアイツが危なくなったら助けてやりたいんだ。」
パターソンは今まで多くはないが能力者の力の大きさを少なからず実感していた。彼らと本気で対峙することの恐ろしさと難しさを考えると止めることがローレンのためになるのかもしれなかった。
でも、ローレンの真っすぐな目と力強い言霊はパターソンのそんな不安を見事に打ち消した。
「そっか...うん。ごめん。要らぬ心配だったな。私もいつでも力になるからね。」
「おっけー。直ぐに呼ぶわ! 」
お互いに笑顔が戻ったところで、パターソンが五課のオフィスに戻ろうとした時だった。
「パタ姐! パタ姐はAdeNに来ないの? 」
ローレンが投げ掛けた言葉にパターソンの足が一瞬止まる。
「...うん。」
別に
結果、ローレンに背を向けたまま短い一言を残して、パターソンはオフィスへと戻ることとなった。
一足先にオフィスに戻っていたパターソンに続いて、ローレンが戻ってきたところでオリバーが四人全員に向けて声を掛けた。
「どうやら全員揃ったようですね。では、みんな大好きお仕事の話を始めましょうか。」
そう言うと、オリバーは全員のデスクに何枚かのコピー用紙がまとめられた資料を配っていった。
「なんすか? これ? 」
資料を受け取ったローレンは、早速パラパラと中身を確認し始めた。
「どうやら何処かの平面図や立面図のようですねー。」
パターソンの隣に座るレオスも興味深そうに資料を眺めていた。
「これはですね。ある犯罪組織が潜伏していると思われている場所の資料です。」
「は、犯罪組織!? 」
パターソンが驚きの声をあげていたが、正面のアクシアは事前に知らされていた故に冷静にオリバーを見つめていた。
「久々にちょっと危ないお仕事になりそうですのでしっかり聞いてくださいね。明日、ここを五人で制圧したいと思っています。チームはローレン、アクシア君ペアとレオス、レイン君のツーマンセルで行動して頂きます。私は単独で指示をしながら行きます。」
オリバーは資料を交えながら細かな配置場所、侵入経路をチーム毎に説明していくと、彼の真剣さがしっかり伝わったようでパターソンたちも真面目に資料と向き合いながらオリバーの考えた作戦を頭に叩き込んでいった。
「何か質問はあるかな? 」
「俺は大丈夫かな。」
一通りの説明を終えてオリバーが四人に尋ねると真っ先にローレンが返事をした。
「私も大丈夫ですね。これぐらいのことを記憶することなど科学の計算式を解くのに比べれば造作もない事なんですねー。」
オリバー以外には誰も見ていないにも関わらずにキメ顔で次に答えていたのはレオスだった。
「素晴らしいですね。アクシア君とレイン君も大丈夫そうですか? 」
「完璧っすね。」
「私も問題ない。」
アクシアとパターソンもはっきりとした声で返事をしたのを聞いたオリバーは静かに頷く。
「それでは、今日は解散です。明日は忙しい一日になるはずです。今日はゆっくり休んで下さい。」
オリバーの締めの言葉を合図に四人は思い思いに立ち上がっていった。
用意していたパイプ椅子に眠っている葛葉をロープで縛り付け終えると不破は額の汗を拭った。
「これで良しと。」
「お疲れ様。僕の狙撃はうまく行った? 」
部屋の入り口から不破に声を掛けてきたのは叶だ。
「流石かなかな。そりゃもうパーフェクトショットよ。」
不破は叶に向かって満面の笑みでグッドのハンドサインを送った。
「それにしてもさぁ。葛葉が裏切り者だったとは意外だったよ。」
叶が眠ったままで椅子に縛り付けられた葛葉に冷たい視線を向けていた。
「確かに。まぁ、こっちは俺に任せてよ。しっかりお仕置きするからさ。」
そう言うと叶に向かってウインクをした不破は部屋の扉を占め外から鍵を掛けた。
「オッケー。じゃあ僕は
「ああ。頼んだよ。かなかな。」
去り行く叶の背中に不破は笑顔で手を振りながらポツリと呟く。
「...王手飛車取りっと。」
帰宅したパターソンが明日に備えて早めに寝ようと考え、シャワーでも浴びようかと考えていた時だ。
スマホに一通のメッセージが届いた。それはSNS経由でオリバーからのものであった。
『夜分遅くに申し訳御座いません。どうしてもレイン君にお願いしたいことがあるので、レイン君と初めて会った場所に今から来て頂けませんか? 』
初めて会った場所...?
それなら自宅を出て直ぐの路上だったはず。
あそこなら直ぐに行けるだろう。
『分かりました。五分以内に向かいます。』
パターソンが返事を送って、身嗜みを整えていると再びスマホの着信音が鳴った。
『ありがとうございます。車でお待ちしております。』
オリバーからのメッセージを確認してからパターソンは家を出て目的の場所へと向かった。
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鹿死誰手(急) -前編-
パターソンが家を出て向かった先、そこにはあの日と同じように路肩に止められているオリバーの車が見えた。
そして、同じように運転席から長身のオリバーが降りてきたのだった。
「夜分遅くに申し訳ございません。どうしてもレイン君にお願いしたいことがありまして。」
「気にしないでくれ。それで? お願いとは一体? 」
申し訳なさそうに頭を下げたオリバーに気を使い、パターソンは明るめな声と笑顔で尋ねていた。
この時、彼女はオリバーからの願いが、言っても大した事のないものだろうと。高を括っていたのだが、次の瞬間にオリバーの口から発せられた言葉は全く予想外なものであった。
「レイン君。君の能力を私のために一度だけ使ってはくれないでしょうか? 」
「えっ? ど、どういうことなんだ? 」
パターソンは冗談で言っているのかとも思ったのだが、オリバーの真剣そのもの表情を見て、彼が本気で言ったいるのだと悟った。
「呼び出して欲しい能力者が一人居るんです。」
「...誰を? 」
「ぺトラ...ぺトラ・グリン。」
それは聞き覚えのない名前だった。少なくともパターソンが今まで関わってきた事件の関係者の中には、そんな名前の人物は居なかったはずだ。
「お困りになるのも無理もありません。外は寒いので車に乗って下さい。私の過去についてお話します。」
そう言うとオリバーは助手席側に回り、車のドアを開けてくれた。
取り敢えずパターソンは何も聞かずに助手席に乗り込むことにした。
助手席のドアを優しく閉めたオリバーが運転席に乗り込むと、そこから路肩に止められたままの車中でオリバーについての過去が淡々と語られていった。
OneColorに配属されたこと。今のA.Cのメンツも含めた能力者と出会っていたこと。ぺトラ・グリンとの出会いと別れ。
オリバーが自分の過去について打ち明けた人物はパターソンで二人目だった。
もう一人はベルモンドであった。二人っきりで酒を呑んでいる時のこと。酒の勢いでぺトラの名前を思わず口にしてしまったのだ。
オリバーの独白が終わると車内には静かな時間が流れた。真っ黒にべた塗りされたウインドウの向こうも夜の帳が下りていて、何処からともなく誰かの寝息しか聞こえてこないようだ。
「私たちには明日、大きな仕事が待っています。冗談ではなく命を落とす可能性がある仕事です。私はですね...レイン君。どうしても直接謝りたいんです。」
目の前で依頼人を殺されたパターソンには痛い程にオリバーの気持ちが分かる。いや、もしかしたら悲壮感や慙愧の念はパターソン以上なのかもしれない。
出来る事なら彼の願いを叶えてあげたいと思う。
「すいません。オリバーさん。私には...出来ません。」
ただ、オリバーは一つ重大な思い違いをしているのだ。
「何故...? どうしてダメなんですか? 一度だけ...一度だけで良いんです。」
「違うんです! それは...無理なんです。」
「どういう...ことなんです? 」
パターソンはオリバーが好きだった。AdeNだとか、A.Cだとか、そんな事を抜きにしてオリバーと言う人間を敬愛していた。だからこそ、自分でも驚くほどに悲痛な声が漏れ出たのだろう。
「私の能力で呼び出せるのは、私自身がこの右手で触れたことがある能力者だけなんです。」
オリバーは天海寺から能力の説明を受けた時、『死んだ能力者を一時的に呼び戻す事が出来る』と説明されていた。そこには重要な一点が抜けていたのだ。
『呼び出せるのは相手が生きている間にレインちゃんの右手が触れていれば問答無用で呼び出せんで。ただし、その能力者が既にこの世に居ない場合に限るんやけどね』
パターソンが聞いた椎名の言葉がその答えだった。パターソンはぺトラを知らない。その右手は彼女に触れたことがないので、ぺトラを呼び出すことが出来ないのだった。
「そんな条件があったんですね...。」
そう言いながら、オリバーは座席にもたれかかり天を仰いだ。
オリバーにとって、完全に希望の光が断たれる絶望の条件だったはずなのに、不思議とオリバーは笑っていたのだ。
オリバー自身もその理由は分からなかった。様々な感情と想いが綯交ぜとなって、黒でもなく、白でもない見たこともない色が心の中に出来上がっていた。
そして、車内には再び静寂が訪れた。
葛葉は真っ暗な室内で目を覚ました。
目は動かせるが、口にはガムテープが貼られていて声を出せない。手足の指先は辛うじて動かせるが、腕や脚は縄のようなもので縛られていて動かせなかった。
どうやら安価なパイプ椅子に縄のようなもので拘束されているようだ。
どうしてこうなったのか。
葛葉はぼんやりとし霞んでいた記憶を何とか呼び戻そうとした。
そうだ。
不破と叶だ。
アイツら一体何を考えているんだ。そんな葛葉の疑問は直ぐに解決することとなった。
窓が無い暗い部屋の中で今まで見えていなかったのだが、暗闇に目が慣れてきた葛葉は部屋の一角にとあるものを見つけてしまった。
『こりゃ...参ったね。』
心の中で呟く葛葉の視線の先にあったもの。
それは何とも分かり易い容姿の爆弾であった。
作戦決行日【商業施設・一階裏手出入口前】
アクシアとローレンは車道に面している施設南側の一般客用の出入口前で待機していた。
「了解。ええ。オリバーさんも気を付けて。」
アクシアが耳に付けていたワイヤレスイヤホンマイクでのオリバーとの通信を済ませると、隣で同じようにインカムマイクでの二人の会話を聞いていたローレンへと目で合図を送った。
ローレンもそれを受けて頷く。
その時、二人は言葉こそ交わすことはなかったのだが、お互いの心の中には同じ単語が浮かんでいた。
『対よろ!』
二人は青い炎のように闘志を燃やしつつ、且つ静かに素早く施設内への潜入を済ませた。
目指す場所は南西の階段だ。
A.Cのメンバーは三階のフードコート周辺を生活の拠点としているとの事前調査の結果が出ていた。
三階へ向かうためには建物内にある階段かエスカレーター、エレベーターを使用しなくてはいけない。
エレベーターは目立ち過ぎるので論外。エスカレーターは三階まで吹き抜けのようになっている上に、周りに障害物も無いので危険。
となると、建物内に三か所ある階段を使って上るしかない。
相手方もバカではないだろうから罠が仕掛けられている可能性もあるのだが、慎重に進むよりほかはないだろう。
南西部にある階段前まで到着したローレンとアクシアであったが、二人の足はそれ以上先に動くことはなかった。
階段の前にはある人物がローレンたちの到着を待っていたのだ。
「マジか。バレちゃってたみたいよ。アクシアさん。」
「しかも、なんか...ヤバそうだね。」
二人は目の前に立ちはだかっていた人物がA.Cの能力者であろうことが一目で判断出来てしまった。
武蔵坊弁慶のように階段前に腕を組んで仁王立ちしていたのは赤髪の女性だった。
燃えるような紅く長い髪。頭部には角のようなものが二本生えている。
黒のハーフトップの中で窮屈そうに仕舞われた豊満な胸。同じく黒のアシメントリーパンツからスラリと長く伸びた綺麗な脚。
男なら目のやり場に困りそうな容姿の中で、いの一番に目が行くのが彼女のお尻の部分から生えているであろう大きな赤い尻尾だ。体は微動だにしない体とは違い、赤い大きな尻尾は左右にゆらゆらと揺れていた。
その姿は例えるなら赤いドラゴンが人型になっているように思えた。
「悪く思うなよ。」
「えっ? 」
赤髪の女性が口を開いたのに驚いたアクシアが短い声が漏れ出した。
女性が突然声を発したことよりも人間の言葉を発したことへの驚きが強かったようだ。
「我が名はドーラ。誇り高きファイヤードレイクである。
そう言いながら組んでいた腕を解いたドーラは姿勢を少し低くして二人に向かって構え始めた。
「おい...ローレン。」
「ああ。こいつはまっずい...かもな。」
相手の出方が分からない二人はドーラに合わせて身構えることしか出来なかった。
「いざ尋常に。」
姿勢を低くしたドーラがニッコリと微笑んだ。その笑顔は一人の女性として、とても魅力的な笑顔だ。
その刹那、ドーラの体が目にも止まらぬ速さでアクシアに向かって突進してきた。
アクシアは相手の姿を視界内に捉えることだけで精一杯だった。
ドーラの拳が自身の身体目掛けて飛んできているのにどうすることも出来なかった。
【商業施設・一階搬出入口前】
運送業者や従業員が使用するための大きな搬入口が施設西側に存在しており、今は使われなくなりシャッターが下ろされたその場所には三人の人影が集まっていた。
その内の一人は黛だったのだが、彼はピッキングツールを使って、シャッターを解錠を試みているところだった。
「黛? いけそうか? 」
黒のタクティカルベストの装備を確認しながらベルモンドが黛の手元の様子を窺っていた。
三人は揃いの上下黒のシャツとパンツに黒のタクティカルベストと黒に安全ブーツを履いており、全身黒ずくめの服装であった。
「大丈夫っすよ。ベルさん。黛さんの手に掛れば、このくらい朝飯前っすよ。」
「どーも。」
その場に居たもう一人の人物が笑いながら答えると、黛は作業を進めたまま気のない返事で流していた。
青く長い髪を後ろで束ねていて、白い肌に切れ長の目が特徴的な男だった。
「おい。長尾。AdeNとして初任務だってのに随分と余裕そうじゃねぇか。」
肌の白さや線の細さからは想像できないのだが、まだ二十代という若さでありながら猛者揃いの警察組織内で行われた剣道大会で連覇を果たした期待の新人だ。
彼はベルモンドの下で働きたいと志願する中の一人だ。刑事部捜査三課に配属していた長尾はベルモンドと共に働く実績として剣道の大会で連覇の偉業を手に直談判にやって来たのだった。
ベルモンドが長尾の心意気を買い、オリバーへと推薦したことでAdeNへの加入が実現した。
「いやーもう完璧っすね。どっからでも掛かって来いって感じですよ。」
「初仕事で張り切るのは良いが、無理すんじゃねぇぞ。相手は普通の犯罪者とは訳が違う。」
「俺の太刀とベルさんが居れば無敵っすよ。」
調子の良い長尾の言葉にベルモンドは不安そうに大きなため息を漏らしていた。
「お待たせ。開いたよ。」
タイミングを見計らっていたかのように黛はガラガラと音を立て、シャッターを上げながら立ち上がった。
シャッターの奥はだだっ広く薄暗い空間が広がっていた。
『ベルさん。聞こえますか? 』
建物内部を窺っていた三人のインカムにオリバーの声が届いた。
「おう。どうした? 」
『アクシア君たちが南西の階段で能力者と接触したようです。行けそうなら応援をお願いしたいのですが。』
「南西なら近いな。了解。すぐ向かう。」
ベルモンドがオリバーと通信をしている間に黛と長尾はトラップなどが仕掛けられていないかの確認を済ませた。
「オッケー。ベルさん。罠は無さそうです。」
「おし。行くぞ。」
長尾からの報告を聞いたベルモンドのゴーサインを合図に三人は倉庫内へと侵入していく。
しばらく使われていないようで、所々に段ボールや木製パレットが点在しているだけで人の気配は全く無かった。
「俺は南西に向かう。長尾は黛と施設システムの掌握を頼んだ。」
「了解。こっちはお任せを。」
倉庫の中央付近で長尾がベルモンドにそう言葉を返して、二手に別れようとした時だった。
黛と長尾が見つめていたベルモンドの顔が明らかに変化したのだ。
その変化は暗がりの倉庫内でもはっきりと認識することが出来て、何かに驚いた様にカットの目を見開いていた。
疑問を抱いた二人が何か行動するよりも早くベルモンドが黛の体を目掛けて、無言でタックルをしてきたと思えば、完全に不意を突かれた上に二人の体格差も相まって黛の体はいとも簡単に宙に舞い、二、三メートル先の地面へと不格好に着地した。
「何を! 」
真横で黛が飛んで行く様を見ていた長尾が驚きの声を上げる中で、今度は鈍い音と共にベルモンドの体が黛とは真逆に向かって飛んで行ったのだった。
ベルモンドは五メートルほど離れたところにあったスチール製の棚にぶつかって止り、何も乗っていなかったスチール製の棚もベルモンドがぶつかった衝撃で倒れてしまった。
何が起こっているのか分からないままに長尾がベルモンドの姿を見てみると、地面に倒れ伏しているベルモンドの体に重なるように大きな段ボールが落ちていた。
「あれが...飛んできたのか? 」
もし、あの段ボールが飛んできたとすれば、ベルモンドが飛んで行った対角線上のはずだ。そう考えた長尾が段ボールが飛んできたであろう先に視線を向けた時、徐に黛が起き上った。
「いってぇー...トラックにでも轢かれたみたいだ。」
ベルモンドの体とぶつかった腹部の辺りを痛そうに押さえていたのだが、長尾は別の何かに釘付けになっているようだった。
起き上がった黛が長尾の見つめている先を見てみると、そこには誰かが立っていた。
暗がりではっきりとその姿を捉えることは出来ないのだが、どうやら女性のようだ。
暗めのカーディガンを羽織った学生だろうか?
制服のようなものを身に纏っている。その子は長く伸びた髪を布のようなもので束ね、黒縁の眼鏡を掛けていた。
「あんたが...やったのか? 」
静かに語り掛けた長尾を少女は無表情で見つめたままで静かに口を開く。
「そう...。
消え入りそうな声で彼女が呟くと、彼女の隣に置いてあった段ボールが独りでに宙に浮いたと思えば、長尾を目掛けて真っすぐに飛んできたのだ。
【商業施設・一階正面入口前】
商業施設の北側には百台程が止められる平面駐車場が広がっていて、施設メインの出入口もそこにあった。
そして、そこで待機していたのはパターソンとレオスだ。
二人はローレンたちとほぼ同じタイミングで施設内に侵入を済ませており、現在は北東部にある階段を上っているところだった。
「気味が悪いくらいに静かですねー。」
他のチームと違い、二人は順調に上階へと向かうことが出来ていた。今は二階を通過したところだ。
「どこから出てくるか分からないんだから油断しない方が良いと思うぞ。」
「レイン君。これは油断とは言わないんですねー。『オトナのヨユー』と言うやつですよ。」
「はぁー...その辺は何でもいいんですけどね。」
良くも悪くも、普段と変わらぬ会話劇を繰り広げながら、二人は更に上階へと上がっていく。
パターソンたちが目指していたのも三階中心部のフードコートエリアであったのだが、ここまで一切の妨害がないままに三階フロアの入口まで辿り着くことが出来た。
三階のフロアもセレクトショップやアパレルが入っていたであろう店舗が装飾や看板を残したままの状態で並んでいた。
勿論、そこに商品や店員は存在せず、所謂ゴーストタウンのようになっていたのだった。
見えている景色にそぐわぬ異様な静けさに包まれて、二人はフロア中央部を目指して三階へと足を踏み入れた。
「やぁオリバー君。そちらは首尾良く進んでるかい? そうか。いや。順調ならそれで良いんだ。期待しているよ。」
警視庁内の廊下で天海寺がスマホを切ると、それを待っていたかのように誰かが後ろから声を掛けてきた。
「天海寺さん。随分と楽しそうじゃないですか? 」
天海寺が振り返ると、そこには顔見知りの男が立っていた。それは元OneColorの施設の管理者だった男だ。
つまりは天海寺たちと対立している保護派閥の人物。
「これはこれは奇遇ですね。私に何かご用ですか? 」
「それがですね。天海寺さんもよーくご存知の例の極秘データが何者かに持ち出された形跡が見つかりましてね。」
「ほう...それは大変だ。」
天海寺は極めてワザとらしく深刻そうな声で相槌を打った。
「ええ。そうなんですよ。あと何の因果か分かりませんが、天海寺さん肝入りで新設された公安第五課。何時も暇そうにしている彼らが今日に限って全員出払っている。天海寺さん...何かこの件について知っているんじゃないですか? 」
「どうしてそう思われたのかは分かりませんが、もし知っていたとしても私が貴方方に教える理由はない。あのデータが世間に流失したとしても私たちは一切困らない。むしろ歓迎したいぐらいだ。まぁ。そんな怖い顔をしていないで楽しみましょうよ。まだ誰の手の中にも鹿はいないんですから。」
そう言い天海寺は軽く会釈をすると悔しそうに顔を歪める男に背を向けて歩き出す。
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鹿死誰手(急)-中編-
【商業施設・三階フロア中央付近】
先程まで雲一つ無い晴れやかだったはずの青空が、気が付けば分厚く暗い雲に覆われていた。
「おやおや。これは一雨きそうですねー。」
施設中央付近のエスカレーター上部に設けられた天井の明かり窓を見上げながらレオスが呟くとパターソンもつられて天井を見上げた。
「うわー。ほんとだ。あんなに晴れていたのにな。」
パターソンも明かり窓から見える空模様を見上げていたが、天井を見上げる彼女の口はポカンと開いていて数十分前までの緊張感はどこかへと消えてしまっていた。
人も商品も無い殺風景なことを除けば、二人は並んで歩く姿は休日の恋人たちの仲睦まじい姿にも見えないこともなかった。
「みっともないですねぇー。口が開いてますよ。レイン君。」
「なっ! 開いてるんじゃない。開けているんだ! 」
そう言いつつも頬を赤く染めたパターソンは慌てて口を閉じた。
「随分と...楽しそうじゃないっすか。」
二人が向かおうとしていた先で、そう声を掛けながら出迎えた人物。
それは不破湊であった。
ポツポツと降り始めた雨が明かり窓を叩く音が聞こえ始めていた。
【商業施設・一階南西階段前】
一方、天候の変化など気にしている余裕はこの二人には残されていなかった。
アクシアは猛スピードで迫り来るドーラに対して反射的に両腕を顔の前に構えて心許ないガードを拵えたのだが、しっかりと構えていたはすの両腕に一向に衝撃は襲って来ない。
どうしてだろう。何かあったのか。
そんなアクシアの疑問は直ぐに解消されることとなった。
腕ではなく、アクシアの足元に何かがぶつかったのだ。
その正体を確認するために視線を落としたアクシアが見たものは、床で腹部を押さえながら悶えるローレンの姿であった。
彼はアクシアを庇うためにドーラの拳が直撃する寸前でアクシアの前に立ちはだかっていたのだ。
だが、咄嗟に間に入ったローレンに身構える余裕などあるはずもなく、ドーラの渾身の右ストレートはローレンの腹部にクリーンヒットすることとなった。
「ローレン! 大丈夫か!? 」
狼狽えたアクシアの呼び掛けにローレンは咳き込みながら、と言うよりは嗚咽に近い音を吐き出しながら何とか上体を起こした。
「っー...おいおい洒落になってねぇーぞ。当たり所次第じゃ一発で持ってかれちまうぞ。これ。」
ローレンの喋り方はいつも通りのように思えたのだが、アクシアの肩を借りなければ立ち上がれない程のダメージを負っていた。
いつの間にか階段前まで戻っていたドーラが態勢を低くして構えたかと思えば、再び二人に向かって走り出していたのだ。容赦なく二の矢を放とうと言うことのようだ。
初見の不意打ちとは違い、アクシアはしっかりとドーラの姿を視界に捉えていた。
「二度は...ねぇって! 」
そう言い放つとローレンを軽く突き飛ばしながら、自身も横っ飛びで態勢を逸らす。
すると、丁度二人が左右に分かれる形となり、その間をドーラの拳が虚しく空を切っていく。
「よし」とアクシアが心の中で呟いたのだが、聞こえていないはずのドーラから小さな声が漏れ出した。
「甘い。」
ドーラの赤い鱗に覆われた尻尾が拳や彼女の体の流れとは全く相反する動きを見せた。それはまるで異なった別の生き物であるかのように振り下ろされ、アクシアの体を床へと押し潰した。
固い鱗に覆われた尻尾のもたらす打撃力はアクシアの想像を遥かに超えていた。
昔、刑事になりたての頃だ。交番勤務中に金属バットを持ったイカレた暴漢を逮捕する時に揉み合いになり、暴漢のフルスイングした金属バットを腹に食らった時の感覚に近いものがあった。
その衝撃はアクシアの肺を直撃して、一瞬息が出来なくなる程だった。もしかしたら肋骨も何本か持っていかれたかもしれない。
ドーラはそのまま分かれた二人の間に着地をすると、弱っているアクシアへと目標を定めた。強者の余裕なのかローレンには完全に背を向けたまま眼中に無いといった感じだ。
「くっ...そ。」
悲鳴や痛みを口にすることさえ出来ず床に寝そべるアクシアをドーラは静かに見下ろしていた。
その気配には気が付いていたアクシアも何とかドーラの姿を視界に入れようと上半身を起こそうともがく。
「やはり脆いな。人間というものは。」
ドーラは右腕を高く掲げ始めた。良く見てみれば、その手先には鋭く大きな爪が生えていた。どうやらその爪でアクシアの体を切り裂こうとしているようだった。
しかし、何とか上体を起こすことに成功したアクシアはその禍々しい爪ではなく、別のものに気を取られていた。
それはドーラの背後に立っていたローレンの姿だ。
ローレンは懐から拳銃を取り出して、その銃口をドーラの背中に向けて構えていた。
しかも、そのことにドーラは全く気が付いていないように思えた。
「苦しみたくねぇーから、一発でちゃんと決めてくれよ。ドラゴンちゃん。」
アクシアはドーラの気を逸らさせないように敢えて挑発的な言葉を選んだ。もしかしたら、ローレンの銃弾が間に合わずに鋭いあの爪でヤラれてしまうかもしれない。
それでも、このチャンスを逃すわけにはいかなかった。自分たちが勝てるかもしれない数少ないチャンス。
ローレンにもアクシアの決死の覚悟は伝わっていた。
次の瞬間。
激しくなった雨音に混じり、二発の銃声が施設内に響き渡った。
【商業施設・一階西側バックヤード倉庫】
長尾はタクティカルベストから素早く伸縮式の警棒を取り出すと、正面から飛んで来る三、四十センチ四方のダンボールに鮮烈な一太刀を放った。
長尾の放った一振りは完全にダンボールを捉えており、歪な形に変形したダンボールは音を立てて床に崩れ落ちてしまった。
「ふーん...意外とやるじゃん。君。」
称賛する台詞の内容とは相反し、語部の表所に変化は見受けられなかった。
「そりゃどうも。そんなことよりさ。もしかして、今のって君が飛ばしたのかな? 」
「うん。そうだけど? 」
普通に考えれば冗談のような発言をしているのに、やはり語部の表情は少しも変化しない。
何を考えているのか、本気で言っているのか。どこまで行っても掴み所のない人物だ。
「なるほど...語部紡ってか。」
一撃目のダンボールの直撃を受けて床に倒れていたベルモンドが、ゆっくりと立ち上がりながら呟いた。
「ベルモンドさん。申し訳ない。俺を庇ってくれたんだよな。」
一足先に立ち上がっていた黛が申し訳なさそうに頭を下げた。
ベルモンドは黛の背後に迫って来るダンボールに一早く気が付き、咄嗟に黛のことを突き飛ばしていたのだった。
「気にしなさんな。そんなことよりだ。長尾。そいつは語部紡っつう能力者の一人だ。ポルターガイストを起こすって話だ。これまで目撃情報が少なくてデータもほとんど残っていない幽霊みたいな奴でな。俺もオリバーが持っていた資料の中でしか見たことなかったんだが、本当に実在していたとはな。」
「語部はここに居るよ。まぁ...居ても居なくてもどっちでも良いんだけどさ。」
語部の言葉が聞こえているかのように彼女が語り終えると傍に落ちていたダンボールが三人が見つめる中で、まるでふわふわと風船のように宙に浮いたのだ。
勿論、語部は一歩も動いていない。それどころか指の一本すら動かしていなかった。
それなのに宙に浮かんでいたダンボールは主人に命令を受けた番犬の如く、何の前触れもなくベルモンドへ向かって勢い良く飛び出したのだった。
前回は不意を衝かれて情けない格好を見せてしまったが、対象が見えていて正面から飛んで来るのなら話は別だ。
ベルモンドは飛んできたダンボールをドッジボールの要領で真正面から受け止めてみせたのだ。
「こんなもんかい? お嬢ちゃん。」
不敵な笑みを浮かべたベルモンドが腕の中のダンボールを軽々と放り投げると、ドスンという大きな音と衝撃を最後にただの無機物へと戻ったダンボールは床に落ちた。
「流石ベルさん。やっぱパワーが違うわ。」
「相変わらず調子がいいねーお前さんは。まぁいいや、長尾と黛。二人は当初の予定通りに行動しろ。ここは俺が引き受ける。」
自分がこの場に残って良いところを見せようかと考えていた長尾だったが、ここはチームとして指揮官の指示に従うしかなかった。
「了解っす。そうなりゃ善は急げ。黛さん、行きましょう。」
「...ああ。」
僅かに戸惑ったかのように見えた黛も語部の背後にある倉庫の出口へと向かって既に走り出していた長尾の後に続いた。
自身の真横を走り去る二人を語部は慌てることなく横目で見ているだけであった。
しかし、すんなりとここから出してもらえるわけではないようだ。
二人の行く手に放置れていたシルバーのショッピングカートがカタカタと小刻みに揺れ始めたと思えば、船が舵を切るようにゆっくりと向きを変えながら動き始めた。
カートが目標を長尾と黛に定め、猛スピードで迫って来ていた。
「あのさぁ...芸がないんだよね! 」
そう叫びながら長尾は剣道の突きの型で警棒をカートに伸ばし、カートの右の角に正確に警棒の先端を当てて見せたのだ。
真っすぐに進んでいたはずのカートだったが、長尾の一撃を受けて鈍く高い音を鳴らしたかと思えばバランスを失った独楽のようにクルクルと高速回転しながらあらぬ方向へと去って行った。
二人はチラリとベルモンドに一度視線を送るだけで、勢いそのままに立ち止まることなく倉庫の出口から無事に脱出していったのだった。
「あーあ...。遊び相手が減っちゃった。つまんない。」
語部が残念そうに小さなため息をつく。
「ほぅ? 俺一人じゃ不満ってかい? お嬢ちゃん。」
「...。」
ベルモンドの挑発に冷たい視線を向けた語部はベルモンドからは完全に死角になっていた倉庫の片隅に落ちていた一つの林檎を音も無く静かに浮かせた。
林檎はベルモンドの左後方から弧を描き、スピードを上げてベルモンドに向かい飛んできていた。
カッコつけているベルモンドの左蟀谷に林檎が当たり飛散する様子を想像すると笑いそうになってしまうのだが、その気持ちを必死に抑えながら語部は喜劇の顛末を見守っていた。
「えっ? 」
だが、語部の口から漏れ出したのは笑い声ではなく、驚きの声だった。
林檎の影すら見えていないはずのベルモンドの左腕が真横に真っ直ぐに伸びて、ノールックで飛んで来る林檎を掴み取ったのだ。
ベルモンドの左手に捕らえられた林檎はミシミシと音を立て始めたと思えば、手の中で見事に砕け散った。朽ちかけの林檎ではあったが、左手一本で簡単に握り潰された林檎は粉々になって床に落ちていた。
「お嬢ちゃん。あんま調子乗ってると、この林檎と同じことになっちまうぞ。」
手を払いながら笑み浮かべるベルモンドにつられるように初めて語部が笑顔を見せた。
その笑顔は何とも可愛く、愛くるしい笑顔なのであった。
【商業施設西面道路】
路肩に止められていたバンの中でオリバーが受けたベルモンドからの最後の連絡は何とも短いものであった。
『すまねー。アクシアたちのとこには行けそーにねぇわ。』
それだけ言って一方的に通信が切れた直後に立て続けに黛からも報告が入ると、三人が置かれている状況が鮮明になり、オリバーにもベルモンドの言葉の真意を汲み取ることが出来た。
「なるほど。了解しました。黛君たちはそのままツーマンセルで行動して、施設設備の掌握に向って下さい。アクシア君たちとベルモンドさんは僕の方で何とかします。」
黛たちへの指示を終えたオリバーは急いで装備の確認を済ませ、オリバーはバンから降りた。
少し前から降り出した雨が強くなっている中、アクシアたちが入ったのと同じ南側の出入口へと向かって駆け出す。
直ぐに南側の出入口に到着したオリバーは外から建物内の様子を窺うが、不気味なほど静かで人の気配は感じられなかった。
「おかしい...。何だ? この違和感は...。」
今まで幾度となくA.Cと対峙してきたオリバーだったのだが、今までとは全く違う雰囲気を感じ取っていた。
何と言うべきなのか。華やかさがないと言うべきか、派手さに欠けると言うべきなのか。
別の意味での警戒心を強めながら商業施設へとオリバーが足を踏みれた時のことだ。
突然、上階から大きな爆発音が聞こえたと思えば、建物全体が大きく揺れたのだった。
【商業施設・三階フロア中央付近】
二人には見覚えのある顔だ。
警視庁地下での事件以降、煙のように姿を消していた重要参考人。不破湊。
「相変わらず仲良しなんですね。」
不破はパターソンとレオスを茶化しながら余裕の笑みを浮かべていた。
「あれれー? 羨ましいんですかー? 寂しいんでしたら友達になってあげても良いですよ。」
レオスも負けじと不破にお得意の
「どうせなら僕はパターソンちゃんとお友達になりたいですね。どうです? 僕のA.Cに来ませんか? 」
「前にも葛葉って男にも言ったが、私は君たちの組織には入らない。何度言われてもそれは変わらないぞ。」
レオスとは違い、至って真面目な表情と言葉で返事をしたにも関わらずに不破は笑っていた。
「葛葉君ですか...。彼ならもう居ませんよ。」
「『居ない』? どういう意味? 」
不破の言っている意味が分からずパターソンが言葉を返す。
「文字通りの意味だよ。葛葉君は舞台から降りてもらいました。これからは僕の時代です。これから新たな組織で本当の能力者の時代が来るんです。僕の手によって、僕が新世界の伝説として君臨する。」
不破は光悦とした表情で誰かに伝えていると言うより、その言葉は宣誓のように聞こえていた。
その時、三人が立っていた場所から、さほど遠くない場所。三階フロアの中央付近で大きな爆発音と炎が上がった。
同時にフロア全体が地震のように大きく揺れると、パターソンの足元の床に大きな亀裂が走った。
「うわっ!? 」
短い悲鳴にも似たその声はパターソンの少し後ろに立っていたレオスのものだ。
これが不破が狙ってやったことなのかどうかは分からないが、床の一部が二階へと崩落したのだ。
そして、その崩落に巻き込まれる形でパターソンの目の前で床の瓦礫と共にレオスも階下へと落ちてしまったのだった。
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鹿死誰手(急)-後編-
SF小説のような内容の分厚い資料を読み耽ってしまい、やや寝不足の楓が目を擦りながら家を出た。
「あん? なんやこれ? 」
玄関を出て直ぐのところに何かが落ちているのに楓は気が付く。と言うよりは、見つけてくれと言わんばかりにこれ見よがしにそれは置いてあった。
「写真? 」
玄関前に置かれていたのは、最近お目見えする機会がめっきり減った一枚の写真だった。
楓が屈んで手に取ってみると、そこに写っていたのは何か大きな建物で手前には一台も車が止まっていない広い駐車場も写りこんでいた。
どうやら郊外などで良く見掛ける大規模商業施設か何かのようだ。
楓には全く心当たりの無い場所だった。裏返してみると、写真の裏面の右下隅には『エデンの園』と小さな文字で書き込みがされていた。
「エデンの園? なんや目出たい名前の施設や...ん? エデン? 」
楓は見覚えのある言葉に左手に持っていたショルダーバッグの中身を乱雑に漁ると、例の資料を取り出して目的のページを探し始めた。
慌ただしく紙を捲っていた楓の手が、とある頁でピタリと止まった
「AdeN(エデン)。対能力者殲滅組織名...リーダー...オリバー・エヴァンス。」
改めて写真を凝視した楓は踵を返すと警視庁とは別の方向へと足早に歩き始めた。
【商業施設・西側一階倉庫内】
ベルモンドと語部は外から聞こえて来た爆発音とそれに伴う揺れに動じることなく、一定の間合いを取ったまま睨み合っていた。
言葉も交わされることない重苦しい空気が辺りを包み込んでいく中で先に動いたのはベルモンドだった。
あらゆるモノを自在に動かしてくる語部に対して遠距離での戦闘はどうしても分が悪い。
そのためにベルモンドは少しでも語部との距離を縮めようとしていたのだ。
だが、少しでも動こうとすると四方八方から物が飛んできてはベルモンドの進行を妨げていた。
「全く。虫も殺さねぇーよな顔しといて、やることはエゲツないねー。」
と言うのも、先ほどから語部が飛ばしてきているものが、どれも柔らかいものであったり、丸みを帯びているものだったりと、明らかに殺傷能力の低いものを選んでいたのだ。
まるで小さな子供が虫を甚振るように、ベルモンドがもがく姿を楽しんでいるようだった。
「あら? それって褒め言葉ですか? 」
語部は嬉しそうに微笑み、首を傾げていた。
「...くそったれ。」
負け惜しみの言葉を漏らしながら苦悶に満ちた顔のベルモンドであったが、それは相手を油断させる演技だった。
確実に勝利をもたらす策ではないが、今の状況を打開出来るかもしれない。
そんな画策を巡らせるベルモンドは右手をソッと自身の背中の方へと回した。
【商業施設・一階北西階段前】
激しくなっていた雨音に混じり二発の銃声が一階に響き渡った。
ローレンがドーラの背中に向けて構えていた拳銃の銃口からは微かに硝煙が上がっている。
ドーラは高く上げた右手を今まさにアクシアへと振り下ろさんとした状態のまま固まっていた。
その姿にドーラを誘導していたアクシアも自分たちの仕掛けたカウンターが決まったものだと確信した。
「...マジか。」
だが、アクシアの確信とは裏腹に拳銃を構えたままのローレンからは驚いたような声が聞こえてくる。その声は微かに震えているようだ。
「後学のため、君たちに一つ教えておこう。」
そう言うとドーラは尻尾をアクシアに見せつけるようにクルリと体の前に回した。
赤い鱗に覆われた尻尾には二発の銃弾が突き刺さっており、ドーラはそれをゆっくりと引き抜いた。
銃弾が刺さっていた痕が残る鱗には穴があいていないのだ。それは拳銃の銃弾が鱗を貫通することが出来なかったことの表れでもあった。
「ドラゴンの鱗は鋼より硬いのだ。」
「そりゃ...冗談キツイって。」
アクシアにはもう笑うことぐらいしか出来なかった。思考が停止し、体にも力が入らない。目の前に立つドラゴンの表情が神々しくさえ見え始めていた。
「案ずるな人間。直ぐに楽にしてやるさ。」
再びドーラが憐れな人間に審判を下すべく右手を高く掲げた時のことだ。
上階から雷のような爆音と激しい揺れが三人を襲った。
その衝撃の威力は大きく、項垂れ気味だったアクシアはバランスを崩し、よろめき屈みこんでしまったほどだ。
「う、上か!? 」
そう叫びながら天井を見上げたアクシアが見たものは天井に走る大きな亀裂であった。直ぐに崩壊するようなことは無さそうだが、かなり危険な状態であることは間違いなさそうだ。
一方のローレンは拳銃をドーラに向けた状態で何とか立ったままを維持することが出来ていた。
屈みこんで上を見上げたアクシアに促されるように天井を見上げようとしたのだが、その前にローレンの目に不思議な光景が飛び込んで来たのだ。
それはドーラの姿だった。
先ほどまで神々しく絶対神の如く君臨していたドーラが天井を見上げたまま固まっている。しかも、その表情は明らかに青ざめているようにさえ見える。
「おっけー。行けってことだよな。」
ドーラの異変を瞬時に察したローレンが引き金を引く。
銃弾は真っすぐにドーラの右肩へ飛んでいくと、尻尾に遮られることなく右肩を貫いた。
「ぐっ...! 」
ドーラの肩口から赤い鮮血を飛散したかと思えば、二人が初めて聞く悲痛な声をあげて、遂にドーラは膝をついた。
「もらいっ! 」
今が好機と容赦なくローレンは二発目の銃弾を放ったのが、ドーラは素早く尻尾を動かすとローレンの追撃を防ぎきった。
ドーラの細い身体の前に立ち塞がっていた尻尾がゆっくりと下ろされる。
赤い鱗の尻尾の向こうから現れたドーラの目は鋭く、険しくローレンを睨みつけていた。
その瞳は鱗よりも、ドーラの肩から滴っている血液よりも紅く燃え上っているようだった。
蛇に睨まれた蛙。改め、龍に睨まれた人間と言ったところだろう。ドーラの真っ赤に燃える瞳から伝わる憤怒と殺気に捕らわれたローレンはその場から一歩も動くことが出来なくなってしまう。
ドーラがターゲットをローレンへと変えようと振り返ったのと同時に眩い閃光と轟音が施設内に響き渡る。
その正体は大きな雷であった。
ローレンもアクシアも轟く雷鳴に動じることはなかった。なぜなら、目の前の龍の一挙手一投足の方が問題だったからだ。
だが、二人が見つめる中でドーラは天から轟く轟音に身体をビクリと跳ね上げ、固まってしまっていたのだ。
万物を平伏させるような存在であったはずの龍の姿は見る影もなく、彼女の形をした抜け殻だけがそこに残っているようであった。
「もしかして...。」
それを見たアクシアが呟くと、ドーラを挟んで真逆に立っていたローレンも示し合わせていたかのように同じタイミングで口を開いた。
「雷が怖いのか? 」
予期せぬ天啓から生じた隙を逃すわけにはいかない。
龍の呪縛から解放されたローレンは照準を定め直して引き金を引く。固まってしまっていたローレンの指先は、今度はしっかりとローレンの意思を拳銃へと伝える。
「当たれー! 」
ローレンの気合と共に銃口から銃弾が飛び出そうとした刹那。亀裂が入り脆くなっていた天井が崩落したのだ。
その時のことだ。
アクシアとローレンの間で不可解なシンクロニシティが起きていた。
それは二人には目の前で起きている出来事がスローモーションになって見えていたのだ。
ゆっくりと回転しながら飛んでいく銃弾。
落葉のようにひらひらとドーラの頭上に舞い散る大小の瓦礫。
すっかり曲調が変わった雨音。
これは脳の誤作動が見せる幻なのか、現実の出来事なのか。
アクシアとローレンが判断するより前に世界は本来の速度を取り戻していった。
彼方へと消え去る銃弾。
音を立てて床に積み重なる天井の瓦礫。
激しく鳴り続ける雨音。
二人からしてみれば、ほんの数秒の間の出来事にも思えていただろう。
「何だよ...今の。」
「おい! ローレン! 無事か? 」
ローレンが戸惑っているとアクシアの声だけが前方から聞こえてきた。
アクシアの姿は天井から崩れ落ちた瓦礫の山の向こうに消えていた。
そして、ドーラの姿も。
それのそのはずだ。瓦礫の山が出来ていたのは、まさに直前までドーラが立っていた場所なのであった。
「大丈夫だ! そっちも無事みたいだな。」
お互いの声で現実に戻った二人は瓦礫に近寄って、お互いの無事な姿を視認して胸を撫で下ろした。
「なぁ...アクシア。潰されちまったのか? あのドラゴン女。」
「俺も呆気に取られてて、はっきり見たわけじゃないんだけど、どこにも姿が見えないし、瓦礫がピクリとも動かないとこを見るに恐らくは...」
二人の腰の辺りの高さまで積み重なった瓦礫を複雑な気持ちで黙ったまま、しばらく見つめ続けた。
それでも、やはり聞こえてくるのは雨音だけなのだった。
「...行こうか。」
アクシアの言葉に「だな」とだけ小さく呟き、二人は本来の目的地であった三階へ向かうべく階段を駆け上がっていった。
【商業施設・三階フロア中央付近】
声を出す間もなく、レオスは崩れ落ちた床と共に下の階へと姿を消してしまった。
「ヴィンさん!! 」
パターソンも持ち前の運動神経を活かして直ぐに手を伸ばしたが、僅かに届かずに空を切る。
「ま、待ってろ! すぐに助けに...。」
急いで二階に向かおうと顔を上げたパターソンは自分たちが上がってきた階段の前の床が完全に崩落してしまっていることに初めて気が付いた。
もうこのルートは使えない。パターソンは覚悟を決めて、ゆっくりと不破の方へと振り返る。
「どうやら神様もこちらに味方しているみたいだね。僕たちは君と話したかったんだから。」
特に何かをするわけでも無く、不破は不敵に笑いながら同じ場所に立っていた。
「残念だけど緊急事態なの。君に構ってる暇はないんだ。ゴメンネ。」
「いや。謝るのは...。」
そう言うと不破は徐に右手を高くかざす。
「こっちの方だよ。パタちゃん。」
不破の掲げた手を合図にどこからか一発の銃弾が放たれると、銃弾は最短距離を駆け抜けてパターソンの右腕を見事に貫いた。
「えっ? 」
一瞬の出来事だったためにパターソンの痛覚が反応を示すまでには僅かなラグが生まれていたが、焼けるような感覚と腕を伝う流血の感覚が彼女に起きた事実を理解させた。
「ぐっ! どこから...。」
痛みで霞む目を凝らしながら辺りを見渡しても狙撃手の姿はどこにも確認出来なかった。
血を流しながら力なくうなだれるパターソンの右腕を見た不破は高らかな笑い声を上げる。
「いーねー! かなかな! パタちゃん。俺も君が素直に頷く何て最初から思っていないんだな。だからさ。」
そう言うと、不破は掲げていた右腕をパターソンに向かって差し出した。
「君の記憶を変えちゃおうと思ってるんだ。右腕を使えない君の記憶を変える事なんて造作もないことさ。」
不破は右腕を差し出したままゆっくりとパターソンへと近づき始めた。
「そう簡単に...。」
腕の痛みに耐えて、足を吹きだそうとしたパターソンの数センチ横の床に新たな銃弾が着弾する。
銃弾はパターソンの身体を傷つけることはなかったが、正確無比な銃弾はパターソンの動きを察知して着弾していた。
「おっと。下手に動かない方がいいよ。こっちは君が気絶するまで痛めつけてから記憶を弄ってもいいんだけど、女性を傷つけるのは俺のポリシーにも反するんだよね。」
不破の言うように右腕を上手く動かせない以上、あの力を頼ることも出来ない。おまけに姿の見えない狙撃手に完全にロックオンされてもいる。幾ら考えを巡らせてもパターソンには現状を打開する術を見つけることが出来なかった。
「パタちゃん。安心してよ。俺が幸せな世界に誘ってあげるからさ。」
気が付けば不破との距離は確実に、ゆっくりと縮まっており、もうすぐそこまで不破は迫っていた。
【商業施設・二階フロア中央付近】
大きな爆発音と衝撃の原因を探すべく二階へと上がったオリバーが見たものはフロア中央付近に積み重なった瓦礫と天井にあいた大きな穴だった。
「なんだこれは...ん? あれは...。」
瓦礫から十数メートル離れた場所に居るオリバーからでも、瓦礫の上に別に何かがあるのが見えていた。
それは紛れも無く人であった。しかも、見覚えのある姿をしている。
「れ、レオス君! 」
小山の頂上で仰向けに倒れていたのはレオスだった。オリバーは彼の意識の有無を確認すべく急いで瓦礫を駆け上がる。
「大丈夫ですか!? 」
レオスは目を開けたままで倒れていた。瞬きもせずに天井にあいた穴の向こうを見つめて微動だにしていない。
もしやとオリバーが最悪のケースも想定した時だ。
「いやー。参りましたねー。」
何事もなかったかのように、いつもの大きな声を出したかと思えば、ムクリとレオスは起き上がったのだ。
「れ、レオス君? 大丈夫なのか? 」
「おや? オリバー君じゃないですかー? こんな所で何をしてるんですか? 」
一気に緊張の糸が切れたオリバーは安堵と倦怠感がもたらした溜息を一つ漏らした。
「いや。それはこちらのセリフですよ。急に大きな音がしたと思って来てみれば...。そう言えば、レイン君は? 」
「レイン君なら上ですよ。」
レオスが人差し指で天井にあいた穴を差すと、その穴の向こうから一発の銃声が聞こえてきた。
「銃声!? 」
驚くレオスの叫び声など聞こえていないかのようにオリバーは天井にあいた穴を見つめ続けていた。
オリバーが動けなかったのは、彼の脳内ではある場面がフラッシュバックしていたからだ。
燃え盛る炎。
崩れる天井。
少女の悲しい笑顔。
そして、
「ありがとう。」と言う最期の言葉。
オリバーは隣に居るレオスのことなど忘れ、突然瓦礫の山を飛ぶようにして降りると三階への階段に向かい走り出した。
「ちょ! オリバーくーん! どうしたんですかー! 」
体の節々が痛むのを堪えながレオスは慌ててオリバーの背中を追い掛けるのだった。
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会者定離(結) -前編-
倉庫を抜け出た黛と長尾は無事に施設の電源設備中枢部分へと到着していた。
天井には剥き出しのダクトや何かの配線の束が縦横無尽に駆け巡っている無機質な広い部屋の中を黛は慌ただしく動き回っており、長尾はこの部屋の唯一の出入り口の前で見張りをしながら黛の様子を眺めていた。
「どうっすかー? 黛さん? 」
黛は返事をせずに自前のノートパソコンをしばし見つめてから大きなため息を吐き出した。
「あー...こりゃダメかもな。」
「えっ? なんか言いましたー? 」
小さくポツリと呟いた黛の声は、少し離れたところに立っていた長尾までは届いていなかったようだが、そんなことなど気にも留めずに黛はその場に胡坐をかいて座り込むとノートパソコンとの無言の睨めっこを始めてしまったのだった。
「おーい...ってこりゃダメだな。それなら...。」
そう言いながら辺りを見渡した長尾は静かに部屋を出て行った。無論、黛はその事には全く気が付いていなかった。
「階段ってさ...こんなキツかったっけ? 」
満身創痍といった様子のアクシアは言葉を言い終えるより前に階段を上っている途中で両膝に手をついて立ち止まってしまった。
「ほんと...それな。あーあ。帰ってゲームしてぇー。」
同じく苦しそうにぼやきながらローレンも階段を一歩一歩上がっていた。
「動かないで! 」
突然聞こえてきたその声は二人が目指す先。三階のフロアへ続く踊り場の方から聞こえてきた。
二人が見上げると、そこに立っていたのは青い髪の少女であった。
彼女の手には見た目には似つかわしくない拳銃が握られており、その銃口をカタカタと微かに震わせてアクシアとローレンに向けていた。
「よくも...よくもドーラちゃんを。」
少女の口から聞き覚えのある言葉が漏れ出ると共に彼女の頬を大粒の涙が伝う。
見知らぬ少女から向けられた身に覚えのない殺意の理由を二人は容易に想像することが出来たのだった。
不破はゆっくりと確実にパターソンへと近付いて来ていた。
このままでは危険だと分かっているのだが、後方の床は崩れ落ちていて後退の道はない。
そして、前方には自分自身を完全にロックオンしている狙撃手がいる。
パターソンにとっては『
それでも大人しく捕まるつもりなんてありはしない。
パターソンは姿勢を低くしてから、不破の左手側に向かって大きく一歩を踏み出した。
ただし、そのまま踏み出した方向に進むのではなく、サッカーやバスケットの選手がするようにフェイントをかけて素早く反対方向へと舵を切ってみせたのだ。
勿論、目の前に迫っていた不破に対してのフェイントでもあったのだが、実際のところは狙撃手に向けて仕掛けたものであった。
パターソンの思惑通りに右に一歩踏み込んだ段階で遠くから発砲音が聞こえてきており、その音を確認してから素早く重心を反対方向へと傾けて二つの脅威から逃れようとしていた。
『あれ? 』
心の中でパターソンは思わず呟いた。しっかりと踏み出したはずの左足に力が入らないのだ。
何事かと足元に視線を落としてみると、色白の綺麗な太ももから赤い液体がダラダラと漏れ出していた。
それは間違いなく血液だった。
止めどなく滴る血と焼けるような強烈な痛み。確実に発砲音を聞いてから動き出したはずなのに...。
しかも、銃声も一発分しか発せられていないはずだ。
重心を完全に移動させてしまっていたパターソンの体を手負いの足一本では支えることが出来ずに、バランスを失った彼女の体はそのまま左前方へとゆっくりと倒れてしまった。
どうすることも出来ずにいたパターソンであったが、結果として彼女が情けなく地面と衝突することは避けられた。
倒れる前に何かが彼女の頭を支えたのだ。
「大丈夫かい? パタちゃん。」
パターソンの頭を受け止めたのは不破の右手だった。
視界の隅に不破の笑みを捉えた次の瞬間、パターソンの頭と目は強烈な閃光に包まれる。それと共に見覚えのない映像が頭の中に流れ込んでくる。
見覚えのない施設。今まで対峙してきた能力者たちの顔と声。もちろん、その中には不破も居た。
夥しい偽りの情報と映像が一気に流れ込んできたことでパターソンの脳はオーバーヒートを起こしてまう。
全身をビクンと痙攣させると、その意識は深い微睡の中へと沈んでいった。
呆気なく動かなくなったパターソンを不破は優しく抱きかかえた。
「これで君は僕のものだよ。」
そう言うと、不破は腕の中にパターソンを抱いたまま高らかに勝利宣言とも受け取れる笑い声を施設内に響き渡らせたのだった。
雨が激しさを増す中で一台のタクシーが商業施設の裏手の路肩に停車した。
しばらく停止していたタクシーから大きな黒い傘を差した乗客が降りたのを見届けてから、タクシーは静かにその場から走り去っていった。
黒い傘の乗客はその場に立ち尽くしたまま、目の前の商業施設を見つめていた。
「ここで間違いなさそうやな。」
左手に持っていた一枚の写真と見比べながら楓は確信する。この写真に写っている建物はここで間違いない。
傘に落ちる激しい雨音しか楓の耳には届いていなかったのだが、建物が放つ異様な雰囲気を楓は確かに感じ取っていた。
「鬼が出るか...蛇が出るか。ってな。」
楓は今一度、意を決して建物内へと向かって歩き始めた。
ベルモンドは静かに自身の背中の方へ右手を回した。
そこにはホルスターに収まっている拳銃があったのだ。語部との距離は目算で十数メートル。
この距離では彼女の能力によって銃弾でさえも防がれてしまう可能性が高い。しかし、奇を衒いつつ突破口を見つけるにはこれぐらいしか残されていなかった。
「あれれ? もう終わりなんですか? 」
一歩も動かなくなった目の前の大男を嘲笑う語部の挑発を受け流しつつも、ベルモンドは拳銃に手を掛けて間合いとタイミングを見計らっていた。
『今だ! 』
ベルモンドが心の中でそう決めかけた時だった。
ホルスターから拳銃を抜く直前でベルモンドの手がピタリと止まったのだ。
その理由は視線の先、語部の背後にあった。
語部の背後、倉庫の入り口から静かに彼女の背後へと迫る人影を見つけたのだが、その人物はここにいるはずのない人物であった。
『あいつ...。』
ベルモンドが思わず口に出しそうになった言葉を飲み込んだ。どうやら語部はその人物に気が付いていないようだった。
語部に彼の存在を気取らせたくなかったからだ。
「なぁ...お嬢ちゃん。」
「はい。なんでしょうか? 」
相も変わらず余裕の笑みそ浮かべているところを見るに、やはり語部はまだ気が付いていない。
自身の背後に迫っている長尾の存在に。
長尾の右手には警棒がしっかりと握れており、語部との間合いも既に十分な距離になっていた。
「『
示し合わせていたわけでも、合図を送ったわけでもないが、ベルモンドのその言葉と同時に長尾は警棒を振り上げて語部に一気に迫った。
「!!? 」
流石の語部もベルモンドの言葉の真意と背後から迫っていた気配を察したようだ。
それは一瞬の出来事だった。
長尾の経験と勘は確実に獲物を仕留められ間合いであり、自分の腕で外すはずがないと確信していた。
だが、長尾が放った一閃が捉えたものは大きな簀の子のような木製のパレットであった。
長尾の強烈な一閃は彼女が即席で拵えた盾の一部を鈍い音と共に破壊することに成功はしていたが、語部本人の背中には届くことはなかった。
しかし、長尾が奏でた不協和音とは別に高く澄んだ音が倉庫内に轟いていた。
その音の正体はベルモンドの手にいつの間にかに握られていた拳銃から放たれたものであった。
ベルモンドは端から長尾の方を囮に使うつもりで、敢えて語部に長尾の存在を勘づかせていたのだ。
「ってことでさ。悪いんだが、本当に幽霊になってもらおうじゃないの。」
確かに
ベルモンドは拳銃の照準の向こうに語部の姿を捉えていた。
確かに
長尾は警棒を振りかざす直前まで、しっかりと語部の背中を捉えていた。
それなのに
木製の大きなパレットは長尾の一撃でゆっくりと語部が立っていた方に向かい倒れていった。
パレットはそのままバタンと大きな音を立てて床へと着地をする。
「あ、あれ? 」
先ほどまでの鋭い視線とは裏腹に何とも間抜けな声が長尾の口から漏れ出た。
「なん...だと? 」
勝ち誇った表情で銃を構えていたベルモンドの視線の先でも突如として語部の背中に現れたパレットが倒れる様を目撃していたのだが、倒れたパレットの下に語部の姿が見当たらないのだ。
しばし状況が飲み込めずに武器を構え合ったままで見つめ合う二人であったが、ハッと我に返ると武器を構えながら周囲の警戒を始める。
素早く周囲のクリアリングを済ませた二人がゆっくりとパレットを挟み込む形で近付いていく。
遠くから見ていても一目瞭然ではあったのだが、近くで見てもやはり語部の姿は見当たらない。
「長尾。上げてみろ。」
「...うっす。」
ベルモンドが拳銃をパレットに向けたまま何時もよりも若干低い声で長尾に指示を出すと、それを受けた長尾は短く返事をした後で警棒をベストのホルスターに戻してから素早くパレットを持ち上げた。
「ですよねー。」
長尾がボヤいたように分かり切っていたことなのだが、パレットの下には誰もいなかった。
煙のように、それこそ亡霊のようにして語部は二人の見ている目の前で忽然と姿を消してしまったのだ。
「おい...これって。」
パレットが倒れていた床の上で何か上で何か見つけたベルモンドがしゃがみこんだので、長尾もパレットをその辺に放り投げるとベルモンドの視線の先へと顔を覗かせた。
「あっ...ベルさんそれって。」
長尾が見たものは床に飛散している赤黒い液体であった。ベルモンドは液体を右手の人差し指で撫でるようにして掠め取った。
赤黒い液体はまだ乾いていなかったために、ベルモンドの人差し指にしっかりと付着したのだ。
「ああ。こりゃ血だ。しかも、昔に付いたものなんかじゃなくて、今さっき付着したもんだ。まだ生温い。」
「それじゃあ。やっぱりあの女は...。」
長尾の言葉に返事をせずに立ち上がったベルモンドは、今一度周囲を目を凝らしながら見渡す。
「どこ行きやがったんだ。」
しかし、ベルモンドが幾ら目を凝らしても倉庫内には自分と長尾の姿以外に誰の姿も見つけることは出来なかった。
急に走り出したオリバーを追い掛けたレオスはフロア中央にある止まったままのエスカレーターを息を切らしながら駆け上がっていた。
「全く...何を考えれて...いるのやら...。」
二人に一番近い階段は、先ほどの崩落で道が無くなっていたためオリバーは次に近くにあったエスカレーターを上って三階に上がってしまったのだ。
普段冷静沈着なオリバーからは想像もつかないような行動であった。
不意に顔を上げたレオスは前を走るオリバーの背中にパターソンの影が重なった気がした。
「はぁ...こっちは一人のお世話でも手一杯なんですよ! 」
敵から丸見えのエスカレーターではあったのだが、レオスにはオリバーを追いかけるために駆け上がる他に選択肢はなかった。
レオスの心からの叫びが神様の同情を得られたのかは分からないが、二人は敵からの急襲を受けることなく三階のフロアに無事に足を踏み入れていた。
だからと言って、オリバーの暴走は止まるらずに本来の終着点であるフードコート方面に向かって走り続けており、レオスも致し方なく彼を追い続けることになるのだった。
今二人が走っている両サイドに無人のアパレル店舗が続く直線を左に曲がった先にフードコートコーナーだったはずだ。
案の定、先を走るオリバーが左に曲がったのを見て、レオスもそれに続く。
「はぁ...はぁ...おや? 」
息が上がり始めていたレオスは曲がった先でオリバーが立ち尽くしているのを見つけた。
「漸く頭が冷えましたか。オリバー君。」
背後から近づいてレオスは半分もたれるようにしてオリバーの肩にポンと手を乗せた。
「...。」
おかしい。オリバーはレオスの言葉や肩に置いた手に全く反応することなく、険しい表情でまっすぐ前を向いたまま微動だにしていないのだ。
「ん? オリバー君? どうしたん...。」
レオスがオリバーの視線を追いかけてみると、そこには二人の人間がいた。
一人は床が崩落する前まで一緒に行動していたレイン・パターソン。そして、もう一人は不破湊だ。
ある意味では見慣れた二人ではあったのだが、そのシチュエーションが問題なのであった。
パターソンの太もも辺りからは血が流れ出ており、意識がないのか目を瞑っていた。おまけに彼女が居る場所は敵対しているはずの不破の腕の中なのだ。
こちらに気が付いていないのか、不破は自身の腕の中で眠るパターソンの顔を見つめると、高らかに笑い始めたのだった。
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会者定離(結) -中編-
真っ暗な闇の中で少女は、一人寂しそうに微笑んでいた。
オリバーが手を差し伸べようとすると彼女の足元から炎が立ち昇り、あっという間に彼女を包み込んでしまった。
『
炎の中でも彼女はその笑顔を崩さない。その笑顔は猟奇的にも、神秘的にも見える。
『やはり
高く立ち昇る炎はすぐに消えるも、もうそこには彼女の姿は見当たらず暗闇だけが何処までも広がっていた。
『マタ、ウシナウノカ? 』
レオスの制止も聞かずにオリバーは不破とパターソンへ向かい走り出していた。
不破もその気配に気が付いようで顔を上げたのだが、無鉄砲に飛び込んでくる相手に対して、何をするでもなく穏やかな表情で見つめるだけだった。
『せんせー! 』
彼女がそう叫びながら廊下を走っていたようにオリバーも一直線にパターソンの元へと走っていた。
彼女が自分の背中に飛び込んできたように不破に飛び掛かろうとしていた。
その時、一発の銃声が三階フロアに響く。
そして、銃声と共にオリバーの体は冷たい床へと倒れた。
「へー...やるじゃん。」
倒れたオリバーをワクワクしながら眺めていた不破は少し残念そうに呟いた。
オリバーの体は確かに床の上に倒れていたのだが、彼は叶の放った弾に撃ち抜かれたわけではなく、別の第三者の力によって倒されてしまったのだ。
彼の下半身に重なるようにしてもう一人、床に倒れている人物がいた。
それはレオス・ヴィンセントだった。
オリバーの後を追って走っていたレオスは僅かに早く銃声に反応し、オリバーの体をアメフトのタックルの要領で倒していた。
予想外のレオスの行動により、流石の叶の魔弾もオリバーを捕らえることが出来ずに空振りに終わってしまったのだ。
「レ、レオス君...? 」
その突然の出来事は我を忘れかけていたオリバーの思考に冷静さを取り戻すことにも成功していた。
「はぁー...まったく。」
そう言いながら立ち上がったレオスは放心して倒れたままのオリバーへと手を差し伸べた。
オリバーも無言のままに彼の手を掴み、立ち上がった。
次の瞬間。
立ち上がったオリバーに対して、レオスは何も言わずに力一杯に自身の右手の握り拳をオリバーの右頬へとぶつけたのだ。
「わお。」
様子を見ていた不破からも驚きの声が漏れる。
立ち上がったばかりのオリバーの体が情けなく再び床へと倒れてしまった。
「っつー...何をするんですか。」
口の中に広がる血の味を噛み締めながらオリバーが顔を上げると、レオスも右手が痛かったのが苦痛の表情で右手の甲を自分自身で優しく擦っていた。
「痛たた...って、オリバー君。君がここまでのおバカさんだとは思いませんでしたね~! 」
「なっ!? 」
レオスは右手の痛みに若干表情を歪めてはいるものの、至って冷静でいつも通りの鬱陶しい言い回しと高飛車な態度は健在で、そのことが逆に今は不思議とオリバーへ安心感を与えていたのだった。
「私を始め、五課の人間は君の手腕に命を預けているんですよ。そんな立場にいる君がレイン君やローレンのように突っ走ってどうするんですか! 」
「...レオス君。」
レオスとは違った方向で弁が立つオリバーではあったのだが、レオスに返す言葉を見つけることが出来なかった。
「『人生はできることに集中することであり、できないことを悔やむことではない』。彼の偉大なるスティーブン・ホーキング博士の言葉です。今のオリバー君にとって、この世で一番重要なアドバイスですよ。」
人を殴ることに不慣れな仲間の拳と言葉はオリバーが見ていた幻影をすっかりと消し去っていた。
何も言わずにレオスは再度オリバーに向けて手を差し伸べると、オリバーもまた何も言わずにその手を掴み立ち上がった。
「これで指が折れていたら労災申請しますからね。」
立ち上がったオリバーの表情にいつもの余裕が戻っているのを見たレオスは自身の少し腫れた右手をワザとらしくオリバーへと見せつけた。
「ええ。構いませんが、今は
完全に調子を取り戻した様子のオリバーは、一度呼吸を整えてから不破たちへと向き直った。
すると、それを待っていたかのように不破の腕の中で倒れていたパターソンがフラフラとよろめきながら立ち上がったのだ。
だが、どこかお様子がおかしい。
パターソンは右足から出血しているとは言え、余りにも無防備に不破の横に立ったまま動かなかった。
不破も不破で彼女に危害を加えたり、逃げる素振りも見せずにパターソンを抱きかかえていた片膝を立てた態勢のまま動こうとしていない。
「レ、レイン君? 」
パターソンの傍に居る不破の能力をオリバーは知っていた。
とある一本の『
無表情のままオリバーたちを見つめていたパターソンの口がゆっくりと動いた。
「彼らを追い払えば良いんだな。不破っち。」
最悪なシナリオの舞台の幕が上がった。
三人が対峙している階段には天宮のすすり泣く泣き声と弱く、穏やかになってきた雨音だけが反響していた。
「なるほど。君があのドラゴンの
「違うもん!! 」
若干茶化すような言い回しをしていたローレンの言葉は天宮の力強い言葉によって遮られた。
「ドーラちゃんはね...私の大切な『家族』なんだよ。そんな安っぽい言葉で片付けないでよ! 」
小さな彼女の言葉と構えている拳銃からは、はっきりとした憤怒と殺意が二人へ伝わってきていた。
どう転んだとしても、ここからの話し合いによる平和的な解決は見込めそうにはなかった。
「そっか...でもよ、俺らだって攻撃されたら反撃せざるを得ないでしょ。俗に言う、
ローレンの口調と言葉選びは相手を穏やかに落ち着かせるものではなく、誰がどう聞いたとしても煽っているようにしか聞こえないのだが、アクシアはそれが故意的にやっているものだと察していた。
恐らくは自分に相手のヘイトを集めようとしているのだろう。
「うるさい! うるさい! 」
駄々をこねる子供のように感情を爆発させる天宮。
怒りと悲しみの衝動に駆られた彼女の指は拳銃の引き金を引いてしまったのだ。
勿論、拳銃など撃ったことのなかった天宮のか細い腕は発射の反動に耐えることが出来ずに波打つように跳ね上がってしまう。
そんな状態で発射された銃弾が狙い通りの場所へ命中するはずもなく、アクシアたちの右側にある壁と天井の取り合い部辺りに着弾していた。
「こりゃ...特A級のスナイパーなんかより厄介だな。」
突然の出来事に見動きが取れずにいたアクシアが苦笑いを浮かべて呟く。
「ほんまそれな。どこを狙ってるか予測出来れば、何とか出来そうなもんだけど、どこに飛ぶか分かんないなんて冗談キツイって。」
そう言いながら、着弾部分の天井付近を見上げていたローレンも自嘲気味に笑っていた。
しかし、この中で一番驚いていたのは銃を撃った張本人の天宮であった。
拳銃を握る手と腕には、まだ痺れと痛みが残っていて上手く力が入らなかった。
それでも尚、天宮は痛みを堪えて二人に向けて拳銃を構え直した。
どうやら天宮の決意は揺ぎ無く、何があろうと自ら引く気は微塵もない様だ。
「何だっけ? 『
「ローレン。それを言うなら『是非に及ばず』だろ。」
「ああ! それそれ。」
そうローレンが言い終えた瞬間だった。二人は合図も出していないのにも関わらず、寸分違わぬタイミングで拳銃を抜き、天宮に向けて発砲したのだ。
二人の動きと発砲音に驚いた天宮も一拍遅れてから一発の銃弾を放ったのだが、天宮は発砲の際に思わず目を瞑ってしまっていた。
彼女の放った銃弾は先ほどよりも更にあらぬ方向に飛んで行き、二人には掠りもしなかった。
一方でアクシアとローレンが放った銃弾は正確無比に、一直線に美しい軌道を描きながら天宮に向かう。
『ごめんな。』
天宮の銃弾が外れたのを確認したアクシアとローレンは自分たちの勝利を確信し、散り行く目の前の少女の命へ鎮魂の祈りを捧げるのだった。
深く静かな微睡の中でパターソンは夢を見ていた。
嫌味な程に清潔で白い壁と天井に囲まれた建物の中、何人かの人間が楽しそうに話をしている。
見覚えのある面々...あれは葛葉だ。とても楽しそうに笑っている。
それに隣に居るのは不破だ。周央も。エリーも。
みんな楽しそうに談笑していた。
「なぁ? そーやよな。パタ姐? 」
自分に話を振ってきたのは椎名だ。
フッと頑丈そうな鉄格子が付いた小さな窓ガラスに自分の顔が反射して映っているのが見えた。
笑っている。自分も楽しそうに笑っている。
楽しくて、平和な時が流れている。
戻りたい...。
この時間を、空間を取り戻したい。
右足の痛みで目が覚めたパターソンは霞む視界の中でオリバーとレオスの姿を見つけた。
二人を見た途端にふつふつと心の奥から込み上げる怒りと対抗心がパターソンの足の痛みを忘れさせていった。
不破の腕の中から抜け出し、自分だけの力で立ち上がったパターソンは隣に居る不破に尋ねた。
「彼らを追い払えば良いんだな。不破っち。」
「...ええ。お願いできますか? 」
パターソンの言葉を聞いた不破は嬉しそうに笑いながら返事をしていた。
「ああ。任せてくれ。」
そして、パターソンもまた笑顔で応えたのだった。
手負いだとは思えぬほどに頼もしいパターソンは徐に右手を上空へ向けて高く掲げ始めた。
すると、彼女の頭の上。何もなかった空中に光の輪が現れたかと思えば、その輪の中心から小さな人間の手が伸びてきて、パターソンの右手の掌を握ったのだ。
パターソンが生きていたことに安堵したのも束の間、彼女の第一声にレオスは我が耳を疑った。
「何を...言っているんですか? レイン君。」
つい数十分前まで一緒に行動していた相棒の言葉に冷静さを保っていたはずのレオスも流石に動揺を隠せないようだ。
「くそっ...。やられた。」
逆にレオスによって冷静さを取り戻したオリバーは自身の考えうる中での『最悪なシナリオ』が現実のものとなっていることを確信した。
今、二人の目の前に居る人物は、間違いなくレイン・パターソンである。
だが、味方のはずの彼女は高々と右手を掲げると自身の能力を使い、頭上に出来た光の輪の中から誰かを召喚しようとしているのだ。
「レオス君! 一旦退きますよ! 走って! 」
散々人の事を振り回しておいて何を今更。と思う気持ちもレオスにはあったのだが、今は堪えてオリバーに従った方が身のためだろう。
レオスは直感的にそう理解して、オリバーに続いて急いで踵を返した。
しかし、ここはいわば敵地の本丸だ。そう易々と見逃してもらえるはずはなかった。
遠くから聞こえてくる二発の銃声。
消音器を使わない挑発的な音が響いたと思えば、あり得ない軌道で二人の踏み出そうとした足先に綺麗に着弾したのだ。
「くっ...叶か! 」
能力者たちの各データを頭に入れていたオリバーには直ぐに誰の仕業なのかが理解できたのだが、生憎と今は彼に対抗すべき策や布石は持ち合わせてはいない。
まずは、隣のレオスの無事を確認しようとしたけれども首が動かない。
気が付けば、手も足も口も動かせないのだ。
そして、背後から美しい木管楽器のような音色が流れてきていた。
『この音は...しまった! 』
オリバーの脳内のデータベースが一人の能力者の名前を導き出すと、それを整合させるためにオリバーは自身の眼球を動かそうと試みる。
やはり、動かせる。レオスを見てみると彼もまた体が急に動かなくなってしまい困惑しているのか、目玉をキョロキョロと世話しなく動かしていた。
この時、オリバーが想像したようにレオスは急に自分自身の体の自由が奪われたことに動揺していたが、彼にとってこれは初めての体験ではなかった。
レオスの脳内でその時の映像がフラッシュバックしていた。
あれはパターソンと組むようになってから二回目の捜査でのことだった。
庭に美しい花々が咲いている大きな洋館の地下。
可愛らしいメイド服を着こなす一人の少女との邂逅。
そう。エリー・コニファーの事件だ。
あの時も全く同じように体の自由を奪われたことをレオスは今でも鮮明に覚えていた。
エリーが何処からともなく取り出したフルートを吹き始めたら、突然体が動かなくなってしまったのだった。
そして、振り向いて確認することは出来ないけれども、今も背後から聞こえてくる音も同じ音色だ。
頭上に出現した光の輪の中から伸びてきた手をパターソンはしっかりと握り締めると、輪の中からは花の装飾があしらわれた可愛らしいメイド服を着た少女が現れる。
「はわわ!? あ痛たたた...。」
そのまま落下してきた少女は上手く着地が決められずに大胆に床に尻もちをついてしまった。
「久し振りだね。エリーちゃん。」
初めて間近で見るパターソンの力に見惚れていた不破だったが、見知った旧友の姿を見て優しく微笑みかけた。
「へっ? およよ! これはこれは不破様ではありませんか。何ともお懐かしいお姿で。」
エリーも不破の顔を見るなり、慌てて立ち上げるとフワリとメイド服の裾を広げてカーテシーをしながらニッコリと微笑みを返した。
二人が感動の再会を果たしている隣では、その右手にエリーの能力を宿したパターソンがフルートの演奏を始めていた。
演奏と言ってもフルートが口元に有るわけではなく、あたかも口元に透明なフルートがあるかのように虚空に口を添えているだけだった。
それなのに奏でられている音色は口笛や声ではなく、しっかりと木管楽器の音色そのものだ。
「およよ! レイン様お上手ですわー。」
透明なフルートそ奏でるパターソンの横でエリーは体を左右にゆらゆらと揺らしてリズムを取りながら、うっとりとした表情でその旋律に聞き惚れている。
エリーの能力を把握していた不破は目の前で身動きが取れなくなったオリバーたちを見つけると、辺りに遠慮することなく大きな声で笑い始めた。
「パタちゃん! ホンマ最高! さぁーて、どう料理しちゃいましょうかね! かなかなに急所を外しながら蜂の巣にしてもらうのも悪くないな...いや、パタちゃんに別の誰かを呼び出してもらうのもアリやな...。」
新たな玩具を与えられた子供のように燥ぐ不破を見つめていたエリーとパターソンは、施設での日々を思い出して懐かしく、穏やかな気持ちが込み上げてきていたのだった。
アクシアとローレンは階段の中腹で拳銃を構えた状態で立ち尽くしたまま動けずにいた。
二人と二丁の拳銃が見つめる先。震える青髪の少女が立っていた場所には、今は誰も立っていなかった。
それは正確無比に放たれた銃弾を受けて天宮が床に倒れてしまったから『
「おい...今の見たか? アクシア。」
「ああ。見たよ。」
二人が目撃したもの。
アクシアもローレンもそれには見覚えがあった。
数十秒まで勝利を確信していた二人。
ある程度の覚悟は決めていたのだろう。天宮も慌てて避ける素振りも見せず、自身の負けを悟り静かに目を閉じていた。
二発の銃弾が天宮の上半身を貫かんとしていた。その刹那、大きな赤い影が物凄いスピードで天宮の背後を左から右へと横切っていったのだ。
本当に突然の出来事であった。
赤い影は天宮の背後。つまりは三階フロアに現れて、天宮を攫って行ったことになるのだが、二人の記憶が間違いなければ、影の正体は自分たちと一緒に先程まで
「あのドラゴン姉ちゃん...生きてたってのか? いや、別固体か? 」
沈黙を破ってローレンがポツリと呟く。
「いや。間違いない。あの影はアイツだ。」
そう言いながらアクシアはドーラとのファーストコンタクトである、あの夜のカーチェイスを思い出していた。
あの時に見た大きな赤い影。余りのインパクトに今も脳裏に鮮明に焼き付いて離れない姿。
間違いない。
三階フロアに突如として現れて、銃弾が当たる直前で天宮を救ったのはドーラだ。
「アイツ...どうやってあの瓦礫の中から抜け出したんだ? ってか、いつの間に...。」
「分からねぇ。全く分からねぇけどアクシア。あのドラゴンちゃんが生きてて上に居るってんなら、俺らもこんなとこでヘタってる場合じゃねぇよな? 」
明らかに全身に走る痛みを痩せ我慢しているであろう引き攣った笑顔を浮かべて決めたつもりのローレンを見て、アクシアの表情からも不安や痛みが消え、いつもの明るさが戻っていった。
「...だな! 急ごう! 」
二人は残る気力をふり絞り、三階フロアへと続く階段を駆け上がった。
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