ケイネス先生の聖杯戦争 (イマザワ)
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プロローグ

 ――誰でも良かったわけでは断じてない。

 

 ディルムッド・オディナの胸にあるのは、今やその信念だけであった。

 

 それだけをよすがに、現界を保っている。

 

 理想の主だったとまでは言わない。現に、彼の唱える冷酷な指針には、これまで幾度も異を唱えそうになった。聖約(ゲッシュ)にて己を縛っておらねば、間違いなくそうしていただろう。

 

 だが、それでも。

 

 いまディルムッドの胸に満ちる誇りと、虚脱と、後悔は、紛れもなく彼に臣下の礼を取っておらねば味わいようもなかったものであったから。

 

「ガ……ふっ……」

 

 こみ上げてくる悪寒に身をよじる。冷たく熱い感触が喉元を灼きながらせり上がってきて、汚染聖杯の泥を嘔吐する。

 

 両脚はもはや腐り落ち、己が宝具(ほこり)は失われた。

 

 今のディルムッドは赤子よりも無力な存在で、その霊基は崩壊まで秒読みの段階にまで至っていた。

 

 それでも。

 

 ディルムッドは全霊をもって消滅に抗った。もはや何を成す力もないにも関わらず、英霊の座への送還を拒み続けた。

 

 ――まだだ。まだ還るわけには。

 

 何を期して現世にしがみついているのか、自分でも不明瞭なままに。

 

 脳裏によみがえるのは、今生において死闘を繰り広げた、いずれ劣らぬ強大なる英霊たちの顔。

 

 そして、ディルムッドがかつて尋常なる生命としてこの現世を生きていた頃、愛を交わした娘――エリンの王女()()()()の顔。

 

 あるいは、死後英霊の座に召されたのちも絶望的な悔恨となって胸を引き裂き続けた生前の主――フィオナ騎士団長()()()()()()()()の顔。

 

 そして、今生の戦いにおいて、奇妙な成り行きのもとに得た友。ブリテンの円卓において最強の呼び名も高い騎士の中の騎士、()()()()()()の顔。

 

 ディルムッドは今、身をよじるほどに、ランスロットに問いたかった。かの騎士は、出会ってから長いこと狂化の呪いに蝕まれており、ろくろく言葉を交わす機会すらなかった。

 

 それが、口惜しい。

 

 死に切れぬほどに、口惜しい。

 

 ――ランスロット。

 

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 無意味な問い。仮に問うことができたとしても、ランスロットには答えようもない問いであったろう。

 

 それでも問いたかった。きっとこれは嫉妬なのだ。自分がグラニアに抱く愛を、心のどこかで信じ切ることができなかったから。

 

 ディルムッドにとり、生きるとは奉仕であり、それはグラニアとの関りにおいても基本的には変わらなかった。求められたから、与えただけだったのではないか。

 

 ランスロットのような、命よりも重いはずの責務と誇りを捨て、愛を貫いたあり方に、ディルムッドは間違いなく嫉妬した。

 

 あぁ、だがそれも、もはやすべては無意味な妄執だ。ランスロットはとっくに今生を終え、英霊の座に還ってしまった。いまさらこの気持ちに、どのような決着も望みえない。

 

 そして――最後に思い浮かぶ、顔。

 

 撫でつけた金髪と、冷然たる瞳。こちらの誇りも、痛みも、一切共感を返すことなく、不条理な命令ばかり下してきた、ディルムッドの今生の主。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 

 きっと好かれてはいなかったのだろうと思う。だがそれでも、自分はサーヴァントとして運が良かったと、今では信じられる。きっとひとつでもボタンを掛け違っていれば、このような結末には至らなかっただろうから。

 

 ――誰でも良かったわけでは、断じてないのだ。

 

 決して。決して。

 

 誇りにかけて、それだけは全世界に高らかに言い放ってみせる。

 

 ディルムッドは、目を閉ざした。

 

 残り幾ばくも無い時間の中で、彼との出会いと、戦いのすべてを思い出そうとした。



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第一局面

「――率直に言って、信用できんな」

 

 帰ってきた返答は、無情の一言であった。

 

 ディルムッドはその場に跪いたまま、焦りに目を見開く。

 

 この反応は想定していなかった。

 

「信用、と申されましても……」

 

 困惑に眉を顰める。しかし、主の許可なく頭を上げる無礼は決して犯さない。

 

 何か行き違いがあったのだろうか? 俺は確かに聖杯戦争に召喚されたと思っていたが、実は違うのか?

 

 自分はサーヴァント――かつて人類史に偉業を刻み、死後に「英霊の座」と呼ばれる領域に魂を記録された英霊の一人である。正確にはそれそのものではないのだが、今は細かい定義の違いなどどうでも良い。

 

 1994年現在とは比較にならぬほど濃いエーテルに満ちた時代の人間であり、身体能力は後世の人間たちからすればまさしく神か超人かと思われるような凄まじい領域にある。

 

 その戦闘能力に目を付けた現代の魔術師たちが、七人の英霊を現世に召喚し、万能の願望機とも言われる「聖杯」の争奪戦をさせる大儀式――それが聖杯戦争である。

 

 聖杯によって植え付けられた知識と照らし合わせてみても、自分は紛れもなく聖杯戦争の参加者として現世に召喚されたはずである。

 

 ならば召喚と同時に目の前に現れたこの男こそが自分の(マスター)であり、共に聖杯戦争を戦ってゆく同志であると考えたのだが――

 

「私にへつらうおためごかしはやめて本心を言え。ただ私に忠誠を捧げることだけが願いだと? ずいぶん雑な作り話だな」

 

 そこなのか。

 

 確かにディルムッドは、召喚されてから真っ先に目の前の男に問われた。『聖杯にかけるお前の願いは何か』と。万能の願望機たる聖杯の力を使う権利は、召喚したマスターのみならずディルムッドらサーヴァントにも与えられる。ゆえに英霊たちは魔術師たちの召喚に応え、彼らのために殺し合いを演じるのだ。

 

 だが――ディルムッドには、聖杯にかける願いなどなかった。己の生前は悔いに満ちた悲劇として幕を下ろしたが、万能の願望機などという胡乱な存在によって過去を帳消しにしてもらおうなどとは思わない。それらは英雄として世界に刻んだ自らの足跡を否定する行いだ。そこまで誇りは捨てられない。

 

 ディルムッドの目は前を向いていた。悔いるべき生前は、苦い教訓として胸に刻み、これからのことだけを考えていた。

 

「――誓って、本心でございます、主よ。あなたに忠誠を誓い、共に誇りある戦いを駆け抜けること。我が胸中にあるのはその一念のみです」

 

 舌打ちの音も、歯ぎしりの音も聞こえはしなかった。だが騎士として研ぎ澄まされた感覚が、目の前の男の苛立ちを感知していた。

 

「そうか、あくまで白を切るか」

 

「決して、そのような――」

 

「面を上げろ!」

 

 まだ青年と言うべき若さの声だったが、しかし他者に命令することに慣れた倦怠と威厳が宿っていた。紛れもなく貴種に属する者に特有の、霊威。

 

 ディルムッドは弾かれたように顔を上げた。

 

 カソックのような紺色のローブを身にまとう、金髪の男が佇んでいた。腰の後ろで腕を組み、悠然とこちらを見下ろしている。



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第二局面

 ディルムッドは、その佇まいに思わず姿勢を正す。

 

 己の生前において、貴族とはすなわち武人であった。エリンの諸王国をまとめ、秩序をもたらし、外敵に命を賭して立ち向かう。そのために求められる資質は第一に武勇であった。エリンの上王たるコルマク・マッカートや、フィオナ騎士団長フィン・マックールの権威を裏付けていたものは、血統や人格よりもまず戦士としての実力である。

 

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 懐かしくも実直で、単純で、荒々しい世界。

 

 だが今、ディルムッドの前に立つ男からは、そのような牧歌的とも言える理屈では計り知れぬものを感じた。

 

 成人男性としては過不足ないが、さして鍛え上げているとも見えぬ痩身。フィオナ騎士団のどれほど下位の未熟者であろうと、腕の一振りで手もなく吹き飛ばしてしまえそうだ。

 

 頭ではわかっているのだが、ディルムッドは自分がこの御仁に対してそのような狼藉を働くさまを、どうしてもリアルに想像することはできなかった。

 

 その事実に驚嘆する。

 

 所詮は年齢も実力も実績もディルムッドに及ばぬ相手である。英霊への敬意なき不埒者には、腕力にものを言わせて格の違いをわからせたところで何も問題はあるまい。実際に、マスターに対してそのような態度で臨むサーヴァントもいる。

 

 だが、できなかった。

 

 ディルムッドは初めて「貴族」という言葉の意味を思い知った。貴き血筋の者が下々を跪かせるのは、強靭だからではない。貴族はただ貴族であると言うだけで、何の理由もなく理不尽に服従を強いることができるのだ。

 

 ――お前の生は私が決める。お前はただ伏して従え。

 

 そのような業。多数の民草の運命を胸三寸のうちに決定し、背負うという覚悟。武勇や器量によらぬ、純粋な貴族性。

 

 人類史が支配統制のために編み出した覚悟のシステムに、嫌悪と讃嘆という矛盾した想いを抱く。

 

 恐らく、ディルムッドの生前の戦友たちは、ほとんどがこの男の在り方を「退廃」と断じるであろう。実力の伴わぬ、張子の虎であると。それを否定する気はまったくないが、「根拠を必要としない権威」の有用性を無視しないわけにはいかないだろう。

 

 それは侵されざる権威だ。

 

 強さや、智謀や、人格を根拠とする権威とは、つまるところ実力主義だ。もし実力で臣下が主君を上回れば、容易く政変が起き、内乱が起き、流血を生む。そのような事例はありふれており、世は安定せず、民草はいつまでも苦しむことになる。だが権威に合理的根拠がないとなれば、もはや臣下がどれほど己を磨こうと、世を乱す恐れはなくなる。

 

 ディルムッドの時代にはなかった考え方だ。

 

 ――自分は、どうやら運が良い。

 

 誰でも良かったわけでは断じてないのだから。

 

 己を召喚したマスターが、他者を支配する覚悟を持たぬ下々であったなら、ディルムッドは上位者として彼を庇護し、穏便に聖杯戦争から逃れられるよう手を尽してやるだけであったろう。

 

 また、他者を虐げ殺すことに喜びを見出す外道であれば、そのような輩が口を開く前に己が魔槍にて相応しい誅罰を下し、憤然と座に還ったことであろう。

 

 マスターはサーヴァントをある程度選別できるが、サーヴァントはマスターを選ぶことなどできない。

 

 ――ゆえに、自分は運が良い。



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第三局面

「……あくまで誠意を見せるつもりはないというわけか」

 

 青い瞳はどこまでも冷たく、共感や同情の色など微塵もなかった。

 

 そして、こちらのことを微塵も信用していないであろうことも、ひと目でわかった。

 

 焦燥。こちらとしては彼をマスターと認めるに不足はないのだが、彼はこちらをサーヴァントと認めるに不足であるという。ケイネス・エルメロイ・アーチボルトという高貴な主君を得られた千載一遇の好機、手放すには惜しい。

 

 だが、わからない。彼はいったい、自分の何が不満だと言うのか。敵意や悪意を向けられたことは数知れずあるが、信用されなかった経験はない。

 

「……何度問われても、私の答えは変わりません。ただ、あなたに忠誠を捧げ、共に誇りある戦いを全うすること。それ以外の何も望みません。いったいこの答えの何がご不満なのか、私には理解の及ばぬことです」

 

 ぎり、と。

 

 今度こそはっきりと歯ぎしりの音がした。

 

「聖杯に望みを持たぬサーヴァントなどいるはずがなかろう! 貴様の妄言は二心を隠すためのものでしかありえんと知れ! もしそれ以上下らん茶番をつづけるつもりならば令呪に訴えることになるぞ!」

 

 ディルムッドは喉の奥で呻いた。令呪とは、七人のマスターに聖杯から与えられる、自らのサーヴァントへの絶対命令権だ。英霊たちにとってはもちろん不本意な鎖だが、合意のもとで支援目的に使用すれば、強力な武器にもなりうる。

 

 たった三回しか使えない切り札を、こちらの痛くもない腹を探るのに使うと言うのだ。端的に言って無為な浪費である。

 

 臣下として、主君の過ちは命を賭けて諫めねばならない。

 

 もはやこれまで。ディルムッドは覚悟を決めた。

 

「自害をッ!」

 

「……なに?」

 

「自害を、お命じ下さい」

 

「貴様、気でも触れたか?」

 

「我が本心はすでに述べました。しかしどうあっても信用して頂けないのならば、我が望みは戦う前から潰えたも同然。口惜しい限りですが、もはや現世に留まる意味もなし。自害をお命じ下さい。令呪もいただきません」

 

 大気が張り詰めた。

 

 沈黙が降り積もる。

 

「貴様は……」

 

 それ以降、言葉は続かなかった。

 

 ケイネスの貌は、一見してなんと名付けたらよいのかわからぬ感情によって歪んでいた。

 

 信じられぬ、理解できぬものを見る目。

 

 やがて、嗜虐に満ちた嘲笑へと表情は歪んでゆく。

 

「くく、大きく出たではないか。それで誠意でも見せたつもりか? 馬鹿馬鹿しい。ならば問おう――」

 

 不条理な貴種の霊威が、圧を増した。

 

「貴様の生前の活躍は知っている。天晴な武勇だが、さて、貴様は己の生きる道を何と定義する?」

 

「無論、騎士としての道です」

 

「即答か。だが聖杯戦争は甘い戦いではない。時として騎士道にもとる非情な術策を執らねばならぬこともあるだろう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。今ここで答えよ」

 

「それ、は……」

 

 口ごもる。予想だにしなかった問いであるから。生前においてそのふたつが矛盾することなどあり得なかった。フィン・マックールほど公正で寛大で勇敢な主君などおらず、忠誠と正義の板挟みになど陥ることはなかった。

 

「どうした。答えられんか。ハッ! 馬脚を現したな」



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第四局面

 跪いた膝を、握りしめる。

 

 恐らくこれは、ディルムッドの生き方の根幹を問う矛盾であるから。

 

 忠義と、騎士道。

 

 生前のディルムッドであれば、その二つに優劣をつけるなど到底不可能であったことだろう。

 

 だが今ここにいるランサークラスのサーヴァントは、正確には英霊本体の一側面を再現したものにすぎない。

 

 聖杯によって「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」という渇望を切り取ってコピー&ペーストされた存在である現在のディルムッドにとって、葛藤は必要であれど答えは出せる問題であった。

 

 頭を垂れ、口を開く。

 

「忠誠を、優先します。あなたに従います。ケイネスどの」

 

「つまり私の命令のために騎士道を踏みにじってもいいと?」

 

「ッ!」

 

 唇をかみしめる。揺れるな。これは千載一遇の好機。これを逃せば我が本懐が叶う可能性など芥子粒以下の大きさになると知れ。

 

 心の一部を殺しながら、槍兵は応える。

 

「騎士道よりも、ケイネスどのの命令を優先します」

 

「では他のあらゆる事情に優先して私の命令に即座に従うと、聖約(ゲッシュ)として誓え」

 

 呻きを噛み殺すことができなかった。

 

 そこまでするのか。

 

 聖約(ゲッシュ)とは、古代ケルトの戦士たちに通底する信仰であり、規範であり、呪術の一種であり、最も根本的な倫理である。単なる契約や約束事などとは違う。

 

 己の生涯において、任意の禁則事項を設け、誓いを立てる。これによってトゥアハ・デ・ダナーンの神々より加護を授かるのだ。誓いを破らぬ限り、その者は戦士としての基礎能力が圧倒的な向上を見せる。エリンにおいて戦士として大成しようと志すならば聖約(ゲッシュ)と無縁ではいられない。

 

 とはいえ、だ。

 

 それは西暦にして三世紀ごろ――いまだキリスト教化の波が押し寄せず、科学精神も培われてはいなかった頃の事情である。現代においてこの惑星は「例外なき絶対の物理法則」というテクスチャに覆い尽くされており、聖約(ゲッシュ)はその霊威を失っている。今さら誓いなど立てたところで、神秘的な強制力など発生しえない。

 

 それはわかっている。わかってはいる、が。

 

 聖約(ゲッシュ)を破ることは、どのような悪徳よりもなお圧倒的におぞましく不名誉な行いであった。加護と名声のすべてを失い、多くはその場で討ち死にする。古代ケルトの戦士たちは、死なないために聖約(ゲッシュ)を破るのではない。聖約(ゲッシュ)を破るくらいなら死ぬのである。

 

 ディルムッドの胸にも、その文化精神は根強く残っている。断じて軽々に為せるようなことではない。

 

 だが。それでも。

 

 それでも、だ。

 

 ――〈輝く貌のディルムッド〉も、こうなっては形無しだな。

 

 見下ろしてくる冷たい瞳。こぼれ落ち、ぶちまけられる水。

 

 生前の最期の記憶。

 

 恨みはない。ただ、己が成した裏切りの重さを痛感するばかり。

 

 もう二度と、繰り返したくはなかった。

 

 ディルムッドの中にあるのは、もはやその一念だけである。

 

「――誓います。モリガン神、ヴァハ神、バズヴ神よ照覧あれ! 聖約(ゲッシュ)として、私はケイネス・エルメロイ・アーチボルトどのに絶対の忠誠を誓います……!」

 



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第五局面

 ――自らの教え子に、本来活用するつもりであった召喚用触媒をかすめ取られた瞬間から、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは油断や甘さを完全に切り捨てることを決意していた。

 

 あのマントの切れ端が呼び出すであろう英霊がどれほど強大な宝具を有するかなど、少しでも歴史を聞きかじっていれば容易に想像がつくというものだ。

 

 ――確実に、やる。

 

 あの小物ながら頑固で意固地な少年は、必ずや征服王イスカンダルを召喚して聖杯戦争に参戦するつもりであろう。それはほぼ確信していた。金目当てに触媒を売り払って遁走するようなメンタルの持ち主では少なくともない。

 

 で、あるならば、当初の戦略は始まる前から破綻したということだ。

 

「ソラウ。作戦を変更することにした。君を冬木に連れて行く話はなしだ」

 

「あら……」

 

 燃えるような赤毛に、氷のような凛冽さを併せ持つ美女が、ケイネスの言に眉を引き上げた。

 

 ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ。〈時計塔〉降霊学科学部長の息女にして、ケイネスの許嫁だ。

 

 自らの婚約者ソラウと自分とでサーヴァント契約の(パス)を分割し、魔力的な負担をソラウが、令呪の行使を自分が担当するという変則契約術式は、強大な力を持つが燃費が劣悪なサーヴァントの運用にこそ真価を発揮する裏技である。

 

 ディルムッド・オディナのような、極めて燃費効率の良いサーヴァントを使役するにあたってはまったく不要な小細工であった。

 

 それどころか、弱点が増えるだけの愚行ですらある。

 

「私は不要?」

 

「そんな言い方はよしてくれ。君を危険に晒したくないだけだ」

 

「……ディルムッド・オディナは瞬間火力ではなく継戦能力に秀でるサーヴァントだったということね?」

 

 ケイネスは頭を掻いた。惚れた弱みというべきか。彼女に隠し事などできそうにない。

 

「さきほど実験して来たが、サーヴァントを全力で活動させつつ月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)を行使することに大きな問題はなかった。戦闘可能時間が多少目減りする程度だな」

 

 くすり、と軽やかな笑いをこぼし、ソラウはケイネスの肩に手を伸ばした。

 

 肩を払い、土埃を落とす。

 

「む……」

 

 眉を顰める。全力で動き回れとは命じたが、土埃で主君の衣類を汚せとは言っていない。所詮は古代の武辺者か。

 

「私がいなくても、身だしなみには気を使ってちょうだい。未来の夫が薄汚れた姿を晒しているなんて、我慢ならなくてよ」

 

「ソラウ、では……」

 

「武運を。あなたの帰りを、ここで待っているわ、ケイネス」

 

 彼女が示す優しさは、おうおうにしてケイネスが必要とするタイミングよりも遅いのが常であったが、今回ばかりは例外であった。

 

 ●

 

『今の御方が、ケイネスどのの奥方様ですか』

 

「そうだ。美しかろう? 間男の血でも騒いだか?」

 

『お戯れを。ソラウどのの前では決して実体化はいたしません』

 

「ふん」

 

 降霊科の廊下を歩みながら、ケイネスは霊体化したディルムッドにチラと目を向けた。

 

「……ランサー。聖杯戦争までには数か月の猶予がある。その間に、貴様にも戦いの準備をしてもらう」

 

『は。しかし、私は行住坐臥、戦の備えを怠りはしません』

 

「そうではない。そういうことではない」

 

 これだから、と侮蔑を交えてかぶりを振るケイネス。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

『は……?』

 

 ディルムッド・オディナが今生の主より賜ることになる、数々の不条理な命令。

 

 これはその最初の一つだった。



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第六局面

 ――何故、こんなことに。

 

 ディルムッドは口を波線状にむにゃむにゃさせながら、今生の主の魔術講義を拝聴していた。

 

 生前において、魔術呪術のたぐいに手を出したことはなかった。そのようなものに頼ることは、騎士としてはいささか似つかわしくないと考えていたから。

 

 とはいえ、聖約(ゲッシュ)として誓ったからには、もちろん「魔術を修めろ」という命令にも躊躇なく従うつもりでいる。

 

 それはいい。そこはいいのだ。

 

 問題なのはそこではない。

 

「なぜ……」

 

 つい口に出る。

 

 とたん、隣の席に座っていた降霊科(ユリフィス)の男子生徒が、好奇と怪訝の入り混じった視線を向けてくる。

 

 周囲をひそひそとした喋り声がさざ波のように広がった。朗々としたケイネス・エルメロイ・アーチボルトの講義のあわいを縫うように、講堂の全生徒からチラチラと盗み見るような視線がディルムッドに集中している。

 

 板書される「全体基礎」の概論を機械的にノートに写しながら、ディルムッドは中央に寄りそうになる眉を定位置に維持するのに苦心していた。

 

 ――我が主よ、なぜ一般の学徒と席を同じくせねばならないのですか。

 

 どう考えても無用な注目を集めるに決まっているではないか。自分はサーヴァント。この世のものではない。現世のよしなしごとに深く関わるべきではないのだ。

 

 もちろん、事前にその旨は主に陳情した。だが帰って来た答えは無情であった。

 

 ――私は鉱石科(キシュア)の学長として、降霊科(ユリフィス)の講師として、多忙な身だ。お前ひとりのためにわざわざ個人講義などしてやれるほど暇ではない。

 

 ではせめて霊体化した状態で教えを拝聴したい、と返せば、

 

 ――貴様、このロード・エルメロイの講義に対してノートも取らんつもりか? つまり「魔術を修めろ」という私の命令を誠実に実行するつもりがないと?

 

 ペンを持ち筆記を行うには実体化の必要があるのは確かである。だが、いや、しかし。

 

 何も言い返せず、その場は引き下がるしかなかった。

 

 ともかく、ディルムッドの184センチメートルの優美な長身は、ほぼ全員が未成年者である学び舎において強烈に目立っていた。一応、自前の戦装束ではなく、当世風のスーツに着替えてはいるが――まるで花が揺れ蝶が舞う草原の只中にいきなり巨大なビルディングが屹立しているような、違和感しかない情景である。

 

 扇状に広がり、教壇に向かって傾斜してゆくタイプの講堂ゆえに、後ろの生徒の学業を邪魔せずに済むのは不幸中の幸いだったが、ディルムッドにとっては特に何の慰めにもならなかった。

 

 この場の少年少女らは、卵とはいえ魔術のエリートたちである。聖杯戦争の何たるかも理解しているはずだ。ロード・エルメロイがいきなり連れて来た男の正体について、察している者が大半であろう。

 

 ――ええい、とにかく集中だ。

 

 左右や後ろの視線から強引に意識をそらし、マスターへ目を向ける。

 

 伸びやかで深い声が、魔術の根幹をなす等価交換の原則について論じている。

 

 有を、また別の形の有へと変換する術こそが魔術であり、無から有は生まれ得ないという。

 

 その原則、というか、それを当然の前提とする思想、文化に、ディルムッドは漠然とした反感を抱いた。



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第七局面

 あるものを差し出して、それと等価な別のものを得る。

 

 ――それでは価値の総量が増えないではないか。

 

 もちろん、あるものが、見る人によってまったく異なる値打ちをつけられるであろうことはわかるし、適切な組み合わせで等価交換を行えば実質的に価値を増大させることができるのも理解できる。

 

 だが、迂遠である。

 

 その「適切な組み合わせ」とやらを発見するのに、また余計な労力がかかるではないか。

 

 何かを与えられねば、相手に与えてはならないというのか。

 

 見返りがなくば、奉仕してはならぬというのか。

 

 それで本当に、万民が幸福を勝ち取れると言うのか?

 

 ディルムッドは小さくかぶりを振る。

 

 やめよう。時代が違うのだ。聖杯によって与えられた最低限の知識で測れるほど、現代社会は単純ではないのだろう。客人(まれびと)の身で、出過ぎた考えであった。

 

 だが、腹のどこかで、納得のいかないものが蟠り続けていた。思考より前のレベルで、等価交換という考え方を受け入れることがどうしてもできない。

 

 ディルムッドにできたのは、そうした思いに蓋をすることだけであった。

 

 ●

 

「では本日はここまで。各自復習と修練を怠らぬよう。次回の講義までに課題は提出すること」

 

 神経質で偏屈な印象を受けるケイネス・エルメロイ・アーチボルトという人物だが、意外にも教師として非凡な才覚を示していた。

 

 講義の内容は理路整然としていたし、生徒の質問にも柔軟かつ明瞭に対応している。貴種に特有の堂々たる物腰と声量は否応にも耳を傾けずにはおかず、なにより自らの有する適度な威圧感を、教員として巧みに使いこなしていた。

 

 決して生徒に好かれるようなタイプではないが、そもそも講師の本義は生徒に好かれることではない。生徒を成長させることである。その意味において、天才肌としては珍しく師としても優秀な人物であると言えた。

 

 ――この成果を、彼はきっと彼なりに努めて勝ち取った。

 

 そのことを思うと、ディルムッドは主に対して、一言では言い表せない感慨を覚えた。彼は彼なりに自らの生徒たちを愛してはいるのかもしれない。

 

「あ、あの……オディナさま……でしたよね?」

 

 問われて振り向く。席を同じくした女生徒たちが、自らの持ち物を抱きしめながら、所在なげに立っていた。

 

「はい。何か?」

 

 問い返しながら、ディルムッドは内心肩をすくめた。生前においても見慣れた展開である。目の下にあるホクロは、とある妖精族の女との悲恋の結果得たものだ。乙女の心をとろかす魔力を有する。

 

 いささか厄介なことに、ディルムッドが何もせずともホクロを見られただけで魅了の力が発揮されてしまう。

 

「あの、わたしたち、これからランチなんです。も、もし良ければオディナさまのお話を聞きたいな、って……」

 

 もじもじと顔を赤らめながら昼餉の誘いをかけてくる少女たちをいじらしく思いながらも、ディルムッドは丁重に断った。

 

「お誘い嬉しく思います、レディ。しかし申し訳ない、すでに先約があるのです。語らいはまたの機会にということで」

 

 そして、包み込むように微笑んだ。

 

 少女たちは途端に顔を真っ赤にし、誰もディルムッドの顔を直視できたものはいなかった。

 

 その一瞬の隙に、速やかに霊体化する。

 

 ――やれやれ、サーヴァントの身の上でなければどうなっていたことやら。

 

 深く息をついた。



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第八局面

 三か月の時が経過した。

 

 結論から言うと、ディルムッドの修行は一定の成果を見た。

 

 その霊基の中には、数こそ少ないものの魔術回路が生じ始めていた。

 

 元から神秘の塊であるサーヴァントの肉体に、人工的な神秘を繰る術は定着しやすかったのか、ただの人間が魔術を修めるよりもだいぶスムーズに課程をこなしていった。

 

 今やディルムッドは、どうにか「見習い」の域を脱しかけている。もっとも、その本質は魔術師ではなく魔術使いではあったが。

 

 ●

 

「使い魔を量産せよ」

 

 あるとき、小源(オド)の観想のための瞑想に明け暮れていると、今生の主たるケイネス・エルメロイ・アーチボルトがやってきた。

 

 その背後には、銀の流体が楕円状に蟠りながらついてきている。まるで忠実な家令か何かのように、音もなく主に付き従っていた。

 

 魔術礼装――月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)。ケイネスの意のままに形を変え、攻撃・防御・索敵に活用可能な必殺武器である。

 

 艶やかな水銀の従者は、大気の僅かな流れによって表面にさざ波を立てている。写り込んだ周囲の景色が不規則にゆらめいた。

 

 その背中――というか上部というか――には、何故か異臭のする袋が載せられていた。幾本かの銀の触手によって抱えられている。

 

「は……我が主よ、それは一体……」

 

「だから、使い魔を量産せよ」

 

 月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)がディルムッドの前に袋を置いた。

 

 ケイネスが顎で示すので、やや躊躇いながらもディルムッドは袋のとじ紐をほどいた。

 

 中身を目の当たりにした瞬間、呻きが漏れる。

 

 大量のハツカネズミの死体が詰め込まれていた。

 

「生贄用の貯蔵を取り寄せた。すべて雌だ(・・・・・)。あとはわかるな?」

 

 ディルムッドのホクロに秘められた魔力は「魅了」である。相手がほとんど知恵持たぬ小動物であれば、「魅了」を通り越して「支配」の域まで術をかけることも可能だろう。

 

 本来、使い魔の操作にかかる魔力消費を、ホクロに肩代わりさせることによってコストパフォーマンスを向上させ、使い魔の大量生産をさせようというのだ。

 

「我が主よ、もしやこのために私に魔術を……?」

 

「まさか。これはただのついでだ。貴様に魔術回路を開かせた理由は別にある。それから――」

 

 ケイネスは懐より、奇妙な物品を取り出した。

 

 刺々しくも禍々しい装身具に見えた。中心に切れ長の目のごとき穴が開いている。どうやら右目の周囲のみを覆う仮面のようなものらしい。

 

「さる高名な人形師の作品だ。さすがに魔眼すら封ずる冠位魔術師。畏怖すべき完成度だな」

 

 試しに装着して見ると、肌に吸い付くように馴染み――直後に痛みが走った。

 

「ぐっ……!?」

 

「微細な棘を伸ばし、毛細管現象によって貴様の血を内部に取り込んでいるのだ。これによって霊的に接続され、貴様と一緒に霊体化できるようになる。基本的にはつけておけ。そのホクロから真名を暴かれることもあろう」

 

 ディルムッドは、己のホクロから野放図に放射されていた魔力が、仮面によって堰き止められていることを感じ取った。生前にこのような魔具と巡り会えていれば、あるいはもう少しマシな最期を迎えられたのであろうか。

 

 ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは踵を返した。

 

「使い魔の製作に専念せよ。最低でも千体はこさえてもらう」

 

「は……仰せのままに」

 

 相変わらず、主の意図はよくわからない。それほど大量に作っては、必然的に一体ごとの性能は落ちる。満足な偵察活動など望めまい。



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第九局面

 ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは、宝石魔術の応用によって転写された書類を子細に読み込んでいた。

 

 間諜からの報告である。

 

 今次の聖杯戦争に参戦するマスターの情報だ。

 

 アインツベルンからはアイリスフィール・フォン・アインツベルン。どうやらホムンクルスをマスターに仕立て上げているようだ。錬金術の大家たる血統と技巧の精髄であり、魔道の探究者としても大いに興味をそそられる存在である。もしも捕らえることが叶うなら、是非とも解剖し、その神秘を解き明かしたいものだ。

 

 また、アインツベルンは他にも外来の魔術師を雇い入れたようだ。衛宮切嗣。政情の不安定な紛争地帯で相当に荒稼ぎしてきた魔術傭兵だ。彼の関わった案件では、高確率で魔術師が奇妙な失踪を遂げており、不気味の一言である。

 

 間桐からは間桐雁夜。出奔し、刻印も受け継がなかった半端者を強引にマスターにしたらしい。勝負を捨てたのか。あるいは何かあるのか。

 

 遠坂からは当主の遠坂時臣。知らぬ男ではない。極東の猿にしておくにはもったいないほど貴種としての立ち振る舞いを弁えた者だ。魔術師としても一流。資産も充実しているので半端な触媒など用意しないだろう。間違いなく強敵となる。

 

 どういうわけか聖堂教会からも参戦者がいる。言峰綺礼。教会と深い関りのあった遠坂時臣にいかなる経緯か弟子入りし、令呪の発現に伴って師と袂を分かったらしい。不自然な経歴だ。なぜ教会の代行者が魔術師に弟子入りなどするのか。裏に何かあるに違いない。

 

 そして、征服王イスカンダルのマントの切れ端を盗んでいった我が生徒、ウェイバー・ベルベット。間違いなく参戦してくる。断言してもいい。魔術師としては正直何の脅威も感じないが、持っている触媒が触媒だ。絶対に対策は考えておく必要がある。潜伏場所がさっぱり割れないのも不可解だ。

 

 そして、未だ正体を掴ませぬもう一人のマスター。あるいはこの六人目こそが衛宮切嗣なのかもしれない。つまりアインツベルン勢は、二つの陣営の連合である可能性が否定できない。当然、まともに勝負せず仲間割れに追い込むべきだろう。

 

 ――さて。

 

 以上を踏まえたうえで、いかなる戦略をもってことに挑むべきか。

 

 第一に情報戦を制し、敵サーヴァントの真名と性能を探ること。第二にキャスターの居場所を洗い出し、可及的速やかに討ち取ること。

 

 よほどの変わり種でもないかぎり、キャスターの英霊ならば工房を敷設し、地脈から魔力を取り出すなり、魂食いを敢行するなりで力を蓄え、何某か大きな企てを実行に移そうとするであろう。キャスターに時間を与えていいことなど一つもない。

 

 ただ、それ以降の戦略となると、今のところまったく立てることができない。とにかく情報が欲しいのだ。

 

 とはいえ――敵同士が潰し合ってくれるのを期待して穴熊を決め込むべきではないと直感している。戦況に対応するのではなく、主体的に戦況を構築し、常に主導権を握り続けなければ、到底かの征服王を相手に勝機を見出すことはできない。そんな気がしてならなかった。

 

 瞬間。

 

『我が主よ。使い魔千体、用意が完了いたしました』

 

 その念話が届くと同時に、ケイネスは立ち上がった。

 

「よろしい。では冬木に向かう」

 

 戦を制するのは巧遅よりも拙速である。




準備フェイズが終了しました。いよいよ楽死い聖杯戦争です。


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第十局面

 アサシンのサーヴァント、「百の貌のハサン」は、唐突に真横へと腕を振るった。

 

 ほっそりとしなやかな腕が鞭のように翻り、閃光のごとき投擲を放つ。

 

 音の壁を悠々と突破した短刀は、致命の直線を描いた。

 

 単なる刃物が立てるとは到底思えぬ鈍い音。

 

 そこでようやく百の貌のハサンは標的へと顔を向けた。後頭部で結わえられた青紫の髪が艶やかに揺れる。

 

 ネズミが壁に縫い留められ、絶命していた。

 

 微細な魔力を察知し、恐らく使い魔の類であろうと体が勝手に動いたのだ。

 

 反射的な行動だったが、あの使い魔は何一つ行動することはなく、自分の主に何一つ情報をもたらせず、斥候としての役割を何一つ果たさぬまま生を終えた。

 

 どのような機能を持っているか不明な以上、捕まえて調べるよりは即座に殺した方がよかろうと判断する。

 

 間諜の英霊として完璧な仕事を果たした。

 

 己の主でもない遠坂邸を警護するのは気の進まぬ命令であったが、それが言峰綺礼の意志とあらば是非もない。

 

 契約は必ず遂行する。それが「ハサン」の名を襲った者たちの誇りであるから。

 

 ほっそりと女性らしい曲線を描く体躯を霊体化させ、姿を消した。

 

 ●

 

 ライダーのサーヴァント、「征服王イスカンダル」は、頬杖をついて寝っ転がり、煎餅を齧っていた。

 

 ブラウン管に映るのは、『実録・世界の航空戦力パート3』。聖杯を獲ったのち行われるべき世界征服に向けてのリサーチである。

 

 画面の中で飛び回り、銃火を吐き出す鋼鉄の怪物たちの姿は、心躍る光景であった。人類は神々の手を借りずして大空をものにするに至ったのだ。実に痛快ではないか。

 

「あっ、くそ、また殺された!」

 

 すぐ横では、イスカンダルのマスターであるウェイバー・ベルベットが悪態をついていた。あどけなくも癇癖の強そうな少年だ。

 

 どうやらまた使い魔が殺されたらしい。今回は確かスズメを使い魔に仕立て上げたようだが、無駄に終わったと見える。

 

「どうなってんだ!? 遠坂の敷地に入ってすらいないんだぞ!? また何にもわからなかった!」

 

「のう、坊主。そんな根拠地が分かり切っとる敵の監視なんぞ遠巻きで良かろう。それより居場所が分からない敵を探し出さんか」

 

「そんなことできるわけないだろ! 冬木市に限定するにしても、あてずっぽうに使い魔を飛ばして敵が見つかるなら誰も苦労しない!」

 

「そうは言うが、のう?」

 

 イスカンダルは身を起こし、無造作に腕を伸ばした。サーヴァントとしては鈍重な部類に属するが、それでも常人の目に捉えられるような動きではない。

 

 ころりと丸っこい指先に、小さなネズミが尻尾を捕らえられていた。吊り下げられ、じたばたともがいている。

 

「ほれ、こうして敵も勤勉に我らを探しとるぞ?」

 

「嘘だろ!? どうやってここがわかったんだ!?」

 

「ま、どうでも良いわ」

 

 征服王は手を振り、ネズミを窓から外へと放り投げた。

 

 そして、分厚い筋肉の鎧に包まれた巨躯に思い切り伸びをさせ、豪快に欠伸をひとつ。

 

「お、おまっ、おまおま、おまえなにやってんだよ!! わざわざ敵の使い魔を逃がすなんて!」

 

「たわけ」

 

 言い募ってくる少年をデコピンで黙らせると、イスカンダルは不快げに息をつく。

 

「あの使い魔、ほとんど何の魔力もなかった。隠蔽能力に優れているのではなく、実際に何もできない役立たずよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「えっ……?」

 

「小賢しい(はかりごと)の匂いがする。無視に限るわい」

 

 煎餅をもう一口かじった。紅毛に覆われた逞しい顎が力強く動き、咀嚼する。



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第十一局面

 ディルムッドが放った千体の使い魔たちには、情報を収集する機能はおろか、主と感覚を共有する機能すらない。

 

 ハツカネズミの外見から推し測れる以上のことは何一つできない。一般人の子供よりも無力な存在である。

 

 ●

 

 バーサーカーのサーヴァント、「湖の騎士ランスロット」は、獣のような低姿勢で実体化した。

 

 喉の奥で低い唸りを上げながら、狂乱に濁った瞳を左右に走らせる。魔力の消費を抑えるために、黒い全身甲冑は纏っていない。だが、バーサーカーを一見してわかる情報などその程度であり、どのような年恰好の人物なのかはまるで判然としない。その姿は常にぼやけ、霞み、二重三重にブレていた。

 

「っ……、どうした、バーサーカー」

 

 荒い喘鳴を発しながら問うてくるマスターを無視し、ランスロットは突如雷光のごとき速度で床を蹴った。

 

 瞬間的に跳ね上がる魔力消費に、マスターの間桐雁夜は呻く。

 

 バーサーカーの手が、無力な小動物を捕らえていた。微弱ながら魔力の匂いがする。

 

 ハツカネズミを顔の真上に掲げ、何の抵抗もなく握り潰した。絞り出されてきた血肉を、頬も裂けんばかりに開かれた口で飲み干す。

 

 聖杯によって植え付けられた狂乱の呪いによって理性を失ったバーサーカーだが、マスターの魔力供給に大いに不安が残るであろうことは本能的に悟っていた。

 

 ごくわずかだが、これでも多少の足しにはなる。

 

 ●

 

 ハツカネズミたちが向かった先で何を目撃し、何をされようが、それをディルムッドに伝える手段など持っていないのだ。

 

 できることはただひとつ。

 

 ディルムッドの思念に従って移動すること。

 

 ただそれだけである。

 

 ●

 

「御覧なさいリュウノスケ。なんと愛らしい玩具でしょう」

 

 キャスターのサーヴァント、「青髭公ジル・ド・レェ」は、巨大な目玉をぎょろつかせながら慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

 

 その掌の上にはハツカネズミの使い魔がぐったりと身を横たえている。

 

 自分の顎を掴みながらしげしげと差し出された小動物を眺めるのは、剽軽でありながらどこか余裕と威厳を有した年若い青年である。

 

「えっと、旦那。それは……イケニエとか? そういうの?」

 

 ジル・ド・レェのマスター、雨生龍之介は眉をひそめて問う。彼は目先の快楽を求めて無辜の市民を何人も惨殺してきた連続殺人鬼であったが、動物にはほとんど何の興味もなかった。畜生をいくら虐げたところで、そいつの人生観が滲み出るような奥深い反応など期待できないからだ。

 

「まさかまさか。なんと恐ろしいことを言うのですリュウノスケ。こんなに愛らしいのに」

 

 キャスターでありながら意外なまでに鍛え上げられた手が、優しくハツカネズミの背を撫でる。

 

 そして、猿轡を噛まされ、両手足を拘束された幼い子供の前にしゃがみ込んだ。

 

「小鍋と火を用意なさい、リュウノスケ。このモフモフした可憐な天使の正しい使い方を御覧に入れましょう」

 

 意味を理解したわけではない。これから起こることを推察できたわけもない。だが縛られた幼子は、くぐもった悲鳴を上げてその場から逃れようともがいた。

 

 すべては無意味だった。



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第十二局面

 ディルムッド・オディナは、なんとも言えない面持ちで、一斉に集結してきたハツカネズミの使い魔たちを眺めていた。

 

 ケイネスが買い取った一軒家の庭先に、約千匹が一斉に後ろ足で立っていた。こちらの命令を待っている。鳴き声ひとつあげず、じっと見上げてくる。無遠慮に降り注ぐ日の光が、彼女らの黒い眼に光沢を与えた。

 

 一匹一匹は愛らしいと言えなくもないが、ここまで大量にひしめいていると、正直見ていて気分のいい光景ではない。

 

 彼女らを使役するために、まっとうな宿泊施設を利用することはできなかった。ゆえにディルムッドの基準からするとまるでウサギ小屋のような間取りしかないこの家屋を拠点にせざるを得ないのだ。

 

「で、どうなのだ、ランサー」

 

 

「……少々お待ちを」

 

 貴族としての誇りと自負の強い我が主が、自らの在り方を曲げてこの家を拠点として買い取ったとき、ディルムッドは意外の念に打たれた。

 

 ならば臣下としても成果を出さねばなるまい。

 

 

 片目を覆っていた刺々しい魔具を外す。ホクロの魔力が解放され、使い魔たちとの絆をより強く感受する。全身に開いた魔術回路に疼痛が走る。

 

 ここまで使い魔の至近にいれば、彼女らとの絆が途絶えていないかどうかはすぐにわかる。

 

「…… ל(ラメッド)- twelve(トゥエルヴ)ל(ラメッド)-thirteen(サーティーン)מ(メム)-twenty(トゥエンティ) eight(エイト)ח(ヘット)-forty(フォーティー)ס(サメフ)-five(ファイブ)צ(ツァディ)-forty(フォーティ) three(スリー)の六匹が帰ってきておりません」

 

「ふん」

 

 ――冬木市は東西に長く伸びた都市だ。

 

 ゆえに、その全域地図を20×50のマス目に分割し、それぞれのマスに一匹ずつ使い魔を向かわせる。

 

 使い魔自身に情報収集能力などないが、しかし()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そこには日本の環境では珍しくもないハツカネズミをわざわざ捕らえたり殺したりする何かが居るということだ。

 

ל(ラメッド)- twelve(トゥエルヴ)は遠坂邸の位置だ。ここが帰ってこないのはわかりきった話だが―― ל(ラメッド)-thirteen(サーティーン)が帰ってこないのは気になるな。間桐邸に近いが、ややずれている」

 

 ケイネスは腕を差し伸ばした。

 

apparent(面を上げろ),mei(我が) diaconus(奴婢)

 

 手首のあたりに空間のわだかまりのようなものが発生する。

 

 そこだけ気圧が明らかに異なり、可視光を歪めているのだ。

 

 やがて魔術迷彩が解除され、一匹のスズメが現れた。

 

 「風」と「水」の稀有な二重属性を有する魔術師、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトが、流体操作の技巧と魔力のすべてを駆使して創造した使い魔だ。

 

 他を絶する圧倒的な機動力と、光学的・魔術的な迷彩能力、三種類の高度な魔力探査能力、鋭利な風の刃を放射する戦闘能力――そしてもちろん主と感覚を共有する機能もぬかりなく備わっていた。

 

 千のネズミを用いた策略の悪辣な点は、魔力を有している以上聖杯戦争の参加者としては対処しないわけにいかないことと、たとえ捕らえて調べ上げたところでディルムッドの稚拙な魔術の痕跡しか解析できないことが挙げられる。

 

Dilectus(指定) quaerere(索敵)

 

 下知を受け、濃密な神秘とシステムを有した小鳥は飛び立っていった。

 

 その速度は、ディルムッドの動体視力でなくば認識不可能な域にあった。



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第十三局面

「……ビンゴだ」

 

『はい。こちらでも確認しました』

 

 ワルサーWA2000セミオートマチック狙撃銃の、不釣り合いなまでに巨大なスコープを覗き込みながら、衛宮切嗣は目を細めた。

 

 特殊なアダプターを先端に装着した暗視スコープのため、昼間の使用でも視界には問題がない。

 

 レティクルの中心付近では、二人の男が古びた日本家屋の庭先に佇んでいる。

 

 一方は情報にあったケイネス・エルメロイ・アーチボルト。もう一方は彼の召喚したサーヴァントであろう。距離は目測で100メートル程度。家屋の密集する環境ゆえ、これ以上距離を取ると射線が通らなくなる。

 

 彼らの前には、目を疑うような数のネズミたちが集まってきている。いかなケイネスが「神童」ともてはやされる天才であろうとも、あんな無茶苦茶な数の使い魔を使役できるはずがない。してみるとサーヴァントの能力ということになるが――

 

 衛宮切嗣は聖杯戦争に参戦するマスターの一人であり、サーヴァントを視認したらその能力値を脳裏に感受する能力もまた他のマスターと同じく得ている。

 

 あのサーヴァントの能力値(パラメータ)は明らかに白兵戦を前提とするものだ。間違ってもキャスターのクラス適性を得られるようなタイプではない。

 

 切嗣は無線に語り掛けた。

 

「片目だけを覆う奇妙な仮面をつけ、小動物を大量に使役する能力を持つ、白兵戦重視の英霊……舞弥、君は心当たりはあるかい?」

 

『そもそもさして詳しくもありませんが、聞いたことはないですね』

 

 ステアーAUG突撃銃を構えて別方向からケイネスらを監視しているであろう硬質の美女――久宇舞弥は、淡々と答えた。

 

 無理からぬ話だ。彼女にとって人生と呼べそうなものは、衛宮切嗣という慈悲なき殺戮機械の機能を補助・保守するためのサブユニットとしての生である。神話や歴史のお勉強などができるほど余裕のある暮らしではなかった。

 

 二人は既にケイネスらにいつでも十字砲火を叩き込める位置についていた。舞弥は切嗣よりもさらに敵に近い配置だ。お互いの得物の射程距離の問題もあるが、何より舞弥は斥候兼、囮としての役割も担っている。

 

 彼らが稚拙で無力なネズミの使い魔を捕らえたのは、ほんの三十分前のことである。

 

 ――よほどの未熟者が分も弁えず参戦しているのか……あるいは(・・・・)

 

 実に、ケイネスの仕掛けた情報策略の本質を朧げに理解し、無視するのみならず逆に利用してのけたのは衛宮切嗣のみであった。ネズミの腹を手早く切開して、軍用発信機を埋め込んでいたのだ。

 

 結果、最速でランサー陣営は最も危険な男に本拠地の位置を特定されるに至ったのである。

 

『仕掛けますか? 同時に撃てば、ケイネスを仕留められる可能性はあります』

 

 一瞬、思案する。

 

 サーヴァントは濃密な神秘の塊であり、魔力の関わらない物理攻撃では傷一つつけることはできない。だが、マスターはそうではない。

 

「……やめておこう。仮面の色男の敏捷性はA+ランク。サーヴァント基準でも最高峰だ。予想しない方角から超音速で飛来してきた小さな礫に反応して叩き落とすぐらいのことは造作もないだろう。それに、名にし負うロード・エルメロイが何の防護術も備えてないとは思えない」

 

 切嗣はスコープから目を離し、潜伏していた家屋の壁に隠れた。煙草に火をつける。

 

 ライターの火が、中年と呼ぶには若すぎるが、あまりにもくたびれすぎて老いているような印象を与える男の姿を浮かび上がらせる。

 

「しばらくは監視だ。彼らが他の陣営と事を構え、サーヴァントの意識が己の主から離れた瞬間を狙う」

 

『了解』

 

 だが、長期戦となるかに思われた監視は、ほどなく終わりを迎えることになる。



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第十四局面

「……もう動くのか」

 

 日が落ち、夜の帳が住宅街を覆い尽くすと、ケイネスはすぐに外出した。傍らには霊体化したサーヴァントを侍らせているのだろう。

 

 切嗣はライフルからスコープを外し、ガンケースに収める。

 

()けるとしようか。「神童」のお手並みを拝見だ」

 

『了解』

 

 もちろん、家主が去ったあとの家屋にクレイモア地雷によるトラップを備え付けていくことは忘れなかった。

 

 ●

 

 スズメの使い魔は、ほとんど一瞬で確度の高い敵の位置情報を送り込んできた。

 

 ネズミが帰ってこなかった区画を、魔力的なパッシブソナーで浚い、アクティブソナーで位置を特定し、収束ソナーで敵陣の精密な情報を習得。

 

 パッシブソナーとは、要するにごく一般的な魔力感知能力だ。相手が垂れ流す魔力を嗅ぎ当てる。走査精度は低く、おおまかな位置しかわからないが、相手に気づかれる心配はない。

 

 アクティブソナーは、自分から魔力の波を放射し、その反響パターンから強い魔力を持った存在の座標を定位する。高い精度を誇るが、位置を特定した事実を相手に察知されてしまうため、仕掛ける直前にしか使えない。

 

 収束ソナーは、アクティブソナーの前方収束版だ。位置を特定した相手に浴びせ、体格、人数、拠点の内部構造、魔力量、そして緻密な反響パターンのデータをケイネスが脳内で解析することによりクラスすらも特定できる。

 

 最初の一回でいきなり当たりを引いた。

 

 ――これは……バーサーカーの霊基パターンか。

 

 タクシーに揺られながら、ケイネスは目をすがめた。

 

 霊体化しているため、物理的な体格や姿かたちは不明。そばにひとりの男が蹲っている。呼吸が荒い。これが間桐雁夜か。

 

 彼らの居場所は、遠坂邸にほど近い座標の地下下水道だった。

 

 なるほど地下から遠坂の出方を窺い、マスターやサーヴァントの行動を監視していたのだろう。

 

 すぐに攻め入らないだけの理性はあるようだが、率直に言って「あの」遠坂時臣に抗しえるような陣営には見えなかった。放っておけばバーサーカーの魔力消費を賄えず、自滅することだろう。

 

 だが、ケイネスとしては別の思案もあった。

 

〈ランサー〉

 

 そばに霊体化して侍る従僕に、念話で語り掛ける。

 

〈は〉

 

〈これよりバーサーカー陣営に仕掛ける。ただし〈必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)〉の開帳は禁ずる〉

 

〈は……?〉

 

〈ただの槍として使うことは問題ないが、回復阻害の呪いは発動を禁ずる〉

 

〈わ、我が主よ、無論のこと、あなたに勝利の栄誉を捧げるために死力を尽くしますが、敵もまた英霊。いかなる力を持つかわかりません。そのような相手に対し片手落ちの姿勢で挑むのは……〉

 

〈いつ私はお前に口答えを許した?〉

 

 言葉にならない呻きが伝わってくる。

 

 やがてタクシーを降り、下水道へ続くマンホールの前に立つ。

 

「やれやれ、降りねばならんか」

 

 深く深くため息をつく。

 

「先行しろ、ランサー」

 

〈……は〉

 

 青き槍兵が実体化。鉄の蓋に開いた排気用の穴に指を突っ込んで容易く持ち上げた。



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第十五局面

 ――無意味なことをしようとしているし、自分はきっと犬死する。

 

 間桐雁夜は痙攣する己が手指を眺めながら、冷静に自分の状況を確認した。

 

 血の気が引き、いたるところに瘢痕の浮き出た手の甲。それは手だけに限らず全身が同じ惨状だった。

 

 我が身に巣食う刻印虫は、数だけで言えばそれなりの格の魔術回路として機能するだろう。だが肝心の雁夜自身に魔術戦闘の心得などない。

 

 桜や臓硯の前では気を張って毅然とした顔をしていたが、いざ一人になれば自分のやろうとしていることの無謀さに笑ってしまいそうになる。

 

 相手は「あの」遠坂時臣だぞ?

 

 魔術を唾棄し、一般人と同じ暮らしを送ってきたことに後悔は一切ない。だが、培った経験の差はことここに至って残酷だった。もはや時臣という男への憎悪で立っていると言ってもいい雁夜にとり、現状はあまりに暗い。

 

「……それでも、止まるわけにはいかない」

 

 すべてを覚悟したうえで、雁夜は聖杯戦争という場に立っているのだ。聖杯を獲る。そして間桐桜を救う。人生の最期を飾る目的としては悪くない。自分のような凡人にはいささかヒロイックすぎるくらいだ。

 

 だが、自分に酔うことが、ほんのわずかでも前に進む力になるのなら。寸毫でも桜を解放する可能性に資するならば。

 

「いくらだって酔ってやるさ」

 

 指を、握りしめる。青黒い静脈が浮き出る。

 

 ――だが、やはり間桐雁夜は視野が狭窄していた。

 

 敵が遠坂時臣一人であるなどと誰も言っていないのに。時臣以外の誰も、自分の命を狙ってこないなどという荒唐無稽な楽観を、無意識下とはいえ信じてしまっていた。

 

 頭ではわかっていても、どこか現実感のない危惧だった。

 

 根本的に魔術師でもなければ戦闘者でもないがため――そして何より、間断なく肉体を刻印虫に食い散らかされる苦痛が、彼から当たり前の思考を奪っていた。

 

 ついさきほど下水道を走り抜けた魔力の波が何を意味しているのか気づくことができず、

 

 こつ、こつと乾いた音を立てて近づいてくる足音が何を運んでくるのか、一瞬想像が遅れ、

 

 ゆえに、戦闘用の蟲どもにあらかじめ包囲殲滅を期せる位置についておくよう指示を出すこともできなかった。間桐雁夜はどこまでも良識的な一般人であり、自分と何の因縁もない人間を殺すという思考を即座に働かせる才覚などなかった。

 

「――バーサーカーのマスター、間桐雁夜とお見受けする」

 

 下水道にはまったく似つかわしくない、高貴な気品と威風を湛えた男が、悠然とこちらに歩み寄ってきていた。

 

 そこに至ってようやく雁夜は目の前の男が自分の命を狙っており、自分もまた相手を殺さなければならない立場であるということを理解した。

 

「……ッ! 来いッ! バーサーカー!!」

 

 本能的な畏怖を呼び覚ます絶叫が轟き渡り、雁夜の前に闇色の全身甲冑を纏った暴威と狂乱の化身が実体化した。獣のような低姿勢で、ねめつけるように相手を睥睨する。

 

「ランサー。返礼してやれ」

 

『御意に』

 

 敵の前にも、魔力の揺らぎと共に、しなやかな長身を青き戦装束で包んだ優男が姿を現わした。朱槍と黄槍を携え、右の目元を刺々しい装身具で飾っている。雁夜にもわかるほどの清澄なる闘気。

 

 とっさに敵の能力値(パラメータ)を確認する。

 

 右の口端が笑みに歪み、左の口端が不気味に痙攣した。

 

 ――大丈夫だ。勝てる。ランスロットの方が明らかに強い!



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第十六局面

 バーサーカーの鉤爪が、そばにあった転落防止用の鉄柵に喰らい付き、一気に引きむしった。根元のコンクリートを粉砕しながら持ち上がる。

 

 それは、本来は起こるはずのない現象だ。いかに頑丈な鉄材製とはいえ、これほど長大な物体が一点で保持されて形を保っていられるわけがない。破断限界を明らかに越えている。

 

 ディルムッドは目をすがめる。

 

 バーサーカーの手が鉄柵を握り締める箇所から、深紅の葉脈のようなものが伸び、広がり、全長十メートル超の鉄材に禍々しい赤光を宿らしめている。

 

 ――「強化」の魔術か?

 

 だが、直後に起こった異常事態にはさすがに瞠目した。

 

 闇色の騎士は、即席の長物を一瞬で振り上げた。当然ながらこの地下下水道の上下幅は十メートルもない。身幅の半分以上が天井に突き刺さり、埋まり、そのまま動かせなくなる。それ以外の結末はあり得ないはずだった。

 

 耳を聾し、腹の底に轟く壮絶な破砕音が連続し、コンクリート片と粉塵が一斉に視界を塞ぐ。

 

「主よ、失礼をば!」

 

 だが、音からディルムッドは何が起こっているのかを正確に察した。須臾の反応速度でケイネスを小脇に抱え、飛び退った――直後に、今までランサー陣営の立っていた地点が爆砕し、噛み砕かれ、足場としての用をなさなくなる。

 

「強化魔術で説明のつく範疇ではないな。あれが奴の宝具か」

 

「主よ、お下がりください。もっと遠くへ!」

 

「ふむ……」

 

 ケイネスを離し、前を見据える。

 

 精神を鑢掛けするような濁った絶叫とともに、破壊の暴風が荒れ狂いながら急速に接近してきていた。

 

 この空間よりも巨大な掘削機が、恐るべき速度ですべてを砕き散らしながら迫ってきている。

 

 深紅の葉脈の浸食を受けた鉄柵が縦横に振り回され、何の抵抗もなく周囲の下水管構造を破壊しながらバーサーカーが駆け寄ってきているのだ。弾塑性力学は愚か、いかなる魔術の常識に照らし合わせても不条理極まる超絶的な強度が鉄柵に与えられていると考えるほかなかった。

 

 地下にあって自殺行為としか思えぬ暴挙だが、バーサーカーの壮絶な身体能力は、崩落する土砂と金属とセメントの大質量をものともせずに弾き飛ばしながら猛然と突撃を続行する。

 

 ――なるほどな。

 

 ディルムッドは鋭い呼気とともに、その身を疾風と化す。叫喚と爆音と破砕音を撒き散らす狂騎士とは対照的に、その踏み込みには一切の音を伴わなかった。それは、地面を踏みしめた反動が、損分なく推進力に変換されたことを意味する。入神の冴えを持って為される流水のごとき運体。

 

 微塵の躊躇も見せず、バーサーカーが得物を振り回す球状の即死領域へと踏み入った。

 

 ――なんたる武錬か。

 

 改めて、闇色の英霊の、戦士としての桁外れの実力に驚嘆する。自分ならばあれほど巨大な得物を、これほどの速度とパワーを維持したまま振り回し続けるなど、たとえ狭隘な地下空間でなくとも不可能だったろう。

 

 聖杯戦争の最初の相手としてまったく不足はない。

 

「ゆえに、残念だ」

 

 その口の中のつぶやきが音になるより遥か手前で、赤い閃光が閃き、闇色に染まった鉄柵が半ばより切断される。周囲の人工物に一方的な破壊をもたらし続けた凶器としてはありえないほどあっけなく、滑らかな断面を残して飛んでいった。

 

 唐突に自分の武器の質量が半減することを予測していなかったのか、バーサーカーはわずかなりとも体幹に乱れを生じさせる。

 

 そこへ、神速にして精妙なる一刺が射込まれた。



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第十七局面

 ――〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉。

 

 ディルムッドにとっては養父にしてドルイド僧、そして愛と若さの神たるアンガス神より賜った、艶めく紅色の長槍。

 

 ありとあらゆる魔力的な作用を遮断する力を有し、現代の魔術はもちろん、英霊らの宝具ですらその効果からは逃れられない。

 

 接触した瞬間にしか威力を発揮しないという縛りはあれど、たとえ自身より格の高い宝具相手であれ、「一方的に」「瞬間的に」「完全に」魔力を遮断してのけることができる点で極めて使い勝手は良い。

 

 ゆえに、この結果は必然。

 

 宝具の域にある帯呪(エンチャント)効果と言えど、〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉の前では何の意味もないのだ。

 

 ディルムッドは、いささかの遅滞もなく次の攻撃へと繋げた。鉄柵を斬り飛ばした紅槍を手の中で回転させながら体側を入れ替え、さらに一歩踏み込みながら致命の直線をひねり出す。

 

 無論、生前のディルムッドであれば、ここまで何の工夫もなく直接的に相手の心臓を狙うような挙には出るまい。

 

 何しろ相手は重厚な甲冑を纏っている。生前所持していた魔剣〈大いなる瞋恚(モラ・ルタ)〉ならばいざ知らず、〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉には鎧に対する特効性などない。まず間違いなく必殺は望めないだろう。

 

 だが、生前とは状況が違う。いま干戈を交えているのは人と人ではない。サーヴァントとサーヴァントだ。英霊が身にまとう鎧具足はすべて魔力によって編まれた疑似物質であり、〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉の効果の適応対象なのだ。

 

 妖しいまでの光沢を湛えた紅い穂先が、何の抵抗もなく暗黒の胸甲を貫通し、内部の肉体を存分に食い破った。

 

 闇色の騎士の背中から魔槍の刃が飛び出る。鮮血が散る。

 

 ディルムッドはほんのひとかけらも油断などしなかった。ゆえに、ほぼ同時に繰り出されてきたバーサーカーの鉤爪に対して瞬時に頭を傾けた。顔の左半分が存分に引き裂かれ、左眼球を潰されても眉一つ動かさなかった。

 

 苦し紛れともいえる反撃は、しかし確かに紅槍が霊核を貫くのを紙一重で阻んでいた。

 

 裂帛と共に槍兵は〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉を両手で掲げ持ち、バーサーカーの巨躯を頭上に持ち上げた。両腕のしなやかな筋肉が怒張し、血管が浮き出る。

 

 この挙は予測していなかったらしく、闇色の騎士は膝蹴りによってディルムッドの(アバラ)を粉砕する機を逸した。

 

 二騎分の質量と、自身の腹筋と広背筋と大腿筋と腓腹筋の力を総動員して、戦吼とともに狂騎士の頭蓋を地面に叩き込んだ。

 

 着弾点を中心に、セメントが爆砕する。放射状にひび割れが拡がった。

 

 とはいえ、サーヴァントに投げ技など無効である。地面に叩きつけた衝撃がダメージの根幹となる以上、物理攻撃を受け付けない存在に対して有効打にはなりえない。

 

 ディルムッドの狙いは、もう少し異なる。

 

 敵の胴を貫通したままの〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉を両手で握りしめ、柄を胸甲に押し付けるように渾身の力を込める。

 

 ごき、ごき、ぶちり。

 

 頭蓋が埋没することで固定され、長柄による梃子の原理を用い、バーサーカーの頸椎は複雑に粉砕され、頸部を走る動脈と静脈が引き千切れた。



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第十八局面

 即座にディルムッドはその場を飛び退り、凶暴な唸りを上げて薙ぎ払われる漆黒の鉄靴(ソルレット)を間一髪で回避した。

 

 仕留められたとは思っていない。だが、頸脈を断裂させれば重要器官への魔力の循環には支障が出るだろう。特に脳はまともに機能しなくなる。ごく初歩的な状況判断すら覚束くまい。

 

 ブレイクダンスめいた動きで頭蓋をセメントから引き抜き、跳ね起きる狂騎士。首が据わっておらず、頭蓋が力なく揺れている。どう見ても行動可能な状態ではない。

 

 だが。

 

 ディルムッドは、ここで一つの失策をおかした。

 

 あるいは、敵の力量を見誤った。

 

 〈必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)〉。

 

 海神マナナーン・マックリールより賜りし、回復阻害の呪いを有する魔槍。

 

 目の覚めるような黄色の輝きは、今ディルムッドの手元にはない。致し方のないことであった。今生の主より、〈必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)〉の開帳は禁じられていたのだ。双槍の戦闘スタイルに慣れていたので、一応携えはしていたが、敵の想像を絶する膂力を見た瞬間から手放し、〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉の一本のみを今まで握りしめてきた。

 

 そして、背負い投げの要領で彼我の位置が入れ替わった結果、〈必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)〉は今、頸椎を砕かれたバーサーカーの足元にあった。

 

 この瞬間、ディルムッドの脳裏に切迫した危機感などなかった。〈必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)〉は紛れもなく己を担い手として選んだ、ディルムッド・オディナ個人の宝具だ。余人に扱えるものではない。宝具の側が拒むだろうし、力ずくで握りしめたところでそれはただの槍以上のものにはなりえない。

 

 宝具とは単に「優れた武具」などという意味の言葉ではない。担い手となった英雄の手の中で、共に数々の偉業を成し遂げ、それが人々の信仰を集めて貴き幻想(ノウブルファンタズム)を纏うことで初めて機能する「現象」だ。ディルムッドの手にない〈必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)〉など、英霊の目から見ればそのへんの棒切れと大差ない。

 

 ゆえに、奈落のごとき籠手が黄槍に伸びた時も、なんと愚かな、と狂化の呪いに対する同情心すら抱いていた。

 

 相手の宝具を、「触れた物体の超強化」でしかないと見損なっていたがゆえに。

 

 続く事態に対して、防御することしかできなかった。

 

 二騎の間で激しい火花と魔力の烈光が瞬き、青き槍兵は後方に吹き飛ばされた。床に二本の轍が刻まれる。

 

「なッ!?」

 

 慌てて重心の制御を取り戻すと同時に、神経を引き毟るような凄まじい叫喚を貫いて致命的な黄光が射込まれてきた。反射的に紅槍で叩き伏せ、交差したふたつの穂先が床にめり込む。

 

 圧倒的な剛力によって跳ね上がろうとする〈必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)〉の切っ先を、巧みな力加減の妙技で抑え込む。

 

 ハリエニシダの燃え盛る花のように鮮やかだった金糸雀色の魔槍は、今や赤黒い葉脈の汚染を受け、油ぎった黄褐色に貶められていた。

 

 眉が、険しくひそめられるのを自覚する。

 

「貴公……!」

 

 宝具の、収奪能力。

 

 あまりにも恐るべき敵の本質を痛感するとともに、自分がかつてない危機にあることを自覚する。



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第十九局面

 硬質の悲鳴と絶叫が連続し、物理的な衝撃波と魔力のフレアが炸裂する。物理法則への明らかな狼藉に、下水道の淀んだ空気すら癇癪の絶叫を上げた。

 

 超常の宝具の激突は、すでに数十合を越える。艶やかなる紅槍と、穢れたる黄槍は、変幻自在にして強壮無比なる威力を湛えて輪舞し、閃光と化し、擦過した人工物を砕き散らした。

 

 ――なんたる……ッ!

 

 ディルムッドは、驚嘆を通り越して戦慄していた。

 

 状況は明らかに自分に有利なはずだ。頸椎の破断は脳神経系の機能を低下させ、まともな思考など到底不可能な状況にあるはずだ。

 

 にも関わらず、なんだこの技巧は。バーサーカーは目すらまともに見えていない負傷の身で、ディルムッドの神技に対して一歩も引かずに完璧に対応していた。どころか膂力の差で押してすらいる。

 

 ある時代の中で無双の頂に至るまで研ぎ澄まされた、武錬の冴え。

 

 戦士としての、ひとつの「究極」がそこにあった。

 

 自身の顔の左半分を抉り取った負傷は、すでに主の治癒魔術によってほぼ完治していた。両目による立体視が回復しておらねば、この猛攻をしのぎ切ることはできなかっただろう。

 

 だが、それでも爆撃のごとき威力の打ち込みを受け止めるたびに骨が軋み、筋肉に内出血が刻まれた。

 

 汚染された〈必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)〉は、濃密な神秘を纏い、〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉と凌ぎ合っている。回復阻害の呪いもいかんなく発揮されるであろうことは感じとれた。

 

 すなわち、今生の主に聖杯を捧げることを考えるなら、かすり傷のひとつすら負うことは許されない。

 

 冷たい汗が、こめかみを伝う。よもや初戦からこれほどの窮地に立たされるとは。

 

 だが同時に、猛き焔が胸中に沸き立ちもする。

 

 ――名も知らぬ騎士よ、俺は今、あなたの首がどうしても欲しくなった。

 

 腹の底から、闘志とともに裂帛が発せられる。

 

 戦いの歌(ドード・フィアン)。荒々しくも清澄な太古の活力が、ディルムッドの総身を満たす。

 

 ひときわ巨大な魔力の炎が狂い咲き、死合う両雄は弾かれたように間合いを離した。

 

 紅槍をひと撫でし、身を低く構える。

 

 バーサーカーは、構えらしい構えもとらず、獣のような前傾姿勢だ。

 

 張り詰めた静寂が、大気を凝固させる。

 

 やがて、バーサーカーの巨躯を包む、闇黒淵(やみわだ)のごとき全身甲冑が、煙のように姿を消した。

 

 フルフェイスヘルムを脱ぎ捨てても、その顔や風体は一向に判然としない。体格から恐らく男だろうということ以外、何もわからない。姿がぶれ、歪み、まるで焦点のズレた映像のようだ。何らかの超常的な力によって、正体が隠されているのだろう。

 

 だが、ディルムッドが真に戦慄を覚えたのは、「鎧を捨て去った」という事実の方だ。

 

 深紅の魔槍に対して、魔力で編まれた防具など何の意味もないことに気づいたのだ。今まで鎧の維持に使っていた魔力を、すべて身体を駆動させるエネルギーに回すつもりだ。

 

 すなわち、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 絶体絶命の渦中にあって、ディルムッドの頬に、凄絶な笑みが走った。



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第二十局面

 大気が挽き潰され、断末魔を上げる。

 

 バーサーカーの踏み込みは、ディルムッドの目をもってしても鮮明ではなかった。

 

 まるでコマ落としの映像のように、気が付いたときにはすでに間合いを侵略されていた。その途中経過を動きとして認識することはほぼできなかった。

 

 病んだ光を宿す黄槍が、致命的な軌道を描いてディルムッドの霊核を貫く直前。

 

 横合いから〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉の刃を叩きつけた。衝撃波と魔力が撃発し、長さゆえに質量の大きい紅槍が〈必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)〉を打ち払う。

 

 ……その、はずだった。

 

 ディルムッドは、堕ちたる宝具に込められる膂力を見誤った。

 

 どれほどの速度を叩き出しているのか、事前に想定していた最悪すらもあまりに楽観的だったことを思い知った。

 

 打ち払うどころの話ではない。

 

 こちらの槍技による妨害は、相手の刺突軌道をほんのわずかにずらすことすら(あた)わなかった。

 

 単純に、運動量が違い過ぎた。惑星の運行を殴って弾き飛ばすことができないように、狂騎士の攻撃をディルムッドが歪めることは不可能だった。

 

 ゆえに寸毫の狂いもなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ディルムッド自身すら、体内感覚でその事実を確信した。狂化の呪いと頸椎の粉砕による鈍りを微塵も感じさせぬ、入神の域にある殺しの手管。

 

 だが。

 

 しかし。

 

 そのまま粒子に分解され、消滅の憂き目にあわねばならないはずのディルムッドは、しかし顔色一つ変えぬまま〈必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)〉を掴んだ。

 

 体をずらす。ハリエニシダの花にも似た目の覚めるような黄色の槍は、そのまま実体なき幽霊のようにディルムッドの肉体を横に通過し、やがてその刃は完全に外に露わとなった。

 

 蒼き槍兵の躰には傷一つない。明らかにありえざる不条理。

 

 ――海神マナナーン・マックリールの寵愛を受け、回復阻害の魔槍を授かったディルムッド。

 

 その槍によってつけられた傷は決して癒えることはなく、いずれ確実に敵を死に至らしめる。

 

 しかしてマナナーンは、そのような剣呑な呪いがディルムッド自身を決して害することがないよう、〈必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)〉の刃に主を傷つけない祝福を授けていた。

 

 実際、「ディルムッドが〈必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)〉の穂先に立っても完全に無傷で済んだ」という生前の逸話は現代にも伝えられている。

 

 だが、バーサーカーの宝具は、そのような祝福すら歪め、「黄槍は決してランスロットを傷つけない」という呪いに変換していた。

 

 ゆえに本来はディルムッドにとって今の一撃は確実に致命傷となるはずであったが――

 

 ――〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉。

 

 この紅槍が接触している間だけは、〈必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)〉はディルムッドの宝具としての機能をすべて復活させていた。

 

 そう、深紅の魔槍を叩きつけたのは、攻撃をそらすためではない。

 

 慮外な事態を発生させ、狂騎士の隙を作るためだ。

 

 紅い閃光が闇を裂き、バーサーカーの腕が飛んだ。

 

 同時にディルムッドは黄槍を奪い返す。



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第二十一局面

 ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは、死を覚悟していた。

 

 この下水道は、遠坂邸にほど近い地下を走るものであり、あのような無茶な大破壊を繰り広げれば、ほどなく遠坂時臣の知るところとなる。

 

 そういう予測自体はできていたが、まさかいきなりサーヴァントを差し向けてこようなどと、そこまで切迫した危機感は持っていなかった。

 

 その攻撃に反応したのは、ケイネス自身ではない。自律防御モードで待機させていた月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)だ。

 

 ゆえに、最初の攻防は双方にとって不可解な結果に終わった。

 

 銀の流体が瞬時に防護膜を形成し、繰り出されてきた短刀の一刺を見事に防いでのけたはいいものの、ケイネス自身すら防ぎきれるなどとは期待していなかった。

 

 なぜなら、自分の前に立つ黒い人影は、明らかにサーヴァントであったから。

 

 全体的に痩せこけていながら、要所要所に球根のような筋肉の隆起が見て取れる、非人間的な体つき。

 

 暗闇に浮かび上がる白い仮面は、髑髏を象った不吉なものだ。

 

 ――アサシン……!

 

 いかに正面戦闘では最弱のクラスとはいえ、マスターを殺める程度ならば造作もないはずの存在。

 

 ――何故、防げた?

 

 神秘は、より強い神秘の前に崩れ去る。いかに現代魔術の精髄たる月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)でも、存在自体が濃厚な神秘であるサーヴァントの攻撃を防げるほどのものではないはずだ。

 

 見ると、相手もまた戸惑っているようだった。

 

 自分の攻撃を防いだ液体金属を見て、警戒している。

 

Dilectus(指定) incursio(攻撃)

 

 瞬時に流体へ圧力をかけて変形させる。先端に鋭利な刃を備えた超高速の鞭としてしならせ、遠心力を乗せて叩きつける。

 

 人間ならば成すすべもなく両断される攻撃だが、アサシンは身を投げ出して回避した。そのまま地面を転がり、跳ね起きる。

 

 油断なく構えてはいるが、その身のこなしは今少し離れた場所で死闘を繰り広げているランサーやバーサーカーとは比較にならないほど鈍く、脆弱だ。

 

 攻撃の瞬間までケイネス自身には存在をまったく察知されなかったのだから、気配遮断スキルは十全に機能しているようだが、ではこの異様な弱さは何なのか?

 

「遠坂時臣の召喚したサーヴァントとお見受けする。当面はそちらと事を構えるつもりはない。神秘の秘匿について咎めているのならば、破壊活動を行っているのはバーサーカーであって我らではないと言わせてもらう」

 

「時臣、だと……ッ!!」

 

 ケイネスの言葉に応えたのは、目の前のアサシンではなかった。

 

 白い髑髏からは目を離さず、スズメの使い魔の視覚を通じて声のした方向を見る。

 

 荒い息をつく間桐雁夜がいた。

 

 ――だが、なんだその体たらくは。

 

 立ってすらいない。喘鳴を洩らすだけの半死人だった。床に横たわり、凄まじい形相でアサシンを目指して這い寄ろうとしているが、無為にもがいているのと大差なかった。

 

 全身の血管が浮き上がり、間桐雁夜に凄まじい消耗と苦痛がもたらされていることを物語っていた。体の各所から止めどもなく出血している。

 

 ――死ぬな、これは。

 

 恐らく生きて朝日は拝めまい。



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第二十二局面

 〈百貌のハサン〉の一個体である〈基底のザイード〉は、功に逸っていささか軽率な真似をしたことを思い知った。

 

 生前の、多数の人格を一人で使い分ける万全の状態であれば、無論のこと目の前の魔術師どもを殺すのに何の苦もない。

 

 だが、宝具〈妄想幻像(サバーニーヤ)〉によって、それぞれの人格が独立した八十騎のサーヴァントとして現界している今の状態では、一個体ごとの実力は単純に八十分の一である。

 

 それでもただの人間を殺すなどまったく造作もないのだが、目の前のカソックじみたローブを纏う青年は、ただの人間などでは断じてなかった。

 

 八十分の一にまで神秘の薄まったサイードの攻撃を防ぎ切り、あまつさえ奇妙な流体金属で反撃までしてのける。

 

 即座に殺すのは難しい。

 

 しかしこのまま撤退は芸がない。

 

 ならば、少し離れた場所で無様に這いずっている間桐雁夜だけでも殺しておくべきか。だが、こちらはもはや放っておいても早晩死を迎えるであろうし、そもそも次の瞬間には流体金属の斬撃によって両断されているだろうと考えるべきだ。わざわざ手を下す必要は果てしなく薄い。

 

 だが――そこでザイードは新たな要素がこの場に現れたことを悟った。

 

 〈百貌のハサン〉の別の個体が、この場に到着している。

 

 ――〈迅速のマクール〉か。

 

 矮躯の同僚だ。自分と同じく戦闘の気配を聞きつけ、霊体化した状態で潜んでいた。どうやらこちらの存在にも気づいているようだ。

 

 ならば手の打ちようはある。自分がケイネスの注意を引き付けている間に、マクールが背後から仕留める。流体金属による自動防御も、攻撃動作中まで平素と変わらぬ機敏な反応ができるとは考えづらい。

 

 マクールと目を合わせ、頷き合う。

 

 その、瞬間。

 

 二つの声が、同時に響き渡った。

 

「来いッ!! バーサーカー!! そこの黒づくめを叩き潰せェッ!!」

 

《何をしている、ザイード。軽率に姿を晒すなとあれほど釘を刺しておいただろうに》

 

 どちらもザイードにとっては寝耳に水、青天の霹靂であった。

 

 前者は間桐雁夜。なぜかこちらを憎悪を込めた眼で睨みつけている。今この場でわざわざ自分を狙ってくる理由がまるでわからない。

 

 後者は己のマスターたる言峰綺礼。どういうわけか自分の独断専行がバレている。なぜだ。

 

 喉の奥で泥が煮え滾っているような唸りとともに、狂える騎士がやってくる。片腕を失い、頸椎は粉砕され、視線は定まっていない。それでもザイードを片手間に縊り殺せるであろうことは確かだった。

 

「……是非もなし」

 

 霊体化し、その場を離脱する。

 

 ●

 

 ――アサシンの排除には成功した。

 

 衛宮切嗣は、AN/PVS-7 単眼式暗視装置の視界を通じて状況のすべてを俯瞰していた。

 

 すぐにでもケイネスと間桐雁夜をステアーAUGで仕留めたかったが、暗視装置がもたらすサーマル映像の熱分布から、そこにランサーでもバーサーカーでもない霊体化したサーヴァントの気配があることに感づいた。

 

 しかも、二つだ。

 

 うち片方は切嗣の位置から遠くない。狙撃を強行すれば、この謎のサーヴァントに存在を察知されるであろう。

 

 ゆえに彼らにはどうしてもお引き取り願う必要があった。



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第二十三局面

 といっても、大したことをしたわけではない。

 

 舞弥に命じて、使い魔を遠坂邸に突っ込ませただけだ。

 

 遠坂邸を調べようとした使い魔たちがことごとく殺されていることは把握していたし、それがアサシンによるものであることも推測できる。

 

 であるならば、アサシンが本業をすっぽかしてマスター暗殺という好餌に釣られている以上、遠坂邸の警備は手薄になっていると考えられる。

 

 今ならば遠坂邸に侵入できるのではないかと睨んだ。それで内部の備えを確認できればよし。できずとも魔術的な罠と警報が発動したことにより遠坂時臣がアサシンの独断専行に気づき、呼び戻す公算は高い。

 

 結果、見事に当たった。

 

 そして、二体ともがこの場より去っていったことを鑑みるに、あれらはアサシンの何らかの能力による分身や使い魔の類であろうという情報も得られた。

 

 だが、舌打ちが漏れる。

 

「……なぜ間桐雁夜はランサーとの戦いを放棄してバーサーカーをアサシンに向かわせたりしたんだ」

 

 その差配には何の合理性もなく、ゆえに切嗣には予測ができなかった。

 

 バーサーカーが己のマスターの近くに戻ってきてしまったために、「バーサーカーとランサーが戦っている間にマスター二人を射殺する」という切嗣の当初の作戦はご破算となってしまった。

 

 マンホール直下で待機している舞弥に無線を飛ばす。

 

「舞弥、君はケイネスの拠点に戻ってクレイモア地雷を撤去してくれ。あの流体金属の防護膜を突破するにはまったく足りない。侵入があったという事実を奴に知らせるだけだ」

 

『了解。C2爆薬でも仕掛けておきますか?』

 

 切嗣はC4やセムテックスを採用していない。それらには爆発物マーカーであるニトログリコールが配合されており、起爆前の発見が容易であるためだ。

 

「……あぁ、そうだな。家屋すべてを吹き飛ばすだけの分量を頼むよ」

 

 それでも確殺を見込むには不安が残る。もう少しあの魔術礼装の性能を観察したいところだ。

 

 だがまぁ、今日のところはケイネスが間桐雁夜を殺して終わりだろう。サーヴァント戦闘は完全にランサーの勝利と言っていい。これ以上は情報を抜くことはできそうにない。

 

 ……そう、思っていたのだが。

 

 ●

 

「……殺すのか、俺を」

 

 アサシンは去り、二陣営の主従は対峙していた。

 

 だが、どちらが優勢であるかなどその場の全員が理解していた。

 

 ダメージが嵩み過ぎたのか、バーサーカーはその場に崩れ落ちるように膝をつき、霊体化してしまった。

 

 一方、ケイネスの傍らに控えるランサーには、目に見えるような負傷はないし、息ひとつ荒げてはいない。呆れた継戦能力の高さだ。

 

 傷の回復のためにバーサーカーへ吸い上げられる魔力量が増大し、雁夜は身をよじって血を吐いた。

 

 その血の中には蛆虫めいたものが混じり、身をのたうたせている。

 

「あ……ギ……ッ」

 

「ふむ、特殊な調整の施された使い魔を疑似的な魔術回路として機能させているのか。興味深いが、非効率的だな」

 

「我が主よ、不用意に近づかれませぬよう。その御仁の目にはまだ闘志が宿っております。何をしでかすか……」

 

 だが、ケイネスは躊躇なく雁夜に近づいていった。

 

 緊張に身構えるディルムッドを尻目に、ケイネスは雁夜の胸板に掌を当てる。接触部が魔力の燐光を帯び、雁夜の病的な喘鳴は徐々に落ち着いていった。

 

「治療魔術を……? なぜ……」

 

「間桐雁夜。こっちを見ろ。遠坂時臣ではなく(・・・・・・・・)私を見ろ(・・・・)



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第二十四局面

 苦悶の海の中で、「とおさかときおみ」というひとつながりの音が辛うじて意識を浮上させた。

 

 その存在への憎悪だけが、今や雁夜という人格を繋ぎ止め、形を保たせている全てであったから。

 

「……ギ……」

 

「聞こえているか? 聞こえているならこっちを見ろ」

 

 声に反応し、視線を向ける。金髪をオールバックにまとめた男がそこにいた。

 

 確か、そうだ、いままでこいつと戦っていたのだ。

 

「間桐雁夜。お前の経歴はすでに調べてある。魔道の家門に生まれながら魔道から背を向けた落伍者よ」

 

 歯が軋る。睨みつける。

 

「だったら……なんだというんだ……ッ!」

 

「お前が何を思い凡俗の道を選んだのかなどに興味はない。ただ、ひとつ確認をさせろ。――お前、根源に興味がないのだな?」

 

 根源。

 

 神秘学における第一要因(ト・ヘン)。あるいはアルケーとも呼ばれるもの。すべての始まりであり、それゆえにすべての終わりを計算できる場所。この世界の外に存在し、アカシックレコードを機能の一部として内包する「渦」。

 

 魔術師たちは皆、そこへ至ることを渇望している。

 

 雁夜にしてみれば、そんなことに何の意味があるのか、まったく意味不明であった。人として生きるということは、人を愛し、人から必要とされながら、限りある時間を噛みしめて過ごすということだ。

 

 世界の外にある訳の分からない場所に行き、全知を得るなどと、生きることへの逃避としか思えなかった。

 

「ない」

 

「では聖杯に何を望む」

 

「お前ら魔術師どもが始めたバカ騒ぎの景品なんかどうでもいい」

 

「ではなぜサーヴァントを従え、聖杯戦争に身を投じた」

 

「それをお前に説明して俺に何の得がある?」

 

「おやおや間桐雁夜。もっと理性でものを考えたまえ。私はお前がなぜそこまで魔道を憎むのかなど知らんし興味もないが、お前には利用価値を感じ始めているのだよ」

 

 治癒魔術を継続しながら、ケイネスは口の端を釣り上げた。

 

「お前を殺したのち腕を切断して令呪を奪うということも考えたが、それでは得られるものは令呪だけだ。だがもしも――」

 

「待てッ!」

 

 声を張り上げた雁夜に、ケイネスは怪訝そうな目を向けた。

 

「魔術師、お前が何を言いたいのかは察しがついたが、お断りだな。冗談じゃない。さっさと俺を殺すか、さもなくば失せろ!」

 

 焦燥感に突き動かされるまま、早口でそれだけを言う。

 

 ケイネスは目をすがめ、やがて立ち上がった。

 

「……なるほどな。交渉は決裂というわけだ。だがお前のバーサーカーに対して私のランサーはすこぶる宝具の相性が良いようだ。お前のことはこのまま泳がせ、用が済んだら消すとしよう」

 

 いささかわざとらしくそう言い残し、ケイネスは雁夜に背を向けて歩み始める。

 

「な、なら、決着の場は間桐家の前だ! そこで今度こそ叩き潰す!」

 

 貴公子は失笑を残し、去っていった。

 

 ●

 

《わ、我が主よ。今の会話は一体……》

 

 ディルムッドは、さすがにあれが己の主と間桐雁夜の本心からの会話でないことぐらいは察していた。

 

 雁夜が声を張り上げた瞬間から、どこがどうとも言えないが、何かがおかしかった。

 

「言ったろう。あの男の体に寄生する使い魔が魔術刻印の代わりを務めている、と。ではその使い魔の主は誰だと思う?」



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第二十五局面

 地上でケイネスが下水道から上がってくるのを待ち構えていた衛宮切嗣は、魔力の波が押し寄せる独特の肌感覚を感知した瞬間、その場を即座に移動することにした。

 

 ――存在を感づかれているな。少しあからさま過ぎたか。

 

 アサシンの不自然な撤退から、ケイネスは間桐雁夜でも遠坂時臣でもない第四者の介入を推測したのだろう。

 

 恐らく今のは魔力的なアクティブソナーだ。

 

 切嗣の魔術回路は不活性だったし、起源弾も魔力を通さない限りはただの物質と変わりはない。魔力の反響パターンからこちらの位置を看破するのは不可能だろう。

 

 ゆえに、今のは牽制と警告だ。「これ以上つまらん覗き見を続けるつもりならばまずお前から殺す」という。

 

 苦笑が漏れる。

 

 こんなことを言われては尾行を続ける以外にないではないか。これから見られては困るようなことをするという宣言に等しい。

 

 バーサーカーによる下水道の大規模な破壊は、凄まじい騒音を撒き散らし、周辺住民の通報を招いている。パトカーのサイレンが近づいてきた。野次馬や下水道局の車両も続々と集まってきている。

 

 バーサーカーが負傷して動けぬ以上、間桐雁夜を射殺する好機であったが、この状況では断念せざるを得ない。そもそも間桐雁夜自身、人の気配を聞きつけて移動してしまったことだろう。放っておいても魔力切れの自滅で脱落するであろう陣営のことはとりあえず脇に置いていい。

 

 それよりもランサー陣営だ。

 

 アブラコウモリの使い魔を放ってケイネスが乗り込んだタクシーを遠巻きに追跡させると、切嗣は路肩に停めてあったライトバンに乗り込んだ。

 

 ●

 

 間桐臓硯は、刻印虫によって掌握させた雁夜の視覚と聴覚を通じて、初戦の一部始終を観察していた。

 

「雁夜め、お情けで見逃してもらったか」

 

 くつくつと喉を鳴らす。

 

 自らの「孫」が今夜を生き延びたのは喜ばしいことだ。こんな早々に脱落されては楽しみ甲斐がない。死んだ人間はもはや苦しまぬ。

 

 さてどうやって雁夜を壊してくれようか。それとも今のところは飴を与えて延命させるべきか。

 

「悩む、悩むなァ、いったいどうすれば奴はもっと苦しむのやら」

 

 美酒は飲み干せばなくなってしまう。しかし味わわぬなどあり得ない。そのような妄りがましい葛藤に心を躍らせながら、五百年を生きた怪物は舌なめずりをする。

 

 雁夜の見ているものを盗み見た。

 

「――うン?」

 

 雁夜の視界には、妙な光景が広がっていた。

 

 羊皮紙が、広がっている。雁夜が自分の手で広げている。

 

 魔道を歩まぬ凡俗にはまるで意味不明な図版と記号の羅列にしか見えぬであろうが、もちろん臓硯にはたちどころにその文意が理解できた。

 

 ――自己強制証文(セルフギアス・スクロール)

 

 権謀術数の入り乱れる魔術師の社会において、決して違約しようのない取り決めを結ぶときのみに用いられる、もっとも容赦のない呪術契約のひとつ。

 

 ――何だ? いつの間にそんなものを?

 

 震える手でペンを握る雁夜が、証文に己の名をサインする。

 

 その瞬間、呪戒が効力を発動し、自己強制証文(セルフギアス・スクロール)に書かれた二名の魂を永遠に拘束した。

 

「――やはり、痛覚は共有していなかったようだな、吸血鬼よ」

 

 何の前触れもなく自室に響いたその声に、臓硯は反応し損ねた。



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第二十六局面

「なに、なッ……なぜ? いや、どうやって!?」

 

 振り返ったその先にいたのは、金髪を後ろに撫でつけた貴公子然とした青年。ケイネス・エルメロイ・アーチボルト。

 

 そして彼が召喚したと思しき仮面のサーヴァント。女受けのよさそうな甘い艶貌に、まっすぐとした怒りの感情を露わにしている。

 

 その腕には、蟲蔵に放り込んでおいたはずの少女が抱かれていた。間桐桜。次の聖杯戦争で確実な勝利を得られるマスターを産ませるために確保しておいた孕み袋。

 

 引き裂かれたカーテンで小さな体を包み込まれ、茫洋とした眼のまま特に何の感情も伺えない。

 

「この――この外道め」

 

 片手に握られた紅と黄の魔槍が打ち振るわれ、諸共に切っ先をこちらに向けた。

 

「このような幼子に対しなんと惨い仕打ちを……いったい貴様はなん――」

 

「黙れランサー。そんなことはどうでも良い」

 

 こつこつと乾いた足音とともに、ケイネスが歩み寄ってくる。

 

「どうやって、という問いの答えは単純だ。魔術的な結界や警報など私のランサーの前では無いも同然なのでね。〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉で一時的に無効化している間に間桐の屋敷の防衛システムはすべてハッキングさせてもらった。お前はもうどこにも行けない」

 

「な、なん――」

 

「なぜ、という問いに応えるのはさらに簡単だ。今も見えているのだろう? 雁夜の視界に映っているものをよく御覧じろ」

 

 臓硯は慌てて自己強制証文(セルフギアス・スクロール)の文面を穴が開くほど睨みつける。

 

 

 

 

 拘束術式:対象――間桐雁夜

 間桐の刻印虫が命ず:下記条件の成就を前提とし:誓約は戒律となりて例外なく対象を縛るもの也:

 :誓約:

 間桐家五代目当主、鶴野の弟たる雁夜に対し、取りうるすべての手段をもってケイネス・エルメロイ・アーチボルトの聖杯獲得に協力することを強制する

 :条件:

 間桐桜が間桐臓硯の庇護下を永久的に離れ、二度と臓硯の命令や意向に従う必要のない状況が成立すること。「永久的」か否かの判断は、間桐雁夜に一任される

 

 

 

 

「な――ッ!」

 

 ハリエニシダの燃え盛る花のように鮮やかな金糸雀色の閃光が、臓硯の片腕を吹き飛ばした。

 

「そういうことだ。覚悟を決めろ、外道」

 

 無論、即座に再生が始ま――始まらない?

 

「回復阻害だと……」

 

 いや、それ自体は別段脅威ではない。臓硯の肉体は無数の蟲の集合体によって編まれたものだ。再生しなかったところで何ら致命的な事態ではない。より深刻な問題なのは、己の身を分解して蟲に戻し、散開するということがどういうわけかできなくなっている点である。

 

 現状、臓硯を構成する蟲に「本体」と「端末」の区別はない。すべての個体が等価の存在として、相互的な魔力の流れによるニューラルネットワークを形成し、魂を納める座として機能している。特定の弱点部位を作らなかったのは、危機管理の上で当然の判断であったが、今回ばかりはそれが裏目に出た。

 

 いわば神格の手による概念武装とも言える〈必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)〉は、「対象が負傷したままの状態で固定化する」という絶対的ルールを押し付ける存在ともいえる。

 

 バラバラに散開してしまえば負傷がなかったことになってしまう以上、そのような行いはルール上不可能になってしまうのだ。

 

 臓硯は将来的に、自らの知性と記憶と魂のすべてを一匹の親指大の蟲に押し込め、他人の心臓に寄生することによって延命しようという計画を温めてはいた。この状態であれば、「端末」の蟲は「臓硯の肉体」ではなくなり、散開による逃亡も可能であっただろうが――現状は寄生先を探している段階であり、実行には移していなかったのだ。

 

 もっとも、仮に散開が可能だったとしても、間桐邸の防衛システムは「神童」ロード・エルメロイの手によって解析され、乗っ取られ、機能を反転させられ、「臓硯を守る防壁」から「臓硯を閉じ込める檻」に変わっていた。どのみち逃げ場などなかったのだった。



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第二十七局面

 ――刻印虫どもによって肉体を食い散らかされるという、言語に絶する苦悶を一年以上耐えてきた間桐雁夜にとって、スズメに背筋を啄まれる(・・・・・・・・・・・)程度の痛みなどまったく眉一つ動かすに値しない些事である。

 

 おかげで背中は血だらけとなったが、必要にして有意義な情報交換を行えた。

 

 この身にひしめく刻印虫どもを通じて雁夜の肉体を掌握している臓硯は、当然ながら雁夜の視覚や聴覚などを好きな時にジャックできる。

 

 しかし、ほぼ間違いなく痛覚は共有していないであろうということは推測できた。雁夜と同じ痛みまで味わおうなどという殊勝な心根が、あの妖怪にひとかけらでもあるとは思えなかったから。

 

 ゆえに、意志の疎通は痛覚刺激によるモールス信号という形で成された。雁夜の生業は海外でのルポライターである。英国人のケイネスと筆談を行うことに問題はない。

 

 背後の床に置いた紙に伝えたいことを筆記せねばならないので最初は難儀したものの、おかげで臓硯の警戒を一切呼ばずにことを起こせた。

 

 片脚を引きずりながら、雁夜は間桐邸に戻る。それだけでも二時間ほどかかってしまった。バーサーカーが回復のために吸い上げる魔力を捻出しようと、刻印虫どもは雁夜を痛めつけるのに余念がない。

 

 ケイネスのスズメの使い魔はどこかに行ってしまった。果たして首尾よくいったのか。

 

 重圧感のある玄関を引き開けようと手を伸ばすと、内側から開かれた。

 

「間桐雁夜どの。お待ちしておりました。我が主もあなたとの会談を望んでおられます」

 

 目元だけを覆う仮面をつけた眉目秀麗なサーヴァントが、雁夜を出迎えた。

 

 ●

 

「はは、はははははっ! 臓硯、臓硯、なぁオイ、「お父さん」? なんてザマだ。ひひ、はははははっ!」

 

「雁夜、貴様……」

 

 そこに広がっていたのは、臓硯への憎悪と嫌悪と恐怖を抱いてきた雁夜が心ひそかに望んできた――否、それ以上の光景だった。

 

 矮躯の老人は、異様な精気の宿る相貌を憎々し気に歪めている。

 

 だが、その四肢は根元から切断されていた。矮躯の達磨じみた姿に、雁夜は自分の喉から後から後から哄笑がひり出てきて止まらなかった。

 

「こんなことをして、ただで済むと思っているのか。貴様にチャンスを与えてやったというに……!」

 

 その顔面に拳を叩き込んだ。

 

 今の膂力では、歯を折ることも出血させることもできなかったが、ともかく一発だ。

 

「――俺はお前とは違う。俺が無意味にお前を痛めつけるのは今のが最後だ。この身は薄汚い間桐の血肉でできているが、魂までお前らのレベルに合わせる気はない。お前はそこで転がっているだけの置物として生かしておいてやる。ふひひ、ははははっ! 無様だなァ、クソジジイ! お前の成してきたことに比べればずいぶん慈悲深い末路じゃないか!」

 

 間桐桜はその様を、茫洋たる瞳で見つめている。いまだにこの状況への理解の色はない。ただ、見ている。今まで恐怖と苦痛の根源でしかなかった存在の、無力な醜態を。

 

 くすり、と。

 

 十にも満たぬ幼児には似つかわしくない、嫣然たる微笑が一瞬浮かび上がったが、すぐにまた混濁した無表情の中に沈んでいった。

 

 間桐家の心温まる団欒風景を尻目に、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは読んでいた魔導書をぱたんと閉じた。

 

「――気は済んだか? 貴様ら。さっさと契約について詰めた話をしたいのだがな」



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第二十八局面

「あぁ、そうだったな。すまない。もちろん契約を違える気はないよ」

 

「小童どもがッ! 貴様らがごとき浅知恵でこの聖杯戦争を――」

 

「では雁夜、お前のバーサーカーの真名と能力の詳細を語ってもらう」

 

「はん! 雁夜ごときにランスロットを御せるわけがなかろうよ! さっさと刻印虫に食い殺されるがいいわ!」

 

能力値(パラメータ)は軒並みAランク以上。宝具は、まず手に触れた武器を己の宝具に変える〈騎士は徒手にて死せず(ナイト・オブ・オーナー)〉。自らの正体を幻惑し、敵マスターにステータスを看破されなくなる〈己が栄光の為でなく(フォー・サムワン・グローリー)〉。そしてランスロットのすべての能力値をワンランク上げ、竜殺しの属性を帯びる魔剣〈無毀なる湖光(アロンダイト)〉」

 

「その、最後の宝具は、」

 

「お前たちとの戦いでは使っていない。というより、魔力消費が重すぎて使えなかったと言うべきだな。もし使えば、俺は多分、ものの数分で死ぬことになる」

 

「使えばそこのランサーには少なくとも勝てたかもしれんのになァ! この愚鈍がッ! おおかた怖気づいたのであろう? そんな半端な覚悟で桜を救うつもりだったとは――」

 

「ランサー」

 

「は」

 

「間桐臓硯の舌を剪伐しろ」

 

「わ、我が主よ……あの、それは、〈必滅の黄薔薇(ゲイ・ボゥ)〉で、ということでしょうか?」

 

「当然だろう」

 

「桜ちゃん! ちょっと他の部屋に行こうか!」

 

「せんばつ、ってなに…?」

 

「なんだろうね! 全然わからないね!」

 

 ●

 

「……これ以上、あの子に惨たらしい場面など見せたくないんだ。もう少し配慮してくれないか」

 

「配慮などお前がしろ。あの子供の情操教育に関して私が行動に制限を受ける謂れなどない」

 

 雁夜とランサーは同時に呻いた。

 

 互いに目を合わせ、幾許かの共感を交換する。

 

「それで、なんでいきなりこいつを黙らせたりしたんだ」

 

 足元に転がり、血塗れの口で言語にならない呻きを上げるばかりの存在となった臓硯を、爪先でつつく。

 

「拷問すれば何か聖杯戦争について有益な情報でも吐いたかもしれないだろうに」

 

「魔術師を凡俗と一緒に考えないほうが良い。時間の無駄だ。それよりも、リスクを最小化するためにいかなる呪文も唱えられないようにしておくべきだろう。そして雁夜――」

 

 ケイネスの傍らに、陰鬱な室内を映し出す流体金属の塊が蠢き始めた。

 

「バーサーカーの実体化は行えるか?」

 

「出るだけならどうにか。だが何もできないぞ?」

 

「構わん。出せ。それからランサー、部屋の家具を脇に寄せろ」

 

「は……? はい」

 

 ランサーの怪力によって、あっという間に応接間を形作っていたソファとテーブルは壁際に立てかけられた。

 

 こつこつ、と乾いた足音とともに、ケイネスは広くなった部屋の中央に立った。

 

Rituale(儀式) Instruere(展開)

 

 瞬間、銀の流体が瞬時に変形し、無数の細い触手と化して床を這いまわる。

 

「……魔法陣?」

 

 見習い程度の知識しかない雁夜だが、そのとき展開された銀色にゆらめく図章と秘文字の集合物が、サーヴァント召喚に使用するものと少し似ていることに気づく。

 

 だが、決定的なところでまったく違う。いったいどういう機能を有する駆式なのか。



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第二十九局面

「素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公――」

 

 異様な祭礼が、始まっていた。

 

 床で蠢く水銀は、〈消去〉の中に〈退去〉の陣が四つ刻まれた、サーヴァント召喚駆式を思わせる構造を形作っている。

 

 だが、外周部分が異なる。そこにあったのは〈召喚〉の陣ではなく、何かもっと別の紋様だ。

 

「降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」

 

 ひとつの大きな魔法円を三等分する位置に、小さな魔法円が三つ刻まれている。

 

 それら三つの中には、三つの影。

 

 ひとつには間桐雁夜が立っている。

 

 ひとつにはランスロットが片膝をついて蹲っている。

 

 ひとつには両手足と舌を切断された間桐臓硯が転がっている。

 

 魔法陣の中央では、一連の祭祀を務めるケイネスが朗々と詠唱を続けていた。

 

 

閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」

 

 雁夜とランスロットは無言。しわぶきひとつ立てずに、儀式の進行を見守っている。

 

 いっぽう臓硯は、言葉にならぬ呻きを上げながら芋虫めいた身をよじり、なんとか魔法円から這い出ようと足掻いている。が、古代の神秘を宿す長大な紅槍によって床に縫い留められ、その場を動くことができない。

 

「――告げる」

 

 ケイネスの詠唱を引き継いで、雁夜が口を開いた。

 

「汝の身は我が大師マキリ・ゾォルケンに、我が命運は汝の剣に。聖杯のよるべに従い、この意、この理に従うのなら、我に従え! ならばこの命運、汝が狂乱に預けよう!」

 

 雁夜の手の甲にある令呪が、ぼんやりとした光を帯びる。

 

 雁夜、臓硯、ランスロットを結ぶ正三角形が魔力を励起させ、祭祀たるケイネスの精妙な出力調整のもと、契約の根本を書き換える。

 

「誓いを此処に! 我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、新たなる契約を容れよ、天秤の守り手よ―――!」

 

 正三角形が激烈な光を発し、応接間を白く染め上げた。

 

 ――月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)は、本来の用途は「演算機械」である。

 

 戦闘に活用できなくもないが、それはおまけのようなもの。ロード・エルメロイの入神の流体制御によって、水銀元素のひとつひとつが演算子として奔放に振る舞い、量子的なもつれや重ね合わせの状態から高度な計算を瞬時に成すことができる。

 

 本来、この変則契約術式は征服王イスカンダルを召喚したときのために用意していたものだ。契約のパスを分割して、令呪の行使と魔力の供給をそれぞれ別の人物に担わせる裏技。

 

 無闇に行動力のある生徒によって、本来の目論見は破綻したが、よもやこんなところで役に立つとは。

 

 光が収まった時、儀式の参加者は四人とも以前と変わらぬ位置に佇んでいた。

 

 しかし、雁夜の相貌には明らかに血の気が戻り始めている。

 

 ランスロットの現界を維持するための重い魔力消費が、そっくりそのまま臓硯へと押し付けられたためだ。

 

「……成功、か」

 

「お、おぉ……」



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第三十局面

 破竹の勢いでバーサーカー陣営を軍門に下し、御三家の一角である間桐家を崩壊させ、ランスロットという強烈な手駒を増やしたケイネス・エルメロイ・アーチボルト。

 

 さらにはランスロットの唯一の懸念事項であった燃費問題すら一定の解決を見たことで、緒戦はまずこれ以上ない上首尾で終えられた――

 

 ――などとは一切考えていなかった。

 

 未だに姿を見せぬ「監視者」に対する脅威度判定が、彼の脳内で着々と順位を上げつつあった。

 

 徹底的に位置を悟らせず、こちらの動向を注視して情報を抜き続けているこの存在をこれ以上看過しておくことは、聖杯戦争を進めるうえで重大なリスクとなる。

 

 そう確信したケイネスは、一計を案じることにした。

 

 ●

 

「どうか、どうかお考え直しを! あまりにも危険すぎます!」

 

「お前は私に求められた時だけ意見を言えばいい。今はそうではない」

 

「ではせめて理由をお聞かせ願いたい!」

 

 ディルムッドは必死だった。主の語った今後の予定が、どう考えても自殺行為にしか思えなかったから。

 

 だが、同時に胸のどこかで諦めてもいた。ケイネスどのは自分の諫言で意志を引っ込めるような御方ではない。

 

「良かろう、説明してやる」

 

 そんな意外な言葉が帰ってきたとき、ディルムッドはなんとなくケイネス・エルメロイ・アーチボルトの奇妙な性質の一端を理解した気がした。

 

「姿を見せぬ「監視者」は己の領分を完全に弁えている。決して自らの居場所を明かさず、サーヴァントには手向かわない。そして私は際限なく情報を抜かれ続け、「監視者」と同じ陣営のサーヴァントに対して著しい戦術不利を被ることになる」

 

 聖杯戦争において、サーヴァントの強弱よりも、情報戦の成否こそがより重要であるという理屈は、ディルムッドもなんとか理解できた。

 

 その種の駆け引きに、生前の主フィン・マックールはすこぶる長けていたから。彼の偉大な背中を見守り続けたディルムッドにも、情報というものが持つ恐るべき価値を朧げに飲み込むことはできた。

 

「だが奴は決して私の前に姿を現わすことはあるまい。ランサー。()()()()()()()()()()()()

 

 つまるところ、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは傲岸で冷酷な男だが、教えを請われるとどういうわけか普段の合理的思考を捨ててまで難解な諸々の事情をわかりやすく嚙み砕いて説明してしまうという、奇妙な(サガ)を抱えているのだ。

 

 もはや魂のレベルで「講師」なのである。

 

「単独行動の理由はあとふたつある。ひとつ目はバーサーカーがいまだ戦闘可能な状態ではないため、お前が私についてくると雁夜と臓硯を守る戦力がいなくなるということ。せっかくの手駒を無為に失うのはさすがに惜しい。ふたつ目は、お前が粗製乱造した使い魔どものもたらした情報を、いまだにすべては確認し切っていないということ」

 

 ハツカネズミの使い魔たちが「帰ってこなかった」位置座標に対する徹底調査。たしかに初手でバーサーカーを引いてしまったためにすっかり忘れていたが、他にも聖杯戦争関係者の存在を示唆する欠落情報はあった。

 

「情報は水物だ。昨日まで真実であっても、次の日にはそうではなくなるかも知れない。可及的速やかにすべての敵陣営の位置情報を確かなものとすべきだ。理解できたか? 何か質問は?」

 

 ディルムッドには、反論の言葉がどうしても思いつかなかった。



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第三十一局面

「何かあればすぐに令呪でお呼びください。合意のもとであれば空間転移を行うことも可能でしょう」

 

 言わずもがな当たり前のことをくどくどと念押ししてくる従僕には答えず、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは単独での偵察行に乗り出したのであった。

 

 少なくとも、乗り出そうとした。

 

「未遠川の中ほどまで行ってもらう」

 

 間桐家の前で待たせていたタクシーの運転手にそう告げる。

 

 すぐに発車した。

 

 穏やかなエンジン音とともに、冬木の夜景が流れてゆく。

 

 思わず鼻を鳴らした。何度見ても、実に下らん国だ。予備知識なしに景色だけをどれほど眺めても、どこの国の何という町なのか一向に判然としないことだろう。自らの固有の文化に対する誇りを持ち合わせていないと見える。

 

 西洋列強の猿真似をするのは構わんが、それを自らの風俗と掛け合わせて独自のものに昇華するということができていない。劣化コピーにしかなっていない。

 

 ――好かんな、この国は。

 

 やがて、タクシーは滑らかに停車した。

 

「お客さん、川につきましたが」

 

「……もう少し下流へ向かえ」

 

「構いませんが、いったい未遠川になにをしに?」

 

「お前にはまったく関係のないことだ」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ケイネスは即座に月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)の槍を伸長し、背後から運転手を刺し貫こうとした。

 

 が、果たせなかった。

 

 同時に窓ガラスを砕き散らしながら殺到して来た無数の銃弾に反応し、水銀の流体は攻撃よりも主の保護を優先。球殻状の防護膜を展開してあらゆる致命的な衝撃からケイネスを守り切り――そして視界を塞いだ。

 

 直後に自らの胸元へと突き付けられた無慈悲な銃口に、だからケイネスは反応が遅れた。

 

 月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)の原動力は「圧力」だ。高い圧力をかけることで、常人には視認不可能の斬撃を繰り出せる。しかし、そのためにはある程度の体積が必要になる。広く薄く伸びた状態から、即座に攻撃には転じられない。

 

 その隙を、完璧に突かれた。

 

 つまり、心臓へぴたりと銃を突き付けてくるこの男は、今までの自分の行動を子細に観察し続けてきた者に他ならない。

 

 男がゆっくりと制帽を脱いだ。ぼさぼさの髪の狭間から、光沢のない奈落のごとき瞳が覗く。

 

「「監視者」は……貴様だったのか、衛宮切嗣……ッ」

 

 その顔容は、間諜に調べさせた魔術傭兵の顔写真と酷似していた。

 

 つまり、なんだ? 最初から運転手と入れ替わっていたということは、ケイネスが単独行動することも読んでいたと?

 

 殺すということについて発揮される、異常極まる嗅覚。

 

 してみると、さきほど横合いから銃撃してきたのは、衛宮切嗣に付き従う娘か。名前は――確か久宇舞弥と言っただろうか。どうせ偽名だろうが。

 

「舞弥。それ以上近づかなくていい。流体礼装の射程外から警戒を続けろ」

 

 切嗣は、鎖骨あたりに固定されたインカムに向けて言う。すでに正体を隠す気はないようだ。

 

 これでケイネスの取れる選択肢はさらに狭まった。令呪でランサーを空間転移させるよりも、この男が引き金を引く方がどう考えても早い。

 

「……どうした。なぜ撃たん」

 

「スズメの使い魔に、僕と舞弥のどちらを攻撃させるべきか迷っている――と言ったところかな」

 

 ケイネスは、眉目を険しくした。



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第三十二局面

 ケイネスの胸元にコンテンダー・カスタムの銃口を突き付けていながら、即座に発砲しなかったことには理由がある。

 

 衛宮切嗣は、すでに未遠川の水質調査を行い、キャスターの潜伏場所を特定していた。

 

 時間的余裕はなかったので、その風体を使い魔ごしに視認するだけに留まり、いまだマスターの姿は確認できていないが、ともかく切嗣はすでにキャスターの喉元に手を掛けたと言ってよい状況であった。

 

 〈魔術師殺し〉としての本領――起源弾は、相手が強力な魔術師であるほど凄まじい威力を発揮する。

 

 すなわちキャスターだけは、わざわざマスター殺しなどという迂遠なことをせずとも、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 とはいえただそれだけの根拠でキャスターへ襲撃をかけるつもりもなかった。いかなるスキル、いかなる宝具を持ち、どのような搦め手で根拠地を守っているか知れたものではない。

 

 最低限、起源弾の必中を見込める距離にまで確実に間合いを詰めるだけの材料が必要であった。

 

 合理主義の化身とも言える切嗣にしては奇妙なことに、自らのサーヴァントである〈騎士王アルトリア〉の力を借りようなどとは考えなかった。選択肢の一つとして考慮することすらなかった。

 

 騎士道という名の流血賛美思想などひとかけらも理解できないし、したいとも思わない。

 

 それに比べれば、目の前の酷薄な男の行動原理はよほどわかりやすく、「信用」に値する。

 

 交渉の行方如何によっては、この男をキャスター討伐プランに利用することも視野に入れていた。

 

 同時に、より差し迫った理由もあった。

 

「……よくやった、雁夜。命を助けられたな」

 

 切嗣は、自らの肩にひとかかえほどのサイズの生物がとまり、喉元に鋭利な器官を突き付けているのを感じていた。

 

《まったく、無茶をする……! 死んでいてもおかしくなかったんだぞ!》

 

 

 鋭く目をすがめる。キチキチという生理的嫌悪感を覚える鳴き声とともに、恐らく翅同士を擦り合わせて遠方の主人の声を届けてきていた。

 

「いったいなぜ私が供も連れずに行動していると思っていた? 衛宮切嗣、お前をおびき出すためだ」

 

「勝ち誇るには少々足りない状況だと思うがね、ロード・エルメロイ。間桐の翅刃蟲が僕の喉を裂いたところで即死はない。人体に対する理解が足りないよ。どう転んでもお前は死ぬし、僕はかなりの確率で治癒魔術が間に合う。悪くない条件だ」

 

 使い魔ごしに、間桐雁夜が息を呑む気配が伝わってきた。

 

「おやおや、まさかこのご大層な花火を派手に撃ち放ってキャスターに感づかれる危険を冒すつもりかね? 名にし負う〈魔術師殺し〉がそんなリスクジャンキーだったとは驚きだ」

 

 殺意の込もった眼光を交わし合う。

 

 あまりにも微妙な判断を要する状況だった。離れた場所に待機させている舞弥の射撃によって、ケイネス自身の攻撃は封殺できる。

 

 しかしそうすればスズメの使い魔が舞弥の正確な位置を特定し、抹殺に向かうだろう。遮蔽物の多い市街戦でどちらが勝つかはなんとも言えない。

 

 この二要素を度外視すれば、完全な即死が見込める自分の方がやや有利ともいえるが、本格的な戦闘が始まればキャスターに感づかれるし、わずかでも隙を見せればケイネスは令呪でランサーを呼ぶだろう。

 

 煮詰まり過ぎている。



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第三十三局面

 切嗣は心中でかぶりを振る。

 

 ――意地を張るべきではないな。

 

 ケイネスが令呪によるランサー召喚を切り札として持っているならば、こちらにもまったく同様の切り札があることを知らしめれば、抑止効果は期待できるだろう。

 

 切嗣はコンテンダー・カスタムを持たない方の腕を持ち上げ、手の甲をケイネスに晒した。

 

「……ッ! 貴様もマスターだったか……!」

 

「手向かったところで一矢も報いることはできないという現状は理解したかい? とはいえ僕としてもこんな序盤で令呪を削るのは面白くない。そこで提案だ」

 

 令呪の宿った手を懐に突っ込み、羊皮紙を取り出す。

 

 白紙の自己強制証文(セルフギアス・スクロール)だ。

 

「キャスターを撃破するまで、お互いに危害を加えない――そういう戒律を書いてもらおうか。少しでも妙な真似をしたり、異なる言い回しを書いたりしたら、この引き金を引く」

 

 自分の膝にふわりと舞い降りた羊皮紙の魔術証文を、ケイネスはしげしげと眺める。

 

「……そう書けば、この銃を引っ込めると?」

 

「ああ」

 

「そしてキャスター撃破までは同盟を組む、と?」

 

「そうなるな」

 

「なるほどな……」

 

 それだけを確認すると、ケイネスは切嗣の差し出すペンを受け取った。

 

 ――その瞬間、切嗣は極めて異様な事態に気づく。

 

 ケイネスの手の甲には、自分と同じく令呪が息づいていた。

 

 しかし奇妙なことに、たった二画(・・)しかそこにはなかったのだ。

 

 思わず眉をひそめた。ケイネスの監視をしはじめてから今まで、令呪を使わなければならないような事態などなかったはずだ。

 

 ではこの男は、いったいいつ、どんな目的で令呪を使った?

 

「さて、提案の答えだが――お断りだ(・・・・)卑しい魔術使い風情が(・・・・・・・・・・)

 

 急激な慣性が全身を襲った。

 

 どういうわけかタクシーが急に発車したのだ。それが流体礼装の触手を密かに伸ばしてアクセルを押したせいであることに気づくと同時に、切嗣は容赦なく発砲。

 

 しかし急加速のタイミングとベクトルをあらかじめ知っていたケイネスはすでに射線からずれたところにいた。後部シートのウレタンスポンジが爆裂し、舞い散る。しかし10グラムの鉛玉を超音速で飛ばす圧力の衝撃波が銃声という形をとって襲い掛かり、ケイネスの両耳から血が噴き出た。

 

Scalp()!」

 

 銀閃がタクシーの内装を斬割。運転席のシートに、直線状の切れ込みが刻まれる。それが重力で倒れるより前に、次なる不条理が発動した。

 

Time alter(固有時制御) Triple accel(三倍速)!」

 

 跳躍。流体礼装の斬撃を飛び越す。動きに遅れたコートの裾が切り落とされる。

 

 主観において三分の一に鈍麻した時間の中で、切嗣はトンプソン・コンテンダーの薬室のロックを解除し、銃身をがくりと前に折り曲げる。排出された薬莢と入れ替えるように.30-06スプリングフィールド弾を叩き込み、手首のスナップを効かせて薬室を閉鎖。

 

 客観時間において実に0.3秒足らずで再装填を終わらせ、空中にいる間に第二撃を発砲。全盛期の冴えを完全に取り戻した超絶技巧だ。

 

 流体礼装はたった今攻撃動作を終えたばかりだ。仮に防御が間に合っても、トンプソン・コンテンダーの埒外の貫通力を防ぎ切る防御術式など、この一瞬で組めるはずがない。

 

 とはいえ不安定な姿勢からの変則射撃だ。これで殺せるなどとは思っていない。体のどこかに当たって負傷させられればそれでよし。

 

 ……だが、この一射は、切嗣自身の期待を遥かに超える戦果を叩き出した。



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第三十四局面

 腹の底に響く銃声。

 

 ロード・エルメロイの苦悶の声が上がった。

 

《ケイネスッ!》

 

 直後に飛翔してきた翅刃虫が、腹部の先端にある斬撃器官を突き刺してきた。咄嗟に顔面を庇った前腕を貫き、目の前で切っ先が止まる。

 

 トンプソン・コンテンダーの反動(キック)に逆らわず、割れた窓から外へと飛び出す。あの銀の流体を前に、いつまでも超至近戦など続けるのは自殺行為だ。

 

 アスファルトを転がって衝撃を逃がし、跳ね起きた。

 

 タクシーはそのまま速度を上げ続け、あっという間に遠ざかってゆく。

 

 ケイネスは撤退するつもりだろう。当然の判断だ。トンプソン・コンテンダーの咆哮が轟き渡って、キャスターに気づかれなかったわけがない。

 

 片腕を貫かれている状態では、ワルサーWA2000セミオートマチックによる狙撃も難しい。即座の追撃は諦めるほかない。

 

 だが、まぁいい。十分な戦果はあった。逃がしたのは悔やまれるが、敵に回復不可能な損害(・・・・・・・・)を一方的に与えたのだから今日のところは満足すべきだろう。

 

 無造作にコンテンダーをホルスターに収めると、前腕でキチキチと蠢いている翅刃虫を見やる。

 

 いかに間桐の神秘の産物とはいえ、昆虫には違いない。おもむろに抜き放ったグロック・フィールドナイフが、胸腹部神経節を正確に貫通した。びくんと節足たちが痙攣し、動かなくなる。

 

 無線機に口を近づける。トンプソン・コンテンダーの発砲時には抜かりなく口を開け、鼓膜の内外の気圧差を発生させなかった。耳鳴りはするが、会話はどうにか支障はない。

 

「舞弥。僕たちも撤退だ」

 

『……はい。迎えに行きます』

 

 ●

 

「お、おのれ……ッ!」

 

 ケイネスは、この戦いで初めて想定外の損害を被った。

 

 脂汗を垂らし、歯を食いしばりながら負傷箇所を確認する。

 

 手の甲に大穴が開き、裂けた血肉と砕けた中手骨が花開き、見るも無残な様相を呈していた。現代医療では、もはやこの手をまともに動かせる状態まで回復させることは不可能だろう。

 

 だがそんな些末事よりも重大なダメージがあった。

 

 令呪が一画ほど、物理的に潰されてしまったのだ。残りはあと一画しかない。

 

 月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)が蠢いて負傷箇所を覆い尽くし、止血した。水銀は分子単位でケイネスの制御下にあるので、水銀中毒のリスクは無視して良い。

 

 ぎりりと歯が軋る。

 

 やはりこの単独行は軽率だったか? 否、絶対に必要なことだった。こうでもしなければ衛宮切嗣をおびき出すことは不可能だった。

 

「ふ、ふ……くくく……」

 

 痙攣する口元を強引に笑みの形に歪めた。

 

 衛宮切嗣の危険性は、もはや語るまでもなく明らかだ。だがケイネスは、ある意味においてその生殺与奪権を握る重要な伏線を、今回の攻防で根付かせることに成功した。

 

「く、くくく……ッ、私を殺し損ね、令呪を二画も削っていった代価は高くつくぞ〈魔術師殺し〉……ッ!!」

 

 ボンネットより上の部分が自らの礼装によって斬り飛ばされており、風が激しく吹き込んでくる。脂汗に濡れた顔を冷たく嬲った。

 

 日の出はいまだ先。しかし東の空には払暁の色彩が切なくなるようなグラデーションを描き始めている。

 

 これより起こる凄惨な殺し合いの運命を知らぬかのように、その美しい光景は、すべての冬木市民のもとへと平等に降り注いでいた。

 

 第四次聖杯戦争一日目、終了――



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第三十五局面

 ――「舞弥。それ以上近づかなくていい。流体礼装の射程外から警戒を続けろ」。

 

 この言葉を聞いた瞬間に、ぴんときた。

 

 ゆえにケイネスは、この瞬間に令呪を一画使っていたのだ。

 

 衛宮切嗣に勝つために。勝つ以上のことをするために。

 

 ●

 

 唐突な召喚に、ディルムッドは狼狽した。

 

 契約のパスで繋がれた主が重傷を負ったという感覚はない。

 

 しかしわざわざ令呪を一画使ってまで呼びつけてきたのだから、一刻を争う状況であるに違いない。

 

 そう思い定め――しかし召喚後の光景を見たときには不可解さに眉をひそめた。

 

 そこにケイネスの姿はなく、夜闇に沈む住宅街だけがあった。街路灯の光照らされて、道路や塀が断続的に浮かび上がっている。

 

〈我が主よ、下知に従い罷り越しましたが、いったいここは――〉

 

〈お前を臣下として信頼する最後のテストだ〉

 

 即座に返ってきた念話による応えに、息を呑む。

 

 その思念は硬く尖り、今この瞬間に主が極限の緊張状態にあることが伝わってきた。

 

 生きるか死ぬかの瀬戸際にあるということが、はっきりわかった。

 

〈私は未遠川のほとりにいる。そこを監視できる場所に「監視者」の手勢が潜んでいるはずだ。探し出せ。そして見つけた後の処遇については、お前の判断に任せる。騎士道とやらは脇に置き、私の利益に最も叶う行いをしろ〉

 

〈――了解しました、我が主よ〉

 

 ディルムッドは即座に跳躍し、住宅の屋根の上に降り立った。二槍を用いた高跳びで、城壁すら跳び越したこともある。この程度は造作もない。

 

 ――いた。

 

 川のそばの道路にタクシーが止まっている。低い唸りを上げており、中に二つの人影があった。他に人のいそうな気配などない。あそこに主はいる。

 

 タクシーを監視できる場所……ざっと見回した限りでは誰もいない。アーチャークラスの英霊ならいざ知らず、自分はそこまで超越的な視力は持っていない。もしも住宅の中に侵入して潜伏しているとしたらかなり厄介だ。

 

 いや――

 

 仮に不法侵入しているのなら、そこまでどうやって来たのか? まさか歩いて来たとでも? この時代の乗り物――あの奇妙な自動車というやつを使ったのではないか?

 

 目にもあやな壮麗さを誇る宮殿や屋敷を住まいにしていた自分からすると、この国の住宅事情はほとんど冗談としか思えないほど狭い。

 

 その敷地に、想定外の自動車を停めておける余地などないのだ。

 

 ならば――

 

 道路に目を走らせる。

 

「見つけた」

 

 路肩に一台。タクシーとは異なり、後部が凹んでいない形状の自動車がある。夜中に来客などあるはずもなく、まずあれと見て間違いなかろう。

 

 即座に霊体化し、不審車のそばの住宅に侵入。

 

 寝静まっている家人らに黙礼で謝意を示しながら、未遠川に面した窓を探す。

 

 あった。そして……いた。

 

 窓から差し込む月明かりに照らされて、その女は切れ長の眼差しを階下のタクシーに向けていた。

 

 色白の端正な美人だが、唇に紅も引いてはおらず、およそ自らを飾るという思考が欠如した佇まいだった。ただそうしたほうが目立たず済むというだけの理由で身を整えている。徹底的に目的への合理だけがある。

 

 切っ先にも似た温度を感じさせない眼差しは、どのような色事師も声をかけるのを諦めさせるだけの冷淡さを湛えていた。



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第三十六局面

 ディルムッドは、実体化した。

 

 即座に女はこちらの気配を察し、小銃の筒先をこちらに向けた。意を発さぬ無拍子の所作。積み上げられてきた鍛錬のほどを感じとり、ディルムッドは目を細めた。

 

 こちらに気づき、振り向き、照準し、引き金を引くまでに0.2秒。ディルムッドにしてみれば充分に余裕をもって対処できる時間だった。

 

 音もなく、空気を動かすこともなく、ふわりと間合いを詰める。黒い銃口を掴み、上にそらす。逆の手で自分の唇に人差し指を当てた。

 

「静かに。この家の者らを起こすのは忍びない」

 

 彼女の対応は素早く、的確だった。ナイフを抜き放ち、ディルムッドに斬りかかるのではなく自らの頸動脈を斬り裂こうとしたのだ。

 

 即座にナイフを握る手を掴み、自殺を阻止。

 

 ディルムッドは、密かに胸を痛めた。騎士たる己にとって女性は敬意の対象であると同時に、庇護すべき者だ。このような娘が、極限状況で自殺こそが最善手と僅かなタイムラグもなく決断し、実行に移す。彼女にそこまでの覚悟を強いた生まれ、境遇、生活、因果のすべてが悲しかった。

 

 だが、おそらく哀れみは彼女を救わない。ディルムッドは努めて内心を押し殺し、不敵な笑みを頬に刻んだ。

 

「手向かっても無駄なことは弁えているようだな」

 

 女は、氷の刃でももう少し温かみがあるであろう眼差しでこちらを見ている。その頭の中では、どうやってこの窮地を脱するか、あるいはどうやって自殺するか、何か状況に変化を起こせる要素はないかと思考が高速回転し、あらゆる気配に鋭敏になっていることであろう。

 

 その手から小銃を力任せにもぎ離し、後方に放り投げる。

 

 互いの鼻先が触れ合わんばかりに顔を近づける。

 

 そこまで至り、ディルムッドは己が何を判断し、何をしようとしているのかを自覚した。

 

 怯懦と葛藤が胸の裡を渦巻く。これから自分は、生前奉じた「騎士道」と「愛」を同時に裏切ろうとしている。

 

 ――駄目だ。躊躇うな。忠義を全うしろ。

 

 女の目を覗き込む。人間性を喪失した、虚無と奈落の瞳。きっと彼女は、愛も幸も知ることはなく、野良犬にも顧みられない死を迎えることであろう。そしてそのことに何の痛痒も覚えていない。

 

 かような有様を見て取った瞬間、踏ん切りがついた。

 

 手をゆっくりと持ち上げ、魔貌殺しの仮面を、外した。

 

 ●

 

 当然ながら、久宇舞弥は強靭極まる意志力と判断力を併せ持った人間であり、しかも衛宮切嗣より魔術の手ほどきを受けている。

 

 本来であれば、魅了のホクロに対するレジストなど可能、どころか容易ですらあった。

 

 ある程度の距離を開けた遭遇の段階で、槍兵の魅了の魔力に感づき、心機を強く臨戦せしめ、造作もなく効果を打ち払えたはずであった。

 

 だが、魔貌殺しの仮面がその機会を奪った。舞弥は鼻同士が触れ合うほどの至近に至るまで、よもやディルムッドにそのような能力があるなどと予想だにすることができなかった。

 

 心の中にあったのは、暴力への覚悟と警戒のみ。自らに「愛」を植え付けられる可能性に思い至ることができるヒントなどどこにもなかった。

 

 だからその瞬間。

 

 秀麗な目尻にあしらわれたホクロが視界に入った瞬間。

 

 自らの心身に何が起きたのか、まるで理解することができなかった。



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第三十七局面

 体の芯に熱が宿り、心臓が落ち着きを失くした。

 

 体温が有意に上がる。特に頬は火が出るかと思うほどだ。

 

 目が潤んでゆく。浅い呼吸を繰り返しながら、敵サーヴァントを睨みつけようとする。

 

 だが、彼の愁いを帯びた眼差しがこちらを見つめていると気づいたとき、胸は経験したこともない多幸感で満たされた。なのに、彼の顔を見返すことがどうしてもできない。

 

 舞弥は恥じらいのあまり顔を横に振り向けた。

 

「なに、を……っ」

 

「こっちを向いてくれないか」

 

 びくり、と舞弥は身を震わせた。

 

 ●

 

 血を吐くような煩悶をおくびにも出さず、ディルムッドは女の(おとがい)に触れ、優しくこちらを向かせた。

 

「俺はディルムッド・オディナ。かつてはエリンの守護者だった者の一人だ。此度はランサーのクラスを得て現界した。君の名を教えてくれないか」

 

「あ……っ」

 

 至近で視線を絡ませ合う。熱病にうなされているのかと思うほど紅潮し、羞恥と恐怖に震えているそのかんばせを、ディルムッドは愛らしく思った。

 

 ――グラニア! 頼む! 今すぐここに現れて俺の頬を殴り飛ばしてくれ……!

 

 

 魅了のかかりが良すぎる。この娘が今まで一度たりとも恋に胸を燃やした経験がないためか。自分の中に根付いた熱を、どう制御していいのかわからないのだ。

 

「魅了の、魔術……こんな、ことで、私が、自分の陣営を、裏切るとでも、思ってるの……?」

 

「いいや、思わない。君は強い人だ。俺が去れば、きっと平静を取り戻して普段通りの振る舞いができるはずだ。だけど、もし……」

 

 彼女のかぼそい肩を掴み、抱き寄せる。

 

「い、いや……っ、やめて……!」

 

 構わず強引に抱きすくめ、包み込み、自らの胸板に埋もれさせた。

 

「もしこの出会いを幸いだと思ってくれる気持ちがほんのわずかでもあるのなら、また君と会いたい」

 

 もがき、抵抗する力が弱くなってゆく。

 

「そうすれば、またこうして君を抱きしめることができる」

 

 彼女の御髪(おぐし)に頬を埋める。その震えを抑えるように時間をかけて抱きしめ――やがて身を離した。

 

「次の日付が変わる時刻、間桐邸の前で待っている。もちろん君も聖杯戦争で忙しいだろうから無理強いはしないが、毎日、その時刻に、待っている」

 

 腕から解放した途端、彼女はくたりとその場に崩れ落ち、壁に寄りかかりながら力なく尻餅をついた。

 

「あ……」

 

 その声に、寂寥のようなものを感じたディルムッドは、己に求められたことを完璧に果たし終えたことを悟った。

 

「では、俺はもう行く。君もあまりここの家主に迷惑をかけぬよう」

 

 そして霊体化し、姿を消した。

 

 ●

 

 高鳴る胸とは裏腹に、空気の冷たさが舞弥の身を震わせた。さっきまであんなにも暖かかったのに。

 

 自らの心身に起こっていることを、頭で理解しても感情が御し切れず、しばし茫然と浅い息を繰り返し続けた。

 

 瞬間、窓の外でタクシーが急発進する音がし、直後にトンプソン・コンテンダーの咆哮が轟き渡った。

 

 舞弥は冷や水を浴びせられたかのように見当識を取り戻し、慌ててステアーAUG突撃銃を回収して外に向かった。

 

 ほどなく、無線が入る。

 

『舞弥。僕たちも撤退だ』

 

 一瞬、呼吸を落ち着ける。

 

「……はい。迎えに行きます」



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第三十八局面

 契約の(パス)を通じ、主が負傷した事実を察したディルムッドは、即座に霊体化してケイネスのもとに馳せ参じた。

 

「わ、我が主よ……!」

 

「鼓膜が破れている。聞こえん。運転を代われ。治癒魔術に専念させろ」

 

 いつになく余裕のない様子。

 

 下知に従い運転席についたディルムッドであったが、当然経験などなく、騎乗スキルも持っていないので、相当に危なっかしいドライブとなった。

 

 早朝ゆえの人通りの少なさが幸いし、どうにか事故は起こさず間桐邸近くまでたどりつけたものの、車体にはいくつかの擦り傷が刻まれる始末。

 

 隠蔽工作は聖堂教会の連中に任せ、屋根部分が吹っ飛んだタクシーを乗り捨てる。意識を失いかけているケイネスを肩に担ぎ、急ぎ足で間桐邸に駆け込んだ。

 

 ●

 

 ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは、奇妙な夢を見た。

 

 どこか現実離れした色彩豊かな森の中で、老いた男が目の前で水を地面にぶちまけている光景。

 

 自分はそのさまを、地に倒れ伏したまま、悄然と見ていた。

 

 自らの脇腹には、明らかに致命傷となる風穴が空いていた。ついさきほど、異父弟の化身たる魔猪の歪曲した牙によってつけられたものだ。

 

 悲しみが胸を満たす。

 

 終生の親友であった騎士オスカが、自分の頭を膝に乗せ、「どうかディルムッドの命を救ってください」と必死に訴えていた。「もし我が友を見捨てるような真似をなさるのなら、このバルベン山を生きて降りるのは、私とあなたのどちらか一方だけとなるでしょう!」

 

 悲しみが胸を満たす。

 

 オスカとフィンは、硬い絆で結ばれた祖父と孫であった。

 

 だが今や、二人の間には冷たい隔意と憎しみが横たわっていた。老いたりとはいえ、フィンがオスカに負けるとは思えなかった。にも関わらず、オスカは断固として主張を曲げるつもりはないようだった。

 

 命を賭けて、仮に勝ったとしても父祖殺しの大罪を背負う覚悟で、オスカは自分を救おうとしてくれている。

 

 喜びよりも、哀しみの方が大きかった。

 

 ――あぁ、自分は。

 

 裏切りの代価として見捨てられることには納得していた。無様に助命を乞い、しかし聞き届けられず命果てることで、ようやく自分の罪は清算されるのだと思っていた。

 

 だが、あれほど仲の良かった祖父と孫を引き裂く原因となってしまったことだけは受け入れがたかった。それはいくらなんでも代価として重すぎる。

 

「駄目だ……あなたたちは、争ってはいけない……」

 

 そう言うために吸い込んだ空気は、しかし末期の吐息となって、どちらにも気づかれることなく霧散していった。

 

 これが、この世で最期に見る光景だと言うのか。

 

 「愛」と「忠義」を秤にかけ、グラニアの手を取った自らの生涯に、後悔はない。

 

 だがもし、死後に機会があるのなら。

 

 俺が愛した者たちすべてが手を取り合い、笑い合えた可能性が、本当にどこにもなかったのか。

 

 聖約(ゲッシュ)を破ってでも「忠義」を貫けば、俺一人が恥辱のうちに息絶えることになろうと、丸く収まったのではないのか。

 

 その可能性を、追い求めて見たかった。

 

 今度こそ、裏切らない。

 

 今度こそ。今度こそ。



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第三十九局面

 目を開く。格調高いが、どこか陰鬱な寝室であった。

 

 身を起こす。窓から斜陽が差し込んできていた。すでに昼下がりか。

 

 負傷した手に巻かれていた包帯を解く。傷口は塞がり、砕けた骨も元に戻っている。だが、指を動かそうとするとわずかな麻痺が残った。

 

 治癒魔術においても人後に落ちぬと自負しているが、さすがに神経系を元に戻すには外科手術を併用した儀式魔術が必要となるだろう。

 

「ランサー」

 

「御前に」

 

 打てば響くように、従僕は跪いた体勢で実体化した。

 

「私を負傷の身にし、令呪を二つも削った成果はどうだ?」

 

「「監視者」の手勢である女性(にょしょう)を、我がホクロにて」

 

 ケイネスは、まじまじとディルムッドを見た。

 

 堅物の朴念仁だと思っていた。殺すだけで済ませていたとしてもケイネスは驚かなかった。

 

 だがこの騎士は、主の期待を汲んで、倫理を踏み越えた。

 

「強靭な意志力の持ち主です。あくまで〈魅了〉しただけであり、即座に裏切らせるのは難しいでしょう」

 

「そうか……」

 

 目を閉ざす。

 

 ――今度こそ、裏切らない。

 

 ――今度こそ。今度こそ。

 

 ため息をつく。

 

「……聖杯戦争のからくりについて、ひとつサーヴァント(おまえたち)には知らされていないことがある」

 

「は……?」

 

「魔術師はすべて根源を求めて魔道を歩む。私もまた例外ではない。冬木聖杯は、その願望を叶えるための手段である」

 

「存じております」

 

「これが、例えば現世的な利益を願う者であれば、その願望は世界の内部で完結するものであり、必要となる魔力量は比較的少なく済む。敵サーヴァント六騎を供物として聖杯にくべれば、その者の大願は成就するであろう」

 

 従僕は、じっとこちらの言葉に耳を傾けている。

 

「だが、根源へ至ろうというのであれば、それはこの世界からの逸脱だ。宇宙に孔を開けるに等しい奇跡。六騎では足りぬ。七騎すべてが犠牲に捧げられる必要がある。七騎すべてだ(・・・・・・)

 

 ディルムッドの表情に、特段の変化はない。「だから?」と問い返したいのを自制しているのが手に取るように分かった。

 

「ランサー。私はお前に、死を命じることになる」

 

 そこまで言って、ようやく騎士の顔に理解の色が広がった。

 

「我が主よ、失礼ながら、見くびられては困ります。主の大望のために命を散らすは騎士の本懐。私には何の異存もありません」

 

「……気に入らんな」

 

 だからケイネスは、眉を顰める。

 

「自分以外の誰かが作った規範に、何の迷いもなく魂まで委ねられるその在り方。私にはそれがおぞましく思える」

 

 ケイネスは、ディルムッドの忠誠をもはや疑わなかった。臣下として信頼することにした。

 

 だから自らの本心を、口にする。

 

「お前の中には奉仕の心しかないのか? 自分は常に勘定外か? 慈悲の安売りをして、それで人を救えると本当に思っているのか?」

 

 差し出すものは、価値あるものでなければならない。自分に価値を見出さず、常に他者を優先するような者の慈悲などに、少なくともケイネスは価値を認めない。

 

 これは聖杯戦争と何の関わりもない無駄口である。

 

 初めて、そういうことをした。

 

「それ……は……」



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第四十局面

 ディルムッドは口ごもり、しかし毅然と主を見返す。

 

「……お言葉ですが我が主よ、それは神秘や力や価値を有限の定量として扱うようになった、この時代に特有の考え方です。私にとって生きるとは奉仕であり、責務の履行こそが幸福へ至る道でした。捧げるということは必ずしも不利益ではないのです」

 

「いいか、等価交換とは何も有限のリソースを損分なく扱うための原則というだけのことではない。それは人と人との向き合い方に一定の指標と保障を担保するためのものだ。これだけあげたのだから、これくらい貰っても良いだろう。これだけ貰ったのだから、この程度はしてやるか。そのような物差しを得ることで、人は初めて「己をどの程度律すべきか、どの程度欲を満たしても許されるのか」という問いに答えを得られるのだ。そこへお前のような損得勘定の壊れた異分子が入り込んで見ろ、ろくなことにならんぞ」

 

 槍兵の眉間に、苦悩の皺が寄る。

 

「損得勘定が悪いとまでは申しません。しかしそれだけしかないのでは、差し出せるものを何も持たぬ者らが救われません。誰かが己を顧みずに手を差し伸べなくてはならない。私の時代では、その役目を担っていたのは騎士でした。この時代でも、きっと同じ役割を担う者はいるはずです」

 

「その役目は「福祉制度」という名を得て、すでに人の手を離れた。それが人類の出した結論だ。己を顧みない在り方を人は体現できないし、無償の慈悲を与えられて嫉妬や堕落と無縁でいられるほど強い人間はほとんどいない」

 

「だが、あなたは余人とは違うはずだ。(たっと)き方よ、あなたの血に宿れる霊威は、これまで下々を従え、彼らの奉仕を引き出してきたはずだ。なぜ私の奉仕だけを受け取っては下さらないのか」

 

「単純な話だ。私に頭を垂れ、尽くし、付き従った者らは、私の庇護か金銭か薫陶を必要としていた。ゆえに私は彼らの奉仕を受け取り、慈悲を垂れた。だがお前は何も受け取らぬと言う。それが私の顔を潰す言動だとなぜ気づかん?」

 

 ディルムッドは、声なく呻いた。

 

 頭でケイネスの言を理解しても、感情が承服していないようだった。

 

「……もう良い。益体もない会話であったな。下がれ。お前の忠誠は疑わん」

 

「……は」

 

 渋い顔のまま、騎士は姿を消した。

 

 ケイネスは息をつき、再び身を横たえた。

 

 そうして一人になって見ると、自分がなぜあそこまでディルムッドの奉仕を毛嫌いして来たのかを自覚する。

 

 ――私は、知りたかったのだな。

 

 自分が、いかなる願いを踏みにじることで根源へと至るのかを。

 

 そうすること自体に躊躇など欠片もない。

 

 ――だが私は、自らの罪をしかと見据え、胸に刻んだ上で、この世界を逸脱したかったらしい。

 

 無意味な罪悪感。まるで下賤の凡俗ではないか。下らん感傷だ。

 

 自嘲の笑みを残し、目を閉じた。

 

 ●

 

 その夜、アサシンのサーヴァントが遠坂邸へと突撃を仕掛け、迎撃に現れた黄金の人影によって一矢報いることもなく撃滅された事実が、すべての陣営の知るところとなった。



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第四十一局面

「アサシンが……脱落した……?」

 

 使い魔ごしにそのさまを目撃したケイネスは、困惑に眉をひそめた。

 

「そうなのか。まぁ、敵が減って結構なことじゃないか」

 

「馬鹿者。ことはそう単純ではない」

 

 能天気な見解の雁夜に、思わず息をついた。

 

「我々が干戈を交えた時、アサシンが横槍を入れてきたのは覚えているな? 私はてっきり遠坂時臣がアサシンを召喚し、バーサーカーの破壊行為に対する咎めを入れてきたのかと思っていたが……真実はより入り組んでいるようだな」

 

「つまり……なんだ? 時臣の本当のサーヴァントは、あの金ぴかの方だったとして……え? どういうことだ?」

 

「なぜアサシンは遠坂邸を警護していたのか? アサシン陣営と遠坂陣営が協力関係にあったとして、なぜ唐突にアサシンは裏切ったのか? どうも見た目通りの事態ではないように思える」

 

 そこへ、ランサーからの念話が届いた。

 

《我が主よ。約束通り、衛宮切嗣の手勢の女性が間桐邸の近くまでやって来ました。いかがいたしますか?》

 

「丁重に出迎えろ。ただし他の陣営の目もあろうから、すぐに邸宅の中に引っ張り込め」

 

《御意に》

 

 ●

 

 ――自分は、いったい何をやっているのだろうか。

 

 久宇舞弥は、自分の心が囚われている事実を、衛宮切嗣に報告しなかった。

 

 意識的にそう決めたわけではない。気が付いたら報告していなかったのだ。

 

 セイバー陣営の斥候としての役割を忠実に果たしながら、自覚もないままに切嗣を裏切っていたことになる。

 

 もし包み隠さず話していれば、切嗣はどうしていただろうか。間違いなくこのコネクションを利用して、ランサー陣営を致命的な罠へと誘ったであろう。そうすれば、あのランサーは現界を維持できなくなり、この世から消滅する。

 

 消滅、してしまう。

 

「なんてこと……」

 

 非常にまずい状態に自分が置かれていることを自覚する。なんとかしなくてはならない。とにかく今日の逢引から生還出来たら、今度こそ切嗣には報告しよう。胸の中で、「愛」を知った自分が泣き叫ぼうと、問題なくそれを無視できるはずであるから。

 

 そう意志を固めた瞬間。

 

「……失礼」

 

 舞弥は足を払われた。バランスを崩して倒れ掛かった所を抱き留められる。

 

 そして、自分がランサーの腕の中で抱えあげられている事実を認識した瞬間、どうしようもない幸福感と羞恥が舞弥の理性を千々に引き裂いた。

 

 強引に抱き寄せられ、彼の雄々しい胸板の熱を頬に感じ、舞弥は思わず身を縮こまらせた。胎児のように両の握りこぶしを胸の前に引き付けている。

 

 一瞬の浮遊感ののち、ランサーが着地したらしい衝撃。

 

「外では無粋な者らの目もある。無作法は許してほしい」

 

 彼の包み込むような深い声に、甘い痺れが背筋を走った。悲鳴や抗議の声を上げることがどうしてもできない。

 

「来てくれてうれしく思う。ひとまず情報交換と行こうじゃないか。中で茶の一杯でも付き合ってもらえないか?」

 

 そうして、舞弥はこの男に逆らうことができなくなっている自分を発見したのだった。



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第四十二局面

 久宇舞弥を客間に通す。

 

 マホガニーの椅子に座らせ、ティーテーブルを挟んだ向かい側にディルムッドも腰掛ける。

 

《まずこの会合が対等な情報交換の場であることを印象付けろ。向こうにも利益があると思わせるのだ》

 

「こちらが招いたのだから、まずは信頼の証として、君の知りたい情報をひとつ提供しよう。何でも聞いてほしい」

 

「……では、ランサー陣営と間桐家の間に締結された同盟の詳細を聞かせて」

 

《……許す。すでに同盟関係は露見しているのだから、致命的な情報ではない》

 

「すでに間桐のマスターである雁夜どのは聖杯獲得を断念され、我が主に全面的に協力する意思を固めておられる。同盟、と言うよりはすでにひとつの陣営だ」

 

 ディルムッドは、ケイネスと雁夜の間に交わされた契約の詳細を語った。

 

 そこで、扉が控えめにノックされる。

 

 ディルムッドが応えると、稚い少女がアンティーク調のティーワゴンを押しながら入ってきた。

 

「おちゃをどうぞ……」

 

 少し緊張した面持ちで、少女はテーブルの上にティーセットをたどたどしく置いてゆく。

 

「やあ、ありがとう桜。よく頑張ったね」

 

 ディルムッドは目を細めて間桐桜の頭を撫でた。

 

 桜はお盆を抱えてはにかんでいる。微笑ましいが、きっとケイネスが舞弥の心証の軟化を期して茶を持って来させたのだろうなということをなんとなく察して複雑な気分になる。

 

「舞弥、雁夜どのはこの子を救うために聖杯戦争に身を投じられた。そして、我が主が迅速に桜を救助され、その見返りとして雁夜どのは我が主のために尽力していただけることとなったのだ」

 

「そんなことが……」

 

 桜がぺこりと頭を下げて退出すると、主からの念話が来る。

 

《他陣営の戦略や戦力について、知っている限りのことを聞け》

 

「……今度は俺の番だ。君たちが把握している他陣営の情報を知りたい」

 

「多すぎるから一つに絞らせてもらうわね。遠坂陣営とアサシン陣営は現在でも密な協力関係にあるわ」

 

 俄かには、その言葉の意味が受け取れなかった。

 

「どういうことだ? アサシンはさきほど脱落したのではないのか?」

 

「切嗣はアサシンと思しき存在が複数存在しているところを見ているわ。遠坂邸で死んだのはその中の一体だけ。アサシンのサーヴァントは依然として健在と考えるべきね」

 

《群体型の英霊……? そんなことがありうるのか?》

 

 ありえないことではない。ディルムッドにとっては遠い憧憬の対象であるケルト史上最強の大英雄、クー・フーリンが死闘を繰り広げた相手の中には、そのような特性を持つ者もいた。

 

 思念を受け取ったケイネスは唸る。

 

《クラン・カラティンか。だがあれはどう考えてもアサシンのクラス適性などあるまい》

 

「脱落を偽装し、間諜に徹するつもりではないかと私は考えているわ。その情報をもとに、攻撃能力に優れたアーチャーが敵サーヴァントを撃破して回る……おおむねそんなところでしょうね」

 

 容赦のない戦略だ。知らねば間違いなく敗れていたと確信できるほどの。

 

《なるほどな。まぁ前戯はこの程度で良かろう。ランサー、その女に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と聞け》

 

 ディルムッドは、息を呑んだ。



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第四十三局面

 ディルムッド・オディナは自分を器用な人間だとは考えていなかった。ホクロがなくば女性とは大して縁のない人生を歩んでいたことだろう。

 

 とはいえ、今しがた下された命令を実行に移すには、恐らくかなりの意訳が必要になることぐらいは、わかった。

 

「久宇舞弥、君がこの聖杯戦争に身を投じた理由を聞いてもいいだろうか」

 

「理由? ないわよ、そんなもの。切嗣がそうするから、私は従うだけ。どう生き、どう死ぬかは切嗣が決める」

 

 そういう在り方を、辛いと思ったことすらない。

 

「ではなぜ、こうして来てくれたんだ? 我々が衛宮切嗣とは決して相容れないことはわかっているだろうに」

 

「それ……は……」

 

 女は頬を赤らめた。にぎりこぶしを胸に当て、うつむく。

 

「認めよう。俺は君の心に好ましからざる手段で近づいた。今君の胸をかき乱しているその気持ちは、偽物だ」

 

 久宇舞弥は目を見開く。そして目尻に涙を浮かべた。自分でも目を背けていた事実の指摘を受け、傷ついている。

 

「だけどな、考えても見てほしい。衛宮切嗣の道具として生きた日々と、俺を想って戸惑う日々、どちらがより辛く、不安だった?」

 

「それは…っ、あなたと出会わない方がずっと楽で、穏やかにいられたわよっ!」

 

「そうだ。それが生きるということの代価だ。君以外の人間は皆、その不安と戦いながら生きている。願望し、迷妄に惑い、想いはきっと遂げられない。自分が正しいのかどうか、誰も答えてはくれないし、選んだ答えは多分間違っている。人間は、そういう世界に生きている」

 

 女は口を引き結ぶ。

 

「君のこれまでの生が、どのようなものだったのかは聞かない。きっと過酷なものだったのだろうと想像するだけだ。だがあえて問おう。その過去のすべては、今この瞬間の君にとって、何か意味のあることだろうか?」

 

 ●

 

 久宇舞弥は言い返せない。

 

 物心ついた時にはもう少年兵として殺し合いに駆り出され、上官の欲望のはけ口として利用されてきた。

 

 一般人が聞けば間違いなく憐れんでくるであろう子供時代だったが、実際のところこの経験は久宇舞弥という人間にとってさしたる重みを持っていなかった。

 

 話題に上れば、あぁそんなこともあったかな、と思い返す程度の、特にどうということのない記憶である。「思い出」などという高尚なものではなく、トラウマですらなかった。

 

 人は、失うことには耐えられずとも、最初から持たないことには余裕で耐えられる。ことによると「耐える」という意識すら不要だ。

 

 ある意味において、久宇舞弥ほど心穏やかに生きてきた人間はいないかもしれない。自分を大切にするという思考が根本的に欠けている者にとり、人生とは微睡みの夢よりも重みを持たない些事だ。胸をかき乱されることなどありえない。

 

 だが、目の前のこの男は「目覚めろ」と言う。

 

 願い、想い、足掻き、苦しめ、と。

 

 切嗣すら、そんな過酷な命令はしてこなかった。

 

 いったい何の権利があって、そんなひどいことを言うのか。



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第四十四局面

 今までに会ってきた人の中で、最も舞弥を苦しめているのは、目の前のディルムッド・オディナなのである。

 

「苦しむことに、何の価値があると言うの。苦しむことが救いだとでも?」

 

「俺はかつての君のように、何も痛みを感じない生というものを経験したことはない。だから比較をしてどちらがより良いなどと言うことはできない。だが、人間として生き、苦しむのは、決して悪いことばかりではない。俺に断言できるのは、その程度だ」

 

 舞弥は、視線を落とす。

 

 ティーカップを取り、温かな紅茶をひと口含んだ。

 

「これを運んできた子は、きっと最初は慈しまれていたのでしょうね。そうして自分を大切にすることを教えられた。だけど途中から過酷な状況に放り込まれ、心が砕けてしまった。その傷はきっとあの子の一生を呪い続けるわ。私に、あの子と同じ道を歩めと?」

 

「頼む、舞弥。どうか人間を信じてくれ。あの子に苦悶を強いた外道は、すでに俺が相応しい誅罰を下した。きっと彼女の前途には、多くの人々が手を差し伸べてくれる。俺はそれを見届けることは叶わないが……君ならば可能なはずだ。せめてそれを見てから、判断を下してくれないか」

 

 その時の、彼の縋りついてくるような目を、久宇舞弥は生涯に渡って忘れることはなかった。

 

 まったく、人類史に威名を刻んだ益荒男が、まるで捨てられる仔犬のような顔をするのだから。

 

 思わず笑ってしまいそうになる。

 

 ――泣かないで、かわいい人。

 

 呪いのホクロによるものだとわかっていながら、優しい気持ちが胸から溢れてくるのをどうしても止められなかった。

 

 思えば、そんな気持ちで切嗣に接したことが、今まであっただろうか。

 

 ただ事務的に、殺戮機械の保守点検を行ってきただけではなかったか。

 

 切嗣を裏切ることはできない。

 

 しかし、切嗣に従うだけでは、切嗣を救うことはできない。切嗣の進む道の果てに、切嗣の救いなどないのだから。

 

 弱くて脆い心を、絶対零度の鎧で覆ったあの人を、救いたいと舞弥は初めて強く思った。

 

「……条件が二つ、あるわ」

 

「聞こう」

 

「私は切嗣を決して裏切らない。だけど、あなたたち全員が切嗣を殺さないと約束してくれるのならば、セイバーを脱落させることに関しては手を貸してあげる」

 

 ディルムッドは、目を見開く。

 

 そして視線をわすかに上にあげる。

 

「……我が主の了承が取れた。それに関しては確約しよう。もちろん、雁夜どのも同様だ」

 

 舞弥は頷く。

 

「条件の二つ目は――桜ちゃんと言ったわね、さっきの子」

 

「あぁ。間桐桜と言う」

 

「もう一度、会わせて頂戴」

 

「わかった。そんなことでいいなら。ただ、どうかな、幼子にはもう遅い時間だからな」

 

「寝顔を見せてくれるだけでいいわ」

 

「……そうか。では、行こう」

 

 舞弥とディルムッドは立ち上がり、桜の部屋に向かった。

 

 ●

 

 会話を聞いていたケイネス・エルメロイ・アーチボルトは、暗く燃える双眸を開いた。

 

 口の端に、あるかなしかの笑みを刻み、念話を発する。

 

《ディルムッド・オディナ。お前は私に忠誠を誓ったことを、必ず後悔するだろう》

 

 それは、この男が初めて自分のサーヴァントの真名を呼んだ瞬間でもあった。



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第四十五局面

 布団に包まっているその姿は、想像よりもずっと小さくて、久宇舞弥は近づくことにさえ躊躇いを覚えた。

 

 自分のような人殺しが立てた、ごくわずかな空気の動きだけで砕け散ってしまいそうな気がしたから。

 

 枕にしがみつきながら身を丸める間桐桜は、まるで自分以外のすべてから必死で身を守ろうとしているように見えた。

 

 暗い部屋の中で、廊下から差し込んでくる光を頼りに、久宇舞弥は跪く。

 

 かすかに震える手を、幼子に伸ばす。

 

 くうくう寝息を立てる頬は、子供特有の高い体温をもって、舞弥の指を柔らかく迎え入れた。

 

「……私ね、子供がいるの」

 

 後ろのディルムッドに語り掛ける。

 

「そうなのか」

 

「生きているのか死んでいるのかわからないし、男の子なのか女の子なのかもわからない。母親らしいことは愚か、どんな子供なのか知ってやることさえできなかった」

 

 桜の髪を梳りながら、想いを吐露する。

 

「仮に生きていたとしても、きっとろくでもない環境にいるのでしょうね。せめて男の子として生まれていることを祈るばかりよ」

 

 応えるべき言葉に迷っている気配がして、舞弥は手首の機構を作動させた。

 

「……では、探すべきだ」

 

「ええ、そうね」

 

 袖口から飛び出してきた銃口を、桜の頭蓋に押し当てる。それは一見するとオモチャにしか見えないほどの小型銃。ロシア製PSM拳銃を、スリーヴガンとして改造したものだ。

 

 舞弥自身の体に隠れて、いまだディルムッドには気づかれていない。

 

 躊躇なく引き金を引いた。間桐桜の頭蓋に穴が開き、絶命する。

 

 これで、間桐雁夜がケイネスに協力する理由は消滅した。

 

 直後に自分は魔槍に刺し貫かれ、この世を去る。

 

 正しいことをしたという確信のもとで、意識は闇に散逸してゆく。

 

 ●

 

 ――そうする自分を、リアルに想像した。造作もなくできた。

 

 だが、引き金を引くことなく鉄の棒を袖の中に戻し、笑顔で振り返って「ありがとう。もう満足よ」と言わせたものは何だったのだろうか。

 

 ディルムッドへの恋心はもちろんあった。切嗣を救いたいという保護欲にも似た気持ちも間違いなくあった。

 

 だが、最大の理由は、トリガーを引こうとした瞬間、間桐桜の目尻に涙があったことだったのかも知れない。

 

 どんな悪夢にうなされているのか、幼い少女は震えていた。

 

 ――あぁ、この子は。

 

 まだ、泣くことができるのだな。

 

 自分よりもずっと恵まれている。ディルムッドの理屈ではそうなる。

 

 だから舞弥は、自分と似ていながら異なる存在と初めて出会い、これまでの人生で一度もしたことのないことをした。

 

 相手と自分を重ね、そして嫉妬した。

 

 妬ましいなんて思ったのは初めてのことで。

 

 もしこの引き金を引けば、まるで自分が嫉妬のあまり小さな女の子を殺したみたいではないか。

 

 それはあんまり、みっともなさすぎる。

 

 自分の中に否応もなく芽生えた人間性と、上手く付き合っていかなくてはならない。

 

 ――だから、ねえ、桜ちゃん。

 

「……お互い、生き残りましょう」

 

 間桐邸を出た舞弥は、夜風の中で静かにそう決意した。



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第四十六局面

「雁夜、バーサーカーは」

 

「回復した。戦闘可能だ」

 

「よろしい。では出立する」

 

「さぁ、桜ちゃん。ちょっとお出かけをしようか」

 

「おでかけ? どこに……?」

 

 そこで、雁夜の顔は忸怩たる苦みを含む。だが、すぐに笑顔を取り繕った。

 

「綺麗なお城のあるところだよ」

 

 ●

 

 間桐邸がケイネスの牙城となっていることを、すでに衛宮切嗣には知られている以上、間桐桜を一人残していくことには重大なリスクが伴う。

 

 仮に人質に取られた場合、雁夜は誓約によって殺されることを覚悟した上でケイネスの敵に回るであろうことは疑いない。

 

「もちろん、俺もそんな結末は望まない。かといって安全な預け先など思いつかない」

 

 連れて行くしかないのだ。これより攻め入るセイバー陣営の本拠地。冬木市郊外に隠匿されたアインツベルン城へと。

 

 レンタカーを借り、雁夜の運転で一路北西を目指す。

 

 城の詳細な位置座標と、それを取り巻く結界の範囲と性質は久宇舞弥から供された情報によってすでに詳らかとなっていた。

 

 あらかじめそれらがわかっていれば、ケイネスならば侵入自体は滞りなく可能だろう。

 

 ●

 

 ディルムッドは、霊体状態でレンタカーに追随しつつ、すぐ傍らにいる狂騎士の気配を感じとっていた。

 

 アイリスフィール・フォン・アインツベルンは偽装マスターであり、衛宮切嗣こそがアインツベルンの送り出したマスターであること。

 

 そしてそのサーヴァントは〈騎士王アルトリア〉――五世紀から六世紀の境目の時代に、ブリテン島にひとときの安寧をもたらした伝説的君主。

 

 そして――ランスロットの生前の主君である。

 

 無論、バーサーカークラスとして現界した以上、理性的な思考能力は剥奪されている。

 

 それに、ランスロットの宝具〈己が栄光の為でなく(フォー・サムワン・グローリー)〉によって、アーサー王側もランスロットをランスロットと見抜けないと考えられた。

 

 よって大きな問題はないであろうと思われているが――

 

 ――ランスロット卿、あなたは今から主君に牙を剥かされようとしているのですよ。

 

 もしもこの聖杯戦争にフィン・マックールが召喚されていた場合、自分は果たしてどうしたであろうか。

 

 考えても、まるでわからない。今生の主に忠誠を誓った以上、ケイネスの命令に従うより他にないが、そもそもディルムッドを聖杯戦争に立たせた動機の根源は、フィンを裏切ってしまったという悔恨である。

 

 できるのか? 戦えるのか?

 

 答えは出ない。

 

 ただ、どうしようもなくランスロットへの憐憫が胸に満ちる。騎士の忠誠の誓いがどれほど重いかを知っているから。

 

 思えば、自分と彼は多くの点で共通している。

 

 共に騎士の道を行き、共にそれぞれの主君に忠誠を誓い、共に主君の伴侶を奪うという罪を背負った。

 

 ――そして今、俺は盟を誓った相手がきっと望まぬであろう戦いに赴かされるのを、こうして看過しようとしている。

 

 だが、この苦悩自体が卑劣な逃避に過ぎない。いくら思い悩んだところで、自分はケイネスの意向に逆らってまでランスロットを庇う選択肢など決して取らないのだから。

 

 ならば、せいぜいふてぶてしく傲岸にいよう。

 

《ランスロット卿。我が主のため、あなたの忠誠を踏みにじらせていただく》

 

 返事は、なかった。



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第四十七局面

 アイリスフィール・フォン・アインツベルンは、何の痛みも衝撃もなく森の結界にぬるりと穴が開けられた事実をどうにか感じ取った。

 

 眠っていたら間違いなく気付かなかったし、何か別のことに集中していても危なかっただろう。

 

 相手が結界の警報を作動させることなくこの領土に踏み入ってきた。

 

 それだけで、敵の力量に最大の警戒を払うべき事態であることは明らかだった。

 

「――切嗣、お客様だわ」

 

「結界が破られたのかい?」

 

「いいえ、とても丁寧に狭間を縫って入ってきているわ。危うく見過ごすところだった」

 

「マスターの中でそんな芸当ができるのは遠坂時臣とケイネスだけ。遠坂は穴熊を決め込んでいるから、十中八九ケイネスだろう。舞弥が発つ前で幸いだった。今なら総出で迎撃できる。――アイリ、遠見の水晶球を用意してくれ」

 

 ついさっきまで顔を抑えて泣き言を言い、「何もかも捨てて一緒に逃げよう」と訴えてきた夫の顔は、すでに冷徹な傭兵のそれに戻っていた。

 

 その切り替えの早さが、あまりにも哀しい。

 

 瞬間――

 

 全身の魔術回路に、熱と疼痛が走る。監視結界からのフィードバックだ。

 

「切嗣、待って」

 

 振り返ったその双眸に、愛深く繊細な人間としての温もりはすでにない。

 

「もう一組。こちらは力任せに結界を破壊して来ているわ」

 

 ●

 

「昨夜の約定通り、ジル・ド・レェ罷り越してございます」

 

 あざといほどに慇懃な仕草で腕を巡らし一礼。

 

 キャスターたる〈青髭公ジル・ド・レェ〉は胸も張り裂けんほどの興奮と歓喜に酔い痴れながら、長々と口上を述べる。

 

 崇敬し、恋焦がれた麗しの聖処女ジャンヌ・ダルク。当世風のスーツ姿で街を闊歩していた彼女の姿を捉えた瞬間から、ジル・ド・レェの魂はすでに至福の桃源郷にあった。

 

 ――おぉジャンヌ。幾年(いくとせ)の冬を越え、再びこうして巡り合えたこの奇跡。我が願望の成就でなくてなんだと言うのか。

 

「これら無垢なる供物はあなたの魂を傲岸なる神の手より取り戻す呼び水でございますゆえ――」

 

 背後を振り仰ぎ、そこに多数の子供たちがいることを示す。いずれも幼く、最も年長の子でも小学生ほど。ことごとく生気のない目をしている。

 

 ジルが指を鳴らすと、魔術による催眠が解け、全員意識を取り戻した。

 

 不安げに周囲を見渡し、中には泣き出す子供もいる。

 

 そんな彼らにジルは聖者のように温かく親しみを込めた笑顔を向けた。

 

「さぁさぁ坊やたち、鬼ごっこを始めますよ。ルールは簡単。この私から逃げ切ればいいのです。さもなくば――」

 

 するりと手を差し伸ばし、子供の一人の頭に乗せる。

 

 次の瞬間、生卵を握り潰すように頭蓋骨が砕け、鮮血と脳皮質が飛び散った。

 

「悪い悪ぅ~い魔法使いにとって食われてしまいますからねェ。さァお逃げなさい。百を数えたら追いかけはじめますよォ。その悲鳴と絶叫をもって神の無謬性を否定するのです。さァさァ――!」

 

 幼子たちは泣き叫び、散り散りに逃げてゆく。

 

 凄惨な余興が、始まろうとしていた。



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第四十八局面

「当然わきまえていると思うが、子供の救助など優先順位としては最下位だ」

 

 ディルムッドと雁夜は、歯噛みした。

 

「キャスターとて倒さねばならない相手。今ここで仕留めたところで何の問題がありましょう」

 

 槍兵の諫言を、ケイネスはあっさり無視する。

 

「セイバー陣営の動きとしては二パターン考えられる。我々の侵入に気づいていない場合と、気付いている場合だ。前者であれば、セイバーがキャスターを迎撃している間に敵の本丸を制圧すればいいだけの話なので簡単だが、問題は後者の場合だ。セイバーともども工房に籠城されれば、いくら二騎がかりとはいえ苦戦は免れない。最も望ましいのはキャスターとセイバーをぶつけ合わせて勝利した方を叩くという流れだが、ふん、ジル・ド・レェね。アーサー王に比べれば英霊としての格は落ちるな。その上抗魔力スキルを有するセイバー相手では相性面でも不利であろう。大した消耗は負わせられないと考えるべきだ。そうなると恐らくは――」

 

 

 いくつかの出来事が同時に起こった。

 

「キャスタァァ――ッ!!」

 

 清澄な怒号が圧倒的な魔力の迸りと共に大気を嬲り、雄々しさと可憐さの精髄を奇跡的な手段で結晶化させたような少女騎士が、大地を蹴り砕きながら猛然とキャスターに向かって行っている。

 

 同時に、ケイネスと雁夜の首に、目に見えないほど細い何かが巻き付いた。

 

 違和感に気づいた時にはもう遅い。ごく細い何かは、急激に締まり、気管と頸動脈を塞ぎにかかった。

 

「ぐッ!?」

 

 さらに次の瞬間、この世のすべてを吹き飛ばし、粉砕するかのような、本能的な恐怖を呼び覚ます絶叫が轟き渡った。

 

 闇色の騎士が雁夜の命令を待たず実体化。

 

A()――u()r()r()r()r()r()r()ッ!!」

 

 黒き迅雷と化し、大気を挽き潰しながら少女騎士の方へ吶喊していった。

 

 ●

 

 ディルムッドにしてみれば、慮外な事態が発生しすぎて一瞬目を回してしまった。だが即座に己の主を救出せんと動く。

 

 見たところ、貴金属のごく細い針金がケイネスの頸を締めあげているようだ。指を間に挿し込もうにも、一分の隙もなく主の肌と密着しているため、果たせない。

 

「我が主よ、ご容赦を!」

 

 〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉の穂先を、ケイネスの頸動脈を傷つけないよう注意しながら一閃。僅かな首の肉と共に、針金を切断する。

 

 雁夜にも同様の処置を行うと、二人の生者は蹲って荒い息をついた。

 

「衛宮……切嗣め……ッ! もう月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)の盲点を突き始めたか……ッ!」

 

 ケイネスは即座にスズメの使い魔を飛ばした。バーサーカーが突撃していった方角へと。

 

「ケイネス! どうする!?」

 

 同じく肩で息をしていた雁夜が問う。ディルムッドも同感だった。あまりにも多くのことが一度に起こり過ぎている。何から対処すれば良いのやら――

 

「キャスター! 子供を殺すな! ()()()()()()()()()()()()()()()!!」

 

 ケイネスが張り上げた声は、スズメの使い魔を通じて収束音波と化してジル・ド・レェへと降り注いだ。

 

 直後、再び針金が首に絡みつく。



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第四十九局面

 ――運動量。

 

 質量と速度の積で求められる数値である。

 

 月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)の自律防御は、当然ながらケイネスに近づく物体すべてを遮断するわけではない。

 

 握手や抱擁などの「友好的接触」は拒まぬよう、一定数値以下の運動量しか有していない物体に関しては素通りさせている。

 

 この仕様の穴を突かれた。

 

 あれほど細い貴金属ワイヤーであれば、質量などほとんどない。つまりかなりの高速で動いても月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)には感知されないのだ。

 

《ケイネス・エルメロイ・アーチボルト。並びに間桐雁夜。盗人のごときこそこそとした訪問に関しては寛恕を賜します。今すぐに無礼を自覚し、退くのならば命までは取りません》

 

 柔らかに澄んだ声が、傲然たる女帝の貫禄を湛えて周囲一帯から発せられる。

 

 再びランサーに絞殺針金を切断させ、ケイネスは咳き込みながら答える。

 

「察するにあなたがアイリスフィールか。つまりここはあなたの工房というわけだな」

 

 口の端を歪める。

 

「――敵に退去をお願いするなど、自分たちは追い詰められていますと言っているようなものだな。問答無用で殺せばいいではないか。そんな弱腰では足元を見られるばかりだぞお嬢さん(・・・・)?」

 

《ッ! 警告はしました。後悔なきよう!》

 

 ケイネスはすでに、ランサーが迫りくる針金を警戒していたことを知っている。そして不可視の絞殺ワイヤーの切断に成功していたことも。

 

「どうやら切れ端それ自体が動いて首を絞めにかかってくるようです。我が主よ、あまりにも不利かと……!」

 

「いや、待ってくれランサー。それに関しては俺がどうにかできるかもしれない」

 

 ランサーは目を丸くする。

 

「どういうことです、雁夜どの」

 

「……ふん、なるほどな。大方読めたぞ。ではこのままセイバーを潰す。ランサー、お前はバーサーカーへの加勢を」

 

「りょ、了解しましたが……」

 

「ついでにこいつを持って行ってくれ。あいつには必要だろう」

 

 雁夜は肩から下げていた竹刀袋をディルムッドに手渡す。

 

「承りましたが、あの、本当に大丈夫なのですか?」

 

「問題ない。どうやらアイリスフィールとやらに対して俺は相性がいいようだ」

 

 そこで、今まで大人しくしていた桜が雁夜の腕を引っ張った。

 

「ねえ、おじさん、あそこ」

 

「うん?」

 

 小さな指先が指し示す方から、五歳程度の少年少女が泣きながら駆けて来ていた。キャスターが暗示でかどわかしてきた子供の一部だ。

 

「た、たすけて……!」「うあああああん」

 

「放っておけ。行くぞ」

 

「待ってくれケイネス。セイバーの対城宝具に対する抑止力として連れて行くべきでは!?」

 

「そんなものは間桐桜一人で十分すぎる。足手まといをこれ以上抱える気はない」

 

 ケイネスが踵を返し、その場を去ろうとした瞬間。

 

「ァ……!? ギ……ぎぃ……っ!!」

 

 ごきり、と。

 

 みちみち、と。

 

「い、たぁ、い……!」「や、やだ……!」

 

 幼子たちの骨格が音を立てて歪む。体のいたるところから腫瘍めいたものが発生し、際限なく膨れ上がる。顔は引き歪み、張り裂ける。

 

 雁夜とディルムッドは愕然と目を見開いた。

 

 彼らの目前で、何の罪もない子供たちは血肉を撒き散らして弾け、絶命した。

 

 後には、ぐじゅぐじゅと湿った音を立てながら蠢く、名状しがたい生物が多数そこに現れていた。



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