ケイネス先生の聖杯戦争 (イマザワ)
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プロローグ

 ――誰でも良かったわけでは断じてない。

 

 ディルムッド・オディナの胸にあるのは、今やその信念だけであった。

 

 それだけをよすがに、現界を保っている。

 

 理想の主だったとまでは言わない。現に、彼の唱える冷酷な指針には、これまで幾度も異を唱えそうになった。聖約(ゲッシュ)にて己を縛っておらねば、間違いなくそうしていただろう。

 

 だが、それでも。

 

 いまディルムッドの胸に満ちる誇りと、虚脱と、後悔は、紛れもなく彼に臣下の礼を取っておらねば味わいようもなかったものであったから。

 

「ガ……ふっ……」

 

 こみ上げてくる悪寒に身をよじる。冷たく熱い感触が喉元を灼きながらせり上がってきて、汚染聖杯の泥を嘔吐する。

 

 両脚はもはや腐り落ち、己が宝具(ほこり)は失われた。

 

 今のディルムッドは赤子よりも無力な存在で、その霊基は崩壊まで秒読みの段階にまで至っていた。

 

 それでも。

 

 ディルムッドは全霊をもって消滅に抗った。もはや何を成す力もないにも関わらず、英霊の座への送還を拒み続けた。

 

 ――まだだ。まだ還るわけには。

 

 何を期して現世にしがみついているのか、自分でも不明瞭なままに。

 

 脳裏によみがえるのは、今生において死闘を繰り広げた、いずれ劣らぬ強大なる英霊たちの顔。

 

 そして、ディルムッドがかつて尋常なる生命としてこの現世を生きていた頃、愛を交わした娘――エリンの王女()()()()の顔。

 

 あるいは、死後英霊の座に召されたのちも絶望的な悔恨となって胸を引き裂き続けた生前の主――フィオナ騎士団長()()()()()()()()の顔。

 

 そして、今生の戦いにおいて、奇妙な成り行きのもとに得た友。ブリテンの円卓において最強の呼び名も高い騎士の中の騎士、()()()()()()の顔。

 

 ディルムッドは今、身をよじるほどに、ランスロットに問いたかった。かの騎士は、出会ってから長いこと狂化の呪いに蝕まれており、ろくろく言葉を交わす機会すらなかった。

 

 それが、口惜しい。

 

 死に切れぬほどに、口惜しい。

 

 ――ランスロット。

 

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 無意味な問い。仮に問うことができたとしても、ランスロットには答えようもない問いであったろう。

 

 それでも問いたかった。きっとこれは嫉妬なのだ。自分がグラニアに抱く愛を、心のどこかで信じ切ることができなかったから。

 

 ディルムッドにとり、生きるとは奉仕であり、それはグラニアとの関りにおいても基本的には変わらなかった。求められたから、与えただけだったのではないか。

 

 ランスロットのような、命よりも重いはずの責務と誇りを捨て、愛を貫いたあり方に、ディルムッドは間違いなく嫉妬した。

 

 あぁ、だがそれも、もはやすべては無意味な妄執だ。ランスロットはとっくに今生を終え、英霊の座に還ってしまった。いまさらこの気持ちに、どのような決着も望みえない。

 

 そして――最後に思い浮かぶ、顔。

 

 撫でつけた金髪と、冷然たる瞳。こちらの誇りも、痛みも、一切共感を返すことなく、不条理な命令ばかり下してきた、ディルムッドの今生の主。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 

 きっと好かれてはいなかったのだろうと思う。だがそれでも、自分はサーヴァントとして運が良かったと、今では信じられる。きっとひとつでもボタンを掛け違っていれば、このような結末には至らなかっただろうから。

 

 ――誰でも良かったわけでは、断じてないのだ。

 

 決して。決して。

 

 誇りにかけて、それだけは全世界に高らかに言い放ってみせる。

 

 ディルムッドは、目を閉ざした。

 

 残り幾ばくも無い時間の中で、彼との出会いと、戦いのすべてを思い出そうとした。



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第一局面

「――率直に言って、信用できんな」

 

 帰ってきた返答は、無情の一言であった。

 

 ディルムッドはその場に跪いたまま、焦りに目を見開く。

 

 この反応は想定していなかった。

 

「信用、と申されましても……」

 

 困惑に眉を顰める。しかし、主の許可なく頭を上げる無礼は決して犯さない。

 

 何か行き違いがあったのだろうか? 俺は確かに聖杯戦争に召喚されたと思っていたが、実は違うのか?

 

 自分はサーヴァント――かつて人類史に偉業を刻み、死後に「英霊の座」と呼ばれる領域に魂を記録された英霊の一人である。正確にはそれそのものではないのだが、今は細かい定義の違いなどどうでも良い。

 

 1994年現在とは比較にならぬほど濃いエーテルに満ちた時代の人間であり、身体能力は後世の人間たちからすればまさしく神か超人かと思われるような凄まじい領域にある。

 

 その戦闘能力に目を付けた現代の魔術師たちが、七人の英霊を現世に召喚し、万能の願望機とも言われる「聖杯」の争奪戦をさせる大儀式――それが聖杯戦争である。

 

 聖杯によって植え付けられた知識と照らし合わせてみても、自分は紛れもなく聖杯戦争の参加者として現世に召喚されたはずである。

 

 ならば召喚と同時に目の前に現れたこの男こそが自分の(マスター)であり、共に聖杯戦争を戦ってゆく同志であると考えたのだが――

 

「私にへつらうおためごかしはやめて本心を言え。ただ私に忠誠を捧げることだけが願いだと? ずいぶん雑な作り話だな」

 

 そこなのか。

 

 確かにディルムッドは、召喚されてから真っ先に目の前の男に問われた。『聖杯にかけるお前の願いは何か』と。万能の願望機たる聖杯の力を使う権利は、召喚したマスターのみならずディルムッドらサーヴァントにも与えられる。ゆえに英霊たちは魔術師たちの召喚に応え、彼らのために殺し合いを演じるのだ。

 

 だが――ディルムッドには、聖杯にかける願いなどなかった。己の生前は悔いに満ちた悲劇として幕を下ろしたが、万能の願望機などという胡乱な存在によって過去を帳消しにしてもらおうなどとは思わない。それらは英雄として世界に刻んだ自らの足跡を否定する行いだ。そこまで誇りは捨てられない。

 

 ディルムッドの目は前を向いていた。悔いるべき生前は、苦い教訓として胸に刻み、これからのことだけを考えていた。

 

「――誓って、本心でございます、主よ。あなたに忠誠を誓い、共に誇りある戦いを駆け抜けること。我が胸中にあるのはその一念のみです」

 

 舌打ちの音も、歯ぎしりの音も聞こえはしなかった。だが騎士として研ぎ澄まされた感覚が、目の前の男の苛立ちを感知していた。

 

「そうか、あくまで白を切るか」

 

「決して、そのような――」

 

「面を上げろ!」

 

 まだ青年と言うべき若さの声だったが、しかし他者に命令することに慣れた倦怠と威厳が宿っていた。紛れもなく貴種に属する者に特有の、霊威。

 

 ディルムッドは弾かれたように顔を上げた。

 

 カソックのような紺色のローブを身にまとう、金髪の男が佇んでいた。腰の後ろで腕を組み、悠然とこちらを見下ろしている。



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第二局面

 ディルムッドは、その佇まいに思わず姿勢を正す。

 

 己の生前において、貴族とはすなわち武人であった。エリンの諸王国をまとめ、秩序をもたらし、外敵に命を賭して立ち向かう。そのために求められる資質は第一に武勇であった。エリンの上王たるコルマク・マッカートや、フィオナ騎士団長フィン・マックールの権威を裏付けていたものは、血統や人格よりもまず戦士としての実力である。

 

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 懐かしくも実直で、単純で、荒々しい世界。

 

 だが今、ディルムッドの前に立つ男からは、そのような牧歌的とも言える理屈では計り知れぬものを感じた。

 

 成人男性としては過不足ないが、さして鍛え上げているとも見えぬ痩身。フィオナ騎士団のどれほど下位の未熟者であろうと、腕の一振りで手もなく吹き飛ばしてしまえそうだ。

 

 頭ではわかっているのだが、ディルムッドは自分がこの御仁に対してそのような狼藉を働くさまを、どうしてもリアルに想像することはできなかった。

 

 その事実に驚嘆する。

 

 所詮は年齢も実力も実績もディルムッドに及ばぬ相手である。英霊への敬意なき不埒者には、腕力にものを言わせて格の違いをわからせたところで何も問題はあるまい。実際に、マスターに対してそのような態度で臨むサーヴァントもいる。

 

 だが、できなかった。

 

 ディルムッドは初めて「貴族」という言葉の意味を思い知った。貴き血筋の者が下々を跪かせるのは、強靭だからではない。貴族はただ貴族であると言うだけで、何の理由もなく理不尽に服従を強いることができるのだ。

 

 ――お前の生は私が決める。お前はただ伏して従え。

 

 そのような業。多数の民草の運命を胸三寸のうちに決定し、背負うという覚悟。武勇や器量によらぬ、純粋な貴族性。

 

 人類史が支配統制のために編み出した覚悟のシステムに、嫌悪と讃嘆という矛盾した想いを抱く。

 

 恐らく、ディルムッドの生前の戦友たちは、ほとんどがこの男の在り方を「退廃」と断じるであろう。実力の伴わぬ、張子の虎であると。それを否定する気はまったくないが、「根拠を必要としない権威」の有用性を無視しないわけにはいかないだろう。

 

 それは侵されざる権威だ。

 

 強さや、智謀や、人格を根拠とする権威とは、つまるところ実力主義だ。もし実力で臣下が主君を上回れば、容易く政変が起き、内乱が起き、流血を生む。そのような事例はありふれており、世は安定せず、民草はいつまでも苦しむことになる。だが権威に合理的根拠がないとなれば、もはや臣下がどれほど己を磨こうと、世を乱す恐れはなくなる。

 

 ディルムッドの時代にはなかった考え方だ。

 

 ――自分は、どうやら運が良い。

 

 誰でも良かったわけでは断じてないのだから。

 

 己を召喚したマスターが、他者を支配する覚悟を持たぬ下々であったなら、ディルムッドは上位者として彼を庇護し、穏便に聖杯戦争から逃れられるよう手を尽してやるだけであったろう。

 

 また、他者を虐げ殺すことに喜びを見出す外道であれば、そのような輩が口を開く前に己が魔槍にて相応しい誅罰を下し、憤然と座に還ったことであろう。

 

 マスターはサーヴァントをある程度選別できるが、サーヴァントはマスターを選ぶことなどできない。

 

 ――ゆえに、自分は運が良い。



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第三局面

「……あくまで誠意を見せるつもりはないというわけか」

 

 青い瞳はどこまでも冷たく、共感や同情の色など微塵もなかった。

 

 そして、こちらのことを微塵も信用していないであろうことも、ひと目でわかった。

 

 焦燥。こちらとしては彼をマスターと認めるに不足はないのだが、彼はこちらをサーヴァントと認めるに不足であるという。ケイネス・エルメロイ・アーチボルトという高貴な主君を得られた千載一遇の好機、手放すには惜しい。

 

 だが、わからない。彼はいったい、自分の何が不満だと言うのか。敵意や悪意を向けられたことは数知れずあるが、信用されなかった経験はない。

 

「……何度問われても、私の答えは変わりません。ただ、あなたに忠誠を捧げ、共に誇りある戦いを全うすること。それ以外の何も望みません。いったいこの答えの何がご不満なのか、私には理解の及ばぬことです」

 

 ぎり、と。

 

 今度こそはっきりと歯ぎしりの音がした。

 

「聖杯に望みを持たぬサーヴァントなどいるはずがなかろう! 貴様の妄言は二心を隠すためのものでしかありえんと知れ! もしそれ以上下らん茶番をつづけるつもりならば令呪に訴えることになるぞ!」

 

 ディルムッドは喉の奥で呻いた。令呪とは、七人のマスターに聖杯から与えられる、自らのサーヴァントへの絶対命令権だ。英霊たちにとってはもちろん不本意な鎖だが、合意のもとで支援目的に使用すれば、強力な武器にもなりうる。

 

 たった三回しか使えない切り札を、こちらの痛くもない腹を探るのに使うと言うのだ。端的に言って無為な浪費である。

 

 臣下として、主君の過ちは命を賭けて諫めねばならない。

 

 もはやこれまで。ディルムッドは覚悟を決めた。

 

「自害をッ!」

 

「……なに?」

 

「自害を、お命じ下さい」

 

「貴様、気でも触れたか?」

 

「我が本心はすでに述べました。しかしどうあっても信用して頂けないのならば、我が望みは戦う前から潰えたも同然。口惜しい限りですが、もはや現世に留まる意味もなし。自害をお命じ下さい。令呪もいただきません」

 

 大気が張り詰めた。

 

 沈黙が降り積もる。

 

「貴様は……」

 

 それ以降、言葉は続かなかった。

 

 ケイネスの貌は、一見してなんと名付けたらよいのかわからぬ感情によって歪んでいた。

 

 信じられぬ、理解できぬものを見る目。

 

 やがて、嗜虐に満ちた嘲笑へと表情は歪んでゆく。

 

「くく、大きく出たではないか。それで誠意でも見せたつもりか? 馬鹿馬鹿しい。ならば問おう――」

 

 不条理な貴種の霊威が、圧を増した。

 

「貴様の生前の活躍は知っている。天晴な武勇だが、さて、貴様は己の生きる道を何と定義する?」

 

「無論、騎士としての道です」

 

「即答か。だが聖杯戦争は甘い戦いではない。時として騎士道にもとる非情な術策を執らねばならぬこともあるだろう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。今ここで答えよ」

 

「それ、は……」

 

 口ごもる。予想だにしなかった問いであるから。生前においてそのふたつが矛盾することなどあり得なかった。フィン・マックールほど公正で寛大で勇敢な主君などおらず、忠誠と正義の板挟みになど陥ることはなかった。

 

「どうした。答えられんか。ハッ! 馬脚を現したな」



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第四局面

 跪いた膝を、握りしめる。

 

 恐らくこれは、ディルムッドの生き方の根幹を問う矛盾であるから。

 

 忠義と、騎士道。

 

 生前のディルムッドであれば、その二つに優劣をつけるなど到底不可能であったことだろう。

 

 だが今ここにいるランサークラスのサーヴァントは、正確には英霊本体の一側面を再現したものにすぎない。

 

 聖杯によって「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」という渇望を切り取ってコピー&ペーストされた存在である現在のディルムッドにとって、葛藤は必要であれど答えは出せる問題であった。

 

 頭を垂れ、口を開く。

 

「忠誠を、優先します。あなたに従います。ケイネスどの」

 

「つまり私の命令のために騎士道を踏みにじってもいいと?」

 

「ッ!」

 

 唇をかみしめる。揺れるな。これは千載一遇の好機。これを逃せば我が本懐が叶う可能性など芥子粒以下の大きさになると知れ。

 

 心の一部を殺しながら、槍兵は応える。

 

「騎士道よりも、ケイネスどのの命令を優先します」

 

「では他のあらゆる事情に優先して私の命令に即座に従うと、聖約(ゲッシュ)として誓え」

 

 呻きを噛み殺すことができなかった。

 

 そこまでするのか。

 

 聖約(ゲッシュ)とは、古代ケルトの戦士たちに通底する信仰であり、規範であり、呪術の一種であり、最も根本的な倫理である。単なる契約や約束事などとは違う。

 

 己の生涯において、任意の禁則事項を設け、誓いを立てる。これによってトゥアハ・デ・ダナーンの神々より加護を授かるのだ。誓いを破らぬ限り、その者は戦士としての基礎能力が圧倒的な向上を見せる。エリンにおいて戦士として大成しようと志すならば聖約(ゲッシュ)と無縁ではいられない。

 

 とはいえ、だ。

 

 それは西暦にして三世紀ごろ――いまだキリスト教化の波が押し寄せず、科学精神も培われてはいなかった頃の事情である。現代においてこの惑星は「例外なき絶対の物理法則」というテクスチャに覆い尽くされており、聖約(ゲッシュ)はその霊威を失っている。今さら誓いなど立てたところで、神秘的な強制力など発生しえない。

 

 それはわかっている。わかってはいる、が。

 

 聖約(ゲッシュ)を破ることは、どのような悪徳よりもなお圧倒的におぞましく不名誉な行いであった。加護と名声のすべてを失い、多くはその場で討ち死にする。古代ケルトの戦士たちは、死なないために聖約(ゲッシュ)を破るのではない。聖約(ゲッシュ)を破るくらいなら死ぬのである。

 

 ディルムッドの胸にも、その文化精神は根強く残っている。断じて軽々に為せるようなことではない。

 

 だが。それでも。

 

 それでも、だ。

 

 ――〈輝く貌のディルムッド〉も、こうなっては形無しだな。

 

 見下ろしてくる冷たい瞳。こぼれ落ち、ぶちまけられる水。

 

 生前の最期の記憶。

 

 恨みはない。ただ、己が成した裏切りの重さを痛感するばかり。

 

 もう二度と、繰り返したくはなかった。

 

 ディルムッドの中にあるのは、もはやその一念だけである。

 

「――誓います。モリガン神、ヴァハ神、バズヴ神よ照覧あれ! 聖約(ゲッシュ)として、私はケイネス・エルメロイ・アーチボルトどのに絶対の忠誠を誓います……!」

 



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第五局面

 ――自らの教え子に、本来活用するつもりであった召喚用触媒をかすめ取られた瞬間から、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは油断や甘さを完全に切り捨てることを決意していた。

 

 あのマントの切れ端が呼び出すであろう英霊がどれほど強大な宝具を有するかなど、少しでも歴史を聞きかじっていれば容易に想像がつくというものだ。

 

 ――確実に、やる。

 

 あの小物ながら頑固で意固地な少年は、必ずや征服王イスカンダルを召喚して聖杯戦争に参戦するつもりであろう。それはほぼ確信していた。金目当てに触媒を売り払って遁走するようなメンタルの持ち主では少なくともない。

 

 で、あるならば、当初の戦略は始まる前から破綻したということだ。

 

「ソラウ。作戦を変更することにした。君を冬木に連れて行く話はなしだ」

 

「あら……」

 

 燃えるような赤毛に、氷のような凛冽さを併せ持つ美女が、ケイネスの言に眉を引き上げた。

 

 ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ。〈時計塔〉降霊学科学部長の息女にして、ケイネスの許嫁だ。

 

 自らの婚約者ソラウと自分とでサーヴァント契約の(パス)を分割し、魔力的な負担をソラウが、令呪の行使を自分が担当するという変則契約術式は、強大な力を持つが燃費が劣悪なサーヴァントの運用にこそ真価を発揮する裏技である。

 

 ディルムッド・オディナのような、極めて燃費効率の良いサーヴァントを使役するにあたってはまったく不要な小細工であった。

 

 それどころか、弱点が増えるだけの愚行ですらある。

 

「私は不要?」

 

「そんな言い方はよしてくれ。君を危険に晒したくないだけだ」

 

「……ディルムッド・オディナは瞬間火力ではなく継戦能力に秀でるサーヴァントだったということね?」

 

 ケイネスは頭を掻いた。惚れた弱みというべきか。彼女に隠し事などできそうにない。

 

「さきほど実験して来たが、サーヴァントを全力で活動させつつ月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)を行使することに大きな問題はなかった。戦闘可能時間が多少目減りする程度だな」

 

 くすり、と軽やかな笑いをこぼし、ソラウはケイネスの肩に手を伸ばした。

 

 肩を払い、土埃を落とす。

 

「む……」

 

 眉を顰める。全力で動き回れとは命じたが、土埃で主君の衣類を汚せとは言っていない。所詮は古代の武辺者か。

 

「私がいなくても、身だしなみには気を使ってちょうだい。未来の夫が薄汚れた姿を晒しているなんて、我慢ならなくてよ」

 

「ソラウ、では……」

 

「武運を。あなたの帰りを、ここで待っているわ、ケイネス」

 

 彼女が示す優しさは、おうおうにしてケイネスが必要とするタイミングよりも遅いのが常であったが、今回ばかりは例外であった。

 

 ●

 

『今の御方が、ケイネスどのの奥方様ですか』

 

「そうだ。美しかろう? 間男の血でも騒いだか?」

 

『お戯れを。ソラウどのの前では決して実体化はいたしません』

 

「ふん」

 

 降霊科の廊下を歩みながら、ケイネスは霊体化したディルムッドにチラと目を向けた。

 

「……ランサー。聖杯戦争までには数か月の猶予がある。その間に、貴様にも戦いの準備をしてもらう」

 

『は。しかし、私は行住坐臥、戦の備えを怠りはしません』

 

「そうではない。そういうことではない」

 

 これだから、と侮蔑を交えてかぶりを振るケイネス。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

『は……?』

 

 ディルムッド・オディナが今生の主より賜ることになる、数々の不条理な命令。

 

 これはその最初の一つだった。



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第六局面

 ――何故、こんなことに。

 

 ディルムッドは口を波線状にむにゃむにゃさせながら、今生の主の魔術講義を拝聴していた。

 

 生前において、魔術呪術のたぐいに手を出したことはなかった。そのようなものに頼ることは、騎士としてはいささか似つかわしくないと考えていたから。

 

 とはいえ、聖約(ゲッシュ)として誓ったからには、もちろん「魔術を修めろ」という命令にも躊躇なく従うつもりでいる。

 

 それはいい。そこはいいのだ。

 

 問題なのはそこではない。

 

「なぜ……」

 

 つい口に出る。

 

 とたん、隣の席に座っていた降霊科(ユリフィス)の男子生徒が、好奇と怪訝の入り混じった視線を向けてくる。

 

 周囲をひそひそとした喋り声がさざ波のように広がった。朗々としたケイネス・エルメロイ・アーチボルトの講義のあわいを縫うように、講堂の全生徒からチラチラと盗み見るような視線がディルムッドに集中している。

 

 板書される「全体基礎」の概論を機械的にノートに写しながら、ディルムッドは中央に寄りそうになる眉を定位置に維持するのに苦心していた。

 

 ――我が主よ、なぜ一般の学徒と席を同じくせねばならないのですか。

 

 どう考えても無用な注目を集めるに決まっているではないか。自分はサーヴァント。この世のものではない。現世のよしなしごとに深く関わるべきではないのだ。

 

 もちろん、事前にその旨は主に陳情した。だが帰って来た答えは無情であった。

 

 ――私は鉱石科(キシュア)の学長として、降霊科(ユリフィス)の講師として、多忙な身だ。お前ひとりのためにわざわざ個人講義などしてやれるほど暇ではない。

 

 ではせめて霊体化した状態で教えを拝聴したい、と返せば、

 

 ――貴様、このロード・エルメロイの講義に対してノートも取らんつもりか? つまり「魔術を修めろ」という私の命令を誠実に実行するつもりがないと?

 

 ペンを持ち筆記を行うには実体化の必要があるのは確かである。だが、いや、しかし。

 

 何も言い返せず、その場は引き下がるしかなかった。

 

 ともかく、ディルムッドの184センチメートルの優美な長身は、ほぼ全員が未成年者である学び舎において強烈に目立っていた。一応、自前の戦装束ではなく、当世風のスーツに着替えてはいるが――まるで花が揺れ蝶が舞う草原の只中にいきなり巨大なビルディングが屹立しているような、違和感しかない情景である。

 

 扇状に広がり、教壇に向かって傾斜してゆくタイプの講堂ゆえに、後ろの生徒の学業を邪魔せずに済むのは不幸中の幸いだったが、ディルムッドにとっては特に何の慰めにもならなかった。

 

 この場の少年少女らは、卵とはいえ魔術のエリートたちである。聖杯戦争の何たるかも理解しているはずだ。ロード・エルメロイがいきなり連れて来た男の正体について、察している者が大半であろう。

 

 ――ええい、とにかく集中だ。

 

 左右や後ろの視線から強引に意識をそらし、マスターへ目を向ける。

 

 伸びやかで深い声が、魔術の根幹をなす等価交換の原則について論じている。

 

 有を、また別の形の有へと変換する術こそが魔術であり、無から有は生まれ得ないという。

 

 その原則、というか、それを当然の前提とする思想、文化に、ディルムッドは漠然とした反感を抱いた。



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第七局面

 あるものを差し出して、それと等価な別のものを得る。

 

 ――それでは価値の総量が増えないではないか。

 

 もちろん、あるものが、見る人によってまったく異なる値打ちをつけられるであろうことはわかるし、適切な組み合わせで等価交換を行えば実質的に価値を増大させることができるのも理解できる。

 

 だが、迂遠である。

 

 その「適切な組み合わせ」とやらを発見するのに、また余計な労力がかかるではないか。

 

 何かを与えられねば、相手に与えてはならないというのか。

 

 見返りがなくば、奉仕してはならぬというのか。

 

 それで本当に、万民が幸福を勝ち取れると言うのか?

 

 ディルムッドは小さくかぶりを振る。

 

 やめよう。時代が違うのだ。聖杯によって与えられた最低限の知識で測れるほど、現代社会は単純ではないのだろう。客人(まれびと)の身で、出過ぎた考えであった。

 

 だが、腹のどこかで、納得のいかないものが蟠り続けていた。思考より前のレベルで、等価交換という考え方を受け入れることがどうしてもできない。

 

 ディルムッドにできたのは、そうした思いに蓋をすることだけであった。

 

 ●

 

「では本日はここまで。各自復習と修練を怠らぬよう。次回の講義までに課題は提出すること」

 

 神経質で偏屈な印象を受けるケイネス・エルメロイ・アーチボルトという人物だが、意外にも教師として非凡な才覚を示していた。

 

 講義の内容は理路整然としていたし、生徒の質問にも柔軟かつ明瞭に対応している。貴種に特有の堂々たる物腰と声量は否応にも耳を傾けずにはおかず、なにより自らの有する適度な威圧感を、教員として巧みに使いこなしていた。

 

 決して生徒に好かれるようなタイプではないが、そもそも講師の本義は生徒に好かれることではない。生徒を成長させることである。その意味において、天才肌としては珍しく師としても優秀な人物であると言えた。

 

 ――この成果を、彼はきっと彼なりに努めて勝ち取った。

 

 そのことを思うと、ディルムッドは主に対して、一言では言い表せない感慨を覚えた。彼は彼なりに自らの生徒たちを愛してはいるのかもしれない。

 

「あ、あの……オディナさま……でしたよね?」

 

 問われて振り向く。席を同じくした女生徒たちが、自らの持ち物を抱きしめながら、所在なげに立っていた。

 

「はい。何か?」

 

 問い返しながら、ディルムッドは内心肩をすくめた。生前においても見慣れた展開である。目の下にあるホクロは、とある妖精族の女との悲恋の結果得たものだ。乙女の心をとろかす魔力を有する。

 

 いささか厄介なことに、ディルムッドが何もせずともホクロを見られただけで魅了の力が発揮されてしまう。

 

「あの、わたしたち、これからランチなんです。も、もし良ければオディナさまのお話を聞きたいな、って……」

 

 もじもじと顔を赤らめながら昼餉の誘いをかけてくる少女たちをいじらしく思いながらも、ディルムッドは丁重に断った。

 

「お誘い嬉しく思います、レディ。しかし申し訳ない、すでに先約があるのです。語らいはまたの機会にということで」

 

 そして、包み込むように微笑んだ。

 

 少女たちは途端に顔を真っ赤にし、誰もディルムッドの顔を直視できたものはいなかった。

 

 その一瞬の隙に、速やかに霊体化する。

 

 ――やれやれ、サーヴァントの身の上でなければどうなっていたことやら。

 

 深く息をついた。



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第八局面

 三か月の時が経過した。

 

 結論から言うと、ディルムッドの修行は一定の成果を見た。

 

 その霊基の中には、数こそ少ないものの魔術回路が生じ始めていた。

 

 元から神秘の塊であるサーヴァントの肉体に、人工的な神秘を繰る術は定着しやすかったのか、ただの人間が魔術を修めるよりもだいぶスムーズに課程をこなしていった。

 

 今やディルムッドは、どうにか「見習い」の域を脱しかけている。もっとも、その本質は魔術師ではなく魔術使いではあったが。

 

 ●

 

「使い魔を量産せよ」

 

 あるとき、小源(オド)の観想のための瞑想に明け暮れていると、今生の主たるケイネス・エルメロイ・アーチボルトがやってきた。

 

 その背後には、銀の流体が楕円状に蟠りながらついてきている。まるで忠実な家令か何かのように、音もなく主に付き従っていた。

 

 魔術礼装――月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)。ケイネスの意のままに形を変え、攻撃・防御・索敵に活用可能な必殺武器である。

 

 艶やかな水銀の従者は、大気の僅かな流れによって表面にさざ波を立てている。写り込んだ周囲の景色が不規則にゆらめいた。

 

 その背中――というか上部というか――には、何故か異臭のする袋が載せられていた。幾本かの銀の触手によって抱えられている。

 

「は……我が主よ、それは一体……」

 

「だから、使い魔を量産せよ」

 

 月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)がディルムッドの前に袋を置いた。

 

 ケイネスが顎で示すので、やや躊躇いながらもディルムッドは袋のとじ紐をほどいた。

 

 中身を目の当たりにした瞬間、呻きが漏れる。

 

 大量のハツカネズミの死体が詰め込まれていた。

 

「生贄用の貯蔵を取り寄せた。すべて雌だ(・・・・・)。あとはわかるな?」

 

 ディルムッドのホクロに秘められた魔力は「魅了」である。相手がほとんど知恵持たぬ小動物であれば、「魅了」を通り越して「支配」の域まで術をかけることも可能だろう。

 

 本来、使い魔の操作にかかる魔力消費を、ホクロに肩代わりさせることによってコストパフォーマンスを向上させ、使い魔の大量生産をさせようというのだ。

 

「我が主よ、もしやこのために私に魔術を……?」

 

「まさか。これはただのついでだ。貴様に魔術回路を開かせた理由は別にある。それから――」

 

 ケイネスは懐より、奇妙な物品を取り出した。

 

 刺々しくも禍々しい装身具に見えた。中心に切れ長の目のごとき穴が開いている。どうやら右目の周囲のみを覆う仮面のようなものらしい。

 

「さる高名な人形師の作品だ。さすがに魔眼すら封ずる冠位魔術師。畏怖すべき完成度だな」

 

 試しに装着して見ると、肌に吸い付くように馴染み――直後に痛みが走った。

 

「ぐっ……!?」

 

「微細な棘を伸ばし、毛細管現象によって貴様の血を内部に取り込んでいるのだ。これによって霊的に接続され、貴様と一緒に霊体化できるようになる。基本的にはつけておけ。そのホクロから真名を暴かれることもあろう」

 

 ディルムッドは、己のホクロから野放図に放射されていた魔力が、仮面によって堰き止められていることを感じ取った。生前にこのような魔具と巡り会えていれば、あるいはもう少しマシな最期を迎えられたのであろうか。

 

 ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは踵を返した。

 

「使い魔の製作に専念せよ。最低でも千体はこさえてもらう」

 

「は……仰せのままに」

 

 相変わらず、主の意図はよくわからない。それほど大量に作っては、必然的に一体ごとの性能は落ちる。満足な偵察活動など望めまい。



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第九局面

 ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは、宝石魔術の応用によって転写された書類を子細に読み込んでいた。

 

 間諜からの報告である。

 

 今次の聖杯戦争に参戦するマスターの情報だ。

 

 アインツベルンからはアイリスフィール・フォン・アインツベルン。どうやらホムンクルスをマスターに仕立て上げているようだ。錬金術の大家たる血統と技巧の精髄であり、魔道の探究者としても大いに興味をそそられる存在である。もしも捕らえることが叶うなら、是非とも解剖し、その神秘を解き明かしたいものだ。

 

 また、アインツベルンは他にも外来の魔術師を雇い入れたようだ。衛宮切嗣。政情の不安定な紛争地帯で相当に荒稼ぎしてきた魔術傭兵だ。彼の関わった案件では、高確率で魔術師が奇妙な失踪を遂げており、不気味の一言である。

 

 間桐からは間桐雁夜。出奔し、刻印も受け継がなかった半端者を強引にマスターにしたらしい。勝負を捨てたのか。あるいは何かあるのか。

 

 遠坂からは当主の遠坂時臣。知らぬ男ではない。極東の猿にしておくにはもったいないほど貴種としての立ち振る舞いを弁えた者だ。魔術師としても一流。資産も充実しているので半端な触媒など用意しないだろう。間違いなく強敵となる。

 

 どういうわけか聖堂教会からも参戦者がいる。言峰綺礼。教会と深い関りのあった遠坂時臣にいかなる経緯か弟子入りし、令呪の発現に伴って師と袂を分かったらしい。不自然な経歴だ。なぜ教会の代行者が魔術師に弟子入りなどするのか。裏に何かあるに違いない。

 

 そして、征服王イスカンダルのマントの切れ端を盗んでいった我が生徒、ウェイバー・ベルベット。間違いなく参戦してくる。断言してもいい。魔術師としては正直何の脅威も感じないが、持っている触媒が触媒だ。絶対に対策は考えておく必要がある。潜伏場所がさっぱり割れないのも不可解だ。

 

 そして、未だ正体を掴ませぬもう一人のマスター。あるいはこの六人目こそが衛宮切嗣なのかもしれない。つまりアインツベルン勢は、二つの陣営の連合である可能性が否定できない。当然、まともに勝負せず仲間割れに追い込むべきだろう。

 

 ――さて。

 

 以上を踏まえたうえで、いかなる戦略をもってことに挑むべきか。

 

 第一に情報戦を制し、敵サーヴァントの真名と性能を探ること。第二にキャスターの居場所を洗い出し、可及的速やかに討ち取ること。

 

 よほどの変わり種でもないかぎり、キャスターの英霊ならば工房を敷設し、地脈から魔力を取り出すなり、魂食いを敢行するなりで力を蓄え、何某か大きな企てを実行に移そうとするであろう。キャスターに時間を与えていいことなど一つもない。

 

 ただ、それ以降の戦略となると、今のところまったく立てることができない。とにかく情報が欲しいのだ。

 

 とはいえ――敵同士が潰し合ってくれるのを期待して穴熊を決め込むべきではないと直感している。戦況に対応するのではなく、主体的に戦況を構築し、常に主導権を握り続けなければ、到底かの征服王を相手に勝機を見出すことはできない。そんな気がしてならなかった。

 

 瞬間。

 

『我が主よ。使い魔千体、用意が完了いたしました』

 

 その念話が届くと同時に、ケイネスは立ち上がった。

 

「よろしい。では冬木に向かう」

 

 戦を制するのは巧遅よりも拙速である。




準備フェイズが終了しました。いよいよ楽死い聖杯戦争です。


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第十局面

 アサシンのサーヴァント、「百の貌のハサン」は、唐突に真横へと腕を振るった。

 

 ほっそりとしなやかな腕が鞭のように翻り、閃光のごとき投擲を放つ。

 

 音の壁を悠々と突破した短刀は、致命の直線を描いた。

 

 単なる刃物が立てるとは到底思えぬ鈍い音。

 

 そこでようやく百の貌のハサンは標的へと顔を向けた。後頭部で結わえられた青紫の髪が艶やかに揺れる。

 

 ネズミが壁に縫い留められ、絶命していた。

 

 微細な魔力を察知し、恐らく使い魔の類であろうと体が勝手に動いたのだ。

 

 反射的な行動だったが、あの使い魔は何一つ行動することはなく、自分の主に何一つ情報をもたらせず、斥候としての役割を何一つ果たさぬまま生を終えた。

 

 どのような機能を持っているか不明な以上、捕まえて調べるよりは即座に殺した方がよかろうと判断する。

 

 間諜の英霊として完璧な仕事を果たした。

 

 己の主でもない遠坂邸を警護するのは気の進まぬ命令であったが、それが言峰綺礼の意志とあらば是非もない。

 

 契約は必ず遂行する。それが「ハサン」の名を襲った者たちの誇りであるから。

 

 ほっそりと女性らしい曲線を描く体躯を霊体化させ、姿を消した。

 

 ●

 

 ライダーのサーヴァント、「征服王イスカンダル」は、頬杖をついて寝っ転がり、煎餅を齧っていた。

 

 ブラウン管に映るのは、『実録・世界の航空戦力パート3』。聖杯を獲ったのち行われるべき世界征服に向けてのリサーチである。

 

 画面の中で飛び回り、銃火を吐き出す鋼鉄の怪物たちの姿は、心躍る光景であった。人類は神々の手を借りずして大空をものにするに至ったのだ。実に痛快ではないか。

 

「あっ、くそ、また殺された!」

 

 すぐ横では、イスカンダルのマスターであるウェイバー・ベルベットが悪態をついていた。あどけなくも癇癖の強そうな少年だ。

 

 どうやらまた使い魔が殺されたらしい。今回は確かスズメを使い魔に仕立て上げたようだが、無駄に終わったと見える。

 

「どうなってんだ!? 遠坂の敷地に入ってすらいないんだぞ!? また何にもわからなかった!」

 

「のう、坊主。そんな根拠地が分かり切っとる敵の監視なんぞ遠巻きで良かろう。それより居場所が分からない敵を探し出さんか」

 

「そんなことできるわけないだろ! 冬木市に限定するにしても、あてずっぽうに使い魔を飛ばして敵が見つかるなら誰も苦労しない!」

 

「そうは言うが、のう?」

 

 イスカンダルは身を起こし、無造作に腕を伸ばした。サーヴァントとしては鈍重な部類に属するが、それでも常人の目に捉えられるような動きではない。

 

 ころりと丸っこい指先に、小さなネズミが尻尾を捕らえられていた。吊り下げられ、じたばたともがいている。

 

「ほれ、こうして敵も勤勉に我らを探しとるぞ?」

 

「嘘だろ!? どうやってここがわかったんだ!?」

 

「ま、どうでも良いわ」

 

 征服王は手を振り、ネズミを窓から外へと放り投げた。

 

 そして、分厚い筋肉の鎧に包まれた巨躯に思い切り伸びをさせ、豪快に欠伸をひとつ。

 

「お、おまっ、おまおま、おまえなにやってんだよ!! わざわざ敵の使い魔を逃がすなんて!」

 

「たわけ」

 

 言い募ってくる少年をデコピンで黙らせると、イスカンダルは不快げに息をつく。

 

「あの使い魔、ほとんど何の魔力もなかった。隠蔽能力に優れているのではなく、実際に何もできない役立たずよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「えっ……?」

 

「小賢しい(はかりごと)の匂いがする。無視に限るわい」

 

 煎餅をもう一口かじった。紅毛に覆われた逞しい顎が力強く動き、咀嚼する。



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第十一局面

 ディルムッドが放った千体の使い魔たちには、情報を収集する機能はおろか、主と感覚を共有する機能すらない。

 

 ハツカネズミの外見から推し測れる以上のことは何一つできない。一般人の子供よりも無力な存在である。

 

 ●

 

 バーサーカーのサーヴァント、「湖の騎士ランスロット」は、獣のような低姿勢で実体化した。

 

 喉の奥で低い唸りを上げながら、狂乱に濁った瞳を左右に走らせる。魔力の消費を抑えるために、黒い全身甲冑は纏っていない。だが、バーサーカーを一見してわかる情報などその程度であり、どのような年恰好の人物なのかはまるで判然としない。その姿は常にぼやけ、霞み、二重三重にブレていた。

 

「っ……、どうした、バーサーカー」

 

 荒い喘鳴を発しながら問うてくるマスターを無視し、ランスロットは突如雷光のごとき速度で床を蹴った。

 

 瞬間的に跳ね上がる魔力消費に、マスターの間桐雁夜は呻く。

 

 バーサーカーの手が、無力な小動物を捕らえていた。微弱ながら魔力の匂いがする。

 

 ハツカネズミを顔の真上に掲げ、何の抵抗もなく握り潰した。絞り出されてきた血肉を、頬も裂けんばかりに開かれた口で飲み干す。

 

 聖杯によって植え付けられた狂乱の呪いによって理性を失ったバーサーカーだが、マスターの魔力供給に大いに不安が残るであろうことは本能的に悟っていた。

 

 ごくわずかだが、これでも多少の足しにはなる。

 

 ●

 

 ハツカネズミたちが向かった先で何を目撃し、何をされようが、それをディルムッドに伝える手段など持っていないのだ。

 

 できることはただひとつ。

 

 ディルムッドの思念に従って移動すること。

 

 ただそれだけである。

 

 ●

 

「御覧なさいリュウノスケ。なんと愛らしい玩具でしょう」

 

 キャスターのサーヴァント、「青髭公ジル・ド・レェ」は、巨大な目玉をぎょろつかせながら慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

 

 その掌の上にはハツカネズミの使い魔がぐったりと身を横たえている。

 

 自分の顎を掴みながらしげしげと差し出された小動物を眺めるのは、剽軽でありながらどこか余裕と威厳を有した年若い青年である。

 

「えっと、旦那。それは……イケニエとか? そういうの?」

 

 ジル・ド・レェのマスター、雨生龍之介は眉をひそめて問う。彼は目先の快楽を求めて無辜の市民を何人も惨殺してきた連続殺人鬼であったが、動物にはほとんど何の興味もなかった。畜生をいくら虐げたところで、そいつの人生観が滲み出るような奥深い反応など期待できないからだ。

 

「まさかまさか。なんと恐ろしいことを言うのですリュウノスケ。こんなに愛らしいのに」

 

 キャスターでありながら意外なまでに鍛え上げられた手が、優しくハツカネズミの背を撫でる。

 

 そして、猿轡を噛まされ、両手足を拘束された幼い子供の前にしゃがみ込んだ。

 

「小鍋と火を用意なさい、リュウノスケ。このモフモフした可憐な天使の正しい使い方を御覧に入れましょう」

 

 意味を理解したわけではない。これから起こることを推察できたわけもない。だが縛られた幼子は、くぐもった悲鳴を上げてその場から逃れようともがいた。

 

 すべては無意味だった。



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第十二局面

 ディルムッド・オディナは、なんとも言えない面持ちで、一斉に集結してきたハツカネズミの使い魔たちを眺めていた。

 

 ケイネスが買い取った一軒家の庭先に、約千匹が一斉に後ろ足で立っていた。こちらの命令を待っている。鳴き声ひとつあげず、じっと見上げてくる。無遠慮に降り注ぐ日の光が、彼女らの黒い眼に光沢を与えた。

 

 一匹一匹は愛らしいと言えなくもないが、ここまで大量にひしめいていると、正直見ていて気分のいい光景ではない。

 

 彼女らを使役するために、まっとうな宿泊施設を利用することはできなかった。ゆえにディルムッドの基準からするとまるでウサギ小屋のような間取りしかないこの家屋を拠点にせざるを得ないのだ。

 

「で、どうなのだ、ランサー」

 

 

「……少々お待ちを」

 

 貴族としての誇りと自負の強い我が主が、自らの在り方を曲げてこの家を拠点として買い取ったとき、ディルムッドは意外の念に打たれた。

 

 ならば臣下としても成果を出さねばなるまい。

 

 

 片目を覆っていた刺々しい魔具を外す。ホクロの魔力が解放され、使い魔たちとの絆をより強く感受する。全身に開いた魔術回路に疼痛が走る。

 

 ここまで使い魔の至近にいれば、彼女らとの絆が途絶えていないかどうかはすぐにわかる。

 

「…… ל(ラメッド)- twelve(トゥエルヴ)ל(ラメッド)-thirteen(サーティーン)מ(メム)-twenty(トゥエンティ) eight(エイト)ח(ヘット)-forty(フォーティー)ס(サメフ)-five(ファイブ)צ(ツァディ)-forty(フォーティ) three(スリー)の六匹が帰ってきておりません」

 

「ふん」

 

 ――冬木市は東西に長く伸びた都市だ。

 

 ゆえに、その全域地図を20×50のマス目に分割し、それぞれのマスに一匹ずつ使い魔を向かわせる。

 

 使い魔自身に情報収集能力などないが、しかし()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そこには日本の環境では珍しくもないハツカネズミをわざわざ捕らえたり殺したりする何かが居るということだ。

 

ל(ラメッド)- twelve(トゥエルヴ)は遠坂邸の位置だ。ここが帰ってこないのはわかりきった話だが―― ל(ラメッド)-thirteen(サーティーン)が帰ってこないのは気になるな。間桐邸に近いが、ややずれている」

 

 ケイネスは腕を差し伸ばした。

 

apparent(面を上げろ),mei(我が) diaconus(奴婢)

 

 手首のあたりに空間のわだかまりのようなものが発生する。

 

 そこだけ気圧が明らかに異なり、可視光を歪めているのだ。

 

 やがて魔術迷彩が解除され、一匹のスズメが現れた。

 

 「風」と「水」の稀有な二重属性を有する魔術師、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトが、流体操作の技巧と魔力のすべてを駆使して創造した使い魔だ。

 

 他を絶する圧倒的な機動力と、光学的・魔術的な迷彩能力、三種類の高度な魔力探査能力、鋭利な風の刃を放射する戦闘能力――そしてもちろん主と感覚を共有する機能もぬかりなく備わっていた。

 

 千のネズミを用いた策略の悪辣な点は、魔力を有している以上聖杯戦争の参加者としては対処しないわけにいかないことと、たとえ捕らえて調べ上げたところでディルムッドの稚拙な魔術の痕跡しか解析できないことが挙げられる。

 

Dilectus(指定) quaerere(索敵)

 

 下知を受け、濃密な神秘とシステムを有した小鳥は飛び立っていった。

 

 その速度は、ディルムッドの動体視力でなくば認識不可能な域にあった。



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第十三局面

「……ビンゴだ」

 

『はい。こちらでも確認しました』

 

 ワルサーWA2000セミオートマチック狙撃銃の、不釣り合いなまでに巨大な暗視スコープを覗き込みながら、衛宮切嗣は目を細めた。

 

 レティクルの中心付近では、二人の男が古びた日本家屋の庭先に佇んでいる。

 

 一方は情報にあったケイネス・エルメロイ・アーチボルト。もう一方は彼の召喚したサーヴァントであろう。

 

 彼らの前には、目を疑うような数のネズミたちが集まってきている。いかなケイネスが「神童」ともてはやされる天才であろうとも、あんな無茶苦茶な数の使い魔を使役できるはずがない。してみるとサーヴァントの能力ということになるが――

 

 衛宮切嗣は聖杯戦争に参戦するマスターの一人であり、サーヴァントを視認したらその能力値を脳裏に感受する能力もまた他のマスターと同じく得ている。

 

 あのサーヴァントの能力値(パラメータ)は明らかに白兵戦を前提とするものだ。間違ってもキャスターのクラス適性を得られるようなタイプではない。

 

 切嗣は無線に語り掛けた。

 

「片目だけを覆う奇妙な仮面をつけ、小動物を大量に使役する能力を持つ、白兵戦重視の英霊……舞弥、君は心当たりはあるかい?」

 

『そもそもさして詳しくもありませんが、聞いたことはないですね』

 

 ステアーAUG突撃銃を構えて別方向からケイネスらを監視しているであろう硬質の美女――久宇舞弥は、淡々と答えた。

 

 無理からぬ話だ。彼女にとって人生と呼べそうなものは、衛宮切嗣という慈悲なき殺戮機械の機能を補助・保守するためのサブユニットとしての生である。神話や歴史のお勉強などができるほど余裕のある暮らしではなかった。

 

 二人は既にケイネスらにいつでも十字砲火を叩き込める位置についていた。

 

 彼らが稚拙で無力なネズミの使い魔を捕らえたのは、ほんの三十分前のことである。

 

 ――よほどの未熟者が分も弁えず参戦しているのか……あるいは。

 

 実に、ケイネスの仕掛けた情報策略の本質を朧げに理解し、無視するのみならず逆に利用してのけたのは衛宮切嗣のみであった。ネズミの腹を手早く切開して、軍用発信機を埋め込んでいたのだ。

 

 結果、最速でランサー陣営は最も危険な男に本拠地の位置を特定されるに至ったのである。

 

『仕掛けますか? 同時に撃てば、ケイネスを仕留められる可能性はあります』

 

 一瞬、思案する。

 

 サーヴァントは濃密な神秘の塊であり、魔力の関わらない物理攻撃では傷一つつけることはできない。だが、マスターはそうではない。

 

「……やめておこう。仮面の色男の敏捷性はA+ランク。サーヴァント基準でも最高峰だ。予想しない方角から超音速で飛来してきた小さな礫に反応して叩き落とすぐらいのことは造作もないだろう。それに、名にし負うロード・エルメロイが何の防護術も備えてないとは思えない」

 

 切嗣はスコープから目を離し、潜伏していた家屋の壁に隠れた。煙草に火をつける。

 

 ライターの火が、中年と呼ぶには若すぎるが、あまりにもくたびれすぎて老いているような印象を与える男の姿を浮かび上がらせる。

 

「しばらくは監視だ。彼らが他の陣営と事を構え、サーヴァントの意識が己の主から離れた瞬間を狙う」

 

『了解』

 

 だが、長期戦となるかに思われた監視は、ほどなく終わりを迎えることになる。



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第十四局面

「……もう動くのか」

 

 日が落ち、夜の帳が住宅街を覆い尽くすと、ケイネスはすぐに外出した。傍らには霊体化したサーヴァントを侍らせているのだろう。

 

 切嗣はライフルを分解して携行する。十五秒程度ですべての部品がガンケースの中に納まった。芸術的なまでの早さだ。

 

()けるとしようか。「神童」のお手並みを拝見だ」

 

『了解』

 

 もちろん、家主が去ったあとの家屋にクレイモア地雷によるトラップを備え付けていくことは忘れなかった。

 

 ●

 

 スズメの使い魔は、ほとんど一瞬で確度の高い敵の位置情報を送り込んできた。

 

 ネズミが帰ってこなかった区画を、魔力的なパッシブソナーで浚い、アクティブソナーで位置を特定し、収束ソナーで敵陣の精密な情報を習得。

 

 パッシブソナーとは、要するにごく一般的な魔力感知能力だ。相手が垂れ流す魔力を嗅ぎ当てる。走査精度は低く、おおまかな位置しかわからないが、相手に気づかれる心配はない。

 

 アクティブソナーは、自分から魔力の波を放射し、その反響パターンから強い魔力を持った存在の座標を定位する。高い精度を誇るが、位置を特定した事実を相手に察知されてしまうため、仕掛ける直前にしか使えない。

 

 収束ソナーは、アクティブソナーの前方収束版だ。位置を特定した相手に浴びせ、体格、人数、拠点の内部構造、魔力量、そして緻密な反響パターンのデータをケイネスが脳内で解析することによりクラスすらも特定できる。

 

 最初の一回でいきなり当たりを引いた。

 

 ――これは……バーサーカーの霊基パターンか。

 

 タクシーに揺られながら、ケイネスは目をすがめた。

 

 霊体化しているため、物理的な体格や姿かたちは不明。そばにひとりの男が蹲っている。呼吸が荒い。これが間桐雁夜か。

 

 彼らの居場所は、遠坂邸にほど近い座標の地下下水道だった。

 

 なるほど地下から遠坂の出方を窺い、マスターやサーヴァントの行動を監視していたのだろう。

 

 すぐに攻め入らないだけの理性はあるようだが、率直に言って「あの」遠坂時臣に抗しえるような陣営には見えなかった。放っておけばバーサーカーの魔力消費を賄えず、自滅することだろう。

 

 だが、ケイネスとしては別の思案もあった。

 

『ランサー』

 

 そばに霊体化して侍る従僕に、念話で語り掛ける。

 

『は』

 

『これよりバーサーカー陣営に仕掛ける。ただし〈必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)〉の開帳は禁ずる』

 

『は……?』

 

『ただの槍として使うことは問題ないが、回復阻害の呪いは発動を禁ずる』

 

『わ、我が主よ、無論のこと、あなたに勝利の栄誉を捧げるために死力を尽くしますが、敵もまた英霊。いかなる力を持つかわかりません。そのような相手に対し片手落ちの姿勢で挑むのは……』

 

『いつ私はお前に口答えを許した?』

 

 言葉にならない呻きが伝わってくる。

 

 やがてタクシーを降り、下水道へ続くマンホールの前に立つ。

 

「やれやれ、降りねばならんか」

 

 深く深くため息をつく。

 

「先行しろ、ランサー」

 

『……は』

 

 青き槍兵が実体化。鉄の蓋に開いた排気用の穴に指を突っ込んで容易く持ち上げた。



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第十五局面

 ――無意味なことをしようとしているし、自分はきっと犬死する。

 

 間桐雁夜は痙攣する己が手指を眺めながら、冷静に自分の状況を確認した。

 

 血の気が引き、いたるところに瘢痕の浮き出た手の甲。それは手だけに限らず全身が同じ惨状だった。

 

 我が身に巣食う刻印虫は、数だけで言えばそれなりの格の魔術回路として機能するだろう。だが肝心の雁夜自身に魔術戦闘の心得などない。

 

 桜や臓硯の前では気を張って毅然とした顔をしていたが、いざ一人になれば自分のやろうとしていることの無謀さに笑ってしまいそうになる。

 

 相手は「あの」遠坂時臣だぞ?

 

 魔術を唾棄し、一般人と同じ暮らしを送ってきたことに後悔は一切ない。だが、培った経験の差はことここに至って残酷だった。もはや時臣という男への憎悪で立っていると言ってもいい雁夜にとり、現状はあまりに暗い。

 

「……それでも、止まるわけにはいかない」

 

 すべてを覚悟したうえで、雁夜は聖杯戦争という場に立っているのだ。聖杯を獲る。そして間桐桜を救う。人生の最期を飾る目的としては悪くない。自分のような凡人にはいささかヒロイックすぎるくらいだ。

 

 だが、自分に酔うことが、ほんのわずかでも前に進む力になるのなら。寸毫でも桜を解放する可能性に資するならば。

 

「いくらだって酔ってやるさ」

 

 指を、握りしめる。青黒い静脈が浮き出る。

 

 ――だが、やはり間桐雁夜は視野が狭窄していた。

 

 敵が遠坂時臣一人であるなどと誰も言っていないのに。時臣以外の誰も、自分の命を狙ってこないなどという荒唐無稽な楽観を、無意識下とはいえ信じてしまっていた。

 

 頭ではわかっていても、どこか現実感のない危惧だった。

 

 根本的に魔術師でもなければ戦闘者でもないがため――そして何より、間断なく肉体を刻印虫に食い散らかされる苦痛が、彼から当たり前の思考を奪っていた。

 

 ついさきほど下水道を走り抜けた魔力の波が何を意味しているのか気づくことができず、

 

 こつ、こつと乾いた音を立てて近づいてくる足音が何を運んでくるのか、一瞬想像が遅れ、

 

 ゆえに、戦闘用の蟲どもにあらかじめ包囲殲滅を期せる位置についておくよう指示を出すこともできなかった。間桐雁夜はどこまでも良識的な一般人であり、自分と何の因縁もない人間を殺すという思考を即座に働かせる才覚などなかった。

 

「――バーサーカーのマスター、間桐雁夜とお見受けする」

 

 下水道にはまったく似つかわしくない、高貴な気品と威風を湛えた男が、悠然とこちらに歩み寄ってきていた。

 

 そこに至ってようやく雁夜は目の前の男が自分の命を狙っており、自分もまた相手を殺さなければならない立場であるということを理解した。

 

「……ッ! 来いッ! バーサーカー!!」

 

 本能的な畏怖を呼び覚ます絶叫が轟き渡り、雁夜の前に闇色の全身甲冑を纏った暴威と狂乱の化身が実体化した。獣のような低姿勢で、ねめつけるように相手を睥睨する。

 

「ランサー。返礼してやれ」

 

『御意に』

 

 敵の前にも、魔力の揺らぎと共に、しなやかな長身を青き戦装束で包んだ優男が姿を現わした。朱槍と黄槍を携え、右の目元を刺々しい装身具で飾っている。雁夜にもわかるほどの清澄なる闘気。

 

 とっさに敵の能力値(パラメータ)を確認する。

 

 右の口端が笑みに歪み、左の口端が不気味に痙攣した。

 

 ――大丈夫だ。勝てる。ランスロットの方が明らかに強い!



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第十六局面

 バーサーカーの鉤爪が、そばにあった転落防止用の鉄柵に喰らい付き、一気に引きむしった。根元のコンクリートを粉砕しながら持ち上がる。

 

 それは、本来は起こるはずのない現象だ。いかに頑丈な鉄材製とはいえ、これほど長大な物体が一点で保持されて形を保っていられるわけがない。破断限界を明らかに越えている。

 

 ディルムッドは目をすがめる。

 

 バーサーカーの手が鉄柵を握り締める箇所から、深紅の葉脈のようなものが伸び、広がり、全長十メートル超の鉄材に禍々しい赤光を宿らしめている。

 

 ――「強化」の魔術か?

 

 だが、直後に起こった異常事態にはさすがに瞠目した。

 

 闇色の騎士は、即席の長物を一瞬で振り上げた。当然ながらこの地下下水道の上下幅は十メートルもない。身幅の半分以上が天井に突き刺さり、埋まり、そのまま動かせなくなる。それ以外の結末はあり得ないはずだった。

 

 耳を聾し、腹の底に轟く壮絶な破砕音が連続し、コンクリート片と粉塵が一斉に視界を塞ぐ。

 

「主よ、失礼をば!」

 

 だが、音からディルムッドは何が起こっているのかを正確に察した。須臾の反応速度でケイネスを小脇に抱え、飛び退った――直後に、今までランサー陣営の立っていた地点が爆砕し、噛み砕かれ、足場としての用をなさなくなる。

 

「強化魔術で説明のつく範疇ではないな。あれが奴の宝具か」

 

「主よ、お下がりください。もっと遠くへ!」

 

「ふむ……」

 

 ケイネスを離し、前を見据える。

 

 精神を鑢掛けするような濁った絶叫とともに、破壊の暴風が荒れ狂いながら急速に接近してきていた。

 

 この空間よりも巨大な掘削機が、恐るべき速度ですべてを砕き散らしながら迫ってきている。

 

 深紅の葉脈の浸食を受けた鉄柵が縦横に振り回され、何の抵抗もなく周囲の下水管構造を破壊しながらバーサーカーが駆け寄ってきているのだ。弾塑性力学は愚か、いかなる魔術の常識に照らし合わせても不条理極まる超絶的な強度が鉄柵に与えられていると考えるほかなかった。

 

 地下にあって自殺行為としか思えぬ暴挙だが、バーサーカーの壮絶な身体能力は、崩落する土砂と金属とセメントの大質量をものともせずに弾き飛ばしながら猛然と突撃を続行する。

 

 ――なるほどな。

 

 ディルムッドは鋭い呼気とともに、その身を疾風と化す。叫喚と爆音と破砕音を撒き散らす狂騎士とは対照的に、その踏み込みには一切の音を伴わなかった。それは、地面を踏みしめた反動が、損分なく推進力に変換されたことを意味する。入神の冴えを持って為される流水のごとき運体。

 

 微塵の躊躇も見せず、バーサーカーが得物を振り回す球状の即死領域へと踏み入った。

 

 ――なんたる武錬か。

 

 改めて、闇色の英霊の、戦士としての桁外れの実力に驚嘆する。自分ならばあれほど巨大な得物を、これほどの速度とパワーを維持したまま振り回し続けるなど、たとえ狭隘な地下空間でなくとも不可能だったろう。

 

 聖杯戦争の最初の相手としてまったく不足はない。

 

「ゆえに、残念だ」

 

 その口の中のつぶやきが音になるより遥か手前で、赤い閃光が閃き、闇色に染まった鉄柵が半ばより切断される。周囲の人工物に一方的な破壊をもたらし続けた凶器としてはありえないほどあっけなく、滑らかな断面を残して飛んでいった。

 

 唐突に自分の武器の質量が半減することを予測していなかったのか、バーサーカーはわずかなりとも体幹に乱れを生じさせる。

 

 そこへ、神速にして精妙なる一刺が射込まれた。



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第十七局面

 ――〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉。

 

 ディルムッドにとっては養父にしてドルイド僧、そして愛と若さの神たるアンガス神より賜った、艶めく紅色の長槍。

 

 ありとあらゆる魔力的な作用を遮断する力を有し、現代の魔術はもちろん、英霊らの宝具ですらその効果からは逃れられない。

 

 接触した瞬間にしか威力を発揮しないという縛りはあれど、たとえ自身より格の高い宝具相手であれ、「一方的に」「瞬間的に」「完全に」魔力を遮断してのけることができる点で極めて使い勝手は良い。

 

 ゆえに、この結果は必然。

 

 宝具の域にある帯呪(エンチャント)効果と言えど、〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉の前では何の意味もないのだ。

 

 ディルムッドは、いささかの遅滞もなく次の攻撃へと繋げた。鉄柵を斬り飛ばした紅槍を手の中で回転させながら体側を入れ替え、さらに一歩踏み込みながら致命の直線をひねり出す。

 

 無論、生前のディルムッドであれば、ここまで何の工夫もなく直接的に相手の心臓を狙うような挙には出るまい。

 

 何しろ相手は重厚な甲冑を纏っている。生前所持していた魔剣〈大いなる瞋恚(モラ・ルタ)〉ならばいざ知らず、〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉には鎧に対する特効性などない。まず間違いなく必殺は望めないだろう。

 

 だが、生前とは状況が違う。いま干戈を交えているのは人と人ではない。サーヴァントとサーヴァントだ。英霊が身にまとう鎧具足はすべて魔力によって編まれた疑似物質であり、〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉の効果の適応対象なのだ。

 

 妖しいまでの光沢を湛えた紅い穂先が、何の抵抗もなく暗黒の胸甲を貫通し、内部の肉体を存分に食い破った。

 

 闇色の騎士の背中から魔槍の刃が飛び出る。鮮血が散る。

 

 ディルムッドはほんのひとかけらも油断などしなかった。ゆえに、ほぼ同時に繰り出されてきたバーサーカーの鉤爪に対して瞬時に頭を傾けた。顔の左半分が存分に引き裂かれ、左眼球を潰されても眉一つ動かさなかった。

 

 苦し紛れともいえる反撃は、しかし確かに紅槍が霊核を貫くのを紙一重で阻んでいた。

 

 裂帛と共に槍兵は〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉を両手で掲げ持ち、バーサーカーの巨躯を頭上に持ち上げた。両腕のしなやかな筋肉が怒張し、血管が浮き出る。

 

 この挙は予測していなかったらしく、闇色の騎士は膝蹴りによってディルムッドの(アバラ)を粉砕する機を逸した。

 

 二騎分の質量と、自身の腹筋と広背筋と大腿筋と腓腹筋の力を総動員して、戦吼とともに狂騎士の頭蓋を地面に叩き込んだ。

 

 着弾点を中心に、セメントが爆砕する。放射状にひび割れが拡がった。

 

 とはいえ、サーヴァントに投げ技など無効である。地面に叩きつけた衝撃がダメージの根幹となる以上、物理攻撃を受け付けない存在に対して有効打にはなりえない。

 

 ディルムッドの狙いは、もう少し異なる。

 

 敵の胴を貫通したままの〈破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)〉を両手で握りしめ、柄を胸甲に押し付けるように渾身の力を込める。

 

 ごき、ごき、ぶちり。

 

 頭蓋が埋没することで固定され、長柄による梃子の原理を用い、バーサーカーの頸椎は複雑に粉砕され、頸部を走る動脈と静脈が引き千切れた。



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