今さら謝って泣きついてきてももう遅い! 私は”真実の愛”に目覚めたの!! これからは彼とともに幸せな人生を歩む!!! (スポポポーイ)
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今さら謝って泣きついてきてももう遅い! 私は”真実の愛”に目覚めたの!! これからは彼とともに幸せな人生を歩む!!!

 宮廷のダンスホールを思わせる学園の一室に、王子の断罪するような台詞が響き渡る。

 

 

「ミコト、キミとの婚約関係は破棄する!!!」

 

 

 念のために言っておくけど、別にここはゲームやアニメの世界でもなければ、もちろん中世ヨーロッパ風の異世界でもない。

 現代日本のとある私立高校の教室で、今は文化祭の真っ最中だ。

 

「……王子(おうじ)さん。本気ですの?」

 

 ちなみにこれはクラスの出し物の演劇という訳ではない。

 ウチのクラスは確かに異世界をコンセプトにしているが、あくまで『異世界風喫茶』という要はコスプレ喫茶である。

 

 つまり、これは演技でも余興でもなんでもなく、不測の事態ということ。

 演劇ではない。繰り返す、これは演劇ではない。

 

「ああ、もちろん本気だ。これ以上、キミの彼女に対する横暴な振る舞いを看過することはできないっ」

 

 我が学園一のイケメンと名高く、彼を慕うファンの女子生徒たちからは名前を文字って『学園の王子様(プリンス)』と呼ばれる王子(おうじ)拓真(たくま)が、その端整な顔を苦々しく歪めると、さっきから彼に抱き着いてビクビクと怯えている小動物系美少女を優しく抱きしめつつ、目の前で唖然とするドレスで着飾った美しい少女を睨みつける。

 

「……この婚約は私たちだけではなく、家同士の約定によって成立しているものよ? それなのに、貴方の一存で一方的に破棄すると?」

 

 そう、『婚約』だ。

 現代日本で生きる一般庶民な俺からしてみれば、それは最早雲の上の話過ぎて空想上の産物としか思えない。

 しかし、事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもので、実際に王子と彼女は幼いときからの許嫁であり、高校卒業後はそのまま結婚するというのは我が学園では有名な話だ。

 

「両親はオレが必ず説得してみせる。まぁそれも、キミの醜い嫉妬心が引き起こした数々の非道を伝えれば了承してくれるだろうけどね」

「非道、ねぇ……」

 

 王子拓真はただ顔が良いだけのイケメン野郎という訳ではない。誰もが一度は耳にしたことがある大企業『王子コーポレーション』の御曹司であり、成績優秀、文武両道、おまけにフェミニストで人格者という何から何まで完璧なその姿は、まるで乙女ゲーの世界から飛び出してきた”リアルプリンス”と評判だ。

 

 そして、そんな彼の婚約相手なのが、いま目の前で断罪されている悪役令嬢ポジションの少女────西園寺(さいおんじ)美琴(みこと)であった。

 

 これまた物語の世界から飛び出してきたような”ぼくのかんがえたさいきょうのお嬢様”を地でいく彼女は、艶やかな深い闇色の髪を腰元まですらりと伸ばし、そこらのグラビアアイドルが裸足で逃げ出しそうな抜群のスタイルを誇り、誰もが見惚れるような楚々とした佇まいが美しい少女だ。

 その在り方から、彼女には『真なる深窓のご令嬢』『世界遺産:高嶺の花』『絶滅危惧種:大和撫子』『絶対可憐プリンセス』などといった数々の異名を付けられているほど。ついでに言うと西園寺家は旧華族の名家で資産家であり、西園寺美琴は本物のお嬢様らしい。はいはいテンプレテンプレ。

 

 そんな誰もが認める美男美女の二人だからこそ、これまで誰も嫉妬しなかった。

 まるでテレビ越しに人気アイドルを眺めるような感覚に近かったのかもしれない。王子拓真のファンは遠くから黄色い悲鳴を上げて満足し、西園寺美琴に夢中な男子は遠くからその姿を拝むだけで恍惚とする。だから、今日までこの学園の平穏は保たれてきたと言っていい。

 

 

 しかし、いま正にその平和が崩されようとしていた。

 

 

「その非道な行いとやらを私がやったという証拠でもあるのかしら?」

「それは姫香(ひめか)が勇気を出して証言してくれた。内気でか弱く、純粋で穢れを知らない無垢な彼女がオレに噓を言うはずがない」

「当然だね。この学園の生徒会長として、僕が彼女の証言を保証しよう」

「俺様も保証するぜ。文句がある奴は俺様がぶっとばしてやらぁ!」

「自分も同意見っす! 姫香ちゃんが自分たちにウソなんて吐くはずないっすもん!!」

「そういうことです、姉上。貴女には失望しましたよ。このことは家長である父に報告させていただきますので、覚悟してください」

 

 何処から現れたのか、いつの間にスタンバっていたのか、わらわらと湧いて出てきた『G5(学園イケメン五人組)』のメンバーが王子拓真と乙女ゲーヒロインポジションっぽい小動物系美少女を取り囲む。

 ちなみにG5のメンバーは言わずと知れた王子拓真の他に、インテリ系イケメン生徒会長、ワイルド系イケメン不良、熱血スポコン系イケメン後輩、クール従者系イケメン弟の五名である(名前省略)。イケメンってバーゲンセールの如く連呼し過ぎてゲシュタルト崩壊しそうな気分だ。全員爆発すればいいのに。

 

「……そう。王子さん、そして貴方たちも、全員本気で彼と私の婚約破棄を支持する……という認識で良いのかしら」

「当然だ!」

「ふん、ライバルに塩を送るというのもまた一興、ということだよ」

「拓真に姫香を渡す気はさらさらねーが、それとこれとは話が別だ。正々堂々が俺様のモットーなんでな!」

「もちろん本気っす! 正義は自分たちにありっす!!」

「姉上、弟としてせめてもの情けです。ここで全ての罪を認めて素直に謝罪するなら、家を勘当される程度で許してあげましょう」

「皆さん……! わ、わたしのために……ありがとうございますっ」

 

 う、うーん……。

 なんだか雲行きが怪しくなってきたぞ?

 

 最初は楽しかったんだけどなぁ。

 元々、王子と西園寺さんがクラス企画の異世界風喫茶のために貴族の社交界を意識した衣装でコスプレをしていたから雰囲気あったし。

 

 だからこそ当初はリアル婚約破棄イベントだぜわっほいとテンション爆上がりだったんだけど、なんというかこう……あまりの稚拙さに見ているこっちが恥ずかしくなってくるというか、どうして俺はトップカースト連中の茶番劇を見せつけられているんだろうという虚無感に襲われてテンションだだ下がりであった。

 なんとなく微妙な気分になってしまったので、それとなく教室内を見渡してこの婚約破棄イベントを見守っているクラスメイトや客として居合わせてしまった他クラスの生徒たちを観察してみた。

 

 

 ・乙女ゲームの婚約破棄イベントに夢見て心躍らせている女子生徒が2割

 ・WEB小説で人気な勘違いイケメンざまぁ展開を期待してウッキウキな陰キャ勢が2割

 ・婚約破棄されれば西園寺さんがフリーになると息巻いて浮かれている男子生徒が1割

 ・G5に守られているヒロイン少女に嫉妬して歯ぎしりしている女子生徒が1割

 ・G5同士の絡みに鼻息を荒くして掛け算に勤しんでいる腐女子が1割

 ・お前らの痴情のもつれなんて知るか文化祭の邪魔だ他所でやれボケェという層が3割

 

 

 以上、現場からの視聴者層の分析でした(教室リサーチ調べ)。

 

 あれだよね。冷静に考えてみると、君らどんだけ自分中心に世界が回ってると思い込んでんだって話だよね。

 普通、高校の文化祭なんかで婚約破棄なんて宣言する? リモートでやれよ。テレワーク知らないの? WEB会議で画面越しに親戚一同雁首揃えた状態でリモート婚約破棄宣言すればいいじゃない。レッツ働き方改革!

 

 そんな風に益体もないことをつらつらと考えながら現実逃避をしていると、言いたい放題言われて俯いていた西園寺さんが静かに口を開く。

 

「……本当に、婚約を破棄するつもりなのね?」

「今さら謝って泣きついてきてももう遅い! オレは”真実の愛”に目覚めたんだ!! これからは彼女とともに幸せな人生を歩む!!!」

 

 なんか王子が最近のWEB小説でありがちな長文サブタイトルみたいなことを言い出したけど、西園寺さんは特に気にする風でもなく、ただただプルプルと肩を小さく震わせ俯いたまま言葉を紡ぐ。

 

「ほ、本当に……?」

「だからそう言っている!」

「本気なのね? 後になってから許してくれとか、さっきのは気の迷いだったなんていうのは認めないわよ?」

「くどいぞっ」

「ほんっ~~~とーのホントにほんとうに本当に本当に本当に本当に本当に…………婚約破棄するのね?」

「何なんださっきからっ!? ミコトとの婚約は破棄するっ! この王子拓真に二言はない!!!」

 

 傍から見ているとコントか漫才でもやってるのかと言いたくなる言葉の応酬。

 なんだかもうどうでも良くなってきたので、いい加減、この教室から退散しようかと踵を返そうとした────そのときだった。

 

 

「…………シャオラァ!」

 

 

 突然、教室中に体育会系な野太い勝利の雄叫びが響き渡った。

 

「……え?」

「いま誰か叫んだ?」

「もしかして……」

「いやいやいや、うっそだろ?」

「幻聴だ。これはきっと幻聴に違いない」

 

 クラス中の人間が声の発生源である少女に視線を向けつつも、どうしてもその事実を咀嚼できずに混乱している。

 実際のところ、自分もその一人なので思わず「ふぇ…?」とか幼女みたいな声が漏れちゃったし。あらやだ恥ずか死んじゃう。……黒歴史が増えたわ。

 

 そんなことよりも、雄叫び一つで場を支配した西園寺さんである。

 誰もが現実を信じられずに呆然とする中、彼女は勇ましいガッツポーズを崩すと、どこからともなくスマートフォンを取り出したと思ったらどこぞへと電話を掛け始めた。

 

「──もしもし。お父様? いまお時間よろしいかしら? ……これから重要な会合? 知りません、そんなこと。黙って私の話を聞きなさい」

 

 どうやら通話相手は西園寺さんのお父さんらしいのだが、これまでの品行方正お嬢様キャラをかなぐり捨てるような傍若無人な振る舞いに圧倒されて、教室中の誰もが口を噤みつつも聞き耳をたててしまう。

 

「まず結論から申し上げますと、王子拓真さんとの婚約は相手方の一方的な都合により破棄されました」

『──ッ!? ────!???』

 

 ……うん。お父さんの声は聴こえないけど、なんとなく雰囲気で相当パニックに陥っているだろうことが察せられる。そりゃ寝耳に水どころじゃないよね。

 

「お父様。私、約束しましたわよね? これまで育ててもらった恩があるから、最後にひとつだけ、家のために何でも従うと」

『──! ──ッ!!』

 

 あー……、これやっぱり婚約破棄した相手へのざまぁ系な展開なんだろうか。

 なんとなく、そんな臭いがプンプンしてきたぞ。

 

「だから、自分を滅して王子さんとの婚約に異を唱えることもしなければ、高校卒業後は約定通りに彼と結婚するつもりでした」

『──!?』

 

 うわぁ……。西園寺さんの言い分が本当だとしたら、内心では王子との婚約は不本意だったってこと? なら乙女ゲーヒロインへの嫉妬心とかもまったくナシ?

 あっ、王子拓真と小動物系美少女がポカーンとして固まってる。似た者同士だね。お似合いじゃん(皮肉)。

 

「けれど、あちらから婚約破棄してきたんですもの。たとえ契約不履行でも、こちらに瑕疵はないですわよね?」

『ッ──! ──! ───────!!』

「……証拠? それなら後で4K動画で送り付けて差し上げますわ。そんなことより────」

 

 あれ、おかしいな……。

 なんか、段々と教室内の空気が肌寒くなってきた気がするんだけど、気のせい? 気のせいだよね? 誰か気のせいって言って(懇願)!?

 

 俺が猛烈な悪寒に背筋をゾワゾワさせたのと同時、それまで俯いたままだった西園寺さんが顔を上げて、その表情を直視してしまったらしい王子拓真が顔面蒼白で泡を吹いて意識を飛ばす。

 こちら側では後ろ姿しか見えていないので、彼が何を見たかはわからない。ただ、きっとそれは矮小たる人間風情が視てはいけないものだったに違いない。

 

 

「──もう、西園寺家には二度と縛られない。これからは、私の自由にさせていただきます」

 

 

 底冷えするほど鋭利な声音で、彼女はそう力強く宣言した。

 

「それでは、会合がんばってくださいませ。……御機嫌よう」

 

 そう言って彼女は容赦なく通話を切ると、躊躇なくスマートフォンを放り捨てて一気呵成に踏み抜いた。

 あまりの威力にディスプレイが割れるどころかフレームから破損した基盤がコンニチハしてるんですけども。完全にお亡くなりになってますね。資源はもっと大事に。お兄さんとの約束だ。

 

「……」

 

 痛いほどの沈黙が、教室内を包み込んでいる。

 もしいま物音ひとつでも立てようものなら命はない。そんな被害妄想にも似た危機感を教室中の全員が共有していると直感した。きっと、いまこの場にいる西園寺さん以外の人間の心情は一致しているに違いない。即ち、嵐よ、早く過ぎ去ってくれ……!

 

「……うふっ」

 

 けれど、現実は非情だった。

 誰もが身動ぎひとつ許されない空間に、西園寺さんの笑い声がこだまする。

 

「うふ、ふふふふふ。ウフフフ」

 

 鈴を転がすような声音で、彼女は笑い続ける。

 静かに、控えめに、淑やかに、彼女は歓喜に満ちた声音で狂笑する。

 

「くふっ、フフフフ」

 

 くるりと、唐突に、なんの前触れもなく、突然に、西園寺美琴は振り返った。

 

「ふふ……」

 

 今この瞬間の光景を切り取って絵画として額に飾れば、きっと美術館に飾れたに違いない。

 

 それほどまでに彼女の微笑んだ姿は神々しくて美しく、喜色に満ちた笑顔は抗いようもなく魅力的で多幸感に溢れていて、見るモノ全ての脳を魅了して破壊するような愉悦の笑みは、いっそ暴力的で、どうしようもなく冒涜的で、とんでもなく倒錯的だった。

 

「うふふ」

「っ……!」

 

 ────わからない。

 

 どうして、西園寺美琴はこちらに笑いかけてくるのだろう。

 

 

 ──その答えを知りたくて、俺は左を見る。

 

 俺の左に立っていたクラスメイトが、水中で逃亡するザリガニ並みのバックステップで飛びのいた。

 

 

 ──大きく息を吸って、吐いて、俺は視線を右側へ向ける。

 

 俺の右隣に居たはずの女子生徒が白目を剥いて気絶していた。

 

 

 ──一縷の望みを託して、俺は自分の背後を確認する。

 

 俺の後ろには、教室の壁しかなかった。

 

 

 

「…………あはぁ♡」

 

 

 

 耳朶をすり抜けて鼓膜に絡みつく嬌声に、俺の意識は強制的に正面へと戻される。

 

 彼女と交わる視線。

 

 俺は本能で察した。

 

 

 ──慈母のように優し気な眼差しに溶け込む狂喜。

 

 ──女神のように理知的な眼差しに隠れ潜む狂愛。

 

 ──童子のように無邪気な眼差しに滲み出る狂念。

 

 

 西園寺美琴が俺に向ける視線は、完全に捕食対象を狙う肉食獣のソレであった。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 私────西園寺美琴という人間は、()()でした。

 

 

 『おまえは西園寺家の娘だ』

 

 

 物心つく前から呪詛のように繰り返し言われ続けた言葉。

 私の根底に深く深く深く根差して存在理由とさえ言えるほどに癒着してしまった呪い。

 

 私は、西園寺家の利のために生きている。

 私は、西園寺家の益のために生きていく。

 

 そこに疑問を挟む余地などなかった。

 それが西園寺美琴にとっての日常で、常識で、それこそが()()()だったから。

 

 私に自我なんてものはなかった。必要ですらなかった。

 

 ただただ西園寺家の命令に従う自動人形(オートマタ)であり続ければいいだけ。

 だから、勉強も、習い事も、人間関係でさえも、私は家の指示にただ従って生きてきた。

 

 

 『はじめまして! おうじたくまですっ』

 『どうじゃ美琴、利発そうな良い子じゃろう?』

 

 

 ある日、私を溺愛する祖父が一人の男の子を連れてきた。

 祖父と昵懇だという王子家の嫡男で、私と同い年だという少年。

 

 

 『この子であれば将来の美琴の伴侶として申し分ない。どうじゃ、嬉しいか美琴? 嬉しいじゃろう?』

 

 

 私は、祖父の目をジッと見つめる。

 嬉しそうに細められた柔らかい双眸────その深淵に蠢く”命令”を読み取り、私はニコリと微笑んだ。

 

 

 『はい、とてもうれしいです』

 

 

 祖父が笑う。父が笑う。母が笑う。

 

 男の子が顔を真っ赤にして照れたようにはにかんだので、私も同じように笑い返してあげた。

 

 祖父が嗤った。父が嗤った。母が嗤った。

 

 

 ────私は、上手に嗤えていたでしょうか。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 私が通う学園は幼稚園から大学までの一貫校で、良家の子女が集まる学び舎として有名です。

 

 そんな学園の高等部に進学したばかりの、春。

 

 私は相も変わらず『西園寺家の娘』のままでした。

 

 そこに不満などない。

 そもそも不満に思う思考回路が存在しないのだから、問題が起きようはずがない。

 

 これからも、私はただ西園寺家の利と益のために生きていくだけ。

 

 

 『……姫香、オレの愛しい人』

 

 

 だからこそ、高等部へと進学した途端、彼が外部入学組の女生徒に心を奪われても何とも思いませんでした。

 王子さんと件の女生徒が仲睦まじそうに逢瀬を楽しんでいる姿を目にしても、嫉妬を抱くこともなく、怒りを覚えることもない。

 

 私の胸中にあるのは────『無』。

 

 『「好き」の反対は「嫌い」ではなく、「無関心」』という言葉を耳にしたことがありますが、言い得て妙だと思いました。

 どうせ高等部を卒業したら結婚することになるのだから、王子さんが高等部の三年間を誰と過ごしても気にならない。何なら私との結婚後も愛妾として囲えばいいとさえ思う。

 

 私の役目は、王子拓真と結婚して王子家の世継ぎを産むこと。

 その後は王子家を西園寺家の傀儡となるように取り仕切ること。

 

 そこには恋慕の情も、親愛の証も必要ない。

 彼は王子拓真としての役割を全うして、私は西園寺美琴としての役割を果たせれば、それ以外のことに頓着する必要など欠片もないのだから。

 

 私はずっとそうやって生きてきた。

 それが私にとっての当たり前だった。

 

 これまでも、これからも、私は終生を”西園寺家の娘”として捧げ続ける。

 

 

 それでよかった。

 

 

 それだけで、よかったはずなのに……。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 その日は委員会活動の関係で、いつもより早い時間に登校していました。

 

 だから、いつもなら登校してきた生徒で賑わっている昇降口も人気が無くて、私以外には見知らぬ男子生徒が一人いるだけ。

 

 クラスメイトではない、顔見知りでもない、西園寺家として親交を深める対象でもない。

 

 それはつまり、私が関わる必要性のない相手であるということ。

 私は言葉を交わすことも、視線を送ることも、会釈をすることもなく、その場を後にしました。

 

 自分の教室がある三階に向かうため、私は階段を上がる。

 踊り場を経由して、また階段を上がる。

 

 一段一段、一歩一歩、なんの感慨もなく歩を進める。

 

 あと少しで三階に辿り着く、その最後の一歩を踏み出そうと右足を軽く持ち上げたとき。

 

 

 一瞬だけ、ふっと意識が遠退いた。

 

 

「──!」

 

 おそらくは、貧血とか立ち眩みだったのだと思う。

 気がついたときには、私の身体はバランスを崩して背中から倒れ込もうとしていた。

 

 ────あ、死ぬ。

 

 根拠なんて何もないけれど、スローモーションのようにゆっくりと流れる時間の中で、私はそう確信する。

 階段の頂上付近から落下して、階段の踊り場まで転がり落ちて、無防備に後頭部を打ち付けた私は死ぬんだ。

 

 そう悟ったとき、ふと走馬灯が脳裏を過った。

 

 

 それまで”西園寺家の娘”として生きてきた、自分。

 これまで”西園寺家の娘”として歩んできた、人生。

 

 

 そこに、彩は無かった。

 そこに、音は無かった。

 そこに、香は無かった。

 

 

 ただ無色透明で、ただただ無味乾燥で、そんな虚構のような日々の記憶。

 

 

 

 

 

 

 

 

「────やだぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 じわりと、目尻に涙が滲んで視界がぼやける。

 

 

 ……死にたくない。

 

 

 私、こんな人生やだ。

 

 

 ……死にたくないよ。

 

 

 こんな人形みたいな生き方やだ。

 

 

 

 

 ……まだ、死にたくないよぉ。

 

 

 

 

 藻掻くように、足掻くように、必死に手を伸ばそうとするけれど、私が()()を自覚した途端に、周囲の景色はまた元通りの時間の流れを取り戻す。

 

 刹那に感じた浮遊感。

 

 次いで降りかかる重力という名の現実。

 

 

「────!」

 

 

 縋るように小さく突き出した指は虚空を掴むばかりで、そこには、祖父も、父も、母も、婚約者も、誰もいない。

 

 

 

 『おまえは西園寺家の娘だ』

 

 

 

 だというのに、最後の最後で私の頭の中に響いたのは、そんな呪いの言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………嫌だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だイヤだイヤだイヤだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ死にたくない死にたくない死にたくない悔しい死にたくない死にたくない死にたくない抱きしめて死にたくない人形のまま死にたくない死にたくない哀しい死にたくない頭を撫でてよ死にたくない死にたくない駒みたいに死にたくない死にたくない手を繋ぎたい死にたくない死にたくない死にたくない虚しい死にたくない道具扱いで死にたくない死にたくない死にたくない私を視て死にたくない死にたくない死にたくない淋しい死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない温もりが欲しい死にたくない死にたくない死にたくない私は西園寺家のための死にたくない死にたくない死にたくない美琴じゃない死にたくない死にたくない死にたくない見捨てないで死にたくない死にたくない死にたくない誰か死にたくない死にたくない死にたくない私を────────助けて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うえっ!? あ、危ないっ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 背中から階段に落ちる寸前、誰かが私を強引に抱き寄せた。

 

 私を守るように優しく伸びた両腕が、私を護るためにぎゅっときつく締められる。

 

 上下左右があやふやになるほどゴロゴロと階段を転がり落ちて、私の意識もぐるんぐるんと揺れて揺らいで心も揺らぐ。

 

 曖昧な思考の片隅で、朦朧とする理性の狭間で、たったひとつだけ知覚できた事実。

 

 

 

 私はいま、ひとりぼっちじゃない。

 

 

 

 そんな些細なことが、たったそれだけのことが、私にとっては堪らなく嬉しくて、どうしようもなく胸が高鳴って、とんでもなく切なかった。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 踊り場まで転がり落ちた私達は、ようやくその動きを止める。

 けれど私は、声を発することも、身動ぎすることもできなかった。

 

 思っていたような衝撃も、身体の痛みも無かった。

 思ってもみなかった衝撃と、胸の痛みに言葉が出ない。

 

「いっ…づぅ……」

「っ……」

 

 すぐ近くから、痛みに呻くような声が聞こえた。

 目の前には、痛みに顔を顰めている彼がいた。

 

 私は彼の腕の中ですっぽりと包まれていて、私を助けてくれた彼に覆い被さるように横たわっていて、私のことを救ってくれた彼にひしと縋りついている。

 

 お礼を言わなければ──。

 早く退いてあげないと──。

 彼は怪我をしていないだろうか──。

 

 そんな当たり前なことが次々と頭に浮かぶ。

 いま何をしなければいけないか、頭では理解している。

 それなのに、私の身体はちっとも言うことを聞いてくれやしない。

 

 制服越しに伝わる彼の温もりが心地好くて──。

 きつく抱きしめてくれる力強さが恋しくて──。

 全身から感じる彼の感触を、独りじゃないという証を失ってしまうのが心細くて──。

 

「あー……、えっと、あの、その…大丈夫、でした…か?」

 

 彼が心配そうに、おずおずといった風に訊ねてくれる。

 それと同時、申し訳なさそうな顔をした彼は、さっと両手を広げてしまう。

 

 

「────ぁ」

 

 

 満たされていた何かが、急速に失われていくのが分かる。

 

「っ……!?」

 

 嫌だと言いたかった。

 離れたくないと伝えたかった。

 

 でも、彼の温もりが遠ざかる恐怖に喉が震えて、声が出てくれない。

 

「──!」

「え……?」

 

 心臓が握り潰されてしまったんじゃないかと思うくらい、胸の奥が締めつけられて痛い。

 孤独と絶望に全身が引き裂かれそうで、途轍もなく切なくて、これまで感じたことのない喪失感で気が狂いそうになる。

 

 知らず、涙が勝手にぽろぽろとこぼれ落ちて、彼の胸元を濡らしていた。

 気がついたらもう、我慢なんてできなくて、湧き上がる衝動を堪えることなんて不可能で、私は彼の首筋に顔を埋めて縋りつく。

 

「ひょっ!? え゛、えぇ……?」

 

 彼を困らせたくない。迷惑なんてかけたくない。

 それでも、初めて感じたこの温もりを、この感情を手放したくなくて、駄々をこねる幼子のように小さくイヤイヤと首を横に振ってみせる。

 

「うっ……。いや、でも…あー…………くそっ」

 

 困惑したような彼の反応が窺える。

 その事実に、罪悪感で押し潰されて死にたくなった。

 

「えっと、よくわかんないけど……。嫌だったら言って。すぐ止めるから」

「あっ……」

 

 背中に温かな感触が戻ってきてくれて、彼の腕がきゅっと私を抱きしめる。

 それだけじゃなくて、ぎこちない手つきで、慣れない動きで、不器用にゆっくりと、彼が優しく私の頭を撫でてくれた。

 

 

 彼の腕に抱かれて────。

 彼の温もりを肌で感じて────。

 彼の匂いに包まれて────。

 

 

 それが幸せすぎて、あんまりにも安らかで、いつの間にかウトウトしていた私は、まるでお母さんにあやされる赤ん坊のようにあっさりと眠りに落ちてしまった。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 目を覚まして最初に飛び込んできた光景は、知らない天井でした。

 

「ここは……?」

 

 どうやらベッドで寝かされていたらしいと分かって、慎重に上半身を起こしてみて辺りをキョロキョロと見渡してみる。

 

「……」

 

 傍には誰もいない。

 どうやら私は、カーテンの閉め切られたベッドの上で一人眠っていたらしい。

 

 

 ──あれは、夢だったんでしょうか?

 

 

 今更ながらに現実感のない展開に、ふとそんなことを考えてしまって、私はどうしようもなく泣きたくなった。

 

 ……いやだ。

 

 あのとき感じた彼の温もりが、幸せで満ち足りた記憶が、すべて夢の中の出来事だったなんて、そんなの耐えられるはずがない。 

 

 

 

 もう一度、彼に会いたい。

 

 

 

 会って、名前を教えてもらいたい。

 会って、もっとお話してみたい。

 会って、また抱きしめて欲しい。

 

 飢えるように強烈な飢餓感に、身を焦がすような焦燥感に、いっそ死んでしまいたくなるほどの喪失感に、私の意識は完全に覚醒する。

 

「あら、目が覚めた?」

 

 気遣うように開けられたカーテンの隙間から養護教諭が顔を出してきたので、ここが保健室なんだと察した。

 

「あの……」

「具合はどう? 身体がだるいとか、気分が優れないとかある?」

「えっと……。いえ、大丈夫そうです。それよりも────」

 

 

 

 

 

「私を運んでくれた方について、詳しく教えて欲しいのですが……」

 

 

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 私のことを助けてくれた男子生徒は、私を保健室へ運び込むと引き留める先生の言葉も聞かずに慌てたように逃げ去ってしまったらしい。

 

 名前も、クラスも、学年も不明。

 顔もおぼろげにしか覚えていない。

 

 私が彼のことでハッキリと覚えているのは、彼の匂いと、あの温もりだけ……。

 

 

「──必ず見つけ出す」

 

 

 それでも諦められない。諦められる筈がない。

 

 私は既に知ってしまったのだ。彼の匂いを、温もりを、彼という存在を────。

 

 この日、歪だった私という存在が、罅割れていた私の心が、一度粉々に砕け散ってまた再構築された。

 ”西園寺家の娘”としての私は死んで、ただの西園寺美琴として新しく生まれ変わったのだ。

 

 

「待っててね、愛しい人」

 

 

 興奮を抑え込むように、私は両手で自分を強く掻き抱いて身悶える。

 

 

 

「…………うふふ」

 

 

 

 もう絶対、逃がさないから。 

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 顔も名前も分からなくたって、ヒントはある。

 

 あの日、私はいつもより大分早い時間に登校していた。

 そんな私と同じタイミングで登校していたということは、彼は私と同じ委員会か、もしくは普段からあの時間に登校している人物。

 

 また、三階への階段を上っていたということは、同じ学年の男子生徒である可能性が高い。

 

 ほらね、もう全男子学生のうち三分の一にまで絞り込めた。

 あとは各クラスを回って虱潰しに匂いを嗅いでいけば……、嗅い…で…………?

 

「それだと、ただの変態だわ」

 

 確かに彼を見つけるためだったら手段を選ぶつもりはないのだけれど、さすがにそれはちょっと……。一応、こんな私でも乙女の端くれとして最低限の羞恥心はあるんです。それに彼以外の匂いを嗅ぐなんて想像しただけで吐き気がして最低最悪な気分になってしまう。

 だから、何かこう…合法的にピンポイントで彼だけの匂いを嗅ぐことができる案はないでしょうか……。

 

 結局、大した名案が思い浮かばなかった私は、偶然に頼って校舎内をひたすらさ迷い歩くという方法に行きついた。

 廊下で男子生徒とすれ違う度にドキドキと胸を高鳴らせて、匂いを嗅ごうか葛藤して、でもやっぱり踏ん切りがつかなくて諦める。そんなもどかしくて悶々とするだけの日々が三日も続いたときです。

 

 私がもう日課となりつつある校内探索に勤しんでいると、廊下の前方から二人組の男子生徒がこちらに向かって歩いてきました。

 二人とも顔は知らないので、おそらくは別クラスの人なのでしょう。

 

 向かって右側の男子生徒は小太りな体形なので違う。彼は中肉中背だった。論外。

 次に、逆側を歩く男子生徒に注目する。

 

 体形は中肉中背。一致する。

 頭髪の色は黒く、染髪していない。一致する。

 特にヘアスタイルにこだわりはないのか、寝ぐせだけ直したような無造作ヘア。一致する…気がする。

 顔は地味目。お世辞にも整っているとは言えないけれど、崩れている訳でもない。要検証。

 身に纏っている雰囲気は……内気で冴えない、けれどその根幹に潜む優し気な気配が自然と伝わってくる。高評価。

 

 彼と私の距離が、残り数メートルのところまで迫る。

 

 不意に、彼と視線が合わさった。

 

 トクンと、私の心臓が大きく鳴動する。

 

 彼と私の距離が縮まる。

 

 一歩一歩、歩みを進めるたびに、二人分の速さで距離が縮まっていく。

 

 彼と擦れ違う、その瞬間────、

 

「っ……!」

 

 無意識でした。けれど、後悔はない。

 

 

 彼が通り過ぎた後に漂う微かな残り香。

 

 

 全神経を総動員して記憶の中に眠るあのときの匂いと照合。

 

 

 

 

 

「…………あはっ♡」

 

 

 

 

 

 今すぐ彼に追い縋って抱き締めたい衝動をなんとか堪える。

 というか、匂いを嗅いだだけで腰砕けになりそうで実際には立っているのが精一杯です。何なんですか、これ。あれでしょうか。禁断症状でしょうか。動悸が不整脈で下腹部が疼いて脳が蕩けて今すぐにお手洗いに駆け込まないと今後の学園生活というか社会的に死んでしまいそうなので今は戦略的撤退なんですこれで勝ったと思わないでください絶対に逃がしませんから顔は覚えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今すれ違ったのって、一組の西園寺美琴だよね? 遠目で見ても美人だったけど、近くで見るとヤバいな」

「へー……。あの子、西園寺さんって言うんだ」

「あれ、知らなかったの?」

「うん。まだうちのクラスの女子ですら全員覚えきれてないのに、他クラスの女子なんて尚更だよ」

「おまえって異性関係は奥手っぽそうだもんなぁ。というか、ムッツリって感じ」

「う、うるさいな! 放っといてよ……」

「だけどよ、もし西園寺さんに一目惚れしたんなら止めておけよ。西園寺さんって婚約者いるって話だし」

「え、そうなの……?」

「そうそう。しかも、相手が学年一のイケメンって名高い、あの王子拓真らしい。クラスの女子が噂してた」

「…………そっか」

 

 

「そっかぁ……」

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 運命の邂逅を果たして早一週間。

 私は恙なく今まで通りな学園生活を送っています。

 

 本音を言えば、今すぐにでも彼を確保して抱き着いたまま全身を鎖でぐるぐる巻きにして一生離れられないようにしたいのですが、そういう訳にもいきません。

 

 良い意味でも悪い意味で、私という存在はこの学園で有名です。

 容姿にしても、家柄にしても、あの婚約者のことについても……。

 

 そんな私がいきなり彼に好意を寄せても、良い結果にならないのは目に見えています。

 ですから、まずはどうすれば彼と私が幸せを享受できるか、その方法を模索するべきでしょう。他に好きな人ができましたと馬鹿正直に告げて幸せになれるのは、物語の世界だけなのですから。

 

 幸いと言っていいのか、彼の周囲に女の気配はありませんでした。

 いまは下準備の方を優先です。千里の道も一歩からの精神で確実に行きましょう。最悪、いま彼に恋人ができても問題ありません。最終的に私が奪えば解決ですので。……過程? 目的を見失ってはいけません。結果が良ければそれで良いのですよ。

 

 まず着手したのは、西園寺家の影響下から抜け出すこと。

 未成年という足枷は難儀ですが、遣り様はいくらでもあります。

 

 これまで使いどころが無くて貯めるだけだった貯金を元本に、未成年でも取引可能な資産運用に片っ端から手を出しました。

 株、債券、投資信託、FX、仮想通貨などなど……。今の時代、インターネットさえあれば自宅に居ながら楽にお金が儲けられるので笑いが止まりません。ちなみに口座開設などの手続きで親権者の承諾が必要だったので、将来のために社会勉強の一環がどうたらとか、損失を出したらすぐに手を引くだとか言って無理矢理説得して押し切りました。

 

 そして半年後、私はゼロの桁がこれでもかと並ぶ圧倒的な口座残高を背景に弁護士と税理士を雇い、次のステップに進みます。

 興信所に依頼して西園寺家と王子家の弱みになりそうな情報を集めました。もちろん、将来の布石のためです。もし聞き分けがないようなら、これをリークして両家を…………ウフフフ。

 

 そうして彼との出逢いから一年が過ぎた頃。私が二年生に進級したタイミングで程よく証拠も集まってきたので父を脅し……ゲフンゲフン、父の説得を試みました。

 

 しかし、勘違いしてはいけません。

 

 一応、私だって人の子です。血も涙もない鬼ではありません。これまで家からどのような扱いを受けていたとしても、それが世間一般からすれば恵まれたものであったと理解しています。

 真意はどうあれ、西園寺家にはここまで育ててもらった恩がある。自覚したからと言って、それまでの関係性がすべて消えて無くなるなんてことはないのだから。

 

 私は復讐がしたいんじゃない。

 ただ単に、西園寺家にとってはあれが当たり前だったというだけ。異端なのは私の方だ。

 

 

 だから、顔を蒼褪めさせて私を化け物でも見るような目で見上げている父に、私は満面の笑みで告げる。

 

 

 ──これまでの恩返しも込めて、あとひとつだけ貴方の言うことを聞いてあげます。

 

 ──但し、その代わりに今後は私の好きなように生きます。私が誰と生きようが、どんな人生を歩もうが、文句は聞きませんので悪しからず。 

 

 

 結果、父の口から出た”お願い”は、高校卒業後と同時に私が王子拓真と結婚することだった。

 

 ……いいですよ。それで自由になれるなら、それで彼と私が幸せになれるなら、あの男と結婚しましょう。

 ファーストキスでも処女でも、なんでも捧げてあげます。子供だって何人でも産んであげる。でも、それだけ。そこに価値なんてない。

 

 都合のいいことに、彼はあの外部入学組の女生徒に夢中だ。

 なら、お互いに仮面夫婦を演じて、表面上だけ取り繕って、あとは干渉せずに自分が真に愛する人とだけ幸せに暮らせばいい。

 

 

 ────異常だ。

 私のこんな考えはただの自己満足で、すべて自分勝手な欲望の押し付けで、彼の都合なんてお構いなし。

 もしかしたら、彼には軽蔑されるかもしれない。おそらく、理解はされないでしょう。

 

 彼に嫌悪されれば、きっと私は泣いてしまう。

 彼に拒絶されたら、きっと私は死んでしまう。

 

 それでも、誰にも彼との幸せを邪魔されないようにと考えたら、こんな愚かな方法しか思いつくことができなかった。

 

 

 ────やっぱり私は異常だ。

 

 

 彼のためなら苦じゃないはずなのに、どうして私は……涙が止まらないのだろう。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 二年生になってからの学園生活は、まるで天国のようでした。

 

 その最大の要因はもちろん、婚約者である王子拓真と同じクラスになれたこと────なんてことはなく、彼と同じクラスになれたことだった。

 

 それまで遠巻きに窺うことしかできなかった昨年に比べて、教室での彼と私の距離は常に一〇メートルを切っている。……これはもう同棲していると言っても過言じゃないかもしれませんね。

 しかし、油断は禁物です。ここで調子に乗って彼に話しかけようものなら、彼の立場を危うくして迷惑をかけてしまうかもしれません。それは私としても本意ではないのです。

 

 今はまだ、私はあくまで西園寺家のご令嬢で、王子拓真の婚約者で、この学園の高嶺の花(マスコット)

 

 だから、少し離れた場所でも彼と同じ空間に居られる今の生活に満足しておきましょう。過ぎたるは猶及ばざるが如しの精神です。

 

 毎日、教室の斜め後ろの席から彼の横顔を眺めていられるだけで幸せ。

 稀に、ふとした拍子に彼と目が合うだけで幸せ。

 教室内で擦れ違うとき、彼の匂いを堪能できるだけで幸せ。

 

 幸福指数の濁流に溺れて志半ばで昇天してしまいそうです。

 なるほど、これがハッピーエンドというものですか……。実に興味深いです。

 

「……はぁ」

 

 人気のない放課後の教室。私はいま、彼の机に顔を埋めて深呼吸していた。

 だって帰りのSHRの際、午後の授業からウトウトしていた彼が机に突っ伏して寝ていたんですもの。これはチャンスとばかりに、私は教室から人が居なくなるのを待って彼の机に飛び込んだ。……これはもう実質同衾なのではないでしょうか?

 

「……あふぅ」

 

 どうも、私のような女の子を世間では『ヤンデレ』と呼ぶそうです。

 彼が教室で友人の方と楽しそうに語らっていたライトノベルというもので学びました。つまり、私という存在は彼の性癖と合致しているということ。やはりもう、これは運命なのでは……?

 

 けれど、ひとつだけ理解に苦しむことがあります。

 創作上のヤンデレという存在ですが、物語の描写で想いを寄せる相手の私物を盗み、予め用意していた新品とすり替えるというシーンがありました。

 

 これはいけません。

 

 どんな理由があろうと、たとえ新品の物と交換しようと、窃盗は窃盗。立派な犯罪です。

 あんなもの自分の自制心の無さを愛情と偽って誤魔化しているに過ぎません。お金を持っているのに万引きを繰り返す病気の人と同じです。私をあんな低俗な人たちと同列に語らないでいただきたいです。

 

 私はきちんと、彼が所有権を放棄したものに限って回収していますから!

 

 そう、これは所謂リユースです。リサイクルと言っても良いでしょう。

 ちなみに私のオススメは使用済みの汗拭きシート。いみじくも彼は無香料タイプのものを愛用してくれていますから、夏場なんて彼の汗と匂いを大量に吸い込んだ汗拭きシートを堪能できます。

 

 え? どうやって回収してるのかって?

 …………企業秘密です(乙女の嗜み)。

 

 いけませんね。

 最近、どうにも彼の好みだというライトノベルというものに思考が犯され──侵され──毒されている気がしてなりません。淑女たるもの、もっと気を引き締めなくては……。

 

 

 

「……机って舐めたらダメでしょうか」

 

 

 

 私はもう、手遅れかもしれません。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 二学期最大のイベントと言えば、文化祭です。

 私が所属するクラスの企画はどういう経緯を辿ったのか、いつの間にか『異世界風喫茶』というものになっていました。

 

 内装をダンスホールのように装飾して、教室の隅にはビュッフェ形式の真似事として市販のお菓子と紅茶が並び、BGMとしてワルツを流す。

 おそらく、本当の上流階級の方々からすれば失笑モノでしょうけれど、重要なのは現実世界のリアルさではなく、『異世界風』というコンセプトに基づいた中世ヨーロッパ風の世界観を構築することらしい。詳しくは知りません。

 

 お客様は好きな衣装にコスプレし、お菓子や紅茶を軽く楽しんだら教室の中央でそれっぽく踊る。

 当然、雰囲気を出すために私たちスタッフ役の生徒も全員コスプレです。

 

 そして一体誰が何処から調達してきたのか、やたらと質の良い、本格的なパーティドレスや衣装が用意されていました。

 私や王子拓真といった眉目の良い生徒は貴族衣装に身を包んで雰囲気作りのためのダンス要員。それ以外のクラスメイトたちは従者スタイルで受付や誘導、お菓子の補充といった雑用に従事する役割分担です。叶うなら私の従者には彼になってもらいたいというか、どちらかと言うと私が彼の従者になりたいと申しますか、正直に言えば彼の傍に居られるならメイドでも奴隷でも何でも来いな心意気なのですけれど自重しました。

 

 出来ることならクラスの準備にかこつけて彼の近くに居たかったのですけれど、ダンス要員は全員別室でダンスの練習に専念。教室の準備はそれ以外のメンバーが担当するということで断腸の思いで諦めました。

 しかも、演技の一環として語尾とか口調も物語の中に出てくる貴族風にしようなんて話になってしまい、なんだかもう自棄っぱちになった私は死んだ魚のような目をしながら頷いたのですことよ。おほほほほ。……はぁ。

 

 そうして迎えた文化祭一日目。

 結局、準備期間中は一度も彼と接触するどころか傍に近づくことすらできなかった私は、自暴自棄になり、不貞腐れて、完全に油断しておりました。

 

「……? ……!? っっっ!!!?」

 

 ダンス衣装に着替えて教室で待機していると、スタッフ担当の生徒たちが従者スタイルに変身してゾロゾロと教室に入ってきたのです。

 それ自体は問題ありません。メイド服や執事服だけでなく、何故か教会の聖職者や冒険者のような衣装の方たちまでおりましたが、そこは異世界風というコンセプトを考えればありでしょう。何人かの生徒は獣人キャラクターを意識したのか、犬や猫といった獣耳や尻尾も付けています。

 

 

 問題は、彼です。

 

 

 貴族家に仕える庭師の丁稚を思わせる簡素な作業服は、実年齢以上に彼を幼く見せていて、なんというかこう……ショタ感が増しました。

 それだけでも危険だというのに、彼の頭には垂れた犬耳がわふわふといった風に生えているのです。彼に犬耳を付けさせた衣装担当のクラスメイトには最大級の賛辞を贈呈したい所存。今度、匿名で金一封を包むとしましょう。

 

 そう、何を隠そう、私は猫よりも犬派です。

 子犬とか小型犬の愛らしさには特に弱いのです。

 

 それなのに彼ときたら────

 

 

 元々男子としては小柄な彼が衣装によって普段よりもさらに幼い印象になってでもそれだけじゃなくて緊張からか内気で臆病な性分が前面に出てきてしまってさっきからビクビクとしている様が怖がりな子犬を連想させてそこに加えて常日頃トロンとしている彼の眠たげな目と好きなライトノベルの影響から始めたらしい捻くれキャラでは隠し切れない優しい眼差しが合わさってそれはもう宛ら光と闇が両方そなわり最強に見えるというか一瞬これは現実ではなく白昼夢でも見ていたのかしらと心配になってしまって思わず三度見してしまったのですけれどでもそこに彼が居るってことは現実ってことでしょうから私の時代が来ましたねやったね美琴ちゃん大勝利これはもはや大本営発表ということでつまり何が言いたいのかというと私にもよく分からないのだけれどそんなことより焦茶色の垂れ耳が私の大好きなビーグル犬を思わせてこれはもう私を誘っているのでしょうかそうでしょうそうなんでしょうビーグルの子犬なんて私的にもうクリティカルヒットなんですけれどこんな誘惑ってありますかやっぱり誘ってるんじゃないですかカワイイヤッター神様ありがとうございます今度お賽銭に札束を入れておきますイヤッッホォォォオオォオウ!

 

 

 ……失礼。少々、取り乱しました。

 

 でも、ちょっと待っていただけないでしょうか。

 弁明をさせていただけるのなら、これはちょっと卑怯だと思うのです。

 

 不意打ちで彼の犬耳ルックを拝んでしまったのですよ?

 我を忘れるのも致し方のないことと言えるのではないでしょうか。

 

 正直、西園寺家による厳しい教育で培われた鋼の精神力が無ければ、即座に動揺して暴走して即死でした。

 初めて西園寺家の教育に感謝したかもしれません。

 

 ポーカーフェイスを崩さず、身動ぎひとつせず、鼻血も出さずに耐えきった私を誰か本気で褒めてください。

 ……あ、やっぱり結構です。見ず知らずの相手に褒められても嬉しくもなんともないので。

 

 それに、せっかく褒めてもらえるなら彼にお願いしたいです。指名料を払えば可能でしょうか? オプション料金も払うので頭とか撫でてください。ナデナデシテー(脳死)。

 

「……はっ!?」

 

 あまりの尊さについつい悟りを開いてしまいました。

 おそらく等覚まで至っていたのではないでしょうか。これぞ煩悩の為せる業ということですね(違います)。

 

 そんなことより、私がトリップしている間に彼がクラスの一部女子生徒に囲まれているのですけど。

 これはどういうことでしょう。どういうつもりかしら。貴女たち普段は王子拓真と愉快な仲間たちを相手に黄色い悲鳴を上げていたでしょう? 「意外と似合ってるじゃん」「照れちゃって可愛い」「……ペットにしたい」じゃないんですよ。

 

 今さら彼と犬耳の組み合わせがどれほど魅力的か気がついたのですか? 

 遅いですね。そこは既に私が通り過ぎた道です。まぁ、かく言う私もさっき気がついたのですけれど……。

 

 ふふ……。貴女たち、なかなか良い趣味してるじゃないですか。気が合いますね。

 私たち、仲良くなれると思うのだけれど、排除を前提にお友達になれないでしょうか? ダメですか、そうですか。別にいいです。どちらにしても最終的には排除しますので。……排除しなきゃ(使命感)。

 

「ねぇねぇ! お手して、お手!」

「よーしよしよし、いーこだねぇー」

「……尻尾モフらせて」

 

 …………は?

 

 え、待って、待って下さい。

 

 お触りアリなシステムなんですか、ここ? そういうお店でしたの!?

 それならそうと最初から言ってくれれば、大金払ってでも貸し切りましたのに……。

 

「え、あの…ちょっ!? や、やめて……」

「まぁまぁ、いいじゃん。別に減るもんじゃないし」

「いや、あの俺の精神がすり減るんですけど」

「なら別に減っても問題ないね」

 

 あ、あぁ……っ!? いま、犬耳を撫でる流れでさらっと彼の頭を撫でましたね!

 ズルいです。私だって撫でてもらったことはあっても、彼の頭を撫でたことなんてないのに……っ!

 

「うわっ!? えぇ……? ごめん、その……あ、当たっ」

「当ててんのよ」

「何でそこでドヤ顔なんですか。あと、そっちは尻尾の付け根モフるの止めてもらっていいです?」

「……拒否」

 

 ねぇ、ちょっと……。

 貴女たち、少しボディタッチが露骨過ぎません? 淑女としての自覚はないのかしら? 同じ女としてはしたないわよ? 尻尾を触るどさくさに紛れてお尻にタッチなんてそれもう立派なセクハラじゃないうらやまけしからんちょっとその場所代わってください。

 

 それに、彼も彼です。

 ちょっと鼻の下を長くして満更でもなさそうなのは、どういうことなんでしょうか。女なら誰でもいいんですか? なら別に私でもいいですよね? ほら、胸とかその子より私の方が大きいですよ? それに容姿だって負けるつもりはありません。我ながら多少性格というか人格に問題がある気もしますが、そんなものは些細なことです。それに私、尽くすタイプですから。なんならもう骨の髄までしゃぶり尽くす勢いで尽くし倒しますよ? 

 

 だから、その…私じゃダメですか……?

 

 

「ねぇ、せっかくだから記念に写真撮っていい? てゆーか撮るね!」

 

 

 なん…ですって……?

 まさか撮影NGじゃなくてOKだったなんて……。わ、私も欲しいです! 彼の子犬フォームの写真欲しいです!!

 

 ああ……、こんなことなら最新の一眼レフカメラを常備しておけばよかったです。

 いえ、まだ諦めるのは早いですね。最近のスマートフォンはカメラ機能も優秀らしいので、これで私も…わ、わた……し…も…………どうやって混ざればいいんでしょうか?

 

 自然な感じで話に混ざる?

 

 『せっかくだから私も記念に一〇〇枚ほどよろしいでしょうか?』

 

 ダメですね。そもそも表面上は私と彼にクラスメイト以上の接点なんて無いですし、彼女たちとも親しくはありません。

 このタイミングで話しかけるなんてどう考えても不自然でしょう。

 

 ……え?

 

 じゃあ、私だけ彼の写真を手に入れられない……?

 あんなぽっと出の阿婆擦れどもが彼の愛らしい写真を持っているのに、こんなにも彼のことを想っている私は脳内メモリーにしか保存できないのですか? そんな残酷な仕打ちってあります? だって頭の中の映像って現像できないんですよ? 知ってました? 私は知りたくなかったです。

 

 どうすれば……。どうすればいいのでしょうか。

 こうなったらもう、一か八かでこっそり遠くから撮影してみましょうか? いえ、でもそれだと盗撮になってしまいますし、さすがに盗撮は……とう、さ…つ……?

 

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

 

 そうか、その手がありましたね。そうです。そうですよ。別に撮影した映像を公開したり、誰かに売ったりする訳でもないですし。ほら、誰にも迷惑は掛かってないじゃないですか。そもそもバレなければ迷惑に思う余地すらないのですし。それにあれです。車だってドライブレコーダーで許可なく通行人や対向車を撮影しているじゃないですか。お店の防犯カメラもそうです。いちいち撮影対象に許可なんて求めてないでしょう? だから、私が隠しカメラを仕込むのも問題ないですよね。あれです。防犯目的なんです。ほら、この学園は良家の子女が多数在学していますし、良からぬことを企む輩が紛れ込んでいるとも限りません。ですので、防犯カメラの一台や二台どころか教室内を全方位カバーできるだけの数が必要なのは必然的に明らか。うふふ……我ながら完璧な理論です。幸いにも、以前実家の弱みを握るために用意した隠しカメラがありますからそれを流用することにしましょう。……え? 盗撮も立派な犯罪? ……知らない概念ですね。

 

 

 

 はぁ……。綺麗に三六〇度撮影できたらVR用のアバターとか作成できないものでしょうか。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 文化祭二日目。

 一日目とは違い、今日は学園の外からお客様がやってくる日です。

 

 昨日の反省を活かし、早朝から準備に奔走したので既に防犯対策も万全。

 今日こそは彼の犬耳ルックを一秒たりとも逃しません。これで私も彼の愛らしい姿をいつでもいつまでもいくらでも堪能し放題ですよイヤッッホォォォオオォオウ! 文化祭最高ー!

 

 と、そう息巻いていたのですが……。

 

 

「ミコト、キミとの婚約関係は破棄する!!!」

 

 

 まさかの王子拓真からの婚約破棄イベントです。

 やらかしました。この人、やらかしてくれましたよ……!

 

 なんならもう、私の頭上で祝福の鐘状がリーンゴーンと鳴り響いているような気がします。

 

「……王子さん。本気ですの?」

 

 想像もしていなかったまさかの展開に、思わずロールプレイしていた貴族令嬢口調で訊ねてしまいました。

 いえ、もうそんな些細なことに構っていられる余裕なんてありません。これはチャンス。千載一遇の大チャンスです。必ずやモノにしてみせますとも!

 

「ああ、もちろん本気だ。これ以上、キミの彼女に対する横暴な振る舞いを看過することはできないっ」

 

 ちょっと何を仰っているのか分からないのですが、下手に否定して勘違いでしたと婚約破棄を撤回されても困ります。

 ここはいかにも悪事がバレて無駄な足搔きをしている惨めな令嬢風に家の都合を盾に反論してみましょう。

 

「……この婚約は私たちだけではなく、家同士の約定によって成立しているものよ? それなのに、貴方の一存で一方的に破棄すると?」

「両親はオレが必ず説得してみせる。まぁそれも、キミの醜い嫉妬心が引き起こした数々の非道を伝えれば了承してくれるだろうけどね」

 

 本当に説得してくださいね? 絶対ですよ?

 とは言え、この程度ではちょっと弱いでしょうか。まだ油断は禁物。絶対に負けられない戦いが、ここにあるのです。

 

 決定的な言質を取るためにも、非は完全に向こうにあると証明するためにも、もうちょっと相手の失言を引き出しましょう。

 

「非道、ねぇ……」

 

 本当に私、いったい何をやったのでしょうか。

 まったくもって身に覚えがないのですけれど……。

 

「その非道な行いとやらを私がやったという証拠でもあるのかしら?」

 

 むしろ私は彼女と王子拓真の仲を応援するために、嫉妬から嫌がらせをしようとする王子拓真のファンたちを牽制して守ってあげてすらいたのだけれど。

 これは恩を仇で返されたということでしょうか? いえ、でも、婚約破棄自体は私としても願ったり叶ったりですから、彼女と王子拓真からの恩返しと言えなくもない……?

 

「それは姫香が勇気を出して証言してくれた。内気でか弱く、純粋で穢れを知らない無垢な彼女がオレに噓を言うはずがない」

 

 えぇ……。まさか彼女の言い分だけを信じて婚約破棄を宣言してしまったのですか?

 もっとこう、盤石で言い逃れができないような決定的な証拠とかを揃えてください。必死になって決定的な言質を引き出そうと躍起になっている私が馬鹿みたいじゃないですか。

 

 ほら、何かあるでしょう?

 証拠写真とか、現場に落ちていた私の私物とか、そういう物的証拠を出してくださいよ。捏造でもいいですから!

 

「当然だね。この学園の生徒会長として、僕が彼女の証言を保証しよう」

「俺様も保証するぜ。文句がある奴は俺様がぶっとばしてやらぁ!」

「自分も同意見っす! 姫香ちゃんが自分たちにウソなんて吐くはずないっすもん!!」

「そういうことです、姉上。貴女には失望しましたよ。このことは家長である父に報告させていただきますので、覚悟してください」

 

 アッハイ。

 もういいです。貴方たちに期待した私が愚かでした。

 

 あとどうでもいいのですが、弟はいつの間にこんな愉快な仲間たちの仲間入りを果たしてしまったのでしょう。

 こんな底の浅い弟で西園寺家は大丈夫なのでしょうか? この子が西園寺家を継いだ行く末が些か不安ですが、私には微塵も関係ない話なのでやっぱりどうでもよかったですね。

 

「……そう。王子さん、そして貴方たちも、全員本気で彼と私の婚約破棄を支持する……という認識で良いのかしら」

 

 これ以上粘っても無駄そうですから、話を前に進めましょう。

 

「当然だ!」

「ふん、ライバルに塩を送るというのもまた一興、ということだよ」

「拓真に姫香を渡す気はさらさらねーが、それとこれとは話が別だ。正々堂々が俺様のモットーなんでな!」

「もちろん本気っす! 正義は自分たちにありっす!!」

「姉上、弟としてせめてもの情けです。ここで全ての罪を認めて素直に謝罪するなら、家を勘当される程度で許してあげましょう」

「皆さん……! わ、わたしのために……ありがとうございますっ」

 

 私としても本当にありがとうございます!

 感動に震えて涙している彼女をチヤホヤしている光景のなんと素晴らしいことか。その意気です。もう少し頑張ってください。

 

「……本当に、婚約を破棄するつもりなのね?」

「今さら謝って泣きついてきてももう遅い! オレは”真実の愛”に目覚めたんだ!! これからは彼女とともに幸せな人生を歩む!!!」

 

 ……それは奇遇ですね。

 私も昨年、彼との”真実の愛”というものに目覚めて絶賛暗躍中なんです。うふふふ……。

 

 さて、もうそろそろ良いでしょうか。

 冤罪による衆人環視の前での一方的な婚約破棄宣言。誰がどう見ても私に過失はないですし、今さら撤回など両家の面子からして不可能でしょう。

 

 私は歓喜に打ち震えそうになる身体を懸命に抑え込み、震える声で王子拓真に改めて問いかける。

 

「ほ、本当に……?」

「だからそう言っている!」

 

 ダメよ。まだ笑ってはダメ。

 念には念を入れて言質を取らないと。後になってから「あのときは知らなかったんだ」とか「騙されていただけなんだよ」と言って縋られても迷惑ですもの。

 

「本気なのね? 後になってから許してくれとか、さっきのは気の迷いだったなんていうのは認めないわよ?」

「くどいぞっ」

 

 もう一声!

 

「ほんっ~~~とーのホントにほんとうに本当に本当に本当に本当に本当に…………婚約破棄するのね?」

「何なんださっきからっ!? ミコトとの婚約は破棄するっ! この王子拓真に二言はない!!!」

 

 ”二言はない”いただきましたっ!

 

 

「…………シャオラァ!」

 

 

 あらいけない。あまりにも嬉しくて、つい淑女らしからぬ勝利の咆哮を上げてしまいましたわ。やだもう美琴ったらはしたない。ごめん遊ばせ。おほほほほ。

 

 ……はっ!?

 

 いけないいけない。

 夢のような展開にテンションが降り切れて、思わず貴族令嬢ロールプレイが出てしまいました。

 

 けれど、今はそんなことをして時間を無駄にしている場合ではありません。

 『兵は拙速を尊ぶ』と昔の偉人も言っていました。この好機を必ずモノにするためにも、外堀どころか内堀と言わず、一気に本丸まで攻め落としてしまいましょう。

 

「──もしもし。お父様? いまお時間よろしいかしら? ……これから重要な会合? 知りません、そんなこと。黙って私の話を聞きなさい」

 

 電話口で困惑している父の都合など知ったことではありません。

 そんなことよりも、一秒でも早くこの吉報をお伝えしなければ。……この想い、父に届け!

 

「まず結論から申し上げますと、王子拓真さんとの婚約は相手方の一方的な都合により破棄されました」

『破棄ッ!? 破棄だと!???』

 

 そうです。破棄です。紛れもなく婚約破棄ですよ。

 

「お父様。私、約束しましたわよね? これまで育ててもらった恩があるから、最後にひとつだけ、家のために何でも従うと」

『待て! 頼むッ!!』

 

 待ちませんし、頼まれてもごめんです。

 

「だから、自分を滅して王子さんとの婚約に異を唱えることもしなければ、高校卒業後は約定通りに彼と結婚するつもりでした」

『美琴!?』

 

 私は本当に結婚するつもりだったんですよ? 約束通りに……。

 西園寺家にはこの年まで何不自由なく育ててもらった恩があります。たとえそこに親子としての情愛は無くとも、家の都合だったとしても、そのことに感謝している気持ちは本当でしたから。

 

「けれど、あちらから婚約破棄してきたんですもの。たとえ契約不履行でも、こちらに瑕疵はないですわよね?」

『ッ──! 待て! 証拠はあるのか!!』

 

 ああ、王子拓真が本当に自分から婚約破棄を宣言したのかを疑っているのですね?

 まさか彼の子犬ルックを永久保存するために仕込んだ隠しカメラが、こんな形で役に立つとは思いませんでした。

 

「……証拠? それなら後で4K動画で送り付けて差し上げますわ。そんなことより────」

 

 

 ああ……、急速に自分の頭が冷めて、覚めて、醒めていくのがわかる。

 これまで靄に包まれていた願望が、霞がかかっていた想望が、霧に覆われていた待望が、押し込めていた私の内側から外側へと濁流となって押し寄せていく。

 

 ねぇ、お父様──。

 どうして私が、一方的に有利な立場にいながら、お父様のお願いを訊いてあげたと思っているの?

 

 西園寺という家に感謝しているのは本当。

 でもね、それだけじゃない。それだけじゃなかったの。

 

 どうせ理解していないのでしょう?

 だって、それはそうよね。私は何も言っていないもの。気持ちを伝えることも、言葉を届けることもしなかった。

 

 でもね……。

 

 あの日、彼に触れて、温もりを感じて、泣いて、縋って、甘えて、私は知ってしまったの。

 

 誰かが無条件で自分の傍にいてくれるということの、安心を、安寧を、安息を、安楽を、安堵を、安泰を────。

 

 だから、期待してしまったのでしょうね。

 無理だと悟っていても、無駄だと理解していても。

 

 私は欲張ってしまった。

 願ってしまったのだ。縋って、甘えて、手を伸ばそうとしてしまった。

 

 ねぇ、お父様──。

 どうして最後まで、私のことを理解しようとはしてくれなかったの?

 

 要求の目的は訊ねても、計画の裏を読もうとはしても、私の本音を訊こうとはしてくれなかった。

 

 ──真意を察して欲しかった。

 ──含意を汲んで欲しかった。

 

 西園寺家の当主としてではなく、西園寺家の娘としてではなく、ただの父親として、ただの娘として、私を視て欲しかったのに。

 

 伝えていないのだから、伝わるはずがない。

 言っていないのだから、察するはずがない。

 

 勝手なのは私で、傲慢なのも私で、強欲なのも私。

 

 それでも信じてみたかった。

 そこに家族としての情が、絆のようなものが、一欠けらでも残っているんじゃないかって……。

 

 

 『……それなら高校卒業と同時、王子拓真と結婚しなさい。おまえと王子家との婚姻は西園寺家として重要な────』

 

 

 私はその”お願い”を了承した。

 これが私なりの最後の親孝行だと、そう割り切って、そう切り捨てて、私は家族というものを諦めた。

 

 

 ────私は異常だ。

 西園寺家として間違っているのは私で、異端なのも私で、狂っているのも私。

 

 

 ────私は異常だ。

 ひとりの女として彼のことを求めているのに、彼だけを欲しているのに、他の誰かと結婚することに頷いている。

 

 

 ”西園寺家の娘”として生きていた私と、”西園寺美琴”として生きようとしている私。

 そんな二律背反に耐えかねて、心が悲鳴を上げて、仕方がないから私は仮面を被ることにした。

 

 

 ライトノベルに影響されたのだと自分を納得させて、私の中に私だけど私じゃない別なキャラクターを作り上げて、内に眠るドロドロした想いを、底に沈むグチャグチャとした感情を誤魔化したのだ。

 

 

 でも、それも今日で終わり。

 

 

 ふと正面からの視線に気がついて、()()()()()()()に焦点を合わせる。

 

 

 私の婚約者だったモノが、それに縋りついているモノが、愕然とした様子で私を視ていた。

 

 そう、そうよね。

 今、私がこうしていられるのも、彼らのおかげなのよね。

 

 ねぇ、王子拓真さん。

 貴方は私にとって、最善の婚約者だったわ。

 

 ねぇ、何処の誰とも知れない泥棒猫さん。

 貴女は私にとって、最良の福音者だったわ。

 

 だから、あのときのように笑いかけてあげましょう。

 幼いときは私が哂うと、貴方はとても嬉しそうだったものね。

 

 

 ────ありがとう、私の元婚約者さん。

 

 

 あらあら。私が心の底から嗤いかけてあげたら、嬉しさのあまり気絶してしまったみたい。

 

 でも、もうそんなことどうでもいいわね。

 そんな些細なことに構ってあげるほど、暇じゃないの。

 

 さて、それじゃあこちらも、お仕舞にしましょう。

 

 

「──もう、西園寺家には二度と縛られない。これからは、私の自由にさせていただきます」

 

 

 通話口の先で絶句している父に別れの言葉を告げて、もう用済みとなったスマートフォンを踏み砕く。

 代替になるスマートフォンは個人弁護士を介して用意してあるので、西園寺家として契約しているこちらはもう要らない。

 

「……うふっ」

 

 終わってみれば、呆気ないものだった。

 捨ててしまえば、味気ないものだった。

 

「うふ、ふふふふふ。ウフフフ」

 

 言いようのない虚無感も、埋めようのない寂寥感も、気がつけば自然とこぼれる笑みと一緒に霧散していた。

 

「くふっ、フフフフ」

 

 視線を感じる。

 気配を感じる。

 だから、彼が何処にいるのか、私には手に取るようにわかる。

 

「ふふ……」

 

 振り向けば、彼がいる。

 驚愕したような、困惑したような顔をして、どこか焦燥に駆られていた。

 

 そんな姿も愛らしくて、愛おしくて、だから、ついつい笑ってしまう。

 

「うふふ」

「っ……!」

 

 そうね。不思議よね。

 もしかしたら、アナタは覚えていないのかもしれない。階段で助けた相手が私だって気がついていないのかもしれない。

 

 それとも、覚えていて、気がついていて、それでも何事も無かったかのように振舞っているのかしら。

 

 ずっと聞きたかった。

 ずっと知りたかった。

 

 でも、今となってはもういいの。

 

 アナタが覚えていなくても、気がついていなくても、知らんぷりしていたのだとしても、そんなこと、私には関係ないもの。

 

 私はアナタの温もりを、忘れないから。

 私はアナタの匂いを、覚えているから。

 私はアナタの存在を、知っているから。

 

 だから、これからでいいから。

 

 

 ──彼が何かを確かめるように、横を向いた。

 

 巻き込まれたくなかったのか、視線の先にいた無関係の生徒たちがサッと距離を取った。

 

 

 ──彼が助けを乞うように、逆を向いた。

 

 昨日、彼にセクハラを働いていた三人組の一人が気を失って倒れていた。

 ごめんなさいね。思い出したらなんだかムカムカしてしまって、つい殺気を送ってしまったの。別に許してくれなくていいわ。どうでもいいから。

 

 

 ──彼が救いを求めるように、後ろを向いた。

 

 残念でしょうけれど、無駄よ。

 そこには誰もいないもの。何もないの。私の視線の先に居るのは、アナタしかいないの。

 

 

 だから、これから始めましょう。

 

 

 アナタと、私の、二人の人生を────。

 

 

 

「…………あはぁ♡」

 

 

 

 ねぇ、だからお願い、私を視て。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 彼女が、一歩前に出る。

 

 応じるように、俺は一歩後退った。

 

 彼女が進んだ分だけ、俺も退く

 視線は逸らさない。逸らせない。

 

 縮まらない、二人の距離。

 

 でもやがて、それも終わりを迎える。

 

 何事にも終わりはやってくるとは言うけれど、今だけは、終わってほしくなかった。

 

「っ……」

 

 俺の背中が、廊下と教室を隔てる壁にぶつかったのだ。

 咄嗟に背後を振り返って、目の前に広がる見慣れた教室の壁に愕然として、ハッとして正面に向き直った。

 

「……ふふ」

 

 いつの間にか、数メートルはあったはずの距離がゼロにされていた。

 

「さ、西園寺さ──」

 

 取り繕うように口をついて出た言葉は、しかし最後まで言い切ることが出来ずに遮られた。

 

 ドンッと苛立つように、彼女の両手が俺の顔を挟むようにして壁を叩いたのだ。

 

 

 ……壁ドン?

 

 

 え? 俺、いま西園寺さんに両手で壁ドンされてるの?

 普通、こういうときの男女の立ち位置って逆じゃない?

 

「……美琴」

「はい?」

「美琴って呼んで?」

「アッハイ」

 

 ふぇぇ…、さからえないよぉ……。

 

 いや、本当に無理です。顔は笑顔だし、目も優し気だし、声も機嫌良さそうなんだけど、纏っている空気というか、オーラみたいな圧が強すぎて断るとか無理です。

 

 いやちょっと待って! これ、本当に西園寺さん? 本当に、()()西園寺さんなの?

 

「……ねぇ」

「は、はい」

 

 唯でさえ近かった二人の距離感が、更に縮まる。

 

 相手の瞳に、自分の姿を捉えてしまえるほどに……。

 ふとした拍子に、僅かに身動ぐだけで、俺と彼女の唇が触れ合ってしまいそうなほどに……。

 

「ずっと、この日を待っていたの。()()()から、こうなる日を、こうなれる日を、私はずっと待ち望んで、そのために、それだけのために、今日まで準備してきたの」

 

 どこか熱に浮かされるような瞳で、彼女は惚惚と語る。

 揺れる、潤む、その目は、語り口調は、焦っているようにも、逸っているようにも思えた。

 

「思っていたのとは、考えていたのとは違う形になってしまったけれど、それでも結果は変わらない」

 

 彼女が口を開く度に、彼女の吐息を、その息遣いを間近に感じてしまう。

 

「もう私を縛る家はない。私を縛り付ける婚約者もいない」

 

 奈落を思わせる深く暗い瞳は、滲んだ涙でキラキラと目映くて、まるで闇夜に浮かぶ幻想のようだった。

 

「……やっと、ここまで来れた」

 

 消え入りそうな声で絞り出された言葉に目を見開いて、至近距離に迫る彼女を見据える。

 目に入ったのは、なぜだか彼女の端麗な顔でも、色香を振りまく艶やかな身体でもなく、小さく震えるか細い両肩と両腕だった。

 

「西おん…っ……美琴さ…………美琴」

 

 微かに眉根を寄せて、僅かに眉尻を下げて、彼女は華やぐように顔を綻ばせる。

 

 俺が学園でも有名な西園寺美琴について知っていることは少ない。

 

 誰もが羨むような名家のお嬢様で、

 誰もが羨むような容姿に恵まれていて、

 誰もが羨むような婚約者が傍にいる。

 

 そんな程度の、誰でも知っているようなことしか知らなかった。

 

「……美琴」

 

 俺が()()()()()()西園寺美琴という女の子について知っていることは多くない。

 

 弱弱しく震える細い肩。

 小さく縮こまる白い肢体。

 甘えるように縋る華奢な手。

 幸せそうに微笑む穏やかな幼い寝顔。

 

 俺が彼女について()()()()()ことは、その程度だ。

 

「君は、どうしたいの?」

 

 自然とこぼれだした疑問は、きっと彼女の望んだ言葉ではないのだろう。

 

「……お願い」

 

 彼女は一瞬だけ虚を突かれたように瞠目して、次の瞬間には妖艶にはにかんで、それが俺には幼子が怯えながら駄々をこねているようにしか見えなかった。

 

「私のものになって」

 

 それは、なんて傲慢な懇願なのだろう。

 

「私をアナタのものにして」

 

 それは、なんて悲壮な哀願なのだろう。

 

「私を…視て……」

 

 それは、なんて幼稚な嘆願なのだろう。

 

 

「んっ……」

「……!」

 

 

 

 ふわりと、唐突に、なんの前触れもなく、突然に、西園寺美琴は俺と口付けを交わした。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 気がついたときには、もう遅かった。

 彼が瞠目したのが分かったけど、それもすぐに気にならなくなる。

 

「んっ……」

「……!」

 

 唇に感じる柔らかな感触。

 『ファーストキスはレモンの味』なんて話を耳にしたことがあったけれど、そんなものは嘘だと知った。

 

 現実には味なんてしない。

 どちらのものとも知れない、微かなリップのぬるりとした触感があるだけ。

 

 この行為に、いったいどんな意味があるのだろう。

 生殖行為のように子を生すためでもない、神前で誓う意味もない、ただ単に互いの唇を触れ合わせているだけ。

 

 そう、それだけ。

 

 たった、それだけ。

 

 それだけのことなのに、どうして私の胸はこんなにも高鳴っているのだろう。 

 

 全身が火照ったように熱くて仕方がない。

 

 身体中が()()を求めて我慢できない。

 

「ぁ…ん…っ……ふ……んんっ」

 

 本能の赴くままに、舌を伸ばす。

 

 彼が身構えたのが分かったから、逃がさないように両手で彼の頭を支える。

 

 私が伸ばした舌先が、彼の固く閉ざされた唇を強引に押し開く。

 

「ん…ふぅ……っ…ぁむぅ………んっ……」

 

 まだだ。

 

 まだ足りない。

 

 私が求めているものは、まだ遠い。

 

「ふ……ん…ぁ……ぅん………」

 

 伸ばして、這わせて、彼の口腔を蹂躙する。

 押し入るように、抉じ開けるように、舌を割り込ませる。

 

 噛み合わせの僅かな隙間を見つけて、縋るように、願うように、祈るように、私は舌を挿し込んだ。

 

「…っ……ふむ……ぁ…んっ……」

 

 逡巡するような抵抗も、すぐに消えた。

 諦めたように、絆されたように、慰めるように、彼が私の舌先を迎え入れてくれる。

 

 直に感じる温もりと、粘つくような唾液。

 

 息をするのも忘れて、私は貪る。

 

 彼の舌を絡み取って、私の舌で転がして、その柔らかくて固い不思議な感触に全神経を集中させた。

 

「……ふぁ…んっ」

 

 どれだけ、求めていたんだろう。

 どれほど、続けていたんだろう。

 

 永遠にも思えるし、一瞬であったようにも感じる。

 

 酸素が不足してぼーっとする頭でそんなことを考えながら、私はゆっくりと、名残惜しむように、そっと彼の唇を開放した。

 

 

 距離を取った分だけ、互いの舌先から延びた唾液が糸を引く。

 

 

 真っ直ぐに伸びていた二人を繋ぐ透明な糸が、やがて重力に負けて落下を始めた。

 

「ぁ……」

 

 その光景に胸が締め付けられて、無性に悔しくて、辛くて、哀しくて、彼との繋がりを断ちたくない私は追い縋るように再び彼と唇を重ねる。

 

「はむっ…ん……ぅん………ふぅ…」

 

 二度目のキスは、すんなりと受け入れられた。

 

 ツルツルとしたエナメル質の感触が楽しくて、

 顔にかかる彼の鼻息が擽ったくて面白しくて、

 肌で感じるよりも高い体温にときめいて、

 絡み合う舌先での追いかけっこに心が躍る。

 

 私は両手を下ろして、そのまま彼の腰に回してぎゅって抱き寄せた。

 

「んんっ……!」

 

 背中に温かな感触が()()()()()()()()、彼の腕がきゅっと私を抱きしめる。

 それだけじゃなくて、ぎこちない手つきで、慣れない動きで、不器用にゆっくりと、彼が優しく私の頭を撫でてくれた。

 

 ぽろぽろと、ほろほろと、ぼろぼろと、頬を伝って流れる熱い雫は際限がない。

 

 

 彼の腕に抱かれて────。

 彼の温もりを肌で感じて────。

 彼の匂いに包まれて────。

 

 

 私の心を覆っていた罅割れた殻が、溶けるように、蕩けるように、はらはらと流れ落ちた。

 

「…………んっ」

 

 ずっと続けていたい気持ちを押し殺して、私は静かに唇を離すと、すっと視線を下げて俯いた。

 

 

 ──今はちょっと、彼の顔を直視できる自信がない。

 

 

 今更ながらに、不安になってしまった。

 突然こんなことをしておきながら、何を悩んでいるんだろうと自分でも呆れてしまう。

 

 関係ないはずだった。

 彼が自分をどう思っていようと、私が彼を想う気持ちは不変だから。だから、嫌われても、疎まれても、関係ないと思っていた。最悪、監禁でもして時間をかけて私を受け入れてもらえれば、それで良いとさえ思っていた。

 

「……」

 

 私は、また欲張ってしまった。

 

 彼の温もりを感じられれば、それで満足できた筈だったのに。

 彼の匂いに包まれていれば、それで満足だった筈だったのに。

 

 私は、また期待してしまった。

 

 愛してほしい。

 恋してほしい。

 

 好きになってほしい。

 手を伸ばしてほしい。

 

 私の心に、触れてほしい。

 

「……!」

 

 勇気を出して、私は顔を上げた。

 必死の思いで、彼の顔を窺った。

 

 

 彼と()()()()

 

 

 昂る鼓動に、滾る想い、疼く心に、揺れる私。

 

 

 迫る濡れた瞳に、重なる濡れそぼった唇。

 

 

 

 私のなけなしの理性の糸が、プツリと音を立てて千切れ飛んだ。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 ……早まったかもしれない。

 

「み、美琴……?」

 

 正直、場の空気に流された感は否めない。

 それでも後悔はない。反省もしない。

 

 ……いや、やっぱりちょっと考えなしだったかもしれない。

 

「おーい?」

 

 いずれにしても、賽は投げられた。

 投げてしまったのは、自分自身。

 

 なら、後は野となれ山となれの精神だ。

 

「……もしかして、嫌だった?」

 

 だって、もう二度と、自分が一番後悔しない選択肢は何かを考えた結果が、()()だったのだから。

 

「──ぐ、────しょう」

 

 突然、電池が切れたかのようにストンと真顔になって、ピクリとも動かなくなってしまった美琴。

 こちらが何度呼びかけても反応が無かったけど、ようやく意識が戻ってきたらしい。虚ろな瞳を怪しく煌めかせて、何事かを小さく呟いている。

 

「────っこん」

「え? なんだって?」

 

 上手く聴き取れなくて、思わず鈍感系主人公みたいな台詞を吐いてしまった。

 俺がちょっとした気恥ずかしさに苦笑していると、無表情でトリップしていた彼女の表情に生気が戻り、またもや両手を駆使した逃げ場のない壁ドンが繰り出された。男前すぎる。

 

 

「今すぐ、結婚しましょう」

 

 

 ちょっと男前すぎやしませんかねぇ……?

 俺の困惑した様子に、何かを察したらしい彼女が鷹揚に頷いて答える。

 

「安心して、もう新居は用意してあるから」

「違う、そうじゃない」

 

 お願いだからこちらを置いてけぼりにして、未来に生きないでもらえます?

 

「あ、もしかしてタワーマンションは嫌い? 大丈夫、一戸建ても確保してあるから!」

「そうじゃねぇよ」

 

 いい加減、不動産から離れて? もっと前提として気にすることが別にあるでしょ?

 

「あのさ、今すぐ結婚って言われても……無理だよ」

「……え?」

 

 どうして、そこで信じられないって顔をして固まるのか。

 もっと常識的に考えてほしい。俺たちの間には、もっと根本的な問題が立ちはだかっているのだから。

 

「その、法的に……無理」

「法的……?」

「俺、まだ十七歳だから。結婚って男子は十八歳からでしょ。だから無理」

「……あ、うん」

 

 キョトンと呆けたように、彼女は小さく頷いた。

 でも、少しするとしきりに首を傾げて、何やら訝し気に眉根を寄せてみせる。

 

「……ねぇ」

「ん?」

 

 やがて自分の中で結論が出たのか、彼女は俺の両頬に手を添えると、じっと瞳を覗き込んでくる。

 まるでこちらの真意を読もうとするように、含意を汲み取ろうとするように、彼女は瞬きすらせずに問いかけた。

 

 

「それって、法的な問題が無ければ私と結婚してくれるってこと?」

 

 

 考えてもみなかった質問に、頭が真っ白になる。

 彼女の言葉を咀嚼して、質問の意図を理解して、もう一度頭が真っ白になった。

 

 一拍して、脳が再起動。

 

 そのとき、ふと最初に頭に浮かんだ答えに、俺は慌てて取り繕うように視線を泳がせた。

 

 でも、どうやら『目は口ほどに物を言う』という諺は本当のことだったらしい。

 静かに俺の目を見据えていた彼女が、ニンマリと唇を横に広げて笑みを作る。

 

 

 

「…………んふぅ♡」

 

 

 

 内心を悟られて羞恥に悶える俺を揶揄うように、彼女は笑った。

 自らの泣き顔を誤魔化すように、彼女は笑った。

 

 

 それは、とても魅力的な笑顔だった。

 

 

「じゃ、行きましょうか」

「え、何処に?」

「もちろん、私たちの新居です」

「ふぇ……?」

 

 強引に引きずられ、有無を言わせずタクシーに乗せられて、辿り着いた先にはタワーマンションがそびえ立っていた。

 

「……マジか」

 

 空を見上げて呆然とする俺を余所に、西園寺美琴は含むように笑いながら、するりと俺の首に両手を回す。

 

「もう、逃がしてあげない」

 

 躊躇なく唇を重ねて、彼女は宣言する。

 

「もう絶対に、離してあげない」

 

 悪戯気に微笑んで、彼女が俺の手を引いた。

 

 

 

「末永くよろしくね。……()()()?」

 

 

 

 このあと滅茶苦茶(ry

 




あとがき

五千字程度で可愛いヤンデレコメディ短編を書きたかったはずなのに、いつの間にか迷走してイミフなお話に……。どうしてこうなった。

【人物設定】
・彼
 主人公と見せかけたヒロイン。
 名前は木下 昴(きのした すばる)という設定だったが、作中で活かされることはなかった。
 友人に勧められた捻くれぼっちが主人公の青春ラブコメに影響を受け、斜に構えた性格を目指すも、根が小心者なのとお人好しな性格が災いして上手くいっていない、という設定だが、作中で活かされることはなかった。
 西園寺美琴のことは数日後に廊下で再会した際に背格好から察するも、確信が持てず今に至る、という設定だが、作中で詳しく描写されることはなかった。
 彼女には淡い気持ちを抱きかけていたものの、再会直後に婚約者の存在を知ってしまい、恋心に発展する前に霧散した、という初期設定だったが、作中で上手く活かされることはなかった。

・西園寺美琴
 ヤンデレと見せかけたクレイジーサイコ甘えん坊。
 死にかけたことで覚醒し、命の代わりに情緒が死んだ。
 彼に対する想いは完全にインプリンティングであり、家族愛が得られなかったことからくる依存であるとも自覚している……が、そんなの関係ねぇの精神で突っ走るヤバいお人。

・王子拓真
 ざまぁ要員と見せかけた道化。
 本人は知らないが、王子家としては一年足らずでかなりの規模の個人資産を築き上げた美琴の資産運用能力に期待しており、結婚したら不振が続く投資部門を任せようとしていた。
 ちなみに、不振の一因は大企業になっても一族経営に拘ったことによる弊害だったりする。
 もちろん、このあと滅茶苦茶怒られた。

・乙女ゲーヒロインポジションの小動物系美少女
 ただの乙女ゲー好きの夢見る乙女。
 面白半分でG5のメンバーに乙女ゲーのノリでイベントを消化していったら上手くいってしまって後に引けなくなってしまった哀れな人。 
 最終的に逆ハーエンドを目指すも法の壁に阻まれ挫折した。


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おまけ:タワーマンション ~ カノジョとオレと、時々、木下家 ~

多くの感想や評価をいただき、本当にありがとうございました!

か、書かなきゃ……!(強迫観念)

という訳で、後日談的なおまけです。
但し、ヒロイン君(昴くん)視点の話になりますので、ヒロインちゃんの限界化とか二人のいちゃラブとかだだ甘な展開を期待している人はブラウザバック奨励です。

多分、求められているのはこういうこっちゃないんだろうなとは思いつつ、書き上がったらこんな風になっちゃったので、ゆ、許して……(震え声)

無駄にダラダラと長いので、本当に暇な人だけ読めば良いと思います(逃げ腰)


 

 新築の高級タワーマンションと比べてしまうと何ともしがない我が家に、彼女の男前すぎる宣言が轟いた。

 

 

「結婚を前提に同棲させてください」

 

 

 キョトンとする両親。

 頭を抱える俺。

 ご機嫌でニッコニコの彼女。

 

「……だから、色々とすっ飛ばし過ぎというか、ぶっ飛び過ぎだってば」

「あ、そうですよね。私としたことが、まだ自己紹介もしていませんでした」

 

 溜息交じりにぼやく俺の言葉に、彼女────西園寺(さいおんじ)美琴(みこと)は誰もが見惚れるようなテヘペロを披露すると、居住まいを正して俺の両親へと頭を下げる。

 

「はじめまして。この度、(すばる)くんとお付き合いさせていただくことになりました西園寺美琴と申します」

「ど、どうも……スバルの父です」

「は、母です」

 

 彼女の自己紹介に、戸惑い気味ながらも素直に頷き返してくれる両親。

 ははっ……、どうしてだろう。なんだか両親に対して無性に申し訳ないという思いが募ってしょうがない。

 

 言うなれば、外敵のいない平穏な世界に住まうグッピーの水槽に、獰猛なザリガニを解き放つに等しい行為。間違いなく鬼畜の所業。『ザリガニ天国』俺の脳裏にはそんな天国名がうかんだ。

 ちなみに、何も知らずに首を傾げている両親がグッピーで、内に秘めた天然由来の獰猛性を隠したまま澄まし顔をしている美琴がザリガニである。

 

「本日は昴くんの御両親にご挨拶と、折り入ってご相談があって参りました」

「それはご丁寧に……。それで相談とは……?」

 

 如何にも品行方正なお嬢様然とした態度で話を進める美琴。

 

 父さんはそんな彼女に対して穏やかに対応しながらも、どこか困惑したような、驚愕したような視線をこちらに寄越す。

 まぁ、気持ちはよく分かる。だって俺が父さんの立場で、突然、自分の冴えない息子が如何にも育ちの良さそうな家の子を彼女として連れてきたら、めっちゃ戸惑うもの。絶対、雰囲気に呑まれて気品に圧倒されて年齢差も忘れて年下相手に下手にでちゃうまである。

 

 但し、母さんだけは女の勘というか、母親の為せる業というのか、開幕初手同棲宣言をかました女のインパクトを忘れていなかったらしく、彼女に訝しそうな眼差しを向けていた。

 

 

「昴くんは私が必ず幸せに養ってみせますので、どうか息子さんを私にください!」

 

 

 そして、母の警戒は正しい。

 この子、ちょっとヤバいんですよ……。

 

 綺麗に三つ指をついて頭を下げる美琴の隣で、俺は再び頭を抱えた。

 

「昴、説明」

「はい……」

 

 スッと目を細めた母が、俺に事情を説明しろと端的に告げる。

 ですよねーと項垂れながら、俺は力なく頷き、どうやって説明したものかと今日ここに至るまでの経緯を振り返るのだった。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 学園のトップカースト連中が文化祭で婚約破棄イベントを繰り広げたと思ったらタワマンに連行されていたでござる。

 

 我ながら流されやすい性格だと思う。

 意志薄弱だと罵ってくれても構わない。

 

 そもそも、突然教室で迫られて、それにすんなり応じてしまっている時点で俺のダメさ加減がわかるというもの。

 

 ……次から俺は、どの面下げて学園に通えば良いんだろう。

 

 

 いや、それよりも──────

 

 

「ここがバスルームで、トイレはこちらです。キッチンは基本的に私しか使わないと思って、勝手ながら私が使い易いように整えてしまいましたが、もし希望があれば仰ってください。あ、リビングにあるゲーム機などは自由に使ってもらって大丈夫ですよ。アナタが好きなタイトルは一通り揃えてありますが、他のモノが欲しくなったら遠慮なく言ってください。即日で用意しますから。その代わりと言ってはなんですが、この手前の部屋は私の私室兼仕事部屋になりますので、その……は、恥ずかしいので…なるべく立ち入らないでくださいね。で、ででででも、アナタに隠し事をしている訳ではないんです! なので、その…気になるなら……覗いても良いですよ? そ、それでですね。この隣の部屋が二人の寝室…ふた…り…の……しん…しつ………っ…あはぁ♡ …………ハッ!? いけないいけない。ごめんなさい。ちょっと『二人の寝室』っていうワードが余りにも魅力的でイマジネーションがウェディングナイトでパーリィナイトしてしまいました。……ふぅ。これで私たちの新居の説明は大体終わり……ああ、そうでした。こちらの奥の部屋はあまり気にしないでください。万が一の介護部屋ですので。…………大丈夫です。きっと必要ないと私は信じていますから」

 

 

 ──俺、ここから五体満足で帰ることが出来るんだろうか。

 

 

 何はともあれ、だ。

 未だに二人揃って文化祭の衣装のままっていうのもどうかと思うので、とりあえず着替えたいです。

 

「あの、そう言えば制服とか荷物を学園に置きっぱなしなんだけど、どうすれば……」

「あ、それならここに!」

「……いつの間に? というか、さっきまで俺と同じく手ぶらだったよね?」

「うふふ……。乙女の嗜みです」

 

 乙女の嗜みってすごい(小並感)。

 

「そ、それじゃ……制服に着替えるね。いつまでも犬耳と尻尾を付けっぱなしっていうのも──」

「それをっ はずすなんてっ とんでもないっ」

 

 いい加減、頭上とお尻の先でゆっさゆっさと鬱陶しい犬耳と尻尾を外そうと手を伸ばしたら、食い気味で制してきた西園寺美琴によって俺の手足は手錠で拘束されていた。

 な…、何を言っているのかわからねーと思うが、というお決まりな常套句でボケる気力もない。いやだって、本当にわからないんだもん。本能が理解することを拒否している。

 

「あっ、ごめんなさい。その、つい……」

「はは、そうか。つい、かぁ……」

 

 美琴は()()で、こちらの動体視力を超える速度で手枷を嵌めることが出来るのか。なるほどな~、え? どゆこと?

 

「さすがに手錠はちょっと……」

「そ、そうですよね。失礼しました。やだ、私ったらはしたない」

 

 はしたないって、そういう問題かな?

 …………よくよく考えたら色々と今さらだった。なら問題ないね(遠い目)。

 

「すぐに外しますねっ」

「あ、うん。お願いします」

 

 そう言って彼女は何処からともなく手錠の鍵を取り出すと、それを握りしめて鍵穴へと挿し込むのだが……そこで彼女は固まってしまった。

 俺がどうしたのだろうかと美琴の様子をしげしげと観察していると、おずおずといった風に顔を上げた彼女がうるうると涙目で訴えてくる。

 

「あ、あの……。手錠外しますから、せめて今日一日だけでも、その…犬耳と尻尾を付けたままで……いてくれませんか?」

「…………ヨロコンデー」

 

 どうも、意思の弱さに定評のある俺です。

 

 ……涙目上目遣いの使いどころ間違ってないかなぁ。

 美少女キャラの無駄遣いはズルいと思うんだ。もっと自重して。このままじゃ身が持たないから。主に俺が。

 

 あと、さらっと言われて流しちゃったけど、今日一日ってことはもう泊まるの確定なんですね。

 いや、ここに連れて来られたときから薄々は感づいてたけど。とりあえず、親には友達の家にでも泊まるとでも連絡しておくか……。

 

「そうだ。私、まだお茶もお出してないですよね。すぐに準備してきますので、リビングのソファにでも座って待っていてください」

 

 ぱんっと両手を叩いた美琴が、華やぐような笑みを浮かべながらふんふんと鼻歌まじりに、意外にも下手くそなリズムのスキップでルルンタッタッタンとキッチンに消えていく。なにそのリズムの刻み方、斬新!

 そして、その場に残された俺も言われた通りリビングに向かう……前に、ふとした好奇心から彼女の私室の扉を開けて、チラッと中を覗いてみた。

 

「……うわぁい」

 

 俺はそっと部屋の扉を閉じた。そっ閉じだ。ブラウザバック奨励。

 いやね、よく創作の世界なんかだと、ヤンデレとかストーカーキャラの部屋って隠し撮り写真が部屋一面にびっしり貼られてるとかあるじゃん? ちょっと怖いもの見たさというか、そういうものを想定して覗き見たんだけど……あれだ。所詮、空想は空想なんだなって。やっぱ、リアルってハンパないわ。

 

 結論から言って、俺の写真は無かった。

 その代わり、あったのは彼女の自作らしい作品の数々。

 

 

 ・ベッドに溢れかえるデフォルメされた俺のぬいぐるみ ←わかる

 ・写真と見間違うほど写実性のくっそ高い俺の肖像画 ←まぁ、わかる

 ・俺を模したであろう石膏彫刻(全身1/1スケール) ←わからない

 ・某東洋な工業もビックリな俺そっくりのラブドール(全裸) ←???

 

 

 おわかりいただけただろうか?

 

 『好奇心は猫を殺す』

 『事実は小説よりも奇なり』

 

 そんな言葉の神髄を垣間見た気分だった。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 俺は今、何事もなかったかのように平然と大人しくリビングのソファで寛いでいる。

 

 え、奥の介護部屋は確認しないのかって?

 

 ……俺は学んだ。

 世の中には、知らずに済むなら知らなくて良いことだってあるんだって。

 

 ほら、みんな大好きシュレーディンガーさんちのお猫様と同じだ。

 部屋の中を改めない限りは、そこが誰の何のための介護部屋なのか確定しない云々的な話。正直、言葉の活用法として正しいのか自信ないけども。所詮、知ったかのにわか知識です。

 

 そんな風に現実から目を背けて逃避していたら、美琴がトレーにティーポットやカップを載せて戻ってきた。

 

「紅茶は無糖でよかったですよね?」

「うん、ありがとう」

 

 彼女が当然のように俺の好みを把握していることについては、最早ツッコミを入れるのは野暮というものだろう。

 ただ、何というか、こう……貴族令嬢的なドレス姿の美琴に給仕をさせているという状況に違和感がすごい。この部屋の現代的な家具デザインとのミスマッチも違和感に拍車をかけている要因かもしれないけど。まぁ、呑気に犬耳と尻尾を生やしているマヌケな俺が言っても説得力皆無なんですけどね。わんわん。

 

 紅茶美味しいワン。

 

 流石と言うべきか、彼女の淹れてくれた紅茶はド素人な自分でもハッキリと分かるほど美味しいものだった。

 やだ、俺ってばあっという間に餌付けされちゃってる。こういう紅茶とかコーヒーの味の違いって、てっきり通ぶってる人が適当に言っているだけだと思っていたけど、本当に良し悪しってあるんだね。舌が肥えてしまって市販のペットボトルな紅茶に戻れなくなったらどうしよう。

 

「……ところで」

「どうかしましたか?」

「そのゴツイ一眼レフカメラはなに?」

「……乙女の嗜みです♡」

 

 乙女の嗜みってすごい(便利)。

 

「昨日、クラスの女子たちと写真を撮っていたでしょう? 実は私……あれが羨ましくて」

「あ、ああ……。なるほどね」

「だから、せっかくなので私も記念に一〇〇枚ほどよろしいでしょうか?」

「うん、わかっ…………んんっ?!」

 

 いや待って? ちょっと撮影枚数バグってない? ……うわぁい、すっごいキラキラした瞳でニッコニコしてらっしゃる。

 

 この子、これ本気だわ……。

 

「あとですね、犬耳と、その……頭も撫でさせて欲しいです」

「う、うん」

「もちろん、尻尾も。余すところなく」

「アッハイ」

 

 あ、あれ? おかしいな……。

 さっきまで煌めいていた彼女の瞳が、急速に欲望に溺れて濁っていくような気がするぞ。気のせいかな……?

 

 

「…………んふふ♡」

 

 

 このあと滅茶苦茶撫で回された。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 自分のスマートフォンを取り出し、俺は言った。

 

「頼みがある」

「なんでしょうか?」

「せめて、今日は友人宅に泊まると家に連絡を入れても良い? 無断外泊は両親が心配すると思うから」

「えぇ、もちろんです。ご家族の方を心配させる訳にはいきませんものね」

 

 意外にも彼女は二つ返事で了承してくれたので、さっそく電話を掛けようとスマートフォンのスリープを解除したのだが……。

 

「……西園寺さんや」

「美琴」

「…………美琴さんや」

「美琴」

「………………美琴」

「はい! なんですか?」

 

 花が咲くような笑顔で返事をしてくれる西園寺美琴に、俺はすっと手に持ったスマートフォンの画面を突き付けて問いかけた。

 

「電波が圏外なんだが、心当たりは?」

「……少々お待ちください」

 

 彼女は一切表情を崩すことなく、澄まし顔をして席を立つと私室へと引っ込み、数分もかからずして戻ってきた。

 

「これでどうですか?」

「……復活した」

「申し訳ございません。ジャミング用の妨害電波を停止させるのを忘れておりました」

 

「……」

「……」

 

「理由を訊ねても?」

「せっかくアナタと二人きりなのに、無粋な横槍に邪魔されたくはありませんから」

 

 清々しいまでに爽やかな笑顔で、彼女はとても利己的な理由を教えてくれた。

 

「とりあえず、電話しちゃうわ」

「どうぞどうぞ」

 

 俺は家に電話して当たり障りのない内容でアリバイ工作を施し、通話を切る。

 

「では、元に戻してきますね。また電話したくなったら遠慮なく声を掛けてください」

 

 そういう装置って、映画の中だけじゃなくて現実にも存在するんだね。勉強になりました。

 でも、その装置ってたぶん電波法違反だと思うから、ご利用は計画的にね? というか控えて? 普通にご近所迷惑!

 

 

 このあと滅茶苦茶説得した。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 リビングのソファで向かい合って座る俺に、西園寺美琴はいつになく真剣な顔つきで口を開いた。

 

「お願いがあります」

「……内容による」

 

 色々とぶっ飛んでいる所が多い彼女だが、意外なことに、大抵の場合はこちらを尊重して御伺いを立ててくれる。立ててくれない事もままあるけれど。

 まぁ、その御伺いを断った場合、俺にどんな末路が待っているのかまったくもって不明なんだけどね。……介護部屋? 知らない子ですね。

 

「その、ですね……」

 

 緊張しているのか、彼女は不安を押し殺すように、膝の上に乗せた両の拳をギュッと握る。

 顔を真っ赤に染めて、もじもじと羞恥に悶えながら、それでも美琴は溢れる思いの丈をぶつけるように、訥々と声を絞り出した。

 

「アナタを、な、な……」

「な?」

「っ……! な、ななな…なま……で」

 

 なま? ……生?

 アナタを、生で?

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

 それって────カニバリズ…

 

 

「アナタを名前で呼んでも、いいですかっ!?」

「もちろんOKだよ。うんうん、まったく問題ないね。どんとこーい」

 

 よかった。本当によかった。

 うん、汚れてたのは俺の心の方だったね。……浄化しなきゃ(使命感)。

 

「でも、どうして突然? なんか意外というか、今さらというか……」

「そ、そのですね! あの、うぅ……。誠に遺憾ながら、本当に不本意なのですが、抗いようのない現実の前に、私はまだ…ぐっ……ぐぬぬ……アナタと、結婚することが、できま…っ……せんっ!」

「そうだね。法の壁は分厚いもんね」

 

 民法第七三一条は偉大なり。

 ちなみに二〇一八年に条文が改正されたため、あと数年もしないうちに婚姻適齢が男女ともに一八歳へ統一されるらしい。いま調べました。

 

「はじめは”アナタ”という呼称も新婚さん気分が味わえて良いかなって思ったんです。もう事実婚みたいなものですし、こういう積み重ねが大事だとも思いましたから」

 

 人、それを『既成事実化』と言う。

 

「でも、段々とこう……まだ結婚できないという事実を突き付けられているように感じてしまって、それがなんだか切なくて、苦しくて……」

 

 目尻に滲んだ涙を隠すように、彼女は俯き、そっと両手で自分の顔を覆う。

 

 

「ですが、ふと思ったんです。名前呼びも、恋人気分が味わえて尊いなって……!」

 

 

 いつの間にか、顔を覆っていた両手を頬に当てて身悶えながら、だらしなく緩んだ顔でトリップしている西園寺美琴がそこに居た。……そういうとこだぞ。

 

「なので! 今から私は、アナタを名前で呼びます!!」

 

 フンスッと意気込んで、美琴が胸の前で両の拳を握って気合を入れている。

 ……なにその仕草かわいい。もう一回やって。

 

「っ……。では、な、ななな名前で…呼ばせて、いただきます」

「どうぞ」

 

 さぁ、来い。

 

「……」

「……」

 

 おーい?

 

「す…す………っ…すばる……くん!」

 

 どうも、昴くんです。

 

「えへ……すばる…スバル……昴くん。えへへ」

 

 あ、待って。ちょっと待って。これダメだ。思ってたより破壊力がヤバいやつだった。

 

「昴くん……!」

「な、なんですか……?」

「んーん、呼んでみただけ♪」

 

 やめて! どこぞの煽りAAみたいなことするのヤメて!

 その幸せそうな顔が眩し過ぎて直視できないから!! 浄化されちゃう!!!

 

 

「昴くん、えへへ……。昴くん…スバル………しゅばる……んへ、うへへへ……しゅばりゅきゅん」

 

 

 だから、そういうとこだぞ!

 

 

 

 このあと滅茶苦茶名前呼ばれた。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 美味しいはずなのに、まったくもって味が感じられないという筆舌に尽くしがたい夕飯をなんとか致命傷でくぐり抜け、これまた柔らかい以外の思考が一切合切奪われたお風呂タイムを瀕死になって生還した俺。

 

 そして現在、夜が更けました。

 

 異性同士、密室、初夜。何も起きないはずがなく……。

 

「もうこんな時間ですね。そろそろ寝室に行きましょうか」

 

 当然のように俺の膝の上で丸くなっていた美琴が、ふと壁掛け時計を見上げて呟いた。

 

「……そっか。なら俺はこのソファ借りるから」

「そうですか? それなら、このまま一緒に横になりましょう」

 

 だよね、知ってた。

 

「いやいや、家主の美琴は寝室でゆっくり休んで? 俺はここで十分だから。それにほら、このソファじゃ二人で眠るには狭いし……」

「いえ、お構いなく。私の事はマットレスだとでも思って気にしないでください」

 

 気にする。気にするから。めっちゃ気にするよ。

 そのマットレスって低反発なの? それとも高反発なの? どっちなの!?

 

「はぁ……」

 

 いや、わかってる。わかってるよ。

 自分がヘタレでフヌケでマヌケだってことくらい。

 

 

 流されるままに受け入れて、ここまで来てしまった。

 彼女に手を引かれて、捕まえられて、俺はこれ幸いと便乗しただけだ。

 

 けれど、このまま彼女の好意に甘え続けて、溺れることだけはしてはいけないと、そんなことは馬鹿な俺でも解る。

 

 ケジメを付けるべきだ。

 彼女の好意にも、自分の気持ちにも。

 

 ただ流されるのではなく、ただ受け入れるのでもなく、あのとき自分で後悔しないようにと選んだのなら、その選択をキチンと言葉にして伝えるべきだ。

 

 

 ────俺は弱い。

 意思が弱い、意気地がない、勇気もない。すぐ何かに感化されて影響を受けるのも、確固たる自分が無いからだ。

 

 

 このまま場の空気に流されて、有耶無耶のまま一線を超えてしまえば、きっといつか後悔する日がやってくる。

 それはおそらく、俺にとって致命傷だ。抱いた好意が罪悪感で塗り潰されて、手を伸ばした感情が悔恨の情に上書きされて、何もかもが破綻する……そんな悪夢のような最低最悪の未来。

 

 分水嶺は、ここだ。

 

「……昴くん?」

 

 俺の膝の上で甘く微笑む彼女をそっと起こして、ソファの上で一人分の距離を取った。

 彼女の揺れる瞳に、戸惑いが浮かぶ。小刻みに震える肢体に、怯えが視える。

 

西()()()()()

「……美琴」

 

「西園寺さん、話がある」

「…………美琴!」

 

「……西園寺さん」

「………………やだぁ」

 

 彼女の頬を伝う涙に、慌てて手を伸ばしそうになって、それを下唇を噛みしめて必死に堪える。

 

 今やるべきことは、それじゃない。

 いくらこぼれる涙を拭っても、頭を撫でて慰めても、それは一時的なものでしかないのだから。

 

 いま彼女を泣かしているのは、俺だ。

 呼び名を変えただけで不安に押し潰されて泣いてしまうほど、彼女を弱くしているのは、俺が受け入れるだけで彼女に何も与えていないことの証左だ。

 

 だから、ここから始めないといけない。

 

 

 あの日の続きを────。

 

 

 彼女が今日まで必死に走って、足掻いて、手繰り寄せてくれたバトンを、今度は俺がしっかりと受け継いで走るべきだ。

 

 

「……痛かった」

「ふぇ……?」

 

 

 俺の言葉が余程意外だったのか、それとも唐突で理解できなかったのか、彼女の口から幼気な声が漏れる。

 

 こちらの勝手な自分語りみたいなものに付き合わせてしまって悪いと思うけど、少しの間、聴いて欲しい。

 

 

「いつも下を向いて階段を上ってた。でもあの日は、虫の知らせのようなものを感じて、ふと顔を上げたら、いきなり前から人が降ってきて、驚いたし慌てた」

 

 

 人間あれだ。本当に驚いているときって、『親方! 空から女の子が!』とかボケる余裕なんて微塵もない。

 気がついたら、身体はもう動いてた。ただ無我夢中で手を伸ばして、引き寄せて、抱き締めて、俺が守らなきゃ、助けなきゃって、ゴロゴロ階段を転がる間、ずっとそんなことばっかり考えてた。

 

 

「階段から転がり落ちるのなんて初めての経験だったけどさ。もう背中とか頭とか全身痛いのなんのって……ぶっちゃけ、君が腕の中に居てくれなかったら痛みで無様にのたうち回ってたと思う」

 

 

 正直、骨の一本くらいは折れたと思った。だって、すんごい痛かったし。

 でも人間の体って案外丈夫なもんで、実際には打ち身程度でしかなかったっていう。……あのとき、みっともなく泣き喚かなくて本当に良かった。

 

 

「女の子に耐性なんて無かったからさ。自分が抱えている存在が女子だって理解して、今度は別な意味で慌てた。セクハラで訴えられたらどうしようって……」

 

 

 あれは本当に心臓に悪かった。

 同時、なんかもう柔らかくていい匂いで、不謹慎だけど、ずっとこうしていたいとか馬鹿なことを考えてしまったっけ。

 

 

「でも、そんな考えも君が突然泣き出して、抱き着いてきたときに全部吹っ飛んだ。もう頭真っ白になってパニックだよ」

 

 

 最初は痛みで泣いているのだと思った。

 どこか怪我でもさせてしまったのかと、そう思ったら守れなかった自分に腹が立ったけど、それもすぐに勘違いだと解った。

 

 

「自分なんかに縋りついて、駄々をこねるように泣いている君を見て、はじめに抱いた感情は憐憫と、庇護欲だったんだと思う」

 

 

 彼女の事情なんて、俺にはさっぱり理解できない。

 いくら階段から落ちたからといって、助けた相手だからといって、どうして彼女が自分みたいな冴えない男を(よすが)とするのか。

 

 

「恥ずかしながら、こんなとき、どうやって女の子を慰めればいいのか全然わからなくて……。仕方がないから、昔、泣いた俺に母さんがそうしてくれたように、抱き締めて頭を撫でてあげることしかできなかった」

 

 

 でも、多分それで正解だったんだと思う。

 甘えるように制服の襟をぎゅっと握りしめた君の手を見て、安心したように泣き止んだ君の吐息を聴いて、満たされたように震えの消えた身体を委ねる君を感じて、そう思った。

 

 そうであってほしいと、信じてもいない神に祈るほどに……。

 

 

「眠ってしまった君を保健室まで運ぶのは、本当に骨が折れた。最初は男らしくお姫様抱っこで運ぼうとしたんだけど、ちょっと難しくて…………ああ、ごめん。言い方が悪かった。別に西園寺さんが重かったからダメだったんじゃないんだ。情けない話だけど、単純に俺の腕力が無さ過ぎただけだから」

 

 

 俺の話を聞いて、顔を真っ赤にしてプルプルと震えて俯いてしまった彼女を見て、慌てて訂正する。女の子に対して、デリカシーが無さ過ぎた。

 

 

「結局、おんぶで運んだんだけど……いや、もうほんっとに怖かった。人を背負って階段を下りるって、すごく難しいんだなって初めて知ったよ」

 

 

 加えて、彼女も眠っていたから、こっちでしっかり支えてあげないとずり落ちそうになって危ないし、背中に感じる柔らかい感触に現を抜かす余裕なんて一瞬で吹き飛んでしまった。

 

 

「やっとの思いで保健室に辿り着いて、先生に言われるがままベッドに君を降ろして、そして────君の寝顔に見惚れてしまった」

 

 

 女性の寝顔を勝手に覗くのも失礼かと思って、なるべく見ないようにしていた。

 でも、今になって考えてみると、それだけが理由じゃ無かったんだろうなって思う。

 

 きっと俺は、怯えていたんだ。

 

 彼女の寝顔を見てしまったら、好きになってしまうんじゃないかって、純粋にただ俺に甘えてくれていただけの彼女に、邪な気持ちを抱いてしまうんじゃないかって……。まぁ、無駄な努力だったわけだけど。

 

 

「幸せそうに眠る君を見たら、途端に気恥ずかしくなって逃げ出した」

 

 

 もう心臓とかバックバクだし、顔も火照って有り得ないくらい熱を持っていた記憶がある。

 引き留めようとしてくる先生を無視して、校舎内を無意味に全力ダッシュ。何がどうなってそういう結論に至ったのか今となっては判然としないけど、昇降口まで走りきったところで、俺は流れるように上履きを履き替えて早退を決断した。

 

 登校してくる生徒たちとは逆走するように、自宅まで自転車を全力で漕いだ。なんか感極まって叫びながら必死にペダル漕いでたと思う。

 それで家に帰りついたら極度の疲労からベッドに倒れ込んで、汗だくのまま寝落ちする始末。しかも、それが原因で風邪ひいて翌日以降は学校休む羽目になったし。

 

 

「西園寺さんは憶えてないと思うけど、実はあの日から数日後に、廊下で擦れ違ったことがあったんだ」

 

 

 熱が下がって何日かぶりに登校して、仲が良かったクラスメイトと二人で廊下を歩いてた。

 そうしたら、あのとき保健室まで送り届けた子が前から歩いてきたからすごく吃驚して、でも同時に困惑もした。

 

 

「なんというか、ただ歩いてるだけなのに、気品みたいなものが凄くてさ……。あのとき俺の胸で泣いていた女の子とは雰囲気が似ても似つかなくて、別人なんじゃないかって思った」

 

 

 そして、尻込みしてしまった。

 目が合っても、声を掛けることもできなくて、ただ見入ることしかできなかった。

 

 

「結局、君の存在感に圧倒されてヘタレた。あの日、階段で助けた女の子なのか確認する勇気もなくて、そのまま擦れ違って終わってしまった」

 

 

 もちろん葛藤もあったし、後悔もした。

 それでも、悠然と廊下を歩く彼女の姿に、深い安堵を覚えたのもまた事実。

 

 

「そのとき、友人から君が”西園寺美琴”という名前の有名人で、既に婚約者がいる身だと教えられたんだ」

 

 

 まさか自分と同年代だろう少女に、婚約者がいるなんて思わなくて愕然とした。

 

 

「ひどく驚いたけど、同時に納得もした。そんな有名な人なんだから、特定の相手がいたって全然不思議じゃないだろうなって」

 

 

 そうやって、無理矢理に自分を納得させたんだ。

 彼女には婚約者がいるから、そこに俺が入り込む余地なんてないからと。

 

 

「そうして俺は、君に抱いていた自分の気持ちを諦めることにした」

 

 

 いま目の前でひどく動揺している彼女の姿に、胸の奥がチクチクと痛む。

 俺にもっと勇気があって、意気地があれば、俺と彼女の関係はもっと早くに別な道を辿っていたのかもしれない。

 

 

「それでもやっぱり未練たらたらでさ、君の婚約者だっていう王子拓真の評判を調べてみたりもした。……滑稽だよね。仮に彼の評判が悪かったとしても、俺にどうこう出来る訳でもないのに」

 

 

 きっと居ても立っても居られなかったんだ。

 もし相手の婚約者が酷い奴で、その所為であの日、君が泣いていたんじゃないかって考えたら、ジッとしていられなかった。

 

 

「それで調べてみた結果が、完璧超人の『学園の王子様』なんだから、思わず笑っちゃったよ。自分じゃ逆立ちしたって敵わない相手だって……」

 

 

 集めた情報の一部には、王子が婚約者がいるにもかかわらず、他の女に言い寄っているなんて噂もあって怒りが湧いたけど、だからと言って俺に問題を解決できる気概も、力も無かった。

 

 

「それから暫くして二年生になった頃、君と王子が高校卒業後に結婚するっていう噂が学校中に広まって、やっぱり俺なんかが割って入れる話じゃないんだなって改めて思い知らされた」

 

 

 所詮、俺みたいな庶民からしてみれば、王子も西園寺さんも住む世界が違う存在で、すべては雲の上の話だったのだと、そう自覚させられた。

 

 

「それからは、西園寺さんのことも、王子のことも、全部自分には関係のない他人事だと捉えるようになった。……そうあるように、努めた」

 

 

 唯一、君がまた何処かで、ひとりぼっちで泣いているんじゃないかと気が気じゃなかったけど、進級して同じクラスになったことでそれも杞憂であると知った。

 婚約者である王子と同じクラスになれたからか、教室での君はいつも微笑んでいて、とても幸せそうだったから、だから俺なんてもう必要ないんだとそう思えた。

 

 その事実にひどく胸が痛んで、同時にとても安心している自分に苦笑したのをよく憶えている。

 

 

「だからこそ、王子に婚約破棄された君から迫られたときは驚愕したし、状況が理解できなくてひどく困惑した」

 

 

 あの時の肉食獣のような目の西園寺さんは本当に恐ろしかった。

 ガチで物理的に食われるんじゃないかと思ったし。……まぁ、事実喰われたようなものだけど。

 

 

「それでも君に求められたことが嬉しくて、とっくに諦めていたはずなのに、まったく諦めきれていなくて、俺はあっさりと君に陥落してしまった」

 

 

 西園寺さんが、緊張していた表情をにぱっと綻ばせる。

 歓喜を滲ませたように輝く笑顔に、俺は固く拳を握り締めて、ゆっくりと首を横に振った。

 

 

「すば…る……くん?」

「まだ、話は終わってないよ」

 

 

 おずおずといった風に伸びてくる彼女の右手を、俺はやんわりと制する。

 俺の勝手な自己満足で彼女を傷つけてしまうのは、本当に心苦しいし、申し訳ないと切に思う。

 

 

「あの日、俺が君を助けたのは単なる偶然だ。偶々、あの現場に居合わせたのが俺だったってだけに過ぎないんだ」

 

 

 それを『運命』だと言うのなら簡単だ。

 そんな有り触れた言葉で俺と彼女の関係性を片付けて、綺麗で尊い想い出の一ページとして額縁にでも飾って思考停止してしまえれば、どんなに楽なことだろう。

 

 

「もし、あの場に居たのが俺じゃない誰かであったなら、今ここに居るのは俺じゃなかった」

 

 

 だから西園寺さんが俺に抱いている想いは勘違いなんだって、そんな否定をするつもりはない。

 それじゃ、どこぞの捻くれぼっち野郎と同じだ。相手の優しさを好意と勘違いして、それで自分が傷つかないための自己防衛。俺はそんなことがしたいんじゃない。

 

 

「つまりは『吊り橋効果』と同じだ。今は良くても、いつかその熱が冷めるときが必ずやってくる」

 

 

 極度の『緊張』を『恋愛』と誤認する。そこにあるべき積み重ねなんて無い。

 だからこそ、時間の経過とともに冷静さを取り戻したとき、あっさりと瓦解するのだ。本来、相応のステップを経て育むべき恋愛感情が、土台となるべき想いが、一過性の『緊張』という薄っぺらい張りぼてでしかないから、吊り橋効果で結ばれた恋愛は続かないと言われてしまう。

 

 

「そうなってしまえば、俺はあっさり捨てられる」

 

 

 そんなことはないと、必死に反論しようとする彼女を目で制して、俺は純然たる事実を並べていく。

 

 

「王子と比べて……いや、彼と比べなくても、世間一般からして、俺はイケメンでもなければ、何かに秀でている訳でもない。誰にも負けない特技もなければ、誰もが認めるような人徳もない」

 

 

 自分を殊更に卑下するつもりも無いけれど、これが驚くほどに何も無いのだ。

 ”西園寺美琴”という特別な存在に釣り合うほどの特質が、俺には皆無と言っていい。

 

 

「だから、何かの拍子に君の熱が冷めてしまえば、それで終わりだ。俺という存在じゃ、西園寺美琴を繋ぎ止められない」

 

 

 そんな当たり前の事実を認めることが、これほどまでに苦しいとは想像だにしていなかった。

 

 

「それでも、そうなっても、もしかしたら君は俺の傍に居てくれるのかもしれない。でもそれは、きっと罪悪感とか、同情とか、義務感によるものだ。そこに恋愛感情は無い」

 

 

 心臓が握り潰されたんじゃないかと疑うほどに胸が痛む。鼻の奥がツンとして、堪えようもなく目頭が熱い。

 

 

「でも……ッ」

 

 

 滲んだ視界の先で、心配そうに狼狽える君の姿を捉えて、情けなさから死にたくなった。

 それでも、ここで止めるわけにはいかない。ここで自分を誤魔化してしまったら、俺は一生後悔することになる。

 

 

「それじゃ、嫌なんだっ」

 

 

 これは俺の勝手で、傲慢な戯言で、強欲な願いだ。

 

 

「君が俺にどんな幻想を抱いているのかは知らない。でも、本当の俺はこんなにも情けなくて、冴えない、ちっぽけな男なんだよ」

 

 

 俺は誰でも助けるヒーローでも、お姫様を救う白馬の王子様でもない。

 

 

「だからどうか……幻想でも、幻影でも、虚構でもない、いま目の前にいる…俺を視てほしい」

 

 

 ────俺は弱い。

 意思が弱い、意気地がない、勇気もない。惚れた相手に声を掛けることも出来ないくせに、その相手から声を掛けられたらホイホイ頷いてしまうような浅ましい男だ。

 

 

 それでも、そんな俺でも、譲れないものだってある。

 

 

「西園寺美琴さん────」

 

 

 女の子には女の子の矜持があるように、男の子には男の子の意地ってものがあるんだよ。

 たとえそれがちっぽけなプライドだとしても、時代錯誤で古臭いと嘲笑われても、譲れないものは譲れないんだ。

 

 

「あなたが好きです」

 

 

 瞠目して、ピシリと固まる西園寺さんに構わず、俺は続ける。悪いけど、いまは彼女を慮ってあげられる余裕がない。

 

 

「幸せそうに眠る君の寝顔に一目惚れして、甘えるように俺の服を掴む君の仕草が愛おしくて、ふと目が合ったときに見せる君の微笑みに動悸が止まらない」

 

 

 ふざけんなよチクショウいちいち可愛い過ぎるんだよ。こんなん好きになるだろ、好きになっちまうだろ。

 

 

「……西園寺家なんて俺は知らない! 君が金持ちだとか、お嬢様とか、優等生とか、そんなことはどうでもいい。俺は、俺は…っ……”西園寺家の美琴”だから好きになったんじゃないっ」

 

 

 俺はあの日の階段で出逢って、保健室で幸せそうに眠る名前も知らない君に惚れたんだ。

 

 

「泣き虫で、怖がりで、そのくせ警戒心が薄くてあっさり俺なんかに懐いて、安心しきった表情で眠っちゃう……そんなどこか抜けたような、放っておけない、どうしようもない甘えん坊な西園寺美琴が好きで好きでしょうがないんだよ」

 

 

 言っていることは支離滅裂だ。

 全然論理だってないし、感情任せで矛盾だらけで、滅茶苦茶言っている自覚はある。

 

 もしかしたら、あの日の幻想に囚われているのは、俺の方なのかもしれない。

 

 それでも、止まらないし、止められない。

 

 

「私を視て……? 視てた、ずっと視てたよ! 諦めたフリして、それでも気がついたら自然と目が君を追っていた!」

 

 

 何を言ってるんだ。

 違う。俺はそんなことを言いたいんじゃない。

 

 

「なら俺のことも視てくれ……。こんなガキみたいに喚き散らして、泣き言ばっかりで、どうしようもない俺を視てくれ……」

 

 

 君に嫌悪されたら、きっと俺は泣いてしまう。

 君に拒絶されたら、きっと俺は死んでしまう。

 

 それでも、一度手に入れた幸せを後になって手放すことになると考えたら、こんな愚かな方法しか思いつくことができなかった。

 

 

「俺は西園寺美琴が好きだ。誰よりも、何よりも、君を愛してる」

 

 

 薄っぺらい言葉だ。

 ありきたりで、冴えない、文才の欠片もない台詞だ。

 

 だとしても、言わずにはいられない。言わざるを得ない。

 ここで尻込みなんてしていられるか。

 

 

「だから──────」

 

 

 涙で歪んで霞む視界の先から、彼女の息を呑む気配が伝わってくる。

 もしかしたら、俺のあまりの身勝手さに、情けなさに、幻滅して、失望されたのかもしれない。軽蔑されたのかもしれない。

 

 それでも今は、ありったけの想いを込めて、俺は目の前の西園寺美琴に思いの丈をぶつけた。

 

 

 

「結婚を前提に付き合ってください」

 

 

 

 愛の告白も、結婚のプロポーズも、男からって相場が決まってんだろ。

 勝手に俺の役目を持ってくな! 俺の出番をかっさらうな! ちょっと男前すぎるんだよ!!

 

 涙で濡れる目元をゴシゴシと袖で拭って、さっきから何の反応も返してくれない彼女を見据える。

 

 やはり、幻滅されたのだろうか。

 我ながら、百年の恋も一時に冷める告白であったと自負している。なにそれダメじゃん。

 

 それでも、あのまま彼女の気持ちに便乗して、いつ下されるとも知れない死刑宣告に怯えるくらいなら、これで良かったのだと思う。

 西園寺さんに振られるのは死ぬほど辛いけど、今の俺にはこれが精一杯だから、これでダメならきっぱりと諦めよう。……時間はかかるかもしれないけれど。

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

 いや、さすがに無反応すぎない?

 スン…と真顔のまま微動だにしない西園寺さんに、一抹の不安が過る。

 

 え、ちょ…まさか……えぇ…?

 

 

「──────」

 

 

 目の前で手を振ってみる。

 開きっぱなしの瞳孔に反応なし。

 

 鼻と口の前に手をかざしてみる。

 呼吸……なし。

 

「いや、西園寺さんっ!? 息、息して! 死んじゃうから!!」

 

 蝋人形みたいにピクリとも動かない彼女の両肩を掴み、俺は必死にゆっさゆっさと前後に揺さぶる。

 

「────ゴプァ」

 

 なんかもう女の子が出しちゃいけないような擬音とともに、西園寺さんが息を吹き返した。

 

「だ、大丈夫っ!? ほら早く息吸って! 呼吸整えて……」

「スー、ハー、スゥーー、ハァーー、スゥーーー、スゥーーー、スゥーーー…………」

「誰が俺の胸で過呼吸しろって言った!? 深呼吸しろよ! 俺の匂いじゃなくて酸素取り込んで!!」

 

 ほんっと歪みないな、この子!

 もっと自分の命大事にして! いのちだいじに!

 

 どうにかこうにか宥めすかして、やっとのことで呼吸を整えた西園寺さんと向き直る。

 

「それで、西園寺さん。あの、今さっき生死の境を彷徨っていた相手に言うのもどうかと思うけど、俺の告白……」

 

 身勝手なのは重々承知してるけど、それでも変にズルズルと関係を続けるよりは、ここでスッパリと断られた方が良いと判断して返事を訊こうと思ったんだけど、やっぱり西園寺さんの様子がオカシイ。

 

「────しゅき」

「え?」

「みこと しゅばるきゅん しゅき」

 

 幼児退行した…だと……?

 いやいやいやいや待って待って待って待って。

 

「ちょ、頼むから正気に戻って! 自我を取り戻して!!」

 

 もしかして呼吸が止まってた時間が長すぎて、脳が深刻なダメージを負ってしまったとかだろうか。

 だとしたら、俺はなんてことを…………いや、無理だろ。

 

 だって告白したら相手が心肺停止に陥るとか、普通思わないじゃん。蘇生したら幼児化するとか、どうやって予想しろと。

 こんなん危険予知トレーニングでも想定されてないわ。

 

「しゅばるきゅんと けっこん しゅる」

「いや待って? ほら、お菓子、お菓子あげるから! だから、一旦落ち着いて……あ、ちょっ……なんで俺のシャツの下に潜り込もうとするの!?」

「やーっ! みこと しゅばるきゅんと けっこんしゅるのー!」

「俺のシャツの下に! 潜り込む行為を! 結婚とは呼ばない!」

 

 ちょっとこの子、欲望に忠実すぎない……?

 それから五分間にも渡る死闘の末、俺はどうにか西園寺さんに正気を取り戻させることに成功した。

 

「……ごめんなさい。取り乱してしまって」

「取りみだ……? あ、うん。そうね」

 

 呼吸停止した挙句、幼児退行までしてのけた出来事を取り乱したの一言で片付ける西園寺さんのメンタルしゅごい……。

 

「……昴くん」

「……はい」

 

 少し乱れてしまったソファの上で、何故か二人して正座で向かい合う俺たち。

 

「その……」

「うん……」

 

 視線を忙しなく右往左往させる西園寺さん。

 視線を上下左右に彷徨わせてはテンパる俺。

 

「あの、えと……ご、ごめんなさい!」

「ああ、うん。そう…だよね。大丈夫」

 

 やっぱり、ダメかぁ……。

 そりゃ、あんだけワケわからん告白すれば、誰だって興ざめするよね。

 

 はぁー……。

 

 つっら。え、好きな人にフラれるのって、こんなに辛いの……?

 いや無理だわ。だって軽く死ねるもん。なにこの喪失感。心にポッカリ穴が開いたって比喩を最初に考えたヤツは天才だと思う。

 

 なに、世のカップルってこんな地獄みたいな試練をくぐり抜けて結ばれてるの?

 そりゃ勝ち組って言われるわ。だって断れたら即地獄行きだもん。何度も告白してる奴とか正気を疑う。どんなメンタルしてるの? タングステン鋼?

 

 はぁー……。

 

 帰ろう。帰って、ちょっと一週間ぐらい部屋に引き籠ろう。

 震えそうになる手足をなんとか動かして、俺がソファから立ち上がろうとしたときだった。

 

「五分間だけ…いえ、三分……一分でいいんです! 私に時間をください!!」

「ふぇ……?」

 

 なんだか西園寺さんがよく分からないことを言い出して、こちらの返事も待たずに疾駆して自室へと消えていった。なにごと……?

 それから待つことジャスト一分。現れたのは悪夢ではなく、この部屋には場違いな貴族令嬢姿の西園寺さんだった。どゆこと……?

 

「え、何でわざわざ着替えたの?」

「気にしないでください。ちょっとした験担ぎですから」

 

 そう言ってクスクスと可笑しそうに笑った彼女は、相も変わらずソファの上でポカンと正座している俺の前までやってくると、俺の両肩にそっと手を置いた。

 

「えいっ♪」

 

 そんな可愛らしい掛け声と共に俺の両肩がドンッと押されて、俺はあっさりとソファの上に押し倒される。

 

「は……?」

 

 自分を悠然と見下ろしている存在を呆然と見つめながら、俺は働かない思考でアホみたいなことを考えていた。

 

 

 ……肩ドン?

 

 

 え? 俺、いま西園寺さんにソファへ肩ドンされてるの?

 普通、こういうときの男女の立ち位置って逆じゃない?

 

「……舐めないで」

「はい?」

「あ、勘違いしないでくださいね。私のことは物理的に幾らでも舐めてもらっていいんですからね!」

「なにその斬新なツンデレ」

 

 どういうことなの……?

 

 

「言いたかったのは、私の覚悟を舐めないでくださいねってことです」

 

 

 蠱惑的に微笑む西園寺美琴が、ゆっくりと迫る。

 

 

「確かにキッカケは、アナタの言う通りかもしれません。吊り橋効果で刷り込みです。自分の感情が歪で、純粋な恋愛感情だけでないことも自覚しています」

 

 

 労うように伸ばされた両手が、俺の頬を優しく撫で摩る。

 

 

「俺を視て……ですか。視てましたよ。私だって、ずっとアナタを視てました」

 

 

 どこか淋しそうな、なぜか泣きそうな彼女の瞳が、静かに俺を見据えている。

 

 

「憶えてないワケないじゃないですか。気がつかないワケないじゃないですか」

 

 

 いつの間にここまで接近したのか、切なげな彼女の吐息が顔にかかる。

 

 

「私だって、一年以上アナタのことを恋焦がれて、ずっとずっとずっと……想い続けてきたんですよ?」

 

 

 囁くようにぽしょりと紡がれた言葉と一緒に、ぽたりとこぼれた熱い雫が俺の頬を濡らす。

 

 

「好きです。情けなくて、冴えない、ちっぽけなアナタが好き」

 

 

 慈しむように、彼女は語る。

 

 

「不愛想にしようとしてるのに、結局はへにゃって愛想よく笑っちゃうアナタが好き。誰かが廊下に捨てたゴミなんて放っておけばいいのに、誰に頼まれた訳でも、誰が見ている訳でもないのに、当たり前みたいに拾ってゴミ箱に捨てちゃうアナタが好き。授業中、ウトウト微睡んでいるときのあどけないアナタの寝顔が好き」

 

 

 二人っきりのリビングに、甘く囁くような彼女の『好き』が躍る。

 

 

「私はそんな木下昴が好き。誰よりも、何よりも、アナタを愛してる」

 

 

 薄っぺらい言葉だ。

 ありきたりで、冴えない、文才の欠片もない台詞だ。

 

 それなのに、立場が違えばこんなにも響くものなのか。

 

 目を見開いて驚きを伝える俺に満足したのか、したり顔を浮かべた西園寺美琴が男前すぎるお返事をくれた。

 

 

 

「添い遂げることを前提によろしくお願いします」

 

 

 

 幸せそうにはにかんだ笑みが、ゆっくりと迫る。

 

 

「んっ……」

「……!」

 

 

 ふわりと、着実に、一切の躊躇もなく、確実に、西園寺美琴は俺と口付けを交わした。

 

 

「…………んぅ」

 

 

 それは、数秒にも満たない触れるようなキスだった。

 ファーストキスのインパクトとは比ぶべくもない。

 

 それなのに、今の方がよっぽど印象深くて、深く脳裏に刻み込まれたのはどういう理屈なのだろう。

 

「こちらはとっくに家も婚約者も捨てて覚悟を決めてるんです。今さらアナタの情けない姿を見たくらいで、私が嫌いになるとでも思いました?」

「西園寺さん……」

 

 彼女は怒ったように眉を吊り上げて、けれどすぐにへにゃっと哀しげに眉尻を下げてしまう。

 

「そんなことくらいじゃ、私は幻滅も失望もしてあげない。でも、もしアナタに嫌われてしまったらって考えたら……そんなの不安になるに決まってるじゃないですかっ」

「……ごめん」

 

 雨が降る。ソファに横たわる俺の上に覆い被さる黒い空から、ぽつぽつと、熱を持った雨が俺の頬を叩く。

 

「だから…アナタが告白してくれて、私がどれほど嬉しかったか解りますか? まったく、どれだけ私の心を弄べば気が済むんですか」

「いや、俺の心を散々に弄ぶ西園寺さんに言われたくはないんだけど」

「……文句を言うのはこの口ですね」

「ん……!?」

 

 異議を唱えたら強制的に口を塞がれた件(物理)。

 

「ふむ……っ…ふぅ………んっ…言ったでしょう? もう逃がしてあげないって、絶対に離してあげないって……」

「……確かに言われた」

「私が呼吸も忘れて死にかけちゃうような熱い告白をしてくれたんですから、必ず責任とってくださいね」

 

 敵わないと、思ってしまった。

 

 自分では澄まし顔をしてるつもりで、それなのに口の端が自然とニマニマしちゃって、湧き上がる嬉しさを堪え切れていない実に残念な表情をしている彼女を見ても愛おしいと感じてしまうのだから、これはもうまったくもって敵わない。

 あれかな、これも一種のわからせなのかな?

 

「大体ですね、相手の悪い面を後から知って熱が冷めるって言うなら、アナタはどうなんですか?」

「は……? 俺?」

「今日一日、婚約破棄から今に至るまで、私の言動って世間の常識からしたらそうとう狂ってると思いますよ?」

「それを自分で言うのか」

「……文句を言うのはこの口ですね」

「んんっ……!?」

 

 異議を唱えたら天丼以下略……!

 

「それで、どうですか?」

「どうって……何が?」

「……私のこと、幻滅しましたか?」

 

 確かに色々と吃驚したし、恐れ戦いたこともあるし、呆れもした。

 けれど、どういう訳か不思議と嫌悪感のようなものだけは感じなかったように思う。

 

「いいや、まったく」

「ふふっ……。うん、良かった。私も同じです」

 

 真っ黒な夜空を彩るように、西園寺美琴は満天の星空のように顔を煌めかせる。

 

「何でも受け入れてくれるくせに、私がどんなに迫っても絶対に自分からは手を出してくれないんですもの。……このヘタレ」

「返す言葉もございません」

「……文句を言わないのはこの口ですね」

「なんっ…んんっ……!?」

 

 異議を唱えてないのに天丼以下略……!

 

「私も同じなんですよ。そんなヘタレなアナタを知っても、愛おしくて堪らないの」

「……複雑」

 

 嬉しいのは確かなんだけど、そこはかとなく思春期男子としてプライドがズタボロで泣きそう。

 そんなこちらの複雑な心境なんて知るもんかと、西園寺さんが俺の耳元に口を寄せてそっと囁く。

 

「ねぇ、こういうのを何て言うか知ってますか?」

 

 彼女の細くしなやかな指が俺の両手を絡みとり、熱く繋いで放さない。

 

「それはね────」

 

 蜂蜜のようにとろとろと甘ったるい、甘えん坊な声音が俺の耳朶を直にすり抜けた。

 

 

 

「『惚れた弱み』って言うんですよ」

 

 

 

 このあと滅茶苦茶夜更かしした。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 日曜日の次は、月曜日。

 そう、平日だ。しかし、折しも今日は祝日、ハッピーマンデー。学校も世間もお休みである。

 

 つまりは二度寝し放題。

 遅く起きた朝のなんと清々しいことか。

 

 そう思っていた五分前の俺はもういない。

 

「……美琴」

「なんですか、昴くん?」

 

 俺グッズに囲まれた彼女の私室で、俺は一心不乱に作業に集中する彼女へと意を決して声を掛ける。

 ちなみに、昨夜のあれやこれやのどさくさに紛れて、お互いの呼び名はまた名前呼びに戻りました。詳細は諸事情により省略。だって恥ずかしいので。

 

「それ、何してるの?」

「ちょっと昨日までの一連のエピソードを長編大作アニメーションにして国際映画祭に出品しようかと……」

「 や め て ? 」

 

 だから思考がぶっ飛び過ぎなんだって。

 ちょっと持て余したパッションの持って行き場を間違えてない? というか、なんで普通に絵コンテとか作れてるの? どこでそんな技術学んでくるの?

 

「安心してください。私、こう見えてもアナログ派なので、全編セル画で制作予定です!」

「どこにも安心できる要素ないよ!? もはやセル画アニメなんて絶滅してるから! どうして自らそんな苦行に飛び込んでいくの!?」

「あ、じゃあデジタルにしますね」

「そういうことでもないんだよなぁ……」

 

 セル画とかCGとかって話じゃないんですよ。

 そもそも、アニメーションを作るところから離れて?

 

「あっ、ごめんなさい。私ったらまた一人で暴走してしまって……」

「ああ、良かった。話が通じてくれたか」

「昴くんは、やっぱり実写化の方がいいですか?」

「現実の実写化ってなに? それただのノンフィクション映画だからね?」

 

 だから映画から離れて?

 

「そうじゃなくて、ちょっと話があるんだ」

「……昴くん?」

 

 こちらの真面目な雰囲気を察してくれたのか、彼女も一旦筆を置いて、話を聞く態勢を整える。

 そう、昨日の一件とはまた別に、美琴とはきちんと話さないといけないことがあるのだ。

 

「俺、家に帰るよ」

「……ふぇ?」

 

 何を言われているのか、まったくもって理解できないという風に、彼女は唖然とした表情で俺を見つめている。

 だがしかし、こちらとしても大変心苦しくはあるのだが、いつまでもこの部屋でお世話になる訳にはいかないのだ。

 

「落ち着いてよく聞いてほしい。一日二日ならいざ知らず、未成年が親の同意もなく自宅に帰らないことを世間では『家出』あるいは『失踪』と言う」

「……知らない概念ですね」

「現実逃避するな」

「むぎゅ!?」

 

 そっぽを向いて知らんぷりしようとする美琴の頬を両手で掴み、強制的に正面を向かせる。

 

「やだ昴くんったら強引……スキ!」

「茶化すな」

「襲いますよ」

「誤魔化すな」

 

 頑なにこちらの話を聞こうとしない美琴に、俺も根気よく応対する。

 多分、彼女自身も自分が間違っていると理解しているのだろう。だから、素直に認められない。昨日、安心できてしまったから、尚更に……。

 

「美琴が実家を飛び出してここで暮らすのも、本来なら認められないんだろうけど、そっちはもう何かしら手を打ってあるんだろう?」

「それは、まぁ……盤石に」

「だから、そちらについてはとやかく言わない。都合が良いように聞こえるかもしれないけど」

「……」

 

 不満そうに俺の目をジトッと見つめる美琴に、しかし俺も目を逸らさず応じる。

 

「でもね、俺の両親は絶対に認めない。最悪、失踪届を出されて警察沙汰だ」

「……そう、ですか」

「だから、今日のところは帰るよ。俺の方でも、週末だけでもとか交渉して、両親を説得してみるから──」

「やはり、最低限の礼儀として、筋は通すべきですよね」

 

 ……おや!? 美琴のようすが……!

 これはあれですね。まーたぶっ飛んだ思考回路が働いてますね。

 

「わかりました。私も昴くんの御自宅へ同伴します」

「……一応、理由を訊こうか」

「将来の義父母となる両親に御挨拶をと思いまして……うふふ」

 

 何か企んでますね、わかります。

 別に木下家に不和は無いので、強引に家族仲を引き裂くようなことはご遠慮願いたいのですが……。

 

「そうと決まれば早速向かいましょう。既にタクシーは呼びました」

「あ、うん。もういいや」

 

 今まさに俺と会話してたはずなのに、一体いつの間に呼んだんだろうね。

 とにかく、ここで俺がウダウダ言っても話が前に進まないだろうから、俺も腹を括るか。……惚れた弱みって大変だ。

 

「ちなみに私はちょっと下準備……いえ、所用がありますので、昴くんは先に御自宅へ向かってください」

「それは良いけど、何をするつもり?」

「御挨拶に伺うのに、菓子折りの一つも持参しないというのは礼を失するかと思いまして」

 

 ニッコニコと微笑む彼女の姿からは、まったく邪な気配は感じられない。

 でも、昴くん知ってる。これは何かありますね。せめてウチの両親の顰蹙を買わない程度のぶっ飛び具合であることを祈るばかりだ。……自分の無力感に絶望しそうだよ。

 

 

 

 ────そして話は冒頭に戻る。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 ……ダメだ。ここに至るまでの経緯を回想してみたけど、何をどう説明しても頭の病気を疑われかねない。

 なんか改めて振り返ってみても、非現実的というか、俺の空回りっぷりが酷いというか、とにかく碌な言い訳が思い浮かばないです。

 

「あー……、その…うん。アレです。アレがこう…アレな感じで、こちらの西園寺美琴さんと恋人になりました」

「……昴」

「だからアレなんです。その、週末とか偶に外泊することになると思うけど、特に心配はしないでくださいと言いますか」

「昴」

「いや、わかる。母さんの言いたいこともわかるよ? でも、こちらとしても止むに止まれぬ事情があると申しますか、引くに引けないというか、どうかその辺りの息子の心情を汲んで忖度した上でここはどうか穏便に……」

 

 俺がどうにか母親からの追及を躱そうと、誠心誠意言葉を尽くして煙に巻こうとしてみたけれど、当然ながら俺程度の語彙力では無駄な努力であった。

 

「いいから、昴」

「アッハイ」

「全部話しなさい」

「……うぃっす」

 

 

 もうだめだぁ…おしまいだぁ……。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 昨年の階段での出会いから今日に至るまでの仔細を説明し、なんなら途中で美琴もノリノリで注釈を加えて、ようやく話し終えた結果がごらんの有様であった。

 

「……そう」

 

 母さんは頭痛を堪えるように、片手をこめかみに添えて俯く。

 

「そうくるかぁ……」

 

 父さんは両手で頭を抱えると勢いよくテーブルに突っ伏した。

 

「……なんか、ごめん」

 

 いや、ホント、もう……不出来な息子でスミマセン。

 そりゃ外泊した息子がいきなり異性を家に連れ帰ってきたと思ったら、その女の子が開口一番同棲宣言からの養う発言に息子さんくださいときて、その正体は名家のお嬢様で婚約破棄されて嬉々として家を捨てて俺を搔っ攫って今に至りますって説明されたら、誰だってこんな反応すると思うの。

 

 居たたまれない空気に包まれる木下家の三人だけれど、そんな空気をまったく意に介さない猛者が若干名。というか、彼女しかいない。

 

「つきましては、こちらが結納金になります!」

 

 何処から取り出したのか、なんか銀行が使ってそうな、刑事ドラマで身代金を用意するときに使うようなどデカいアタッシュケースが『うるせェ! 受け取れドンッ!!』とばかりに我が家のテーブルを占拠した。

 

「結納金って……昴を西園寺家に婿入りさせるということかしら?」

「いえ、どちらかというと私がお嫁さん希望なので、持参金になりますね」

 

 そう言うこっちゃないだろう。

 え、なんで母さんも美琴も素でそんな会話してるの? もっと他に気にするところあるでしょ!?

 

「……待って。そもそも、どうしてそんなお金用意してるの? さっきは菓子折りを買いに行ったんじゃなかったの?」

「相手から便宜を図ってもらうには、山吹色のお菓子が定番だと時代劇チャンネルで学びましたので……」

「いやそれ、もう山吹色でもお菓子でもないじゃん。どストレートに現金じゃん。ただの買収だよ、それ」

 

 両親への初めての挨拶で札束の暴力ってひどい。

 流石にこの事態には物申さねばと思ったのか、それまで哀愁を漂わせて項垂れていた父さんが苦笑しながら口を開く。

 

「西園寺さん。お気持ちは嬉しいけど、流石にそれは受け取れないよ。悪いけど……」

「まぁまぁ、そう仰らずに」

 

 やんわりと断ろうとする父の言葉を遮るように、美琴がガパッとアタッシュケースの蓋を開けて我が家の両親へ差し出した。

 

「これまで昴くんの養育に掛かったであろう費用と、これから先お二人が豊かに穏やかに老後を過ごせるだけの金額を勝手ながら算定させていただきました」

 

 中々の大きさを誇るアタッシュケースにぎっちり詰まった札束。

 ヤバい……。何がヤバいって別に俺が貰うんでもないのに、さっきから体が震えてゴクリと生唾を吞み込んじゃってる自分がいること。これが現金の魔力か……。

 

 横から眺めているだけの俺ですら、この惨状なのである。

 況や、正面から差し出された父さんはと言えば……。

 

「…………スゥーーー」

 

 変な呼吸音を発生させながら、札束ガン見してめっちゃグラついてた。

 多分、いま父さんの胸中では受け取る受け取らないの天秤が、シーソーよろしくギッタンバッコン揺れ動いてるんだと思うんだ。だって、俺が父さんの立場だったら同じように葛藤するだろうから。まさか、こんな所で親子の血のつながりを感じてしまうとは……。

 

 そんな苦悩に塗れた父さんとは対照的に、母さんは何も言わず、全ての判断を父に任せているかのように静観していた。

 これだけの現金を前にして平然としていられるって、我が母ながらどんな胆力してらっしゃるの。これが母は強しということなんだろうか。

 

「っ……」

 

 時間にしたら、おそらく三分も経ってないんじゃないかと思う。

 ハイライトが消えてレイプ目な父さんが亡者のようにヨロヨロとアタッシュケースに腕を伸ばす。

 

「ぬ…ぐっ……ぅ……ふんっ!」

 

 そして、物凄く苦渋に満ちた表情でアタッシュケースを手に取ると、未練を断ち切るようにバタンッと勢いよく蓋を閉じた。

 

 す、すげぇ……!

 うちの父さん、山積みされた札束の誘惑に打ち勝ちやがった!! こ、これが子を持つ親としての矜持か……。いまの俺じゃ絶対に無理だろうな。

 

 そして、まるで何かをやり遂げたかのように疲弊しつつもやり切った顔の父さんが、ポカンと呆けて固まる美琴に苦言を呈する。

 

「西園寺さんと言ったね?」

「は、はい……」

「多分、君の言葉に嘘は無いんだろう。ここにはこれから私が稼ぐだろう生涯年収以上の額が入っているのだろうし、悪意があってこんな真似をしているんじゃないってことも、君の態度を見ればわかる」

 

 ホント凄いな、父さん。よく分かったね? そうなんです。そうなんですよ。

 俺も美琴が何か企んでるんだろうなとは思ってたけど、それがまさか現生による賄賂攻勢だとは思ってもみなかった。でもさ、これ一見、金で俺を買い取ろうとしてるように見受けられる言動なんだけど、美琴的にはマジで持参金のつもりなんだろうなって思う。

 

 まぁ、山吹色云々の話からして、少しでも印象を良くしたいとか、外堀を埋めたいとか、あわよくば買収したいって考えもまったくゼロでは無かったんだろうけど、一番は『昴くんのお嫁さんになるんだから、持参金を納めて当然』みたいな思考回路が過剰に働いた結果なんじゃなかろうか。

 ……あれ、それってやっぱり俺が買われちゃってない? 大丈夫? よし、ここは気のせいってことにしておこう。

 

「でもね、だからこそ、私たちはこのお金を受け取ることはできない」

「っ……」

「持参金なんて持ってこなくても、君が本当にウチのスバルのことを大事に想ってくれているのなら、それでいいんだ。今は時代も違う。言い方は悪いけれど、こういう行為は自分の息子を売り買いされているようで、正直良い気はしない」

「……はい」

 

 淡々と、諭すように父さんが語る。

 それに対して、美琴が打ち拉がれるようにして首肯した。

 

「……スバルも、こうなる前に止めてくれ。父さん、心臓止まるかと思ったぞ」

「いや、本当に申し訳ないです。マジで」

「あ、あの! 違うんです。昴くんは何も知らなくて、私が勝手に……」

「だとしても、だよ。これは二人の将来のために用意したお金なのだろう? なら、スバルも他人事ではなく、その責任を負わないといけない。金銭的負担が一方的なら尚更だ」

 

 こう言ってはなんだけど、父さんもキチンと父親なんだなって思ってしまった。

 いや、実の父親に対して物凄く失礼なことを考えているとは思うんだけど、これまでどこか頼りなさげな印象を抱いていた父さんを見直したというか、素直に感服した。

 

 俺がしょんぼりする美琴の頭を撫でながら、父さんが父さんしてるすげぇとか小学生並みの感想を抱いていると、それまで黙って事の成り行きを見守っていた母さんが唐突に口を挟んだ。

 

「……美琴さん」

「は、はいっ」

「あなた、ご実家は飛び出したそうだけど、これからどうするつもり?」

「それは……」

「この際だからハッキリ言うけれど、まだ学生の身分である昴があなたのマンションで同棲することを許すつもりはありません」

 

 それは、明確な拒絶だった。

 これ以上ないってくらい、反対の意思表示。

 

 息を詰まらせて二の句が継げないでいる美琴に、母さんは目を眇めて追い打ちをかける。

 

「たとえお金を稼いでいても、所詮は未成年。いくら間に弁護士を立てたところで、出来ることなんて高が知れているわよ」

「で、でも……」

「ご実家だってそう簡単には引き下がらないでしょう。どうするつもりなの?」

「……色々と保険はかけてありますが、どうしても介入してくると言うのなら、家庭裁判所に未成年後見人制度を視野に入れて申立てを行います」

 

 淡々と、冷淡に、平坦な口調で問う母さん。

 それに負けじと彼女も、静かに冷たい声音で言葉を返す。

 

 あの、母さん……? 持参金騒動が片付いてようやく緊張の糸が緩んだのに、どうしてまた張り詰めた空気を演出しちゃうの?

 室内の寒暖差の乱高下が激しすぎて胃がキリキリするんですが。父さん、頼れる父親として、ちょっとこの空気どうにかなりませんか? ……どうにもなりませんか、そうですか。了解、大人しくしておきます。

 

 悲壮に満ちた美琴の言葉。

 それがどれほど難しいことなのか、どれほどの決意を秘めた言葉なのか、今の俺では全てを理解してあげることは出来ないけれど、それでも彼女が軽々しく口にした妄言ではないと解る。

 しかし、母さんはそんな彼女の意思なんてまったく意に介さず、まるで論外と切り捨てるように言い放つ。

 

「無理ね」

「っ……! 私だって、簡単に事が運ぶとは考えていません。だから、弁護士も用意して──」

「あれは何らかの理由で親を失ったり、親権者が親権を剝奪されて取り残されてしまった子どもを守るための制度なの。夢見がちな箱入り娘の我が侭を通すための玩具じゃないのよ。いい加減にしなさい」

「ひぐぅ……」

 

 言葉は辛辣だけど、正論だ。母さんの言うことは、きっと正しいのだろう。

 でも、だからと言ってそれは……あんまりじゃなかろうか。

 

「母さんっ!」

「……スバル。ここは母さんに任せて、黙っていなさい」

「なっ、父さんは母さんの味方かよ!?」

「どちらかと言えば、私は家族の味方だよ。父親だからね」

 

 だから、家族じゃない、赤の他人の美琴は見捨てるってこと?

 母さんに現実を突きつけられて、傷ついて泣きそうな顔になっている彼女を放っておけって言うのか?

 

 ……ダメだ。なら、尚のこと俺が味方しないと、彼女はひとりぼっちになってしまう。それだけはダメだ。たとえ間違っているのが美琴の方だとしても、だからって孤独にさせていい理由にはならない。

 

 そう決心して、とにかく両親から美琴を遠ざけようと席を立った瞬間、これまで一度として聴いたことのない、怒気を含んだ低く重苦しい、大人の男としての声が耳朶を打つ。

 

「……スバル」

「と、父さん?」

「いいから、座れ。黙って見守れ」

 

 普段、正しく昼行燈な印象の父さんからはかけ離れた有無を言わせぬ声音に、気がついたらストンと腰を下ろしてしまっていた。

 そんな俺を一瞥することもなく、母さんはジッと美琴を見据えたまま、幾分か声の質を緩めて言葉を投げる。

 

「今すぐにじゃなくていいから、お互いに頭が冷えたら、一度会話しなさい」

「……無駄です」

「それは決めつけというものよ。『親の心子知らず』と言うでしょう」

「……いいんです。だって私はもう、捨てたんですから」

「どうせ勝手に試して一人で期待して、思い通りにならないから見限ったのでしょうけれど、人間そんな簡単な生き物じゃないのよ」

 

 どこか懐かしむように、母さんが遠くを見るような目で苦笑交じりの息を吐く。

 その疲れたような溜息は、いつも泰然自若としている母さんには珍しい表情だった。

 

「どうせ今なにを言われても聞きはしないとは思うけれど、頭の片隅には留めておきなさい」

「……」

 

 まるで困った子を見るような目をした母さんが、不貞腐れたように黙って俯く美琴に近づいて、そっと抱き寄せた。

 

「親なんてね、順当にいけば寿命で先に死んじゃうの。いつまでも家で待っててはくれない。後になって後悔しても、遅いのよ」

「ぁ……」

 

 いつか俺が彼女にそうしたように、かつて母さんが俺にそうしてくれたように、相手を安心させるように優しく抱き締めて、ゆっくりと頭を撫で摩る。

 

「多少時間は掛かってもいいから、相手が生きてくれている間に本音で話し合っておきなさい。その結果、改めて無駄だと判断したなら、それでいいから」 

「…………はい」

 

 まるで本当の親子のように、母さんに抱きすくめられながら照れくさそうに甘える美琴。

 そんな彼女の姿にほっとしながらもほっこりしつつ、安堵の息を吐く。すげぇな、母さん。あの美琴があっさり心許して甘えちゃってるもん。父さんが黙って見てろって言うのも頷ける。

 

「さて、もういい時間だし、お昼にしましょうか。あなた料理は……当然できるわよね?」

「えぇ、まぁ…はい。和洋中は一通り……」

「そう、なら手伝いなさい。今から四人前も作るの地味に大変だから。それに────」

「……?」

 

 名残惜しそうにする美琴を放置してさっさとキッチンに入る母さん。

 いつものエプロンを着けると、棚から予備のものらしいエプロンを取り出して、それを彼女に向かって放り投げる。

 

 そして、キョトンとしながらもしっかりエプロンを受け取った美琴に、澄まし顔の母さんが口端を僅かに上げて悪戯気に告げた。

 

「昴の好きな味付け、教えてあげるわ」

「っ……! は、はいっ!!」

 

 まるで大好きな飼い主に甘える子犬が尻尾を狂喜乱舞させながら飛び掛かるが如く、神速でエプロンを身に着けて全力ダッシュで我が家のキッチンへと突撃する美琴。

 そんな彼女の様子をぼんやりと眺めていて、ふと思った。

 

 あれ? これ、もしかして母さんに美琴をネトラレてね?

 いやいや、別に美琴は母さんと寝てないから、これはただ盗られただけだし。……やっぱりNTRじゃないですか、やだー!

 

 どこの世界に実の母親に恋人を掻っ攫われる男がいるというのか。

 ここにいましたね。信じて送り出した彼女が母親に懐いてNTRたどうも俺です。

 

 ……どういうことなの。

 

「なんこれ……?」

「あー……、母さんはアレだ。その、経験者は語るってやつだよ。多分、昔の自分を重ねちゃったんだな」

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

 ファッ!?

 

「なんなんだろうな、本当に……。木下家の家系というか、血筋の所為なのか……」

「は? いや、え? なに、どういうこと?」

「親父……スバルからすれば祖父さんと祖母さんか、もそうだったみたいだし……。曾祖父さんに至っては祟りや呪いかもしれんと、一回本気でお祓いしたらしいからな。……まぁ、効果はなかったみたいだけど」

 

 いやいやいやいや……待って? さっきから飛び込んでくる情報が斜め上すぎて思考が追いつかないんだけど。

 ちょっと息子を置いてけぼりにして勝手に遠い目をしないで? 家系ってなに? どういうこと?

 

「えっと、話が見えないんだけど?」

「いやな、別に悪縁って訳でもないし、厄災ってことでもないから気にする必要はないんだが……。どうも木下家の男はそういう星の下に生まれてくるというか、()()()()()体質みたいでな」

 

 は……? ここにきてまさかの某週刊少年誌でお馴染みな『血筋 才能 勝利』な展開なの?

 そんな安易な設定、いまどき叩かれて炎上するだけだよ? ちゃんと火災保険入ってる?

 

 

「ちなみに、父さんと母さんの馴れ初めは?」

「…………話せば長い」

 

 

 そこでガチトーンやめて。怖くて聞けなくなっちゃう!

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 いま明かされる木下家の真実……!

 そんな展開は無い。無いったらない。知りたくなかった衝撃の事実は歴史の闇に葬り去ることにした。現実逃避とも言う。

 

 何だかんだで母さんにすっかり懐き、意気投合した美琴。母さんも満更でもないのか、彼女を見る目はいつもより少し柔らかい。ぼそっと『娘もいいわね……』って呟いて、父さんが肩をビクゥッって跳ねさせてたけど。

 いつもの家族プラスワンでの昼食後、美琴は母さんから昔の家族アルバムを見せてもらったり、俺の思い出話を聞かせてもらったりと、それはそれは我が木下家を心行くまで満喫した彼女が現在どうしているかと言えば──────

 

 

「みこと このいえのこどもに なりゅぅ」

 

 

 ──俺の部屋で俺のベッドの上で俺の布団に包まって幼児退行していた。

 

 

 なに、音殺して歩く並みに幼児退行するのクセになっちゃったの?

 それもう単にヤバいヤツだから、早く正気に戻って……。その抱き締めて離さない俺のTシャツあげるから。まぁ、それはともかくとして。

 

「美琴が木下家の養子になるなら、俺たちは義兄妹ってことになるけど」

 

 義妹というワードにちょっと心惹かれるものがあるというか、心が踊り狂いそうになっちゃうんですが。

 

「…………それも捨てがたいですね」

 

 あ、正気に戻った。おかえり。

 

「えへ…昴くんがお兄さんですか……。いいですね、それ。滾ります」

 

 ……何が滾るんでしょうか?

 

「昴兄さん…? それとも……昴お兄ちゃんの方がいいですか?」

「ぐっふぅ……っ」

 

 ひょこっと布団から顔だけ出して、満面の笑みでお兄ちゃん呼びされる破壊力たるや……。

 や、やめろぉー! 俺に新しい扉を開かせようとするのはやめろぉーー!

 

「おにーちゃん」

 

 やめ、やめてぇ……。

 

「ねぇ、昴おにーちゃん?」

「な、なぁーに?」

「ふふ、呼んでみただけぇー♪」

 

 あっ、あっ、あっ……。

 

「昴お兄ちゃん。んふふ…すばるお兄ちゃーん!」

「フ、フヒヒ」

「────昴」

 

 あっ、あっ、あっ゛……か、母さん。

 

「……」

「……」

 

 無言やめて。

 

「妹、欲しかったの……?」

「ちゃうねん」

 

 

 

 このあと滅茶苦茶弁明した。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 時の流れとは早いもので、時刻はそろそろ夕方近く。

 暗くなる前に帰りなさいという母さんの鶴の一声によって、美琴の帰宅が決定した。

 

 言われた当の本人たる美琴が俺のベッドに立てこもるという既定路線なハプニングがありはしたものの、そこは母さんの『その布団持って帰っていいから、早く帰りなさい。二度とこの家の敷居を跨がせないわよ』という脅しであっさり鎮静化した。

 

 あれ、俺の今日の寝床は……? あ、この寝袋使えと、ヨロコンデー。

 

「……それじゃ、また明日」

「……はい」

 

 玄関前で見送る俺と、見送られる美琴。

 昨日から続いた俺たちの非日常も、これで一旦は一区切りつくのだろう。明日からの学園生活がどんな日常になるのかと考えると、不安半分喜び半分で何とも複雑な心境だけど。

 

「ほら、学校に行けば同じクラスだし。これが今生の別れってわけじゃないんだから」

「……そう、ですね」

 

 お願いだから、そんな捨てられた子犬みたいな淋しそうな顔をしないで欲しい。

 うっかり抱き締めて母さんに同棲を願い出て即却下されちゃうから。あ、やっぱり却下されちゃうんですね。

 

「はぁ……。いつまでやってるの、あなた達。そうやって玄関前に立ち尽くして、かれこれもう三十分よ?」

 

 え、うっそ…マジかよ。……マジだった。

 いつの間に俺たちは時を超越してしまったのか。催眠術なの? 超スピードなの? 只のじれったいバカップルですね、わかります。

 

 俺たちのグダグダっぷりに呆れ果てたのか、それとも単に痺れを切らしただけか、母さんがやれやれと溜息交じりで美琴に近づくと、何やらこしょこしょと耳打ちをし始めた。

 最初こそ呆けてポカンとしていた彼女だったけど、段々と顔に喜色を浮かべて、最後には涙ながらに母さんと熱い抱擁を交わす。

 

 これ、やっぱりネトラレてませんかねぇ……。

 

 言いようのない俺の不安を察したのか、苦笑を浮かべた父さんが慰めるように俺の肩をぽんぽんと叩いてくれた。

 うぃっす。母さんに負けないように頑張ります。……でもちょっと敵う気がしないんだよなぁ。泣きそう。

 

「それでは昴くん、また明日お会いしましょう!」

「ああ、うん。そうだね。気を付けて帰ってね?」

「はい!」

 

 先ほどまでの時間はいったい何だったんだと言いたくなるほど、元気いっぱいなお返事でタクシーに消えていく美琴を見送り、俺は何とも形容しがたい微妙な表情で母さんへと振り向いた。

 

「ねぇ、母さん」

「なに?」

「さっき美琴に何て言ったの?」

 

 そんな俺の疑問の声に、母さんはニヤリと悪戯気な笑みを作ると、そっと人差し指を口に当てながらこう言った。

 

 

「ふふっ……。それは淑女の嗜みよ」

 

 

 淑女の嗜みってすごそう(白目)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──まだ同棲は許可してあげられないけど、通い妻くらいなら黙認してあげるわよ」

「……!」

 




あとがき

五千字程度でいちゃラブを(ry

改めてヒロイン君とヒロインちゃんの回想を振り返ってみると、ヒロイン君が一人で葛藤して勝手に失恋して空回りしてる間、ヒロインちゃんは裏で昴くんの汗拭きシートhshsとかやってたんだと思うと、色々と温度差がひどい。
あまりにも不憫過ぎるので、昴くんは何も知らないまま幸せになってほしい。

【最後まで活かされなかった設定】
●昴くんグッズ
 ・デフォルメ昴くん人形
  →昴くんシリーズの最初期型作品。
   ぬいぐるみの中にはこっそり回収した汗拭きシートが入っているので、抱き締めるとほんのり昴くんの匂いを楽しめる匠の遊び心あふれた逸品。
   この手法を最初に思いついたとき、自分のことを天才だと自画自賛したとかしないとか……。

 ・昴くんの肖像画
  →昴くんシリーズの初期型作品。
   根が善良なので盗撮という手段が思い浮かばず、悩み抜いた末に、自分で描けばいいのでは? という発想で仕上げた匠の業。
   部屋に飾っていないだけで、抽象画とか色々なパターンがある。

 ・昴くん彫刻像
  →昴くんシリーズの中期型作品。
   二次元じゃ我慢できなくなり、ついに三次元に手を出した結果生み出された匠の執念。
   ちなみに全身の寸法はすべて目視で済ませた。

 ・昴くんラブドール
  →昴くんシリーズの晩年型作品。
   石像を作ってみたものの、固くて温もりが感じられないという致命的欠陥に気付き、インターネットで情報集めて辿り着いた匠の境地。
   尚、流石に外注した模様。オーダーメイドを受けた業者は細部までミリ単位、グラム単位で指定された注文書に断ろうとしたものの、札束で殴られ即落ちした。


●介護部屋
 開かずの間。中の様子は家主しか知らない。



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