ライフストリーム! (白月リタ)
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一年目
Ⅰ.さくどん ①


 

 

「じゃあ、あの……また連絡しますね。お疲れ様でした、駒場先輩。」

 

何とも気まずそうに声をかけてきた同僚……ではなく『元』同僚に首肯することで応じてから、駒場瑞稀(こまば みずき)は自動ドアを抜けて明るい屋外へと一歩を踏み出していた。これにて無職か。短大を出てから必死に五年間勤めた結果、私物が入った段ボール箱を手に追い出されるとはな。我ながら諧謔がある結末なのかもしれない。

 

まあ、自業自得だ。俺はこうなることを覚悟した上で自身の行動を選択したわけだし、会社としてはこんな人間を残しておけないだろう。昼下がりの陽光を浴びながら五年間働いたビル……『江戸川芸能事務所』の自社ビルを一度見上げた後、自嘲の苦笑いを浮かべて駐車場へと歩き出す。

 

煌びやかで、そして同時に薄暗い芸能界。もうこの業界に残るのは無理だろうな。噂が広まるのが早い世界だし、俺が何をやったのかは他事務所にも伝わっているはずだ。おまけに俺を雇えば江戸川芸能との関係が悪くなる。となればどう考えても別事務所への再就職は不可能だろうから、全く別の仕事を探すしかないわけか。

 

あー、キツい。二十五歳でまたしても就職活動? 悪夢のような話じゃないか。先ず失業保険を申請して、即座に動き始めなければ。新卒の頃だって妥協に妥協を重ねていたわけだが、今回はあの時以上に手を広げる必要がありそうだな。もはや文句など言っていられる状況じゃないぞ。

 

しかも、今は春だ。中途採用に時期が関係あるのかはよく知らないものの、タイミングとして宜しくないのは確かなはず。ピカピカの新卒が入ってきて社内の体制を整えるべき時期に、いきなり中途採用をしようとは考えないだろう。これは苦戦しそうだな。失業保険って何ヶ月貰えるんだっけ? そもそも俺のケースでも貰えるのか?

 

泣きたい気分でビルに隣接する駐車場を歩いていると、自分の黒い軽自動車の近くに人影が立っているのが目に入ってきた。パンツスーツ姿の背が低い女性だ。……高いスーツだな、あれは。俺が今着ている物より遥かに上のランクのやつ。

 

「すみません、いいですか?」

 

女性が立っている後部座席のドア付近まで歩み寄った後、『ドアを開けたいので退いてください』という言外のニュアンスを込めて話しかけてみれば、背を向けていたスーツ姿の女性はぴくりと肩を震わせてから振り返って……おっと、美人だな。一応『アイドル』と呼ばれる人たちのマネジメントをやっていたので、整った顔立ちの男女はそれなりに見慣れているつもりだが、それでも『美人だ』と思えるような容姿だぞ。二十代前半ほどの美しい女性が反応してくる。

 

「ああ、失礼。君がこの車の持ち主なのかな?」

 

「そうですが、何か御用でしょうか?」

 

まさか、横に駐車して擦ったとかじゃないよな? リースなんだぞ、この車。ちらりと軽自動車の状態をチェックしながら尋ねてみると、肩上までの黒髪の女性は薄い笑みで応答してきた。珍しい色の瞳だな。榛色というやつか?

 

「であれば、君が駒場瑞稀君か。」

 

「……失礼ですが、貴女は?」

 

「おや、これは失礼。先ず私が名乗るべきだったね。……ちょっと待ってくれ、名刺があるはずだから。作ったんだよ。どこに仕舞ったかな。」

 

うーむ……独特というか、堂々としているというか、見た目の年齢に見合わぬ威風ある口調と態度だな。平凡な容姿の俺がやればただただ生意気なだけだろうが、この女性がやると何だか似合ってしまうぞ。女優に劣らぬ美貌と高価なスーツもそう思わせる要素の一つだけど、何より彼女は『偉い人』特有の雰囲気を醸し出している。他者に譲らせるような重い雰囲気をだ。

 

とはいえ、名刺を使い慣れてはいなさそうだな。首を傾げながらジャケットやスラックスのポケットを漁っていた女性は、とうとう内ポケットで見つけたらしい一枚の名刺を……端が折れている裸の名刺を片手で差し出してきた。

 

「私はこういう者だよ、駒場君。」

 

「頂戴します。……返せなくて申し訳ございません。」

 

「いいさ、君が江戸川芸能をクビになったことは知っているからね。……それと、むず痒いから必要以上の敬語も結構だ。多少砕いて話してくれ。」

 

皮肉げな笑みでそう語る女性が渡してきた名刺には、社名らしき片仮名と一つの人名だけが印刷されてあるわけだが……どちらも知らない名だな。会社名は『ホワイトノーツ』で、そして目の前の女性の名前は『香月玲』であるらしい。ご丁寧に『かづきれい』という振り仮名まで振ってあるのに、役職名が書かれていないぞ。

 

「……初めまして、ですよね?」

 

記憶の中にヒットする情報が無くて困惑しながら問いかけてみれば、女性は……香月さんは肩を竦めて答えてくる。

 

「そうだね、初めましてだ。出来たばかりだから社名にも聞き覚えがないと思うよ。今は社長たる私だけが所属している、小さな小さな合同会社さ。今はね。」

 

「なるほど。……それでその、私に何の御用でしょうか?」

 

「そんなもの決まっているじゃないか。スカウトだよ。うちの社員になって欲しいんだ。」

 

「……スカウト?」

 

意味が分からないな。いやまあ、言わんとしている意味自体はそりゃあ分かるが……理由が分からんぞ。俺は『スカウト』なんてされるほど大した人間じゃないはずだ。ぽかんとしながら聞き返した俺に、香月さんはクスクス微笑んで話を続けてきた。

 

「私はまあ、芸能界にちょっとした知り合いが数名居てね。その知人たちから君の噂を聞き付けたのさ。……契約更新の隙を突いて、担当するアイドルグループを強引に他事務所に移籍させたんだって? 凄まじいことをやるじゃないか。法的には何ら問題ないかもしれないが、それは芸能界の暗黙の掟に反する行為だよ?」

 

「……そうですね、理解した上でやりました。」

 

「だろうね。故に私は君をスカウトしようと決めたのさ。」

 

そこまで言った香月さんは、何とも愉快そうな顔で声を潜めて言葉を繋げる。本当に『内緒話』をしたいわけではなく、大仰でからかうような声の潜め方だ。

 

「……担当の子たちを枕営業から逃がそうとしたんだって? 驚いたよ。このご時世に『枕営業』なんてものが存在しているとは思わなかったからね。時代錯誤にも程があるぞ。」

 

「よくご存知のようですね。」

 

「調べたからね。『枕』を望んできたプロデューサーが非常に大きな力を持った人物で、キー局との繋がりを強化したい江戸川芸能もそれに乗り気だったのに、君が勝手な行動で全てをぶち壊したって内情も知っているさ。……業界の権力者の顔を潰し、ついでに江戸川芸能の面子も潰し、あまつさえ上り調子のアイドルグループを丸ごと他事務所に引き渡してしまった。クビになるのも当然だ。芸能界では今後暫くの間『指名手配』されると思うよ。」

 

「おっしゃる通りです。『今後暫く』どころか、二度と芸能界では働けないでしょうね。……そんな私をスカウトする理由がさっぱり分からないんですが。」

 

そう、俺はそういうことをやってしまったわけだ。担当していたアイドルグループのメンバーは皆良い子ばかりで、日々の仕事に必死に向き合っていた。だから『枕』の話を受けて上司に思いっきり食ってかかり、撤回されないと知るや数少ない人脈を駆使して根回しをして、こっそり彼女たちを真っ当な他事務所に移籍させたのである。

 

結果として解雇されたことは残念に思っているものの、自分のやったことを後悔してはいないぞ。神奈川のご当地アイドルだった頃から見てきた子たちが、努力の甲斐あってようやく民放の常連になり始めた矢先に枕営業? そんなもの認められるはずがない。彼女たちは報われて然るべきだと考えたし、故に俺は担当マネージャーとして、良識ある大人として、年長の友人としてすべきことをした。そこだけは一切後悔していないさ。

 

ただまあ、虚しくはあるな。この業界でも、他の世界でも、正しいだけではやっていけないわけか。俺は一瞬にして業界内の居場所を失ったし、江戸川芸能の社長からは解雇を伝えられるのと同時に『芸能界に二度と顔を出せると思うなよ?』とのありがたいお言葉を頂戴したし、適当な理由をでっち上げられて懲戒解雇されたので退職金もゼロだ。訴えればチャンスがあるかもしれないが、もはやそんな気力もない。会社や株主に迷惑をかけたという点は事実なので、心中では『そりゃあ懲戒解雇だな』と納得してしまっているし。

 

後に残ったのはこの小さなダンボール一箱分の私物と、使い道がなくなった芸能界でのマネジメント経験と、申し訳程度の貯金と、経歴に刻まれた『懲戒解雇』の四文字だけ。非常に虚しい気分で鼻を鳴らした俺に対して、香月さんは身長にそぐわぬ大きな胸を張って会話を進めてくる。どこまでも真っ直ぐな自信満々の表情をこちらに向けながらだ。

 

「何故分からないんだい? 正しいことをしたんだから、評価されるのは当たり前だろう? 君は身を挺して担当していたタレントを守った。そういう人間だから雇いたいんだよ。」

 

「……誰もそんなことは言ってくれませんでしたし、私もそういった反応が当然だと思っています。香月さんの会社は芸能関係ですか?」

 

「大きく分類すればそうなるね。」

 

「なら、私を雇うのはやめておくべきです。そういう風に言ってくれる人には、尚のこと迷惑をかけたくありません。私を雇えば間違いなく事務所ごと干されますよ。」

 

多分この人は、良い人だ。まだきちんとした印象は固まっていないが、芸能界のルールを知った上でこう断定してくれる人なんてそう居ないはず。であれば俺はこの人の会社に行くわけにはいかない。彼女の会社が芸能関係であるならば、俺が所属することで絶対に迷惑をかけてしまうのだから。

 

車の鍵を開けて忠告した俺に、香月さんはニヤリと笑って一つの名前を提示してきた。挑戦的な笑みだ。強気な性格が窺えるような顔付きだぞ。

 

「安心したまえ、君の指名手配書は私の会社にまでは届かないさ。……『ライフストリーム』。芸能界と言っても芸能界ではなく、一般と言っても一般ではない。そこがホワイトノーツの縄張りなんだ。」

 

「ライフストリーム? ……動画サイトですか?」

 

ライフストリーム。それは数年前に設立された、世界的に有名な動画共有サイトの名前だ。創設された直後に全世界での流行になり、すぐさまアメリカの大手企業が買収して急成長したサイトだったはず。俺もたまにホームページに埋め込まれている動画を目にするし、同僚がタレントのプロモーションに使っているのを見たことがあるぞ。

 

だが、それと香月さんの会社がどう関係してくるんだ? 後部座席に段ボール箱を載せながら疑問を感じていると、ホワイトノーツの社長どのがピンと人差し指を立てて解説してくる。

 

「ライフストリームの運営元であるキネマリード社が、最近面白い仕組みを始めてね。ユーザーが自分の投稿した動画内に、キネマリード社が用意した広告を挟めるようになったんだ。そして広告収益の一部はユーザーに還元される。……どうかな? 興味深いシステムだと思わないかい?」

 

「面白いとは思いますけど、それがどうしたんですか?」

 

「どうしたもこうしたも、ホワイトノーツはそういった投稿者に対するプロデュースやマネジメントを主目的とした会社なんだよ。」

 

それは……むう、どうなんだ? 『広告収益』と言えば聞こえは良いが、所謂アフィリエイトと同程度の規模の『広告』であるはず。となれば微々たる収入にしかならないだろうし、それのマネジメントなんて需要があるとは思えないぞ。

 

何たって民放の『コマーシャル』とは訳が違うのだ。あれは制作の段階で凄まじい数の人間が絡み、そしてそれを遥かに凌ぐ数の視聴者に対して影響を与えているのだから。新人の頃に十五秒コマーシャルの制作費と、キー局でたった一回流すための費用を聞いて驚愕した覚えがあるぞ。あれと比べてしまえば、動画サイトの広告など雀の涙程度の利益しか生み出さないだろう。……無論『雀の涙』なのは個々のユーザー側が受け取る金額の話であって、広告主やキネマリード社の間ではそれなりの金額が動いているはずだが。

 

そういった『現実』を伝えるべきか否かを悩んでいる俺に、香月さんはスラックスのポケットから抜き取ったスマートフォンを突き出してきた。

 

「分かるよ、駒場君。君は疑っているね? 『そんなもので食っていけるはずがないし、プロデュースやマネジメントなど成立しない』と。……時に君、これが最初に現れた際にどう思った? ディスプレイだけの使い難そうな板が、これほど急速に普及すると思ったかい?」

 

「……思いませんでした。」

 

「私は思ったよ。四年前にかの有名な大手企業がスタンダードとなる商品を発表した際、絶対に流行ると確信した。古い携帯は駆逐されて、今後はこれが主役になるとね。……たった四年だよ、駒場君。僅か四年でこの機械は絶対的な地位を手に入れたのさ。それと同時に個々人の情報発信と取得の敷居も一気に低くなったわけだ。」

 

名刺の渡し方は下手だが、プレゼンテーションの才能は俺よりあるらしいな。大仰な身振りを交えながらそこまで語った香月さんは、俺をびしりと指差して『主張』を続けてくる。

 

「鋭い連中は徐々に気付き始めているぞ。動画投稿サイトは、その中でも最大手のライフストリームは『デカい』市場になると。今はまだ日本での地位を確立できていないが、五年後には間違いなく『動画投稿者』が職業の一つになっているさ。……インターネット、アフィリエイトという形態、スマートフォン。それらが登場した時と同じく、ライフストリームの広告掲載も大きな波になるんだよ。何ならそれ以上のどデカい金脈になるかもしれないほどだ。信じられないかい? 私は事実としてスマートフォンの普及に乗る形で金を稼ぎ、それを資本にしてホワイトノーツを設立したんだよ? である以上、少なくとも先を見据える力はあると主張できないかな?」

 

「……私には何とも言えません。私は起業者ではありませんし、そういう能力は備わっていませんから。」

 

「いいさ、君はそれでいい。先を見て舵を切るのは経営者たる私の役目だからね。私が確信を持っているという点だけを覚えておいてくれ。……しかしだ、私は展開を読めるだけでプロデュースの経験もマネジメントの経験も所有していない。よって君をスカウトしに来たわけさ。」

 

「私は芸能業界で五年働いただけのペーペーですよ? 期待に沿えるとは思えません。」

 

未来の展開云々は一先ず置いておくとして、ここに関しては厳然たる事実だ。もっと経験豊富な人間が山ほど居るだろう。冷静な返事を返してやれば、香月さんは何を今更という面持ちで応答してきた。

 

「自分の担当に枕営業をさせるベテランよりも、己が身を顧みず必死に守ろうとする『ペーペー』の方が遥かにマシさ。事務所とは即ち所属タレントたちの庇護者であり、ホワイトノーツでは既存の芸能事務所よりも強くその性質が求められるんだ。……何せ動画投稿者たちはほぼ全員が『素人さん』だからね。そういった人間が急に謂れのない悪意に晒されたり、慣れていない所為で失敗するのを私たちは防がなくてはならない。ここまで話せばもう理解できただろう? 私が君を選んだ理由が。」

 

「……知識や経験ではなく、担当に対する姿勢を重視したということですか?」

 

「如何にも、その通り。そうあるべきだし、私はそういった人材を望んでいる。綺麗事と言う者も居るだろうがね、そこを見失ってしまえば企業は終わりなのさ。……私が考えるに、江戸川芸能事務所は終わっているよ。何たって外部の私が詳細を掴めたほどだ。そうなると、どれだけ箝口令を敷こうが話は広まるわけだろう? そんな事務所に所属していたいタレントが居るとは思えないね。」

 

「そう簡単な話ではないんです。江戸川芸能は業界人との深い繋がりを持っていますし、タレントたちも仕事がなければ食べていけません。内心どう感じているにせよ、このまま存続していくと思いますよ。」

 

所詮そんなものなのだ。正直者がバカを見る。それこそがあらゆる職種に通じる真実なのだから。苦い笑みで現実を口にすると、香月さんは口の端を吊り上げながら返答してきた。

 

「では、私が作る業界はそうじゃないものにしよう。真っ当な連中が成功して、ふざけたことをするヤツは落ちていく。そんな業界にしてみせるよ。……ホワイトノーツは先駆者なのさ。まだ誰も手を付けていない分野に踏み出そうとしているんだ。であれば基礎となるルールを定められるのは、苦労して道を拓く私たちのささやかな特権だろう? 誰もが憧れるような業界を一緒に作ろうじゃないか、駒場君。」

 

「……夢物語に思えますね。」

 

「正しくそうさ。夢物語、無謀な挑戦、リスキーな選択。最初に始める者は皆そうなんだよ。……正直なところ、今の私は不安で一杯だ。ホワイトノーツには全財産を注ぎ込むつもりだし、数年は軌道に乗らず赤字続きになるだろう。そしてもし最終的に失敗すれば、私は何もかもを失って借金だけを背負うことになるわけだね。本来ならもっと状況が進んだ後、利益が出る想定が整ってから手を出すべきだと理性は判断しているさ。」

 

そこで一度区切った後、香月さんはくつくつと喉を鳴らしながら続きを話す。自信と、渇望と、執念。それを感じる表情でだ。

 

「それでも『最初』が良かったんだよ。失敗すれば大間抜けの仲間入りだが、成功すればそれは最大の武器になる。私はどうしても『先駆者』になりたいんだ。未知の世界に一番最初に挑みかかり、そして一番最初に成功する人間でありたいのさ。……そんな私が最初に選んだ同行者が君だよ、駒場君。聞かせてくれないか? 今の君はこの話を魅力的に感じているかい? 実際に入社するかは後でいいから、続きを聞く意思があるかどうかだけを教えてくれたまえ。」

 

言う香月さんの顔には、これまでは決して浮かばなかった色……ほんの僅かな不安の色が滲んでいる。そんな彼女のことを見返しつつ、数秒だけ黙考した後で口を開いた。慎重に言葉を選びながらだ。

 

「今の私には判断の基準すらありません。私はライフストリームをよく利用する人間ではないので、広告の形が具体的にどんなものなのか以前に、動画投稿というシステム自体すら理解し切れていないんです。……けど、貴女が私を選んでくれたことは嬉しく感じています。だから続きを聞かせてください、香月さん。先ず詳しく知ってみて、それから答えるのが礼儀だと判断しました。」

 

実際問題として、俺はそういう業態が成り立つとは思わない。安定的な収益が見込めない気がしてならないのだ。貧困な想像力を振り絞って考えるに、ライフストリームが始めた『広告収益』はあくまで個人向けのシステムであるはず。成功した個人すら出てきていない段階で、そのマネジメント業を開始するのは幾ら何でも時期尚早だぞ。

 

つまりホワイトノーツは、成功した個人が複数名出てきた後に設立すべき会社なのだ。マネジメントの対象が現れる前に設立したって仕方がないだろう。香月さん自身が言っていた『本来ならもっと状況が進んだ後』というのは、恐らくそういう意味であるはず。

 

それを理解した上で何故『続き』を聞こうとしているのかと言えば……まあ、うん。単純に絆されたわけだな。所属していた会社から冷たく追い出された直後に、誰かから必要とされるというのはかなり効くぞ。こういうのが『社長の人柄に惹かれて』ってやつなのかもしれない。少なくともしっかり話を聞こうという気にはさせられてしまったんだから、とりあえずはそうしてみよう。実際にどうするかは聞いてから考えればいいさ。

 

わざわざ俺個人を目的に来てくれた以上、最後まで話を聞くべき。そんな結論を脳内で弾き出した俺の回答を受けて、香月さんは分かり易く顔を明るくして応じてきた。

 

「そうか、そうか。素晴らしいね、ホッとしたよ。……それでは、車に乗せてくれるかい? 駐車場で立ち話というのも何だし、適当なカフェかどこかで話そう。説明すべきことはまだまだ沢山あるんだ。」

 

「それは構いませんが……香月さん、徒歩で来たんですか?」

 

「私は免許を持っていないからね。本当はビルの玄関でカッコよく声をかけたかったんだが、万が一すれ違ったら連絡を取れなくなると思ってここで待っていたんだ。知り合いから君が乗っている車を聞き出したのさ。」

 

「……そうなんですか。」

 

誰なんだろう? その『知り合い』というのは。乗っている車を知っているということは、そこそこ付き合いがある人のはず。その辺を疑問に思いながら運転席に座ると、回り込んで助手席に乗り込んできた香月さんが会話を続けてくる。

 

「君は知らないかもしれないが、君のことを心配している人間は一定数存在しているようだよ? もちろん公然と口には出さないだろうさ。君がやったことを肯定するのは芸能界におけるタブーだからね。……しかし、私が話を聞いた数名は言葉を濁しながらも君を肯定していたよ。『大声では言えないけど、大したもんだ』だとか、『ここだけの話、スカッとしたよ』だったり、『頑張ってた子だからさ、良くしてやってよ』といった反応があったんだ。そこも君に拘った理由の一つと言えそうかな。あれだけのことをやっても擁護が出てくるというのは、君の人柄が好ましいものである証左になるはずさ。」

 

「……知りませんでした。」

 

「誰も真正面からは言ってくれないだろうが、皆君は『正しいことをした』と思っているんだよ。芸能界だって汚い部分だけじゃないんだ。……尤も、そこにある『終わっている事務所』はそうじゃないようだがね。」

 

江戸川芸能事務所のビルを横目に吐き捨てるように呟いた香月さんは、シートベルトを締めて行き先を伝えてきた。

 

「君に『お気に入りのカフェ』がないなら、少し離れた場所にある私がよく行くカフェにしよう。構わないかな? クビになった会社の近くは落ち着かないだろう? それは何となく分かるよ。元同僚とかにばったり会ったら気まずいにも程があるしね。」

 

「おっしゃる通りなので、そこでお願いします。」

 

「結構、結構。ここだよ。駐車場もあったはずだ。」

 

香月さんが差し出してきたスマートフォンに表示されている地図を見て、大体の位置を把握してからセレクターをドライブに入れる。……助手席に美人の女性が乗っている状況というのは地味に緊張するな。担当アイドルの送迎とかもしていたけど、あれは混じりっ気なしの仕事だったわけだし。

 

───

 

そして香月さんの案内で到着したカフェの……一人だと入るのを躊躇ってしまいそうなお洒落なカフェの店内で注文を済ませた俺は、ホワイトノーツの社長どのとテーブルを挟んで相対していた。チェーンではないカフェに入ったのは久し振りかもしれない。最近少なくなってきたな。あるいはまあ、探そうとしていないから目に付かないだけかもしれないが。

 

「それでだ、駒場君。質問はあるかな? 移動中の『シンキングタイム』でいくつか頭に浮かんだだろう? 私から追加の説明をする前に、君の疑問を解消しておこうじゃないか。」

 

「あります。……大前提として、今現在ホワイトノーツに所属しているタレントは存在していないんですよね? 目処は付いているんですか?」

 

「おっと、最初の質問がそれか。先ずは給料や待遇の話をされると思っていたよ。」

 

……そういえばそうだな。社会人として最初に聞くべきはそこだったかもしれない。運転中に考えておいた問いを投げかけた後でバツが悪くなっている俺へと、脱いだジャケットを隣の椅子にかけた香月さんが答えてくる。

 

「まあ、私としては悪くない質問だよ。自分の給料よりそこを心配されるのは嬉しいさ。……目処は付いているし、一人は既に所属が決定しているんだ。うちに入社した場合、君に最初に担当してもらうのはその子になるだろうね。」

 

「どんな方なんですか?」

 

「現時点でチャンネルの登録者数が……君、ライフストリームにおける『チャンネル』の知識はあるかい?」

 

「……ありません。」

 

今の言い方からするに、かなり初歩の知識なのだろう。『知っていて当然』という喋り方だったぞ。それすら知らないことに不安を感じている俺に対して、香月さんは特にバカにせずに丁寧な解説をしてくれた。

 

「つまりだね、チャンネルというのは……んー、難しいな。ライフストリームという大きなプラットフォーム内に存在する、ユーザー毎の固有スペースさ。そのユーザーが投稿した動画だけが並ぶ、投稿者側に提供される『拠点ページ』だよ。そしてチャンネルに視聴者が登録すると、新たな動画を投稿した際に通知が行くようになるんだ。メインページにも表示され易くなるしね。」

 

「よく視聴する人が登録するということですか?」

 

「その認識で概ね合っているよ。故にチャンネル登録者の数がライフストリーム内では一種のステータス……というか、判断基準になってくるんだ。実際どうあれ登録者が多ければ面白い投稿者で、少なければつまらないと判断されるだろうね。投稿の形態によっては例外もあるようだが。」

 

「ぼんやりとは掴めました。」

 

独特な判断基準だな。膨大な量の動画が存在しているライフストリームで、特定の投稿者をピックアップする機能なわけだ。頭の中で理解を進めていると、香月さんは話を一つ前に戻してくる。

 

「そしてうちに所属する予定のタレントは、現時点で一定の登録者数を確保できている投稿者なのさ。チャンネル登録者数十三万人。この数をどう思う? 駒場君。」

 

「多く感じられますね。」

 

一般的な解釈をするのであれば、物凄い数の人間が登録していると言えるだろう。東京ドームの収容数の二倍以上だ。直感で返答した俺に、香月さんは苦笑いで『比較対象』を提示してきた。

 

「ちなみにだが、個人でやっている最大手は北アメリカの投稿者で、そのチャンネルの登録者数は約三百万人だ。国内個人で最も大きいチャンネルは十六万人だね。……どうかな? マネジメントが現実的に思えてくる数字じゃないか?」

 

「確かに凄い数ではありますが、最大で三百万人でしょう? 日本の最大手の登録者数から考えると、そのチャンネルだけが頭一つ抜けているようにも思えてしまいます。」

 

「件の北アメリカのチャンネルの登録者数は、一年前は百七十万人に満たなかったらしいよ。うちに所属する予定の子も去年の今頃は六万人を超えていなかったと口にしていたしね。何が言いたいか分かるかな?」

 

「……急成長している市場ということですか。」

 

倍か。それはまあ、結構な成長率だな。まさか単純に倍々計算で増えていくわけではないだろうが、低めに見積もっても一定の余地を残しているように思えるぞ。唸っている俺へと、香月さんは運ばれてきた飲み物を店員から受け取りつつ首肯してくる。

 

「そういうことだね。特に日本はようやく広まり始めたという段階だから、ここからぐんぐん伸びていくと思うよ。五年すれば十万人規模のチャンネルなんてざらになり、十年すれば三百万を超すチャンネルだって珍しくなくなるだろうさ。……ライフストリームはね、民放とは競争の質が違うんだ。『裏番組』が存在しないんだよ。だから民放と比較すると視聴回数を稼ぎ易いわけだね。尤も、『ライブ配信』というシステムが登場すればその限りではなくなるかもしれないが。」

 

「香月さんは登場すると考えているんですか?」

 

「するはずだ。既にライフストリームとは別のプラットフォームがライブ配信という形態を選択しているし、そういったサイトはキネマリード社の選択を受けて、ライブ配信におけるユーザーへの直接的な支援方法を模索し始めたからね。遠からずライフストリームもライブ配信をシステムに組み込むと思うよ。そこから少しすれば、その形態でも収入を得られるようになるんじゃないかな。……プラットフォーム側にとっては投稿者も視聴者も等しく『客』なのさ。投稿者側にメリットを提示することでプラットフォーム内の『売り手』の質を上げて、より多くの『買い手』からのアクセスを確保する。そういった大きな指針がこれからは一般的になっていくはずだ。言わば仲介業者だね。ある程度投稿者側にも収益を分配した方が、プラットフォーム側の結果的な利益に繋がるわけだよ。」

 

「……頭がこんがらがってきました。民放畑で得た知識を通すことで、ライフストリームの形態を理解しようとするのは間違っているみたいですね。」

 

近いようで致命的に異なっているな。一度頭をリセットしている俺の言葉を耳にして、香月さんはアイスコーヒーを一口飲んでから頷いてきた。

 

「参考にすべき部分は多々あるが、基礎を民放に据えて考えるべきではないだろうね。……とにかく、ライフストリームは今まさに急成長中の市場なんだよ。だからこそ私はリスクが大きいことを承知した上で、急いでそこに踏み込もうとしているわけさ。」

 

「しかしですね、先程も言ったように私には『配信業界』の知識がありません。プロデュースどころかマネジメントもギリギリこなせるかどうかだと思います。」

 

「それでいいんだ。……いやまあ、『今は』それでいいと言うべきかな。差し当たり君に求めるのはマネジメントの方なんだよ。ライフストリームにおける投稿者は放送作家であり、演出であり、演者であり、カメラマンであり、編集でもある。たった一人で動画を作っている彼らを支えつつ、君にも成長していって欲しいわけだね。」

 

そう考えると凄まじいな。ホワイトノーツに所属予定の投稿者は一人で全てを行い、十三万人もの視聴者を手に入れたのか。自分で企画して、自分で撮影して、自分で編集する。それがどれだけ大変な作業なのかを、芸能界に居た俺はよく知っているぞ。普通なら相当な人数で分担すべき物事なのだから。

 

「……そんな凄い方の担当を私がやれますかね?」

 

自信を失っている俺の返事に、香月さんは……奇妙な反応だな。目をぱっちり開いた後、クスクス微笑んで応答してきた。

 

「うちに所属する予定の子はね、まだ十七歳の女の子だよ。」

 

「……十七歳? 高校生ですか。」

 

「ん、今年の冬で十八歳になる高校三年生……『高校三年生に当たる年齢』の女の子だ。学校には通っていないらしいね。諸事情で自主退学したそうだよ。」

 

「諸事情というのは、聞くべきではない事情ですか?」

 

そういう話は芸能界ではよくあるものだ。俺は中々にヘビーな事情を抱えた未成年を何人か知っているし、好奇心で掘り下げていい部分ではないことを経験として学習している。だから予防線を張りつつ尋ねてみれば、香月さんは予想通りの回答を寄越してきた。

 

「『聞くべきではない』かは捉え方次第だが……まあ、本人の許可も無しに軽々に話すのは趣味じゃない。担当になった後でその子から直接聞くか、あるいは聞かないことを選択してくれ。私からは教えられないよ。」

 

「分かりました、二度と尋ねません。……どんな方なんでしょう?」

 

「礼儀正しい良い子だよ。努力家で、何事も真摯に受け止めようとして、故に落ち込み易いタイプかな。自分の将来を不安視した結果、今回うちに所属することを決意したようだ。……既に二度ほど顔を合わせているんだが、『もう私にはこの道しかないので、死ぬ気で努力します』と大真面目な顔で語っていたね。動画投稿で食っていく覚悟はあると判断したから、私は最初の一人として彼女を選んだのさ。」

 

「まだ十七歳なら、選択肢は他にもあるように思えますが。」

 

芸能界は茨の道だぞ。俺は知り合いにその道を勧めたりしないし、業界関係者なら誰もがそうだろう。何をやっても一定数の人間からは必ず叩かれてしまうのだから。そこを受け流したり無視できる性格なら向いていると言えるのかもしれないが、『何事も真摯に受け止めようとする』のは間違いなく芸能界向きの性格ではない。

 

まだ見ぬその子のことが心配になってきた俺に、香月さんは難しい顔付きで相槌を打ってくる。

 

「高校を退学することになったのが効いているみたいでね。自分の行く先をかなり不安に思っているようなんだ。その子にとっては、ライフストリームこそが唯一自分を認めてくれた場所なのさ。今回それが『職業』になるかもしれないと知って、勇気を振り絞って所属を決めたわけだよ。」

 

「個人でやろうとは考えなかったんですね。」

 

「動画制作には一定の自信があるものの、マネジメントは他者に任せるべきだと判断したようだ。……私は市場が成長していけば、特定の投稿者に対してのピンポイントなスポンサーというシステムが出てくると予想しているんだよ。そういった場合に企業側と投稿者の橋渡しをする存在が必要になってくるだろう? 利益もデカいが、法務関係の複雑な作業や打ち合わせ等々の雑務も増える。更に上を目指そうというのなら、マネジメントを委託するのは正解に思えるね。」

 

「……その方は随分と先の物事に保険をかけましたね。」

 

香月さんといい、その子といい、未来に目を向けすぎだぞ。先を目指すのは悪いことではないが、そこばかりを気にしていると足元が疎かにならないか? 些か以上の懸念を感じていると、香月さんが肩を竦めて応じてきた。

 

「暫く先の話になるかもしれないことは伝えたんだが、後戻りする気はないらしい。大した決断だと思うよ。……心配かい?」

 

「当然、心配です。誰だってそう感じます。」

 

「だろうね、私も心配だ。ホワイトノーツを選んでくれたからには、意地でも成功させてあげたい。故に君が支えてやってくれ。その年頃の女性の扱いは私より上のはずだろう?」

 

「……私が担当していたアイドルたちは皆、私より遥かに『大人』でしたよ。自分が情けなくなるほどに。だから『扱いに慣れている』とは言えませんね。『扱われるのに慣れている』とは言えるかもしれませんが。」

 

これは紛うことなき本音だ。周囲への気の使い方も、礼儀作法も、必要とされる警戒心や慎重さも。彼女たちは全てが俺より上だったぞ。要するにまあ、そうならざるを得ない人生を選んだということだろう。頼もしくもあり、自分が情けなくもあり、また業界が少し怖くなる部分でもあったな。

 

移籍先の事務所は彼女たちを守ると約束してくれた。社長も信頼のおける人物だし、間を取り持ってくれた人も頼りになる業界の大先輩だ。だから大丈夫なはずと祈りつつ、思考を切り替えて疑問を口にする。

 

「ちなみに、私の実際の業務はどういったものになるんでしょう?」

 

「最初のうちは撮影の手助けと、動画に対するアドバイスかな。動画制作を主導するのは基本的に彼女の方だが、別の人間ならまた違った意見を出せるかもしれない。君に期待するのはそういう部分さ。」

 

「あくまでも『補助』という意味ですね? 私が動画の骨子を作るのではなく、担当する人物が作る動画に些細な付け足しをするだけだと。」

 

「主導したいのかい?」

 

逆だぞ。興味深そうな面持ちで聞いてきた香月さんに、首を横に振って否定を返す。

 

「いいえ、むしろすべきではないと考えています。ライフストリームにおいて私は新参なわけですから、主導したところで良い結果を齎せるとは思えません。」

 

「今はね。今はそうだというだけの話だよ。担当を通して知識を蓄えた後、プロデュースの方もやってもらうつもりだ。……ここまで聞いてどうだい? 駒場君。興味が出てきたんじゃないか?」

 

「……出てきていないと言えば嘘になります。面白そうな世界ですし、やり甲斐もありそうに思えますから。」

 

そこで一度切ってから、うんうん頷いている香月さんに発言を繋げた。

 

「しかし、未だ採算の面には不安が残っています。香月さんはどの程度の期間、赤字が続くと考えているんですか?」

 

最初の一年が赤字になるのはもはや前提だろう。香月さん自身が駐車場でそんな感じのことを言っていたし、ここまで説明を受けた俺もそうなると予想している。『ボーダーライン』を知りたくて問いかけた俺に、香月さんは苦い苦い半笑いで答えてきた。

 

「痛い質問をしてくるね。……私はこれでも結構な金持ちなんだ。個人事業主ではなく合同会社という形を選んだわけだが、軌道に乗せるまでの運営資金はほぼ私の私財と判断してもらって構わない。そして単純計算でざっくりと予想するに、五年程度なら赤字が続いても社員に給料を払えるよ。借金をして追加の資金を調達できれば八年ってところかな。」

 

「……五年間も赤字が続くと?」

 

「そうじゃない、そうじゃないさ。情けない話、見切り発車だからいまいち予想が出来ないんだよ。初期の形として描いているのは社長たる私と、マネジメントとプロデュースを担当する君と、事務員が一人、営業担当が一人、そして所属する動画投稿者が三人から五人という状態だ。そこにライフストリームの成長率という要素を足せば、ギリギリで『存続できる程度の赤字』にまでは持っていける……かもしれない。最初の目標はそこだね。兎にも角にも、マネージャーの人件費をマネジメントの報酬が上回らないと話にならないだろう? 先ず君をモデルケースにしてその辺を調査できたら、そこからどんどん手を広げていくさ。」

 

「香月さん、それは……予想が甘すぎませんか? こちらも広告を打たなくてはならない可能性だってありますし、差別化するために動画制作に力を入れれば当然費用もかかります。人件費だけではないんです。加えて五人担当しろと言われればもちろん努力しますが、その場合何をどうしたって一人一人にかけられる時間は減ってしまいますよ?」

 

そこまで話した時点で『うっ』という顔をしている香月さんを目にしつつ、テーブルの上で手を組んで続きを語る。『薄利多売』そのものが悪いとは言わないが、こと新興のマネジメント業においては悪手だぞ。

 

「例えば江戸川芸能が一人のマネージャーにつき多数のタレントを……『まだ仕事が少ない多数のタレント』を抱えられるのは、社内にそれを補助する仕組みが確立しているからなんです。長年培ってきたものが土台にあって、だからそういう形式でのマネジメントが可能になっているんですよ。出来たばかりの事務所であるホワイトノーツで、ライフストリームの知識が乏しい私が五人を抱えるとなると、正直なところ十全にやっていける自信がありません。」

 

「……そうなのかい?」

 

「何よりタレントが不安に思いますよ。『他の子に時間をかけているのは、私が期待されていないからじゃないか?』と感じさせてしまえば終わりです。他の誰がどれだけ批判してきても、マネージャーだけは絶対的な味方。私たちはそういった精神的な支柱になる必要があるんですから。……ここは事務所や個々人によって姿勢が異なる部分ですが、未成年のマネジメントをする際はそれが重要だと私は考えています。困った時に躊躇わず頼れる。そういう信頼を得ることが大切なわけですね。」

 

親にも、友人にも相談できないことを話せる存在。未成年のマネジメントをする人間は、そういった『最後の砦』になるべきなのだ。誰にも話せなければ一人で抱え込み、悪意に慣れていない子は簡単に潰れてしまう。『このマネージャー、きちんと話を聞いてくれないんじゃないか?』と思われてしまったら絶望だぞ。それだけは是が非でも避けなければなるまい。

 

家庭に親が居るように、学校に友達が居るように、仕事の現場にはマネージャーが居る。江戸川芸能のことを思い出すと苦い気分になるが、新人の頃に先輩から受けたその教えは今でも金言だと思えるぞ。ペーペーなりの理念を語った俺へと、香月さんが困ったような面持ちで返事をしてきた。

 

「一人のマネージャーが沢山のタレントを抱えているイメージがあったから、そういうものなのかと思っていたよ。そこに関しては確かに甘い考えだったようだね。」

 

「心のケアも事務所の仕事なんです。そう考えた場合、未成年のタレントの扱いには慎重になるべきですよ。何も成人していれば雑に扱っていいというわけではありませんし、未成年でも成人顔負けの精神力を持っている子だって居ますが、ある程度割り切れる年齢になるまでは丁寧に担当すべきでしょうね。」

 

「ライフストリームは利用者の平均年齢が低いプラットフォームだし、未成年と接する機会は相応に多くなるだろうね。……三人なら可能かい?」

 

「具体的な人数は担当する人によるので何とも言えません。熱心に世話を焼かれるのはむしろ嫌だという方も居ますし、四六時中ベタベタに頼ってくるタイプの方も居ますからね。前者が多いならひょっとすると六、七人も可能かもしれませんが、後者だと一人を抱えた時点で限界になる可能性すらあります。まだマネジメントにおける作業量の予想が付きませんから、断定は出来なさそうです。」

 

率直な意見を送った俺に対して、香月さんは小さくため息を吐いて首肯してくる。……とはいえ個々の投稿者から上がってくる金額が少ないのであれば、一人のマネージャーが多数の担当を抱えるというシステムにせざるを得ないだろう。仮にマネージャーの給料が二十五万で、一人の投稿者から上がるマネジメント料の平均が十万だった場合、三人を抱えた段階でようやく五万の利益になるのだ。しかも会社は事務や営業、経理や法務といった人間も雇うことになるし、運営していく上でそれなりの経費がかかってしまうのだから、主な業務たるマネジメントで相応の利益を上げなければやっていけない。会社の規模が大きければ薄利のマネジメントを大量に行うことも出来るが、設立したばかりのホワイトノーツではそれも不可能だし。

 

「尤もな答えだね。……まあ、君とあの子のケースをモデルにして考えてみるさ。経費と収益の兼ね合いもあるし、その辺は慎重に調整していかなければならないようだ。何にせよ、貴重な意見だったよ。そういうのが欲しいから、私は君を雇いたいわけだね。」

 

「……このタイミングで言うのは何ですが、私の給与は幾らになるんでしょう?」

 

「江戸川芸能では幾ら貰っていたんだい?」

 

「年収で約三百五十万です。」

 

東京で働く二十五歳としては際立って高くもないが、かといって低くもないという金額。『まあまあ貰ってるじゃん』といった具合の給与額を耳にした香月さんは、事もなさげにホワイトノーツでの給料を提示してきた。

 

「では、うちは四百出そう。無論会社が大きくなっていけば昇給もあるし、『最初の社員』たる君には相応の立場も用意するよ。とにかく江戸川芸能よりは出してみせるさ。負けるのは癪だしね。」

 

「……期待されすぎているように思えますが。」

 

「私が考えるに、君は期待すればするほど努力するタイプだ。『見合うことをしなければ』と責任感に苛まれる性格とも言えそうかな。よって多少高めに設定した方が良いのさ。……人物鑑定には自信があるよ。私はそれだけを頼りに生きてきたからね。」

 

額面で五十万アップか。悪くない……どころか、『めちゃくちゃ良い話』だな。俺だって理念や主義主張だけで生きていけるわけではないのだ。霞を食っている仙人じゃあるまいし、そういうことをされると心が揺らぐぞ。

 

設立直後の会社だったら給料はかなり下がるだろうと想像していた所為で、それを覆されて戸惑っている俺へと、余裕を取り戻したらしい香月さんがニヤリと笑って会話を続けてくる。ホワイトノーツの現状を聞くに、四百万を提示するのは中々勇気が必要な決断のはずだ。俺は『当面ボーナス無しの月二十万』とかを提示されると考えていたんだけどな。そのくらいの金額が妥当に思えるし。

 

「給与を出し渋ると良くない影響を及ぼすのは、先人たちがとっくの昔に証明済みだしね。……駒場君、私は結構良い上司だぞ。足りないところは多々あるが、決断することと責任を取ること。その二つだけは必ず全うすると約束しよう。」

 

俺の目を真っ直ぐ見ながら確約した香月さんは、そのまま右手を差し出して質問を寄越してきた。

 

「その上で答えを聞かせてくれ。ホワイトノーツの最初の社員になってくれるかい?」

 

自分に対して差し出された、白い綺麗な手。香月さんの手を見つめつつ新たな分野への不安、ライフストリームという未知の世界への好奇心、重い期待がかかった給与、新興の会社であるが故の苦労等々についてを思案した後──

 

「よろしくお願いします、香月社長。」

 

『社長』の手を取って握手を交わす。……結局のところ、俺の心を最も動かしたのは『自分を選んでくれたこと』だ。この人は最初の一人として他の誰かではなく、俺を選んでくれた。それは別の会社では決して得られない貴重な評価だろう。

 

いやはや、我ながら度し難い決断の仕方だな。もっと別の判断材料が山ほどあるだろうに。……まあ、いいさ。江戸川芸能でやったことが間違っていないように、この判断も間違っていない。その理由なき確信が心の中にある以上、それに従っておくべきだ。元の職場であれほど『バカなこと』をやったんだから、今更何も怖くないぞ。

 

何はともあれ、これで地獄の再就職活動からは逃れることが出来そうだな。新しい上司が柔らかく手を握り返してくれるのを感じながら、ホッと小さく息を吐くのだった。

 



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Ⅰ.さくどん ②

 

 

「あー……まあ、うん。ご覧の通りまだ片付いていないが、ここがホワイトノーツの事務所だよ。君のデスクはあれさ。」

 

香月社長が指差した先にある、各所にマスキングテープが貼られたままの新品のオフィスデスク。それを目にしながら軽く頷いた後、俺は部屋の中を見回して眉根を寄せていた。……『夜逃げ前の事務所』って感じの風景だな。ガラッガラじゃないか。

 

カフェで香月社長と話した結果、まさかのスピードで好条件の再就職を果たした俺は、その足でホワイトノーツの事務所にやって来たわけだ。社長曰く差し当たり小さなオフィスビルの三階に位置する部屋を借りたとのことで、道中『まだ片付いていない』という点を何度も強調していたのだが……これは『片付いていない』ではなく、『片付ける物すらない』と表現すべきじゃないか?

 

正に事務所といった広めのスペースに存在しているのは、四台のオフィスデスクと未開封の積み上がった段ボール箱だけだ。応接用のソファやテーブルも無ければホワイトボードも無いし、書類棚や観葉植物も、デスクの上にあるべきモニターやキーボードも無い。ペーパーカンパニーの事務所みたいだぞ。

 

「……電話すら無いんですね。」

 

それはさすがに必要じゃないかと思って尋ねてみれば、香月社長はバツが悪そうな顔で言い訳を述べてきた。

 

「手続きに手間取ってね。きちんとした会社名義の番号がまだ取得できていないんだ。固定電話自体はそこの段ボール箱の中にあるはずだよ。どの箱なのかは分からんが。」

 

「それでよく書類上『会社』として成立させられましたね。応接用のソファやテーブルは置く予定ですか?」

 

「……必要かな? 客はあまり来ないと思うんだが。」

 

「絶対に必要ですよ。会社である以上来客は必ずありますし、新たなタレントを受け入れる際にそれすらないようでは不安に思われます。将来的にスポンサーの獲得を目指すのであれば、応接をする機会は沢山あるはずです。」

 

所属を迷っている人物がこの事務所を訪れれば、間違いなく『あっ、騙されたんだ』と判断するだろう。何故なら今の俺もちょびっとだけそう感じてしまっているのだから。事前の説明があった上に連れてきたのが香月社長だから踵を返していないが、がっしりした体付きの強面の男性だったら既に逃亡しているぞ。

 

『フロント企業』という言葉を思い浮かべている俺に、香月社長は慌てた様子で説明を継続してくる。

 

「だが、駒場君。エアコンはあるぞ。」

 

「……見当たりませんが。」

 

「注文してあるという意味だよ。明日には業者が来て取り付けてくれるはずだ。ちなみにそこは給湯室だね。そっちにあるトイレは最新式だし、あと……ほらね、凄いだろう? ここには何かよく分からない小さな部屋もあるのさ。社長室にしようかと迷っているんだが、君はどう思う?」

 

事務所内に三つあるドアの正体が早くも判明したな。小さなシンクと二口のガスコンロ、それに冷蔵庫を置くためのスペースがある給湯室。やけに高そうな最新式の洋式便器が設置されてあるトイレ。そして……まあ、これは確かに『よく分からない小さな部屋』だ。事務所スペースに隣接する形で、八畳ほどの小さめの部屋が存在しているらしい。

 

「……これは、物置じゃありませんか? 書類なんかを仕舞っておくための。あるいはロッカールームなのかもしれませんね。」

 

「にしては広すぎないかい?」

 

「事務所スペース自体はそれなりの広さですから、物置や更衣室の大きさもこんなものだと思いますけど……何かに使えるかもしれませんし、社長室は諦めた方がいいんじゃないでしょうか?」

 

「……まあ、そうだね。社長室はもっと大きな事務所に移ってからにしようか。」

 

現在の事務所の体裁すら整っていないのに、もう移転を視野に入れているのか。恐れを知らない人だな。渋々という雰囲気で首肯した香月社長へと、とりあえず必要な物の場所を問いかけた。

 

「パソコン本体とモニターはどの箱ですか? 何をするにせよそれが無いと始まりません。……ネットは通っているんですよね?」

 

「通っているよ。電子機器系はそっちの……あーっと、どれだったかな? 入っている箱がこの辺にあるはずさ。無線用のルーターや、ケーブル類も一緒に注文したんだ。」

 

大量の段ボール箱が積み上がっている事務所の隅に移動して呟いた香月社長は、分かり易く困ったような顔付きになって肩を竦めてくる。

 

「まあ、何だ。……君に一任するよ、駒場君。私は初期設定の仕方がさっぱり分からないからね。こう、パパッとやってくれたまえ。」

 

「……ホワイトノーツはインターネットを『縄張り』にする会社なんですよね? そもそも香月社長、スマートフォン関係で起業資金を稼いだんじゃないんですか?」

 

「それはそれ、これはこれさ。私が得意としているのは投資関係……つまり、ソフトウェアの方なんだ。ハードウェアは全然分からんよ。」

 

「投資関係が『ソフトウェア』かは微妙なところですが……分かりました、やってみます。もし無理そうなら素直に業者を呼びましょう。」

 

スタートする前の段階で障害にぶち当たったな。パソコンに詳しくないのか、香月社長。……駐車場やカフェでは頼もしく見えたのに、急にぽんこつに思えてきたぞ。本当に大丈夫なんだろうか?

 

しかしもう後戻りは出来ないと覚悟を決めつつ、段ボール箱を一つ一つチェックしていく。いちいち開封する気にはなれない数だが、パソコン本体は大きめの重い箱であるはずだ。数個の箱に当たりを付けて、表面のデザインや伝票に記載されてある商品名を確認していくと──

 

「香月社長? 法人向けのパソコンではなく、個人向けの専門サイトで購入したんですか? 見慣れないメーカーなんですが。」

 

「二台しか買わないなら個人向けの方が安かったんだ。色々探していたらパソコンの専門店に行き着いたから、そこで評判とスペックが良さそうなのを適当に購入したよ。……ひょっとして、それだと何か問題があるのかい?」

 

「……多分これ、必要なソフトがインストールされていないパソコンですね。個人なら使わない人も居るでしょうが、企業だと必須のやつが。」

 

「……なるほど、要するに私は買い物に失敗したわけだ。」

 

失敗というほどではないが……これは所謂、『ゲーミングPC』というやつなんじゃないだろうか? 香月社長の苦々しい声を背に、何とも言えない気分で箱のテープを剥がしにかかった。オフィスソフトを追加で買うことになるかもしれないな。

 

「一応問題なく使えるとは思います。事務作業にはややオーバースペックかもしれませんけど、マネジメント業務の中で動画を弄ることになる可能性もありますし、そういう際には役に立つかも……社長、カッターはありますか?」

 

全然剥がせないのでカッターの場所を聞いてみると、香月社長は殺風景な事務所を示して答えてくる。パソコンが入っている段ボール箱の封印を守っているのは、茶色いガムテープではなく透明な剥がし難いテープなのだ。このテープは嫌いだぞ。いやまあ、剥がれ難いのは本来長所なのかもしれないが。

 

「無いよ、駒場君。まだ何も無いんだ。ハサミすら無いね。」

 

「……では、先ずそういった小物を買いに行ってきます。そしてパソコンを設置したら最低限の家具をネットで注文しましょう。」

 

「冷蔵庫は頼んであるよ。でっかいのをね。」

 

どうして冷蔵庫を優先してしまったんだ。他に必要な物が山ほどあるのに。少し自慢げに主張してきた香月社長は、俺があまり喜んでいないことに気付いて笑みを弱めると、恐る恐るという感じで疑問を呈してきた。

 

「良い冷蔵庫を見つけたつもりなんだが……あの、準備が雑すぎて怒っているかい?」

 

「怒ってはいません。『ゼロからやるんだ』という実感を噛み締めているだけです。」

 

「ちょっと怒っているじゃないか。……ちゃんと空気清浄機も買ったんだよ? 冷蔵庫と一緒に届くはずさ。」

 

「……念のため聞きますが、椅子は買いましたよね?」

 

新品のデスクはあるものの、ペアで存在すべき椅子はそこに無い。段ボール箱をざっと確認した限りではそれらしき箱が見当たらないので、まさかと思いながら質問してみれば……買っていないのか、椅子。机はあるのに。香月社長がひくりと口の端を動かして回答してくる。

 

「……駒場君、怒らないでくれたまえ。忘れていたんだ。買う気はあったんだよ。」

 

「つまり、買っていないんですね?」

 

「買おうじゃないか、すぐ買おう。いいやつを買っていいよ。常に座っている椅子は大切だからね。仕事の効率にも影響を与えるはずさ。」

 

「是非買いましょう。西日が入る角度なのでカーテン……というかブラインドも必要ですし、小物を収納する小さな棚も要りますね。プリンターも無いようですから、そうなると当然コピー用紙もありません。その辺も買うべきだと思います。」

 

要するに、さっき社長が言った通り何も無いわけか。なーんにも無いのだ。改めて現状を認識したところで、若干弱気な面持ちになっている香月社長へと声をかけた。それでも堂々と胸を張っているな。えへんと威張りながら目を逸らしているぞ。ここに来て謎の頼りなさが出てきたが、何にせよ独特な人だという第一印象は正しかったらしい。どういう心境なんだろう?

 

「細かいことは後で考えましょう。時間はあるわけですし、今日のところはパソコンの設置に集中します。まだこの事務所は社長と私しか使わないんですよね?」

 

「んーっとだね、駒場君。金曜日に例の子がここに来るんだ。だからその、君に担当してもらう予定の子が。契約の手続きとか、あとは今後に向けての簡単な打ち合わせをする予定なんだが……マズいかな? マズいね。うん、マズいな。」

 

俺の表情を目にして疑問から断定へと言い方を変えた香月社長に、今度はこっちが口の端を引きつらせながら応じる。金曜日? 今日は火曜日だぞ。

 

「……今まさに未知の業界に挑戦しようとしている十七歳の子は、この事務所を見てどんな感想を抱くと思いますか?」

 

「『ここから私の夢が始まるんだ』とは……まあ、思わないかもね。些か殺風景であることは認めるよ。しかしだ、駒場君。前に会った時はカフェで話したんだが、次の打ち合わせまでには事務所が借りられるはずだと言ってしまったのさ。『君が所属する予定の事務所なんだから、次の機会にきちんと見せるよ』と。」

 

「なら、トラブルで事務所の準備が遅れたことにしましょう。『ことにしましょう』というか、実際間に合っていないわけですし。」

 

「そっちの方が情けないじゃないか。……大丈夫だよ、大丈夫。事務所が出来たばかりだということは知っているんだから、そこまで大きな期待は持たないはずだ。単に『物が無い』と言ってしまえば聞こえが悪いが、『まだ何も描き込まれていない真っ白なカンバス』とも表現できるしね。」

 

事務所の中心で大仰に両手を広げながら強引な解釈を持ち出した香月社長へと、半眼で現実的な台詞を返す。

 

「経営側は真っ白な方が描き甲斐がありますが、買い手側は……つまり所属タレントは真っ白なカンバスでは満足しません。ただただ不安になるだけですよ。どこの誰が真っ白なカンバスに高値を付けるんですか。」

 

「……上手い言い方をするじゃないか、君。」

 

「カフェでの打ち合わせにしましょう、社長。そうすべきです。それまでには最低限の体裁を整えられるはずですし、事務所の紹介は次々回とかにしておくべきですよ。」

 

俺にはフォローしきれないぞ、こんな事務所。切実な思いを込めて進言してみれば、香月社長は腕を組んでむむむと悩んだ後で……不承不承頷いてきた。何故不承不承なんだ。

 

「約束を破るのは好きではないんだが……君がどうしてもと言うのであれば、事務所の紹介は次々回の打ち合わせの時にしようか。」

 

「私も約束を破るのは嫌いですが、これはあれです。サンタクロースが居るか居ないかみたいなものです。所属タレントの夢を壊すわけにはいきませんよ。」

 

隠すべき物事というのは確かにあるのだ。上司に倣って強引な解釈を持ち出しつつ、しぶといテープへの対処を諦めて出入り口へと向かう。兎にも角にもカッターが要るな。こういうのは綺麗に開けて綺麗に解体して、綺麗に纏めてゴミに出したい。力尽くでベリベリするのは趣味じゃないぞ。

 

「では、道具を買ってきます。」

 

「私も行くよ。残ったところでやることなど無いわけだしね。……椅子は買わないのかい?」

 

「どうせ買うならしっかり選んで買うべきですし、数日間は段ボール箱を椅子代わりにしましょう。」

 

無論そうしたいわけではないが、安物買いの銭失いを地で行くよりはマシだろう。焦って買うのは危険だし、それなら暫くは段ボール箱で我慢した方が余程に良いはず。考えながら社長と二人で事務所の外に出て、小さな片開きのエレベーターのボタンを押す。ここは階毎に一つの貸しスペースがあるタイプのオフィスビルなので、廊下と呼べるような空間が存在していないのだ。あるのは階段の踊り場とエレベーターだけ。まあ、よくある構造だな。

 

「……わくわくしているかい? 駒場君。」

 

エレベーターの到着を待っている間に問いかけてきた香月社長に、首を傾げて疑問を飛ばした。『わくわく』? 唐突な質問だな。

 

「何に対してですか?」

 

「『ゼロからやるんだ』に対してだよ。こういうの、秘密基地を作る時みたいでわくわくするだろう?」

 

「……私はそもそも、『秘密基地』を作った経験がありません。」

 

扉が開いたエレベーターに乗り込みつつ返事をすると、香月社長は目をパチパチと瞬かせて応答してくる。

 

「驚いたね、そんな人間が居るのか。……じゃあ、ホワイトノーツは君が作る最初の秘密基地になるわけだ。」

 

「……『秘密』では困ると思いますが。」

 

「ああ、それもそうだね。『基地』とだけ呼ぶべきかな。……ほら、そう考えるとわくわくしてくるだろう? 内装には出来る限り拘って、小さくとも立派な基地にしてあげようじゃないか。」

 

下降するエレベーターの中でうんうん首を振っている香月社長を横目に、呆れと感心が綯い交ぜになったような気持ちを自覚した。この人はあれだな、良くも悪くも子供っぽい部分があるらしい。危なっかしくも思えるし、一種の魅力も感じるぞ。

 

……もしかすると、こういうのを『カリスマ』と呼ぶのかもしれない。だって基地という表現に呆れる反面、むず痒いような楽しさも湧き上がってくるのだから。そういうことをあっけらかんと言えるような人物なればこそ、人を惹き付けてしまえるわけか。そして同時に一定数の人間から疎まれもするのだろう。

 

強く惹き、強く拒絶される人間。何にせよ香月社長はどちらかに突き抜けられる特別なタイプで、中間を彷徨う平凡な俺とは違うということだ。故に彼女は思い切った起業が出来てしまうのかもしれないな。……更に言うと、俺は香月社長に惹かれる側の人間らしい。何たって今の俺はやる気が出てきてしまっているのだから。

 

思考しつつエレベーターから降りてポリポリと首筋を掻いた後、ビルの出入り口へと足を進める。つまるところ、個性あるリーダーと没個性的な下っ端だ。ここは下っ端であることを嘆くのではなく、面白いリーダーに巡り会えたことを喜んでおくか。事実として香月社長の下なら退屈しなさそうだし。

 

「そういえば、何という名前なんですか? 金曜日に打ち合わせをする予定の投稿者さんは。時間がある時に動画をチェックしておこうと思います。」

 

益体も無い考えを頭から追い出して尋ねてみれば、香月社長は出入り口の自動ドアを抜けながら返答してきた。これまで明確な名前を口にしなかったのは個人情報保護のためだろうが、社員になることが決定した今なら聞いても問題ないはずだ。

 

「本名は夏目桜(なつめ さくら)だよ。夏目が名字で、桜が名前。夏なんだか春なんだか分からない名前で面白いだろう? そしてライフストリームの登録名は平仮名で『さくどん』さ。」

 

「……なるほど。」

 

うーん、何とも判断しかねるな。要するに『ハンドルネーム』なわけだし、そこまで変ではないのかもしれないが……さくどんか。覚え易くはあるぞ。そこはまあ、良い点かもしれない。

 

ビルの横の駐車場に向かいながら唸っていると、香月社長が追加の情報を寄越してくる。

 

「本人曰く『さく』は自分の名前から取って、『どん』は擬音から取ったらしいよ。単純かつ記憶し易い名前にしたんだそうだ。」

 

「悪くない決め方だと思います。耳に残り易い名前ですし、四文字はちょうど良い長さです。平仮名という点も垣根が無くていいですね。」

 

「結構そういうことを考える子なんだよ。動画の構成や長さを変えて視聴者の反応を探ったり、ターゲットとなる世代を意識したり。広告の話が出る前からそういった部分を気にしていたようだね。」

 

「天然ではなく、計算でやっているわけですか。」

 

結局のところ後者が出来なければ長続きしないので、『天然』はあくまで切っ掛けとなる材料に過ぎないわけだが……ちょっと安心したぞ。現時点で既にそういう点を意識している人なら、アドバイスもし易そうだ。

 

軽自動車のロックを解除しつつホッとしている俺に、香月社長がざっくりした纏めを送ってきた。

 

「何れにせよ、会えば分かるさ。……あとはまあ、動画内とプライベートではキャラが若干違うということも把握しておいてくれ。」

 

「キャラを『作っている』んですか?」

 

「いいや、そういうわけでもないんだよ。人付き合いが苦手な子なんだが、カメラ越しだと緊張しないから堂々と出来るらしくてね。プライベートでは常に遠慮の仮面を被っているだけで、『素』はむしろ動画内の彼女なんじゃないかな。」

 

あー、そっちか。『逆転』していると。俺からすると珍しく思えてしまうが、ライフストリームでは間々ある話なのかもしれない。匿名の世界と現実の狭間にあるわけだもんな。『カメラの前ではキャラを演じる』というタレントは抱えたことがあるけど、『カメラの前でしか素が出せない』人物を担当するのは初めてだぞ。

 

とにかく、今日家に帰ったら早速動画を見てみよう。担当マネージャーですと挨拶してきたヤツが、自分の動画をよく知らないというのは物凄い不安要素になってしまうはず。向こうから振られたら答えられる程度になっておかないと話にならないし、金曜日に会うのであれば急いで頭に詰め込まなければ。

 

───

 

そして三日後である、四月一日の金曜日。左腕の腕時計が午後一時十五分を示していることを確認しつつ、俺は香月社長と二人で三日前にも使ったカフェのテーブルを囲んで……はいないな。カフェのテーブル席の片側に並んで座っていた。約束の時間は午後一時だ。つまり、現時点で十五分も過ぎていることになる。

 

「……社長、時間はちゃんと知らせたんですよね?」

 

「メールで知らせたし、意味もなく遅刻するような性格の子ではないから、何かトラブルがあったのかもね。電話すべきかな?」

 

「三十分までは待ちましょう。それでも来ないなら電話してみてください。」

 

『催促の電話』は最終手段だ。常習犯なら注意すべきだが、今回の場合は『いや、気にしていませんよ』の方が良いだろう。第一印象で躓くことだけは避けたいし、ここは慎重にいかなければ。

 

要するに、現在の俺たちは『さくどん』こと夏目桜さんの到着を待っているのだ。この三日間はパソコンの設定をしたり、社長の知り合いの弁護士さんに手伝ってもらって俺の雇用契約を済ませたり、百円ショップで雑貨を揃えたり、家具屋に行ったり、エアコンの取り付けを見守ったりと、本来の業務とは一切関係のない物事に使っていたわけだが……しかし『さくどんチャンネル』の動画はきちんとチェックしたぞ。数が多かったのでまだ全部は視聴できていないものの、大半は見たと主張できるはず。

 

率直な感想としては、『まあまあ面白い』という動画だったな。一喜一憂しながら熱中するほどではないが、暇な時に何となく見てしまうような面白さがあったぞ。そして時折『これは面白い』と唸らせるような動画があり、反対に『今回はいまいち』と思わせるような動画もちょこちょこと存在していた。

 

何というかこう、息が長い民放の番組のような印象だ。突出してはいないものの、一定ラインの安定感があり、かつ更新の頻度も高い。ドキドキしながら今か今かと更新を待つのではなく、ライフストリームを開いた後で『とりあえず見るか』といった具合に視聴されていそうな雰囲気があったな。

 

故に俺としては、『想像よりずっと良い』と判断している。色物ではなくスタンダード、一瞬の特別ではなく持続的な『日常の一部』、急上昇や急下降ではなく緩やかで安定した微上昇。その状態を保つのは非常に難しいことであるはずなのに、夏目さんはライフストリーム内で既にそういった立場を確立できているわけだ。

 

内容の方は商品をレビューする短い動画が全体の半分以上を占めており、所謂『チャレンジもの』と真面目な料理動画がそれぞれ四分の一弱ずつで、ごくごく稀にトークのみの動画があるという割合だったが……そこは研究の成果が見て取れたな。どうも夏目さんはレビュー動画を減らして、企画系と料理の動画を増やそうとしているようだ。

 

さくどんチャンネルの最初期の動画……つまり二年前に投稿された動画を見ると、簡単に手に入る身近な品物をレビューする動画が殆どだったのだが、最近は『普通は買わないような珍しい商品』のみを取り上げているらしい。そうなると当然レビュー動画を撮影できるチャンスは減ってしまうので、空いた穴に企画系や料理を当てているということなのだろう。

 

レビュー動画の質を高めることが先にあったのか、企画系と料理の割合を増やしたいという思いが先行していたのかは分からないが、何にせよ平均的な面白さはじりじりと向上していたぞ。他にもコスメ系の動画が何本か出た時期があったり、時たま何の脈絡もなくファッション関係の動画が投稿されたりもしていたな。何も考えずに見ると特に気にならないけど、あれは間違いなく試行錯誤の痕跡だろう。ちょっとズレたジャンルに触ることで、視聴者の反応を確認していたのかな?

 

とにかく、俺は夏目さんの動画から『慎重な向上心』を感じ取ったわけだ。土台作りを怠らないのは好印象だし、あくまで上を目指している姿勢も感心できる。『一人目』としては期待できそうな人物だと言えるだろう。動画内では鼻に付かない程度にだけ奇を衒いつつ、基本的なスタイルとしては丁寧で堅実。良いモデルケースになってくれそうだな。

 

ちなみに日本国内や、他国の人気投稿者の動画もチェック済みだ。ジャンルの差が大きかったので一概に『どれが良かった』とは断定できないものの、現時点トップのアメリカの投稿者はさすがに凄かったぞ。撮影の規模がそもそも違っていたな。キネマリード社が広告システムを出す以前から複数の企業がスポンサーになっていたようで、動画の撮影にも相応の資金を使用できるらしい。

 

それと、ライフストリームの視聴者が何を望んでいるのかもぼんやりとだけ掴むことが出来た。無論それは『俺なりの解釈』であって、絶対的な模範解答からは程遠いのだろうが、自分の意見も持たずにプロデュースやマネジメントを行えるはずはない。この仕事は他人の人生を背負う職業なのだから、せめて自分の視点くらいはしっかりと整えておかなければ。

 

ずっと動画を見続けていた所為で寝不足の頭にカフェインを与えつつ、夏目さんとの会話のシミュレーションをしていると……おや、到着したらしい。動画で見た『さくどん』がカフェに入店してきたのが視界に映る。特に変装のようなことはしていないのか。サングラスもマスクも無しで、大人しめの柄が入ったグレーのシャツ、黒のスキニーパンツ、フラットのショートブーツという落ち着いた格好だ。小さなリュックも背負っているな。

 

「来たようですね。」

 

「みたいだね。……まあ、あの様子を見れば真面目な子だというのは分かるだろう?」

 

「一目で分かりましたし、『無理をする子』だということも伝わってきます。」

 

肩下までのふわっとした黒髪と、同世代と比較するとやや低めの身長と、僅かな幼さが見え隠れする整った顔立ち。初めて動画で目にした時にも思ったことだが、バランスの良い見た目だな。可愛いに寄り過ぎず、綺麗に寄り過ぎず、柔らかい愛嬌も感じる容姿だ。

 

俺が元居た業界で言うと、『センター向きの子』という評価になるだろう。『好かれる』よりも『嫌われ難い』が先行している感じ。あるいは癖が無いと表現すべきかな? 浮き沈みが激しいタイプではなく、真ん中で安定して生き残るタイプだ。まあ、容姿に限った場合の話だが。

 

そしてそんな夏目さんは店内をきょろきょろと見回しながら、傍目にも明らかなほどに息を切らしているわけだが……長い距離を走ってきたのか? ゴール地点のマラソンランナーもかくやという状態だぞ。髪が若干乱れているし、小さく咳き込んでいるし、端正な顔は疲労で残念なことになっているな。

 

恐らく約束の時間に遅れないようにと走ってきたのだろう。事実として遅れている以上褒められたことではないが、あの様子を見て怒れる人間なんて存在しないぞ。むしろこっちが謎の申し訳なさを覚えるほどだ。『そこまで頑張らなくても別によかったのに』的なやつを。

 

あまりの疲弊っぷりにちょびっとだけ引いていると、こちらの姿を……というか、面識がある香月社長を発見したらしい夏目さんが早足で近付いてきて──

 

「あの、遅れてすみません! 私、バスを降りる場所を間違えちゃって。それで、えっと……すみませんでした!」

 

短い発言の中で二度も頭を下げたな。しかも深々とだ。青い顔で……単純に疲れているから青いのか、精神的な理由で青いのかは不明だが、兎にも角にも青い顔で荒い息を漏らしながら謝罪した夏目さんへと、香月社長が苦笑いで対面の席を勧めた。

 

「大丈夫だよ、夏目君。怒っていないさ。だからとりあえず座って落ち着きたまえ。今にも倒れそうだぞ、君。」

 

「私、あの……走ってきたので。全然違うところで降りちゃったんです。本当にすみませんでした。」

 

小さな声でそこまで言った夏目さんは、ちらちらと俺の方に目を向けながら席に着く。うーむ、宜しくない。状況が特殊すぎて自己紹介のタイミングを失ったな。香月社長が上手く振ってくれればいいのだが……彼女は俺のアイコンタクトに『ん?』というきょとんとした視線を返しているし、ここは強引に切り出そう。社長がたまにぽんこつになることはこの三日間で学習済みだ。基本的には頼りになるのに、こういう場面でそれを出さないで欲しいぞ。

 

「初めまして、夏目さん。ホワイトノーツでマネジメントを担当することになりました、駒場瑞稀と申します。よろしくお願いいたします。」

 

「あっ……はい、夏目桜です。よろしくお願いします。お待たせしちゃってすみませんでした。」

 

「堅いよ、駒場君。もっとフランクに行きたまえ。」

 

香月社長の野次を無視しつつ立ち上がって、夏目さんへとギリギリで間に合わせた名刺を渡す。……また頭を下げてきたな。状況次第ではあるのだろうが、謝ったり『すみません』と言うのが癖になっているのかもしれない。そして発言の最初に『あっ』や『あの』を挟みがちだということも分かったぞ。自信が無いのか、話し慣れていないのか、声が小さい所為でよく聞き返されるのか。何れにせよ大人しい性格のようだし、快活な口調でガツガツいくべきではなさそうだ。当初のシミュレーション通り、穏やかかつ丁寧な態度でいってみよう。

 

動画では感情豊かにハキハキと喋る子だったわけだが、『キャラが違う』という点は事前に香月社長から知らされている。その意味を理解しつつ腰を下ろしたところで、俺に合わせて席を立った夏目さんも再度椅子に座った。遠慮する性格なのは確定と見て良さそうだな。

 

マネジメントをする以上、相手の性格を知らなければならない。そんなわけでそれとなく分析している俺を他所に、隣の香月社長が対面の夏目さんへとメニュー表を差し出す。

 

「好きな物を頼んでくれ。喉が渇いているだろう? どう見てもそんな様子だしね。」

 

「ぁ、はい。あの……えっと、ご馳走になります。」

 

固辞するのはむしろ失礼に当たると判断したのかな? ……生き難い性格だとは思うが、少なくとも悪い子ではなさそうだ。礼儀を示そうという意思は感じるし、相手のことを慮れる人物ではあるらしい。とはいえ必要以上に悩みを抱え込みそうなタイプでもあるぞ。

 

まあ、『特殊な性格』と呼べるほどには逸脱していないな。合わせるのに苦労しそうな奇妙な価値観は抱えていなさそうだし、常識もちゃんと備えている。『不思議ちゃん』のマネジメントは世界観を共有するまでが難しいので、ある程度一般的な人物のようで何よりだ。

 

黙考しながらそこにホッとしていると、店員への注文を済ませた夏目さんに香月社長が話しかけた。

 

「さて、夏目君。前に話した通り、プロデューサー兼マネージャーをスカウトしてきたんだ。それがこの駒場君なのさ。元々芸能事務所でマネジメントをやっていた人物だから、頼りになると思うよ。」

 

「はい、あの……よろしくお願いします。」

 

「こちらこそよろしくお願いします、夏目さん。」

 

『よろしくお願いします』の応酬は二度目だぞ。会話がループしていることに内心で苦笑しつつ、今度は俺が話題を投げる。探り探り慎重に行こう。ここで好感を与えておかないと、後々辛くなることを俺はよく知っているのだ。

 

「動画、拝見しました。面白かったです。」

 

「うぁ、あの……ありがとうございます。直接言われるとその、恥ずかしいですね。」

 

「ファンの方から声をかけられたりはしないんですか?」

 

「私、あまり家から出ないんです。それにその、そこまで有名なわけでもないですし。」

 

顔が僅かにだけ赤くなったし、本心から照れているらしい。そうか、声をかけられたりはしないのか。そこを少し意外に思いながら、夏目さんへと話を続けた。活動のフィールドが特殊な所為で、社会的な認知度がいまいち判然としないな。

 

「ホワイトノーツに所属すると、私が夏目さんのマネージャーになるわけですが……何と言うか、基本的には『助手』程度の存在だと思ってください。動画制作における『そこには口出しされたくない』という部分に対して、何かを強制することは決してありません。そこだけは最初に約束しておきます。」

 

「は、はい。」

 

「もちろん誠心誠意考えた上でのフォローやアドバイスはさせていただきますが、方針の決定権は常に貴女にあるわけです。だから……そうですね、暫くは便利屋として遠慮なく使ってください。貴女のサポートが私の仕事なんですから、言ってもらえれば何でもやりますよ。」

 

『便利屋宣言』をした俺へと、夏目さんは迷っているように目を泳がせた後で……おずおずと質問を寄越してくる。

 

「あの……カメラを持ってもらうのって、可能でしょうか?」

 

「カメラ、ですか?」

 

「いやあの、ダメならいいんです。ただ私、両手を空けた状態でカメラを動かしたくなることが何度もあって。それでひょっとしたら、事務所に所属するとそういうことも頼めるかなと思ったんですけど……。」

 

「大丈夫ですよ、当然可能です。扱いに慣れている方ではありませんが、練習しておきます。」

 

真っ先にカメラマン役を頼まれるのは予想外だったが……なるほど、カメラか。考えてみれば一人で撮影しているんだもんな。三脚に固定するか、あるいは片手に持って撮るしかなかったわけだ。結構不便に感じていたのかもしれない。

 

別段引っ掛かることなく納得している俺に、夏目さんは慌てた様子で謎のフォローを送ってきた。

 

「えと、そんなことをお願いするのは迷惑かなとも思ったんです。だけど料理動画を撮る時とかは手が汚れたりするし、アップで映す前にいちいち手を洗ってカメラを持つのはテンポが悪いし、かといってカットを細かく挟むと全体の流れが悪く……あの、すみません。こんな話、興味ないですよね。」

 

「興味はありますし、私はそういった問題を夏目さんと二人で解決するために居るんです。どんどん話してください。他の人がどういう反応を示すにせよ、私はきちんと聞きますから。」

 

「ぁ……はい。」

 

「ちなみにですが、今まではずっと一人で撮影していたんですか?」

 

女性店員がオレンジジュースをテーブルに置くのを横目に問いかけてみれば、夏目さんはお礼と共にそれを受け取ってから応答してくる。

 

「あっ、ありがとうございます。……はい、一人で撮ってました。手伝ってくれるような友達は居ませんし、家族に頼むのはちょっと恥ずかしいので。」

 

「であれば、今後は私を頼ってください。」

 

家族に言及したということは、実家暮らしか。……いやまあ、そりゃあそうだ。十七歳なんだから一人暮らしをしている方が少数派だろう。動画内では家族について全く触れていなかったから、何となく驚いてしまったぞ。よくよく考えたらキッチンの映像が明らかに実家のそれだったし、意外でも何でもないな。

 

我ながら意味不明な驚きを隠しつつ、『真摯に向き合いますよ』という姿勢を前面に押し出してみると、夏目さんはこくこく頷いて返事をしてきた。未だ『打ち解けた』とは言えないが、初っ端のやり取りとしてはそう悪くないはず。良い会話の進み方だぞ。

 

「あの、はい。お願いすることがあるかもしれません。」

 

「遠慮しないで頼みたまえ、夏目君。駒場君には何より君を優先させるさ。……私と違って車も運転できるから、外での撮影も可能だよ。成人している人物が一緒だと色々と捗るだろうしね。面倒くさそうな交渉や手続きは全部彼に任せるといい。」

 

「社長が言うと何か癪ですが……まあ、その通りですね。夏目さん、店や施設からの撮影許可を取ったりするのも私の役目です。そういった雑務も任せてください。」

 

「それは……はい、ありがたいです。私は人と話すのがあんまり得意じゃないですし、個人で交渉すると不審に思われそうかなっていうのもありましたから。」

 

ややぎこちない笑顔ではあるものの、今日一番の嬉しそうな表情が出たな。そういう部分も撮影の障害になっていたわけか。……うーん、分からなくもない話だ。撮影許可を取る際、会社名を出せるか出せないかではかなり違うだろう。その会社名がどんなものであれ、相手側の反応は間違いなく変わってくると思うぞ。

 

然もありなんと感じていると、夏目さんがオレンジジュースを一口飲んだ後で声を場に放つ。

 

「……私、事務所に所属すると制限が多くなると思ってました。そこだけがちょっと不安だったんです。だからその、少し安心してます。」

 

「過度に乱暴な口調だったり、内容が危険だったりするのであれば制限をかけたかもしれませんが、夏目さんの場合はそもそもが安定した動画ですからね。現時点で注意すべきことは何もありません。仮にスポンサーが付けば、気を付けなければならない点も出てくるでしょうが。」

 

「……えと、どういうことが起こるんでしょうか? 一応その、著作権とかには気を使ってるつもりなんですけど。」

 

「分かり易い例で言うと、『競合他社の商品を映さない』といった特殊なマナーがいくつかあるんです。そこは助言させていただくことになるかもしれません。……ただ、著作権に関して気を使っているのは動画から伝わってきましたよ。素晴らしい警戒心だと思います。慣れていると当然のことですが、普通は気が回り難い部分でしょうし。」

 

ここはおべっか抜きの称賛だ。そういうことを気にしがちな芸能界に居たわけでもないのに、大したもんだと感心するぞ。手放しで褒めた俺に対して、夏目さんは首を横に振りながら説明してきた。

 

「私が一人で気付いたわけじゃなくて、親切なリスナーさんにコメントで教えてもらったんです。広告掲載に伴ってライフストリームの規約が変わるから、もし掲載の申請を通したいならそういう部分にも注意すべきだよって。それから気を付けるようになりましたし、お陰で申請もすんなり通りました。」

 

「コメントは細かくチェックしているんですか?」

 

「昔の動画に最近書かれたコメントは見逃してるかもですけど……えっと、基本的には全部読んでます。」

 

視聴者が動画ページに書き込めるコメント。俺もさらっとだけ確認したが、中には結構キツめのやつもあったぞ。ほぼほぼ肯定的な応援や感想だったものの、短文での辛辣な評価や長々とした文句もごくごく僅かにだけ存在していたのだ。

 

その辺が心配になってドキッとしている俺に、夏目さんは俯きながら言葉を繋げてくる。迷っているような、困っているような声色だな。

 

「落ち込むコメントもあるんですけど、これからもなるべく読んでいくつもりです。折角書いてくれたわけですし。」

 

「……個々人で対応が異なる部分なので正解はありませんが、私が知るタレントの中には『視聴者の意見を一切見ない』という方も居ましたよ。あるいは裏方の人間があからさまな悪意だけを取り除いたり、プラスの意見だけを拾い上げるというケースもありました。」

 

ファンレター等に対するそういった行為は、江戸川芸能事務所では『検閲』という捻りのない隠語で呼ばれていたっけ。そもそも気にしない者も居れば、そういう反応を分析して自身のスタイルを修正していたタレントも居たし、怖くて見られないと言って無視する人も居た。そこに関しては正解など無いのだ。事実として『完全無視』を貫いた末に大成功を掴んだ人物だって存在しているのだから。

 

『ファンの声』は諸刃の剣。俺はその真実を芸能界での経験から学び取ったぞ。人間という生き物は十の肯定的な声より、たった一つの否定的な声の方が気になってしまうものだ。そして否定的な意見が無くなることなど有り得ない。それがどれだけ素晴らしい動画だろうと、叩く人間は必ず出てくるはず。そこだけは百パーセントの確信を持って言い切れるさ。

 

慎重な態度で『別の道もあるよ』と伝えた俺へと、夏目さんはオレンジジュースのグラスを触りながら返答してくる。

 

「それは、分かります。たまに厳しいコメントとかもあって、そういうのを読んじゃうと何日も引き摺りますから。寝る前とかに思い出すと、もやもやして眠れなくなっちゃったりもするんです。」

 

そこで一度区切った夏目さんは、上目遣いでこちらを見つつ続きを語った。弱々しい笑みを浮かべながらだ。

 

「けど、嬉しいコメントもやっぱりあるんです。私の動画、結構沢山上げてるんですけど……最初の頃から毎回コメントしてくれてる人も居るんですよ? 料理動画に『参考にして作ります』ってコメントがあったり、チャレンジ動画に『面白かった』って感想があったり、商品レビューに『買おうか迷っていたので助かりました』って書かれてたり。そういうのを見る度、自分のやってることが無駄じゃないって言ってくれてるような気がして。」

 

「……無駄じゃない、ですか。」

 

「私、他に何にも無いんです。ずっとずっと居ても居なくてもいいような人間だったので、ほんの少しでも……その、誰かの役に立ててるなら嬉しいなって考えてます。だからあの、コメントはこれからもチェックさせてください。いつも見るのが怖いんですけど、それがあるから私はこれまで続けてこられたんだと思うので。」

 

『他に何にも無い』か。動画制作をやっている根本の理由が垣間見えるような台詞だな。……うーむ、若干の危うさを感じるぞ。動機が単純な承認欲求だったら話は早かったのだが、そういうわけでもなさそうだ。仕事は仕事として割り切れる性格でもないみたいだし、ここは今後ケアすべき部分だと記憶しておこう。

 

「分かりました、先程も言ったように方針を決めるのは夏目さんです。私は貴女の決定に従います。」

 

「ぁ、えと……ありがとうございます。」

 

「しかし、抱え込むのが辛いと思ったらすぐに相談してくださいね。今はまだ知り合ったばかりなのでやり難いでしょうが、私は夏目さんが相談できるような存在になれるように努力していくつもりです。『どんな相談でも、きちんと聞く意思がある』ということだけは心に留めておいてください。」

 

「……はい。」

 

よし、決めたぞ。ビジネスライクな距離を保った関係ではなく、どちらかと言えばベタベタにやっていこう。個人的にはマネージャーとタレントの関係は前者が最良だと考えているものの、この子に関しては後者で行くべきだ。あまりにも近すぎるのは問題だが、寄り掛かってくれる程度の距離までは多少強引にでも詰めていかねば。

 

マネジメントの大きな指針を定めたところで、香月社長が話を進めてくる。

 

「まあ、信頼は徐々に築いていけばいいさ。駒場君はこの三日間で私に遠慮なく意見してくるようになったからね。時間をかければ自然とやり易くなってくるよ。……それでは、この辺で面倒な契約の話に移ろうか。印鑑は持ってきてくれたかい?」

 

「あっ、持ってきました。」

 

言いながら書類をテーブルに出した香月社長に応じて、夏目さんもリュックの中から必要な物を取り出していく。……んー、想像していた以上に難しそうだぞ。芸能界との最も大きな違いは、根本的な主導権がタレント側にあるという点だな。ホワイトノーツが夏目さんを雇うわけではなく、あくまで夏目さんがマネジメントを俺たちに依頼しているだけなので、彼女が不必要だと感じてしまえばそれでお終いなわけか。

 

江戸川芸能では仕事を振る事務所側に主導権があったから、今まで培ってきたやり方をそのまま使えば間違いなく失敗してしまうだろう。こっちの業界では事務所がタレントを選ぶのではなく、タレントが事務所を選ぶのだから。

 

つまり、民放の芸能事務所とは上下関係が逆転しているわけだ。個人でも活動できるライフストリームの動画投稿者にとって、事務所への所属は別に必須ではない。……であれば、マネジメント料を払ってでも所属するだけのメリットを示せなければ生き残れないぞ。所属タレントは同僚であり、パートナーであり、何より『お客様』でもある。そこは頭に刻んでおくべきだな。

 

香月社長と夏目さんが契約を進めているのを眺めながら、難易度が高い仕事に就いてしまったことを改めて実感するのだった。

 



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Ⅰ.さくどん ③

 

 

「やあ、駒場君。元気そうだね。」

 

相変わらず雰囲気がある人だな。夏目さんとカフェで対面してから二日が経った日曜日、俺はお世話になっている民放キー局のプロデューサーさんの家を訪れていた。ここに来た理由は二つだ。一つは私的な謝罪のためで、もう一つは休日返上の『仕事』のためである。

 

「お久し振りです、富山(とみやま)さん。急にすみません。」

 

「いいよいいよ、入りな。君のことは心配してたんだ。連絡してくれてホッとしたさ。」

 

「お邪魔します。……そちらにも『悪評』は届いていますか?」

 

玄関の中に招き入れてくれた富山さん……確か今年で五十五になる、ベテランの男性プロデューサーさんだ。へと問いかけてみれば、彼は苦笑しながら首肯してきた。ちなみにこの家に入ったのは初めてではないのだが、何度見ても大きな一軒家だな。さすがにキー局のエグゼクティブ・プロデューサーともなると収入も多いらしい。都内ではそこそこな立地の上、表の駐車場にはツーシーターの高級車も駐めてあったぞ。

 

「届いてる届いてる。うちの制作局じゃ『好評』になってるけどね。」

 

「あー……好評、ですか?」

 

「みんな嫌いなんだよ、遠藤のこと。民放業界じゃ誰もが早く死んで欲しいと願ってるんじゃないかな? そんなクソ野郎の顔に泥を塗ってくれた君は、うちの制作局じゃスター同然だ。神棚に写真でも飾ろうかと思ってるよ。」

 

「それは勘弁してください。神様にも失礼でしょうし。」

 

辛辣な台詞が飛び出してきたな。……『遠藤』というのはまあ、俺が江戸川芸能をクビになる切っ掛けとなった人物だ。要するに『枕』を要求してきた大物というのが遠藤プロデューサーなのである。そして今俺をリビングに案内してくれている富山さんは、遠藤プロデューサーと同世代かつ別局のプロデューサーということで、何十年も前から仲が悪いらしい。曰く大昔の民放黄金期に盛大に揉めたことがあって、その時は殴り合いの喧嘩にまで発展したのだとか。

 

にしたって『早く死んで欲しい』というのは相当だなと思っていると、富山さんは俺に席を勧めながら会話を続けてきた。半円形の黒いデザイナーズソファ、ガラス製のお洒落なセンターテーブル、巨大なテレビ、重厚なダイニングテーブルと四脚の椅子、その奥に見えている近代的なシステムキッチン。いつ来ても夢があるリビングダイニングだな。俺のアパートの部屋とは大違いじゃないか。

 

「ま、座ってよ。家内が出かけてるからインスタントのコーヒーしかないけどね。主婦友達とゴルフに行ってるんだよ、ゴルフ。僕が教えたのに、最近じゃ妻の方が夢中になってるんだ。……しっかし、派手にやったじゃないか。僕に一言相談してくれれば穏便にやれたかもよ?」

 

「頭には浮かびましたが……ご迷惑になると考えたので、連絡はしませんでした。」

 

「そういうヤツだよね、君は。江戸川芸能じゃ唯一期待してたんだけど、これであの事務所には本当にまともなのが居なくなっちゃったよ。」

 

「あの、富山さん。……番組の件、本当に申し訳ございませんでした。今日はそれを謝りに来たんです。」

 

ソファの前に立ったままで深々と頭を下げた俺へと、富山さんはキッチンスペースに移動しながらひらひらと手を振って応答してくる。俺が強引に移籍させたアイドルグループのレギュラー番組。その責任者が富山さんなのだ。水面下で唐突に移籍させてしまったから、間違いなく契約面でトラブルが発生しただろう。そこは心から申し訳ないと思っているぞ。

 

「いいっていいって。こっそりやる他なかったんだろうし、番組の出演は今まで通りってことになったからね。江戸川を相手にするよりやり易くなったくらいだよ。金のこと煩いからさ、あの事務所。」

 

「……あの子たちを使い続けることで、各所との関係が悪化しませんでしたか?」

 

「あのね、駒場君。僕って一応それなりに発言力持ってるんだよ? その程度だったらどうにでもなるさ。遠藤が歯噛みしてると思えばお釣りが来るよ。」

 

「……ありがとうございます。富山さんが引き続き使ってくれることで、他番組もあの子たちを起用し易くなったと思います。」

 

富山さんクラスのプロデューサーが切らなかったことで、ある種の『免罪符』が手に入ったのだ。他のプロデューサーがあの子たちを起用するハードルは大きく下がっただろう。頭を下げ続けながらお礼を言った俺に、富山さんは困ったような声を返してきた。

 

「いいんだって。……律儀すぎるよね、駒場君は。初めて会った時から芸能界に向いてないと思ってたよ。嘘吐いてナンボの世界なのに、君はちょっと正直で真面目すぎた。だからこういう結末はあんまり意外ではないかな。」

 

「それなのに世話を焼いてくれたんですか?」

 

「芸能界に向いてないってことは、つまり人間としては『良いヤツ』ってことじゃんか。飲みに連れて行くのはそういうヤツじゃないとストレスで死んじゃうよ。成功するのは僕含め、自分勝手な連中ばっかりだからね。我を突き通して、盲目的に自分のセンスを信じて、容赦なく他人を押し退けられないとやっていけないんだ。今更言っても意味ないけど、君に足りなかったのはそこかな。」

 

「……思い当たる節はあります。」

 

人間としては美点でも、仕事においては弱さになるわけか。その通りだなと苦い気分でソファに腰掛けた俺へと、富山さんはキッチン脇のコーヒーメーカーを弄りながら続きを語る。大型の本格的なやつだ。そこまで行くともう『インスタント』とは言えないと思うぞ。コーヒーの良い香りが漂ってきているな。

 

「でもさ、残念なのは本音だよ。君はスタッフ受けも良かったし、付き合い易い相手だったからね。うちの番組のスタッフ、かなーり気にしてるみたいだよ? そういう事って結構少ないのさ。大抵は気にしないか、『居なくなって清々した』って反応になるから。……君が担当してた子たちも相当落ち込んでたしね。落ち込んでたって言うか、今なお落ち込んでるって言うべきかな? 周防ちゃんなんか僕に相談してきたくらいだよ。『瑞稀マネージャーのこと、どうにかなりませんか?』って。」

 

「……そうですか。」

 

「実際、どうにか出来るよ。ほとぼりが冷めた頃に仕事紹介しようか? 遠藤はバカだからすぐ忘れると思うしね。……うちで飼ってるハムスターより記憶力がないんだよ、あいつ。どんぐりを埋めっぱなしにするリスと同レベルの知能しかないのさ。今日日枕営業なんて要求する時点でバカ丸出しだって。多分脳みそがおかしくなってて、価値観が過去に遡ってるんじゃないかな? タイムスリッパー遠藤だ。今にスタジオの隅っこで打製石器とかを作り始めるよ。そうすりゃ火を怖がるようになるだろうから、ライターで追い払えて楽なんだけどね。」

 

うーん、遠藤プロデューサーへの罵倒となると急に舌の回りが良くなるな。どう相槌を打つべきかが分からなくて聞き流した後、淹れてくれたコーヒーを受け取って『仕事の紹介』に対する返事を飛ばす。新しい名刺を差し出しながらだ。

 

「お気遣いありがとうございます。ただその……実はですね、もう再就職できたんです。今はこの会社に勤めておりまして。」

 

「おっ、そうなの? 『ホワイトノーツ』? 僕は聞いたことないな。何の会社?」

 

「ライフストリームの投稿者に対する、プロデュースやマネジメントを行う会社です。……ライフストリームはご存知ですか?」

 

「あー、ライフストリーム。もちろん知ってるし、だとすれば君は良い再就職先を見つけたみたいだね。……あのサイトはデカくなるよ。断言したっていいさ。」

 

おっと、予想以上の反応だな。即座に断言してきた富山さんは、俺の斜向かいに腰を下ろして唸ってくる。持ってきた手土産を遠慮なく開きながらだ。

 

「僕の好きなどら焼きでしょ? これ。開けちゃうよ? ……君の新しい上司は先見性が『ありすぎる』らしいね。この段階で手を付けるのは勇気が必要だったはずだよ。けど、大いに正解だ。そうか、駒場君の次の土俵はライフストリームか。いいね、そこの知り合いを得られるのは願ってもないことさ。」

 

「随分と高く評価しているんですね。」

 

「ネットは『速い』し、『広い』し、『多い』からね。そこだけは逆立ちしたって民放じゃ勝てないよ。……そりゃまあ、力押しなら負ける気はしないさ。そもそも注ぎ込める予算が違うんだから、僕が作る番組なら百回やって九十五回は勝てる自信がある。あと十年間くらいはそれが続くんじゃないかな。とはいえ、民放も適応していかないと何れ追い越されると思うよ。僕の後輩たちは苦労するだろうね。僕はその前に引退するから知ったこっちゃないけど。」

 

独特な表現だな。速くて、広くて、多いか。つまり質では負けないが、特定の面では既に上を行かれていると判断しているわけだ。あっけらかんと言い放った富山さんへと、コーヒーを一口飲んでから疑問を送った。

 

「富山さんはマネジメント業が成立すると考えますか?」

 

「そこはちょっと分かんないかな。利益を上げるためのプロセスをよく知らないからね。僕に分かるのは、ライフストリームという媒体がどんどん拡大していくって点だけさ。……一つアドバイスしてあげるよ、駒場君。ライフストリームを使うなら、早い段階から国外に目を向けた方がいいね。あのプラットフォームには国境がない。そこはめちゃくちゃ重要だと思うよ。」

 

「国外ですか。」

 

「だってさ、民放は何をどうしたって国内の視聴者しか手に入れられないわけでしょ? 僕たちはそれを承知した上で番組を作ってるんだけど、ライフストリームはそうじゃない。アメリカだろうがイギリスだろうがフランスだろうがロシアだろうが、見ようと思えば簡単に見られるんだよ。それって物凄いチャンスじゃないかな。別に英語だのロシア語だのを喋れなくても、字幕さえ入れればどデカい市場に手を出せるわけ。確かそういうシステムあったよね?」

 

あるぞ。ライフストリームそのものの機能に字幕は存在している。尋ねてきた富山さんに頷いてみれば、彼は腕を組んで話を続けてきた。もうこの時点で来た甲斐はあったな。さすがに目の付け所が違うらしい。

 

「じゃあ、やるべきだよ。日本語だけでやってたら一億……もちろん潜在的にの話ね? 一億程度の市場だけど、英語の字幕を入れるだけでそれが十億に膨れ上がる。僕ならやるね。絶対やる。メインの市場をあくまで日本国内に据えるにしたって、字幕一つ付けるくらいのことはするはずだ。百人に一人、千人に一人、一万人に一人見るようになるだけで全然違うんだから。」

 

「参考になります。……富山さん、私が担当することになった子の動画を見ていただけませんか?」

 

「なるほどね、今日は意見を聞きに来たわけだ。……いいよ、見てあげる。見せる相手として僕を選んだって部分は普通に嬉しいからね。一つ貸しを作っておくのも悪くなさそうだし、今のところはまだ競合相手でもない。無責任に意見させてもらうよ。」

 

「ありがとうございます、助かります。」

 

お礼をしつつポケットからスマートフォンを出して、用意しておいた『さくどんチャンネル』の動画を開く。それを再生状態にしてセンターテーブルの上に置くと、スピーカーから夏目さんの声が流れ始めた。百戦錬磨のプロデューサーたる富山さんから意見を貰う。それこそがここに来た二つ目の目的なのだ。

 

『どうも、さくどんです! 今日はですね、前々から紹介したかった物がようやく手に入ったので──』

 

初っ端から人に頼るのは中々情けない行動だが、夏目さんは一大決心をして事務所に所属したのだから、目に見える利益が得られなければがっかりするはず。だったら出し惜しみをしている余裕などないぞ。今の俺に残っている僅かな強みである、『芸能界との細い繋がり』。それを余す所なく有効活用していかなければ。

 

ちなみに最初に選んだのは商品のレビュー動画だ。最近投稿された中では、比較的再生数と評価が良かったやつ。現時点のさくどんチャンネルではこれが主軸になっているので、是非とも富山さんに意見を聞いておきたいぞ。俺が思考している間にも、画面の中の夏目さんが白い座卓の上に紹介する商品を出した。

 

『じゃーん、これです! コスメグッズでお馴染みのパステルさんと、これまた化粧品関係で有名な健忠堂さんがコラボした期間限定のハンドクリーム。それをゲットしてきました! 近所の薬局ではもう売り切れちゃってて、少し遠出をして買ってきたんですけど……どうもですね、女性だけじゃなくて男性もターゲットにした商品らしいんですよ。ちなみにこれは一番小さいサイズで、大きいやつはこの二倍くらいの容量の──』

 

動画を見る度に思うが、本当にキャラが違うな。快活でハキハキしていて、喜怒哀楽を躊躇わず表現できる女の子。それが動画内での夏目さんなのだ。あの引っ込み思案な夏目さんとの差が凄いぞ。黙考しながら動画に目をやっていると、商品の簡潔な説明を終えた『さくどん』が容器の蓋に手をかけたのが視界に映る。

 

『それじゃあ、開けてみましょうか。これ、回す蓋じゃないんですね。パカッて開けられるみたいです。この形のハンドクリームにしては珍し……うわ、良い匂い。開けた瞬間に良い香りがしてきました。えっと、見えますか? 見ての通り真っ白なクリームで、ローズ系の結構強めの香りですね。香水は嫌いだけど、香りはつけたいって人にはちょうど良いかもしれません。』

 

富山さんがどら焼きを食べながら視聴しているのを、更に外側から観察している俺に……彼がポツリと呟きを寄越してきた。まだ動画が半分も終わっていない段階でだ。

 

「んー、大きな改善点が二つあるかな。」

 

「どんな改善点でしょうか?」

 

「まあまあ、とりあえず全部見るよ。……この子はバランス感覚があるね。ここが良い、ここが悪いってのをきちんと両方言ってる。民放だと前者に寄せるけど、ライフストリームならこの塩梅が正解なんじゃないかな。」

 

「『バランス感覚』ですか。」

 

言わんとしていることはまあ、何となく伝わってくるぞ。商品をレビューする際に持ち上げすぎず、叩きすぎないということだろう。脳内で考えを整理している俺へと、富山さんは動画に目を向けつつ詳細を語ってくる。

 

「民放が必要以上に食べ物とか商品を『ヨイショ』するのってさ、もちろんスポンサーとか撮影させてくれる店への気遣いもあるけど……最大の理由はそうしないと『つまらない』からなんだよね。マズいマズい言いながら何か食べてる映像なんて不快なだけだし、ダメ出ししすぎるヤツを見てたって面白くない。だから基本的に肯定の意見を前面に押し出すわけ。」

 

「……この動画ではいくつかの『悪いところ』を指摘していますね。」

 

「そこだよ、そこが民放とライフストリームの違いなんだ。多分だけどさ、こっちでは面白さと同じくらいの『正直さ』が求められるんじゃないかな。スポンサーとか企業関係の柵以前に、視聴者が求めている性質が違うんだと思うよ。……とはいえだ、だからといって叩きまくるのは良くないだろうね。それが実際に悪い商品だとしても、不平不満だけってのは単純に不愉快だ。その点この子はちょうど良いバランスに収めてる。正直な『消費者目線』の意見を前面に出しつつも、フォローはきっちり入れてるでしょ? 肯定六、疑問二、意見一、否定一って感じかな? 扱う物にもよるんだろうけど、この動画に関しては絶妙な割合に感じられるよ。」

 

「……そこはある程度計算でやっているんだと思います。思い返してみると、初期の動画では割と酷評している時もありましたから。」

 

恐らくコメントを参考に修正を入れたのだろう。肯定と否定のバランスか。そういう面には気付けなかったなと反省している俺に、一つ目の動画の視聴を終えた富山さんが『感想』を送ってきた。

 

「……うん、悪くないね。とびっきり面白いとは言えないけど、持続力があるタイプに思えるよ。良い子に目を付けたじゃないか。」

 

「目を付けたのは私ではなく、うちの社長ですけどね。……『二つの改善点』についてを聞かせていただけませんか?」

 

「ああ、そうだね。改善点。一つはボイスフォロー……っていうか、テロップだよ。」

 

「テロップですか。」

 

そういえば、夏目さんの動画には入っていないな。というかライフストリーム内で入っている動画はあまり見ない。内心で首を傾げている俺に対して、富山さんは二個目のどら焼きに手を伸ばしつつ解説してくる。

 

「これを見るとさ、白完……つまり、尺だけを合わせた段階の映像に似てるなって思うんだ。僕たちの業界じゃそれはまだ編集の途上にある映像なんだよ。民放とこっちじゃ質が違うってのは重々承知してるけど、でもテロップは絶対に入れた方がいいね。一気に華が出るはずだから。」

 

「……私は全く気付きませんでした。確かにちょっとした物足りなさはありますね。」

 

「テロップは音声だけじゃなく、感情を表現する手助けにもなるからね。当然フォントにも拘るべきだと思うよ。驚いた時はインパクトのある赤いテロップを、平時は穏やかで柔らかい暖色のテロップを、悲しい時は青いどんよりしたテロップを。そうすると映像ってのは途端に華やぐんだ。特にこの子は画角を動かさない……というか動かせないみたいだから、カメラを振れなくてのっぺりした映像になってる。テロップで凹凸だのメリハリだのを付ければ、かなり違ってくるんじゃないかな。視聴する側がこの子の感情を追い易くなって、共感したり臨場感を増す手助けにもなるし、文字に起こせば単純に発言内容が分かり易くもなるからね。編集は相応に面倒くさくなるだろうけど、少なくとも視聴者側には大きなデメリットを与えないはずだよ。」

 

うーむ、金言だな。テロップか。納得できてしまうアドバイスに首肯していると、富山さんは続けてもう一つの改善点を示してきた。ただし、編集がキツくなるというのは俺では判断できない点なので、そこは夏目さんと慎重に話し合うべきだろう。要所にだけ入れるというのも良さそうだ。

 

「もう一つの改善点も根本的な意味としては一緒なんだけど、これはこれで使い方が微妙に違うから分けたんだ。……効果音だよ、効果音。この映像の作り方だと、テロップよりもそっちが重要かな。」

 

「……一応、効果音は入っているみたいですが。」

 

「努力は認めるけどさ、これだとショボいし合ってないよ。フリーのやつを使ってるんだろうね。……事務所で効果音を用意するのもありじゃないかな。他の動画と差別化できるし、所属するメリットにもなるでしょ? 何なら作れる人を紹介してあげるよ?」

 

「……お願いすることになるかもしれません。社長と相談してみます。」

 

効果音は俺も少しだけ気になっていた部分だ。連続で何本も見たからかもしれないが、同じ効果音を使っているのが目立っていたぞ。眉間に皺を寄せながら応答した俺に、富山さんは苦笑いで肩を竦めてくる。

 

「フォントとか効果音って『こんなにすんの?』って値段なんだけどさ、種類を揃えておいた方が良いのは間違いないよ。金をかけるべき点ではあるわけだから。……他のも見せてよ、駒場君。君のことだし、何本か選んできたんでしょ?」

 

「はい、三本選んできました。……今度の動画は所謂『チャレンジもの』になります。」

 

「うわー、こういうのもやるんだ。頑張るなぁ。僕の番組でも使ったことあるよ、これ。味は悪くなかったけど、本当に臭いんだよね。」

 

次の動画は……まあその、物凄く臭いことで有名な缶詰を食べるという動画だ。夏目さんは実家に住んでいるはずなのだが、これは大丈夫だったんだろうか? 普通にキッチンで撮影しているぞ。

 

『──してますね。見えますか? これ、ここ。何か汁が漏れて……あっ、くっさ。ちょっと待、くっさい! いや、想像以上に臭いです!』

 

だろうな。動画の中盤で涙を滲ませながら懸命に臭いを表現しようとしている夏目さんへと、富山さんが半笑いで突っ込みを入れた。

 

「いやぁ、民家でやるってのは無謀にも程があるね。暫くは臭いが取れなかったと思うよ。せめて外でやればいいのに。……ただ、方針としては正しいんじゃないかな。『やりたくないこと』とか、『やれないこと』を視聴者と共有するのが大切なわけ。」

 

「追体験させるということですか?」

 

「そうそう、それだよ。自分じゃ絶対やりたくないけど、見てはみたい。それを代わりにやるってのが重要なんじゃない? ……やってる人間が『プロ』じゃないって点もデカいのかもね。あくまで僕の予想だけどさ、本質に掠ってはいるはずだ。」

 

そう口にしながら二本目の動画を最後まで見た富山さんは、足を組んで難しい顔で話しかけてくる。

 

「やっぱり土俵が違うね。民放のプロデューサーとしては色々と考えさせられるよ。……この動画で気になったのは、カメラの画角かな。兎にも角にも見せることを気にしてるのは伝わってきたけど、一人じゃどうにもならなさそうだ。引きの画が使えてないのは何か理由があるの? 固定するにしたってもう少し遠くに置けそうなもんだけど。」

 

「あーっとですね、ご両親から映していいスペースを制限されているらしいんです。だからキッチンで撮る場合は、キッチンしか映せないのだと言っていました。画角に制限があるのはその所為ですね。」

 

「これ、実家なんだ。そうなると臭いでめちゃくちゃ怒られただろうね。根性あるなぁ。……まあ、それなら引っ越さない限りはどうにもならないか。だけど勿体無いとは思うかな。寄りの画だけだとどうしたって息苦しくなっちゃうから。」

 

「……場所を提供すべきでしょうか?」

 

悩みながら問いかけてみると、富山さんは間を置かずに頷いてきた。いちいちスタジオを借りればとんでもない費用になるだろうし、慎重に考えなければならない部分だな。たとえそれが小規模なスタジオだとしても、毎回使うと大赤字になるはずだ。この前のカフェでの話からするに、一本の動画から得られる収益はまだまだ小さなものなのだから。

 

「もし可能なら用意してあげた方が良いね。さっきの動画は今のよりマシだったけど、それでも若干の窮屈さがあった。そんなに広くなくてもいいから、『自由にカメラを振れる』ってスペースがあれば大分やり易くなると思うよ。」

 

「参考にさせていただきます。……最後の動画を再生しますね。」

 

言いながらスマートフォンを操作して、三本目を再生する。最後の一本は料理動画だ。作る物自体はビーフ……何だっけ? ビーフ・ウェリントン? なる一品で、完成した料理は普通に美味そうだったぞ。

 

『──をすればスムーズに焼けます。今回はフランベをしますけど、やらなくても大丈夫です。動画にするから張り切ってやってるだけで、いつもは私もやってませんしね。……はい、これで全部の面を焼き終えました。後でパイに包んでオーブンでも焼きますから、フライパンでは軽く色を付ける程度で問題ありません。そしてそして、次はこれです。お肉が温かいうちに料理用のブラシでマスタードを塗っていきます。』

 

夏目さんが投稿する動画の中では、最も丁寧かつ万人受けしそうなジャンル。それが『料理』なのだ。材料や手順の説明も細かいし、トークもそれなりに入れているし、適度にカットしているのでテンポも良い。俺としては一番期待しているジャンルの動画を目にして、富山さんは……悪くない反応だな。感心したように首を縦に振って口を開く。

 

「これはいいね。変な受け取り方のされようがないし、料理ってのはそもそもが無難で安全なジャンルだ。鼻に付くような説明の仕方じゃないのも好印象かな。……たまにうるっさいのが居るでしょ? 『これをやらないヤツはバカだ』とか、『こういう調理をしている人が多いですけど、それは素人です』みたいなのが。こっちとしては起用し難いんだよね、あれ。」

 

「辛口ってやつですか?」

 

「平たく言えばそうだけど、正確に言うと『単に文句を喚けば辛口になれると思ってるヤツ』かな。売れてる辛口タレントってのはさ、きちんとフォローも入れてるんだよね。一回ならいいよ? 穏やかで優しい言葉より、強めの文句の方が人を惹きつけるから。……だけど視聴者だってバカじゃない。何回もテレビに映ってると気付くんだよ。『よく考えたらこいつ、文句ばっかりで鬱陶しいな』って。そうなったらもう終わり。僕は使わないし、他のプロデューサーも使わないだろうね。」

 

「……シビアですね。」

 

そういうケースは耳に覚えがあるな。江戸川芸能には居なかったが、それで仕事が激減したタレントの噂は聞いたことがあるぞ。当人としては『辛口キャラ』を演じていたつもりだったのに、いつの間にか視聴者の支持を失っていたという逸話を。

 

俺が何とも言えない気分で放った相槌に、富山さんはポリポリと頭を掻きながら応じてくる。

 

「そこは事務所がストップをかけてあげるべきだよね。『イジる』と『貶す』の違いを理解してない子とかもたまに見るけどさ、マネージャーがダメなんだろうなって毎回思うよ。現場で唯一の『外側から見られる身内』なんだから、ちゃんと注意してあげないと。……まあいいや、そこは駒場君なら平気でしょ。実際できてたわけだし、それをこの子にも教えてあげれば大丈夫じゃない?」

 

「可能な限りにフォローしていくつもりです。」

 

「あとはまあ……そうだね、単純に見栄えが悪いかな。何かこう、使ってる道具が安っぽいよ。個人でやってるから買えないんだろうけどさ、ここまで『家庭感』があるのはちょっとね。そこを売りにも出来るんだろうけど、変に編集が良いから逆に目立っちゃってる。料理の動画に関しては、日常に寄せるか非日常に寄せるかをきっちり決めた方がいいかもよ?」

 

日常か非日常? 意味を上手く掴めなくて困惑している俺に、富山さんは細かい説明をしてくれた。

 

「つまりさ、非日常に寄せるならもっと『綺麗』な動画にするわけ。使う道具を汚れ一つない最新式のやつにして、憧れるようなシステムキッチンで撮って、華麗な調理方法とかも披露したりして、『うわぁ、そんなのを作れるなんて凄い』って方向に持っていくんだよ。……反対に日常に寄せるならカットを減らして、材料とかも包装そのままにすべきかな。『これだったら自分にも作れそうだから、明日の夕飯の参考にしよう』って方向だね。料理自体の難しさは関係ないよ? どう見せるかの違いだから。」

 

「彼女は材料を事前に皿に出していましたね。」

 

「そっちの方が見栄えはいいし、努力してる点なんだろうけどね。スーパーから買ってきたやつをそのまま出せば、親近感が湧くし『作れそう感』が増すでしょ? 民放だとメーカー名を隠したりとかであんまり出来ない部分だから、その方向に寄せていくのもありだと思うよ。……ただまあ、僕は『綺麗な料理動画』を推すかな。そうすると料理をしない人も結構見てくれるから。」

 

そこで区切った富山さんは、再生が終わった動画から目を離して続けてくる。ニュアンスは掴めたぞ。料理を前面に押し出すか、それとも映像としての質を高めるかの違いか。

 

「昔料理番組をやってた時にさ、先輩から言われたんだよね。『ゴリゴリに普段料理をする層を狙うんじゃなくて、別の層も何となく見るような番組にしろ』って。その時は『料理番組なんだから、料理をする人がターゲットじゃないのか?』と思ったけど、意識してみると本当に視聴率が変わってくるんだよ。綺麗で感心するような映像だと、料理なんてしなくても何となく見ちゃうみたいでさ。その『何となく』がデカいんだ。……実際参考に出来るって方向性か、エンターテインメントとしての面白さを求めるか。料理ってジャンルにはそういう差があるらしいんだよね。」

 

「……奥深いですね。」

 

「あとね、『食べる』って部分をどう扱うかも重要だよ。動画では完成した料理を食べて感想を話してたけど、作った料理を物撮りして終わるのもありっちゃありかな。そこはまあ、どっちが良いとは言えないけどさ。料理をメインに据えるか、それとも誰が作ってるのかを重視するかの違い……じゃない? 料理そのものを目的にして動画を再生した人は、誰が食べていようがどうでも良いわけでしょ? 余計なお喋りなんて必要としてないわけ。だけど『さくどん』のファンが見るんだったら、最後に彼女が食べて喋ってる部分が無いと物足りないだろうね。二者択一だよ。仮に他の動画への誘導をしたいなら入れるべきかな。料理を目当てにして動画を開いた人が、彼女自体を好きになってくれるかもだし。」

 

「富山さん、昔居酒屋で言っていましたね。『最初に見てくれるかどうかが一番のポイントだ』って。」

 

飲みに連れて行ってもらった時の会話を思い出している俺に、富山さんは大きく首肯して返事をしてきた。

 

「それそれ、そこなんだよ。先ず見てもらわないと好きにも嫌いにもなってもらえないからね。『入り口』は多ければ多い方がいいんだ。そう考えると……このさ、最初の画面。何て言うのかは知らないけど、動画の『表紙』にももっと拘るべきかな。『おっ、見てみよう』と思わせるのは大事だよ。映画ならトレーラー、番組ならコマーシャル、人間なら服装。中身がどんなに良くたって、そこに気を使わないと行き着く先は『隠れた名作』だもん。隠れてちゃお話にならないでしょ? そんなの作ってる側からしたら泣きたくなる評価だって。制作側としては無関心が一番怖いんだよね。」

 

「サムネイル、と呼ぶらしいです。本人曰く、そこそこ時間をかけている部分だそうなんですが。」

 

「へぇ、ライフストリームではこれをサムネイルって呼ぶんだ。……んー、素材が足りてないのかな? あるいは良い編集ソフトを使ってないとか? となると話が戻るね。フォント、効果音、ソフト、その他諸々の素材。そこを事務所側が提供できれば、所属タレントはかなり喜ぶと思うよ。」

 

むう、真剣に考えるべきだな。環境の提供か。そこはホワイトノーツの売りの一つに出来るかもしれない。……とはいえ、資金には当然限りがあるぞ。月曜日に香月社長と話し合ってみようと思案していると、富山さんがコーヒーを飲みつつ話を締めてくる。

 

「まあ、パッと思い付くのはそのくらいかな。参考になった?」

 

「とんでもなく参考になりました。富山さんに見ていただいて良かったです。ありがとうございます。」

 

「なら僕も満足だよ。……もうちょっと広まってきたらさ、多分民放でも『ライフストリーム特集』みたいなのが出てくると思うんだ。その時はよろしくね。君の名刺をスッと出して、『前からライフストリームには目を付けてたんだよ』って若い子たちに威張り散らしたいから。パイプ役になれれば局内での地位ももっと上がるかもだし。」

 

「現状で既に富山さんより上はあまり居ないと思いますが……はい、そうなれるように努力してみます。」

 

世辞が大半ではあるのだろうが、ちょびっとだけ本気の顔だな。夏目さんが有名になれるかどうかはともかくとして、少なくともライフストリームが巨大なプラットフォームになることは確信しているわけか。香月社長の慧眼に今更感心している俺に、富山さんが一つの注意を寄越してきた。

 

「ここまで言っといてなんだけどさ、民放とライフストリームじゃ全然違うから、僕の言葉を鵜呑みにはしない方がいいよ。全く同じやり方をしても失敗するだろうね。民放業界の誰の言葉も当てにし過ぎちゃダメってことさ。」

 

「……どうしてでしょう? 似通ってはいると思うんですが。」

 

「何故ならライフストリームの視聴者は、民放には無いものを求めているからだよ。民放を参考にしてそれが得られるわけないでしょ? だってそこには『無い』んだから。……さくどん君、結構人気なの? だとすれば僕より彼女とじっくり話すべきだね。ライフストリームで一定の人気を確保できてるってことはさ、今僕が気付けなかった『何か』に彼女は気付いてるんじゃないかな。ライフストリームと民放はきゅうりとスイカくらい違うんだよ。似て非なるものなわけ。きゅうり農家にスイカの育て方を聞くのは変だって。ざっくりとしたアドバイスはしてあげられるけど、根本的な部分の助言は僕らには出来ないさ。」

 

きゅうりとスイカか。またしても独特な表現で差を語ってきた富山さんは、ソファの背凭れに身を預けながら追加の台詞を口にする。

 

「ついでに言うと、立場も違うしね。プロデューサーはカメラの前に立たないし、演者は台本を書かないし、作家は広告を打たないし、広報は制作指揮をしない。だけど彼女は全部をやるわけでしょ? 僕が触らない部分もやる必要があるんだから、きっと僕には見えない箇所が見えてるはずだよ。」

 

「……『見えない箇所』ですか。」

 

「どんどんライフストリームが拡大していった場合、そこが民放からライフストリームに行く際の壁になるだろうね。民放では超売れっ子のタレントが居たとして、その子がライフストリームでも成功するとは限らないわけ。売れっ子になれるってことは演者としての才能はあるんだろうけど、ライフストリームでは構成とか編集の才能も要求されるんだよ。どんなに上手く演じても、台本や演出がつまんなかったら台無しだもん。……つまりね、民放で要求される才能がスペシャリストのそれなのに対して、ライフストリームで必要なのはジェネラリストとしての才能なんじゃない? 数名で制作するならその限りじゃないけどさ、一人でやるんだったらそうなんだと思うよ。」

 

そういえば香月社長も言っていたな。『たった一人で動画を作っている』と。……確かに富山さんの言う通りなのかもしれない。彼は編集や構成に関するアドバイスをしてくれたが、演者からすればまた別の意見があるのだろうし、カメラマンに聞けばこれまた違った角度の助言が出てくるはずだ。

 

複雑だぞ、これは。会社の経営者たる香月社長としても、制作者たる夏目さんとしても、マネージャーたる俺としても『未知の領域』なのか。何たってまだ誰もスイカの栽培を商売にしたことが無いのだ。きゅうり農家の助言だって役に立つかもしれないが、結局のところ自分たちで試行錯誤していくしかないと。

 

己が踏み込んだ道の険しさを再確認している俺に、富山さんが唐突な促しを送ってきた。

 

「ま、いい時間だしメシでも食いに行こうか。どら焼きを食べてたらお腹空いちゃったよ。続きは食べながらにしよう。」

 

「はい、ご一緒させていただきます。」

 

「それと、駒場君。誰も面と向かって言ってくれなかっただろうから、僕がこっそり言っておくよ。……遠藤云々とは関係なしに、君は正しいことをした。そこは間違いないさ。間違ってるのは僕らの業界の方なんだ。」

 

「……今の社長も同じことを言ってくれました。」

 

真剣な表情で言葉をかけてくれた富山さんへと、頭を下げながら応答してみれば……彼は愉快そうに笑って立ち上がる。

 

「なら、君は新しい上司のことを大事にすべきだね。」

 

「……はい、そのつもりです。」

 

「じゃ、行こうか。この前海鮮丼が美味い店を見つけたんだよ。混むと嫌だから、局には内緒にしてるんだ。言うとすぐ番組で取り上げようとするからね。」

 

富山さんに続いてソファを離れつつ、小さく息を吐いて歩き出す。江戸川芸能からは手酷く追い出されてしまったが、失わなかったものもあるようだ。香月社長と同じように、富山さんも俺にとっては大事な人であるらしい。俺の五年間は完全に無駄にはならなかったわけか。

 

小さな段ボール箱に詰まった私物以外にも、残ったものが確かにある。そのことを頼もしく思いながら、大先輩の背を追って広い廊下を玄関へと進むのだった。

 



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Ⅰ.さくどん ④

 

 

「……なるほどね、事務所側が用意すべきものか。何とも貴重な意見を仕入れてきてくれたじゃないか、駒場君。」

 

そして月曜日の午前中。ホワイトノーツに出社した俺は、香月社長へと富山さんから得た意見を報告していた。……ちなみに今なお事務所の『幽霊会社』っぽさは残ったままだ。デスクの上にはパソコン本体やモニターが載っているし、細々とした物は揃ってきているのだが、どうにもがらんとした感じが抜けてくれないな。今週中に書類棚や応接セットが届く予定だから、それで多少マシになることを祈っておこう。

 

「昨日の夜に調べたんですが、フォントや編集用のソフト等は法人契約も出来るようです。……ただしライフストリームに投稿する動画の制作が法人利用の範囲内なのかは、先方に問い合わせる必要がありそうですね。」

 

隣のデスクの香月社長に返事をしてみると、重ねた段ボール箱に座っている彼女は唸りながら応答してくる。椅子も早く届いて欲しいぞ。先週注文したのだが、まだ到着していないのだ。

 

「その辺りのソフトや素材は必須に近いものだし、初期投資の一部として許容できるよ。想定より赤字が大きくなりそうだが、名前が広がる前は『所属する売り』を前面に押し出さないと誰も所属してくれないからね。夏目君みたいな『ラッキー所属』はそうそうあるものじゃないし、法人利用の範疇なら事務所側が契約しておくべきかな。」

 

「スタジオに関してはどうでしょう?」

 

「大前提として恒常的に借りるのは無理だ。それはもうイニシャルコストというかランニングコストだし、うちにはそんな余裕がない。現状だと単発の動画で費用を回収するのなんて夢のまた夢だから、小さなスタジオを数時間借りて何本か撮り溜めるという手段しか思い浮かばないが……まあ、それでも赤字になるだろうね。」

 

「ですよね。」

 

そりゃあそうだ。夏目さんの動画は商品紹介が平均五分、チャレンジものや料理が平均十分ほどだが、後者はカットが多いので撮影時間は遥かに長い。仮に平均的な再生数を出したとして、現時点での広告収益と照らし合わせると……そうだな、一時間に四、五本撮ってトントンになるかどうかってところか? となれば何をどうしたって赤字だろう。商品紹介の方ならどうにかなるかもしれないが、スタジオ撮影をしたいのはチャレンジものや料理なわけだし。

 

でも、あくまで現状ではだ。もっと視聴されるようになればスタジオ撮影だって可能になるぞと自分を励ましていると、香月社長が別室に続くドアを指差して提案してきた。

 

「……差し当たりあの部屋ではダメかな? 結局使い道がなくて放置しているわけだが。」

 

「……さすがに狭くないですか? 八畳ですよ?」

 

「それでも無いよりはマシだろう? 夏目君に相談してみようじゃないか。彼女が使いたいと言うなら喜んで貸し出すさ。そも何も置いていないんだから、映して困る物なんて皆無だしね。」

 

まあ、うん。夏目さん次第かな。社長室になり損ねた空室を横目に思案しつつ、手帳を開いて『事務所の空き部屋を使うかどうかの提案』と書き込む。水曜日に夏目さんの家に行く予定なので、そこで富山さんのアドバイスと一緒に伝えてみよう。

 

ボールペンを動かしながらスケジュールの確認をしている俺に、香月社長が思い出したように重要な知らせを寄越してきた。

 

「ああ、そうそう。次の所属タレント……というか、『所属ライフストリーマー』が決まるかもしれないよ。ネット経由で声をかけてみたところ、良い感触を得られたんだ。」

 

「香月社長? そういうことは声をかける前に報告してくださいよ。……『ライフストリーマー』というのは?」

 

「ライフストリームの投稿者のことを、昨今そう呼ぶようになってきたらしいよ。単にタレントと呼ぶのは何だかつまらないし、今後はライフストリーマーに統一しようじゃないか。」

 

「長いですよ。『当社の所属ライフストリーマーが云々』と毎回言っていたらテンポが悪いです。タレントでいいじゃないですか。」

 

手帳を仕舞いながら反論してやれば、香月社長はムスッとした顔で拒否してくる。接していて段々と分かってきたのだが、彼女は中身だけではなく『パッケージ』にも拘るタイプだ。呼び方一つにも妥協したくないのだろう。

 

「差別化は大事だよ、駒場君。『タレント』だと新鮮味が感じられなくて嫌なんだ。ライフストリーマーがダメなら他の呼び方を考案してくれ。」

 

「それなら、あー……『クリエイター』はどうですか? 『所属クリエイター』。そっちならまだ短いですし、動画制作をしているんだから合っているはずです。」

 

「おっ、いいじゃないか。そうしよう。響きも良いし、クリエイターに決定だ。」

 

どっちでも大して変わらないと思うんだけどな。……しかし、受け手の印象は確かに大切かもしれない。何でもかんでもそうすればいいわけではないが、『タレント』を『クリエイター』にするだけで目新しさを得られるなら変えるべきだろう。

 

俺では気付けない部分だなと密かに感心していると、香月社長は話を『新入り』の件に戻してきた。

 

「兎にも角にも、新しい所属クリエイター候補が見つかったのさ。交渉はこっちで進めておくから、頭にだけ入れておいてくれ。」

 

「所属までは社長がやるということですか?」

 

「マネジメントでは君に劣るが、交渉事では負けないよ。私は夏目君を落としたし、君も落とした。であればスカウトは私が行うべきだろう?」

 

「……まあ、そうですね。私は細かい話に脱線しがちなので、そこはお任せします。」

 

これもまた適材適所ってやつかな。『口の上手さ』では間違いなく香月社長が上だろうし、大人しく任せておくか。社長が大きな視点を話して、俺が細かい部分を詰める。その方がスムーズに進みそうなのは何となく分かるぞ。

 

食い下がらずに納得した俺を見て、香月社長はふふんと胸を張って首肯してきた。今の彼女はジャケットを脱いでいるのだが、大きな胸を反らせている所為でシャツのボタンが吹っ飛びそうだぞ。こっちに飛んできそうでちょっと怖いな。

 

「任せておきたまえ。どうも活動の幅を広げたくて、事務所に所属するか迷っているようなんだよ。……何にせよ今すぐにどうこうとはならないはずだから、暫くは夏目君のマネジメントに集中するように。」

 

「ホワイトノーツに所属することで、『活動の幅』が広がるかは微妙なところですけどね。」

 

「意地でも広げてみせるのさ。それが私たちの仕事なんだから。……ちなみに事務員の応募は未だ無しだよ。」

 

「そっちは気長に待ちましょう。今のところ私と社長だけで全然処理できているわけですし。」

 

『本業』の仕事がまだ少ないので、会社そのものの雑務は二人で処理できてしまっているのだ。物悲しい気分で相槌を打った俺に、香月社長は小さくため息を吐きながら応じてくる。

 

「まあ、今週から君は本格的に夏目君と関わることになるからね。きっと忙しくなるはずさ。きっと。」

 

「そうなることを祈っておきます。」

 

「それじゃ、応接スペースに置く衝立を決めようじゃないか。日曜日にカッコいいのを見つけたんだよ。待っていたまえ、今出すから。」

 

言いながらキーボードを操作している香月社長を眺めつつ、眉根を寄せてこめかみを親指で揉む。早く忙しくなって欲しいぞ。事務所の内装を決めるのも楽しいっちゃ楽しいが、どうにも虚しい気持ちになってしまう。通販サイトの巡回はそろそろ卒業しなければ。

 

───

 

それから二日が経過した水曜日の午前十一時。スマートフォンの地図を頼りに夏目さんの自宅へとたどり着いた俺は、その場所にあった建物を見て首を傾げていた。入り口の看板に筆文字で書いてあるのは『定食屋・ナツメ』というシンプルな店名だ。……夏目さんの実家は定食屋だったのか。カフェでの話し合いでは話題に上らなかったし、全然知らなかったぞ。

 

香月社長がまたしても報連相を怠ったらしいなと呆れつつ、入り口から最も遠い場所に駐車した軽自動車を出て店に近付く。そのまま運転で乱れたスーツの皺を伸ばし、手土産をしっかりと持っていることを確かめた後、暖簾を潜って中に入ってみれば──

 

「お邪魔します。」

 

「はい、いらっしゃいませ! ……あっ、駒場さん。」

 

「どうも、夏目さん。」

 

スキニージーンズと長袖の白いTシャツ姿で迎えてきたのは、他ならぬ俺の担当クリエイターどのだ。布巾でテーブルを拭いていたようだし、店の手伝いをしているんだろうか? 今日のこの時間に訪問することはメールで連絡済みなのだが……うーむ、びっくりした顔で店内の時計を確認しているな。仕事に夢中で忘れていたのかもしれない。

 

「……都合が悪いなら出直しますが、大丈夫ですか?」

 

「だっ、大丈夫です。すみません、店の手伝いに夢中になっちゃってました。ちょっとだけ待っててください。……お母さーん! 私、家に戻るね!」

 

調理場がある店の奥に呼びかけた夏目さんを横目に、良い匂いがする店内を軽く見回す。座敷席が二つとテーブル席が六つある、正しく『町の定食屋』といった感じの内装だ。壁にはメニューが書かれた紙が大量に張り出されており、大きなテレビも置いてあるな。ちなみに今日の日替わりはサワラの西京焼き定食らしい。

 

店の雰囲気からして絶対美味いぞと確信していると、奥から出てきた四十代ほどの女性が声をかけてきた。母親かな? こちらは夏目さんと違って、古き良き割烹着姿だ。

 

「もう戻るの? まだお父さんが……あらどうも、いらっしゃいませ。桜、案内は?」

 

「違うの、お母さん。この人は……ほら、ホワイトノーツの。十一時に来るって言ったでしょ?」

 

「あら、そうなの! あらあら、どうぞどうぞ。娘がお世話になっております。」

 

「こちらこそお世話になっております。夏目さんの……桜さんのマネジメントを担当させていただくことになりました、ホワイトノーツの駒場です。よろしくお願いいたします。」

 

心の準備が出来ていなかったので若干動揺してしまったが、ご両親への挨拶は丁寧にやらなければ。名刺を差し出しながら自己紹介した俺に、『あらあら』を連発していた女性が返事を返してくる。

 

「あらー、ご丁寧にどうも。桜の母の富栄です。それであっちが……お父さん、お父さん! ホワイトノーツの駒場さんがいらっしゃったわよ!」

 

「……あー、どうも。桜の父の正隆です。すいませんね、汚い格好で。調理中だったもんですから。」

 

「駒場です、よろしくお願いいたします。」

 

続いて奥から顔を出した優しそうな顔立ちの父親……こっちは頭にバンダナを巻いており、普段着の上からエプロンを着けているな。にも頭を下げつつ、テンプレート的な返答を口にした。どちらも迷惑そうな口調ではないし、夏目さんの活動をある程度肯定的に捉えているらしい。両親の理解がない場合、未成年の活動がかなり厳しくなるのは江戸川芸能での経験で知っているので、そこは心からホッとしたぞ。

 

しかし、他にお客さんが居なくて良かったな。もし居たら店内でこんな私的な会話をするわけには……いやまあ、大丈夫か。随分と家庭的な雰囲気の食堂だから、このやり取りも許されるのかもしれない。

 

「こちら、つまらない物ですが──」

 

あまり関係がないことを考えながら、とりあえず持ってきた手土産を渡そうとしたところで、慌てた様子の夏目さんが割り込んでくる。

 

「わ、私が! 私が受け取ります。ありがとうございます。……じゃあ、私は家に戻るね。駒場さん、こっちです。どうぞ。」

 

「待ちなさい、桜。お礼はもっときちんとしないといけないし、折角だから何か食べて──」

 

「いっ、いいから! 駒場さん、お腹空いてないから! あんまり変な……あの、変な感じにしないでってば!」

 

別に食べられはするんだけどな。……まあでも、こういう状況が恥ずかしいのは何となく分かるぞ。手土産のクッキーの袋を受け取った後、俺のジャケットの袖口を握って奥へと引っ張ってくる夏目さんに心中で苦笑しつつ、ご両親へと話しかけた。

 

「そろそろ昼食時ですし、お忙しくなる時間帯かと思いますので……ちょうど良い時間にまたご挨拶させていただきます。」

 

グッドタイミングで別のお客さんが入ってきたのをちらりと見ながら言ってみれば、富栄さんが応答を寄越してくる。

 

「あら、お構いできなくてすみません。桜、お茶をお出ししてね? 場所は分かる?」

 

「分かるし、大丈夫だから。……あの、こっちです。」

 

「では、失礼します。」

 

俺の服を掴んでいることに今更気付いたらしい夏目さんが、パッと手を離しながら案内してくるのに従って、ご両親にもう一度目礼してから厨房の手前にあるドアを抜けると……なるほど、住居スペースに繋がっているのか。狭い通路の先にある、勝手口のような玄関が視界に映った。不思議な構造だな。

 

「スリッパが、えと……これです。」

 

「ありがとうございます。……ご実家は飲食店だったんですね。知らなかったので驚きました。」

 

「あっ、はい。そうなんです。五十年くらい前にお爺ちゃんが開いた店で、そこをお父さんが継いだらしくて。私が中学生になった頃に一回改装しましたけど、ずっとここで定食屋をやってます。」

 

「……老舗ですね。」

 

創業半世紀というのは凄いな。となるとこの家も築五十年なのかもしれない。にしては新しいから、店と同様にこっちもリフォームを挟んでいるのかな? 明るい茶色のフローリングの廊下を歩いていると、夏目さんが右手にあった手摺付きの階段を上り始める。途中で茶の間とキッチンらしき部屋がちらっと見えたし、反対側の突き当たりには別の玄関があるようだ。あっちが民家としての玄関なわけか。

 

「お店の駐車場に車を置いてしまったんですが、問題なかったでしょうか?」

 

心配になった部分を尋ねてみれば、夏目さんは到着した二階の一番奥のドアを開けつつ答えてきた。二階には三部屋あって、右手のドアには『叶の部屋』と書かれたピンク色のファンシーなプレートがかかっているな。男の子の部屋ではなさそうだし、夏目さんには妹か姉が居るようだ。

 

「平気だと思います。満車になることなんて滅多にありませんから。……えっと、ここが私の部屋です。」

 

「失礼します。」

 

ここまで来ておいてなんだが、いきなり自室に案内されるのは予想外だぞ。さほど躊躇いなく誘ってきた夏目さんの背を追って、彼女の私室へと足を踏み入れてみると……うーん、奇妙な部屋だな。『十七歳の女の子の私室』としてはやや特殊であろう室内の光景が目に入ってきた。

 

前提として、八畳ほどの洋室の半分は『撮影スペース』になっているようだ。『さくどんチャンネル』の動画でよく見る白い座卓とクッションがあり、その手前に三脚に固定されたビデオカメラと小型の設置型ライトが置いてある。直上の天井からは白い……レフ板か? 小さなレフ板が二枚吊るされているな。画鋲か何かで固定した紐で吊るしているらしい。力技じゃないか。

 

そして入り口側の半分にはパソコンが載った机と、段ボール箱の山が見えている。開封済みの物もあれば、未開封の箱もいくつか存在しているようだ。……テレビや棚なんかが無いのはギリギリ分かるけど、ベッドすら無いのはどういうことなんだ? 別の部屋で寝ているのかな?

 

動画の撮影に侵食されている部屋を目にして、何とも言えない気分になっていると……クッキーの袋を段ボール箱の上に置いた夏目さんが、おずおずと声をかけてきた。

 

「あの、ここで撮影して編集してます。……どうでしょうか?」

 

「何というかその、動画制作への拘りを感じる部屋ですね。別室で寝ているんですか?」

 

「いえ、こっちの……これで寝てます。」

 

「それは……なるほど、前に動画で紹介していましたね。」

 

夏目さんが段ボール箱の山の奥から取り出したのは、さくどんチャンネルで紹介済みの黒い寝袋だ。……この子、寝袋で寝ているのか? 毎日? 家の中なのに? どう反応すべきかが分からなくて困惑している俺へと、夏目さんはこっくり頷いて応じてくる。ちょびっとだけ嬉しそうな面持ちだな。

 

「見てくれたんですか? ……最初は一階の居間で寝てたんですけど、これを使えば編集した後にすぐ寝られるので、今はこっちを使ってます。ベッドは邪魔なので解体して外の物置に仕舞っちゃいました。」

 

「動画は全部見ましたが……そうですか、寝袋で寝ているんですか。」

 

「全部? 全部見てくれたんですか? ……あの、どうでした? 改善点とか、ありましたか?」

 

夏目さんは俺が動画を見たという点に注目しているようだが、こっちとしては寝袋が想定外すぎて混乱しているぞ。……凄まじいな。どうやら彼女にとっては動画こそが最優先事項であるらしい。ここはもう私室というか、撮影スペース兼編集室兼物置だ。そこに泊まり込んでいるような状態じゃないか。

 

「はい、意見は色々と持ってきました。カフェで会った際に言った通り、私の知人にも見せてみたんですが……座っても大丈夫ですか?」

 

内心の動揺を抑えながら聞いてみれば、夏目さんはハッとした表情で座卓を指して促してきた。彼女がいつも撮影に使っている白い座卓をだ。

 

「ぁ、すみません! どうぞ、ここに座ってください。ここしか座れる場所がないので。」

 

「……ここに座ると不思議な気持ちになりますね。動画の中に入り込んでいるような気分です。」

 

ちょうど動画内の『さくどん』が座っている位置。そこに腰を下ろして呟いた俺に、三脚を退かして対面に座った夏目さんが返事をしてくる。ヘアゴムを外して、一つに纏めていた黒髪を解きながらだ。

 

「ドアとか窓が映らないように、白い壁だけのそこで撮影してるんです。その方がいいかなと思ったので。」

 

「細かい点にも拘っているんですね。……それでは、先にいくつか報告させていただきます。」

 

そう切り出して富山さんのアドバイス、会社で効果音やフォントを負担するという提案、事務所の空きスペースのことなどを伝えてみれば……うーむ、分かり易いな。ふんふん頷きながら黙って耳を傾けていた夏目さんは、傍目にも喜んでいることが分かる顔付きで口を開く。

 

「私っ、あの……凄くありがたいです。そっか、テロップ。それは良いと思います。思い付きませんでした。」

 

「編集にかかる時間に関しては大丈夫でしょうか?」

 

「もちろん増えますけど、でもやる価値はあるはずです。絶対やります。……あとあの、フォント。フォントはサムネイル作りにも使うから、買おうか迷ってました。前までは高くて買えなかったんですけど、今は広告収入がちょっとだけ入るようになったので、新しいパソコンを組んだ後でお金を貯めて買おうと思ってたんです。」

 

そこまで言ってからバッと立ち上がると、夏目さんはパソコンが置いてある小さな机に歩み寄って続きを語る。えらく興奮しているな。動画内の彼女に近い雰囲気になっているぞ。やはりこっちが素のようだ。

 

「今はこのパソコンを使ってるんですけど、編集ソフトが重くて重くて限界なんです。だからその、パーツを買って新しいパソコンを組む動画を……そう、それを撮る時に駒場さんにカメラを持って欲しくて。パーツはもういくつか買ってあります。明日電車で少し遠くの専門店にも行ってみて、ネットより安そうならそこで買おうと──」

 

段ボール箱の山から数個の箱を取って、早口で説明していた夏目さんだったが……急に口を噤んだかと思えば、顔を赤くしながら俺の対面に戻ってきた。どうしたんだ?

 

「……あの、すみません。変な話をしちゃって。」

 

「いやいや、『変な話』ではないですよ。自作パソコンというやつですよね? 私は詳しくありませんが、面白い動画になると思います。興味を持ってくれる視聴者は居るはずです。」

 

「でも、えっと……引いてませんか? こんな話で興奮しちゃって、何かちょっと気持ち悪いですよね。」

 

「何を引くことがあるんですか。私は夏目さんの担当マネージャーなんですから、そういう話を真剣にするための存在なんです。」

 

そういうことか。恐らく今まで彼女の周囲には、こういった内容を真面目に話し合う相手が居なかったのだろう。その辺の事情を汲み取った上で、夏目さんへと言葉を繋ぐ。

 

「夏目さん、私の仕事は貴女の動画をより良いものにすることなんです。そのために制作環境を整えたり、貴女自身の生活の手助けをしたり、時にはカメラを持つことになるでしょう。だから恥ずかしいなどとは思わないで、どんどん相談してきてください。……私は絶対にバカバカしいと思ったり、どうでも良いと感じたりはしません。いついかなる時も夏目さんと、そして夏目さんの動画と真剣に向き合うことを確約します。そこは信じていただけないでしょうか?」

 

信頼。それがマネジメントの全てなのだ。それが無ければ何をやったところで無駄だし、それさえあれば仮に失敗しても持ち直せる。故にここは重要な部分だぞと真っ直ぐ夏目さんを見つめながら言い切ると、彼女は上目遣いでちらちらとこちらに目をやりつつ、躊躇いがちにか細い声を返してきた。

 

「あの……私、今までずっと『無駄なことをしてる』って言われてきました。お金にならないし、必死に動画なんか作ってても無駄だって。お父さんはあんまり言ってこないんですけど、お母さんと妹からは結構強めに……その、『そんなんで将来どうするの』って言われてたんです。」

 

「……そうなんですか。」

 

「でも広告収入が出てくるまでは実際そうだったから、反論できなくて謝ってばっかりでした。自分でも時々何やってるんだろうと思ったけど、それでもやめられなくて。ライフストリームの動画投稿は私が初めて熱中できたことで、初めて本気で頑張れたものなんです。……他のことをやってる時もどうすれば面白くなるかを考えてましたし、店の手伝い以外の時間は全部注ぎ込みましたし、カメラのこととか編集のこととかも勉強しました。お金にはならないかもしれないけど、見てくれる人が少しずつでも増えていって、その人たちが楽しんでくれるなら無駄じゃないって自分に言い聞かせて。それで二年間も……『さくどんチャンネル』でやり始める前の投稿期間も合わせると、四年間も続けてこられたんです。」

 

そこで俺と目を合わせた夏目さんは、ほんの少しの不安を覗かせながら話を続けてくる。

 

「だから広告収益の仕組みが発表された時、これに賭けてみようって決心しました。そしたら香月さんが声をかけてくれて、とんとん拍子で事務所に所属できて、駒場さんが担当になってくれて……私、本当は凄く怖いんです。これがダメだったら、私にはもう何も残らないから。毎日寝袋の中で寝る時に目を瞑ると、将来どうなるのかが不安になってきちゃって。……私、駒場さんのことを信じていいんでしょうか? 何かあっても見捨てないでいてくれますか?」

 

「絶対に見捨てません。そこはマネージャーとしてではなく、駒場瑞稀個人として約束します。」

 

「私、今まで誰にも相談できなくて。変な方向に動画が進んじゃってるかもと思うと、ずっとずっと怖かったんです。でも動画のことを話せる友達なんて居ないし、お父さんはライフストリームを見ないし、お母さんと妹はもうやめろって言ってくるし……細かいところをいちいち聞いたりしても嫌になりませんか? ひょっとしたら、物凄く変なことを尋ねたりするかもしれません。それでも聞いてくれますか?」

 

「嫌になんてなるはずがありませんし、相談してくれない方が困ります。躊躇わずに頼ってください。マネージャー如きが言うのはおこがましいかもしれませんが、私のことは一緒に動画を作るパートナーだと思って欲しいんです。……良い動画を作れた時に一緒に喜んで、失敗した時は一緒に反省して、壁にぶつかった時は一緒に乗り越える。私は夏目さんにとってのそんな存在になりたいと考えています。貴女の悩みは一緒に背負ってみせますから、どうか預けてくれませんか?」

 

ここが正念場だ。僅かにでも引けば信頼は得られないぞ。目を逸らさずに言い放った俺へと、夏目さんは一瞬だけ押し黙った後で……小さく首肯して小指を差し出してきた。

 

「じゃあ、あの……約束、です。私は駒場さんを信じて、頼ります。だから駒場さんは私のことを見捨てないでください。」

 

「なら、改めて約束しましょう。私は貴女を絶対に見捨てません。マネージャーとして、個人として夏目さんのことを支えます。」

 

「約束ですよ? 絶対の約束。守ってくれるなら、私も駒場さんを一番に信じます。」

 

絡めた小指にキュッと力を込めた夏目さんは、数秒間そうしていたかと思えば……ふにゃりと笑って指を離す。やっと自然な笑みが見られたな。一歩前進だ。

 

「えへへ、何かちょっとだけ恥ずかしいですね。」

 

「これは大事なことですよ、夏目さん。私は頼ってくれないと動けない存在なので、貴女が迷わず頼ってくれることが何より重要なんです。」

 

「分かりました、頑張って頼ってみます。……あっ、飲み物。すみません、忘れてました。今持ってきますね。」

 

緊張が解れた所為で座卓の上に何もないことに気付いたようで、夏目さんは大慌てで部屋の外に出て行くが……これでいい、よな? 間違いなく距離は縮められたはずだし、さっきの言葉に嘘偽りは無いぞ。マネジメントをやる以上、全身全霊で向き合うつもりだ。裏方の俺は失敗しても簡単にやり直せるが、表舞台に立つ彼女はそうもいかない。ならば彼女の人生を背負う覚悟で臨むべきだろう。

 

だけど……むう、二年前に他事務所の先輩から言われた苦言が頭に浮かぶな。呆れと心配が入り交じった表情で、『駒場はタレントとの距離を近付けすぎだ』と注意されたのだ。『支えるのと依存させるのは違うよ』とも忠告されてしまったっけ。

 

うーん、どうなんだろう? 俺は今の『約束』を信頼を築くための第一歩と捉えているが、あの人はもしかすると良く思わないかもしれない。……ああ、難しいな。俺はマネジメントの線引きがプライベート側に寄りすぎで、あの人の場合はビジネス側に寄せているのだと解釈しているが、どちらが正解なのかは未だに判断できないぞ。

 

何れにせよ、俺はこういうやり方しか知らないし出来ない。そもそも夏目さんに関しては『近い距離』で行こうと決めているのだ。この期に及んで方針転換するのは愚策だろうし、このまま突き進んでみよう。大丈夫だ、上手く行くはず。多分。

 

胸中に若干の迷いが渦巻いていることを自覚しつつ、それを強引に押し殺していると……コップが載ったお盆を持った夏目さんが部屋に戻ってきた。

 

「冷たい緑茶で大丈夫ですか?」

 

「大丈夫です、ありがとうございます。……そういえば、明日車を出しましょうか? パーツを買いに行くんですよね?」

 

「へ? ……いいんですか?」

 

座卓にコップを置きながら驚いたように問い返してきた夏目さんに、首を縦に振ってから返答を送る。送迎はマネージャーの主な仕事の一つだぞ。

 

「もちろん構いませんよ。動画に使う品を買いに行くわけですからね。そういう時に車を出すのもマネージャーの役目です。」

 

「……じゃあ、お願いしたいです。色々調べてはみたんですけど、一人だと少し不安だったので。」

 

「では、ここに迎えに来ますね。それと、先程説明した英語の字幕に関してなんですが……どうも香月社長は英語が出来るようなので、彼女に任せるのはどうでしょう?」

 

「香月さんに? ……けど、社長さんなんですよね? そんなことを頼んで大丈夫なんでしょうか?」

 

普通はまあ、やらないだろうな。とはいえ現時点だと香月社長は結構暇なのだ。お茶を一口飲んでから尋ねてきた夏目さんへと、社長の反応を思い出しつつ答えを投げた。

 

「当人も乗り気でしたから、特に問題ありませんよ。夏目さんが許可してくれるならやると言っていました。」

 

「それなら、お任せしたいです。」

 

「あとは、効果音。効果音は専門の業者に制作を依頼することになりますから、多少時間がかかりそうです。私や社長はどういった効果音をよく使うかを掴み切れていないので、夏目さんから意見をいただくことになるかもしれません。その時はよろしくお願いします。」

 

「はい、意識しておきます。でも……あの、そんなに沢山準備しちゃっていいんですか? 自分で言うのもなんですけど、私のマネジメント料じゃ駒場さんのお給料すら払えませんよね? 全然足りないはずです。」

 

それはそうだ。全く足りていないし、現状だと尋常ではないレベルの赤字になっているぞ。心配そうに聞いてきた夏目さんに、苦笑しながら応答する。

 

「まだ立ち上がりの段階ですからね。初期投資のこともありますし、それなりの期間赤字が続くのは覚悟の上なんです。……香月社長は数ではなく質を高めていくことを方針として掲げているので、ここで出し惜しみするとむしろ後々辛くなるでしょう。そのうち夏目さん一人のマネジメント料で私の給料が軽く払えるようになりますよ。」

 

俺は未だに半信半疑だが、香月社長はそうなることを確信しているようだし……一社員としては信じる他ないぞ。疑念を胸の奥に隠しながら言ってやれば、夏目さんはパチパチと目を瞬かせて応じてきた。

 

「ひょっとして、そしたら駒場さんは私だけのマネージャーさんになるんですか? 一人で沢山の人を担当すると思ってました。」

 

「割り振りは香月社長次第ですが、将来的にはそうなるかもしれませんね。私がホワイトノーツに来る前に居た芸能事務所では、大きく稼ぐタレントには数名のマネージャーが付くこともありました。仕事が増えると相応にやることも増えるので、専属が必要になってくるんです。」

 

今の状況からだと遠い未来に思えるが、もしかするとそういうこともあるかもしれない。問題はそうなった時、払うマネジメント料に見合う利益を齎せるかだな。余裕があるうちにシステムを整えておくべきだろうか?

 

我ながら気が早いなとは思うものの、そういった点の改善を怠ればピークを迎えた後で一気に落ちる可能性があるし、香月社長に相談してみた方がいいかもしれない。思考を回しつつ心の中のメモ帳に書き込んでいると、夏目さんがポツリと呟きを寄越してきた。

 

「そっか、私だけの専属になることもあるんですね。……私だけの。」

 

「まあ、まだまだ先の話です。今は頑丈な土台を作っていきましょう。香月社長も私もそこにケチケチすべきではないと判断したので、揃えられる物は揃えておこうと考えています。」

 

「分かりました、私も期待に応えられるように頑張ってみます。それで……えっとですね、事務所所属のお知らせ動画を上げたいんですけど、大丈夫でしょうか?」

 

「『お知らせ動画』ですか?」

 

意味を掴みかねて聞き返した俺に、夏目さんは頷きながら詳細を説明してくる。

 

「ホワイトノーツに所属したことと、その理由と、これからどうしていくのか……みたいなことを短い動画にしたいんです。やっぱりそういうことはちゃんとリスナーさんに発表すべきですし、きちんと話せば正しく伝わると思うので。ダメでしょうか?」

 

「ダメではありませんよ。良い考えだと思います。」

 

「それじゃあ、撮りましょう。コップはこっちに置いておいてください。」

 

今? 今撮るのか? 言うとコップを持ってパソコンがある机に置いた夏目さんは、段ボール箱の裏にあったクローゼットを開けて、そこから取り出したグレーのフルジップパーカーを羽織った。俺もコップを移動させながらぽかんとしていると、担当クリエイターどのは照明の電源を入れてカメラの位置を整え始める。

 

「駒場さんはカメラの後ろに居てくださいね。」

 

「……はい、分かりました。」

 

俺が三脚の背後に立つのと同時にレフ板の角度を少し調整して、カメラのモニターを使って髪を軽く整えた夏目さんは……さっきまで俺が座っていた位置に腰を下ろすと、唐突に『さくどん』の雰囲気で話し始めた。

 

「どうも、さくどんです! んんっ、ダメですね。もう一回……どうも、さくどんです! 今日はタイトルにもある通り、重要なお知らせをしたいと思います。色々迷って決めたことなんですけど……この度私さくどんは、ライフストリームの投稿者専門の事務所に所属することになりました。」

 

いや、これは……えぇ? もうこれ、撮っているのか? あまりにも急すぎるぞ。俺が困惑している間にも、夏目さんはカメラを見つめながら続きを話す。『タイトルにもある通り』? もう彼女の頭の中では動画のタイトルが決定しているわけか。

 

「事務所の名前は『ホワイトノーツ』です。今もマネージャーさんがカメラの後ろで見てくれてるんですけど、これからはマネージャーさんがカメラを持ってくれることもあるかもしれません。」

 

それも言うのか。民放業界では有り得なかった撮影方法に面食らっていると、夏目さんは事務所所属の理由についてを語り始めた。

 

「実はですね、そういう部分が所属を決めた理由なんです。私はこれからもライフストリームに投稿していきたいし、もっともっと面白い動画を作りたいと思ってます。そのために撮影許可をいただいたりとか、カメラを持ってもらったりとか、撮影に使える物を増やしたりとか。そういった面で自分以外の人の手助けが必要だと考えたので、今回こうして事務所に所属する決意をしました。……けど、基本的なスタイルはこれからも変わりません。動画の編集はきっちり自分でやりますし、今まで通り楽しんでいただけるように努力していくつもりです。」

 

そこでパンと手を叩いた夏目さんは、笑顔でカメラに向かって口を開く。

 

「だから、前向きな変化だと受け取って欲しいんです。良かった部分はそのままにして、悪かったところは良くしていって、やりたくても出来なかったことにチャレンジしていく。そのために私はこういう決断を下しました。……今、ライフストリームが少しずつ変わってきてるじゃないですか。その中で私はこれまで通り、リスナーさんたちに楽しんでもらえるような動画を投稿していきたいと思ってます。それをずーっと続けるためにはどうすべきかを考え抜いた結果、事務所に所属するって結論に行き着いたんです。」

 

真剣な面持ちでそこまで話すと、夏目さんは座ったままでピンと背筋を伸ばして動画を締めた。

 

「ちょっと短い動画になっちゃいますけど、リスナーさんたちにはしっかり報告したいなと思ったから……はい、こういう動画になりました。この先も沢山沢山面白い動画を上げられるように努力していくので、引き続きさくどんチャンネルを見ていただけたら嬉しいです。これからもどうぞよろしくお願いします!」

 

言い切った後にも数秒間頭を下げていた夏目さんは……パッと顔を上げると、小首を傾げてこちらに質問を放つ。

 

「……どうでしたか? 短すぎますかね? 雑談とかを入れるのは真剣味が薄れますし、リスナーさんたちに失礼かなと思ったので、あくまで報告のための動画って感じにしてみたんですけど。」

 

「いえ、あの……問題なかったように思えます。」

 

「社名は出して大丈夫でしたか? もしダメなら撮り直します。」

 

「そこは大丈夫です。……これを編集して、動画にするんですね。」

 

スピーディーにも程がある撮影だったな。カメラの録画を止めている夏目さんに声をかけてみれば、彼女は三脚からビデオカメラを取り外しつつ解説してきた。

 

「今回は短いのでそこまでかかりませんけど、いつもの動画は何回も編集を挟みます。時間を置いて見ないと客観的になれませんし、後から間違いに気付くことも多いですから。最初に大雑把なカットをして、次に細かい編集をして、数日置いた後で見直して……っていうのの繰り返しですね。編集してる段階で気に入らなかったら撮り直すこともありますし。」

 

「やはり編集には時間がかかるんですか。……しかし、よくあんなにスムーズに喋れますね。改めて感心します。」

 

「いやあの、このお知らせのことはずっと考えてたんです。どう話せばいいかとか、どこを話すかとかを。なのでパッと思い浮かんだわけではなくて、シミュレーションを重ねてただけですよ。」

 

にしたって大したもんだぞ。カメラからデータが入ったSDカードを抜いている夏目さんを眺めつつ、初めて見た『ライフストリーマーの撮影』に唸っていると……新たなカードをカメラに入れた夏目さんが、上目遣いで疑問を送ってくる。

 

「あの、駒場さん。そろそろお昼なんですけど、お腹とか空いてますか?」

 

「そうですね、少しだけ。」

 

「良かった。じゃあ、料理動画も撮っていいですか? デスソースの動画を撮りたかったんです。駒場さんも味見してみてください。」

 

「……『デスソース』?」

 

てっきり定食屋で何か食べますかと聞かれると思っていたので、意表を突かれて戸惑っている俺に……夏目さんは小さな段ボール箱を手にして返事をしてきた。何なんだその不吉な名称のソースは。初めて聞く名前だぞ。

 

「これなんです。外国のライフストリーマーさんがレビューしてて、私もやりたいと思って買っちゃいました。喋れなくなるくらい辛いソースらしくて。」

 

「……まさか、それを料理に使うんですか? 『喋れなくなるくらい辛いソース』を?」

 

「ただチャレンジしてみるのも面白そうなんですけど、折角だから炒飯に使ってみたいんです。最初にそのまま舐めてみて、その後炒飯を作るって感じで。どうでしょう?」

 

「どうでしょうと言われても……それは、大丈夫なんですよね? だからつまり、食べられる物ではあるわけでしょう?」

 

タバスコのような物なんだろうか? 『喋れなくなるくらい辛い』を想像できなくて一応確認してみれば、夏目さんは何故か一拍置いた後で回答してくる。今、迷ったな。答えに迷うような問いではないはずだぞ。仮にもソースと名の付く物を指して、『それは食べられるんですか?』と尋ねているだけなんだから。

 

「えと、多分大丈夫だと思います。食品……ではあるはずなので。」

 

「多分ですか。」

 

「でもあの、死にはしません。試した海外のライフストリーマーさん、生きてましたから。」

 

そりゃあ死んでいたらマズいだろう。そんな動画はそもそも投稿されていないはずだ。あまり大丈夫な感じがしない曖昧な返答をした夏目さんは、カメラを持って廊下に続くドアへと歩き出す。

 

「駒場さん、カメラをお願いしますね。キッチンでの撮影はいつも大変だったんですけど、駒場さんが持ってくれるなら大分楽になりそうです。」

 

「……はい、任せてください。」

 

余所の家のキッチンに行くという点も中々に気後れするが、今の俺はそれ以上に『デスソース』なる謎ソースへの不安で胸が一杯だぞ。……本当に危険はないんだろうか? 夏目さんが舐める前に、先ず俺が試してみるべきかもしれない。苦手なんだけどな、辛い物。

 

───

 

「えほっ、げほっ……ゔぇ。これ、あっ、痛い。痛っ、痛いです。喋れ、ふぁ、ひっく! しゃっくりが、ひっく!」

 

これはまた、凄まじいリアクションだな。『お知らせ動画』の撮影を終えた後、現在の俺と夏目さんは夏目家のキッチンでデスソースの動画を撮っているわけだが……一体全体どれだけ辛いんだ? 美人が台無しの顔になっているぞ。

 

「辛くて、ひっく! 私、昔から辛い物を食べるとしゃっくりが、ひっく! しゃっくりが止まらなくなるんですけど……あ、痛い。ひっく! 喉がこれ、凄く痛いです。ひっく!」

 

見たこともないレベルの盛大なしゃっくりを連発している夏目さんは、俺が持っているカメラに向けて涙目で懸命にデスソースの辛さを……というか『痛さ』を伝えようとしている。恐らく味なんてしないんだろうな。とにかく辛くて痛いわけか。そこだけはしっかりと伝わってくるぞ。

 

やはり最初に自分が『人柱』になるべきだったと考えている俺を他所に、『開封から一連で撮りたいので、私がそのまま試します』と言っていた夏目さんが、事前に用意しておいた牛乳へと手を伸ばす。曰く、水より辛さが和らぐらしい。今日のために調べたんだとか。

 

「牛乳を、ん゛ふっ。すみま、すみません。零しちゃった。ひっく! ちょっと、げほっ。ちょっと一旦落ち着きますね。ひっく!」

 

鼻から牛乳が出ているぞ。カメラ目線でそう断ってから右手をくるくると回した夏目さんは、牛乳の追加をコップに注ぎ……あっ、直で飲むのか。コップには注がずに、一リットルの紙パックから直接飲みつつ話しかけてきた。

 

「ここ、ひっく! ここはカットします。え゛ほっ、んゔ。ひっく! ちょっと落ち着かないと……ふぁ、ひっく! 落ち着かないと話せないので。」

 

「了解です。録画は止めますか?」

 

「そのまま、ひっく! そのままで。何かに使うかも……げほっ、んんゔ。使うかもしれないので。ひっく!」

 

この期に及んで『大丈夫ですか?』とは聞かないぞ。だってどう見ても大丈夫ではないのだから。涙を流し、汗を額に滲ませて、鼻から牛乳を垂らし、咳き込みながらしゃっくりを繰り返している夏目さん。頑張っている彼女に対してこんな感想を抱くのは甚だ失礼だが……まあうん、『百年の恋も一時に冷めるような』という表現がぴったりの状態だな。

 

滅多に見られない『マジなリアクション』を目にして若干焦っている俺に、夏目さんは牛乳パックをひしと掴んだままで声をかけてくる。多分今の彼女にとっては、あの牛乳パックこそが世界で一番大切な物なのだろう。

 

「ふっ、ふっ、あー……辛い。ひっく! 辛すぎます。んゔゔん。げほっ、えほっ、ひっく! 汚い映像になってませんよね?」

 

「……どこをボーダーラインにするかによりますね。」

 

「吐き出しては、ひっく! 吐き出してはいないので、ライフストリームの、ひっく! ライフストリームの規約的にはセーフ……ん゛んん。セーフだと思うんですけど。ひっく!」

 

「あーっと……鼻から出すのはセーフなんでしょうか?」

 

ライフストリーム側としてもそんな規約は作っていないだろうけど、鼻からだったらギリギリセーフかなと判断している俺の返事を受けて……夏目さんは素早い動きで自分の鼻に手をやった後、頬を真っ赤に染めて顔を逸らしてきた。気付いていなかったのか。にしたって恥ずかしがるのは今更だと思うぞ。

 

「ぅぁ、私……ひっく! どこでですか? どこで出てました? ひっく!」

 

「最初に牛乳を飲んで、咳き込んだ時ですね。」

 

「……なら、カットするのは無理ですね。規約違反でないことを、ひっく! 祈ります。」

 

カットは無理なのか。……まあ、無理だな。あそこだけ切るのは勿体無さすぎるし、何より不自然だろう。背を向けながら顔を隠すようにしゃがみ込んで、近くにあったキッチンペーパーを一枚取って鼻をかんだ夏目さんは、未だ涙目の羞恥が滲んだ表情で俺に一言放ってくる。ようやくしゃっくりが止まったらしい。

 

「……あの、鼻から出したことは忘れてください。」

 

「……素晴らしいリアクションだったと思いますよ? 民放のバラエティ番組の現場などにも行きましたが、ここまでのものは見たことがありませんし。」

 

「面白くなるのは嬉しいですけど、恥ずかしいものは恥ずかしいんです。……んんっ、それじゃあ再開しますね。んんんっ。」

 

言いながら立ち上がって喉の調子を整えると、夏目さんは俺が持っているビデオカメラを見て話し始めた。もう再開してしまうのか。長く休憩することで、『臨場感』を消したくないのかもしれない。

 

「えー、少し落ち着きました。これはあれです、絶対に真似しないでくださいね。私の人生で一番辛い物でしたし、舌と喉がまだ痛いです。……というわけで、これを何とかして美味しく食べられるレベルに調理してみようと思います!」

 

そんなことが可能なのか? 口には出さずにそう思っている俺を尻目に、夏目さんはハキハキした口調で炒飯を作ることを説明していき、それが一段落したところでまた右手をくるくる回す。……あー、なるほど。あれは編集点の合図なのか。後で編集する際に分かり易いように合図を入れているらしい。

 

「──なので、デスソースの存在感はきちんと残しつつも、美味しいピリ辛炒飯に生まれ変わらせてみせます! ……ここで一度切って材料を並べた状態で再開しますね。カメラは一旦止めちゃって大丈夫です。」

 

「分かりました。」

 

「あと、動画の方針を変えます。料理をメインにしようと思ってたんですけど、やっぱりデスソースにチャレンジする動画として上げた方が良さそうです。普段料理動画を見てくれてるリスナーさんたちが、さっきの私の顔を見たら……あの、引くでしょうし。」

 

「各ジャンルに独立した視聴者が存在しているんですか?」

 

引くかどうかには触れずに尋ねてみれば、夏目さんは冷蔵庫から材料を取り出しつつ首肯してくる。

 

「コメントとか再生数で判断するしかないんですけど、料理の動画にだけ書き込んでくれてるリスナーさんは結構居ます。商品紹介とチャレンジものは被ってるみたいなんですけどね。」

 

「何となく頷ける違いですね。……料理動画の方向性についてはどう考えていますか?」

 

料理動画に関する富山さんからのアドバイスは報告済みだ。ビデオカメラを置いて作業を手伝いながら問いかけると、夏目さんは悩ましそうな面持ちで応答してきた。そういえば、会話が幾分スムーズになっている気がするな。自然に話してくれるようになってきているぞ。二階で交わした『約束』には確かに意味があったらしい。

 

「んー……本来は『綺麗な料理動画』を目指してたんです。そういう動画をライフストリームで見て、私も料理動画をやってみようって考えた結果として始めたので。けど、このキッチンだとどうしても家庭的になっちゃうんですよね。最新の器具を買うお金がありませんし、キッチン自体をどうにかするのはもっと難しいですから。」

 

「ちなみにですが、今まで動画制作の資金はどうやって賄っていたんですか?」

 

「えと、店で働く代わりにお金を貰ってました。ずっと働いてくれてた人が結婚して辞めちゃったので、時給二百五十円なら出してあげるってお母さんに言われて。そのお金で商品紹介の品物を買ったり、料理の材料を買ったりしてたんです。」

 

うーむ、時給二百五十円か。『住み込みのアルバイト』として考えると安すぎるが、『家業の手伝いのお小遣い』と考えれば……どうなんだろう? 俺なら嫌だけどな。普通に外でバイトを探すぞ。まだ昼勤しか出来ない歳とはいえ、外部のアルバイトだったら三倍以上貰えるだろうし。

 

高校時代はガソリンスタンドで働いていたなと思い出している俺に、夏目さんはちょびっとだけ情けなさそうな苦笑いで会話を続けてくる。

 

「私はあの、人付き合いが苦手なので正直助かりました。厨房でお父さんと料理をするのは楽しいですし、手伝い始めてからはお母さんが……えーっと、嫌味的なことを言わなくなったので。」

 

「今日は抜けてしまって平気なんですか?」

 

「駒場さんが来る前に仕込みを終わらせましたから、両親だけで何とかなるはずです。……家に毎月五万円入れれば店の手伝いは一切しなくていいって言われてるので、とりあえずはそれを目標にしてます。」

 

「ということは、一人暮らしはまだ視野に入れていないんですね。」

 

動画制作の経費抜きで五万円となると、現状ではまだちょっとだけ足りていないかな? 食費や光熱費については考慮しなくてもいいようだし、実家暮らしは貯金の味方だなと羨ましく思いながら相槌を打ってみれば……ネギを手にした夏目さんが目をまん丸にして口を開いた。

 

「……一人暮らしって、私の歳でも出来るんですか?」

 

「可能ですよ。多数派ではないでしょうが、夏目さんくらいの歳でもやっている人は沢山居ると思います。大学生になると更に増えますしね。私も高校卒業と同時にこっちに出てきて、そこからずっと一人暮らしです。……夏目さんの場合はまあ、実家が都内なのであまり転居するメリットが無いかもしれませんが。」

 

「……キッチンが綺麗なお部屋って、どのくらいの家賃なんでしょうか?」

 

「東京はかなり高いですよ。私が住んでいる世田谷のワンルームアパートは七万円です。キッチンはお世辞にも広いとは言えませんし、良いキッチンが付いている部屋だとそこそこの家賃になってしまいますね。安くても十五万とかじゃないでしょうか。」

 

キッチンだけ豪華なワンルームだなんて特殊すぎて見つからないだろうし、『綺麗な料理動画』を撮れるレベルのキッチンがある部屋となると、最低でも十五万は覚悟しておくべきだ。そして上を見るとキリが無い。俺の年収がひと月の家賃になるマンションだって存在しているのだから。

 

地元の家賃は安かったなと憂鬱な気分になっている俺に、がっくりしている夏目さんが声を返してくる。

 

「じゃあ、絶対無理ですね。」

 

「今は無理ですが、いつかは引っ越せるかもしれませんよ? そうなったら引っ越したいですか?」

 

「……はい、引っ越したいです。もっと広い場所で撮影したいですし、カメラの角度に気を使わなくて良くなるのには憧れます。」

 

『寝袋を卒業してベッドを置きたい』とは言わないんだな。あくまで動画が優先か。卵をパックから出しつつ呆れるべきか感心すべきかを迷っていると、小皿を並べている夏目さんが質問してきた。ちらちらと俺の方に視線を送りながらだ。

 

「でも、一人だと不安なので……駒場さん、呼んだら来てくれますか? 病気の時とか、困ってる時とかに。」

 

「ええ、もちろん。呼んでくれればすぐに行きますよ。」

 

「えへへ、それなら大丈夫そうです。」

 

むう、どうにも掴みかねる子だな。想像以上にしっかりしている部分と、何だか幼く感じられる部分が混在しているぞ。香月社長にも同じようなイメージがあるが、それとは方向性が異なっているし……分からん。これまで担当してきた子には居なかったタイプだ。

 

まあでも、十七歳だもんな。俺が高校生の頃はアホみたいなことばかりやっていたし、それと比べてしまえば随分と大人に思えるぞ。家に金を入れようとしている時点で俺より遥かにマシだろう。俺の場合はバイト代をバイクに注ぎ込んでいたっけ。

 

一生単車に乗っていこうと友人たちと語り合っていたのに、今やリースの軽自動車か。別に不満はないのだが、現実に負けたようでほんの少しだけ寂しくなってくるな。実家に置いてある単車のことを懐かしんでいると、材料を並べ終えた夏目さんが指示を出してきた。……余計なことを考えるのは後にしよう。今は撮影に集中しなければ。

 

「それじゃあ……私がここに立つので、駒場さんは材料と私が画角に入るように正面から撮ってください。それで材料の説明が終わったら、こっちに回ってきて横から手元を映す感じで。」

 

「手元だけですか?」

 

「えと、寄って欲しい時は目線で合図を送ります。基本的には手元と私の両方を映しておいてください。あんまり早く動かしたり、頻繁に動かしすぎると視聴し難い動画になるので、場面ごとにこう……『違った角度で固定する』ってイメージでお願いできますか?」

 

「……最大限努力してみます。」

 

撮影現場を見たことはあるが、カメラを回すのなんて当然今日が初めてだ。しかもこの一台だけで撮影しているので、俺がしくじれば動画がダメになってしまう。……思い出せ。俺は撮影の休憩中にカメラさんと話したことがあったはずだぞ。もちろん雑談程度の会話だったけど、上手く撮るコツのようなものをちょこっとだけ教えてくれたはず。

 

確か、『視聴者の目線で撮れ』だったかな? カメラ越しの映像を、そのままテレビで見ているものとして捉えろと言っていたのを覚えているぞ。撮ることだけに集中しすぎると、後で見た時に忙しない映像になってしまうのだとか。

 

あとはそう、『きちんと固定するのが最も大切』と口にしていたな。素人は顔の前にカメラを構えて撮影しがちだけど、それだと低い映像を撮る際に中腰になってぷるぷるしてしまうので、そういう時は立ったままでカメラ本体の位置を動かすのだとアドバイスしてくれたっけ。付属のモニターを見ればどんな映像が撮れているのかは確認できるんだから、腰の辺りに持ってモニターを斜め上に傾ければいいだけだと。

 

あれはあくまで『素人がホームビデオを撮る時のアドバイス』だったわけだが、撮影における基礎であることは間違いないはず。早く動かしすぎない、固定が大事、視聴者の目線で撮る、顔の前に構えることに拘りすぎない。頭に注意点を刻み込みつつカメラを構えた俺へと、夏目さんが追加の注文を寄越してきた。

 

「それとですね、テーブルの方は映さないでください。映すとお母さんが怒っちゃうので。」

 

「キッチンスペースのみということですね。」

 

「はい、そうなります。」

 

となると、更に難易度が上がりそうだ。そういえばそんなことを言っていたな。この部屋は所謂『キッチンダイニング』なのだが、ダイニングスペースは画角に入れないようにしなければならないらしい。……まあ、気持ちはちょっと分かるぞ。ダイニングは来客たる俺が足を踏み入れるのを躊躇うレベルで生活感があるし、夏目さんの母親は全世界に公開したくないのだろう。『キッチンを映していい』というだけでも相当な譲歩なのかもしれない。

 

「了解しました、注意します。……録画開始しました、どうぞ。」

 

頷いてから促した俺を見て、夏目さんは一度軽く深呼吸をした後で材料の説明をスタートさせる。……今後はこうやってカメラを持つ機会が増えるだろうし、帰ったら詳しく勉強しなければ。撮り方は面白さに影響する要素の一つであるはず。俺の技術が低すぎる所為で動画がつまらなくなるだなんて冗談にもならないぞ。

 

「はい、こちらが材料になります。想像以上の辛さだったので、それを活かしつつ上手く味に組み込めるように──」

 

とにかく、素人なりにでも頑張ってみよう。夏目さんが真剣に動画と向き合っているのだから、俺も然るべき努力をしなければ。カメラが揺れないように慎重に支えつつ、『撮る技術』を少しでも向上させようと決意するのだった。

 



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Ⅰ.さくどん ⑤

 

 

「で、君は『デスソース炒飯』を食べて味覚がおかしくなったわけだ。何とも珍妙な話じゃないか。」

 

夏目家での初めての撮影の翌日、俺は事務所で香月社長と一緒に昼食を食べていた。舌が火傷したみたいな感覚がまだ続いているぞ。『追いデスソース』がマズかったな。最初に完成した段階では美味しいピリ辛炒飯だったのに。

 

「笑い事じゃありませんよ。味は一応分かりますけど、舌がずっとピリピリしているんです。」

 

「私は『笑い事』だと思うけどね。聞いた限りでは面白い動画になりそうじゃないか。事実として私は見たくなっているぞ。」

 

「編集が終わった後の動画に英語の字幕を付けてもらうので、嫌でも見ることになりますよ。」

 

「なら、楽しみにしておこう。……デスソースね。そんな調味料が存在していたとは思わなかったよ。どこに売っているんだい? そういうの。」

 

隣のデスクで海苔弁当を食べている香月社長に、サンドイッチを頬張りながら返事を返す。いつまで続くんだろうか? この舌のピリピリ。

 

「ネットで注文したそうです。海外で生産されている物なんだとか。」

 

「まあ、そういう物は日本じゃ売れないだろうね。『ぶっ飛んだ食べ物』を探すならUSAかフランスだよ。いつだってその二国が奇妙な料理や調味料を生み出すのさ。」

 

「夏目さんに伝えておきます。デスソースのインパクトを超えられる調味料は中々見つからないと思いますけどね。」

 

「今から二人で買い物に行くんだろう? 仲良くなれたようじゃないか。」

 

香月社長が言っている通り、これを食べたら夏目さんを迎えに行ってパソコンパーツの専門店に向かう予定だ。もしそこでパーツを揃えられるようなら、早速自作パソコンの動画も撮りたいと言っていたな。

 

ハムサンドを手に取りながら脳内で予定を確認して、卵焼きを箸で掴んでいる香月社長に返答を放つ。

 

「もしかすると、帰ってきた後であっちの部屋を使うことになるかもしれません。夏目さんが試験的に使ってみたいんだそうです。」

 

「おや、いいね。有効活用してくれるなら万々歳さ。……ただ、現状では何もない殺風景な部屋だよ? 寂しすぎないかい?」

 

「寂しすぎますね。今日使うようならカーテンと敷物を買ってきていいですか? それに加えて応接用のソファとテーブルを運び込めば、多少は華やぐと思うので。」

 

「ん、構わないよ。……結局あのソファの最初の役目は客の応対ではなくなるわけか。」

 

午前中に届いたばかりの黒いソファと木のセンターテーブル。社長と二人で迷いに迷った挙句、二人掛けを二台買ったのだが……まあ、あのソファも役に立てるなら本望だろうさ。今のところ訪問するのは宅配業者の配達員くらいなのだから。

 

後でテーブルに張りっぱなしになっているビニールを剥がそうと考えていると、弁当を食べ終えた香月社長が話題を変えてきた。ちなみに弁当やサンドイッチはコンビニで俺が買ってきた物だ。オフィスビルが多い区画なので選択肢は多々あるのだろうが、まだ把握し切れていないので昼食は大抵コンビニになっている。近いうちに近所の昼食事情も調べておかないとな。

 

「ああ、そうそう。昨日効果音に関してを調べている時に気付いたんだが、背景の音楽とかは必要ないのかい? 所謂バックグラウンドミュージックだよ。」

 

「その辺は著作権の問題が厳しいですからね。使いたくても使えないんじゃないでしょうか?」

 

「そういうのも制作を頼めるみたいだよ。……高いからあまり気乗りしないんだが、君の知り合いのプロデューサーが紹介してくれた業者は纏めて頼むと安くなるらしくてね。『頻繁に使う』なら一緒に注文するのもありだと考えているんだ。無論、『たまに使う』程度であればやめておくが。」

 

「どうなんでしょう? 夏目さんに相談してみます。思い返してみれば、アメリカのトップ投稿者は使っていましたね。」

 

記憶が朧げだが、確か流れていたはずだ。目の前のマウスを操作してライフストリームを開き、参考にするために登録したアメリカの投稿者のチャンネルに移動して、適当な動画をクリックしてみれば──

 

「……やっぱり使っています。ぼんやり見ていると意識しない部分ですけど、無音だと物足りないかもしれませんね。」

 

「主張しすぎない音楽ってわけだ。それもボイスフォローならぬ『感情フォロー』の一つなのかもね。本質的な意味としては、テロップや効果音と同じなんじゃないかな。」

 

「掘れば掘るほど要素が出てきますね。……資金、大丈夫なんですか?」

 

「大丈夫ではないが、もう引き返せる段階はとうに過ぎた。こうなれば成功を信じて注ぎ続けるしかないのさ。……コーポレートサイトも作るよ。夏目君が社名を動画に出してくれるなら、それを見て『所属してみようかな』と考えるライフストリーマーは出てくるはずだ。その時に検索してみて、Webサイトが出てこないのはいただけない。そんなもん情けなさすぎるし、『うわ、サイトすら無い会社なんだ』と思われるのは避けたいからね。」

 

それも業者に依頼するということか。どんどん出ていく金のことを思って眉根を寄せつつ、香月社長にポツリと呟きを送った。

 

「私の給料、下げても大丈夫ですよ。よく考えたら貰いすぎな気がしてきました。軌道に乗るまでは人件費も節約すべきじゃないでしょうか?」

 

「それをやれば企業は終わりさ。社員の給与だけは下げるわけにはいかないよ。そうするくらいなら、正当な報酬を払い続けて会社を潰すね。……ただまあ、そっちの方が結果的に職を失って困るという人間も居るだろうし、ここは経営理念の範疇かな。悪いが私の我儘に付き合ってくれ。」

 

「社長の決断には従いますが……どちらかと言えば私ではなく、クリエイターたちのことを考えてくださいね。」

 

「うちが潰れる頃には他の事務所も出てきているはずだから、最悪移籍できるんじゃないかな。兎にも角にも私たちが早すぎるんだよ。……何にせよ、まだ大丈夫だ。始まったばかりなのに『終わり』の話をするのはやめておこう。何れ株式会社に組織変更して、上場を果たすさ。その時一緒に鐘を鳴らそうじゃないか。」

 

うーむ、現時点からだと壮大な野望に思えるな。社長、社員、そしてたった一人の所属クリエイター。今はまだ三人だけのホワイトノーツが、上場の鐘を鳴らせる日は果たして来るのだろうか? ……来ると信じて努力してみよう。どんな結末になるにせよ、せめて後悔だけはしないように頑張らなければ。

 

「その日を楽しみにしておきます。」

 

「うんうん、目標は大切さ。ベンチャーってのは諦めたヤツから潰れていくんだ。私は投資家時代の経験でそれをよく知っているよ。」

 

「諦めなければ成功すると?」

 

「諦めない場合は成功するか、死ぬかだね。死んだヤツは『過程』で途切れるからノーカウントとして、諦めなければ百パーセント成功するのさ。しかし諦めた場合は生きたままで失敗を得る。どっちがマシかという話だよ。」

 

暴論にも程があるな。『ノーカウント』にしていいんだろうか? それ。苛烈な思想だなと唸っていると、香月社長はくつくつと喉を鳴らして話を続けてくる。

 

「なぁに、最悪死ぬだけだと思えば楽なもんだよ。どうせいつかは死ぬんだから、失敗を抱えて生きていくくらいなら成功を目指して死んだ方がマシなのさ。賭けるべき時に相応のものを賭ける。私はそうやって投資を成功させたし、会社の経営もそうしていくつもりだ。……こういうのは持たざる者の強みなのかもね。だから若い人間がベンチャーに手を出しがちなんじゃないかな。伴侶や子を得ると、死ぬに死ねなくなったりするとか? どっちが幸せなのかが分からなくなってくる話だよ。諦めてでも生きねばという理由を持つか、死んでもいいという渇望を持つか。君はどっちの人生が幸せだと思う?」

 

「私の場合は前者ですね。」

 

「意見が割れたね。私は後者だ。」

 

「まあ、何れにせよ成功するのが一番です。生きる死ぬを考える前に、目の前の資金繰りのことを考えましょう。」

 

香月社長はこういう議論が好きなようで、時折仕掛けてくるのだが……俺は自分の思想を披露するのは苦手だぞ。言うのも聞くのも何となくムズムズしてしまうのだ。そんなわけでいつものように話題を逸らした俺に、社長は小さく鼻を鳴らして応じてきた。

 

「現実的な返しだね。それでは諧謔を磨けないぞ、駒場君。」

 

「磨きたいと思っていませんので。……食べ終わりましたし、夏目さんを迎えに行ってきますね。」

 

「もう出るのかい? もっと構ってくれてもいいじゃないか。君は夏目君と買い物に行けるが、私はここで一人寂しく『お留守番』なんだぞ。非常に退屈だ。」

 

「仕事をしてくださいよ、仕事を。」

 

香月社長の文句に応答しながら事務所を出て、エレベーターで一階に降りて駐車場へと向かう。欲を言えば社用車も買いたいが、今はこの軽自動車で我慢する他ないな。江戸川芸能はワンボックスカーやミニバンを何台も所有していたっけ。当時は芸能事務所なんだから当然と思っていたけど、今となっては憧れるぞ。

 

乗り込んだ車でシートベルトを締めてエンジンをかけた後、サイドブレーキを解除してセレクターをドライブに入れる。そのまま車を発進させて、定食屋・ナツメへの運転を開始した。この前は道を確かめつつで三十分だったから、今回は二十分から二十五分ってところかな? そうなると若干早く着いてしまうし、一度コンビニにでも寄って飲み物を買うか。

 

───

 

その後コンビニに寄ってコーヒーを買って、到着した定食屋・ナツメの駐車場に車を入れようとすると……おっと、外で待っていたのか? 駐車場の前の歩道に夏目さんが立っているのが視界に映る。今日の彼女はTシャツとサロペット姿だ。

 

「おはようございます、夏目さん。」

 

「こんに……おはようございます、駒場さん。」

 

染み付いた『社会人謎ルール』の所為で、開けた窓越しにおはようございますと言ってしまった俺に合わせてくれた夏目さんは、歩道に寄せた車に近付きながら会話を続けてきた。停めてから連絡するつもりだったんだけどな。まだ約束の時間の十分前だぞ。

 

「あの、今日もよろしくお願いします。」

 

「どうぞ、乗ってください。……お待たせしてしまいましたか?」

 

「ああいや、今来たところです。」

 

常套句で答えてきた夏目さんだが……むう、そっちに乗るのか。彼女は迷うことなく助手席に乗り込んでくる。てっきり後部座席に乗ると思っていたぞ。いやまあ、特に問題はないけど。

 

「では、出しますね。」

 

「はい、お願いします。……何だかドキドキしますね。」

 

何がドキドキするんだろう? シートベルトを締めた夏目さんの発言に脳内で疑問符を浮かべつつ、目的の店へと車を走らせながら口を開く。

 

「お昼、食べましたか?」

 

「食べました。……けどあの、駒場さんが食べてないならどこかに寄るのでも大丈夫です。」

 

「いえ、私も事務所で食べたので問題ありません。……味、しました?」

 

「あんまりしませんでした。舌が変になっちゃってて、火傷した時みたいなのがずっと続いてるんです。」

 

やはり夏目さんもそうだったのか。というかまあ、直に舐めてしまった彼女の方が『重症』なのだろう。然もありなんと納得している俺に、夏目さんは嬉しそうな顔で言葉を繋ぐ。

 

「でも、面白い動画になりそうです。最初の編集をした時、手応えがありましたから。」

 

「変な映像になっていませんでしたか? カメラを持つのは初めてだったので、私としてはそこが不安です。」

 

「とっても良かったですよ。今までずっと固定して撮ってたので、やっぱり動きがあると全然違って見えるんです。使えそうな部分も多いですし、ちょっとだけ長めの動画に出来るかもしれません。」

 

「長い方がいいんですか?」

 

交差点を左折しながら問いかけてみると、夏目さんは短く黙考してから回答してきた。

 

「長ければいいってわけではないと思うんですけど、多少長い方が好評なんです。十五分から二十分くらいがベストなのかもしれません。だけど無理に長くしようとすると内容が薄くなるので、中々上手くいかなくて。」

 

「商品紹介は五分前後が多いですね。」

 

「単純に喋ることがなくなっちゃうんです。だから沢山喋れる面白かったり珍しかったりする商品を厳選するようになって。でもそれだと投稿頻度が目に見えて落ちちゃうので、十分以上にし易い料理とチャレンジものの動画を増やしました。」

 

となると、俺の推察は半分正解で半分外れていたらしい。割合の変化には内容の濃さだけではなく、『動画の長さ』という理由もあったのか。ハンドルを動かしながら思案している俺に、夏目さんが次の動画についてを語ってくる。

 

「自作パソコンの動画も長くなるはずなので、デスソースの次にそれが来るのは良い流れだと思います。時間をかけて下調べしましたし、編集にも気合を入れるつもりです。」

 

「『何も知らずにチャレンジ』という感じにはしないんですね。」

 

「場合によるんですけど、今回は目一杯調べてきました。ライフストリームで自作パソコンの動画を見たり、初心者向けのサイトをいくつか参考にしてみたり。……何て言うかその、『初チャレンジ』ってことでただただめちゃくちゃにするのは良くないんです。詳しい人からすると面白くない動画に思えちゃうみたいで。」

 

「『自作パソコンに詳しい人』という意味ですか?」

 

俺の質問に対して、夏目さんはこっくり頷いて肯定してきた。

 

「はい、そうです。あくまで初心者なわけですし、付け焼き刃の知識だと失敗することもあるんでしょうけど……最低限『何でそんなことをするんだ』みたいな展開は避けようと思ってます。『もどかしい』が続きすぎると、『苛々』に変わっちゃいますから。」

 

うーん、考えているな。玄人目線から見た時、『初心者だからまあ仕方がない』の範囲に収めようというわけか。確かに『それくらいは調べておけよ』という苛々は身に覚えがあるぞ。『初めての自作パソコン作り』を売りにはすれど、詳しい人間がイライラしない程度にはスムーズに進めると。

 

想像以上に視聴者の反応を意識していることに感心する俺へと、夏目さんは苦笑いで続きを口にする。

 

「あとは資金面で失敗できないっていうのもありますし……何より動画を見てくれた誰かが参考にした時、間違った知識を伝えるわけにはいきませんから。その辺の注意もさり気なく入れるつもりです。『初心者の動画なので、鵜呑みにはしないでくださいね』って感じに。」

 

「ちなみにですが、幾らくらいかかりそうなんですか?」

 

「何度も何度も計算してみたんですけど、最低でも十五、六万円にはなっちゃいそうですね。貯金が吹っ飛んじゃいました。……だけど編集ソフトがまともに動かないとどうにもならないので、必要経費だと思うことにします。」

 

「……案外高いんですね。自分で作れば安くなるのだと想像していました。」

 

現状の彼女にとっては大金なのだろう。予想より高い金額を耳にして率直な感想を返してみれば、夏目さんは困ったような笑顔で応答してきた。

 

「編集ソフトって、そこそこ重いんです。この値段でも限界まで安くしてるんですよ? 本当はもっともっと良いスペックのパソコンが欲しいんですけど……まあ、それは未来の目標にしておきます。中古のパーツとかはさすがに尻込みしますし、今はこれが最大限抑えた金額ですね。」

 

「いつかまた作ってみるのも良いかもしれませんね。第二弾、的な動画を。」

 

「あー、いいですね。面白いと思います。そのためにも、デスソースと自作パソコンの動画には思いっきり拘る予定です。テロップも入れてみたいですし、間に合いそうなら効果音も使いたいんですけど……まだ無理ですよね?」

 

上目遣いで尋ねてきた夏目さんに、今度はこちらが困った表情で返答する。間に合わせるのは難しいと思うぞ。

 

「『さくどんチャンネル』にとって大きな変化のタイミングになるのであれば、どうにかして間に合わせたいんですが……ちょっと厳しそうですね。他と同じく、『音源制作』というのも納期を短く設定すればするほど高額になってしまうようなんです。仮に今日撮ったとして、編集が終わるのはいつ頃になりそうですか?」

 

「えと、んーっと……『完成版』になるのは普通なら一週間半後くらいですね。何本かをこう、同時進行で入れ替えながら編集していくので。人によるんだとは思うんですけど、私は期間を置かないと視点を変えて見られないんです。ああでも、『発売直後の商品をレビューしてみた』とかだと急いで上げたりもします。」

 

「まだ制作を依頼してすらいないので、オリジナルの効果音が使えるのは大分先になってしまうかもしれません。フォントは契約すれば即日で使えるようなんですが……音源の方は待てませんよね? さすがに。」

 

諸々の手続きのことを考えると、最短でもひと月はかかるだろうなと予想しながら問いかけてみれば、夏目さんは残念そうな面持ちで首肯してきた。

 

「余計なお金がかかっちゃうのはダメですし、今回はフリーの効果音をお借りして何とかしてみます。テロップを入れれば随分良くなるはずですから、フォントを使わせてもらえるだけで凄くありがたいです。効果音は次の機会ですね。」

 

「ただですね、カメラはもう一台使えるかもしれませんよ。これから使うこともあるはずだということで、香月社長が会社の備品としてとりあえず一台買ってくれるんだそうです。近日中に購入します。」

 

動くのが遅れてしまったことを申し訳なく感じながら、今日の午前中に香月社長と話し合って決めた件を伝えてみると……おお、嬉しそうだな。夏目さんはパアッと顔を明るくして応じてくる。

 

「本当ですか? どのカメラを買うとかは決めてます?」

 

「まだです。実際の使用感なんかも重要なので、夏目さんにも意見を聞いてみようと思いまして。もしお勧めのカメラがあるなら教えてくれませんか?」

 

「あっ、あります! お勧め、あります! カメラは時間がある時にいつも調べてるんです。買えないけど、でも余裕が出てきたら買おうと思ってたので……今出しますね。価格帯別で三つ候補があって、レビューとか使ってる動画を参考に機能の違いを──」

 

いきなり早口になったな。猛烈な勢いでスマートフォンを操作し始めた夏目さんを横目にしつつ、ビデオカメラ選びは簡単に終わりそうだなと苦笑した。この子なら妥協せずに選んでいるはずだから、言われた通りに買えば大丈夫だろう。BGMに関する話もあるし、車内での話題には困らなさそうだ。

 

───

 

そのままパーツショップでの買い物を済ませて、ついでに香月社長に購入の許可をもらったビデオカメラを電気屋で買い、更に家具屋で適当なカーテンと敷物を買って夏目さんを家に送り届けた翌日。俺は再び定食屋・ナツメで担当クリエイターを回収した後、ホワイトノーツの事務所に戻ってきていた。

 

「駒場さん、大丈夫ですか?」

 

「大丈夫ですが……まあ、小さな台車は持っておいた方が良さそうですね。今度購入しておきます。」

 

台車は盲点だったが、事務所に一台くらいは置いておくべきだろう。『反省点』を頭に書き込みつつ、大量の段ボール箱を抱えた状態で三階に到着したエレベーターから降りる。……要するに、今日は自作パソコンの動画を事務所の空き部屋で撮影する予定なのだ。

 

昨日は買い物が終わったのが夕刻だったので、今日の午前中に持ち越したわけだが……パーツが安く手に入って良かったな。どうもパーツショップの店長さんが夏目さんの動画の視聴者だったらしく、店の宣伝になるからと安めにしてくれたのだ。正式な契約ではないけど、これも一種のスポンサーと言えるのかもしれない。

 

お陰で想定していた物よりワンランク上のパーツを買えたし、優しい視聴者に会えたし、新しいビデオカメラも使えるということで、現在の夏目さんは非常に機嫌が良さそうだ。明るい雰囲気で撮れば動画も良いものになるだろうから、そこは俺としても嬉しい点だぞ。

 

だからまあ、後は事務所を見てがっかりされないかだなと思いつつ、たどり着いたドアを指して夏目さんに言葉を送った。ドアを開けて招き入れたいのは山々だが、両手が塞がっている所為で開けられないのだ。

 

「ここです。」

 

「あっ、開けますね。……えと、失礼します。」

 

「おや、夏目君。ようこそホワイトノーツへ。……後ろに居る段ボール箱のお化けは駒場君かい? 何をしているんだ、君は。」

 

「荷物を運んでいるんですよ。そっちこそ何をしているんですか?」

 

応接用ソファにタックルをかましているような体勢の香月社長に聞いてみれば、彼女はふふんと胸を張って返事をしてくる。

 

「ソファを向こうの部屋に動かそうとしていたんだよ。残念なことに全然動かなくて、もう諦めかけているがね。私は非力なのさ。」

 

「威張って言わないでくださいよ。……夏目さん、一先ずここに置きますね。残りを持ってきます。」

 

「ぁ、それなら私も行きます。」

 

「あと数箱だけですし、一人で持てると思うのでここで待っていてください。」

 

言いながら事務所を出て、駐車場に移動して残りの箱をトランクから出す。昨日買ったパーツと元々買ってあったパーツで必要な物が全部揃ったそうなので、纏めて車に積んで持ってきたのだ。ちなみにモニターは予算の都合で削ったらしい。今の物を引き続き使うんだとか。

 

一番大きな箱……ケースだったかな? が入っている段ボール箱を持って、他に何も残っていないことを確認してから三階に戻る。そして事務所に再入室してみれば、ソファを持ち上げようとしている香月社長と夏目さんの姿が目に入ってきた。見ていて危なっかしい持ち方だな。このコンビはこういう作業に向いていないらしい。

 

「……私がやりましょうか?」

 

「大丈夫だ、駒場君。私と夏目君の二人でなら……んっ、ちょっと一回下ろすよ?」

 

「は、はい。気を付けて……あっ、気を付けてください。放しますね? そっと放します。」

 

「お願いだから私にやらせてください。二人とも手を挟みそうになっているじゃないですか。見ていてヒヤッとしますよ。」

 

恐らくソファを撮影に使う部屋に運ぼうとしているのだろう。別のパーツがある場所にケースの箱を置いた後、二人に代わってソファの片方を持つ。二人掛けのソファを持ち上げるのはさすがに厳しいし、引き摺るか。

 

「待て待て、駒場君。その運び方だと床に傷が付くぞ。私たちが二人でこっちを持つよ。」

 

「……絶対に手を挟まないでくださいよ?」

 

「あまり侮らないでくれ。これでも学生時代に水泳をやっていたんだ。一年でやめたけどね。」

 

それが何だと言うんだ。謎の発言と共に夏目さんと二人でソファの片方を持った香月社長は、腕をぷるぷるさせながらこっちにしたり顔を向けてきた。相変わらず意味が分からん人だな。持ち上がったソファの状態からして、夏目さんが荷重の殆どを担っていると思うぞ。

 

心中で呆れながら隣の部屋にソファを運び込み、慎重に下ろしてから三人で事務所スペースへと戻ると、夏目さんがポツリと尤もすぎる感想を呟く。

 

「でも、あの……まだがらんとしてるんですね、事務所。」

 

「これでも多少マシになったんだけどね。今や椅子もあるし、棚もあるし、電話も通じている。段々と置くべき物が思い浮かばなくなってきたよ。君は何があるべきだと思う?」

 

「えと、時計とかでしょうか?」

 

ああ、時計。そういえば壁に掛けるべきだな。正直腕時計やスマートフォンで時間は確認できるのだが、時計すら無い事務所ってのは問題だろう。これまた尤もな答えを返した夏目さんへと、香月社長が昨日届いたオフィスチェアに座りながら深々と頷いた。俺としてはもう、椅子に座れるって時点で満足してしまっていたぞ。段ボール箱に腰掛けていると腰が痛くなるのだ。

 

「良い意見だよ、夏目君。時計は必要だね。買っておこう。……それじゃあ駒場君、テーブルの移動は君に一任する。私はとても疲れたから、少し休ませてくれたまえ。」

 

「今ので疲れたんですか。……社長が今までどうやって生きてきたのかが気になってきますね。」

 

「私は頭脳で生きるタイプなんでね。体力を犠牲にして思考力を手にしたのさ。……夏目君、ちょっと来てくれ。英語の字幕に関して聞きたいことがあるから。」

 

「あっ、はい。」

 

悪魔とでも取り引きしたのかってレベルで体力がないな。呆れを通り越して心配になってくるぞ。夏目さんと話す香月社長を背に眉根を寄せて、テーブルを持って隣室へと運ぶ。カーテンは昨日事務所に帰ってきた後で取り付けたし、白いふわふわの敷物も敷いた。そりゃあ完璧とは言えないが、そこまで悪くない内装になった……はずだ。

 

夏目さんが家から持ってきた三脚でカメラを正面に固定して、加えて俺が一台持てば画角も複数使えるから、急拵えの撮影環境としてはまあまあってところかな。物の配置を整えてから事務所スペースへのドアを抜けると、夏目さんが新しい方のビデオカメラを操作しているのが視界に映った。字幕の話し合いは終わったらしい。

 

「夏目さん、部屋の準備はオーケーです。」

 

「ありがとうございます。……こっちをメインカメラにするので、駒場さんが持ってもらえますか?」

 

「はい、使い方は覚えておきました。」

 

「あとですね、駒場さんも反射とかで映り込んじゃう可能性があるので……マスクをした方がいいかもです。なるべく編集でどうにかするつもりですけど、それにも限界がありますから。」

 

ちょびっとだけ申し訳なさそうに提案してくる夏目さんへと、自分のデスクに置いてあるマスクを指して返答を飛ばす。しっかりと準備してあるぞ。身元を隠すためというか、スーツ姿でマスクをしている方が『ただのマネージャーっぽさ』が出るのだ。夏目さんは別に恋愛禁止のアイドルではないが、その辺の機微はアイドルグループに付いていた頃に学習している。視聴者に余計な疑念を抱かせないように、俺は『没個性的な動く三脚』であるべきだろう。

 

「用意してあります。……ここが事務所であることは説明するんですよね?」

 

目立たない裏方は良い裏方。昔撮影現場で学んだ教えを思い出しつつ尋ねてみれば、夏目さんは間を置かずに肯定してきた。

 

「いきなり場所が変わってるのは意味不明ですし、動画の冒頭で『事務所で撮らせてもらってます』とは言う予定です。」

 

「では、私が映り込んでも問題ないと思います。『撮影を手伝っているスタッフ』と判断されるでしょう。個人的にもマスク有りならそこまで抵抗はないので、神経質にならなくても大丈夫ですよ。」

 

撮影を手伝っているだけなのは紛れもない事実だが、変な誤解が大きな傷に繋がるのはよくあることだ。誰にとっても不幸にならないように気を付けるべきだろう。思案しながら応答すると、香月社長が会話に参加してくる。

 

「私は何かやるべきかい?」

 

「そうですね、社長はこっちで静かにしておいてください。」

 

「……駒場君? 君、段々と遠慮がなくなってきたね。社長だぞ、私は。」

 

「親しくなってきたということですよ。私なりの親愛表現です。……それでは夏目さん、早速準備に移りましょう。パーツの箱を並べた状態からスタートですか?」

 

ここに来る途中の車内での打ち合わせを思い起こしながら聞いてみれば、夏目さんはパーツの箱の山に歩み寄って回答してきた。

 

「パーツはパッケージもカッコいいので、通販で買った方は段ボール箱から出すのも撮ろうか迷ったんですけど……箱から箱を出していくのは幾ら何でも冗長でしょうし、テーブルにパーツそのものの箱を並べた状態から始めます。サムネイルは箱の後ろに私が居る画像にしましょう。」

 

「了解です、サムネイルからですね。並べていきましょうか。」

 

完成したパソコンをサムネイルにするのもありだと思うのだが、『材料』を並べた方が興味を惹けると判断したのかな? 何にせよどっちもどっちだから、そこは夏目さんの選択次第だろう。届いたばかりの棚からカッターを出して、夏目さんと二人で段ボール箱を開封していく。

 

「改めて見ると結構多いですね。……何だか不安になってきました。これ、作れるんでしょうか?」

 

「……私には何とも言えませんね。夏目さん以上に詳しくないので。」

 

「たまに撮影を中断して、参考動画を確認することになるかもしれません。……サイトには『既製パーツを組むだけなら、プラモデルと一緒だ』って書いてあったんですけどね。私、プラモデルを作ったことがないのでいまいち伝わってきませんでした。」

 

「頑張りたまえ、二人とも。案ずるより産むが易しだよ。試行錯誤もまた動画の一部さ。」

 

香月社長の応援を受けつつ撮影スペースへと全てのパーツを運び込んで、ドアを閉めて固定カメラの画角を調整する。……ぬう、難しいな。引きすぎると細かい部分が見えないが、結局のところ寄りの画は俺が持つカメラで撮ることになるはず。匙加減が分からないぞ。

 

「こっちのカメラはソファ全体が入るくらいにすべきですか?」

 

「あー……最初はパーツの紹介をするので、私の上半身とテーブルの真ん中が映る感じにしてください。実際に作る段階に入ったら変えましょう。」

 

「分かりました。とりあえずサムネイルを撮りますね。」

 

パーツが映えるように机の上に並べた夏目さんへと、新しい方のカメラを向けてみれば……彼女は細かくポーズを変えながらカメラにアピールし始めた。夏目さんは静止画で撮るのではなく、動画を切り抜く形でサムネイルにするらしい。故に後で選択できるように色々なパターンを試しているのだろう。雑誌の写真撮影とほんの少しだけ似ているな。『はい、ポーズ変えてくださーい』を一人でやっている感じだぞ。

 

「……CPUをこう、顔の横に持つのがいいかもですね。これで端のパーツが画面ギリギリになるまで寄ってみてください。」

 

「ゆっくり寄ってゆっくり引いてみますね。」

 

サムネイルを撮るに当たっての俺の役目は、兎にも角にも選択肢を増やすことだ。上下左右に角度を変えて、寄って、引く。パーツの配置を変更したりポーズを変えたりしている夏目さんのことを、暫くそうして様々なやり方で撮っていると……ようやく彼女からのオーケーが出る。結構長く撮ったな。それだけこの動画には期待しているということか。

 

「……はい、もう大丈夫です。一度録画を切っちゃってください。」

 

「了解です。……オープニングだけは新しい方のカメラを三脚に付けて、古いカメラを私が持つようにしましょうか? どちらかと言えば固定されている方が『メインカメラ』になりそうですし。」

 

「あっ、そっちの方がいいですね。それでお願いします。……あとあの、ソファをもうちょっとだけ前にしたいです。テーブルに近付ける感じで。」

 

「分かりました、動かします。」

 

即座にソファの位置を少し前に動かして、それに合わせてカメラの画角も再調整していく。そのまま夏目さんからの最終確認を受けた後、固定カメラと手に持ったビデオカメラの録画ボタンを押し、ソファに腰を下ろした彼女にアイコンタクトを送ってやれば……『さくどん』は小さく深呼吸してから動画をスタートさせた。

 

「どうも、さくどんです! 今日はですね、いつもと全然違う場所で撮影してるんですけど……何とここ、ホワイトノーツの事務所の空き部屋でして。今回の動画は色んな角度から撮りたいってことで、使わせてもらうことになりました。」

 

そこで一度パンと手を叩いた夏目さんは、笑顔で両手を広げてパーツの箱を示しながら続きを語る。

 

「それで、何をするかと言えば……これ! タイトルにもある通り、自作パソコンを組んでみたいと思ってるんです! 前々から動画編集ソフトが重くて大変だったので、一大決心をして組んでみることにしました。初めての自作なので間違っちゃうこともあるかもですけど、そういう時はコメントで注意していただけると助かります。……ちなみに、予算の都合上あんまりハイスペックではありません。ミドルスペック? ミドルロー? に当たる感じになっちゃいそうです。」

 

話しながら残念そうに苦笑すると、夏目さんはパーツの紹介に移っていく。カメラを前にすると表情が多彩になるな。ここまでは良い導入だと思うぞ。

 

「それでは、パーツを一つ一つ紹介しながらその辺のことも話したいと思います。先ずは……これですね、マザーボード。私が買ったのはドリームスター社さんの鉄板マザーボードである、オニキスシリーズのゲーミングモデルです。私はゲームをしないんですけど、端子の数や載せるCPUとメモリのことを考えた結果、これが一番コスパと相性が良いってことに──」

 

うーむ、さっぱり分からん。昨日の夜にサラッとだけ勉強してみたのだが、いまいちついて行けていないぞ。……ただまあ、『何だか面白そう』という漠然としたわくわくはあるな。細かく理解できなくても、こういう複雑そうな機械には何となく興味を惹かれてしまうものだ。ホームセンターで使えもしない専門工具を見たくなるあの気持ち。あれに近いものがあるかもしれない。

 

「実はタイフーン社さんのシルバースタイル・プロとも迷ったんですけど、そっちは高くて買えませんでした。比べると一万二千円増しになっちゃうんですよね。……でもでも、何とこれを買ったパーツショップの店長さんが動画の視聴者さんで、ご厚意で値引きしてくれまして。お陰で予算が浮いたから、グラボを当初の予定より良いやつに出来たんです! 店長さん、本当にありがとうございました! ……概要欄の方にお店の情報を載せておきますので、自作パソコンにチャレンジしてみたいって方は是非行ってみてくださいね。色々教えてくれましたし、とっても親切なお店でしたよ。」

 

うん、良いんじゃないかな。別にあの店長さんは『安くする代わりに動画で宣伝してくれ』とまでは言っていなかったし、あくまで応援という形で値引いてくれたのだろうが……こういう善意にはきちんと善意で応えるべきだ。

 

夏目さんがそこまで意識しているかはともかくとして、ひょっとするとこれを見てくれた企業が『うちも頼もうかな』と声をかけてくれるかもしれないし、一番最初の『スポンサー』としては悪くないケースになったと思うぞ。そんなことを思考しながらカメラ越しに夏目さんを見ていると、どんどんパーツの紹介を進めていった彼女は最後にCPUを手に取った。曰く、あのパーツこそがパソコンの『頭脳』であるらしい。

 

「そしてそして、これが今回使うCPUです。マザーボードからして当然なんですけど、無難にナノロジック社さんのCPUにしちゃいました。かなーり迷ったんですが、初心者ということで安定性を重視した感じですね。私が使ってる編集用ソフトとの相性も良いみたいですし、プラスゼロ社さんのCPUはまた今度もっと慣れてからチャレンジしたいと思います。」

 

その後型番の説明や上位、下位グレード製品の話をちょこっとだけ挟んだ夏目さんは、最後に纏めを語ってから『パーツ紹介』のパートを締める。

 

「まあ、パーツの紹介はこの辺にしておきましょう。まだまだ詳しくないので、実体験とかじゃなくて調べた知識が殆どなんです。一応マザボとメモリの相性とかもチェック済みなんですけど、詳しい方から見ると変なところがあるかもしれません。だからまあ、私の言ってることは参考程度にって感じに受け取ってください。……では、このまま実際に組んでいきますね。」

 

言い切ってから二、三秒の間を空けると、夏目さんはくるくると右手を回した。カットか。オープニングの時点で結構撮っているし、彼女の動画の平均的な尺からするとやはり長めになりそうだ。

 

「……どうでしたか? 説明、抜けてないですよね? こんなに沢山の物を一気に紹介するのは初めてなので、途中からよく分かんなくなってきちゃいました。」

 

「あーっと、そっちの……ケースファン? だけには触っていませんでしたね。他は全て触れたと思います。」

 

「あっ、ケースファン。……まあ、こっちは組んでる最中に説明します。追加で付けるのは一個だけですし。」

 

「パーツの説明自体は特に問題ありませんでしたよ。『どういった役割のパーツなのか』の解説も入っていたので、詳しくなくても何となく伝わってくるような話し方でした。」

 

ケースファンの箱を困ったように持ち上げた夏目さんに、二台のカメラの録画を止めて感想を投げてみれば……彼女は嬉しそうにふにゃっと笑って応じてくる。この笑みを撮影中に見せて欲しいんだけどな。夏目さんの表情の中で一番魅力的な笑みだぞ。

 

「えへへ、それなら良かったです。じゃあ、えっと……一旦机の上を片付けないとですね。最初にメモリを嵌めて、次にCPUとCPUクーラーを付けてって順番でやっていきます。参考にしたサイトだと最初にCPUってパターンが多かったんですけど、このクーラーだと付けた後にメモリが挿し難くなっちゃうみたいなので。」

 

「工程はさっぱりなのでお任せします。……使わないパーツの箱は画面の外に置きますか?」

 

「あー……後ろの見えるところに置きましょう。その方がちょっとだけ華やかになるでしょうし。」

 

「了解です。私からだと大丈夫に見えましたが、念のためざっと動画のチェックをお願いします。箱から出してしまうと撮り直せませんしね。」

 

箱がどこに置かれていようが視聴者は大して気にしないかもしれないが、こういう小さな小さな要素を積み重ねるのが肝要なのだろう。パーツを移動させながら頼んでみると、夏目さんは三脚に固定されているカメラを弄って動画の確認をし始めた。

 

「んー……はい、良いと思います。イメージ通りの映り方です。」

 

「こちらのカメラで部分部分の寄りの画を撮っておいたので、もし使うなら編集で組み込んでください。」

 

「助かります。それじゃあ、続きをやりましょうか。ドライバーと、静電気防止手袋と、結束バンドと、グリス……ああ、グリス。グリスの説明もしてませんでしたね。ここを気にする人も多いみたいなので、CPUクーラーを取り付ける時にやらないと。」

 

「重要な物なんですか?」

 

『グリス』と聞くと単車の整備を思い出すが、多分それとは違う物なんだろうな。好奇心から問いかけてみれば、夏目さんは一つ首肯して応答してくる。

 

「凄く重要みたいですよ。……これを塗る工程が怖いんですよね。塗り方にルールがあるらしいんですけど、調べれば調べるほどに違った意見が出てきちゃって、初心者からすると何がなんだか分かんなかったです。難しそうなので失敗するかもって恐怖もありますし、塗り方がおかしくてリスナーさんから突っ込まれるかもって恐怖もあります。」

 

「そういえば、昨日店長さんに聞いていましたね。」

 

「店長さんは『グリスの塗り方は宗教だから、そんなに気にしなくても大丈夫』って言ってくれたんですけどね。……『正解が分からなかった』ってところは正直に話しつつ、慎重にチャレンジしてみます。ドキドキしてきました。」

 

『宗教』か。上手い言い回しかもしれないな。『どっちもどっち』な時は意見が割れるし、そういう場合は往々にして確たる正解が得られない。どんな分野にも同じような部分はあるはずだ。マネジメントにも、バイクの整備にもそれはあったのだから。

 

「録画、始めますね。」

 

『どっちもどっちの泥沼』に同情しながら夏目さんに合図を飛ばしてみると、彼女は軽く頷いてから次なるパートを開始した。

 

「はい、それじゃあ最初にマザーボードを箱から出してみます。ちなみにこの手袋は静電気を防止するための物です。滅多にないらしいんですけど、静電気でパーツが壊れちゃうこともあるみたいで。初めての自作なのでまあ、念には念を入れて使ってるって感じですね。ではでは、取り出していきましょう。……おー、カッコいいです。CPUクーラーの取り付けとかで圧力がかかるので、箱とか包装のスポンジとかを下に敷くと良いそうですよ。参考にした動画で知りました。」

 

喋りながらマザーボードを出す夏目さんの手元を、近付いてビデオカメラで映す。打ち合わせの際の彼女曰く、箱から出す瞬間はなるべく近くで映して欲しいんだそうだ。その瞬間が一番わくわくするから、きっちりカメラに収めたいらしい。

 

まあ、分からなくもないぞ。言われてみれば、箱から『現物』が出てくる瞬間というのはわくわくするものだ。着眼点に感心しつつ、固定カメラの画角も意識してカメラを動かしていると……パッケージからメモリを取り出した夏目さんが、マザーボードの説明書を横目にしながらそれを嵌め込む。

 

「えーっと、説明書が英語なのではっきりとは言えませんけど、向きは合ってるはずです。切り欠きがここなので、多分合ってます。でも、これ……結構グッてやってるのに、全然入らないですね。んっ、んっ! ……向き、合ってますよね? ひょっとして、間違ってます? 壊れそうで怖いんですけど。パチッてなるはずなんですよ、パチッて。」

 

苦戦しているな。恐らく本気で焦っているのであろう夏目さんは、無言で説明書をじっくり確認した後……長い無言だし、ここはカットするんだろう。確認した後で再度メモリをマザーボードの溝に押し込み始めた。

 

「説明書の図からするに合ってるはずです。だから単純に力が足りてない……あっ、パチッてなりました。こんなに思いっきりやらないとダメなんですね。何か壊しちゃったのかと思って一瞬ヒヤッとしましたよ。じゃあその、残る三枚も同じように挿していきます!」

 

俺も若干怖かったぞ。マザーボードがバキッといきそうな力の込め方だったな。そこそこの時間を使って四枚のメモリを挿し終えると、夏目さんは続いてCPUの箱を手に取る。

 

「はい、これでオッケーです! 何とかメモリを挿せたので、次はCPUを嵌めていきたいと思います。……すみません、ちょっとカットで。スマホでもう一回動画を確認してもいいですか? ここからCPUクーラーの取り付けまでは一連になると思うので、改めて手順をチェックしておきたいです。」

 

「分かりました、録画を止めますね。」

 

俺と同じく、夏目さんも予想外の苦戦で不安になってきたらしい。……これは、時間がかかりそうだな。このペースだと昼休憩を挟んだ後、更に数時間かかるかもしれないぞ。尺的には大丈夫なんだろうか?

 

「夏目さん、この調子だと動画が結構な長さになってしまうと思うんですが。」

 

取り出したスマートフォンで参考動画を視聴している夏目さんに呼びかけてみれば、彼女は眉根を寄せながら同意してきた。

 

「私もそう思いますし、前編後編で二本に分けるかもです。……というか、分けます。どこかに前編の短い締めと、後編のスタートを挟みますね。」

 

「その方が良さそうですね。」

 

あまりにも長すぎるのは問題だし、撮影の段階で構成を変えられるなら変えるべきだろう。そうすれば編集する際の労力が減るはずだ。……いやはや、何もかもに臨機応変が求められるな。動画撮影の難しさを実感するぞ。

 

───

 

「えーと、これで……はい、大丈夫なはずです! あとはOSをインストールするだけですね。それではやってみたいと思います!」

 

そして、午後三時。昼休憩の一時間を抜いたとしても約三時間。それだけの時間が経過した段階で、ようやく撮影の終了が見えてきた。……まあ、失敗らしい失敗はなかったな。CPUクーラーが邪魔でケースファンのピンを中々挿せなかったのと、配線を纏めるのに手間取ったくらいだ。香月社長に英語の説明書の翻訳を頼んだり、何度も録画外で入念に参考動画やサイトをチェックした甲斐はあったらしい。

 

元気に言い放った後で力なく右手を回した夏目さんに従って、カメラの録画停止ボタンを押していると……疲れた表情のクリエイターどのが話しかけてくる。

 

「これで電源が入らなかったら泣きます。そうなった場合、どこが間違ってるのかすら分かりませんし。」

 

「最初のテストでは上手く起動したんですから、きっと正常に動きますよ。モニター、持ってきますね。」

 

『最小構成』なる状態で動いたんだから、この完成した状態でも無事に動作してくれるはずだ。それを祈りつつ事務所スペースに移動して、テストでも使った俺のモニターを手に取ったところで、隣のデスクで作業をしている香月社長が声をかけてきた。

 

「遂に完成したのかい?」

 

「したはずです。これから起動させて、OSをインストールしてみます。」

 

「言っている意味はよく分からんが……つまり、この期に及んで動かない可能性も残ってはいるわけだ。」

 

「不吉なことを言わないでくださいよ。」

 

茶々を入れてきた香月社長に注意してから、モニターを撮影スペースに運び込んでみれば、三脚の位置を変えている夏目さんの姿が目に入ってくる。ソファの横に置いているな。斜め後ろから撮ろうとしているらしい。

 

「駒場さん、モニターはここにお願いします。固定カメラで画面を映しますから。」

 

「了解しました。」

 

センターテーブルの指定された位置にモニターを設置して、夏目さんが配線を繋ぐのを見守った後、彼女に向けてビデオカメラを構えた。固定カメラが背後から映すなら、俺は正面と側面を撮るべきだろう。

 

「じゃあ、始めますね。……それでは、皆さん。モニターをグラボに繋いだので、いよいよ『初起動』いってみましょう! 電源、オン!」

 

こちらのカメラに対して宣言した夏目さんは、完成したパソコンの電源ボタンを人差し指で軽く押す。すると……よしよし、安心したぞ。『フィーン』という小さな音と共にケースのファンが動き出し、数秒空けてからモニターにメーカーのロゴが映った。成功したらしい。

 

「うあー、良かったです。動きました! それじゃあさっきみたいにBIOS画面にして……はい、ハードディスクもちゃんと認識されてますね。あとはOSのディスクを入れて、それを読み込んで画面の指示通りに進めていくだけらしいので、ちゃちゃっとやっていきたいと思います!」

 

そのままキーボードを操作しながら解説していき、一段落したところで夏目さんは再び右手を回す。残るはエンディング部分だけか。

 

「ここでパーティション分割も出来るみたいなんですけど、今回はやめておきます。難しくて掴み切れませんでしたし、どうせハードディスクは動画ですぐ埋まっちゃうと思うので。メインの方のディスクにOSとかを入れて、もう一個をとりあえずの動画保存に使っていく予定です。では、ここからは暫く待ち時間ですね。……成功しましたよ、駒場さん。ホッとしました。」

 

「私もホッとしました。インストールは長くかかるんですか?」

 

「結構かかっちゃうみたいです。だから終わるまで休憩……じゃなくて、片付けをしようと思います。」

 

台詞の途中で背後の空き箱に目をやった夏目さんへと、録画を止めたカメラをテーブルに置きつつ応答した。

 

「取っておく必要がない物は置いていって大丈夫ですよ。事務所のゴミとして捨てますから。」

 

「んっと、パーツの箱は基本的に取っておいた方がいいみたいです。売る時の値段に関係してきますし、無いと保険とか返品が利かなくなっちゃいますから。……けど、全部は家に置いておけませんね。CPUとグラボ、マザーボードの箱だけ取っておくことにします。」

 

まあ、今の夏目さんの私室は既に一杯一杯だもんな。この空き箱全てを保管するのは難しいだろう。然もありなんと首肯しつつ、事務所スペースの方を指して返事を返す。

 

「何にせよ、少し休憩しましょう。動画の締めはどんな感じになりそうですか?」

 

「パソコン本体とデスクトップ画面が映ってるモニターを左右に置いて、纏めをちょっとだけ話す予定です。三分は使わないと思います。……二十分前後を二本に収めようと考えてるんですけど、いけますかね?」

 

「前編後編で計四十分ですか。可能だとは思いますが、それなりにカットすることになりそうですね。」

 

内容自体は濃かったので、頑張れば三十分を二本でもいけそうだが……妥当なところではあるかな。『参考になる部分』とか、『面白い部分』を抽出していくと四十分程度になるはずだ。内容が必要以上に薄まるのは避けたいし、そこがちょうど良いラインなのかもしれない。現状のライフストリームだと、二十分でも『かなり長めの動画』に位置するわけだし。

 

自分のデスクに着きながら思案している俺に、夏目さんが近くの椅子に腰を下ろして口を開く。彼女が座っているのは今はまだ居ない事務員用の椅子だ。デスクが四台あるので、椅子も四脚買ったのである。一脚は梱包されたままだが。

 

「編集に凄い時間がかかっちゃいそうです。……『お知らせ動画』からはテロップを入れようと思ってるので、今までより編集時間が長くなるでしょうし。」

 

「お知らせ動画、デスソース、自作パソコンの順番で上げるんですよね?」

 

「そうなりますね。デスソースと自作パソコンは伸びて欲しい動画なので、妥協しないで編集してみます。……そういえば、動画を上げる前に駒場さんにも確認してもらった方がいいんでしょうか?」

 

「可能ならお願いします。構成そのものには口出ししないつもりですが、誤字脱字といった細かい点には気付けるはずですから。」

 

現在の俺はあくまでマネージャーなので、『ここをこうした方が良い』とは口煩く意見すべきじゃないだろう。そもそも夏目さんの方がライフストリームを『分かっている』わけだし、こっちが学ばせてもらう立場なのだ。……それにまあ、いちいち口出しすると鬱陶しく思われかねない。もう少し信頼関係を築けた後ならともかくとして、担当するや否や細かく注文を入れるのは愚策に過ぎるぞ。

 

俺がマネジメントすべきは動画そのものではなく、それを作っている夏目さんの方だ。物ではなく人を扱う仕事なのだから、こういう部分に対しては慎重になるべきだろう。思考しながら答えてみれば、夏目さんは悩んでいる顔付きで声を寄越してきた。

 

「どの段階の動画を送るべきでしょうか? つまりその、完成版にノーを出されるとやり直しが難しいんです。だから問題があれば早い段階で指摘して欲しいんですけど、編集する毎に送ってたら駒場さんの迷惑になっちゃうでしょうし。」

 

「余程のこと……例えばライフストリームの規約に明らかに反していたり、個人情報に触れる物が映り込んでいたり、法律や道徳的にアップロードするのが危険な動画でない限り、こちらから『ノーを出す』ということはありません。ただし不安であれば何度送ってもらっても大丈夫ですし、どこが気になっているかを教えていただければしっかりとチェックしますよ。……当面は最初に大きくカットした動画と、編集後の完成版を送ってもらえるとありがたいです。私と香月社長で確認しますから。」

 

「なら、最初の段階で私が英訳しようか。それなら最終版に合わせて少し調整するだけで、アップロードと同時に字幕を付けられるからね。動画を開いてみて『あれ、字幕はまだか』だとがっかりするだろうし、最初から付けておくに越したことはないはずだ。」

 

ああ、良いアイディアだな。俺が日本語のテロップの誤字や映り込みなんかのチェックをして、香月社長にオンオフが可能な英語の字幕を付けてもらい、それを夏目さんに送り返せばいいわけだ。俺と社長の返答を耳にした夏目さんは、頷きながらしみじみと応じてくる。

 

「あの、助かります。……伸びて欲しいですね、動画。」

 

「再生数は必ず伸びるさ。ライフストリームの視聴者数という根本の数字が大きくなっているんだから、そも伸びないはずがないんだ。君の場合は土台も持っているしね。……問題なのは『伸び率』の方だよ。この段階で頭一つ抜けることが叶えば、それは後々巨大な差になってくる。これからの一年が勝負所だぞ、夏目君。もちろん私たちも出し惜しみせずに支援していくつもりだ。君の成功は即ちホワイトノーツの成功で、失敗もまた然りなんだから。」

 

「香月社長、プレッシャーを与えないでくださいよ。」

 

「別に責任を負わせる気はないさ。それを負うのは夏目君でも駒場君でもなく、社長たる私の役目だ。私は私の責任を誰かにくれてやったりはしないんでね。……私が言いたいのは、『一蓮托生』ってことだよ。成功と失敗を分かち合う人間が居ることを覚えておいて欲しいんだ。だってほら、どちらかだけを分けるのはフェアじゃないだろう? 君の成功が私たちの成功に繋がっている以上、私たちは君の失敗の三分の一ずつを背負う義務がある。権利と義務が背中合わせでなければ、何事も成立しないのさ。そこは心に留めておきたまえ、夏目君。成功だけを預けてしまえば大損だぞ。きちんと失敗も預けるように。」

 

うーん、やはり口では敵わないな。胸を張って『失敗』も共に背負うことを主張した香月社長へと、夏目さんは感じ入っているような表情で応答した。こういうことを堂々と言える人物だからこそ、この人は『社長』なのかもしれない。平の社員をやっているところなんて全然想像できないぞ。

 

「わ、分かりました。失敗だけじゃなくて、成功も共有できるように頑張ってみます。」

 

「うんうん、その意気だ。……なぁに、僅か数年後には君こそが日本のライフストリーマーを代表する人物になっているよ。私がそうしてみせるさ。色々なものを対価に『スタートダッシュ』をしたんだから、そうでなければ報われない。後ろに歩き易い道は作ってやるが、代わりに先頭を進むのは常に私たちだ。この位置だけは意地でも譲らん。」

 

「……随分と挑戦的な発言じゃないですか。」

 

「当たり前じゃないか、駒場君。人にはそれぞれ適した役割というものがあるんだよ。他者が切り拓いた道を整備する者も居れば、横道に逸れていく者も居るだろうね。そこに貴賎などない。どれも大切な役割で、絶対に必要なものなんだ。……しかしながら、私は骨の髄まで『切り拓く者』なのさ。後塵を拝するのなど我慢ならん。これはもう生まれ持った性分で、同時に私の矜持なんだよ。ならば痩せ我慢をしてでも押し通す他ないだろう?」

 

肩を竦めて豪語した香月社長は、くつくつと喉を鳴らして会話を締める。生まれながらの開拓者か。『成功か、死か』という話は比喩ではなかったらしい。ぶっ飛んでいる人だな。

 

「ま、後々思い返した時にでも理解してくれればいいよ。後ろに誰も居ない現状だと、前を進んでいる自覚は得られないだろうからね。そのうち分かるさ。私が何をやりたいのかが。……夏目君、君はとにかく攻めまくりたまえ。駒場君をカメラマンにして、運転手にして、荷物持ちにして財布にして、尻込みせずに動画の幅を広げるんだ。大きな船になると方向転換が難しくなるから、試してみるなら今のうちだよ。何かやりたいことはないのかい?」

 

「やりたいこと、ですか。……えと、前にも言ったように外での撮影はやってみたいです。人気のカフェとか、遊園地とか、レストランに行ってみる動画を撮りたいなと思ってて。」

 

「いいじゃないか。撮影許可が下りないならそれまでだが、先ず掛け合ってみなければ始まらない。駒場君と話して場所の候補を決めてくれ。片っ端から交渉してみよう。」

 

「私も面白い動画になると思いますし、近々話し合ってみましょう。何とか許可を得られるように、マネージャーとして努力してみます。」

 

『人気の飲食店』は他のお客さんが多いので店側の反応が分かれそうだが、遊園地はいけそうじゃないか? ライフストリームは権利関係の柵が緩いし、撮影自体も少人数で行える分、外での撮影はむしろ民放よりやり易そうだぞ。上手く進めていけば、さくどんチャンネル特有の映像として成立させられるかもしれない。

 

何れにせよ、詰めていく価値はありそうな分野だ。……むう、考えれば考えるほどに多様な可能性が浮かび上がってくるな。無数のジャンルが成立してしまいそうだぞ。夏目さんとは全く方向性が違うクリエイターが所属することだって大いに有り得るわけだし、今後は広い視点で行動していかなければ。

 

進歩と、そして新たな問題の登場。それの繰り返しだなと苦笑しながら、自分の肩を軽く揉み解すのだった。

 



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Ⅰ.さくどん ⑥

 

 

「じゃあ、ハーモニーランドで撮影できるんですか? ……嬉しいですけど、ちょっと意外です。権利関係とかが厳しそうなイメージがあったので。」

 

自作パソコンの動画撮影から五日後。雨が降る水曜日の午後に、俺と夏目さんはファミリーレストランで打ち合わせをしていた。この五日間は直接顔を合わせなかったが、電話やメールで何度もやり取りを重ねた結果、関東最大の遊園地で撮影しようと当たりを付けたのだ。

 

ハーモニーランド・ジャパン。それは北アメリカのエンターテインメント企業であるハーモニー・スタジオが運営している、東京と千葉の境に存在する巨大テーマパークの名前だ。ハーモニー社が手掛けた数々のアニメーション作品の世界観を、そのまま一つの町規模で再現した日本有数の『手堅い』観光スポットであり、開園から三十年が経とうとしている今なお進化し続けている大人気の遊園地。それがハーモニーランドなのである。

 

「電話で確認したところ、撮影した動画をライフストリームに投稿するのは問題ないようです。私としてもすんなりオーケーされて少し驚きましたね。……ただし撮影禁止の場所は勿論ダメですし、他のお客さんに気を使って撮って欲しいとのことでした。」

 

昨日ハーモニーランドに電話して得た回答を伝えてみると、ジーンズにパーカー姿の夏目さんはむむむと悩みながら応じてきた。こういう動作も躊躇わず見せてくれるようになってきたな。

 

「カメラを上手く振って、通行人が映らないように撮るのは……さすがに不可能ですよね? どの時間に行っても混んでるでしょうし。」

 

「無理でしょうね。肖像権的には『不特定多数の通行人が映り込む』のは一応セーフらしいんですが、万全を期するのであればぼかしを入れるべきかもしれません。その辺はかなり難しい部分なので、社長が友人の弁護士さんに相談に行ってくれています。……もしやるとしたらぼかしの編集、可能ですか? 個人的にはそこまでしなくてもと思いますけど、万が一やることになった際に可能か不可能かだけは把握しておきたいんです。」

 

「時間はかかりますけど、ぼかしを入れるのは多分可能です。もし入れることになっても、なるべく映らないように意識して撮れば何とかなるかもしれません。……ちなみに、アトラクションの撮影は当然ダメですよね?」

 

「基本的にはダメみたいですね。パーク内での様子を撮ったり、お店の映像がメインになると思います。アトラクションは乗る前と乗った後の感想を、建物をバックに語れる程度のはずです。……電話の対応をしてくださった方が言っていたんですが、併設されているホテルでも撮影は可能らしいですよ? ロビーや部屋の中は問題ないんだとか。パーク内にあるホテルならバルコニーから風景も撮れるし、そこを狙ってみるのもありだと教えてくれました。」

 

アドバイスまでしてくれる丁寧な対応だったことを思い出しつつ言ってみれば、夏目さんはぱっちり目を開いてこくこく頷いてくる。

 

「それ、良いと思います。凄く良いです。ハーモニーランドはホテルも人気ですし、関心を持ってくれる人は沢山居るはずですから。……でも、一泊の値段ってどのくらいなんでしょう?」

 

「バルコニーから良い風景を撮れる部屋だと、一泊六万円代後半から十万円程度になるそうですね。」

 

「じゅっ、十万円? 一泊でですか? ……六万円後半の部屋でも無理ですね。パソコンを組んだばっかりでお金がありません。多少赤字でも動画が面白くなるならいいんですけど、そこまで行くと貯金残高的に不可能ですし。」

 

これでも安い時期ではあるらしいぞ。夏休みシーズンからクリスマスにかけてが繁忙期で、年明け直後と今の時期が閑散期なんだそうだ。ハーモニーランドは年中繁盛しているから、所詮焼け石に水みたいだが。

 

調べて手に入れた情報を頭から引き出しつつ、がっかりしている夏目さんに明るい報告を飛ばす。

 

「もし行くのであれば、香月社長がホテルの代金を出してくれるそうです。自分も行きたいから構わないと言っていました。どうせツインルームになるのでちょうど良いと。」

 

「……それ、凄く申し訳ない気分になります。」

 

「私が見たところ、少なくとも『ハーモニーランドに行きたい』という部分は本音みたいでしたよ。以前から興味があったらしいです。ツインルーム云々も事実ですし、ここは甘えてもいいんじゃないでしょうか?」

 

「でも、あの……駒場さんはどうなるんですか? 私と香月さんがホテルに泊まるって意味ですよね?」

 

おずおずと問いかけてきた夏目さんへと、至極当然の答えを返した。

 

「私は夜に一度帰宅して、次の日の朝に戻ってきます。それが難しそうならビジネスホテルやネットカフェという選択肢もありますし、どうにでもなりますよ。」

 

「そうなると、申し訳ない気分が更に増すんですけど。」

 

「まさか同じ部屋に泊まるわけにはいきませんから、これ以外に選択肢がありませんよ。ここに関しては夏目さんが自費で行くにせよ同じことなので、気にしなくて大丈夫です。」

 

夏目さんは未成年の女性なのだから、俺と同室など到底有り得ない話だ。警察の厄介になるのは御免だし、クリエイターのイメージを守るべきマネージャーがそんなことをするなど言語道断だろう。職責的にも道徳的にも、そこらの道端で寝た方がまだマシだぞ。

 

責任ある社会人として当たり前のことを口にした俺に、夏目さんはちらちらと視線を送りつつ返事をしてくる。

 

「いやでも、駒場さんだけそんなことになっちゃうのは……どうにかならないんでしょうか?」

 

「二部屋取れば安くても十万円を超えます。それに比べれば運転して帰った方が遥かに良いですよ。特段苦とも思わないので、本当に気にしないでください。」

 

「うーん、でも……そもそも香月さんにホテル代を出してもらうって点からして変な感じがします。」

 

「制作費の援助と考えればおかしな話ではありませんよ。『社員旅行』とも取れますしね。……どうしても引っ掛かるなら、あくまで仕事だと捉えてみてください。泊まらなければ撮れませんし、レビューも出来ません。だから泊まるんです。」

 

目的と手段がごっちゃになっているから変になるのだ。……いやまあ、それがライフストリームか。夏目さんが楽しむこと自体も動画の重要な要素になっているから、線引きがあやふやになってしまうわけだな。

 

うーむ、考えていると訳が分からなくなってくるぞ。夏目さんとしてはハーモニーランドに行きたいし、パーク内のホテルに泊まってみたいし、動画も撮りたいわけなんだから、願ったり叶ったりの展開であるはずだ。それなのに俺が彼女を説得している構図は奇妙じゃないか?

 

段々よく分からなくなってきた俺に対して、夏目さんは小首を傾げながら応答してきた。彼女も同じような心境らしい。要するに遠慮しているんだろうな。

 

「それは……えっと、あれ? 何だか分からなくなってきました。」

 

「つまりですね、香月社長はハーモニーランドに行きたいんです。それでどうせならパーク内のホテルにも泊まりたいけど、基本的にツインルームだから一人で使うのは勿体無いので、夏目さんも一緒にどうかというだけのことですよ。そして私は『ロケ』に行く夏目さんに付いているマネージャーだから、一度普通に帰宅するわけですね。」

 

「……私だけが得してませんか?」

 

「仕事なんですから得も何もないでしょう。……ホテルの紹介で一本、二日間ハーモニーランドで撮影してもう一本か二本。どれも質の高い動画になるでしょうし、これを逃す手はありません。私は行くべきだと思います。」

 

かなり強引に纏めてやれば、夏目さんは……むう、少し心配になる素直さだな。気圧されたように首肯してくる。

 

「あっ、はい。駒場さんがそう言うならそうなのかもしれません。……じゃああの、ホテルは香月さんにお願いしてもいいでしょうか?」

 

「何も問題ありません。あの人は『投資』が好きですから、喜んでくれるはずです。」

 

実際のところ、ハーモニーランドの動画は興味を持つ人が多いはずだ。普段夏目さんの動画を見ていない人も視聴してくれるかもしれないし、『新規視聴者開拓』のための投資だと考えれば安いくらいだぞ。

 

分の良い賭けであることを予感しながら、続けて別の話題を夏目さんに投げかけた。

 

「では、ハーモニーランドに関してはスケジュールの調整をして近いうちに行くとして……他の動画の編集は順調ですか?」

 

「電話で伝えた通り、『お知らせ動画』はほぼ完成してます。今日の夜に最後の見直しをするので、そしたら完成版を駒場さんに送りますね。けど、デスソースと自作パソコンはもうちょっとかかっちゃいそうです。テロップを入れるのが案外難しくて。」

 

「やはり難しいですか。」

 

「入れるの自体は順調なんですけど、『テロップを入れたい場面』が多すぎて収拾がつかないんです。それで何度も何度も見直してたら、いよいよ分からなくなってきちゃいました。……一回駒場さんに見てもらってもいいでしょうか? 私はもう客観性、完全に失っちゃってると思いますし。」

 

予想外の問題だな。むしろテロップが多すぎて邪魔にならないかを心配しているわけか。小さくため息を吐く夏目さんへと、アイスコーヒーを一口飲んでから返答する。

 

「分かりました、後で送ってください。確認してみます。……夏目さん、きちんと休んでいますよね?」

 

「まあ、あの……私の場合は動画編集が趣味みたいな感じですから、他にやることが無い時は編集をしてます。」

 

「楽しんでいるのであれば止めはしませんが、適度な休憩だけは心掛けてください。心配になります。」

 

夏目さんはこの五日間も休まず投稿し続けているのだ。商品紹介をする五分程度の動画を四本と、十数分の料理動画を一本。止まったら死ぬマグロみたいなやり方だな。並行して他の動画の編集もしているわけだし、いつかぱたりと倒れてしまいそうで怖くなってくるぞ。

 

これがまあ、『楽しんで夢中になっている』だったら良いことなのだが……『投稿頻度を保つために、辛くてもやらなければならない』になってしまうと宜しくない。動画の質を上げようとすれば編集時間も増えるので、どこかで投稿頻度が落ちるのは必然なのだ。そこで無理をしてペースを保とうとするのであれば、ストップをかけるのは俺の役目だな。

 

無論、やり方を変えればペースを保つことも不可能ではないはず。編集を手伝ってくれる人間を別に雇うとか、質より量を重視して編集を多少甘くするとか。それも一つの選択肢ではあると思うのだが……まあ、夏目さんがそういう手段を選ばないことはもう分かっているさ。これまで接してきた彼女は量のために質を落とせるタイプではないし、どんなに忙しくても自分で編集することに拘るだろう。ならば俺がストッパーになる日は必ず来るはずだ。

 

目の前の夏目さんの様子からするにまだ先の話だろうが、異変を見過ごさないように今のうちから気遣っておくべきだな。そんなことを思案していると、顔を俯かせた夏目さんが上目遣いで反応してきた。変な表情だ。笑うのを我慢するかのように、口をむにむにさせているぞ。どういう感情なんだろう?

 

「駒場さんは私のこと……心配、してくれるんですね。」

 

「それはそうです。当たり前じゃないですか。」

 

「えへ、そうですか。当たり前ですか。……じゃあその、もっと電話してもいいですか? あんまり頻繁にするのは迷惑かなと思ったんですけど、メールじゃ伝わらないこともあるので。ダメですかね?」

 

「大丈夫ですよ、回数や時間は気にせずかけてきてください。可能な限りに取りますから。」

 

どうして会話が『電話を増やす』に着地したのかは分からないが、江戸川芸能での経験で担当からの電話には慣れているぞ。昔担当していたタレントの一人が一日二十回近くかけてきていたのだから。……同僚に話した時は『えぇ、多すぎますよ』とドン引きされたものの、あれは要するに『不安を解消するためのおまじない』のようなものだろう。俺が相手であることが重要なのではなくて、誰かに不安や愚痴をこぼせるという点が大切なのだ。

 

現時点で夏目さんは一日五回くらいかけてくるし、彼女もそういうタイプなのかなと特に迷わず了承してやれば、担当クリエイターどのは分かり易く喜びながら口を開く。

 

「良かったです! 私、駒場さんしか相談できる相手が居ないので、本当はもっともっと話したかったんですけど……その、『一般的』な電話の回数が分からなくて。ひょっとしたらかけすぎかなって心配してました。」

 

「人による部分ですからね。他の方はまた違うんでしょうが、私の場合は問題ありませんよ。」

 

「えへへ、じゃあ沢山かけます。」

 

一日五回の時点で、一般的な感覚からすると既に『かけすぎ』かもしれないが……まあいいか。それで夏目さんのモチベーションが上がるなら万々歳だぞ。双方が納得しているのであれば問題はないはず。ないよな? ないはずだ。多分。

 

ちょびっとだけの不安を心中から追い出したところで、店員が注文した料理を運んできた。俺が頼んだカツカレーと、夏目さんが頼んだ稲庭うどんをだ。……稲庭うどんか? これ。単に麺が細いだけで若干異なっているように思えるぞ。

 

「わ、美味しそうですね。細いうどんって初めて食べます。」

 

とはいえ夏目さんは満足しているようだし、別にいいかと無難な相槌を打つ。富山さんが言っていたように、食事はケチを付けずに食べるのが正解なのだ。問題提起をするのは料理評論家たちに任せて、素人の疑問は胸の内に留めておこう。

 

「讃岐うどんが多数派ですもんね。……しかし、ファミリーレストランを打ち合わせ場所に指定されたのは意外でした。店の中では声を大きくして言えませんが、正直『定食屋・ナツメ』の料理の方が美味しそうですし。」

 

「お父さんの料理は美味しいですけど、たまには違った物が食べたくなるんです。うちは定食しかやってませんから。……それに、ファミレスに来るのは物凄く久し振りなんですよね。小学校低学年とかに来たのが最後だったかもしれません。お母さんが嫌いなんですよ、外食。駒場さんはよく来るんですか?」

 

「ファミリーレストランはそこまで頻繁に利用しませんが、チェーンの牛丼屋や定食屋にはよく行きますよ。私は料理が苦手なので、夜は大抵コンビニの弁当ですしね。むしろ手料理に憧れます。」

 

俺は母子家庭だったので、昔から買ってきた弁当が多かったな。とはいえそこを不満に思ったことは一度もないし、社会に出た今では仕事の後で料理をするのがどれだけ大変かを理解できている。きちんと毎日違った弁当を買ってきてくれていたことに感謝すべきだろう。俺はもう面倒になって、毎回同じコンビニで済ませてしまっているのだから。

 

我ながら健康的とは言い難いなとカツカレーを食べつつ苦笑していると、夏目さんがぴたりとうどんを食べる手を止めた後……小さな声で質問を寄越してきた。

 

「あー……えと、作ってくれる人は居ないんですか? 彼女さん、とか。」

 

「残念ながら、縁がありませんね。今は……というか昔から仕事をこなすのに手一杯で、そういうことを考えている余裕がなかったんです。」

 

「そっ、そうなんですか。そうですか、そうですか。そっかそっか。」

 

ホッとしたように同じ意味の言葉を連発した夏目さんは、再び元気にうどんを食べ始める。……まあ、マネージャーに彼女が居るのは何となく嫌だろうな。この年頃だと異性だろうが同性だろうがちょっとだけやり難いはずだ。

 

これが同世代同士だったら『えー? どんな人?』になるのだろうし、いい歳の大人同士だったら『おー、良いじゃん』になるかもしれないが、年齢に差があるこの関係だと微妙な雰囲気になってしまうらしい。アイドルの場合は自分が恋愛できないので、その辺が顕著だったぞ。そう考えると彼女が居ないのは仕事に好影響なのかもしれないな。

 

何だか言い訳がましい結論になったなと少し落ち込んでいると、夏目さんがご機嫌な顔付きで提案を口にした。

 

「じゃあ、私の料理をいっぱい食べてください。料理動画をやる時、食べてくれる人が居た方がやる気が出ますし。」

 

「……楽しみにしておきます。」

 

これまでに俺が食べた夏目さんの料理は、『デスソース炒飯』ただ一品だ。あの味を思い出して返事がワンテンポ遅れた俺に、夏目さんは大慌てで両手を振りながら話を続けてくる。彼女も炒飯の一件に考えが及んだらしい。

 

「いやいや、違いますよ? デスソースの時は特殊だったんです。いつもは美味しく作ってますから。だってほら、動画にもなってるじゃないですか。……なら、これ。次はこのうどんにチャレンジしてみます。稲庭うどん。天ぷらとかを載せてみましょう。」

 

「それはまあ、確かに美味しそうですが……どの段階から作るんですか?」

 

「もちろん粉からですよ。その方が面白いでしょうし。」

 

「稲庭うどんは難しいと思いますよ。普通のうどんが簡単とまでは言いませんが、比較すればこっちの方が難易度が高いはずです。」

 

詳しくはないが、どう考えても細い方が難しいだろう。粉だって普通とは違うはずだし、となれば当然製法も違うはず。最初は大人しく普通のうどんをやるべきじゃないか? 夏目さんの料理動画にうどんは未登場だし。

 

蕎麦はやっていたなと記憶を手繰りながら意見してみれば、夏目さんは眼前の『稲庭うどんもどき』を見つめて応答してきた。

 

「でも、普通とは違った方が興味を惹けますよ。……それなら、『食べ比べ』はどうですか? 既製の麺とかつゆも買って、自家製うどんがどれだけ近付けたのかを食べ比べて確かめてみましょう。デスソースの時は料理寄りのチャレンジ企画だったので、今回はチャレンジ寄りの料理企画ってことで。」

 

「……よく思い付きますね、そういうの。食べ比べですか。それは面白いかもしれません。」

 

「ですよね? ……今日の分の動画は朝に撮ったので、帰ったら編集の合間にうどんのことを調べてみます。材料とか、作り方とか、必要な道具とかを。店の厨房から器具を借りれば、そこまで沢山買わなくても大丈夫でしょうし。」

 

アイディアは日常の中にあるわけか。やっぱりライフストリームの撮影は生活と直結しているな。まさかファミリーレストランで稲庭うどんを食べた結果、料理動画の企画が決定するとは思わなかったぞ。

 

何にせよ、良い感じではあるな。ハーモニーランドと稲庭うどん。改めて並べると謎すぎる組み合わせだが、丁寧に作っていけばどちらも面白い動画になるだろう。……助言できるように俺も調べておかなければ。撮るジャンルが多様すぎて毎日が発見の連続だぞ。『広く浅く』の夏目さんだからこその状態なのかもしれない。

 

そして、今後は『狭く深く』を動画にするクリエイターも出てくるだろう。ライフストリーム内に『人気の専門チャンネル』は複数存在しているし、ならばホワイトノーツに所属してくれる人も現れるはず。

 

うーん、マネジメントも一筋縄ではいかないな。担当クリエイターの動画を理解できないだなんて話にならないのだから、もし付くことになったらしっかり勉強しなければなるまい。……まあでも、わくわくしていないと言えば嘘になるか。変化に富んでいるのは正直やり甲斐があるぞ。俺には案外合っている仕事のようだ。

 

───

 

「……よし、終わったぞ駒場君。褒めてくれたまえ。私は凄く頑張ったんだから。」

 

そしてファミリーレストランでの打ち合わせから更に五日が過ぎた、新たな週が始まったばかりの月曜日の午前中。事務所で毎度お馴染みの雑務を行っていた俺は、隣のデスクの香月社長から声をかけられていた。どうやら自作パソコン動画の英訳が完了したようだ。

 

「お疲れ様です、社長。デスソースに比べて随分時間がかかりましたね。」

 

「専門用語が多かったから、確認しながらやったんだよ。三度の見直しも済んだし、これにて前編後編共に英語字幕は完成だ。……褒めないのかい? いじけるぞ。」

 

「偉いですね、凄いです。……では、夏目さんに送りましょう。」

 

平坦な声で適当に褒めてみれば……いいのか、それで。香月社長はえっへんと大きな胸を張って口を開く。

 

「そうだろう、そうだろう。夏目君はきっと喜ぶぞ。……明日事務所所属の報告を上げて、明後日とその次でデスソースと自作パソコンか。反応が楽しみだね。」

 

「ギリギリで会社のホームページも間に合いましたし、タイミングとしては上々だと思います。……よくこんな納期で引き受けてくれましたね。結構お洒落で手の込んだデザインなのに。」

 

「私は友人が多いのさ。伝手を頼って間に合わせたんだ。」

 

「事務員の応募は未だありませんけどね。」

 

これでもかと言うほどに得意げになっている香月社長へと、冷静な突っ込みを入れつつスマートフォンをポケットから取り出した。夏目さんに翻訳完了のメールを送らねば。

 

「……それは仕方がないじゃないか。事務員を『スカウト』するのはおかしいだろう? 向こうからのアクションを待つしかないんだよ。」

 

「まあ、のんびり待ちましょうか。所属クリエイターが増えるまでは二人でも……っと、夏目さんからです。」

 

話している途中で着信が入ったので、香月社長に断りながらスマートフォンを操作して出てみれば、夏目さんの声が受話口から聞こえてくる。即座に反応が返ってきたな。偶々スマートフォンを弄っているタイミングでメールが届いたのかもしれない。

 

『あっ、夏目です。メール、見ました。』

 

「はい、お疲れ様です。いつものように字幕データを抽出して送るので、確認よろしくお願いします。」

 

『確認って言っても、英語は読めないんですけどね。……あとあの、ハーモニーランドの件は大丈夫です。来週の月曜日で問題ありません。』

 

「分かりました、それならすぐに予約してしまいますね。……すみません、急になってしまって。目当ての部屋が空いている日がそこだけだったので、逃すと延び延びになってしまうと考えたんです。」

 

よしよし、ハーモニーランドでの撮影は来週の月火に決定だな。早速目の前のパソコンで予約を確定させながら返答すると、夏目さんは慌てたような声色で応じてきた。

 

『いえっ、いえいえ。全然大丈夫です。別に予定なんてありませんし。……パレードの件はどうでしたか?』

 

「問い合わせてみたところ、全部でなければ撮影してアップロードするのは可能だそうです。つまりパレードを通しで上げるのはアウトですが、一部を背景に使うのはセーフとのことでした。昼と夜の両方で撮ってみますか?」

 

『そうですね、そうしたいです。とりあえずどっちのパレードも撮ってみて、両方使うか片方使うかを決めたいと思います。』

 

「では、詳しい時間などを調べておきますね。ちなみに天気予報は月曜日も火曜日も晴れでした。恐らく規定の時間通りに開催されるはずです。」

 

ラッキーな報告をしてみれば、夏目さんは嬉しそうな声で会話を続けてくる。曇り程度ならまだいいが、雨だと撮影は難しくなるだろう。晴れそうで何よりだぞ。

 

『良かったです、ホッとしました。それであの、当日の服装なんですけど……ロングスカートかパンツルックにするかで迷ってるので、意見をくれませんか? 写真で送ります。』

 

「ファッションには特に詳しくないので、私の意見はあまり参考にならないと思いますが……。」

 

『でも、他に聞ける人が居ないんです。妹はどっちでも良いって適当なことしか言ってくれないし、お母さんは女の子なんだからスカートにしなさいとしか言わないし……ダメでしょうか?』

 

「いやまあ、私なりに考えた上で答えることは出来ます。送ってみてください。……ただし、結局は私個人の好みになりますよ?」

 

女性の服に対して意見なんて出来ないぞ。何故なら俺は量販店で無地の服を買うタイプの人間なのだから。こういう時にスタイリストが居ないのは困るなと眉根を寄せつつ相槌を打つと、夏目さんは短く間を空けた後で声を返してきた。

 

『ぁ……はい、駒場さんの好みでいいです。どっちも良いけど、どっちかにしないとって状態なので。』

 

「なら、一日目と二日目でそれぞれ着るのはどうでしょう?」

 

『二日目のは決まってるんです。一日目で迷ってまして。』

 

「なるほど。……了解しました、真剣に選んでみます。」

 

『衣装』と考えると重要なわけだし、俺なりに真面目に選んでみよう。これっぽっちも自信はないが、背を押すことは出来るはずだ。自分のファッションセンスの低さを悲しく思いつつ、そのまま細かい話をいくつかした後、電話を切って香月社長に向き直ってみれば……彼女はかっくり首を傾げて疑問を放ってくる。

 

「君、最近よく夏目君と電話しているね。頻繁にかかってくるのかい?」

 

「はい、一日十回程度はかかってきますね。」

 

「……それは、多すぎじゃないかな?」

 

「多いとは思いますけど、こういう部分のケアもマネージャーの仕事ですよ。」

 

夏目さんの場合、かかってくる時間が決まっているのでまだ楽だぞ。彼女はきっちり十時から十九時までの間にしかかけてこないのだ。昔担当していた子は深夜だろうと明け方だろうとかけてきていたので、この程度であれば別段問題はないさ。

 

肩を竦めて言ってみると、香月社長はよく分からないという顔で曖昧に頷く。

 

「そういうものなのか。……私には出来そうにない仕事だね。電話は嫌いだよ。こちらからかけるのはいいんだが、いきなり取るのが苦手なんだ。」

 

「何ですか、それは。」

 

「心の準備が整っていないのが嫌なのさ。……まあ、君がストレスに感じていないなら構わないよ。十回というのは中々だと思うけどね。」

 

「ストレスではありませんし、単純に話を聞いてくれる相手が必要なんだと思いますよ。……香月社長、ファッションには詳しいですか?」

 

夏目さんから送られてきた二枚の写真。鏡の前で事前に撮っておいたらしいその写真を見比べて、どちらも普通に似合っているぞと思いながら質問してみれば、香月社長はきょとんとした面持ちで回答してきた。

 

「何だい? 藪から棒に。スーツには詳しいが、それ以外には自信がないね。私は常にスーツなんだよ。」

 

「……プライベートでもスーツなんですか?」

 

「整っている感じがして好きだからね。一年中スーツさ。『本物』のスーツは着ていても疲れないんだ。……ちなみに君のは『偽物』だよ。今度店を紹介してあげよう。」

 

「私は『偽物』で充分ですよ。どうせ物凄い値段のスーツのことを言っているんでしょう? オーダーメイドとかの。」

 

そんなもん買う金が無いぞ。……いやでも、一着くらいは欲しいかもしれない。『いざという時』に使うスーツはずっと買おうか迷っていたのだ。江戸川芸能で一人前になったら買ってみようかなと考えていたのだが、機会を逃してしまったな。

 

欲しいっちゃ欲しいものの、宝の持ち腐れになるのが怖い。そんな思考を展開させつつ返事をすると、香月社長がジト目で訂正を寄越してくる。

 

「『テーラーメイド』だよ、駒場君。『オーダーメイド』は無粋な和製英語だ。めったやたらに和製英語を批判する気はないが、その言葉だけは気に食わん。美しくないぞ。せめて『オーダースーツ』と言いたまえ。」

 

「変な拘りですね。」

 

「拘りが人間を形作るんだよ。それを持たないヤツはふにゃんふにゃんの骨無し人間さ。君も何かに拘りたまえ。じゃないと骨子が欠けて肉だけが膨れ上がった、醜い骨無し男になってしまうぞ。」

 

「覚えておきます。」

 

比喩は独特だが、言わんとすることはまあ分かるぞ。自分なりの主義主張を持てということだろう。『社長の名言』を脳裏の隅っこにさらっとだけ記載しながら、開いた検索ページに『春 女性 コーデ』と打ち込む。香月社長は参考にならなさそうだし、となれば文明の力を頼るまでだ。

 

「そもそも君、どういう意図の質問だったんだい?」

 

「夏目さんから服を選んで欲しいと言われたんですよ。二択で選択しないといけないんです。」

 

「なるほどね。それで『資料』を探し始めるあたり、君は本当に真面目な男だよ。……自社で『衣装さん』を雇うつもりはないから、そこは基本的にクリエイター任せになりそうかな。絶対に必要な時だけ派遣してもらえばいいさ。」

 

「差し当たり社長と、マネージャーと、事務員と……後は営業担当ってわけですか。正しく最低限ですね。現状だとプロデュースやマネジメントというか、エージェント契約に近いですよ。」

 

ここは個々人や企業、業界によって定義が分かれる部分だが……ホワイトノーツにおけるプロデューサーは動画の内容なども主導する総合的な役割。マネージャーは動画内容には強く触れないものの、スケジュール管理や私的な部分も支える役割。そしてエージェントは契約面の補佐のみを行う役割だと俺は捉えている。香月社長のこれまでの発言からするに、彼女はそういったシステムを思い描いているはず。

 

つまり物凄く噛み砕いて言えば、何もかもを丸投げしたいならプロデューサーを、日常面と業務面の両方の補助が必要ならマネージャーを、法務や契約面の支援のみを欲するならエージェントを求めればいいのだ。仕事の獲得……要するに『営業』がどこに当たるかは非常に曖昧な部分だが、俺はマネジメントの範疇として認識しているぞ。

 

思案しつつ飛ばした俺の台詞に、香月社長は眉間に皺を寄せて反応してきた。

 

「将来的には三種それぞれで契約できるようにしたいと考えているよ。ライフストリームではエージェント契約も人気がありそうだからね。好きに動画を撮って投稿したいが、面倒な法律面だけは個人ではどうにもならない。そういったクリエイター向けに『お手頃価格』でのエージェント契約を持ち掛けるわけさ。」

 

「悪くないと思います。契約書等々の法務関係は弁護士とかに頼まないと無理ですから、需要は出てくるでしょう。いちいち縛られたくないけど、そういう方面の支援は欲しいというライフストリーマーは現れるはずです。」

 

「だろう? そこだけを代行するならこっちの負担も大きくはないし、他の契約より緩いシステムに出来るはずだ。単発での取り引きにしたり、何なら手軽なサブスクリプション形式もありさ。あの形式は今後流行ってくると思うから、先行して取り入れてみるのも面白いかもしれないね。……まあ、何れにせよまだ遠い話かな。もっとライフストリームが大きくなって、『企業からのスポンサー契約』が一般的になってきたら開始するよ。」

 

「今のところはマネジメント一本ですか?」

 

マウスを操作しながら尋ねてみれば、香月社長は軽く首肯して答えてくる。服装に関しては調べてもさっぱり分からんな。ここは第一印象を信じてみるか。素直に自分が良いと思った方を推してみよう。

 

「駒場君のマネジメントに、営業という要素を足すのが第一段階かな。ここはすぐにやる予定だ。そしてマネジメントが安定してきたらプロデュースもやってみて、それを一定ラインまで持っていくのが第二段階。人員が整わないとどうしようもないから、エージェント契約を確立させるのはその更に後だよ。……先ずは土台たるマネジメントと営業を磐石にしなければ話にならないからね。土台が脆いと後々崩れてしまうだろうさ。プロデュースやエージェント契約を行えるレベルの土台を作る。最初の目標はそんなところかな。」

 

「何人くらいをイメージしていますか? マネージャーの数。」

 

「んー、そこはまだあやふやかな。どの程度のスピードで成長していけるかが判然としていないから、この段階では何とも言えないよ。……兎にも角にも君がモデルケースなんだ。一人で何人のクリエイターを抱えられるか、具体的な仕事の内容はどんなものか、どういったスキルが必要なのか。君はそれを探るためのモルモットさ。頑張って答えを出してくれたまえ。」

 

「私はホワイトノーツのためのモルモットですか。嬉しい言葉ですね。後発のためにも、精々試行錯誤してみます。」

 

半眼で皮肉を込めて返答すると、香月社長はくつくつと喉を鳴らして大仰に両手を広げてきた。

 

「怒らないでくれ、駒場君。私だって業界そのもののモルモットさ。同じ実験動物同士仲良くしようじゃないか。」

 

「何にせよ、営業担当は早めに欲しいですね。マネージャーが私だけの現状では、どう考えても人件費とリターンが見合わないでしょうが……早め早めにノウハウや関係を築いておくのは重要なはずです。」

 

「おや、君も分かってきたようだね。その通り、先に声をかけるのが重要なんだ。ライフストリーマーと契約してみたいなら、最初にホワイトノーツを当たってみる。その『常識』にはとんでもない価値があるのさ。それを得るためなら先行投資など惜しくはないよ。何百倍にもなって返ってくるはずなんだから。」

 

「返ってくる頃にホワイトノーツがまだ存在していれば、の話ですけどね。」

 

収益の回復が遅ければ、奈落の底に真っ逆さまだぞ。夏目さんへの返信をしながら提言した俺に、香月社長は大きく鼻を鳴らして口を開く。

 

「小さなリスクで得られるのは小さな成功だけさ。大きな成功を目指すのであれば、大きなリスクを背負う必要がある。その辺は案外上手く出来ているんだよ。この資本主義の世界において、大成功と大失敗は常に背中合わせなんだ。」

 

「今は金庫に大穴が空いているような状態なので、早めに成功を掴めるように努力していきましょう。」

 

「では、夏目君の動画が小さな一歩目になることを祈っておこうか。出来ることはやったんだから、後は祈るだけだ。ライフストリームの神にね。」

 

「居ませんよ、そんなの。」

 

香月社長の適当な発言に適当な相槌を打つと、彼女は何故か嬉しそうに応答してきた。

 

「ライフストリームはどの神の『担当』になるんだろうね? 芸術? 芸能? 放送? 私たちはそれすら決まっていない段階で道を進んでいるのさ。拝むべき神社も知らないままで先頭を突き進む。ゾクゾクしてこないかい?」

 

「ただただ不安ですよ、私は。」

 

「おいおい、駒場君。つまらないことを言わないでくれたまえよ。君は私の船に乗っているただ一人の水夫だ。未知の大海に挑もうって時に怖がってちゃいけないね。」

 

「せめて『副船長』ならもう少しやる気が出るんですけどね。『水夫』じゃどうにも頑張れません。」

 

たまには無駄話に付き合ってみるかと応じてみれば、香月社長は楽しげに微笑みながら返事をしてくる。

 

「分かった分かった、副船長に任命してあげよう。励みたまえ。」

 

「それでも『一番の下っ端』って部分は同じですけどね。……それじゃ、下っ端らしく昼食を買ってきます。何がいいですか?」

 

「ん、何でもいいよ。君のセンスに期待しておこう。」

 

「面倒なことを言ってくるじゃないですか。文句は無しですからね。」

 

事務所のドアの前で振り返って注意しつつ、部屋を出てエレベーターのボタンを押す。……いつか今の事務所での情景を思い出して、『最初は二人だけで奇妙な無駄話をしていたな』と懐かしめる日が来るんだろうか?

 

いやはや、そうなって欲しいな。沢山の人が仕事をしている大きなオフィスの中で、香月社長とそんな話をしてみたいぞ。何年後か、何十年後か、あるいはそんな日は永久に訪れないか。現時点では全く予想できないが、『思い出話』が出来るような未来を掴めるように精一杯頑張ってみよう。

 

到着したエレベーターに乗り込みつつ、いつかの会話を思って小さく苦笑するのだった。

 



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Ⅰ.さくどん ⑦

 

 

『駒場さん! あのっ、えと……落ち着いて聞いてください!』

 

いやいや、そっちが落ち着いて欲しいぞ。過ごし易い気温の日曜日の昼、俺は自宅のベッドの上で夏目さんからの電話を取っていた。昨日は夜遅くまでライフストリームの動画を研究していたので、この時間まで寝てしまったのだが……あー、まだ頭が上手く働かないな。今何時だ?

 

机の上の置き時計が午後一時十二分を示していることを確認しつつ、『アフタヌーンコール』をしてくれた夏目さんへと電話越しの応答を送る。

 

「どうしました? 夏目さん。」

 

『ぁ……ひょっとして、寝てましたか?』

 

「寝ていましたが、むしろ助かりました。やらなければいけないことがあったのに、目覚ましをかけ忘れていたんです。」

 

半分嘘だが、半分は本当だ。今日は出掛けるつもりだったから、起こしてくれて助かったぞ。大した用事ではないので目覚ましは端からかけない予定だったものの、こう言った方が夏目さんは気にしないだろう。

 

ベッドから起き上がりつつ返事をしてみれば、夏目さんは何だか楽しそうな声で応じてきた。

 

『それなら良かったです。……寝起きの駒場さんの声、こんな感じなんですね。』

 

「あー……変ですか?」

 

『変ではないです。ただその、いつもよりちょっとだけ油断してる声なので……何かあの、いいなって思います。』

 

「……なるほど。」

 

何が良いんだろうか? 覚醒してきた頭で疑問に思っていると、夏目さんは慌てたような口調で話題を切り替えてくる。

 

『ああいや、深い意味はないんですよ? たまにはそういう声もいいなって思っただけで……じゃなくて、動画! 動画がすっごい伸びてるんです!』

 

「動画が? ……どの動画ですか?」

 

『デスソースのやつです。コメントを見るとですね、どうも外国の有名なライフストリーマーさんが話題にしてくれたみたいで。それが切っ掛けで伸びてるらしいんですよ。普段はそんなに見ない英語のコメントも結構あって、それでびっくりして……あの、電話しちゃいました。すみません、お休みの日なのに。』

 

段々と冷静さを取り戻してきたらしい夏目さんに返答しながら、パソコンの電源を入れてログインした。外国のライフストリーマーが『火種』になったということか。

 

「構いませんよ、俺としても……私としても重要な報告です。再生数は現時点でどのくらいなんですか?」

 

『えと、今で三十万くらいです。』

 

「三十万? ……待っていてくださいね、今開きます。」

 

それは多いな。とんでもなく多いぞ。デスソースの動画を投稿したのは水曜日なので、四日間でそれだけ再生されているということになる。ちなみに夏目さんの動画の平均的な再生数は商品紹介が一週間後に四、五万、料理動画やチャレンジものが六万から八万という数値だ。物によって十五万を超えたり二万を下回ったりもするものの、四日で三十万というのは相当伸びている動画と言えるはず。

 

驚きで一気に目が覚めたのを自覚しつつ、起動したパソコンでブラウザを開いてブックマークをクリックして、ライフストリームの夏目さんのチャンネルに移動してみれば……何とまあ、本当に三十万再生だ。ついでに自作パソコンの方も伸びているな。このまま行けば前編が二十万再生に届きそうじゃないか。

 

現状のライフストリームのシステムだと、再生数が急激に伸びた動画は不特定多数の個々人のメインページにも表示され易くなるはず。つまり、一度伸びれば更に伸びるということだ。動画を開いてコメントをチェックしながら、夏目さんへと声をかけた。

 

「おめでとうございます、夏目さん。編集に力を入れた甲斐がありましたね。切っ掛けには幸運が絡んでいるかもしれませんが、夏目さんの編集があればこその数字ですよ。」

 

『うぁ、はい。ありがとうございます。……ちなみになんですけど、一番上の英語のコメントって何て書いてあるか分かりますか? 何かこれ、凄い高評価みたいなんですけど。』

 

「あーっとですね、私の英語の知識が間違っていないのであれば……夏目さんがデスソースを舐めた時の顔が、父の足の臭いを嗅いだうちの犬とそっくりだ的なことが書いてあります。英語だともう少しウィットに富んだ表現になりますけど、単純な意味としてはそんな感じですね。」

 

『あっ、なるほど。……まあ、楽しんでくれてるなら何よりです。』

 

女性としては何とも言えない評価だろうな。確かに凄い顔になっていたし、分からなくはないコメントだぞ。他の英語のコメントもチェックしながら、微妙な声色で答えてきた夏目さんへと話を続ける。

 

「登録者数はどうですか?」

 

『再生数ほど一気にって感じではないですけど、普段よりは間違いなく増えてます。……香月さんのお陰ですね。紹介してくれたライフストリーマーさんも、英語の字幕があったから見てくれたみたいですし。』

 

「ここまで伸びれば、国内の視聴者も増えるでしょうね。視聴してみようという気になるはずです。」

 

『なので、動画の順番を入れ替えることにしました。この機に面白いのを連続で上げようと思います。……日曜日に申し訳ないんですけど、良ければチェックしてくれませんか? いつもより急ぎになっちゃうので、不安な部分があるんです。』

 

おずおずと頼んできた夏目さんに、マウスを動かしながら回答した。出掛けるのは取り止めだな。こっちの方が遥かに重要だろう。

 

「勿論やりますよ。折角のチャンスを逃すわけにはいきません。……こうなると、ハーモニーランドの動画も急ぎたいですね。」

 

『私もそう思ってます。ハーモニー関係は外国の方も興味を持ってくれるでしょうし、もしかしたらチャンネル登録してくれるかもしれません。明日と明後日で気合を入れて撮って、編集も急いでみる予定です。』

 

うーむ、アドバイスをくれた富山さんにも感謝しないといけないな。国外のライフストリーマーが火付け役になってくれることもあるわけか。無論基本的な編集や内容が整っていてこそだが、今回は英語字幕が大きく役に立ったらしい。

 

今度お礼を言いに行こうと思案しながら、夏目さんへと発言を返す。

 

「とにかく、正念場です。ここで視聴者を定着させられれば、一気に登録者が増えるかもしれません。私も可能な限りにフォローするので、何かあれば遠慮なく言ってください。」

 

『はい、頑張ってみます。……それであの、タイミング的にちょっとおかしいかもですけど、気になったことを聞いてもいいでしょうか?』

 

「何でしょう?」

 

『駒場さんって、プライベートでは自分のことを俺呼びなんですか?』

 

本当に関係がないな。さっき寝起きでぼんやりしていた所為で、『私』ではなく『俺』と言ってしまったからか? 謎の質問に困惑しつつ、夏目さんへと肯定を飛ばす。

 

「そうですね、プライベートではそうなります。それがどうかしましたか?」

 

『じゃあ、あの……嫌ならいいんですけど、二人っきりの時だけは私に対してもそうしてくれませんか? 良ければでいいんです。ダメなら諦めます。』

 

「いや、それは……嫌というわけではありませんが、失礼じゃないでしょうか?」

 

そんなことを頼まれるのは初めてだな。夏目さんの心境を読めなくて戸惑っている俺に、担当クリエイターどのは小さな声で理由を語ってきた。

 

『全然失礼じゃないです。そっちの方がその、距離が近い感じがします。何かこう、特別な感じが。……あのでも、私呼びでも別に大丈夫ですよ? よく考えたら変なお願いしてますね、私。忘れてください。』

 

「そちらの方が夏目さんがやり易いのであれば、言い方を変えるくらい何でもありませんよ。『俺』にしましょうか?」

 

『……はい、お願いします。』

 

むう、分からん。『私』の方が丁寧な感じがして好きなんだけどな。とはいえわざわざ頼んでくるのであれば、変えることに否などないぞ。正直なところ、俺にとっては『どっちでも良い』にカテゴライズされる物事だし。

 

「それでは、今後二人だけで話す時は『俺』にします。……他に何かありますか?」

 

『い、いえ! 無いです! ……じゃあえっと、すぐに動画を送りますね。チェックよろしくお願いします。』

 

「了解です。」

 

ちんぷんかんぷんな会話を終えた後、スマートフォンをベッド脇の充電器に戻して考える。一人称の件は一先ず置いておくとして、動画が伸びてくれたのは心から嬉しいぞ。後で火付け役のライフストリーマーのチャンネルに登録しておこう。せめてものお礼だ。

 

さて、それじゃあ……香月社長にも一応メールで報告を入れておくか。そしたらシャワーを浴びて、動画の確認をしなければ。休日に仕事をするのは歓迎すべき事態ではないが、今回ばかりは能動的に取り組もうという気分になれるぞ。俺もちょっとは制作に関わっているからかもしれない。

 

……よし、豪勢にお湯を溜めてしまおう。祝いの昼風呂だ。それで気合を入れた後、すっきりした頭でチェックに取り掛かるとするか。そして一段落した頃にコンビニに買い物に行って、夕食のデザートに三百円くらいのカップケーキを買うのだ。我ながらささやか過ぎる『ご褒美』だけど、分相応な良い休日になりそうだな。

 

───

 

「いやぁ、伸びているね。最高の気分だよ。さすがはうちのクリエイターだ。」

 

そして一夜明けた月曜日の早朝。満足げな面持ちで『世界一辛いデスソースにチャレンジ!』というタイトルの夏目さんの動画を見ている香月社長へと、俺はため息を吐きながら注意を投げかけていた。そんなことより早く準備を進めて欲しいぞ。あと少しで事務所を出る時間になるんだから、悦に入っている場合じゃないだろうに。

 

「香月社長、準備はどうしたんですか? 六時には出ますよ。」

 

「大丈夫だよ、駒場君。荷物は家で纏めてきたし、ビデオカメラの予備バッテリーも充電し終えた。私は既にハーモニーランドに行ける状態さ。言わば『ハーモニーモード』だ。」

 

「……存外楽しみにしているみたいですね。」

 

「ずっと行きたかったからね。両親が厳しくて学生時代は行けなかったし、社会に出てからは忙しくて暇が無かったんだ。それにほら、一人で行くのは何だか寂しいだろう? 実際良い機会なんだよ、今回の撮影は。」

 

つまるところ、俺たちはこれからハーモニーランドに向かう予定なのだ。途中で夏目さんを拾って、開園に間に合う時間に到着するつもりでいる。そのために早朝から事務所に集まったわけだが……うーん、香月社長はウキウキだな。俺はちょっと眠いぞ。

 

ちなみに今現在のデスソース動画の再生数は三十五万を超えており、『自作パソコンに初挑戦!』の前編後編はそれぞれ十八万弱と十三万強で、事務所所属の報告動画である『さくどんからの重要なお知らせ』は十二万ほどであるようだ。どれも予想より多いが、やはりぶっちぎりでデスソースが伸びたらしい。

 

ここからも多少伸びるであろうことを加味すると、デスソースと自作パソコンを合わせて百万再生も狙えそうだな。……その点に関しては手放しで喜んでいるものの、俺としては自作パソコン動画の前編と後編の差が気になるぞ。五万弱の差があるわけなのだから、前編を見た段階でそれだけの視聴者が『離れた』という意味であるはず。

 

『第一話』の再生数が突出するのは往々にしてあることだし、半数以上が残っている時点でかなり凄いとは思うのだが、更に上を目指すならこの『取りこぼし』にも目を向けなければなるまい。若干のマイナス要素が含まれる部分だから、そういったことを思案するのはマネージャーたる俺の役目だろう。

 

いやまあ、これ以上の『定着』を望むのは欲張りすぎかもしれないが……先を見ておいて悪いことなどないはず。夏目さんにはモチベーション向上のために大いに喜んでもらって、俺はその間に足元の細かい改善点を調べるべきだ。いつの日か彼女が気にし始めた時に、的確な助言を送れるようにしておかなければ。

 

そのためにもライフストリームの調査、調査、調査だな。さくどんチャンネルのトップページを見つめながら思考している俺に、香月社長が報告を寄越してきた。

 

「そうだ、駒場君。二人目のクリエイターの所属が正式に決まったよ。近いうちに私と君で名古屋に会いに行くから、そのつもりでいてくれ。多分新幹線で日帰りになるだろうけどね。」

 

「名古屋に? 契約をしに行くということですか?」

 

「メインはむしろ『顔合わせ』だよ。必要な時はこちらに来てもらうが、名古屋に住んでいる以上は電話やメールでのやり取りが主になる。直接話す機会は貴重だから、有意義に使ってくれたまえ。」

 

「私はまだどんな動画を投稿しているのかも、年齢や性別も知らないんですから、『有意義』に使いようがありませんよ。きちんと報告してください。」

 

愛知県か。『遠い』というほどではないが、気軽に行き来できる距離でもないな。いきなりすぎる内容を受けて苦言を呈してみれば、香月社長は毎度お馴染みの『ドヤ顔』で詳細を言い放ってくる。何故そういう顔が出てくるんだ。心境がさっぱり分からんぞ。

 

「『ロータリーマン』という名前で活動している男性だよ。本名は豊田円(とよだ まどか)で、年齢ははっきりと聞いていないが……多分三十代中盤かな。結婚しているし、子供も居るらしいね。」

 

「家庭を持っているとなると、プレッシャーが一気に増しますね。投稿しているのはどんなジャンルですか?」

 

「車だよ。車を弄って改造して、サーキットや公道で走らせたり、部品や工具の紹介をする。そういう動画が六割かな。そして残る四割は夏目君とは方向性が違う商品紹介さ。洗濯機とか、ウォーターサーバーとか、炊飯器とか……まあ、『生活家電系』ってやつだ。奥さんから意見をもらってやっているらしいよ。『珍しい』よりも、『実用性』を重視した紹介の仕方だったね。」

 

ふむ、車か。個人的にも興味があるジャンルだな。家電の紹介というのも需要がありそうだ。……しかし、家庭持ちのマネジメントは緊張するぞ。クリエイター以外の人生も背負うことになるのだから、気負わない方がおかしいだろう。

 

内心で尻込みしながら、香月社長への質問を続けた。

 

「動画は後で確認しておきます。……豊田さんは他にも仕事をしている方なんですか? 今のところ広告収入だけだと生活していけませんよね?」

 

「実家が車の整備工場だから、そこで働きながら投稿しているらしいね。とりあえずはそのスタイルを……要するに、『動画は副業』という姿勢を継続していくそうだ。工場自体は数年前に亡くなった父親から兄が継いだみたいだよ。撮影の手伝いもしてくれているようだし、兄弟仲は特に悪くないんじゃないかな。」

 

「現状に不満があって、ライフストリーマーをやっているわけではないということですね?」

 

「ん、どちらかと言えば『趣味の延長』というタイプだね。……ただし、本気で打ち込む意志があることは確認済みだよ。事務所に所属しようと思った切っ掛けも、スポンサー契約の煩雑さに苦しんでのことらしい。オイル関係の宣伝を頼まれて一度受けてみたものの、諸々の手続きが面倒で個人でやることに限界を感じたんだそうだ。」

 

もうスポンサーが付いたことがあるわけか。それは凄いなと感心しつつ、ライフストリームの検索窓に『ロータリーマン』と打ち込む。おー、結構出てくるな。十分前後の動画を週に二、三本ほどのペースで投稿しているらしい。

 

「今後もスポンサー契約を受けていきたいということですか。」

 

「何せ車は金がかかるからね。家族も協力的ではあるんだが、第二子が生まれて不安を感じ始めたらしいよ。動画投稿は続けていきたいものの、趣味の範疇に収めるのが難しくなってきたわけさ。ライフストリームでも収入を得ないとキツいみたいだ。」

 

「なるほど、継続的な投稿をするための決断ですか。……この動画は面白そうですね。オオカワのNE300をレストアするやつ。オオカワ自動車の名車の一台なんですよ? これ。オオカワはこの一台を最後にロータリーエンジンから手を引いてしまったんです。ロータリーエンジンと言えばミネザキですけど、NE300だけはその評判を覆す車だと──」

 

「そこまでだ、駒場君。その話は名古屋に行った後で豊田さんとやってくれ。私は車に詳しくないんでね。正直、私が期待しているのは家電紹介の方さ。……まあ、相性が良さそうで何よりだよ。マネジメントも順調にいきそうじゃないか。」

 

チャンネルの登録者数は十万人強か。現時点での日本ライフストリーム界では上位と言える数だな。……むう、NE300のレストアはまだ始まっていないようだ。昨日投稿された動画は、購入した中古車の状態確認で終わっている。これはもう普通にプライベートで続きが見たいぞ。

 

こういうジャンルは万人が見るタイプではないが、代わりに根深いファンが定着してくれそうだな。投稿された中にはエンジンを降ろしているサムネイルもあるし、DIYレベルではなく本格的に『弄っている』らしい。

 

車自体は非常に身近な物なのだから、見せ方さえ工夫すればライト層も視聴してくれるかもしれないぞ。……うーむ、名古屋に行く前に研究しておくべきだな。確か海外で人気の車専門チャンネルがあったはずだ。そういったチャンネルの動画も参考にしてみよう。

 

『フェンダーカットの方法と解説』というややディープめなタイトルを見ながら、手帳に『車関係の動画チェック』と書き込んでいると、香月社長がモニターを横目にしつつ豊田さんに関する会話を続けてきた。社長も自分のパソコンで彼のチャンネルを開いているらしい。

 

「電話で話した限りだと、柔らかくて気弱な性格って印象だったね。撮影は兄に手伝ってもらっていて、編集の方は奥さんが手伝っているらしい。……ちなみにだが、公道での運転は尋常じゃないほどに丁寧だよ。そこも事務所としては好印象かな。イメージ的にもクリエイターの安全的にも、事故は怖いしね。」

 

「顔は普通に出しているんですね。」

 

「初期の動画ではマスクをしていたが、本気でやると決めた時点で出したんだそうだ。兄は現在もマスクをしているものの、それほど『顔出し』を嫌がってはいないらしい。しかし奥さんと子供はNGだから、そこは頭に入れておいてくれ。」

 

「了解しました、注意します。……こうなると、いよいよ営業担当が必要になってきますね。ジャンルが絞れているのであれば、こちらから積極的にアクションをかけるべきです。カスタムパーツやオイルの製造元だけではなく、パーツショップや板金屋、洗車専門店やタイヤショップ、カーナビや内装関係の小物、工具や塗装用のスプレー。『車関係』となると選択肢が山ほどありますから、数を撃てばこの段階でも当たると思いますよ。」

 

自動車メーカーそのものまで行くと高望みしすぎだろうが、日本には小規模な車関係の店が大量にあるのだ。民放で広告を打つよりは遥かに安い値段で引き受けられるだろうし、目敏い人ならスポンサーを引き受けてくれるかもしれない。

 

悩みながら放った俺の発言に、香月社長は難しい表情で応じてくる。

 

「一本だけの動画のスポンサーか、継続的なスポンサーか。そういった点も詰めていく必要がありそうだね。ゴテゴテの『スポンサー賛美動画』は反感を買うだろうし、バランスも調整しないといけない。そこは豊田さんも交えて話し合おう。骨子にするのは私たちの都合ではなく、あくまで彼のビジョンであるべきさ。」

 

「その理念には賛成しますが、営業担当についてはどうします?」

 

「そりゃあ探すが……君、営業も出来たりしないかい?」

 

「……気乗りはしませんし、ノウハウも持っていませんが、やれと言うならやります。企業によってはマネージャーが直接営業を行うケースもありますしね。」

 

『命じられればやるが、やりたくはない』という気持ちを前面に押し出して答えてみれば、香月社長は目を逸らしながら曖昧に締めてきた。

 

「……まあ、じっくり考えてみようか。営業車も買わないといけないしね。赤字だけは急成長さ。」

 

「自車でやれと言うのは滅茶苦茶ですし、そこは仕方がないですよ。私が自分の車を使っている現状がおかしいんです。」

 

「余裕が出てきたらマネージャー用の車も買ってあげるよ。その時は君に選ばせてあげるから、暫くは我慢してくれたまえ。」

 

それはまあ、ちょびっとだけ嬉しいな。まだまだ先になりそうだが、その時は自分の贔屓のメーカーの自動車を頼もう。俺は好きなメーカーがあるのだ。リース中の軽自動車もそこのやつだし。

 

そんなことで我慢できてしまう自分に苦笑しながら、事務所の時計に目をやって香月社長を促す。

 

「なら、楽しみに待っておきます。……そろそろ出ましょうか。」

 

「ん、もう時間か。」

 

呟くと香月社長はパソコンの電源を落としてデスクを離れて、事務所の隅に置いてあるキャリーバッグを手に取る。俺も私物が入っているブリーフケースとビデオカメラ用のバッグを持った後、中にきちんと複数の予備バッテリーが仕舞われていることを確認してから……よし、行くか。二人で事務所を出て鍵を閉め、ビル側が契約している警備会社の警報装置を作動させた。

 

「……駒場君は指差し確認をする人間なんだね。」

 

「意識的に癖にしています。お陰で忘れ物は滅多にしません。」

 

「頼もしくて何よりだよ。」

 

俺の確認方法に呆れと感心が綯い交ぜになった口調で突っ込んできた香月社長と、エレベーターで一階に降りて駐車場まで移動して、トランクに荷物を入れた後で軽自動車へと乗り込む。社長は助手席に乗るのか。……まあ、そりゃあそうだな。この場合、後部座席は夏目さんだろう。

 

「ナビは必要かい?」

 

「夏目さんの家までは平気です。そこからはお願いすることになるかもしれません。」

 

「では、スマートフォンで調べておこう。」

 

そのままいつものように車を発進させて、雑談しながら二十分ほどかけて定食屋・ナツメの駐車場に到着してみれば……今日も外で待っていたらしい。小さめのボストンバッグを持った夏目さんの姿が目に入ってきた。

 

「夏目さん、おはようございます。乗ってください。」

 

「やあ、夏目君。おはよう。」

 

あの大きさの荷物なら、後部座席で大丈夫そうだな。窓を開けて二人で呼びかけてみると、夏目さんは軽く頭を下げてから車に乗り込んでくる。ちなみに彼女はスキニーパンツに長袖のTシャツ、そして薄手のパーカーという恰好だ。俺が選んだ方の服装にしたらしい。夏目さん……というか『さくどん』はパーカーをよく着ているイメージがあるので、やっぱりこっちの方がしっくり来るぞ。

 

「おはようございます、駒場さん、香月さん。……照明、持って行かなくて大丈夫ですよね? ホテルの部屋での撮影に使うかもと思ってギリギリまで迷ったんですけど、さすがに邪魔になりそうなので置いてきちゃいました。」

 

「問題ないと思いますよ。『部屋紹介』であれば移動しながら撮るでしょうし。」

 

「ですよね。……ああ、緊張します。色々調べてはきたんですけど、現地に行ってみないと分からないこともいくつかあったので。」

 

何を調べてきたんだろう? 車を運転しながら考えていると、夏目さんはハッとしたように今回の撮影の『スポンサー』へとお礼を送った。つまり、助手席に座っている香月社長にだ。

 

「あのっ、香月さん。ホテルの件、本当にありがとうございます。助かりました。」

 

「いいよ、駒場君経由でお礼は何度も聞いているさ。気にしないでくれたまえ。……アトラクションのことを調べてきたのかい?」

 

返答ついでに俺の疑問を代弁してくれた香月社長に、バックミラーに映る夏目さんは曖昧に頷きながら返事を投げる。

 

「それもありますけど、入念に調べたのはお土産のことなんです。お土産の紹介も後日動画にしようと思ってて。だけど高くて沢山は買えないので、良さそうなのを予め厳選してきました。」

 

「余す所なく動画にするわけだ。素晴らしいじゃないか、夏目君。その意気だよ。……隣接するショッピングモールの動画も撮るのかい?」

 

「撮影は可能みたいですし、撮ります。パーク動画の後編か、ホテル紹介のどっちかの一部として使うつもりです。短くなっちゃいそうな方に付け足す感じですね。今日撮るパーク紹介の前編は多分、長く出来ると思うので。」

 

夏目さんもちょっとテンションが高いな。平時よりハキハキ喋っているぞ。ハーモニーランドが楽しみだという点だけではなく、動画が伸びたことも影響しているのかもしれない。やる気が漲っているといった雰囲気だ。

 

そして香月社長も呼応する形でテンションが上がってきたようで、ご機嫌の面持ちで夏目さんに声を飛ばす。

 

「よしよし、夏目君。この移動時間を使って『作戦会議』をしよう。二日あればアトラクションは全部回れるはずだ。ホテルでの撮影は閉園後で問題ないかい?」

 

「あの、昼間のベランダ……バルコニー? からの風景も欲しいです。あと、朝食とルームサービスの食べ物も撮ろうと思ってます。メニューがですね、独特らしいんですよ。パーク内には無いスペシャルメニューが、ルームサービスだと頼めるってサイトに載ってました。」

 

「なるほどね、それは逃せないかな。」

 

「それとその、建設中の『ハーモニーガーデン』の映像も可能なら欲しいです。工事中なので中が映せるかは微妙ですけど、チラッとでも見られれば興味を惹けるかなと思いまして。」

 

あー、あれか。ハーモニーランドに隣接する形で建設中の、『拡張パークスペース』。完成は二年後らしいが、大規模な拡張なので期待している人は多いはずだ。撮れるなら撮るべきだな。遊園地の建造というのは面白そうだぞ。

 

「では、現地でスタッフさんに撮影が可能かを聞いてみます。……それと社長、ナビをしてください。」

 

「おっと、そうだったね。……一度コンビニに寄ってくれるかい? 飲み物が欲しいし、私は後部座席に移るよ。夏目君と情報を共有して、『攻略ルート』を決めないとだからね。たった二日間しかないのであれば、一秒だって無駄にするわけにはいかないだろう?」

 

「分かりました、次見つけたら寄りましょう。」

 

別に男性だって好きな人は好きなんだろうけど、やはりこういうことは女性の方が関心を持ちがちなのかな? どこまでも真剣な顔付きで『ブリーフィング』の重要性を語った香月社長に応答しつつ、ちょうど良く見つかったコンビニの駐車場に車を入れる。

 

「飲み物を買ってきます。何がいいですか?」

 

「私はお茶を頼むよ。小さいペットボトルのやつ。……いや、どうしようか。ペットボトル飲料は持ち込み可なんだよ。パーク内だと高いだろうし、ここで大きいのを買っておくべきかな?」

 

「けど、飲み物も面白いのがあるみたいですよ? 私は紹介したいので持ち込まないことにします。食べたり飲んだり出来る量には限界があるので、制限していかないと。」

 

ストイックすぎるぞ。夏目さんはそんなことまで心配しているのか。香月社長の提案に珍妙な答えを返した担当クリエイターどのに、シートベルトを外しながら意見を放った。

 

「開園まで少し待つことになるはずですから、何れにせよここで小さな飲み物を買っておきましょう。」

 

「じゃあ、あの……一番小さいミネラルウォーターをお願いします。」

 

「了解です。香月社長はお茶だけでいいんですか?」

 

「ん、お茶だけ頼むよ。夏目君が一口飲んだり食べたりして感想を言って、残りを私たちが飲食するという方法もあるしね。それなら節約になるし、量もこなせる。だったらこっちも余裕を残しておくべきさ。」

 

サバイバルをしに行くわけでも、大食いチャレンジに行くわけでもないんだぞ。奇妙なことをやっているなとため息を吐きつつ、しかし納得して自分も小さめのスポーツドリンクだけを購入することに決める。俺たちは夏目さんの『外部胃袋』になるわけか。いよいよ意味不明になってきたな。

 

ライフストリームの動画撮影は複雑怪奇。そのことを学びながらコンビニで飲み物を買い終えて、軽自動車の車内に戻ってみれば……今度は何をしているんだ? 後部座席でカメラを構えている香月社長が、それを夏目さんに向けているのが視界に映った。まさか撮影しているのか?

 

「お帰り、駒場君。まだ録画はしていないから喋っていいよ。」

 

「それは安心ですけど、何故カメラを出したんですか?」

 

「短いオープニングを車内で撮るのはどうかという話になったんだよ。『何と私は、今まさにハーモニーランドに向かっています』といった感じで。面白いと思わないかい?」

 

「まあ、はい。そういう構成もありだとは思いますけど。」

 

助手席に飲み物が入ったビニール袋を置きつつ反応すると、夏目さんが補足を付け加えてくる。

 

「ここで走行中に短いオープニングを撮って、パークの入り口に到着したところでも並びながらちょこっと撮影したいと思います。ハーモニーランドに向かってる最中のドキドキとか、もう少しで入れる時のわくわくとか。そういうのも大事かなって考えたので。……いっそのこと駐車場でも撮りましょうか。使えそうになかったらカットすればいいだけですし、何パターンか撮っておいて損はないはずです。」

 

「駒場君、安全運転にしてくれたまえよ? ブレたら台無しだからね。」

 

「私はいつだって安全運転をしています。……少し先に橋があるので、そこは良い景色になると思いますよ。」

 

「おや、いいね。窓が小さいから大した影響はないだろうが、海だの川だのをバックにするのは悪くなさそうだ。そこで回し始めようか。……そうなると私が右側に座った方がいいかな。夏目君、位置を交換しよう。そして駒場君はマスクを装着しておくように。恐らく映らないと思うが、念のためさ。」

 

悪かったな、窓が小さくて。軽自動車なんだから仕方がないじゃないか。……いやはや、休まる暇がないぞ。ライフストリームでは何もかもが動画の一部だな。カメラ一台あれば撮影はスタートしてしまうわけだ。

 

ナビの話はどこに行ったんだと苦笑いでマスクを着けて、セレクターをドライブに入れて車をコンビニの駐車場から出す。面白い仕事だし、やり甲斐もあるし、達成感だってあるわけだが……相応の苦労もありそうだな。正しく未知の世界だ。触っていない部分も、新たな発見も、まだまだ無数に転がっていそうだぞ。

 

まあいいさ、俺はここからも誠心誠意クリエイターを支えていくだけだ。最初の一歩目は踏み出せたのだから、次は更に先を目指せばいい。そうやって一歩ずつ進んでいこう。となれば、先ずはハーモニーランドでの撮影に集中すべきだな。

 

「そろそろだね。回すよ? 夏目君。」

 

「はい、お願いします。」

 

考えている間に橋が目前に迫ってきて、後部座席で短いやり取りが行われた後……『さくどん』が動画をスタートさせる声が耳に届く。

 

「どうも、さくどんです! 今回は多分さくどんチャンネルでは初の、移動中の車内からのスタートになります。何故かと言えば……そう、ハーモニーランド! なんとなんと、あのハーモニーランドで撮影できることに──」

 

次なる動画も伸びてくれることを祈りつつ、駒場瑞稀はマスクの下で笑みを浮かべるのだった。

 



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Ⅱ.モノクロシスターズ ①

 

 

「はい、了解しました。では、修正の詳細はメールで送りますね。失礼します。」

 

よしよし、これで豊田さんへの連絡は完了だ。通話を終えたスマートフォンをデスクに置きつつ、駒場瑞稀は眼前のモニターへと向き直っていた。そうなると、次はメールの作成だな。それが終わったら弁護士事務所から届いた書類を参考にして、『プライバシーへの配慮』に関する資料を纏めなければ。

 

梅雨が近付いてきた五月の下旬、現在の俺はホワイトノーツの事務所で仕事に励んでいるところだ。先々週に名古屋で会った『ロータリーマン』こと豊田円さんの所属が正式に決定したので、今のホワイトノーツは二人のクリエイターを抱えているわけだが……まあ、まだまだ会社の赤字は膨らみそうだな。何たって新たに事務員を雇ってしまったのだから。

 

「駒場先輩、どうぞ。お茶です。」

 

「ありがとうございます、風見さん。」

 

今まさに俺のデスクにお茶を持ってきてくれたのが、先日入社したばかりの風見由香里(かざみ ゆかり)さんだ。おっとりした顔立ちの美人さんで、長い黒髪を右肩の下で結んで前に垂らしており、左の目尻には特徴的な小さなほくろ……所謂泣きぼくろが見えている。まだ接した時間が短いので細かい部分は掴み切れていないものの、柔らかい性格の女性という印象に固まりつつあるぞ。

 

ちなみに年齢は俺の三つ下の二十二歳で、二ヶ月前に大学を卒業して社会人になったらしいのだが……そもそも、彼女はどうしてホワイトノーツを選んだんだろう? 名門大学の新卒かつ簿記や英会話の資格まで持っているんだから、望めばもっと良い企業に就職できたはずなのに。

 

その辺を怪訝に思いつつ風見さんのことを見ていると、対面のデスクに着いた彼女が小首を傾げて問いかけてきた。優しげな微笑を浮かべながらだ。

 

「どうかしましたか?」

 

「ああいや、すみません。どうして風見さんがホワイトノーツを選んだのかが気になってしまいまして。」

 

この数日間を通してあまり気負わずに雑談できるようになってきたし、そろそろこういう質問をしても大丈夫な頃合いだろう。胸の内の疑問を正直に口にした俺へと、隣でキーボードを操作していた香月社長が答えてくる。いつものように堂々とした態度で、これまたいつものように大きな胸を張りながらだ。我らが社長は今日も絶好調だな。

 

「君、知らなかったのかい? 風見君は私の存在に惹かれてホワイトノーツに入社したんだよ。」

 

「面接は社長が一人でやったんですから、私が志望動機を知るはずがないでしょう? ……どういう意味ですか?」

 

「そのままの意味さ。投資家香月玲が立ち上げた会社だから、風見君はホワイトノーツを選んだわけだね。」

 

「……香月社長はこんなことを言っていますが、実際のところはどうなんですか?」

 

何となくだが、大袈裟に言っていそうな気がするぞ。ふふんと威張っている香月社長を指差して尋ねてみれば、風見さんは困ったような笑みで『真実』を語ってきた。

 

「香月さんは大学の先輩なんです。私が一年生の頃に三年生の先輩として出会ったんですけど、学内でも有名な人だったんですよ? 同じサークルに所属していたので色々とお世話になって、その時の経験から香月さんの『凄さ』はよく知っていましたから、事務員の求人を見つけてすぐに応募しちゃいました。」

 

「……香月社長って、私の一個下だったんですか。」

 

「君、真っ先にそこに食い付くのかい? ……そういう台詞が出てくるということは、君は私を年上だと思っていたわけだ。年頃の女性としては抗議したくなる発言だね。非常に悲しい気持ちになったよ。」

 

「いや、あー……違います、そうじゃありません。『社長』というイメージが先行していただけですよ。パッと見では自分よりもずっと若く見えるけど、やけに貫禄があるからひょっとしたら年上なのかもと考えていただけです。」

 

実際は『自分よりずっと若く』ではなく、『二十代前半』としか思っていなかったが……まあうん、社長に倣ってほんの少しだけ大袈裟に表現しただけだ。完全な嘘ではないぞ。真実とも言えないけど。

 

ムスッとしている上司を目にして慎重に言い訳を放った俺へと……うーむ、分かり易いな。途端に機嫌を良くした香月社長が、うんうん頷きながら返事を寄越してくる。

 

「なるほどね、なるほどなるほど。溢れ出る貫禄の所為で誤認したわけだ。それなら仕方がないかな。……いやぁ、自分よりずっと若く見えてしまったか。それは参ったね。高校生くらいという意味かい?」

 

「……はい。」

 

高校生くらいに見えたらそれはそれで別の問題がありそうだけど、ここで『いいえ、二十二歳くらいです』とわざわざ訂正するのは危険だと判断して肯定した俺に、香月社長はご満悦の顔付きで椅子に背を預けながら口を開いた。

 

「となると、夏目君と同世代か。若く見えすぎるというのも困りものだね。」

 

「……風見さん、香月社長はどういった意味で『有名な人』だったんですか?」

 

「学生なのに物凄い大金を稼いでいて、いつもスーツ姿で、美人かつ小柄で可愛らしくて、おまけに話し方と性格が『独特』だということで有名でしたよ。」

 

独特か。上手いこと無難な表現に落とし込んだな。風見さんの機転に感心しつつ、彼女に対しての発言を重ねる。この際仲良くなるために色々と聞いてみよう。たった三人だけの社員なのだから、ある程度打ち解けておきたいぞ。

 

「独特ですか。何となく想像が付きます。……しかし、それだけで就職先を決めてしまうのは中々大胆な選択ですね。」

 

「卒業してからの一年間は、元々自由に使おうと考えていたんです。海外旅行に行ってみたり、大学では出来なかった勉強をしたりして、人生の経験を積む期間にする予定だったんですけど……香月さんの側に居た方が面白いかなと思いまして。」

 

「運命だよ、風見君。もし卒業直後に普通に就職していたら、今頃別の会社に所属していたわけだろう? しかし君が『猶予期間』を自らに与えたお陰で、こうして私たちは再会できたわけさ。……いやはや、相変わらず私は運が良いようだね。まさか君ほど優秀な人材が引っ掛かるとは思わなかったよ。海老すら使わずに鯛を釣った気分だ。」

 

何だその喩えは。……香月社長の運も確かに凄いが、大学卒業後の一年間を『人生の勉強期間』に定めてしまえる風見さんも相当だな。小市民たる俺は短大に入ったその瞬間から就職の心配をしていたし、『新卒』の肩書きを無駄にすまいと必死だったぞ。自分の能力に自信を持っているが故の選択なのかもしれない。

 

己の平凡な人生を省みて落ち込んでいる俺を他所に、風見さんが落ち着いた笑顔で香月社長に相槌を打った。

 

「はい、私も香月さんの会社で働けて嬉しいです。」

 

「これで『掘り出し物』が二人も手に入ったし、私としても大満足さ。……次は営業担当を探さないとね。良い人材が見つかるといいんだが。」

 

「求人、まだ出していないんですよね?」

 

「今は知り合いを当たってみている段階なんだよ。とはいえどこからも推薦がないから、そろそろ公募に方針を切り替えるべきかな。」

 

社長の謎の人脈も今回は空振りに終わったわけか。俺と香月社長が相談しているのを見て、風見さんがするりと会話に割り込んでくる。

 

「それなら、私がやりましょうか?」

 

「……出来るのかい?」

 

「もちろん経験はありませんけど、興味はあります。営業もやってみたいです。」

 

「そういえば君は物怖じしない子だったね。私と同じ『挑戦屋』だったことを思い出したよ。……んー、どうしようか。正直追加を雇わなくて済むのは助かるし、風見君なら卒なくこなしそうだという予感もあるが、事務と営業を両方任せてしまうとオーバーワークになりかねない。社長としては難しいところだ。」

 

腕を組んで悩む香月社長へと、思い付いた提案を送った。俺としても予想外の展開だが、当人にやる気があるなら任せてみるのも悪くないはず。何より人件費をカットできるのはデカいぞ。

 

「事務を三人で分担するのはどうですか? 私がマネジメントを、風見さんが営業を、香月社長が……『社長業』をする合間に、協力して事務作業を処理するんです。ホワイトノーツはまだ小さな会社ですし、そういうやり方もおかしくはないと思いますよ。」

 

「ん、それは良いかもね。……ちなみにだが、駒場君。私は弁護士との窓口になったり、英語の字幕を作ったり、動画のチェックを手伝ったり、スカウトをしたりと日々忙しく働いているぞ。今度からは言い淀まないように。」

 

「単に言い方が分からなかっただけですよ。他意はありません。……風見さんもそれで大丈夫そうですか?」

 

「はい、大丈夫です。私は経理関係が得意なので、そっち方面を優先的に回してください。」

 

ぬう、営業と経理か。風見さんがいきなり事務所の最重要人物になってしまったな。……何というかこう、頼もしい反面ちょっと焦るぞ。俺も先輩として頑張らなければと気を引き締めていると、こっちもこっちで焦っているらしい香月社長が引きつった笑みで話を纏めてくる。

 

「なら、暫くはそういう体制でやってみようか。……私はまあ、社長だからね。事務所の掃除とかをするよ。掃除は社長の役目さ。」

 

「……そうですかね?」

 

「余所がどうしているのかは知らないが、私は会社の責任者こそが掃除をすべきだと思っているよ。」

 

いまいちピンと来ない主張だが、これもまた経営理念の一部なのかもしれない。香月社長の奇妙な拘りを受け流してから、マウスを動かして検索ブラウザを開きつつ声を上げた。

 

「営業車はどうします? 軽乗用か、軽商用か、普通車か、買うのかリースにするのか。選択肢は沢山ありますけど。」

 

「……値段的にはどうなんだい?」

 

「待ってくださいね、えーっと……軽乗用車や軽商用車なら八十から百万、普通車なら百五十万前後ってところですね。当然もっと高い車や安い車もありますけど、その辺りが営業車としての『売れ筋価格帯』みたいです。」

 

「まあ、そんなものだろうね。大体予想通りだよ。……風見君、希望はあるかい? 主に君が使うことになる車だから、何か要望があるなら善処するが。」

 

そりゃあ大金ではあるものの、自動車の値段としては安いくらいじゃないかな。この価格帯の車が社用車として人気だということは、どこの企業も『会社の車』には余計な金をかけたくないらしい。車好きとして少し微妙な気分になっていると、風見さんが申し訳なさそうな表情で返答を返す。

 

「メーカーや車種には特に拘りがありませんけど、私の免許はオートマチック車限定なんです。マニュアル車は運転できません。」

 

「……駒場君、助けてくれ。免許を持っていない私にはよく分からないよ。」

 

「今はもうマニュアル車なんて滅多にありませんから、気にせず選んで大丈夫ですよ。余程に古い車種だったり、あるいは趣味の色が濃い車でなければ全部オートマです。……仮に軽ならこの辺じゃないでしょうか? 更に安くも出来ますけど、それなりに車内の居心地が良くないと風見さんが大変ですし。」

 

自動車メーカーのサイトが映っているモニターを示して意見した俺に、香月社長が首を捻りながら返事をしてくる。自動車は彼女の苦手分野に属しているようだ。得意分野との差が凄いな。

 

「うん、何が違うのかさっぱり分からんね。……豊田さんに相談してみるのはどうかな? 知り合いの中では彼が一番自動車に詳しいと思うんだが。」

 

「ああ、良い考えですね。ちょうどメールを送るところなので、雑談程度にだけ入れてみます。」

 

「そういえば、さっきの電話で動画の修正が云々と話していたね。何か問題があったのかい?」

 

「テロップに抜けや間違いがあっただけです。動画自体は素晴らしい出来でしたよ。……豊田さんはまだテロップや効果音を使い始めたばかりなので、編集作業に慣れていないのかもしれません。そこは私がチェックを厳にする形でフォローしていこうと思っています。」

 

ら抜き言葉等々の口語調テロップに関しては投稿者の個性と判断しているが、明確な誤字や抜けなどは報告するようにしているのだ。でなければダブルチェックをする意味がないし、そういう点を拾えないと俺の存在意義も薄れてしまう。結構必死に目を光らせているぞ。

 

そういった動画の修正箇所を伝えるためのメールの文末に、社用車についての相談を追加しながら応じた俺へと、香月社長が自分の肩を揉みつつ質問を飛ばしてきた。

 

「結局豊田さんは家電紹介の動画を増やすことにしたんだろう?」

 

「ええ、チャンネル内のジャンルの割合としては商品紹介が増えそうですね。車の動画は『仕事』として焦ってやるのではなく、楽しみながら投稿できるペースに抑えるという結論に落ち着きました。代わりに家電以外にもガジェット系の小物を扱ったり、子供用品の紹介や『買い物動画』などを増やしていく予定です。」

 

「買い物動画?」

 

「うちに所属する前に上げた大型スーパーでの買い物動画の再生数が良かったので、そういう動画はどうですかとアドバイスしてみたんです。……まあその、豊田さんとしてはそんなに期待していなかった一本らしいんですけどね。許可が得られなくて店内の映像を撮れなかったから、アップロードするかどうかも迷ったと言っていました。」

 

投稿ペースを保つための『場繋ぎ』として上げてみたところ、意外にも再生数が伸びてびっくりしたんだそうだ。大型の倉庫型スーパーで買ってきた商品を値段と共に一つ一つ紹介しつつ、繰り返し購入している冷凍食品のどこが良いのかを説明したり、初めて買ってみた大容量の外国のお菓子のレビューなどを行っている動画なのだが……あまりスーパーで買い物をしない俺でも楽しめるような一本だったぞ。

 

声だけで出演している奥さんの『主婦目線』の意見も分かり易かったし、食品に対しての子供の反応なんかも解説していたし、会員制のスーパーが故のコストパフォーマンスについての話もあったので、『家庭向けの参考になる動画』という感じだったな。さすがに頻繁に出せるタイプの動画ではないが、一、二ヶ月に一本ペースの『定番動画』として成立させられる気がしたのだ。

 

そんな考えから提案してみたところ、豊田さんが……というか豊田さんの奥さんが乗り気になってくれたので、現在打ち合わせを進めているわけである。この調子でシリーズものを増やしていけば、定期的な投稿の安定化にも繋がってくれるはず。新たなジャンルに挑戦してみるのも大切だけど、チャンネルの骨子はきちんと整えておいた方が良いだろう。『買い物動画』が支柱の一本になってくれることを祈るばかりだな。

 

思考しながらパソコンを操作している俺に、香月社長が苦笑いで応答してきた。

 

「なるほど、あの動画か。確かにあれは伸びていたね。……つくづく何が『大当たり』になるかが分からないプラットフォームだよ。期待せずに放った動画がど真ん中を射貫くこともあれば、絶対伸びると確信した動画が大外れになったりもする。我々としては困りものさ。」

 

「百発百中は不可能でしょうが、真剣に向き合えば『ヒット』の割合を向上させられるはずです。それが私たちの仕事なんですから、どうにか頑張って打率を上げていきましょう。……それと、『プライバシーへの配慮』に関しての資料を纏めて夏目さんと豊田さんに送りますね。今後所属するクリエイターにも渡せるように、なるべく丁寧に作ってみます。」

 

動画制作における肖像権への配慮。その資料を香月社長が友人の弁護士さんから貰ってきてくれたので、所属クリエイター向けに纏めようと考えているのだ。顔やナンバープレートの映り込みは限りなく白に近いグレーだが、許可なくフォーカスするのは危険。そういった注意事項を伝えるための物になりそうだな。

 

先月の末に行ったハーモニーランドでの撮影で気になったので、香月社長に頼んで資料を入手してもらったわけだが……うーん、やはり難しい点だ。何もかもにぼかしを入れると動画が面白くなくなるものの、気遣わなければトラブルの原因になってしまうはず。弁護士の先生からしても線引きがあやふやな部分らしいから、最終的な判断は各クリエイターに任せるべきかもしれないな。

 

とにかく『絶対ダメ』と『間違いなくセーフ』なラインを明記しておいて、グレーゾーンに関してはクリエイターたちと都度話し合って決めていこう。危険予測はマネージャーの役目なのだから、プライバシー保護のことはしっかりと頭に入れておかなければ。

 

頭を悩ませながら豊田さんへのメールを送信したところで、風見さんが穏やかな声をかけてきた。

 

「駒場先輩、私も手伝います。資料の作成のことを勉強させてください。」

 

「助かります。……ちなみに社長、法務関係はこの資料を作ってくれた弁護士さんに委託するんですか?」

 

「そうなりそうかな。信頼できる人物だし、能力もある。ホワイトノーツの法律問題はそっちに投げることにするよ。近々正式な委託契約を結びに行くつもりだ。」

 

「段々と会社らしくなってきましたね。」

 

社員が増えて、事務所の物も増えて、所属クリエイターも増えて、仕事の量も増えてきたな。ようやく動き出したという実感が湧いてくるぞ。……とはいえ収益面はまだまだ未熟だから、ここから慎重に肉付けしていく必要がありそうだ。

 

───

 

そして風見さんと二人で書類作成に勤しんだ後、短い昼休憩を挟んだ午後一時半。俺は『さくどん』こと夏目桜さんの送迎をするために、彼女の家である『定食屋・ナツメ』を訪れていた。今日は外で撮影を行う予定なので、車で迎えに来たわけだ。

 

都内に住んでいる夏目さんにはこうやって直接的な手助けが出来るが、愛知県在住の豊田さんに対しては間接的な支援が主になる。マネージャーとして距離を言い訳にするわけにはいかないし、その辺のことも熟慮すべきだなと思案しつつ、店舗側ではなく『夏目家』の玄関のインターホンのボタンを押して待っていると──

 

「はい。……どうも、駒場さん。入ってください。」

 

「こんにちは、叶さん。お邪魔します。」

 

むう、妹さんが出てくるのは予想外だぞ。動揺を顔に出さないように気を付けて挨拶した後、開けてくれたドアを抜けて革靴を脱ぐ。……長袖の黒いTシャツに白いショートパンツ姿の彼女は、俺の担当クリエイターである夏目さんの妹の叶さんだ。前に夏目さんが『妹は今年の春で中学二年生です』と言っていたので、十三か十四歳ということになるな。

 

一応何度か顔を合わせているし、話したことだってあるのだが……うーむ、緊張するぞ。何なら夏目さんの両親を相手にする時よりやり難いかもしれない。叶さんにとっての俺は『姉のマネージャー』なので、要するによく知らない大人の男性が頻繁に自宅に来ているという状況であるはず。嫌だろうさ、そんなのは。それが想像できてしまうから、彼女と話す時は何だか申し訳ない気持ちが湧き上がってくるのだ。

 

「ありがとうございます。学校、お休みだったんですか?」

 

無言で出してくれたスリッパのお礼を口にしながら世間話を振ってみれば、叶さんは小さく首肯して反応してくる。さすがは姉妹だけあって容姿そのものは夏目さんに似ているが、目元の雰囲気だけが異なっているな。夏目さんを少し幼くして、髪をミディアムにして、やや鋭い目付きにしたのが叶さんなのだ。

 

「はい、創立記念日で休みです。……姉のことを呼んできますね。店の方に居るので。」

 

「すみません、よろしくお願いします。」

 

言うとスタスタと歩いて行ってしまった叶さんを見送りつつ、廊下に立ったままで頭を掻く。基本的に無口で無表情な子らしいので、嫌われているのかどうかすら掴めないな。……まあでも、素っ気無い態度からして好かれてはいなさそうだ。普通に落ち込むぞ。

 

芸能マネージャーだった頃はそれなりに好印象から入れていたのだが、ライフストリーマーのマネージャーなんて世間では未だ『訳の分からん怪しい職業』だもんな。然もありなんとため息を吐いていると、店舗スペースに繋がっているドアが勢いよく開いて夏目さんが登場した。

 

「駒場さん、すみません! 仕事に夢中で時計を見てませんでした!」

 

「大丈夫ですよ、来たばかりなので問題ありません。」

 

白いTシャツとジーンズの上から紺色のエプロンを着けている夏目さんは、纏めていた黒いセミロングヘアを解きながら大慌てで俺に近付いてくる。……最近分かってきたのだが、この子は集中力が物凄いのだ。別に時間にルーズなわけではなく、集中すると周りが見えなくなるので『約束の時間』に気付けないことが多いらしい。

 

そんなわけで慣れている俺に対して、夏目さんはかなり申し訳なさそうな面持ちで断りを入れてきた。

 

「あの、ちょっとだけ待っててください。すぐに着替えてきますから。本当にすみません。」

 

「ゆっくりで平気ですよ。時間的にはまだ余裕がありますから。」

 

階段を駆け上がっていく夏目さんに呼びかけた俺へと、彼女の後から住居スペースに戻ってきた叶さんが話しかけてくる。姉が脱ぎ捨てた靴を揃えているな。しっかりしている子だ。

 

「……これから撮影に行くんですか?」

 

「ええ、そうですね。撮影許可をいただけたので、渋谷にある人気のカフェに動画を撮りに行く予定です。」

 

「撮影許可? ……まるで芸能人みたいですね。」

 

「芸能人ですか。どうなんでしょう? ライフストリーマーという職業は、所謂芸能人と一般人の中間くらいに位置しているのかもしれませんね。」

 

そも『芸能人』の定義がはっきりしていないから何とも言えないな。人によって捉え方に差がある言葉だと思うぞ。無難な相槌を打った俺に、叶さんは若干だけ眉根を寄せて話を続けてきた。

 

「……姉は、上手くやっていけそうですか?」

 

「未来の予想をするのは難しいですが、少なくとも今現在は順調に進んでいます。今月の頭に投稿したハーモニーランドの動画が良い具合に伸びましたし、チャンネルへの登録者数も想定より増えていますから。」

 

「そうですか。……じゃあ、失礼します。」

 

うーん、そこで話を切ってしまうのか。唐突な終わり方だな。ぺこりと頭を下げてから階段を上っていった叶さんと入れ替わる形で、荷物を手にしてパーカーを羽織った状態の夏目さんが一階に下りてくるが……姉を心配しているとか? いまいち真意を掴めなかったけど、そういう風にも取れる会話だったぞ。

 

「お待たせしました、出られます。」

 

「では、行きましょうか。」

 

まあうん、そういうことだと思っておこう。叶さんに関する疑問を強引に纏めた後、リュックサックを背負わずに持っている夏目さんと共に外に出て、すぐそこに駐車してある黒い軽自動車へと乗り込んだ。そのままゆっくりと車を出しつつ、助手席の担当クリエイターに声をかける。

 

「二時半に約束しているので、真っ直ぐ向かうと少し早く着いてしまいそうですね。どうします?」

 

「んー……折角ですし、渋谷の街歩き動画も撮りたいです。お店の近くで軽く撮影してからカフェに行って、そこでの撮影後に本腰を入れて撮るのはどうでしょう?」

 

「了解です。私もカメラを──」

 

「駒場さん? 今は二人っきりですよ?」

 

おっと、そうだった。ジト目の夏目さんの注意を受けて、苦笑しながら言い直す。

 

「俺も事務所のカメラを持ってきたので、基本的にはそっちで撮りましょうか。」

 

呼び方を変えた俺を目にして至極満足そうな笑顔になった夏目さんは、こっくり頷いてから応答してきた。俺としてはまだ慣れないが、以前二人だけの時は『私』ではなく『俺』にするという約束をしてしまったのだ。だったら守るべきだろう。

 

「はい、分かりました。……楽しみですね、パンケーキ。売り切れてないといいんですけど。」

 

「撮影の約束をしているわけですし、売り切れることは無いと思いますよ。特に金銭のやり取りは行われていないので、スポンサーではなく『撮影協力』という形ですが……まあ、ウィンウィンなやり方ではあるはずです。こちらは面白い動画を撮れて、向こうは宣伝が出来るわけですから。」

 

「撮影させてもらうんだから、なるべく美味しそうに食べないといけませんね。そのために色々と勉強してきました。」

 

どういう勉強をしてきたんだろう? ……何にせよ、良い姿勢だと思うぞ。流行っているカフェなのだから美味しくないはずはないし、ベタ褒めしても違和感は出てこないだろう。こっちからアクションをかける場合はその辺が楽でいいな。そもそも『安全牌』を選んでいるので、正直さと面白さの間で迷わなくて済むわけか。

 

だが、向こうからスポンサー契約を持ち掛けられた時はそうもいかない。受けるか、断るか。そして受けた時に正直さを前面に出すか、それとも仕事として大袈裟に褒めるか。そういった部分は丁寧に扱っていく必要がありそうだ。事務所として一つのやり方に拘るのではなく、クリエイターそれぞれのスタイルに合わせて調節していかなければ。

 

夏目さんはそういう問題に当たった際、どんな選択を下すんだろうかと考えていると……助手席でスマートフォンを操作している彼女が、明るい顔で新たな話題を送ってくる。渋谷のことを調べているのかな?

 

「そういえばロータリーマンさんの動画、見ましたよ。何だか不思議な気分です。会ったこともないずっと年上の人が、同じ事務所の同じマネージャーさんに付いてもらってるクリエイター仲間っていうのは……何とも言えない気持ちになります。」

 

「嫌ですか?」

 

「いえいえ、違います。全然嫌ではないです。男の人ですし。」

 

んん? 男の人? 何故そこに着目したのかを怪訝に思っている俺へと、夏目さんは眉間に皺を寄せながら続けてきた。

 

「上手く言葉にするのは難しいんですけど、同じ事務所のクリエイターとして頑張って欲しいって応援する気持ちと、同じ事務所だからこそ負けたくないって対抗心が混ざり合ってる感じ……ですね。割合としては応援が八で、対抗心が二くらいです。」

 

「ああ、なるほど。そういう意味ですか。……素晴らしい心構えだと思いますよ。気にし過ぎるのは問題ですが、切磋琢磨する相手が居るのは良いことです。そのうち一緒に動画を撮ってみるのも面白いかもしれませんね。お互いの視聴者が興味を持ってくれるかもしれませんし。」

 

「あー、それは良いですね。……でも私、自動車には詳しくないです。どういう形に持っていくべきでしょうか?」

 

「やり方はいくらでもありますよ。『さくどんとロータリーマンがコラボレーションする』という点が重要なんだと思います。」

 

単なる思い付きで言ってみたわけだが、ライフストリーマー同士の『コラボレーション動画』というのは結構良いアイディアじゃないか? 他の投稿者との交流は大いにありだと思うぞ。このまま所属クリエイターが増えていけば、そういう形式の動画も頻繁に作っていけるかもしれない。

 

いやまあ、自社所属に拘る必要すらないか。まだまだライフストリームに垣根は存在していないわけだし、個人でやっているライフストリーマーとコラボするのも全然可能だな。互いの視聴者に対して互いのチャンネルを紹介する良い機会になるはずだから、受けてくれるライフストリーマーは多いだろう。

 

今度香月社長に提案してみようと思案している俺に、夏目さんが返事をしながら再び話題を変えてくる。

 

「いきなり知らない人を相手にするのは緊張しますけど、どっちも駒場さんの担当なら大丈夫かもしれません。……ちなみに、新しい事務員さんはどうですか?」

 

「風見さんですか? 優しい女性なので接し易いと思いますよ。営業もやってくれるんだそうです。」

 

「そうなんですか。」

 

喜んでくれると思っていたんだが……何か、いつもより平坦な声だな。夏目さんは人見知りするタイプらしいから、気後れしているのかもしれない。車を運転しつつそういう結論を脳内で弾き出して、風見さんの『良いところ』を助手席に投げた。

 

「風見さんは柔らかい雰囲気がありますし、俺よりも遥かに気遣いが上手い人ですよ。香月社長によれば、慣れさえすれば営業も卒なく行えるだろうとのことでした。」

 

「……美人さんですか?」

 

「まあ、はい。俺からすれば美人と呼べる容姿に思えますね。」

 

「香月さんと比べるとどうでしょう?」

 

おおっと、危険な質問が飛んできたな。どう答えても泥沼じゃないか。夏目さんがスマートフォンに目を落としながら寄越してきた問いに、必死に思考を回して返答する。

 

「それは、難しい問いですね。個々人で答えが異なるでしょうが……俺の場合はまあ、甲乙付け難いという感じです。」

 

「要するに、香月さんと『甲乙付け難い』ような美人さんなんですか。」

 

どうしてどんどん沈んだ声色になっていくんだ? 美人だと嫌なんだろうか? 訳が分からなくて困惑していると、夏目さんは窓にコツンと頭を預けてポツリと呟いた。どことなくアンニュイな表情でだ。

 

「……じゃあ、もっと頑張らないとダメですね。」

 

「あーっと、どういう意味でしょう?」

 

恐る恐る聞いてみた俺を見て、何だか不満げな顔付きになった夏目さんは……姿勢よく席に座り直しながら唐突に話を締めてしまう。

 

「何でもないです。気にしないでください。……駒場さんは渋谷で行きたいところ、ありませんか? 毎回お店の撮影許可をいただくのは大変でしょうし、外で食べられる物をメインにしようと思います。インパクトがある食べ物とか、名物とか。そういうのを食べ歩きする動画にしましょう。」

 

「渋谷は俺の『活動スポット』ではないので、パッとは思い浮かびませんが……カフェで食べた後に食べ歩きをするんですか?」

 

「他の買い物となると店内も撮らないと面白くなりませんし、何より予算が限られてますから。低予算で一本作るんだったら、食べ歩きって形が一番ですよ。……大丈夫です、昨日の夕ご飯はかなり早めに食べました。お昼も抜いてきたので、まあまあ食べられるはずです。」

 

「……なら、俺も手伝います。こっちも昼食を抜くべきでしたね。失敗しました。」

 

ハーモニーランドでの悪夢が蘇ってくるぞ。パーク内のフードやレストランの料理、そしてホテルのルームサービスや朝食。それらの膨大な種類の食べ物を、俺と夏目さんと香月社長の三人で『ほぼ制覇』したのだ。お土産系やパッケージ違いは網羅できなかったが、食事に関してはハーモニーランドを余す所なく映せたと言えるはず。

 

いやはや、あれは本当にキツかったな。パーク内のレストランが混んでいるのも大変だったし、二日間という時間制限も厳しかったし、特定エリアにしか売っていないフードを探すのも一苦労だった。半分を制覇した段階で引っ込みが付かなくなって、動画のためにと三人で食べ切ったわけだが……まあ、お陰で良い動画になったんだから喜ぶべきか。ハーモニーランド・ジャパンの食べ物にあそこまでフォーカスしているのは、ライフストリーム内であの動画だけだろう。『他と違う』が武器になることを証明した一本になったぞ。

 

さくどんチャンネルでは料理動画も上げているわけだし、『食』を主要なジャンルに定めるのは悪くない選択かもしれない。そういう意味では食べ歩き動画を歓迎したいところだが……『若者の街』で食べ歩きとなるとスイーツ系がメインだろうから、また胃薬を飲む羽目になってしまいそうだな。甘ったるい物をガツガツ食べられる人間じゃないぞ、俺は。

 

とはいえ、マネージャーとクリエイターは一蓮托生。夏目さんが決めたなら付き合うだけだ。今年の健康診断の結果を心配しつつ、担当の『外部胃袋』として甘いスイーツたちと戦う覚悟を決めるのだった。

 



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Ⅱ.モノクロシスターズ ②

 

 

「どうぞ、駒場先輩。湯冷しです。」

 

渋谷での撮影の翌日。俺は顆粒の胃薬が入った小袋の封を切りながら、目の前にマグカップを置いてくれた風見さんにお礼を告げていた。短大生の頃はこのくらい何でもなかったんだけどな。こうやって人間は年齢を実感していくのかもしれない。

 

「ありがとうございます。」

 

「具合、大丈夫ですか?」

 

「ええ、大したことはないんです。ほんの少しだけ胃がもたれている程度ですから、昼頃には良くなると思います。」

 

心配そうに尋ねてきた風見さんに応じていると、右隣のデスクの香月社長が哀れんでいるような顔付きで会話に参加してくる。要するにまあ、昨日の撮影で食べ過ぎたわけだ。しかも甘い物ばかりを。……覚悟はしていたのだが、やっぱりキツかったぞ。生クリームがちょびっとだけ嫌いになっちゃったな。

 

「こういうのは労災にカウントされるのかな? 病院に行くなら診察費は出してあげるよ。」

 

「そこまでではありませんって。市販の胃薬で平気です。……夏目さんは私より食べていましたよ。ハーモニーランドの時といい、彼女は撮影となると限界を超えるみたいですね。」

 

撮影協力してくれたカフェで出た太いペンネの本格派カルボナーラと、フルーツたっぷりの大きなチョコレートパンケーキと、可愛らしい動物の焼き目が入ったBLTサンドを完食した上で、更にトールサイズのロイヤルミルクティーとカフェラテを完飲してから食べ歩き動画の撮影を始めたのだ。改めて考えると凄まじいな。夏目さんの胃袋はどうなっているんだろう?

 

カフェの店長さんとしてもまさか一人で全部を完食するとは思っていなかったようで、撮影後に嬉しそうな顔で対応してくれていたが……あれはきっと、夏目さんなりの『プロ意識』なんだろうな。俺が残りを食べましょうかと言った時、『動画内で全部食べます』と決意の表情で語っていたっけ。

 

その甲斐あって食事のシーンは一連で撮れたし、カットではなく倍速にすることも可能になった。少なくとも編集の選択肢は増えたと言えるだろう。昨日のことを思い返している俺に、香月社長が苦笑いで己の解釈を寄越してくる。

 

「日本人は『きちんと全部食べる』という行動に好意を感じがちだからね。メインとなる視聴者がそういう文化的な傾向を持っている以上、そこは気遣うべき部分だろうさ。夏目君は経験からそれを学習したんだと思うよ。……あるいは単純に、彼女もまた残さず食べることを美徳と判断しているが故の行動なのかもしれないが。夏目君は素直なタイプだし、後者の方がしっくり来るかな。私のようにいちいち斜めから見たりはしなさそうだ。」

 

「勿体無いの文化ってやつですか。」

 

「あとは『食事の前にいただきますを言う』とか、『箸を正しく持つ』とかもあるね。好き勝手に食べるのは自分のためで、そこに気を使うのは他人のためなんだ。そういう意味では夏目君の選択は正しいんじゃないかな。……深く考えていくと無駄に思えるものもあるが、マナーとは即ち他者への歩み寄りなんだよ。自分に制限をかけてでも相手を立てる。そういった意思を行動で示しているわけさ。」

 

うーん、香月社長の視点はやはり面白いな。『マナーは自分ではなく、他人のためにある』か。よくよく考えてみれば当たり前の結論だけど、今まで深く思案したことがなかったぞ。正直なところ、『何となく』で判断していた部分だ。

 

俺が胃薬を飲みながら感心している間にも、自分のデスクに戻った風見さんが相槌を打つ。

 

「特に『いただきます』は日本の国民性を象徴する文化ですよね。大学でそれに関してのディベートが行われていました。使われ始めてから一世紀も経っていないと知って驚きましたよ。もっと長い歴史を持った伝統だと思っていましたから。」

 

「ああ、あったね。私が四年生の頃、第二講堂でやっていたディベートだろう? ……『いただきますを無理に言わせるのは、特定の宗教観の押し付けである』という主張は中々面白かったよ。いただきますとは宗教的行為なのか、文化的伝統なのか、あるいは日本固有のマナーなのか。捻くれた意見だとは思ったが、客観的に見つめ直すのは大切さ。それを怠ると文化は途端に腐っていくからね。」

 

「何にせよ僅か七、八十年でここまで広まっている以上、日本人の感性に合っている儀式……挨拶? なのは間違いないはずです。そうなると、所属クリエイターには食事の前にいただきますと言ってもらった方が良さそうですね。」

 

「ん、そうだね。私はまあ、死生観が絡んでいる物事は基本的に宗教の範疇だと捉えているから、信教の自由を重んじる文明人として他者に強制する気はないが……推奨はしていくべきかな。同調圧力は敵に回すと厄介だ。あえて立ち向かったりせずに、上手く受け流すのが賢いやり方なのさ。」

 

そこに帰着するのか。頭の良い人たちの会話というのは不思議だな。物凄く脱線したかと思えば、急にクリエイターの話に戻ってきたぞ。猫舌の俺でも飲み易い温度のお湯を飲みつつ唸っていると、椅子の背凭れに身を預けた香月社長が話を纏めた。

 

「インターネットは思想による私刑が行われ易い世界だから、クリエイターに代わって私たちが注意しておくべきだよ。警鐘を鳴らせない物見なんて単なる給料泥棒だからね。……その辺は君たちも心に留めておいてくれたまえ。私たちが警戒を疎かにすれば、責められるのはクリエイターだぞ。たとえ小さな火種でも、油断せず念入りに踏み消すように。」

 

「了解です。」

 

「はい、分かりました。」

 

火事を消せるだけでは二流であって、そもそも火事にまで発展させないのが一流の事務所ということか。風見さんと二人で返事をしながら、香月社長の発言をしっかりと心のメモ帳に記載したところで……社長が俺に向かって新たな話題を振ってくる。毎度お馴染みのしたり顔でだ。

 

「それと、駒場君。新しい所属クリエイター候補が出てきたぞ。夏目君と豊田さんはこっちから声をかけた投稿者だったが、今回は向こうから連絡してきてくれたんだ。」

 

「それは良い知らせですね。……しかし、何が切っ掛けだったんでしょう?」

 

「夏目君の事務所所属の動画を見て、ホワイトノーツの存在を知ったらしいよ。女の子二人組でやっているチャンネルで、『ゲーム実況』をメインにしているようだ。」

 

「ゲーム実況ですか。人気のジャンルですね。」

 

ゲーム実況。それは現在のライフストリームにおいて一定の割合を占めている、若年層を中心に広まっている大人気のジャンルだ。投稿者がゲームをやりながら喋るという単純明快な内容だが、『一緒にやっている感覚』が得られるのがミソらしい。俺もライフストリームの勉強として何本か見たけど、そのゲームに詳しくなくても投稿者次第では楽しめるようなシステムだったぞ。

 

大別すればゲームそのものの面白さと、投稿者のトークセンスが問われるような形式だったな。誤魔化しが利かないトークの比重が大きい分、他よりも更に実力がはっきり出てくるジャンルなのかもしれない。正に玉石混交だったことを思い出している俺に、香月社長が難しい面持ちで話を続けてきた。

 

「実は悩んでいてね。ゲーム実況をメインとするクリエイターを抱える場合、大きな問題点が一つあるんだ。それが何だか分かるかい?」

 

「著作権でしょう?」

 

「さすがだね、駒場君。大正解だ。……そこがかなーり難しい部分なのさ。ゲーム実況をするためにはゲームをしなければならないが、そのゲームには当然著作権が存在している。ライフストリームではそういったトラブルが頻発しているらしいよ。つまり、ゲームの権利侵害のトラブルが。」

 

「ゲーム実況をメインに据えているチャンネルだと、広告を載せるための申請も通し難くなるようですね。」

 

この辺はまあ、ライフストリームの経営母体であるキネマリード社も苦労している点なのだろう。プラットフォーム内の人気ジャンルを潰したくはないが、まさか著作権を堂々と無視するわけにもいかない。そんなこんなで対応が二転三転しているらしい。

 

現状だと当たれば再生数を稼ぎ易いが、反面アカウント停止のリスクも孕んでいるハイリスクハイリターンなジャンルってところかな? ゲームの開発や販売を行っている会社としては、『動画で見たから買わなくていいや』と判断されたら堪ったものではないだろう。苦労して作ったゲームがそんなことになるのは到底許せないはずだ。

 

権利侵害云々に関してはどう考えてもゲーム会社側に理があるわけだし、それで広告収益まで受け取ってしまえば法律的にも道徳的にも大問題になる。そういった理由もあって、キネマリード社はゲーム実況動画の広告掲載に対して慎重な姿勢を取っているのだろう。……非営利の著作権侵害でさえ企業にとっては大ダメージになるのに、営利目的の侵害までいくともはや悪夢だ。ライフストリームは多くの意味で際どいラインに位置しているサイトだから、運営側の苦悩が伝わってくるぞ。

 

脳内で思考を回している俺へと、香月社長が肩を竦めて口を開く。

 

「とはいえまあ、動画化が許可されているタイトルも複数あってね。数少ない収益化を行っているゲーム実況チャンネルは、そういうゲームのみを動画にしているようだよ。」

 

「……『素材』の選択肢が絞られるとなると、他との差別化をするのが難しくなりそうですね。」

 

「故に明暗がくっきり分かれてしまうのさ。同じゲームを実況している動画だったら、視聴者はよりトークが面白い方を見るはずだ。選べるゲームが限られている現時点では、競争が激しい投稿形式と言えそうかな。……それにライフストリームはゲーム実況があまり『得意』ではないプラットフォームだからね。ゲーム実況というジャンルに限定するのであれば、ライブ配信の方が人気らしいんだよ。『自分のコメントに配信者がリアルタイムで反応してくれる』というのが重要みたいだ。」

 

「……問題点が山積みですね。」

 

香月社長曰く、ライフストリームも遠からずライブ配信を取り入れるとのことだったが……まだその気配がないぞ。実験的な試みはちらほらと行われているものの、一般公開の兆しは見えていない。である以上、ライフストリームが『ゲーム実況に弱い』状態は暫く続くのかもしれないな。

 

俺が腕を組んで息を吐いたところで、香月社長が今度はプラスの判断材料を送ってきた。

 

「しかしだね、駒場君。そのチャンネルの登録者数は九万人なんだよ。しかも最初の投稿は去年の夏。逃すには惜しい大魚なんだ。」

 

「一年弱で九万は確かに凄いですね。……収益化は出来ているんですか?」

 

「出来ていないのさ。そこが私たちに声をかけてきた理由のようだね。是が非でもライフストリームで金を稼ぎたいが、ゲーム実況というジャンルだと著作権の難解な柵があるから、ライフストリーム専門の事務所に所属することで諸々の問題を解決したいらしいよ。……君はどう思う? マネジメント担当としての意見が欲しいんだが。」

 

「うちで抱えるか、抱えないかという意味ですか?」

 

俺の質問を耳にしてこっくり頷いた香月社長に、数秒間黙考した後で答えを口にする。

 

「私は抱えてみるのもありだと思います。ゲーム実況がライフストリームの柱の一つなのであれば、それを主軸にしている投稿者を抱えられないのは専門事務所として致命的です。色々と問題は出てくるでしょうが、そういった部分を解決できてこそのホワイトノーツじゃないでしょうか? ……それに、まだ収益化が出来ていないという点も重要ですよ。真の意味で『原石』の状態から抱えられるのが良い事務所の絶対条件です。そういうタレントが居ない事務所は、いつまで経っても厚みを持てません。私はそう考えています。」

 

「慎重派の君にしては珍しく、現実ではなく理念からの主張をしてきたね。大変結構、私好みの回答だ。段々と私の色に染まってきているようじゃないか。……ただ、マネージャーとしては苦労すると思うよ?」

 

「承知の上です。抜け道は必ずあるはずですから、それを探し当ててみせます。」

 

「うんうん、良い返事だ。……なら、受けようか。先ず挑んでみなければ始まらないしね。先々で活かせる経験を得るためにも、ここで問題を背負ってみるのが先駆者ってものさ。レベルアップには経験値が必要。それはゲームでも現実でも一緒のはずだ。」

 

くつくつと喉を鳴らして決定を下した香月社長へと、眼前のパソコンを操作しながら疑問を投げた。となれば、そのゲーム実況チャンネルの動画を見ておかないとな。

 

「チャンネル名を教えてください。空いた時間で動画をチェックしておきます。」

 

「『モノクロシスターズ』というチャンネルだよ。まだ電話で少し話しただけだから、本名までは分からないが……下の名前そのままで活動していると言っていたね。」

 

「本名でやっているんですか。外国のライフストリーマーだとそういう人も居ますけど、日本では珍しいですね。」

 

応答しながらライフストリームの検索窓にチャンネル名を打ち込んで、一番上に出てきたサムネイルをクリックしてみれば……おー、若いな。『女の子二人組』と聞いて夏目さんくらいの年齢を想像していたのだが、彼女より更に若いんじゃないだろうか?

 

「……随分と若い二人組に見えますけど、中学生とかじゃないですよね?」

 

動画を視聴しながら問いかけてみると、香月社長は間を置かずに首肯してくる。おいおい、そうなのか。重いプレッシャーがのしかかってくるぞ。

 

「中学二年生の双子だよ。白めのグレーに髪を染めているのがアサキ君で、黒めのグレーがサヨ君だ。」

 

「あー、双子ですか。言われてみれば顔がそっくりですね。」

 

「間違いなく一卵性だろうね。ちなみに私と電話で話したのはサヨ君の方だよ。中学生とは思えないほどにしっかりした喋り方だったかな。」

 

白に近いグレーのボブの子がアサキさんで、黒に近いグレーのロングヘアなのがサヨさんか。……うーむ、対照的だな。少なくとも動画内ではアサキさんが動的な役割であり、サヨさんが静的な役割を担っているらしい。元気で明るいアサキさんと、冷静で知的なサヨさんって雰囲気だ。

 

これはまあ、人気が出るのも分かるぞ。息の合った軽快なトークだし、ゲームのプレイスタイルにも違いがあるし、二人とも……双子なので『二人とも』なのは当たり前だが、姉妹でお揃いの容姿はかなり整っている。可愛らしい双子の女の子が楽しそうにゲームをしているとなれば、そりゃあ視聴者は定着するだろう。

 

香月社長の説明を受けながら動画をいくつかチェックしていると、対面のデスクの風見さんがポツリと呟いた。彼女もモノクロシスターズの動画を確認しているらしい。

 

「『リーグ・オブ・デスティニー』の動画が多いですね。懐かしいです。私もやっていました。」

 

「ゲームのタイトルですか?」

 

「ええ、とても人気があるゲームですよ。MOBA系では世界で一番流行っているはずです。日本は受け易いゲームが異なっているので伸び悩んでいますけど、それでも一定数のプレイヤーは居ると思います。北アメリカやヨーロッパでは大きな大会も開かれていますしね。」

 

ぬう、全然分からんな。俺もゲームは人並みにやる方だが、パソコンではプレイしたことがないぞ。……しかし担当するのであれば、分からないままにはしておけない。どうやら風見さんは詳しいようだし、彼女に教えてもらおう。

 

「所謂オンラインゲームというやつですか?」

 

「広義で言えばそうなります。極限まで噛み砕くと、五対五のチーム戦を行うゲームです。……上手いですよ、この二人。高ランク帯に居るみたいですから。」

 

「……チャンネルの動画一覧を見ると、確かにリーグ・オブ・デスティニーのサムネイルが多いですね。著作権的にはセーフなんでしょうか?」

 

「そこは大丈夫です。むしろ配信を推奨しているゲームですから。基本無料というシステムなので、『面白そうだから自分も始める』を狙っているんだと思います。」

 

なるほど、上手いやり方だな。配信を公式に許可することで、動画投稿者や生配信者にマーケティングをやらせているわけか。しかも無料で。……ただまあ投稿者の方も動画に出来るというメリットを享受しているのだから、双方が得をする見事なシステムなのかもしれない。

 

ゲーム業界も動画配信という波を受けて、適応するために生き残り方を模索しているんだろうか? 明らかにゲーム業界は巻き込まれた側だから、そこは心から同情するが……だけど静観しているだけでは泥沼だもんな。もはや『ゲーム実況』の流れは止められないだろう。ならば涙を飲んでそれを利用していくしかないわけだ。

 

『人類総発信者』が生み出した問題についてを思案していると、風見さんが新たな切り口からの情報を飛ばしてきた。

 

「アサキさんはRPGやアクションが好きで、サヨさんはFPSやRTSが好みなのかもしれませんね。何となくですけど、見ているとどちらが主導した動画なのかが分かります。」

 

「ジャンルの好みに差があるわけですか。……ちらほらとプラモデルやフィギュアの短い動画がありますね。一応ゲーム以外の動画もやってはいるようです。」

 

「そっちはサヨ君が担当しているみたいだね。対してアサキ君は歌やダンスの動画を少しだけ上げているようだ。……何とも面白い違いじゃないか。経験が人間を構築するという実例だよ。双子だろうと差は生じるのさ。」

 

香月社長が謎の結論に着地しているのを他所に、チャンネルのサムネイルをざっと見終えてマウスから手を放す。九割以上はゲームだな。残りの一割弱に『ゲーム以外』が詰め込まれているという状態だし、やはりメインはゲーム実況と判断して良さそうだ。

 

そして動画の編集はあまりしていないのも分かったぞ。基本的にはゲーム画面の右下と左下に小窓を入れて、別撮りの顔を映しているだけらしい。カットは殆どしないで、テロップや効果音やBGMやエフェクトもゼロ。一連のゲーム画面と別撮りの自分たちを、そのままくっ付けて動画にしている感じだな。

 

とはいえ、全然悪くないように思える。ゲームという素材がそもそも面白いし、画面の華やかさを担ってくれているので、編集に拘るとむしろごちゃごちゃしてしまいそうだ。すっきり短時間で見せたいならカットや編集もありだが、ゲームそれ自体に着目したいのであればこのやり方が『王道』なのかもしれない。

 

いや、本当に奥深いな。ゲームという素材の味を活かしている動画って印象だ。時には編集が余計になることもあるわけか。突き詰めていくと頭がこんがらがってくるぞ。眉間に皺を寄せながらこめかみを揉み解していると、デスクに頬杖を突いている香月社長が声をかけてきた。

 

「何れにせよ、彼女たちは中学生だ。そうなると保護者との話し合いも必要になるし、様々な面で制約が出てくるだろう。頼りにしているよ、駒場君。前職の経験を活かして頑張ってくれたまえ。」

 

「……努力してみます。」

 

最大の問題は香月社長に連絡をしてきたというサヨさんが、保護者の了解を取っているか否かだな。取っていない場合、非常に面倒なことになるぞ。所属の話自体が潰れることだって大いに有り得るだろう。中学生の娘たちが『ライフストリーマーになりたい』と言ってきた時、『よし、いいぞ!』と笑顔で了承する親はごくごく少数のはずなのだから。

 

あー、気が重いな。『保護者の説得』はマネージャーにとっての鬼門だ。神経をゴリゴリ削り取られるし、向こうの心配も理解できてしまうから強く主張できない。前に勤めていた江戸川芸能事務所では、その辺のストレスが原因で退職した人も居たほどだぞ。

 

もしもの時のために胃薬は大事に取っておこうとため息を吐きつつ、来る苦労を思って首をコキリと鳴らすのだった。

 



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Ⅱ.モノクロシスターズ ③

 

 

「……毎回このカフェですね。」

 

五月最後の日曜日。俺は毎回使っているカフェのテーブル席に、香月社長と仲良く並んで腰掛けていた。デジャヴを感じるな。俺と社長が出会った日に話し合ったのも、夏目さんと初めて対面したのもこの店のこの席だったぞ。あれからもう二ヶ月近くが経ったのか。随分と早く時間が進んでいる気がするし、どうやら俺は濃い毎日を過ごせているらしい。

 

財布や手帳などが入っている黒いブリーフケースを、席毎に置いてあるお洒落な荷物入れ……バスケット? カゴ? とにかくそこに仕舞いつつ呟いた俺へと、左隣の香月社長が椅子の位置を調整してから応じてくる。

 

「まあ、あれだよ。験担ぎってやつさ。君や夏目君を口説き落とせたこの店は、私にとっての『幸運のカフェ』であるようだからね。だったら初めての話し合いはここで行うべきだろう?」

 

「験担ぎですか。何となくですけど、社長はそういうことを気にするタイプじゃないと思っていました。」

 

「験担ぎ、おまじない、ジンクス、占い。何事にもちょっとしたスパイスは必要さ。縛られも縋りもしないが、どこでも同じならここにするよ。何よりこのカフェはアイスコーヒーが美味いしね。良いアイスコーヒーを出す店は、良いホットコーヒーを淹れる店よりも遥かに少ないんだ。」

 

「確かにこの店のコーヒーは美味しいですね。種類も豊富ですし。」

 

メニュー表を開きながら言った後、それに目を落として注文する品を選ぶ。つまるところ、俺と香月社長は『モノクロシスターズ』の二人と会うためにこの店を訪れたのだ。どうも彼女たちは都内に住んでいるようだし、電話では細かい部分を詰められないので、とりあえず直接話してみることになったわけだが……いやはや、『土日の面談』は久々だな。江戸川芸能時代を思い出すぞ。

 

モノクロシスターズの二人は現役の中学生であって、そうなると当然平日には学校があるため、こうして日曜日の昼の待ち合わせになったのだ。江戸川芸能は『未成年は学業優先』の看板を掲げていたから、休日に打ち合わせをすることが結構あったものの……まあ、実情としてはそんなに優先できていなかったっけ。休日に話し合いを行った挙句、平日にも普通に仕事を入れていたな。

 

とはいえ、そこは仕方のない話だ。タレント活動をするにおいて、『学業優先』はかなりの足枷になってしまうのだから。『芸能活動をしつつ勉強もして良い大学に進学する』のは物凄く頑張れば可能だが、『学校生活を余す所なく満喫して仕事もする』まで行くとほぼほぼ不可能だろう。一日が二十四時間しかない以上、毎日九時間ほどを学校に割くのは厳しすぎるぞ。

 

要するに未成年が働くという状況が、そもそも社会のシステム上間違っているんだろうな。だからそういう不自然な齟齬が生じてしまうわけか。……そうは言ってもタレントたちはそれぞれの『芸能活動をする理由』を抱えているし、馬鹿正直に学業優先にしていては周囲から『使い難いタレント』扱いされてしまう。結局のところ二者択一なのだ。仕事か、プライベートか。その両方を掴めるのは一握りの『天才』だけなのだから。

 

芸能タレントだとそういった問題があったが、ライフストリーマーはどうなんだろう? メニュー表を見つめながら黙考している俺に、香月社長が声をかけてきた。

 

「君、何か考え事をしているね? 間違いなく注文とは関係がない考え事を。全くもって分かり易いよ。」

 

「……分かり易いですか?」

 

「君は難しいことを考える時、こう……眉根を寄せて一点を見つめる癖があるんだ。そのくらいの機微は分かるようになったさ。」

 

眉根を寄せて実演してきた香月社長へと、苦笑しながら口を開く。俺が社長の内心に気付けるようになってきたのと同じく、彼女も俺の心情を探れるようになってきているわけか。

 

「未成年のクリエイター活動についてを考えていたんですよ。夏目さんの場合は学校に通っていませんし、冬に十八歳になるのでそこまで深くは悩んでいなかったんですが……現役の中学生となるとさすがに気になってしまいます。」

 

「なるほどね、そういう考え事か。……そこを思案する際には、大前提を抜かさないようにしたまえよ? 『クリエイター活動を望んでいるのは当人である』という前提をね。」

 

「それは当然のことではありますけど、何だか言い訳っぽくありませんか? 『本人が望んでいるのだから仕方がない』みたいな。……本日のアイスコーヒーをお願いします。」

 

応答しつつ近付いてきた店員に伝えてやれば、香月社長も注文をしてから俺に返答してきた。

 

「私も同じ物をお願いするよ。……言い訳がましいのは認めるが、その前提を抜くと単なる悲劇だろう? 無理やりやらせるわけにはいかないからね。決して外してはならない条件だから、『大前提』にすべきなのさ。」

 

「まあ、はい。それはその通りだと思います。『親の都合でジュニアタレントになった』という話は何度か耳にしましたし、ちらほらとヘビーな事例もありましたから。」

 

短大に居た頃は『都市伝説だろ』と思っていたのだが、芸能事務所に就職した後で普通に起こっている問題だと知ったぞ。中でも一番多かったのは、子供がタレント活動を望んでいると親が勘違いしてしまうパターンだ。親は子供のためを想って活動を積極的に支援して、子供もまた親の期待に応えようと努力していった結果……いつの間にか無理を背負い込み、いきなりパンクしてしまうというケース。あれは紛うことなき悲劇だったな。

 

江戸川芸能事務所は『未成年』と言っても中高生から抱えることが殆どだったので、俺は他事務所で起こった事件を人伝に聞いただけだが……正直、子役を多く受け持つ事務所に就職しなくて良かったと安心してしまったぞ。最大の被害者はもちろん子供で、次いで両親であることは間違いないのだろうが、担当するマネージャーも精神的に相当キツいはずだ。適当にやっている人間なら気にも留めないかもしれないけど、真面目に向き合っていればいるほど辛いはず。自分の担当がそうなったらと考えるだけで胸がキュッとなるな。

 

想像だけで参ってしまっている俺へと、香月社長が質問を寄越してくる。呆れと感心と興味が綯い交ぜになった表情でだ。

 

「おいおい、駒場君? 何て顔をしているんだ。……まさか君、想像しただけでそんな顔になっているのかい? それとも芸能マネージャー時代にそういう体験をしたとか?」

 

「いえ、幸いにも私の担当はそういうことにはなりませんでした。」

 

「ということは、想像だけで苦悩しているわけか。君は……あれだね、案外繊細な人間なんだね。犬の映画とかを観て泣くタイプだろう?」

 

悪かったな、繊細で。別にいいじゃないか、犬の映画で泣いても。犬は可愛いんだぞ。半笑いで指摘してきた香月社長にジト目を向けてやれば、彼女はくつくつと喉を鳴らして続けてきた。

 

「まあ、それでこそうちのマネージャーだ。担当の悲劇に心から恐怖できる君は、きっと良いマネージャーなのさ。仕事だからと割り切ってしまえる人間よりは好感が持てるよ。……だが、君自身にとってはデメリットかな。自分本位に割り切れる人間の方が幸せな人生を歩めるはずだからね。」

 

「……根本的にはその辺が原因になって、私は江戸川芸能を解雇されたんでしょうね。タレントに入れ込みすぎるマネージャーは二流です。そこはよく分かっています。」

 

「しかしだ、故に君は現在ホワイトノーツに勤めているわけだろう? 居るべき場所に行き着いたのさ。どんどんクリエイターたちに入れ込みたまえよ、駒場君。私はそういう不器用な人間だからこそ気に入ったんだ。万が一失敗したら私が何とかしてあげるから、自分のやり方を信じて突き進みたまえ。」

 

むう、急に頼もしいことを言ってくるじゃないか。ふふんと胸を張って主張する香月社長に、負けましたという気分で小さく頷く。こういう人なのだ、我らが社長は。

 

「……分かりました、どうにか自分のやり方を形にしてみせます。」

 

「ん、精進するように。……話を戻そうか。今から会う二人は、自分たちの意思でライフストリーマーになることを決めたわけだろう? 私たちが何もしなくてもその道を選んだわけだ。」

 

「まあ、そうなりますね。」

 

「そして同時に、彼女たちはホワイトノーツに所属することを選んだ。そこが私たちにとって最も重要な点なんだよ。……介入する以上、介入しなかった時より良い結果に導く必要があるのさ。つまりだね、『未成年がライフストリーマーになること』の是非を悩むのは君の役割じゃないんだ。そういうのは口ばっかりの暇な連中にでも任せておきたまえ。君の仕事はその前提を踏まえた上で、より良い結果を彼女たちに齎すことだろう?」

 

動かせない前提でうじうじ悩むのではなく、自分の努力によって変えられるその先を考えろということか。尤もな台詞だな。俺はマネージャーなのだから、思案すべきはそこではない。決定を下したクリエイターたちを支えて、成功に導くのが俺の役目だ。

 

余計な部分に気を取られていたことに気付いてポリポリと首筋を掻きつつ、香月社長へと返事を返す。もちろん未成年の活動の是非も重要な問題ではあるのだろうが、優先順位を間違えるのは宜しくない。先ずは自分のすべきことをする。話はそれからだ。

 

「分かり易い考え方ですね。社長らしいです。」

 

「往々にして考え過ぎると失敗するのさ。もっとシンプルに行きたまえ。この世は存外単純に出来ているんだから。……それにまあ、ライフストリーマーなら芸能タレントよりもやり易いのは事実だろう? 露出による問題は共通しているが、時間的な制約は遥かに緩いはずだ。『いつやるか、どこまでやるか』が当人の選択次第だからね。」

 

「『ノルマ』が存在していないわけですか。……確かにクリエイター次第になりますね、そこは。」

 

キツくやるか楽にやるかを決めるのは、他ならぬ当人なわけか。何事も主体は事務所ではなくクリエイター。そこは理解していたつもりなのだが、やはり昔の考え方が染み付いているな。……うん、もっと柔軟に行こう。テンプレートなやり方じゃなくてもやっていけるのがライフストリーマーの良いところなのだから、変な枠組みを作ってその長所を潰さないようにしなければ。

 

脳内で反省していると、香月社長が席に届いたアイスコーヒーを飲みながら話題を変えてくる。

 

「ライフストリーマーは良くも悪くも『自由度』が高いのさ。そこはきちんと認識しておいた方が良いだろうね。……例のマニュアルもそういう視点から作るんだろう?」

 

「その予定です。『こうすべき』という形ではなく、『こうしたい場合はどうするか』をマニュアル化していこうと考えています。」

 

マニュアルというのは、俺と風見さんで作成中の所属ライフストリーマーに配布する資料のことだ。プライバシーの配慮に関する書類を作る過程で、動画編集についてや撮影の方法、使う機材やカメラの動かし方といった部分も組み込むことを思い付いたのだが……まあ、本当の意味で『完成』するのはずっと先になるだろうな。現時点ではたった二人の所属クリエイターである、夏目さんと豊田さんの経験を共有するための書類に近いわけだし。

 

とはいえ所属クリエイターが増えれば得られる経験も増していくだろうから、それを随時付け足していけば有用な資料に育ってくれるはず。現在の俺と風見さんがやっているのは、そういった未来を見越しての土台作りだ。会社がまだまだ未熟であるのと同じく、資料も成長途上ってことかな。

 

そしてそのマニュアルを作るにおいて、俺たちは強く『こうすべき』とは書かないように気を付けているわけだ。スタイルに違いがあるのがライフストリーマーの面白さなのだから、判で押したようなクリエイターにしていくのなど論外だろう。例えば彼らが『動画にエフェクトを入れてみたい』と思い至った時、資料を見ればその方法が書かれてある。そういう意味でのマニュアルにしていく予定だぞ。

 

つまり方針を示すのではなく、方法を示すための資料だ。クリエイターそれぞれの『やってみたい』を手助けする説明書ってところかな。今はまだペラペラの薄い書類だが、分厚く育って役に立って欲しいぞ。新しいフリー素材のサイトや編集用ソフト、新型のビデオカメラや流行りの撮影スタイル等々にも対応できるように、日常業務の合間に細かく修正を入れていかなければ。

 

よちよち歩きのマニュアルのことを思い返していると、香月社長が満足げに首肯して声を送ってきた。

 

「良いと思うよ。未来の所属クリエイターたちのために、事務所として情報を集積しておくのは素晴らしいことだ。それこそが企業における真の財産なのさ。……そうなると、夏目君や豊田さんには何らかの形で報いないとね。あの二人が基礎となる経験を提供してくれているんだから。」

 

「ですね。新人はもちろん大切ですが、『古参』を蔑ろにするのは論外ですよ。事務所に利益を齎してくれたクリエイターには、それ以上を返していきたいです。」

 

パッとは返せるものが思い浮かばないが、ホワイトノーツが成長していった暁にはそういうことも考える必要があるだろう。アイスコーヒーのグラスをぼんやり眺めながら思考を回していると……おや、来たな。モノクロシスターズの二人が店に入ってきたのが視界の隅に映る。

 

上にプリント入りの大きめの黒いTシャツを着ていて、下は暗い緑色のハーフパンツで、キャップを被って白いスニーカーを履いているのがアサキさんだ。ぱっちり開いた目できょろきょろと店内を見回しているな。細々とした動作がもう『元気』だぞ。動画内だけではなく、プライベートでも動的な性格らしい。

 

そして白いブラウスと黒いロングスカートに、焦茶色の大人っぽいブーツを合わせているのがサヨさん。こっちはかなり落ち着いた雰囲気の格好だな。動作も冷静というか何というか、店内の客を一人一人順番に観察している感じだ。恐らく俺たちを探しているのだろう。

 

うーん、対照的。それぞれ白っぽいグレーと黒っぽいグレーの髪の下にある顔はそっくりなのに、パッと見だと『全然違う』という印象を受けるぞ。俺がそんな感想を抱いている間にも、香月社長が二人に呼びかけを投げた。

 

「こっちだよ、サヨ君、アサキ君。」

 

よく通る香月社長の声を耳にした二人は、俺たちが居るテーブルに歩み寄ってきて……これまた対照的な挨拶を放ってくる。

 

「初めまして、一ノ瀬小夜(いちのせ さよ)です。よろしくお願いします。」

 

「こんにちは、一ノ瀬朝希(いちのせ あさき)です! よろしくお願いします!」

 

綺麗にお辞儀したサヨさんと、キャップを脱いで元気良くぺこりと頭を下げたアサキさん。自己紹介をしてきた二人に応じて俺も立ち上がって、名刺を差し出しつつ返答を飛ばす。……ちなみに香月社長は座ったままだ。まあうん、この人が席を立って名刺を取り出すのは似合わないな。その辺はもう諦めているぞ。

 

「初めまして。ホワイトノーツでマネジメントを担当しております、駒場瑞稀です。よろしくお願いいたします。」

 

「そして私が社長の香月玲だよ。……まあ、二人とも座ってくれ。道に迷わなかったかい? ちょっと分かり難い場所だっただろう?」

 

「はい、迷いました。すっごく分かり難かったです。おまけに小夜ちが方向音痴だから、私が何とかして──」

 

「朝希、余計なことは言わなくていいの。……特に問題ありませんでした。大丈夫です。」

 

『サヨち』か。動画内と同じ呼び方だな。俺の名刺をきちんと両手で受け取ってきたサヨさんが注意するのに、アサキさんがムッとした表情で言い返す。片や動画よりも若干だけ丁寧な態度で、片や動画内そのままだ。何だか面白いぞ。

 

「……小夜ち、迷ったじゃん。遅れるかもってプチパニックになってたじゃん。私が頑張ったからたどり着けたんじゃん。」

 

「あんたね、何でいちいち突っ掛かってくるのよ。最終的には時間通り着けたんだから別にいいでしょうが。」

 

「お澄まし顔で『特に問題ありませんでした』とか言うからだよ。変なところでカッコつけたって仕方ないのに。……うわ、ロイヤルミルクティーが七百円だって。どうする? 小夜ち。幾ら持ってきたんだっけ?」

 

「朝希、お願いだから……お願いだから少し黙ってて。本当にもう、恥ずかしいから。」

 

うーむ、姉妹の役割が垣間見えてくる会話だな。早くもペースを崩されてしまったらしいサヨさんを目にして、香月社長が肩を竦めながら口を開いた。実に愉快そうな笑顔でだ。二人のやり取りが気に入ったらしい。

 

「奢るから好きな物を頼んでいいよ。迷わせてしまったお詫びさ。」

 

「本当ですか? ありがとうございます! 小夜ち、小夜ち。何にする? パンケーキ、食べていい? チーズケーキもあるみたいだよ?」

 

「あんた、いい加減にしないとぶっ飛ばすわよ。こういう時はね、普通遠慮するものなの。……妹がすみません。ちょっとバカなんです。無視して大丈夫ですから。」

 

「バカじゃないし、妹はそっちだよ。そういうこと言うなら勝手に注文しちゃうからね。」

 

不満げな面持ちで反論したアサキさんを完全に無視したサヨさんは、一度深々と息を吐いた後で俺たちへと改めて話を振ってくる。状況をリセットしたいようだ。もう無理だと思うぞ。

 

「とにかく、今日はわざわざありがとうございます。それで……こうして会ってくれたってことは、私たちは事務所に所属できるんでしょうか?」

 

「ほら、駒場君。ここからは君の役目だよ。一任するから頑張りたまえ。……時にアサキ君、君の名前はどういう漢字なんだい? 私は朝昼夜の朝に希望の希だと予想しているんだが。」

 

「はい、それで正解です。小夜ちは小さな夜で、一ノ瀬は漢数字の一に片仮名のノに──」

 

こっちもこっちで問題児だな。勝手に雑談を始めてしまった香月社長に半眼を向けた後、一つ咳払いをしてから小夜さんに応答した。漢字に関しては大正解だったらしい。だから何ってわけでもないが。

 

「では、私から説明させていただきます。……ホワイトノーツとしては、お二人の所属を前向きに検討していくつもりです。」

 

「まだ収益化できてないんですけど、それでも大丈夫なんですか? あと、その間のマネジメント料はどうなるんでしょう?」

 

「収益化も含めたマネジメントを行う予定ですから、そこは問題ありません。マネジメント料に関しても割合での契約になりますので、チャンネルの収益化以前はゼロとなります。」

 

「……収益化できるまでは、無償でマネジメントをしてくれるってことですか?」

 

目をパチパチさせながら尋ねてきた小夜さんに、苦い笑みで肯定を口にする。パーセンテージでの支払いになるので、元の数字がゼロなら当然ゼロになってしまうのだ。ここはもう仕方のない部分だろう。収入のないクリエイターからマネジメント料を徴収するのはおかしな話だし、そんなのは本末転倒だぞ。

 

「少し胡散臭い話に聞こえるかもしれませんが、一種の先行投資だと考えてください。私たちは今後お二人のチャンネルが伸びていくと予想しているので、収益化以前を度外視してでも所属してもらいたいと判断したんです。」

 

「……そ、そうですか。」

 

俺の発言を聞いて僅かにだけ頬を緩ませた小夜さんは、さっきよりも明るい声で会話を続けてきた。一見冷静なタイプに見えるけど、案外顔や声色に感情が出る子なのかもしれないな。

 

「なら、所属したいです。条件は香月社長から電話で説明してもらったので問題ありません。」

 

「その前に一点だけ確認させていただいてもよろしいでしょうか? ……事務所の所属には保護者の方の許可が必要になるんですが、そこは大丈夫ですよね?」

 

大丈夫だと言ってくれ。頼むから。恐る恐る問いかけた俺に……うわぁ、この反応は良くないな。途端に苦い顔付きになった小夜さんが、目をゆっくりと逸らしながら質問を寄越してくる。

 

「……無いとダメですか? 保護者の許可。」

 

「許可無しで活動をするのも不可能ではありません。複雑な手続きやいくつかの条件がありますが、法的な面で言えば可能です。……しかし非常に困難な選択であるのは確実ですし、『保護者に黙って活動する』のは絶対に不可能ですね。許可を得るのが最も楽で、かつ安全な方法だと思います。」

 

可能不可能で言えば可能だが、現実的ではない。そういうニュアンスを込めて説明した俺へと、小夜さんは自分の髪を弄りながら答えてきた。ダークグレーのロングヘアをだ。……どう考えても地毛ではなさそうだけど、中学校の校則とかに抵触しないんだろうか? 寛容な学校なのかもしれないな。

 

「……分かりました、説得します。」

 

「『説得』ということは、反対されているんですか?」

 

「そもそも言っていないんです。動画を投稿してることは多分、知ってるはずですけど。」

 

そこすらも多分か。つまりライフストリームに関する話は、保護者とは一切していないわけだ。明確に反対されていないのは良い点だが、難しい状況には変わりないな。要するに『相談』までたどり着けていない段階らしい。

 

厳しいぞ、これは。そんな思いが胸の中に漂っていることを自覚している俺に、香月社長と喋っていた朝希さんが声をかけてくる。こちらの会話も聞いてはいたらしい。

 

「大丈夫です、二人で何とかお姉ちゃんを説得してみます。」

 

「……お姉さん、ですか。」

 

「えっと、お父さんとお母さんはずっと前に死んじゃったんです。私たちが幼稚園の年長さんだった頃に。それで今はお姉ちゃんが保護者になってます。……だよね? 小夜ち。違う?」

 

「合ってるわ。私たちの法的な保護者……というか、後見人はお姉ちゃんよ。だからお姉ちゃんの同意が必要ってこと。」

 

となると、どうやら一般的な家庭ではないようだ。両親が亡くなった段階で、姉が成人していたということか? だとすれば相当歳が離れた姉ということになるぞ。……そもそも、そういう場合に法律的な後見人は姉になるのだろうか? 親族が少ないのかもしれないな。

 

うーん、分からん。『幼い頃に両親と死別した』というタレントは抱えたことがあるものの、『姉が保護者』というのは今まで接したことがないケースだ。悩んでいる俺を他所に、香月社長がかっくり首を傾げて疑問を場に投げた。

 

「珍しい状況だね。詳しく聞かせてくれないかな? ……これは好奇心からの質問だから、答えたくないなら聞き流してくれて構わないよ。」

 

「大丈夫です。変に気を使われるよりは、そう聞いてくれた方がよっぽど楽ですから。ずっと昔のことなのでもう割り切れてます。……姉は父が前に結婚していた人との子供で、その父が前の奥さんと死別した後に母と再婚して、二人の間に生まれた子供が私たちなんです。」

 

「あー……なるほど、複雑だね。端的に纏めれば異母姉妹なわけか。」

 

「そうなりますね。両親が事故で死んだ当時の姉は二十歳だったので、後見人として私たちを引き取ってくれたんです。もちろん特殊な選択ではあったんですけど、遺言書で指定されていたから手続きも何とかなったみたいで。ちなみに姉と私たちは十五歳離れてます。」

 

うーむ、十五歳差か。父親と母親の年齢も離れていたのかもしれないな。つまり姉は父親の連れ子で、母親と再婚した後に小夜さんと朝希さんが誕生したわけだ。その後両親が事故で亡くなり、彼女たちの姉は半分血の繋がっている五歳の妹たちを引き取ったと。

 

二十歳で二人の子供の後見人になるというのは、物凄く勇気が必要な決断だと思うぞ。俺ならそんな選択が出来るだろうか? 当時の彼女たちの姉の心境を想像していると、朝希さんが小夜さんの話を引き継いでくる。

 

「だから私たちは、ライフストリーマーになって沢山お金を稼ぎたいんです。アメリカのライフストリーマーが豪邸を建ててる動画を見て、二人でこれしかないって──」

 

「朝希、やめてよ。そういうの、恥ずかしいから。」

 

「恥ずかしくなんかないよ。絶対やるって二人で約束したじゃん。……私たち、お姉ちゃんに恩返ししたいんです。大きな家とか、お金とか、大学生活とかをプレゼントしたくて。それでライフストリーマーをやろうって決めました。」

 

大学生活? よく分からない言葉が出てきて首を捻っている俺たちに、小夜さんが小さくため息を吐いてから解説してきた。朝希さんは『自分の夢』を躊躇なく宣言できる性格らしいが、彼女は話すのが少し恥ずかしいようだ。何となく理解できるぞ、その気持ち。

 

「……姉は、当時通っていた大学を退学したんです。私と朝希を養っていくために自分の人生を犠牲にしたんですよ。両親が遺してくれたお金はそこまで多くなかったらしくて、すぐ働かなくちゃいけないから辞めたんだと思います。私たちには何も言ってきませんけど、少しだけ未練を感じているみたいで。」

 

「それで、私たちで取り戻そうと思って。お姉ちゃんは私たちのこと、大学まで行かせてくれようとしてるんです。学費のローンとかを組んで。……でもそんなことしてたら、どんどんお姉ちゃんの人生がなくなっちゃいます。そう考えたら怖くなってきて、小夜ちと相談して何とかしようって決意しました。」

 

切実な表情で語った朝希さんの発言を継ぐ形で、小夜さんが下唇を噛みながら続きを話してくる。何かを悔やんでいるような面持ちだ。

 

「姉は私たちのために二十代を棒に振って、自分の夢を諦めて、今も必死に働いています。私たちが大学を卒業するには更に九年もかかりますし、教育ローンを払い終えるまでを含めたら何年かかるか分かりません。全部終わった頃に姉が何歳になっているかを計算した時、怖くて眠れなくなりました。……だから、私たちは今すぐにでもお金を稼ぎたいんです。大学を卒業した後で良い職業に就けたとしても、姉が失った時間は買い戻せませんから。」

 

「最初は高校の学費を奨学金でどうにかして、アルバイトを頑張って少しでもお金を入れて、高卒で就職しようって考えてたんですけど……それを話した時、お姉ちゃんにすっごい怒られちゃって。学費は私が払うし、アルバイトよりも学生生活を楽しんで欲しいし、大学も出てもらうって言われました。あんなに怒られたの、初めてだったから。私も小夜ちも何も言えなくなっちゃったんです。」

 

親心ならぬ姉心か。中学生の被保護者がそんなことを言ってきたら、保護者としては遣る瀬無い気持ちになるだろうな。健気に気遣ってくれたことが嬉しくもあり、子供に気遣わせてしまったことを悲しくも思うはずだ。……ただまあ、少なくとも悪い姉妹関係ではないらしい。互いに想い合っていないとそういうことにはならないだろう。

 

予想していたものよりも、遥かに重い『志望動機』。それを耳にして心中で唸っていると、小夜さんがテーブルの上の手をギュッと握って話を締めてきた。

 

「姉に負い目を感じて欲しくないんです。私たちが大学に進学して、かつ姉を自由にする。そのためには姉が安心できるレベルの貯金額が必要になります。それも、なるべく早く。姉がまだ人生をやり直せる年齢のうちに。……だから私たちは相談し合って、ライフストリーマーになることを選びました。顔を出すリスクとか、そういうのは重々承知してます。姉には私たちを引き取らないって選択肢があったはずなのに、それでも見捨てないで育ててくれたんです。だったら今度は私たちがリスクを背負ってでも恩返しをしないと。二十代を私たちのために使ってくれたなら、残りの人生を丸々プレゼントしないと割に合いません。」

 

「多分お姉ちゃんは『また余計な心配して』って怒りますけど……でも、ライフストリーマーなら学校に通いながらでもやれると思ったんです。それに中学生でも始められるし、頑張れば頑張っただけお金を稼げるし、大成功すればあの動画みたいな豪邸をお姉ちゃんに贈れるかなって考えたので。」

 

「そうそう上手く行かないってことは私も朝希も分かってます。だけど、覚悟だけはあるんです。私たちは所詮中学生かもしれませんけど、遊び半分で手を出したわけじゃありません。私たちなりに考えた結果として、こういう道を選びました。……ただその、これはあくまでも私たちの都合です。あまり気にし過ぎないでください。別に珍しくもない話だと思いますし。」

 

テーブルに身を乗り出して熱く語った後、ハッとしたように視線を泳がせた小夜さんは、恥ずかしそうに俯きながら座り直して後半を付け足す。そんな彼女のことを真っ直ぐ見つめつつ、真剣な表情で応答した。彼女たちは自分の覚悟を打ち明けてくれたのだ。であれば今度は俺がそれを伝えなければ。

 

「珍しいか珍しくないかは関係ありませんよ。他の誰でもなく、小夜さんと朝希さんの都合であることが重要なんです。お二人がホワイトノーツに所属してくれた場合、私は貴女たちのマネージャーになるんですから。……だから、気にさせてください。私にもお二人の夢を背負わせて欲しいんです。少し鬱陶しいかもしれませんが、私は『単なる仕事仲間』としてのマネージャーになるつもりはありません。クリエイターの夢を一緒に追いかけるパートナーでありたいと考えています。」

 

「……パートナー、ですか。」

 

「はい、それが私なりの意地と覚悟です。今のお二人の話を聞いて、『所詮中学生』などとは微塵も思いませんよ。素晴らしい夢を持っている、尊敬に値する人間だと感じています。……どうか私にも手伝わせてください。どこまで力になれるか分かりませんが、全力で向き合ってみせますから。」

 

担当がそういう立派な目標を持っているのであれば、石に齧りついてでも叶えるのがマネージャーの役目だ。真剣に向き合うに足る理由だと胸を張って主張できるし、もはやホワイトノーツを選んだ云々など関係無しに成功して欲しい。マネジメントの原動力としては充分すぎるほどの話だったぞ。

 

本気で向き合うという感情を台詞に込めた俺に続いて、香月社長が堂々とした態度で口を開く。

 

「大いに結構。君たちの夢は私たちが共に背負うよ。……いいかい? 断言するよ? 『百パーセント』という言葉は個人的に好きではないんだが、この場に限ってはそれを使わせてもらおう。私たちが君たちを百パーセント成功させてみせる。私なりの覚悟の表明だと受け取ってくれたまえ。絶対に失敗させないさ。」

 

「……いいんですか? そんなこと言っちゃって。」

 

「問題ないよ、やるからね。私はやると決めたらやる人間なのさ。……とはいえまあ、まだ君たちにとっては何の保証にもならない発言だろうから、私たちが本気かどうかは行動を見て判断してくれればいい。実行することで納得させてみせるよ。」

 

尋ねてきた小夜さんへと強気に笑う香月社長が約束したところで、朝希さんが目を瞬かせながらポツリと呟いた。

 

「何か、香月さんも駒場さんも想像してたのと違います。」

 

「おや、どんな人間を想像していたんだい?」

 

「もっとこう、『仕事の人』を想像してました。距離を置くっていうか、そういう雰囲気なのかなって。」

 

「そこは事務所によるだろうね。ホワイトノーツは恐らく、クリエイターとの距離をある程度近付ける事務所なのさ。マネジメント担当の駒場君がそういう性格だから、結果的にそうなっちゃったんだ。……嫌かい? やり辛いなら調節できるよ?」

 

肩を竦めて問いかけた香月社長へと、朝希さんはぶんぶん首を横に振って回答する。俺が原因なのか。……まあ、否定は出来ないな。

 

「ううん、そっちの方がいいです。ね? 小夜ち。その方が安心できるよね?」

 

「私は……別に、どっちでも。」

 

「ほらまたカッコつける。マネージャーさんが怖い人だったらどうしようって悩んでたじゃん。駒場さん、良い人みたいだよ。良かったね。」

 

「朝希、余計なこと言わないでってば。」

 

少し顔を赤くしながら朝希さんを制止している小夜さんに、今度はこっちの問題児が『余計なこと』を口にした。

 

「安心したまえ、駒場君はうちの自慢のマネージャーだよ。元々芸能事務所でマネジメント業をしていたんだが、担当アイドルを守るために解雇に追い込まれたんだ。そこを私が拾ったのさ。」

 

「香月社長、それはあまり口外すべきでは──」

 

「あの『終わっている芸能事務所』の世間体なんて知らないよ。嘘を言っているわけじゃないんだから、話したって何の問題もないのさ。律儀すぎるぞ、君は。あんな事務所に操を立てたって仕方がないだろうに。」

 

別に操は立てていないが、江戸川芸能は一応俺を成長させてくれた事務所なのだ。……これはある種の『サラリーマン的感性』なのかもしれないな。解雇された今でも、会社を悪く言うのには謎の抵抗があるぞ。

 

俺が自身の中の葛藤を自覚している間にも、朝希さんが興味深そうに質問を飛ばしてくる。ほら、興味を持っちゃったじゃないか。

 

「アイドルのマネージャー? 凄いです。有名なアイドルですか?」

 

「彼が前に担当していたのは、『コメット』というアイドルグループだよ。知っているかい? 女性三人組の──」

 

「駒場さん、コメットのマネージャーだったんですか?」

 

おっと、びっくりしたぞ。それまで朝希さんを止めようとしていた小夜さんが、急に勢いよく立ち上がって疑問を寄越してきた。それに朝希さんを含めた全員が驚いているのを他所に、彼女は頬を上気させながら俺に捲し立ててくる。場の空気に気付けないほど興奮しているらしい。

 

「じゃあ、コメットが塩見プロに電撃移籍したのはやっぱり枕営業から逃げるためだったんですか? そういう記事を情報サイトで見ました。根拠が希薄だって彗星フォーラムでは反応が分かれてたんですけど、ひょっとして駒場さんが解雇されたのはその所為だとか?」

 

「……そんな記事がネットに出ているんですか?」

 

「出てます。大手週刊誌が扱わないのは、テレビ局からの圧力だって書いてありました。私も嘘っぽい記事だなと思ってたんですけど、でも駒場さんは『担当アイドルを守るために解雇された』んですよね? つまり、コメットを守るために。」

 

「まあ、何というか……見方次第ではそうなるかもしれません。」

 

迫力に怯んで頷いた俺を見て、小夜さんはすとんと椅子に腰を下ろしつつ会話を継続してきた。どうも彼女はコメットのファンであるようだ。そうでなければ『彗星フォーラム』という言葉は出てこないだろう。あそこはファンクラブに入っている人間限定のコミュニティなのだから。

 

「なら、なら……あの記事、本当だったんですか? 駒場さんは、コメットを移籍させたからクビになったってことですよね?」

 

「ん、そうだよ。君の認識で概ね正しいんじゃないかな。駒場君は担当アイドルたちのために、江戸川芸能とキー局の一つに喧嘩を売ったのさ。その結果として懲戒解雇を食らったわけだ。カッコいい話だろう?」

 

「香月社長、マズいですって。下手すると名誉毀損とかで訴えられますよ。……お二人とも、ここでの話は他言無用でお願いします。広まると大事になりかねませんし、コメットの活動にも悪影響が出てしまいますから。」

 

たとえ事実だとしても、内情を大っぴらに話すのは危険だぞ。メディアを敵に回して良いことなんて一つも無いのだから。……しかしまあ、ネット記事になっていたのは予想外だな。今やキー局でさえ圧力をかけ切れないわけだ。『インターネット社会』の到来を実感させるような逸話じゃないか。

 

万人が情報を発信できる社会になっていることを改めて感じつつ、モノクロシスターズの二人に注意を送ってやれば、二人ともこくりと首肯して返答してくる。

 

「はい、分かりました! 内緒にしておきます。」

 

「コメットの迷惑になるかもしれないなら誰にも言いませんけど……でも本当のことを知ったら、ファンは駒場さんに感謝すると思います。」

 

「私は『元マネージャー』ですから、もうコメットとは無関係であるべきですよ。ここで幕を下ろしておいた方がいいんです。問題を大きくすれば、今度は塩見プロと局との関係が悪化しかねません。そうなれば結果的にコメットの仕事が減ってしまいますからね。このままなし崩し的に風化させるのが一番でしょう。」

 

結果だけを見るなら、そう悪くないものになっているはずだ。俺はホワイトノーツに就職できたし、コメットも引き続き活躍しているのだから。苦笑いで『大人の事情』を語ると、香月社長が大きく鼻を鳴らして不満げな声を漏らした。

 

「私はちょっと腑に落ちないけどね。……まあいいさ、そのうち『仕返し』をしてあげるよ。」

 

「やめてくださいよ、社長。土に埋めてしまうのが一番です。」

 

「私は執念深い女なんだ。うちの可愛い社員が殴られっぱなしというのは気に食わない。どこかで一発殴り返しておかないとね。」

 

「無断で移籍させてしまった以上、先に殴ったのはどちらかと言えば私の方なんですけどね。」

 

ぺちんと江戸川芸能を平手打ちしたら、懲戒解雇という形でぶん殴り返されたって構図だぞ。言わば自業自得だ。好戦的なことを言う香月社長を止めていると、お揃いの顔を見合わせていた小夜さんと朝希さんが発言を投げてくる。どちらもホッとしているような笑顔でだ。

 

「まあその、信頼できそうな人たちだっていうことは分かりました。改めてよろしくお願いします。」

 

「ちょっと変だけど……でも香月さんはカッコよくて頼りになりそうだし、駒場さんは丁寧で優しそうです。よろしくお願いします!」

 

ちょっと変なのか。……反論できないな。俺がどうだかは自分では分からないものの、香月社長は確かに『変な人』なのだから。ちょっとどころか、かなり変な人と言えるかもしれないぞ。

 

兎にも角にも、一定の信頼を得ることは出来たようだ。もちろん切っ掛け程度のものに過ぎないのだろうが、そこから先はゆっくり築いていけばいいさ。……お姉さんの同意が得られるか得られないかを待っている暇は無いな。彼女たちの事情を考えると、すぐにでも動き出すべきだろう。

 

となれば、先ずはチャンネルの収益化だ。それを達成しなければ何も始まらないし、もう一度ライフストリームの規約を丹念に読み返してみよう。動画に広告を入れるための申請が通らないということは、彼女たちのチャンネルに原因となっている何らかの問題があるはず。それをどうにかして探り当てなければ。

 

いよいよ忙しくなってきそうなことを予感しつつ、頭の中で方針を組み立てるのだった。

 



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Ⅱ.モノクロシスターズ ④

 

 

「あー、モノクロシスターズさんですか。はい、見たことありますよ。ゲーム実況をやってる双子の女の子ですよね?」

 

知っているのか。モノクロシスターズの二人とカフェで話し合った三日後、俺は夏目家のキッチンで夏目さんと会話をしながら料理の材料を並べていた。今日はボルシチを作る動画を撮るということで、撮影の手伝いに来ているのだ。商品紹介は夏目さん一人で撮り、料理動画やチャレンジものは俺がカメラを持つというスタイルに落ち着きつつあるな。

 

じゃがいも、ニンジン、キャベツ等々の野菜を見栄えが良くなるように気を付けて並べながら、ビーツの缶詰を中央に置いている夏目さんへと返事を返す。普段料理をしないからかもしれないが、ビーツの缶詰なんて初めて見たぞ。スーパーの缶詰コーナーとかに普通に売っているんだろうか?

 

「その二人がホワイトノーツに所属してくれるかもしれないんです。……それでですね、夏目さんにアドバイスをいただけないかなと思いまして。」

 

「私はゲーム実況をやりませんし……ひょっとして、収益化の申請に関することですか?」

 

「その通りです。……さくどんチャンネルの場合はすんなり通ったんですよね? 何かコツとかがあるんでしょうか?」

 

残り半分になっているオリーブオイルの瓶を配置しつつ尋ねてみれば、作業の手を止めた夏目さんは悩んでいる様子で答えてきた。

 

「基本的には、著作権違反が弾かれる一番の原因だと思います。特に音楽関係で申請が通らないことが多いらしいですね。個々人のやり取りで許可を取って動画内で流してる音楽でも、運営さん側がダメだって判断するケースもあるみたいで。」

 

「チャンネルの全ての動画をチェックしたんですが、音楽は大丈夫そうです。歌やダンス以外の動画では流していませんでしたし、そこで使っている楽曲は公的に二次使用が許可されているものばかりでしたから。」

 

「そうなると、やっぱりゲームの著作権じゃないでしょうか? ……何というかその、運営さんは結構流れ作業で確認してるみたいなんです。申請が多いから仕方ない部分なんでしょうけど、『ゲーム実況』ってジャンルがそもそも通り難いっていうのはあるかもしれません。」

 

うーん、そこはあるんだろうな。キネマリード社内でどういった形式の確認作業をしているのかは推察するしかないわけだが、日々膨大な量の申請を処理しているのは確実だろう。チャンネルの動画一覧を見た際の先入観は間違いなく影響してくるはずだ。

 

豊田さんにも打ち合わせのついでに電話で聞いてみたのだが、彼の場合は何もしなくても一発で申請が通ったらしい。扱っている物が車や家電のシンプルな動画だからかもしれないな。一応基準は明確に提示されているものの、審査の過程が分からないから判断が難しいぞ。

 

考え込んでいる俺へと、夏目さんが一つの案を示してくる。

 

「『疑わしきは消す』って手段もありますよ。絶対大丈夫な動画だけを残して、ちょっとでも危ないと感じた動画は全部削除するって方法が。……どの動画も苦労して作ってるわけですし、投稿者としては辛い決断なんですけどね。どうにもならなくなった時の最終手段ってやつです。」

 

「かなりの強硬策ですね。それでも通る時は通るんですか?」

 

「今のライフストリームの規約だと、一定以上のチャンネル登録者数であること、投稿された動画に権利関係の問題がないこと、動画内で暴力的な行為や差別とかに繋がる発言をしていないことの三つが収益化の大きな条件ですからね。動画を削除しても登録者数は変わらないので、よっぽどあからさまじゃなければ申請を通すことは出来ます。チャンネルの動画数が減っちゃいますから、もしかしたら『視聴者離れ』は起こるかもですけど。」

 

「正に『最終手段』というわけですか。」

 

なるべく選びたくはないが、頭には置いておくべきかな。小夜さんと朝希さんの目標を叶えるためには、広告収益を得ることが絶対条件なのだ。広告を入れるための申請が通らないとスタートラインにすら立てないのだから、覚悟はしておくべきかもしれないぞ。

 

にしたって、投稿した動画を削除するというのは気が重くなる選択肢だな。夏目さんや豊田さんが懸命に動画を作っていることを、マネージャーたる俺はよく知っているのだ。モノクロシスターズの二人も当然そうなんだろうし、努力の結晶を消させるのは心が痛むぞ。

 

可能な限りそれ以外の方法を模索してみようと思案している俺に、夏目さんが心配そうな表情で声をかけてきた。

 

「……あの、私もチェックしてみましょうか? 自信はあんまりありませんけど、ひょっとすると問題点を見つけられるかもですし。」

 

「いえいえ、そこまでさせるわけにはいきません。大丈夫です、こちらで何とかしてみます。アドバイスをしてくれただけで充分ですよ。」

 

「だけど駒場さん、困ってるみたいですし……それに、事務所の『後輩』になるかもしれない子たちですから。空いた時間に軽くだけ確認してみます。どうせライフストリームの動画チェックは毎日やってるので、特に負担にはなりませんよ。他のチャンネルの動画をじっくり見れば、得られるものもあるでしょうし。」

 

「……ありがとうございます、夏目さん。」

 

ここは固辞するよりも、きちんとお礼を言うべき場面だろう。夏目さんを真っ直ぐ見つめて感謝を伝えてみれば……彼女はふにゃっと笑った後、照れている面持ちで撮影の準備を進めながら返答してくる。

 

「えへへ、駒場さんの役に立てるなら嬉しいです。……私のこともちょっとは頼ってくださいね。パートナーなんですから。」

 

「では、いつか恩返しをしてみせます。」

 

「もう沢山返してもらってますよ。今日だって手伝ってくれてるじゃないですか。……じゃあ、始めましょう。いつも通り材料の説明から一連でいきますね。」

 

「了解しました、回します。」

 

応じてからビデオカメラの録画ボタンを押して、画角にボルシチの材料と夏目さんの姿を収めた。それを見た『さくどん』が、一つ深呼吸をしてから材料の説明をスタートさせる。……カメラ役には随分と慣れてきたものの、そういう時こそ油断からのミスを恐れるべきだろう。初心忘るべからず。最初の頃の慎重さは保ったままで、かつ経験を活かしていかねば。

 

「はい、こちらが材料になります。ボルシチに不可欠なビーツなんですけど、今回は缶詰を使う予定です。ビーツ自体は売ってないスーパーでも、缶詰なら売ってるってパターンが多いので……まあその、入手し易さを重視してみました。ちなみにお肉を牛肉にしたのは私の好みであって、豚肉とか鶏肉でも問題なく──」

 

丁寧に材料の解説を行う夏目さんを撮りつつ、必要最低限にだけアップを使う。このシーンはほぼ固定した画角で映すべきなのだ。何度か料理動画の撮影を重ねた末にそれが一番だと判断したし、編集をしている夏目さんも同意見だった。

 

要するに、カメラの動かし方も状況やジャンルに合わせて変えるべきだということだ。商品紹介や料理動画は固定した画角をメインに使うが、チャレンジものや外での撮影では動かすことが多いってイメージかな。撮っている段階ではそこまで気にならないものの、動画にしてみると雰囲気が結構違ってくるし、この辺もマニュアルに組み込むべき部分だろう。

 

「──ですから、豆を入れたりするのもありかもしれません。ボルシチはロシアの家庭料理なので、これといった『正解』は無いみたいです。日本のお雑煮とかカレーとかと同じように、家庭ごとに違ったやり方があるらしいですね。なので今回は、あくまでもさくどん流のボルシチってことになります。苦手な物が材料にあったらどんどんアレンジしちゃってください。……それじゃあ、早速作っていきましょう。先ずはじゃがいも、ニンジン、玉ねぎ、キャベツを切っていきますね。」

 

『撮影のコツ』を上手く言語化するのは難しそうだなと考えながら、材料説明のパートを終えた夏目さんのことを今度は横から撮影する。どれも大きめに切っているな。キャベツだけはちょっと違うけど、この段階だとカレー作りに似ているかもしれない。……あるいはまあ、俺の知っている料理が少なすぎる所為で、何でも『カレーっぽい』になってしまっているという可能性もあるが。さくどんチャンネルを通して勉強しているつもりなのだが、実生活には未だ役立てられていないぞ。

 

「ニンニクは潰すだけでそのまま使います。……はい、野菜はこれでオッケーです。次はお肉ですね。鍋にバターとオリーブオイルとニンニクを入れて、そこにお肉を投入していきましょう。中火で色が変わるまで焼いていきます。」

 

その後もスムーズに調理を進めていき、野菜や水を入れた鍋を一度煮立たせてから火を弱めた夏目さんは、カメラに向けて断りを入れた数秒後に右手を回した。編集点の合図だ。

 

「ここでローリエを一枚入れたら、蓋をして弱火で二十分くらい煮ます。それが終わった後で味を整えて完成ですね。では、美味しくなるまで暫く待機しましょう。……駒場さん、録画は止めちゃって大丈夫です。あとは待つだけですから。」

 

「分かりました、止めますね。……サワークリームは食べる直前に入れるんですか?」

 

「私はそうしてるんですけど……もしかして、駒場さんの家だと違いますか?」

 

「いえ、興味本位で聞いてみただけです。俺はそもそもボルシチを食べたことがありませんからね。今日が初めてになります。」

 

こういう匂いがする料理だったのか。想像していたのと全然違うなと思っていると、夏目さんは何故か嬉しそうな笑顔で応答してくる。

 

「じゃあ、私のボルシチが初めての味になるんですね。……えへ、ちょっと嬉しいです。」

 

「そういうことはこれからもあるかもしれませんね。夏目さんは珍しい料理を作ることが多いですし、俺は無難な物ばかりを食べて生きてきましたから。」

 

改めて考えてみれば、ボルシチを食べたことのない二十五歳というのはどうなんだろう? 多数派なのか少数派なのかすら分からないな。自分の人生を顧みて疑問を抱いている俺に、夏目さんは……どうしてどんどん機嫌が良くなっていくんだ? かなりご機嫌な顔付きでうんうん頷いてきた。

 

「えへへ、それなら珍しい料理を沢山作ります。頑張って美味しくしないといけませんね。私の料理が駒場さんの『基準』になるんですから。」

 

「まあ、そうですね。そうなりそうです。」

 

楽しそうに身体をゆらゆら揺らしている夏目さんに返事をした後、ビデオカメラを置いて話題を変える。料理が好きだと、やっぱり誰かに食べてもらいたくなるんだろうか?

 

「そういえば、十五万人記念の動画の内容は決まりましたか?」

 

「えっとですね、まだぼんやりしてます。昨日の夕方に駒場さんと電話で話した後で、何か豪華な料理を作ってそれを食べながらトークする……っていうのを思い付いたんですけど、どうでしょう?」

 

「ああ、面白そうですね。さくどんチャンネルらしくて良いと思いますよ。」

 

先日さくどんチャンネルが登録者数十五万人を突破したので、お祝いと感謝を伝える動画を上げたいそうなのだ。十万人の時は予算的に厳しい時期だったから、これといった記念動画を出せなかったらしい。故に今回リベンジも兼ねて、『十五万人記念動画』を作りたいのだとか。

 

まあうん、良いことだ。夏目さんは十五万人を達成できて大いに喜んでいたし、俺も香月社長も嬉しかった。登録してくれた視聴者たちに感謝を伝えるというのは、素晴らしい案に思えるぞ。

 

皿を出すのを手伝いながら賛成した俺に、夏目さんはほうと息を吐いて呟きを寄越してくる。

 

「次は二十万人ですね。……これ、生意気な発言でしょうか?」

 

「俺は二十万人どころか、五十万人の時に何をやるべきかと考えていますよ。社長なんて『百万人企画をより豪華に見せるために、十五万人では抑え目にしておきたまえ』と言っていました。……貪欲に行きましょう、夏目さん。それがモチベーションに繋がるんですから。」

 

「……はい、気合を入れてコツコツ頑張っていきます。いっぱい喜んで、そしたら次を目指しての繰り返しですもんね。」

 

グッと両手を握った夏目さんに首肯しつつ、ボルシチの香りに包まれたキッチンに皿を並べていく。分かり易い達成感と、これまた分かり易い次の目標。そういった部分もライフストリームの魅力なのかもしれないな。

 

何にせよ夏目さんは一つのハードルを越えて、次に進もうとしている。ならばマネージャーとしては、彼女が新たな目標を達成できるように支えていかなければ。先はまだまだ長いのかもしれないが、地道に積み上げた努力は裏切らないはず。我が担当クリエイターどのが言うように、これからもコツコツ頑張っていこう。

 

───

 

そして初めてのボルシチを味わってから二日が経った、雨が降る六月最初の金曜日の夕刻。俺は事務所から車で二十分ほど離れたコンビニの駐車場の車内で、微糖の缶コーヒーを飲みながら待ち人たち……モノクロシスターズの二人の到着を待っていた。

 

五日前に彼女たちと会った後、電話で二度ほど短い話し合いを行ったのだが……どうにも収益化が通らない理由が判然としないので、ホワイトノーツの事務所で作戦会議を行うことにしたわけだ。あとはまあ、そのついでに撮影環境に関しての相談もする予定でいる。

 

そんなわけで、車で彼女たちが通う中学校の近くまで迎えに来たものの……まさか有名な名門私立に通っているとは思わなかったぞ。それを知って怖気付いたから、学校からちょっとだけ離れたコンビニを待ち合わせ場所に指定したのだ。名門で、私立で、おまけに女子校。そこに軽自動車で堂々と乗り込んでいく勇気など小市民たる俺には無い。分相応な選択だと言えるだろう。

 

しかしまあ、彼女たちの姉は相当無理をしたようだ。私立となると学費だって相応に高いだろうし、その上二人同時の入学だもんな。……ひょっとすると、それで小夜さんと朝希さんは不安に感じたのかもしれない。小学六年生で受験した段階では気付けないのも無理はないが、中学生活を通して学費の大きさに思い至ったというのは有り得る話だぞ。そして色々と計算してみた結果、現実に直面してしまったというところかな?

 

うーむ、年間どれくらいかかるんだろう? 小中高共に公立だった俺にはいまいち分からないが、間違いなく『高い』と言える金額ではあるはずだ。仮に年間百二十万前後だとして、二人で約二百五十万。そうなると三年間で七百五十万? 目眩がしてくる金額だぞ。様々な制度の補助を得たとしても、俺の給料だと厳しそうな額じゃないか。

 

もしかして、二人の姉は高給取りなのかな? 教育ローンを組むにしたって審査が必要だろうし、それを突破したならそれなりの年収であるはず。……何れにせよ、俺よりは遥かに稼いでいそうだ。二十歳で大学を辞めて、八年間で妹たちの面倒を見ながら出世していったわけか。

 

尊敬するぞ、本当に。互いの人生を比較すると、自分がやけにちっぽけな存在に思えてしまうな。どれだけの意志と努力を要したのか想像できないほどだ。お姉さんにとっての小夜さんと朝希さんは、それだけ大切な存在だということか。

 

となれば、ライフストリーマーになることには恐らく反対するだろう。今日事務所に行く許可は得られたと小夜さんがメールで送ってきたので、それを受け取った午前中の段階では光明を見出した気分だったのだが、今の推理で一気に望み薄になってしまったぞ。所属できるか、出来ないか。出来たとして収益化はどうなるのか。問題だらけだな。

 

缶コーヒーに口を付けながらため息を吐いたところで、運転席の窓がコンコンと軽くノックされた。応じて視線を向けてみれば、黒い傘を差している制服姿の小夜さんが目に入ってくる。後ろには白い傘を持った朝希さんも居るな。

 

「お二人とも、学校お疲れ様です。どうぞ、乗ってください。」

 

窓を開けて声をかけてやると、二人は喋りながら後部座席に乗り込んできた。ちなみに制服はお洒落なシングルの黒いブレザー、プリーツスカート、ローファーというよく見る三点セットだ。リボンではなくネクタイで、朝希さんの方はジャケット無しで白いカーディガンを着ているな。やはり自由度が高い校風らしい。

 

「お疲れ様です、駒場さん!」

 

「朝希、傘をパタパタしてから乗りなさい。中が濡れちゃうでしょ? ……どうも、駒場さん。迎えに来てくれてありがとうございます。」

 

「送迎はマネージャーの役目なので気にしないでください。それよりすみません、雨の中歩かせてしまって。学校に横付けするのは……何というか、危険かと思ったんです。」

 

「危険?」

 

きょとんとした顔で聞いてきた朝希さんに、小夜さんが苦笑いで説明してくれる。彼女は何が問題かを理解しているようだ。

 

「保護者じゃない人の車に乗るのは変だってことよ。……でも、平気だと思いますよ。うちの学校、芸能活動をしてる子とかも居ますから。『マネージャーさんが迎えに来る』って話は何度か聞いたことがあります。」

 

「こうして迎えに来ることは今後もありそうですし、正式に契約したら学校側から許可をいただくべきかもしれませんね。」

 

マネージャーが迎えに来るのはセーフでも、許可無しで敷地に入るのは当然アウトだろう。警備員とかに止められるはずだ。かといって毎回毎回学校の前に駐車して待つのは迷惑だろうから、敷地内に短時間だけ駐車する許可をもらうべきだな。芸能活動に寛容な学校であれば、そういうシステムも整っているはず。

 

車を発進させながら言った俺へと、朝希さんがキラキラした瞳で反応してきた。ついこの間も耳にしたような台詞でだ。

 

「何か、芸能人みたいですね。」

 

「ライフストリーマーはそれに近いものですからね。……ちなみに、所属の許可は得られましたか? 今日こうして事務所に行く件を話したということは、ライフストリーマーについてもお姉さんに相談してみたんですよね?」

 

コンビニの駐車場から道路に車を出しつつ尋ねてみれば……おっと、急にテンションが下がったな。傍目にも元気を失った朝希さんは、小夜さんの方をちらちら見ながら返事をしてくる。そしてバックミラーに映る小夜さんはムスッとした表情だ。第一回目の話し合いは良くない結果に終わったらしい。

 

「えっと……あの、ダメでした。小夜ちとお姉ちゃんで大喧嘩になっちゃって。お姉ちゃんは怒るし、小夜ちは泣くしで会話にならなかったです。今日事務所に行く許可をもらう時も、『もう約束しちゃったから』って小夜ちが一方的に知らせただけですし。」

 

「朝希は終始おどおどしてるだけで、何も援護してくれなかったしね。」

 

「だって、二人とも怒鳴り合ってて怖かったんだもん。……ごめんってば、小夜ち。次は頑張るから。」

 

泣いたのか、小夜さん。言われてみれば目の周りが若干赤いな。しゅんとしながら謝る朝希さんに、小夜さんがバツの悪そうな顔付きで応答した。結構な規模の姉妹喧嘩に発展したようだ。

 

「いいけどね、別に。あんたまで敵に回っちゃうとお姉ちゃんがキツいだろうから、口論は私がやるわよ。そういう役割でしょ。」

 

「うん……でも、今日は私からも頼んでみるよ。授業中に考えておいたから。」

 

「……説得は難しそうですか?」

 

右折待ち中に恐る恐る問いかけてみると、小夜さんが首を横に振って答えてくる。ワイパーやウィンカーの無機質な音が、何だか気まずさを助長しているような気がするな。

 

「簡単じゃなさそうですけど、姉のことは必ず説得します。今回は諦めません。」

 

「一応、私からお姉さんに話すことも可能ですよ。その場合説得というか、説明になりますが。」

 

精神的には物凄くキツいだろうが、芸能マネージャー時代にそういう『修羅場』は経験済みだぞ。俺は結局のところ部外者なので、ライフストリーマーになるかならないかに関しては強く言えないものの、なった場合の説明をすることだけは出来る。それがプラスに働くかマイナスに働くかは何とも言えないけど、状況を進める一手にはなり得るはず。

 

右折信号の点灯を目にしてアクセルを踏みながら提案してみれば、小夜さんは困っているような声色で返答してきた。

 

「姉の説得については私たちだけで何とかしてみせます。……ただ、説得できた後で詳しい話を聞きたがるかもしれません。その時はお願いしたいです。」

 

「分かりました。何れにせよ、準備だけはしておきます。必要な時は気軽に言い付けてくださいね。」

 

「はい。」

 

兎にも角にも、解決まではまだかかりそうなわけか。どっちの気持ちも分かるから、心情的にも複雑だな。……俺の方は『所属した場合』の準備を進めておこう。最終的に二人が所属しないのであれば無駄になるが、それならそれで仕方がないさ。二人の事情のことを考えると、ただただ待っているわけにはいかないぞ。

 

思案しながらハンドルを動かしている俺に、今度は朝希さんが話題を振ってくる。どことなく不安そうな口調でだ。

 

「駒場さん、駒場さん。収益化のことはどうですか? やっぱり私の『歌ってみた』とか『踊ってみた』の所為でした?」

 

「いえ、使用された楽曲に権利的な問題が無いのはチェック済みです。どれも規約的にはセーフでしたし、同じ楽曲を使っている他チャンネルが収益化していることも確認できました。」

 

「じゃあ、どうしてダメなんでしょう?」

 

「傾向として、『ゲーム実況』というジャンルそのものが通り難いというのはあるようです。既に収益化されている国内外のゲーム実況チャンネルを片っ端から調べてみたんですが、特定のゲームだけをやっているケースが多かったですね。中にはお二人と同じく『リーグ・オブ・デスティニー』をメインに扱っているチャンネルもあったので、どちらかと言えばそれ以外の単発のゲーム実況が原因なのではないかと予想しています。」

 

ワイパーを動かす速度を上げながら一度区切って、揃って眉根を寄せている後部座席の二人へと続きを語った。こうして見るとそっくりだな。双子だけあって全く同じ表情だ。

 

「つまりですね、私たちは『収益化が通り易いゲーム』とそうでないゲームがあるのだと予想しているんです。買い切りにせよ、基本無料にせよ、対人のオンラインゲームが通り易いのではないかと考えています。」

 

「何となく分かります。そういうゲームは配信を見て始めることが多そうですし、公的に配信許可を出してるタイトルが多いですから。……単発の実況動画だけ消すべきでしょうか? 全部著作権的にはセーフのはずなんですけど。」

 

消したくないんだろうな。沈んだ声で質問してきた小夜さんへと、車を一時停止させながら回答する。

 

「現在ホワイトノーツからキネマリード・ジャパンに問い合わせをしてみていますから、それで解決するというのが一番良い展開ですね。……しかしそれがダメだった場合は、一部の動画を削除することになってしまうかもしれません。」

 

「……そこまでやってくれてるんですか?」

 

「ホワイトノーツはまだまだ『ライフストリームとの関係を築けている』とは言えないので、個人での問い合わせと大差ありませんが……動画の削除という選択肢を選ぶ前に、やれることは全てやるつもりです。」

 

キネマリード社への問い合わせは、香月社長が直々に担当してくれているのだ。あの人は口が上手いし、もしかしたらどうにかしてくれるかもと期待しているものの……報告を聞く限りでは厳しそうかな。同じような問い合わせが多いからか、ざっくりとした定型文での答えしか得られていないらしい。

 

苛々した様子で『電話攻勢』を仕掛けていた香月社長の姿を思い返しつつ、小夜さんと朝希さんへと言葉を繋いだ。

 

「仮に投稿済みの動画を削除することになった際も、必要最低限の削除に抑えたいと考えています。私たちでチャンネルの動画を四段階に……噛み砕いて言えば間違いなく大丈夫な動画、多分大丈夫な動画、やや危険かもしれない動画、原因だと思われるダメそうな動画の四つに分類していますから、それを参考にお二人で決めてもらうことになりそうです。ここに関してはさくどんさんからも意見をいただきました。」

 

そういった『嗅覚』はやはり実際に投稿している人たちの方が上だろう。夏目さんは国内だとかなりのベテランライフストリーマーだし、様々な動画を熱心に研究している努力家だ。彼女が分類に協力してくれたのは大きいと思うぞ。

 

思考しながら夏目さんについてを付け加えてやれば、朝希さんがバッと身を乗り出して話しかけてくる。

 

「さくどんが? さくどんが手伝って──」

 

「こら、朝希。さくどん『さん』でしょ? 年上で、ライフストリームの古参で、事務所の先輩なんだから。」

 

「あっ、そうだった。……さくどんさんも手伝ってくれてるんですか?」

 

「お二人のことを軽くだけ話したら、彼女の方から手伝おうかと言ってきてくれたんです。いくつか『危なそうな動画』を挙げてくれました。ちなみにお二人のチャンネルの存在は以前から知っていたようですよ。」

 

まあ、呼び捨てにしてしまう気持ちは分かるぞ。動画のコメントを見ても、『さくどんさん』と丁寧に呼んでいる人は少数派なのだから。夏目さん自身もそこはプラスに受け取っていたな。『近い存在に思ってもらえてる証拠です』と口にしていたっけ。

 

苦笑しながら朝希さんに解説してみると、彼女はパアッと顔を明るくしてパタパタと足を動かし始めた。

 

「嬉しいです! 私、さくどんの動画をいつも見て──」

 

「朝希?」

 

「あぅ。ごめん、小夜ち。……私、さくどんさんの動画をいつも見てます。可愛くて、優しくて、それなのに変なことにもチャレンジしてて。だからファンなんです!」

 

うーん、『変なこと』か。分かってしまうあたりが恐ろしいぞ。デスソースを筆頭とするチャレンジ系の動画のことを言っているんだろうな。動作で喜びを表現しながら語った朝希さんに、笑顔で肩を竦めて応答する。

 

「では、さくどんさんに伝えておきます。彼女も喜んでくれると思いますよ。」

 

「サインとか、貰えたりしますか?」

 

「恥ずかしいことはやめなさい、朝希。そういうのはダメよ。駒場さんにもさくどんさんにも失礼でしょ?」

 

「……小夜ちだってコメットのサイン貰いたいって言ってたじゃん。駒場さんが元担当だって知った日の夜、ベッドで嬉しそうにバタバタしちゃってさ。ちょっと気持ち悪かったよ。」

 

ストレートに辛辣な評価を飛ばした朝希さんへと、小夜さんがひくりと口の端を震わせながら声を送った。コメットのサインは難しいと思うけどな。彼女たちのマネージャーではなく『一般男性』になった以上、軽々に会うべきではないだろう。電話やメールもしないようにと言ってあるし。

 

「……朝希? 私、言わないでって注意したわよね?」

 

「してないよ、聞いてないもん。……さくどんさんからサイン貰ったら、部屋に飾るからね。机の上に。」

 

「そこにはコメットのポスターがあるでしょ。三周年記念ライブのやつが。だからダメよ。」

 

「ライフストリーマーになるんだから、さくどんさんのサインを飾るべきじゃん。小夜ちばっかりスペース使っててズルいよ。……大体、全部同じようなポスターでしょ? 何であんなに沢山飾るの?」

 

心底疑問だという面持ちで問いかけた朝希さんに、小夜さんが攻撃的な怒りの笑みで反論する。カチンと来たらしい。

 

「あんた、言っちゃいけないことを言ったわね? あれはね、全部違うの! コメットの歴史を表してるポスターなの! だから正しい順番で飾らないといけないの!」

 

「でも、二人の部屋でしょ? それなのに小夜ちのプラモデルとか、ポスターとか、ぬいぐるみばっかりじゃん。」

 

「……代わりにクローゼットの中はあんたが八割支配してるじゃない。訳の分かんない古着、捨てなさいよ。そしたら部屋の『支配権』を何割か譲ってあげるから。」

 

「訳分かんなくないよ! ちゃんと全部着てるじゃん! ……そういうこと言う人には、もう服選んであげないからね。私が安くて可愛い古着を選んであげてるから、ああいう変な物が買えるのに。もう知らない。自分で買って。」

 

言い放ちながらぷいとそっぽを向いた朝希さんを見て、小夜さんは少し焦っている顔付きで口を開いた。これまでは何となく小夜さんが主導している雰囲気があったのだが……ふむ、必ずしも片方が上という力関係ではないらしい。バランスの良い双子だな。

 

「ちょっ……待ちなさいよ、それはまた別の話でしょ? 朝希? ねえ、朝希ったら。」

 

「知らない。意地悪な小夜ちなんて嫌い。触らないで。」

 

「ああもう、謝るってば。悪かったわよ。クローゼットは使っていいから。」

 

「……机の上は?」

 

ジト目で聞く朝希さんへと、小夜さんが目を逸らしながら返事を返す。

 

「……本棚の上ならいいわよ。1/100スケールのグノーザが置いてあるとこ。あれ、作り直すから。もう買ってあるの。」

 

「小夜ち? また同じプラモデル買ったの? ……何で同じのを何回も何回も買うのさ! 意味不明だよ。お金の無駄じゃん。新しいマイク買うために二人で貯金しようって約束したばっかりなのに。」

 

「や、安かったの。本当に安かったのよ。グノーザは良い機体なのに、それなのにワゴンにあったから……だから、可哀想でつい買っちゃっただけ。塗装が気に入らなかったからやり直そうと思って。動画にするからいいでしょ?」

 

「よくない! 私には我慢しなさいって言う癖に、いつもいつも自分だけこっそり買い物して……ダメでしょ、小夜ち! 財布、また私が持つからね。『財布権』剥奪だよ!」

 

何だその権利は。もしかして、財布を共有しているのか? 特殊なやり方をしているなと唸っている俺を他所に、劣勢の小夜さんが朝希さんからじりじりと離れつつ抗弁を放った。財布の共有なんて基本的に一緒に行動していないと成立しないだろうし、この二人はぴったりくっ付いて生活しているようだ。

 

「……あんたに持たせると買い食いするじゃない。トータルで見れば私の方が節約家よ。それで私が財布権を持つことになったんでしょ?」

 

「私は二人で分けっこするけど、小夜ちは独り占めじゃん。ダメだよ、もうダメ。無駄な抵抗はやめて財布を渡しなさい!」

 

「ちょっと、やめ……引っ張らないでよ! 買わないから! もう何も買わないから財布は持たせて!」

 

「ねえ、何でそんなに抵抗するの? ……ひょっとして、また何か買おうとしてるんでしょ? 隠そうとしたって分かるんだからね。『発売日』が迫ってきた時の反応じゃん、それ。大人しく財布を出しなさい、ダメダメ小夜ち!」

 

騒がしい後部座席をバックミラーで確認しつつ、苦笑いで車線を変える。まあうん、可愛らしいやり取りだと思うぞ。こういうかけ合いがモノクロシスターズの魅力の一つなのだろう。二人の趣味嗜好が大きく異なっているという点も面白いな。

 

そういった部分も活かしたマネジメントをしようと思案しながら、賑やかな二人を背に車を走らせるのだった。

 



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Ⅱ.モノクロシスターズ ⑤

 

 

「あっ、あれ! 小夜ち、見て見て。あのソファ、さくどんの……さくどんさんの動画に出てたソファだよ! 自作パソコンのやつ!」

 

車内での論争の果てに『財布権』が朝希さんに委譲された少し後、俺とモノクロシスターズの二人はホワイトノーツの事務所に到着していた。風見さんは外出中かな? 香月社長だけがデスクで作業をしているようだ。

 

「分かったから落ち着きなさいよ。うろちょろしないの。」

 

ドアを抜けた途端に応接用ソファへと駆け寄ろうとした朝希さんと、彼女の首根っこを掴む形で制御している小夜さん。対照的な反応をしている二人に対して、香月社長がモニターから視線を外して挨拶を投げる。

 

「おっと、来たね。二人ともようこそホワイトノーツへ。中々良い事務所だろう?」

 

「お疲れ様です、香月さん!」

 

「お邪魔します、香月社長。……何か、物がデスク周りに集中してますね。」

 

まあ、そういう感想になるだろうな。小夜さんの尤もな評価を耳にしつつ、自分のデスクにブリーフケースを置いて説明を送った。現在の事務所は広い部屋の半分ほどに家具や物が集中しており、もう半分はがらんとしている状態なのだ。

 

「置く物が無いんです。香月社長が借りるオフィスの大きさを見誤ったんですよ。」

 

「私は将来を見据えて余裕を持たせたまでだよ。社員が増えていけばそっちのスペースも使うようになるさ。……それより、さっき風見君が一度戻ってきて冷蔵庫にケーキを入れていたぞ。」

 

「なら、出しましょうか。……風見さんは営業に行っているんですか?」

 

「ん、引き続き飛び込み営業をやってくれているよ。我が後輩ながら恐ろしいメンタルの強さだね。」

 

確かに風見さんは『メンタル強者』と言えそうだな。先日三人で夏目さんと豊田さんをプレゼンするための資料を作ったのだが、彼女はそれを片手に飛び込み営業をしまくっているらしい。当初は香月社長の知り合いをスタート地点にして、徐々に営業先を広げていく予定だったものの……風見さんの『そんなの迂遠すぎますから、飛び込み営業でいきましょう』の一声で方針を転換したのだ。

 

夏目さんや豊田さんに合いそうな企業を見つけ出して、そこを訪問してプレゼンするという古き良き営業方法を実践しているようなのだが……アポイントメント有りでも緊張する俺には出来ないやり方だな。同僚としては頼もしい限りだぞ。

 

営業職のことを改めて尊敬しつつ、給湯室の冷蔵庫からケーキを出して小皿に載せる。このケーキもモノクロシスターズの二人が来ると知っていたから、営業のついでに買ってきてくれたわけか。まだ不慣れな営業を社用車無しでやりつつ、こういう気遣いもこなすとは……ぬう、風見さんは本当に『掘り出し物』だったな。

 

俺も頑張らなければと気合を入れながら、冷たい緑茶をコップに注いでケーキと共に応接スペースまで運んでいくと、ソファに並んで座っている朝希さんと小夜さんが声をかけてきた。

 

「ありがとうございます! 駒場さん。」

 

「ありがとうございます、いただきます。」

 

「駒場君、こっちにも余ったケーキとお茶をくれ。お腹が空いてきたよ。」

 

「……まあ、いいですけどね。社長は何をしているんですか?」

 

社長命令に従って再び給湯室に戻った俺に、事務所スペースから香月社長が応じてくる。

 

「毎度お馴染みの英語字幕の作成だよ。もはや社長なのか翻訳家なのかが分からなくなってきたね。今はロータリーチャンネルの冷凍食品動画の字幕を作り終えて、さくどんチャンネルのボルシチ動画に取り掛かろうとしているところだ。」

 

「頑張ってください、社長。無いよりあった方がいいことだけは間違いないんですから。」

 

「頑張るさ。たとえ百人中九十九人がオフにする字幕だとしても、君が言う通り無いよりはある方が良い。それだけが私の心の支えだよ。」

 

「英語のコメントの数を見る限り、百人中九十九人ってことはないと思いますけどね。結構な割合が利用しているはずですよ。」

 

うーむ、疲れてきているらしいな。香月社長にしては珍しく、やけに悲観的な発言じゃないか。……実際に利用している割合がどうであれ、英語字幕に意味があること自体は夏目さんが証明済みだ。翻訳専門の人間を雇う余裕なんてうちには無いわけだし、このまま踏ん張ってもらいたいぞ。

 

励ましながらショートケーキと緑茶を社長のデスクに置いたところで、その香月社長がソファでフォークを動かしている朝希さんに問いを飛ばす。唐突な問いをだ。

 

「ありがとう、駒場君。しかし……朝希君、随分とスカートが短いね。大丈夫なのかい? それ。」

 

「大丈夫です、下にこういうのを穿いてますから。これを穿くようにって校則で決まってるんです。」

 

言いながら立ち上がってぺろりと制服のスカートを捲った朝希さんは、自分が穿いている黒いショートパンツ……じゃなくて、オーバーパンツ? 正式名称は知らないが、所謂『見せパン』を示して解説を続けた。

 

「うちの学校、スカートの長さについてはあんまり厳しくないんですけど……これを穿いてないとすっごい怒られるんです。変な人に下着を見られちゃうぞって。だからうちの生徒はほぼ確実にこういうのを穿いてます。」

 

うーん、奇妙な話だな。じゃあもうスラックスにすればいいのに。朝希さんのオーバーパンツを見ながら首を傾げていると、俺の視線に気付いた彼女が……一瞬固まって少し顔を赤くしたかと思えば、バッとスカートを下ろして文句を寄越してくる。半眼でだ。

 

「……駒場さん、えっちです。ジッと見てました。」

 

「……しかし、見られても大丈夫なやつなんですよね?」

 

「だとしても、まじまじと見られたら恥ずかしいです。」

 

「それは……はい、すみませんでした。気を付けるようにします。」

 

他にも反論は思い付くが、これは完全なる負け戦だ。『女子中学生の下半身を見ていた』という点を持ち出されると勝ち目は皆無のはず。そんなわけで素直に降参した俺へと、香月社長が呆れた表情で突っ込んできた。……話のテーマになっていたんだから見ちゃうじゃないか。疾しい気持ちは微塵もなかったぞ。

 

「もっとデリカシーを磨きたまえ、駒場君。『見られても大丈夫』と『見ていい』には天と地ほどの差があるんだよ。……しかしまあ、面白い学校だね。女子校らしい校則じゃないか。そうまでしてスカートに拘るというのは奇妙な話だが。」

 

「スラックスもありますけど、全然可愛くないから誰も穿いてません。」

 

「ああ、なるほどね。単純に人気が無いだけか。何となく分かるよ。」

 

まあ……うん、俺もちょっと分かるぞ。どちらが可愛いかと聞かれれば、スカートの方を選んでしまいそうだ。こういうのは刷り込まれた感性なのかもしれないな。とはいえきちんと選択肢を提示しているのは良い事だと感心していると、座り直した朝希さんがショートケーキを食べつつ話を続けてくる。

 

「でもでも、小夜ちはゴワゴワするから嫌だって穿いてないんです。それでスカートを長めにして──」

 

「朝希? あんた、そこまで言う必要あった? 何を口走ってるのよ。」

 

「……言っちゃダメだった? ごめん、小夜ち。」

 

しゅんとしながら謝った朝希さんに、今度は小夜さんが顔を赤くして応答した。確かに小夜さんのスカートは長いな。ファッションの都合だと思っていたが、そういう理由もあったのか。

 

「ダメってことはないけど、別に言う意味もないでしょって話よ。……駒場さん、何で見てるんですか? えっちですよ。」

 

「あー……はい、すみません。」

 

不利を悟ってまたしても即座に謝罪した俺へと、小夜さんは咳払いをしてから話題を切り替えてくる。女子中学生と成人男性の社会的な地位の差を思い知るな。見るだけでアウトか。恐ろしい話じゃないか。ディストピアの到来だ。

 

「それでその、電話で教えてくれた『撮影に使える部屋』っていうのはここのことなんですか?」

 

「いえ、向こうの部屋です。さっき朝希さんが言っていた、さくどんチャンネルの自作パソコン動画を撮影した小部屋ですね。そこは一応クリエイターが自由に使えるスペースになっていますから、お二人が使用することも可能ですよ。」

 

「こっちですか? ……おー、何にもないですね。」

 

「朝希、行儀が悪いわよ。……本当に何もないわね。」

 

フォークを口に咥えたままで見に行った朝希さんに続いて、小夜さんも思わずといった感じに呟きを漏らしているが……正しい感想だと思うぞ。夏目さんが使用する時はその都度ソファとテーブルを運び込んでいるので、基本的には何も置かれていない部屋なのだ。

 

ちなみに先日夏目さんが『百円ショップの材料で巨大てるてる坊主作り!』という季節感を意識した動画の撮影に使ったから、あの部屋は通算二回使用されていることになる。てるてる坊主動画は今日アップロードする予定なので、後で初動の伸びと視聴者の反応をチェックしておかなければ。

 

脳内で予定を整理していると、ケーキを食べ終えたらしい香月社長が二人に質問を放った。

 

「ゲームの実況をその部屋で撮るということかい? 使うのは一向に構わないが、機材をいちいち持ち込むのは手間だと思うよ?」

 

「機材のことは考えます。……私たちはアパートに住んでいるので、大きな声で実況できないんです。手作りの防音室の中で撮ってるんですけど、色々と問題があって。」

 

「『手作りの防音室』?」

 

小夜さんの話を受けて首を捻りながら聞き返した香月社長に、ソファに戻ってきた朝希さんが返答する。

 

「段ボールを沢山重ねて小さな防音室を作ったんです。それで机と自分たちをすっぽり覆って、その上から更に掛け布団をかけて実況してます。」

 

「……それはまた、中々の撮影環境だね。動画を見ただけでは気付けなかったよ。」

 

「中に小さなライトを引き込んで、内側に白い紙を貼ってそれっぽくしました。撮った後の私たちの顔画面は縮小しちゃうから、実は雑でもあんまり目立たないんです。」

 

俺も電話で聞いた時はびっくりしたぞ。てっきり白い壁の前で普通に撮影しているのだと思っていたのに、実際は『段ボール防音室』の中だったらしい。大きな音を出せなくて苦労するミュージシャンみたいな逸話じゃないか。

 

夏目さんの場合は撮影スペースに関する悩みを抱えているわけだが、『音』については特に困っていなかった。夏目家は結構広い一軒家だし、家族にも動画のことを話しているからそれなりに声を張れるのだろう。そして名古屋の豊田さんの家は二階建ての借家なので、そちらも騒音のことは全く気にしていないはず。車の動画の撮影は実家の工場でやっているのだから尚更だ。

 

とはいえ、アパートだと気を使うのは当然だろうな。俺も今住んでいるアパートでは大声なんて出せないぞ。朝希さんが自作防音室の構造を説明したところで、悩ましそうな面持ちの小夜さんが話を引き継ぐ。

 

「小さな声でやろうともしたんですけど、明らかに変な喋り方になっちゃうんです。しかも編集の時に無理やり音量を上げると、息のノイズが多すぎて使い物になりませんでした。」

 

「それでそれで、防音室を作ってみることにしたんです。小夜ちがネットで調べて、素材を段ボールに決めて、二人で近くのスーパーに行って余った段ボール箱を貰ってきて……って感じで作りました。」

 

「安く済みましたし、音漏れ自体はかなり防げているので防音の面では成功なんですけど……とにかく不便なんですよね。」

 

「すっごく狭いし、トイレとかに行く時は毎回設置し直さないといけないんです。カッターでドアを付けようかとも思ったんですけど、完璧に塞がないと音漏れするって小夜ちが反対してきて。それでトイレを我慢してたら、小夜ちが一回膀胱炎に──」

 

そこでぺちんと頭を叩くことで朝希さんを制止した小夜さんは、真っ赤な顔で妹の……姉の? とにかく双子の片割れの胸ぐらを勢いよく掴んだかと思えば、それをぐわんぐわん揺らしながら怒り始めた。

 

「何で、あんたは、毎回毎回余計なことまで言っちゃうのよ!」

 

「そっちこそ何で恥ずかしがるの? お医者さん、言ってたよ? 恥ずかしがって病院に行かない方がダメだって──」

 

「あああ、黙りなさいってば! ……次に変なこと言ったらフォークで刺すからね。本気だから。」

 

「……私はただ、防音室の問題を伝えたかっただけだよ。そんなに怒ることないじゃん。」

 

フォークを片手にした小夜さんから身を離すと、朝希さんはショートケーキの最後の一口を食べながら防音室の話を締める。……まあうん、病気になるのは良くないことだ。改善すべき点だと言えるだろう。

 

「とにかく、今のままだと大変なんです。だからここで撮れると助かります。学校からもそんなに遠くないですし。」

 

「そうなると、事務所で撮影したデータを家で編集するのがベストでしょうか?」

 

無難な案を提示した俺に、香月社長が問題点を指摘してきた。

 

「それだと何をどうしたって新しいパソコンが一台必要になるぞ。朝希君と小夜君がそれぞれ一台ずつ使わないとゲーム実況にならない以上、撮影部屋に二台を置きっぱなしにすることになる。そして編集のためには家にも一台置かなければならないわけだろう? 事務所で撮って家で編集するというやり方だと、最低でも三台のパソコンがないと成立しないよ。重くて大きいパソコン本体を毎回持ってくるのは現実的じゃないしね。学校生活が間に挟まることを考えれば、ノートパソコンでも持ち歩くのは難しいはずだ。……あるいは、ここで編集までやってしまうとか?」

 

「時間的に厳しくありませんか? 学校が終わってから事務所に来て、撮影して編集までしていたら遅い時間になってしまいます。もちろん帰りは私が車で送れますが、帰宅が遅すぎるのは問題ですよ。」

 

「……何時ならセーフかな? ちなみに私は中学生の頃、二十二時までの塾に通っていたんだが。」

 

「私の常識で考えると、十九時が一つのラインだと思います。……二十二時までの塾というのは凄いですね。」

 

これ、俺の常識が間違っているんだろうか? そういえば法律上だと二十二時が区切りだったな。答えた後で一言付け足した俺へと、香月社長は忌々しそうに鼻を鳴らして応じてくる。

 

「それが嫌で嫌で堪らなかったから、家でも必死に勉強して良い成績を取った後、親に脅しをかけたんだ。『このまま塾に通わせるなら意図的に成績を落とすぞ』とね。」

 

「……本末転倒じゃないですか。」

 

「結局、一定の成績を維持することを条件にやめさせてもらったよ。やっている自分としても訳が分からなかったし、親も意味不明だっただろうね。中学生の頃の私は意地でも塾に通いたくなかったから、頑張って勉強をしていたわけさ。……結果だけ見れば、あの塾は私の成績を向上させたことになりそうかな。狭い『勉強スペース』に閉じ込められての個別指導は本当に苦痛だったよ。一概にそれが悪いとは言わないが、私には合っていなかったようだ。」

 

「まあその、香月社長らしい思い出話でした。『親に脅しをかけた』って部分が特に。……何にせよ、帰りが夜遅くになるのはダメですよ。お二人はどう思いますか?」

 

香月社長は中学生の頃から香月社長だったらしい。そのことを学びつつ、ソファの二人に呼びかけてみれば……朝希さんがきょとんとした顔で返事をしてきた。

 

「塾ですか? 私たちは通ってないです。」

 

「違うでしょ、朝希。撮影とか編集とか帰る時間の話よ。天然ボケはやめなさい。……ここにパソコンを持ち込んで、撮影と編集を両方やるのは可能だと思います。もし平日に毎日来ていいなら、二日に一本くらいのペースで作れるはずです。撮るのは二人一緒ですけど、編集は二本同時に出来ますから。タイムリミットが十九時でも問題ありません。」

 

あー、そうか。二人組だとそれぞれが同時に編集作業を行えるのか。それに夏目さんと違って、『ほぼ毎日投稿』というスタイルじゃないんだもんな。モノクロシスターズの二人であれば、そういうやり方を成立させることも不可能ではないわけだ。

 

『夏目さん基準』で考えてしまっていたなと反省している俺に、小夜さんが会話を続けてくる。非常に申し訳なさそうな表情でだ。

 

「でも……あの、毎日はさすがに迷惑ですよね?」

 

「大丈夫ですよ、今のところ撮影部屋を使うのはさくどんさんだけですから。そのさくどんさんも頻繁に使うわけではないので、基本的に空いているんです。」

 

「それもありますけど、そういうことじゃなくて……つまり、駒場さんに毎日送ってもらうのは幾ら何でも無理って意味です。地下鉄かバスで通うので、部屋だけ使わせてもらえないでしょうか? 他のライフストリーマーさんが使う時はもちろん空けますし、なるべく綺麗に使いますから。出来るわよね? 朝希。」

 

「うん、出来るよ。出来ます!」

 

小夜さんに応答してからこちらに言い直してきた朝希さんを目にしつつ、一瞬思考した後で口を開く。放課後にここに来る時はまだセーフな時刻だが、夜に中学生の女性二人を自分たちだけで帰すのはダメだろう。事務所としても、マネージャーとしても、個人としても余裕でアウトだ。トリプルプレーだぞ。

 

「……帰りは送らせてください。ここでクリエイター活動を行う場合、それが絶対条件になります。お二人からすれば窮屈に思えるかもしれませんが、事務所として『未成年を夜に家まで送らない』という選択肢は存在していないんです。」

 

「……でも、毎日だと駒場さんの負担になります。」

 

「平気ですよ、そのまま退社すればいいんですから。時間的にもちょうど良いですし、自分が帰宅するついでにお二人の家に寄るという感覚です。……それで問題ありませんよね? 香月社長。」

 

「君がいいなら構わないよ。退社時間は出社時間を動かすことで調節できるし、そもそも私は厳しくやっていくつもりがないからね。駒場君と風見君は放っておくと際限なく働くタイプだから、私が気にするのは超過の方だけさ。」

 

肩を竦めて香月社長が回答したところで、躊躇しているような顔付きの小夜さんが声を上げる。

 

「……迷惑じゃありませんか?」

 

「その程度なら全く気になりません。私はお二人のマネージャーですからね。帰宅時に家まで送るのは当然のことであって、やらない方がおかしいんです。一般の方であれば善意の範疇かもしれませんが、私の場合はむしろ仕事の一部ですから、送らせてもらえない方が困ってしまいます。」

 

苦笑しながら言ってやれば、小夜さんは眉根を寄せて暫く黙考した後……やがておずおずと話しかけてきた。

 

「……それなら、帰りだけお願いします。学校からは自分たちで来ますから。」

 

「分かりました、そうしましょう。……ちなみに、何が必要になりそうですか? 机と椅子は間違いなく要りますよね?」

 

「えっと……そうですね、とりあえず机だけあれば何とかなります。椅子もマイクもカメラもパソコンも持ってくればいいだけですから。机も分解して運べば必要ないかもしれません。」

 

それは、困らないのかな? よく考えたら部屋からパソコンが消えるのは致命的だと思うぞ。おまけに椅子だの机だのまで持ってきてしまったら、日常生活がままならなくなるんじゃないか?

 

小夜さんの思い切った決断に困惑していると、朝希さんがこくこく頷いて同意する。同意してしまうのか。

 

「運べるよ、机。机とか椅子が変わると慣れるまで大変だし、そっくりそのまま持ってきちゃおうよ。折角ダイヤ帯に戻れたんだから、落としたくないじゃん。」

 

「まあ、そうね。それが一番かも。椅子もバラせるはずだし、帰ったら調べてみましょうか。」

 

『ダイヤ帯』というのはゲームの話かな? まだ勉強中なのでいまいち分からないなと内心で首を傾げつつ、盛り上がっている二人に疑問を飛ばす。

 

「何もかもを持ってきてしまって大丈夫なんですか?」

 

「調べ物をしたい時はスマホがありますし、ゲームをこっちでやって家では勉強することにします。ゲームの練習時間が削られるのだけが不安ですけど……でも、私たちにとって今一番大切なのはライフストリームですから。段ボール防音室は色々と限界なので、撮影のためだと思えば我慢できますよ。」

 

「お姉ちゃんが頑張って入れてくれた学校だから、成績は絶対に落とせないんです。家で勉強に集中して、ここで撮影に集中すれば良いバランスになると思います。」

 

むう、それもそう……なのかな? 小夜さんに続いた朝希さんの発言を咀嚼していると、香月社長がパチンと手を叩いて会話に参加してきた。

 

「何か足りない物があったらプレゼントしてあげるよ。収益化の記念にね。」

 

「だけど私たち、まだ申請を通せていません。」

 

「あくまで『まだ』だろう? 小夜君。是が非でも通すのさ。収益化の達成は確定している予定なんだから、お祝いの品を先に贈っても問題ないよ。二人で考えておいてくれたまえ。……それじゃ、次はそのための話をしようじゃないか。北アメリカのキネマリード本社にも電話してみたんだが、そこのオペレーターが日本支社よりも具体的な情報を教えてくれたんだ。その辺も踏まえて話し合ってみよう。」

 

おおっと、さすがの行動力だな。痺れを切らして国際電話をかけたわけか。香月社長っぽい大胆な行動だぞ。……うーむ、英語が堪能だと選べる選択肢が増えるらしい。今更遅いのかもしれないが、俺も勉強し直してみるべきだろうか?

 

「……思い切ったことをやりましたね、社長。」

 

「本社ってことは、英語で問い合わせたんですか。」

 

「凄いです、香月さん!」

 

「そうだろう、そうだろう。私はまあまあ凄いのさ。大いに頼りたまえ。」

 

驚いている俺たちを見てご機嫌な顔になった香月社長は、えっへんと胸を張りながら己の成果を報告してくる。今回はまあ、威張っていいんじゃないかな。あの盛大な『ドヤ顔』に見合うくらいの重要な報告であって欲しいぞ。

 

「いいかい? ライフストリームの収益化には三段階の審査があるようなんだよ。各国の支社は本社でのやり方を基準にしていると言っていたから、恐らく日本支社もこの方法で審査を行って──」

 

さて、ここからは集中して聞くべきだな。兎にも角にも問題点の洗い出しが肝要なのだ。既に持っている知識と照らし合わせて思案してみよう。香月社長の話を耳にしつつ、手帳を開いてメモの準備をするのだった。

 



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Ⅱ.モノクロシスターズ ⑥

 

 

「キャンプ用品、ですか。」

 

モノクロシスターズの二人が事務所を訪れてから四日が過ぎた、曇り空の火曜日の正午。俺は腕を組んで椅子に深く腰掛けながら、昼食を食べている風見さんへと相槌を打っていた。扱いに悩む案件だな。夏目さんも豊田さんも『キャンプ』というイメージは無いぞ。

 

つまるところ、遂に風見さんが飛び込み営業を成功させたわけだ。どこをどう辿ってそのメーカーに行き着いたのかは分からないが、アウトドア用品の会社からのスポンサー契約を持ち帰ってきてくれたのである。風見さんとしても、そしてホワイトノーツとしても初めての契約ということになるな。

 

自社のキャンプ用品を宣伝する動画を一本作って欲しいとのことで、肝心要の商品に関しては向こうが提供してくれるらしいのだが……クリエイターの指定は無しか。さくどんチャンネルか、ロータリーチャンネルか。どちらに振るべきか迷うところだぞ。

 

食後のお茶を飲みながら思案している俺へと、風見さんが困ったような表情で返事を送ってきた。

 

「『面白そうだし、やってみようかな』という雰囲気でオーケーしてくれたんです。……難しそうですか?」

 

「いえいえ、とても良い話だと思います。偉大な一歩目ですよ。……キャンプとなると、どちらかと言えば豊田さんの方が向いているかもしれませんね。一本だけそういう動画がありましたし。」

 

奥さんと子供を連れてキャンプに行く動画があったはずだ。あれはキャンプをすることに着目した一本ではなく、そのために借りた大型のレンタカーを紹介する動画だったわけだが……まあ、『キャンプに行った』という点は厳然たる事実だぞ。テントもきちんと張っていたようだし、最低限の知識は持っているはず。

 

豊田さんに振る方向へと気持ちを傾けている俺に、今日もせっせと字幕を作っている香月社長が声を寄越してくる。

 

「私も豊田さん向きの案件だと思うよ。夏目君もまあ、回せば上手くやってくれそうではあるが……向き不向きで言えばギリギリで豊田さんに軍配が上がるかな。夏目君はアウトドアを好む人間ではないしね。」

 

「ですよね。豊田さんはスポンサー動画に前向きですし、とりあえず彼と電話で相談してみます。」

 

「何れにせよ、第一件目のスポンサー契約だ。後々に活かせるノウハウを探り出すためにも、慎重に丁寧にやっていこうじゃないか。……お手柄だよ、風見君。結構大手のメーカーなのに、よく飛び込みで話を纏められたね。」

 

「ライフストリーム自体の社会的な認知度が徐々に上がってきているので、注目している会社はそれなりにあるみたいです。業種によって反応が分かれるんですけど、真面目に話を聞いてくれる会社は案外多いですよ。」

 

業種か。確かにそれはありそうだな。先ず、現時点でライフストリームに一番注目しているのは音楽業界だろう。日本では『ミュージックビデオが見られるプラットフォーム』という形で最初期に広まったので、未だそういう色が残っているのだ。再生数を見てもミュージックビデオの伸びは圧倒的だし、ライフストリームに対してそういった認識を持っている人はまだまだ多いはず。

 

その次に否応なく巻き込まれたゲーム業界と、エンターテインメント系の会社が続いている感じかな? 特にライフストリームのメインユーザーである十代、二十代をターゲットとするメーカーは興味を抱いているだろう。マーケティングの場として注視しているはずだぞ。

 

しかし、『キャンプ用品』というのはピンと来ないな。ある程度資金的な余裕があって、かつ先見性があるメーカーだから一種の『市場開拓』として依頼してくれたとか? その辺を疑問に思っていると、風見さんが答えを教えてくれた。

 

「今回依頼してくれたメーカーさんは、自社の商品と一緒にキャンプそのもののマーケティングをしたいらしいんです。キャンプをする人は『教えたがり』が多いから、ライフストリームは良い交流の場になってくれるはずだと言っていました。そういう動画が増えていけば、自社の売り上げも伸びるだろうと。」

 

「キャンプに興味を持たせることで、市場それ自体を拡大させようとしているんですか。壮大なマーケティングですね。」

 

「だが、的を射ている考え方だと思うよ。インターネット黎明期の『個人ホームページ』も、本質的には誰かに自分の知識や趣味を知って欲しくて作られたものだからね。『自分の成果を伝えたい』というのは人間の欲求の一つなのさ。……テントの効率的な張り方や、野外で作れる美味しい料理、大雨の対処法だったりキャンプにおけるマナー。自分が頑張って得た知識を誰かに教えたいけど、周りに話が合う人が居ない。そういった人間が動画を投稿するのは良いことだろう? 自分も満足できるし、他人の利益にもなるからね。」

 

「動画だったら文章よりもダイレクトに解説できますもんね。」

 

香月社長の主張に賛同してやれば、彼女はこっくり頷いて会話を継続してくる。そういう感情は理解できるぞ。単車に熱中していた高校生の頃にライフストリームがあれば大助かりだっただろうし、ひょっとすると整備関係の動画の一本くらいは投稿していたかもしれない。『知りたい』と『教えたい』を繋げてくれる場なわけか。

 

「『共有』という現象がライフストリームの魅力の一つなんだ。知識の共有、経験の共有、感動の共有、失敗の共有。そういうものに対する欲求が世界的に増加してきているんじゃないかな。……要するに、『誰かと関わり合いたい』って類の社会性から来る欲望だよ。現代の人間はそれに飢えているのさ。故にライフストリームと似て非なるプラットフォームはどんどん増えていくはずだ。そもライフストリームが始まりってわけでもないしね。」

 

「香月さんは相変わらず面白いことを言いますね。……個人のホームページ、ネット上の『掲示板』、オンラインゲーム、音声チャット、そして動画共有サイト。全部を纏めて一つの流れだと認識しているわけですか。そうなると、次に来るのは何だと思います?」

 

「それが分かっていたら今頃私は大金持ちさ。投資家として一生のんびり暮らしていたよ。時に後戻りしたり、あるいは全く違った方向にズレるから予想なんて出来そうにないかな。私は自分の限界を知ったから、『依存症』になる前に金を転がすのをやめたんだ。」

 

「賢い選択ですね。……ちなみに私は手を出すことすら出来ませんでした。一定の成功を掴んだ段階で身を引けた香月さんは、間違いなく『成功者』なんだと思いますよ。」

 

悪戯げに微笑みながら褒める風見さんを目にして、香月社長は苦笑いで肩を竦めた。『金を転がす』か。俺には縁のない世界だな。

 

「特に『通貨のシミュレーションゲーム』にハマってしまうと地獄だからね。あれは潤沢な元手があって初めて勝負になるゲームなのさ。ビギナーズラックで小金を稼ぎ、そこでカジノを出るのが私の身の丈に合っていた行動ってことかな。……私はホワイトノーツで分相応な幸せを目指すよ。こっちの方がやっていて楽しいし、私は卓上の駒の方が向いているみたいだ。」

 

「主戦場に上場しないと『駒』にすらなれませんよ?」

 

コンビニ弁当を食べ切りながら突っ込んだ風見さんへと、香月社長は小さく鼻を鳴らして返答する。

 

「見えない場所で戦っている人間も居るってことだよ、風見君。立身出世を目指すなら、駒になる過程の前哨戦にも真剣に臨むべきさ。ここで勝てなきゃ意味がないんだから。」

 

「なら、私は一兵卒として引き続き営業をしてきますね。……駒場先輩、細かい話し合いは夕方でもいいですか? 先方が紹介してくれた会社を回っておきたいので。」

 

「もちろん大丈夫です、風見さんに合わせます。私も後で夏目さんの撮影の手伝いに行く予定ですしね。……豊田さんへの連絡は先にしてしまって平気ですか?」

 

「はい、そこは問題ありません。お願いします。……それじゃあ、行ってきますね。」

 

ブリーフケースを片手にスタスタと事務所を出ていく風見さんに、残った二人で挨拶を投げてからモニターに向き直った。さて、だったら俺は……メーカーからの資料をもう一度確認しておこう。きちんと頭に入れてからじゃないと、豊田さんに上手く説明できないだろうし。

 

風見さんが残していった資料を手に取ったところで、字幕作成を再開しながらの香月社長が問いを飛ばしてくる。

 

「そういえば、朝希君と小夜君の方はどうなんだい? 先ず彼女たちの姉からの許可が下りないと、事務所に撮影機材を運び込むことすら出来ないわけだろう?」

 

「説得が難航しているようです。小夜さんは『じわじわと勝ちに近付いています』と言っていましたが、朝希さんは『一進一退です』と表現していましたね。」

 

「良い勝負になっていることは伝わってくるよ。……収益化に関しては?」

 

「これまで得た情報を基に改めて相談してみたんですが……残念ながら、一部動画を削除することになりそうですね。単発のゲーム実況を数本削除して、六月分の申請をしてみる予定です。」

 

ライフストリームのシステム上、チャンネルの収益化を申請できるのは一ヶ月に一回なのだ。そして結果が不満であれば、一度だけ再審査の要望を出せるようになっている。だからまあ、事実上は月に二回運営側からチェックしてもらえるということになるな。

 

なので今回は『これが原因かもしれない』という最低限の動画だけを消して挑戦してみて、それで通らなかったら更に数本を削除して再審査を依頼する予定だ。……あー、胃が痛いな。夏目さんからも意見を貰ったし、モノクロシスターズの二人とも何度も話し合った。これで通らなかったらかなり落ち込むぞ。

 

必要のない動画まで消してしまうのは単なる自傷行為なので、削除する数本は物凄く慎重に選んだわけだが、それでもチャンネルにとって打撃であることには変わりない。……何かこう、釈然としないな。規約的にはどの動画もセーフのはずなんだから、現状でも通って然るべきなのに。

 

とはいえ、そんなことを言っていても始まらないのだ。出来ることをやるしかないとため息を吐いている俺に、香月社長もまた深々と息を吐いて言葉を返してくる。

 

「ホワイトノーツがキネマリード側から認知されていれば良かったんだけどね。そうすれば違った結果になっていたかもしれないよ。」

 

「……いつかはそうなりますかね?」

 

「無理にでも目を向けさせてみせるさ。有力なライフストリーマーを多数抱えれば、少なくとも日本支社とはある程度の連携を取れるようになる……はずだ。キネマリード社が何らかのイベントを開く時、舞台に立つのはどう考えてもライフストリーマーだろう? であればホワイトノーツという事務所の存在もそこそこ重要になるはずだよ。『仲の良い友人』になれるかはともかくとして、『付き合いがある知人』くらいにはなっておきたいところだね。」

 

「ライフストリーマーのイベントですか。現状だとまだちょっと遠い話ですね。」

 

さすがに企業のチャンネルには負けるが、日本国内の個人だと夏目さんは二位の登録者数だから……うーむ、イベントがあったら呼ばれたりするんだろうか? アメリカだと何度か開かれているものの、日本でのイベントは未だ開催される気配が無いな。

 

資料を読みながら考えていると、香月社長がニヤリと笑って口を開いた。

 

「いつか絶対に開かれるから、意識だけはしておきたまえ。……北アメリカがぶっちぎりの利用者数ってだけで、世界的に見れば日本のユーザーは多い方なんだよ。このままぐんぐん増えていけば、キネマリード社はこの島国にも目を向けるようになるさ。アジアのシェアは無視できないはずだ。」

 

「アジアの市場となると、中国が真っ先に思い浮かびますが。」

 

「私たちにとってもキネマリードにとっても中国は魅力的な市場であるものの、あそこは建前として一部の地域でしかライフストリームを利用できないからね。実際はまあ、案外普通に使われているらしいが……大々的にイベントを開くとなると話が変わってくるさ。ちなみに今現在のライフストリームは三十ヵ国で展開中で、ユーザー数はUSAが一位、UKが二位、ロシアが三位、日本が四位だよ。伸び率を見ると日本が二位に躍り出る日も遠くはないんじゃないかな。あとはインドも一気に伸びそうだね。通信インフラの整備さえ進めば、人口が多いあの国は『怪物市場』になるはずだ。」

 

「……日本が四位というのは実感が湧かないです。正直、かなり意外に思えます。むしろヨーロッパで流行っていると勝手に思っていました。」

 

きょとんとしながら応答してやれば、香月社長は愉快そうな雰囲気で返事をしてくる。

 

「ヨーロッパ全体で見れば多いだろうが、国家別なら良い勝負が出来るんだよ。日本は比較的通信環境が整っているし、それなりの人口を持っている経済大国なんだぞ、駒場君。……私はロシアが三位ってのが面白い現象に思えるかな。東西冷戦時代の連中が聞いたら笑うかもね。グローバル化の波ってやつを思い知るよ。」

 

「イギリスの利用者数が多いのは、英語の動画が多いからなんでしょうか?」

 

「だと思うよ。今のところ、英語の動画が過半数を余裕で占めているしね。言語の話者数はやっぱり重要みたいだ。……兎にも角にも、目下私たちにとって大切なのは『日本の利用者数がめちゃくちゃ伸びている』って点さ。そりゃあいつかは落ち着くだろうが、ユーザーは往々にして『大きな集団』に流れ易い。ここで頑張ってクリエイターたちのチャンネルを大きくしておけば、未来の大差に繋がるはずだよ。」

 

現在の小さな差が、後々大きな差になってくるということか。……そういえば夏目さんも登録者数の伸び方が変化していると言っていたな。五万人の頃の増え方と、十五万人の今の増え方だと全然違うらしい。多分香月社長が言いたいのはそういうことなのだろう。チャンネルの成長に従って、『歩幅』が大きくなっていくわけだ。

 

そうなると、今どれだけ結果を出せたかが将来の立ち位置を決定することになるぞ。もちろん『本当に面白い動画』を多数投稿できるライフストリーマーなら、後発だろうと関係なしに上がっていけるのだろうが……才能を頼りにしていても仕方があるまい。それ無しでも導けてこその事務所である以上、未来の展開も意識しておいた方が良さそうだな。

 

───

 

その後豊田さんへの連絡を済ませて、いくつかの動画チェックと事務作業を終えた午後二時。俺は訪問した夏目家のキッチンで、完成した料理を食べている夏目さんへとビデオカメラを構えていた。要するに、毎度お馴染みの料理動画の撮影補助をしているわけだ。

 

「うん、美味しく出来たと思います。これの目玉焼きを載せたバージョンがクロックマダムですね。個人的にはベシャメルソースを塗った方が食べ易いと思いますけど、もっとダイレクトにチーズの味が欲しいって場合はモルネーソースもありかもしれません。今回はオーブンを使って作りましたが、フライパンだけで手軽に作れる方法も概要欄に載せておきますから、オーブンが家に無いって方は参考にしてみてください。……ではでは、今回はクロックムッシュの作り方でした。また次の動画もよろしくお願いします。」

 

動画を締めながらぺこりと頭を下げた『さくどん』は、そのまま数秒間動きを止めた後で……カットか。パッと顔を上げて『夏目さん』として話しかけてくる。ラストで長く話す時もあるのだが、今回はシンプルな締め方だったな。あまり時間がかからない料理だったから、バランスを取るためにこっちも短くしたのかもしれない。

 

「はい、オッケーです。温かいうちに上に持っていって食べましょうか。」

 

「分かりました、運びましょう。」

 

カメラを下ろして二個の……二枚の? とにかく二つのクロックムッシュが載った皿を片手に持ち、グラスとお茶のペットボトルを手にした夏目さんと共に階段を上って彼女の私室に向かう。料理動画を撮った後は、二人で食べながら打ち合わせをするのがお決まりの流れになっているのだ。そして食べたらキッチンに戻ってきて、一緒に片付けをするパターンが多いな。

 

こうして美味しい料理を食べられるのは、一種の役得と言えるのかもしれない。そんなことを考えながら夏目さんの部屋に入り、商品紹介に使っている白い座卓に二人で着いた後、クロックムッシュを食べつつ声を投げた。

 

「いただきます。……あー、なるほど。これは確かにベシャメルソースの方が食べ易そうですね。味が整ってしつこくなくなるというか、よりマイルドになる気がします。」

 

「ここは人によるんでしょうけど、私はチーズが強すぎるのがちょっと苦手なんです。なので全体的にあっさりさせてみました。……美味しいですか?」

 

「もちろん美味しいですよ。夏目さんの料理はどれも美味しいですからね。」

 

無論、デスソース炒飯を除いてだが。あれも別に不味くはなかったものの、幾ら何でも辛すぎたな。……とはいえまあ、夏目さんが料理上手なのは事実だぞ。定食屋の手伝いで慣れているというのもあるんだろうけど、どうも彼女は人より舌が繊細らしい。俺では気付けないレベルの微細な味の違いを認識しているようなのだ。

 

あるいは単に俺が『バカ舌』なのかもしれないと不安になっていると、夏目さんは自分の分のクロックムッシュを食べながら嬉しそうに身体を揺らし始める。

 

「えへ、それなら良かったです。」

 

「コメントの反応も良いですし、料理動画はこれからもチャンネルの主力になってくれそうですね。」

 

「マンネリになるのだけが怖いので、色々工夫していこうと思ってます。……『ロバの餌事件』みたいなケースもありますし、見た目にも拘っていくつもりです。」

 

「……あれはジョークだったんだと思いますよ?」

 

ロバの餌事件。それは先日上げた野菜ラーメンの動画に『さくどんはロバの餌だって作れる』といった意味の英語のコメントがあって、そのコメントの評価が非常に高かったという事件のことだ。……俺としてはこう、ちょっとした悪気のない冗談だと捉えているんだけどな。

 

しかし夏目さんは結構気にしているようで、『見返すと見た目が悪かったかもしれません』と落ち込んでしまっているのだ。ちなみに問題となった料理は、塩ベースのラーメンに野菜が沢山載っているという一品なのだが……普通に美味しそうだったし、実際美味しかったぞ。ひょっとすると料理に対する文化的な感性の違いが出たのかもしれない。

 

恐る恐るフォローしてみた俺に、夏目さんはしょんぼりしながら小さく頷いてきた。

 

「多分そうだとは思うんですけど、でも『ロバの餌』って表現がしっくり来ないとあれだけの評価にはならないはずですし……つまり、『ロバの餌に見えた』って部分は事実ってことです。」

 

「食文化の違いですよ。余所の国の料理が『変』に見えるのはよくあることです。例えば、あーっと……納豆とか、ハギスとか、エスカルゴとか。そういう料理に首を傾げるのと同じような意味じゃないでしょうか?」

 

「……でもやっぱり見た目は気にしていきます。料理動画は特に外国のリスナーさんが多いみたいですし、そういう部分も重要だと思うので。」

 

「現時点でも充分美味しそうな見た目だと思いますよ? あのラーメンの場合は、一部の視聴者にとって身近な料理じゃなかったというだけのことです。人間は見慣れない物だと否定から入りがちですからね。実際に食べれば美味しいと感じるはずですよ。」

 

俺から見れば些細な問題でも、担当クリエイターが気にしているなら真剣に向き合うべきだ。『気にしない方がいいですよ』の一言で済ませてしまうのは論外だろう。そんな思いから懸命に語ってみた俺へと、夏目さんは上目遣いでポツリと言葉を漏らしてくる。

 

「……そうでしょうか?」

 

「見た目に拘るという点は悪くありませんが、そこに縛られすぎると夏目さんの動画の面白さが損なわれてしまいます。美意識はその人次第なんですから、あくまで一つの要素として捉えておくべきです。あの野菜ラーメンは余裕でセーフの範疇ですよ。少なくとも俺はヘルシーで美味しそうに見えましたし、大多数のコメントもそういう反応だったんですから。」

 

「駒場さんがそう言うなら……はい、あまり気にしないようにします。」

 

完全に解消されたわけではないものの、一定の納得はしてくれたらしい。会話を閉じてはむはむとクロックムッシュを食べている夏目さんに、こちらから新たな話題を切り出した。空気を変えるためにも、明るい話題を出すべきだな。

 

「それより夏目さん、登録者数十六万人おめでとうございます。」

 

「あっ、ありがとうございます。……十五万人のお祝い動画を作る前に、十六万人になっちゃいましたね。」

 

「良いことですよ。この調子で行けば、秋頃には二十万人を突破できるかもしれませんね。」

 

「何だか少しプレッシャーです。登録者数が増えるのは嬉しいんですけど、今のままで大丈夫なのかなって不安があって。……香月さんの『チャレンジするなら今だ』って言葉の意味を今更実感してます。試行錯誤できる余裕があるうちに、色んな方向に手を出していきたいです。」

 

ふむ、試行錯誤か。大きなチャンネルになってからでもやれないことはないが、いざコケた時のダメージはやはり変わってきそうだな。似た内容であれば一度目よりも二度目、二度目よりも三度目の方が良い動画になるのは間違いないはず。経験や慣れによって改善していけるのだから、余程に特殊なケースでなければそうなるだろう。

 

つまり、動き易いうちに様々な『一度目』を経験しておくのが大切なわけか。多少拙くても何とかなる今だからこそ、新たな一度目に挑んでいくべきというのは俺も同意見だぞ。将来の選択肢を増やすためにも、この段階で色々な方面に土台を伸ばしてみるのは有意義な行動であるはずだ。

 

夏目さんへと大きく首肯しつつ、思い付いた提案を口にする。

 

「今度名古屋に二泊三日の出張に行くんですが、夏目さんもどうですか? 車で移動するので時間はかかってしまいますけど、代わりに移動費が浮きますよ。」

 

「へ? ……あっ、え? 私も一緒にってことですか?」

 

どうしてそんなに動揺するんだ。ぽとりと皿にクロックムッシュを落としてしまった夏目さんへと、冷たい緑茶を一口飲んでから回答した。

 

「二日目は丸一日かけてロータリーさんの撮影を手伝う予定なんですが、到着日と帰る日は俺がカメラを持つことも出来ますから、この機に名古屋観光の動画を撮ってみるのはどうでしょう? 『旅行もの』というのは定番ですし、試しに手を出してみるのも良いと思いますよ。」

 

事務所として初めてのスポンサー動画なので、現地に行って直接豊田さんのサポートをすることになったのだ。香月社長は珍しく『慎重にやろう』との意見を出してきたし、俺もそうすべきだと思っている。今回の『案件動画』は後々のモデルケースになるかもしれないのだから、石橋を叩いて渡るくらいでちょうど良いはず。

 

そして何故短時間で行き来できる新幹線や飛行機でも、安い値段で済む高速バスでもなく、面倒な上に時間がかかる車での移動を選んだのかといえば……まあ、俺がそれを希望したからだ。香月社長は新幹線でも構わないよと言ってくれたのだが、俺としては自分が運転する車で行くのが一番気楽だぞ。

 

となれば助手席に夏目さんを乗せていけばいいだけの話だし、名古屋でさくどんチャンネルの動画も撮ってしまうというのは悪くない案じゃないか? 脳内で思考を回しつつ語った俺へと……どういう反応なんだ? それは。夏目さんは見る見るうちに顔を赤くしながら、あらぬ方向に目を逸らして返答してきた。

 

「えぁ……あの、はい。私は嫌じゃないです。に、二泊ですか。駒場さんと名古屋で二泊するんですね。」

 

「まだ日にちがはっきりしていないんですが、今月の中頃になると思います。宿泊はビジネスホテルでも大丈夫ですか?」

 

「うぁ、はい。大丈夫です。……さすがにベッドは二つですよね? まさか、一つですか?」

 

「……ツインルームの方がいいですかね?」

 

俺はシングルで事足りるんだけどな。動画的な見栄えを心配しているんだろうか? 首を捻りながら尋ねてみれば、夏目さんはこれ以上ないってほどに真っ赤になって返事をしてくる。

 

「ひっ……一つでも、いいです。」

 

「では、日付が決まったら改めて連絡しますね。それでスケジュール的に問題なさそうであれば、俺と夏目さんの二部屋をこちらで取っておきます。」

 

「二部屋? ……あっ、そういう。そういうことですか。あー、はい。なるほど、そうですよね。そんなわけないですもんね。」

 

ホッとしたように呟きながら忙しなく頷いていた夏目さんは、続いて少しだけ残念そうな面持ちに変わって口を開く。急に滑らかな口調になったな。よく分からない会話だったぞ。

 

「はい、ビジネスホテルのシングルで大丈夫です。名古屋での撮影、いいと思います。お父さんとお母さんにも一応許可をもらっておきますね。けど……ビジネスホテルって、一泊どのくらいするんでしょう?」

 

「大した金額ではありませんから、それはこちらで出しますよ。提案したのは俺の方ですしね。評判の良いホテルを探しておきます。」

 

「えと、ありがとうございます。実はその、商品紹介の方で沢山使っちゃって金欠気味なので……助かります。」

 

だろうな。今の夏目さんは『自転車操業』で動画を作っているので、あまり余裕がないことは何となく分かっていたぞ。極論、何かを買わなければ商品紹介の動画は作れないのだ。今月から家にもお金を入れ始めたらしいし、扱う物によっては未だ赤字になることもあるだろう。

 

心中で然もありなんと思っていると、クロックムッシュを食べ切った夏目さんが笑顔で話を続けてきた。

 

「名古屋となると、んー……あの商店街に行ってみたいです。赤い門があるところ、分かりますか?」

 

「大須商店街ですか?」

 

「それです、それ。大須商店街。そこで食べ歩きの動画を撮りたいです。……食べ歩きばっかりっていうのはダメですかね?」

 

「シリーズ化すれば比較できて楽しめますし、大須商店街で食べ歩きをして退屈な動画になるわけがありません。ダメどころか大賛成ですよ。あとはまあ、定番の観光スポットだと名古屋城ですかね。それに名古屋市役所も動画映えするんじゃないでしょうか。」

 

俺の発言を受けて、夏目さんは小首を傾げながら聞き返してくる。ピンと来なかったらしい。

 

「市役所、ですか?」

 

「名古屋市役所の本庁舎がですね、歴史のある立派な建物なんですよ。芸能マネージャー時代に撮影に同行する形で行ったことがあるんですが、重みのある荘厳な玄関ホールでした。映画やドラマの撮影に何度も使われているような場所なので、動画にする価値はあるはずです。」

 

「全然知りませんでした。……でも、撮影して大丈夫なんでしょうか?」

 

「俺の方で問い合わせてみます。他にも撮影したい場所があれば、メールか電話で知らせてください。行く前に連絡して許可をいただいておきましょう。」

 

水族館もあったはずだが、そっちは許可が出るか微妙なところだな。折角食べ歩き動画を作るなら、名物料理の店……味噌カツとか? の有名店の撮影許可も取るべきかもしれない。頭の中で計画を組み立てている俺に、眉間に皺を寄せている夏目さんが応答してきた。彼女も動画の構成を考えているようだ。

 

「名古屋のことを調べてピックアップしておきます。三日間で二本くらいに収めるのがベストですね。近い内容の動画があんまり続き過ぎちゃうとくどいですし、小出しにするよりは長い動画に纏めちゃった方が良いはずです。」

 

「ということは、投稿頻度的には一日分損をすることになるわけですか。」

 

「質的には得ですよ。そこを妥協しても仕方ないですから、ストック分で対処することにします。」

 

うーん、大変だな。やはり『毎日投稿』はメリットでもあり足枷でもあるらしい。……だが、『質的には得』という点は間違いないはずだ。毎日動画を上げていく中で、そういった山場となる一本を定期的に挟み込むのは重要だろう。

 

投稿のバランスに関してを思案している俺へと、立ち上がった夏目さんが声をかけてくる。

 

「じゃあ、片付けますね。キッチンをそのままにしちゃってますし、続きは片付けが終わってから話しましょう。」

 

「っと、手伝います。ごちそうさまでした。」

 

「はい、お粗末さまでした。」

 

空になった皿を持って、グラスを回収した夏目さんと一緒に一階のキッチンに向かう。……次の電話での打ち合わせの時、豊田さんにも聞いてみようかな。彼は三十年以上名古屋に住んでいるわけだし、地元の美味しい店とかを知っているはずだ。

 

何事も下準備が肝心なのだから、名古屋での夏目さんの撮影も、豊田さんのスポンサー動画も万全の準備をしてから臨まなければ。マネージャーとして決意しつつ、先ずは洗い物を手伝おうと到着したキッチンの流し台に歩み寄るのだった。

 



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Ⅱ.モノクロシスターズ ⑦

 

 

「いい? 駒場さんの言うことをよく聞くこと。何かをする時は、先ず彼に相談してから行動しなさい。……それと、事務所から家に戻る時は真っ直ぐ帰ってくるように。もし私にも駒場さんにも無断で寄り道したら、その時点でやめさせるからね。」

 

四日後の土曜日の昼過ぎ。俺はエンジンをかけた状態の自分の軽自動車の横に立って、お姉さんから注意されているモノクロシスターズの二人を眺めていた。……まあ、何とかなったな。これでようやく正式にマネジメントを始められるぞ。

 

つまり、小夜さんと朝希さんが遂にお姉さんの説得を成功させたわけだ。説得というか、『根負けさせた』という表現の方が正しいようにも思えるが……兎にも角にも事務所に所属してクリエイター活動をする許可を得られたので、さっきまで彼女たちの家で担当マネージャーとしてお姉さんに諸々の説明を行っていたのである。

 

二階建ての同じデザインの建物が四棟あり、一棟につき四部屋があるアパート。そんな彼女たちの住まいを見ながら俺が突っ立っている間にも、朝希さんと小夜さんがそれぞれお姉さんに返事を投げた。2LDKのちょっと古めの部屋だったけど、少なくとも俺が住んでいるワンルームアパートよりは立派だったな。来客用の駐車スペースもあるし、家族向けの賃貸住宅といった感じだ。

 

「うん、分かった。駒場さんの言うこと、ちゃんと聞く。」

 

「……言われなくても大丈夫よ。毎日真っ直ぐ帰ってくるわ。」

 

「貴女たちは可愛いんだから、すぐ変な人に目を付けられるの。絶対に、ぜーったいに夜二人で出歩いちゃダメよ? それをやったら本気で怒るからね。」

 

「わ、分かってるってば。しないわよ。絶対しない。」

 

気圧されたようにこくこく頷く小夜さんを目にして、お姉さんは無言で心配そうな顔になった後……朝希さんへと追加の言葉を放つ。

 

「朝希、小夜のことを上手くコントロールしてね。普段冷静なのは小夜だけど、有事に冷静でいられるのは貴女の方なんだから。」

 

「うん、コントロールする。」

 

「ちょっと、お姉ちゃん? どういう意味?」

 

「そういう意味よ。小夜はすぐカッとなってパニックになるじゃない。いざという時は朝希に前を譲りなさいね。役割分担できるのが貴女たちの長所なんだから。」

 

肩を竦めて小夜さんに応じると、お姉さんは俺の方へと近付いてきた。ワイシャツにチノパン姿で肩までの茶色い髪を持つ彼女は、落ち着いた雰囲気がある背の高い女性だ。朝希さんと小夜さんが十三歳なので、年齢は二十八か九歳ということになるな。

 

「駒場さん、今日はお休みの日なのにわざわざありがとうございました。」

 

「いえいえ、これが私の仕事ですから。呼んでいただければいつでもご説明に参りますので、何か気になることがあれば遠慮なくご連絡ください。」

 

互いにペコペコしながらのやり取りを終えた後、朝希さんと小夜さんが車に乗り込むのを横目に別れの挨拶を繋げる。今日はこのまま事務所に行く予定なのだ。

 

「では、今日はこれで失礼させていただきますね。日々の送迎に関しては私の責任でしっかりと行っていきますので、これからもよろしくお願いいたします。」

 

「いやもう、本当に……負担じゃありませんか? 私だったら会社で働いた後で、毎日余所の子供を家に送るなんて考えられないんですけど。」

 

「まあその、私はマネージャーですから。私にとってのお二人は大切な担当クリエイターであって、『余所の子供』ではありませんよ。業務の一部と言えば一部なわけですし、そんなに気にしないでください。」

 

「すみません、本来なら保護者である私が送り迎えをすべきなのに。」

 

心底申し訳なさそうな面持ちのお姉さんへと、苦笑いでフォローを送った。俺は本心から何とも思っていないぞ。彼女は仕事の関係で帰りが遅くなったりもするらしいので、そこはもう仕方のない部分だろう。

 

「ホワイトノーツからすれば、お二人に『所属していただいている』という認識なんです。お二人の安全のためにも、事務所の存在意義のためにも、送迎くらいはさせてください。そういった部分を貴女に代わって補助していくのが、事務所やマネージャーの役割なんですから。」

 

真剣な顔で伝えてみれば、お姉さんは何とも言えない表情になった後……ポツリポツリと呟きを寄越してくる。姉ではなく『親』の顔付きだな。芸能マネージャー時代に何度か見た、娘を心配する両親のそれだ。

 

「実は、駒場さんから話を聞くまでは迷っていたんです。中高生となると色々楽しみたい年齢でしょうし、あの子たちにはあまり沢山のお小遣いをあげられていないので、働きたいと言うなら高校生からはアルバイトを許可すべきかと迷っていたんですけど……でも、世間に顔を出す仕事はリスクが高すぎますから。おまけにほら、あの子たちは信じられないくらいに可愛らしい二人組でしょう? ストーカーとか、そういう問題がどうしても頭をよぎってしまって。」

 

「……なるほど。」

 

家で話をしていた時にも感じたことだが、この人は……あれだな、ちょびっとだけ『姉バカ』が入っているな。小夜さんと朝希さんが整った容姿なのは事実だけど、『信じられないくらい可愛い』と大真面目な顔で語れるのは相当だと思うぞ。

 

そんな内心を隠しつつ耳を傾けている俺に、お姉さんは神妙な面持ちで話を続けてきた。

 

「なので正直なところ、二人を諦めさせるための材料が欲しくて駒場さんを家にお呼びしたというのもあったんです。それなのに、貴方が想像以上に丁寧で真面目な説明をするものですから……何というか、調子が狂ってしまいました。」

 

「それは、あの……すみませんでした。」

 

どう返すべきかを迷って軽く頭を下げた俺へと、お姉さんはクスリと微笑んで首を横に振ってくる。大人な笑い方だな。担当の保護者に対してこういう感想を抱くのはあれだけど、何だかちょっぴり色っぽい笑みだぞ。

 

「褒めているんですよ。……一つだけ覚えておいてくださいね。私はホワイトノーツにあの子たちを預けるわけではなく、貴方に預けるんです。何かあった時は真っ先に貴方を責めますし、あの子たちが幸せになれたら心から貴方に感謝します。事務所や契約の内容は私にとってそれほど重要じゃありません。これは保護者たる私と、マネージャーたる貴方とのやり取りなんですから。」

 

「……はい、分かっています。立場や会社を言い訳にする気は毛頭ありません。貴女が私に預けてくださるのであれば、私は一人の人間として誠心誠意お二人を支えていくつもりです。」

 

目を逸らさずに約束した俺に、お姉さんはほんの少しだけ呆れたような、困ったような表情で返答してきた。

 

「そこでそうやって約束してしまうあたり、駒場さんは多分割り切れないで損をするタイプですね。いいんですか? そんな風に背負ってしまって。」

 

「既に損をしたことがありますし、周りからも同じことをよく言われますが……しかし、私はこういうやり方しか出来ない人間なんです。もう諦めました。こうなったらとことん貫こうと思っています。」

 

「……いいんだと思いますよ、それで。だから私はあの子たちを貴方に預ける気になったんです。改めて二人のことをよろしくお願いしますね。」

 

「長い、良い付き合いにしてみせますので、こちらこそこれからもよろしくお願いします。……それでは、今日はこれで。」

 

再度別れの台詞を口にした後、軽自動車の運転席に乗り込む。……自分でも余計なところまで背負っている自覚はあるさ。だけど俺は器用に割り切れる人間ではないのだ。ホワイトノーツではなく、マネージャーでもなく、駒場瑞稀を信頼して預けてくれた以上、駒場瑞稀個人として向き合ってみせるぞ。

 

職を失ってもやめられなかったやり方を、今更変えられるはずがない。香月社長はそんな俺を認めてくれたのだから、ホワイトノーツではこの姿勢を貫き通すまでだ。見送ってくれているお姉さんに目礼してから車を出して、そのままアパートの目の前の角を曲がったところで……助手席の朝希さんが話しかけてきた。

 

「駒場さん、駒場さん。今日、すぐに撮影できますか?」

 

「可能ですよ。機材の設置が終わったら試しにやってみますか?」

 

「やりたいです! ……小夜ち、出来るって。練習で何戦かやってみよっか。」

 

「落ち着きなさいよ、朝希。……駒場さん、大丈夫なんですか? 土曜日なのに。」

 

後部座席からおずおずと尋ねてくる小夜さんに、一つ首肯して返事を返す。ちなみに彼女の隣にはパソコン本体とモニターが二台ずつ置かれており、その上にはトランクルームから飛び出した机の天板が見えている。今日事務所に行くのは、二人の撮影機材を運び込むためなのだ。家を訪問するなら纏めてやってしまおうと考えたわけだが、ギリギリ積み込めて良かったぞ。

 

「休日勤務の手当をもらえることになっているので、何も問題ありませんよ。その辺は案外しっかりしているんです。」

 

「そうなんですか。……じゃあ、やりたいです。回線の速度とかも知りたいですし。」

 

「ネット回線の速度計測は風見さんが……あーっと、ホワイトノーツで事務や営業をやってくれている人です。その人がやっていましたよ。彼女によれば、かなり良い回線なんだとか。リーグ・オブ・デスティニーも快適にプレイできました。」

 

「……やったんですか? 事務所で。」

 

驚いたように問いかけてきた小夜さんへと、バックミラーにちらりと目をやりつつ肯定を投げた。

 

「マネージャーとして、お二人がやっているゲームのことを知っておく必要がありますからね。教えてもらいながら何戦かプレイしてみました。」

 

「……駒場さんって、本当に真面目な人なんですね。私たちの担当になるからってわざわざLoDをやったんですか。」

 

おっと、その表情はさっきのお姉さんと似ているな。顔立ちそのものはそこまで似ていなかったわけだが、やっぱり姉妹だけあって似通う部分もあるらしい。呆れと感心が綯い交ぜになった顔の小夜さんが言葉を漏らしたところで、満面の笑みになっている朝希さんが声を上げる。パタパタと足を動かしながらだ。

 

「面白かったですか? ランク、やりました? 好きなロールは?」

 

「まだランクマッチはやれていません。プレイヤーレベルがまだまだ足りていないので、ノーマルマッチを何戦かやった程度ですね。ロールのこともよく理解できていない段階です。」

 

「じゃあじゃあ、私が教えます! 先ず色んなキャラに触ってみて、それから好きなロールを決めるのが一番です。」

 

リーグ・オブ・デスティニー。通称『LoD』。簡単に言えば五対五の二チームに分かれて、それぞれのプレイヤーが選択した『デスティニー』と呼ばれるキャラクターを操り、広いフィールドの中でキャラを育成しつつ相手の陣地の攻略を目指す対人ゲームだ。基本的に一試合で全てが完結するシステムなので、プレイヤー当人の知識や技術が物を言いそうなゲームだったな。

 

選べるキャラクターの数がまず多かったし、持っているスキルも各々個性があるものだったし、戦場となるフィールドには沢山のギミックがあったし、試合の中でキャラを育てていく上での選択肢も豊富だった。今まで『eスポーツ』という言葉がピンと来なかったけど、やってみて何となく理解できたぞ。しっかりしたルールと、プレイヤーの技術が影響するシステムと、ゲーム全体のバランスと、観戦していて楽しめるような戦略性。それがあれば『競技』として成立するのだ。

 

とはいえまあ、今のところは全然把握し切れていない。LoDにも他のオンラインゲームと同じく一種の定石や暗黙のルール、独自のマナーや複雑な用語などが存在しているようで、それを覚えるのに一杯一杯という段階だ。しかも英語のゲームだから難易度が更に上がってくるぞ。風見さん曰く、日本人は大抵北米のサーバーでやっているらしいのだが……いやぁ、ゲーマーというのは凄いな。恐らくゲームに対する情熱が言語の壁を乗り越える動力になるのだろう。

 

たとえ慣れていない言語だとしても、やりたいからやる。そう思わせるゲームの方も、そう思えるゲーマーの方も大したもんだぞ。有志による日本語の情報サイトもあったし、都内各所のネットカフェではユーザー主催の小規模な大会まで開かれているらしい。物事というのはこうして成立していくんだろうな。いつの世も基礎を作るのは熱意ある人間たちなわけか。

 

未だ社会的な地位の低いeスポーツだが、ライフストリーム内においては一定の基盤を確保できているようだし……そういう方向に働きかけていくのもありかもしれない。俺には香月社長ほどの先見性はないけど、『競技としてのゲーム』がこの先どんどん拡大していくのは分かるぞ。波が大きくなることが見えていて、モノクロシスターズという『専門家』も抱えているのだから、事務所としてはその流れに乗れるように努力していくべきだ。

 

LoDはそういった動きの一歩目になるかもしれないし、やはりマネージャーとして一定の知識は持っておかなければ。だからまあ、風見さんや二人に教えてもらおうと決意していると……朝希さんの発言に小夜さんが突っ込みを入れた。

 

「違うでしょ、朝希。一人のデスティニーを上手く扱えるようになるのが先よ。それから徐々に他に手を出していくべきなの。先ずはトップで練習すべきね。レーンコントロールの方法が学べるし、ジャングルへの警戒とかも覚えられるから。」

 

「また始まった。……小夜ち、そうやっていつも強要するよね。最初に一通り触れてみないと、自分に合ってるか合ってないかが分かんないじゃん。」

 

「あんたはそうやって移り気だから、いつまで経ってもFPSが上達しないのよ。先にARの挙動をマスターして、次にSMGとかSRとかを使うべきでしょ? 順番は好きにすればいいけど、あれこれ忙しなく使うのは良くないわ。どのゲームでも『確実に使える一つ』を最初に練習するのが重要なの。」

 

「だって、色々使った方が楽しいじゃん。そういう風に押し付けてると、駒場さんがLoDのこと嫌いになっちゃうよ? ……小夜ちってゲームやる時、毎回そうだよね。やる前にWiki見て、テンプレのステ振りに従って、オススメの狩場でしかレベル上げしないタイプ。」

 

ムスッとした顔で文句を言う朝希さんに、ひくりと口の端を震わせた小夜さんが言い返す。用語が多くて会話の内容がいまいち分からないけど、小夜さんが『説明書』を読んでからプレイする人間だということは理解できたぞ。対して朝希さんは『先ずやってみよう』な人間らしい。

 

「いいでしょ、別に。それで実際上手くいくんだから。何の文句があるのよ。」

 

「……楽しいの? それ。」

 

「はい出た、その台詞。……あんたはいつもそう言うけど、私はそれが楽しいのよ! 効率的にレベリングして、最短ルートで強い職業に転職して、実績とかもきっちり回収していく。浮気癖があるあんたには分かんないのかもしれないけど、そういうのが私の楽しみ方なの!」

 

「私、浮気癖なんてないもん! ……小夜ちこそ、食わず嫌いじゃん。レビュー見てすぐ『このゲームはダメそう』とか言っちゃってさ。結局私がやってるのを見てやり始めるじゃんか。それで『あら、結構面白いじゃない』とかお澄まし顔で言ってるけど、あれってかなりバカっぽいからね。」

 

ぷいとそっぽを向いて指摘した朝希さんへと、後部座席の小夜さんが顔を赤くしながら反論する。ヒートアップしてきたな。

 

「バ、バカっぽい? 私が? ……バカっぽくないでしょうが! あんたが買うのなんて七割クソゲーじゃないの! アーリーアクセスの変なゲームばっかり買って、お金を無駄にするのはやめなさいよね!」

 

「でも、無難なのばっかり買ってたら発見がないでしょ? 小夜ちには冒険心ってものが足りてないんだよ。……駒場さんには私が教えるからね。小夜ちだとああしろこうしろって煩いもん。」

 

「いいえ、私が教えるからあんたはすっこんでなさい。……駒場さん、朝希の言うことを聞かないでくださいね。この子、適当ですから。何もかもが適当なんです。行き当たりばったりの適当人間なんですよ。」

 

助手席を指差しながら適当を連発する小夜さんに、朝希さんがつんとした態度で反撃を加えた。一人っ子の俺には確たる判断が付かないが……多分これは、『じゃれ合い』の延長線上にある姉妹喧嘩だな。賑やかで良いと思うぞ。

 

「駒場さん、聞いちゃダメです。小夜ちはうるっさいから、きっと嫌になっちゃいます。……小夜ちさんは黙ってなさい。運転してる駒場さんに迷惑ですよ。」

 

「なーにが『小夜ちさん』よ! やめなさいよね、そのわざとらしい敬語! お澄まし顔はあんたじゃないの!」

 

「小夜ちさん、野蛮ですよ。静かにしなさい。」

 

「……はい、怒った。怒ったわ、私。そんなに言うならLoDの1v1で決めましょうよ。事務所に行ったらやるからね。ボッコボコにしてあげるわ。」

 

怒りの笑みで宣戦布告した小夜さんへと、朝希さんが好戦的な笑顔で了承を飛ばす。打って、響いて、共鳴し合うような二人組だな。

 

「別にいいよ、私が勝つもん。ぽんこつ小夜ちに負けたりしないよ。勝った方が駒場さんの先生役ね。」

 

「それでいいわ、私がへなちょこ朝希に負けるわけないもの。」

 

そこで互いに鼻を鳴らして会話が終了したわけだが……うーむ、やはりこの二人は面白いな。朝希さんは相変わらず動画内そのままだけど、小夜さんは若干以上に『素』が出ている気がするぞ。そんなに『冷静で知的なタイプ』ではなかったらしい。撮影中はある程度キャラを作っているということか。

 

こっちの小夜さんも魅力的だと思うから、動画内でも出して欲しいんだけどな。……まあ、そこは続けていけば勝手に出てきてしまう部分なのかもしれない。『最初の頃とキャラが違う』というのはよくある現象だぞ。二人はまだ成長の途上にある時期なんだし、長くやっていけばそういった変化もチャンネルの魅力の一つになりそうだ。

 

数年経って見返した時、『うわぁ、最初の頃ってこんな感じだったっけ』と苦笑できるようなチャンネルになって欲しいな。二人が成長して、チャンネルが大きくなって、振り返ることが出来るような成果を積み上げられれば、きっとそういう日が訪れてくれるだろう。もしその日に自分も一緒に見られていたなら、それほどマネージャー冥利に尽きる話はないぞ。

 

───

 

そして事務所横の駐車場に到着した後、俺たち三人はそれぞれに荷物を抱えながらオフィスビルの裏手に回っていた。土曜日なので裏からしか入れないのだ。管理人さんも当然留守だし、戸締りはきちんとやらなければ。

 

「待っていてくださいね、今開けます。」

 

各々のパソコン本体を持っている二人に断りながら、運んでいた椅子を持ち上げたままでどうにか裏口の鍵を開けようと苦戦していると……小夜さんが苦笑いで声をかけてくる。鍵を予めポケットから出しておくべきだったな。

 

「駒場さん、地面に置いても大丈夫ですよ。別に気にしませんから。」

 

「……そうですか?」

 

「幾ら何でも気を使いすぎです。もっと雑でいいですよ。」

 

「では、一度置かせてもらいますね。」

 

普段使っている物だから、地べたに置かれるのは嫌かと思ったんだけどな。呼びかけに従って椅子を地面に下ろした後、鍵を取り出して裏口のドアを開いた。

 

「どうぞ、入ってください。」

 

「シーンとしてます。何だかわくわくしますね。」

 

「朝希、ちゃんと持ちなさい。なるべく揺らさないでよ? 椅子は雑に扱っても壊れないけど、パソコンはそうじゃないんだから。」

 

「小夜ち、神経質すぎるよ。平気だって。」

 

パソコン本体は事務所の台車で運ぼうと考えていたのだが、小夜さんが『振動はダメです』と言うので最初に手で持っていくことになったのだ。曰く、中古のパーツを使って安く組んだ自作のパソコンらしい。マイクやカメラ等の他の機材も殆どが中古の品で、そういった品々の入手や管理は小夜さんの『担当』なんだとか。

 

車内での会話を思い返しながらエレベーターに乗ると、朝希さんが小首を傾げて声を寄越してくる。

 

「自動ドアは開かないのに、エレベーターは動くんですね。」

 

「こっちは年中作動しているようですね。賃貸のオフィスビルだと間々ある管理方法なんだと思います。これからも土日に用事が入ることはありそうなので、休日は問答無用で利用不可というビルではなくて助かりました。」

 

というかまあ、香月社長はそういったことも見越してこのオフィスビルを選んだのかもしれないな。休日に正面入り口の自動ドアを停止させているのは、あくまで防犯のためなのだろう。夜間も裏口から出入りできるし、ある程度自由に利用できるのは色々と助かるぞ。

 

他愛もない会話をしている間に三階に着いたエレベーターから出て、再び椅子を置いて防犯装置とドアのロックを解除した。そのまま無人の事務所の中に入ると、小夜さんがパソコン本体を応接用テーブルの上に載せて話しかけてくる。

 

「不思議な感じですね。休日の学校とか、そういうところに入った時の気分になります。」

 

「言い得て妙ですね。何となく伝わってきます。……それでは、台車で残りを運びましょうか。」

 

残念なことに、『休日の会社』は『休日の学校』ほど楽しくないぞ。ただただ鬱々としてくるだけのシチュエーションだ。……けどまあ、ホワイトノーツの場合はそれほど嫌ではないかな。仕事に能動的に取り組めているということなのかもしれない。

 

香月社長は付き合い易い上司だし、人間関係がストレスフリーだというのも影響していそうだ。江戸川芸能に居た頃と比較して新たな発見をしつつ、隅に放置されてあった折り畳み式の台車を持って再度駐車場へと向かう。そして三人で全ての機材を事務所に運び込んだ後、トランクに積むために分解した机や椅子を応接スペースの近くで組み立て始めた。

 

「……朝希? あんた、何でネジを纏めておかなかったのよ。注意したでしょうが。」

 

「纏めたじゃん。失くしてないよ。」

 

「そうじゃなくて、椅子のネジだか机のネジだか分かんなくなってるってこと。こうなるのを防ぐために、袋に小分けにしなさいって言ったんじゃない。」

 

「……全部一緒にしておけって意味かと思ったんだもん。」

 

まあ、『どこ出身』のネジなのかを分かるようにしておくのは分解の基本だな。その辺小夜さんは慣れているのに対して、朝希さんは不慣れなようだ。俺も机の組み立てを手伝いながら、近くに置いてある二台のパソコン本体を指して小夜さんへと質問を投げる。……スペース的には結構な余裕を持って作業できているし、こういう時だけは事務所の『無駄空間』が便利に感じられてしまうぞ。

 

「このパソコンは二台とも小夜さんが作ったんですよね? 詳しいんですか?」

 

「詳しいってほどではないですけど……朝希と比べるとまあ、多少マシですね。」

 

「小夜ちはオタクなんです。パソコンとか、プラモデルとか、アイドルとか、漫画とかが好きですから。」

 

「その『オタク』って括り方、かなり無礼なんだからね。カチンと来た誰かに叩かれかねないし、動画では言わないようにしなさい。現に今私はイラッとしてるわ。」

 

椅子……というか、『ゲーミングチェア』と呼ぶべきかな? 知識が浅い俺にはよく分からないが、レース用の車のシートに肘掛けとキャスター付きの脚を追加したような見た目だ。とにかくその椅子の片方に脚を取り付けながらジト目で警告した小夜さんへと、机の金具を弄っている朝希さんが疑問を送った。『オタク』と括られるとイラッとするのか。俺も気を付けよう。

 

「悪い意味で言ったんじゃないよ。……『秋葉系』って呼ぶべき?」

 

「そうやって大雑把に表されるのが嫌なのよ。趣味にレッテルを貼られてるみたいでもやもやするの。」

 

「……それ、小夜ちの性格が捻くれてるから悪い意味に受け取ってるだけじゃなくて?」

 

「はい、またイラッとしたわ。私の性格は捻くれてないし、もっと表現をオブラートに包みなさい。あんたはストレートすぎるのよ。」

 

怖い笑顔で注意した小夜さんに、朝希さんが不満げな表情で反論する。雲行きが怪しくなってきたな。この二人の間の天気は、山の天気なんか目じゃないくらいに変わり易いらしい。

 

「小夜ちは深読みしすぎなんだよ。素直に受け止めればいいのに、変に捻じ曲げるからダメなんだって。……ね? 駒場さん。ね?」

 

「……私にはちょっと、分かりませんね。」

 

「あんた、駒場さんを巻き込むのはやめなさいよね。困ってるでしょうが。」

 

「困ってないもん。……駒場さん、駒場さん。小夜ちと私、どっちが正しいですか? 中立の立場からジャッジしてください。」

 

ああ、一番恐れていた展開になったな。自分が選ばれることを微塵も疑っていない様子の朝希さんと、『言ってやってくれ』という目付きでこちらを見てくる小夜さん。その二人に挟まれて短く黙考した後、絞り出した無難な発言を場に放った。こんなの何を言っても泥沼じゃないか。

 

「……まあその、悪意が無くても人を傷付けることはありますし、言われた側が嫌なのであれば無理に呼ばない方がいいんじゃないでしょうか。」

 

「ほら、私の勝ち。黙って手を動かしなさい、負け朝希。」

 

「……駒場さん、ひどいです。」

 

頬を膨らませて責めてくる朝希さんから目を逸らしつつ、空気を変えるために別の話題を口にする。二人はこういう『軽めの論戦』を頻繁にしているようだし、担当になった以上は間に挟まれることが増えそうだな。気が重いぞ。早いうちに対処法を模索すべきかもしれない。

 

「朝希さんの趣味は何なんですか? 小夜さんが好きなことは分かったので、朝希さんの好みも知っておきたいです。」

 

「私ですか? 私は服と、音楽と、映画と、動物と……あとスポーツが好きです。やるのも、観るのも。」

 

「やはり全然違っているんですね。」

 

両極端とまでは言えないが、趣味嗜好が大きく異なっているのは間違いなさそうだ。そのことに謎の感心を覚えていると、小夜さんがフッと笑ってポツリと呟く。悪い顔だな。悪役のそれだぞ。

 

「朝希はバカだから、単純なものが好きなんですよ。」

 

「そうだよ、私はシンプルなものが好きなの。そして小夜ちはえっちな漫画とかが好きなんだよね。カバー変えてるけど、丸分かり──」

 

「朝希!」

 

素早い反撃を食らった小夜さんが、バッと朝希さんに飛び付いて物理的に口を塞ごうとするが……おー、完璧に力負けしているな。体付きは同じなのに、腕力は朝希さんの方が明確に上らしい。ぐぐぐと押し返されて、更なる口撃を受け始めた。

 

「あんまり意地悪すると、変な漫画のことお姉ちゃんに言うからね! 裸の女の子が出てくるやつ、沢山持ってるでしょ!」

 

「だ、黙りなさいよ! ここには駒場さんが居るでしょうが!」

 

「駒場さん、小夜ちったらえっちな漫画ばっかり読んでて──」

 

「少年誌だから! 少年誌だからいいの! ……思い出したわ。あんたこそ紐みたいなパンツを買ってたわね。えろ朝希!」

 

これはもう、本当にやめて欲しいぞ。俺はどういう顔をしてこの場に居ればいいんだ。小夜さんが繰り出したカウンターを食らって真っ赤になった朝希さんは、ぺちぺちとダークグレーの頭を叩きながら『言い訳』を飛ばす。

 

「はっ、穿いてないもん! 買ったけど、外では穿いてないよ! どんな感じなのかなって気になって買ってみただけじゃん!」

 

「高すぎるからって諦めてたけど、あんたガーターベルトのやつも買おうとして……やめっ、やめなさいよ! 力で解決するのは卑怯じゃないの! 卑怯者! 野蛮人! STR極振り女!」

 

「まだ言うつもりなら絞めるからね、よわよわ小夜ち!」

 

見事なヘッドロックをかけている朝希さんに対して、タップアウトした小夜さんが荒い息を漏らしつつ『停戦』を宣言した。無益な争いであることに気付いたようだ。

 

「……終わりよ、朝希。もう終わり。暴露合戦をしたって無意味でしょうが。共倒れになるだけよ。」

 

「そっちが仕掛けてきたんじゃん。……小夜ち、弱すぎない? 何でそんなに力ないの?」

 

「私は繊細なのよ。頭脳派なの。」

 

香月社長と仲良くなれそうな台詞だな。疲れ果てた顔付きで組み立て中の椅子の近くに戻った小夜さんは、俺の方を向きながら謎の念押しをしてくる。

 

「少年誌ですからね。全然あの、あれなやつです。セーフなやつですから。私が持ってる単行本のごく一部がそうなだけであって、大半は違います。そもそもそういうのを目当てに買ってるわけじゃないですし。」

 

「……はい。」

 

「駒場さん、駒場さん。私も好奇心で買ってみただけですから。普段はもっと普通の、ボーイレッグのショーツを穿いてます。分かりますか? ボックスショーツっていうか、ボクサーっていうか、あれのローライズのやつが好きなんです。」

 

「……はい。」

 

そこまで言う必要があったんだろうか? 小夜さんも突っ込みたさそうな顔になっているが、もはやそんな気力すら無いらしい。気まずい気分になりつつ短い返事で聞き流した後、完成した机を撮影用の小部屋に運び入れた。今の会話は無かったことにしてしまおう。それが二人のためにも、俺のためにもなるはずだ。

 

「設置は部屋の中央がいいですか?」

 

「壁際でお願いします。そっちの方が集中できるので。……朝希、椅子は私がやるから他の物を運んじゃって。」

 

「うん、分かった。」

 

となると……むう、窓がある壁はやめておいた方がいいな。ドアの反対側にしておこう。二枚の黒い無骨なマウスパッドが貼られてある机を壁際に設置して、朝希さんが持ってきた二台のモニターをその上に載せる。半々で使うと各々のスペースは七十センチほどか。それなりに大きな机ではあるのだが、二人で使用する場合はギリギリになってしまいそうだ。

 

「こっちが小夜ちので、こっちが私のです。」

 

二十三インチ……かな? それとも二十四? 規格に詳しくないので判別が難しいが、事務所で俺が使っている物よりもやや小さめのモニターの位置調整をしている朝希さんに、軽く頷きながら声を返した。

 

「机の右側を朝希さんが使っているんですね。」

 

「小夜ちは両利きなので、WASDで移動するゲームだと右手でキーボードを操作するんです。そっちの方がやり易いらしくて。しかも超ローセンシでやってるから、FPSとかだとマウスを大きく動かすんですよ。そうなると机の中央でお互いの……っていうか小夜ちの肘が私の手に激突してきて邪魔だってことで、殆ど動かさないキーボードが真ん中になる今の配置になりました。」

 

うーむ、ポジションにもちゃんとした理由があるわけか。『WASD』とか『ローセンシ』の意味はいまいち分からなかったけど、外側にマウスがある方が干渉しないのは理解できるぞ。……それにしても、ゲームのジャンルによって右手左手を入れ替えるというのは中々面白い話だな。動画だと手元が映らないので気付けなかったが、小夜さんは独特なプレイスタイルを持っているらしい。

 

「なるほど、お互いが快適にプレイできるように考えているんですね。」

 

「小夜ちって、変な癖が多いんです。集中してくると椅子の上で正座したり、キーボードを物凄く斜めにして使ったり、急にRDFGのキー設定に変えたり。双子だけど、そういうところはよく分かりません。」

 

眉根を寄せて首を捻っている朝希さんへと、事務所スペースに移動しながら応答を投げる。キーボードの角度とキー設定のことはピンと来ないが、集中している時に椅子の座り方を変えるのはちょっと分かるぞ。

 

「癖は人それぞれですからね。大抵の場合、他人から見ると変に映ってしまうものですよ。……では、パソコン本体も運んできます。」

 

「それなら私、配線をやります。……小夜ち、まだ椅子やってるの? 配線繋いじゃっていい?」

 

「あんたが無意味にキャスターまで外しちゃうから手間取るんでしょうが。ケーブルはそっちのビニール袋に入ってるから持っていきなさい。……綺麗にやってよ?」

 

「はーい。」

 

しかし、機材が一つとして『お揃い』ではないのも興味深い点だな。モニターも、キーボードも、マウスも、マイクも、カメラも、そしてパソコン本体の形や大きさも違っているぞ。双子で揃ってしまうことを嫌がっている様子はないし、全てを中古で入手したからなのだろう。

 

「広告収益が入るようになったら、機材をもっと良い物に買い替えたいですか?」

 

運び込んだパソコン本体の設置作業を手伝いつつ尋ねてみれば、朝希さんは悩んでいる面持ちで返答してきた。

 

「出来れば全部お姉ちゃんのための貯金にしたいんですけど、小夜ちは『最初は機材に投資するわよ』って言ってました。その方が最終的にお金を稼げるからって。」

 

「長い目で見ればそれが正解だと思いますよ。区切りをどこにするかが難しいところですが、ある程度は機材にお金をかけるべきです。その方が快適に面白い動画を作っていけますしね。」

 

「さくどんさんもそうしてるんですか?」

 

「さくどんさんですか? ……そうですね、現時点の彼女は動画で使う物に広告収益のほぼ全てを使っているようです。機材や、紹介する商品の購入費用に。」

 

どうして夏目さんが出てきたのかと疑問に思いながら答えると、朝希さんは納得したようにこっくり首肯して応じてくる。

 

「じゃあ、私たちもそうします。……小夜ちー、モニターとケーブルの端子が合わない!」

 

「どっかに変換コネクタがあるでしょ? それを付けないと挿せないわよ!」

 

「これじゃないでしょうか? ……さくどんさんのこと、参考にしているんですね。」

 

ふむ、ドアが閉まっていると結構音が聞こえ難くなるんだな。未だ事務所スペースで椅子を組み立て中の小夜さんの声を耳にして、ケーブル類が入った袋から変換コネクタらしき物を見つけ出しつつ言った俺に、朝希さんは曇りのない笑顔で肯定してきた。

 

「一番好きなライフストリーマーだから、一番参考にしてます。上手く言えないんですけど、さくどんさんは話し方がふわっとしてるんです。曖昧って意味じゃなくて、嫌な感じがしないっていうか、弱くはないけど強くないっていうか……分かりますか?」

 

「何となく分かりますよ。表現や口調が柔らかいということですよね?」

 

「そうです、柔らかい話し方。そこが好きなんです。動画の外側でもああいう人なんですか?」

 

「さくどんさんはプライベートでも動画そのままですね。多少人見知りするタイプなので、初めて会うと他人行儀に思えるかもしれませんが、慣れている相手と接する時は動画内と同じ雰囲気ですよ。」

 

もちろん相応に砕けた口調ではあったが、家族に対する態度にも別段違いはないわけだし……うん、やっぱり『動画そのままの性格』だな。良いことなのか悪いことなのかはともかくとして、何だか安心する部分ではあるぞ。

 

朝希さんとしてもそうだったのか、ホッとしたような声色で会話を続けてくる。

 

「良かったです。……ホワイトノーツに所属できたのもさくどんさんのお陰なので、会ったらお礼を言おうと思ってます。」

 

「さくどんさんの事務所所属の動画を見て、ホワイトノーツの存在を知ったんですよね?」

 

「はい、それで私が小夜ちに教えました。少し不安だったんですけど、さくどんさんが入ってる事務所なら大丈夫かなって。」

 

そうか、そういう効果もあるのか。単に事務所の名前を広めるだけではなく、安心感も生み出してくれていたらしい。『さくどんが所属しているなら』と考える人も居るわけだ。つくづく夏目さんには助けられているな。

 

心中で改めて夏目さんに感謝している俺に、朝希さんが配線作業を進めながら発言を寄越してきた。ほんの少しだけ情けなさそうな顔付きでだ。

 

「でも、私がやったのはそれだけです。香月さんへの連絡とか、契約について調べたりとかは小夜ちがやってくれました。お姉ちゃんの説得も、結局殆ど小夜ち任せになっちゃいましたし。」

 

「そうなんですか。」

 

「いつもそうなんです。私は最初にやりたいって言うだけで、全然小夜ちの役に立てなくて。……だから、ちょっと落ち込みます。今回こそは『半分こ』して頑張ろうと思ってたのに、やっぱり小夜ちには追い付けませんでした。」

 

「……凄い人なんですね、小夜さんは。」

 

しょんぼりしている朝希さんに相槌を打ってみれば、彼女は嬉しそうな、誇らしそうな顔で首を縦に振ってくる。

 

「抜けてるところもあるけど、小夜ちは頭が良くてすっごく優しいんです。私が困ってるとすぐ近付いてきて、『貸してみなさい』って言ってパパッとやってくれて。子供の頃からずっとそうでした。髪も私のために染めてくれましたし。」

 

「髪?」

 

「私、白髪がちょこちょこ生えちゃうんです。別に病気ってわけじゃなく、そういう体質なだけみたいなんですけど……小学生の時にそれで周りから『白髪女』ってバカにされちゃって。そしたら小夜ちがいきなりグレーに髪を染めて、『お揃いだったら怖くないでしょ?』って私の髪も染めてくれました。」

 

「……そうだったんですか。」

 

朝希さんだけが目立たないように、自分の髪も染めたわけか。小学生の頃の小夜さんの気遣いと行動力に唸っている俺へと、朝希さんは過去を懐かしんでいるような表情で続きを語ってきた。

 

「学校の先生からはちょっと怒られたんですけど、お姉ちゃんはちっとも怒りませんでした。変な染め方になってたので、『次からは私が染めてあげる』って言ってくれて。それでライフストリームを始める時、どうせなら個性を出そうってことで白寄りのグレーと黒寄りのグレーに分けたんです。」

 

「それが『モノクロシスターズ』の名前の由来なんですね。」

 

中学生になってライフストリーマーを始める前は、お揃いのグレーの髪色だったのか。朝希さんのホワイトアッシュのボブヘアーを見ながら返事をすると、彼女は大きく頷いて応答してくる。グレーこそが彼女たちにとっての絆の色であるようだ。

 

「私たちに合ってて分かり易いし、響きがカッコいいからその名前にしました。……そんな感じで小夜ちは私に色んなことをしてくれてるのに、私は何にも返せてなくて。だからもっと頑張らないとって毎日思ってます。」

 

「……小夜さんも凄い人ですが、最初に踏み出せる朝希さんも大したものですよ。だって先ず作り始めなければ、完成させることなんて出来ないわけでしょう? 最初の一ピースを嵌め込める人間は、実はそんなに多くないんです。それをやれる朝希さんは充分に特別な人なんだと思います。」

 

深さは段違いだが、俺と香月社長の関係に通じる部分があるな。進路を決めて踏み出すのが香月社長や朝希さんの役目で、進むための道具や手段を整えるのが俺や小夜さんの役割なのだろう。リーダーの素質と言い換えられるのかもしれない。一番最初に『やろう』と言い出せる能力。それがどんなに貴重なものなのかを、凡人たる俺はよく知っているぞ。

 

ジッと朝希さんの瞳を見つめながら語りかけた俺に、彼女はきょとんとした面持ちで問い返してきた。今気付いたが、あまり見ない色の瞳だな。薄いグレーの虹彩だ。小夜さんもそうなんだろうか?

 

「けど、私がやるのは最初だけですよ? いつもそこからは小夜ちがやってます。」

 

「最初の一枚が無いと、残るピースをどこに嵌め込んだらいいのかが分からないんですよ。朝希さんが一番大切なピースを配置してくれるから、小夜さんは迷わずに残りを組み立てていけるんじゃないでしょうか?」

 

「……そんな風に言われたの、初めてです。」

 

「きっとそれぞれに役割があるんですよ。朝希さんは小夜さんの役をやれませんが、小夜さんだって朝希さんの役にはなれないんです。私は準備を万全に整えられる小夜さんと同じくらい、最初に手を伸ばせる朝希さんのことを尊敬します。」

 

微笑みながらの俺の言葉を聞いて、朝希さんは目をまん丸に見開いたかと思えば……にぱっと笑ってこちらの両手を取ってくる。指を絡ませる繋ぎ方でだ。

 

「……えーっと、朝希さん?」

 

「これは、お姉ちゃんから教えてもらった『ありがとうの握り方』です! ……駒場さんのこと、ちょっと好きになりました。思ってたよりもずっとずっと優しそうで、とっても嬉しくなってます。」

 

「それはその、光栄です。私も朝希さんと小夜さんのことが好きですよ。お二人の担当マネージャーになれて良かったと思っています。」

 

この『好き』は純粋な方の好きだな。つまり、Likeの好きだ。そんなわけで俺も同じ気持ちであることを伝えてみると、朝希さんはきゅっと繋いだ手に力を込めて口を開く。何とまあ、百点満点の笑顔じゃないか。

 

「なら、私と駒場さんは両想いですね!」

 

「ええ、そういうことになりそうです。」

 

「……よし、決めました。私、小夜ちに勝ちます。勝って駒場さんの先生役になって、沢山一緒に遊びたいです!」

 

「あー……はい、応援しています。」

 

そこに着地するのか。ふんすと鼻を鳴らしながら決意表明した朝希さんに、思わず応援の台詞を投げかけたところで……椅子を完成させたらしい小夜さんが、事務所スペースに繋がるドアを開いて撮影部屋に入ってきた。

 

「やっと出来たわ。あんたがネジをぐちゃぐちゃにするから、アームレストの取り付けが……朝希? あんた、何してるのよ。何でグッとしてるの? パソコンの設置は?」

 

「勝利宣言してたの。小夜ちに勝つぞって。」

 

「あのね、いいから作業をやりなさい。じゃないと勝負できないでしょうが。」

 

「言われなくてもやるよ。……小夜ち、これ何のケーブル? カメラのやつ?」

 

朝希さんの問いかけを受けている小夜さんを横目にしつつ、俺も作業を再開する。……少しだけ二人に歩み寄れた気がするな。天真爛漫な朝希さんと、しっかり者の小夜さん。そう言葉にするのは容易いけど、実際は複雑な思いを抱えているようだ。

 

だが、間違いなく悪い関係ではない。そこを自信を持って断定できるようになったのは、望外な成果であるはずだ。二人揃って一人前なのではなく、二人が揃えば三人以上の力を発揮できるわけか。何とも羨ましい関係だな。

 

「あんた、何でこんな繋ぎ方してるのよ。ちゃんと整理しないと絡まるでしょうが。ケーブル絡ませお化けの正体はあんたじゃない!」

 

「そんなの意味不明だよ。今絡まってないんだから大丈夫だって。」

 

「それがいつの間にか絡まるの。ケーブルっていうのはそういう物なのよ。……結束バンドは? 持ってきたはずでしょ?」

 

「待ってよ、こっちに……ほら、あった。ベリベリのやつとパッチンするやつとギュッてするやつがあるけど、どれ使うの?」

 

テンポの良いトークと共に作業を進めている二人を眺めながら、浮かんできた笑みをそのままに手を動かすのだった。

 



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Ⅱ.モノクロシスターズ ⑧

 

 

「こんにちはー!」

 

おっと、朝希さんらしい元気の良い挨拶だな。新たな週が始まった月曜日の午後五時ちょっと前。ホワイトノーツの事務所で夏目さんの動画をチェックしていた俺は、入室してきた二人に声を飛ばしていた。制服姿のモノクロシスターズの二人にだ。

 

「おはようございます、お二人とも。迷わず来られましたか?」

 

「小夜ちは迷ってましたけど、私は大丈夫でした。」

 

「おはようございます。……やめなさいよ、朝希。私は地下鉄の出口を間違えそうになっただけでしょ? 実際に間違えてはいないわ。だからつまり、迷ってないの。」

 

今日初めて二人は学校から直接事務所に来たわけだが、どうやら特に問題なく通えそうだな。学校と事務所の距離が近くて助かったと安心していると、書類の整理をしていた香月社長が話に参加してくる。ちなみに風見さんは今日も忙しく営業中だ。徒歩での営業は大変そうだし、注文した営業車の納車日が待ち遠しいぞ。

 

「おはよう、二人とも。地下鉄は混んでいたかい?」

 

「そんなに混んでませんでした。ちらほら席が空いてる感じです。……どうしてみんな『おはよう』なんですか? 夕方なのに。」

 

「慣習だよ。諸説あるから何とも言えないが、『おはようございます』は使い勝手が一番良いんだ。その日初めての挨拶にはおはようございますを使っている業界が多いんじゃないかな。」

 

「初めて知りました。」

 

応接用ソファに黒いスクールバッグを置きながら感心している朝希さんへと、香月社長が肩を竦めて話を続けた。お手本のような『へー』の顔付きだな。ころころと表情が変わる朝希さんは見ていて楽しいぞ。

 

「私は時刻で挨拶を変えた方が味があって面白いと思うんだけどね。例えば上司相手に『どうも、こんばんは』とは中々言い辛いだろうし、仕方のない部分なんじゃないかな。……それより、地下鉄が空いていたなら何よりだよ。混雑しているようなら移動手段を考え直そうと駒場君と話していたんだ。」

 

「でも、混んでても平気ですよ? すぐ着きますし。」

 

「今はまだ平気かもしれないが、君たちはどんどん有名になっていくはずだ。そうなったら別の移動方法にしてもらうことになりそうかな。タクシーか、駒場君かだね。」

 

「そのレベルになったら収入も相応の額になっているでしょうし、そもそも事務所で撮影する必要がなくなるかもしれませんけどね。」

 

俺が突っ込みを入れたところで、学校指定らしきお揃いのバッグから洋服を取り出した小夜さんが口を開く。『電車に乗れない』ほど有名になる頃には、防音環境が整った部屋に引っ越せているはずだ。そうでなければ報われないぞ。

 

「収益化の申請が通っていない今からだと、凄く遠い話に思えます。……着替え、あっちの部屋でして大丈夫ですか?」

 

「大丈夫ですが、一応カーテンは閉めてくださいね。三階とはいえ、周りのビルが高いですから。」

 

「了解です。……ほら、朝希。着替えるわよ。」

 

「待ってよ、小夜ち。」

 

さすがに制服姿で撮影するのはマズいので、着替えを持ってきてもらったのだ。服を手にしながら撮影部屋に移動する二人を見送っていると、香月社長が悪戯げな面持ちで注意をしてきた。

 

「覗いちゃダメだぞ? 駒場君。」

 

「あのですね、香月社長。二人は女性で、担当クリエイターで、何より中学生なんですよ? 覗くわけがありません。人を何だと思っているんですか。」

 

「だが、見てもいいなら見るだろう? 少しくらいの下心はないのかい?」

 

「見ませんし、ありません。私は道徳と良心と理性を持っているんです。」

 

見るわけないだろうが。訳の分からないことを言ってくる香月社長に半眼で応じてやれば、彼女はつまらなさそうに鼻を鳴らしてくる。何だその反応は。

 

「君は退屈な男だね。そりゃあ夏目君やあの二人は未成年だから『射程圏外』だろうが……芸能マネージャー時代に可愛らしいアイドルたちを見て、付き合いたいなとは思わなかったのかい? 成人している子だって居たはずだろう?」

 

「アイドルとマネージャーが恋愛関係になるのは、あらゆる方向への明確な裏切りですよ。それだけは決して有り得ません。その後の展開を想像するとゾッとしますね。私にはそういう想像力があったので、アイドルと付き合おうなどとは一切考えませんでした。」

 

「賢い発言じゃないか。その通り、想像力が人生の秘訣なんだ。……まあ、真面目な君らしい回答だったよ。事務所の社長としては安心だが、君の将来を思うとやや心配にもなってくるね。結婚願望とかは無いのかい?」

 

「そういう話は親戚の集まりの時だけで充分ですよ。……なるようにしかならないでしょうし、今は目先のことに集中します。」

 

『結婚話』はやめて欲しいぞ。二十五歳はまあ、まだまだ若いと言える年齢だが……この言い訳、いつまで通用するんだろう? 三十になっても、三十五になっても同じ目の逸らし方をしていそうだ。何となく想像できてしまうあたりが恐ろしいな。

 

そんな俺を目にして、香月社長もどことなく気落ちしながらアドバイスを寄越してきた。社長は俺の一つ下だ。自分で言って自分でダメージを食らったらしい。

 

「……金を稼ぎたまえ、駒場君。それさえあれば年齢の差を埋められるぞ。世の中金だよ。」

 

「……物凄く悲しい結論ですね。」

 

「しかし真実ではあるのさ。美貌も、魅力も、美しい伴侶も。今は金で買える世の中になったんだ。美容技術の発展と資本主義の広まりに感謝しないとね。チャンスだけは平等なんだから、生まれで決まる大昔のシステムよりは遥かにマシだよ。」

 

虚しい現実を香月社長が語ったのと同時に、私服に着替え終えた朝希さんと小夜さんが部屋から出てくる。朝希さんはストリート系っぽいパンツルックで、小夜さんはお嬢様系……その表現で合っているのか自信がないが、とにかくロングスカートを基調とした服装だ。土曜日も似たような雰囲気の恰好だったし、基本的にそれが彼女たちの服の好みらしい。

 

「駒場さん、どうですか?」

 

「似合っていますよ。活動的な朝希さんらしい格好です。」

 

「嬉しいです!」

 

「小夜さんも似合っています。可愛らしくて落ち着いた服装です。」

 

にぱっと笑ってピースサインを示してきた朝希さんの返事を受け取ってから、小夜さんの格好にも言及してみれば……彼女はふいと視線を動かして小さく応答してきた。

 

「……どうも。」

 

「駒場君、今のは正解だよ。片方だけを褒めるのはダメだぞ。これからも気を付けたまえ。」

 

「そういうつもりで言ったわけではないんですけどね。……今日から本格的に事務所で撮影をすることになりますが、環境としては問題なさそうですか?」

 

「全然平気です! ……でも、ちょっとだけ音が漏れちゃうかもしれません。」

 

元気良く言い放った後で困ったように付け加えてきた朝希さんへと、苦笑しながら言葉を返す。

 

「大丈夫ですよ、多少賑やかな方が私たちとしても助かります。」

 

「ま、そうだね。静かすぎるから賑やかしのテレビでも置こうかと考えていたんだが、君たちの声の方が聞き応えがありそうだ。大いに騒いでくれたまえ。……内見の時の音のチェックからするに、他の階にも気を使わなくて平気だよ。」

 

そんなことまでやっていたのか。つくづく念入りなんだか抜けているんだか分からない人だな。俺たちからのゴーサインを耳にして、小夜さんがこっくり頷いて返答してきた。

 

「なら、朝希が眠くなっちゃう前に少し撮影をすることにします。この子、体育があった日は赤ちゃんみたいにすとんと寝ちゃうので。」

 

「……私、赤ちゃんじゃないよ。」

 

「夕食前になると、目がとろんとしてくるでしょうが。テンションが高いうちに撮っちゃうべきよ。」

 

「昨日はちゃんと寝たから大丈夫だもん。」

 

言い合いながらの二人が撮影部屋へと入っていったところで、モニターに向き直って動画のチェックを再開する。そういえば俺も学生時代は急激に眠くなることがあったな。帰宅した後、スイッチが切れたように短時間だけ寝ていた時期があったぞ。あれはどういう現象だったんだろう?

 

成長期の不思議を今更感じながら、新製品の飲むヨーグルトを紹介するさくどんチャンネルの動画の最終チェックを進めていると、香月社長がクスクス微笑みつつ話しかけてきた。

 

「お菓子とかを事務所に常備すべきかもね。あの年頃は兎にも角にもお腹が空くはずだ。」

 

「ですね、今度どこかで纏め買いしておきます。……何だか懐かしいです。自分が中学生だった頃を思い出しますよ。」

 

俺の場合は、部活動の帰りにいつもコンビニのコッペパンを買っていたっけ。今思えば他にも選択肢はあったはずなのだが、ジャムとピーナッツバターのやつを毎日交互に食べていたな。母親の帰りが少し遅めだったので、それで夕食までの空腹をやり過ごしていたのだ。

 

遠き中学生の日々を思い起こしながら相槌を打った俺に、香月社長も懐古の表情で乗っかってくる。

 

「私はあの子たちの匂いに懐かしさを感じたよ。体育があったからなんだろうが、少しだけ制汗スプレーの香りがしたね。青春の香りさ。」

 

「……社長、運動部だったんですか?」

 

「中学校では化学部だったよ。」

 

じゃあ何故『青春の香り』なんだ。同じように体育の後に使っていたということか? 微妙に腑に落ちない発言に首を捻っていると、香月社長が撮影部屋の方を見ながら会話を続けてきた。

 

「放課後にここでクリエイター活動をするのは、一種の部活動みたいなものなのかもね。彼女たちにはそのくらいの気持ちで楽しんでもらえるように、面倒事はこっちで処理していこうじゃないか。青春を謳歌させるのは『顧問』の役目さ。」

 

「やる気が出てくる比喩じゃないですか。」

 

うーん、顧問か。良い考え方だと思うぞ。だったら頑張ってサポートしていかねば。二人が結果を出せるようにフォローしつつ、日々の『部活動』を楽しんでやってもらう。中々やり甲斐がありそうな立場だな。

 

───

 

『じゃあ私、トップ行くね。フロストナイフ積みのグォールでやってみる。』

 

『なら私はボットで……あー、取られちゃったからミッドにするわ。ジャングルがアーバレストだと序盤がキツいでしょうし、私が一回そっちに寄ることになるかも。』

 

『うん、レーン下げ気味にしとくよ。』

 

「こんな感じでするっと始まることが多いですね。マッチングした直後の使用デスティニーを選ぶ画面から始まって、勝敗が決した時点でスパッと終わるってやり方です。連続で何試合分も撮って面白い試合だけを使うので、切り出すとこういう始まり方になっちゃうんですけど……きちんと区切った方が良いですか?」

 

二時間後。撮影部屋で編集前の今日撮った動画を流しながら尋ねてくる小夜さんに、俺は悩ましい気分で回答していた。なるほど、連続で撮っていることが影響していたのか。夏目さんや豊田さんと異なっているのは、『場面』ではなく『試合』で取捨選択をしているという点だな。使う試合は全部使うが、ボツになった試合は一切使わない。それもそれでシビアな話に感じられるぞ。

 

「始まり方はこのままでも良い……というか、『あり』だと思いますよ。明確にスタートさせた方が締まりは出ますが、今のやり方も自然な雰囲気があって魅力的ですから。どちらが良いと断定できるような部分ではなく、動画のスタイルの範疇なんじゃないでしょうか。」

 

「終わり方はどうですか?」

 

「そこは……そうですね、短く締めた方が良いかもしれません。毎回毎回長々と感想を語るのは蛇足でしょうが、決まり文句を組み込んだ十秒程度の締めは入れるべきだと思います。」

 

物事は頭よりも尾の方が印象に残るのだ。どちらかと言えば竜頭にすることに拘るよりも、蛇尾になることを避けるべきだろう。朝希さんが撮影に使っている椅子に腰掛けながら意見した俺へと、自分の椅子に座ってモニターを眺めている小夜さんが首肯してくる。

 

「分かりました、試してみることにします。他に何かありますか?」

 

「本当に重要な場面だけにテロップを入れるのはどうでしょう? 盛り上げたい瞬間や、ピンチの時なんかに。」

 

「重要な場面だけ、ですか。」

 

「これはさくどんさんからの受け売りなんですが、必要な編集を入れるメリットよりも、不必要な編集を入れてしまうデメリットの方が大きいらしいんです。『良い編集』はむしろ視聴者に意識させないものであって、引っ掛かりを与えるのは常に『くどい編集』なんだとか。テロップを入れることで場面を盛り上げるのは良案だと思うんですが……しかしお二人の動画は素材の時点で完成度が高いものなので、探り探り慎重に要素を付け足していくべきだと私は判断しています。」

 

動画を構成するにおいて、ゲームという素材の割合が大きすぎるのだ。例えば夏目さんの動画はシンプルな状態から様々な要素を付け足していくやり方なので、編集を入れるべき場面も相応に多くなるのだが、モノクロシスターズの場合はそうではない。あまり凝りすぎると却って邪魔になってしまうだろう。

 

無論やるゲーム次第ではあるものの、LoDは控え目の編集で動画にするのが一番だと思うぞ。……いやはや、難解だな。多分カットを多用する動画の作り方だとまた違ってくるんだろうし、ゲームではなく『やっている人間』に焦点を当てたい時も変わってきそうだ。編集のベストな割合は素材と目的次第ってことか。

 

編集をどこまで凝るかというのは、結局のところ経験が物を言う点なんだろうな。そこはクリエイターを通して学んでいこうと思案していると、小夜さんがダークグレーのロングヘアを弄りながら応じてきた。彼女は考え事をする際、自分の髪を指に巻き付ける癖があるようだ。

 

「つまり、『くどい編集』にならないラインを見極めるってことですか?」

 

「その通りです。いきなりテロップや効果音、エフェクトなどを大量に入れるのではなく、段階的に加減していくべきだと考えています。大きな変化は視聴者に違和感を生じさせますし、違和感は否定的な感情に繋がりますからね。お二人の場合は焦らず長期的な目線を持って、徐々に自分たちの編集スタイルを確立していくべきではないでしょうか。」

 

「じゃあ、テロップも慎重に試してみます。明日編集する時に教えてもらえますか?」

 

「了解しました、準備しておきます。……とりあえず今日はこの辺にしておきましょうか。そろそろ七時になりますし、帰る準備をしましょう。」

 

椅子から立ち上がって促してやれば、小夜さんも一つ頷いて席を立つ。ちなみに現在のこの部屋の内装は、壁際にモニター、カメラ、マイク、キーボード、マウスが二つずつ載っている机が設置されており、その前に二脚のゲーミングチェアが置かれているといった状態だ。机の下の床には一昨日運び込んだ二台のパソコン本体の姿もあるな。

 

溝が青く光るテンキー無しの朝希さんのキーボードと、キーが薄いテンキー付きの小夜さんのキーボード。ラジオ番組で使われるような四角い形状の朝希さんのマイクと、カラオケ用のそれが台にくっ付いた形の小夜さんのマイク。沢山のサイドボタンが付いている朝希さんの無線マウスと、二つのサイドボタンが付いた有線の小夜さんのマウス。

 

うーむ、改めて比較するとどう見ても朝希さんの方が『良い機材』を使っているな。パソコン本体もそうだし、椅子も、モニターも恐らくそうだぞ。そんな差に小さな笑みを浮かべている俺に、事務所スペースへと戻ろうとしている小夜さんが疑問を呈してきた。

 

「駒場さん? どうして笑ってるんですか?」

 

「いや、小夜さんは優しい人なんだなと思いまして。」

 

「へ? ……な、何ですかそれ。いきなりすぎます。」

 

「朝希さんの方に良い機材を回しているんでしょう?」

 

機材担当は小夜さんなのだから、そういうことであるはずだ。この前の朝希さんの『優しい』という人物評は的確なものであったらしい。机を指して指摘してやると、彼女は少し赤い顔で俯きながら否定を放つ。照れているのかな?

 

「ちっ、違います。偶然です。マウスは有線の方がレスポンスが良いからですし、キーボードはキーストロークが浅い方が私の好みだからですし、マイクは……マイクは、形がそっちの方が扱い易いからってだけの話ですよ。」

 

「そういうことにしておきましょうか。」

 

「実際そうなんです!」

 

慌てている様子で主張してきた小夜さんの声を背に、事務所スペースに移動してみれば……おー、よく寝ているな。応接用ソファの上で猫のように丸くなって眠っている朝希さんと、仕事中の香月社長と風見さんの姿が目に入ってきた。二十分ほど前に風見さんが帰社したタイミングで、朝希さんが眠気に負けてダウンしてしまったのだ。

 

だから余った時間で小夜さんとの打ち合わせをしていたわけだが……むう、熟睡じゃないか。ブランケットに包まっている朝希さんは、何とも気持ちの良さそうな寝顔で眠っている。そんな彼女を見て穏やかな気分になっている俺に、小夜さんが反論を続けてきた。

 

「それに椅子はアームレストが私好みだからあれを使ってるだけですし、モニターは……えっと、発色が私に向いてたんです! 駒場さん、聞いてますか? 変な勘違いしないでください!」

 

「分かっていますよ。」

 

「分かってない感じの言い方じゃないですか、それ! ……そしてあんたはいつまでぐーすか寝てるのよ! 起きなさい、ねぼすけ朝希!」

 

頬を染めたままでツカツカとソファに歩み寄って朝希さんを起こす小夜さんへと、熟睡していた彼女はゆっくりと目を開いた後……一言だけ発してからまた目蓋を閉じてしまう。

 

「……ぅ。」

 

「『ぅ』じゃない! もう帰る時間だから起きなさい!」

 

「ぅ。」

 

「こら、潜らないの!」

 

ブランケットに潜り込んで睡眠を継続しようとする朝希さんだったが、小夜さんは……おお、強引だな。彼女の髪をわしゃわしゃと掻き乱して、物理的に起こし始めた。

 

「あぅ……小夜ち、やめてよ。私、まだ眠い。」

 

「帰るんだって言ってるでしょうが。ご飯食べて、お風呂に入って、家で寝なさい。」

 

「……分かったよ、起きるから。」

 

そう言ってもぞもぞと身を起こすと、朝希さんはソファの上にぺたんと座って大きく伸びをする。これでもかというほどの大欠伸をしながらだ。髪がぼっさぼさになっているぞ。

 

「くぁ……ふ。おはよ、小夜ち。」

 

「はいはい、おはよう。さっさと出る準備をしなさい。」

 

「うん、する。」

 

とろんとした目付きで自分のバッグを探し始めた朝希さんを横目に、俺もブリーフケースを回収しながら香月社長と風見さんに断りを入れた。

 

「お二人を送ったら、私もそのまま帰宅しますね。」

 

「ん、了解だ。お疲れ様。」

 

「お疲れ様でした、駒場先輩。二人もまた明日ね。」

 

香月社長と風見さんの挨拶に三人で応答しながら事務所を後にして、エレベーターで一階に降りて屋外に出る。夏至が近いのでまだまだ明るい時間帯だが、今日はちょっと暗めな気がするな。曇っているからか。雨上がりの香りがするし、気付かないうちに小雨も降ったらしい。

 

「雨が降ったようですね。」

 

どんよりした薄明の空を見上げつつ呟いてみると、朝希さんの手を引いている小夜さんが反応してきた。眠いからなのか、朝希さんがずっとふらふらしているな。半分寝ているような雰囲気だ。

 

「みたいですね。気付きませんでした。……雨上がりのこの匂い、結構好きです。」

 

「分かります。私はどちらかと言えば降っている途中の香りの方が好きですが、上がった後の匂いも捨て難いですね。」

 

「雨上がりと降ってる最中だと違う匂いなんですか? 意識したことありませんでした。……こら朝希、ちゃんと歩きなさい。バッグ持ってあげるから。いつまで『ねむねむモード』なのよ、あんたは。」

 

「ぅ。」

 

『ねむねむモード』の朝希さんからバッグを受け取っている小夜さんに、駐車場目指して歩を進めながら返答する。何だかちょっぴり危なっかしいし、ゆっくりめに歩いておこう。

 

「どう違うかを言葉にするのは難しいですが、意識してみると別の香りがしますよ。昔担当タレントから教えてもらったんです。別々の名前も付いているんだとか。」

 

「雨の匂いにですか?」

 

「ええ、そうらしいです。」

 

「面白いですね。今度違いを確かめてみることにします。……朝希、着いたわよ。しゃきっとしなさい。」

 

小夜さんの呼びかけを耳にしながら軽自動車のロックを解除すると、朝希さんはふにゃふにゃな口調でポツリと宣言してきた。

 

「……助手席、私ね。助手席がいい。」

 

「好きにしなさいよ、もう。……宿題、あるんだからね。帰ったらやるわよ。」

 

「……やりたくない。」

 

「私だってやりたくないけど、やるの。数学は明日の朝一だから、やらないと間に合わなくなるわよ。」

 

後部座席に乗り込みながら注意した小夜さんに、俺も運転席に腰を下ろして質問を送る。数学か。俺は苦手だったな。数学と国語が苦手で、理科と英語が得意という訳の分からない中学生だったぞ。高校の時もそんな具合だったから、文系理系の選択で大いに迷ったっけ。

 

「二人は同じクラスなんですか? 双子はこう、あえて分けられるようなイメージがあったんですが。」

 

「一年生の時は別のクラスでしたけど、今年から一緒になったんです。中二から始まる特進クラスは一クラスだけですから。」

 

「……特進クラスなんですか。」

 

「うちの学校は中高一貫なので、あんまり意味ないんですけどね。別の高校を受験しようとしてる子とか、大学受験を見越して今から基礎固めをしたい子とか、あとは私たちみたいに授業料の一部免除を狙ってる子が居るクラスです。……エスカレーターで上がった後の高等部の授業料、中学時代の成績が良いと一定額免除されるんですよ。堅い言い方をすると、給付奨学金制度ってやつですね。」

 

やっぱり俺が通っていた公立中学校とは全然違うらしい。授業料の免除を視野に入れている小夜さんたちも凄いが、『大学受験のための基礎固め』というのも相当だぞ。中二の時点で大学受験を意識しているのか。継続は力なりを地で行っているな。

 

うーん、どうなんだろう。中学高校時代を勉強に使ってしまうのは勿体無いと感じる反面、社会に出た後で良いスタートを切れると思えば……とんとんどころかむしろ得かもしれないな。何に価値を見出すか次第だろうが、俺はそうしておけば良かったと後悔しているぞ。学生時代にしこたま遊ぶか、あるいは二十代を金持ちで過ごすか。自由度が高い分、後者の方が色々と楽しめそうだ。

 

とはいえまあ、どっちにしろ無いものねだりだな。俺は華やかな青春を過ごしたわけではなく、また現時点で金持ちでもないのだから。両方取りこぼすとは情けない限りだぞ。こういうのが『ダメな典型例』なのかもしれない。

 

虚しくなってくる考えを頭から追い出しつつ、車を発進させて小夜さんに相槌を打つ。ちなみに助手席の朝希さんは……これ、寝ているのか? シートベルトをした直後、再び夢の世界へと旅立ったようだ。すぐ寝るな。寝付きが良いのは羨ましいぞ。

 

「そうなると、勉強の時間もきちんと確保していかないといけませんね。」

 

「パソコンを事務所に持ってきちゃいましたから、自然と勉強の時間が増えますよ。……お金を貯めてもう二台組まないといけませんね。土日はさすがに暇になるはずです。」

 

「……やはり困りますよね。」

 

「ゲームの練習が出来ないのと、編集を家でやれないのが少しだけ厳しいです。でも今は撮影環境を優先したいので、我慢することにします。」

 

助手席に手を伸ばして朝希さんの髪を整えながら、小夜さんは悩ましそうな表情で話しているが……どうにかしてあげたいな。スマートフォンがあるとはいえ、ゲームが好きな彼女たちにとって『パソコン禁止』は中々キツいはずだぞ。ヘッドライトに照らされた薄暗い車道を見つつ思考を回して、思い付いた提案を小夜さんに投げた。

 

「良いスペックではないので動画の編集は無理かもしれませんが、私の家に一台ノートパソコンが余っていますよ。使いますか?」

 

「……駒場さん、際限なく私たちを甘やかさないでください。事務所の部屋を貸してくれたり、送り迎えをしてくれたり、収益化のために頑張って動いてくれてるだけでも充分なのに、その上私物のパソコンを貸そうとするのは幾ら何でもやり過ぎです。」

 

「……そうでしょうか?」

 

「私たち、まだホワイトノーツにも駒場さんにもびた一文渡せてないんですからね? そこまでされたら申し訳なさすぎて参っちゃいます。……今でさえ凄いプレッシャーなんです。ここまでやってもらっておいて、いつまでも収益化できなかったらと思うと吐きそうになりますよ。」

 

後部座席の窓から外を眺めつつ弱音を口にした小夜さんに、車のエンジン音を背景にして返事を返す。気付かぬうちにプレッシャーを感じさせてしまっていたらしい。反省だな。

 

「いつまでも収益化できなかったら、それはお二人ではなく私たちの責任ですよ。専門事務所の名折れです。……万が一時間がかかったとしても、お二人が諦めない限りは私も諦めません。そこは覚えておいてください。」

 

「ほら、また甘やかす。……そういうことやってると、私たちダメダメになっちゃいますよ? つい頼っちゃいそうになるじゃないですか。」

 

「ダメダメになってしまうのはまあ、少し困りますね。ですが、私としては遠慮なく頼ってくれた方がやり易いんです。もしダメダメになっても支えてみせるので、全力で寄りかかってきてください。こちらから手を離すことは決してありませんから。」

 

「駒場さんって、あれです。ダメ女製造マシーンですね。……朝希に気を付けてください。この子、物凄い甘え上手ですから。今はまだ遠慮して猫被ってますけど、親しくなるとぐいぐい甘え始めるんですよ。それはもうベタベタに。」

 

睡眠中の双子の片割れを指差して警告してきた小夜さんへと、苦笑いで声を放った。『ダメ女製造マシーン』か。結構な評価が飛び出してきたな。

 

「猫を被っているんですか? 朝希さんは自然体で接してくれていると思っていました。」

 

「計算じゃなくて天然だから分かり難いだけです。……朝希の髪、私が毎日洗ってるんですからね。『小夜ちに洗ってもらった方が気持ち良いから』っておねだりしてくるんですよ。全力で無防備に甘えてくるから、どうにも突っ撥ねられなくて。」

 

「あー、なるほど。そういう意味ですか。」

 

「多分ですけど、朝希と駒場さんは凄く相性が良い……じゃなくて、悪いと思います。良すぎて悪いんです。朝希が甘え始めたら、どこかでストップをかけてくださいね。甘やかしがちな駒場さんと、甘え上手な朝希が噛み合っちゃうのは危険すぎますよ。」

 

割と真剣な顔付きで言う小夜さんに首肯しながら、赤信号でブレーキを踏んで話題を変える。まあでも、大丈夫だと思うぞ。朝希さんが甘え上手かはともかくとして、俺はそんなに誰かを甘やかすようなタイプではない……はずだ。

 

「覚えておきます。……そういえば、小夜さんたちはどうしてライフストリームを選んだんですか? ゲーム実況なら他のプラットフォームも人気だと思うんですが。」

 

「第一に、録画した動画じゃないといけなかったんです。……収益化のための確認をしてくれたってことは、初期の頃の朝希の『踊ってみた動画』も見ましたよね? この子、あれを短いスカートでやった動画を上げようとしてたんですよ。アップロードする前に私が止めて、ハーフパンツで撮り直させましたけど。」

 

「……それは危険ですね。」

 

「いっそ清々しいくらいにパンツが丸見えでした。三分の間に二十回は見えてましたね。私がしつこく注意したので今はもう警戒心が出てきてますけど、活動し始めた中一の頃は本当に無防備な子だったんです。……そんな朝希に生配信なんて絶対無理だと判断したので、ライブじゃなくて動画のサイトっていうのが条件にあったんですよ。その上でお金を稼ぎたいとなれば、当時日本での広告掲載が持ち上がり始めてたライフストリームしか選択肢がありませんでした。」

 

どうやら双子の間では、小夜さんが一足先に警戒心を身に付けたらしい。……この場合小夜さんが早いというか、朝希さんが若干遅かったのかもしれないな。世に出る前に動画を消してくれて良かったぞ。

 

何とも言えない心境で唸っていると、小夜さんが微妙な面持ちで続きを語ってきた。

 

「私たちが動画内で普通に名前を出してるのも、初期の朝希が私を『小夜ち』って呼んじゃうのを止め切れなかったからなんです。あまりにも多すぎたので、カットで対処するのは諦めて下の名前を出すことに決めました。」

 

「そんな事情があったんですか。」

 

「おバカなんですよ、この子は。……けど、そこが朝希の魅力なんです。この子の素直さは人を惹き付けますから。そういう部分を制御するために、私がセットで生まれたのかもしれません。」

 

「……朝希さんのこと、評価しているんですね。」

 

眠っている朝希さんを見つめて柔らかい表情になっている小夜さんに、ハンドルを握りつつ呟いてみれば……バックミラーに映る彼女は小さく息を吐いた後、複雑な笑みで答えてくる。諦観と、憧れと、思慕が入り混じったような切ない笑みだ。

 

「羨んでるんですよ。この子は私が欲しいものを全部持ってますから。真っ直ぐに喜んだり、感謝したり、愛情を表現したり。私がやりたくても出来ないことを、平然とやってのけるんです。……朝希は私がなりたい私ってわけですね。なまじ見た目が同じだから、尚のことそう思えちゃいます。」

 

「目標、ということですか?」

 

「じゃなくて、隣の芝生ですよ。私は朝希を羨んでますけど、目指してはいません。どう考えても私は朝希にはなれませんから。……いちいち深読みする所為で素直に喜べなくて、変に強がるから真っ直ぐ感謝できなくて、恥ずかしくなっちゃって愛情を表現できない。それが私なんです。ここはもう一生変わらないでしょうし、とっくの昔に諦めてます。」

 

そこで今度は大きなため息を吐いた小夜さんは、窓の向こうの風景に目をやりつつ話を締めてきた。外に広がっているのは暗くもなければ明るくもない、夜になりかけの黄昏時の街だ。何となく心細くなる風景だな。

 

「参っちゃいます、本当に。『良いバージョンの私』が生まれた時から隣に居るわけですからね。これで嫌いになれたらまだ救いがあったんでしょうけど、私は朝希のことが好きなんです。だからどうにもなりません。お手上げですよ。」

 

うーむ、一昨日の朝希さんの話を思い出すな。朝希さんが小夜さんに憧れているように、小夜さんも朝希さんのことを羨ましく思っているわけか。『隣の芝生』というのは言い得て妙なのかもしれない。誰より近くに居る相手だからこそ、どうしようもなく気になってしまうのだろう。

 

双子という存在についてを思案しながら、小夜さんに対して言葉を送る。本心からの言葉を、ストレートにだ。

 

「私の意見なんて気休めにもならないでしょうが……私は小夜さんのことを、魅力的な人だと思っていますよ。」

 

「……きゅ、急に何を言い出すんですか。」

 

「素直に表現できないのかもしれませんけど、でもそうしたいとは考えているわけでしょう? それは小夜さんが優しい人である何よりの証拠ですよ。朝希さんのことを話している時の小夜さんは、非常に柔らかい表情になっていました。とても魅力的な表情に。……朝希さんに真っ直ぐな魅力があるという点は否定しませんが、しかし小夜さんにも小夜さんの魅力があるはずです。私はそれをいくつか見つけることが出来ましたし、もっと知りたいと感じています。」

 

「なっ、何を……何の、何ですかそれ。」

 

忙しなく視線を彷徨わせている小夜さんに、車を左折させてから残りを伝えた。朝希さんの魅力が素直で純粋なそれだとすれば、小夜さんが持っているのは情味ある親近の魅力だ。より身近で、共感できる人間性。小夜さんにはそういう温かな魅力があるぞ。

 

「つまりですね、私からすれば小夜さんの不器用さは好ましいものに思えるということです。仮に同世代で出会っていたら、私は小夜さんに惹かれていたかもしれません。そう感じる人間も確かに居るんですよ。朝希さんの良さに目を奪われて、自分の良さを無視してしまうのは勿体無いことなんじゃないでしょうか? 小夜さんにも朝希さんと同じくらい、魅力的な部分が沢山あると──」

 

「そっ、そこまでで! そこまででいいです! 分かりましたから! 充分伝わりました! ……よく言えますね、そういうの。駒場さんも朝希と似たタイプじゃないですか。」

 

「いやまあ、思っていることをそのまま言葉にしただけですよ。私は本心から小夜さんが魅力ある人だと──」

 

「あああ、分かりましたってば! もう大丈夫ですから! ……ちょっとあの、窓開けますね。」

 

自分の顔を広げた手で隠しながら断った小夜さんは、暫く無言で窓からの夜風を浴びていたかと思えば……窓を閉じて軽く咳払いした後、ジト目をこちらに向けつつ口を開く。

 

「……やっぱり甘やかしすぎですよ、駒場さんは。肯定しまくりじゃないですか。全肯定人間です。」

 

「それはまた、何とも独特な表現ですね。……ただ、今のは世辞や甘言ではありませんよ? マネージャーとしての贔屓目を抜いても、小夜さんは人並み以上の魅力を持っています。そこは胸を張って断言できますし、紛うことなき本音です。」

 

「分かってますって。駒場さんがその、本気だっていうのはしっかりと伝わってきました。……だからまあ、ありがとうございます。そこそこ嬉しかったです。」

 

「伝わったのであれば何よりです。……それにしても、小夜さんと朝希さんは本当に良い関係の双子なんですね。一人っ子の私としては少し羨ましく思えてしまいます。」

 

要するに、補完し合っているんだな。互いに想い合って、支え合っているわけか。実に特別な関係だなと感心していると、小夜さんが肩を竦めて応答してくる。

 

「そういう風に言われた時、姉妹が居る人だと『一人っ子の方がいいよ』って反応になりがちなのかもしれませんけど……私の場合はいつも自慢を返してます。朝希とお姉ちゃんが居てこその私ですから、一人っ子は嫌です。」

 

「ええ、私から見ても自慢に値する家族だと思いますよ。お姉さんも、朝希さんも、もちろん小夜さんも。とても立派な人たちです。」

 

「……はい、出ましたね。また肯定。そういうことやってると、そのうち変な女の人に引っ掛かっちゃいますから。賭けてもいいです。」

 

「……今のところ女性にはあまり縁がありませんが、気を付けることにします。」

 

信号待ちで停車しながら苦い笑みで応じてみれば、小夜さんは短く押し黙った後で小さめの声を寄越してきた。視線を窓の外に固定したままでだ。斜め前に停まっているタクシーのブレーキランプの所為で、顔が赤く染まっているな。

 

「まあ、あの……私に対してはやってもいいですけどね。つまりその、私だったら他意はないって理解できてますから。でも他の人にはあんまりやらないように注意してください。変な勘違い、されちゃいますよ。」

 

「……変な勘違い?」

 

「だから、要するにですね……ああもう、とにかく私以外には肯定禁止です。私が引き受けてあげますから、他の女の人には可能な限りしないでください。いいですね?」

 

「……はい、分かりました。」

 

小夜さんの迫力に気圧されて頷いてしまった俺へと、彼女は大きく鼻を鳴らしてから念押しを飛ばしてくる。何故だか知らないが、ちょびっとだけ満足そうにも見える顔付きだ。

 

「約束ですからね。駒場さんの全肯定の被害者は、私だけで充分なんです。じゃないと悪い女の人に目を付けられて、のし掛かられてぺしゃんこに潰されちゃいますよ。」

 

「……そんな展開は到底想像できないんですが。」

 

「私には出来るんです。私は『甘やかされ屋』の朝希が変な人に引っ掛からないように、これまでずっと目を光らせてきましたからね。今度からは『甘やかし屋』の駒場さんのことも、朝希のついでに見張ってあげます。朝希の甘え欲も駒場さんの甘やかし欲も私がきっちり背負ってあげますから、そのつもりでいてください。」

 

「あーっと……了解しました、お世話になります。」

 

ちょっとよく分からないままで首を傾げて返答しつつ、一ノ瀬家目指して車を走らせていく。……まあ、そこまで気にしなくても平気だろう。俺が関わる女性なんて現状だと担当か同僚だけで、その人たちと何かあるだなんて有り得ないのだから。我ながら悲しくなるほどに縁がないな。

 

十七歳の夏目さんと中学生のモノクロシスターズの二人は論外として、香月社長や風見さんは容姿が俺と釣り合わなさすぎる。平々凡々とした見た目の二十五歳では、あの美形二人に相応しくないだろう。よって『引っ掛かる』心配は皆無だ。杞憂にも程があるぞ。

 

暫くは仕事が恋人になりそうだなと苦笑しながら、だったらせめて仕事とだけは上手くやっていこうと前向きにため息を吐くのだった。

 



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Ⅱ.モノクロシスターズ ⑨

 

 

「ディヴィジョンフォーラム?」

 

六月もいよいよ折り返し地点となった水曜日の午後。俺はデスクの背後の窓越しに外の様子を確認しつつ、話を振ってきた香月社長に聞き返していた。雨が強くなりそうなら小夜さんと朝希さん、そして営業に出ている風見さんを纏めて迎えに行こうと思っていたのだが、むしろ小雨になってきたな。これなら夕方までには上がるかもしれない。

 

「正式名称で言うと、『ライフストリーム・ジャパンディヴィジョンフォーラム』だね。君がさっきコンビニに行っていた時にメールが届いたんだ。会社として招待したいとのことだったよ。」

 

「キネマリード社が開くイベントということですか?」

 

「イベントと言えばイベントかもしれないが、雰囲気としては『説明会』に近い催しらしいね。六本木にある二、三百人規模の小さな会場で、壇上に立ったキネマリード社の人間がライフストリームに関する説明をする……といった感じの集まりさ。『企業のプレゼンテーション』って表現が一番適当かな。」

 

あー、そっちか。説明会と言われるとピンと来るな。要するに華やかなそれではなく、『お堅いイベント』であるらしい。やろうと思っていた書類の作成に向き直りながら、香月社長へと相槌を打つ。

 

「プレゼンの対象はライフストリーマーですか?」

 

「企業やプレス用の席もあるようだが、主目的は日本のライフストリーマーへのガイダンスだろうね。キネマリードとしては日本を拠点にするライフストリーマーにもどんどん収益化してもらいたいし、その上でもっと再生数を伸ばして欲しいはずだ。よってノウハウを教えようってわけさ。」

 

「……何だか奇妙な話に感じられますね。運営元がユーザー向けの『勉強会』を開くんですか。モノクロシスターズの収益化を目指している私としては、少し皮肉なイベントに思えてしまいます。」

 

そういうことをやるくらいなら、収益化をすんなり通して欲しいぞ。審査結果待ちのストレスから生じた不満を漏らしてやれば、香月社長は苦笑いでフォローを投げてきた。

 

「キネマリードだって意地悪で拒んでいるわけじゃないよ。本音で言えば、審査など無しに全ての動画に広告を挟めるようにしたいだろうね。その方が儲けが出るんだから。……だが、それをやってしまえば権利侵害の訴訟が頻発するはずだ。おまけにコンプライアンスの面でメディアからボコボコに叩かれて、株主たちからは文句の雨あられさ。」

 

「それはまあ、理解できますが……だからこそのガイダンスというわけですか。」

 

「そういうことだと思うよ。日本を市場として認識していますよと説明して、収益化をするための条件なんかを事細かく解説し、招いた収益化済みのライフストリーマーに『講演』をしてもらう。そんな具合のイベントになるんじゃないかな。」

 

ライフストリーマーたちが再生数や登録者数を伸ばし、収益化をすることがキネマリード社の利益に繋がるわけだ。……うーん、不思議なシステムだな。運営側にとっての投稿者は客であり、『下請け』でもあるということか。

 

「つまるところ、広告業の下請け業者に仕事のコツを説明するわけですか。」

 

キーボードを叩きながら己の解釈を伝えてみると、香月社長は愉快そうに笑って首肯してくる。比喩が気に入ったらしい。

 

「諧謔のある解釈の仕方じゃないか。それで合っているよ。他企業から広告掲載の依頼を受けたキネマリード社が、投稿者に看板とポスターの管理を委託しているわけだね。しかし日本ではまだ看板の手入れの方法どころか、そこにポスターを貼って金を稼げることすら知らない人間が多い。だから北アメリカから遥々普及活動に来ようってわけさ。……君も聞きに行くかい? 海を渡って開拓地を訪れた、偉大な宣教師様のお言葉を。」

 

「いやまあ、興味はあります。香月社長はキネマリード社の人間の話を聞きたいんでしょうけど、私としてはライフストリーマーの話に惹かれますね。誰が出るかはメールに載っていましたか?」

 

「載っていなかったし、ライフストリーマーが講演をするというのは単なる私の予想だよ。詳細が確定したら改めて連絡してくるんじゃないかな。……イベントの性質上、ディスカッション形式のプレゼンくらいはするはずだけどね。日本国内で登録者数が多くて、かつ収益化済みのライフストリーマーに話を持ち掛けているんだと思うよ。あるいは北アメリカから有名な誰かを連れて来るというのもありそうだが。」

 

「……夏目さんや豊田さんは、その条件に当て嵌まっていますね。」

 

どちらも国内だと登録者数が多いチャンネルの持ち主だし、収益化も出来ているぞ。まさか話が来たりするのかと指摘してみれば、香月社長は眉根を寄せつつ首を傾げてきた。

 

「私もまあ、二人は候補に挙がって然るべしだと思うが……現時点で連絡が来ていないってことは望み薄だね。壇上に立ってもらう場合、招待する法人よりも先に連絡を送るはずだ。君にそういう知らせが届いていない以上、別の人間が選ばれたんじゃないかな。」

 

「残念ですね。……聞き手としては招待されるでしょうか?」

 

「多分されると思うよ。イベントを開く目的のことを考えれば、キネマリードは目ぼしいライフストリーマーを片っ端から招待するはずだ。うちのクリエイター全員にメールが届くかもね。」

 

「となると、ホワイトノーツは総出で行くことになるかもしれませんね。」

 

ただ、招待を受けるかどうかの問題もあるな。勉強熱心な夏目さんは行きたがりそうだけど、豊田さんはわざわざ名古屋から東京に来ることになるし、実家の工場の仕事の都合だってあるはずだ。そしてモノクロシスターズの二人は学校がある。幾ら何でも平日には開催しないと思うが、参加するかは個々人のスケジュールと価値観次第だろう。

 

先に連絡して知らせておこうと思案しながら、香月社長に質問を送った。

 

「日程はいつですか? スケジュールの問題もありますし、早いうちにクリエイターたちに知らせておきます。」

 

「七月三十日の土曜日だね。十三時半から十六時半までの三時間だそうだ。書いていなかったから確実ではないが、別に招かれていなくても入れるシステムだと思うよ。キネマリードとしてはガラガラになるのを避けたいだろうし、自由参加にしても満員で立ち見が出るという事態にはならないはずさ。」

 

「そういうイベントが小規模な全員参加形式になってしまうあたり、日本におけるライフストリームの認知度の低さを実感します。」

 

「なぁに、数年後には何もかもが変わっているよ。キネマリードもそれを理解しているからこそ、今のうちに種を蒔こうとしているんだろうしね。」

 

是非ともそうなって欲しいぞ。……でもまあ、二ヶ月前ほどには疑っていないかな。日々クリエイター越しにライフストリームと関わっていると、物凄いスピードで広まっていることが伝わってくるのだ。このまま日本に定着してくれれば、数年後には段違いのユーザー数になっているだろう。

 

そういう視点に立って考えてみると、一番凄まじいのは香月社長かもしれないな。運営元であるキネマリード社が日本向けのガイダンスを開く前に、マネジメントのための会社を設立してしまったわけだ。そんなもん無茶苦茶じゃないか。フライングにも程があるぞ。

 

改めて香月社長の豪胆さを認識している俺に、当の本人がふんすと鼻を鳴らして言葉を飛ばしてくる。

 

「行って、聞いて、ノウハウを盗んで、キネマリード社との関係の切っ掛けを構築し、そしてクリエイターの青田買いをしようじゃないか。『選出』をキネマリードがやってくれるから、こっちは気楽に声をかけられるぞ。直接スカウトし放題だよ。」

 

「何とも強欲な発言ですね。」

 

「折角開いてくれるんだし、骨の髄まで利用してあげないとね。キネマリードもそれを望んでいるはずさ。クリエイターが儲けるほどに私たちが儲かり、私たちが儲ければキネマリードも儲かり、そうやってユーザーが増えていけば広告主もハッピーになれる仕組みなんだから。正に夢のようなシステムじゃないか。新世代のビジネスに乾杯だ。」

 

「怪しい商法の紹介みたいに聞こえますが……まあ、スカウトは程々にお願いします。今はまだ私しかマネージャーが居ないので、抱えすぎるとパンクしますよ。現状の仕事量を考えると、頑張ってもあと二、三組が限界ってところですね。あくまで現状の話であって、クリエイターたちが忙しくなっていけばその限りではありませんが。」

 

将来を見越した意見を放った俺へと、香月社長は肩を竦めて返答してきた。担当の引き継ぎはあまりやりたくないのだが、仕事量が増えていけばやらざるを得なくなるかもしれない。『人員が少ない最初のうちだけ、場繋ぎ的に担当する』という事態は起こってしまうはずだ。今からだと遠い話だけど、頭には入れておこう。

 

「節操なく粉をかけるつもりはないさ。ちゃんとダイヤの原石を見極めるよ。」

 

「何にせよ、イベントのことは覚えておきます。キネマリード社が日本にも目を向けてくれるのは素直に嬉しいですし、行ってしっかり話を聞くことにしましょう。」

 

「ん、そうしようか。好奇心旺盛な風見君も行きたがるだろうから、社員は全員参加かな。『啓発セミナー』にプライベートで無理やり行かせる会社は寿命が短いし、ここは潔く休日出勤扱いにしてあげよう。広量な私を褒めたまえ、駒場君。私は褒められて伸びるタイプだぞ。」

 

「さすがは香月社長ですね。度量があります。」

 

流れ作業で褒めてやれば、社長は鼻高々にえっへんと胸を張ってきた。もはやお馴染みのやり取りになりつつあるな。俺も太鼓持ちが板に付いてきたらしい。こんな雑な叩き方で喜んでくれるのは、恐らく香月社長だけだと思うが。そういう意味では良いコンビだぞ。

 

兎にも角にも、イベントは一ヶ月以上先の話だ。とりあえずはぼんやりと覚えておくだけで充分だろう。ディヴィジョンフォーラムの話題が一段落したところで、事務所のドアが開く音が耳に届く。営業中の風見さんが戻ったのかと目を向けてみると──

 

「おはようございます!」

 

「おはようございます。」

 

おっと、やけに早いな。色違いの傘を手にしているモノクロシスターズの二人が視界に映った。まだ三時過ぎだぞ。学校はもう終わったんだろうか?

 

「おはよう、二人とも。」

 

「おはようございます、朝希さん、小夜さん。学校が早く終わったんですか?」

 

「はい、今日は五限で終わりだったんです! ……それより、これ! じゃーん!」

 

いつもより更にテンションが高いな。学校が早めに終わったから嬉しいのかもしれない。俺の問いに答えながら駆け寄ってきた朝希さんが、セルフ効果音と共にスマートフォンを突き出してくる。その画面を香月社長と二人で見てみれば……おー、通ったのか。ライフストリーム運営から届いた、広告掲載を承認する旨のメールが目に入ってきた。

 

「これは……そうですか、再審査無しで通りましたか。やりましたね。おめでとうございます。」

 

「おめでとう、二人とも。ようやく頑固な運営を納得させられたようだね。」

 

手放しで祝福した俺たちに、朝希さんがぴょんぴょん飛び跳ねながら口を開く。いやはや、肩の荷が一つ下りたぞ。最低限の削除で何とかなったな。

 

「はい、やっと通りました! 今日の昼休みに送られてきたんです! すぐ知らせたくて電話しようとしたんですけど、小夜ちが直接話すべきだって言うから……だからずっと我慢してて、五限目のことは何にも覚えてません!」

 

何にもか。……まあ、今日くらいはいいんじゃないかな。二人がやっとスタートラインに立てためでたい日なんだから、学校の先生も許してくれるはずだ。喜びを全身で表現しながら説明する朝希さんへと、ちょっと恥ずかしそうな面持ちの小夜さんが注意を投げた。

 

「朝希、飛び跳ねないの。傘の水滴が散るでしょ。……まあその、駒場さんたちが色々調べてくれたお陰で申請を通すことが出来ました。本当にありがとうございます。」

 

「ありがとうございます!」

 

「うんうん、私も社長として嬉しいよ。……特に駒場君は頑張っていたから、褒めてあげてくれたまえ。彼の手帳を見れば一目瞭然さ。収益化に関して調べたことがびっしり書かれてあるからね。若干引くくらい熱心に動いてくれていたんだ。」

 

引かないで欲しいぞ。香月社長が何故か自慢げに語るのを聞いた二人が、それぞれの反応を寄越してくる。

 

「分かってます。駒場さんにはその、これからの活動を通してお返しを──」

 

「駒場さん、ありがとう!」

 

「ちょっ……こら、朝希! 何してんのよ!」

 

びっくりしたぞ。小夜さんが照れ臭そうな表情で話している途中で、椅子に座っている俺に勢いよく抱き着いてきた朝希さんは、胸元からこちらの顔を見上げてにへっと笑ってきた。どうすればいいんだ、これは。

 

「駒場さん、駒場さん。私と小夜ちでちゃんと恩返しするから待っててね。たーくさんお返しするから!」

 

「あー……はい、楽しみにしておきます。」

 

「朝希、離れなさいってば! はしたないでしょうが!」

 

「はしたなくないよ。感謝のハグじゃん。小夜ちはやらないの?」

 

俺から身を離しつつ小首を傾げた朝希さんへと、頬を染めている小夜さんが返事を返す。少し驚いたけど、朝希さんらしいストレートな表現の仕方だと思うぞ。……しかし、どうにもむず痒くなってくるな。何だか恥ずかしくなってしまうから、俺は誰かに感謝されるのが苦手なのだ。

 

「や、やらないわよ! 普通しないでしょうが! 男の人に抱き着くなんてダメなの!」

 

「……もしかして小夜ち、えっちなこと考えてる? ハグだよ? ハグ、知らないの?」

 

「ハグくらい知ってるわよ、バカ朝希! とにかくダメなの! もう禁止! ……っていうかあんた、いつもこんなことしてるんじゃないでしょうね?」

 

「私はバカじゃないし、いつもはしてないよ。初めてやってみたけど……駒場さん、良い匂いしたよ? 小夜ちもやってみたら?」

 

良い匂い? 香水とかはつけていないんだけどな。謎の発言を疑問に思っている俺のことをチラッと見た小夜さんは、真っ赤な顔でバッと目を逸らして朝希さんに応じた。

 

「しないってば! 言葉で感謝すればいいでしょうが! どうして急に外国風のやり方になるのよ!」

 

「分かったよ、そこまで言うならもうしない。何でそんなに怒るのさ。……これ、何の匂いですか?」

 

小夜さんに頷いてからすんすんと俺の肩の辺りを嗅いでくる朝希さんへと、ちんぷんかんぷんな気分で応答する。

 

「……自分では分かりませんね。スーツの匂いですか?」

 

「スーツっていうか、どっちかって言うと駒場さんの匂いな気がします。……すっごく良い匂いです。」

 

「ちょちょっ、あんた……いい加減にしなさいよね。迷惑でしょうが。」

 

えぇ、汗の臭いとかじゃないよな? 一応清潔さには気を使っているつもりだが、ちょびっとだけ不安になってくるぞ。俺の首元に鼻を近付けていた朝希さんを、小夜さんが強引に引き離したところで……今度は香月社長が興味深そうに顔を寄せてきた。気になってしまったようだ。

 

「……私にも分からないね。無臭だよ。強いて言えばクリーニング店特有の香りがあるくらいかな。駒場君がジャケットを綺麗に保っているようで何よりだ。」

 

「まあ、このスーツはクリーニングに出したばかりですから。……それより香月社長、近いんですけど。」

 

「だって、『良い匂い』と言われたら嗅いでみたいじゃないか。……んー、不思議だね。朝希君は鼻が良いのかな?」

 

「そんなことないと思いますけど、でも絶対します。クリーニングの香りでもないです。小夜ちも嗅いでみてよ。」

 

制服の首根っこを掴まれた状態の朝希さんが促すのに、やや顔の赤みが引いてきた小夜さんが返答する。ちらちらと俺の方に目をやりながらだ。……良い意味らしいからまだマシだけど、自分の『におい』のことを話されるのはちょっと嫌だな。昼に食べた蕎麦の匂いだろうか?

 

「かっ、嗅ぐわけないでしょ。失礼じゃないの。」

 

「だから、良い匂いなんだってば。全然失礼じゃないよ。……やってみて、小夜ち。これで小夜ちも分かんなかったら、私の鼻がおかしいのかも。香月さんもやったのに、小夜ちだけやんないのは変でしょ?」

 

「朝希はこんなこと言ってますけど……いいんですか? 駒場さん。」

 

「……まあ、はい。構いませんよ。」

 

やるのか。別に小夜さんだけがやらなくても変ではないと思うけどな。奇妙な状況に困惑しつつ、小夜さんが恐る恐るという様子で確認するのを動かず眺めていると……彼女は俺の首の辺りで鼻をひくつかせた後、目をパチパチさせながら声を放った。

 

「……するわね、良い匂い。」

 

「でしょ? でしょ? 何の匂いだか分かる?」

 

「分からないけど、でも何か……凄く良い匂いがするわ。嗅いだことのない匂いが。」

 

「面白いね。私には分からないのに、小夜君と朝希君には分かるのか。双子だからなのかな?」

 

香月社長が首を捻りながら言ったところで、探るように俺に顔を近付けていた小夜さんと至近距離で目が合う。すると一瞬だけピクッとしてから硬直した彼女は、パッと離れて撮影部屋の方へと歩き出した。

 

「ぁ……はい、もう終わり。着替えるわよ、朝希。早く来られたんだから、時間を有効活用しないとね。」

 

「えー、小夜ちは何の匂いだか気にならないの?」

 

「ならないの。いいから早く来なさい。」

 

「はーい。」

 

一度も振り返らずに早足でドアの向こうに移動した小夜さんに続いて、未だ気になっている雰囲気の朝希さんも渋々撮影部屋へと入っていく。そんな二人のことを見送っていると、香月社長が再度俺の首元を嗅いできた。もう謎のままでいいじゃないか。

 

「……やはり分からんね。実に不思議だよ。ミステリーだ。」

 

「私も不思議ですが、これはギリギリでセクハラですよ。私が風見さんに同じことをしたら余裕で犯罪でしょうし、『逆セクハラ』ってやつです。」

 

「おっと、やめるから訴えないでくれたまえ。……ひょっとして、若さが影響しているのかな? 嗅覚が衰えるという話は耳にしたことがないが、有り得そうに思えるよ。味覚も視覚も聴覚も年々劣化していくんだから、嗅覚だってそうであるはずだろう?」

 

「社長はまだ『衰える』って歳じゃないですよ。」

 

香月社長がそうなら、俺もそうだということになってしまうぞ。そんなわけで間接的な自己弁護をした俺に、社長が苦笑しながら首肯してくる。

 

「考えていくと泥沼になりそうだし、解明するのはやめておこうか。『良い匂い』なんだから良しとしておこう。」

 

「そこは私としても安心できる点ですね。あの年頃の女性から『クサい』と言われたら、ショックで立ち直れないところでしたよ。」

 

かなり傷付くだろうな。何せ想像だけでがっくりしてしまうほどなのだから。半笑いで相槌を打った後、話の内容を真面目なものに切り替えた。

 

「とにかく、二人のチャンネルが収益化できたのは一安心です。ホワイトノーツの社員としても、個人としてもホッとしましたよ。」

 

「ん、私も同じ気持ちだよ。……次の動きは決まっているのかい?」

 

「小夜さんと朝希さんに関しては、動画化可能なゲームのリスト作りですかね。LoDをメインに据えるとはいえ、他のタイトルを挟んで目新しさを保つのは重要です。折角通った収益化が剥奪されないように、実況するゲームは慎重に選んでいきたいと思っています。」

 

「直接パブリッシャーに働きかけて許可を取るのもありだと考えているんだが、君はどう思う? ちなみに実際に許可を得られるかどうかではなく、現段階で挑むか挑まないかという意味だよ。」

 

香月社長が腕を組んで尋ねてくるのに、短く黙考してから回答する。まあ、易々とは許可が下りないだろうな。それを踏まえた上でチャレンジしてみるか否かということか。

 

「やってみる価値は大いにあると思いますが……運良くゲーム会社から動画化の許可が下りたとして、ライフストリームの運営がどう判断するかですね。」

 

「そこなんだよ。まだシステムが整っていないから、誤解で削除されることもありそうなんだ。」

 

「ただ、今のうちからゲーム会社との関係を築いておくのは良いことですよ。断られたとしても、働きかけたという事実は残ります。いつかライフストリームでマーケティングをしたいと先方が考えた時、ホワイトノーツの存在を思い出してくれるかもしれません。……やるだけやってみましょうか。それでもし許可が下りたら、二人にリスクを説明した上で動画にするかしないかを選んでもらいましょう。」

 

「まあ、そうだね。『やるだけやってみる』という考え方は嫌いじゃないよ。別に金がかかるわけでもないし、挑んでみようか。」

 

香月社長が話を纏めたところで、私服姿の朝希さんと小夜さんが事務所スペースに戻ってきた。ゲームのことも勉強しておくべきだな。小規模なディベロッパーが直接ゲームを販売できるプラットフォームも一般的になってきているようだし、今のホワイトノーツでも付け入る隙はあるように思えるぞ。

 

「駒場さん、LoDやりませんか? 小夜ちが先に編集するって言うから、デュオで一戦やりたいです!」

 

「交代交代でしょ、朝希。その次の一戦は私が『先生役』で、あんたが編集をやるんだからね。」

 

「……小夜ち、1v1で負けたじゃん。私が先生役って決まったじゃん。ズルいよ。」

 

「あれはノーカンってことで決着が付いたでしょうが。しつこいわよ。」

 

朝希さんの文句に小夜さんが反論しているのを横目にしつつ、香月社長に問いかけの目線を送ってみれば……彼女は苦笑いで肩を竦めてくる。

 

「これも『業務』の一環さ、駒場君。二人の肩慣らしに付き合ってあげたまえ。」

 

「まあはい、社長がオーケーしてくれるなら私は問題ありません。やりましょうか。」

 

「なら、こっちに私のパソコン持ってきますね。小夜ちのは編集で使うので。」

 

「手伝います。」

 

別に離れていてもプレイできるわけだが、朝希さんは話しながらやりたいらしい。撮影部屋からパソコンを持ってくる作業を手伝っていると、香月社長が思い出したようにモノクロシスターズの二人に声をかけた。

 

「そうそう、駒場君は来週名古屋に行くんだ。欲しいお土産があったら頼んでおきたまえ。」

 

「名古屋? 仕事で行くんですか?」

 

「ええ、出張です。月曜日に行って水曜日の夜に帰ってくるという日程ですね。その間の送迎は風見さんに任せてあるので、すみませんがよろしくお願いします。」

 

営業車は金曜日に納車される予定なので、特に問題なく送っていけるはずだ。いざとなればタクシーを使えばいいんだし、どうとでもなるだろう。小夜さんに答えつつ説明した俺に、モニターを持っている朝希さんが要望を飛ばしてくる。

 

「私あの、羊羹みたいなやつ……ういろう? あれを食べてみたいです! あと、カエルのお饅頭も。」

 

「こら、朝希。遠慮は? 遠慮って文字はいつ頭から消したの?」

 

「大丈夫ですよ。さくどんさんと一緒にお土産屋を巡ることになりそうですから、ついでに買ってきます。」

 

「さくどんも……じゃなくて、さくどんさんも行くんですか?」

 

小夜さんに睨まれて言い直した朝希さんへと、一つ頷いて肯定を返す。

 

「名古屋観光の動画を撮るために、一緒に行くことになりました。」

 

「観光動画ですか。……駒場さんは、私たちもそういうのをやった方がいいと思いますか?」

 

「良し悪しというか、チャンネルの方向性次第ですね。あくまでゲーム実況専門のチャンネルにしたいか、それ以外の色も少し出していくかの違いだと思います。」

 

「……小夜ち、どう?」

 

分かり易く悩みながらの朝希さんの呼びかけを受けて、そっくりな表情になっている小夜さんが応答する。俺はゲーム以外の動画の割合を増やすのもありだと考えているけどな。

 

「どうなのかしら。……駒場さん、どうですか?」

 

「お二人がやってみたいのであれば、チャレンジしてみるのも良いんじゃないでしょうか。ゲーム以外の場面で活動しているお二人を見て、視聴者が親近感を持ってくれるかもしれませんしね。プラモデルやダンスの動画と同じように、普段とは違った側面を見せられるはずです。」

 

「そもそもゲーム以外の動画は、ゲーム実況だけだと飽きられちゃうかなと思って入れてたんですけど……ちょっとだけ増やしてみるのは悪くないかもしれません。二人で考えてみます。」

 

「そういう動画はゲーム実況よりも権利関係の面で作り易いので、撮れるようになっておくと潰しがきくかもしれません。何にせよ急いで決めることではないので、ゆっくり考えてみてください。どの方向を選ぶにせよ、全力でフォローしていきますから。」

 

もし彼女たちがゲーム以外にも手を広げていくのであれば、夏目さんとのコラボレーション動画を提案してみるのも面白いかもしれない。朝希さんと小夜さんのチャンネルで一緒にゲームをして、夏目さんのチャンネルでは三人でチャレンジ企画をするって感じで。

 

……いや、違うか。逆の方が良いな。さくどんチャンネルでゲームをして、モノクロシスターズのチャンネルでゲーム以外の動画を上げるべきかもしれないぞ。そっちの方が新鮮味があるし、違った角度から楽しめそうだ。

 

いやいや、どうなんだろう? ゲーム実況をメインにやっているチャンネルなのだから、ゲームを挟んだ方が夏目さんを受け入れ易いか? さくどんチャンネルの方でも、いきなりゲームの動画を出されたら困惑するかもしれないぞ。……ぬう、ここも悩まなくてはいけない点らしい。俺は双方を知っているが、視聴者は片方しか知らない場合もあるんだもんな。そういったことも踏まえて組み立てるべきだろう。

 

「大いに悩みたまえ、諸君。それが人生さ。」

 

揃って黙考している俺と小夜さんと朝希さんに対して、クスクス微笑んでいる香月社長が言葉をかけてくるのを耳にしつつ、とりあえず『授業』のためのパソコンの設置を進めるのだった。

 



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Ⅱ.モノクロシスターズ ⑩

 

 

「あっ、私が開けます。……どうぞ、駒場さん。」

 

よく晴れた六月二十日の月曜日。俺は真昼の高速道路で車を走らせながら、缶コーヒーを開けてくれた助手席の夏目さんへとお礼を口にしていた。天気予報が的中してくれてホッとしたぞ。明日も快晴との予報だったし、豊田さんのキャンプ動画は予定通りに撮影できそうだな。

 

「ありがとうございます。……退屈じゃありませんか? もし眠いなら寝てしまっても問題ありませんよ?」

 

「いえいえ、平気です。何だか少しわくわくしてますから、全然眠くありません。……私のことより、駒場さんは大丈夫ですか? もう結構運転してますけど。」

 

「俺はまあ、運転が好きなんです。こういう長時間の運転を苦だと思ったことは一度もありません。芸能マネージャー時代は長距離の運転役に立候補していたくらいですから、気にしないでください。」

 

東京から名古屋程度であれば全く問題ないぞ。何ならちょっとしたリフレッシュになっているほどだ。もっと良い車だったら更に楽しかったのだろうが……まあ、乗り慣れた軽自動車も悪くはないさ。風も強くないし、絶好の運転日和だな。

 

つまり、俺たち二人は愛知県名古屋市を目指して東名高速道路を走行中なのだ。そろそろ浜名湖橋が見えてくる頃だから、静岡県も終わりが近付いてきているな。いよいよ愛知県か。ここまで三時間以上運転してきたわけだが、体感だとすぐだったぞ。久し振りの長距離運転ということで、自分が思っている以上に楽しんでいるのかもしれない。

 

そんな俺の表情を見て本音だと判断したようで、夏目さんはホッとした面持ちで会話を続けてくる。

 

「駒場さんが楽しんでるなら良かったです。……私も免許を取るべきでしょうか? もうすぐ十八歳ですし。」

 

「焦らなくても平気ですよ。他の移動手段が多いので、免許無しでも何とかなってしまうのが東京ですからね。俺の地元はそうもいきませんでした。」

 

「駒場さんは山形出身なんですよね? 車が無いと大変なんですか?」

 

「俺は山形市内だったのでまだマシでしたけど、田舎の方だと車は必須ですね。無いと普段の買い物すらままならないはずです。」

 

どこの田舎もそうだと思うが、基本的な移動手段が車なのだ。地下鉄なんてそもそも通っていなかったし、電車やバスの本数も東京と比べると雲泥の差だった。短大に通うために東京に出てきて、地方と都会の生活スタイルの違いを実感したっけ。

 

ただまあ、色々なものが安くはあったな。駐車場代、家賃、地価なんかは山形の方が遥かに『まとも』だったぞ。……とはいえその分平均的な賃金も低かったから、別に生活が豊かになるわけではなかったが。全部を引っくるめて考えていくと、結局トントンになるのかもしれない。社会というのは上手くできているじゃないか。

 

どこか虚しくなる結論に行き着いてしまった俺に、夏目さんが目を瞬かせながら応答してくる。二十三区内で生まれ育った彼女にはピンと来ないのだろう。反対に俺が知らない『都会の苦労』を彼女は知っていそうだな。

 

「何だか大変そうですね。……んー、駒場さんがそう言うなら急いでは取らないことにします。今はライフストリームに時間とお金をかけたいので、教習所に通うのは厳しいですし。」

 

「ゆっくりで大丈夫ですよ。必要な時は俺が車を出せますしね。」

 

「えへへ、暫くは頼んじゃうことになりそうです。これはちょっとズルい発言かもですけど……駒場さんが運転する車の助手席に乗るの、好きですから。だからあんまり免許を取りたくないっていうのもありますね。」

 

「どんどん呼び付けてください。運転は数少ない俺の特技の一つなので、頼ってもらえるのは嬉しいです。……っと、浜名湖橋に入りますよ。」

 

進行方向の光景を目にして報告してやれば、夏目さんは慌てた様子でビデオカメラの準備を始めた。先程から右手に湖自体は見えていたものの、対向車線越しだと少し味気ないということで、浜名湖橋でカメラを回そうと決めていたのだ。もっと南にある浜名湖大橋の方が良い景色なんだろうけど、こっちも低いガードレールがあるだけだからそう悪くはないはず。

 

「うあ、撮ります。すっかり忘れちゃってました。」

 

撮影のためにスピードを緩めたいところだが、そこそこ交通量があるからやめておいた方が良さそうだな。他の車に迷惑だし、危険だろう。そんなわけで一定の速度を保ったままで橋に車を進入させると、夏目さんが外を映しながら話し出す。

 

「あれ? ピントが……えーっと、浜名湖です! ちょっと見え難くてすみません。ここを抜けて少し走れば愛知県なので、段々と目的地に近付いてきました!」

 

うーむ、もっと早く教えるべきだったな。橋を通過し終える直前に言い切って渋い顔になった夏目さんは、カメラのモニターをパタンと閉じて俺に声をかけてきた。しょんぼりした表情でだ。

 

「……反射でピントが全然合わなくて、上手く撮れませんでした。冷静に窓を開けるべきでしたね。失敗です。」

 

「すぐそこに浜名湖サービスエリアがあるから大丈夫ですよ。湖に面している施設ですし、綺麗に映せるはずです。確か大きめのサービスエリアだったはずですから、名物なんかも売っているんじゃないでしょうか?」

 

「じゃあ、寄ってもらえますか? 景色もちゃんと撮りたいですけど、静岡の名物っていうのも気になります。何があるんでしょう?」

 

「浜松ですから、うなぎパイとかですかね。」

 

浜名湖のサービスエリアなんだから、さすがにうなぎパイは売っているだろう。ここで売らないでどこで売るんだという話だぞ。確信を持って言ってやれば……あれ、知らないのか。夏目さんはきょとんとした顔付きで返答してくる。かなり有名なお菓子だと思うんだけどな。

 

「『うなぎパイ』? うなぎのパイですか?」

 

「いえ、多分夏目さんが想像しているやつとは違います。ひょっとしたら原材料にうなぎを使っているのかもしれませんけど、うなぎの味はしないお菓子です。」

 

「……なぞなぞみたいですね。」

 

「このくらいのサイズの、パイ生地を焼いたお菓子ですね。恐らくですが、うなぎの蒲焼きに見た目が似ているからその名前になったんじゃないでしょうか?」

 

我ながら説明が下手だな。俺も最後に食べたのは結構前なので、記憶が曖昧になっちゃっているぞ。運転しつつの俺の言葉を耳にして、夏目さんはかっくり首を傾げて応じてきた。いまいち伝わらなかったらしい。

 

「うなぎの蒲焼きみたいなお菓子、ですか。」

 

「あくまで見た目の話ですよ? 味は完璧に『お菓子』ですね。甘くてサクサクしていて美味しいです。」

 

「……スマホで調べてみます。」

 

うーん、違うんだけどな。夏目さんはどうも『キワモノ系』と思ってしまっているようだが、あれはむしろ王道のお菓子だぞ。自分の表現の拙さを嘆きつつ、ウィンカーを出して浜名湖サービスエリアへと車を入れる。

 

折角寄るんだし、俺も会社へのお土産として買っていこうかなと思案しつつ、駐車場で空きスペースを探していると──

 

「あー、これ! うなぎパイってこれのことだったんですか。私、知ってました。食べたことあります!」

 

おおう、ハイテンションだな。スマートフォンでうなぎパイのことを調べたらしい夏目さんが、笑顔で子供の頃の思い出を語り始めた。

 

「小学校低学年の頃にお土産か何かでお父さんが貰ってきたのを、全部一人で食べちゃってお母さんから怒られたんです。……わー、懐かしい。これ、うなぎパイって名前のお菓子だったんですか。静岡の名物なんですね。」

 

「浜松発祥の銘菓だったはずですよ。……懐かしいお菓子に再会できそうで良かったですね。」

 

「はい、ラッキーです。何かこう、ずーっと記憶の隅にあった謎が解消された気分になります。……うわぁ、急に楽しみになってきました。凄く美味しいお菓子だったイメージが残ってるんですよね。全部食べたら後で怒られるって予想できてたのに、当時の私は我慢できなくて食べちゃったんです。味ははっきりと思い出せないんですけど、そのことだけは何故か覚えてます。」

 

これはまた、下がっていたハードルが一気に上がってしまったな。うなぎパイ側としては、『謎のうなぎのパイ』と思われていた方が気が楽だったかもしれないぞ。『思い出補正』のプレッシャーに晒された浜松銘菓に同情しつつ、端の方に駐車した車のエンジンを切る。

 

「動画にしますか?」

 

「うあー、迷ってます。『思い出の味』ってことで一本の動画にしたいんですけど、それだと帰るまで食べられないんですよね。でも旅行動画の一部にしちゃうのは何だか勿体無い気がしますし……んんー、どうしましょう。」

 

「車内か景色の良い場所で、独立した一本の動画として撮ってしまうのはどうですか? そのくらいならまあ、ご愛嬌だと思いますよ。」

 

夏目さんはきっと、『思い出の味と再会した瞬間』を動画にしたいのだろう。ロケハンとして撮影前に一度食べてしまうのは、彼女の流儀ではないわけか。こういう拘りがさくどんチャンネルの魅力なんだろうな。香月社長風に言えば、夏目さんは『ふにゃんふにゃんの骨無し人間』ではないらしい。

 

俺の提案を受けた夏目さんは、元気良く首肯しながら口を開いた。余程に楽しみなようだ。

 

「そうします。今のこの気持ちのままで動画にしたいので、すぐ撮っちゃった方が面白くなりそうです。……あの、駒場さん。申し訳ないんですけど、代わりに買ってきてもらえませんか? 売り場に実物が置いてあったりすると、そこが再会のタイミングになっちゃいますから。さっきスマホで画像を見た時は咄嗟に目を逸らしたから大丈夫です。」

 

「分かりました、買ってきますね。」

 

咄嗟に逸らせるのは凄いな。そして売り場にすら行きたがらないのも相当だぞ。自分の担当の拘りっぷりに唸りつつ、車から降りて建物へと歩き出す。……そういえば、四月に助言してくれた富山プロデューサーが言っていたっけ。ライフストリームでは面白さと同じくらいの『正直さ』が求められるのだと。

 

要するに、『嘘のない撮影』というわけか。実に不器用なやり方だな。そう考えると俺と夏目さんはお似合いのコンビなのかもしれないと苦笑しながら、見えてきたお土産物コーナーで目当ての一品を購入する。……とりあえず撮影に使う分だけを買おう。帰りにまた寄ることも不可能ではないし、ここでお土産分も買っていくかは夏目さんと相談してから決めればいいさ。

 

思考しながら支払いを済ませて外に出て、軽自動車の運転席に戻ってみれば……素早い準備だな。後部座席に移動した夏目さんが、ビデオカメラを弄っているのが視界に映った。髪を軽く整えたようだし、さっきまで脱いでいたパーカーも羽織っている。いつでも撮影できる状態だ。

 

「買ってきました。向こうに良い景色の公園がありましたけど、ここで撮るんですか?」

 

「もしかしたら旅行動画より先に出すことになるかもですし、景色をそっちに取っておくために車内で撮ります。それもそれで『サービスエリアに寄った』って感じが出ますしね。」

 

「……なるほど。」

 

まあうん、分からなくもないぞ。身近な臨場感ということか。納得しながらマスクを着けて、買ってきたうなぎパイをカメラと交換で渡す。前の座席から撮ればちょうど良いアングルになりそうだ。停車中は撮影が楽でいいな。

 

「待ってくださいね、画角と明るさを調整しますから。……オーケーです、回します。」

 

「それじゃあ、いきますね。……どうも、さくどんです! 動画のスタートとしてはかなり突然の状況になっちゃうんですが、今私は静岡県浜松市の浜名湖サービスエリアに居まして。撮影で名古屋に行く途中に寄ってみたんですけど、そっちは別の動画にして上げる予定なので──」

 

毎度のように唐突にスタートした撮影だが……これは、商品紹介のジャンルとして上げるつもりなのかな? 短い動画の時の話し方だし、そうする予定でいるようだ。そんなことを推察しつつカメラを構えていると、場所の説明や先程の思い出話をさらっとだけ語った夏目さんが、うなぎパイの箱を袋から出して紹介し始めた。

 

「じゃんっ、こちらがそのうなぎパイです! ついさっきマネージャーさんに買ってきてもらったので、中身は私もまだ見てません。……これはもう、正に銘菓の箱って雰囲気のデザインですね。『う』の一文字がインパクト抜群です。学校とかから帰ってきて、この箱が家の食卓に置いてあったらテンションが上がること間違いなしですよ。」

 

包装を綺麗に剥がした箱をカメラに示しながら言った夏目さんは、そのまま開封シーンへと入っていく。ここで物撮りを挟むこともあるのだが、今回は省くようだ。車内だからかな?

 

「ではでは、開けてみますね。……うああ、これ! そうです、これこれ! 私が小っちゃい頃に食べたの、確実にこのお菓子です!」

 

これはいいな。こっちまで笑顔になるような喜びっぷりだぞ。箱から取り出した小分けのうなぎパイを一度カメラに近付けた後、夏目さんは実に懐かしそうな面持ちで封を開ける。

 

「記憶よりも少しだけ小さく感じるのは、多分私が子供だったからなんでしょうね。形は本当に記憶のままです。ただ味に関してはかなーりぼんやりとしか覚えてないので、今とってもわくわくしてます。……おー、砂糖の粒々が美味しそうですね。見るからにサクサクしてそうです。それでは、実際に食べてみましょう。うなぎパイ、いただきます!」

 

中身もカメラに寄せてきちんと見せてから、うなぎパイを食べた夏目さんは……うんうん、良かったな。思い出の通りの美味しさだったらしい。あまりにも分かり易い『美味しそうな顔』で感想を述べた。

 

「すっごく美味しいですよ、これは。……一言で表現すると甘いサクサクのパイなんですけど、甘さの中に複雑な味が潜んでる気がします。見た目はちょっと硬そうなのに、食べてみると案外軽めの食感でした。バターの風味もありますね。全然しつこくなくて、次々に食べちゃえるタイプのお菓子です。ちなみにうなぎっぽい味は全くしません。」

 

解説しながら残りの半分を食べたところで、夏目さんは目をパチクリさせて空になった小袋をカメラの前に持ってくる。何かを発見したようだ。

 

「ここ、見えますか? 『夜のお菓子』って書いてあるんですけど、どうして夜なんでしょう? 私からするとアフタヌーンなお菓子に思えちゃいます。」

 

アフタヌーンなお菓子か。いやまあ、分かるっちゃ分かるぞ。昼下がりに紅茶と一緒に食べたいお菓子ではありそうだ。独特な表現をした夏目さんは、ポケットから出したスマートフォンで検索し始めた。長い無言になっているし、ここは恐らくカットだな。

 

であれば喋っても大丈夫だろうと判断して、夏目さんに対して助言を投げる。

 

「『夜のお菓子』というのは、昔うなぎパイのコマーシャルで使われていた文言だったはずです。詳しい意味までは分かりませんが、結構有名なキャッチフレーズだと思いますよ。」

 

「駒場さんの世代だと、みんな知ってるようなキャッチフレーズですか?」

 

「どうなんでしょうね? 私もどちらかと言えば知識として知っているだけで、実際にテレビで流れているところは見たことがない……かもしれません。」

 

そこは自信を持って言い切れないな。見たかもしれないし、見ていないかもしれないぞ。静岡名物のCMを北海道や沖縄で流しても仕方がないわけだから、地域によっての知名度の差もありそうだ。俺の曖昧な返答を聞いた夏目さんは、スマートフォンを片手にしたままで撮影の再開を告げてきた。

 

「その辺にも軽くだけ触れてみますね。いきます。……えっと、今調べてみました。いつもの『さくどん調べ』の情報なので自信満々には言えないんですけど、出張とか旅行のお土産で家に持って帰ってきたうなぎパイを食べながら、夜の一家団欒のひと時を過ごして欲しいって意味が込められてるみたいです。マネージャーさんによれば、CMでも使われてたキャッチフレーズらしいですね。」

 

右手のスマートフォンの画面をちらちらと確認しながら説明した後、夏目さんは驚いている表情で情報を一つ付け足す。

 

「あとあと、うなぎのエキスもしっかり入ってるんだそうです。味では分かりませんでしたけど、そういう意味でも『うなぎパイ』なんですね。生地から丁寧に作られてるみたいですし、細かい部分まで拘り抜いた商品だからこそ長年愛されてるのかもしれません。」

 

左手に持ったうなぎパイを見ながら感心したようにうんうん頷くと、夏目さんは最後にカメラに向けて纏めを語る。

 

「というわけで今回は浜松の銘菓、うなぎパイの紹介でした。元々は動画にする予定じゃなかったんですけど、こうして偶然再会できてラッキーに感じてます。有名なお菓子らしいので知ってたってリスナーさんも多いと思いますが、知らなかったって方は静岡に来た時に是非是非買ってみてくださいね。凄く美味しいお菓子でしたよ。……それでは皆さん、また次回の動画でお会いしましょう! この浜名湖サービスエリアの景色なんかも出てくるはずなので、名古屋の旅行動画も見ていただけたら嬉しいです。概要欄にリンクがあるはずですから、良ければチェックしてみてください。それじゃあ、ばいばーい。」

 

ふむ、今回は『柔らかいばいばいパターン』の終わり方か。動画のスタートは『どうも、さくどんです!』がお決まりになっているわけだが、最近の夏目さんは様々な締め方を試しているらしい。まだまだ試行錯誤中のようだし、正式に固定するのはもう少し先の話になりそうだな。俺は『鋭いばいばいパターン』がスパッと終われて好きだぞ。『それでは皆さん、ばいばいっ!』ってやつが。

 

笑顔でふりふりと手を振って動画を終わらせた夏目さんは、数秒間そうしていた後で俺にカットを知らせてきた。

 

「オッケーです、駒場さん。……どうでしたか?」

 

「俺からは問題ないように思えます。美味しそうな顔で食べていましたよ。」

 

「実際想像より美味しかったんです。駒場さんもどうぞ。開けちゃいましたし、二人で食べましょう。」

 

「では、いただきます。」

 

夏目さんが差し出してきた箱から一つ取って、袋を開けてうなぎパイを食べる。……まあ、当然のように美味いな。『迷ったらとりあえずこれを買っておけ』という定番の静岡土産だと思うぞ。わさび漬けとか安倍川もちも捨て難いが。

 

「私、自販機で飲み物買ってきますね。駒場さんは何か要りますか?」

 

「いえ、俺は大丈夫です。まだコーヒーがありますから。」

 

二つ目を手早く食べ終えた夏目さんの断りに応答してから、うなぎパイを食べつつコーヒーを飲んでいると……おっと、電話か。ジャケットの胸ポケットでスマートフォンが振動し始めた。誰からだろうと取り出して画面を確認してみれば、『香月玲』の文字が表示されているのが見えてくる。

 

「はい、駒場です。」

 

『やあ、駒場君。電話に出られたということは、もう着いたのかい?』

 

「まだ浜松です。今は浜名湖のサービスエリアで休憩しているところですね。」

 

『おや、まだ静岡なのか。やはり車だと時間がかかるようだね。私なら絶対に新幹線を選ぶよ。……時に駒場君、浜松の銘菓を知っているかい? 折角夏目君が同行しているんだから、動画にしてみるのもありじゃないかな。』

 

考えることは皆同じだな。こういうのはもう、ライフストリームに関わっている人間の習性なのかもしれない。動画のネタがあれば食い付いてしまうわけか。香月社長も順調に染まってきているなと苦笑しながら、電話越しに返事を返す。

 

「うなぎパイならもう動画にしましたよ。きっちり撮影済みです。」

 

『……君、やるようになったじゃないか。先回りされるのは予想外だったよ。』

 

「発案は夏目さんですけどね。……それで、何の電話ですか?」

 

『何とも冷たい台詞だね。用がなければ電話しちゃダメなのかい?』

 

別にダメではないが、社長は用もなく電話してくるタイプではないはずだぞ。悪戯げな声色で問いかけてきた香月社長へと、助手席に戻ってきた夏目さんを横目にしつつ応じる。小さなペットボトルのお茶を買ったようだ。

 

「そういうのはいいですから。」

 

『血も涙もない返答じゃないか。更に悲しくなったよ。部下に冷たくされて泣きそうだ。……罰として私にもうなぎパイを買ってきたまえ。沢山入っているやつをね。それで手打ちにしてあげよう。』

 

うーむ、そこに持っていこうとしていたのか。香月社長がお土産目当てで会話の誘導をしていたことを確信しつつ、ついでのように聞いてきた経理関係の書類の場所を教えて電話を切ったところで、お茶をくぴくぴと飲んでいた夏目さんが話しかけてきた。

 

「香月さんからですか?」

 

「はい、仕事の連絡のついでにうなぎパイを要求されました。帰りは遅い時間になっているかもしれませんし、お土産の分も今買ってしまいましょうか。」

 

「じゃあ、私は……家族の分を買うことにします。あと、自分の分ももう一箱だけ。」

 

「俺は会社に一箱と、モノクロシスターズの二人に一箱ですね。……名古屋でも色々買うでしょうし、そこそこの出費になってしまいそうです。」

 

申し訳ないが、友人の分は削らせてもらおう。そっちは買うにしても名古屋でだな。あくまで出張先は名古屋なのだから。そして豊田さんに関しては、東京でいくつかお菓子を買っておいたから問題ないはず。

 

脳内でお土産代の計算をしながら答えた俺に、うなぎパイを食べている夏目さんが言葉を送ってくる。今まで気にしたことがなかったけど、出張が多い職業の人はどうやってやり繰りしているんだろう? 他社へのお土産ならともかくとして、自社へのお土産が経費で落ちるわけがないし……大変そうだな。同情するぞ。

 

「モノクロシスターズさん、今は事務所で撮影してるんですよね?」

 

「ええ、平日の放課後はほぼ毎日来ていますよ。コラボ動画の件もありますし、近いうちに一度会ってみますか?」

 

コラボレーション案については、高速道路を移動している間に提案済みだ。朝希さんが夏目さんを尊敬しているということも伝えてあるし、すんなりオーケーが返ってくるかと思ったのだが……むう、微妙な表情だな。夏目さんは困っているような顔で口を開いた。

 

「私もまあ、会いたいか会いたくないかで言えば会いたいですし、コラボの件も魅力的に感じてるんですけど……がっかりされないかが不安なんです。『さくどん、喋ってみると案外普通じゃん』と思われちゃいそうで。だって私、地味じゃないですか。平均より普通なくらいですよ。」

 

言わんとしている意味は何となく理解できるものの、『平均より普通』という表現は哲学的だな。夏目さんのワードセンスに心中で唸りつつ、気後れしている彼女へとフォローを飛ばす。

 

「そこが良いんだと思いますよ。地味というか、接し易いのが『さくどん』の魅力なんじゃないでしょうか?」

 

「だといいんですけど……まあ、いつかは会うわけですもんね。なるべくイメージを壊さないように頑張ってみます。誰かから期待されることなんて今までなかったので、結構プレッシャーを感じちゃうんです。」

 

次々とうなぎパイを食べつつ諦めたように首肯した夏目さんは、窓の外の晴天に目をやって話を続けてくる。……しかしまあ、どんどん食べるな。無意識に口に運んでいるようなペースだ。子供の頃の夏目さんも、こういう感じで食べていたのかもしれない。

 

「けど、段々と人が増えてきましたね。ロータリーマンさんと、事務員さんと、モノクロシスターズさんたち。たった二ヶ月半で倍以上です。」

 

「これからも増えていきますよ。香月社長はディヴィジョンフォーラムでスカウトするつもりのようですしね。」

 

「……人が増えていっても、駒場さんはずっと私の担当ですよね?」

 

ちょっぴり不安げに尋ねてきた夏目さんに、大きく頷いて回答した。

 

「それはそうですよ。夏目さんが俺を選んでくれるならですけどね。……人が増えていけば俺よりも頼りになるマネージャーが入社してくるでしょうし、そういう人に付いてもらいたいと思ったら遠慮なく言ってください。選択権はクリエイター側にあるべきなんですから。」

 

「いいえ、駒場さんより頼りになる人なんて居ません。なので私から担当を代えてくださいとは言わないと思います。……つまり、駒場さんはずっと私の担当ってことです。」

 

それはちょっと買い被りすぎじゃないだろうか? そりゃあ必要な努力をしているという最低限の自負はあるが、俺より能力がある人なんて星の数ほど居るだろうし、経験の面でも平均より劣っているはずだぞ。

 

平時の彼女より少しだけ大人っぽい笑みでの発言を受けて、どう反応すべきかと迷っていると……夏目さんはハッとしたようにうなぎパイの箱を見て小さく呟く。空っぽになってしまった箱をだ。

 

「……私、めちゃくちゃ食べてますね。名古屋でも食べないといけないのに。」

 

「このくらいなら平気ですよ。まだ着くまでには少しかかりますしね。」

 

「もちろん食べられはするでしょうけど……ちょっとあの、最近食べ過ぎな気がします。体重的な意味で。」

 

「あー……なるほど、そっちの意味ですか。」

 

夏目さんはむしろ痩せている方だし、何なら軽く太った状態でちょうど良くなりそうだけどな。とはいえ当人はそう考えていないようで、若干焦っている顔付きになってビデオカメラを手に取った。

 

「景色、撮りましょうか。公園を歩きながら撮ります。その程度じゃ焼け石に水でしょうけど、少しでも運動しないと。」

 

「……分かりました、行きましょう。」

 

ここはまあ、素直に従っておくか。最近食べ過ぎという点は俺も同じなんだし、カメラマンとして一緒に歩いておこう。ライフストリーマーはインドアな仕事だから、こういう問題はこれからも出てきそうだな。

 

夏目さんに続いて車から降りて、ロックをしてから大きく伸びをする。いやはや、改めて良い天気じゃないか。気温も風も快適だし、となれば気分も明るくなってくるぞ。この調子なら名古屋での撮影も清々しい気持ちで行えるはずだ。……よし、頑張ろう。日々の動画が未来の礎になるのだから、小さな撮影にも気合を入れて臨まなければ。

 

澄み切った青空の下を歩く担当クリエイターの背を追って、駒場瑞稀は次なる撮影へと足を進めるのだった。

 



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Ⅲ.雪丸 ①

 

 

「駒場さん、駒場さん! いぇい!」

 

おっと、今日はいつにも増して元気だな。事務所に入ってきた途端にピースサインを突き出してきた朝希さんへと、駒場瑞稀は首を傾げて応答していた。花丸をあげたくなるような笑顔じゃないか。余程に機嫌が良いらしい。

 

「あー……はい、おはようございます。」

 

「もう、そうじゃないです。香月さん、風見さん、いぇい!」

 

何が『そうじゃない』んだ? 謎のダメ出しをされてきょとんとしている俺を他所に、事務作業中の香月社長と風見さんが『正解の反応』を朝希さんに返した。

 

「いぇいだね、朝希君。解放の喜びが伝わってくるよ。」

 

「朝希ちゃん、いぇいです。夏休み突入おめでとうございます。」

 

「はい、これでやっとライフストリームに集中できます!」

 

「朝希、やめなさい。はしゃぎすぎよ。……おはようございます。」

 

ワンテンポ遅れて入室してきた小夜さんが、小さく飛び跳ねて歓喜を表現している朝希さんに注意を送りつつ、俺たちへと挨拶を放ってくるが……そうか、明日から夏休みか。どうやらその『いぇい!』だったらしい。であれば確かに俺の反応は不正解だな。

 

七月最後の金曜日である、二十九日の夕刻。現在の俺たちはエアコンが効いたホワイトノーツの事務所内で、日々の雑務をせっせと処理しているところだ。特殊な業種なので他と比べるとまだマシだろうが、それでも月末の金曜日は少しだけ忙しくなるぞ。

 

『さくどん』こと夏目桜さん、『ロータリーマン』こと豊田円さん、そして『モノクロシスターズ』こと一ノ瀬朝希さんと一ノ瀬小夜さん。今や三組四人のクリエイターを抱えているということで、相応に仕事の量も増えてきているものの……まあ、まだまだ余裕がある状態だな。

 

今のところスポンサー案件は六月にあった豊田さんのキャンプ用品の動画と、今月の中頃にあった夏目さんの虫除けスプレーの動画だけだ。案件がもっと入ってくればマネージャーとして多忙になれそうだけど、現状からだと少し遠い未来に思えるぞ。

 

いやいや、そういう気持ちじゃダメだな。受け身で待つのではなく、攻めの姿勢で臨まなければ。クリエイターたちは毎日全力で動画を作っているし、風見さんは暑い中営業を頑張ってくれているし、香月社長は……あの、あれだ。英語の字幕作成とか掃除とかをやってくれている。だったら俺もマネージャーとして積極的に動いていくべきだろう。

 

ただ問題なのは、『マネージャー』がそもそも受動的な職業であることだな。いざスポンサー案件が入ってきた後であれば、次に繋がる動画を作れるようにクリエイターたちをサポートするという役割を持てるわけだが……基本的にはコツコツ下地を作るのが俺の仕事だぞ。一度に大きな成果を得られる社長や営業職と違って、派手には活躍できない立場のはず。

 

うーむ、我ながら地味な存在じゃないか。正しく裏方だな。だからこそ目立たない俺に合っているのかもしれないと考えつつ、歩み寄ってくる小夜さんに返事を投げた。

 

「おはようございます、小夜さん。昨日完成した動画の最終チェックは終わっているので、いつでもアップロードできますよ。」

 

「なら、着替えたらすぐに上げます。……ほら、朝希。いつまでぴょんぴょこ跳ねてるつもり? さっさと着替えるわよ。」

 

「えー、つまんない! 折角の夏休みなのに、何で小夜ちはお澄ましモードなの? ……駒場さん、一緒にLoDやりたいです。夏休み突入のお祝いに一戦だけ。ね?」

 

「こら、駒場さんの仕事の邪魔しないの。『ね?』じゃないでしょうが。」

 

小夜さんの説教を聞き流しながら、俺の手を取って上目遣いでおねだりしてくる朝希さんを見て、困り果てた気分で香月社長に目線で問いかける。こうなってしまうと俺には突っ撥ねられないのだ。何でもオーケーしてしまいそうになるぞ。

 

そんな俺の情けないアイコンタクトを受けた香月社長は、くつくつと喉を鳴らしながら許可を寄越してきた。

 

「いやまあ、別にいいよ。君が泣く子と朝希君に勝てないことは重々承知しているさ。マネージャーとして付き合ってあげたまえ。」

 

「やたっ! 駒場さん、こっちこっち!」

 

「朝希、我儘言わないの!」

 

「小夜ちこそ意地悪なこと言わないの! 夏休みは沢山ライフストリームを頑張るんだから、今日くらい遊ばせてよ。」

 

小夜さんに対してべーっと舌を出しつつ、ぐいぐい引っ張ってくる朝希さんに連れられて撮影部屋に入室したところで……香月社長の発言が背中に飛んでくる。ふと思い出したという声色だ。

 

「ああ、駒場君。ついでに明日のことも話しておきたまえ。」

 

「了解です。……朝希さん、小夜さん、明日は昼頃に迎えに行きますね。準備だけしておいてください。」

 

「はい、お姉ちゃんにはもう言ってあります。」

 

話が早くて助かるぞ。俺の連絡にこっくり頷いて答えてきた朝希さんと共に、モニターの前のゲーミングチェアに腰を下ろした。……三十日の土曜日である明日は、キネマリード社が主催する『ライフストリーム・ジャパンディヴィジョンフォーラム』が開催される日だ。それにモノクロシスターズの二人も参加したいそうなので、俺が家まで迎えに行くことになったのである。

 

ちなみに夏目さんも参加予定だが、豊田さんは自動車整備工場の仕事の都合で来られないらしい。重要そうな事柄があったら伝えて欲しいとのことだったから、代わりにきちんと話を聞いてこないとな。

 

思案しながらパソコンの起動を待っていると、撮影部屋にもう一脚ある椅子……事務所スペースの空きデスクとセットの、今は誰も使っていないオフィスチェアだ。に座った小夜さんが、朝希さんの頭をぺちぺち叩きつつ話しかけてきた。いつの間にかこのオフィスチェアを『観戦席』にするのがお決まりになっているな。役に立っているようで何よりだぞ。

 

「おバカな朝希がすみません、仕事中なのに。」

 

「いえいえ、構いませんよ。苦手な事務作業が続いていたので、ちょうど良い息抜きになりそうです。」

 

「私、おバカじゃないもん。……明日はさくどんさんも来るんですよね?」

 

「ええ、その予定です。行き帰りの車も一緒ですよ。先に朝希さんたちを迎えに行って、会場までの道中で夏目さんを拾うという形になりそうですね。」

 

今俺が『さくどんさん』ではなく『夏目さん』と本名で呼んだのは、三人が既に顔を合わせて自己紹介を済ませているからだ。コラボレーション動画の撮影はスケジュールの関係で叶っていないものの、七月中に事務所で二度ほど会って直接話をしているので、この二人の前であれば特に問題はないはず。

 

ただまあ、クリエイターの呼び方については改めて考えた方が良いかもしれないな。どこで誰が聞いているか分からないし、基本的にさくどんさんと呼ぶようにすべきだろうか? 今度夏目さんや豊田さんに相談してみよう。

 

クリエイターのプライバシー保護に関してを思考している俺へと、小夜さんが目を瞬かせながら応じてくる。

 

「さくどんさんもこっちの車で行くんですか? 風見さんの車で行くと思ってました。」

 

「夏目さんがそう希望したんです。もしかすると、二人と話したいのかもしれませんね。」

 

「そうですか。……ちょっと緊張しますね。」

 

「小夜ち、変だよ。さくどんさん、優しいじゃん。何で緊張するの?」

 

訳が分からないという顔付きの朝希さんの疑問に、小夜さんは渋い面持ちで回答した。

 

「『先輩』だからよ。別に嫌ってわけじゃないけど、ちゃんと気を使わなきゃでしょ? あんたも気を付けなさい。」

 

「でもでも、さくどんさんはそういう人じゃないよ? 偉ぶったりしないと思うけど。」

 

「そういう人じゃないからこそしっかり立てるの。嫌な人だったら適当でいいけど、さくどんさんとは良い付き合いをしていきたいでしょ? それなら礼儀は大切よ。仲良くするのと無遠慮なのは全然違うんだから。」

 

「んー……分かった、気を付ける。さくどんさんとは仲良くなりたいもん。」

 

うーん、小夜さんは大人だな。そして正しいと感じたら素直に聞き入れる朝希さんも素晴らしいぞ。自分が中学二年生だった頃と比較して微妙な気分になりつつ、小夜さんのパソコンで『リーグ・オブ・デスティニー』を起動して口を開く。

 

「良い機会ですし、コラボ動画のことを話し合ってみましょうか。夏目さんも乗り気でしたから、今度こそ実現できるはずです。」

 

七月の初め頃に企画を立てようとする段階まで進んだものの、そのタイミングで夏目さんにスポンサー動画の話が舞い込んできたため、そちらに集中する必要があってコラボ動画の件は一旦取り止めになってしまったのだ。しかし今はモノクロシスターズの二人が夏休みに入ったし、夏目さんも案件を抱えていない。ようやく実行に移せそうだな。

 

どんな動画にすべきかと考えている俺へと、椅子を寄せてきた小夜さんが反応してきた。

 

「いいですね、話したいです。……ちなみにさくどんさん、虫刺され大丈夫なんですか? 物凄いことになってましたけど。」

 

「まあはい、健康面は特に問題なさそうでした。今はもう治っていますよ。」

 

「……スポンサー動画って、あんなことしないといけないんですね。少し不安になります。」

 

「かなりの『体当たり企画』ではありましたね。依頼してくれた企業さん側は喜んでくれたんですが、同時に驚いてもいました。まさかああいう形の動画になるとは思っていなかったようです。」

 

小夜さんが言っているのは、先日さくどんチャンネルで上げた虫除けスプレーのスポンサー動画のことだ。先方からは使い方の説明と独自成分の紹介をして欲しいという注文があっただけなので、俺はてっきり商品紹介のスタイルで撮影すると予想していたのだが……何と夏目さんは神奈川県の山にハイキングに行って、実際にどれくらい刺されなくなるかの『検証動画』を撮りたいと主張してきたのである。

 

その後色々と話し合った結果として片手に虫除けスプレーを吹き、もう片方の手には何もしていない状態で、半袖のTシャツ姿で藪蚊だらけの場所を歩き回るという動画になったわけだが……夏目さんのプロ意識を改めて実感したぞ。あれはもはや『人体実験』だ。民放だとコンプライアンス的にやや際どい内容だし、企業側はさぞ驚いただろうさ。ライフストリームだからこそ出来る手法だったな。

 

とはいえ、苦労の甲斐あって虫除けスプレーの宣伝としては満点の映像になったぞ。蚊に刺されまくった右手と、ほぼほぼ刺されていない左手の比較はインパクトがあったはずだ。スポンサー抜きでも『ハイキング動画』として成立する一本に構成できたし、虫除けスプレーに着目しつつさくどんチャンネルの色も出せた。マネージャーの贔屓目を抜いても、非常に良いバランスに収められたと言えるだろう。

 

夏目さんのセンスに唸っていると、小夜さんも感心している様子で感想を語ってくる。そういえば豊田さんも電話での打ち合わせ中に言及していたな。『ああいうやり方を思い付いて、実行できるところは参考にしたいです』と褒めていたっけ。

 

「さくどんさんのあれ、『わざとらしさ』を最小限に抑えた動画だって感じました。スポンサーが付いてるのに、自然な……つまり、さくどんチャンネルっぽい面白さがきちんと前に出てましたから。私たちじゃあんな動画は作れないはずです。実力の差を思い知って、ちょっとだけ落ち込みますよ。初めてのスポンサー動画だったんですよね?」

 

「さくどんチャンネルとしては初ですね。夏目さんの発案を基礎に検討を重ねて、ああいった形になりました。」

 

「こういうの、経験の差ってやつなんでしょうか? よく考えたらさくどんさんは何年も前から動画投稿をやってるんですもんね。事務所の所属は二ヶ月差でも、ライフストリーマーとしての差は段違いみたいです。経験不足を実感します。」

 

「そこは私も同じですよ。日々夏目さんと接していると、マネージャーとして釣り合っていないことを痛感します。……一緒に頑張っていきましょう、小夜さん。私たちも経験を積み重ねていけば、いつかは夏目さんのようになれるはずです。」

 

共感しながら励ましてみれば、小夜さんは小さく笑って首肯してきた。

 

「そうなれる頃には、さくどんさんは更に先に行っちゃってるでしょうけどね。……まあ、駒場さんが付き合ってくれるなら頑張ってみます。」

 

「……ねえ、小夜ち? 私も居るんだからね? 駒場さんも小夜ちにばっかり構って、私のこと忘れちゃダメです! 私も一緒に頑張ります!」

 

「そうですね、朝希さんのことも頼りにさせてもらいます。」

 

頬を膨らませて割り込んできた朝希さんに苦笑いで返事をしたところで、小夜さんが俺に断りを入れてから身を乗り出してマウスを操作してくる。彼女のダークグレーの頭が近付いた拍子に、ふわりと良い香りが漂ってきたな。シャンプーの香りなのか整髪料の香りなのかは分からないが、柔らかい印象を受ける匂いだ。……無論、あえて口には出さないが。いきなり『小夜さんは良い匂いがしますね』なんて言ったらドン引かれるだろうし、内心でこっそり思うだけにしておこう。

 

「駒場さん、LoDの前にもう一ついいですか? ちょっとマウス借りますね。……夏休みの後半から、このゲームをやっていこうと思ってるんですけど。」

 

「『バトルグラウンド3』ですか。」

 

小夜さんが開いた、大手ゲームダウンロード販売プラットフォームの独自ブラウザ。そこに表示されているタイトルを目にして呟いた俺に、今度は朝希さんが声を寄越してきた。八月十六日に先行ダウンロード開始と書かれてあるな。そしてプレイ可能になるのは十八日らしい。何故ズレているんだろう? 後で調べておくか。

 

「それ、小夜ちが楽しみにしてるんです。そのシリーズ、好きみたいで。一個前のタイトルをコンシューマー機でずーっとやってました。狂ったみたいに。」

 

「狂ってないわよ。あんただって同じ時期にネトゲを一心不乱にやってたじゃないの。……配信や動画化がセーフなことはチェック済みです。LoDを楽しみにしてくれてるリスナーも居るでしょうし、急に違うゲームの動画だらけになるのは避けたいので、暫くは二対一か三対一くらいの比率で上げていこうと考えてます。」

 

「著作権的に問題ないのであれば、新しいゲームに手を出していくのは賛成ですよ。『最新作』は余所のチャンネルと被りがちですが、同時に期待する視聴者も多いですからね。」

 

これは、ジャンルで言うとFPSに当たるのかな? 要するに一人称のシューティングゲームだ。三十二対三十二という大規模なプレイヤー数で、陣地の取り合いをしたりキル数を競ったりするオンラインマルチプレイがメインのゲームらしい。ページにある紹介文を読みながら応じた俺へと、小夜さんが続きを話してくる。

 

「それでですね、これはFPSにしては一試合が長くなるゲームなので……カット編集を試してみたいんです。単純な試合時間的にはLoDと似たり寄ったりなんですけど、こっちはひたすら移動したり敵を待ったりする単調な場面がちょこちょこ出てきちゃいそうですし、カットで内容を濃くした動画も作れるようになっておくべきかと思ったので。どうでしょう?」

 

「良いと思いますよ。選べる手札を増やしておいて損はありませんからね。何分程度の動画にする予定ですか?」

 

「実際にやってみないと分からないんですけど、とりあえずは気軽に見られる十分前後を目指していくつもりです。テロップの量をLoDより増やして、エフェクトとかBGMも入れて、面白い場面を抽出する感じで作ってみます。最初はその、慣れてない所為で少し荒くなっちゃうかもなので……駒場さんに細かくアドバイスして欲しいなと思ってるんですけど。」

 

「了解しました、最初は意識して動画のチェックを行っていきます。そういった構成の実況動画は前に調べたことがあるので、近いうちに意見を纏めておきますね。そしたら改めて話し合いましょう。」

 

言いながら取り出した愛用の黒い手帳に、『ゲーム実況動画の再チェックと意見の纏め』とメモしていると……頭を寄せてきた朝希さんが俺の手元を覗き込みつつ言葉を漏らす。彼女のホワイトアッシュの髪からも小夜さんと同じ香りがするな。共通の何かを髪に使っているらしい。

 

「わぁ……駒場さん、びっしり書いてますね。」

 

「私はいちいちメモしてしまうタイプなんです。発見や、注意すべきことや、予定なんかを。なので手帳はすぐ埋まってしまいますね。後から見返して何かに気付いたりもするので、アナログですけど中々便利ですよ。」

 

「そういうの、何かカッコいいです。」

 

「朝希、人の手帳を覗かないの。……それと、やっとキャプチャーボードを買えそうです。だからコンシューマー機の実況動画も作れるようになるかもしれません。著作権的にも機材的にもPCのゲームより難しそうなので、そっちは単発で慎重に試していきますね。」

 

資金が貯まったのか。時間的な余裕が出来る夏休みに色々な動画を上げたいということで、二人はマイクを新調するのを延期してキャプチャーボード……小夜さんの説明によれば、家庭用ゲーム機の画面を録画するための機材らしい。の購入を目指していたわけだが、どうやら貯金が目標金額に到達したようだ。

 

夏目さんや豊田さんも言っていたけど、ライフストリーマーにとっての『機材』は本当に悩みの種だな。撮影機材の購入費はどうしたって付いて回る支出だし、上を見るとキリが無いのだ。カメラもマイクもパソコンも、高い物は信じられないほどに高い。その癖どんどん新製品が発売されるから、いたちごっこになって終わりが見えないぞ。

 

結局、妥協で済ませるしかないんだろうな。言い方は悪いものの、それが真実であるはずだ。高機能な新製品が発売する度に新調していたら、どれだけ金があっても足りないのだから。……つまり重要なのは、どこを妥協点にするかなわけか。良いカメラを使えば美しい映像を録画できるし、良いマイクを使えば綺麗な声を録音できる。それが動画の出来を左右するとまでは言わないが、画質や音質が良いに越したことはないはず。

 

機材に囚われすぎるのはダメだけど、動画投稿者としてそこに拘らないのは以ての外だろう。となれば俺はマネージャーとして、クリエイターたちに線引きを提示できるようにならなければ。収入と照らし合わせて無理はさせないようにしつつ、必要と感じたら購入をやんわりと提案していくってところかな。最終的な決断はもちろんクリエイター次第だが、サポート役としてその程度はこなせるようになっておくべきだ。

 

ビデオカメラや編集用ソフトなんかには多少詳しくなってきた自信があるものの、ゲーム実況の機材についてはまだまだ未知の部分が多い。二人のために勉強しておこうと心に決めながら、小夜さんへと応答を返す。

 

「家庭用のゲームはまだ動画化可能なタイトルが少ないですが、『一般受け』するのは恐らくそっちですからね。ホワイトノーツとしても手を出していきたい分野なので、お二人が挑戦してくれるのはありがたいです。」

 

「……頑張っていけば、そういう方面の仕事も来るようになりますかね?」

 

「日本のゲーム会社は紛うことなき『超大手パブリッシャー』なので、今すぐには厳しいかもしれませんが……ライフストリームが拡大していった暁には、間違いなく目を向けてくるはずです。その時自社のゲームを頻繁に実況している人気のチャンネルがあれば、先方は注目してくれるんじゃないでしょうか。今の頑張りはきっと未来に繋がりますよ。」

 

「何て言うか、気の遠くなる話ですね。」

 

苦笑しながら返答してきた小夜さんに、こちらも同じ表情で相槌を打つ。明るい相槌をだ。

 

「ですが、香月社長は現時点で既に視野に入れています。イベントの司会や新作ゲームのマーケティング、関連グッズの宣伝などにライフストリーマーを使いたがる日は確実に来ると断言していました。……だったらあとは選ばれるかどうかだけですよ。今はコツコツ地力を付けていきましょう。そして先方がライフストリームに目を付けた時、否が応でも視界に入るくらいに目立ってみせるんです。顔を向けさせる努力はホワイトノーツがしていきますから、お二人は期待して待っていてください。」

 

「……じゃあ、期待させてもらいますね。その時までには私たちも編集の技術を上げて、良い動画を作れるようになっておきますから。」

 

「あとあと、トークも鍛えなきゃだよ。そこが一番重要なんだから。」

 

「そうね、喋りを磨くのは大切よ。……私は集中してくると黙っちゃうのを改善するから、朝希は失言を減らす努力をしなさい。学校の友達の名前とか、近所のこととかを動画内で口走っちゃダメでしょうが。個人情報ってものをいい加減覚えなさいよね。」

 

笑顔で提言した朝希さんへと、説教モードになってしまった小夜さんが注意を送っているが……確かに『トーク力』は実況動画における最重要の要素だな。その辺はライブ配信をメインにしている人たちが一枚上手だし、参考にするのも悪くないかもしれない。

 

「私、ちゃんと覚えてるもん。ただちょっと口が滑っちゃうだけだよ。カットすればいいでしょ。」

 

「あんたね、細かいカットが沢山あると変になっちゃうでしょうが。私は一本通しのトークを成立させなさいって言ってるのよ。もっと考えてから喋りなさい、ぽんこつ朝希。口に出す前に一回頭を通すの。分かる?」

 

「バカにしないでよ、意地悪小夜ち! ……小夜ちだってこの前いいところでトイレに行ったじゃん。何で休憩中に行っておかないのさ。小夜ちって、映画観る時もそうだよね。『行きたくないから別に大丈夫よ』ってお澄まし顔で言う癖に、結局大事なシーンとかで我慢できなくなるじゃんか。おバカすぎるよ。」

 

「おバカ? おバカって言った? ……はい、怒った。もう許さないからね。暴言の罰として駒場さんとのLoDは没収。私が代わりにやるわ。」

 

改めて考えてみれば、ライブ配信で台本も無しに一時間や二時間喋り続けているあの人たちは化け物だぞ。それが週一回とかならまだ分かるが、多い人だと毎日のように配信をしているのだ。となればトーク力は見る見るうちに向上していくだろうし、鍛え上げたそれは様々な方向に応用が利くはず。

 

「そんなのズルいじゃん! 私が誘ったのに!」

 

「ダメよ、没収。先に私がやって、後にも私がやるわ。もし三回目があったらそれも私ね。あんたは横でぽけーっと見てなさい。……大体ね、トイレのことは関係ないでしょうが。議論に勝てないからって無関係な話を持ち出すのは見苦しいわよ。そんなもん白旗宣言と変わらないじゃない。つまり、あんたの負け。あんたは負け朝希なの。」

 

「なっ、私……負けてない! 負けてないもん!」

 

「あーら、負け朝希が何か言ってるわね。STRにしか振ってない癖に、INTカンストの私に口で勝とうってのが間違いなのよ。分かったらチワワみたいにぷるぷるしてないで、さっさと椅子を明け渡しなさい。私が駒場さんと遊ぶんだから。」

 

芸能マネージャーだった頃は、たった五分間の生放送コーナーでさえピリピリした気分で臨んでいたんだけどな。俺だけじゃなく、スタッフ全員がそうだったぞ。それなのに『耐久配信』と称して長時間の生配信をしている配信者もたまに見るし……ああいう人たちの頭の中って、一体全体どうなっているんだろう?

 

「……私、怒った! 怒ったよ! そういう意地悪してると、言っちゃうから! 小夜ちが変なことしてたの、知ってるんだからね!」

 

「な、何よ。急に何の話? 『変なこと』?」

 

「言われたくないなら謝って。何かあの、変な感じだったから黙っててあげようとしたけど……でも小夜ちがそういう態度なら言っちゃうから! ごめんなさいしなさい、小夜ち! 妹の癖に意地悪しちゃダメでしょ!」

 

「あ、謝らないわよ。私は別に悪くないし、妹はあんただもの。そっちが謝るべきでしょうが。」

 

いつかライフストリームでもライブ配信が可能になった時、動画ではなくそちらを主軸にするクリエイターが所属するかもしれないし、今のうちに他のプラットフォームの配信者たちを研究しておこう。人気の配信者ともなれば、それなり以上のトーク力を持っているはずだ。絶対に参考になる部分があるだろうから、よく見て技を盗ませてもらわなければ。

 

そんなことを黙考していると、小夜さんといつもの言い争いをしていた朝希さんが俺に声を飛ばしてくる。何故か少し赤い顔でだ。

 

「じゃあもう言っちゃうからね! 知らないから! ……駒場さん、駒場さん。この前小夜ちにジャケット預けたの覚えてますか?」

 

「はい、覚えていますよ。それがどうかしたんですか?」

 

一週間ほど前、小夜さんが俺のジャケットに飲み物を零してしまったのだ。ほんのちょっとのシミだったし、どうせ近くクリーニングに出す予定だから大丈夫ですよと言ったのだが、私の所為だから私に出させてくださいと頼み込まれて小夜さんに預けた結果……まあ、数日後に普通に綺麗になって戻ってきたぞ。大して特別な出来事ではないと思うんだけどな。

 

よく分からないままで問い返した俺に、朝希さんは頰の赤さを増しながら『告げ口』の内容を語ってきた。彼女がどうして赤くなっているのかも謎だし、横で聞いている小夜さんの顔が青くなってきたのも謎だ。謎だらけの状況じゃないか。

 

「そのジャケットで小夜ちが変なことを──」

 

「朝希! ……謝るわ、ごめんなさい。これで話は終わりよ。はい終了。早くLoDをやりなさい。二回ともあんたがやっていいから。私は見てるわ。邪魔しないようにぽけーっと見てる。」

 

「私、その日は早めに寝ちゃったんですけど……ギシギシって物音で目が覚めたんです。そしたら上のベッドで小夜ちが──」

 

「こら、謝ったでしょうが! やめなさいよ! やめっ……やめな、やめなさい! 黙ってゲームをやりなさいよね!」

 

朝希さんに飛び掛かって止めようとする小夜さんだったが、毎度の如く完全に力で負けて逆に押さえ込まれていく。俺のジャケットが何だと言うんだ。何の変哲もない安物のジャケットだし、返ってきた時にも特段異常は見受けられなかったぞ。

 

「けど、駒場さんにはちゃんと言わなきゃダメだよ。だって小夜ち、あのジャケットで何か変なことしてたんでしょ? 私にはよく分かんないけど、そういう感じだったもん!」

 

「ちょっと、言わないで! 言わないでよ! あげるから! 欲しい物何でもあげるから!」

 

「何でそんなに必死になるの? ……やっぱりダメなことなんだ。あのジャケットでダメなことしてたんでしょ! 寝たフリしてたけど、持ってベッドから降りてくるの見てたんだからね! 駒場さんに謝りなさい!」

 

「……してない。していません。」

 

おー、ちょっと怖いな。急に顔からすとんと感情を消した小夜さんが、朝希さんと俺に対して順番に無実を主張する。それに俺たち二人がビクッとする中、被疑者どのはやけに平坦な口調でこちらに弁明を寄越してきた。

 

「自分でシミ抜きが出来ないかなと思って、ジャケットの素材についてを調べていただけです。だけど結局無理そうだったので、次の日にクリーニングに出しました。それ以上でもそれ以下でもありません。」

 

「……なるほど。」

 

「分かってくれたみたいですね。きちんと真実が伝わったなら良かったです。……それじゃあ申し訳ないんですけど、少しだけ部屋から出ておいてもらえませんか? 朝希と大事な話があるので。」

 

「あー……ではその、私は向こうに居ますね。」

 

無表情の小夜さんに気圧されて素直に席を立った俺の背に、朝希さんの怖がっているような声が投げかけられる。

 

「でもでも、本当に変だったんです。嘘じゃないです。小声でぶつぶつ言いながら、布団の中でずっともぞもぞ──」

 

「調べてたのよ、朝希。シミ抜きの方法をスマホで調べてたの。……駒場さん、早く行ってください。すぐ済みますから。終わったら呼びに行きます。」

 

「……はい。」

 

「あっ、待って。駒場さん、行かないで。」

 

小夜さんの大迫力の笑顔を目にして、朝希さんが怯えた様子で助けを求めてくるが……今の小夜さんは俺にとっても怖いのだ。悪いが事務所スペースに退避させてもらおう。三十六計何とやらだぞ。

 

パタリと閉じたドアの向こうが静かなことに更なる恐怖を覚えつつ、自分のデスクに着いて一体何だったのかと首を捻っていると、対面の風見さんが疑問げな顔付きで問いかけてきた。訳が分からなかったぞ。単なる朝希さんの勘違いなのかな?

 

「もう終わったんですか? 随分早かったですね。」

 

「いえ、プレイする前に今後の打ち合わせを少しして……そして、今は二人で大事なことを話し合っているようです。まだゲームは出来ていません。」

 

「なるほど?」

 

小首を傾げてきょとんとしている風見さんの返事を受け取った後、何とも言えない気分で撮影部屋の方に目を向ける。……まあでも、恐らく小夜さんの言い分が真相なんだと思うぞ。彼女は無意味な嘘を吐くような子じゃないし、他人の物を勝手に使って『ダメなこと』をしたりもしないはず。他人を気遣える優しい子なのだから、邪推するのはやめておこう。

 

でも、それならどうしてあんなに焦っていたんだろう? 何かこう、内緒にしておきたいことが間接的に関わっていたとか? ちんぷんかんぷんになりながら悩んでいる俺に、大きく伸びをしている香月社長が話しかけてきた。作業が一段落したらしい。

 

「んんっ……あー、事務作業は肩が凝るね。それで君、どうしたんだい? 悩んでいる時の顔じゃないか。偉大な社長に相談してみたまえ。」

 

「いやまあ、年頃の女性というのは難解だなと思いまして。それだけです。」

 

「君ね、そんなもん悩むだけ無駄だよ。思春期の女性の内心ってのは、絶対に解き明かせないようになっているのさ。君が男なら尚更だね。解けないパズルに挑むのは愚かな行為だぞ、駒場君。諦めて流されたまえ。それが唯一の対処法なんだから。」

 

「……勉強になります。」

 

身も蓋も無い結論だけど、それこそが正答なのかもしれない。同世代の頃は心の底から意味不明だったし、大人になった今でも謎が深まるばかりだ。俺がモテない理由はそこにありそうだな。二十五年生きて女心を欠片も理解できていないのだから、この先も望み薄だろうさ。泣けてくるぞ。

 

諦観の苦笑いを浮かべて解けないパズルへの挑戦を放棄しつつ、モノクロシスターズの話し合いが終わるのをひた待つのだった。

 



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Ⅲ.雪丸 ②

 

 

「駒場さん、おはようございます! ……私、助手席ね。」

 

うーむ、立ち直りが早いな。元気良く挨拶をしながら車に乗り込んできた朝希さんに、俺は笑顔で応答を返していた。昨日は小夜さんに怒られて口数が少なめだったのだが、一晩寝たらすっかり回復したようだ。何とも微笑ましい変化だぞ。

 

「おはようございます、朝希さん。……小夜さんもおはようございます。」

 

「おはようございます。……この格好で大丈夫ですよね? もっとフォーマルな方がいいですか? ダメそうならササッと着替えてきますけど。」

 

「いえいえ、ラフな格好で問題ありませんよ。他の参加者もそういった服装で来ると思いますから。私がスーツなのは、一応企業として招待されているからです。」

 

つまるところ、今日の十三時半から六本木の会場で開かれるディヴィジョンフォーラムに参加するために、モノクロシスターズの二人を迎えに来たのだ。現在の時刻は十一時前とかなり早めなのだが、昨日話し合った結果夏目さんを拾った後で昼食を食べつつ打ち合わせをすることになったので……まあ、それが終わる頃にはちょうど良い時間になっているはず。

 

脳内で予定を確認しながら答えた俺へと、薄いグレーのブラウスに白のロングスカートを合わせている小夜さんが頷いてくる。ちなみに朝希さんは半袖の黒いパーカーにハーフパンツとスニーカーという格好だ。被っているキャップが可愛らしいな。ロバのような耳がぴょこんと付いているぞ。俺が身に着けたら白い目で見られそうだし、ああいうのは若者にのみ許されるファッションなのだろう。

 

「大丈夫そうなら良かったです。念のためメモ帳も持ってきましたし……あ、ペン。すみません、ペンを忘れました。取ってきます。」

 

「ボールペンを三本持っているので貸せますよ。他に忘れ物はなさそうですか?」

 

「他には無いと思いますけど……駒場さん、三本も持ち歩いてるんですか。慎重ですね。」

 

「予備と、予備の予備です。失くした時に大変ですから、常に内ポケットに入っています。……では、出しますね。」

 

慎重というか、心配性なのだ。その所為で学生の頃から色々な物を持ち歩いていたな。『駒場の鞄、やけに重いよな』と学友に言われていたっけ。お陰で助かったことは多々あるが……しかし、トータルで見ると損をしているのかもしれない。もっと豪快に生きてみたいぞ。

 

豪快という熟語から香月社長を連想してしまっている俺に、朝希さんが足をパタパタさせつつ話しかけてきた。

 

「香月さんと風見さんは別行動なんですよね?」

 

「はい、会場で合流する予定です。風見さんが社長を回収して、直接向かうと言っていました。」

 

「そこはちょっと残念です。みんなでご飯を食べるのも面白そうなので。……けど、さくどんさんと会えるのはわくわくします!」

 

「夏目さんも同じ気持ちだと思いますよ。……昼食はどうしましょう? 何か食べたい物はありますか?」

 

車を来客用駐車スペースから出して大きな道路を目指しつつ問いかけてみれば、朝希さんはにぱっと笑って返事をしてくる。一ノ瀬家から夏目家に行くのは初めてだし、素直に分かり易い道を通ろう。急がば回れだ。

 

「ファミレスが良いです! 何でもあるので。」

 

「朝希、こういう時はさくどんさんに合わせるべきでしょうが。……私たちはどこでも平気です。姉が多めに昼食代をくれましたから。」

 

「いやまあ、私が出しますよ。場所は夏目さんと相談して、そこで好きな物を食べてください。」

 

幾ら何でも十三歳の中学生と『割り勘』をしたりはしないぞ。そんなの情けなさすぎるじゃないか。痩せ我慢の甲斐性を示した俺に、後部座席の小夜さんがぺちぺちと運転席のヘッドレストを叩きながら注意してきた。

 

「はい、甘やかし警報発令です。甘やかし法違反ですよ、駒場さん。これで今月十回目じゃないですか。」

 

「……しかしですね、社会人として未成年に食事を奢るのは普通のことですよ。甘やかしというか、常識の行動です。」

 

「じゃあ、ありがたくいただいてはおきますけど……でも十回目の罰則は消えませんよ。どこかのタイミングで私が駒場さんを甘やかし返しますから、そのつもりでいてください。無条件で受けてもらいますからね。」

 

「……分かりました。」

 

ちょびっとだけ悪戯げな笑顔で言ってきた『甘やかし警察』へと、首を傾げながら了承を飛ばす。権利を分立できていないとこういうことになってしまうわけか。立法権と執行権を分けて欲しいぞ。このままでは小夜さんの思うがままだな。

 

以前俺の『甘やかし』を管理すると宣言した小夜さんは、時折こうして甘やかし警報を発令してくるようになったのだ。どうも月に五回発令されると俺は一回肩揉みをされて、十回発令されると彼女から一回甘やかされてしまうらしいのだが……改めて奇妙なシステムだな。俺が二人を甘やかすほどに、小夜さんから甘やかされるわけか。

 

よく分からない気分になっている俺を見て、小夜さんがご機嫌な様子で話を続けてきた。……まあでも、楽しそうだし別にいいか。ちょっとしたスキンシップって感じなのかな。

 

「何をして欲しいですか? 希望は受け付けますよ。」

 

「あー……例えば、お茶を淹れてもらうとかですかね?」

 

「そんなの甘やかしじゃありません。レベルが低すぎます。……耳かきとか、してあげましょうか? 男の人ってああいうのが好きなんですよね? そのくらい過激じゃないと罰になりませんし、仕方ないから我慢してやってあげますよ。」

 

耳かきって、『過激』なのか? 若干赤い顔で謎の発言を寄越してきた小夜さんに、俺が反応しようとしたところで……ムッとした表情になっている朝希さんが割り込んでくる。

 

「小夜ちだけ駒場さんと仲良くしててズルいよ。私もやる。」

 

「あんたは引っ込んでなさい。これは私と駒場さんの問題なの。甘やかされ屋のあんたは、甘やかしを行使する権限を持ってないのよ。」

 

「意味分かんないよ、小夜ち。何言ってんの? ……『我慢』ってことは、小夜ちは駒場さんに耳かきしたくないんでしょ? 私はしたいもん。だから代わりにやってあげる。」

 

「しっ、したくないわけじゃないわよ。したいわけでもないけど、したくなくもないの。……この前一緒に肩揉みさせてあげたでしょ? だったら今回は諦めなさい。あんたに耳かきはまだ早いわ。お子様朝希じゃ肩揉みが精々よ。」

 

小馬鹿にするように小さく笑った小夜さんを目にして、朝希さんはぷんすか怒りながら反論を繰り出した。毎度お馴染みの『じゃれ合い』が始まったらしい。

 

「私、お子様じゃないもん! ぴったり同い年じゃん。私がお子様なら、小夜ちもお子様だよ。」

 

「生まれたのは同時でも、私はあんたより精神的に先行してるのよ。……駒場さん、朝希はお子様ランチが食べたいみたいです。私はもっと大人っぽい物を食べますけどね。ピカタとか、ガレットとかを。」

 

「大人振らないでよ。ピカタなんて食べたことないじゃん。っていうか、ピカタって何さ。……昨日魚を上手く食べられなくて、お姉ちゃんに呆れられてた癖に。私もお姉ちゃんも綺麗に食べられるのに、どうして小夜ちだけダメなんだろうって。」

 

「ちょっとあんた、駒場さんの前で余計なこと言わないでよ! ……綺麗に食べられないなら、骨ごと食べればいいだけの話でしょ。食べてやるわ。そしたら骨を残すあんたの方が下になるんだからね。」

 

いやいや、骨は食べないで欲しいぞ。喉に刺さったら大変じゃないか。……それより、ピカタって何だっけ? 聞き覚えはあるけど、俺もどんな料理なのかがパッと浮かんでこないな。後で夏目さんに聞いてみよう。料理に詳しい彼女なら知っているだろうし。

 

俺が内心の疑問を棚上げしている間にも、朝希さんが唐突に話題を切り替える。全く別の方向にだ。

 

「丸ごと食べてたらペンギンと一緒じゃん。小夜ち、ペンギンなの? ……私、ペンギン見たくなってきたかも。水族館行きたい。」

 

「あんたの頭の中、どうなってんの? 何をどうしたらそう繋がるのよ。また脳みそ通さないで反射で喋ってるでしょ。……水族館は私も行きたいけど、ペンギンは見たくないわ。目が怖いし、頭が悪そうだから嫌いなの。あんな連中はアザラシに食われておけばいいのよ。」

 

「うわ、ひど。超邪悪。そんな残酷なことよく言えるね。ペンギンが可哀想じゃん。……あっ、思い出した。小夜ち、ちっちゃい頃にペンギン見て泣いてたよね。お姉ちゃんと三人で水族館に行った時、怖がってポロポロ泣いてたはずだよ。何だっけ? アデリーペンギン? あれが嫌いなんでしょ? 泣き虫だったよね、小夜ちは。」

 

「そうよ、そいつ。アデリーペンギン。目がとにかく怖いの。人殺しの目なのよ。……ちなみにあんたも泣いてたからね。それまで楽しそうにしてたのに、私が泣いてるのを見た途端に泣き始めたんだから。そして次の瞬間にはでっかいペンギンを見つけてけろっとはしゃぎ出したわ。私は妹の感情の変化が急すぎて、幼心に『ヤバいな、こいつ』と思ったもんよ。」

 

うーん、面白い思い出話だな。きっと幼い頃の朝希さんは、小夜さんが泣いているのを目撃して急に悲しくなってしまったのだろう。突如として始まった双子の昔話をBGMにしつつ、夏目家目指して車を走らせていく。……もしかするとこういう二転三転する会話が、モノクロシスターズの魅力の一つなのかもしれない。意識してどうこう出来る部分ではなさそうだけど、動画内でも是非出していって欲しいトークスタイルだぞ。今後何かに活かせるかもしれないし、頭の片隅にでも置いておくか。

 

───

 

その後二人の幼少期の話が一段落したところで、ちょうど到着した夏目家の前に車を寄せてみると、そこで待っていた夏目さんが小走りで車に駆け寄ってきた。今日の彼女は薄めの黒いパーカーにジーンズという出で立ちだ。いつもの黒いリュックサックも持っているな。

 

「……おはようございます、駒場さん。小夜ちゃんと朝希ちゃんもおはようございます。」

 

一度助手席に乗り込もうとして朝希さんが乗っているのに気付いた後、後部座席のドアを開いて声をかけてきた夏目さんに、俺たち三人も挨拶を返す。こうなってくると軽自動車は少し狭いな。趣味的にも実用的にも新しい車が欲しいぞ。あと三ヶ月でリース期間が終わってしまうし、新車購入を視野に入れるべきかもしれない。

 

「おはようございます、夏目さん。」

 

「おはようございます、さくどんさん。……朝希、私の荷物そっちの足元に置いて。」

 

「うん、分かった。おはようございます、さくどんさん! パーカー、お揃いですね。」

 

「色まで被っちゃいましたね。被ったって言ってもまあ、朝希ちゃんのパーカーの方がずっとお洒落ですけど。」

 

小夜さんが荷物を退けた席に乗り込みながら、自分の無地のパーカーを見下ろして苦い笑みを浮かべている夏目さんへと、助手席に膝立ちになる形で後ろを向いた朝希さんが口を開く。尊敬する先輩と話したくて仕方がないようだ。

 

「無地も大人っぽくてカッコいいです! 私、前まではあんまりパーカー着なかったんですけど、さくどんさんがよく着てるから着るようになりました! ……お昼、何食べたいですか?」

 

「朝希、姿勢。ちゃんと前を向いてシートベルトを締めなさい。駒場さんが車を出せないでしょうが。」

 

「えと、お昼ご飯は朝希ちゃんと小夜ちゃんの希望でいいですよ。私は何でも大丈夫なので。」

 

「じゃあやっぱりファミレスですね。……駒場さん、決定しました! 行き先はファミレスです!」

 

うーむ、朝希さんのようなタイプが居ると助かるな。俺も夏目さんも、そして恐らく小夜さんも『何でもいい派閥』の人間だ。目的地をビシッと決めてくれるのはありがたいぞ。経験上こういう時に何でもいい派閥の人間しか居ないと、迷いやら遠慮やらで結構な時間を食ってしまうはずなのだから。

 

「はい、了解しました。出しますね。」

 

出発進行と言わんばかりに前方を指差した朝希さんに首肯してから、ウィンカーを出して車を走らせ始めた。この辺りには詳しくないが、ファミリーレストランなら大きな通りを走行していれば出会えるはずだ。最初に見つけた店に入るとしよう。

 

思案しながらハンドルを操作していると、後部座席の会話が耳に届く。小夜さんの声がだ。

 

「さくどんさん、荷物は真ん中に置いても大丈夫ですよ。私、こっちに寄れるので。」

 

「あっ、はい。ありがとうございます、小夜ちゃん。」

 

「……あと、敬語じゃなくても平気です。年下ですし、後輩なんですから。」

 

「んっと、これは癖みたいなものなんです。私、赤ちゃん相手にも敬語で話しちゃいますから。だからその、気にしないでください。」

 

赤ちゃんにもか。赤ん坊相手に敬語で喋りかけている夏目さんを想像して、確かにあまり違和感はないなと納得していると、今度は助手席の朝希さんが質問を放った。

 

「さくどんさんの家、赤ちゃんが居るんですか?」

 

「ああいや、親戚の赤ちゃんとかの話です。家族に対しては敬語じゃないですし、私の家には両親と妹しか居ません。妹は中二なので、朝希ちゃんたちと同い年ですよ。」

 

「本当ですか? 会いたいです!」

 

「あの、はい。機会があれば。……妹は朝希ちゃんたちが通ってる学校の高等部を受験するつもりらしいので、ひょっとすると同じ学校になるかもしれません。そしたらよろしくお願いします。」

 

おー、そうだったのか。あの高校に外部から入るのは、かなり難易度が高そうだな。真後ろの小夜さんもそう思ったようで、少し驚いた顔で相槌を打つ。

 

「うちの高等部を目指しているんですか。そうなるとさくどんさんの妹さん、凄く頭が良いんですね。私たちはエスカレーターだから楽ですけど、外から入ってくるとなるとそこそこ倍率が高いはずですから。中三の内申も重要になってきますし。」

 

「身内が言うのも何ですけど、成績はそれなりに良いんだと思います。夏休みも夏期講習で忙しいみたいですし、私とは大違いの出来た妹なんです。」

 

叶さんは頭が良かったのか。何となくそんな雰囲気はあったし、すんなり腑に落ちるぞ。にしたって夏期講習は大変そうだなと同情していると、朝希さんが興味津々の面持ちで新たな問いを投げた。夏目さんのことをもっと知りたいらしい。質問ラッシュだな。

 

「さくどんさんはどこの高校なんですか? この前会った時に十七歳って言ってましたし、高校生なんですよね?」

 

「あっ……私はあの、高校を辞めちゃったんです。なので今は学校に行ってません。」

 

「高校を? でも、どうして辞めちゃったんですか?」

 

「こら、朝希! 無遠慮に踏み込まないの!」

 

これはまた、ストレートに聞いたな。朝希さんなればこそ出来ることだぞ。小夜さんが鋭い口調で制止したのを受けて、朝希さんは目をパチパチさせながら小首を傾げる。

 

「けど私、ちょっと気になっただけだよ? どうしてなのかなって。」

 

「それは分かるけど、でもこういうことは……あれなの、軽々しく聞くべきじゃないの。すみません、さくどんさん。無視して大丈夫ですから。」

 

「……さくどんさん、ごめんなさい。私、おバカだから。時々余計なこと言っちゃうんです。嫌いにならないでください。」

 

小夜さんの声のトーンから何かを感じ取ったようで、分かり易くしょんぼりしながら謝る朝希さんへと、夏目さんが大慌てでフォローを送った。さっきまで満開のヒマワリみたいだった朝希さんが、一分咲きのタンポポくらいになってしまったな。心なしか帽子の耳がぺたんとしているように見えるぞ。

 

「いやいやいや、そんなに落ち込まないでください。嫌いになんてなりません。私が学校を辞めたのはその、何て言うか……全然大したことない理由ですから。それよりほら、コラボ。コラボ動画についてを話しましょう。」

 

むう、強引に話題を変えたな。……やはり詳細を話したくはないようだ。俺もどのタイミングで尋ねるべきかと迷っていたのだが、暫くは触れない方がいいらしい。無理に聞き出す必要は特にないわけだし、今後も『高校』に関する話題は避けておこう。

 

脳内にしっかりと注意事項を刻みつつ、見えてきたファミリーレストランの看板を指して車内に呼びかける。良いタイミングで見つかってくれたな。ややぎこちない空気になっているし、一度流れを切らせてもらおう。

 

「続きはあのファミリーレストランの中ででいいですか? 有名なチェーンですし、メニューも揃っていると思いますよ。」

 

「あっ、私はそこで大丈夫です。」

 

「私も問題ありません。……いいわよね? 朝希。」

 

「うん、いい。」

 

うわぁ、朝希さんが落ち込んじゃっているぞ。しゅんとした声色で言葉少なに答えたし、間違いなく『反省モード』に突入しているな。夏目さんもそれを察知したようで、非常に申し訳なさそうな顔付きになっている中……小夜さんが引きつった笑みで明るい声を上げた。無理にでも雰囲気を変えるべきだと判断したらしい。

 

「私……えっと、楽しみだわ。ファミレスは久し振りだから、何を食べようか迷うわね。朝希は何がいい?」

 

「……ハンバーグ。」

 

「ああ、ハンバーグ。ハンバーグはいいわね。私もハンバーグにするわ。ハンバーグは美味しいもの。それにほら、ハンバーグは……あの、アメリカンだから。駒場さんは何にしますか?」

 

ドイツ発祥だぞ、ハンバーグは。必死に話を盛り上げようとしている小夜さんに振られて、ファミリーレストランの駐車場に車を入れながら応答する。彼女の努力と勇気は認めたいが、こういう役回りはあまり得意ではないらしい。見事に空回っているな。ハンバーグのごり押しじゃないか。

 

「私はご飯ものにしたいですね。今の気分に合う一品があることを願います。……到着しましたし、行きましょうか。」

 

「ほらほら、着いたわよ朝希。降りましょう。楽しみね。あー、楽しみだわ。」

 

小夜さんがどこか乾いた響きで言うのと同時に、全員で車を降りて店へと歩き出す。地獄のような昼食のスタートになっちゃったな。朝希さんが自分の不用意な発言に落ち込み、年少の彼女を落ち込ませてしまった夏目さんが自己嫌悪状態に陥っているぞ。

 

ただ、一番キツいのは間で挽回しようとしている小夜さんだろう。彼女は駐車場を進みながら朝希さんを見て、夏目さんを見て、そして俺に『傍観していないで助けろ』の目線を向けてきているわけだが……何とまあ、崖っぷちの面持ちじゃないか。上司と部下に挟まれた哀れな中間管理職の表情だ。

 

俺も外側から眺めている場合じゃなさそうだなと覚悟を決めて、入店して席に案内された直後に声を放った。ちなみにテーブル席の片側に俺と夏目さんが座り、もう片方に小夜さんと朝希さんが居るという状況だ。妥当な席順だと思うぞ。

 

「まだ空いていて良かったですね。もう少し経ったら混んでくるでしょうし、待つ羽目になっていたかもしれません。……では、早速コラボ動画に関してを話し合いましょうか。モノクロシスターズ側の企画は決まっているんですよね?」

 

「はい、決まってます。朝希、二人で相談して決めたわよね? 何にするんだった? あんたが発表していいわよ。」

 

「……さくどんさんと、ゲーム。」

 

「そうなんです、三人でゲームをしたくて。それでジャンル毎にいくつか候補を決めたんですけど、さくどんさんは得意なゲームとかってありますか?」

 

朝希さんのローテンションっぷりにひくりと口の端を震わせた小夜さんの問いに、夏目さんが困ったような顔で応じる。

 

「ゲームは……えと、あんまり得意じゃないですね。ずーっと前に妹とレースのゲームをしたことがあるくらいです。」

 

「FPSとかは全然しない感じですか?」

 

「えふぴーえす? ……あっ、『銃のゲーム』ですか。そういうのは小夜ちゃんたちのチャンネルとかで見るだけです。やったことはありません。」

 

夏目さんの口振りから彼女が相当な『ニュービー』であることを読み取ったようで、小夜さんは平時より噛み砕いた表現で続きを語り始めた。夏目さんは今日日珍しいほどにゲームに馴染みがないらしい。『銃のゲーム』という言い方がそれを物語っているな。

 

「だったら、パーティー系のゲームはどうでしょう? コンシューマー機……家庭用のゲーム機なら三人でやるのも簡単ですし、撮影する頃には録画できるようになってるはずですから。パーティーゲームっていうのは要するに、人生ゲームとかモノポリーのテレビゲーム版ですね。」

 

「えっと、『桃太郎電鉄』とか『マリオパーティ』みたいなゲームですか? それなら両親と妹がやってるのを見たことがあります。」

 

「そうですそうです、そういうのんびりしたタイプのゲームです。パーティーゲームなら複雑な操作は必要ありませんし、ゆっくりプレイできるから慣れてなくても楽しめると思うんですけど……どうでしょう?」

 

「私はかなりのゲーム初心者なので、簡単なゲームなのは助かります。……でも、権利関係は大丈夫ですか?」

 

のんびりしているかな? 俺は小学生の頃に桃太郎電鉄をやって、友人と大喧嘩になったことがあるぞ。……まあ、この三人なら平気か。まさか子供の頃の俺みたいな展開にはならないはずだ。つくづく子供らしい子供だったな、俺は。

 

遠き日々を懐かしんでいる俺を尻目に、小夜さんが一つ頷いて返答する。

 

「大丈夫です。私たちが選んだゲームは非営利なら……つまり、広告さえ付けなければライフストリームでの動画化の許可が出てます。『カウントフューチャー』ってシリーズ、知ってますか? 結構有名だと思うんですけど。」

 

「……すみません、知らないです。」

 

「あっ、そうですか。……まああの、ほぼほぼ人生ゲームです。サイコロを振ってマスを進んでいって、イベントとかを起こしてお金を稼いで、ステータスを上げてキャラを成長させたり、ミニゲームでボーナスポイントを取り合ったりもして、最終的に一番金持ちだった人が勝ちって内容のゲームですね。そのシリーズの4をやろうと思ってます。」

 

「あー……はい、何となくイメージできます。そういうゲームだったら私にも出来るかもしれません。」

 

若干自信なさそうに首肯している夏目さんだが……カウントフューチャーは『子供でも楽しめます』って部類のゲームだし、心配しなくても大丈夫だと思うぞ。それにパーティーゲームなら自然と会話が生まれるだろうから、話題に困るという展開も避けられるはず。ベストな選択だと言えそうだ。

 

二人のチョイスに感心していると、小夜さんが夏目さんに追加の説明を投げた。

 

「発売が二年前なので、ちょっと古いゲームではあるんですけど……でも、まだまだ楽しめると思います。次回作が来年の春発売って発表されたばかりですから、タイミング的にも悪くないはずです。パーティーゲームだったら動画映えしますし、モノクロシスターズ側の動画では『カウントフューチャーを三人で喋りながらやる』って内容でいきたいんですけど、それで問題なさそうですか?」

 

「はい、問題ありません。面白い動画に出来そうな気がしますし、それでいきましょう。……朝希ちゃん、一緒に遊んでくれますか? 私は多分へたっぴですけど、頑張ってみますから。」

 

小夜さんに了承してから優しい笑顔で語りかけた夏目さんに、朝希さんが少しだけ元気を回復させてこくこく頷く。

 

「ぁ……やりたいです! 私、さくどんさんと一緒にゲームしたくて。それでずっとコラボできるのを楽しみにしてました。」

 

「私もすっごく楽しみにしてましたよ。スポンサー動画があったから延期になっちゃいましたけど、今度こそみんなで良い動画を撮りましょう。色々教えてくださいね。」

 

「私、私……教えます! 小夜ちは意地悪だから、きっと初心者のさくどんさんを狙うはずです! だから私が守ります!」

 

グッと拳を握りながら宣誓した朝希さんへと、小夜さんがホッとしたような苦笑いで突っ込みを入れた。俺も安心したぞ。夏目さんのお陰で朝希さんの明るさが戻ってきたようだ。

 

「何よその『きっと』は。そんなことするわけないでしょ。……ちなみにですけど、さくどんさんはどんな企画を考えてきてくれたんですか?」

 

「私はやっぱり料理ですね。さくどんチャンネルでは三人で料理対決をする動画を、撮って……みたいんですけど。」

 

双子の反応を見て段々と勢いを失っていった夏目さんの提案に、小夜さんが目を逸らしながら小さく呟く。もしかして、モノクロシスターズの二人は料理が苦手なのか? 朝希さんも途端に渋い顔になってしまったな。

 

「……料理ですか。」

 

「あの、小夜ちゃんたちはあんまり料理しませんか?」

 

「小学校の家庭科の授業でカレーを作りました。それが私たちの料理経験の全てです。厳密に言えばカレーも『作った』っていうか、同じ班の子の手伝いをしただけですけど……朝希はどうだったの?」

 

「私、じゃがいもとニンジンを切ったよ。……それだけ。あとは全部美咲ちゃんがやってくれたから。大きめに切ってねって言われてザクザク切って、完成したカレーを食べただけで終わっちゃった。」

 

小夜さんと朝希さんが料理の経験を殆ど持っていないことと、そして『美咲ちゃん』なる人物が料理上手だってことは伝わってきたぞ。判明した二人の料理スキルに俺が唸っている間にも、夏目さんが悩んでいる時の声色で相槌を打った。

 

「それなら……そう、料理教室。料理教室の動画にしましょう。二人に共通する好きな料理、何か思い付きますか?」

 

「共通してるのは……姉が作るお雑煮と、カレーと、おでんですね。あとお好み焼きも好きです。私は広島風派で、朝希は関西風派ですけど。姉がホットプレートで別々に作ってくれるんですよ。」

 

「それと、お姉ちゃんが作るグラタンとバナナケーキも好きです。あとあと、コロッケとハンバーグも。」

 

「つまり、二人は基本的にお姉さんの手料理が好きなんですね。」

 

微笑ましい好物だな。柔らかい笑顔で纏めた夏目さんは、少しだけ困ったように眉根を寄せて続きを話す。母の味ならぬ姉の味か。レパートリーも豊富なようだし、お姉さんは料理が得意らしい。

 

「お姉さんの味に勝つのは不可能でしょうし、悩むところですね。そういう料理は私が教えるよりも、お姉さんに教わるべきだと思うので……んー、難しいです。」

 

「では、二人のお姉さんの好物を作ってみるのはどうですか? 夏目さんに習ってこっそり練習して、家で改めて作って食べてもらうんです。」

 

「うあ、良いですね。それ、凄く良いです。そういうの、燃えます。」

 

そっと出してみた俺のアイディアに夏目さんが賛成してくれたのと同時に、モノクロシスターズの二人も賛同を寄越してくる。朝希さんはキラキラした笑顔で、小夜さんはちょびっとだけ恥ずかしそうな面持ちでだ。

 

「私も賛成です! いいよね? 小夜ち。お姉ちゃん、喜んでくれるかも!」

 

「まあ、そうね。いいんじゃないかしら。私たちじゃお姉ちゃんほど上手く作れないだろうから、喜んでくれるかは分からないけど。」

 

「お姉さんは絶対に喜んでくれますよ。全財産を賭けてもいいです。」

 

嬉しいはずだぞ。親代わりとして育ててきた中学生の妹二人が、自分に料理を作ってくれたら喜ばないわけがない。俺なら感極まって泣くかもしれないな。たとえ焼け焦げて炭みたいになっていたとしても、この世で一番美味しい料理に感じられるはずだ。

 

自信を持って強く断言してやれば、小夜さんは気圧されたように目を瞬かせて応答してきた。

 

「そ、そうですかね? ……けど、姉の好きな物ですか。ちょっと難しいです。私たちと違って好き嫌いが全然無くて、何でも美味しいって食べる人なので。」

 

「小夜ち、あれは? あら汁と海鮮丼。お姉ちゃん、いつも食べたいって言ってるじゃん。テレビとかで映る度に、『あーもう、北海道に行きたいわぁ』って。」

 

「北海道に行きたがってるのは現実逃避だと思うけど、一応好物と言えば好物なのかもね。……姉は和食全般が好きなのかもしれません。特に魚を使った料理が。外食の時はぶり大根とか、秋刀魚の塩焼きとか、鯛のお刺身とか、鯖の味噌煮とかをよく選んでますから。」

 

うーん、王道の好みだな。俺も魚系の和食は好きだぞ。もう名前の時点で全部美味しいじゃないか。小夜さんの推理を耳にして、夏目さんがやる気になっている表情で大きく首を縦に振る。

 

「分かりました、和食ですね。そういうことなら朝希ちゃんには海鮮丼とあら汁をやってもらって、小夜ちゃんにはバランスの良い魚系の定食を作ってもらいます。季節に合わせたメニューを考えてみるので、楽しみにしておいてください。」

 

「……私と朝希で一食分を作るんじゃないんですか?」

 

「それぞれ一食作ってみて、交換して食べた方が動画的に面白いですよ。頑張って教えますから、お家でお姉さんにも作ってあげてくださいね。」

 

「……はい。」

 

互いの顔を見て不安そうになっているモノクロシスターズを他所に、夏目さんは決意の面持ちで黙考し始めた。もうメニューについてを思案しているらしい。……彼女はこの前会った時にモノクロシスターズの事情を軽くだけ聞いているので、お姉さんには是非とも美味しい手料理を食べてもらいたいのだろう。モチベーションがぐんぐん上がっているようだ。

 

「朝希、変なの作らないでよ? せめて食べられる物にしてよね。」

 

「小夜ちこそ大丈夫? 美味しくなかったらお姉ちゃんには出さないからね。……そもそも小夜ちって、魚さばけるの? 焼き魚すら綺麗に分けられないのに。」

 

「ちょっと、蒸し返さないでよ。焼き魚と生魚は違うでしょ。箸でやるから難しいんであって、包丁だったら魚くらい簡単にさばける……はずだわ。あれでしょ? 三枚にするやつでしょ? あんなの楽勝よ。さくどんさんの動画でススッとやってたもの。それよりあんたこそ酢飯をきちんと作れるの? 海鮮丼って酢飯なのよ?」

 

「出来るもん。ご飯に酢を入れて、混ぜればいいだけでしょ? ……違うの?」

 

違うと思うぞ。俺も料理はさっぱりだから確たることは言えないが、まさかそんな単純な作り方ではないだろう。先ずすし酢を作る必要があるんじゃなかったか? どこかで手に入れた薄い記憶によれば、砂糖と塩を使う……はずだ。多分。

 

二人の会話から先行きの不安をひしひしと感じつつ、メニュー表を配ってテーブルに言葉を放つ。

 

「まあ、とりあえず今食べる物を注文しましょう。何事も腹拵えをしてからですよ。」

 

「はーい。……私、和風ハンバーグにします。ライスのセットで。あとドリンクバーも。」

 

「私は……ちょっと待ってくださいね、すぐ決めますから。」

 

即決した朝希さんを目にして焦った顔付きになった小夜さんがメニュー表を開き、彼女の声を聞いた夏目さんもハッとしたように注文する品を選び始めた。即座には決められないが、しかし他の人を待たせたくもないのだろう。分かるぞ、その気持ち。

 

何にせよ、これなら良い雰囲気で昼食を食べられそうだな。スタートで派手に躓いてしまったものの、どうにか巻き返すことが出来たようだ。……とはいえ、今日の本番はむしろディヴィジョンフォーラムだぞ。この四人での打ち合わせはどちらかと言えば『前哨戦』なのだから、しっかり食べて万全の状態で会場に向かわなければ。

 

濃い土曜日になりそうなことを予感しつつ、俺も豊富なメニューの中から料理を選び始めるのだった。

 



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Ⅲ.雪丸 ③

 

 

「やあ、諸君。無事着いたようだね。」

 

我らが社長は今日も元気に威張っているな。ファミリーレストランでの昼食を無事に終えて、フォーラムの会場までの移動時間を挟んだ午後一時ちょっと過ぎ。足を組んで堂々と長椅子に腰掛けている香月社長の呼びかけに、俺たち四人はそれぞれの返事を返していた。隣にはスカートスーツ姿の風見さんも座っているし、エントランスロビーで俺たちを待っていてくれたらしい。

 

「おはようございます、社長、風見さん。」

 

「おはようございます!」

 

「どうも、おはようございます。」

 

「おはようございます、香月さん、風見さん。」

 

俺、朝希さん、小夜さん、夏目さんの順での『四連おはようございます』を受けて、風見さんが応答しながら立ち上がる。そこそこ広めのロビー内には、他の人の姿もちらほらと見えているな。フォーラムの参加者なのか、それともこの施設の平時の利用者なのかは不明だが、まあまあ賑わっているようだ。

 

「おはようございます、皆さん。もう会場には入れますよ。二階の多目的ホールです。」

 

「飲み物の持ち込みは可だそうだから、そこの自販機で買おうじゃないか。来たまえ、諸君。社長たる私が奢ってあげよう。」

 

えっへんと言い放って自動販売機の方へと歩いていく香月社長の背を追いつつ、周囲を見回してポリポリと首筋を掻く。前に社長が同じ表現を使っていたけど、確かに何となく『説明会』の雰囲気があるな。就職活動をしていた頃を思い出してそわそわしてくるぞ。

 

ライフストリーム・ジャパンディヴィジョンフォーラム。その会場となった六本木のこの施設は、どうやら映像系の専門学校がメインで入っている複合ビルらしい。北アメリカの企業が経営元の専門学校のようなので、そういった関係でキネマリード社が会場として選んだのだろう。キネマリードは傘下にアニメーションスタジオを持っていたはずだから、その辺の繋がりがあるのかな?

 

ただまあ、別に場所に困ってここにしたわけではないはずだ。通り沿いのスペースには有名チェーンのカフェが入っていたし、このロビーも中々豪華で近代的な造りなので、大企業キネマリードの面目は保てるレベルの会場だと言えるだろう。……こういう施設で勉強できるのは楽しそうだな。学費も相応に高そうだが。

 

生徒らしき真っ赤な髪の若い男性がエレベーターを待っているのを横目にしつつ、クリエイティブな分野の人たちはやっぱり個性的だなと唸っている俺に、歩み寄ってきた風見さんが声をかけてきた。ちなみに他の四人は自動販売機の前でわいわい相談中だ。数種類の自販機が並んでいて選択肢が豊富なので、何を買うかで盛り上がっているらしい。

 

「駒場さんは芸能系の短大卒なんですよね? こんな感じの学校だったんですか?」

 

「いえいえ、俺の母校はもっと学校らしい地味な短大でした。場所も郊外の方でしたし、一般的な学部もありましたから。……なのでまあ、こういう専門色が強い学校には少し憧れます。」

 

「先進的ですよね。良くも悪くも縛りが緩そうですし、近代的な美大ってイメージです。」

 

「あー、良い表現ですね。的確な気がします。」

 

そもそも『勉強』の質が違うんだろうな。音大とか、美大をデジタルにしたような学校だ。道筋や目指す方向が多様だから、学校の在り方そのものにも柔軟さが出てくるのかもしれない。自動販売機しかり、教育しかり、選択肢が豊かになるのは良いことだと思うぞ。

 

風見さんの表現に感心しながら思案していると、こちらを振り向いた香月社長が話しかけてくる。

 

「駒場君と風見君はお茶でいいかい?」

 

「はい、大丈夫です。ありがとうございます。」

 

「ご馳走になります、香月さん。」

 

香月社長に二人でお礼を言いつつお茶を受け取って、そのまま全員で階段を使って二階に上がると……ふむ、こっちにも小さなロビーがあるな。そしてフォーラムの舞台となる多目的ホールの入り口では、キネマリード社の人間らしきスーツ姿の二人の女性が何かを配っているようだ。来場者向けの資料だろうか?

 

「私と風見君は企業席に行くが、君は三人に付いていてあげてくれたまえ。」

 

「了解しました。」

 

香月社長と会話をしながら入り口に近付くと、女性の一人が俺にクリアファイルを差し出してきた。白い半透明の、ライフストリームのロゴが入ったクリアファイルをだ。

 

「こちら、フォーラムの資料になります。クリアファイルはそのままお持ち帰りください。」

 

「ありがとうございます。」

 

ぬう、安いクリアファイルではないな。こういった頒布用のクリアファイルにも細かいグレードが存在することを、俺は芸能事務所での経験でよく知っているのだ。硬いし厚めの物なので、間違いなく高いやつだぞ。それにロゴの下に『ライフストリーム・ジャパンディヴィジョンフォーラム』と英語で入っているから、余っても似たような他のイベントに使い回せないし、俺の予想よりキネマリード社は気合を入れてきたらしい。

 

あるいは、大企業が故の余裕なのかもしれないな。単純にこの程度の出費は取るに足りないということか。クリアファイル一枚から深読みしていると……おー、会場も結構豪華だぞ。薄暗い中に大量の椅子が並んでいる、多目的ホールの光景が目に入ってくる。パッと見た限りだと四分の三ほどの席が既に埋まっているようだ。香月社長はこの前『満員にはならない』と言っていたけど、これはそうなってしまうんじゃないだろうか?

 

「わぁ。……ここに居る人たち、全員がライフストリーマーなんですか?」

 

「さすがに全員ではないでしょうが、一定数は参加していると思いますよ。」

 

現段階の一般参加者の数は二百五十人弱ってところかな? ライフストリームを補助的な要素として利用しているブロガーや、興味はあっても投稿していないという人も沢山参加しているのだろう。会場を見渡して驚いている様子の朝希さんに返答していると、夏目さんが大きく目を開きながらポツリと呟く。彼女にとっても予想外だったらしい。

 

「……思ってたより多いですね。びっくりしました。」

 

「嬉しいびっくりですか?」

 

「はい、嬉しいです。もちろん頭では理解してたつもりですし、今日来られた人はごく一部なんでしょうけど……ライフストリームに期待してる人、いっぱい居るんですね。こうして直に見るとちょっと安心します。私たちだけじゃないんだなって。」

 

コミュニティを築いて交流し合っているライフストリーマーも居るようだが、夏目さんは未成年だし性格的にも人見知りだということで、これまで『リアルの交流』は一切してこなかったらしい。だから『同志たち』の存在を直接確認できて嬉しいのだろう。本当にこの子はライフストリームが好きなんだな。

 

夏目さんの表情を見て微笑んでいる俺に、香月社長が招待企業スペースらしき前方のテーブルに目をやりつつ呼びかけてきた。その近くにはプレス席もあるな。そういった席も七割近くが埋まっているようだ。

 

「では、駒場君。三人を頼むよ。休憩時間があるようだし、その時に一度合流しよう。」

 

「分かりました。……行きましょうか、皆さん。四人で並べる席を探しましょう。」

 

「あそこの端っこ、空いてますよ。」

 

香月社長たちと分かれた後、小夜さんが発見した後方の席に朝希さん、小夜さん、俺、夏目さんの順番で腰を下ろす。企業やプレスには長テーブルが用意されてあるが、一般参加者は椅子に付属している小さなテーブルしか使えないようだ。……まあ、あるだけマシだぞ。こういうイベントだと簡素なパイプ椅子やスタッキングチェアのケースが殆どだし、『一般席』としてはそれなりに豪勢な部類だろう。

 

講演会や説明会の開始前特有の騒めきを耳にしつつ、壇上の大きなスクリーンにライフストリームのロゴが映っているのを眺めていると、左側に座っている朝希さんと小夜さんの会話が聞こえてくる。

 

「小夜ち、これ学校で使えるね。クリアファイル。」

 

「こういうのは綺麗に取っておくものよ。記念になるでしょ。……それより、中身をちゃんと確認しておきなさい。」

 

「はーい。」

 

おっと、そうだな。資料をチェックしておかなければ。俺もクリアファイルからホッチキスで綴じられた薄めの冊子を抜いて、ざっと目を通してみれば……最初にキネマリード社の『グローバルマネージャー兼ライフストリーム・コンテンツプロデューサー』という凄そうな役職の人がプレゼンを行い、その後スペシャルゲストの講演と質疑応答があって、小休憩を挟んでから日本のライフストリーマーたちのパネルディスカッションが続くようだ。そして最後にもう一度キネマリード社の人間が締めの話をするらしい。

 

ちなみに記載されてある大まかな経歴によると、最初にプレゼンをする凄い役職の人……ジルベルト・パーカー・ジュニア氏は、キネマリード社に買収される以前からライフストリームに関わっていた人なんだとか。買収先の大企業で重職に就いているわけだ。大出世だな。俺も見習いたいぞ。

 

資料を捲りつつ羨んでいる俺に、右隣の夏目さんが小声で問いかけてきた。

 

「駒場さん、『スペシャルゲスト』って誰なんでしょう?」

 

「名前は載っていないようですね。企業向けの招待メールにも書いてありませんでしたし、そこまで勿体付けるとなればかなり有名なライフストリーマーなんじゃないでしょうか?」

 

サプライズ的な思惑があるんだろうか? イベントの売りとも言えるスペシャルゲストを、徹底的に隠すというのは豪気な選択だな。ハードルを上げ過ぎじゃないかと心配している俺へと、夏目さんは素直に楽しみにしている面持ちで応じてくる。

 

「やっぱりライフストリーマーではあるんですよね? 誰なのか楽しみです。」

 

「イベントの性質からしてそれ以外の選択肢は無いと思いますし、数百万人規模のチャンネルを持っている人の話を聞けるかもしれませんよ。」

 

「貴重な機会ってことになりそうですね。……きちんと聞いて、盗める部分は盗もうと思います。」

 

やる気に満ち満ちている夏目さんが首肯したところで、壇上の向かって左端に立ったアジア系のスーツ姿の男性が、手に持ったマイクのチェックをし始めた。会場に質問を投げかけるという形でだ。流暢な日本語だし、あの人はキネマリード日本支社の人なのかな? あるいは外部の司会を雇ったのかもしれないが。

 

「あー、あー。……来場の皆さん、ライフストリーム・ジャパンディヴィジョンフォーラムへようこそ。開演までまだ少し時間がありますが、司会の私からちょっとしたアンケートをさせてください。この中で『ライフストリームに動画を投稿したことがある』という方はどれくらいいらっしゃいますか?」

 

失礼ではない程度のやや砕けた明るい口調……つまり『盛り上げる時の口調』で尋ねてきた司会の男性に従って、一般席の半分弱の人間がおずおずと挙手する。それを目にして大きく頷いた司会は、続けて問いを場に放った。

 

「ありがとうございます。では、ライフストリーム・パートナープログラムへの登録……俗に言う『チャンネルの収益化』をしている方はどうでしょう?」

 

すると……うーん、少ないな。夏目さんやモノクロシスターズの二人を含め、簡単に数えられる程度の手が挙がっているだけだ。会場のそんな様子を確認して、司会の男性は苦笑いで再びお礼を口にする。

 

「どうもありがとうございます。残念ながら、あまり広まっていないようですね。今この場で初めてプログラムの存在を知ったという方も沢山いらっしゃることでしょう。……ですが、ご安心ください! あそこでスライドの準備をしているキネマリード本社の『偉い人』が、これから詳しい説明を行う予定です。退屈な話にならないように努力してくれるはずですので、あとほんの少しの間だけそのままお待ちください。」

 

司会の男性が示す先に居る三十代後半ほどの西洋系の男性は、隣の通訳らしき女性から何かを囁かれた後……笑顔で手を振って洒落っ気たっぷりにお辞儀をした。さすがはエンターテインメントに強い企業だけあって、形式張った進め方にするつもりはないらしい。この調子なら楽しんで聞けそうだな。

 

───

 

そして十分ほどが経過した後、司会の紹介を受けて登壇した『キネマリード本社の偉い人』ことジルベルト・パーカー・ジュニア氏が、通訳経由で集まった参加者たちへのプレゼンテーションを開始した。またしても質問という形でだ。向こうの人はそういうスタイルが好きなんだろうか?

 

『こんにちは、親愛なる日本のパートナーの皆さん。私はキネマリード社でライフストリームのコンテンツマネジメントと、パートナー・プログラムのグローバライズを担当しているジルベルト・パーカーです。今日こうして皆さんの前で話せることをとても光栄に思っています。……突然ですが、本題に入る前に一つ質問をさせてください。皆さんはラジオスターを殺した犯人を知っていますか?』

 

何だか知らないが、いきなり物騒な発言が飛び出してきたな。『殺した』って言わなかったか? そんなパーカー氏の英語での呼びかけを、隣に立っている通訳の女性が日本語で言い直す間も無く、企業席の方に座っている誰かが……うわぁ、香月社長だ。うちの社長どのがびしりと手を挙げる。何をやっているんだ、あの人は。目立っているぞ。

 

それを見たパーカー氏が苦笑する中、一歩遅れて英語が得意ではない俺たちにも質問の内容が伝わってくるが……『ラジオスターを殺した犯人』? 日本語になっても意味がよく分からないな。どういう意図の問いなんだ?

 

俺と夏目さんが困惑しているのを他所に、朝希さんがハッとした表情で手を挙げようとしたのを、小夜さんが小声で注意しながら妨害した。ちなみに現時点で手を挙げている人間は会場内に二人だけだ。ずっと『私を指名しろ』という圧力をパーカー氏にかけ続けている香月社長と、最前列右端の一般参加席に居るテンガロンハットを被った誰かだけ。……こういう場面で挙手できる香月社長も豪胆だが、あの特徴的な帽子の誰かも相当だな。腕を天高くビシッと伸ばしているぞ。

 

「朝希、やめなさい。悪目立ちするでしょうが。」

 

「でも、分かるもん。答えさせてよ。絶対合ってるから──」

 

『では、真っ先に手を挙げてくれたそちらの黒髪の女性に答えていただきましょう。』

 

「あーほら、香月さんに取られちゃったじゃん。私、分かってたのに。ビデオだよ。」

 

ビデオ? 不満げな面持ちの朝希さんが小夜さんに文句を言ったところで、指名された香月社長が流暢な英語で回答する。後ろからだから見えないけど、どんな顔をしているのかは大体分かるぞ。間違いなく『ドヤ顔』で答えているはずだ。

 

『ビデオですよ、ミスター・パーカー。ラジオスターを殺したのはビデオです。』

 

『ええ、正解です。嘗てスポットライトを一身に浴びていたラジオスターたちは、ビデオに……つまり、テレビスターたちにその座を奪われました。』

 

「ね? ね? 合ってたでしょ? 何で止めたのさ。小夜ちの所為だよ。」

 

「大人しく聞いてればいいでしょうが。恥ずかしいから目立たないでよ。あんたがそうやって目立つと、同じ顔の私まで巻き添えを食らうんだから。」

 

朝希さんと小夜さんが囁き声で言い争っているのを尻目に、パーカー氏は通訳越しに俺たちへの話を続けてくるが……正解を聞いてもピンと来ないな。夏目さんもきょとんとしているし、こっそり朝希さんに尋ねてみるか。

 

『新聞からラジオへ、ラジオからテレビへ。時代や技術に沿う形で、我々の身近なメディアはどんどん進化してきました。より速く、より公正に、より分かり易く、より華やかに。メディアの急激な進歩と多様化こそが、近代の歩みの速さを表していると言えるでしょう。』

 

「朝希さん、さっきの質問はどういう意味だったんですか?」

 

「洋楽です。私のスマホに入ってるので、後で駒場さんにも聞かせてあげます。」

 

洋楽? 洋楽の歌詞かタイトルを『元ネタ』にした質問だったということか? 更に分からなくなってしまったが……まあ、後で教えてくれるなら今はいいか。とりあえずパーカー氏の話に集中しよう。

 

『では皆さん、スポットライトの下に立ったテレビスターを殺すのは誰だと思いますか? ……我々はライフストリームこそがその役割を担う存在だと信じ、そうなれるように努力を重ねています。無論、新聞もラジオも未だ生きてはいるでしょう。日本においてもノスタルジーの中だけの存在にはならず、しっかりと主要な情報媒体の一つとして社会に根付いているはずです。私はそんな新聞やラジオを尊敬していますよ。今私たちが居るこの自由で民主的な世界は、彼らの力によって作られてきたんですから。』

 

そこで一度区切ったパーカー氏は、通訳が訳し終えるのを待ってから続きを語り出した。通訳の女性も滑らかに話しているし、どうやら事前に話す内容をざっくりと打ち合わせ済みらしい。自社通訳なんだろうか? キネマリード社の底の深さを思い知るぞ。

 

『しかし、もはや彼らはスポットライトを浴びていません。生き残ったにせよ、今の世におけるメディアの主役とまでは言えないでしょう。では現代の主役とは? ……そう、テレビですよ。新聞からラジオが簒奪した主役の座を、半世紀前にテレビが奪い取ったわけですね。古いものが追いやられるのは物悲しい話ですが、それこそが人類の進歩の秘訣です。嘗ての人々が新聞を読んで遠い地の出来事に想いを馳せていたように、ラジオの前で野球選手の活躍に釘付けになっていたように、現代を生きる人間たちはテレビを通して世界のことを知っています。』

 

そこまで言い切ってから再び通訳が追いつくのを待つと、パーカー氏はパッと切り替わったスクリーンを……膨大な量のサムネイルが映し出されているスクリーンを手で示して、強気に笑いながら『演説』を継続する。

 

『ですが、いつまでもそのままでは退屈でしょう? 人間はもっと先に進まなければなりません。……故に我々はライフストリームを創り出しました。ラジオスターを討ち果たした、現代の怪物たるテレビスターを弑せる新たな主役を。ラジオが新聞に倣い、テレビがラジオに倣ったように、我々はテレビに倣ってライフストリームという存在を創り上げたんです。』

 

うーん、なるほど。つまりパーカー氏は、メディアの移り変わりのことを話しているわけか。新聞からラジオへ、ラジオからテレビへと受け継がれてきた『メディアの主役』の座を、彼らキネマリードの人間たちはライフストリームに受け継がせようとしていると。予想以上に壮大なプレゼンをしてきたな。

 

これは大言壮語なのか、はたまた未来予知なのか。あまりにも挑戦的な主張に怯んでいると、パーカー氏が両手を広げながら口を開く。……一つだけ確実なのは、彼が『本気で』仕事をしているということだな。そこだけはひしひしと伝わってくるぞ。

 

『今のライフストリームはまだ弱々しい赤子ですが、何れテレビと真正面から戦える巨人に成長してくれるはずです。テレビの次に主役になるのはインターネット・ストリーミングであり、ライフストリームはその先頭に立てるポテンシャルを秘めています。……だから、私は今日日本の皆さんにお願いをしに来ました。どうか我々の愛するライフストリームを育てるパートナーになってください。運営元だけでも、視聴者だけでもダメなんです。ライフストリームの骨子を形作っているのは、そこに動画を投稿している投稿者たちなんですから。……我々は日本というクリエイティブで先進的な国家を、非常に重要な市場として認識しています。何せ私はこの国のアニメーションを見て育ってきましたからね。創造性豊かな日本の皆さんと、動画共有サイトの相性の良さは重々承知しているつもりですよ。』

 

そう言って悪戯げに肩を竦めたパーカー氏は、再度切り替わったスライドを指して続けてきた。先程のは世界のサムネイルだったが、今映っているのは日本のライフストリーマーたちのサムネイル画像だ。無数のそれでドット絵のようにライフストリームのロゴを描いているな。

 

『私は金よりも夢を取る男ですが、しかし同時に夢を叶えるためには金が必要なことを知っている大人でもあります。動画制作においてもそれは同じでしょう。今ここに映っている日本の投稿者たちの大半は、何ら利益を受け取ることなく人々に自らの創造性を提供してくれているんです。キネマリード社の支援を受ける前、夢だけを見つめてサンドイッチを分け合っていた頃の私たちのように。……我々はそんな状況を看過するつもりはありません。だって、努力には然るべき対価が支払われるべきでしょう? そうでなければ悲しすぎますよ。その程度の基本的なことさえ出来ないプラットフォームが、強大なテレビを打ち倒すなど夢のまた夢でしょうね。』

 

すると三度切り替わったスライドが、今度は『右肩上がり』のお手本のようなグラフを映し出す。これがホワイトノーツの業績だったら、俺はこの場で全裸になって踊り出してもいいくらいの伸びっぷりだ。『グングン』という表現がぴったりの上がり方だな。

 

『これは日本のパートナーの皆さんの収益の変化を表したグラフです。この半年を見るだけで、三百パーセント以上の伸びを示しています。……もはや我々からすれば、利用者数四位の日本は潜在的な市場ではありません。集中して力を注ぎ込むに値する、世界でも代表的な市場の一つだと言えるでしょう。ライフストリームへの動画投稿によって生計を立てるというのは、日本の皆さんにとってそう遠い話ではないんです。』

 

香月社長は俺と出会った頃、『動画投稿が職業の一つになる』と語っていたっけ。それと全く同じ内容を、キネマリード社の人間が沢山の人の前で話しているぞ。そして今の俺もまた、そうなることを確信できている。

 

社長の『予言』が的中しそうなことに何だかちょっぴり感動していると、パーカー氏が新たなスライドを指し示して声を放ってきた。現段階のライフストリームの利用数を説明するためのスライドらしい。

 

『現在のライフストリームでは毎分四十五時間分の動画が投稿されており、一日の視聴回数は三十億回を超えています。我々の予測が正しいのであれば、来年には四十億回を優に突破していることでしょう。一見すると途方もない数字ですが、成長途上の時点でそれだけのアクセスを確保できているんです。……我々は進化を止めませんし、得た利益を必死に抱え込みもしません。ライフストリームが成長すればするほど、パートナーたちに多くの利益を分配できるシステムにしていこうと考えています。醜い肥大ではなく、公正な拡大。私たちはそれを真摯に掲げていくつもりです。』

 

会場を見渡しながら力強い笑みで宣言したパーカー氏は、切り替わったスライドの前で『掴みの話』を締める。中央にあるライフストリームのロゴを、有名企業のロゴや世界中の投稿者たちのサムネイル、そして視聴者を表現しているのであろうイラストが囲んだスライドの前でだ。

 

『広告を出してくれる企業、動画を投稿してくれる投稿者、利用してくれる視聴者。それらを繋げ、富ませ、何より楽しませることがライフストリームの役割であると私は認識しています。そのために新たな広告システムの確立や、投稿者にダイレクトな利益を齎す制度の構築、より視聴し易いページデザインの開発などを順次行っていく予定です。なので皆さん、今後のライフストリームの進化をどうぞ楽しみに待っていてください。我々はビジネスマンとしても、エンターテイナーとしても皆さんの期待に応えてみせますから。……それでは、次に具体的なパートナーたちへの支援方法についてを説明していきましょう。』

 

うーむ、濃いな。初っ端から非常に濃い話だったぞ。……ただ、最初に理念を聞けたのは良かったかもしれない。多少のリップサービスは当然含まれているはずだが、それを抜きにしても素晴らしい理念に思えるし、壮大な『野望』が入っていたのも好印象だ。

 

キネマリード社は随分と魅力的な話をする人物を派遣してきたなと感心しつつ、資料を捲って次なる説明に集中するのだった。

 



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Ⅲ.雪丸 ④

 

 

「面白かったね、小夜ち。色々参考になったし、授業っぽかったのに全然眠くならなかったよ。」

 

そしてフォーラムが予定より少しだけ早めに終了した、午後四時半ちょっと前。俺と夏目さんとモノクロシスターズの二人は、会場となった施設の階段を四人で下りていた。香月社長は終わるや否やスカウトのために姿を消してしまったし、風見さんはそんな社長を家まで送る必要があるので、四人で先に帰ることになったのだ。

 

ぴょんと元気良く一階に降り立ちながら語る朝希さんに、小夜さんが眉根を寄せて応じる。全体的には朝希さんが言う通り、何とも為になるイベントだったな。パーカー氏の話からも、招かれたライフストリーマーたちからも、得られるものが沢山あったぞ。

 

「そうね、良かったわ。初めて知る情報も多かったし、間違いなく来た価値はあったけど……でも、ゲームとか音楽の権利関係の話題は一切出てこなかったわね。そこが少しだけ残念かも。」

 

「小夜ちはあると思ってたの?」

 

「あればいいなって期待してたの。……軽くすら出てこなかったってことは、運営側はまだ深く介入しないつもりなのかも。どっちにしろ暫くは自分たちで対処していくしかないみたい。」

 

「そんなに心配しなくても、難しいところは駒場さんがやってくれるよ。ね? 駒場さん。」

 

くるりと振り返って尋ねてきた朝希さんへと、苦笑しながら肯定を返す。そうやってぶん投げてくれるのが一番やり易いぞ。信頼の証だと受け取っておこう。

 

「ええ、任せてください。お二人が動画制作に集中できるように、そういう厄介な部分は私たちで解決していきます。……単に今日話さなかっただけという可能性もありますしね。フォーラムの目的に適していないので、時間の都合で省いたのかもしれませんよ。」

 

「……解決する気はあるってことですか?」

 

「キネマリード社としても権利関係の諸問題は目の上のたんこぶでしょうから、何かしらの解決策は打ち出してくると思います。広告収益を権利主と分け合ったり、ゲーム販売プラットフォームとの業務提携を行ったり。そういった具合に投稿者と権利主との仲介役をライフストリームが担う形で、簡単にやり取りできるシステムを構築してくれる……かもしれません。」

 

「『かも』ですか。」

 

困ったような笑みで相槌を打ってきた小夜さんに、こちらも同じ顔で応答した。現時点ではまだ明確な予想を立てられないぞ。判断材料が少なすぎるのだ。

 

「こういう予想は香月社長の方が得意ですから、私には確たる展開はさっぱりですよ。……ただ、このまま放置したりはしないはずです。対策を出してくることだけは間違いないと思います。」

 

「なら、期待し過ぎないで待っておくことにします。」

 

小夜さんが肩を竦めて話題を締めたところで、ずっと何事かを黙考していた夏目さんがポツリと呟く。悩ましそうな面持ちでだ。

 

「私はキネマリードの人の話よりも、ライフストリーマーさんたちの話がちょっと衝撃でした。特にスペシャルゲストのワトキンスさんの話が。……今までは『動画投稿を仕事にする』って目標がぼんやりした遠さにあったのに、急にはっきりした遠さになった気がします。」

 

「……はっきりした遠さ、ですか。」

 

「距離が分かっちゃったんです。もう叶えてる人が居るっていうのは励みになりますけど、同時に自分の甘さを痛感しました。……トップ投稿者の人たちって、あそこまで色々考えて動画を作ってたんですね。人種や性別による視聴者の反応の違いを意識するとか、アーカイブに残るんだから何年経っても楽しめる内容じゃないとダメだとか、流行るものを流行り出す前に自分流に取り入れたりとか。そんなの私、全然できてません。ダメダメです。」

 

ため息を吐く夏目さんが言っている『ワトキンスさん』というのは、スペシャルゲストとして登壇した二百二十万人のチャンネルを持つライフストリーマーのことだ。自身の動画をスクリーンで流しながら、動画制作におけるコツを細かく説明してくれたのだが……まあ、あれは凄かったな。プロフェッショナルとしての拘りを思い知ったぞ。

 

やや落ち込んでいる雰囲気の夏目さんへと、首筋を掻きながら声をかけた。

 

「凄いライフストリーマーでしたし、私も感心しましたが……しかし、たどり着けない遠さではありませんよ。ワトキンスさんだって最初からああだったわけではないはずです。失敗と改善を何度も繰り返したからこそ、あれだけしっかりしたスタイルを確立できたんじゃないでしょうか?」

 

「それは、はい。もちろんそうなんだと思います。」

 

「一朝一夕でワトキンスさんのようになるのは不可能ですが、私たちも頑張っていけば同じ場所に立てるはずです。どれだけ遠くても、目標がはっきりしたのは良いことですよ。見えているなら目指せますし、目指していけばたどり着けます。……二人で追いついて、いつかは追い越してみせましょう。私も多少は頼りになれるように努力してみますから。」

 

立ち止まって夏目さんのブラウンの瞳を見つめながら励ました俺に、彼女は優しく微笑んで小さく頷いてくる。実際の投稿歴はともかく、登録者数で見れば『大御所』と『駆け出し』だ。今は素直に憧れておいて、地道に背中を目指してみよう。もうすぐ日本にも波が来るのだから、それに上手く乗ることが出来ればきっと追いつけるはず。

 

「……はい、駒場さんが一緒に居てくれるなら頑張れそうです。」

 

「今日ワトキンスさんから教わったことを動画に活かしていきましょう。そして夏目さんが一流のライフストリーマーになったら、今度は貴女が誰かにコツを教えるんです。そう考えると何だかやる気が出てきませんか?」

 

「えへへ、出てきます。……そうですね、一気に高い所に行こうとするのは間違ってますもんね。きちんと一歩一歩進んでいって、いつか私も積み上げたことを誰かに教えたいです。それを一つの目標にしてみます。」

 

グッと拳を握った夏目さんが宣言したところで、朝希さんがやる気に満ち溢れた様子で会話に参加してきた。先輩の決意に感化されたようだ。

 

「私も! 私も頑張ります! ……ずーっと時間が経った後に、今日のことをさくどんさんと動画で話したいです。あのイベントが切っ掛けだったねって。」

 

「いいですね、それ。良い思い出として話したいですし、そう出来るようにチャンネルを大きくしていきましょう。」

 

「はい! ……ほら、小夜ちは? 小夜ちも何か良いこと言いなよ。未来の動画のネタになるんだから。」

 

「私はそういうタイプじゃないし、気が長すぎるでしょうが。何年後の『仕込み』をしてるのよ。」

 

若干恥ずかしそうな小夜さんが返事をすると、朝希さんはそんな彼女を目にして小首を傾げる。何か引っ掛かったらしい。

 

「……ひょっとして小夜ち、トイレ行きたくなってるでしょ。行ってきなよ。何で我慢してんの?」

 

「……あんた、どうしてそういうことにはすぐ気付くの? 鋭すぎて怖いんだけど。」

 

「双子だもん。何となく分かるよ。」

 

何となく分かるのか。俺には平常運転にしか見えなかったけど、小夜さんは実はトイレに行きたかったようだ。一体どこから読み取ったんだろうと疑問に思っている俺を他所に、小夜さんが目を逸らしながら渋い顔で言葉を口にする。

 

「外のトイレ、嫌なのよ。だって色んな人が使ってるわけでしょ? 全然知らない人たちが。……我慢するわ。まだ我慢できるから。」

 

「出た、それ。小夜ちってコンビニとかスーパーのトイレ、意地でも使わないよね。また病気になるよ。」

 

「その話を持ち出すのはやめなさいよ! ……じゃあ、朝希も一緒に来て。一人じゃ嫌。」

 

「えー、やだよ。一人で行ってくればいいじゃん。」

 

朝希さんが素っ気無く拒否したところで……んん? 俺たちの進行方向の柱の陰に、誰かが立っているのが視界に映った。テンガロンハットを目深に被っている、ワイシャツとベストとスラックス姿の細身の女性だ。歳は二十歳に届くか届かないかくらいかな? 柱に背を預けて腕を組んでいるぞ。奇妙な格好でカッコいいポーズをしているじゃないか。

 

「……来てくれたっていいじゃないの、冷酷朝希。姉が困ってるんだから助けなさいよ。」

 

「トイレくらい一人で行きなさい、甘えん坊小夜ち。姉はこっちだし、私はトイレにみんなで行ったりするの嫌いだもん。意味分かんないよ。」

 

「一人だと何か寂しいし、怖いでしょうが。変な人とかがいきなり入ってきたらどうするのよ。公共の場所なんだから、有り得ない話じゃないでしょ?」

 

「お姉ちゃんみたいなこと言うじゃん。心配しすぎだって。早く行ってきなよ。」

 

もしかしてあれは、『雪丸スタジオ』の雪丸さんじゃないか? 特徴的な髪色の、うなじの辺りで一つに結ばれているロングヘア……ストロベリーブロンドのローポニーテールを見て日本個人トップ投稿者の名前を思い浮かべていると、その彼女がスッと俺たちの前に出てきて声を──

 

「ごきげんよ──」

 

「いいから一緒に来てってば! ほら、行くわよ! ……駒場さん、さくどんさん、少しだけ待っててください。すぐ戻りますから。」

 

「分かったよ、もう。行くから引っ張らないで。」

 

「あの、小夜ちゃん? 急がなくても大丈夫ですよ? 待ってますからゆっくり行ってきてください。」

 

うーむ、小夜さんの発言に見事に被ってしまったな。夏目さんもそっちに気を取られているし、ストロベリーブロンドの女性の存在には俺しか気付いていないらしい。女性の方もタイミングを逃したことを理解しているようで、中途半端なポーズでぴたりと停止しているぞ。

 

気まずいな、これは。何とも微妙な気分で雪丸さんらしき女性に目を向けていると、彼女はそんな俺にフッと微笑みかけてから柱の陰に戻った後……えぇ、やり直すのか。モノクロシスターズの二人が反対方向にあるトイレへと歩いていき、彼女たちを見送った夏目さんが再び前を向いたところで、さもファーストテイクかのような雰囲気で改めてこちらに歩み寄ってきた。

 

「ごきげんよう、さくどんさん。」

 

「えっ? あっ……はい、どうも。」

 

「私が誰だか分かりますか?」

 

「あの、はい。知ってます。雪丸(ゆきまる)さんですよね? 雪丸スタジオの。」

 

急に話しかけられてびっくりしている夏目さんの返答を受けた女性は、脱いだテンガロンハットを胸に当てて一礼しながら話を続けてくるが……この人、動画外でもこうなのか? 何というかこう、うちの社長どのを思わせる大胆不敵な口調と態度。それが雪丸スタジオの魅力の一つなのだ。動画内そのままの喋り方だぞ。

 

「その通り、雪丸スタジオの雪丸です。初めまして、さくどんさん。こうして貴女とお会いできて光栄に感じています。……貴女とは直接話したいとずっと思っていたんですよ。そんなさくどんさんのことを会場で見かけたので、こうしてここで待ち構えていたわけです。」

 

「そ、そうなんですか。私は待ち構えられてたんですね。気付きませんでした。」

 

「それでですね、早速のお願いで恐縮なんですが……この会話を動画にしても構わないでしょうか? 実はもう回しているんです。施設の方にも撮影する許可をいただいてあります。」

 

「えっ? あ、どうぞ。大丈夫です。」

 

あー、あそこにビデオカメラが置いてあるのか。ロビー内の少し離れた位置にある長椅子を示して断ってきた雪丸さんは、夏目さんの了承を耳にして満足げに首肯してから……うーん、芝居がかっているな。びしりと彼女を指差して口を開く。何にせよ、撮っているなら俺は離れた方が良さそうだ。画角がいまいち分からないし、映り込まないようにある程度距離を取っておこう。

 

「どうもありがとうございます。では、本題に入りましょうか。……さくどんさん、私は貴女に対して非常にがっかりしている! それが何故だか分かりますか?」

 

「えっ、えっ? ……あの、分かりません。」

 

明らかに状況に追いつけていない夏目さんの答えを聞くと、雪丸さんは役者のような大仰な身振り手振りを交えつつ語り始めた。……まあ、絵になる人ではあるぞ。スレンダーな肢体によく合った格好だし、独特な口調や仕草がこちらの興味を誘ってくる。二十万人超えの登録者数は伊達ではないらしい。

 

「おや、分かりませんか? 至極簡単な理由なんですがね。私ががっかりしているのは、貴女が事務所に所属したからですよ。……私は常々さくどんさんのことを意識してきました。貴女は私とほぼ同時期に今のチャンネルを開設し、同じペースで登録者を増やし、そして今や国内個人でツートップのライフストリーマーになっています。そんな相手を意識しない方がおかしいでしょう? 私は貴女こそが自分のライバルであると思っているんです!」

 

「うぁ……えと、光栄です。私も雪丸さんの動画は全部見てますし、雪丸スタジオのことを意識してきました。」

 

「嬉しい発言じゃありませんか。そこは素直に喜んでおきましょう。……貴女は私と同様に、初期の頃から挑戦を繰り返していましたね。他のチャンネルとは動画に対する姿勢が明確に違っていましたよ。私はそんな貴女を尊敬し、勝手に仲間意識と対抗心を抱いていたんです。雪丸スタジオが日本のライフストリーム界を牽引する時、対抗馬になるのはさくどんチャンネルであると確信していました。……そう、貴女が事務所所属の発表動画を上げる前までは。」

 

大した自信家じゃないか。とはいえ事実として、現在の日本ライフストリーム界を牽引しているのは紛れもなくこの人だ。嘆かわしいと言わんばかりにやれやれと首を振った雪丸さんに、眉根を寄せた夏目さんが問いかけを送った。段々と驚きから立ち直り始めているな。未だ不完全ではあるものの、徐々に『さくどん』の雰囲気になってきているぞ。

 

「……事務所所属がダメってことですか?」

 

「正しくそうですよ。……さくどんさん、貴女はライフストリーマーにとって最も重要な『自由』を手放したんです!」

 

「じ、自由?」

 

まるで犯人を追い詰める名探偵のような言い方で指摘した雪丸さんは、夏目さんが聞き返したのに頷いてから両手を広げた。通行している人たちがちらちらとこっちを見ているな。立ち止まっている人も居るぞ。凄まじく大胆な撮影じゃないか。

 

「そうです、自由ですよ。自由に作れるからこそライフストリームは面白いんじゃありませんか。事務所に所属してしまった貴女は無用な枠組みに囚われて、動画に余計な要素を入れざるを得なくなり、訳の分からない押し付けに流されていくことでしょう。テレビを見れば一目瞭然です。お決まりの退屈なやり取り、お決まりの嘘だらけの褒め言葉、お決まりの過度な配慮。貴女もそれが嫌だからライフストリーマーを選んだんじゃないんですか?」

 

「私は……私は、見てくれる人たちに楽しんでもらいたいだけです。それが仕事になればいいなと思って、ライフストリーマーを選びました。」

 

なるほどな、雪丸さんの主張の中身が掴めてきたぞ。彼女は作為的な動画を嫌い、ある種の恣意的な動画をこそ是としているらしい。多方面に気を使うために内容を変えたり、取り繕ったような配慮を差し込むことに否定的なわけか。

 

切実に語る夏目さんの回答に、雪丸さんは何故か一瞬だけ怯んだように押し黙った後で……小さく鼻を鳴らして反応する。ほんの刹那の沈黙だったが、僅かにだけ調子を崩された感じに見えたぞ。どうしてなんだろう?

 

「その目標自体は素晴らしいと思います。実にさくどんさんらしい考え方です。……ですが、事務所所属はやはり良くありませんね。だって、それで向かう先はテレビの後追いでしかないでしょう? ライフストリームの魅力は『真実』じゃありませんか。テレビがバカバカしい配慮で隠している映像を、スポンサー賛美の裏側にある本音を、人々が真に求めている剥き出しの言葉を伝えられる。それこそがライフストリームの最大の魅力であるはずです。」

 

「……事務所に所属していても、それは出来ます。私はリスナーさんたちに嘘を吐く気はありません。」

 

「いいえ、出来ませんよ。貴女や事務所が大きくなればなるほどに、邪魔な柵が引っ付いてくるはずです。スポンサーのお菓子が不味かった時、貴女は美味しくないとはっきり言えますか? それが自分ではなく、事務所の後輩に付いたスポンサーだったら? 所属事務所の体裁を気にして、動画の内容や発言を変えたりしないと自信を持って言い切れますか? ……無理ですよ、さくどんさん。絶対に無理です。事務所への所属による制限は、貴女の動画を間違いなくつまらなくします。何も貴女が成功しないとまでは言いませんが、そうやって作られた面白さなんて所詮テレビの二番煎じでしょう? 私が尊敬する貴女が持っていた『新しい面白さ』ではありません。だから私はがっかりしているんですよ。」

 

「そんなことありません! ホワイトノーツは私の動画の作り方を尊重してくれますし、面白くするために必死に頑張ってくれてます。」

 

珍しくムッとした表情になっている夏目さんが言い返すのに、雪丸さんは薄い笑みで肩を竦めた。余裕がある動作だ。

 

「まだ理解できていないようですね。企業である事務所が目指す面白さではダメだと言っているんですよ。個人が目指す面白さにこそ価値があるんですから。……ライフストリームは無茶苦茶で、ルール無用で、混沌としているべきなんです。満員の観客の前で煌びやかに行われる試合ではなく、素人がめったやたらに殴り合うストリートファイトの面白さ。それを見られるのがライフストリームじゃありませんか。形式張ったお行儀の良い動画じゃ誰も満足しませんよ。」

 

「……雪丸さんは、それを目指しているんですか? 『ルール無用』の動画を?」

 

「勘違いされそうなので断っておきますが、別に誰かを傷付けるような動画にしろとは言っていませんよ? 私だって皆が笑顔で幸せになれる動画を目指しています。私はただ、私の動画を見てくれているリスナーたちに本当の面白さを届けたいんです。上っ面だけの面白さを与えるつもりは毛頭ありません。そして本当の面白さを求めるのであれば、ライフストリーマーは身軽でいる必要があるんですよ。……私たちにとって、事務所は枷でしかないわけですね。自由を失った貴女の動画は、じわりじわりと鈍化していくはずです。自分では気付けないほどにゆっくりと、しかし確実につまらない形式に支配されていくことでしょう。」

 

一概に正しいとは思えないし、ホワイトノーツのマネージャーとして納得できるような発言ではないが……まあ、一定の理は認めざるを得ないな。無所属の方が自由だという点は間違いないだろう。クリエイターのリスク軽減やプライバシー保護のために、俺たちがかけている動画制作におけるいくつかの制限。それが面白さに影響しないとは言い切れないのだから。

 

加えて、雪丸さんが言う『新しい面白さ』というのもぼんやりと理解できてしまうぞ。企業、スポンサー、視聴者への配慮。事務所に入ればそういった部分を意識する必要が出てくるし、そこを突き詰めていった結果が今の民放だ。……『テレビの後追い』か。ライフストリームの視聴者が民放には無いものを求めているのであれば、それは確かに避けるべき展開なのかもしれない。

 

思案している俺を尻目に、押され気味の夏目さんが何か反論しようとしたところで……おー、さすが。この人はタイミングを決して逃さないな。ロビーの奥の方からコツコツと歩いてきたスーツ姿の女性が、自信満々の笑みで議論に介入してきた。我らが香月社長がだ。スカウトを終えて二階から下りてきたらしい。

 

「やあ、諸君。面白い議論をしているようだね。私も交ぜてくれたまえ。……初めまして、雪丸君。私は香月玲。さくどん君の所属事務所である、ホワイトノーツの代表だ。」

 

「……ごきげんよう、香月社長。絶賛撮影中なんですが、動画に映っても問題ありませんか?」

 

「構わないよ、私は美人だからね。」

 

何だその返事は。えっへんと大きな胸を張った香月社長を見て、雪丸さんはちょびっとだけ困惑した様子で応じているが……なるほど、変な人には変な人を当てるべきなのか。社長なら雪丸さんに対応できそうだぞ。

 

「であれば、私は貴女の議論への参加を歓迎しますが……大きいですね。」

 

「そうだろう、そうだろう。Hカップだよ。これがホワイトノーツの実力さ。侮っていると痛い目を見るぞ。」

 

「それはまた、結構なものをお持ちのようで。ホワイトノーツ、侮り難し。……ホワイトノーツ、侮り難し!」

 

一体全体何をやっているんだ、この二人は。いきなり会話の知能指数がガクッと下がったな。小さな声で呟いた後に大きな声で言い直した雪丸さんへと、香月社長がふふんとドヤ顔を披露しつつ持論を口にする。ちなみに雪丸さんは非常にフラットな体付きをしているわけだが……まあうん、スレンダーでいいと思うぞ。背も170センチくらいだし、モデル体型ってやつだな。

 

「雪丸君、教えてあげよう。ホワイトノーツは『基準』になろうとしているんだよ。つまりだね、我々こそが日本ライフストリーム界の正統を形作る事務所なのさ。」

 

「正統? 大きく出ましたね。」

 

「世のライフストリーマーたちの規範と言い換えてもいいかもね。……私もライフストリームに関わっている人間の端くれだ。『ルール無用』の面白さは重々承知しているよ。それこそがライフストリーム特有の面白さだという点にも同意しようじゃないか。国境や人種や言語に囚われず、世界中に住む不特定多数の個々人が好き勝手に動画を上げられる。そういった部分が動画共有サイトの魅力だからね。」

 

「……察するに、『だが』と続くんでしょう?」

 

挑発的な笑みで先を促した雪丸さんに、香月社長もまたニヤリと笑って応答した。小柄でパンツスーツをきっちり着込んでいる社長と、長身でジャケット無しかつシャツの袖を捲っている雪丸さん。性格的には共通点があるものの、見た目だけだと中々対照的な二人だな。『似て非なる』といった感じだ。

 

「『だが』、それだけでは面白くならないんだよ。何事にも比較する対象が必要なんだ。君が愛する異端の動画は、正統な動画があればこそ成立するのさ。そもルールが無かったら、ルール無用を面白がる人間など現れるはずがないだろう? ……君の主張の問題点はだね、その『正統』を民放に据えていることだよ。テレビをライバル視するのは結構だが、それでは結局のところ民放に対する異端のメディアにしかなれないぞ。君はミスター・パーカーの話を聞いていなかったのかい?」

 

「……『テレビスターを殺す』という話ですか?」

 

「そうだよ、雪丸君。ならば正統はライフストリームの中にこそあるべきなんだ。私は日本におけるそれを背負う存在として、さくどん君を選んだのさ。……君もご存知の通り、ライフストリーマーが職業になる日は目前に迫っている。非常に多様な選択肢と方向性を持った職業にね。そうなった際に社会は無茶苦茶で、ルール無用で、混沌としている職業を受け入れてくれると思うかい?」

 

「だから迎合しろと? ライフストリームでしか出せない面白さを捨てて、社会に許容してもらうために媚びた動画を作れと? 冗談じゃありませんよ、香月社長。私はライフストリーマーとしての誇りを棄てるつもりはありません。」

 

堂々と語っている雪丸さんだが……むう、どこか香月社長の反論を楽しみに待っているようにも見えるな。一方的に説き伏せたいわけではなく、議論の白熱を歓迎している節があるぞ。もしかすると彼女は論戦の勝利よりも、場が盛り上がることそれ自体を狙っているのかもしれない。

 

つまり、あくまで今の雪丸さんは『動画を撮っているライフストリーマー』なのか? 自身が勝ちすぎることも、負けすぎることも望んでいないわけだ。彼女が言い放った主義主張に嘘は無いのだろうし、夏目さんにがっかりしているという点も本気なのかもしれないが……この場で起こっていることを動画の素材として見た場合、こうして対等に張り合われた方が面白いはず。

 

さすがに考えすぎのような気もするが、だけどもしそういう意図を持って行動しているのだとしたら……うーむ、ライフストリーマーとしては超一流だぞ。構成と演者を見事に両立させているな。自らの劣勢すらも、動画を面白くする一要素か。

 

俺がまさかの思考を脳内で回している間にも、香月社長が口の端を吊り上げて声を上げる。こちらもどことなく楽しんでいる雰囲気だ。

 

「それでいいよ、君はそうしたまえ。私は君の動画を心底面白いと思っているし、事務所所属のライフストリーマーには出せない魅力を持っていることも理解しているさ。……本当はさくどん君と雪丸君のツートップを纏めて抱えたかったんだけどね。君が今やっている『これ』を、ホワイトノーツの中でやりたかったんだ。だが今の私たちには少々荷が重すぎるようだから、とりあえずはライフストリームそのものをリングに据えておくよ。」

 

「……野心家ですね。事務所内で完結させようとしていたんですか。」

 

「諦めてはいないけどね。今はまだ背負い切れないというだけの話さ。いつか君のことも取り込んでみせるよ。……とにかくだ、君はそのスタイルを貫きたまえ。君の面白さに惹かれるライフストリーマーたちは、君が形作る異端の動画を目指していくだろう。大いに結構なことじゃないか。ライフストリームを利用する一人の視聴者として、私はその展開を歓迎するよ。何故ならそういう動画は面白いんだから。」

 

そこで区切った香月社長は、雪丸さんを一直線に見つめて続きを語った。榛色の瞳を獰猛に輝かせながらだ。

 

「しかし、正統は我々のものだ。ホワイトノーツは視聴者を気遣い、スポンサー企業に利益を齎し、ライフストリーマーという職業の地位や収入を高め、その上で正統の面白さを持つ動画を追求していくよ。ただ民放を模倣するのではなく、『ライフストリームの正統』を担う動画をね。……私もミスター・パーカーと同じように、人間が夢だけでは生きていけないことを知っているのさ。ライフストリーマーが職業になるためには、現実を背負う誰かが必要なんだ。」

 

「さくどんさんにそれを背負わせると?」

 

「違うよ、雪丸君。現実を背負うのはホワイトノーツだ。ライフストリーマーに代わってそれを受け止めるのが、私が志す事務所の役割なんだよ。ライフストリーマーであるさくどん君が魅力的な真実を担い、事務所であるホワイトノーツが妥協や現実を受け持つ。それこそが私の目指す形さ。……悪いが私は強欲なんでね。君のようにどちらかを選んだりはしないんだ。ライフストリームの面白さは保持したままで、社会に胸を張れる職業として成立させてみせるよ。堅固な正統を築き上げることによって、君たち異端を引き立ててあげようじゃないか。」

 

どちらかを選ぶのではなく、分け合うことで両方を取る。そう豪語した香月社長に、雪丸さんは……おお、嬉しそうだな。今日一番の笑顔で返答を返す。

 

「……なるほど、なるほど。どうやらホワイトノーツという事務所は、私が思っていたほど腑抜けた企業ではなかったようですね。正統なくして異端は存在し得ないということですか。」

 

「片方だけでは進歩できないのさ。さくどん君が進む道と、雪丸君が作る道。日本のライフストリーム界にはその両方が在るべきなんだ。我々は後続が歩き易い道を作っていくつもりだが、整った大通りが一本あるだけでは退屈だろう? 裏路地があればこその大通りで、大通りがあればこその裏路地なんだよ。……整然とした明るい賑やかな道と、怪しげな魅力に溢れたごちゃごちゃした道。私はそのどちらもが好きなのさ。視聴者が気分によって歩く道を変えられるようにしていかないとね。」

 

「……いいでしょう、貴女がたの理念は理解できました。認めるのは癪ですが、確かに日本のライフストリーム界が発展していくためには『大通り』を築く誰かが必要なようです。金儲けしか頭にない木っ端企業が食い込んでくる前に、確たる理念を持つホワイトノーツが先頭に立ったのは歓迎すべき事態なのかもしれません。何せ今のホワイトノーツの儲けは雀の涙程度でしょうからね。それでもこの段階で踏み込んできたという事実こそが、貴女がたの覚悟の強さを証明しています。」

 

何か、急に褒めてくれるな。大仰な身振りで『認めてあげます』という意思を示すと、雪丸さんは突然夏目さんを指差して大声を放った。

 

「だがしかし、このまま引き下がるのは何となく面白くありません! 勝負をしましょう、さくどんさん!」

 

「えっ?」

 

勝負? いきなり奇妙なことを言い始めた雪丸さんは、自分のビデオカメラが置いてある長椅子に近付いていったかと思えば……ああそれ、雪丸さんのリュックだったのか。女児向けアニメの可愛らしいプリントが入ったリュックの中から、段ボールで出来た箱のような物を取り出して持ってくる。日曜日の朝にやっているやつだ。好きなんだろうか?

 

「ルールは簡単! この抽選箱の中からお題を引いて、三本勝負で決着を付けるだけです! 雪丸スタジオで一本、さくどんチャンネルで一本、残る一本をどちらで上げるかは相談して決めます! ……さあ、さくどんさん。この五枚の紙に好きな対決のお題を書いてください。私の分は既に中に入っていますから。」

 

雪丸さんはカメラ目線でハキハキとルールの説明をした後、夏目さんに五枚のメモ用紙とボールペンを渡しているわけだが……この人まさか、さくどんチャンネルと雪丸スタジオの『コラボ企画』をやろうとしているのか? この流れで?

 

あまりの豪胆さに呆れるべきか感心すべきかを迷っていると、ぽかんとしている夏目さんが渡されたメモ用紙とペンを見て、雪丸さんを見て、そして何故か俺の方を見てきた。困惑の極みにあるようだ。完璧に置いていかれているらしい。

 

俺としても若干ついて行けていないけど……まあ、夏目さん的にオーケーなら別にいいんじゃないかな。日本個人チャンネルのツートップがコラボするのは悪くない話に思えるぞ。そういった考えから『事務所的には大丈夫です』というアイコンタクトと首肯を送ってやれば、夏目さんは未だ困っている顔付きで壁に紙を当ててお題を書き始める。

 

「あっ……分かりました、すぐ書きます。」

 

んー、また『さくどん』の雰囲気から遠ざかってしまっているな。そもそもキャラを作っているわけではないので、そこまで大きな違和感にはなっていないものの、完全に動画外の夏目さんの喋り方と態度だぞ。そんな彼女を横目にしつつ、香月社長が苦笑いで雪丸さんに問いを投げた。

 

「……雪丸君、君の目的はこれだったのかい?」

 

「イエスですよ、香月社長。私はさくどんさんが事務所に所属した時、確かに少しだけがっかりしましたが……しかし今なお彼女の動画が好きなんです。であれば共同で動画を作りたいと思うのは当然のことでしょう? 私と彼女が組んで面白くならないわけがありません。『ライバルとの戦い』が盛り上がるのは古来の定番ですよ。」

 

「大したライフストリーマーだね、君は。参考にしたいから、どこからどこまで読んでいたのかを聞かせてくれたまえ。」

 

「先ず、さくどんさんがこのフォーラムに来ることは確信していました。知らせが届いた時、私は絶対に参加しようと思いましたからね。都内に住んでいると昔の動画で話していましたし、物理的に来られるのであればさくどんさんほどのライフストリーマーが参加を見送るはずがありません。故に家で企画内容を考えて、段ボールで抽選箱を作って持ってきたんです。」

 

やっぱり手作りなのか、あの箱。彼女がせっせと作っている場面を想像してしまっている俺を他所に、雪丸さんは自慢げな表情で話を続ける。

 

「そして投稿理念の違いを論じるという鮮烈な出会いを遂げた後、こうして対決企画を持ち出すわけですよ。どうです? ドラマチックな構成でしょう?」

 

「……君はひょっとして、企画を持ち込むついでにホワイトノーツを援護してくれたのかい?」

 

「さて、何のことだかさっぱり分かりませんね。私は私の理念を正直に語っただけですよ。それ以上でもそれ以下でもありません。……どうやら書き終えたようですね、さくどんさん! 私に見えないように四つ折りにして、この中に入れてください!」

 

「は、はい。」

 

紙にお題を書いたらしい夏目さんが、香月社長との話を打ち切った雪丸さんに促されてそれを抽選箱に投入するが……『ホワイトノーツを援護』? どういう意味なんだろう? どちらかと言えば批判していたように思えるけどな。

 

俺が疑問を抱いている間にも、紙が入った抽選箱をよく振った雪丸さんが夏目さんに次なる指示を飛ばした。

 

「私の企画ですし、先手は貴女に譲りましょう。中から一枚引いてください。」

 

「あっ、じゃあ……引きます。」

 

こっくり頷いて抽選箱に手を突っ込んだ夏目さんが、一枚の折り畳まれたメモ用紙を抜き取る。そのまま彼女は紙を開くと、そこに書かれてある文字を読み上げた。ちゃんとカメラに駆け寄って視聴者にも見せながらだ。……混乱していてもそれだけはやるのか。もはや本能だな。

 

「あ、私が書いたやつですね。……えと、見えるでしょうか? 最初のお題は『ゲーム』です。」

 

「ゲーム? ゲーム対決ということですか。……少々意外なお題ですね。さくどんさんはゲームが得意なんですか? 実況動画はチャンネルに一本も上がっていないはずですが。」

 

「いや、あの……あんまりやったことないです。その、咄嗟に。咄嗟に書いちゃって。」

 

「……参りましたね、私もゲームは苦手なんですよ。どういった動画にすべきかが浮かんできません。」

 

雪丸さんは色々と考えた上でこういう流れを作り出したらしいけど、この『ゲーム』というお題は彼女にとっても予想外だったようだ。ひくりと顔を引きつらせた雪丸さんが、ちょっと申し訳なさそうな面持ちになっている夏目さんと見つめ合ったところで──

 

「そのゲーム勝負、私たちが預かります!」

 

「ちょっ、あんた……何してんのよ。やめなさい、邪魔になるでしょうが。」

 

やり取りを観察していた通行人たちの中から、小夜さんの手を引っ張りながらの朝希さんが飛び出してくる。また訳の分からない展開になったな。小夜さんは人垣の中に戻りたいようだが、朝希さんはこの状況に適応しているらしい。

 

そんなモノクロシスターズの二人を目にして、雪丸さんは少しだけ驚いた後……おー、凄い。この不測の事態も動画に組み込むつもりなのか。テンガロンハットを胸に当てて優雅に一礼した。わざわざモノクロシスターズの紹介を挟んでくれてからだ。

 

「これはこれは、ゲーム実況でお馴染みのモノクロシスターズさんじゃありませんか! 雪丸スタジオの雪丸です。どうぞよろしくお願いします。」

 

「モノクロシスターズの朝希と……ほら小夜ち、挨拶は? 『小夜です』って。もっかいやるよ? モノクロシスターズの朝希と──」

 

「……小夜です。よろしくお願いします。」

 

「よろしくお願いします! 二人はゲームが苦手みたいなので、ゲーム実況に詳しい私たちが対決の場を用意します!」

 

朝希さんの元気な声での提案を受けると、雪丸さんは短くだけ黙考してから返事を口にする。……朝希さん、やるな。雪丸スタジオへの露出を狙ったのか。あるいは天然から来る行動だったのかもしれないが、何にせよチャンネル名を出すことは叶ったぞ。

 

「しかし、お二人はさくどんさんの事務所の後輩でしょう? 任せてしまえば、彼女に有利なゲームを選ぶんじゃありませんか?」

 

「そんなことしません! 公平にさくどんさんも雪丸さんもやったことないゲームにします! ……大体さくどんさんはゲーム初心者なので、『有利なゲーム』なんて存在しないですよ。何でゲームをお題にしたのか謎なくらいです。」

 

「……だからあの、咄嗟だったんです。焦ってたんですよ。」

 

来る前にファミリーレストランでゲームの話をしたから、パッと思い出してしまったのかな? 恥ずかしそうな声色の夏目さんの弁解を背に、雪丸さんが首を縦に振って了承を返す。いいのか。ゲームとなると機材や権利関係が複雑だし、モノクロシスターズに投げてしまった方が良いと判断したのかもしれない。

 

「なら、一戦目の仕切りはモノクロシスターズさんにお任せします! 撮影日や場所は相談して決めましょう。これが私の連絡先です。……それでは、失礼!」

 

うーん、疾風のように去るな。夏目さんに連絡先が書いてあるらしい紙を渡した後、抽選箱をリュックに仕舞ってカメラを回収した雪丸さんは、建物の出入り口に向かって颯爽と歩き……うわぁ、歩き出そうとしたところで長椅子に脛をぶつけたぞ。かなり強めにだ。

 

「っ! ……さらば!」

 

痛そうな顔で目を瞑って暫く静止していたかと思えば、フッと笑って別れを言い直して今度こそ屋外へと去っていく雪丸さんだが……痣になる勢いのぶつけ方だったな。あんなの絶対に痛いはずだぞ。重そうな長椅子が少し動いていたし。

 

帽子も、口調も、リュックも、性格も、そして去り際も独特な人だったなと見送りつつ、夏目さんに歩み寄って声をかけた。外を歩く雪丸さんの姿をまだ窓越しに確認できるのだが、彼女はビデオカメラで『自撮り』をしながら喋っているようだ。動画を締めているのかもしれないな。

 

「あーっと……何だか、凄い人でしたね。お疲れ様です。」

 

「……私、びっくりしちゃって。それで上手く話せませんでした。もっときちんと反論したかったし、対決の提案にもライフストリーマーとして対応すべきだったのに。なのに私、全然喋れなかったんです。」

 

落ち込んでいるのか? 視界から消えていく雪丸さんを悔しそうに見ていた夏目さんは、小さくため息を吐いて壁に寄りかかりながらポツリと呟く。

 

「私、負けたんだと思います。ライフストリーマーとして雪丸さんに負けました。あそこで香月さんが来てくれなかったら、ひどい動画になってたはずですから。ホワイトノーツを悪く言われたのも、つまらなくなっていくって言われたのも悔しいですけど……でも、一番悔しいのは最後まで『さくどん』になり切れなかったことです。『動画にしても構わないでしょうか?』って聞かれたその瞬間から、私はさくどんとして話すべきだったんですよ。」

 

「……いきなりのことでしたし、仕方ないんじゃないでしょうか?」

 

「けど、雪丸さんは多分できます。私がいきなり動画を回し始めても、雪丸スタジオの雪丸さんとして話し出せるはずです。それは何となく伝わってきました。……誰がどう見たって完敗ですよ。」

 

とうとうしゃがみ込んで頭を抱えてしまった夏目さんへと、近付いてきた香月社長が話しかけた。……そこに落ち込んでいたのか。たとえ圧倒されるにせよ、『さくどん』として圧倒されるべきだったと。彼女は『夏目桜』のままで動画に映ってしまったことを悔いているらしい。

 

「上には上があるものさ。確かに君はライフストリーマーとして雪丸君に負けた。そこはまあ、私も同意しようじゃないか。彼女はどうも、動画で見る以上に大した人物だったようだね。……だが、挽回の機会は残っているよ。対決企画の中で取り返したまえ。恐らく雪丸君の方もそれを望んでいるはずだ。」

 

「……はい。」

 

俯いたままの夏目さんの返答を耳にしつつ、俺もこっそりため息を吐く。あれが現時点日本一のライフストリーマーか。自身を動画内の演者の一人に落とし込んだ上で、全体の流れをある程度コントロールしていたな。単純に登録者数イコール実力だとは思っていないが、少なくとも雪丸さんの場合は相応の力を持っているらしい。

 

フォーラムの最後の最後で貴重な敗北を得た夏目さんを見つめながら、困った気分で腰に手を当てるのだった。

 



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Ⅲ.雪丸 ⑤

 

 

「つまりだね、雪丸君はホワイトノーツ側に発言の機会を与えようとしたんだと思うよ。それが彼女なりの援護の方法だったんじゃないかな。」

 

フォーラムの日から二日が過ぎた、八月最初の日の午前中。俺はホワイトノーツの事務所で香月社長の話を聞きながら、雪丸スタジオの動画をチェックしていた。……まあ、どれも面白いな。一視聴者として見てもそうだし、作り手側の視点で見るとよく作り込まれていることが伝わってくるぞ。企画ものやチャレンジ系がチャンネル内の六、七割を占めていて、残りにキワモノ系の商品紹介やファッション系の動画があるといった具合だ。

 

「『発言の機会』ですか。」

 

書類作成中の風見さんの相槌に、香月社長が苦笑いで首肯を返す。現在の俺たちは一昨日の雪丸さんの『真意』についてを話しているのだ。ちなみにモノクロシスターズの二人も撮影に来ていて、今は撮影部屋でLoDの実況を撮っている。

 

「事務所への所属を歓迎する人間も居れば、よく思わない者も居るからね。動画のコメント欄やネット上の掲示板に、ちょこちょこそういう意見があったんだよ。『さくどんは金儲けに走った』だの、『事務所の存在は余計だ』だのといった否定的な意見が。……要するに、『嫌儲』ってやつさ。彼らは人が金儲けをするのがお嫌いなようだ。商は詐なりってわけだね。」

 

「貴穀賤金の思想ですか。そういう人が今なお存在しているのは、日本に未だ朱子学のイデオロギーが根付いている証左なんでしょうね。田沼意次と渋沢栄一が草葉の陰で泣いていそうです。……雪丸さんは、その人たちに反論する場を作ってくれたってことですか?」

 

「彼女は中々賢い人物のようだから、日本でライフストリームが拡大していくに当たって事務所が必要なことを理解しているんじゃないかな。必須ではないが、選択肢としては存在しているべきなんだ。それを自然な形で伝えるために、反対派の論者を演じてホワイトノーツ側の理念を引き出した……と私は予想しているよ。やけに素直に納得していたしね。本気で主張を押し通したいのであれば、あそこまですんなりとは引き下がらないはずだろう?」

 

「まあ、そうですね。もっと突ける部分はあったと思います。クリエイターの収入が増えていった時に取り分のバランスがおかしくならないかとか、事務所としてクリエイターの行動をどこまで制限していくつもりなのかとか、市場の独占による圧力とか。そもそも今のホワイトノーツは赤字塗れで健全に機能していませんし、その気になればいくらでも問題を指摘できたはずです。」

 

にっこり顔で怖いことを言う風見さんへと、香月社長が渋い顔で小さく鼻を鳴らす。今の俺たちは社長の私財で動いているようなものだもんな。徐々に上向いてはきているが、黒字になるのはまだ先の話だ。

 

「重箱の隅をほじくってくるじゃないか。君が『対戦相手』じゃなくて幸運だったよ。……何にせよ雪丸君の目的は、ホワイトノーツを叩くことではなかったわけだ。そこに関しては一定の自信を持って言い切れるかな。私が出てきたのは予想外だったはずだが。」

 

「もしかして雪丸さんは、社長がやった役割を夏目さんにやらせたかったんでしょうか?」

 

ふと思い付いた推理を口にしてみれば、香月社長は肩を竦めて肯定してきた。当初の雪丸さんは『さくどん』を論戦の相手役に据えていたものの、あの時の夏目さんは困惑気味で上手く主張できていなかったから、社長の乱入にこれ幸いと乗っかってターゲットを変えたわけか。夏目さん的にも、ホワイトノーツ的にも、そして雪丸さん的にも危ないところだったらしい。

 

「ん、そういう予定だったんじゃないかな。夏目君に議論を吹っかけて、動画としての華を出しつつ対決企画に持っていく。土曜日に雪丸君当人が言っていた通り、主目的はそれだったんだと思うよ。そのついでに事務所批判をしてこちらの本音を引き出し、あわよくば日本ライフストリーム界全体の利益も得ようとしたわけさ。」

 

「恐ろしい人ですね。」

 

「雪丸君としても夏目君が『さくどん』になり切れないほど動揺してしまったことや、私のカッコいい登場や、対決内容がゲームになったことや、モノクロシスターズの乱入は想定外だったようだが……まあ、見事にリカバリーしてみせたね。結果的には概ね彼女の計画通りになったんじゃないかな? ホワイトノーツはきちんと反論してきたし、対決企画も押し通せたんだから。」

 

くつくつと喉を鳴らしてそこまで話した香月社長は、ぺちぺちと拍手をしながら纏めてくる。雪丸さんは一つの石で、様々なものを得ようとしたわけか。そういう強かさも社長と似ているな。

 

「無論こんなものは私の推察に過ぎないわけだが、もしそうだとしたら大したショーマンだよ。……あー、欲しかったね。私が持っている餌では釣れないと分かっていても、目の前を横切られると涎が出るぞ。網か何かで強引に捕獲できないかな?」

 

「無理でしょうね。雪丸さんは事務所に求めるものが無いはずです。……あの主張が本音であればの話ですけど。」

 

「あそこは多分本音だよ。彼女の求める面白さは、私たちが目指しているものとは少し異なっているんだろうさ。対軸として認めはすれど、受け容れはしないってところかな。……まあいい、そのうち捕獲してみせるよ。今は大海で大きく育ってもらって、肥え太った頃に改めて狙おうじゃないか。いつかは彼女が求める餌も用意できるようになるさ。私が目指しているのはそういう事務所なんだから。」

 

香月社長が遠い目で将来の目標を語ったところで、風見さんがかっくり首を傾げて問いを放った。ちょっとズレた問いをだ。

 

「でも雪丸さん、何歳なんでしょう? 動画で見るより若く見えましたね。十代後半だとは思うんですけど。」

 

「にしては大人びていませんか? 二十代前半の可能性もありそうです。」

 

「風見君が正解だよ。十八か十九だね。」

 

「……何故分かるんですか?」

 

自信満々の口調で断定した香月社長に疑問を呈してみれば、彼女はふふんと胸を張って答えてくる。

 

「私は人の年齢を当てるのが得意なんだ。三割で十八歳、七割で十九歳だね。」

 

「……根拠がいまいちですね。」

 

「君ね、社長の目利きを信じたまえよ。……というか、気になるなら本人に直接聞けばいいじゃないか。対決企画の時に君も会うわけだろう?」

 

「そりゃあ会いますが、プライベートなことを尋ねるのは失礼ですよ。雪丸さんはうちのクリエイターじゃないんですから、個人的な質問は避けるべきです。女性に歳を聞くというのがもうダメですし、社長の予想が当たっていて未成年だったら更にマズいじゃないですか。」

 

俺と雪丸さんはまだ一言も話していないんだぞ。顔を合わせただけだ。もちろん俺の方は動画越しに人柄を知っているけど、向こうからすればほぼ初対面の成人男性であるはず。そんな相手からいきなり『貴女は何歳ですか?』と問われたら普通に怖いだろう。

 

至極真っ当な返事を飛ばした俺に、香月社長が呆れた面持ちで突っ込んできた。

 

「前から思っていたんだが、君は年下の……特に未成年の女性を怖がりすぎだぞ。風見君に対してもやけに慎重だし、あまりにも気を使いすぎだよ。歳を聞かれたくらいじゃ誰も怒らないさ。」

 

「……社長は怒ったじゃないですか。」

 

「あれは君が年上だの何だのと言ったからだよ。『今何歳ですか?』という聞き方だったら素直に答えていたさ。……風見君、君も言ってやりたまえ。君がお茶を淹れようとする度に、毎回毎回『私がやりますよ』と制止してくるのは鬱陶しいと注意するんだ。」

 

鬱陶しくはないだろうが。風見さんだけにお茶汲みをさせるのは、男女差別っぽい気がして何となく怖いのだ。俺はそういうデリケートな問題を恐れているだけだぞ。大体風見さんは暑い中営業を頑張っているんだから、お茶を淹れるべきはどう考えても俺だろう。

 

自分の正しさを確信している俺へと、風見さんが困ったような顔付きで声を寄越してくる。バレッタでお洒落に纏めてある黒髪を触りながらだ。

 

「んー……鬱陶しくはありませんけど、駒場先輩にはもっと遠慮なく接して欲しいです。女性として扱うんじゃなくて、同僚としての砕けた態度で応対してくれませんか?」

 

「……ひょっとして、迷惑でしたか?」

 

「全然迷惑ではありませんよ。丁寧に扱ってくれるのも嬉しいと言えば嬉しいんですけど、ちょっと距離を感じちゃって寂しくなるんです。もう少し寄り掛かってください。……それとも私って、そんなに頼りなさそうに見えますかね?」

 

「いやいや、そうではないんですが……はい、今後は気を付けます。同僚として風見さんのことを頼りにしていますし、私も仲良くなりたいとは思っているんです。ただその、どうにも慣れていないものですから。」

 

気遣わなくてもダメで、気遣いすぎてもダメなのか。難しすぎるぞ。異性で年下の後輩というのは、正直どう接すれば正解なのかが分からないのだ。江戸川芸能に居た頃に教育を任された新人は全員同性だったし、当然ながら皆マネージャー志望だったので、仕事を教えるついでに簡単に距離を詰められたのだが……風見さんは営業だもんな。

 

思い悩みながら内心を打ち明けてみれば、風見さんは顎に人差し指を当てて短く黙考した後で……パッと明るい顔になって謎の提案を送ってきた。

 

「だったら、いっそのことぐっと縮めてみましょうか。名前で呼び合いましょう。瑞稀先輩って呼びますから、由香利ちゃんって呼んでください。」

 

「……急すぎませんか?」

 

「迂遠なのは面倒じゃないですか。……呼んだり呼ばれたりするのが嫌ならやめておきますけど。」

 

「いやまあ、嫌ってわけではないんですが……せめて『由香利さん』にさせてください。『ちゃん』はハードルが高すぎます。」

 

ちゃんは無理だぞ。もう色々と無理だ。俺の懇願を受けた風見さん……由香利さんは、微笑みながらこっくり頷いてくる。案外強引だな。だから営業職が務まっているのかもしれない。

 

「じゃあ『由香利さん』で。……ほら、呼んでみてください。」

 

「……由香利さん。」

 

「わぁ、何だか照れますね。大学の頃に『お疲れ、由香利ちゃん』って気安く呼ばれた時はイラッとしましたけど、瑞稀先輩の場合はむしろ嬉しいかもしれません。やっぱり人の名前は丁寧に呼んだ方が印象が良いみたいです。」

 

「……そうですか。」

 

気安く呼ばれてイラッとしたのか。和やかな笑みで語られると少し怖いぞ。これからも由香利さんの名前はなるべく丁寧に呼ぼうと自分を戒めていると、事態を見守っていた香月社長が不満げな表情で口を開いた。

 

「君たち、社長を放ってイチャつくのはやめたまえよ。仲間外れにされたみたいで非常に悲しいぞ。」

 

「だけど香月さんは名前で呼ばれるのが嫌なんでしょう? 私が昔『玲先輩』って呼ぼうとした時、『名前で呼ばれたり先輩呼びをされるのは嫌いなんだ』って言ってたじゃないですか。」

 

そうだったのか。大学時代のことらしき逸話を持ち出された香月社長は、ムスッとした顔でその理由を述べ始める。

 

「……他人から名前で呼ばれるのは何となく嫌なんだよ。『先輩』という言葉も好きじゃないね。小学校時代に仲が良かった一つ上の友人が、中学に入学した途端に『ちゃんと先輩って呼んでね』と注意してきたんだ。当時の私は何だか急に突き放された気分になって、それがトラウマで嫌っているのさ。」

 

「ありますね、そういうのは。序列を意識するようになるというか何というか、中学高校は上下意識が強い気がします。短大や大学でそれが一度薄れて、社会に出るとまた別の形で復活するイメージです。」

 

「要するに私は、中学に入ったところで儒教思想に打ちのめされたわけさ。別に思想そのものを嫌ってはいないが、度が過ぎた『尊敬』を居丈高に要求されるのは気に食わん。それで歴史上何度も何度も社会を腐らせてきたというのに、全く学習できていないじゃないか。」

 

おおっと、批判のスケールが大きくなってきたな。『先輩呼び』の話題から、儒教思想だの社会腐敗だのに繋がるのは予想外だぞ。香月社長の話が段々と脱線してきたところで……ああ、助かった。撮影部屋からモノクロシスターズの二人が出てくる。一試合終えたらしい。グッドタイミングじゃないか。

 

「でも、小夜ちのミスじゃん。バックドアしてたら勝ててたよ。一人で止められるわけないのに、何で戻っちゃったの?」

 

「バックドアなんて間に合うわけないでしょうが。戻った方がまだ可能性があると判断したのよ。味方のリスポンまであと少しだったんだから、そう悪い選択じゃなかったはずだわ。」

 

「負けたけどね。だからつまり、悪い選択だったんだと思うよ。」

 

「結果論はやめなさい。卑怯よ。そもそも『負け確』だったってことでしょ。ああなった時点で結末は決まってたの。」

 

負け試合だったのか。口論しながら応接用ソファにぽすんと腰を下ろした二人の方に目をやって、香月社長に断りを投げた。何にせよ、逃げ出す口実にさせてもらおう。

 

「二人と打ち合わせがありますので、私はちょっと失礼しますね。」

 

「……駒場君? 今君、社長の面倒な話が始まったから逃げちゃおうとか考えているだろう。礼の心が足りていないぞ。」

 

「香月さん、一瞬前に何を批判していたのかを忘れていますよ。」

 

「手のひらを返すのは私の得意技でね。常に都合良く生きろという英才教育を受けてきたんだ。一瞬前の主張などもう忘れたよ。私は今を生きる女なのさ。」

 

もうそれ、健忘症じゃないか。無茶苦茶なことを由香利さんに喋っている香月社長を背に、デスクを離れてモノクロシスターズの対面のソファに移動してみれば、朝希さんが眉根を寄せながら話しかけてくる。逃げてきたはいいものの、こっちも別に穏やかなわけではないらしい。

 

「駒場さん、小夜ちが言い訳してきます。叱ってやってください。」

 

「あんた、しつこいわよ。自分だって変な死に方した癖に。」

 

「あれは挑戦の結果だもん。前向きな失敗だよ。前向きデッド。」

 

「……動画には出来なさそうな試合でしたか?」

 

言い合っている二人に聞いてみると、小夜さんと朝希さんは揃って首を横に振ってきた。するのか。

 

「します。面白い試合ではありましたから。」

 

「負けたけど、接戦だったんです。トークも上手くできたから動画にはします。」

 

「それはまあ、何よりです。」

 

「それよりそれより、さくどんさんたちの対決企画はいつ撮るんですか? やるゲームのこと、考えないと。」

 

朝希さんが飛ばしてきた質問に、脳内で思考を回しながら回答する。

 

「日程に関しては雪丸さんからの連絡待ちですね。昨日夏目さんから一度メールを送ったそうなので、今はその返信を待っている段階です。……ちなみに、タイトルの候補は決まっていますか?」

 

「小夜ちと話し合って、カウントフューチャーの案をそのまま流用しちゃうのはどうかなって結論になりました。あんまり難しいゲームだとくだくだになるかなって。」

 

「二人ともゲーム自体に慣れてないみたいなので、咄嗟に操作しなきゃいけない格ゲーやSTG、前提の知識が要るTBSとかFPSなんかは最初に除外しました。それで操作が簡単で、盛り上がれて、なるべく公平に競えるゲームとなると……やっぱりパーティー系が一番ですよ。私たちとのコラボ案についてはまた考え直します。」

 

「では、夏目さんにはその方向で提案しておきますね。」

 

うーむ、ほのぼのした対決になってしまいそうだな。俺はまあ、それもありだと思うのだが……夏目さんや雪丸さん的にはどうなんだろう? 手帳にメモしながら思案していると、白いビニール袋を持った由香利さんが俺の隣に腰掛けた。彼女も香月社長の話から避難してきたらしい。

 

「朝希ちゃん、小夜ちゃん、これ見てください。土曜日の帰りに香月さんと買い物に行って、その時見つけたんです。」

 

「何ですか? それ。」

 

由香利さんが差し出した袋を、興味津々の様子で漁った朝希さんが取り出したのは……おー、パーティーグッズか。犬の耳が付いているカチューシャだ。白い垂れ耳のやつ。

 

「こういう小道具を事務所に置いておけば、撮影の時に使えるかもしれないと思いまして。ちゃんと尻尾もありますよ。」

 

「朝希、折角だから着けてみなさいよ。」

 

「……何で私なの?」

 

「白で、犬だからよ。白はあんたの色だし、私は猫派だもの。」

 

小夜さんのそこそこ強引な促しを耳にして、朝希さんは若干納得していない面持ちながらも耳と尻尾を身に付け始める。ふさふさの尻尾はクリップで腰に引っ掛ける仕組みなようだ。先っぽだけが黒い毛になっているな。質感が結構リアルだし、よく出来ているじゃないか。

 

「……どう?」

 

犬耳と犬尻尾が付いた状態の朝希さんが尋ねてくるのに、俺、由香利さん、小夜さんの順で三者三様の感想を返す。

 

「似合っていますよ。とても可愛らしいです。」

 

「凄く可愛いですよ、朝希ちゃん。キュートなわんちゃんです。」

 

「あさわんね、あさわん。スマホで撮ってあげるから、『あさわんだわん!』って言いなさい。さあほら、言いなさいよ。こんなもんお姉ちゃんにも見せないと勿体無いわ。」

 

「……小夜ち、何で調子に乗ってんの?」

 

心底愉快そうな双子の片割れへと、『あさわん』がジト目で冷たい声をかけるが……それを意に介することなく、小夜さんはニヤニヤしながらスマートフォンを構えて囃し立てた。どうやら気に入ったようだ。

 

「バカっぽくて面白いわ。バカ可愛いわよ、朝希。……はい、キュー。ほらほら、あさわん? どうしちゃったの? ご挨拶は?」

 

「……あさわんだわん。」

 

「あらー、元気がないわね。ご飯? ご飯が欲しいの? それともお散歩に行く? お手してみなさい。あさわん、お手。」

 

「小夜ち、ぶつよ?」

 

小夜さんが差し出した手をぺちんと叩いた朝希さんは、ちらりと俺を見て何かを思い付いたような顔になったかと思えば……こちらに歩み寄って笑顔で要求を送ってくる。

 

「駒場さん、駒場さん。お手って。お手って言ってください。」

 

「私がですか? ……じゃあその、お手。」

 

「はい、お手! ……よく出来ましたは?」

 

俺が出した手に右手を置くと、朝希さんは犬耳が付いた自分の頭をずいと突き出してきた。撫でろということかな? しかし、女子中学生の頭を撫でるのは犯罪にならないんだろうか? 怖いぞ。仮に民事の裁判になったらギリギリで負けそうな気がするし。

 

「えーっと……はい、よく出来ました。」

 

そんな恐怖を抱えながら、恐る恐るホワイトアッシュのさらさらの髪を撫でてみれば……朝希さんは顔を上げてにぱっと笑ってくる。良かった、俺は弁護士を雇わなくて済みそうだ。

 

「んへへー、そうでしょ? お利口さんでしょ? ……風見さんも。風見さんもお手ってして。」

 

「朝希ちゃん、お手です。」

 

「はい! お手したよ。私、お手した! ちゃんと出来た!」

 

「あらあら、何て可愛いんでしょう。よく出来ました。」

 

これ、俺たちは何をやっているんだろう? 朝希さんは由香利さん相手にも同様の流れを繰り返した後、続いて小夜さんの前でおねだりし始めた。

 

「小夜ちは? 小夜ちもやってよ。」

 

「な、何よあんた。何でそんなにノリノリなの? 不気味なんだけど。」

 

「いいから。いいからやってよ。お手って。」

 

「……じゃあ、お手。」

 

怪訝そうな小夜さんが差し出した右手に、朝希さんは何故か手ではなく顔を近付けて──

 

「がうっ!」

 

「ひっ。……あんた、何で噛むのよ! 信じられないわ。狂犬じゃないの! 狂犬あさわん!」

 

うーん、見事なトラップだな。俺や由香利さんへのあれは油断させるための『前フリ』だったのか。小夜さんの右手にがぶりと噛み付いた朝希さんは、自分の手を押さえて驚愕している双子の片割れへと声を放つ。ふんすと鼻を鳴らしながらだ。

 

「ふんだ、小夜ちは意地悪だからやってあげません。反省しなさい。」

 

「ふざけんじゃないわよ、凶暴犬! 噛むことないでしょ、噛むこと!」

 

「あさわんは強い犬なんだわん。」

 

えへんと胸を張った朝希さんが逆襲を遂げたところで、由香利さんが袋から新たな品物を取り出した。黒い猫耳と細い猫尻尾のセットをだ。まだあったのか。こっちは尻尾の先だけが白くなっているな。

 

「じゃーん、猫もあります。小夜ちゃん、どうですか?」

 

「えっ。……いえ、私は大丈夫です。キャラじゃないので。」

 

「ちょっと小夜ち? 私にやらせたのに自分だけやらないのは変じゃん! さよにゃんになりなさい!」

 

「……嫌。」

 

猫バージョンがあるとは思っていなかったらしい小夜さんは、目を逸らして拒絶しているが……そんな彼女へと、今度は朝希さんがスマートフォンのカメラを向ける。形勢逆転だな。

 

「こら、やりなさい! ……『さよにゃんだにゃん』って言うまで諦めないからね。絶対絶対仕返しするから。悪いことばっかりやってるからそうなるんだわん!」

 

「……やだ、やらない。やりたくない。恥ずかしいもの。」

 

「風見さん、貸してください。……小夜ち、我儘言ってると無理やり付けるからね。」

 

「や、やめなさいよ。謝るから。」

 

由香利さんから猫セットを受け取った朝希さんが迫るのに、小夜さんはひくりと口の端を震わせながらソファの端へと逃げていくが……まあ、そうなるだろうな。身体能力は朝希さんの方が上なのだから。バッと飛び付いたあさわんに対応できずに身動きを封じられた後、無理やり耳と尻尾を付けられていく。

 

「観念しなさい、さよにゃん!」

 

「何なのよ、あんたは! 後でほねっこ買ってあげるからやめな……ちょちょちょっ、脱げる! スカート脱げるから! 一回やめて! 本当に!」

 

「動くから付けられないんでしょ! ここに引っ掛け──」

 

「あああ、本当に脱げるってば! ちょっとあんた、バカじゃないの? バカ犬! 本気でパンツが……こらこらこら、やめなさいっつの!」

 

スッと目を背けた俺の視界の外で、暫く双子の攻防が続くが……見ないぞ、俺は。何たって後で気まずくなること間違いなしなのだから。完全に後ろに身体を向けて、見えていませんよという事実を明確に示す。理性ある行動こそが円滑なマネジメントの秘訣なのだ。

 

「分かったから! 自分で付けるから! だからやめ……あっ、あんた! 何でパンツまで下ろそうとしてんのよ! お尻が見えちゃうでしょうが!」

 

「小夜ちのスカート、上手く付かないんだもん。クリップが……んぅ、やっぱりダメそう。ショーツに挟むよ。」

 

「何冷静に言ってんのよ! 駒場さん、見たら怒りますからね! マジギレしますから! お姉ちゃんにも言い付けます!」

 

「一切見ていません。後ろを向いて目を瞑って、その上で顔を手で覆っています。」

 

パーフェクトなポーズ……これでダメならもうダメだというポーズで自身の状態を告げると、由香利さんの呆れたような声が耳に届く。裁判になったら彼女に証言を頼もう。俺は見ていなかったという証言を。なった時点で社会的には負けだが。

 

「瑞稀先輩、そこまでやらなくてもいいと思いますけど。」

 

「早速私の話から逃げた罰を受けているようだね。冤罪の恐怖に苦しみたまえ、駒場君。私は助けてあげないぞ。」

 

そっちだって管理責任を追及されるんだからな。デスクの方向からの香月社長の野次を背に受けつつ、真っ暗闇の中でひたすらジッとしていると……小夜さんが振り向く許可を寄越してきた。荒い息を漏らしながらだ。

 

「……もういいですよ、駒場さん。見てませんよね?」

 

「見ていません。天地神明に誓います。」

 

「……いいでしょう、信じてあげます。」

 

疲れ果てた様子でぜえぜえと息を吐きながら言ってきた『さよにゃん』こと小夜さんに、全然疲れていない『あさわん』こと朝希さんが指示を出す。怖かったぞ。

 

「ほら、さよにゃんだにゃんは? 言いなさい! 言わないと終わらないよ!」

 

「……さよにゃんだにゃん。」

 

「元気ないじゃん、さよにゃん。猫缶欲しいの? カリカリの方が好き? それとも爪研ぎしたいとか? ソファでやってもいいよ。お尻上げて、ばりばりーって。」

 

「……あんた、覚えてなさいよ。必ず復讐するからね。」

 

復讐の連鎖だな。由香利さんはどうしてこんな恐ろしい物を買ってきてしまったんだ。尻尾付きの二人を見て満足げにうんうん首肯している彼女に戦慄していると、あさわんがさよにゃんに文句を投げた。

 

「あれ、語尾は? 語尾はどうしたんだわん?」

 

「やればやるだけしっぺ返しがくるんだからね。そのことをよく覚えておくんだにゃん。」

 

「それはこっちの台詞だわん。」

 

語尾にそぐわぬ殺伐としたやり取りじゃないか。世界観が謎すぎるぞ。……まあでも、確かに動画で使ってみるのは面白いかもしれないな。二人の反応からするに『罰ゲーム』として成立しそうだし、費用対効果は高いと言えそうだ。

 

しかし……あの袋、まだ何か入っているっぽいぞ。由香利さんの目の前にある『パンドラのビニール袋』に恐怖しつつ、せめて底には希望が残されていることを願うのだった。

 



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Ⅲ.雪丸 ⑥

 

 

「どうも、駒場さん。」

 

そうか、叶さんも夏休み中だったな。夏目家の玄関で迎えてくれた叶さんに応答しつつ、俺は靴を脱いでフローリングの廊下に上がっていた。今日は夏期講習が無い日らしい。まだ夏休みに入ったばかりだから、そもそも始まっていないのかもしれないが。塾とは無縁で生きてきた所為でシステムがよく分からないぞ。

 

「お久し振りです、叶さん。失礼します。……夏休みですか。」

 

「はい。」

 

俺の発言に端的な肯定を返してきたジーンズに黒いシャツ姿の叶さんは、続いて上を指差しながら夏目さんに関してを告げてくる。あさわんとさよにゃんが熾烈な戦いを繰り広げたその日の午後、担当クリエイターとの打ち合わせをするために夏目家を訪れているのだ。

 

「姉は自分の部屋です。インターホンの音は聞こえてないと思います。編集をしないといけないから、駒場さんが来たら出て欲しいと言われました。」

 

「なるほど。……では、上に行ってみますね。」

 

「はい。」

 

必要なことを必要なだけ言ってからキッチンの方へと歩き去る叶さんを見送った後、夏目さんの私室がある二階への階段を上っていく。相変わらず壁を感じるな。もう少し上手く接したいのだが、どうにも切っ掛けが掴めないぞ。

 

「駒場です。入ってもいいでしょうか?」

 

そんなことを考えながら到着した部屋のドアをノックしてみると、数秒置いた後で夏目さんが姿を現した。黒いハーフパンツと半袖の白いTシャツという、彼女にしてはラフな格好だ。部屋着なのかな?

 

「おはようございます、駒場さん。すみません、イヤホンをしててピンポンに気付きませんでした。……えっと、下で話しましょう。私の部屋、エアコンが無くて暑いので。」

 

「編集作業は大丈夫ですか? 切りが悪いなら待ちますよ。」

 

「いえいえ、平気です。ちょうど一段落させたところですから。」

 

話しながら部屋から出てきた夏目さんと一緒に、階段を下りて再び一階に戻る。暑すぎるのはパソコンにも体調にも悪いし、エアコンはそろそろ買った方が良いと思うぞ。今の彼女の収入であればそれくらいは買えなくもないはずだ。また機材を新調したんだろうか?

 

「エアコン、買わないんですか?」

 

一階の廊下を進みつつ尋ねてみれば、ポニーテールにしていた髪を解いている夏目さんが返答してきた。困ったように苦笑しながらだ。

 

「さすがに来年の夏までには引っ越せてるはずなので、今年は我慢して乗り切ることにしました。取り付け費用が勿体無いですし。」

 

「あー、そういうことですか。」

 

引っ越しを視野に入れた選択だったらしい。確かに今から一年後の夏目さんは、一人暮らしが余裕で可能な収入になっている……はずだ。というか、そうなってもらわないと困るぞ。国内二位の個人チャンネルがそれすら出来ないような状況だと、マネジメント業をやっているホワイトノーツはどうなってしまうんだという話だし。

 

リビング……じゃなくて、『茶の間』と呼ぶべきかな? とにかく広めの和室の座布団に腰を下ろしながら相槌を打った俺に、夏目さんは立派な座卓を挟んだ向かい側に座って話を続けてくる。夏目家は基本的に洋風なのだが、この部屋だけは畳敷きだな。小さな庭に面するガラス窓の外には縁側も見えているし、正に日本の居間といった雰囲気だぞ。

 

「まああの、このまま順調に行ければの話ですけどね。まだ半年近く残ってるわけですし、なるべく今年中に引っ越せるように頑張ってみます。……あと、ついさっき雪丸さんからメールが来ました。撮影の日程のこととかも書いてあるので、確認してもらえますか?」

 

「遂に来ましたか。拝見します。」

 

夏目さんが差し出してきたスマートフォンを受け取って、映っているメールの文面に目を走らせてみれば……うーむ、丁重な文章だな。雪丸さんは『お手紙』だと丁寧になるタイプらしい。

 

急に撮影を始めてしまった非礼を詫びて、対決動画の提案を受け入れてくれたことに感謝し、雪丸さん側のスケジュールの都合を伝えた上で、一緒に撮影できるのを楽しみにしていますという形で締めてあるぞ。大胆不敵だった彼女が書いたメールとは思えない内容と文体だな。本当に底が知れない人だ。

 

雪丸さんの多面性に感心しつつ、『添付してある動画のチェックをお願いします』というのはどういう意味なのかと首を傾げていると、夏目さんがその答えを教えてくれた。

 

「土曜日に撮った動画が添付されてありました。たった二日しか経ってないのに、もうカットして編集してあるやつが。後で駒場さんにも転送しますね。」

 

「……一応、上げる前に確認させてはくれるんですね。」

 

正直、勝手に上げられると思っていたんだけどな。ちゃんと『出演者チェック』をさせてくれるのか。つくづく分からん人だと眉根を寄せている俺に、夏目さんがしょんぼりした顔で呟きを漏らしてくる。

 

「まだざっと見ただけなんですけど、雪丸スタジオらしい面白い動画になってました。私があんまり喋れなかったの、編集で上手くフォローしてくれてて。自分を引き立てるっていうよりも、むしろ香月さんや私を立ててくれる編集の仕方だったんです。……どこまでも負けてますね、私。張り合うどころか、情けをかけられてます。」

 

「……雪丸さんのこと、苦手に思っていますか?」

 

敵に塩を送ったわけか。夏目さんとしても、ホワイトノーツとしても雪丸さんには上を行かれたな。余裕ある『フェアプレー』に唸りながら問いかけてみれば、夏目さんは俯いた状態で回答してきた。

 

「……嫌ってはいませんし、ライフストリーマーとして尊敬もしてます。ただ、『得意』ではないかもしれません。駒場さんだから言いますけど、どうしても劣等感を抱いちゃうんです。憧れるほどには遠くないから、嫌でも差が気になっちゃって。」

 

「劣等感、ですか。……雪丸さん当人が言っていたように、『ライバル』という感じには捉えられませんか?」

 

「分かりません。そうなりたいと思う気持ちと、今の私じゃ相応しくないって気持ちが混ざってます。……私、ライフストリーム以外で何かに熱中したことがないんです。だからこういう悔しさは初めてで。」

 

そこで疲れたようにため息を吐いた夏目さんは、情けなさそうな半笑いで弱音を口にする。予想以上に参っているらしい。

 

「単純な嫉妬なのかもしれません。負けたくないのに、同時に敵いっこないって思っちゃうんです。雪丸さんのことを考えてると、凄くもやもやしてきます。そういう風に理不尽に妬んじゃう自分が嫌ですし、挑む前に諦めちゃってるのも情けないですし、こうしてうじうじ悩んでるのもバカみたいで……ダメダメですよ、私。何でこんなことになってるんでしょうね?」

 

夏目さんは気付いていないようだが、それこそが正に『ライバル』に対して抱く感情だぞ。憧れるほどには遠くない、少し先を歩いている勝ちたい相手。そのまんまじゃないか。……つまり彼女は初めて熱中したもので、初めて競い合う相手を見つけたのだろう。その感情を上手く処理できなくてマイナスの方向に傾いてしまっているらしい。

 

となればマネージャーたる俺の役目は、彼女を正常な方向へと向き直させることだな。夏目さんが木製の座卓に額をコツンと当てながら落ち込んでいるのに、どう切り出そうかと迷っていると……部屋にお盆を持った叶さんが入ってきた。お茶を用意してくれたようだ。

 

「駒場さん、どうぞ。お茶と羊羹です。」

 

「ありがとうございます、叶さん。いただきます。」

 

「……ほら、お姉も。」

 

「……ん。」

 

座卓に頭を置いたままで力なく応じた夏目さんに、座布団の一つに腰を下ろした叶さんが平坦な声を飛ばす。ミディアムの黒髪を手早く纏めて結びながらだ。

 

「そんなに落ち込むならやめれば? ライフストリーマー。」

 

「……やめないよ。私にはこれしかないんだから。」

 

「じゃあ、駒場さんに甘えてないでしゃんとしなよ。今のお姉、面倒くさいし鬱陶しいんだけど。」

 

おおう、手厳しいな。点けたテレビのチャンネルを変えながら無表情で言い放った叶さんへと、のろのろと頭を上げた夏目さんが渋い面持ちで文句を投げた。俺に対しては無口な子だけど、姉には結構喋るらしい。……そりゃあそうか。他人と家族では見せる顔が全然違うはずだ。

 

「叶、ひどいよ。」

 

「ひどくない。昨日も縁側に座り込んで延々うじうじ悩んでたよね。相談に乗って欲しそうにこっちをちらちら見てきて、無視してたら一方的に雪丸さんがどうこうって話しかけてきて……本当にうんざりなんだけど。そんなことしてて何か変わるの? 変わらないでしょ? 負けたんだったら次に勝つための努力をすれば?」

 

「……叶のバカ。正論お化け。」

 

「本気で挑むんだったら、これからもまだまだ負けるよ。負けた時にへらへら笑って仕方ないねって言ってるようじゃ、そこが限界の人間にしかなれないと思うけど。一回負けた程度でダメになるならもうやめたら? 意地でも見返してやるって気持ちになれる人じゃないと、この先やっていけるわけないんだから。」

 

淡々と喝を入れる叶さんを見て、夏目さんは泣きそうな顔付きで押し黙った後……ムスッとしながら返事を返す。平時の彼女よりも少し子供っぽいな。こっちもこっちで家族への態度ということか。

 

「やるよ! やるもん! 私、ライフストリーマーだけは諦めない。」

 

「へぇ? 珍しく拘るんだ。なら、さっさとやりなよ。悩んで、決めて、実行する。それだけなんだから。お姉に残ってるものがライフストリーマーだけなら、どんなに難しくても挑むしかないでしょ? わざわざ来てくれた駒場さん相手に愚痴ってる暇があるの? お姉が最初に動き始めないと駒場さんも動けないよ? 先ずどこが問題なのかを把握して、次に改善のためには何をすればいいのか──」

 

「分かったってば! もうどっか行ってよ。駒場さんと打ち合わせするから。」

 

「嫌。私はニュースを見たいの。」

 

この子、本当に中学生か? やけに達観しているな。素っ気無く突っ撥ねてニュースを見始めた叶さんの横顔を、夏目さんは暫くむむむと睨んでいたかと思えば、やがて俺の方へと促しを寄越してきた。

 

「駒場さん、叶は無視して打ち合わせをしましょう。どのゲームにするかを決めないと。」

 

「あーっと……はい、分かりました。実はモノクロシスターズの二人が、既に候補を出してくれていまして──」

 

そのまま企画内容の説明をしつつ、ちらりと叶さんに目を向ける。俺には出来ないことをやってくれたな。感謝するぞ。こういうやり方で担当に発破をかけるのは、俺が苦手としている分野なのだ。

 

叶さんの発言は家族相手にしたってかなり強めのものだったから、そういうやり取りに耐性がない俺はちょびっとだけヒヤッとしたけど……結果的に夏目さんは前を見始めたわけだし、どうやら良い方向に転んでくれたようだ。これが夏目家の姉妹の形なのかもしれない。モノクロシスターズのそれとは大違いなのが面白いぞ。

 

しかしまあ、雪丸さんには色々と引っ掻き回されているな。かといって悪い影響ではないあたりが何とも判断しかねる部分だ。ホワイトノーツは理念を示せたし、夏目さんは越えるべき壁に出会えたし、モノクロシスターズは名前を広められたから……全体的に見れば、むしろ良い影響を齎してくれていると言えそうじゃないか?

 

いやはや、参った。物語の道化役のような人だな。急に現れて、戯けて、混乱させて、しかしきちんと場面を進めたり、教訓を与えたりもするわけか。雪丸さんの介入が幸運とは言い切れないが、反面不運とも思えない。戦隊もので途中参加する『敵か、味方か』のキャラクターみたいだ。

 

ただまあ、悪い人ではなさそう……かな? 善人か悪人かはまだ分からないものの、フェアに動いてくれている印象はあるぞ。そして何よりライフストリーマーとして『動画の出来』を重んじている。土曜日の行動を分析するに、そこは間違いなさそうだ。であればコラボをするに当たって一定の信頼を置いても大丈夫だろう。

 

「──というわけで雪丸さんの方から指定がないのであれば、カウントフューチャーの対決動画を撮影しようと考えています。」

 

思考を回しながら説明を終えた俺に、夏目さんは眉間に皺を寄せて返答してきた。ちなみに叶さんは我関せずとニュースを視聴中だ。私室にテレビが無いのかもしれない。あるいは夏目さんの部屋のようにエアコンが無いから、涼しいこっちで見ているのかな?

 

「はい、了解です。朝希ちゃんと小夜ちゃんが決めてくれたなら、私はそれで問題ありません。雪丸さんには私から連絡しておきます。……二人には迷惑かけちゃいましたね。雪丸さんとの対決企画でカウントフューチャーをやるとなると、コラボ動画ではちょっと使い辛くなっちゃいますし。」

 

「モノクロシスターズとのコラボ案については改めて話し合いましょう。みんなで考えれば良い代替案が浮かびますよ。……機材の都合上場所は事務所の撮影部屋として、日にちはどうしますか? 朝希さんと小夜さんは、夏休み中であればいつでも大丈夫だと言っていました。ホワイトノーツとしても特に指定はありません。」

 

「私も大した予定はないので、撮影日は雪丸さんに選んでもらうことにします。……うあー、緊張しますね。どんな顔で会えばいいんでしょう?」

 

「今度こそ『さくどん』で応対していきましょう。雪丸さんもきっとそれを望んでいるはずです。」

 

答えてからお茶を一口飲んだ俺へと、夏目さんは決意の表情で頷いてくる。

 

「……やってみます。雪丸さんを相手にする時だけじゃなく、いつもそれが出来るようにならないとですもんね。人前だと緊張する癖、何とか直していかないと。」

 

「ゆっくり慣れていきましょう。基本的には『夏目さん』と『さくどん』に大きな差なんて無いんですから、場慣れさえすればスムーズに喋れるようになりますよ。」

 

「頑張ってみます。……そういえば、スカウトはどうなったんですか? 香月さん、会場でやってましたよね?」

 

話題を変えてきた夏目さんに、一つ首肯してから応答した。終了直後と合間の休憩時間にやっていたな。キネマリード社の人たちにも声をかけていたみたいだし、香月社長は宣言通りフォーラムを余す所なく利用し尽くしたようだ。

 

「計三名に声をかけたと言っていました。もちろん所属してくれるかどうかは未知数なので、誰一人として連絡をくれないということも有り得ますが……まあ、社長曰く手応えは感じたらしいですよ。今は連絡を待っているところです。」

 

「……駒場さん、そんなに担当できるんですか? 万が一全員がオッケーしてきたら、六つのチャンネルを一人で受け持つってことですよね?」

 

「ちょっと厳しそうなので、オーケーして欲しい反面不安も感じています。……何れにせよ、やれと言われたらやるだけですよ。個々のマネジメントの質は意地でも落としませんから、夏目さんは心配しないでください。」

 

仮に全員事務所入りしても、現状ならギリギリいけるはずだ。本当にギリギリだけど。……まあうん、無理そうだったら素直に人員の補充を進言しよう。雑な仕事になることだけは許されないのだから、引き際はしっかり見定めなければ。

 

ただ、六人抱えたところで全然赤字なんだよな。ここはもう数の問題ではなく、マネジメント料の割合の問題でもなく、単純にクリエイターたちの収入が成長途上だからだろう。時代はまだまだ香月社長に追いついてくれないらしい。

 

黒字の遠さを嘆きながら応じた俺へと、夏目さんがおずおずと声を送ってくる。

 

「無理はしないでくださいね?」

 

「ええ、そこは承知しています。マネージャーに負荷がかかりすぎると、担当に皺寄せがいきますからね。もし無理だと思ったら、そうなる前にきちんと社長に意見します。香月社長なら聞き入れてくれるはずですし、私が無理をするという展開にはなりませんよ。」

 

「そうですか? なら、いいんですけど。」

 

若干不安げに夏目さんが呟いたタイミングで、羊羹を食べ切って言葉を放った。不安を取り除くべき立場のマネージャーが、担当に心配されているようではダメだな。もっと気を付けなければ。

 

「それでは、撮影をしましょうか。スイカのゼリーを作るんですよね?」

 

「あっ、はい。中身は丸ごとゼリーにして、皮を器として使うつもりです。それで種はタピオカで再現しようと思ってて。知ってますか?」

 

「数年前にほんのり流行ったやつですよね? ミルクティーとかに入れる黒い粒でしょう? 前の仕事をしていた時に接した覚えがあります。」

 

「そうです、それです。今日駒場さんに撮ってもらいながら作って冷蔵庫で固めて、明日一人で実食のシーンを撮ります。ゼリーは簡単に作れるんですけど、タピオカは普通にやろうとすると沈んじゃうので……段階的に固めて層にして入れるバージョンと、最後に埋め込むバージョンの両方を作ってみますね。層にするのは強度的に心配ですし、念のため二個作るって感じです。一応、タピオカがダメだった時用にチョコチップも買ってあります。」

 

うん、良いんじゃないかな。費用もそこまでかからないし、スイカゼリーとなれば季節感も出せそうだ。バックアッププランまである夏目さんの企画に、俺が笑顔で賛成しようとしたところで……ニュースを視聴していた叶さんがポツリと報告を口にする。

 

「お母さん、昼にお客さんにスイカ出してたよ。家にあったからサービスだって。」

 

「……それ、私のスイカだった? 二玉買ったんだけど。」

 

「そこまでは知らないけど、自分で買ったスイカなら家に『あった』って言い方はしないんじゃない?」

 

「……駒場さん、少し待っててください。店の方に行ってきますから。」

 

一言断った夏目さんは怒っている様子で立ち上がると、素早い歩調で廊下へと消えていくが……うーん、どうも使われちゃったらしい。今の季節ならスイカくらいスーパーにいくらでも売っているはずだし、俺が車でひとっ走りして買ってくるべきかな?

 

『母親が勝手に使う』という実家ならではの逸話に苦笑している俺に、叶さんがテレビを見つめながら小さな声で話しかけてきた。

 

「……姉は、随分と熱中してるんですね。」

 

「ライフストリームにですか? そうですね、真剣に取り組んでいると思います。私からすれば頼もしい限りです。」

 

「今まで何をやっても中途半端だったのに、いきなりああなられると困ります。……始めた頃はすぐ飽きると思ってたので、それが仕事にまでなったのは予想外です。」

 

「……叶さんは、お姉さんがライフストリーマーをしているのに反対ですか?」

 

どちらかと言えばマイナスの感情を読み取って恐る恐る尋ねてみれば、叶さんは一瞬だけ沈黙した後で回答してくる。

 

「別に反対はしてませんけど、出来るわけがないとは考えていました。父は甘いのでともかくとして、母もそうだったはずです。今の姉は平均以下の人間ですから。」

 

「……中々厳しい評価ですね。」

 

「能力が無いわけではないんですけどね。やろうとすれば出来るのに、すぐ譲ったり諦めたりする人になっちゃったんですよ。誰かとぶつかりそうになると愛想笑いで身を引いて、自分を過小評価してやる前から諦め半分で……今の姉のそういうところ、本当に嫌いです。そんなことをしても自分が損するだけなのに。」

 

正座から所謂『体育座り』に姿勢を変えながら語る叶さんは、ほんの僅かにだけ苛々している雰囲気で続きを話す。『嫌い』か。単純なそれではなく、複雑な感情が込められた『嫌い』に聞こえたな。

 

「だから、正直驚いているんです。最近の姉は寝ても覚めてもライフストリームのことばかりですから。前よりも更に熱中してる気がします。壁にぶつかった時も食い下がろうとしてますし、生意気にも本気で上を目指してるみたいでした。どうして急にあんなに努力できるようになったのかが、私からすれば不思議でなりません。」

 

「……好きだからじゃないでしょうか? 夏目さんは全力で打ち込める物事を見つけられたんですよ。叶さんがいつか自分にとってのそれに出会えた時、今のお姉さんの気持ちが分かると思います。」

 

「駒場さん、学校の先生みたいなことを言いますね。『好きな物事を見つけて、将来の仕事にしましょう』ってやつですか? ……私にはさっぱり理解できません。集会とかでよく先生が話してますけど、単なる綺麗事に聞こえます。」

 

「まあ、そうかもしれませんね。私も中学生の頃は全く理解できませんでしたから。これといってなりたい職業が無くて、進路希望には公務員と書いていました。」

 

しっかりとした目標として定めているなら、公務員が夢でも全然悪くはないのだろうが……俺の場合は公務員試験の難易度や種別や職務内容なんて一切考えずに、ただ漠然とした『安定していそう』というイメージから選んでいたっけ。ぽんこつ中学生だったな、俺は。社会を知らないのではなく、知ろうとしていなかった子供だったぞ。

 

苦く笑っている俺の方を向いた叶さんへと、ポリポリと首筋を掻きながら発言を繋げる。けどまあ、大抵はそんな感じだろう。中学生の時点で明確な『人生設計』を持っている人間なんて、ほんの一握りだけのはずだ。

 

「高校に上がっても同じでしたよ。テストのために一応勉強するくらいで、特に入りたい大学もなりたい職業も決められず、色々な偶然が重なった結果惰性で短大に進学しました。『念のため短大は出ておこう』という程度の考えでしたね。今思えば周囲より子供だったのかもしれません。」

 

「……マネージャーになったのも惰性ですか? 前は芸能事務所で働いていたんですよね? 姉がそう言ってました。」

 

「ええ、情けないことにそこもまた惰性です。短大に入った時点で段々と危機感が募ってきて、奨学金の返済もあるしとにかく就職しようという気持ちから芸能マネージャーになりました。芸能系の短大だったので、そっち方面の就職に比較的強かったんですよ。今の仕事を選んだのはそれだけの理由に過ぎません。」

 

「……後悔してますか? 中学生とか高校生のうちに、将来の夢を決められなかったことを。」

 

叶さんの質問に、肩を竦めて返答した。それが後悔していないのだ。

 

「いいえ、むしろ中学や高校の時点で決められなくて良かったとすら思っています。もしかしたらマネージャーは私の適職ではないのかもしれませんが、天職だとは感じていますから。……私はこの仕事が好きなんです。前の事務所に勤め始めて二年後に、当時担当していたタレントさんから嬉しい言葉をいただきまして。その時ようやく自分の夢に気付けました。つまりですね、私が夢を持てたのは二十二歳の頃なんですよ。」

 

「間に合うんですね、それでも。」

 

「まあその、スポーツとかだと遅すぎるかもしれませんし、資格が必須の専門職の場合は大学に入り直す必要が出てくるかもしれませんが……私のように社会に出てから夢を持つというケースは結構あると思いますよ。結局のところ早めに見つけておくのが一番なので、胸を張って推奨できる人生設計ではありませんけど、行き当たりばったりでも出会える時は出会えるみたいです。」

 

ここまで話しておいて何だが、未来ある中学生に聞かせる内容ではなかったかもしれない。要するにこれは、幸運によって『滑り込みセーフ』になったってパターンだもんな。教師とかなら絶対にしない話だろう。生徒たちの将来を思って、もっと危機感を煽るはずだ。

 

余計なことを言ったかと心配になっている俺へと、叶さんが小首を傾げて応じてくる。もう顔だけではなく、身体もこちらに向けているな。何度かこの子と接してきて、今初めて興味を持たれている気がするぞ。無表情なのはそのままだが。

 

「つまり、焦らなくてもいいってことですか?」

 

「いや、えーっと……中学生の時点で決められるに越したことはないけど、一応巻き返せはするという意味です。私のような『ラッキーヒット』に頼るのはやや危険かもしれませんが、中学で見つからなければ高校があります。そして高校でも見つからなかったら、大学に進んでみればいいんじゃないでしょうか? それでもダメなら社会に出てからですね。」

 

「……先延ばしですね。」

 

「まあ、はい。正にその通りだと思いますし、あまり参考にしない方がいいかもしれません。自分でも良くないことを喋っているなと後悔し始めています。」

 

正直に告白した俺に対して、叶さんは……笑うところを見るのも初だな。薄っすらと笑みを浮かべて返事をしてきた。好意の笑みというか、面白がっているような笑い方だ。捉え方次第では嗜虐的な笑みにも見えてしまうぞ。

 

「変な人ですね、駒場さんは。やっぱり学校の先生とは似てませんでした。少し情けないあたりが全然違います。」

 

「あー……そうですね、情けない人生だという自覚はあります。だからまあ、先生方の意見に従っておくのが一番ですよ。」

 

「でも、情けない駒場さんを知れてちょっと安心しました。みんながみんな目標を持って行動してるわけじゃないんですね。……姉はそれを見つけられたってことですか。」

 

「好きだから続くんですよ。そうじゃないものをやっていると、どこかで無理が生じるんです。無収入の頃からライフストリームと真剣に向き合っていたお姉さんは、そうそう折れることがないと思います。先にあったのはライフストリームで、それが仕事になっているのは結果……というか過程ですからね。」

 

夏目さんのような人を、ライフストリーマーにおける『逸材』と呼ぶのかもしれないな。これもまた才能の一つだろう。好きだから興味を持ち、興味があるから熱中し、熱中するから詳しくなり、詳しいから人より上の結果を出せるのだ。労を労と思うのは誰もが同じだけど、嫌々やるか能動的に取り組むかでは全く違う結果になるはず。

 

日々の編集や撮影もキツいっちゃキツいだろうし、雪丸さんの登場がそうだったように沢山の壁があるのだろうが……それでも手を伸ばしてしまうもの。それが夏目さんにとってのライフストリームなんだと思うぞ。俺にとってはマネージャー業がそうなのだから。

 

今更ながらにこの職業に出会えた幸運を実感していると、叶さんがテレビに向き直って口を開く。また無表情に戻っているな。

 

「……『適職ではなく天職』という表現は良かったです。しっくり来ました。自分に向いていることよりも、自分がやりたいことを優先すべきって意味ですよね?」

 

「あくまで私の考えですけどね。たとえ得意でも、興味を抱けないものは長続きしませんから。『苦手だけど好きだからやってしまう』という対象の方が、最終的には熟達できるはずです。なのでまあ、それが職業になるのがベストなんだと思いますよ。」

 

「得意なものを職業にして、好きなことを趣味にするのはダメですか?」

 

「いえいえ、それも全然ありですよ。そこは単純に価値観の違いでしょうね。私の場合は好きなことを職業にする方が、ストレスなく生きていけると判断しているだけです。『好きなればこそ仕事にはしたくない』という考えを持つ人も居るはずですし、自分に合ったやり方を選ぶのが重要なんじゃないでしょうか。」

 

あとは『好きだけど仕事にはならない』というパターンもあるな。広告システムが出てくる以前の動画投稿が正にそれだ。そういう視点で考えていくと、社会に認められていない『仕事に出来る趣味』はまだまだ多そうだぞ。

 

けど、ライフストリームが一つの切っ掛けになってくれるかもしれない。動画という形で自らの趣味を職業にするのは可能なはずだ。好きが高じて得た技術を、沢山の人に広めたり楽しんでもらいながら収入を得る。……うーむ、改めて良い仕組みだぞ。

 

であればマネジメントを担う俺たちは、そういう可能性をしっかりと保護していかなければと気合を入れ直したところで、ちょっぴり怒っている顔付きの夏目さんが居間に帰ってきた。スイカはやはり使われていたらしい。

 

「お待たせしました、駒場さん。……スイカ、ダメでした。」

 

「では、私が買いに行ってきますよ。普通のスイカで大丈夫ですか?」

 

「あの、本当にすみません。私も行くので、運転だけお願いします。部屋で着替えてきますから、もう少しだけ待っててください。」

 

言いながら再度部屋を出ようとした夏目さんは、ぴたりと立ち止まって叶さんに疑問を投げる。探るような口調でだ。

 

「……叶、駒場さんに変なこと話してないよね?」

 

「変なことは話してないけど、深いことは話したよ。駒場さん、思ってたより面白い人だね。」

 

「……何話したの?」

 

「お姉には内緒。うじうじ悩んでて鬱陶しかったから教えてあげない。」

 

叶さんの容赦ない答えを耳にして、夏目さんはちらっと俺の方に視線を動かしたかと思えば……慌てた感じに断ってから廊下へと出ていく。

 

「す、すぐ戻りますから。これ以上あの、叶とは話さないように気を付けてください。」

 

「……へぇ? 姉が執着してるの、ライフストリームだけじゃないみたいですね。」

 

「どういう意味でしょう?」

 

夏目さんが去った後で呟いた叶さんに問いかけてみると、彼女は僅かにだけ口の端を吊り上げながら応答してくる。姉より赤が強いブラウンの瞳が、怪しげな興味の色に輝いているな。何だか不安になってくるぞ。

 

「まだ秘密です。……でも私、姉のことが嫌いですから。姉が欲しがるものとか、大事にしてるものを全部横取りしたくなるんですよ。ひょっとするとそれが私の『好きなこと』なのかもしれません。」

 

「……怖い発言ですね。」

 

「それでいつも我慢して、『いいよ、叶にあげる』って言うのが姉なんです。私はその時の姉の顔が大っ嫌いで大好きなので……まあ、今回も試してみることにします。作戦、考えないといけませんね。」

 

冗談、だよな? というか、何を試すんだ? 物騒な計画を聞かされて困惑している俺を尻目に、叶さんは話は終わったとばかりに黙り込んでしまうが……うーん、独特。さっきの会話で少し理解できた気分になっていたものの、またこの子のことがよく分からなくなってしまったな。

 

やっぱりちょっと苦手かもしれないと思ってしまいつつ、夏目さんが戻ってくるまでの沈黙をひたすらやり過ごすのだった。

 



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Ⅲ.雪丸 ⑦

 

 

「よっと。……戻りました。」

 

うだるような暑さの八月三日の午後。俺は背中でドアを押し開けながら、大型テレビの箱を撮影部屋に運び込んでいた。外は暑かったし、箱は重かったぞ。往復を面倒くさがらずに台車を使えば良かったな。今更すぎるが。

 

「お帰りなさい、駒場さん! ……おー、おっきいですね。わくわくしてきます。」

 

編集中だったらしい朝希さんが机から離れて近寄ってくるのに、苦笑いで応答を口にする。左右の下側で短く結んである髪が、今の彼女の気分を表すようにぴょこぴょこ揺れているな。新品の家電の大きな箱となれば、わくわくしてくるのは何となく分かるぞ。

 

「香月社長が奮発してくれました。五十型です。電気屋の店員に聞いて買ったので大丈夫だと思いますが、一応端子を調べてもらえますか?」

 

「はい! ……小夜ち、五十インチだって。大画面だよ、大画面!」

 

「こら、興奮しないの。……結構しましたよね、これ。本当にいいんですか?」

 

「まあ、元々買おうという話になっていましたからね。特に問題はありませんよ。私はテレビ台を持ってきますから、良ければ出してチェックしてみてください。」

 

二人に言い残してから事務所を出て、うんざりする気温の駐車場まで下りていってみると……むう、苦戦しているようだな。開いた状態の軽自動車のトランクを前に、渋い顔で突っ立っている香月社長の姿が見えてきた。

 

「お帰り、駒場君。やっぱり重くて無理だったよ。二人で運ぼう。」

 

「……じゃあどうして『テレビ台は私が運ぶよ』と自信満々に言ったんですか。」

 

「実際持ってみたら重かったのさ。……君、ガラガラはどうしたんだい? ガラガラが無いと非力な私は運べないぞ。」

 

「『ガラガラ』? ……ああ、台車のことですか。二人で運ぶなら必要ありませんよ。大きい方を私が持ちますから、小さい箱と電気屋の袋をお願いします。」

 

香月家では台車を『ガラガラ』と呼んでいるらしい。独特だな。……つまり、俺と香月社長は昼食の後で電気屋にテレビを買いに行っていたのだ。小夜さんに言ったように元々事務所に置こうと考えていたし、対決企画のゲームを小さなモニターでやるのは味気ないということで、社長がこの機に購入しようと決断したのである。

 

仕事をするスペースにテレビを置くのには賛否あるんだろうけど、うちは曲がりなりにも映像を取り扱っている会社だし、何よりほぼ毎日通っている朝希さんと小夜さんの良い暇潰しになってくれるはず。単純に『大きめのモニター』としても使えるんだから、一台持っておくのは悪くないように思えるぞ。ギリギリで必要経費の範疇だろう。

 

思案しながら家具屋に寄って買ったテレビ台を二人で持って、エレベーターを使って三階へと向かう。箱が複数あるということは、それなりに面倒な組み立てが必要だということだ。録画環境のテストも早くしたいし、すぐに取り掛かるとするか。

 

まあでも、そういう組み立て作業は嫌いではないぞ。ちゃちゃっとやってしまおうと気合を入れつつ事務所のドアを抜けると、エアコンに冷やされた空間に到着した香月社長が声を上げた。至福の表情でだ。

 

「あー、涼しいね。エアコンの開発者に何故ノーベル賞が与えられていないのかが不思議でならないよ。多くの人間に恩恵を齎している、近代の最も偉大な発明の一つなのに。……ひょっとして、受賞したのかな? 私が知らないだけとか?」

 

「私に聞かれても困りますよ。誰なのかも、存命なのかも、どの国の人なのかも知りません。」

 

また変な話が始まったな。そういう話は外出中の由香利さん相手にやって欲しいぞ。首を傾げながら応じてみれば、香月社長は箱と買い物袋を応接用ソファに下ろして肩を竦めてくる。

 

「何とも可哀想なことだよ。これほど役に立つ機械を発明しても、名前一つ覚えてもらえないのか。いつだって名が残るのは創り出したヤツじゃなく、便乗して金を稼いだヤツなのさ。後世の歴史家はそれを笑うだろうね。」

 

「……でも、社長だって知らないんでしょう?」

 

「今から調べるよ。知らないことは罪ではないが、知ろうとしないのは明確な悪行だ。知恵の実を食った存在として行動していこうじゃないか。」

 

「……それなら知恵の取得は社長に任せて、私はテレビ台を作ることにします。」

 

自分のデスクに着いてパソコンを起動させている香月社長に一声かけた後、彼女が運んできた荷物も手にして撮影部屋へと歩き出す。大いに正しい発言だとは思うが、全員が全員ソクラテスみたいなことをしていると物事が何一つ進展しないのだ。エアコンの開発者を知る作業は社長に一任して、俺は現実的な労働をすべきだろう。

 

短大の哲学の授業は面白かったなと思い返しつつ撮影部屋に入室してみれば、テレビの箱を囲んで話し合っている二人が目に入ってきた。ちなみに今日のモノクロシスターズはお揃いのショートパンツ姿だ。朝希さんはデニムのパンツに白いTシャツで、小夜さんはハイウエストの黒いボタンショートパンツに半袖のブラウスを合わせている。朝希さんはいつもこんな感じの服装だけど、小夜さんがスカートじゃないのは珍しいな。

 

「箱をカッターで分解すべきでしょ。それが合理的な出し方よ。普通に出そうとして『すぽん』ってなって、落としでもしたら大変じゃない。」

 

「でもでも、箱を傷付けると保証が利かなくなるよ。発泡スチロールで固定されてるはずだから、横にして出すべきだって。……駒場さん、持ちます!」

 

「ありがとうございます。……テレビを出す前に、テレビ台を作ってしまいましょうか。」

 

荷物を抱えている俺を見て駆け寄ってきてくれた朝希さんにお礼を送りながら、上部だけが開封されてあるテレビの箱を横目に意見してみると、小夜さんがこっくり頷いて賛成してきた。今出しても邪魔になるだけだもんな。何事も順番が大切なわけか。

 

「そうですね、手伝います。朝希、開けて説明書を探し当てて。……駒場さん、ドライバーって二本ありましたっけ?」

 

「事務所に元々あった一本と、お二人が持ってきた一本があるはずです。取ってきますね。」

 

断ってから事務所スペースに移動して、ジャケットを脱いで椅子にぐでーっと背を預けている香月社長を尻目に二本のドライバーを回収し、撮影部屋に戻って三人で天板やら底板やらキャスターやらを取り出していると……小夜さんが眉間に皺を寄せつつ言葉を飛ばしてくる。朝希さんが見つけた組み立て説明書を捲りながらだ。

 

「まあまあ複雑ですね。……私はここから作りますから、駒場さんは最初のページから順番に作っていってください。それでこの段階で組み合わせましょう。」

 

「了解しました。」

 

「小夜ち、私は? 私は何すればいい?」

 

「あんたはすぐネジを潰すから部品を渡す係をやりなさい。ドライバー禁止。」

 

冷静な口調で作業指示を出した小夜さんに、朝希さんがムッとしながら反論を投げた。となれば俺は、底板に支えを付ける作業からだな。キャスターはその次に付けるらしい。

 

「……私だってネジ回しくらい出来るもん。やらせてよ。」

 

「ダメよ。あんたはいつもいつも馬鹿力でグッと回して、ネジの頭を削りまくってるでしょうが。こういうのは程々でいいの。組み立ては私と駒場さんでやるから、あんたは部品係をやってなさい。」

 

「けど、ちゃんと締めないと緩んじゃうじゃん。」

 

「だから、緩まない程度にちょうど良く回すのよ。……ほら、部品係。三番のネジを四本渡しなさい。」

 

現場監督に就任した小夜さんの指令を受けて、朝希さんは不満げな面持ちになりながらも三番のネジを探し始める。そんな彼女を見て苦笑しつつ、俺もドライバーを手に取って口を開いた。『組み立て作業』は小夜さんが主導権を握る分野なわけか。

 

「そういえば、前に言っていたゲームの遅延に関しては大丈夫そうですか?」

 

「パススルー出力がある外付けのキャプチャーボードにしたので、テレビでプレイする分には問題ないはずです。ただしパソコンで録画してる画面にはラグがあるから、音声とかにズレが出てくるかもしれません。そこは編集の段階で合わせないとダメですね。」

 

「……よく分かりませんね。」

 

「つまり、噛み砕けば……ゲーム機から出力された映像を、間に繋いだキャプボで分岐させてテレビとパソコンの両方に送るんです。それがパススルー機能ですね。だけど処理の関係でパソコン側だけが一秒くらい遅れた映像になるので、他の遅延無しで録画録音した別素材とのズレが生じちゃうんですよ。ぼんやり見てると気にならないけど、じっくり見ると引っ掛かるかもってレベルの些細なズレが。」

 

んー、難しいな。パソコンで録画した画面は実際に見ているテレビの画面よりも『遅い』ので、実況者の反応がほんの僅かにだけ『先取り気味』になってしまうということか? ネジを回しながら小夜さんの説明を咀嚼していると、彼女も手を動かしたままで話を続けてくる。

 

「基本的には、動画で出すならそこまで困らないと思います。編集でどうにでも出来ますから。別素材を組み合わせる時に、ラグの分をズラせばいいだけです。……なのでまあ、ここはむしろ生配信をやってる人たちが悩む部分ですね。リアルタイムでマイクの音声とか別撮り画面も一括処理しないといけないので、解決するのはかなり大変なんじゃないでしょうか? パススルーさせて別画面でやると反応がズレるし、させないでパソコン画面でやると単純にラグでプレイし辛い。どっちにしろ問題になっちゃうわけですよ。」

 

「処理によるタイムラグが発生するのは何となく理解できるんですが、それでプレイし辛くなるのは何故なんでしょう? 仮に遅く入力しても……あれ? ダメですね、頭がこんがらがってきました。」

 

「例えば遅延ありの画面内でキャラが被弾しそうになったとして、それを視認した時点で処理上はもう当たっちゃってるんです。そういうのが映像の遅延の問題ですね。……あとはコントローラーの操作にも当然ラグがあるわけなので、キャラが一瞬遅れて動くんですよ。ターン制のRPGなんかだとプレイできないこともなさそうですけど、アクションとかは厳しいと思います。出来るか出来ないか以前に、そんなのやっててイライラするでしょうし。」

 

「あー、はい。ようやく理解できました。それは確かにイライラしそうですね。」

 

そっか、ゲーム機本体の処理やコントローラーの操作には遅延なんて無いわけだもんな。そりゃあやり難いだろう。一秒遅れた画面を見て入力して、一秒後に入力が反映されると。それはまあ、中々のストレスになりそうだ。

 

ゲーム実況の問題をざっくりと認識できたところで、部品係の任を全うしている朝希さんが話に参加してきた。

 

「でも、パソコンでやるゲームだと簡単ですよ。全部内部で処理してるからズレません。音声とゲーム画面をそのまんまセットで扱えますし、顔画面だってやろうと思えば録画する時点で入れられます。私たちは編集でくっ付けてますけど。」

 

「わざわざテレビに分岐させるのは遅延無しでプレイするためで、キャプチャーボードを挟むとパソコン側のゲーム画面に遅延が出てしまうのは分かったんですが……そもそも、直接ゲーム機とパソコンを繋ぐのは不可能なんですか?」

 

「んっと、パソコンもゲーム機も出力する側なんです。それを映像に変換するのがテレビとかモニターだから、パソコンとゲーム本体を繋いでも無意味……なんだよね? 小夜ち。」

 

「まあ、ふわっと理解だとそうなるわ。……ゲーム機から出力された情報をパソコン用に『翻訳』するための、一番身近で手軽な手段がキャプチャーボードって感じですね。録画するためにはパソコンのシステム上に画面を入力させなきゃなので、翻訳による遅延を避けるのはほぼ不可能です。一応録画機能があるモニターを使ったりとか、荒っぽくテレビ画面をカメラで直撮りするって方法も存在してますけど、そういうのは画質とか費用面で現実的じゃないですし。」

 

直接画面をカメラで撮るというのは随分と強引な解決方法に思えるが、確かにそれっぽい動画を実況動画の研究中に見たことがあるぞ。みんな苦労しているんだなと唸っていると、小夜さんが追加の解説を寄越してくる。

 

「パソコンで録画するだけならここで終わりですけど、生配信をやりたいとなると更に面倒になりますよ。さっき言ったラグには目を瞑るとしても、キャプチャーした画面を配信に組み込む作業がありますから。キャプボに付属してるソフトだとそこまで補助してくれないパターンが多いので、配信用のソフトを二重で走らせるなり、設定を弄って配信用ソフトに直で入力するなりしないといけないんです。」

 

「……『難しい』ということだけは伝わってきます。」

 

「結局のところ、慣れなんでしょうけどね。外から見ると複雑でも、やってみると案外できたりすることって多いじゃないですか。最近は配信用ソフトがデフォルトで有名どころのキャプボをサポートしてくれるようになってきてますし、数年経てばずっとやり易くなってるはずです。」

 

「ライフストリームでライブ配信が可能になったら、お二人もやってみたいですか?」

 

小夜さんが期待半分の口調で話を締めたところで、棚板を嵌め込みながら将来の展望についてを尋ねてみれば、朝希さんが眉根を寄せて答えてきた。

 

「私はやりたいんですけど、小夜ちがダメって言うんです。」

 

「あんたはどうせ荒らしコメントですぐヘコむし、上手く捌けないでしょ。もうちょっとそういうのに慣れてからやるべきよ。他の人の配信を見て勉強しておきなさい。……五番のネジを六本頂戴。」

 

『荒らしコメント』か。まあうん、ライブ配信だと避けては通れない障害だな。そっち方面のノウハウは事務所として全然集められていないし、ライフストリームがライブ配信を取り入れるまでには取得しておきたいぞ。

 

いやはや、相変わらず課題だけはどんどん見つかるな。新たな『宿題』を発見してしまった俺がため息を吐いているのを他所に、朝希さんが小夜さんにネジを渡しつつ主張を述べる。

 

「はい、ネジ。……私、出来ると思うよ? 無視すればいいんでしょ?」

 

「無視は出来るかもしれないけど、気にしちゃって口数が減るでしょ。あんたは心の中が態度に出易いんだから。」

 

「……小夜ちは平気なの?」

 

「荒らしコメントなんて、こっちが取り上げなければ存在しないも同じよ。書き込む自由は向こうにあるけど、拾うかどうかを選択するのは配信者なの。主導権はあくまでこっちにあるってこと。」

 

小さく鼻を鳴らして言う小夜さんへと、朝希さんは悩んでいる顔付きで返事を返す。俺が見たところ、小夜さんも気にするタイプではありそうだけどな。外側の態度がどうであれ、内心ではもやもやしてしまうだろう。

 

「……私はそんな風に割り切れないよ。嫌なこと言われたら嫌な気分になるし、悲しいもん。」

 

「だからまだ早いのよ。無意味な文句と意味がある意見を見分けられるようになりなさい。雪丸さんも動画でそう言ってたでしょ。チャンネルのための厳しい意見はきちんと読んで、訳の分かんない『チンパンジーの書き込み』は無視すればいいの。」

 

「……小夜ちは『雪丸派』だもんね。私は『さくどん派』だから、さくどんさんに聞くよ。」

 

「べ、別にそういうわけじゃないわよ。私だってさくどんさんを参考にするわ。事務所の先輩なんだから当たり前でしょ。」

 

何だその派閥は。邪魔なジャケットを脱ぎながら耳にしていた俺に、朝希さんが小夜さんを指差して『告げ口』してくる。

 

「駒場さん、小夜ちは裏切り者なんです。さくどんチャンネルより先に、雪丸スタジオに登録してました。処罰してください。」

 

「なーにが処罰よ。それはホワイトノーツに所属する前の話でしょ? 所属前はノーカン。カウントに値しないわ。……大体ね、あんただって両方登録してるじゃないの!」

 

「私はさくどんチャンネルが先だもん。ライフストリームを見始めた時、一番最初に登録したよ。……白状しなさい、小夜ち! さくどんさんより雪丸さんのファンなんでしょ! どっちかって言ったら、雪丸さんを選ぶんでしょ!」

 

「違うわよ! さくどんさんに決まってるでしょうが! ……妙な疑いをかけないで欲しいわね。冤罪よ、冤罪。」

 

若干焦っている様子で弁明している小夜さんだが……いやまあ、別にいいと思うぞ。そこは個人の好みだろうし、同じ事務所だから過度に持ち上げろというのは無茶苦茶だ。俺だって雪丸スタジオの動画を面白いと感じているのだから、小夜さんがファンになってもおかしくはないだろう。

 

とはいえ朝希さんは許せないようで、ぷんすか怒りながら小夜さんに挑戦を叩き付けた。

 

「私がさくどんチームになって、絶対勝つからね。裏切り者の小夜ちなんかぺちゃんこにしてあげるよ。」

 

「ちょっと? チーム分けはじゃんけんで決める約束でしょ?」

 

「小夜ちはさくどんチームに相応しくありません! ……ね? 駒場さん、ね?」

 

「あーっと……その前に、『チーム分け』というのは?」

 

何故か俺が脱いだジャケットを回収しながら『ね?』をしてきた朝希さんに問いかけてみれば、彼女は……どういう行動なんだ、それは。手に入れたジャケットをすんすん嗅ぎつつ回答してくる。さも当然かのように自然にやっているけど、恥ずかしいからやめて欲しいぞ。

 

「カウントフューチャーは二対二でやることにしたんです。ゲームに慣れてない二人だけだとぐだぐだになっちゃうかもですし、CPUを入れるくらいなら私たちが参加すべきかなって。」

 

「なるほど、そういうことですか。四人でやれば賑やかになるでしょうし、良いアイディアだと思います。……それより朝希さん、ジャケットを返してください。」

 

「ダメです、良い匂いなので。」

 

ダメなのか。真夏だし、汗の臭いとかがしそうで嫌なんだけどな。パッとジャケットを俺から遠ざけた朝希さんへと、小夜さんがやや赤い顔で注意を送った。

 

「やめなさいよ、朝希。駒場さんに返しなさい。」

 

「やだよ。この匂い、好きだもん。小夜ちには貸してあげないから。」

 

「あんたそれ、何か……変態っぽいわよ。匂いフェチのヤバいヤツじゃないの。」

 

双子の片割れから『匂いフェチのヤバいヤツ』扱いを受けた朝希さんは、俺のジャケットを抱き締めたままでぴたりと停止した後、見る見るうちに頬を紅潮させていって……勢いよく『ブツ』をこっちに返してくる。急に恥ずかしくなったらしい。

 

「か、返します。……小夜ち、変なこと言わないでよ! 何なのさ、『匂いフェチ』って。意味分かんない! 違うんだからね!」

 

「ドン引きだわ。私も、駒場さんもドン引きよ。男の人のジャケットの臭いに興奮して──」

 

「してないもん! 興奮なんてしてない! 小夜ち、ダメでしょ! 何でもかんでもえっちなことに結び付けないでよ!」

 

「あんた、この……暴力で解決しようったって無駄よ! 満足そうな顔ですんすんしてたじゃない! 変態! 変態朝希!」

 

一瞬で押さえ込まれながら口で抵抗している小夜さんのことを、朝希さんが容赦なくチョークスリーパーの体勢に持っていく。……俺は大人しくテレビ台を作ろう。こんなのどう突いたって藪蛇だろうし。

 

「変態じゃないもん! 駒場さんのジャケット、良い匂いがしたから! それだけだよ!」

 

「いいえ、あんたは駒場さんの汗の臭いに興奮してたのよ! それが匂いフェチの……あっ、待って。しま、絞まる。ギブ、朝希。ギブ。」

 

「撤回しなさい、よわよわ小夜ち! 私、そんな変な人じゃないんだからね!」

 

「するから、する。撤回する。」

 

うーん、香月社長と同レベルで弱いな。タップしながら敗北宣言をした小夜さんは、暫くぜえぜえと荒い息を漏らした後で……えぇ、諦めないのか。ササッと俺を盾にするように背後に回り込んだかと思えば、そこから朝希さんをからかい始めた。完全に悪役の行動だぞ。しかも、すぐやられるタイプの。

 

「嘘よ、バーカ! 撤回なんかするわけないでしょ! 認めなさい、朝希! あんたは匂いフェチなの! ド変態なの!」

 

「……じゃあ聞くけどさ、小夜ちこそそうなんじゃないの? 本当は駒場さんのジャケットの匂い、嗅ぎたいんでしょ? 前に小夜ちも良い匂いって言ってたじゃん。」

 

「な、何でいきなり冷静になるのよ。違うに決まってるじゃない。私は……あれよ、普通よ。ノーマルな人間なの。」

 

「ふーん。……ならいいよ、私は匂いフェチで。駒場さん、ジャケットちょーだい!」

 

おお、開き直ったぞ。堂々と俺からジャケットを再度回収した朝希さんは、小夜さんにべーっと舌を出して発言を放つ。

 

「駒場さんのジャケット、これからずーっと私のだから。……駒場さん、小夜ちには嗅がせちゃダメだよ? 私だけね。」

 

「……私としては、誰にも嗅がせたくないんですが。」

 

「それは無理です。」

 

無理なのか。真顔で即答してきた朝希さんを見て、困惑しつつどうすべきかと迷っていると……小夜さんがごくりと唾を飲み込んで声を上げた。ひくひくと口の端を震わせながらだ。

 

「あ、あんた変態でいいの? ダメでしょ? ちゃんと否定しなさいよ。今なら許してあげるから。」

 

「別にいいもん、匂いフェチで。けど小夜ちは違うんだもんね? 匂いフェチじゃないんでしょ?」

 

「……違うわよ。」

 

「じゃあ黙っててよ。無関係じゃん。私と駒場さんで取り引きするから、小夜ちは大人しくしてて。」

 

つんとした態度で俺のジャケットに顔を擦り付けている朝希さんだが……いや、訳の分からない状況に行き着いてしまったな。急展開すぎてついて行けていないぞ。朝希さん、異性の汗の臭いが好きなのか。そういう嗜好は何度か耳に挟んだことがあるし、男女問わず一定数存在しているのかもしれないけど、ここまではっきり公言してしまう人は珍しそうだ。

 

匂いフェチであることを暴露してしまった朝希さんを見つめて困っている俺に、彼女はちょびっとだけもじもじしながら『取引内容』を告げてくる。

 

「私が駒場さんの匂いを嗅ぐ代わりに、駒場さんも私に何かしていいです。何がやりたいですか?」

 

「……特に希望は無いですね。」

 

「えー、そんなのつまんないです。何でもいいんですよ? して欲しいことを──」

 

「朝希! ……作るわよ。意味不明な話をしてないで、テレビ台を作らないとでしょ。駒場さんも手を動かしてください。」

 

朝希さんが喋っている途中で鋭く制止した小夜さんは、そのまま黙々と作業をし始めるが……助かったぞ。何かこう、社会的にそこそこ危ないやり取りだった気がするし。

 

「はい、やりましょう。」

 

「でもでも、駒場さんも何か受け取らないと公平じゃないよ。こういうのは最初にしっかり決めて──」

 

「いいから黙ってやりなさい。……ほら、ドライバー役やっていいから。四隅にこの金具を付けて頂戴。」

 

「いいの? じゃあやる!」

 

小夜さんの誘導にまんまと引っかかっている朝希さんだが……まあ、中学生となれば色々なことに興味を持ち始める時期だ。臭いを嗅がれるくらいならセーフだろうから、それで担当クリエイターの気分が向上するのであれば大人しく受け入れておこう。担当から奇妙な要求をされるのはこれが初めてではないぞ。

 

日に何十回も電話をかけてきたり、いつも持ち歩いているぬいぐるみを『個人』として扱って欲しいと頼まれたり、撮影前と撮影後は毎回ひたすら褒めまくってくれと言われたり。いまいち分からない独特な要求をしてくるタレントというのは、実は結構存在しているのだ。人間の複雑さを実感するな。他人から見れば『何それ?』と思うような行動が、当人にとってはとても大切なことだったりするらしい。

 

だからまあ、『においを嗅ぎたい』というのもそこまでおかしいとは感じないぞ。人は人が思うほど『まとも』ではないのだ。俺はそういった欲求もサポートできるマネジメントを目指しているし、特殊な要望にも可能な限り譲歩していくつもりでいる。外には見せられない部分を手助けできてこそのマネージャーだろう。

 

これはもしかしたら、人間を扱う仕事ならではの感覚なのかもしれないな。思案しながらせっせとドライバーを動かしていると、小夜さんが俺に呼びかけを投げてきた。

 

「駒場さん、それが終わったらこっちのと組み合わせますよ。そしたら最後に扉を付けて完成です。……あと、さっきの朝希に対しての態度は甘やかし法違反ですから。五回分のカウントになるので、そのつもりでいてください。」

 

「……はい。」

 

匂いフェチと、甘やかし警察か。何とも独特なコンビだなと内心で苦笑しつつ、分担して作ったテレビ台を組み合わせる。……うん、綺麗に出来たんじゃないかな。組み立て式は面倒だけど、完成の達成感を味わえるのは悪くない点だぞ。

 

「ん、良い感じですね。扉は私が付けちゃいますから、駒場さんは朝希と二人でテレビを出しておいてください。」

 

「オーケーです。私が中身を持つので、朝希さんは箱を引っ張ってくれますか?」

 

「はーい。……今思ったんですけど、これってさくどんさんなら動画を撮ってますよね?」

 

発泡スチロールに包まれたテレビを何とか引っこ抜いたところで、朝希さんがふと思い至ったという声色で呟くが……言われてみればそうかもしれない。一応最新式の売れ筋テレビだし、夏目さんなら間違いなくカメラを回していたはずだ。

 

「……そうですね。動画にするかはともかくとして、とりあえず撮るだけ撮ったと思います。」

 

しまったという顔付きの俺が返答したのに、同じ表情の小夜さんが同意を飛ばしてきた。彼女も失敗したと考えているようだ。

 

「そういうところが差なんでしょうね。さくどんさんならテレビの開封シーンを撮って、実際の映りとかをレビューしてたはずです。……テレビの性能はゲームに関係する要素ですし、モノクロシスターズとしては撮るべきだったのかもしれません。『事務所のテレビ』っていう先入観があったから、朝希が言うまで思い付きもしませんでした。」

 

「……箱に入れ直す? それか設置した後からスタートさせるとか?」

 

「まあ、今回は諦めましょう。……ゲーム実況以外にも手を出していくなら、『すぐ回す、とりあえず回す』っていうのを習慣付けるべきかもね。多分それがライフストリーマーにとって大事な『癖』なのよ。」

 

参ったと言わんばかりの苦い笑みを浮かべる小夜さんへと、朝希さんと俺が頷きを返す。……夏目さんは雪丸さんの背を見ているようだが、俺やモノクロシスターズはまだ『さくどん』の背を追うので精一杯だぞ。何かあった時にパッとカメラを出すというのは、確かにライフストリーマーにとって重要な癖でありそうだな。

 

「そういう部分は先達から学んでいきましょう。夏目さんと雪丸さんの対決企画の撮影を間近で見られるのは、私にとってもお二人にとっても良い機会であるはずです。ライフストリーマーとして得られるものがあるかもしれませんよ。」

 

「はい、盗める部分は盗んでみます。あの二人がゲーム実況をどういう動画にするのか興味がありますし、どっちが編集するにしろ楽しみです。……そのためにも、録画環境はちゃんと作らないとですね。」

 

「じゃあほら、早くテストしようよ。明後日にはもう撮影なんだし、私たちでテストプレイしておかないとでしょ? ……あっ、そうだ。駒場さんと香月さんも一緒にやってください! カウントフューチャー、みんなでやりましょう! だってだって、四人でやった方がリアルなテストになるはずです!」

 

「えーっと……では、後で香月社長に聞いてみましょう。接続の時点で問題が発生するかもしれませんし、先ず環境を構築してみてからです。」

 

俺の手を取って満面の笑みで提案してきた朝希さんに、テレビを発泡スチロールの中から出しつつ応じてみれば、彼女はぴょんと一度跳ねてから電気屋の袋を漁り始めた。朝希さんが居ると雰囲気が明るくなっていいな。撮影当日もそういう役割を担って欲しいぞ。

 

「じゃあ私、配線やります!」

 

「ちょっと、変な風に繋がないでよ?」

 

「大丈夫だよ、出来るもん。キャプボのドライバとソフト、小夜ちのパソコンにもう入れたんだよね?」

 

「ちょちょ、待ちなさいってば。配線は私がやるから、あんたは駒場さんを手伝いなさい。テレビ側の初期設定とかもあるでしょ。」

 

まあ、実際に四人でやってみるのは名案かもしれないな。夏目さんと雪丸さんが快適に撮影できるように、出来る限りの入念なチェックをしておかなければ。二人の会話を背にしつつ、脳内で下準備の大切さを再確認するのだった。

 



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Ⅲ.雪丸 ⑧

 

 

「ごきげんよう、ホワイトノーツの皆さん。暑いですね、今日は! そして涼しいですね、ここは!」

 

ゲーム対決企画の撮影当日である、八月五日の午前十一時。俺は事務所に入ってきた雪丸さんの格好に目を瞬かせつつ、香月社長や由香利さんと共に挨拶を返していた。袖を捲ったワインレッドのシャツにブラックのスラックス、そしてスニーカーというところまでは分かるのだが……何故つば広の麦わら帽子を被っているんだ? スニーカーは『ミスマッチのお洒落』の範疇だけど、麦わら帽子までいくと普通に変だぞ。

 

「おはようございます、雪丸さん。今日はよろしくお願いいたします。」

 

「やあ、雪丸君。よく来たね。こっちがマネジメント担当の駒場君で、そっちが営業担当の風見君だよ。」

 

「風見です。よろしくお願いします。」

 

「……誰も麦わら帽子には突っ込んでくれないんですね。自信があったんですが。」

 

ああそれ、突っ込まれたかったのか。残念そうな苦笑いで帽子を脱ぐと、雪丸さんはこちらに歩み寄りながら話を続けてくる。ちなみに背負っているリュックはフォーラムの時にも見た、女児向けのアニメキャラがプリントされてあるやつだ。あれも突っ込み待ちなんだろうか? 判断が難しいぞ。

 

「今日は場所をお借りします。ゲームとなると私は機材を持っていないので、準備してもらえるのは非常に助かりました。ありがとうございます、ホワイトノーツ!」

 

「どういたしまして。……それ、君の『素』なのかい?」

 

大声で堂々とお礼を言った雪丸さんは、香月社長が尋ねたのを受けて迷わず首肯してきた。素なのか。じゃあやっぱり変な人ではあるらしいな。

 

「今日はややテンションが高めかもしれませんが、私は生まれた時からこの性格です。キャラクターを演じたりはしていません。楽しそうな人生でしょう? 実際楽しくて仕方がありませんよ。」

 

「それはまあ、何よりだ。今日の撮影も楽しんでいってくれたまえ。」

 

「ええ、そうさせていただきます。しかし私だけが愉快なのは少々気が咎めるので、ホワイトノーツの皆さんにも幸せをお裾分けするためにささやかな手土産を──」

 

そこまで語ったところで急に口を噤むと、雪丸さんは何も持っていない自分の右手を見て、左手を見て、フッと笑ってからカッコよく肩を竦めてくる。

 

「道中買ったんですが、どこかに置き忘れてきました。恐らく地下鉄の座席に置きっぱなしになっていますね。というわけで、皆さんには気持ちだけ受け取っていただきたい。車で来れば良かったと後悔しています。」

 

「……フォーラムの日にも思ったんだが、君はちょっと抜けているらしいね。」

 

「そこもまたチャーミングでしょう? さくどんさんとモノクロシスターズさんは到着していますか?」

 

「そっちの部屋に居るよ。撮影には駒場君が協力するから、扱き使ってやってくれたまえ。」

 

手土産を地下鉄に置いてきてしまったのか。大胆不敵な中にぽんこつな部分を併せ持っているあたりも、我らが香月社長とちょっぴり似ているな。その社長の声に従って進み出た俺に、雪丸さんは右手を差し出してきた。

 

「よろしくお願いします、駒場さん。貴方はフォーラムの撮影の時、即座に画角の外に移動していましたね。実は感心していたんです。お陰で編集が楽になりましたよ。」

 

「あー……はい、光栄です。今日も良い撮影が出来るように努力していきますので、何かあれば遠慮なく言い付けてください。」

 

「これはこれは、殊勝な発言じゃありませんか。私はさくどんさんの『敵』ですよ? そんな女にかける言葉とは思えませんね。」

 

「……本当にそうなら、ああいった動画の構成にはしないはずです。」

 

既にアップロードされているフォーラムの日に撮影された動画は、先日夏目さんが口にしていたように限りなく『フェア』な編集が施されていたのだ。握手をしたままで指摘してみれば、雪丸さんはニヤリと笑いながら返答してくる。

 

「おや? 社長が傑物なら社員もそうだということですか。……ホワイトノーツ、やはり侮り難し!」

 

「……どうも。」

 

ついて行けないぞ、そのテンション。一般人の俺を香月社長や雪丸さんの仲間に入れないでくれ。来訪者の台詞にうんうん頷いている香月社長を尻目に、撮影部屋のドアの前まで移動してから雪丸さんへと声をかけた。

 

「さくどんさんやモノクロシスターズのお二人はこの中です。……帽子と荷物を預かっても大丈夫ですか?」

 

両手を差し出した俺の言葉を耳にして、ちらりとドアの横に置いてある二脚のゲーミングチェアに目をやった雪丸さんは……うーん、察しが良いな。これから何が起こるのかをぼんやりと把握したらしい。苦笑しつつやれやれと首を振ってリュックと帽子を預けた後、うなじで結んであるストロベリーブロンドの長髪を整えてから応じてくる。

 

「なるほど、なるほど。……私のタイミングで入っても?」

 

「ノックをしてからどうぞ。」

 

「では、そうすることにしましょう。」

 

スッと横に退けた俺へと応答してから、雪丸さんが三度丁寧にノックをしてドアを開くと──

 

「ごきげんよう、雪丸で──」

 

「来ましたね、雪丸さん! この前はびっくりしちゃって微妙な反応になっちゃいましたけど、今回は万全の準備を整えてきました! 勝負です! 私、負けませんから!」

 

中から夏目さんにしては大きめの声が響いてきた。要するに『いきなりの撮影』をやり返す形で、改めて挑戦を受け直そうというわけだ。そのために雪丸さんを撮影部屋に上手く誘導して欲しいと、予め夏目さんから頼まれていたのだが……おー、雪丸さんの方もハイテンションで答えているな。カメラの画角に入ってしまうので覗き込めないけど、室内の様子が目に浮かぶようだぞ。

 

「素晴らしい! 素晴らしいですよ、さくどんさん! それでこそ我が好敵手です! 事務所に所属した貴女が腑抜けていないかを、この勝負を通して確かめさせていただきます!」

 

「腑抜けてなんかいません! 私は事務所に所属して前よりも強く……そう、『ニューさくどん』に生まれ変わったんです! 前の私だったら雪丸さんに勝てなかったかもしれませんけど、今なら勝てます!」

 

「ならば本気でかかってきてください! こちらも全力でお相手しますよ! 何事にも全力投球。それがライフストリーマーですからね!」

 

二人の『掴み』が終わった後、一拍置いて小夜さんの冷静な声が聞こえてくる。事前の打ち合わせ通り、このままモノクロシスターズからのルール説明に入るらしい。

 

「それじゃあ、えっと……私たちモノクロシスターズが『立会人兼介添人』としてお二人の今日の勝負を見届けますね。私小夜が雪丸さんチーム、こっちの朝希がさくどんさんチームでそれぞれのプレイをフォローしていくので、どうぞよろしくお願いします。」

 

「やるゲームは『カウントフューチャー4』です! 二十五ターンの一本勝負で、マップは『ゴールデンキングダム』でやっていきます! そこが一番逆転要素が多くて、対決が盛り上がるマップだと思うので!」

 

「私は雪丸さんが勝てるように、朝希はさくどんさんが勝てるようにプレイしますから、分からないことがあれば私たちに聞いてください。ただし対決の勝敗自体はチームの合計順位じゃなくて、雪丸さんとさくどんさん個人の順位で決定します。……問題がないなら準備に入りますけど、大丈夫そうですか?」

 

ちょっと緊張している声色の小夜さんの問いかけに対して、雪丸さんと夏目さんが返事を放つ。少し頼りない内容の返事をだ。

 

「テレビゲームに詳しくない私には、何がなんだかさっぱり分からないので……モノクロシスターズさんたちに全てお任せします!」

 

「私も全然分かりませんけど、朝希ちゃんと小夜ちゃんが準備してくれたならきっと大丈夫です! それでお願いします!」

 

「……じゃあ、試合会場の準備に入ります。」

 

小夜さんが何だか不安そうな声で締めた数秒後、ひょこりと部屋から顔を出した朝希さんが俺にカットを告げてきた。これにてオープニングは終了か。夏目さんが組み立てた『ざっくり構成』によれば、次は準備を終えた後のゲームのタイトル画面からだな。……ちなみに対決企画そのものの説明は雪丸さんの到着前に三人で撮ったので、フォーラムの動画を見ていない視聴者が置いてけぼりになる事態は避けられているはず。

 

「もう出てきてオッケーですよ、駒場さん。」

 

「それでは、テーブルとソファを運び入れますね。」

 

「手伝います!」

 

スペースを確保するために、最初のシーンを撮影した後で運び込もうという話になったのだ。協力を申し出てくれた朝希さんと二人で応接用ソファとテーブルを撮影部屋に運んだところで、テレビ横の三脚の前で話している夏目さんと雪丸さんの姿が目に入ってくる。残る小夜さんは配線の最終チェックをしているらしい。

 

「じゃああの……改めて今日はよろしくお願いします、雪丸さん。」

 

「こちらこそよろしくお願いします、さくどんさん。このカメラで私たちの姿を撮って、編集でゲーム画面に付け足すんですか?」

 

「はい、そうなります。右側のソファに私と朝希ちゃんが座って、左側のソファに雪丸さんと小夜ちゃんが座るって形です。なのでこっちのカメラで私たちを、逆サイドのカメラで雪丸さんたちを撮ろうと思ってるんですけど……それでいいでしょうか?」

 

「メールでの説明通りですね。それで問題ありませんよ。一応私もビデオカメラを持ってきたんですが、必要なさそうですか?」

 

つまるところテレビの前にマイクを載せた応接用テーブルを置き、その後ろに二人掛けのソファを二台並べて、チーム毎に座ってプレイするわけだ。俺と朝希さんがソファやテーブルの位置を調整している間にも、夏目さんと雪丸さんの会話は進行していく。

 

「二台用意してますけど、雪丸さんのカメラの方が性能が良いかもしれません。こっちがホワイトノーツの備品カメラで、こっちが私のやつです。」

 

「ああ、HDSシリーズの2009年モデルですか。私も昔使っていましたよ。今は同じシリーズのこの前出たやつを使っていますが。」

 

「あっ、はい。2011年モデルの紹介動画、見ました。私も買おうか迷ったんですけど、来月出るdIVSの新型も気になってるので……比較してから決めようと思ってます。」

 

「さくどんさんは慎重ですね。広角に強いのは確かにライフストリーマーにとって魅力的ですが、『次』を期待して買い控えているとキリがありませんよ? カメラは欲しいと感じた時が買い時なんです。」

 

話が脱線しているような気がしないでもないが……やっぱりこう、ライフストリーマー同士だと共通の話題で盛り上がれるらしい。ぎこちなさは若干残っているものの、夏目さんが心配していたような空気にはなっていないな。今朝家に迎えに行った時の車内で、彼女は『上手く話せるか不安です』と弱音を漏らしていたのだ。

 

まあ、俺はそこまで案じていなかったぞ。夏目さんも雪丸さんも日本における『職業ライフストリーマー』の先駆けなのだから、何をどうしたって話は合ってしまうだろう。動画のスタイルや目指す場所が異なっているとしても、共通している部分は山ほどあるはずだ。

 

割とスムーズに喋っている二人のことを眺めていると、立ったままで自分のパソコンを弄っていた小夜さんが報告を寄越してくる。二人の椅子を外に出したのも、少しでも広い空間を確保するためだ。もっと大きな部屋を用意してあげたいのは山々なのだが……今回はまあ、騙し騙しやっていくしかないな。動き回ったりしないゲーム実況であれば何とかなるはず。

 

「画面のキャプチャーは問題なさそうです。マイクもちゃんと録音できてます。」

 

「テストした甲斐がありましたね。……雪丸さん、少しよろしいでしょうか?」

 

「どうしました? 駒場さん。」

 

「ゲーム画面は小夜さんのパソコンに録画して、皆さんの顔はさくどんさんが言うようにビデオカメラで撮るんですが、音声に関してがやや複雑になっていまして。ビデオカメラ側とマイクで二重に録音することになるんです。」

 

「二重に? ……つまり、編集の段階で選べるわけですか。そういうことなら大歓迎ですよ。」

 

理解が早いな。一瞬考えただけで意味を認識した様子の雪丸さんに、念のため詳しい説明を投げた。カメラにショットガンマイクを付けたり、ピンマイクを各々の胸元に装着するのが理想なのだが、そんな機材は当然所有していない。なのでモノクロシスターズが普段使っているマイクで録音することになったのだ。さすがにビデオカメラの内蔵マイクよりは綺麗に録れるし、ダブルで録音しておけばもしもの時の保険にもなるはず。

 

「はい、その通りです。恐らくマイク側の方が綺麗に録音できるので、そちらを使用したい場合は編集の時点でビデオカメラ側の音を調節してください。雪丸さんの方で編集の面における問題がないのであれば、そういう形で録りたいと考えています。」

 

「構いませんとも。無問題ですよ。……前半をさくどんさんが上げて、後半を私のチャンネルで上げるんですよね?」

 

「その予定です。モノクロシスターズのお二人と私たちで三度ほどテストプレイをしてみたんですが、二十五ターンだと二時間弱で決着が付きました。話しながらやった場合はもう少しかかるかもしれないので、動画の素材としてはそれぞれ一時間強ということになりますね。」

 

「それはそれは、ホワイトノーツとモノクロシスターズさんの手厚いサポートに感謝しますよ。六時間もテストに使ってくれたんですか。」

 

まあうん、色々と懸念要素があったのだ。キャプチャーして撮るのは初めてだったので小夜さんは動画のサイズやパソコンの負荷を心配していたし、慣れていない二人が参加するとなると一回にかかる時間が未知数だったし、ビデオカメラやマイクの距離も探り探りだったし、編集してみて不都合がないかも不安だった。実際はターン数を変えたりマップを変えたりもしたので、もうちょっとかかっているぞ。

 

素材の時点で一時間は長めかもしれないが、十ターンや十五ターンだとやや物足りない感じになってしまいそうだったから……一本ずつならやはり二十五ターンがベストだな。もっとちょうど良いはずの二十ターン設定はカウントフューチャーのシステムに存在していないようだし、現状だとこれが最適解だぞ。来春発売の続編で実装されることを願っておこう。

 

次回作への要望が頭をよぎったタイミングで、雪丸さんの感謝に朝希さんがピースサインを突き出しながら応答する。いつも通りの元気な笑顔でだ。

 

「楽しかったから大丈夫です! 駒場さんとも、香月さんとも、風見さんとも沢山遊べました!」

 

「……動画で見ている時にも思いましたが、朝希さんは随分と可愛らしい方ですね。連れて帰りたいくらいですよ。貴女も雪丸チームの一員になりませんか?」

 

「嬉しいけど……でも、ダメです! 私はさくどんさんの仲間なので。」

 

「おっと、振られてしまいましたか。であれば私は朝希さんの分まで、小夜さんを可愛がることにします。……勿体無いですし、こういう話は動画内ですべきですね。早く撮影を始めましょう。」

 

『勿体無いから動画内で』か。夏目さんも同じようなことを言っていた覚えがあるぞ。そんな雪丸さんの促しを受けて、全員で撮影環境を整えていく。確かに動画外で交流を済ませてしまうのは勿体無いな。そういうやり取りが『コラボ動画』の魅力の一つなのだから。

 

使うカメラをホワイトノーツの備品と雪丸さんが持ってきた物に決め、二つのマイクを二台のソファの前に置き、小夜さんがタイトル画面をテレビに映し、由香利さんが飲み物を準備してくれたところで……よしよし、準備完了だ。いつでも始められるぞ。

 

「これでオーケーですね。私はこっちで見ていますので、『スタッフ』の手助けが必要な時は呼びかけてください。」

 

画角に入らない部屋の隅。そこに置いたオフィスチェアを指しながら言ってやれば、ソファに座っている四人のライフストリーマーたちが順番に返答してきた。

 

「はい、分かりました。よろしくお願いします。」

 

「駒場さん、見ててね。私、一位になるから!」

 

「あんたが目指すべきはさくどんさんの勝利でしょうが。……駒場さん、たまにパソコンの方もチェックしてくださいね。大丈夫なはずですけど、録画が止まったりしたら大変ですから。」

 

「画面すら見えない位置で二時間も監督するとは……恐れ入りますよ、駒場さん。マネージャーというのは案外キツい仕事のようですね。」

 

最後に声をかけてきた雪丸さんへと応じつつ、二台のビデオカメラの録画ボタンを押す。退屈に見えるかもしれないが、この視点から楽しめるのはマネージャーだけだ。そう思うとむしろ得をしている気分になってくるぞ。

 

「私のことは風景の一部とでも思ってください。それがスタッフという存在なんですから。……録画開始しました。どうぞ。」

 

断ってから椅子に腰掛けると、夏目さんが深呼吸した後で大きく三回手を叩いて……あれは多分、編集の際に二台のカメラの映像やマイクの音声を同期させるための合図だな。手を叩いて新たなパートをスタートさせた。前半はさくどんチャンネルで上げるから、主導は夏目さんだ。雪丸スタジオの視聴者たちも見るだろうし、今度こそ『さくどん』の魅力を出していって欲しいぞ。

 

「はい、そんなわけで準備が整いました。こういう環境での撮影も、ゲーム実況自体も初めてなのでちょっと緊張してます。では、えー……朝希ちゃん、スタートボタンってどれですか?」

 

「これです、ここ。」

 

「……さくどんさん、頼みますよ? スタートボタンくらいは私にも分かります。これでしょう?」

 

「あの、雪丸さん? それはセレクトボタンですね。スタートボタンはこっちです。」

 

うーむ、モノクロシスターズが参加してくれて本当に良かったな。夏目さんと雪丸さんだけだと、かなりぐだぐだな実況動画になっていたかもしれないぞ。テストに付き合ってくれた香月社長も相当な『ゲーム音痴』だったわけだが、二人はそれを上回って……というか、下回っているらしい。この調子だと小夜さんと朝希さんの操作説明が頻繁に挟まるだろうし、想定以上に時間がかかりそうだ。

 

───

 

そして撮影開始から一時間半ほどが経過した、午後一時ちょっと前。俺は夏目さんが前半の動画を締めているのを横目にしつつ、画角外で小夜さんのパソコンの状況を確認していた。もちろんまだまだ余裕はあるが、前半だけで結構な容量になってしまったな。これに加えてビデオカメラのデータもあるわけだし、やっぱりゲーム実況というのはハードディスクの容量を食うジャンルらしい。

 

「──から、後半で何とか巻き返していきます! 後半の動画が上がってる雪丸スタジオと、手助けしてくれたモノクロシスターズの二人のチャンネルは動画の下の概要欄に載せておきますので、そっちの二つのチャンネルにも登録していただけたら嬉しいです。ではでは、ばいばいっ。」

 

「またすぐに会いましょう、さくどんチャンネルの諸君!」

 

「ばいばいっ!」

 

夏目さんに合わせて雪丸さんと朝希さんが一言添えて、小夜さんがぺこりと一礼したところで……カットかな。開始の時より弱めにぺちりと手を叩いた夏目さんが口を開く。

 

「はい、一先ず休憩ですね。お疲れ様でした。」

 

「三人ともお疲れ様です。……ゲームというのも中々疲れるじゃありませんか。私にしては少々はしゃぎ過ぎたかもしれませんね。」

 

「でも、さくどんさんと雪丸さんは接戦です。これなら後半も盛り上がると思います! ……小夜ち、パソコン大丈夫そう?」

 

「ん、何とか平気そうよ。新しいCPUが欲しくなる温度だけど、落ちるほどではないわ。……こっちの録画、一旦切りますね。」

 

すぐさまパソコンのチェックを始めた小夜さんに場所を譲って、二台のビデオカメラに歩み寄って録画を止める。こっちも切っておこう。後半は雪丸スタジオの担当だから、カードを雪丸さんのやつに交換しないとだな。『テープチェンジ』だ。

 

「カメラも切りますね。いい時間ですし、昼食を食べてから再開しましょう。」

 

「そうですね、ちょっとお腹が空きました。……朝希ちゃん、ゲームはこのままにしておいていいんですか? 放っておいたら消えちゃったりしませんよね?」

 

「しません、大丈夫です。」

 

十三ターン目で止まっているゲーム画面を指差して問いかけた夏目さんに、数々の質問を受け続けた結果『回答慣れ』してしまった朝希さんがきっぱりと答えた後で……雪丸さんが腕を組みながら声を上げた。悩んでいるような顔付きだ。

 

「……この際昼食の様子も撮って、モノクロシスターズさんのチャンネルで上げるのはどうでしょう? つまり、四人で軽くトークをしながら食事する動画を。」

 

「私たちのチャンネルでですか?」

 

「予想以上に手助けしてもらっているので、さすがに申し訳なく思えてきたんですよ。さくどんさんが一本、私が一本、そしてモノクロシスターズさんでも一本。そうすべきじゃありませんか?」

 

「……小夜ち、どう?」

 

朝希さんが判断をぶん投げたのに、マウスを操作していた小夜さんがかっくり首を傾げて反応する。

 

「私たちとしてはまあ、願ってもない話ですけど……いいんですか? 動画に出させてくれるだけでも充分ですよ?」

 

「撮影環境を作ってくれて、入念なテストをしてくれて、かつ動画内でも補佐してくれているわけですからね。返す当ての無い借りを作るのは趣味ではありませんし、こちらも協力するのが礼儀というものですよ。……どうせ撮るなら、ついでにちょっとしたゲームをしましょうか。じゃんけんで負けた一人が、この蒸し暑い中歩いて昼食を買いに行く。それでどうです?」

 

ピンと人差し指を立てて即興の企画を提示した雪丸さんへと、夏目さんがちらりと窓の方を見ながら応答した。やる気満々の日光に照らされているカーテンの方をだ。時間も時間だし、外は地獄の暑さだと思うぞ。

 

「……私はいいですよ。朝希ちゃんと小夜ちゃんへのお礼になるなら受けて立ちます。」

 

「それでこそですよ、さくどんさん。……小夜さんと朝希さんも構いませんか? 負けた人物がカメラを持って買いに行って、それを食べながらライフストリームについてを語り合いましょう。」

 

「まあ、はい。さくどんさんと雪丸さんの『撮影裏トーク』っていうのは伸びそうですし、撮らせてもらえるならありがたい限りです。……駒場さん、カメラをお願いできますか? SDカードはこっちにあります。」

 

「了解です、任せてください。」

 

唐突に追加の撮影が決まってしまったわけだが……モノクロシスターズとしては間違いなく良い話だし、俺としても文句は無いぞ。ゲーム実況チャンネルにいきなり雑談動画を上げるのは少し不安だけど、そういう内容ならさくどんチャンネルや雪丸スタジオの視聴者も見てくれるはずだ。

 

小夜さんからSDカードを受け取ってカメラに挿入していると、分かり易く『思い付いたぞ!』という顔になった朝希さんが声を放つ。ソファから勢いよく立ち上がりながらだ。

 

「それならもっと面白く出来ます! 待っててください!」

 

『もっと面白く』? 謎の発言と共にドアを開けて事務所スペースに移動していった朝希さんを見送りつつ、どの角度から撮ろうかと立ち位置を調整していると……すぐに戻ってきたモノクロシスターズの元気担当どのが、満面の笑みでビニール袋を掲げて発案してきた。それ、例の『パンドラのビニール袋』じゃないか。

 

「負けた人は、耳と尻尾を付けて買い物に行くことにしましょう。そっちの方が罰ゲームっぽいです! あと、語尾も!」

 

「耳と、尻尾? ……どういう意味ですか? 朝希さん。」

 

「えと、これです。これを頭と腰に付けて、語尾をにゃんとかわんにしてご飯を買ってくるのはどうかなって。」

 

雪丸さんの疑問に応じつつの朝希さんが袋から出した、『さよにゃんの耳と尻尾』。それを目にした瞬間、その場の全員が顔を引きつらせる。恐ろしい罰ゲームを考案してくるじゃないか。付けたままで天下の往来に出ろと? 一気に罰のキツさが増したな。肉体的なそれではなく、精神的なキツさが。

 

「あんた、マジ? 本気で言ってるの? 自分が負ける可能性もあるのよ?」

 

『絶対嫌だ』という表情の小夜さんが尋ねるのに、朝希さんはにぱっと笑って大きく首肯した。マジらしい。

 

「でも、面白いじゃん。勝つから平気だよ。私、こういうので負けたことないもん。」

 

「どっから出てくるのよ、その自信。……さすがに嫌ですよね? 雪丸さんもさくどんさんもやりたくないですよね? ね?」

 

そうだと言って欲しいんだろうな。珍しく『ね?』をしている小夜さんに対して、重すぎる罰ゲームに怯えている夏目さんが首を縦に振ろうとしたところで──

 

「私は問題ありませんよ。ライフストリーマーとして『面白さ』に背を向けるわけにはいきませんからね。……やるじゃありませんか、朝希さん。これは完璧に予想外な展開です。しかしそれがモノクロシスターズの提示する『企画』なのであれば、私はコラボ相手として従いましょう。」

 

「……バカ朝希の提案、受けちゃうんですか?」

 

「つまらないと感じたなら突っ撥ねますが、私は面白そうだと思ってしまったんです。それなら乗るのがライフストリーマーですよ。そもそもじゃんけんに勝てばいいだけの話ですしね。……無論、さくどんさんがNGを出すなら不成立ですが。」

 

小夜さんに返事をした雪丸さんの視線を受けると、夏目さんは……うわぁ、ここで対抗心を出してしまうのか。ちらちらと朝希さんが持っている耳と尻尾を見やって嫌そうな顔付きになりつつ、それでも了承を場に投げた。『ライフストリーマーとして』だなんて台詞を持ち出されたから、引くに引けなくなったんだろうな。

 

「私も……いいですよ、それでいいです。じゃんけんで負けたら耳と尻尾を付けて、語尾も変えてみんなの分のご飯を買いに行く。そういう企画でいきましょう。」

 

「……あの、私は嫌なんですけど。絶対、絶対嫌です。っていうか、何でこんなことになってるんですか?」

 

「小夜ち、我儘言っちゃダメでしょ! ……駒場さん、回してください。」

 

「あー……はい、録画開始しますね。」

 

呆然としている小夜さんを強引にソファに座らせた朝希さんに従って、邪魔になりそうなテレビを横に動かしてからビデオカメラを構える。そのまま夏目さんと雪丸さんも座り直したタイミングでオーケーサインを出してみれば、朝希さんが元気いっぱいに動画をスタートさせた。

 

「こんにちは! モノクロシスターズの朝希と──」

 

「……あっ、小夜です。」

 

「今日はさくどんさんと雪丸さんがホワイトノーツの事務所に撮影に来てるんですけど、みんなでお昼ご飯を食べながらお喋りするところを動画にしてもいいよって言ってくれたので、撮りたいと思います! でもでも、それだけだと物足りないから……これ! これを使ってちょっとしたゲームをしていきます!」

 

夏目さんや雪丸さんの進行と比較すると、少しだけ辿々しい話し方だが……何故だろう? 朝希さんの喋りには『ライフストリームっぽさ』を強く感じるな。飾らないというか、身近というか、率直というか。そういうライフストリームらしい魅力があるぞ。

 

俺が意外な発見に心中で唸っている間にも、朝希さんは夏目さんや雪丸さんからフォローされながら説明を続けていく。そして小夜さんは……あれ、ちょっと緊張しているのか? 何だか反応が鈍いな。さっきの撮影では序盤に少しだけ気を張っていたくらいで、後半は普通だったのに。

 

「──なので、じゃんけんで負けた人が耳と尻尾を付けて語尾ありで買い物に行くわけです! 猫と犬があるから、それは負けた人に選んでもらおうと思います。あと……そう、買ってくる物は勝った人が決められることにしましょう! 小夜ち、それでいい?」

 

「えっ……そうね、いいんじゃないかしら? さくどんさんと雪丸さんはそれで大丈夫ですか?」

 

「構いませんよ、私は常勝の女ですからね。トップになって牛丼を頼むことにします。今日はねぎ玉牛丼の気分なんです。」

 

「私だって負けませんよ。私が勝ったら……じゃあ、カレー。カレーが食べたいです。チキンカレーを買ってきてもらいます!」

 

ふふんと自信満々に言う雪丸さんと、むんと気合を入れて宣言する夏目さん。さすがにこの二人は上手く盛り上げてくれているのだが……むう、やっぱり小夜さんは本調子じゃないな。罰ゲームが嫌だという点を抜きにしても、ゲーム実況の時より大分口数が少ない気がするぞ。

 

そこに引っ掛かりながらカメラを動かしていると、遂に朝希さんが勝負の開始を告げた。

 

「じゃあじゃあ、早速勝負です! いきますよ!」

 

「ちょちょ、朝希ちゃん。最初はグーですか? それともパッと出す感じですか?」

 

「えっと、最初はグーでやります。それじゃあ……最初はグー、じゃんけんぽん!」

 

夏目さんに答えた朝希さんの合図で、四つの手が同時に突き出されるが……おー、一発で二人まで減ったな。夏目さんと小夜さんがチョキ、朝希さんと雪丸さんがパーだ。何となく意外な残り方かもしれない。

 

「やった、やった! やりました!」

 

「勝ったわ。……ああ、本当に良かった。」

 

「……あれ? 変です。私が一番に抜ける予定だったんですけど。」

 

「私もその予定だったんですけどね。……これはまた、そこそこ緊張してくるじゃありませんか。柄にもなく怖くなってきましたよ。」

 

嬉しそうな笑顔でカメラに勝利をアピールする夏目さんと、心からホッとした様子でへなへなと崩れ落ちる小夜さんと、きょとんとしながら開いた自分の手を見つめている朝希さんと、半笑いで余裕を失い始めている雪丸さん。四人の明暗がはっきり分かれたところで、朝希さんがさほど躊躇わずに勝負を再開する。

 

「まあいいや。……じゃあ雪丸さん、やりましょう! 多分私が勝つと思いますけど。」

 

「……いや、朝希さん? 貴女はどうしてそんなに落ち着いていられるんですか?」

 

「だって私、勝つはずです。だから雪丸さんが罰ゲームですよ。」

 

「……得体が知れませんね、貴女は。疑いゼロじゃありませんか。私も何だかそんな気がしてきました。恐ろしい人です。」

 

微塵も勝利を疑っていない朝希さんを見て、雪丸さんが戦慄の表情で呟いているが……確かに凄い自信だな。強がりでも何でもなく、自然体で勝つことを確信しているぞ。どういう感情なんだ? それは。

 

「とにかく、やりましょう。最初はグー、じゃんけんぽん! ……ね? 勝ちました! いぇい!」

 

「……私の負けですね。」

 

「私、じゃんけん強いんです。負けた記憶、殆どありません。……ほらほら、小夜ちとさくどんさんも決勝戦やってみて。」

 

「あ、そうですね。小夜ちゃん、いきますよ? 最初はグー、じゃんけんぽん!」

 

じゃんけんに強いも弱いもないはずだぞ。だからこそ古来使われてきたんだろうし、基本的には『運ゲー』じゃないのか? 朝希さんの発言を怪訝に思っている俺を他所に、夏目さんがまたもやチョキを出して小夜さんに勝利した。ということはつまり、雪丸さんがカレーを買ってくるわけか。

 

「雪丸さん、はいこれ。犬と猫、どっちにしますか? ゆきわんかゆきにゃんの二択です。」

 

にっこり顔の朝希さんが犬セットと猫セットを両手に持って差し出すと、葛藤している面持ちで短く黙考した雪丸さんは……やがて諦めたように猫の方を手に取る。『ゆきにゃん』を選ぶのか。彼女はあさわんではなく、さよにゃんを継ぐ者だったらしい。

 

「……色合いが今日の服装に合っていますし、こっちにします。」

 

「ちゃんと語尾も付けなきゃダメですよ?」

 

「……分かったにゃん。」

 

うーむ、面白い力関係だ。実況プレイ中も夏目さんは雪丸さんに翻弄されていたわけだが、その雪丸さんは朝希さんの素直さにやや押され気味だな。そして朝希さんを唯一制御できる小夜さんは、先輩二人に対して若干遠慮している節があるぞ。

 

三竦みならぬ四竦みの図を頭に浮かべていると、朝希さんが耳と尻尾を付けた雪丸さんを示しつつカメラに言葉を放った。

 

「というわけで、ゆきにゃんに四人分のカレーを買ってきてもらいます! その間に私たちはご飯を食べる準備とかをしておくので、えと……場面転換!」

 

力技で締めた朝希さんは、ちょびっとだけ困ったような顔で小首を傾げる。

 

「こういう時、どうやって次の場面に移せばいいか分かりませんでした。今のでいいですか?」

 

「そんなに意識しなくても、繋げば割と自然になりますよ。雪丸さんが外を歩いてる場面とかに移せば大丈夫だと思います。」

 

「まあ、そうですね。……そうですにゃんね。さくどんさんの言う通りだにゃん。ばっさり切って次に進めても、案外誰も気にしないにゃん。私が自撮りをしながら買ってくるので、編集でそれを繋いで欲しいにゃん。」

 

「……じゃああの、買うカレーを決めましょうか。あっちの交差点にあるココイチでいいですよね? スマホでメニュー出します。」

 

撮影外だろうが貫くのか。さすがだな。真顔で語尾を付けている雪丸さんのことをスルーすると、夏目さんはポケットから出したスマートフォンでCoCo壱番屋のサイトを開いてメニューを表示させた。それを見て買う品を選んでいる四人を背に、カメラを持ったままで事務所スペースへと移動する。俺も同行してホワイトノーツの分も買ってこよう。

 

「社長、カレーを買ってくることになりました。何がいいですか?」

 

「カレー? 向こうのココイチのテイクアウトかい? 折角だし、ピザだの寿司だのを取ってあげてもいいよ?」

 

「昼食の場面を撮るついでに、じゃんけんで負けた人が『買い出し』をすることになったんです。私もついて行きますから、社長の分も買ってきますよ。……由香利さんは外出中ですか?」

 

「ん、約束があるからとさっき出て行ったよ。食事は道中で済ませるそうだ。……なるほどね、オールドスクールな罰ゲームってわけか。それなら私は期間限定のやつを頼もうかな。この前食べて美味しかったんだよ。『二辛』で注文してくれ。」

 

ああ、夏野菜のやつか。確かに美味しそうだったし、俺もそれにしようかな。辛党の社長と違って俺は甘口だが。香月社長に頷きを返したところで、撮影部屋から出てきた雪丸さんが話しかけてきた。

 

「駒場さん、カメラを渡して欲しいにゃん。買う物が決まったから、買いに行ってくるにゃん。」

 

「私も同行します。……語尾、ずっと付け続けるんですか?」

 

「そういう企画にゃん。そしてライフストリーマーにとって、企画は絶対にゃん。神にゃん。戒律にゃん。」

 

「つまり、朝希さんか小夜さんの許可があれば普通に話せるわけですよね? 何というかその……ちょっと話し辛いので、私との会話だけは『にゃん抜き』にしてもらえるように頼んできます。」

 

ライフストリーマーの鑑のような発言だが、ずっとにゃんにゃん言われ続けるのは俺がキツいぞ。一言断ってから撮影部屋の朝希さんに許可をもらい、ぽかんとしている香月社長に声をかけた後で出入り口に向かう。

 

「朝希さん、私と話す時だけは雪丸さんの語尾無しでも大丈夫ですか?」

 

「へ? はい、オッケーです。」

 

「ありがとうございます。……行ってきますね、社長。」

 

「あー……ああ、うん。分かったよ。」

 

事情を呑み込めていない香月社長が目をパチクリさせながら見送る中、事務所のドアを雪丸さんと二人で抜けてみれば……うーわ、暑いな。一瞬にしてむわっとした熱気に包まれる。

 

「……暑いですね。」

 

「そうですね。……この場合『そうですにゃんね』と言うべきなのか、『そうだにゃんね』の方が自然なのか、はたまた『にゃんね』が既に間違っているのか。駒場さんは分かりますか?」

 

「語尾の使い方の『正解』を知らないので、私からは何とも言えません。……もう回しておきますか?」

 

「建物を出てからで大丈夫ですよ。」

 

謎の会話をしている間に三階に昇ってきたエレベーターに乗って、二人で一階まで降りていく。そのままオフィスビルの正面玄関から出たところで、雪丸さんが俺に話を振ってきた。絶好調の太陽を忌々しそうに見上げながらだ。

 

「しかし、駒場さんはどうして一緒に来たんですか? 頼んでくれればホワイトノーツの皆さんの分も買ってきましたよ?」

 

「それはさすがに悪いですし、その格好で一人で歩くのは辛いかと思いまして。変な人扱いされるよりも、『変な二人組』扱いの方が多少は気が楽なはずです。……そういう格好をしていると、誰かから絡まれる可能性もありますしね。ボディガードと言うには頼りないかもしれませんが、念のため同行しておくべきですよ。」

 

「何とまあ、貴方は過保護な人物のようですね。ボディガードですか。それなら頼りにさせてもらいましょう。……カメラ、貸していただけますか? 少しだけ撮りますから。」

 

「私が映しますよ。」

 

言いながらカメラを構えようとすると、雪丸さんは首を振って制止してくる。ダメなのか。

 

「自撮りの方が得意ですし、臨場感が出るんです。ここは任せてください。」

 

「……では、お願いします。」

 

自信ありげに主張する雪丸さんにカメラを渡してみれば、彼女はモニターをくるりと回転させて歩きながら『自撮り』を始めた。もちろん『ゆきにゃん』の口調でだ。まだ語尾に慣れていないからか、どことなく不安定な喋り方だな。……いやまあ、慣れていたらそれはそれでおかしいわけだが。

 

「外は非常に暑いにゃん! そして通行人がこっちを見てくるにゃん! 多分暑さでイカれたと思われてるにゃんね。カレー屋まではまだまだにゃんけど、早々に心が折れてきたにゃん。……とまあ、こんな具合で小刻みに撮るわけです。ちなみに今言ったのは全部本音ですよ。これは雪丸スタジオでもやらないレベルの過激な企画ですからね。実は結構羞恥を感じています。」

 

「……雪丸さんは革靴を食べる動画を上げていたはずですが、あれよりも辛いですか?」

 

「あれは面倒でしたが、辛くはありませんでした。むしろ楽しみながらやれましたよ。タンニン鞣しの革靴を見つけるのに時間がかかったのと、それが高かったこと以外は想定通りでしたから。……私としては、この格好でにゃんにゃん言っている方が断然厳しいですね。私のキャラに合っていなさすぎます。」

 

そうなのか。俺だったら革靴を食べる方が僅差で嫌だけどな。……雪丸スタジオに上がっている、『革靴を食べよう!』というストレートなタイトルの動画。一週間強で再生数百万回を突破したチャンネルを代表するあの動画の中で、この人はチャップリンさながらに本物の革靴を食べていたのだ。

 

何でも革の鞣し方によっては人体に有毒であるらしく、『比較的平気』なタンニン鞣しの高級革靴をヤスリ掛けしたり、様々な液体に漬け込んだり、叩いて柔らかくしたり、圧力鍋で煮込んだりして食べられる状態にまで持っていくという内容だったのだが……あれはまあ、凄かったな。真似できないし、そもそも真似しようとは微塵も思わないけど、しかし見てみたくなる動画ではあったぞ。

 

夏目さんが未だ達成できていないミリオンヒット。それを悠々とかました例の動画を思い出している俺に、雪丸さんが皮肉げな笑みで声を寄越してくる。すれ違う通行人たちが奇異の視線で彼女を見る中、蒸し暑さを感じさせない涼しげな顔で堂々と歩きながらだ。

 

「動画を作った当人が言うのも何ですが、あれこそがライフストリームの面白さなんです。昔ならともかくとして、今のテレビでは絶対に出来ない内容でしょうね。いくら危険を取り除いても、あんな企画では視聴者から大量の『ご意見』が送られてくるはずですから。……やれ靴が勿体無いだの、やれ健康面に問題があるだの、やれ誰かが真似をしたらどうするのかだの、やれ気持ちが悪い映像を出すなだの。そんな退屈な文句とスポンサー離れを恐れたテレビは、面白さの一つを切り棄てたわけですよ。」

 

「……雪丸さんは『テレビ』が嫌いなんですか? フォーラムの時にも話に出していましたが。」

 

『テレビ嫌い』というのはまあ、最近ではちらほらと聞く話だな。論点が多様すぎて難しい問題だけど、インターネット上ではよく見る話題になってきているぞ。俺の質問を耳にして、雪丸さんは苦笑いで回答してきた。

 

「答えに悩む質問をしてきますね。……『好きだった』という回答が一番正確かもしれません。私は父が録画した『民放黄金期』の番組を見て育ってきましたから。あの頃のバラエティは尊敬していますし、ライフストリーマーをやっていく上での参考にしていますし、今でも面白いと感じています。」

 

「ということは、今のバラエティは嫌いなわけですか。」

 

「まあ、好きではありませんね。バラエティのみならず、他のジャンルも嫌っています。ライフストリーマーを始めてからは更にその気持ちが強まりました。編集を用いて映像の中の発言を捻じ曲げるのが、どんなに容易いのかを実体験として学習しましたから。……上手く切り貼りすればどんな方向性だって持たせられますよ。編集者の思うがままです。」

 

呆れたように言い放った雪丸さんは、シャツの襟元を摘んでパタパタと扇ぎながら会話を続けてくる。……否定は出来ないな。編集によって発言の意図を曲解させるのは大いに可能だろう。前提の部分を削ったり、中を抜かしたり、最後を切ったり。実際にやっているかはともかくとして、やろうと思えばどうにだって出来るはずだ。

 

「しかしながら、そうせざるを得ないという点も理解できています。情報発信の寡占によって巨大に脹れ上がったテレビというメディアは、もはや自らの巨体を制御できていないんです。内側の人間たちもまた、作りたいものを作れない哀れな被害者なんでしょう。視点を変えれば踊らされているのは視聴者ではなく、制作側ですよ。」

 

「……同情的なんですね。」

 

ぬう、浅い理由でぼんやりと嫌っているわけではないらしいな。暑さで汗が滲んできた首筋を掻きながら相槌を打つと、雪丸さんはニヤリと笑って応じてきた。

 

「意外ですか? 私は私の愛する面白さをテレビから奪った、『彼ら』をこそ恨んでいますよ。例えばそう、ニュースのワイドショー化。あれが最も分かり易い実例でしょうね。……一人ではまともに知識を得られない雛鳥たちが、ピヨピヨと喚きながら情報をねだっているわけです。彼らはテレビが丁寧に咀嚼して、簡単に呑み込めるようにした情報しか受け取れないんですよ。そのまま渡されても分からないと彼らが喚き散らすから、ああいった形式になっているというだけの話ですね。」

 

「……『彼ら』というのは?」

 

「分かるでしょう? 駒場さん。彼らですよ。」

 

口の端を吊り上げながら周囲を……日本の首都と、そこを歩く人々を大仰に示した雪丸さんは、肩を竦めて続きを語る。『民衆』という意味か。

 

「これだけインターネットというものが身近になっても、未だ人間はきちんと知識を取得できていません。ポケットの中のスマートフォンを取り出して、検索した後でちょっとした情報の取捨選択をするだけなのに。……いやぁ、ゾッとしますよ。赤ん坊じゃあるまいし、自分で調べればいいだけの話じゃありませんか。手段が無かった大昔ならいざ知らず、今は方法がいくらでも存在しているんですから。他者に取捨選択の部分を一任している癖に、それで不利益が生じると今度は声高に文句を叫び始めるわけでしょう? もっと良い餌を寄越せと喚き散らすんです。何故自分で餌を手に入れようとしないのかが不思議でなりませんね。」

 

「つまり雪丸さんは制作側が悪いわけではなく、視聴者が望んだ結果として現状に繋がったと考えているんですか。」

 

「極端な意見だという自覚はありますし、制作側に一切の非が無いとまでは言いませんが、根本的にはそうであると思っていますよ。自分たちで作り上げた醜い巨人を、醜悪だと叩きまくっているわけです。どこまでもバカバカしい話じゃありませんか。」

 

「……初めて聞く意見です。同意できるかはまだ分かりませんが、面白いとは思います。」

 

苛烈な主張だな。雪丸さんの話を咀嚼するために思考を回していると、彼女はそんな俺を愉快そうに眺めながら口を開いた。

 

「正しい行動ですよ、駒場さん。他者の意見に簡単に同意すべきではありません。自分で考えるべきなんです。それをやめた瞬間、人間は価値を失うんですから。……貴方は私の話を聞いても、面倒くさそうな顔をしませんね。」

 

「面倒くさそうな顔、ですか?」

 

「こういう話を吹っ掛けると、大抵は『うわぁ、こいつ面倒なヤツだな』という反応をされるんです。政治の話、宗教の話、権利の話、人間の話。私はそういう内容を誰かと話すのが好きなんですが、大多数の人々は避けたがるようでしてね。お陰で私には友達が全くと言っていいほどに居ません。ずっと募集中なのに、悲しいことに梨の礫ですよ。」

 

「あー……まあはい、何となく分かります。私の場合は香月社長からよく振られているので、慣れているのかもしれませんね。面白いと言ったのは本音ですよ。もっと聞かせて欲しいです。」

 

うちの社長は一日に一度のペースで同じような話題を放り投げてくるのだ。由香利さんが議論の相手に立ち、俺は二人の論戦を聞いているというケースが殆どなのだが……傍聴している分には結構楽しめるぞ。主張するのは得意ではないので、あまり参加は出来ていないけど。

 

俺の返事を受けて、雪丸さんはクスクス微笑みながら声を放ってくる。ちょっとご機嫌な雰囲気だな。内心を読み解くのが難しい人だけど、徐々に分かるようになってきたぞ。

 

「貴方はどうやら『聞き上手』な人のようだ。私たち『話したがり』からは好かれるタイプですね。香月社長も恐らくそう思っていますよ。良い聞き手が側に居るのは羨ましいことです。」

 

「私は話すのが苦手なんです。だから雪丸さんや香月社長のように、会話を先導してくれる人が相手だとやり易いですね。……ライフストリームを始めたのも、さっきのテレビの話が切っ掛けなんですか?」

 

「全てではありませんが、関係はありますね。私は私が信じる面白さを証明したかったんですよ。世界中の人間に突き付けてやりたかったんです。……正直、間違っているのは自分の方かもしれないと思っていました。というか、今でも心のどこかでそう考えています。テレビというメディアがああなったのは真っ当な変化であって、自分は過ぎ去ったものを美化しているだけではないかと。」

 

「……雪丸スタジオの登録者数は日本個人でトップです。それが証明にはなりませんか?」

 

少なくとも現時点において、彼女が掲げる『面白さ』は日本のライフストリーム内で最も支持されていると言えるはず。おずおずと送った俺の言葉に、雪丸さんは疲れたような半笑いで返答してきた。

 

「今のライフストリームはまだ『一般的』とは言い難いプラットフォームですよ。これから急激に利用者数が増えていき、数年経って歴史が積み重なっていけば、私は受け入れられなくなるかもしれません。……苛烈さは人を惹き付けますからね。強く他者を批判したり、大きな声で文句を叫んだり、派手に問題を提起したり。人々はそういう人間を好み、持ち上げます。私のチャンネルが持っているのはそれに近い性質なんです。」

 

俺の前に出て両手を広げながら語った雪丸さんは、片足を軸にくるんと振り向いて続けてくる。彼女には似合わない、何とも弱々しい表情でだ。

 

「しかし、苛烈さは同時に飽きられ易くもあります。疲れるんですよ、そういうエンターテインメントは。気分が乗っているうちは爽快で楽しいかもしれませんが、ふと冷静になった時に虚しくなるんです。……だからまあ、遠からずさくどんさんが私を抜くでしょうね。」

 

「さくどんさんが?」

 

「彼女は捻くれ者の私と違って、物事の良い部分を取り上げられる人ですから。いつも笑顔で、当たり障りのない柔らかい発言で、自分の失敗で他人を笑わせて、成功した時は誰かに感謝できる。一見すれば私の動画の方が鮮烈で派手でしょうし、口さがない者は平凡で退屈だと評価するかもしれませんが……結局はさくどんさんの方に人が流れますよ。彼女のチャンネルは落ち着きますからね。それは私には絶対に手に入れられない魅力なんです。」

 

『落ち着く』か。しっくり来る表現だな。そこで一度大きくため息を吐くと、雪丸さんはやれやれと首を振りながら繋げてきた。

 

「さくどんさんがやっていることがどんなに難しくて、どんなに気高い行為なのかを私はよく理解できています。私は極論自分のために動画を作っていますが、彼女は自然体で他人のためにそれをやっているんですから。そんなもの勝てるわけがありませんよ。……フォーラムでの私とさくどんさんの会話を覚えていますか? あの時彼女は、『見てくれる人たちに楽しんでもらいたいだけです』と言っていましたよね?」

 

「……言っていましたね。」

 

「あの瞬間、負けたと思いました。あれが多分、彼女のチャンネルの根幹なんですよ。……さくどんさんと競えば、私はどうあっても『刺激的なお妾さん』にしかなれません。正妻の座は彼女のものです。雪丸スタジオで派手に騒いだリスナーたちは、疲れた身体を癒しにさくどんチャンネルに帰っていくでしょう。そこにはホッとするような安寧があるんですから。」

 

言い切って立ち止まった雪丸さんは、鳴り響くセミの声を背景に話題を締めてくる。諦めの苦笑いでだ。

 

「それでも私はさくどんさんに勝ちたいんです。負けが見えている勝負でも、挑まずにはいられないんですよ。誰より認めている彼女に勝ってこそ、私は私の面白さに胸を張れるんですから。……いや、少々話しすぎましたね。貴方はどうにも良い聞き手すぎる。警戒すべき人物のようだ。少なくともこの対決企画が終わるまでは、今の話はオフレコでお願いします。」

 

「私は聞けて良かったと思っていますが、雪丸さんがそう言うなら内緒にしておきます。……さくどんさんの方も、雪丸さんに勝ちたいと思っているようでしたよ。不思議な関係ですね。雪丸さんはさくどんさんに焦がれていて、さくどんさんは雪丸さんに憧れているわけですか。」

 

モノクロシスターズの二人の関係を思い出すが、あれともまた少し違うな。夏目さんと雪丸さんの場合は、互いを目指して競い合っている感じだ。正しくライバルだなと感心している俺に、雪丸さんは猫耳の位置を調整しながら反応してきた。

 

「『焦がれている』というのは詩的な表現ですね。的確だと思いますよ。……何れにせよ、話はここまでです。貴方はさくどんさんのマネージャーであって、私のマネージャーではない。そんな貴方を相談相手にするのはさくどんさんに悪いですから。『横取り』は趣味ではありません。それがさくどんさんのものなら尚更です。」

 

「それは残念ですね。私としては、雪丸さんともっと話したいんですが。」

 

「……難しい人ですね、貴方は。本気なのかお世辞なのかが判別できません。私はそういう機微を見分けるのが得意だったはずなんですが、貴方の発言は徹頭徹尾本音に聞こえます。」

 

「さっきも言った通り、紛うことなき本音ですよ。ライフストリームの話もしたいですし、メディアに関する意見も聞いてみたいです。雪丸さんからは学べることが沢山ありそうですから。」

 

そこまで口にしたところで、パッと思い付いた提案を雪丸さんに飛ばす。

 

「では、こうしましょう。友達になりませんか? 私は昔芸能マネージャーをやっていたんですが、他事務所の友人が居て助かったことが多々あるんです。何というかこう、プライベートだからこそ出来る話もありましたから。ライフストリームという共通の仕事をしているわけですし、雪丸さんが友達になってくれれば頼もしいんですが……どうでしょう?」

 

何か、驚いているな。突っ立ったままで目をぱっちり開いているぞ。俺、そんなに変なことを言っているか? 先程雪丸さんは『ずっと募集中』と言っていたし、前職の頃にも同じような流れで友人を作った経験があるのだが……これは、どうなんだ? 冷静な視点で考えてみると、俺が雪丸さんに提案するのはちょっと変だったかもしれない。

 

訪れた沈黙に若干不安になってきたところで、再起動を果たした雪丸さんが一歩引きながら探るように応答してくる。

 

「……ひょっとして私は今、口説かれていますか?」

 

「いやいやいや、違いますよ。純粋な……あれです、友人になりませんかという話です。雪丸さんが募集中だと言っていたので、本気にして口走ってしまいました。迷惑だったなら聞き流してください。」

 

「……分かりませんね、さっぱり分かりません。これほどストレートな『友達の申し込み』をされたのは初めてです。」

 

「まあ、そうですよね。改めて考えると唐突すぎたかもしれません。忘れてください。」

 

怪しまれているようだから、ここは大人しく引き下がっておこう。変な誤解に繋がるのは避けたいぞ。言われてみれば『ナンパ』みたいな行動だし、勘違いされるのも仕方がないかもしれない。いきなり『友達になりましょう』はマズかったな。

 

慌てて撤回した後で再び歩き出そうとすると、雪丸さんがパッと進路に手を出して止めてきた。

 

「待ってください。……構いませんよ、友達。友達になりましょう。」

 

「……あの、無理しなくても大丈夫ですよ? 私も何だか変な提案だったように思えてきましたし。」

 

「いえ、有意義な提案だと思います。先ずは『メール友達』から始めましょう。私は『友人』という存在との距離感が分からないので、やや不安ではありますが……まあ、試しにやってみるのも悪くはなさそうです。アドレスを教えてください。」

 

真面目な面持ちの雪丸さんに促されて、胸ポケットからスマートフォンを出してアドレスを……これ、教えちゃって平気だよな? 段々心配になってきたぞ。香月社長から『スパイ行為』として怒られたりしないだろうか?

 

そんなことを思案していると、アドレスを登録し終えたらしい雪丸さんがスッと手を差し出してくる。本日二度目の握手をしたいらしい。

 

「では、まあその……改めてよろしくお願いします、駒場さん。」

 

「あーっと、はい。よろしくお願いします、雪丸さん。」

 

何にせよ、成立してしまったからには真摯に付き合っていくだけだ。セミたちが騒ぎまくっている中、炎天下のぎこちない『友人契約』の握手が交わされたところで──

 

「ちょーっとすいませんね、少しだけお話しさせてもらってもいいですか?」

 

どこからともなく近付いてきた二人組の警察官が、愛想笑いで俺たちに声をかけてきた。うわぁ、職質だ。猫耳と尻尾を付けた女性と、スーツ姿の成人男性が道のど真ん中で握手をしているわけだもんな。そりゃあ職務質問をかけるだろう。

 

面倒なことになってしまったなと眉根を寄せている俺を他所に、雪丸さんが笑顔で制服警官たちへと言葉を返す。まさかの口調でだ。

 

「大丈夫にゃんよ。お勤めご苦労様だにゃん。」

 

いや……えぇ、嘘だろう? この人、警察官相手にもその語尾でいくのか。ぶっ飛びすぎだぞ。雪丸さんの発言に俺がひくりと顔を引きつらせている間にも、ベテランっぽい年嵩の警官が愛想笑いを崩さないままで歩道の隅に誘導してくる。さすがは大都会東京の警察官だけあって、『変な人』の対処には慣れているらしい。

 

「お忙しいところすいませんね。歩く人の邪魔になっちゃうので、あっちの日陰に移動しましょうか。」

 

「了解だにゃん。」

 

「あの、雪丸さん? ここは普通の口調でいいんじゃありませんか?」

 

「普通に話していいのは駒場さんに対してだけですよ。ルールをしっかり守らないと、企画が成立しないでしょう? ライフストリーマーとしてそこを曲げるわけにはいきません。」

 

恐ろしい人だな。気合が入りすぎだぞ。真顔で正論……本当に正論かは意見が分かれそうだが、とにかくライフストリーマーの矜持を語った雪丸さんは、お尻のポケットから出した財布の中の免許証を警察官に差し出した。行動がやけに早いし、もしかすると『職質慣れ』しているのかもしれない。

 

「免許証、あるにゃん。」

 

「あーどうも、助かります。……えーっと、秋山さんね。」

 

「そうだにゃん。秋山深雪(あきやま みゆき)、1992年三月二十三日十三時二十四分三十五秒生まれにゃん。」

 

「……そう、なるほど。ってことは、十九歳ね。どうしてそんな格好してるの? そちらの男の人との関係は?」

 

十九歳だったのか。香月社長の『目利き』は確かだったようだ。謎の正確さで自分の誕生時刻を述べた雪丸さんに、年嵩の警察官が僅かにだけ怯んだ顔付きで問いかける。それを受けてちらりとこちらを見た『ゆきにゃん』は、何故かちょびっとだけ誇らしそうに答えを言い放った。

 

「友人にゃん。さっき友達になったにゃん。メールアドレスも交換したにゃん。」

 

「……なるほど、さっきね。貴方も身分証があれば見せてもらえます?」

 

あーこれ、良くないな。もう一人の若い警察官がさり気なく俺を囲むように立ち位置を変えたし、どうやら十九歳の女性と急に『友達』になった怪しい成人男性だと勘違いされているらしい。……まあ、間違ってはいないけど。

 

いやはや、これは誤解を解くのに時間がかかるかもしれないな。出来立てほやほやの友人が災難を運んできたことに苦笑してから、脳内で言い訳を組み立てつつ財布を取り出すのだった。

 



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Ⅲ.雪丸 ⑨

 

 

「これは……さくどんさん、またしても撮影が難しいお題を出してきましたね。二本目の内容は『水泳』です。」

 

どうにか警察官の誤解を解いてから約二時間後。昼食と後半のゲーム勝負を終えた俺たちは、次なる対決内容の抽選を撮影していた。フォーラムの時にも使った抽選箱から、今回の対決に惜しくも敗れた雪丸さんが一枚の紙を引いたわけだが……また夏目さんが書いたお題だったのか。ゲームの次は水泳がテーマになるらしい。

 

雪丸さんの困ったような声を受けて、夏目さんは大慌てで手を振りながら弁明を放つ。水泳はまあ、確かに撮影が難しいな。プールは撮影禁止の場所が多いし、海だと単純に撮り難い。中々悩ましいお題だぞ。

 

「いやその、夏だからプールかなと思って……あの時の私、焦ってたんです。それでパッと思い浮かんだのを書いちゃいました。すみません。」

 

「夏らしくて良いとは思いますが……まあ、場所に関しては相談して決めましょうか。私は泳ぎが結構得意ですから、後が無い状況としては助かるお題です。ここに書いたということは、さくどんさんもそうなんでしょう? 次も接戦になりそうですね。」

 

「いえ、普通です。泳げはしますけど、得意ではありません。」

 

「……なのに書いてしまったんですか。」

 

困惑気味に呟いた雪丸さんへと、夏目さんが目を逸らして応答した。

 

「焦ってたんですってば。……とにかく、次も勝ちますから! 今回は運だけで勝ったみたいな感じでしたし、次こそ実力で戦って勝利してみせます!」

 

「私はもう企画的にも心情的にも負けるわけにはいきませんからね。次回も全力でお相手させていただきますよ! ……ということで今回はオチ無し! 以上! 水泳対決に続く!」

 

おー、ばっさり締めたな。平時の雪丸スタジオは軽いオチと同時に動画が唐突に終了するという構成なのだが、今回はやや特殊な形で終わったらしい。俺が構えているカメラに向けての雪丸さんの発言の後で、事態を見守っていた朝希さんがきょとんと小首を傾げる。

 

「……あれ、もう終わっちゃったんですか?」

 

「おや、言いたいことがあるなら言っても構いませんよ。」

 

「えと、じゃあ……今回の撮影のお昼休憩の時のトークを上げる予定なので、モノクロシスターズの動画もよろしくお願いします! 雪丸さんが猫になって職務質問されてますから、きっと雪丸スタジオのリスナーさんたちも楽しめるはずです!」

 

「私が『猫になって職務質問をされた』という表現はセンスがありますね。素晴らしい宣伝文句です。……では、今度こそ以上! 終わり!」

 

いいのか、それで。朝希さんが魅力的な宣伝を捻じ込んだところで、改めて動画が終了した。一応『天丼』を警戒して喋らないようにカメラを構え続けていると、雪丸さんが苦笑しながら俺に声をかけてくる。

 

「本当に終わりですよ、駒場さん。録画を止めて大丈夫です。」

 

「分かりました、切りますね。……皆さん、お疲れ様でした。」

 

俺の呼びかけを切っ掛けに『お疲れ様合戦』が勃発した後、夏目さんが申し訳なさそうな顔で雪丸さんに話しかけた。

 

「あの、雪丸さん。……やれますか? 水泳勝負。場所の確保がちょっと、厳しいかもって思うんですけど。」

 

「何一つアイディアは浮かびませんが、何とかしましょう。水着姿のさくどんさんは私も見てみたいですしね。」

 

「あっ、そっか。水着。」

 

どうして俺を見たんだ? カメラを置いている俺の方を横目にしながらの夏目さんの言葉に、疲れた様子でソファに座っている朝希さんが反応する。ちなみに小夜さんはパソコンの録画データを確認中だ。彼女は機材面で頑張ってくれたし、朝希さんは積極的に場を盛り上げてくれた。モノクロシスターズの協力はやはり大きかったな。

 

「プール、羨ましいです。夏だから、私たちも『水系』の動画はどうかって小夜ちと相談してたんですけど……お姉ちゃんに絶対ダメだって言われちゃいました。私たちの水着の動画は、変な人たちが変なことに使うからって。」

 

「……そうなんですか。」

 

何とも言えない面持ちで無難な相槌を打った夏目さんへと、朝希さんが眉根を寄せながら質問を飛ばす。

 

「でも、『変なこと』って何ですか? お姉ちゃんも小夜ちも教えてくれなかったんです。」

 

「えぁ、え? ……えーっとですね、雪丸さんは分かりますか?」

 

「さっぱり分かりませんね! ……小夜さん、録画データと音声データをいただけますか? 今USBメモリを準備します。」

 

「ちょっ、あっ……こま、駒場さん! 朝希ちゃんに教えてあげてください。私もあの、分からないので。全然分かんないです。全然。」

 

それはあんまりじゃないかな。何故この場で一番説明に適していない人物に話を振るんだ。堂々と嘘を吐いて逃げた雪丸さんと、キーボードを弄りながら聞こえない振りをしている小夜さんと、容赦なくぶん投げてきた夏目さん。無慈悲な三人に抗議の視線を向けた後で、答えを待つ朝希さんにその場凌ぎの回答を送った。

 

「……朝希さん、そういうことはお姉さんから教えてもらうべきです。私からは説明できません。」

 

「……何で隠すんですか? 駒場さん、いつもなら優しく教えてくれるのに。意地悪です。」

 

「私が教えるとですね、法に触れかねないんです。しかしこの場の三人が教えた場合はそうならないので、どうしても今知りたいなら私以外の誰かに尋ねてください。」

 

「……じゃあ小夜ち、教えてよ! お姉ちゃんから言われた時、すぐ納得してたじゃん。何でなの? ねえ、何で?」

 

危機は去ったな。『何で攻撃』の標的にされた小夜さんが恨めしそうにこちらを睨んでくる中、すたこらさっさと事務所スペースに移動する。投げ返されないうちに安全地帯に逃げてしまおう。俺にだってそのくらいの知恵はあるぞ。

 

「社長、終わりました。」

 

撮影部屋よりも少しだけ涼しい事務所スペース……エアコンがこっちにある所為で、ドアを閉じると室温に差が出てしまうのだ。に入りながら報告してやれば、香月社長は食べていたチョコレートをバッと隠して応じてきた。動作が遅すぎてバレバレだぞ。

 

「そうか、無事に終わって何よりだよ。……ちょっと休憩していただけだからね? 決してサボっていたわけではないんだ。」

 

「いやいや、別に何とも思いませんよ。私だってグミとかをよく食べていますしね。……どうしてそんなにビクビクするんですか?」

 

「何となくだよ。社員に範を示すべき立場の私が、他の全員が働いている時にお菓子を食べるのは……ほら、あれだろう? 宜しくないだろう?」

 

「そんなことを気にするのは社長だけですよ。お菓子くらい好きに食べてください。……それより次の対決の題目が『水泳』になったんですが、どうしましょう?」

 

何だってこういう部分だけ気が小さいんだろう? 基本的には豪気そのものなのに。香月社長の不思議に首を捻りつつ問いかけると、彼女はデスクの下に隠した板チョコを出して返事をしてくる。

 

「水泳? 季節感があって良いと思うよ。……ああ、場所を『どうしましょう?』という意味か。そこは確かに問題かもしれないね。」

 

「前職の経験からするに、都営や区営プールの撮影許可を取るのはかなり難しいはずなので……一時間か三十分単位で貸し切りをやっている、民間のジムやスポーツクラブのプールが狙い目だと思います。貸し切りにすれば他のお客さんにも気を使わずに済みますしね。知り合いで頼めそうな人は居ませんか?」

 

「残念ながら思い浮かばないよ。ただ、『ジムのプール』というのは良い案だね。あまり聞かない話だし、営業時間外を狙うのかい?」

 

「場合によりけりですね。普通に営業時間中の貸し切りを行っているところも案外多いので、ちょうど良い広さの施設を探してみます。見つからないって事態にはならないはずですから、経費面と相談して候補を絞ることにしましょう。」

 

芸能マネージャー時代にそういう場所での撮影に何度か同行したので、パッと浮かんでくる候補もあるにはあるのだが……広いプールは相応に高いんだよな。夏目さんと雪丸さんだけで使うならコース数は少なくていいわけだし、狭くて綺麗で安い施設を虱潰しに探してみよう。郊外や隣県まで手を広げれば良い条件のプールが見つかってくれるはずだ。

 

考えながらパソコンの電源を入れた俺へと、香月社長が今更な疑問を寄越してきた。

 

「ちなみに、ゲーム対決に勝ったのはどっちなんだい? 休憩の時点では伯仲していたようだが。」

 

「夏目さんです。ずっと僅差の四位だったんですが、最後の最後で逆転しました。朝希さんが一位、小夜さんが二位、雪丸さんが四位ですね。」

 

「……つまり、メインの二人は熾烈な最下位争いをしていたわけか。」

 

「朝希さんと小夜さんの一位争いも激しかったですし、これはこれで良い形になったんだと思いますよ。後半戦は大分打ち解けた雰囲気でやれていましたから、面白い動画になってくれるはずです。」

 

ゲームを間に挟むと会話が途切れ難いし、モノクロシスターズの二人が良い潤滑油になってくれたから……まあ、思っていたよりも和気藹々とした撮影になったな。対決っぽくはないかもしれないが、コラボ動画としては一つの成功だと言えるはずだ。

 

起動したパソコンにログインしながら答えたところで、夏目さんと雪丸さんが撮影部屋から出てくる。

 

「駒場さん、雪丸さんが帰るそうです。」

 

「っと、もうですか? それなら車を出しますが。」

 

「必要ありませんよ。去り際は潔くが私の信条でしてね。『敵地』に長居するのは良くありませんし、送ってもらうなど以ての外です。さっさと一人で帰ることにします。……香月社長、今日は助かりました。モノクロシスターズさんや貴女には、そのうち借りを返させていただきましょう。」

 

「期待しておくよ、雪丸君。」

 

雪丸さんの大仰な台詞に香月社長がくつくつと喉を鳴らして返した後、ストロベリーブロンドの友人どのは席を立った俺にスッと歩み寄ってきたかと思えば、壁際に誘導しつつ口元を隠して囁きかけてきた。お手本のような『密談』だな。政治家がよくやっているやつだ。

 

「駒場さん、しつこいようですが……私たちの関係については、余人には内緒にしてくださいね。」

 

「雪丸さんがそう言うならそうしますが……しかし、社長もさくどんさんも気にしないと思いますよ?」

 

職務質問の後にもこうして口止めされたのだが、別に隠すような関係ではないはずだぞ。単に連絡先を交換して、『友達』になっただけなんだから。釣られて声を潜めて応答すると、雪丸さんは夏目さんの方をちらりと見ながら否定を口にする。ちなみに夏目さんは……ほら、何かちょっと怪しんでいるじゃないか。こういうことをしていると逆効果だと思うんだけどな。

 

「私はですね、駒場さん。さくどんさんに嫌われたくないんですよ。さくどんさんは貴方を頼っているようですから、その貴方が私と『親密』だと知れば良い気はしないはずです。周りには秘密にして、こっそり友達付き合いをしていきましょう。」

 

「まあ、はい。了解しました。……本当に送らなくて大丈夫ですか? 特に手間ではありませんし、外は暑いですよ?」

 

「そんなことをして勘繰られたらどうするんですか。一人で帰れますよ。さくどんさんたちの前では、なるべく素っ気無い態度で接してください。……では、後でメールをします。さくどんさんが居ない場所で読んでくださいね。」

 

幾ら何でも警戒しすぎだぞ。浮気相手とのやり取りみたいじゃないか。真面目な表情に流されて頷いてしまった俺に、雪丸さんは満足そうに一つ首肯してから夏目さんへと言葉を飛ばす。

 

「さくどんさん、今日の撮影は随分と和やかなムードで終わりましたが……私は貴女とただ仲良くなりたいわけではありません。意味は分かりますね?」

 

「……分かってます。私もそうですから。」

 

「ならば結構。フォーラムでの問答に決着が付いていないことを、決して忘れないようにしてください。今日は色々と手伝ってくれたモノクロシスターズさんの顔を立てるために、場の空気を壊すような発言をあえて避けましたが……残りの対決企画中に方を付けさせていただきますからね。」

 

「はい、私も今度こそしっかりと答えます。」

 

夏目さんが言い放った返答を耳にすると、雪丸さんはニヤリと強気に笑いながら麦わら帽子を被った。今回の撮影は通過点に過ぎないということか。本番はこれかららしい。

 

「期待させてもらいますよ、さくどんさん。私は貴女の本心が知りたくて、こんな勝負を吹っ掛けたんですから。……それではさようなら、ホワイトノーツの皆さん! またお会いしましょう!」

 

撮影部屋からひょっこり顔を出したモノクロシスターズの二人と、俺と香月社長と、そして夏目さんに対して大声で別れを告げた雪丸さんは、そのまま颯爽と事務所を出て行く。去り際まで派手だったな。プールの件、言い出す暇もなかったぞ。

 

まあうん、どうにでもなるか。夏目さん経由で伝えればいいだけだし、何なら直接連絡することだって可能なのだから。それなら調べるのは後回しでいいかと思い直して、先に片付けを手伝おうと撮影部屋へと歩き出したタイミングで──

 

「……リュックを忘れました。」

 

フッと笑っている雪丸さんが事務所に舞い戻ってきた。短い別れだったな。ドアを抜けた瞬間に忘れ物に気付いたらしい。俺たちの微妙な目線を物ともせずに、悠々とリュックを回収した雪丸さんは……改めて挨拶をした後で、再度事務所から去っていく。

 

「今度こそさらば、ホワイトノーツ! また会う日まで!」

 

「……雪丸さんって、面白いね。」

 

「……そうね。」

 

朝希さんと小夜さんの会話がどこか虚しく響く中、苦笑いで撮影部屋に入って片付けを始めた。兎にも角にも、これにて一本目の勝負は終了だ。コラボレーション動画としても、大人数での撮影としても、コンシューマー機でのゲーム実況としても良い経験になったぞ。どれもホワイトノーツとしては初めての試みだったし、上手く今後に活用させてもらおう。

 

───

 

そしてゲーム対決の撮影から四日が過ぎた火曜日の午後。俺は訪れた夏目家の前に駐車した軽自動車の運転席で、雪丸さん……というか『秋山深雪さん』から送られてきたメールを確認していた。どうせバレているんだし、友達という関係なら本名の方がやり易いと以前のメールにあったため、それ以降秋山さんと呼ぶようにしているのだ。

 

ちなみにメールの本文は『今日の昼食は即席麺でした。私は魚介系が苦手なんですが、駒場さんはどうですか? 好きなラーメンがあったら教えて欲しいです。』というもので、小鍋に入った状態の醤油ラーメンの画像が添付されてあるわけだが……うーむ、よく分からんな。さすがは秋山さんだけあって、友達向けのメールの内容もちょびっとだけ独特だぞ。

 

秋山さんは割と筆まめな人物らしく、こういうメールを一日に二、三回のペースで送ってくるのだ。短めのブログみたいな文章で日常を知らせてくるから、俺も同じような内容を都度返しているわけだが、ライフストリームの話は未だ一切出てきていない。普通の『文通』になってしまっているな。

 

けどまあ、それなりに楽しめているぞ。きちんと一定の距離感があるあたりが、正に『メール友達』って感じだ。折角だからライフストリームのことも話してみたいものの、秋山さんが日常的な話題を寄越してくるのにその話ばかりを振るのは変だし……ここは俺も昨日の夜に観た映画についてを書いておくか。

 

魚介系は特に苦手ではないこと、むしろ豚骨が苦手なこと、味噌ラーメンが好きなこと、昨日の夜にちょっと古めの映画を観たこと、その映画が面白かったこと。それらを打ち込んだメールを送信した後、車を降りて夏目家の玄関へと歩を進める。規則正しく送られてきているし、恐らく夜にまた返信が来るはずだ。

 

奇妙な文通のことを思案しながらインターホンのボタンを押してみれば、すぐに夏目さんが開いたドアの隙間から顔を覗かせてきた。何故か少しだけ赤い顔でだ。どうしたんだろう?

 

「お疲れ様です、駒場さん。……えと、どうぞ。入ってください。」

 

「おはようございます、夏目さん。失礼しま……まさか、お風呂に入っていたんですか?」

 

えぇ、凄い格好だな。バスタオルを巻いているだけじゃないか。ドアを抜けた途端に夏目さんの姿が視界に映って、慌てて目を背けながら尋ねてやれば、彼女は大焦りの声色で勢いよく釈明してくる。

 

「ちっ、違います違います! 水着です! ネットで買った水着を着てみてただけですから! タオルの下、裸じゃないです!」

 

「あー、そういうことでしたか。」

 

なるほど、水着か。そういえば一昨日の夜に、水泳対決用の水着を注文したと電話で話していたっけ。……にしても、その格好は誤解されると思うぞ。首元まですっぽり包まっているから肩すら見えないし、一見しただけでは完全に『裸にバスタオル』だ。

 

ただまあ、あまり色っぽくはないかもしれない。ありがちな胸の上ではなく、首元で巻いているからなんだろうな。小学生がプールの授業の着替えでよく使っているあれ……確か、ラップタオルだったか? あれを被っている状態に近いぞ。

 

何にせよ事情に納得して靴を脱いでいる俺へと、夏目さんはずり落ちたバスタオルを器用に上げながら話を続けてきた。白いタオルなのも相俟って、てるてる坊主みたいだ。夏目家ではバスタオルをこうやって巻くんだろうか? 余所の家のルールは不思議だな。

 

「念のためその、駒場さんにもチェックしてもらおうかなと思いまして。それで来る前に着てみてたんですけど……ちょっとあの、ダメみたいです。着替えてきます。」

 

「『ダメ』? ……ひょっとして、サイズが合わなかったんですか?」

 

「えーっとですね……まあはい、そんなところです。」

 

何故か曖昧に答えてきた夏目さんが、てるてる坊主状態のままで上階に行こうとしたところで……おや、妹さんも居たのか。居間から現れた涼しげな格好の叶さんが声を投げてくる。ミディアムの黒髪を高い位置でポニーテールにしており、ノースリーブのシャツにショートパンツ姿だ。暑苦しいスーツ姿の俺からすると羨ましい限りだぞ。

 

「こんにちは、駒場さん。……お姉、見せなよ。駒場さんにも問題を把握してもらわないとでしょ? マネージャーなんだから。」

 

「い、いいよ。大丈夫。新しいの買うから。……あれ、叶? 何で通せんぼするの? お姉ちゃん、部屋に戻りたいんだけど。」

 

「いいから見せてみなよ。さっきまで私の勉強の邪魔しながら騒いでたのに、何で急に大人しくなっちゃったの?」

 

『問題』? 廊下に上がった俺が首を傾げているのを他所に、夏目さんはじりじりと後退りながら叶さんに言葉を返す。拒絶の言葉をだ。

 

「……叶、やめてね? お姉ちゃん、怒るよ? 本当に怒るから。」

 

「恥ずかしがってないで見せなって。」

 

「叶、ダメ。ダメだから。やめっ、あっ──」

 

迫り来る妹を止めようとした夏目さんだったが、するりと接近した叶さんにバスタオルを剥ぎ取られてしまう。そしてタオルの下にあったのは……まあ、水着だな。控え目なフリルが付いている、ハイネックビキニの白い水着だ。可愛いし、似合っているじゃないか。

 

「うあ、駒場さん……み、見ないでください。」

 

「いや、よく似合っていると思うんですが……何が『問題』なんですか?」

 

背中を向けてしゃがみ込んでしまった夏目さんに問いかけてみれば、そんな姉を見てほんの少しだけ楽しげな雰囲気になっている叶さんが口を開いた。いつも無表情な彼女にしては珍しく、口角が僅かに上がっているぞ。

 

「お姉、言いなよ。何が問題なんだっけ?」

 

「……問題なんてないです。」

 

「へぇ? 私に対してはどうしようどうしようって煩かったのに、駒場さんの前では言いたくないんだ? あれ、お姉? お姉ったら。どうして黙ってるの? ……駒場さんにお尻、ジッと見られちゃってるよ?」

 

「あっ、見ちゃダメです!」

 

見ていないぞ。冤罪だ。しゃがんだまま両手でお尻を隠した夏目さんは、真っ赤な顔で振り返って弁解してくる。……そこまで恥ずかしがられると、こっちも変な気分になってくるな。どういう状況なんだ? これは。特に違和感のない水着姿だと思うんだが。

 

「……あのですね、大した問題じゃないんです。ただその、私──」

 

「太ったんです。」

 

「叶!」

 

話の途中でストレートに報告してきた叶さんのことを、夏目さんが涙目で睨み付けているが……いやいや、太っていないぞ。これで太っているなら、他の人たちはどうなってしまうんだ。むしろ『痩せている』と評価すべき体格じゃないか。

 

「あーあ、お姉。駒場さんにバレちゃったね。太ったって思われてるよ? 今どういう気持ち? ……顔、見せてよ。ほら、どんな顔してるのか見せて。」

 

「……何で言うの? お姉ちゃん、やめてって言ったのに。」

 

叶さんが愉悦の表情で嫌がる姉の顔を覗き込む中、落ち込んでいる夏目さんへと声をかけた。まあ、痩せた太ったは俺からすれば『慣れている問題』だぞ。芸能マネージャー時代に担当アイドルと同じやり取りを何度もしたっけ。何度も、何度も、何度もだ。

 

「夏目さん、問題ありませんよ。太っていません。どう見ても痩せています。」

 

「……でもあの、お腹が摘めるんです。ぷにって。」

 

「十七歳の女性の平均体重は、私の記憶が確かなら五十二、三キロほどだったはずです。夏目さんはもっと軽いですよね?」

 

「ぁ……はい、四十キロ代後半です。」

 

だろうな。そもそも夏目さんは平均より身長が若干低いので、うろ覚えの年齢別平均体重と比較しても仕方がないわけだが……ここは強引に押し切らせてもらおう。全力で『問題ない』と主張する。それこそが年頃の担当から体重の相談をされた時のマネージャーが取るべき行動なのだ。

 

「では、平均より明確に痩せているということになります。前が痩せ過ぎだったので、比較すると太ったように思えてしまうだけですよ。単純に『健康的』になってきただけじゃないでしょうか? だったら何一つ問題はないはずです。」

 

「そ、そうですかね? ……じゃあ、駒場さんはどう思いますか? つまりあの、駒場さん個人の意見としてはどうでしょう?」

 

恐る恐るという様子で立ち上がって、恥ずかしそうに目を逸らしつつ正面から水着姿を見せてきた夏目さんへと、笑顔で褒め言葉を口にした。

 

「とても似合っていますし、素晴らしいプロポーションだと思いますよ。私個人としては理想的な体型ですね。これまで見てきたアイドルたちと何ら遜色ない水着姿です。」

 

「うぁ……あっ、ありがとうございます。嬉しい、です。」

 

よしよし、自信が出てきたらしい。もじもじしながらふにゃんと笑う夏目さんを目にして、どうにかなったなと安心していると……そんな俺たちをジト目で眺めていた叶さんが、嬉しそうにしている姉へと指摘を飛ばす。ほんのり不機嫌さを感じる無表情でだ。

 

「……お姉、乳首透けてるよ。」

 

「えっ、嘘。」

 

「嘘だよ。パッド入ってるんだから透けるわけないでしょ。」

 

バッと胸を隠して縮こまる夏目さんへと、叶さんは小さく鼻を鳴らして言い放った後、今度は姉の下半身を指して警告する。

 

「けど白だし、下は濡れると透けるよ。インナーショーツ、ちゃんと穿きなね。私、全世界に身内の恥を晒すのなんて嫌だから。」

 

「……それも嘘?」

 

「これは本当。……何なら確かめてみる? 今濡らしてあげるよ。透けるかどうか駒場さんに見てもらえば?」

 

「いっ、いいよ! しなくていい! もう着替えてくるから!」

 

叶さんが再びにんまりし出したのにビクッとした夏目さんは、大慌てでバスタオルを持って二階へと駆け上がっていく。すると姉を見送った妹が、残された俺にポツリと呟きを寄越してきた。

 

「夏期講習でストレスが溜まっていたので、良い気晴らしになりました。……駒場さんは興奮しましたか? 姉が恥ずかしがってる姿に。」

 

「興奮? ……いいえ、しませんでした。可哀想だとは思いましたが。」

 

「嘘が上手ですね。私はゾクゾクしましたよ。必死にお尻を隠そうとしてる姿なんてもう、間抜けすぎて最高でした。本当は剥ぎ取ったりずり下ろしたりしたかったんですけど、そこまでやると本気で落ち込みそうなのでやめたんです。」

 

「それはまた、思い止まってくれて何よりです。……ちなみにあの、嘘ではありませんよ?」

 

別に興奮はしていない……はずだ。多分。名誉のために一言付け加えてやれば、叶さんはやれやれと首を振って居間へと先導してくる。何だかこの子との距離が縮まっている気がするな。期待していた縮まり方とは全然違うけど、いきなり感情を見せてくるようになったぞ。前に来た時の会話が原因なんだろうか?

 

「興奮してあげてくださいよ。水着姿に一切興味を持たれないとなると、さすがに姉が哀れになってきます。それは私も笑えません。」

 

「いやまあ、綺麗だとは思いました。肌も白いですし、スタイルも良いので……興奮というか、感動はしましたよ。」

 

「『感動した』? そんなのまるで、美術品に対する感想じゃないですか。枯れ果てたおじいちゃんみたいな台詞です。……駒場さん、まさか性欲が無いんですか? そういう病気だとか?」

 

「……性欲はありますよ。ただ私は、理性を大切にしているんです。」

 

担当の妹の中学生の女性と『性欲』の話はしたくないぞ。やはりこの子はちょっと苦手だなと思っている俺に、叶さんは座布団を勧めてから返答を送ってきた。……こんな性格の子だったのか。今の彼女に比べれば、口数が少なかった頃の方がまだやり易かったかもしれないな。

 

「そこに座ってください。……駒場さんは少し頭がおかしいんですね。姉の話を聞くに『滅私奉公』を実行しているみたいですし、おまけに理性過多で本能が薄れています。メンタルクリニックに行くべきですよ。」

 

「……そこまでではないと思うんですが。」

 

「自覚がないのが致命的ですね。……まあ、私としては好都合です。駒場さんを使うと、

姉が『いい顔』をしてくれますから。貴方が安全な人なら多少やり過ぎても大丈夫そうですし、色々試してみることにします。」

 

俺、嫌われているのか? 『頭がおかしい』とまで言われるのは心外だぞ。辛辣な診断を下してきた叶さんに怯みつつ、指定された座布団に腰を下ろすと……彼女はすぐ隣に座って会話を継続してくる。どうしてこんなに近くに座るんだ? 訳が分からん。誰か助けてくれ。

 

「ちなみに駒場さん、今付き合っている女性は居ますか?」

 

「……居ません。」

 

「へぇ? 意外ですね。扱い易そうですし、優良物件だと思うんですけど。……それなら、恋愛の対象は何歳から何歳までですか?」

 

「……あまり意識したことはありませんが、成人かつ近い世代だと思います。」

 

この子、怖いぞ。無表情でジッと俺の顔を見つめながら尋問してくる叶さんに、ごくりと喉を鳴らして答えてみると、彼女は僅かにだけ面白がっているような面持ちで質問を重ねてきた。

 

「ということは、未成年はダメですか?」

 

「もちろんです。」

 

「『もちろん』? どうしてですか? 法律的な問題があるから? 身体的に魅力が無いから? 社会的な都合? それとも道徳的な理由?」

 

「……一番は道徳的な理由です。」

 

夏目さんが早く戻ってくることを祈りつつ回答してやれば、叶さんは薄っすらと笑って囁きかけてくる。緩い弧を描いている唇を、真っ赤な舌でぺろりと舐めながらだ。

 

「ふぅん? 駒場さんは随分と常識的な人なんですね。私が嫌いなタイプです。」

 

「……すみません。」

 

「あれ? どうして謝るんですか? こんな小娘に好き勝手言われてるんだから、怒ればいいのに。……あ、その顔。その顔は好きです。駒場さん、困り顔が似合いますね。お姉ほどじゃないですけど、中々唆られる表情ですよ。じゃあ、こういうことをするとどうなりますか?」

 

「叶さん、何を──」

 

一体全体何を考えているんだ。俺の太ももに手を置いてぐいと顔を近付けてきた叶さんを、慌てて制止しようとしたところで……ぴたりと動きを止めた彼女が、超至近距離で笑いかけてきた。吐息の温かさを感じるな。鼻の先がくっ付きそうな距離だぞ。

 

「待ってください、このままで。」

 

「しかしですね、こんな体勢は──」

 

「いいから、このまま止まっていてください。今来ますから。」

 

来る? どういう意味なのかと困惑していると、居間の襖が開いて私服姿の夏目さんが戻ってくる。……なるほど、そういうことか。

 

「駒場さん、お待たせしま……え?」

 

「ああ、姉が来ちゃいましたね。続きはまた今度、二人っきりの時にしましょう。」

 

「えっ。……え?」

 

思考停止状態に陥っている夏目さんを見て口の端を吊り上げた叶さんは、俺から身を離してスタスタと廊下に歩き去っていく。要するに、俺は姉をからかうための道具にされたらしい。

 

「か、叶? 何を……えぇ? 駒場さんと何してたの?」

 

「お姉には内緒。私、部屋に戻るから。じゃあね。」

 

居間に呆然としている夏目さんと、してやられたと額を押さえている俺が取り残されたところで……ようやく再起動を果たした夏目さんがおずおずと問いかけてくる。

 

「今のって……つまり、叶が無理やりやったんですよね?」

 

「そうです。……分かってくれて助かりました。」

 

「まあ、いつものことですから。……昔は可愛い『お姉ちゃんっ子』だったのに、小学校高学年になった頃から悪戯ばっかりやるようになっちゃって。嫌われてるんです、私。色々あったので、当然といえば当然なんですけど。」

 

当然なのか? 安心半分気落ち半分の苦笑で言った夏目さんは、俺の対面に座りながら続けてきた。……何にせよ、変な誤解にならなくてホッとしたぞ。叶さんが『常習犯』で助かったな。

 

「お父さんにもお母さんにも他の子にも気遣いが出来る良い子なのに、私にだけはあんな感じなんです。叱らなきゃって思うんですけど、私は怒るのが苦手なので……すみません、駒場さんにまで迷惑かけちゃって。」

 

「……もしかするとあれは、叶さんなりの愛情表現なんじゃないでしょうか? 一番気を許しているからこそ、夏目さんだけにああいう姿を見せるのかもしれませんよ?」

 

「……そうですかね? 好きな子に意地悪したくなるあれですか?」

 

「……多分ですけど、無くはない話だと思います。」

 

自分で言っておいて何だが、ちょっと違うように思えてきたな。先日話した時に叶さんが口にしていた、『大っ嫌いで大好き』という台詞。彼女の夏目さんに対する態度を見るに、あれこそが本音なのかもしれない。……あるいはまあ、単純に嗜虐趣味を持っているだけの可能性もあるが。

 

それにしたって夏目さんのみがターゲットになっているのであれば、叶さんにとって姉は確かに特別な存在だということだ。愛情だとすれば若干歪んでいるなと唸りつつ、奇妙な妹さんについての話題を締める。

 

「何れにせよ、単に嫌われているわけではないはずです。もしそうならそもそも関わろうとしませんよ。積極的にちょっかいをかけてくる以上、夏目さんに対して一定の好意は持っているんじゃないでしょうか?」

 

「それならまあ、そこまで悪い気はしないですけど……でも今回は頑張って強めに叱っておきます。駒場さんにまで被害がいくのはダメですから。」

 

それ、逆効果だと思うぞ。夏目さんが強く反応すればするほど、叶さんは強めにからかってくるんじゃないかな。何となくそんな予感がするものの、家庭の問題に部外者たる俺が意見するのは変だし……とりあえずここで終わらせておくか。

 

「俺は気にしていないので、夏目さんもそんなに気にしないでください。ちょっとした悪戯だと思っておくことにします。……それより打ち合わせをしましょう。昨日電話で言った通り、安く借りられそうなプールが見つかりました。一時間あたり一万五千円で、二十五メートルが三コースある屋内プールです。」

 

「一万五千円ですか。」

 

「コース単位で借りる場合や、撮影不可の施設まで含めると更に安いところもあったんですが……一般の方が居ると気を使いますし、撮影できなければ意味がありません。綺麗でお手頃価格で撮影可能で、かつ貸し切れる近場の屋内プールとなるとここが一番だと思います。」

 

取り出したスマートフォンで施設のホームページを開いて渡してみると、夏目さんは施設内の写真を確認しながら相槌を打ってきた。

 

「……ここが一時間一万五千円で借りられちゃうんですか。安いですね。かなり意外です。」

 

「ただですね、ここはスポーツジムのプールでして。プールがあまり使われない時間帯にだけ貸し出しをやっているようなので、平日の八時から十二時と、十七時から二十時の間でしか予約できないんです。」

 

「あー、なるほど。私は時間に関しては全然平気なので、そこは雪丸さん次第ですね。……ちなみにこれ、どこにあるスポーツジムなんですか?」

 

「茨城県のつくば市です。ここからだと車で一時間ちょっとですね。」

 

つくば市ならまあ、距離的にも交通の便的にもギリギリ近場と言えるはずだ。返してもらったスマートフォンを仕舞いながら答えた俺に、夏目さんはこっくり頷いて応答してくる。

 

「つくばですか。学校の社会科見学で宇宙センターに行ったことがあります。雪丸さんにはメールで伝えておきますね。」

 

「よろしくお願いします。それで雪丸さん側も問題なさそうであれば、こちらで予約までやってしまいますね。」

 

「すみません、何から何までやってもらっちゃって。元はと言えば私が『水泳』なんて書いちゃうからこうなったのに。」

 

「こういう作業が事務所の役目なんですから、どんどん頼ってください。……季節感がある内容ですし、折角なら夏休みの期間に上げたいですね。間に合いそうですか?」

 

屋内の温水プールなんだから季節も何もないわけだが、水着の動画はやっぱり夏に見た方が親近感が湧くだろう。出来れば八月中がいいなと思案している俺へと、夏目さんは眉間に皺を寄せて応じてきた。

 

「三本目の内容にもよるんですけど、私も何とか八月中に上げたいなと思ってます。雪丸さんのメールにもそんな感じのことが書かれてありました。……今週中に水泳対決を撮って、お盆が明けたらすぐに三本目を撮るのがベストですね。それなら二十日くらいには上げられますから。」

 

「水泳対決はさくどんチャンネルで上げて、三本目を雪丸スタジオで出すんですよね?」

 

「雪丸さんの企画だから、締めはあっちの方が良いかなと思ったんです。三本目の編集を雪丸さんが終わらせた段階で、タイミングを合わせて一気にアップロードしようってことになってます。ゲーム対決の前編、後編、水泳対決、三本目を一日一本のペースで上げる感じですね。」

 

四日間かけて、交互にそれぞれのチャンネルで上げていくわけか。さくどんチャンネルも雪丸スタジオも更新頻度が高めのチャンネルなので、時間を空けると間に別の動画が大量に挟まってしまう。そうなれば勢いが落ちてしまうし、一気にアップロードするのは悪くないやり方だと思うぞ。

 

夏目さんが提示してきた計画に納得しつつ、彼女に対して返事を返す。となるとのんびり撮るわけにはいかなさそうだな。

 

「分かりました、なるべく急いでいきましょう。」

 

「はい。……そういえば駒場さんはお盆、帰省するんですか?」

 

「いえ、今年はこっちに残ります。なので何かあったら遠慮なく連絡してきてください。」

 

母親は北海道の実家に行くらしいけど、俺はそれについて行きたくないのだ。母は九人兄妹の末っ子で、北海道の実家は歴史ある大きな家だから、お盆になると日本各地に散らばった親戚たちがわらわらと集まってくるのである。従兄弟や叔父叔母からの『瑞稀君、まだ結婚しないの?』を延々食らうのは御免だぞ。今年は参加を辞退させてもらおう。

 

とはいえまあ、行かなきゃ行かないで何か言われるんだろうなとうんざりしていると、夏目さんが困ったような苦笑いで口を開く。

 

「駒場さんが東京に居てくれるのは頼もしいですけど、きちんと休んでくださいね? ライフストリームの研究とか、動画チェックとかはやっちゃダメですよ?」

 

「……ダメですか。」

 

「お休みの日はぐでーっとすべきですよ。そういうのが苦手なのは何となく分かりますけど、せめてお盆くらいは思いっきり休んでもらわないと心配になります。」

 

よく分かっているじゃないか。確かに俺は『ぐでーっとする』のが苦手だぞ。何かこう、そういうことをしていると不安になってくるのだ。根っからの『労働者気質』なのかもしれない。

 

「……では、しっかり休むことにします。」

 

それもそれでちょっと悲しいなと微妙な気分になりつつ返答した俺を見て、夏目さんがホッとしたような笑顔になったところで……叶さんが再び居間に現れる。洗濯カゴらしき衣類が満載の容器を持った状態でだ。

 

「叶? どうしたの?」

 

「洗濯物を畳むの。お母さんからやっておいてって言われたでしょ。」

 

「そんなのお姉ちゃんが後でやるから、洗面所に置いておいて。……どうして駒場さんが居るタイミングでやろうとするの? 失礼だよ。」

 

何故か俺のすぐ近くに洗濯カゴを下ろした妹へと、夏目さんが注意を送るが……それを無表情で聞き流した叶さんは、容器の中から出した薄い水色の布を俺の方に突き出してきた。

 

「駒場さん、手伝ってください。」

 

「あー……はい、了解しました。」

 

俺もやるのか。お邪魔している身だし、やれと言うならやるけど……余所の家の洗濯物を畳むのは初めての体験だな。まさかの要望に目を瞬かせつつ、反射的に受け取ってしまった布を広げてみれば──

 

「こら、叶。いい加減にしなさい。何で駒場さんに畳ませようと……ちょっ、ダメです! ダメダメ! それはダメ!」

 

机に乗って最短距離で近付いてきた夏目さんが、真っ赤な顔で俺の手から薄水色の布を……女性物の下着を奪い取ってくる。なるほどな、これもまた叶さんの『いじわる』なわけか。勘弁して欲しいぞ。

 

「お姉、行儀が悪いよ。机の上に乗らないで。……はい、駒場さん。こっちがブラです。上下セットなので、一緒に纏めておいてください。」

 

「やめてよ、叶! いいから、もういいから持っていって!」

 

「よくないでしょ。早く畳まないと皺になるよ。……駒場さん、こっちもお願いします。駒場さん? ちゃんと受け取ってください。」

 

「やめてってば!」

 

スッと背を向けた俺の背後から、夏目姉妹が争っている物音が響いてくるが……今回も振り向かないぞ。こちとらモノクロシスターズ相手に同じような災難を経験済みなのだ。叶さんには悪いけど、そう易々と夏目さんをからかうための『おもちゃ』にされるつもりはない。担当との気まずい空気を避けるためにも、上手くやり過ごすことで対応させてもらおう。

 

「お姉、やめて。邪魔しないで。……駒場さん、投げますからね。畳んでください。」

 

「あああ、ダメ! 駒場さん、ダメですから! それ、ダメです!」

 

とはいえ、叶さん相手だとただやり過ごすのも至難の業らしい。頭上を通過してぱさりと目の前に落ちた黒いパンツから目を逸らしつつ、担当の妹が厄介な悪戯っ子であることを確信するのだった。……これまでは猫を被っていたわけか。恐ろしい子だ。

 



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Ⅲ.雪丸 ⑩

 

 

「ごきげんよう、さくどんさんと駒場さん。絶好の屋内プール日和ですね。」

 

うーむ、この天気を『屋内プール日和』と表現するのか。土砂降りの雨が降っている、八月十一日の午前九時。つくば市のスポーツジムに到着した俺と夏目さんは、建物の軒先に立っている秋山さんからの挨拶を受け取っていた。

 

つまるところ、俺たちは水泳対決の動画を撮るために茨城県を訪れているのだ。夏目さんが連絡してすぐに秋山さんからのオーケーをもらえたので、直近で空いていた木曜日の午前九時半から十時半の貸切予約をして、こうして車で現地にやって来たわけだが……いや、外のプールじゃなくて本当に良かったな。屋外だったら撮影中止になっていたレベルの大雨だぞ。

 

ラッキーなんだか不運なんだか分からない空模様に内心で苦笑した後、車に積んであった大きめの傘を夏目さん側に七割、自分側に三割で翳しつつ返事を飛ばす。今日の秋山さんはそこまで奇抜な格好じゃないな。シャンブレーシャツと濃い色のジーンズ、そして黒いワークキャップという出で立ちだ。

 

「おはようございます、雪丸さん。今日もよろしくお願いします。」

 

「あっ、おはようございます。……雨、大丈夫でしたか? 急に降り始めましたけど。」

 

「車で来たので平気ですよ。そういえば紹介していませんでしたね。あれが『雪丸スタジオ号』です。」

 

誇らしげな秋山さんが指し示す先にあるのは……おー、ちょっと古めの車だな。十五年落ちのオオカワの真っ赤なノッチバッククーペだ。あの車の場合は『古い』じゃなくて、『渋い』と言うべきかもしれない。カーマニアなら誰もが知っている名車だぞ。

 

「オオカワのフォーマルハウトですか。良い車ですね。」

 

「おや、駒場さんはご存知でしたか。バイトで貯めた金で買ったんです。前期モデルですよ。」

 

「あー、言われてみればバンパーが前期のやつですね。全部ノーマルですか?」

 

「消耗品とホイール以外はノーマルです。私は改造の技術を持っていませんし、そもそも『カスタム派』の人間ではありませんから。前の所有者がマフラーを弄ってしまっていたので、純正パーツを探し出して付け直した程度ですね。状態が良いので割と素直に走ってくれていますよ。」

 

そっちのタイプか。例えば豊田さんはカスタム派の人なので色々と弄り回しているが、秋山さんのようにそのままの状態……というか、出荷時の純正パーツを好む人も多いのだ。ちなみに俺は単車だとカスタム派で、自動車だとノーマル派だぞ。ここは完全に趣味嗜好の範疇だな。

 

機材が入ったバッグを持ち直しながら車を観察していると、三脚を手にしている夏目さんが言葉を放った。どこか懐かしそうな顔付きでだ。

 

「その車のこと、昔動画にしてましたよね。雪丸さんがまだローマ字の『YUKIMARU』で活動してた頃に、『免許を取ったら絶対にこの車を買います』って動画内で喋ってた記憶があります。」

 

「何とまあ、懐かしい話じゃありませんか。確かそれは『免許を取れるまであと一年』というタイトルの動画だったはずですから、私が十七になったばかりの頃……つまり、二年前の春先に上げた一本ですね。メインチャンネルを移転する直前です。ちなみにですが、私もさくどんチャンネルが『さくどんの動画』だった当時から見ていますよ。」

 

「……あの頃の動画を思い出すと恥ずかしくなります。初期の初期は一言も喋らずに、公園の鯉に餌をあげてる動画とかを投稿してました。週に一、二本くらいのペースで、つまらない以下の『無の動画』を上げ続けてたんです。」

 

うーん、さくどんチャンネルと雪丸スタジオの歴史を感じる会話だな。二人がライフストリームに動画を投稿し始めたのは、今から四年以上も前のことなのだ。当時中学二年生だった夏目さんは『さくどんの動画』というチャンネルで活動しており、高校一年生だった秋山さんも前身のチャンネルである『YUKIMARU』で動画をアップロードしていたらしい。

 

一応それらのチャンネルは今も残っているので、俺も興味本位で軽くチェックしてみたことがあるものの……まあうん、両者共にホームビデオっぽい動画ばかりだったな。電線に止まっているカラスの大群を映した十五秒の動画とか、旅行先の名物ソフトクリームを撮った三十秒弱の動画とか。あくまでエンターテインメントとして今の彼女たちの動画と比較した場合、『雲泥』という熟語がよく似合うだけの差があったぞ。

 

もちろんそういう時期を経たからこそ今があるわけだし、あれもあれで『ライフストリームらしさ』を感じる良い動画だったのだが、やっぱり見返すと恥ずかしくなってしまうのだろう。ジムの屋根の下に入りながら苦々しい笑みで語る夏目さんへと、秋山さんも同じ顔で相槌を打つ。

 

「私だって同じですよ。最初期の自分の動画を見ると身悶えします。……さくどんさんがライフストリームに『嵌った』切っ掛けはどの動画だったんですか?」

 

「切っ掛けですか? ……んー、花火大会の動画ですかね。三年前に大きな花火大会に家族で行ったので、深く考えずに花火を撮影してアップロードしてみたら、それまでにないくらい一気に伸びたんです。それが多分、私がライフストリームに嵌った切っ掛けなんだと思います。」

 

「私の場合は靴紐の結び方でしたね。父から一瞬で結べる解け難い結び方を教えてもらったので、何の気なしに動画で撮って上げてみたら……まあ、さくどんさんと一緒ですよ。予想外に伸びて、感動して、魅力に取り憑かれたわけです。」

 

何だか不思議な話だな。花火大会の動画と、靴紐の結び方の動画。それが彼女たちの初めての成功で、スタート地点なわけか。感慨深そうに話す秋山さんに、夏目さんが困ったような笑みで声を返した。

 

「知ってますよ、靴紐の動画。私の花火大会の動画と同じ頃に投稿したやつですよね? フォーラムの時に雪丸さんも言ってましたけど、私たちには共通点が多いみたいです。」

 

「そうですね。投稿し始めたのも、切っ掛けを得たのも、チャンネルを新設したのも同時期です。私は『本当に面白い動画』をきちんと作っていこうと決めたので、高校三年生に進級した春に『YUKIMARU』から『雪丸スタジオ』へと拠点を移したわけですが……さくどんさんは何故さくどんチャンネルを設立したんですか?」

 

「根本的には雪丸さんと同じ理由です。それまでは何となくで投稿してましたけど、あの時期に本気でやっていこうって決意しました。ちょうど日本でもロケットカワノさんがレビュー動画を出したり、CAWINGさんがチャレンジ動画を上げたりしてライフストリームが勢い付いてきた頃だったので……私も頑張ってみようと思って。それで高校に進学したタイミングで心機一転チャンネルを新しくして、やってなかった顔出しも解禁して、お二人を真似して『誰かを楽しませるための動画』を上げ始めたんです。」

 

ロケットカワノさんというのはディヴィジョンフォーラムでも壇上に上がっていた、日本ライフストリーム界におけるレビュー動画の先駆け的存在だ。そしてCAWINGさんは、身体を張ったチャレンジ系動画を日本で最初に継続的にやり始めた人のはず。

 

当時のライフストリームには広告システムなんてものは存在していなかったので、その時代の投稿者たちは一切対価を受けずに動画を作っていたことになる。それでも彼らが投稿し続けて盛り上げてくれたからこそ、日本という市場はキネマリード社の目を引けたのだろう。彼らの投稿スタイルは現在のライフストリーマーたちの基盤になっているわけだし、正に日本ライフストリーム界の土台を築いた人たちだと言えそうだ。

 

いやはや、ライフストリームで食っている人間としては頭が上がらないぞ。傘を畳みながら偉大な先駆者たちのことを考えていると、秋山さんがニヤリと笑って話を締めた。

 

「その二人は私にとっても師匠ですよ。私とさくどんさんが競い合っているように、彼らもライバル意識を持ち合っていたのかもしれませんね。……それでは、行きましょうか。まだまだ話したいところですが、予約の時間が迫っています。こういう昔話はいつか改めてやりましょう。私たちにはまだ早いですよ。さくどんさんがどうであれ、少なくとも私はこれからが本当の『始まり』だと思っていますから。」

 

「……私だってそうです。まだ後ろを振り返るつもりはありません。」

 

「素晴らしい、そうでなければ困ります。……収入を得られるようになった今、ようやく日本でも『戦国時代』が始まろうとしているんですよ。個々人の面白さを競い合う時代が。私はそれを嬉しく思っています。競争なくして進歩はありませんからね。」

 

戦国時代か。ライフストリームは実力主義の世界なわけだし、ぴったりの表現かもしれないな。秋山さんの発言に唸りつつ、彼女に続いてスポーツジムの中に入る。そのまま受付らしきカウンターに歩み寄って、そこに居た女性に話しかけた。

 

「どうも、プールの貸し切りを予約したホワイトノーツの者です。」

 

「あー、はい。貸し切りの。少々お待ちくださいね。」

 

ややラフめの口調で応対してきたポロシャツ姿の四十代くらいの女性は、カウンター下の引き出しを開けて何かを探し始める。俺は普段ジムを利用しない人間なので、こういう施設には詳しくないのだが……そこそこ広めのエントランスなのに誰も居ないな。がらんとしているぞ。

 

とはいえ駐車場にはちらほらと車があったので、流行っていないわけではないはずだ。みんなジムスペースに居るのかなと思考しながら待っていると、一枚の紙を取り出した女性が確認を寄越してきた。

 

「えーっと……はいはい、ホワイトノーツさんですね。九時半から十時半の利用で間違いありませんか?」

 

「間違いありません。」

 

「では、こちらに代表の方のサインをお願いします。プールはまだ清掃中ですけど、更衣室はもう使えますよ。そこの廊下の突き当たりを曲がってすぐです。更衣室から直接プールに入れるので、立ち入り禁止の看板を無視して入っちゃってください。貸し切り中に一般のお客さんが入らないように置いてあるだけですから。」

 

「はい。」

 

早口だな。渡されたボールペンでサインをしながら応じてやれば、女性は矢継ぎ早に説明を続けてくる。動作もやけにテキパキしているし、この世代の女性特有の勢いを感じるぞ。

 

「更衣室の隣のシャワーも使って大丈夫ですし、プールサイドから男女共用の小さな専用更衣室にも入れますよ。一般利用の方と一緒に着替えたくないって場合はそこで着替えてください。他の細かい注意事項はこっちの……はい、どうぞ。ここに書いてあります。」

 

パウチ加工されて、リングで留められている数枚の紙……濡れないようにかな? をカウンターに出した女性へと、サインを終えた書類を返しながら応答した。

 

「十時半ギリギリまでプールを利用して、その後着替えを行うのは可能ですか?」

 

「ええ、可能ですよ。プールさえ空けてくれれば問題ありませんから、シャワーや着替えはごゆっくりどうぞ。次の予約は十一時なので、数分超過するくらいなら平気ですしね。……あと、料金は先にお願いします。一万五千七百五十円です。」

 

「あーっと、領収書をいただけますか? 宛名は片仮名の『ホワイトノーツ』で。」

 

夏目さんと秋山さんのメールのやり取りの中で『こっちが出しますよ論争』が起こったので、とりあえず支払いはホワイトノーツが持っておくことになったのだ。会計を済ませてからカウンターを離れて、後ろで立って待っていた夏目さんと秋山さんに促しを送る。受付の女性との会話は聞こえていたようだし、説明を繰り返す必要はなさそうだな。

 

「行きましょうか。」

 

「はい。……お金、後で返しますね。」

 

「さくどんさん、返すのは私ですよ。三本勝負は私の企画なんですから。」

 

「けど、水泳対決はさくどんチャンネルで上げる動画です。それなら私が払うべきだと思います。」

 

おっと、議論が再燃し始めているな。夏目さんも頑固に抵抗しているようだし、秋山さんとの会話には大分慣れてきたらしい。そんな担当クリエイターの変化を感じ取りながら、するりと二人の間に割り込んだ。

 

「まあ、そこは後回しにしましょう。それより今は撮影です。……どの時点から始めますか?」

 

「えっと、プールサイドでスタートさせたいです。そこでこれまでの流れとか今日のルールとかをサラッと話して、五種目で勝負する感じですね。」

 

「クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ、自由形の五種目ですよね? ……さくどんさん、結局全て二十五メートルでやるんですか?」

 

二人ともバタフライで泳げるのは凄いな。俺は出来ないぞ。……今回はさくどんチャンネルの動画になるので、詳細なルールは夏目さんが決めることになったのだ。更衣室への通路を歩きながら問いかけた秋山さんに、夏目さんは眉間に皺を寄せて回答した。

 

「……トリの自由形だけ五十メートルにしましょうか。その方が盛り上がりそうですし、どっちもクロールを選択した時に一戦目の焼き増しになっちゃいますから。」

 

「私は何でも構いませんよ。そちらの企画に従います。」

 

「ターンが入ると見応えがありますし、トリを五十メートルにするのは良いアイディアだと思いますよ。それでいきましょう。……私が先に行って機材の準備をしておきますね。荷物を預かります。」

 

近付いてきた更衣室を見て賛同しつつ呼びかけてやれば、夏目さんがずっと抱えていた大きめの三脚を、秋山さんがいつものアニメプリントのリュックから出したカメラと小型の三脚を手渡してくる。

 

「はい、お願いします。」

 

「お任せします、駒場さん。三脚は付け根のロックを外すと脚が伸びますよ。サイズ相応の高さにしかなりませんが。」

 

「なら、雪丸さんの三脚はゴール地点に置かせてもらいます。そしてこっちの三脚を広角で映せる位置に設置して、私は移動しながら撮ることにしましょうか。」

 

「そんな感じで大丈夫です。細かい位置はプールに行ってから決めるので、先ずは適当に置いちゃってみてください。……じゃあ、着替えてきますね。」

 

夏目さんの返答と共に女性用更衣室へと消えていく二人を見送ってから、奥にある男性用更衣室に入室してみれば……おー、ちょっとだけプールの匂いがするな。何だかテンションが上がってくるぞ。

 

ただまあ、当然ながら俺は水には入らない。スーツ姿のままでプールサイドから撮影するだけだ。ちょびっとだけ残念だなと苦笑いを浮かべつつ、プールの入り口に近いロッカーを開いて使わない荷物を仕舞う。靴下を脱いで、ジャケットも中に置いていくか。水飛沫くらいは飛んでくるかもしれないし。

 

荷物を入れたロッカーにきちんと鍵をかけてから、数名の利用者たちを横目にプールに続くドアを抜けてみると、ちょうど出てこようとしていた若い男性職員が声をかけてきた。受付の女性と同じ黄色いポロシャツを着ているし、どうやらこれがこのスポーツジムの制服であるようだ。

 

「あ、貸し切りのお客様ですか? 清掃は終了しましたので、もう使えますよ。プールサイドの備品もよければ使ってください。」

 

「ありがとうございます。」

 

ばっちりのタイミングだったな。まだ九時半まではちょっとあるので、少しだけ得をしたらしい。掃除用具を手にしている男性職員に目礼しながらすれ違って、プールサイドに足を踏み入れると……うーむ、写真で見た通りの綺麗なプールだ。三コースだけなのでやや小さめではあるものの、これで一時間一万五千円は安いと思うぞ。

 

とはいえまあ、相場からすると際立って安いってほどではないんだよな。ここはジムに併設されているプールなのでまだ分かるけど、貸し出し一本でやっている施設はどうやって利益を上げているんだろう? ……よくよく考えてみれば普通の市民プールとかも利用料金が安めな気がするし、実はそんなに維持費がかからないとか?

 

縁遠い業種すぎてよく分からんと一人で首を傾げつつ、プールサイドを歩き回ってせっせと撮影の準備を進めていく。タオルを隅に置いて、三脚を設置し、そこに装着したカメラの電源を入れて画角のチェックをしていると、背中に着替えを終えたらしい秋山さんの声が投げかけられた。……おお、競泳水着か。彼女が着ているのは太ももが出ているタイプの、赤いライン入りの競泳水着だ。ガチガチの選択をしてきたな。

 

「駒場さん、お待たせしました。さくどんさんも今来ますよ。」

 

「はい、準備はほぼ終わっています。……似合っていますよ、秋山さん。スポーティな美しさがありますね。」

 

競泳水着はスレンダーな体付きの秋山さんにぴったりだなと思って、ストロベリーブロンドの長髪を纏めている彼女に感想を述べてみると……秋山さんは三秒ほどぴたりと動きを止めてから、僅かにだけ目を逸らして反応してくる。

 

「……褒め上手ですね、貴方は。急に本名で呼ばれたから驚いてしまいました。」

 

「っと、すみません。二人の時はそうすべきかと思いまして。嫌でしたか?」

 

「嫌ではありませんよ。ただ貴方から何か感想を言われるとしても、『雪丸』としてだと予想していたんです。……秋山深雪として褒められると、存外気恥ずかしいものですね。随分とストレートな褒め方でしたし、雪丸と違ってこっちの私は褒められ慣れていませんから。」

 

顔を背けながらの秋山さんがそう言ったところで、女性用更衣室に繋がるドアから夏目さんが現れた。褒められ慣れていないのか。秋山さんの容姿なら、慣れていて然るべきだと思うんだけどな。

 

疑問を抱きつつカメラの設定を弄っている俺に、二日前にも見た白い水着姿の夏目さんが話しかけてくる。ちなみに下にはショートパンツ型の水着を重ね着している状態だ。追加で合いそうな物を買ったのかな? 彼女は妹の警告を重く受け止めたらしい。

 

「駒場さん、大丈夫そうですか?」

 

「問題なさそうです。固定カメラを調整する前に、オープニングを撮ってしまいましょうか。そっちは手持ちで撮るわけですし。」

 

「オッケーです。……雪丸さん、いけますか? 更衣室で話した感じで撮りますね。」

 

「いけますよ。いつでもどうぞ。」

 

いつものローポニーテールになった秋山さんの返事を耳にして、夏目さんはこくりと頷きつつプールがバックになる位置へと移動した。そこに二人が並んだのを確認してから、録画ボタンを押したビデオカメラを向けてみれば……夏目さんが毎度お馴染みの台詞で動画をスタートさせる。

 

「どうも、さくどんです! そして隣に居るのは──」

 

「ごきげんよう、さくどんチャンネルの諸君! 雪丸スタジオの雪丸です。」

 

「というわけで、今回は雪丸さんとの対決企画の続きになります! ……でもでもこの動画から見てる人はぽかーんってなっちゃうかもですから、軽くだけ前回までの流れを説明しますね。」

 

まあ、そうすべきだろう。秋山さんから合いの手をもらいつつ、夏目さんは企画全体の説明やゲーム対決動画への誘導を行っていくが……こうして見ると相性が良い気がするぞ。両者共に慣れているというのも勿論あるんだろうけど、柔らかくて丁寧な夏目さんと、鋭くて勢いがある秋山さんの二人が揃うとトークにメリハリが付くな。

 

モノクロシスターズしかり、この二人しかり、ある程度対照的な存在が横に居ると互いの魅力が引き立つらしい。対して同系統の人同士だと元々の雰囲気に拍車が掛かるのだろうし、コラボレーション動画というのはやはり面白いな。組み合わせ次第で動画の色がガラリと変わりそうだぞ。

 

現状の日本ライフストリームではコラボ動画がまだあまり一般的ではないけど、これは今後力を入れていくべき部分なのかもしれない。会社に戻ったら香月社長と本格的に話し合ってみよう。……どうせならお盆休みにでも外国の動画を研究してみるか。向こうではライフストリーマー同士がコラボすることがちらほらとあるようだし、構成や撮り方を学ばせてもらわねば。

 

───

 

「ぷぁ。……あれ、負け? 私、負けました? うあー、負けちゃいましたか。」

 

そして撮影開始から四十分ほどが経過した現在。俺はゴールにタッチした後で嘆いている夏目さんのことを、プールサイドから撮影していた。今回の勝負も接戦だったな。秋山さんがやけに自信満々だったから、最後の自由形にまで決着がもつれ込むとは思わなかったぞ。

 

プールの中で悔しそうに項垂れる夏目さんへと、隣のコースで疲れ果てた面持ちになっている秋山さんが応答する。彼女がタッチして顔を上げた瞬間に夏目さんがゴールしていたので、一秒そこらの僅差で決着が付いたことになるな。ちょっとホッとしたぞ。夏目さんがあと一秒速かったら、対決企画は二本先取で終了してしまっていたのだから。

 

「私の勝ちですね、さくどんさん。……貴女、物凄く速いじゃありませんか。負けるかと思ってひやひやしましたよ。」

 

「私もちょっとだけ『勝っちゃったらどうしよう』と思ったんですけど、ライフストリーマーらしく真剣勝負で挑みました。……あー、悔しいです! かなり僅差でしたよね?」

 

ランナーズハイならぬスイマーズハイで声が大きくなっている夏目さんが、カメラに……というか審判役たる俺に尋ねてきたのに、なるべく短く回答した。俺の声が入るのはあまり良くないけど、ここは答えておくべきだろう。今までだって稀にあったことだし、テロップの括弧書きで『スタッフ』と入れれば大丈夫なはずだ。

 

「一秒あるかないかの差でした。」

 

「えぇ、そんなに惜しかったんですか。……まあでも、負けは負けですね。水泳対決は三対二で雪丸さんの勝利です!」

 

「この水着で、途中からスイムキャップまで被ってギリギリの勝利でしたが……これで対決そのものは振り出しに戻りましたね。次も勝たせていただきますよ。」

 

夏目さんはハイテンションだが、秋山さんはスタート前よりもむしろ低くなっているな。俺が思っている以上に疲れているのかもしれない。クロールとバタフライで秋山さんが勝ち、平泳ぎと背泳ぎで夏目さんが勝っていたからプレッシャーが大きかったのだろう。

 

ちなみにこのプールは水泳帽無しで泳いでもオーケーだということで、動画の見栄えを重視して最初は二人とも被らずにやっていたのだが、後が無くなった秋山さんが四本目のバタフライ勝負から着け始めたのだ。……どちらもキャップ有りかつ競泳水着だったら、夏目さんが勝っていたかもしれないな。タイムからするに秋山さんも充分に速いわけだし、夏目さんは当人の認識以上に水泳が得意だったらしい。

 

秋山さんのキャップを脱ぎながらの発言に、プールから出た夏目さんが返答を返す。……二人とも化粧落ちなんか一切気にしていないのは、やっぱり若さなんだろうな。落ちるどころかそもそも化粧をしていないようだし、ここまでの全力水泳勝負は今しか撮れない映像だったのかもしれない。

 

「私だって負けるつもりはありません。次の勝負も頑張ります! ……それじゃあ、早速最後のお題を決めましょう。抽選タイムです!」

 

夏目さんがプールサイドに置いてあった白いタオルで手を拭きつつ、隅のベンチに用意しておいた抽選箱を取りに行っているが……秋山さんは上がらないのか? 何故か彼女はプールの中で浮かんだままだ。打ち合わせでは彼女が抽選することになっていたはずだぞ。

 

秋山さんの様子を怪訝に思っていると、箱を持ってきた夏目さんが小首を傾げて問いを口にする。彼女も疑問に感じているらしい。

 

「えと、今回も雪丸さんが引くんですよね? 次の対決は雪丸さんの『主催』なわけですし。」

 

「そういう予定でしたが、思い直しましてね。ゲーム対決では敗者たる私が引いたでしょう? ならば今回はさくどんさんが引くべきですよ。どうぞ、次のお題を決定してください。私は勝者の特権としてここから見物させていただきます。」

 

「そ、そうですか? そういうことなら……はい、私が引かせてもらいますね。」

 

思い直したのか。まあうん、勝者の特権に関してはいまいちピンと来ないものの、敗者が次のテーマを決めるというのは分からない話じゃないな。一本目のお題を夏目さんが、二本目を秋山さんが決めたのだから、順番的にはそっちの方が自然なのかもしれない。

 

いきなり予定を変えてきたコラボ相手に流される形で、よく振った抽選箱に手を入れた夏目さんは……中から引き当てた一枚の紙をカメラに示してきた。

 

「えっと、最後の対決のお題は……じゃじゃん、『お弁当』です! 三連続で私が書いたやつになっちゃいましたね。」

 

「おや、私はどうも運がないようですね。つまりは料理対決ですか。……まあ、それもそれで燃えてきますよ。さくどんさんの得意分野なればこそ、私の勝利が際立つというものです。お弁当勝負、受けて立ちましょう!」

 

「さくどんチャンネル的に料理で負けちゃうのはマズいですし、私としても絶対に負けられないお題です。ここは得意分野で勝たせてもらいます!」

 

二人が熱く抱負を語ったところで、夏目さんが締めに入ろうとするが……それでも出ないのか。秋山さんはプールに入ったままで終わらせたいらしい。高低差があって撮り難いぞ。

 

「……あの、雪丸さん? このまま締めちゃって大丈夫ですか?」

 

「締めはさくどんさんにお任せしますよ。合わせますから、ご自由にどうぞ。」

 

「あー……はい、分かりました。立ち位置、ここで二人とも入りますか?」

 

「問題ありません。」

 

ここは編集で切りそうだな。完全に動画外の話し方で聞いてきた夏目さんに、小さく首肯しつつ応じてやれば、彼女は気を取り直すように深呼吸してからカメラに向けて口を開く。

 

「そんなわけで、次の勝負が対決企画の最終決戦になります! お弁当対決の動画は雪丸スタジオの方で上げる予定ですから、さくどんチャンネルのリスナーさんたちも、雪丸スタジオの皆さんも私たちの対決を見届けてくださいね。多分ですけど、この動画がアップされた次の日に上がるはずです。」

 

「応援よろしく頼みますよ、諸君!」

 

「ではでは、今日もさくどんチャンネルの動画を見てくださってありがとうございました。もし良ければ他の動画も見ていってくれたら嬉しいです。それじゃあ、ばいばいっ。……必ず勝ちます。」

 

最後に笑顔でグッと拳を握って一言付け足した夏目さんは、数秒空けてからカットを知らせてきた。

 

「オッケーです。お疲れ様でした。」

 

「お疲れ様でした、さくどんさん。良い撮影になったと思いますよ。」

 

「お二人とも、お疲れ様でした。片付けは私がやっておきますから、シャワーと着替えをどうぞ。」

 

貸し切りの時間にはまだ余裕があるわけだし、片付けはそこまで急いでやらなくてもよさそうだ。俺一人で平気だろう。カメラを下ろして夏目さんにタオルを渡しながら言ってやれば、未だプールの中の秋山さんが謎の要求を場に放つ。

 

「折角ですから、私はそっちの専用更衣室を使わせていただきます。さくどんさん、私の着替えと荷物を運んできてくれませんか? ロッカーの鍵はそこにある私のタオルの下に置いてありますから。」

 

「へ? 私がですか?」

 

「勝者の気分をもう少しだけ味わわせてくださいよ。ちょっとした罰ゲームってところです。」

 

「あの、はい。分かりました。持ってきますね。」

 

相変わらず奇妙なことを言い出す人だな。身体を拭きながらちょびっとだけ腑に落ちていない顔付きになっている夏目さんが、それでもこっくり頷いて女性用更衣室に入っていった後で……秋山さんが俺を手招きしてくる。今度はどうしたんだ?

 

「……駒場さん、来てください。」

 

「どうしました?」

 

プールに歩み寄って質問してみれば、秋山さんは俺を見上げながら報告を寄越してきた。バツの悪そうな面持ちで、物凄い『重大報告』をだ。

 

「……何と言えばいいか、脚に異常が発生しているようでして。太ももが尋常ではないくらいに痛いんです。」

 

「……はい?」

 

「プールから自力で上がれそうにないので、引っ張ってくれませんか? ちょっと泣きそうになるレベルの痛みなんですよ。さっきのゴール直後に痛み出して、どんどん強くなってきています。」

 

「……つまり、怪我をしたということですか?」

 

恐る恐る問いかけた俺へと、秋山さんは気まずげな声色で肯定してくる。だから頑なにプールから上がろうとしなかったのか。どうして黙っていたんだ。

 

「間違いなくしていますね。何せ今の私は、これまでの人生で五指に入るような痛みを感じていますから。痛さのジャンルこそ違いますが、強さ的には子供の頃にした骨折の苦痛を思い出します。こうして冷静に喋っていますけど、心の中は痛さと焦りで大混乱中です。」

 

「いやいや、大変じゃないですか。施設のスタッフさんを呼んで──」

 

「それはダメです。誰にも言わないでください。特にさくどんさんには。」

 

「……何故ですか?」

 

骨折と同レベルの痛みとなれば、確実に大怪我じゃないか。担架とかを用意してもらうべきだぞ。こっちもこっちで焦りながら尋ねた俺に、秋山さんは渋い表情で理由を語ってきた。

 

「……だってこんなの、『イベントではしゃぎ過ぎて怪我をするヤツ』みたいじゃありませんか。さくどんさんにだけはそう思われたくないんです。」

 

「しかしですね、何かあったら大変ですよ。自力で上がれないほどとなると、すぐ病院に行く必要が──」

 

「駒場さん、お願いします。面倒なヤツだと思われたくないんです。撮影の後味も悪くなってしまいますし、さくどんさんには内緒にしてください。いつの日か今日の撮影を思い返した時、『そういえばこいつ、怪我をして周囲に迷惑をかけたな』と白い目で見られるのだけは絶対に、絶対に嫌なんですよ。」

 

秋山さんがかなり真剣な顔で頼んできたタイミングで、彼女の着替えと荷物を両手で抱えた夏目さんがプールサイドに戻ってくる。そんなに嫌なのか。そこまで言うなら、俺としても協力したいけど……でも病院には行くべきだぞ。なるべく早くだ。

 

「雪丸さん、持ってきました。」

 

「ありがとうございます、さくどんさん。そこに置いておいてください。」

 

「はい。……じゃあえっと、片付けを手伝いますね。」

 

「いえ、私がやりますからさくどんさんは着替えてください。カメラと三脚を回収するだけなので一人で平気ですよ。」

 

とりあえず話を合わせて着替えを促してやると、夏目さんは素直に更衣室へと入っていくが……どうしよう、これ。どうすればいいんだ?

 

「そうですか? なら、お願いします。パパッと着替えてきますね。」

 

「ゆっくりで大丈夫ですよ。ロビーで落ち合いましょう。」

 

夏目さんの背に声を飛ばした後で、プールの中の秋山さんに向き直ると……彼女は無言で両手をこちらに伸ばしてきた。引っ張れということか。

 

「待ってください、秋山さん。痛むのはどっちの太ももですか?」

 

「左ですね。底に足が当たるだけでも痛いです。」

 

「となると、肉離れかもしれません。……どうしても他の人を呼ぶのはダメですか?」

 

「どうしてもダメです。……駒場さん、ここは私の気持ちを汲んでくれませんか? 大事になればさくどんさんに気付かれてしまいます。私は彼女にだけは嫌われたくないんですよ。友人としての頼みです。二人だけで処理させてください。」

 

縋るような表情で懇願してくる秋山さんに、困り果てた気分で返事を口にする。夏目さんをライバルとして認めているからこその発言なのだろう。要するに、格好の悪いところを見せたくないわけか。痩せ我慢ってやつだな。

 

「さくどんさんはそんなことで面倒くさいと思ったり、嫌ったりはしない人ですよ?」

 

「それでも嫌なんです。……分かってもらえませんか? この気持ち。せめて彼女に抜かれるその日までは、完全無欠の『カッコいい雪丸』で居たいんですよ。さくどんさんには情けない姿を見せるわけにはいきません。」

 

「……分かりました。気持ちは何となく理解できますし、そういうことなら二人だけでどうにかしてみましょう。脇を持って慎重に持ち上げるので、痛かったら言ってください。」

 

「……感謝します、駒場さん。」

 

そうまで言われたらもう仕方がない。付き合うぞ。誰かに対して格好を付けたい気持ちはよく分かるさ。ホッとしたようにお礼を送ってきた秋山さんを、しゃがんで持ち上げてみれば……痛むのか。彼女は呻きながら何とかプール際に浅く腰掛けた後、弱り切った声色で話しかけてきた。

 

「……これはまた、水から出ると思っていたよりも痛いですね。不安になってきました。肉離れというのはこんなに痛いんですか?」

 

「私はなったことがありませんし、そもそも肉離れかどうかも断定できませんが、重度のやつだとかなり痛むらしいです。中学の頃に運動部の友人がなって、次の日松葉杖を突いて登校してきていました。……肩を貸せば歩けそうですか?」

 

「厳しい気がしますが、そうする他ないでしょうね。自分が言い出したんですから、どうにかやってみせますよ。」

 

「……背負った方が楽かもしれません。どうぞ、負ぶさってください。痛む箇所には手を触れないように更衣室まで運びますから。」

 

しゃがんだままで背中を向けた俺へと、秋山さんは小さな声で警告を投げてくる。触ると痛いだろうから、横抱きにするよりは背負った方がマシなはずだ。

 

「……服が濡れますよ?」

 

「そんなの大したことじゃありませんよ。水なんだから乾かせばいいだけです。今は秋山さんの身体を優先すべきでしょう? ……ちょっと無理な背負い方になりそうなので、首に強めにしがみ付いてください。更衣室までなら何とか運べると思います。」

 

「……ありがとうございます。」

 

弱々しい口調で感謝を述べた秋山さんは、呻き声を漏らしながら俺に負ぶさってきた。いつもの彼女からは想像できないような声色だし、余程に痛いらしい。揺らさないように慎重に運ばなければ。

 

「……すみませんが、太ももを触れないとなるとお尻の辺りを持つことになりそうです。構いませんか?」

 

「そんなことで文句を言える立場じゃありませんし、駒場さんが背負い易いようにしてください。緊急時なんだからどこを触ってもいいですよ。……つくづく律儀な人ですね、貴方は。」

 

「まああの、可能な限り気を使って持ちます。……では、いきますね。」

 

背中が濡れる感覚と、全体重を預けてくる秋山さんの柔らかい重さを感じつつ、ゆっくりゆっくりプールサイドの隅にある男女共用の専用更衣室まで移動していく。既に手がズレてきて変なところを触っている気がするし、傍から見れば相当間抜けな背負い方なんだろうが……今の俺は落とさないように必死でそれどころじゃないぞ。『おんぶ』というのは片方の太ももを持てないと非常に難しくなるらしい。一つ勉強になったな。

 

「ちょっとだけ持ち直しますね。このままだとずり落ちそうなので。」

 

「どうぞ。……ひぁ。」

 

「……痛かったですか?」

 

「いえ、そうではなくて……何でもありません。気にしないでください。」

 

奇妙な声を上げた秋山さんの吐息を首に受けつつ、手から伝わってくる水着と肌の境目の感触を無視しながら進んでいって、ようやく到着したスライド式のドアを肩で開けてみれば……これは助かるぞ。バリアフリーの小さなロッカールームが目に入ってくる。

 

そういえばジムのホームページに、特別支援学校等へのプールの貸し出しには割り引きが利くと書いてあったな。そういった需要もきちんと見越してこの更衣室を作ったわけか。自前のプールが無い学校が、課外授業とかに使ったりするのだろう。

 

「ゆっくり降ろしますね。」

 

「お願いします。……この座り方なら大丈夫そうです。タオルと着替えを持ってきていただけますか?」

 

「分かりました、任せてください。」

 

ジムの姿勢に感謝しながら部屋の中央のクッション付きベンチに秋山さんを降ろして、プールサイドに戻って彼女の着替えを回収するが……一人で着替えられるんだろうか? 裸を見られるのはさすがに嫌だろうし、こっちとしても気が引けるぞ。

 

「秋山さん、一人で着替えられそうですか?」

 

心配しながら更衣室に再入室して聞いてみれば、ベンチの上の秋山さんは苦い笑みで応答してきた。

 

「上半身は普通に動くので、着替えは可能なはずです。……重ね重ねすみませんが、足だけ拭いてもらえませんか? 他は自分で出来ますから。」

 

「了解です、なるべく優しく拭きますね。」

 

ベンチに着替えを置いた後で更衣室にあったタオルを手に取って、秋山さんの脚の水滴を丁寧に拭っていく。近くで見るとやけに白くて細い脚だな。『女性の脚部を拭く』というのは滅多にある状況じゃないし、何だか緊張してくるぞ。

 

「……シャワーはどうしますか? 手摺りがあるので、浴びられないことはないと思いますが。」

 

俺が足の裏を拭く度にぴくぴくと小さく震えている秋山さんに問いかけてみると、彼女は首を横に振ってから口を開く。今拭いているのは右足だし、痛くて震えているわけではないはずだ。擽ったいのかな?

 

「時間をかければいけるかもしれませんが、貴方と私が長く戻らないとさくどんさんに怪しまれるでしょう。なのでシャワーは諦めます。……それと、駒場さん。そこは自分で手が届くので、膝から下だけで充分です。」

 

「あーっと、失礼しました。」

 

右の太ももを丹念に拭いている俺へと、秋山さんが僅かにだけ赤い顔で注意してきたのに軽く謝ってから、左足も拭いて立ち上がる。……問題はここからだな。本当に着替えられるのか?

 

「では、私は外に出ておきます。……扉の前で待機しておくので、何かあったら呼んでくださいね。」

 

「大丈夫ですよ、一人で出来ます。それより機材の片付けをやっておいてください。さくどんさんが様子を見に戻ってきてしまうとマズいですし、時間短縮のためにも並行してやっていきましょう。」

 

秋山さんの冷静な指示を背に更衣室から出て、ドアをしっかりと閉めた後で機材の片付けを始めるが……『片付け』と言ってもまあ、プールサイドにあるカメラと三脚を一箇所に集めるだけだ。こんなのすぐに終わってしまうぞ。

 

男性用更衣室に続くドアの近くに荷物を纏めてから、念のため忘れ物がないかプールサイドを一周してチェックして、専用更衣室の前に戻ってきてみれば……中からガタンという大きめの物音と、秋山さんの声が響いてきた。思わず出した感じの変な声がだ。

 

「なぅっ!」

 

「……秋山さん? 大丈夫ですか?」

 

「……だ、大丈夫ですよ。問題ありません。平気です。」

 

ドア越しに三連発で無事を知らせてきた秋山さんは、暫く無言でガタガタという物音を立てていたかと思えば……やがてこちらに改めて呼びかけてくる。かなり情けなさそうな声色でだ。

 

「……駒場さん、入ってきてもらえますか?」

 

「……いいんですか?」

 

「構いません、入ってください。」

 

一応再確認した後で、着替えが終わったのかなと考えながらドアを抜けてみると……えぇ、どういう状況なんだ? ベンチの下の床に仰向けに倒れている秋山さんが視界に映った。しかも下半身は下着のままでだ。上半身にはちゃんとシャンブレーシャツを着ているから、上を着てパンツを穿いた時点で何らかのトラブルに見舞われたらしい。

 

オレンジ色の下着を丸出しにして諦観の半笑いを浮かべている秋山さんは、目を逸らしている俺に疲れ果てた声で依頼を送ってくる。

 

「……私を起こして、ジーンズを穿かせてくれませんか? せめてもの尊厳を守るためにパンツだけは意地で穿きましたが、ズボンはもう無理です。変な体勢で穿こうとして椅子から落ちてしまいましたし、あまりにも痛すぎてお手上げですよ。全てを諦めました。穿かせてください。」

 

「あー……では先ず、起こしますね。」

 

「お願いします。」

 

頑張ったけど、無理だったわけか。何とも悲しい白旗宣言だな。腕で顔を覆いながら呟く秋山さんに従って、横たわっている彼女に近付いて脇に手を差し込む。そのまま引き上げる形で慎重にベンチの上に座らせた後、近くに落ちていたジーンズを穿かせ始めた。結構硬めのジーンズだし、『本物』であることが徒になったらしい。これは穿き難いだろう。

 

「痛かったら教えてください。……なるべく見ないように穿かせますから。」

 

「もうどこをどれだけ見られたところで変わりませんし、好きにしてください。痛さと情けなさで泣きそうです。さくどんさんとの企画で怪我をして、駒場さんに迷惑をかけまくった挙句、幼児よろしくズボンを穿かせてもらうことになるとは……今朝ウキウキで家を出たのが遠い過去に思えます。あの頃の私は幸せでした。」

 

うーむ、落ち込んでいるな。ジーンズを太ももまで上げつつ何と言葉をかけるべきかと迷っていると、秋山さんは自嘲するような薄笑いで思い出話を語り出す。

 

「私という女はいつもこうなんですよ。毎回毎回皆が盛り上がっている時に限って事件を起こして、周囲から煙たがられるんです。……小学校の林間学校では高所から得意げに飛び降りて右足を骨折。運動会では張り切りすぎて派手に転んで保健室送り。中一のクラス親睦会では具合が悪いことを誰にも言えずに嘔吐。中二の合唱コンクールでは指揮者に立候補しておいて当日盲腸で入院。」

 

ジーンズを穿かせた俺へと己の『失敗』を列挙した秋山さんは、ジッパーを上げながら尚もそれを継続してくる。まだあるのか。もうお腹いっぱいだぞ。……もしかするとそういう出来事が原因で人から嫌われた経験があるから、あれほど頑なに夏目さんに知られることを拒絶していたのかもしれないな。

 

「そして中学の卒業式では卒業証書を受け取った直後、ステージから降壇するための階段を踏み外して盛大に流血。高校の文化祭ではボヤ騒ぎを起こし、修学旅行では一日目に高熱を出してずっとホテルで療養。……失敗談を挙げようと思えばまだまだあります。私はそういうタイミングの悪い、間抜けで迷惑な女なんですよ。面倒くさいのは話の内容だけではないんです。幻滅したでしょう? 友達をやめたくなったなら言ってください。私だったらこんな女と付き合うのは御免ですし、別に怒りませんから。」

 

どんよりした雰囲気で話す秋山さんに、苦笑いで返事を飛ばした。そういった逸話は誰しもが一つや二つは持っているものだが……まあ、そこまでバリエーションが豊富なのは珍しいな。

 

「あのですね、こんなことで友達をやめたりはしませんよ。迷惑をかけたりかけられたりしても、後で思い返して笑い話に出来るのが友人というものでしょう?」

 

「……そういうものなんですか?」

 

「確かに今の秋山さんは情けなくて、迷惑で、面倒ですが……それに付き合ってこその友達ですよ。私だってつまらない意地に友人を付き合わせたことがありますし、バカバカしい失敗の埋め合わせを手伝ってもらったこともあります。嫌だ嫌だと文句を言いながら、皆最後には仕方がないなと手を貸してくれました。今では酒の席の笑い話です。」

 

「……しかし、私と駒場さんはまだ友人になったばかりですよ? 貴方にとって手助けに値する人間だとは思えません。」

 

不安そうに言ってくる秋山さんへと、肩を竦めて返答する。明るい笑顔でだ。

 

「でも、私たちは握手をしたでしょう? それなら充分理由になるんです。友情の切っ掛けなんて得てして些細なものですよ。小さな切っ掛けで繋がった仲が、今日みたいな体験を経て深まっていくわけなんですから。……弱いところを見せたり、寄りかかったり、問題を預けたりしてください。秋山さんがそうやって頼ってくれるなら、私は友人として仕方がないなと苦笑いで支えてみせます。」

 

「苦笑いで、ですか。」

 

「実際、秋山さんがさくどんさんに対して格好を付けたい気持ちは分かりますしね。私もまあ、好きな人や尊敬する人の前で強がったり痩せ我慢をした覚えがあります。コラボ相手のマネージャーとしては早く病院に行ってもらいたいところですが、友人として頼まれた以上は最後まで付き合いますよ。私は貴女の友達なんですから、当たり前のことじゃありませんか。」

 

「……なるほど。」

 

ポツリと端的に応じた秋山さんは、ちらりと俺を見た後で視線を右の方に逸らしていったかと思えば……ほんの少しだけ赤い顔で要望を寄越してきた。裸足の右足を俺の方に伸ばしながらだ。

 

「なら、靴下も履かせてください。……駒場さんがそう言うのであれば、今回は存分に頼らせてもらいます。その代わり貴方が窮地に陥ったら、今度は私が全力で助けますよ。つまりはそういうことなんでしょう?」

 

「ええ、その時は苦笑いで助けてください。秋山さんなら頼りになりそうです。」

 

「……深雪でいいですよ。名字で呼び合うのは友達っぽくありませんからね。私も駒場さんではなく、『瑞稀さん』と呼ぶことにします。」

 

「……では、『深雪さん』で。」

 

あらぬ方向に目をやりつつ呼び方を変えてきた秋山さん……深雪さんに首肯してから、彼女の足に靴下を履かせていく。若干気恥ずかしいけど、折角提案してくれたのだから素直に改めておこう。

 

「これで着替えは完了ですね。……今ふと思い付いてしまったので言いますけど、よく拭けば水着の上から服を着られたんじゃないでしょうか?」

 

「……なるほど、素晴らしいアイディアです。思い付いたタイミング以外はですが。」

 

「まあはい、今更ですね。思い付かなかったことにしてしまいましょう。……ここからどうしますか?」

 

名案というのはいつも遅れて登場するな。二人して苦い表情になった後で尋ねた俺へと、深雪さんは一つ咳払いをしてから答えてきた。微妙に視線を外したままでだ。……『友情確認』に照れているんだろうか? 俺まで恥ずかしくなってくるからやめて欲しいぞ。

 

「さくどんさんをどこかに降ろして、一度戻ってくるのは可能ですか? この足でクラッチ操作が出来るとは思えませんし、となれば私は独力で病院に向かえません。駒場さん……ではなく、瑞稀さんに運転してもらう必要があります。」

 

「それなら忘れ物をしたことにして戻ってきます。カフェかどこかに降ろせば大丈夫でしょう。……ですが、その後はどうします?」

 

「私が病院に居る間に、さくどんさんを東京まで送り届けてください。そして電車か何かで病院に戻り、私の車で再び東京に移動するんです。……非常に面倒なことをやらせようとしている自覚はありますし、かなり申し訳ないとも思っています。その上で言いますが、頼めませんか?」

 

「……最後まで付き合うと言ったからには、何があろうとやり切りますよ。悪くない案に思えますし、その作戦でいきましょう。」

 

やってやるさ。こうなったら俺としても意地だ。とことん付き合ってみせるぞ。気合を入れながら立ち上がって、とりあえず深雪さんの水着やタオルを回収していると……ベンチの上の参謀どのが気まずげに『問題』を知らせてくる。

 

「……瑞稀さん、その前に私たちはプールから出る方法を考えなければならないようです。私は貴方に支えてもらわないと動けませんが、しかし二人では女子更衣室も男子更衣室も通れません。中々厳しい問題ですよ、これは。」

 

ああ、そうか。それもあったな。どちらかを通らなければプールから出られないんだった。解決策を見出せなくて停止している俺に、深雪さんはフッと笑って追加の問題を告げてくる。今までにも何度か目にした笑い方だけど……ひょっとしてそれ、何かを誤魔化す時の笑みなのか?

 

「あと、痛みが更に強くなってきました。いよいよ不安です。まさか歩けなくなったりはしませんよね? そうなったらあまりにも間抜けすぎるんですが。」

 

「……急ぎましょう。何とかしますから。」

 

深まった友情と、積み重なる問題。それらのことを思案しつつ、深雪さんの『痩せ我慢の笑み』を見て痛む額を押さえるのだった。……何れにせよ、医者からは何故早く来なかったのかと怒られるだろうな。そこだけは確信を持てるぞ。

 



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Ⅲ.雪丸 ⑪

 

 

「えぇ? 雪丸さん、足を怪我したんですか?」

 

世間はお盆休み真っ只中の、八月十五日の昼過ぎ。俺と夏目さんはホワイトノーツの事務所内で、松葉杖を突いている深雪さんを出迎えていた。驚いているようだな。そりゃあそうだろう。夏目さんからすれば僅か四日前に水泳対決をした相手が、いきなり松葉杖生活に突入しているわけなんだから。

 

要するにまあ、俺たちは事務所で『お弁当対決』の撮影をしようとしているのだ。当初はお盆が明けてから撮る予定だったのだが、夏休み中に出すなら早ければ早いほど良いということで、夏目さんと深雪さんでメールのやり取りをした結果今日の撮影になったらしい。

 

ちなみに現在事務所に居るのは俺たちだけだ。香月社長と由香利さんは十六日までのお盆休みに入っているし、モノクロシスターズの二人も来ていない。本来夏目さんは自分の家か深雪さんの家で撮るつもりだったようなのだが、どうせ事務所も俺のスケジュールも空いているからと提案してみたところ……まあ、こういう状況に繋がったわけだな。

 

夏目さんは『あれだけ休んで欲しいって言ったそばからすみません』と謝っていたけど、暇を持て余しそうだったからむしろ助かったぞ。開いたドアから響いてくるセミの大合唱を耳にしつつ思考していると、室内に入ってきた深雪さんが応答する。左手で松葉杖を突いている今日の彼女は、シャツとスラックスに加えてややカジュアルめなベストという装いだ。変な帽子も被っていないし、普通にカッコいい雰囲気だな。もちろん松葉杖を除けばだが。

 

「ごきげんよう、さくどんさん、駒場さん。この足は水泳対決の日の夜、階段を踏み外して痛めてしまったんです。大した怪我ではないので心配しないでください。」

 

「……まさか、撮影が原因ですか?」

 

「いえ、一切関係ありません。プライベートで生じた怪我です。」

 

しれっと言っている深雪さんだが……まあうん、大嘘だな。全体的に嘘だ。ダイレクトに水泳対決が原因だし、彼女が負ったのは『大した怪我』だったのだから。予想通り重度の肉離れで、段階的なリハビリが必要らしい。

 

あの日はもう、本当に大変だったぞ。人が居ない隙を狙って男性用更衣室経由で深雪さんを連れ出して、まともに動けない状態で何とか夏目さんとの別れを済ませたのだ。傍目には余裕綽々の態度で壁に背を預けていたわけだが、後の当人曰く痛すぎて崩れ落ちそうだったんだとか。気の抜けてくる話じゃないか。

 

そして帰り道の途中で忘れ物をしたと偽って夏目さんをファミリーレストランに一度降ろし、スポーツジムに戻って深雪さんを回収して大急ぎで病院に連れて行った後、再び夏目さんを拾って東京まで送り届けてから、電車で茨城にとんぼ返りしたわけだ。我ながらミステリー小説のアリバイ作りみたいな行動だったな。

 

その後ジムの駐車場に置かせてもらっていた深雪さんの車に乗って、彼女を迎えにつくば市内の病院に行き、そのまま再度東京まで移動したのだが……久々にマニュアル車の運転が出来たことだけは、唯一ラッキーと思える点だったぞ。『車欲』を刺激されてしまったし、本格的に新車購入を考えるべきかもしれない。

 

俺が四日前の大騒動を思い返している間にも、夏目さんがホッとしたように言葉を放った。撮影が原因ではないと聞いて安心したのだろう。少なくともそういう意味においては、深雪さんの痩せ我慢は無駄にならなかったらしい。

 

「それなら良かったです。……いやあの、良くはないですね。怪我しちゃったんですから。すみません。」

 

「怪我自体は不運ですが、水泳対決を撮り終えた後だったのは紛れもない幸運ですよ。おまけに今回の対決は動かなくて済む内容ですし、総合的に見れば『良かった』と言えるんじゃないでしょうか。」

 

「……そうですかね?」

 

「そうなんですよ、さくどんさん。この私が言うんだから間違いありません。……では、早速撮影を始めましょうか。」

 

強引に纏めた深雪さんは、カツカツと松葉杖を突きながら撮影部屋の方へと歩いていく。今日の撮影はそこまで長くかからないはずだ。何せ対決のテーマである『お弁当』は既に完成しているのだから。

 

事前に各々が弁当を作るシーンを撮影した上で、完成したそれをこの場で披露し合うという構成らしいのだが……深雪さん、大丈夫なんだろうか? 午前中に夏目家で夏目さんが調理するところを撮った俺としては、一方的な展開になりそうな予感がしてならないぞ。

 

そこはかとない不安を感じている俺を尻目に、彼女が来る前に準備を整えておいた撮影部屋に入室した深雪さんは、部屋の中央の応接用テーブルにリュックを下ろして物を出し始めた。先に載っていた風呂敷に包まれた『大きな何か』を目にして、フッと笑いながらだ。誤魔化しの笑みだな。一見してもう『ヤバい』と思ったのかもしれない。

 

「……それがさくどんさんの弁当ですか?」

 

「あっ、はい。そうです。……あとあの、調理シーンの撮影データを忘れないうちに渡しておきますね。一応料理動画の時の雰囲気で撮ってみました。」

 

「ありがたく使わせていただきます。丁寧に編集することをお約束しますよ。……ちなみに私の弁当はこれです。」

 

SDカードの受け渡しの直後、深雪さんがリュックから己の弁当を取り出すが……うーむ、絶望的な戦力差だな。夏目さんの弁当が重箱サイズなのに対して、深雪さんの黄色いランチクロスに包まれている弁当は何とも可愛らしい大きさだ。肝心要の中身はまだ見えていないものの、量では早くも決着が付いてしまったらしい。

 

どこか怯んでいるように自分の手札を晒した深雪さんへと、テーブルの手前のソファに腰掛けた夏目さんがおずおずと質問を送る。前髪を軽く整えながらだ。

 

「えと、座った状態からスタートした方がいいですよね? ソファが二台並ぶと画面が広がりすぎるかなって思ったんですけど、もし狭いならもう一台も持ってきます。どうしましょう?」

 

「一台で問題ありませんよ。この配置で文句無しです。……駒場さん、カメラをお願いできますか?」

 

「了解です、荷物も預かりますね。」

 

「杖も横に置いておいてください。座っている分には必要ありませんから。」

 

相変わらずサクサク進むな。雑談タイムは無しで、本当にすぐ撮影に入るらしい。ビデオカメラとリュックと松葉杖を受け取って、荷物をモノクロシスターズの机に置かせてもらった後、杖を近くの壁に立て掛けてカメラを起動させていると……夏目さんの隣に腰を下ろした深雪さんが呼びかけてきた。

 

「雪丸スタジオの始め方でいきたいんですが、駒場さんは知っていますか?」

 

「勿論です。カウントですよね?」

 

「さすがですね、ご存知でしたか。それで始めて『雪丸です』と言った後にさくどんさんを紹介するので、ちょうど良いタイミングで後ろに引いてください。そこからは……まあ、お任せしますよ。貴方なら大丈夫でしょう。信頼させていただきます。」

 

「なら、応えてみせます。……オーケーです、いつでもどうぞ。」

 

俺たちの会話を眺めている夏目さんが少し怪訝そうな顔になっている中、それに気付いていない深雪さんがカメラのレンズを伸ばした手で覆う。ちょっと怪しまれてしまったようだ。距離感が近すぎたかな? ……というかもうこれ、白状すべきだと思うんだが。何だか後ろめたくなってくるぞ。

 

真っ暗なカメラのモニターを見つめながら眉根を寄せていると、深雪さんが独特な合図で動画をスタートさせた。まあ、その辺は撮影が終わったら相談してみよう。今はカメラ役に集中すべきだな。

 

「ワン、ツー、スリー、フォー……ごきげんよう、諸君。雪丸です。」

 

楽曲の入りのような一定のテンポでカウントをした後、レンズから手を外して挨拶した深雪さんは、夏目さんの方を示しながら続けてくる。これが雪丸スタジオの『いつもの始まり方』なのだ。シンプルかつ個性があって面白いと思うぞ。

 

「そしてこちらは──」

 

「どうも、さくどんです! よろしくお願いします。」

 

「要するに、対決企画の最終決戦ですね。この段階で私が何を言っているのかさっぱり理解できない方、こいつは急にどこで撮影しているのかと戸惑っている方、さくどんさんが誰なのかが分からない方たちは、概要欄にあるこれまでの対決を先に見ることをお勧めします。でなければ私とさくどんさんが『弁当バトル』をしている光景は意味不明でしょうし、恐らくあまり盛り上がれませんから。」

 

尤もなことを冷静な口調で説明すると、深雪さんはニヤリと笑いながら夏目さんに話を振った。

 

「というわけで、煩雑な説明は省かせていただきますが……さくどんさん、自信のほどは如何ですか?」

 

「……正直、ちょっとありますね。サイズ感でもう勝ってますから。雪丸スタジオのリスナーさんたちには悪いですけど、今回の勝負は勝たせてもらいます!」

 

目の前にある巨大な弁当をぽんぽんと叩いて勝利宣言した夏目さんに、深雪さんは強気な笑みのままで応じる。彼女も自信はあるようだ。あるいは単に強がっているだけかもしれないが。

 

「弁当とは量ではなく、質ですよ。巨大な海苔弁よりも小さな栗おこわの方が嬉しいものです。今日はさくどんさんにそれを教えてあげましょう。」

 

「そういうことなら……雪丸さん、少しだけ待っててください。私の本気を見せますから。」

 

「……『本気』?」

 

疑問げな声色で問い返した深雪さんに答えることなく、立ち上がった夏目さんは画角の外……つまり事務所スペースの方へと歩き去っていく。そう、夏目さんの弁当はまだ最終形態ではないのだ。追加の合体パーツを残しているぞ。

 

「嫌な予感がしてきましたね。どうやらさくどんさんは、ちょっとしたサプライズを用意してくれたようです。これは私も聞かされていない……なるほど、そう来ましたか。」

 

場繋ぎのトークの途中で戻ってきたコラボ相手が持っている物を見て、深雪さんは顔を引きつらせているが……そんな彼女へと、テーブルにコップ付きの水筒と新たな包みを置いた夏目さんが声をかけた。強者の雰囲気でだ。

 

「じゃじゃんっ、これが私のお弁当の完成形です! ……降参は受け付けますよ、雪丸さん。」

 

「この時点で一つ推察できるのは、水筒に入っているのが味噌汁であることですね。間違いなくスポーツドリンクではありませんし、マシュマロ入りのココアでもないでしょうから。……それでも降参などしませんよ、さくどんさん! 貴女が最強の布陣で挑んでこようとも、どれだけ不利なお題であろうとも、私は戦わずして白旗を掲げるような臆病者ではないんです!」

 

「それなら、尋常に勝負です! ……んっと、どっちが先攻ですか?」

 

「先手は私がいただきましょう。別に『ビビっている』わけではありませんが、しかしどちらが後攻に相応しいかは理解できています。動画の構成上私の弁当を先に出すべきです。」

 

もうそれ、白旗宣言じゃないか。堂々と弱気なことを言い放った深雪さんは、カメラの方に視線を向けてくるが……もしかして、ここで調理シーンを挟むのかな? 意を汲んだ俺がそっと近付いてやれば、彼女は短く話してから再びレンズを手のひらで覆う。

 

「それでは、披露する前に私の弁当の『製造過程』をお見せします。さくどんさんの弁当を目にする以前の、希望と自信に満ち溢れた私の調理シーンを楽しんでください。……駒場さん、一度録画を切っていただけますか? そうすると別データになって、編集の時に管理し易くなりますから。」

 

「分かりました、切りますね。」

 

「言わずとも近付いてきてくれて助かりましたよ。以心伝心ですね。」

 

一旦カメラを下ろした俺のことを、深雪さんがご機嫌な笑顔で褒めてくれるが……その様子をジーッと見ていた夏目さんが、ゆっくり首を傾げながら疑問を飛ばしてきた。無表情でだ。いつもは表情豊かだから気付き難いけど、姉妹だけあって無表情だと叶さんに似ているな。

 

「……何か、駒場さんと雪丸さんは仲良くなってますね。距離が近い感じがします。」

 

「いやまあ、何度か一緒に撮影をしていますから──」

 

「そんなことはありませんよ、さくどんさん! 私は駒場さんに距離を感じていますからね。この人は余所のマネージャーさんですし、ほぼほぼ他人ですよ。名前を思い出すのにも一苦労といった具合です。」

 

いやいや、それは言い過ぎじゃないか? わざとらし過ぎるぞ。俺の発言を遮って捲し立てた深雪さんは、続けて夏目さんへと別の話題を投げる。俺との友人関係はあくまで隠し通すつもりらしい。

 

「駒場さんのことなどどうでも良いじゃありませんか。それより撮影です。私の調理シーンは編集で五分前後に纏める予定ですが、さくどんさんの方はどの程度の長さになりそうですか?」

 

「えっと、私のは……前日の下拵え抜きで、無編集だと三時間ちょいです。」

 

「そうですか、三時間。……三時間? 私のは無編集でも四十分ほどなんですが。」

 

「でもあの、ばっさり切っちゃって大丈夫ですから。思いっきり切りまくれば五分くらいに出来る……かも、しれません。」

 

自信なさげな尻窄みで言う夏目さんのことを、深雪さんが戦慄の目付きで見つめているが……五分に収めるのは厳しいだろうな。何たって夏目さんは手際が悪くて長く調理していたわけではなく、手の込んだ料理が多かったが故の三時間なのだから。前日にきちんと下拵えをした上で、手早く同時進行してその時間だぞ。品数が豊富で工程も複雑となれば、カットするのは相応に難しくなるだろう。

 

「一応ですね、私もさすがに長くなりすぎちゃったかなと思ったので、前日の部分はトークでざっくり纏めました。今日の分にも魚の下処理とか、地味な出汁取りとかが入ってますから、そういうのを抜けば多少は短くなるはずです。……あの、すみません。いつもはもっと手抜きしてるんですけど、今回は最終対決ってことで無駄に張り切っちゃいまして。」

 

沈黙を受けて気まずげに補足した夏目さんへと、深雪さんは気を取り直すように一瞬だけ瞑目してから、何とも言えない感じの苦笑いで返答した。弁当それ自体の戦力差とか、編集の難易度とか、勝負が一瞬で決まってしまった場合の展開の運び方とか。今の彼女の脳内では様々な悩みが回っているのだろう。

 

「まあ、それだけ頑張ってくれたということです。嬉しく感じていますよ。どうにか十分程度に縮めてみましょう。……私は動画が長くなるのを好んでいませんから、最長でも二十五分に収めたいと考えています。調理シーンで半分強を使う以上、実食を簡潔にする他ありませんね。」

 

「……すみません。」

 

「何を謝る必要があるんですか。素材が潤沢なのは望むところです。本当に美味しい部分のみをリスナーに見せるというだけの話ですよ。……とはいえ、三時間を十分にするのはあまりにも勿体無さすぎます。内容が薄くてそうなるならともかくとして、さくどんさんの料理となると濃い三時間でしょうから、さくどんチャンネルの方で長めのバージョンを上げるのはどうですか?」

 

「……いいんですか?」

 

それは助かるな。夏目さんの問いかけに対して、深雪さんは大きく首肯しながら返事を返す。

 

「細かい工程が気になる方も居るでしょうしね。どんなに頑張ったところで十分に全てを詰め込むのは土台不可能ですし、良ければさくどんチャンネルでロングバージョンを出してください。」

 

「じゃあ、少し経った頃に改めて上げさせてもらいますね。ありがとうございます。」

 

「構いませんよ。ライフストリーマーたる者、臨機応変に動けなければいけませんしね。この動画でも後々『補完編』が上がることに軽く触れておきます。……では、続きを撮りましょうか。駒場さん、お願いします。」

 

「了解です。」

 

確かに対決企画の撮影は全体を通して臨機応変に動いているな。発端がそもそもいきなりだったし、肝心のお題は運任せだし、モノクロシスターズの参加も柔軟に受け入れていたし、どちらのチャンネルで上げるかや撮影場所や撮影日もパパッと決めてきた。普通なら有り得ないようなスピードで決定して、進行していたぞ。

 

『友達との約束』並みの手軽さで撮影まで持っていけるのは、少人数だからこそのメリットなのかもしれないな。企業として動いていたらこうは行かないだろう。企画、撮影、編集。それら全ての決定権が夏目さんと深雪さんにあるから、二人で話し合うだけで何もかもを決めてしまえるわけか。

 

まあ、そうなるとどうしても大人数で手順を踏むよりはトラブルが多くなってしまいそうだが……そういった『失敗』も動画の一要素に出来るのがライフストリーマーだ。発生した問題を上手く視聴者と共有して面白さに繋げるか、捌き切れなかったり無理に隠そうとして悪目立ちさせてしまうか。基本的には自分でどうにかする他ない以上、そこで臨機応変に動けるかどうかもライフストリーマーの力量なのかもしれない。

 

ただし、それは個人でやっている場合の話だ。事務所所属となればまた話が変わってくるぞ。何たって『絶対失敗できない動画』で失敗させないために、代わりに石橋を叩きまくって安全を確保するのが俺たちの仕事なのだから。

 

つまり、分担だな。少人数の柔軟さと、大人数の慎重さ。その相反した二つのメリットを両取りできる状態が、俺たちが目指すべき理想なわけか。……一歩間違えれば少人数のリスクと大人数の鈍重さが前に出かねないし、そこは気を付けていくべきだろう。メリットとデメリットが背中合わせであることを忘れないようにしなければ。

 

───

 

そのまま撮影を続けていき、深雪さんの弁当の実食や夏目さんの調理シーンを挟んだ後、現在のカメラの前の二人は『さくどん作』の弁当を食べ進めているわけだが……改めて見ると物凄いな。ここまで来るともう『弁当』と呼ぶべきなのかを迷ってしまうぞ。御節料理に近いかもしれない。

 

「こっちが出汁巻きで、こっちは普通の甘めの卵焼きです。普通のやつもお弁当っぽさがあって美味しいですし、折角なので両方入れてみました。それでこれがアスパラの肉巻きですね。隣にはポテトをベーコンで巻いたやつと、餃子の皮にハムとチーズを入れて揚げた物があります。それとこっちは煮物ゾーンで──」

 

六角形の立派な三段の重箱に入っているのは、色取り取りの料理の数々だ。定番のおかず、変わり種、手の込んだ特別感がある一品。何でもあるじゃないか。運動会に持っていったらクラスの伝説になれそうな弁当だな。

 

更に別に用意された小さな弁当箱にはフルーツとサラダが詰め込まれており、銀色の保温水筒には豚汁が入っているので……うん、パーフェクトだ。こんなの文句の付けようがないぞ。

 

ちなみにだが、深雪さんの弁当も中々美味しそうだった。竹のゴザ目の『ザ・和風のお弁当箱』といった容器の中に、おにぎりとおかずが入っている見事な作品だったのだが……比較対象が夏目さんの弁当だとどうしたって見劣りしてしまうぞ。悲しい話じゃないか。

 

全然終わらない夏目さんの弁当解説を耳にしつつ哀れんでいると、一つ一つ実食している深雪さんがポツリと言葉を漏らす。虚しそうな面持ちでだ。

 

「……こんなことなら『ネタ弁当』に走るべきでしたね。惨めな気分です。真剣勝負だからと真面目に作ってきて失敗しました。棒切れで戦車と戦うようなものじゃありませんか。」

 

「うぁ、あの……でも、雪丸さんのお弁当も美味しかったです。」

 

「慰めは結構。たとえ宇宙の彼方に住む生命体にジャッジさせても、これではさくどんさんが勝つでしょう。『サクドンノ、カチ』と必ず言います。……負けですよ、負け。私の完敗です。ごねる余地すらありません。見た目でも量でも種類でも味でも気遣いでも敗北しました。」

 

重箱は独特な形での七つ切が一段、九つ切が一段、そして『ご飯ゾーン』になっている四つ切が一段という構成になっており、一つの区切りに同じタイプの料理が二種類か三種類入っているので……約四十種類のおかずと四種類のご飯が存在していることになるな。それプラス小さい弁当箱に入っている綺麗にカットされた五種類の果物と三種類のサラダと、水筒に入っている具沢山な豚汁があるといった内訳だ。こんなの誰も勝てないぞ。『お弁当対決』になってしまった時点で勝敗は決していたわけか。

 

高級料亭クラスの弁当を前に、虚無の笑みを浮かべつつ敗北を認めた深雪さんは……徐に立ち上がったかと思えば、びしりと夏目さんを指して声を放った。松葉杖無しでも立てはするらしい。ひょっとするとまた無理をしているのかもしれないが。

 

「さくどんさん、三本対決は二対一で貴女の勝ちです! 今回は潔く負けを認めましょう! ……しかしながら、まだ一つだけやることが残っています。」

 

「な、何でしょうか?」

 

「全ての対決が終了した今、改めて貴女にお聞きしたい。さくどんさんはライフストリーマーとして一体何を目指しているんですか? ……私の理念は最初に伝えました。ホワイトノーツの理念は香月社長が語ってくれました。では、貴女の理念は? それを聞かずしてこの動画は終われないんですよ。」

 

まあ、終われないだろうな。対決企画も、コラボ動画も、結局のところ深雪さんにとってはおまけに過ぎないのだから。やや強引に負けを流した感もあるが、お弁当対決が『前座』なのは厳然たる事実だ。今日の撮影のメインはむしろこっちだろう。

 

ソファに座っている夏目さんへと、『雪丸』が挑戦的な笑みで質問を提示したのに……『さくどん』もまたスッと立ち上がって応答する。真っ直ぐ深雪さんのことを見返しながらだ。俺には何も言ってこなかったが、彼女はしっかりと答えを用意してきたらしい。

 

「はい、今度こそきちんと答えますね。お待たせしちゃってすみませんでした。……私は大した人間じゃありませんし、ライフストリーマーとしてもまだまだです。謙遜とかじゃなくて、本気でそう思ってます。今回のコラボで雪丸さんから沢山学ばせてもらったみたいに、毎日他のチャンネルの動画を見て色々なことを教わってますから。」

 

そこで区切った夏目さんは、決意の顔付きで続きを語った。

 

「だけどもし、そんな私でもライフストリームにほんの少しだけ影響を与えられるんだとしたら……私は日本のライフストリーム界を、みんなで手を取り合って進めるような業界にしていきたいです。」

 

「手を取り合って? 何とまあ、ぬるい台詞ですね。」

 

「私、冷たいよりも熱いよりもぬるい方が好きですから。競争とか、上を目指すとか、そういうのを否定する気はありません。私だって負けたくないですし、どんどん上を目指していきます。……けど、それだけじゃ嫌なんです。ライフストリームに『独り占め』は似合いません。私は分け合えるのがライフストリームの一番の良さだと思ってます。」

 

「……分け合える、ですか。」

 

僅かにだけ目を細めて相槌を打った深雪さんへと、夏目さんは大きく頷いて肯定する。もどかしそうな表情だ。自分の心の中にある想いを、必死に伝えようとしているのだろう。

 

「そうです、取り合いじゃないんです。ゴールもスタートも一つじゃないし、道筋もスタイルもそれぞれだから、助け合いながら先に進んでいけるんですよ。……私は他のチャンネルが伸びてるのを見た時、心から嬉しいって思えます。もっともっと伸びて、ライフストリームを盛り上げていって欲しいって。」

 

「……実にさくどんさんらしいですね。追い抜かれるかもと脅威に感じたり、伸びを妬んだりはしないんですか?」

 

「私も頑張らなきゃとは思いますけど、妬んだりはしません。だって、他のチャンネルが伸び悩んでも私の得にはなりませんから。むしろ損ですよ。面白いチャンネルがいっぱい増えれば、ライフストリームを利用する人もぐんぐん増えていって、私のチャンネルを見てくれる人もちょびっとだけ増えるはずです。……それがライフストリームの良さなんじゃないでしょうか? 競争ではあるのかもしれませんけど、奪い合いではないんですよ。他人が伸びたからって、自分が伸びなくなるわけじゃありませんから。だから躊躇せずに助け合ったり、認め合ったり、喜び合ったり出来るんです。私はライフストリームのそういうところが大好きですし、これからも守っていきたいと考えてます。」

 

これはまた、面白い意見だな。シェアを奪い合うのは商売の基本だ。同業者の失敗は自分の利益に繋がるし、逆もまた然り。この世の中の大抵の部分はそういう風に出来ているはず。ケーキは食べれば減ってしまうのだから、より多くを自分のものにしたいと考えるのは人間として当然のことだろう。

 

しかし、夏目さんはライフストリームがそうではない特異な世界だと認識しているわけか。……見方次第で意見が分かれそうだけど、少なくとも現段階においては大きく間違っていないように思えるぞ。今まさに撮っている『コラボ動画』がその象徴だろう。さくどんチャンネルや雪丸スタジオのリスナーたちは、片方を見るからといってもう片方が見られなくなるわけではないのだ。つまりどちらの視聴者数も減らさずに、両方の視聴者数を増やしていることになる。

 

無論、限界はあるだろう。各々の視聴者が持っている時間は有限なんだから、『この動画は見るけどこっちは見ない』という選択をする場面は必ず出てくるはずだ。……それでも数多ある類似した業種の中だと、際立って奪い合いが発生し難いシステムなのは確かだぞ。基本的には無料で、いつでも、どれでも、何時間でも視聴できるのだから。

 

加えて、ライフストリームは現時点で既に巨大なプラットフォームだ。これからも成長していくことを考えると、『少人数で食べ切れるケーキ』にはそうそうならないはず。おまけに多様性があるからそも食べようとしない部分が腐るほど出てくるだろうし、分け合いながら進んでいくというのはそこまで非現実的な目標ではないのかもしれない。

 

ビデオカメラを構えながら夏目さんの主張に感心していると、深雪さんが……物凄く嬉しそうな顔になっている深雪さんが口を開く。ライバルどのの回答が気に入ったようだ。

 

「躊躇なく助け合える世界。それが貴女の描く理想のライフストリームというわけですか。」

 

「大それたことを言ってる自覚はありますし、甘い考えなのかもしれませんし、大体私なんかに何が出来るんだって話ですけど……でも、さくどんチャンネルは断固としてそれを目指します。沢山のチャンネルから学んで、沢山の人とコラボして、誰かを引き上げたり、誰かに引き上げてもらったりしていきたいんです。分け合っても減らないなら、自分が掴んだものをどんどん渡していくべきですよ。そうすればライフストリームはもっとずっと大きくて、面白くて、キラキラした世界になってくれるはずですから。」

 

グッと拳を握って自らの理念を語った夏目さんに、深雪さんは満足げな面持ちで暫く瞑目した後……いきなり目を見開いたかと思えば、快心の笑みで大声を上げた。急に声のボリュームが変化した所為で夏目さんがびっくりしているぞ。

 

「素晴らしい! 予想通り貴女と私は全く以て違っているようです! それなのに私は自分が掲げる理念と同じくらい、貴女が語る正道の理念に価値を感じています!」

 

「あっ……はい、どうも。」

 

「いやぁ、ダメですね。嬉しすぎてテンションを制御できません。そうなんですよ、私を倒すのは貴女のような人でなければならない! そうでなければ面白くありません! ……だがしかし、負けたくないという気持ちも強まりました。私は貴女にだけは負けてもいいと思っていますが、同時に貴女にだけは負けたくないんです。今この瞬間、はっきりとそれが理解できましたよ。さくどんさん、やはり貴女こそが私の唯一無二のライバルです!」

 

絶好調だな。大仰な身振りと共に高らかに言い放った深雪さんは、そのままのテンションでカメラに発言を寄越してくる。……結構豪快に動いているけど、脚は大丈夫なんだろうか? どう見ても興奮しているし、アドレナリンの力で忘れているのかもしれないな。

 

「リスナーの皆さんにお約束しますよ。私はこの動画を『始まり』にしてみせます。……今から十年後、ライフストリームは誰しもにとって身近な娯楽となり、国際社会にとって不可欠なメディアとなり、ライフストリーマーは魅力ある職業の一つになっているでしょう。より大きく、より多様で、より面白いライフストリームがそこにはあるはずです。」

 

喋りながら両手を広げると、深雪さんは右手を自分の胸元に当てて続きを口にした。

 

「ですが、その時も尚先頭に立っているのは今ここに居る二人です。故にこの動画を覚えておいてください。我々が理念を掲げ合い、始めてコラボしたこの対決シリーズを。……十年後に振り返った時、このコラボこそが日本のライフストリームの始まりだったと言わせてみせますから。」

 

自信と、覚悟。それを感じる表情で宣言した深雪さんは、くるりと夏目さんの方を向いて促しを投げる。

 

「さくどんさんからは何かありますか? 折角の機会ですし、言いたいことを言って構いませんよ。」

 

「わ、私ですか? えと、あの……私は十年後どころか毎日の撮影で一杯一杯なので、雪丸さんみたいにカッコいい宣言は出来ません。けど、一つだけ。もしライフストリーマーになろうかを迷ってる人が居るなら、勇気を出してチャレンジしてみて欲しいんです。」

 

切実な顔付きでそこまで話すと、夏目さんは元気付けるような柔らかい笑顔で言葉を繋げた。

 

「私、一人でやってた時は凄く不安でした。本当にライフストリーマーとして生活していけるのかとか、そんな生き方で社会に認めてもらえるのかとか、下らないって誰かに思われるんじゃないかとか。そういうのが怖くて仕方がなかったんです。……でも、今は怖くありません。ホワイトノーツの人たちも、クリエイターのみんなも、雪丸さんも、キネマリードの運営さんたちも、フォーラムでお話を聞かせてくれたライフストリーマーさんたちも。みんな真剣で、本気だってことを知れましたから。私はどうも、私が思ってたほど一人じゃなかったみたいです。想像してたよりもずっとずっと沢山の人が、私と同じ夢を持ってました。」

 

そこで一度小さく俯いた後、パッと顔を上げた夏目さんは……微笑みながらカメラを見つめて続けてきた。励ますような、慈しむような、彼女らしい優しい声でだ。

 

「だから、本気でやっていいんです。私がそれを保証します。ライフストリーマーはまだ未熟な職業ですし、これから色々と問題が出てくるのかもしれませんけど……だけど、私たちも居ますから。一人じゃないってことだけは忘れないで欲しいんです。」

 

「まあ、さくどんさんの言う通りですよ。スタートは早ければ早いほど得ですし、迷っているなら飛び込んでみてください。現実的な話をすると、決して『楽に稼げる』という職業ではありませんが……私の場合は既に暮らしていくことが可能になっています。実際今の私はこれ一本で生活していますしね。」

 

「あれ? そういう方向に繋がるんですか。」

 

「これは大事な話ですよ、さくどんさん。多くを稼ぎ、多くを納税する職業には社会的な価値があるんです。各々の思想がどうであれ、現状この国はそういったシステムを採用していますからね。税金が社会を運営している以上、多くを納めた方が貢献度が高いのは当然のことでしょう? その金で道路の整備だの、教科書の配布だの、社会保障だのをやっているわけなんですから。」

 

「あー……えーっと、どうなんでしょうね?」

 

おっと、論点がズレてきているな。夏目さんが困っている雰囲気で曖昧に受け流すのを他所に、深雪さんはふんすと鼻を鳴らして持論を展開させる。スイッチが入ってしまったようだ。

 

「つまりライフストリーマーが金持ちになれば、『遊びみたいな仕事』だ何だと喚いている能無しどもに反論できるようになります。……私は早く金持ちになって、そういう連中に対して『ふーん? じゃあ君、年収いくら?』と資本主義マウントを取りたいんですよ。大量に納税した上で金持ち特有のチャリティー活動なんかもやっていくことで、『遊びみたいな仕事に社会貢献度で負けて残念ですね』と煽りまくりたいんです。こっちは誇りを持って毎日必死に動画を作っているのに、わざわざ首を突っ込んで批判してくるバカどもの気が知れません。顔と名前はきっちり覚えてありますから、ライフストリーマーを代表していつか絶対に復讐してやります。」

 

「うあ、えと……ライフストリームが大好きだから、雪丸さんはそんなに怒ってるんですね。だけどあの、やり返すのはあんまり良くないんじゃ──」

 

「さくどんさんは優しいから許すでしょうが、心の狭い私はイライラを忘れられないんですよ。文句を付けるだけで何も生み出そうとしない連中を、意地でも後悔させてやります。……さくどんさんが『許容』を受け持つなら、私が『反撃』を担いましょう。大人しくしているだけでは付け上がりますからね。そういう役割も必要なはずです。」

 

うーん、対極。だけどやっぱり、二人揃えば良いバランスになりそうだな。コインの裏表のようなライフストリーマーたちじゃないか。ビデオカメラを片手に苦笑していると、夏目さんがぺちりと手を叩いて強引に進行させた。このままではマズい展開になると判断したらしい。正解だぞ。

 

「じゃあ、はい! 動画が長くなっちゃいますし、そろそろ締めましょう!」

 

「……まあ、そうですね。締めましょうか。というわけで、第一回目の対決企画はさくどんさんの勝利です。次は負けませんよ。」

 

「『第一回目』? ……この企画、またやるんですか?」

 

「楽しかったですし、忘れた頃に再戦しましょう。次はもっと豪華にやれるはずです。……時折思い出したようにコラボする。私とさくどんさんはそういう関係でいるべきなんですよ。」

 

分かるような、分からないような台詞だな。目を瞬かせる夏目さんに『次』があることを知らせた深雪さんは、俺が持つカメラへと締めを語ってくる。

 

「十年後へのタイムカプセルは埋め終わりましたし、この動画はこれにて終了です。さくどんチャンネルの動画もよろしくお願いします。」

 

「あっ、よろしくお願いします。」

 

「そうそう、特に一つ前の水泳対決の動画は見逃さないようにしてくださいね。さくどんさんが健気にお腹を引っ込めている姿が見られますから。」

 

「ちょっ、雪丸さん?」

 

まあ、うん。引っ込めていたな。別に引っ込める必要はなかったと思うが、撮っていて俺も気付いていたぞ。夏目さんがビクッとしつつ呼びかけたところで、深雪さんは撮影の終了を告げてきた。愉快そうに笑いながらだ。

 

「はい、終了です。録画を止めてください。」

 

「ゆ、雪丸さん! ……まさか最後のあれ、『オチ』なんですか?」

 

「ええ、さくどんさんの反応でばっさり終わらせますよ。最近の私は『あれ、終わった?』という中途半端な終わり方が好きなんです。まだ試行錯誤中ですけどね。」

 

「……恥ずかしいんですけど。」

 

不満げな上目遣いで抗議する夏目さんへと、深雪さんは肩を竦めて返事を返す。今回の締め方も独特だったな。さすがは雪丸スタジオだ。

 

「負けた腹いせです。勝者の寛容さで許してください。……駒場さん、荷物と杖を渡してくれますか? 帰りますから。」

 

「分かりました、どうぞ。……今日もすぐ帰ってしまうんですね。」

 

「私とさくどんさんは動画の中でこそ話すべきなんですよ。カメラの外側で『お喋り』するのは勿体無さすぎます。普通ならお茶でも飲みつつ、少し喋って次もよろしくと別れるんでしょうが……そんなのは退屈ですからね。さくどんさんとの関係を面白いものにするためにも、ここは逃げるように去らせてください。」

 

俺から松葉杖やリュック、ビデオカメラなどを受け取りつつ言った深雪さんは、手早く自分の弁当箱の中身と夏目さんの弁当の料理を入るだけ交換してから、それを包み直してリュックに仕舞った。熟練のおかず泥棒みたいな手際の良さじゃないか。ぎゅうぎゅう詰めにしていたぞ。

 

「これは調理工程を編集しながらゆっくり楽しませてもらいます。……それではまたお会いしましょう、さくどんさん! その日まで壮健でいてください!」

 

「あ、はい。雪丸さんもお元気で。」

 

「駒場さんもさようなら!」

 

本当に逃げるように去るな。俺にも一声かけてから颯爽と撮影部屋を出ていく深雪さんのことを、夏目さんと一緒にぽかんと見送って……いやいや、見送っちゃダメか。雰囲気に流されるところだったぞ。慌てて夏目さんに断りを入れてその背を追う。外は暑いし、松葉杖で歩くのは大変なはず。せめて帰りは送らなければ。

 

「っと、雪丸さんを車で送ってきますね。すみませんが、ここで待っていてください。」

 

「あっ、それもそうですね。怪我してるんだから大変でしょうし、よろしくお願いします。」

 

ハッとしながら応じてきた夏目さんの声を受けた後、事務所スペースに通じるドアに手をかけてから……振り返って言うべきことを付け足した。これだけは今言っておこう。言葉には鮮度があるのだから。

 

「それと夏目さん、さっきの『さくどん』はカッコ良かったです。担当マネージャーとして誇らしくなりました。」

 

「そ、そうですか? 上手く伝えられたか不安だったんですけど……えへへ、駒場さんがそう言ってくれるなら安心です。ありがとうございます。」

 

「少なくとも俺にはきちんと伝わってきましたよ。夏目さんらしい良さがある発言だったと思います。……では、行ってきますね。戻ったら二人で残りを食べましょう。実は作っている場面を撮影していて、食べられるのを楽しみにしていたんです。」

 

「ぁ、はい! 私も駒場さんに食べてもらいたいなって思いながら作ってたので、二人で食べられるなら嬉しいです。ちゃんと待ってますから、急がないで行ってきてくださいね。」

 

ふにゃんと笑いかけてきた夏目さんに首肯してから、今度こそ撮影部屋のドアを抜ける。フォーラムの日にやれなかったことを果たせたな。ちょっと遅くなってしまったが、見事に挽回できたと思うぞ。これなら視聴者たちも満足してくれるだろう。

 

口元を綻ばせながら無人の事務所スペースを通り過ぎて、蒸し暑い屋外に出てみれば……エレベーターの到着を待っている深雪さんの姿が目に入ってきた。

 

「深雪さん、家まで送ります。……それとも今回も送らせてもらえませんか?」

 

「おや、追いかけてきてくれたんですか。……他の人物であれば断るところですが、貴方は友人ですからね。貸し借りにはなりませんし、素直にお願いしておきましょう。家まで送ってください。」

 

「了解です。……そういえば、前回も貸し借りの話をしていましたね。借りを作るのが嫌いなんですか?」

 

二階で止まって一階に降りていってしまったエレベーターを前に尋ねてみると、深雪さんは苦笑いで回答してくる。タイミングが悪かったな。二階に居る誰かにボタンを押すスピードで敗北してしまったようだ。俺の他にもお盆休みに出社している人間が居るというのは、何だか仲間意識を感じて励みになるぞ。

 

「そこも嘘ではないんですが……まあ、瑞稀さんには正直に話しておきましょうか。本当は気まずい時間を過ごしたくないから、一人で帰ることを積極的に選択しているだけなんですよ。『帰り道が一緒』の誰かと歩く羽目になった時、私は常に気まずい思いをしてきましたからね。空虚な会話と、居心地の悪い沈黙。それが私にとっての『誰かとの帰り道』なんです。」

 

「あー、なるほど。何となく分かります。」

 

俺も同じような経験はあるぞ。友達の家に行った帰りに、『友達の友達』くらいの関係の人と駅まで歩くことになったりとか。……あれはまあ、確かに居心地が悪かったな。互いに何とか会話を繋ごうとして、それでも訪れてしまうあの沈黙。深雪さんはそういう空気を嫌っているようだ。

 

ようやく到着したエレベーターに乗り込みつつ共感した俺に、深雪さんは壁に寄り掛かって話を続けてきた。小首を傾げながらだ。

 

「しかし、先日の貴方との帰り道は気まずくありませんでした。思い返せば長い沈黙もあったはずなんですが、全く気にならなかったんです。……何故なんでしょうね?」

 

「何故かは分かりませんが、私も気まずいとは感じませんでしたよ。」

 

「情けないところを存分に見られた後だったので、気負う余地すら無かったのかもしれません。貴方に対しては今更格好の付けようがありませんからね。……というわけで、今回も甘えておくことにします。途中でコンビニかスーパーに寄ってもらえますか? 松葉杖だと買い物が億劫なんですよ。さくどんさんを待たせないように手早く済ませますから。」

 

「もちろん寄るのは構いませんが……あのですね、さくどんさんには言っても大丈夫なんじゃないですか? つまり、私たちの関係のことを。」

 

『関係』と言うと何だか深いもののように聞こえるけど、実際は単に友達になっただけだぞ。一階に到着したエレベーターから降りながら提案してみれば、深雪さんは半眼で注意を飛ばしてくる。やっぱりダメらしい。

 

「瑞稀さん、またその話ですか? 秘密だと言ったでしょう? 私は折角『公認ライバル』になれたさくどんさんから、泥棒猫だと思われたくないんです。こっそり付き合っていくべきですよ。」

 

「『泥棒猫』は言い過ぎですし、さくどんさんはマネージャーのプライベートな友人にまでいちいち構ったりしないと思いますよ?」

 

「自分が頼りにしている人が、自分以外の誰かを気にしているのは嫌なものです。それがライバルたる私だったら尚更ですよ。……いいから私を信じて内緒にしておいてください。さくどんさんとは暫く会わないでしょうし、瑞稀さんさえ黙っていればバレることなど有り得ません。沈黙こそが最も平和な解決策なんです。」

 

俺は黙っていれば黙っているほど、バレた時に良くない展開になる予感がするんだけどな。目線で確認してくる深雪さんに渋々頷きつつ、自動ドアを抜けてオフィスビルの外に出た。太陽とセミたちは今日も変わらず元気なようだ。秋が待ち遠しいぞ。

 

「まあはい、分かりました。そこまで言うなら黙っておきます。」

 

「私はさくどんさんには詳しい自信がありますからね。バレたら嫌に思われるという点は確実ですよ。全員の幸せのために内緒にしておきましょう。」

 

どういう立場からの意見なんだ。『さくどん博士』みたいな言い草じゃないか。謎の自信を持っている深雪さんへと、駐車場の方に歩を進めながら返答する。この人、本当に夏目さんが……というか、さくどんが好きなんだな。

 

「そんなに危惧しているのに、あの時手を取ってくれたんですね。」

 

「あそこまでストレートに『友達になりませんか?』と言われたのは初めてだったので、さくどんさんのことを考える間も無く了承してしまったんです。……そしてもはや友人関係を解消する気にはなれません。私はさくどんさんに嫌われたくありませんが、貴方とも引き続き友人でありたいと思っていますから。ならば隠す他ないでしょう?」

 

「それはまた、嬉しい発言ですね。ありがとうございます。私としても深雪さんとはこれからも友人でいたいです。」

 

「呆れるほどに真っ直ぐ言ってくるじゃありませんか。さぞモテるんでしょうね、貴方は。捻くれ者の私からすると羨ましい性格ですよ。……杖は後ろに載せても構いませんか?」

 

軽自動車の後部座席を指しながら聞いてきた深雪さんに、ロックを解除してオーケーを送った。モテないぞ、俺は。見当外れにも程がある指摘だな。

 

「大丈夫ですよ、どうぞ。……それと、私は人生で一度も『モテた』経験がありません。私なんかよりも深雪さんの方が余程にモテたはずですよ。その容姿なんですから。」

 

「私は中学で一度、高校で二度ほど告白されましたよ。そして全てを断りました。『罰ゲーム』での告白を警戒していましたし、全員が全員まともに話したことのない男子でしたから。……いつも教室では独りぼっちで本を読んでいたのに、急に付き合ってくれと言われたら恐怖が先行します。訳が分かりませんよ。前提を抜かしすぎです。」

 

「いやでも、モテてはいるじゃありませんか。俺は告白なんてされたことないですよ。冗談で『付き合ってみない?』と言われたのが関の山です。……エアコンが効いてくるまで窓を開けますね。」

 

今でこそ派手なストロベリーブロンドに染めているが、初期の頃の深雪さんはロングの黒髪だったし、いつも一人で本を読んでいたとなると……学校では『孤高の文学少女』的な立ち位置だったんだろうか? だとすれば急に告白するのはそこまでおかしくもないぞ。切っ掛けが掴めなかったから、強引に攻めてみたのかもしれない。

 

結果として『恐怖』と言われているのはちょっと可哀想だなと同情しつつ、サウナ状態の車内でキーを回してエンジンをかけている俺へと、助手席に乗り込んだ深雪さんが応答してくる。どことなく訝しげな面持ちでだ。

 

「……それは、本当に冗談でしたか?」

 

「冗談ですよ。真剣な顔で本気なのかと聞き返したら、慌てて『うそうそ、冗談だって』と言われてしまいましたから。恥ずかしかったです。俺としてはちょっとしたトラウマですね。」

 

「……そうですか。」

 

しかもその後に、『だってほら、私と駒場が付き合うわけないじゃん』とわざわざ念を押されたのだ。見たこともないほどに真っ赤な顔だったから、勘違いで本気にされて相手も恥ずかしかったのだろう。思い出すと落ち込んでくるぞ。当時の俺はその子に淡い好意を持っていたものの、それが切っ掛けで距離を取るようになったんだっけ。

 

中学時代の苦い思い出を心の奥底に仕舞い込んだところで、何故か腑に落ちないような表情になっている深雪さんが話題を変えてきた。

 

「まあ、お互いに恋愛は苦手分野のようですね。触れないことにしていきましょう。……そんなことより、瑞稀さん。唐突なお願いになるんですが、今度映画に付き合ってくれませんか? 一人だと行き辛いんですよ。」

 

「どんな映画ですか?」

 

深雪さん、『一人映画』はダメなタイプなのか。意外だなと感じつつ問い返した俺に、彼女は足元に置いたリュックを示して説明してくる。女児向けのアニメのプリントが入っている、例のリュックをだ。

 

「端的に言えば、これの劇場版です。『一人だと行き辛い』の意味が理解できたでしょう?」

 

「……そうなると、二人でも行き辛いと思うんですが。」

 

「しかし一人よりはマシですし、私は来場者特典のクリアファイルが欲しいんです。おまけに瑞稀さんが一緒なら一度に二枚貰えます。選択式の四種類なので、まだ大量に余っている公開初日に二回行けば高確率でコンプできるんですよ。」

 

「……公開日に二回も観るんですか。」

 

悪夢のような頼み事をしてくるじゃないか。夏休み中の公開初日なんて尋常じゃないレベルで混むはずだぞ。そんな中、俺と深雪さんが女児向けの映画を二連続で観る? そこまで行くと精神的な修行になりそうだな。

 

駐車場から車を出しつつ怯んでいる俺へと、深雪さんは割と必死な顔付きで言葉を重ねてきた。来場者特典とやらが相当欲しいらしい。

 

「気が進まないのは分かりますが、他に頼める人が居ないんですよ。一人で四回観るのはさすがの私も辛いですし、ネットオークションで特典だけ買うのは邪道です。今シリーズの興行収入が悪いと後に響くので、ファンとして来場者特典の四回分は観ないといけません。お願いします、瑞稀さん。貴方の趣味にも付き合いますから。」

 

「……分かりました、一緒に行きましょう。」

 

「素晴らしい、持つべきものは友人ですね。二十日の土曜日に行くので、スケジュールを空けておいてください。午前中に一度観て、昼食を挟んで午後にもう一度観ましょう。チケットは事前予約しておきます。……いやぁ、楽しみですね。友達と映画に行くのなんて初めてかもしれません。今日は良い撮影になりましたし、さくどんさんの手料理も食べられましたし、瑞稀さんと遊ぶ約束まで出来ました。良いこと尽くめです。」

 

「……はい、私も楽しみです。」

 

ここはまあ、観念して付き合っておくか。そういうことをお願いできるのは確かに友達だけだし、他に頼める人が居ないと言われれば行くしかあるまい。……だけど、俺は一体どういうテンションで観ればいいんだろう? 今週の土曜は中々厳しめの一日になりそうだな。

 

少しでも楽しめるように軽く調べておこうと思案しながら、ご機嫌な雰囲気になっている友人どのを横目にアクセルを踏むのだった。

 



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Ⅲ.雪丸 ⑫

 

 

「あーもう、付き合ってられません! 小夜ちったら、狂ってます! 駒場さん、ジャケットください!」

 

お盆休みが明けた八月十八日の木曜日。ぷんすか怒りながら歩み寄ってくる朝希さんへと、俺は椅子に掛けてあった自分のジャケットを渡していた。このところ何度も繰り返されている所為で、もはや彼女の『ジャケット要求』に誰も驚かなくなってきたな。香月社長も由香利さんも気にせず業務を続けているぞ。

 

「あー……はい、どうぞ。」

 

「どうも。……ふぁー、落ち着きます。イライラが解消されてきました。」

 

それ、精神安定剤じゃないんだけどな。受け取ったジャケットに顔を埋めている朝希さんに、香月社長が苦笑しながら発言を送る。……まあでも、俺も特に恥ずかしくなくなってきたぞ。人間というのは適応する生き物らしい。

 

「嗅いでいて落ち着くとなると、フェティシズムとは少し違うのかもね。もしそうなら正反対の効果があるはずだ。」

 

「よく分かんないですけど、とにかく良い匂いなんです。嗅いでると安心するから、何だか眠くなってきます。ギュッてして寝たらぐっすり眠れるかもしれません。」

 

「堂々と言うじゃないか。」

 

「だって私、隠して嗅げないより言っちゃって嗅ぎたいです。」

 

うーむ、欲望に忠実だな。ジャケットを頭に被りながら平然と主張する朝希さんへと、今度は由香利さんが言葉を投げた。こちらも苦笑いでだ。

 

「ひょっとしたら、朝希ちゃんは父性を求めているのかもしれませんね。それなら『落ち着く』って発言にも納得できます。」

 

「……私、駒場さんにお父さんになって欲しいってことですか?」

 

「いえ、そこまで単純ではなくて……んー、難しいですね。心理系には詳しくないので、上手く説明できそうにないです。」

 

変に気まずくなるのは嫌だし、俺としてはあまり掘り下げないで欲しいぞ。由香利さんの困ったような声を意図的に聞き流していると、ジャケットをくんくんしながら俺の方をジッと見つめていた朝希さんが……僅かな期待を秘めた面持ちで『仮説』を寄越してくる。何だか嫌な予感がする表情じゃないか。

 

「どうせならお父さんよりお兄ちゃんの方がいいです。もしお姉ちゃんと結婚したら、駒場さんは私たちのお兄ちゃんになるんですよね?」

 

「……仮に結婚したらそうなりますね。仮にですが。」

 

「……お姉ちゃん、結構美人ですよ? 料理も上手だし、優しいし、柔道をやってたから強いです。掃除と洗濯はダメダメですけど、それは私たちが出来ます。どうですか?」

 

どうですかと聞かれても、こっちとしては答えようがないぞ。急すぎる『売り込み』を仕掛けてきた朝希さんから、どうやって逃げようかと思案していると……おお、ナイスタイミング。撮影部屋から勢いよく小夜さんが出てきた。

 

「ちょっと朝希、何で戻ってこないのよ。早く次の試合にいかないとでしょ? SVDをアンロックしないと何も始まらないんだから。」

 

「私、もう疲れた。駒場さんたちとお喋りしてるから、小夜ち一人でやってよ。」

 

「あのね、あんたが抜けるとスコアが下がるでしょうが! いいからひたすら私にキルを献上しなさい。SVDを使えるようにならないと、私のBG3はスタートしないの。愛銃無しでどうしろってのよ。」

 

「何でよりにもよって一番最後のアンロックのやつがお気に入りなのさ。めんどくさすぎるよ。……あと、ドラグノフのこと『SVD』って呼ぶのオタクっぽいからね。普通にドラグノフって言えばいいのに。」

 

俺の背後に隠れながら意見する朝希さんに、小夜さんはひくひくと口の端を震わせて反論を飛ばす。……つまり、待ちに待った『バトルグラウンド3』が今日プレイ開始になったのだ。だから二人は朝からずっとやり続けていたわけだが、朝希さんが遂に嫌になってきたらしい。FPSはどちらかと言えば小夜さんが好きなジャンルだもんな。

 

「SVDはSVDでしょうが! 全然オタクっぽくないわよ! それに2では初期選択できる装備だったの! だから使ってたの! 好きなの! 3でも早く使いたいの! ……ほら、分かったらさっさと『修行』に戻りなさい。アホみたいに撃ちまくって囮になって、そして私に弾薬を渡して死んでいくのよ。SVDをアンロックしたら交代してあげるから。」

 

「やだ。そんなことしてても全然面白くないもん。私、ヘリで遊びたい。動画的にもそっちの方が派手じゃんか。……ドラグノフなんか細くてダサいよ。骸骨みたいなフォルムじゃん。イギリスの狙撃銃の方が強そうでカッコいいって。」

 

要するに、『SVD』とやらはイギリスではない国の狙撃銃なのか。そして『ドラグノフ』は同じ銃の別名であり、小夜さんは前のタイトルでそれを愛用していたらしい。……ここまでの会話で俺が理解できたのはそこだけだぞ。ミリタリー関係は守備範囲外なのだ。

 

二人の口論を耳にしつつ、『骸骨みたいなフォルム』という表現に頭を悩ませている俺を他所に、小夜さんがダシダシと床を踏みながら反撃を放つ。どういう形の銃なんだろう? 調べてみようかな。

 

「何よその無茶苦茶な文句は! SVDはカッコいいでしょうが! シュッとしてるって言いなさい、シュッとしてるって! ……大体ね、ヘリなんて今は対空要素過多で空飛ぶ棺桶じゃないの。潔くバランス調整を待ってから遊びなさい。どうせ一月に出るDLCで一気に強くなるだろうから。」

 

「……でも、ヘリとか戦闘機はBG3の目玉要素だよ? 動画にすれば伸びると思うけど。」

 

「ヘリの動画だと他の実況者と内容が被っちゃうでしょ。あんなもん簡単に撮れるんだから。最速でSVDをアンロックして、それを『使ってみた』を上げた方が絶対伸びるわ。だってSVDは人気だもの。みんな好きだし、性能が気になってるはずよ。……はい、この時間がもう無駄。ロスよ、ロス。今日中にアンロックして動画を撮るんだから、喋ってる暇なんて無いでしょうが。」

 

「……イカれてるよ、小夜ち。休憩しないと死んじゃうって。それにお腹空いた。お昼ご飯はどうするの?」

 

朝の八時からやっているので、現時点で既に四時間以上プレイしていることになるな。ここまで熱中できるのは羨ましいぞ。朝希さんの恐る恐るの質問に対して、小夜さんは何を今更という顔で回答した。

 

「今日は我慢しなさい。食べてる時間が勿体無いわ。あと五時間やって、そしたら編集よ。」

 

「助けて、駒場さん。小夜ちが壊れちゃいました。頭がおかしくなっちゃってます。止めてください。」

 

「おかしくていいわ。私は誰に止められようとやめないわよ。今日のためにLoDのストックを撮って、それを編集して、夏休みの宿題を終わらせて、新しいマウスを買ったんだから。今日はね、BG3の日なの。私とSVDが再会する日なの。だから夜までやり続けるの。」

 

狂気を感じるな。そんなに楽しみにしていたのか。瞳孔が開いている小夜さんにその場の全員が引いたところで、香月社長が取り成すように声を上げる。

 

「しかしだね、小夜君。食事はすべきだよ。健康に悪いし、プレイにだって影響するはずさ。」

 

「だけど初プレイの動画と、SVDの動画は今日じゃなきゃいけないんです。今日上げないと意味がありません。そのためにアンロックして編集するには、ご飯の時間を削る必要があります。」

 

一刻も早くパソコンの前に戻りたい感じの小夜さんへと、朝希さんの縋るような目線に促されて妥協案を提示した。SVDへの拘りはさっぱり分からないが、『今日じゃなきゃダメ』というのは理解できるぞ。『解禁日』に投稿するのは重要だろう。

 

「私が簡単に食べられる物を買ってきますから、やりながら昼食を取るのはどうでしょう?」

 

「小夜ち、一人でやっててよ。私と駒場さんで買ってくるから。休憩しないともう無理。やりたくない。」

 

「……いいでしょう、そこまで言うなら休憩を許可してあげる。一人でやっておくから早く戻ってきなさい。」

 

「うん、早く戻る。だからもう行って。マジのゲーム中毒の人みたいで怖いから。」

 

怯える朝希さんをじろりと睨んだ後、小夜さんは無言でスタスタと給湯室に移動したかと思えば、冷蔵庫から出したらしいスポーツドリンクのペットボトルを手に撮影部屋へと入っていく。最後に『マジのゲーム中毒の人』っぽい一言を残してからだ。

 

「SVDよ、朝希。SVDだけは死んでも今日中にアンロックするからね。あれが無いBG3なんて、私にとってはコーヒーとミルクとチョコシロップ無しのカフェモカと同じなんだから。」

 

「……あれは、大丈夫なんでしょうか?」

 

カフェモカからコーヒーとミルクとチョコレートシロップを抜いたら何も残らないぞ。カップの中に無があるだけだ。パタリと閉じた撮影部屋のドアを見ながら問いかけてみると、ホッと息を吐いた朝希さんが疲れたように応じてきた。

 

「放っておいて平気ですよ。LoDをやり始めた時もあんな感じでしたもん。ピークを過ぎたら段々落ち着いてきます。……それよりご飯を買いに行きましょう! 私、お腹ぺこぺこです!」

 

「そうですね、私もそろそろ食べたいです。……社長と由香利さんは何がいいですか?」

 

どうせ出るなら、俺たちの分も纏めて買ってこよう。朝希さんが返してきたジャケットを羽織りつつ尋ねてみれば、香月社長が天井を見上げて数秒悩んでから答えてくる。

 

「んー……サブウェイはどうだい? サンドイッチだったらゲームをしながらでも食べられるだろうし、思い付いたら久々に食べたくなってきたよ。大学時代によく食べていたんだ。構内に店舗があったからね。」

 

「懐かしいですね、私も久し振りに食べたいです。……でも、近くにありましたっけ?」

 

由香利さんが賛同してから首を傾げたのに、脳内の記憶を引き出しつつ応答した。サブウェイか。俺は普段行かないタイプの店だけど、希望とあらば文句はないぞ。確か少し離れたショッピングモールの中に店舗があったはずだ。

 

「少し遠いですが、心当たりはあります。どうせ車で行くわけですし、折角ですから買ってきますよ。先に出るので注文する品をメールで送ってください。……コンビニとかよりは時間がかかってしまいますけど、朝希さんはどうしますか? お二人の分も私が買ってきますよ?」

 

「連れて行ってください。ちょっと動いてリフレッシュしないとやってられません。」

 

「そういうことなら二人で買いに行きましょうか。……では、行ってきますね。」

 

香月社長と由香利さんに声をかけた後、朝希さんと二人で事務所を出て一階に下りる。そのまま駐車場にある車に乗り込んだところで……おっと、電話か。ポケットの中のスマートフォンが震え始めた。

 

「っと、すみません。夏目さんからです。」

 

「はーい。」

 

助手席に乗った朝希さんに断ってから、蒸し暑い車内で窓を開けつつ電話に出てみれば、受話口から夏目さんの声が聞こえてくる。……しかしまあ、あっついな。夏場は乗る度これで嫌になってくるぞ。

 

「はい、駒場です。」

 

『あっ、夏目です。お疲れ様です、駒場さん。今大丈夫ですか?』

 

「平気ですよ。どうしました?」

 

『えっとですね、水泳対決の編集が終わったので確認して欲しくて。駒場さんからのオッケーが出たら、雪丸さんにも一応チェックしてもらう予定です。』

 

編集が終わったのか。対決企画の動画は今週の土曜日から上げ始めるので、三本目の水泳対決をアップロードするのは来週の月曜日だ。ある程度の余裕を持って仕上げられたらしい。

 

車のエアコンをマックスにしている朝希さんをちらりと見つつ、夏目さんへと電話越しに返事を返す。残念ながら、まだぬるい風しか出てこないと思うぞ。

 

「分かりました、昼食後に確認しておきます。社長にも字幕の最終調整を頼んでおきますね。」

 

『よろしくお願いします。……それと、近いうちに打ち合わせをしたいです。ちょっと時間がかかるかもしれないやつを。』

 

「何か新しい企画を始めるんですか?」

 

『じゃなくて、何て言うか……今後の大きな方針的なものを話し合いたいんです。私ったらお弁当対決の時、分不相応なことを言っちゃったじゃないですか。だけど言いっぱなしで何もしないわけにはいかないので、自分なりに色々考えてみようと思いまして。』

 

「私は分不相応とは思いませんが……そうですか、心境に変化がありましたか。」

 

あの日は深雪さんを家まで送った後、事務所に戻って夏目さんと弁当の残りを食べて、彼女のことも自宅に送り届けたのだが……確かに何か思い悩んでいたな。それを相談してくれる気になったようだ。

 

雰囲気を察知して真面目な口調で相槌を打った俺に、電話の向こうの夏目さんが肯定を寄越してきた。

 

『雪丸さんの発言を聞いてて感じたんです。私には自覚が足りてなかったなって。私自身は私のことをまだまだ未熟だと思ってますけど、ライフストリームをよく知らない人から見たら……さくどんって、日本個人二位のライフストリーマーなんですよね。もちろんあの、登録者数だけで言えばの話ですけど。』

 

「そうなりますね。」

 

『登録者数が少なくても面白いチャンネルは沢山ありますし、これからどんどん新しいライフストリーマーが出てくるだろうから、私は現時点の二位で驕っちゃダメだって自分に言い聞かせてきたんですけど……雪丸さんはきちんと一位であることに誇りを持って、立場に相応しい発言をしてました。』

 

そこで一度話を切った夏目さんは、少しだけ落ち込んでいる声色で続きを語ってくる。トップの自覚か。言われてみれば深雪さんはそれを持っているように見えたな。驕ったり浸ったりするのではなく、自負や戒めにしていたぞ。

 

『それを見て、反省したんです。自分がどう思ってようと、日本のライフストリーマーを評価する時にはさくどんチャンネルが一つの基準になるんだなって。私がへらへら笑ってまだまだですよって言ってたら、日本のライフストリーマーはその程度だって判断されちゃうかもしれません。……なので、人前で必要以上に卑下するのはもうやめます。本音では私より面白い人たちが山ほど居ると思ってますけど、動画ではそれを出さないようにしていきたいんです。日本のライフストリーマー全体の評価を下げるのは絶対嫌ですから。』

 

「……良い考え方だと思いますよ。登録者数的に、さくどんチャンネルはどうしたって目立ちます。ライフストリームに初めて触れる視聴者が、夏目さんの動画を基準にするというのは大いに有り得る話です。自信を持って強気にいきましょう。それはきっと他のライフストリーマーたちの利益にも繋がるはずですから。」

 

『はい、これからはそういう部分も意識していきます。……あとですね、コラボ動画を積極的にやっていきたいんです。』

 

「コラボ動画をですか?」

 

急な提案に首を捻りながら聞き返してみれば、夏目さんは若干迷っているような声で返答してきた。

 

『こっちは今すぐにっていうか、準備を重ねた上での長期的な目標って感じなんですけど……そういう流れを作っていきたいなと思いまして。ライフストリーマー同士で協力し合える雰囲気を作るには、コラボ動画を増やしていくのが一番だって考えたんです。今はほら、国内だと決まった人が決まったメンバーでやってるくらいじゃないですか。私が頻繁に色んな人とコラボしていけば、ひょっとしたらハードルが下がって少しは勢い付くかなと。』

 

「なるほど、全体を見据えた動きなわけですか。」

 

『あとあと、出来ればなんですけど……ライフストリーマーじゃない人ともコラボしていきたいです。そうすれば別界隈から人が流れてきてくれるかもしれませんし、ライフストリームをもっと盛り上げることにも繋がるはずですから。』

 

「ライフストリーマー以外となると、タレントさんとかですか? 面白いアイディアですね。」

 

うーん、盲点だったな。コラボ動画にライフストリーマー以外のゲストを呼ぶわけか。……今までは全く意識していなかったけど、積極的に働きかければプロモーション活動の一環として受けてくれるかもしれないぞ。

 

夏目さんの発想に唸っていると、彼女は慌てたように付け足してくる。

 

『いやあの、難しいっていうのは分かってます。有名な人がそう簡単に出てくれるはずないですし、準備が大変だってことも理解できてますから。……なのでまあ、コラボ動画に関してはじわじわ進めていくつもりです。しっかり計画を練って、来年とかから徐々にやっていく感じですね。雪丸さんは多分そこを目指さないと思うので、私はそういう方向に向かってみようかなって。』

 

「つまり、さくどんチャンネルにおける大方針を定めようとしているわけですか。……そうなると確かに本腰を入れて話し合うべきですね。電話で済ませられる内容ではありませんし、来週のどこかでゆっくり話しましょう。」

 

『はい、そうしたいです。良い機会なのでジャンルの割合とか、構成とか、編集方法とかの細かい部分も見直そうと思ってます。自分の中のイメージが纏まったら改めて知らせるので、そしたら一緒に考えてくれますか?』

 

「勿論です、私の方でも考えておきます。……雪丸さんとのコラボ、やって良かったですね。」

 

しみじみと言った俺に、夏目さんも同じような声色での同意を飛ばしてきた。少なくともさくどんチャンネルとしては、成長に繋がる良いコラボになったらしい。

 

『対決企画に勝って、ライフストリーマーとしては負けたって気分ですけど……そうですね、とっても勉強になりました。フォーラムでも色々と学べましたし、この夏は私にとってのターニングポイントなのかもしれません。』

 

「ターニングポイントですか。……私もマネージャーとして全力でサポートしますから、学んだことを積極的に活かしていきましょう。」

 

『一人だと難しそうですけど、駒場さんが一緒なら何とかやれそうです。新生さくどんチャンネルに向けて精一杯努力してみます。……じゃあ、また電話しますね。お仕事頑張ってください。』

 

「ありがとうございます、夏目さんも編集頑張ってください。では、失礼しますね。」

 

夏目さんに別れを告げて電話を切ると……おや、メールが来ているな。電話中に届いたらしい。スマートフォンを操作してメールボックスを確認している俺に、朝希さんが小首を傾げて話しかけてくる。

 

「大事な話だったんですか? 駒場さん、途中から真剣な顔になってました。」

 

「ええ、さくどんチャンネルの方向性についての話でした。すみません、お待たせしてしまって。メールを確認したらすぐ車を出しますね。」

 

朝希さんに応じながら新規メール……深雪さんからのメールを開いてみれば、相変わらず丁寧な文面が目に入ってきた。土曜日の映画に関しての予定を知らせてくれたらしい。一本目は九時半からの上映なので、九時に映画館で待ち合わせましょうと書いてあるな。

 

松葉杖での移動は大変でしょうし、家まで迎えに行きますよという内容の返信を打ち込んでいると、朝希さんがちょっぴり不安そうな顔で疑問を送ってくる。

 

「さくどんチャンネルの方向性? ……良い話だったんですよね? それとも、トラブルとかですか?」

 

「いえいえ、良い話でしたよ。雪丸さんとのコラボから色々と学び取ったので、それを活かしていこうという話でした。前向きな方向転換ですね。」

 

「雪丸さんですか。……ゲーム対決の時のこと、小夜ちもちょっとだけ気にしてました。お昼ご飯の動画であんまり上手く喋れなかったって。」

 

小夜さん、気にしていたのか。メールを送信し終えたスマートフォンをポケットに仕舞いつつ、悩ましそうな面持ちの朝希さんに返事を投げた。そういえばあの時の小夜さんは本調子ではなかったな。

 

「ああいった形式の動画は初めてでしたからね。ゲーム実況とは勝手が違うでしょうし、戸惑うのは当たり前のことですよ。」

 

「私もそう言ったんですけど、『あんたはきちんと喋れてたじゃない』って余計拗ねられちゃって。……でも実は、私も難しいなって思ってたんです。」

 

「そうだったんですか。」

 

うーむ、朝希さんは自然体でやれているように見えたんだけどな。気付けなかったぞ。マネージャーとしてそれじゃダメだなと反省していると、彼女はこっくり頷いて続きを話してくる。

 

「いつものゲーム実況だと考えなくても言葉が出てくるのに、あの時は喋ろうと思わないと黙っちゃうから……何だか難しかったです。小夜ちはこのままじゃダメだって言ってました。『さくどんさんと雪丸さんがトークを回してくれたから何とかなったけど、私たちの動画なんだから本来私たちがやるべきだったのよ』って。」

 

「……私としても、夏目さんとしてもそうですし、モノクロシスターズとしても雪丸さんとの撮影は勉強になったみたいですね。」

 

「ですです。だから駒場さんに相談する前に二人で問題点を探り出して、家で『司会役』の練習とかを……あ。私、喋っちゃってます。小夜ちから『駒場さんには内緒よ』って言われてたのに。」

 

「……内緒なんですか。」

 

それは少し寂しいぞ。そういうことこそ相談して欲しいんだけどな。車を発進させながら眉根を寄せている俺に、朝希さんは若干呆れている様子で応答してきた。

 

「小夜ちは見栄っ張りなんですよ。特に駒場さんには頼りないヤツって思われたくないみたいです。」

 

「ああ、なるほど。そういう気持ちは何となく分かります。……ただ、マネージャーとしては複雑な気分になりますね。お二人が頼ってくれないと役に立てない立場ですから。」

 

「じゃあじゃあ、小夜ちの代わりに私がどんどん頼ります。沢山助けてもらって、それと同じくらい駒場さんのことを助ければいいんです。……そしたら駒場さん、嬉しいですよね? 私のこと、もっと好きになってくれますか?」

 

「好きになるというか……はい、とても嬉しいしありがたいですよ。マネージャーとしても個人としても、躊躇わずに頼って欲しいと思っています。朝希さんが助けてくれるなら頼もしいですしね。」

 

彼女らしい純粋な答えだな。期待の籠った瞳で問いかけてきた朝希さんへと、笑顔で首肯してみれば……彼女はにぱっと笑って口を開く。その笑顔を見るとこっちまで元気になってくるぞ。

 

「なら、小夜ちには内緒でいっぱい甘えちゃいます! ……寄り道しましょう、駒場さん。私、ご飯の前にクレープ食べたいです。こっそり、二人だけで。」

 

「クレープですか? ……いいですね、みんなには内緒で食べてしまいましょう。運転中は手を離せないので、代わりに店を調べてください。」

 

「はい!」

 

満面の笑みでスマートフォンを取り出している朝希さんを横目にしつつ、ハンドルを握り直して軽くアクセルを踏む。クレープを買って食べるくらいであればすぐ済むし、まあ大丈夫だろう。彼女は長時間のゲームで疲れているようだから、少し息抜きしてもらわなければ。何とも可愛らしい『内緒のお願い』じゃないか。

 

しかし、深雪さんは本当に良い変化を齎してくれたな。夏目さんはこれからの進路を定められたようだし、小夜さんと朝希さんも問題点を見つけて解決しようとしている。そして俺には意地っ張りのちょっと変わった友人が出来た。全体的に実のあるコラボになったと言えるだろう。

 

でも、今はまだ切っ掛けでしかない。夏目さんも、モノクロシスターズの二人も、俺も。手に入れたものを放ったらかしにせず、きちんと育てていく必要があるはずだ。……となれば夏目さんの姿勢にも、モノクロシスターズの向上にも、新しく出来た友人にも慎重に真摯に向き合っていくべきだな。どれもそうするだけの価値がある物事なのだから。

 

そうなると先ずは……夏目さんが打ち出したさくどんチャンネルの方向性についてを、香月社長や由香利さんと入念に話し合わなければ。事務所としてどんな支援が可能なのかを明確にしておかないと、夏目さんに対して具体的な提案をすることが出来ない。だったらそこは早めにやっておいた方が良いだろう。

 

そしてモノクロシスターズに関しては、俺と小夜さんと朝希さんで相談して課題と解決策を導き出すべきだな。ゲーム対決の件を抜きにしたって新しいゲームの実況を始めて、新しい編集スタイルを試そうとしているのだから、新たな問題だって必ず出てくるはず。ちょうど良い機会だし、この際深い部分まで見直してみるか。

 

あとはまあ、明後日の深雪さんとの映画だが……ここはもう時間が無いし、覚悟を決めて臨むしかあるまい。ストーリーにもキャラクターにも詳しくない上、子供を連れて来た保護者たちから白い目で見られそうだけど、付き合うと約束したんだからしっかり付き合わなければ。ホワイトノーツのマネージャーに二言は無いぞ。何とか耐え抜いてみせるさ。

 

土曜日の戦いを思って気合を入れていると、朝希さんがスマートフォンの画面を示しながら声をかけてくる。気になるクレープ屋を発見したらしい。

 

「駒場さん、ここ。ここにしましょう。チョコと、バナナと、イチゴと、アイスと……こんなのもう、無敵です。無敵クレープ。これがいいです!」

 

「……これはまた、かなり大きそうですね。」

 

「一人だとちょっと多そうですけど、二人で分けっこすれば食べ切れますよ。……ダメですか? 私、食べたいです。もう見ちゃったから諦められません。脳みそがこのクレープ一色になっちゃいました。」

 

「いやまあ、大丈夫ですよ。通り道ですし、寄ってみましょうか。」

 

そんな顔をされたらノーとは言えないぞ。おねだりモードで見つめてくる朝希さんに、慌てて白旗を振ってやれば……彼女はパーフェクトな笑顔でびしりと進行方向を指差した。

 

「やたっ、駒場さん大好きっ! それならクレープ目指して前進です!」

 

「了解しました。」

 

何とも現金な大好きが飛び出してきたわけだが……まあ、とりあえずは朝希さんを楽しませることに集中しよう。こうまで素直に喜んでくれると、こっちとしても頑張り甲斐があるぞ。良い昼休みになりそうだな。

 

ご機嫌な担当クリエイターどのの指示に従ってクレープ屋へと車を走らせつつ、駒場瑞稀は小さな笑みを浮かべるのだった。

 



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Ⅳ.かなどん ①

 

 

「……何か、今初めて実感が湧いてきました。私、引っ越したんですね。」

 

徐々に冬の足音が大きくなってきた、十月十五日の午前十一時。段ボール箱が並ぶ新居のリビングルームを前にした夏目さんの呟きに、駒場瑞稀(こまば みずき)は柔らかく微笑みながら応答していた。自分が東京に出てきた時を思い出すぞ。彼女の場合はまあ、実家がすぐ近くにあるわけだが。

 

「嬉しいですか?」

 

「もちろん嬉しいです。これからは画角が自由自在ですから。……ここ全部を撮影に使えるんですね。わくわくしてきました。」

 

うーむ、何ともライフストリーマーらしい感想だな。やはり第一にあるのは撮影なのか。希望一杯の様子で部屋の中央に立った夏目さんのことを、マネージャーとして感心しつつ眺めていると……廊下からひょっこり顔を出した(かなえ)さんが、平坦な口調で現実的な台詞を投げかけてくる。山積みの段ボール箱を指差しながらだ。

 

「お姉、そういうのはいいから。早く荷解きしないとでしょ。」

 

「……ちょっとは感慨に浸らせてよ。叶は嬉しくないの? あんなについて来たがってたのに。」

 

「めちゃくちゃ嬉しいよ。だからさっさと荷物を片付けて、部屋のレイアウトを整えたいの。……駒場さんも手伝ってください。キッチンの物をお願いします。」

 

「了解しました、開けていきますね。」

 

いつも通りの無表情だけど、実はめちゃくちゃ嬉しかったらしい。相変わらず読めない子だな。そんな叶さんの指示に従ってカッターで箱を開きつつ、中の物を確認していく。……つまり、現在の俺は夏目姉妹の引っ越し作業を手伝っているのだ。

 

さくどんチャンネルの登録者数が先月の中頃に二十万人を突破して、ある程度の収入を得られるようになってきたということで、先日とうとう夏目さんが引っ越しを決意したのである。そして何故妹の叶さんまで一緒に引っ越すのかと言えば、夏目家で繰り広げられた家族会議の結果としてそうなってしまったからだ。

 

夏目さん的には一人暮らしをしたかったようなのだが、話を聞き付けた叶さんが『おっちょこちょいな姉のお目付け役』に立候補し、両親もその方が安心だと主張したため……最終的には一対三に持ち込まれた夏目さんが折れて、『姉妹二人暮らし』という結論に至ったらしい。

 

とはいえ代わりに実家への五万円の仕送りが暫くの間免除されたから、十万円の家賃が『実質半額』になったし、叶さんの分の生活費も両親が出してくれるそうなので……まあ、そんなに悪くない結末だと思うぞ。ひょっとしたら彼女の両親は、援助の口実として叶さんを送り込んだのかもしれないな。いくら同じ都内とはいえ、十七歳で一人暮らしとなれば心配もするだろう。

 

ちなみに新居はオートロックの賃貸マンションで、何と広さは2LDKだ。しかもリフォームしたばかりな上に、アイランド式のキッチンまで付いている。……香月社長の知り合いの不動産屋を頼ったから安くなったのだと思いたいが、俺としては正直事故物件を疑っているぞ。だってこれで家賃十万は幾ら何でも安すぎるじゃないか。

 

内見の時からずっとその懸念を抱いていたものの、夏目さんは広くてオーブン付きの綺麗なキッチンを見て即決していたし、叶さんも珍しくハイテンションで『ここ、凄くいい』と口にしていたから結局言い出せなかったのだ。……契約した直後の不動産屋のあの顔付きが引っ掛かるな。何だかホッとしていたぞ。契約が取れたからホッとしていたのか、それとも別の理由があったのか。もはや引き返せない今となっては、前者であることを祈るばかりだ。

 

まあでも、この部屋でこの立地かつ一台分の駐車場有りで家賃十万円。共益費と管理費込みでも月々たったの十一万五千円となれば、仮に事故物件だったとしてもお買い得なのかもしれない。俺なら迷うぞ。かなり迷う。白い壁と淡い茶色のフローリングの落ち着いた内装だし、バストイレ別だし、宅配ボックスもあるし、十階だし、洗面所も広めだったのだから。

 

どうか心霊現象とかが起こりませんようにと密かに願っていると、黒いスキニージーンズに長袖のTシャツ姿の叶さんが小さめの段ボール箱を寄越してきた。『食器』とマジックで書かれてある箱をだ。……夏目さんもジーンズにパーカーだし、二人はこういうシンプルめな服装が多い気がするな。一ノ瀬家の双子と違って、夏目姉妹は服の好みが共通しているらしい。

 

「駒場さん、これ。食器です。キッチンの棚に入れてください。」

 

「分かりました。場所は適当で大丈夫ですか?」

 

「お姉、食器の場所は? キッチンはお姉の縄張りでしょ?」

 

俺の質問をそのまま夏目さんにパスした叶さんへと、別の箱を開封していた担当クリエイターどのが慌てて反応する。車に荷物を積み込む時もそうだったけど、叶さんが居ると作業がサクサク進むな。助かるぞ。

 

「あっ、待ってね。駒場さん、こっちです。この辺の棚に入れてください。……何かすみません、扱き使ってるみたいで。お休みの日なのに。」

 

「いえいえ、構いませんよ。こういうのもマネージャーの仕事の内ですから。」

 

「……違うと思いますけどね、私は。マネージャー云々とは無関係で、単に駒場さんがお人好しすぎるだけですよ。」

 

そうかな? 叶さんがポツリと突っ込んでくるのを耳にしつつ、食器の段ボール箱を……妙に軽いけど、プラスチック製の食器が入っているんだろうか? やけに軽い箱をキッチンスペースに持っていって、夏目さんが備え付けの棚を開くのを横目に開封してみれば──

 

「……あの、夏目さん。これは恐らく食器の箱ではありませんね。」

 

箱に詰め込まれているのは、どう見たって色取り取りの女性用下着だ。即座にパタリと閉じて夏目さんに報告すると、彼女はかっくり首を傾げて中身をチェックしてから……少し赤い顔で叶さんに声を飛ばした。

 

「あれ、何が入ってました? ……か、叶! また変な悪戯したでしょ!」

 

「したけど?」

 

「何で堂々と開き直るの! ……もしかして、他にもやった? やってないよね?」

 

「やったけど?」

 

無表情で……物件選びで叶さんと接する機会が多かったから、最近違いを判別できるようになってきたのだが、あの無表情は『愉悦の無表情』だな。何となくそういう雰囲気が伝わってくるぞ。姉をからかっている時によく浮かべる表情でけろっと白状した叶さんを見て、夏目さんはぷんすか怒りながら次々と段ボール箱を開け始める。

 

「どうしてそういうことするの? 一体全体何が楽しくて……駒場さん、何も開けないでくださいね。私が先に確認しますから。」

 

「……はい。」

 

「駒場さん、無視して開けてください。折角仕込んだんですから。」

 

「叶は黙ってて! ……駒場さん、こっちが本物の食器の箱です。持っていってください。」

 

叶さんが一緒だと、普段はレアな『怒る夏目さん』を頻繁に目撃できるな。それに苦笑しつつ、夏目さんが見つけ出した『本物』をキッチンに運んで中身を棚に移している途中で……うーん、策士。皿やカップの下の方に、一枚の薄ピンクのパンツが紛れ込んでいるのが視界に映った。二段構えだったらしい。

 

「……あのですね、夏目さん。この箱にも下着が入っています。」

 

「へっ? ……かーなーえ! 怒るからね! お姉ちゃん、本気で怒るよ!」

 

「お姉、そう言って本当に怒ったことないよね。だから舐められるんだよ。……あと駒場さん、それは姉のじゃなくて私の下着です。持ってきてください。」

 

リビングから薄い笑みで手を差し出して要求してくる叶さんへと、困り果てた気分で返答する。ついでに俺もからかおうというわけか。やっぱりこの子は苦手だぞ。

 

「……こういう物は、他人が触れるべきではないと思うんですが。」

 

「あれ? ひょっとして恥ずかしいんですか? 駒場さんっていい大人なのに、学校の男子みたいなこと言いますね。触っていいですよ。もし欲しいなら持って帰っても構いません。何に使うのかは知りませんけど。」

 

「いい加減にしなさい、叶! ……どうしてそんな子になっちゃったの? お姉ちゃん、悲しいよ。」

 

俺の代わりにパンツを回収しながら注意する夏目さんに、叶さんは口の端を吊り上げて返事を返す。二人纏めて遊ばれているな。相性が悪すぎるぞ。

 

「お姉と駒場さんが叱らないから悪いんだよ。……ほら、ぶったら? ビンタの一つくらいはすべきじゃない? 駒場さんがやってもいいですよ? こんな小娘に生意気なこと言われて、怒ってますよね?」

 

「駒場さんも私もそんなことしないよ。……叶、ここに正座しなさい。私にはやってもいいけど、土曜日なのにわざわざ手伝ってくれてる駒場さんに迷惑かけるのは──」

 

「つまんないね、二人とも。思いっきりビンタすればいいのに。……心配しなくてもそれで『仕掛け』は全部だよ。私は先に自分の部屋の荷物を処理してくるから、お姉たちはリビングをやっておいて。」

 

夏目さんの説教を無視して彼女からパンツを取り上げた叶さんは、数個の段ボール箱を抱えて廊下へと去っていくが……いやはや、トラブルメーカーだな。叶さんの場合は意図的にやっているのだから、『悪戯っ子』と表現すべきなのかもしれないが。

 

皿を棚に仕舞う作業を再開しながら苦く笑っていると、巨大なため息を吐いた夏目さんがこちらに謝罪を送ってきた。姉の苦悩が顔に滲んでいるぞ。

 

「すみません、また巻き込んじゃって。最近はこういう悪戯ばっかりで……私はもう、叶のことが全然分かんないです。」

 

「俺はまあ、段々と慣れてきたから平気です。……叶さんのあれは、夏目さんに構って欲しくてやっているんだと思いますよ?」

 

「私に対してだけならいいんですけど、駒場さんにまでやるのはダメですよ。……お父さんにもお母さんにも『良い子』で接してるのに、どうして駒場さんにはああいう態度を取るんでしょう?」

 

訳が分からないという面持ちで呟きつつ、鍋やフライパンを箱から出している夏目さんだが……根本的には俺をからかっているわけじゃないんだと思うぞ。俺にちょっかいを出した際の夏目さんの反応が目当てなのだろう。二人っきりの時はある程度普通に接してきているし。

 

「俺に何かすると、夏目さんが強く反応するのが面白いのかもしれませんね。……あえて無関心になってみるのはどうでしょう? 気にしていない風を装うんです。」

 

推察と共に提案してみれば、夏目さんは渋い顔付きで首を横に振ってくる。ダメなのか。

 

「すぐ見破られるから無意味です。私、分かり易いみたいで。構うから図に乗るんだと思って、昔暫く無視してたんですけど……むしろ悪戯がエスカレートしていきました。それこそ無視できなくなるくらいに。」

 

「……そうでしたか。」

 

「叶との二人暮らし、凄く不安です。今まではお父さんとお母さんが近くに居たから、派手なことはあんまりしてきませんでしたけど……ここでは私と叶だけなので、遠慮せずにやってくるに決まってます。そう思うと本当にストレスですよ。」

 

ストレスとまで言うのか。俺が思っている以上に参っているらしい。再度深々とため息を吐いた夏目さんへと、ポリポリと首筋を掻きながら口を開く。マネージャーの分際で家庭の問題に深く介入するのは避けたいが、担当がそこまで悩んでいるなら動いてみるべきかな。

 

「俺からやんわりと言ってみましょうか? そういう立場じゃないことは分かっていますが、間に誰かが入れば改善するかもしれませんし。」

 

「……お願いできますか?」

 

おっと、素直に頼んでくるのか。普段の夏目さんなら『そんなの悪いですよ』と固辞している場面だし、ここで迷わず頼んでくることが問題の大きさを物語っているな。

 

夏目さんのリアクションから事態の深刻さを認識しつつ、彼女に首肯して了承を放つ。

 

「では、俺から叶さんに話してみましょう。解決できるかは分かりませんが、なるべく真摯に夏目さんが困っていることを伝えてみます。」

 

「あの、はい。申し訳ないんですけど、よろしくお願いします。最近はもう、叶が怖くて。次は何をしてくるのかって思うと全然落ち着けないんです。おまけに他人の前では『本性』を上手く隠してるので、両親に相談しても真面目に取り合ってくれませんし……こんな状態で二人暮らしなんてしてたら、不眠症とかになっちゃうかもしれません。」

 

「『怖い』? ……そこまでなんですか。」

 

「お父さんとお母さんが心配してるみたいだったので、安心させたくて二人暮らしを認めちゃったんですけど、実はかなり嫌だなって思ってました。何故か今年の夏頃からどんどん悪戯が悪化してきてたので。……でも面と向かっては叶に言えないし、早く引っ越して撮影環境を改善したいって気持ちの方が強かったから、ずるずる解決できないままで今日まで来ちゃったんです。」

 

誰にも言えずに不満を溜め込んでいたらしい。堰を切ったように本音を捲し立ててくる夏目さんに、一言かけてから叶さんの部屋へと向かう。単なる悪戯だと甘く考えていたけど……実際はこれ、姉妹関係的に結構マズい地点まで来ていたようだ。となれば真剣に説得しないといけないな。

 

「気付けなくてすみませんでした。叶さんと真剣に話し合ってみますから、ここで待っていてください。」

 

「……情けないこと頼んじゃってすみません。改めて考えるとバカみたいですよね。妹の悪戯を注意できなくて、こんなに気にしてるだなんて。」

 

「抱える問題は人それぞれですよ。夏目さんが深刻に捉えているなら、俺も真面目に考えます。パートナーなんですからこういう時こそ頼ってください。……それでは、行ってきますね。」

 

傍から見れば、というやつだな。香月社長がいつだったか言っていた話を思い出すぞ。曰く精神的な問題は客観的にではなく、相対的にでもなく、あくまで当人の主観から判断すべきらしい。周囲や自分がどう捉えるかよりも、問題を抱えている人物がどう思っているかが重要なんだそうだ。

 

だからまあ、『姉妹の些細な問題』とは考えないようにしよう。大切なのは夏目さんの主観だ。彼女が本心からやめて欲しいと思っているのであれば、きちんと話してやめさせなければ。

 

しかしこれ、唐突にキツい状況に陥ってしまったな。楽しい引っ越しのはずだったのに、俺が苦手とする『担当の家庭トラブル』に直面してしまったぞ。とはいえ不満が爆発するまで気付けないよりは遥かにマシだと自分を慰めつつ、一度深呼吸をして叶さんの部屋のドアをノックしてみれば……中から応答の声が響いてきた。

 

「はい。」

 

「駒場です。少しいいですか?」

 

「どうぞ。」

 

端的な許可を受けて入室すると、フローリングの床にぺたんと座って小さめの本棚を組み立てている叶さんが目に入ってくる。ちなみに部屋は六畳くらいの洋室だ。こっちが叶さんの私室になって、リビングと直接繋がっている同じ広さの部屋が夏目さんの私室になるらしい。

 

あー、胃が痛いぞ。強めに注意すれば当然嫌われるだろうな。しかし夏目さんのためにビシッと言わねばならないのだ。内心で自分に喝を入れつつ、覚悟を決めて会話をスタートさせた。……でも一応、ワンクッションの話題は挟もう。その方が話がスムーズに進むはずだし。

 

「失礼します。……順調ですか?」

 

「ついさっき始めたばかりなのに、順調も何もないですよ。……今更ですけど、ベッドは持ってくるべきでした。今度家に戻って分解して、宅配でこっちに送ることにします。」

 

「軽く片付けをして、昼食を食べた後でもう一往復しましょうか? そこまで距離があるわけではありませんし、今日中に運ぶのも可能ですよ。」

 

大きな物は無いし、両親は定食屋の仕事があるということで、今回は俺の車を使って三人だけで荷物を運び入れたのだ。結局満載の状態で三往復したけど、所詮軽自動車の積載量での三回だから……まあ、比較的楽な引っ越し作業だったと言えるんじゃないだろうか?

 

そういった事情も相俟って、もしかするとベッドを運ぶのを遠慮させてしまったのかもしれないな。夏目さんはそもそも寝袋で寝ていたし、叶さんも敷布団で構わないと言っていたのだが……そりゃあ今までベッドで寝ていたんだったら、慣れているそっちの方が良いだろう。俺もベッド派だから気持ちは分かるぞ。

 

案を提示しながら叶さんの前に正座で腰を下ろすと、彼女は小さく頷いて応じてきた。

 

「じゃあ、お願いしていいですか? カーテンも私の部屋にあった物をそのまま使えそうですし、ついでに持ってくることにします。そこそこ慎重に考えたつもりだったんですけど、引っ越しっていうのは案外難しいみたいですね。……で、何の用ですか?」

 

「真面目な話があるんです。……実はですね、夏目さんが叶さんの悪戯に困っているようでして。それをやめて欲しいという話をしに来ました。」

 

機と見てストレートに切り出してみた俺に……うわ、いきなり不機嫌になったな。叶さんはスッと雰囲気を変えて反応してくる。どうやら想像していたものよりも悪い展開になってしまいそうだ。

 

「……へぇ? 自分で言う勇気がなくて、駒場さんを頼ったわけですか。つくづく苛々する行動ですね。実の妹が相手なんだから、直接私に言えばいいのに。」

 

本棚を組み立てる手を止めて冷笑する叶さんへと、なるべく真剣な声色になるように意識して発言を返す。『冷笑する女子中学生』というのは非常に怖いな。迫力満点だぞ。担当のためでなければ逃げ出していたかもしれない。

 

「夏目さんはそういうことを言える人ではないんです。それは叶さんにも分かるでしょう?」

 

「ええ、分かりますよ。今のお姉はどこまでも甘っちょろい人間ですからね。そして困って人に縋って、助けてもらわないと生きていけないんです。」

 

「叶さん、夏目さんは本気で参っているようなんです。私はお二人の仲が悪くなって欲しくありませんし、叶さんも本心ではそう思っているはずでしょう? コミュニケーションの取り方は人それぞれですが、夏目さんが嫌がる行動を続けるのは感心できません。どうか控えてくれませんか? お願いですから。」

 

誠心誠意頭を下げて頼んでみれば、叶さんは冷たい無表情で返答してきた。小馬鹿にするような語調でだ。

 

「いいですね、お姉は。みんなに大切にされて、こんな風に助けてもらえるんですから。駒場さん、まるで保護者です。姉のことがそんなに大切なんですか?」

 

「もちろん大切ですし、叶さんのことも大切にしたいと思っています。だからお二人の関係が壊れるのは──」

 

「あー、むず痒くなってくるのでそういうのは結構です。……まあ、分かりました。最近やり過ぎてるなって自覚はありましたし、そこまで参ってるなら暫くは大人しくしてあげます。駒場さんが近くに居るとお姉ったら情けなくてみっともない反応をしてくれるので、匙加減を間違えちゃったみたいですね。」

 

「……暫くではなく、きっぱりやめてはもらえないでしょうか?」

 

面倒くさそうに肩を竦めた叶さんへと、真っ直ぐ目を見てお願いしてみるが……ダメそうだな。彼女は小さく鼻を鳴らした後、素っ気無い回答を投げてくる。

 

「嫌です。少し回復したらまた始めます。……駒場さん、何か勘違いしてませんか? 私は姉のことが嫌いなんですからね? 好きだから意地悪しているとか、構って欲しいとかじゃないんです。嫌いだからやってるんですよ。」

 

「……そうとは思えません。本当に嫌いなのであれば、積極的に関わろうとしないはずです。一緒に住もうとするのもおかしいですよ。」

 

「だったら勝手にそう思っていればいいじゃないですか。でも実際は単に嫌いなだけですよ。もっともっと姉を苦しめてやるために、二人暮らしをごり押しただけです。父と母が居ないここなら、姉を思う存分虐められますからね。……駒場さんのそういうところ、イラつきます。ひょっとして悪い人間は居ないとかって思ってますか? 目の前に居ますけど。見えてます? 私のこと。」

 

ずいと顔を近付けて冷ややかに言い放ってきた叶さんは、皮肉げな笑みで言葉を重ねてきた。……それでも俺は『単に嫌いなだけ』だとは思えないぞ。もっと複雑な感情が根底にある気がするのだ。この考えは間違っているんだろうか?

 

「あ、良いことを思い付きました。姉への悪戯をやめる代わりに、駒場さんが犠牲になってくださいよ。出来ますか? 出来ますよね? 駒場さんは姉と一緒で『良い人』ですもんね?」

 

「……『犠牲になる』というのは?」

 

「私の命令、聞いてください。駒場さんが素直に聞いてくれるなら、姉には構わないでいてあげます。つまりストレス発散の対象を、姉から駒場さんに移すわけですね。……ほら私、とんでもない理不尽を突き付けてますよ? どう考えたって悪いのは私なのに、こんなの無茶苦茶です。怒りましたか?」

 

「……分かりました、それで叶さんの気が済むならそうしてください。」

 

俺が叶さんの頼みを聞き入れるだけで、姉妹仲の危機が去ってくれるなら万々歳だぞ。根本的には全く解決できていないわけだが、とりあえず悪戯が止まれば表面上だけでも落ち着くはず。今の夏目さんには精神的な休息が必要なようだし、場当たり的にでも対処できるならすべきだろう。

 

そんな考えから承諾を口にしてやれば、叶さんは……うわぁ、こういう顔もするのか。物凄く悪い笑顔で返事をしてくる。普段の無表情で落ち着いた彼女からは想像できないような、興奮している感じの邪悪な笑みだ。

 

「いいんですか? 認めちゃうんですか? さすがはお人好しの駒場さんですね。姉のためなら何でもしちゃえるわけですか。……じゃあはい、ここにキスしてください。早く。」

 

言いながら叶さんは、黒い靴下を脱いだ右足を突き出してきたわけだが……いや、嘘だろう? この子、マジで言っているのか? 足にキスしろと? 想定の数段上の要求に怯んでいると、叶さんはぺろりと唇を舐めて足の裏を俺の膝に押し付けてきた。少しだけ頬を上気させながらだ。

 

「あれ? 嘘だったんですか? 無理なんですか? それなら姉への悪戯を続けますけど。今までよりもずっとキツいのを延々やり続けますよ?」

 

「いや……あの、叶さん? 本気でキスしろと言っているんですか? つまりその、足に?」

 

「本気です。姉妹の問題にずけずけと横から踏み込んでくるなら、その覚悟を見せてくださいよ。足の甲に誓いのキスをしてください。ちゅって。……やってくれたら姉には一切手を出しません。約束は守ります。ほら早く。早くしないと私の気が変わっちゃいますよ? 早くキスしないと。」

 

ニヤニヤしながら急かしてくる叶さんを前に、何でこんなことになっているのかと混乱しつつ、先程の夏目さんの参りっぷりを思い出して……ええい、やるさ。やってやる。俺がプライドを捨てて訳の分からない行為をすることで、夏目さんの心が休まるならやるべきだ。

 

自分の内側に居る常識人が『いやお前、本気? 嘘だろ? やめとけよ』と止めてくるのを、『担当のためだ、やれ』と主張しているマネージャーとしての責任感が僅かにだけ上回っていることを感じつつ、決意を固めてごくりと唾を飲み込む。そのまま眼前の小さな足の甲に顔を近付けて、真っ白いそこに一瞬だけ唇を触れさせてみれば……ぷるりと震えた叶さんが、我慢できないとばかりに吐息を漏らした。純度百パーセントの愉悦の表情でだ。

 

「ぁは、ふふ。……マジでやった。駒場さん、マジでやっちゃうんですね。こういうの、本当に通用しちゃうんだ。ダメ元で言ってみただけなのに。」

 

「……これで悪戯はやめてくれますね?」

 

「はい、やめます。だってもっと面白いこと、見つけちゃいましたから。……お姉、どんな顔すると思います? 私が駒場さんを取っちゃったって知ったら、きっと凄い顔しますよ。自分が引っ越し作業してるすぐ隣で、駒場さんが私の足にキスしてたって教えたら? 見たことない顔になると思いませんか?」

 

「……夏目さんには言わないで欲しいんですが。」

 

眉根を寄せて呟いた俺へと、叶さんはクスクス笑って応答してくる。表情も、口調も、態度も。何もかもが崩れているな。これがこの子の素の顔なのか? 邪悪すぎるぞ。

 

「言うわけないでしょう? 言ったらさすがにマジギレされて、その瞬間に全てが終わっちゃいますからね。我慢します。たった一回しか見られない顔なら、きっちり最後まで進めてから見るべきですよ。……あーもう、すっごい快感。お姉のものを取るのって、何でこんなに楽しいんですかね? 最高にぞくぞくしてきます。」

 

話しながら俺へと手を伸ばしてきた叶さんは、好き勝手に鼻や口を触り始めるが……俺、何をやっているんだろう? 我に返ると意味が分からんぞ。どういう状況なんだ、これは。

 

「叶さん、やめ──」

 

「あれ? 口答え? 口答えするんですか? 駒場さんは私に従うって約束のはずですけど。誓いのキスまでしたのに、今更約束破ります?」

 

「……そういうわけではありません。ただ私は──」

 

「分からないんですか? 喋るなって言ってるんですよ。黙ってされるがままになっておいてください。……はい、良い子。それでいいんです。」

 

黙った俺を目にして満足そうに頭をぽんぽんしながら褒めた後、叶さんは何かを確かめるように耳を触ったり、頬をぷにぷに押したり、唇に指を這わせていたかと思えば……唐突にパッと手を離してにんまり笑いかけてきた。

 

「それじゃあ、今日はここまで。駒場さんが素直でいればお姉には一切手を出しませんし、何なら『姉想いの良い妹』を演じてあげます。……ほら、立って。早くお姉に報告しに行きましょうよ。」

 

「……分かりました。」

 

「けど、忘れないでくださいね? 駒場さんが抵抗したり、私の命令を無視したら、即お姉への嫌がらせを再開しますから。」

 

「……はい。」

 

まるで奴隷契約じゃないか。立ち上がりつつ沈んだ気分で了承した俺へと、叶さんは何とも楽しそうな声色で語りかけてくる。皮肉なことに、俺が見た彼女史上一番魅力的な笑顔でだ。

 

「そんな顔しなくても大丈夫ですよ。ちょっとしたお遊びに付き合ってもらうくらいですから。仕事の邪魔をしたり、プライベートで呼び出したりはしません。ただ姉の手伝いに来た時、ほんの少しだけ私ともコミュニケーションを取ってもらうだけです。」

 

「……なるほど。」

 

「でも、勇気を出して試してみて良かったです。頭おかしいことやってるかなと心配になったんですけど、まさかこんなに上手くいくとは思いませんでした。お人好しの駒場さんも嬉しいですよね? だってほら、これで姉はストレスから解放されるんですから。……じゃあはい、お姉を喜ばせに行きましょうか。」

 

「……そうですね。」

 

考える力を失くして適当な相槌を打ってから、二人で部屋を出てリビングに戻ってみれば……緊張の面持ちで正座をして待っていた夏目さんが、恐る恐るという様子で叶さんに言葉を放つ。

 

「あっ、叶。……あの、怒ってる?」

 

「怒ってないよ。……お姉、ごめんね。お姉がそんなに気にしてるとは思わなかったから、ついついやり過ぎちゃったみたい。もうしないから安心して。」

 

「えっ? ……分かってくれたんだ。」

 

「これからは良い妹になるから、許してくれる?」

 

役者すぎるぞ。無表情のままで見事にしゅんとした雰囲気を醸し出している叶さんに、夏目さんが大慌てでこくこく頷く。

 

「うぁ、許すから。許すからそんなに寂しそうにしないで。……叶、ごめんね。私もう、どうしていいか分かんなくなっちゃって。それで駒場さんにお願いしたの。」

 

「いいよ、許してあげる。これからは仲良くしようね。」

 

「うん、ありがとう!」

 

えぇ、一瞬で立場が逆転しているじゃないか。マジックみたいだな。何故か叶さんが許して、夏目さんが許されて嬉しそうになっている光景を、何とも言えない微妙な心境で見ていると……安心した表情の『お姉ちゃん』が俺にお礼を寄越してきた。

 

「駒場さん、ありがとうございます。本当に、本当にありがとうございます。これで安心して眠れそうです。」

 

「いえ、その……気にしないでください。」

 

「うあー、私……凄くホッとしました。片付け、頑張りましょう! 引っ越し蕎麦を作りたいので、先ずはキッチンですね。天ぷらも載せますから、楽しみにしておいてください。新居初料理はやっぱり引っ越し蕎麦ですよ。」

 

ああ、これはもう絶対に言い出せないな。真実を伝えた時、夏目さんがどんな顔をするかを想像すると……無理だ、打ち明けられそうにない。そんな俺をちらりと確認して薄く笑った叶さんは、これ見よがしに姉に対して提案を飛ばす。

 

「お姉、折角だから動画にしたら?」

 

「……でも、叶は嫌じゃないの? 私が動画撮るって言うと不機嫌になるから、嫌なのかと思ってたんだけど。」

 

「そんなことないよ。お姉の大事な仕事でしょ? この家の家賃はそこから出るわけだし、一緒に住む私も協力していかないと。」

 

「か、叶。……うん、撮ろっか。本当はね、撮りたかったの。美味しく作るから、叶も食べてね。」

 

急に殊勝なことを言い始めた妹に、夏目さんは感動の顔付きで大きく首肯しているが……叶さん、逃げ道を塞ぎにかかっているな。それを理解したところで俺には為す術がないわけだが。というか、夏目さんもちょっとは疑って欲しいぞ。

 

「それとお姉、髪染めたいんでしょ? この前お母さんと話してたよね?」

 

「あっ、そう。そうなんです、駒場さん。ちょっとあの、明るい色にしてみたくて。あんまり派手なのはあれなので、落ち着いた茶色っぽい感じにしようと思ってます。引っ越しましたし、心機一転ってことで人生初カラーにチャレンジしたいんですけど……ダメでしょうか?」

 

「……良いと思いますよ。変化を付けていくのも重要でしょうから。」

 

「駒場さんが賛成してくれて良かったね、お姉。片付けながら三人でどんな色にするか話し合おっか。私も真剣に考えるから。」

 

どうやら俺は、厄介な泥沼に嵌ってしまったらしいな。『善き妹』を演じる叶さんと、それに喜んでいる夏目さん。協力して段ボール箱を片付け始めた夏目姉妹のことを眺めつつ、新たなトラブルが這い寄ってきた気配を感じるのだった。

 



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Ⅳ.かなどん ②

 

 

「それで、命じられるがままに足にキスをしたんですか? 瑞稀さん、それは……変ですよ。さくどんさんの妹もかなり異常ですが、従ってしまう貴方も中々におかしいです。」

 

夏目さんが引っ越した次の日の、十月十六日の日曜日。俺は訪れた中古車の合同展示会場で、並ぶ車の隙間を歩きながら深雪さんに苦い笑みを向けていた。自分でも分かっているぞ。当日だって訳が分からないままで流されていたが、一晩経った今は更に意味不明になっているのだから。どうしてあんなことになってしまったんだろう?

 

現在の俺たち二人は中古車を見るために、さいたま市で開かれている大型の中古車合同展示会に参加しているところだ。俺が今乗っている軽自動車のリース期間が今月末で終了するということで、深雪さんが見に行きませんかと誘ってくれたのである。最近は彼女や豊田さんに頻繁に車の相談をしていたから、展示会の情報を見つけて声をかけてくれたのだろう。ありがたいぞ。

 

そんなわけで深雪さんの車で会場となっている郊外のイベント施設の駐車場までやって来て、のんびり話しながら中古車を順繰りにチェックしている途中、昨日の叶さんの話題になったのだ。あまりにも悩み過ぎてついつい相談してしまった俺に、深雪さんは秋の晴天を見上げつつ呆れ果てた表情で口を開く。

 

「だってそんなの、人質を取られた女騎士の行動じゃありませんか。素直に屈しすぎですよ。薄い本じゃあるまいし、もっとしっかり抵抗してください。」

 

「薄い本? ……喩えがよく分かりませんが、呆れているのは伝わってきます。」

 

「勿論呆れていますし、驚愕もしています。どうやらさくどんさんの妹は、性格的には姉に全く似ていないようですね。……現実世界に『足に誓いの口付けをしろ』とのたまう人間が居るとは思いませんでしたよ。今日日ファンタジーの世界でだってそう見ないはずです。」

 

半笑いで呟いた深雪さんは、僅かに心配そうな顔に変わって発言を重ねてくる。ちなみに今日の彼女は細いブラックのパンツにタートルネックのセーター、そしてブラウンのチェスターコートという格好だ。お洒落だな。男性から見たカッコいい女性って雰囲気の服装だぞ。

 

「ひょっとするとその子、相当にエグい性癖を持っているんじゃありませんか? 従い続けるのは危険ですよ。その子にとっても、貴方の社会的な立場にとっても悪影響です。」

 

「……さくどんさんの妹さんは、まだ中学二年生ですよ?」

 

「あのですね、瑞稀さん。中学生というのは男性だろうが女性だろうが頭の中がピンク色なんです。無駄に神聖視していると痛い目に遭いますよ。『健全な少年少女』なんてのは、拗らせた大人の妄言に過ぎないんですから。……そんなものはユニコーンとか、ドラゴンとかと同じジャンルの生き物です。自分が中学二年生だった頃を思い出してから物を言うべきですね。あるいは社会の情報化によって『そういう画像や動画』の入手が一気に容易になった所為で、土手の隅で成人向け雑誌を発掘していた世代から見ると乱れているだけかもしれませんが、何れにせよ『ピュアな中学生』など絶滅危惧種ですよ。ニッポニア・ニッポンくらいのレア度だと判断すべきでしょう。」

 

トキと健全な少年少女は、『空想上の生き物』というジャンルに片足を突っ込んでいると言いたいわけか。……まあ、うん。男女共に異性への強い興味を持つ時期ではありそうだな。それを踏まえた上で、深雪さんへと反論を放つ。

 

「しかしですね、私ですよ? 私に対してそういう興味を抱くとは思えません。仮に妹さんが『エグい性癖』を持っていたとして、それが向けられるのは同い年前後の男性のはずでしょう? 容姿が整っている男性アイドルとか、俳優さんとか、学校のサッカー部のカッコいい先輩とか。そういった人物が世の中には山ほど居るんですから、平凡な見た目で一回りも年上の私では『対象』にならないはずです。」

 

「どうでしょうね。性癖は千差万別ですから、私は然して意外に思いません。アダルトビデオや成人向けのコミック、同人誌なんかを見れば一目瞭然じゃありませんか。……どギツい性癖を抱えている人間というのは案外多いものなんです。普段は人目を気にして覆い隠しているだけで、人間なんてのは一皮剥けば皆揃って異常者ですよ。であれば彼女の関心を惹く何らかの要素が貴方に備わっていても、特段不思議だとは言えないでしょうね。」

 

「……深雪さんは、成人向けのコミックとかに詳しいんですか?」

 

「言葉の綾です。そこに食い付かないでください。」

 

ジト目で注意してきた深雪さんは、仕切り直すように咳払いをしてから話題を『叶さん問題』に戻す。

 

「とにかく、良くありません。非常に悪い状況です。私はさくどんさんに相談すべきだと思います。」

 

「……それをやれば、さくどんさんへの『悪戯』が再発してしまいます。彼女は本当にストレスを感じていたようなんです。あのままでは精神的に参ってしまいますよ。」

 

「代わりに貴方が被害に遭うのでは仕方がないでしょう? ……さくどんさんに打ち明けて、妹を強引に新居から追い出すべきですね。それが最もスマートな解決方法です。そうすればさくどんさんはストレスから解放されますし、貴方も小生意気な要求を呑まずに済むんですから。」

 

「ですが、その場合姉妹仲が壊れてしまいます。……私が黙って従っていれば、そのうち飽きてくれるかもしれませんよ? 多感な時期だからあんなことをしているだけって可能性もありますし。」

 

分が悪いことを認識しながら抵抗してやれば、深雪さんは額を押さえて声を寄越してくる。

 

「希望的観測にも程がありますね。私は貴方の友人なので、貴方に害を及ぼしているその小娘のことを好きになれませんが……しかし、主張の中の一点だけには諸手を挙げて賛同できます。貴方はお人好しすぎる。見事にそこに付け込まれているじゃありませんか。」

 

「……悪いことでしょうか?」

 

「美点であり、欠点です。私は貴方の誠実さと善性を好ましく思っていますが、今回はそれが甘さに感じられます。……大体ですね、仕事にだって影響が出るかもしれませんよ? 学校から歩いて帰るのが面倒だから、毎日家まで送り届けろと言われたらどうするつもりですか?」

 

「そこは大丈夫です。仕事の邪魔をしたり、平日に呼び出したりはしないと言っていましたから。」

 

笑顔で唯一の『救い』を語った俺に、深雪さんは……うわぁ、更に呆れているな。巨大なため息を吐いて教えを投げてきた。

 

「瑞稀さん、それは小娘の作戦です。最初に小さな要求を通して、後の大きな要求を通し易くする手法を聞いたことがありませんか? 悪人の常套手段ですよ。詐欺師の教本があったら一ページ目に書かれているであろう、物凄くエレメンタリーな手口ですね。」

 

「……足にキスしろというのは『小さな要求』ですかね?」

 

「そこは恐らくテストですよ。ダメ元で試してみたらまさかの成功を収めたから、本格的に貴方を籠絡しようと考えたに違いありません。徐々に要求を上げてくるつもりでしょう。何とも邪悪な小娘ですね。つくづくさくどんさんとは正反対です。」

 

「顔は結構似ているんですけどね。……まあ、ちょっと様子を見てみることにします。彼女はさくどんさんのことが嫌いだから悪戯をしていると言っていましたが、どうしてもそこまで単純な理由だとは思えないんです。ここで突き放してしまえばそれまででしょうし、暫く付き合って探ってみますよ。」

 

夏目さんのためにも、叶さんのためにもそうすべきだろう。少なくとも夏目さんは、妹との関係が崩れてしまえば深く悲しむはずだ。叶さんの方がどう思っているにせよ、夏目さんは妹のことを大切に想っているようなのだから。

 

上手く原因を見つけ出してどうにか対処してみようと思考している俺へと、深雪さんが再びため息を吐いた後で……やれやれと首を振ってくる。

 

「あえて『先送り』とは言いませんよ。お人好しな貴方ならそうするだろうと予測できていましたから。」

 

「……言っているじゃないですか。」

 

「せめてもの気晴らしです。甘んじて聞き流してください。……ただし、瑞稀さん。世には『本当に悪い人』も居るんですからね? 小娘が純粋な悪意を持ってさくどんさんに悪戯をしているという事態も、大いに有り得ることだと覚えておくべきですよ。」

 

「……分かりました、覚えておきます。」

 

深雪さんの真剣な顔付きでの忠告に頷いてやれば、彼女はピンと人差し指を立ててもう一つアドバイスを送ってきた。……先ず、叶さんという人物をしっかりと知る必要があるな。彼女のことを理解しないと、夏目さんに対する感情を探るのなど夢のまた夢だ。差し当たりそれを目指してみよう。

 

「それと、小娘との間に起こったことを私にメールで知らせてください。万が一訴訟になった時に証拠になりますから。」

 

「いや、訴訟は無いと思うんですが。そもそもそれは、私が訴えられるという意味ですか? どちらかと言えば私は被害者ですよ?」

 

「貴方が小娘の足にキスする瞬間を、隠し撮りされていたらどうなると思います? 密室で、女子中学生の足に唇を押し付ける成人男性。非常に厳しい弁護になるでしょうね。……小娘がさくどんさんに対して恨みを持っている場合、貴方を罠に嵌めるのはかなり有効な手です。『しまった、罠だ!』とならないように警戒しておくべきですよ。カートゥーンの世界なら笑えますが、現実世界の『しまった、罠だ!』は笑えませんから。死ぬまでに一度は言ってみたい台詞ではありますけどね。」

 

恐ろしいことを考えるじゃないか。顔を引きつらせている俺を目にして、深雪さんは鼻を鳴らしてから言葉を繋げてくる。それは確かに笑えないな。俺としては死ぬまで口にせずに済ませたい台詞だぞ。

 

「瑞稀さんなんて嵌めようと思えば楽勝ですからね。ちょろすぎて欠伸が出ますよ。ちょろちょろ村のちょろちょろ人間です。……とにかく気を付けて、ちょろくない私との連絡を密にしてください。さくどんさんに内緒にするからには、彼女に話が伝わる可能性があるホワイトノーツの面々にも相談できないわけでしょう? 『誰も知らなかった』というのが一番怖い展開ですからね。そんなもの相手の思う壺ですよ。的確な報連相こそが身を守る最善策なんですから、細かく私に連絡すべきです。」

 

「そこまでちょろくはないつもりですが……はい、頼りにさせてもらいます。」

 

さすがにそんな展開にはならないと思うけど、深雪さんは割と真面目に危惧しているようだし……ここは賢い友人の忠告に従っておこう。実際問題として『中学生の足にキスする』というのは結構危険な行為なのだから。今更ゾッとしてきたぞ。

 

まさかあれ以上の要求、されたりしないよな? 不安になりつつ中古車を見ていると、俺の『憧れの車』が並んでいるコーナーが目に入ってきた。叶さんのことを考えていると気分が沈むばかりだし、一度車に逃避させてもらおう。

 

「いいですね、ジープ。カッコいいです。」

 

有名な大型のオフロード車に歩み寄りながら呟いた俺に、深雪さんが苦笑して返事をしてくる。最近のはツルッとしたデザインだけど、面構えはジープのそれだな。面影が残っていて何だか安心するぞ。

 

「男の子ですね、貴方も。『大きなオフロード車』が好きなんですか。」

 

「まあ、どうしても憧れてしまいますね。深雪さんは惹かれませんか?」

 

「嫌いじゃありませんし、カッコいいとも思いますが……私はオフロードだと国産車派ですね。むしろオオカワのランスタに惹かれます。」

 

ジープの区画とは別の方向……ああ、あっちにはランドスターがあるのか。オオカワ自動車の高級大型クロスカントリー車がある方を指して言った深雪さんへと、唸りながら応答を飛ばす。ランドスターシリーズもいいな。甲乙付け難いぞ。

 

「私もランドスターは好きなんですが、比べてしまうと僅差でジープに軍配が上がりますね。……深雪さんは基本的に国産車派なんですか?」

 

「そんなことはありませんよ。外車だとアメリカよりもヨーロッパ派ですけどね。……私はBMW党なんです。BMWそのものというか、傘下が好きなだけですが。要するに私はイギリスの車が好みなのかもしれません。」

 

「BMWの傘下となると、ロールス・ロイスかミニですか?」

 

ジープの車内を覗き込みながら相槌を打った俺に、隣で同じ行動をしている深雪さんがこっくり首肯してきた。

 

「タイプは全然違いますが、両方好きですよ。……『ミニミニ大作戦』という映画を知っていますか? 邦題は上手いんだか悪夢なんだか評価に迷いますけど、兎にも角にもミニ・クーパーを扱った面白い作品でして。私が車好きになった切っ掛けはその映画なんです。」

 

「あー、知っています。面白かったですね、あの映画は。」

 

「だからまあ、ミニは外車だと断トツで好きですね。そしてロールス・ロイスは瑞稀さんがジープを好いている理由と一緒ですよ。憧れです。必死に働いて金を稼いで、いつか買いたいと思っています。」

 

「……それはつまり、自分で運転したいってことですか?」

 

ロールス・ロイスとなると、運転手を雇って後ろに乗るってイメージの車だが……まあ、彼女の場合はそうだよな。深雪さんは苦笑いで肯定を返してくる。

 

「そうなりますね。運転したくて買うんですから、一人で運転席に乗ることになりそうです。……もしいつの日か買えたら、瑞稀さんも一緒に乗ってください。独り寂しく乗る車ではないという認識は私にだってありますよ。」

 

「では、乗れる日を楽しみにしておきます。」

 

「ええ、期待しておいてください。……というか、私の車のことを考えていても仕方がありませんよ。今日は瑞稀さんの車を探しに来たんですから。希望はどの車種なんですか?」

 

「狙っているのはまあ、オオカワかスバルのセダンかSUVですね。……けど、段々ランドスターも良く思えてきました。例えばこの辺なら軽めのローンで手が届きそうです。」

 

ランドスターはやっぱり車内が広いな。クリエイターの送り迎えにも使うことを考慮すると、こっちもありかもしれないぞ。ジープは新しめの物が多かったけど、ランドスターは五年落ちとか十年落ちの安めの中古車が豊富に展示されているようだし、この際選択肢に入れるべきか?

 

だが、そうするくらいなら時間をかけて古めのジープを探したい気もするし、スバルのインプレッサとかオオカワのイウリアも捨て難いから……迷うな。嬉しい迷いだ。車選びってのはどうしてこんなに楽しいんだろう? わくわくが止まらないぞ。

 

良さげなランドスターの前に移動して懊悩していると、深雪さんが冷静な指摘を放ってきた。

 

「ディーゼルエンジンですよ、そのランスタ170は。いいんですか?」

 

「……判断できませんね。ディーゼルの車には乗ったことがありません。」

 

「私も乗ったことはありませんが、燃費が良い代わりにメンテが面倒というイメージがあります。高速で長距離をガンガン走る人向けなのかもしれませんね。短距離かつ低速になる街乗りは、ディーゼルだといまいちな予感がしますよ。」

 

「あー……そうですね、そんなイメージはあります。」

 

この赤茶色のランドスター、カッコいいんだけどな。十年近く前の古いモデルだけど、相応に安くなっているようだし……うーむ、後ろ髪を引かれるぞ。未練ったらしく内部をチェックしている俺に、深雪さんが少し離れた位置にある別の車両を指差して声をかけてくる。

 

「あっちのランスタ220はどうですか? ミドルグレードのマニュアルですが、ガソリン車ですよ。中もかなり綺麗ですし、三年落ちにしては価格が……何とまあ、価格が有り得ないほどに安いですね。ディーラーのミスかもしれません。」

 

そんなに安いのか。訝しげな面持ちでダッシュボードの上に置かれてある車の詳細情報を見た深雪さんは、やがて納得の半笑いを浮かべて肩を竦めてきた。値引きの原因を発見したようだ。

 

「ミスではありませんでした。走行距離が原因ですね。」

 

「何万キロだったんですか?」

 

「二十二万キロです。尋常ならざるドライブ好きか、あるいは長距離移動が多い仕事の人が所有していたようですね。……ただ、事故ってはいなさそうですよ。中のパーツが正常かは保証しかねますが。」

 

「これは確かに格安ですが……まあ、そうなると値段相応かもしれませんね。」

 

三年で二十二万キロ? 一年で七万キロ以上乗ったということか? 一体全体どんな使い方をしたらそうなるんだと目を瞬かせている俺へと、深雪さんが呆れ半分、感心半分の顔で応じてきた。日本を車で一周しても一万キロ程度だろうし、一年あたり七周するペースで走らせていたことになるな。

 

「個人の所有ではなかったのかもしれませんね。一人でやっていたら異常ですよ。一日に二百キロほど走っていたことになります。……あるいは、海外で使われていた車だとか?」

 

「仮にアメリカとかでも、年間七万キロは相当だと思いますけど……少なくとも北米仕様ではないみたいですね。さすがにおかしすぎる距離ですし、メーターを弄っている可能性もありそうです。」

 

「しかし、弄る場合は距離を少なくするはずでしょう? わざわざ増やしたところで元のオーナーにも、ディーラーにも得はありませんよ。事実としてこんなに安くなっているんですから。……こうなると『掘り出し物』と見るか、『外れくじ』と見るかで迷ってしまいます。一昔前なら余裕で廃車の走行距離ですが、三年落ちでこの価格は魅力的ですからね。これほど不思議な中古車は初めて見ました。」

 

「……一つだけ確かなのは、このディーラーが正直な会社だということですね。」

 

外観は二十二万キロ走ったとは思えない綺麗さだし、走行距離を偽ればもっとずっと高値で販売できてしまうはず。それをやっていない以上、誠実なディーラーであることは間違いなさそうだ。……うわ、また迷いが湧き上がってきたぞ。たった三年前のモデルの高級車がこの値段か。そこがもう魅力でならないな。

 

ごくりと唾を飲み込んでいる俺に、深雪さんが忠言を寄越してくる。

 

「冷静になるべきですよ、瑞稀さん。外側は美味しそうに見えますが、中身は腐っているかもしれません。仮に極限まで丁寧に使ったとしても、二十二万キロ走ったら色々と壊れてくるはずです。地球を一周したって四万キロなんですから。……一度ぐるっと見て回りましょう。その上でまだこのランスタに気持ちが残っていたら、戻ってきて真剣に検討してみるのはどうですか?」

 

「名案ですね、そうしましょう。……深雪さんが一緒で良かったです。こういう時、一人だと冷静な判断が出来ませんから。」

 

「おや、付き合い甲斐のあることを言ってくれるじゃありませんか。」

 

クスクス微笑んで離れていく深雪さんに続いて、件の白いランドスター220をもう一度見やってから歩き出す。……けど、結局戻ってくることになりそうだな。何せ俺はピンと来てしまったのだから。他の車を満足いくまで見た後に、まだ売れずに残っていたら担当の人に詳しい状態を尋ねてみよう。

 

───

 

そして趣味が合う友人との楽しい車選びから一夜明けた、大雨が降っている月曜日の午後。俺はホワイトノーツの事務所内でスマートフォン越しに夏目さんの声を耳にしながら、これまた電話をしている香月社長と由香利さんの姿を眺めていた。偶然の電話ラッシュだな。ちょっと面白い現象かもしれない。

 

『──なので、明後日あたりにもう一回百円ショップとスーパーと電気屋さんに行こうと思ってます。小物と調味料だけじゃなくて、電源の延長コードとかも足りてなくって。』

 

「分かりました。これといった予定はありませんし、私が車を出しましょう。他は大丈夫そうですか?」

 

『えと、ありがとうございます。今のところそれだけです。冷蔵庫は昨日届きましたし、電子レンジも実家にあった古いやつが動きましたし……あっ、掃除機。掃除機だけは買わないとなんでした。ネットで安いのを調べたんですけど、やっぱり実物を見てから買うのが一番なので、ついでに電気屋さんでチェックしてみます。』

 

「では、電気屋で一緒に確認してみましょうか。……ちなみに、叶さんの様子はどうですか?」

 

やはり引っ越しをすると、後から足りない物に気付きがちらしい。担当クリエイターがよくある現象に陥っていることに苦笑しつつ、恐る恐る叶さんの動向に関してを問いかけてみれば……夏目さんは何とも嬉しそうな声色で答えてくる。

 

『すっごく良い子になってくれてます。悪戯は一切しなくなりましたし、それどころか家事とか片付けを手伝ってくれるようになって……昔のお姉ちゃんっ子だった頃の叶が戻ってきた感じで、とってもとっても嬉しいです。』

 

「……そうですか、それは何よりです。」

 

『何もかも駒場さんが話してくれたお陰です。本当にありがとうございます。……今日もですね、一緒に料理をする予定なんですよ。学校帰りに材料を買ってくるって言ってくれて。叶ったら、別人かと思うくらいに優しくなりました。』

 

「なるほど。……まあ、姉妹仲が順調に改善されていっているようで私も嬉しいです。」

 

聞いた限りでは、叶さんはともすれば過度なほどに『良い子』を演じ切っているようだ。そして夏目さんはこの急激な変化を一切疑わずに歓迎しているらしい。……改めてちょっと変な姉妹だな。真実を知る俺としては複雑な気分になってしまうぞ。

 

そんな俺の心境を他所に、夏目さんは絶好調の時の声で話を締めてきた。

 

『えへへ、最高です。……じゃああの、すみませんけど明後日はよろしくお願いします。叶も駒場さんに会いたいって言ってたので、買い物が終わったら家で撮影を手伝ってもらってもいいですか? 何か美味しい物を作りますから、それを三人で食べましょう。』

 

「……了解しました、楽しみにしておきます。」

 

『それじゃ、失礼しますね。』

 

「はい、失礼します。」

 

応答してから電話を切った後、椅子に背を預けて大きくため息を吐く。……そうか、叶さんは俺に会いたがっているのか。それはつまり、『良い妹代』を請求する気だということだ。今度は一体何を要求されるんだろう?

 

何にせよ、次こそは状況に流されないようにしなければ。自分を強く持って、叶さんの内心を慎重に探り、その上で良い方向に導くのだ。それがマネージャーとして、友人として、良識ある年長の人間としてすべきことのはず。

 

明後日の『戦い』に向けての決意を固めたところで、こちらも電話を終えたらしい由香利さんが話しかけてきた。ちなみに香月社長は事務所スペースを歩き回りながら引き続き電話中だ。どうして彼女は電話をする時、ああやって忙しなく動き回るんだろう? 癖なのかな?

 

「瑞稀先輩、新しいスポンサー契約ゲットです。またアザレアさんが依頼してきてくれました。」

 

「おー、いいですね。ロータリーチャンネルへの依頼ですか?」

 

「ええ、豊田さん指名です。冬用のアウトドアグッズを宣伝して欲しいみたいなので、明日すぐ向こうに出向いて詳しい打ち合わせをしてきます。」

 

「お見事です、由香利さん。豊田さんもきっと喜びますよ。」

 

由香利さんが言っている『アザレア』というのは、六月頃にホワイトノーツとして初めてのスポンサーになってくれたアウトドア用品の会社だ。そこが再びスポンサー動画の制作依頼をしてきてくれたらしい。しかもクリエイター指定で。……それは要するに、前回の豊田さんの動画を気に入ってくれたということであるはず。でなければ『リピート依頼』はしてこないだろう。

 

いやはや、嬉しいな。かなり嬉しいぞ。何たって担当クリエイターの努力が認められたわけなのだから。机の下でこっそりガッツポーズをしている俺へと、由香利さんが笑顔で口を開く。

 

「段々とお仕事の話が入ってくるようになってきましたね。営業担当としてホッとしています。」

 

「由香利さんが頑張って蒔いた種が、徐々に芽吹き始めている感じですね。夏頃の飛び込み営業の成果が出てきたんじゃないでしょうか?」

 

「かもしれませんね。とにかく売り込んでさえおけば、後々成果に繋がることもあるみたいです。例のスマホゲームの案件もそういうパターンでしたし、これからも気長に営業先を広げてみます。」

 

まだまだ金額的には安めの小規模な依頼ばかりだが、豊田さんは九月に二件と今月に一件のガジェット系商品紹介のスポンサー動画を作っているし、夏目さんも先月の中頃に一件を処理している。加えてモノクロシスターズの二人には、新興のゲーム会社からスマートフォン向けソーシャルゲームのスポンサー依頼が入っているのだ。それなりに順調だと主張できるんじゃないだろうか?

 

由香利さんの営業センスの賜物だなと感心していると、ようやく電話を終えたらしい香月社長が席に戻ってきた。固定電話の子機を置きながらご機嫌の笑みを浮かべているし、こちらも良い電話だったらしい。

 

「やあやあ、君たち。前言を撤回する必要があるようだよ? 特に駒場君、君は夏にあったフォーラムでのスカウトは失敗だったと主張していたね? 偉大な社長であるこの私が、手応えがあったと言っているのにも拘らずだ。」

 

「主張というか、事実として音沙汰が無かったじゃないですか。」

 

「今あったよ。事務所に所属したいんだそうだ。……さあ、謝りたまえ。有能な社長を疑ったことを謝罪したまえよ。」

 

「それはまた、随分とタイムラグがありましたね。……有能な社長を疑ってすみませんでした。」

 

二ヶ月半の期間を空けて連絡が来たわけか。奇妙な話だなと首を捻りながら、とりあえずオウム返しに謝罪してみれば、香月社長はふふふんといつも以上に胸を張って返答を……しようとした瞬間、ジャケットの前を開けていた彼女のシャツのボタンが、『ブヅン』という鈍い音と共にあらぬ方向へと吹っ飛んでいく。胸元のボタンが内部からの圧力に敗北したようだ。

 

「……社長、またボタンが飛びましたよ。威張るからそうなるんです。目とかに入ったら危ないからやめてください。」

 

「……うるさいぞ、駒場君。仕方がないじゃないか。私の偉大さに耐え切れないボタンが悪いんだよ。風見君、付けてくれ。」

 

「別にいいですけど、シャツのサイズがおかしいんだと思いますよ? 見直すべきじゃありませんか?」

 

まあ、香月社長のシャツのボタンが飛ぶのはこれが初めてではない。俺が目撃しただけでも五回目だ。そんなわけでそこまで驚かずにデスクの引き出しから裁縫セットを取り出した由香利さんに、自分の胸元を見下ろしている香月社長が渋い顔で悩みを口にした。……というか、早く隠してくれないかな。社長視点だと自分の胸が邪魔で見えていないようだが、下の方の隙間から黒い下着が覗いているぞ。

 

「私は背が低いのに胸が大きいから、合う服が中々見つからないんだよ。胸に合わせるとぶかぶかになるし、背丈に合わせると胸がキツすぎる。忌々しい話さ。シャツだったら普通の服より多少マシだが、それでもこういうトラブルが頻繁に起こるんだ。」

 

「背も胸も平均的な私には縁遠い悩みですね。こっちに来てください、そのまま付けますから。……あと、瑞稀先輩からブラが見えていますよ。」

 

「なっ……駒場君? 君、何故黙っていたんだい?」

 

「私から指摘するのは気まずいじゃないですか。すぐ目を逸らしましたよ。……どうぞ、ボタンです。早く付けてもらってください。」

 

床に落ちたボタンを拾って渡しながら言い訳を述べてみれば、香月社長はジト目で文句を投げてくる。意味不明な文句をだ。

 

「……ジッと見られるのは恥ずかしいが、かといってすんなり逸らされるのも気に食わないね。私如きの下着は見るに値しないということかい? 失礼しちゃうよ、まったく。」

 

「私にどうしろと言うんですか。」

 

無茶苦茶じゃないか。僅かに頬を染めながら移動していった香月社長に反論すると、針に糸を通している由香利さんが冷静な面持ちでポツリと呟いた。

 

「初心ですね、香月さんは。箱入りすぎますよ。不可抗力でブラを見たくらいで責められる瑞稀先輩が可哀想です。朝希ちゃんとか小夜ちゃんがやるなら年相応で微笑ましいですけど、香月さんの年齢でそれだと何だか哀れになってきます。」

 

「君、唐突にキツい評価を下してくるじゃないか。……では聞くが、君は見られても気にしないのかい?」

 

「それは人によりますよ。その辺の知らない人に見られるのはかなり嫌ですけど、瑞稀先輩ならまあ……嫌ってほどではないですね。『あっ、見られちゃったな』程度の感情が胸によぎるだけです。」

 

「何というはしたない発言なんだ。もっと羞恥心を持ちたまえ、風見君。駒場君は男なんだぞ。」

 

驚愕の表情で注意する香月社長に対して……うわ、ちょっと怖いな。由香利さんは物凄く深刻な口調で淡々と応じる。社長もビクッとしているぞ。

 

「本気で心配しているので言いますけど、香月さんは先月二十五歳になったわけですよね? それなのにこんなことでいちいち大騒ぎしているようじゃ、このまま一生独りぼっちですよ? もっと異性に慣れてください。さすがに拗らせすぎです。」

 

「『拗らせすぎ』とはまた、言ってくれるね。……そんなにヤバいのかい? 私って。」

 

「ヤバいです。四捨五入すれば三十なんですよ? 三十。実際のところ男性と女性じゃ『二十五歳』の意味合いが全然違うんですからね? 二十歳までは男慣れしているよりも貞淑な方が魅力的ですけど、三十になるとそれが途端に逆転します。この先ずーっと一人で居たくないなら、少し気を付けた方がいいと思いますけど。」

 

「……はい。」

 

うーん、リアル。俺も今月末で二十六歳だし、他人事にはしておけないな。色々と気を付けることにしよう。年下の部下からのお説教を受けて、香月社長がいつになくしおらしい態度で素直に頷いたところで……事務所の平均年齢を一気に下げる二人が入室してきた。朝希さんと小夜さんがだ。

 

「おはようございます!」

 

「おはようございます。」

 

「おはようござ……二人とも、びしょ濡れじゃないですか。呼んでくださいよ。」

 

何とまあ、これでもかというほどに濡れているな。今日は昼前から急に雨が降り出したので、学校に傘を持っていかなかったらしい。そういう時は迎えに行くから呼んで欲しいぞと眉根を寄せつつ、慌てて給湯室に向かって戸棚からタオルを出していると、二人がお揃いのバツが悪そうな顔付きで返事をしてくる。

 

「走ればいけると思ったんです。学校を出た時はちょっと弱まってたので、小夜ちと相談して駒場さんを呼び出すのも悪いかなってなって──」

 

「それで地下鉄でこっちに来るまではそんなに濡れなかったんですけど、駅から出たらどしゃ降りになってました。……まあはい、その結果がこれです。タイツまで濡れちゃいましたよ。」

 

「風邪を引いたら大変ですし、早く拭いて着替えてください。……今度からは呼んでくださいね? 約束ですよ?」

 

「はーい。……駒場さん、駒場さん。拭いてください。わしゃわしゃーって。」

 

俺が拭くのか。一つに結んでいた髪を解いてずいと突き出してきた朝希さんの頭を、言われるがままに優しくタオルで拭く。……出会った頃は肩にギリギリ届かない長さのボブだったのだが、今や肩下になっているな。最近は短い尻尾のポニーテールにしていることが多い気がするぞ。

 

「駒場さん、もっと強く。わっしゃわっしゃしてください。」

 

「強くですか? ……このくらいですかね?」

 

「んへへ、そんな感じです。」

 

気持ち良さそうだな。誰かにこうやって拭いてもらうのが好きなんだろうか? そんな朝希さんの頭を丹念に拭いている俺に、自分の長髪の水滴を拭っている小夜さんが半眼で声を飛ばしてきた。彼女の方は前と変わらずダークグレーのロングヘアだ。毛先の位置が腰のままだし、意図的にあの長さをキープしているらしい。

 

「はい、甘やかし警報が出ました。たった半月で二十回突破ですね。罰則ですよ。」

 

「駒場さん、駒場さん。タオルで耳をぐりぐりってしてください。美容室でやるみたいに。……んー、これ好きです。」

 

「はい、更に甘やかし。二十一回目。」

 

「顔も、顔もごしごしって。ごしごしってやってください。」

 

「はい、二十二回目。短時間での常習なので、一回追加でカウントは二十三です。」

 

見事な双子のマッチポンプだな。朝希さんの指示に従うと、小夜さんから甘やかしを注意されてしまうわけか。……しかし、全力でおねだりしてくる朝希さんを無視することなど到底できない。分かっていても従う他ないぞ。

 

諦観の思いで朝希さんの顔をごしごしと拭いてやれば、彼女は満足の笑みでお礼を伝えてくる。

 

「ん、んぅ……ぷぁ。気持ち良かったです! ありがとうございます!」

 

「上手くできたなら良かったです。このまま服も着替えてしまってください。」

 

「了解です! ……小夜ち、何その不満顔。拭いてもらいたいなら頼めばいいじゃん。駒場さん、やってくれるよ?」

 

「ち、違うわよ! さっさと来なさい!」

 

タオルとスクールバッグを持って撮影部屋へと入っていく小夜さんと朝希さんを見送った後、相変わらず賑やかな二人組だなと苦笑いで自分のデスクに着くと……香月社長と由香利さんが何とも言えない面持ちでこちらを見つめてきた。社長も隣のデスクに戻っているし、ボタンは付け終わったようだ。早業だな。

 

「……何か?」

 

「いや、何ってほどではないんだが……君、本当に一人っ子なのかい? そりゃあ今に始まったわけじゃないがね、最近は前にも増して面倒見がいいじゃないか。距離が近付いてきたということなのかな?」

 

「特に朝希ちゃんが甘えまくっていて超可愛いです。私と香月さんにはやってくれないのに、瑞稀先輩にはべったり甘えてきますよね。羨ましくて堪りません。……これって母性の差なんでしょうか?」

 

「私は男なんですが。」

 

せめて父性と言って欲しいぞ。由香利さんの素っ頓狂な発言に突っ込んでみれば、彼女はほうと息を吐いて話を続けてくる。

 

「包容力がありますよね、瑞稀先輩って。ひどいことしても何だかんだ許してくれそうです。……何発か理不尽に殴った後で謝りながら泣いて縋れば、『いいよ、大丈夫だから』って笑いかけてくれる感じがあります。」

 

「……それ、典型的なDVの被害者じゃないですか。」

 

「だから、それっぽいんですよ。例えば今私が思いっきりビンタしても、瑞稀先輩は多分怒りませんよね?」

 

「いやいやいや、それはまた別の話ですよ。いきなり過ぎて驚きが先行します。私じゃなくても怒るというか、『えぇ……?』ってなるはずです。」

 

何だその仮定は。状況が混沌としすぎているし、『包容力』とは無関係じゃないか。……由香利さんはたまにこういう不思議な問答を仕掛けてくるな。からかっているわけではなさそうだから、やや独特な思考回路を持っているということなのだろう。

 

困惑しながら回答した俺に、後輩どのは小首を傾げて会話を継続してきた。続いちゃうのか、この話。

 

「そうですか? 私なら即殴り返しますけど。グーで。」

 

「……社長、どっちの反応が一般的ですか?」

 

「間違いなく駒場君だよ。風見君は『元ヤン』だからね。根が暴力的なのさ。」

 

そうだったのか。驚いている俺を目にして、由香利さんが少し焦っている顔付きで訂正を送ってくる。『根が暴力的』ってのは結構な表現だな。今の彼女からは全く想像できないぞ。

 

「違います、瑞稀先輩。違いますからね? 香月さんは『箱入りお嬢様』だから、金髪の女性を全員ヤンキー扱いするんです。偏見ですよ、偏見。大学の入学当初は髪を染めていたってだけで、全然元ヤンじゃありません。」

 

「『うっす、何すか?』とか言っていたけどね。口調がもうヤンキーだったよ。ちなみに仕草もそうだったぞ。風見君が学食の椅子を足で乱暴に引いているのを見た時、私は『うわぁ、ヤンキー上がりの粗暴な後輩だ』と確信したものさ。」

 

「プレートを両手で持っていたからでしょう? 確かに行儀が悪い行動ですが、両手が塞がっていたから足を使っただけですよ。……それに、今はしません。絶対に。」

 

「普通はテーブルの上にプレートを置いて、それから手で椅子を引くけどね。『矯正』が上手くいったようで何よりだ。」

 

ぼそりと指摘した香月社長に、由香利さんが怖い笑顔で言葉を放つ。空気がピリピリしてきたぞ。誰か助けてくれ。

 

「……さっきの復讐ですか? 私が『拗らせ女』扱いしたことへの復讐なんですね?」

 

「復讐? まさか。私は一切気にしていないよ。ただ駒場君に真実を教えたいだけさ。私が拗らせ女なら、君は粗暴な元ヤンだという真実をね。……駒場君、気を付けたまえ。風見君はDVする側の人間だぞ。そして君はされる側の人間だ。ああいう質問をしてくること自体が、風見君の本質を如実に表しているだろう? 相性が良くないからあまり近付かないように。」

 

「やめてください、香月さん。私はゴリッゴリに尽くすタイプです。仮に、万が一、もし私がヤンキーだったとしても、それとDV云々は関係ないでしょう?」

 

「君、一年生の頃に『おーっす、元気?』と言いながら友達の背中を蹴っていたじゃないか。しかも倒れたその子を見てケラケラ笑っていたね。天性のサディストだよ、君は。よくもまあ『尽くすタイプ』だなんて主張できるもんだ。」

 

うーむ、ケラケラ笑っていたのか。十八の頃の由香利さんはやんちゃな人だったようだ。香月社長の暴露を食らって、後輩どのはスーッと目を逸らしながら弁解を口にする。彼女がこういう状態になるのは珍しいな。きちんと根も葉もある話だったらしい。

 

「……今は違います。」

 

「どうだかね。人間というのはそうそう変われないものさ。上手く隠せるようになっただけの話だろう?」

 

「……いいえ、私は尽くすタイプに生まれ変わったんです。高校生までの私は死にましたし、火葬も済んでいます。墓を掘り返さないでください。」

 

「過去からは逃れられないぞ、風見君。栃木のヤンキー時代の君は未来永劫宇宙の歴史に残り続けるんだ。それを忘れないようにしたまえ。」

 

完全に攻守が逆転したところで、ふと思い付いた問いを会話に投げ込む。由香利さんの昔の話もちょっと気になるが、ここは今の悩みを優先させてもらおう。彼女なら叶さんの気持ちが理解できるかもしれない。何というか……その、似通った嗜好を持っているようだし。

 

「あの、由香利さん。誰かに命令して、自分の足にキスさせたいと思ったことはありますか?」

 

「瑞稀先輩? 今の先輩の中で、私はどういうイメージになっているんですか? ……香月さんの所為ですよ。早く訂正してください。今まで築き上げてきたものが崩壊しているじゃないですか。」

 

「いや、違うんです。そうじゃありません。何と言えばいいか、参考にしたくて聞いただけですから。」

 

「……『参考』に? 瑞稀先輩はそういうプレイに興味があるんですか?」

 

若干引き気味で尋ねてきた由香利さんに、聞いたことを後悔しながら弁明を返す。こういう話題を出すと、やっぱり変な方向に話が転がってしまうな。やめておけば良かったぞ。

 

「そういうわけではないんです。ただその、どういう思考からその行為に繋がるのかなと疑問に思いまして。」

 

「……どうしてそれを私に聞くんですか? つまりそれは、私が『足にキスさせるタイプの女』だと思っているってことですよね? 女王様的な。」

 

「……やめましょうか、この話は。職場に相応しくないようですし。」

 

「やめる必要はないぞ、駒場君。社長として許可しようじゃないか。……言うんだ、風見君。謎を謎のままにしておいたら駒場君が可哀想だろう? 『専門家』として同僚の心理的な疑問を解消してあげたまえ。」

 

ここぞとばかりに囃し立てる香月社長のことを、由香利さんはジト目で睨み付けた後……唐突に笑顔になったかと思えば、ぱちんと手を叩いて提案を場に投げた。世にも恐ろしい提案をだ。

 

「いいですよ、教えてあげても。確かに私は『足にキスさせたい人』の気持ちが少しだけ理解できます。たった三人の社員なんですから、こういう『暴露トーク』で仲良くなるのも良いかもしれませんね。……ただし、私だけが話すのはアンフェアです。香月さんと瑞稀先輩も自分の性癖を暴露してください。」

 

「仕事に戻るぞ、駒場君。話は終わりだ。やめやめ、もうやめ。」

 

「実際にやった経験はないので、あくまでも想像になりますけど……足にキスさせようとするのは、相手を支配している感覚が得られるからだと思います。たとえ屈辱的な行為でも、自分の命令なら従う。それが快感なんです。独占欲や支配欲が前に出るか、嗜虐心とか優越感が前に出るかで違ってきそうですけど、私の場合は前者なので誰でもいいってわけではないですね。どちらかと言えば愛情の確認って側面が──」

 

「こらこら、風見君。何をとち狂っているんだ。やめたまえよ、もう終わりだと言っただろう?」

 

物凄い早口での説明だったな。顔を引きつらせながら止めた香月社長へと、ほんの少しだけ赤くなっている由香利さんが促しを飛ばす。彼女は『自爆戦法』に打って出たようだ。死なば諸共というわけか。

 

「次は香月さんですよ。私は自分の性癖を正直に白状しました。だったら二人にも話してもらわないと困ります。」

 

「……嫌なんだが。どう考えても素面でやる会話じゃないぞ。しかも職場で。」

 

「もう賽は投げられたんですよ。もはや元通りにはなりませんし、私は二人が白状するまで決して諦めません。だから嫌でもやるんです。どうぞ。」

 

かなりの圧力がある由香利さんの催促に、香月社長はとんでもなく嫌そうな表情になった後……えぇ、言うのか。斜め下の床を見つめながら、蚊の鳴くような声で呟いた。

 

「……私は、一晩中ギュッと抱き締められながら耳元で褒め続けてもらいたいよ。それだけだ。」

 

「なるほど、日々そういう妄想をしているわけですか。初心な香月さんらしい内容です。……じゃあ次、瑞稀先輩。私と香月さんが言ったのに、まさか先輩だけ逃げたり誤魔化したりしませんよね?」

 

当然ながら言うのは嫌だが、ここで逃げる勇気など俺には無い。大迫力の笑顔でこちらを見てくる由香利さんへと、全てを諦めた気分で自供する。香月社長も『一人だけ助かろうとしたって無駄だぞ』という目線を向けてきているし、白状するしかなさそうだ。どうして俺は『足にキス』の話題を出してしまったんだろう? 本当に後悔しているぞ。

 

「私は……まああの、黒いタイツを着た女性の脚が綺麗で好きですね。」

 

「これ、こっちに干してもいい……です、か?」

 

観念して己の嗜好を暴露した瞬間、撮影部屋からブラウスとロングスカートに着替えた小夜さんが出てきてしまう。さっき穿いていたタイツを手にした状態の小夜さんがだ。……人生でも屈指のバッドタイミングじゃないか。絶望的だぞ。

 

目を大きく開いて硬直していた小夜さんは、見る見るうちに顔を紅潮させていったかと思えば、バッとタイツを背に隠して口を開いた。俺の言葉はしっかり聞こえていたらしい。悪い夢かと疑うレベルの状況だな。

 

「なっ、なっ……へん、変態! 駒場さん、いきなり何言ってるんですか!」

 

「小夜さん、違うんです。会話の流れでこうなったんですよ。言い訳をさせてくだ──」

 

「でも、はっきり言ってたじゃないですか! タイツを着た私の脚がき、綺麗で好きだって! 私のこと、そういう目で見てたんですね? えっちな……あの、えっちな目で! えっちな目で見てたんでしょう!」

 

小夜さんの脚とは言っていないぞ。発言の捏造だ。香月社長と由香利さんが『あーあ』という面持ちで事態を見守る中、必死に弁明しようとするが……真っ赤な顔の小夜さんが声を被せてくる。

 

「小夜さん、落ち着いて話を──」

 

「落ち着けるわけないじゃないですか! タイツを使い始めた先月からずっと、私の脚を見てこっ、興奮してたんでしょう? こっそり興奮してたんですね? 『タイツバージョン』の私の脚で!」

 

「ちょっと小夜ち、うるさいよ。……駒場さん、着替え終わりました!」

 

「ダメよ、朝希! 駒場さんに近付いちゃダメ! あんたも無理やりタイツを穿かされて、それで餌食にされるわよ! タイツフェチの餌食に! きっと食べるんだわ! タイツを! タイツを食べるの!」

 

そんな頭がおかしいことはしないぞ。どういう警告なんだ。撮影部屋から出てきた長袖のTシャツにハーフパンツ姿の朝希さんは、俺に駆け寄った後で小夜さんの注意を耳にして……きょとんと首を傾げながらストレートに問いかけてきた。

 

「駒場さん、タイツが好きなんですか?」

 

「……まあ、はい。ですがあくまで成人女性に限った話であって、中学生は──」

 

「ほら言った! ほらね? 駒場さんは私の脚が好きなのよ! 『綺麗』って言ってたもの! タイツに包まれた私の太ももを触ったり、撫でたり……色々したいって思ってたんでしょう? そういう妄想をしながら見てたんですね? 私の脚を!」

 

何故頑なに『私の』と付けるんだ。小夜さんがどうとは一言も言っていないじゃないか。冤罪だぞ。どうにか誤解を解かなければと焦っている俺を他所に、後退しながらわなわな震えている双子の片割れをちらりと見た朝希さんが、にぱっと笑って大きく頷いてくる。

 

「分かりました! じゃあ私、今度からタイツ穿きます。そしたらそしたら、アリとアブラムシのあれ……『相利共生』になりますよね? 私が駒場さんの匂いを嗅いで、駒場さんが私の脚を触ればいいんです。」

 

「おや、朝希君は難しい言葉を知っているね。フェティシズムの相利共生ってのは中々斬新なアイディアじゃないか。学校で習ったのかい?」

 

「はい、理科で習いました。意味、合ってますか?」

 

「日常会話ではその使い方で問題ないが、しかしテストでは気を付けたまえよ? 厳密な定義としては、異なる生物同士の関係にしか適用されないんだ。ヒト同士だと少し話が変わってくるね。」

 

いいぞ、そのまま訳の分からない方向に流してくれ。ハチドリと花の話とかをするんだ。香月社長が会話を脱線させ始めたところで、戦慄の顔付きになっている小夜さんが声を上げた。タイツの話題に引き戻そうというつもりらしい。もういいじゃないか。

 

「あんた、正気? 本気で言ってるの? 駒場さん、タイツフェチなのよ? タイツを穿いて近付いたら、興奮されちゃうんだからね?」

 

「いいよ、別に。私だけ匂いを嗅がせてもらうのは悪いなって思ってたもん。でもでも、私は最近あんまりスカート穿かないから……ショートパンツにタイツでもいいですか?」

 

「あの、朝希さん。大丈夫ですから。タイツのことはもう、すっぱり忘れてください。」

 

「ひょっとして駒場さん、恥ずかしいんですか? 私も匂いフェチだって言われて恥ずかしかったけど、開き直ったら好き放題嗅げるようになりました。駒場さんもそうした方がいいですよ。……ストッキングじゃダメなんですよね? 夏はタイツだと暑そうなので、ストッキングでもいいならその方が助かるんですけど。」

 

もう勘弁して欲しいぞ。ぐいぐい来るな。俺に背を預ける形で同じ椅子に座ってきた朝希さんへと、徐々に顔の赤さを引かせている小夜さんが制止を放つ。何故だか知らないが、ちょびっとだけ勝ち誇るかのような口調と態度だ。

 

「やめなさい、朝希。無駄よ。駒場さんは私の脚じゃないと興奮しないの。タイツを着た私の脚が綺麗で好きって言ってたんだから。」

 

「……小夜さんのとは言っていません。『女性の脚』と言いました。」

 

「まあ、瑞稀先輩はそう言っていましたね。……んー、ちょっと残念です。私はタイツもレギンスもトレンカも穿かない人間なので、先輩の欲求を叶えてあげられそうにありません。穿くのに苛々するし、ずり下がってくるし、とにかく面倒くさくなっちゃうんですよね。香月さんはどうですか?」

 

「私も常時パンツスーツだから使わないよ。悪いね、駒場君。この事務所はタイツ率ゼロだ。……社員のメンタルケアは社長の役目だし、今度一度だけ穿いてきてあげようか? 福利厚生の一部だと思って我慢してあげるよ?」

 

余計なお世話だぞ。ニヤニヤしながらからかってくる二人のことを、抗議の半眼で睨んでいると……俺の膝の間でお尻の位置を調整している朝希さんが言葉を投げる。双子の片割れに対して、心底呆れている感じの声色でだ。

 

「小夜ち、耳おかしいの? 全然関係ないじゃん。……駒場さん、明日穿いてくるから楽しみにしててください!」

 

「あのですね、朝希さん。本当に大丈夫ですから。タイツのことは頭から追い出して、好きな服を着てください。」

 

「我慢しなくていいんですよ? 小夜ちは嫌みたいですけど、私は平気ですから。……それよりそれより、私たち髪染めようと思ってるんです。いいですか?」

 

小夜さんが無言でぷるぷる震えているのは気になるけど、俺としては早く話題が移って欲しいので……うん、ここは話題転換に乗らせてもらおう。タイツの話なんてもう終わりだ。

 

「えーっと、髪ですか?」

 

そんな思いから相槌を打ってやれば、朝希さんは結び直した自分の髪を弄りながら会話を続けてきた。既にホワイトアッシュに染まっている髪をだ。染め直すという意味かな?

 

「スポンサー動画の撮影に合わせてインナーカラーを入れたいんです。私は暗めの白寄りのグレーを入れて、小夜ちは明るめの黒寄りのグレーを入れようと思ってます。……意味、分かりますか? 私は小夜ちから最初に説明された時、さっぱり分かんなかったんですけど。」

 

「……つまり、単純にお互いの髪色をインナーに入れるというわけではないんですね?」

 

「私はそうしたかったんですけど、色で見ると違いがありすぎて微妙でした。だから、えっと……ざっくりした割合で言うと白八黒二の髪の私が白六黒四のインナーカラーを入れて、白二黒八の小夜ちが白四黒六を入れるって意味です。」

 

「あー、なるほど。理解できました。五段階にした場合の白寄りの二色を朝希さんが使って、黒寄りの二色を小夜さんが使うわけですか。」

 

要するに、同系統のグレーでグラデーションをつけるってことか。同じグレーなのに双子で一切被らせないのは面白いな。俺の纏めに首肯してきた朝希さんへと、インナーカラーを入れた状態の二人を想像しつつ了承を送る。

 

「それならモノクロシスターズのイメージに合った変化ですし、お二人がやりたいなら良いんじゃないでしょうか? ……そういえば、夏目さんも髪を染める予定だと言っていましたよ。」

 

「そうなんですか? じゃあじゃあ、さくどんさんと一緒に美容室に行きたいです! 私、毛先もくしゃくしゃってさせたくて。本当に先っぽの方だけを。そこまで変えちゃうのはやり過ぎな気もするし、インナーカラーだけで充分かもしれないんですけど、もう少しで十五万人になるから良い機会だと思って──」

 

「タイツ、ここに掛けますね。乾かさないといけないので。」

 

朝希さんがやや興奮気味に喋っている途中で、小夜さんが俺の席のすぐ背後のブラインドにハンガーを掛けた。……どうしてそこなんだ。ブラインドがくにゃってなっているじゃないか。他にきちんと引っ掛かりそうな場所は沢山あるのに、不自然にも程があるぞ。

 

「ここに。ここに掛けておきますから。さっき穿いてた私のタイツを。」

 

「……はい。」

 

「小夜ちのタイツなんかどうでも良いよ。髪の方が大事でしょ? ……それと私、伸ばしてみようかなって思ってるんです! 小夜ちは長いのにうんざりしてきたみたいだから、何年かかけて少しずつ長さを近付けていって、どこかのタイミングで逆転させたら面白──」

 

俺の胸に寄り掛かりながら気の長い計画をハイテンションで語る朝希さんの正面に、ジト目の小夜さんがツカツカと移動してきたかと思えば……おおう、いきなりだな。双子の片割れの髪を思いっきり両手で掻き乱し始める。ぐっしゃぐしゃにだ。

 

「わっ、ちょっ……何すんのさ、小夜ち!」

 

「あんたは、最近、駒場さんに、甘えすぎなの! 椅子から降りなさい! 失礼でしょうが!」

 

「だって、駒場さん『もっと甘えてください』って言ってたもん! やめてよ、やーめーて!」

 

「大体あんた、『ヘアスタイル計画』は私の発案じゃない! スポンサー動画に合わせて試しにインナーカラーを入れてみようって言ったのも、長さを逆転させてみようって言ったのも、パーマをかけるのはどうかって言ったのも私! 全部私! なのに何であんたが話してんのよ!」

 

怒りつつ俺の椅子から朝希さんを引き摺り降ろした小夜さんは、じろりとこっちに視線を向けた後で……びしりと窓の方を指差して謎の念押しをしてきた。

 

「駒場さん、私のタイツがあそこに干してありますからね? ちゃんと覚えましたか?」

 

「……いやあの、小夜さん? それに何の意味が──」

 

「覚えましたか?」

 

「……はい、覚えました。」

 

強めの語気に怯んで頷いた俺に、小夜さんはあらぬ方向を見つめながら依頼を寄越してくる。また顔の赤さが復活しているな。

 

「私が取り込むのを忘れたら、駒場さんが回収してください。いいですね?」

 

「……物凄く目立ちますし、忘れないと思いますよ?」

 

「もし忘れたらの話です。そしたら香月社長でも風見さんでもなく、駒場さんが保管しておいてください。……じゃあ次、髪の話。私はミディアムくらいまで短くしたいので、朝希の髪が伸びるのに合わせて短くしていって──」

 

「小夜ち!」

 

うーん、話が進まないな。小夜さんが話し始めたタイミングで、ぐしゃぐしゃにされてヘアゴムが絡まっていた髪を直した朝希さんが彼女に飛び掛かった。香月社長と由香利さんはどちらが勝つかに明日の昼食を賭けているようだし、ここは俺が止めなければならないらしい。最近よくやっているけど、『モノクロシスターズ賭博』はいい加減にやめて欲しいぞ。

 

「やめなさいよ、バカ朝希! あんたは黙って聞いてればいいの!」

 

「バカは小夜ちじゃん! 私が説明してたのに何で取るのさ! 意地悪! 折角褒めてもらおうと思ったのに!」

 

「それはね、私の案だからよ! 説明するのも、褒められるのも、タイツを着るのも私なの! アイディア泥棒はすっこんで……この、すっこんでなさい!」

 

「いーやーだー!」

 

まあうん、事務所内の距離は順調に縮まってきているな。でなければさっきの『暴露トーク』は生まれないし、二人もこういう素の喧嘩を見せたりしないだろう。そこだけは間違いなさそうだと苦笑しつつ、姉妹喧嘩への介入の切っ掛けを探すのだった。

 



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Ⅳ.かなどん ③

 

 

「あー、髑髏男爵さんですか。あの人はこれから伸びるでしょうし、良いお話だと思いますよ。」

 

地獄のタイツ問答から二日後の、小雨が降る水曜日の昼過ぎ。俺は夏目さんと会話をしながら、大型家電量販店の掃除機コーナーを歩いていた。俺や由香利さんは香月社長から聞くまで知らなかったのだが、研究熱心な彼女は『髑髏男爵』という登録名のライフストリーマー……ホワイトノーツへの所属を希望してきた人物のことを知っていたらしい。さすがだぞ。

 

今日は昼食を食べた後で事務所を出て、夏目さんの買い物に付き合っているのだが、その途中で先日電話をくれたライフストリーマーの話題を投げてみたわけだ。ちなみにこの後は百円ショップとスーパーにも寄る予定でいる。マンションに戻ったら撮影の補助をして欲しいとのことだったし、全部終了したらそのまま帰宅になりそうだな。

 

立ち止まってスティック型の掃除機をチェックしながら応答してきた夏目さんへと、俺も足を止めて相槌を打つ。昔はキャニスター型ばかりだったのに、今はもう売り場の割合がスティック型優勢になっているようだ。俺もそろそろ買い替えるべきかな? 短大時代からずっと使っている掃除機、吸いが悪くなってきているし。

 

「まだチャンネルの登録者数は五万ほどなんですが、再生数の平均は高めなようです。そういうこともあるんですね。」

 

「結構ありますよ。頻繁に投稿してない人だったり、チャンネル内のジャンルがバラバラだったり、娯楽というか『参考になる動画』をメインにしてる人に多いパターンですね。登録者数は広告収益の単価にも影響してくるので、もちろん多ければ多い方が良いんですけど……でも、それだけが基準じゃないと思ってます。総再生数とかトラフィック量とかと同じように、一つの目安ってくらいに見ておくのが一番です。」

 

「勉強になります。……香月社長によれば、フォーラムに来た時点では本格的に仕事にするかを迷っていたらしいんです。その頃はまだ初投稿から三ヶ月しか経っていなかったそうですから。だけど半年近くやってみて手応えを感じたので、今回連絡してきてくれたようですね。」

 

髑髏男爵さんは三十代前半の女性で、何というかその……『ブス』であることを売りにしているライフストリーマーだ。今年の春までは銀行員をしていたものの、解雇されてしまったので現在は貯金を切り崩して生活しているらしい。何だか親近感が湧いてくる境遇じゃないか。

 

メインの動画はコスメやファッション系で、最近は商品紹介や企画ものにも手を出しているようなのだが……まあ、インパクトがある容姿ではあったな。一度見たら忘れられないレベルの特徴的な顔立ちだったぞ。

 

メイクの動画では冷静な口調で見事な技術を披露しているのに、企画ものになると尋常じゃないハイテンションになるのも面白かったし、これから伸びていきそうだという点には同意できるけど……動画で見た限りだと性格も独特っぽかったから、最初のうちはマネジメントに苦労するかもしれない。

 

とはいえキャラを作っている可能性もあるので、実際に会ってみなければ細かい部分は判断できなさそうだ。宮城在住らしいから俺たちが行くか向こうに来てもらうかはまだ未定だけど、香月社長は近々直接話し合うつもりだと言っていたし、その時の雰囲気でマネジメントの初期方針を定めよう。何事も先入観で決めてしまうのは良くないはず。

 

もし話が上手く進めば、モノクロシスターズ以来四ヶ月振りの新規クリエイター所属になるな。初心を忘れず丁寧にいこうと考えている俺に、夏目さんが掃除機の値札を確認して苦く笑いながら声を上げた。

 

「私なんかの判断じゃ参考にならないでしょうけど、どこかの段階で一気に伸びるかもしれませんよ。髑髏男爵さんの動画からは『誰かに見せよう』って意図がきちんと伝わってきますから。……これは高すぎますね。出せて三万円なので、七万円代は絶対無理です。」

 

「誰かに見せる動画、ですか。」

 

「最近は増えてきてますけど、昔のライフストリームはそういう動画が少なかったんです。どっちかって言うと『ホームビデオの保管庫』って雰囲気でした。自分のための動画を、一応他人も見られますよって感じの。」

 

「原始的な動画共有サイトの形ですね。」

 

そこが出発点なわけか。次の掃除機をチェックしながら唸っている俺へと、夏目さんはこっくり首肯して口を開く。

 

「それから徐々にアメリカで『見せる動画』が広まり始めて、今は日本でも増えてきてるって状態ですね。ショーとしての動画って言うべきなのかもしれません。……例えばこの掃除機を映す時に、こうやって普通に撮りながら『コードレスの掃除機です』って喋るのが昔の動画です。ただ説明するだけっていうか、客観的に記録として撮影してるっていうか、一、二年前まではそういう動画が殆どだった気がします。」

 

掃除機にビデオカメラを向けている風のポーズで解説した夏目さんは、続けて今の動画についてを語ってきた。先程は掃除機に対して構えていた『エアカメラ』で、今度は掃除機と自分が両方収まるように自撮りしながらだ。

 

「それで、今の動画がこうです。……今日は電気屋さんに掃除機を見に来ました! こちらがお目当ての最新式の掃除機になります。コードレスタイプでとっても軽そうですね。」

 

やや高めのテンションで実演すると、夏目さんはこちらに向き直って小首を傾げてくる。

 

「どうでしょう? 違い、伝わりますか?」

 

「言わんとしていることは分かります。今主流の動画は、カメラの向こう側を意識しているわけですね?」

 

「んー……そうですね、大体そんな感じです。視聴する側を楽しませようって意思とか、自分じゃない誰かが見るんだって意識とか。そういうのが最初に持ち上がってきて、広告収益のシステムが出てからはそこに『プロ意識』が加わったんだと思います。前までは究極、自己満足の世界でしかありませんでしたから。だけど収入が生まれて仕事になるようになったから、責任感や向上心を持ったライフストリーマーが増えてきてるんじゃないでしょうか?」

 

「『動画の共有保管庫』から、『見せるためのメディア』に発展したわけですか。開発者の狙い通りなのかもしれませんね。」

 

七月末のフォーラムで聞いた話からするに、ライフストリームを開発した目的はむしろ後者であるはずだ。前者もまあ、中立的な記録の保管という視点で見れば評価されるべき方向性だが……エンターテインメントとしての性質を求めるなら後者だろうな。パーカー氏たちの『テレビスター殺害計画』は順調に進行しているらしい。

 

うーむ、前職の主戦場が民放だった俺としては複雑な気持ちになるぞ。確かに民間放送は問題を多々抱えているし、その一側面の所為で俺は職を追われたわけだが……しかし当然ながら、情熱を持って働いている人もきちんと存在していたのだ。誇りある報道を目指す人たちや、心から面白さを追求している作り手たちが。

 

古き王者が王座を守り抜くか、新たな挑戦者が簒奪するか。何れにせよライフストリームはまだまだ成長途上だし、決戦は今からずっと先の話だろう。俺が眉根を寄せてメディアの戦いのことを思案していると、夏目さんが棚の掃除機の中の一台を持ち上げながら応じてきた。

 

「私はそれを、凄く良い流れだと思ってます。見せる動画を上げるライフストリーマーが増えていけば、利用者もどんどん増えてくれるはずですから。……うあ、重いですね。買おうか迷ってた掃除機なんですけど、思ってたより重いです。これなら紙パックのやつの方が使い慣れてていいかもしれません。」

 

「こっちのはどうですか? デザインが似ていますし、『店員オススメ』らしいですけど。」

 

「三万四千円ですか。……予算的にキツいですね。少しずつ貯めてた貯金が引っ越しですっからかんです。本当は新しいアイフォンを買って紹介するつもりだったんですけど、それも無理になっちゃいましたし。」

 

「あー、ロータリーさんがレビュー動画を上げていましたね。」

 

『iPhone 4S』か。豊田さんは先週の発売日に名古屋の店舗に並んで買って、その日のうちにレビュー動画を上げていたな。夏目さんも件の動画を視聴済みのようで、悔しそうな面持ちで小さく頷いてくる。

 

「その動画、見ました。私も銀座のお店に並んで買うのを動画にしたかったです。……来年5が出る時は必ずやります。最新スマホの紹介動画はもう、レビュー系ライフストリーマーの定番になりつつありますから。」

 

「生活に直結している物のレビューは視聴され易いですし、流行に乗るという点も重要ですからね。」

 

「欲を言えば『流行を作り出す側』で居たいんですけどね。雪丸さんとかはそれを目指してるみたいですし、そっちの方がライフストリーマーとして一流なんだと思うんですけど……今の私じゃちょっと難しそうなので、暫くは乗っかる側で動いていきます。」

 

ああ、確かに深雪さんは作り出す側と言えそうだ。『誰もやったことがない』を積極的に目指している気がするぞ。代表動画である『革靴を食べよう!』の他にも、『ポテトチップスを芋に戻そう!』とか『巨大サボテンの針を漬物にしよう!』といった独特な動画をいくつもアップロードしていたな。

 

日本ではまだやっている人が少ない『シナモンチャレンジ』の動画も真っ先に上げていたし、最近だとダチョウの卵を使って巨大な目玉焼きを作っていたっけ。派手で興味を惹く内容だったから、あれは乗っかるライフストリーマーが出てくると思うぞ。

 

だけど、ダチョウの卵なんてどこからどうやって仕入れたんだろう? 今度聞いてみようかなと考えている俺に、夏目さんはキャニスター型のコーナーに移動しつつ話を続けてきた。

 

「流行を作るのは無理でも、アンテナを張っておけば流行り出す直前にキャッチできるはずなので……先ずはそこを目指してみます。早めに察知して、自分流に取り入れていきたいです。」

 

「夏目さん流となると、料理に活かしたりですか?」

 

「そうですそうです、そんな感じです。流行ったものをそのままやるだけじゃ埋もれちゃいますからね。雪丸さんほどの独特さは出せないので、私は代わりに親近感を出していきます。……流行の『グレードアップバージョン』をやるのがベストなのかもしれません。それもそれで難しくはあるんですけど。」

 

「グレードアップバージョン?」

 

よく分からなくて首を捻っている俺へと、夏目さんは分かり易い説明を口にする。少し前に流行った『科学実験』を例に出す形でだ。

 

「例えばメントスコーラが流行ったなら、『お風呂一杯のコーラに大量のメントスを入れてみた』とか、『メントスじゃなくて重曹でやってみた』とかをやるんです。……だって、メントスコーラは別に誰でも出来ちゃうわけじゃないですか。そんなの動画にしたって面白くないですよ。誰もが手軽に試せる身近な流行を、普通はやらない規模でやるのが大事なんだと思います。それなら『知ってる』って親近感と、初めて見る『驚き』の両方を取れますから。」

 

「……夏目さんは親近感に寄せて、雪丸さんは驚きに寄せているわけですか。」

 

「ざっくり言えばそうですね。でもスタートは多分正反対です。私は親近感から驚きに近付けてて、雪丸さんは驚きから親近感に近付けてるんですよ。誰もが知ってることを誰もやらない形でやるか、誰もやろうとしなかったことを誰もが知ってる形で表現するかの違い……じゃないでしょうか? 雪丸さんがそういう風に意識してるかは分かりませんけど、私はそう考えてやってます。」

 

「……夏目さんの『分析』を聞いていると、自分の経験不足を痛感します。俺は正直なところ、そこまで深く考えていませんでした。」

 

たまにこうやって夏目さんの実力を思い知るな。動画越しにはのほほんとやっているように見えて、その実彼女は物凄く熱心に研究や分析を重ねているのだ。才能でも発想力でも先見性でもなく、地道で堅実な努力の人。それがマネージャーの立場から見た『さくどん』だぞ。

 

未だパートナーとして追いつけていないことを悔しく思っていると、夏目さんは困ったような笑顔で返答してきた。

 

「私はちょっとだけ先に始めたってだけですよ。それに駒場さんにはライフストリーマーじゃなくて、マネージャーさんとしての目線でアドバイスして欲しいんです。何ていうかその、『社会人』のアドバイスを。そこは私には無い部分ですから。」

 

「……はい、先ずはそれを目指してみます。ライフストリーマーとしての目線を磨くのは、マネージャーとして一人前になってからですね。」

 

両方やるとなるともうマネージャーではなく、プロデューサーの領分だろう。……でも、香月社長からはいつかプロデュースもやって欲しいと言われているんだよな。数年先の話になりそうだが、そっちの土台もコツコツ作っておかなければ。

 

クリエイターたちを補佐しつつ、自分も成長していかなければならない。そのことを肝に銘じている俺に、夏目さんが思い出したように新たな話題を振ってくる。

 

「あっ、そう。いきなり関係ない話になっちゃうんですけど、駒場さんに一つ相談がありまして。私、ツイッターを始めようと思ってるんです。」

 

「ツイッターですか。」

 

「はい、昨日の夜に叶が『やったら?』って提案してくれたんですよ。私はそういうのに詳しくないので、今まで手を出してこなかったんですけど……さすがにもう、やらないとマズいかなと思いまして。大分流行ってきてるみたいですし。」

 

うーん、SNSか。特に『Twitter』は若年層の利用率がかなりの勢いで伸びているようだし、プロモーションの場としては魅力的なものの……マネージャーとしては悩みの種なんだよな。コメットの担当をしていた時、メンバーの一人が『mixi』や『Facebook』で一度炎上しかけたぞ。ちょっとした失言が火種になって、一瞬にして騒動に発展したのだ。

 

何とか本格的に燃え上がる前に消せたけど、あの時は全くもって大変だった。上司からはしっかり見張れと激怒されて、擁護派のファンと批判派のファンで苛烈な論争が起こり、メンバー間でも解散に繋がりかねないレベルの大喧嘩が勃発したっけ。

 

その後紆余曲折あった末、最終的には雨降って地固まる結果になったけど……俺としては大反省の事件だったな。当時の俺はSNSに疎かったので、投稿のチェック等を行っていなかったのだ。責任を感じてめちゃくちゃ落ち込んだし、殆どトラウマになっているぞ。

 

そんな苦い思い出が蘇ってきて渋い顔になっている俺に、夏目さんがおずおずと問いを寄越してくる。

 

「……あの、ダメでしょうか? 駒場さんがダメって言うなら、やめておきますけど。」

 

「いえいえ、ダメではないんですが……まああの、芸能マネージャー時代に良くない思い出がありまして。それが頭をよぎってしまったんです。」

 

「あー……なるほど、何となく分かります。炎上的なあれですか。」

 

「そういうやつです。夏目さんなら慎重に投稿するでしょうし、大丈夫だとは思うんですが……最初のうちは一応、投稿内容のチェックをさせてもらえませんか? あくまで念のために。」

 

申し訳ない気分で尋ねてみれば、夏目さんはあまり気にしていない感じにこくんと首肯してきた。囚人じゃあるまいし、こっちとしても自由にやらせてあげたいのは山々なのだが、ある程度有名な人物の発言は『まさかの致命傷』に繋がることが有り得るのだ。情報化社会における『有名税』だな。

 

「はい、それはこっちからお願いしようと思ってました。動画と同じで自分じゃ問題に気付けないこともあるでしょうし、出来ればチェックしてもらいたいです。」

 

「すみません、窮屈でしょうけどよろしくお願いします。」

 

「いえあの、そんなに気にしないでください。こっちから頼んでるんですから。……それにですね、暫くは動画を投稿しましたよってお知らせにしか使わないはずです。私ってそういうのが本当に苦手なので、叶に教えてもらわないとまともに使えないと思いますし。」

 

「……叶さんはやっているんですか? ツイッター。」

 

何となく意外だなと思いながら質問してみると、夏目さんは首を縦に振って肯定してくる。やっているのか。

 

「アカウントを教えるのは嫌だけど、やってはいるって言ってました。……朝希ちゃんとか小夜ちゃんはやってないんですか? ピンポイントで流行ってる世代だと思うんですけど。」

 

「モノクロシスターズとしてはやっていませんね。何と言えばいいか、朝希さんが……『素直すぎる』ということで、小夜さんが利用を制限しているんじゃないでしょうか?」

 

恐らくそうだと思うぞ。しかし小夜さんは個人的なアカウントでやっていそうな気配があるし、今度勉強のために聞いてみようかな。ライフストリームと同様に、SNSもこれからどんどん広まっていくだろう。ライフストリーマーとSNSは切っても切れない縁になりそうだから、きちんと調べておかなければ。

 

新たな課題を発見しつつ、掃除機を横目に話題転換を放つ。同じキャニスター型でもサイクロン式か紙パック式かの違いがあるようだ。頻繁に買う物ではないから普段は意識しないけど、こうも種類が豊富だといざ買う時になって迷いそうだな。掃除機のレビューも需要はあるわけか。記憶しておこう。

 

「そういえば、お二人も髪を染めるつもりらしいんです。染めるというか、インナーカラーを入れたいんだとか。夏目さんも染めるなら一緒にどうかと朝希さんが言っていました。」

 

「あっ、それはありがたいです。二人はカラーに慣れてそうですし、私は美容院が少しだけ……あの、苦手なので。一人で行くのは不安かなって思ってました。」

 

「折角ですし、動画にしてみますか?」

 

「いいですね、二回目……ゲーム対決を入れると三回目? のコラボ動画にしてみたいです。」

 

となると、美容室の撮影許可が取れるかどうかだな。取れなくても構成は出来そうだが、過程も映せるに越したことはないはず。双方とやり取りしつつ店を探してみるか。当たって砕けろの精神で交渉してみよう。

 

───

 

そして途中カフェでの休憩を挟んだ二時間後。俺たち二人は掃除機の箱や買い物袋を両手に抱えた状態で、夏目さんの新居の玄関を潜っていた。電気屋では掃除機と細々としたケーブル類しか買わなかったのだが、百円ショップとスーパーで大量に買い込んだな。ビニール袋の持ち手が手に食い込んで痛いぞ。

 

ガチャリと閉じたドアを背に革靴を脱いでいると、先に廊下に上がった夏目さんが荷物を床に置きながら口を開く。

 

「うぁ、重かったです。すみません、何か凄い買い物になっちゃって。」

 

「徒歩でこれを持ち帰るのは大変でしょうし、車を出せるタイミングで買っておくべきですよ。リビングまで運びますね。」

 

ちなみに際立って重いのは、今俺が持っている二リットルのミネラルウォーターが三本入っている袋だ。夏目さん曰く、叶さんはこの銘柄しか飲まないので常備しているそうなのだが……水の味の違いなんてよく分かるな。東京は水道水がいまいちなので、さすがにそれとミネラルウォーターの違いは俺にも分かるけど、ミネラルウォーター同士だと判別できないぞ。姉妹揃って舌が繊細らしい。

 

これは遺伝の所為なのか、それとも育った環境が影響しているのかを思案しながら、廊下を抜けてリビングに入室してみれば……うわ、もう学校から帰ってきていたのか。さくどんチャンネルの象徴たる白い座卓の前のクッションに座っている、制服姿の叶さんが目に入ってくる。ソファやダイニングテーブルは貯金が貯まってから購入するということで、現在は実家から持ってきた『撮影セット』を食卓にして生活しているようだ。

 

「お帰りなさい、駒場さん。どうですか? 私の制服姿。何気に見るのは初めてですよね?」

 

「……どうも、叶さん。お邪魔しています。よく似合っていますよ。」

 

「ありがとうございます。私服より中学生っぽさがあって良いでしょう? 特別感、ありますよね?」

 

何だ『特別感』って。自分が着ているジャンパースカートタイプの黒い制服を示しつつ、謎の発言に困っている俺に対して愉悦の薄笑いを浮かべた叶さんは……続いて入ってきた夏目さんを見てパッと無表情に変わったかと思えば、立ち上がってこちらに歩み寄ってきた。一瞬で表情と雰囲気が変化したな。彼女は役者の才能を持っているらしい。

 

「お姉、お帰り。荷物持つよ。水、重かった? ごめんね。」

 

「大丈夫、駒場さんが持ってくれたから。安かったし、三本買ってきたよ。」

 

「ありがと。学校帰りに寄れそうなコンビニを回ってみたんだけど、どこにも売ってなかったの。今度スーパーも見てみるね。」

 

「でも、平気だよ? 叶は勉強で大変だし、こういうのは暇なお姉ちゃんが買ってくるから。」

 

円満な会話だな。夏目さんからは見えないように、叶さんがニヤリと俺に笑いかけてきているのを除けばだが。……つまり彼女は、『きちんと約束は果たしているぞ』ということを伝えたいわけか。

 

そんな二人を眺めつつ、掃除機の箱や買い物袋をキッチンの近くに置いたところで、叶さんが座卓の横のスクールバッグを回収しながら声を上げる。ネイビーで四角いフォルムのあのバッグだ。俺も中学の頃に使っていたな。ちょっと懐かしくなってしまうぞ。

 

「お姉、これから撮影するんだよね? その前に少しだけ駒場さんと話してもいい? 相談に乗って欲しいの。」

 

「相談?」

 

「うん、進路の相談。駒場さんは頼りになる人だし、大人だから。色々聞いて欲しくて。」

 

「あっ、そういう。……駒場さん、お願いできますか?」

 

ああほら、早速来たぞ。夏目さん経由で頼んでくるのに、諦観の気分で了承を返す。ここで渋ったところで無駄だろう。時間をかけてじりじりと追い込まれるだけだ。であれば覚悟を決めて対峙した方がいいはず。

 

「分かりました、リビングで話しますか?」

 

「もちろん私の部屋でです。大事な話なんですから、二人っきりでじっくり話しましょう。……さあ、駒場さん? 来てください。」

 

「……はい。」

 

「じゃあ私、片付けと撮影の準備をしておきますね。」

 

何も知らない夏目さんの明るい声を背にして、叶さんの先導で廊下を抜けて彼女の私室に入った瞬間──

 

「……はい、ベッドに座ってください。早く。」

 

スクールバッグを床にどさりと落としてから、カチャリと後ろ手にドアの鍵を閉めた叶さんが、冷たい声色で指示を出してきた。いきなり苛々している様子になったな。超怖いぞ。どうしてそんなに不機嫌なんだ。

 

「あの、叶さん? 何故そんなに機嫌が悪──」

 

「お姉との『仲良し姉妹ごっこ』のストレスに決まってるじゃないですか。マジで苛々しますよ。実の姉妹なのに気を使い合って、譲り合って、無駄に褒め合って……あのやり取り、本当に苦痛なんです。いいからベッドに座ってください。」

 

文句を呟きながらぐいと背中を押してきた叶さんは、ブラウンの掛け布団が敷かれたベッドに腰掛けた俺を見下ろして口の端を吊り上げた後、目の前に立ったままで唐突すぎる命令を送ってくる。マズいな、流されているぞ。このままだと前回の二の舞だし、しっかり抵抗しなければ。

 

「じゃあはい、着替えさせてください。」

 

「……はい?」

 

「あれ? 聞こえませんでした? 私の制服を脱がせて、部屋着を着せて欲しいって言ってるんですけど。」

 

首を傾けながら『どうぞ』と両手を広げている叶さんに、弱り果てた思いで拒否の返事を飛ばす。着替えさせる? 余所の家の中学生の娘さんを? そんなこと出来るわけがないだろうが。

 

「無理です、出来ません。」

 

「へぇ? 今日はちょっと強気じゃないですか。冷静になって考え直して、今度こそ抵抗しようって決意してきたとか? 説得の方法、頑張って考えてきたんでしょう? ……でも、残念。こっちだってその程度のことは予想済みなんですよ。」

 

うわぁ、完璧に読まれているな。言い当てられて怯んでいる俺へと、叶さんは何とも楽しそうな面持ちで続きを語ってきた。随分と魅力的な笑顔じゃないか。状況が状況だから全然喜べないが。

 

「駒場さん、お姉がSNS始めるって話は聞きました? 今朝学校に行く前、マネージャーの駒場さんに相談しろって言っておいたんですけど。」

 

「……聞きましたが、それがどうしたんですか?」

 

急に話題が移ったな。俺の横にぽすんと腰を下ろした叶さんに頷いてみれば、彼女は至近距離からこちらの顔を覗き込みつつ話を続けてくる。

 

「お姉は疎いから、アカウント作成とかは全部私が手伝うわけなんですけど……あれ? そうなると私、お姉名義で発言し放題ですね。こっそり下着姿の写真とか撮って、載せてみせましょうか? 『さくどん』はまあまあ有名ですし、ネットニュースになるかもしれませんよ?」

 

「……正気ですか?」

 

「私だってやりたくはありませんよ。身内の恥を晒すわけですし、そこまでやると絶縁ものですから。……けど、ストレスでおかしくなったらやっちゃうかもしれません。そして今の私はおかしくなる寸前です。」

 

「叶さん、お願いですから……お願いですからやめてください。そんなことをすれば、夏目さんは傷付くどころじゃ済みませんよ? ネットに出たものは一生残るんです。取り返しが付かないような心の傷になってしまうかもしれません。」

 

何てことを考えるんだ。ゾッとしながら懸命に説得する俺を目にして、叶さんは我慢しきれないとばかりににやっと笑った後……強引に俺をベッドの上に押し倒したかと思えば、腰の部分に馬乗りになって耳元で囁いてきた。

 

「立場、改めて理解できましたか? 私がその気になればそういうことも出来ちゃうんです。今更全部を打ち明けて、お姉に警告したって無駄ですよ。一番身近な家族ですからね。方法なんていくらでも思い付きます。……だけど駒場さんがストレス解消に付き合ってくれるなら何も起こりません。学校でも家でも波風を立てずに過ごせそうです。どうです? やる気になりました?」

 

「……服を着替えさせればいいんですね?」

 

「はい、良い子。最初からそうすればいいんですよ。無駄な抵抗されると面倒なので、これからは素直に従ってくださいね? 私は浅知恵で歯向かおうとする生意気な駒場さんじゃなく、素直で従順な可愛い駒場さんが好きなんですから。……じゃあ、どうぞ。脱がせてください。」

 

前半を妙に優しげな声で言った叶さんは、ころりとベッドに横になって再度指示を出してくる。身を起こしてその姿を横目にしてから、心中で巨大なため息を吐いてのろのろと動き始めた。……あんな脅しをされたら従う他ないじゃないか。俺は一体どうすればいいんだ。

 

解決策を見出せないままで叶さんのジャンパースカートを脱がせていると、彼女は脱力した状態でクスクス微笑みながら『アドバイス』を告げてくる。

 

「ここは私の部屋です。そして私と駒場さんしか居ません。だから世間一般の常識とか、道徳とか、法律とかからは切り離された空間なんですよ。そういう余計なものは頭から追い出しちゃってください。そうすれば楽になれますから。」

 

「……そんなことは出来ません。」

 

「ふぅん? 真面目ですね、駒場さんは。誰も見てないんだから、もっと楽しめばいいのに。私は今、めちゃくちゃ興奮してますよ。スーツ姿の大人の男の人に、自分のベッドの上で服を脱がされてるだなんて……ぁは、やば。最高です。」

 

「……まさか叶さん、こういうことを日常的にやっているわけじゃないですよね?」

 

インモラルすぎる台詞を耳にして、彼女の日常生活が心配になって問いかけてみれば、叶さんは半眼で否定を寄越してきた。そういうわけではないらしい。ホッとしたぞ。

 

「ひょっとして駒場さん、私が『パパ活』とかしてるんじゃないかって思ってます? そんな頭が悪いことしてませんからね? 勘違いされるのは困るので言っておきますけど、別に大人の男性に興味があるわけじゃないですから。駒場さんがお姉の大事なマネージャーだからこんなことをしてるんですよ。」

 

「しかしですね、私に襲われたらどうするつもりなんですか? もっと警戒心を持つべきです。」

 

「襲わないでしょ、駒場さんは。何回も接してみてそうだと判断したから行動に移したんです。考えなしのバカ扱いしないでください。……だって駒場さんは『真人間』ですもんね? 気持ち悪いったらないですよ。普通ここまですれば下心の一つくらいは覗かせるはずなのに、駒場さんは今も欲望ゼロじゃないですか。前にも同じような話をしましたけど、正直不気味です。性欲自体はあるって言ってましたし、もしかしてゲイだとか?」

 

「……一応、恋愛対象は女性です。」

 

肩紐……と呼ぶべきなのか? とにかく肩の部分を外して、慎重にジャンパースカートを腰まで下げながら回答した俺に、上半身がブラウスだけになった叶さんは訳が分からないという表情で会話を継続してくる。

 

「なら、駒場さんは私が知る中でもぶっちぎりの異常者ですね。真人間ほど異常な人間は居ないんです。見せかけだけのヤツなら沢山居ますけど、駒場さんみたいに『マジの真人間』はそう居ません。……というか、何でそんなにゆっくりゆっくり脱がしてるんですか? 躊躇ってたって何も解決しないんだから、さっさと脱がせてくださいよ。心配しなくても下は体操着の短パンを穿いてます。」

 

「……では、失礼します。」

 

「ええ、とっとと失礼してください。……これは本気の疑問なんですけど、駒場さんは中学生相手だと興奮しないんですか?」

 

「しません。未成年ですから。」

 

断言しつつスカート部分をひと思いに抜き取ってみれば……穿いていないじゃないか、体操着。黒いリボンが付いたグレーの下着が視界に映った。それから反射的に目を逸らしていると、叶さんは興味深そうな面持ちで上体を起こしながら口を開く。平然とした口調でだ。

 

「それって病気ですよ、病気。『道徳や良識には従わなきゃいけない病』。言っておきますけど、世間の人たちはそこまで真摯に従ってませんからね? 駅とかを歩いてると、スーツ姿のいい大人がどこ見てるかなんてすぐに分かるんですよ。こっちが呆れるくらいにスカートの中を見ようとしたり、胸をちらちら見てきますから。当人は隠してるつもりでも、見られてる側からするとバレバレなんです。……なのに、駒場さんからはそういう視線を一切感じません。気味が悪いですよ。どういう人生を歩んだらそうなるんですか?」

 

「特筆すべきことのない、普通の人生です。……そんなことより、隠して欲しいんですが。短パンなんて穿いていないじゃないですか。」

 

「あれは嘘です。学校では穿いてましたけど、家に帰った後で上着と一緒に脱いじゃいました。文句を言ってないで早くブラウスも脱がせてくださいよ。そしたら部屋着の場所を教えてあげますから。……あ、また良いことを思い付きました。姉から取っちゃうついでに、私が駒場さんの価値観を矯正してあげます。姉好みの駒場さんから、私好みの駒場さんに変えちゃうんです。」

 

「……ブラウス、脱がせますね。」

 

隠す気がないなら、一刻も早く終わらせて部屋着とやらを着てもらおう。急いでブラウスのボタンを外している俺に、叶さんは楽しげな雰囲気で意味不明な『計画』を語り続ける。そもそも俺は『夏目さんのもの』じゃないぞ。だったら奪うも何もないだろうに。

 

「駒場さんの身も心も奪っちゃえば、お姉は今度こそ本気で私に怒るかもしれません。悔しがって、大泣きして、マジギレするでしょうね。……ゾクゾクしてきました。興奮しすぎて鼻血が出そうです。」

 

「……脱がせ終わりましたよ。部屋着はどこですか?」

 

「靴下が残ってますよ、駒場さん。私、外で着てた服を家でも着るのは嫌なんです。駒場さんにやらせようと思って我慢して着替えないでおいたんですから、最後まできっちりやってください。」

 

「……はい。」

 

わざわざ我慢して待っていたのか。やめて欲しいぞ。パンツとお揃いの色のノンワイヤーブラ姿で要求してくる彼女に首肯して、小さな足から白い靴下を脱がせてやれば……完璧に下着だけの格好になった叶さんは、大きく伸びをしつつベッドの上にぺたんと座り直した。挑発するような薄い笑みを浮かべながらだ。

 

「んっ……ふふ、どうですか? さすがに興奮します?」

 

「しません。部屋着を出してください。」

 

「へぇ? 矯正するの、結構苦労しそうですね。……まあ、時間をかけて徐々に徐々にやっていきましょうか。これですよ、着せてください。」

 

言葉と共に叶さんがクローゼットから出した服……ふわふわした生地で上下セットの柄の、長袖のシャツとショートパンツのルームウェアだ。それを手早く着せてからもこもこの靴下も履かせてやると、彼女は最後に頭をずいと突き出して催促してくる。

 

「髪も結んでください。やり方、分かります? うなじの上で、簡単に一つに結んでくれれば充分なんですけど。」

 

「分かります。……これでいいですか?」

 

朝希さんが頼んでくることが多いので、軽く結ぶくらいならパパッと出来るぞ。黒いミディアムヘアをパイルのヘアゴムで結んでやれば、叶さんは手で髪をチェックした後……何をするんだ。いきなり俺の頭をガバッと抱き寄せてきた。

 

「あれ、案外上手いじゃないですか。……はい、上出来ですよ。よく出来ました。よしよし、良い子良い子。」

 

「……叶さん、急に何を──」

 

「黙って撫でられてください。……よく頑張りましたね、駒場さん。偉いですよ。えらいえらい。」

 

何なんだこの急激な態度の変化は。ついて行けなくて混乱している俺の頭を、叶さんはベッドに倒れ込んで撫で続ける。耳元に口を寄せて甘い声色で囁きながらだ。

 

「私の匂い、分かりますか? これが『ご褒美の匂い』ですから、きちんと覚えてくださいね。……ほら、力抜いて。全身を私に預けてください。気持ち良いでしょう? こうやって抱き締められてると、安心してとろんとしてくるでしょう? 良い子、良い子。」

 

「……あの、何をしているんですか?」

 

「私の言うことにしっかり従えたから、可愛い駒場さんにご褒美をあげてるんですよ。私がいいって言うまで喋らないで、とろとろにリラックスしてください。……はい、そうです。それでいいんです。ちゃんと言うこと聞ける駒場さんは良い子ですね。よしよし、偉いぞ。」

 

耳元というか、もう完全に耳に唇をくっ付けて喋っている叶さんは、黙った俺のことをギュッと抱き締めながらこしょこしょ声で褒めてくるが……ああもう、ダメだ。状況が本当に分からん。困惑の極地だぞ。

 

脅して足にキスさせて、無理やり自分の着替えをやらせて、異常者扱いしたかと思えば抱き締めながらベタ褒めする? 思考回路が大迷宮じゃないか。複雑すぎるにも程があるぞ。意図を全く掴めなくて呆然としている間にも、叶さんの吐息と声が俺の耳の中に侵入してきた。

 

「力、抜けてきましたね。そのまま全部私に預けてください。……ほら、気持ち良い。私の言うことを聞くと、こんなに気持ち良くなれるんです。もっともっと素直になれば、もっともっと気持ち良くなれますよ。今の駒場さん、可愛くて大好きです。好き、すきすき。だーいすき。」

 

叶さんは俺の頭を胸元に抱いて、蕩けるような声色で好きを連呼しているわけだが……これ、ちょっと怖いぞ。意味不明すぎて段々怖くなってきたかもしれない。まさかこの子、二重人格とかじゃないよな?

 

「好き。すーき。……私の心臓の音、聞こえますか? ドキドキしてますよね? 駒場さんのことが好きだからですよ。すきすき、大好き。」

 

絶対嘘じゃないか、そんなの。幾ら何でもこの流れで『そっか、叶さんは俺のことが好きなんだ』となったりはしないぞ。頭を包む柔らかくて優しい体温と、眠気を誘う心地良い香りと、右耳から聞こえてくるトクトクという心臓の音と、左耳を擽る甘い囁き声。それに頭がぼうっとしそうになるのに、理性の警告を頼りにして抗っていると──

 

「はい、終わり。……あれ、あんまり嬉しくありませんでしたか?」

 

パッと俺の頭を解放した叶さんが、こちらの表情を見てやや不満そうに尋ねてくる。……他の誰かに同じことをやられたらともかくとして、叶さんの場合は疑いが先行するぞ。疑念も持たずに喜ぶわけがないじゃないか。

 

「嬉しくないというか……その、意味が分かりませんでした。」

 

それに尽きるぞ。自身の感情を正直に伝えた俺に、叶さんは小さく……うわぁ、舌打ちだ。この年頃の女の子に舌打ちされるときっついな。舌を鳴らした後でやれやれと首を振ってきた。

 

「これだけやってその反応ですか。……まあ、別にいいですけどね。初回ですし、こんなものでしょう。」

 

「……初回? 『次回』もあるということですか?」

 

「そういうことです。少しレベルを上げてみますから、次の『ご褒美』も楽しみにしておいてください。……じゃあほら、お姉に怪しまれないように髪を整えて。駒場さんは私が嫌いな『ワックスベタベタ人間』じゃないみたいなので、今のままでもまあ大丈夫ですけど、次来る時はヘアワックス一切無しで来てくださいね。そっちの方が好きなので。」

 

「……はい。」

 

『レベルを上げる』という発言に怯えつつ、ベッドから離れて髪を整えていると、叶さんは一瞬だけ黙考した後で次なる指令を送ってくる。これはもう、本当に早く解決しないとマズいな。エスカレートしていく前に歯止めをかけなければ。

 

「あと、折角だから最後に私の舌を引っ張ってください。ぐいって。遠慮せずに。」

 

「……はい?」

 

ああ、俺の人生の中でこれほど訳の分からない状況が他にあっただろうか? 遠い昔、遥か彼方の銀河系に居た生命体と会話している気分になってくるな。思考がストップした状態で聞き返した俺に、叶さんはちろりと出した真っ赤な舌を示してきた。

 

「舌ですよ、舌。私の舌を掴んで、ぐいっと引っ張るんです。」

 

「いや……しかし、何のためにですか?」

 

「それを駒場さんが知る必要、あります? 私がやれと言ったらやるんです。疑問も理由も必要ありません。……さあ、早く。これで最後ですから。」

 

「……分かりました。」

 

俺は一風変わった考え方をする人に何度も会ってきたし、仕事の関係上奇妙な価値観を持つ人と付き合うこともあったのだが……もしかすると、この子は断トツで『変な人』かもしれないな。未知との遭遇だぞ。

 

何にせよ早く『常識の世界』に帰還したいから、もう深く考えずにやってしまおうという一心で、恐る恐る手を伸ばして舌を掴んでそっと引っ張ってみれば……叶さんは不機嫌そうなジト目になった後、俺の手を舌から退けて注意を飛ばしてくる。ベッドの縁に座り直して、反対側の部屋の壁を指差しながらだ。

 

「力が弱すぎますよ。もっと真面目にやってください。私がここに座りますから、あっちまで無理やり引っ張っていく感じでお願いします。犬のリードを引く感覚で。」

 

「……あ、はい。じゃああの、やりますね。」

 

『真面目に舌を引っ張る』というのがもう分からないぞ。泣きたい思いで言われるがままに舌をしっかり掴んで、壁までぐいぐい引っ張ってみると──

 

「あっ、ぁ。……ふぁ、ん。」

 

変な声を出しながら少しだけ力を入れて抵抗していた叶さんは、壁に到着して舌から手を放した俺に……ぷるるっと震えつつ『オーケー』を知らせてきた。実に満足げな笑みでだ。

 

「ぁは、んふふ。……はい、もういいですよ。先にリビングに戻ってください。私は駒場さんが出て行った後に着替えたことにしますから、少し時間を空けて戻ります。」

 

「……では、失礼します。」

 

「今日のこれで一週間は良い気分で過ごせるので、暫くは演技を続けられそうです。……けど、またストレスが溜まったらよろしくお願いしますね? 分かったら早く出てください。私はやることがあるので。」

 

やること? 言いながらぐいぐい背を押されて、応答する間も無く部屋から追い出されてしまうが……よし、深雪さんに相談しよう。俺はもうお手上げだ。無理無理、分からん。叶さんの行動も、意図も、理由も、感情も、心の底からちんぷんかんぷんだったぞ。

 

解決するどころかむしろ悪化してしまったことに落ち込みながら、ひどく疲れた心境でリビングに入室してみると、キッチンスペースで何かをしている夏目さんの姿が見えてくる。

 

「あっ、駒場さん。叶との話、終わりましたか?」

 

「……無事終わりました。叶さんは着替えてから戻るそうです。」

 

「そうですか。妹の相談に乗ってくれてありがとうございます。……買ってきたハーブティーを淹れてみたので、それを飲んでちょっと休憩してください。撮影の準備、まだ終わってないんです。」

 

「それは……砥石、ですか?」

 

キッチンカウンターに置いてあったマグカップを手にしつつ、夏目さんが持っている物体のことを問いかけてみれば、彼女は笑顔で肯定してきた。……ホッとする味のハーブティーだな。今は特に心が休まるぞ。満身創痍ではあるものの、俺はどうにか日常に帰還できたらしい。

 

「はい、まあまあ良い砥石みたいですよ。前に注文した荷物が実家の方に届いちゃって、昨日それを取りに帰ったついでにお父さんから借りてきたんです。……えへへ、じゃじゃーん。これを研ぐのを動画にしようと思いまして。」

 

「これはまた、随分と錆びた包丁ですね。」

 

「引っ越し作業で庭の倉庫を漁ってた時に見つけたんです。お父さんはお爺ちゃんが昔使ってた包丁じゃないかって言ってました。分厚い木の箱に入ってましたし、ここに手彫っぽい銘も掘られてるので、多分高い包丁なんだと思います。多分ですけど。」

 

うーん、今は亡き祖父の包丁を倉庫から『発掘』したわけか。よく見る三角形ではなく長方形の、これでもかと言うほどに錆びた和包丁。それを目にして夏目家の歴史を感じていると、夏目さんは嬉しそうな顔付きでクレンザーやら数種類の砥石やらを指して企画内容を語ってくる。

 

「このままにしておくのは勿体無いですし、研いで綺麗にして料理動画で使っていくことにします。それで折角だから研ぐところも一本の動画にしようと思ったんです。ただ研ぐだけなのであんまり伸びないでしょうけど、これだけ錆びてる包丁が綺麗になるのは……何ていうか、ちょっと面白いかなって。」

 

「良いと思いますよ。俺としても少し惹かれる内容ですし、視聴者の立場なら見てしまうかもしれません。」

 

「まあ、そこまで期待せずに上げてみます。箸休めの動画って感じで。……ただやるからには真剣にやりたいので、時間がかかっちゃうかもしれないんです。なので料理動画を撮る前にこっちをちょこっとだけやりますね。後半は固定カメラで撮れると思いますから、前半の錆び取りだけカメラ役をお願いします。」

 

「了解です。……刃物を研ぐのは難しそうですけど、やったことがあるんですか?」

 

俺には色とサイズの違いしか分からない数個の砥石を横目に聞いてみれば、夏目さんは自信ありげに頷いてきた。あるのか。凄いな。

 

「一応定食屋の娘ですから、包丁のメンテナンスは得意なんです。お父さんから教えてもらって、何回もやったことがあります。錆び取りだけは初めてですけど、そこはきちんと調べておきました。」

 

「さすがですね。……俺も準備を手伝います。何をやればいいですか?」

 

「いやあの、駒場さんは休んでてください。買い物で疲れてるでしょうし。」

 

「大丈夫です、夏目さんが淹れてくれたハーブティーのお陰で回復しました。二人でパパッとやってしまいましょう。」

 

夏目さんの穏やかな声を耳にしていると、叶さんにゴリゴリ削り取られた精神力が回復してくるぞ。……とにかく、撮影だ。悩みは悩み、仕事は仕事。まだ若干動揺を引き摺っているが、ここは気持ちを切り替えて臨まなくては。

 

要求も脅しもエスカレートしているから、叶さんのことは当然放置しておけないものの……情けない話、俺一人では解決に繋がる名案を思い付けそうにないぞ。ここを出たらすぐ深雪さんに連絡しよう。賢い友人ならある程度叶さんの内心を読み解けるだろうし、一人で悩むよりはマシな結果を齎してくれるはずだ。

 

未だリビングに戻ってこない『宇宙生命体』のことを考えつつ、やる気満々の夏目さんからは見えないようにこっそりため息を吐くのだった。

 



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Ⅳ.かなどん ④

 

 

「洗脳じゃありませんか、洗脳。貴方は洗脳されようとしているんです。マインドコントロールですよ。」

 

ショッピングモールの三階にあるゲームコーナーで、例の女児向けアニメのアーケードゲームで遊んでいる深雪さんの警告を耳にしつつ、俺はかっくり首を傾げていた。『マインドコントロール』というと、一昔前に新興宗教絡みで問題になったあれか? ちょっと大袈裟に聞こえてしまうぞ。

 

日曜日である十月二十三日の昼間、俺は深雪さんと二人で東京郊外のショッピングモールを訪れているのだ。叶さんの問題に関してを相談したいと連絡したら、交換条件として今日の午後に開催されるヒーローショーへの同伴を求められたので、会場となるこの施設へと二人でやって来たわけだが……さすがは日曜日のショッピングモールだけあって、買い物客で物凄く混雑しているな。

 

もうこの場に居るだけで疲れてくるぞと苦笑している俺に、筐体のボタンを連打している深雪さんが話を続けてくる。これはイラスト入りのカードを使って遊ぶアーケードゲームで、彼女はレアリティが高いカードを手に入れようとしているらしい。

 

「瑞稀さん? 貴方は今、『大袈裟だ』と思っていますね? そんなことをしてくるかは怪しいところだし、されたとしても易々と引っ掛かるはずがないと。」

 

「……まあ、はい。しっくりは来ていません。」

 

「甘いですよ。人間に対する条件付けというのは、案外簡単に出来てしまうものなんです。必要なのは専門的な知識ではなく、むしろ度胸と演技力ですからね。貴方の話を聞く限り、件の生意気な小娘はその二つを所有しているようじゃありませんか。」

 

そこで百円玉を投入しながら一度区切ると、『必ず一枚カードが出てくるよ!』という可愛らしい音声が流れている筐体を尻目に、深雪さんはこちらを振り向いて言葉を繋げてきた。

 

「つまりですね、『飴と鞭』ですよ。最も古典的なマインドコントロールの基本形です。小娘は古来のやり方を実践したわけですね。……相手が嫌がることを強制的に命令して、従ったらベタベタに褒める。そのまんまじゃありませんか。恐らく貴方を自分に依存させようとしているんでしょう。」

 

「……依存、ですか。」

 

「決して縁遠い話じゃありませんよ? ホストやキャバ嬢が行っているのはこれの応用ですし、法治社会の運営だって延長線上の行為ですから。『人間のしつけ』は細かく分解していくと、犬のしつけとほぼ同じなんです。従ったら褒めて、逆らったら怒り、よく出来たら大きな報酬を与えて、上手くできなかったら小さな報酬しか渡さない。それだけの話なんですよ。……『本来のお客様』たちが来ましたね。邪魔にならないように一度離れましょう。」

 

こちらを見ながら近付いてくる小学校低学年くらいの女の子たちを発見した深雪さんは、大量のカードや百円玉を筐体の上から回収して『ゲームをやめる』のボタンを押す。そのまま少し離れた位置にササッと移動した彼女へと、すぐさまゲームを始めた女の子たちを横目に声を送った。

 

「……子供が来たら譲るんですね。」

 

「それがこういう趣味における最低限のマナーですよ。優先権は常に『本来のお客様』たちにあるんですから。私たちは彼女たちがプレイしていない時に、こっそりやるべき罪深い存在なんです。」

 

「『罪深い存在』とまでは思いませんが、良い心がけだとは思います。……要するに、あの抱き締めながらの囁きは『大きな報酬』だったわけですか。」

 

「そうです、間違いありません。なので甘やかされた挙句、『好き好き』と言われてコロッと絆されないように。そんなものは嘘であり、方便ですからね。貴方を従順にさせるための演技ですよ。『営業好き好きモード』です。」

 

そりゃあこっちだって本気にはしていないが……うーむ、やはり嘘だったのか。叶さんは役者だな。たとえ演技だとしても、他人にあんなことをするのは恥ずかしくて抵抗があるはずだ。それが思春期なら尚更だろう。それなのに完璧にやってのけた彼女は、小さな一流女優と言えるのかもしれない。

 

「しかし、着替えをやらせたのは何のためなんですか?」

 

深雪さんの背を追って騒がしいゲームコーナーを歩きながら尋ねてみれば、彼女はポップコーンの筐体……ハンドルをくるくる回して遊ぶあれだ。俺が子供の頃からこういうコーナーには絶対ある機械へと歩み寄りつつ応答してくる。

 

「あくまで予想ですが、一つは単純に条件付けのためでしょう。報酬に対する労働の部分ですね。言うことに従えば、甘い飴を貰える。それを貴方に分かり易く教えるプロセスですよ。『嫌がることや無意味なことをやらせる』という行為そのものに意味があるんです。でなければ調教になりませんから。」

 

叶さんに従えば、報酬を貰える。それを俺に擦り込ませようとしているわけか。恐ろしい話だなと唸っていると、深雪さんはポップコーンのゲーム筐体に二百円を投入しながら続けてきた。……彼女が妙に『しつけ』に関して詳しいのは、小型犬を飼っているからなんだろうか? ある意味では実践済みの知識なのかもしれないな。

 

「そして二つ目は単なる性癖ですね。着替えの一件のみに焦点を当てるのであれば、私はこっちの理由の方が大きいんじゃないかと考えています。貴方に着替えさせられていた小娘は、興奮している様子だったんでしょう?」

 

「様子というか、実際そう言っていました。……つまり、サディズム的なあれですか?」

 

「あのですね、瑞稀さん。『サドとマゾ』なんてのは分類好きな連中の戯言ですよ。分かり易く当て嵌めると安心するから、何となく対極にして扱っているだけです。精神的な病気という意味での使用ならまだ分かりますが、ぼんやりした性的嗜好の話で使うのは感心できません。人間の性癖はそんなに明確なものではありませんからね。踏まれて興奮するし、踏んでも興奮する人間だって沢山居ます。」

 

「……なるほど。」

 

深雪さんって、こういう方面の話題だと特に饒舌になるな。『しつけ』の話よりも『性癖』の話をしている時の方が若干早口だし、語調に熱が入っているぞ。好きなんだろうか? そんな疑問を持っている俺へと、日本一のライフストリーマーどのは会話を継続してくる。

 

「小娘は好き勝手に着替えさせられるのに興奮していたんじゃありませんか? 着せ替え人形扱いされることへの興奮か、赤ん坊のように扱われることへの興奮か、あるいは成人男性にやられるのに興奮していたのかは判別できませんが……どちらかと言えば被虐嗜好寄りな気がしますね。」

 

「……『好き勝手』にしているのは向こうなんですが。」

 

「シチュエーションを作り出したという意味ですよ。あとはまあ、最後の『舌を引っ張る』は完璧に被虐嗜好です。そのうち首輪とリードを付けて、外を散歩させろと言ってくるかもしれませんね。……嗜虐的な側面も持っているようなので、首輪を付けるのがどちらになるかは不明ですが。」

 

「……深雪さん、助けてください。もう頼れるのは貴女だけなんです。」

 

どっちも嫌だぞ。警察にでも見つかったら即逮捕の状況じゃないか。かなり本気で懇願してみれば、深雪さんは何故かちょっと嬉しそうな顔で左右に小さく揺れた後、筐体から取り出したポップコーンの容器を差し出しつつ首肯してきた。

 

「私だけが頼りですか。……いいでしょう、任せてください。友達の頼みですからね。苦笑いで一肌脱いであげますよ。」

 

「ありがとうございます。」

 

ポップコーンをひと摘み受け取りつつお礼を述べてみれば、深雪さんは少しだけ黙考してから口を開く。

 

「方法はいくつか思い付きますが、前提としてさくどんさんと小娘の仲が壊れるのは嫌なんでしょう? ならスパッと関係を切るという策は使えませんね。以前会った時にも言った通り、私はそれが最良だと思うんですが。」

 

「虫がいいことを言っている自覚はありますが、それは可能な限り避けたいです。」

 

「まあ、貴方らしいですよ。最善を目指すのは悪いことではありません。今回はその方針に付き合ってあげましょう。……この件において最も重要なのはですね、小娘側の目的が瑞稀さんではなく、さくどんさんにあるという点です。貴方から聞いた小娘の発言を鑑みるに、瑞稀さんが好きで支配したいわけではなさそうですから。」

 

「それはそうだと思います。私をどうこうしたいと言うよりも、『姉のマネージャーを取ってやりたい』という趣意を持っているようでした。」

 

そこはほぼ間違いないぞ。自信を持って同意した俺へと、深雪さんはポップコーンを口に放りながらピンと人差し指を立ててくる。

 

「であれば解決すべきは小娘と貴方との関係ではなく、さくどんさんとの関係ですよ。そうすれば結果的に貴方からも手を引くでしょう。……姉を憎んでいるわけではないんですよね? SNSに下着姿の写真を上げようとするのは、相当過激な行動に思えますが。」

 

「違うはずです。妹さんのさくどんさんに対する感情は、好きの裏側にある嫌いなんじゃないでしょうか? 反転というか、好きだからこそ嫌いというか……意味が伝わりますか?」

 

「分かりますよ。……絶対にそうだと言い切れますか? 作戦を立てるにおいて、そこは非常に大切な部分です。家族だろうと憎むことはあるという前提を踏まえた上で、改めて考えてみてください。」

 

真面目な顔付きの深雪さんに促されて、脳内でこれまでの叶さんとのやり取りを振り返った後……首を縦に振って返事を飛ばす。

 

「言い切れます。妹さんはさくどんさんのことが好きで、だから嫌いなんです。行動や発言からするにそうとしか思えません。」

 

「では、瑞稀さんの見立てを信じましょう。……そうなるとSNS云々は本気ではありませんね。ただの脅しで、実行する気はないはずです。」

 

「無視してもいいということですか?」

 

「恐らくですよ? 恐らく貴方が小娘の要求をパーフェクトに拒絶して、さくどんさんに洗いざらい打ち明けた場合、小娘は全てを諦めて手を引く……はずです。しかしそれは貴方が望む結末ではありません。だったら今は従っておいた方がいいでしょうね。あまりにも過激な要求をされた時は、強気に拒否してみてください。何だかんだ言いつつ引くと思いますから。」

 

そう言われるとちょっとホッとするな。行くところまで行く前に、こっちの意思で歯止めをかけられはするわけか。カプセルトイ……所謂『ガシャポン』のコーナーへと歩きつつアドバイスを口にした深雪さんは、俺に百円玉を数枚渡して指示を寄越してくる。この人、ショッピングモールのゲームコーナーで幾ら使う気なんだろう?

 

「瑞稀さんはこの箱をシークレットが出るまで回してください。私は下のを回しますから。……兎にも角にも、さくどんさんとの関係を探るべきですね。瑞稀さんが正しいのであれば、小娘は何かを求めてさくどんさんにちょっかいをかけているはずです。なら、先ずは何を求めているのかを探り当てるべきですよ。」

 

「妹さんは、さくどんさんの遠慮しがちな性格が気に入らないようでした。あとはこう、自分に強くぶつかってこないことにも苛々していましたね。……これ、シークレットじゃありませんか?」

 

ケースの表面にある『中身一覧』に載っていないぞ。最初に引いたカプセルの中身……さっきのカードゲームと同じキャラクターの、一頭身にデフォルメされた小さなフィギュアだ。それを深雪さんに見せてみれば、彼女はひくりと口の端を引きつらせて応じてきた。

 

「一発で引くとはやるじゃありませんか。……小娘側から一方的に読み取ろうとするのではなく、さくどんさん側にもそれとなく聞いてみるべきですね。多角的に見れば違うものを発見できますよ。」

 

「あー、そうですね。その通りです。今度遠回しに聞いてみることにします。……カードゲーム、空いたみたいですよ。」

 

「行きましょう。……一度瑞稀さんがボタンを押してみてください。私は運なんてものを信じていませんし、筐体の内部で一番上にあるカードが出てくるだけですが、それでも一応。」

 

「いやまあ、いいですよ。ここを押せばいいんですか?」

 

深雪さんほど『軍資金』が豊富ではなかったらしい女の子たちが去った後の、『お金を入れないとスタートできないよ!』と資本主義的なことを連呼しているカードゲームの筐体に近付いて、言われるがままにボタンを押してみれば……やけにキラキラしているカードが出てきたな。当たりなんだろうか? 俺はゴリゴリの『カードダス世代』だったから、こういう特別っぽいカードを見ると無条件でわくわくしてしまうぞ。

 

ちなみに深雪さんや夏目さんは『遊戯王・デュエルマスターズ世代』で、叶さんやモノクロシスターズの二人は『ムシキング世代』……かな? 当人たちがやっていたかはともかくとして、年齢的にはその辺りだろう。こういうことを考えていると自分が『おじさん』になってしまったようで悲しくなってくるな。

 

今ではもう滅多に見なくなってしまったカードダスの筐体を懐かしんでいると、深雪さんが呆れ半分、感心半分の声色でポツリと呟く。秋葉原とか中野に行けば、まだ沢山あったりするんだろうか? 近くを通った時に探してみるのも良いかもしれない。

 

「……PSRの冬服ツバサちゃんじゃないですか。」

 

「……『当たり』だったんですか?」

 

「低確率の最高レアで、かつその中でも今日の私の『お目当て』のカードです。十一月いっぱいまでの期間限定プリンセスカードなんですが、カードショップでは現在千七百円で売られています。」

 

「……じゃあ、赤字ですね。」

 

百円での通常プレイとは別に、カードを……『プリンセスカード』を二百円で出せるというシステムらしいのだが、深雪さんは少なくとも三十回以上『抽選』をやっていたぞ。最低でも六千円は使った計算になるな。

 

微妙な気分で相槌を打った俺に、深雪さんは満足げな笑顔で肩を竦めてくる。

 

「私は『ショップ購入派』を批判しませんが、同時に『自分で手に入れたい派』でもあります。赤字だろうが入手できれば勝ちですよ。……カードを手に入れた以上、もはやこの邪悪な搾取空間に用はありません。ショーが始まる前に昼食を食べましょう。フードコートとレストランのどちらが良いですか?」

 

「私はどちらでも構いませんが……カードを買うだけ買って、プレイはしないんですね。」

 

「目的はカードですからね。ゲーム自体は既にやり尽くしました。……フードコートにしましょうか。久々にケンタを食べたいです。実家の近くにあったのでよく食べていたんですが、今住んでいるアパートの近所には無いんですよ。」

 

「テレビゲームは苦手なのに、こういうゲームはやり尽くしているんですか。……まあ、分かりました。一階のフードコートに行きましょう。」

 

KFCか。聞いていたら俺も久し振りに和風チキンカツサンドが食べたくなってきたぞ。……どうも深雪さんはコレクター気質の人間らしい。ソーシャルゲームとかも好きそうだし、モノクロシスターズのスポンサー案件のことも話してみようかな。

 

何にせよ色々と助けてもらっているのだから、お礼としてヒーローショーでは一緒に盛り上がらなければ。ショーにおける『仕来り』はさっぱり分からないが……そういうのはまあ、ご飯を食べながら教えてもらえばいいさ。当たって砕けろの精神でやってみよう。

 

───

 

翌日の月曜日の昼。俺は早めに学校が終わったモノクロシスターズの二人と共に、買ってきたサンドイッチを事務所の応接スペースで食べていた。ちょうどお昼時に下校するということで、昼食を買いに行くついでに二人を拾ってきたのだ。ちなみに香月社長は既に食べ終えており、由香利さんはナッツ入りのエナジーバーのような物をもそもそと食べている。曰く、『ちょっとダイエット中』らしい。

 

「ということは、今週の水木に文化祭があるんですね。」

 

ポテトサラダサンドを手に取りつつ朝希さんから振られた話題に応答してみれば、対面に座っている制服姿の彼女はこくこく頷いて肯定してきた。今日はその準備があるから早めの下校になったわけか。平日に開催するのは珍しい気がするな。

 

「そうです。高等部の人たちが中等部の校舎も使うので、私たちは追い出されちゃいました。」

 

「中等部の生徒は出し物をしないんですか?」

 

「んと、部活に入ってる人はやります。部活動は高等部と繋がってることが多いから、中等部でテニス部だと高等部のテニス部の屋台を手伝うって感じです。」

 

「でも私たちは部活動をやってないから、当日楽しむだけで終わりですね。教室が使えなくなるので、明日は丸ごとお休みです。中等部だとクラスで何かやったりもしませんし、気楽なもんですよ。」

 

ふむ、基本的には高等部のイベントなのか。朝希さんの後でハムサンドを食べながら解説してきた小夜さんに、ふと気になった疑問を返す。

 

「そういえば、合唱コンクールはやらないんですね。」

 

「『合唱コンクール』? 何ですか? それ。」

 

「私の中学では毎年やっていたんですが……そうですか、小夜さんたちの学校ではやっていませんか。クラス毎に合唱を練習して、披露するイベントです。」

 

「うちではやってませんね。大きなイベントはこの前やった体育祭と、明後日からの文化祭と、三年生の修学旅行と……あと、一年生のオリエンテーション合宿くらいです。」

 

まあ、私立だもんな。俺の出身中学では学園祭が無かったし、山形の公立中学校と東京の名門私立女子校では細かいシステムが当然異なっているだろう。そもそも合唱コンクールは公立だとどこもやっているイベントなのか、それとも俺の学校が特殊だったのかすら分からないぞ。……共学だと女子が協力的で男子が面倒くさがるというパターンが多かったけど、女子校だとどうなるんだろう? 働きアリの法則みたいに、必ず面倒くさがる人間が出てくるとか? 少し興味があるかもしれない。

 

益体も無い興味を抱いている俺に対して、朝希さんがにぱっと笑って予定を語ってくる。

 

「二日目は一般開放されるから、お姉ちゃんと一緒に回るんです。有給取ってくれるって言ってました。」

 

「それは良かったですね。」

 

「駒場さんも来ますか? そしたらそしたら、お姉ちゃんと仲良くなれますよ?」

 

「いえ、私は……遠慮しておきます。姉妹水入らずで楽しんでください。」

 

朝希さん、たまに俺とお姉さんを『くっ付けよう』としてくるな。それにちょびっとだけ困りながら辞退してやれば、小夜さんが小さく鼻を鳴らして声を上げた。

 

「うちの文化祭なんて制約が多すぎてショボいんだから、駒場さんが来たって残念に思うだけよ。」

 

「厳しいんですか?」

 

「昔はもっと盛大にやってたみたいですけど、何世代か前に急に厳しくなっちゃったんです。高等部の生徒会が毎年毎年規則を緩めて欲しいって学校に文句を言って、理事会側が跳ね除けてます。……生徒の親族以外の男の人が入ってくる時は、軽いボディチェックまでするんですよ? カメラの持ち込みが禁止されてますからね。何年か前に盗撮事件があったらしくて。」

 

「まあ、防犯のためなら仕方がないですよ。」

 

二人が通っているのは有名な女子校だし、悪い人たちから目を付けられがちということか。生徒は派手にやって楽しみたいのだろうが、理事会側の心配も分かってしまうぞ。保護者会とかも多分、理事会寄りなんだろうな。俺が親だったらボディチェックを歓迎してしまいそうだ。

 

生徒会からせっつかれている運営サイドに同情しつつ、俺が苦笑いで送ったフォローを受けて、コロッケサンドを食べ切った朝希さんが話題を変えてくる。彼女たちの髪色が許されている以上、基本的には寛容な学校らしいけど……要するに防犯意識が高いんだろうな。そう思えば悪い要素ではないはずだ。

 

「それより、明日事務所に髑髏男爵さんが来るんですよね?」

 

「ええ、明日の昼過ぎに来てくれるそうです。大まかな部分は社長が電話で詰めたらしいので、直接会って詳細な契約内容の確認などをする予定ですね。」

 

「人が増えるの、楽しみです。明日はパソコンも届きますし、朝から事務所に来ます!」

 

朝希さんが言っている『パソコン』というのは、彼女たちが購入した『MacBookAir』のことだ。資金的な都合が付いたので、家でも編集作業をするために一台注文したらしい。今の二人にとっては結構な出費になったはずだけど、これで休みの日にもパソコンを使用できるな。

 

そして何故自宅ではなく事務所に配達されるのかと言えば、一刻も早く手にしたいがためにこっちの住所宛てで注文したからだ。二人もお姉さんも帰りが遅いから、自宅への宅配だと不在票を処理した次の日の受け取りになりがちらしい。たった一日すら惜しむのは微笑ましいぞ。余程に楽しみなんだろう。

 

わくわくしている様子の朝希さんを見て微笑んでいると、タマゴサンドを呑み込んだ小夜さんが指摘を飛ばした。ジト目でだ。

 

「結局喜んでるじゃない。やっぱりマックブックで正解だったのよ。」

 

「……私はまだバイオの方が良いと思ってるよ。絶対ウィンドウズの方が使い易いって。マックなんて使ったことないじゃん。」

 

「雪丸さんは『ライフストリーマーならマック』って言ってたわ。編集ソフトとの相性が良いし、創造はマックの領分だからって。」

 

「さくどんさんはバイオだけどね。だからそっちが正解だったんだと思うよ。」

 

うーむ、好みが分かれているな。『VAIO』か『MacBook』かの熾烈な論争の末に、機材担当の小夜さんが押し切る形で後者を購入したらしいのだが……つまるところこれは、OSの問題でもあるのだろう。『Windows』か、『Mac』か。そこに正解など無いぞ。それはもう、『きのこたけのこ戦争』と同ジャンルの議論なのだから。

 

ちなみに二人が言う通り夏目さんはVAIOのノートパソコンをサブPCとして使っており、深雪さんはMacBookProを使用している。Macの方はともかくとして、WindowsならVAIO以外にも選択肢は豊富なわけだけど……朝希さんは『さくどんさんと同じ』が良いのだろう。可愛らしい尊敬の仕方じゃないか。

 

ただ面白いのは、スマートフォンになるとメーカーが逆転するという点だな。夏目さんは『iPhone』を使っており、深雪さんは『Xperia』を使用しているのだ。キネマリード社もスマートフォン界隈に手を出そうとしている気配があるし、ある程度落ち着いたパソコン市場と違ってスマートフォン市場はこれから激戦区になるのかもしれない。

 

あるいは俺が気付けていないだけで、もう激戦化しているとか? その辺は香月社長が詳しそうだから、後で聞いてみようと思案していると……デスクの上の電話がコール音を響かせ始めた。朝希さんがビクッとしているな。うちは頻繁に固定電話が鳴る会社ではないから、急に鳴り出してびっくりしちゃったようだ。

 

「何驚いてるのよ、ビビり朝希。ただの電話でしょ。」

 

「小夜ち、うるさいよ。」

 

ニヤニヤしながらからかう小夜さんに、朝希さんがちょびっとだけ恥ずかしそうに言い返すのを横目にしつつ、デスクの方に視線を向けてみれば……何をしているんだ、あの二人は。香月社長と由香利さんが電話を挟んで睨み合っている光景が目に入ってくる。

 

「……取りたまえよ、風見君。」

 

「香月さんが取ってください。私は食事中なんです。たったこれだけの食事なんですから、せめてゆっくり味わわせてくださいよ。」

 

「イライラするならダイエットなんてやめればいいじゃないか。……いいよ、駒場君。私が取るさ。私は痩せているからたっぷり食べてご機嫌だしね。哀れな風見君と違って、中世の刑務所みたいな食事をする必要はないんだ。」

 

立ち上がりかけた俺を手で制止した香月社長は、ふふんと笑ってから電話を取って応対し始めるが……由香利さんが恨めしそうにジーッと睨んでいるぞ。残り半分のエナジーバーをリスのように齧りながら、怨嗟の目付きで社長を見つめているな。

 

「……じゃあ、私たちは歯磨きして着替えてきます。ほら朝希、行くわよ。」

 

「うん、行く。」

 

いつもは穏やかな由香利さんの変貌っぷりに、モノクロシスターズの二人はちょっとびくびくしながら給湯室へと入っていく。そんな彼女たちを見送ってから、残ったサンドイッチを持って同僚どのに近付いた。

 

「由香利さん、食べてください。身体を壊しますよ。」

 

「ダメです。一昨日の夜の体重計が言っていました。お前はもうお昼ご飯を食うなと。」

 

「これを聞くのは失礼でしょうし、嫌なら答えなくてもいいんですが……何キロだったんですか? 私には太っているようにはとても見えませんよ?」

 

このままでは事務所の空気が悪くなるということで、リスクを承知しつつもあえて踏み込んでみた俺へと……由香利さんは葛藤するように沈黙した後、ポツリと小声で回答してくる。同僚相手のケースは初めてだけど、この仕事をしていると年に五回は『体重問答』にぶつかるな。夏にあった夏目さんの水着の件以来だから、今回は二ヵ月振りくらいか?

 

「……五十二キロです。全裸の状態で。」

 

「……あの、由香利さん? それで太っていると言っていたら、実際に太っている人たちが激怒しますよ? むしろ痩せている方じゃありませんか。」

 

由香利さんの身長は160センチ台前半だ。何をどうしたら五十二キロで太っているという認識になるのかと呆れながら、ちらりとこっちを見てきた彼女へと誠心誠意の説得を続けた。……夏目さんの時もそうだったけど、元が痩せていると余計に太ったように感じてしまうのだろう。俺の経験上『太ったんです』と言ってくるのは大抵痩せている人だぞ。そして『痩せたんだよね』と言ってくるのは大体太っている人だ。何だか物悲しくなってくる話じゃないか。

 

「断言しますけど、痩せています。恐らく身長に対しての標準体重以下です。何より由香利さんは現状でとても魅力的な女性なんですから、体型で悩む必要は一切ありません。心配になるのでサンドイッチを食べてください。」

 

「……そうですか?」

 

「そうです。」

 

俺が強めに断定したところで、電話中の香月社長がわざわざ受話器を離して一言寄越してくる。

 

「私は149センチの四十二キロだよ。私よりちょうど十キロ重いね、風見君は。一億円の札束分さ。」

 

「はい、邪悪な社長から訳の分からない『一億円マウント』を取られました。やっぱりサンドイッチはやめておきます。」

 

「いやいやいや、身長差。身長の分ですよ。……香月社長、余計なことを言わないでください。」

 

一億円の札束って十キロなのか。無駄すぎる雑学を手に入れながら、えっへんと胸を張っている香月社長を尻目に言葉を繋ぐ。切り札である『標準体重』のカードが効力を失ってしまったな。夏目さんはこれで攻略できたのに。

 

「ひょっとすると、筋肉の問題かもしれませんよ? 営業で動き回っているから筋肉が付いたんじゃありませんか?」

 

「……なるほど、そうかもしれません。香月さんはふにゃふにゃのスカスカですもんね。」

 

「そうです、社長は筋肉皆無だから軽いだけです。脂肪ですよ、脂肪。由香利さんのは役に立つ筋肉だから、ちょっと重くなっているだけですね。」

 

「君たち、聞こえているんだが?」

 

芸能マネージャー時代にも、『ダンスの練習のしすぎで筋肉が付いた』という謎の説得方法を使っていたっけ。実際どうなのかは知らないし、専門家ではないのでそんなに変わるのかも定かではないが……よし、由香利さんは納得してくれたようだ。筋肉のカードも一軍に昇格させるべきかもしれない。

 

「なら、そういうことにしておきます。サンドイッチ、いただきますね。」

 

「どうぞどうぞ、食べてください。」

 

結局、当人が納得できるか否かなんだよな。それを再確認したところで……おっと、今度はそれか。タイツを持った小夜さんが部屋から出てきた。もうやめて欲しいぞ。

 

「駒場さん、タイツここに掛けておきますから。」

 

そう、忌まわしき『タイツ問題』が未だ尾を引いているのだ。何故か頑なに自分では持って帰らない小夜さんが、俺の椅子の後ろのブラインドに毎回脱いだタイツを掛けているわけだが……この子は一体全体何をやりたいんだ? 大量のタイツが掛けられている所為で、可哀想なブラインドが盛大に折れ曲がっているぞ。

 

「……小夜さん、いい加減に全部持って帰ってください。私は絶対に触りませんからね。」

 

もはや日除けとしての機能すら果たせていないブラインドを指して、小夜さんに要求を投げてみれば……彼女はムスッとした顔で返事をしてくる。というかこの子、何着タイツを持っているんだろう? 二週間目に突入したのにまだまだ終わりそうな気配がないし、ストックの数が物凄いな。

 

「駒場さんが回収してくれればそれで済む話です。こうなりゃ意地ですよ。そっちが折れるまでやめませんから。」

 

「何の意地なんですか。」

 

「だって、駒場さんはタイツが好きなんでしょう? それなのに私のタイツだけ避けるのは……何か、あれじゃないですか。私のこと嫌ってるみたいで気に入りません。」

 

「嫌っていませんし、一般的な男性というのは干してある他人のタイツを避けるものなんです。……お願いだから持ち帰ってくださいよ。来客があった時に変な事務所だと思われるじゃないですか。」

 

ハンガーが足りなくて直接ブラインドにタイツを掛けている小夜さんに頼み込んでみると、彼女に続いて撮影部屋から出てきた私服姿の朝希さんが……おお、豪快。わしっとタイツを全部回収して、それを双子の片割れに押し付けた。

 

「もう諦めなさい、小夜ち! 駒場さんに迷惑かけちゃダメでしょ! ……大体さ、こんなの駒場さんの席の後ろにショーツ干してるのと変わんないじゃん。恥ずかしくないの?」

 

「あんたね、タイツは『靴下』でしょ。」

 

「違うよ、タイツは『下着』だよ。……ですよね? 駒場さん。ね?」

 

「いや、私は男なので……そういう細かい違いは分かりませんね。」

 

タイツはタイツじゃないのか? ちんぷんかんぷんな心境で答えてやれば、サンドイッチを頬張っている由香利さんが己の見解を述べてくる。

 

「タイツは靴下ですよ。……靴下ですよね?」

 

「えー、下着ですよ。香月さん、そうですよね? ね?」

 

朝希さんの問いを受けて、電話中の香月社長は『そうだ』という面持ちで頷いているが……二対二で意見が割れたな。凄くどうでも良い意見が。

 

「ほらほら、下着じゃん。社長の香月さんがそう言ってるんだから、ホワイトノーツではタイツは下着なの! つまり小夜ちは、下着を事務所に干してるんだよ。」

 

「……違うわよ。」

 

「そもそも意味分かんないよ。何がしたいの? 駒場さんはタイツじゃなくて、『タイツを穿いた脚』に興味があるわけでしょ? タイツだけあったって邪魔くさいだけじゃん。」

 

「えっ。……そうなんですか?」

 

うわ、肯定しても否定しても地獄な質問が飛んできたな。驚いた表情で尋ねてきた小夜さんに、諦観を味わいながら首肯を返す。もう認めてしまおう。そうすれば少なくとも、西日に悩まされることだけは無くなるのだから。

 

「……まあ、そうです。」

 

「あっ、ふーん。なら私、勘違いしてたみたいです。……持って帰りますね、タイツ。」

 

「……どうも。」

 

大量のタイツを抱えて撮影部屋に戻っていく小夜さんへと、眉間を押さえながらお礼を口にしたところで……朝希さんが自分の脚を示して話しかけてきた。ショートパンツの下に、制服の時は穿いていなかったタイツを穿いている脚をだ。この話題、向こう一ヶ月は消えてくれなさそうだな。泣きたくなってきたぞ。

 

「じゃあはい、駒場さん。タイツです!」

 

「……朝希さん、いいですから。もういいんです。無理してタイツを穿く必要はありません。」

 

「私の好きな格好は、駒場さんの好きな格好です! ……触らないんですか? 私の脚、小夜ちより細いですよ? ちょびっとだけですけど。」

 

「朝希! 何ふざけたこと言ってんのよ! 双子なんだから同じでしょうが!」

 

触ったらお縄じゃないか。帰ってきた小夜さんが赤い顔で反論するのを耳にしつつ、心中で巨大なため息を吐く。……何か最近、こういう扱いに困る展開に巻き込まれがちだな。

 

「どう見ても私の方が細いじゃん。諦めて認めなよ。私の脚は細くて綺麗で、小夜ちのはぶっといの。お姉ちゃん、一卵性でも生活とかで違いが出てくるって言ってたよ?」

 

「ぶっとくはないわよ、ぶっとくは! ……いいでしょう、認めてあげる。脚はあんたの方が細い。そこはまあ、厳然たる事実だわ。けど胸は私の方が大きいんだからね。ぺたんこ! ぺたんこ朝希!」

 

「何さ、脚太人間! ……今気付いたんだけど、つまりそれって小夜ちの方が太ってるだけ──」

 

「朝希!」

 

とにかく流れに逆らわずにひたすらやり過ごそうと決意しながら、いつもの取っ組み合いを始めた双子を背に業務に向き直ったタイミングで、電話を終えた香月社長が……どうしたんだろう? ドヤ顔でピースサインを突き出してきた。

 

「駒場君、二人目だ。フォーラムで撒いた餌にまた魚が引っ掛かったぞ。」

 

「……まさか、所属したいという連絡だったんですか?」

 

「そうさ。まだ間に合いますかと聞かれたから、全然大丈夫だと答えておいたよ。スカウト上手な私を褒めたまえ、崇めたまえ、持ち上げたまえ。」

 

どうして誰も彼もが時間差で連絡してくるんだ? えへんと威張っている香月社長を眺めつつ、腑に落ちない気分で首を捻った後で……何にせよ忙しくなるなと眉根を寄せる。モノクロシスターズのスポンサー案件と、髑髏男爵さんの所属の手続きと、新たに連絡してきたクリエイター候補の動画チェックと、そして叶さん問題。それプラス日常業務となれば、タイツなどに構っている暇はなさそうだ。

 

いきなり仕事が増えたことに嬉しいやら悲しいやらの複雑な気持ちになりつつ、先ずは太鼓持ちとしての職務を全うすべく『褒められ待ち状態』の香月社長に言葉を送るのだった。

 



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Ⅳ.かなどん ⑤

 

 

「何ていうか、無茶してますね。かなりの無茶を。」

 

髑髏男爵さんが事務所にやってくる当日である、大雨の火曜日の午前中。俺は肩を揉んでくれている小夜さんの感想を聞きながら、『アポロンくん』の動画を視聴していた。このアポロンさん……というか、アポロンくんさん? こそが香月社長が釣り上げた二人目の新規所属者候補なのだ。

 

『おっしゃ、いきます! レモン汁目薬まで三、二、一……っあ、さーせん! ミスりました! 俺、ビビっちゃって。ビビっちゃってるみたいっす。もっかいいきます! さーせん!』

 

「……お二人は真似しないでくださいね?」

 

アポロンさんが『レモン汁目薬』なる狂気の行動をしている映像を前に注意してやれば、小夜さんは俺の肩を肘でぐりぐりしながら不満げに返事をしてくる。ちなみに肩揉みを受けている理由は毎度お馴染みの『甘やかし罰則』だ。こういう穏やかな罰則なら大歓迎だぞ。

 

「ちょっと、駒場さん? 私たちはこんなことしませんよ。何でも真似する子供扱いしないでください。……私、こういう『ウェーイ系』の人って苦手です。ホワイトノーツで受け入れちゃうんですか? この人。」

 

『ウェーイ系』か。まあ、言わんとする意味は分かるぞ。動画の中のアポロンさんは二十代前半ほどの細身の男性で、茶色い髪をこう……ツンツンさせている髪型なのだ。俺の中で一番ピンと来るのは『ホストっぽい人』という表現だな。

 

小夜さんがちょっぴり嫌そうな顔で言っている間にも、動画内のアポロンさんは……絶対痛いぞ、こんなの。料理用のレモン汁を点眼してのたうち回り始めた。

 

『いっづ……ぁあ! これマジ、マジすか? マジで痛いんすけど! マジすか? マジすか! いってぇ! マジすか?』

 

誰に対して言っているんだ、その『マジすか』は。生活感が凄いワンルームの部屋の中で、マジすかを連呼しながら右目を押さえているアポロンさん。そんな動画を何とも言えない気分で見ている俺たちへと、字幕作成中の香月社長が話しかけてくる。苦笑いでだ。

 

「アポロン君はまあ、最近ちょくちょく出てきたタイプのライフストリーマーだね。『とにかくヤバいチャレンジをして注目を浴びる』という、CAWING氏やイルンダ氏、トマトスマッシャー氏なんかの『後追い組』だよ。」

 

「しかし、アポロンさんはより無茶をしている気がします。最近のCAWINGさんはきちんと安全を確認した上でやっている節がありますし、イルンダさんやトマトスマッシャーさんも一定のラインを守っていますが……この動画は恐らく初チャレンジを一発撮りしていますよ。物凄く危険な行為です。」

 

他の『危険チャレンジ系ライフストリーマー』たちの名前を出してきた香月社長に、シークバーが右端まで到達した動画を指して指摘してみれば、彼女は腕を組んで悩ましそうに応じてきた。

 

「もちろん問題ではあるね。『危険行為』は事務所として避けたいし、そこは君が指導してやってくれたまえ。」

 

「社長の見る目は信じていますし、やれと言うなら全力でフォローしますが……何故アポロンさんなんですか? そこが少し引っ掛かります。」

 

「そこ、私もよく分かりません。登録者数は四万だし、取り立てて珍しい内容の動画でもないですよね? 髑髏男爵さんは『伸びそう』って私も思いますけど、この人は……正直言って、いまいちじゃないですか?」

 

俺に続いて割とキツめな評価を下した小夜さんへと、香月社長は困ったように理由を話し出す。

 

「私もフォーラムの時点では記憶の片隅にあるって程度のライフストリーマーだったんだが……アポロン君はね、良いヤツなんだよ。兎にも角にも良いヤツだったんだ。」

 

「良いヤツ?」

 

謎の台詞を口にした香月社長に聞き返してやれば、彼女は半笑いでフォーラム当日の出来事を語り始めた。

 

「最初に彼を見たのは、君たちが到着する前でね。風見君とエントランスで待っていた時、同世代くらいの真面目そうな女性と二人で建物に入ってきたんだよ。その際アポロン君はゴミを拾ってゴミ箱に捨てたんだ。……ホットコーヒーをテイクアウトすると、熱くないようにカップに被せてくれる厚紙みたいなのがあるだろう? あれが少し離れた床に転がっているのを発見して、アポロン君はわざわざ近付いていって拾って捨てたのさ。」

 

「……私、全然気付きませんでした。」

 

会話を聞いていたらしい対面の由香利さんが言葉を漏らすのに、香月社長はクスクス微笑みながら話を続ける。……そして残った朝希さんは応接ソファに座って、外に繋がるドアをジッと監視中だ。ノートパソコンが届くのを待っているらしい。宅配業者の訪問を待つ犬みたいな行動で、ちょっと可愛らしいな。

 

「そりゃあ大したことではないがね、私はまあまあ感心したんだ。それまで何人も人が出入りしていたし、ゴミに気付いた人間だって沢山居たはずだが、しかし誰も拾って捨てようとはしなかった。私だってそうさ。余所の施設の遠くに落ちているゴミを、わざわざ歩み寄って捨てたりはしないよ。……だからまあ、何となく印象に残ってね。『良いヤツってのは居るもんだな』とぼんやり考えながら、二階に上がっていくアポロン君の背を見送ったわけさ。」

 

「……それがスカウトした理由ですか?」

 

「いいや、まだあるよ。次に彼を見かけたのは休憩時間だ。キネマリードの社員たちに自己紹介が出来た私は、ウキウキ気分で目当てのライフストリーマーを探しつつ二階ロビーを闊歩していたんだが……そこでまたしても彼の善行を目撃してしまったのさ。躓いて荷物を落とした男性に、『大丈夫すか! 大丈夫すか!』と大慌てで駆け寄っていくアポロン君の姿をね。」

 

そんなことがあったのか。それはまあ、確かに『良いヤツ』かもしれないと納得している俺に、香月社長はくつくつと喉を鳴らして詳細な状況を述べてきた。

 

「施設の職員か、上の専門学校の人間だったのかな? 何にせよ段ボール箱に入っていた紙を派手に散らかしてしまっていてね。アポロン君はそれを見た瞬間にノータイムで走っていって、かき集めた後で『全部ありますか? 大丈夫すか?』と心配そうに見落としがないかを確認していたよ。……周囲の人間も数名手伝っていたんだが、どちらかと言えばアポロン君の行動を見て流されたという雰囲気だったかな。」

 

「あー、想像できます。そういうのは最初に誰かがやり始めるのを見て、ハッとして手伝いがちですね。」

 

「その最初の一人になれる人間というのは少ないはずだ。だから私は二度目の感心を覚えたんだよ。」

 

「それで、スカウトしたというわけですか。」

 

面白い理由があったんだなと相槌を打ってみれば……あれ、違うのか。香月社長は首を横に振って口を開く。

 

「いや、まだあるのさ。三度目はフォーラムの終了後だ。これは風見君も知っているね?」

 

「はい、見ていましたよ。瑞稀先輩たちが一階に下りていった後、私と香月さんでスカウトの続きをしていたんですけど……その時、具合が悪くなった人を介抱しているアポロンさんを発見しまして。」

 

「『大丈夫すか! 救急車、呼びますか? でも俺、救急車って何番か分かんないっす!』と焦りながら騒いでいてね。結局アポロン君の連れの女性が冷静な対応をして、体調を崩した人物は施設内の救護室かどこかに連れて行かれたんだが……その光景を見ていた私は、これはもうスカウトするしかないと声をかけたわけさ。一度や二度は偶然でも、三度重なれば運命だよ。日に三度も同じ人物の善行を目撃してしまった以上、声をかけずにはいられなかったんだ。」

 

うーむ、三度の善行か。参ったという面持ちで話を終えた香月社長に、ポリポリと首筋を掻きながら声を返す。故事にありそうなスカウト理由だな。

 

「悪くない理由だと思いますよ。能力はもちろん重要ですけど、『一緒に仕事をしたい人』という点も大切ですから。社長の話を聞いた今、私はアポロンさんと一緒に仕事をしてみたくなりました。」

 

「ライフストリーマーとしての能力はまあ、私からしてもそこまで光るものを感じないが……アポロン君に関しては社長の我儘だとでも思ってくれたまえ。私は良いヤツに報われて欲しいんだ。彼の三度の善行を目にして、こういう人間こそが成功して欲しいと考えてしまったのさ。」

 

苦笑しながら語った香月社長へと、小夜さんが眉間に皺を寄せて発言を送る。ライフストリーマーとしてではなく、人間としてスカウトしたわけか。まあうん、そういう人が一人くらいは居てもいいんじゃないかな。

 

「良い人だっていうのは分かりましたし、そういうことなら『いまいち』は撤回しますけど……でも、救急車の番号を知らないのは凄いですね。」

 

「フォーラムの日に軽く話した印象だと、ちょっとだけ『おバカちゃん』な人間らしいね。頭の回転が悪いわけではなさそうなんだが、一般常識に疎いみたいだ。『スカウトすか! マジすか!』と驚いているアポロン君を、連れの女性が制御していたよ。」

 

「その連れの人、彼女さんとかですか?」

 

「距離感を見るにそうだと思うよ。キチッとした話し方の、知的な美人だったね。二人とも指輪をしていなかったし、動画内の発言からして結婚しているわけではないらしいから、交際している女性と一緒に来たってところじゃないかな。」

 

知的な美人と『マジすか!』のアポロンさん。少し意外な組み合わせだなと内心で不思議に思っていると、パソコンに向き直った香月社長が話題を閉じてきた。

 

「何にせよ、アポロン君とも近々会うとしよう。彼は都内に住んでいるらしいから、簡単に会えるはずだ。今日はとりあえず髑髏男爵さんに集中すべきだよ。」

 

「その髑髏男爵さんのことなんですけど……雨、大丈夫でしょうか? かなり強くなってきましたよ。」

 

由香利さんが心配そうに呟いたタイミングで、窓の外がパッと光って……数瞬遅れてから落雷の音が耳に届く。おいおい、雷まで落ち始めたぞ。数日前からずっと不安定な天気が続いていたけど、今日が今月一番の大雨になったな。

 

「ここまでの雨となると、お二人の学校の文化祭も心配ですね。」

 

雷の音にビクッとした朝希さんの背を眺めながら口にしてみれば、肩揉みの仕上げに入っている小夜さんが応答してきた。

 

「明日は小雨になるみたいですし、明後日は晴れの予報なので予定通りに開催すると思いますよ。準備してる人たちは地獄でしょうけどね。特に外の屋台とかを出すグループは。……そういえば、美容室の件は大丈夫そうでした。姉が連絡したらオッケーだって返事が来たんです。」

 

「っと、そうですか。分かりました、夏目さんにも連絡しておきます。日にちの指定はありましたか?」

 

急に話題を変えてきた小夜さんが言っているのは、例のインナーカラーの話だ。彼女たちの姉の高校時代の同級生が美容室をやっているので、頼めば撮影させてくれるかもしれないと先日提案されたのである。それでお願いしてみた結果、首尾良くオーケーが返ってきたらしい。

 

ラッキーだったなと喜んでいる俺の質問に対して、小夜さんは強めの力で肩を揉みながら回答してきた。

 

「出来れば来週の月曜日がいいって言ってました。定休日で予約が入ってないし、他のお客さんに気を使わず撮影できるからって。……オープンしたばっかりなんですけど、今月は予約がパンパンらしいんです。他の日だと営業時間前か後しか無理っぽいですね。そういう事情があるってことで、学校を休む許可は姉から貰えてます。」

 

「了解です、来週の月曜日で調整してみます。……忙しいようですし、休日に付き合ってもらうのは少し申し訳ないですね。」

 

「姉によれば、撮影自体は大歓迎みたいですよ。結構借金をして店を開いたので、今はとにかく宣伝したいんだとか。兵庫の美容室で修行して、独立してこっちに戻ってきたらしいです。」

 

「美容室のオープンはまあ、大変だと聞きますね。ライバルが多いですし、広いスペースが必要ですから。……場所はどこなんですか?」

 

『予約がパンパン』ということは、スタートダッシュには成功しつつあるようだな。あとは常連を掴めるかどうかだろう。苦労が多い職業に同情しながら尋ねてみれば、小夜さんはぽんぽんと俺の両肩を叩いて答えてくる。

 

「港区の大通り沿いです。ビルのテナントじゃなくて、建物丸ごとのタイプですね。姉は『立地が凄いし、コケたら首を吊るかもね』って言ってました。割と本気の顔で。」

 

「……だったら頑張って宣伝を手伝いましょう。恐らくその人は、一世一代の大勝負で出店したはずですから。」

 

「港区の大通りってのは中々だね。余程大きな出資者でも居たのかな? 何て名前の店だい?」

 

興味を持ったらしい香月社長が検索サイトを開きながら話に参加してきたのに、俺の首筋をぺたぺた触っている小夜さんが返答した。……これは今、何をしているんだろう? 揉んでいるというか、撫でているぞ。

 

「ラビットイヤー・アイリスって店です。」

 

「いいね、燕子花か。名前のセンスは合格だ。……おやまあ、サイトも気合が入っているようだよ。広い店だし、君の姉の友人は人生をベットして出店したらしいね。」

 

「えっと、『かきつばた』っていうのは?」

 

「花の名前だよ。英語の通称だとラビットイヤー・アイリスになる、青紫の美しい花さ。『唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ』って和歌を知らないかい? 折句を学ぶ時によく出てくると思うんだが。」

 

さっぱり分からん。俺と小夜さんがきょとんとしているのを目にして、香月社長はどこか残念そうに説明を続けてくる。古文は苦手だぞ。

 

「頭文字で『かきつはた』と表現しているのさ。現代における『縦読み』みたいなものだね。……古文は洒落っ気があって面白いぞ、小夜君。高校で選択したまえ。そういったものを楽しめてこその人間なんだから。」

 

「……数学の方が楽しいですけどね。あれこそ最優の学問ですよ。古文と違って役にも立ちますし。」

 

「風見君? 君、何故突っかかってくるんだい? ……単調な数学なんぞはそのうち機械の仕事になるよ。しかし和歌を読み解くのは未来永劫人間の役目だ。何たって数学と違って感情が必要なんだから。であれば未来ある小夜君が学ぶべきは、つまらん数学ではなく古文だろう?」

 

「香月さん、数学にも感情は必要なんです。機械にはない情緒と、美的センスと、何より発想力が。大昔の気取った上流階級のポエムなんかを学ぶより、そっちを覚えた方が絶対に応用が利きますよ。」

 

いきなり文系と理系の言い争いみたいな議論が始まってしまったな。二人とも大学では経済学部だったはずなのだが、辿った道筋は異なっているらしい。香月社長と由香利さんが討論しているのを他所に、小夜さんが最後に俺の首筋をひと撫でしてから罰則の終了を告げてきた。

 

「肩揉み、終わりです。」

 

「ありがとうございました、小夜さん。大分楽になった気がします。」

 

「またやってあげますから、その時も素直に受けてくださいね。……美容室に行った後、そのまま写真も撮っちゃっていいですか? 当日が一番『キマってる』状態だと思うので。ライフストリームのアカウント画像、いい加減更新したいんです。」

 

「ああ、そうですね。折角ですし『アー写』も撮ってしまいましょうか。写真スタジオに予約を入れておきます。」

 

所謂『アーティスト写真』は営業にも使うし、そろそろ用意しておくべきかもしれないな。良いアイディアだと思って賛同してみれば、小夜さんはちょっとびっくりしている顔付きで返事をしてくる。

 

「普通に自分たちで撮ろうと思ってたんですけど、スタジオで撮れるんですか?」

 

「スタジオというか、『写真屋さん』ですね。知り合いの店を当たってみます。宣材関係は事務所が担うべき部分ですし、費用も心配しないでください。どうせなら夏目さんと三人でプロに撮ってもらいましょう。」

 

「……緊張しますね。服とかもしっかり決めておかないと。」

 

「そんなに気負わなくても大丈夫ですよ。そこまで高額なわけではないので、やろうと思えばいつでも撮り直せます。『暫く使うかも』くらいの写真だと思っておいてください。」

 

最近では証明写真をプロに頼むのも一般的になってきているようだし、『スタジオでの撮影』はそれなりに身近なイベントになりつつあるはず。気に入らなければまた改めて撮ればいいさと考えている俺に、小夜さんはこっくり頷いて応じてきた。

 

「分かりました。……けど、これで来月のスポンサー案件の撮影にも間に合いそうですね。今後私たちに仕事が入るかにも影響してくるでしょうし、きっちり気合を入れて撮影します。」

 

「私も全力でサポートするつもりですが、あまり考えすぎないでくださいね? 自然体を見せるというのも重要ですから。」

 

「『自然体』は朝希がやってくれますよ。だから私は、そうじゃない部分に気を使うべきなんです。スマホゲームの撮影は初めてですし、色々と気を付けて──」

 

そこまで小夜さんが言ったところで、応接用ソファに座っていた朝希さんがパッと立ち上がって報告してくる。わくわくしている表情でドアの方を見つめながらだ。

 

「エレベーターの音、しました!」

 

「犬か、あんたは。」

 

この雷雨の中でエレベーターが到着する音を聞き分けたのか。小夜さんが呆れ顔で突っ込むのを尻目に、朝希さんは待ち切れないとばかりにドアへと近付いていく。議論をやめた香月社長と由香利さんもそれを見守る中、コンコンとノックされた後でドアが開いて──

 

「どうも、失礼。」

 

不吉さを感じる雷光と雷鳴を背景に、真っ黒なロリータ・ファッションの長身の女性が現れた。……これは、凄いな。生で見ると凄い迫力だぞ。黒いおかっぱ頭の下にある横長の輪郭、ぎょろりとした一重の目、張り出した頬骨、大きすぎる口、特徴的な長い顎、痩せ細った手足。見間違えようもない、髑髏男爵さんその人だ。宅配業者よりも先に彼女が到着したらしい。

 

物凄い派手さのロリータ・ファッション……というか、『ゴスロリ』ってやつかな? 姿の髑髏男爵さんを前にして、ドアの近くでぽかんと硬直している朝希さんへと、来訪者どのはぎょろっと黒曜石のような瞳を動かして声をかける。蛇に睨まれた蛙だな。朝希さん、金縛り状態になっているぞ。

 

「あらまあ、可愛らしい。貴女、モノクロシスターズの朝希ちゃんね? こんにちは。」

 

「ぁ……初めまして、モノクロシスターズの朝希です。」

 

生で目にする髑髏男爵さんのインパクトに呆然としながらも、小声で礼儀正しく挨拶をした朝希さんに──

 

「はい、初めまして。髑髏男爵です。……ンキシュアァァァァァ!」

 

えぇ……何だそれ。髑髏男爵さんはニコッと笑って応答した直後に盛大な『威嚇』を放った。犬歯を剥き出しにして目をグワッと見開いた、人間ではなく獰猛な『動物』の形相でだ。ジャングルでも通用しそうな威嚇だったぞ。原始的な恐怖が湧き上がってくるな。

 

そんな威嚇を至近距離で食らった朝希さんは、目をまん丸に開いて数秒間静止していたかと思えば……ぺたんと床に崩れ落ちてしまう。腰が抜けたらしい。怖かったんだろうさ。そりゃあそうだ。離れた位置に居た俺だって怖かったのだから。

 

「……ぁ、あっ。」

 

そして我を取り戻した後で脱兎の如く逃げ出すと、朝希さんは怯えた顔で俺の背後に隠れてしまった。ちなみに小夜さんは……おっと、あっちも警戒しているな。いつの間にか髑髏男爵さんから一番遠い事務所の隅っこに移動しているぞ。壁を背にしてジーッと『警戒対象』を観察しているようだ。知らない人が家に来た時の猫みたいな反応じゃないか。

 

髑髏男爵さんが一瞬にしてモノクロシスターズの警戒心をマックスまで引き上げたところで、いち早く驚きから復帰した香月社長が声を上げる。動揺の半笑いを浮かべながらだ。さすがの社長としても、この登場の仕方は動揺に値するものだったらしい。

 

「あー……ようこそホワイトノーツへ、髑髏男爵さん。代表の香月です。電話でも話しましたが、改めてよろしくお願いします。」

 

「よろしくどうぞ、香月社長。……ごめんなさいね、驚かせちゃって。朝希ちゃんがあまりにも可愛らしかったから、ついついお茶目な行動をしちゃったの。」

 

「……なるほど。雨は大丈夫でしたか?」

 

「ええ、平気。傘を持ってたし、駅からはシータクで来たから。ハイブリッド車のシータクで。仙台はパラパラ降りだったのに、こっちは大雨で驚いたわ。……朝希ちゃん、もうしないからこっちにいらっしゃい。お詫びに飴をあげちゃう。」

 

何かこう、『マダム』みたいな口調だ。特徴的な抑揚があるぞ。珍しく敬語で話している香月社長に応対しつつ、髑髏男爵さんは服装とよく合っているフリル付きのハンドバッグから取り出した……黒飴か? 渋い選択だな。黒飴の袋を俺の後ろで様子を窺っている朝希さんに差し出した。

 

それを見てピクッと震えた朝希さんは、不安そうに俺の顔を見上げて、『気を付けろ』のアイコンタクトを飛ばしている部屋の隅の小夜さんにも目をやった後、恐る恐るという足取りで訪問者どのの方へと歩いていく。勇気を出して歩み寄ってみることにしたらしい。

 

「……いただきます。」

 

「遠慮しないで沢山取っていいのよ? わしっと掴みなさい、わしっと。……ンシュゥゥゥウウ!」

 

「ぴっ。」

 

うわぁ、またやるのか。容赦ないな。飴の袋に手を入れた瞬間に再び奇声を浴びせかけられて、朝希さんは数個の黒飴を掴んだまま全力ダッシュで撮影部屋へと逃げ込んでいった。その背に続いて小夜さんも駆け込んでいくのを眺めつつ、髑髏男爵さんはにんまり笑って口を開く。……笑顔もちょっと怖いぞ。かなり失礼なイメージで申し訳ない限りだが、『口裂け女』そのまんまだ。

 

「はん、可愛すぎるのが悪いのよ。あの二人は私と違って、さぞ美人に育つんでしょうね。だったらブスとして威嚇せずにはいられないの。……あーもう、妬ましい!」

 

最後の言葉と共に右足で地を蹴った髑髏男爵さんへと、手を差し出して発言を投げる。……まあ、混じりっけなしの『変な人』だな。そこは動画で見た通りだぞ。度合いは予想を大きく上回っているが。

 

「初めまして、マネジメント担当の駒場瑞稀です。傘をお預かりします。」

 

「あら、ご丁寧にどうも。……貴方が私のマネージャーになるの?」

 

「はい、そうなりますね。よろしくお願いいたします。」

 

「それなら最初に一つだけ頼んでもいいかしら? 出来れば貴方だけじゃなく、ホワイトノーツの全員にそうしてもらいたいんだけど……ここ、座っても?」

 

黒い傘にもフリルが付いているな。彼女はフリルと黒が好きなようだ。話の途中で応接用ソファを指して尋ねてきた髑髏男爵さんに首肯してみれば、彼女はソファに腰掛けてから『頼み』の内容を語ってきた。

 

「皆さんには余計な気を使わずに、私をブスとして扱って欲しいのよ。……ブスでしょう? 私。そんじょそこらのブスとは格が違う、レジェンダリー・ブスよね? 酒場の吟遊詩人が抒情歌にするレベルのブスじゃない? 『おぉぉぉ、ブス! 最も偉大なるぅぅ、ブス! 貴女こそがクィーン・オブ・ブスランドォォォ!』みたいな。」

 

「いえあの、そんなことは──」

 

「はいそれ、その嘘。それが不要なの。気を使ってくれるのは嬉しいんだけど、私相手だと明確な嘘になっちゃうから。だって私、完全無欠なブスじゃない。……痩せてもブス、太ってもブス、歳を取ったら普通はみんな『おばちゃん』のジャンルになるのに、私だけは一貫して死ぬまでブス。眼鏡をかけたらガリ勉のブスで、水着を着ると水棲のブスで、厚着すると寒がりブス。そういうレベルのブスなのよ。だからもう、『そんなことありませんよ』はパーフェクトな嘘になっちゃうの。お分かり?」

 

そんなことを言われても、『そうですね、ブスですね』とは口に出来ないぞ。傘を受け取った体勢のままで返答に迷っていると、髑髏男爵さんは早口で続きを捲し立ててくる。やや興奮しているようだし、話していて勢い付いてきたらしい。

 

「私は生まれてこの方ずーっとブスで、地獄のような人生を歩んできたの。寝てもブス、覚めてもブス、学校でも職場でもブス、ブスブスブス。……だから私、ブスで金を稼ぐことにしたわけ。これだけアンフェアな人生なのに国はブスを保障してくれないし、このままじゃ私は損をするばかりでしょう? オリンピック級のブスに生まれた私は、ブスを売り物にするしかないのよ。」

 

「売り物、ですか。」

 

「他には何もないけど、ブスだけは売れるほど持ってるもの。私は世界有数のブス富豪よ。……そんな私がブスを売りにする場合、マネージャーたる貴方が『そんなことありませんよ』と言っているようじゃダメでしょう? 私がブスであることを認め、理解し、引き立ててもらわないとね。『いいですねー、髑髏男爵さん! 今日はいつにも増してブスですよ! ブス専目線でも無理なブスです!』というやり取りを私は求めているわけ。」

 

「……あの、はい。難しそうですが、努力してみます。つまりその、『ブスタレント』のような方向を目指すという意味ですよね?」

 

ひょっとすると今日俺は、一般人の一生分の『ブス』を耳にすることになるかもしれないな。傘を事務所の隅の傘立てに仕舞いながら応じてみれば、髑髏男爵さんはグルッとこっちに顔を向けて『お叱り』を寄越してきた。細かい動作がもう怖いぞ。大迫力だ。

 

「あーら、ブスタレントですって? 駒場マネージャー、貴方はちょっとブスの勉強が足りていないようね。座りなさい。私がブスのことを教えてあげるわ。」

 

「あっ、それは……はい、失礼します。」

 

「いい? 本物のブスはたった一握りなの。本物だって居るには居るけど、テレビで活躍してる連中の大半は『ファッションブス』か、単なるデブよ。」

 

何だ『ファッションブス』って。髑髏男爵さんの対面のソファに腰を下ろして謎の講釈を聞きつつ、ちらりと香月社長に助けを求めてみるが……おのれ、俺を生贄にするつもりか。気付かぬうちにデスクに戻っていた彼女は不自然に目を逸らし、お茶を運んできた由香利さんもサッと自分の席に逃げていく。俺が標的になったから、これ幸いと対処を任せることにしたらしい。

 

「混合してる人が多いけど、大前提としてデブとブスは違うわ。デブはね、痩せると普通になるのよ。だからブスでも何でもない人間がただ太ってるだけ。あんなもんブスとは言えないわ。お飾りブスね。……対してブスは、太るとむしろ緩和されるの。分かる? 痩せていると悲惨さが際立つから、太った方がまだ見られるようになるわけ。つまり太っていてブスを名乗ってる連中はね、ブスじゃないのに太ってるだけでそう名乗るファッションブスか、ブスから逃げようとしてあえて太った『緩和型ブス』だけなのよ。真のブスは痩せていてこそってことね。」

 

「……勉強になります。」

 

「そして更に、テレビで活躍しているブスは『見られるレベルのブス』なの。人気のブスタレントたちを頭に浮かべてごらんなさい。低くても中の下か下の上くらいの連中が殆どでしょう? 下の下は滅多に出てこないし、人気も出ないわ。……だってほら、ブスすぎるんだもの! どうしたって嫌悪感が湧いてきちゃうんだもの! そんなのテレビに出られるわけがないもの!」

 

自分の顔面を指しながら立ち上がって大声を出した髑髏男爵さんは、驚いている俺を見てパッと冷静になったかと思えば、すとんと座り直して一言謝ってくる。誰か、助けてくれ。

 

「失礼、興奮しちゃったわ。……下の下のブスの人生はね、下の下のブスにしか分からないの。テレビでやってる『ブスエピソード』なんて鼻で笑える程度のものよ。面倒な不幸自慢に聞こえるでしょうけど、もう自慢できるものが不幸くらいしかないのよね。」

 

「大変だったんですね。」

 

「私ったら、前に勤めてた銀行をブスでクビになったの。普通の銀行員だったから特別な仕事じゃなかったけど、誰より懸命に働いていた自信があるわ。サービス残業だって進んでやったし、一番面倒な部分を積極的に引き受けたし、不満も一切漏らさなかった。……けど、クビよ。私、自主退職を推奨された後で上司の立ち話を聞いちゃったのよね。『いやー、あのブスやっと居なくなるよ。仕事は出来るんだけど、毎日顔見てると気分悪くなるよな。代わりに可愛い子入ってくるから期待しといて。』って言ってたわ。その瞬間、プッツンしちゃったわけ。今までずっと堰き止めていた我慢が爆発しちゃったの。『頭の中で何かが切れる音』って本当にするみたい。私は確かに聞いたもの。頭蓋骨の奥の方で、何かがブチ切れる音を。」

 

「……それで、ライフストリーマーを始めたんですか。」

 

おずおずと相槌を打ってみると、髑髏男爵さんはにまぁっと笑って頷いてきた。夢に出てきそうな笑顔だな。

 

「それまでは必死に愛想笑いで受け流して、なるべく目立たない格好をして、進んで隅っこの方に行ってたけど……全部やめちゃった。この格好、凄いでしょう? ゴスロリよ、ゴスロリ。昔から憧れてたの。初めて着て鏡で見た時はね、我ながら異世界の化け物みたいだと思ったわ。『周りの目なんか気にせずに、好きな服を着るべきですよ』とかほざいてた店員も、いざ着てみた私を見たらドン引きしてたしね。けど、良い気分ではあったのよ。」

 

「……生まれ変わったわけですね。」

 

「その通りよ、駒場マネージャー。私は気付いちゃったわけ。我慢してたってブスはブスだし、いくら頑張っても所詮『頑張るブス』にしかなれないのよ。顔が良い連中と同じステージには決して上がれないの。……そう、貴女みたいな人生は歩めないってことよ!」

 

「えっ。……えっ? 私ですか?」

 

急に指差された由香利さんがびっくりする中、髑髏男爵さんは壮絶な笑顔で糾弾を飛ばす。良かった、ターゲットが移ったようだ。

 

「貴女には分からないでしょうね、私の苦しみが! だって貴女、美人だもの! クソ妬ましいわ。こっちが素寒貧どころか膨大な借金まで背負ってスタートしてるのに、貴女は伝説の装備一式とレベルカンストの仲間と固有の最強魔法を持って生まれてきてるようなもんよ。その癖『美人には美人の苦労があるんです』だなんて言っちゃってまあ……喧しいわ、小娘が!」

 

「いやあの、そんなこと言っていませんけど……。」

 

「言うのよ! 飲み会とかで言うの! じゃあ聞くけどね、貴女たち美人は母親に容姿で泣かれたことがある? 酔っ払った母親に、ボロボロ泣きながら『そんな顔に産んでごめんね』って言われたことがあるかしら? バイトの面接で『ごめん、うちは接客業だから君の顔じゃ無理だよ』ってど真ん中ストレートに断られたことは? 好きな男の子に勇気を出して告白した時、怯えた顔で『マジで勘弁してくれ』って拒絶された挙句、後日その男子の相談を受けた教師からやんわりと『可哀想だからやめてやれ』って注意された経験はあるの?」

 

「……無いです。」

 

『怒られている時の座り方』でオフィスチェアに座っている由香利さんの答えに、ヒートアップしてまた立ち上がった髑髏男爵さんが『ほら!』という顔付きで反応した。母親に泣かれたのか。それはキツいな。

 

「所詮ね、世の中顔なのよ。この顔は尋常じゃないレベルのハンディキャップなの。『性格を明るくすればいい』とか、『学歴があれば取り返せる』とかって台詞は最下層を知らない『まあまあブス』の戯言だわ。……唯一チャンスがあるとすれば、ゴリゴリの美容整形くらいね。大手術になるだろうから超怖いけど、もうそれしか縋れる道がないのよ。」

 

「……ちなみにその、香月さんもかなりの美人ですけど。」

 

「はん、上司に矛先を逸らそうとしたって無駄よ。香月社長は事前に動画で予習して耐性をつけて来たし、おっぱいがデカすぎてピンと来ないもの。……だけど貴女はなんか、大学とかに一人は居そうな美人じゃない! 『ミス・何ちゃら』を受賞して、アナウンサーになって人気が出て、金持ちの『一般男性』と結婚して幸せな家庭を築くタイプの美人! 私はそういう美人が一番嫌いなの! どんだけ人生楽しむつもりなのよ、どちくしょうめ!」

 

褒めているんだか貶しているんだかよく分からんな。雪丸スタジオの動画のお陰で難を逃れたらしい香月社長が、自分のデスクで密かにホッと息を吐いているのを他所に、弱り切った様子の由香利さんがポツリと抵抗を放つ。

 

「でも、顔よりも大事なものがあると思いますけど。」

 

「出たわね、その訳の分からない常套句。ありませーん! そんなもの存在しませーん! 愛も金も顔があってこそなんですー! 白雪姫がブスだったら死体遺棄で終わってるし、眠れる森の美女が『眠れる森のブス』だったら眠りっぱなしよ!」

 

「……仮に白雪姫がブスだったら、そもそも美しさを妬まれて毒林檎を食べさせられることがないので、普通に幸せに暮らせるんじゃないでしょうか?」

 

由香利さんの冷静な突っ込みを受けた髑髏男爵さんは、興奮した状態で口をパクパクさせていたかと思えば……何とまあ、本能で生きているな。両唇を口の中に入れた顔で、変な声を上げながらダシダシと床を踏み始めた。お手本のような『地団駄』だ。

 

「ンンゥー! 聞きたくないわ! 美人の冷静な指摘なんて聞きたくない! ンンゥー!」

 

「……髑髏男爵さん、落ち着いてください。契約の! 契約の話をしましょう!」

 

ああ、凄い。物凄く変な人だ。人間というのは『プッツン』するとこうなってしまうのか。両手を振り回して『ンンゥー!』をしている髑髏男爵さんを宥めつつ、内心の動揺を必死に鎮める。これに比べれば香月社長や深雪さんは一般人だぞ。今まで接してきた中で一、二を争うぶっ飛び加減だな。

 

果たして俺はこんな人を制御できるんだろうかと不安になりながら、腰を浮かせてまあまあと落ち着かせてみれば……髑髏男爵さんはピタッと平静な態度になって謝罪してきた。感情の振れ幅が大きすぎないか? 一瞬で百からゼロになったぞ。

 

「失礼、また興奮しちゃった。ごめんなさいね。……そうだわ、駒場マネージャー。距離を縮めるためにちょっとしたゲームをしてみない? 私にね、あだ名を付けるの。」

 

「……あだ名、ですか。」

 

「ええそう、あだ名。ひどいのがいくらでも思い付くでしょう? 怒らないから思い切って口にしてみなさい。私をブス扱いすることに慣れる一歩目よ。」

 

「あー……なるほど、それは中々難しそうですね。」

 

正直、思い付きはするが……やはり失礼だと躊躇ってしまうぞ。そんな俺を目にした髑髏男爵さんは、またもや由香利さんを指して促しを送る。

 

「じゃあ、美人な貴女! 性格が良さそうな駒場マネージャーは困ってるみたいだし、性格が悪そうな貴女から行きましょう。貴女、お名前は?」

 

「……風見由香利です。」

 

「あら、名前まで涼やか美人。つくづく妬ましいわ。……だけどホワイトノーツに所属するなら、仲良くならなきゃいけないものね。私にあだ名を付けてごらんなさい。遠慮せずにどギツいのをぶつけてきていいのよ? さあ風見さん、セーイ。」

 

何故か英語で催促した髑髏男爵さんへと、由香利さんはそれほど躊躇せずに回答した。平時の彼女ならもっと遠慮するだろうし、『性格が悪い女』扱いにちょっとイラッとしているのかもしれないな。

 

「まあ、強いて言えば……『鶏ガラ』とかですかね?」

 

うわぁ、由香利さん。強いて言ったにしては……その、強すぎないか? まさかの強力さのあだ名を耳にして、俺と香月社長が顔を引きつらせる中、髑髏男爵さんはパチパチと上品に拍手をしながら満足げに首肯する。いいんだ、これで。

 

「ブラーヴァ。素晴らしいわ、気概がある美人は良い美人よ。『鳥』という要素に『死』や『残り滓』のイメージを織り交ぜたわけね?」

 

「……いえ、そこまで深く考えたわけではありませんけど。」

 

「私のあだ名歴の中には似たようなあだ名がいくつもあるわ。鳥シリーズだと小学四年生の時の『怪鳥女』とか三年生での『ハゲタカ』なんかがあるし、大学生の時には『白鳥さんって、産まれたてのグロい鳥にちょっと似てるよね』とのありがたい評価をいただいたもの。……私の本名、白鳥薫子(しらとり かおるこ)なのよ。信じられないほどに似合わないでしょう? 名字も名前も全然ブスじゃないのに、顔だけはブスなわけ。だから名字を『イジられる』ことがよくあったのよね。下駄箱に『死んだ白鳥の靴置き』って書かれたりとか、『バッドエンドの醜いアヒルの子』って言われたりとか。」

 

白鳥薫子さんか。まあ、似合うか似合わないかの二択だったら……似合わない方かもしれない。悲しい逸話を聞いて気まずさに包まれている俺たちに、白鳥さんはあだ名の話を継続してきた。

 

「そして『死』もよくある要素だわ。『髑髏男爵』って名前が正にそうだもの。これ、小学生当時のあだ名をそのまま引用したのよ。私にぴったりだと思って。……中二の頃は同級生から『屍蝋』って呼ばれていたし、『死神』とか『ガイコツ』はどの世代でも言ってくる人が居たわね。高校の時に頑張って太ったんだけど、勝手にガリガリに戻っちゃうの。胃下垂なのよ、胃下垂。それでお腹がぽっこり目立っちゃうから、『餓鬼』って呼ばれてた時期もあったわ。」

 

「……苦労したんですね。」

 

「もう慣れたわ。その時々の流行に乗る形でのあだ名も多かったわよ。ポケモンの『カブトプス』とか、ドラクエの『デスタムーア』とか、エヴァンゲリオンの『サキエル』とも呼ばれていたから。『パターンブス、白鳥サキエルです!』ってな具合にね。……それじゃあ続いて香月社長、あだ名セーイ。」

 

「あ、私もやるんですか。では……『深海魚』、とか?」

 

おおっと、また強いな。香月社長から深海魚呼びされた白鳥さんは、にっこり笑顔でうんうん頷く。どういう気持ちから来る笑顔なんだろう? 内心がさっぱり読めないぞ。

 

「シンプルでいいわね、深海魚。『オクトパス白鳥』や『サハギン』、『マーマン』や『アンコウ女』に近いものを感じるわ。……特にマーマンにはほろ苦い思い出があるの。小学五年生の時に男子から付けられたあだ名なんだけど、仲が良かった女の子が『薫子ちゃんは女の子だから、マーマンじゃなくてマーウーマンでしょ!』って怒ってくれたのよ。当人は庇ったつもりだったんでしょうけどね、そこは嘘でも『マーメイド』と言って欲しかったわ。私は所詮人魚じゃなくて魚女なのね。人よりも魚要素が優先されるみたい。どうしても下半身じゃなくて、上半身が魚のタイプになっちゃうわけ。」

 

「……逸話が多いんですね。」

 

「ブスに関する話は数え切れないわよ。小学生の頃は単純にからかわれて、中学生になると分かり易いいじめに変わって、高校では陰口になり、大学ではむしろ気を使われ出したわ。『比較対象』にするために仲良くしてきた子も居たしね。私が隣に立つと、『普通クラス』が急に美人に見えてくるの。……だから飲み会にも頻繁に呼ばれたわ。幹事の子がそりゃあもう賢くてね。何だかんだ言い訳を付けて必ず男五、女六で開催するのよ。そうすると私以外の女が決して余らないの。誰も私とセットになりたくないから、必死に他の子たちにアピールするってわけ。巧妙でしょう?」

 

計算高い子だな。大した『合コン戦略』じゃないか。結構な作戦に唸っていると、髑髏男爵さんは肩を竦めて言葉を繋げる。

 

「けど、その子とは今も仲良くしてるわ。変に気を使わずに、『引き立て役をやってもらう代わりにご飯代タダでいいよ』って言ってきたのよね。『あんたは見たこともないようなブスなんだから、それを利用してタダ飯食っちゃいなよ』って。……ライフストリームのことを教えてくれたのもその子なの。これで大金持ちになって、私をクビにしたクソ銀行を見返してやれってアドバイスしてくれたわ。」

 

「良いお友達ですね。」

 

「まあ、そうね。口は悪いし美人だし既婚だしガサツだけど、何だかんだで助けられてるみたい。メイクの動画もね、その子に言われてやり始めたの。可愛い子が化粧したところで七十から九十にするのが精々だけど、私の場合はマイナス二百からプラス三くらいに出来るからって。元があまりにもブスだと違いが際立つらしいのよ。……そう、それで事務所に所属しようと思ったわけ。化粧品のスポンサーとかを狙いたいと考えてるの。普通は綺麗な人が選ばれるんでしょうけど、効果を目立たせるためにブスもたまには選んでくれそうじゃない? ブスなら他に負けないわよ、私。そこだけは三十一年間生きてきて未だに敗北を知らないから。」

 

「『無敗』なのはともかくとして、化粧品狙いで行くのは悪くない方針だと思いますよ。男性の私から見ても非常に高い技術のメイクでしたし、説明も丁寧で好感が持てます。こちらで積極的に働きかけていくので、コスメ関係のスポンサーを狙ってみましょう。」

 

『メイク前とメイク後の差が際立つ』というのは俺も動画チェック時に思ったことだ。目の前に居る白鳥さんはきちんと化粧をしているわけだが、動画内に居たメイク前のすっぴん状態の彼女は……まあその、大分凄かったのだから。あの変化は他のメイク系ライフストリーマーでは絶対に、絶対に出せない要素であるはず。

 

そして何より、美容系のスポンサー料は相場が高い。どこがどう影響してそうなっているのかは定かではないけど、前職の経験からするに高額の仕事になるはずだ。テレビのコマーシャルに比べてしまえばガクッと安くなるものの、現状のライフストリームでもそれなりの値段で受けられるだろう。

 

俺が笑顔で賛同したのに対して、白鳥さんはご機嫌な面持ちで返事を返してきた。

 

「あらまあ、嬉しいことを言ってくれるじゃない。一応ね、お化粧に関しては改めて勉強し直したのよ。……最初のうちはハイテンションのレビュー系とかでリスナーを掴んで、徐々に落ち着いた美容系の動画をメインにしていこうと思ってるの。美容グッズってお金がかかるから、収入が少ないうちはちょっと不安で高い製品に手を出し辛くてね。カメラとか編集用のパソコンとかで貯金残高が一気に減っちゃったのよ。」

 

「思い切った初期投資をしたんですね。……込み入ったことを聞きますが、生活は厳しい状態ですか?」

 

「いいえ、まだ暫くは平気。『開き直り』の時に狂ったように買い物しちゃったんだけど、それまでロクな趣味がなかったからしこたま貯金できてたの。節約して切り崩していけば、ライフストリーマーとして軌道に乗れるまでは持つと思うわ。……予想だけどね、予想。最悪バイトか何かするわよ。私が私らしいままでやれる仕事は多分これだけだから、どうにか頑張っていかないとね。」

 

「分かりました、こちらも全力でフォローしていきます。動画の構成や編集に関する提案や、今後の細かい方針についても話したいんですが……先ずは契約の書類を片付けてしまいましょうか。」

 

ようやく本題に入れそうなことにホッとしていると、白鳥さんがピンと指を立てて話題を戻してくる。……やっぱり俺もやらないとダメなのか、あだ名。上手く逃げられたと思ったんだけどな。

 

「まだ貴方からあだ名を付けてもらってないわよ。さあ駒場マネージャー、セーイ。長い付き合いになるかもしれないんだから、ここで一発ド派手なあだ名を付けて頂戴。」

 

いやはや、個性的な担当クリエイターが現れてしまったな。パチンと指を鳴らして促してくる白鳥さんを前に、諦めの苦笑いを浮かべながらあだ名を絞り出すのだった。

 



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Ⅳ.かなどん ⑥

 

 

「……とにかくその、独特な人だってことは伝わってきました。コラボしてみたかったです。」

 

衝撃の初対面から一夜明けた、小雨が降る水曜日の午前中。俺は夏目さん宅のリビングで彼女と会話しながら、ひたすら生栗の皮を剥いていた。栗ご飯やマロングラッセの動画を撮りたいということで、下拵えの手伝いをしているのだ。何でも実家に親戚から大量の栗が届いて、それを半分貰ってきたらしい。

 

そんな地味な作業の最中、昨日事務所にやって来た『髑髏男爵』こと白鳥薫子さんの話題になったわけだが……そうか、コラボレーション動画か。向こうも夏目さんに対して興味を持っているようだったし、誘ってみれば良かったな。勢いに対応するのに精一杯でそれどころじゃなかったぞ。

 

終始押されっぱなしだったことを思い出しつつ、生栗に切り込みを入れている夏目さんに返事を返す。そういえば、モノクロシスターズの二人は今頃学園祭を楽しんでいるんだろうか? 一日目の今日はお土産を持って早めに帰ってくるらしいから、事務所に戻ったら話を聞いてみよう。

 

「髑髏男爵さんも夏目さんに……というか、『さくどん』について言及していましたよ。活動を始める時、『ブスどん』という名前にしようかちょっぴり迷ったと言っていました。」

 

「ブスどん、ですか。……凄い名前ですね。」

 

「まあその、夏目さんの人気にあやかる形で『ブスバージョン』をやろうとしたんだとか。さすがに失礼だということで、少し考えただけで思い止まったようですが。」

 

「私は別にいいんですけどね。誰かに真似されるくらいになれたんだと思うと、むしろ嬉しい気持ちすらあります。『何とか丸』とか『何とかどん』って名前のライフストリーマーはたまに見ますし、特に気にしたりしませんよ。」

 

あー、居るな。そういう人たちはネット上で『雪丸キッズ』とか、『さくどんチャイルド』とかって呼ばれているらしい。……真似されている当人たちがいいのであれば俺も文句はないのだが、何か問題を起こされたらと思うとちょびっとだけ怖いぞ。

 

そりゃあ無関係ではあるものの、よく知らない人が勘違いしてしまうことは有り得るだろう。とはいえいちいち『真似するのをやめてください』と言うのはあまりにもバカバカしすぎるし、似た名前ってだけで横槍を入れるのはクレーマーの行動だ。夏目さんを見習って良い方向に捉えて、行儀良くしてくれと祈りながら見守るしかなさそうだな。

 

パーカー姿の『さくどんチャイルド』たちを思って苦笑した後、栗の鬼皮を剥がしつつ応答する。夏目さんはプラスに受け取っているようだけど、深雪さんはどう思っているんだろう? 今度会った時に尋ねてみようかな。

 

「ちなみにまだ東京に居ますよ、髑髏男爵さん。今頃由香利さんと一緒に銀座で撮影をしているはずです。夜の新幹線で仙台に帰ると言っていました。」

 

「風見さんと? ……それってもしかして、私がこっちに駒場さんを呼んじゃった所為ですか?」

 

「予定が被ったというのもありますが、どちらかと言えば髑髏男爵さんの希望です。由香利さんはどうも彼女に気に入られたようでして。」

 

美人だ美人だとキツく当たっていたが、本気で嫌っているわけではなさそうだったぞ。昨日の後半は由香利さんもかなり遠慮なく『反撃』していたし、そういうところを逆に好ましく思われたのかもしれない。今日はさくどんさんの撮影があるんですと伝えたら、『それなら風見さんに同行してもらおうかしら』と指名してきたのだ。

 

そして由香利さんの方もそこまで嫌がらずに了承していたので、何だかんだで相性が良さそうなコンビだったな。対して俺は『もう少しブス扱いに慣れるように』と釘を刺されてしまったし、同僚どのを見習って白鳥さんとの関係を整えていく必要がありそうだ。

 

銀座で買い物をする動画を撮ると言っていたから、仲良くデパート巡りでもしているのかなと想像している俺に、夏目さんがかっくり首を傾げて疑問を寄越してきた。

 

「そのまま風見さんが担当になるってわけではないんですよね?」

 

「そうはならないと思います。由香利さんには営業の仕事がありますから、今日みたいな時にだけピンチヒッターをやってもらうという感じですね。……ただ、先々のことを考えて春に人員を補充する予定ではありますよ。半年ほど『マネージャー見習い』として俺の補佐をしてもらって、それから徐々に担当を付けていくつもりです。」

 

「あれ、そうなんですか。私はてっきり、駒場さんみたいな経験者を採用すると思ってました。」

 

「香月社長は生え抜きが欲しいらしいんです。……あとはまあ、そっちの方が初期の人件費が安く済むという側面もありますね。新卒狙いで行くんだとか。」

 

俺はもう一人か二人経験者を入れてから新卒に目を付けるべきだと思うのだが、香月社長は『駒場君に育ててもらうさ』と言って聞いてくれないのだ。……そもそも今更採用活動を始めたところで、誰か応募してくるんだろうか? ホワイトノーツは設立してからまだ一年も経っていない、赤字塗れの小さな会社なんだぞ。

 

それに酔狂な人間が気紛れで応募してきたとしても、内定を出した後で断られるって可能性が高いはず。どうせうちなんて『滑り止めの滑り止めの滑り止め』にもなれないような会社なんだから、就活生に面接の練習台とかにされるのがオチだ。悲観的すぎるのかもしれないけど、キープされた挙句辞退というのは有り得そうな話だぞ。

 

新卒の採用というのはそういうリスクに対応できる大きな会社が行うべきであって、うちみたいな新興企業がノウハウも持たずに手を出すのは危険すぎる。マネージャー経験者っていうのは案外居るもんだし、俺は中途採用を推したいんだけどな。

 

とはいえ香月社長が謎の『生え抜き』への拘りを持っている上、由香利さんみたいな『スーパー新卒』の例がある所為で反論し辛いので……今回も棚ぼたがあることを祈る他なさそうだ。十中八九まともな応募が来ずに、結局は中途採用になるだろうが。せめて採用活動のコストは抑え目にするように進言してみよう。

 

新入社員に関してを思案していると、夏目さんが笑顔で相槌を打ってきた。学生時代と就職後だと『就活』の見方が変わるけど、どっちにしろ厄介だという点は不変だな。さすがは日本を代表する呪いのイベントだけあって、応募側にも採用側にも平等に心労を与えてくるじゃないか。

 

「とにかく、春になれば駒場さんがちょっとは楽になるってことですよね? ……ひょっとして、違うんですか? アシスタント的な人が付くって意味かと思ったんですけど。」

 

「まあ、それに近いですね。仮に俺がチーフマネージャーだとすれば、新しく入ってきた人はアシスタントマネージャーやサブマネージャーといった立場になるはずです。」

 

「わあ、チーフマネージャーですか。出世ですね。」

 

「……そうですね。」

 

実際は全然出世じゃないぞ。給料が良くなるわけでも待遇が変化するわけでもなく、今までの仕事に新人教育がプラスされるだけだ。……別に嫌ってことはないし、新人教育は会社にとって必要だから面倒とも思わないけど、しかし結構なプレッシャーではあるな。ああ、胃が痛い。

 

正直、上司に気を使うよりも部下に気を使う方が俺としては難しいのだ。何故なら上司に対して怒ることなど滅多にないが、部下に対しては怒らなければならないタイミングが出てくるのだから。俺はもう、『誰かを叱る』という行為が苦手で仕方がないのである。

 

かといって『いいよいいよ、気にしないで』ばかりだと教育担当としては下の下だし、将来的にはその人のためにもならない。優しいのと甘いのは違うことくらいは理解できているぞ。……いやはや、想像だけで具合が悪くなってくるな。我ながら情けない限りだ。

 

要するにまあ、俺は根本的に『使われる側』の人間なんだろう。だからマネージャーを天職だと感じていて、だから香月社長と相性が良くて、だから誰かが下に付くとなるとストレスに思えてしまうわけか。うーむ、奴隷気質。

 

機械的に栗の皮を剥きつつ心中でため息を吐いていると、ぬるま湯を張ったボウルの中から新たな生栗を取っている夏目さんが話題を変えてきた。ああしておくと剥き易くなるらしい。そして鬼皮を剥いた後の栗も、別のボウルで水に浸けているわけだが……これは何のためなんだろう? 俺は栗の皮剥きなんて初めてだからさっぱり分からないぞ。

 

「何か剥いてて多すぎるように思えてきましたし、折角だから渋皮煮も作りましょうか。大きくて新鮮な栗だと何にでも使えて便利ですね。」

 

「……初歩的な疑問なんですが、マロングラッセと渋皮煮は違うお菓子なんですか? 俺は今までずっと同じ物だと思っていました。つまりその、和名と英名の違いなのかなと。」

 

「えと、全然違います。ざっくり言うと渋皮煮は渋皮が付いたままの栗を砂糖と一緒に煮込んだやつで、マロングラッセは剥いた後の栗にシロップを浸透させて作るお菓子です。」

 

全然違うのか。そこまではっきり言われると落ち込むぞ。……そもそも俺が『マロングラッセかつ渋皮煮』だと思って食べていたのはどっちなんだ? それすら分からんな。黒っぽかったし、渋皮煮だったんだろうか?

 

「……そうだったんですか。知りませんでした。」

 

己の無知っぷりに悲しくなりつつ応じた俺へと、夏目さんは更に調理の際の違いも述べてくる。……そういえば『甘露煮』なんてのもなかったか? 確かあれも甘い栗だったはずだし、いよいよ訳が分からなくなってくるな。『栗きんとん』だって甘い栗だぞ。

 

「お母さんの言い方だと渋皮煮は『早いけど面倒』で、マロングラッセは『楽だけど時間がかかる』料理なんです。渋皮煮は渋皮を傷付けないように鬼皮を剥いて、渋抜きして、繊維とか筋を丁寧に取らないといけませんから。私はそういうのを黙々とやっちゃうタイプなんですけど、お母さんは下処理の段階でイライラしちゃうみたいで。だからうちでは大抵お父さんが作ると渋皮煮になって、お母さんが作るとマロングラッセになってました。」

 

「面白い逸話ですね。マロングラッセの方だとイライラしなくて済むわけですか。」

 

「マロングラッセは渋皮を剥くのと、一個一個ガーゼで包むのが面倒なくらいですね。あとはひたすらシロップに漬け込んで、時々砂糖を追加する作業を繰り返すだけです。」

 

「どのくらい繰り返すんですか?」

 

普段料理をしない俺からすれば、マロングラッセの方も充分に面倒に聞こえてしまうぞ。というかもう、今やっている皮剥きが面倒だ。動画になるし、初めての体験だし、夏目さんと話しながらやっているのでギリギリ楽しめているけど、自分が食べるために家で一人黙々とやっている場面を想像すると……うん、かなりキツいな。

 

手を動かしながら考えている俺に、夏目さんは穏やかな笑顔で中々の答えを飛ばしてきた。

 

「うちでは大体三、四日ですね。お母さんが我慢できなくなって終わらせちゃうので、いつも短めで切り上げてます。」

 

「……四日で『短め』ということは、本来はもっと長いんですか?」

 

「えっとですね、マロングラッセって美味しいやつはこう……薄いガラスの膜が張ってるみたいになるじゃないですか。文字通りツヤツヤの宝石みたいな感じに。私が知ってる作り方であれにするには、一週間から十日くらいかかるんです。砂糖の白い結晶が付いてるマロングラッセならもっと短めで済みますし、あっちもあっちで好きなんですけどね。」

 

凄まじいな。拘ると十日もかかる料理なのか。長時間砂糖漬けにされる運命の栗たちを見て戦慄していると、夏目さんがむんと気合を入れながら話を続けてくる。

 

「今回は動画にするので、きちんと糖度を調整して一週間かけようと思ってます。駒場さんも楽しみにしておいてくださいね。ちょっと高めの紅茶と一緒に食べましょう。」

 

「はい、味わって食べることにします。」

 

完成してご馳走になる時は、一個一個丁寧に食べよう。俺がマロングラッセの恐ろしさを学習したところで、夏目さんが数個の栗を分け始めた。

 

「こっちのは動画で使います。栗ご飯とマロングラッセ用の『剥き方紹介』は撮りましたけど、渋皮煮用のやつはまだですから。渋皮煮にする栗は渋皮を完璧に残さないとダメなんです。お父さんはそこが一番大事なんだって言ってました。」

 

栗ご飯用の栗は下部を包丁で落としてササッと剥いて、今やっているマロングラッセ用の栗は先端に切れ目を入れてペリペリ剥いているわけだが……渋皮煮用の栗はまた違ったやり方で剥くのか。相変わらず料理となると引き出しが多いな。

 

栗料理の難解さに眉根を寄せつつ、夏目さんへと質問を投げる。ここまで来ると、下処理で一本の動画に出来そうだぞ。

 

「栗ご飯とマロングラッセと渋皮煮で別々の動画にするんですか?」

 

「そのつもりなんですけど、栗ばっかりだとくどいでしょうか? 栗ご飯だけは簡単すぎるので、何か合いそうなおかずとセットで動画にしようと思ってます。」

 

「季節の食べ物ですし、ジャンルが違うので大丈夫だと思いますが、マロングラッセと渋皮煮は一緒に食べて味の違いを語るのも面白そうですね。」

 

パッと思い付いたことを提案してみれば、夏目さんは何とも悩ましそうな声で返答してきた。

 

「あー、なるほど。……んー、どうしましょう。最近なんか、時間がかかることばっかりしてて動画のストックを使っちゃってるんですよね。だから二本を纏めちゃうのは少し不安です。この前もずーっと包丁を研いでましたし。」

 

「まあ、『前に食べた渋皮煮とはここが違う』という話をマロングラッセの動画に入れるだけでも充分だと思いますよ。それなら渋皮煮の動画への誘導にもなりますしね。……包丁の動画、後悔していますか?」

 

「後悔ってほどじゃないですけど、時間をかけた割には微妙だなとは……まあはい、感じてます。十一時間が六分ですもん。動画を簡潔にしすぎましたし、作業に手間取りすぎましたし、最初に編集した時の手応えもあんまりなかったです。久々にピンと来ない動画を作っちゃいました。」

 

俺は最初のチェックの際に結構面白いと判断していたのだが、夏目さん的にはそうでもなかったらしい。余計な話は一切しないで、ただ錆びた包丁を『レストア』する動画になっていたな。良し悪しはともかくとして、新しい雰囲気は出ていたぞ。

 

ただまあ、確かにさくどんチャンネルらしからぬ動画構成ではあったなと唸っている俺へと、制作者どのは小さくため息を吐いて続けてくる。

 

「でも、研ぐの自体はすっごく上手く出来ちゃったんですよ。元々良い包丁だったっていうのもあるんでしょうけど、使ってて怖くなるくらいに切れ味抜群なんです。……本当はもっと派手にピカピカさせる予定だったんですけどね。こう、鏡面っぽい状態に。だけどやってみたら不可能でした。そういうのは研磨剤とか、ロータリーマンさんが詳しそうな方面の知識が必要みたいで。」

 

「『ピカール』とかですか。鏡面仕上げまで行くと、『金属加工』の分野なんでしょうね。……しかし、和包丁としての美しさは出ていましたよ。新品同然でした。」

 

「もちろんああいう鈍い光沢も、包丁として綺麗だとは思うんですけどね。動画的にはインパクトが足りないかなって。……ライフストリーマーとしては失敗で、包丁の再生としては成功って感じです。どっちかって言うと撮影とか企画じゃなくて、編集の失敗なのかもしれません。新しいやり方に拘りすぎました。シンプルなのもいいかなって考えから試してみたんですけど、慣れてない所為で必要な部分まで削っちゃった気がします。」

 

「試行錯誤の過程ですよ。内容が濃くてさっと視聴できる動画でしたし、俺はそんなに悪くなかったと思います。……『お蔵入り』にはしないんですよね?」

 

それはちょっと勿体無いぞと思って尋ねた俺に、夏目さんは迷っている様子で首を横に振ってきた。

 

「近々上げます。ストックに回そうか迷ったんですけど、研いだ包丁を料理動画で使っていくわけなので、時系列が変にならないように今上げちゃうべきかなって。……叶に相談したら、久し振りに不機嫌な顔されちゃいましたしね。」

 

「叶さんが?」

 

「撮る時に長々と手伝ってもらったんです。カメラを持ってもらったりとか、片付けとかを。『それなのにボツだのストック行きだのになるの?』って怖い顔になったから、咄嗟に上げるよって言っちゃいました。」

 

「そういうことですか。」

 

容易に想像できるやり取りだな。そりゃあ『あれだけ手伝ってもらっておいて悪いけど、あの動画はボツだよ』とは言い辛いだろう。叶さん相手なら尚更だ。苦笑いで応答してから、ここがチャンスかもしれないと妹の話題を掘り下げる。先日深雪さんから貰ったアドバイスを実践する時が来たらしい。

 

「……叶さんは昔からあんな感じの子だったんですか?」

 

「叶ですか? ……昔はまあ、今とは違いましたね。ずっと私の後ろをついて来る感じの、物凄い『お姉ちゃんっ子』だったんです。」

 

「お姉ちゃんっ子ですか。そこは前にも聞いた覚えがありますね。……そういえば夏に雪丸さんとの対決企画を撮っていた頃、『嫌われて当然』みたいなことを言っていませんでしたか? あれはどういう意味だったんでしょう?」

 

ここで踏み込むのは俺らしくないかもしれないが、叶さんのことを考えていった時に先ずそこが引っ掛かるのだ。何とか聞き出したい部分だぞ。そんな考えから問いかけてみると、夏目さんは……おおう、分かり易く目が泳いでいるな。非常に気まずそうな半笑いで回答してきた。

 

「あっ、あー……はい。よく覚えてますね。私、そんなこと言ってましたか?」

 

「先々月、ゲーム対決をする前くらいに言っていましたね。とても気になるので、詳しく教えてもらえませんか?」

 

「くっ、食い付きますね。大した話じゃないんですよ? ただその、何て言えばいいか……昔の私は少しだけやんちゃな子だったんです。昔ですからね? 昔。今はもう違います。」

 

「やんちゃ?」

 

夏目さんに『やんちゃ』という表現は似合わないな。むしろその反対だぞ。首を捻りながら聞き返してみれば、彼女は視線を外したままで説明してくる。……由香利さんの『元ヤン』と同じようなパターンなんだろうか?

 

「十歳くらいまでは結構あの、暴力的っていうか……『パワータイプ』の子だったみたいで。叶のお菓子を横取りしたり、力で揉め事を解決してたらしいんです。あんまり覚えてはいないんですけど。」

 

「それはまた、今とは全く違いますね。」

 

「お母さんによれば、叶に強めのビンタをして『それ、お姉ちゃんに寄越しな』とかやってたんだとか。……いやあの、『強め』ってところは大袈裟だと思うんですけどね。お母さん、何でもかんでも大袈裟に言いがちなので。」

 

「……ビンタですか。」

 

まあ、姉妹だったら無くもない話……なのかな? 若干驚いてしまっている俺に、夏目さんは手を淀みなく動かしながら追加の『逸話』を語ってきた。集中しているというよりも、作業に逃避している感じだ。積極的に話したい内容ではないらしい。

 

「あとはいきなり隣町のショッピングモールに連れ出して置き去りにしたりとか、お母さんから『二人でアイス買ってきなさい』って言われて貰った五百円で、自分だけハーゲンダッツとチョコモナカアイスを買って叶には十円の……あの小っちゃい箱のガム、分かりますか? グレープとオレンジがあるやつ。あれしか買ってあげなかったりとか、真夏の暑い日に図書館で借りた本を代わりに返しに行かせたりとか、近所の怖い犬から逃げる時に囮にしたりとか、倉庫に閉じ込めたままで忘れちゃったりとか、怖い話をしつこく聞かせて不眠症寸前にしたりとか。そういうことを頻繁にしてたらしくて。」

 

「……そうなると、確かに『やんちゃ』だったようですね。」

 

「他にもプロレス技の標的にしたり、意味もなくほっぺを抓ったり、夏休みの宿題の工作をやらせたり、誕生日ケーキを強奪したり、家の手伝いを私の分までぶん投げたり、『叶の靴をどこまで飛ばせるか選手権』を開いてお気に入りの靴を川に流したり、お祭りの時に貰ったお小遣いを独占して叶には『元わたあめの割り箸』しかあげなかったり、毎日のようにお尻を蹴ったり、叶が大事に集めてた飾り付きのヘアゴムを輪ゴムみたいにして窓の外に飛ばしまくったり。中学校に上がる前の私は、そういう悪い姉だったんです。」

 

凄いやっているじゃないか、悪行。何て邪悪な子なんだ。悪どんだぞ、悪どん。あまりにもあんまりなエピソードの数々に顔を引きつらせていると、夏目さんはかなり後ろめたそうな表情で言葉を繋げてくる。行ったことはないけど、教会の告解室に居る人はもしかするとこういう態度なのかもしれないな。

 

「だからあの、ひょっとすると今叶がやってることはあの頃の『復讐』なんじゃないかと思ってまして。それで強く止められないんです。どう考えても悪いのは私ですし、もしそうなら正当な復讐ですから。」

 

「……中学生になってやめたのは何故なんですか? 何か切っ掛けがあったとか?」

 

「切っ掛けらしい切っ掛けは特にないので、単純にちょっと大人になったってことなんじゃないでしょうか? お母さん曰く、『急にお姉ちゃんらしくなった』んだとか。……要するに、因果応報なんですよ。私は自分がやってたような悪質な悪戯を、そのままやり返されてるだけなんです。だから本当は観念して受け入れるべきなんですけど、参っちゃってつい駒場さんに相談しちゃいました。」

 

話しながら落ち込んでいる夏目さんだが……なるほど、そんな背景があったのか。『子供の頃と性格が違う』というのはありがちな変化だし、俺も少なからず身に覚えがあるものの、ここまで大きく異なっているのは珍しそうだな。改心後の彼女しか知らない俺からすると、『悪どん時代』の夏目さんは想像するのが難しいぞ。

 

まあでも、それなら罪悪感は湧いてくるだろう。夏目さんが叶さんに強く出られない理由が判明したところで、担当クリエイターどのが俯きながらポツリと呟きを漏らしてきた。性格だけの問題ではなかったわけか。

 

「頑張って良いお姉ちゃんになって、罪滅ぼしをしてるつもりなんですけど……やっぱり叶、恨んでるんでしょうか?」

 

「叶さんから何か言われたことはないんですか? つまり、子供時代に関することを。」

 

「無いです。私の方からも怖くて聞けないので、一回も話題になってません。……それにちょうど私が中学生になる直前に家をリフォームして、姉妹で別々の部屋になったんですよ。だから前より会話する機会が減ったっていうのもありますね。何かこう、精神的に微妙な距離が空いちゃったんです。」

 

「変化のタイミングが重なってしまったわけですか。……俺としては意外な思い出話でした。人に歴史ありですね。」

 

少なくとも俺の問題を解決するに当たっては、重要な話だった気がするぞ。当時の夏目さんを恨んでいるが故なのか、はたまた何か別の理由があるのか。そこまではまだ確信を持てないけど、叶さんの行動を分析する一助にはなってくれそうだ。

 

栗の皮を纏めながら思考を回していると、夏目さんがおずおずと声を寄越してくる。不安げな顔付きでだ。

 

「……私のこと、見損ないましたか?」

 

「いやいや、そんなことはありませんよ。子供の頃の話じゃないですか。」

 

「それはそうなんですけど……でもほら、『子供だったから』で済ませちゃうのは良くないじゃないですか。やられた方はずっと気にするって言いますし、テレビとかでそういうエピソードを聞くと『うああ』ってなるんです。叶にもう、申し訳なくって。」

 

「……ですが、それでも叶さんは『お姉ちゃんっ子』だったんですよね?」

 

普通そこまでしていたら、その時点で嫌われそうだけどな。浮かんできた疑問を提示してみれば、夏目さんもよく分からないという表情で首肯してきた。

 

「はい、当時は相当なお姉ちゃんっ子でした。いつもべったりくっ付いてきてましたし、私が学校の行事で外泊する時とかは大泣きしてたんです。『お姉、行かないで』って。……五年生の林間学校の出掛けなんて、今生の別れレベルで泣き叫んでましたね。泣きすぎて過呼吸になってたのを覚えてますもん。お母さんによれば、帰ってくるまで私の枕を抱き締めながら毎日ぽろぽろ泣いてたんだとか。帰ってきた時は嬉し泣きしてましたし。」

 

「めちゃくちゃ好かれているじゃないですか。」

 

「だからそこも申し訳ないし、後悔してます。そんなに好きでいてくれた時期に辛く当たったりしないで、お姉ちゃんとして優しく接してあげてれば……きっと今よりずっと良い関係になれてたんだろうなって。」

 

うーん、また分からなくなってきたぞ。つまり夏目さんが『悪どん』だった時期は凄まじいお姉ちゃんっ子で、姉が優しくなると悪戯っ子になったのか。叶さんも夏目さんと同じように性格がくるりと変わったとか? だとすれば奇妙な姉妹だな。逆転現象だ。

 

兎にも角にも、立場がそっくり入れ替わったという点は理解できたぞ。夏目姉妹の不思議を感じていると、夏目さんが残りの栗を今までとは違うやり方で剥き始める。慎重な手付きで、下側から削り取るように剥いているな。あっちは渋皮煮にするらしい。

 

「ちなみにですが、中間の時期はどんな姉妹関係だったんですか?」

 

渋皮を傷付けずに剥ける自信がないし、残りは夏目さんに任せようと考えながら尋ねてみれば、彼女は目をパチクリさせて応じてきた。

 

「中間? 私が『まとも』になり始めた時期ってことですか? よく覚えてませんけど……でも、一つだけはっきり記憶に残ってます。真夜中に叶に起こされて、『お姉、何で優しくなっちゃったの?』って聞かれたことがあったんです。やけに思い詰めた顔で涙目だったから、何だか怖くなっちゃって。それで強がって『優しくなんかなってないよ、早く寝なさい』って叶の頭をぐしゃぐしゃにしたら、嬉しそうに笑って同じベッドに潜り込んできました。その出来事だけは何故か鮮明に覚えてますね。」

 

「そこだけ聞くと、叶さんはむしろ夏目さんが優しくなることを嫌がっていたようにも思えてしまいますね。」

 

「詳しくないので想像ですけど、私の所為で精神的におかしくなってたのかもしれません。犯人に依存する人質みたいな。そう思うと本当に危ないところだったのかもってゾッとします。」

 

「……それはさすがに、大袈裟に考えすぎじゃありませんか?」

 

どうなんだろう。程度はどうあれ、『幼少期に姉に好き勝手された妹』というのは世の中に一定数存在していそうだけどな。とはいえ夏目さんは深く反省しているようで、首をふるふると振って否定してくる。

 

「ひどいことをしてたんですから、大袈裟に捉えるくらいでちょうど良いんですよ。……うあー、本当に訳が分かりません。小さい頃の私って、一体何を考えてたんでしょう? ちゃんと妹に優しく出来てる子だって沢山居るはずなのに。」

 

「そこは人それぞれですよ。一生変われない人だって居るでしょうし、中学生で変われた夏目さんは全然『マシ』な部類だと思います。」

 

「だとしても後悔してます。……あっ、お湯。すみません、ちょっとお湯を沸かしてきますね。渋皮を剥く時にお湯に浸すと剥き易くなるんです。忘れてました。」

 

「それなら私がやりますから、夏目さんは剥いておいてください。」

 

こっちの栗は全部剥き終えてしまったし、暇な俺がやるべきだろう。撮影もするはずだから、カメラも準備しておかないといけないな。急に思い出したらしい夏目さんに一声かけた後、座卓を離れてキッチンスペースへと移動すると……料理長どのが栗をせっせと剥き続けながら指示を出してきた。

 

「アク抜きもしないとなので、鍋を三つ出して二つに水を入れて沸かしてもらえますか? 小さいのを一個と、中くらいのを二個お願いします。赤い両手鍋と黒い片手鍋です。」

 

「えーっと、了解です。これですよね? ……火にかけるのはこっちの二つですか?」

 

「ああいや、赤いのと黒いのの片方です。もう一個の黒い鍋には水だけ入れておいてください。全部八分の水量で。」

 

うーむ、俺は助手役として力不足らしい。これから何をするのかをいまいち把握できていないから、全てを指示してもらわないとこんな簡単な作業すらこなせないぞ。情けなく思いながら鍋に水を注いで、それをコンロに置いて火にかけるが……どうして三つも必要なんだろう? そして何故一つは水のままなんだ? 料理ってのはミステリーだな。

 

まあうん、栗料理に関する謎は大量に生まれてしまったけど、叶さんについては有力なヒントを掴むことが出来たぞ。あとはこれを活かして悪戯っ子どのに探りを入れられるかどうかだ。……そこが一番難しそうだな。今度こそ振り回されないようにしなければ。

 

ガスコンロに置いた鍋の水が沸騰するのを待ちながら、夏目姉妹の謎に考えを巡らせるのだった。

 



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Ⅳ.かなどん ⑦

 

 

「お二人とも、こっちです。」

 

久々に栗ご飯を味わった日から五日が経過した、曇り空の月曜日の午前中。俺は一ノ瀬家が入っているアパートの前で車から降りつつ、少し離れた位置に立っているモノクロシスターズの二人に呼びかけていた。車が違う所為で俺だと分からなかったらしい。二人ともびっくりしちゃっているな。

 

「わ、駒場さんだったんですか? 車、大っきくなってます!」

 

「おはようございます、駒場さん。……その車はどうしたんですか?」

 

「新車です。『新車』というか中古車なんですが、昨日やっと納車されまして。軽自動車はリース会社に返却したので、今日からはこの車で送迎することになります。」

 

投げかけた返答に二人ともきょとんとしているわけだが……つまりまあ、俺の背後にあるのは中古車展示会で出会った白いランドスター220なのだ。一目惚れした中古車を買っちゃったのである。短大の学費の合計よりも高かったので、人生で一番大きな買い物になったな。

 

あの日にディーラーとの契約を済ませて、二週間かけて諸々の申請や手続きを処理していき、奇しくも俺の誕生日であった昨日ようやく納車と相成ったわけだけど……車検が残っていたのは意外だったぞ。三年落ちだから車検切れのタイミングで売ったのだとばかり思っていたのだが、まさかの車検更新直後の売却だったらしい。二十二万キロという常識外れの走行距離といい、前の持ち主は余程の変わり者なようだ。

 

とはいえ、メンテナンスはきちんとやっていたらしい。昨日嬉しくて首都高で軽くドライブをしてみたのだが、これといった異常は見受けられなかったぞ。ユーザー車検なのがやや不安だし、まだ乗り始めなので何とも言い切れないけど、少なくとも現時点では良い買い物をしたという心境かな。

 

それにまあ、次に名古屋に行った時に豊田さんに詳しく診てもらう予定でいる。たった三年で走行距離二十二万キロはかなり珍しいということで、タダでやる代わりに点検シーンを動画にさせて欲しいとお願いされたのだ。プロに無料で診てもらえる上に動画のネタにもなるとなれば、こっちとしては願ったり叶ったりだぞ。正しく役得だな。

 

色々とラッキーが続いていることに笑みを浮かべていると、朝希さんが小さめのボストンバッグを持ち直しながら口を開く。

 

「強そうでカッコいいです! これなら他の車とぶつかっても勝てますね。」

 

「まあ、そうですね。オフロードもいける車なので、前の軽自動車よりは頑丈だと思います。……結局『お揃い案』は却下になりましたか。」

 

ぶつかったらその時点で負けだぞ。ゴールド免許的に。朝希さんの素っ頓狂な感想に苦笑しつつ話題を変えてみれば、彼女は唇を尖らせて返事をしてきた。持っているバッグを示しながらだ。

 

「私はそっちが良かったんですけど、小夜ちが違いを際立たせるべきだって言うんです。写真屋さんで着替えられるかもしれないと思って、一応お揃いバージョンの服も持ってきました。」

 

まあうん、全然違った服装の方がモノクロシスターズっぽいかもしれないな。ひょっとすると今日撮る写真は長く使うことになるかもしれないし、彼女たちらしい格好が一番だろう。小夜さんの選択はそんなに間違っていないと思うぞ。

 

要するに今日は、夏目さんとモノクロシスターズの二人を連れて美容室と写真スタジオに行く予定なのだ。当然ながら先に美容室に向かい、そこで髪を『完成』させた状態でアーティスト写真を撮ってもらうという計画なのだが……そうなるともう、夜までかかりそうだな。

 

二人を迎えに来た現在の時刻が十一時ちょっと過ぎで、港区の美容室に着くのが十二時頃。そこで全員軽くカットしてカラーを入れて、朝希さんはちょこっとだけパーマもかけるらしいから……長めに見積もって二時間半から三時間ってところか? もっとかかるかな?

 

ちなみに毛先のパーマだけであれば、同時施術が可能なことは確認済みだ。それぞれに美容師さんが付いてくれるようだから、まさか四時間だの五時間だのという展開にはならないはずだけど……インナーカラーにかかる時間なんてさっぱり分からんぞ。そこは少しだけ不安だし、美容室に着いたら改めて聞いてみよう。

 

その後遅めの食事をして、俺の知り合いのカメラマンにアーティスト写真を撮ってもらうわけなのだが……あの人もあの人で凝り性なんだよな。だからこそ良い写真が撮れるんだろうし、雑誌の撮影ほどにはかからないはずだけど、念のため各々一時間ずつの二時間は見ておくべきだろう。となるとどうしたって全てが終わるのは日が落ちた後だ。気合を入れて臨まなければ。

 

脳内でスケジュールの再確認をしている俺を他所に、薄いグレーのブラウスに黒いロングスカート姿の小夜さんが声を上げる。襟元のリボンは黒で、ロングスカートのフリルは白だ。自分たちのテーマであるモノトーンを意識した服装らしい。落ち着いた雰囲気があってよく似合っているぞ。

 

「あんたがスカートは嫌って言ったんじゃない。そして私はパンツが嫌なの。だったらこうするしかないでしょ。」

 

「私はもうスカート殆ど穿かないけど、小夜ちはたまにジーンズとか穿くじゃん。合わせてくれてもいいのに。」

 

「嫌よ。折角綺麗に撮ってもらえるなら、自分が一番好きな格好で写りたいもの。……大体ね、お姉ちゃんもこっちの方が私たちらしくて可愛いって言ってくれたでしょ? つまりこれがベストなのよ。分かったらお揃いバージョンは諦めなさい、ぽんこつ朝希。」

 

「うー、お揃いも可愛いのに。」

 

そして朝希さんは丈が長めの黒い長袖のパーカーと、パーカーの裾で半分隠れているグレーのハーフパンツ、パンツと近い色のキャップという格好だ。パッと見だと小夜さんの服と上下の色合いが逆転している感じだが、よく見れば同じグレーや黒でも微妙に異なっているな。拘りが伝わってくるぞ。

 

それに朝希さんの服はファスナーのスライダーやキャップに付いているアクセサリー、スニーカーの靴紐やソールなどの細かい箇所がカラフルだ。そういう部分に動的な性格がちゃんと表れているし、二人ともイメージにぴったりの服装だと思うぞ。良いアーティスト写真が撮れそうだな。

 

モノクロシスターズの服のセンスに感心していると、渋い面持ちになっていた朝希さんがパッと顔を上げて車に近付いていく。

 

「まあ、とにかく行こっか。両方撮ってもらって、後で選べばいいわけでしょ? それよりそれより、早く新しい車に乗ってみようよ。駒場さん、私助手席……あれ?」

 

くるりと機嫌を回復させた朝希さんが、いつものように助手席に乗り込もうとするものの……残念ながら、そこには先客が居るのだ。ここに来る前に夏目さんを拾いに彼女のマンションに寄った際、何故か姉と一緒に現れた叶さんが。

 

窓越しの助手席に居る『知らない女の子』を見て目を瞬かせている朝希さんに、ポリポリと首筋を掻きながら説明を送った。

 

「その人は夏目さんの妹の叶さんです。何でも今日一日の撮影を手伝うために、わざわざ学校を休んで同行してくれるようでして。」

 

「この子がさくどんさんの妹さんなんですか? 私たちと同じ学年の? ……初めまして、一ノ瀬朝希です!」

 

俺の言葉を耳にして薄いグレーの瞳をキラキラさせた朝希さんは、ばっちり閉まっている窓越しに叶さんへと挨拶をしているが……そういうことは乗ってからやるべきだぞ。このままだと話し難いだろうに。

 

小夜さんもそう判断したようで、ぺちりと朝希さんの頭を叩いてから後部座席のドアを開く。

 

「あんたね、先ず乗りなさい。変なことしてると変な子だと思われるわよ。……おはようございます、さくどんさん。それと初めまして、さくどんさんの妹さん。一ノ瀬小夜です。」

 

「あっ、待って。私ももう一回……初めまして、一ノ瀬朝希です! よろしくお願いします! さくどんさんもおはようございます!」

 

「おはようございます、小夜ちゃん、朝希ちゃん。」

 

「二人とも初めまして、夏目叶です。いつも姉がお世話になってます。」

 

車内の挨拶合戦を尻目に俺も運転席に乗り込んでみれば、叶さんが猫を被った状態で話しているのが視界に映る。……ちょびっとだけ不吉だな。彼女はどうしてついて来たんだろう? 当人は『カメラ役です』と主張していたし、夏目さんのこともそういう方向で丸め込んだらしいけど、俺は嫌な予感がしてならないぞ。

 

「撮影の邪魔にならないように気を付けるので、私のことは気にしないでください。家で姉の撮影を手伝うために、カメラの動かし方を駒場さんに教えてもらう予定なんです。」

 

「なるほど。……ちなみに、私たちと同じ学年なんですよね?」

 

「はい、十四歳の中学二年生です。モノクロシスターズさんたちの動画はいつも見ています。私は姉と違ってゲームが結構好きなので。」

 

「嬉しいです! どのシリーズが好きですか? LoD? BG3? WoT? それとも最近始めたマイクラ?」

 

小夜さんの質問に答えた叶さんに、朝希さんが勢いよく問いを連発しているが……彼女は思わぬ形で夏目さんの妹に会えてテンションが上がっているのだろう。夏頃に存在を知って以降、ずっと会いたいと言っていたもんな。満開ヒマワリモードだ。

 

しかし、誰もランドスターには大きな興味を示してくれないな。夏目さんも叶さんも『そっか、買ったんだ』という程度の薄い反応だったし、小夜さんもそんなに関心がなさそうだし、唯一気にしてくれていた朝希さんは今や車のことなど眼中にない様子だ。普通に悲しいぞ。やはりそういった話は深雪さんや豊田さんとすべきらしい。紹介したい機能が色々あるのに。

 

「選ぶとすればLoDの実況動画が好きですね。『エンジョイ勢』ですけど、私もやっているので。」

 

「なら、今度一緒にやりたいです!」

 

「やめなさい、朝希。ぐいぐい行くと迷惑でしょ。……さくどんさんはやっぱりパーカーなんですね。それで撮るんですか?」

 

「あっ、はい。『さくどん』はパーカーのイメージが強いみたいですし、私の場合はおめかししても逆に変になっちゃうかなと思いまして。白とグレーと黒と赤のを持ってきたので、色んなバージョンを撮ってみる予定です。」

 

賑やかな会話が響く車内で微妙な気分になりつつ、サイドブレーキとシフトレバーを操作して車を発進させた。……深雪さんの車を運転させてもらった時にも思ったことだが、マニュアル車の運転ってのは身体が覚えているものなんだな。自転車の乗り方と同じでそうそう忘れたりはしないらしい。坂道発進だけはちょっと不安だけど。

 

エンストさせたら驚かせちゃうだろうし、危なそうだと思ったら意地を張らずにサイドブレーキを使おうと心に決めていると、服装の話に移った後部座席の三人を背に叶さんが話しかけてくる。

 

「コンビニに寄るんですよね?」

 

「ええ、寄ります。美容室に時間がかかるはずですから、車中でパパッと食べられる物を買ってしまいましょう。……寒いならエアコンをつけても大丈夫ですよ?」

 

本日の叶さんは薄めの赤いダウンジャケットに姉とお揃いのスキニージーンズという格好なのだが、車に乗り込んだ時からずっとファスナーを顎のすぐ下まで……つまり、マックスまで上げているのだ。俺はまあまあ過ごし易い気温に感じているけど、もしかすると彼女は寒がりな体質なのかもしれない。

 

そんなわけで気を使って言ってみれば、叶さんは薄く笑いながら顔を寄せて囁きかけてきた。

 

「優しいですね、駒場さんは。そういうところが好きですよ。」

 

「……からかわないでください。」

 

「あれ、嘘だってバレちゃいました? そうです、本当は嫌いです。いちいち気遣ってきて鬱陶しいなと思ってます。」

 

「……すみません。」

 

一瞬にして百八十度発言を変えた叶さんは、俺が謝ったのを聞くとクスクス微笑んで座り直す。相変わらずよく分からない子だが、何となくいつもより機嫌が良さそうに見えるな。そこもまた不吉だぞ。

 

「落ち込まないでくださいよ、それも嘘ですから。別に寒いわけじゃないので、気にしないでください。お姉は寒さに弱くて暑さに強いですけど、私は正反対の体質なんです。……これは本当ですよ?」

 

「……分かりました。」

 

実際のところどれが嘘でどれが本当なのかは定かではないけど、とりあえず『好き』は虚偽だと判断して間違いないだろう。そして『嫌い』に関しては……まあ、嘘であって欲しいって感じかな。否定し切れないあたりが恐ろしいぞ。

 

ともあれ、今日一日の課題に『叶さんの相手』という項目も付け足しておいた方が良さそうだ。今の会話は後部座席まで届かない声量にしていたし、夏目さんとモノクロシスターズが居る前で派手なことをするつもりはないようだけど、警戒だけはきちんとしておかなければ。

 

───

 

その後コンビニに寄って菓子パンなどを買い、それを食べつつ美容室に到着した俺たちは、店の前での撮影を終えてカメラを回しながら入店していた。こっちの動画をモノクロシスターズのチャンネルで上げて、写真撮影の様子をさくどんチャンネルで上げる予定だ。この店で撮影できるのはモノクロシスターズのお陰なので、夏目さんが『メインディッシュ』を譲ったって形だな。

 

「おー、お洒落な感じの店内です。広いし、新しいし、何か良い匂いがします。」

 

「全体的に空間が……あの、あれね。落ち着いてるわね。天井も高いし、くるくる回ってるプロペラみたいなのもあるわ。」

 

「わー、良いですね。特にこれ、これが私的にはグッと来ます。美容院ってよく、席が窓際にあるじゃないですか。もちろん人によるとは思うんですけど、私は外から丸見えの席だとちょっと恥ずかしくて。……その点ほら、このお店は絶妙に見えなくなってます。席と席との間もちゃんと区切られてますし、プライベートな空間でリラックスできるのは嬉しいですね。」

 

うーむ、力量の差がはっきり出てしまっているぞ。朝希さんと小夜さんは若干ふわっとした感想だけど、夏目さんは実用的な部分に着目した具体的なコメントをしているな。立ち回りもしっかりとカメラを意識しているし、やはりこういう動画だと一枚上手なようだ。

 

ビデオカメラを構えながら黙考していると、奥の方で待機していた店長さんらしき人物が歩み寄ってくる。中々ファンキーな髪型の中肉中背の女性だ。モノクロシスターズのお姉さんの高校の同級生だそうなので、三十手前ということになるな。にしてはやけに若々しく見えるが。エネルギッシュな雰囲気がそう思わせるのかもしれない。

 

「こんにちは、店長の吉岡です。いらっしゃいませ。」

 

「こんにちは、吉岡さん!」

 

「あっ、こんにちは。……えーっと、今日はよろしくお願いします。」

 

「こちらこそよろしくお願いします。……いやー、二人とも大きくなったね。私のこと、覚えてる? 覚えてないか。二人が二歳だか三歳だった頃、何回か会ったことあるんだけど。」

 

おっと、フレンドリーだな。『親戚の人』の口調で話しかけてきた吉岡さんに、朝希さんがびっくりしている表情で返答した。

 

「そうなんですか?」

 

「家に遊びに行くと、あかりが……あっと、本名はダメか。ごめんごめん。二人のお姉ちゃんが毎回のように妹自慢をしてきてたのよ。あの頃も無茶苦茶可愛かったけど、今も尋常じゃなく可愛いね。」

 

「ありがとうございます!」

 

「どういたしまして。それにさくどんさんもようこそ。……うわー、本物だ。お客さんとの雑談でたまに話題になりますよ。シャンプーのレビュー動画とか、私も参考にしてますしね。日本だと珍しいやつも扱ってくれるので助かってます。」

 

いやはや、『店長クラス』の美容師というのは凄いな。一瞬にして距離を縮めてきたぞ。やっぱり話術も重要なのかなと感心している俺を他所に、夏目さんが慌てて応答を返す。

 

「それはその、嬉しいです。カラーは初めてなので、今日はよろしくお願いします。」

 

「綺麗な髪だからちょーっと勿体無いけど、傷まないように丁寧に染めるので安心してください。さあさあ、どうぞこちらへ。三人並んだ席の方が撮り易いかなと思って、準備しておきましたから。」

 

わざわざ仕切りを動かして、並べる席を用意してくれたようだ。そこに三人が近付いていく光景を撮っていると、夏目さんが振り返って声をかけてくる。

 

「駒場さん、鏡の前に三脚を……じゃないですね。すみません、さくどんチャンネルの動画じゃないのに出しゃばりました。」

 

「いえ、それで大丈夫です。駒場さん、三脚お願いします。」

 

「分かりました。」

 

いつもの癖で指示を出してしまったらしい夏目さんが謝るのに、手を振って『気にしないでください』のジェスチャーをしつつ言ってきた小夜さんへと、一つ首肯してから三脚の設置を始めた。小さめの三脚だし、これなら鏡の前の机に置けるはずだ。……ここは編集で切るだろうから、店長さんに改めて挨拶をしておくか。

 

「吉岡さん、少しよろしいでしょうか? ……改めまして、マネージャーの駒場です。本日はよろしくお願いいたします。お休みの日に押し掛けてしまって申し訳ございません。」

 

「どうもどうも、吉岡です。いや、こっちとしては大助かりですよ。かなり無理して店を開いちゃったので、この半年である程度結果を出さないと私は人生バッドエンドでして。宣伝はやれればやれるほど良いですし、動画にしてもらえるのは万々歳なんです。」

 

『人生バッドエンド』の部分がそこそこ本気の声色だったな。予想通り色々とギャンブルな出店の仕方をしたらしい。それに気圧されながら話を進めていると、やり取りが一段落したタイミングで小夜さんが声を送ってくる。

 

「あと駒場さん、何て言えばいいのか……『素材』も撮っておいてもらえませんか? 私たち抜きの店内の風景的なやつを。動画にする時に差し込みたいんです。」

 

「あー、了解です。紹介用の映像ですね? 任せてください。……吉岡さん、向こうの部屋とかも撮らせていただいて大丈夫ですか?」

 

「どうぞどうぞ、好きに撮っちゃってください。和美ちゃん、あっちの電気点けてくれる? ……ん、ありがと。」

 

『使用前』の方が綺麗に映せるはずだし、確かにインサート用の風景は先に撮っておくべきだな。店長さんの指示に従って、美容師さんの一人が電気を点けてくれた部屋……というか髪を洗うスペースに入ってみれば、間接照明の空間にシャンプー用の台や椅子が並んでいる光景が目に入ってきた。ここも見事に『お洒落スペース』だ。総額いくらかかったんだろう? これ。

 

俺が普段行く店との違いをひしひしと感じながら、全体を映したり革張り風のリクライニングチェアにフォーカスしたり、何に使うのかよく分からない機械とかを様々なやり方で手当たり次第に撮影していると……もう一台のカメラを手にした叶さんが、施術スペースの方からひょっこり現れる。

 

「駒場さん、私も撮った方がいいですか? あっちの部屋はざっと映しておきましたけど。」

 

「っと、ありがとうございます。こっちもそろそろ撮り終わるので大丈夫です。……向こうを待たせてしまっていますか?」

 

ここからだと見えないが、カメラを設置しなければ撮影を始められないはず。不安になって問いかけてみれば、叶さんは一度施術スペースを覗き込んだ後でこちらに近寄りつつ応じてきた。薄っすらと笑みを浮かべながらだ。

 

「モノクロシスターズの二人のお姉さんの話で盛り上がってるみたいですし、急がなくても平気だと思いますよ。……それより、『大事なお知らせ』があるのでカメラを止めてください。」

 

「大事なお知らせ?」

 

「これです。」

 

首を傾げながらカメラを止めると、叶さんはダウンジャケットのファスナーを一気に下ろして……おいおい、こっちの『悪い予感』を一段飛ばしで上回ってきたな。その中にあった上半身を見せてくる。淡いピンクのノンワイヤーブラだけの、半裸の上半身をだ。

 

「ちょっ、何をしているんですか。隠してください。早く。」

 

顔を引きつらせながら小声で注意した俺に向けて、叶さんは悪戯げな笑顔でぺろりと舌を出してきた。完璧にイカれているぞ。露出狂の人の行動じゃないか。

 

「ぁは、やっちゃいました。……うわ、やば。めちゃくちゃゾクゾクします。ちなみにほら、買ったばっかりの首輪もしてきたんですよ? リードもありますから、駒場さんが付けてください。」

 

「いやもう、本当にやめてくださいよ。一体全体何を考えているんですか。」

 

「興奮することを考えてるんですよ。何なら最近は常時考えてます。……あれ? 付けてくれないんですか? じゃあこのまま外に出て行っちゃいますけど。でも駒場さんが付けてくれるなら、大人しく前を閉じますよ?」

 

「付けますから。付けますから早く仕舞ってください。」

 

ダウンジャケットをやけにぴっちり着ていたのは、首元の首輪を隠すためだったのか。叶さんがポケットから出した紐……黒くて細いリードを焦りながら受け取って、それを最速で彼女の首に嵌っているベルト式の赤い首輪に付ける。言われるがままに行動するのはダメかもしれないけど、今はとにかく早く前を閉じてもらわねば。こんなところを誰かに見られたら終わりだぞ。

 

「最初は裸にする予定だったんですけど、それはさすがに勇気が出ませんでした。……でも、やっぱりそうしておけば良かったって後悔してます。ブラ無しだったらもっと怖くて、もっと恥ずかしくて、もっと興奮してたはずですから。」

 

「はい、付けました。付けましたから早くファスナーを上げてください。」

 

「分かりましたよ。……ふふ、駒場さんったら焦りすぎです。もう少し楽しんでください。リードを引っ張って、好きに命令してもいいんですよ? 足を舐めろとか、ブラとズボンも脱げとか、床に転がって服従のポーズをしろとか。今なら何だって従ってあげますけど。」

 

「しませんし、いいから閉じてください。……何をしているんですか、貴女は。道徳云々以前に、こういう行為は危険ですよ。他の男性にでも見つかったらどうするつもりなんですか?」

 

ファスナーを上げた叶さんに至極真っ当な苦言を呈してやれば、彼女はからかうような笑みで肩を竦めてきた。

 

「だって、駒場さんが居るじゃないですか。万が一危険な状況になっても守ってくれるでしょう?」

 

「そういう問題ではありませんよ。……叶さん、二度とやらないと約束してください。もし何かあったらと思うと心配なんです。私にあれこれしている分には我慢できますが、叶さんの身に危険が及ぶのは許容できません。もし同じようなことを今後もしようと言うなら、私は夏目さんやご両親に全てを打ち明けて然るべき対処をしてもらいます。」

 

「……ふぅん? こういう時は本気で怒るんですね。今までは何だって許してくれてたのに。」

 

「当たり前でしょう? これは貴女の安全に関わることなんですから、見過ごすわけにはいきません。今までの悪戯とは訳が違いますよ。……叶さん、約束してください。私には何をしても構いませんが、自分の身は大切にしてもらわないと困るんです。どうかお願いします。」

 

幾ら何でもこれは看過できないぞ。こういった行為がエスカレートしていけば、良からぬ人に目を付けられる可能性だってあるのだから。両肩を掴んで目を合わせつつ、真剣な表情で頼んでみると……叶さんは僅かにだけ怯んだように視線を逸らしてから、ポツリと呟きを寄越してくる。

 

「……何それ。まるで自分より私の方が大切みたいな言い草じゃないですか。」

 

「その通りですし、きちんと約束してくれるまで諦めませんからね。こればかりは譲歩できません。ご両親も、夏目さんも、そして私も貴女が危険な目に遭ったらと思うと怖いんです。こういうことは金輪際やらないでください。」

 

「駒場さん、バカみたいですよ。ここまで好き放題やられてる癖に、何でそんなに真剣に……はいはい、分かりました。もうしません。約束します。」

 

「絶対ですね?」

 

強めの口調で念押しをした俺に、叶さんは随分と小さな声量で答えてきた。……良かった、ギリギリで歯止めをかけられたらしい。自分の家の中で見知った人物相手に『悪戯』をするのと、その格好で外を出歩くのではリスクが段違いだ。ブレーキが壊れれば待っているのは悲劇だけだし、最悪の展開を想像するとゾッとするぞ。転げ落ちていく直前で止められて本当に良かったな。

 

「しませんってば。絶対もうしません。……ほら、放してください。分かったって言ってるでしょう? いきなりそんな風になられると、調子狂うじゃないですか。」

 

「……では、一度撮影を抜けてどこかで服を買いましょう。ちゃんと着てもらいますからね。」

 

「……いいんですか? お姉たちに迷惑かかっちゃいますけど。」

 

「今は叶さんの方が重要です。戻ってきた後でどうにか挽回します。」

 

三人には悪いが、この子をこのままの状態にはしておけない。近場の店で服を買って着てもらおう。脳内で適当な言い訳を考えつつ施術スペースに戻ろうとしたところで、叶さんが俺のジャケットを掴んで制止してくる。今まで見たことがない顔付き……ほんのちょびっとだけ、恥ずかしそうな顔付きでだ。

 

「駒場さん、待って。……一回だけ、一回だけリードを引っ張ってください。ぐいって、こっちに来いって、犬みたいに。じゃないと動きません。」

 

「……諦めが悪すぎませんか?」

 

「今この瞬間、駒場さんにどうしてもそうして欲しいんです。後からやるんじゃ意味ありません。……向こうからは見えないところまででいいですから。お願いします。」

 

「……やったら素直について来て、服を着てくれますね?」

 

妙にしおらしい態度の叶さんに確認してみれば、彼女は無言でこくんと頷いてきた。……ああもう、仕方がない。それで満足するならやってしまおう。差し出されたリードを諦観の気分で手に取って、軽く引っ張ってやると──

 

「んっ。……ダメです、もっと強く。」

 

「……叶さん?」

 

「あと一回だけでいいですから。強めに一回だけぐいってしてください。それでもう、今日はずっと素直になります。」

 

何とまあ、しぶといな。心の中でため息を吐きながら、もう一回強く引っ張ってやれば、勢いによろめいた叶さんは何故か真っ赤な顔でか細くオーケーを出してくる。口元が緩みそうになるのを、必死に堪えているかのような表情だ。

 

「……オッケーです、満足しました。」

 

「……なら、行きましょう。リードは隠してくださいね。」

 

「はい。」

 

うーん、つくづく分からん。どういう感情なんだろう? 叶さんの内心を読めなくて首を捻りつつ、俯きながら静々とついて来る彼女と共に施術スペースに移動して、鏡の前で会話している面々へと声を放った。

 

「すみません、どうも備品のカメラ用のSDカードの予備を忘れてきてしまったようでして。まだ暫くは撮れますが、この後のことも考えると容量が足りなくなるかもしれないんです。叶さんとコンビニかどこかで買ってくるので、撮影を進めておいてもらえませんか?」

 

「えっと、SDカードならありますよ。車の中の私のリュックに──」

 

「ああいえ、実は他にも買う物があるんです。すぐに戻りますから、それまで固定カメラでよろしくお願いします。本当にすみません。」

 

夏目さんの用意周到さに怯みつつ、即座に追加の言い訳を付け足してやれば……小夜さんが目をパチクリさせて首肯してくる。我ながら嘘が下手だけど、ここは強引に押し切らせてもらおう。

 

「あの、はい。別に大丈夫ですよ。最初に軽くドライカットするところは、基本固定カメラで撮るつもりでしたから。……駒場さんが忘れ物するのは珍しいですね。初めてじゃないですか?」

 

「かもしれませんね。うっかりしてしまいました。……それでは、行ってきます。なるべく早く戻るので、気にせず撮影を続けておいてください。」

 

三脚に二台のカメラをセットしながら苦笑して、そのまま逃げるように叶さんと店の外まで出た後、駐車場の愛車に歩み寄りつつホッと息を吐く。何とかなったな。あとは洋服が売っている店を探すだけだ。

 

「叶さん、乗ってください。」

 

呼びかけてから車のロックを解除して、スマートフォンを取り出しつつ運転席に乗り込んでみれば、助手席に乗った叶さんがちらちらと俺の方を見ながら話しかけてきた。仕草もやけに丁寧だし、らしくない雰囲気だな。しゅんとしているというか、おどおどしているというか、もじもじしているというか……こちらの顔色を窺っている感じの態度だ。

 

「……駒場さん、怒ってますか? 駒場さんの所為みたいになっちゃいましたけど。」

 

「心配はしましたが、怒ってはいません。……待ってくださいね、近くに店がないかを調べますから。」

 

「……はい。」

 

反省している……のかな? 急に大人しくなられるとどうにもやり難いぞ。無表情でシートベルトを締めた叶さんに、検索を続けながらフォローを送る。ひょっとするとキツく言い過ぎちゃったのかもしれない。

 

「本当に怒ってはいませんよ。『焦った』という表現が一番近いです。厳密に言えば現在進行形で焦っていますが。」

 

「……私のこと、嫌いじゃないんですか? 随分と困らせたのに、そんな相手を心配するのは変だと思うんですけど。」

 

「凄く困っていますし、こういう悪戯は本気でやめて欲しいですが、嫌ってはいません。……店が見つかったので出しますね。」

 

セレクトショップとやらがすぐ近くにあることを発見して、短く断ってからバックで車を出していると、叶さんがジッと俺の顔を見つめながら話を続けてきた。

 

「どこまで変な人なんですか? 駒場さんは。何でもかんでも許しちゃって、私の要求に付き合って、こんな迷惑までかけられても嫌わないだなんて……変なの。本当に変。」

 

「……すみません。」

 

「おまけにほら、すぐ謝る。悪いのは私なのに。そんなんだから付け入られるんですよ。情けなくて苛々します。」

 

あれ、いつの間にか俺が怒られているぞ。どうしてこうなったんだ。ムスッとした面持ちで文句を投げてくる叶さんに、何と返せばいいのかと迷っていると……彼女はふいと助手席の窓に目を向けて言葉を重ねてくる。

 

「……けど、今回は謝ります。ごめんなさい。今までは妄想するだけだったんですけど、駒場さんが付き合ってくれるからって調子に乗りすぎました。よく考えたら危ない行為でしたし、止めてくれて良かったのかもしれません。」

 

「……妄想していたんですか。」

 

「別にですね、裸を知らない人に見られたいってわけじゃないんですよ? 見られるのが絶対に嫌だからこそ、見られそうになるのに興奮するだけです。……普段は私、結構ガードが固い方なんですから。だけど駒場さん相手だと不思議と嫌悪感が無いから、ちょっと制御できなくなっちゃいました。」

 

「……あの、もう『実行』するのはやめてくださいね? 妄想するのは自由ですし、個々人の性癖に口を出す気はありませんが、世には良からぬ人が沢山居るんです。それを忘れないようにしてください。」

 

深雪さんの『エグい性癖』に関する推理は当たっていたらしいなと眉根を寄せつつ、車を走らせながら恐る恐る警告してみれば、叶さんは僅かな間を置いた後で返答してきた。……そういえば、首輪がどうこうとも言っていたな。凄まじい推理力じゃないか。

 

「……駒場さんが付き合ってくれるなら、外では絶対にしません。」

 

「さっきと言っていることが違うじゃないですか。……そういう行為は交際している人とやるべきです。『姉のマネージャー』を相手にするのは変ですし、叶さんのためにも私のためにもなりません。」

 

「私、言いましたよね? 駒場さんのことが好きだって。だから駒場さんとしたいんです。」

 

「それは嘘でしょう?」

 

信号待ちで停車させながら指摘した俺に、叶さんは顔を……ちょっとだけ朱が差した無表情を向けて応答してくる。

 

「一時間前までは嘘でしたけど、今は少しだけ本当です。……あ、やっぱり嘘です。嫌いでした。大っ嫌いですね。」

 

「……もう訳が分からないんですが。」

 

「分からなくていいんですよ。私は駒場さんなんかに理解できるほど、単純な人間じゃないですから。……これの続き、家で二人っきりでやりましょうね。外ではもうしませんし、駒場さん以外にもしません。そこは約束します。」

 

「私相手にもしないでください。」

 

ダウンジャケットを指して誘ってきた叶さんに提言してやると、彼女は嗜虐的な笑みで拒否してきた。どうやら調子が戻ってきたらしい。

 

「嫌です、します。私、無理やりするのも無理やりされるのも好きなんです。だから駒場さんに強制的に強制させることにしました。……そんな深刻な顔しないでくださいよ。問題なんて何もありません。駒場さんはきっと、どんどん私のことを好きになりますから。」

 

「……叶さんの目当ては夏目さんなんでしょう? そのくらいのことには気付いています。『二人っきり』でやっても意味がないじゃないですか。」

 

「あれ? ちょっと強気になっちゃって可愛いですね。名探偵の気分ですか? ……でも、残念。私は駒場さんのことを気に入っちゃったんです。お姉抜きでもやりますよ。」

 

「……それも嘘でしょう?」

 

そのはずだぞ。少し不安になりながら尋ねた俺に、叶さんはご機嫌にクスクス微笑んで肩を竦めてくる。

 

「さあ? 教えてあげません。……駒場さんの理性、どこまで持つか見ものですね。ドロドロに甘やかして、ぐちゃぐちゃに虐めて、私以外なんて目に入らないようにしてあげます。」

 

「叶さん、そうすると私は警察に捕まってしまいます。しかもかなり不名誉な罪で。だからそうはなりません。私は人に誇れるような健全な人生を目指していますし、逮捕されるのは御免ですから。」

 

「自信満々ですね。そんなこと言われたら壊したくなっちゃうじゃないですか。……大丈夫ですよ、駒場さん。誰にも、お姉にも秘密です。駒場さんが赤ちゃんみたいに甘えても誰にもバレませんし、私のこと無茶苦茶にしても捕まったりしません。なーんでも好きなことしちゃえるんですよ? どうですか? 興奮してきました?」

 

「しません。……はい、着きましたよ。早く服を買って戻りましょう。」

 

するわけがないだろうが。リスクに背筋が凍るだけだぞ。店の駐車場に車を入れて促してやれば、叶さんはつまらなさそうに鼻を鳴らして素直に降車した。

 

「いいですよ、今はそれで。そのうち気が変わります。……だって私、これからは本気でやるつもりですから。スイッチ、入っちゃいました。今までのなんて単なるお遊びです。」

 

「……行きましょう。」

 

「あれあれ? 無視しても意味ないですよ? ……ほら、手を繋ぎましょうよ。駒場さん? あんまり無視すると後で後悔しますからね? 私、構ってもらえないといじけるんです。そしていじけると物理的な行動に出ます。精神的に処理できるうちにしておくべきだと思いますけど。」

 

何だその厄介な『取扱説明』は。悪戯げな笑顔で手を差し出してくる叶さんを頑として無視して、小さめのセレクトショップに入店して服を探す。……何でもいいからさっさと買ってしまおう。とにかく服装の問題だけでも片付けてしまわなければ。

 

「叶さん、好きな服を選んでください。」

 

「……買ってくれるんですか?」

 

「それはそうですよ。何でもいいですから、急いで決め──」

 

「じゃあ、駒場さんが選んでください。自分で決めたくありません。選んでくれなきゃ嫌です。」

 

数分前のしおらしさは完全に消滅して、謎の厄介モードに突入してしまったな。これ見よがしにぷいと顔を背けた後、横目でこちらを見つつ笑顔で要求してくる叶さんに半眼を向けてから、所狭しと服が並んでいる店内をざっと見回して……じゃあもうこれにしよう。パッと目に付いた黒いタートルネックのセーターを手に取った。

 

叶さんの身長は150センチに届かないくらいなので、サイズ的に若干大きい気もするが、こういう店でぴったりを探すのは時間がかかりそうだから……悪いがこれで我慢してもらおう。セーターだったら多少ぶかっとなっても許容範囲なはず。

 

「では、これで。」

 

「一瞬で決めましたね。適当さが凄いですけど……結構可愛いですし、許してあげますよ。試着室で着てきます。」

 

案外すんなり受け取ってくれた叶さんは店の奥の試着室へと入っていき、然程時間を使わずにそこから出てくる。……まあ、思っていたよりもぶかぶかだな。どうなんだろう? ファッションの範疇に収まっていればいいんだが。

 

「……想像より大きいですね。別の服にしますか?」

 

タートルネックのセーターとジーンズ姿になった叶さんに問いかけてみれば、彼女は手に持っているダウンジャケットを羽織りながら首を横に振ってきた。いいのか。

 

「駒場さんが選んでくれたんだから、これがいいです。……この服なら首輪もちゃんと隠れますしね。」

 

「いやいや、首輪は外してくださいよ。」

 

「そんなに心配しなくても、リード無しならそういうファッションに見えますよ。チョーカー的な。……折角引っ張ってもらったのに、ここで外したくありません。このまま帰ります。」

 

「……なら、レジに行きましょうか。」

 

『折角引っ張ってもらった』という発言は理解できないが、何にせよ気に入ったのであれば文句はないぞ。二人でレジまで歩いていって、俺と同世代くらいの女性店員に声をかけて『そのまま着ていきます』と伝えてやれば、彼女は袖口のタグを取った後でレジスターを操作して──

 

「二万九千四百円になります。」

 

「……カードの一括で。」

 

あー……値段、見るべきだったな。精々八千円とかかと思っていたぞ。それでもここで『やっぱりやめます』と言うのは格好が悪すぎるし、もうタグを取ってしまったんだから後戻りは出来ないと自分を説得して、観念してカードで支払いを済ませる。三万円か。まさかの出費になってしまったようだ。洋服というのは何だってこんなに高いんだろう?

 

「ありがとうございました。」

 

やっちゃった気分で店員の声を背に店を出た俺に、叶さんが珍しく申し訳なさそうな顔付きで口を開く。彼女にとっても予想外の値段だったらしい。

 

「……二万八千円でしたね。値段を見てなかったので驚きました。」

 

「私もです。……まあ、四ヶ月遅れの誕生日プレゼントだとでも思ってください。遅すぎますし、パッと選んでしまいましたし、微妙なサイズですが、値段は気にしないで欲しいという意味で。」

 

「……ふぅん? 私の誕生日、知ってたんですね。」

 

「七夕の日でしょう? 夏目さんから聞きました。遅くなりましたが、おめでとうございます。」

 

ほぼ四ヶ月遅れの今更すぎるお祝いをしつつ車に乗ると、助手席に座った叶さんが応じてくる。素直に嬉しそうな表情でだ。ふとした瞬間にそういう顔をされるとドキッとするぞ。

 

「誕生日を知っていてくれたのが嬉しいので、遅かったことには目を瞑ってあげますよ。ありがとうございます。……この服、大事にしますね。」

 

「喜んでもらえたなら何よりです。……それでは、美容室に戻りましょうか。」

 

「『アリバイ用』の袋を手に入れるためにコンビニにも寄るべきですよ。お姉、そういう時だけは鋭いですから。売ってるコンビニが無くて時間がかかったとか言い訳すれば大丈夫だと思います。」

 

「……分かりました、そうしましょう。」

 

さすが夏目さん相手の悪巧みには慣れているなと唸りつつ、エンジンをかけて車を発進させてやれば、自分が着ているセーターを見下ろしながらの叶さんが質問を寄越してきた。

 

「ちなみに、駒場さんの誕生日はいつなんですか? 一方的に知ってるのはズルいですし、そっちの誕生日も教えてください。」

 

「……昨日です。」

 

「……昨日? 何で黙ってたんですか。お姉もそんなこと一言も言ってませんでしたけど。」

 

「私はその、祝われるのが苦手なんです。なのでこうやってストレートに聞かれた時以外ははぐらかすようにしています。夏目さんやモノクロシスターズの二人には言っていません。」

 

他人を祝う分にはいいのだが、親しい人から『誕生日おめでとう』と言われるのは気恥ずかしくて嫌なのだ。プレゼントとかも貰うと何だか申し訳なくなるし、自分の誕生日は苦手だぞ。友人に話すと大抵『何それ』と呆れられるんだけど、同じような人は他に居ないんだろうか?

 

ちょっぴりバツが悪い心境で弁明した俺に、叶さんは……やっぱり呆れられてしまったらしい。見事な『何それ』の面持ちで返事をしてくる。

 

「意味が分かりませんね。……けど、お姉も知らないって部分は優越感があって高ポイントです。そうですか、昨日が誕生日だったんですか。今度目一杯お祝いしてあげますから楽しみにしておいてください。」

 

「そういうのが苦手だから極力秘密にしているんですが。」

 

「苦手なら尚のことやります。駒場さんが嫌がることするの、ゾクゾクしますから。」

 

ああ、失敗だ。言うんじゃなかった。ぺろりと唇を舐めた叶さんを視界の隅で確認しつつ、内心で小さくため息を吐く。……まあでも、誠心誠意話せば伝わることは分かったぞ。今日はもう精神力が削られすぎて残っていないから、次の機会にきちんと夏目さんに関してを話し合ってみよう。

 

自分が問題を棚上げしていることを自覚しつつ、それでも今日はもう限界だと運転に集中するのだった。

 



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Ⅳ.かなどん ⑧

 

 

「しかしまあ、カメラマンってのは凄いね。何がどう違うのかは上手く説明できないのに、カメラ好きの素人の写真とはやっぱり違って見えるよ。……この写真、いいじゃないか。」

 

ああ、それは俺も良いと思った写真だ。カフェの店内でノートパソコンのモニターを指差している香月社長へと、俺は笑顔で同意を飛ばしていた。グレーのパーカーのフードを目深に被って、俯きながらキリッとしている夏目さんの写真。普段と違った雰囲気が何ともカッコいいぞ。

 

「私も良い写真だと思うんですが、夏目さんはちょっと否定的でしたね。『これはさくどんの雰囲気じゃありません』と言っていました。彼女はむしろ、百三番の写真が気に入ったらしいです。」

 

「百三? あーっと、百三番となると……なるほど、これか。こっちは正に『さくどん』だね。明るい感じで悪くないと思うよ。」

 

「なので差し当たりそれをメインにして、他にも何枚か使っていく予定です。」

 

楽しそうな笑顔で両手を広げている夏目さんの写真を見ながら、香月社長に報告した後でアイスコーヒーを一口飲む。……今日は所属の希望を知らせてきた『アポロンくん』さんと面談するために、毎度お馴染みの幸運のカフェに二人でやって来たのだ。そして彼を待っている間、二日前に撮った夏目さんとモノクロシスターズの写真を改めてチェックしているわけである。

 

『アーティスト写真』ということでポーズや格好を変えて何百枚も撮りまくって、その中から良さげな写真を発掘する作業を行ったのだが……三人の写真は比較的『当たり』の割合が高い気がするな。コメットの撮影ではピンと来る写真が見つからないケースが多発していたけど、今回は使いたい一枚がありすぎて困っているぞ。

 

特にモノクロシスターズにその傾向が強いな。対照的な服装でカッコよく背中合わせになっている一枚や、お揃いの服で小夜さんのことを朝希さんが後ろから抱き締めている微笑ましい一枚だったり、服を交換してボーイッシュな小夜さんとお嬢様な朝希さんになっている一枚があったりと悩ましすぎる。二人も懊悩していたっけ。

 

ちなみにインナーカラーはきちんと入ったし、朝希さんのロングボブの髪の毛先は『ゆるふわのくしゃくしゃ』……これは当日の本人の表現だ。になったし、夏目さんのセミロングの髪は明るめの茶色に変わった。美容室の店長である吉岡さんとしても満足の出来だったようだから、少なくともイメージチェンジには成功したと言えそうだな。

 

ただし、インナーカラーについては特殊な染め方をしたのでそんなに長く持たないらしい。だからまあ、あくまでソーシャルゲームのスポンサー案件に合わせてってことになりそうだ。髪を染めた経験がない俺には分からない世界だぞ。今は髪へのダメージも少ないようだから、今度やってみようかな?

 

そうは思えど結局やらないんだろうなと苦笑していると、隣に座っている香月社長がノートパソコンを操作しながら問いを寄越してくる。このノートパソコンは元々由香利さんの私物だったはずなのだが、いつの間にか社用になっているな。大丈夫なんだろうか?

 

「好奇心からの質問だが、これを撮る時にカメラマンは『いいよー、その笑顔』とか言っていたのかい?」

 

「言っていましたね。殆ど被らせずに褒め言葉を連発していました。」

 

「恐れ入るよ。やはり被写体を『ノセる』のは重要なわけか。」

 

「頼んだカメラマンさんは知り合いなので前に聞いたことがあるんですが、そういうのは被写体に合わせるらしいですよ。ここぞという時にだけ褒めたり、とにかく褒めまくったり、あるいは冷静に指示を出したり。個性に合わせて探り探りやっているんだそうです。」

 

時々写真を撮るのが仕事なのか、『煽て』が本業なのか分からなくなると疲れた表情で語っていたぞ。幅が広い仕事だから何をメインにするかでも変わってきそうだけど、人物を撮るカメラマンというのは『サービス業』の側面が強いようだ。

 

苦労していそうだなと感慨深い気分で話した俺へと、香月社長は疑問げな面持ちで質問を返してきた。

 

「前もキー局のプロデューサーから意見を貰ってきていたが、君は芸能関係の知り合いが多いのかい?」

 

「多いというほどではありませんが、付き合いがある人は数名居ますよ。イベントの取り仕切りを行っている業者の社長さんとか、放送作家さんとか、ラジオ局のディレクターさんとかですね。前の仕事で沢山関わりましたから。」

 

「コメット経由の繋がりというわけか。」

 

俺が前職で担当していたアイドルグループの名前を出した香月社長に、一つ頷いて返事を送る。

 

「他のタレントさんも担当していましたし、そっち経由の繋がりもありますが……まあ、殆どはそうですね。コメットは色々と経験してきましたから。昔は事務所の期待も薄かったので、基本的に自分たちでやるしかなかったんです。『ハコ』の確保やイベント開催の手続き、地方ラジオの出演や挨拶回り、グッズの発注やプロモーション。全部メンバーと協力してやっていました。」

 

「……となればコメットの面々は、君が居なくなって寂しがっていそうだね。連絡したりはしていないのかい?」

 

「アイドルですからね。連絡は避けるべきですよ。解雇された件を心配してくれていたらしいので、現在のマネージャーさんを通してホワイトノーツに就職したことだけは伝えましたが、今のところそれだけです。」

 

「堅いね、君は。メールくらい別にいいと思うよ? ファンだって『戦友』たる君とのやり取りは許すだろうさ。」

 

若干呆れたように意見してきた香月社長へと、首を横に振って返答した。戦友だからこそ絶対に邪魔をしたくないのだ。今は波に乗っているし、このまま武道館ライブまで突き進んでいって欲しいぞ。アーティストとしてはありきたりな目標かもしれないけど、それでも『いつか必ず』と言っていたもんな。

 

「やめておきます。ずるずると関わられるのは迷惑でしょうし、リーダーの周防さんはそういうことを人一倍気にする性格なんです。一人のファンとして応援していきますよ。」

 

「君は本当に自己評価が低いね。迷惑どころか、向こうは会いたがっているかもしれないぞ。」

 

「きっと忙しくて私のことなど忘れていますよ。今や三人ともファッション雑誌との専属契約を結んでいて、民放ではレギュラー番組だらけですからね。テレビで元気に活躍している姿を見る度にホッとしています。」

 

「何とまあ、まるで親だね。」

 

さすがに娘とまでは言わないものの、感覚的には『妹』に近いかもしれないな。彼女たちが駆け出しの頃から、マネージャーとして四年以上も担当していたのだ。そりゃあ情は湧いてしまうぞ。

 

香月社長がやれやれと呟いてくるのに、首筋を掻きながら応答しようとしたところで……っと、来たな。昼下がりの晴れた屋外から、アポロンさんが店に入ってくるのが視界に映る。アロハシャツみたいな柄の謎ジャケットと白いシャツ、黒いスラックス姿だ。めちゃくちゃ目立っているぞ。

 

ワックスで固めた長めの茶髪、首元のクロムハーツ風の細いネックレス、ロングノーズのお洒落革靴。……うーむ、総じてホストっぽいな。それも最近のホストではなく、一昔前のスタイルだ。出迎えた店員と何か会話しているアポロンさんのことを観察していると、香月社長が彼に呼びかけを放った。

 

「アポロン君、こっちだ。」

 

「あっ……ども、お疲れっす! お待たせしてさーせんっした! さーせん!」

 

「約束の時間はまだだし、私たちが早く来すぎたというだけの話さ。座ってくれたまえ。ご馳走するよ。」

 

「あざっす!」

 

口調イコール人格ではないし、彼が『善人』だという事実は香月社長から聞かされているので、別にそれで印象が悪くなったりはしないが……いやぁ、分かり易く『チャラい人』だな。アポロンさんもまた、動画そのままのキャラクターらしい。

 

席に腰掛けてメニュー表を手に取ったアポロンさんの様子に内心で苦笑しつつ、立ち上がって自己紹介を口にする。

 

「アポロンさん、初めまして。ホワイトノーツでマネジメントを担当しております、駒場瑞稀と申します。」

 

「これはご丁寧に……えっと、ご丁寧にあざっす! 工藤アポロンです。よろしくおなしゃす!」

 

「『工藤アポロン』? ……ひょっとして、『アポロン』というのは本名なんですか?」

 

「うす、そうっす。よくある工藤……工藤静香とか工藤新一の工藤に、太陽って書いてアポロンです。名字だと色んな人と被っちゃうんで、名前の方で呼んでくれるとありがたいっす。」

 

おおっと、凄い名前だな。最近話題のキラキラネームってやつか? しかし太陽さんはどう見ても二十歳を過ぎているので、名付けは二十年以上前に行われたはず。彼の両親は時代を先取りしたらしい。

 

ハンドルネームではなかったことに驚いている俺に、太陽さんは苦い笑みでぺこぺこ頭を下げてきた。人生の難易度が一段階上がりそうな名前だけど、芸能の神様の名前を持つライフストリーマーというのは悪くないかもしれない。そういう風にプラスに捉えておこう。

 

「分かり難くてさーせん。よく『たいよう』って読まれるけど、実は『アポロン』なんすよ。フリスビーで友達を殺した、外国の偉い神様の名前らしいっす。……さーせん、こっちに豆乳アサイースムージーおなしゃす!」

 

「何故そのマイナーな逸話を抜き出したのかが分からないし、ヒュアキントスの死因は『フリスビー』なんて可愛らしい物ではなく『円盤』だが、何にせよ面白い名前だと思うよ。大抵の人物には一発で覚えてもらえそうだしね。……ちなみに君、年齢はいくつなんだい?」

 

発言の後半で店員に注文を投げた太陽さんへと、香月社長が愉快そうに飛ばした質問に、彼は見ていたメニュー表をテーブル脇に仕舞いながら答えているが……どうやら『さーせん』が口癖のようだな。この短いやり取りでそこはもう理解できたぞ。

 

「うっす、今年の夏で二十四になりました。」

 

「おや、私たちと近いね。駒場君は最近二十六になったばかりだよ。」

 

「あっ、最近っすか。めでたいっすね。おめでとうございます!」

 

「ありがとうございます。……ライフストリームを始めたのは今年の春なんですよね?」

 

嬉しそうな笑顔で祝福してくれた太陽さんに対して、軽く目礼してお礼を言いつつ問いかけてみれば、彼はこくこく首肯しながら応じてくる。……確かに悪い人ではなさそうだし、距離を縮めるのが上手いな。人懐っこい態度と笑みがこちらの警戒を緩める感じだ。天然でやっている気がするぞ。

 

「そうっすね。今年の冬……二月か三月まではホストやってたんすけど、彼女が嫌だって言うから辞めました。それで今はコンビニでバイトしながらライフストリーマーやってます。」

 

「彼女さんのために辞めたんですか。」

 

「はい、愛してるんで。マジで結婚まで考えてるんすけど、今は収入が全然釣り合ってないんすよね。だからライフストリーマーでデカくなって、プロポーズする予定っす。」

 

おおう、愛していると真面目な顔で断言できるのは凄いな。同じ男として尊敬するぞ。男気を見せた太陽さんに感心していると、香月社長が興味深そうに相槌を打った。……しかし、やはりホストだったのか。髪型や服のセンスはその頃の名残なのかもしれない。

 

「それで事務所所属を決めたということかい?」

 

「そうっす。俺、バカなんで。最初はよく分かんなくて迷ってたんすけど、彼女が『太陽はバカだから一人でやってもどうにもならないよ』って言うから、思い切って連絡してみました。マジでバカなんす、俺。中卒ですし。」

 

「安心したまえ、ライフストリームに学歴は関係ないさ。オックスフォード卒だろうが『幼卒』だろうが大した違いはないよ。再生数を出せればそれが正義だ。」

 

何だ『幼卒』って。幼稚園が最終学歴ということか? 義務教育の対義語みたいな造語だな。身も蓋も無い内容を堂々と言い放った香月社長に、太陽さんは自信なさげな面持ちで曖昧に返答する。彼は社長や深雪さんのような自信家ではないらしい。

 

「だといいんすけど、俺はもう本当にバカなんで……上手くいくかちょっと不安っすね。彼女から『やり過ぎないように管理してもらいなさい』って言われてるんす。そういうのってお願いできますか?」

 

「管理?」

 

「俺、前に『口の中で洗濯してみた』って動画を上げようとしたんす。洗剤とハンカチを口に入れて、泡立てるって動画を。……けど、彼女から止められちゃって。『飲んだら危ないし、そういうことやってると炎上するよ』ってマジ切れされちゃいました。冷静にキレるから超怖かったっす。」

 

「それは……まあ、はい。彼女さんが正解ですね。そういう動画は仮に一時的に話題になったとしても、後に繋がりませんから。長期的な目線で考えればやめるべきですし、健康面で危険だという点もその通りだと思います。」

 

中々際どいことをやろうとしていたな。そういった『危険チャレンジ』はライフストリーム上でちらほらと目にするけど、あれは所詮一発屋にしかなれない手法だぞ。『奇を衒う』と『危険行為』の境界線を見極めるのは難しいが、洗剤を口の中に入れるのはかなりの割合で後者だろう。

 

止めてくれて良かったと顔を引きつらせている俺へと、太陽さんは尚も『過去の凶行』を並べ立ててきた。……ただし『激辛チャレンジ』や『ドッキリ系』なんかはグレーゾーンに位置する動画が多いから、線引きのあやふやさにはこの先常に悩まされそうだな。運営側のルールに従うのは大前提として、白とも黒とも言い切れない場面では内側の規範に照らし合わせたり、外側の時勢を鑑みたりしていく必要があるだろう。事務所としては厄介な問題だぞ。

 

「あとは乾燥剤を『ふりかけ』にしようとしたりとか、公園のデカい滑り台をスケボーで滑ろうとしたりとか、熱湯を一気飲みしようとしたりとか。そういうのも止められたんす。『マジでやめて』ってガチの顔してました。」

 

「……頼りになる彼女さんですね。」

 

「俺と違って頭良いんすよ。だけどバカな俺はもう、身体張る企画くらいしか思い付かないんす。それでこのままじゃヤバいってなって、事務所に入って管理してもらおうと思って。」

 

「なるほど。」

 

正解だぞ、頗る正解だ。神妙な表情で頷きながら、心中では大変なマネジメントになりそうだと怯んでいる俺に、太陽さんは弱り切った顔付きで話を続けてくる。

 

「多分俺、迷惑かけちゃいますけど……でも、マジでやろうって気持ちだけはあります。ビッグになって絶対恩返しするんで、面倒見てもらえないっすか? それにあの、全部ちゃんと相談してから決めるつもりっす。彼女にそれだけは怠るなって言われたんで。俺が一人で考えて動画を作ると、死ぬか炎上かのどっちかだからって。」

 

「……どうですか? 社長。」

 

「私はオーケーだよ。気に入っちゃったからね。……太陽君、君は学歴云々とは関係なくバカだ。それはもう私も同意しようじゃないか。恐らく大学を出ていたとしてもバカのままだったんじゃないかな。」

 

えぇ、辛辣だな。『根がバカ』を断定した香月社長は、ピンと人差し指を立てながら言葉を繋げた。

 

「しかしだね、ことエンターテインメントという視点で見ればバカは魅力の一つなのさ。だから問題は『良いバカ』か『悪いバカ』かなんだよ。迷惑行為で目立とうとするのは悪いバカで、バカバカしいことを大真面目にやって人を笑わせるのが良いバカだ。私たちが君を良いバカの道に誘ってあげよう。」

 

「マジすか、マジすか! お願いしたいっす! ……俺、自分の動画でみんなをハッピーにしたいんすよ。世の中にはこんなことしてるバカなヤツも居るんだなって思えば、苦労してる人たちもちょっとは気が楽になるかなって。彼女もそれには賛成してくれてました。『太陽はバカだけど、それに救われる人も居るんだよ』って言ってくれたんす。」

 

「君は賢い交際相手に出逢えたようだね。その通りさ、君のバカはきちんと扱えば世の中に幸福を齎せるんだ。」

 

「うす、頑張ります。地元の中学のツレとか、建設会社時代の先輩たちとか、ホスト時代のお客さんとか同僚とか、今のバイト先の店長とか、アパートの大家さんとか。みんな俺のこと応援してくれてて。俺、どうしてもその期待に応えたいんすよ。動画で沢山の人を幸せにして、金稼いで、いつか世話になった人たちに恩返ししようと思ってます。だから……だから俺のこと、よろしくおなしゃす! バカだけど、やる気だけは誰にも負けないっすから!」

 

いやはや、そんなことを言われたら突っ撥ねられないぞ。純粋というか誠実というか、人好きのする人柄だな。大きく頭を下げた拍子にテーブルに額をコツンとぶつけた太陽さんへと、負けましたという気分で声をかける。……香月社長の表現はどこまでも的確だったらしい。つまるところ彼は、『良いヤツ』なのだろう。

 

「分かりました、任せてください。私がマネージャーとして、太陽さんのことを良い方向に導いてみせます。」

 

「あざす、あざっす! よろしゃす!」

 

顔を上げた太陽さんが実に嬉しそうな笑みを浮かべたところで、店員が注文した品を持ってきた。するとテーブルに置かれたグラスを見た彼が、スマートフォンを取り出して写真を撮り始める。

 

「お待たせいたしました、豆乳アサイースムージーです。」

 

「あっ、ども。あざす。……これ、ツイッターに上げていいっすか? 『アポロンくん』でやってるんすけど。」

 

「ええ、勿論。SNSも利用しているんですね。」

 

「うす、やってます。俺がヤバいことやろうとした時、ツイッター経由でリスナーも注意してくれるんす。『非難されるからやめときな』って。だから思い付いた企画とかを呟いたりしてます。」

 

視聴者まで心配してくれているのか。どうやら太陽さんは色々な人に見守られる形で、これまで致命的な炎上を辛くも避けてきたらしい。彼の性格のなせる業だなと唸っていると、写真を撮り終えた太陽さんが豆乳アサイースムージーとやらを一口飲んで……そして目をパチパチさせながら疑問を寄越してきた。

 

「うお。……この飲み物、不思議な味っすね。アサイーって何すか?」

 

「……果物です。果物というか、果実ですね。ブルーベリーに近い見た目の。」

 

「マジすか、実すか!」

 

「……君、アサイーを知らなかったのか。それなのによくスムージーだなんて難易度が高めの飲み物を注文できたね。」

 

香月社長が半笑いで突っ込んでいるが……スムージーって、『難易度が高め』の飲み物なのか。分かるような分からないような表現だな。そんな彼女へと、アサイー初体験中の太陽さんが返事を返す。

 

「面白そうだと思って頼んだんす。俺、知らない物が山ほどあって。よく彼女からも呆れられるんすよ。だけど知らないままだと勿体無い気がするんで、見かけたら積極的にチャレンジするようにしてます。」

 

「賢明な行動だよ、それは。世界を広げるのはいつだって好奇心なのさ。……ちなみに豆乳が何かは知っているかい?」

 

「うっす、それは知ってます。豆しか食わせない牛のミルクっすよね?」

 

違うぞ。何かそれ、どんぐりだけ食べさせる豚と混じっていないか? 大分間違えている太陽さんに、香月社長が首を横に振って口を開く。悪戯げな笑顔でだ。

 

「違うよ、太陽君。豆乳は植物性のミルクさ。」

 

「……植物の牛が居るんすか?」

 

「そうだよ、光合成をする牛が九州の方で飼われているんだ。豆乳はその牛から絞ったミルクだね。動物愛護の観点から、次世代の家畜として今注目されているんだぞ。動物を殺すのは心が痛むが、植物に同情する人間は少ないだろう?」

 

「社長、面白がって大嘘を教えないでください。……太陽さん、豆乳の原料は大豆です。物凄くざっくり言えば豆腐の液体バージョンですね。『光合成をする牛』なんてこの世に存在しません。」

 

そんなものが居たらエネルギー問題がひっくり返るだろうが。滅茶苦茶なことを話している香月社長を制止してやれば、太陽さんが尊敬の目付きで俺を褒めてくる。

 

「マジすか、豆すか! 駒場さん、物知りなんすね。マジでリスペクトっす。」

 

「いや……豆乳の原料はその、殆どの人が知っていると思いますよ?」

 

日本人の九十九パーセント以上が知っていそうだぞ。『たくあんは大根』とか、『地球は公転している』レベルの一般常識じゃないか? まさかのリスペクトを受けて困惑していると、太陽さんはハッと思い出したように企画の話を振ってきた。

 

「なら、『いなご』って何だか知ってますか? 俺、それ食おうと思ってるんす。何か変な物を食べるチャレンジをしたくて、それでツイッターでリスナーに相談したらいなごの……佃煮? はどうかって言われたんすよ。それも果物っすかね?」

 

「いなごは虫ですよ。平たく言えばバッタです。」

 

「えっ。……マジすか? 俺、虫食うんすか? それ、食べたら死にます?」

 

何だかも知らない物を食べようとしていたのか。何て危うい人なんだ。スーッと勢いを失くした太陽さんに、苦笑いで否定を送る。これはもう、マネージャーとして全力で『監視』しないとダメだな。放っておいたら何を仕出かすか分からないぞ。

 

「食べられますよ。伝統的……と言うべきなのかは分かりませんが、いなごの佃煮は昔からある食べ物です。私も以前食べたことがあります。子供の頃ですけどね。」

 

「マジすか、バッタ食ったんすか。……どうでした?」

 

「ずっと昔なので味はよく覚えていませんが、美味しくないわけではなかった……はずです。瓶の中に大量に入っていて、見た目は完全に『飴色のバッタ』でした。」

 

小学校低学年くらいの頃、近所の牛乳屋のお婆さんが『ほれ、食ってみろ』と言って食べさせてくれたのだ。今は絶対に食べられないけど、当時の俺は特に恐れずに食べていたな。帰宅した後で母親に話したらドン引きされたっけ。二十六歳になった俺も過去の自分の行動にドン引きだぞ。

 

どんな味だったかを記憶から掘り起こそうとしている俺へと、香月社長もまたドン引きの表情で質問を投げてきた。透明の太い瓶にこう、詰め込みすぎた虫かごのようにぎゅうぎゅうに入っていたのは覚えているぞ。

 

「凄いね、君。食べたことがあるのか。山形は食べる地域なのかい?」

 

「いやまあ、一般的には食べませんよ。どこに売っているのかも不明ですしね。……ただ、文化としては食べていた地域なのかもしれません。高年の方のごく一部が『おやつ』として食べるってイメージです。」

 

「……結局昆虫食は未来ではなく、過去の物事なんだろうね。人間は食料に困ると虫を食べるようになるわけか。進歩なのか後退なのかが分からなくなってくるよ。単にサイクルしているだけなのかな?」

 

謎の深い話をし始めた香月社長を他所に、太陽さんが決意の面持ちで声を上げる。

 

「じゃあ俺、食います。駒場さんが食ったなら、俺もバッタ食うっす。俺が虫食ってる動画、面白いと思いますか?」

 

「まあ……『普通はやらない』という意味では、興味を惹けるかもしれませんね。」

 

「いなごの佃煮だけだと弱くないかい? 昆虫食の中だとメジャーな方だし、探せば他にも沢山ありそうだけどね。蜂の子やざざ虫、ゲンゴロウやコオロギ。食用の虫ってのは案外存在しているはずさ。国外も含めれば更に増えると思うよ。」

 

「マジすか、探します! 『虫食べ比べ企画』やりたいっす!」

 

やりたいのか。別に個人的に食べたいわけではなく、あくまでライフストリーマーとしてやりたいってことなんだろうけど……虫ね。企画的には悪くないように思えてしまうのが何とも複雑だぞ。太陽さんが身体を張る方向の動画をメインにしている以上、こういう奇妙な悩みが今後は増えそうだな。

 

とにかく、担当するからにはきっちりフォローしていこう。これまではしっかり者のクリエイターばかりだったから、ちょっと新鮮な気分でマネジメントに臨めそうだ。色々と心配な人だし、丁寧なやり取りを心掛けていかなければ。

 

憎めない笑顔で『虫食べます宣言』をしている太陽さんを眺めつつ、気苦労が一気に増加することを予感するのだった。

 



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Ⅳ.かなどん ⑨

 

 

「いらっしゃい、駒場さん。……何してるんですか? 早く入ってくださいよ。」

 

太陽さんと出会った翌日である、十一月三日の木曜日。俺は玄関で出迎えてくれた叶さんの姿にビクッとしてから、恐る恐るマンションの1002号室に入室していた。……今日は祝日なので彼女が家に居ても別におかしくないのだが、ここに来たのは夏目さんに呼ばれたからだぞ。ドアを開けたのが叶さんなのはちょっぴり不吉だな。

 

「……どうも、お邪魔します。夏目さんにメールで呼ばれて来たんですが──」

 

「分かってます、聞いてますから。……ほら、どうして立ち止まるんですか? お姉が待ってますよ?」

 

「……では、失礼します。」

 

ジーンズに白い薄手のセーター姿の叶さんに促されて、靴を脱いでリビングへの廊下を進んでいく。……何だか嫌な予感がするぞ。よくよく考えてみれば、夏目さんが祝日に俺を呼び出すのは変じゃないか? 平日にはあれだけしている電話も、休みの日になると遠慮するほどなのに。

 

今日は文化の日で休みだということで、新たな担当クリエイターとなった太陽さんの動画チェックを自宅でのんびり行っていたのだが、ちょうど昼ご飯を食べたタイミングで夏目さんからメールが届いたのだ。『大事な相談があるので、二時ぴったりに私の家に来てください』という端的なメールが。

 

だから何だろうと思いながら、こうして時間通りにマンションを訪れたわけだが……居ないじゃないか、夏目さん。叶さんの先導でリビングに繋がるドアを抜けてみれば、無人の室内の光景が視界に映る。どういうことなんだ? 自室に居るのかな?

 

「……あの、叶さん? 夏目さんは部屋ですか?」

 

「ああ、お姉ならさっき出かけましたよ。動画で使う物を買いに行くとかで、四時くらいまで戻らないそうです。」

 

「……叶さんはたった十秒前に、『お姉が待ってますよ』と言っていましたよね?」

 

「それは嘘ですし、そもそも『相談がある』ってメールが嘘です。お姉のスマホで私が送りました。そして単純なお姉を誘導して二十分前に家から追い出して、駒場さんと二人っきりの状況を作り出したんですよ。……ドキドキしますか? 今ここ、私と駒場さんしか居ないんですよ? なーんでも出来ちゃいますね。」

 

叶さんの答えを聞いた瞬間、踵を返して玄関に向かう。逃げなければ。ここは危険だ。『しまった、罠だ!』の状況だぞ。

 

「帰りますね、失礼しま──」

 

「待ってください。……これまで色々やってきた自覚はありますけど、いきなり逃げ出すことないじゃないですか。折角駒場さんの誕生日のお祝いをしようとしたのに。」

 

「……お祝い?」

 

「そうですよ、私はただ駒場さんの誕生日を祝いたいだけです。お姉には知られたくないって言ってたから、こうやってこっそり呼び出したんですけど……駒場さんの中でそんなに信用無いんですね、私って。」

 

しょんぼりしながら呟いている叶さんだが……悪いけど、怪しいぞ。彼女にはあまりにも多くの『前科』がありすぎる。ここで疑うのは当然だろう。俺にだって学習能力というものが備わっているのだから。

 

でも、万が一はあるな。万が一本当に誕生日を祝ってくれようとしていた場合、俺がここで逃げ去るのはとんでもなく失礼な行動だ。祝おうとしてくれている相手から『逃げる』だなんてあんまりだぞ。……どうする? どうすればいい?

 

廊下へのドアの前で逡巡している俺に、叶さんはひどく悲しそうな雰囲気でポツリポツリと声をかけてきた。

 

「まあ、当然かもしれません。私は駒場さんに嘘ばっかり吐いてますもんね。こんな手の込んだ呼び方して、喜んでくれるかなって不安な気分で待って、プレゼントまで用意して……バカみたいです、私。今更駒場さんが信じてくれるはずなんてないのに。」

 

「いえ、しかしですね……本当に誕生日を祝ってくれようとしていたんですか?」

 

「あ、まだ疑ってる。……そうですか、私はそんなに信用できませんか。じゃあどうぞ、帰ってください。全部無駄になっちゃいましたね。そりゃあ私の日頃の行いの所為ですけど、そこまで警戒されてたのはショックです。かなりショック。」

 

うわぁ、これは本当っぽくないか? 自嘲げに笑う叶さんを目にして、慌ててリビングに戻りながら言葉をかける。やってしまったな。

 

「叶さん、すみませんでした。私はてっきり……その、いつもの悪戯をされるのかと思ってしまいまして。」

 

「無理しなくていいですよ。私なんかと二人っきりは嫌でしょう? もう帰ってください。プレゼントだけ渡しますから。」

 

「いえあの、嫌ではありません。祝って欲しい……というのは変かもしれませんが、叶さんが準備してくれたならきちんとお受けしたいです。」

 

「……本当ですか? 私の相手なんてしたくないって思ってません?」

 

俯かせていた顔を上げて上目遣いで見つめてくる叶さんに、焦りながらこくこく頷く。ちょっと泣きそうになっているじゃないか。申し訳ない気持ちが湧き上がってくるぞ。

 

「思っていません、心から嬉しいです。」

 

「じゃあ……そこ、そこに座ってください。プレゼント、持ってきますから。」

 

「分かりました、座ります。」

 

どうやらギリギリで悲劇を免れたようだ。危うく善意を無下にするところだったぞ。ひやひやしながら指定されたクッション……新しく買ったらしい金属製の大きな棚のすぐ前にあるクッションに腰を下ろすと、叶さんは未だちょびっとだけ不安そうな面持ちで更なる指示を出してくる。

 

「座ったままで両手を後ろにやって、目を瞑ってください。私がいいって言うまで開けちゃダメですよ?」

 

「……目を瞑るんですか?」

 

「あれ? ……やっぱり信用できないんですね。サプライズ形式でプレゼントしたかっただけなんですけど。」

 

「いえいえ、大丈夫です。瞑ります。一切問題ありません。」

 

再びしゅんとしてしまった叶さんに、大慌てで承諾を送ってから目を瞑って……ん? 両手を後ろにやるのは何故なんだろう? はたとそこを疑問に感じたタイミングで、トタトタという控え目な足音と呼びかけが耳に届く。

 

「絶対に開けないでくださいね。凄く凄く頑張って考えたプレゼントなので、ちゃんと目の前に置いてから見せたいんです。」

 

「了解です、しっかり瞑っておきます。」

 

まあ、いいか。大分無礼なことをしてしまったわけだし、ここは大人しく従っておこう。そのまま暗闇の中で三十秒ほどジッと待っていると、遠ざかっていった足音が今度はこちらに近付いてきた。プレゼントとやらを持ってきてくれたらしい。

 

「まだダメですよ? ……ちょっと手を触りますね。準備があるんです。」

 

「……叶さん? 何か嵌めていますか?」

 

「それがプレゼントの一部なんです。動かないでください。……はい、終わりました。もう目を開けていいですよ。」

 

手首にキュッと嵌められたということは、バングルか何かか? それとも腕時計? でも両腕だし、腕時計は違うか。金属ではなく革っぽい感触なので、革製のアクセサリーかな? 左右の腕に何かが嵌っている感覚に内心で首を傾げつつ、叶さんの合図で目を開いてみれば──

 

「ばあ。……どうですか? 駒場さん。プレゼントはわ、た、しです。」

 

「……やっぱり騙したんじゃないですか。」

 

「ええ、騙しました。駒場さんってめちゃくちゃチョロいですよね。ちょっと悲しそうにして、軽い泣き真似しただけで自由自在じゃないですか。チョロすぎて本気で心配になってくるんですけど。」

 

目の前にしゃがみ込んで呆れ顔を浮かべている叶さんは、もはやお馴染みの下着姿だ。薄いライトブルーの可愛らしいブラジャーと、白いフリルが付いたこれまた薄水色のパンツを穿いている。俺が目を瞑っている間に服を脱いだらしい。

 

そして俺の両腕は……これ、何だ? 後ろ手になっているので見えないけど、どうも手錠のような物で背後の棚に拘束されているようだ。この子、ここまでやるのか。幾ら何でも手錠をされる展開は頭に無かったぞ。

 

「……外してください、叶さん。」

 

「あれあれ? また目を瞑っちゃって健気ですね。見てくださいよ、私の身体。誕生日のお祝いをしたいって部分は本音なんですから。……あのセーター、結構嬉しかったんですよ? 私のこと大切だって言って、きちんと怒ってくれたのにもドキドキしちゃいました。だからお礼に駒場さんの心と身体を目一杯癒してあげます。今日は厳しく意地悪する日じゃなく、とろとろに甘やかす日です。」

 

「……私は信じていたんですよ。」

 

「だって駒場さん、逃げようとするから。私だってこんなやり方で騙したくはないですし、無理やり拘束するのは心が痛みます。……はい、これも嘘です。全然悪いと思ってません。今から動けない駒場さんに好き放題できると思うと、有り得ないくらいに興奮しますね。」

 

愉快そうな声色の叶さんの話を聞き流しつつ、姿を見ないように目を閉じたままで手錠を外そうとするが……どこで手に入れたんだ、こんな物。頑丈すぎるぞ。ガチャガチャいうだけで一向に外れてくれない。予想外に『ちゃんとしたやつ』であることに眉根を寄せていると、叶さんが耳元に唇を寄せて囁きかけてきた。

 

「ほら、駒場さん? 痛い痛いなるから乱暴に外そうとしちゃダメですよ。SM用のやつ、ネットで買ったんです。革製だから警察の手錠とかよりはマシでしょうけど、あんまり引っ張ると傷になっちゃうかもしれません。諦めてされるがままになってください。」

 

「そんなことは出来ま──」

 

拒否して説得しようとした瞬間、左耳の中に温かくて湿った何かが……おいおい、舌か? 舌がずるりと入ってくる。未体験の感覚に背筋がゾワッとして口を噤んだ俺へと、叶さんが耳のすぐ近くでクスクス微笑みながら注意をしてきた。甘いこしょこしょ声でだ。

 

「ね? 素直にならないとこうやって虐めちゃいますよ? ……今日は駒場さんのこと、『正常』に戻してあげます。それが大好きな駒場さんへの、私からの誕生日プレゼントです。」

 

「これはさすがにやり過ぎです。怒りますよ。」

 

「へぇ? 情けない格好で強気になっちゃって……ふふ、可愛い。ちゅーしてあげます。ほっぺにちゅ。鼻にちゅ。おでこにちゅ。」

 

「叶さん、やめ──」

 

軽いキスを連発してくる叶さんを制止しようとした俺の口に、一瞬だけ何かが押し付けられる。まさかと思ってひやりとしていると、叶さんが楽しげに笑いながら声を寄越してきた。

 

「んふふ、あれ? あれあれ? 口にもちゅーされたと思っちゃいました? ざーんねん、今のは指です。……でも、どうしてもって言うならしてあげてもいいですよ? ほら、おねだりしてみてください。キスしてって。素直に頼める良い子には、ちゃんとご褒美あげますから。」

 

絶好調の雰囲気で『おねだり』を催促してくる叶さんだが……ええい、こんなことをしていても埒が明かないぞ。危ない方向にエスカレートしてきているし、ここらで決着を付けようじゃないか。一つ深呼吸をした後、覚悟を決めて目を開いて言葉を放つ。真剣な表情でだ。

 

「叶さん、真面目に話しましょう。私は嘘を吐きませんから、叶さんも正直に答えてください。」

 

「……何ですか、急にその態度。目、開けちゃっていいんですか? 私の恥ずかしい格好を見たくなりました? 言ってくれればブラとパンツも脱ぎますし、どんなポーズでも要求でも──」

 

「私は貴女を理解したいと思っていますし、大切だという発言に嘘はありません。……ですが、私からの一方通行ではどうにもならないんですよ。少しでも私に歩み寄ってくれる気があるなら、ここからは正直に答えてください。しかしもしダメなのであれば、私は自分自身と叶さんを守るために貴女との距離を取ります。お互い本音で話しましょう、叶さん。これが私から貴女への最後のお願いです。」

 

良識ある大人として、未成年の彼女にこれ以上の行為を許すわけにはいかない。だからこれが最後の勧告だ。真っ直ぐ叶さんの目を見つめながら、どうか応えてくれという願いを込めて伝えてやれば……彼女は興奮気味の笑顔をスッと掻き消した後、ぺたんとフローリングの床に座って口を開く。

 

「……あー、そう来ますか。ズルいですよ、それは。」

 

「そこはお互い様ですよ。……私は叶さんとこれからも仲良くしていきたいと思っています。なので話し合いを受け入れてくれるとありがたいです。」

 

「……仮に私が断ったら、どうするつもりなんですか?」

 

「今度こそ夏目さんに全てを話して、謝ります。叶さんには申し訳ありませんが、これ以上エスカレートすると後悔を残すことになりかねません。私は貴女との関係に傷を付けたくないので、ここをボーダーラインに定めました。あとは貴女の選択次第です。」

 

勿論自分のためであることも否定しないが、何より叶さんのために『悪戯』で済むうちに終わらせるべきなのだ。今は楽しいのかもしれないけど、将来悔いることになりかねない。こういう行為を続けていった結果、取り返しが付かない展開になってしまうのは有り得る話だろう。それは許容できないぞ。

 

そんな思いからの俺の発言を受けて、叶さんは小さくため息を吐いて会話を続けてくる。

 

「SNSの脅しはどうなりました?」

 

「あれは本気ではないんでしょう? 今の私はそう信じています。叶さんはそんなことをする人ではありません。だから口止めとしても脅しとしても機能しませんよ。」

 

「またズルいこと言う。私なんかを真っ直ぐ信じちゃって、バカみたいです。そんな風に言われたら裏切れないじゃないですか。……元々、お姉にバレるのがゴールだったはずなんですけどね。駒場さんはすぐ話しちゃうだろうって思ってました。それなのにこんなに色々付き合ってくれて、ここまでされてる状況で真面目に私と話し合おうとするのは予想外です。」

 

諦観の半笑いで語った叶さんは、肩を落としてもう一度ため息を吐いてから敗北宣言を投げてきた。ひどく無気力な口調でだ。

 

「はいはい、負けました。しぶとい駒場さんの粘り勝ちです。お姉にバレるのは計画通りだからいいんですけど、それで駒場さんとの距離が空くのは……まあ、ちょっと嫌かもしれません。そう思わせた駒場さんの勝ちですよ。絆されちゃったみたいですね、私。」

 

「……叶さんは、夏目さんに怒られたかったんですか?」

 

「平たく言えばそうです。……私だけ白状するのは何か気に入らないので、駒場さんも話してください。私に興奮してないって発言、本音なんですか? そこが未だに納得できてないんですけど。」

 

「紛うことなき本音です。……あのですね、叶さん。これはひょっとすると物凄く失礼な評価かもしれないんですが、私から見た貴女は『子供』にカテゴライズされる存在なんです。なので今目の前に居るのは、『下着姿の子供』ですね。貴女が二、三歳の男の子の裸を見て興奮しないのと同じように、私も貴女の下着姿には興奮しません。というか、出来ません。」

 

申し訳ないけど、俺の中ではジャンルが違うのだ。俺にだって人並みの性欲はあるし、女性に対して少なからず興味を持っているが、叶さんの場合は庇護欲が先に出てしまうぞ。『こらこら、ちゃんと服を着なさい』という感情が。

 

遠慮して言っていなかった真実を告白してやれば……叶さんは非常に渋い顔付きになった後、額を押さえて呟きを漏らす。残念ながら、それが偽らざる俺の気持ちなのだ。

 

「うわ、そういう……それは興奮しないでしょうね。けど、慌ててたのはどうしてなんですか? 本当に一切興奮していないなら、下着姿を見ても平然としてるはずでしょう?」

 

「それは貴女が『余所の中学生の娘さん』だからです。照れや興奮を隠そうとする慌てではなく、ご両親や世間に対して『何か悪いな』という慌てですよ。今はもう遠慮がなくなって直視していますけど、『寒くないのかな、風邪を引かないかな、心配だな』と思うだけですね。」

 

包み隠さぬ返事を耳にして、叶さんはムスッとしながらジト目を向けてくる。仕方がないじゃないか。世には中学生に興奮する人だって居るのかもしれないが、俺はそうじゃないのだ。

 

「かなりイラッとしますけど、合点がいきました。私は駒場さんにとって『子供』だったんですね。……マジでイライラします、その評価。いつもソフトブラだからダメなのかと思って、今日のために可愛いブラを買ったのに。」

 

「蹴らないでくださいよ。叶さんは背が低いですし、何と言うかその……発育がまだじゃないですか。そうなるともう、『庇護すべき対象』って感情が前に出てしまうんです。」

 

「じゃあ私のやってたことは、駒場さんから見ると『おませな女の子の悪戯』でしかなかったわけですか。……そういう視点でこれまでの所業を見つめ直すと、尋常じゃなく恥ずかしくなってくるんですけど。」

 

「あの……はい、そこはすみません。謝りますから蹴らないでください。」

 

頭を抱えた状態で俺の膝をげしげし蹴ってくる叶さんに、正座で座り直しながら謝ってみると、彼女はちらりとこちらを見やって質問を続けてきた。未だ半眼でだ。

 

「……なら仮に、仮に高校生なら興奮しますか? 例えばお姉が今の私と同じ格好で、さっきみたいに駒場さんの耳を舐めたりしたら?」

 

「それは……あーっと、どうでしょうね?」

 

「正直に答える約束でしょう? 私は守りますから、駒場さんも守ってください。駒場さんが何て答えようと、別にお姉に言ったりはしませんよ。私が知りたいだけです。」

 

「……まあその、多少はするかもしれません。私も男ですから。」

 

その約束を出されたら答えざるを得ないぞ。叶さんの詰問に正直に回答した俺に、彼女は何故かちょびっとだけ機嫌を回復させて頷いてくる。何に対しての頷きなんだ?

 

「つまり、三年くらい早かったわけですか。それなら良しとしましょう。ちょっと待てばいいだけの話ですからね。姉妹なんだから、私も少しすればお姉みたいな身体になるはずです。……分かりました、駒場さんを無意味に誘惑するのはもうやめます。無駄だって理解できましたし、それを知った上でやるのはバカバカしすぎますから。」

 

「理解してくれたようで何よりです。」

 

「けど私が興奮する分には私の勝手なので、これからもたまにだけ付き合ってもらいます。……外で危ないことをするのを禁じたのは駒場さんなんですから、それくらいの責任は取ってくれてもいいでしょう? 心配しなくても大分控え目にしますし、拒否権だって与えてあげますよ。そこは譲歩してください。」

 

「……まあ、はい。拒否権があるなら構いません。ある程度は譲歩しますよ。ある程度はですが。」

 

若干不安になりながらも、『責任を取れ』という台詞に流されて了承してやれば、叶さんは……これはまあ、セーフかな。いきなり俺の膝の上に座って、胸に背を預けながら会話を継続してきた。異性への誘惑というか、兄に甘えている感じだ。朝希さんも同じことをやってくるし、このくらいは全然オーケーだろう。

 

「なら、続きはこの状態で。……胡座になってください。その方がおさまりが良いです。」

 

「それはいいんですが……服を着て、手錠を外してくれませんか?」

 

「嫌です。駒場さんのスーツのスルスルって感触が気持ち良いですし、『ガキ』扱いにイラッとしたので暫く外してあげません。私が満足するまでこのままでいてください。」

 

「何度も謝ったじゃないですか。……では、次は叶さんが答える番です。叶さんはどうして夏目さんを怒らせたいんですか?」

 

座り方を変えつつ尋ねてみると、俺の太ももの間にすっぽり収まっている叶さんが返答してくる。もぞもぞと小さなお尻を動かしながらだ。位置を調整しているらしい。

 

「今のお姉との距離感にうんざりしてるからですよ。……家族っていうか、『友達』の距離だと思いませんか? 遠慮して、譲って、気を使って、無難に笑顔で振る舞って。それが嫌で嫌で堪らないんです。昔のお姉はそうじゃありませんでした。」

 

「……昔の夏目さんは、叶さんに随分とキツく当たっていたと聞いていますが。」

 

「お姉が話したんですか? ……あの頃のお姉は何一つ遠慮せずに命令してくれました。ちょっと気に入らないと蹴ったり、叩いたり、踏んだり、抓ったりしてきてたんです。そんなお姉に戻って欲しくて、駒場さんを使った『ショック療法』を試そうとしたんですよ。」

 

「……あくまで一般的な意見ですが、今の夏目さんと叶さんの関係の方が『正常』だと思いますよ?」

 

やっぱりこの子は『悪どん状態』の姉を望んでいたのか。暴力的な姉より優しい姉の方が良いはずだぞと思いながら意見してみれば、叶さんは振り返って俺を見上げて応じてきた。どこか不服そうな面持ちだな。

 

「一般的な意見なんてどうでも良いんです。他の誰が何と言おうと、私はあの頃のお姉が好きなんですよ。……カッコいいところもあったんですからね? 私が転んで泣いてると駆け寄ってきて、一発ビンタしてから『うるさいから泣くのはやめなさい』って言って、手を繋いで一緒に歩いてくれたりとか。」

 

それ、ビンタの部分は必要か? そこを省いた方が美談として成立すると思うぞ。練習生に対するプロレスラーみたいな喝の入れ方だな。ここまで聞いてもよく分からないままだが……まあ、こういうのは人それぞれだ。兎にも角にも叶さんにとっては、『悪どん』こそが理想の姉だということだろう。

 

不思議な価値観だなと心中で唸っている俺へと、叶さんは懐かしむように姉の話を継続する。

 

「『全盛期』のお姉は堂々としてて、自信たっぷりで、いつも私に凛々しい背中を見せてくれていました。学校ではみんなの人気者でしたし、私のクラスに来てくれた時とかは誇らしかったです。『あれが私のお姉ちゃんなんだぞ』って。……けど、今の姉は悪夢のような『遠慮人間』になっちゃってます。他人に対して遠慮する分には何とか我慢できますけど、私に対してまでするのは堪え切れませんよ。」

 

「……人は変わるものですよ、叶さん。私も小学生の頃の私とは全く違います。高校生と大人は正直そんなに変わりませんが、小学生から中学生の期間は大きく成長するんです。社会を知って、人を知って、自分を知って一気に人格が固まってくる時期ですから。だからその、夏目さんが変わったのは順当な変化なんじゃないでしょうか?」

 

「そんなことは理解できてますよ。それでも私はあの頃の姉が大好きだし、叶うなら戻って欲しいんです。いつだって私を引っ張ってくれてた、カッコいいお姉ちゃんに。……仕方がないじゃないですか。昔のお姉は私にとってのヒーローで、絶対的な存在で、憧れの対象だったんですから。それがいきなり弱々しくなっちゃった時の私の気持ち、分かります? 悲しくて、裏切られた気分で、とても寂しかったんです。変な拗らせ方してるって自覚はありますけど、感情が邪魔して理性じゃ納得できません。私はあの頃の『夏目桜』じゃないと嫌なんですよ。」

 

つまり、叶さんは現在も変わらず『物凄いお姉ちゃんっ子』だったってことか。当時の夏目さんが大好きだからこそ、今の夏目さんが大っ嫌いなわけだ。正に『大っ嫌いで大好き』だな。あの時の台詞こそが全てだったらしい。相当特殊なケースに思えるけど、こういうのも『シスコン』に分類されるんだろうか?

 

脳内で思考を回しつつ、叶さんへと応答を送った。

 

「それで私を困らせて夏目さんを怒らせることで、嘗ての姉を取り戻そうとしたわけですか。」

 

「端的に言えばそうです。前まではどれだけ悪戯しても怒ってくれなかったのに、駒場さんを絡めると少しだけ強めに叱ってくることに気付いたんですよ。だからその方向を目指しました。」

 

「……要するに、夏頃から悪戯が悪化していたのは私の所為だったんですか。」

 

「もし駒場さんが『偉そうな大人』だったらここまでしませんでしたけどね。……結構慎重に調べたんですよ? 駒場さんの人となり。私、最初は無愛想だったでしょう? あれが『他人』に対しての普通の態度です。」

 

現在の態度が『身内用』である以上、少なくとも親しみは感じてくれていたということか。そこはまあ、素直に嬉しいかもしれないな。嫌われているわけではなかったようだ。その事実にちょっとだけホッとしている俺に、叶さんは小さく鼻を鳴らして続きを語ってくる。

 

「あと、興奮してたのも本当ですよ。正直に言えば今もしてます。途中からお姉を怒らせるためにやってるのか、自分の欲求のためにやってるのかが分からなくなってきてました。……実は今日、駒場さんの服も脱がせる予定だったんです。もしかしたら二人とも全裸になってたかもしれません。」

 

「……そうならなくて良かったです。」

 

「今でもやりたいですけどね、私は。……自分が駒場さんのことどう思っているのかが、自分でもいまいち理解できません。好きなのか、嫌いなのか、性欲の対象なのか、恋愛の対象なのか、親愛の対象なのか。本気で分からないんです。」

 

くるりと俺の方に身体を向けて言った叶さんは、興味深そうな無表情をこちらに近付けてきた。

 

「ただ、年上だろうと同世代だろうと別の男の人じゃ興奮できませんでした。下着姿を見せるのなんて絶対嫌だし、触られたりしたら気持ち悪いだけです。……これ、想像の話ですからね? 実際に試したわけじゃないですよ?」

 

「……叶さん、顔が近いですよ。」

 

「でも駒場さんが私の服を脱がせて、全身を舐めて、めちゃくちゃにしてくる場面を妄想すると……恥ずかしくて、ドキドキして、ぞわぞわして、凄く嬉しくなります。これって恋愛感情なんですかね? お姉の引っ越し先を探してた時期に、駒場さんとよく会うようになったじゃないですか。その辺から段々とそう思うようになってきたんです。今はもう駒場さんでしか興奮できなくなっちゃいました。」

 

「……いくら正直に話すといっても、そこまでは言わなくていいんですが。」

 

俺にどう反応しろと言うんだ。叶さんから目を逸らしていると、彼女は無理やり視線を合わせてジッと俺の瞳を覗き込んでくる。赤みが強いブラウンの瞳だ。興味と疑念の他に、ほんの少しだけ優しげな感情が篭っているな。

 

「不思議です。こうやってると駒場さんに意地悪して困らせたい気持ちと、ギュッてして優しくしてあげたい気持ちが同時に湧き上がってきます。……何か今、言葉にしてみたら急にしっくり来ました。私は多分、駒場さんのことが好きなんです。初恋、しちゃってるんだと思います。」

 

「……叶さん、それは思春期特有の感情です。『年上の男性に憧れる』というのはよくある話ですよ。一過性のものなので、俗に言う恋愛感情とはまた違います。」

 

「好きだけど、別に憧れてはいませんよ。一切憧れてません。情けない人だなと思ってますし、もっとちゃんと人を疑えっていつもイライラしてますし、頼りなさすぎて心配もしてます。」

 

「あっ……そうですか。」

 

憧れてはいなかったらしい。強めに断定されて落ち込んでいると、叶さんは膝立ちになって俺を至近距離で見下ろしながら口を開く。どうしようかな。その感情は男女問わず起こる、学校の先生とかを好きになるあれの延長線だと思うぞ。少しすれば綺麗さっぱり忘れて、同年代の男性に惹かれ始めるはずだ。それを上手く説明したいのだが……うーむ、難しい。どう言えば伝わるんだろう?

 

「前までは『まあ安全そうだし、嫌いじゃないから利用しよう』って程度だったんですけど、今の私はお姉のこと抜きで駒場さんを部屋で飼いたいと思ってます。逃げないように鎖で縛って、毎日お喋りして、抱き締めたり抱き締められたりして、部屋から出さずに独り占めしたいんです。それって変ですか?」

 

「変ですね。変というか、『異常』の領域に肉薄しています。それは世間一般で言う『監禁』ですから、決して実行しないでください。」

 

「じゃあ、やったら嫌いになりますか? 立場は逆でもいいですよ? 私的には駒場さんの家で飼われるの、『まあまあアリ』なんですけど。」

 

「私的にはやるのもやられるのも『絶対にナシ』なので、やめてもらえると助かります。鎖で繋がれて監禁されたら、さすがに嫌いになるかもしれません。」

 

この子は本音で話していても怖いな。というか、本音だからこそ更に怖いぞ。ヘビーな要求に顔を引きつらせながら断ってやれば、叶さんは至極残念そうに肩を竦めてきた。

 

「なら、今はやめておきます。嫌われるのは困りますし、駒場さんが興奮しないんじゃ意味ないですからね。成長してから改めて考えましょうか。」

 

「改めて考えずに、すっぱり諦めて欲しいんですが。」

 

「でも、私の背とか胸が大きくなったら話が変わってくるでしょう? その姿で迫れば、いくら駒場さんでも負けちゃうはずです。……味が舌に残るから嫌いなんですけど、今日からは牛乳を飲むことにします。」

 

「まあ、あの……全部後回しにしましょう。叶さんが成長した後なら私も真剣に考えますから。絶対に有り得ないとは思いますが、その時になって尚私に興味を抱いてくれているのであれば、今度こそ真面目に一人の女性として受け止めます。だからそれまでは『親愛』の関係でいさせてください。」

 

先ず間違いなく一年そこらで俺への興味など消え去るだろうから、こうしておけば全て解決だ。そのうち彼氏でも作って、俺に対しては余所余所しくなるさ。何せ彼女が十八の時、俺は三十の『おっさん』になっているのだから。そんなもん興味を失うに決まっているぞ。

 

時間が解決してくれることを確信しながら提案してみれば、叶さんは口の端を吊り上げて首肯してくる。その表情はちょっぴり怖いけど、何とか逃げ切れそうだな。

 

「いいですよ、そうしましょう。その代わり私が……言い訳できないように、二十歳にしましょうか。二十歳になっても変わらず駒場さんを好きだったら、必ず責任取るって約束してください。貴重な青春を全部奪うわけですし、それは当たり前のことですよね?」

 

「……責任、ですか。」

 

「私、駒場さんの所為で性癖拗らせちゃったんですよ? おまけに何年間も片想いさせて、はいさようならっていうのはひどすぎますよね? ……賭けましょうよ、駒場さん。私が成人するまでずっと好きでいたら、その時は私の全部を受け入れてください。六年分の全てを。誓えますか? 誓ってくれるならその瞬間までは我慢できます。」

 

「……分かりました、万が一そうなったら責任を取ります。」

 

百パーセント有り得ないぞ。彼女の容姿で好奇心旺盛な年頃となれば、六年間も俺なんかを好きでいるはずがない。確実に勝てる賭けだと判断して承諾してやると、叶さんは物凄く嬉しそうな笑顔で応じてきた。何とまあ、迫力を感じる笑みじゃないか。

 

「はい、契約成立。破ったら駒場さんを殺して、私も死にますから。針千本とか甘っちょろいことは言いません。ストレートに心中します。」

 

「怖いことを言うじゃないですか。……誓ったからには破りませんが、無理はしないでくださいね? 学校とかで誰かを好きになったら、こんな約束はすぐに忘れてください。」

 

怖すぎる台詞に怯みつつ注意した俺に、叶さんは悪戯げに舌を出してウィンクしてくる。……大丈夫だ、絶対大丈夫。この賭けは俺の勝ちで終わるはず。

 

「言い忘れてましたけど、私って嫉妬深くて執念深いんです。つまりですね、蛇みたいに一途なんですよ。……私、ライフストリーマーを目指すことにします。そしたらホワイトノーツに所属するので、駒場さんが担当になってください。」

 

「……それは簡単に決められることではありません。将来の問題なんですから、もっと慎重に悩むべきです。」

 

「だったら一緒に悩んでください。何も今すぐにどうこうって話じゃないですよ。……お姉の撮影を手伝いつつ勉強して、たまに動画にちらっと出て顔を売って、高校に上がったあたりで始めましょうか。名前は『かなどん』なんてどうです? お姉の有名さを利用するわけですね。それなのに駒場さんのこともリスナーのことも取っちゃえば、お姉は悔しがると思いませんか?」

 

「いやいや、待ってください。……叶さんは夏目さんのことが好きで、元の関係に戻りたいだけなんですよね? であれば『リスナーを取る』というのは少し違うように思えるんですが。」

 

また分からなくなってきた俺へと、叶さんはクスクス微笑みながら応答してきた。

 

「『駒場さん誘惑大作戦』は失敗しちゃいましたからね。お姉とも駒場さんとも一緒に居るためには、今回の一件は内緒にしておく必要があります。……それなら次の標的はライフストリームしかないじゃないですか。今のところお姉が拘るの、駒場さんとライフストリームだけなんですから。私が始めたての頃は『妹が真似した』って笑って見ていられるかもですけど、ライフストリーマーとして追いつかれたら焦ってくるはずです。少なくとも感情は揺らせますよ。」

 

「……忠告しておきますが、生半可な気持ちでは夏目さんに追いつけませんよ。あの人は全身全霊で動画を作っているんですから。」

 

「誰より近くで見てきたんだから、そんなことはとっくに承知してます。……私のお姉に対する気持ちと、駒場さんに対する気持ち。『生半可』だと思います? もし思ってるなら気を付けた方がいいですよ。後で後悔することになりますから。」

 

『生半可な動機』ではないと言いたいわけか。薄笑いでそう語った叶さんは、スッと立ち上がって話を締めてくる。

 

「それに、駒場さんは前に言ってたじゃないですか。好きなものを仕事にしろって。……私はお姉の背中を追いかけるのが何より好きなんです。お姉が私を追いつかせないなら、それもそれで幸せなんですよ。ずーっと大好きな背中を見ていられますからね。」

 

「……つくづく思いますが、叶さんは変な人ですね。」

 

「あれ? 今更気付きました? 色々歪んでるんです、私って。好きと嫌いの境目がおかしくなっちゃってますし、奇妙な拘りとかも持ってますから。……でも、お姉と共通してる部分もあるんですよ? 私もお姉も一度決めたら意地でもやります。夏目家の女って、どこまでも頑固なんです。」

 

言いながらスタスタと歩いていくと、叶さんはキッチンの方に置いてあった……ああ、そこにあったのか。小さな鍵を取って戻ってきた。ようやく解放してくれる気になったらしい。

 

「駒場さんの裸を見られなかったのは残念ですけど、こうやって話せて良かったです。喋ってみたらすっきりしましたし、割と良い方向に纏まりましたから。」

 

「まあ、そうですね。私も解決してホッとしています。」

 

「良いタイミングですし、お姉とも一度話し合ってみることにします。さすがに全部を打ち明けるのは恥ずかしいので、『姉妹なんだから余計な遠慮はしないで欲しい』って具合に。とりあえずそこさえ解決すれば、大分マシになるはずですから。長期戦に備えて応急処置をしておきますよ。……駒場さんと相談した結果ってことにしてもいいですか? 自分の気持ちとして真っ直ぐ話すのは嫌なんです。変かもしれませんけど、ワンクッションにさせてください。」

 

「構いませんよ。私の名前を使うことでやり易くなるなら、好きに使ってください。」

 

『応急処置』か。短期集中のショック療法から方針を転換するので、長期的な計画のために布石を打っておこうというつもりらしい。了承を得て満足げな顔付きになった叶さんは、俺の手首を弄りながら追加の要望を飛ばしてくる。

 

「あと、最後にもう一つ。これからは『瑞稀さん』って呼んでもいいですか? ベッドの中で妄想してる時はそう呼んでたんです。」

 

「……どうぞ、好きに呼んでください。」

 

もう何でもいいぞ。好きにしてくれ。遂に一段落しそうなことに気を抜きつつ、鍵を外してもらいながら許可を返してやれば、叶さんはふわっと笑って──

 

「じゃあ、お礼のちゅ。」

 

やけに自然な動作で俺の口に軽くキスをしてきた。それに驚いて硬直していると、叶さんはにんまり笑ってぺろりと自分の唇を舐めた後、ご機嫌の足取りでキッチンへと遠ざかっていく。……油断したぞ。

 

「……こういうことを避けるために、私は叶さんを説得したはずなんですが。」

 

「ふふ、混じりっけなしのファーストキスです。なるべく我慢はしますけど、もう好きだって気付いちゃったからには限度があります。この程度は大人の余裕で許してください。……何て顔してるんですか、瑞稀さん。私が中学生なのは今だけなんですから、中学生の私も味わっておいてくださいよ。全部をあげて、全部をもらう。それが私のやり方なんです。中途半端じゃ満足できません。」

 

キッチンの陰に置いてあった服を着ている叶さんに、拘束されていた手首を揉み解しながらジト目を送る。……別に『良い子』になったわけではないらしい。嘘吐きの悪戯っ子から、正直な悪戯っ子に変わっただけか。となるとこれからも苦労しそうだな。

 

とにかく、彼女が俺に飽きるまで何とか耐えてみよう。そう時間はかからないだろうから、慎重に接していけばどうにかなるはずだ。多少対等な立場になれた以上、これまでよりは対処が楽に……なるかな? どうだろう? ちょっと自信がないかもしれない。

 

「それじゃあ、瑞稀さん? 折角来てくれたんですし、外でデートしましょう。行きたいカフェがあるんです。……ほら、手。繋いでくれないと動きませんよ。私のことを支配して、ぐいぐい引っ張ってください。そしたら私、ずっと離れないで側に居てあげますから。」

 

果たしてこれは、『解決した』と言えるんだろうか? 薄い笑顔で誘ってくる叶さんを眺めつつ、心の中に疑問が湧き上がってくるのを感じるのだった。

 



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Ⅳ.かなどん ⑩

 

 

「それは解決ではなく棚上げです。棚上げの期間を『次に会った時』から、『六年後』にしただけじゃありませんか。パーセンテージで言えば十三パーセントくらいしか解決していませんよ。」

 

いいや、四十パーセントくらいは解決したはずだぞ。悪戯のエスカレートに歯止めをかけられたし、脅し脅されの関係には終止符を打てたのだから。助手席でプラスチック製の容器の蓋を開けつつ呆れ顔を向けてきている深雪さんに、俺は苦い表情で反論を放っていた。高速道路で愛車を走らせながらだ。

 

「では、深雪さんは六年後に私が賭けに敗北すると思いますか?」

 

「ほぼほぼ勝利できると思っていますが、しかし小娘が勝つパターンも可能性としては存在しています。言わば『当社調べ顧客満足度ナンバーワン』程度の信頼度ですね。つまり、『やや不安』です。」

 

「有り得ませんって。一年経てば『十四歳の頃の奇妙な思い出』になって、五年もすれば記憶から消えますよ。私への感情なんて一過性のものに過ぎません。」

 

自信を持って断言してやれば、淡いグレーのスキニーパンツに白いシャツ、そして黒いコート姿の深雪さんは……リンゴか? 容器に入っていたリンゴを食べながら応じてくる。

 

「高確率でそうなることには同意しましょう。貴方がどうこうではなく、『子供の頃の年上への恋』なんて大抵は時間と共に消え去るものですからね。……ですが、貫き通すという展開もあるにはありますよ。世には『中学時代の教え子とずっと付き合って、成人してから結婚しました』とかいう教師のドン引きエピソードだって存在しているわけでしょう? 万一そうなったらどうするつもりなんですか? どれだけ純愛だと主張されても私は引きますがね。ドン引きです。」

 

「……無いですよ。心配するだけ無駄です。」

 

「おやまあ、分かり易い目の背け方ですね。知りませんよ、私は。約束を信じて六年間も想い続けた小娘を、誠実な貴方が『やっぱごめん、無理だわ』と突き放せるわけがありません。責任感に苛まれて、たとえ嫌でも婚姻届にサインしてしまうでしょう。……そんな並行未来も存在していると理解しておくように。」

 

『うさぎさんカット』になっているリンゴを突き付けながら警告してきた友人へと、前を見たままで言い訳を返した。……叶さんと話し合ってから二日後の土曜日の午前中、俺は友人である深雪さんと二人で『海ほたるパーキングエリア』に行こうとしているのである。何でもそこで動画を撮りたいそうなので、ランドスターのお披露目や叶さん問題の一段落をざっくりと報告するために、運転役とカメラ役を買って出たわけだ。

 

「……大丈夫ですよ、この世界線の未来にはならないはずです。多分。」

 

「さて、どうでしょうね。人間とは自分に関係する物事を思案する際、無意識のうちに都合の良い方へと考えてしまうものです。『いやいや、大丈夫だろう』は大抵の場合大丈夫ではありません。それが世界の真実なんですよ。」

 

「リンゴを食べながら『世界の真実』を語らないでくださいよ。」

 

「世界の真実を語る場において、これほど相応しい食べ物は他に存在しないでしょうに。勝負になるのは無花果かバナナくらいですよ。」

 

何の話をしているんだ。香月社長並みの意味不明な発言に困惑しつつ、アクセルを緩く踏んで口を開く。……ちなみに叶さんの『凶行』に関してはぼんやりとしか伝えていないし、口にキスされた部分は一切喋っていない。そこだけは叶さんのためにも、俺のためにも黙秘しておくべきだろう。それこそドン引きされそうだし。

 

「言っている意味はよく分かりませんが、とにかく解決です。もうそういう結論にしておいてください。私は疲れました。」

 

「実際のところ私も『純愛ストーリー』が成立するとは思えませんから、貴方がいいなら別にいいんですが……根負けしたのは貴方なのか小娘なのか、押し切ったのはどちらなのか、勝者は誰なのか。そこは議論の余地がありそうですね。」

 

「揃って負けですよ。私は今負けて、妹さんは数年後に思い返して負けるというだけの話です。……リンゴ、好きなんですか? わざわざタッパーに入れて持ってくるのは相当だと思うんですが。」

 

「これは動画の企画です。『二週間リンゴだけ生活』をやっているんですよ。今日で一週間経過なんですが、今の私は世界中のリンゴ農家が憎くて仕方がありません。味も、香りも、食感も、色も、青森県のことも嫌いになりました。リンゴを見ると苛々してきます。」

 

絵に描いたような逆恨みじゃないか。深雪さんは地味に過酷な企画にチャレンジ中だったらしい。忌々しそうにリンゴを食べている助手席の『変な人』へと、ふと思い至った疑問を投げかけた。

 

「『一週間リンゴだけ』はどこかで聞いた覚えがありますが、二週間なことに理由はあるんですか?」

 

「ありません。単に一週間だとありきたりで気に食わなかっただけです。昨日の夜に一週間でやめようかと真剣に悩んだんですが、気力で初志貫徹することを選びました。」

 

「それ、健康に悪いと思うんですが。」

 

「勿論良くはないでしょうし、ダイエットをしたいわけでも、体質改善を目論んでいるわけでも、胃腸の調子を良くしたいわけでもありませんが……私はライフストリーマーですからね。動画のネタとして思い付いてしまった以上はやらざるを得ないんです。それにほら、達成すれば有力な『所持エピソード』の一つになるでしょう?」

 

エピソードトークの『鉄板ストック』にしようというわけか。同業者として大したもんだと思うけど、リンゴを食べている顔付きが炭を食べている時のそれになっているぞ。余程に美味しくない……というか、美味しく感じられないようだ。現時点で一週間もずっとリンゴだけだもんな。スティーブ・ジョブズじゃあるまいし、そりゃあうんざりしてくるだろうさ。

 

「……では、来週達成したらお祝いに好きな物を奢ります。色々と相談に乗ってもらいましたし、そのお礼も兼ねてということで。」

 

セルフ拷問みたいなことをしているストロベリーブロンドの髪の友人へと、ハンドルを固定しながら提案を飛ばしてやれば……深雪さんはニヤリと笑って頷いてくる。俺の案がお気に召したらしい。

 

「いいですね、さすがはマネージャーだけあってやる気を引き出してくれるじゃありませんか。焼肉が良いです。高い店の。」

 

「オーケーです。焼肉は前職の時に何度も連れて行ってもらったので、良い店を沢山知っていますよ。」

 

「おや、そういうところは『業界』のイメージ通りなんですね。焼肉、寿司、うな重あたりですか?」

 

「うな重はあまりピンと来ませんが、焼肉や寿司は多かったですね。恐らくそれぞれに『人を連れて行く定番の店』があったんじゃないでしょうか? 民放業界は付き合いが大切なので、連れて行く側も苦労していたんだと思いますよ。」

 

『打ち上げ』だの『何ちゃら会』だのを思い出しながら苦笑したところで、深雪さんが容器をこちらに差し出して相槌を打ってきた。俺はアルコールが得意ではないから苦労したぞ。ウコンやら漢方やらトマトジュースやらで完全武装して、どうにかこうにかやり過ごしていたっけ。

 

「瑞稀さんもどうぞ。……ホワイトノーツにも『飲みに行こう』の文化はあるんですか?」

 

「一つ頂きます。……うちはありませんね。思い返せば一度も無いかもしれません。毎日事務所で無駄話をしていますし、私はモノクロシスターズを送ってそのまま帰宅する日が殆どですから。」

 

「飲み会が無いのは年齢層からして理解できますが、無駄話というのは少々意外ですね。『事務所』は基本的に黙々と仕事をする空間だと思っていました。」

 

「唐突に一、二時間くらいの『集中タイム』が始まることもありますけど、ホワイトノーツでは割と雑談していますよ。三人とも会話しながら仕事が出来るタイプなんです。」

 

そこは職場次第かなと思考しながら答えてみれば、深雪さんは容器に蓋をして肩を竦めてくる。ちなみに高速に乗る前にコンビニでリンゴジュースを買っていたので、飲み物もリンゴ縛りなようだ。徹底しているな。

 

「楽しそうな職場で何よりです。……そういえば、髑髏男爵さんが正式に所属したようですね。所属報告の動画を見ましたよ。」

 

「ええ、何と言うか……独特な人でした。」

 

「ということは、彼女は動画外でもああなんですか。……まあ、良いチャンネルに目を付けたと言えそうです。あの人は伸びるでしょうからね。正直将来的な脅威に感じているほどですよ。」

 

「脅威には思っていないようでしたが、さくどんさんも伸びそうだと言っていましたね。あとは『アポロンくん』も所属しましたよ。これ以上増やすとオーバーワークなので、暫くはこの体制で行くことになりそうです。」

 

深雪さんに返事をしたタイミングで……おっと、渋滞か? 前方のセダン車がハザードを焚いたのを見て、こっちもハザードスイッチを押してから減速した。場所的に事故渋滞っぽいな。厄介な事態に巻き込まれてしまったらしい。

 

クラッチとブレーキを踏みながら参ったなと眉根を寄せていると、深雪さんが疲れたような半笑いで目の前の光景に言及してくる。

 

「渋滞ですか。微動だにしていませんし、これは長くかかるかもしれませんね。……『アポロンくん』なるライフストリーマーの存在は初耳です。今度動画を見ておきます。」

 

「チャンネル名は『アポロンくんの家』です。アポロンさんはまだ方向性を思案中なので、アドバイスをもらえると助かります。……時間、大丈夫ですか?」

 

「時間は平気ですよ。どう頑張っても打開できる状況ではありませんし、潔く進むのを待ちましょう。」

 

座席に深く座り直しながらの深雪さんの返答を耳にして、ギアをニュートラルに入れてサイドブレーキを引く。全く動いていないし、ペダル操作をサボらせてもらおう。マニュアル車はこういう時にキツいな。

 

そのまま救急車が来た時のために窓を少しだけ開けていると、深雪さんがリンゴジュースを一口飲んでから新たな話題を振ってきた。

 

「しかしまあ、走行距離のことを考えると随分と調子が良い車ですね。助手席に乗っている分にはえらくスムーズに感じられます。」

 

「運転していてもスムーズですよ。天下のオオカワのオフロード車だけあって、中々頑丈に作ってあるみたいです。」

 

「いくらオオカワ製でも二十二万キロは厳しいと思ったんですが……予想が外れましたね、これは。良い買い物をしたようじゃありませんか。」

 

「前の持ち主が丁寧に使っていたというのもあるんでしょうけどね。何にせよ、ロータリーさんに診てもらうまでは問題なく使っていけそうです。」

 

俺もきちんと可愛がるつもりだぞ。ぽんぽんとダッシュボードを叩いて言ってやれば、深雪さんは窓を開けて前方を覗き込みながら応答してくる。渋滞の状況をチェックしているらしい。

 

「そのロータリーマンさんもそろそろ二十万人が見えてきましたね。この前見た時にロータリーチャンネルの登録者数が十八万人になっていましたよ。」

 

「そして雪丸スタジオは二十七万、さくどんチャンネルは二十三万、モノクロシスターズが十四万、髑髏男爵さんが六万で、アポロンくんの家が四万ですから……どうなんですかね? 伸び率。深雪さんとしては期待通りですか?」

 

「春の時点では年内に二十五万を突破できれば上々だと考えていたので、私からすると予想以上ですよ。……昔はクォーターミリオンなんて夢のまた夢だったんですけどね。身近になっていくのが嬉しいやら悲しいやらで複雑な気分です。」

 

「悲しいんですか? 良いことだと思いますけど。」

 

ドリンクホルダーの缶コーヒーを飲みながら尋ねてみると、深雪さんはやれやれと首を振って説明してきた。

 

「過去の私たちにとっての大きな壁が、未来のライフストリーマーたちの『低めのハードル』になってしまうのが物悲しいんですよ。一、二年後には二十五万なんて単なる通過点になっているでしょうから。」

 

「あー……なるほど、ちょっと分かります。インフレーションの葛藤ですね。」

 

「そういうことです。ライフストリームが成長していくのは素直に嬉しいんですが、後発が軽々と二十五万を突破する未来を思うと何だか妬ましいんですよ。……我ながら偏屈な『先輩』ですね。自分が苦労したからといって、後輩にも苦労させたがるタイプです。これがさくどんさんなら『自分は苦労したから、改善して次世代には楽をさせてあげよう』と考えるんでしょう。」

 

そうだろうか? この人は若干『さくどん』を美化する節があるけど……ふむ、確かに夏目さんはそう考えるかもしれないな。優しい笑顔で語っている姿を想像している俺に、深雪さんは気を取り直すように話を続けてくる。

 

「まあ、私は私でハーフミリオンを目指すことにします。さくどんさんに抜かれるその日まで、着実に記録を更新していきますよ。」

 

「こうなってくると、いよいよ他の事務所が出てくるかもしれませんね。……深雪さんの場合、個人でやっていくに当たっての不安とかはありますか? 個人代表の意見として参考にしたいんですが。」

 

「大きなものが一つあります。税金の計算です。」

 

うわぁ、即答してきたな。……そうか、税金か。言われてみれば、そこは個人でやっていく上での障害の一つかもしれない。然もありなんと納得している俺へと、深雪さんは眉間に皺を寄せて税金問題についてを語ってきた。

 

「先ず、ライフストリーマーはどこからどこまでが経費なのかが曖昧すぎます。カメラやパソコンといった機材は当然経費でしょうが、例えば私がさっき食べたリンゴは微妙なラインです。服もそうですしね。衣装と考えるか、私服と考えるか。捉え方次第でどうにだって出来てしまうんですよ。要するに法律が『ライフストリーマー』という職業に追いついていないんでしょう。」

 

「その辺は殆ど個人事業主ですね。」

 

「殆どというか、事実としてそうです。無駄に損をするのは避けたいので、今年からは税理士に頼もうと思っています。……税金の問題で事務所に所属したり、個人事務所を設立する人も出てきそうですね。計算の煩雑さを抜きにしても、個人でやるよりは法人でやる方が対策になるはずですから。」

 

「個人事務所は出てくるかもしれませんね。スケジュールやスポンサー案件を管理する代理人を一人雇えば、全然やっていける仕事ですし。」

 

だからまあ、うちは大人数なりのメリットを示していかないとだな。大掛かりな案件を処理したり、自前のスタジオを持ったり、イベントの運営を行ったりとかか? 今からだと遠い目標だけど、そういうことが出来なければ『個人事務所でいいや』になってしまう。悩ましい問題だぞ。

 

事務所が進むべき道に関してを思案していると、深雪さんが悪戯げに微笑んで声をかけてくる。

 

「となれば、そのうち瑞稀さんをヘッドハンティングしてみるのも悪くありませんね。」

 

「雪丸スタジオの専属マネージャーとしてですか? ありがたい話ですね。ホワイトノーツをクビになったらお願いします。」

 

「おや、クビになるまでは頷いてくれませんか。残念です。」

 

「香月社長に拾ってもらった身ですからね。最低限の義理は果たしますよ。……深雪さんは編集を別の人に任せるつもりは無いんですか? そうすれば投稿頻度を上げられると思うんですが。」

 

前の車が僅かに進んだのを目にして、サイドを下げて一速に入れてクラッチ操作だけで車を動かしながら問いかけてみれば……深雪さんは難しい面持ちで回答してきた。

 

「様々なデータを見る限り投稿頻度は非常に重要ですし、そういうやり方を否定はしませんが、私はやりません。他の誰かが編集したとして、それは『雪丸スタジオの雪丸の動画』ですからね。責任を持つという意味でも、動画内の発言や行動の意図を正確に伝えるという意味でも、他人に自分の動画を弄らせるつもりはありませんよ。……自分で企画して、構成して、撮影して、編集する。故に意図を違えない一貫した動画が完成するんです。」

 

「……別の人が別の視点から見れば、新たな発見や改善を得られるかもしれませんよ?」

 

「それも勿論重要ですが、私の好みではないんですよ。ここはもう実利というか、主義や美学の領分なのかもしれません。どれだけ信頼している相手だろうと、動画を預けるのは不安になりますしね。……察するにさくどんさんもそのタイプでしょう? 彼女はどちらかと言えば編集屋ですから、他人に編集の部分を預けるのを嫌うはずです。」

 

「よく分かりましたね、その通りです。さくどんさんもずっと自分で編集していくと言っていました。……『編集屋』というのは?」

 

耳慣れない言葉を聞き返してみると、深雪さんは細い足を組んで解説してくる。

 

「ライフストリーマーとして、強いて言えば何を得意としているかですよ。さくどんさんは動画の編集が上手いライフストリーマーなんです。さくどんチャンネルの魅力は細やかで丁寧な編集ですから。」

 

「そういう意味ですか。」

 

「企画や演者としても一流だからこそ、さくどんチャンネルは人気なわけですが……突出しているのはやはり編集の腕だと思いますよ。もしこれが演者寄りだったり企画寄りだったりするなら、編集を誰かに任せるのも選択肢の一つかもしれませんが、編集屋な以上は他人に任せたりしないでしょう。」

 

「さくどんさんが編集屋だとして、深雪さんはどうなんですか?」

 

またじりじりと車を前進させながら質問してみれば、深雪さんは自信満々の顔で応じてきた。からかうような雰囲気だ。

 

「私は全てやれます。企画も構成も演者も編集も一流のジェネラリストです。……とまでは言いませんが、『バランス型』なのは確かですよ。良く言えば安定していて、悪く言えば光るものが無いタイプですね。」

 

「まあ……そうですね、企画にしたって編集にしたって『雪丸色』が強い動画になっていると思います。」

 

「この辺は動画に向いているか、生配信に向いているかにも関わってくるんでしょうね。さくどんさんは圧倒的に動画向きで、私は中間、そしてモノクロシスターズさんあたりはやや生配信向きなんじゃありませんか? 来春正式に開始されるそうですし、試してみることをお勧めしますよ。」

 

「……ライブ配信機能がですか?」

 

初耳の情報に驚いている俺に、深雪さんは足を揺すりながら肯定してくる。とうとう正式にスタートするのか。知らなかったぞ。

 

「海外のリーク情報なので正式発表はまだですが、ほぼ確実に来春実装だそうです。生配信した映像を、そのままチャンネルの投稿動画として残せる形式らしいですね。」

 

「広告はどうなるんでしょう?」

 

「収益化済みかつ設定でオンにすれば、視聴開始時に一度だけ再生されるようです。……動画の広告システムも変わるらしいですよ。これまでは勝手に五分毎にインストリーム、オーバーレイの順で挿入されていましたが、三分毎や十分毎も設定可能になるんだとか。」

 

「……微妙な変化ですね。」

 

欲を言えば、こっちで自由に設定させて欲しいぞ。そしたら動画の切れ目のタイミングで広告を流せるのに。システム的に実現できないのかなと唸っていると、深雪さんは何とも言えない顔付きで反応してきた。

 

「まあ、徐々に徐々に改良されていくんじゃないでしょうか? 記事には不人気なインストリーム広告の割合を減らして、オーバーレイ広告を微増させるとも書いてありましたよ。将来的な生配信ではそっちをメインの広告にする考えらしいです。」

 

「あー、なるほど。動画だとインストリーム広告を挟み込んでも困りませんけど、ライブ配信だと『邪魔』じゃ済みませんもんね。」

 

インストリーム広告というのは、『五秒後にスキップ可能』みたいな形式の動画を停止して挟み込まれる映像タイプの広告だ。現在のライフストリームではスキップ不可能な五秒から十秒ときっちり十五秒のショートバージョン、スキップ可能な十五秒から二十秒と三十秒のロングバージョンが存在しているはず。細かく分けられているのは広告を出すための値段が違うからなのだろう。

 

対するオーバーレイ広告は、動画の下側にひょこっと出てくるあれ……端っこの小さい『閉じるボタン』をクリックしないと消えない画像タイプの広告だ。動画の下部二十パーセントに表示できるミニバージョンと、四十パーセントに表示できる大きめバージョンの二種類が存在しており、いちいち動画が止まらないからインストリーム広告と比較すると『こっちの方がマシ』と判断されているらしい。

 

あとはまあ、ライフストリームのサイトそのものに載っているディスプレイ広告なんてのもあるな。ページの右上に常時表示されている、大きめの画像広告だ。それで食っているのだから文句を言える立場ではないけど、『邪魔』と思ってしまう視聴者の気持ちも理解できるぞ。民放のコマーシャルと一緒で、こういうのは妥協点を探すのが重要なのだろう。

 

恐らくこの先ずっと付き纏うのであろう広告問題に考えを巡らせていると、助手席から涼やかな声での相槌が飛んでくる。

 

「大切な部分を見逃すことになりかねませんし、かといってその分のディレイをかければどんどん配信者と視聴者のタイムラグが大きくなっていきます。リアルタイムでコメントを書き込めるのが生配信の売りである以上、映像を止めないオーバーレイ形式にする他ないんでしょう。……何れにせよ、公開されてから暫くはテスト扱いになると思いますよ。そもキネマリード自体がゴタゴタしているようですしね。」

 

「キネマリードが?」

 

コーヒーを手に取りながら聞いてみれば、深雪さんは皮肉げな笑みで返事を放つ。情報通だな。どこで見つけ出してくるんだろう? そういうの。

 

「ライフストリーム部門をですね、傘下企業として独立させたいらしいんですよ。今後の成長を見据えての選択でしょうから、決して悪いことではないんですが……あれだけの大企業が『細胞分裂』をするのは容易くないはずです。絶対にトラブルが起きるでしょうね。」

 

「それはまた、大きな動きですね。」

 

「ただ、こちらも今すぐにではないはずです。恐らく一年がかりとか、そういうレベルの話でしょう。……つまり、キネマリード社は色々と並行してやっているんですよ。スマートフォン事業に新規参入したり、アニメーション関係で大規模な買収を行ったりもしているようですから、来年ゴタついて再来年に安定するってところでしょうね。」

 

「『下請け』のホワイトノーツとしては困りものですよ。キネマリードが荒れればライフストリームが荒れて、そうすると我々も静観していられませんから。」

 

困った気分で呟いた俺に、深雪さんはクスクス笑いながら慰めを寄越してきた。

 

「『親会社』が拡大する衝撃は甘んじて受け入れるべきですよ。後々利益になるはずなんですから。……あとはライフストリームのスマートフォン用アプリの改善や、規制強化の情報も載っていましたね。著作権問題や動画内での危険行為に対する罰則が重くなるようです。」

 

「まあ、そこは当然の流れだと思います。段階的に規制されていくでしょうね。……深雪さんは反対ですか?」

 

「瑞稀さん? 私は自由な動画を愛しているだけであって、危険な動画を好んでいるわけではありませんよ。最低限のルールは許容しますし、必要だとも思っています。」

 

「『ルール無用であるべき』とかって言っていたじゃないですか。」

 

数ヶ月前の発言を引用してやれば、深雪さんは半眼で抗弁してくる。

 

「あれは表現として言っただけです。ポリシー無しでやれという意味ではありません。……ただし、過度な規制には反対ですよ。人や社会に迷惑をかけない分には、何をしようが構わないと思っています。極論それで死んだらそいつの所為であって、別にライフストリームが悪いわけではありませんしね。」

 

「分からなくもない意見ですが、世間は無責任だとライフストリームを叩くでしょうね。」

 

「うんざりする話ですよ。そんなものは首吊り自殺があれば使われた縄のメーカーを叩き、信号無視の事故で車のメーカーを叩く。そういうレベルの行動じゃありませんか。」

 

「んー、どうでしょうね。問題なのは、危険な動画で収入を得ていた場合だと思いますよ。そうなると危険行為を『教唆』したことになりますし、ライフストリーム側にもある程度の責任は生じるんじゃないでしょうか?」

 

完全に非営利だったら『勝手にやって、勝手にアップロードした』で済むかもしれないが、ライフストリームは営利プラットフォームだ。危険な動画で誰かが大怪我をした際、さすがに無関係ですとはいかないはず。誰でも自由に投稿できるシステムである以上、そういう動画を完璧にシャットアウトするのは不可能だろうけど、最低でも『対策していますよアピール』はする必要があるんじゃないか?

 

頭の中で思考を回しながら返答してみると、深雪さんは一瞬だけ黙考した後で応答してきた。

 

「……なるほど、同意しましょう。そういった観点から見れば無関係とは言えませんね。難しい問題です。」

 

「ライフストリームは複雑な形式のプラットフォームですからね。コンプライアンスに関する問題はどうしたって付いて回りますよ。運営元と投稿者がそれぞれ気を付けていくしかなさそうです。……私たちって、ライフストリームが閉鎖されたらどうなるんでしょう?」

 

揃って路頭に迷うのかな。ちょびっとだけ不安になりつつ口にした俺に、深雪さんは強気な笑みで答えてくる。

 

「その問いはライフストリーマーに『ご意見』をしたがる連中の常套句ですね。そこから将来性が無いだの何だのと繋げるのが彼らの主張なわけですが……答えてあげましょう、ライフストリームが消えたら別のプラットフォームに移るだけですよ。ライフストリームがどうなろうと、『動画配信』という職業自体は暫く潰れません。故にそういう文句は木を見て森を見ない連中の戯言です。」

 

「……なら、私はライフストリームが潰れても再就職活動をせずに済みそうですね。」

 

「それ以前にそもそも潰れないと思いますけどね。万が一そうなったら香月社長は『次』に目を付けるでしょうから、貴方は恐らく安泰ですよ。無論、ホワイトノーツが潰れるかどうかはまた別の話ですが。……ラジオスターをテレビが殺した時、真の勝者だったのはテレビではありません。最も利益を得たのはラジオからテレビへと活動の場をシフトさせた人間たちです。拘泥して古い船と共に沈むのではなく、拘らずに動いて新たな豪華客船に乗り込む。節操なく勝ち馬に乗り換えるのが勝者の行動なんですよ。」

 

「身も蓋も無い結論じゃないですか。」

 

夏のフォーラムで聞いたパーカー氏の演説。それを思い出しながら突っ込んでやれば、深雪さんは苦い笑みで肩を竦めてきた。

 

「私はライフストリームと心中するのも美しい選択だと思いますけどね。……まあ、もしもの話に意味などありません。大丈夫ですよ、瑞稀さん。キネマリードは『マジで世界を支配しかねない』と心配されているほどの大企業なんですから、ライフストリームがいきなり潰れることは無いでしょう。何十年後かに新たな『発信の形式』が現れた際、そこに移るか引退するかを選べばいいだけです。その頃の貴方は成功してそこそこの金持ちになっているはずですし、マンションの高層階で下界を見下ろしながら余生を過ごすのも良いんじゃありませんか?」

 

「『そこそこの金持ち』というのは夢がありますね。そうなれるといいんですが。」

 

「香月社長が然るべき報酬を社員に払う人物であれば、割と現実的な未来だと思いますよ。……もし小娘の『ドン引きラブストーリー』が達成されれば、そこに一回り若くて美人で一途な妻も追加されます。夢いっぱいですね。もはや妄想の中の世界です。」

 

何故か若干棘がある口調で言ってくる深雪さんだが……いやいや、大丈夫だろう。妄想は頭の中だけで終わるから妄想なんだぞ。そんな都合の良い展開にはならないはず。そこそこの金持ちにもなれなくて、仕事にかまけ過ぎて独身で、無理して買った車のローンに苦しんでいる。俺の何十年後かなんてそんな具合だろうさ。

 

……でも、それはちょっと悲しすぎるな。『理想の結婚』はここからだとやや厳しそうだから、せめて『そこそこの金持ち』の部分だけは目指してみよう。俺が自らの将来を悲観して怖くなってきたところで、深雪さんがポツリと声を送ってきた。非常にバツが悪そうな表情でだ。

 

「時に瑞稀さん、話の流れをぶった切るようで悪いんですが……良い知らせと悪い知らせがあります。どっちから聞きたいですか?」

 

「映画の台詞みたいですね。……じゃあ、定番通り良い知らせからで。」

 

「では報告しますが、私は今トイレに行きたいと思っています。」

 

「……悪い知らせは?」

 

どうして高速に乗る前に行っておかなかったんだ。コンビニに寄ったじゃないか。どこが良い知らせなのかと困惑しながら続きを促してやれば、深雪さんは毎度お馴染みの誤魔化しの笑みを浮かべて回答してくる。

 

「そろそろ我慢の限界になりそうなことです。」

 

「……一応ですね、災害用の備えとして携帯トイレはトランクに積んであります。一応言いました。一応。」

 

「……まだ我慢しますが、一応取り出しておきましょう。一応です。」

 

この人、本当にタイミングが悪いな。そういう運命の下に生まれてしまったんだろうか? 渋滞はまだまだ動きそうにないぞ。シートベルトを外して後部座席に移動した深雪さんのことを、何だか可哀想に思っていると……彼女はラゲッジスペースに身を乗り出しながら呼びかけてきた。

 

「赤いバッグですか?」

 

「それです。水やら保存食やらが一式入っているので、その中から探してください。」

 

「……万が一ですよ? 万が一使うことになっても、渋滞でトラブルを起こす『厄介女』として嫌わないでください。お願いします。」

 

「いや、別に嫌いにはなりませんが……ひょっとして、もうダメそうなんですか?」

 

深雪さんの声色から切羽詰まっていることを感じ取って問いかけてみれば、彼女は再びフッと笑いながら曖昧に応じてくる。

 

「まだいけます。希望を捨てないでください。」

 

「……はい。」

 

ダメっぽいな、これは。防災バッグから出した携帯トイレの袋をひしと握り締めているし、何かもう絶望的な雰囲気が伝わってくるぞ。……いやはや、頼りになるんだかならないんだかさっぱり分からない人だ。

 

今度深雪さんと遠出する時は無理にでもトイレに行かせようと決意しつつ、眼前の渋滞が魔法のように解消されることを願うのだった。

 



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Ⅳ.かなどん ⑪

 

 

「ねえこれ、レベル上限にする前に進化させちゃっていいのかしら? キャップに到達してから進化させないと、最終的なステータスが下がったりしない? 進化前と進化後で成長率が変わるのって有り得そうよね? ねえ、朝希? 聞いてよ、朝希ったら。どう思う?」

 

そして奇妙な友人に新たな『有力所持エピソード』が追加された翌日。俺は日曜日の事務所の撮影部屋で三脚の後ろに立ちながら、ソファに座る小夜さんの不安げな声を聞いていた。企業側から貰った資料をチェックしてみるか。そこまで細かくは書かれていなかったはずだし、望み薄だが。

 

現在の俺たち三人は、スマートフォン向けソーシャルゲームのスポンサー案件動画を撮影中なのだ。運び込んだ応接用ソファにスマートフォンを持った小夜さんと朝希さんが並んで座り、そんな二人の姿を正面から固定カメラで映しつつ、ケーブルでスマートフォンとパソコンを繋いで画面も別に録画しているわけだが……やっぱりこういう撮影は複雑だな。小夜さんが率先してセットアップをしてくれたから何とかなったけど、俺はいまいち仕組みを理解し切れなかったぞ。

 

スポンサー側から渡されたゲームの資料を捲りつつ考えている間にも、朝希さんが小夜さんに返事を飛ばす。実に面倒くさそうな表情でだ。……家庭用ゲーム機だとキャプチャーボードが必要なのに、スマートフォンの画面は直接繋いで録画できるのも謎だな。どういうからくりなんだろう?

 

「何回聞くのさ、それ。大丈夫だよ。」

 

「でも、そういうゲームって多いじゃない。レベル四十で転職可能だけど、五十にしてからじゃないと最終的なスキルポイントが減るみたいな。知らなくてやっちゃって、育て直す羽目になったりするでしょ? ……先に低レアのキャラで実験してみましょうよ。被ってるので試してみるから、まだ進化させないでおいて。」

 

「いいけどさ、気にしすぎだよ。……じゃあ私、小夜ちが実験してる間に曜日ダンジョンいってみるね。ここはえっと、装備強化のためのマナが多く稼げるダンジョンみたいです。さっきのパーティーのままで挑戦してみます!」

 

カメラに向けて元気良く宣言した朝希さんは、スマートフォンを操作して曜日ダンジョンとやらを攻略し始めるが……小夜さん、無言になっちゃっているな。キャラクターのステータスを計算しているらしい。相変わらず個性の違いを出してくるじゃないか。

 

今彼女たちがプレイしているゲームは、一昨日リリースされたばかりの『ダンジョンコマンダー』というソーシャルゲームだ。最近増えてきた『ガチャ』でキャラクターを手に入れて、それを強化してイベントなどを攻略していくというシステムなのだが……このタイトルはまあ、比較的気合が入っている部類だと言えそうだな。

 

キャラクターのイラストやボイスに力を入れているみたいだし、UIやシナリオも中々しっかりしているから、素人目に見ても一定のヒットは約束されているように思えるぞ。モノクロシスターズ以外のゲーム実況系ライフストリーマーにも声をかけたそうなので、初期プロモーションにも金をかけているっぽいし。

 

ちなみに今回の動画ではチュートリアルの部分と最初の無料二十連ガチャ、それに基本的なシステム面を軽く触ってみる予定だ。そして一週間後にある程度進めたデータで、もう一度撮るという二段階の契約になっている。スポンサー契約としては間々ある形式だな。

 

しかし、向こうの会社から担当の人が派遣されてこないのはちょっと悲しいぞ。深読みしすぎなのかもしれないが、重要だと思っているなら一人くらいは説明役兼監視役の社員を撮影に同行させるはずだ。スポンサーになってくれる程度には期待しているけど、人を派遣するほどではないということか。現状の立ち位置を思い知るな。

 

まあいいさ、これはモノクロシスターズにとって一本目のスポンサー案件だ。きちんと価値を示していって、徐々に認めさせていけばいい。いつの日か社員を派遣してくるどころか、向こうが綺麗なスタジオを用意してくれるようになる……はず。マネージャーとしてそういう未来を掴み取ってみせるぞ。

 

野望を抱きながら二人の撮影を見守っていると、朝希さんが曜日ダンジョンをクリアしたタイミングで小夜さんが口を開いた。低レアのキャラを使用した『人体実験』の結果が出たらしい。

 

「朝希、朝希。レベル三十で進化させても五十で進化させても、進化後の六十レベルのステータスは同じみたいよ。要するにキャップが変わるだけで、ステータスの成長率は固定ってこと。……タイミングはいつでも大丈夫みたいです。親切なシステムのゲームらしいので、リスナーの皆さんも安心して進化させてください。」

 

「うわ、ストーリーダンジョンと全然違うよ。マナ、凄い貯まるじゃん。初級の曜日ダンジョンでこんだけ貰えるってことは、後々めちゃくちゃ使うのかも。……中級もやってみようかな。さすがに無理? 日曜日は三種類の曜日ダンジョンが全部解放されてて、マナダンジョンにはあと二回チャレンジできるみたいだから、試しに中級もやってみます!」

 

「けど、装備はどうなのかしら? これってランクアップさせると消えるのよね? 装備も強化してからランクを上げるべきなのか、未強化で上げていいのか……どう思う? 朝希。これも実験してみるべき? 聞いてよ、聞いてってば。」

 

「ちょっと小夜ち、邪魔しないで! ごちゃごちゃうるさいよ! ……あー、無理かも。中級はちゃんと強化してからじゃないとキツそう。よく考えたら経験値ダンジョンを先にすべきだったね。失敗しちゃった。」

 

うーむ、会話がドッジボールになっているぞ。編集の時はどうするつもりなんだろう? それぞれのゲーム画面を左右に表示させると混乱しそうだし、曜日ダンジョン攻略中の朝希さんの画面がメインかな?

 

調査と挑戦。各々の方向で楽しんでしまっている二人を見て心配していると、小夜さんがイラッとしている顔付きで文句を投げる。

 

「曜日ダンジョンよりもこっちの方が重要でしょ? 折角手に入れたSSRの最終ステが下がるなんて絶対嫌だし、みんな気にしてるはずよ。……するからね、実験。装備も試すから。朝希? 聞いてるの?」

 

「聞いてるってば! 勝手にやってて! ……スキル上手く使えばギリいけそう。ボス次第だけど、ギリギリで──」

 

「朝希、ステージ進んでもクールタイムは持ち越しなんだからね? ボス前に溜めとかないと困るわよ? はいほら、使った。何で今使うのよ。次のステージの初っ端で使えば──」

 

「これ食らったら死んじゃうの! この何か、固定砲台みたいな敵。こいつは早めに処理しとかないとダメなんだってば! 小夜ちは黙って実験してて!」

 

何とまあ、楽しんでいるな。微笑むか苦笑するかを迷うやり取りだけど、モノクロシスターズらしくて良いと捉えておこう。かなり集中している様子の朝希さんが、覗き込んでくる小夜さんを押し退けたところで……ダメだったか。パソコンの録画画面に『ミッション失敗』の文字が映った。ボスまでたどり着けなかったらしい。

 

「ね? そうなるでしょ? クールタイムを計算しないから、そうやって後が無い状況に──」

 

「小夜ちのバカ! 横からうるさく言ってくるから失敗しちゃったじゃん!」

 

「あの調子だとどうせボスでやられてたでしょ。こういうのはね、普通に強化しておけば簡単にクリアできるものなの。いきなり中級に行こうとするあんたがバカなのよ。焦らず順番にやっていけば──」

 

「小夜ち!」

 

おおっと、物理攻撃だ。小夜さんに飛びかかった朝希さんは、そのまま双子の片割れの首をホールドして頭をぺちぺち叩き始める。ぷんすか怒りながらだ。

 

「小夜ちの、所為で、挑戦権一回無駄になったじゃん! どうしてくれんのさ!」

 

「やめなさいよ! あんたが猪突猛進するおバカだからでしょうが!」

 

「バカじゃない! バカは小夜ちでしょ! ……いいよ、別に。私の方がSSR多く引いたもん。一週間後に痛い目見せるから。」

 

「ほざいてなさい、アマチュア朝希。こういうゲームはね、初期の頃は大体回復系のキャラが強いもんなのよ。人権なの、人権キャラ! あんたは人権を持ってないけど、私は引いたの! だから一週間後に勝つのは私なの!」

 

動画内では珍しく素の口調になっている小夜さんへと、朝希さんがムスッとしながら反論した。ダンジョンコマンダーには協力や対戦モードがあるので、一週間後にそれぞれの『成果』を競うことになっているのだ。あとはまあ、イベントが始まるからその日を二度目の撮影日に指定してきたというのもありそうだな。イベントの宣伝をイベント終了後に上げても仕方がないわけだし、投稿日にも気を使わなければ。

 

「絶対火力で押し切れるって。そういうシステムだって分かったもん。『人権キャラ』は回復じゃなくて火力だよ。あとバッファー。私はどっちも引いたけど、小夜ちは引いてないでしょ?」

 

「……何よその自信は。どうしてそう思ったの?」

 

「小夜ちは敵だから教えてあげない。……それじゃあ、一旦強化タイムに入ります! 出来るだけ強化した後で、さっき出来なかった一章の後半ステージにチャレンジしてみるから、ちょっとだけ待っててください!」

 

「あっ、えっ? ……あんた、何で急にそういうこと言うの? 勝手に切らないでよ!」

 

焦り半分、怒り半分の小夜さんに対して、編集点を作った朝希さんがスマートフォンをテーブルに置いてべーっと舌を出す。どうやらカットらしい。

 

「私、さくどんさんの動画見て勉強したんだもん。こういう風に切っておいて、『はい、それでは強化が終わったので後半ステージいってみましょう!』って繋げればいいんだよ。」

 

「それはいいけど、私が慌てちゃったでしょうが!」

 

「わたわた小夜ちの反応なんかカットだよ。私の台詞で切るからね。……駒場さん、録画止めちゃって大丈夫です。」

 

「了解しました、一度切りますね。」

 

まあ、悪くないタイミングだったと思うぞ。『作業画面』が長くなりすぎるのはあれだし、既に説明済みの地味な部分はカメラの外側でやってしまうべきだろう。朝希さんの指示に従って目の前のビデオカメラを弄っていると、小夜さんが机に歩み寄ってマウスを掴む。スマートフォン画面の録画も止めるらしい。

 

「まだスマホのケーブルは抜かないで。こっちを止めてからじゃないと……はい、抜いていいわ。」

 

「ここまでで何分撮ってる? 三十分くらい?」

 

「二十六分半ね。……あと二十分くらいは撮るはずだから、半分以上カットしないといけないわ。どこを切るか考えておかないと。」

 

「編集の時に適当に切っちゃえばいいじゃん。……小夜ち、昨日からずっと悩みすぎだよ。いつもの動画と大して変わんないんだから、もっと気楽にやればいいのに。」

 

スマートフォンのケーブルを抜いて意見した朝希さんに、小夜さんが鋭い語調で注意を送った。事前の話し合いの時もそうだったけど、『スポンサー動画』への姿勢の違いが出てしまっているようだ。

 

「スポンサーさんはね、お金を払って依頼してくれてるの。だったらいつもの動画とは大違いでしょうが。失敗したら私たちだけじゃなく、ホワイトノーツにもスポンサー側にも迷惑がかかるんだからね?」

 

「……でも、そうやって気を使いすぎてるとどんどん不自然になっていくじゃん。飛行機のシートベルトの動画みたいになっちゃうよ? そんなのやだ。楽しんで撮った方が、きっとスポンサーさんだって喜んで──」

 

「それだけじゃダメなの! ……あんた、ちゃんと分かってる? 私たちの目標のためには、スポンサー案件も沢山受けていく必要があるのよ? 私たちが楽しいかどうかなんて二の次でしょうが。先ずはしっかりスポンサー側の意図を汲んだ動画を作れるように──」

 

「けど、単なる『説明動画』なんて見てても面白くないじゃん! 雪丸さんが前に言ってたでしょ? そういうことを気にしすぎると、つまんない動画になっていくって。私はさくどん派だけど、そこは間違ってないと思う。小夜ち、考えすぎてダメな方向に進んでるよ。つまんない気分でカメラの前に立ったって、つまんない動画にしかならないもん。……ね? 駒場さん、ね?」

 

ぬう、唐突に言い争いが始まってしまったな。毎度の『じゃれ合い』とは少し空気が異なっていることを感じつつ、発言を求めてきた朝希さんへと返答を返す。ここは真面目に答えよう。

 

「どちらも正しいことを言っていると思います。朝希さんの柔軟さも、小夜さんの慎重さもスポンサー案件には必要なんです。なので小夜さんが大枠を組み立てて、朝希さんがその中で流れを作るのがベストなんじゃないでしょうか?」

 

「……よく分かんないです。」

 

「つまりですね、撮影全体の計画は慎重な小夜さんが立てるんですよ。今回だったら『オープニングシナリオを見る』とか、『一章を最後までプレイする』とか、『キャラクターの強化に関してを説明する』といったスポンサー側からの条件があるじゃないですか。仕事として受けた以上そこを取りこぼすわけにはいかないので、そういった絶対条件をきっちり回収できる『撮影ルート』を組んでもらうんです。勿論ここはマネージャーとして私も手伝います。」

 

「……じゃあじゃあ、私は?」

 

話を咀嚼している雰囲気で尋ねてきたソファの上の朝希さんに、頭の中で思考を回しつつ応答する。小夜さんも机の側で黙考しているな。考える空間になっているぞ。

 

「小夜さんが組んだルートの中で、朝希さんが自由に動き回ってモノクロシスターズの色を出していくんですよ。ルートから外れさえしなければ、どんなに柔軟に動いてもスポンサー側と意図を違えることはありませんから、朝希さんとしても気兼ねなく楽しめるはずです。……そういう方針でやっていくのはどうでしょう? それならお二人の良いところを両取りできると思うんですが。」

 

「……小夜ち、どう?」

 

「……大方針としては良いと思います。構成とか編集は私が主導して、カメラの前では朝希が前に立つってことですよね?」

 

「その通りです。要するに、今までの撮影の延長線ですよ。小夜さんが組み立ててくれたルートなら安心ですし、朝希さんが自由に動けば意外性も出せます。どちらがどこでリーダーシップを取るのかを決めておけば、揉めることもありませんしね。」

 

俺が思い付く中では、これが一番良い手法だぞ。計画立案を慎重な小夜さんがやって、実際の行動を柔軟な朝希さんが担う。そうすれば編集で取り返せないような致命的なミスはせずに済むし、堅すぎる『説明動画』になることも避けられるはず。

 

外側から観察していて行き着いた回答を提示した俺に、小夜さんと朝希さんはアイコンタクトを交わし合った後で……了承の頷きを寄越してきた。

 

「じゃあ、これからはそれを意識してやってみます。まあその、かなり納得の意見でしたし。」

 

「お姉ちゃんも言ってたもんね。役割分担していきなさいって。……駒場さん、教えてくれてありがとうございます!」

 

「お役に立てたなら何よりです。」

 

にぱっと笑ってハグしてきた朝希さんに微笑みかけていると、小夜さんがそれを引き剥がしながら言葉を飛ばしてくる。

 

「やめなさい、朝希。すぐ抱き着かないの。……打ち合わせ、付き合ってくださいね。私と駒場さんで考えていくことになるはずなので。」

 

「ええ、いくらでも付き合います。何でも相談してきてください。」

 

「えっ。……それ、ズルいよ。小夜ちばっかり駒場さんと仲良くするのは変じゃん! 私もやる!」

 

「あんたは実行役なんだから、私と駒場さんで立てた計画に従っておけばいいの。一瞬前にそう決まったでしょうが。……ほら、分かったらレベル上げするわよ。曜日ダンジョンを全部やってたら動画が長くなるし、裏でクリアしちゃいましょ。」

 

スマートフォンをタップしつつの小夜さんが、早速撮影計画を組み立てながら事務所スペースへのドアを開けると……あれ、夏目さん? デスクのモニターの前で、香月社長と話している夏目さんの姿が視界に映った。社長は監督役として最初から休日出勤してきていたけど、夏目さんは居なかったはずだぞ。いつ来たんだろう?

 

「夏目さん、おはようございます。どうしたんですか?」

 

「あっ、三人ともおはようございます。実はあの、動画が物凄く伸びちゃって。それでどうしたらいいかなって思って、慌てて来ちゃったんです。今日朝希ちゃんと小夜ちゃんの大事な撮影をやってることは知ってましたし、駒場さんに電話して音が入ったら大変なので……買い物ついでに直接来てみました。今の家からだと近いですし。」

 

動画が『物凄く』伸びた? 中々強めの表現じゃないか。モノクロシスターズの二人も挨拶をしているのを横目にしつつ、首を傾げて香月社長のパソコンのモニターを覗き込んでみれば……うわぁ、確かに伸びているな。三十万再生? これ、昨日上げた動画だったはずだぞ。

 

「……これはまた、凄いですね。何が切っ掛けなんですか?」

 

「君たちが撮影している間にコメントをチェックしてみたんだが、切っ掛けらしい切っ掛けは特に無さそうだよ。単純に伸びたらしいね。勢いを見るに、単品での百万再生も目指せるんじゃないかな。」

 

呆れと感心が綯い交ぜになった声色での香月社長の説明に、映っている動画を……包丁のレストア動画を見ながら応じる。まさかの伸びだし、まさかの動画だぞ。まさかまさかの展開だな。

 

「この調子なら行くかもしれませんね。予想外です。……夏目さんとしても期待していなかったんですよね?」

 

「全然してませんでしたし、嬉しさよりも微妙さが勝ってます。……私、センス無いんでしょうか? 何ならここ最近で一番期待してなかった動画が、歴代で一番伸びちゃいました。デスソースとか雪丸さんとのコラボとかも抜く勢いです。」

 

「諦めたまえ、夏目君。この訳の分からなさがライフストリームさ。……しかし、錆びた包丁を研いで綺麗にする動画か。私としても完璧に予想外だね。つくづく何が当たるか分からんもんだよ。」

 

お手上げの半笑いを浮かべた香月社長へと、俺も苦笑しながら声を投げた。伸るか反るかは上げてみなければ分からないわけか。全く以て難しい仕事だぞ。

 

「改めて難解さを思い知りますね。……何にせよ、おめでとうございます。時間をかけた動画ではあるわけですし、ここは努力が報われたと捉えておきましょう。夏目さんの頑張りの成果には違いありませんよ。」

 

「さくどんさん、おめでとうございます! 凄いです! ね? 小夜ち。」

 

「そうね、凄いわ。おめでとうございます。」

 

「あの、ありがとうございます。……まだちょっと複雑な気分ですけど、とりあえずは素直に喜んでおきます。百万再生に到達してくれるように願っておきますね。」

 

さくどんチャンネルで最も伸びたデスソースの動画は八十万後半で止まっているので、もしこれが百万まで行けば初のミリオンヒットになるな。……そう考えるとまあ、素直に喜べないのも理解できるぞ。然程期待していなかった動画が、これまで苦労して作ってきた全ての動画を超えてしまったわけなのだから。

 

思惑通りには行ってくれないなと首筋を掻いていると、パソコンの前に移動した小夜さんが香月社長に声をかける。

 

「最初から見ていいですか? 参考にしたいですし、普通に内容も気になりますから。昨日の夜は撮影の予習をしてたので、まだ見てないんです。」

 

「ん、いいよ。英語の字幕もオンにしてもらえるかい? もう一回通しで見て、見落としや間違いがないかをチェックしてみるよ。ここまで伸びた以上、慎重になるべきだしね。」

 

「私も! 私も見たいです! 駒場さんと風見さんの椅子、借ります!」

 

俺も後でゆっくり再チェックしてみよう。研ぐ前と研いだ後の包丁を並べたサムネイルが良かったのかな? 俺は研ぐ前のみのバージョンを推したのだが、やっぱり夏目さんの決定が正しかったらしい。すんなり引き下がって正解だったぞ。

 

お喋りしながら動画を見始めた三人を背に、飲み物でも用意するかと給湯室に向かってみれば……ついて来た夏目さんが話しかけてきた。苦い笑みでだ。

 

「難しいですね、ライフストリームって。だからこそ好きなんですけど、こういう時は少し困っちゃいます。」

 

「それだけやり甲斐があるということですよ。分析してみれば今後の活動に役立たせられるかもしれませんし、今回の経験を活かして次のヒットを目指していきましょう。」

 

「はい、まだまだ研究が必要みたいです。落ち着いた頃に見直してみて、何が良かったのかを調べておきます。……あとあの、叶のこと。色々相談に乗ってくれて本当にありがとうございました。昨日叶から話を聞いたので、そのお礼を駒場さんに直接伝えたいっていうのもあったんです。こういうのは電話じゃダメかなと思いまして。」

 

「……そうですか、叶さんと話したんですか。」

 

何をどこまで話したんだろう? ちょっぴり不安になりながら相槌を打った俺に、夏目さんは困ったような笑みで反応してくる。ここで出てくるのが『ドン引きの笑み』ではない以上、大半は黙秘してくれたらしい。

 

「昨日の夕ご飯の時、きちんと話し合ったんです。子供の頃のことは気にしてないから、家族としてもっと遠慮なく接して欲しいって言われちゃって。反省しました。気を使ってるつもりでしたけど、余計に距離を感じさせてたんですね。……叶、無理して『悪い妹』とか『良い妹』を演じるのはやめるそうです。代わりに私も『良い姉』を演じるのをやめることになりました。これからはこう、もうちょっと自然な姉妹になると思います。」

 

「……良かった、でいいんですよね?」

 

「ですね、やっと一段落したって感じです。慣れるまで少しかかりそうですけど、そういう状態で二人暮らしをしていこうって結論になりました。駒場さんが間に入ってくれたお陰で、久々に叶と真正面から話せた気がします。……ライフストリーマーを目指すって話もしてくれましたしね。暫くは私の撮影を手伝って勉強するつもりらしいです。」

 

「夏目さん的にはオーケーなんですか?」

 

少なくとも姉妹間では上手く纏まったらしいことにホッとしつつ尋ねると、夏目さんは悩ましそうに眉根を寄せて答えてきた。

 

「甘くないよとは言いましたけど、どうも本気っぽかったので……止めはしません。撮影とか編集とかの大変さを実際にやらせて伝えてみて、それでも高校生になった段階で意志が変わってないようなら、両親に説明する場での味方になろうと思ってます。『お姉と同じ仕事をしたい』って言われた時、正直凄く嬉しかったんです。私のこと、ちゃんと好きでいてくれてたんだなって。」

 

「そんなことを言っていたんですか。」

 

「だから、反対はしません。私が教えられる分は全部教えようと思ってます。『教える』って言っても叶は頭が良い子なので、私のことなんてすぐ追い抜いちゃうかもしれませんけどね。」

 

そこで一度区切った夏目さんは、ふにゃりと笑って言葉を繋げてくる。

 

「まああの、そんな感じになりました。すみません、家族の問題まで面倒見てもらっちゃって。」

 

「夏目さんと叶さんの関係が良好なものに戻ったなら、私としても嬉しいです。これからも何かあったら遠慮なく頼ってください。」

 

まあ、苦労した甲斐はあったようだ。そこは本心から嬉しく思っているぞ。人数分のコップにペットボトルのお茶を注ぎながら安心していると、夏目さんが優しく微笑んで話を締めてきた。

 

「今回はすっごくお世話になっちゃいましたし、やっぱり私は駒場さんが居ないとダメみたいです。……ずっと近くに居てくださいね?」

 

「勿論です、マネージャーですから。」

 

胸を張って返答してみれば、夏目さんは……んん? 何故か少しだけ不満げな表情を覗かせた後で、くるりと笑顔になって首肯してくる。何か失敗したかな? ベストな応じ方だと思ったんだが。

 

「はい、よろしくお願いします。……あっ、そう。それとこれを持っておいて欲しくて。叶も駒場さんだったらいいよって言ってました。」

 

「これは、何の鍵ですか?」

 

「家の合鍵です。何かあった時用に持っておいてください。」

 

「ああ、なるほど。了解しました、マネージャーとして大切に持っておきます。」

 

ホワイトノーツにはまだそういう仕組みがないが、緊急時に備えてマネージャーが担当の家の合鍵を持っておくのはそこまで珍しいことではない。芸能事務所なら間々ある話だろう。そんなわけで素直に受け取った俺へと、夏目さんは上目遣いでポツリと付け加えてきた。

 

「……これ、信頼の証ですから。誰より駒場さんを信じてるって証拠です。いつでも入ってきて大丈夫なので、好きに使ってください。」

 

「いえいえ、好き勝手に入ったりはしませんよ。あくまで緊急時にしか使わないので、そこは安心してください。」

 

病気の時とか、忘れ物を代わりに取りに行ったりとか、そういう時用じゃないのか? 謎の発言に首を捻りつつ応答してみれば、夏目さんはやや残念そうな顔付きで小さく頷く。どうしてそんな顔になるんだ。

 

「はい。……じゃああの、そういうことで。飲み物、私が持っていきますね。」

 

パッと飲み物が載ったプレートを取って事務所スペースに戻っていった夏目さんを見送りつつ、何だかよく分からないやり取りだったなと目を瞬かせる。……まあ、プラスに捉えておくか。信頼してくれているなら、誠実に応えるまでだぞ。

 

兎にも角にも夏目姉妹の問題は一段落したようだから、次なる課題に集中させてもらおう。モノクロシスターズの後半の撮影をサポートして、白鳥さんと太陽さんのマネジメント計画を立てて、ライフストリームのシステムの変化についてを社内で相談して、新入社員の採用活動や教育に関しても思案して……あー、そうだ。来週深雪さんと行く焼肉屋も決めておかねば。

 

それに豊田さんにもスポンサー案件の撮影が入っているし、その時名古屋に行くとなればランドスターの点検も撮るだろうから、今のうちからスケジュールを調整しておく必要があるな。月曜日に電話してみよう。加えて白鳥さんが直接対面しての打ち合わせを望んできた場合は、俺が仙台に赴くことになりそうだ。この前彼女がこっちに来てくれた以上、次回は俺の方が出向くべきだろうし。

 

まあうん、優先順位を整理して一つ一つ処理していくか。先ずはモノクロシスターズの撮影に全力を傾けよう。来春に大きな変化が待ち構えているのであれば、しっかりと土台を整えた状態で飛び込んでいくべきだ。『二年目』に向けて頑張っていかなければ。

 

手の中の鍵を一度見つめて気合を入れた後、駒場瑞稀は話し声が響いている事務所スペースへと歩き出すのだった。

 



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