【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話― (駱駝倉)
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導入部
教皇と浮浪児


今日では不適切とされる表現が含まれますが、原作の時代設定を考慮した結果です。ご了承下さい。


 

 セージがその者と出会ったのは、彼の長い人生の終わり頃に近かった。

 

「年寄りが部屋に籠もってばかりで、足腰が弱っても知らんぞ。留守番をしてやるから、たまには近所を散歩でもしてこい」

 

 そう理由をつけて、セージを執務室から追い出したのは実兄である。世俗とは異なる階級社会で位人臣を極めたセージに、ずけずけと物を言えるのは、肉親くらいなものだ。そして老境になっても、セージは兄に頭が上がらなかった。

 

 早速言われた通りに「散歩」がてら、近隣の情勢を己の目で確かめておこうと考えた。ギリシャに住まう彼が行き先に選んだのは、イタリア。彼にとっては「近所」の範疇に入る場所だ。

 

 オスマン帝国の支配下にあるギリシャから、船で隣の半島に渡ると、そこはナポリ王国。未だ統一されたことのないイタリアは、小競り合いと謀略の嵐にさらされていた。

 

 時は十八世紀。イタリアをほぼ統一することになるナポレオン・ボナパルトが誕生する、数十年前のことである。

 

          ◇

 

 セージはその地を、それこそ散歩の気軽さで巡った。供も護衛もない、単身の忍び旅だった。高位にあるだけのただの老人であれば、なんとも無謀な旅となろうが、彼は凡人ではなかった。 

 

 ある地方で噂を聞いた。

 

 ――ローマに通じる街道沿いに、破壊された村がある。そこに夜な夜な幽霊と追剥ぎが出るという。

 

 幽霊も追剥ぎも、廃墟にいて不思議はないが、一緒に出るとは聞いたことがない。興味を惹かれ、噂を確かめに行くことにした。

 

 夜を待って廃墟と化した村に入れば、死の匂いが微かに漂っていた。それは死肉から放たれる腐臭とは異なる。気配と言ってもいい。セージの異能が感じるものだ。

 

 その気配を辿っていくと、瓦礫の山の陰に人影を見つけた。死霊ではなく生者だった。

 

 年端もいかない浮浪児だった。煤で汚れた大人の服を着て、何をするでもなく座り込んでいる。声を掛けようとして、その指先に遊ばせている青い炎を見た。

 

 ひらひらと舞う青い鬼火は死者の霊魂。

 

 それをなだめ、操る力はセージと同じ異能だ。

 

 現れた老人の視線の先にあるものに気づき、少年はようやくまともに彼を見た。その霊魂たちは近しい者かというセージの問いには答えず、倦み疲れたような笑みを浮かべる。

 

 ――死ねばどんな大人も子供も、聖者も悪党でも同じ。小さな鬼火になってしまう。

 

「所詮、人の命なんてのは塵芥と同じなんだよ」

 

 歳に似合わぬ厭世的な言葉を吐く少年に、セージは名を尋ねた。名前ねえ、と物憂げに呟く少年から、鬼火が離れていった。

 

「死刑執行人《マニゴルド》」

 

 言うなり、装身具を狙って刃物で斬りつけてきた。セージは僅かに引いたが、完全には避けなかった。服が斬られた。

 

 まさか相手が見切った上でそうしたとは思わず、少年は勢いづいた。そうして踏み込んできたところを、セージは片手で吊り上げた。

 その老人とも思えぬ力強さ、素早さ。相手が悪かったと観念した少年は、抵抗を止めた。そして笑った。

 

 己もまた塵芥。さっさと始末をつけてくれ、と。

 

 何もかもを諦観するには幼すぎる者が、そう言った。粋がるでもなく、強がるでもなく、寒々しい無常で心を満たしていた。

 

 セージはゆっくりと腕を下ろして少年を解放した。

 

 子供の追い剥ぎ風情をどうこうするつもりはない。ただ、知っていて欲しかった。人の生が塵芥などと卑下するものではないことを。もっと輝き、尊いものであることを。

 

 魂と触れあう者だからこそ、その美しさを知っているはずだ。

 

 知らないのであれば、示してやりたい。伝えてやりたい。命を燃やして戦い、散っていった同胞たちの眩いほどの生を。

 

 命は塵芥などではない。

 

「おまえの命も、また」

 

 そう告げれば、少年は顔を背けた。

 

 にじむ涙を隠して少年は問う。塵芥でなければ、人の生は何なのかと。

 

 セージは答える。宇宙であると。

 

 力強く断言したあと、彼は一緒に来るよう少年を誘った。多すぎる死を見つめ、生に絶望したままの状態で放り出すのは忍びなかった。そして許せなかった。

 

「見せてやろう。おまえの見捨てかけた命の尊さを。それを守るために戦う者たちの美しさを」

 

 セージは歩き出した。噂の正体が分かった以上、留まる理由はない。ところが後ろからついてくると思った足音は聞こえてこなかった。

 

 振り向けば少年は空を見上げている。

 

 老人の胸の内に突風が吹いた。

 

 突風の正体は怒りなのか、焦りなのか。己にもよく分からなかった。とにかくその突風に突き動かされて少年のもとに取って返し、手を掴んだ。少年は目を丸くしたが何も言わなかった。

 

 セージは小さな手を引いて、廃墟を後にした。

 

 掌に包んだ細い手は冷たかった。それが子供らしい温もりを取り戻す頃には、謎の突風はセージの中から去っていった。

 

 彼は改めて少年に名を尋ねてみた。

 

「マニゴルド」

 

「それは通り名を気取ったものだろう。親から貰った名を聞いておる」

 

「そんなもん、ねえよ」

 

 少年は冷たく吐き捨てた。

 

「孤児院でつけられた名前なんて、家畜の名前だ。俺の名前じゃない。逃げ出した時に捨てた」

 

「では、そのマニゴルドというのは? 意味は分かっておるのか」

 

「分かってる。自分で決めたんだ。金持ちも貧乏人も善人も悪人も、死んだら皆同じと分かった記念に」

 

 マニゴルド。死刑執行人。悪党。

 

 人の死を、その霊魂が肉体という殻から抜け出る様を見つめてきた子供の、幼いながらの決心だったのだろう。セージも根掘り葉掘り聞き出すつもりはなかった。

 

「では、その名が良きものとして人々に記憶されることを祈ろう」

 

 少年は黙って薄暗い笑みを浮かべた。老人の言うような日は来ないと信じている様子だった。

 

 それでも得体の知れない相手に大人しくついてくるのだな、とセージは思った。流されやすい性分にも見えないが、諦めているのだとしたら不憫なことだ。

 

 仲間はいるのかと尋ねた。返ってきたのは否という短い答。物騒なこの地域ならば、盗賊団で使われているのではとも考えたが、それも否定された。

 

「俺は一人だ」

 

「そうか」

 

 哀れむつもりはなかった。強引に連れて行く前に、親しい者に別れを告げさせたいと思っての問いだったから、未練がなければそれで良かった。

 

 二人はそれきり黙って歩いた。

 

 やがてセージの投宿先に着いた。

 

 愛想良く出迎えた亭主は、客の服が切られていることには気づかず、あるいは気づかない振りをして、連れている浮浪児に嫌悪感を示した。

 

「旦那、そういうのは人目に付く場所へ連れてこないでくださいよ」

 

 蚤と臭いが移っちまう、とぼやく亭主を、セージは金を握らせて黙らせた。

 

 部屋に連れて行くと、少年は扉の近くで留まった。いくら椅子を勧めても掛けようとしない。遠慮することはないと言っても、首を横に振るばかりだ。

 

「腹が減っているなら、何か食べ物を頼んでやる。もう夜も更けたが、パンとチーズくらい用意してもらえるだろう」

 

 少年はまた首を振った。

 

「では好きなほうの寝台で眠ればいい。私は仕事があるから、まだ明かりは消してやれぬが」

 

 言うなり、セージは少年に背を向け、書き物机でペンを取った。去りたいなら好きにすればいいと、示してやったつもりだった。

 

 視察をしていて気づいたこと、改めて各地の部下に訓示すべきことを書き付けているうちに、時間は瞬く間に過ぎていった。

 

 ふと、そういえば奴はどうしているかと振り返ると、少年は二つ並んだ寝台のどちらでもなく、窓の下の床で眠っていた。野生の獣が眠りながらも辺りに耳を澄ましているのと同じ顔で、毛布にくるまっている。

 

 明かりの下で改めて見ると、意志の強そうな眉と口元の少年だった。死の気配を漂わせながら、逆にそれを飲み込むほど生命力は強い。希有な素質を持っていることがセージの目には見てとれた。

 

 彼はギリシャに帰ることにした。

 

 予定ではもう少し地方を回るつもりだったから、鬼の居ぬ間の洗濯時間が短縮されて、部下たちは落胆するだろう。

 

(されど見るべきほどのものは見つ)

 

 セージは少年の寝顔を眺めながら思う。

 

 この子供を見出すのが目的ではなかったはずなのだが、心は既に満足してしまっている。どうしたことかと考えあぐね、答を出すほどの問題でもないと見切りをつけて、寝台に横たわった。

 

 静かな部屋に幼い寝息が聞こえる。

 

 他人と同室に眠るのは、はて幾年ぶりかと思いながら、老人はゆっくりと目を閉じた。

 

          ◇

 

 翌朝、セージは少年を連れて宿を発った。

 

 前の晩と同じように、二人は言葉少なに歩いた。話しかけられれば少年はそれに応えるが、そうでない時には黙って老人の後をついてきた。連れが無口な性質だとは思えず、セージは思わず言った。

 

「おまえはなにも聞かぬな。知りたいことがあれば聞きなさい。答えられる問いならば答えよう」

 

 荷馬車が二人を追い抜いていった。ガラガラと音と土煙を残していく。そしてまた道に二人きり。

 

 少年はセージの顔を見上げた。媚びのない、怯えのない、靱い視線で。

 

「ジイさん、人買いか」

 

 セージは微かに笑みを浮かべた。人の悪い兄であれば、その通りとうそぶくところだが、彼は正直に答えた。

 

「人買いでも人攫いでもない。将来有望そうな者を見繕って集めているという意味では、似たようなものかも知れぬが」

 

「学校かよ」

 

「これから向かうのは、修道院と練兵所を兼ねた城砦とでも言うべき場所だ」

 

 俺を兵士にするつもりか、と少年が眼で問うた。セージはその背中に手を添え、横に並ばせて歩き出した。

 

「私は長年そこで暮らしておるのでな。おまえを連れて帰る所というと、他に思い浮かばなんだ」

 

「ジイさんそこで何してんの」

 

「信仰ではなく拳を以て戦女神に仕えておる」

 

 直接的な答を求める少年は、老人の言い回しに少し苛立ったようだった。宥めるために頭を撫でようとしたら、嫌がられて手をはね除けられてしまった。仕方なくセージは言葉を継ぐ。

 

「神はな、大勢おられるのだ」

 

 人間に啓示を与える唯一絶対の神などいない。代わりにいるのは欠点だらけ、欲望まみれの神たちだ。その戦いの記憶の一部が、ギリシャ神話としてこの世に伝わっている。

 

「ゼウスやヘルメスの名くらいは耳にしたことがあるだろう。冥王ハーデスに海皇ポセイドン……。私が仕えるのは女神アテナ。知恵と技芸と戦を司る女神だ」

 

「芸術の話は分かんねえよ」

 

「貴族好みの古典教養を語っているのではない。地上に降臨せずとも神々はいる。それは事実だ。そして我々は拳を以てアテネに仕える闘士。聖闘士《セイント》という」

 

「聖人《セイント》ねえ」

 

「単語は同じだがキリスト教のそれとは意味が違う。聖闘士はあくまで戦士だ。アテナは地上の覇権を狙う他の神々から、この世界を守っておられる。聖闘士はアテナの尖兵として、他の神の兵と戦う。私はその聖闘士をまとめるだけの役回りだ」

 

 子供の目が胡乱げにセージに向けられた。荒唐無稽な話と思われようが、セージの語ったことは事実である。

 

「ジイさん馬鹿なこと言ってるけど、まとめ役ってことは意外に要塞のお偉いさんだったりするんじゃねえの。俺を連れて行くにしてもさ、『ワシは偉くて金持ちだから、付いてくれば腹一杯飯や女を喰えるぞワハハ』って威張れば、浮浪児なら引っかかるとは思わねえの」

 

「嘘で釣っても仕方なかろう」

 

 第一私が権威を笠に着たところでおまえは付いてくる気になるのか、と問えば、首を捻って、ならねえな、と答えた。

 

「私もおまえも魂を視る。生きている間にどんなに富や権力をかき集めても、死ねば魂だけの存在となることを知っている」

 

 子供は頷いた。生前の地位や権力など所詮は生きている者にしか価値はなく、生そのものに価値を見出せない者には何の意味もない。

 

「ならば、おまえには私の地位や威厳を誇示しても無意味。示してやれるのは私の在りかただけだ。ところで、馬鹿なこととは何だ」

 

「だって神様と戦争なんて馬鹿なこと教会の奴でもなきゃ……あれ、悪魔とじゃないのか」

 

「さよう。我らはアテナを奉じて他の神と戦う」

 

 唯一神を信奉するのではなく、数多の神々の中の一柱に仕えるということ。マリア信仰が盛んな地域とはいえ、一神教と共に育った者には共感しにくいはずだ。

 

 普通、キリスト教やイスラム教の浸透した地域から聖闘士の候補者を迎える時には、アテナや聖闘士にまつわる概念を教えるのに、もう少し時間を掛ける。

 

 この時のセージも、話したことを一度に受け入れさせようとは思っていなかった。

 

 しかし少年は「へえ」とセージの言葉を受け入れた。無感動は無理解ともとれる。

 

「驚かぬな。神は唯一にして絶対の存在だと、教会で教わったことこそが正しいのだと怒らぬか」

 

 べつに、と素っ気ない返事が返ってきた。

 

「どうせ俺を気に掛けてくれる神様なんていねえからな。審判の時が来ても、俺なんか隅のほうで忘れられてるってさ」

 

 誰に言われた言葉なのかと、セージは眉をひそめた。神に忘れられた存在だと蔑まされれば、己を含めた命全てを塵芥とみなすことにもなろう。

 

「だから俺のことを知らない奴が、一人なのか大勢なのかなんて、どうでもいい」

 

「では、アテナがおまえを気に掛けられているとしたら、どうだ?」

 

 返事が返ってこなかったのでセージの独り言のようになってしまった。

 

「私は女神の降臨まで聖闘士を預かる代理人だ。おまえと出会ったのはアテナのお導きやも知れぬ」

 

「そりゃジイさんの都合だろ。俺には関係ないところで勝手に戦争でもなんでもやってろ」

 

 心底どうでもよさそうだった。全てに無関心というわけでもないだろうが、老人の話だけでは現実味がないのだろう。

 

 同時に、外国勢力に勝手に支配権を争われている土地の民らしい言葉だった。つまりそれは、神々に支配権を争われているとも知らない、大多数の人間の言葉でもあった。

 

 セージは「そうだな」と頷いた。

 

「では祈りを捧げるときに、おまえと出会えたことをアテナに感謝するとしよう。最後の審判など私は信じないが、アテナだけはおまえを見ていてくださるように」

 

 その言葉に少年がセージを見上げた。

 

 セージも少年を見つめ返した。

 

「言っただろう、神は大勢おられると。中には他の神が見捨てたものを愛される方もおられる」

 

「アテナは変わり者?」

 

「人のために人として生まれて他の神々と戦うことを選ばれたのは、アテナのみだ。その意味では」

 

 何かを言いたげに、けれど何も言わず、少年は前に目を向けた。幼い横顔には、怒りに似た強張りが浮かんでいた。

 

          ◇

 

 やがて港に着いた。

 

 行き先を問われ、ギリシャに帰ると告げた。

 

「故郷を離れるのは嫌か」

 

 老人の問いに、少年はゆっくりと首を横に振る。

 

「べつに。言葉さえ判ればどこだって同じだ」

 

 強がりではなさそうだ。死ねば皆同じと達観する者には、生きる場所など関係ないのだろう。諦めたような穏やかさだった。

 

 セージは「イタリア語の分かる者もいるが、言葉は追々教えてやろう」と応えて、手を差し伸べた。

 

「来なさい」

 

 手を取るか。

 

 背を向けて去るか。

 

 選ばせるかのようなセージの声に、少年は迷うことなく、セージの手を掴んだ。

 

 二人の乗り込んだ船は、イオニア海を渡ってパトラスの港を目指す。

 

 少年は船縁で遠ざかっていく陸地を眺めていた。その背中が小さく、いかにも心細そうだったので、背の高い老人は後ろから包み込むように肩を抱いてやった。

 

 訝しげに振り仰ぐ顔に笑いかけると、彼は少年の眺めていた方角へ目をやった。

 

「なにも永の別れというわけではあるまい。望郷の念に駆られたら帰れる距離だ。イタリアとギリシャは目と鼻の先だ」

 

「そんなんじゃねえ」

 

 鼻を鳴らす少年を潮風から守るように腕の中に抱き、セージは海を眺めた。地中海の風に煽られて、少年の癖毛がセージの視界の端で揺れている。子供の体温はなるほど大人より高いのだな、となんとはなしに思った。

 

「うっとうしいな。あっち行けよ」

 

 老人を肘で押しのけ、少年は再び海を眺めた。セージは客用甲板に戻ろうとした。

 

 不意に背後で奇妙な音を聞いた。

 

 振り返ると、少年が海に身を乗り出していた。小さな背を丸めて、胃の中の物を戻している。セージは少年のもとに戻り、その背中を撫でてやった。

 

「……止めろ。胸糞悪いんだ」

 

「我慢せず、吐けるなら吐いておけ」

 

 撫でるのを止めない手に、少年は不服そうに口をつぐんだ。と、またこみ上げてくる吐き気に、慌てて船縁から首を突き出す。

 

 老人は彼が落ちないようにしっかりと支え、空いた手で何度も背中を撫でてやった。子供の体は、服越しにも分かるほど肉が薄い。

 

 嘔吐するものがなくなっても、少年は海を覗き込んだまま、しばらく荒い息をしていた。

 

 セージは「下ばかり見るとまた気分が悪くなるぞ」と小さな体を抱きかかえて、その場に腰を下ろした。少年は抵抗する気も起きないらしく、大人しく老人の膝に頭を乗せている。

 

「なんか食い物に当たったかな」

 

「ただの船酔いだろう」

 

「船に、酔う?」

 

「波に揺られ続けることで頭の中が悪酔いしたようになるのだ。波に慣れれば治るから案ずるな」

 

 少年は小さく悪態をついて目を閉じた。汚れた口元を拭ってやりながら、セージは尋ねる。

 

「船に乗るのは初めてか」

 

「初めてだ。足の下が上下して面白いと思ったのにな……。ジイさんは気持ち悪くならないのかよ」

 

 彼は苦笑した。子供に船酔いを心配されるとは。

 

 少年の目が薄く開き、下から睨み付けてきた。

 

「済まぬ。おまえを笑ったわけではないのだ。私の身を案じてくれる者は久しくなくてな。嬉しかったのだ」

 

 微笑む老人をじっと見上げていた少年は、寂しいジジイだな、と呟いて目を閉じた。かも知れぬ、とセージも返して、少年の硬い髪を撫でた。

 

 風向きが変わり、にわかに甲板の上は騒がしくなった。帆を調整する水夫たちが慌ただしく走り回る。一人の水夫が座り込む老人に声を掛けた。

 

「どうした旦那。病人か」

 

「連れが船酔いでな」

 

 老人の腕の中を覗き込むと、男は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。仕立てのいい服を着た上品な老人と、垢まみれの浮浪児の取り合わせが信じられなかったのだろう。

 

「誰が誰を連れていようが勝手だけどよ、もし小僧が密航したのなら、海に叩き落とすぜ」

 

「私の連れだ。船賃も二人分払っている」

 

 水夫はまだ疑わしげだったが、仲間に呼ばれて立ち去った。

 

 セージは少年を抱き上げた。船縁にいては水夫たちの邪魔になるだろうし、子供も静かな場所のほうが落ち着くだろう。客用甲板に引き揚げたほうがいい。

 

 少年は抱かれるのを嫌がったが、老人の胴体に腕を突っ張るのが精一杯で、それもすぐに諦めた。老いてなお逞しい胸に頭を預けて「格好悪りい」と呟く。

 

「なんの。誰もおまえを笑いはせぬ」

 

 船室の隅に少年を横たわらせて、セージは一度その場を立ち去りかけた。

 

 ふと、呼ばれた気がして振り返れば、ぶかぶかの上着の下から、少年が彼を見つめている。物言いたげな視線に、「どうした」と促した。すると相手は顔を隠してしまった。水を貰ってきてやるから大人しく寝ているよう言いつけても、返事はなかった。

 

 戻ってきた時、少年は脱いだ上着を被って眠っていた。歩き詰めで疲れていたのかも知れない、とようやくセージも思い至った。休みたいと相手が一言も零さなかったから、つい道を急いでしまった。前の晩から見知らぬ他人と一緒にいて、少年はずっと気を張り続けていたはずなのに。

 

「信用を得るのは難しいものだな」

 

 セージは自嘲気味に呟いて座った。

 

 閉鎖社会でいくら崇拝されたところで、それを知らない者にとって、彼はただの老人に過ぎない。そんな数多の人間こそ、彼と、彼の仕える女神の守るべき尊い存在であること。そんな初心を改めて噛み締める。

 

 やはりこの少年と出会うための旅だったのだと、確信した。

 

          ◇

 

 船が港に着いた。

 

 体調の回復した少年は勢いよく桟橋を渡っていった。行き交う人足と水夫と船客とで、辺りはごった返す騒ぎだった。

 

 セージが急いで後を追うと、少年は人相の悪い男たちに取り囲まれ、何かを責め立てられていた。周囲の人間は余計な揉め事に巻き込まれまいと、目を逸らして通り過ぎていく。

 

 セージは男たちに声を掛けた。

 

「もし、その子供は私の連れだが、何か迷惑を掛けただろうか」

 

 男たちは振り返り、老人の旅装を値踏みするや目配せし合った。逃げようとした少年は襟首を掴まれ引き戻された。

 

「てめえが主人か。このガキがぶつかってきたくせに謝りもしねえで行こうとしたんだよ。お陰でこちとら服が汚れちまった。使用人のやらかしたことは主人が償えよ」

 

「謝ればよいか」

 

「謝り方は分かるよな、爺」

 

 頭らしき男に付いてこいと言われたので、セージは大人しく従った。一団は人目のない路地裏に入った。

 

 腕を掴まれたまま、少年は諦めたように呟く。

 

「馬鹿じゃねえの、こいつら。ジイさんが俺のために金出してくれるわけないじゃん」

 

「分かる言葉で喋れ」と、イタリア語を聞きつけた一人がいきなり激昂した。少年を容赦なく殴る。少年はよろけたが、抑えられているせいで倒れることもできなかった。

 

 眉をひそめたセージの肩に、頭目が馴れ馴れしく肘を置く。

 

「おいおい、お上品な爺は今のでびびっちまったか? まだ序の口だろ。早く有り金全部出してくれねえと、今度はあんた自身が痛い目に遭うぜ」

 

「あいにくだが、金で片付けてやる気が失せた」

 

 言うなり老人は動いた。

 

 横にいた男の腹に肘を打ちこむ。次いで少年を捕まえていた者に向かって飛んだ。ふわりと音もなく舞う老人が眼前に立つまで、相手は気づかなかった。膝蹴りを受けた首が本人の意思と無関係に上を向く。最初に肘鉄を食らった頭目が胃液を吐き出し、腹を押さえて蹲った。少年は自分を掴んだまま倒れる男に引っ張られて尻餅をついた。

 

「大事ないか」とセージが助け起こすと、「あ、うん」と子供は頷いた。

 

 言葉を交わす間に、少年を人質にしようとした男を肩を粉砕して宥め、困惑しつつ立ち向かってきた二人には控え目な裏拳で退場いただいた。みしりと鼻の軟骨が砕ける感触がすぐに拳から遠のいていく。

 

 芸のない平凡な叫び声を上げて、無事な一人が逃げだそうとした。セージは助走も無しに跳躍すると、その男の上を飛び越えて前に立ちはだかった。

 

「どこへ行く?」

 

 男は破れかぶれになって掴みかかってきた。その腕を受け流して背中を軽く押してやれば、相手は壁に激突した。

 

 六人とも骨折くらいはしているだろうが、殺してはいない。セージからすれば、花を愛でるように繊細に扱ってやったつもりだ。本来の力を発揮すれば、六人の男たちは自身も気づかぬうちに一瞬で肉塊となって飛び散っていただろう。

 

「済まなかったな、おぬしら。こやつが不注意でぶつかったことは謝ろう」

 

 呻きの六重奏を背中に聞きながら、老人は少年を連れて路地を出た。何度も後を振り返る少年に、安心しろと肩を叩く。

 

「それよりマニゴルド。どこかで休もう。腹は減っていないか」

 

「減った」

 

 少年の気は見事に逸れた。

 

 二人で港近くの酒場に入った。

 

 オリーブ油と魚介を使った料理は、少年にも馴染みある味のはずだった。適当に頼んだ皿は育ち盛りの子供に押しつけ、自分は大して美味くもないワインで舌を湿らせる。住まいに戻ったら、とりあえず茶を飲みたいなどと思いつつ、向かいの様子を眺めた。

 

「美味いか」

 

 尋ねても返事はなかった。

 

 少年は必死だった。皿に顔を押し当てるようにして物を口に詰め込んでいく。誰かに取られまいと、噛む暇もないほど急いで掻き込む。めいっぱい頬張っては、彼の食事を狙う者がないか、上目遣いで辺りを窺う。

 

 それは孤児院で、そして路上の片隅で、少年が身に付けたものだろう。

 

 連れを眺めながらセージは考えた。

 

 これから向かう場所には、同じ年頃の子供たちが、聖闘士を目指して集団生活を送っている。もちろん本人の願いとは無関係に、口減らしで親に売られてきた子も珍しくない。彼らはもう元の家には戻れないことを悟り、歯を食いしばりながら強くなっていく。

 

 その中にこの少年も加えるべきだろうか。本人が聖闘士になりたければ悩む必要はない。しかし違うなら、本人の望まない酷なだけの修行を強いることになりはしないか。生の輝きは聖闘士でなくても感じられるものなのに。

 

(連れて行くのは聖闘士にするためではない。そこを間違えてはこの者のためにはならない)

 

 老人は悩みを振り切るようにワインを飲み干した。

 

 酒場を出た二人は、港を抜け、街を抜け、山へと続く道をひたすら歩いた。

 

 強い日差しの下、険しい山道が続いても、少年は弱音を吐かなかった。けれど長身で健脚のセージに子供の足で付いて行くのは大変で、少年の目は前方ではなく、ひたすら足元を見ていた。

 

 ようやく老人が足を止め、少年が一息付いたとき、二人の全身は夕焼けに赤く染まっていた。

 

「日の入りだ」

 

 セージの指し示す先には、地平線の彼方に溶けようとする夕日があった。

 

 遮るもののない広い空と、茫々たる大地と、全てが暮れていく。山から望む曠野の世界に人の気配はない。まるで少年とそれを導く老人の二人きりしかいないような景色だった。

 

「もう少しで我らの本拠地、聖域《サンクチュアリ》に入る」

 

 少年は圧巻の景色に目を奪われていたが、老人の声が届いている証拠に表情が改まった。

 

「聖域は結界で守られている。普通の人間は立ち入ることも見ることもできない場所だ。だが私がおまえを連れて行くのは、そこへ閉じ込めるためではない。おまえに考えを改めてもらうためだ。出て行きたいと思ったら、自由に去って構わない」

 

 それが彼の出した結論だった。

 

「いいのかよ」と少年は卑しい笑みを浮かべた。「明日には金目の物と一緒にずらかってるかも知れねえぜ」

 

 聖闘士の集う地で盗みができたら大したものだ、とセージは内心苦笑する。

 

「それも仕方ない。己の道は己で決めよ。だが私はおまえに生を、宇宙を見せると言った。その約束を果たすまでは逃したくない」

 

「なら首輪でも付けとくか」

 

「肉体を引き留められても魂までは鎖に繋げない。権威はおまえに通用しない。だから私にはおまえを誘うのが精一杯だ」

 

 そう言って片手を差し伸べた。

 

「おいで、マニゴルド」

 

 夕日を映した子供の目が、老人の手を、そして顔を見上げた。

 

 差し出された手を少年が握ったのは、これまで僅かに二度。

 

 一度目は追い剥ぎ稼業から引き上げられた。

 

 二度目は見知らぬ土地へ連れてこられた。

 

 では三度目は。皺と節の目立つ手は、細くて汚れた手をどこへ導くだろう。

 

 少年がゆっくり伸ばした手を、セージは小さな幸福感と共にすぐに握りしめた。

 

 

 ――のちに彼ら二人は死と魂を従えさせる力をもって、死の神タナトスに挑むことになる。それは戦いの記録に残る栄光の一ページ。しかしこの時点でそれを知る者はいない。

 



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後の世の人々について
祭壇座の見解


 

 二人が聖域に入った頃には、夜が闇色の袖を空に広げつつあった。

 

 少年が不思議そうに老人を仰ぎ見た。「なあジイさん、ここはもうジイさんの縄張りなんだろう? なんで兜を被ったんだ」

 

 セージは少し前から頭部を蔽う兜を着けていた。安全なはずの本拠地でなにを警戒するのか、という少年の疑問はもっともだった。

 

「これは防具というより、これを被っている者が私であるという目印だ」

 

「子分に顔も覚えられてねえの? 却ってそんな顔の隠れるもの被ってるから悪いんじゃねえの」

 

 悪童にかかっては、権力者の威厳など形無しだ。彼は苦笑するしかなかった。

 

 時折すれ違う者たちが、セージの存在に驚き、丁寧に挨拶していく。ギリシャ語は知らずとも、イタリア語と近い響きの呼びかけが何を意味するかは子供にも分かった。教皇だって、と呟く少年に、便宜上そう呼ばれていることをセージは教えた。聖闘士の指導者は代々「教皇」と呼ばれている。

 

「ローマと兼任してるわけじゃないよな」

 

「もちろん違う。神の代理人という位置づけが、身内だけでなく外部にも分かりやすいように、同じ言葉を用いているだけだ」

 

「なるほどね」

 

「本当に理解したのか?」

 

「神様がたくさんいるなら、その代理人だって何人いても不思議はねえよ。ローマにいるのはキリストの代理人。ジイさんはアテナの代理人。分かったって」

 

 その柔軟さにセージは感心した。この少年が聡明なのか、それともこの年頃になれば誰でもそうなのか、普段子供に接することのない彼には分からない。

 

 それにしても少年は遠慮無く話すようになった。打ち解けてくれたからだとは、セージはまだ考えていない。お調子者を装って本心を隠しているだけだろう。そうやって韜晦(とうかい)するのを得意とする人間を、彼はよく知っている。

 

 少年の目が、ふと宿舎の一棟に向けられた。大勢の人の気配と煮炊きの匂い。集められた子供が集団生活を送ると聞いたばかりだ。

 

 苦々しい表情になった少年を、セージは別の道へ促した。

 

「候補生でもない者を、あちらで迎えるわけにはいかぬ。おまえの今夜の宿は別の場所だ」

 

 どこかと問われて、彼は住処の方角を指差した。それは前方やや上。少年の目には宵空を背景にした黒々とした山影しか見えないが、聖域を見下ろす高みに位置する宮殿。通称、教皇宮である。

 

 ――聖闘士は三つの階級に分かれる。最上位の黄金聖闘士は、聖域中枢部の守護を担う。その下に通常の実働部隊である白銀聖闘士と、白銀聖闘士の活動を補佐する青銅聖闘士が続く。正式な聖闘士はここまでで、力量の足りない者は無位の雑兵となる。聖闘士を目指す候補生の多くは聖闘士にはなれず、神官に転向できる僅かな者を除いては雑兵止まりで終わる。

 

 雑兵といっても、世間的に見れば肉体の強靱さは常人の域を超えている者ばかりである。黄金聖闘士ともなれば、その力と伎倆は人よりも神に近い。戦女神の尖兵として他の神の兵と戦うのだから、それくらいでなくては務まらない。ただし普通の人間に対して振るうべき力ではないため、歴史の表舞台に現れることもない。

 

 そんな歴史の裏の階級社会の頂点に立つ者が教皇であり、この時代はセージがその座にあった。

 

 長い階段を上って教皇宮に着いた時には、子供は疲れ切ってその場にしゃがみ込んでしまった。

 

 セージは出迎えた従者に少年を引き渡して、湯浴みさせるよう言いつけた。食事と部屋の用意も必要だ。世話係にはイタリア語を解する者を、と言い添えることも忘れない。

 

 少年は従者に促されるまま、素直に連れて行かれた。

 

 一人となったセージは勝手知ったる己の執務室に入った。

 

 部屋にはもう一人の彼が待っていた。

 

 といっても幻影ではない。セージと瓜二つの実兄、ハクレイである。

 

 白髪の老人だが、矍鑠たる肉体と若々しい知性の持ち主だ。それはセージにしても同じなのだが、この兄弟、見た目と裏腹に性格だけは大いに違う。

 

「戻ったか」

 

「留守居役、ありがとうございました」

 

 兜を取り、弟は静かに一礼する。それに対して兄は「おお、もう飽き飽きしたわ」と立ち上がるや、肩に引っかけていた教皇の法衣を、ぞんざいな仕草で脱ぎ捨てた。留守の間の弟の影武者を務めていたのだ。今回のセージの視察は非公式なもので、ハクレイも正式にはここを訪れていない。

 

「慣れんことはするものではないな。やはり教皇位はおまえに押しつけて正解だったわ。留守の間に溜まった仕事はそっくり残してあるから、精々励め」

 

「祭壇座の言葉とも思えませぬな」

 

 それを聞いて、教皇の補佐が務めの祭壇座《アルター》の聖闘士、ハクレイはにやりと笑った。「わしもよ」

 

 悪びれない兄に、弟は苦笑した。

 

 ハクレイからの申し送りが一段落してセージが安心したところへ、何気ない問いが投げられた。

 

「ところで、散歩中に面白いものを拾ってきたようじゃが、あれはわしにくれる土産か」

 

 連れてこられた少年をいつの間に見かけたのか、目敏い兄にセージもいちいち驚きはしない。

 

「あの子供でしたら兄上には差し上げませんよ。上物のワインを見繕って参りましたので、それでご勘弁を」

 

「ふむ。仕方ない」

 

 存外あっさり引き下がったな、という弟の内心の声が聞こえたわけでもないだろうが、兄が言った。

 

「まあ、弟のおもちゃを横取りするのは見苦しいか。ましてやわしと違うて、弟子にするほどおまえが気に入ったおもちゃは初めてだからな。初弟子か」

 

と、セージが弟子に取ることを疑っていない。

 

 セージにはそんなつもりはなかった。

 

 今まで大勢の人間が弟子入りを志願したり、あるいは取るように推挙してきた。血縁や家柄の無意味な聖闘士にとって、師弟関係は何より重要なものだ。

 

 だがどんなに勧められても、兄に説教されても、セージは頑として拒否してきた。彼は教皇の勤めで忙しいのだ。余計なものまで抱え込む気は今まで無かったし、これからも無いだろうと考えていた。特定の誰かに思い入れして、教皇としての公平な判断ができなくなることを恐れていた。兄も理解していたと思っていたのだが。

 

「どういった根拠でそうお考えに?」

 

 ハクレイは僅かにたじろいだ。それは弟が心底不思議そうに聞いたことに呆れたためだった。

 

「セージよ。おまえが小僧を連れてきたここは、どこだ」と床を指差す。「聖闘士でさえ許可無くば立ち入れぬ聖域の中枢、教皇宮ということをお忘れではございますまいな、猊下」

 

「止してください、兄上」

 

 嫌味に顔をしかめたセージは、分が悪いことを認めた。兄に言われるまで気づかなかった己の迂闊さ。相手の言わんとすることは察しがついた。しかしハクレイは止めなかった。

 

「ものになりそうな子供を聖域に連れてくる。これは構わん。聖闘士ならば誰にでも認められた行為だ。しかし候補生には候補生のいるべき区画がある。それを無視して教皇宮まで立ち入らせるなど、よほどのこと。下の宿舎に放り込まずに、ここまで上がらせた理由は何じゃ」

 

 慣例を破った理由など無い。無いが、それでは下の者に示しがつかない。

 

「私はあの者を聖闘士にするつもりはありません。ですから候補生用の宿舎には入れなかったのです」

 

「ほう。では聖域へ迎えたのは何故じゃ。神官か従者にでもするつもりか」

 

 聖域は、聖闘士の本拠地として、俗世から隔絶された集落である。近隣の村はさておき、一般には存在さえ知られないようにしている地へ、容易に部外者を迎え入れるべきではない。敵の間者という可能性もある。

 

 もし「可哀相な孤児」を憐れんだだけなら、聖域に入る前に地元の教会や慈善家に託せば済んだ。しかしセージはそこで少年の手を放さなかった。聖域中がその理由を知りたがるだろう。

 

「聖域の役に立てようと思って連れてきたのではないのです。とりあえず連れてきたと申しますか」

 

 うまく説明できないが、と彼はもどかしい思いで首を振った。

 

 そんな弟を見る兄の目が、ふっと優しくなった。

 

「まあ良いわ。わしより、下の連中にどう言うか考えておくのだな。これからも手元に置いておくのなら、弟子にするのが一番手っ取り早いし、弁解の手間も省けると思うがの」

 

 せいぜい上手くやれ、とハクレイはワインを手にして帰って行った。

 

 セージはしばらく物思いに沈んだ。

 

 用人が執務室の戸口に現れた。セージの連れてきた少年の部屋を用意するために、その扱いについて確認したいという。「お客様でしたら客間をご用意いたしますし、聖闘士の候補でしたらそれなりの部屋か、下の宿舎にお連れいたしませんと」

 

 セージは顎に手を当てて考えたが、長くは掛からなかった。

 

「では、私の寝間の隣へ。手頃な広さだ」

 

「従者の小間でございますか。猊下のご寝所とは続き間でございますよ」

 

「構わぬ」

 

 主人の決定に用人は一礼して下がった。

 

 やがて食事の用意が調った。

 

 テーブルの末席で少年が待っていた。いくつかの席を隔てた定位置に腰掛けてから、セージは彼の正面へ席を移るよう少年に指示した。端に座っているのは、少年が遠慮したからではなく、用人がそうさせたのだろうと察していた。

 

 面倒そうに移ってきた少年を、向かいから眺めた。

 

 清潔な服の襟元や袖口から、風呂上がりで上気した肌が覗いて見える。湿り気を帯びた髪は相変わらず野放図だが、汚れはすっかり落とされたようだ。

 

「さっぱりしたか」

 

「頭から爪先まで、芋みたいに洗われた」

 

 全身ヒリヒリする、と口を尖らせる少年に、セージは言った。

 

「では明日からはもっと優しくするよう言いつけておこう」

 

「いい。自分の体くらい自分で洗う。それより、明日からって」

 

「しばらくここで暮らせ。良いな」

 

「俺に良いも悪いもねえけど、ジイさんの家の人はいいのか」

 

 殊勝な言葉だが、運ばれてきたスープに少年の気は奪われつつある。

 

「私に家族はいない。少なくとも同居している者はいない」

 

「俺を風呂に連れてったおっさんは」

 

「あれは私に仕える従者だ」

 

 スープの匂いを嗅いでいた少年は、僅かに顔を上げた。上目遣いに老人を見、薄く笑う。子供らしからぬ表情だった。

 

「なんだ」

 

「……いや、べつに」

 

「寂しいジジイだと言いたければ言えば良かろう」

 

 少年は肩を竦めただけだった。

 

 質素な料理が並んだところで、彼は重々しく宣言した。「では食べようか。……その前に」と、勢いよく貪り始めようとした少年を、制止する。

 

「なんだよ、お祈りか」

 

「聖域流のな。それとおまえの食べかたを直さねばならん。私の真似をして、同じように食べてみなさい」

 

「あいにく育ちが悪いんだよ」

 

 放っといてくれ、と露骨に嫌そうな顔をした少年に、セージは説いた。

 

「食事の作法というのはな、基本的には料理を最大限に味わうための技よ。どうせ同じものを食べるなら、美味しいほうが良いだろう」

 

「肩の凝るお上品な食いかたで、美味いわけがねえ」

 

 食べ始めた様子を見てセージは「違う」と声を上げた。何のことか分からず怪訝そうな少年の横の席に座り、小さな手から匙を抜き取った。

 

「何するんだよ」

 

「匙はこう持つ」と彼の知る正しい持ちかたを見せる。「良いか。こうだ」

 

 返された匙を正しく持ち直した少年は、ふてくされた顔で食事を再開した。セージにじっと見つめられていることを意識しつつ決してそちらを見ない。それでもセージに言われた通りにしようとしているのを見れば、老人の頬は自然と緩むのだった。

 

 よく噛め、美味いか、一気に飲み込もうとするな。しきりに話しかけているうちに、いつの間にか料理は全て片付いていた。

 

 老人にとっては楽しい食事となったが、少年にとっては四苦八苦するばかりの大変な時間だったようだ。食後の茶を喫するセージに向かって口を尖らせる。

 

「いつもこんなゆっくり食うのかよ。年寄りに調子を合わせてたら、時間ばっかり掛かってしようがねえや」

 

「いや。普段は一人だからな。喋る相手もおらんですぐに終わる」

 

「飯の連れが欲しいならそう言えよ」

 

「卓上に足を乗せるな」

 

 少年は素直に食卓から足を下ろしたが、不満げに老人を睨み付けた。

 

「ジジイ。出て行きたくなったらいつでも出ていいって言ったこと、忘れんなよ」

 

「忘れはせぬ。が、甘やかす気はない。昼はともかく、朝と夕の食事は、こうしておまえと一緒に取るつもりだ。食事の作法を身に付けるまで続くと思え」

 

 澄まして言えば、悪童はむくれてそっぽを向いた。

 

          ◇

 

 祭司長と施政者を兼ねる教皇は忙しい。

 

 夜明け前の勤行に始まり、日没前後の夕の勤行、夜の星見といった祭祀の合間に、謁見や各所への指示、外界の権力者との付き合いといった散文的な日々の業務をこなす。

 

 朝から晩まで、セージの生活に公私の区別はなかった。

 

 旅から戻った翌日でも、それは変わらない。

 

 その日もまだ暗い時分に起き出した彼は、朝の勤めを終えて寝間に戻ってきた。身支度を手伝った従者が、隣も起こして参りましょうかと尋ねた。旅の後で少年も疲れているだろうから、もう少し寝かせてやろうとも思ったが、前夜に「甘やかす気はない」と宣言したのを思い出した。

 

 主人の意を受けて続き間へ入った従者が、小さく声を上げた。

 

 何事かとセージも隣室に入ると、寝台脇に立っていた従者が不作法を謝った。寝台の上はもぬけの殻だ。セージの顔が険しくなりかけ、従者は慌てて壁際を指差す。棚の陰の小さな塊。

 

 少年は毛布で作った床上の巣に身を丸めていた。声で目が覚めたのか、ノロノロと身を起こそうとする。

 

 セージは小さく溜息を吐いて、少年の傍らに膝を突いた。

 

「どこで寝ておる」

 

「……ああ、ジイさんか」

 

 よく眠れたか、と脇に手を差し入れて起こしてやる。寝起きの子供の温もりが、冷えた手に快い。

 

「この寝台は気に入らぬか」

 

 何が不服かと聞いても、少年はただ黙り込むばかりだった。

 

 従者の手を借りて少年に顔を洗わせ、朝食へ連れて行った。

 

 糧を横取りする競争相手がいないことに気づいたらしく、少年は比較的落ち着いて食べていた。パンを服に隠す瞬間を目撃したが、セージは見ぬ振りをした。

 

 食後は教皇宮で働く者たちに少年を紹介し、それから後のことは用人に任せて、公務用の謁見の間に向かおうとした。

 

 ふと振り返る。

 

 窓の外を眺めていた少年が、視線に気づいて彼を見つめ返した。何も求めない、醒めた目をしている。

 

 掛ける言葉が見つからなかったので、セージは曖昧に手を挙げて、立ち去った。

 

 たった一言「行ってくる」と言えば良かったのだと閃いたのは、昼近くなってからのことであった。 

 

 夕方、奥向きに戻って少年を見かけたときには、セージは忘れずに告げた。

 

「ただいま、マニゴルド」

 

 少年は朝と同じ目で老人を見上げた。ただそれだけだった。セージは気にせず、そのまま彼を連れて食堂に赴く。道すがら、今日は何をしたかと話を向けた。

 

「教皇宮の奥のほうを連れ回された。入っちゃ駄目だって所ばっかりだな。それから忙しいから一人で遊んでろって言われて、昼まで一人で見て回ってた」

 

「面白そうなものはあったか」

 

「べつに」

 

 すげない返事だったが、少年がぽつりと付け加えた。あるバルコニーから望む景色だけは気に入った、と。そこはちょっとした時に、星を観測するためにセージが使う場所だった。

 

 己が夜に天を見上げる場所で、子供は昼に大地を見下ろしていた。その対比がやけに新鮮に思えた。

 

「空が近くって、遠くまでよく見えて……。遠い山ほど青いんだ。地面は土色だし木や草は緑のはずなのに、なんで青く見えるんだろうな」

 

「青く見えるのは大気があるからだ」

 

 思いがけず返ってきた答に、少年が老人を見上げた。セージにはその反応が嬉しい。

 

「今度そこに行ったときに説明しよう。あの場所は、私も気に入っている」

 

「教えてくれんの」

 

「分かることであればな」

 

 少年は関心を失ったように再び前を向いた。喜ぶかと思ったセージは肩透かしを食らった気分だった。

 

 一朝一夕には変わらない食べかたを注意しながら、午後の出来事も聞き出した。聖域のことやギリシャ語を教えるよう言いつけてあったのだが、結果ははかばかしくなかったと先ほど女官長が謝りに来た。何があったのか、少年の口から聞きたかった。

 

「昼を食べた後は、何をしておった」

 

「デナっておばさんが来て『一緒にお勉強しましょうね』って」

 

「デスピナか。優しかっただろう」

 

 少年は答えない。豆の煮込みを睨み付けている。

 

「デスピナに、正確にはその上の者に、ここのことをおまえに教えてやってくれと頼んだのは私だ。それがうまくいかなかったとなれば、経緯と原因を知りたい。何があった」

 

「何も」

 

 言葉と裏腹に、仇敵を討つような力を込めて、少年はフォークを皿に突き立てる。そら豆の腹が裂けた。それきり黙々と食べている相手をセージは眺め、やがて話題を変えた。

 

「明日はこの聖域を回ろう」

 

 教皇ともあろう者が子供のご機嫌取りかと情けない気もしたが、効果はあった。少年はまだ少し低い声で「聖域って何」と尋ねた。

 

 デナに教わらなかったかと聞けば、悪童がふて腐れるのは分かっていた。セージはこの地の住人にとっての模範解答を答えようとした。

 

「女神アテナを祀る神殿を中心とした、聖闘士にとって神聖な――」向かいに座る少年を見て、気が変わった。すでに一度答えているではないか。ここは同胞と敵軍の、血と無念が染み込んだ土地。「城砦だ」

 

「どこの砦? オスマンか」

 

「我々は地上のどこの勢力にも属さないのだよ。スルタンにもローマ皇帝にも恭順したことはない。唯一アテナにのみ忠誠を誓う」

 

「じゃあ敵は誰」

 

「その時代時代で変わるが、最近だと冥王ハーデスだな」

 

「本当に神様かよ」

 

 呆れた叫び声を聞いて、老人は薄く微笑んだ。

 

「そう。神々は昔から地上の覇権を争っていると言っただろう。アテナはその神々から人々をお守りになるため、人の肉体を持って地上に降臨される。受肉のようなものと言えば分かるか?」

 

「なんだそれ」

 

 キリスト教において、神の子がナザレのイエスとして生まれたことだと簡単に説明すると、少年ははあ、と曖昧な相槌を打った。

 

「教会で聞いたことくらいはあるだろう」

 

「坊主の説教なんて糞喰らえだ」

 

 悪態を聞き流してセージは話を続ける。

 

「神々は人の肉体を依り代にして地上に降臨する。そして地上や海中に拠点を作って出兵の足掛かりとする。アテナの地上における拠点は、降臨の場でもある、ここ聖域だ」

 

「じゃあアテナもここにいるんだ」

 

「今はおられない」

 

「あっそ」

 

 少年は煮豆を口に放り込んだ。そして僅かな嘲りと共に「もしかして、この世の終末まで現れないんじゃないの」と呟いた。

 

 アテナが地上に降臨するのは「聖戦」と呼ばれる聖闘士の総力戦――具体的には神々との戦い――が迫っている兆しだ。セージにとって崇敬の対象である女神は、人の力だけでは抗いきれない嵐の時代が近いことを知らせる烽火でもあった。

 

 それが未だ現れないのは、仕える者にとっては不敬だが、考えようによっては平和が続く証ともいえる。

 

 だから彼は「あるいはな」とだけ応えた。その穏やかな頷きをどう解釈したのか、少年は急いで言った。

 

「べつにジイさんを馬鹿にしたわけじゃないぜ」

 

「分かっておる」

 

 神々の戦いなど一生知らないままのほうが幸せだ。実際には、それが歴史の陰で幾度となく繰り返されてきたのだとしても。

 



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聖なる砦

 

 翌朝、従者と一緒に少年の部屋を覗いたセージは溜息を吐かなかった。案の定、元浮浪児は床の隅で丸まっていた。

 

 人の気配に飛び起きた少年は、セージの姿を認めて、体の力を抜いた。前日の目覚めが悪かったのは、よほど疲れていたためだろう。この朝はすぐに覚醒した。

 

「おはよう、マニゴルド」

 

 床に座ったまま「よう、ジイさん」と返す相手の前に立ち、腕を組んで見下ろす。

 

「朝の挨拶くらいまともにせんか」

 

「おはよう。年寄りの朝は早いね」

 

 セージは悪童の襟首を引っ張り上げて立たせた。

 

 朝食後に二人は教皇宮を出た。

 

 明るい日差しの下、そこからは聖域と呼ばれる集落の全容が見渡せた。

 

 彼らの立つ場所は山の頂上と言ってよかった。いくつかの神殿と、それを繋ぐ長い階段が成す景色は、まるで瘤だらけの白い竜が山に横たわっているようにも見える。

 

「下の建物もジイさんの屋敷の一部か」

 

「いや。教皇宮は今出てきた後ろの建物だけだ。その先の神殿は女神のためのものだし、黄道十二宮の名を冠する下の神殿には、それぞれ守護者がある」

 

 確かにいっぱいある、と少年は山腹の神殿を数えた。振り返れば、出てきた教皇宮の背後に聳える巨大な石像が見えた。

 

 武装した女神の像。

 

「あれがアテナのご神像だ」

 

「マリア様かと思った。でかいな」

 

 あんまり美人じゃないなと呟く少年を、滅多なことは口にするなとたしなめてから言う。

 

「降臨されるアテナのお姿を写し取ったものであれば、より優美で気高い像になったであろうがな」

 

 ふうん、と首が折れそうなほど巨像を見上げた少年は、別の方角に目をやった。

 

「あっちの突き出した高台は? 上に建物があるけど見張り台か」

 

「ああ、星見の丘だ」

 

 後世スターヒルと呼ばれる高く切り立った峰を、セージは眺めやった。女神像をも見下ろせるほど高い、鐘楼のような高台は、十二宮のある山から断絶している。

 

「あそこは星の動きを見る場所だ」

 

 そこを見張り台と呼ぶなら、見守る対象はこの地上、世界そのものだ。星の運行は大地に影響を及ぼし、人の営みが星の瞬きに反映される。星を観測して未来を予測する、けれど占星術とは異なる「星見」という精緻な技術が、聖闘士には伝えられていた。スターヒルで星見を行うのも、教皇の務めの一つだ。

 

「じゃあ聖域の見張りはどこから?」

 

「肉眼での哨戒に意味はない」

 

 少年は聖域を見回した。その目には麓の丘陵に点在する建物も映っている。更にその周りに広がる平原が見えた。どこからが聖域なのかと彼は訝しんだ。

 

「城壁がないと思ったであろう」

 

「うん」

 

 砦と言うからにはあるはずだと少年は思っていた。しかし、修道院や古い町にさえ当然のように備わっているものが、ここにはない。

 

「聖域の一番外側には、普通の人間にはここの存在さえ認知できない結界が張られている。それが第一の防壁だ」

 

 結界を破った敵は、アテナの首を狙う。聖域に侵入する者の目的は突き詰めればそれしかない。アテナ側もそれを見越して迎え撃つ。

 

「女神のもとへ至る道は一つしかない。細く曲がりくねった一本道は敵を迎撃しやすいが、それだけでは心許ない。そこで途中にある十二の宮が、十二層の防壁となって敵を食い止める」

 

 少年を促し、セージは下に続く階段へ足を向けた。

 

「女神の神殿へは十二宮と教皇宮を順に抜けるしかない。逆に教皇宮から下りていくときも、十二宮を通っていくことになる。守護者や従者がいたらきちんと挨拶していくのだぞ」

 

「初めてここに来た夜は、誰にも挨拶しなかったぜ」

 

「公には私はどこへも行かず、ずっと教皇宮にいたからな」

 

 見上げる少年に、これは内緒だとセージは人差し指を閉じた唇の前に当ててみせた。悪童も訳知り顔で同じ仕草を返した。

 

          ◇

 

 教皇宮から一番近いのは、十二宮最後の防衛線である双魚宮だ。そこの守護者、魚座《ピスケス》の黄金聖闘士が入り口で待っていた。その男は落ち着いた仕草で一礼した。物々しい黄金の鎧を身にまとってはいるが、身のこなしも容貌も穏やかで、威圧感はない。

 

「お待ちしておりました、猊下。教皇御自らのお運びを賜り、誠に畏れ多く存じます」

 

「魚座のルゴニスよ。なにも聖衣で表まで迎えてくれなくてもよかったのだぞ」

 

「お呼びくだされば教皇の間へ参りましたものを、こちらへご用がおありとの直々のお達しでしたので、これは重要なお話に違いないと。……もしかしたら君に関することかな」

 

と、ルゴニスは教皇の傍らの少年を覗き込み、イタリア語で話しかけた。

 

 セージと少年は宮内に通された。そこでセージは少年を教皇宮に住まわせるつもりであること、それに伴って双魚宮の通過を許可してやってほしいことをルゴニスに話した。

 

 なるほど、と男は頷いた。

 

「猊下のお望みのままに。私は普段は宮ではなく下の薔薇園にいるが、留守でもいつでも通って構わないよ」

 

 後半は少年に向けた言葉である。

 

 良い機会なので弟子を紹介したいとルゴニスは席を外した。この宮には使用人が極端に少ない。自分で呼びに行くのだろう。

 

 部屋には訪問者たちが残された。ティーカップから立ち上る紅茶の湯気は、セージのよく飲む東方の茶とは異なる香りがした。

 

「さて、マニゴルドよ」

 

「なんだよ」返事が異様に早かった。

 

「おまえ、昨日デスピナの講義から逃げ出して、そぞろ歩いておったな」

 

「知らねえ」

 

 少年は即座に否定したが、セージには分かった。

 

 講義から逃げ出し、女官に見つからないように教皇宮を出たのだろう。そうやって石段を下りてきた見慣れぬ少年にルゴニスが気づき、「年端のいかない者でも、教皇の許しがなければ通行を許すわけにはいかない」と職務を全うした。あるいは「教皇には黙っておいてやるから、今の内に戻れ」と諭した。結果的に強行突破を諦めた悪童は教皇宮に戻り、講義から逃げたことと合わせて、セージには何も話さなかった。そういうことだろう。二人が初対面でないことは、ルゴニスがイタリア語で話しかけたことで明らかだった。

 

「ルゴニスは優しい男でな。おまえと同じ年頃の弟子もいるから、色々と世話になることもあるだろう。ただ、奴が世話をしている花園には猛毒の種も植わっているから近づいてはならぬ。それだけは守れ。おまえに万一のことがあれば、迷惑を被るのはルゴニスなのだ」

 

 分かったと応えて、少年はカップを無造作に掴んだ。そのまま紅茶を飲もうとするので、セージは正しい持ち方と教えた。難しいと文句を付ける相手に、では左手で支えろとソーサーを持たせた。

 

「決まり事が多すぎる」と少年は癇癪を起こしてカップとソーサーを置いた。

 

「世界は決まり事で成り立っている。おまえがそれを知ろうが知るまいが、世の中はそれに沿って動いている。従うのが嫌なら自分を変えるか、決まりを変えるか、それとも死ぬかだ」

 

「大袈裟な」

 

「お茶の飲みかただけの話ではない。この聖域は特に決まり事の多い階級社会だ」

 

「面倒臭せえ。もうずらかろうかな」

 

「それは残念だ。せっかくアルバフィカに友人ができると思ったのに」

 

と戻ってきたルゴニスが言った。少年は男の陰にいた同年代の子供を見るなり、「さっきのは嘘」と前言を翻した。

 

 ルゴニスの弟子だという子供は美しかった。細部の全てが整い、全体の全てが調和した、作り物のような美しさだった。絹糸の艶やかさを持つ髪、陶器のような滑らかで白い肌。けれど作り物でない証拠に、不機嫌に近いつまらなそうな表情を浮かべている。手にした薔薇の花をクルクルと弄んでいた。

 

 魚座の黄金聖闘士が捨て子を養い育てている話は聞いていたが、これほど美しい子供に育っているとは、セージも思わなかった。

 

「ほら、アルバフィカ。教皇にご挨拶を」

 

「お目にかかれて光栄に存じます。魚座の黄金聖闘士ルゴニスが弟子、アルバフィカと申します。猊下におかれましては、ご機嫌麗しく」

 

 促されて形だけ挨拶した子供は、少年を一瞥し、それから養い親を仰いだ。

 

「先生、もう行っていいですか」

 

「待ちなさい。せっかく年の近い子が来てくれたのだぞ。これから教皇のお側で暮らすのだそうだ」

 

「マニゴルドだ。よろしくな」

 

 悪童なりに素直に自己紹介したのに、相手は気に入らないとばかりにそっぽを向いた。アルバフィカにすれば、知らない外国語で話す子供など面倒だし、関わりたくないのだろう。

 

 少年もその態度にむっとした。

 

「そうかよ。女となんか仲良くしなくったって、俺だってべつに困んねえ。一人でお花摘みでもお人形遊びでもしてろ」

 

 それを聞くなり、アルバフィカはものすごい勢いで発言者に飛びかかった。イタリア語は分からなくても侮られたことは分かったようだ。

 

 向こう脛を蹴られ、少年はぎゃっと悲鳴を上げて飛び退いた。

 

「痛ってえ。なにすんだ、このガキ」

 

「誰が女だ。馬鹿。マニゴルドなんて変な名前のくせに。馬鹿、ばーか」

 

 真っ赤になって拳を繰り出す弟子に「こら、アルバフィカ」とルゴニスが肩に手を掛けて手元に引き寄せた。

 

 先方と同じく、ギリシャ語は分からなくても悪口を言われていることは分かる。売り言葉に買い言葉、悪童もやり返した。

 

「てめえこそアルバフィカなんて変な名前だろうが。泣かすぞ」

 

 その後は猥雑な卑語だらけで相手を罵るのを「止めんか」とセージが襟首を掴む。

 

 喚きあう二匹の子犬を引き離した大人たちは、溜息混じりに顔を見合わせた。

 

「済まぬ、魚座よ。見ての通り育ちの悪い小僧でな。躾はこれからしていくが、なにか粗相をしでかしたら、遠慮無く叱ってやってくれ」

 

「承りました。くれぐれも薔薇にだけはお近づけにならないよう」

 

「アルバフィカも済まなかったな。こやつにはよく言って聞かせるから」

 

「引っ張るなよクソジジイ。先に手を出したのはあっちだぞ」

 

 俺は悪くないという訴えを無視して、セージは少年を双魚宮から連れ出した。道すがら知らされた、アルバフィカが少女ではなく同性だという事実に、少年は衝撃を受けた。しばらくは黙ったまま手を引かれていた。

 

 宝瓶宮から白羊宮まで無人の十一宮を通り過ぎ、二人は聖域の中でも活気のある地区に入った。

 

 セージの姿を認めるなり人々は集い始め、こぞって挨拶した。彼らにとってセージは滅多に教皇宮から下りてこない雲上の人だ。

 

「教皇様!」

 

「猊下、ご視察ですか?」

 

 和やかな輪が、セージを中心に出来ていく。控えめに言っても彼は聖域中から敬愛されていた。先の聖戦で壊滅した聖域を立て直した中興の祖。数多の聖闘士やそれを目指す者にとっての慈父だった。

 

 不意に少年がセージの傍を離れた。誰一人注意を払う者のない子供は人の輪の外へ逃れ、注目を集めざるを得ない老人は人だかりに足止めを食らった。

 

 ようやくセージが少年を探しに行けたのは、その場が落ち着いてからだった。

 

 少年は闘技場を覗いていた。

 

 そこでは聖闘士や候補生たちが組み手をしていた。風に乗る綿毛のような身軽さで対手と戦う若者たち。拳一つで巨大な岩を砕き、蹴り上げる脚が空に唸りを上げる。年頃は様々で、まだ年端もいかない者から、屈強な青年までいる。しかもそれが体格差を気にせずに組み合っているのだ。なんとも奇妙な風景だった。

 

「こら、勝手に行くでない」

 

 背後から頭に乗せられた手の持ち主を、少年は振り返った。セージが期待したような熱は、まだその目に生まれていなかった。

 

「あいつら何で喧嘩してんの」

 

「喧嘩ではない。己の肉体を極限まで鍛え、小宇宙《コスモ》を使いこなすための修行よ」

 

「コスモ?」

 

 宇宙《コスモス》の調和《ハルモニア》の力は、小宇宙《ミクロコスモス》たる人間にも影響を及ぼすと、ある古代哲学者は考えた。ピュタゴラスである。

 

「小宇宙とは人の器の中で燃える宇宙の力だ。その力を高めれば、人は、人の限りをも超えることが出来る」

 

 首を傾げる相手に向かってセージは指を突き出し、薄い胸に押し当てた。呼吸に合わせて微かに上下するのは、少年が生きている証。

 

「おまえの中にも燃えている」

 

 胸に当てられた指先を見下ろして、少年は一歩退いた。つまらなそうに笑い、

 

「人を超えてどうなる? 神でも気取るかい」

 

と闘技場の若者たちを眺めやった。常人ではあり得ない激しさと破壊力を目の当たりにしても、感じ入った様子はない。

 

「おまえは私の言葉が冗談だと思っているな」

 

「だっていくら鍛えたって、どんなに強くなったって、あいつらは人でしかない」

 

 なぜと問いつつ、セージはその理由を察していた。そして少年は予想通りの言葉を口にした。「だって結局は死ぬだろう」と。人の死を直視し続けてきた者にとっては自明の理だった。

 

「もしかしたら、その小宇宙とやらを使えるようになれば不死になるって信じて、それで鍛えてるのかもしれないけどさ。でもあいつらもいつか死ぬ。どんなに足が速くても、死からは逃れられない」

 

 馬鹿だな、と幼いはずの者は溜息に似た笑いを漏らした。セージはその思い違いに首を振った。

 

「あの者たちも、不死になるつもりなどない。己がいつか死ぬことなど百も承知だ」

 

 それから集会所や神殿、闘技場など、主な施設を巡り、最後にセージは少年を聖域の外れへ連れて行った。

 

 そこは丘陵地だった。

 

 柔らかな風に丈の低い草がそよいでいる。青空に続く草の海には、石の小島が無数に点在している。穏やかな景色だった。

 

 二人は近くの丘に登った。丘の上で少年は辺りを見渡した。彼らの立つ場所の向こうには別の緑丘が連なり、同じように斜面が石で埋め尽くされている。そしてその向こうにも。

 

 どこまで続くのかと少年は尋ねた。

 

 いつまでも続くと老人は答えた。

 

 セージは腰を屈めて、手近にあった石の表面を撫でた。素っ気なく刻まれた文字は、歳月に晒されてほとんど読めない。石は墓標だった。「ここにあるのは歴代の聖闘士の墓だ」と彼は言った。

 

 雑兵や候補生の共同墓地は別にあるが、正式な聖闘士の墓標は全てこの丘に置かれている。生前の階級や功績に関係なく、墓標はどれも同じ大きさで、置かれた場所や向きは無秩序そのものだ。

 

 無数の墓標に囲まれながら、少年は平然としている。頭の後ろで手を組み、呆れたように言った。

 

「もう少し区画整理しろよ。これじゃ新しい穴を掘る度に古い骨が出てくるぜ」

 

「良いのだ。骨など埋まっていないのだから」

 

 骸のない墓。それは戦いに生きる聖闘士の最期がどのようなものであるかを物語っていた。草の海は虚ろな墓を抱いて、静かにまどろんでいる。

 

「そして墓標を立てるのは残された者たちだ。彼らは、我らは、先人たちの遺志を託されている。後に続く者たちに未来を託すことを迷わない。ここの墓標は、その想いを形にした物だ。メメント・モリ……人は必ず死ぬということを、聖闘士は常に覚悟している」

 

「どうだか」

 

 少年は老人の横にしゃがみ込んだ。

 

「どうせ死ぬ寸前にはそんな覚悟も吹っ飛ぶぜ。痛いのは嫌だ、死にたくないってあがくんだ」

 

「それはそれで仕方ない」

 

 振り向いた少年の頭に老人は手を乗せた。

 

「聖闘士が死を恐れないとは言わん。脆い肉体、たやすく堕落する魂。所詮は人に過ぎないというおまえの言葉は正しい。だからこそ死ぬ前に本懐を遂げようと、生きている間にもがくのだ。死を思うとは、すなわち、生を思うこと」

 

 アテナが人を慈しみ、守ろうとするのは、もがき苦しみながらも生きる力こそ、神にはない強さだと信じているからだ。生きる力、戦う力を追い求める聖闘士は、アテナの理想を体現する存在とも言える。

 

「小宇宙を高めれば人の限界を超えられると言ったのはな、マニゴルド。神に成り代われるという意味ではない。神にも立ち向かえるという意味だ」

 

 よく分からないと呟いた少年の頭を軽く撫で、セージは立ち上がった。足元で草が揺れた。

 

「さあ、戻ろう」

 

 帰り道、二人は再び十二宮を上っていった。主もなく衛兵すら置かれない建物は、古代遺跡そのものだ。女神の許に至る本道に、聖域の住人たちはおいそれとは近づかない。

 

「ここを守るのは、さっき会ったおっさんだけ?」

 

「ルゴニスは双魚宮の守護者だ。他に守護者がいるのは、獅子宮くらいだな。今は聖域の外に出ているが」

 

 守護者空位が多いのは平和な証なので、セージの声は明るい。

 

「こんな広々した場所じゃ守りにくいよ。もっと狭く作らなきゃ、すぐに大軍が雪崩れ込む」

 

 尤もらしく心配するので老人は笑った。

 

「我ら聖闘士の戦いは、おまえの想像する戦争のそれとはだいぶ異なる。銃弾も大砲も無意味だし、銃剣を持っての一斉突撃など神の矜持が許さんだろう。通用もせんが」

 

「じゃあどうやって戦うんだよ」

 

 セージは微笑んだまま「己の拳でだ」と答えた。

 

「殴り合い?」

 

「極論すればそうなる」

 

 真面目な顔で頷くセージに、少年は憐れむような目を向けた。

 

「そう呆れるな。拳と言えど岩を砕き、大地を割る威力を持つ聖闘士のそれに比べたら、火器など蚊に刺された程度にもならん」

 

 大袈裟な、と少年は肩を竦めた。聖闘士の力を知らない者の反応としてありふれたものなので、老人も気にしない。誇張でないことはそのうちに分かるだろう。

 

「この聖域を城砦たらしめるのは、石や鉄の城壁ではない。聖闘士だ。我ら自身が城壁となってアテナをお守りし、火箭となって敵を撃つ」

 

 そのためには平時であっても常に一定の数の聖闘士を育て、技能や知識を継承していく必要がある。神の加護を受けた敵と戦える人材は、戦が始まったからといってすぐに揃えられるものではないのだ。

 

「戦の勝敗自体は短期で決することもある。しかし次の戦いに備えて、我々はいつの時代であっても『聖闘士』を先人から受け継ぎ、次代に引き継いでいく」

 

「ご苦労なこった!」

 

 老人との話に飽きた悪童は、一言笑い飛ばして彼を置いていった。むき出しの細い脚が階段を駆け上っていくのを、セージは下から見上げた。

 

 長い長い階段の途中。今はまだ己の足は動き、階段を登り続けている。遠くない未来、その足が止まる時が来る。その時もきっと、あの子供は元気に上を目指していくだろう。未熟だった頃の己が先達に導かれ、やがて背中を押されて送り出されたように。

 

 彼は連綿と続く世代交代に思いを馳せ、いつもそうする時と同じように、目眩に似たものを覚えた。

 



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大いなるあこがれについて
面白くない出来事


 

 聖域を巡った翌日、少年は腫れ上がった顔で夕食の席に現れた。動きも緩慢で、服の下にも怪我をしているようだ。階段で転んだと言う。

 

「おまえがそう言うなら追求はせぬ。手当は受けたか」

 

 軟膏や貼り薬をされているのは見れば分かるが、念のためセージも怪我の具合を確かめた。

 

 少年は平静を装っていたが、触られる場所によっては顔をしかめた。腫れた箇所も熱が引けば痛々しい痣になるだろう。殴った者が手加減したか、あるいは大した力がなかったか。傷はどれも単純な打撲程度で、骨が折れたり内蔵が傷ついたりしている箇所は無かった。

 

 二人は食事を始めた。

 

「もし後で赤い小便が出たら私か使用人に言え」

 

「腹は守ったさ。こういうのは慣れてる」

 

 血尿が出たことがあるのか、少年は冷静だ。そしてどこか満足げだった。理由を問われてこう答えた。

 

「どこも変わらねえと思ってさ。臭くて汚ねえ町の裏通りでも、女神のお膝元でも、歓迎のされかたってのは同じだった」

 

 そうと分かれば楽勝だ、と口元を歪める。

 

 教皇は説教をしようとは思わなかった。元浮浪児の感想は間違っていない。ただ見通しが甘いだけで。

 

 聖域は閉鎖的な階級社会である。新入り虐めは通過儀礼、指導と称しての理不尽な暴力は日常茶飯事だ。まして共通語であるギリシャ語が不便なうちは標的になりやすい。時の教皇によっては、虐めを精神修練の一環として奨励したことさえあった。セージが教皇になってからはだいぶ減ったが、あまりに苛烈な暴行に耐えかねて身や心を壊す若者もいる。

 

 聖域外の土地で修行をし、十分な実力をつけたと指導者が認めて初めて聖域にやってくる者が多いのは、このせいもあるだろう。セージとその兄が聖域入りした時も、すでに理不尽な暴力を跳ね返すだけの力と度胸を身に付けていた。

 

 しかし彼の前に座っている子供は違う。聖闘士を目指す者が相手では、己の身を守る術も立ち向かう力もないに等しい。うまく立ち回る知恵くらいはあるかもしれないが。

 

 どうしようかとセージが考えていると、

 

「なあ、俺のナイフ返してくれよ。悪いことには使わないから」

 

と、さりげなさを装って少年が言った。

 

 彼の持ち物は、聖域を出る時のために、追い剥ぎに使っていたナイフも含めて全て残してある。それを返せと言うのだ。階段で転んだだけなのに武器を欲しがるのか、と揚げ足を取ることもできた。だがセージは真面目に答えた。

 

「駄目だ。却っておまえの身を傷つける結果にしかならん。ここでは刃物が護身の役に立たんことが分かるだろう。まずは基本的な身体の動かしかたを覚えるといい」

 

 ひよこ豆が食卓に転がった。「はあ?」

 

「下の訓練場で、おまえと同じような新入りの子供たちがやっている基礎訓練がある。それに参加する気はないか。友もできよう」

 

 面倒くさい、と少年は顔をしかめた。聖闘士になる予定もないのに参加したくなかった。

 

「だからこその基礎訓練だ。町に帰るとしても、今のままでは元の追い剥ぎに戻るだけだろう。そしていつか捕まるか、返り討ちに遭うかして、野垂れ死ぬ。それも一つの道だが、体を鍛えて力の使いかたを覚えたら、もっと他の生きる道が見つかるかも知れないと思わないか? 選べる道を増やしてみないか?」

 

 少年は答えず拾った豆を口に放り込んだ。指に付いたオリーブオイルをぺろりと舐め、何も聞かなかったかのように豆と玉ねぎのサラダを頬張り始める。

 

「気乗りせんか。もしかしたら今日おまえを殴った者がいるかもしれないからな。怖くて当然だ」

 

「違げえよ。階段で転んだって言っただろ。怖かねえよ。嫌なんだよ」

 

「ほう。何が嫌なのだ?」

 

「だって、訓練っていうのはきっと、先生のやることを馬鹿みたいに大勢で繰り返したりするんだろう。そんなの俺のガラじゃない。今更大人しく教わるなんて、馬鹿らしくてできねえよ」

 

「教わるのができないと」

 

「ああ、そうだ。俺は誰にも何も教わらずに生きてきた。必要なことは自分で、見て、考えてきたんだ」

 

「だから今日も講義から逃げたのか?」

 

 先ほど女官が女官長と連れ立って来たぞ、と告げると、少年の顔色が変わった。パンを掴んで慌てて逃げだそうとするのを、先回りして席に留める。

 

 セージは隣に座って、女官とのやりとりを話して聞かせた。

 

 デスピナという名のその女官は、前回の失敗を彼女なりに分析し、今日こそはと気合いを入れていた。しかし、講義の場に少年は現れずじまいだった。一日を棒に振った女官は、せっかく教皇から仰せつかったお役目を全うできずに申し訳ない、とセージの前で項垂れていた。女神降臨の際に教育係となるための練習のはずが、最初からつまずきっぱなしだった。

 

「彼女はおまえが戻ってくるのを期待して、誰もいない部屋でずっと待っていたそうだ」

 

「色男は辛いね」

 

「戯れ言を」

 

 セージはゆっくりと椅子の背に身を預けた。ふて腐れた顔に穏やかに話しかける。

 

「私はおまえが早くここに馴染めればと思って、言葉を教える者をつけた。不要ならそれでいい。だがなぜ講義を受けなかったのを隠した。叱られるのが怖かったのか」

 

 相手は開き直って鼻で笑った。

 

「そんなのが怖くて追い剥ぎやってられるか。あんたの機嫌取るにはそれがいいと思ったんだよ。哀れなガキにもお情けを掛けてくれる、ありがたい教皇様」

 

 権力者たるセージに阿る者は少なくない。けれど子供にまでご機嫌取りをされたとなると、腹立たしさより先に情けなさがくる。詰責を恐れたと言われたほうがまだ良かった。

 

「おまえは初日から勉強を嫌がっていたようだが、何が気に入らない。デスピナとの相性の問題ならば、講師を変えよう」

 

「どうせ無駄だよ。俺は逃げる」

 

「何がそんなに嫌なのだ」

 

 少年はニンニクを効かせたナスのペーストをパンに塗りたくった。聖域に来てからの彼のお気に入りだ。好物を放ってまで逃げ出す時ではないと悟ったらしい。

 

「俺を机に縛り付けようとした」

 

「机に」

 

 誰が、と問おうとして愚問だと気づいた。女官がしたことに決まっている。

 

 貴族の子弟への教育も、教師が鞭を振るいながら行う時代である。ヨーロッパの悪習を知っているセージも驚きはしなかった。ただ、眉間の辺りに力が入るのを感じる。

 

 それから根気よく聞き出した話をまとめると、初めは穏やかに始まった一対一の講義は、すぐに飽きた少年と、なんとか座らせて講義を続けたい女官との格闘になった。業を煮やし、言うことを聞かない生徒を机と椅子に縛り付けようと、女官が応援を呼んだ。その隙に少年は逃げだした――ということらしい。

 

「デスピナの話がつまらなかったか」

 

「話っていうか。飯でもないのにずっと座ってるなんてできない。尻がそわそわする。グラグラする。それを縛られてまで我慢するなんて、絶対に嫌だ」

 

 どうやら問題は講義の内容や理解力ではなく、生徒が机の前に座っていられないことにあるようだ。

 

 無理もない、とセージは思う。浮浪児には座学を受ける機会も習慣もなかっただろう。講義を受けずに行方をくらませたのは、子供なりに身を守るためだった。

 

「よく話してくれたな。ギリシャ語については少し考えよう。ひとまず明日の講義は無しだ。デスピナを悪者にせず、よく正直に話してくれた」

 

 偉いな、と褒めてやると、少年は片眉を引き上げて冷笑した。

 

「どうせ俺が悪いってことになるんだろ」

 

「そう思っても尚おまえは話してくれた。私に機会をくれた」

 

 それが嬉しいのだと伝え、頭を撫でた。意味が分からない、と少年は少し首を傾げた。その仕草だけは幼かった。

 

 食後、二人でセージの私室に戻った。部屋には茶器を乗せた盆が用意されていた。茶葉は清からの輸入品だが、金の縁取りのあるガラスの茶器はトルコのものだ。それを少年に部屋の中央へ運ばせた。

 

「ついでに淹れてくれぬか」

 

「やりかた知らねえよ」

 

「私の言う通りに」

 

 いつもはセージが自分で淹れるが、この日は子供に注がせてみた。慎重な手つきと真剣な顔を、老人は見つめた。

 

 頭の回転は悪くない。その気になれば口も回る。劣悪な環境で育ったにもかかわらず、体も健康だ。体格は小柄だが動きは俊敏で、掏摸も得意だと本人も威張っていた。本人の名乗るとおり、まったく下町の小悪党だ。

 

 しかしそれで終わらせるのは惜しい。

 

「ああ、美味しい。ありがとう」

 

 老人が言うと、少年の頬が少し緩んだが、

 

「おまえは今、茶の淹れかたを教わった。どうだ、物を教わるというのは、悪いことばかりでもないだろう。他のことも教われないはずがない」

 

という言葉に、嵌められた、と髪の毛をかきむしった。その仕草に思わずセージは微笑んだ。

 

「おまえも飲んでみなさい」

 

 勧められるまま、初めての茶を口に含んだものの、少年はその渋みに顔をしかめた。次はもっと飲みやすい茶葉を試してみようとセージは思った。

 

「ところで昼間はどこに行った?」

 

「色々」

 

 同年代の子供と遊んでいるという答は予想していなかった。幼くても聖域にいる者は全て、教皇を頂点とする階級社会の一員だ(女神はこの際関係ない。人の身では到達できない頂だ)。聖闘士を目指す者は厳しい訓練に明け暮れ、遊んでいる余裕はない。才能があってすでに聖闘士と認められている者は、聖域にありながら只の子供に過ぎない者を相手にしない。大人になればまた話は違うが、選抜意識を刷り込まれた子供は残酷だ。

 

「聖闘士の修行に混ざるのは、今のおまえには難しかろう」

 

「そんなことしてねえよ」

 

 聖域内をくまなく探検し、どこへ行っても鍛錬に励む連中(言葉にはしなかったが、手荒い歓迎をしてくれた連中を含む)ばかりであることに辟易した少年は、墓場にいたという。前日セージに連れられて行った静かな丘で時を潰し、夕方に十二宮を抜けて帰ってきたそうだ。

 

「墓場は人がいないからな。ゆっくり話を聞けた」

 

「誰がおった」

 

「死んだ奴ら」

 

 亡者の魂を呼び、その声を聞いていたと、異能の少年は事も無げに言った。本人にとっては生者よりも心安い遊び相手なのだろう。

 

「生前の性格は関係なくあいつら素直だからな。ここの事情を恨み辛みを交えて色々話してくれるよ」

 

 セージは溜息を吐いた。生の輝きを見せるために少年を聖域まで連れてきたのだ。少しは生者とも交流してほしい。

 

「死者の恨み辛みを聞く時間があるなら、訓練へ行ってこい。言葉もそこで覚えられるだろう」

 

「うへえ」

 

 世界各地から聖域に集った候補生は、知識階級出身でない者も多い。そんな彼らにギリシャ語と聖闘士としての基礎知識を教える教室がある。飽きっぽい子供にはそこへ通わせてもいいだろう。

 

「だが放っておくとおまえは怠けそうだな。誰か適当な者をおまえの目付役、仮の師匠としよう。訓練への行きと帰りに、その者に挨拶をしてこい」

 

「仮ならジイさんが師匠でいいのに」

 

「止めたほうがいい。師は教皇と公言したが最後、訓練から抜け出せなくなると思え」

 

 師という存在は、聖闘士にとって特別なものだ。

 

 聖闘士の育成は、現役もしくは引退した聖闘士が内弟子を取る形で行われる。小宇宙と呼ばれる内的エネルギーを高めることが求められる聖闘士になるには、師弟が一対一で向き合う形が適している。

 

 聖闘士を目指す候補生が集団生活を送るのは、仲間意識を高めるためと、切磋琢磨して技倆を磨くためである。聖闘士になるためには必ずしも必要ではない。

 

 先の聖戦を生き延びた黄金聖闘士として、また教皇として、聖闘士の頂点に在り続けるセージに師事したいという者は多かった。純粋に人柄を慕う者。技や知識を得たいという者。権力者たる彼に近づいて、あわよくば聖域での栄達を望む者。

 

 その志あるいは野心は様々だったろうが、彼は誰にも教えを授けなかった。ここへきて弟子を名乗る者が現れれば、その者への風当たりは強くなるだろう。

 

 ふうん、と少年は熱のない返事を返した。

 

「本当は俺と関わるのが面倒なんだろう」

 

「そうは言うておらん。ここへ連れてきた責任もある。だが人を教える立場にはないということだ」

 

「俺には茶の淹れかただの、食事の作法だの、小うるさいくせに。そういうのは教えとやらに含まれないわけ」

 

「聖闘士としての教えにはほど遠いな」

 

 セージは笑い、空になった茶器に茶を注いだ。

 

 ふと、ある可能性に気づく。

 

「おまえは私の弟子になりたいのか」

 

 答は「嫌だね」の一言だった。

 

 拒否されたことにセージは安心した。と同時に拍子抜けした。本心がどうあれ、斥けられた。それが意外だったのだ。

 

(望まれて当然だと思っていたか)

 

 傲慢だな、と老人は自嘲せざるを得なかった。弟子を持つことを望んでいないのに、相手に望まれていると、どうして思えたのか。自惚れた老いぼれに過ぎないという事実をまたしても突きつけられた。

 

 その夜の会話はそれで終いになった。

 

          ◇

 

 さて、悪童に仮の師匠を立てるにしても、人選に選択の余地はなかった。

 

 教皇の庇護下にあるということで少年が特別扱いされるのを、セージは望まない。幼い者のためにならないからだ。二人のつながりは、知る必要のある者だけが知ればよい。

 

 少年は教皇宮で寝起きしているから、訓練場への通り道である十二宮の守護者が「師匠」であれば都合がいい。雑兵でさえない者が理由なく十二宮へ上がるのは不自然だが、もし師匠が十二宮に詰めているなら、その身辺の世話のために弟子が上がることもあるだろう。

 

「そういう条件にあてはまる人材は、そなたしか思い当たらなんだ」

 

「そうでございましょうな」

 

 厳格な表情の教皇と相対しているのは、誠実な魚座の黄金聖闘士である。

 

 二人は十二宮よりも低地にあるルゴニスの住まいで面談していた。聖域の外れに位置する庭園の中で、彼はひっそりと隠者のように暮らしていた。

 

「我が守護宮は十二宮の中でも最も教皇宮に近うございます。毎日上り下りしても、見咎められることはありますまい」

 

「頼まれてくれるか。口と悪知恵はよく回る悪童ゆえ、そなたには迷惑を掛けることになる」

 

 ルゴニスは庭の薔薇園に目を向けた。

 

 園内で薔薇の世話をしている彼の弟子は匂い立つような美しさで、花の艶やかさと相まって一幅の絵のようだった。その遙か手前から話しかける機会を窺っているのは、セージが連れて来た少年だ。

 

「アルバフィカは私以外の者とは親しく語らうこともなく、この薔薇園で育ちました。聖域で生まれ育ったのにアルバフィカを知る者はありません。それがたまに不憫に思われます。毎日ここに立ち寄って一言二言でも交わしてくれるなら、あの子の養い親として、願ってもないことでございます」

 

 無視され続けていることに飽きて、悪童は足元にあった小石をルゴニスの弟子へ投げた。

 

 体のすぐ近くを過ぎた石に驚いて、アルバフィカが犯人を睨み付けると、犯人はふてぶてしく声を掛けた。

 

「おまえ、そうやってアブラムシ一匹ずつ取ってるのかよ? 俺そこに近づくなって言われたけど、なんなら手伝ってやろうか」

 

 アルバフィカは無言で背を向けた。少年もその背中に思いきり舌を出してその場を走り去った。一連のやりとりを見ていた大人たちは、微笑み未満の動きを唇に浮かべた。

 

「それにしても猊下、私に『頼む』などとおっしゃらず、お命じになってもよいものを」

 

「いや、これは教皇として命ずべきものではないと思うてな」駆け込んできた少年をセージは呼び寄せた。「このマニゴルドを連れてきたのは、教皇や聖闘士としての職分とは無関係だ。私の個人的な都合を命じるわけにはいかぬ」

 

「この程度のことを職権乱用としたら、世の権力者は何もできなくなります。猊下ほど清廉な教皇はおられないでしょう」

 

「何の話? 俺のこと?」

 

とギリシャ語の分からない少年は不思議そうに尋ねた。セージは少年を隣の椅子に座らせて答えた。

 

「ああ、そうだ。このルゴニスがおまえの師匠として名を貸してくれる。おまえからも礼を」

 

「ありがとよ」

 

「もっと丁寧に」

 

「旦那様にも主のお恵みがありますように」

 

「物乞いの真似は止めよ」

 

「だって丁寧にってジイさん言ったじゃないか。他にどう言うんだよ」

 

 二人の会話にルゴニスが小さく笑った。

 

「セージ様のおっしゃる意味が分かりました。確かに教皇としてのお役目ではありませんな。それでは不肖ルゴニス、マニゴルドのお目付役を承りましょう」

 

「済まぬ。よろしく頼む」

 

 こうして少年は日に二度、体を鍛える訓練の行き帰りに魚座の住まいへ顔を出すことになった。

 

 教皇宮への帰り道で、少年が聞いてきた。

 

「俺、ルゴニスのおっさんのこと、『先生』って呼んだほうがいいかな」

 

 たどたどしいギリシャ語で発音された「先生」は、女性形だった。なぜ、と口に出す直前に事情を思い出して、言葉を変える。

 

「デスピナに教えられたのだろうが、それは相手が女のときだ。師が男のときは違う」

 

 先生・師匠の男性形と、ついでに、生徒・弟子にあたる言葉も教えてやった。少年は二つの言葉を声に出して繰り返したが、ふとセージを見上げた。

 

「ジイさんもギリシャ語で呼んで欲しい?」

 

 その気遣いを装った陰に嘲りを聞き取り――錯覚だったかもしれないが――セージは苛立ちを覚えた。いっそのこと「かくも賢き長老様」や「大恩ある教皇猊下」といった敬称を教え込もうかと一瞬思った。だが彼はそうしなかった。

 

「おまえの好きに呼べ」

 

 少年は眉を上げて口を閉ざした。

 

 翌朝ルゴニスが教皇宮まで上がってきた。セージは少年の首根っこを捕まえて、彼の前に押し出した。

 

「済まぬなルゴニス。足労を掛ける」

 

「恐縮ですが、初日だけでございます。修練の場所が分からないといけませんし、マニゴルドが怠けないよう、教官に『師匠』の私からも一言挨拶しておこうと思いまして」

 

「そりゃないよ、ルゴニス先生」

 

 ニヤニヤしながら口答えした『弟子』に、ルゴニスは微笑みを返した。

 

 あっさりと誰かを――セージではない別の人間を先生と呼んだ少年に、老人は裏切られたような気がしていた。だがその感情が自分勝手なものであることも、よく分かっていた。だから「鍛錬中は死霊を頼るな」とだけ釘を刺して、早々に二人を送り出した。

 



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獅子来たる

 

 日が沈み、星が輝きだしても、少年は戻ってこなかった。

 

「どこで道草を食っているやら」

 

 少し散策してくると言い置いて、セージは教皇宮を出た。墓地まで足を伸ばすことも考えたが、その必要はなかった。悪童は十二宮の一つにいた。

 

 正確には柱の台座を枕に眠り込んでいた。階段を上る途中で一休みしたところ、激しい運動の疲れでつい眠ってしまった、というところか。

 

 昇り始めた月の下で見る少年の表情は穏やかだった。殴られた箇所の腫れが引いて青黒い痣になっているが、それでもあどけない顔だった。

 

 セージは少年を背負い、来た道を戻り始めた。

 

 揺れる感覚に少年が目を覚まし、身じろぎした。運ばれていると知れば嫌がってすぐに下りたがるだろうとセージは思った。だがよほど歩きたくないのか、相手はそのまま寝たふりを始める。

 

「明日はちゃんと自分の足で帰ってくるのだぞ」

 

 ふりをする内に本当に眠ってしまった少年を寝台に運び、セージは一人で食事を済ませた。

 

 食後に自室で読書をしていると、人の起き上がる気配が隣室から伝わってきた。ペタペタと裸足で歩く音が、次いで細めに開いていた戸が軋む音がした。

 

「起きたか」

 

「なんでここ開いてんだ」

 

 開口一番、それだった。普段は閉ざされている戸の隙間から差し込む明かりに引き寄せられてやって来たのだった。

 

 セージは少年を呼び入れた。水差しから注いだ冷水を手渡すと、少年は一気に喉へ流し込んだ。

 

「腹は」

 

「減った」

 

 壁際の棚を指差すと、少年はそこへ飛んでいった。棚に置かれた盆には、パンと小皿料理が乗っている。いつ起きるか分からない者のために使用人の手を煩わせることはないと思い、いざとなれば自分の夜食にしようとセージが夕食の一部を取り分けさせた物だった。

 

 少年は床に盆を置いて座り込んだ。セージの私室にはトルコ風に絨毯とクッションを敷き詰めた一角が設けてある。椅子に座るよりそちらで足を伸ばしたほうが楽だと思ったのだ。

 

 部屋の主も椅子から離れて、少年の近くに胡座をかいた。

 

 チーズ入りのパンに齧り付いた子供は、皿の上の、暗赤色の外皮と白い身を持つ丸いものに興味を示した。

 

「なにこれ」

 

「タコだ」

 

 炭火焼きにしたタコの足をぶつ切りにしたシンプルな料理だ。セージは一切れつまみ食いした。分け前を取られた少年が文句を言って、自分も一口食べた。その食感に首を傾げる。

 

「……貝?」

 

「いや、タコだ」

 

 冷めて少し硬くなってしまった。セージは棚から瓶と酒器を取り出した。タコの歯応えに苦戦しながら少年がそれを目で追っている。

 

 老人がグラスに注いだのは透明な液体だった。ところが水を足すと乳白色に色が変わった。驚いた少年に「ウゾーという酒だ」と説明して、セージは酒を嘗めた。タコがあるとたまに酒が欲しくなる。

 

「俺も飲みたい」

 

「おまえは腹を満たせ」

 

 その後は沐浴して汚れを落とせ、と言われて、少年は頬を膨らませた。

 

「なんだよ、あれしろこれしろって命令ばっかり。ジイさんは俺の何なんだよ」

 

「さて。何であろうな」

 

 もう一切れと皿に手を伸ばそうとしたら、盆ごと遠ざけられた。俺の飯だと主張するので、セージは呆れ、笑った。「私はおまえの庇護者だぞ」

 

「へえへえ、慈悲深き我が庇護者、女神の代理人たる尊き御方、願わくば我らの日用の糧を今日も我らに与えたまえ」

 

 アーメンと呟きながら、少年はキャベツの漬け物をこれ見よがしに口へ運んだ。しばらく夜食を詰め込むことに専念していたその口が喋り出したのは、皿の上があらかた片付いてからだった。

 

「そういえば訓練が終わっておっさんの所に顔を出しに行ったらさ、あのアルバフィカのクソガキが、もの凄い顔で俺を睨んでた。あいつ何なんだよ」

 

 その光景が目に浮かび、セージは苦笑した。

 

「あの者は師を敬愛している。まして養い親でもあるし、おまえがたとえ名目上でもルゴニスの弟子になるということに、心穏やかではいられぬのだろう」

 

「俺に先生取られたって妬いてるわけ?」

 

 馬鹿か、と呆れ声で呟く。

 

「まあそう言ってやるな。言葉が通じるようになったら、おまえから誤解を解いてやればいい」

 

 少しの間を置いて、少年が口を開いた。

 

「……無理だよ。俺、ルゴニスのおっさんのこと『先生』って呼ぶから」

 

「分かっておる」

 

 僅かに心が沈んだことをセージは自覚した。それは少年が誰かを先生と呼んでいることにではなく、そうさせている自分に対してだった。

 

 ――教皇セージには弟子がいない。

 

 名君の誉れ高き彼の目に適う逸材が現れないからだと、周囲は言う。

 

 理由を問われれば本人はこう答える。教皇の務めだけで精一杯だと。そして全ての聖闘士に等しく目を掛けたいからだと。

 

 だがもう一つ、口に出したことのない理由がセージにはあった。

 

 それは彼の現在の地位が、本来であれば実力の優る兄ハクレイが受けるべきものを強引に押しつけられたに過ぎないという、長年の思いによる。

 

 技や知識は兄弟同等、地位は兄から仮に預かっているもの。となれば、今の地位は兄に返すのが妥当だ。弟子を取っては鍛え上げるのが趣味の男であるし、後の時代に受け継がれる系統は兄ハクレイが作るべきだ。己は傍流に過ぎない。

 

 はっきりとそう考えたわけではないが、兄への負い目にも似た思いが、セージに弟子を取らせることを良しとしなかった。

 

「マニゴルド」

 

 別の酒杯を差し出すと、少年はすかさず受け取った。恐る恐る舐めてみて、なんだ水かと文句を垂れる。そんな姿を見ながら、セージは、

 

「もしおまえが望むなら、私を師匠と呼んでも構わぬぞ」

 

と、内心の迷いを隠しながら言った。

 

 杯の陰で両目が大きく開かれた。どうだ、と問われて、少年はゆっくりと杯を下ろした。口元に冷笑のかけらが浮かんでいる。

 

「本気か? 教える立場にないってジイさん自分で言ってたくせに」

 

「そうだが、ただ呼ぶ分には支障はなかろう」

 

「そんなことしたら面倒なことになるって」

 

「だからそれを承知するなら呼んでも良い」

 

 冷笑が剥がれ落ち、表情が消えた。

 

 おや、とセージが期待すると、唐突に酒器が突き返された。

 

「勝手なこと言うなクソジジイ!」

 

 そんな罵倒を吐き捨てて少年は部屋を出て行った。

 

 老人は深く溜息を吐き、残った肴を酒に浸した。

 

 間違っただろうか。

 

 あの幼い者にどう接すればいいのか、距離感の取りかたがまったく見当が付かない。手取り足取り甘やかすのか、放任するのか、徹底的に躾けるのか。そもそもなぜ教皇宮に置いているのか?

 

 自分がどうしたいのか分からないという経験は初めてだった。胸のつかえを酒で押し流そうとしたが、まったく効果はなかった。

 

          ◇

 

 よほど怒ったのか、一晩経っても少年は誰も近寄らせず、一言も喋らなかった。起こされる前に人の気配で跳ね起きるのは元々だったが、この日は使用人が手伝う前に自分で顔を洗い、服を直した。食堂でも黙々とパンを片付け、向かいのセージを全く見ないまま席を立った。

 

「具合でも悪いのでしょうか、あの者は。触られるのを嫌がるのは以前からとはいえ、猊下に対してのあの態度」

 

 給仕係が、少年の出て行った戸口を眺めた。

 

「案ずるな。あれは機嫌が悪いだけだ」

 

 静かな朝食を終えると、セージは教皇として気持ちを切り替えた。

 

 神官の形式的な報告を受けた後は、執務室で書類の裁可にとりかかる。

 

 単調な作業の合間にふと外に目を向けて、思わずペンを取り落としそうになった。中庭に面した柱廊を少年がぶらついている。

 

 セージはペンを置き、柱廊へ出て行った。少年は彼が近づいてくるのに気づくと立ち止まった。腕を組み、来るなら来いと挑戦的な目をしている。

 

「そこで何をしておる」

 

「時間潰し」

 

 訓練までだいぶ間があり、女官から逃げ隠れしなくてもよくなったので遊んでいた。そう言って、悪びれもせず教皇姿のセージを見上げた。

 

「それ」

 

 細い指が無遠慮に差したのは教皇の被る兜。

 

「いつも被ってるわけ?」

 

 邪魔ではないかと言いたげな口調に、セージは「私は教皇だからな」と軽やかに答えた。

 

「被りっぱなしは禿げるぜ」

 

「この歳になれば、それも仕方なかろう」

 

 まだ豊かな髪を持つ老人は、床の端に腰を下ろした。促されて少年も隣に座った。柱廊と中庭の段差は小さく、少年の足でも悠々と中庭の土の上に投げ出すことができた。

 

「時を無為に過ごすくらいなら、少し覚えていけ」

 

 セージは小石を手にして、土を掻いた。

 

「何を書いてるんだよ」

 

「マニゴルド、と」

 

 へえ、と少年は身を乗り出してその文字列を見つめた。見たことの無い記号だと首を傾げるので、ギリシャ文字だと告げた。ついでに行を変えてイタリア語の表記も書き足す。

 

「上段がギリシャ語、下段がイタリア語でのおまえの名だ」

 

「一文字目だけ同じ形なんだ」

 

 興味を持ったのか、床から腰を上げ、地面にしゃがみこんだ。セージの書いたものを手本にしながら土に名を刻む。少しして、引き攣れたような歪な署名が書き上がった。

 

「やっぱ駄目だ」

 

と忌々しげに少年は自分で書いた分を掻き消した。

 

 放りだされた石をセージは拾い上げ、もう一度持たせた。細い右手を上から握り、導きながらゆっくりと、書いている文字を一音ずつ発語しながら書き直した。文字は完璧な形に整っていた。

 

 セージが手を離すと、子供は少し考えてから、手本の横に名を書いた。一人で最初に書いたときよりもずっと文字らしい。

 

「そうだ。上手いぞ」

 

 セージは癖のある髪を軽く撫でてやってから、その場を離れた。

 

 執務室に入る前に振り返ると、小さい背を丸めて、せっせと土に書いている姿が見えた。

 

 その後、移動の際に柱廊を通った時にはもう少年は姿を消していたが、代わりに剥き出しの地面に、その名が所狭しと残っていた。

 

 ……これは余談だが、翌日、下働きの使用人がセージを裏庭に案内した。地面には至る所に拙い引っ掻き文字が刻まれていた。どれもマニゴルドという名を誇らしげに主張している。教皇の表情が綻んだことに、使用人は気づかなかった。

 

「土ですからすぐに均して消せますけども、こういう落書きは、猊下のお近くに相応しくないと思いまして。お坊ちゃんには猊下からお話ししてもらえませんでしょうか」

 

 使用人の視線の先には、名前の練習に飽きて書いたと思しき落書きがある。卑猥な意味の絵だという。

 

 セージは少年を呼び出して、アテナのお膝元に下町の悪所のような落書きを残すなと説教し、罰として庭掃除をしてこいと言いつけた。

 

 これがきっかけで教皇宮で働く使用人たちと少年が、親しく言葉を交わすようになるのだが、それはまた別の話。

 

          ◇

 

 少年は体を動かすのが性に合っていたようで、毎朝出かけては、汗と埃にまみれて夕方戻ってくるようになった。同年代の子供たちと打ち解けるまでに時間はかからず、そうすると日常会話程度のギリシャ語を身に付けるのも早かった。 

 

「毎日約束通り、朝夕に必ず私のところへ挨拶にやって参ります。マニゴルドのお目当ては我が弟子のようですが」

 

と、教皇宮に報告にやってきたルゴニスは苦笑する。

 

 彼の美しい弟子と仲良くなりたい一心で、少年は他の子供から仕入れた話で気を引こうとする。そして聖域の情報だけならまだしも、決してルゴニスが口にすることの無いような猥談や、覚えたての卑猥な言葉を教え込もうとする。

 

「それは……」

 

 表情を隠す兜の下からでも分かる教皇の困り声に、ルゴニスは慌てて付け加えた。

 

「猊下がご案じになることはございません。アルバフィカを生涯薔薇園に閉じこめて純粋無垢に過ごさせるつもりは、私はないのです。外の世界に慣れさせるという意味で、マニゴルドは貴重な存在なのです」

 

 もし話の卑猥さに我慢できなくなると、怒ったアルバフィカは容赦なく相手を殴って黙らせようとするそうだ。悪童はだいたいそれをきっかけに退散する。

 

「私も弟子があんなに手が早い、血の気の多い子だとは知りませんでした」

 

 見た目がいくら繊細でもやはり男の子ですね、と養い親は嬉しそうだった。

 

 とはいえ、汚い言葉ばかり覚えるようでは困るので、セージも時間を見つけては、悪童にギリシャ語を教えるようにした。その教室は食堂や風呂場であったり、夜のバルコニーであったりした。二人が一番好んだ教室は、朝の柱廊だった。

 

 中庭のほうを向いて並んで座り、時折は中庭の土に綴りを示す。それは少年が訓練に出かける前の、ほんの短い時間。二人の他に通りがかる者もない静かな時間は、瞑想に似た清々しさがあり、セージは気に入っていた。

 

 ただし通りがからないだけで、知る者は知っている。柱廊の二人を称して「ストア派でございますね」と言った神官がいた。ギリシャ哲学のその一派は、講義場所がストア・ポイキレ(彩色柱廊)だったことに名を由来するという。それに因んだ冗談だった。

 

 教皇は笑って頷いた。

 

          ◇

 

 ある日、一人の男がふらりと聖域に入った。

 

 男は教皇への目通りを願い、すぐに許された。

 

「獅子座《レオ》のイリアス、ただいま帰還いたしました」

 

 教皇の前に片膝を付いた男は、ルゴニスと同格の黄金聖闘士で、十二宮五番目の獅子宮の守護を担っている。つまり教皇に次いで責任ある地位にあるのだが、一所に留まるのを好まず、人に馴染まなかった。

 

 教皇も無理に聖域に留めようとせずに、各地の調査任務という名目で男の放浪を黙認していた。

 

「そなたが自ら戻ってくるとは、珍しいこともあるものだな。息災であったか」

 

「はい」

 

 日に焼けた精悍な顔をまっすぐ教皇に向けると、イリアスは「聖域にも風が吹くと、大地が教えてくれました」と言った。謎めいた言葉だがセージは慣れている。

 

「そうか。それは良い風か」

 

「風はただの風に過ぎませぬ。善し悪しを決めるのは人の勝手でございましょう」

 

「違いない。だが良い頃合いにそなたを聖域に呼び戻してくれたのだ。悪くはなかろうよ」

 

「頃合い、でございますか」

 

 セージは玉座から腰を上げ、階段をゆっくりと下りた。膝を付いているイリアスの側で身を屈め、囁く。

 

「近くそなたの弟が射手座《サジタリアス》の聖衣を継承する」

 

「シジフォスが」

 

 男の目に喜びの色が浮かんだ。己の後を追うように聖闘士を目指してきた年の離れた弟を、イリアスが気に掛けていることは、セージもよく知っていた。

 

 聖闘士には聖衣《クロス》と呼ばれる、称号ごとに受け継いでいる固有の防具がある。聖衣を継承する――それは聖闘士として認められることを意味していた。逆に言えば、それを授からない限り、正式な聖闘士とは名乗れない。

 

 継承の儀まで暫くここに居れ、と教皇に肩を叩かれては、イリアスも断る理由がなかった。

 

 そのままセージはイリアスを供にして双魚宮に向かった。ルゴニスは礼儀正しく教皇を出迎え、僚友に向かっては「久しいな」と微笑んだ。イリアスも軽く頷いて応える。

 

 用意された茶席で三人は和やかに語り合った。

 

 他愛ない世間話のように、世界に忍び寄りつつある影について情報と見解を交わす。聖域を離れることのないルゴニスにとってはイリアスの話は全てが新鮮だ。部下の報告とは違う見解で語られる情勢には、セージも耳を傾けた。

 

 やがて喋り疲れたイリアスが語り手の交代を求めた。

 

 紅茶のお代わりを注ぎながら、ルゴニスが「ところで猊下、マニゴルドの件はお話しになられたのですか」と水を向けた。耳慣れない名に、イリアスはセージを見た。

 

 後で挨拶に向かわせるつもりだったと断ってから、セージは拾ってきた子供のことを掻い摘んで話した。

 

「そういえば最近はギリシャ語だけでなく計算も手ほどきされていると、本人から聞き及びましたが」

 

「知っていて損は無かろうと思うてな。あやつ最初は十までの数も数えられなんだが、銀貨を使って教えたらすぐに飲み込んだわ。現金な奴よ」

 

 茫洋とした顔で聞いていたイリアスは、なるほど、と呟いた。

 

「風とは、猊下のお弟子のことかも知れませぬな」

 

「勘違いするなイリアス。マニゴルドを庇護しているのは真だが、弟子としたわけではない。あれは聖闘士にはならぬし、決して私を師とは呼ばぬ。それで言うならあれの師は公にはルゴニスだ」

 

「そのお言葉には首肯しかねます」

 

 教皇の主張を獅子座がはっきり否定した。自分は名を貸しているだけだと反論しかかったルゴニスは、面白そうに彼を見やった。

 

「私の師は大地です」とイリアスは述べた。「私が大地を師匠と呼ばなくても、師はあらゆることを教えてくれます。風や雲、小さな虫や草花でさえ私を導いてくれます。自然は私を弟子とは呼びませんが、私が師事することを拒みません」

 

「このセージが呼称に拘っていると言いたいのか、獅子座よ」

 

「他者を導く存在は師匠。他者に導かれる存在は弟子。なにも聖闘士だけのための特殊な言葉ではないかと」

 

「では聞くが、そなたが師から受けた最大の教えは何だ?」

 

「言葉では表せませぬ。私が大地に乞うている教えは、聖闘士としてのものではなく、もっと深い、命を生きるためのものです」

 

 セージは腕を組んだ。元々が寡黙なイリアスも自分からは喋り出さない。沈黙が重くなる前に、ルゴニスが話に加わった。

 

「そういうことであれば、私も、猊下とマニゴルドとの間には、語学や計算の講義に留まらない師弟関係が、すでにあるようにお見受けいたします」

 

 根拠を申せとセージは促した。

 

 ――訓練を終えた少年が、アルバフィカを相手に、訓練の教官とセージについて文句を垂れていた時のこと。『そんなに嫌なら今すぐ聖域を出て行け』と言ったアルバフィカへの反論を、通りがかりのルゴニスが聞いた。

 

『だってジイさんが生の輝きを見せてくれるっていうから、それまでは俺、ジイさんの近くにいないと』

 

 そう答えたという。

 

「イタリア語でしたから我が弟子には伝わらなかったようですが、あの少年は本気でございました」

 

 語るルゴニスからセージへと、イリアスは問うような視線を向けた。セージは深く息を吐いた。

 

「そう。私が言ったのだ。生に倦み、死に憧れていたあの子供を捨て置けなくてな。それで連れてきた」

 

 二対の視線が老人に注がれた。

 

「生を教えるために?」

 

「ああ、そうだな」

 

「ならばお二人は紛れもなく師弟でしょう。生きることの意味を教え、学ぶ。これ以上の師弟関係はございません」

 

「そう思うか」

 

「はい」二人の黄金聖闘士は同時に頷いた。

 

 獅子座が訥々と付け加える。

 

「獣の親は子にとって最初で最後の師でございます。生きるための知恵と技を、限られた時間のなかで子に叩き込む」

 

「イリアス。猊下を獣と一緒にするな。無礼だぞ」

 

「最も純粋な師弟の形だと言いたいだけだ」

 

 僚友を軽く睨んだルゴニスは、ティーカップを優雅に持ち上げた。魚座の黄金聖闘士は、己の命を賭けて持てる力の全てを後継者に注ぎ込む。それこそ純粋で壮絶な師弟の形だろうとセージは思うことがある。

 

「そなたらが揃って唆してくれたお陰で、私があれを弟子としても問題はないという気がしてきたぞ。どうしてくれよう」

 

「あるがままでよろしいかと」

 

とイリアスは答えた。水を堰き止めようとせず、風を壁で防ごうとせず、流れのまま受け入れれば自然は害を為なさない。無理に抗おうとするからいけないのだ。男はそう主張する。

 

「簡単に言うがな、イリアス。セージ様はこれまで弟子を取られたことがない。初めて弟子を取られることで、周囲の動揺をどれほど招くか分からないのだ」

 

「その程度で動揺する惰弱な者など、聖闘士には不要だ。そういう余計な気を回さなければならないから聖域は好かん」

 

「おい」

 

 教皇の手前、ルゴニスがイリアスを窘めようとすると、教皇本人が小さく笑った。「確かにな」と肩を振るわせる。「確かにイリアスの申す通りだ。聖闘士を目指す者ならば、誰が誰と師弟関係にあろうと動揺する暇はない」

 

「御意」

 

 軽く一礼するイリアスを眺めて、ルゴニスは溜息を吐いた。

 

 爽やかな風が双魚宮の中を吹き抜けた。外はまだ日が高いが、熱気は屋内までは届かない。

 

 三人は静かに涼風を楽しんだ。

 

 遠く山脈を眺めながら、セージが口を切った。

 

「申したいことがあれば申せ、イリアス」

 

「何もございませぬ」

 

 同じように外に目を向けたまま男は応えた。

 

「マニゴルドの話をするうち、そなたの私を見る目が変わったぞ。無駄に長生きのくせにたかが小僧一人に気迷って、と言わんばかりにな」

 

「そのような」

 

 否定するわりには泰然とした姿を、セージは面白そうに見やった。

 

「幻滅したか」

 

 イリアスはゆっくりと首を横に振った。

 

「教皇も法衣以外を纏うことがあるのだと、候補生の頃以来の疑問が解けました」

 

 意外なことにルゴニスが吹き出した。怪訝な顔をしたセージに説明する。

 

「私たちがまだ候補生だった頃、教皇は夜眠るときも法衣と兜を着けたままだという噂がありました。まさかと思いつつももしかしたらという気持ちを捨てきれず、夜中に教皇宮に忍び込もうとしたことがございます」

 

 どうかお許しを、と二人は頭を下げた。

 

「それほど猊下は……セージ様は、常に教皇でいらっしゃいました。黄金位になってお側に上がる機会が増えても、威厳と慈悲で聖域を守っておられる姿しかお見せにならなかった。ところがマニゴルドに関してのセージ様は、あえて教皇という立場から離れていらっしゃいます。イリアスにはそれが新鮮だったのでしょう」

 

 聖域にいる時間の長いルゴニスは、セージと直接言葉を交わすことも多い。その本音に触れることもある。しかしこれまで権威が服を着たような教皇を敬遠してきたイリアスには「この人にも人間らしいところがあったのか」と驚くような話だった。

 

「そうか。そうだな、私はずっと教皇の法衣ばかり着てきた。着替えるという考えさえ浮かばなかった」

 

「服は着替えることも、重ねることもできます。セージ様ならすぐに着こなされることでしょう」

 

 己より遙かに若い者たちに励まされ、セージは力強く頷いた。

 

「ところで、若造どもは年寄りの寝姿を見られたのか。どうも覚えがないのだが」

 

「結局、教皇宮の遙か手前の天蝎宮で見つかり、説教より先にアンタレスを食らいかけました。蠍座は厳しい方でしたから、告発されないだけ恩情があったと思うべきなのでしょう」

 

 ふっとその場に沈黙が下りた。十二宮の九番目を守っていた当時の守護者は、今はもう亡い。

 

 聖闘士は常に代替わりしていく。子供は育ち、大人は老いていく。その流れに取り残されていく思いを、セージは時に抱くことがある。己より後に生まれた者に先立たれるのは、いつだって堪らない。

 

 セージは再び外に目をやった。遠くの山並みに橙色の光が当たっている。もうすぐ訓練が終わる時間だ。

 

 語らいの時間は過ぎた。下の住まいで少年を迎えるというルゴニスと、弟の顔を見に行くというイリアスは連れ立って下りていき、セージは教皇宮に戻った。

 

 ところが彼もすぐに魚座の住まいに下りていくことになった。ルゴニスが世話をする薔薇園の中で、少年が意識を失って倒れていたと知らせが入ったからだ。

 



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師匠と弟子

 

 ルゴニスが住まいに戻ってきたとき、弟子は夕食の支度をしていた。訓練はとうに終わっている時間だったから、悪童が顔を出したかどうかを聞くと、たったいま帰ったところですとアルバフィカは答えた。

 

 道ですれ違わなかったことに、ルゴニスは小さな違和感を覚えた。

 

 ――薔薇園から物音がした。

 

 何かが地面に落ちる微かな音だった。アルバフィカには聞こえなかったようだ。ルゴニスは何食わぬ顔で表へ出た。

 

 夕方の空気に馥郁たる花の香りが溶けていく。

 

 世界各地から集められた様々な種。歴代の魚座の黄金聖闘士が改良を重ねてきた種。それらが織りなす薔薇園が、彼の世界だった。

 

 その中心に位置するのは、魔宮薔薇《デモンローズ》と名付けられた種だった。根でも棘でもなく、花の香気に毒があり、その香気を吸った者は死に至る。警戒線に張る罠として用いると絶大な効果があり、風向きによっては近づくことさえ命取りだ。

 

 例外はこの庭の主とその弟子だけだった。十二宮最後の防衛を担う者は、この毒薔薇と生活を共にすることになる。毒死した生き物を片付けるのも、二人の日常のうちだった。だからこの時も、迷い込んだ渡り鳥が犠牲になったのだろうと考えていた。

 

 ルゴニスは毒薔薇の生い茂る美しい庭に足を向け、その手前、毒の香気が外に漏れないようにしてある境目に、倒れている人影を見つけた。

 

「……マニゴルド」

 

 肝が冷えた。

 

 辺りには薔薇の香りが満ちている。

 

 ルゴニスは急いで少年を抱き起こした。力を失った体を衣に抱えて住まいに急ぐ。同時に小宇宙《コスモ》を用いて教皇宮の主へ念話を送った。

 

(猊下、火急の用件につき念話で失礼いたします)

 

(魚座か。いかがした)

 

 セージの平静な「声」で、ルゴニスも冷静さを取り戻した。端的に事実を伝える。

 

(マニゴルドが我が薔薇園で倒れているのを見つけました)

 

(すぐに行く)

 

 防衛に使う魔宮薔薇のことは、教皇もよく知っている。魚座の薔薇園で倒れたということは、その毒を吸い込んだ可能性が高いということも。

 

 住まいに飛び込んだルゴニスは、手近にあった作業台に少年の体を横たえた。その様子にアルバフィカが不安げに声を上げた。

 

「一体どうしたんですか」

 

「魔宮薔薇だ」

 

「具合が悪くなったんですか?」

 

 今ひとつ状況を飲み込めていない弟子に、入り口に立っているよう言いつける。

 

「もうすぐ教皇がおいでになるから、おまえはお迎えを」

 

「それには及ばぬ」

 

 深みのある声が遮った。ルゴニスとアルバフィカは同時に部屋の中を振り返った。そこには教皇の兜と法衣を身に付けた老人が立っていた。声の主は、間違いなく教皇セージだった。

 

「猊下……」

 

 いくら何でも早すぎる。ルゴニスは戸惑った。教皇宮からここまで来るには、十二宮を通る長い道を抜けてこなければならない。まして広くもない室内にいつ入られたのかも気づかないなど、あり得ない。

 

 恐らく思った以上に気が動転しているのだと己に言い聞かせ、ルゴニスは状況を説明した。

 

「当時の風向きは?」

 

「私が駆けつけた時には無風でございました」

 

 教皇は台の上の少年の容態を調べた。呼びかけても応じない。吸い込んだ毒が少なかったことを祈るばかりだ。魔宮薔薇に解毒法はない。

 

 ルゴニスはセージの前に膝を折った。「私が園の管理を怠ったばかりにこのような事態になりましたこと、申し開きのしようもございません。どのような処分であろうとお受け致します」

 

 本来、彼がそこまで謝る必要はない。彼は教皇の次に地位が高く、翻って少年はただの子供に過ぎないのだから。ただ少年がセージ個人にとって特別な存在であることを、ルゴニスは知っていた。

 

「そなたが謝ることではない。管理に問題があったのではなく、大方この者が好奇心で薔薇園に忍び込んだのが原因だろう」

 

 突き放したように言ったかと思うと、教皇は少年に向き直った。そして「この愚か者が」と呟いて、少年の額に手を置いた。

 

 子の熱を測る親のような教皇の姿に、訝しんでアルバフィカが師を見上げた。小宇宙を送り込んで少年の体力を高めるのだと説明し、ルゴニスはセージの気が散らないように弟子と共に部屋の隅に引き下がった。

 

「先生、あいつはどうして倒れたのですか」

 

「薔薇の香気を吸ってしまったらしい」

 

「魔宮薔薇の毒ですか? でも、私も小さい頃は気分が悪くなったり頭がクラクラしたりしましたけど、あんな風になったことはないですよ」

 

「おまえは毒に耐性がある。赤ん坊の頃からここで育ったからその程度で済んだのだ。普通の人間は死ぬほどの猛毒だ。小鳥や虫だけが死ぬと思うな」

 

 人を殺すための種として存在するのだから、弟子も当然知っていることだと思っていた。けれど薔薇と共に育ってきた子供には、当たり前ではなかった。

 

「死ぬ?」

 

 血の気が引いて美しい顔はますます人形めいた。「どうしよう」と震える声で呟くと、アルバフィカは教皇の裾に縋り付いて告白した。「ごめんなさい、教皇様。私のせいです。私が止めなかったからいけないんです」

 

「どういうことだアルバフィカ」

 

 師匠の止める暇もあればこそ。ごめんなさいと何度も繰り返すアルバフィカの前に、セージも腰を屈めて視線を合わせた。

 

「こやつには薔薇園に近づくなと言い渡してあった。それを無視して園内に入り込んだ時点で、自業自得というものだろう。そなたが気に病むことはない」

 

 微笑みこそないが、悲しみと慈しみに満ちた老人の眼差しに、アルバフィカの胸が苦しくなった。

 

「違うんです。マニゴルドに、弟子しか知らない魚座の秘密があるだろうと言われて、代々世話をしている毒薔薇があると答えたんです。場所を聞かれて、部外者には教えられないと言ったら、自分だって表向きには魚座の弟子だって……」

 

「それで教えたのか」

 

 いいえ、と小さな園丁は首を横に振った。「でも探しに行くのを止めなかった。毒を吸って具合が悪くなれば、もう懲りて薔薇園にも先生にも近づかないだろうと思って知らん顔したんです。ごめんなさい、魔宮薔薇が死ぬほどの毒だったなんて思わなかったんです。マニゴルドは面白いことを色々教えてくれるのに、痛い目を見ればいいと思ったから、私が先生を独り占めしたがったから、だから全部悪いのは私なんです」

 

 大人たちは顔を見合わせた。物言いたげなルゴニスを目で制して、セージはアルバフィカの頬に手を当てた。柔らかな頬は涙で濡れていた。

 

「すまぬ。そなたに妬みを抱かせたのは、私の曖昧な態度のせいだな。……泣いているのは、人殺しの咎を恐れるためか?」

 

 アルバフィカは「違います」と喘いだ。「マニゴルドが死んだら嫌だから」

 

 死なねえよ、と弱い掠り声が空気を揺らした。

 

 三人の視線が一気に作業台の上に注がれた。そこに横たえられた少年が、億劫そうに目を閉じたり開けたりしている。

 

 教皇は立ち上がり、少年の上に屈み込んだ。

 

「マニゴルド、私の顔が見えるか」

 

「……兜の陰で見えねえ」

 

 セージは苦笑した。目に毒は回っていないと分かって一安心だった。とはいえ、喉の痛みと締め付けられる胸の圧迫感を訴えるので、毒の香気を吸い込んでしまったことは間違いない。早々に教皇宮へ戻すことになった。

 

 ぐったりしている少年は、まだ自分の足で立つこともままならない。しばらくは安静にしていなければならないだろう。事情によりルゴニスが抱きかかえていくことはできず、代わりに誰か運ばせる者を呼びにやろうとした横で、教皇が動いた。

 

「猊下?」

 

 セージは少年を抱き上げた。まさか教皇自ら少年を背負って十二宮を登った経験があるとも知らず、ルゴニスは慌てた。

 

「なにとぞ猊下、マニゴルドを運ぶ役目は他の者にお任せください。下々の目がございます。少しお待ちいただければイリアスでも呼んで参りますので」

 

 同輩を足代わりにしようとするのを断り、教皇は小さく笑った。

 

「案ずるな。人目には付かぬ道を行く」

 

 近道を使うというので、ルゴニスは引き下がった。来た時もその道を使ったから到着が異様に早かったのだろうと彼は推測した。

 

 教皇はアルバフィカを見下ろした。安堵と罪悪感で泣きじゃくる子供に、静かに語りかける。

 

「この者が死ぬのを望まぬなら、もっと強くあれ、アルバフィカ。魚座の子よ。ルゴニスの弟子はそなたしかないのだから」

 

「はい……はい、教皇様」

 

 頷く子供の後ろで、ルゴニスは床に額ずいた。

 

「魚座よ」

 

 頭上から降ってくる穏やかな声に「はい、猊下」と答える。顔を上げられなかった。

 

「そなたを咎めるつもりはない。此度のことは全て私の不徳の致すところだ」アルバフィカの嫉妬の原因も、悪童が薔薇園に入り込む余地を作ったのも、ルゴニスの好意に甘えた己の責任だと教皇は言うのだった。「弟子アルバフィカの認識不足については不問に処す。本来は禁足地であるこの花園に悪童を近づけさせたのが過ちだった。マニゴルドの師として借りたそなたの名は返す。今まで面倒を掛けた」

 

「猊下のご寛恕に心より感謝申し上げます。力及ばず誠に申し訳ございませんでした」

 

 アルバフィカは目を見張った。師と二人きりの世界が戻ってくるはずなのに、願いが叶って良かったとはとても思えなかった。だが師が受け入れたものを、弟子が覆すわけにもいかない。唇を噛んだ。

 

 帰ると宣言した老人の腕の中で、少年が身動きした。アルバフィカを見て、何かを言おうとする。アルバフィカはどんなに小さな声でも聞き漏らすまいと、目と耳を澄ませた。教皇が一歩引いた。

 

 と、教皇と少年の姿が消えた。

 

 帰る瞬間を見逃したという意味ではない。彼らはこの世界に初めからいなかったかのように、存在の痕跡すら残さずに消えていた。

 

 ルゴニスは呆気にとられている弟子を呼んだ。説教だ。アルバフィカがいくら猛省しても、嫉妬で他人を害しようとしたことは、未熟の一言で済ませられるものではなかった。ましてその道具に魚座の象徴たる薔薇を使うなど、もってのほかだ。

 

 そういえば、とルゴニスは思った。あの少年はなぜ魔宮薔薇に――というより魚座の秘密とやらに興味を持ったのだろう。

 

          ◇

 

 泣いているアルバフィカに向けたはずの言葉は、生温い闇に吸い込まれていった。夜道のような、暗い、暗い、寂しい世界。アルバフィカもルゴニスの姿もなく、部屋の壁も天井も消えて、あるのは厚い雲に閉ざされた薄暗い道。

 

 周囲の風景が一変したことに驚き、少年は目を擦った。そして目を開けると今度は教皇宮の自室にいた。白い壁、石の床、木枠の窓。質素な寝台と棚。瞬きしても目を擦っても、見慣れた風景のまま、もう何も変わらなかった。清涼な風が頬を撫でた。

 

 何が起きたのか。

 

 ずっと共にあったと確信できたのは自分を抱くセージの肉体だけで、少年はうろたえて彼を見上げるしかなかった。ところが老人が平然としているので、毒のせいで幻を見たのだと少年は思うことにした。物を考えようにも意識がバラバラでまとまらない。それほど今の体験は奇妙だった。

 

          ◇

 

 セージは抱いていた体を寝台に下ろした。少年はごろりと横になった。

 

「水は飲めるか」

 

 小さく頷く様子に、普段の生意気さはなかった。隣の自室から水を持ってきてやったついでに、セージは寝台の端に腰を下ろした。

 

「魚座の花園には猛毒の種があると言ったはずだな。おまえの行為のせいでルゴニスは多大な迷惑を被った。ルゴニスだけでなく、アルバフィカもだ」

 

「あいつらは関係ない。全部俺が勝手にやったんだ」

 

 少年はのろのろと反論した。いくら聞いてもアルバフィカは薔薇の場所を吐かなかった。だから代わりに亡霊に聞いた。毒薔薇の所に道案内してくれたのは、かつて魚座の庭に入ったことのある亡者たちだ。そう話して、老人を反抗的に見上げる。

 

「仮にそうだとしても、二人に累が及ぶと想像できなかったのか」

 

「だってあいつもルゴニスのおっさんも悪くねえ」

 

「おまえは誰も巻き込まずに一人で動いたから迷惑は掛けていないと言いたいのかも知れんが違う。もしルゴニスが気づくのが遅れておまえが死んでいたら、ルゴニスは庭の管理責任を問われることになっただろう。薔薇のことを教えた自分のせいだとアルバフィカは苦しむだろう。何より、世話をしている薔薇のせいで誰かが傷つくことを二人が気にしないと思うか?」

 

 静かに諭すと、少年は手の中のグラスを転がした。一人で生きてきたという自負はおまえにもあろうが、と前置きしてセージは静かに話を続けた。

 

「池に石を投げ込むと、どうなると思う」

 

「水がはねる」

 

「そうだな。そして波紋が立つ。では投げずに水面間近から静かに落とせば、波紋は立たずに済むか」

 

「…………」

 

「石でなくてもいい。葉が落ちようと羽虫が留まろうと、水面の一点に動きがあれば必ず周りに影響を及ぼす。人も同じことだ。おまえの行動は、必ず誰かに影響を及ぼす。それは近くにいる私かもしれないし、世界の裏側の誰かかもしれない。近くにいるほど速やかに影響を受けるから、今のところ私が一番の受け手だろう」

 

「俺は生きているだけで迷惑になるってか」

 

「勘違いするでない。振る舞いの先には自分以外の誰かがいることを考えろと言っているのだ」彼は深く息を吐いた。「おまえに大事無くてよかった」

 

 額に手を当ててやると、少年は送り込まれる小宇宙に身を委ねて目を閉じた。小さく唇を動かす。ごめん、と声のない呟きが生まれた。

 

 セージは「ああ」と応えた。

 

 少しすると、少年の顔色がだいぶ良くなってきた。まだ話していられそうだったので、教皇は事の真相を確かめるべく、寝台横の椅子に座り直した。悪童は眠ったふりをしようとしたが、それには乗らずに問いかける。

 

「さて、このまま有耶無耶にするわけにはいかぬぞ、マニゴルド。正直に答えよ。魚座の秘密を探り、何をしようとしていた?」

 

 グラスを取り上げられてしまったので、少年は代わりに毛布の端を弄っている。しばらく黙っていたが、老人が一向に諦めないので、いかにも気乗りしない態度で渋々答えた。

 

「俺が魚座の弟子だっていう証拠を見せなきゃならなかったんだよ」

 

 訓練で顔を合わせる候補生たちに、教皇との繋がりを疑われ、それを払拭するために魚座の弟子だという証拠が欲しかったのだという。ルゴニス本人を訓練場に連れて行って証言してもらうことは気が引けたので、弟子の知る魚座の秘密を一つ見せるということで、候補生たちと話をつけた。そしてアルバフィカに聞いて毒薔薇のことを知った。まさか薔薇の毒が香気にあるとは露知らず、棘に触らなければ大丈夫だろうと高をくくっていた。

 

「でもこのざまだ。ちょっと他の作戦考えないと駄目だな」

 

「他か」セージはさりげなく言った。「ではもう師をルゴニスと偽るのは止めてしまえ」

 

 その意図を探る無言の問いに、彼は答えた。――私の弟子になればいい、と。

 

 セージの言葉に少年は押し黙る。ややあって「何で」とぶっきらぼうに吐き捨てた。「俺はべつにあんたを先生と呼びたいわけじゃない」

 

「私もそう呼ばれたいわけではない」

 

「だったら何でだよ。あんだけ人を教える立場にないって言っておいて、何を今更。お偉いさんの気紛れか」

 

「気紛れでもなんでもない。出会った時から私はおまえに生を伝えたいと思ってきた。友が言うには、それは教えたいということなのだそうだ。師弟とは聖闘士に留まらず、教えたいこと、教わりたいことがある二人の関係を指すのだと指摘されてな。だから正しくは、我らはすでに師弟ということになるが」

 

 ただの言葉に価値はなく、在りかたが重要なのだと獅子座は言った。生の意味を教える以上の師弟関係はないと魚座は言った。対外的に面倒のない関係性だと兄は言った。他人に指摘されるまでもなく、この幼い者を導くのは己の役目だと、セージは悟っていた。

 

「ただ、私の弟子だと知れれば余計な気苦労を背負うことになるだろうから、それは先に詫びておく」

 

 少年は彼を見つめていた。

 

「友って誰」

 

「若い連中よ」

 

 ふうん、と気の入らない相槌を打って、少年は「疲れた」と目を閉じた。セージも「おやすみ」と一声掛けて腰を上げた。

 

 戸を閉めかけた時、少年に呼び止められた。

 

「どうした」

 

「俺さ」

 

 廊下から差す明かりが、子供の顔をおぼろげに照らしている。しばらく待っていると、少年は「俺さ」と繰り返した。

 

「自分が可愛げのないガキってのは分かってるけど、ガキ相手だから何をしてもいいと思われるのは、嫌なわけ。駄目なら駄目って先に言ってほしいんだ」

 

 拙いながらも一所懸命言葉を探して、伝えたいことを伝えようとする姿を、セージは見つめた。

 

「だからさ、明日、俺がもし先生って呼んでも『気が変わった。馴れ馴れしく呼ぶな』って言って殴るなよ」

 

 彼は束の間言葉を失った。そんな理由で殴られたことが、この子供はあるのだろうか。誰かを頼り、突然裏切られた経験が、世間を警戒する一匹の獣を生み出したのだろうか。

 

 彼は部屋に戻り、枕元に近づいた。少年の目がじっとその姿を追いかける。

 

「私はそんなことをする人間だと思われているのか」

 

 少年はゆっくりと首を横に振った。

 

「でもあんたは警戒してる。弟子になれって言いながら、それを面倒だと思ってる」

 

 自覚していたはずなのに、改めて指摘されてセージは焦った。

 

 彼は指揮官として他人の生死を握る立場にある。その地位を怖いと思うのと同じくらい、怖いのだ。生まれて初めての教え子となる存在が。常人より長く生きてきても、否、長く生きてきたからこそ、未知のものへの恐れがある。

 

 ゆっくりと「大丈夫だ」と声に出した。そう、大丈夫。なにも難しく考えることはない。むしろこの歳で初めてのことを経験できるなど、僥倖ではないか。

 

「明日も私はおまえの師でいる。だから明日を疑わずに眠るがいい」

 

 瞼の上に手を翳そうとすると、察した少年は毛布を素早く頭まで被ってしまった。

 

「おやすみ、マニゴルド」

 

 もう一度声を掛けてから、セージは静かに廊下へ出た。仕事に戻るつもりだった。ルゴニスからの知らせを受けて、書類を放り出してきたままだ。そんなに慌てて飛び出すことはなかったな、と思ったが、結果論である。しばらく使っていなかった「近道」を開いてまで少年のもとへ駆けつけた。その事実は取り繕えなかったし、後悔もしていなかった。

 

 途中で見かけた用人を捕まえて、少年の具合が悪いことを伝えた。

 

「もしや猊下が世話をされたのですか」

 

 いくら慈悲深い教皇とはいえ、自らの手で他人を看病することはない。驚く用人に、セージは笑って返した。

 

「あれの面倒を見るのに何ら不思議はない。マニゴルドは、私の弟子だ」

 

 目を剥いて仰天するかと思ったのに、相手は「ようやくご決心なさいましたか」と感心するのみだった。拍子抜けしたまま、教皇は執務室に向かった。

 

 一人の夕食で、何となく思い立ってワインを空けた。イタリア視察の折に買ってきた、兄への土産の残りだった。

 

 結局兄の言う通りになった。

 

 兄だけでなく、周囲の誰もが、セージたちが師弟関係になることを予想していたらしい。つまりはきっと自然な流れなのだろう。考えてみれば、里子に出すでもなく、候補生の宿舎に放り込むでもなく、使用人として使うでもなく、ただ側に置いていたのだから、当然だった。抵抗があったのは当人だけというわけだ。

 

 

 翌朝、彼は従者を伴わずに一人で少年の使う部屋に入った。

 

 戸が開いた瞬間に身を起こした少年は、近づいてくる老人の姿を、部屋の隅から見据えていた。ちなみに床で獣のように眠る習慣は未だに直っていない。

 

「おはよう」

 

 相手は恐る恐る「おはよう」と返した。セージは微笑み、その正面にしゃがんだ。

 

「さて、問おう。我が弟子は私をなんと呼んでくれる?」

 

 少年の目に喜びが浮かんだ。

 

 秘密を打ち明けるよりもそっと囁かれた答に、セージは満足して頷いた。

 

 ――こうして無名の浮浪児は教皇セージの弟子として、セージを「お師匠」と呼ぶ唯一の存在になった。マニゴルドという彼の名が聖闘士の歴史に登場する日は、まだ遠い。

 



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ささやかな嘘の始末

 

 二人は前日と同じように並んで食堂に向かい、一緒に朝食を取った。使用人はいつもと変わらぬ態度で仕え、二人も普段通りの会話をした。庇護する者とされる者の関係が、教える者と教わる者に変わったからといって、暮らしに大きな変化はなかった。

 

「俺、アルバフィカのところに行っていいんだよな? おっさんにも謝りたいんだけど」

 

と、少年はセージを窺った。

 

「駄目だ」

 

 そう返されるのを予想していたのか、少年は溜息一つで引き下がった。セージは理由を付け加えた。

 

「まだ毒が抜けきっておらぬだろう。今日は部屋で安静にしていろ」

 

「訓練は?」

 

「休め。明日からは行ってよい」

 

 それほど熱心に参加しているように見えなかったので、訓練のことを気にするとは意外だった。悪童が気にしていたのは別のことだった。

 

「あいつらに何て言おうかな。ルゴニスのおっさんが余計な気を回して変なこと言わなきゃいいんだけど」

 

「あいつらとは?」

 

「訓練の連中」

 

 悪童が倒れる羽目になった事の起こりは、彼が魚座の弟子だという証拠を候補生たちに示すためだった。教皇との繋がりを隠す意味をセージ自身は感じなくなっていたので、堂々と本当のことを言えばいい、と助言した。

 

「信じるかな」

 

「おまえは信じて欲しいのか、欲しくないのか?」

 

「どっちでも。嘘吐き呼ばわりされても構わねえよ」

 

「ある程度の推察をしていた者たちなのだろう。わざわざ吹聴することはないが、必要な相手には事実を伝えるべきだ」

 

「元々疑ってたのは一人だよ。他の奴らはそいつに引き摺られただけだな、ありゃ」

 

 その候補生が教皇と悪童の繋がりを疑ったきっかけは、聖域内を巡る二人の姿を目撃したことだった。二人が連れ立って墓場のある丘へ歩いて行った。それだけを手がかりに、悪童が魚座の黄金聖闘士ではなく教皇に近い存在だと、その候補生は考えた。

 

 力量や体格の差が大きいので、訓練で組んだことも話したことさえ一度もない。いかにも堅物そうで、正直、近づきたくない相手だった。相手も話しかけてくることはなかった。単に、同じ時間帯に同じ訓練場を使っているだけの仲だった。

 

 それが言葉が通じるようになった頃を見計らって、いきなり「おまえが魚座の弟子というのは違うだろう」と単刀直入に切り出されたのだ。悪童の動揺を相手は敏感に感じ取り、更に話を詰めてきた。周囲はそれに便乗したに過ぎない。

 

「わざわざ訓練初日にルゴニスがおまえについて行ったのに、無駄足になったのか」

 

「無口だけど切れるってもっぱらの話なんだよ、そいつ。教皇と一緒にいたのは単なる墓参りのお供だって言ってもちっとも信じなくて、困った」

 

 見込みがありそうな子供だ、と教皇は弟子の語る候補生に関心を持った。

 

「他はともかく、その者にはきちんと話せ」

 

 面倒そうに頷いた少年は、少なくとも翌日までその機会がないことに慰めを見出した。

 

 朝食の後、セージは自室に戻る少年と食堂を出た所で別れた。さすがにこの日は柱廊での講義も取り止めた。

 

「安静にしているのだぞ」

 

「分かってる」とおざなりな返事。

 

 セージは笑って癖の強い髪に手を置いた。「我が弟子ならば約束は違えるなよ」

 

 少年は身を固くして、けれど置かれた手を振り払うことはなかった。

 

          ◇

 

 ギリシャの日差しは強い。こまめに手入れをしないと植物はすぐに日に負けてしまう。

 

 庭で薔薇の手入れをしていた魚座の園丁は、遠くから自分を呼ぶ声に腰を伸ばした。近くで手伝っていた弟子もすでに立ち上がっている。手にした鋏を胸に抱いて、祈るように彼を見ている。ルゴニスは手に付いた土を払い、弟子を伴い声の主を出迎えに行った。

 

 待っていたのは教皇に庇護されている少年だった。候補生と同じ訓練用の服を着て、怒ったような顔で突っ立っている。毒に倒れた日から丸一日以上経ち、すっかり具合は良いようだ。

 

「よう、おっさん」

 

「黄金聖闘士に出迎えさせるとは大物だな、マニゴルド」と苦笑し、ルゴニスは歩みを止めた。

 

 彼と弟子が立つ場所は、庭へ続くアプローチ。魚座の住まいの一部である。翻って悪童の立つのは門の手前。道から住まいへ続く石畳の上とはいえ、魚座の世界の外側だった。

 

「体調はどうだ」

 

「もう平気さ」

 

「それは良かった。二人で心配していた」

 

 ルゴニスとマニゴルドは距離を置いて会話した。今までは訓練の行き帰りの挨拶のために平気で踏み込んできた門の内側へ、少年は一歩も近づこうとしない。男も招こうとしない。もう悪童が来ることはないだろうと思うと寂しくなり、アルバフィカは師の陰で俯いた。

 

「俺、今日は謝りに来たんだ。魚座の薔薇園がどうして立ち入り禁止になっているのか考えなかったから、あんたたちに迷惑を掛けた。ルゴニスのおっさんが優しいから、何かしくじっても大目に見てもらえるって図に乗ってたんだと思う。もう薔薇には近づかないから、それで勘弁してくれ」

 

 卑屈になるでもなく、同情を誘うでもなく、むしろ開き直って謝る。すでに教皇から事の経緯を聞いていたルゴニスは、少年がなぜ魚座の証とも言うべき薔薇に近づいたのかを知っていたが、あえて尋ねた。

 

「私の薔薇を使って何をしようとした?」

 

「俺が魚座の弟子だってことを、他の連中に示さなきゃならなかったから、その証拠に持って行こうとした。誰かに毒を盛りたかったわけじゃないんだ。あんたの責任問題になると思わなくて、それで勝手に……。悪かった」

 

「まだその証明が必要なのか」

 

「いや。もうおっさんの弟子のふりは無しだ」少年はうんざりしたように頬を掻いた。「俺、ジジイの弟子になっちまったから」

 

「爺?」

 

 不敬極まる呼びかたが教皇とつながらずに、一瞬ルゴニスは面食らった。

 

「そこは猊下とお呼びすべきだろう。この聖域を治められる方だぞ。周りへの示しが付かない。おまえたち二人の間でどう呼び合おうが勝手だが、周囲にどう映るかは重要だ。弟子になったのなら、己をもって師が評価されるということも弁えなさい」

 

「ん、気をつける」

 

 予想外に素直に頷くと、マニゴルドは男を真っ直ぐに見た。「まあそういうわけで、ルゴニスのおっさんにはもう世話にならないようにするから、今までありがとな」

 

「ああ。これからのおまえの成長を祈っているよ」

 

 小さな微笑みを残して、ルゴニスはその場を立ち去った。弟子に「手伝いはもういい」と言い置いて。

 

 アルバフィカは師の後ろ姿を見送り、それからマニゴルドを見やった。悪童はにやりと笑って手招きした。和解といこうじゃないか。そう言いたげだった。

 

 ほっとしたアルバフィカが駆け寄ったところで、いきなり肩口を殴られた。突然の衝撃によろめき、肩を押さえて相手を睨み付ける。するとマニゴルドは自分の肩をちょいちょいと指差した。同じ所を殴れと言うのだろう。アルバフィカは拳を固め、待ち構える相手を思いきり殴ってやった。ただし鼻面を。

 

 顔を押さえて涙ぐむ姿を見て、やはり肩か腹にすれば良かったと思ったがアルバフィカは高らかに言った。

 

「これで清算してやる」

 

 顔を覆っていたマニゴルドの両手を掴み、開かせると、彼は笑っていた。

 

「チャラな」

 

「チャラだ」

 

 アルバフィカも笑った。

 

 ひとしきり門を境に小突き合いをし、それにも飽きた頃、マニゴルドは帯に挟んでいた袋を取り出した。アルバフィカに出させた手に、袋の中身をバラバラと落とす。殻の付いた木の実だった。割れた殻の隙間からは薄緑色の実が覗いている。

 

「これは何だ?」

 

「フィスティキア・エギニスだってさ」

 

 ピスタチオだと教えられても、質素な食生活を送ってきた子供は実物を見たことがなかった。どうすれば良いのか分からず悪童を見ると、殻を剥いて緑がかった中身だけを口に放り込んでいた。アルバフィカも真似をして殻を割る。パチンと乾いた音を立てて実が飛び出してきた。塩味が付けてあった。

 

 二人はその場に座り込んでおやつを楽しんだ。マニゴルドは門柱の外側、アルバフィカは門柱の内側に寄りかかって、ピスタチオを剥く。

 

「どうしたんだ、これ」

 

「ダチに詫びに行くって言ったら持たされたんだ。俺も食いかた分からなくて困ってたら、おばさん実演してくれてな」

 

「おばさん?」ダチという言葉の意味も気になったが、自分のことを指しているのは理解できた。

 

「まあ、そのおばさん自身、俺との仲直り用に持ってきたんだけど、こいつ硬い」

 

 殻に割れ目のほとんど入っていない実に苦戦している。アルバフィカはその実をもらうと石の上に置いて、手に持った小石で砕き割った。バラバラになった実を拾い食べる美少年を眺めて、悪童は感嘆した。

 

「豪快だな」

 

「何が」

 

 鷹揚に首を傾げるのを見てマニゴルドは笑った。そして「もう行く」と腰を上げた。慌ててアルバフィカも立ち上がった。不安げな目をするので、マニゴルドはこの前言いそびれたことを伝えた。

 

「またな」

 

 しばらくしてルゴニスが様子を見に来ると、弟子は石畳に散らばったピスタチオの殻を掃き集めていた。その顔がとても上機嫌だったので、彼は声を掛けずにそっと庭に戻った。

 

          ◇

 

 魚座の住まいを辞したマニゴルドが向かった先は訓練場だった。訓練が始まってから既にだいぶ経っており、少年たちの動きは活発なものになっていた。教官役に一日休んだことを詫びると、相手は腕組みをしたまま頷き、彼が訓練に加わることを許した。顔馴染みとなった同年代の候補生が、そっと話しかけてきた。

 

「昨日どうしたんだよ」

 

 前日は顔を見せず、この日も訓練開始の時刻に間に合わなかったから、誰もがもうマニゴルドは来ないものと諦めていた。後で話すと彼は答え、その場は受け流した。

 

 訓練の後、候補生たちはマニゴルドの周りに集まった。前日に休んだ時は、その理由について皆で憶測したものだ。魚座の弟子というのが嘘だから顔を出せないのだと嘲笑う者もいた。師である黄金聖闘士に叱られたのではと心配する者もいた。誰が正しかったのかがここで分かる。四の五の言う者もあったが、結局は彼らにとって謎の存在、雲の上の黄金聖闘士について知る絶好の機会だったのだ。

 

「それで、魚座様の弟子だっていう証拠は」

 

「無い」悪びれずにマニゴルドは答えた。「俺、魚座の弟子じゃないんだ」

 

 一瞬、沈黙が場を支配した。

 

「……なんだ。結局嘘吐いてたのかよ」

 

「余計な見栄張りやがって」

 

「期待させて悪かったな。途中から引っ込み付かなくて。本当は俺、教皇の弟子なんだよ」

 

 そう言ってへらへら笑う姿に候補生たちは失望した。こんな軽薄な嘘吐きが教皇と繋がりがあるはずがない。彼らは事実究明にも興味が失せて、訓練場を去っていった。去り際、腹立たしさに任せて突き飛ばす者があっても、マニゴルドは笑い続けていた。

 

 やがて訓練場には彼ともう一人だけが残った。マニゴルドは深く息を吐き出して、笑いを消した。「おまえは帰らねえの」とその候補生に向き直る。

 

 それは最初に彼と教皇との繋がりを疑った候補生だった。他の者が去るのを待っていたらしく、ぼそりと尋ねてきた。

 

「本当のことを聞いていない」

 

「おまえ、耳の穴詰まってんじゃねえ?」

 

 背の高い候補生を見上げて、マニゴルドは薄く笑った。相手は怒りも苛立ちもせず、ただじっと彼を見下ろしていた。

 

「さっき言ったこと、あれが事実だよ。俺が教皇に近いっていうのは本当。でもそれは隠すことになってて、外向きには魚座のおっさんに仮の師匠になってもらってた。だから一昨日の時点では、俺が魚座の弟子だっていうのも本当だったわけ。でも魚座の秘密を持ち出そうとして下手打って、結局仮の師弟関係はご破算。代わりに教皇が俺の師匠になって繋がりを隠すのも止めになった。それで本当のことを話したら、皆から嘘吐き呼ばわりされるようになりましたとさ。おしまい!」

 

 説明の間、黒髪の候補生は反応らしい反応を見せなかった。聞いているのかこいつ、とマニゴルドは不安になった。候補生は短い問いを発した。

 

「昨日は?」

 

「ああ、下手打ったって言っただろう。毒にやられて寝てた」

 

「毒」

 

 さすがに驚いて目を見張る。それに留まらずいきなりマニゴルドの腕や首を調べようとしたので、もう治っていると振り払った。候補生の顔に悔いが浮かんだ。自分が衆目の中で疑いを口にしたことで、マニゴルドを追い詰めたのだと理解したからだ。

 

「すまん」

 

 深々と頭を垂れて謝る律儀さに、マニゴルドはむしろ呆れた。どうしてどいつもこいつも、俺のしでかしたことに自分の責任を感じるのだろう。関係ないのに。そう思った時にふと頭をよぎったのは、セージに諭されたことだった。

 

『振る舞いの先には自分以外の誰かがいることを考えろ』

 

 これも、その一つなのだろうか。 

 

「べつにいいさ。おまえが切り出してくれたお陰で、ジジイは俺を弟子に認める羽目になった。でもさ、どう思う? 俺みたいな奴が教皇の弟子っていうのは、やっぱりおかしいか」

 

 候補生はまじまじと彼を見つめ、ようやく言った。「分からん」

 

 長々と考えた揚げ句にそれか、とマニゴルドは思ったが、否定的な答でなかっただけで気分が良かった。

 

「まあいいや。ところで、謝らなくてもいいけど、おまえのせいで俺はこれから嘘吐き小僧扱いされるんだから、何かあった時はよろしく頼むぜ」

 

 じゃあな、と片手を上げて帰ろうとすると、

 

「おまえは嘘吐きじゃない」

 

と無愛想な声が背中に掛かった。やっぱりよく分からない奴だと悪童は思った。嘘吐き呼ばわりされるのは自分のせいではないから助けないという予防線か。だが帰ってそれをセージに話したら、溜息を吐かれて懇々と諭されてしまった。

 

 

 マニゴルドが魚座の黄金聖闘士の弟子だという噂は、本人の告白によって完全に打ち消された。代わりに広まったのは、教皇の弟子という事実ではなく、とんでもない嘘吐きという悪評だった。当人は覚悟していたことで、訓練で孤立しても平然としていた。そしてその評判も、マニゴルドの帰り道を尾けた子供たちによって、数日で曖昧なものになった。黄金聖闘士の従者でもないのに毎日十二宮に出入りしているのだから、少なくとも黄金聖闘士以上の者に縁があると考えるのが自然だった。

 

 けれど彼には、教皇に師事する者として期待される要素があまりに少ないように見えた。体は小さく、小宇宙には未だ目覚めず、彼の異能を知らない者たちの目にはただの子供にしか映らなかった。

 

「あれはただの嘘吐きさ」

 

と、ある者は嘲った。そうすることで己の知る無謬の教皇像を守ろうとした。

 

「あれは弟子じゃなくて従者見習いだろう」

 

と、ある者は事実を捻じ曲げた。そうすることで己が公正なところを見せようとした。

 

「あれが弟子なら俺だって猊下の弟子だ」

 

と、ある者は茶化した。そうすることで全てをひっくり返そうとした。

 

「あれは幸運を掴み取った」

 

と、ある者は呟いた。その声には嫉妬と羨望と、教皇への落胆が入り混じっていた。

 

 結局のところ、教皇自身が声明でも出さない限り、確かなことは彼らには分からないままだった。

 

 マニゴルドに対する風当たりがそれから強くなった。けれど当人は飄々としたもので、理不尽な仕打ちを受けても、決してセージに泣きついたりしなかった。訓練にも欠かさず参加した。

 

 彼にしてみれば、悩んだり他人を貶めようとする余裕があるのは、毎度の食事にありつけて、屋根のある所で眠れる者だけに許された特権だった。まして生死を見つめて諦観している身には、加害者を憐れむ余裕さえあった。

 

 要するに「こいつら暇だな」としか思わなかったのである。

 



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星と糸杉

 

 獅子座の黄金聖闘士をマニゴルドが見かけたのは、まだ周囲の風当たりが強まる前のことだった。

 

 日が傾きかけ、砂っぽい訓練場を黄色く照らしていた。組み手の終わった候補生の一人が、ふと訓練場の外を歩く男に気づいて「イリアス様だ」と声を上げた。その呟きに他の候補生も一斉に反応した。

 

 獅子座の黄金聖闘士は、仁・智・勇を兼ね備えた最強の戦士として名を轟かせていた。もう一人の黄金聖闘士が隠者のような暮らしをしているので、評判はより一層イリアスに集中した。外部任務で各地を飛び回っているという話で、聖域に滞在していることは滅多になかった。そんな、聖闘士の理想像として名を挙げられる幻の人物がすぐそこにいる。少年たちの興奮ぶりは尋常ではなかった。

 

 どんな奴が来たのかと、マニゴルドも彼らの後ろから窺ってみた。だが遠目に見えたのは普通の男だった。興味を失いかけた時、横に黒髪の候補生が佇んでいたことに気づいた。魚座の弟子ではないと白状してからというもの、マニゴルドとまともに口をきいてくれるのは、事情を打ち明けたこの候補生だけとなってしまった。その候補生にあれは誰だと尋ねた。

 

「獅子座のイリアス様だ」

 

 その声が聞こえたかのように、イリアスが少年たちの騒ぐ訓練場のほうを振り向いた。

 

 ぐんと引っ張られた。

 

 否、そのような感覚を覚え、マニゴルドは身構えた。イリアスとの距離が縮んだ気がした。

 

(こちらを見ている)

 

 殺気ではない。ただ見ているだけだ。それなのに腹の奥がざわつくような居心地の悪さを感じた。目力とでも呼ぶものだろうか。隠れる所はないから、代わりにいつでも逃げ出せるように足に力を込めた。隣では黒髪の候補生が深く一礼したまま動かない。

 

 イリアスはすぐに目を逸らし、どこかへ歩いて行った。マニゴルドは緊張を解き、隣の候補生は頭を上げた。他の少年たちと比べると、彼ら二人だけが異質の反応を取っていた。

 

「獅子座……今まで聖域にいなかった人か?」

 

 今の男をセージから紹介されていないことを思い出し、マニゴルドは尋ねた。黒髪の候補生は頷いた。

 

「数日前にお戻りになったとは耳にしていた。きっとシジフォス様が射手座を継がれるのに合わせて戻られたのだろう」

 

 この少年にしては珍しく、熱を帯びた声だった。

 

「シジフォスってのは?」

 

「俺の尊敬する人だ。イリアス様はシジフォス様の兄君だ。兄弟揃って黄金聖衣を拝領するのは、とても凄いことなのだそうだ」

 

「へえ」

 

 教官役が少年たちを呼び戻したので、その話はそこで打ち切りとなった。

 

 訓練を終えると、近くの宿舎に戻るだけの候補生たちと違い、マニゴルドは山の上まで続く長い階段をひたすら上らなければならない。空腹を抱えた子供にはなかなかの苦行であった。

 

 十二宮の中盤に差し掛かった頃、名を呼ばれた。顔を上げると見間違えるはずも無い、教皇の兜を被ったセージが佇んでいた。

 

「お師匠」

 

と呼ぶのは実はまだ少し照れが残る。けれどセージがいつも穏やかに受け止めてくれるのでだいぶ慣れた。この時もセージは手を広げて弟子を迎えてくれた。

 

「何でこんな所に?」

 

「おまえがまた途中で眠り込まぬようにだ」

 

「もう無えよ」

 

 訓練に参加し始めた頃のことを蒸し返され、悪童は口を尖らせた。そういえば、ここは休憩がてら居眠りをして、セージに連れて帰られた、正にその場所だった。

 

「まあそれは冗談よ。この上の宮に守護者が戻ったから、おまえを紹介しようと思うてな」

 

「イリアスって人のことか」

 

「知っておったか」

 

「さっき候補生の連中が騒いでた」

 

「数日前に聖域に戻ったのだが、その後も出たり入ったりの風のような男でな。いつまた出て行くかも分からぬ。急ぐぞ」

 

「すぐ出て行くなら挨拶しなくても良いんじゃ」

 

「馬鹿者」

 

 二人は古代の建築様式をそのままに残す神殿を抜けた。空っぽの建物はただの通路でしかない。そしてその先の階段を上ると、主の戻った獅子宮が待ち構えていた。

 

 ルゴニスがそうしたように、イリアスもまた守護者として宮の入口で教皇を出迎えた(実のところ、上から下りてきた教皇の通過を見送って、そのまま待機していたのだが、マニゴルドが知る由も無い)。その服装は質素だったが、揺るぎない堂々とした態度にはセージとは異なる威厳があった。

 

 イリアスは少年を見下ろした。視線に引き寄せられる恐怖を予想し、マニゴルドは身構えた。だが何も感じなかった。男の視線は彼に寄り添う教皇に移った。

 

「こちらが猊下の」

 

「我が弟子、マニゴルドだ」

 

「どうも」と会釈をしたら、背中を師に叩かれた。真面目に挨拶しろということだ。しかし教皇の弟子として堂々と名乗るのは照れ臭いし、丁寧な挨拶の仕方は分からない。「初めまして」そう言うのが精一杯だった。

 

 イリアスはふっと微笑んだ。

 

「下で会っただろう」

 

「なんだ。やっぱり見てたんだ」マニゴルドもニヤリと笑い返した。

 

「目に付いた。麦穂の中に糸杉の若苗が二本」

 

 意味が分からず瞬きしている弟子には構わず、セージは「糸杉か」と唸った。

 

 若い成長力を喩えるにしても、死の象徴とされる樹木をイリアスほどの男が偶然に選んだとは考えにくかった。なにしろマニゴルドは死者と語らい、魂と戯れることができる。それを仄めかしているとも取れた。

 

「これはともかく」と弟子の肩に手を置いて「もう一本は何ゆえに糸杉か」と尋ねた。

 

「星に届くほど高く育ちますゆえに、二本とも」

 

「ならば重畳」

 

 禅問答のような会話をする大人たちを、少年は間抜けな顔をして見上げるしかなかった。

 

 次にイリアスを見かけた時には、マニゴルドを取り巻く環境はすでに変わっていた。

 

 マニゴルドは墓場にいた。

 

 たまに誰もいない所で一息つきたくなると、墓が立ち並ぶ静かな丘に寄って時を過ごすのだった。どこまでも続く無言の墓標の中に座り込んでじっとしていると、自分までその一つになった気がする。さて、誰の墓だろう。

 

 沈んでいく夕日を眺めるのにも飽きて、マニゴルドはぐるりと首を回した。視界の端に人影が見えた。人影は丘を抜け、聖域の外れへと歩いていく。その横顔には見覚えがあった。変わり者の獅子座だ。少年は立ち上がって男の後を追った。どこに行くのか知りたいだけの、単純な好奇心だった。

 

          ◇

 

 イリアスも、墓場からついてくる者がいることに気づいていた。それが教皇の弟子だと思い出したのはだいぶ後になってからだったが、彼は追う者の好きなようにさせた。行き先を隠す必要は感じなかった。彼は聖域の外れまで行き、その先に広がる荒野へと出て行った。

 

 少年が立ち止まった。聖域の境界には、目に見える柵や塀が巡らされているわけではない。けれど確かに境目が存在する。イリアスはそれを越えた。同じ事を他の者がすれば聖域脱走の罪に問われかねない行為だ。

 

 もうついて来ないだろうというイリアスの予想に反して、少年もあっさりと境を通り越してきた。教皇の弟子にしては規範や慣習といったものに頓着しない少年に、彼は初めて興味を持った。ただ無鉄砲なのかも知れないが。

 

 日の名残が消える前に、ようやくイリアスは足を止めた。焚き火の跡が地面に黒く残っているのは、彼が以前にもここで野宿したことがあるからだ。彼は時々こうして聖域の外に休息を求めた。

 

 野宿の準備をしている間に少年も追いついてきて、彼のすることを遠巻きに眺めていた。手伝うでもなく何かを喋るでもなく、しゃがみこんでじっと見ている。

 

 火打石を取り出したイリアスは荷物を手探った。火口(ほくち)がない。いつも使っている襤褸を切らしているのを忘れていた。火を起こすには、薪よりも先に火口で火種を作る必要がある。

 

 服の切れ端を解そうか、それとも獣毛でも探しに行こうかと思案していると、少年が寄ってきた。どこで拾ったのか古い鳥の巣を持っていて、それを差し出した。イリアスは巣の内側に残っていた羽毛を使って火を熾した。

 

 小さな焚火が燃え上がると、少年は当然のようにその場に腰を落ち着けた。遅ればせながら、彼が聖域外にまでついてきたことを教皇に念話で伝えると、好きにさせておけと返ってきた。教皇が放任主義である恩恵を一番受けているのは、誰あろうイリアスだ。異議を唱えられる立場にない。

 

 胡麻をまぶしたパンを半分にして分け与えると、少年は少し迷ってから受け取った。塩味の強い、堅めのパンだった。

 

 簡単な、食事とさえ呼べない時間が終わると、二人は火を囲む石と化した。

 

 崩した鳥の巣を時折火にくべる。その時だけは火の粉がちらちらと舞い上がった。

 

 少年が服の間から何かを取り出した。小石に似たそれを火に投げ入れようとするのを横から取り上げた。小さく丸められた紙だった。広げて皺を伸ばしてみると、走り書きが書き殴ってある。目を通してそのまま燃やした。粗悪な紙はすぐに灰になって消えた。二人はじっとそれを見ていた。

 

「なぜついて来た」

 

 不意に話しかけられ、少年は夢から覚めたように顔を上げた。

 

「聖域に愛想が尽きたか」

 

 燃やした紙には少年を非難する言葉が連ねられていた。己に向けられた言葉を少年がどこまで読めたかは、分からない。ただその表情からイリアスが想像するだけだ。

 

 聖域は聖人や賢者の集う場所ではない。女神や教皇や聖闘士といった燦然たる上澄みの下には、無名の人間たちが泥にまみれて喘いでいる。

 

 少年が不思議そうな顔をしたので、もう一度繰り返した。すると軽く頭を振って「愛想尽かすほど期待してない」と答えた。そして問い返した。「おっさんこそ、聖域と関わるのはうんざりだって顔してるけど」

 

 イリアスは無言で応えた。

 

 実を言えば、今回の帰還で彼は聖衣の返上を、つまり聖闘士としての引退を申し出るつもりだった。彼がいなくても、これからは弟のシジフォスが代わって教皇と聖域を支えるだろう。シジフォスだけではなく、それに続く若者たちもいる。彼らを見守る年長者のルゴニスもいる。

 

 彼は話を変えた。

 

「猊下がすぐにおまえを弟子としなかった理由を知っているか」

 

「面倒が起きるからって」

 

「そうだ。聖域は力が物を言う。それでおまえの身を案じられた。あらゆる可能性を考えて、それに囚われておいでだった」

 

「心配性ってこと?」

 

 少年は膝を抱えて火を見つめた。火がはぜた。

 

 弟子のいないイリアスは、この件に関して口を挟むつもりはなかった。それでもこうして言葉を掛けたのは、教皇の人としての孤独を垣間見たからだった。教皇を支える者は多い。けれどセージと繋がりを持つ者は何人いるだろう? それを考えるとき、この少年は大きな意味を持っていた。

 

「守られる我が身を不甲斐ないと思うなら、真っ直ぐに星を目指せ、糸杉よ」

 

 イリアスが空を指差すと、それを追って少年も頭上を仰いだ。

 

 月が地上を照らしている。

 

 星はその光に遠慮して、密やかに空を彩っていた。

 

「帰るよ」

 

 唐突に言うと少年は腰を上げた。

 

「一人で帰れるか」

 

「大丈夫。夜は俺の世界だ」

 

 そう言って少年は薄く笑った。

 

「聖域はあちらだ。月がおまえの背を押してくれる」

 

 分かったと頷いて、少年はイリアスの示した方角へ歩き始めた。こうして話す機会はおそらくもう無い。それを思い出したイリアスは、小さな背中に声を掛けた。

 

「セージ様を頼むぞ」

 

「それ、俺みたいなガキに言うことかよ」

 

 ケラケラと笑いながら、少年は淡い月明かりの果てに姿を消した。

 

          ◇

 

 荒れ野を抜け、墓の広がる丘に戻ってきたマニゴルドは、宙を舞う魂の光を見た。

 

 鬼火は少年の側をくるくると回った後、ついと離れて彼の行く先へと飛んでいった。その光に導かれて彼は丘の上に佇む師の姿を見つけた。舞い遊ぶいくつもの魂が特徴的な兜を青く照らしている。

 

「ただいま」

 

 悪びれない弟子を、セージは黙って受け入れた。

 

 青い光を灯火代わりに二人は丘を歩いた。彼らの足元で留まったり先に飛んでいったりするそれらは、子犬がじゃれるようだった。

 

 教皇宮に戻ると、マニゴルドのために食事が用意されていた。この食卓にも胡麻を表面にまぶした環状のパンが置いてあった。塩の利いたパンは、イリアスが分けてくれたものと同じ味がした。

 

 少年は少し考えてからパンを半分に割った。片割れをセージに差し出すと、老人は穏やかに微笑んだ。捧げ持つように受け取って、

 

「ではイリアスの代わりに」

 

と一口食べた。

 

 食事の時間までに帰らなかったのになぜ叱らないのか。どうして墓場で彼を待っていたのか。どこへ行っていたのか聞かないのか。マニゴルドは師匠に確かめたいことがいくつもあった。

 

 けれど今の笑みと言葉で彼は悟った。師は全て知っているのだ。誰と一緒にいて、何を話したのかを。その証拠に彼が「俺、強くなりたい」と言い出した時にも少しも驚かなかった。

 

「では明日からの鍛錬は少し厳しくなるぞ」

 

「望むところだ」

 

 セージは嬉しそうだった。それを、弟子が弱いままでは困るからだろうとマニゴルドは思った。だが老人は、彼が何かを求めたことこそが嬉しかった。

 

 獅子座の黄金聖闘士と教皇の弟子が言葉を交わしたのは、この夜が最後だった。イリアスは弟が射手座の黄金聖衣を拝領したのを見届けると聖域を離れ、二度と戻らなかった。

 



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教皇宮の人々

 

 セージの教えは体術中心に切り替わった。自分の置かれた状況を肌で理解しているマニゴルドは、よくそれに付いていった。

 

 教皇自らが手ほどきをしていると聞いて、神官たちはあまりいい顔をしなかった。そこを、自らの拳で女神に仕えるのが聖域にある者の本分であるとセージは押し切った。聖闘士の正論には神官も従うしかない。けれど引き下がることと納得することは別物だ。表面上はともかく不満を抱えたままの神官たちに、弟子を取って教皇は腑抜けになったなどと陰口を叩かせる気はなかったので、セージはより一層執務に励んだ。言うまでもなく弟子との時間も確保しなければならない。お陰で息つく間もなくなかったが、覚悟の上だった。

 

 二人にとって幸いだったのは、教皇宮の使用人が積極的な味方でなかったにせよ、静観していてくれたことだ。彼らまで敵に回せばさすがにセージも頭を抱えていただろう。

 

 

【従者・一】

 

 夜も更けて、マニゴルドが自室に引き上げる時のこと。いつもなら椅子で見送るだけのセージは、思い立って弟子の後をついていった。

 

 元々は教皇の従者のために作られた小部屋は、今は少年の私室として使われていた。セージがこの部屋を覗くのは久しぶりだった。

 

「この部屋はどうだ」

 

「どうって、べつに。雨風を凌げる所でありがたいよ」

 

「寝台の寝心地は」

 

「おかげさまで朝までぐっすりさ」

 

 この頃になると、マニゴルドは誰かが起こしに来る前に身支度を済ませるようになっていた。だから寝ているところをセージが知らないと思っての発言だろう。浅はかというものだった。

 

「それは良かった。では、お休み」

 

 セージは部屋の隅に作られた毛布の巣に横になった。あっとマニゴルドが声を上げた。慌てて走り寄ってきて、師の服を引っ張る。

 

「そこは駄目だ、お師匠」

 

「何が駄目なのだ。おまえは朝までぐっすりその寝台で眠れば良いだろう。私はここで寝る」

 

 梃子でも動かない師の体を、巣から追い出すのを諦めて、少年は床に座り込んだ。セージは身を起こして彼と向き合った。

 

「嘘を吐きおって」

 

 マニゴルドのギリシャ語は上達した。文字の読み書きも進んだ。食卓での振る舞いも、見逃せる程度にはましになった。だが獣のように床で眠るくせだけは、聖域に来た当初から一向に直る気配がなかった。

 

 何度かその理由を尋ねたが、返ってくるのはいつも沈黙だった。そこでセージは塒(ねぐら)を乗っ取るという実力行使に出たのだ。

 

「なぜ寝台を使わない」

 

「……落ち着かないから」

 

 初めて沈黙以外の答が返ってきた。

 

「なぜ落ち着かない」

 

「柔らかくて気持ちがいい」

 

「寝るための場所だ。当たり前だろう。それの何がいけない」

 

「いざって時にすぐに起きて逃げられない」

 

「私は寝台で寝ているが、いざという時はいつでも起きられるぞ。それにおまえがどこで眠ろうが、起こさないで捕まえることもできる」

 

「無理だね。俺は気配ってやつに敏いんだ」

 

 せせら笑う少年に、試してみるかと持ちかけた。否やはなかった。

 

 翌朝、早速セージは気配を絶って隣室の戸を開けた。塒となっている棚と壁の隙間で、マニゴルドは寝息を立てている。いくら勘がいいとはいえ、所詮は常人。気づかれずに寝首を掻くことは容易い。

 

 寝息に合わせて規則正しく上下するその小さな体や髪に、青白い燐光がいくつか揺らいでいた。蝶が憩うようだ。死者の霊を寝ずの番に立てるとは器用な奴だとセージは感心した。誰かが近づけば、この霊たちが騒いで少年に知らせるのだろう。

 

 しかしここにいるのは、少年よりも霊魂を操るのに長けた者である。当人に気づかれないうちに番の霊を遠ざけ、そっと弟子の体を抱き上げた。

 

「起きろ、マニゴルド」

 

 すぐ近くから囁く声に、少年ははっと目を覚ました。その瞬間、己が負けたことを悟った。今いるのが寝台の上で、しかもすぐ脇に腰掛けている老人によって運ばれたのだと、確かめなくても分かった。

 

「お師匠狡いぞ。俺の見張りを消しやがったな」

 

「気配がどうとか偉そうに言ったのはどの口だ。他人任せで眠りこけるのが悪い」

 

 枕に顔を埋めて、少年は己の不覚を悔しがった。寝癖の付いた髪を撫でて、セージは、

 

「何度やっても同じだ。おまえごときが警戒しなくても、ここでは誰もおまえを追い払ったりしない。先に私が気づくからな。観念して今夜からは寝台を使いなさい」

 

と諭した。

 

 マニゴルドは沈黙した。師の気配に気づかなかったことは認めるが、逆はどうだろう。こっそり近づかれれば師だって気づきはしないはずだ。

 

 そう考えているのがありありと見て取れたが、セージは「ちなみに年寄りは眠りが浅いからな」とだけ忠告した。

 

 少年は師の寝首を掻くべく行動を始めた。

 

 セージの就寝は遅い。彼が寝付くまで夜更かししているのは、昼の訓練で疲れている子供には無理だった。そこで起きる前を狙うことにしたのだが、夜明け前から始める朝の勤行のために、セージは起床も早い。

 

「いつ寝てるんだよ、あのジジイは」

 

「瞑想のお時間じゃあないかね」

 

 苛々と爪を噛むマニゴルドの横でのんびりと答えたのは、教皇の身の回りの世話をしている従者だった。若い頃は聖闘士を目指して修行していたという話だが、今は腰の曲がりかけた只の年寄りである。

 

「瞑想って、いつやってんの」

 

「たしか昼下がりだったような。まあ俺はお見かけしたことがない」禿げ上がった頭をつるりと撫でて、従者は言う。「教皇宮の表のことはよう知らん」

 

 教皇が日中を過ごすのは教皇宮の公的な場所だ。マニゴルドも近づけない。

 

「仕方ねえな。ナーゼルのじいさんが起こしに行く時って、お師匠はまだ寝てる?」

 

「もうお目覚めされとるが、横になったままだよ。俺の仕事を残しておいてくださるのさ」

 

 ナーゼルというこの従者は、主人の連れてきた浮浪児に対して負の感情を抱かなかった。もちろん当初は少年の不遜な態度に怒りを覚えたが、主人がそれを許しているので諦めた。

 

 肩を並べて柱廊に座り、弟子に話しかける時の穏やかな小宇宙。弟子の他愛ない話に見せる微笑み。法衣を着て教皇の兜を被っていても、セージは寛いでいた。

 

 そんな主人を見てナーゼルは思ったのだ。ああ良かった、と。

 

「それじゃ明日は、俺がいいって合図するまでお師匠の部屋に近づくなよ。あんたの足音で目を覚ましてるのかもしれないからな」

 

「分かった、分かった」

 

 主人の寝首を掻こうという不埒者に彼が協力する気になった理由は二つ。一つは教皇の暮らしを最も知っているのが彼だと少年が評価してくれたから。そしてもう一つは、この試みが失敗に終わると確信しているからだった。

 

 夜明け前の、朝よりもまだ夜が近い時刻にマニゴルドは塒から起き出した。音を立てずに戸を開けて、闇の中を慎重に歩いていく。寝台に横たわる人影にそっと近づき、枕許に立った瞬間。

 

「どうした」

 

 腕を掴まれた。思わず叫びそうになるのを寝台に押さえこまれて必死にもがく。が、押さえ込む力は強い。

 

「音を立てすぎだ、マニゴルド。足音、衣擦れ、呼吸、意識の配りかた。忍び込むつもりなら、何もかもなっていない」

 

 後頭部を押さえつけていた手が離れ、ようやく頭を上げられた。慌てて息を吸う。師は半身を起こして彼を見下ろしていた。部屋は暗くてその表情は見えない。

 

 少年は寝台に顎を乗せたまま、怖々と尋ねた。「お師匠、いつから」いつもの起床時間よりだいぶ早いのに、もう目を覚ましているとは誤算だった。

 

「戸を開ける前に深呼吸しただろう。その後も騒々しくするから目が覚めた。こんな早くに何の用だ。寝小便でもしたか」

 

「しねえよ!」小声で叫び、急いで理由を探す。「ええっと、その、弟子たる者、師匠より早く起きて朝の支度を手伝うものだって聞いたから」

 

「ほう」

 

 アルバフィカの受け売りだったが、セージの声が柔らかくなった。「気持ちはありがたいが、まだ寝ていなさい」そう言って頭を撫でようとする手を逃れ、マニゴルドは立ち上がった。

 

「じゃあ寝る。お休み」

 

「ああ、もう諦めてお休み。今のおまえに私の寝込みを襲うのは不可能だ」

 

「やってみなきゃ分からねえだろうが」

 

 もうやってみた後ではないか、とセージが苦笑するのを背中に聞いて、マニゴルドは自室に退散した。

 

 空の端が白み始めてからやって来た従者を、少年は廊下で待ち伏せていた。少年の恨めしそうな顔で、予想通りの結果に終わったことを従者は知る。

 

「先に言っとくが、俺は何もお伝えしとらん」

 

「いや、あんたがちくったとしか思えねえ」

 

「いやいや。お気づきになったのは猊下ご自身よ。俺は何も言っとらん」

 

 少年は彼を睨み付けると、くるりと背を向けて廊下を走っていった。ナーゼルは肩を竦め、いつも通り主人に起床時間を知らせに向かった。

 

 教皇は少し楽しそうな顔で「おまえが共犯か」と従者に声を掛けた。廊下のやりとりを耳にしたらしい。従者は「何のことでございましょう」ととぼけた。

 

 マニゴルドはセージの寝首を掻こうとしてそれが不可能だと散々に思い知らされ、逆に寝ている間に寝台に運ばれること数日に及んでから、ようやく観念した。

 

 

【料理人】

 

 教皇宮には専任の料理人がいる。女神に捧げる神饌(しんせん)と、女神の代理人である教皇が口にするものを作るのが役割だ。豪華な宴席のために腕を振るうことはないが、そのことに料理人の不満はない。ここは貴族の屋敷ではなく神の砦。己の役目を果たすことが、女神への供物となる。彼にとっては厨房こそが聖域だ。

 

 だから、目ばかりギラギラさせた子供が厨房の入り口でじっとしているのを初めて見た時は、すりこぎ棒を振るって追い払った。

 

「どこの野良犬だろうね」

 

「腹を空かせた命知らずの候補生さ」

 

 助手と笑い合った。そしてその少年が教皇に庇護された者だと後から知らされて、二人して青ざめた(教皇宮の使用人たちに少年が紹介された時、二人は忙しくて顔を出せなかったのだ)。殴らなくて良かったと心から思った。

 

 少年は数日後にまた厨房の入り口に現れた。助手が話しかけてもギリシャ語が通じない。何か盗み食いに来たに違いないとしばらく警戒していたが、ただ彼らの働く様子をつまらなそうに眺めていただけだった。

 

 次に現れたのは随分日にちが経ってから、昼過ぎに一息入れていた時だった。相変わらず痩せてひねた感じの子供で、愛想がなかった。睨まれているのも構わずに厨房に入ってきて、作業台や水甕を見ていく。竈に置いた鍋を覗こうとしたので、触るなと声を掛けた。鍋には鶏肉を仕込んである。少年は振り返った。

 

「これ、今夜の?」

 

 拙いギリシャ語で聞くので、頷いてやった。

 

「何ていう?」

 

「卵とレモン(アヴゴレモノ)のスープだ」鶏肉は出汁に使う。

 

「この前飲んだやつ? 鶏が骨ごと入った」

 

「タブック・チョルバスのことか?」

 

「あれがいい」

 

「てめえの好みなんか知るか、ガキ」

 

 己の言葉になぜか無性に怒りを掻き立てられた。料理人は椅子を蹴倒した。「こっちは教皇の御膳を作ってるんだ。陪食するのが嫌なら、てめえは残飯でも漁ってろ。でなきゃ教皇のありがたい聖水でも啜ってろ」

 

 助手がぎょっとして料理人を見やった。

 

「おい」

 

「構うもんか。どうせ通じてねえんだ。その証拠に、見ろあのツラ」

 

 料理人の見たところ、少年は平然としていた。その醒めた目が気に入らない。入り口を指差し、言った。

 

「出てけ。ガキの手がベタベタ触ったらヘスティアの竈が汚れる」

 

 竈は家庭の中心、そして犠牲を捧げる祭壇でもある。オリンポスの十二神の中では印象の薄いヘスティアであるが、この女神が司る竈は、古代ギリシアでは神聖なものとされていた。戦神アテナを奉じる聖域にあって別の神を崇める場所があるとすれば、それはここ厨房だった。

 

 少年は一度鍋を振り返り、涼しい顔で厨房を出て行った。

 

「どうしたんだよ急に。怒ることないだろう」と助手が気遣わしげに尋ねる。

 

「怒ってはいない」と料理人は答えた。ただ、教皇の威を借りて聖域を我が物顔に歩く者たちへの反感が、思わぬところで噴きこぼれた。それだけだ。「俺の献立をまともに知らないくせに、と思ってな」

 

 助手は曖昧な表情で竈の前に立った。「どうする、これ」

 

「……卵とレモンは無しだ」

 

「つまりタブック(丸鶏)だけだな」

 

 少年には悪いことをしたと、料理人は冷えてきた頭で思った。もしまた厨房にやってきたら、好きな料理を聞いて、それを作ってやろうと決めた。

 

 しかし何日経っても少年は現れなかった。

 

 

【下働き】

 

 教皇宮は女神の神殿に次いで重要な場所である。床は常に掃き清められ、柱は常に磨き上げられている。その入り口に立つ者は建物の荘厳さ、厳粛さに身を引き締める。足を踏み入れる前から、聖闘士を束ねる者がどこにいるかを思い知らされるのだ。

 

「掃除が大事なのは分かったよ。でもさあ」

 

 箒の柄に寄りかかるようにしてマニゴルドは口を尖らせた。「こんな中庭なんか誰も来ねえよ。もう少し掃除の間隔空けても怒られないんじゃねえかな」

 

「馬鹿か、小僧」

 

 石段に溜まった塵を集める手を止めず、その使用人はマニゴルドの言葉を切り捨てた。「見る人の少ない場所こそ綺麗にするんだ。顔が別嬪でも背中が汚い女だったら興醒めだろう? 股の所に赤黒い発疹があったら、本当はナポリ病じゃなくてもぎょっとするだろう?」

 

「そこはフランス病って言えよ。大体ガキ相手に何て例え話だよ」と少年は苦笑した。ナポリ病もフランス病も、ともに梅毒を指す。「教皇宮でこんな話してるって知られたら、お師匠が目を白黒させるぜ、きっと」

 

 名前の書きかたを教わったのが嬉しくて、あちこちの地面に練習する内につい興に乗って描いた落書きが下品だとマニゴルドが叱られたのは、少し過去のことになる。罰として命じられた庭掃除を実際に監督したのが、今マニゴルドと話している男だった。使用人の中では最も年若い。

 

「そうかな。教皇様は寛大な方だから」

 

 あのとき落書きを見て思わず笑いたくなったのを、男は覚えている。処女神の降臨する聖なる場所に、なんと卑俗でなんと馬鹿げたものを描いたことか。小さな反逆とさえ言えた。使用人に過ぎない男にはとても考えつかないことだった。

 

 もし聖闘士が同じものを描けば、聖闘士への怒りを覚えただろう。神官が描いたものならば、神官への不信を抱いただろう。だが犯人は、そのどちらでもなかった。だからおかしかった。そして女神の代理人は犯人を庭掃除で許した。それがまた愉快で、男は悪童を歓迎した。

 

 今やマニゴルドは教皇の弟子だという。けれど艶笑ものの話を好み、悪態を吐く姿は悪童のままだ。師の言いつけに従わなかった罰として、こうして庭掃除もさせられている。けれど教皇と一介の使用人の両方に同じ調子で喋りかけることを誰も止めさせられない。神話めいた世界にある聖域と猥雑な地上との両方が、彼のいる場所だ。聖と俗。貴と卑。違う世界に同時にいる。

 

 掃除が終わった。使用人の見ている前で、少年は綺麗に掃き均したばかりの地面にまた署名を刻んだ。マニゴルドとはどういう意味かと以前から気になっていたことを尋ねた。少年は適当なギリシャ語を探して考え込み、ああ、と顔を上げた。

 

「死を与える者」

 

 そう呟いた声には一切の感情がない。ただ世界の狭間に落ち込む余韻だけがあった。

 

 けれど続けて「いい名前だろ」と笑ったのは、いつもと変わらぬ悪童の顔だった。使用人もなんとか笑って頷けた。

 

 

【神官】

 

 聖闘士と教皇が対面する場は「教皇の間」と決まっている。その場に控えて対面内容を逐一記録していく書記の役目は、神官の地味ながら重要な務めだった。

 

 この日の書記を務める神官は、特に抱えている仕事もなく、かといって同僚の仕事を手伝う気にもなれなかったので、教皇の間の片隅でしばらく休憩することにした。次の謁見が行われるまでは小一時間。その場所を選んだのは、休憩を終えても移動しなくて済むからだった。

 

 彼が通用口から教皇の間に入ろうとした時だった。扉を開けた途端、声が飛んできた。

 

「やみくもに動くな!」

 

 思わず硬直した。

 

「腕を振り回せばいいというものではないぞ、マニゴルド」

 

「分かってるよ」

 

 やけくそ気味の子供の声と、それを指導する深い声。教皇とその養い子のものだと分かって、神官はそっと教皇の間に入った。玉座の後方にある通用口付近からは、広間の様子を窺うことが出来る。

 

 広間にいたのは二人きり。教皇は法衣の長い袖や裾をものともせず、少年の動きを受け止めている。候補生に交じって指導を受けている少年の動きはそれなりに鋭い。それを、癇癪を起こした子供をあやしているかのような調子であしらっている。

 

 ぴしゃりと音がして、少年が腕を押さえ込む。教皇が打ったのだと想像はできたが、全く見えなかった。

 

「痛ってえ」

 

「違うと言っておろうが。私の動きを見ろ」

 

「お師匠の動きなんかずるずるの服で何も見えねえ」

 

「まったく口の減らぬ……」

 

 教皇は弟子の背に回り、膝を付いた。背後から弟子の両腕を取り、ゆっくりと動かす。「おまえの動きかたはこう。正しくはこうだ」

 

 少年は不機嫌そうに頬を膨らませているが、おとなしく動きを追っている。「分かったか?」と肩越しに確かめられて、こくりと頷く。教皇はすらりと立ち上がった。

 

「よし。それではもう一度」

 

 二人は手合わせを始めた。

 

 教皇といえば、玉座にあるか、神殿で祈りを捧げている姿しか見たことのなかった神官には、目の前の光景が信じられなかった。教皇もまた聖闘士だという事実を思い出す頃には、二人の手合わせは終わろうとしていた。

 

 疲れて声もないまま床に大の字になった少年と違い、教皇は髪の毛一筋も乱れた様子はなかった。

 

「起きろ、マニゴルド」

 

 その声に甘さはない。謁見や評議のときと同じ、威厳のあるものだ。少年は荒い息をしたまま、教皇を見上げていた。だが不意に、バネ仕掛けのように跳ね起きて師に飛びかかった。教皇はなんなく受け止める。

 

「不意打ちか?」

 

 教皇の声に笑いが滲んだ。少年は抱きついていた法衣から顔を上げ、「うるせえ」と一歩引いた。

 

「ではそろそろお行き。途中で聖闘士とすれ違う時は挨拶するのだぞ」

 

「謁見に来るの? やだよ。そいつらがここに来るまで隠れてるもんね、俺」

 

「マニゴルド!」

 

「行ってきます!」

 

 逃げ出した弟子を見送り、教皇は一つ溜息を吐いた。そして玉座のほうを振り返った。「待たせたな。して、何用だ」

 

 神官は帳の陰から進み出た。

 

「恐れながら申し上げます。ここ教皇の間は女神を遙拝するに等しい、聖闘士にとっての特別な場所。猊下がご寵愛されているとはいえ、女神に身を捧げていない者が立ち入るのは、いささか好ましからぬ点があるかと――」

 

「女神か」

 

 柔らかいが重い響きに神官は口を閉ざした。教皇は玉座の上を仰ぎ見た。

 

「アテナは人を愛される。聖闘士であろうとなかろうと、良き道を歩もうとする限り、アテナの御許に集う資格はあると思うが」

 

「女神の御心は代理人たる猊下がもっともお詳しいということは存じております。されどご無礼を承知で申し上げます。これから謁見に参る聖闘士たちが、猊下があの者とここでお戯れになっていたと知って喜ぶでしょうか? あの者もそれを承知しているから、身を隠すことを選んだのではありますまいか」

 

 この神官にとり、教皇の間とそれを含む教皇宮はあくまで神聖な仕事場である。先の聖戦で教皇の間のすぐ近くまで敵が攻め込んできたことを知っているが、あくまで記録の中の出来事としてだった。

 

 聖戦を生き残った若いセージとその兄が、仲間たちの遺体を床に並べながら涙したこと。復興期には当時の聖闘士や神官が床一面に復興計画を広げて夜中まで作業し、そのまま皆で雑魚寝したこと。それら記録に残らないことがあったとは神官は想像もしない。生きてきた時代が違う。長さが違う。彼が生まれた時には、すでに教皇の間は厳粛な儀式の場だった。

 

 だから教皇にとっては、教皇の間も生活空間の一部であることなど、考えもしない。

 

 教皇は玉座に腰掛け、ゆっくりと裾を捌いた。

 

「そなたの言葉は、神官の総意か」

 

「我が愚見にございますれば、お怒りはどうぞ私のみに」

 

 低く頭を垂れた神官に言葉は掛からなかった。

 

 そのうちに聖闘士が到着した。神官は広間の隅に退いて、彼らのやりとりに耳を澄ませた。教皇の声や態度はいつもと変わらず、泰然としたものだった。

 

 謁見の後、教皇が神官に目をくれた。

 

「先ほどの件はそなたの言う通りだ。これからは控えよう」

 

「御意に」

 

 神官は満足して石筆を置いた。開け放たれた窓からは涼しい風が吹いてくる。彼はそれを清々しい気分で吸い込んだ。

 

 

【従者・二】

 

 当然のことながら「星見」は夜に行われる。

 

 教皇が星見を行うときは、従者はその足元を照らすカンテラを持ってスターヒルの麓まで同行する。そして教皇が下りてくるまでじっと麓で待機している。

 

 ナーゼルはセージの戻りを待ちわびていた。老いた身に夜の空気が冷たく凍みる。油が勿体ないから、カンテラの火は落としてあった。できることなら今すぐ部屋に戻りたいが、彼がここを離れることは許されない。従者がスターヒルの麓にいるということで、教皇の所在を明らかにする意味があったからだ。

 

 彼は上着をきつく身に巻き付けて、ただ寒さを耐えていた。そこへ軽い足音が聞こえてきた。教皇宮からの使い番かと見やると、暗闇の中から青い火が近づいてくる。ぎょっとして腰を浮かせた。

 

「よお、じいさん」

 

 生きてるか、と軽口を叩きながら現れたのは、教皇の弟子だった。青い火がすっと遠ざかって消えた。

 

「差し入れ」

 

「ありがてえ」

 

 少年から渡されたワインを瓶から直接呑み、美味い、と従者は呟いた。だろうよ、とマニゴルドは応えた。

 

「この酒どこから持ってきた」

 

「教皇宮の台所に決まってるだろ」

 

「そうか。料理人と話したんだな」聖域に来て間もない頃に彼が料理人と諍いを起こしたという話は、教皇宮の使用人は皆それとなく知っている。

 

「まさか」とマニゴルドは頭を振った。「俺が行った時、もう誰も台所にはいなかったからさ。ワインは黙って失敬してきた。まあいいじゃねえか。どうせ料理酒だって」

 

 盗み元が貯蔵庫でないのなら、盗みにはあたらないだろう。従者は酒瓶を呷った。

 

「ところで何しに来た坊主。まさか俺に差し入れ持ってきただけじゃねえだろう。猊下が下りてこられる時間なんて、俺には分かんねえぞ」

 

「でも今はこの上にいるんだろ」

 

 少年はスターヒルの切り立った崖を見上げた。丘《ヒル》とは随分控えめに呼んだものだ。崖の表面に削った石段のような筋があるのは見えるが、とても上まで登れそうにない。あの裾の長い服で老人がどうやって頂上までよじ登るのかと少年は目を細めた。

 

「おまえは登っちゃなんねえぞ」

 

 従者が念を押すと、少年はゆっくりと彼を見つめた。理由を問うその視線に彼は答えた。スターヒルに立ち入ることが出来るのは教皇のみというしきたりがあるからだと。

 

「つまり俺が聖闘士じゃないからとかそういうのじゃなくて、上に登れるのは教皇だけなんだな」

 

「そうそう。早い話が禁区よ」

 

 少年は息を吐いた。そして、別に何しに来たってわけじゃない、と呟いた。

 

「用が無いなら帰れ坊主。ここにいたせいでおまえが風邪引いたって猊下のお叱りを受けるのはご免だ」

 

「つれない事言うなよじいさん。俺、あんたの代わりにここで待ってようかって言おうとしたのに」

 

「代わりに?」

 

「俺の部屋からは星の丘が見えない。お師匠が嘘吐いて盛り場で楽しんでたらずるいと思って、本当に仕事してるのか確かめに来たんだ。そのついでにあんたを労ってやってるんだよ。年寄りにこの寒さはしんどいだろ」

 

「ありがとうな。でも俺は猊下の従者だからなあ。お側にいたほうが良い時もある」

 

「俺だってあのジジイの弟子だ。近くにいてもいいじゃねえか」

 

 なるほど、師に会いたくなって来たのか。合点がいくと、彼は子供のいじらしさに思わず笑った。「そうかそうか。それじゃあ二人で猊下をお待ちしてような」

 

 寒くないかと尋ねると、寒くないと少年は答えた。

 

 二人は喋るのを止めた。満天の星空が地上の影を仄かに浮かび上がらせている。青みを帯びた滑らかな天蓋に、無数の煌めきを散りばめて。

 

「じいさんは糸杉って知ってるか」

 

 唐突に少年が沈黙を破った。

 

「知っているとも。太陽神アポロンに愛された美少年が身を変えた木だそうな」

 

「…………他に何かない?」

 

「よく墓に植わってる」

 

 それは知ってる、と少年は不満そうな声を上げた。「星に届くとかそういう話はないのかよ」

 

「知らんな」

 

「なんだ、そっか」

 

 始まった時と同じように唐突に終わった会話に、従者は心許なさを覚えた。急いで付け加えた。

 

「とても背の高い木だ。槍みたいに真っ直ぐ空を目指して伸びる木だ」

 

 少年が地面に下りる物音がした。「いいね」という声の後に、足音がその辺りをうろつき始める。彼が何を思ってこの話題を持ち出したのか、従者は知らない。どうせ子供の好奇心だろう。だから黙ってワインを呷った。

 

 星がそれほど移動しないうちに、教皇がスターヒルから下りてきた。従者はカンテラに火を入れた。低く頭を垂れた彼の後ろに、部屋で寝ているはずの弟子がいるのを見ても、教皇は動じなかった。

 

「おいで、マニゴルド」

 

 寄ってきた子供の頬を己の手で挟み「冷えておるな」とセージは言った。マニゴルドは黙って、少しだけ笑った。教皇は溜息を吐いて、従者に「酒瓶はこの馬鹿者に持って帰らせろ」と指示を出した。教皇の戻る前に酒瓶は隠して匂いも散らしておいたのに、ワインのことは全てお見通しらしい。弟子と従者は顔を見合わせて俯いてしまった。

 

 カンテラに足元を照らされながら教皇は歩き始めた。瓶を両腕に抱えるようにして持った弟子が、それに遅れないように付いていく。

 

「お師匠、糸杉ってどんな木か知ってるか」

 

「殺してしまった鹿を永遠に悼むためにキュパリッソスという少年が身を変えた姿だと神話にはある。棺を飾るのにも使われるし、キリストの十字架も糸杉で作られたそうだ。神聖な木だ」

 

「前にイリアスのおっさんが俺を糸杉と呼んだ。星を目指せって」

 

「……おまえはそれを聞いてどう思ったのだ」

 

「やっぱり俺は墓場向きだなって」それから、と溜息混じりに言葉を継ぐ。「なれるなら聖闘士になりたい」

 

 教皇は立ち止まるだろうと従者は思った。だがセージは足を止めることなく、後ろを付いてくる弟子を振り返ることもなく、歩み続けた。

 

 

 

注:十字架の材木については糸杉ではなくレバノン杉の説もある。



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喜びと情熱について
子供の領分、大人の言い分


 

 弟子が聖闘士になりたいと願い出ても、セージは一度も首を縦に振らなかった。理由を聞いても駄目の一点張りで、水掛け論で数日を費やした。

 

「なんでだよ」

 

「獅子座の言葉でその気になっただけなら頭を冷やせ。星を目指せというのは、聖闘士になれという意味に限らぬ」

 

「きっかけは何でもいいじゃねえか。弟子が聖闘士になるって言ってるんだから、喜べよ教皇なら」

 

「私の顔を立てるためならその気遣いは必要ない」

 

「お師匠のためじゃねえよ、俺のためだよ。ここで暮らすなら、そのほうがいいと思ったんだ」

 

「ほう。聖域で暮らすための方便で聖闘士になると申すか」

 

 馬鹿者、とセージは弟子を見た。その視線の厳しさに打ち据えられたように身を固くし、それでもマニゴルドは師を見返した。

 

 教皇という権力者の庇護下にあることを、少年は卑屈に思ってはいない。己のことを悪し様に言われても気にすることはなかった。所詮は塵芥のような存在だ。しかしそんな取るに足らない存在のせいで教皇と神官の間に緊張が走っているとなれば、話は別だった。

 

 聖闘士になれば、師の側にいても誰も文句は言われないだろうと彼は考えた。師も同意見だと思った。強くなりたいと告げた時に喜んでくれたのは、つい最近のことだ。だから聖闘士を目指すことをセージに否定されたのがどうしても理解できない。己の道は己で決めよ、と聖域に入る前に彼に言ったのはセージだ。

 

(喜んでくれると思ったのに)

 

 思わず悔し涙が出そうになるのを深呼吸して堪え、少年は師に宣言した。

 

「俺は諦めねえからな」

 

 教皇宮の中庭を横切って去っていくのをセージは黙って見送った。

 

 マニゴルドは厨房に押し入ると、パンや果物、干肉などを手当たり次第に抱えて(泥棒だと料理人が叫んだが無視した)自室に戻り、必要な荷物をまとめた。そして教皇宮を飛び出した。

 

 少年は怒りのままに十二宮を駆け抜け、道と魚座の住居を隔てる境でようやく立ち止まった。

 

「アルバフィカ! いるか」

 

 少しして茂みの中から美しい少年が顔を出した。髪に葉が絡まっている。

 

「何の用だ」

 

「どこで糞してんだてめえは」

 

「おまえが切羽詰まった声で怒鳴るから近道をしただけだろう」

 

 二人は友人と呼べるだけの関係を築いていた。アルバフィカは悪童の荷物に気づき、急いで門のほうへ回り込んだ。何事かと問われてマニゴルドは告げた。

 

「家出してきた」

 

「家出?」

 

 大きな目を丸くする友人に頷き、髪についた葉を取り除いてやった。アルバフィカは詳しい話を聞こうと、庭のほうへ彼を案内しようとした。それを断って、マニゴルドは立ち話を続ける。

 

「クソジジイが考えを改めるまで教皇宮には戻らない。訓練には今まで通り参加するつもりだから、聖域にはいるけどな。クソジジイの知らないところで勝手に聖闘士になってやる。ざまあみろだ」聖衣を授けることができるのは教皇だけ、という事実をすっかり忘れている。

 

 興奮している友にアルバフィカは瞼を伏せた。教皇宮を出てきた足でやって来たということは、寝起きする場所を求めてのことだろう。その期待には応えてやれそうにない。

 

「悪いが……うちには泊めてやれない」

 

「分かってるよ、そんなことは」

 

 魚座の薔薇の餌食になるのも恐ろしいが、ルゴニスから教皇へ連絡がいくだろうことは容易に予想が付く。大人は頼れない。

 

「適当に屋根があって人が来ない所ならどこでもいいんだ。おまえ生まれた時から聖域にいるなら、どこか良い場所知ってるんじゃないかと思ってさ」

 

 アルバフィカは首を横に振った。聖域育ちと言っても、薔薇の庭以外の場所へ足を運んだことがない。頼られているのに役に立てないというのは、とても歯痒いことなのだと彼は知った。

 

「よし」とマニゴルドは彼の手を引いた。「それじゃ一緒に俺の隠れ家探しにつきあえや」

 

 有無を言わさず連れ出され、アルバフィカは怒ろうとした。けれどどうしても笑うのを我慢できなかった。マニゴルドもその笑顔を見て、つられて笑った。

 

 二人は聖域のあちらこちらを覗いて歩き、ついに忘れられたまま朽ちていきそうな納屋を見つけた。粗末な戸に鍵は付いていない。元浮浪児は慣れた身のこなしで中に入り込んだ。早く来い、と急かされてアルバフィカも慌てて入る。

 

 外から見た時は放棄されたとばかりに見えた納屋は、意外にも整頓され、現役で使われている様子だった。人の出入りが頻繁だったらどうしようとアルバフィカは心配したが、死角が多いから大丈夫だとマニゴルドは請け負った。入り口付近からアルバフィカは声を掛けた。

 

「どうだ」

 

「うん。俺一人なら余裕」

 

 奥から物を動かす音がして、埃まみれのマニゴルドが出てきた。預けていた荷物から毛布を取り出し、祭具らしき大きな道具の陰に巣を作る。アルバフィカはわくわくしながらそれを見守った。

 

「夜は大丈夫か? 蝋燭を持ってこようか」

 

「要らねえ。明かりが漏れるとバレやすくなる」

 

 その時、納屋の中に光が差し込んだ。誰かが戸を開けたのだ。二人は陰に身を潜め、息を殺した。足音が近づく。何かをドサリと置く音。僅かに間を置いて金属質の物が地面に当たる音。

 

「あ」

 

 声がして、気づけばマニゴルドは棚越しに相手と目を合わせていた。

 

 知った顔だった。マニゴルドが教皇の弟子だということが聖域に知られるようになった発端の候補生である。相手が唖然としているうちに、マニゴルドは「よう」と手を挙げて、道で会ったような挨拶をした。

 

 後にエルシドと呼ばれることになる候補生――ここでもその名で記すことにしよう――は、つられて片手を挙げると、自分のその動きは本意ではないと言いたげに仏頂面で手を下ろした。そして尋ねた。

 

「そこで何をしている」

 

 物堅い口調の存在に興味を持ったか、アルバフィカが顔を出そうとした。その頭を押さえつけながら、マニゴルドは唇の端を引き上げる。

 

「言えないな。知ればおまえも共犯だぜ」

 

「……何の」

 

「いいんだな、知っても?」と脅しを掛けて、それでも相手が退かないと知りマニゴルドは答えた。「しばらくここで暮らすことにした」

 

 エルシドは「追い出されたか」と言った。マニゴルドはむっとしただけだったが、アルバフィカが吹き出した。候補生の目が陰にいる存在に向けられた。

 

「そっちも」

 

「いや、こいつは俺の協力者」

 

と、悪童はそれ以上アルバフィカを隠すのを諦めて、彼を引っ張り出す。光が溢れるようなその美しさにエルシドは息を呑んだ。期待通りの反応にマニゴルドは内心ほくそ笑んだ。アルバフィカに愛想笑いを期待するのは無駄なので、とりあえず話を進める。

 

「おまえも今から協力者な。俺がここにいることは、こいつとおまえだけの秘密だ」

 

 唆すと候補生は案の定満更でもなさそうな顔になった。だが彼は真面目だった。

 

「しかし、おまえがここで寝起きするのは勝手だが、届けは出しているのか」

 

「は? そんなことしたら秘密が秘密じゃなくなるだろうが。俺はおまえとアルバフィカの二人が協力して俺を助けてくれるもんだと思ったのになあ」

 

「え、ルゴニス先生にも言っちゃ駄目か」

 

とアルバフィカが口を挟んだ。

 

「当たり前だろ。男ってのは秘密を背負って生きていくもんなんだぜ」

 

「なるほど」

 

 アルバフィカは納得すると、目の前の無愛想な相手に向かって手を差し出した。「では私たちは共通の秘密を背負うわけだ。仲良くしよう」

 

 相手が落ちるまでもう少し。マニゴルドは溜息を吐いて弱々しく付け加えた。

 

「悪いな。俺が教皇の弟子ってことが知られてなければ、こんな苦労もさせなくて済んだんだけどな……」

 

 落ちた。黒髪の候補生は天を仰ぐと、覚悟を決めた目でアルバフィカの手を握った。

 

「分かった。乗りかかった船だ」

 

 その後三人で物を移動させ、マニゴルドの寝床を見つかりにくくした。後から加わったエルシドは寡黙だがよく働いた。自分より小さな二人を見て、保護者役を買って出ようとしたのかも知れない。

 

 そこへ第二の闖入者が現れた。

 

「片付けか? 感心だな」

 

 朗らかに声を掛けられ、三人の少年は固まった。

 

「戸がきちんと閉まっていなかったから見に来たが、どうせなら開けたほうが明るくて作業しやすいぞ」

 

 納屋に入ってきた人物の視線は一番背の高い候補生から家出少年を経て、最後にアルバフィカに留まった。その途端、一声叫んで両目を腕で覆い隠したかと思うと後ろを向いた。

 

「済まん、顔は見ていない」

 

 マニゴルドはアルバフィカと顔を見合わせた。候補生が闖入者のところへ駆け寄った。彼の尊敬する人物だったからだ。

 

「シジフォス様」

 

「いやしかし、いくら幼かろうと、聖闘士の候補生であるならば仮面は付けるべきだな。それともこの二人には見せても良いという覚悟があるのか? ははは」

 

 なにやら独り合点している様子だ。彼らに背を向けて喋っている若者が、新任の射手座の黄金聖闘士だった。彼自身まだ少年と呼ばれる年代だが、少なくともこの場にいる中では群を抜いて年長である。マニゴルドは彼の背中に声を掛けた。

 

「シジフォスさんよ。これにはちょっと事情があるんだ。こいつのために、俺たちとここで会ったことは口外しないでくれねえか」

 

「私のために? どういう――」

 

 アルバフィカの口を押さえて、マニゴルドは仲間に目配せした。エルシドは躊躇いながらもシジフォスを納屋の外へ押し出した。

 

「ごめんなさい、シジフォス様。見なかったことにしてください」

 

「いや、謝らなくてもいい。事情があるなら無理には聞かないさ。でも、もし自分たちだけで対処できなくなったら私に言いなさい。他の者には黙っていてやるから」

 

 おそらく事情も状況も何一つ分からないままなのに、シジフォスは気にすることはないと候補生の肩を叩いて去っていった。彼が自分の言ったことを守る人間だということは、聖域ではよく知られていた。

 

 納屋の中では事情を悟ったアルバフィカが憤慨していた。

 

 聖闘士は「女神を守る少年」である。ここでの「少年」の定義は時代によって変わるが、性別が男ということは一貫して変わらない。しかし女に生まれながら聖闘士を目指す者も、少数ながら昔からいた。彼女たちは女を捨て、女神に忠誠を誓う覚悟を示すために仮面を付ける風習があった。

 

 つまり、シジフォスの口にした「仮面を付けるべき」という言葉は、アルバフィカを少女と勘違いしていなければ出てこないものだった。

 

「どいつもこいつも目が節穴の奴ばかりだ! ルゴニス先生は私を女だと間違えたことはないぞ」

 

 育ての親が性別を間違えるわけがないだろう、と思いながらマニゴルドは言った。「落ち着けって。おまえの顔が綺麗だから仕方ないんだよ」

 

「綺麗だからなんだ。役に立たないぞそんなもの。もっと実用的なのが欲しい。おまえも誤解を招くようなことを言うな。だいたい仕方ないとはなんだ。そこのシジフォス信者は、ちゃんと私が男だと分かっていたじゃないか」

 

 信者呼ばわりされたエルシドは「男だったのか」と意外そうに呟いた。「俺を愛してくれるのかと思って嬉しかったのに」

 

「どいつもこいつも!」

 

 アルバフィカの踏む地団駄で、床に埃が舞った。初対面で彼を少女だと勘違いした二人の少年は「落ち着けよ」と同時に言った。

 

 夕方になり協力者二人が帰ると、マニゴルドは寝床に転がった。夕食代わりの干肉を薄く削いで口に入れる。部外者に見られた以上移動すべきだったかも知れないが、居場所を知られること自体は実は怖くない。怖いのは聖域から放逐されることだった。

 

 聖域の境界には、普通の人間が入って来られない結界が張られていると聞いた。今マニゴルドがその境界線を越えれば、二度と戻って来られないような気がした。強くなる方法は聖域にいる限りは分かる。けれどもし聖域の外に出たら、指導者もないままどうやって聖闘士を目指せばいいのか分からない。

 

 だから少年は聖域に留まっている。

 

 食べ物は十分に持ってきた。無くなれば雑兵用の食料庫に忍び込んで盗めばいい。昼は候補生のふりをして訓練をして、体が痒くなったら泉で水浴びする。夜は体をねじ込む隙間があればどこでも寝られる。

 

 マニゴルドはナイフを眺めた。少しくらい飼い慣らされただけでは、野良犬の生きかたは忘れない。セージのほうでも、しばらく餌をやっていた野良犬が急にいなくなったところで、きっと溜息一つで終わるだろう。

 

(そもそも俺が聖闘士になりたいのは、堂々とお師匠の側にいるためなのに)

 

 なぜあのクソジジイは分かってくれないのか、と少年は干肉を行儀悪く噛んだ。

 

          ◇

 

 日中の執務を終えてセージが教皇宮の奥向きに戻ると、用人が主人を待ち構えていた。マニゴルドが荷物を持って出ていったという。聖闘士になることを諦めないという弟子の捨て台詞を思い出し、彼はゆっくりと瞬きをした。まったく、子供のやることは短絡的だ。

 

 迎えに行くのが先か。

 

 それとも音を上げて帰ってくるのが先か。

 

 今の状況は、師弟のどちらが先に折れるかというマニゴルドからの挑戦だった。

 

 主人の指示を待つ用人に、夕食の支度は自分一人の分でいいと伝え、それでもなお物言いたげな相手に、何もする必要はないと念を押した。

 

 私室に戻った彼は棚を開けた。そこにマニゴルドが聖域を去る時に返すと約束した品が保管してある。衣類に手を付けた様子はない。ナイフだけが持ち去られていた。追い剥ぎで手に入れた金銭さえそのまま残っていた(手段はどうあれ本人が稼いで手に入れた物だ。没収するのは忍びなかった)。

 

 世間を知る身が無一文で出奔するはずがない。それどころか、行きがけの駄賃に銀製品の一つや二つ持って行くはずだ。つまり、マニゴルドはまだ聖域内のどこかにいて、外へ出るつもりはない。

 

 それだけ分かれば十分だった。

 

 夕食の時間が過ぎても、マニゴルドは戻らなかった。

 

 蝋燭の明かりがグラスに反射して、机上に広げた報告書と計算書に歪な光を映し出す。読むともなしに書類の字面を眺めながら、セージはじっと物思う。

 

 弟子が聖闘士になりたいと言った。

 

 客観的に見てそれは喜ばしいことなのだろう。セージも当初は、マニゴルドが聖闘士に関心を持つことを望んでいた。彼らを通して生の輝きに触れてくれればと思ったからだ。

 

 教皇の心を奪い聖域を蔑ろにさせようとする邪魔者、という目でマニゴルドを見る者たちは、聖域に貢献する意志が少年にあると分かれば、おそらく態度を変える。彼らもまた聖域を愛しているからだ。マニゴルドの発言はそれを計算している。

 

 だが、そんな打算だけが理由だとしたら、彼の判断をセージは喜べなかった。

 

 マニゴルドが聖闘士を目指すなら、それが子供の夢で終わらずに実現することをセージは予想していた。養い親の贔屓目ではない。教皇として多くの若者に聖衣を授けてきた経験、そして目の前の報告書がそれを示している。

 

 彼は机上の書類を手に取った。マニゴルドの身上調査の報告書だった。教皇の近くにいる者や、聖域内で一定以上の地位にある者は、敵の間諜である可能性を徹底的に調べられる。それは神官であろうと下男であろうと例外はなく、セージは調査がマニゴルドに及ぶことに反対はしなかった。むしろ積極的に調べさせた。

 

 ――まだマニゴルドが聖域に来て日の浅い頃のことだった。寝る前のひとときに二人でカードをしていたら、ふと気になった。

 

『そういえば、おまえは孤児院にいたとか』

 

『いたよ』と少年は反抗的な目で老人を見た。『なに、どこの馬の骨とも分からない奴が教皇のお側にいるのはけしからん、とでも言われた?』

 

『そう喧嘩腰になるな。赤子の時に捨てられたのか』

 

『らしいぜ。ラ・ルオータ(回転板)に乗せられて、哀れな赤ん坊の運命は教会へ!』

 

と少年は手にした絵札を場に捨てた。カードに描かれていたのは、イタリア語で「ラ・ルオータ・デラ・フォルトゥーナ」と呼ばれる「運命の輪」だった。

 

 セージは手札を見て一枚引いた。『どれくらい前のことだ。はっきり言うと、おまえは今何歳だ』

 

 マニゴルドは指を折り、途中で諦めた。

 

『分かんねえな。ずっとその日の飯のことで精一杯だったから。何年くらいだろう。一人で追い剥ぎするようになってからは多分一年、いや二年くらいかな。その前はさっぱりだ』

 

『生まれた日は分かるか?』

 

 嫌そうに眉をひそめた少年は、すぐに目を見開いた。

 

『もしかしてジイさん、俺の父親……?』

 

『違う』

 

 間髪入れずに入った否定に、悪童は『焦ってやんの』と笑いを浮かべた。

 

『ボナ何とかの日の頃に拾われたって聞いたけど、詳しくは知らねえ』

 

『夏生まれなのだな。私もそうだ』とセージは微笑んだ。イタリアで祝われる聖ボナベントゥラの日は七月にある。セージの誕生日の前日にも聖ヨハネと聖ペテロの祭日がある。キリスト教圏では毎日誰かしらの聖人が祝われているが、近いと言えば近い。

 

 しかしそんな共通点に興味はないとばかりに、マニゴルドは手札に目を落とした。

 

 セージも絵札を一枚出し、向きを相手に合わせた。壺を持つ裸婦と幾つもの星が描かれたカード。彼はカード上部に描かれた星を指先で順になぞった。星座を作るように。

 

『星は希望となる。人には守護星座というのがあってな。それはこの世に生まれ落ちるのと同時に定まるのだ。おまえを守り、導く星座を調べても良いか』

 

『いやだ』

 

 なだめすかしながら孤児院の場所と付けられた名前を聞き出そうとしたが、本人はどちらも忘れたと嘯いて口を割らなかった。それで調べが付くまでに半年も掛かってしまった。

 

 調査を得意とする聖闘士が、篤志家のふりをしてイタリア各地の孤児院を訪れ、過去の台帳を片端から引っ繰り返した。そしてようやくマニゴルドの特徴と合致する男児の記録を見つけた。死亡扱いになっていた。寄付を仄めかすと、男児は死んだのではなく失踪したのだと院長は明かした。誰もいない所に話しかけたり、不気味な光を身に纏わせたりしていたから、きっと悪魔憑きだったのだろう、それである日気が触れて姿を消してしまったのだと院長は自信たっぷりに答えた。

 

 院長室から帰る篤志家を見つめる子供たちは、誰もが血色悪く痩せこけて、目ばかりがギラギラと大きく光っていた。彼らを気の毒だとは、篤志家もとい聖闘士は思わなかった。彼もまた貧農の出で、幼い頃に聖域に売られた身だった……。

 

 提出された報告書の内容は、セージの予想した通りのものだった。だが、そこに記載された日付や方角などを元に、マニゴルドの守護星座を割り出した時、彼は慄然とした。

 

 黄道十二星座の一つ、蟹座。

 

 八十八ある全天の星座のどれがその者の守護星座になるかを決めるのは、運命でしかない。一人の人間が複数の守護星座を持つこともあるが、その場合はどれが優先され、どれが補助に回るかも決まっている。人の意志で変えられるものではなかった。

 

 出生時の情報で不足している部分を、条件を様々に変えて再計算した。間違いを恐れて何度か計算をやり直した。しかし何度やり直しても、最も対象者に影響を及ぼす星座として必ず蟹座が浮かび上がった。これは蟹座の聖衣をまとえる可能性を示している。

 

 聖衣を譲れる後継者が現れないまま、その座に長く在り続けている蟹座《キャンサー》の黄金聖闘士は、この結果に震えずにはいられなかった。蟹座の黄金聖闘士にして現教皇――すなわちセージである。

 

 蟹座、天秤座、魚座の黄金聖闘士になるには、小宇宙の強さの他に、それぞれ特殊な素質が必要とされる。

 

 蟹座の場合は、死と魂を従える能力。

 

 死霊を操り、魂と対話するマニゴルドは、十分すぎるほどその力がある。だから同じ異能を持つセージは彼を気に掛けて聖域に連れてきたのだが、まさか守護星座まで同じとは思わなかった。

 

 同じ異能を持つ者は少し前まで候補生にもいた。ただしその若者の守護星座は他にもあった。若者の師は最初からそちらの聖衣を継がせることを望み、教皇もそれを認めていた。ところが黄金聖闘士の座を欲していた当人はそれを受け入れず、師から破門されるに至った。それきり、蟹座の候補者は現れていない。

 

 実力があっても星と聖衣自身に認められなければ、聖衣はまとえない。

 

 星の加護があっても異能がなければ、その位には届かない。

 

 異能があっても力がなければ、聖闘士にはなれない。

 

 全てを兼ね備えるのは難しい。セージも、己の後継者と期待してマニゴルドを聖域に迎えたつもりはなかった。

 

 しかし初めて赴いた土地で、己と同じ能力と宿星を持ち合わせる子供に出会った偶然。他人を初めて傍らに庇護する気になった偶然。師弟関係になった偶然。アテナの降臨が予兆され始めたこの時期になって、弟子が聖闘士を目指すと言い出した偶然。聖闘士としてのセージに長い間後継者のいなかった偶然。偶然。偶然。

 

 ありえない。もはやこれは必然だった。

 

 マニゴルドは聖闘士になるだろう。もはやこれはセージの中で予想ですらない、確定した未来だった。

 

 だからこそ、弟子が打算のもとに聖闘士になりたいと声を上げたのなら、その判断をセージは喜べなかった。マニゴルドが生きている間におそらく聖戦が起こる。その時に彼は、聖闘士こそ己の望んだ道だと言い切れるだろうか? 教皇に連れて来られたばかりに神々の戦いに巻き込まれたと、セージを呪うのではないだろうか。それを思うと胸が痛む。

 

「いや、違うな」

 

 セージは独語し、自嘲した。マニゴルドに恨まれるのが怖いのではなかった。胸を締め付けるのは、慕ってくれる子供を死なせたくないという、ありきたりな感傷だった。

 

 今までにも多くの若者を死地に送り込んできた。なのに己の弟子だけは死なせたくないというのは、指揮官として口にしてはならないことだ。

 

 彼はグラスをくるりと回した。

 

 兄と話がしたくなった。

 

 セージと同じだけの歳月を送り、多くの弟子を聖闘士に鍛え上げ、そして喪ってきた兄ならば、きっと割り切りかたを知っているだろう。

 

 夜は静かに更けていく。

 

 マニゴルドは今夜の寝床を見つけただろうか、とセージは窓の外を眺めた。月光を融かした夜空がほんのりと明るい。

 



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ジャミールへ

 

 マニゴルドが「家出」をしたというのに、師は一向に動く気配がなかった。納屋での暮らしはそれなりに快適で、食料を確保する先もあり、放っておいてくれるならそれでいいや、と悪童は思うことにした。

 

 だがセージの放置ぶりと対照的に、射手座の黄金聖闘士が鬱陶しい。弟子が毎日十二宮を往復するのでよろしく頼む、とセージが挨拶をしたのを覚えていて、

 

「このところ教皇宮に帰っていないようだが、どうしたんだ」

 

などと道で話しかけてくる。

 

「今はそういう修行中なんだよ」

 

と適当に受け流せば、そうかと頷いてすぐに引き下がるが、また別の機会に「猊下はお元気そうだぞ」とか、「今日はお疲れのようだった」とセージの様子をいちいち伝えてくる。暗に教皇宮に戻れと言われているようで、マニゴルドの気に障る。

 

「鬱陶しいんだよ、あれ」

 

「シジフォス様はおまえのような奴にも優しくされるんだな。聖闘士の鑑だ。俺も見習わなければ」

 

 マニゴルドの愚痴に応えているのは、鍛錬に余念のないエルシドだった。本人に皮肉を言っているつもりはないのだが、嫉妬が交じって声が尖っている。

 

「俺みたいな奴ってなんだよ。どんな奴だよ」

 

「中途半端な奴のことだ。師の許を離れるならもっと遠くにすればいいのに、聖域の中なんて庭先にいるようなものだろう」

 

 うるせえ、と悪童は口を尖らせた。

 

「だったらその中途半端な奴にくっついてる候補生様は何なんだ。あれか、友達いないのか」

 

「違う。アルバフィカがおまえの影響を受けすぎないよう見張っている。あれは真面目でいい子だ」

 

「あいつに会いたきゃ薔薇園の前で待ってろよ」

 

 エルシドは黙り込んだ。彼が毒薔薇に近づくのを怖がっていることなどマニゴルドにはお見通しだった。

 

 その時、道のほうから走ってくるアルバフィカの姿が見えた。マニゴルドは立ち上がり、エルシドは鍛錬を止めた。人目を避けるためか、美少年は修道僧のような上着を着てフードを被っている。あいつも知恵が回るようになったと、悪童は目を細めた。

 

「持ってきたぞ」

 

と、アルバフィカは手にした袋を掲げた。

 

 三人は人目の付かない場所に移動した。予め用意しておいた枯れ草に火を入れると、マニゴルドはアルバフィカの持ってきた袋を覗き「おお、すげえ」と声を上げた。アルバフィカは「うちの庭にはいなかったけど、表に出たら結構捕れた」と自慢げに説明する。おまえも見るか、と袋を差し向けられて、エルシドは顔を背けて断った。

 

 前日にマニゴルドが「虫って美味いんだぜ」と発言し、「アブラムシはべつに美味しくない」と反論したアルバフィカも彼の話を聞く内に興味を示し、エルシドが顔をしかめている間に、一緒に芋虫をおやつにしようということで話はまとまってしまった。今日はその実践である。

 

 未知の世界に期待してせっせと芋虫や蜘蛛を集めてきたアルバフィカが、仏頂面の候補生を見上げて、

 

「虫は嫌いか?」

 

と悲しそうに尋ねた。しゃがんで下から見上げてくる少年たちの目は澄んでいて、エルシドは何も言えなくなった(マニゴルドのほうは分かってやっていると彼は気づかなかった)。

 

「まあそう構えるなよ。おまえがいくらお上品な生まれでも、蟻くらい食っただろ」

 

「ない」

 

「まじかよ。女みたいな顔のこいつだって食ったことあるんだぜ」

 

「また女みたいって言った!」

 

 繊細な外見とは裏腹に激しい気性の少年がマニゴルドを突き飛ばした。マニゴルドは素早くアルバフィカの腕を掴み、一緒に地面に転がった。二人はけたけたと笑った。

 

 まるでただの子供だ、と溜息を吐いた黒髪の候補生を、マニゴルドは地面に仰向けになったまま嘲笑った。

 

「虫食いをゲテモノだと思ってるな。でも古代ギリシャ人もセミを食ったんだってさ。昔の聖闘士も食ってたんじゃねえの」

 

「…………」

 

「おまえも聖闘士になるつもりなら、知っておいたほうがいいぜ。まともな食い物が手に入らない時に何を食えば凌げるのか。餓えに耐える訓練なんて馬鹿げたことをするより、そのほうがよほど有意義だと思うね、俺は」

 

 穏やかに言う少年の目は、波のない夜の海のように彼を居心地悪くさせた。食うよ、と言うしかなかった。口に入れたそれは案外甘かった。

 

 三人が聖域の片隅でこっそりとおやつを火で炙っていると、彼らのほうへ真っ直ぐに近づいてくる足音がした。エルシドがすぐに立った。

 

「教皇猊下、シジフォス様」

 

 彼に促されて下の二人も立ち上がった。挨拶をするエルシドとアルバフィカの横で、マニゴルドだけは教皇の兜を被った法衣姿の人物を凝視している。

 

 聖域の中心人物二人は少年たちに近づいてきた。シジフォスはアルバフィカの顔を見てまたしてもぎょっとしたが、その場にいる彼以外の全員が平然としているのに気づいて、態度を取り繕った。エルシドはこの尊敬する先輩に後で事実を教えてあげようと決めた。

 

「マニゴルド、お迎えが来たぞ」

 

 シジフォスが告げた。射手座より少し遠い所で立ち止まった老人は、何も言わずにマニゴルドを見ている。アルバフィカは「良かったな」と友人を振り向いたが、マニゴルドは嬉しさや照れと無縁の表情を浮かべていた。困惑、警戒、恐怖。

 

「どうした、マニゴルド」

 

「だって、誰だよそいつ」

 

「少し会っていなかったからと言って、もう猊下のご尊顔を忘れたのか?」

 

とシジフォスが笑った。

 

「そういうことじゃなくてシジフォスさん、そいつ」

 

 教皇はつかつかと歩み寄ってくると、マニゴルドの頭に拳を落とした。

 

「馬鹿者、師を指差すとはどういう了見だ」

 

「誰がお師匠だよ、偽者!」

 

「黙らんか」

 

 もう一つ拳を落とすと、教皇はマニゴルドの腕を捻って動きを止めた。痛みに悪童は悲鳴を上げた。

 

「ここでは何も言わぬ。教皇宮でおまえの師匠がとくと説教をくれてやる。それまで大人しくせよ」

 

 マニゴルドは悲鳴を上げるのを止めた。老人は威厳のある仕草で横にいた少年たちの額に手を当てた。祝福を与えられ、二人の少年は作法に則り礼を返した。信じられないものを見る目でマニゴルドが仲間を見つめている。

 

 お戻りになられますかと尋ねられ、教皇は重々しく頷いた。シジフォスは火の始末を忘れないよう言いつけてから、教皇と、それに連れられていくマニゴルドの供について去っていった。

 

「あいつ、せっかく師が来てくれたのに、偽者なんて言いかたは照れ隠しにしてはひどい」

 

 アルバフィカの言葉に「そうだな」と同意して、エルシドは彼らの去っていった方向を眺めた。ふと不安の雲が湧く。

 

「……偽者という可能性はないだろうか」

 

「あれは間違いなく猊下だ」

 

 セージを間近に見たことのあるアルバフィカは断言した。黄金聖闘士になったシジフォスも毎日教皇に拝謁しているはずだ。見間違えるはずはない。

 

「それもそうか」

 

 万が一偽者でも、シジフォスが近くにいるなら下手な真似はできないだろう。エルシドは安心して、おやつを炙り直した。二人ともが偽者の可能性を想定できないあたり、優秀な候補生とはいえまだ子供だった。

 

 十二宮もかなり上ったところで、教皇はシジフォスに声を掛けた。

 

「射手座よ。供はここまでで良い」

 

 教皇の言葉に従い、シジフォスは自分の守護宮に留まった。彼の見送りを受け、教皇は法衣の裾をつと持ち上げた。

 

「ではここからは二人で参るか、マニゴルドよ」

 

「触るな」

 

 肩に掛かった手を振り払い、マニゴルドは老人から逃れるように階段を上った。怯えた動物が警戒して木の上に避難するのに似ていた。

 

「もういいだろ。ここまで大人しく付いてきてやったんだ。誰だよ、あんた」

 

「この顔を忘れたか。おまえの師だ」

 

「お師匠と同じ顔だからどうした。あんたはお師匠の真似をしてるけど、違う奴だ。俺を呼び出して何をする気か言えよ」

 

「ほう」兜の奥で目が細まった。「教皇宮まで待てと言うたのにな」とセージの声で言い、笑った。

 

 マニゴルドはくるりと身を返して階段を駆け上がった。師の身に何かあって、何者かに成り代わられたのではないかと、気が気でなかった。

 

          ◇

 

 セージは教皇の間にいなかった。執務室にもいなかった。

 

 マニゴルドは建物内を探し回った。神官たちに白い目で見られたが気にする余裕はなかった。いつもより行き交う神官の数が多いことに苛立った。

 

 セージの私室に飛び込むと、老人が机の前で書類を書いていた。老いてなお端正な横顔。

 

 お師匠、と飛びつくと相手は一瞬戸惑い、ペンを置いてからマニゴルドを抱き締めてくれた。少年はセージが無事だったことに安心しきって、膝の力が抜けた。

 

「お師匠生きてたんだな。良かった」

 

「生きてた?」

 

「そう。お師匠の偽者が来て」その時扉を開けて入ってきた人物を見て、マニゴルドはセージの法衣を掴んだ。「あいつだ! お師匠気をつけろ!」

 

 教皇の外見を持ったその人物は、部屋の中央に進み出た。マニゴルドは師を守ろうとセージの前に立った。

 

「ふはは、小僧が生意気にも我が道を阻もうとするか。面白い、頭から取って食ってやろうか」

 

「やれるもんならやってみろ!」

 

 己と同じ姿が高笑いするのを何とも疲れた目で眺めたセージが、弟子の肩に後ろから手を置いた。マニゴルドはびくりと跳ね、背後に立つ師を仰いだ。

 

「大丈夫だマニゴルド。こちらは私の兄だ。兄上、我が弟子で遊ぶのはそのくらいになさって頂きたい」

 

 相手は決まり悪げに兜を脱いだ。マニゴルドはすぐ側にいる師と、兜を脱いだ人物の、瓜二つの顔を見比べた。「お師匠の? えっと……初めまして。マニゴルドです」

 

 師の兄ならばと丁寧に挨拶したのに、相手は機嫌を損ねたらしい。

 

「なにを白々しい。初対面のわしをこいつ呼ばわりしおって。まったく礼儀がなっておらんぞ。セージ、本当におぬしの弟子か?」

 

「間違いなく私の弟子です」

 

 はっきり言い切る弟に、ハクレイは小さく笑った。借りていた兜を弟に返し、部屋を横切っていく。彼が背を向けて着替えている間に、マニゴルドはセージにこっそり話しかけた。

 

「あのジジイ、本当にお師匠のお兄さんなのか。全然似てない」

 

「口の利きかたに気をつけよ。兄上は私以上に礼儀に厳しい方だ。拳骨が飛んでくるぞ」

 

 既に二回も殴られていることを伝えると、セージは瞬きした。

 

「だってあのジジイがお師匠の振りなんかするから」と少年が口を尖らせ、セージは兄に声を掛けた。

 

「兄上、ですから申しましたでしょう。マニゴルドの目は誤魔化せないと」

 

「うるさい。まさか初見でばれるとは思わんかった」

 

「私の勝ちでございますな」

 

「納得いかん。わしが行くより先に、セージが小僧に小宇宙で知らせたのではないか」

 

 兄上ではあるまいし、と溜息混じりに呟いたのがマニゴルドにだけ聞こえた。

 

「マニゴルド、兄上にご説明せよ。なぜ教皇として振る舞われた兄上を私ではないと見抜いたのか。理由だけで良い」

 

「見なくても分かるだろ、そんなの。魂が違う」

 

 同じ顔をした老人二人がそれぞれの表情で少年を見た。ハクレイは驚嘆。セージは満足。

 

「……なるほど、才はありそうじゃの」

 

 面白そうに言うと、ハクレイは帯を締めた。私服に戻り、髪を結い上げたその姿を見れば、セージと見間違える者はいないだろう。

 

 ハクレイは銀貨を弟の手に落とした。セージはその手を横に滑らせてマニゴルドに差し出した。

 

「取っておけ」

 

「賭けの対象に渡すと八百長を疑われるぜ」

 

 言いながらもマニゴルドは銀貨を受け取った。兄弟の間で、弟のふりをした兄がマニゴルドを迎えに行き、見破られるか否かという賭けをしたことは容易に想像できた。

 

「それで、お師匠の兄君がなんでまた俺のとこに来てくださったんですかね」

 

 できるだけ丁寧に喋ると、ハクレイは弟の弟子を一瞥して「茶」と告げた。

 

「マニゴルド、茶でも飲みながら落ち着いて話そう」

 

とセージが「通訳」して、マニゴルドは茶の支度をさせられた。絨毯の上に胡座を掻いたハクレイは、マニゴルドの運んできた盆に目を留めた。

 

「小僧が淹れるのか」

 

「ええ。覚えてくれました」

 

 毎晩淹れれば嫌でも覚えると思ったが、少年は黙って茶を淹れた。試行錯誤を繰り返し、今ではセージ好みの温度と濃さで淹れられるようになった。

 

 熱い茶をがぶりと飲むと、ハクレイはさっそく切り出した。

 

「おぬしの身はわしが預かる」

 

 マニゴルドは兄の顔から弟の顔へ視線を移した。

 

「やっぱり聖域から追い出されるのか、俺」

 

「早合点するな。これから教皇宮とアテナ神殿は忙しくなる。星見の結果、次のアテナが降臨される日が定まったのだ。それまで潔斎と儀式続きでおまえの面倒を見てやれないから、ジャミールの兄上の所で過ごさないか。アテナの降臨される瞬間は兄上もこちらにおられる。その時に一緒に戻って来ればよい」

 

「降臨って何? それじゃ夏にやるって言ってた祭は何なんだよ」

 

「確かにパンアテナイア祭は古来よりアテナの誕生日を祝うものだ。だがそれとは別に、アテナが人の肉体を持って時代ごとに地上に降臨されることは、前に話したな」

 

「だってそんなのずっと先だろ。神様なんて最終戦争《アルマゲドン》まで出てこねえよ」

 

「セージ、おまえの弟子は何も理解しておらんようだな。大丈夫かこやつ」

 

 ハクレイの呆れ憐れむ視線に、少年は己のせいで師まで貶された気がした。必死に頭を働かせた。そして、

 

「女の子が生まれるんだな?」

 

と彼なりの結論を出した。誰の子か知らないが、数ヶ月後に赤ん坊が生まれ、アテナと名付けられる。その赤ん坊を育てる準備で忙しくなる。そういう意味だと理解した。久しぶりに戻った教皇宮に、やたら人が多かったのはそのためか。

 

 マニゴルドは言った。

 

「分かった。行くよ。どこだか知んねえけど」

 

 ハクレイは「よし」と膝を叩き、「では行くぞ」と早速立った。

 

「お待ちください兄上」と教皇が、「ジジイ待って」と少年が、それぞれハクレイを止めたのは同時だった。師弟は顔を見合わせ、弟子が先に口を切った。

 

「俺、下の小屋を使ってたからその片付けして、あと明日会う予定だった連中に挨拶していきたい」

 

「ふむ」ハクレイは唸った。「まあ、それくらいは待とう」

 

「では兄上、もうすぐ日も暮れることですし、今夜は夕食をご一緒なさいませんか」

 

「あまり味の薄いのは好かんぞ」と、渋い顔をしてハクレイはこれも受け入れた。「どうせなら一晩泊まって明日の朝発つことにするかのう」

 

「分かりました。ではマニゴルドは明るい内に納屋を元通りにしてくるように」

 

「分かったよお師匠」

 

 素直に頷き、マニゴルドは部屋を出て行った。

 

 扉が閉まってすぐにハクレイは表情を崩した。面白くて仕方ないというようににやけている。

 

「必死だったな、セージよ」

 

「ええ。友もできたようですし、言われてすぐにここを離れるというのは抵抗があったのでしょう。一晩お待ちくださったことに感謝申し上げますぞ」

 

「あの小僧のことではない。おぬしよ」

 

 セージは飲みかけていた茶を下ろした。「私でございますか」

 

「小僧をわしに取られると思って、ずっと側に引き留めておっただろう。しかも小僧がジャミールに行くと言った時の顔ときたら。あんまり哀れだったから一晩待ってやったわ、おぬしのためにな」

 

 兄が大笑いするので、弟は顔に手をやった。

 

 老兄弟がそんな会話を交わしているとは知らず、マニゴルドは走った。候補生の宿舎に戻っていたエルシドに、翌日から留守にすることを話し、アルバフィカに伝えてくれるよう頼んだ。その足で納屋に向かい、持ってきた荷物を手早くまとめた。エルシドも成り行きで片付けを手伝った。

 

「律儀な奴だ。数ヶ月もすれば戻ってくるのに、挨拶に来るとは」

 

「甘いんだよ、おまえは」とマニゴルドは吐き捨てた。「俺がここに戻れる保証がどこにある。戻ってきた時におまえらが生きている保証がどこにある。人はいつでも死ぬ。俺も、おまえも」

 

 大袈裟な、と言いかけてエルシドは言葉を変えた。

 

「それならアルバフィカにも顔を見せていけ」

 

「いいよ。ここから薔薇園に寄ると、教皇宮に戻るのが遅くなる。言っただろ、俺がここに戻れる保証はクソジジイどもの口約束だけだ。お師匠と会えるのも今夜が最後かも知れない」

 

 後は自分が片付けておくとエルシドは申し出た。その分マニゴルドに師匠と過ごす時間が増えればと思ったのだ。悪童は笑みを浮かべた。

 

「本当に甘いな」

 

 アルバフィカによろしくと言い置いて、悪童はさっさと納屋を出て行った。もしや片付けを押しつけられただけかと候補生が首を捻った時には、マニゴルドは十二宮の階段を上り始めていた。

 

 エルシドに言ったことは本音だ。

 

 人はあっけなく死ぬ。生きている間もあっけなく前言を翻す。数ヶ月で戻れるという約束を頭から信じるつもりはなかった。

 

(大事な女の子が生まれるんだ。誰が考えたって、俺は邪魔だよ)

 

 けれど少年は悲しいとは思わなかった。彼は諦めることを知っている。セージは彼に色々なものを与えてくれたが、多くを望むのは過ぎた願いだった。

 

 教皇宮の食卓には普段通りの食事が並んだ。

 

 マニゴルドは師の横顔を見上げた。視線に気づいた師がどうした、と問うので、何でもないと首を振った。いつもの席ではなく隣に座らされたことに、きっと深い意味はないだろう。向かいに座っている師の実兄だという年寄りがにやにや笑っているのが腹が立つ。

 

「お師匠、この人のことは何て呼べばいい?」

 

「わしのことは長か長老様と呼べ。何なら大師匠でも良いぞ」

 

「嫌だね。あんたみたいなクソジジイ、長で十分だ」

 

「良かったのセージ。義理堅い弟子で」

 

「兄上」

 

 穏やかで抑制的なセージと違い、ハクレイが闊達で遠慮のない性格らしいということは、この短い間で少年にも理解できた。喋るだけなら師を相手にするよりも気安い相手かも知れない。喋りたい相手となるとやはり師だが、兄弟はマニゴルドのことなど忘れたかのように難しい話をしている。

 

 仕方なく少年は、スープの表面に浮いた円い脂をくっつけて一つにまとめる遊びに耽った。久しぶりに師と共にした食事は、納屋の夜と同じくらいつまらなかった。

 

 夕食後の時間は、主にこれから連れて行かれる東方の地のことを聞かされた。その中でハクレイがジャミールの一族を束ねる立場にあること、聖域とジャミールには深い繋がりがあることを知った。

 

「兄上にはお立場がある。決してジジイと呼んではならぬぞ」

 

「お師匠は教皇だけど、俺がそう呼んでも怒らなかったのに」

 

「少しは頭を使え、小僧。わしはおまえの師の頼みでおまえを預かるんじゃぞ。ジジイと呼ぶのを我が同胞が聞けば、聖域の教皇はジャミールを侮っている、その影響を受けたから弟子まで生意気な態度なのかと思うじゃろう。小僧のせいでセージが困ったことになるのう。ああ、不出来な弟子を持った師匠は辛いのう」

 

 セージは苦笑したが否定しなかった。師を困らせるのは不本意だ。気をつけようと少年は心に刻んだ。

 

 寝る時もセージはマニゴルドの部屋に付いてきた。寝台の傍らに腰掛けて、離れていた期間の弟子の話を聞きたがった。特別な出来事は何もなかったと思うのに、老人はマニゴルドの話に耳を傾けていた。

 

「……結局は俺、戻ってきた。お師匠は呆れたか」

 

「何を呆れるというのだ。おまえは私の身を案じて飛び込んできてくれた」

 

「戻ってはきたけど、でも、俺は聖闘士になるのを諦めたわけじゃないからな」

 

「その話はしばらく棚上げだ。兄上のところで色々見て考えてくると良い」

 

「ん。今までありがとな」

 

 セージは息を呑み、ようやく「馬鹿者」と絞り出した。

 

「よいか。おまえが兄上のところに留まりたいと言い出しても、時期が来れば連れ戻すからな。今生の別れのようなことを申すな」

 

 マニゴルドは薄く笑った。

 

 翌朝、荷物を持って目を瞑れと言われた通りにして、数秒後。少年はハクレイと共に、聖域とは異なる高地に立っていた。

 

 草木の乏しい山の斜面に、雲が薄く流れ落ちていく。綱で連ねられた祈祷旗が強風に煽られて、独特の音を立てていた。チベットの奥地にある秘境。それがジャミールの地だった。

 



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聖衣の墓場

 

 ジャミールでの暮らしは思ったよりも忙しかった。働かざる者、食うべからずと言わんばかりに、ハクレイはマニゴルドを雑用に使った。

 

 マニゴルドは口答えしながらも、言われたことには従った。まだ高地に身体が慣れないうちは、水汲みや荷運びに苦戦する横を、重い荷物を背負った年端もいかない子供たちにひょいひょいと追い抜かれていくみじめさも味わったが、低地と同じ感覚で仕事をこなせるようになった頃、ようやくハクレイが「小僧にも手伝ってもらおうか」と切り出した。

 

「聖闘士を目指すというなら見るべきよな、あれを」

 

「もしかして修復の現場か」

 

 聖闘士がまとう聖衣は、修復技術がわずかにこの地に受け継がれているのみである。修復師がいなければ、聖闘士の戦いは厳しいものになるだろう。ゆえに聖域はジャミールを尊重し、常に交流を図ってきた。ハクレイはジャミールの一族の長であり、優れた聖衣の修復師でもあった。聖闘士という役割も含めて、三足の草鞋を履き分けていることになる。

 

「邪魔だから近づくなって言われたけどいいのか」

 

 作業小屋で、修復師が金や銀の火花を散らしながら鋼を打っているのを、マニゴルドも見たことがあった。

 

「行くのは作業場ではない。聖衣の墓場じゃ」

 

「墓場? 聖衣が捨てられてるってこと?」

 

 明日行くぞと告げられて、彼はとりあえず頷いた。

 

 人一人は入りそうな大きな籠を背負わされ、連れて行かれたのは、切り立った断崖の谷間だった。空を仰ぐと、細い橋が崖と崖の間に架けられているのが見えた。後で知ったことだが、この橋が、ジャミールと外地をつなぐ唯一の道だという。

 

 谷の下には地面と呼べる平らな場所はなかった。起伏の激しい谷底と尖った岩が織りなす、足場の悪い場所ばかりだ。そこに無数の人骨が散らばっている。聖衣の修復を望みながらも、最後の一歩で修復師の許に辿り着けなかった者たちだとハクレイは説明した。マニゴルドは亡骸の身に付けている鎧も聖衣だと教えられて驚いた。聖域で見たことのあるものと比べると、表面が汚れ、随分と古ぼけている。

 

「それじゃこの骨は、聖闘士だった連中か」

 

「まあ敵も交じっとるがの」

 

 ハクレイが一歩踏み出すと、足元でパキリと枯れ枝の折れるような音がした。

 

「小僧には、ここにある聖衣を回収してもらう。地面に散乱した分は仕方ないとして、なるべく一体ずつ回収せい」

 

「骨はどうすんだよ。無茶苦茶多いぞ」

 

「そのまま大地に還してやれ」

 

 少年は辺りを見回した。聖衣の回収とは簡単に言うが、槍の穂先のように尖った石に突き刺さった亡骸もある。石の隙間に挟まっている部品もある。聖衣を骨から外して籠に入れ、崖の上まで背負っていくのは重労働だ。一日どころか一週間掛かっても終わりそうにない。

 

「今日中に全て片付くとはわしも思うておらん。これからのおまえの仕事だ。よいな、小僧」

 

 夕方に様子を見に来ると言って、ハクレイは戻っていった。

 

「なるほど墓荒らしね。俺向きの仕事だ」

 

 マニゴルドはぐるりと首を回し、淡々と作業に取りかかった。

 

 大の大人でも気の滅入るような場所である。目に入るのは黄ばんだ白骨と、風雨に晒されて土埃を被った鎧と、尖った岩ばかり。いつしか青い鬼火もぽつぽつと彼の周囲を漂い始めていた。少年がたった一人で白骨死体から装備を引き剥がす状況と相まって、端から見る者がいたなら凄惨な光景だった。

 

 ハクレイが来た時には、マニゴルドは崖下から上って待っていた。

 

「なんじゃ、もう終わりか」

 

「仕方ねえだろ。下はもう暗くて見えねえんだよ」

 

 覗いた籠の中には部品に分かれた聖衣がバラバラと入っている。一体分にはほど遠いが、上出来だった。ハクレイは少年に籠を担がせて作業小屋まで連れて行った。

 

「回収した聖衣はここに出していけ」

 

「分かった」

 

 それからマニゴルドは「聖衣の墓場」まで下りて、白骨化した死体を漁り、聖衣を回収して修復師の所まで運ぶという作業を毎日繰り返した。ハクレイが調子を尋ねると、足場が悪いのと流れ込む霧に視界を阻まれてなかなか思うように進まない、とぼやくだけで他に泣き言らしいことは口にしない。辛いと思っていないからだ。

 

 少年を見つめ、ハクレイは困ったような表情を浮かべた。

 

「今夜は少し付き合え」

 

「酒?」

 

 話をしよう、と老人は快活に言った。

 

          ◇

 

 山岳地帯の夜は冷える。

 

 ハクレイの住まいに呼ばれたマニゴルドは、部屋の中央にある炉で両手を炙った。

 

「ここの暮らしは慣れたか、小僧」

 

「まあ、それなりに」

 

 ハクレイが淹れてくれたバター茶を両手で受け取って、ふうふう吹き冷ます。少年は相手がいつ「おまえはもう聖域には帰れない」と切り出すのかと待っていた。

 

「その……な、マニゴルド。話というのはあれだが」

 

「なんだよクソジジイ。物忘れか。早く言えよ」

 

 可愛げのない子供に拳骨を落として、ハクレイは咳払いした。

 

「セージがおぬしをここに寄越したことをどう思う」

 

「知らねえ」涼しい顔で突き放して、手に零れたバター茶を舐める。殴るにしても頃合いを計ってやってほしいものだ。

 

「アテナが降臨されるまで邪魔だから、という理由で聖域を追い出したわけではないぞ。おぬしは厄介払いされたと拗ねているかもしれんが、実は、わしがセージを説き伏せて連れてきたのよ」

 

「え、なんで」

 

とマニゴルドは心から驚いた。

 

「セージは、おぬしがなぜ聖闘士になりたいと言い出したのかをちゃんと理解しておる。だがの、そんな理由で聖闘士を目指すと後々困るのはおぬしだと思うから、許すのを渋っておるのだ。分かるか?」

 

 首を傾げた少年に、ハクレイは穏やかな目を向けた。弟とよく似た表情だった。

 

「聖闘士は戦うのが使命。聖衣の墓場で斃れた者たちの無残な姿を見ただろう。あれがおぬしの将来の姿だと言われてもなお、目指す気はあるか」

 

「その時はその時さ。元々が塵芥みたいな人生だ」

 

「世を拗ねた小童というのは可愛くないのう。だが聖域に居続ける限り、聖闘士としての道しか見えんのも事実だ。それでわしは、聖域を離れさせてはどうかと弟に提案した。聖衣の墓場を間近で見れば思うところもあるだろうと思うてな」

 

 毎日通っていてどうだ、と老人は尋ねた。

 

「べつに何も」

 

「うむ。そこがわしらの目論見とずれておったのよ」

 

 ハクレイはあっさり言って、バター茶を啜った。

 

「前に同じ作業をさせた者は三日で音を上げた。大体それくらいで皆泣きついてくる。早ければ初日に連れて行ったその場で白旗を揚げる。ところがおぬしはどうじゃ。毎日あの崖下まで下りて、一人で死体から聖衣を剥ぎ取り、夕方には平気な顔で戻ってくる」

 

「だって怖くねえし」

 

 マニゴルドが口を尖らせて言うと、どこからか青い火が現れて、彼の周りをひらひらと舞った。

 

「前の働き手が音を上げたのはこいつらのせいだろ。見えなくてもこの多さだ、重苦しさくらいは感じるだろうよ。見えるだけの奴はもっと怖かったかもしれないなあ」

 

 少年は腕をゆっくりと宙に伸ばして掌を返した。幾つもの鬼火が手の近くを戯れ飛んだ。暗い部屋に青みを帯びた光が溢れる。

 

「亡霊使って子供の夢をぶち壊そうなんて、せこい計画立てんじゃねえよ。なあジャミールの長さんよ」

 

「人聞きの悪いことを」

 

 ハクレイは動かなかった。が、辺りを飛んでいた鬼火たちは一斉に消えた。部屋の色は炉で燃える火明かりだけに戻った。

 

「なんだ、あんたもお師匠と同じ力があるのか」つまらなそうに鼻を鳴らすと、マニゴルドは茶を飲んだ。

 

「そしておぬしともな。まあ、もしおぬしが音を上げたら、それを理由に聖闘士には向かんと説教するのも手だったな。わしとしては、聖闘士として悲惨に死ぬ可能性を知って覚悟を固めてくれるのが一番じゃった。聖闘士を目指す者は多いに越したことはないからの。だがおぬしは初めから諦観しておったようじゃな。要するに、聖衣の墓場はおぬしに何の影響も及ぼさんかった」

 

「いやいや、影響ならあったよ。死人の愚痴を聞いたら、この程度の覚悟で聖闘士になれるのかと思ったね。ますます聖闘士になる気が湧いたぜ」

 

 この悪たれが、と老人は愉快そうに笑った。

 

 彼は立ち上がり、部屋の片隅から長い物を持ってきた。巻いてある布を外せば、それが大剣であることは少年の目にも分かった。

 

「この剣はわしの若い頃に当時のアテナから授かったもの」

 

 当のアテナは帰天してしまったが、女神の加護は未だ剣にある。

 

「年寄りの思い出話かよ」

 

「昔話だと思って子供らしく楽しめ」

 

 ハクレイは先の聖戦について語り始めた。

 

 当時降臨していた女神は成熟した女性だった。ハクレイとセージは他の聖闘士同様、女神を姉のように慕い、敬愛した。冥王との聖戦は聖域の近くで起きた。女神軍は勝利目前だった。その戦況を引っ繰り返したのは冥王ではなく、別の圧倒的な存在。

 

「我らは叩き潰された。相手が誰なのかも分からないまま、多くの同胞が斃れていった。己の無力さに歯噛みしたものよ」

 

「それでどうなったんだ。負けたのか?」

 

「負けたらこの世は終わっていたじゃろうて。だがアテナは今でも常勝の戦女神であらせられる」

 

 皺だらけの手が剣の鞘を撫でた。

 

「聖戦が終わり、わしら兄弟は生き残った。セージは聖域を立て直し、わしは聖闘士を一人でも多く育てようとした。全ては、我が軍を壊滅に追い込んだ存在を討たんがため。同胞の無念を晴らさんがため。冥王よりよほど憎かった。相手の正体を掴んだ時は、聖戦など関係なくエリシオンに乗り込んで殺してやろうかと思ったほどだ」

 

 マニゴルドは老人の顔を見た。穏やかな目の奥に燻り続ける光は、炉の火を映しただけのものでは決してなかった。

 

「冥王と三巨頭は若い者に任せる。だがあの双子神だけはわしらの手で封印する。それだけを思い、命を長らえてきたのよ」

 

 ハクレイは小さく笑い、少年に目をやった。マニゴルドは俯き、視線から逃げた。

 

「もちろんわしらには喜びもあった。わしには血の繋がったジャミールの民があり、育ててきた大勢の弟子がある。セージにも聖域があり、聖闘士がある。じゃが、この二つは似ているようで全く異なる」

 

 分かるか、と問われて少年は首を横に振った。

 

「わしはジャミールの長であり、修復師であった。セージには教皇しかなかった。あれには常に教皇という立場がついて回った。何を為すにも教皇としての立場でものを考えた。宿願のためにセージは己を押し殺してきたのじゃ」

 

「そうかな。俺と会った時は、俺には地位や権威は通用しないって笑ってたけど」

 

 だからおぬしは特別なのだ、と老人は言った。

 

「セージはおぬしの前では権威や立場を必要としなかった。おぬしを拾ったのは、教皇ではなく、ただ人としてのセージじゃ」

 

 マニゴルドは膝を抱き寄せて顎を乗せた。ハクレイの言わんとすることは分かる気がする。セージが師事を拒んでいたのも、職務との兼ね合いに自信がなかったからだと彼は想像している。教皇として浮浪児を拾ったのなら、迷わず候補生の一人に加えたに違いない。

 

「だからこそ小僧が聖闘士になりたいと言い出したのが辛かったんじゃろう。おぬしに対しても教皇としてあらねばならなくなるからの」

 

「そんなの割り切れよ」

 

「割り切れるようなら初めからわしに相談などせんよ。セージは策士ではあるが、己のこととなると途端に不器用になる奴じゃ。己を殺して生きてきたツケかも知れん。わしとしては、弟の四苦八苦する姿を指差して笑ってやりたいから、小僧がどうしてもと言うなら、協力してやるのもやぶさかではない」

 

「ひでえ兄貴だな」

 

 ハクレイは笑い、剣を丁寧に包んで元の場所に戻した。

 

「あれの兄としておぬしには感謝している。悲願のために生きながらえてきた老いぼれに、喜びを与えてくれた」

 

「……老いぼれとか言うなよ」

 

 少年はバター茶を飲んで顔を隠した。

 

「どうしても聖闘士になりたいのなら師をわしに変えよ。修行は厳しいがな。わしの弟子であれば、セージも嫌とは言えん」

 

「考えとく」

 

「お代わりはいるか」

 

「いらない。もう帰る」

 

 マニゴルドはハクレイのほうを見ないようにして長の住まいを後にした。

 



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約束の夜

 

 翌日も少年は聖衣の墓場に出かけた。

 

 薄暗い谷底で一人、白骨の山と向き合う。すると間もなく鬼火が湧いてきた。後から後から湧いてきて、彼の周りは青白い燐光で満ちあふれた。

 

 マニゴルドが手を伸ばすと、指先に光が集った。

 

 彼はこうして毎日死人の声を聞いていた。未練。後悔。困惑。悲愁。呪詛。とりとめのない繰り言は、少年の耳には小鳥のさえずりに等しい。

 

(悲願か)

 

 師匠とその兄がどうしても封印したい相手とは何者だろうと考えた。聖戦のことは教えられたが、大昔の話だった。セージが己の過去を話してくれたことはなかった。いつも穏やかで厳しい老人は、ずっと順調な人生を歩んできたに違いないと思っていた。

 

 アテナが降臨するということは、次の聖戦が始まるということ。ただし開戦が十年後になるか二十年後になるかまでは分からないと、セージから聞いたことがある。老いた兄弟が生きている間に、彼らの宿敵は現れるのだろうか。現れた時に、強大な存在に立ち向かう体力は残されているだろうか。

 

(ずっとそのために生きてきたのに、最後の最後で間に合わなかったらどうするんだよ、お師匠)

 

 無念のまま死んだら。聖衣の修復を望みながらその寸前で辿り着けなかったこの亡霊たちのように、セージの魂も嘆くのだろうか。

 

 そんなものは聞きたくなかった。

 

 雲が山沿いに下ってきた。雲はそのまま霧となり、谷間に立ちこめた。そうすると作業はできなくなって、霧が引くのを待つしかない。

 

 辺りが白に包まれる。見えなくなる。

 

 我慢できなくなって少年は叫んだ。

 

 

 いつまで待っても霧が晴れないので、マニゴルドは谷から上がった。空の籠を作業場に置いて帰ろうとすると、小さな子供とぶつかった。

 

「お、大丈夫か」

 

 三、四歳くらいの子供だった。子供はマニゴルドの顔をじっと見上げていた。仕方なく少年はしゃがんで目の高さを合わせてやった。

 

「どうしたガキんちょ」

 

「聖衣ひろってくるお兄ちゃん?」

 

「そうだけど、何だよ」答えながら相手がギリシャ語を話したことに彼は驚いた。聖域と繋がりが深い地なのだから不思議ではなかったが。

 

「ひろってくれる人がいなくて困ってたんだって。だからありがとうって。つたえたよ」

 

「え、誰」

 

 マニゴルドはその伝言元の人物が知りたかったのだが、幼い子供は己の名前を聞かれたと思ったようだ。にこりと笑って「私はシオン!」と答えた。

 

「そうかシオンか。で、誰がありがとうって言ってたんだ」

 

「聖衣」

 

「聖衣が自分で喋ったのか」

 

「そう。手で見えるの」

 

 妙なことを言う、と思ったが口にはしなかった。他人には見えないものを見て、他人には聞こえないものを聞くことの面倒と、大人に信じてもらえない空しさをマニゴルドは身に沁みて知っている。

 

「それじゃそいつに伝えといてくれ。次は自力で修復師のところまで転がってけ、厄介な所に落ちてんじゃねえ、ってな」

 

「聖衣はおちたくておちたんじゃない」

 

「分かってるよ、冗談だよ」

 

 本気で怒っている子供にマニゴルドは苦笑した。彼は道の傍らに腰を下ろし、子供はその側に留まった。

 

「うそじゃない。みんなうそだって言うけど、聖衣は見せてくれる、いろいろ。ほんとうだよ」

 

「俺には分からねえけど、おまえには届くんだろう。それは信じるよ」

 

 子供はぴたりとマニゴルドに寄り添って座った。小さな指を二本出す。「二ばんめ」

 

 聖衣の意志を感じられるという話を笑わずに取り合ってくれたのは、ハクレイに次いでマニゴルドが二番目だという。

 

「ハクレイ様は聖衣のおしゃべりは見えないけど、おばけのおしゃべりは分かるんだって」

 

「ああ、こいつらか」

 

 マニゴルドが宙を掴むように伸ばした拳を開くと、そこから青白い火がふわりと浮かび上がった。子供は一声叫んでマニゴルドの服に顔を埋めた。

 

「悪い、怖がらせたか。もう大丈夫だ」

 

「おばけ、もういない?」

 

「もう追い払ったよ」

 

 こわごわと顔を上げた子供は、辺りを見回してやっと安心した。

 

「あなたはハクレイ様のでしなの?」

 

「なんで俺が」

 

「シオンはりっぱな修復師になれるって。でもおばけのことはわからないから、聖闘士になってもおんなじ技はつかえないんだって。ハクレイ様はおばけをあやつれる聖闘士なんだ」

 

「へえ、聖闘士って死霊絡みの技もあるのか」

 

「私もやりたい」

 

「おばけが怖いくせに何言ってんだ、ガキ」

 

「こわくない」

 

 子供は鬼火を掴み出した手をおもちゃにし始めた。マニゴルドは好きにさせた。

 

「俺はセージって人の弟子なんだ」

 

「だれ?」

 

 無邪気な問いに対する答はすらすら出てくる。聖域を治める教皇で、前聖戦の生き残り。けれどマニゴルドが口にしたのはたった一言だった。

 

「俺のお師匠」

 

 幼子はそれで納得したようだった。

 

 片手に槌を持ったまま、ハクレイが作業小屋の奥から出てきた。

 

「ヒヨッコどもがぴーぴーうるさい。遊ぶならもっと遠くへ行かんか」

 

「ハクレイ様」

 

 シオンが嬉しそうに老人に駆け寄った。その頭をがしがしと掻き撫でて、ハクレイはマニゴルドを見た。少年も仕方なく立ち上がり、二人に近づいた。

 

「そのガキはあんたの孫?」

 

「わしの弟子の一人じゃ。この子は聖衣の声を聞く、天性の修復師でな。いずれはわしの後を継ぐことになるやもしれん」

 

 こんな小さい頃から才能など分かるのかとマニゴルドは疑ったが、シオンはにこにこしている。

 

「シオンはハクレイ様のおやくに立ちます」

 

「うむ、良い心がけじゃ」

 

 目の前のやり取りから少年は目を背けた。この子供のように素直に言えたら、セージの反応は違ったのだろうか。見透かしたようにハクレイが言う。

 

「おお、羨ましいか悪たれ。だが案ずるな、このシオンとてあと五年もすれば、わしに口答えする生意気な年頃になる。そうしたら拳と拳のぶつかり合いじゃ」

 

 豪快に笑う老人に、幼子が「ずっと良い子にしているからだいじょうぶです!」と憤慨している。

 

 マニゴルドは幼い弟子と戯れるハクレイに言った。

 

「昨日のあんたのお誘い、ありがたかった。でも俺もう少しお師匠と話してみる。説得できるかは分かんねえけど、言いたいことがある」

 

 きょとんとしているシオンの横で、ハクレイは「精々頑張れ」と満足そうに笑った。

 

          ◇

 

 その日は唐突に訪れた。

 

 思いつきのようにハクレイが「荷物をまとめい」と言うのでどこか別の家に移るのかと思った。だがジャミールに来た時と同じように、気づくとマニゴルドは別の場所に立っていた。

 

 瞬間的に移動したのでないことは直感的に分かるが、目を瞑らされている間に周りで何が起きたのか分からない。彼は辺りを見回した。木立の向こうに女神像が見えた。

 

「ここ聖域か」

 

「今夜、女神が降臨される」

 

 あ、とマニゴルドは声を上げた。

 

 ハクレイは少年を促して歩き始めた。森の外れには、十二宮を通らずに教皇宮まで上がることの出来る隠し階段がある。二人はその階段を上った。

 

「なんで今夜生まれるって分かるんだよ」

 

「教皇の星見よ。敵に悟られないよう一般の聖闘士には知らせていないが、上の神殿ではアテナをお迎えする神事が始まっておる。さすがに積尸気経由で近道するのは差し障りがあると階段を使ったが、教皇宮まで遠いのう」

 

「せきしき?」

 

「詳しくはおまえの師に聞け」

 

 階段を上りきった二人は、そのまま教皇宮に入った。ハクレイは案内も頼まずに教皇の間に向かい、マニゴルドは付き人のようにその後に従った。

 

 広間には教皇が待っていた。玉座ではなくその脇に立っている。マニゴルドは師のもとへ駆け寄ろうとしたが、ハクレイに襟首を掴まれて引き戻された。

 

 広間の中ほどまで進むとハクレイは膝を突いた。

 

「お久しゅうございます、教皇猊下。今宵の椿事を言祝ぐべく、鄙の地より馳せ参じました」とジャミールの長が述べた。

 

「同胞よ、遠き地よりよく参られた。共に新しき女神のご降臨を祝い、これを汝の民にも伝えられよ」と教皇が返した。

 

 マニゴルドは首根っこをハクレイに捕まえられているので、彼と同じように膝を折っていた。この前会ったばかりの兄弟なのに白々しい挨拶をしていると思ったが、口を挟むのは止めておいた。

 

「……ほれ、もういいぞ」

 

と、挨拶を終えたハクレイがマニゴルドの背を押した。少年は前につんのめりそうになりながら、師のところまで駆けていった。セージは両腕を差し伸べて弟子を迎えた。

 

「ただいま、お師匠」

 

「おかえり」

 

 帰れた。また会えた。その嬉しさに少年は師に抱きついた。包み込むように抱きとめられた。兄が無遠慮な含み笑いを浮かべているのを無視して、セージはマニゴルドに語りかける。

 

「すまぬ、今夜はおまえの相手をゆっくりしてやれないのだ。儀式は一晩中続くのでな。だがアテナのご降臨という大事な瞬間はおまえも見ておくといい。神殿の外からになってしまうが」

 

「いいよどこでも。教皇の大一番、しっかり見といてやるから、お師匠頑張れよ」

 

「こやつ」

 

 弟子の軽口にセージは苦笑し、頭を軽く撫でた。そしてすぐに厳格な教皇の顔に戻った。

 

「兄上、それでは参りましょう」

 

「うむ」

 

 神殿に向かう老兄弟のすぐ後を少年は付いていった。驚いたように師が振り返った。

 

「マニゴルド、まだ来なくて良い。おそらくおまえには退屈な儀式の連続だぞ。頃合いを見て呼びにやるから、それまで部屋で大人しくしていなさい」

 

「そうじゃ、そうじゃ。居眠りされては困る」

 

「寝ない。お師匠のやる事を全部見てる。邪魔にならないように隅っこにいるから、見させてくれよ」

 

 アテナが聖域に現れるのは聖戦の始まり。つまりこれは二人の宿願成就のための第一歩なのだ。弟子が見届けなくてどうするというのか。

 

 少年の覚悟を感じて、兄弟は顔を見合わせた。

 

「では仕方ない」

 

 絶対に儀式の邪魔はするなと念を押して、二人は少年を神殿の手前まで連れて行った。

 

 ――しかし。

 

 その夜、女神は聖域に降臨しなかった。

 

 神殿の外階段でどうにか夜明けまで眠気と戦っていたマニゴルドは、神殿から出てきた女官から部屋に戻るよう勧められた。

 

「生まれた?」

 

 肝心の時を寝過ごしたかと思ったが、女官は硬い表情で首を横に振った。何があったのかと尋ねようとする前に、女官は教皇宮に行ってしまった。

 

 続いて神官の一団と教皇、ジャミールの長も階段を下りてきた。小声で話しながら足早に教皇宮に移る彼らの顔は、一様に険しい。

 

「お師匠」

 

 セージを呼んだが、教皇の兜はマニゴルドのほうを振り返ることはなかった。

 



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女神降臨せず

 

 教皇の星見は、その結果が聖闘士の行動指針の基となる重要なものだ。そして聖闘士にとって最も重要な、女神と聖戦に関わる内容については、後の参考になるよう記録もしっかり残される。

 

 セージは集まった面々に言った。

 

「遠慮は要らぬ。欲しいのは私の星見が誤っているという証拠だ。そなたたちは各時代の女神が降臨した記録を調べよ。そなたは同じく当時の星見の記録を用意。そなたたちは、私が使った暦ではなく別の暦で再検証せよ。もしかしたら降臨は正しくは今夜かも知れぬ。急いで頼むぞ」

 

 女神が降臨するというセージの読みに誤りがなかったか、聖闘士と神官を交えた検討会が始まった。

 

 マニゴルドは不思議だった。

 

 赤ん坊の生まれる日が予測とずれたからといって、何の問題があるだろう。母親だっていつまでも身重でいられるはずもない。待てば済むだけの話なのに、と思った。教皇が取り仕切る儀式も当分なさそうなので、自室でぐっすり一眠りした。

 

 昼前に起きた彼は、執務室を覗いた。

 

 セージは対面するハクレイの意見に耳を傾けていた。疲れの影が色濃く浮かんでいるのが見てとれた。

 

 女神に仕える巫女たちは神殿に籠もり、ひたすら降臨を待ち続けている。神官たちは書庫から過去の記録を根こそぎ持ってきて調べ物をしている。教皇宮の使用人たちまで声を潜めている。どこを見ても深刻な顔ばかりだった。

 

 青空の下、マニゴルドは久しぶりの聖域を見て回ろうと思った。

 

 十二宮の階段を下りていくと、人馬宮でシジフォスに会った。彼もまたアテナ神殿の外で一晩を過ごした一人だった。

 

「よう、シジフォスさん元気?」

 

 マニゴルドが声を掛けると、どこか無理のある笑顔で「元気だとも」と返ってきた。

 

 教皇宮にいる者たちよりは気軽に話ができそうなので、マニゴルドは少し留まっていくことにした。シジフォスは年長者らしく彼を気遣った。

 

「少しは眠ったか? おまえも夜通し頑張って疲れただろう」

 

「さっきまで寝てた。俺はね。お師匠たちは怖い顔してずっと作業してる」

 

 それを聞いてシジフォスが表情を曇らせた。

 

「辛いな、猊下のお心を思うと」

 

「なあ、なんで皆そんなに困ってるんだ? 死産だったのか?」

 

 少年の素朴な疑問に、射手座の黄金聖闘士は戸惑った。頭を掻いて回答に悩んだ。とりあえず座れ、と壁際に置いてある椅子を指差す。

 

「どこから話そうか。アテナが人の肉体を持って神殿に降臨される、ということが昨夜起こるはずだった。これは分かるか?」

 

「うん。お師匠は神の子がイエスとして生まれるようなものって言ってた」

 

「ああ、キリスト教徒に向けた説明だな。人の肉体を持って、とは言っても母親の腹から生まれるわけじゃないんだ。ある日突然、アテナは女神像の前に赤子の姿で現れるという。アテナに母親はいないんだ」

 

「じゃあ誰が産むんだよ」

 

「それはやっぱり、父神のゼウスが頭をかち割って産むんじゃないか」

 

「神から産まれるのに人って、変じゃねえの」

 

「でも昔からそう伝わってるしなあ」

 

 アテナの降臨を素直に信じてきたシジフォスは、マニゴルドの疑問に困惑するしかない。

 

「人の肉体ってことは、両親が人だってことだろ。どこかで生まれた赤ん坊を連れてきて、勝手に女神だってことに決めてるだけじゃないの」

 

「いやいや。それなら昨夜のような事態にはならんだろう」

 

「だから目星を付けてた妊婦が死産だったんじゃないかって聞いてるんだよ」

 

「意外に拘るね、おまえ」

 

 苦笑したシジフォスに、マニゴルドは言い募った。

 

「だって別の赤ん坊を連れてくれば済むだろ。お師匠が悩まなくてもいいじゃんか」

 

「別の赤ん坊、では意味がないのだよ」

 

 穏やかな男の声が割って入った。二人が振り返ると、魚座の黄金聖闘士が佇んでいた。

 

「あ、おっさん、久しぶり」

 

「いつ戻ったのだ? 昨夜見かけた時は驚いたぞ。後でアルバフィカに顔を見せてやってくれ」

 

 ルゴニス様、と呼びそうになって新米の黄金聖闘士は言い直した。「ルゴニス殿はもうご出仕ですか」

 

「ああ。検討に参加する。おまえは上からの指示がない限り待機していて良いぞ」

 

「すみません」

 

 ルゴニスは二人の少年を面白そうに見やった。

 

「シジフォス、黄金聖闘士たる者、女神の降臨について説明できないようでは、下の者に示しが付かないぞ」

 

「はい」

 

「マニゴルド。アテナは聖戦に備えて、人の姿を取って女神像の前に降臨される。だが本質はあくまで神だ。ゼウスが雄牛の姿で乙女を攫うとしても、心まで雄牛に変わるわけではないのと同じだよ。赤子の姿で降臨された女神は人と同じように時間を掛けてご成長され、その中で人との絆を育まれる。成人した姿で降臨されないのはそのためだと聞く」

 

「本当は人じゃないんだ?」

 

「人ではないな」

 

 なんだ、とマニゴルドは吐き捨てた。「それなら生まれる日も、生まれる前から女の子だって分かってるのも、おかしくないな」

 

 ルゴニスの説明で事情を理解した少年の胸に、別の疑問が浮かんだ。女神降臨を予見できるのなら、それを逆に利用して、敵が赤子の命を狙いに来ることだってできる。いくら神でも赤子の状態では無防備だろう。

 

「その考えはもっともだ。だから降臨はしばらく伏せられる。神殿に降臨される瞬間を拝めるのは、教皇と少数の巫女だけだ。私たち黄金聖闘士は神殿の外で警護に当たるが、多くの聖闘士は何も知らない。それがアテナの御身をお守りすることになるからだ。下の様子を見ただろう」

 

「下?」

 

「十二宮より下のことだよ。聖域に戻ってきたときに見たはずだ。皆、普通に過ごしていただろう」とシジフォスが横から言った。

 

「知らない。俺、教皇宮に上がるまで聖域の連中とは会ってない」

 

 どうやって帰ってきたんだ、とシジフォスが訝しげに少年を見た。秘密、と少年はそらとぼけた。

 

 二人の黄金聖闘士に別れを告げて、マニゴルドは十二宮を下りた。確かにシジフォスの言う通り、聖域内の雰囲気はいつもと変わらない。候補生を叱咤する監督者の声。闘技場を修繕する木槌の音。

 

 彼はアルバフィカに会いに行った。外から声を掛けてしばらく待つと、魚座の弟子は庭仕事中の土だらけの恰好で姿を現した。数ヶ月ぶりの再会。だが相手は仏頂面でマニゴルドを睨んでいる。

 

 なにかまた怒らせただろうかと悪童は首を捻ったが、聞いてみると何のことはない。ジャミールに行く前にマニゴルドがエルシドには顔を見せたのにアルバフィカには挨拶していかなかったという、それだけのことに拗ねていた。

 

「あの無表情な奴に『マニゴルドは聖域を去った』と知らされた私の気持ちが分かるか?」

 

「悪かったよ。あの時は時間がなかったんだ。あいつにだって小屋に荷物を取りに行くついでに、おまえに言付けしただけだよ」

 

「ふん。どうせ今だって先にあいつのところに行ってきたんだろう。無駄足で気の毒なことだったな」

 

「無駄足? あいつに何かあったのか」

 

 マニゴルドが首を傾げると、アルバフィカは溜息を吐いて落ち着いた。怒ってみせたのは演技だったと思われるほどの変わりようだった。

 

「あいつは聖域を去った。おまえがいなくなって間もなく、修行地に行ったんだ。何年かかるか分からないが、聖闘士になるまで戻ってこないだろう。行く前に私に伝言していった。『生きてまた会おう』と、おまえに伝えてくれと」

 

 人はいつ死ぬか分からないと言った者への、エルシドからの返事だった。アルバフィカはマニゴルドが何か言うことを期待したが、彼は「へっ」と笑い飛ばして終わらせた。

 

「これから久しぶりに聖域をぶらつくけど、おまえも一緒に行くか」

 

「行かない。ルゴニス先生が最近ずっとお忙しそうだから、薔薇の世話は私がしっかりしないと」

 

 黄金聖闘士は弟子にも女神降臨のことを明かしていないらしい。

 

「そうか。それじゃ仕方ないな」

 

 軽く手を挙げて友人と別れた。その後聖域の様子を見て回ったマニゴルドは、女神降臨を知る者が本当にごく僅かであることを知った。

 

(教皇があんなに困ってるのに)

 

 腹の底で怒りが湧いた。それが何も知らない聖闘士たちに対するものか、何もできない己に向けたものなのか、よく分からなかった。 

 

 夕方になって教皇宮に戻っても、女神が降臨しなかったことについての結論はまだ出ていないようだった。

 

 翌日も、その次の日も、女神は現れなかった。

 

 少年は師の姿を執務室かアテナ神殿の近くでしか見かけないことに気づいた。睡眠も食事もまともに取っていないのだ。時が経つにつれ、セージの苦悩と疲れが澱のように溜まっていくのが分かった。

 

 マニゴルドは思い立って厨房に足を向けた。

 

          ◇

 

 セージは教皇の間に一人座していた。

 

 明かりのない夜の暗がりで、彼は彫像のように動かない。

 

 教皇の星の読み方が誤っていないことは、再三の検討ではっきりした。だがその星見の内容通りに女神が降臨しなかった理由については、誰も答を見出せなかった。正に神のみぞ知るというわけだ、と笑ったハクレイの顔にも精気がなかった。

 

 聖域の長い歴史の中でも初めての事態に、誰もが当惑していた。しかしセージは教皇として対処しなければならない。

 

 お師匠、と呼ぶ声が聞こえた。

 

 顔を上げると、扉の向こうからマニゴルドが顔を覗かせている。何かあったのかと尋ねると、弟子は小走りに教皇の間へ入ってきて、

 

「飯。できたから食ってよ」

 

と法衣の袖を引っ張った。

 

「今は忙しい。おまえ一人で先に食べておれ」

 

「そうやってここんとこお師匠がまともに飯食ってないの、俺知ってるからな。料理人に聞いたんだから隠したって無駄だぜ。ここから動きたくないって言うなら、皿持ってくるよ。スープ作ったんだ」

 

 セージは聞き返した。「作った?」

 

 少年は頷いた。「俺が作った。師匠なんだから弟子の成果を評価しろよ」

 

 この忙しい時にと苛立ったが、その時初めてセージは余裕を無くしていることを自覚した。ふっと息を吐いて、弟子の顔を見る。マニゴルドは心配そうに師を見上げていた。

 

「……そうか。では食べるとしよう」

 

 弟子は彼を私室に導いた。途中の廊下で用人から料理の乗った大きな盆を受け取り、危なげなく部屋まで運んだ。

 

 簡素なスープを想像していたセージは、具のたっぷり入ったギリシャ料理を見て驚いた。

 

「おまえが作ったのか? いつ覚えたのだ」

 

「教わったんだ。手っ取り早く食えて年寄りの体にも優しいやつを。いけすかない料理人だけど、あの野郎もお師匠の体のこと心配してたから」

 

 老人はスープを口に運んだ。小さく切られた野菜と柔らかく煮込まれた米が、胃に温かさを落としていく。食事とまともに向き合うのは随分と久しぶりな気がした。

 

「食えそう?」

 

「ああ」

 

 頷くと、セージは弟子の手料理を心から味わった。マニゴルドは安心した様子で向かいに座り、師の食事を見守った。

 

「おまえたちにも心配を掛けていたのだな。済まなかった」

 

「少しは身体のこと考えろよ。年なんだから」

 

 投げやりな口調は相変わらずだが、その奥には不器用な気遣いが見えた。人を思いやることができるようになった弟子を、セージはじっと見た。細かった腕や脚には筋肉が付き、背も伸びた。しばらく見ない間に大きくなったと老人は目を細めた。女神降臨に合わせて帰ってきた時には、それに気づきもしなかった。

 

「なんだよ」

 

「おまえが聖域に来て、どれくらい経つのかと思っただけだ。あんなに細くて小さかったのに」

 

「そりゃあ育ち盛りだぜ」と少年は笑った。「そのうちお師匠の背だって抜いてやる」

 

「おお、そうか」

 

「だから俺、お師匠の役に立ちたいよ」

 

 なにが「だから」なのか分からないが、セージはその気持ちだけで十分だと答えた。マニゴルドは頭を振り、彼なりに考えたことを喋り出した。

 

「俺さ、女神が降臨するって聞いた時、女の子が産まれるんだとばっかり思ってたんだ。どこかの女が産んだ赤ん坊にアテナという名前を付けるんだって。違うんだってな。女神は最初から女神なんだって」

 

「そうだ」

 

「なんで神って分かるんだよ。赤ん坊なんだろ」

 

「定められた日の定められた刻に、女神像の前に突如として現れる御子なのだ。普通の赤子のはずがないであろう」

 

 その赤子が女神であるかどうかは、実は状況で判断するしかなかった。圧倒的な小宇宙を持つアテナではあるが、降臨直後は普通の人の子と変わらない。

 

 そこが分からない、と少年は腕を組んだ。

 

「どの辺まで許容範囲なんだよ。星見の日付がずれてるっていう方向で考えてるみたいだけどさ、他にもずれる要素ってあるんじゃないの? たとえば教皇宮の屋根の上に赤ん坊が落ちてくるとか、赤ん坊が男だとか」

 

「男の赤子は困るな」

 

とセージは笑った。

 

 だがすぐに真剣な顔になった。弟子の言うことにも一理あった。歴代のアテナが降臨したように、今回の降臨も当然そうなるはずと信じていたことが、聖闘士の常識に囚われた思い込みかもしれない。その可能性を指摘されたのだ。

 

 彼は兄の許へ向かった。

 

「兄上!」

 

「おお、あの悪ガキの手料理はどうじゃった」

 

「それどころではありませんぞ」

 

と話を流したが、弟子の作ったものを残すような無碍なことを、セージがするはずがない。しっかり完食してきた。

 

「アテナの降臨について盲点がございました。日を見定めることは当然のこととして星見を行いましたが、それだけでは不十分だったのかも知れませぬ」

 

 マニゴルドの意見を踏まえて、セージは仮説を立てた。説明しながら考えをまとめたので論がぶれることもあったが、ハクレイは弟の言わんとすることを正確に理解した。そしてセージは結論を出した。

 

「……つまり、今生のアテナは、あるいは聖域の外に降臨されたのではないかと」

 

「可能性としては否定できん。というより今となってはその説に縋らざるを得んな」

 

 兄弟はよく似た互いのしかめ面を見つめた。

 

 セージは重い声を押し出した。

 

「急ぎ、お探ししなければ」

 

「落ち着け。このような事態は聖闘士の歴史上初めてじゃ。見つけ出した赤子が間違いなくアテナだという根拠がなければ、世界中の女の赤ん坊を連れて来ることになるぞ。ましてその目的を冥闘士に気づかれてみい。保護できない子供は皆殺しにされるわ」

 

 そうですな、と弟は溜息を吐いた。

 

「『ベツレヘムおよびすべてその付近の地方なる、二歳以下の男の子をことごとく殺せり』」

 

 新約聖書の一節である。それによればヘロデ王は、星に導かれてキリストを探しに来た東方の三賢者の「王が生まれた」という言葉に、己の地位をおびやかす者が現れたと思った。三賢者に悪意はなかったが、後にキリストと同じ年頃、同じ地域に生まれた男児は皆殺しにされた。

 

 弟の暗誦の後を、兄が引き取った。

 

「『声ラマにありて聞こゆ、慟哭なり、いとどしき悲哀なり。ラケル己が子らを歎き、子らのなき故に慰めらるるを厭ふ』か。アテナのお嘆きなど聞きとうないわ。冥王軍がヘロデ王の真似をする前に、なんとかここへお迎えせねばの」

 

「聖域の近くからしらみつぶしに探していくしかなさそうですな。もしかしたら偶然見つけたアテナを拾い、我が子として届ける者もあるでしょうから」

 

「すると人の親から生まれた神ということになるか。ますますキリスト教色が濃くなるのう。いっそ黄金と乳香と没薬を持ってお探しするか」

 

「兄上。戯れ言が過ぎます」

 

「おまえも捜索に加わるか?」

 

と、ハクレイは戸口のほうに声を掛けた。師の後を追って来ていたマニゴルドが顔を覗かせた。

 

「赤ん坊捜しなら手伝うよ」

 

「そら、これでちょうど三人じゃ」

 

 少年を室内に迎え入れるとハクレイは豪快に笑った。セージも苦笑した。

 

 老兄弟の表情は明るくなった。見当違いの可能性はあっても、進むべき方向が見えたのだ。

 

 次の日から聖域外でのアテナの捜索が始まった。指揮は射手座のシジフォスが執った。若くとも黄金聖闘士、女神を迎えるという大役をこなすのに相応しい者だった。

 

 ハクレイもジャミールに帰ることになった。長がいつまでも故郷を空けているわけにはいかない。アテナが見つかったらすぐに連絡を寄越せと念を押して帰って行った。

 

 聖域の頂上は落ち着きを取り戻した。

 

 教皇はアテナ神殿に用意された祭壇が片付けられる様子を眺めていた。女神を聖域に迎える日がいつになるかは、誰にも分からない。明日かも知れないし、数年後になるかも知れない。

 

(それでも私は待ち続けよう)

 

 セージは教皇宮への階段を下りていった。マニゴルドが彼の戻りを待っていた。

 

「俺、聖闘士になりたいんだ」

 

「またその話か」

 

 立ち止まろうともしない師に、弟子は食い下がった。

 

「ハクレイのジジイから、お師匠たちの悲願を聞いた。聖戦が始まったら封印したい奴がいるって。でもこれからアテナを捜すようじゃ、いつそれが叶うか分からないだろ。お師匠たちジジイだから、いつくたばるか分かんねえ。アテナが見つかったら、その喜びでぽっくり逝くかも」

 

 あまりな言いように老人は苦笑した。

 

「私はそう簡単には死なない。宿願を成就させるまでは石にかじりついてでも生きよう」

 

「聖衣の墓場にいた連中もそのつもりだった」とマニゴルドはさらり吐き出す。「あいつらも聖衣が直ったらまだまだ戦うつもりで、だけどその手前で死んでいった。谷にはそんな連中でいっぱいだった」

 

「おまえ、あの谷の声を拾ったのか」

 

「ちゃんと聞いてたぜ、毎日」

 

 ジャミールの集落に入る前の深い谷。弟子がそこを訪れたことは承知していたが、負の感情しか残っていない亡霊の声を聞いていたとは予想外だった。無念と後悔が渦巻いている場所だ。セージは足を止めた。

 

「なぜそんな危険な真似を。おまえまで死に引き摺られよう」

 

「平気だよ。目的を果たせないまま死んだら、お師匠もやっぱりこんな恨み節を言うのかなと思って。で、考えた」

 

 マニゴルドは大きく息を吸うと、言った。

 

「もしお師匠が死んだら俺が後を引き継いで、代わりに宿敵をぶっ飛ばす。お師匠が死ぬ時に悔いがないようにしてやる。だから俺は聖闘士になる。教皇の駒でも何でもなってやる」

 

「アテナのために身を捨てる覚悟はあるか?」

 

「行方不明の赤ん坊なんか知らねえ。けど、お師匠がアテナのためにって言うならそれでもいいぜ」

 

「おまえという奴は……」

 

 セージは笑いながら弟子を引き寄せた。

 

「お師匠?」いつまでも身体を震わせて笑っているセージに、マニゴルドが困惑の声を上げた。「なに泣いてんだよ」

 

「いや、嬉しくて笑っているのだ。そうと決まればおまえは聖闘士の候補生だ。ただの駒では終わらせぬ。私の全てを叩き込んでやる。今までのように甘くはないから覚悟せよ」

 

 弟子の身体を放すと、セージは教皇宮へ歩み出した。マニゴルドが慌てて追ってくるのを感じて、彼はもう一度笑いがこみ上げてくるのを抑えきれなくなった。

 

 弟子が彼の意志を継いでくれるというなら、聖戦を待ち続けるのは苦にならない。むしろ来たるべき時に備えてどこまで弟子を鍛えられるかを思えば、時間が惜しかった。

 

 子供の成長は早いからな、とセージは横を歩こうとする少年を見下ろした。

 



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続・教皇宮の人々

 

 この話に何度か登場している「用人」について、今更ながら説明しよう。

 

 教皇宮には聖闘士でも神官でもない使用人が複数いることは、ここまでお読みになった読者であれば、すでにご承知だろう。彼らを統括する使用人の長、俗世で言えば家令にあたる者は、時代によってその呼び名が変わった。宮宰と呼ばれ神官たちを抑えて権勢を誇った時代もあるが、セージの時代には使用人頭として教皇宮の内向きを預かっていた。その役職をここでは「用人」と記している。

 

          ◇

 

 教皇がイタリアのお忍び視察から戻ったと聞いて、用人は使用人の誰よりもほっとした。教皇不在の間、影武者を務めていた教皇の実兄がここぞとばかりに貴重なワインを空けまくるので、不安になっていた頃だった。

 

 教皇は一人の少年を連れていた。

 

 使用人に案内されて廊下の奥へ向かう少年を見かけた用人は、主人の許へ向かった。主人とその兄の会話が終わるのを待ってから、少年の遇し方について尋ねる。わざわざ「イタリア語を解する世話係をつけるように」と指示されたからには、少年はイタリアから来たのだろう。だが用人には教皇の意図が分からない。

 

 客人として招いたにしては、少年は幼すぎたし、あまりにもみすぼらしい恰好だった。それに客人があるなら主人の性格からして予め知らせてくれるはずだ。

 

 聖闘士にすることを見込んで連れてきたのなら、十二宮を通すまでもなく、候補生たちの宿舎に置いてくれば済む。なにも世話係を付けてまで厚遇することはないのだ。

 

 そう思って聞けば、従者の小部屋を少年の寝室にあてがえ、と教皇は言う。ああこれは従者見習いにするつもりだと用人は納得した。

 

 廊下を戻ってくると使用人たちが興味津々で少年の正体を尋ねてきた。その中に教皇の従者を務めている男の姿があったので、用人は答をはぐらかした。

 

「それより、猊下はあの子供とのお食事をお望みだ。食卓の準備を」

 

「猊下が」

 

 使用人たちは色めき立った。彼らが知る限り、教皇が誰かと食事を共にすることは滅多になかった。独り淡々と食べるその姿は祈りを捧げるように静かだ。そこへ、何者とも知れない子供を同席させるとは。

 

 彼らは頭を振り振り、散っていった。

 

 用人は教皇の従者を呼び止めた。

 

「かの少年の今夜の寝室についてだが」

 

「はい」なぜそれを自分に伝えるのか、と従者は訝しげだ。

 

「従者の小部屋を使うよう、猊下からのお指図があった。おまえには悪いが、承知してくれ」

 

 従者は一度瞬きし、はい、と返した。子供にその役目を奪われるかも知れないと察したとしても、主人の意向には抗えない。

 

「済まんな」

 

「あなたに謝られるこっちゃないでしょう。大丈夫ですよ、俺は元々あの部屋は使ってないんです。ご自由にどうぞ」

 

 老いた従者は笑ってみせた。

 

 やがて夕食が始まった。

 

 主人たちの使う食堂とは違う部屋で、使用人一同も揃って食事を取る。一人が途中で席を立った。それから間もなく、食堂で給仕を務めているはずの者が戻ってきて、空いた席に腰を下ろした。どうやらこの夜の給仕は、野次馬見物の連中が交替で務めることにしたようだ。

 

 様子を聞かれ、野次馬は見てきたことを興奮気味に語った。

 

「おかしかったですよ。あの教皇猊下がまあ面白いくらいに子供に構って。喋るのに夢中でお手元が進まないんですから」

 

 その場にいた誰かが吹き出した。

 

「それで小僧のほうは」

 

「ひどいもんです。まるで獣でしたよ。ろくな育ち方はしていないでしょうね。で、食べ方を猊下に注意されて嫌々直しているもんだから、こちらも手元が進みません」

 

「今夜の食事は時間が掛かりそうですね」

 

 用人は頷き、後で自分も見に行った。

 

 少年は生意気そうな顔をしていた。機嫌の悪い様子なのは、始終注意されているせいか。翻ってそれに話しかける教皇は楽しげだ。用人はその場を去った。

 

          ◇

 

 少年が教皇の側で暮らし始めてから数日経った頃、こんな事が起きた。

 

 若い使用人が困り顔で用人に報告してきた。裏庭に来てほしいと言われ、ついて行けば、地面一面に文字が書かれている。何かのまじないかと思ったが、よく見れば、それは少年の名前だった。

 

「文字の練習でもしたのだろう。消しても構わないと思うぞ」

 

「ただ消すだけでいいでしょうか」

 

 どういう意味かと問うと、使用人は地面を指差した。そこにあったのは、処女神に仕える聖域には相応しくない落書き。用人は思わず眉をひそめた。

 

「あの小僧に言ってやってくださいよ。俺はイタリア語が喋れないんです」

 

 面倒だな、と用人は思った。彼もまたイタリア語を使えないが、それが理由ではない。犯人が使用人であればためらうことなく叱れるが、主人は少年を使用人として扱おうとしない。直接注意して、分を過ぎたことをするなとこちらが叱られるのはご免だ。

 

「猊下から注意して頂こう。おまえ、猊下にここをお見せしろ」

 

 相手は尻込みした。主人に直接苦情を訴えるのは気が重いのだろう。用人は説明した。

 

「私が間に入ると大事だと思われるかも知れない。だが落書きを見つけたおまえがお伝えすれば、事を知る者が最小限だと猊下は思われるだろう。あまり騒ぎ立てる事でもないし、かといって何も手を打たないような方ではない。猊下のお言葉なら、あの子供も聞き入れるだろう」

 

 使用人はまだ納得していないようだったが、彼の言うようにした。

 

 翌日、なにやら騒がしい気配を感じて、用人は柱廊に顔を出した。使用人たちが集まっている。彼らの視線の先には、若い下働きと箒を奪い合っている件の少年がいた。少年が何かを喚きながら箒を取ろうとすれば、若者は仕事の邪魔をするなと追い払う。

 

「何を騒いでいる」

 

「さあ。わしらが来た時には、もうあの状況で」

 

 もしや地面の落書きと名前を消されたことを怒っているのかと用人は考えた。増える野次馬の中にイタリア語の分かる者を見つけたので、彼を介して少年に理由を尋ねた。すると少年が教皇から庭掃除を命じられたということが判明した。

 

「それは、おまえの仕事として命じられたということか?」

 

と用人は聞いた。もしそうなら監督下の使用人として扱うつもりだった。だが返ってきた答は、昨日の罰として、というものだった。

 

「何をしでかしたのか、聞きますか」

 

「いや結構」

 

 通訳の申し出を断り、用人は少年を見下ろした。睨んでくる視線は子供のものにしては鋭かったが、ここ聖域では珍しいものではない。掃除を妨害されていた下働きの若者を呼び寄せて、今日の掃除を手伝わせるようにと言い含めた。

 

「今日だけですか」

 

「そうだ。頼んだぞ」

 

 若者がまだ何か言いたそうにしているのを無視して、彼は辺りに集っていた野次馬たちを散らしにかかった。

 

 用人が別の仕事を終えて再び柱廊を抜けようとすると、ちょうど掃除が終わる頃だった。道具を片付けている使用人が、

 

「また手伝わせてやってもいいぜ」

 

と言うと、少年が何かを言い返した。その後二人で笑い合っている。互いに相手の言葉が分からないはずなのに意味が通じる程度には、打ち解けたらしい。

 

 そこへ年かさの女官がやってきて、罰を終えた者に「はい、ご苦労様」と菓子を差し出した。差し出されたそれを受け取ろうとせず、少年は不思議そうに女を見上げた。

 

「菓子だよ、お・菓・子」

 

 若い下働きが食べる真似をすると、少年は唇を噛み締めた。そうかと思うと次の瞬間には女官の手から菓子を掴み取って、いきなりどこかへ走り去ってしまった。

 

「なんだありゃ。礼くらい言えっての」

 

 若者が呆れている横で、女官はふふ、と嬉しそうに笑った。

 

「ようやく受け取ってもらえました」

 

「ようやくとはどういう意味だね」

 

 気になった用人も話に加わった。

 

「あの子、あんなに細くて小さいのが可哀相で、何度か菓子をやろうとしたのです。でも声を掛けるといつも逃げられてしまって。私はそんな怖いおばさんに見えるのでしょうか」

 

 少年が女官から逃げるのは講義を無理矢理受けさせられると思っていたからなのだが、当事者でない者たちにそこまでの事情は分からない。

 

「そんなことはない。きっと人見知りなのだろう」

 

 用人はそう慰めた。

 

 教皇から直々に菓子の礼を言われて女官が泡を食うのは、後日のこととなる。それでも彼女は懲りずに少年を呼び止めては、せっせと餌付けしているようだった。

 

          ◇

 

 いつの間にか中庭に面した柱廊は少年と教皇の学びの場となっていた。

 

 二人が語らった後には、講義の形跡が残っていることもある。地面に刻まれた文字や図形がそれだ。午前のうちに庭掃除の者が掃き消してしまうが、運が良ければ残っている。最初はアルファベットだった。やがて簡単な綴りを示すようになった。それを見て、その日何を教えていたのかを想像するのが、用人の密かな楽しみとなった。

 

 ある日、少年が一人で中庭にうずくまっていた。何か地面に書いている。視線に気づいて顔を上げた少年は、自分を見ているのが用人だと知って、走ってきた。

 

「あんた、名前は何?」

 

 少年は簡単な会話ができるようになっていた。この質問もギリシャ語講座の一環なのだろうと察して、用人は名を名乗る。そして良かれと思って少年にも名を尋ねると、

 

「マニゴルドだよ、ばーか!」

 

と、なぜか悪態混じりで返ってきた。教皇が罵倒語を教えるとも思えないので、十二宮より下の訓練場で覚えてくるのだろう。思わず主人に同情しながら、用人は柱廊を歩み去った。

 

 その日の夕方、使用人の一人に呼ばれて柱廊に出てみた。地面を見てくださいと言われた時は、また悪童の落書きかと用人は苛ついたが、書かれているものを見て首を捻った。人の名だった。

 

「ほら、あそこに猊下のお名前があるでしょう」

 

 用人を連れてきた男が、中庭の中央を指し示す。確かにその名が記してあった。その下とも横とも言いがたい所に斜めに少年の名もあった。そしてそれを取り囲むようにしたかったのだろうか、教皇宮で働いている者たちの名が庭一面に刻まれていた。

 

 もちろん用人の名もあった。抜けている者もいなかった。たまに綴りを間違えている名もあったが、それくらいはご愛敬。ほっとした。

 

「この使用人名簿は、やはりあの悪童が書いたのかな」

 

「他にいないでしょう」

 

 用人が名前を確認している間にも、数人が連れ立って見に来ては、自分や仲の良い同僚の名前を見つけて喜んでいた。

 

「これは明日まで残しておいてもいいですか?」

 

 いつものようにすぐに消してしまうのは惜しいと、その使用人は言う。用人も同意見だった。

 

「そうだな。猊下にもお目に掛けたいな」

 

 翌朝中庭を見た教皇がどのような反応を取ったかを、用人は見ていない。ただ、綴りの間違っていた名前が正しい表記に改まっていたと聞いた。

 

          ◇

 

 用人は教皇の従者を務める男を呼んだ。

 

「最近はどうだ、膝の調子は」

 

「へえ。まあ、いつも通り、騙し騙しやってます」

 

 やや背の低い、いつも腰を屈めているような老人だった。教皇と一緒にいるところを見れば従者のほうが年寄りに見えるが、実際には彼のほうが余程若い。

 

「猊下のご様子はどうだろう」

 

「もちろんお元気ですよ。部屋にいる時は、大抵あの小僧に構っているようです」

 

「そのマニゴルドについてだが、おまえの仕事を手伝ったりすることはあるか?」

 

 老人はゆっくりと膝を打った。

 

「……俺はまだ、従者の勤めをこなせると、思っていたんですがねえ」

 

「勘違いするな。なにもおまえに暇を出そうというんじゃない。あの子供が端から見て使用人の一人だと思われているかもしれなくてな」

 

「ほう。たとえばどんなお役目の」

 

「間違われるとしたら、掃除の下働きか、従者かな」

 

「それはまた極端な二択だ」

 

 実は神官から苦情がきていた。聖闘士でない者が十二宮より上に表だって顔を出し、正面から出入りするのは秩序と権威の維持から鑑みて望ましくない。使用人であれば教皇宮の出入りには通用口を使うべきだ、云々。

 

 苦情の対象が、毎日十二宮を上り下りしている少年であることは間違いなかった。教皇宮勤めの使用人には教育を徹底しているという自信が用人にはある。だからその時は神官に対して事実を述べた。かの者は教皇の庇護下にあり、十二宮の通過も教皇自身が許可している。使用人でない者が教皇宮に正面から出入りしたことで当方を責められるのはお門違いだ――ということを遠回しに伝えた。

 

 口頭でのやりとりでもあり、その時はその場で済んだ。だが、少年を使用人だと思い込んでいるのが個人ではなく神官全体だったとしたら、用人にとっては迷惑なことだ。

 

「あの子供が来た当初、猊下は従者見習いにするおつもりなのかと私は思っていたんだ。おまえに直接言うのは酷だと思って、今まで黙っていたが」

 

「そうですか。まあ、俺がお暇を貰うことになったら、あの小僧に後を引き継ぐのが、一等楽でしょうね。でも従者にはならない気がしますよ」

 

 マニゴルドが教皇の身の回りの世話をすることはあっても、それは弟子としての行動だろうと従者は言う。

 

「あの二人はやはり師弟だろうか」

 

「師弟でしょうよ。俺だけじゃなくて他の使用人にもそう見えるんでしょう? だから新ストア派だとかいう冗談も生まれる」

 

「確かに」

 

 用人は溜息を吐いた。

 

 教皇が教え、少年が学ぶ。他人の目からは、二人は師弟関係を結んでいるように見える。しかしなぜか教皇が明言しないために、自分たちが気を揉むことになっているのだ。

 

 曖昧な状態のまま長引かせて、誰が得をすると主人は考えているのだろう。早く公表してしまえばいいのに、と用人は思った。

 

 そしてそれは叶った。

 

 少年が魚座の毒に倒れたのを機に、教皇は庇護下に置いた少年が自身の弟子であるということを隠さなくなった。

 

          ◇

 

 それからの使用人たちと少年との関係は、概ね平和だったと言えるだろう。少年の存在を忌々しく思っていても、それを表に出すような者はいなかった。

 

 いや、一人いた。

 

「あのクソガキ、やっぱり泥棒だったんですよ! 宮殿内を調べてください。他にも盗まれた物があるかもしれませんよ!」

 

 マニゴルドが食材を大量に盗んでいったと、料理人は憤りのまま用人に報告した。年頃の子供らしくただ腹が空いただけではないのかと用人が言っても、怒りは治まらない。いきなり厨房に押し入り、ギラギラした目で食材を片端から掠っていったと、料理人は手振りを交えながら再現する。

 

「分かった、分かった。後はこちらで調べるから、おまえは仕事に戻りなさい」

 

「今夜の食材まで根こそぎ盗られたんですよ!」

 

「何もないなら下の宿舎から借りてこい」

 

「いや、何もないってわけじゃ……」

 

 廊下に戻った用人の視界に、私室から出て行く少年の姿が入ってきた。声を掛けようとしたが、少年はあっという間に走っていってしまった。大きな荷物を抱えていた。

 

 まさかと思いながらも急いで後を追いかけるが、相手の足は速く、追いつけなかった。仕方なく用人は若い下働きの男を呼んで、少年の行き先を突き止めるように頼んだ。

 

 予想より早く追跡者は戻ってきた。聖域の外まで追う可能性も用人は考えていたが、少年は聖域の内に留まっているという。

 

「聖域を脱走する気配はありません。少なくとも今夜は納屋で明かすつもりのようです」

 

「納屋?」

 

 少年は食料と毛布を持って行った。料理人の言葉を鵜呑みにしたわけではないが、貴重な品々が盗まれていないことは念のために確認してあった。教皇宮にいられない理由でもできたかと考え、用人は思い出した。少年と教皇が近頃ずっと言い争っていたことを。

 

 執務を終えた教皇に、少年が教皇宮を出て行ったことを報告すると、兜の陰でその口元が歪んだ。が、怒りの気配はない。しばらくの間、教皇は口を開こうとしなかった。

 

 用人も黙って待っていた。少年が隠れ家とした納屋の場所は敢えて報告していない。聞かれたら答えるつもりだった。だから主人が次に言うことは何だろうと考える。「そんな馬鹿は放っておけ」か。「急いで連れ戻せ」か。予想しようにも教皇の様子が静かすぎて難しかった。

 

 やがて教皇は、

 

「今夜の食事は私の分だけでいい」

 

と言って、部屋に戻ろうとした。思わず用人は声を掛けようとした。だがそれより先に相手に「余計なことはしなくていい」と釘を刺されてしまった。

 

 使用人の使う食堂に戻ると、教皇が弟子を迎えに行くのが先か、それとも悪童が自分で戻ってくるのが先かを賭けて、場が大盛り上がりしていた。彼は全員まとめて叱り飛ばした。

 

          ◇

 

 その夜から教皇宮は静けさを取り戻した。

 

 訓練から戻ってくるなり腹が減ったと騒ぐ者がいない。子供を叱る声がない。浴場での調子外れな歌声がない。長い廊下を走り抜ける軽い足音もしない。悠久の歴史や神話を語る者と、それに時折言葉を挟む者のやりとりもない。

 

 マニゴルドがやって来る前の日常が戻ってきた。

 

 ただそれだけのことなのに、教皇にはかなり堪えているようだ、と使用人たちは見ていた。毎晩のようにスターヒルに上がっているからだ。主人が不在の時間に彼らは一つ部屋に集まって、主人を肴に盛り上がる。

 

「夕食の後は私室にお一人だからな。お弟子のいないことを思い出して余計にお寂しいのだと思う」

 

「星見の丘でもお一人なのは同じだろう」

 

「でもあそこは教皇しか入れないから一人で当たり前、余計なことは考えんで済むぞ」

 

「俺なら却って思い出しそうだけどな」

 

「思いついた。丘に上がると見せかけて、実は小僧の様子を見に行っている、ってのはどうだ」

 

「星見にはナーゼルの爺さんが付いていくだろ」

 

「じゃあ戻ってきたら爺さんに聞いてみよう」

 

 星見の供から戻ってきた従者に確かめると、教皇がスターヒルに上がるという時は、言葉通りスターヒルにいると断言された。使用人たちは顔を見合わせて肩を竦めた。従者が主人と口裏を合わせていることも考えられる。もし従者が事実を述べていたとしても、教皇が彼を出し抜いてスターヒルを抜け出すのは簡単だろう。使用人たちは好きなように解釈した。

 

 ちなみに、教皇が頻繁にスターヒルに上がっていたのは、事実星見のためである。この頃になると女神降臨の予兆が現れ始めていた。それを知るのは教皇とごく一部の神官のみであり、教皇宮の使用人たちは聖域住人の大多数と同じくらい何も知らなかった。

 

          ◇

 

 ある昼のこと、用人は、廊下の行く手でうろうろしている女官を見つけた。教皇宮の中でも、聖闘士や神官が出入りする表に近い所だ。彼女は一人の若者を見つけて話しかけた。相手は黄金の聖衣を着ている。用人は少し足を遅めた。二人の会話が聞こえてきた。

 

「射手座様は、ここで男の子が暮らしているのをご存じでしょうか」

 

「ああ、マニゴルドのことなら知っているが、彼が何か?」

 

「今あの子は訳あって教皇宮に帰ってこないのですが、聖域には留まっているということでして、もしあの子に会ったら、ぜひ渡して頂きたい物があるのです」

 

 彼女に限らず、女官が聖域の下部を自由に歩き回ると奇異の目で見られる。だから聖闘士に託すというのは自然な判断だったが、相手は渋った。

 

「そう言われても」

 

「お願いします。偶然見かけた時にでも渡してくだされば良いのです。お礼は必ずいたしますから」

 

「困ったな。……礼など要らんが、たまたま見つけたらその時でいいのだな」

 

「ええ、ええ」

 

 女官が差し出したのは小さな籠だった。籠に掛かった布をひょいとめくり、若者は「分かった」と頷いた。

 

 用人の足は二人のいる所で止まった。女官が振り返り、彼の顔を見てたじろいだ。彼は若者の持っている籠を見て、それから若者に笑いかけた。

 

「よろしければ、荷物を下までお持ちしましょう」

 

「いや、それには」及ばないと言いかけ、若者は気が変わったのか「ではよろしく」と籠を預けてくれた。

 

 用人は女官に頷いてみせた。女官は両手を組んで祈るように二人を見送った。

 

 射手座の黄金聖闘士の少し後ろについて、用人は教皇宮を出た。外は今日も抜けるような青空だ。

 

「マニゴルドはいいなあ。心配してくれる人がいて」

 

と若者は、青空をそのまま音にしたような明るい声で言った。

 

「意地を張るのもいい加減にして、猊下のところに戻ればいいものを」

 

「射手座様はいつからこの事をご存じでしたか」

 

「この事というのが何を指すのかにもよるが、あの悪ガキがどこに居着いたかは、最初から知っている」

 

 彼はそう言うと、用人のほうを僅かに振り返った。

 

「驚かないのだな」

 

「マニゴルド様が飛び出した時に後を追わせました。その者には口外しないよう命じてありますから、教皇宮の使用人のほとんどはあの方の行方を知りませんがね」

 

「なぜ?」

 

「事は猊下とお弟子のお二人の問題ですから、使用人ごときが口を挟むべきではありません。余計なことを知らなければ、余計なことを言わずに済みます」

 

「なるほど」

 

 若者は苦笑を滲ませた相槌を打った。「猊下に二心を抱いていたのは俺だけではなかったと」

 

「二心など滅相もない。私は猊下のご下問があればいつでもお答えするつもりです」

 

「聞かれていないのか」

 

「今のところ、まだ」

 

「セージ様も意外に強情だな。俺も何も聞かれていない。それともご自身で見つけられたのかな」

 

「さて、どうでしょう」

 

「あなたもマニゴルドの居場所を知っているなら、何度か様子を見に行っているのではないか」

 

「いいえ。これが初めてです」

 

 そう言うと、若者は少し驚いたようだった。

 

 石の階段を二人は下りていく。十二宮を抜けるのは、聖域の裏方である用人には滅多にない機会だった。

 

「先ほどの女官が俺に目を付けたのは運が良かった。マニゴルドの顔を知る聖闘士はいても、普段どこにいるかまで知っているとも限らないから」

 

「マニゴルド様のことを気に掛けてくださっているのですね。お礼を申し上げます」

 

 若者は照れたように首筋を掻き、

 

「そんな大したことではないんだが、俺の後輩が最近あの悪ガキとよく一緒にいて、何となくな。早く帰れと直接言っても聞かないだろうから、猊下が心配しているようなことをそれとなく吹き込んでいる。向こうは嫌がらせだと思っているようだが」

 

と言った。

 

「ありがたいことです」

 

 用人は心から感謝した。

 

 無人の十二宮に二人の足音と声が響く。若者は己の守護宮で聖衣を脱ぎ、二人は更に下へ下りる。

 

「それの中身を見た」と若者は用人の持つ籠を指す。「マニゴルドはいつもそういう菓子を食っているのか」

 

 籠の中には焼き菓子と干し果物が入っている。家出してからは甘味を口にしていないだろうと女官が思った結果だ。

 

「いつもではありませんが、女官が勝手に与えているようです」

 

「いいなあ」

 

 心底羨ましそうに若者は声を上げた。聖闘士の最高位に相応しい、威厳のある言葉遣いを心がけているようだが、ふとした瞬間に若さが顔を覗かせる。

 

「あいつに渡さないで俺が食ってやろうかな」

 

 笑って、用人のほうを見た。用人も黙って見返した。

 

「……冗談だ」

 

「分かっております。ですが、できましたらこの菓子は射手座様に差し上げられたもののお裾分けとして、マニゴルド様に渡してくださいませんか。そのほうが抵抗なく受け取ってもらえると思いますので」

 

「そんな小細工はしなくても大丈夫だろう。あなたから渡せばいい。そのために付いてきたのだろう」

 

「いいえ、ご自分への差し入れだと言われても恐らく拒まれるでしょうし、私は主人からは何もするなと命じられているので、表だっては何もできないのです」

 

 それを聞いて射手座の目に憐れみが過ぎった。

 

「そうか。ではせめて顔だけでも見ていってくれ」

 

 十二宮を抜けきった先には、人通りの多い区域につながる。射手座の若者は訓練場に意識を向けて、そこにマニゴルドがいないと分かると別の道を取った。

 

 やがて二人の行く手に古びた納屋が見えてきた。その前で人影が二つ、跳んだり跳ねたりしている。

 

「あなたはここで」

 

 言われるままに用人は籠を手渡して、若者が納屋へ歩いていくのを物陰から見守った。納屋の前にいた二人の子供は、近づいてくる人物に気づいて、走り回るのを止めた。

 

 若者は籠を掲げて朗らかに言った。

 

「上で菓子を貰ったぞ。おまえたちにも分けてやろう」

 

「ありがとうございます」と、背の高い黒髪の少年が堅苦しく答えた。射手座の言う後輩とは、彼のことのようだ。

 

「貰ったって、誰からだよ」と生意気そうな少年が言う。元気そうだった。「女からか? 上には年増と婆しかいねえだろ。憎いね、この年増殺し」

 

 久しぶりに聞く軽口も相変わらずだ。隣の少年に叩かれてもへらりと笑っている。

 

「あのさ、アルバフィカにも少し貰っていいかな」

 

「明日来るんだっけ」

 

「うん」

 

「この前の綺麗な子か? いいぞ。好きなだけ持っていけ」

 

 二人の子供は頭をくっつけながら籠を覗き込んだ。

 

 教皇宮に戻った用人は女官に少年の様子を伝えた。安心した彼女はその後も射手座の若者に差し入れを託そうとしたようだが、時機を逸してうまくいかなかったらしい。

 

 それには理由がある。教皇宮が忙しくなったからだ。

 

          ◇

 

 用人は教皇の執務室に呼ばれ、主神が降臨すると聞かされた。

 

「私ごときにも伝えられたとなると、その日が定まったということでしょうか」

 

「うむ。それに備えて私は潔斎に入る。今後は古式に則った日々を送ることになるので、この者から詳しい作法や禁忌について聞いておいてくれ」

 

「かしこまりました」

 

 聖域で最も重要な儀式ともなれば、毎年の恒例行事とは比べものにならない煩雑な作法がある。そこで主人から指南役につけられたのが典礼に詳しい神官で、用人は彼の言葉と押しつけられた分厚い文書の内容とを必死に頭に叩き込んだ。なにしろ事は主人の生活全てに関わるから、自分が覚えるだけでなく、監督下の使用人たちにも徹底させなければならない。

 

 ふと用人は思った。主人は弟子をどうするつもりなのかと。一連の儀式を終えるまで放任しておくつもりだろうか。いや、これからは女神に全てを捧げることになるから、面倒を見きれない弟子を手放すという冷淡な選択もありうるのではないか。冷淡だと感じる程度には、悪童に思い入れをしていることを自覚した。

 

 主人の判断を聞いてみたかったが、師弟関係に立ち入るのは分が過ぎている。聞きそびれているうちに少年は教皇宮に戻ってきた。使用人たちの賭けは数十日ぶりに清算された。勝ったのは「教皇自ら迎えに行く」ほうに賭けた者たちだった。この後、教皇は弟子に甘いというのが使用人たちの常識となる。

 

 しかし帰ってきた翌日に弟子を今度は別の場所へ預けてしまうとは、誰も予想できなかった。

 

 

 夜も執務室で仕事をしている主人の許へ、用人は盆を運んだ。灯りが揺れる。古書を読んでいた教皇は顔を上げ、茶を運んできたのが用人だと知って、少し意外に感じたようだった。

 

 その白い髪が火の色を受けて橙色に染まっていた。

 

「兜は被っていらっしゃらないのですね」

 

 珍しいことだった。日中に限らず教皇宮のごく私的な空間に戻るまで主人が被り続けている教皇の象徴は、このとき机の脇に置かれていた。

 

「ああ。マニゴルドに言われたのだよ。ずっと被っていては禿げるだろうと」

 

 何と返したものか。用人は黙って茶を置いた。

 

「薄情だと思うか」言いながら教皇は茶器に手を伸ばした。「弟子を追い出した私を」

 

「追い出したなどと」

 

「あれがジャミールに行った頃から、どうもおまえの様子がおかしい」

 

 用人は安心した。その話をするつもりでここへ来たのだ。

 

「申し訳ありません。教皇宮を飛び出されたマニゴルド様のところへ射手座様が猊下をご案内したと知って、動揺しておりました。マニゴルド様の居場所を把握していたにも関わらずご報告しなかった私を、猊下はお咎めになるだろうと。今までお話しできなかった私をお許しください」

 

 遅まきながら告白し、叱られることを覚悟した用人の耳に、小さな苦笑が聞こえた。

 

「さようなことか。咎める気はない」

 

 人の少ない夜の教皇宮。二人が無言になった途端に静けさが押し寄せてきた。老人の手が傍らの兜をぽんと叩いた。誰かの頭を撫でる代わりに。

 

「……あれがここで暮らし始めて一年も経っておらぬ。なのにいなくなった途端に使用人たちは意気消沈しておるようだな。皆、私が奴を厄介払いをしたと見ているのだろう?」

 

「いいえ」

 

 用人は教皇に向き直った。

 

「マニゴルド様を預けられた先について、従者のナーゼルが皆に話してくれました。聖闘士を多く輩出した地の長老であられるそうですね。もしマニゴルド様が教皇宮に戻られたとしても、女神をお迎えするために教皇宮は常の状況にはありません。失礼ながら、猊下もお弟子に目を掛けられるお時間はないかと存じます。そうであれば、いずこかへ預けられるというのは正しいご判断でしょう」

 

「そうだろうか」

 

「はい」

 

 事実と己の本心を述べたのに、主人はあまり信じていない様子だった。

 

「それではなぜ食事の献立に、しばしばマニゴルドの好物を入れているのだ。私への当てつけではないのか」

 

 初耳だった。少年の好物など給仕を務める者でなければ知る由もないし、その手の報告は受けたことがない。儀式などで制限がない日は料理人の独断で献立が決まり、そして料理人は少年との接点を持ちたがらない。

 

「料理人に他意はないと存じますが、お疑いならば確かめて参りましょうか」

 

 教皇の表情が動く。気まずそうな主人の顔は初めて見た。つまりは、一人で食事をする度に弟子を思い出していると口を滑らせたも同然だった。

 

「それには及ばぬ」

 

と教皇が手を振ったのを合図に、用人は退室した。

 

          ◇

 

 やがて時が満ち、女神が降臨する瞬間が近づいてくると、ジャミールの長に連れられて少年も戻ってきた。

 

 しかし降臨の際に問題が起きたという。使用人たちは事情を知らないが、それでも主人の苦悩は彼らにも影を落とした。

 

「猊下がまたお残しになった」

 

と、厨房まで下げてきた盆を見下ろし、一人が嘆いた。食事は執務室で取ると言われて運んだのに、盆の上の料理は大半が残っている。

 

 料理人も残り具合を見て眉をひそめた。

 

 重要な儀式の間は、材料、調理法、使う道具や触れ方といった細かいことを神官に注意されながらの料理だった。その期間が終わって、久しぶりに主人が食べ慣れた物を作ったのに、主人の食欲はすっかり衰えてしまった。相手は聖域を治める教皇。老人の食が細いという一般論で済ませてしまうことはできない。

 

「どうしましょう」

 

 対策を求められても、用人はうんと答えたきり黙るしかなかった。心労が原因だろうと想像できるからこそ、使用人の身ではどうしようもない。厨房の沈黙はそのまま澱んでいく。

 

 と、厨房に子供が走り込んできた。入口に向いて座っていた料理人が大声を上げた。

 

「こらクソガキ!」

 

 用人が振り返ると、もの凄い顔をしたマニゴルドが彼の横をすり抜けて竈の所へ駆けていった。竈の外側に手を触れて、少年は料理人を睨む。盗み食いに来た様子はない。

 

「なんだよ」

 

 料理人はゆっくりと少年の前に立ち、威圧感たっぷりに腕を組んだ。竈に触れている手に視線を向け「何の真似だ」と尋ねる。少年は明瞭なギリシャ語で答えた。

 

「ヘスティアのご加護を」

 

 用人は瞬きした。助手が料理人のほうを窺う。少年と諍いを起こしたことのある男は、やがて組んでいた腕を解いた。

 

「……よくそんな古い習わしを知ってたな」

 

「お師匠が教えてくれた」

 

 炉の女神であるヘスティアは、嘆願する者の保護者。その神聖な炉端は駆け込み寺のような存在であったという。追い出すのは話を聞いてからにしてくれ、と少年は古代ギリシャの風習にかこつけて言っているのだ。蛇足だが、ヘスティアは孤児の守護神でもある。

 

「何の用だ。食材を盗んだ詫びか?」

 

「ああ、謝ってほしけりゃいくらでも謝るよ。悪かったな。でも俺が来たのはそれが理由じゃない」

 

 料理を教えろ、と少年は不貞不貞しい態度で言い放った。

 

「お師匠が食わねえのが、あんたのせいじゃないってのは分かってる。でもさ、弟子の俺が作ったとなりゃ、少しは食う気になってくれるかも知れない」

 

 用人も少しばかり後押しする。

 

「マニゴルド様、それはいい考えかもしれません。ぜひともお願いします。おまえも協力してくれるな? これは猊下のためであるのだから」

 

 料理人は渋々受け入れた。少年の熱意に負けたのではなく、用人の有無を言わさない圧力に負けた。

 

 喧嘩腰のやり取りをしつつも調理の下ごしらえを始めた二人を、用人は時間の許す限り見守った。

 

 ふと思い出したことを料理人に尋ねる。

 

「そういえば、猊下しかいらっしゃらない時期のお食事にマニゴルド様の好物を出したそうだが、どういうつもりだ?」

 

「なんですかそれは。俺はこの(ガキ、と言いかけて引っ込めた)かたの好物なんて知りませんよ。第一、当人がいない時に好物を出しても、誰も得しないでしょうに」

 

「じゃあ俺の好物を教えたら、あんたそれ献立に考慮してくれるの」

 

「絶対にしてやらない」と男は断言する。

 

「だと思った」と少年も素っ気なく言う。

 

「そんな勘違いを言いつけたのは、どいつです?」

 

「猊下だ」

 

 二人は同時に用人のほうを振り向いた。

 

 驚きから立ち直ったのは少年のほうが早かった。口元にじわじわと笑いが滲みだしてくる。

 

「あのジジイ、そんなことを」

 

 ふうん、と鼻に抜けるような声を出した後は、素直に料理人の指示に従っていた。

 

 後は煮込むだけという段になった時に、料理人が切り出した。

 

「ところで随分前のことになるけどよ。悪かったな」

 

 さりげなさを装っているが緊張しているのが用人には分かった。おそらく彼が謝っているのは数ヶ月前、まだ教皇宮に来て間もなかった頃の少年を怒鳴った件だ。具体的に何と言ったのかを料理人も助手も口外しなかったが、主人にだけは知られたくないということだった。

 

 だから、

 

「なんだっけ、それ。覚えてねえよ」

 

と少年がすげなく返すのを聞いて、これは駄目だなと用人は目を背けた。

 

「猊下とおまえを侮辱した時の事だよ」

 

「ああ。あの時の俺は教皇に庇護された謎のガキだったしな。でもギリシャ語なんて全然分からなかったから、あんたが何言ったかなんてさっぱり知らないね」

 

「……とにかく悪かった」

 

「ふん」

 

 その夜、教皇の私室へ運んでいった盆を少年が下げて戻ってきた。事を知った使用人たちも待つ厨房に入ってきて、空になった器を見せる。控えめな歓声が沸く中、料理人と少年が頷きあった。

 

 翌日から教皇の食欲は元通りとなり、少年は教皇の側で弟子として修行に励み、教皇宮の裏方を預かる用人としてはやっと落ち着いた日々が戻ってきた。

 

 ちなみに、この後マニゴルド少年と料理人が仲良くなった――という都合の良い話はない。彼らはそれからも冷ややかな距離を保っている。

 

          ◇

 

 奥向きにある柱廊では、今朝も師弟の会話が聞こえた。後で用人が見に行ってみると、地面にはうねるような模様といくつもの凸や×の記号が描かれていた。この日の新ストア派の講義は、どうやら戦史だったらしい。

 



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墓場の歌
黄泉比良坂


 

 ジャミールで過ごした数ヶ月の間に、マニゴルドの体力は格段に向上した。ハクレイの課した容赦ない鍛錬の甲斐もあり、体力だけでいえば他の候補生には引けを取らなかった。

 

 しかし肝心の小宇宙には目覚めなかった。

 

「なんでだよ!」

 

とマニゴルドは頭を掻き毟る。

 

「小宇宙は己の内に感じるものだ。己が生を価値のないものと思っている限りは掴めぬ」

 

 床に寝転がった弟子を見下ろしたセージは少し考えて、「外の雑音に気を散らしているのもあるだろう」と付け加えた。

 

 星見に行くというセージに従って、マニゴルドも教皇宮を出た。スターヒルに登っていく教皇を麓から見送って、カンテラを消す。辺りは月明かりに静まりかえっている。精神を落ち着かせるには良い夜だ。

 

 少年は平らな地面に立って目を閉じた。

 

 意識を内側に集中させる。奥へ、奥へと。濁った水の中を沈み、泥の下で煌めくそれを掴み取るために。

 

「おお、凄いな」

 

 突然の声に、意識を表に引き戻された。目を開けば、周りには青白い火が集まり、マニゴルドを中心に渦を巻いている。光の向こうにカンテラの明かりと二つの人影が見えた。一人が声を掛けてきた。

 

「とんでもない技を使うな、きみ」

 

「技じゃねえよ。ただのくせだ」

 

 集中する余り、無意識のうちに死霊を引き寄せてしまったらしい。マニゴルドが息を吐くと、魂はゆっくり散っていった。

 

 現れた二人組は青い光の中を泳ぐようにしてやって来た。カンテラがマニゴルドの顔を照らすと同時に相手の顔も照らした。端正な顔立ちの少年で、マニゴルドよりやや年上に見える。体格の良いもう一人は、興味深そうに消えゆく鬼火を眺めていた。

 

「見たことがあるな。きみも候補生か?」

 

「も、って何だよ。誰だよあんたら」

 

「俺はアスプロス。こちらはハスガード。二人とも候補生だ。見回りをしていたら、この月光の洪水を見つけて来てみたんだ」

 

 どちらも、射手座のシジフォスに実力で肩を並べると言われている名前だった。候補生同士とはいえ訓練が重なったこともないほど格が違う。今のマニゴルドの立場では、見習うべき先輩ということになる。渋々名乗った。

 

「技の練習でないとすると、マニゴルドは何をしていたんだ? ここは猊下が星見をされる丘の麓だぞ。今も上においでのようだ。邪魔をしてはいけない。宿舎に戻りなさい」

 

「教皇の邪魔なんかしてない。俺は小宇宙を掴みたいだけだ。静かな場所だからここが良いんだ。下手な所でやると、今みたいに鬼火を呼んだ時に騒ぎになりそうだし」

 

「鬼火……亡者か、この光は」

 

「そう」

 

 近頃のマニゴルドは、セージの星見が終わるのを待っている間、こうして小宇宙を高める訓練をしていた。教皇の従者はその度に集まってくる亡霊の気配を嫌がって、星見の供を彼一人に任せるようになった。

 

 ハスガードが興味深そうに顎を撫でる。

 

「小宇宙の会得なあ。よし、少し俺が見てやろう」

 

「おい、見回りの途中だぞ」

 

とアスプロスが眉をひそめた。「おまえはどうしてそう他人のことに首を突っ込みたがるんだ」

 

 窘められたハスガードは頭を掻き、マニゴルドに目をやった。

 

「しかし後進が四苦八苦していたら、助言の一つでもしてやりたくなるじゃないか」

 

「それは指導者がすべきことだ。だいたい小宇宙の何たるかをおまえが言葉で説明できるとは思えないな」

 

「俺もべつに見てもらわなくていいよ」

 

「そら見ろ。本人がそう言っている。先に行くぞ」

 

 アスプロスは突き放した口調で言うと、去っていった。残ったハスガードは軽く溜息を吐いた。マニゴルドはこの大柄な少年を見上げた。

 

「あんたも行けよ。俺の師匠ももうすぐ戻ってくると思うしさ」

 

「そうか。師がいるのか」

 

と安心したように頷くと、ハスガードは師の称号を尋ねた。答えようとしてマニゴルドははたと気づく。

 

「そういや知らねえ。何だろう?」

 

「何座の聖闘士かも知らずに師事しているのか」

 

 屈託なく笑うと、ハスガードは大石に腰掛けた。「その方が戻るまではここにいてやろう。さあ、修行を続けるがいい」

 

 気が散るんだけど、と口の中で呟き、マニゴルドはこの恩着せがましい先輩を無視することにした。だが集中しようとすると、死霊が寄ってくる。異能の少年は舌打ちをした。相手は幼い頃からの遊び相手だ。セージの言う「外の雑音」が死霊のことなら、それを無くせというのはマニゴルドには難しい。

 

 小宇宙を掴もうとする時に近づいてくるなら、いっそこの死霊を取り込めばいいのでは、と碌でもないことを考えついた。

 

 ハスガードに背を向けて、声によらず魂を引き寄せた。彼らとの対話はいつも無言のうちに行われる。掌の上でゆらゆらと揺れる光に目を凝らす。

 

 死者の魂の奥底へ。

 

 揺らぐ波面を抜けて、静かな水底へ潜るように。

 

 暗く冷たい深海の、更に深みへ――……。

 

「馬鹿者」

 

 強い力で背中を叩かれて、マニゴルドは我に返った。気づけば星見を終えたセージが背後に立っていた。カンテラに下から照らされた顔が怖い。

 

「何をしておる。取り憑かれるぞ」

 

「いや、小宇宙の参考になるかと」

 

「生命の源を死者に求める奴があるか」

 

 セージはマニゴルドと相対している鬼火を掬うようにして空に放った。ふわりと浮かんだところを指差せば、鬼火は空に開いた暗い穴に落ちていった。穴はすぐに閉じた。後に見えるのは夜空だけだ。

 

「なに、今の」

 

「生者に取り憑くことを覚える前に、行くべき所に行ってもらった。おまえには小宇宙よりこちらの技のほうが理解できるかも知れぬな」

 

 セージは跪いている候補生の前に立った。

 

「そなたはそこで何をしておる?」

 

「この候補生が一人で小宇宙の修行をしておりましたので、監督するつもりでおりました。危険なことを行っていると気づかず、猊下にはお手数をおかけいたしました。申し訳ございません」

 

「そうか、ありがとう。我が弟子が面倒をかけた」

 

 セージは微笑み、弟子に向かって手を差し伸べた。マニゴルドは師の側に歩み寄った。ハスガードの目と口が驚きに開かれる。

 

「お師匠って何の聖闘士?」

 

「言っていなかったか。私は元蟹座だ」

 

「ハスガード、俺のお師匠は蟹座だって」

 

「お師匠が猊下の……それなら俺も知ってます。あ、そういう意味ではなくて、教皇でいらっしゃいますから。あの、アスプロスが待っていますので、もう俺は見回りに。……出過ぎた真似をいたしました」

 

 しどろもどろに言い訳しながら去っていったハスガードを「変な奴」と片付けて、マニゴルドは師と共に歩き始めた。怖いもの知らずの少年は、

 

「蟹座って強いの?」

 

と本人に単刀直入にぶつけた。

 

「黄金聖闘士だから白銀よりは強い。だが十二の黄金聖闘士の強さに優劣はつけられん」

 

「へえ。じゃあハクレイのジイさんは何の星座?」

 

「兄上は祭壇座の白銀聖闘士だ」

 

「お師匠のほうがあのジジイより強いんだな」

 

「私より兄上のほうが格段に強い」

 

「でも白銀なんだろう?」

 

「だが強いぞ」

 

 セージが笑いながら言うので、からかわれているのだと少年は思った。

 

          ◇

 

 弟子が小宇宙の体得に苦戦していても気長にやればいいと思っていたセージだったが、ある謁見をきっかけに考えを変えた。

 

 教皇に謁見を願い出たのは、魚座の黄金聖闘士ルゴニス。養い子のアルバフィカを正式に魚座の後継者とすることを伝えにきたのだ。これから先ルゴニスは、師か弟子か、どちらかの命が尽きるまでの後継者育成に全てを注ぎ込む。成功すればアルバフィカは毒の化身となり、失敗すれば命を落とす。それは数年に及ぶ、苛酷な血の儀式としてセージの知識にあった。

 

「良いのだな」

 

「はい」

 

 死ぬのが怖いのかと尋ねたのではない。愛弟子を死なせるかもしれない覚悟、そして生き残っても弟子に孤独の道を歩ませる覚悟ができたのかと聞きたかった。

 

「無理をせずに時期を待っても良いのだぞ」

 

「アテナが降臨された以上、先延ばしは却って弟子のためになりません。アルバフィカは魚座の黄金聖闘士となり、生きた砦として女神と聖域をお守りする身です」

 

 温情のつもりで言った言葉は、本人によってきっぱり拒まれた。

 

「私が死んでも、あの子の血の中で私の毒は生き続けます。私の中に師の毒が流れているのと同じように。それがあの子の支えとなってくれるといいのですが」

 

 控えめに笑い、ルゴニスはセージを見上げた。

 

「最終的にどちらかが命を落とすことは、弟子には伏せております。私の去った後のアルバフィカをよろしくお願いいたします」

 

「相分かった」

 

 一礼して退室する男の背を、セージは扉が閉まるまで見送った。

 

 ルゴニスは覚悟を決めた。翻って己はどうだろう。弟子が小宇宙に目覚めないのをいいことに、ずるずると技を引き継ぐ日を先送りしている甘さを突きつけられた気分だった。

 

 夕食時。中をくりぬいた野菜に米を詰めて煮込んだ料理を、マニゴルドはつまらなそうに中身だけ食べている。ハーブや香辛料と玉ねぎを混ぜ込んだ具は確かに美味いが、外側も一緒に食べろと注意したら、後で食べると口答えされた。

 

「今日な、訓練の帰りにアルバフィカの所に寄ったら、具合が悪くて寝てるっておっさんに言われたんだ」

 

「アルバフィカの体調が悪いと?」

 

 謁見を終えて戻るなりルゴニスは最初の儀式を行ったのだろう。その潔さにセージは改めてルゴニスの決意を知った。

 

「もう会いに来るなって言われた。良くなってから来い、じゃなくて、もう来るな、だぜ? 俺が悪い道に引き摺り込むと思ってるなら今更すぎるだろ」

 

 マニゴルドはズッキーニを切り分けて、やや小さすぎるほどズタズタにしてから、口に放り込んだ。突然言い渡された友人の養父からの絶交宣言に、動揺しているのがありありと見てとれる。

 

「ルゴニスがおまえを遠ざけようとしたのは、誰のせいでもない。アルバフィカが魚座の聖衣を継ぐための修行が本格的に始まったのだ」

 

 少年の目が軽く見開かれた。

 

「……そっか。人里離れた修行地に行く代わりに、他人との接触を禁じられたんだな。それじゃ仕方ねえか」

 

 理解が早くて助かる。セージはワインを飲んだ。今夜のワインは茶がかった不透明な赤。血の色だ。マニゴルドにどこまで魚座の血の儀式のことを話すべきか迷った。だが不思議なことに悪童は何も尋ねてこなかった。

 

「俺も早く聖闘士にならねえとな」

 

と、全て己一人で納得してしまって、食事を続けている。

 

「それには早く小宇宙に目覚めてもらう必要があるが……時にマニゴルド。おまえには常人にない異能がある。そちらについても並行して教えていくことにした」

 

「あ?」

 

 食後に外に出ようと伝えると、弟子はこくりと頷いた。

 

          ◇

 

 夕食の後、マニゴルドは墓の広がる丘へ連れ出された。

 

「おまえは死霊と戯れる時、それがどこから来て、どこへ行くのかと考えたことはあるか?」

 

「さあ」と彼は肩を竦めた。

 

「では鬼火を呼べ」

 

 指示通りに鬼火を集めると、師はゆっくりと空を指差した。その指の示す先に穴が開く。セージの周りから燐光が浮かび上がり、それにつられるようにして鬼火が穴に吸い込まれていった。

 

「あの穴、お師匠が開けたのか?」

 

「そう、地上の霊魂が昇る穴だ。おまえにも分かりやすいように見せてやった。蟹座の黄金聖闘士は現世にいながらにして、魂を冥界の手前まで導くことができる。積尸気冥界波という技だ」

 

「何語だよ」

 

「命名者が支那人だったのだろうな。積尸気というのはプレセペ、夜空に浮かぶ蟹座のちょうど中央に位置する星団の漢名でな。肉体を抜け出た死者の魂が冥界に向かう姿だという。それに因んだ技名だ」

 

 これと正反対なのが、古代ギリシャ哲学のプラトン派やカルデア人の説いた説だ。それによれば、人間が生まれる時に、その身体に宿るべき魂が天上より降りてくる門が蟹座だという。

 

 魂の出入り口は蟹座にある。

 

 故に蟹座の黄金聖闘士は死と魂を司る。

 

「あの穴の先に道がある」

 

「天国への道?」

 

 セージは首を横に振った。

 

「道の先にはまた穴がある。死者の魂はその穴の底に向かう。冥王ハーデスの支配する世界、冥界だ。冥界で定められた時を過ごした魂は、再び人に宿る」

 

 マニゴルドは腑に落ちない表情で首を傾げた。

 

「意味分かんねえ」

 

「確かに言葉だけでは分かるまい。その目で見よ」

 

 頭のてっぺんを引っ張られたような気がした。

 

 直後、マニゴルドは誰かの体を支える師を上から見下ろしていた。セージは彼を見上げ、抱いていた体を地面に横たえた。それはマニゴルドと同じ姿をしていた。

 

(俺の)

 

 彼は体に手を伸ばそうとして、逆の方向に引き寄せられる感覚を覚えた。抗えない流れ。そちらを見ると、みるみる近づいてきた穴が彼を飲み込んだ。

 

 真っ暗だ。

 

 

 気づくとマニゴルドは暗い場所に立っていた。曇夜のような昏い空の下、乾いた大地が広がっている。遠く地平線に至るまで一切の色彩が奪われたかのような荒野だった。

 

 この風景には覚えがある。魚座の毒薔薇に倒れた時に、師の腕に抱かれて見たものだった。

 

「ここは黄泉比良坂」

 

 いつのまにか横に立っていたセージが言った。

 

「冥界に続く道だ」

 

 見ろ、と師は辺りを示した。荒野には歩いている人影がちらほらとあった。生者でないことは直感的に少年にも分かった。周りにいるのは亡者ばかりだ。

 

「俺も死んだの?」

 

「正確にはまだ死にきっていない。私の積尸気冥界波でおまえの魂はここに運ばれた。今ならまだ現世の肉体に戻って生き返ることができる。だがもう一度冥界波を受けるか、この先にある大穴を落ちてしまえば、冥界に下ることになる。その時おまえは死ぬだろう」

 

「じゃあさっさと戻ろうぜ。どうせ死んだらここに来るんだろ」

 

 弟子の頭を軽く撫でると、セージは言った。

 

「生を感じよ。そして帰ってこい」

 

 老人は背後に口を開けた積尸気の穴を抜けて姿を消した。とんでもない所に置き去りにされたとマニゴルドが気づくまで、たっぷり一分はかかった。

 

 薄情な師への思いつく限りの罵倒を並べ立て、マニゴルドは溜息を吐いた。

 

「畜生、後で覚えてろ」

 

 気を切り替えて彼は辺りを見回した。見渡す限りの荒野に建物らしき影はない。

 

 どうすれば聖域に戻れるか分からなかったので、とりあえず周りの亡者と同じ方向を目指してみることにした。四方から集まってきた亡者は、小川が集まり大河となるように大きな列を成した。足音も衣擦れの音もしない静かな列は、遠くの山を目指しているようだった。

 

 山は寄せてくる人波を黙々と迎え入れている。だが、斜面を下りてくる者はいない。下り道は山の向こう側にあるのかとマニゴルドは考えた。

 

 坂を上るにつれて、頂上で起きていることが見えてきた。

 

 頂上には、火山の火口のようにひび割れた大穴が開いていた。穴の底は見えず、ただ黒々とした闇が待ち構えている。やってきた死者がそこへ次々に身を投げる。嘆きもない。ためらいもない。真っ暗な奈落へと静かに落ちていく。亡者が整然と穴に吸い込まれていく様は、蟻が巣に帰るのに似ていた。ただの山、ただの火口でないことは少年にもすぐに分かった。

 

 マニゴルドは穴の縁で立ち止まった。覗き込めば深淵に吸い込まれそうになる。思わず後ずさりした。横でまた誰かが身を投げた。

 

 この下が冥界か、と穴に落ちるためにやって来る亡者たちを眺める。彼らの虚ろな顔に表情はない。歩いてきたのも、穴に落ちるのも本能のようだ。冥界の手前でのんびり留まっているマニゴルドだけが、この世界では異質だった。

 

 落ちる。

 

 また一人、落ちていく。

 

 従順な亡者は身を投げる。

 

 真っ暗な穴はただ彼らを受け入れるだけだ。

 

 せめて嘆くなり祈りを捧げるなりすればいいのに、と少年は思った。亡者にはまるで人間味がない。どうやら理性の類は、肉体と一緒に現世に捨ててきたらしい。

 

 延々と続く身投げ風景に対して、不思議とマニゴルドの感情は動かなかった。引き留める気も起きない。死にたい奴は勝手に死ねばいい。亡者を引き留める理由を彼は見出せなかった。

 

 奈落の淵に一人きり。

 

 周りでは絶えず亡者が坂を上ってきては穴に身を投げているというのに、なぜ己はその気にならないのかとマニゴルドは考えた。簡単なことだ。セージが言ったように、まだ死んでいないからだ。

 

(そうだ、お師匠が待ってる)

 

 心がざわついた。こんな所で落ち着いている場合ではないと急に焦り出す。

 

 帰らなくては。

 

 彼は山を下り、亡者の来た道を逆にたどり始めた。どこまでも続く鈍色の空の下を走った。冥界に続く大穴から遠ざかれば、死からも遠ざかるのではないかと思った。

 

 後ろを振り返っても山の輪郭が見えなくなって、ようやく一息吐く。辺りの亡者の数は少し疎らになった。彼は更に前へ進んだ。

 

 やがて前方に丘が見えてきた。だが、再び列を成し始める亡者たちの姿に嫌な予感を覚えた。丘と見えたそれは近づくにつれ巨大な山として姿を現した。更には頂上に開いたひび割れた大穴と、そこへ飛び込む亡者。マニゴルドは低く呻いた。

 

(元の木阿弥かよ)

 

 同じ場所に戻ってきてしまったか、別の穴を見つけたのかは重要ではない。どうやらこの世界にいる限り、この穴からは離れられないらしい。走るのも疲れた。彼はその場に脚を投げ出して座った。見上げた空は暗雲が立ちこめるばかりで、方角を読む手立てはない。

 

 相変わらず静かに穴を落ちていく亡者たちを見ていると、意外に穴の底は広々としたいい場所なのかも知れない。ふと、亡者に交じって穴を落ちてみようかと思った。そしてそんな己にぞっとした。

 

(このままじゃ死ぬぞ、俺)

 

 それもいいかと流されそうになる心を抑えて、彼は現世に戻る手立てを考えた。師の言葉に手がかりがあるはずだ。たとえば積尸気冥界波。魂を強制的に黄泉比良坂に送り込む技なら、逆に現世に戻ることだってできそうなものだ。

 

「あ、でももう一度食らったら冥界行きって言ってたか。危ねえ危ねえ」

 

 どのみちマニゴルドには使えない技である。

 

「つうか二段構えの技って意味あんのかよ。どうせなら冥界に直接叩き込めば手っ取り早いのに」

 

 わざと声を出した。穴を目指す亡者が沈黙を保ち続けるなら、辺に留まる自分は喋るべきなのだ。

 

 そういえばこの場所は何なのだろう、と彼は地面を撫でた。手に当たる感触は、どこか火事で焼け焦げた煉瓦を思い出させた。もちろん気のせいかも知れない。彼は今、魂だけの存在なのだから。

 

 空は昏いが、闇夜というほど暗くはなかった。少なくとも亡者の顔を見分けられる程度には薄明るい。現世と冥界の間の、中途半端な死後の世界。死者の魂は肉体を離れ、現世から積尸気の穴を通りここに来る。そして黄泉比良坂の穴を落ちて冥界に至る。ほらまた一人、中途半端でいられなくなった亡者が落ちた。

 

「穴ばっかり」

 

と少年は独りごちた。

 

 人が現世に生を受ける時にも、母の腹から出るために穴を通る。その手前の、生まれる直前に魂が門をくぐって天から下りてくるという説も加えて、魂はぐるぐると穴をくぐり続けていることになる。

 

「俺ももう一回穴を抜けないと帰れないかな?」

 

 一度生まれた赤子は、もう母親の腹には戻らない。目の前の穴を落ちていった亡者は生き返らない。落ちた穴からよじ登るのは、摂理に逆らうことなのだろう。それでもマニゴルドが現世に戻るには、流れに逆行する必要がある。できるはずだった。黄泉比良坂にいる魂は、まだ死にきっていない。腹の中にいる赤子が、まだ生まれていないのと同じ。

 

 ここは産道なのだと唐突に理解する。中途半端なのも当然だ。

 

「問題はどこに俺の使える穴があるか、だな」

 

 さてどうするか、と首を捻った時に思い出す。セージが「生を感じよ」と言ったことを。マニゴルドにとって生は師の傍らにある。肉体のない今、生への執着は魂の内側に残るものしかない。それを感じろということは、

 

「小宇宙か」

 

それしか考えられなかった。

 

 小宇宙を感じようとすると集まってきてしまう鬼火が、この世界にどれほど存在するのか想像するのも恐ろしい。だがここまで来た亡者は目指すべき場所を知っている。現世で鬼火がマニゴルドに寄ってくるのが、死に親しむ彼の気配を好んでのことだとしたら、この世界にその理由は存在し得ない。鬼火に邪魔されることなく小宇宙を高めることができるかもしれない。

 

 全て想像だけの可能性の話だった。それでも試す価値はある。死に引き摺り込まれるのを待つのは、足掻き疲れてからでいい。彼は亡者の群から離れて荒野に走っていった。逆走する少年を振り返る者はいない。

 

 やがて黄泉比良坂に小さな光が生まれた。亡者から剥がれ落ちた魂の欠片が何かに反応し、燐光となって燃え上がった。

 

 

 

 水の匂いがした。

 

 

 少年が目を開けると、逆さまになったセージが上から覗き込んでいた。更にその頭上には木の陰と、藍色に澄んだ空が見えた。

 

(――生きてる!)

 

 彼は跳ね起き、喘いだ。

 

 くらくらと目眩がする。歓喜のままに溢れだす小宇宙を留める術を知らず、マニゴルドは師の法衣を掴んだ。涙が出てきた。

 

「俺、生きてる」

 

「ああ。生きているとも」

 

 少年は元の姿勢に寝転がった。師が涙を拭ってくれた。空は徐々に白みつつある。清冽な空気。夜明けが近い。

 

 彼らは聖域の墓場に設けられた水場の辺にいた。木の幹に背を預けたセージは胡座を掻き、その足に弟子の頭を置いている。ずっとそうしていたのかと尋ねても、セージは微笑むだけで答えてくれなかった。

 

「どれくらい死んでたんだ、俺」

 

「せいぜい数時間だ。長く感じたか」

 

「そりゃもう。小宇宙に目覚めるくらいには長く」

 

 マニゴルドは宙に手を伸ばした。本当ならもう薄れて消えているはずの朝の星がすぐ近くに見えた。空の向こうと体の中がつながっている感覚。身の内から湧き出す力が、血液と一緒に体内を駆け巡っている。

 

「母親から生まれた時もこんな感じだったんだろうな。魂は穴を抜けて次の世界に生まれるんだ。今、全部チカチカして眩しい」

 

「ではおまえはこの世に生まれ直したのだな」

 

 おめでとう。呟くとセージは弟子の頭に両手を添えて、己の小宇宙を同調させた。穏やかな師の小宇宙に導かれて弟子のそれが抑えられる。触れている手の温もりと共に流れ込んでくるものをマニゴルドは感じ取った。

 

「これ、お師匠の小宇宙だったのか。黄泉比良坂から俺を引っ張り上げてくれただろ。一人で戻ってこさせるつもりじゃなかったのかよ」

 

「積尸気を開くのはおまえにはまだ無理だ。私が引き上げなくてどうする」

 

「産婆だな、まるで」

 

 少年は目を閉じたまま笑った。笑った拍子にまた涙が零れた。傍らに置いていた兜を被り、さて、とセージは声を上げた。

 

「もうすぐ勤行の時刻だから私は教皇宮に戻るが、おまえも行くか」

 

 もう少しここにいると伝え、マニゴルドは師の立ち去るのを見送った。

 

 やがて最初の朝の光が生まれた。

 

 丘の頂上が橙色に染まり、光を反射する草の海がきらきらと波を起こした。朝日は一瞬のうちに世界を鮮やかに照らし出した。

 

 不意に視界が滲む。

 

 彼は己の頬に触れた。濡れて、温かい。

 

 

 生きている。

 



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蟹座の愛する世界

 

 早朝の自主訓練で闘技場にいたアスプロスは、誰かが小宇宙を燃やしながら近づいてくるのを感じた。覚えのない小宇宙の輝きに訓練の手を止める。

 

「あれは……」

 

 数日前の夜の見回りで、スターヒルの麓にいたのを見かけた後輩だった。教皇の弟子だったとハスガードから聞かされたが、それが何だとその時のアスプロスは鼻で笑った。彼は黄金位を目指しているが、当代の教皇に阿る気はない。

 

 それでも数日前にはまだ小宇宙に目覚めていなかった少年が、今朝はこうして清冽な小宇宙を発しているのだから、その成長ぶりに関心を持った。

 

 走ってくる少年の正面で待ち構える。

 

 軽やかに、なにか大きな喜びに突き動かされるように走っていた少年は、行く手を塞ぐアスプロスの前で立ち止まった。

 

「おはよう。いい朝だな」少年から声を掛けてきた。

 

「ああ、おはよう。きみも朝練か」

 

「違げえよ徹夜明けだ」

 

「徹夜? そんな修行を」

 

「ちょっくら死んでた」

 

「は?」

 

とアスプロスは思わず間の抜けた声を上げた。相手は楽しそうに笑い、

 

「生きてるって素晴らしい」

 

とその場でひらり身を翻す。

 

「ちょっと待て、きみ。ええとマニゴルド」

 

 名前をようやく思い出し、腕を掴む。不思議そうに振り返った少年に、手合わせをしないかと持ちかけた。

 

 結果としては、マニゴルドは息も絶え絶えに地面にひっくり返り、アスプロスはその横で軽く息を弾ませる程度で終わった。後者が小宇宙を我が物としているのに引き替え、前者は目覚めたばかりという条件の違いはあれど、二人の実力差はかなり大きい。

 

 これが教皇の弟子か、とアスプロスは落胆した。教皇が側に置いているというからどんな逸材かと思いきや、聖闘士として抜きん出た素質があるようには見えない。目覚めたばかりの小宇宙がどう成長するかにもよるが、アスプロスの地位を脅かすことはないだろう。

 

 息が落ち着くとマニゴルドが言った。

 

「強いな、あんた」

 

 その賞賛は受け慣れていた。「さすがアスプロス」と羨ましがる連中にアスプロスは憤る。機会を与えられているのに、努力もせず他人を羨むだけの奴に、何が分かるのかと。羨む暇があったら己を磨けと。この年下の少年もその同類だと思った。

 

 しかし相手は言葉を継ぐ。

 

「俺も早く強くならなくちゃ」

 

「急ぐ理由でもあるのか?」

 

 身を起こした少年は、唇の端に笑みを乗せた。

 

「ジジイがさ」

 

「爺?」

 

「ま、それは置いといて俺のダチが、一人はもうだいぶ前に修行地に行っちまったんだけど、もう一人別のも聖衣を授かるための仕上げの修行に入ったんだ。俺だけ置いてかれるのは嫌じゃん」

 

と言う。

 

「友がいるのか」

 

「うん。どうせなら三人とも聖闘士になれたら――ああ。あいつらにも言ってやりゃ良かった。馬鹿だな、俺」

 

 舌打ちするのを見たアスプロスの心が動いた。三人。それは彼とハスガードとシジフォスの関係を彷彿とさせた。黄金の戦友になることを目指して競い合った日々。一人はすでに射手座の位に上がった。

 

「立て」

 

 アスプロスは相手の手を引いて無理矢理立たせた。

 

「生温いぞマニゴルド。皆で仲良く手を繋いで聖闘士になれるのだったら誰も苦労はしない。きみは友人と一つの聖衣を奪い合うことになるかもしれない。その時に容赦なく拳を友人の胸に突き立てる覚悟がなければ、聖闘士にはなれないだろう」

 

 マニゴルドの目がアスプロスを見つめた。非情だと言うなら言えばいい。そんな気持ちでアスプロスは見つめ返した。

 

 するとマニゴルドは悪戯小僧の笑みを浮かべた。

 

「俺、あんたみたいな奴、好きだわ」

 

 毒気を抜かれたアスプロスに「じゃあな先輩」と手を振り、悪童はどこかへ走っていった。

 

          ◇

 

 嵐が吹き荒れるような一時の歓喜が収まると、マニゴルドは落ち着きを取り戻した。眠いと言って朝食後に寝室に戻る弟子を、セージは止めなかった。夜半からの黄泉比良坂での出来事は、若い魂にも消耗を強いたはずだ。

 

 次に二人でゆっくり話す機会ができたのは夕食時だった。マニゴルドからは小宇宙の気配が消えていた。

 

「疲れは取れたか」

 

「まあ、だいたいは」

 

 元気よくラム肉とひよこ豆の煮込みを頬張っているので、セージは己の分の肉も弟子の皿に移してやった。トマトの酸味が肉と野菜に馴染んで飯が進む一品だ。

 

「寝台ではなくまた床で寝ておったな」

 

 なぜそれを知っているのかと、少年の顔が渋くなった。

 

「最初は俺だって寝台で寝てた」

 

「途中で移ったのか。一体どうしたのだ。最近はきちんと寝台で眠るようになっていたのに」

 

 少年は口ごもり、しばらくしてようやく一言、悪夢を見たと白状した。黄泉比良坂での体験のせいかとセージは思った。しかし本人はそれを認めなかった。

 

「俺をその辺のガキと一緒にするなよ。死人がうじゃうじゃいようが、地獄への穴が開いていようが、怖かねえよ」

 

「ほう。ではおまえが見た悪夢とはどのようなものだ?」

 

 返事は返ってこなかった。

 

「……話は戻るが、固い床の上なら悪夢を見なくなるものなのか」

 

「すぐに起きられるから」

 

 寝心地が悪いほうが、すぐに眠りから醒められるのだと言う。セージが黙っていると、少年は舌打ちしてフォークを置いた。

 

「止めようぜ、この話は。飯が不味くなる」

 

「分かった」

 

 老人は頷くとワインで口を湿らせた。

 

「ところで小宇宙だが、その後どうだ。感覚は掴めたか」

 

「一眠りしたら感覚忘れちまった」

 

「笑って言うことか。思い出せないならまた冥界波を味わわせてやるぞ」

 

「それいいね。お師匠頼むわ」

 

 屈託なく笑う弟子に、セージは溜息を吐いた。

 

「黄泉比良坂を恐ろしい場所だとは思わないのか」

 

「全然。あ、遠くに逃げても大穴の所に戻っちまうって意味では恐ろしかった。そういやお師匠に聞きたかったんだけど、覚え違いじゃなければ俺、あの場所は知ってると思うんだ。毒薔薇にやられた時あそこに行っただろう? あの時も俺は死にかけてたのか」

 

「あれは積尸気を用いた近道だ」

 

「近道?」

 

「黄泉比良坂は道だ。現世という家を出て、冥界という新しい家に入るまでの。魂が別の家を訪れるためには道を歩き、戸をくぐらなければならない。戸にあたるのが積尸気であり、黄泉比良坂にある大穴だ。だから冥界波を応用して地上の遠隔地も繋ぐことができる」

 

「何それ便利」

 

 マニゴルドは呆れたように笑って、付け足した。「もしかして、ハクレイのジジイもジャミールとの往復にその近道を使った?」

 

「よく分かったな」

 

 おまえも覚えたいかと尋ねると少年は気軽に頷いた。元々、弟子が小宇宙に目覚めたら教えようとは思っていた。

 

「素質さえあれば積尸気冥界波を覚えることはできる。我々はその才のある者をまとめて積尸気使いと呼んでいる。だが冥界波をただの便利な技と思われては困る。積尸気使いは聖闘士の陰も背負うことになるからだ」

 

「陰?」

 

「今夜はその話だ」

 

 私室に戻った師弟は、いつものように向かい合った。二人の間ではマニゴルドの淹れた茶が湯気を立てている。

 

 歴史を教える時と同じようにセージは静かに語り出した。

 

「私が蟹座の黄金聖闘士だということは前に言ったな。巨蟹宮の守護者たるこの位には、必ず積尸気使いが就く。聖闘士の頂上にいる黄金聖闘士の中で、この力のために、蟹座は他の十一の黄金位に比べて陰を背負うことが多い」

 

 弟子は怪訝な顔をした。

 

「お師匠より前の代の話だよな、それ。教皇が陰のわけないだろ」

 

「教皇位はここでは関係ない。我らの主神と敵対している冥王ハーデスは、どこを治めておる?」

 

「冥界」

 

 積尸気冥界波は、現世にある魂を冥界の手前まで送る技だ。術者が自らは肉体を持ったまま黄泉比良坂に乗り込むこともできる。つまり敵の本拠地付近に出入りできるという利点がある。一方で、敵に寝返るのではないかと味方に疑われる恐れも常にある。対冥王の聖戦において、冥界に通じる技を使う蟹座は、重要、かつ危険な立ち位置にあると言えた。

 

「全ての聖闘士の中で最も死に親しいという立場を利用して、かつての聖戦では冥界への内通者を装うこともあったという。基本的に味方に疑われやすいのだ」

 

 なんだそれ、とマニゴルドは吐き捨てた。

 

「意味分かんねえ何だそれ。お師匠はそんな損な役回りでいいのかよ?」

 

「英雄だけでは戦は勝てぬ。誰かが泥を被る必要はあるし、それに適した位がたまたま蟹座だったというだけのことだ」

 

「なにが適してるっていうんだよ」

 

「考え方が、な」

 

 セージは茶を飲み干し、茶器を少年の目の高さまで上げた。ガラスの茶器越しに見えるマニゴルドの顔は憤っている。

 

「この物の形を、おまえはどう見る」

 

「形?」

 

 横から見れば釣り鐘を逆さにしたような茶器は、真上から見れば円を描く。

 

「生の世界しか知らぬ者は、言うなれば横からの形しか見えぬ。だが積尸気使いは横からだけでなく、上や下からも形を見ることができる。死の側から生を見ることができる」

 

 死の世界を実際に知ることが、積尸気使いの価値観に及ぼす影響は大きい。世界の全てを相対的なものとして、一歩離れたところから見るようになるからだ。己に対しても同じだ。一種の達観だった。だから蟹座の黄金聖闘士は世界や女神を愛しながらも、その考え方は他の聖闘士と大きく異なったものにならざるを得ない。

 

「それで何か困ることでもあんの」

 

 絨毯の毛を無意識に縒りながらマニゴルドは聞いた。

 

「その前にマニゴルド。正義とは何だと思う」

 

 突然の質問返しに弟子は戸惑った。

 

 例え話をしよう、とセージは話を続ける。

 

「今から六、七百年前のことだ。十字軍は聖地奪還を掲げてエルサレムに進軍した。騎士団の者たちはそれがキリストのため、自軍の正義のためと信じて疑わなかっただろう。領土欲しさに同じキリスト教の国に攻め入ったことはこの際置いておく。当時エルサレムを治めていたイスラム教徒にとっては、彼らは単なる野蛮な外患に過ぎなかった。イスラム教徒にとってもエルサレムは聖地で、数百年そこでキリスト教徒やユダヤ教徒と共存して暮らしていたのだしな。しかし彼らが寛容なのは唯一絶対の神を信じる経典の民にだけであって、我らのように神々が複数いると信じる者には容赦が無く、また偶像を拝むことを許さず像を破壊してしまう。それがどれほど貴重なものであってもお構いなしだ。そして十字軍の進軍を煽ったキリスト教の商人たちにとっては、戦争は絶好の商機であり、イスラム商人に独占されていた地域への商路拡大の手段だった。

 

 ――さて、この戦いにおいて正義は誰にあったと思う?」

 

 これでもかなり省略・単純化している。十字軍の歴史を正しく語ろうとしたら、とても一晩では終わらない。一言で表すなら「地中海情勢は複雑怪奇」だ。

 

 少し考えてから、少年は分からないと首を振った。

 

「まあ、それが正解だな」

 

「なんだよそれ!」

 

「戦争においてどちらの軍が正義でどちらが悪か、など決まってはいない。あるのは勝つ者と敗ける者だ。そして正義を語れるのは勝った者だけだ。敗けた者がいくら正義を語っても、それは負け犬の遠吠えだな」

 

 だからこそ我々は勝ち続けなければならない、と女神の軍勢をまとめる彼は語る。

 

「私は教皇の座にある者として、アテナの正義を疑うことは許されない。けれど積尸気使いは、その力のために絶対の正義などないことを心の底では知ってしまう。今おまえも、十字軍の話を聞いて誰に正義があるか分からないと思っただろう。それはおまえが当事者ではなく後世の者の目で考えたからだ。蟹座は常にその目で世界を見ている」

 

 しかしその突き放した見方は、指揮官としてはともかく一般の聖闘士としては危うかった。聖戦の当事者である聖闘士が皆その考えに染まれば、士気は下がり聖戦に負けてしまうだろう。

 

 聖闘士は女神の矛であり盾である。物事を単純化して考えるような訓練を若い頃から受ける。雑念が少なければ、より純粋に小宇宙を燃やせると信じられている向きもある。

 

 神の兵士は迷ってはいけない。女神は正しい。女神の望む正々堂々とした英雄的な戦いをしたい。それが基本的な聖闘士の姿勢だ。この時代においては、ハスガードがその理想型に近いだろう(まだ候補生の身ではあるが)。

 

 一方で、世界における己の立ち位置を俯瞰してしまうのが積尸気使いだった。彼らにとっては生前の栄光も死後の栄誉も深い意味はない。だから華々しい活躍は他の者に任せて、汚れ仕事であろうと貧乏くじであろうと、苦にせず引き受ける。多くの聖闘士が重んじるものを、彼らは軽やかに切り捨てる。

 

 積尸気使いが聖闘士の陰を背負うというのは、この考え方に因るところが大きい。

 

「代々の蟹座の黄金聖闘士に一癖ある者が多いのは、決して偶然ではないだろう」

 

「お師匠が曲者には見えないけどな」

 

 マニゴルドは師の顔をしげしげと見つめた。セージは静かに笑った。弟子の前でそう振る舞う必要がないだけで、神官や外部の権力者が相手の時にはいくらでも権謀を巡らす教皇である。兄などには「涼しい顔してわしよりえげつない」などと言われる始末だ。年の功というのも無論あるだろうが。

 

「そういったわけで、己の立場を割り切った蟹座をはじめとした積尸気使いには、色々と後ろ暗い仕事が回ってくることもある。そもそも死に近いというだけで忌み嫌われやすいし、我々もそれを逆に利用しているところがある」

 

「だけど」

 

 少年は眉をひそめた。そこまで覚悟しても、敵が聖闘士の行動を許し続けるとは限らないだろう。冥界に通じる力がいつ無効化されるか分からない。

 

 弟子の疑問にセージは微笑みと共に答えた。

 

「案ずるな。積尸気使いは常にアテナと共に在る。元々この力は、遙か昔の聖戦でアテナが勝ち取られた権利だと聞く。だから冥王と敵対しても力を封じられることはないのだ。私はこの力に誇りを持っているし、代々の蟹座もそうであったことを聖衣は憶えている」

 

「何でそんなもの戦利品にしたんだ。やっぱり偵察のため?」

 

「私は、魂の正しく巡るのを助けるためでもあると思っている。冥界がなければ、この世は亡者の魂で溢れかえってしまうだろう。魂を冥界へ送る積尸気使いは、さしずめ案内人といったところであろうな」

 

 時に地上の覇権を狙い、アテナと敵対するため、ハーデスは聖闘士に悪しざまに思われている。しかし根本はあくまで冥界の王だ。死者の魂が生まれ変わるためには、正しく冥界を経る必要があった。それをよく知っている積尸気使いは、冥王への感情も他の聖闘士とずれてしまう。

 

「さて、私の話は終わりだ。どの聖衣を授かろうがたとえ雑兵に終わろうが、冥界波を体得したあとは、一般的な聖闘士と同じ考え方はできなくなると覚悟してほしい」

 

「何を今更」

 

 いっそ冷淡なほどの声音で弟子は肯った。

 

「亡霊と遊んでる時点で、他人と同じ考え方なんてできっこねえよ。お師匠だって分かってんだろうが」

 

 セージは胸の内に溜息を抑えた。

 

 少年は茶を飲み干してポットを取り上げた。自分の分も注がれる琥珀色の茶を眺めながら老人は言った。

 

「逆説的になってしまうが、積尸気使いの本領は生を示すことだ」

 

 メメント・モリ。死を思え。人は死の影を見ることで生の輪郭を知る。人の生を愛するアテナは、だからこそ死の力を己の戦士に与えた。

 

「おまえは黄泉比良坂を女の腹に、積尸気使いを産婆に喩えた。闇雲に死を厭うことなく、死の中に生を見出すことができたなら、きっといい積尸気使いになれるだろう」

 

 マニゴルドは頬を掻いてそっぽを向いた。

 

「これでも磨きながら今の話を整理しておけ」

 

 セージは教皇の証を弟子に渡した。鈍く金色に光る兜は、そう易々と他人の手に預けて良い物ではない。両手に乗った重みにマニゴルドは慌てて師を見上げた。

 

「磨き終わったら今度は冥界波の原理を話をしてやろう」

 

 その間に少し仕事を片付けておくから、とセージは書き物机に向かった。

 

 ふと振り返ると、弟子がこっそり教皇兜を被ろうとしていた。

 



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柔らかな日々の追憶

 

 教皇宮を出た射手座の黄金聖闘士は、我知らず溜息を吐いていた。秘密裏に命じられている女神探索は遅々として進まない。今も何度目かの報告を終えたところだ。長期戦覚悟とは言え、結果を出せないでいるのは何とも不甲斐なかった。本来は人手を割いて大人数で捜索すべきなのだが、敵軍に悟られてもいけないと、事情を知る者は限られている。

 

 現在在位している黄金聖闘士は、彼と、魚座のルゴニス。獅子座のイリアスは聖衣こそ持ち歩いているが聖域のために動くことはないだろうから、実質二人しかいない。しかも魚座は平時でも聖域の防衛を担っているので、自由に動けるのはシジフォス一人と言ってもよい。もっと黄金が揃っていればいいのに、と彼が思ったとしても仕方ない。

 

(あいつらも早く拝領できればな)

 

 共に黄金として戦おうと誓い合った友の顔を思い浮かべながら、自宮でしばらく寛ぐ。

 

 と、上から教皇の弟子が下りてきた。人馬宮を通り抜ける際に会釈していく様子がいつもと違ったので、シジフォスは彼を呼び止めた。振り返った顔は精彩を欠いている。

 

「元気がないようだが、それは誰かへの届け物か? 見舞いにでも行くのか」

 

 少年が手にしている籠を指差すと、「ああ、これ」とマニゴルドは熱もなく笑った。「上で貰ったおやつ。べつに誰かにやるわけじゃないよ。シジフォスさんにあげようか」

 

 この前の礼もまだ受けていないし、少しくらい貰う権利はあるはずと考えたものの、シジフォスは先に確かめておくことにした。

 

「誰かへの届け物でないとしたら、おまえは籠を持ってどこへ行こうとしていた? 本当は友達と一緒に食べようと思って持ってきたんじゃないか」

 

「うるせえ」

 

 図星とみて、シジフォスは更に踏み込む。

 

「相手はアルバフィカという子だな。喧嘩でもして会いに行きづらいというなら、俺も一緒に行ってやろう」

 

 嫌がる少年の腕を取り、下の天蝎宮へ続く階段へ足を向ける。我ながらお節介だと思った。先の見えない探索の任務を一時でも忘れたいという逃避もあったかもしれない。

 

「あいつとはもう会わないんだよ!」

 

「なんだ、絶交でもしたか? 俺もアスプロスから十回くらいは絶交されたなあ」

 

「そうじゃねえ。あいつは魚座の聖衣を継承するための修行に入ったんだ。もう誰とも会わないんだよ。それを忘れてた俺が間抜けなんだ」

 

 菓子を女官に貰った時はそれを忘れていて、いつものように一緒に食べようと下りてきた。ところが階段を下りるうちにアルバフィカに会うなと言われたことを思い出した。教皇宮に戻って一人で食べる気にもなれず、惰性で十二宮を下りてきたらシジフォスに声を掛けられた――ということらしい。

 

「ルゴニスのおっさんがもう来るなって言うんだ。行ったら駄目だろ」

 

 そうだな、とシジフォスも困ってしまった。修行を邪魔するのは良くない。俯いている隣の少年を見下ろし、代案を出してみる。

 

「そのおやつを俺と二人で食べてもおまえも面白くないだろう。下に俺の友人がいる。そいつらにも分けてやって皆で食べよう。菓子なんて滅多に口に出来ない奴らだから、きっと喜んでおまえを迎えてくれるぞ」

 

「気い使うなよ」

 

「なに、おまえの菓子を餌にして、最近会ってない奴らとの距離を埋めたいだけの俺の打算だ」

 

「そう」

 

 少年は唇の端を歪めると、前を向いた。

 

 シジフォスはハスガードを見つけて声を掛けた。大柄な友人はどこにいても目立つ。やってきたハスガードは、シジフォスの横にいた少年に目を留めた。

 

「マニゴルド……だったか?」

 

「ハスガード、アスプロスは?」

 

「ああ、呼んでくる」

 

 走っていったハスガードと隣のシジフォスを見比べて、マニゴルドは「あんたの友人って、あいつら?」と聞いた。

 

「そうだ。おまえも知っているだろうが、二人とも良い奴なんだ」

 

「よく知らない。前に少し会ったことがあるだけだ」

 

「そうか」

 

 兄貴風を吹かせてマニゴルドの頭に手を乗せようとしたら、逃げられた。

 

 ハスガードに連れて来られたアスプロスは、硬い表情をしていた。

 

「何の御用でしょうか、射手座のシジフォス様」

 

「止せよアスプロス」

 

 シジフォスは顔をしかめ、ハスガードがちらりとよそを向いた。僅かに沈黙が生まれたが、アスプロスがその空気を破る。

 

「分かったよシジフォス。それで何の用だ」

 

「ああ。マニゴルドが菓子を持っているのでな、皆で食べようと思って」

 

 祝い行事でもなければ口に出来ない物が食べられると聞いて、ハスガードの顔がぱっと明るくなった。まだ酒よりも食べ物のほうが嬉しい年頃だ。

 

「それはありがたい。なあアスプロス」

 

「俺は、なぜ菓子を持っているマニゴルドが暗い顔をしているのか知りたい。シジフォス、きみが立場を悪用して巻き上げたのでなければいいが」

 

 腕を組んで言い放つアスプロス。シジフォスが弁解しようとするより早く、マニゴルドが口を開いた。

 

「カツ上げされたわけじゃねえよ。いつも一緒に食ってた奴がいなくなったから憐れんでくれただけだ」

 

「そういう言い方をするな。さあ、食べよう」

 

 シジフォスは三人を促し、石に腰掛けた。

 

 籠の中には、練った小麦粉を揚げてシロップ漬けにした菓子がきつね色の輝きを見せて待っていた。表面だけでなく、噛めば中からもシロップが浸みだしてくる、ひたすら甘い菓子だ。間もなく四人とも手がべたべたになった。

 

「ところで一緒に食べる者がいなくなったってのは、どういう意味だ?」

 

 ハスガードは尋ねながらもりもりと食べ続けている。マニゴルドはふて腐れた顔で黙り込み、シジフォスが代わりに成り行きを話した。聞くうちに、ハスガードの顎の動きが鈍くなり、ついには止まった。

 

「シジフォス。この菓子は俺たちが食っていい物じゃないだろう。どうしてマニゴルドをそのアルバフィカという子のところへ行かせてやらなかった」

 

「どうしてって、魚座のルゴニス様が面会を禁じたんだから、従うより無いだろう。アルバフィカというのはルゴニス様の弟子なんだ」

 

「なるほど魚座の後継者か。なおさら一度は会うべきじゃないか。魚座の黄金聖闘士は毒に強い者でなければ務まらないと聞く。もしかしたら修行途中で二度と会えないような……その、不幸な事故が起きることだってあるのに」

 

「修行中の死など珍しくもない」

 

とアスプロスが冷ややかに口を挟んだ。

 

「だからこそだ!」

 

 ハスガードは強い口調で叩きつけた。「別れの挨拶もしないまま離れて、後で『奴は死んだ』と知るほうの身にもなってみろ。どうしてあんな言葉を最後に掛けたんだろう、伝えたいことがあったのに、と後悔する羽目になるんだぞ」

 

 シジフォスが言う。「死ぬとも限らないだろう」

 

「それならそれでいい。だけどマニゴルドにとっては前触れもなく友達がいなくなったようなものだ。俺だって、おまえたちがある日突然消えたら泣くぞ」

 

「止めろよ」とうんざり顔でアスプロスが呟いた。「先方がマニゴルドに改まったことを言いたくなくて、敢えて黙ったまま接触を断ったということもありうる」

 

「確かにあり得る話だ」

 

 シジフォスが口を添え、それからマニゴルドを振り返った。「どう思う」

 

 急に話を振られた時、彼は菓子を思いきり頬張っていた。年上三人の視線が集まり、急いで飲み込む。

 

「俺は、あいつに会えないのは仕方ないことだと思うし、会えなくてもいいよ。今日はちょっと忘れてただけで、本当はそんな寂しくないしさ」

 

「嘘吐け。この前の晩よりだいぶ元気がないぞ。我慢せずに突撃して来い」

 

「あのな、ハスガードさん。俺は前に一度、ルゴニスのおっさんから言われてたことを無視して痛い目に遭ってるんだ。また同じようなことをやらかして、あの二人とうちのジジイに迷惑掛けるわけにはいかないんだよ」

 

「むう……」

 

 低く唸ってハスガードは口を閉ざした。その時アスプロスが

 

「魚座様の言葉も解釈次第で何とかなるけどな」

 

と言わなければ、その場は沈んだことだろう。

 

「さすがアスプロス」とシジフォス。

 

「手があるのか?」とハスガード。

 

「会いに行くのが駄目なら、偶然通りがかったことにする。具体的には、魚座様が教皇宮に出仕して留守の間にアルバフィカを表に呼び出す。魚座の住まいには従者がいないと聞くから、外からの呼びかけがあれば弟子が対応するしかないだろう。そこへ偶々マニゴルドが別の用事で通りがかったとして、二人が顔を合わせたことを知る者がいなければ咎め立てもできまい」

 

「もし魚座様が予想より早く戻ってきたら?」

 

 アスプロスは射手座の友人を見やった。

 

「そこはきみの出番だ、シジフォス。十二宮の守護者として、上から下りてくる敵を人馬宮で食い止めろ」

 

「うわお」

 

 シジフォスは、聖衣を授かってからは決して人前では出さないおどけた声を上げた。

 

「ハスガードはアルバフィカを道まで引っ張り出せ。口実は何でもいい。籠城している敵を平原までおびき出す役割だと言えば、要領は分かるだろう」

 

「おう」

 

「おびき出すついでに退路も断ってくれ。相手が出てきたら、後はマニゴルド次第だ。ちゃんと話せるといいな」

 

 マニゴルドは答えず、黙ったままアスプロスを見つめた。ハスガードがふと首を傾げた。

 

「ところでアスプロスは何をするんだ」

 

「俺はマニゴルドに荷物運びを手伝わせて、魚座の住まいの前を通る」

 

「一人で楽してずるいぞ」

 

「馬鹿言え。頃合いを見計らう難しい役だ」

 

 澄まして言うアスプロスの腕を、ハスガードが笑いながら叩いた。それを見てシジフォスも笑う。笑い合う三人に、一番年下の少年は納得したように頷いた。

 

 籠の中身がなくなった。

 

「アスプロスは甘いのが苦手だった?」

 

 マニゴルドはアスプロスの手元を見て尋ねた。手つかずの菓子が残っている。

 

「いや、美味しかったよ。これは持って帰る」

 

「こいつの癖なんだ」

 

とハスガードが横から言った。「新年とかパンアテナイア祭とかで、菓子が振る舞われる事があるだろう。そうすると全部食べないで必ず半分持って帰る。一人でゆっくり味わうんだと」

 

 友人に説明を任せ、アスプロスはその端正な顔に微笑みを浮かべている。そうしていると少し教皇に雰囲気が似る、とシジフォスはこっそり思っている。

 

 それなら良かった、とマニゴルドが立ち上がった。教皇宮に戻る彼に付き合ってシジフォスも腰を上げた。魚座のルゴニスがいつ出仕するかついでに調べておけと、アスプロスから指示が飛んだ。

 

 十二宮の階段を上るシジフォスの耳に、後ろから「なんで」と呟く声が届いた。振り返れば、悪童らしからぬ深刻な顔が見える。マニゴルドは考え込んでいた。

 

「なんであんたたち最初ぎくしゃくしてたんだ? 最後のほうの仲の良さ、あれが元々のあんたたちだろう? 喧嘩してた訳でもなさそうだったけど」

 

 三人が揃った時の短い沈黙で、彼らの間にわだかまりがあることをマニゴルドは気づいていた。

 

「ああ。喧嘩なら分かりやすかったんだが……」

 

 彼ら三人は聖闘士になったら共に戦おうと誓い合った仲だった。それがいつしかアスプロスは微妙に距離を置くようになった。きっかけは、己が射手座の黄金聖闘士に任じられたことだとシジフォスは考えている。

 

「……色々あってな」

 

 使い古された言葉で濁す彼に、少年は薄く笑った。

 

「まあいいけどさ。皆して俺をアルバフィカに会わせてくれようとしてるのも、三人で何か他愛ない事をしたかったからだろ。体よくだしに使われてやるから、仲良くしなよ」

 

 思わず拳骨を落としたくなる衝動に駆られたが、シジフォスは溜息を噛み殺すことでそれを我慢した。

 

「おまえ、可愛くないな」

 

「へへっ」

 

 空の籠を振り回すマニゴルドを連れて、シジフォスは教皇宮を目指した。

 

          ◇

 

 それから数日後。

 

 彼らは行動を起こした。

 

 まず大岩をハスガードが担いで運んできた。どこで拾ってきたのか、牛三頭分はありそうな大岩だ。魚座の住まいの前にそれを置き、大声で魚座の黄金聖闘士を呼ぶ。しばらくして出てきたのは、アスプロスの予想通りアルバフィカだった。門を塞ぐように置かれた大岩を見て、何事かと目を丸くする。その美貌を初めて見たハスガードは一瞬言葉を忘れた。

 

「魚座様に頼まれて持ってきたんだが、今おられるだろうか」

 

「あいにく先生は留守にされています。代わりに弟子の私がご用件を承りますが、何でしょうかこの岩は」

 

「なんだ、師から聞いていないのか? こちら側に廻って見てみるといい」

 

 素直に門から出てきたアルバフィカに場所を譲るふりをして、ハスガードは門と岩の間に立ち塞がる。万が一マニゴルドの顔を見るなり家に逃げ込まれないようにするため退路を断ったのだ。

 

 陰から頃合いを窺っていたアスプロスが道へ出た。小さな包みを持っている。その後ろに、申し訳程度の荷物として訓練用の防具を持ったマニゴルドが続く。

 

 大岩を一通り観察しても、特に意味は見出せない。魚座の弟子は不審そうに眉をしかめた。

 

「ただの岩ではありませんか」

 

「そんな……。おかしいな。ここへ運んでくれと頼まれたんだが、何かの間違いかな。確かめてくるから少しこれの番をしていてくれないか」

 

 質朴そうな候補生に言われてアルバフィカは戸惑う。岩ごときに見張り番など必要ないだろう。いや、実は一人で運べる程度の軽い物なのかも知れない。真面目な彼は考えこむ。どうしようかと視線を巡らせた時に、丁度そこへ通りがかったマニゴルドの姿を見つけた。

 

「あ」

 

 その声に、マニゴルドも彼のほうを見た。

 

「よう、アルバフィカ」

 

 アスプロスが後ろを振り返った。マニゴルドに「手伝いありがとう。ここまでで良いよ」と声を掛けて荷物を引き取った。代わりに包みを渡す。往来に残ったマニゴルドはアルバフィカを見つめ続けた。アルバフィカは不思議そうに首を傾げたが、会ってはいけない人物に会ってしまったというような気配は見せない。

 

「久しぶりじゃないか?」

 

と言うアルバフィカに、マニゴルドは

 

「そうだな。おやつ食おうぜ」

 

と包みを掲げて歩み寄った。

 

 大丈夫そうだと見て、ハスガードも「それじゃ番をよろしく」と言い置きその場を去った。

 

 マニゴルドは石に寄りかかった。

 

「前に来た時は、おまえが寝込んでるってルゴニスのおっさんに聞いた。もう体は良いのか」

 

「ああ、もう落ち着いた」

 

「やっぱり薔薇の毒で?」

 

「いや違う」

 

 アルバフィカは首を振り、友人を見つめた。

 

「私は先生から聖衣を継ぐための修行に入ったんだ。修行が終わるまでは他人と会うことを一切禁じられた。おまえももう来るな」

 

「分かってる。今日が最後だ」

 

 素直に頷いた悪友に、アルバフィカの眼が険しくなった。

 

「……おまえ、分かってて来たな」

 

「うん。この後はおまえたちの修行を邪魔したりしねえよ。だから今日が最後」

 

 道の向こうからはハスガードとアスプロスが二人の様子を見ている。

 

「しかし驚いたなあ、魚座様のお弟子があんな綺麗な子だったとは。仮面無しで現れるのは少々感心しないが、魚座様はいいのかな」

 

「さあな。シジフォスが『見て驚くなよ』とか抜かしてたのは、仮面無しの素顔のことだったのかもな。マニゴルドは見慣れているようだし」

 

 彼らの視線の先で、マニゴルドが包みを解いた。

 

「アスプロス、あれは?」

 

「さあ。最初から彼の荷物だ」

 

 包みからは果物が出てきた。教皇の弟子とその友人はいつも菓子や果物のような贅沢な物を食べているのかとハスガードもアスプロスも憤ったが、虫を食べることもあると後で聞いて一気に冷めた。しかもそれが事実であることをシジフォスが保証するので、むしろ気の毒になった。

 

 それはさておき、マニゴルドはザクロの実を半分に割って、片方を友人に手渡した。アルバフィカは宝石のような赤い粒を一粒、口に入れた。

 

「酸っぱいぞ」

 

「あれ、外れかあ」

 

 マニゴルドも手元の実から粒をほじって食べてみた。確かに甘味より酸味が強かった。

 

「もう少し熟すのを待つしかねえか」

 

「それなら今食べよう」

 

 熟すのを待っても、もう二人で分け合う機会はないから。言外の意味を正確に受け取り、マニゴルドはザクロの実に歯を立てた。ぽろぽろと赤い粒がばらけた。

 

「これ、女神への供え物からはね除けられたやつなんだけどさ。ザクロはキリスト教だと再生と永遠の命の象徴だけど、ギリシャ神話だと冥王に攫われたペルセポネが冥界で食った果物だっていうよな。そんなの冥王と敵対してるアテナに捧げていいのかね」

 

「少しは勉強したか」

 

「少しはな」やや間を置いてから悪童は言葉を継いだ。「俺は冥界でザクロを食べても、地上に戻ってこれるようになるんだ」

 

「なんだ。エレウシスの秘儀でも覚えるのか」

 

「違うって。お師匠の技を継ぐことになった」

 

とへらりと笑った。アルバフィカは我が事のように喜んだ。友人が口では不平を垂れながらも、師を慕っているのはよく知っている。

 

「それは良かった。教皇猊下の技を継げる者などこの聖域にはいないのだぞ! 絶対に期待を裏切るなよ。ああでも、本当に良かったな」

 

「おう」と少年は鼻の下を擦った。「俺も聖闘士を目指すから」

 

「あまり猊下に迷惑を掛けるなよ」

 

「おまえも頑張ってルゴニスのおっさんの後を早く継げるといいな」

 

「うん」

 

 それを言いに来たんだ、とマニゴルドは結んだ。

 

 彼の横で、アルバフィカは赤い実を両手で弄んだ。

 

「……私はこの修行を終えたら魚座の黄金聖闘士になる。おまえが何の聖衣を授かれるかは分からないけど、もし猊下の後を継げたら黄金位だ。次に会う時は二人とも黄金になれてたら、いいな」

 

「そうだな」

 

「いいだろ」

 

「うん。いい」

 

 それから二人は言葉少なに酸っぱい実を囓り、ぽろぽろと赤い粒を地面にこぼした。食べ終わると二人はいつものように「じゃあな」と別れた。

 

 

 道を戻ってきたマニゴルドを、ハスガードとアスプロスが出迎えた。

 

「素っ気ないなあ。もっとこう、感動的に盛り上がる別れかたをすればいいのに」

 

「なんであんたの好みに合わせなきゃいけないんだ」

 

 ハスガードの感想を鼻で笑う。しかし少年はすぐに真面目な顔になり、協力してくれた彼らに礼を述べた。

 

「二人ともありがとう」

 

 素直に謝意を表せるようになったのは、セージとハクレイの兄弟が言葉と拳で躾けた賜物だ。どちらが説教でどちらがゲンコツを担当したかは省略する。

 

 アスプロスが頷き、抱えていた小道具をハスガードに押しつけて片付けを頼んだ。相手の返事を待たずに彼はマニゴルドを連れて十二宮へ向かった。

 

「あんたが十二宮に何の用?」

 

「魚座様に謝りに行く」

 

「どうしてだよ。せっかくばれないようにシジフォスが足止めしてくれてるのに。と言うかあんたも上まで行くの? 長いぜ階段」

 

「俺は十二宮には入れないよ。もう念話でシジフォスに伝えてあるから、じきに魚座様が下りて来られる」

 

 十二宮最初の白羊宮の手前。二人は目的の人物が来るのを待った。やがて現れたルゴニスは、初めて見る組み合わせに目を細めた。相手が口を開く前にアスプロスが一礼する。

 

「候補生のアスプロスと申します。この度は魚座のルゴニス様にお話ししなければならないことがあり、ここでお待ちしておりました」

 

「私に?」 

 

 厳めしい鎧を身に纏っているのに、ルゴニスの雰囲気はあくまでも穏やかだ。それに相対するアスプロスもまた、臆することなく堂々としている。

 

「立ち話で申し訳ないのですが、実は先ほど、このマニゴルドをお弟子のアルバフィカさんに会いに行かせました。本人は魚座様の言いつけに従ってお住まいに近づかないようにしていたのを、私が唆して連れて行ったのです」

 

 マニゴルドは呆れ顔で、ルゴニスは面白いものを見る目で、それぞれアスプロスを眺めた。

 

「なぜそのような事を」

 

「挨拶もしないまま友に会うことが叶わなくなったとなれば、後々まで悔いが残るかも知れません。遠方の修行地なら諦めも付くでしょうが、二人とも聖域にいるのですから余計です。我慢し続けて気詰まりするよりは、一度顔を合わせてしっかりと区切りを付けたほうが、修行に身が入ると考えました。部外者が勝手な真似をいたしまして申し訳ありません」

 

 男は聞いた。

 

「シジフォスも噛んでいるのだろうな」

 

「はい。足止めだけは彼にお願いしました」

 

 軽く苦笑すると、ルゴニスは弟子の友人に視線を向ける。アスプロスが白状してしまったから、マニゴルドも今更ごまかせない。

 

「ごめん。会った。でももう行かないから。さっきだって道を通った時に偶然アルバフィカが表にいただけで、あいつの邪魔をするつもりはなかったんだ」

 

「マニゴルド。アルバフィカと何か約束したか?」

 

「約束じゃないけど、二人とも黄金になれたらいいなって話を」

 

 ルゴニスは少年の肩を軽く叩いた。

 

「それなら励むがいい。ただし約束を果たすまで我が弟子の前に姿を見せるなよ。また同じ事をしたら毒薔薇の下に生きたまま埋めるぞ」

 

 そう言って彼は住まいの方角へ去っていった。大岩のことを伝え忘れたなと呟くアスプロスに、マニゴルドは非難の目を向けた。アスプロスは冷ややかに少年を見返す。

 

「どうして白状しちゃったんだよ」

 

「先手必勝だ。後で露見するより先に打ち明けたほうが傷が浅くて済む。これでもう精々おまえとシジフォスが教皇猊下から絞られるくらいだ。良かったな」

 

「良くねえよ。殺すって脅されたぞ俺」

 

 マニゴルドはぼやき、最初は乗り気ではなかったのになぜ協力してくれたのかをアスプロスに尋ねた。

 

「さすがに気の毒だからな。ハスガードに煽られて正面から乗り込んでいったら、おまえは魚座様に追い返されるか、住まいに押し入った不埒者として処分されかねない。聖闘士の中でも黄金位というのは、本来は候補生が気安く話しかけることもできないくらい、とても格が高いんだ。教皇の弟子というおまえの立場があれば処分はされないにしても、言いつけを無視された形の魚座様が怒ったら猊下へ苦情が行くだろう。前に遭った痛い目というのが何かは知らないが、おまえを助けてやったんだ」

 

 悪童は「へえ」と気のない声を上げた。

 

「それじゃあ俺がジジイに謝る時の説明も、あんたに話を合わせておく? それとも正直にばらしていい?」

 

と聞いた。アスプロスの視線が強くなってもにやりと笑うだけだ。ルゴニスに話した内容ではアスプロスが行動の主体だったかのようだが、端役のようなシジフォスも、名前の出なかったハスガードも、実際は最初から深く関わっている。アスプロスがしたように二人を庇う必要はあるのかと、悪童は尋ねているのだった。意味合いとしては、シジフォスにぶつけたからかいと同じだ。

 

「好きにしろ」

 

「恰好つけー」

 

 不意に声を立てて笑ったかと思うと、マニゴルドは階段を一段上がった。そうすると目線が同じ高さになる。

 

「素直になれよ。シジフォスはもっと三人で仲良くしたがってるぜ」

 

「うるさい」

 

 アスプロスはもう相手をするのが面倒になった。悪童の笑い声を背に、彼は十二宮の前から立ち去った。

 

 

 それから幾日経っても教皇宮からのお叱りはなかった。ハスガードにもシジフォスにも達しはなかった。

 

 ちなみに魚座の住まいの前に立ち塞がっていた大岩は、ルゴニスの帰宅前にハスガードがしっかり片付けていた。

 



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壁の住人

 

 教皇宮は「教皇の間」に代表される公の空間と、教皇の生活に使われる私的な空間とに分けることができる。これまでセージはマニゴルドとの付き合いを私的な空間に留めていた。教皇としての判断に私情は挟まないという、彼なりの意思表示である。教皇の間で弟子と組み手をして神官に苦言されたのは、彼にとって苦い思い出だった。

 

 しかし弟子にも己の悲願を背負わせるとなると、これまでのように朝晩だけでは修行時間が足りなかった。マニゴルドには対冥王の聖戦において切り札となりうる積尸気使いの才能がある。それはむざむざ独学させるのは時間の無駄遣いだ。目の届く所で、正しく、できる限り高みまで導いてやりたい。

 

 考えた末、セージは己の執務室を新たな学びの場とすることにした。用のある限られた神官しか入ってこないし、聖闘士はまず近づかない。跳び回ったりするのでない限り十分な広さもある。

 

 我ながら名案だと思ったのだが、マニゴルドは顔をしかめた。

 

「朝から晩まで年寄りのツラを眺めて過ごすのかよ」

 

 執務室で修行すると聞いて開口一番、これが感想だった。どこまでも不遜な弟子である。

 

「私からすれば、朝から晩まで洟垂れ小僧の面倒を見ながら過ごすことになるのだ。嫌なら手を動かして早く掃除を終わらせなさい」

 

「ああ、やっぱりハクレイのジジイの弟だわ。言うことがよく似てる」

 

 口の減らない弟子には、修行時の居所を作るために執務室の整理をさせた。掃除の最中に入室した神官が、こちらはセージの予想通り眉をひそめる。

 

「猊下」

 

「言いたいことは分かっておる。だが、この者には聖闘士として私が身に付けた技を継承するのでな。本来であれば十二宮の下まで下りて指導すべきであることは重々承知しておるが、往復にも時間が掛かる」

 

 神官は反論しようと口を開き、だが言いたいことを飲み込むようにそのまま閉ざした。

 

「そなたたちに面倒は掛けさせぬ」

 

「お言葉ですが、ここには世界中の聖闘士や聖域に関する重要な文書が届くのですよ。猊下のお弟子様とは言え、お役目に与らない方がおられるとなると、何かと差し障りがございます」

 

 二人のやり取りを聞いていたマニゴルドが手を止めた。振り返って、

 

「だよな! 俺もそう思ってたんだよ。大人しく外で修行してくる」

 

と言うなり部屋を出て行った。セージが呼んでも戻ることはなく、悪童はさっさと姿を消してしまった。

 

 神官は持っていた書状を執務机に置き、教皇に向き直る。セージは差し出された書状を手元に引き寄せようとした。が、神官自身によってそれを阻まれた。顔を上げると相手は真顔だ。

 

「猊下。余計な火種を作らぬようお気をつけください」

 

 女神の降臨という重要な出来事が空振りに終わってからというもの、一部の神官がセージの判断力の衰えを憂えだしたという。空振りではなく予定外な条件が加わっただけだとセージ自身は主張したいが、結果が伴わない以上仕方がない。

 

 そこへきて、これまで用心深く公私混同を避けてきた教皇が、弟子を四六時中手許に置きたがるようになったとすると、余計な憶測を招きかねない。この神官はそれを心配していた。

 

「弟子の修行を現実逃避とするつもりはないが、口で言っても伝わるものではない、か」

 

 セージは溜息を吐き、改めて書状を受け取った。

 

          ◇

 

 執務室から逃げ出したマニゴルドは、墓のある丘に向かった。目指したのは側に木の立つ水場だ。初めて己の中の小宇宙を実感した場所である。

 

 もう一度小宇宙を燃やせるようにならなければ修行は先に進まないと、少年も自覚していた。急かされるようなことはないが、師が気を揉んでいるのは知っている。黄泉比良坂から戻ってきた場所でなら感覚を取り戻せるのではないかと、彼なりに考えてここへやって来た。

 

 木の根元に寝転がり、空を見上げる。

 

 張り出した枝の向こうに広がるのは青空。あの朝のような星は見えない。代わりに細い白い月が見えた。爪みたいだ、と思いながら瞼を閉ざす。

 

 あの時、生きていることに初めて喜びを感じた。

 

 頭の両脇に添えられた師の掌から、温かいような冷たいようななにかが流れ込むのを感じた。体の内をきらきらとしたものが流れ、勢いよく渦を巻くのを感じた、あの感覚。

 

 頭上の梢で葉がさざめいた。

 

 風の音が遠くなり、彼は無音に包まれる。

 

 しかし。

 

(…………駄目だ)

 

 スターヒルの麓でがむしゃらに集中しようとするよりは求める境地に近づいた気がするが、後一歩。何かが足りない。

 

 寝付けない夜のような心持ちで目を開けた。

 

「あ、起きた」

 

 マニゴルドの発言ではない。聞いたことのある声だった。首だけ起こすと、すぐ近くにアスプロスが佇んでいるのが見えた。いつ近寄られたのか、全く気付かなかった。

 

「気配を消して近づくなよ。趣味悪りい」

 

「失礼な。俺は普通に歩いてきたぞ。内に向いたきみの集中が深かっただけだろう」

 

 墓参りに来た時にマニゴルドを見かけて、戻る時にもまだ同じ姿勢で寝ていたので近寄ってみたところだと彼は言う。

 

「小宇宙を抑える修行か?」

 

「逆だよ逆。小宇宙を燃やしたいの」

 

「それならもうちょっとだ。頑張れ」

 

 マニゴルドは首を戻してぎゅっと目を瞑った。既に小宇宙を操る術を身に付けた先輩と、まだの自分がどちらも「もう少し」と感じたのなら、それはきっと本当に近いところまで来ているのだ。

 

 少し離れた所から草を踏みしめる音がした。寝物語でもするように穏やかなアスプロスの声が聞こえてきた。

 

「……小宇宙の目覚めは、生命の危機に瀕した時に起こりやすいという。生を希求する本能が呼び水となるのだそうだ。過酷な修行を正当化する言い訳でもあるが、それなりに効果はあると思う。でも、教皇の庇護の下で守られている今のきみに、死にかけの苦しさを味わわせる者はいないだろうな。瞑想だけで目覚めようとは、実にお上品なことだ」

 

 彼の気配がすっと近づいてきた。頭上から重い声が降ってくる。

 

 殺してやる

「目覚めさせてやろうか」

 

 実際にアスプロスが口にしたのがどちらだったのか、マニゴルドには咄嗟に判断が付かなかった。ただ、それが自分に向けられた瞬間に、内側からぶわっと何かが溢れだしたのを感じた。

 

 目を開けると、アスプロスの顔が真上に見えた。聖人のように清らかな顔が輝いている。その向こうには青空と、白い月と、見えるはずのない真昼の星々。

 

 小宇宙が燃え上がる。

 

「ほら」

 

 アスプロスは当然の結果とばかりに、マニゴルドを起こした。少年も体を巡る流れを自覚した。腹の底から指の先まで、体内を隅々まで満たす力。同じような力を傍らの先輩からも感じる。アスプロスの顔が輝いていると感じたのは、純粋な小宇宙のためだった。

 

「今度は自分一人で燃やせるようになれよ」

 

 眩しさに目を細めたマニゴルドの肩を叩いて、アスプロスは立ち上がった。彼が働きかける前から、小宇宙という水はマニゴルドという器に十分溜まっていた。あとは最後の一滴が加えられるのを待つか、外から力を加えれば、すぐに溢れ出すだろうとみえた。彼が行ったのは、器の縁から盛り上がるほどに溜まった水をつついて、水が溢れるのを促す行為だった。

 

 そうアスプロスは説明した。淡々と。だからマニゴルドも相槌のつもりでごく自然に言った。

 

「それで殺意を」

 

 相手は虚を突かれたように口を噤んだ。視線から逃れるように顔を逸らす。

 

「……ちょっと今、俺は自分が嫌になった。さっきのことは忘れて欲しい。もう行く」

 

「アスプロス」

 

 マニゴルドが呼び止めても、彼は振り返らずに水場を立ち去った。

 

 残されたマニゴルドはもう一度仰向けに寝転がった。

 

(変な奴)

 

 妬みと怒りを込めた殺意を堂々と向けてきながら、それを恥じて逃げていった彼のことを考えた。教皇の弟子という立場を嫉妬されても仕方ないし、それを直接ぶつけてくるのは正直で好ましいとマニゴルドは思う。さすがに殺されたくはないが、相手は本気で殺しに来たのではなく、小宇宙発現のきっかけをくれたに過ぎなかった。冗談だよと笑って流せばいいものを、ごまかすこともできずに不器用に走って行ってしまったアスプロス。前途有望な聖域の優等生が、候補生としても出来の悪い元浮浪児に嫉妬する己を許せなかったのだとしたら、難儀なことだ。

 

(後で気にすんなって言いに、いや、それともしばらく顔を見せないほうがいいかな)

 

 年の割に妙なところで達観しているマニゴルドである。アスプロスのことは構わずにおこうと決めた。彼のことより今は目覚めた小宇宙の感覚をしっかりと覚えておくほうが大事だ。

 

 マニゴルドは手を空に翳した。

 

 内なる小宇宙に意識の焦点を合わせたまま、死霊を引き寄せる。すると慣れ親しんだ感覚と共に鬼火はやってきた。いつもやっていたように青い光を指先で戯れさせる。小宇宙に目覚めた状態でも、鬼火を操る感覚に違いはないので安心した。

 

 ふと「積尸気使い」という言葉を思い出す。

 

 鬼火は物心つく前から彼の遊び相手だった。お陰で周囲には気味悪がられたものだが、死に親しむこの力があったから独りで生きることも、追い剥ぎをすることも怖くなかった。しかもセージに見出されることにもなった。他人が思うほど悪い力ではない。積尸気使いとは、この力を使うことを肯定してくれる言葉だ。

 

 少年は鬼火を解放した。

 

 それはゆっくりと青空に溶けていった。

 

          ◇

 

 部屋から脱走してどこかで小宇宙に目覚めてきた弟子は、しっかり夕飯前に帰ってきた。今はセージの向かいでキャベツのスープを啜っている。

 

「次の修行行こう、次」

 

 セージは頭を一つ振り、あつかましい弟子の要求を斥けた。安定して小宇宙を制御することができるようになるまで、新しいことは教えられない。修行は一足飛びにはいかない。

 

「小宇宙は人に人の限界を超えさせる。暴走すればたちまち肉体を破壊するほどの力だ。喩えるなら今のおまえは火薬を左手に、火種を右手に持ち歩いているようなものだ。一触即発だ。その火薬をしっかり管理できないまま次の修行に移っても何もいいことはない。良いか、小宇宙は聖闘士の基本であり真髄だ。焦ることはない」

 

 つまらなそうに口を尖らせ、それでも弟子は頷いた。

 

 食後、星見の供としてスターヒルまで付いてきたマニゴルドに、小宇宙を燃やすのを止めるように言った。せっかく感覚に慣れてきたのに、と渋られた。

 

「いいから一度鎮めなさい。その程度の制御もできないうちに次の修行に移れるわけがなかろう」

 

 セージの見ている前でマニゴルドは小宇宙を完全に鎮めた。初めて意識的に行うことなので、それなりに時間は掛かった。完全に落ち着いたのを見届けてから、再び燃やすように弟子に言う。

 

「星見を終えて私が戻るまでに、自分の意志で燃やせるようになれ」

 

 まあ無理だろうと思いながらセージはスターヒルを登った。

 

 しかしマニゴルドはこの言いつけをやり遂げた。汗だくの顔で、頑張った、と誇らしげに胸を張って師を見上げる。「当たり前の事が出来たぐらいで威張るな」と言ったものの、師としては嬉しい驚きだった。

 

 幾日か同じ修行を繰り返し、頃合いを見計らってセージは別の課題を与えた。

 

「巨蟹宮にあるものを見てこい」

 

          ◇

 

 十二宮の四番目に位置する巨蟹宮。蟹座の黄金聖闘士が守護する場所だ。蟹座といえば現在セージがその聖衣をまとうことができるが、彼は教皇であり十二宮よりも重要な聖域の最奥を守っている。つまり巨蟹宮の守護者はいないに等しい。

 

 闘技場での訓練のために普段から十二宮を上り下りしているマニゴルドは、そこが無人であると知っていた。せいぜい屋根のある通り道としか思っていない場所だったから、宮の奥には入ったことがなかった。

 

 柱の間を抜けて巨蟹宮の中に足を踏み入れる。日陰に入った途端、ひんやり気温が下がる。

 

 そこに何があるのか、師は語らなかった。

 

 十二宮は十二層の砦であると、聖域に来たばかりの頃に聞いたことがある。もしかしたら敵を迎え撃つための秘密兵器でもあるのか、とマニゴルドは期待した。それが大砲の類だとは、彼ももう考えなかった。下手な火器よりも聖闘士の拳のほうが威力は大きい。

 

 時を刻んだ石の回廊を進み、奥へと進んでいく。

 

 冷ややかな空気。少年を左右から見下ろす高い柱。日差しを直に受けることのない、薄暗い空虚。宮付きの従者が手入れをしているので埃は溜まっていないが、人のいる気配はない。

 

 若い頃の師がいた名残でもあれば見たかったが、何も無かった。

 

 辺りを見回しながら歩いていたマニゴルドは、ふと人の声を耳にした。ような気がした。声が聞こえてきたと思しき方角に足を向ける。

 

 廊下を曲がって見えてきたものに、彼は首を傾げた。白い仮面が幾つも壁に架けてある。一つ一つ形が違う。

 

(お師匠の趣味?)

 

 初めは仮面演劇で使う仮面だと思った。彼の出身地イタリアは、コメディア・デラルテやコメディア・エルディータのような、庶民のための仮面劇発祥の地だ。十八世紀当時はヨーロッパ各地でも人気があった。彼がそういった演劇を楽しんだことはなく、舞台に気を取られている連中から掏ることにしか興味はなかったとしても、仮面劇の存在は知っていた。

 

 しかし近づくうちに思い直した。劇で使われる仮面は顔の上半分しか覆わないが、ここにある仮面は額から顎の下まですっぽりと顔全体を覆う型だ。そしてこの生々しい表情。人の顔から型を取ったに違いない。

 

 石膏の手触りを想像したが、触れると少し弾力があった。

 

 仮面の一つがなにか呟いた。

 

 マニゴルドはぎょっとして、別の仮面に触れていた手を引いた。だが呟きを漏らしたその顔は、それきり黙り込んで静かになった。

 

 師が見ろと言ったのは、きっとこの仮面たちのことだろう。辛気くさい顔ばかりだが仕方ない。壁際から離れて眺めることにした。

 

          ◇

 

 弟子から巨蟹宮に行ってきたと報告を受け、セージは頷いた。そして特にその話題に触れることのないまま夕食を取った。弟子のほうも心得たもので、食卓では他愛ない話に終始した。

 

 セージが話を切り出したのは、私室に戻ってからだ。

 

「巨蟹宮で何を見た」と師が尋ねる。

 

「壁に浮き出てた顔を」と弟子が答える。

 

 それから弟子は語った。見つけた時はただの仮面だと思ったこと。触れてみた感触や時折言葉を発することから、すぐに違うと分かったこと。顔に触れた時に伝わる雰囲気が死霊に似ていること。指の力では壁から引きはがせなかったこと。しかし鬼火と戯れるのと同じ感覚でその顔を呼び寄せてみようとしたら、僅かに反応があったこと。

 

「だからあれは死者の遺志が具現化したもので、何かの理由で釘付けにされてるんだと思った」

 

 そこまで語ると、マニゴルドは言葉を切ってセージの顔を窺った。彼は腕組みを解いて言った。

 

「まあ、いいだろう」

 

 弟子はあからさまに安心した。

 

「おまえの推察した通り、あそこにあるのは死者の顔だ」

 

「壁にくっつけてあるのはお師匠の蒐集品だから?」

 

「そんな趣味はない」

 

 ばっさり切り捨てる。

 

「蟹座の黄金聖闘士が在位している間、どういうわけか巨蟹宮は冥界と繋がりやすくなるらしい。すると現世に未練のある死者の念が巨蟹宮にさまよい出てきて、あのように現世に留まろうとするのだと言われている」

 

「顔だけで?」

 

「顔だけでだ」

 

「留まったって、壁にへばりつくしかできない奴らに何ができるんだよ」

 

「そこまでは分からぬ。中には現世に戻っただけで満足して消える顔もあるが、そうした自然消滅には時間が掛かる。結果として顔は増えていく一方に見える。減る数よりも増える数のほうが多いのでな」

 

 弟子は師の解説を消化しようと視線を虚空に向けた。

 

「でもお師匠がずっと蟹座をやってるんだろう。就任してから結構経つだろうに、それほど顔の数は多くなかった。増え方がゆっくりなのか、あんまり根性のある奴がいないのかな。それともお師匠が普段は巨蟹宮にいないから影響が薄い?」

 

「いいや。蟹座の黄金聖闘士は、定期的に死者たちを冥界に送り返している」

 

「……積尸気冥界波か」

 

 マニゴルドは彼の意図を察したようだった。

 

「そうだ。巨蟹宮に浮かぶ死者の顔を全て消す。それをこれからのおまえの課題に加える。人は遠ざけてあるから、あそこで冥界波の練習をしなさい」

 

「独りで?」

 

「私と一つ部屋で修行するのが嫌なのだろう」

 

 それを聞いて弟子は嫌な笑い方をした。

 

「笑い事ではないぞ。積尸気冥界波の練習は、巨蟹宮か、私の見ているところ以外では練習してはならない。そして私が許すまでは、決して誰にもその技のことを話してはならない。これだけは守ってくれ」

 

 セージの真剣な様子にマニゴルドも笑みを消す。

 

「分かったよ。ところでお師匠、あの死者の顔を送り返さずにずっと放っておいたらどうなんの?」

 

「害はないと思うが、分からぬ。とりあえず巨蟹宮は死者の顔で埋め尽くされてしまうだろう。おそらく壁だけでなく、天井や床まで」

 

 想像したのだろう。弟子は顔を歪めた。

 

「従者や通過する者が嫌がるので、そこまで放置した者はいないはずだ」

 

 こまめに消していれば宮の奥だけに留まっているから、巨蟹宮だけのこの現象を知っている者は少ない。そう伝えると、弟子はますます嫌そうな顔をした。 

 



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仮面たちの中の自画像

 

 放っておけば勝手に浮かんでくるものを、こまめに取り除く。

 

 それだけ聞けば、まるで庭の草抜きだとマニゴルドは思わずにいられない。師の前で口に出せば説教されるから言わないが。

 

 彼は今、巨蟹宮にいる。

 

 目の前の壁には白い顔が全部で十四。

 

 顔の一つ(丸鼻・丸顔の男で、マニゴルドはプルチネッラと名付けた)が呟きを発した。内容は特に意味を為さない。「辛い」とか「苦しい」とか、マニゴルドの戯れ相手の鬼火たちと同じような嘆きだ。

 

 しかし、鬼火なら彼の意思に従って動いてくれるのに、この顔たちは壁から離れてくれない。巨蟹宮と死者の相性はすこぶる良いらしい。

 

「おっさん、何がしたいんだよ。こんな誰もいない所に出てきたって、仕方ねえだろうに」

 

 聞いてもプルチネッラ氏は反応を示さない。人の顔はしていても、鬼火よりも意思が通じない。

 

 マニゴルドは教わったばかりの積尸気冥界波を早速試してみることにした。

 

 人差し指をプルチネッラの鼻先に突きつける。鬼火を操るのに似ているが、師から言われているのは少し違う感覚。そろり、指を動かすとプルチネッラの顔は壁から離れた。上手くいった。

 

 自分は天才じゃないかとマニゴルドが思ったのも束の間、向かうべき積尸気の穴が示されなかったためにプルチネッラ氏は元の壁に戻ってしまった。

 

 それではと、先に黄泉比良坂に通じる穴を開けることにする。やはり人差し指を虚空に向ける。だがセージに言われたようにやっても、何も起きなかった。何度やっても同じだった。感覚を知らないのだから一朝一夕に上手くいくはずがない。

 

 彼は天井を仰いでひっくり返った。薄暗い天井の隅に蜘蛛の巣が張っている。巣の上を歩いている蜘蛛を指差して、呻いた。

 

「積尸気冥界波……」

 

 アラクネの子孫は悠々と糸を渡りきった。

 

 ――自身の機織りの腕が女神にも優ると、神を嘲る織物を織った傲慢な女、アラクネ。ときに人の技量がそれを司る神さえ上回ることを身をもって証明した、愚かな先駆者。

 

 マニゴルドは身を起こした。

 

 あと十回やって駄目だったら気分転換に闘技場に行こう。そう決めて、彼はその通りに行動した。

 

 闘技場に向かってすぐに手頃な相手も見つかった。ところが頭の隅で積尸気を開く方法を考えていたせいだろう。組み手で指を怪我してしまった。

 

 何をやっても駄目な日というのもある。割り切って彼は十二宮の方角へ帰り始めた。途中でサンダルの紐が解けたので結び直そうとするが、片手の怪我のせいで上手くいかない。

 

 悪態を吐きながらやり直していると、見かねた通行人から声がかかった。

 

「結んでやろうか?」

 

 顔を上げると、仮面があった。

 

 といっても巨蟹宮の白い死に顔とは違う。装着者がしっかりいる、銀色の面である。それは女聖闘士や聖闘士を目指す少女たちのつける覚悟の証だ。

 

 マニゴルドが女官以外の女を間近に見るのは、聖域に来てから初めてのことだった。男に比べて女の人数が少なく、近づく機会がなかったというのも、もちろんある。しかしそれよりも、並の男を寄せ付けない女聖闘士たちの気性の激しさと厳しさに、年若い候補生たちが近づくのを尻込みしているという現実があった。マニゴルドも新入りの頃に「ここの女は怖いぞ」と散々脅された。いや、この場合は脅しではなく真剣な忠告だったのかも知れない。

 

 男社会の中で、男と同じ条件の下で肩肘を張って生き抜くしかない彼女たちが、多少は刺々しくなったとしても仕方のないことだ。

 

 その仮面の主は、手早くサンダルの紐を結び直してくれた。

 

「ほら」

 

「ありがとう」 

 

 礼を述べると、マニゴルドは改めて彼女を見た。三つ編みにした黒髪をぐるりと頭に巻き付けている。今までに同じ髪型をした聖闘士は見覚えがない(顔で見分けが付かないのだから、髪型で見分けるしかない)。

 

「あんた、新しい候補生?」

 

「失礼な奴だね。私はもうすぐ聖闘士さ。聖域といえば聖闘士の総本山、聖闘士の中でも選りすぐりの凄い人ばかりなんだろうと想像してたんだけど、自分で紐も結べないような坊やがいるとはね。がっかりだよ」

 

 マニゴルドは苛立った。しかし親切にしてもらったことと紐に苦戦していたことは事実だ。

 

「……俺が聖域の顔だったらがっかりしても仕方ないけどよ。強い奴はゴロゴロいるから」

 

「どこに行けばそいつらと手合わせできるんだい」

 

 聞けば彼女は聖域に今日到着したばかりだという。マニゴルドは闘技場まで案内してやることにした。

 

 二人が並ぶと、マニゴルドの目の高さと彼女の肩の高さが同じくらいだった。

 

「俺はマニゴルド。あんたの名前は?」

 

「ニキア」

 

 これのことさ、と彼女は指をヒラヒラさせた。正確には爪を見せたのだ。本名ではないだろう。

 

「いいね。たしか黒と白の縞瑪瑙の語源だろ。あんたの髪と肌の色と同じだ」

 

「生意気言うんじゃないよ、子供のくせに」

 

 仮面の下の表情は見えないし、声も素っ気なかった。マニゴルドは肩を竦めた。オニキス(縞瑪瑙)という名詞が、ギリシャ語のニキア(爪)に由来するという師匠の受け売りを思い出して口にしただけだ。

 

「もうすぐ聖闘士ってことは、ニキアは聖衣を受け取りに来たのか」

 

 聖衣を授かるための最後の試練のために聖域入りしたのだと、彼女は答えた。そんな大事な時に組み手などしていて大丈夫なのかとマニゴルドは眉をひそめる。しかしニキアは少年の心配を笑い飛ばした。

 

「修行地からやってきたその日の内に試練を課されても困るよ。聖域や聖闘士のしきたりを学ぶってことで、早めに聖域に入れるように私の師匠が手配してくれたんだ」

 

「なんだよ。それじゃあんたも今は候補生だろうが。年上かも知れねえけどそれだけで威張るな」

 

「悪かったね。これが私の地だよ」

 

「あっそ」

 

 女聖闘士は皆こういうものなのかとマニゴルドは少しだけ落胆した。教皇宮詰めの年増の女官たちのほうが、よほど可愛げがある。

 

 彼は前方を示した。

 

「あそこが小宇宙体得組の使う闘技場。で、あっちで腕組んでる偉そうな奴が今日の監督役。あいつに挨拶したら、適当に手の空いてる奴に組み手を申し込んでいいよ。今は自主訓練の時間だから」

 

「分かった」

 

 ニキアは頷いて、闘技場に揚々と向かった。

 

 彼女の実力がどれほどのものか気になったが、マニゴルドは見届けようとは思わなかった。それよりも今は怪我をした指を治したかった。

 

          ◇

 

 教皇宮に戻ってきた弟子は、指を怪我していた。原因を聞くと、組み手の時に相手の攻撃を流し損ねたせいだという。

 

 セージは小宇宙で治癒してやりながら言った。

 

「考え無しに動くからそうなる。人差し指を使えなくして、どうやって積尸気冥界波の構えを取るつもりだ」

 

 魂を抜く相手を指差す。これが冥界波の基本の構えである。

 

「それだけどさ」

 

とマニゴルドは腑に落ちない表情で反論してくる。

 

「そもそも技をかける相手を指差すって、どういう意味があるんだよ。原理からしたら、念じるだけで魂を抜けるのに」

 

 余計な動きを伴えば敵に警戒されるだけではないか、と弟子は訴える。

 

「それも一理ある。だが、指差すことでより強く対象に注意が向く。ただ見て頭の中で確認するだけに比べれば、技の精確さが増す」

 

「指さし確認? 要らねえよ」

 

「いいから必ず相手に指を向けるようにしなさい」

 

 それに、と彼は続けた。

 

「念じるだけで技を使えるということを、敵に知らしめてやる必要はない。指差さなければ技が発動できないと敵が思っていれば、それはこちらの切り札ともなる」

 

「手を縛られてもいざとなれば使えるから?」

 

「そう。腕をもぎ取られようが、目を潰されようが、積尸気使いは速やかに相手を殺すことができる。ただしそれは最後の最後だ。切り札を知られないように、技を使う時は必ず構えを取りなさい。誰がどこで見ていないとも限らないのだから」

 

「……はい」

 

 治った指を動かしてみて、マニゴルドは師に礼を言った。

 

 夕食の用意が調ったと知らせが来た。

 

 食卓には、潰したひよこ豆を丸めて揚げた料理が出ていた。材料違いの空豆のものも一緒に並んでいる。どちらが好きかと弟子は尋ねてきた。

 

「どちらも嫌いではないが……、おまえはどちらだ」

 

「強いて言うならひよこ豆のほうかなあ」

 

「それなら一つやろう」

 

 修行の最中でも、こうした生活の中でも、二人の会話は基本的に同じ調子だ。

 

 世間話として、マニゴルドは昼に会ったという候補生のことを話題に上げた。

 

「そいつ聖域の外で修行してたって言うんだけど、聖衣を貰うためにわざわざ聖域に来たんだってさ。やっぱり聖域に来てお師匠に、教皇に認めてもらわないと聖闘士になれないのか」

 

「どうしてもというわけではない」

 

 素質を見出された子供は、聖闘士の下で修行を積む。指導経験の浅い者が師となった時は、修行を終えた弟子を聖闘士への推薦という形で聖域に送り、そこで改めて第三者が聖闘士として相応しいかを判断することが多い。判断の拠り所とするための最終試練は様々だ。師となる聖闘士の指導実績によっては、新たな聖闘士を承認する権限を委任されることもある。そうすると子供は聖域を一度も訪れないまま聖闘士となることも可能だ。

 

 しかし指導者の実績や与える聖衣の種類を問わず、できる限り全ての聖闘士を己の手で祝福したいとセージは考えている。美味しいところだけを横取りすると指導者たちに恨まれても、こればかりは譲れない。もっとも、そういった苦情は一度も来ていないが。

 

「私が若者と話したいだけだ。その者が聖闘士として相応しいかを認めるのは聖衣だからな」

 

 聖闘士になれるかどうかの判断は、教皇や指導者ではなく、最後には聖衣自身にかかっている。ごく稀に、教皇が聖闘士としての称号を認めても聖衣を纏うことができない――すなわち聖衣自身が己の主として認めないという場合もあるのだ。聖衣はただの鎧ではない。過去にそれを身に付けて戦い散った者の記憶を持つ、生きた聖具でもある。

 

「……もしかして聖衣って、凄い?」

 

「何を今更。そしてそれを修復することのできる兄上は、とても凄いのだぞ」

 

「ただの鍛冶屋だと思ってた」

 

「馬鹿者」

 

 マニゴルドは笑って誤魔化した。セージも苦笑で許してやった。

 

          ◇

 

 朝陽の差し込む教皇の間で、射手座のシジフォスは教皇に謁見した。若者はこれから再び女神を探すために旅立つ。

 

「今度こそは探し出してみせます」

 

「頼むぞ」

 

 シジフォスの見る限り、教皇の態度は常のように威厳を保っている。しかし兜の陰で、その目に微かな焦りが浮かんでいるような気がする。

 

 いや、焦っているのは己のほうだ、とシジフォスは気を改めた。手がかりがほぼ無いとはいえ、探す相手は聖闘士の奉じる主神。あまり長いこと俗世で待たせておくわけにはいかない。

 

 教皇の前を辞して青空の下へ出た。山上にある教皇宮の正面からは聖域を見渡すことができる。朝の光を反射する巨大な女神像。結界の外に広がる荒野。遙か向こう、空の下端で光っている一角は海だ。

 

 彼は階段を下り始めた。

 

 魚座のルゴニスは半ば隠遁して弟子に修行を付けているから、双魚宮は素通りだ。その次の宝瓶宮も、そのまた次の磨羯宮にも守護者はいない。シジフォスが外地に出ている間、十二宮は全くの無人となる。守るべき女神はなく、聖なる砦は今その意味を為さない。

 

 寂しいな、とシジフォスはぼんやり思った。兄のイリアスがいてくれればと考えることもあるが、所詮は無駄な仮定だ。あの世間離れした戦士は、今頃どこで何をしているやら。

 

 物思いに沈みながら歩いていると、眼下の巨蟹宮から小宇宙を感じた。誰かが宮の奥で小宇宙を燃やしている。宮付きの使用人ではないだろう。まして守護者でもない。

 

 彼は僅かに緊張しながら階段を下りていった。わざと足音を立てて巨蟹宮の中に向かう。すると廊下の奥からひょっこりと顔を出した者がいた。小憎たらしい顔の少年だ。思わず呆れて声が出た。

 

「マニゴルド?」

 

「なんだよシジフォスさん。勝手に人の守護宮に入ってくるなよ」

 

「おまえの守護宮でもないぞ」

 

 シジフォスの所まで少年は急いで走ってきた。小宇宙を発しているのは目の前の彼だった。

 

「何か用か。ジジイが俺を呼んでた?」

 

「爺と呼ぶな。猊下も誰も呼んではいないよ。ここから小宇宙を感じたから、誰がいるんだろうと思って覗いただけだ」

 

「それ俺」

 

 その時低く唸る人の声がした。マニゴルドの来た方角からだ。

 

「今のは誰だ。怪我人か?」

 

 声が聞こえたかと問われたので、言葉までは聞き取れなかったとシジフォスは正直に答えた。少年は慣れた様子で答えた。

 

「あれはプルチネッラのおっさん。通風に悩む巨蟹宮の付き人だよ」

 

 気になって奥を覗こうとする彼の腕を取って、マニゴルドは外に向かって歩き出した。「ここで修行しろってお師匠が言うんだ。でも少し飽きたから見送りしてやるよ。また外の任務だろ?」少し早口だった。

 

 シジフォスは手を引かれるまま、

 

「しかしおまえが小宇宙に目覚めていたとはな。前に会った時はまだだったろう。次に俺が聖域に戻ってきたら、第七の感覚に目覚めていたりしてな」

 

と笑った。マニゴルドは肩を竦めて、それより先にやることがあると面白くなさそうに言った。

 

「そうだ。あんたは何も無いところに穴を開けて別の場所に繋いだりできる? そういう技知ってる?」

 

「知っていたとしても、技の詳細をたとえ味方とはいえ他人に容易く教えるわけにはいかん」

 

「なにも技そのものを教えてくれって言うんじゃないんだ。感覚を知りたいだけ」

 

 意外に真面目に修行しているのを感心に思い、シジフォスは少し真剣に考えた。彼自身はその類の技を持っていない。しかし技の持ち主には心当たりがある。

 

「双子座の黄金聖闘士の技で、そういうのがある」

 

「いないじゃん、双子座なんて」

 

「ああ」

 

 彼は肯いた。そう、まだいない。「アスプロスがその候補だ。真面目なあいつなら、もしかして受け継ぐべき技についても調べているかも知れない」

 

「体得してるかどうかは分からない、と」

 

「まあな」

 

「分かった。ありがとな」

 

 巨蟹宮の出口でマニゴルドは立ち止まり、射手座の出立を見送った。シジフォスも軽く手を上げて別れを告げた。

 

「俺が留守の間、十二宮をしっかり守れよ」

 

「無茶言うなって。俺は黄金どころか聖闘士ですらねえ」

 

 少年の返事にシジフォスは笑った。少し心が軽くなった。

 

          ◇

 

 任務に出る射手座が去った後、マニゴルドは巨蟹宮の奥に戻った。死仮面の浮き出ている壁の前に立つ。

 

「人が来た時くらい静かにしてくれよ」

 

 返事のつもりではないだろうが、一つの顔がまた小さく怨嗟を吐いた。

 

 シジフォスのような死霊に縁のない人間にも、その声が伝わるというのは驚きだった。浮遊し、マニゴルドの意思に従う普通の亡者よりも、やはり確たる芯を持っているのだ。

 

(でも見たらびっくりするだろうな、やっぱり)

 

 顔の浮かぶ壁を目の当たりにした人間にこれは何だと問い詰められても、マニゴルドも困ってしまう。早いところ積尸気冥界波を習得して、壁を綺麗にしたいものだ。

 

 彼は虚ろな顔たちを睨み、掲げた人差し指を突きつけた。蝋燭の炎が風に揺れるように顔は揺らいだが、それだけだった。行き先を示してやらない限り、どこにも動かないだろう。

 

 アスプロスに会ってみよう、と彼は思い立った。世界を開く技を持っているかはともかく、前回別れた時の感情はもう落ち着いていていいはずだ。向けられる憎悪が増していたらそれはそれで、と割り切る。

 

 十二宮を抜けると、白羊宮に続く階段の下から、教皇宮を見上げる人物がいた。仮面を付けて、三つ編み髪を頭の周りに巻いた少女。

 

「ニキアじゃん」

 

 ぼんやり佇んでいるように見えたので名を呼んでみると、「やっぱりマニゴルドか」と意外そうな声が返ってきた。

 

「さっき、射手座様が下りて来られるのをお見かけしたんだ。立派な方だねえ。あんた、あの人の従者か弟子なのかい。追いかけるなら早く行きな」

 

「追わねえよ」

 

 彼女は再び山の上を仰いだ。つられてマニゴルドも振り返る。白亜の宮殿の連なる先に、教皇宮の屋根の一部と女神像の頭部が見えた。

 

「……あの頂上にアテナがおわすんだね」

 

 今はいないぞ、と呟き、少年はニキアに目を移した。横から見る喉はすっきりとして白い。やっぱり若い女だなあと思う。

 

「こんな所でのんびりしてて、試練のほうは大丈夫かよ」

 

「まだ日はあるからね」

 

 闘技場に用があるとマニゴルドが言うと、彼女も付いてきた。本当は一人で行くつもりだったが道に迷ったという。マニゴルドは呆れた。方向音痴の人間が聖闘士になれるのだろうか。

 

「俺が聖域を案内してやろうか」

 

「頼むよ。知り合いと言えばあんただけだから」

 

 女子用の宿舎で寝起きすることになったとニキアは言ったが、誰とも同室にならなかったために、まだ親しい者はいないらしい。

 

「昨日の組み手はどうだった」

 

「やっぱり師匠と違う相手は新鮮だね」

 

 マニゴルドが口を開きかけた途端、ニキアはさっと手で制した。「あんたとはやらないよ。私のほうが強い」

 

 少年はむっとした。「やってみなきゃ分からねえだろうが」

 

「分かるよ。あんた、私の弟に似てるから。多分喧嘩しても私の圧勝だね」

 

 短くイタリア語で罵ると、マニゴルドは鋭い突きを繰り出した。が、その腕は絡め取られ、呆気なく地面に転がされた。

 

「ほらね。動きはいいけど、小宇宙の膨れあがり方で次に何をするかすぐ分かるんだよね」

 

 心なしか得意げな声に腹が立つ。道行く雑兵から「私闘は禁止だぞ」と注意の声が飛んできた。闘技場などの定められた場所以外での組み手・喧嘩は、私闘として禁じられている。聖闘士同士の私闘は重い罰が与えられる。それは候補生であっても同じだ。

 

 しかし彼女は楽しそうに笑った。

 

「私闘にもなりゃしない」

 

 余裕の態度で手を差し出されたので、マニゴルドは渋々それに捕まり、立ち上がった。戦いの要は小宇宙で、それを己がものとして操る術に未熟だということを自覚した。

 

 闘技場に着くと、予想通りアスプロスがいた。白銀聖闘士を相手に組み手をしている。頃合いを見計らってマニゴルドは彼を呼んだ。

 

 アスプロスが振り返り、訓練を切り上げてやって来た。その顔にはまだ気まずさが残っている。

 

「おはようアスプロス」

 

「……おはよう」

 

 努めて平静にしようとしているのがおかしい。マニゴルドは衒うことなく用件を切り出した。

 

「ひとつ聞きたいんだけどさ、何も無いところに穴を開けて別の場所に繋ぐ技ってどんな感覚か、あんた知ってる?」

 

 アスプロスは渋い顔で、ニキアは首を傾げて少年を見つめた。

 

「……なぜそれを俺に聞く」

 

「人づてに、そういう技に心当たりがあるのがアスプロスだと聞いたから。技の原理を知りたいんじゃない。感覚でいいんだ。世界を開く感覚。道を繋ぐ感覚。俺、それが分からなくて困ってるんだ。あんたの技を盗んだりするんじゃないから、頼むよ教えてくれよ」

 

 必死に食い下がると、アスプロスは溜息を吐いて天を仰いだ。それから観念して、親切に色々と教えてくれた。それはセージの教えとは少し違っていたが、今のマニゴルドは積尸気を開く手がかりが一つでも多く欲しい。感謝して耳を傾けた。

 

「ありがとう。助かった」

 

 アスプロスは彼の謝意を複雑な顔で受け入れた。

 

 二人の話を横で聞いていた少女が、そこで初めてアスプロスに話しかけた。

 

「私は候補生のニキア。あんたに時間があったら、手合わせをお願いしたい」

 

 乞われた側は「どうぞ」と彼女を闘技場の中へ案内した。

 

 用事の済んだマニゴルドはそこで帰ってもいいはずだった。しかし聖域の案内をすると言ったばかりでもあり、二人の手合わせを見てやることにした。

 

 闘技場の端に腰を下ろして、組み手を眺める。意外にも攻守の均衡が取れた手合わせだった。

 

 終わったあと、アスプロスがいくつか助言して、それにニキアが頷いている。俺には何の助言もしてくれなかったのに、と以前にアスプロスと組み手をした時のことを思い出した。マニゴルドとの組み手を断ったのに、アスプロスには自分から組み手を申し込んだニキアにも気がささくれる。

 

(面白くねえ)

 

 我知らず口を尖らせていると、二人がマニゴルドのほうを見た。そして顔を見合わせて笑った、ような気がした。ますます面白くない。

 

 二人は連れ立って彼の所に戻ってきた。

 

「おまえも手合わせするか?」

 

とアスプロスが涼しい顔で問うので、マニゴルドは「また今度」とだけ答えて立ち上がった。ニキアがアスプロスに礼を言った。

 

 闘技場を後にしながら、彼女は「あの人は強いね」と呟いた。「私に合わせて手加減してくれてた」

 

 マニゴルドは少しだけ溜飲が下がった。自分を叩きのめした男が弱いと思われるよりは、ずっと良い。

 

「そうだろ。強いだろ」

 

「それに面倒見も良い。あんたのことを気にしてたよ。まだ小宇宙にむらっ気があるってさ。私もそう思う。もっと制御できるようにならないと」

 

と銀色の仮面が少年のほうを向いた。

 

「でも俺、自分で小宇宙を燃やせるようになったのでさえ、一週間前のことだぜ」

 

 それを聞いて仮面の奥の目がたじろいだ。

 

「……そう」

 

「師匠泣かせの不肖の弟子なんだよ」

 

「そうなんだ」

 

 言葉少なくなったニキアを連れて、マニゴルドは聖域を案内した。後で気づいたことだが、かつてセージに案内されたのと同じ道順だった。

 

 宿舎まで彼女を送った後は、再び巨蟹宮で積尸気冥界波の練習に入った。アスプロスから聞いた、技を掛ける時の感覚を想像する。しかし一度も積尸気は開かなかった。

 



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第九の波濤

 

 セージは弟子に向かって冥界波を放つ。床に横たわっている弟子の肉体から魂が引き剥がされる。魂は空の穴に向かって落ちていく。セージはその様子を見つめ、魂が積尸気を通る寸前に穴を閉じた。マニゴルドの魂は自力で肉体に戻った。

 

 死と魂を操る師弟の修行風景である。

 

「分かったか?」

 

 身を起こしたマニゴルドは軽く頭を振った。そして「やっぱり今一つ」と溜息を吐いた。こればかりは体で覚えてもらうしかない。

 

「お師匠は冥界波を覚えるのにどれくらいかかったんだ」

 

「忘れたな。兄上と互いに技を掛け合って体得したのは確かなのだが」

 

 怖い兄弟だ、とマニゴルドは笑った。

 

「俺の小宇宙はむらっ気があるって言われたんだ。もっと思うように制御できるようになったら、冥界波も使えるようになるかな」

 

「その通りだ、とは言わぬ。しかしおまえもなかなか候補生らしいことを考えるようになってきたな」

 

 弟子は絨毯の上に胡座を掻いた。部屋はほんのりと明るい。蝋燭の明かりの他に、弟子が引き寄せた鬼火が青い光を部屋にもたらしているからだ。その光の一つが、ついとセージの手元に飛んできた。

 

「聖闘士の技を覚えるのは、小宇宙の基礎を体得して聖衣を得てからでいいんだとも言われた」

 

「おまえの師は誰だ? その者か、私か」

 

「目の前のジジイだよ」

 

「ならば私の教えに従いなさい。技を体得できずに焦るのは分かるが、まだ小宇宙を発現してから日も浅い。数年かけて修行しても小宇宙に目覚められない者もいるのだから、それに比べれば順調に進んでいると思え」

 

 マニゴルドの目は師の手元を飛ぶ鬼火を見ている。セージがその手を伸ばすと、弟子は微かに指先を向けて鬼火を引き取った。

 

「でもお師匠は、早く覚えて欲しいんだろう?」

 

「基本だからな」

 

「先になんか適当な聖衣を貰って、その後で冥界波の修行に専念するっていう手もあるんじゃないの?」

 

 全ての鬼火が揺らぐのを止め、消えた。

 

「調子に乗るな。おざなりに授けられる聖闘士の称号などない。そんな不届き者は雑兵で十分だ」

 

 弟子の顔がさっと青ざめた。彼が口を開く前にセージは言う。

 

「全天八十八の全ての称号が等しく尊いものだ。それぞれに星の加護を受けている。どれ一つとして粗末に扱うことは許されぬ。実力のある者を見極め、その者に相応しい聖衣を授ける私の務めを軽んじられるのも心外だ」

 

「ごめん、お師匠」

 

 小さく謝った弟子にセージは背を向けた。壁際に据えてある書き物机に向かって座り、「もう行きなさい」と告げた。

 

 彼の背後で扉が開き、閉まった。

 

 セージは机に両肘を突き、組んだ手に額を当てた。

 

 弟子の言う「適当」の意味が「適切」であれば良かったのだが、マニゴルドにその意図はなかった。正式な聖闘士になるために候補生たちが血反吐を吐くような修行を重ねていることを知っていれば、出てくるはずのない台詞だった。死にものぐるいの努力を重ね、それでも聖衣を得られない者のほうが多いのだ。マニゴルドが修行の苛酷さを感じていないというのなら、よほどの素質を備えているか、あるいは師の怠慢か。

 

「……私が甘いのか」

 

 彼の自問は虚空に溶けた。

 

          ◇

 

 宙に昏い穴が開いた。

 

「やった!」

 

 マニゴルドが快哉を叫んだ途端、穴は小さく萎んで消えてしまった。

 

 巨蟹宮の奥で一人、冥界波を練習するだけの日々が続いていた。試行錯誤しながら、ようやく積尸気らしきものを開くことができるようになったのは、この日が初めてだった。

 

 失言してからというもの、師は修行を付けてくれなくなった。このまま師弟の縁を切られてしまうのではないかと気が気でなく、せめて課題だけでも達成しようと、少年は一人で奮闘している。

 

 あとは壁に浮かび上がっている顔を積尸気に導いてやればいいのだが、なかなか思うようにできなかった。

 

 練習にも疲れたので、誰かと手合わせしようと彼は巨蟹宮を出た。

 

 闘技場に向かう途中、後ろから呼び止められた。ニキアだった。腕を掴まれた。

 

「丁度良いところに来た。どこか人目に付かない所、知らないかい」

 

「お」少年は軽く目を見開いた。「誘ってんの、お姉さん」そう言った途端に蹴られた。

 

「そういう冗談は嫌いだよ。いいからどこか静かで開けた場所を知らないかって聞いてるんだ」

 

 なぜ女聖闘士はこうも居丈高なのかと首を傾げながら、マニゴルドは彼女の先に立った。家出をしたときに塒の候補として聖域中を下調べしたから、その手の場所には自信がある。あの時はアルバフィカと一緒で楽しかった。

 

 遺跡の陰の、石舞台のようになっている場所へ案内した。辺りを見回して、ニキアは満足したようだった。

 

 銀色の仮面がマニゴルドのほうを向いた。

 

「ありがとう、もういいよ。あんたは帰りな」

 

 彼女はくるりと身を返し、北の空を望んだ。ぴんと背を伸ばす。かと思うと踵を打ち鳴らしながら踊り出した。

 

 初めて見る踊りだ。マニゴルドは手頃な所に腰を落ち着けて、彼女を見守った。終わったあとは拍手までしてやった。

 

「ちょっと止めてよ。見せ物じゃないんだ」

 

とニキアは手を振った。照れ隠しか、少し冷たい声だった。故郷の祭で踊られるものだという。

 

「お祭りはね、毎年この日にあるんだ。師匠にも許してもらって、こうやって少しだけ参加した気になる。馬鹿みたいだろ」

 

 そう言って遠くの空を眺めるので、マニゴルドもつられてそちらを見やった。故郷を懐かしむ気持ちなど彼にはないが、ニキアの気持ちを馬鹿にするつもりはなかった。故郷を尋ねると、ある地名が告げられた。聞き覚えのない地名だった。

 

「湖の近くにある小さな村だよ。私はお母さんとお父さんと弟とお婆ちゃんと一緒に暮らしてた。弟はあんたみたいに生意気な奴でね、しょっちゅう喧嘩してた」

 

 しかし平凡な少女の生活は、小宇宙に目覚めた日を境に一変した。彼女の周りで、突然壁が崩れたり、窓が割れたり、物がはじけ飛んだりするようになった。無意識のうちに小宇宙で破壊したためだろう。怪我人が出るに至り、魔女と疑われるようになった。そんな時に村を訪れたある旅人が、彼女を一目見るなり養女として引き取りたいと申し出た。村人に殺されるよりはましだと家族は彼女を旅人に託した。

 

「どこの馬の骨とも分からない輩に売り飛ばされたと、その時は私も泣いたけどね。それが任務帰りの聖闘士だったんだよ。今の私の師匠さ」

 

「へえ。運が良いやら悪いやら」

 

 俗世で小宇宙を発現させた者は、似たような経緯をたどって聖闘士に見出されるはずだとニキアは語った。見出されなかった者は、聖人とみられて崇められるか、魔女や悪魔憑きとみなされ殺されるかのどちらかだ。

 

「聖闘士ってのはきっと、そういう行き場のない私たちのためにアテナがお与えくださったお役目なんだよ」

 

 マニゴルドは肯定も否定もしなかった。今はアテナ自身が聖闘士に見出されるのを待っている。もし女神が強大な小宇宙を発現させたら、人々はその子供をどう扱うだろう。救世主か、それとも化け物か。

 

 しかし女神の将来を案じたところで仕方ない。きっと今頃は、普通の女の子の名前を付けられた一人の赤ん坊に過ぎないはずだから。

 

「あんた、本当の名前は?」

 

「ハンナ。ありきたりな名前だろ。あんたこそマニゴルドというのは本名?」

 

 そうだよ、と少年は薄く笑った。彼は他に名を持たない。

 

「顔を見せてよ、ニキア」

 

「死にたいのかい」

 

 マニゴルドは今度は声を立てて笑った。

 

 女聖闘士は仮面で顔を隠している。素顔を男に見られたら、相手を殺すか愛するかしなければならないという極端な掟を、彼女たちは掲げている。素顔を見られることは裸身を見られるより屈辱なのだそうだ。

 

 なぜそんな面倒なものを付けているのかと、マニゴルドは師に尋ねたことがある。女を捨てる覚悟の証にしても、裸の体よりも顔を隠したがる意味が分からなかった。

 

『顔を見られたところで、双方が無かったことにすれば済む話だ。掟の起源は私も知らぬ』と教皇たるセージはざっくばらんに語った。一つの仮説としてこんな話をしてくれた。

 

『あの仮面は女たちの顔を守る防具でもあるという。戦いの中で顔に怪我を負っては少女が可哀相だろう、と発案者が思ったかどうかは定かではないが、少なくとも顔に傷ができることを恐れる必要はなくなる。そして聖闘士は常在戦場の心構えであるべきだから、常に仮面を付けているというわけだ』

 

『それだと女を捨てるって話と逆じゃん』

 

『しかし戦士としての覚悟を示すなら、髪を短くするのでも、アマゾネスのように片方の乳房を切り落とすのでも、他にやりようはある。己の意思で好きな時に外すことができるというのが大事なのだと、私は思う』

 

 その後は長々と、顔を隠すことで得られる神性やら、元々の人格とは異なる個性を獲得するための儀式やら、マニゴルドには理解できない話をセージはしてくれた。

 

『無理に仮面を剥がそうとしてはならぬぞ。それは彼女たちの覚悟と意地を踏みにじることだ』

 

 だからこそ本人の意に反して素顔を見られることが、屈辱だという話につながるのだという。今マニゴルドの前にいる少女は聖闘士として、在る。

 

「死にたくはないな、まだ」

 

 彼は勢いを付けて立ち上がった。

 

 教皇宮に戻ったあと、ニキアの故郷を地図で探した。近くにあるという湖は見つけたが、村の名前は載っていなかった。

 

          ◇

 

 巨蟹宮の死者の顔が十五に増えていた。

 

 このままではいけないなと思いつつ、未だ冥界波を成功させたことのないマニゴルドである。

 

 一日中練習して、それでも駄目だった。とぼとぼと十二宮の階段を上がる。上からは勤めを終えた神官たちが下りてくる。すれ違う時に彼らの雑談が聞こえた。候補生二人が聖衣授与を賭けて戦うという。もしやと思った。

 

 踵を返して神官の袖を掴まえる。

 

「今の話は本当?」

 

 掴まれた袖を迷惑そうに振り払い、神官は頷いた。

 

「子犬座《カニス・ミノル》の称号をかけた御前仕合だ」

 

「戦うのは何という名前の奴か分かる?」

 

「たしかゴメイサとニキアといった」

 

 ゴメイサは聖域で修行しているからマニゴルドも知っていた。年季の入った候補生だ。小宇宙に目覚めて間もないマニゴルドと彼が手合わせをしたことは無い。けれど舎弟数人を引き連れて歩いているのをよく見かける。

 

「御前仕合は、教皇猊下のご威光が分かりやすく示される絶好の機会だ。おまえも見に行くといい」

 

 仕合の日時を聞いてマニゴルドは立ち去った。別れてから数秒後に、その神官が連れに囁くのが耳に届いた。

 

「星見と違って猊下も判断を誤られないしな」

 

 嗤う彼らは、まさか離れた所の少年にまで聞こえるわけがないと思ったようだ。しかし小宇宙を燃やして感覚が鋭敏になっているマニゴルドの耳には、しっかり入っている。

 

 階段から蹴り落としてやろうかと思った。

 

 しかし師の立場を慮って思い留まった。アテナ降臨に関する星見は未だに神官たちの間で尾を引いている。行方不明のアテナが見つかるまでは、彼らの見解が外れているとも言い切れない。

 

 だがセージを侮られるのは腹が立つので、とりあえずマニゴルドはいつの日か痛い目を見させてやるつもりで、神官の顔をしっかりと覚えた。

 

 翌朝一番に彼は下へ走った。最終試練にあたるこの仕合のことをニキアにも教えてやろうと思ったのだ。しかし当人にはとっくに報されていたこと。呆れ、笑われてしまった。

 

「でも、ありがとうね。仕合の日は師匠も聖域に来てくれるんだ。私の勝つところをあんたらに見せてやるよ」

 

 そう言って頭を撫でようとするので、少年は身を引いて逃げた。彼女はどうもマニゴルドを弟分のように扱いたがる。

 

 巨蟹宮へ戻ろうとした彼の視界に、ハスガードとアスプロスの姿が映った。ハスガードが彼に気づいて手を上げたので、二人のところまで歩いていった。

 

「聞いてくれマニゴルド!」

 

と興奮気味にハスガードは少年の背中を叩く。かなり痛い。

 

「俺は聖衣を授かるための最後の修行に入ることになった!」

 

「そりゃおめでとう。何の聖衣?」

 

「牡牛座《タウラス》だ」

 

 驚いた。黄金位だ。本人には言わないが、そこまでの実力とは思わなかった。理想の黄金聖闘士と賞賛され大物感を漂わせていた獅子座のイリアスや、教皇の助言者としても頼れる魚座のルゴニスと比べると、近所の兄貴分でしかない。シジフォスも射手座の黄金聖闘士だという事実は、次のハスガードの言葉を聞くまで少年の頭からすっかり抜けていた。

 

「これが決まったら、あちこち飛び回ってるシジフォスも少しは助けてやれる」

 

 早くも聖闘士になることが決まったかのように喜ぶハスガードの横で、アスプロスも静かに微笑んでいる。

 

「それでなマニゴルド、俺が修行を終えて戻るまでの間、こいつが何かやらかさないように見張っといてくれないか」

 

 ハスガードに「こいつ」と指差されて、アスプロスが瞬きした。

 

「……俺がやらかす? 聞き捨てならないな。今まできみやシジフォスの尻ぬぐいを散々してきた俺を掴まえて、言うに事欠いて何かやらかすだと?」

 

 次第に怒り出す友人をよそに、ハスガードはマニゴルドに笑いかけた。

 

「こいつは俺やシジフォスのお目付役に甘んじてきたからな。二人ともいなくなれば途端にたがが外れるかもしれない。だからマニゴルドが俺たちの代わりにこいつに面倒を見させてやれば――」

 

「世迷い言もいい加減にしろ」

 

 アスプロスがハスガードの向こうずねを蹴った。「俺のことはどうでもいい。きみは人の頭上の蠅を追う前に己の蠅を追い払え。浮かれている暇があるなら、早く支度をしてとっとと修行地へ行け」

 

「ほらな。こういうお節介な奴なんだ」

 

 更に蹴飛ばされても、ハスガードは笑うだけだった。

 

 アスプロスは軽く舌打ちして、マニゴルドに向き直った。

 

「ところで積尸気冥界波のほうはどうだ。会得したか?」

 

「なんだそれは」とハスガードが口を挟んだ。

 

「蟹座の黄金聖闘士の技だよ。なあマニゴルド」

 

 マニゴルドは咄嗟に返事ができなかった。

 

「……なんでおまえが知ってるんだよ」

 

「きみが自分で言いふらしてるようなものじゃないか。世界を開く技を知らないかと聞いてきた人間は、死霊を操ることができて、しかも蟹座の黄金聖闘士だった教皇の愛弟子だ。魂に関わる蟹座の技を継承しようとしていると推察して当然だろう。あの場では黙っていたが、丸わかりだ」

 

 いちいちもっともなのでマニゴルドは両手を挙げて降参した。ハスガードが二人を見比べて、嘆息した。

 

「さすがアスプロスだな。一を聞いて十を知る」

 

 軽く首を振ると、聖域の誇る秀才は当たり前の顔で、

 

「黄金位を目指す者として、各聖闘士の使う技くらいは把握している」

 

と言った。

 

 マニゴルドがハスガードを見ると、大柄の若者は勢いよく首を横に振った。

 

「俺は知らないぞ。聖闘士なんて、小宇宙をどーんと燃やしてすぱっと敵を倒せばそれでいいじゃないか。要は小宇宙だろう」

 

「その単純な考えで黄金に手が届くのだから、賞賛に値するよ」

 

 嘆いてみせる言葉こそ皮肉っぽいが、アスプロスの声は穏やかだった。ハスガードも微笑んで、

 

「難しいことを考えるのはおまえに任すさ」

 

と友人を見やった。次いでマニゴルドにも目を向けて「おまえも頼むぞ」と、彼の肩をがっしりと掴んだ。

 

 マニゴルドはわざと嫌そうな声を上げた。皆に明るい未来が待っていると信じてもいいような、くすぐったい気持ちだった。

 

 しかしその気分も長くは続かなかった。

 

 子犬座の称号を賭けて仕合が行われるはずだった日。ニキアが死んだ。

 



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ろうそくの火を消す少年

 

 ハスガードが修行地へ発った日の午後だった。

 

 子犬座の聖闘士の称号を賭けて、円形闘技場で仕合が行われることになっていた。候補生や時間のある聖闘士たちは、こぞって見物に集まった。

 

 闘技場をすり鉢状に囲う観客席に、マニゴルドはアスプロスを見つけた。かなり後方の段である。彼の性格上、たとえ空いていても砂かぶりの席に座ることはないだろうなとは思っていた。隣に掛けると、ちらりと視線を寄越してきた。

 

 中央には候補生ゴメイサが早々に到着して準備運動をしていた。齢二十に届こうとする立派な若者だ。自信に満ち溢れている。

 

「相手はこの前手合わせした女か」

 

と頬杖を突いたアスプロスが言った。

 

「ニキアな。どう? あんたの目から見て」

 

「よくて接戦、順当にいってゴメイサが勝つだろう」

 

「そっか」

 

 残念だがそういう仕合もあるだろう。

 

 最前席に着いた一人の男を見てアスプロスが、「あれがニキアとやらの師匠っぽいな」と言った。聖域で見かけない顔だという。

 

「聖域住人全員の顔覚えてるのかよ」

 

「全員は無理だ。そうじゃなくて、辺りをキョロキョロ見回してるだろう。観客席ではなく闘技場の周辺ばかり見ているのは、弟子を探しているからじゃないかな」

 

 対戦相手どころか、立会人の教皇でさえすでに場に到着している。それなのに当事者のニキアがまだ来ていないというのは奇妙だった。便所じゃないの、とマニゴルドは軽く言ったが、アスプロスには賛成してもらえなかった。

 

 片一方の対戦者が現れないまま、定刻となった。教皇は聞く者が姿勢を正してしまうような威厳のある声で宣言した。

 

「これより候補生ゴメイサと候補生ニキアによる一本勝負を行う。勝者には子犬座の聖衣を授けるものとする」

 

(お師匠は教皇のときはこんな感じなのか。声でけえ)

 

 新鮮な気持ちだったが、ニキアのことが気に掛かる。マニゴルドは隣に尋ねた。

 

「この仕合、ニキアが来ないまま始まったらどうなるんだよ」

 

「不戦勝でゴメイサの勝ちだろう」

 

「そういうのよくあるのか」

 

「さあ。そんなしょっちゅう聖衣争奪戦があるわけじゃないから、俺もよく知らない。でも皆聖衣が欲しくて修行しているのに、その機会から逃げる候補生というのはなあ」

 

 逃げた?

 

 自分が勝つところを見せてやると言ったのは、ニキアの虚勢だったのか?

 

(そんなわけない)

 

 じりじりしながら待っていると、無情にも開始の合図があった。とはいえ、そこにいるのは候補生ゴメイサ一人だけだ。対戦のしようがない。

 

 教皇は待った。普通の御前仕合ならとっくに勝負が付く時間が過ぎても待った。それでもニキアは現れなかった。補佐の聖闘士から再三促されて、教皇は渋々中央に歩み出る。

 

「……戦いに背を向けた候補生ニキアは挑戦の権利を失った」

 

 期待でゴメイサの表情が明るくなる。しかし次の教皇の言葉で彼は凍り付いた。

 

「規定の時刻に対戦者が揃わなかったため、この勝負は無効とみなす。よって、この勝負に勝者はない。勝者に与えられるべき子犬座の聖衣は、新たな挑戦者が現れる日まで再び神殿で保管される。若き候補生たちよ、女神の子らよ。励み、次の聖闘士を目指せ。以上」

 

「お、お待ちください猊下!」

 

 闘技場にゴメイサの声が響いた。「対戦者が来なかったのは本人の責任です。ですが、なぜ俺まで負けになるのですか! 俺はここにいる。聖衣は俺にください。聖闘士にしてください!」

 

 悲痛な叫びだった。

 

 あれは可哀相だ、とアスプロスが声もなく呟いた。候補生やかつて候補生だった聖闘士には、彼の気持ちがよく分かる。何年もかけて修行した、その成果がようやく実を結ぶ時なのだから。

 

 教皇は兜の陰から候補生を見下ろした。

 

「不戦勝はない」

 

 冷厳な声に、観客席はざわついた。ゴメイサは取り縋っていた教皇の法衣から手を離した。教皇は声を和らげて彼に語りかけた。

 

「案ずることはない。別の候補者が見つかったら再戦の場を設けてやる。それまで英気を養え。よいな」

 

「ありなのか?」とマニゴルド。

 

「猊下が仰るならありなんだろう」とアスプロスはつまらなそうに目を細めた。「実現することはないと思うけど」そしてさっさと観客席を出て行った。

 

 他の見物人たちも散り始めている。最前席にいたニキアの師匠らしき人物が、帰ろうとする教皇に話しかけていた。詫びに行ったのだろう。

 

 それにしても、と打ち拉がれているゴメイサを見下ろしながらマニゴルドは考える。ニキアはどうしたのだろう。

 

「まさか道に迷ったんじゃねえだろうな」

 

 なにしろ前科がある。普段の訓練で使う闘技場に間違えて行ったのかも知れない。闘技場を使うような人間は大方こちらの観戦に来てしまっている。道を尋ねることもできずに右往左往していたら笑ってやろう。

 

 少年は探しに行った。

 

 

 そこは普段でも滅多に人の来ない石切場の近くだった。

 

 白い石の粉が地面を覆っている場所に、ふと黒い部分を見かけた。それが妙に目についた。切り出された石の陰。二本の脚が投げ出されている。黒いのは乾いた血だった。まだ鮮やかな色の血の池に少女が倒れていた。知らない女だと思ったのも束の間、乱れた黒い髪に目が止まった。

 

「……ニキア?」

 

 すぐに彼女だと分からなかったのは、仮面が外れていたからだ。マニゴルドは彼女の素顔を知らない。近くに落ちていた仮面を拾ってから確信した。倒れているのは間違いなくニキアだった。

 

 露わになっていたのは顔だけでなく、下腹もだった。服を脱いで腰を覆ってやった。血を吸い込んですぐに赤く染まった。

 

 強めに頬を叩いて、何度も名を呼ぶうちに少女が反応を示した。うっすらと目が開き、マニゴルドのほうを向いた。

 

「俺だ。分かるか?」

 

 仮面を、と彼女は声なく囁いた。一言目にそれかとマニゴルドは呆れたが、被せてやった。彼女は女聖闘士だった。

 

「すぐ人のいるところに連れてくから、もうちっと頑張れ」

 

「痛い。動かさないで」

 

「我慢しろよ」

 

 怪我人をどうにか担ぎ上げようとした。けれど本人から止められた。石の粉にまみれた腕が地面に落ちる。

 

「いま、師匠を呼んだから……あんた無理しなくて、いいよ」

 

 いつ呼んだのかと思ったが、小宇宙での念話に決まっている。

 

「何でこんな場所でこんな事になってんだよ」

 

「闘技場への、近道って、言われて……嵌められた」

 

「誰に? 誰がやった?」

 

 知らない連中、と言いかけて彼女は咳き込んだ。「痛い」

 

 もって数時間。マニゴルドにも手遅れだと言うことは分かっていた。いくら小宇宙を燃やしたところで死は間近に迫っている。

 

「私の師匠が来たら、すぐ楽にしてくれるから……それまでの辛抱だ、ね」

 

「痛い?」

 

「痛いし、寒い。早く楽になりたい」

 

 しん、と音がして心が静まった。マニゴルドは彼女の手を握った。

 

「俺が楽にしてやろうか」

 

 瀕死の目がぼんやりと彼を見た。言葉の意味が分からないようだった。マニゴルドはもう一度繰り返した。

 

「あんた、みたいな、坊やが……」

 

「大丈夫」

 

 彼女はマニゴルドの目を見つめた。浅い呼吸。仮面の脇から流れる黒い髪が白い粉で汚れ、そこに赤い血が固まっていた。

 

「なら頼むよ……。ほんとに、痛くて」

 

「分かった。誰かに伝えておくことは?」

 

「師匠と、アテナに、お……詫び、を。それだけ……」

 

 ニキアはそれだけ告げると、真上の青空を見上げた。

 

 少年の指は魂の行き先を示した。

 

 

 一人の聖闘士が石切場に駆けつけた時、少女は既に息を引き取っていた。

 

 弟子の名を呼びながら飛んできたその男に場所を譲って、マニゴルドは辺りを見回した。地面は切り出した石のかけらが粉となって積もっている。激しく格闘したような形跡はなかった。石切場の出入り口から出て行く白い足跡を見つけた。複数ある。それが犯人のものか、仕事で出入りした雑兵のものかは判断が付かない。石切場を出たあとどちらへ向かったかも分からなかった。

 

 マニゴルドはニキアの師の側に戻った。

 

 男は顔を上げた。血の気の引いた唇が動いた。

 

「……きみは」

 

「候補生のマニゴルド」

 

「そうか。ありがとう」

 

 なぜ礼を言われるのかと少年は目を見開いた。「俺がニキアを殺したとは思わないのかよ」

 

「思わないよ。きみの力量ではニキアに返り討ちに遭うのがおちだ。今しがた本人から連絡を受けたばかりだが、血の流れた量からして、襲われたのはかなり前。しかもきみに付いた血は返り血の付き方ではない。倒れていた弟子を見つけて側にいてくれたんだろう? だから最期を看取ってくれたことに礼を言ったんだ」

 

「礼を言われるほど大したこと、やってない」

 

「これはきみの服か?」

 

 男は遺体に掛けられた服を持ち上げた。無表情のまま、それを戻す。「仮面を外さずに体だけ辱めたか」

 

「俺が来た時は、仮面もニキアの近くに転がっていた」

 

 男は低く呻いた。

 

「最期にニキアは何か言い残してはいなかったか?」

 

「相手については知らない連中とだけ。後は、師匠とアテナにお詫びを、と。俺が聞けたのはそれだけだった」

 

「詫びか」

 

 俯いていた男は、やおら天を仰いだ。

 

「戦女神も御照覧あれ! ここに命を落としたのはあなたに拳を捧げんとした娘です。それに対してこの仕打ちか、清らかな灰色の乙女よ! これがあなたの思し召しか! 違うと仰せならば、忌まわしき所業に及んだ悪漢どもに報いを!」

 

 少年は彼の怒号を聞きながら、ただ少女の銀色の仮面を見つめていた。

 

 それから男は自分も上だけ脱ぎ、その服で少女を包んで抱き上げた。血まみれの体が見えなくなった分、いくらか惨さは隠せた。

 

 宿舎までの道案内を頼まれ、マニゴルドは素直に引き受けた。上半身裸の二人と物言わぬ一人は、女子用宿舎の一室に入った。男は弟子を寝台に横たえた。

 

 マニゴルドは通りがかった女聖闘士をつかまえて手伝いを頼んだ。要領の良い説明はできなかったが、相手は肝の据わった女戦士。寝台の少女を一瞥するなり「少しお待ち」と踵を返した。頼もしい限りだ。

 

 これで助っ人が戻ってくるまで師弟二人きりにしても良かった。しかしその前に少年にはやることがある。部屋に入った。

 

「おっさんに伝えとくことがある」

 

というマニゴルドの言葉に聖闘士はゆっくり振り返った。

 

「ニキアは嵌められたって言ってた。仕合のある闘技場への近道だと言われて石切場を通ることにしたって。でもあそこは近道じゃないし、人気のない場所だ。犯人は最初からニキアをおびき寄せて、酷いことをするつもりだったんだと思う」

 

「なるほど」

 

「誰がやったんだって俺が聞いても、知らない連中だってニキアは答えた。顔見知りのほうが少ないんだから仕方ない。でも犯人はきっとゴメイサの取り巻きだ。もしおっさんがニキアの仇を取るなら、案内するぜ」

 

 男の目の奥で炎が燃え上がり、一瞬で鎮まった。

 

「……証拠がない限り、それはやってはいけない。大事な勝負の場から逃げ出したという弟子の不名誉さえ雪げれば、今はいい」

 

 でも、と反論しかけてマニゴルドは思い留まった。

 

「分かった。それじゃ、俺もう行くから」

 

「マニゴルド」

 

 今度は男に引き留められた。

 

「きみは弟子と知り合いだったようだから、ぜひ知っておいてほしいんだ。この娘の名前を。ニキアの本名は――」

 

「ハンナだろう。知ってる。本人から聞いた」

 

 素っ気なく返すと、マニゴルドは戸を閉めた。

 

          ◇

 

 夕食後、聞きたいことがあるとセージは弟子から告げられた。

 

「また指を怪我したか」

 

 ずっと右の人差し指を庇っているようなのでそう尋ねた。しかし違うと首を振られた。マニゴルドの話は、子犬座の称号を賭けて行われるはずだった仕合についてだった。

 

「そう言えばおまえも見物していたな。あの候補生の嘆きを見たか。皆ああやって必死に聖闘士を目指しているのだ」

 

 ゴメイサの様子に感じ入って、聖衣を軽んじたことを心から反省したのだろうとセージは期待した。しかし弟子は何か別のことを考えているようだった。

 

「なんであの場で、対戦相手が来ないのにゴメイサの勝ちを宣言しなかったんだよ? 何か知ってたのか」

 

「聖闘士の称号を賭けた戦いに不戦勝はない」

 

 聖闘士になるための最終試練で、複数の候補生が一つの称号を争う形式が採用されることは多くない。守護星座が同じ若者が同時期に候補生として存在する状況がそもそも少ないからだ。常に複数の候補者が現れる天馬星座《ペガサス》は例外だが、それだけ特殊な称号であるとも言える。

 

 だから多くの試練では、己自身や自然に挑むような、挑戦者一人で完結する形式となっている。たとえば到達困難な場所に安置された聖衣を取りに行くこと。物理的であれ精神的であれ、抜け出すことが困難な状況から自力で脱出すること。

 

「聖衣は意思を持った聖具だ。そこに宿った歴代聖闘士の意思が、己の後継者と認めるに価する実力の持ち主でなければ、身に纏うことも難しい。不戦勝では聖衣が納得しない」

 

 セージはそこまで語り、弟子の顔を見つめた。マニゴルドはまだ納得していない。それだけが理由ではないだろうと、目が話の先を求めた。

 

「……争奪戦の決まりだ。勝負が始まる前までに挑戦者が一人でも辞退したり、怪我をした場合。その原因・理由が何であれ、他の挑戦者も聖衣に挑戦する資格を一時的に失うことにしてある。全員に同じ条件で戦いに臨んでほしいというのが一番だが、相手を脅したり闇討ちしたりしてでも優位に立とうと考える者もいるからな。そうした者への牽制として決めた。だから――」

 

 説明を続けようとしたセージの言葉を遮ったのは、弟子の場違いに大きな声だった。

 

「さすがお師匠! 教皇のご温情とやらは分かった。だけどゴメイサはその決まりを知らなかったと思うぜ」

 

「あの時の反応からするとあり得るな。どんなに不利であろうと正々堂々と戦いに臨むのが聖闘士としての基本姿勢。細かい反則規定など知る必要がないと考えるだろう。まして勝負の場から逃げるなど考えられぬ」

 

 マニゴルドは唇の端を歪めた。

 

「違う、そうじゃない。ゴメイサの対戦相手は逃げたんじゃない。死んだんだ」

 

「なに」

 

 セージの耳にその報告は入っていない。愕然としている彼を見て、「まったく人はいつ死ぬか分からねえなあ」と少年は乾いた声で嘲笑った。その両腕を掴まえて、言葉の真偽を、いつのことなのかを問うた。マニゴルドは笑いながら言い放つ。

 

「そんなの俺に聞かなくても教皇の部下が報告してくるだろ。それとも候補生一人くたばったくらいじゃ誰も気にしないかな?」

 

「マニゴルド」

 

 名を呼ぶと、弟子は笑うのを止めた。その表情はイタリアで初めて会った頃と同じものだった。世界の理不尽さに倦み疲れ、諦めることで生きていた頃の。

 

「おまえは何を知っておる?」

 

 なるべく穏やかに聞いた。

 

 顔を歪ませ、少年は黙りこくった。掴まれた腕を振り解き、拳を作って振りかざす。けれどその拳はすぐに力を失い、軽く握った手が師の胸に触れただけだった。それが答だった。マニゴルドは部屋を出て行ってしまった。

 

 セージは壁際に用意された茶器を準備した。弟子が反省したら淹れさせようと思っていたのに、この夜も一人で喫することになってしまった。

 

 茶炉にかけた湯が沸くのを待つ。

 

 聖闘士の称号に挑む予定の候補生が死んだのが事実なら、その報は間違いなく教皇のもとに届くはずだ。だから弟子の言うようにその報告を待てばいい。死んだ時刻によっては、勝負から逃げ出したという汚名も晴れるだろう。生きている候補生のほうは、残念ながら当分は候補生のままということになる。しかし彼も二十歳に届こうという、候補生にしてはとうの立ちすぎた年頃だ。

 

 ちなみに聖闘士の肉体的な絶頂は十八歳頃だと言われている。もちろん修行を重ね場数を踏むことで、戦士としての絶頂期をその後に迎える者も多い。しかし正式な聖闘士の資格を得るのは十八歳より手前の、十四、五歳頃が一般的だ。その年頃を過ぎてもまだ聖闘士に届かなかった者は、諦めて雑兵としての道を歩み出す。神官に転向する者もある。この運命の決まる時期を教皇の意向で更に早めることもできるが、今はまだ必要ないとセージは思っている。

 

 いずれにせよ、十八歳を過ぎてなお候補生でいるというゴメイサのような例は珍しい。だから彼の執念をセージは買ったのだが、残念な結果となった。守護星座を同じくする者が現れたら再挑戦させてやるとは約束したが、次の機会はないだろう。

 

 やがて湯がふつふつと音を立て始めた。

 

 明日を待って、候補生が死んだという報告が正式に入って、全てはそれからだ、とセージは肚を決めた。

 



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積尸気冥界波

 

 翌朝、マニゴルドはいつもの修行で巨蟹宮にやってきた。

 

 宮奥の壁の住人たちと相対する。といっても相手は気づかないので、マニゴルドが一方的に眺めているだけだが。

 

 古株であるプルチネッラ氏の横に新たな住人、仮にパンタローネ氏とでも呼ぶべき亡者が浮かび上がっていた。少年は指を振るった。ディレットーレ、指揮者か舞台監督のように。

 

 プルチネッラ氏が退場した。壁の顔は十五。

 

 次にマニゴルドは天井を見上げた。隅の暗がりに巣を構える蜘蛛に指を向ける。ころり、蜘蛛が糸から落ちる。八本の足を縮めて二度と動かなかった。

 

 それから彼は候補生たちが鍛錬に使っている闘技場へ向かった。探している人物はいなかった。踵を返して他の場所を探す。

 

 年に一度の儀式でしか使わない建物の陰で、候補生たちが額を突き合わせて話し込んでいるのを見つけた。ゴメイサの舎弟たちだ。誰もが深刻な様子で、それでいて興奮している。

 

「……どうする?」

 

「どうするって、今更どうしようもないだろう」

 

「誰かが裏切って密告したりしなければ、俺たちには火の粉は飛んでこねえよ」

 

「そっちじゃねえ。ゴメイサさんのことだよ」

 

「あの人はもう終わりだな。聖闘士にはなれねえよ」

 

 ひそひそと言葉を交わしているところに、マニゴルドは明るく声を掛ける。

 

「なあなあ、何の話?」

 

 一同は振り返った。彼はへらへら笑いながら輪の中に強引に加わった。無関係な奴が入ってくるなと凄まれて「うわ、怖い」とおびえてみせる。

 

「何の用だ、おまえ」

 

「あんたら昨日の話をしてるんだろう? 女はどうだった? 興味あるんだ。教えてくれよ」

 

「何の話か分からねえよ。帰れよ」

 

「そう警戒しないでよ先輩。俺、たまたま見かけちゃっただけだから。もし次もあるなら俺も仲間に入れて欲しいなって思ってさ。その証拠に誰にもタレこんでねえし。なあ先輩、どうだったんだよ、あの女」

 

 卑しい笑みを浮かべてみせると、周りの反応が変わった。

 

 一同は目配せしあい、前日ニキアを襲った時のことを年下の少年に語り始めた。彼らは秘密裏に成し遂げた蛮行を他人に自慢したかったのだ。もちろん声高に言いふらせることではなく、それどころか公になれば彼らも処罰を受けることになる。しかし好奇心丸出しで近づいてきた鼠になら、少しくらい自慢をしてもいいのではないか。鼠一匹、いざとなれば口封じは簡単だ。彼らがそう思う程度にはマニゴルドは弱かった。

 

 自分でも彼我の実力差は理解している。一対一で戦っても勝ちは薄いが、大勢で一度に来られてはまず負ける。個々の実力では彼らの誰をも上回るニキアが負けたように。

 

(胸糞悪い)

 

 少年は年長者たちの野蛮さに感心したそぶりを見せてやった。それだけで一同は勝手に語った。

 

「まあ、一瞬だったよ」

 

「五人がかりでな」

 

「水差すなよ馬鹿」

 

「でも一番は俺だぜ。あの女を気絶させたのは俺の一撃」

 

「腹ぶち破ったのは俺な。致命傷与えた俺が一番だろ」

 

「仮面を剥ぎ取ってやった。興奮したなあ」

 

「素顔を見られた女は、相手を愛するか殺すしかないからな。で、あの女には俺たち全員を愛してもらうことにしたってわけだ」

 

「好きにしていいってゴメイサさん言ってたもんな」

 

「石切場なんて用がなければ誰も近づかねえ。おまけに聖衣を賭けた大一番の仕合だ。皆それを観に行って、騒いだり興奮したりしてるから、こっちの小宇宙なんて気がつきもしねえの」

 

「ま、対戦者の片割れは俺たちと一緒にいたんだけどねえ」

 

 マニゴルドは口を挟む。

 

「先輩何言ってんだよ。ゴメイサさんは闘技場にずっといたぜ」

 

 すっかり警戒心を解いた候補生が、彼の背を叩いた。

 

「馬っ鹿だな、おまえ。その相手のほうだよ。ニキアって女を俺たちはやったんだって」

 

「狙うほどいい女だったわけ?」とマニゴルドは尋ねた。

 

「関係ねえよ。聖闘士になるために邪魔だから何とかしろってゴメイサさんが言ったんだ」

 

「足止めするだけじゃ、後で俺たちとのつながりが知れた時に困るから殺せ、っていうのもゴメイサさんの指示だぜ」

 

「でも結局は子犬座の聖衣も手に入れられないで、あの人もほんと間抜けな役回りだよなあ」

 

「そのぶん俺たちは役得か」

 

 ゴメイサの取り巻きだったはずの候補生たちは大笑いした。

 

 彼らの輪の中で一人、マニゴルドだけは笑わなかった。

 

 目を瞑り、再び開く。

 

「……もういい。もう聞きたくない」

 

 硬い声に一同は不審を抱いた。彼らの視線の先でマニゴルドは青ざめた顔をゆっくり上げた。「地獄でニキアに詫びろ」

 

「こいつ!」

 

 候補生の一人が咄嗟にマニゴルドに攻撃を加えようとした。生意気な後輩を屈服させるつもりだったのだろう。しかしその前に少年の指が彼に突きつけられた。次の瞬間その候補生の体は地面に崩れ落ちた。

 

「気をつけろ、このガキ、指の先に何か仕込んでる!」

 

 相手が好奇心で首を突っ込んできただけの鼠でないことに一同は気がついた。と同時に距離を取って身構える。闘士の修行をしている者として身につけた、無駄のない動きだった。

 

「おまえ、今こいつに何をした?」

 

 一人がマニゴルドから目を離さないまま、じりじりと彼の背後へ回り込もうとする。「俺たちに喧嘩を売って無事に逃げられると思うなよ、ガキ」

 

「逃げる?」

 

 マニゴルドは心外だと言わんばかりに眉を上げた。「それはこっちの台詞だ。ニキアに酷いことした奴が逃げられると思うなよ」

 

「死んだ女の復讐か? 私闘は禁じられてるぞ! 分かってるだろうな」別の一人が咆える。

 

「今更おまえらが聖闘士の掟を持ち出すかね。大丈夫、これは私闘じゃねえよ。――処刑だ」

 

 彼は静かに候補生たちを見据え、指先を宙に掲げた。

 

 そして生まれた五つの死体を見下ろして、大きく息を吐いた。

 

 彼の名が意味するところは「死刑執行人」。まだ処刑は終わっていない。

 

 

 ゴメイサは中々見つからなかった。人に居場所を尋ねるという選択肢は端からマニゴルドにはない。一人でいるところを狙うつもりだった。

 

 ようやく見つけ出したのは、午後も遅くになってからだった。木立の中に座り込み、ぼんやりと地面を眺めていた。

 

 マニゴルドは候補生に近づいた。

 

「ゴメイサ」

 

 振り返った顔は生気を失っていた。目の下には隈ができ、白目が充血している。唇はがさがさと血の気がなく、肌は青ざめていた。取り巻きたちが興奮していたのとは対照的だった。

 

「少し一人にしてくれないか」

 

 声までひび割れていた。マニゴルドは彼まで三歩という所で立ち止まった。

 

「後悔してるのかい」

 

「……後悔」

 

「あんたの舎弟たちが言ってた。仕合の対戦相手を襲ったのはあんたの指示だったと。そのせいで聖闘士になれる機会をなくしたのも自業自得、ざまあねえなって嗤ってたよ」

 

 ゴメイサは俯いた。

 

「あいつらが言い触らしているのか」

 

「どうでもいいじゃねえか、そんなこと。どうせあんた、もう終わりだろ」

 

「終わり」

 

と聖闘士への道を絶たれた若者は呟いた。マニゴルドは苛立った。こんな腑抜けた奴にニキアは殺されたのか。拳を握りしめすぎて爪が掌に食い込んだ。

 

「何であんな事しようと思ったんだ。あんたが勝つだろうって見込みだったのに。真っ当に戦えば子犬座の聖衣はあんたの物だった。ニキアも死なずに済んだ。何でだよ」

 

 生きるために殺し、奪う。それはかつてマニゴルド自身が生き延びるために選んだ道だ。だからゴメイサが生きるためにニキアを殺したというなら、諦めて知らぬふりをしてもよかった。

 

 しかし、ただ聖衣を確実に得るためだけに殺したというのは、少年にはどうしても理解できなかった。聖闘士になれなければ死ぬというわけでもないだろうに。

 

「小僧にはまだ分からねえだろうな」

 

 若者は自嘲気味に笑った。両手を後ろについて空を見上げる。

 

「俺はどうしても聖闘士になりたかった。雑兵なんかじゃなくて、聖衣を授かった正式な聖闘士にだ。俺の実力なら十分に狙えると言われ続けて……、諦めきれずにいつの間にかこの歳だ。周りの候補生は皆俺より年下になっちまった。情けないし、頭にくる」

 

「だから何でニキアを殺さなきゃならなかったんだよ」

 

「確実に勝つためだよ!」

 

 ゴメイサは急に声を荒げた。そしてすぐに沈み込み「まさか無効仕合になるとは思わなかった」と言い訳がましく付け足した。

 

「真っ向勝負で勝つ自信はあった。でも万が一小娘相手に仕合で負けたら俺はもう終わりだ。そう思ったら、相手を仕合に来させないのが最善策だったんだ。ついでに足止めしたことがバレないように殺しちまえばいいと思ってな。殺しはよくないとか、他に方法が無かったのかとか言うなよ小僧。聖闘士になれば殺す相手は一人や二人じゃきかないんだ」

 

 今まで散々に殺してきたマニゴルドは、相手の言い分にはたじろがない。しかし共感もしなかった。

 

「あんたたちはニキアを殺すだけじゃなく辱めた。体だけじゃない。仮面を剥がして女聖闘士の意地を奪った。勝負から逃げた卑怯者という汚名を着せた。あいつは最期まで聖闘士であろうとしていたのに、その生き方まで踏みにじった」

 

 若者の目が初めて少年を見た。ぬめついた光が両目に浮かんだ。

 

「そうか。あの女が好きだったのか、小僧。悪いことをしたな。それでどうする。俺を殴りに来たか。いいぜ、殴らせてやる。ただし一発おまえが殴るごとにその後俺から十発返す」

 

 マニゴルドは冷たく相手を見返した。

 

「馬鹿か。殴って済むわけねえだろ」

 

 指を向け魂を抜く。それは五人の候補生を相手にした時と同じように終わるはずだった。

 

「おっと」

 

 いつの間にかゴメイサが眼前に迫っていた。反射的に体を守る。殴られた。腹。息が詰まる。勢いで飛ばされて、木の根元にぶつかった。溶岩を飲み込んだように腹の底が熱い。痛い。今度は蹴られた。軽い体は堪えきれずにまた転がる。

 

 ゴメイサは身を屈めて、彼の動きを封じた。

 

「指先に何を仕込んでる。先輩に見せてみな」

 

 掴まれた右手首から激痛が走った。その痛みを怒りに紛らわせて、マニゴルドは相手を睨み付ける。彼を見下ろしている候補生は、己の圧倒的な優位に笑みを浮かべていた。

 

「何も無いな。一丁前に技の構えか」

 

 思いきり腕を振って払おうとしても、手首を掴む力は緩まなかった。

 

「そう睨むなよ、小僧。ここでは聖衣を授かった者とそうでない者の差は天と地だ。貧乏百姓の倅でも才能があれば星と崇められるし、大貴族の子息に生まれても星座の加護とかみ合わなければただの泥被りの雑兵だ」

 

 ふと、絶望した若者の目に興味の色が走った。

 

「小僧、おまえの守護星座は何だ」

 

 マニゴルドは己の守護星座を知らない。師から聞かされていなかった。答に窮していると相手の口角が上がった。

 

「なるほど。指導者から期待されてないのか、可哀相に」

 

 心が震えた。

 

 睨み付けるとせせら笑われた。

 

 憐れむことで油断したのか、少しだけ手首の拘束が弛んだ。指を、意識を相手の心臓に向ける。マニゴルドは今度こそ魂を引き抜く。相手は本能的に肉体に留まろうと小宇宙を燃やした。その重い抵抗。振り切って、引きずり出す。開いた穴へ叩き込む。

 

 若者の体が倒れ込んできた。

 

 彼は苦労して死体の下から這い出した。

 

 ニキア(爪)にちなんで顔に引っ掻き傷でも残してやることも考えた。しかし余計なことをして足が付いても馬鹿らしいので、そのまま死体は放っておいた。人目のない所だから発見されるまで時間が掛かるだろう。

 

「俺が追い剥ぎから足を洗ってて良かったな。でなきゃ、身包み剥いで歯も全部引っこ抜いて売っ払って、素っ裸でどぶに転がしてたぜ」

 

 死者はマニゴルドの言葉に応えることもなく地面に伏していた。

 

 

 次の日は朝から墓地の丘で過ごした。巨蟹宮の奥で死者の顔と睨めっこをする気にはなれず、さりとて誰かと組み手をする気にもなれず。他人といても、ニキアの悪評を耳にするだけだと分かっていた。あるいは候補生たちの死が噂になっている頃かもしれない。

 

 日がな一日、青い鬼火で遊んでいた。

 

 やがて一人の聖闘士が彼を見つけてやって来た。

 

「ここにいたのか」

 

 墓標の間に座り込んでいる少年を見下ろしたのは、ニキアの師だった。

 

 マニゴルドはのろのろと立ち上がった。真横からの夕日が目に突き刺さる。前日のうちに弟子の埋葬も終えて、これから修行地に帰るところだと男は言った。少年は気怠く相槌を打った。

 

 男は「そういえば知っているかい」と話題を変えた。

 

「昨日、六人の候補生が亡くなったそうだ。一人はニキアと対戦するはずだったゴメイサ。あとの五人はその親しい友だったそうだ。ニキアがその前日に死んだばかりだから、危うく私が下手人扱いされかけた。弟子の弔いにかかりきりだったと他の者が知っていて、難を逃れたがね。彼らがなぜ死んだのか、原因は分からないらしい」

 

「そう」

 

「ニキアが死んだ状況を聞かれたのは疑いが晴れてからだったよ。一昨日報告した時はなおざりにされ、昨日は一日何の音沙汰もなく、それで今日ようやく聴き取りだ。候補生の死は珍しくない。きっと昨日の事件がなければ、流されたまま忘れ去られたことだろう」

 

「ちゃんと説明した? ニキアを騙した奴がいるって」

 

「それに関しては話していない」

 

「なんで」

 

 臆病者というニキアの汚名を晴らす機会だったのに、とマニゴルドは叫んだ。しかし男は穏やかに首を振って続けた。

 

「猊下はニキアの名誉を回復してくれると約束して下さった。だから私から話したのは事実だけだよ。闘技場に来なかった弟子を石切場で見つけたが、既に事切れていた。それだけだ」

 

 男の話に少年は首を傾げた。

 

「それだけかよ」

 

「いいんだよ。弟子を辱めた者には女神の裁きが下った」

 

「裁きっていうか、それは俺が――」

 

「猊下は疑っているがきみは無関係だよ。そうだろう」

 

 男は先を続ける。口を開きかけたマニゴルドを黙らせるように。

 

「私は不甲斐ない大人だ。本来は私が負うべき荷を、まだ若いきみに担がせてしまった。だからここからは私が引き受けよう。死者のことはもう忘れなさい。もしきみがニキアのためにしたことで辛いものを抱えて我慢できなくなったら、その時は好きにしたらいい。けれどきみにはこのまま立派な聖闘士になって欲しいと思う。弟子もそれを望んでいるだろう」

 

 俯いたマニゴルドに男は仮面を差し出した。ニキアの顔を包んでいた仮面。綺麗に汚れを拭われたそれは、日を受けて黄色に輝いた。

 

「これを受け取ってくれ。ニキアが本名を打ち明けたなら、きみは彼女の友だったはず。弟子によくしてくれた、せめてもの礼だ」

 

 仮面はマニゴルドの手に移った。

 

 これを渡すためだけにきみを探し回ったんだ、と男は軽い口調で笑った。

 

          ◇

 

 七名の若者が落命したという報告を受けた時、セージは静かに瞠目した。

 

 ――候補生ニキア。二日前の午後、石切場で胸を貫かれて死亡しているのを指導者が発見。番兵への報告は当日中に完了しており、事故として処理されていた。

 

 ――候補生アザー、クルサ、ザウラク、ベイド、ジバル。一日前の午後、建物の裏手で方々に倒れているのを雑兵が発見。それぞれの位置から、仲間内で私闘を行った結果の死かと思われたが外傷なし。

 

 ――候補生ゴメイサ。アザー以下死亡した五名の候補生と親交あり。五名の死について事情を聞くために彼を探していた雑兵が、当日夕方に林の中で発見。外傷なし。ただし辺りに争ったような形跡有り。

 

 以上七名である。念のため他にも死んだ者がないか急いで調べられた。

 

 候補生が修行の途中に命を落としても、それだけでは教皇まで報告は届かない。この七名についても、死んだ時期と発見された場所がばらばらということもあり、単に不運な事故が重なっただけと見ることもできる。現に報告を受けた神官はそう判断した。特にニキアとそれ以外の六名では、死に方が全く違う。しかし聖闘士の称号を賭けて戦うはずだった因縁ある者たちであることに気づいた別の者が、念のために教皇へ報告した。

 

 セージは弟子の顔を思い出しながら言った。

 

「少なくともニキアが殺されたというのは間違いなかろう」

 

 闘技場で聖衣争奪戦に臨むはずの彼女が、なぜ勝負の直前に石切場へ行ったのか。彼女の師であった発見者に話を聞いてみることにした。しかし、

 

「存じませぬ」

 

の一点張りだった。

 

「ではそなたの弟子に続くようにして死んだ者たちに関して、何か知っていることはあるか」

 

「ございませぬ」

 

 きっぱり言い切る。血の気の引いた顔には何の表情も浮かんでいなかった。

 

「そうだろうか。一人はそなたの弟子と聖衣を争うはずだったのだぞ。何か思うところくらいはあるだろう」

 

「お言葉ですが猊下、我が弟子が死んだのは修行中の不慮の事故ということになっております。ですから、その事故に六名の死者たちが関わっていたという確証でもない限り、気の毒だという月並みな感想しか持てないのです」

 

「ほう」

 

 セージは玉座に肘を突き、顎を乗せた。

 

「たしかに事故として報告されておるが、実際は違うのではないか。師としてのそなたから話が聞きたい。戦いから逃げたという不名誉を弟子が背負わされた胸中は察するが、その汚名は雪ぐと約束しよう。だから知っていることを申してみよ」

 

 聖闘士は教皇の言葉に首を振った。

 

「私が現場に駆けつけた時には、弟子はすでに息を引き取った後でした。ですからお話しできることは何もございません」

 

「そうか。では質問を変えよう。昨日死んだ六名の、その死に方についてはどう思う。外傷がなかったそうだが」

 

「それは皆目見当が付きません。毒でしょうか……?」

 

 本当に見当が付かない様子だった。傷を負わせずに相手の命だけを摘み取る技をセージは知っている。そしてその技を使える可能性がある者も。

 

 セージは弟子がニキアを殺したとは考えていない。動機がどうあれ、殺し方がマニゴルドの実力と見合っていない。しかし、後の六人については。

 

「ところでそなた、弟子の死後に候補生と会わなんだか」

 

「ええ、会いました」

 

「名は分かるか。特徴でもいい」

 

「確かアスプロス、と。弟子を葬る場に顔を出してくれました」

 

 その名前はセージの予想していたものとは違った。

 

「ではマニゴルドという名に聞き覚えはあるか」

 

「さあ……。初めて聞く名ですが誰でしょうか?」

 

「知らぬならそれでよい。事件との関わりはあるかも知れないし、ないかも知れない。ではこれで最後だ。弟子の死に関して何か望むことがあれば申せ。能う限り叶えてやろう」

 

「……お言葉に感謝いたします。ニキアが戦いから逃げ出した卑怯者などではなかったと明らかになれば、それで十分でございます」

 

「ということは、必ずしもそなたの弟子の死の真相が明らかにならずとも、恨まずにいてくれるか。もちろん努めるが、万が一の場合だ」

 

「全て猊下のお取計らいのままに」

 

 聖闘士への取り調べはそれで切り上げた。ゴメイサや他の候補生たちの指導者にも話を聞いたが、新しい情報は何も出てこなかった。

 

 それと並行して、巨蟹宮の壁に浮かぶ死者の数を宮の付き人に報告させた。マニゴルドの修行のために、数ヶ月前からわざと増やしておいた顔だ。弟子に引き渡した時には十四あった。現在は十五あるという。弟子がまだ蟹座の技を習得していない傍証となる。安心したような、落胆したような。セージは胸のもやが余計に濃くなった気がした。

 

 死んだのが正式な聖闘士であれば、敵の襲来や内部抗争などの可能性もあるので、真実を確かめる必要がある。しかし熟考の結果、今回の七件をセージは一件にまとめなかった。それぞれを互いに関わりのない単発の事故として処理させた。

 

 日中の執務を終えてセージが私室に戻ってきたとき、隣室には弟子の気配があった。いつもより帰りが早い。どうしたのかと思い覗くと、薄暗い部屋の中、弟子は床と壁の際に寝転がっていた。

 

 セージは弟子の私室に入った。足音が近づいてもマニゴルドは動かなかった。

 

「また床で寝ておるのか」 

 

 弟子は目を閉じて、声を立てずに笑った。

 

 セージはその傍らに身を屈めた。イタリアから拾ってきたばかりの頃を思い出す。あの頃の薄くて骨の浮いた野良犬の体は、今は小柄ながらも筋肉の付いたしなやかな体に生まれ変わっている。けれど心がすり減ってしまったのをセージは見てとった。

 

「死んだとおまえが教えてくれた候補生の師匠と、今日会ったぞ。弟子の雪辱ができればそれでいいそうだ」

 

 少年の目がうっすらと開いた。

 

「ふうん」

 

「おまえはいつ彼女の死を知った?」

 

「おっさんがそいつを抱えて宿舎に入っていった時かな。血まみれの姿を見て、何かあったと思って近くの聖闘士を連れてきただけだから、多分おっさんのほうは俺に気づいてもいないんじゃないかな」

 

「そうか。昨日は何をしておった」

 

「ずっと巨蟹宮にいたって言いたいけど、修行怠けて墓のある丘に行ったりしてた。悪りい、お師匠。俺いま疲れてんだ」

 

 もう話を切り上げたいのか、弟子は体の下でぐちゃぐちゃに固まっている毛布に顔を埋めた。

 

 彼は弟子の部屋を後にした。

 

 巨蟹宮の死に顔が全て消えたのは、それから三日後のことだった。ようやく技を体得したと報告に来た弟子は、聖闘士の称号を軽んじたことを改めて謝り、セージはそれを許した。

 

 七名の候補生が死んだことは、やがて人々の記憶から薄れ去った。

 

 用事で弟子の部屋に入った時、セージは壁に銀色の仮面が掛かっているのを見つけた。女聖闘士の着ける仮面だ。前に部屋に入った時には、こんな物は飾られていなかったはずだ。

 

 自室に戻ってきたマニゴルドは、師がそこにいることに驚いたが、彼の視線を辿ってこう言った。

 

「死者の顔だよ」

 

 死者の、とそのまま繰り返すと少年は「うん」と頷き、セージの隣に並んだ。

 

「俺の戒め」

 

 穏やかに呟く弟子を、彼は黙って引き寄せた。マニゴルドは珍しく嫌がるそぶりもなく彼の胸に頭を預けた。

 

 そうして二人で死仮面を眺めていた。

 



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聖域の人々

 

 聖闘士の称号を授かることができなかった者たち。彼らは無位の聖闘士ともいえる雑兵として、影から聖域の活動を支えることになる。それが嫌なばかりに候補生という待遇にしがみ続けた者もいたが、多くは自然ななりゆきとして雑兵の道を受け入れていた。

 

 

【教官】

 

 聖闘士まで後一歩に迫ったような実力のある雑兵は、格闘術や語学を候補生に指導することもある。教師は常に生徒より優れているべしという決まりはない。いつか生徒が成長して教師を上回れば、それでいいのだ。小宇宙についてはさすがに正式な聖闘士でなければ教えられないが、それ以外の、人間の闘士として必要なことはむしろ積極的に雑兵が教えるようになっていた。

 

 それに俗世から連れて来られたばかりの子供は、素質はあってもまだ小宇宙に目覚めていない者のほうが多い。そういった者たちの面倒を見るのも指導役の雑兵に任されていた。しかし、なかには問題児もいる。

 

 魚座の黄金聖闘士が連れてきた新顔もそうだった。

 

「こら! 目潰しは止めろと言っただろう!」

 

「うっせえ。効き目がある技使って何が悪いんだよ」

 

 相手がイタリア出身だと聞いていたので、彼も拙いイタリア語で注意する。それでも口答えした悪童を張り飛ばして、指導役は両目に指を突っ込まれた候補生の具合を調べた。幸い眼球に傷は付いていなかったが、慣れていない者が急所狙いをするのを見過ごすわけにはいかない。

 

 そもそも相手をねじ伏せることが訓練ではない。訓練中の怪我を減らす意味でも、攻防の反復練習をしやすくする意味でも、拳は寸止めにしろと、素人に過ぎないこの段階の候補生には指示している。目潰しなどもってのほかだ。

 

 初心者の集団訓練の後、彼はその問題児を残らせて説教した。ふて腐れた顔で聞いていた少年が説教の後に発した言葉は、「もう帰っていい?」だった。

 

「おまえな。人の話を聞いていたのか」

 

「聞いてたよ。聖闘士になるならってことだろ。だったらそんなのになる気のない俺は、どんな手を使ってもいいってことだ」

 

「無理矢理連れて来られて気が腐るのは仕方ない。今おまえが弱いことも皆知ってる。皆もそうだったからな。だけど最初からやる気のないようでは、他の奴にどんどん置いて行かれて、いつまで経っても一番弱くて卑怯な奴のままだぞ。少しの間辛抱して、真面目に取り組んでみろ」

 

「少しって、どんくらい」

 

 指導役は一瞬だけ考え込み、「俺を圧倒できるようになるまでだ」と告げた。

 

 それを聞いた少年は「そんなの無理だ」とか「何年掛かるんだよ」と喚いていたが、とりあえず真面目に訓練に取り組むようになった。そうすると周りも彼を仲間として受け入れ、やがてギリシャ語を身に付けたその新顔は馴染みの顔となった。

 

 そのうちに彼が教皇の弟子だという噂が流れた。指導役は彼を連れてきた魚座の黄金聖闘士に、事の真相を確かめた。もし事実ならただの雑兵には荷が重い。しかしその場で、確かにかの少年の後見役は教皇であるが、これまで通りに指導してやってほしいと頼まれてしまった。

 

「べつに特別扱いする必要はないからな。他の者と同じ扱いをしてやってくれ。鼻っ柱の強い少年だから、たまに完膚無きまでに叩きのめしてもいいぞ」

 

と穏やかな微笑みを浮かべて告げる黄金聖闘士を前に、指導役は黙って承諾するしかなかった。

 

 噂のせいで他の候補生たちに距離を置かれても、本人は意に介さなかった。それで周囲の態度も徐々に元の状態に戻った。むしろ以前よりも打ち解けた。彼の、世間の裏側をよく知って大人びているところが年頃の男子に受けて(本当の大人から見ればただの擦れっ枯らしだったが)、なかなか人気もあった。元々が陽気な性質らしく、本人も楽しそうにしていた。

 

 体術のほうもその頃からめきめきと力を付けていった。

 

 まず体運びが変わった。

 

 対手の動きを見る目がついた。

 

 伸びとキレも良い。力を抜くべきところも体で理解している。

 

 やがて頃合いを見て指導役は少年と一対一の組み手を行った。そして自分以外にも彼を教えている存在がいることをはっきりと感じた。雑兵の身ではとても敵わない相手が、目の前の少年の背後に見えた。

 

 突き出された拳は、それを受ける身にも体温が感じられるほど近いところで寸止めされた。

 

「お見事」と、素直に負けを認めてやると、歯を見せて笑った。

 

 最初の指導役を負かしたことで少年は力量を認められ、次の指導役のもとへ移っていった。雑兵の宿舎で同僚から聞いたところによると、それから一年もしないうちに小宇宙を体得し、もう一段上の訓練を受けるようになったそうだ。

 

「このままトントン拍子で聖闘士になるのかねえ」

 

 もしもそれが実現すれば、教皇の弟子というのも伊達ではなかったことになる。そうなればいいと、子供たちを最初に指導する役目の雑兵は、未来の聖闘士に思いを馳せた。

 

 

【炊事係】

 

 生活に身近なところでは、宿舎での朝夕の食事作りや、防具の修理、薬草園の手入れなどを雑兵が受け持っている。

 

 彼がその少年と初めて会ったのは、食料庫の中だった。夕食に使う野菜を取りに来て、ふと、視線を感じた。小部屋にいるのは自分一人のはず……だったが、振り返って上を見ると、天井と壁の隅で手足を突っ張って張り付いている小柄な人影を見つけた。この宿舎で食材泥棒は珍しくない。犯人は例外なく育ち盛りの候補生だった。

 

「下りて来い小僧」

 

 呆れながら声を掛けると、その人影は壁を蹴って彼の前に着地した。堂々と彼を見上げるのは、態度のふてぶてしい少年だった。チーズの塊を脇に抱えたままである。

 

「俺の管理する食料庫に盗みに入るたあ良い度胸だな、おう」

 

「素人に見つかるなんざ、俺も焼きが回った。煮るなり焼くなり好きにしな」と少年は擦れた口調で吐き捨てた。

 

「生意気言いやがって。素人はどっちだ」

 

 彼は盗人の頭に一発ゲンコツを落とした。大袈裟に叫んで食材泥棒は首を竦めた。

 

「おら、とっとと修行に戻れ」チーズは取り返し、盗人は追い返した。

 

 少年は捨て台詞を吐きながら走っていった。干し肉がごっそり無くなっているのに気づいたのは、その後のことだった。やられた、と思ったがもう遅い。

 

 それで食事の時に叱り直そうと待ち構えていたのだが、宿舎にいる候補生たちの中に悪童の顔はなかった。ならば若くして聖衣を授かった聖闘士だったのかと、他の宿舎にも当たってみた。そちらにもいなかった。では早々に自分の才能に見切りを付けた新米の雑兵か。これも違った。神官見習い。悪童の雰囲気からしてこれは違うだろう。案の定、そのような人物は在籍していないと言われた。

 

 泥棒の正体が分からないまま、幾日か過ぎた。しかしその間にも食材がちょくちょく消える。彼は雑兵たちの宿舎で仲間に相談してみた。

 

 すると一人が訳知り顔で頷いた。「そりゃきっと教皇猊下の弟子だ」

 

 その雑兵は教皇宮の警備を担当しており、出入りする人間はおおよそ把握していた。

 

「最近猊下はお弟子を取られてよ、上で一緒に暮らしてたんだ。これが猊下とは大違いの小憎たらしい、野良犬みたいな坊主でな。なんか師弟で大喧嘩して追い出されて、今は下にいるんだとよ。どこかの宿舎に潜り込んでるもんだとばっかし思ってたが、もしかしたら飯だけ盗み食いに来て、寝起きは別の所でしてんのかもな」

 

「へええ、猊下が弟子をねえ」

 

 ある日、彼は食料庫ではない所で件の悪童を見かけた。翌月の行事で使う道具を納屋に取りに行った時のことだった。

 

 風雨に晒された納屋の前に座り込んで、少年は空を見上げていた。何の感情も浮かべずに、ただ純粋に青空を仰いでいる。その顔は年よりも幼く見えた。

 

 しかし近づいてくる彼に気づいた途端、すぐに前に見た時のような小狡い顔になった。身を翻して逃げようとするので急いで呼び止めた。

 

「おまえに用があって来たわけじゃねえが、丁度いいや。俺のこと、覚えてるか」

 

 少年は振り返り、「食いもん返せって言われても遅せえよ。もう全部食っちまったからな」と腕を組んだ。

 

 開き直った悪童の口ぶりに、彼は苦笑した。

 

「じゃあ食った分だけおじさんと喋っていけや。坊主、猊下の弟子なんだって?」

 

「ほら吹きだって言いたけりゃ言えばいいじゃねえか」

 

「聞いただけだって。そう喧嘩腰になりなさんな。で、教皇宮を追い出されて、おまえ今どうやって暮らしてんだ。ちゃんと飯食ってんのか」

 

「うっせえな」

 

「盗み食いするくらいなら宿舎で食ってけ。席は余ってるはずだし、候補生が宿舎で飯食ったって誰も文句は言わねえ」

 

 え、と少年が目を瞬かせた。

 

「勝手に食材を持ってかれるとな、献立とか仕入れの予定が狂うんだよ。それよりは最初から頭数に入ってろって言ってんの」

 

「それって……、あっ。お師匠から何か命令されたんだな? だったらいいよ。放っといてくれよ」

 

「意地張るなら勝手にしろ。人の親切無駄にしやがって。どけ」

 

「ああっ、おっさん俺が悪かった! 飯食わせてくれる人、俺大好き!」

 

「縋り付くな離れろ邪魔くさい」

 

 とても女神の代理人に師事する者とは思えない悪童だったが、その日の夜から食事時だけ宿舎に現れるようになった。それが幾日も続いた後、ある日を境にぷっつりと現れなくなった。悪童と親しくしているという黒髪の候補生が理由を教えてくれた。

 

「あいつは師の言いつけで聖域を離れました」

 

 そうかい、と彼は返した。聖域から突然いなくなる候補生は珍しくない。現にその黒髪も、修行地に赴くため三ヶ月後には聖域を去った。

 

 教皇の弟子と再会したのは更に何度か月が巡った後になる。ひょっこり現れた悪童は、「飯、世話になったのに礼を言うの忘れてたから」と言って笑った。

 

「今は教皇宮に戻ってるから、もう俺の分の飯は作ってくれなくていいぜ」

 

「勘当を解いてもらったのか。そりゃ良かったな」

 

「は? 勘当なんてされてねえっての」

 

 むきになって否定するのを軽く流して、彼は内心迷いながら少年に頼んでみた。

 

「礼をしてくれるなら、食材費をもう少しだけ融通してくれるよう神官に言ってくれねえか。おまえも食ったなら判るだろうけどよ、もうちっとパンを大きくしてやりたいんだよ」

 

 暮らしに関わる物を全て自給自足で賄っていた時代は遠い。小麦や油も含めて、聖域は多くの品を俗世から買い入れていた。そして聖域の金庫番は神官がその役目を担っていた。教皇の弟子ならば神官にも伝手があるだろうと期待したのだが、相手は「それは難しいかも」と表情を曇らせた。悪童はその立場ゆえに、神官に疎まれているのだという。

 

「でも駄目元で言ってみるわ。もし話が通ったら、喜ぶのはあんた一人じゃないもんな」

 

 ところが翌日早くも「駄目だった! なんか叱られた」と結果を伝えられてしまった。

 

 それ自体は想定していたが、驚いたことにその日のうちに教皇と神官のそれぞれから書簡が届いた。教皇の弟子という立場には何の影響力もなく、それを介して自身の主張を上に認めさせようとする行為は認められない、というのである。

 

 そこまでは同じだったが、神官からの分には「猊下のご意向もあり、一度目は注意で済ませてやる。次また同じ事をやったら首を飛ばす。文句があるなら教皇宮まで直談判に来い」ということが遠回しに書いてあった。無論、雑兵に過ぎない彼にそんな勇気はない。おそらく、のこのこ行けば更なる訓戒か処罰が待ち受けている。

 

 一方で教皇からの分には「家出中の弟子が世話になったようだし、今回だけはその礼に予算増額を認める」という一文がこっそり忍ばせてあった。彼は教皇宮の方角を拝んだ。「ただし他の者には内密にすること。候補生の身分で虎の威を借る狐になられては困る」という念押しも、今後の影響を考えればごく当然のことだったので受け入れた。

 

 それからというもの、少年を懐柔して自分の希望を通そうという同僚が現れる度に、彼は神官からの書簡を見せた。そしてそれがいかに無謀で無駄な行為かということを、懇々と言い聞かせるのだった。

 

 他人に言い聞かせるばかりではない。食材購入費の増額が認められて一年ほどは神官からねちねちと嫌味を言われ続けたので、彼はもう二度と悪童を使った頼み事はしなかった。

 

 

【従者】

 

 人柄が認められた者は、十二宮に上がることもある。黄道十二星座の名を冠した、十二の守護宮。そこに配属される宮付きの従者は雑兵の花形だ。

 

 守護者が在位している宮の従者は、自慢半分、愚痴半分の話を宿舎に戻ってから仲間にすることがある。たとえば人馬宮の従者は、外部任務で不在がちの若い主が可哀相だとぼやくことが多い。双魚宮の従者は、魚座の黄金聖闘士が背負う役目が特殊な性格を帯びているために、あまり他人に自宮のことを話さない。

 

 巨蟹宮の従者も、誰かに打ち明けたくて堪らない秘密を知っていた。

 

 守護者と呼べる存在は教皇宮にいるので、普段の仕事は宮の手入れだけである。掃除が終われば昼には宿舎に戻れる。当然、気楽な仕事だろうと周りからは思われていた。しかし担当になった者だけに明かされる、ある秘密が巨蟹宮には隠されていた。

 

 亡霊が出るのだ。

 

 今の従者も、前任者から申し渡された時はまさかと笑い飛ばした。しかし相手は真顔で『もし出ても騒いではいけない。守護者にも言わなくていい。害はないから見て見ぬふりをしろ』と心得を言い渡した。まあそれならば、と新任者として殊勝に頷いた。

 

 一月ほどは何事もなく過ぎた。しかし二ヶ月目に入り、宮の奥を掃除していた時のこと。壁に人の顔のような染みが浮かんでいるのを見つけた。カビかと思ってごしごし擦っても消えない。染みは見る見るうちににくっきりとした目鼻立ちになり、壁自体が凹凸を作って、まるで壁から顔が生まれてきたようになった。湿気で壁が歪んだのではない。確かに人の顔をしていた。亡霊とはこれのことかと納得した。不気味だがそのうち慣れた。朝も昼も夜も常に同じ場所に居続けている亡霊など、家具のようなものだ。壁飾りだと割り切って、そちらを見ないようにすれば我慢できた。

 

 しかし日を追うほどに壁の顔は増えていき、気のせいか壁に近づくと呻き声まで聞こえるようになった。さすがにこれはまずいと思い、教皇に知らせた。ところが『分かった』という返事だけで特に対応もしてくれずじまいだった。

 

 やがて壁の住人が四人を超え、陰気な声が隣室でもはっきり聞こえた時、従者は堪らず宮を飛び出して教皇宮に駆け込んだ。

 

『もう無理です。頭がおかしくなったみたいです。理由? 言えるわけないじゃないですか。とにかく配置換えしてください!』

 

 神官に泣き付いているところを、教皇が通り掛かった。従者の様子を見て、慣れた調子で『今夜片付けるから辛抱してくれ』と言い、その日はもう帰って休むように従者に勧めた。主人の勧めに従者は大人しく従った。

 

 翌朝、前任者に頼み込んで一緒に巨蟹宮に付いてきてもらった。なんと、不気味な顔は一つ残らず消えていた。

 

『そんな、確かに昨日までは顔が、顔がここに』

 

 狼狽する彼の横で、前任者は優しく頷いた。

 

『知ってる知ってる。猊下が片付けると仰ったのだろう? 片付いてるじゃないか』

 

 それこそが巨蟹宮の秘密。蟹座を守護星座とする者がいる時にだけ起こるという怪奇現象だった。

 

『ただ宮の奥の壁に出てくるだけで、あの顔は俺たちには何にもしねえよ。段々増えてくけど、猊下が数ヶ月に一度まとめて消して下さるから我慢すりゃあいい。消し方? 知らねえよ。夜の間に壁からもぎ取ってどこかに埋めなさってるんじゃねえか。裏の地面でも掘り返してこいよ』

 

『冗談でも止めろよ。どうすんだよ掘り起こして本当に出てきたら。しかもそいつら呻き声上げるんだから怖えよ』

 

 前任者は笑い、そういうことはないから安心しろと彼の肩を叩いた。

 

 当初は本気で配置換えを願っていたが、人間というのは慣れるもので、新任の従者もその例に漏れなかった。定期的に処理されるというのも本当だった。徐々に数を増して鬱陶しく呻いていた顔たちが、翌日には綺麗に消え、そして時間が経つにつれ再び浮き出してくるという流れが、巨蟹宮にはあった。

 

 その流れを何度繰り返したことだろう。

 

 ある日、教皇から言伝があった。

 

 ――しばらく巨蟹宮の奥を片付けないが、我慢して欲しい。

 

 片付けない、つまり不気味な顔たちを放置しておくということだが、従者はもう「はいはい」と気軽に頷ける程度に免疫ができていた。そのつもりだった。

 

 甘かった。

 

 壁の顔が十を超えると、気持ち悪いのと薄気味悪いのとうるさいのとで気が変になりそうだった。彼はその場所に近づきたくなくなった。幸い、そのことを察した主人から、宮奥の掃除はしなくて良いという許しもあった。そこでなるべく顔たちから遠ざかって仕事をするようにした。

 

 顔の数が一ダースを超えた頃、教皇から次の言伝があった。

 

 ――巨蟹宮の奥を弟子の修行の場として使わせるので、候補生が立ち入るのを見ても放っておくように。修行中は危険なので、宮から退出していても構わない。

 

 あの不気味な場所でどんな修行をさせる気なのかと、従者は気になった。しかし修行を覗くことは禁じられていたし、現れた生意気そうな候補生に尋ねても答えてくれなかった。従者は手入れする範囲を宮の出入り口付近だけと決めて、それが終わると大人しく仕事場を離れることにした。

 

「本当におまえ、気楽な仕事だよな」

 

 同僚にやっかみ半分に言われ、ならば怪奇現象に囲まれながら仕事をしてみろと言い返したくなった。しかしそれはできない。彼は唯一巨蟹宮のことを話せる前任者に打ち明けた。

 

「十四? それはさすがにきついな」

 

 同情してくれる者の存在に、彼は泣いた。

 

 そしてしばらく日を置いた後に、主人から命令があった。顔の数を数えてこいという。無理なら自分で数えに行くとの気遣いの言葉も添えられていた。

 

 さすがに教皇に足を運ばせるのも申し訳なかったので、彼は意を決して巨蟹宮の奥に乗り込んだ。どうせ相手はただの顔。気持ち悪いがただの顔。どんなに近づいても目が合ったことはないのだから、きっとこちらに気づくほどの知性はない。そう自分に言い聞かせながら、長いこと立ち入らなかった部分に足を進める。

 

 うっすらと埃が積もっているだろうと予想していた床は、意外にも掃き清められていた。隅のほうに埃が残っていたり、掃き残しの筋が残っていたりと、少々雑な印象だ。それで却ってほっとした。誰かが掃除したことが明らかだったからだ。その証拠に、長箒が片付けられずに廊下の隅に出されたままになっていた。

 

 箒を手に取り、問題の場所へ近づく。顔は十五面あった。

 

 主人にそれを伝えた日から三日後、全ての顔が消えた。

 

 巨蟹宮の奥は静けさを取り戻した。日が経つと再び顔が浮き出してきたが、今度は一つ浮く度に片付けられるようになった。

 

 ただし顔を片付けに来るのは教皇ではなく、その弟子に変わった。まだ修行が続いているのだと説明された。彼は日中堂々とやって来て、ものの数分も掛けずにそれを完了させるらしい。らしい、というのはその場を見ることを禁じられているからだ。

 

「べつに見てもいいけど、あんたまで顔と同じ運命を辿ることになるぜ」

 

と、その候補生は真顔で言う。それは困るので、宮の表に近いほうで、のんびりと大理石の柱を磨く。

 

 従者が手を付けられなかった間の巨蟹宮の奥を掃除していたのは、この教皇の弟子だった。師の守護宮を少しでも綺麗に保ちたかったというから微笑ましい。もっとも言葉としてはたいそう捻れた表現をしていたので、その本意を理解できるまで時間が掛かったが。

 

 まもなく、候補生は足取りも軽く奥から戻ってきた。

 

「終わったぜ」

 

「はい、お疲れさん」

 

 ぱしりと互いの手を叩き合って、それで終了。候補生は巨蟹宮を去り、従者は誰もいなくなった奥へと掃除に向かった。

 

 

【大工】

 

 聖域の歴史は古い。

 

 歴史と同じく建造物も古く、ほとんどの建物が古代の遺跡を利用している(ちなみに、上下水道は古代ローマ時代に作られた物が現役だ)。そのため建物は常にどこかしらが手入れを必要としていた。建物の状態によっては、修繕だけに留まらず土台から建て替えられることもあった。

 

 しかし普請のためとはいえ俗世の者を聖域に入れることは避けたいので、必然的に聖域内の普請には雑兵や聖闘士が駆り出される。おかげで大工顔負けの腕を持つ雑兵もかなりいた。

 

「親方にちょっと聞きたいことあるんだけど、いいかな」

 

 突然やって来た若い候補生を一瞥したきり、棟梁は無言で仕事に戻った。おまえらが訓練でも遠慮なく闘技場を壊すからこっちの仕事が増えるんだ判ってるのか判ったら相手をしてやる暇はないからとっとと失せろ――ということを、背を向けることで示す。たとえ相手が聖闘士でも態度を変えない。それが彼の意地だった。

 

 彼の拒絶の態度を見て、ほとんどの者は諦める。近くには助手もいるので、話をするならそちらを通してからにしようと思うのが普通だった。ところがこの少年は、

 

「仕事の邪魔はしねえよ。まあ空いてる耳だけこっちに貸してくれや」

 

と、その場に腰を落ち着けてしまった。

 

「この前さ、聖域と修道院が似てるって話になったんだよ。あ、俺の仲間内でな。ガキの頃に親父にくっついて毎週修道院に薪を納めに行ってたって奴がいて、そいつが言うには、修道院にあるもんはだいたい聖域にもあるっていうことらしいんだ」

 

 それは突飛な話ではなく、聖闘士の世界に入ったばかりの者が抱く感想としては普通だった。

 

 たとえば薬草園がある。その片隅では養蜂もしている。聖闘士には知られていないが写本の作業室もある。法衣姿の神官も往来するので、初めて聖域入りした新米聖闘士などが、ここは修道院も併設しているのかと勘違いするそうだ。そして大抵は先輩格に、修道院がここを参考にしたのだと言い返されて納得する。真偽は誰も知らないが、エジプトで修道院の原型が生まれた頃にはすでに聖域が現在の形で存在していたという。だからそれが定説となっていた。

 

 どうでもいい話だ。棟梁は振り返らない。

 

「それじゃ逆に聖域にしかないものって何だろうってことで、火時計とか星見の丘とか闘技場とか色々出たんだけど、俺は親方たち大工だと思うんだよ」

 

 聖堂修復などで大工が修道院に入ることはあっても、常駐することはないはずだと、この候補生は言った。

 

「なあ、親方はどう思う?」

 

 無視。

 

「おっさんたちが年がら年中とんかんやってるのを、今まで俺ぜんぜん気に留めてなかったんだけど、これって結構凄いことなんだよな。だって材料どうしてんだよって話でさ。建材って聖域にそんな多くないと思うんだよ。石切場はあるけど、あそこにあるのだって、どっかから運んできた石っぽいし。材木とか漆喰とかも。漆喰って石を塩で焼いたやつなんだって? しょ……しょうなんとか」

 

「消石灰」

 

「それそれ、その元の石とか」

 

 棟梁は太い息を吐き出して、候補生に向き直った。

 

「大工になりたきゃ候補生を辞めて、普通にどこかの徒弟になれ。推薦状は書いてやれんがな」

 

 候補生はやけに慣れた仕草で肩を竦めた。百姓の出ではないと棟梁は見てとった。街の人間、それも薄暗い場所の匂いがする。有り体に言って柄が悪い。

 

「推薦状のために親方のところに来たんじゃねえよ。闘技場を建て直すために、大量の建材を去年の二月に仕入れたって話を聞いたんだ。親方なら当然知ってるよな?」

 

「知らんな」

 

「あれ、おかしいな。俗世の商人に金も支払ったって聞いたけど。それで俺、どの闘技場が新しくなるのかなーって楽しみにしてたんだぜ」

 

「勘違いじゃねえか」

 

 棟梁は馬鹿馬鹿しくなって図面引きに戻った。大規模な普請の話が持ち上がれば、まず最初に彼のところに神官からの連絡が来るはずだ。しかしここ数年は小規模な修復ばかりで、そのような計画の話は来ていない。つまりはそのような計画は存在しない。候補生たちの他愛のない噂に付き合ってやる酔狂さを、彼は持ち合わせていなかった。

 

「そっか。親方が知らねえんじゃ仕方ねえ」

 

 諦めたのかと思いきや、少年は「だったらもう一つ」とその場に居座り続けた。

 

「これまで親方が監督してきた普請で、いつどれくらいの建材を使ったかっていう記録は残ってねえかな。もしあれば見てみたいんだけど」

 

 確かに過去にあった普請はそれがどんなに些細なものであれ、記録には残している。しかし候補生が興味本位で調べることではないだろう。

 

 もしや相手を候補生と思っていたのはこちらの早合点で、実は神官なのか。金勘定が絡む建材の仕入れには、聖域の金庫番たる神官が深く関わっている。そこからの使いではないかと棟梁は疑った。彼は神官という連中が嫌いだった。手も動かさず現場も見ずに、命令ばかりしてくる頭でっかちの連中だ。

 

 候補生の恰好をしている少年はバリバリと頭を掻いた。

 

「それが俺のお師匠が変わり者でさあ。調べ物も修行の一環だって言うんだよ。聖闘士になるのに必要かって思うんだけど、まあ口答えすれば叱られるから素直にはいはいって言うしかねえわけ。頼むよ親方。協力してよ」

 

「おまえの師匠ってのは?」

 

 どの称号を持つ聖闘士だと尋ねたことに他意はなかった。そんな修行を付ける指導者もいたのかと興味を持ったのだ。

 

「教皇セージ」

 

「馬鹿野郎」不敬な候補生を思いきり叩いた。「もっとマシな嘘をつけ」

 

「痛ってえな。嘘じゃねえって。信じなくてもいいけど協力してくれよ。じゃあ協力してくれたらワイン一瓶。普段がぶ飲みしてるようなのじゃなくて、教皇も飲んでるような極上のやつ。それでどうよ」

 

 図面から顔を上げて、棟梁はもう一度候補生の顔を見た。叩かれた頭を撫でながら、候補生はこちらを見ている。

 

 それでも彼は極上の酒という誘惑には屈しなかった。

 

 代わりに少年の情熱に根負けした。たとえその結果ワインを手に入れることになったとしても、酒に負けたわけではない。

 

 腕組みをしながら見張っている彼の前で、候補生は必要なことを手元に書き取っていった。

 

 後日届けられたワインは確かに美味かった。鼻へ抜ける芳醇さが違う。これに比べれば普段のはただの果汁だ。

 

「俺のお師匠からも、親方に礼を言っといてくれって。だからこれはお師匠から」と、少年は二本目の瓶を差し出した。「調べたことを報告したらさ、昔は自分も土を練ったり左官屋の真似事をしたことがあるって懐かしそうに言ってたぜ」

 

「聖闘士が? いつの話だ」

 

 重い建材を運ぶ以外に聖闘士の手を借りるほど人手が足りなかった時期は、彼の知る限りない。それは彼が棟梁どころか雑兵になるより以前から変わらないはずだ。

 

「聖戦終結後。聖域が壊滅して人手が無かったんだって」

 

「またそういう嘘を吐く」

 

と棟梁は少年の背を叩いて追い払った。「もういい。帰んな」

 

 二人の語らいを耳にした別の雑兵が、かの少年が真実教皇の弟子であることを棟梁に告げるのは、その夜のことである。出来の悪い冗談だと彼は笑い飛ばした。しかしその後何年経っても、貰った二本目のワインを空けることができなかった。

 

 

【番人】

 

 口が固く、規則に厳格だという評価を得た者は、十二宮より更に上の教皇宮に上がる機会がある。そこでは重要な扉を守る番人としての役目を与えられた。ここまで来ると人目に触れることはほとんどない。

 

 その中の一つが、教皇宮の「表」である公部分と「奥」である私部分を隔てる扉だ。そこは決まった時刻に閉めることになっている。教皇と一緒に寝起きしているという少年も扉が開いている時はそこから出入りしているが、たまに時刻を過ぎてもまだ帰らないことがある。そういう時でも番人は決まり通りに扉を閉める。使用人の使う裏口から戻ればいいので、苦情を言われたことはない。もちろん言われれば夜でも開けるが、教皇でさえそれが面倒なのか、星見に出かける時は裏口を使っているようだ。

 

 日没頃、足音も軽く少年が帰ってきた。門限ぎりぎりの時間だった。なぜか手に松笠を持っている。焚き付けにでも使うのだろうか、と詮ないことを番人は思った。

 

「閉めるぞ」

 

「ほいよ」

 

 このいつも軽い態度の少年がいるせいで、聖域の中枢を守るという誇りと栄誉が薄らいでいる気がする。その反面、教皇が気さくに声を掛けてくれるようになったので、悪いことばかりではないのだが。どうやら教皇は、弟子のせいで番人に余計な仕事が増えたのではないかと気を遣っているらしいのだ。

 

 目の前を通り抜けた少年の頭の位置に、おやと気がついた。いつの間にかこちらの胸に届くほど背が伸びている。教皇に庇護されたばかりの頃はせいぜい腹を越すくらいだったはずだ。手足の大きさからみて、これからも若木のように背が伸びていくだろう。聖闘士を目指す者としては申し分ない。

 

 この成長ぶりを教皇は知っているのだろうかと彼は思った。毎日の微妙な変化は、常に近くにいる者には却って見えにくい。

 

「あ、そうだ」閉まりかけた扉に手を掛けて、向こう側から少年が顔を覗かせた。「夜番はあんただよな。今夜こっちに来る奴を黙って通せって話、聞いてる?」

 

「ああ、猊下から伺っている」

 

「ならいい」

 

 なにやら画策している教皇と、それに一枚噛んでいるらしい悪童。それを詮索する権利は番人にはない。彼はただ扉を守る。

 

「そんじゃお休み」

 

「お休み」

 

 閉まった扉の向こうから、僅かに声が届いた。ただいまと元気よく告げる高い声と、おかえりと温かく迎える低い声。二つの声は語らいながら遠ざかり、廊下には静寂が戻った。

 

 

 この他にも雑兵の仕事はいくつもある。更に聖域の中だけでなく俗世にあって重要な役目を担う者たちもいるが、それを語るのは別の機会にしよう。

 

 ちなみに雑兵の役割を監督するのは基本的に神官である。聖闘士は任務や弟子に修行を付けるために聖域を不在にする期間があり、監督まで手が回らないからだ。雑兵と神官。聖闘士ではない者として、彼らは山の麓と頂から聖域を守っていた。

 



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科学について
入祭唱(イントロイトゥス)――アリの去就


 

 男は戸の鍵が開く音に顔を上げた。扉の向こうにいるのはきっと死に神だ。鼓動が速まり、胸が痛くなった。大きく開かれた戸口に立っていたのは、恐れていた相手。少し前まで侮っていたはずのその相手が、今は無性に怖かった。

 

 ――迎えに来た。

 

 そう告げた死に神と目が合った瞬間、男の意識は途絶えた。

 

          ◇

 

 山上に立つ教皇宮は見晴らしが良い。

 

 ことに日の出と日の入りの時刻の眺めは格別だ。山肌は赤く、それよりなお鮮やかな茜色の空を背景に薔薇色の雲が浮かんでいる。

 

 セージが窓の外の夕焼けを眺めていると、一人の神官が声を掛けてきた。ぜひとも教皇にお伝えしたいことがある、と書類を手にして言う。廊下は暗く、表情はよく見えなかった。明日では駄目なのかと尋ねても、できれば今すぐにと言って引き下がらない。男は神官としての地位が高くなかったから、これまで教皇に話しかけてくることはなかった。一体何事かと、立ち話ながらもセージは男の話を聞こうとした。

 

 そこへ男の上役に当たる別の神官が現れた。彼は部下が教皇を引き留めている状況を見て、代わりに話を聞くことを引き受けた。テオドシオスと呼ばれる彼は面倒見も良く、目下に慕われていたから、教皇も安心して後を任せた。

 

 翌日、テオドシオスは男が職を辞した旨を教皇に伝えた。急なことではあるが、家の事情で故郷に帰ることになったそうだ。すると面談の目的はその暇乞いだったのかと、教皇は納得した。去った男の地位であれば、辞める時には神官長の許しをもらうだけで良かった。もし男が称号持ちの聖闘士であれば、必ず教皇の許しを得なければならないところだ。

 

 その場で人員の補充を乞われ、セージはそれを許した。

 

 

 聖域はアテナを奉じる聖闘士の本拠地である。

 

 常人を超えた奇跡のような力を持っている聖闘士ではあるが、あくまで彼らの本分は戦うこと。幼いうちから肉体を鍛える修行に入り、戦場へ赴く彼らには不向きな仕事もある。

 

 そこで教皇を支え、聖闘士に代わって事務方を預かるようになったのが神官だった。職務からいえば書記官という名称のほうが相応しいだろう。なかには聖闘士でありながら実務能力を買われ、「聖衣の上に法衣を重ねた」者もいるが、ごく珍しい例外だ。基本的に聖闘士とは異なる命令系統に属している。

 

 ちなみに序列だけでみれば神官長は黄金聖闘士より低い。平の神官は青銅聖闘士よりも格下だ。しかし聖闘士が目通りを許されなければ教皇と会えないのに対して、神官は教皇と同じ建物で働いており、日常的に直言することさえできた。

 

 その日、教皇は教皇宮の公部分に属する一室に入った。明かり取りの小さな窓しかない、薄暗い部屋である。そこに神官たちが待っていた。

 

 居並ぶ法衣姿の男たちは教皇に一礼し、彼が椅子に腰を下ろしたのを見届けてから着席した。装飾の類の一切ない質素なこの部屋こそ、聖域と聖闘士を支える重要な場所だった。

 

 教皇の間は教皇と聖闘士の集う表舞台である。それに対しこの部屋は、限られた神官が実務的なことを論じる舞台裏だ。個人の聖闘士がいくら英雄叙事詩の登場人物に似た存在であっても、全体では生身の人間の組織である。こうした場が必要だった。

 

 簡単に「評議」と呼ばれる時間が始まった。

 

「今年の冬至に捧げる羊も、去年と同じ頭数を予定しております。その他の供物についても同様でございます。皆様いかがでしょうか」

 

 数ヶ月後の祭礼に向けての準備である。典礼係の提案に一同が賛意を示す。

 

「では儀礼自体も例年通りに執り行いますので――」

 

 神官の言葉を遮るように教皇は軽く指を上げた。事実、それだけで典礼係の唇は動きを止めた。神官長が「何かございますか」と恭しく尋ねた。

 

 教皇は神官の仕事ぶりを信頼しているので、いつもは評議の内容に口を出さない。定期報告を受けて疑問や問題がなければ後は任せるようにしていた。この時のように話に入ってくることは珍しい。何事かと一同が見つめるなか、老人はゆったりと発言した。

 

「今回はアテナが降臨されて初めての冬至となる。それなのに例年と同じというのはいかがなものか」

 

「お言葉ですが猊下。盛大に祝うのであれば、我らが主神を聖域にお迎えしてからがよろしいかと。未だ地上のどちらにおわすのかも判らず、聖闘士にも何も明かしていない状態でございます。儀礼だけを華やかにしては却って不審を招くだけかと存じます」

 

 神官長の言い分を教皇は渋々受け入れた。周りの神官は内心胸を撫で下ろした。アテナが地上に降臨したという星見から一月が過ぎ、半年が過ぎ、それでもまだ足りずに捜索が続けられていた。

 

「しかしいつまで」

 

 誰かが漏らした呟きは、聞く者の心に波紋のように広がった。

 

 いつまで今の状態が続くのか。

 

 そもそもアテナが降臨したという拠り所は教皇の星見だけである。その読みが間違っていたのではないかと、多くの神官が疑うようになっていた。その思いはともすれば何かの拍子に口から溢れそうになる。

 

 ――これ以上は無駄だから捜索は打ち切ろう、と。

 

 評議の後、二人の神官が所用で教皇宮から下がった。十二宮の階段を下りながら話すのはアテナ捜索についてである。教皇が近くにいる教皇宮ではむしろ触れにくい話題なので、こうして外で話す者が多い。

 

「やはり一年という区切りで打ち切るのがいいでしょうね」と痩せた青年神官が口を開く。

 

「さよう。しかし猊下をどのように説得するか、そこが問題だ。ご自身の判断が誤っていたとお認め頂くわけだから」と年上の神官が重々しく言った。

 

「これまで捜索中止を提言した者はいるのでしょうか」

 

「いいや。こういうことは高位の神官からさりげなく伝えてもらうのが一番だが、神官長は役に立たんな。猊下の首振り人形であるし、先ほどのような止め方が精一杯だ」

 

「猊下のお弟子については、そうでもないように見受けられましたが」

 

 若い神官の言葉に年長者は苦笑した。確かに神官長は教皇の弟子取りに関しては強く反発している。一時、教皇が執務室に弟子を入れて教えを授けようとしたことがあったが、公私混同を盾に反対したのは神官長だった。

 

「あの人は猊下がお務めをおろそかにされては困ると、それしか考えていないだろうよ。聖域のことを真に考えているテオ殿のほうが」

 

 その先を飲み込んで、年かさの神官は教皇宮のほうを振り向いた。若手もそれに倣う。誰かが下りてくる。

 

 階段を駆けてきたのは教皇の弟子だった。通りすがりに二人に挨拶して、そのまま横を抜けていく。

 

「まあ、神官長にも理があったからな。全ての聖闘士に等しく目をかけたいからと、長らく弟子を取ることを拒まれ続けていたのは猊下ご自身だ。そこをコロっと態度を変えられては、小僧にうつつを抜かすのではと心配にもなるだろう」

 

「でしょうね。下の宿舎に入れて他の候補生と同じように扱えば良かったんですよ」

 

 見る見るうちに悪童の後ろ姿は小さく遠ざかっていった。

 

          ◇

 

 マニゴルドは長い階段を駆け下りた。

 

 道と闘技場を隔てる石垣に飛び乗って、対手になってくれそうな者を探す。すると組み手がもうすぐ終わりそうな二人組を見つけた。終わったらまだ体力に余裕のあるほうに申しもうと決めて、石垣に腰掛けた。

 

 日差しと柔らかい風が肌に心地よい。

 

 思わず上半身を倒して横になった。

 

 そのまま目を閉じていたら、「寝に来たのか」と足首を下に引っ張られた。仕方なく起き上がれば、アスプロスが石垣の下から彼を見上げていた。

 

「よう」マニゴルドは足首を振って知り合いに挨拶した。

 

 アスプロスは軽やかに跳んで隣に上がってきた。

 

「後悔して落ち込んでいるのかと思ったが、元気そうだな」

 

「後悔?」マニゴルドは首を傾げた。

 

「候補生が立て続けに死んだだろう」

 

 その言葉にマニゴルドは死者たちのことを思い出す。ニキア。ゴメイサ。その取り巻きたち。聖域では全て終わった事として片付けられている。

 

「なんでそれで俺が落ち込まなきゃならないんだ」

 

 アスプロスは声を落とし、そっと囁いた。「きみが五人の命を奪うところを見た者がいる」

 

 マニゴルドは意味が分からない、というように頭を傾げた。相手がその話題を持ち出してきたのは、脅すためとしか思えない。

 

「何のことだか。だいたい死んだ候補生は七人だぜ。七人を殺したって言わねえのか」

 

「では訂正しよう。ニキア以外の者についての話だ。あの日、彼女の埋葬にきみも立ち会うだろうと思ったのに来なかった。弔いが終わって宿舎に戻れば、候補生たちの集団死で大騒ぎだ。その矢先にきみの殺しを見たという話を聞かされた」

 

「現場を見たっていうなら、俺に遠慮せずに誰かに知らせれば良かったのに。なんでそうしなかったんだ、おまえ。脅しても何も出ねえぞ」

 

「脅すつもりはないし、目撃者は俺じゃないよ。理由が知りたいだけだ。彼女が不当に貶められたと訴えることもできたのに、きみが聖域の掟を犯してまで他人の仇討ちをする意味が分からない」

 

 アスプロスもセージと同じように、当時マニゴルドが積尸気冥界波を習得しようとしていたことを知っていた。何が起きたかについても、ニキアの指導者より正しく想像できただろう。

 

「……ニキアの師匠が空を見上げて叫んだんだ。奴らに天罰を、ってアテナに。でもそんなの願ったって無駄じゃん。アテナに人を助ける気があるなら、聖闘士として身を捧げるつもりだったニキアを酷い目に遭わせたりするはずない。地上を守護するっていっても、足元の人間を守ってくれるってことにはならないんだよ」

 

「女神は聖闘士を守らない」

 

「そういうこった」

 

 他の者なら――たとえばシジフォスなら決して口にしないようなことを、アスプロスは容易く言葉にした。マニゴルドは嬉しくなって足を打ち合わせた。

 

「聖闘士は女神の矛であり楯である、ってな。いくら言葉を飾ったって、アテナにとっちゃ聖闘士っていうのは敵に突っ込むための道具であって、庇護すべき哀れな子羊じゃねえんだよ、きっと」

 

「それは猊下のお考えでもあるのか」

 

 積尸気使いとしての師がどう考えているかはさておき、教皇の立場ではそこまで言わないだろう。マニゴルドは首を横に振った。

 

「アテナのお導きがどうこうってよく言ってるから、お師匠はアテナを信じてる。でも人間同士のことは人間が片付けないと駄目だってさ」

 

「だから神に代わって力を揮う。それがきみの言い分か」

 

 少年は鼻で笑った。

 

「聖域に来る前、俺がどうやって生きてきたかは言わねえよ。けど、神サマなんてあてにならないものを信じて待つより、自分で動いたほうが手っ取り早いと思ってる。それだけのことだ」

 

「手っ取り早い、か」

 

 アスプロスは遠くを眺めた。つられてマニゴルドも同じほうを向く。二人の視線の先には接近戦の修行をする若者たち。全員が彼らの顔見知りで、同じ道を目指す仲間だ。

 

「候補生を殺したことを、後悔しているか?」

 

「しねえよ。公に知られたらお師匠に迷惑が掛かるだろうなって心配はする。でもやったこと自体はちゃんと納得ずくだ。俺の名前はイタリア語で『死刑執行人』って意味なんだ」

 

「処刑人は誰かが下した裁きを実行する者のことだぞ。裁きを下す者のことじゃない」

 

「ごちゃごちゃ細かいこと言うなよ。とにかく、殺すとか殺されるってのがどういうものか知ってるって言ってんの、俺は」

 

「そうか」

 

 アスプロスはようやくこちらを振り向いた。少しだけ、その肩から力が抜けたようにマニゴルドには見えた。

 

「おまえが肚を括っているなら、俺ももう何も言わない。もし行いを悔いて迷っているなら聖域の裁きに従うべきだと思ったが、違うんだな」

 

「ああ」

 

 それなら好きにしろ、と彼は億劫そうに後ろ手を突いた。

 

「アスプロスって、もっと人の道とか聖域の掟とか大事にする奴かと思った」

 

「もちろん大事さ。それが役に立つ限りは」アスプロスは冷たく鼻で笑った。シジフォスやハスガードには言うなよ、と前置きして彼は続ける。

 

「聖域の秩序とか、そんなの本当はどうでもいいんだ。俺は、俺たちの身を守るために聖闘士になると決めた。誰も守ってくれなかったし、他に道がなかった。きっと聖闘士になっても変わらないと思う。俺が守りたいのは俺たちだけだ」

 

 不思議に一人称と二人称の入り混じる語り口だった。整った横顔にうっすらと怒りが滲んでいた。

 

「五人が死ぬところを見たのは、表に出ることを禁じられた人間だ。あいつが表を堂々と歩ける身で現場を見たなら、俺はきっと証言させていたと思う。でも違う。あいつは俺にしか打ち明けられなかったし、あいつにそんな暮らしを強いる聖域のためになんか、俺は動かない」

 

 いったい誰の話をしているのだろうとマニゴルドは彼を見つめた。その困惑ぶりに気づき、アスプロスはうっそりと笑った。

 

「他人の目を気にせずに動けるおまえが羨ましいよ」

 

 それだけ言うと、彼は隣を見ずに石垣を下りて去ってしまった。一人残される形になったマニゴルドも地面に下りて、目を付けていた候補生に組み手を申し込んだ。

 

          ◇

 

 ある日のこと。師から新しい修行を付けてもらえると聞いてマニゴルドは喜んだ。積尸気冥界波を体得してから、ようやく次に進むことになる。

 

「どんな技教えてくれんだ?」

 

「技ではない。全ての基本である小宇宙だ」

 

 小宇宙というと戦闘に用いるような「外向き」の作用が注目されがちだが、実は「内向き」に使って精神の働きを高めることもできる。精神集中の先にある広い視界。神がかり的に研ぎ澄まされる感覚。意識せずに最高の能率を引き出す心と体。

 

「上手く扱えるようになれば、学んだことも頭に入りやすいし、念話もできるぞ」

 

 そう説明されても、あまり面白そうではない。「それだけかよ」

 

「肉体の活性化と同じように精神を活性化する。これを突き詰めていくと、小宇宙の究極たる第七感《セブンセンシズ》、第八感《エイトセンシズ》にも到達できる、こともある。意識の使い方が切り替わるのだな」

 

「それって小宇宙に目覚めるのとはまた別?」

 

「第八感は私も目覚めたことがないから説明するのは難しい。その手前の第七感はとりわけ特別な感覚ということはないな。しかし小宇宙が無尽蔵に湧き出る魔法の壺を手に入れたも同然だ」

 

「魔法の壺ねえ」

 

「あるいは小宇宙という水を汲み出す元が、小さな泉から大海になるようなものだ。いくら汲み出しても尽きることがない」

 

 聖闘士であっても第七感に目覚める者は少ないと聞き、マニゴルドは深く息を吐いた。ところが師は弟子の前途の不安をお見通しだったようで、まあ精進しろと控え目に励まされた。難しいがゆえに、第七感に目覚めれば黄金聖闘士の座は一気に近づくという。

 

「おまえが山頂はどこだと問うから答えたが、おまえ自身は山の麓に辿り着いたところだ。登る前から山の高さばかり嘆いて二の足を踏んでいても仕方あるまい。まずはやれ」

 

 その時からというもの、マニゴルドは暇があればひたすら「内向き」に小宇宙を練らされた。

 

 その修行は格闘のような激しい動きを伴わなかった。自分が何をさせられているのか今一つ呑み込めなかった彼は、師に不満をぶつけた。頭を使うより体を動かすほうが好きだったからだ。

 

「一度決めた道だろう。『この故にわれ汝のために思い、かつ謀りて汝の我に従うを最も善しとせり、我は汝の導者となりて汝を導き、ここより不朽の地をめぐらむ』」

 

 突然のイタリア語の諳誦に、マニゴルドは瞬きした。「なにそれ」

 

「読ませたはずだぞ。『神曲』だ」

 

 それでイタリア語の読み書きを学んだ折に読まされた本だと思い出した。作者の創作にしては、地獄の描写がアテナの宿敵の支配する世界に詳しいという、聖闘士にとっては曰くのある物語でもある。地獄、煉獄、天国を巡る主人公ダンテを煉獄の途中まで導いた古代の詩人・ウェルギリウス。セージが吐いたのは、ウェルギリウスがダンテの導き手になる時の台詞だった。

 

「そんなの一語一句覚えてるわけねえだろ」

 

「あれは冥王軍のことを知る入門書のようなものだ。もう一度読んでおきなさい」

 

 本棚にあったからという理由でその場で読み直させられた。マニゴルドはページに目を落としたまま呟いた。

 

「ていうか……、『我を導く詩人よ、我を難路に委ぬるにあたりて、まづわが力のたるや否やを思え』」

 

「なんだその弱気は」

 

「いやいや何でも」師の冷たい視線に慌てて、弟子はページを捲った。「『汝言によりわが心を移して往くの願いを起さしめ、我ははじめの志にかえれり。いざゆけ、導者よ、主よ、師よ、両者に一の思いあるのみ』。やりゃいいんだろ」

 

「よろしい」

 

 少年はばたりと本を閉じて、顔を上げた。「あんまり好きじゃないな、この本」

 

 作者の恨み辛みが籠もっているからかとセージは尋ねたが、マニゴルドの理由は違う。

 

 煉獄篇の終盤。ダンテはそれまで険しい道のりを手を引き危険な場所では抱きかかえて運んでくれたウェルギリウスから、永遠の淑女ベアトリーチェに案内人を替える。その時のダンテの態度があまりに薄情だと思ったのだ。マニゴルドはその箇所を読むまで、自身をダンテに、セージをウェルギリウスに重ねて感情移入していた。

 

 ところがそんな弟子の思いをよそに、セージは首を傾げた。ダンテは十分に別れを惜しんでいた印象があったと老人は言う。「ウェルギリウスが煉獄の先へ進めないのは、話の最初から分かっていたことだろう。まずウェルギリウスが案内役を買ってでたのもベアトリーチェに頼まれたからであるし」

 

「でもいくら好きな女と会ったからって、あんまりじゃん。直前まであんなに世話になって、先生先生って頼りきってたくせに。おまけにその後の天国篇は面白くないし」

 

 感想は人それぞれだな、とセージは苦笑した。

 

「ベアトリーチェさえベルナルドゥスに案内役を交替するというのに何を拘っておるのか。おまえもいつかアテナと出会い、そのお導きを受けるようになったら、私など置いて先に進むようになるよ」

 

「判るもんか」

 

 口を尖らせて反発すると、本を取り上げられた。そしてセージはパラパラとページを飛ばして一節を読み上げた。

 

「『目のよくこれに教うるをまたず、ただ彼よりいづる奇しき力によりて、昔の愛がその大いなる作用を起すを覚えき。わが童の時過ぎざるさきに我を刺し貫ける尊き力わが目を射るや、我はあたかも物に恐れまたは苦しめらるるとき、走りてその母にすがる幼子の如き心をもて、ただちに左にむかい、一滴だに震い動かずしてわが身に残る血はあらじ。昔の焔の名残をば我今知る……』」

 

 目で直接確かめたわけではないが、彼女の発する不思議な力が、そこにいるのが彼女だと教えてくれる。子供が母親に駆け寄るように心が吸い寄せられる。そういう内容の、ダンテがベアトリーチェに再会した場面での一節だ。

 

「聖闘士が女神を求めるのも、また同じ」

 

 セージの目がマニゴルドに注がれた。

 

 師が遠い昔にアテナに相まみえ、その指揮の下で戦場に立ったことがあるというのを、マニゴルドは思い出した。少年にとってはウェルギリウスがセージだ。しかしセージにとってはベアトリーチェがアテナだった。すると聖闘士にとっては、ベアトリーチェの後を引き継ぐ三番目の案内人・ベルナルドが教皇ということになるのだろうか。

 

 セージは弟子に説いた。聖闘士は、女神から感じられるものがあることを魂で知っている。たとえ会ったことがなくても、女神の戦士である彼らは同じ感覚を肌で共有している。だからこそシジフォスは捜索に駆り出されることに不満を持たない。それはアテナがこの地上に在ることを感じ取っているからだと。

 

「でもお師匠。神官たちは」

 

 その肩に手を置いて、老人は「今は小宇宙のことに集中しなさい」とその先を言わせなかった。生意気な小ダンテは師の言葉に渋々従った。

 

 神官たちは女神を感じることができないから、教皇の言葉だけしか信じるよすががない。これは聖闘士とそうでない者の間で、どうしても分かち合えない点だった。

 

          ◇

 

 日が落ちると聖域は青々とした闇に包まれる。

 

 石造りの宿舎が建ち並ぶ居住区にも明かりが灯り始めた。宿舎内の大部屋では、聖闘士や雑兵たちが豆のスープとパンといういつもと同じ慎ましい食事を始めた。

 

 ところがこの夜、居住区の片隅に位置する神官たちの宿舎だけは様子が違った。

 

 惜しみなく灯された沢山の蝋燭が室内を昼のように明るく照らし、酒もふんだんに用意された。塩漬けオリーブ、各種のチーズ、ひよこ豆とゴマのペースト、チーズの包み揚げ、刻み野菜を葡萄の葉で包んだ蒸し焼き、ヨーグルトといった前菜を肴に、彼らは飲み始めた。

 

 いったい何の祝い事かと疑うような豪華さだったが、これは「たまには神官同士で親睦を深めたいので夕食を振る舞いたい」と、テオドシオスが個人的に用意させたものだった。

 

 彼は神官の中でも高位の役職にある。今の神官長が引退すれば後任候補の筆頭になるだろう。その面倒見の良さは教皇も知るところだった。

 

 招かれた一人、神官ハーミドは目も眩む思いだった。故郷ではこのような宴は婚礼くらいでしかお目にかかったことがなかった。聖域で特別な行事がある時よりも豪勢だ。

 

 羊の胃袋スープの後には、聖域では滅多に振る舞われない肉料理も運ばれてきた。この日のために羊をまるまる一頭潰したという。食卓代わりの長テーブルに着いた一同は、テオドシオスの心づくしを褒め称えた。

 

 燭台の火に、肉の炙り焼きがてらてらと脂を光らせる。それをハーミドがぼんやり眺めていると、隣の同僚に腹具合を心配されてしまった。

 

「いや、なに。こんな豪華な食事を全て自腹で振る舞われて、テオドシオス殿の懐は大丈夫なのかと気になってしまって」

 

 彼の心配を同僚は笑い飛ばした。

 

「あの人は実家が名家だそうですから、仕送りがあるのでしょう。私や向こうのアレクシオス、あとはマタイオスなどはよくテオ様にご馳走になりますが、いつも大盤振る舞いですよ」

 

「ご馳走と言っても、ここでの食事は」

 

 言いかけてハーミドは気がつく。旨い物を食べに聖域の外へ出かけるという手もある。いやいや、と同僚は手を顔の前で振った。

 

「外に行くのは些か面倒ですからな。あの人はこの棟の厨房に頼んで作らせるのですよ。ワインも取り寄せて貯蔵庫に入れて、若い者の話を聞いてやる時には飲ませてやるんだとか。マタイオスはそれで一発で参ったそうです」

 

「ほう」

 

 ハーミドは話題の人物のほうを眺めた。贅を尽くした食事をしていれば、肉も付くだろう。テオドシオスは大きな体を揺らして、両隣の神官たちと楽しそうに語らっていた。

 

「そう恨めしそうな顔で見ないであげて下さい。ハーミド殿は神官長派だから、テオ様も声を掛けにくかったんだと思いますよ」

 

「人を勝手に派閥分けしないで頂きたい」

 

 ハーミドが辺りを見渡すと、神官長の居心地が悪そうな顔が見えた。そして食事も早々に切り上げて帰ってしまったのも見た。

 

 そんなことには構わず酒は人々の間を回り、いつしか場の話題は教皇のことになった。いつの世も上司の悪口は最高の肴である。

 

「それにしてもご老体はいつまで星見の結果に拘っているのやら。アテナはまだ地上にあられない! それでいいではないですか。ねえ」

 

「そうだ、その通り。年寄りは頑固でいけない。誰か直接言ってあげないと」

 

「何と言うんです。いい加減諦めろと? 間違いだったと認めたら、女神の代理人として失格ってことになるんですよ。無理むり。認めるはずない」

 

「無理かあ。テオ殿が言ってくれたらなあ」

 

 酔っぱらいたちは遠慮無く教皇をこきおろした。小うるさい神官長がいないために、口も滑らかに動く。

 

「ところで思うんだがね。その間違い星見の頃、あの方は弟子と喧嘩してたっていうだろう。それが判断力を鈍らせる原因になったんじゃないかね」

 

「おっ鋭いね。私もそう思ってた」

 

「弟子取りなんて慣れないことをされるから。そうでしょう」

 

「あの子供にも問題があると思うが、ご老体の考えが甘かったな。なにせ一緒に暮らしているのだろう? 気持ちを切り替えられなくても仕方ない」

 

「老いらくの恋とはっきり言ったらいいじゃないですか。趣味は悪いが、どうせそういう手合いで拾ってきたに違いないんですから」

 

「いっそ教皇なんて引退して、弟子を育てるのに集中してもいい頃合いでしょうなあ。もう年も年ですし」

 

「おいくつなんですか、あの方」

 

「私も知らん。前の聖戦を経験してるっていうのは嘘にしても、相当な年でしょうよ」

 

「いつまでも今の地位にしがみついていないで、聖域のことを考えて後継者を定めてほしいところだな」

 

 宴会が果てると、主催者は全ての客人を順繰りに抱き締めて、またこうして夕食をご馳走させて欲しいと、旧友のように別れを惜しんだ。

 

 そして客が去った後の大部屋には主催者と、その親友であり右腕でもあるヨルゴスが残る。テオドシオスが呟いた。

 

「悲しいな。星見の内容が内容とはいえ、たった一度の誤りで神官は猊下への敬意を失ってしまった。皆この聖域の将来を不安に思っているようだな」

 

「神官長は皆の不満を抑えられるほど力はありませんし、仕方ないでしょう。おおかたの者はあなたに期待しているようです」

 

「やれやれ。荷が重いことだ」

 

 テオドシオスは溜息を吐いた。しかしそこに僅かながら喜びが滲んでいたのをヨルゴスは聞き取った。

 

「そろそろ始めますか?」

 

「そうだな」

 

 男たちの目は雑兵が片付けを始めた室内から、すでに別のものへと向けられていた。



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救憐唱(キリエ)――ハーミドの決心

 

 朝の潔癖な光が十二宮を照らす。

 

 神官テオドシオスは階段の途中で一休みしていた。太った体で一気に十二宮を踏破するというのは、なかなかに難しい。毎日のことなので、同僚たちも気に留めずに先に上がってしまった。

 

 汗を拭き拭き教皇宮のほうを仰ぎ見ると、一つの影が見えた。崖を駆ける鹿の身軽さで、階段を数段抜かしで下りてくる。

 

 朝から下りてくる者など決まっている。教皇の弟子だ。

 

 少年はテオドシオスより十数段上まで来た時に、大きく踏み切った。しなやかな体が宙を飛ぶ。見えない羽根を持つ者の奔放さ。

 

 ああ、と心の内に洩らす。少年の持っている若さも、小宇宙も、どちらも今の彼から遠かった。

 

 音を立てずに着地したマニゴルドは、朗らかに挨拶した。

 

「おはよう、テオドシオスさん」

 

「……ああ、おはよう」

 

「こんな所で何してんだよ。腹でも痛くなった?」

 

「なに、少し息が上がってしまったから休んでいただけだよ」

 

「ああ。デブだもんな」

 

 遠慮無く指摘されて、思わず彼は笑った。

 

「済まないが、この荷物を一緒に上まで運んでくれないか」

 

「いいけど、なんならあんたも一緒に担いでいこうか」

 

「それは遠慮しておこう。己の足で教皇宮まで辿り着けない者は引退しなければいけないからね」

 

 荷物持ちを連れて彼は階段を上り始めた。マニゴルドは渡された本を見て、これは何なのかと尋ねた。

 

「写本だよ。聖域には貴重な古書が多いが、紙の劣化はどうやっても防げないからこうして写しを取っておく。文殿に納める前に写字の誤字脱字を調べないとならないから、こうして上に持って行くのだよ。きみも下に文殿があるのは知っているだろう」

 

「ああ、あの陰気くさい書庫。っていうか写本なんて古くさいことしてないで印刷すればいいのに」

 

「印刷するほど大量に要らないからこれで良いのだそうだ」

 

 テオドシオスは単に荷物として運んでいるだけで、文書の管理はまた別の神官の担当である。細かいことはよく知らない。

 

「さっき階段を下りてる俺のことずっと変な顔で見てたけど、何か叱られるようなことしたっけ」

 

「変な顔?」聞き返してすぐ思い出した。しかし羨んでいたとは口が裂けても言いたくない。「あまりに身軽だったから感心してね。ヘルメスに何か借りたのかと思ったほどだ」

 

 ギリシャ神話では、英雄ペルセウスがメデューサを退治するにあたり、アテナから盾を、ヘルメスから翼のあるサンダルを、ハーデスから姿を隠せる兜を、それぞれ借りた。

 

 聖域にいる者にとっては常識だが、少年はサンダルではなく違う部分に注意がいったようだった。

 

「ヘルメスか」

 

「なにか引っかかる節でも?」

 

「テオドシオスさんは、ヘルメスがどういう神か知ってて言ってるのかよ。まあ知ってるか」

 

 ヘルメスはオリンポス十二神のなかでも、司るものがもっとも多岐にわたる。伝令、旅、商売、幸運、賭博、いかさま、策略、泥棒……。

 

「いちいち挙げてたらきりねえな。でも、泥棒の神様ってのがいいよな。ヘルメス軍ってのがあったら、俺はそっちに馳せ参じてもいい」

 

 少年は自分だけ納得して笑った。意味が分からないので神官は話を変えた。

 

「ところで修行のほうはどうだね」

 

「うーん」少年は唸った。聖闘士になるには全く関係のない雑用をさせられている、と口を尖らせる。「近くにいるから使い走りにしやすいとでも思ってるんじゃないの」

 

「それで伝令神が嫌なのか」

 

 教皇の使い走り、もとい弟子は軽く肩を竦めた。

 

 階段の尽きたところでテオドシオスは写本を返してもらった。

 

「ここまで運んでもらって助かったよ。道を引き返させてまで荷物を運んでもらった礼をしなくてはな」

 

「べつにいいよ」

 

 興味のなさそうなそぶりの少年を見下ろしながら、テオドシオスは肉に埋もれた顎を撫でる。

 

「そうだな、まだきみは聖域に来てから一度も外へ出ていないと聞いた。俗世が恋しかろう。少しだけ聖域の外に出てみないか」

 

「えっ」

 

 少年は驚いて振り向いた。

 

 マニゴルドは聖域を去りたければ勝手に去っていいと、セージから言い渡されていた。但しそれはセージの許を去る時だと自分で決めていたので、これまで聖域の結界を抜ける気が起きなかった。一時的に出歩くのもありだったのかと、その発想が今まで浮かばなかった己の間抜けさに驚いたのだ。

 

 しかし、さすがにテオドシオスにそこまでは伝わらない。単純に、外に出る機会が訪れたことに喜んだのだと受け取った。聖域の出入りが自由に許されている者は少ない。候補生はまず、ない。

 

「聖域の用事でロドリオ村へ行く神官がいたら、その者の従者として一緒に。どうだい」

 

 聖域は外部に存在を秘している隠れ里だが、近くのロドリオ村とは交流がある。元々は聖域で働く者が暮らしていた集落だったのが、いつしか普通の村となった所だ。だから現在でも村人は聖域住民の生活に協力している。彼らとの繋がりを保つために、教皇も稀に村を訪れることがあった。それほど聖域には身近な場所だ。

 

「でも……そういうのはお師匠に相談してみないと」

 

「猊下には秘密だ。というのも、神官の従者のふりをしてもらうのは、そうすれば番兵に気付かれず結界を抜けられるからだ。ただそういう抜け道を使うことに猊下は良い顔をされないだろう。だから秘密だ」

 

 黙り込んでしまった少年に、彼は優しく声を掛けた。

 

「大丈夫。せいぜい半日もかからない用事のときに誘うよ。猊下に相談でもしようものならこの話は潰れてしまうから、決して誰にも言ってはいけないぞ」

 

「……分かった」

 

 少年とはそこで別れ、男は教皇宮に出仕した。

 

 神官たちの詰める広間に入ったテオドシオスは、持ってきた写本を本来の担当者に渡した。恐縮する相手を笑って受け流したのは、なにも相手のためだけではない。教皇の弟子を本人に疑われずに外へ連れ出す口実が欲しかったのだ。

 

          ◇

 

 セージの見るところ、小宇宙を内面に向かって燃やすという修行は最初の段階を過ぎた。

 

「修行の成果か実感が欲しいとおまえが言うから、これまで知性の働きを高めた状態のときに知識を集中的に授けてきたな」

 

「小宇宙で詰め込み勉強させたって言えよ」

 

「それが真に身についたか、確かめてみよ」

 

 用意された資料に目を通して、弟子は眉をひそめた。そこにあったのは様々な書類だった。聖闘士の任務報告書。世界中の修行地への送金記録。聖域外からの収入を記した台帳。目録。それらを元に、前年度の年間収支を計算することが課題だった。聖闘士の修行からはほど遠い。

 

「何だよこれ。帳簿類って神官が管理してるやつだろ。持って来ちゃって大丈夫なのか」

 

「もう用済みの去年の記録だから問題ない。正解も私の手元にあるからちょうど良いだろう」

 

 帳簿をまとめた最終的な報告書、セージが言うところの正解である収支報告書は公文書として提出されている。書庫にしまわれていた過去の帳簿類をまとめてごっそり持ってきてもらったが、そのことで事務が滞ることはないはずだ。

 

 それなら仕方ないと弟子は渋々課題に取り組み始めた。

 

 そして数日かけて課題が仕上がった。小宇宙の使いかたを知らない状態のままだったら、帳簿の付けかたを覚えるだけで半年は掛かっただろう。本人もそれを感じているだけに、無駄なことをさせられたと文句を言うのを我慢していた。その代わりに別の不安を口にした。

 

「お師匠は俺を会計係かなにかにしたいわけ?」

 

「なりたければ止めはしないが、そういう意図はない。ああ、今たしか主計を司る神官が助手を必要としていたな。テオドシオスのところだが、手伝いに行くか?」

 

「やなこった」

 

 舌を出す弟子に苦笑し、セージは答合わせを始めた。

 

 マニゴルドの提出した収支計算は、教皇の手元の公文書の記載と合致した。それを告げると、弟子は少しだけ得意げに頬を緩めた。

 

「でもこれ、目録と台帳見て知ったんだけどさ、去年は石材とか木材とかやたらいっぱい仕入れてるんだよ。闘技場改修のためってことで。支払いも全額済んでるみたい」

 

「それがどうした」

 

 その年に何をどれだけ買ったかという細かいところまで教皇は把握していない。評議の場でその話題が出るか、書類が提出されるか、奏上されるかして初めて知ることになる。

 

 弟子は机に積んである書類の山から支払い台帳が引っ張り出し、その中の一ページを示した。確かに建材を買い、聖域外の商人に支払いを済ませたという記録があった。

 

「これな。どの闘技場を直すのかまだ決まってないんだったら、練習闘技場がいいな。西のもやばいって話だから、余裕があればそっちも」

 

「何を言っておる。どこを建て替えるか決めずに建材だけ仕入れるわけがなかろう」

 

「だけど普請しそうな様子の闘技場なんて全然ないぜ」

 

 セージの表情が自然と険しくなる。

 

 大量の建材を購入すれば、その置き場所は普請場の近くになるはずだ。支払いだけ済ませて現物の納入待ちという可能性もあるが、マニゴルドの示した支払い記録は、年度初めの頃のものだった。彫刻や絨毯のような手間の掛かる工芸品ではないのだから、いくら何でも丸一年経ってまだ現物が届かないということはないだろう。

 

「……マニゴルド」

 

「なんだよ、嘘は言ってねえぞ」

 

 支払額が多いわりにその内容に首を傾げるような例が他になかったかと尋ねる。しかし、判らないと弟子は答えた。建材購入の件は関心のあった闘技場のことだったから目に止まっただけで、ほとんどの支払いについては金額を追うだけだったという。

 

「では勘定の元となる報告書に立ち戻り、一件一件、怪しいところがないか精査しろ」

 

「怪しいって、どういうやつ」

 

 意図の伝わっていない様子なので、セージは噛んで含めるように言い直した。

 

「経費を隠れ蓑にして、聖域の財産を横流しした者がいるかもしれない。この建材の件のように、使い先を実際に確認できないものを探せ。とりあえず過去五年分で良い」

 

 弟子は呻いてぐったりと机に突っ伏した。

 

「俺なんかよりも神官に調べさせろよ。いるんだろ、そういうのに詳しいやつ」

 

「出納係は辞めた」

 

「え?」

 

「田舎に帰りたいと願い出て急に聖域を去ったのだ」

 

「判った」とマニゴルドは首だけ起こした。「そいつが犯人だ。ネコババがばれそうになったから逃げたんだ」

 

「とにかく頼むぞ」

 

 セージは弟子の頭をくしゃりと撫でた。子供扱いされるのを嫌がってマニゴルドは彼の手を払いのけた。

 

 

 出納係がいないことは、思わぬところにも影響を及ぼした。

 

 教皇と神官たちの評議の場で、出席者の一人が発言を求めた。テオドシオスだった。

 

「先日、我が部下が法衣を返上いたしました。まだそのお役目を引き継ぐ者がいないものですから、本日のための資料は私が用意いたしました。その際に気がついたことについて、この場を借りて申し上げたいことがございます」

 

 彼は立ち上がった。

 

「聖域の出費には、聖闘士の外部任務に掛かる経費がございます。額だけみれば食費や修繕費、修行地への送金より控えめですが、ここのところ無視できない額に膨らんでおります」

 

 この部屋で報告されるのは経費の総額だけだったので、その内訳までを把握している者はいなかった。金儲けに縁のない集団には、収支の帳尻さえ合っていれば良いというどんぶり勘定で十分だったからだ。

 

「外部任務が増えているということでしょうか」

 

「はい。しかも黄金聖闘士の出動が多いのです」

 

「任務であれば致しかたないでしょう」

 

「必要な任務であれば、そうでございましょうな」

 

 神官たちの会話に、セージはゆっくりと瞬きをした。テオドシオスが何を言わんとするのか予想できた。

 

「本来であれば十二宮を守るべき黄金聖闘士が聖域を離れるのは、聖域外に降臨されたという我らが主神をお迎えするためですが……、報告はいかがなものですかな」

 

と、太った神官は隣の同僚に問いかけた。聖闘士の任務に関する諸事を司るその神官は、教皇をちらりと窺ってから重い口を開いた。

 

「残念ながら、現時点ではまだ女神を見出すところまでは至っていないようです」

 

「さようですか。黄金聖闘士が動いても手がかりすら掴めずにいると。探索方も手を尽くしているようですが、一年近く経っても未だお目にかかれないとなると、女神が地上におわすという前提も改めるべきかと存じます」

 

「テオドシオスよ、決定したことに異を唱えるか」

 

 髭を震わせながら叱ったのは神官長だった。セージは軽く手を上げて問題発言を受け止めた。神官たちの間で教皇の星見についての信頼が揺らいでいることは自覚している。

 

「率直な意見は尊重したい。が、アテナ降臨についてはすでに論を尽くしたはずだ。ここにいる者も皆、私の方針に同意したのではなかったか」

 

「ええ、ええ。猊下の星見が正しかったと、我々も存じております。けれど、今一度まっさらな状態から捉え直すべきではないでしょうか。降臨されたのが聖域の外だったとしても、その方角さえ掴めなくては何も分からないのと同じ。知恵の女神がそのようなことを慮って下さらないのは、些か不思議でございます」

 

 あの時点で探索に幾月もかかると思っていた者がこの場にいたでしょうか、とテオドシオスは両手を左右に広げた。

 

「聞けば、星見に降臨の予兆が現れたころ猊下はお弟子様と諍いがおありだったとか。お心の揺れが観察に影響しなかったとは言い切れますまい」

 

「いい加減にせぬか。女神とその代理人に無礼であるぞ!」

 

「構わぬ」

 

 セージは神官長をやんわりと黙らせた。真っ向から教皇の決定に異を唱えた男を見つめる。相手もこのとき初めて教皇を向いた。

 

「つまりそなたは、金が掛かるから探索は打ち切れと、そう申したいのであろう」

 

「経費だけの問題ではございませんが、今年一年分の探索費があれば、修行地への送金を倍額にできたはずなのです。今は候補生の人数を絞ることで対応しておりますが、その枷がなくなります」

 

 探索に出る度に聖闘士が湯水のように金を使っているとは思えない。セージはそう反論したが、相手は退かなかった。

 

 それでも弟子の発見した建材の購入記録の件を、セージは持ち出さなかった。

 

 聖域の財産を横流しした者がいるという話をすれば、テオドシオスの主張――外部任務に金が掛かりすぎるという部分――も、ひとまず牽制できるだろう。どの経費が水増しされたものか調べなければならないからだ。さらには主計を司るテオドシオス自身の責任も追及できる。

 

 しかし、事を明らかにするにはまだ証拠が足りなかった。調べを終える前に証拠となる文書を隠されたり捏造されたら、元も子もない。そして神官たちが求めているのは金の使い道ではなく、アテナが未だに見つからないことへの答だ。

 

「猊下、どうかお認め下さい。女神は未だ地上には降臨されていないのです。アテナの代理人とはいえ猊下は人の身、誤られることもあるでしょう」

 

「星の読み違いではない。アテナはこの地上のいずこかにおわす」

 

 二人のやり取りを聞く周囲の者たちの間に、うんざりした空気が流れた。

 

 とにかく、とセージは押し切った。「この話を蒸し返す気はない。探索は女神を聖域にお迎えする日まで続く。良いな」

 

「では本日の評議はこれまでとする」

 

と、神官長が散会を宣言した。

 

 

 そのまま執務室に戻った教皇を追いかけるようにして、神官長も執務室を訪れた。セージは机の前の椅子を勧める。

 

「見上げ続けるのは首が凝るのでな。そなたもそこへ掛けるといい」

 

 神官長は遠慮無くそうした。ぎしりと椅子が軋んだ。

 

「猊下。このままではいけません」

 

と、彼は単刀直入に懸念を述べる。

 

「神官たちは猊下が星見を誤られたと思い、恐れ多くも女神の代理人たる猊下を侮るようになっております。しかもそれをテオドシオスめが煽っております。猊下の、ひいては女神のご威光が貶められかねない状況でございますぞ」

 

「そなたが抑えてはくれぬのか」

 

「私が対処できるのは教皇宮での振る舞いだけです。彼らの心の内までは変えられません。まして、その流れる先は」

 

 神官長は唇を舐めてから言葉を継ぐ。

 

「評議の場で彼が女神の捜索中止について意見を述べたのは、それに猊下が反対されるのを見越してのことでございます。先の見えない捜索が続くことに神官たちが倦厭し、女神の代理人としての猊下の正当性を疑うように。テオドシオスはそう仕向けているのです」

 

 その目的までは神官長は告げられなかった。しかしセージには伝わった。権威の失墜した教皇が、これまでのように権力を保ち続けていられるかどうか。そして求心力を高めた一人の神官が、どこまでそれに迫れるか。

 

 神官はどうやっても教皇の座には就けない。なぜなら教皇は黄金聖闘士の中から選ばれると決まっているからだ。しかし聖闘士の長である教皇になれなくても、聖域の統治者としての実権を奪い、教皇をお飾りにすることは神官にも可能だった。

 

 なるほど、とセージは相槌を打ち、机の上で手を組んだ。

 

「なかなか興味深いが、告げてくれたのがテオドシオスにその地位を脅かされつつある神官長だというのが、どうもな」

 

「わ、私が奴を陥れるために讒言したと?」

 

と、神官長は声と髭を振るわせた。

 

「私がこれまで猊下の下で何年勤めてきたとお思いですか。私の忠誠をお疑いになるのですか。猊下がお弟子を取ることに良い顔をしなかったことを未だにお恨みですか?」

 

「私が悪かった。ただの言葉の綾だ。落ち着け」

 

 太い溜息を吐いて、神官長は気を鎮めた。この髭の男とテオドシオスを比べれば、才覚では後者が優ると誰もが感じる。本人でさえも。

 

「そなたの言葉を裏付けるものはあるか?」

 

「……いいえ。私は蹴落とされる立場ですから。そのような男の前で彼らも下手な動きはいたしません」

 

 意趣返しのような、それでいて情けない返答にセージは薄く笑った。

 

「言葉だけでは教皇は動けぬよ」

 

 猊下、と神官長は顔をしかめた。

 

 外からひっそりと湿気が忍び込んできた。雨が降り出したな、とセージは思った。

 

          ◇

 

 神官ハーミドは「差し向かいで話がしたい」と持ちかけられ、テオドシオスの部屋に招かれた。いいワインがあるという言葉に釣られたのは否めないところだ。

 

「やあやあ、よく来てくれたハーミド殿。この前の夕食会では挨拶だけで終わってしまったからね。あなたのように思慮深い人とは一度じっくり話をしたかったのだよ」

 

「ここで?」

 

 寝台と小さな机・椅子を置けばそれでいっぱいになってしまうような小さな部屋は、修道院のそれと大差ない。幅のあるテオドシオスと一緒にいると、妙な圧迫感を感じてしまう。

 

 目を横へ移すと中央の窪んだ寝台が目に入る。それを覆うのは、擦り切れた敷布と、綻びの目立つ毛布。とても豪勢な酒宴を催すような男の寝床には見えなかった。

 

「狭くて申し訳ないが、他の者に話をあまり聞かれたくなくてね。たとえばさっきも言った夕食会、ああいう場では、なかなか込み入った話はしにくいだろう」

 

「神官長を招いたのはあなた自身だろうに」

 

 おまえの敵だからな、という本音をハーミドは声に滲ませた。テオドシオスも肩を竦める。

 

「まさか来るとは思わなかった。あの人は私のやることを奢侈(しゃし)だといって嫌がっているからね。私費なのだから大目に見てくれればいいものを」

 

 まったく堅物だ、と言って笑った。

 

「どうかな、ハーミド殿。私の宴は神官には過ぎた贅沢だったろうか。聖域を真に支えている我らが、聖闘士と同じような暮らしに甘んじなければならないだろうか。連中はただ身体を鍛えて教皇猊下の駒として働ければ満足だろうが、我々は聖域のことや世界中の聖闘士のことを考えて、いろいろと采配を振るわなければならない。いわば我らこそが聖域の頭で、聖闘士は手足だ。それにも関わらず連中は神官に敬意を払わない。せめて神官長が神官の待遇を良くすることに気を払っても、罰は当たらないと思うのだが」

 

 それは、とハーミドは言葉を探して口を閉ざした。聖闘士を侮る気風は、神官であれば多かれ少なかれ持っているものだった。もちろんハーミドも例外ではない。テオドシオスの言葉はその神官特有の思いを形にしたに過ぎない。けれど彼は同意するのを避けた。

 

「……それは、聖域の収入が聖闘士の働きに頼ったものであることを踏まえての考えかね」

 

 聖闘士が力を揮うことで利益を得た者が払う報賞が、聖域に入ってくることをハーミドは知っていた。しかしそんな反論を相手は一笑に付した。

 

「安定した収入源は人よりも土地だよ。しかしそれは今は置いておこう。聖闘士のものの考え方というのは、浮世離れしているところがある。神官が聖域の中心にどっしりと構えているからこそ、連中も暮らしのことを気にせず鍛錬に明け暮れていられるのだよ」

 

 ハーミドは黙ったまま、なんとなく手元のグラスを揺らす。

 

 彼の反応の鈍さに、テオドシオスは声の調子を変えた。

 

「私は聖闘士を蔑ろにしようというのではない。むしろ憂えているよ。今の猊下を戴いたままでは、聖域は傾いてしまうのではないかとね」

 

「なに?」ハーミドは眉をしかめたが、太った神官はあくまで真剣だった。

 

「ハーミド殿もアルスロス王の物語は知っているだろう。円卓の騎士だの、聖杯だの、王妃と騎士の密通だのの、あれだ」

 

 アーサー王伝説のことである。王宮に現れた聖杯の幻に魅了され、騎士たちは聖杯探索に出かける。長年の探索の末に聖杯を手に入れることには成功したが、騎士たちの多くは戻ってこなかった。円卓の騎士は瓦解し、やがて王国も滅びた。

 

「王が国を守りたければ、聖杯探索を許可すべきではなかった。探索に出かけたばかりに命を落とした者、消息を絶った者のなんと多いことか」

 

「ただの昔話だぞ、テオドシオス殿」

 

「そうだろうか。猊下は星見で女神の降臨を予期された。しかし降臨はなかった。その時点で誤りをお認めになれば良かったのだ。人の身であれば間違えることもある。なのにご自身の誤りを認めたくないばかりに、猊下は、女神は聖域外に降臨されたとして黄金聖闘士を探索に使われている。幻を追い求めておられる」

 

「誤りとも言い切れないだろう、……まだ」

 

「いいや。女神が真に地上におわすなら、その力を示して聖域にお入りになるだろう。こちらからお迎えに上がらなくても、御身の力でな。それが未だに為らないということは、女神降臨は今はまだ幻でしかない。その幻に惑わされたのは猊下お一人だ」

 

 ハーミドが黙っているので、テオドシオスは話を続けた。

 

「猊下は聖杯が見つかるまで探索を続けさせるだろう。聖闘士も猊下のご命令には背かないだろう。その結果、育成を後回しにされた聖闘士は使い潰されてしまう。本当に降臨されたとき、己の戦士が無意味な任務で磨り潰されたとご存じになったら、どれほど女神がお嘆きになることか。金だけの問題ではないことを猊下は判って下さらない」

 

 その声には焦りがあった。

 

「それであれば、評議の場で費用の件を持ち出すべきではなかったね。テオドシオス殿の主張したいことは金勘定なのかと思った」

 

「あれはどちらかと言えば同輩に対しての問題提起だ。猊下が目をお覚ましになるのを待っても無駄だと私は考えている。人は年を取ると頑固になるから」

 

 彼が何をしたいのか、ハーミドは気になったが尋ねなかった。聞けば否応なしに巻き込まれる予感があった。

 

「猊下にはご退位頂く」

 

 やはり聞かなければよかった。

 

「……なんと恐れ多いことを。正気か」

 

「正気だとも。今ならお弟子の育成という別のやりがいも見つけられたことだし、お寂しくはないだろう」

 

 ハーミドは深く息を吐いて、ワインを飲み干した。

 

「テオドシオス殿。その考えは酒の席であなたの仲間内に喋る分には聞き流してもらえるだろうが、なぜ私にまで打ち明けた。私はこのままあなたを、反逆のかどで神官長のところへ突き出すこともできるぞ。政敵が減って神官長は喜ぶだろう」

 

「私とて誰彼となく打ち明けているわけではないよ」

 

と、太った神官は首を振った。

 

「親しくても聖域を思う危機感まで理解してくれる者は少ない。けれどハーミド殿、あなたには共に聖域のために動いてほしいと思ったのだ。仲間にはあなたを説得するのは難しいと止められた。けれど私はどうしてもハーミド殿に同志になってもらいたかった。聡明なあなたなら、神官が教皇を動かすという事の重大さも判るだろう。あなたがいなければ聖域は立ちゆかない。どうか頼むよ。我が友」

 

 手を取られてもハーミドはそれを振り払えなかった。じわじわと毒に冒されるような心の熱が、そうさせなかった。それでも抵抗はしてみせる。

 

「聞くが、神官には女神の代理人を選ぶ権限はない。何をどうやって猊下の退位に持ち込もうと考えている? 血なまぐさいことはご免だ」

 

「そんな野蛮なことはしない。説得あるのみだよ。教皇位にしがみつくより後進へ譲るほうがいいとご理解頂く。その辺りは任せてくれ」

 

 人をおだてる陰で、テオドシオスは権力拡大を狙っている。新教皇を擁立するのも神官長の座を手に入れるためだ。自身の就任に助力してくれた者を遇しない者はいないだろう。そして経験不足の新教皇は聖域運営に長けた神官を必ず頼る。その時にこそ、テオドシオスが聖域を裏から支配することになる。

 

 そうと判っていてもハーミドは、神官の手で聖闘士の長を交替させるという計画に心を惹かれてしまった。聖域の歴史が始まって以来初めての出来事に、自分が関わる興奮。それには抗えなかった。

 

 神官が聖闘士に対して抱く感情は屈折している。

 

 聖闘士は小宇宙《コスモ》という、人の限界を超える奇跡の力を手にしている。それに引き替え、神官は肉体的にも精神的にもごく普通の人間に過ぎない。肉体労働の代わりに頭脳労働を行う雑兵とも言える。

 

 しかし神官にも誇りがあった。仕事場が教皇宮で、どの聖闘士よりも頂点に近いところで働いているということ。超人的な力はあっても現役時代の短い聖闘士より、年を取っても勤め続ける自分たちのほうが聖域を把握しているということ。戦時よりも平時のほうが圧倒的に長い聖域の歴史を次代に残していくのは、聖衣の記憶ではなく、自分たちが記す記録であること。

 

 それでもなお、神官は陰の存在である。華々しい活躍をする聖闘士を支えるためだけに彼らはいる。その神官が聖闘士の頂点に君臨する教皇位を左右できると聞けば、心動かされない者はいない。

 

「……わかった」 

 

 ハーミドはとうとう折れた。

 

「ありがとう」

 

 もう一度力強くハーミドの手を握ると、テオドシオスは身を離した。瓶を片手に「もう一杯いかがかな」と尋ねる。

 

「頂こう」

 

 グラスに注がれる淡い黄色が、ふんわりと芳香をふりまいた。

 

「ところで次の教皇のあてはあるのか」

 

「もちろん。若手期待の星、射手座だ」

 

「なるほど。しかし彼は任務で外を飛び回っている。よく説得する暇があったな。それともこれからか」

 

「前任者の署名さえあれば本人の同意など必要なかろうよ。下手に説得など仕掛けて、猊下に密告されては困る。外にいる間にこちらで全てを終わらせ、帰還した足で玉座まで一直線に進んでもらうのが理想の段取りだ」

 

 射手座の若者は担がれることをまだ知らない。知らせる必要もないだろうと神官たちは考えていた。

 

 そういえば彼がそろそろ聖域に戻ってくる時期であるのを思い出して、ハーミドは決起の日が近いのかと尋ねた。

 

「いやいや。まだこちらも足場を固めたいし、同志も増やしたい」

 

 頃合いは状況を見て決めたいとテオドシオスは言う。しかし明かさないだけで、すでに計画は動いているだろうとハーミドは見てとった。

 

 部屋を出た足で、ハーミドは外の空気を吸いに表へ向かった。頬の火照りが夜気に冷やされる。その熱はワインのためだけではなかった。

 

「アテナよ、お許し下さい。長い目で見れば聖域のためになることなのです」

 

 男の声は夜空に溶けた。

 



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続唱(セクエンツィア)――セージの退位

 

 マニゴルドは屋外で空を見上げていた。

 

 師が星見を行うというので、いつものように従者の代わりにスターヒルの麓まで付いてきたのだ。

 

 明るい星の少ない秋空の中で簡単に見つかるのが、秋の四辺形を持つ天馬星座《ペガサス》。聖闘士にとっては特別な役回りの星座であり、まだその称号を授かるべき者は現れていない。四辺形を成すのは、マルカブ、シェアト、アルフェラッツ、アルゲニブ。

 

 教えられた星を辿り、マニゴルドは深々と息を吐いた。修行という名目で師から与えられた雑用のせいで、どうにも気が散ってしまう。

 

 その雑用をこなす前から神官の派閥争いがあることは知っていた。一つは、教皇の下で日々を平穏に務めれば良しとする神官長派。もう一つは、神官が聖域を導いていくことに熱を上げるテオドシオス派。陳腐だが、保守派と改革派とも言い換えられるだろう。

 

 マニゴルドが二つの派閥を知った時には、前者が優勢だった。ところが今や形勢は後者に傾きつつある。中立を気取る日和見派がそちらに流れ込んだからだ。狭い世界で何をやっているのかと彼は呆れたが、人の集団に派閥抗争は付き物だと師は笑っていた。

 

「ま、俺があれこれ考えたってしょうがねえか」

 

 その時、何かの気配が伝わってきた。方角は闘技場や居住区のある中心部ではなく、聖域の外れに近かった。

 

 遺跡の一角でも崩れたのだろうと思おうとして、悩んだ。宿舎からは遠く、今の音には誰も気がつかなかったかも知れない。マニゴルドが気づいたのも、小宇宙を高めて感覚が鋭くなっているからこそかも知れない。もし誰かがそこにいたら。敵の侵入だったら。

 

 星見が始まったばかりで、師も当分は下りて来ない。彼は邪魔なカンテラを置いて気配の正体を探りに行った。

 

 気配の主は建物の陰にいるようだった。息を殺してこっそり回り込むと、居た。

 

 青い闇の中で格闘の訓練をする人影があった。

 

 夜まで修行とは熱心な馬鹿だと思いながら、物陰から眺めやる。構えや動きには見覚えがあったし、夜に自主訓練をすると本人から聞いたこともある。つまりマニゴルドの視線の先にいる人影はアスプロスに特徴が似ていた。後ろを向いているが、背格好も。

 

 しかし本人ではない。それは断言できる。セージの影武者を務めたハクレイを見破ったように、彼にとっては自明の理だった。

 

(ってことは誰だよ)

 

 声がして人影はそちらを向いた。振り向きざまに見えた横顔は覆面のせいで人相が判らない。ずいぶんと浅黒い肌をしているとマニゴルドは感じた。

 

 やって来たのは本物のアスプロスで、彼は小走りに人影のもとへ駆け寄った。さりげなく人影は足元の地面を均した。

 

「探し回ったぞ。見つかったらどうするんだ」と、アスプロスは人影の肩を叩いた。候補生仲間の誰に見せるよりも親しげだった。

 

「ごめん」覆面の人物はくぐもった声で謝った。

 

「しょうがない奴だな。出歩いたのが知れたらまた殴られる。さあ、帰ろう」

 

 アスプロスは相手の肩を抱いて去っていった。二人が去った後には、夜の静けさが戻ってきた。

 

 一部始終を眺めていたマニゴルドは物陰から出た。覆面の人物が激しく動き回っていた所は地面が削れていた。アスプロスと同じくらい小気味良い動きができる候補生というと、聖域内でもかなり限られるし、顔も知られている。しかし覆面をしてまで夜に訓練をするような人物は思い当たらなかった。

 

 あ、と少年は声を上げた。マニゴルドが人の命を奪うところを見たのは、表に出ることを禁じられた人間だとアスプロスは言っていた。出歩いたのが知られると誰かに殴られるという今の覆面の人物こそが、それに違いない。アスプロスにとってはかなり親しい間柄のようだったから話しぶりとも一致する。

 

 彼は納得し、スターヒルの麓に戻って師の帰りを待った。

 

          ◇

 

 別の日の夜。人目のない時間を狙って、教皇の私的な書斎を一人の神官が訪れた。

 

 彼は教皇の命で問題の支払い記録について内密に調べていた。セージがマニゴルドに与えた課題の帳簿類も、この男に用意させたものだ。

 

 これまでセージはできるだけ調べに関わる人間を絞ってきた。できれば自分一人で調べを進めたかったほどである。決定的な証拠を掴むまで、横領の件を調べていると犯人に勘付かれずにいたかった。相手は聖域の事務方を預かる神官。疑われていると感じれば、すぐにでも尻尾切りなり証拠隠滅なりして、身の安全を図るだろう。この辺りが、愚直に身の潔白を訴えることを初手とする聖闘士との違いだ。

 

「記録自体については偽造など不審な点はございませんでした。支払いの相手方は、これまでにも聖域と取引のあるツィメント商会の名前でした。金庫からの出金も日付通りに間違いなく行われており、台帳の締め日には出納係とは別の者が勘定の帳尻が合っていたことを確認しております。出金までは記録通りだったとみて良いでしょう」

 

 セージは手の中で松笠を弄びながら報告を聞いた。この松笠は聖域を歩き回っている時にマニゴルドが拾ったという。なんでも本人に言わせれば「土産」だそうだ。

 

 そのマニゴルドはというと、眠そうな顔で同室していた。これまでの流れを整理してみろとセージが水を向けると、瞬きを繰り返してから答えた。

 

「えっと……、闘技場を直すために建材を買ったっていう去年の記録があって神官たちはそれで良しとしてたけど、今も闘技場はぼろいままだって俺が言ったから、それじゃ買った物はどこに行ったって話になって、お師匠が俺をこき使って調べてみた。そしたら普請の予定なんか誰も知らないし、聖域にそれっぽい物もないのが分かって、でも支払いだけはちゃんと記録通りに済ませてると。そんな支払い記録が一件だけじゃなくてちょこちょこあったのは俺の調べで間違いなし」

 

「つまり、どういうことになる」

 

 一声唸ってから弟子は続けた。「逃げた出納係はめちゃくちゃ大金をネコババしてた。それがバレそうになって慌ててとんずらした。そんな感じじゃねえの。取引相手に騙されて金だけ持って行かれたっていうのは無さそうだしさ。一回だけの大ポカならいきなり逃げたりはしないだろ」

 

「概ねそのあたりであろうな。出納係は自身の仕事について何も引き継ぎをせずに急に辞めてしまった」

 

 セージは神官のほうを見た。

 

「ダビドよ。そなたは何か聞いておるか」

 

「いいえ猊下。何も」

 

 正確には、男は辞める前日に何事かを教皇に告げようとしていた。ちなみにその用件は引退願いだったと、教皇に代わって男の話を聞いたテオドシオスは報告している。

 

「支払いも含め、建材を買い入れた時の取引はどこで行ったか判るか」

 

「記録ではロドリオ村となっております。俗世と接点を持つ際にはあの村を使いますので、これも不自然ではございません。ただし実際のところは判りかねます。金を支払いに行ったのは出納係のようです」

 

「取引に同行した者は」

 

「外出記録によれば、神官は出納係の一人のみ。護衛として聖闘士が一人ついておりました。この者にはまだ確認を取っておりません。私から聖闘士に接触するのは目立ってしまうので、どうしても……」

 

「よい。そこはマニゴルドに任せる。取引の場に現れた者の情報も手に入れば助かるな」

 

 弟子は首を竦め、確認したところで判明するのは取引場所だけではないかと反論した。

 

「ただの用心棒は、相手が本物の石屋かどうかなんて覚えてないと思うけどな。聞くだけ聞いてみるけどよ」

 

「手間を掛けるな、マニゴルド殿。私がロドリオ村まで行って調べられれば良いのだが、そうもいかなくて」

 

「ん、……まあ。べつに」少年は身じろいで、目を逸らした。

 

「そなたが謝ることはない。あまり下のほうにこの件を知られて、聖闘士と神官の間に溝を作りたくないだけだから」

 

「猊下のお心遣いには痛み入ります」

 

と神官は頭を下げる。

 

「私が考えますに、ここまでくれば出納係を探しだして聖域へ連れ戻すべきでしょう。横領の犯人ならばそのまま罰を与えることもできます」

 

「えっ。犯人ならば、ってそれしかねえだろ」と少年は驚いた。

 

「最も疑わしい人物ではあるが、誰かに脅されて行った可能性もある。あるいは揉み消しをさせられたということも。そのときは処罰を与えるなら黒幕の名を吐かせてからだ」と神官が説明する。

 

「ふーん。誰が連れ戻しに行くんだよ」

 

「雑兵で十分でしょう」

 

 セージも同意見だったので、次の話題に移った。

 

「ところで神官の派閥争いのほうはどうなっておる」

 

「髭が静観しているのをいいことに、恰幅の良いほうが着々と取り巻きを増やしているようですな」テオドシオスは以前に神官全員を招いて酒宴を催したことがあった。そこで己の財力を誇示した後、これはと思う者から一本釣りしていったようだ、とその神官は説明した。

 

「ということは餌は金か」

 

「相手によって変えているようです。自身が神官長となった後の人事やら、聖域の理想やら、暮らし向きの改善やら。一言で表すなら餌は『薔薇色の夢』ですな」

 

 うんざりする弟子とは対照的にセージは笑った。聖域とは呼ばれていても、そこに暮らすのは希望も嫉妬も人並に抱えた人間である。

 

「何かを相談・報告するにしても、神官長ではなく彼のところに行く者の多いこと多いこと。髭の神官長はただのお飾りで、もはやテオドシオスが神官長であるかのような有様です」

 

「彼が神官長になれば私もお飾りの教皇になりそうだ」

 

「笑い事ではありませんぞ、猊下」

 

「そうだな。済まぬ」神官の生真面目な忠告に対して、セージはせいぜい相槌を打つ程度の気分で応えた。

 

「もしかしてお師匠、いざとなったら自分に歯向かう神官は全取っ替えすればいいとか考えてるんだろ」

 

「まさか」

 

 一人前の仕事が出来る神官を育てるにも時間が要る。そんな問題事まで背負い込みたくはなかった。

 

「それじゃ何でそんなに平気そうなんだ」と弟子が問う。

 

「私もお聞きしたい」と神官も口を添える。

 

 セージは微笑み、松笠を置いた。笠の開いたそれは机の端に飾ると丁度良かった。

 

「教皇には、問答無用で他人に言うことを聞かせる手段があるのだ。それを使えば相手が聖闘士だろうが神官だろうが、私の意に背くことはできなくなる。少々荒っぽい手だから、使わずに済めばそれに越したことはないがな」

 

「何でございますか、それは」

 

「言わぬよ。使う気もない」

 

「勿体ぶりやがって。使う気がないなら無いのと同じじゃねえか」

 

 二人には問い詰められたが、セージは明かさなかった。荒技を使わなくても事は解決するだろうと考えていた。

 

 

 神官が夜陰に紛れて去った後、セージはしばらく今後のことを考えていた。それを邪魔しないように、弟子も離れた所で大人しく教皇兜を磨いている。

 

「のう、マニゴルド」

 

 顔を上げた弟子のほうではなく、彼の目は机上の灯りに向けられたままだ。口にした問いも、半ば独り言であった。

 

「テオドシオスは神官長になるだけが目的だろうか」

 

「へっ? ……あ、神官長になってから何がしたいかってことか。あいつデブだから、十二宮の階段上らなくても麓で仕事できるようにしたいんじゃねえの」

 

 セージは問いの意味を訂正する労を惜しんだ。口を閉ざした彼には、無視かよ、と弟子が頬を膨らませたのも目に入らなかった。

 

 セージの気がかりは、テオドシオスが女神の降臨に関する星見のことを取り上げて教皇を非難しだしたことだ。神官長の地位を求めるだけなら、むしろ教皇に取り入り、自分を任命させるように動くはずだ。しかしセージの方針に反対する時点で、教皇の好意を得ようとは思っていないだろう。

 

 好意や信頼を当てにしなくても、教皇が神官長に指名せざるを得ないような隠し玉を持っているのか。たとえば神官たちの人望がそれに当たる可能性がある。

 

 あるいは神官長の人事に教皇が関われなくするような方法を見つけたのか。膨大な文書から前例を探し出すのは神官の得意技だ。

 

 それとも教皇以上の後ろ盾を得たのか。

 

 彼はそこまで考えて、なんとなく弟子の手元を見やった。鈍く光を反射する教皇兜。それを眺めるうちに唐突に彼は気がついた。教皇位がセージのものでなくなれば、テオドシオスにとっての問題がいくつか解決することに。

 

 老人が玉座から去れば、そこを継ぐ者が現れる。テオドシオスはその者から神官長に指名されればいい。その時期を早めるために評議で女神捜索の中止を申し立ててセージに反対させ、彼が依怙地になった老害だという印象を周囲に植え付けて孤立させ――。

 

(いや、それでは悠長すぎる)

 

 彼は大きく息を吐き、考え直した。

 

 評議の場でのテオドシオスの言動は、むしろ女神の代理人としての資格がないと弾劾してセージを玉座から追い出すための前振りとみたほうがいいだろう。女神降臨の件でセージの正当性が疑われているとは、神官長にも以前指摘されたことだ。

 

(つまり、今は事を起こす好機を待っている段階か)

 

 この時点でセージにはその考えを裏付ける材料はない。ただの杞憂という可能性もあることを自覚していた。しかしこれまでの働きぶりからみて、テオドシオスにそれだけの行動を起こす熱意と才覚があることを、彼は知っていた。そんな相手から事の主導権を取り返すには、先んじて行動を起こすべきだった。

 

 まずは掣肘のきっかけが欲しい。

 

(となるとやはり出納係が要る)

 

 直接の上役であるテオドシオスの責任を追及するための仕掛けとして、横領に関わったはずの彼の身柄を確保する。それにはまず彼を連れ戻す者が必要だが、その人選の重要度が上がった。下手な者に頼むと、テオドシオス一派にこちらの意図を勘付かれる恐れもある。あまり多くの者を巻き込みたくないし、誰が神官と繋がっているか判らない。とくに普段から聖域にいる者たちはいつ神官と接触してもおかしくない。では逆に日常的に俗世にいる者は。

 

(シジフォスは保留だな)

 

 次の教皇になりうる者をセージは手駒から外した。野望家の神官を唆して、陰からセージを廃しようとした張本人である可能性――とまではいかなくても、本人の知らないところでテオドシオスの駒にされていることは考えられる。黄金聖闘士たちの忠誠心を疑ってはいないが、可能性を無視する気はなかった。

 

 彼は弟子を呼んだ。

 

「しばらくの間ジャミールに行ってきてくれ」

 

「また厄介払い? って冗談だってば」セージの機嫌の変化を察してマニゴルドは慌てて手を振る。「でも当分俺はここを離れないほうがいいと思う。だってお師匠がこの件で使える駒って限られてるんだろう。なのに俺が遠くに行ったら、調べ物だって自分でやるしかなくなるぜ。ロドリオ村のほうだって調べてないのに、どうすんだよ」

 

「だからその調べ物をしてきてほしいのだ。ジャミールに行くように装って市井から例の元出納係を探しだし、ここに連れてきてほしい」

 

 セージにとってはそれが最も安全な方法に思えた。

 

 しかし悪童にとっては突拍子もない指示に思えた。

 

「ちょっとちょっとお師匠。聖域ではともかく世間的には俺まだ小僧としてしか見られないからな。相手がどこに住んでるのか知らねえけど、人捜しってことは街の連中と接触するってことだ。もう少し信用できそうな見た目の奴を使ったほうがいいと思うぜ。多分そのほうが時間が掛からない」

 

「大丈夫だ。おまえはもう浮浪児には見えない」

 

 嫌そうに舌打ちする悪童を見て、セージは首を傾げた。どうにも首を縦に振りたがらない様子には、何か理由があるのだろうか。

 

「……理由ってほどはっきりしてるわけじゃないんだ。でも、もうすぐ何か起きそうな気がする。聖域の外にいる時にそれが起きたら、俺はお師匠を恨むからな」

 

 嵐の予感。実は同じ感覚をセージ自身も抱いていた。常に微量に燃やしている小宇宙の影響で、予見の力が働いたのだろうと彼は考えていた。それは状況をふまえて判断した無意識の囁きであり、根拠のないただの勘とは違う。

 

「もうすぐ何かが起きそうだからこそ、おまえには聖域を離れてほしかったのだがな」

 

 セージは弟子の身を案じて聖域から遠ざけようとした。

 

 マニゴルドは不測の事態の時に師の側にいたかった。

 

 そして折れたのは師のほうだった。

 

          ◇

 

 ある日、教皇宮を守る番兵は若い叫び声を聞いた。

 

 声の聞こえた方向へ急行すると、日の届かぬ廊下の暗がりで揉み合う二つの人影が見えた。法衣姿の男が誰かに覆い被さっている。小柄な相手はばたつかせている足しか見えなかった。

 

「何をしている!」

 

 一人がもう一人の首を絞めていると判ったのは、彼らの横に割って入った時だった。争いの当事者を知って、番兵は絶句した。

 

 己の首に掛かった手を外そうと、苦しげにもがいているのは教皇の弟子だった。そして彼を縊ろうとしているのは、あろうことか神官長だった。番兵によって両手をはがされた神官長は、青ざめた顔で被害者を見下ろしていた。

 

「大丈夫か」

 

 番兵はうずくまって咳きこむ少年の背をさすった。少年はどうにか頷き、神官長を見上げた。彼と目があった瞬間、神官長ははっと我に返り、「おまえのせいで!」と震える指を彼に突きつけた。

 

 番兵は神官長の腕を下ろさせた。

 

「猊下のご判断を仰ぎましょう。一緒においで願えますか」

 

 二人の立場を考えると、さすがに見ぬふりはできない。番兵はあとの処分を教皇に任せることにした。そして少年を振り返り、急ぎの用がなければ自室に帰るように言った。追って教皇から事情を聞かれるかも知れないからと伝えると、少年も了解した。

 

 番兵は悄れた神官長を促して歩き出した。周りには騒ぎを聞きつけた神官たちが集まりだしていた。

 

 教皇は番兵の報告を聞いてその場で処分を下した。神官長は聖域から追放された。

 

 この一連の出来事に快哉を叫んだのは、神官長代理に指名されたテオドシオスである。神官の総意を後ろ盾に教皇セージを退位させるという計画の最大の障害が、髭の神官長だった。長くセージの下で勤めてきた男が、強引な教皇交替に賛同するはずはない。彼がテオドシオスのやり方を弾劾すれば、それに動揺し、離反しかねない神官も多い。だからこそ彼の影響力を下げるために神官長派の切り崩しを図ってきた。そして彼は追い詰められ血迷った揚げ句に、教皇の弟子に手を掛けようとしたという。教皇の怒りと処分は当然のものだったが、テオドシオスにとってはそれ以上だった。教皇は自ら味方を切り捨ててしまったのだ。

 

 テオドシオスは実行を前倒しすることにした。実質的な神官の長となって自分だけ満足してしまうのではないかと疑う者たちに応えるために、行動で示す必要もあった。

 

「聖域の未来のために」

 

 決起の前夜、彼らは声に出して誓い合った。

 

 

 そして神官長代理の権限で評議が開かれ、一同は質素な部屋に教皇を迎えた。

 

 些細な報告を二件終えると、部屋は静まりかえった。広くもない部屋に帯電した沈黙が満ちる。

 

 テオドシオスがゆっくりと立ち上がった。他の神官もそれを合図に次々に席を立った。そして彼らは神官セージに対峙した。その異様な雰囲気に、座したままの教皇は優雅に首を傾げた。

 

「どうしたのだ、そなたたち。今日はもう散会か」

 

「いいえ、猊下。評議はまだ終わっておりません。ここで我らの意志をお伝えいたします。評議に参加していない者も含めて、我々神官一同は、新たな女神の代理人を仰ぐことを望んでおります。どうぞ猊下の後を継がれる方に、その兜と玉座をお譲り下さいますよう」

 

 部屋で椅子に座ったままでいるのは教皇だけだった。神官長がいた頃はテオドシオスに賛同しなかった者たちも、今は流れに抗わずに彼の側に付いている。神官全員が敵に回ったことを悟り、教皇は溜息を吐いた。

 

「そなたはもう少し上手く立ち回ると思っておった。まさかこのような愚かな真似をしでかすとは思いもせなんだ」

 

「苦渋の判断だったのです。ご理解下さいとは申しませんが、聖域の将来のため、どうぞお容れ下さい」

 

 セージは小さく笑った。

 

「老いたりとは言えかつては黄金聖闘士であったこの私を、力づくで押さえつけられるとでも?」

 

 鎌が煌めくようなその笑みに背筋を冷やした者もいた。しかしテオドシオスは臆した様子を見せなかった。

 

「力尽くではございません。理を尽くしております」

 

「ならば私を玉座から引きずり下ろしたい理由を聞こう」

 

 テオドシオスは述べた。ありもしない女神降臨に固執するのは老人の妄執に過ぎないと。仮に星見で降臨を読み取ったとしても、それが実現しない以上は女神に見放されたのだと。聖闘士を使って行うべきは幻を追い求めることではなく、次の世代の育成であることだと。

 

 言葉こそ激しかったが、概ね評議の度に主張してきたことの繰り返しだった。そして彼は、

 

「これまで何度かお諫めして参りましたが、猊下はお聞き入れ下さらなかった。ですから我々は次に期待することにいたしました。これは澱んだ聖域に新しい風を入れるための第一歩です」

 

と結んだ。

 

 セージは素っ気なく指摘する。

 

「聖域思いの麗しい大義だが、大きな思い違いがあるぞ。女神降臨の真偽を判断するのはそなたの役目ではない」

 

 それです、とそれまで黙っていた別の神官が口を挟んだ。「この押し問答に我々は飽きたのです」

 

「…………そうか」

 

 セージは一度目を閉じ、再び開けて目の前に居並ぶ神官たちの顔を順繰りに眺めた。その厳しい視線を受けた反応は様々だった。真っ直ぐに見返す者。気まずそうに目を逸らす者。最初から目を合わそうとしない者。

 

 部屋の空気が妙になりかけたことに気づき、テオドシオスは「論点を変えましょう」と声を上げた。

 

「なぜ猊下は教皇位にこだわられるのですか。もしや降臨を宣言された以上、アテナをお迎えする前に退位しては示しが付かないとお考えですか」

 

「それは否定しない」

 

「恐れ多くも、女神の降臨は聖戦が近いことを告げる烽火と言われておりますな」

 

 そこから来たる日に備えて戦力を整える猶予は十年から二十年。不思議なことに、その期間には小宇宙を体得して聖闘士となる若者が多くなる。地上に降りた女神を追いかけて空から星座が下りてくるように。そうして聖戦が近づくにつれ、聖闘士という戦力は充実していくのだ。

 

 教皇の役目も、平時の統治者からアテナの軍勢を指揮する者へと切り替わる。そこで女神降臨から数年のうちに、教皇位を若い黄金聖闘士へ譲る前例が多く見受けられた。それは女神軍の大将に、判断力と統率力を十分に身に付けた年代で聖戦を迎えさせようという意図によるものだ。

 

「猊下の星見通りにアテナが降臨されたなら、きっと今頃は次代へ譲位されることをお考えになっていたかと存じますが、いかがですか」

 

「否。まだ早い」

 

「ではいつならよろしいと?」

 

 セージは一瞬だけ黙ったようにみえたが、すぐに「機が熟し、人が熟した時だ」と答えた。

 

「それが今でございますよ。アテナがすでに地上におわすならば、その降臨の夜をもって猊下は立派にお役目を遂げられました。アテナが聖域に入られるまで在位なさりたいというお気持ちは判ります。けれど、もしアテナがこの地へお戻りになる日が聖戦の直前であったらどうなさるおつもりですか。それまで玉座を誰にも譲られないのですか? それより先に聖域の体制を万全にしておくべきとは思われませんか」

 

 そもそもアテナはまだ降臨していないという前提でテオドシオスは動いている。だから彼が喋っているのはただの詭弁に過ぎなかった。老人にも受け入れやすい言葉を選んでいるだけだ。

 

「アテナをお迎えしたいというのは猊下のお心です。しかし教皇は聖闘士全体のことを最優先で考えなければなりません。猊下はこれまで十分に聖闘士を導かれ、アテナに尽くされてきました。どうかこの辺りで後進にお譲り下さい。猊下が育てた立派な若者たちが、これからは猊下のご意志を継いで参ります。どうかそれを見守って下さいますようお願い申し上げます」

 

 お願いいたします、と神官たちも口々に言う。

 

 悪童が見れば「先にボロクソ貶したくせに今更ヨイショかよ」とへそを曲げそうな流れだった。

 

 教皇は唇を引き結んだ。

 

 テオドシオスの斜め横ではその片腕のヨルゴスが、頑固な老人に苛立っている。

 

「ここまでお話ししてもまだご決心が付きませんか。では、あまり気が進みませんが別の事実をお伝えしましょう」

 

「止せ」とテオドシオスがたしなめた。

 

「いいえ言います。ある候補生が今は聖域の外に出ております。その少年が無事に聖域に帰ってこれるかどうかは、師匠にあたる方のお心がけ次第でございましょう」

 

「なに」教皇の眼光が険しくなった。

 

「人質など卑怯な手は使いたくないとテオドシオス殿は反対したのです。その気持ちを汲み取っては下さいませんか」

 

 嘘である。「ロドリオ村へ行く」という誘い文句で神官がマニゴルドを連れ出したのは事実だが、それを指示したのはテオドシオスだった。

 

 神官長(もはやその頭に「元」を冠すべきか)の狼藉も記憶に新しいうちに弟子を使った脅しを掛けることには、同志から心配の声もあった。教皇を刺激しすぎて、却って強硬な反発を食らうことを恐れたのだ。しかし処分の速さからみるに、教皇の弱点が弟子だということは間違いなかった。ならば利用しない手はないというのがテオドシオスの考えだ。人質になりうるのは聖域住人や世界各地の聖闘士も同じだが、神官の手に余る。

 

「卑怯者と誹られても構いませんが、お弟子の身が取引の材料とされることは、セージ様が教皇であられる限り予測できた事態でございましょう。しかし逆にお考え下さい。退位なされば誰に気兼ねすることなくお弟子との時間が手に入るのですよ。後のことは若い者に任せて、ご余生をゆっくりとお過ごし下さい」

 

「どうかご賢察を。猊下」

 

 部屋には再び沈黙が下りた。

 

 やがてその沈黙を教皇が破った。

 

「……しかしそなたらの首謀者の望みは神官長になるという個人的なものであろう。私が退位するならテオドシオスも引退して聖域を去るのが条件だ、と言ったら」彼は神官たちを見やり、「皆はどうする?」と投げかけた。

 

 テオドシオスは神官の誰よりも前に立っている。その目が動揺したのを見ることができたのは、対峙している教皇だけだった。しかし同志のおかげで、その動揺もすぐに治まった。

 

「猊下と共に教皇宮を去るのはテオ殿ではありません。髭の神官長だけで十分です。テオ殿にはこれからの聖域を導く理念があります!」

 

 そうだそうだ、と数人が同意した。

 

「私は星見を誤ったとは考えていない」

 

と、セージは軽く溜息を吐き、組んでいた手を解いた。それを降参の仕草と見て一人が動いた。机上に用意されていた書類とペン立てが教皇の前に押し出された。

 

「それでは猊下、譲位にご同意頂けますな」

 

 後継者としてシジフォスの名がすでに記してあった。老人がそこに署名をすれば、退位を認めたことになる。その期待で神官たちの面はうっすらと紅潮していた。ところがセージはゆっくりと文面に目を通すと、署名することなく書類を裏返してしまった。

 

「この期に及んでお見苦しい抵抗をなさいますか。今すぐご決断ができないというのであれば、その間、お弟子はこちらでお世話をいたします。聖闘士をお弟子の傍に付けますから、訓練中の事故や食中毒が起きたとしても、安心でございますよ。お弟子も強くなられたとはいえ、話を聞く限り称号持ちの聖闘士に太刀打ちできるほどではない様子。愛弟子の元気な顔をまた見たいとお望みなら、そちらに署名を」

 

と、ヨルゴスが畳みかける。

 

 教皇は苦々しげに首を振り、それでもペンを取ろうとはしなかった。「あれの無事な顔を見た時に署名しよう」

 

ヨルゴスは困り顔で親友に目をやった。テオドシオスは仕方ないという風に頷いた。

 

 彼らが教皇に対する切り札でその弟子を人質に取ったのと同じく、教皇は書類へ署名することを自らの手札として確保したのだ。言い換えれば、老人には他に対抗する手段がないということになる。たとえば何らかの方法でこの部屋に聖闘士を呼び出し、神官全員を圧倒的な力で制圧するような手に出られれば、テオドシオスには対処のしようがなかった。

 

 それを考えると、弟子の無事と引き替えに玉座を明け渡してくれることは十分な成果だった。

 

「ご理解頂き感謝いたします」

 

 テオドシオスは恭しく頭を垂れた。その背後に居並ぶ者たちも彼に倣った。教皇は席を立ち、部屋を出た。その立ち居振る舞いはいつもと同じ、静かで雅なものだった。

 

 だから神官たちは想像しなかっただろう。玉座を追われ、部屋に押し込められる老人が、兜の下で猛々しい笑みを浮かべていたことに。

 



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奉献唱(オッフェルトリウム)――マニゴルドの脱走

 

 嫌なことがあったばかりだし、ロドリオ村で気晴らしをしてくるといい。

 

 テオドシオスはそう言ってマニゴルドとの約束を果たした。聖闘士の世界では、一度取り決めたことは口約束でさえも決して容易に破られるものではない。それは聖闘士と雑兵の間でも、教皇と神官の間でも、神官と候補生の間でも同じことだった。

 

 少年はアレクシオスという名の神官に連れられて聖域の結界を抜けた。日用品を買い入れた時の掛け金をまとめて支払いに行くというのが、この神官がロドリオ村に行く目的だった。いなくなった出納係の代理である。

 

 聖闘士も一人同行していた。大金を携行しているから護衛が付くのだと説明された。

 

 日はゆるやかに天頂を目指しつつあり、影は実体の足元に蹲っている。草木のない、岩場に囲まれた荒れ地を進むと、やがて人里が見えてきた。なにも特徴のない平凡な村だ。

 

 ロドリオ村に入っても、彼らに奇異の目を向ける者はいなかった。私服姿のマニゴルドと聖闘士は農民のようだし、神官は正教の修道士の恰好をしている。

 

 アレクシオスは、少年を振り返った。

 

「これから私は用事を済ませるから、きみは好きに村を散策してきたらいい。太陽があの山に掛かる頃までに、村の入口に戻ってくればいいから」

 

 マニゴルドもできれば好き勝手にしたいところだった。

 

「聖域が金勘定するところって見たことないから脇で見てたいんだけど、駄目かな」

 

 神官は意外そうな顔をしたが、断ることはなかった。

 

 彼らは白い漆喰壁の聖堂に向かった。聖域と俗世の取引の場としてこの聖堂が建てられたと聞いて、マニゴルドは首を傾げた。聖域とはアテナを信奉する集団であるはずだ。それがキリスト教徒のための建物を建てたというのは、どうにも奇妙な話だと思った。

 

「何のために私がこんな恰好をしていると思う」と、アレクシオスは自身の着ている黒い修道服の袖を振った。「聖域は隠された地だ。その存在を世間に対して知らしめる必要はない。むしろこの村が聖域と繋がりがあると知られて困るのは我々だよ。だからギリシャで俗世間の者と折衝をもつ際には、こうして正教会の一派という立場を装うことが多い」

 

 世を忍ぶ仮の姿というわけか、とマニゴルドは納得した。俗世の争いに巻き込まれないという姿勢を守るのも、なかなかに苦労が多そうだ。

 

 聖堂にも黒い服を着た髭面の中年男が待っていた。アレクシオスが「山から参りました」と告げると、男は「お待ちしておりました」と丁寧にお辞儀をして、彼らを奥の部屋へ案内した。

 

 聖闘士は付いてこなかった。イコンに祈るふりをしながら待つそうだ。マニゴルドにはただ突っ立っているだけに見えたが、仕方のないことである。ギリシャで信仰されている正教と、少年の出身地イタリアで信仰されているカトリックとでは、同じキリスト教であっても教派が異なっていた。

 

 案内された先の部屋には別の男がいて、アレクシオスはまた挨拶を交わした。どうやらこの男が商売相手らしい。売り買いされた物の一覧と金額が示され、アレクシオスは革袋から支払いを済ませた。値切り交渉自体は品物を手に入れる前に済んでいたため、この時のやりとりは短く済んだ。銀貨と銅貨の枚数を確かめて二人が握手を交わすところまで、マニゴルドはしっかりと見届けた。案内してくれた男も壁際に控えて、やりとりを見守っていた。

 

 取引を終えるとアレクシオスはその商人に一杯誘われて、連れ立って部屋を出ていった。マニゴルドは部屋に残り、机の位置を直している中年男に近づいた。

 

 ここの神父なのかと尋ねると、そうだという答が返ってきた。信仰はさておき、彼もまた聖域の協力者だった。

 

「私は元々この村の出でしてね。お山の教皇様には名付け親になって頂きました」

 

と言って、男は誇らしげに微笑んだ。マニゴルドは相手が「聖域」という言葉を避けていることに気づいた。

 

 ところで、と神父は話題を変えた。

 

「ずいぶんとお若く見えるが、あなたもお山のお使いでしょう。先ほどの方とご一緒されなかったのは、私に何かご用があるからでは?」

 

「はい。神父さんに聞きたいことがあって。いいですか」

 

 どうぞ、と中年の神父は袖の中で手を組んだ。

 

 それから聞いた話では、聖域と俗世の商取引や契約は常にこの部屋で行われ、その場には必ず神父が立会人として同席するという。立ち会った際のことも書き留めてあるというので見せてもらった。神父の日誌には、日常の奉神礼(礼拝)の合間に隠れるように、聖域の使いがこの聖堂を訪れた用件とその時の出席者が、符牒を使って書かれていた。万が一他者に見られても聖域との繋がりを知られないようにするためだろう。問題の建材購入の件についても書かれていて、聖域の記録と一致した。

 

「神父さん。失礼ですけど、山から使者が下りてきた回数はこれに書かれた通りですか」

 

「まあ、金銭の絡まないちょっとした用事などは与り知らない事もあるでしょうね。ただ金銭や契約の絡む時には、揉め事を防ぐために必ずこの聖堂を使うことにされていると、以前にお聞きしました。ですから私がここを預かってからは全て記しているつもりです。せいぜい十四年ほどですけどね」

 

「十四年も。俺が生まれる前からじゃないですか」

 

 マニゴルドは神父の記録を片端から手元に控えた。最近否応なしに鍛えられたお陰で、素早く書き留めることには苦労しない。ペン先の動きが目で追えないほどの速さで綴られていくので、神父が驚いていた。

 

「さすがにお山のお方は違いますな」

 

 素直に感心されてしまい、少年は苦笑した。

 

「いや、どうなんでしょうね、これ。聖闘士には必要無い技だし」

 

「おや。神官見習いではなく聖闘士でいらっしゃったか」

 

 純粋な好奇心で聞かれ、候補生に過ぎない半人前は気まずい思いで黙り込んだ。秘密の多い聖域の触れてはいけない部分だったのかと、神父も口を噤んだ。

 

 やがてマニゴルドは必要と思われることを書き写し終えた。改めて神父に、昨年あった建材購入のことや、取引のために来た聖域の出納係のことで何か気になったことはないか尋ねる。

 

「とくにはないですな。その件について尋ねるということは、新聖堂の建築に何か問題が?」

 

「新聖堂? あ、ええ。神父さんはご存知なんですか」

 

「ほら、物を買い入れる時はいつも品物の届け先はロドリオ村にして、お山から寄越した人足で運ぶでしょう」

 

 俗世の商売人を聖域に入れないために、納品場所にロドリオ村を指定する。そして雑兵が聖域へ品物を運び込む。そのやり方はマニゴルドも雑兵から聞いて知っていた。しかし新聖堂とは知らない話だ。

 

「それが建材を買う時だけはこの村ではなく、別の場所に届けさせることがあると、あるとき私も気づいたのですよ。ははあこれはお山の出先として、新しい聖堂を建設するに違いないと悟ったわけです。だからこっそり商人に聞いて教えてもらいました。届け先のことを」

 

「やるじゃねえか、おっさん!」思わず地が出たマニゴルドは慌てて咳払いし、先を促した。「失礼。それで届け先はどこだと聞かされましたか」

 

「たしか……カトリヴァノス氏だとか。現地で差配する人なんですかね」

 

「さあ。偽名を使った聖域の協力者かも知れませんから。場所は判りますか」

 

 ここに来て謎の人物の登場である。少年はその名前と、その家があるという地名を書き留めた。

 

 満足して顔を上げた彼は、神父が不安そうに見ていることに気づいた。「どうかしましたか」

 

「もしや、その件で何か厄介な事でも起きたのですか。それで私に話を聞きに?」

 

 この神父は事件に関わっていそうにないが、ここで不審がられて横領犯に連絡を取られては困る。マニゴルドは急いで言い訳を組み立てた。

 

「いいえ、厄介事なんて。実は、山のほうでも同じ建材を使って建物を建てようかって話になってるんですけど、先に大工と監督者に聞きたいことがあって。なのにその聖堂建設に関わってたうちの人間が、俺が若すぎるって馬鹿にして、何も教えてくれないんですよ。他にも色々揃えたい物があるのに。それで仕方なくこうやって遠回りに調べてるんです」

 

「おお、それは苦労されますな」

 

 聞きたいことはあらかた聞けたので、マニゴルドは礼を言って神父の部屋を後にした。

 

 イコンの前で立っている聖闘士が彼のほうを見ていた。まさか見張られていたとは思わず、マニゴルドは肝を冷やした。

 

「こんな所で何してんだよ。あんたはアレクシオスの護衛だろ」

 

「随分長居をしていたな。何の話だったんだ」

 

「べつに。神父の名付け親がうちの教皇だって自慢された」

 

 聖闘士が本気で聞き耳を立てれば、漆喰の壁や木の扉など何の障害にもならないはずだ。どうやらこの男は、そこまで本気ではなかったらしい。聖堂を去ろうとするマニゴルドの後を聖闘士は追って来た。邪魔なので文句を付けると、

 

「おまえのお目付役だ。久しぶりの俗世に浮かれて騒動を起こさないよう見張っておけと、テオドシオス殿から言われている」

 

と、淡々と応じられてしまった。

 

「あのデブ」

 

 悪態を吐き、マニゴルドは聖堂の外壁にもたれかかった。見張りが付いていては謎のカトリヴァノス氏や、取引相手のことを調べに村を出るわけにもいかない。

 

 仕方ないので、気分を切り替えて久しぶりの俗世を楽しむことにした。ここには血汗をかきながら修行に励む若者はいない。いるのは陽だまりに居眠りをする老人や、大声で井戸端会議をしている逞しい女たち。工房で黙々と椅子を直している職人。石畳の道を優雅に歩き回る猫。窓辺に飾られた鉢植えの花。そんなのどかなものだ。どこからか赤ん坊の泣き声も聞こえる。

 

 道の行く手から歩いてきた村娘が、見慣れぬ少年に気づいてちらりと目をくれた。すかさずマニゴルドが視線を返すと、娘は慌てて俯いた。擦れ違ってから振り返れば、向こうでも彼のほうを見ている。手を振った。娘もはにかみながら同じように返してくれた。

 

 後ろを付いてくる聖闘士のことを徹底的に無視できれば、それなりに有意義に時間を過ごせた。

 

          ◇

 

 やがて合流した三人は聖域に帰ることにした。

 

 もうすぐ聖域の外縁部を覆う結界に踏み込もうという所まで来た時、神官が前方を指差した。

 

「この先に枯れ木があるはずだ。枝に何か見えるかい」

 

 問われたマニゴルドは目を凝らした。遠く、立ち枯れた木があった。

 

「何か結びつけてある。ひらひらした……布かな」

 

「何色だ」

 

「白か黄色。夕陽のせいで、ちょっと判んねえ」

 

 神官は頷き、歩き続けた。その木の脇を通り過ぎる時に布は回収された。

 

 彼らは聖域に入り、そのまま居住区を抜けて十二宮を上った。教皇宮に入ったところで、上役に報告があるというアレクシオスとは別れた。

 

 聖闘士がマニゴルドの背を小突いて教皇宮の奥へと促した。思わず彼は文句を言った。

 

「付いてくるなよ。こっちは教皇の私的な空間だぞ」

 

「部屋まで送ってやろう。大人しく歩け」

 

 そのまま教皇宮の公と私の部分を隔てる扉さえ抜けて、聖闘士は教皇の生活部分に入った。教皇の私室の前に番兵が対で立っていた。この厳戒態勢はマニゴルドの知る限り初めてのことだ。立っている顔にも見覚えがない。普段教皇宮にいる番兵ではない。

 

 少年は無造作に部屋に放り込まれた。たたらを踏んで顔を上げた先に、椅子に掛ける老人の姿があった。セージは立ち上がり、彼の後ろの聖闘士に書類を渡した。

 

 扉が閉まる。

 

「おかえりマニゴルド」

 

「ただいま。ところで表の物々しい警備は何事?」

 

「後で話す。それより村は楽しかったか」

 

 マニゴルドは頷き、ロドリオ村で得た情報を語った。テオドシオスの手引きで村に行くことは予め師には伝えてあった。黙っていてもどうせ露見するだろうと諦め半分、この時期に神官と行動することに問題がないか確かめたかったのが四半分。そして、あわよくば小遣いを貰えることを期待したのが残りの四半分である。ちなみに快く送り出してはくれたが、小遣いは銅貨一枚貰えなかった。

 

「それでさっきの話だけど、なんで部屋の前に見張りが立ってるんだよ」

 

 セージがこれまでの経緯を話そうとしたとき、扉が叩かれた。部屋に入ってきたのは少年にも見覚えのある神官だった(たしかヨルゴスと名乗っていたはずだ)。先ほどまでマニゴルドと行動を共にしていた聖闘士を連れている。

 

「失礼します、セージ様。この書類はどういうおつもりですか」

 

「どうもこうも、そなたたちの求めた譲位の同意書ではないか」

 

 その場にいる者で驚いたのは少年だけだった。聖闘士がおもむろに彼の腕を取って立たせた。

 

 神官は書面を老人の前に差し出した。

 

「私どもが提示した内容と違っているのは気のせいでしょうか? 射手座様に譲位するという文章はどこへ消えたのですかね」

 

「神官ともあろう者が文を読めぬか。譲位の条件はそこに書いた通りだ」

 

 神官が手にしているのは、先ほどセージから聖闘士に渡された書類。教皇を退位する旨を記して署名したものだった。ただし老人が認めたのはあくまでも退位に関してだけ。テオドシオスたちが求めるシジフォスの指名は行わずに、後継者指名は本人の前で行うという条件でセージ自ら書き直したものである。

 

「予定ではシジフォスは明日にでも帰還する。その時に指名すればいいのだから、何の問題もなかろう。どうしても誰かを名指ししなければならないのなら、イリアスの名を記そうか」

 

「お話になりませんな」

 

 神官は聖闘士に合図してマニゴルドを部屋の外に連れ出した。事情を知らない少年は腕を振り解こうと暴れたが、白銀聖闘士の手からは逃れられなかった。

 

「セージ様のお考えがまとまらないようですので、やはりお弟子は私どもがお預かりします。よろしいですね」

 

「よかねえよ。なに勝手に人のこと決めてんだ。おいこら」

 

「それでは失礼します」

 

 セージ一人を部屋に残して、神官は戸を閉めた。

 

「おまえら、お師匠に何させたんだ」

 

 少年の不安に神官は答えない。どうにか聖闘士の拘束を解こうともがいたが、マニゴルドは教皇宮から連れ出された。そしてそのまま独房に押し込められた。

 

「俺が何したっていうんだよ! 今は豚箱行きになるような悪いことしてねえぞ!」

 

「そう。何もしていないよ、きみは」

 

と、牢の鍵を掛けてからようやくその神官は答えた。「セージ様が我らの要求にお答えになるまで、しばらくここで過ごしてもらう。なに、誰からも危害を加えられない安全な場所だ。十分に寛ぎなさい」

 

「うっせえ」

 

 格子をガンと蹴りつけ、少年は相手を睨みあげた。神官はまったく意に介さずに立ち去った。それに続いて聖闘士も去り、牢獄の近くには誰もいなくなった。

 

 独房の床に隙間はなく、壁は厚く、格子は頑丈だった。最初から聖闘士を収容するものとして設計されたのだろう。小宇宙を込めて殴っても蹴っても、爪で剥がそうとしても、どんなに力を加えてもどうにもならなかった。脱走が不可能だと判っているから見張りも立てなかったのだとマニゴルドは気づいた。

 

 彼は檻にもたれかかった。

 

 何がなんだか判らない。

 

 考えても埒が明かないので、師に聞こうと決めた。たとえ身体を拘束されていても、小宇宙が発揮できなくても、それができるのが積尸気使いの強みだ。

 

 肚を決めたのと前後して、スープとパンの夕食が届けられた。ちょうど腹も減ってきたところだ。とくに警戒もせず一気に掻き込んだ。

 

 それからマニゴルドは肉体という檻を抜け出して、教皇宮へ向かった。

 

          ◇

 

 セージはふと顔を上げ、宙を浮いている弟子の姿を見て呟く。

 

「来たか」

 

 魂だけでやって来たマニゴルドは、ふわりと床に降り立って腕を組んだ。

 

(説明してくれよ、お師匠)その声は常人には届かない。

 

 一方で老人は普通に唇を動かして声を出した。

 

「今おまえはどこにおる」

 

 弟子が牢獄の場所を伝えると、「そこなら安心だ」と老人は表情を緩めた。後に天馬星座の青銅聖闘士も、身柄の保護を目的として同じ並びの独房に入れられている。

 

(俺のことはいいから。説明)

 

「うむ。手短に言うとな、テオドシオスが神官たちを煽動して、年寄りにはもう教皇の資格がないから次にシジフォスを指名して譲位しろと、そう言ったのだ。そして新体制が確立するまで余計なことをするなとこうして軟禁されておる」

 

(教皇クビになったのか?)

 

 自分が外出してる間にとんでもないことが起きたものだと、マニゴルドは驚いた。

 

(あのデブ俺を遠ざけて事を起こしやがったのか。俺が駆けつけて連中を手当たり次第積尸気送りにしたら困るから。お師匠一人ならどうにかなると思ったんだな)

 

「テオドシオスはおまえが積尸気使いだとは知らぬはずだ。そうではなく、私との交渉に使う材料としておまえを仲間と共に行動させたのだ」

 

 聖闘士が側にいたはずだと指摘され、マニゴルドは理解した。ロドリオ村に付いてきた聖闘士の役目は神官の護衛ではなく、教皇の弟子の見張りと、もしもの時の始末だったらしい。聖域に入る前に見かけた目印が白ではなく他の色だったら、彼の身はどうなっていたことか。そして確信する、彼が部屋に帰ってきた時に引き替えに老人が差し出した書面の意味。

 

(もしかしてお師匠、俺のせいで退位するしかなかったんじゃ)

 

 ところが師は視線を逸らし、「さて」と腕組みをするだけだった。白を切るその態度に胸の奥が爆発した。

 

(馬っ鹿じゃねえの)

 

とマニゴルドは怒鳴った。(俺なんかのために大事な仕事を投げ出すんじゃねえよ!)

 

 彼の剣幕にセージは意外そうに眉をひそめた。

 

「馬鹿と言われるのは心外だ」

 

(だって馬鹿じゃん。俺が人質に取られてたから連中の言うこと大人しく聞いたんだろ。俺なんか無視して要求突っぱねれば良かったんだ。こうなることが判ってたから俺を聖域の外にやりたかったんだろ? 本当にジャミールにでも追いやってくれたら良かったのに、なんで俺の言うこと聞いたんだよ。馬鹿だよお師匠。大馬鹿だ)

 

 足手まといになった自分に吐き気がしていた。

 

 初めは弟子に食ってかかられて驚いていた老人だったが、やがて目を細めた。笑っている。

 

「違うと言っても聞く耳がなさそうだな。そうだ。可愛い弟子の命と引き替えだと脅されては、さすがに老いぼれも抵抗できなくてな。泣く泣く譲位に同意せざるを得なんだ。おまえの責任は重いぞ。反省したら師の恩に報いるため、綺羅星と輝く立派な男になるがいい」

 

(茶化すなよ)

 

 恩着せがましい言葉に、マニゴルドは鼻白んだ。

 

 退位という瀬戸際に立つわりには、あまり深刻ではない様子なので、彼は怒るのを止めた。弟子の負い目を軽くしようと冗談めかしただけかも知れないが、どうやっても暖簾に腕押しだ。

 

(本当にもう退位するって認めちまったのか)

 

「それを覆すことはできないが、手はあるからおまえは気に病むな」

 

(何か考えがあるんだな)

 

「うむ」

 

 セージが話を続けようとした時、戸が開いた。外の見張りが中を覗き込み、室内に老人一人の姿しかないことを確かめて怪訝そうな顔をした。祈りの最中だと澄まし顔で取り繕われると、見張りはすぐに詫びて戸を閉めた。賊徒が教皇を狙っているから守れと命じられているだけの雑兵だ。セージにはまるで脅威ではない。

 

 それから声量を落としてセージは話に戻った。

 

「先ほど神官たちと話して確信したが、彼らはシジフォスに話を通していない。譲位が成立する前に私たちが顔を合わせることを拒んだのだ。本人が就任を承知していればまったく問題ないはずなのにな。おそらく事前に話をすると、反対された上に教皇に密告されると考えたのだろう。それよりは本人のいないところで譲位の既成事実を作って、反対できなくしてしまえというのがテオドシオスの計画だ」

 

 つまりシジフォスはこちらの手駒の一つとして使えるのだ、と老人は言った。

 

(それがなんだよ。帰還したらいきなりおまえが新しい教皇になったからよろしくって、そりゃシジフォスも気の毒だけどよ。あいつが聖域に帰ってきたら終わりだろ?)

 

「たしかにこのままシジフォスが帰ってくれば私は居場所が無くなる。厄介者扱いされて聖域から追い出されたらどうしようか。魯を出た孔子のように野をさすらうことになるが、付いてきてくれるか」

 

(真顔で寝惚けたこと抜かしやがってクソジジイが。っていうか、その場合俺はどの弟子なんだ)

 

「子路で良かろう」

 

(やっぱそっちか。どうせ顔淵じゃないですよ俺は)

 

 一人しかいない弟子なのに最高の弟子とは認められないのかと、少年はがっくり肩を落とした。子路は孔子の弟子の一人で、師に最もからかわれ、また叱られた人物だという知識くらいはマニゴルドにもあった。ギリシャにあっては縁遠い外国の古典も読ませられることがあったからだ。積尸気冥界波という技名が漢名由来だからというより、単にセージの趣味だと思われる。

 

「おまえは後先考えずに動くことが多いからな」

 

と漢籍を押しつけた張本人は楽しそうに笑った。

 

「それはさておき、当分あの者は聖域には戻ってこない。おまえがカトリヴァノスのことを掴んできてくれて方針も定まった。シジフォスが戻ってきた時に攻守が入れ替わるだろう」

 

 評議の部屋で神官たちに取り囲まれている間に、セージはシジフォスに連絡を取った。連絡は小宇宙を用いた念話という手段で取ったから、神官たちには勘付かれていない。そもそも念話を使える者がいるということを神官は知らないのだ。

 

 そのころ任務を終えて帰還途上にあったシジフォスは、念話を受けて今頃はアテネの市街地で待機している。聖域近くのロドリオ村を使わないのは、今は聖域の関係者に見つかりにくい所にいてもらったほうがありがたいからだった。

 

 シジフォスだけでなく、セージは聖域内にいるルゴニスにもおおよその事情を伝えてある。

 

『神官どもの宿舎に叛乱成功の祝い花を贈ってもよろしいですか』

 

とルゴニスはセージに願ったが、それは思い留まらせた。毒の香気を放つ魔宮薔薇を贈りかねない剣呑さを、魚座の黄金聖闘士の念話は孕んでいた。いいという時まで動くなと、強く言い渡してあるので問題は起こさないはずだが。

 

 ――そんな師からの説明を受けて、マニゴルドはようやく少し安心した。黄金聖闘士たちが味方に付いているなら、譲位の話も神官の思うように進みはしないだろう。しかし疑問なのは、セージのやりようだ。なぜ教皇の強権で事を収めようとしないのか。

 

(お師匠と黄金位で一気にかかれば神官なんて楽勝じゃん)

 

「拳を振るって解決するなら、とうに昼のうちに終わらせている。問題の根底に考えかたの違いが横たわっている以上、力だけでは解決できないのだよ」

 

(じゃあ連中を皆殺しにする予定もなし?)

 

「それは乱暴に過ぎる。今は機を見て、彼らが私の話に耳を傾けやすい状況が訪れるのを待っている」

 

 話せば判ってもらえるとでも思っているのか。少年は唇を噛み締める。もしそうなら、これまでの折々の評議で機会は十分にあったはずだ。その機会を見逃しておいて、今更。

 

「一度にまとめて片付けようとしたのが裏目に出てしまったな。ともあれ、これは教皇と神官の問題だ。聖闘士を巻き込みたくないという考えは互いに一致している」

 

(でもロドリオ村で俺を見張ってたのも、俺を豚箱にぶち込んだのも聖闘士だぜ。そっちはよ)

 

「その者には後で確かめる必要があるが、……そうだな、ついでにそれも調べてきてもらおうか」

 

 そろそろ戻るように、と老人は告げた。

 

 言われるがまま肉体という鞘に戻ったマニゴルドは、隣に生身の師が立っていることに驚いた。

 

「なんでいんだよ」

 

 積尸気使い相手に軟禁は意味がないのだとセージは笑った。それでも大人しく部屋で過ごしているのは、相手を油断させるためでしかない。拘束できないと知れれば、神官たちが毒殺や刺殺などの直接的手段に及ぶ可能性もある。

 

「おまえにはこれを届けてきてもらいたい」

 

 老人は用意していた袋を手渡した。

 

 マニゴルドは積尸気を抜けて聖域の外へ送られることになった。この世ではない場所を経由することで、聖域全体を覆う結界にも触れることなく外地と往来できるという。当然、牢獄の檻に阻まれることもない。なんと便利な技。

 

 目的はアテネで待機しているシジフォスのところへ、今後の行動を指示する手紙と当座の資金を届けに行くことだ。セージ本人が行ければ話は早いが、もし見張りが室内を覗いた時に姿がなければ騒ぎになってしまう。一方で、懲罰房としてしか使われないこの牢獄には見張りが来ないことを、セージは知っていた。

 

「パルテノン神殿に繋ぐから、そこからは歩いていけ」

 

「判った」

 

 有名なアテネの遺跡は、この時代にはオスマン帝国の要塞としての役割を終え、ヨーロッパからの観光客を惹きつける名所となっていた。さすがに夜になれば物好きも遺跡から引き上げるだろう。

 

「物盗りと、悪い大人に絡まれないように気を付けてな」

 

「誰に言ってんだよ。それじゃ行ってきます」

 

 手紙と金を入れた袋をしっかりと肩に掛けて、マニゴルドは師が開けた積尸気の穴に生身のまま飛び込んだ。

 



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三聖唱(サンクトゥス)――テオドシオスの誤算

 

 教皇交代劇から一夜が明けた。神官たちはいつもと同じように教皇宮に上がった。そう、いつもと同じ朝であるべきだった。新教皇の体制が確定するまでは、周囲に状況を知られるわけにいかない。

 

 セージが退位の意思を示したことは、書面という記録でしっかりと残っている。しかし現状、その後を継ぐ新教皇にはまだ誰も指名されていなかった。老人は「シジフォスが帰還したら指名する」と言うのみで、それまで教皇位は空位のままだ。おそらく神官たちの望む後継者を指名した時点で用無しとされることを警戒したのだろう。

 

 その考えはテオドシオスにも理解できた。だから無理に文面を書き直させることをしなかった。代わりに余計な気を起こさないようにマニゴルドの身柄を奪ったが、それくらいはお互い様だった。

 

 老人が教皇として冷静に判断するなら、自身の身の安全を確保してから神官たちの首を軒並み刈っていくという手段に出てもおかしくはない。たとえ教皇宮の使用人や聖闘士が巻き添えになっても玉座を固守するだろう。場合によっては黄金聖闘士の一人くらい切り捨てることもあり得る。たとえば、教皇交代劇の責任をシジフォスに負わせて叛乱の罪で処刑するというような。テオドシオスたちの目論見を潰すならそれが一番簡単だ。

 

 教皇の弟子の身柄を拘束するのは、それに対するテオドシオスなりの保険だった。教皇の弱点が愛弟子であることはすでに証明されている。神官長の狼藉の一件しかり。評議の場での一件しかり。

 

 問題は、この譲位計画が聖闘士たちの賛同を得ていないことだ。聖闘士にとって教皇は雲の上の存在で、神官は小宇宙も体得していないただの人間。その平凡な者たちによって教皇が交替させられたと知れば、血気盛んな聖闘士たちがどう動くか予測できない。新しい教皇さえ立てば神官はその盾の後ろに隠れられるが、今の状況でそれは叶わない。それもまた、シジフォスの早い帰還を願う理由の一つである。

 

 ちなみに聖闘士と違って、教皇宮詰めの使用人や雑兵は問題にならない。彼らには、「冥王軍の内通者が教皇を狙っているという情報を掴んだので、聖闘士であっても教皇に近づけてはいけない」と伝えてある。老人が部屋に閉じこもっていても不思議に思わないだろう。ただし時間が経てば状況の不自然さに勘付く者が現れる可能性が高くなる。できれば昨日のうちに終わらせたかった。

 

(だいたい帰還予定日に合わせて事を起こしてやったのだから、あの若造はさっさと帰ってくるべきなんだ)

 

 シジフォスが知ればそんな理不尽なと頭を抱えてしまっただろう。しかし計画を立てたテオドシオスには関係ない。教皇の座を差し出されればシジフォスは喜んで受け取るだろうと考えていた。なにしろ教皇が傅くのは女神に対してだけだ。それ以外の全ての者に傅かれて権力を振るうのも思いのままという栄光の座なのだから。

 

 不摂生の肉体をまとって彼が十二宮の階段という難敵と戦っていると、上から慌てた様子の同僚がやってきた。援軍ではないようだ。

 

「テオ殿、大変なことになりました。あの小僧が独房から姿を消しました」

 

 なに、とテオドシオスは目を見開いた。

 

「セージ様はどうされている? 誰か部屋にいることを確かめたかね」

 

「はい。静かにお過ごしです。とくに変わった様子はありません。それが逆に怖いと言えば怖いですが。見張りによれば昨晩から部屋には誰も近づいてはおらず、今朝の朝食も全て召し上がったそうです」

 

 行動を制限するだけの軟禁なので、食事に毒を盛るつもりはない。むしろ絶食でもして衰弱されれば後で非難されかねないから、健康的な生活は大いに結構なことだった。

 

「それなら逃げたのは弟子のほうだけなのだね」

 

「ええ。しかしどうしましょうか。大々的に聖域内を探すというのは躊躇われますが」

 

「ああ、聖闘士に嗅ぎつけられない範囲で探してくれ」それから彼はもう一つ付け加えた。「最初に魚座殿に教皇宮として確認を。細かい事情は告げなくていい。少年を匿っているとしたら、まずそこだ」

 

 すると魚座のルゴニスからはこんな返答があった。

 

 ――教皇のお弟子は久しく訪れていないが、もしお疑いなら薔薇園の中を自由に探されるがよろしい。我が住まいに彼がいたとしても、既に冷たい骸となっていることだろう。魚座の守護者以外には耐えられない猛毒の花の海に入る時は、十分に気を付けられよ、と。

 

「ふむ」

 

と、神官長の席に着いたテオドシオスは顎を撫でた。

 

「事情を知っているかどうかは明らかではないが、少なくともすぐに動く予定はなさそうだな」

 

 少年が聖域内に留まっているなら、すでに誰かに老教皇と自分の身に起きたことを話しているだろう。わずかな面会の時間を使って老人からの言伝を預かったかもしれない。教皇に忠実な聖闘士がそれを聞けば必ず動く。逆に動かなければ、神官たちの決起を黙認したことになる。マニゴルドが逃げ込んだ先が魚座の住まいだったとしても同じことだ。そして未だにルゴニスが何の行動も起こさない時点で、テオドシオスの敵ではない。他の聖闘士にも動きはみられなかった。今朝の聖域も静かなものだ。

 

「小僧がここに留まっていなければどうしますか。聖域内に味方を期待せずに、俗世へ逃げたということもあり得ます。途中で帰途にある射手座殿と出会って事情を話したら、射手座殿がどう動くか判りません。もしここに殴りこまれたら……」

 

と別の可能性が挙がった。

 

 教皇宮に乗りこんでくるならむしろ好都合だとテオドシオスは考えた。教皇の間でシジフォスと対面することがセージからの譲位の条件だったからだ。セージ自身から玉座を譲られれば、若者は神官に手を出す理由を無くすだろう。

 

「ところで少年の逃げた状況は?」

 

 神官マタイオスが牢獄の様子を報告した。

 

「私が駆けつけた時、牢には鍵が掛かっておりました。明かり取りの窓や檻の格子には、鼠が通れる程度の隙間しかありません。抜け穴はないかと雑兵に探させましたが見つかりませんでした」

 

「昨夜運んだ食事はどうなっていたかね」

 

「全て平らげた空の食器がありました。昨夜の食事を運んだ時には、格子を揺さぶったり体当たりしていたと雑兵が証言しています。当然、牢の鍵も掛かっていたでしょうね」

 

「その雑兵の証言は信用できるかな。密かに教皇の意を受けて少年を逃すことはできそうか」

 

 淡々と質問を重ねるテオドシオスの穏やかさに、周囲は平凡な会議を行っている錯覚に囚われた。

 

「鍵を手に入れることさえできれば逃がせるでしょうが……。今朝も食事を届けて、そこで小僧の脱走に気づいて報せてくれた者です。あの者が黙っていればまだ私たちはマニゴルドの脱走を知らないでいたでしょうから、信用してもよろしいかと」

 

 隣から神官ディミトリオスも口を挟んだ。

 

「私もそう思います。あの雑兵はこれまで教皇とその弟子に接したことがあまりありません。とくに昨日は全く教皇と接触しておりませんでした。だからこそ弟子に食事を運ばせる役に選んだのです。教皇と同じように身柄を保護する必要があるから、安全な場所にいてもらうのだと事前に説明してあります。小僧を逃がそうとする余計な情は持たないでしょう」

 

 ほほう、とテオドシオスは太い腕を組んだ。「では他に鍵を手に入れられる者となると――」

 

 ヨルゴスが親友の言葉を遮って発言した。

 

「テオ殿。皆も。聞かれる前に先に私から言っておきます」

 

 彼は懐から鍵の束を取り出した。じゃらりと音がした。

 

「あの牢獄の鍵は、このとおり私が預かっています。小僧を独房に入れた時も確かに鍵を掛けました。先ほどマタイオス殿に貸しましたが、それ以外には誰にも触らせていません。もし逃亡の手引きをした者がこの場にいるとしたら、最も疑わしいのは私です。しかしアテナに誓って私はそのような事をしていない。嘘も吐いていない。信じて頂きたい!」

 

 宙に突き出された鍵束を、テオドシオスは横から掴んだ。

 

「我が誠実な友がそのような裏切りをするはずがないと、私も知っている。少なくとも昨日の時点では鍵を掛けたことを一緒に行った聖闘士が間近で見ていただろう。互いに相手の行動に不審な点があれば気づいたはずだ。大丈夫。あなたではない」

 

 ヨルゴスは身内びいきはいけない、と首を振った。テオドシオスの視線はそんな友人から他の者たちをぐるりと一巡した。

 

「無論、ここにいる者の誰でもないことを信じている。マニゴルドを逃がした者が合い鍵を持っていただけのことだ。そこで彼を逃がす理由を持つ者という面からすこし考えてみよう」

 

 友人から取り上げた鍵束を机に置いて、彼は言葉を継いだ。「簡単に言うとセージ様の意を受けている者になるが。まず、ご本人が弟子を逃がしたというのは不可能だろうか」

 

「たしかに。本当に一晩中部屋から抜け出さずにおられたとは言い切れません。見張りを籠絡したということもあり得ます」と一人が頷く。

 

「そうでしょうか」とディミトリオスが首を傾げる。「見張りは、本人は護衛のつもりですから、教皇一人では決して外出させてはいけないという我々の命令に背くことはありません。今朝も『教皇を一晩守りきった』と、誇らしげに報告していましたよ」彼はどうも雑兵に甘いようだ。

 

「では戸口からではなく窓から出入りしたのでは?」

 

「無理でしょう。窓の外は足場もない。だからこそ我々も庭に見張りを立てなかったのですから」

 

「そうだな。それにあの方がこっそり牢獄まで行って弟子を逃がしたというなら、なぜ自分だけわざわざ部屋に戻ったのかということになる。普通は一緒に逃げるだろう」

 

 周りに敵しかいない教皇宮に敢えて戻ったのはそこに隠された秘密を守るため、などの理由は彼が退位に同意した事実を前提にすると考えにくい。それよりは、セージ自身は部屋から出ずに大人しく軟禁されていたと考えたほうが自然だった。

 

「ご本人でないとすれば、先ほどから言いたかったのだが、我々に協力している白銀聖闘士が非常に怪しい」

 

とこの場では年長の神官がすかさず発言した。「教皇はなんといっても聖闘士の頂点だ。我々の指示に従うふりをしてセージ様に寝返っている恐れは大いにある」

 

「奴が裏切っていたら、ロドリオ村に小僧を連れて行くことさえ事前に筒抜けになっていた可能性すらありますよ。信用しないでどうします」

 

「そもそも奴はなぜ私たちに協力しているのですか」

 

 神官たちの問いを受けて、テオドシオスは苦々しげに答えた。

 

「金だよ。外部任務で俗世に出たときに賭け事に嵌ったそうでな。借金を抱えていたのを知って、私が肩代わりしてやった。それから話を持ちかけたのだよ。このことが教皇に知られれば当然処分されるから、奴が裏切る心配はない」

 

 それを聞いて好意的な反応を見せた者はいなかった。

 

「テオ殿が尻拭いをしてやる必要などないのに」

 

「これだから聖闘士というやつは……」

 

 話が逸れる前にテオドシオスは言った。

 

「聖域の者に下手に探りを入れるのは止めておこう。射手座殿が戻ってくるまで現状を維持できれば良い。余計なことをして疑惑を招くことはない。寝た犬は起こすなと言うだろう」

 

 消極的な案だったが、長めに見積もって一日持ちこたえればいいことなので、一同も反対はしなかった。

 

「小僧のほうはどうしますか」

 

「保護の名目で追っ手を出そう。なに、相手は小銭も持たない候補生だ。昨夜から一晩のうちに動けた距離はたかが知れているよ。聖闘士だと教皇へ出立の挨拶をしたがるから使えないな。動かすのは雑兵でいい」

 

「もし見つけられたら、その時は……?」躊躇いながらマタイオスが尋ねた。

 

 テオドシオスははっきりと言った。

 

「ご老体に対する人質として使える限り、殺してはいけない。私たちは野蛮な聖闘士ではない。知恵ある神官だ。暴力ではなく理性によって聖域を革めよう」

 

 彼らは頷いた。聖闘士が超人だと知っているつもりだったが、せいぜいが優れた膂力(りょりょく)の持ち主という認識だった。

 

 テオドシオスに限らず、神官は聖闘士の持つ小宇宙の力は、単純に肉体を強化するだけのものと考えている。闘技場での訓練の様子や、聖闘士からの任務の報告。それらが彼らに錯覚させていた。例えば外部任務で聖闘士が敵を撃退した時、詳しい戦闘の内容が教皇宮に報告されることはない。敵については事細かに報告しても、自身がいかにそれを打ち破ったかについて聖闘士は明らかにしなかった。必要なのは敵を破ったという結果だけだからだ。

 

 だから小宇宙がどんな使い方ができるかということを、神官たちは知らないままでいる。聖衣の持つ特殊な力を駆使しなければ、聖闘士も力の強い勘が鋭いだけの人間に過ぎないと思っていた。聖闘士の戦いを目の当たりにしない限り、その誤解が解ける機会はないだろう。そして雑兵と違い、神官が聖闘士の歩みに付いていくことはない。

 

 更に積尸気使いについて言えば、聖域ではセージ以外にその力を持つ者は長く現れなかった。怪力乱神を語らず、というわけではなかったが彼は自身の力を誇示しなかった。巨蟹宮で定期的に死者を返していることさえ、宮付きの従者しか知らない秘密だった。最近になってその技を覚えつつあるマニゴルドも、人前で力を振るったことはない。魂を操り、黄泉比良坂への道を開くことができると知らしめても常人を怯えさせるだけ。セージはそう考えていた。基本的に積尸気使いはその力を隠そうとする傾向にある。戦場以外で死に神が歓迎された試しはない。

 

 つまるところ、神官たちは聖闘士を侮りすぎていたのだ。

 

 そして彼らにとっての頼みの綱でもあるシジフォスは、一日経っても二日経っても、まだ帰還しなかった。

 

 事故にあったか旅先で病を得たのではと心配する神官もいた。しかしさすがにそんな事態になれば連絡の一つも寄越すだろう。単身の任務なので、連れを通じて確認することはできなかった。

 

「帰還すれば玉座を譲られると知って尻込みしたのではありませんか」

 

「それを知らせに走ったのが小僧ということか」

 

 シジフォスだけでなく、マニゴルドの足取りも掴めていなかった。彼らは知らなかったが、少年はこの世ではない場所を通って外へ出ていった。この世に足取りを求めること自体が無駄だった。

 

「射手座殿がこちらの計画を知っている、しかし協力する気はないということになると……、黄金位たちにはセージ様を助ける気概はないんですかね」

 

「やはり聖域を憂えているのは私たち神官しかいない」

 

 同志たちの会話を聞きながら、テオドシオスは元教皇と面会をしたいと親友に打ち明けた。しかしヨルゴスはいい顔をしなかった。彼が直接セージと顔を合わせることに危険を感じたからだ。もし相手が事態の打開を図ろうとしてテオドシオスの首元に刃物でも突きつければ、神官たちには手出しができない。

 

「今更そんな悪足掻きをされるような方ではないさ」

 

 テオドシオスは杞憂だと笑うが、先に人質を取った立場では、そうも楽観できない。

 

「軟禁されて四日ですから、先方も無為のままよりは面会を希望するでしょうが、しかし会って何を話すんですか」とヨルゴスは尋ねた。

 

「射手座殿を聖域から遠ざける指示を出したか確かめる。そしてできれば一度だけ、教皇として帰還命令を出してもらう」

 

「それだけならあなたが出ていく必要はない。私が代わりに面会します。一つ厄介なのは、射手座殿が帰還すれば自分の身は解放されると先方が知っていることです。未だに部屋に留め置かれている、すなわちまだ射手座殿が帰還していないということから、こちらの焦りをセージ様は察しているかもしれません。交渉に応じてくれるとは限りませんよ」

 

「厄介だね」

 

「だからまずは私が様子見すると言っているんです」

 

 テオドシオスは友人の肩をぽんと叩いた。

 

「分かった。下手に相手に判断材料を与えるのは止めよう。射手座殿の路銀はすでに尽きているはずだ。もう少しだけ待ってみようか」

 

 彼が長い十二宮の階段を下りて宿舎に帰ると、戸口の前で数人の少年たちが屯(たむろ)していた。候補生が神官に会いに来るとは珍しい。おおかたは行方を眩ませた教皇の弟子についてだろうと見当を付けてから、彼は一団に近づいた。

 

「何の用かな」

 

 代表者らしい、しっかりした顔つきの少年が口を開いた。

 

「俺たちはマニゴルドという候補生の友人です。ここ最近あいつが闘技場に顔を見せないので心配しているんですが、あいつは教皇宮で暮らしていて気軽に会いに行けないんです。それで代わりに教皇宮へ上がれる人に様子を教えてほしくて、こうしてお願いに来ました」

 

 聖闘士はさりげなく教皇宮から遠ざけている。警護の番兵は口を割らない。そうなれば、教皇宮の様子を知りたい者が神官に接触してくるのは当然の成り行きだった。

 

「彼は毎日闘技場に通っていたのかい」

 

「毎日というわけではないと思いますが」と代表者は後ろを振り向いて、一人を前に引っ張り出した。「こいつが手合わせの約束をしていたそうなんです。おいユスフ、自分で説明しろ」

 

「え、説明してくれないんですか」

 

「俺は放っておけと言ったのに、きみたちがどうしてもというから付き添ったんだぞ。なに人任せにしようとしてる」

 

 黙って見ているといつまでも仲間内で揉めていそうなので、テオドシオスは口を挟んだ。「それできみとマニゴルドが手合わせの約束をして、どうしたね」

 

「あ、あの俺、あいつと明後日手合わせしようなって約束したんです。でもあいつ来なくて、手合わせの約束すっぽかすような奴じゃねえからおかしいなって思って。でも怪我でもして動けないなら仕方ないかなと待ってたんだけど、全然来ねえし、それで心配になって」

 

「ちなみにこいつが言っている『明後日』というのは約束した時点からみた明後日で、今から三日前のことになります。分かりにくくてすみません。こいつ説明が下手で」と、テオドシオスの疑問に先回りするように、最初に事情を説明した候補生が補足した。

 

 マニゴルドが手合わせの約束を翌日ではなく二日後にした理由を神官は察した。翌日にロドリオ村に行く予定があったからだ。その次の日にはマニゴルドは牢獄から姿を消していた。もちろんテオドシオスは、そんな事情を候補生たちに明かすつもりはない。

 

「彼のことは今まで気に留めたことがなかったから、今すぐ状況を教えられるわけではないが、明日もし会ったらその時に聞いてみるということでいいかね」

 

「はい! ありがとうございます」

 

 ほっとした様子の候補生の肩を別の候補生が叩く。「良かったなユスフ。おまえ心配してこっそり十二宮まで上がりかけてたもんな」

 

「うるせえ。俺が足の骨折った時、あいつ笑いに来やがったから、同じことしてやろうと思っただけだ」

 

 微笑ましい少年たちのやり取りにテオドシオスは頬を緩めた。彼らのうちの何人が聖闘士になれるかは不明だが――全員が挫折することだってあり得る――今は同じ道を目指す同志。せいぜい足を引っ張り合うことなく励まし合ってほしいと思う。

 

 ところが一人、最初に事情説明をした候補生だけは険しい表情のままで、そっと彼に囁いてきた。

 

「ユスフとの手合わせの前日、マニゴルドが正教会の人間と聖闘士と一緒に歩いているのを見ました。あいつは何の掟を破って処罰されたんでしょうか」

 

 やはり関連づける者もいたか。牢獄に入れたところを見られてはいないだろうかとテオドシオスは不安を覚えた。それでもざわつく心を抑えて、彼は穏やかに「確認してみよう」と言うに留めた。

 

 翌日も同じ顔ぶれの少年たちが待っていた。彼は「マニゴルドは師匠との修行が終わるまでどうしても来られない」と説明した。修行であれば仕方ないと候補生たちは納得するようにできている。その解答で満足して去っていった。

 

 一人だけ、ロドリオ村への外出のことを誤魔化さなければならない少年が残っていた。その候補生には「一緒に歩いていたのは聖闘士と神官で、マニゴルドは聖域の外へ用事に出た神官の見送りと迎えに行ったらしい。処罰されるようなことはしていない」という話をした。候補生は少し考えて「それならいいです」と腑に落ちない顔で頷いた。踏み込んで聞くことを控えたようだ。

 

「きみはマニゴルドが何かやらかしたと考えているようだが、根拠があるのかね」

 

「いいえ、根拠と呼べるほどのものはありません。ただ、彼は軽率なところがあるようなので」

 

「それだけではないだろう。昨日のきみは、彼が聖域の掟を破ったのだと決めてかかっていた。今もまだそう考えているはずだ。彼のことを思うなら話してみてくれないか」

 

 候補生は言葉を選びながら告白した。

 

「彼はヘルメスの力を持っています」

 

 ヘルメスの、とテオドシオスは鸚鵡返しに呟く。つい最近もその言葉を聞いた――むしろ彼自身が発したのを思い出した。悪童の身軽さを称えた時に、相手はヘルメスは泥棒の守り神だと嘯いて笑ったのだ。

 

「神官様は、かの伝令神が何を司っているかご存じですよね」

 

「当然だ。マニゴルドは盗人だったのか」

 

「そうなんですか」と候補生は驚き、声を上げた。そのことにテオドシオスも「そういう意味ではないのかね」と戸惑いの声を上げる。

 

「俺が言いたかったのは、魂の運び手としての力です」

 

 今一つ呑み込めない様子の神官に、候補生はもどかしげに右手を宙にさまよわせた。しかし何かを決めた表情になって、テオドシオスを見た。

 

「どうも勘違いだったようなので、これ以上はお話しできません。忘れて下さい」

 

「このまま忘れられるものかね。いったい何を言うつもりだった? 怒らないから話してみなさい」

 

「彼の名前は『死刑執行人』という意味が込められているそうです。俺に言えるのはそれだけです。失礼します」

 

「待ちなさい。今度詳しく話を聞かせてもらうことになるかもしれない。君の名は?」

 

「アスプロスです。でももうこの件に関してはお話ししません。すみません」

 

 再び礼儀正しく一礼して候補生は去ってしまった。彼は結局マニゴルドについて思わせぶりなことしか言わなかった。

 

 ――ヘルメス。ゼウスの伝令にして、商業と牧畜、旅と競技の神、盗人や詐欺師の守護者。その多岐に渡る職能をまとめるならば、神々の伝令、富と幸運の恵み手、そして旅人の守り手の三つに分類される。いずれも「価値あるものを運ぶ」ことから派生したと考えると分かりやすい。

 

 しかもこの旅人というのは生者に限らない。ヘルメスは死出の旅の案内人でもあった。彼は生と死の境をも自由に行き来できた。ギリシャ神話では、試練のために冥界へ赴くヘラクレスの道案内も務めたことがある。また、英雄の魂はヘルメスが、凡人の魂はタナトスが冥界へ運ぶともされた。

 

 しかしこれはあくまでも世間に伝わる神話上の話だ。ヘルメスは地上の覇権には興味がないのか、これまで一度も聖戦に参戦したことがない。だからテオドシオスたち聖域の人間にとっても、実際にどのような力を持っているのかは明らかではなかった。

 

 死刑執行人という名を持つ者がその力を持っているというと、どう考えても死にまつわるものが連想される。あの候補生の考えでは、マニゴルドがその力で処罰を受けるようなことをしでかしてもおかしくないようだった。誰かを殺したことがあるのか。

 

 あの悪童がそんな大それたことを、とテオドシオスは鼻で笑い飛ばした。

 

 彼の知るマニゴルドは、ただの野放図な子供でしかなかった。たとえヘルメスの子孫だったとしても、死者の導き手ではなく、セージの言葉をシジフォスに届ける伝令役のほうがしっくり来た。

 

(いや、しっくり来る来ないは別にして、これは年寄りを揺さぶる種になるか)

 

 やはり老人と面会をしようとテオドシオスは決心した。結局その役目は、不測の事態が起きることを恐れたヨルゴスに横取りされてしまうのだが。

 

 射手座のシジフォスが帰還したのは、その面会の最中。真昼のことだった。

 




ギリシャ風の覚えにくい名前の神官たち
テオドシオス:メタボな神官長代理。
ヨルゴス:テオドシオスの親友。魚座のルゴニスと名前は似ていても無関係。
マタイオス:テオの腰巾着その1。
アレクシオス:テオの腰巾着その2。マニゴルドをロドリオ村まで連れだした。
ディミトリオス、エウゲニオス(未登場):長い物には巻かれろ。


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神羔唱(アニュス・デイ)――ヨルゴスの告白

 

 時は少し遡り、セージが教皇宮の一角に軟禁された夜のこと。

 

 街並みを見下ろす丘の上。シジフォスは露店で買った焼き栗を剥いては口に放り込んでいた。ほくほくして美味しい。人気の絶えた夜の遺跡で、彼は待ち人を待っていた。

 

 やがて音もなく空気がひび割れた。風景という幕の隙間から、この世という舞台の裏手から、一つの人影が現れた。

 

「マニゴルド」

 

 声を掛けると、人影は猫が毛を逆立てるように振り返った。その様子がおかしくて、シジフォスは笑いながら姿を見せた。

 

「驚かせたか。済まん済まん。俺だよ」

 

 当初は宿でマニゴルドの到着を待つつもりだった。しかし街の地理に暗い者が夜に一人で辿り着けるだろうかと不安になり、迎えに来たのだ。

 

「迷子になんかならねえって。ガキ扱いすんな」

 

「まあそう怒るな。猊下からのありがたい届け物はここで受け取るから」

 

 シジフォスの差し出す片手をマニゴルドは遠ざけた。金だけならこの場で渡しても構わないが、手紙を読んで教皇の意図を理解してからにしてほしいという。その主張にシジフォスも納得して、二人で一気にアクロポリスの丘を駆け下りた。そして灯りのある通りに現れた時には、二人とも地元民のような顔で歩いていた。

 

 シジフォスの案内で宿に入ったマニゴルドは、無造作に卓上に荷物を放り出し、椅子に腰掛けた。シジフォスも寝台に腰を下ろす。そしてやっと尋ねた。

 

「一体何が起きてる」

 

「まずこれ読めよ、射手座の黄金聖闘士様」

 

「判った。ああ、これ食べてていいぞ」

 

 教皇の手紙を受け取り、シジフォスは封蝋を確かめてから注意深くそれを開いた。マニゴルドは焼き栗の焦げた皮を剥きながら、彼が読み終えるのを待った。

 

「……予め聞かされていても、やはり信じがたい事態だな」

 

 それがシジフォスの率直な感想だった。聖域への帰途で届いた教皇からの念話。指示されるまま帰り道を逸れてアテネに潜伏。夜まで待ち続けてやってきたのは教皇の弟子。その一連の流れが神官たち主導の教皇交代劇を阻止するためのものだと知って、シジフォスはもうどうしていいか判らない。握りしめた手紙だけが頼りだ。

 

「ジジイが退位したってのは本当みたいだ。それでシジフォスが後継者に指名されたかっていうと、まだあやふやな感じっぽい。女神の代理人にジジイが返り咲くか、それともあんたが引き継ぐのかは、これからのあんたの動き次第。理解できた?」

 

と、マニゴルドは組んだ足を揺らした。

 

 シジフォスは眉をしかめながら口を開いた。

 

「猊下からの手紙には、カトリヴァノスという家を訪ねろとあった。誰だか知らんが俺はこのまま行っていいのか。猊下はご無事なんだろうな」

 

 教皇の弟子は頷く。セージにはシジフォスを無駄に遊ばせるつもりはなかった。どうせ聖域の外にいるのだから調査に行ってこいという指示を出したのだった。人使いが荒いというよりは、この件で使える人材が限られていた。聖闘士の任務や聖域外での動きを管理している神官ハーミドは、テオドシオス側にいる。

 

「ジジイは元気だよ。別の場所で捕まってた俺をこうして外に送り出すくらいのことはできる。荒事にはしたくないって部屋で大人しくしてるけど。いざとなりゃルゴニスのおっさんも控えてるから、気にせず外回りしてこいってよ」

 

「そうか。良かった。帰還が遅くなると聖域には連絡していないんだが、それは大丈夫かな。不審がられていないか」

 

「さあね、知らない。一日や二日の遅れくらいじゃ騒ぎにならねえよ。問題は三日以上経ってからだ」

 

 現代のような分刻みの行動が当たり前の時代ではない。遠方への旅をするなら、その旅程にはある程度の幅が想定されていた。聖闘士が本気で動けば秒単位の行動もこなせるだろうが、さすがに調査任務にそこまでの正確さは求められていない。

 

「むしろ今すぐ帰って状況を確かめたいんだがなあ。手紙の最後には『教皇になる気があるなら、今すぐ戻ってきて私を倒していくがいい』って書いてあったんだ。おまえはどう思う、これ」

 

「そりゃあ、そのまんまの意味だろ。ジジイは書類に署名させられたけど引退前にやりたいことがある。敵を叩くための証拠を掴まずにあんたが戻ってきたら困るってことだ。ひょっとして反逆の首謀者としてしょっぴいてやるから覚悟しろってことかもよ」

 

 そんな冗談にしては恐ろしいことを告げられ、シジフォスはぶるると身を震わせた。

 

「教皇などという大役、普通に考えて俺みたいな若輩者には無理なお役目だ。ルゴニス殿だっているし、もうすぐハスガードも牡牛座になって戻ってくる。なぜ俺なんだ。なぜ今なんだ」

 

「俺もそれ聞いてみた」

 

 そこで言葉を切ると、少年は意地悪い笑みを浮かべて彼を見た。「知りたい?」

 

「ああ。できれば猊下のご見解をそのまま教えてほしい」

 

 それならば、と教皇の弟子は、足を組み直した。

 

「まずハスガードだけど、まだ聖衣を得ていない者の話は考慮しなくていい、ってことで飛ばすぜ。っていうか飛ばされた。ジジイが一番心配してたのは、事の首謀者があんたで、テオドシオスがそれに従ったって可能性」

 

「まさか!」あらぬ疑いにシジフォスは叫んだ。

 

 マニゴルドはうんざりと手を振って「あくまで可能性だって」と彼を落ち着かせた。

 

「あんたは聖域に腰を落ち着けてる時間がなかった。根回ししてる余裕はない。そんなことはジジイも分かってる。でも神官の立場だと一番都合の良いのはあんたなんだとよ」

 

 老人は弟子に語ったという。

 

『シジフォスは若くて経験不足だ。聖闘士としてではないぞ。人としてまだ若い。弁論が得意というわけでもないから、神官にかかれば口先で丸め込むのも容易い。しかも人の話をよく聞く素直な子だ。年長の神官に意見されれば無碍にはできないだろう。すなわち傀儡が欲しい神官には最も好ましい候補者だ』

 

 これがたとえば新教皇にイリアスやルゴニスが就いた場合、神官が自身の意に従わせるには手間が掛かる。年齢による経験の差を盾にすることができず、理詰めで納得させなければならないからだ。二人も狡猾さを身に付けた大人だから、易々と神官の言いなりにはならないだろう。むしろセージよりも若いぶん、厄介な信念と情熱を貫こうとするかも知れない。

 

 ことにイリアスのほうは、聖闘士としては立派だが教皇となると未知数である。性格的には折れることを知らない頑固なロバのようであり、他人に尺度を合わせることを良しとしない修行者のような男だ。そんな人物に教皇になられては、神官は意思疎通の難しさに胃を痛める日々を送ることになるだろう。

 

『黄金位が獅子座と魚座だけだった時代には、誰も教皇交替のことを持ち出さなかった。それはあの二人が神官にとって好ましい教皇にはなりえないと確信があったからだろう』

 

 さらには、イリアスもルゴニスも教皇位に就くには問題があった。獅子座の風来坊は聖域を離れていつ戻るか判らない。孤高の魚座は公務から退いている。前者が二度と帰ってこないこと、後者の目的が弟子に称号を継がせることだと知るのは教皇だけだとしても、二人が表舞台から去ったことは聖域中が気づいていた。

 

 つまり現実的な教皇候補としては、今の時点では射手座しかいない。テオドシオスにとっては今こそ絶好の機会なのだ、と少年は師から聞いたことを締めくくった。

 

「玉座からどかせるのに十分な大ポカが、あくまで神官にとってのだけどそれがジジイにはある。後継者候補は都合のいい奴が一人きり。おまけに目障りな神官長もいない。となりゃあのデブも、あんたが帰ってくるまでに全部済ませておこうって気になるだろうよ」

 

「だからって、書類一枚で聖域の未来を決められて堪るか。俺が即位を断れば、この件は無かったことにならないかな」

 

「それが通ると思うなら帰還すればいいじゃん。今なら教皇殺しの射手座になれるぜ」

 

 冗談にしても質(たち)が悪い。睨んでやるとマニゴルドは肩を竦めてみせた。シジフォスは気を取り直してもう一度手紙に目を通した。

 

「しかし猊下はなぜこんな回りくどいやり方を取られるんだ。こんな事をせずとも、不逞の輩など首にしてしまえばいいだろうに。どうして猊下は大事な書類に署名されたのだろう。なにか別の書類だと欺されたのか。もしや猊下は一度署名したものを反故にすればいいとお考えなのか」

 

 それをすれば教皇の地位は一時的には戻ってくるだろうが、神官たちの失望は決定的なものになってしまう。下策だった。

 

「今のところ相手のやり方に合わせた反撃方法を考えてるみたいだから、そういうつもりはないと思うぜ。ジジイ風に言うなら、横がどうとかはしないって」

 

「横車か? 横紙破りか?」

 

 せっかく助け船を出したのに、何でもいいや、と相手はそれを蹴飛ばした。

 

「とにかく強引に進める気はないって。まだるっこしいよなあ。ごちゃごちゃ考えてないで刃向かった連中みんな首切れば簡単なのに」

 

「自分でも同じ事を言っておいてなんだが、猊下にとっての落としどころは違うところにあるのかもな」

 

 敵の処分について一介の聖闘士があれこれ考えても仕方ないが、テオドシオスたちが行っているのは教皇に対する反逆行為である。全員の処刑はなくても、首謀者と主だった者たちの処分は確実だろう。一方で関わりの軽かった者たちはお咎め無しにするつもりかも知れない。テオドシオスの一派が何名いるのかシジフォスは知らないが、全員連座では日常の業務が滞ってしまうことは想像が付いた。だからこそ禍根を最小限に留めるために教皇は慎重に動きたいのだろう。

 

 けれどその先へは思考を進めたくなかった。全てが済んだらセージは本気で引退するのではないかと、それで譲位に同意することを受け入れたのだとは、想像したくなかった。

 

「まあいいか。俺は聖闘士だから教皇のご命令に従っていれば間違いないんだ」

 

「いいね、その開き直り」

 

 マニゴルドは教皇から託された当座の資金をシジフォスに預けた。渡された革袋の中は銀貨で満たされていた。シジフォスは不安になった。なにしろ聖域の財産を管理しているのは神官だ。どうやってこの大金を持ち出してきたのだろう。

 

「安心しな。それ教皇のへそくりだから。ジジイが言うには、聖域の金庫から金を出せないようなもしもの時の準備金だってさ。手形を使うと後で流れを洗われるから、こういう時は足の付かない現金に限るんだとよ」

 

「生々しいな」

 

 教皇の使いは服に落ちた食べかすを払った。

 

「さてと。そろそろ帰るから、悪いけどお師匠に伝えてくれ。また穴開けてもらわねえと」

 

 念話を覚えればいいのにとシジフォスは思ったが、それよりも、少年が聖域に戻る気でいることに驚いた。

 

「戻るように猊下が仰ったのか。猊下はおまえを聖域の外に逃がすために使いを頼んだはずだ。その証拠に、手紙にはおまえも連れて行けと書かれていたぞ」

 

 ほら、と手紙を見せると、「あのクソジジイ」と少年は顔をしかめた。

 

「きっとおまえも軟禁されていたのだろう? そこに戻るなんて意味のないことは止めろ。下手に聖域にいれば神官の交渉道具に使われるぞ。場合によっては身の危険が及ぶと猊下は心配されたはずだ。おまえが敵の手に落ちればそれだけ猊下は動きにくくなる。それくらい分からないはずないだろう」

 

「そうやっていつも肝心な時に俺をのけ者にする」

 

「拗ねるな。子供か。そういうことを言うなら、おまえが聖域に戻ってどんな利点があるというんだ」

 

「……俺はいつでも死ねるし、殺せる」

 

「なんだと」シジフォスの凛々しい眉毛が跳ね上がった。

 

 その厳しい目線に歯向かうように少年も彼を睨んだ。

 

「神官が俺の命を盾にとってジジイに言うこと聞かせるなら、その前に死んで、逆に神官を困らせてやる。俺は神官の手札かもしれねえけど、死んだ瞬間にジジイの手札になる。弟子を殺された年寄りが少しくらい強引な真似をしたって聖域は同情するさ。そうならなくてジジイの作戦が失敗した時も、俺が神官を皆殺しにしてやる。それでその後に俺も死ねばゴタゴタは一気に片が付く。どうだ。どっちに転んでも役に立つだろ」

 

 シジフォスは少年を撲った。

 

「なにすんだよ!」

 

「命を粗末にするな」

 

「してねえよ。俺みたいな奴の命にも利用価値があるんだぜ」

 

 それはかつて命を塵芥と評した者にとっては大進歩だったが、シジフォスには捨て鉢になったようにしか聞こえなかった。

 

「なあマニゴルド」

 

 少年は応えず、ふて腐れて殴られたところを摩っている。

 

「今のおまえは猊下の弱みかも知れないが、もっと修行を積んで強く賢くなれば、強みになれるんだ。こんなどうでもいい小競り合いに命を賭ける必要はない。タマを張るならもっと大一番まで取っておけ。頑張って聖闘士になるんだろう」

 

 黙りこくっている少年の背を強く叩いてから、シジフォスは窓辺に立った。眺める先は窓の外。建物に遮られて何も見えないが、はるか遠くの聖域の方角を向いた。 

 

 やがて彼は口を開く。

 

「今、猊下に念話で確かめてみた。やはりおまえには俺の旅に同行してほしいということだったぞ。そうと決まれば早く終わらせてさっさと聖域に戻ろう。なあ」

 

 マニゴルドは髪をがしがしと掻き回して、それからようやくシジフォスの提案を受け入れた。

 

          ◇

 

 神官ヨルゴスが部屋を訪れた時、セージは読書をしていた。挨拶がてら、何を読んでいたのか尋ねた。しかし歯切れ悪く言葉を濁して、老人は本を閉じて机の端に追いやった。

 

 その背表紙に箔押しされた金文字の名残を読み取り、神官は唇を歪めた。『君主論』だった。玉座を追われてから読むのでは遅いだろうに。そう思ったがヨルゴスは別のことを口にした。

 

「原語版なのですね」

 

「この前、マニゴルドに『神曲』を読み直させたことがあってな。読み書きを教えていた頃を思い出した。それでイタリア語の本を順繰りに引っ張りだしていたところだ」

 

 老人は懐かしげに本の革表紙を撫でた。

 

「あやつはイタリア出身だ。ギリシャ語とラテン語の教材は聖域にあるが、イタリア語に関してはどうしようか悩んだものよ」

 

「外国出身者は必ず言葉で苦労いたしますね。ギリシャ語を覚えるのにまず一苦労、そして母語の読み書きで二苦労。結局どうされたのですか」

 

「聖書を読ませた」

 

 その際にはギリシャ語=イタリア語の対訳版を用いた。ギリシャ語の勉強にもなって一石二鳥だったと、老人はどこか自慢げに語った。一応ここは戦女神アテナを奉じる中心地だが、教皇も神官もキリスト教の教典を持ち込むことを気にしなかった。

 

「あれの神の偏狭さはひどいものだが、物語としては面白いな」

 

 元浮浪児は、当初、立ちはだかる文字の羅列から逃げ出した。文章を読むことに縁の無かったからだ。そこでセージが毎夜少しずつ読み聞かせたという。

 

「セージ様が読み聞かせされたのですか」

 

 なんと贅沢な日課があったものだと、ヨルゴスは口を挟まずにはいられなかった。

 

「そう長いこと読んでやったわけではない。士師記あたりからあやつも自分で読めるようになったから」

 

 そう言うと、老人はふと自嘲した。

 

「マニゴルドと共に暮らすようになったものの、どう接すればいいか初めは判らなんだ。夕食の後は特にな。星見に行ってその場を逃れても、帰れば部屋で一人ぽつねんとしているあやつの姿を見ることになる。余計に我が身が責められたような気がしたものよ。楽器やカード遊びなどもしてみたが、間が持たぬ。読み書きを教えるというのは苦肉の策であった」

 

「そういうものなのですか、初めての弟子取りというのは」

 

「さあ。普通の聖闘士がどうやって弟子と日々を送っているかは知らぬのでな。単なる体験談だ。そういえばそなたは確かモスクワの出だったな。故郷の言葉は読み書きできるか」

 

「え、ええ。ご存知でいらっしゃいましたか」

 

「ヨルゴスというギリシャ名を名乗ってはいるが、本名がエゴールであることも知っておる。ゲオルギオスという名は、ジョージがすでに使っていたから避けたのだろう」

 

「よくご存知で」

 

「顔を合わせる者の本名くらいはな」

 

 ちなみにヨルゴスはゲオルギオスの愛称・短縮形である。エゴールというロシア名もゲオルギオスに由来する。ジョージも由来を同じくする英語形だ。

 

 彼以外にもギリシャ語風に名を改めている神官は多かった。そういう流行があったのだ。アレクシオスことスペインのアレホや、エウゲニオスことドイツのオイゲンなどがそうだった。聖域の共通語はギリシャ語だが、ギリシャ出身者の割合は案外少ない。

 

「そうして出身の異なる者たちが、アテナに身を捧げるという一点のみをもって同胞となる。けれど表面をギリシャ風に統一したところで、皮一枚めくれば思惑や理想はそれぞれ違うほうを向いておる。本当に合わせるべきは名前より足並みなのだろうな。それが叶わぬのは、私の指導力が足りぬせいだ」

 

「我が友人であればそれを叶えられるでしょう」

 

「分かった風な口だが、そなた、テオドシオスの目的を理解しておるのか」

 

「聖域をよりよい方向に導きたいという目的は、友人の本音でもありますよ。しかしセージ様が仰りたいのは違うことでしょう。ええ、承知しております。彼が神官長として権力を振るいたいことは」

 

 それで何か問題があるのかとヨルゴスは老人を見つめ返した。実力のある者が実力を発揮できる場所を求める。それの何がいけないのか。

 

「そのために子供を人質に老人を幽閉し、若者に玉座を押しつけるという手段しか思いつかなんだか。テオドシオスならば正道を選ぶこともできただろうに」

 

「機を見るに敏ということです」

 

「強引な手を使わせ、それを理由に帰還した新教皇には彼を遠ざけさせる。そして自らが神官長に成り代わることを望む。そんな者が彼の近くにいなければ良いのだがな」

 

 それを聞いてヨルゴスの視線に険が混じる。己のことを当てこすられるよりも、醒めた老人の口調が気に障った。なぜこうなったのか、少しは省みればいいのだ。

 

「強引な手と仰いますが、あれは同志たちの溜飲を大いに下げたのですよ。セージ様は神官の鬱屈を判っていらっしゃらない。あなたは聖闘士。私たちはそれにならなかった者たちだ。私たちがどんなに聖域のために尽くしてもそれが歴史に残ることはない。私たちが記す聖闘士の歴史に私たち自身の名は刻めない。それが今、私たちの手で歴史を動かすという偉業を成し遂げたのです。こんな嬉しいことはない」

 

 自らの言葉に突き動かされて彼は昂ぶっていく。準備不足だった面はあるが、それでも行動を起こすべき時だったと、テオドシオスもヨルゴスも確信していた。

 

「そんなに神官は辛いか」

 

「いいえ。生きていくだけで精一杯の者たちに比べれば恵まれているでしょう。贅沢な悩みを抱えていると思われても仕方ありません。けれど私たちにも、女神に仕える特別な者という自負があります。正式な聖闘士からはそれも借り物の虚栄に見えるでしょう。だから小宇宙と女神を持ち出せば黙ると侮っていらっしゃる。ああ、蔑ろにされたと恨み言を申し上げるつもりはありません。あなたは立派な教皇だった。内心では今回のことも匹夫の勇だと嘲笑っていらっしゃるでしょうがね」

 

「そのようなつもりは無かったが……」セージは息を吐いた。「ところでヨルゴスよ、そなたは胸に溜まったものを吐き出しに来たのか」

 

 用があって来たのだろうと促され、彼は背を伸ばした。しかし口を開くより先んじて、

 

「言っておくがシジフォスを呼び戻せというのは無理な相談だ。あの者が今どこで何をしているのか把握していて、そこへ確実に指示を届けるならともかく、やみくもに各地へ指示をばらまくのは感心しないやり方だ。シジフォスの居場所を教えろと言われても、私も知らぬ」

 

と釘を刺された。ヨルゴスも射手座が聖域にいないことを隠し通せるとは思っていない。

 

「そこまで仰るなら単刀直入に申しましょう。射手座様を聖域から遠ざけているのはセージ様の命によるものですね」

 

「無理を申すな。評議の場からこの部屋に押し込められるまでの短い時間で、この年寄りに何ができた。窓から文を投げるくらいか?」

 

「では外部に繋ぎを付けていらっしゃらないのですか。射手座様の帰還を早めるような方法はありませんか」

 

「知らぬ。勝手に調べるがいい」

 

「そんな、自分は無関係だという態度をなさらないでください。あなたのお弟子にも関わる話なのですから」

 

 僅かに首を傾げた老人に、ヨルゴスは言った。

 

「事態が膠着したことに焦りを覚えた我々の同志が、あなたを脅すためにお弟子の身を痛めつけてみようと言いだしたのです。このままでは危険です」

 

「なんと」

 

 身を引いてみせたセージをヨルゴスは見やった。弟子が牢獄を抜け出したことを知らないのか。あるいは全て知っていての演技なのか。彼には判断がつかなかった。

 

「評議の場でお弟子を使った脅しを掛けたでしょう。それを見て、もっと過激なことをしようと考えたらしいのです。私もテオドシオスも、そんな事を取引材料にしたくはない」

 

 実は、そのような事を言い出した神官は存在しない。しかしこの部屋から出たことがない者には、事の真偽を確かめる術はないはずだった。もし勝手にしろというなら、それすら「我が身惜しさに弟子を見捨てた冷酷な老人」という非難の種になる予定だった。

 

「その者は、マニゴルド殿が伝令神ヘルメスの力を使うという噂を聞いて、彼が泥棒であると思ったようでした。そこで過去の罪を問い、事実ならば体罰を与えるという名目を見つけたつもりになっています。それを防ぐためにこうして参りました。ヘルメスとは盗みの意味で合っていますか」

 

「マニゴルドには聞いてみたか」

 

「何を話しかけても黙ったままでして……。情の強い少年です。さすがに黄金聖闘士だった方の弟子というだけのことはあると、皆も感心していましたよ」

 

 それを聞くと老人は唇の縁に笑みを浮かべた。こんなあからさまな世辞が効くのかと、逆にヨルゴスは不安になった。けれど老人が笑ったのは違うところに理由があった。

 

「あやつに手を出すのは止めておけ。マニゴルドは確かにヘルメスに似た力を持っている。だがそれは盗人や賭博の技ではない。死者の魂を冥界へ運ぶ導き手としての力だ」

 

 テオドシオスが候補生から断片的に聞いた話。それがマニゴルドの師の口からも出てきた。

 

「彼が人殺しであるということですか。だから無闇に近づくと返り討ちに遭う。そういうことですか」

 

「何の言質を取ろうとしておる。この世には小宇宙という奇跡があるように、不思議な力を持つ者が存外多いということよ」

 

「はあ……」

 

「疑っておるな。私とてその手の力は持っておる。一つ教えてやろう」

 

 セージは笑いを消して、彼をひたと見つめた。

 

「今宵、ある一本の蝋燭の火が風に吹かれることなく消える。同じ燭台に据えられた他の蝋燭も、やがて同じ運命を辿るだろう。テオドシオスと皆にそう伝えよ」

 

「予言でございますか」

 

 さて、と老人は空とぼけた。

 

 ヨルゴスは更に問い詰めようとして、ふいに注意を逸らした。セージも扉のほうを向く。外から慌ただしい気配が近づいてきた。射手座の黄金聖闘士が帰還したという知らせによって、面会は打ち切られた。

 

 二人はシジフォスの待つ教皇の間へ向かった。軟禁されていた元教皇にとっては久しぶりの移動である。教皇の兜を小脇に抱えていた。

 

「セージ様。射手座様に会われた瞬間にその首を刎ねるような暴挙はお考えになりますな。有望な黄金聖闘士を私情で殺せば、暴君の悪評を後世に残すことになりますよ」

 

 この期に及んで神官たちの計画を潰すことを考えるな、とヨルゴスは注意する。聖域の記録を残すのは神官の務めだから、これはただの脅しではない。

 

 それに対しての返答は落ち着いていた。

 

「私がどう行動しようが、それを映す鏡が歪んでおれば像も歪んで見えるものよ。曇った鏡は磨けば良いが、歪んだ鏡を矯正するにはどうすればいいだろうな」

 

「気づいた時点で早めに新品に取り替えておくべきでしたな。しかし歪んでいるのが鏡像ではなく実物だとしたら、それを指摘するのも鏡の役目でございます」

 

「ははは。なるほど」

 

 セージは機嫌良く笑った。

 

 二人の行く手から声が聞こえてきた。

 

「今までどちらにいらっしゃったのですか。それに誰にも帰還を知らせずに教皇宮にお越しになるとは。下の者にでも予め一声掛けて下されば、すぐに対応できましたものを」

 

 非難がましい神官の声に応えるのは若い聖闘士の声。

 

「前触れもなく参ったことは詫びよう。先ほど聖域に戻ってきた時に、教皇宮からの呼び出しがあったと従者から聞いた。それで遅ればせながら馳せ参じた次第だ。遅参についてのお叱りは猊下から賜りたい。猊下はどちらにおわす」

 

「もうすぐお越しになります」

 

 ちょうど二人がその場に到着した。

 

 教皇の間である。

 

 大理石と花崗岩がふんだんに使われた大広間だ。広間の正面には数段の階段を備えた高台があり、その中央に玉座が据えられている。玉座の後ろには幕が引かれ、背後を窺うことはできない。一説には、天上のアテナが聖闘士たちの声を直接聞きに下りてくるための本当の玉座があるとも言われていた。

 

 今、その教皇の間の中央には、玉座と相対するようにシジフォスがいた。それを両脇から見守るのは法衣姿の二十有余人。譲位を「見届ける」ために揃った神官たちだ。

 

 セージは広間を横切り玉座の前へ進んだ。シジフォスが膝を折った姿勢のまま深く頭を下げた。これで譲位がなったとしてもいいが、テオドシオスの期待するのは前任者が後任者の名を呼ぶことだ。書き直された譲位同意書にそう記されていたから、それがセージのせめてもの希望であるはずだった。

 

 シジフォスが恭しく差し出した書状を受け取ると、老人は慣れた仕草で玉座に腰掛け、厳かに宣言した。

 

「では評議を始める」

 



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聖体拝領唱(コンムニオ)――ルゴニスの傍観

 

 評議を始めるというセージの言葉に最初に反応したのはシジフォスだった。彼はさっと脇に寄った。それより一拍遅れて、神官たちが無言のままざわつき始めた。どういうことかとテオドシオスのほうを見る者もいる。ヨルゴスも友人に答を求めた。テオドシオスは首を横に振った。彼の予定にもなかった。

 

 戸惑う者たちを前にセージは言葉を連ねる。

 

「評議とは話し合いの場。あの小さな部屋でなくとも顔ぶれが揃えば行うことはできよう。私は教皇位を返上し、持っているのは次期教皇の指名権のみである。しかしこの場にいる黄金聖闘士の同意を得て、評議を滞りなく進めるために臨時でこの座に着く。教皇と神官長がどちらも不在の場合、神官長代理より黄金聖闘士の意思が優先される旨、相違ないな」

 

「相違ございません」

 

とシジフォスがすかさず応える。彼はセージの言葉に驚きをみせず、それどころか呼応して動いていた。やはり二人は通じていたのだと何人もの神官が悟った。

 

 老人は頷き、今度はテオドシオスを見据えた。

 

「神官長代理よ。そなたが次なる教皇にと望む者が同席するのだ。このまま評議を開いても構わぬな」

 

「お待ちください。譲位の後ではいけませんか」

 

「ならぬ。ここに聖域の財産が不当に持ち出されたとの報告がある。その真偽を論ずるのが先だ」

 

 場がざわついた。老人はそのまま話を始めようとした。しかしそれにテオドシオスが待ったを掛けた。

 

「教皇ではない方が玉座に掛けられたままというのは納得がいきません。我々も立ったままでは些か辛うございます。やはり場所を変えませんか」

 

「では床に座ろうじゃないか」と射手座の若者が快活に言った。聖衣を身に付けたまま器用に絨毯の上に胡座を掻く。ふむ、とセージも頷き、兜を玉座に置き去りにして玉座前の階段に腰を下ろした。仕方なく神官たちも床に座り込んだ。どことなく遊牧民の部族会議を思わせるような光景が生まれた。

 

 場の長老が改めて口を開いた。

 

「射手座よ。まずは予定よりも外部任務が長引いた経緯をこの場で詳らかにいたせ。神官たちはそなたの帰還が遅いことに気を揉んでおったようだぞ」

 

 一同は老人の言葉に同意した。神官長代理が苦々しげに前方の床を睨んでいるのを、隣でヨルゴスは心配げに見守った。

 

「今回の我が任務は女神捜索でした。アテナに関する情報収集をしながらの旅でしたので、各地の噂も耳にいたします。帰路でのこと、去年から羽振りが良くなったという家の噂を聞きました。時期的にみて降臨したアテナのご加護を受けた可能性を考えました」

 

 ――若者は近隣でその家のことを聞いて回った。

 

 その辺りでは一番の旧家だという評判だった。先代の当主が外国の貿易船か何かに投資して、それが失敗した時に土地のほとんどを売り払ったそうだ。しかし去年に土地をまとめて買い戻し、家は再び持ち直したともっぱらの噂だった。

 

『大きなお屋敷ですから、行けばすぐに判りますよ』

 

 噂好きの近所の女房に教えられた道を進むと、確かに立派な家構えである。外から見た限り怪しいところはなく、そのまま訪問することにした。現れた使用人にロドリオ村にある聖堂の名を告げて、主人に会いに来た旨を伝える。彼は客間に通された。

 

 やがて現れた当主は気のよさそうな四十代の男だった。前触れもなく訪問した客を見て、訝しそうに目を細めた。

 

『聖堂の方というのはあなたですか』

 

『いいえ、実は偽りの身分を名乗りました。私の所属はご主人だけにお伝えしたかった。私は聖域と呼ばれる地から参りました』

 

 彼の明かした言葉に、当主は『おお』と頷いた。『弟がその地で働いております。働く、という表現でいいのか判りませんが、とにかく若い頃からそこにおります。よそに聞かれる時は弟は修道院に入ったと説明しておりますが、聖域の方をお相手に隠す必要もありません』

 

 聖域の存在は隠されるべきもの。肉親がそこに連なる者として、男の対応は正しかった。

 

 当主の弟は聖闘士候補生として聖域入りしたという。そこで成功して、今では生家に仕送りをしてくれるのだそうだ。前年に大金が手に入ったのも弟が手を回してくれたからだった。アテナとは何の関係もなかった。

 

 シジフォスの話の途中だが、堪らず神官の一人が疑問を呈した。「お待ちください。『聖域で成功した』とは、どういう意味でしょうか。聖闘士の称号を得ても、それで財を成すのは難しいと存じますが」

 

「さよう。何か後ろ暗いことでもやっているのではないか?」

 

「まあ待て。射手座様の話の途中だ」

 

 ――シジフォスは兄弟がどのように金をやり取りしていたのか当主から聞き出した。

 

 それによればまず、聖域にいる弟がなにがしかの品物の代金として俗世の商人に金を払う。この際、品物の納品先を聖域ではなく兄のいる生家としておく。そして品物が届いたその場で、兄は商人に同じ品物を売却する。商人は品物を買い取った代金を兄に支払う。こうすることで兄弟は周囲には肉親の仕送りと気づかれることなく金をやり取りできる。商人のほうでも労せずして手数料代わりの差額が手に入るのだという。

 

 その旧家を辞したシジフォスは聖域への道を遠回りして、仲介者となった商人を訪ねた。

 

「仲介人にとってはただの商いの一環ですから、しっかりと記録が残っておりました。それを見せてもらいましたが、聖域にいる側の取引人の名が弟本人の名前ではなく、聖域の使う偽名で記されていたのです、しかもこの仲介人、普段から聖域と付き合いのある商人でした。つまり台帳には金の支払人として聖域の偽名が並ぶばかりで、それが正しく聖域としての買い物なのか、個人の送金の隠れ蓑にされたのか私には区別できませんでした」

 

「それは仕方ないのではありませんか」と神官マタイオスが口を挟む。「弟のほうも俗世に送金をしていると知られたくなかったのでしょう」

 

 若者はそれを無視した。「ここに取引を控えてきました。聖域の出金記録と照らし合わせて、金の出どころが区別されているか神官に確かめてもらいたい。……と、このような調査をしていたため帰着が遅れた次第にございます」

 

「それはご苦労だった。ちなみにその商人は何と申す」

 

 セージの問いにシジフォスは答えた。

 

「プラカ地区にあるツィメント商会です。ソティロス聖堂の近くに店を構えております」

 

「ほう。それは奇遇な。私のほうでもつい最近その名を聞いた」

 

 不思議そうな一同に向かい、老人は説明する。

 

「皆も知っているように、収入と支出は帳簿によって管理されている。私の手の者がある用事で――これは今回の件には関わりがないから省略するが、昨年の経費を精査した。その結果、闘技場の改修のために大金が使われたという記録を見つけた。しかし実際には普請の計画はなく、購入したはずの大量の建材は聖域内には保管されていなかった。つまり架空の普請だったということだ」

 

「失礼ながら、それは確かでしょうか」

 

と神官の一人が不満そうに反論した。「去年の記録と仰いますが、表だって見えないところで普請をとうに終えていただけかも知れませんよ」

 

「聖域の普請を請け負う雑兵が下にいる。まとめ役は棟梁と呼ばれているそうだが、その棟梁にも確認済みだ。彼はこれまで手がけてきた普請の内容を手元に控えていた。後を引き継ぐ者たちのために事細かにな。その裏付けを取ったうえで、架空の計画だったと申しておる」

 

「取引があったように装い、金を持ち出した。そういうことですか。いったい誰がそんなことを」

 

 気色ばむ神官を宥めてセージは話を続ける。

 

「先走るな。さて俗世の建材屋との取引さえも架空のものなのか。記録として教皇宮の書庫に収められていた契約書は偽造のものなのか。それを確かめるべく、取引の場とされたロドリオ村に調べに行かせた。そして金の受け渡しが記録の通りに行われたことが確かめられた。この建材屋がツィメント商会だ。ただし買った建材の納品場所はロドリオ村ではなく、まったくべつの遠い地が指定されていたそうだ」

 

 まさか、と神官ソネルが呟いた。「まさかさきの射手座様の話に繋がるのですか。仕送りというのは聖域の財産を横流しして行ったと……?」

 

 セージはテオドシオスのほうを見やった。

 

「ここまで調べを付けたところで私は教皇の座を追われた」

 

「ならば今後は私のほうで調べを進めます」とテオドシオスが後を引き取った。

 

「現金の絡む俗世との取引は出納係に任せておりました。ご存知のように私の部下だったアリスティディスです。その立場を利用して横流しを行ったのでしょう。あの者が聖域から去ったのも、きっと事の露見を恐れてのことに違いありません。犯人はアリです。上役だった私が、責任を持って奴の犯した罪を暴きます」

 

 神官長代理の言葉に、ふ、とセージは笑った。

 

「しかし彼の本名はアリスティディス・コレティス。射手座が調べてきた分限者は何という家だ?」

 

 シジフォスが答える。「カトリヴァノス家です」

 

 神官たちの目がある一点に集中した。セージも同じ先を見つめた。いつか見せた、鎌の刃が光るような笑みを浮かべている。

 

「私の調べでも同じ名前が出てきた。つまり生家に多額の仕送りをしている当主の弟というのは、そなただな。テオドシオス・カトリヴァノス」

 

 一同の視線の先では、神官長代理が身じろぎもせずに床を見つめていた。

 

「そなたはかつて候補生として聖域に入り、小宇宙を体得できなかったために神官に転向した。そして今や神官長まで手が届くほどに出世した。それは成功といって良いだろう。しかし神官の身で財を成したと兄に誇るために何をした?」

 

「言いがかりでございます」とテオドシオスは顔を上げた。「私は俗世を捨て、ただの一神官としてアテナにお仕えする身です。兄に送る金など持ち合わせておりません。誰かが私の名を騙ったか、私を貶めようとしたのではございませんか」

 

「そうかな。聖域の財産を着服して、一部を生家に流していると考えると合点がいく。なにしろこの件以外にも、不自然な支出が見つかっておる。帳簿の辻褄合わせは上手いようだが、水増しした金額を小さく見せることまではできなんだか」

 

「な、なにを……」

 

「主計を司るそなたであれば、俗世との金のやり取りも帳簿の書き換えも怪しまれずに行える。出納係が姿を消したのは、その片棒を担がされた罪悪感からではないかな」

 

「すべて想像でしょう」

 

「想像ではないぞ」と、シジフォスが高らかに言った。「ほら、証拠が来た」

 

 若者の視線の先には、今まさに入室してくる三人の姿があった。先頭は魚座の黄金聖闘士。それに伴われているのは元出納係。そして大量の台帳や紙の束を抱えてやってきたのは、これまで行方不明だった教皇の弟子だった。

 

「なぜ」と呻く声が隣から聞こえ、ヨルゴスは友人を振り返った。しかし、すぐに気を持ち直して三人に尋ねた。

 

「何用でございますか、魚座様。ここは教皇の間ですぞ。黄金位であるあなたはともかく、法衣を返上した部外者と候補生まで連れてお越しになるとは」

 

「ふん」

 

 温厚な良識派として知られるルゴニスの返答であった。老人が苦笑している。

 

 魚座のルゴニスはセージと向かい合うように広間の入口に近い側に陣取った。次いで元出納係のアリスティディスがその後ろに控えた。マニゴルドは何かの書き付けを師に渡してから、運んできた帳簿類を座の真ん中にせっせと広げている。

 

 神官ヨルゴスは今度はセージに向かって訴えた。

 

「百歩譲って、アリは本件の犯人としてこの場に召喚してもいいでしょう。しかしあなたのお弟子は聖闘士ではない。即刻この場を立ち去ってもらうべきです」

 

「我が弟子のことは雑兵だと思って無視せよ。資料を運ばせただけだ。私や射手座の話が推測ばかりで根拠のないものか、そなたら神官たちの目で確かめてもらおうと思ってな」

 

 独房を抜け出した後の少年の行動を聞くべきか。流用に関わっている疑いが濃厚な元出納係を弾劾すべきか。それとも老人の話を確かめるべきか。テオドシオスの指示が欲しくてヨルゴスはもう一度振り向いた。しかし友人はというと、丸い顔に脂汗を浮かべて黙するばかりだった。

 

 そうこうするうちに、少年は何食わぬ顔で部屋の隅に引き下がってしまった。仕方なくヨルゴスは三番目の選択肢を取った。

 

「……エウゲニオス殿、頼む」

 

 名指しされた神官は少し狼狽してからそれに従った。テオドシオスに不利な証拠が出るのを恐れて止めさせようとする者もいた。しかしヨルゴスはそれを無視した。同志たちの動揺は友人の身の潔白をもって抑えればいい。そう考えたのだ。

 

 エウゲニオスは金の流れを確かめ始めた。契約書や台帳、帳簿を見比べる様子を一同は無言で見守った。と、老人の声に意識を引き戻される。

 

「ところでハーミドよ。聖闘士が外部任務に赴く時に路銀を与えられるのは知っておるな」

 

「あ、はい。心得ております。任務に掛かる日数や地方に応じた額を計算し、出納係に連絡するのは私の務めでございます。用意された路銀を出立前の聖闘士に渡すのも同じく」

 

「ではそなたも帳簿で己が仕事の結果を見るがいい」

 

 ハーミドは同僚の調べている出金台帳を横から少し借りてページをめくった。俗世への支払いと同じように、聖闘士に渡された路銀の額もそこに記載されている。次第に彼の顔は険しくなっていった。担当者である彼の記憶よりも多額の路銀が支給されていた。

 

 指示は書面でも伝えていたはずだが、どこで間違ったのか。床に置かれた台帳の中から神官同士の連絡記録をまとめたものを探し出して、自分の書いたものを確かめた。支払い額を記した帳簿と同じ額の連絡。つまりはハーミド自身の指示通りに路銀が用意されたことになる。しかし本人の感覚よりも額が大きい。

 

 納得がいかず連絡書を見つめていると、ふと金額の部分に違和感を覚えた。目を凝らした。気づいて「あっ」と叫ぶ。金額を示す数字が巧妙に書き換えられていた。別の機会の連絡書も確かめてみると、いずれもハーミド自身の出した元の額より金額が高くなっていた。

 

「金額部分が改竄されております。しかし聖闘士に渡す前にこの目で現金を確かめておりますが、その時には一度も差違はなかったのですよ。アテナに誓って事実です。私が差分を着服したのではありません!」

 

 セージが真向かいに座る者に声を掛けた。「アリスティディス。当時の出納係として説明を」

 

「はい。聖闘士の任務用の金はハーミド様の指示通りの額を用意いたしました。連絡書の金額が書き換えられたのはその後。ですからハーミド様に責はございません。金庫から密かに引き出した実際の額と帳尻を合わせるために、任務が完了した記録に手を加えられたのです。過去の連絡書面など誰も見返しませんから、気づく者もありませんでした」

 

 疑り深いソネルがハーミドの所までいざり寄って、その手元の資料を見つめた。そして元出納係を見やる。

 

「あなたが改竄を行ったのですか?」

 

「彼ではない」

 

と、セージは穏やかに否定した。

 

「彼は記録が改竄されたことに気づいて私に報告しようとしたのだ。しかしそれを察した犯人に脅された。金銭を扱う機会は多いが下級の出納係に過ぎない者と、次期神官長の座も近い上級の管理職とでは、どちらの話が信用されるか。どちらが横領犯として見られるか。報告すればその罪はおまえのものになると脅され、報告しなくても共犯を強いられることになる。そしてどちらも選べなかったアリスティディスは聖域を離れた」

 

「申し訳ありません!」

 

 一声叫んで元出納係は平伏した。

 

 わずかに首を捻って魚座のルゴニスもその様子を眺めた。彼は他の神官から、元出納係の身を保護するためだけにこの場にいた。そして評議に参加する予定はない。言うなれば高みの見物ができる立場だ。

 

 ソネルが平伏したままの元同僚から老人へ目を転じる。

 

「本人の言葉を信じて、金額の改竄を行ったのはこの者ではないとしましょう。ではお伺いしますが、誰が改竄を行い、聖域の財産を不当に目減りさせたのですか。出納係の目を潜って金を持ち出すことを、誰ができたのですか」

 

「どう思う、上役だったテオドシオスよ」

 

 同僚の疑問に、そして老人の問いかけに太った男は答えない。血の気が引いているその姿は出来損ないの蝋人形に見えた。

 

「沈黙もまた答なり。ではアリスティディスに聞こう。そなたに罪を被せようとした者は誰だ」

 

「…………テオドシオス様でございます」

 

 教皇の間に泥めいた沈黙が広がった。

 

 離れていた所で眺めていた悪童が欠伸をした。

 

 しばらくして、嘘です、と一つの呟きが生まれた。神官ヨルゴスが友人を庇って声を上げた。

 

「嘘です。テオドシオスは譲位を進めようとする者。それに抵抗する方々が彼を嵌めようとして、このような手を打ったのでしょう。神官長に騙されたのでしょう。目をお覚まし下さいセージ様!」

 

「それは言いがかりだ。そこにある出納の記録は間違いなく正式なものだ。実際に聖闘士に渡った金額は記録より少ないようだがな。正確なところが知りたければ、受け取った本人たちに確かめるがいい。任務の報告書と照らし合わせれば話の信憑性も分かる。少なくとも私の手の者はそうして裏を取った。雑兵に普請の件を聞きに行ったのと同じようにしてな」

 

 それまで俗世の商人を介しての金銭の流れをみていたエウゲニオスが、ようやく帳簿から顔を上げた。

 

「セージ様と射手座様のお話は筋が通っているようです。少なくともツィメント商会を通じて聖域の資金が俗世の一領主に流れていたことは、事実のようです。これほど額面が一致するのは……、信じたくはないのですが……」途中でつっかえ、彼は一つ息をして落ち着いてから言い直した。「失礼。聖域の記録や売買契約の書面では、聖域としての通常の取引と、それを装ったカトリヴァノス家への送金の違いは見てとれません。いずれも建材を買うために聖域の金庫から代金を支払われております」

 

「そこまで違いがないなら、ロドリオ村で先方と顔を合わせている出納係が怪しいということではないかね。直接先方に納品場所を伝えられるのはその者しかいないのだから」

 

と、ようやくテオドシオス本人が反論した。

 

 元上役に睨まれ震えながらも、アリスティディスは答えた。

 

「この商会に代金を支払う際は、テオドシオス様から二種類の鳥の羽根を持たされておりました。ある時は山鳩の茶色い羽根。別のある時は鶏の白い羽根。それを現金と共にツィメント商会の者に渡すのです。意味は分かりませんでしたが、私は外出記録の一部として日記に書き留めておりました。故郷にいた私を迎えにきた方にその事をお話ししますと、それが私の潔白を示すものになりうると言われました。今この場にその日記を持参しておりますので、お確かめください」

 

 彼が懐から出した小さな手帳を、近くの神官が受け取った。ここで手を差し出した者が二人いた。

 

「その嘘吐きの私物はこちらで預かる」とテオドシオス。

 

「こちらへ。日付と羽根の関係だけ確かめたい」とエウゲニオス。

 

 手帳を預かった神官は一瞬だけためらった。それから真っ直ぐにエウゲニオスのところへ持っていった。ぱらり、ぱらりとページをめくる音が皆の耳に届いた。日記の記述と、帳簿と、商会の取引記録と。それらを見比べたあとでエウゲニオスが出した結論は、

 

「鳩の羽根が聖域としての正規の取引。鶏の羽根がカトリヴァノス家への横流しを意味しているようです」

 

ということだった。

 

「つまり一度取り決めをしておけば、聖域にいるままツィメント商会に連絡ができるということだ。金を運んだ者には気づかれずに、何度でも」

 

「後でツィメント商会に聞いてみましょう。託された羽根の意味と、その習慣を始めた者が誰なのかを」

 

 セージとシジフォスの会話を聞いて神官長代理は俯いた。膝の上で両の拳がきつく握りしめられた。

 

 ヨルゴスが友人に声を掛けようとした時、再び老人の深みのある声が場を支配した。

 

「さて、私はテオドシオスを始めとする神官たちによって、星見を誤り女神に背いたとして弾劾された。けれど旗振り役自身が己の欲のために聖域を謀っていたとなると、その言い分も純粋に聖闘士の未来を考えたものであるか疑わしいところだ。聖域で恣(ほしいまま)にふるまうための詭弁でないと誰が言い切れよう。それともそなたらは自分も甘い汁が吸えれば良しとして目を瞑るのか。それは堕落した者の考えかたである。女神の意に背いているのが誰なのか、よく考えるがいい」

 

 神官たちは老人の顔を見ることができなかった。しかし一人が羞恥心を堪えて反論した。

 

「それを理由に退位そのものを反古になさるおつもりですか」

 

「否。私は先日書いた譲位同意書の内容を翻すつもりはない。射手座が聖域に戻ったら後継者を指名すると言ったことについても同様だ。約束は守ろう」

 

 神官たちの視線は不安げに交錯した。

 

 シジフォスを次の教皇に就けようとしたのは、テオドシオスのもと、神官主導の聖域の新体制に移行するためだった。それなのに計画の要であるテオドシオスが脱落してしまった。少なくとも彼が神官長に就任する未来はなくなった。

 

 そして黄金聖闘士の二人は、セージがすでに教皇ではないと聞いてもまったく動じていない。これまで互いに接触していなかったはずなのに、まるで全てを知っているようだ。

 

 このまま話を進められては神官にとって不利な方向に進むのではないか。神官たちはそう感じた。

 

「お待ちください。少し休憩を挟みませんか」

 

と、ヨルゴスが割って入った。体勢を立て直す時間が欲しいのだと誰もが理解した。彼にとっても、友人が聖域の財産を着服していたという事実は衝撃的だった。しかし老人は落ち着く時間を与えなかった。

 

「いや、このまま進めよう。すぐ終わる」

 

 そんな、という悲鳴に近い呟きを最後に、神官は主導権を取り返すことを諦めた。

 

「さて私の目には二人の黄金聖闘士が見える。二名とも、前へ」

 

 シジフォスとルゴニスが前へ進み出た。彼らがセージの前に膝を折る姿を神官たちは見つめた。年長の黄金聖闘士から先に問いを受ける。

 

「魚座のルゴニスよ。そなたは玉座を継ぐ意志はあるか」

 

「我が身は健やかさを失いつつあります。とても聖闘士の全てを双肩に担う力はございません。恐れながら辞退させて頂きます」

 

「射手座のシジフォスよ。そなたは玉座を継ぐ意志はあるか」

 

「若輩の身なれば、辞退させて頂きます」

 

「もう一人黄金位がいるが、あの者は同じ問いにどう答えるだろうか」

 

「我が僚友、獅子座のイリアスならばこの場にいないことをもって返答とするでしょう」

 

「正しくそれが兄の答であると、弟の私が保証いたします」

 

 二人は深く頭を垂れ、声を揃えた。

 

「我らの前におわす方こそが次なる教皇。聖闘士を導くにふさわしい方でございます」

 

 セージは淡々とその礼を受けた。

 

「打診した者全てに断られてはやむを得ない。このセージ、再び老骨に鞭打って精一杯務めることにいたそう」

 

 そう言って老人は立ち上がると、段上に向かった。置かれていた教皇の兜を被り、玉座に腰掛ける。こうしてセージは茶番とも言える再就任を済ませた。

 

 見慣れた景色を取り戻し、セージは神官たちを見回した。彼らは祝福することも異議を申し立てることも選べなかった。

 

「新教皇のもとでそなたたちもこれまで通り励むがいい――と言いたいところだが、それには些か問題があるな。問題を解決して未来に向かうために話をしよう」

 

          ◇

 

 そのまま神官たちは別室に押し込められた。そして下位の者から一人ずつ呼ばれては、教皇のもとへ連れて行かれた。譲位計画にどれほど関与したのか、そして恭順の意志はあるのかを問われるためだ。

 

 ちなみに神官を教皇の間へ連れて行くのは教皇の弟子だった。黄金聖闘士の二人は教皇の側に控えているし、雑兵についてはテオドシオスに抱きこまれた者とそうでない者をセージはまだ区別できていない。

 

「あんな小僧に……! 独房に閉じ込めるなど情けを掛けないで、やはり殺しておくべきでしたよ」

 

「もういい。ヨルゴス。私たちは負けた」

 

 一度呼び出されて部屋を出ていった神官は戻ってこなかった。お陰で少しずつ部屋は広くなったが、誰かが憂鬱な溜息を吐いた。

 

「つまり決起の首謀者に近いほど後回しというわけですね」

 

「立場の弱い者は独力で権威に立ち向かえない。寝返りを狙ったか」

 

「いや、セージ様――もう猊下でいいか――が話をすると仰っているのはテオ殿のこともでしょう。横領に関与していないことが明らかな者や、現場に近い者から順に事情を聞いているのではありませんか」

 

 彼らは項垂れている神官長代理のほうを見やった。そしてもう一度溜息を吐いた。いきなり教皇に寝返って元同志を糾弾する側に回るほど彼らは厚顔ではなかった。かといって聖域の財産を私した者を庇うには情に徹しきれなかった。

 

 やがて日も沈み、部屋は真っ暗になった。気を利かせたつもりか、マニゴルドが灯りと水差しを持ってきた。部屋は明るくなったが雰囲気は暗いままだ。

 

 そして最後の二人が残った。ヨルゴスが、ふと老人から言われていた言葉を思い出した。

 

「……今宵、ある一本の蝋燭の火が風に吹かれることなく消える。同じ燭台に据えられた他の蝋燭も、やがて同じ運命を辿るだろう」

 

 テオドシオスが顔を上げた。「それは何だ、ヨルゴス」

 

「昼に猊下とお会いした時に皆に伝えるようにと告げられた言葉です。予言めいていますが、今の状況を予見してのことでしょうね。今更思い出しても何もできませんが」

 

 ヨルゴスは自身の不甲斐なさを鼻で笑った。

 

「一本目の蝋燭はテオ殿、あなたの夢でしょう。すでにそれは消えた。二本目は皆の信望だ。あなたに幻滅し、託した希望が消えた。私たちは負けたのです」

 

「いったいどういう話の流れで出たのだね。その予告は」

 

「小僧のことを話した後でした。この予言の直後に射手座殿が戻られたのです。あんな取るに足らない者のことなどのんびり喋っている場合ではなかったですね」

 

「そうだな」とテオドシオスは力なく笑った。「そういえば、ヘルメスとはどういう意味か判ったか」

 

「猊下が仰るには、死者の魂を冥界へ運ぶ導き手のことだとか」

 

「死者の」

 

「猊下が言明を避けられたので、彼が人を殺したことがあるかどうかは結局判らずじまいでした。もっとも、ないと断言されなかった以上は後ろ暗いところがあるとみていいでしょうね。もっと早く情報を掴んでいれば敵の弱点になり得たかもしれないと思うと、残念です」

 

 部屋の戸が開いて、外から話題の少年が覗き込んだ。「次。ヨルゴスさん」

 

 お先に、と会釈してヨルゴスが部屋を去った。

 

 最後の一人となったテオドシオスは、友人の残していった言葉を噛み締めた。部屋の隅で燃えている灯りを睨みながら。

 

 蝋燭が消える。

 

 それは野望が潰えるくらいで済むだろうか。普通の比喩ならば命の火が消えることを意味するだろう。教皇を譲位させるという計画を立てた時点で、失敗すれば処刑されることは頭にあった。ただ、失敗をするとは思っていなかった。

 

 無血の譲位計画だった。お陰で今まで誰一人として死んでいない。帳簿の細工に気づいて教皇に密告しようとした小賢しい出納係さえ、殺さずに済ませた。濡れ衣は着せたが、命は取らずに聖域から離れるだけで許してやった。それなのに自分だけは死ななくてはならないのが、急に理不尽に思えてきた。

 

(猊下はそれでも私を処刑するだろうか)

 

 どうにか金を工面して返納して減刑してもらおう。これまでに使い込んだ金が幾らになるか覚えていないが、同僚や部下を歓待した分も入っているから彼らにも負担してもらおう。聖域の金で飲み食いさせたのも共犯者になってもらうためだ。関係ないような顔をさせてなるものか。

 

 それから兄からも仕送りした分も返してもらおう。そもそも生家へ金を送ったのは、家を没落から救うためではなかった。俗世にいる家族に己の才覚を見せつけてやりたかったからだ。ただ家を繋ぐことしか望みのない兄や、聖闘士など訳の分からないものを目指すのは止めろと言っていた家族たち。それを振り切って聖域入りしたのに、聖闘士になることは叶わなかった。それでも聖闘士を見下ろす場所で、聖闘士の指導者を動かすことはできるはずだった。自分は間違っていないのだと知らしめたかった。

 

 年下の獅子座や魚座の黄金聖闘士が表舞台から退場しても、神官の自分はまだまだこれから輝けると思った。

 

 だが失敗した。

 

「やはり私は死ぬのか」

 

 彼は自分の声が掠れていることに気づき、不意に動揺した。

 

(死にたくない)

 

 息苦しさを覚えた。落ち着こうと卓上の水差しに手を伸ばしかけた。が、あまりに震えている手を見て止めた。何か他のことを考えて気を紛らわせようとする。しかしうまくいかなかった。

 

 そのうちに教皇の弟子が迎えに来るだろう。その時こそ蝋燭の火が消える時だとテオドシオスは考えた。

 

(そういえば、死刑執行人だとか言っていたな)

 

 少年の名の意味を思い出し、彼は己が身を抱いた。教皇の弟子は人殺しだ。そして堂々と死刑執行人を名乗っている。きっと教皇も知っている。マニゴルドは教皇の命を受けて咎人を処刑しにやってくる。この部屋にはもう彼一人しかいない。目撃者はいない。ヘルメス。なにが象徴なものか。正しく死の使いだ。

 

 テオドシオスは戸の鍵が開く音に顔を上げた。

 

 戸の向こうにいるのはきっと死に神だ。鼓動が速まり、胸が痛くなった。きい、と音を立てたほどだ。いや、今のは蝶番が軋んだ音だった。大きく開かれた戸の外に立っていたのは、教皇の弟子だった。少し前まで侮っていたはずの相手が、今は無性に怖かった。

 

「迎えに来たぜ」

 

 そう告げた少年と目が合ったとき、彼の心臓が限界を超えた。

 

          ◇

 

 あ、とマニゴルドは声を上げた。目が合った途端、太った神官が白目を剥いて倒れてしまったからだ。

 



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赦祷文(レスポンソリウム)――シジフォスの困惑

 

 教皇による詮議は続き、今やとっぷりと日が暮れていた。教皇譲位の件と公金横領の件をまとめて聞き取りしているのでどうしても長引く。

 

 詮議の最後を締めくくるのはテオドシオスだった。教皇の間では先に話を終えた者たちも居合わせている。皆で彼の到着を待つばかりだった。

 

 と、黄金聖闘士の二人が、ついで若い神官たちが、最後に年長の神官たちが、扉のほうを見やった。玉座の主だけは悠然と前を見据えたままだ。

 

 太った法衣姿の男が前屈した恰好で宙に浮きながら入室してきた。否、自分より大きな男を担いでマニゴルドが入室した。

 

「お師匠どうしよう。デブが死んじまった」

 

 少年は言うなり男を床にどさりと転がした。麦の大袋よりぞんざいに運ばれてきたのはテオドシオスの体。広間の隅にいた神官たちは慌てて駆け寄った。

 

「テオ殿! しっかりなさってください」

 

 一人が彼を助け起こし、頬を叩いた。しかし反応はない。脈を、そして呼吸を確かめるが手遅れだった。まだ温かい体を囲んで神官たちは慌てふためいた。

 

「何をした小僧!」

 

「知らねえよ。俺は何もやってない。部屋に迎えに行って戸を開けたら、その場でぶっ倒れたんだよ」

 

 見かねたシジフォスが混乱の中に分け入って、テオドシオスの蘇生を試みた。しかし効果はなく、やがて半開きだった死者の瞼が閉ざされた。

 

 その間にマニゴルドはセージに促されて人の輪から遠ざかっていた。

 

「お師匠」

 

「言うな。道のりがどうあれ、彼はここにいる」

 

 老人の視線は弟子の顔から右にずれ、左肩の少し上に向けられた。何もない空間だ。しかしセージはその何もない宙に手を差し伸べ、ゆっくりと元に戻した。マニゴルドの視線も自分の顔の左から師の指先へと移っていった。

 

「後は任せておけ」

 

 その言葉に少年は頷いた。重要なものを引き渡してほっと一息吐いた。

 

 ばさり。教皇が場の空気を変えるように法衣の袖を翻した。

 

「テオドシオスに逃げ切りを許すつもりはない。まだ聞きたいこと、確かめたいことは残っておるのだ。ゆえにこの場で彼を甦らせよう」

 

 一同は耳を疑った。

 

「まだ蘇生が間に合いますか」

 

「アテナが我が祈りに応えて下されば可能だ」

 

「祈り……?」

 

 周囲の戸惑いをよそに、セージは懐から古ぼけた一枚の札を出した。死者の胸に置かれたそれを見て一同は息を呑んだ。アテナの霊血《イーコール》をもって御名が記された護符。俗に「アテナの護符」と呼ばれる、一時的にアテナの加護を受けるための道具だ。神々との戦いで後年セージが大盤振る舞いすることになるが、平和な時代には見る機会のない秘具である。

 

 死者の頭の横に片膝を付いて座り、セージは一同を見渡した。

 

「私に女神の代理人としての資格がないと弾劾した者たちは、よく見ておくがいい。女神のお力添えで私がこれから行うことを」

 

 横たわる者の額に手をかざしてセージは目を瞑った。姿勢が崩れそうになるが、弟子がすかさず支えた。

 

 やがてテオドシオスは息を吹き返した。ゆっくりと目を開いて辺りの様子を確かめ、眠りから覚めたように身を起こした。

 

「ここは教皇の間? 私は……今のは夢か」

 

 周りにいる神官たちを見回し、その流れで少年の存在に気づき、「ひい、処刑人」と身を竦める。

 

「テオドシオスよ。そなたは生き返った。すべきことは分かっておろうな」

 

 呼びかけた教皇と目が合う。その瞬間テオドシオスは平伏した。

 

「真に申し訳ありませんでした。このテオドシオス・カトリヴァノスが犯した罪、全て猊下に申し上げます!」

 

「うむ。全て白状するがいい」

 

 鷹揚に頷く教皇と、罪を悔い改める罪人。その光景に、神官たちは全てを丸く収める風が吹いたと感じた。

 

「奇跡だ……!」

 

「アテナ万歳!」

 

「教皇セージ万歳!」

 

 女神と教皇を称える歓声が広間に響いた。

 

 テオドシオスは蘇生したその夜のうちに全てを自白した。

 

 横領は十年ほど前からずっと重ねていたそうだ。経費に水増しする形で、金庫にある実際の貨幣と帳簿上の数字をすりあわせた。それは聖域の金庫を預かる彼にとってたやすいことだった。

 

 横領に手を染めたきっかけについてはこう答えた。聖闘士より聖域に貢献しているのに評価されず、何らかの形で対価が欲しかったのだと。不当に手に入れた金を使って同僚や部下をねぎらったのは、彼と同じ不満を抱いている神官たちの鬱憤を、和らげてやりたかったからだと。

 

 そしてアテナ捜索が始まって金が頻繁に動くようになったのを利用し、今度は聖闘士の外部任務の経費を隠れ蓑にした。捜索に金がかさむことを理由に女神捜索の中止を提言すれば、教皇も考え直すはず。捜索中止が聖域のためだと誰もが考えているのだから、その理由を用意するのも役目のうちだった。もし経費の無駄を見直そうという動きが出て横領が明るみに出たら、その時は出納係のアリスティディスに罪を着せるつもりだった。

 

 俗世の商人を介しての生家への送金にも、やはり聖域の金を宛てていた。建材購入を装ったのは、まとまった額を動かしても不自然ではないから。方法についてはセージとシジフォスが語った通りだった。

 

 欲と不満と綺麗事と。しかし印象を良くするために口にした綺麗事の中にも、間違いなくテオドシオスの真実があった。

 

「汚泥と砂金を練り上げたような男だな」

 

と、陪席したルゴニスが評した。すると同じく陪席していたシジフォスが忌々しげに、

 

「なにが砂金ですか。泥と糞の間違いでしょう。この者は罪を犯しました。猊下を背任者呼ばわりしながら自らが聖域に背きました。今述べたこともどこまで本心か。紛うことなき悪人です!」

 

と非難した。若者らしい潔癖さだった。

 

 テオドシオスは黙って頭を下げた。

 

 セージはその後頭部を眺めていたが、唐突に「続きは明日にしよう」と取り調べを終えた。テオドシオスは麓の宿舎にある自室に帰された。表に監視の雑兵がつくが、牢獄に繋がれるのとは比べものにならない待遇の良さだ。帰りがてらということで、ルゴニスが送っていった。

 

 教皇の間から退出するセージの後をシジフォスが追った。

 

「なぜあの薄汚い裏切り者を帰したのですか、猊下」

 

「新教皇が即位した、その恩赦というのでは納得がいかぬか」

 

「いきません。失礼ながら猊下はお人が善すぎます。あのような殊勝な態度に騙されてはいけません。悪人は即刻処刑すべきです。本当は私があの場で殺してやりたかった。猊下が生き返らせた奇跡を無駄にするのも、教皇の間を血で汚すこともしたくありませんでしたから、どうにか耐えましたが」

 

 射手座は火の性である。その性質そのままに食ってかかる若者にセージは苦笑した。

 

 そこへ、神官たちの控え室に使った部屋からマニゴルドが出てきた。灯りと水差しを盆に乗せている。

 

「終わったぜ、片付け」

 

「ああ、ご苦労。水差しはまだ厨房には持っていくな」

 

「分かってる。誰も飲まなかったな」

 

「なんだ。水が余ってるなら少しもらうぞ」と、怒りで喉の渇いたシジフォスは水差しに手を伸ばした。

 

「駄目だ」

 

 セージが彼の手を押さえ、マニゴルドは盆を遠ざけた。

 

「な、なにが駄目なのですか」

 

 戸惑うシジフォスを見て、老人が頬を歪める。

 

「私が善人でテオドシオスが悪人だと? 逆だろう。私は業の深い人間だよ」

 

 師弟は廊下の奥へと消え、その場には立ち尽くすシジフォスが残された。

 

          ◇

 

 翌朝、教皇宮への呼び出しのため宿舎を訪ねた人間が、寝台で冷たくなっているテオドシオスを発見した。アテナの護符の力で生き返っても、命数までは伸ばせなかった。そう同僚たちは納得した。事実を白日の下に引き出すためにアテナが教皇に力を貸したのだと、そういう結論に達した。

 

 そして死者を一時的に生き返らせるという奇跡を起こした教皇セージに対して、女神の代理人に相応しくないと申し立てる者はいなくなった。その陰には老人への畏れが半分ほど含まれていた。なにしろ自身は教皇宮にいながらにして、神官とは異なる筋から聖域の実情を調べあげて把握したのだ。下手な隠し事は身の破滅につながる。

 

 神官へは軽重様々な処分が下った。それに伴って教皇宮はしばらく騒然としていた。神官のまとめ役とその右腕がいなくなって大丈夫かと心配されたところに現れたのは、追放されたはずの髭の神官長だった。

 

 彼は故郷へ戻る途中に元出納係を訪ねていたという。そこでテオドシオスの汚職の件を知り、これは聖域の一大事と確信した。真相を明らかにするためアリスティディスを連れて聖域に戻ろうとした。すると途中で運良く任務帰りの射手座と出会ったので元部下の身を託した。そして事件の早期解決に貢献したことが教皇の目に止まって、追放処分を取り消されたということだった。

 

 こうして教皇の座に返り咲いた老人のもとで、髭の男も神官長の座に舞い戻った。彼は再び神官の手綱を取ることになった。

 

 また、神官たちの意見にも聞くべきところがあったと認めた教皇によって、女神捜索の人員は大幅に削られた。捜索を中止することはできないが、神官たちの言い分に譲歩した形である。

 

 一方で、テオドシオスたちに協力していた白銀聖闘士は身柄を押さえられる前に姿を消していた。射手座の帰還を知ってすぐに聖域を逃げ出したらしい。そこで聖闘士の掟に従い、聖域から追っ手が差し向けられた。しかし今のところ逃亡者を始末できたという連絡は入っていない。宿舎には聖衣が置かれたままだったから、もはや聖闘士として生きるつもりはないのだろう。

 

 かくして、この一連の事件は教皇宮の中だけで終わりを迎えた。神官にとっても教皇にとっても、表沙汰になられては困る事件だった。公の記録には、「教皇セージの治世の間に、数人の神官が聖域の財産を私した罪で処刑された」とだけ記されることになるだろう――。

 

 マニゴルドは醒めた表情で耳を掻いた。

 

「それでいいじゃんべつに。めでたしめでたし」

 

「良くない」

 

 彼の前には冴えない表情のシジフォスがいた。

 

 二人は射手座の守護宮である人馬宮にいる。闘技場に行こうとしたマニゴルドを、シジフォスが「聞きたいことがある」と引き留めたのだ。

 

「なあマニゴルド。どこまでが猊下の計画だったんだ?」

 

「何が? 何も企んじゃいないだろうし、企んだところで俺みたいなガキに話すわけないじゃん」

 

 へらへらと笑う悪童を見て、シジフォスは溜息を吐いた。

 

 彼は騒動に巻き込まれてその始末を間近で見ていた身だ。終わってみると、一連のできごとが全て教皇の描いた筋書き通りだった気がしていた。

 

 手紙での指示を受け、彼はまずツィメント商会へ向かった。同行していたマニゴルドが相手の警戒を解き、取引台帳を見せてもらうことに成功した。新聖堂を建てる参考にしたいという作り話をしたのだ。思わずその話は何だとシジフォスは聞いた。ロドリオ村の聖堂の神父が思い込んでる仮説に乗ったのだと悪童はずるがしこい顔で笑った。それから二人で協力して、聖域の関わった取引記録を片端から書き留めていった。その中に予想通りカトリヴァノス家の名前があった。

 

 次に二人は件の家を訪ねた。そして当主の話を人の好い顔で聞きながら必要な情報を手に入れた。ここでツィメント商会を仲介して聖域からの仕送りがあったことはもちろん、その額や仕送りの時期も確かめられた。

 

 それを終えて教皇に念話で「調べを終えたので聖域に帰還したい」と伝えると、神官長の連れてくる者を拾って戻ってこいという指示があった。神官長が聖域を離れていることにシジフォスは驚いた。しかしその事実を聞いてもマニゴルドは平然としていた。事態の異常さを理解していないのだとシジフォスは思った。

 

 それからアテネの市街地にある宿屋で待つこと二日。シジフォスたちの前に待ち人が現れた。神官長が連れてきたのはシジフォスの知らない男だった。元神官だと紹介され、聖域まで連れて帰るよう頼まれた。一方で神官長は宿に残った。彼が追放されていたとシジフォスが知ったのは教皇の間に着いてからだ。教皇宮に上がる前に双魚宮でそこの守護者と合流し、言われるがまま元出納係と教皇の弟子をルゴニスに託した。

 

 その後の教皇の間での評議では、宿屋で受けた指示通りに発言した。まるで芝居の演者になった気分だった。教皇の再即位の後は、そこにいてくれればいいからと頼まれて、分かったような顔で陪席していた。そして神官への尋問を聞いて、ようやく一連の流れを把握したのである。

 

 評議の場では、教皇の弟子は大した存在感はなかった。しかし教皇の手足となって裏で色々と調べ回っていたのは、シジフォスではなくマニゴルドだ。教皇の思惑を知っている者がいるとすれば、その弟子だった。シジフォスの考えではもう一人いるが、話を聞きやすいのは目の前の少年だ。

 

 ちなみにルゴニスは「何もしないのが私の役目だった」としか教えてくれなかった。彼もまた巻き込まれた側だったらしい。

 

「白を切るにしても、ある程度のことは教えてくれてもいいじゃないか。俺だって猊下の計画で使われた身だぞ。なあ、テオドシオスの二度の死は自然なものなのか」

 

「そりゃ保証してもいい。一度目も二度目も本人が勝手にくたばったんだ。デブだから心臓がくたびれてたんだろ」

 

「一度目の死を確認したのは俺だ。確かに死んでいた。甦ったのがアテナの護符による力だというのも認めてもいい。だけど生き返らせる直前におまえたちがやり取りしていたのは、あれは何だったんだ」

 

「問い詰められてたんだよ。俺が殺したんじゃないかって」

 

とマニゴルドは肩を竦めた。

 

「では俺に水差しの水を飲むなと言ったのは? こんな想像はしたくないが、毒が入っていたんだろう。反逆者たちをまとめて片付けるためか」

 

「毒なんて知らないね。あ、そうそう。虫が入ったんだ」

 

「しかしヨルゴスは蝋燭の炎が消えるのどうのと、猊下から予言を受けたと言っていた。つまり猊下は最低でも一人を息絶えさせるおつもりだったはずだ。それを甦らせるのも織り込み済みで。そうでなければ、あんな都合良くアテナの護符が出てくるものか」

 

「あの場で殺されるかもしれなかったのはお師匠も同じだぜ。たとえばデブ……テオドシオスが逆上してさ。身を守るための道具を隠し持ってたっていいじゃん。準備万端で何が悪い」

 

「周到過ぎたんだ。あれは奇跡を起こして、我こそが女神の代理人であると神官たちに認めさせるためだろう。あの流れを用意できたなら、他にも前もって色々と考えられたはず。叛乱の予兆だって掴めていてもおかしくない」

 

 へえ、と熱のない相槌だけを返して、マニゴルドは膝に置いた包みの端をいじった。教皇宮から持ってきた包みは、掌に乗るくらいの小ささだ。

 

 シジフォスは前のめりになって言葉を紡ぐ。

 

「放っておけば、猊下に対する神官の反目は遅かれ早かれ致命的なものになったかも知れない。しかしアテナをお救いする前に捜索を打ち切られるわけにはいかない。だから神官の反目を逆手にとって、猊下は求心力を取り戻そうとされた。教皇の間で語られたことは、偶然の積み重ねとしてテオドシオスを追い詰めることになったように見える。俺への指示もそうだった。でも実際はあの場は、神官全員の意識を変えるために猊下が用意された舞台だったんじゃないか」

 

「話がくどくて何言ってるか判んねえ」

 

「要するに、テオドシオスを頭目とした造反が起きたのはそう仕組まれたからだろう?」

 

 騒動の翌日、テオドシオスが死んだ日からずっとシジフォスが考え続けていたことだった。

 

 神官たちが事を起こしたのは、神官長が追放されてシジフォスが帰還する直前という時だった。聞けば神官長が聖域から追放された理由は、教皇の弟子を殺しかけたからだという。しかし彼は罪を許され、今は何事もなかったかのように元の地位に収まっている。

 

 教皇はわざとテオドシオスたちに好機と思わせるような隙を見せたのではないか。シジフォスにはそう思えてならなかった。

 

「実際に殺されかけたというおまえには悪いが、おまえが相手を怒らせてそう仕向けたんじゃないか。直前に叫んだのも、人を呼んで神官長の兇行を目撃させるためだろう。違うというならなぜ神官ごときに大人しく首を絞められたんだ。いきなり首を絞められた奴が大声で叫んだりできるか。ちなみに聞こえた叫び声は若かったという証言がある。神官長の声じゃない。おまえの声だ」

 

「…………」

 

 もしマニゴルドがただの少年なら、力の差で大人に殺されかけても無理はない。しかし彼は聖闘士の候補生で小宇宙にも目覚めている。神官や雑兵に力負けすることはないとシジフォスは知っている。

 

「神官長は追放処分を受けた。しかしそこで成功すれば処分を取り消すという約束で密命を帯びたんだろう。その密命が元出納係という証人の確保だ。処分取り消しもありがたいが、うまくすれば政敵を蹴落とせて一石二鳥だ。神官長にとっても悪い話ではなかろうよ」

 

「それだと出納係が行方不明だった場合どうすんだ。相手が都合良く故郷にいたからよかったけど、殺されてたらどうにもなんねえ。出納係の証言があったから神官たちだって教皇の話を信用したんだ。いるかどうか分かんねえ奴を迎えに行かせるなんて、お師匠にとっても割に合わねえ賭けだ」

 

「いや、もし元出納係が口を封じられていても、神官長については後から特赦を出せば呼び戻せる。それに証人がいなくても俺たちが見つけてきた証拠がある。まともな判断力がある者がそれを見れば、テオドシオスが叩けば埃の出る身だと分かるだろう。多少時間は掛かってもそれで十分彼は追い詰められる」

 

 ふうん、とようやく少年は相槌を打つ。

 

「それで? 射手座の黄金聖闘士様は、陰謀論をご開帳して俺に何を教えてくれるって?」

 

「茶化すな。不敬なことを考えているのは分かっているんだ。今回の一件を引き起こしたのは神官の増長だけではないなど」

 

 言ってはならないことだ、と若者は膝に肘を突いて項垂れた。そうして床と見つめ合うと床に沈み込みそうな錯覚に陥った。一方でマニゴルドの声はいつものように軽く微風に乗ってくる。

 

「考えるのはあんたの勝手だろ。でも、その結果うちのジジイのやり方に疑問を持ったらちゃんと反対しろよ。不満があっても黙っているなら賛成してるのと同じだ」

 

 シジフォスが言い返そうとするのを無視して、少年は先を続けた。

 

「だけどな、葬式が終わった後で死者の顔をもう一度確かめたいって言っても通らねえんだよ。埋葬は終わったんだ。いまさら墓を掘り返したって死者は甦ったりしない」

 

「おまえはそういう立場なのか」

 

「なんのことだか」マニゴルドは包みを持って席を立った。「もういいかシジフォス。俺、下に用があるんだ」

 

 宮の主人は出口まで見送った。

 

 少年の姿が階段の向こうへ消えていっても、その表情はまだ浮かない。

 

 マニゴルドに尋ねたことはセージへの不敬を疑われかねない内容だった。神官長よりは口が軽い相手と思って期待したが、思うような答は得られなかった。けれど、きっとそれで良かったのだろう。たとえ真実が得られても今度は別の不満が生まれることは分かっていた。

 

 シジフォスの胸を塞いでいるのは、セージへのある種の懸念だった。

 

 横領に気づいた時点でテオドシオスを罰していれば、彼は造反というより重い罪を犯さずに済んだはずだ。神官長が消え、教皇の弟子が手中にあるという絶好の機会を得て初めて彼の計画は実行された。機会という試練を与えたのは教皇だ。

 

 試練。誘惑。

 

 どちらもギリシャ語ではペイラスモスという単語で表される。打ち克つことが求められるのが試練だとすれば、それに挫折してもいいと思う気持ちが誘惑だ。

 

 かの神官は誘惑に弱かった。だから不摂生をし、横領をし、人に持て囃されたがり、時を待てずに教皇を取り替えるという暴挙に出た。

 

 弱い人間だった。

 

 けれど誰の心でも時に強く時に弱くなるものだ。シジフォスもそう自覚している。また、死んだ相手をいつまでも悪く思うのは彼の性分ではない。だから時が経つほどにテオドシオスへの怒りは薄れ、むしろ同情に変わっていった。

 

 試練に克てるほど強い人間というのは、きっと教皇が期待しているより多くない。

 

(猊下)

 

 若者は我知らず手を組んでいた。そこへ額を押し当てる姿は祈るようでもあり、後悔しているようでもある。教皇にはもう二度と誰かの忠誠心や忍耐心を試すような真似をしてほしくなかった。

 

 少なくともこの時のシジフォスはそう思ったのだ。

 

          ◇

 

 マニゴルドは延々と続く階段を下った。

 

 聞く者のいない白亜の道で、にっと唇を吊り上げる。

 

「さすがに渦中の人物ともなると、勘付いてくるか」

 

 神官長追放に関してシジフォスが想像したことは惜しかった。神官長もまた教皇の駒の一つである。

 

 そもそものはじめ、マニゴルドの学習のために過去の帳簿を書庫から運んできてくれたのが神官長ダビドだった。才覚こそテオドシオスに劣るが、教皇への忠誠心だけは誰よりも篤い男だ。聖域の財産が流出していると発覚してからも、マニゴルドと手分けして色々と調べていた仲間のようなものだ。

 

 それが人を殺めかけたなどという無駄な汚点をつけられて、彼も気の毒だとマニゴルドは同情している。教皇宮が落ち着いたら「あれは単なる言い争いだった」と教皇に告白したことにして彼の罪自体を取り消してもらおうと思っている。狂言芝居の指示を出したのが教皇だとしてもだ。

 

 あの髭面の男は少年の首に手を掛けることさえなかなかできなかった。マニゴルドが大声で叫んだ後でも、まだ首に触れるのを嫌がっていた。

 

『どうしてもやらないと駄目かね、マニゴルド殿』

 

『いいからさっさと締めろよ。鶏を締めるつもりできゅっと』

 

『そんなことをすれば死んでしまう』

 

『温いこと言うな髭。殺る気出せよ。もう人が来る』

 

 けっきょく脈を取る程度の強さでしか触ってこなかったので、仕方なくマニゴルドが上から手を押さえつけて締められるふりをした。そこへ駆けつけてきた雑兵が見たのが、「教皇の弟子の首を絞める神官長」という光景だ。

 

 そして神官長は聖域を離れ、俗世へと旅立っていった。 

 

 あとの流れを見る限り、シジフォスの想像通りだろうと思う。テオドシオスの造反を誘発して反教皇派をあぶり出し、それを叩き潰す。一般の聖闘士には気づかれないよう穏便に、かつ、その場にいる神官たちには確実に伝わる方法で。横領の罪を明らかにするのを神官全員が揃うまで待ったのは、その効果を高めるためだった。

 

 更にアテナの代理人として教皇の力の一端を見せつける。そのための奇跡が神官の死と蘇生だった。

 

「あんな頃合い見計らったような倒れ方されちゃあなあ」

 

 部屋に迎えに行った途端にテオドシオスに死なれた時はさすがに驚いた。そしてその魂が積尸気に向かおうとするのを少年は目の当たりにした。それを捕まえて、体と一緒に教皇の間へ持っていった。セージは魂を引き取って、元の体に戻した。戻す前にセージの体がよろけたのは、自らも魂だけとなってテオドシオスの魂と会話していたからだ。あの場にいてそれを知るのは、マニゴルドのみ。魂を視て語らうことのできる積尸気使いだけだった。会話内容については少年が『えげつねえなあ』と思ったことだけを記しておく。

 

 マニゴルドは闘技場へ向かった。

 

 シジフォスに言ったことはでたらめではない。手合わせの約束を守れなかったことを友人に詫びに行くのだ。

 

 もちろん教皇宮で起きた事件に巻き込まれていたという本当の理由は、友人には明かせない。しかし相手は細かいことは気にしない男だ。詫びの手土産に、女官から貰った菓子もある。

 

 ところがそんなマニゴルドの思惑を裏切り、その候補生は闘技場にいなかった。そのとき、顔見知りが道を横切るのを見かけた。

 

「アスプロス!」

 

 優しげな顔が振り向き、マニゴルドを認めて微笑んだ。「久しぶり」落ち着いたふるまいと声。いつもの模範生ぶりだった。

 

「ちょうどよかった。ユスフ知らねえか」

 

「一足遅かったな。彼ならさっき指導者と連れ立って荒野のほうへ出かけたのを見たぞ」

 

 修行に出かけたなら戻りは夕方になるだろう。

 

 マニゴルドは一瞬だけ迷ったが、手元の袋をアスプロスに見せた。

 

「上で菓子貰ったからやるよ」

 

「ありがとう。しかし俺ばかり分けて貰っているから、たまには別の者にも……」

 

「いいんだよ。その代わりちょっと話しようぜ」

 

 マニゴルドは有無を言わせず彼を建物の陰まで引っ張った。

 

 出させた掌に菓子を乗せていく。針金のように細い小麦粉の生地を焼き固めてシロップを染みこませた菓子は、持ち上げる度に角がパラパラと剥がれ落ちた。

 

「全部で六切れあるんだ。俺の分が二つで」

 

「待て。三・三でいい」

 

 慌てる相手に対し、マニゴルドはのんびりと答える。

 

「ハスガードが前に『アスプロスは貰った食べ物を半分残して持って帰る』って言ってた。三つよりは四つのほうが分けやすいぜ」

 

「しかしそんなに貰えない」

 

「まあ聞けよ。俺の分が二つで、おまえの分も二つ。で、もう一人の分も二つ」

 

「もう一人だと」

 

「持って行けよ、覆面野郎に」

 

 アスプロスは僅かに目を見張り、絶句した。その掌の上には菓子が四切れ。

 

「あいつのことを秘密にしたいのはなんとなく察してる。だけどおまえさ、俺がやったことは誰にもチクらねえって言ったよな。ある神官が俺の名前が死刑執行人って意味だと知っててしかも怯えた顔でこっち見たんだけど、おまえの仕業だろ」

 

 強張りの解けた候補生は苦笑した。

 

「それは誤解だ、とは言い切れないな。……ここ数日姿の見えなかったおまえを心配して、ユスフたちが神官に様子を尋ねたんだ。そこに俺も居合わせた。例の件が明るみに出たのか、他にも何かやって罰せられたのかと思ってな。それが逆に変に思われて問い詰められた。だから仕方なくマニゴルドの名前の意味を教えたんだ。あと抽象的だがおまえの能力について。それだけだ」

 

「それ相手どういう奴だった? 太ってたか」

 

「ああ。かなり」

 

 他に何か話したのかと悪童は聞き、何も喋っていないとアスプロスは正直に答えた。

 

「ならいい」

 

「過去に怯えるくらいなら素直に罪を償えばいいだろうに」

 

「現在進行形の隠し事に縛られてる奴に言われたくないね」

 

とマニゴルドは鼻を鳴らした。

 

 アスプロスは掌を彼のほうへ突き出した。「返す。これはユスフたちにやれ。この俺を菓子如きで口止めしようなどと思うな。ついでにおまえなんかに俺たちの秘密をとやかく言われたくない」

 

「菓子が口止め料とか意外におめでたいよな。俺としちゃ疚しいところのある者同士、これから仲良くしようぜっていうお近づきの印のつもりだったんだけど」

 

 マニゴルドが覆面の人物の正体として思いついたのは、お尋ね者だった。

 

 知ってはならないことを知ったために命を脅かされる者がいる。面倒から逃れるためなら、名前も家族も捨てて夜逃げする者もいる。追っ手を諦めさせるために、自分は死んだと見せかけて潜伏する者もいる。

 

 そういった事情を持つ人物だと考えた。アスプロスはその事情を知って協力しているのだと。犯罪の臭いがするなら、「やあご同輩」と気さくに声を掛けたいくらいだ。

 

 しかしアスプロスは動揺しつつきっぱり言い切った。

 

「俺もあいつも疚しいことなんて何もない!」

 

「そう思うなら覆面野郎と一緒に太陽の下に出てこいよ。俺もジジイも疚しいこと大ありだけど堂々と顔を晒して歩いてるぜ」

 

「猊下を引き合いに出すな」

 

「だってあのジジイは自分のこと善人だなんて思ってないぜ。清濁併せ呑む度量って言うのかな、教皇やるにはそれが必要なんじゃねえの。むしろ清い奴じゃ務まらない。今回つくづくそう思ったね、俺は」

 

 じゃあな、と手を振ってマニゴルドは相手を置き去りにした。

 

 残されたアスプロスは拳を握ろうとして――手の中に菓子があるのを思い出した。ぎりりと歯を食いしばるが、それで踏みとどまる。手を握れば脆い菓子が形を崩してしまう。

 

「なんて卑怯な奴だ」

 

 忌々しげに呟くと、アスプロスは歩き出した。貰った菓子を大事に手の中に包んで。

 



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余話「百獣の王と花の王」

 

 ある朝、獅子座のイリアスは聖域を歩いていた。朝といってもまだ早い。空は夜の気配を残し、聖域は静かな眠りに包まれている。

 

 彼は緑が濃く生い茂る聖域の外れで足を止めた。ひんやりした空気に植物の瑞々しい匂いが漂う。そこは魚座が暮らす薔薇園だった。イリアスはしばらく薔薇の茂みを眺めていた。

 

 少しすると茂みの間を縫うようにして赤毛の男が現れた。薔薇園の主、魚座のルゴニスだった。僚友がそこにいることを予期していたのか、驚く様子はない。

 

「もう行くのか」

 

 ルゴニスの言葉にイリアスは頷いた。

 

 その旅装と荷物を見れば、彼がまた旅立とうとしていることは明らかだった。どこへ行くともいつに戻るとも、ルゴニスは問わないし、イリアスは告げない。弟のシジフォスが射手座の黄金聖闘士となり、イリアスを聖域に繋ぎ止めるものはなくなった。彼は二度と戻らないだろう。

 

 つまりこれは今生の別れになる。

 

 人付き合いを好まないイリアスが挨拶に来たのは、後に残るルゴニスに自分の分の負担を背負わせることになるのを申し訳ないと思ったからだった。

 

 前夜まで、彼は誰にも何も告げずに姿を消すつもりだった。教皇も彼が去る時期までは知らないだろう。なのに魚座の黄金聖闘士は何もかもを見通したように彼を穏やかに見ている。

 

 ルゴニスはイリアスの生きかたを理解できなかった。

 

 イリアスはルゴニスの孤独を癒せなかった。

 

 けれど確かに二人は同時代を生きた戦友だった。

 

「これを」

 

 ルゴニスは小さな袋を渡した。中を開けると茶色い種が一握りほど入っている。

 

「おまえがこれと思う場所に蒔いてくれ。丈夫な品種だからどこでも根付いてくれるだろう。できれば日当たりの良い場所がいい」

 

「何の種だ」

 

「魔宮薔薇《デモンローズ》の原種だ」

 

 毒薔薇を世界にばらまくつもりかと、イリアスは友を疑いの目で見た。ルゴニスは笑った。

 

「毒はない。原種といっても複数あるうちの一つだ」

 

 魔宮薔薇の特徴は、いくつもの原種を掛け合わせた末に発現したものなのだと庭の主は説明した。だが植物の交配などイリアスの知識の範疇外だった。

 

「どんな花が咲く?」

 

「私にも分からない」

 

 種から育った薔薇は、親種と全く違う姿に育つこともある。だから餞別に渡した種がどんな花実をつけるかは、冗談でなくルゴニスにも想像が付かない。

 

 イリアスは袋の中の種をもう一度見ると、それを懐にしまった。にこりともせずに言う。

 

「きっと大地が祝してくれる」

 

 そして相手の言葉を待たずに、きびすを返して去っていった。ルゴニスは彼の背を見送り、

 

「さらばだ、友よ」

 

と呟いて住まいに戻っていった。それはまだ起きる者のいない、早朝の出来事だった。

 

 

 

【パターン1】

 

 時は移ろい、魚座の聖衣はルゴニスの弟子のアルバフィカが受け継ぎ、獅子座の聖衣はイリアスの息子のレグルスが授かっていた。

 

 双魚宮に駆け込んできたレグルスは、そのまま教皇宮へ抜けるかと思いきや、宮の守護者の姿を探して大声で呼ばわった。

 

「アルバフィカ、いる?」

 

 太陽のようにきっぱりとした小宇宙がやってくることはだいぶ前から感じていたので、アルバフィカはすぐに姿を現した。ただし訪問者には決して近づかない。

 

「私に用か」

 

「これ見て、これ」

 

 少年は邪心のない笑顔で持ってきた物を掲げた。小さな花の付いた植物の枝だった。

 

「俺、花は食べられるか食べられないかしか分からなくて。でもこいつのことは前から気になってたんだ。さっき急に思い出して取ってきた。アルバフィカなら、何の植物か知ってるんじゃないかと思ってさ」

 

 相手に触れないよう注意しながら、アルバフィカは枝を受け取った。野生児は彼を植物博士か何かと勘違いしているようだが、正直、薔薇以外のことには詳しくない。それでも「博識なデジェルに図鑑で調べてもらったほうが早いだろう」と提案しなかったのは、少年の目があまりに彼を信じていたからだった。

 

 花弁を見て、匂いを嗅ぎ、葉の縁をなぞり、茎の表皮を剥がす。野薔薇の一種だろうと見当は付けたが、それ以上のことは分からなかった。

 

「どこでこれを見つけた?」

 

「見つけたっていうか、父さんの体を埋めた時に俺がその上に種を蒔いたんだ。今日久しぶりにそこへ行ってきたら、この花が咲いてた」

 

「では種を採取した元の場所は」

 

「分からない。父さんが生きてる間ずっと持ってた袋に種だけ入ってた。父さんが大事にしてた物なら、ちゃんと根付かせてやろうと思ったんだ」

 

「イリアス殿が」

 

 手がかりどころか謎が増えただけだった。

 

「私には分からないな」

 

「そっか。それじゃ仕方ないね」

 

「済まない。私では役に立たないようだ」

 

と枝を返そうとすると、少年は「それはアルバフィカにあげるよ」と言って風のように出て行った。

 

 アルバフィカはしばらく考えてから、双魚宮にあった花瓶にその枝を挿した。それが師の贈った魔宮薔薇の原種だということを、彼が知る由もない。

 

 聖域から遠く離れた地で、獅子の骸の上に薔薇はこれからも咲き続けるだろう。

 

 

 

【パターン2】

 

 在位する黄金聖闘士のなかで最も若いレグルスは、怖い物知らずの若獅子である。

 

 仮眠を取っていたマニゴルドを叩き起こし、手にした枝をずいと突き出す。

 

「……なんだよ?」

 

「これ、何の花だか知ってる?」

 

 寝起きに枝を突きつけられて、男は少しの間ぼんやりした。守護宮が隣とはいえ、なにゆえ専門外の植物のことを尋ねられるのか。どうせ聞くなら薬草園の世話をしている雑兵でもいいし、博学多識で知られる同僚でもいいはずなのに。

 

「最初はアスプロスに聞いたんだ。でも分からないって謝られて、マニゴルドなら花を贈り慣れているから詳しいはずだって」

 

「あのクソ野郎」

 

 品行方正な澄まし顔が思い浮かび、男は少しだけ腹を立てた。皮肉られるほど女遊びはしていないつもりだが、夜遊びの後に寝ていた身では、八つ当たりすることもできない。

 

 彼は起き上がって枝を調べてみた。決して女が喜ぶような鮮やかな花ではない。だが枝先に付いた花に改めて顔を近づけた時、脳裏の一部を何かが横切った。この香りには覚えがある。いつ。どこで。

 

 心当たりはあった。

 

          ◇

 

 期待顔のレグルスを連れて彼は十二宮の階段を上った。着いた先は双魚宮。

 

「アルバちゃーん、遊びましょ」

 

「帰れ阿呆」

 

 毎度の軽口に毎度のあしらい。気心の知れた二人にはいつものやりとりだが、レグルスは少々面食らった。魚座は孤高の人という印象が強かった。マニゴルドは少年を前に引っ張り出した。

 

「なんてな。今日はこいつの用事。俺は付き添い」

 

「用事?」

 

 アルバフィカはレグルスの持っている枝に目を留めた。レグルスは後ろの付き添いに促されて、枝をアルバフィカに渡した。

 

「これ、何ていう植物か知ってる?」

 

「おそらく野薔薇の一種だとは思うが、名前までは分からない。済まないな」

 

 一通り眺めて返そうとするのを、マニゴルドが遮った。「匂いを確かめてみろ、アルバフィカ」口元には悪戯っぽい笑みが浮かんでいるが、目は笑っていない。

 

 仕方なく嗅いで、あ、と声を上げた。薔薇に囲まれているアルバフィカには、品種による香りの微妙な違いも分かる。今そこにあるのは魔宮薔薇の特徴的な香りだった。姿は似ても似つかないが、香りだけなら同じものといって良かった。

 

「これは一体……?」

 

「説明してやれレグルス」

 

「うん。父さんが死ぬまで持ってた大事な種を蒔いたら生えてきたんだ」

 

「俺に話した時よりかなり端折ったな、おい」

 

 マニゴルドは苦笑して話を補足した。先代の獅子座が死に、息子のレグルスがその亡骸を葬った時に遺体の上に種を蒔いたという。ささやかな遺品の中にあった種なので、亡父の大切な物だと思ったのだそうだ。植物は芽吹き、花を付けた。

 

「イリアス殿は園芸に興味がおありだったのか?」と生前を知らないアルバフィカは尋ねる。

 

「全然!」と息子は即答。

 

「無かっただろうなあ」と僅かに言葉を交わしたことのある男も答える。「で、この花の匂いからして、おまえのとこの毒薔薇と縁があるものだと俺は思ったんだが、どうよ」

 

 嗅覚は記憶と深く結びついているという。幼い頃に魔宮薔薇の香気を吸って倒れたことがあったから、マニゴルドはそう推測できたのだ。

 

 アルバフィカは持ち込まれた枝をもう一度注意深く調べた。

 

「確かに言われてみれば、原種の一つかもしれない。花弁の形は全く違うが、この香りは毒を乗せるための重要な要素だ」

 

「見た目は違うが同じ品種ってのはあり得るのか」

 

「ああ。種から育てると親種の特徴を引き継がないことがある。だから通常は挿し木で増やす」

 

 へえ、とマニゴルドは相槌を打った。少年は魚座の毒薔薇と同じ香りだと知って、好奇心のままに花の香気を吸い込んでいる。アルバフィカは首を捻った。

 

「しかしなぜイリアス殿が種を持っておられたのか」

 

 マニゴルドが呆れた顔で彼を見やった。

 

「おいおい、本気で分からねえのかアルバちゃん。冗談きついぜ」

 

「何がだ」とむっとして言い返す。相手はさらりと答を差し出した。

 

「ルゴニスのおっさんがイリアスのおっさんにやったんだろう。きっと餞別だ」

 

 レグルスがはっとして顔を上げた。「誰?」

 

「魚座のルゴニス。アルバフィカの先代だよ。つうか直近の黄金聖闘士の名前くらい覚えてろ」

 

「その人が父さんに種をくれたの?」

 

「証拠はねえが、あり得る話だろ。同じ頃に在位してた黄金聖闘士同士だ。つきあいくらいあったさ」

 

「父さんは花が一番喜ぶ所に種を蒔きたいって言ってた」

 

「ああ。それじゃおまえは正しい場所を選んだな」

 

 マニゴルドは少年の頭に軽く手を乗せた。

 

「父さんは……」レグルスは枝を握りしめ、強く目を瞑った。そして再び目を開けると、枝をアルバフィカに差し出した。

 

「あげる」

 

 差し出された枝を受け取って良いのか、アルバフィカは迷った。今の話は全て推測に過ぎない。もしかしたら真実はまるで違う可能性だってある。けれど、この場には二人の先代を知る者がいた。

 

「受け取れ、魚座。獅子座からの返礼だ」

 

と、マニゴルドが穏やかながら厳しい口調で促すので(それはどこか彼の師父たる教皇を彷彿とさせた)、アルバフィカは両手で枝を引き取った。

 

 ふわりと漂う香気に思わず目頭が熱くなった。

 

「ありがとう、レグルス」

 

 美しい微笑みを向けられ、レグルスは照れ臭そうに笑った。見守っていたマニゴルドは「良かったな」と誰に向けるでもなく呟いて、大欠伸をした。

 

 余話「百獣の王と花の王」(了)



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病より癒えゆく者
外は雪


 

 聖域のあるギリシャはいわゆる地中海性気候に属している。明るい日差しや青い空と海が見られるのは、春から秋にかけてのことだ。その間は天気が良く空気も乾燥しているが、冬はよく雨が降る。標高の高い十二宮やその上の教皇宮では、時に雪になることもあった。ましてや十八世紀は小氷期にあたり、現代より冬が厳しかった。

 

 朝、従者が鎧戸を開けていった窓からセージは外を眺めた。灰色の空と、どこまでも白い無彩色の景色が広がっている。何もかもが雪の下に蹲り、眠っているようだ。

 

「ほう。一晩で随分と積もったな」

 

 道理で静かなわけだと一人で納得し、服を着替える。隣室でもマニゴルドが起きるなり窓辺へ駆け寄り、「マジかよ」と叫んだ。

 

 朝食を終えて、師弟は同じ方角に向かった。

 

 ――神官との間に起きた面倒を片付けた後、セージは改めて執務室で弟子に修行を付けることを実行に移した。神官たちの反応を見るためである。期待通り、もう苦情を述べる者はいなかった。

 

 これまで冬のあいだは柱廊での朝の講義は取り止めていた。底冷えのする吹きさらしの場所は、組み手ならともかく座りきりの講義に適しているとはいえないからだ。だからといって私室を使うのでは、夕食後の修行と同じで代わり映えがしない。そんな何となくの理由で昨冬までは朝の時間に何もしなかった。しかし今冬からは違う。

 

「あー寒みい。心臓止まりそう」

 

「若い者が何を言っておる。世の中には永久凍土の地で肌着だけで過ごしている聖闘士もおるのだぞ。少しは見習え」

 

「またまた。お師匠の冗談つまんねえよ」

 

 そんなことを喋っていると、後ろから用人が追いかけてきた。

 

「お待ち下さい猊下。マニゴルド様も」

 

「何事だ」

 

「取り急ぎマニゴルド様のお力をお借りしたいことがございまして。午前中だけでもお時間を頂けないでしょうか」

 

「俺?」つい自分を指差した少年は、すぐに思い出した。「あ、そうか。雪掻きか」

 

「恐れ入ります」

 

 恐縮する用人に、主人は鷹揚に頷いてみせた。「相分かった。体力だけはすでに聖闘士並みの小僧だ。午前だけと言わず作業が終わるまで、存分に人手として使ってくれ」

 

 セージは執務室に向かい、マニゴルドは廊下を戻った。

 

 平地ならば雪を踏み固めるだけで済む。しかし山の上に建つ教皇宮と女神神殿周辺には麓よりも雪が降りやすく、そこに至る道は階段が連なっている。となると、雪掻きをしなければ毎日上り下りする者には危険な氷の坂道となってしまうこともある。神官が転んで法衣の尻を濡らしてしまうのは冬の風物詩だ。

 

 そこで十二宮を抜ける表の道は宮付きの従者がしっかりと通りやすい道を作る。それと同じように教皇宮の前や使用人たちが密かに使う裏の階段の雪も除けるのだ。

 

 聖域に連れて来られた年から、マニゴルドも教皇宮の住人として雪掻きに駆り出されていた。

 

 途中でふと思いついて、彼は中庭へ寄ってみた。予想通り、誰の侵略も受けていない処女雪が彼を待っていた。ためらいもなくそこへ倒れこむ。くぐもった音を立てて雪は彼を受け止めた。なだらかだった表面を荒らしまくったところで身を起こす。辺りに誰もいないのを確かめて、小便で絵を描いた。

 

 存分に雪を蹂躙して満足すると、悪童は部屋から服を着込んできて、雪掻きの現場に急いだ。

 

 すでに男手総出で作業が始まっていた。

 

「遅せえぞ小僧っこ」

 

「悪りい、うっかりお師匠と一緒に表に行きかけてた」

 

 渡されたスコップと共に、マニゴルドは魁(さきがけ)の役目を仰せつかった。今や彼もすっかり主戦力扱いされている。

 

 まずは建物の正面側だ。双魚宮から正面入口まで続く小径を作る。その次に取りかかるのは、教皇宮裏手の隠し階段だ。

 

 屋根がないので雪は積もり放題である。しかも夜の間に雪溜まりになっていたのか、階段の作られた斜面は大人の太股くらいまで積もっていた。そこへ少年は切り込んだ。雪をざっくり四角く切り取って横の崖下に落としていく。雪の下から石段が現れて人一人が通れる程度の幅を確保したら、次の段へ。通れる幅を広げたり細かいところを掃くのは後続に任せる。

 

 石段は途中で折れ曲がり、上の段から落とした雪が下の段にまた溜まっていた。一向に減らない雪の量にうんざりしながら、ひたすら雪を除ける。雪の塊を切り分けながら、どんどん下りていく。

 

 ひたすら黙々と道を切り開いていると、後続のほうから声が掛かった。休憩にしようという上からの伝言だった。どうやらマニゴルドが気がつかないうちに昼になっていたらしい。厚い雲に遮られて太陽の位置は判らなかった。

 

 教皇宮に戻ると熱いスープが用意されていた。焦がし小麦粉の香りも豊かな、とろみのあるスープだ。腹にも溜まるし、体を内側から温めてくれる。労働を終えた男手は今更体を温める必要もなかったが、昼食代わりだ。皆で暑い熱いと汗をかきながらそれを飲み干した。もちろん教皇の弟子もそこにいる。

 

「今回は思ったより早く片付きそうだ」

 

「雪の量は多いけども、まだ凍ってなかったからね。それに今年はマニゴルドが大活躍だ」

 

「そうだな。まさか一人で階段全部片付けるとは思わなかったぜ。最初の年はすぐにへばってたのになあ。成長したもんだ」

 

「おお、坊ちゃんが大きくなられて爺やは嬉しゅうございますってか」

 

 男たちにからかわれ、少年は頬を膨らませた。

 

「そう不機嫌になるなって。おまえは十分に働いた。後は俺たちでやるからもういいよ。これ飲み終わったら修行してこい、候補生。闘技場のほうでな」

 

 最後の言葉を聞いて彼ははっと顔を上げた。

 

「猊下にはおまえが一日中頑張ってたって報告しておくよ」

 

「分かった。ありがとな!」

 

 器の底に残っていたスープを飲み干すと、マニゴルドはすぐに席を立って部屋を飛びだしていった。

 

「まだまだガキだねえ」と誰かが呟いた。

 

          ◇

 

 十二宮の麓にも雪は積もっていた。雑兵や聖闘士といった大人たちは宿舎に籠もっているので、外にいるのは元気の有り余っている候補生ばかりだ。幼い者に混じって年長者まで童心に返って雪合戦に興じている様子は微笑ましい。マニゴルドもそこに加わった。

 

 聖域に来るまで、彼にとって冬は「生き延びるもの」だった。栄養状態の悪い浮浪児はいつ死んでもおかしくなかった。街にいた頃は、浮浪児同士で身を寄せ合って暖を取っても朝起きると隣にいる子供が眠ったまま冷たくなっていることがあった。命というものが呆気なく終わることを彼はよく知っていた。

 

 屋根の下で寝られて餓えずに済むことがどんなにありがたいか、セージの庇護下に入ってしみじみと実感した。こうして遊ぶという余裕さえある。そんなことを漏らすと、寒村出身だという仲の良い候補生も大いに賛成してくれた。そして至近距離から雪玉をぶつけられた。

 

 しばらく遊んでいると、ふと視線を感じた。マニゴルドがその元を見やると、道にいるアスプロスが顔を背けるところだった。大声で誘ったが無視された。

 

「あの先輩は真面目だから雪遊びなんかしねえよ」

 

 友人はそう言って諦め顔だが、マニゴルドは足元の雪を急いで集めて握り固めた。

 

 彼の投げた雪の塊は模範生の背中に当たった。アスプロスは振り向いたが、犯人を見定めるとそのまま去ろうとした。しかし「おまえが遊ばねえなら代わりに覆面野郎連れて来いよ」という言葉に踵を返して駆け寄ってきた。無表情で詰め寄られてマニゴルドは唇の端を引き上げた。

 

「あ、やっぱり遊ぶ?」

 

「調子に乗るな。いいか。次にそのことを口にしたら承知しないからな。俺を脅そうといってもそうはいかんぞ、下衆が」

 

「おまえが無視するのが悪いんだろ。こっちのこと羨ましそうに見てたくせに」

 

 マニゴルドがそう言った途端、アスプロスは彼の腹を殴った。思わず腹を抱えてしまう。その場に居合わせた候補生たちはアスプロスの珍しい激昂ぶりに戸惑い、様子を見守った。

 

「……痛ってえ。なんだよ、あんた雪合戦が弱いのか」

 

「そんな子供の遊びで俺が引けを取るわけがないだろう」

 

「なるほど」事も無げに頷くと、マニゴルドは仲間たちに声を掛けた。「アスプロス大先生も入ってくれたから、これで三・三の対抗戦ができるな」

 

 それを聞き、アスプロスは鼻で笑った。

 

「舐めるな。五人まとめて掛かってこい」

 

「へっ。あとで吠え面かきやがれ」

 

「その台詞はそっくりそのまま返す。……場所を変えようか」

 

 称号の獲得も確実と言われる聖域の実力者が本気になったと知り、巻き込まれた候補生たちは気を引き締めた。修行を始めて間もない子供も近くにいて、彼らが本気で動くには向いていなかった。場所を変えるとはつまり、遠慮する必要のない戦場に移るということだ。

 

 マニゴルドとアスプロスは歩きながら決め事を話し合った。

 

「胴体に三発当たったら負け。首から上や手足に当たっても無効。胴体に当たる前に弾いたり払ったりするのはあり。負けた奴は正直に申告して大人しく場外で見てること。……っていう約束事でさっきまで遊んでたけど、アスプロスはそれでいいか」

 

「構わない。ただ、勝負を始める前に雪玉の蓄えを作っておきたい」

 

「いいぜ。誰が作ったやつを使ってもいいことにして、山ほど作っておこう。ただし中に石を仕込むのは無しな」

 

「当たり前だ。おまえのような卑怯者でもあるまいし」

 

「ひでえな。あ、あと小宇宙を燃やすのはありだけど、それで雪玉を体に当たる前に消すのは無し。聖闘士の技を使うのも無し」

 

「良いだろう」

 

 まだ手つかずの雪が膝まで積もった広場があったので、そこを戦場とすることにした。

 

 早速その場で雪を握り始めたアスプロスに、マニゴルドは「林でもいいのに」と言った。人数差があるからせめて障害物のある環境で条件を互角に戻してやってもいい、と仄めかす。しかし、そんな彼の親切心をアスプロスは鼻で笑った。

 

「たしかに多勢に無勢ならそれも妥当だが、所詮おまえたちが相手だからな。大量の雪玉を用意してくれる礼代わりというか、おまけだ」

 

「うっわ腹立つ。なにその偉そうなツラ。おいユスフ、こいつ絶対ボコボコにしてやろうぜ」

 

 なんで俺に言うんだよ、と友人がぼやいた。なぜ遊びや悪ふざけに見向きもしない修行一筋の真面目なアスプロスを、マニゴルドは構うのか。そしてなぜアスプロスが悪童の誘いに乗ったのか。端で見ている候補生たちには理解できない。

 

 ユスフ、マティ、シュルマ、アンサー、そしてマニゴルドの五人は両手に雪玉を持ってアスプロスと対峙した。孤軍の相手は足元に雪玉の小山を積み上げている。

 

 マニゴルドが「見ろよ、この圧倒的戦力差。アスプロス、おまえが言い出しっぺなんだから負けても言い訳するなよ」と言えば、

 

「そちらこそ今から負け惜しみの言葉を練っておいたほうがいいんじゃないか、マニゴルド。言うことがいちいち小物臭い」とアスプロスが悪童を煽り、その仲間には「ああ、きみたちも遠慮せずにかかってこい」と微笑みかけ、

 

「あ、はい。ありがとうございます」と他の四人は気合いを入れた。同じ候補生同士といっても、相手は間違いなく最強格の一人だ。

 

 雪合戦が始まった。

 

 五人は扇形に広がってアスプロスを緩く取り囲もうとした。しかしアスプロスが待つはずもない。牽制がてらに左端のマニゴルドへ一球。投げると同時に走り出した。尋常でない握力で握り固められた雪玉は石つぶて並みの凶器と化し、音よりも速く拳を繰り出すことのできる腕が、肩が、それを生身の人に向かって投げる。しかし投げられたほうも常人ではない。自身の体に当たる前に払い除けてみせる。乾いた音を立てて雪玉が四散した。

 

「右翼気を付けろ!」

 

 マニゴルドは怒鳴ったが、その頃にはアスプロスは行く手の方角に近いマティにも一球。相手の意識が防御に逸れている間に、敵右端のユスフの横へ走りこんだ。その間に一発背中に当たったが構わず地面の雪玉をすくい上げてユスフにまとめてぶつける。三発どころではなかった。足元が雪に埋もれているせいで横からの攻撃に向き合うのが間に合わず、ユスフ敗北。彼は潔く場外に出ようとした。

 

 ところが「おっと」と呟きアスプロスは彼の腰に片手で抱きついた。そして自身の盾としながらマティに突進した。右手はすでに別の雪玉を三つ掴んでいる。至近距離から味方ごと近づかれマティは焦った。敵の体はユスフの陰で狙うことができない。

 

 アスプロスは盾をマティのほうへ突き飛ばして「わあ転んだ」と白々しく声を上げながら姿勢を低くする。マティは思わず友人の体を受け止めた。同時に低い位置から打ち込まれた雪玉を横腹に食らい、敗北。彼我の差は五対一から三対一に縮まった。

 

 マティがぐったりしたユスフを担いで退場していく。最初の敗者が消耗したのはアスプロスのせいというより、味方もろとも敵を仕留めようとした非情な者たちのせいである。その非情な三人は敗れていった友を惜しむこともなく、敵を挟み撃ちにしようとひた走っていた。

 

「ユスフの弔い合戦だ!」

 

 マニゴルドとアンサーの二人が左右から、シュルマが中央から包囲陣を狭める。

 

 場外から「死んでねえ!」とか「俺は?」とか叫んでいるのが聞こえるが、敗者の声など誰も耳を貸さない。

 

 三人は敵の全身に雪玉を打ち込むが、アスプロスが後方へ飛び退るほうが早かった。一瞬前まで彼のいた所に雪玉が殺到し、宙でぶつかりあい氷の粉となった。地面に当たった分は積雪を抉り、白い煙を巻き上げる。

 

 そこへ白煙を突っ切りシュルマが敵に肉薄した。三方を塞がれたら生き物は残り一方へ逃げる。それが本能だ。ところがマニゴルドは慌てた。

 

「だめだ、近づくな!」

 

 行く手のアスプロスは腰を落として待ち構えていた。突っ込んでくる相手を見据えながら積もった雪を打ち据える。ただしその場所は足元よりやや前方で角度も浅く、押し出すのに近かった。腹の底に響く打撃音と同時に、アスプロスの前に白い波が立ち上がった。積雪が衝撃を受けて宙へ飛び出し、彼を守る防壁となってシュルマの視界を遮った。

 

 マニゴルドは雪玉を掴み上げ、シュルマを挟んで反対側にいるアンサーのほうへ続けざまに放った。しかし現れたアスプロスによって全て叩き落とされる。白い壁を利用して敵がアンサーのほうへ向かうだろうというマニゴルドの予想が当たった形だ。しかし敵の狙いは間近にいるアンサーではなく、足を止めてしまったシュルマだった。その無防備な背中に二発当たる。仕返しと牽制でアンサーが投げるが、その全てをアスプロスは片腕で捌いた。マニゴルドが突っ込むと敵は足元の雪を蹴り上げてまた移動した。

 

 その一秒先の行く手を想像しながら三人はどんどん雪玉を投げる。しかしアスプロスは雪上だということを忘れさせる軽やかさで逃げ回り、一発も当たらない。用意しておいた分の雪玉が尽きてしまったのでシュルマが雪をすくい上げた。

 

 次の瞬間マニゴルドが彼の体に腕を伸ばした。それでもシュルマの屈んだ腰の上で雪玉が弾けていた。蛙の潰れたような声を上げて三人目の敗者は雪の上に崩れ落ちた。マニゴルドの手首の下、雪玉が掠ったところが皮が剥けていた。

 

「む、無念……」

 

 シュルマは芝居がかった様子で呻いて目を閉じた。しかしすぐに立ち上がり、場外へ出た。敗者たちには「おまえ背中ばっかり当てられてんじゃねえよ」「俺も今度からおまえの背中狙おうかな」と温かく迎えられた。これで二対一。

 

 アスプロスは足を止め、雪を握り固めた。油断無く周りに気を配っているので攻撃しても届きはしないだろう。同じくマニゴルドとアンサーも雪玉を作り溜めた。

 

 ほんの僅かな間、辺りは静けさを取り戻した。細かい氷の塵となって漂っていた雪の粉がゆっくりと積雪の上に降っていく。日が差していればきらきらと輝いて見えたはずだ。

 

「さーて、どうすっかな。挟撃する前に個別に落とされちまったし。あいつ意外にやり口が汚ねえし」

 

 マニゴルドは気づいていた。数の有位を活かせずに連携が上手くいかなかった現状。それは個々の動きに差があるせいだった。膝まで積もった雪の中で動き回るのは訓練場での格闘とはまた違うこつが要る。アンサーが彼に声を掛けた。

 

「マニゴルド、俺にいい考えがあるんだ。援護してくれ」

 

 突然の申し出に戸惑いながら、彼は了承した。二人の視線の先では敵がすでに準備を終えて待っていた。

 

「いくぞ」

 

 敵めがけて飛び出していった味方のためにマニゴルドが牽制で投げつける雪玉は全て粉砕された。ともあれ反撃を許さない程度には弾幕として役に立っている。アンサーは敵の正面で踏み切り、宙高く飛んだ。家の屋根さえ軽く越える高さだ。上から狙い、さらに相手を飛び越えてその背後に降り立とうというのだろう。

 

「何やってんだ、馬鹿!」

 

 マニゴルドは焦りながら手を休めることなく雪玉を投げ続けた。しかしアスプロスはアンサーを横から見上げる位置にずれて、相手が空中にいる間に続けて何発も放った。白いつぶてが方向転換できない相手に真っ直ぐに飛んでいく。二発当たった。そして着地の寸前にもう一発当たった。アンサーの自滅である。良い考えとは何だったのか。

 

「その奇襲はもっと味方が残ってる時にやれよ」とか「なにが『いい考えがある』だよ馬鹿」「飛んだらいい的になるだけだろ考えなし」といった野次も彼の心を抉る。がくりと膝を突いた敗者のことを、生き残った二人は見ていなかった。

 

 乱れた髪を掻き上げてアスプロスが笑う。

 

「ほらな。五人まとめて相手にしても問題なかっただろう」

 

「おいおい、まだ俺が残ってるぜ。俺がおまえを倒せば俺たちの勝ちだ」

 

 マニゴルドも不敵に笑う。相手は片眉を上げただけで言い返さなかった。

 

 二人は間合いを取りつつ動き始めた。

 

 その場に留まり続けることは負けに直結する。上体を起こせば的になるから地を這うような走りになる。踏み荒らされた足場をものともせず彼らは走り、投げた。片手ですくった雪を握り固めてそのまま相手へ射れば、雪玉と言うより氷のつぶてと化した塊が流星となって敵の胴体を狙う。狙われる面積を小さくしようと体を斜めにしたまま、鋭く飛んでくる雪を払う。砕く。ときに避ける。

 

 僅かに走る速度を落とすと、マニゴルドの足を狙った紡錘形の氷が行く手の地面に次々と穴を穿つ。攻撃が外れて忌々しそうなアスプロスの顔が視界に入った。マニゴルドは相手の接近を誘ってから雪面に拳を打ち出した。周りの雪が衝撃に跳ね起き、立ち上がる波となって周囲に広がった。敵が先にやったことを真似したのだ。アスプロスは木々より高い跳躍で白い波を躱すが、死角から飛んできた雪玉に反応できなかった。背中に当たった弾は弾けて塵と消えた。相手が宙にいる間に片を付けるべくマニゴルドは一気に雪をぶつけていく。アンサーのやられたことをやり返す。

 

 ところがアスプロスは空中で身を捻って足の一薙ぎで雪を塵にした。さらに難を逃れた雪玉が通り過ぎようとするのを捕まえて地上に投げ返す。予想外の動きに虚を突かれている間にマニゴルドの体に雪玉が当たった。すぐに立て直して二の矢を防いだが、相手の着地を狙う暇はなくなった。

 

 二人は十歩ほど置いて対峙した。やはりこれくらいの距離がやりやすい。アスプロスの掴んでは投げる雪をマニゴルドが大雑把に叩き落とす。雪玉が壊れるたびに水晶の割れるような音がした。一つが彼の肩で弾けた。

 

「今のはありだろうな」的中にしろと言うアスプロス。

 

「ねえよ。肩だもん」胴体ではないと却下するマニゴルド。「てめえが負けそうだからって焦るなよ」

 

「誰が!」

 

 アスプロスは一気に距離を詰め右の拳を振りかざす。振り上げられた手の中に雪は見えない。ただ握られた拳があるだけだ。殴る気かとマニゴルドが身構えた瞬間、腹に掌底が押し当てられた。アスプロスはにやりと笑った。彼が左手を放すとそこから溶けかけた氷のつぶてが落ちた。「これで五分」

 

「……この!」

 

 両手に雪を握り、マニゴルドは相手に挑み掛かった。

 

「なにが白色《アスプロス》だ。てめえなんか黄色《キトリノス》に改名しちまえ!」

 

「なんだと?」

 

 アスプロスはいきり立った。唸りを上げてかかってきたマニゴルドの拳を受け止め、ついでに掴んだ腕を捩って相手を地面に叩きつける。マニゴルドはすぐに跳ね起きて牽制球を投げつけ、相手から遠ざかった。

 

 実はキリスト教圏では伝統的に、黄色にはあまり良い意味がない。一説によればイスカリオテのユダの衣の色が黄色だとされたことから、「裏切り」や「卑劣」、「嫉妬」といった印象が付いたとも言われている。聖域ではそのような意味づけはないが、ギリシャで暮らしている以上、言いたいことはアスプロスにも通じる。

 

「侮辱するのか」

 

「てめえがな!」

 

 二人の間で局地的な吹雪が発生する。殺気の籠もった雪玉の嵐をかいくぐり、反撃しながらマニゴルドは叫ぶ。

 

「いっつも聖人ぶった澄まし顔のくせに、俺よりやることが汚ねえ。あくどいんだよ。よくそれで人を卑怯者呼ばわりできるよな」

 

「おまえが俺を揺さぶるからだろう!」

 

 人頭ほどの大きさの雪の塊が豪速で投げつけられ、マニゴルドは両腕で体の前面を守った。一瞬で弾け飛び、砕け散っていく塊の向こうからぬっと腕が伸びてきて彼の襟首を掴んだ。

 

「いいか。おまえが何を考えているのか知らんが、おまえの在りようが卑怯だと言っているんだ。猊下の弟子だから優遇され、大目に見られているということを忘れるな。俺がおまえの立場だったら、俺たちはもうとっくに――」

 

 アスプロスは不意に上空を見上げた。マニゴルドも見上げた。二人の上に影が落ちた。人の背丈より二倍も大きな雪の塊が彼らの所へ降ってくる。

 

 二人は相手がその場を退いたら自分も退くつもりだった。しかし目が合いそうになった瞬間には、肩を並べて拳を突き上げていた。雪玉が粉砕される。石の割れるような轟音。密な雪玉は重く、そして固かったが、二人の前に霧散した。しかしそれで終わりではなかった。二人は巨大雪玉の陰に潜んでいた人物の両腕に首を引っかけられた。

 

「ぐっ」

 

「げええ」

 

 その勢いのままに地面に引き倒される。雪の欠片が舞い散る白く閉ざされた世界の中で、先に闖入者の名を呼ぶことができたのはアスプロスだった。

 

「ハスガード!」

 

「久しぶりだな! 元気だったか。ああ元気に決まってるか」

 

 雪の塵はゆっくりと地面に還っていった。

 

 大柄の少年は笑いながら二人の髪に付いた雪のかけらを払い落とした。黄金位を得るための最後の修行に出たはずの彼が戻ってきたと言うことは。

 

「やったんだな、あんた」

 

「おう。どうにか無事に帰ってこられた。さっき聖域に入ったんだが、すごい雪だな」

 

「荷物も下ろしてないじゃないか」と、アスプロスが友人の背中を見て眉をひそめた。「それで氷山みたいなのと一緒に飛び込んでくるとは、ずいぶんなご挨拶だな」

 

「おまえたちに早く報告したくてな。こっちに行ったと言われて来てみたら、雪合戦してるじゃないか。交ざらない手はない」

 

「派手な参戦だな」

 

とマニゴルドは呆れて笑った。アスプロスも笑った。そしてさりげなく手を動かした。油断していたマニゴルドの胸に雪玉が当たった。

 

「あ」

 

 アスプロスが得意げな顔になって「俺の勝ちだな」と宣言した。

 

「なんだこの卑怯者! ハスガード、あんたのせいだぞ!」

 

「え、済まん、何がだ?」

 

「気にするな。どうせ大したことは言っていない」

 

 三人が雪の中に座り込んで騒いでいると、場外から他の候補生たちも寄ってきた。彼らも口々にハスガードの帰還と修行終了を祝った。ついでに雪合戦に破れたことを告げられて落胆した。

 

 戦場が荒れすぎてもう勝負にならないので、彼らは雪遊びを切り上げることにした。

 

 宿舎へ戻る六人と別れてマニゴルドは山を登る。

 

(ハスガードが牡牛座《タウラス》で、きっとアスプロスも双子座《ジェミニ》になって……でも俺は)

 

 黄金聖闘士やそれに近い者たちと親しくしていても、マニゴルド自身はただの候補生だ。帳簿周りの調べ物をしていた時には教皇の役に立っている自信があったが、それも聖闘士としての働きではなかった。手紙と小宇宙の指示だけで立ち回ったシジフォスのようには動けない。冬に入って小宇宙と積尸気の扱い方を集中的に指導されるようになったのは、きっと弟子の使えなさにセージが歯噛みをしたからだろうと少年は思う。

 

(このままだとやっぱり雑兵かな)

 

 雑兵になることに抵抗はない。けれど聖闘士と雑兵では、できることが全く違うのを少年は理解していた。

 

 なれるものならば、やはり聖闘士になりたかった。

 

          ◇

 

 教皇宮に着く頃には、また雪が舞い始めていた。

 

「ただいま」

 

「ああ、お帰り」

 

 部屋ではセージが手紙を読んでいた。弟子は師の横からその手紙を覗きこんだ。

 

「なんか楽しそうな顔してんじゃん。良いことでも書いてあった?」

 

「クレスト様が弟子を取られたと報せがあった。かつて水瓶座《アクエリアス》の黄金聖闘士だった方だ。未だにご健勝そうで私も負けてはおれぬと思うてな」

 

「ふうん」

 

 教皇であるセージが敬っているということは、相手は同時代の戦友か先輩格ということになるはずだ。クレストという人物を知らないマニゴルドはそう考えた。実際はセージが若い頃に起きた聖戦の、更に前の聖戦を経験した最古老である。自分以上の年配者が弟子取りをしたと聞いて、セージもつい張り合いたくなったのだ。

 

「あれ、そうすると俺にしわ寄せが来るのか? その弟子っていうのも凄い奴?」

 

「さてな。おまえより年下の子供だそうだからまだ先のことは判らぬ。しかしクレスト様が直々に目をかけられたとなると、見込みはあるのだろう。デジェルというそうだ」

 

 その名が雪解けという意味だと聞いて、マニゴルドは肩を竦めた。

 

「この辺じゃまだ雪解けは遠そうですけどねえ」

 

「春は来る」

 

 セージは力強く言うと、弟子の頭に手を置いた。「それまで修行すべきことは多いぞ、我が弟子よ。今日一日遊んでいた分の遅れを取り戻すためにも明日はしごいてやる。まずは積尸気往復五百回からだ。クレスト様や兄上のような年寄りに後れを取るな」

 

「お師匠だってジジイだあっつ痛い痛い痛いごめんなさい」

 

 大袈裟に身をよじって謝ったマニゴルドは、なんとなく楽しくなって笑い出した。それにつられてセージも笑った。

 

 表では積もった雪が光を孕み、ほんのりと明るい夜になった。

 



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覆面の下の秘密

 

 平地では雪もすっかり溶けて風も緩み出した、ある日のこと。マニゴルドはハスガードに誘われて、闘技場帰りに金牛宮に立ち寄った。

 

 牡牛座《タウラス》の称号を授かり、猛々しい雄牛を象った黄金の聖衣を着けたハスガード。その姿は初々しいどころか、歴戦の勇士のように堂々としたものだった。

 

「黄金聖衣の着心地はどうよ」

 

「鏡を見る度ににやけている。いや、身が引き締まるぞ」笑いながら言い直す。「だが一方でしっくり着慣れた感じもある。先人から受け継いだものなのに、最初から俺のために誂えてあったようにぴったりだ。不思議なものだな」

 

「ふーん。こんなごつい甲冑がねえ。ちょい貸して」

 

 双角の兜を借りて被ってみたマニゴルドに、

 

「聖衣を着けてみるのは初めてだろう。どうだ、小宇宙を燃やしてないと重いぞ」

 

と、若者は得意げになる。

 

「たしかにジジイの被ってるやつより重てえ」

 

「むっ、教皇の兜か? ……もういい返せ」

 

 ありがたみのない奴だと、新米聖闘士は水を差された表情で兜を取り返した。

 

「今日呼んだのは、べつに聖衣を自慢したかったからではないんだ。聖域に戻った日から、おまえには礼を言わねばとずっと思っていた。忙しさにかまけて随分と日が経ってしまった」

 

「俺、何かしたっけ」

 

 首を捻る少年を、ハスガードはいきなり抱擁した。硬い聖衣に当たった腕やら肩やらが痛くて、マニゴルドは思わず顔をしかめた。もちろん相手には見えない。

 

「ありがとう」

 

 ハスガードは全身で感謝を示した後、ようやく客人を拘束から解放した。

 

「だから何がだよ」と腕を擦りながらマニゴルドは尋ねた。

 

 宮の守護者は悪童に椅子を勧めて、自分も掛けた。

 

「修行地に行く前に、アスプロスを見てやってくれと頼んだだろう。あいつは優秀な候補生だし人当たりもいい。だけど誰に対しても心を閉ざしているんじゃないかと思うことがある。俺やシジフォスといる時でさえ、あいつはもう他人行儀に取り澄ました顔しか見せない。それで俺が修行に出てそのまま黄金位を授かってしまえば、アスプロスはもう誰とも仲良くすることはないんじゃないか。そんな不安もあっておまえに頼んだんだ」正解だった、と彼は破顔する。「俺が帰ってきた日、おまえたちは雪合戦をしていたな。実は俺が乱入したのは、あいつがはしゃぐところを数年ぶりに見て嬉しくなったからなんだ。だからありがとう、だ」

 

「心配しすぎじゃねえの。俺のことも買いかぶりだ」

 

「いやいや。俺やシジフォスが誘っても、あいつは雪遊びなんかに乗っては来ないだろうよ。……もう無理だ」

 

「昔は違ったのか」

 

 いつもは快活な笑顔を浮かべているハスガードの顔が曇った。あまりよそでは言うなよ、と前置きして若者は旧友の過去を語った。

 

「昔、あいつは死にそうな大怪我を負ったことがある。修行中の事故だったそうだ。それ以来俺たちにも他の候補生にも、あいつは気を許さなくなった。人が変わったというほどじゃないが、俺たちから距離を置くようになった。シジフォスは自分が射手座を授かると決まったのがきっかけで対抗心を持たれたと思ってる。でも俺はそれが理由じゃないと思う。負けず嫌いなのは事実だけどな」

 

 最後の言葉にはマニゴルドも同意見だった。アスプロス本人はうまく隠せていると思っているようだが。

 

 ハスガードは卓上の兜に手を乗せた。

 

「それでだな。俺がこうして金牛宮の主となった以上、以前のように候補生たちと連むのはよせと上で言われてしまったんだ。立場を弁えろってことらしい」

 

「上って、ジジイがそんなこと言ったのか」

 

「猊下じゃなくて神官長にな」

 

「あの髭の小言なんか聞き流してろよ」

 

 悪童の言いように新任の黄金聖闘士は笑った。ようやく本来の明るさが戻ってきた。

 

「そんなわけでアスプロスのこと、引き続き頼むぞ。双子座になることはほぼ決まっているにしても、それまでは候補生だ」

 

「まあいいけど」

 

 渋々といった態度でマニゴルドは受け入れた。しかし素直に頼みを聞くのは癪に障るので、恨み言を述べることにした。

 

「っていうか先に教えろよ。アスプロスの周りにあいつと仲の良い奴がいるじゃん。アスプロスを頼むってんなら、あの野郎のことも言っとけって話だよ」

 

 ハスガードは不思議そうに首を捻った。「誰のことだ?」

 

「とぼけなくていいから。俺はそいつの名前も知らないけど、付き合いの長いあんたなら知ってるだろ。アスプロスと同じ背格好で、肌の浅黒い野郎だ」

 

「知らんなあ。あいつと知り合ってもう長いが、そんな親しい者がいる話など聞いたことがない」

 

 え、と素っ頓狂な声を上げたマニゴルドに、ハスガードは逆に目を丸くした。それから腕を組んで訝しげに彼を見つめた。

 

「嘘だと思うなら他の候補生にも聞いてみろ」

 

 しばしの沈黙を経て、自分の勘違いだったとマニゴルドは発言を撤回した。ハスガードもそうだろうと当たり前に受け入れた。彼は本当にそんな存在を知らなかったのだ。

 

 それから二人は他愛ない世間話に興じた。

 

 そういえば、とハスガードは椅子の背にもたれかかった。

 

「おまえ何座の候補生だ? そろそろ公表されないと困る年齢じゃないか。小宇宙も体得しているのに雑兵になるのは勿体ないぞ」

 

 マニゴルドは硬い髪を掻き回した。

 

「俺に言われてもなあ。ジジイが教えてくれねえんだよ」

 

「守護星座は」

 

「それも知らねえ。予想付けてるのはあるけど、それだと今は公表できない理由が説明できるんだ」

 

「ええと……。あっ、牡牛座だったら済まん。まだ聖衣は譲れない」

 

「馬鹿。違げえよ」

 

 若者の杞憂を笑い飛ばし、マニゴルドは言った。「天馬星座《ペガサス》だ」

 

 ハスガードはなるほどと唸った。

 

 天馬星座の聖闘士は特殊な存在だ。格としては青銅位だが、聖戦においては黄金位と同じくらい記録に名を残す称号である。神話の時代より繰り返されてきたいくつもの聖戦で、常にアテナの傍らにあったという。

 

 ゆえに天馬星座の聖闘士の誕生は、聖戦と女神の降臨が近いことと関連づけて考えられていた。そのためアテナの行方を掴めず降臨が伏せられている現状、その称号を得ることは難しい。

 

 黄金位を得て女神降臨にまつわる諸事情を知ったばかりのハスガードにも、少年の仮説は納得のいくものだった。

 

「それなら猊下がお側に置いて導くのも当然か……。そうか、天馬星座か」

 

「まだよそには言うなよ」

 

 ちなみに二人は大真面目である。弟子の守護星座を知っているセージが聞けば頭を抱えたことだろう。

 

 金牛宮に暇を告げると、マニゴルドは闘技場に引き返した。

 

「おいアスプロス。ちょっとツラ貸せや」

 

「聖闘士より三下の悪党のほうが向いてるな、おまえは」

 

 それでもアスプロスは彼の後を付いてきた。人気のない建物の陰に入ると、マニゴルドは早速詰め寄った。

 

「おまえさ、覆面野郎のことハスガードに話してねえの? 付き合い長いんだからてっきり知ってるとばっかり思って、危うく喋りそうになったんだけど」

 

「付き合いの長さは関係ない。彼には話す必要がない」

 

「シジフォスは?」

 

「知らない」

 

「他に知ってる奴は?」

 

「誰も。知っている人間はいても隠す側だから白を切るぞ」

 

「そこまでするって覆面野郎って何なんだよ」

 

「なんだ。訳知り顔で脅してきたわりに何も知らないんだな。だったらもう俺たちに関わるな」

 

 話が済んだとみてアスプロスはその場を立ち去った。

 

 マニゴルドは謎に包まれて一人途方に暮れた、わけはなかった。

 

          ◇

 

 

 翌日の夜。

 

 雑兵の宿舎の裏手には、壁に貼りつくようにして建てられた小屋がある。疎らな林が近くにあり、夏はヤブ蚊が多くて人は近づかない場所だ。道からも死角になっていて、そこに小屋があると知る者はほとんどいない。

 

 マニゴルドは知っていた。家出をした時に人目に付かない場所を求めて調べていたからだ。戸が開かないので結局その時は寝床にするのは諦めた。今も鍵が掛かっているのか、押しても引いても開かない。戸を叩いてみても反応無し。

 

 彼は小屋の横にしゃがみ込んで待った。

 

 しばらく経つと、誰かが小屋のほうに近づいてきた。建物の角の向こうにいるから姿は見えない。マニゴルドは気配を絶って、相手が更に近づいてくるのを待った。しかし先方のほうでも彼の存在に気づいたらしい。不意に踵を返した。その目の前を鬼火が横切る。気配の主は驚いて足を止めた。

 

「待てよ、アスプロス」

 

 マニゴルドは曲がり角から顔を覗かせた。

 

 足止めを果たした鬼火は、すうと尾を引いて積尸気使いの近くへ戻った。その光につられるようにアスプロスは振り向いた。片手には布巾を掛けた籠を提げている。

 

「……なぜここにいる?」

 

「覆面野郎がここにいるから」とマニゴルドは答えた。

 

「おまえもあいつを殴りに来たのか」

 

 アスプロスが僅かに片足を引き、姿勢を変えた。マニゴルドは軽く上げた手で鬼火をあやしながら言った。

 

「覆面野郎の飯の時間だろ。俺に構わず食わせてやれよ」

 

 彼が手を前に出すと、青白い鬼火は放たれた犬の勢いで籠の側へ飛んでいった。思わずアスプロスはそれを踏みつけた。が、その足の下から何事もなく鬼火は抜け出してきた。からかうように足首の周りを巡り、淡くなって消える。

 

「そいつと同じように覆面野郎も幽霊だったら、俺もここには辿り着けなかった。生きた人間は飯を食う。聖域で食い物を手に入れられる場所は限られてんだ。俺にも覚えがあるけど、食料庫に盗みに入れば雑兵に気づかれるんだよ。余計な面倒を増やさないように、口実を作ってちゃんと食事を用意させたほうがいい。そうだろう?」

 

 そう考えたマニゴルドは、前日のうちに、宿舎で食事を世話する者に何人分の食事を用意するのか尋ねた。それぞれの宿舎にある部屋数と寝起きしている人数は把握済みだ。すると雑兵の宿舎で毎日余分な量を作っていることが判った。投獄された者の分も合わせて作るからだそうだ。少し前にマニゴルド自身が神官に投獄された時に出された食事も、おそらくここで作られたものだろう。

 

 覆面の人物が投獄された罪人であれば、出歩いたのが知れたら殴られるとアスプロスが話していたのも筋が通る。

 

 ちなみに覆面の人物が日中は堂々と過ごしているという可能性は、最初から考えなかった。背格好がアスプロスと似ていて肌の浅黒い者を、他に見かけたことがなかったからだ。

 

 そして食事を運ぶ係に聞いた牢へ行ってみると、雑兵が二人入っているきりだった。マニゴルドが入れられた懲罰房も公に知られているものだが、滅多に使われないということだった。

 

「聞いてみたら、喧嘩とかして一晩頭冷やすとき用の檻の他に聖域のどこかに隠し牢があって、そこに入ってる奴が一人いるんだってさ。そっちの牢屋には真面目な候補生が毎日食事を運んでるって言うから、今朝そいつの後を尾けた。そしたらおまえはここに来た。こんな掘っ立て小屋が隠し牢って、冗談きついだろ」

 

 マニゴルドはそう言って小屋のほうを顎でしゃくった。場所を突き止めた段階で、覆面の人物が候補生でも雑兵でも、まして聖闘士でもないことを彼は悟った。

 

「ちなみに、隠し牢ってスニオン岬のほうに本当にあるらしいぜ。お師匠が言ってた」

 

「そんなことはどうでもいい。おまえの目的は何だ?」

 

「覆面野郎と話がしてみたい。いったい誰で、何のために身を隠しているのか。あいつが居留守を決め込むなら煙で燻しだしてやってもいいんだ」

 

 小屋の前には焚き火と、乾ききっていない家畜の糞の用意がしてある。燃やせばさぞかし臭い煙が出るだろう。アスプロスは溜息を吐いた。

 

「狐の巣穴じゃないんだ。やめてくれ。それに火事で騒ぎになったらどうしてくれる」

 

「人に気づかれたくなかったら覆面野郎と会わせろ。でないとこの小屋、このまま燃やしてやるからな」

 

「そんなことをすればおまえの殺しの件を公表するぞ」

 

「へっ、死人に口なし、もう片付いた件だ」

 

「おまえは一度縛り首になるべきだよ」

 

 罵ってから、アスプロスは小屋の戸を叩いた。

 

「俺だ。開けてくれ」

 

 すると小屋の戸が開き、中から肌の浅黒い少年が姿を現した。マニゴルドが見かけたいつかの夜と同じように、顔の下半分を覆面で隠している。出てきた覆面の人物に悪童は笑いかけた。

 

「よう。初めまして、だな。俺はマニゴルド」

 

 陽気に挨拶した初対面の相手を覆面の人物は警戒した。側にいるアスプロスを窺い、その苦虫を噛み潰した顔を見てから名乗り返した。

 

「…………デフテロスだ」

 

 マニゴルドは単刀直入に聞いた。「おまえ、罪人?」

 

「違う。何もやってない」

 

 デフテロスの否定する声は大きくなかったが、どこか悲鳴のような響きがあった。アスプロスが一歩前に出てマニゴルドを睨む。

 

「もう気は済んだだろう。帰れ」

 

「挨拶しか済んでねえよ。とりあえず食おうぜ」

 

 マニゴルドは小屋の前に座り込んだ。そして自分でも持ってきていたパンを懐から出した。そんな悪童の様子を見て、デフテロスは困惑した。追い払うのを諦めたアスプロスが頷く。彼らもその場に腰を下ろした。

 

 デフテロスは覆面を外した。そしてアスプロスの持ってきた夕食を食べ始めた。籠にはパンの他にも、蓋付きの深い器に注がれたスープが入っていた。

 

「それスープ用じゃなくて酒用のジョッキじゃねえの」

 

「運びやすいから使ってるだけだ」

 

 マニゴルドの指摘にアスプロスが面倒そうに応えた。機嫌を取るわけではないが、マニゴルドは自分のパンを割って二人にも分けてやった。デフテロスは戸惑いながら、アスプロスは嫌そうに礼を言ってパンを受け取った。教皇の弟子は教皇宮に戻ればきちんとした食事が待っている。候補生も先に済ませてきた。だからこの場で食べなくてもいいのだが、デフテロスの食事を黙って見守るよりは、形だけでも付き合ったほうがいいと二人とも思ったのだ。

 

 しばらく三人は食べることにしか口を使わなかった。

 

 食後に話を切り出したのはマニゴルドだ。

 

「改めて聞くけど、デフテロスってアスプロスと双子?」

 

 目の前にいるのは整った目鼻立ちも瓜二つ、声もよく似た二人の少年。肌の色さえ同じなら双子だと確信できるのだが。

 

 デフテロスが答えようとすると、

 

「こいつの話には付き合わなくていい」

 

とアスプロスが遮る。共通の知り合いがいたほうが相手も口を割りやすいだろうと思っていたが、マニゴルドの誤算だったようだ。いちいち話の腰を折られる。

 

「去年の秋からこっち、何度かアスプロスに食い物持たせたことあるんだけど、ちゃんとおまえまで届いてるか?」

 

 デフテロスは驚いてマニゴルドの顔を見た。「もしかして菓子の人か?」

 

「ああ、届いてるならいいんだ。アスプロスに独り占めされてねえか心配でさ」

 

 そんな事するか、とアスプロスが怒鳴った。

 

「そうか。あんただったのか。兄さんは差し入れをくれる人のことを何も教えてくれなかったし、礼を言う機会もないだろうと思って俺も諦めてたんだ。ありがとう。直接言えて良かった」

 

「おう」

 

 マニゴルドは軽く頷く。食事のしかたや話しぶりを見るに、デフテロスはいたってまともだった。わざわざ人目から隠すような異常性は見られない。

 

「菓子の人なら答えても良いか。さっきの質問だけど、たしかに俺とアスプロスは双子だ。俺が覆面を取った時に驚いただろう」

 

「べつに。おまえのそれ」とマニゴルドは外されたままの覆面を指差した。「鉄仮面みたいだと思ってたから、何となく納得した」

 

「鉄仮面って何だ、兄さん」

 

「数十年前のフランスに実在した、正体不明の謎の囚人のことだ。人前に現れる時には必ず顔を隠していたそうだ」

 

 現代に至るまでその正体は不明のままだが、当時からフランス国王・ルイ十四世の兄弟だという噂が出回っていた。しかしアスプロスはその説について口にしなかった。なぜなら言えば自身をルイ十四世になぞらえることになる。太陽王と鉄仮面。弟との境遇の差がそれに近いものであっても、これほど強烈な喩えはなかった。

 

「そうなんだ。さすが物知りだな、兄さんは」

 

 デフテロスは何も知らずにしみじみと感心している。マニゴルドはむしろ兄のほうに同情した。

 

「アスプロスだけじゃなくて俺も知ってるっつうの。最初におまえに罪人かって聞いたのは、それもあったからだよ。謎の隠し牢に誰か入ってるって話からここに辿り着いたんだから。で、だ。この掘っ立て小屋のバスティーユにおまえがいる理由は何だ。誰かの隠し子ってわけじゃなさそうだ。兄貴のせいか?」

 

「違う。兄さんのせいじゃない」

 

 弟はすぐに否定したが、その先を、正しい理由を答えることを躊躇った。代わりにその兄が重々しく口を開く。

 

「……予言だ」

 

 思いもしなかった理由に、マニゴルドは「へえ」と間の抜けた声を上げるしかなかった。アスプロスは乾いた笑いを漏らした。

 

「いま馬鹿にしたな? 俺も笑い飛ばしたいさ。だけど俺たち二人は生まれた時から予言に縛られている」

 

 笑いを収めると、双子の兄は自分の胸を指した。「曰く、最強の聖闘士となれる星座の下に生まれる」

 

 彼が双子座の黄金聖闘士になることで、その予言は成就しつつある。

 

 続いて弟が傍らの覆面を手にして言った。「曰く、双子のうち一人は凶星の下に生まれる」

 

 なぜそれがデフテロスを指したものだと言い切れるのかマニゴルドは不思議に思った。けれど彼と同じ色の肌を持つ者は両親や祖父母にもいなかったと聞いて、納得せざるを得なかった。ただでさえ双子を不吉とみることもあるのに、片割れや親とも違う浅黒い子供というのは、いかにも縁起が悪そうだ。

 

「それで凶星ってのは? 生まれつき運が悪いってことか?」

 

 しかしマニゴルドの予想とは違った。弟は覆面を着け直し、兄が説明を引き継いだ。

 

「一つ目の予言が聖闘士に関わるものだったから、二つ目もそれと関連があると思われた。そこで凶星とは魔星、すなわち冥王軍の配下の者を示す言葉と似ていることが重視された」

 

 聖域にとっての凶星だと解釈された時、デフテロスの存在は敵の捕虜にも等しいものとなった。そして彼の身が万が一にも冥王軍の手に落ちないように、人知れず聖域内で保護されることが決まった。それからというもの双子の弟は行動を制限され、他人との接触を禁じられている。

 

「その覆面は凶星を封じる呪でも掛かってんのか」

 

「いいや」

 

「ただの覆面だ。誰かに見られても、俺たちが双子だということが発覚しなければ予言を連想されずに済む。自衛として着けていろと言われた」

 

「一人で鍛錬してたのも身を守るためか?」

 

「俺はそんなことしてない!」

 

 デフテロスが鋭く叫んだ。突然の剣幕に思わず「お、おう」とマニゴルドは怯む。そこまで隠したいことだとは知らなかった。

 

「その腕の痣、鍛錬で作ったもんじゃねえの」

 

「これは雑兵に殴られた痕だ」

 

「なんだ。おまえを知ってる奴いるじゃん」

 

 数人だと覆面の少年は答えた。凶星の監視役とその知り合いの数名だけが、彼の存在を知っている。

 

「そしてその数人がデフテロスを虐げている」

 

 アスプロスが横から静かに言った。その視線に気づいたデフテロスが兄と目を合わせた。

 

「俺は修行するのも禁じられている。でも兄さんがいる」

 

「そうだ。俺が庇ってやるからいいんだ。だからデフテロスが」

 

「拳を振るう必要はない」

 

 まるで鏡に向かって暗示を掛けるような光景。妙な息苦しさを覚えてマニゴルドは喉を掻いた。

 

「その辺の話って、教皇が決めたのかよ」

 

「いや。ご存じないと聞いている。予言のことを報告すればデフテロスは殺されてしまうから、聖域に入ったという報告すら上げていないそうだ」

 

 それはそれで問題があるが、ひとまず教皇の弟子は「なるほどね」と溜息を吐いた。セージが指示したことだったら申し訳ないと思っていたから安心した。

 

「だったらそんな押しつけの決まりを守る必要もないだろうに」

 

「決まりは守るのが当たり前だろう」

 

 そう答えるデフテロスの声は、穏やかなものだった。マニゴルドは知っている。これは諦めという穏やかさだ。太陽が東から昇るのと同じように、デフテロスは現状を受け入れている。隣ではアスプロスが歯痒そうに口を開き、また閉ざした。

 

「逆になぜマニゴルドは決まりを守らない? 俺は以前、おまえが候補生の命を奪うのを見たことがある。なぜ殺したんだ」

 

 なぜ。それは彼が死刑執行人だからだ。

 

「死者は生者に復讐したくても直接は手を出せない。だから生きた人間が代わりに片をつける。殺す必要があったから殺した。単純な話だろ。むしろ現場を見かけたっていうおまえが黙ってた事のほうが不思議だ。なんで?」

 

「俺は出歩いてはいけないと言われている。おまえたちを見かけた場所はここから遠かったから、候補生たちが倒れたと誰かに知らせれば俺も叱られる。だから兄さんにだけ話したんだ。マニゴルドは聖域の掟を破るのは平気だったのか? 人を殺すのはよくないことだ」

 

 以前にアスプロスにも同じ事を聞かれた。

 

「先に掟を破ってニキアを殺したのはあいつらだぜ。目には目を、ってやつだ。前にアスプロスに言ったことあるけど、親切な奴に助けてもらうのをあてにするより、自分で動いたほうが確実なこともある。あと、俺は元々悪人なんでね。手を汚すのは平気なんだ」

 

 悪童はせいぜい悪く見える顔で笑ってみせた。

 

「デフテロスだって自分の身は自分で守りたいだろう」

 

 だから隠れて一人で修行していたんじゃないのか、と本当は問いたかった。しかしアスプロスにさえその事を隠したい様子なので、この場では口には出さない。

 

 するとデフテロスは残念そうに言った。

 

「俺が抵抗すれば、それだけ折檻は厳しくなる」

 

「抵抗するのが嫌なら、ここを逃げたっていいじゃん。聖域から逃げて予言のことなんか誰も知らない所に行けばいいのに」

 

「もうやった」

 

と、双子は声を揃えた。

 

 一度だけ、兄弟は手を取り合って聖域を逃げ出そうとしたことがある。けれど子供たちの脱走は失敗に終わり、二人揃って生死の境をさまようことになった。聖域脱走は死罪である。未遂で見つかったお陰で殺されずに済んだとも言える。

 

 辛かったのは、味方だと思い、脱走計画を相談するほど頼っていた雑兵に裏切られたことだ。その雑兵の密告によって聖域側に脱走が伝わったと知った時は、二人とも感情を忘れた。この事は聖域には敵しかいないと双子に思わせるに十分だった。

 

 ちなみに二人の体調が回復するまで面倒を見たのは、彼らを半殺しにした聖闘士だった。それが更に二人を打ちのめすことになった。

 

 それ以来、弟は逃げたいと言わなくなり、自身の境遇を受け入れた。兄は弟を自分一人の力で救おうとあがいてきた。

 

「そういやハスガードが言ってたな。昔アスプロスが修行の事故で大怪我を負ったことがあるって。もしかしてその事故ってのは」

 

「脱走に失敗した時に聖闘士にやられたんだ」

 

 技量が今より未熟だったにせよ、アスプロスを叩きのめした聖闘士がいると聞いてマニゴルドは興味を持った。今も聖域にいるのかと尋ねると、イサクという聖闘士だとアスプロスは答えた。

 

「あの男は俺たちを道具と見ている。デフテロスをいたぶって憂さを晴らしながら、自身の評価を高めるために俺には黄金聖闘士になれと言う。そんなあいつの姿を見て、ひどいことをすると同情してくれた雑兵だったんだがな。嘘だったんだ。結局は聖域の人間だった。あれで誰も味方じゃないと思い知らされた。痛い教訓だったよ」

 

「そんなことねえだろ。ハスガードはおまえのことを気に掛けてる。シジフォスも。友達だろ、話してみろよ」

 

「聖域の人間は信用できない。あいつらはいい奴だが、事態を公表して俺たちを追い詰めるだけだろうから特に話せない。黄金聖闘士である以上は、俺たちより聖域の秩序を重く見るだろう」

 

 友人さえも信用しないと言い切るほど、脱走失敗の一件は彼の中で尾を引いているらしい。

 

「おまえだって黄金位になるくせに」

 

「俺は俺たちのために上を目指しただけだ。あの二人とは根底から違う」

 

 それならばとマニゴルドは自分を指差した。

 

「俺は? 教皇の弟子だぜ。こんなべらべら喋って大丈夫かよ。まあ今更だけど」

 

 まったくだ、とアスプロスは苦笑した。「さすがにデフテロスの家に火を付けられては困るからな。もしおまえが猊下の弟子にふさわしい、聖闘士の規範のような奴だったら話すことはなかった。だがどうにも薄暗いところがある身らしいからな。余計な正義感は発揮しないだろうと思ったんだ」

 

 マニゴルドは肩を竦めた。誉められているのか貶されているのか判断がつきかねる。彼は話を戻した。

 

「なあ。もう一度足抜けしてみれば? 今のおまえなら追っ手も返り討ちにして逃げられるだろ」

 

「俺はもう逃げない」

 

とアスプロスは昂然と顔を上げた。

 

「掟は破らない。黄金聖闘士になって、堂々と弟が表に出られる場を作る。掟を破らずに変えてみせる。それが今の俺の目標だ」

 

 その目に迷いはなかった。弟も眩しそうに兄を見つめていた。

 

「おまえはそれでいいの?」

 

 マニゴルドが問うと、デフテロスは嬉しそうに頷いた。

 

 彼は双子と別れて教皇宮に帰ることにした。好奇心は満たされても、なにやら妙な気疲れがした。

 

(お師匠に相談してみようか)

 

 本人たちはアスプロスが黄金聖闘士になれば、すぐに問題は解決すると思っているらしい。黄金位が聖闘士の中で権威のある地位なのは事実だ。しかしそれで何もかもが思い通りになるわけではない。全聖闘士の上に立つ教皇でさえ、意見を通すために苦労をすることもあるのだ。

 

 それにデフテロスの安全を確保した上で存在を公表するなら、どのみち教皇の協力を仰ぐことになるはずだ。いや、もしかしたら知らないふりをしているだけで、すでに双子と予言のことを把握しているという可能性さえある。もし何らかの思惑があって教皇が指示したことの結果が現在なら、アスプロスがあがいても、何も変わらないかも知れない。

 

 ああ面倒臭い、と彼は首を掻いた。

 

 アスプロスが直接教皇に相談してくれれば、それが一番誤解が少ない。

 

「なんで俺がこんな他人事で頭悩ませてんだろ」

 

 マニゴルドは独りごちながら階段を上った。

 



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面倒な友人

 

 神官がちらちらと斜め後ろを気にしている。

 

 彼は教皇の前に立ち、翌月に控えた行事についての上申を行っている。当然、その顔は正面の教皇に向けられていた。しかし意識が時々逸れることまでは抑えられなかった。

 

 セージは神官の説明を聞き終えると、泰然と頷いた。

 

「良かろう。仔細は任せる」

 

「ありがとうございます。あの、猊下……」

 

 相手の言いたいことを察して、セージは部屋の一角を眺めた。ようやく神官もまともにそちらを振り返ることができた。

 

 二対の視線の先には、少年が床に転がっていた。窓から差し込む日の光の下、ぴくりとも動かない。教皇の執務室でそんなことをしでかすのは、無論マニゴルドしかいない。

 

「お弟子がお疲れでしたら奥へ運ばせたほうがよろしいかと存じますが、人を呼びましょうか」

 

「気にするな。あれは修行中だ」

 

「はあ。あ、いえ、申し訳ありません。失礼いたしました」

 

 神官が出ていくと、セージは机を離れて弟子の元へ歩み寄った。人の近づく気配にもマニゴルドは動かない。

 

 少年は眠っているわけではなかった。神官が入室する前に、肉体を置いて魂だけで黄泉比良坂に飛んでいた。しばらくは戻ってこないだろう。

 

 弟子の体は積尸気冥界波を受けてひっくり返った時のままだ。膝が折れ曲がって苦しそうな体勢だったので足を伸ばしてやる。部屋にあった膝掛けもついでに掛けてやった。丈夫な弟子のことだから床に転がっていても風邪を引くことはないだろう。ただ、こうしておけば神官を驚かせずに済むはずだ。

 

「世話の焼けることだ」

 

 セージは呟いて机に戻った。

 

 一時間ほどすると少年は唐突に甦った。途端に部屋が騒がしくなった。

 

「ただいま! ん、なんだこの毛布」体に掛かっていた膝掛けをはね除けて、弟子は師に食ってかかった。「お師匠ひでえよ。俺がお師匠の魂を引っこ抜く修行だろ? なんでいきなり俺を積尸気送りにするんだ」

 

「私は『こちらからは仕掛けない』と言った。やり返さないとは言ってない」

 

「そんなのずりい。お師匠の魂、根っこ生えてるみたいに重いのに、そこを狙われたら防げねえよ。何なのあれ。山を持ち上げてるくらい無謀なことしてる気がする。年寄りだから生への執着が意地汚いってことか?」

 

「腰の粘りが違うだけよ。要するに小宇宙の使いかたの問題だな」

 

 結局はそれか、とマニゴルドは頭を抱えた。

 

 そして次に頭を上げた時には話が違うところへ飛んだ。

 

「お師匠はさあ、神託とか予言とかって信じる?」

 

 セージは弟子の唐突な疑問にも静かに答えた。

 

「否定はしない」

 

 古代ギリシャには神託を授ける神殿があった。たとえばデルフォイやイピロスのドドナなどが有名だ。それらの神託所で下される予言は、恐ろしいほどの的中率を誇っていたという。

 

「神でさえ予言の実現を覆すことはできない。実現しなければ、それは発言者の願望でしかないからな。信じようが信じまいが、防ごうが無視しようが、成就する。それが予言だ」

 

 不吉な予言を無視して事が済むなら、トロイア戦争でのカサンドラの悲劇は起きなかっただろう。兄パリスがヘレネーをさらってきた時。敵軍の潜む木馬が市内に運び込まれた時。予知能力のあった彼女はこれらがトロイの破滅につながると抗議したが、誰も信じなかった。

 

 かといって回避しようとしても上手くいかないのが予言だ。たとえばティタン神族のクロノスは子供に権力を奪われるという予言を受けて自分の子供を全て飲み込んだ。けれどそのせいで子供たちの恨みを買い、息子のゼウスとその兄たちにティタノマキアで敗れた。

 

 またアクリシオス王は、娘の子供に殺されるという予言を受けて娘と孫のペルセウスを海に流したり、孫との接触を避けたりした。それでも最後はペルセウスの投げた円盤が頭に当たるという事故で命を落とした。

 

 聖闘士はそんな神話上の逸話をいくつも教えられる。そのせいもあって神託とは信頼できる忠告として受け止められていた。古くから聖域とつきあいのある神殿に聖闘士が神託を受けに行く行事も、その傾向を肯定している。

 

「シジフォスが射手座に就任した時にも、使者に立たせたことがあるぞ。どんな神託を受けてきたかは知らぬがな」

 

 実は、神託として使者が教皇宮に報告する言葉は予め決まっている。実際に神殿で下される言葉はその使者個人に宛てたものであることが多く、報告させて記録に残すと色々と差し障りがあった。そこで形式上の「神託」を用意しておくのだ。教皇と神官にとってはどんな神託を受けたかは些細なことで、神殿に行ったという事実があれば充分だった。

 

「神託の無視ってことになるじゃん。いいのかそれで」

 

「必要だと思ったら本当のことを報告しろとは言ってあるが、ほとんどの者は決まったことしか報告しない。それで問題も起きていない。だからいいのだろう」

 

 セージは弟子にそう説明した。彼が教皇になるより遙か以前からの習わしだから、問題ないと言い切ることに抵抗はなかった。

 

 いい加減だな、とマニゴルドは肩を竦めた。

 

「じゃあさ、もし俺が聖域に仇なす存在だって予言されたらお師匠はどうする? やっぱり殺すか」

 

 マニゴルドの口調は常と変わらぬ軽さだった。しかしその裏に何かを警戒しているような強張りが潜んでいる。空中に張った綱の上にこれから一歩踏み出しそうな緊張感。

 

 セージは慎重に答えた。

 

「予言がもとで迫害を受けることのないように、見張りも兼ねて手元で庇護してやろう。そして予言などあてにならないと誰もが思うように立派な男に鍛えあげてやる。おや、今とたいして変わらぬな」

 

 え、とマニゴルドは目と口を丸くした。それが面白くてセージは小さく笑った。

 

「大事が起きる時は他にも予兆がある。それと合わせて判断の参考の一つにするならいいだろう。だが予言を受けたからといって、それだけで人の処遇を判断するのは好ましくない」

 

「それは相手が俺っていう仮定だから? 予言を受けたのが雑兵とかだったら対応はどうなんだ」

 

「雑兵なら教皇宮へ召し抱える形で保護しよう。とにかく聖域に仇なすという不吉な予言を受けた者がいたとしても、下手に迫害して恨みを買うのは下策だ。相手の憎悪を煽れば、それが牙を剥く原因にもなりかねない」

 

 なんだ、と弟子は呟いた。ゆっくりと緊張が薄れていく。綱渡りは無事に終えたらしかった。

 

「しかしそのような不吉な例え話をするなど、いったい誰に何を吹き込まれたのだ」あるいはどこかでそう予言されたのか。

 

 彼の不安をよそに、マニゴルドは「べつに」といつもの気のない返事をするだけだった。

 

「不吉っていやあ、双子って聖域でも不吉なものなのか」

 

 もしそれが話を逸らすための言葉だったら、セージは弟子の問いを無視して話を戻しただろう。けれどマニゴルドの目を見る限り、予言と同じくらい重要な意味を持っているようだった。

 

「それはない。世間一般の迷信が聖域に及んでいる可能性は否定しないが、ディオスクロイ――双子座の象徴たる双子が忌み嫌われるはずがなかろう」

 

「じゃあ二人兄弟がいるとしてさ、片方は候補生として優秀だけど、もう一人は素質がないと早々に見切りを付けられたような場合は、駄目なほうを隠したりする?」

 

「素質の差か。それは……そうだな、神話には一人が神の血を引きもう一人は引いていない、父親の異なる双子というのが存在する。二組上げてみろ」

 

 この場合の神話とはもちろんギリシャ神話を指す。一組目はマニゴルドでもすぐに出てきた。ポリュデウケスとカストル。直前まで話題にしていた双子座のことだ。仲の良い兄弟だったことで知られている。ちなみに弟のポリュデウケスがゼウスの血を引いているということになっているが、二人ともゼウスの子という説もある。

 

「もう一組か……。えっとヘラクレスと何とか」

 

「それでは正答と言えぬ」

 

 正解はヘラクレスとイピクレスだ。兄ヘラクレスの父がゼウスである。こちらの兄弟仲は悪かったが、弟イピクレスの子はヘラクレスの冒険に同行し、相棒と言っても過言でないほど伯父をよく助けた。

 

「要するに持って生まれたものが違っていても、無理に差別しなくていいという考えだな。兄弟の間に蟠りができてしまうことまでは防げないが、こればかりは仕方ない。元々聖闘士というのは領地や家名とは違う、個人の力をもって認められるべきものだ。ゆえに聖闘士にとっては血縁よりも師弟関係の結びつきが重視される。素質がないほうは普通に雑兵になるだけだろう。兄弟だからといって特別視はされない」

 

「そっか」

 

 それで納得したらしかった。セージはそのまま弟子が胸に秘めているものを告げてくれるのを待った。けれどいくら待っても、予言や兄弟にまつわる話を打ち明ける気はないようだった。マニゴルドは右の人差し指に意識を込めてこちらの様子を窺っている。このまま待っていても弟子は冥界波を仕掛けてくるだけだろうし、そうなれば自分は反撃せざるを得ない。

 

「マニゴルド」

 

「なに」

 

 すっかり気を切り替えてしまった弟子の返事は短い。

 

「私とて、世界中に散る聖闘士や聖域の全ての住人のことを一から十まで把握しているわけではない。むしろ天上の星々にばかり目を向けているせいで、足元の星には気がつかないまま蹴飛ばしてしまっているかもしれない。だから気のつく弟子が一言声を掛けてくれるとありがたいのだがな」

 

 相手は迷った。けれど折れなかった。

 

「お師匠には悪いけど、この件に関しちゃ俺からは話せねえよ。誰にも喋らないって約束してんだ。本人が喋るなら別だけど」

 

 セージは微笑みかけた。そのとき「隙あり!」と叫んでマニゴルドが右の人差し指を彼に向けてきた。しかし不意打ちにすらならない。彼は即座に弟子の魂を積尸気に送った。

 

 再び静かになった執務室で、セージは一枚の書類を手に取った。双子座の黄金聖闘士になる予定の者についての報告書だ。半分以上は形式的な文章で、意味のあるのは生年月日、出身地、両親の名前や家系、せいぜい本人の特徴程度だ。十代前半の少年の経歴が長々と書かれることはない。

 

 候補生になってからはアスプロスと名乗っている少年。彼は幼い頃に素質を見出されて聖域に迎えられたという。自分にも他人に厳しい傾向があるが、目下の者への気配りや面倒見の良さは評価されている。また、常に明確な目標を立ててその達成に邁進することを好んでいる。周囲の人間の才能を見抜いて目標達成へと導く、指導者向きの性格である――と、報告されていた。ただし報告者は彼を育ててきた聖闘士だから、親の欲目もあるかも知れない。寸評は話半分に聞いておいたほうがいいだろう。

 

 ちょうど弟子が起きてきたので聞いてみた。

 

「アスプロスという候補生を知っておるか」

 

 マニゴルドは驚いた顔をした。それから警戒したようにゆっくりと頷いた。そのまま彼の目はセージの手にある書類に向けられた。セージはそれを軽く掲げてみせる。

 

「黄金聖闘士になる者についての調べだよ。聖闘士から見た姿と、同じ候補生から見た姿は違うかも知れぬ」

 

 その説明でやっと合点がいったらしく、警戒を解いた。

 

「ああ、そういえばハスガードのことも聞かれたっけ。あの時は俺どんなこと答えたかなあ」

 

「『体と声が大きくて甘い物が好き』と言っていたぞ」

 

 覚えてないな、とマニゴルドは腕を組んだ。

 

「アスプロスは……凄っげえ負けず嫌い。候補生の間じゃ厳しいけどいい先輩って感じで受けはいいけど、あいつ本当は他人に説教して優越感浸りたいだけだぜ。俺にはその手が効かないから、ボロクソ貶してくるもんよ」

 

 口ではそう言いながらも、マニゴルドの声は楽しそうだ。ほう、とセージは相槌を打った。アルバフィカ以外にも親しくしている候補生がいるようで何よりだった。

 

「お師匠。その報告書ってアスプロスの家族のことも書いてあったりする?」

 

「ああ」

 

「兄弟のことは書いてあるか? 一緒に聖域に連れてこられた奴はいないのかな」

 

「その手の記述はないな」

 

 弟子の肩が僅かに落ちた。それをごまかすように、身を屈めて床の膝掛けを拾う。

 

 セージはその姿を見つめた。ここまであからさまに手がかりを示されては無視もできない。マニゴルドが先ほど気にしていた兄弟の件はこの双子座の候補生に関わる話なのだろう。おそらくは予言についても同様だ。候補生同士の気安さで、指導者さえ知らない秘密を打ち明けられたのかも知れない。

 

 彼は弟子を呼んだ。ちょうど膝掛けを畳み終えた弟子は顔を上げた。

 

「称号を授ける前にアスプロスを引見するつもりだ。日が決まったら指導者経由でそのことを伝えるが、おまえからも伝えてほしい。これは二人きりの非公式な場になると」

 

「それって」

 

 マニゴルドは言いかけて、口を噤んだ。

 

「それとおまえが気にしていた予言のほうもだ。教皇に直接打ち明けるのは気が進まぬかも知れないが、秘密と身は守ると伝えてくれ。こみいった話なら手紙でもいい。おまえが仲介してくれ」

 

「了解」

 

 そう言って弟子はニッと笑った。

 

          ◇

 

 次の日、マニゴルドは双子座の聖闘士候補に声を掛けた。

 

 二人は闘技場の隅の、周囲に人のいない場所に移った。教皇の弟子は師の意向を伝える。

 

「そのうちジジイがおまえを呼びつける。おまえの師匠を挟まないで話ができる機会だから、デフテロスのこと話しちまえよ」

 

「なぜ」

 

「俺が相談してみたんだ。もちろんおまえたちのことだっていうのは伏せて」

 

 彼はセージと話した時のことをアスプロスに伝えた。凶星とされる存在がいることを知っても、教皇に迫害するつもりはないこと。むしろ迫害されないように教皇宮に引き取るつもりがあること。

 

「だから双子座の黄金聖闘士になるのを機会にさ、ジジイにデフテロスのことを打ち明けてみてもいいんじゃねえかな。なあ、そうしろよ。悪いようにはならないと思うぜ」

 

「猊下はおまえの前だからそういうことを仰ったんだろう。教皇として同じ判断をされるとは限らない。なぜ今まで隠していたのかと責められるほうがあり得る」

 

「話すつもりはないと」

 

「当たり前だ」

 

 マニゴルドは口をへの字に曲げた。なぜセージが正式な通達ではなく弟子を使って非公式に伝えたのか、この外面ばかりいい候補生はまるで分かってくれていない。このままでは弟子を信じて仲介役を任せてくれた師に申し訳が立たない。

 

「うちのジジイはそんなことじゃ怒らねえよ」

 

 彼は反論し、それでも足りずに言葉を継いだ。

 

「どうせ薄々勘付いてるだろうから言うけどな、俺は聖域に来る前にも人を殺してる。だけどお師匠に昔の殺しで責められたことは一度も無えんだ。そうしなきゃ俺が生き延びられなかったってお師匠も知ってるから。生きるために殺すことを許してくれるんだ、生きるために隠すことだって許してくれる」

 

「しかし凶星という予言まで見逃してくれるとはとても思えない。イサクはずっとそう言っているし、デフテロスもそう思っているはずだ」

 

「おまえが黄金位になれば、その師匠よりも格上だ。言いつけに従わなくてももう怒られないだろうに」

 

「あの男を師匠と仰いだつもりはない」

 

「なんでもいいよ。それにおまえが双子座になったらデフテロスはどうするんだ。あの掘っ立て小屋でそのままか? 飯は誰が世話する。黄金聖闘士になっても隠し牢の囚人に食事を運ぶ係を続けるなんて、周りが許さねえぜ」

 

「双児宮に引き取るさ。今よりはましな暮らしをさせてやれる」

 

「不自然だそんなの。弟が堂々と暮らせる場所を作るのがおまえの目標なら、弟がいるってことを周りに認めさせるのが先だと思わねえのか。ジジイが保護してくれるって言ってんだしさ」

 

「だから弟を教皇に引き渡せというのか? 人質に取られるようなものだ。ますます信じられないな」

 

「じゃあせめてデフテロスを隠すのくらいは止めれば」

 

「誰が敵かも分からないのに公表できるか。デフテロスの食事を用意してもらってるのだって、いもしない囚人のためだと偽っているんだぞ。そこまでしなければならない現状なのに、周りに知らせるなんて危険すぎる」

 

 信頼した者に裏切られて死にかけたという痛手はまだ癒えていないようだ。アスプロスの疑心は根深い。長年積もりに積もった不信は、一陣の風くらいでは吹き飛ばない。

 

「でもよ」

 

「Cave quid dicis, quando, et cui. ――何を、いつ、そして誰に言うかに注意せよ」

 

 アスプロスはラテン語の格言を持ち出してマニゴルドを黙らせた。

 

「おまえは猊下の目の届く所で庇護されているから分からないんだ。たとえ俺が聖闘士になっても暮らしの中心は双児宮だ。猊下の庇護の翼は届かない。それにシジフォスのように外部任務に出ることになれば、その間デフテロスを守れる人間はいない。帰還したら弟の死体が出迎えてくれた、なんて俺はご免だ。デフテロスのことを公にするなら、不吉な予言のことなんて綺麗さっぱり消え去った後でないと」

 

 相手は当事者だ。その言い分を否定するのはマニゴルドには難しい。だから矛先を変えた。

 

「なら、おまえ自身は予言のことどう思ってんだ」

 

 それは双子を縛る予言を知った晩から疑問に思っていることだった。

 

 最強の聖闘士になれると予言されたなら、自分なら嬉しいしそれを信じたくなる。けれど同時に、己の半身が災いを呼ぶ存在だと予言されたなら、それも信じなければいけないだろうか。そもそも予言は「双子のうち一人は凶星の下に生まれる」というものだ。もう一つの予言の対象とは別の人間について言及しているとは限らない。最強の聖闘士になれると同時に凶星である、という可能性だってあるはずだった。

 

 また逆にアスプロスが凶星で、最強の黄金聖闘士がデフテロスを指しているという可能性もあっただろう。もっともアスプロスが双子座になると内定した今、その可能性は消えたが。

 

 アスプロスは答えた。

 

「俺は信じない。俺たちは予言のために生きているんじゃない。だから聖闘士の称号を授かるのも俺の力が認められてこそだと思いたい」

 

「最強の聖闘士になれるっていうほうな。もう一つの予言は?」

 

「あれは嘘だ。あんな虫も殺せない優しい奴が凶星のはずない」

 

 あっそう、とマニゴルドは呟いた。

 

 彼は闘技場のほうを眺めた。聖闘士が候補生たちを指導している。

 

「だからっておまえ一人が頑張る必要ねえと思うけどなあ。弟を守るって言うけど、具体的には何からだよ」

 

「凶星という予言を真に受けてあいつをいたぶる連中からだ」

 

 イサクと親しい数名の雑兵は、デフテロスの存在を知っている。そして彼らはデフテロスが公に出られない立場なのをいいことに、覆面の少年を虐げては憂さ晴らししている。凶星だからそれなりに扱うべきだと考えているイサクはまだいい。むしろそれに便乗している無責任な彼らのほうが厄介だった。

 

「修行を禁じられてるにしてもさ、男なんだから自分の身は自分で守らせろよ」

 

「あいつに強くなれと?」

 

 アスプロスの目に怯えが過ぎった。しかし瞬きをした後にはもう消えていた。マニゴルドはおろか、本人すら気付かなかった。

 

「俺たちのことを考えてくれるのはありがたいが、マニゴルドは何もしてくれなくていい。あまり引っかき回してくれるようなら、おまえも敵だと思うからな」

 

「敵か味方かなんて、白黒はっきりつく人間ばっかじゃねえぞ」

 

「それは忠告か? とにかく、この話は終わりだ」

 

 双子の兄は彼の肩を叩いて闘技場を去った。

 

 その背中に向かってマニゴルドは思いきり舌を出した。

 

 

 教皇宮に戻った少年は一部始終を報告した。

 

 あまり色よい反応は得られなかったと伝えられても、セージは気にしていなかった。

 

「話は変わるが、前に帳簿を調べさせた時、おまえは聖域の収入源について尋ねたな」

 

「え、うん」

 

 金の使い道を調べていたら、その財源も気になるのは当たり前だと少年は思う。俗世からの依頼を受けて聖闘士が動いた報酬が、収入源の一つとしてあることは漠然と知っていた。しかし世界中に聖闘士の散る現体制を維持するには、他にも安定した収入が要るはずだった。聖域の内側を見ても、自給自足でやっていけるだけの農地はない。どこから収入を得ているのか、帳簿を見るだけでは今ひとつ判らなかった。

 

「先ほど神官長との雑談でそのことを話したら、候補生の身でそこまで考えの回るのは珍しいと言われたぞ。ついでに現場を見せてやったらどうかと勧められた」

 

「現場?」

 

「雑兵では手に負えずに聖闘士が出向く用事があるから、それに随行させてもらえ。おまえの見識を広げる役に立つだろうから」

 

「いいけど、アスプロスの件は?」

 

「そちらも進めておくから気にしなくていい」

 

 逃げ道を断たれるともう少年は従うしかなかった。おそらく神官長は、教皇が日中も執務の傍ら弟子に修行を付けるのが目障りだったに違いない。特に冥界波を食らっている間は執務室で眠り込んでいるように見られているらしく、気付くと睨まれていることが多かった。だから老人をおだてて一時的にも追い払うことにしたのだろう。

 

 あの髭め、とマニゴルドはその場にいない人物に恨みをぶつけた。他人が近くにいる時は冥界波を使ってはいけないという師弟の決まりを「うっかり」破って、神官長の魂を引き抜いてやろうかと一瞬だけ考えた。師に叱られるから実行するつもりはなかったけれど。

 



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兄弟

 

 アスプロスは聖域育ちの聖闘士候補生である。

 

 幼い頃からひたむきに研鑽を積み、その実力は聖域でも折り紙付きの俊英だ。共に黄金位を目指した仲間たちに続いて、双子座の黄金聖闘士という称号を得ることが期待されている。

 

 その双子の弟デフテロスもまた聖域育ちである。

 

 しかし兄と共に育てられたのも今や昔。兄が頭角を現すにつれて彼は陰に押し込められ、存在を示す記録は消された。顔を露わにすることも許されず、幽霊のように身を潜める暮らしを強いられている。

 

 この境遇の差は、彼らが生まれる前に示された二つの予言に由来する。

 

『最強の聖闘士となれる星座の下に生まれる』

 

『双子のうち、一人は凶星の下に生まれる』

 

 かつて双子が聖域に引き取られた時、引受人は一つ目の予言がアスプロスを、二つ目の予言がデフテロスを指すものだと考えた。兄は両親と同じ肌と髪の色をした子。弟は親戚や祖父母にもいないような浅黒い肌の子。この二人を比べれば、弟が凶星の下に生まれた者としておあつらえ向きに見えた。なにより肉親が忌み子として見ていたから、そうなのだろうと考えた。

 

 ところでこのことは教皇に報告されなかった。今となってははっきりした理由は分からない。双子を引き取り、その処遇を決めた当時の責任者が聖域から去って久しいからだ。そして現在聖域では聖闘士候補生アスプロスだけがその存在を知られており、デフテロスは聖域に入ったという記録すら残っていない。

 

 デフテロスのことを知る数少ない存在の一人が、イサクという聖闘士である。彼はアスプロスの指導役であると同時にデフテロスの監視役でもあった。

 

 彼は予言を信じ切っていた。特にアスプロスの守護星座が双子座だと明らかになってからは、ますます予言が現実になるのだと確信した。そしてデフテロスを虐げた。殺すまで至らなかったのは、単に自分の身に災いが降りかかるのを恐れたからに過ぎない。

 

 アスプロスは他の大人に助けを求めようとした。けれどイサクは狡猾だった。兄弟の事情を知った者と接触し、彼らの言動や行動を逐一報告させた。そして二人が脱走計画を企てたことを掴むと、それが実行に移されるまで泳がせた。二人に「脱走など考えるだけでも無意味」「頼れる者はいない」ということを心と体に叩き込むためである。

 

 そうして実際にその通りにした。

 

 さらに逃走に失敗して打ち拉がれた兄弟へ、『凶星が生きていると知られれば聖域に殺されてしまう。こうやって隠すことで守っているのだ』と吹きこんだ。現に彼の舎弟のような雑兵たちは予言を口実にデフテロスをいたぶっていたから、他の者もそうだと言われれば兄弟に否定はできなかった。アスプロスは友人にも事情を話せなくなった。

 

 皮肉なことに、兄が最強の聖闘士を目指してそれに近づくほどに二つの予言の信憑性が上がった。そのせいで弟はますます凶星とみなされ、聖域の暗がりに押し込められることになった。けれど二人は気づかない。

 

 予言は双子の兄弟を歪な絆で縛り上げていた。

 

「九百九十八、九百九十九、千。お疲れ、兄さん」

 

 デフテロスに声を掛けられてアスプロスは反復の鍛錬を終えた。月明かりの下で、汗に濡れた若い身体が光っている。

 

 双子の兄は夜も自主的に鍛錬を行っていた。最初は宿舎を抜けて弟に会いに行くための口実だったが、弟を守るためにも力が要ると悟ってからは、本格的に鍛えるようになった。お陰で夜に宿舎にいなくても他の候補生に不審がられることはない。

 

 汗を拭く兄に弟が話しかけた。

 

「そういえば、双子座の称号が貰えるのが決まったんだってな。おめでとう」

 

「まだ確定じゃない」

 

「でもほぼ決まったってイサクは言ってた。今日、教皇宮に呼ばれて話をしたって」

 

 兄は舌打ちした。念願の聖闘士になれる日が来たら、誰よりも早く弟に伝えるつもりだったのに、それが邪魔された気分だ。

 

「あいつがわざわざおまえに話したのか。珍しいな」

 

「アスプロスの身内が聖域にいないかって聞かれたらしいんだ。あの人はいないと答えたそうだけど、俺が出歩いたところを見られたせいで秘密が漏れたんだって、また殴られた」

 

 アスプロスは振り返った。

 

「ごめん。守ってやれなくて」

 

 弟を守ること。それが彼の強くなった原動力であり、目的の全てだった。たとえデフテロスが兄の自分に隠れて一人で鍛えていたとしても、それは変わらなかった。

 

 けれど彼がどんなに鍛錬して実力を付けても、気づくとデフテロスはすぐ後ろまで迫っている。それでいて素知らぬ顔でもっと上を目指せ、強くなれと兄に囁く。その恐ろしさは誰にも理解してもらえないだろう。

 

 どんなに速く走っても、足元に寄り添う影から逃げられないのと同じだ。

 

 それが嫌なら、影が地面に差さないほど高みを飛ぶしかない。星の高さまで。

 

「あいつのことだ。またおまえのことを殺すと言っていたんじゃないか? ごめんな。もっと強くなるから」

 

「兄さんが謝ることじゃない。あの人が脅すのはいつものことだし、油断してた俺のせいだ」

 

「おまえのせいじゃない」

 

「じゃあ誰かが言ったのかな」

 

「そうかも知れないな」

 

 以前にマニゴルドと交わした会話を思い出して、アスプロスは溜息を吐いた。直接の暴露はせずとも、教皇に勘付かせてしまうような言葉を彼が口にしたに違いない。肝心なところで詰めが甘いことは、普段の手合わせでも分かることだ。

 

 兄の言葉に弟は息を呑んだ。それはつまり、教皇も自分の存在と予言を知っているということではないか。

 

 そんな弟の怯えを感じ取って、兄は急いで弁解した。

 

「いや猊下ははっきりした事はご存じないと思う。マニゴルドが予言のことで探りを入れたらしいから、それで妙に思われたんだろう。余計なことをしてくれたものだ」

 

「探りって教皇に直接……? もしかして教皇の弟子っていうのは本当なのか」

 

「ああ。残念ながらあの悪党は正真正銘、猊下の弟子だ」

 

「悪党って」

 

 大袈裟な、と弟は苦笑しかけた。しかし思い返せば候補生の命を取ったり、小屋を燻しだそうとしたり、ろくでもない行動しか目撃していない。唯一擁護できそうなのは、自分たちへの食べ物のお裾分けくらいだ。

 

 兄は頭を振った。

 

「食い物の差し入れだって単なる好意やお節介じゃない。あいつにとっては損得勘定のうちだぞ。大人になれば俗世であくどいことに手を染めそうな、妙に狡(こす)っ辛い奴でな。聖域に来る前は何をしてたんだろうな。盗賊団の下働きくらいのことは絶対にやってたと思う。前に神官がそんなことを言っていたし」

 

「……そんな奴も聖闘士を目指しているのか」

 

 暗がりにいるデフテロスにとって、それは遠くに見えた灯台の灯りに思えた。太陽のような兄の存在に比べれば明るさは全く及ばなかったが、それでも確かに灯りだった。

 

「性根としては候補生かどうかも疑わしいけどな。でも小宇宙にも目覚めてるし、特異な力もある。そういえば小宇宙は俺が手助けしてやったから体得したようなものなのに、あいつときたら全く感謝してこない。恩知らずな奴だ。態度も大きいし、一度叩きのめしてやろうかと思うよ」

 

 しかつめらしく話す兄を見て、弟は逆に表情を緩めた。話を逸らすためとはいえ、アスプロスがここまで他人のことを話すのは久しぶりだった。以前はシジフォスやハスガードという名前が話に出てきたが、最近はそれもない。アスプロスが二人を味方とみなさなくなったからだ。例外は冬の日の出来事くらいだった。

 

 それは聖域に大雪が積もったときのこと。候補生数人で雪合戦をして、最後まで勝ち残ったと兄が話してくれたことがあった。その様子があまりに楽しそうだったので、夜にもこっそり二人で雪合戦をした。デフテロスにとっても楽しい思い出だ。その時の話で久しぶりにハスガードの名を聞いたのが印象に残っていたが、たしかマニゴルドという名前も登場した。それを思い出した。

 

「兄さん」

 

 弟の声が深くなった気がして、アスプロスは悪童をこき下ろすのを止めた。「どうした」

 

「マニゴルドと仲良くしなよ」

 

「友達が欲しくなったか? あいつは止めておけ」

 

「俺のことじゃなくて、兄さんの話だ。悪党でも何でもいいけど、縁は切らないで」

 

「あいつが教皇の弟子だからゴマをすれと?」

 

 自尊心の高い兄の目が険しくなる。

 

「違う。そんな真似は兄さんには必要ない。そうじゃないんだ。俺のいない場所でも兄さんには笑っていてほしい。ずっと陰で見てるから知ってるけど、兄さんあんまり笑わなくなっただろう」

 

 思わぬことを指摘され、アスプロスは首を傾げた。「そうかな」

 

「そうだよ」とデフテロスは頷く。

 

「だったら、おまえが一人辛い思いをしてるのに俺だけ笑っていられないってことだよ」

 

「つまり俺は兄さんの楽しみを奪って生きてるのか」

 

 兄が絶句したのを見て弟はすぐに「ごめん」と謝った。

 

 二人は兄弟喧嘩をしたことがない。

 

 彼らは衝突することを怖がっていた。唯一信じられる相手と仲違いすることを何よりも恐れていた。

 

 俯いてしまった弟から目を背け、兄は足元の石を蹴飛ばした。

 

「……マニゴルドから、おまえのことを教皇に打ち明けたらどうかと言われた。おまえはどうしたい?」

 

「俺は今のままで構わない。それが兄さんの負担だというなら、教皇に全て暴露して俺みたいな重荷を捨ててくれてもいい」

 

「馬鹿。そんなこと言うな。おまえがいなくてどうして俺の望みが叶う。俺の願いは兄弟揃って暮らすことなのに。そう簡単に諦めるな」

 

「兄さんが明るいところで輝いてくれれば、俺はそれで希望が持てる。諦めてなんかいないよ」

 

「そうだな」と彼は弟を振り返った。やはりマニゴルドの言うことを真に受ける必要はないのだと安心した。

 

「俺は誰の力も借りずに最強の聖闘士を目指す。そして誰にもおまえを凶星などと呼ばせないようにする。もう少しだ。それまで待っていてくれ」

 

 デフテロスは頷いた。

 

 

 ある日アスプロスは射手座の黄金聖闘士から呼び出しを受けた。

 

 初めて上る十二宮は、どこまでも階段の連なった白い道だった。ハスガードのいる金牛宮を抜けると、シジフォスの待つ人馬宮までは無人の神殿が続く。

 

 少しばかり飽きて横を眺めると、遠くまで広がった春の聖域が見えた。普段入り浸っている闘技場も、宿舎の屋根も、火時計も、全てが眼下に広がっている。普段は見上げるばかりの星見の丘も少しだけ高さが近い気がする。

 

 ただの候補生に過ぎないアスプロスが初めて見るそんな風景も、教皇の弟子には見飽きたものだろう。けれど羨ましいと思ったのは一瞬だった。訓練で疲れた体で上るのはきついと、すぐに気付いた。

 

 人馬宮に着くと、シジフォスに奥へ案内された。

 

 そこには兜を着けた法衣姿の老人がいた。その小宇宙の雄大さと大河のような穏やかな流れ。泰然と椅子に掛けていても滲み出る威風。まさしく教皇だった。

 

 アスプロスはすぐさま膝を折った。

 

「ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます。聖闘士候補生のアスプロスにございます」

 

「うむ。そなたを人馬宮へ呼びつけたのは私だ。ゆっくり話がしたくてな」

 

「はっ。一候補生たる身には余る栄誉、このアスプロス望外の喜びにございます」

 

「そう畏まるな。ここは教皇の間ではない。面を上げて楽にするが良い」

 

「ははっ」

 

 楽にしろと言われて楽にできるわけがない。畏まったままの彼を見下ろし、教皇の周りの空気が微かに揺れた。頭を下げたままのアスプロスにも、苦笑されたことが判った。

 

「そなたには我が弟子が世話になっている。組み手の相手や助言をしてくれているそうだな。師として礼を言う」

 

「勿体ないお言葉にございます。僭越ながらお弟子様とは聖闘士を目指す同志として、切磋琢磨していきたいと存じます」

 

「殊勝なことだ。そなたは候補生どころか聖闘士と比べても随一の実力者と聞いておる。そこでだ、一度そなたの立ち合いを見てみたい」

 

「猊下のご所望とあらば否やはございません」

 

「では来週この射手座と立ち合え」

 

 アスプロスの目が輝いた。「承知仕りました」

 

「シジフォスも聞いたな」

 

「しかと」

 

「では下がってよい」

 

 シジフォスは一礼して部屋を出て行った。かつて彼が射手座の聖衣を賜る際に、現役の黄金聖闘士の胸を借りて仕合を行った。その時に魚座のルゴニスが果たした役目を、今度はシジフォスが担うことになる。

 

 教皇が僅かに姿勢を変えた。弟のことを聞かれると思い、アスプロスは内心身構えた。

 

「さて、他に聞く者もなし、少し砕けた話をしようか。といっても、我々の間で共通の話題になりそうなのは我が弟子のことくらいだな」

 

 シジフォスやハスガードのこと。それに小宇宙やアテナへの忠誠のことでも良いはずなのに、教皇はそれらについて触れる気はないらしかった。アスプロスは余計なことを言わずに相手に委ねた。呼び出された理由は分かっている。

 

「マニゴルドが闘技場ではどのような感じか、聞かせてくれぬか。私がいくら聞いても、あやつは『べつにー』だの『ふつうー』だのとはぐらかすのだ」

 

 雲上の人とばかり思っていた老人が、いきなり悪童の口調を真似するので、思わずアスプロスは吹き出してしまった。

 

「失礼いたしました。ご安心下さい。彼は確実に力を付けています。小宇宙を体得してからの様子しか存じませんが、最近はとみにその使い方が上手くなっているようです。他の候補生からも教えを乞われる姿を見かけます」

 

「未熟者のくせに人に物を教えるなど、おこがましい」

 

 そう言いながらも、教皇はどこか嬉しそうだった。

 

「あやつはいささか突拍子のないことをしでかす奴でな。上でも悪童呼ばわりされておって私も頭が痛い。そなたには迷惑を掛けておらなんだか」

 

「滅相もない」

 

「気を遣わずに正直に申してよいのだぞ」

 

 見透かされたような気がして、アスプロスは少し赤くなった。

 

「……決して迷惑など被ってはおりません。その、候補生にはなかなかいない類の性格といいましょうか、楽しく付き合っております」

 

「そうか。楽しくか。下で他の者を困らせていなければ良いのだが、その点はいかがであろう」

 

「たまに叱られていますが、困らせると言うほどのことではありますまい」

 

「きちんと叱られているのだな。教皇の縁者ということで周りを萎縮させたり腫れ物扱いされたりはしておらぬのだな」

 

「はい。マニゴルドが猊下のお弟子ということを知っていても誰も意識しておりません。いえ、猊下のご威光が届いていないというのではなく、本人の気質のせいかと存じます」

 

 さもありなん、と教皇は溜息を吐いた。

 

「基本的には俗世の悪童だからな。この前など、土産だと言って下の松林で拾った松笠を寄越しおった」

 

「松ぼっくり? 恐れ多くも猊下にそんな物を?」

 

「そうだ。神官には汚いから捨てろと言われたが、弟子の寄越した物を捨てるのも忍びなくてな。机に飾っておる。するとあろうことか、マニゴルド本人にまで邪魔だからどかせと言われてしまった。どうしたらいいだろうか」

 

 弟子煩悩の悩みなんか知るか、とアスプロスは内心毒づいた。まさか自分がそんな不敬なことを思うとは、数分前まで予想もしなかった。教皇と間近で会うのもまともに言葉を交わすのも、この日が初めてだ。近寄るのも恐れ多い存在だとずっと思っていた。

 

 厳しい強さのうちに優しさの滲む深い声。老熟した知性と教養の光を湛えた目。抑制された典雅で無駄のない仕草。小宇宙を差し引いても、老人は女神の代理人と呼ばれるに相応しい人物だった。

 

 しかし同時に、初弟子に振り回されている人間でもあるのだ。それが短い会話で分かった。分かるようにされた、とまでは思い至らなかった。アスプロスもまだ若い。

 

「マニゴルドは猊下のような方を師に持てて幸運ですね」

 

 それはアスプロスの本心だった。

 

 もし自分の指導役がイサクのような乱暴で高圧的な聖闘士ではなく、教皇だったら――という無意味な仮定をアスプロスは描かない。たとえ幼い頃に教皇に見出されたとしても、どうあってもデフテロスと予言の問題はついて回る。その時に聖域に君臨する老人がどのような冷徹な判断をするかを想像すると、今まで教皇に見つからずに済んで良かったという思いが先に立つ。

 

 それでも、教皇に師事していることで時折見られるマニゴルドの優遇ぶりには嫉妬した。その恵まれた境遇があれば、最強の聖闘士の座にもたやすく手が届くだろうと。今のところマニゴルドは候補生の身に甘んじていて、それが彼にはもどかしい。もっと努力すれば、もっと修行すれば。持てるものをなぜ使わないのか。彼が悪童に苛立つのはその点に関してだ。

 

「甘やかすなと人には言われるがな。弟子がこの前拾ってきた妙な話もなかなか捨てる気になれぬ。聖闘士に調べさせても根も葉もない嘘だと報告された、妙な話だ」

 

「どのようなお話ですか」

 

 尋ねる言葉を口にしながらも、アスプロスは相手の切り出したい話題をすでに知っていた。

 

「はっきりとは言わなんだが、そなたの身内が聖域にいるようなことを仄めかした。それ以上は問い詰めても口を割らなかったがな。誰かとの約束だと申しておった」

 

 ではマニゴルドは裏切らずに踏みとどまったのだ。

 

 それを知ってアスプロスはゆっくりと瞬きをした。弟を安心させるためにマニゴルドが信用できるようなことを言ったが、本当は不安だった。

 

『打ち明けてみてもいいんじゃねえかな。なあ、そうしろよ。悪いようにはならないと思うぜ』

 

 その言葉を、少しは信じてもいいのだろうか。

 

 教皇の深く落ち着いた声が聞こえる。

 

「そなたの師イサクに確かめたところ、この聖域にそなたの身内はいないと断言された。そこでこの件が我が弟子の思い違いであれば、なぜそのような誤解が生まれたのか知りたいのだ。他人から見ればつまらないこだわりかも知れぬが、松笠を捨てられないのと同じだよ」

 

 アスプロスは弟の顔を思い浮かべ、いよいよ来るはずの問いに備えた。

 

 ところが教皇はすぐには核心に迫ろうとしなかった。

 

「話は変わるが、私には兄がいる。今は故郷の地で聖衣の修復師をしているから、そなたも聖闘士になった暁には世話になることがあろう。祭壇座のハクレイという。覚えておくといい」

 

「はい。祭壇座というと、教皇の補佐を務めとする白銀聖闘士でございますね」

 

「そうだ。――兄と私では、どちらが強かったと思う?」

 

「それはもちろん猊下でいらっしゃいます。黄金聖闘士の更に上に立つ聖闘士の頂点こそが教皇であらせられますから」

 

 それを聞いた教皇は苦く笑った。

 

「本当は私より兄のほうが強かったのだ。なのに兄は、本来自分が受けるべきだった黄金聖闘士の称号も教皇の座も、私に預けてきた」

 

「え?」

 

 初めて聞く話にアスプロスは礼儀も忘れて驚いた。

 

 教皇の話が事実なら、ハクレイという人物にも黄金位を受けるべき資格があったことになる。それを弟に譲って自身は格下の白銀位になり、補佐役に甘んじているというのか。一番優れた黄金聖闘士こそが教皇に選ばれるべきなのに、それより優れた者がいるとは信じたくなかった。

 

 何かが心に囁いた。――兄を差し置いて弟がその地位を奪うのを許せるのかと。

 

 心臓がどくりと大きく脈打った。

 

 一瞬にしてどす黒い憤りが雨雲のように湧き起こった。けれどアスプロス自身は全くそれを面に出さずに冷静にいられた。まるで彼自身の感情とは別のところから湧いた怒りのようだった。

 

「そんなことが許されるのですか?」

 

「私と兄の守護星座が同じだったから可能だったことだ。聖戦後も私たちは互いに助け合い、困難を乗り越えてきた。兄がいてくれて良かったと何度も思ったものよ。とくに年を取って知己に先立たれることが多くなると、しみじみ身内のありがたみを感じる。……ああ、これは若い者には判らぬか」

 

 教皇は候補生の顔を見て、老いを語るのを止めた。

 

「とにかく、聖闘士にとって血縁はあまり意味のないものだが、だからこそ無理に切り捨てる必要もないと私は思うのだ。ゆえにもし身内が聖域にいるのにそのことを隠す者があれば、その理由を知りたい。身内贔屓できる状況と無縁ならば特にな。解決できる問題であれば手も貸そう。謂われのない困難に囚われているなら共に知恵を出し合おう。双子は不吉なものとして俗世では忌まれることもあるが、私は気にしない。迷信も予言も、人の受け止めかた一つで意味が変わるだろう」

 

 アスプロスは床を見つめた。

 

 彼の頭の中では教皇の話が濁流となって渦巻いていた。

 

 教皇はその地位を兄から預かったと言った。それを言葉通りに受け取っていいものだろうか。もしかしたら教皇は、兄を蹴落としてその地位を奪ったのではないか。世の中にはそんな話がごまんとある。血を分けていても、否、いるからこそ、協力するよりも争い合う兄弟のほうが多い。

 

 デフテロスという弟の存在を知った時、教皇は兄たるアスプロスをどうみるだろう。弟同士というつながりに関心を持ち、聖闘士に相応しいのは弟のほうだと考え直すようなことになりはしないか。野心的なアスプロスと違って、弟は無垢で純真だ。それが好まれることもあるだろう。

 

(違う)

 

 アスプロスは拳を握った。双子座の候補はアスプロスであってデフテロスではない。弟のために目指してきた地位を弟に奪われることなどありえない。

 

 ありえないはずだ。

 

 必死に打ち消す不安の一方で、全てを告白したいという欲求が、彼の胸の中心を貫いている。何の憂いもなく兄弟揃って堂々と日の下を歩ける日を夢見て研鑽を重ねてきたのだ。今ここで、その夢が叶うかも知れない。

 

 教皇の目が若い候補生に注がれた。

 

「のうアスプロス。一度だけそなたに聞く。――聖域にそなたの縁者はおるか」

 



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山の牧神

 

 まだ春浅い山中。唐突に風が吹き抜けた。

 

 若葉が芽吹く前の木立。枝の間を渡る形持つ風。それを追って同じく枝から枝へと飛び移るもう一つの風。二つの風は常人の域を大きく超えた人であった。

 

 追跡者が手刀を振るった。見る者があれば「遠すぎる」と思う距離だ。その手が先行者に当たることはない。しかし背後から近づく無音の軌道に、先行者は梢を蹴って横に逸れた。一瞬遅れてそこへ到達した衝撃が枝を断った。地上に落ちた枝。まるで刃物で落とされたように綺麗な断面を見せている。

 

 横へ飛んだはずの先行者は不意に姿を消した。しかし追跡者は慌てない。地面に下りて別の方角へ走り出した。枝を走り続けていれば思わぬ方角から攻撃を食らうことを察していた。ふっと音もなく現れてその背後を取ろうとするのは、手刀を避けたばかりの者だった。追う者と追われる者が入れ替わる。

 

 右へ左へ。上へ下へ。木立という戦場を縦横無尽に駆け巡り、二つの人影は相手の首を掻こうと駆け引きを続けていた。

 

 一人が軽やかに木立を抜けて、山の尾根に出た。

 

 悪戯っぽい笑みを浮かべたマニゴルドだ。悪童は追ってきた相手に向き直り、拳を構える。

 

 時を置かずもう一人も木立から飛び出した。

 

 こちらは刃物のような鋭い雰囲気をまとった少年である。聖域にいた頃はマニゴルドやアルバフィカとも交流のあった候補生――のちにエルシドと名乗る少年だ。当時に比べると背も伸びて強靱な肉体になり、一見すると大人のようだ。ここは彼の修行地。長い両腕を顔の前で交差させて突っ込んできた。

 

 その一撃を流してマニゴルドは拳を振るう。

 

「うらあっ!」

 

「ぬるい!」

 

 黒髪の候補生が真っ向からそれを受け止める。

 

 拳にまとわせた小宇宙がぶつかり合う度に、灼熱の光が爆ぜ、落雷のような轟音が響く。熱を帯びた空気が陽炎を生んだ。それを切り裂いて鞭の鋭さで打ち込まれる一蹴。

 

 風が吹く。

 

 虚無から受容へ変わりつつある、空ろで軽やかな風と。

 

 全てを切り裂き、己を貫こうとする強靱な風と。

 

 絡み合い、渦巻く二つの意志ある風が嵐となって吹き荒れる。

 

 嵐から逃れることのできなかった立木がメキメキと悲鳴を上げて倒れた。

 

 ――初めは再会の挨拶代わりにほんの軽い手合わせをするだけのはずだった。聖闘士に連れられて偶然この地を訪れたマニゴルドを、エルシドが山に誘った。笑って見送った指導者も、本人たちでさえも、真剣勝負になるとは思っていなかった。ところが対峙してすぐに相手の強さに手応えを感じ、互いに対抗心と小宇宙を燃やした。気づくと山全体を戦場とした本気の仕合になっていた。

 

 おそるべき脚力のもとに踏みにじられた大地がひび割れ、小宇宙に当てられた雑草が一瞬で塵と化した。二人の動きに痛めつけられた空気はバチバチと紫電の悲鳴を上げる。

 

 二人は相手の攻撃を躱し、流し、反撃し、決定的な一撃を打ち込む隙を求めて互いの目の奥を窺った。そこに見るのは生の根源。命の最も深い所から湧き出す力。

 

 聖域の悪童は笑う。楽しげに声を上げて。

 

 山奥の候補生も笑う。唇に静かな喜びを湛えて。

 

 エルシドの攻撃は手刀といえども決して油断して受けてはいけない。小宇宙をまとったそれは、ひとたび受ければ人体など容易に切り裂く絶命必至の一撃。研ぎ澄まされた一太刀の斬撃。

 

 だがそれはことごとく虚空を裂いただけだった。

 

 マニゴルドは不可視の刃を見切り、蛇が鎌首をもたげるように僅かに身を引くことで避けた。彼は攻撃の合間に何度か対手を指差した。本気で積尸気冥界波を仕掛けるつもりはなかったが、その機会があることを確かめようとした。

 

 冥界波は相手の魂を強制的に肉体から引き抜く。従って技を掛けられた者はその時点で死が決まると言って良い。しかしエルシドは指を向けられることを嫌がって、決して隙を与えなかった。

 

「おまえ、俺が何しようとしてるか知ってんのか!」

 

「知らん!」

 

 候補生は短く否定した。マニゴルドは薄く笑った。本能で察しているのだとしたら大したものだ。

 

「こっちは見えてないくせに」

 

 先ほどから鬼火を使ってエルシドの視界を邪魔しているのだが、どうにも反応がない。光って揺れ動くものが視界に入ればそちらに気が逸れるはずなのに、エルシドはマニゴルドだけを見ていた。集中を切らさないようにしているというよりは、まるで鬼火が目に入っていないらしかった。彼が「視えない」人間であることはほぼ間違いない。

 

「鈍感な奴はやりづれえ」

 

 悪童はぼやき、エルシドの背後へ回り込んだ。そう、背後を取るのに苦労したが取ってしまえばやることは決まっている。

 

「必殺!」

 

 言いながら相手の胴体を両足でぎりぎりと締め付ける。

 

「くっ」

 

「参ったって言え! 胴体へし折るぞ」

 

「言わん!」

 

 こうなると意地の張り合いである。

 

 エルシドは内臓を潰される前に抜け出そうとし、一瞬でその考えを捨てて身体に巻き付く足に肘を打ち込んだ。けれどそれだけでは鋼のように鍛えられた脛は緩まなかった。彼は思いきり勢いを付けて背中から地面に倒れ込んだ。

 

 意図を察したマニゴルドは離れようとしたが、逆に足を押さえられて逃げることができなかった。

 

 したたかに背中を打ち付けた。

 

 拘束が弛んだ隙にひらり起きた黒髪の候補生は、すかさず手刀を振るった。固形化した闘気。マニゴルドが反射的に身を捻って避けた後に大きな地割れができた。裂け目はそのまま広がって尾根の一部を削り取った。

 

 ずるり。足元が沈む感覚に二人の少年は我に返った。

 

 戦いに耐えきれなくなった山の尾根が土砂崩れを起こした。鈍い地響きと共に足場が消える。地形を知り尽くしたエルシドは難を逃れた。しかしマニゴルドにとっては初めての場所。危うく巻き込まれかけた。手を引っ張り上げられて事なきを得た。

 

 マニゴルドは礼を言うより先に喚いた。

 

「馬鹿! 山崩すとか普通なしだろ! 無関係の奴を巻き込んだらどうすんだ考えろよ! こんな山奥に人がいるわけねえけど!」

 

「済まん。つい」

 

 友人に怒鳴られ、エルシドは謝った。表情も声が全く変わらないので反省したようには見えない。けれどマニゴルドには生真面目な彼が本気で落ち込んだのが分かった。「仕方ねえ奴」と苦笑して彼の胸をどんと突いた。

 

「戻ろうぜ。腹減った」

 

「ああ」

 

 二人は薪を拾いながら小屋に帰ることにした。

 

 少年二人が拳で語らっていた間、小屋でも聖闘士たちが久闊を叙していた。

 

「やっぱり山は冷えるねえ」

 

 暖炉の前に陣取っている訪問客は言わずもがなのことを呟いた。傍らに置いた大きな箱と壁に掛かっている黒い外套は、聖闘士が外部任務に出る時の共通の装いである。

 

 エルシドの指導者である小屋の主も暖炉前の椅子に腰を下ろした。熊のような髭面のわりに柔らかい口調で尋ねた。

 

「ゲンマさん、あなたが連れてきたあの少年はお弟子でしょう? いつ弟子取りされたんです」

 

「いや、それが違うんだよ。任務に連れてけって押しつけられたんだ。お荷物ってほどじゃないが」

 

「では今回の任務は候補生と関係あったんですか?」

 

「そうさなあ」

 

 客は足を投げ出して、小屋に来る前に片付けた仕事のことを話し始めた。

 

          ◇

 

 ――街道の両脇には畑が広がっていた。作物はすでに芽を出して葉を広げつつある。それでも黒っぽい地面がまだよく見えた。故郷では今頃ようやく大麦を蒔く季節だ。風が強いと足元に蒔いたはずの種が遠くまで飛んでしまって、ちゃんとやれと父に叱られたものだ。

 

 青銅聖闘士、冠座《コロナ・ボレアリス》のゲンマは、子供時代を思い出して大らかな気分になった。聖衣の入った箱を背負い直し、後を付いてくる連れを振り向いた。

 

「もうすぐだぞ」

 

 連れは黙って頷いた。今回の任務に同伴してほしいと教皇直々に頼まれた相手だ。荒事の任務ではなかったのでゲンマも軽い気持ちで引き受けた。そうして謹厳な教皇から引き合わされたのは、小憎たらしい少年だった。正式な聖闘士ではなく、まだ候補生だという話だった。

 

 常人の足では聖域から一ヶ月半かかる旅程を、二人は十日ほどで駆け抜けた。なにも聖闘士が候補生に合わせて足を緩めたわけではない。人のいる場所ではあまり急がなかったからこそ、それだけ掛かってしまったのだ。周辺への影響を無視して走れば三日足らずで移動できただろう。

 

 やがて見えてきた地方領主の館がゲンマの目的地だった。

 

 扉の覗き窓に顔を見せた使用人に、とある修道院の使者であることを告げる。訪問することは予め手紙で伝えてあった。ところがしばらく経って戻ってきた使用人は、

 

「主人はその修道院とは縁を切ったと申しております。お引き取り下さい」

 

と言って覗き窓を閉じた。

 

 つまるところ門前払いされた。

 

 彼は躊躇うことなく扉を押した。鋼や木材の断末魔の悲鳴は一瞬だった。重い城門さえ指先で開けられる者を食い止めるには、たかが鍵や閂では荷が重すぎた。蝶番のいかれた扉を壁に立てかけてゲンマは館に入った。使用人たちが異様な物音を聞きつけホールに集まってきた。玄関の惨状を見て彼らは一様に呆気にとられた。

 

「帰れと言われて帰るわけにはいかん。主人と話がしたい」

 

 彼がずいとホールに乗り込むと、周りは彼の力を恐れて一歩引いた。 

 

「ご、強引に寄付を求めるなんて、ど、どこまで図々しいんだ」

 

「そうだ。人の家の玄関先で暴れるなんて……」

 

 弱々しい抗議を聖闘士は鼻で笑い飛ばした。

 

「どうやら誤解があるようだな。我々は寄付を求めに回っているわけではない。言ってみれば家賃の取り立てに来ただけだ。もう一度言う。主人に会わせろ。さもなくば勝手に探させてもらうぞ」

 

「やめてくれ。館が壊れる」

 

 階段上から苦々しい叫びが聞こえた。その声の主が現れると誰かが「旦那様」と呟いた。たとえ呼びかけがなくてもゲンマにも分かった。その場に集まっている誰よりもいい身なりをした男。ゲンマはせいぜい丁寧に挨拶した。

 

「これはこれはムッシュ。ごきげんよう。こんな大勢に出迎えてもらって光栄ですよ」

 

 男はしかめ面のまま階段を下りてきた。

 

「その壊した扉は弁償してもらうぞ。先祖代々受け継いできた貴族の屋敷を何だと思っておる」

 

「そのご様子からすると、あなたの引き継いだ屋敷の建つこの土地が誰の物か、お忘れなのでしょうな。その件についてお話に参りました。手紙には目を通して頂けましたか?」

 

「……書斎へ」

 

 忌々しそうに館の主人は顎をしゃくった。

 

 ゲンマは外で待っていた候補生を呼び寄せた。少年はへらへら笑いながら「どうも」と軽薄に入ってきた。招かれざる二人の客を見る館の者たちの目は白い。けれど二人とも全く臆さなかった。

 

 書斎に通されても椅子は勧められなかった。ゲンマは背負っていた荷物を床に置いた。中身は大切な聖衣なので、上に尻を乗せるようなことはしない。候補生は扉近くに控えて、大人たちを冷めた目で眺めている。

 

「さてムッシュ」と聖闘士は切り出した。「互いに忙しい身だ。手短に話しましょう。あなたは家賃を踏み倒そうとしている店子、我々はそれを取り立てに来た大家です。後々のことを考えると、家賃を踏み倒すのは良策とは言えませんなあ。我々は他の店子を見つけてあなたを追い出すこともできる」

 

「無礼な言いがかりも大概にしろ」

 

「言いがかりではありません。あなたが先祖代々受け継いできたというこの荘園は、私の所属する修道院が期限を定めてお貸しした土地の上にあります。我々が所有する土地をあなたがたが借りて利用し、その間の利益はあなたがたが手にするというわけです。従ってその期限更新ごとに契約金をお支払い頂きます。これは初代当主との間で取り交わした契約であり、この国の王であろうと覆すことはできません。ところが前回あなたは支払いを拒否なさった。契約を更新する気がないと仰るなら、土地を返して頂きます。爵位を相続された時に、そのことを教えられませんでしたか? 荘園存続に関わる重要な秘密だと思いますがね」

 

「そんな契約は知らない」

 

と、領主は尖った声を上げた。それに対して聖闘士はあくまで穏やかに返した。

 

「知る知らないの問題ではないでしょう。説明も兼ねて私たちの使いがここに来る度、あなたはただの寄付集めの口実だと怒鳴り散らして追い返した。その後手紙でも事情はご説明したはずだ。まさか貴族のあなたがフランス語が読めないはずはないでしょう。ラテン語でよろしければ当時の契約文を読み上げましょうか。この屋敷のどこかにも写しがあるでしょうがね」

 

 古くから聖闘士は地上の国家権力に従属することなく、歴史の陰に存在してきた。しかしその力を一度示せば戦争の勝敗さえ左右するほどの影響力がある。そのため聖闘士という正体を明かさずに、やむを得ず個人として武勇を示した者も多かった。権力者から恩賞として土地を与えられることも珍しくなかった。

 

 そうして得られた土地は聖闘士全体の共有財産となった。聖域は隠れ蓑となる宗教施設を建てて、一個人がそこに土地を寄進するという形を取った。たとえばキリスト教圏では、それは教会なり修道院ということになる。体裁を整えるために神父や院長が要るが、何も知らない部外者が聖域の外部拠点を預かるのでは困る。そこで聖域の命で神学校で学んだ雑兵が代々その役目に就いた。イスラム圏においては聖者廟の管理人や、法学校の長老職がそれにあたった。長い歴史を持つ聖域は、その歴史自体を武器として各宗教の奥深いところと密かに繋がりがあった。だからこそできた人事である。

 

 しかしそうまでして世を忍んでも、土地を所有することは結局それだけで俗世とのしがらみを生む。飛び地ばかりで活用しにくいという問題もあった。やがて土地の利用権を売って、表向きの権利者としての義務や、土地から得られる利益と権利は彼らに任せることにした。土地そのものを売買するのではなく、そこを利用することで生まれる価値を売買する定期借地権の考え方だ。

 

 もっとも、俗世の政治的・経済的な事情で表向きの権利者が変わることもある。その度に聖域の下部組織たる土地の所有者は、新たな権利者のもとへ使者を遣わして契約を結び直した。その時に相手が認めなければ、それは不当に居座っているだけの部外者と見なされた。ここで初めて聖域に要請が入り、聖闘士が現地に派遣される。そして力尽くで説得するか、排除することになるのだ。

 

 今ゲンマの前にいる男はその瀬戸際に立っていた。

 

 ゲンマは用意してきた石を机に置いた。それを眺める領主の顔は渋面そのものだ。

 

「これはお宅の前の道端で拾った何の変哲もない石ですがね。我々の手に掛かればこの通り」

 

 彼は石を軽く撫でた。聖闘士の小宇宙に影響されて、石は塵以下の存在に還元された。

 

 魔法にしか思えない技を見せられて(正確には技でもなんでもないが)領主は目を丸くした。石の置いてあった場所を触るが、ざらついた砂のようなものしか残っていない。

 

「同じことはこの立派なお屋敷にもできるんですよ。やりたくはないですが、人の体にもね。そう怖い顔をなさらないで下さい。権力に訴えるというならそれも結構。我々が土地を借している先には、百合に縁のある高貴なお家がありましてね。この土地はそちらにお貸ししましょうかね」

 

「そ、そんな話は聞いたことがない。おまえたちの修道院が大地主だなどというのは嘘だ。嘘に決まっている」

 

「嘘ではありません。ただ公表していないだけです。我々の持つ土地は、フランク王国どころかローマ帝国時代から認められたものです。もちろんこちらの先代当主様にもですよ。この力があったればこそですね」と聖闘士は言うと、溜息を吐いて付け加えた。「お疑いなら撃ってごらんなさい」

 

 その言葉に領主は弾かれたように壁際に走り、棚に飾られていた銃を掴んだ。ゲンマは動かない。発砲の準備を終えて、狙いが付くまで待ってやった。銃口は一度ゲンマを狙った。ところが不意に逸れて、彼に付いてきた少年のほうを向いた。

 

 銃声が響いた。

 

 その瞬間、領主は勝利の笑みを浮かべた。たとえ招かれざる客がまやかしの力を持っていたとしても、その従者は常人だろうと彼は考えた。しかし、

 

「……わあ。びっくり」

 

 呆れたような馬鹿にしたような、のんびりした声は少年のものだった。候補生は自分に向かって飛んできた弾丸を、蟻をつまむより容易くあっさりと捕まえていた。聖闘士にはできて当たり前の反応だが、常人の目には奇跡としか映らない。少年は領主の顔を見てせせら笑った。そして弾丸を軽く横へ弾き飛ばした。その飛ばした先で壁に穴が開き、隣室で何かが割れる音がした。

 

 呆然としている領主の手から銃をもぎ取り、ゲンマはその銃身を柔らかく真っ二つに折り曲げた。

 

「どうされますか。ご納得頂けるまで続けてもこちらは構いませんよ。今あるものを壊すというのは簡単なのです。先代のご当主まで続けられてきた我々との関係を、あなたが無かったものにするのと同じようにね。誤解の無いように付け加えますと、我々は不要な力を振るうつもりはありません。あくまでも店子が家賃を踏み倒す時に少しお灸を据えるだけです。払いのいい方には、多少の便宜も取り計らいますよ」

 

 その後も脅したりすかしたりして、一時間後には支払いを約束させた。壊した物の修理代やら賠償金やらは一切負担しないことにも同意させた。ついでにこれまでの契約金よりも額を引き上げた。

 

 土気色の顔色をしている領主は、ゲンマが手形と証文をしまうところを未練たらしく見つめていた。

 

「それでは我々はお暇させて頂きます。あなたの命とご家名を守るためにも契約はきちんと履行して頂きたいものですな。次に我が修道院の使者に対して手荒な対応をなさったら、……知りませんよ」

 

「分かった。それはもう十二分に理解した。私が悪かった」

 

「では失礼。オルヴォワール」

 

 聖闘士と候補生は悠々と領主の館を出た。

 

 しばらく二人は黙々と畑の間の道を歩いていたが、やがて少年のほうが笑い出した。

 

「女神の闘士が聞いて呆れる。ただの取り立て屋じゃねえか」

 

「幻滅したか」

 

 ゲンマは自嘲気味に笑った。初めてこの手の任務を請け負った時には、自分が力を磨いたのは何のためだろうと自己嫌悪に陥ったものだ。

 

 少年は大人びた仕草で首を振った。

 

「聖戦を回すにも金は要るだろうさ。金は戦争の神経である(Nervos belli, pecuniam)ってな」

 

「生意気な口ききやがって」

 

 彼は少年を小突く真似をした。

 

「いやいや冗談抜きで。生きてく以上、金は必要でしょ。まして大勢を食わせるとなりゃ、それなりの手段がないと」

 

 少年の割り切った返答に気をよくして、彼は訪問のもう一つの目的を明かした。

 

「聖域が土地を貸しているのは地元の有力者だ。手に負えないような妙な事件が起きたら、上の権力者に介入させる前に先に俺たちに連絡してくる。事件が神や伝説絡みだったら俺たち聖闘士がそのまま対処するし、人間の常識で解決できる厄介事だったらしかるべきところに連絡しろと助言しておしまいだ。俗世にも雑兵が情報の網を張ってるが、それとは別に異変を知らせる地元民の協力もあったほうがいいからな。持ちつ持たれつってやつだ」

 

 蛇足だが、後世、特に二十世紀に入るとこの関係は崩れることになる。時の教皇は聖域の資金繰りと情報網の再構築に苦労することになるが、それは彼らの知るところではない。

 

「さて、任務は済んだから少し遠回りするか」

 

「どこへ?」

 

「近くに知り合いの聖闘士がいるんだ。ここまで来たら挨拶の一つもしておこうと思ってな」

 

 ゲンマは少年を連れて、山脈を越えた所にいる僚友の住まいを訪ねた。

 

          ◇

 

「――で、ここに来たってわけだ」

 

 訪問客の話に、小屋の主は鬚を引っ張った。

 

「そんな任務に候補生を連れ回して大丈夫なんですか。指導者は何を考えているのやら」

 

「まったくなあ。世間を見聞させる心積もりだったとしても、弟子を任せる前に師匠本人から挨拶くらいあっても良かったよなあ。俺への紹介も猊下が間に入られるくらいだし、師弟仲が微妙なのかもな」

 

 ゲンマは普段は聖域の外にいる聖闘士だ。聖域の内情には疎く、教皇の弟子の存在を知らなかった。聖域から遠く離れた地に籠もっている小屋の主も、もちろん知らない。

 

「なんならあなたの弟子に引き抜けばいいじゃないですか」

 

「ははは。それは遠慮しておこう。任務が多いから俺も面倒を見てやれない」

 

 小屋の外壁に何かが当たる音がした。薪を積む音だ。ここで修行中の少年が、客の連れを伴って帰ってきた。

 

「ただ今戻りました」

 

「ああ」と熊男は弟子を振り返り、四人分の夕食の支度をするように言った。夕食の支度は弟子の仕事だ。食材は客が宿賃代わりに持ち込んだ物がある。

 

「おまえも手伝え」とゲンマも旅の連れに言った。訪問客であっても働く者食うべからず。マニゴルドは腹が減ったとぼやきながら友人を手伝った。

 

 食卓を四人で囲んだ後は、早々に大人たちは「子供は早く寝ろ」と候補生たちを屋根裏に追いやった。客の手土産である酒を酌み交わすのに邪魔だからだ。

 

 

 マニゴルドは用意された寝床に倒れ込んだ。隣の寝台では生真面目な友人が脱いだ服をきっちり畳んでいる。肘枕を付いてマニゴルドは尋ねた。

 

「ここって意外に客多いのか?」 

 

 小屋で暮らしているのは二人きりの様子だった。それにも関わらずよく毛布や枕が足りたものだと、彼は感心した。毛布を一枚借りて床に寝ることも覚悟していた。

 

 黒髪の候補生は「少し前まであに弟子がいたんだ」と答えた。

 

「今は?」

 

「……怪我を負って聖闘士になる道は諦めた。今は先生と俺の二人きりだ」 

 

 相手の声の暗さに、そのあに弟子が死んだのかとばかり思ったが勘違いだったようだ。マニゴルドは「まあ生きてるならいいじゃん」と気軽に言った。

 

「しかし俺よりもよほど聖闘士になるべき人だった」

 

「そうそう、聖闘士って言やあ、おまえの先輩。シジフォスは相変わらず任務であっちこっち行ってるけど、今年の頭にハスガードが牡牛座になったんだ。少しは落ち着くかも」

 

「アルバフィカは元気か」

 

「あいつも魚座の正式な後継者になって頑張ってるよ。最近会ってないから元気かどうかは知らねえ。とりあえず死んではいないと思う」

 

 彼は聖域の近況を語った。特に共通の知り合いだった少年たちがどうしているかについて。多くは候補生のままだが、年長の者たちはそれぞれの道を歩み出している。聖闘士の称号を得られた者もいれば、聖域の雑兵になって黙々と働く者もいる。雑兵でも情報収集のために世間に出ていった者もいる。

 

 ほとんど相槌も打たずに話を聞いていた友人は、話の切れ目でやっと口を開いた。

 

「俺は山羊座《カプリコーン》の黄金聖闘士の候補だ」

 

「えっ」悪童は驚き、肘枕から首だけ起こした。「なんで前に言わなかったんだよ」

 

「ここに来てから先生に告げられたんだ。鍛え方次第では、今年中にも称号を得られるかも知れないと言われた。俺も、あに弟子のためにも必ずものにしてみせると鍛錬してきた」

 

 こいつが鍛えるべきは表情筋だとマニゴルドは思った。

 

「他人との手合わせは今日が久しぶりだったが、それなりに強くなっている自信はあった。なのに全力を出してもおまえを負かすことができなかった」

 

「昔はおまえのほうが圧倒的だったのにな。差が縮まって悔しいか」

 

 にやにやと笑いを浮かべ冗談めかして言うが、それで憤慨するような相手ではなかった。じっと三白眼でマニゴルドを見下ろす。

 

「悔しくはない。他の誰かと比べるよりも昨日の自分と比べて、技を磨けばそれで良い。しかしおまえも強い。……どの称号だ」

 

「知らねえ。教えられてねえし」

 

「あり得ん」

 

「そう言われてもな」と肩を竦めてみせる。

 

「言え」黒髪の候補生は長い脚を伸ばしてマニゴルドを小突く。「何座の候補だ」

 

 マニゴルドは溜息を吐いた。アルバフィカが魚座で、目の前の朴念仁でさえ山羊座。それに引き替え守護星座さえ定かではない自分。つい見栄を張りたくなって、言わなくても良いことを言った。

 

「絶対誰にも言うなよ。たぶん天馬星座だ」

 

 表情の乏しい少年でさえ、目を見開いた。

 

「するとアテナが降臨される日は間近ということか。重要な役回りだぞ。おまえで大丈夫か」

 

「どういう意味だこの野郎」

 

 枕を投げると、友人は目だけで笑ってそれを叩き落とした。

 

 そのまま取っ組み合いになってふざけていたら、階下から上がってきた熊男に「静かにしなさい!」と二人揃って窓の外へ放り出された。

 



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説教のあとの幻影

 

 翌日にはマニゴルドとゲンマは聖域への帰途に就いた。

 

 無事に聖域入りした二人は、そのまま十二宮に上がった。ゲンマは顔をしかめながら「本当は候補生は上がるべき場所じゃないんだぞ」と、当然の顔をして付いてくるマニゴルドを振り返った。

 

「おまえと引き合わされたのが教皇宮だったから一応は連れていくけど、教皇の間には入れないからな」

 

「はあ」

 

 教皇の弟子は、今更自分の立場を明かすこともないだろうと生返事をした。

 

 教皇宮に上がったゲンマは、冠座の青銅聖闘士として教皇への帰還挨拶と報告を行った。教皇は重々しく頷いた。

 

「こたびの働き大儀であった。同行させた未熟者はそなたにとってさぞや足枷となったことだろう」

 

「はっ、そのようなことはございません。むしろ聖闘士を目指す若人に実際の働きぶりを見せる機会。下手なところは見せられぬと、私も気合いが入りました」

 

「ならば良い。して、そなたの目から見てあの候補生は使いものになりそうか? 指導者はまだまだだと思っているのだが」

 

 そういえば道中マニゴルドが自身の指導役について何も語らなかったことにゲンマは気がついた。師弟仲が拗れているから他人の自分に預けられたのだろうか、と彼は気を回した。

 

「さようですね……。今回の任務に立ち回りはなかったので戦闘については申せませんが、度胸と胆力は十分にございます。本人の気質的に、どちらかといえば裏方仕事に実力を発揮すると見受けました」

 

「なるほど。指導者の参考になる意見だ」

 

 聖闘士が退室すると、廊下で番兵と談笑していたマニゴルドが近づいてきた。

 

「ゲンマのおっさん」

 

「おう。謁見が終わったから俺はもう帰るが、おまえはどうする。途中まで一緒に行くか」

 

「俺はまだ用があるからここに残る」

 

「そうか。じゃ、ここで解散だな」

 

 候補生は真面目な顔になり、道中世話になった礼を述べた。ゲンマも彼が後輩になる日が来ることを期待した。

 

「ちゃんと修行していい聖闘士になれよ」

 

「称号貰えたら、そん時には一杯奢ってくれ」

 

 図々しい奴だなと笑いながらゲンマは去った。

 

 マニゴルドは廊下を聖闘士とは反対の方角へ進み、教皇の間を迂回して奥に入った。するとちょうど戻ってきたセージと執務室の前で鉢合わせた。

 

「ただいま」

 

 弟子が挨拶すると老人は兜の陰で微笑み、中に入るよう促した。

 

 マニゴルドは執務机の向かいの椅子に掛けるなり両足を投げ出した。そんな弟子を見てセージは眼を細めた。

 

「疲れたか」

 

「まあ多少は。っていうか聖闘士でも人を相手に仕事することがあるんだな」

 

「神を相手取って戦うといっても、我々とて人の世に生きる人の身だ。聖戦のない時代にはひたすら人を相手にすることになる。時には聖闘士という正体すら明かさずにな。冠座の任務を見ておまえはどう思った」

 

「とりあえず聖域の安定した収入のからくりが分かって納得。やっぱり世の中綺麗事だけじゃ飯は食えないよなあ。思ったより阿漕なことしてなくてほっとしたと言うか、がっかりしたと言うか」

 

「いったい何を想像していたのやら」

 

 セージは苦笑すると真っ白な紙の束を弟子に寄越した。

 

「今回の件を自分の任務だったと思って報告書を書いてみなさい。書きかたは誰に聞いてもいいから」

 

 心底面倒だと少年は腹の底から溜息を吐いた。

 

「ただしゲンマに聞くのと、書庫に保管されている前例を丸写しにするのは駄目だ。シジフォスあたりに書式を教えてもらうといい。……ああ、シジフォスと言えば、人馬宮で双子座の候補と話をしたぞ」

 

「アスプロスと」

 

 マニゴルドは俄然身を起こした。あのいけすかない友人には双子の弟のことを教皇に打ち明けろと勧めた。本人は理由を付けて渋っていたが、教皇に直接事実を伝える機会を逃す手はない。

 

「あいつ、なんて言ってた?」

 

「聖域に身内はいないと断言した」

 

 え、と呟きつつ、心のどこかでは納得していた。

 

「自分に兄弟があるとすればそれは聖闘士という同胞であると言っておった。本人が兄弟の存在を否定し、指導者も否定し、調べにも出てこない。関係者の証言が一致した以上、アスプロスに兄弟はいないというのが聖域の結論だ」

 

 少年はゆっくりと椅子の背に身を預けた。

 

 深く息を吸い、また吐き出す。

 

 ややあってから彼は笑ってみせた。すぐには無理だったから。

 

「しょうがねえな。俺の勘違いってことになるか」

 

「もっと踏み込んで調べろと主張しないのか」

 

「そうさせないために俺が聖域にいない間に片付けたんじゃねえの。いいよ。あいつが否定してお師匠もそれでいいって言うなら、俺が混ぜっ返すことじゃねえよ。はいはい、今回の件は俺の早とちりでした。それで万事解決」

 

「マニゴルド」

 

 少年のよく動く舌と唇はその一言で縫い止められた。セージは続けて尋ねる。

 

「もしアスプロスに兄弟がいるとしたら、どういう名前だと思う」

 

「……デフテロスとか、かな」

 

「二番目《デフテロス》か。アスプロスが兄でその者が弟であろうな、きっと」

 

「そうかもな」

 

 不意にセージは横を向いて眉間に皺を寄せた。なにか不愉快な失敗でも思い出したようだった。

 

「お師匠?」

 

「なんでもない」

 

 セージは改めてマニゴルドに視線を戻した。淵のように深い色を湛えた目が弟子を見つめた。

 

「おまえは意味のない嘘は吐かないし、目も曇っていない。麓で多くの者と接するおまえが気づいたことを、教皇宮にこもりきりの私が嘘と断じるつもりはない。アスプロスには兄弟がいるのだろう」

 

「信じてくれんの?」

 

 情けないことに声が掠れた。

 

「当たり前だ。けれど当事者の協力を得ずに事を暴いてどこまで影響が及ぶか、いささか見えてこない。なにせ全ての関係者がその存在を認めないのだからな。かといって立場上、聖域の公式な見解を教皇が勝手に覆すわけにもいかぬ。それゆえの現状維持だ。こらえてくれ」

 

「お師匠が信じてくれるならそれでいい」

 

「弟子を信じずになんとする」

 

 老人は兜の奥で小さく笑った。

 

「アスプロスは教皇の助けを必要としていなかった。だがこの件は、時が全てを解決してくれるという都合の良いことにはならないだろう。予言の件も含めていつか、いつか必ず向き合うことになるはずだ。それまでマニゴルドが彼らのことを見ていてくれ。彼らの友として」

 

「無理だよ。あいつはもう俺の顔も見たくないんじゃないか」

 

 デフテロスのことを告白しない道をアスプロスは選んだ。その時点で、マニゴルドのしたことは彼にとって余計なお世話でしかなくなったはずだ。先日『あまり引っかき回してくれるようなら、おまえも敵と見なす』と釘を刺された通り、もう潔癖な候補生がマニゴルドを信用することはないだろう。

 

 少年はそう思ったが、師の見解は違うようだった。

 

「なんの。向こうも別れ際に言っておったぞ。帰還が間に合うようだったら、シジフォスとの立ち合いを見にきて欲しいと」

 

 ちょうど明日だな、とセージは窓の外に目をやった。マニゴルドもつられて外を眺める。翌日も晴れそうないい天気だった。

 

          ◇

 

 射手座の黄金聖闘士と双子座の候補者との仕合は、闘技場の一つで行われた。見物人は少なかった。限られた者しか近くで見物することを許されなかったからだ。ちなみにその条件とは、黄金聖闘士の攻撃が流れてきても自分の身を守れることだ。場外への影響は立会人の教皇が抑えるが、それでも万全とは言い切れない。

 

 現れた教皇に、一人の男が歩み寄って挨拶している。

 

 アスプロスを指導する聖闘士イサクだろう。あいつだったのか、とようやくマニゴルドは顔と名前を一致させた。三十前後の細身の男だが、へつらうような物腰のせいで聖闘士らしく見えなかった。

 

 その相手をしている師の姿を眺めていると、隣に重量感のある体が座りこんだ。ハスガードだ。

 

「なんだよ。こんなに空いてるんだから、わざわざ隣に来ることないだろ」

 

「つれないことを言うな。一緒に応援するぞ」

 

「応援って、どっちを?」

 

「どっちもだ。でも今回はアスプロスかな」

 

 マニゴルドはふんと鼻で笑って目を闘技場に戻した。

 

 刻限となった。

 

 教皇が、この仕合が双子座の称号授与を賭けたものであることを宣言した。白い法衣と日を反射して輝く兜が眩しい。昨夜磨いた甲斐があったと少年は目を細めた。

 

「ほらマニゴルド、どこを見てる。始まったぞ」

 

 ハスガードに注意されて立ち合う二人に目を戻す。

 

 早速シジフォスが踏み込み、アスプロスがそれに冷静に応戦していた。どちらが挑戦者か分からない。

 

 黄金聖闘士の動きは速かった。最初から小宇宙を燃やして一気に全てを相手に叩き込む。光の速さで繰り出される拳を目で追えた者は、この場にもわずか数人しかいなかった。

 

 けれど対戦者はその全てを受け止め、あるいは受け流していた。対手に呼応するように高まった小宇宙が燦然と輝く。

 

 もっぱら拳での応酬が続く。ぶつかり合った小宇宙が花火のように白く弾けては消えた。

 

 と、二人は示し合わせたように力を抜いて動きを止めた。顔は真剣そのものだし、言葉も交わしていない。けれどマニゴルドには二人が笑ったように見えた。

 

「肩慣らしが終わったな」とハスガードが解説する。

 

 今度はアスプロスから動いた。体にまとう眩い煌めきは濃密な小宇宙。その煌めきが陽炎のように揺らいで、ふっとシジフォスの懐に飛び込んだ。

 

 シジフォスが仰け反った。拳を突き上げたアスプロスを見れば、顎に一発入れたのだと理解が追いつく。マニゴルドはその狙いの的確さに感心したが、少し離れた場所にいた見物人は「何が起きた?」と連れに尋ねていた。

 

 アスプロスはいつまでも腕を伸ばしていないし、シジフォスもやられたままではいない。すぐにまた拳の、というよりそれにまとわせた小宇宙の応酬になった。

 

 唸る、唸る。風が咆える。

 

 一挙手一投足の鋭さと容赦のなさはそれだけで凶器だ。岩をも粉砕する打撃を二人は繰り出し合い、打ち消し合った。余波が周囲の空気を振るわせる。

 

 凄い、と見物人が呟いた。マニゴルドはそちらを冷ややかに一瞥して肩を竦めた。

 

「遊んでんじゃん」

 

「マニゴルドも分かるか?」

 

「まあな」

 

 対戦者たちは二人とも隙らしい隙を見せない。隙のように見えても、それは対手を誘うための陽動だ。互いにそれが分かっているから笑っている。教皇の御前なので頬を緩めたり歯を見せたりはしないが、小宇宙は正直だ。純粋な喜びに泡だっている。

 

 マニゴルドの目には、一触即発の危険な遊びに歓喜する二人の子供が映っていた。

 

「俺も混ざりたい」

 

とハスガードがうずうずしている。マニゴルドは聞こえないふりをしようとした。が、隣で貧乏揺すりをされて気が散るので、脛を蹴飛ばした。

 

「止めろよ。黄金が三つ巴で戦ったら聖域が壊れんだろ。雑兵のおっさんに怒られるぞ」

 

「じゃあ十二宮でやればいい。黄金聖闘士が戦うことを前提に、壊れにくい構造になっていると聞いた」

 

 どこまで本気か分からない金牛宮の守護者の相手をするのは止めて、マニゴルドは闘技場に意識を戻した。

 

 速い。

 

 とにかく二人とも速い。

 

 四肢の全てを意志の力で御して動き回っている。肉体を鍛えているといっても小宇宙を燃やさずに同じ事をやろうとすれば、皮膚は破れ、筋肉は裂け、骨が砕けることだろう。それでも臆せずに前に進む者。それがアテナの闘士に求められる覚悟であり、向かい合う二人が冷酷なほど自覚していることだった。

 

 腕を振るうたび、身を捻るたび、肉眼ではっきりと見えるほどの小宇宙の残滓がほとばしっては霧散する。血か汗のようだった。

 

 攻防は小競り合いが続いていた。大技を決めようとしても相手に悟られて防がれてしまうのだ。実力が拮抗し、互いの手の内を熟知している者の戦いだ。

 

 一瞬で決まるか。

 

 延々と消耗戦にもつれ込むか。

 

 そのどちらかしかない。勝負を決めるのはほんの僅かな集中力の綻びだ。

 

 シジフォスが飛んだ。精悍な顔に純粋な戦意を滲ませてアスプロスに飛びかかる。体重と小宇宙を乗せた足が、アスプロスの身に振り下ろされる鎚になった。アスプロスは避け、大地が巻き添えを食った。短い地響きと共に闘技場の床が粉々になった。

 

 観客席まで飛んできた石の破片に、見物人たちはそれぞれの方法で対処した。悲鳴を上げて頭を庇ったり、自分の所へ飛んできた物だけを避けようとしたり、あるいは受け止めようとしたり。

 

 マニゴルドは手で払い落とした。

 

 破片の多くは横から来た。そちらの方向、つまりハスガードのほうを見れば、腕組みをしている。ハスガードの周辺だけ破片が一つも落ちていなかった。

 

「あんたが弾いた分がこっちに飛んでくんだけど」

 

「済まん。次は俺の後ろに隠れてもいいぞ」

 

「するか格好悪い」

 

 土煙が舞う中、アスプロスは後ろへ飛び退った。速すぎたせいか土煙はほとんど彼の動きに付いていけなかった。完璧に体を動かせるというのはこういうものかとマニゴルドは再び感心した。

 

 シジフォスは距離を保ったまま、昂揚していながらも冷静な目を対手に向けた。風を読み、獲物を狙う狩人の目だ。

 

 再び巨大な力がぶつかり合った。

 

「シジフォスにとっちゃアスプロスは獲物なのかな」

 

「殺るか殺られるか、という対等な立場のな。久しぶりに相手に遠慮せず暴れられるとあって楽しんでる」

 

「ハスガードが相手してやればいいのに」

 

「そういうのじゃないんだ、シジフォスとアスプロスは……」

 

 ハスガードは少し目を細めて戦う二人の友人を眺めた。マニゴルドも闘技場の中央を見た。

 

 アスプロスが両腕を頭の上で交差させようとしていた。高まる小宇宙が渦を巻いて煌めいた。その迸る力の流れ。空に浮かぶ銀河が地上にも出現した。

 

 シジフォスは驚いてそれを見つめた。そして白い歯を見せて笑った。

 

 ――星々が爆ぜた。

 

 やがて闘技場に教皇の朗々たる声が響いた。

 

「そこまで。勝者、アスプロス」

 

 アスプロスは地面に引っ繰り返ったシジフォスに近づいた。敗者に手を差し伸べて、何かを喋っている。その勝ち誇ったような顔からして、嫌味の十や二十はぶつけているのだろう。シジフォスはよろよろと身を起こしてアスプロスの肩を借りた。最後に受けた大技がかなりきているようだ。

 

 彼らが教皇に向き直ると、教皇は勝者に祝福を与えた。

 

「二名ともよく戦った。射手座の黄金聖闘士に土を付けたアスプロスには、十二宮の守り手となるに相応しい実力があると認めよう。アスプロスよ、双子座《ジェミニ》の黄金聖闘士となり、我らが女神の盾となり矛となれ。その拳をもってアテナに勝利を捧げよ」

 

 アスプロスも膝を付いて謝辞を述べた。

 

「アテナとその代理人に、勝利と栄光と忠誠を捧げます」

 

「アテナに栄光あれ」

 

 横からシジフォスが口を添える。

 

 儀式を伴う正式な称号授与はまだ先だが、これで十二宮三番目・双児宮の守護者が無事に定まった。

 

 教皇が去ると、ハスガードが待ちかねたように闘技場に飛びこんだ。戦いを終えた二人に被さる。シジフォスはその重みに耐えられずにその場に崩れた。

 

「何はともあれおめでとう、アスプロス。これで念願叶って三人一緒に黄金位だな」

 

「ああ、ありがとうハスガード。この馬鹿野郎がわざと技を受けるなんてしなければ素直に喜べたんだが……」

 

 視線を受け、シジフォスが二人を見上げた。「だって凄そうな技だったから威力が気になるじゃないか」

 

「自分で受ける奴があるか」

 

「ふっ。一度受けた技はもう俺には通用しない」

 

「じゃあもう一発受けるか」

 

 冷ややかなアスプロスの言葉に、満身創痍のシジフォスは「勘弁してくれ」と手を振った。

 

「そんなに効くなら俺もやってもらおうかな」とハスガードが楽しそうに笑った。

 

「きみまで言うか。いいさ今度食らわせてやる。ただし今はこの馬鹿を人馬宮まで連れて行ってくれないか」

 

「分かった」

 

「黄金聖闘士を顎で使うとは大した奴だな、アスプロス」

 

 言いながら、大柄の友人の肩を借りてようやく射手座が立ち上がる。背負われることを拒否したのは黄金位の意地だろう。

 

「自分で歩いて帰れるならそうするか?」

 

 ハスガードは楽しそうに彼を振り回し、半ば強引に十二宮に連れて帰った。候補生時代に戻ったかのように無邪気に笑いながら。

 

 アスプロスは顎を上げた。

 

 彼の視線の先にはマニゴルドがいる。階段をゆっくりと下りてきた悪童に、双子座の若者はぎこちなく笑みを浮かべた。

 

「来たんだな」

 

「おまえが見に来いって言うから」

 

 言い返すマニゴルドの笑みも硬い。

 

 アスプロスは服の裾で汗を拭った。土埃と混ざって服も顔も汚れた。

 

 黄金聖闘士が去ったのを見て他の候補生たちもやってきた。マニゴルドは場を外そうとした。ところがアスプロスに腕を掴まれて、その場を立ち去ることができない。勝利とその先に待つ栄誉を祝いに来た同輩たちを、アスプロスが誠実かつ適当にあしらうのを横で見るはめになった。

 

「なあ、もう行っていい? なんで捕まってんの俺」

 

「待ってくれ。おまえと話がしたい」

 

 そんな会話をしている間にやってきたのはイサクだった。後ろに雑兵を引き連れている。

 

「最強の聖闘士になるという予言を受けただけのことはあった。私も鼻が高い」

 

 男は試合内容については触れなかった。アスプロスは「ありがとうございます」と言葉少なに礼を述べた。

 

「今後に向けた話がしたい。宿舎に来い、アスプロス」

 

「すみませんがその話は後で伺います。先にこの友人と話をさせてもらえませんか」

 

 そこで初めてイサクは悪童を見下ろした。聖闘士が候補生に向ける目にしては、やや険がある。

 

「おまえの守護星座は? 何の候補生だ」

 

「……まだ教えてもらってねえ」

 

「だったら今後の称号獲得も望み薄だな。星の巡り合わせが良ければこのアスプロスのように黄金聖闘士にもなれるが、悪ければどんなに頑張っても報われん。それでも構わないというならあっちで修行してこい。そして私の弟子の時間を無駄に使わせないでくれ。アスプロスも余計な奴に構うな」

 

 マニゴルドはむっとして言い返そうとした。だがアスプロスの掴む力が強まるほうが一瞬早かった。

 

「イサクさん。マニゴルドは教皇猊下に師事しているんです」

 

「猊下に?」

 

 イサクは瞬きして、悪童を見直した。

 

「それは失礼。そういえばマニゴルドという名は聞き覚えがあるな。きみがそうか。いや、それなら有意義な時間だ。猊下のお弟子であれば、きみもきっと称号を得られることだろう。そうだ。きみさえ良ければぜひ私にも指導させてくれないか。お弟子からみた猊下のお姿というのもぜひ聞きたいものだ」

 

 分かりやすく権威に弱い男だなとマニゴルドは呆れた。

 

「今はアスプロスと話したいんだ。余計な奴にもちょっと時間くれよ」

 

「そんな卑下せずに充分話すといい。猊下によろしく伝えてくれ」

 

 馴れ馴れしく肩を叩かれた。

 

 雑兵たちも媚びるような笑みを作った。一人はマニゴルドの知らない顔だが、他の二人は何度か見たことがある。雑兵のまとめ役が、すぐに仕事を怠けて姿を消すと愚痴っていた二人だ。聖闘士の腰巾着を優先していれば、仕事に身が入らないのも当然だろう。

 

 イサクたち四人が去ると、辺りに人影はなくなった。目に入るのは闘技場の床のなれの果てばかりだ。二人は適当な瓦礫に腰掛けた。

 

「あれがおまえの指導役か」

 

「非常に不本意だがな」

 

 アスプロスは苦々しげに吐き捨てると、話を切り出した。

 

「そんなことはどうでもいい。猊下から何か聞いてるか」

 

「ああ」マニゴルドは頷いた。「聖域におまえの身内はいないってのが聖域の公式見解だ。俺の勘違いってことで片付くよ」

 

「なるほど。今まで通りか。俺は礼も詫びも言わないぞ。頼んでもいない仲介をしたのはおまえの勝手だからな」

 

「こっちだってそんなもの期待してねえよ。おまえ、人に頭下げるの嫌いだろ」

 

「ふん」

 

「けっ」

 

 二人はそっぽを向いた。

 

 相手の顔を見ないまま、マニゴルドは口を開いた。

 

「……あいつのこと、うちのジジイにばらしちまったのは悪かったと思ってる」

 

 アスプロスが笑いを含んだ声で言う。「おまえが謝るのか」

 

「うっせえ。秘密を守るって言っといて自分からそれを破ったのに、それでもおまえのほうは俺の殺しを黙ってくれてる。これ、どうみても俺が格好悪いだろ」

 

「気にするな。どうせおまえは三下の小悪党だ。それに猊下はデフテロスが俺とどういう関係にあるのか、どういう予言を受けているのかまではご存知ではないようだった。だから密告返しするほどのことではないと判断したんだ。むしろおまえが冷静なのが意外なくらいだ。『人の好意を無駄にして』と怒鳴りこみに来ると思ってたから。それとも何かまだ企んでるのか」

 

「信用ねえなあ」

 

 マニゴルドは大袈裟に嘆いた。

 

「デフテロス本人が助けを求めてるわけじゃないからさ。おまえもあいつを守るってのが拠り所みたいだし、俺のやってることは余計なお世話だって言われるのは分かってんだ」

 

「拠り所?」

 

「要するに兄弟二人で勝手に完結してればいいんじゃねえかって思ったわけよ。おまえが双児宮に引き取ればデフテロスだって少しは安全になるんだろう」

 

 それで落ち着いてから改めて教皇に相談してみても遅くはないはずだ。今この場で持ち出してもアスプロスに否定されるだろうが、セージとマニゴルドはその日が来ることを期待している。

 

 アスプロスはじろじろと悪童を見つめた。

 

「やけに物分かりが良いな。本当か?」

 

「本当だって。でもまあ全部ひっくるめると、うちのジジイがおまえと仲良くしろって言うから、仕方なくだ」

 

 不本意だということを示そうと溜息を吐いてみせる。ハスガードのような純粋な友情で接するよりも、損得や思惑含みで接するほうが自分には似合う。

 

 思った通り、アスプロスはくっくと喉の奥で笑った。

 

「それなら分かりやすい。俺もデフテロスに免じて大目に見てやる」

 

 笑いを収めると彼はマニゴルドを真っ直ぐ見つめた。「俺が双子座の黄金聖闘士になったら、デフテロスにも人目のない時に住まいを移ってもらわないとならない。そのついでに邪魔な荷物を片付けたいんだが、手伝ってくれないか」

 

 風が吹く。

 

「荷物?」

 

「そうだ」

 

 マニゴルドは声を立てずに笑った。

 

「いいぜ。ただし俺も抜け出せる夜は限られてるからな。他人に知られたくないなら、お師匠の星見に合わせてくれ」

 

 それは双子座の聖衣を正式に授かる日の前夜に実行された。

 

 双児宮に人知れず辿り着く上での関門は金牛宮だ。ハスガードが退去して、従者もいないことをマニゴルドが確認する。もしこの時にハスガードが留まっていればその注意を惹きつける役目も負っていた。彼の合図でデフテロスは無人の白羊宮と金牛宮を抜ける。

 

 こうして双子の弟は宿舎裏の小屋から双児宮の隠し部屋に速やかに移った。文字通り身一つでの転居だった。

 

「それじゃてめえは大人しく隠れてろ」

 

 マニゴルドはそう言って部屋を出ようとした。と、デフテロスに引き留められた。

 

「兄さんは?」

 

 マニゴルドがデフテロスを導く間、アスプロスは同行していなかった。双子の兄はどこで何をしているのか。

 

「後片付けだよ。俺も手伝いに行く」

 

 にっと口の端を引き上げて、マニゴルドは闇夜に飛び出した。

 



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白と黒の双子

 

 その頃アスプロスは自身の指導者であった聖闘士といた。双子座の称号を授かる前に語らいたいと言って呼び出したのだ。

 

 イサクは純粋に教え子の成功を喜んでいた。

 

「あんな小さかった子供が明日には黄金聖闘士か。感慨深いな。覚えてるか。聖域に来たばかりの頃おまえは――」

 

「夜風も気持ちいいですし、少し外の空気を吸いませんか」

 

 アスプロスは聖闘士に先だって歩きだした。

 

「弟と二人で聖域に来た時から、あなたには大変お世話になりました。もうご面倒はおかけしません」

 

「うむ。しかしおまえが凶星を双児宮に連れて行くと聞いた時には驚いたぞ。あれは私に任せて、おまえは地位に相応しい栄光だけを受け取ればいいものを」

 

「弟の面倒を他人に任せるわけにはいきません」

 

「そうかそうか。殊勝な心がけだな」

 

 ずっと不思議だったんですよ、と候補生は呟いた。

 

「俺たちに聖闘士の素質があると見出して聖域に連れてきたのは自分じゃないとあなたは言う。なのにイサクさんは今日まで俺たちを見張り、鍛え、事あるごとに予言を言い聞かせてきた。どうしてですか?」

 

「だからもう称号を返上して引退された方に頼まれたと前にも言っただろう。青銅聖闘士は上の指示に従って動くのが務めだ。考えるのは私の仕事じゃない」

 

「方針を決めた人に逆らうのは出来なかったということですか」

 

「逆らう意味がない」

 

「問題を抱えているなら教皇に相談してみろと、しつこく勧めてきた友人がいます」

 

 イサクは驚き、教え子の前に回りこんだ。

 

「まさか、この前の謁見で凶星のことを話したのか」

 

「話してませんよ。だから宿舎の周りもあなたの周りも静かなものでしょう。喋っていたら今頃は大騒ぎです」

 

 アスプロスは彼の横を抜けて歩を進める。

 

「なんと言っても俺の半身です。デフテロスが傷ついたり苦しんだりするのは見たくありません。あなたが理不尽な理由を付けてデフテロスに拳を振るう度に、俺は恨みで体が冷たくなりました。それでもあいつをいたぶる人間は、あなたや取り巻きの雑兵に限られていた」

 

「今更恨み言か? あれへの執着が強すぎるぞ、アスプロス」

 

「過ぎたことを言い立てるつもりはありません。俺はあなたよりも格上の称号を手に入れ、あいつに手出しをさせない算段も付いた。けれど、ここでもし不用意にあいつのことを公表すれば、今度は誰に暴力を振るわれるか分からない。凶星だから痛めつけても構わないという人間が出てくるでしょう。予言のことを知る者がいる限り、ずっとその恐れがつきまとう」

 

「そうだな。だから隠し通すのが一番だ」

 

 聖闘士はもっともらしく頷いた。

 

「教皇宮から調べが入った時もうまくごまかしておいた。凶星のことを上に知られる心配はない」

 

 夜風が呼吸を止めた。月は地平線に沈んだ。ぬるりとした闇が辺りを満たしている。

 

「凶星とは聖域に仇なす存在である。なぜそう解釈した時点で殺さなかったんでしょうね。なぜ生かし続ける必要があったのか。理由はあるんでしょうか」

 

「知らん。おまえたちが私に預けられた時にはもう全て決まっていたから、詳しいことは知らん」

 

「俺は考えましたよ。最強の聖闘士になる星の下に生まれたのが俺で、凶星の下に生まれたのがデフテロスだと確定させたのも、デフテロスを殺さずに存在を隠したまま育てようと決定したのも、全部あなたの上役だった人なんでしょう。でも、もしかしたら逆だったかも知れない。双子座に選ばれるのがデフテロスで、覆面をして影に息を潜めるのが俺だったこともあり得たんです。なぜデフテロスは殺されずに済んだのか。ねえ、何ででしょうね」

 

「アスプロス」

 

 男はようやく彼自身の思うところを述べた。

 

「おまえは賢い。私には理解できない視点で色々と考えることのできる生まれながらの将だ。だが私にもこれだけは言える。――怖がるな。迷うな。受け入れろ。双子座の黄金聖闘士になるのはおまえだ、アスプロス。それだけは間違いない」

 

 いつしか居住区は遠ざかり、二人は人気のない聖域の外れ近くまで来ていた。

 

 若者は立ち止まり、前方を見透かした。

 

「覚えていますか。この先ですよ。俺と弟が聖域を逃げだそうとして、あなたに捕まって半殺しにされた所です」

 

 星明かりの下に見えるのはただの荒れ野だ。

 

 同じ方角を望んで、聖闘士は昔を懐かしんだ。

 

「恨んでいるか?」

 

「とんでもない。感謝しています。俺はあれを切っ掛けに聖闘士を目指すと決めた。誰の顔色を窺う必要もない、我を通せる強さを手に入れると誓ったんです。ようやくそれが叶う」

 

 ゆっくりと端正な顔が振り返る。男は弾かれたように飛び退った。

 

 男が見たのは二つの炎だった。苛烈な決意の炎が若者の目を輝かせていた。

 

「やはり恨んでいるんじゃないか」嗤おうとして彼は失敗した。

 

「違うと言ったでしょう。ただ邪魔なんです。あなたが生きている限り、俺たちは安心して生きていけない。死んでくれ、イサク。俺とデフテロスのために」

 

 男の足は走り出していた。

 

 アスプロスの殺意が剥き出しになる。

 

「なぜ逃げる! 聖闘士らしく立ち向かってみろ」

 

「私の力ではおまえをいなすことはできん。明日になれば聖衣を手に入れる弟子に手を汚させるわけにいかない」

 

「俺はおまえを師とは認めない」

 

 二人は荒野を駆ける。

 

 月のない夜。

 

 追われる者にとっては悪夢だ。まさか育ててきた若者に殺されるなど、数秒前まで思ってもいなかった。

 

 追う者にとっては夢に描いた瞬間だ。不吉な予言という後顧の憂いを断ち切る日を、ずっと待ち望んでいた。

 

 未来が過去を襲う。

 

 牙が獲物を捕らえようとした時、横から何か回転する物が飛んできた。

 

 それはアスプロスとイサクの間を横切って地面に落ちた。二人の動きは思わず停まった。木の枝だった。飛んできた方角を見れば、人影が一つ走ってくる。

 

「デフテロス」

 

「なにを勝手に歩き回っている! 小屋に戻れ!」

 

 枝に続いて二人の争いに割って入ったデフテロスは、イサクを背後に庇い兄と向きあった。

 

「兄さん、殺しちゃ駄目だ」

 

「どけ、デフテロス。そいつはおまえをいたぶってきた男だぞ。おまえはイサクたちが憎くはないのか?」

 

「俺は殺されてない。この年まで生きてこられたのは、間違いなくイサクたちのお陰でもあるんだ。俺は兄さんと一緒に生きてる。それで充分だ。それにどんな理由があったって人を自分の都合で殺すなんて駄目だ。いけないんだよ。イサクを殺したら兄さんの手が汚れてしまう」

 

「おまえのためだ。構うものか」

 

「俺は嫌だ。絶対に嫌だ。兄さんは正道を歩むんだ。それに聖域の掟では私闘は禁じられてる。掟を守って正々堂々と聖域を変えるって、兄さんがいつも言ってることだ」

 

「それとは別問題だ。どのみち俺に殺されかけたとそいつが誰かに告げたら、俺たちは終わりだぞ」

 

「そうなったら俺が名乗り出る。聖闘士を殺そうとするなら候補生より凶星のほうが適任だ。暗くて見間違えられたって言えば教皇だって信じる。だって俺たちは双子なんだ。兄さんが間違ったことをするなら、俺は命を賭けても正す」

 

 双子は睨み合った。

 

 やがて弟は背中に庇った男に声を掛けた。「行って下さい、イサクさん」

 

 長年虐げてきた凶星に命を救われた男は、黙ってその場を立ち去った。その姿が荒野から消えるまで、二人は動かなかった。

 

 やがて兄がゆっくりと口を開いた。

 

「……どうしておまえがここにいるんだ。双児宮に行ったはずだろう」

 

「一度は行ったよ」

 

 その後でマニゴルドが、片付けをしているアスプロスの手伝いに行くと言って出ていった。しかし小屋には片付けるような物などない。デフテロスの引っ越しなのに本人が何もしないのもおかしい。そう考えたデフテロスは彼を追いかけた。

 

「そうしたら兄さんはこっちにいるって教えてくれた。兄弟で片を付けろって」

 

「おまえを巻き込みたくなかったからあいつに頼んだのに」

 

 双子に関する予言を知りデフテロスを虐げる者がいる限り、兄弟揃って表に出ることは叶わない。だからアスプロスは事情を知る全ての者を消すことにした。それが称号を授かる前にすべき身辺整理だと考えた。

 

 それを弟自身によって邪魔されるとは計算外だった。アスプロスは溜息を吐いた。

 

「それじゃ帰るか。イサクが上に訴え出る前に本当に身の回りの片付けをしないと」

 

 荒野を抜けようという辺りで、二人は居住区のほうからやって来たマニゴルドと鉢合わせた。

 

 マニゴルドは兄のほうに声を掛けた。

 

「今あの聖闘士と擦れ違ったけど、いいのか」

 

「もういいんだ」とアスプロスははっきり告げた。

 

「荷物の片付けは止めたってことね」

 

「そういうことだ。おまえには無駄な手間を掛けさせたな」

 

「まったくだよ」

 

 あーあ、と首を回すと、悪童はアスプロスを見据えた。

 

「だったらもう必要ないだろうけど一応教えとく。どんな理由であれ俺が丸一日教皇宮に戻らなかったら、ある手紙がうちのジジイの手元に届くようになってる。おまえがデフテロスを守るために指導者を殺すこと、口封じに俺を殺すこと……。まあそういう感じのことを書いといた。事実と違った部分は後で書き直すけどな。俺が無事な限りはおまえたちの秘密は守られる。だけど俺を殺したら全てがおじゃんになるってこと、覚えとけ」

 

 教皇の弟子が双子の事情を知っていることは、教皇にも秘密を隠し通したいアスプロスにとって脅威となる。それを彼とマニゴルドは理解していた。

 

「兄さんを脅すのか」とデフテロスはマニゴルドを見つめた。兄の居場所を明かしてくれたことには感謝するが、脅すとなればその気持ちも消え失せる。

 

「睨むなよ。殺しの片棒を担がせて用が済んだら口封じにそいつも殺す。よくある手口だろうが。こっちだって無駄死にしたかねえよ」

 

 アスプロスは空を仰いだ。

 

 頭上に広がるのは星空。いつのまにか吹き始めていた夜風が頬に心地よかった。

 

 再び友人に向き直ったその顔には、ただ苦笑だけがあった。

 

「そこまで分かってて、どうして俺に手を貸した? その言い方だと、俺が『荷物を片付けたい』と言った時にはもう、その『荷物』に自分も含まれていることを勘付いていただろう」

 

 デフテロスの視線が兄とその友人の顔を忙しく往復した。

 

「まあな。でもせっかく頼ってくれたんだから、応えてやらなきゃ悪いだろ。おまえを抑えるならさっきの手紙の話だけで充分だろうし」

 

「本当にそれだけか」

 

「試しに殺してみる?」

 

 おどけるマニゴルドに、気負った様子はない。

 

 デフテロスは思わず兄の手首を掴んだ。

 

 アスプロスは弟を振り向かずに「それは止めておこう」と静かに首を振った。「殺しはいけないとこいつに説教された。雑兵たちはどうしてる?」

 

「三人とも小屋に放り込んであるよ」

 

 もの凄い剣幕で兄の居場所を聞いてきたデフテロスを荒野へ向かわせた後。マニゴルドは宿舎裏の小屋へ向かい、デフテロスの代わりに小屋に入った。あまり長い時間を待つことなく、三人の雑兵がやってきた。翌日になれば双子の兄は黄金聖闘士として双児宮に入り、弟も引き取られる。そのことをイサクから聞いていた彼らは、最後とばかりにデフテロスをいたぶりにやってきたのだ。

 

 小屋の中でうずくまっていたのがデフテロス本人だと疑わなかった雑兵たちは、少年を腕ずくで引っ張り出そうとした。その瞬間を狙ってマニゴルドは魂を引き抜いた。それが彼の頼まれた「片付けの手伝い」だった。当初のアスプロスの計画では、イサクの後に三人を始末するはずだった。

 

「魂も肉体の近くに放ってあるからそのうち目が覚める。片付ける気がねえなら好きにしな」

 

「済まん」

 

「こっち側に来ると思ったのに」

 

 それだけ告げてマニゴルドは踵を返した。

 

 その背中を見送るアスプロスが「ありがとう」と言った。デフテロスは兄の手首を放した。友人への礼を述べたと思ったからだ。

 

 しかし兄は弟の背を叩いた。「おまえに言ったんだぞ」

 

 意識のない雑兵たちを道まで引っ張り出した後、兄弟は双児宮で眠った。殺されかけたことをイサクが上に訴えれば、アスプロスが双子座の称号を得ることはできなくなるだろう。牢屋に引き立てられる前に、せめて一晩だけでも兄弟揃って過ごしたかった。

 

 ところが双子の覚悟をよそに、何も起きないまま朝が来た。教皇宮から来た神官が「こちらにいらっしゃいましたか」とアスプロスを迎えに来るまで、誰も二人を探しに来なかった。

 

 アスプロスは双子座《ジェミニ》の黄金聖衣を拝領した。彼の颯爽とした立ち居振るまいは、聖闘士の鑑となるべき黄金聖闘士にふさわしいものだった。

 

 長年に渡って彼を指導してきた聖闘士の姿はそこになかった。もっとも儀式の進行には支障がなかったので、表だって取り沙汰されることはなかった。

 

 儀式の陰でその男が聖衣を返上したことをアスプロスが知ったのは、更に翌日のことである。教えてくれたのは引退を認めた教皇その人だった。初めてアスプロスが伺候した時に、何かの拍子でその話題になった。

 

「初めて耳にいたしました」

 

 言葉にしてはそう応えたものの、アスプロスに驚きはなかった。一日待っても私闘を行ったことに関して音沙汰がなかった。その理由を考えるうちに、薄々予想していたことだった。なにしろアスプロス相手に勝算なしとみて戦いから逃げ回った男だ。聖域からも逃げたのだろう。

 

 教皇は僅かに体重を肘掛けに傾けた。溜息を吐いたように見えたが、見た者の気のせいだったかも知れない。

 

「かの者が引退する理由を何と述べたか分かるか。弟子が黄金聖闘士になって、聖闘士として己が果たせる務めはこれ以上ないと実感したそうだぞ。新しく弟子を取ってもアスプロスと比べてしまうだろうと。そなたはよほど印象深い弟子だったとみえる」

 

 もしそれが事実だったとしても、良い印象ではないだろう。若者は軽く頭を下げるに留めた。

 

 双子座のアスプロスの伺候はそれで終わった。

 

 彼が長い十二宮の階段を下りてくると、双児宮の手前でマニゴルドが待ち受けていた。なにやらニヤニヤと笑いを浮かべている。

 

「知ってるか? イサクが――」

 

「いま上で聞いてきた。あの卑怯者は俺から逃げた」

 

 苦々しげに言う彼に、少年は笑いを貼り付けたまま問いを重ねた。

 

「じゃあ、雑兵が飛ばされるって話は?」

 

「雑兵のことなんて知るわけないだろう」

 

 興味のないことが明らかな声音に、教皇の弟子はわざとらしく頭を振った。

 

「イサクの舎弟みたいな三人、聖域外の拠点運営のほうに回される。珍しく神官が昨日のうちに処理してたから、たぶん今日明日には飛ばされるんじゃねえの。どうよ。これでもまだ興味沸かないか」

 

 デフテロスをいたぶってきた全員が聖域から消える。これにはさすがにアスプロスも驚いた。

 

「三人とも?」

 

「そう。しかも三人ばらばら。配置替えを推薦したのはイサクだ。自分の聖衣返上を願い出たその場でうちのジジイに具申したんだと」

 

「なぜ、……いや、そうか。子分の命を守るつもりか」

 

「そういう考え方もありだろうけどさ」

 

 気怠そうに首を掻くと、少年は笑うのを止めて十二宮の向こうへ目を向けた。山の裾野に広がる建物群。その向こうに広がる荒野。

 

「遠くに行った雑兵の言うことなんざ聖域がいちいち構うわけねえ。それと俗世に潜る雑兵はだいたいそのまま所帯を持って聖域には戻ってこなくなるらしい。つまりはこれも口封じのやり方。そう言えなくもない」

 

「あの男が俺の代わりに邪魔な雑兵を片付けたと?」

 

「てめえも含めてな」

 

 マニゴルドは視線をアスプロスに戻した。

 

「聖闘士が弟子を取るってのは、そいつの生き方とか面倒事も背負いこむことになるんだってよ。場合によっちゃ尻ぬぐいしてやることもあるってさ。イサクのおっさんはそれをやっただけだ。生き残る打算だろうが、おまえに不利なことはしてねえ」

 

 弟子に手を汚させるわけにいかない。そう叫んだ男の背中を思い出した。アスプロスは小さく笑った。

 

「なるほど。人の好い考えだが、たしかに猊下はおまえという面倒の塊を背負われている」

 

「俺の話はどうでもいいんだよ」

 

 少年はごまかすように、手にしていた紙を突きだした。「下の宿舎から預かってきた。おっさんの部屋にあったんだと」

 

「俺宛の文なら宮の従者にでも預ければ済むのに」言いながらアスプロスが受け取った紙は手紙と言うよりただの書き付けだった。「名前がないじゃないか。本当に俺宛か?」

 

「下の連中はただの捨て忘れた覚え書きだと思ってる。いいから見てみろ」

 

 促され、紙を広げてアスプロスは息を呑んだ。「gen 27:40」と記してあった。

 

「な、おまえに向けたもんだろ」

 

「ああ。……『汝は剣をもて世をわたり、汝の弟につかえん。されど汝繋ぎを離るる時はその軛(くびき)を汝の頸より振るいおとすを得ん』。確かに俺宛のようだな。なにせイサクの言葉だ」

 

 アスプロスは紙を握り潰した。

 

 ここで言うイサクとは、旧約聖書において諍いのあった双子、エサウとヤコブの父親のことを指す。弟ヤコブは、やがて族長となって兄エサウを従えるだろうと預言されていた。しかし預言を信じられずに策を弄して父を欺し、長子の権利を奪った。それをエサウに恨まれて、兄弟は仲違いするようになった。

 

 旧約聖書の創世記、二十七章四十節。それは父イサクから長男エサウに宛てた言葉の一節だった。

 

「弟に仕える、か。あの男の最後の嫌がらせだな。俺はエサウじゃないし、デフテロスはヤコブじゃない。それともテフテロスを切り捨てろという意味か」

 

「デフテロスって誰だ。おまえに弟なんかいねえだろ」

 

 咄嗟に顔を上げたアスプロスを、マニゴルドはとくに表情らしいものもないまま眺めている。そして噛み含めて諭すようにゆっくりと言った。

 

「いるとすりゃあ聖闘士っていう血の繋がらない同胞。なに驚いてんだよ。おまえ自身が教皇に言ったことだぜ」

 

「マニゴルド」

 

「一昨日の夜だって、俺はずっと星見の丘の麓でうちのジジイ待ってただけだ。双児宮におまえ以外の誰かがいるなんて知りもしないし、おまえが聖闘士になった以上はおやつも分けてやんねえ。そういうことだ」

 

 それはデフテロスの存在について今後一切触れるつもりはないという、マニゴルドの意思表示だった。

 

 アスプロスは戸惑いながらも頷いた。今までいくら彼が頼み、脅しすかしても聞かなかったことを、今になって受け入れた。その心境の変化は何だろうと考える。

 

「俺が死んだ時にジジイに届くはずだった手紙も、もう焼くよ。それで全部片付けは済んだことにしてくれ。だけど俺もジジイも死者と対話できるから妙な気は起こすなよ」

 

「大丈夫だ。その気は完全に失せた。おまえを始末しなくて良かったと今は思ってる」

 

「さすがに告げ口されるのはアスプロスでも嫌か」

 

「いや。おまえが聖闘士になったら俺の下で使ってやろうかと思って」

 

 その言葉にマニゴルドは目を見開いた。

 

 アスプロスはこの小憎たらしい後輩を驚かせたことに満足した。彼がしたり顔になったのを見て、マニゴルドもまた唇の端を引き上げる。

 

「……へへえ。黄金聖闘士様のお役に立てるなら喜んで、なんて言うと思ったか糞ったれ。聖衣もらったくらいで偉そうにすんな」

 

 少年はアスプロスの肩口を拳で打った。アスプロスも笑いながら拳を受け止め、それを握り直した。

 

「おまえはヘラヘラしていても油断のならない奴だ。敵には回したくない。仲良くしよう」

 

「とか言って右手で握手してるけど、左手に短剣を隠し持ってるんだろうな。まあいいや。俺たちが仲良くしてればお師匠やハスガードは安心する。いいぜ」

 

 純粋な友情と呼ぶには思惑が多すぎる。打算と呼ぶには甘すぎる。けれどアスプロスはそれを悪くないと感じた。そう、悪くない。

 

 握手と抱擁。相手もそれに応えた。

 

 ふと、マニゴルドが身を離し、笑いを収めた。

 

 彼が口を開く前からアスプロスは予感していた。これから喋る内容のために彼は双児宮で待っていたのだろうと。

 

「さっきの走り書き。軛ってのは誰かのことじゃなくて、おまえの気の迷いのことなんじゃないかな。余計なこと考えるのは止めて頑張れってさ」

 

 それだけ言うと彼は身を翻し、階段を上り始めた。

 

 アスプロスは言い返そうとしたが、階段を上がる背中は反論を待つ気はなさそうだった。

 

 それきり、イサクの伝言が二人の間で話題に上ることはなかった。デフテロスの存在についても同様である。マニゴルドは二度とアスプロスの身内と予言のことを口外しなかった。

 

          ◇

 

 教皇宮から張り出したバルコニーに弟子が佇んでいる。

 

 セージが近づいてもマニゴルドは振り返らなかった。手すりにもたれかかって、組んだ腕に顎を乗せている。

 

 手を伸ばして頭に手を置こうとすると横目で睨まれた。出会った当初もそうだったが、最近また撫でられるのを嫌がるようになった。人と接することへの警戒心はなくなっても、今度は年頃の見栄というのが生まれたらしい。

 

 仕方なく弟子が眺めていただろう景色に目をやる。

 

 青い空。遠くに望む山々の主脈にはまだ白い雪が残っているが、中腹より下は緑がかって見えた。

 

「なにやら凹んでおるな。組み手で初心者に負けたか?」

 

「そうじゃねえ」憂えたというよりはふて腐れた表情。「ガラにもなく他人のために動いてみたけど、なんか、終わってみれば俺が首を突っ込まなくても同じ結果になったんじゃねえかと思うとがっかりしてさ。しょせん俺ができるのは人殺しだけで、人助けは無理なんだよ」

 

「本気でそう思っているなら勘違いだぞ。マニゴルド」

 

 弟子はまた目だけでセージのほうを見上げた。

 

「まず『終わってみれば』という考え方は、もっと時間を置いてからするものだ。一息吐けた時が終わりというのは甘いぞ。死が人の終わりではないように、一区切り付くことはあっても完全に終わるものはないのが人の世だ」

 

「そういう意味かよ……」とマニゴルドは呻く。

 

「今はおまえの行動が全く影響を及ぼさなかったように見えても、もっと長い目で見れば、いつかどこかで影響は出てくる。もっともその時になれば、誰の行動が原因でそうなったかということを皆忘れていたりもするがな」

 

「水面の一点に動きがあれば必ず周りに波紋が広がるって言ってた、あれのこと?」

 

「よく覚えておったな」

 

 数年前に掛けた言葉だ。セージが思わず驚くと、弟子は決まり悪げに鼻の下を指で擦った。

 

 その手を取って、掌を上に向けさせる。

 

「おまえの手は人を殺すことも、物を奪うことも知っている。しかしそれだけではない。己の糧を誰かに分け与えることもできる。他の者の運ぶ重荷を支えてやることも、歩き疲れた者の手を引くこともできる」

 

「…………」

 

「茶を美味く淹れることを覚えたように、やり方さえ分かれば家を建てたり、人の怪我を治すこともできるだろう。人殺ししかできない手というのは存在しない」

 

 そうかな、と小さな声で疑うので、そうとも、とセージは頷いた。「小宇宙と同じように、心がけ次第でなんでもできる。おまえの手はそういう手だ」

 

 手を放すとマニゴルドは自分の掌に溜まった日の光をじっと眺めていた。

 

「だったら雑兵でもいいから早く仕事覚えたいとこだわ。俺、さっき部下になれって黄金聖闘士から勧誘されたんだ」

 

「雑兵か……」

 

 セージは引退を願い出た男と交わしたやり取りを思い出した。

 

 アスプロスを指導してきたその男は、黄金聖闘士を育て上げたことで聖闘士としての務めを果たしたと言った。その結果に満足しているとも。

 

『アスプロスは私が育て上げた最高の弟子でございました』

 

 はたしてマニゴルドが成長した時に、自分もそう断言できるだけのことをしてやれるだろうか。そう思ったセージは男の意志を尊重して慰留せずに引退を認めた。当然、教え子のほうでも師の思いを酌み取ってくれるだろうと期待していた。

 

 ところが男の引退を当のアスプロスに伝えても反応は薄かった。指導者をあまり尊敬していないようだった。

 

 まったく親の心子知らずとはこのことだ、と感じた。その時の気分が甦ってきた。

 

 マニゴルドに継がせるべき称号はすでに決まっている。セージが長く担いすぎて埃を被ってしまった称号、蟹座《キャンサー》だ。

 

 けれどそれを伝えて何になるだろう。積尸気使いとして未熟。聖闘士として未熟。人として未熟。教えるべきことはまだまだ多い。そんな相手におまえは黄金の器だと告げれば、慢心するか、萎縮するかしてしまうだろう。

 

 そんなことを考えながら見つめていると、やがてマニゴルドが落ち着きを失い始めた。

 

「あ、あのさ、そんな怖い顔で黙りこまれると俺も困るんですけど。呪われた星座とか、すげえ悲惨な死に方が約束された称号とかが用意されてるんだったら、遠慮する」

 

 仕方のない奴だとセージは脱力した。

 

 安寧の生涯とは無縁になるという意味では、どの称号の聖闘士であっても同じだろう。それを呪いと呼ぶか栄光と呼ぶかは、その者の働き次第だ。

 

 できることなら後者であって欲しいと願う。

 

「……行くぞ。修行を付けてやる」

 

 それを聞き、弟子はそぶりだけは面倒そうに、けれどセージよりも素早くバルコニーを離れた。

 



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続・聖域の人々

 

 水場の脇にカモミールの白い花が咲いていた。

 

 女は水桶を置いて身を屈めた。

 

 昨日はまだ蕾だった。やっと咲いた小さな一輪ではあるけれど、主に捧げれば喜ぶだろう。石造りの神殿は荘厳ではあってもどこか寂しい。

 

 その時、遠くを歩く光が目に入った。日を受けて輝く白いマントと、黄金色の重厚な輝き。

 

 それを見て、女は花を手折ろうとした手を止めた。

 

 聖域の麓には、ここよりもっと花の咲いている場所がある。それを思い出した。

 

          ◇

 

 キクレーはアテナに仕える巫女の一人だ。

 

 といってもその身に神を降ろすわけではなく、女神の身の回りの世話をする侍女のようなものだった。少なくとも聖域に迎えられた時にはそう説明された。アテナが降臨する時期が迫ってきたので、巫女に相応しい少女として選ばれたという話だった。

 

「降臨されて数年は乳母がお側に付きますが、ご成長されてからのお世話はあなたたちのお役目です。それまでの間に巫女の務めを完璧に覚えてもらいます。よろしいですね」

 

 女官長だという貫禄のある中年女性に言い含められて、キクレーともう一人の娘は「はい」と返事をした。巫女と言っても親元を離れたばかりのただの娘。奉公に上がるのと変わらない。

 

 それから女官や神官から様々なことを教わった。さしあたっては神殿の清め方といった日々の務めや折々の儀式での作法。そのうち裁縫や音楽も教えてくれるという。まるで行儀見習いのようだった。教えてくれる女官はとても優しかった。よく「あの子に比べればあなたたちは天使です」と誉めてくれた。「あの子」というのが誰なのかは教えてもらえなかったが。

 

 巫女はアテナの居住空間である神殿で寝起きすることになっていた。神殿は山の頂上、教皇宮を抜けた先に鎮座している。それなりに人のいる教皇宮と違い、しんと静まりかえった建物だ。夜になれば尚更だった。こんな寂しい所で育つなんてアテナは可哀相、とキクレーは思う。だからもう一人の巫女グリシナと「お姉さん代わりになってたくさん遊んであげよう」と誓い合った。

 

 けれど約束された夜になっても、アテナは女神像の前に降臨しなかった。理由は教えてもらえなかった。

 

 数日後には儀式用の祭壇や篝火も撤去された。娘たちは神殿前からその作業を眺めた。

 

「乳母の人は帰されちゃったね」

 

「仕方ないじゃない。お乳飲ませる相手がいないんだもの」

 

「これから私たちだけだね」

 

とグリシナは不安そうに腕を擦った。

 

 二人は乳母と違い俗世に帰されることはない。アテナがいますが如くに祭れという神官長の指示を受けていた。しかしそれはどういう意味ですかと聞き直せなかった。なにやら神官が苛ついていたので。

 

 キクレーも溜息を吐いた。「どうしましょう」

 

「悩むことはない。神殿を清め、供物を捧げ、祈りを捧げよ」

 

 近くから聞こえた声に娘たちは顔を上げた。そして慌てた。兜と法衣という奇妙な組み合わせにもかかわらず、それが滑稽ではなく威厳を感じさせる佇まい。風雪に耐え続けてきた大木の風格。教皇だった。アテナを除けばこの聖域で一番偉いお方だと女官から教えられていた。

 

 老人だということは一目で分かった。肌には皺が刻まれ、髪も真っ白だ。しかし精神の柔軟性を失ったがゆえの鈍重さや頑固さとは無縁だった。兜の奥から見える目は若々しく鋭い。声にも張りがある。

 

「アテナがこの聖域にお戻りになられる時に速やかにお迎え申し上げられるかどうかは、そなたたちにかかっている。ゆえにそこに在られることを想像して、実際にお世話をする気持ちで務めよ。それがいますが如くに祭るということだ。分かるか」

 

 娘たちが承服したので老人は去っていった。

 

 何の気無しにそのまま教皇の背を見送っていると、誰かが駆け寄っていくのが見えた。キクレーたちと同じ年頃の少年だ。どうやら神殿の階段下で教皇を待っていたらしい。親しげに話している。

 

「グリシナ、見て。男の子」

 

「本当だ。きっと猊下の従者よ」

 

 主従と思しき二人連れは教皇宮に吸い込まれていった。

 

 

 神殿での暮らしも一年を過ぎた頃、キクレーは所用で女官長に会いに教皇宮へ行った。ところが女官が常駐している部屋には誰もいない。

 

 探しに行こうかと廊下に出たところで声を掛けられた。

 

「あんた新入り?」

 

 軽薄な声に振り返ると、一人の少年がいた。

 

 教皇宮より下町にいるほうが似合いそうだった。人懐こい笑顔を浮かべている。一年前に見かけた相手とは思い出せず、キクレーはその場に立ち尽くした。

 

「可愛い格好してんじゃん。直してほしいんだけど頼んでいいか」と抱えていた修行着を見せる。脇腹のところが大きく裂けていた。

 

「私にですか?」

 

 戸惑うキクレーに少年は当然のように言う。

 

「針仕事は女官の仕事だろ。苦手なら女官長にでも渡しておいてくれればいい。急ぎじゃねえから」

 

 女官じゃない。その憤りに娘はようやく自分を取り戻した。

 

「私は女官ではありません。アテナに仕える巫女です。教皇宮の雑用はしなくていいと女官長より言われております」

 

「巫女?」

 

 キクレーは無遠慮に観察された。くるぶしまである白いキトンに、頭からストールのように被っているヒマティオン。古代のレリーフから抜け出してきたような衣装という自覚はある。女官とは違う装いなのだから、声を掛ける前に気づいて欲しかった。

 

「それが何で教皇宮にいるんだよ」

 

 女官長を探していたと答えると、少年は服を脇に抱え直した。

 

「じゃあ一緒に探してやろうか。俺の用事もそれで済むし」

 

 ほら、と手を差し出されたがキクレーは一歩後ずさった。少年は気を悪くした様子もなく、その手を自分の首の後ろへやった。

 

「そっか。自己紹介がまだだったな。俺はマニゴルド。教皇の弟子やってる。ずっとここで暮らしてるけど、あんたの顔は見たことねえな。見たら忘れるわけないのに」

 

 馴れ馴れしい男、とキクレーは警戒した。少しくらい格好良いからといって、声を掛けられた女の子が皆喜ぶと思ったら大間違いだ。舐められまいと背筋を伸ばす。

 

「普段は神殿に籠もってこちらには参りませんから、ご存知ないのも当然です。私はキクレーと申します。教皇に連なる方でしたら、今後もお目に掛かる機会があるでしょう。どうぞよしなに」

 

 せいぜい優雅に挨拶すると、相手は気後れしたように眉尻を下げた。

 

 二人は歩き始めた。手は繋がない。

 

「巫女って要するにアテナの世話係だろ? 今は何してんだ。大きな声じゃ言えねえけど、本人はいないんだから」

 

「いいえ、今もです。そこにアテナがおられるが如くにお世話をしております」祈りの時間を除けば今のところ神殿の掃除ばかりだが、そんな事は言わない。

 

 そりゃ大変だ、と、どこか馬鹿にした口ぶりで少年は呟いた。「一人でやってんのか。寂しくないの」

 

「巫女はもう一人おります」

 

「あんたみたいな美人?」

 

「グリシナはとても美しい娘です。誰が見ても美しいと言うでしょう。私と比べる意味などありません」

 

 キクレーは正面を向いたまま答えた。あんたみたいな、などと思ってもいないことを口にする不誠実な男など嫌いだ。

 

 しかし彼女の内心の声を聞き取ったのか、少年は言った。「いやいや。あんたも綺麗だって。特に目が」

 

「目?」

 

 キクレーは驚き振り返った。彼の顔と向き合うことになった。

 

「そう、その澄んだ目。宝石みたいだ。俺はそのグリシナって子は知らねえけど、誰と比べようがあんたは綺麗だよ。宝石は宝石箱に入れっぱなしじゃ勿体ないぜ。たまには神殿から出てきて見せてくれよ」

 

 見つめられたほうが戸惑うほど、少年は真摯だった。実家にいた頃はそんな風に言われたことはなかったし、神殿に入ってからは若い異性と言葉を交わすこともなかった。少女は困って顔を背けた。慣れていなかったのだ。

 

「あれ。怒った? もしかして俺が適当にお世辞言ってると思ってる? 本当に綺麗だから、こっち向いてくれよ。俺が嘘言ってねえって目を見てくれれば分かるから」

 

「何をしておいでですか、マニゴルド様」

 

 声のしたほうを向けば、廊下の中央に中年の女が仁王立ちしている。少年はへらりと笑った。

 

「よう女官長。怖い顔するなよ。あんたには笑顔のほうが似合うぜ」

 

「お黙りなさい。修行を怠けて巫女に言い寄っていたと猊下に言いつけますよ」

 

「うへえ。そりゃ勘弁」

 

 肩を竦めた少年はキクレーから離れた。そして女官長に服を託して去っていった。

 

 女官は渋い顔のまま娘に向き直った。

 

「いけませんよ、キクレー様も。教皇宮を歩き回らないようにと言ったでしょう。それとマニゴルド様の言葉を真に受けてはいけません。彼は女と見たら尼僧でも口説く国の男ですからね。子供だと思ってたのに、いつのまにか口ばっかり達者になってしまって。本当にもう」

 

「ごめんなさい。女官長を探していたんです」

 

 急いでキクレーが謝ると、女は表情を緩めた。教育係と言うよりは叔母の表情に近かった。

 

「……本当に、あまりこちらの建物に来てはなりませんよ。マニゴルド様は猊下のお側で修行中の身。その修行を蔑ろにさせた原因と思われては、きっと猊下にもお叱りを被ってしまいますからね。さ、部屋に戻りましょう」

 

 なんでも神官長から重要な話があって女官たちは部屋を外していたということだった。もしキクレーが教皇宮に通い詰めていたら、それが神官長代理の引き起こした事件に関わる話だったと勘付いたかも知れない。しかし全ては片付いたことだ。女官たちでさえ蚊帳の外だった事件が巫女に明かされることはなかった。

 

 神殿に戻ったキクレーが教皇の弟子に会ったことを話すと、グリシナは興味を示した。優美な顔を輝かせて詰め寄ってくる。

 

「もしかしてそれって、一年前に神殿の前で猊下と話してた子じゃない。従者じゃなかったんだ」

 

「よく覚えてるね」

 

「ここにいると人と会うことなんて滅多にないもの。猊下のお弟子ってことは才能があるんだ。ねえ、格好良かった?」

 

 まあね、と彼女はしかめ面で答えた。そこは認めざるを得なかった。

 

 

 山頂にある石造りの神殿は、冬は底冷えがする。二人の巫女は冬になるとありったけの服を着込んで日々の祭礼を行った。

 

 大雪の日も同じだった。教皇宮との間にも雪が積もって神殿に閉じ込められた形になったが、二人とも平気だった。薪もある。食べ物もある。主が不在であってもアテナ神殿は聖域という砦の最奥。防衛の備えは万全だ。それに本当に困った時には、雪を掻き分けて教皇宮まで助けを求めればいい。そう分かっているから気楽なものだった。

 

 朝、水を汲みに神殿の外へ出ると、遠くからおおいと呼ぶ声が聞こえた。辺りを見回すと、真っ白な雪原を突っ切って少年が走ってくる。太股の辺りまで積もった雪の中を漕いでやってくる。

 

 教皇の弟子はキクレーの前で立ち止まった。

 

「元気か、巫女さん。雪に閉じ込められて困ってるだろ。道作りに来たから」

 

 雪を踏み固めて教皇宮まで通れるようにしておくという。巫女の格好で雪を掻き分けたりすれば、風邪を引きかねないと彼は心配していた。

 

「お気持ちはありがたいですが、あなたの仕事ではないでしょう」

 

「んー」彼は頭を掻いた。「昨日は別の所を雪掻きしてたんだ。そのついでにやれば良かったんだけど、うっかり忘れてた。まあ使用人は神殿に近づくのを遠慮してるし、俺一人でも十分だから」

 

 そう言って彼は自分の足跡を辿って戻っていった。キクレーも水桶を抱えて一度神殿内に戻った。髪の乱れを直し、衣に変な皺が付いていないか見直す。

 

 それから表へ出て見てみれば、本当に少年は雪をせっせと踏み固めていた。教皇宮から真っ直ぐに続いている細い径。見守っているとその径はじりじりと彼女のいる所まで延びてきた。

 

 待ち遠しく、もどかしい。胸がむずむずする。

 

 それをごまかすように、親切な方、と呟いてみる。

 

 声には出さなかったのに彼は顔を上げた。キクレーを見て呆れたように片眉を上げた。

 

「中にいりゃいいのに。寒いだろ」

 

「あなたを置いてですか。そんな薄情なことできません」

 

「でも鼻が赤いぜ」

 

 少女が慌てて顔を両手で覆うと、相手は小さく笑った。「可愛いな、あんた」

 

「からかわないで下さい。それより、マニゴルド様は神殿に近づくのはよろしいのですか」

 

 神殿には儀式でもない限り神官さえも近寄らない。女神の御座所という思いがある聖域の住人なら、誰でも恐れ多く感じるものだという。

 

「候補生っていう立場的にはよろしくねえよ。でもたかが階段を上るのを怖がるようじゃ、生と死の境を越えられねえな。生と死。貴と賤。光と闇。境界線があるようで、意外にみんな繋がってんだ」

 

「繋がってませんよ。生死の境を越えたら死にます」

 

「うん。まあ、そうなんだけど」

 

 二人が話していると、声を聞きつけたのかグリシナも出てきた。どちらの方、という彼女の問いに少年は気さくに答えた。

 

「あんたがもう一人の巫女さんだな。俺はマニゴルド。教皇宮の住人だ。たしかにキクレーが言ってた通りの美人だな」

 

 グリシナは黙って微笑んだ。

 

 キクレーは彼女も言い寄られるだろうと気構えた。しかしその心配をよそに、二人はありきたりな初対面の会話を交わしただけだった。

 

 雪の中の小径はとうとう神殿にかかる階段まで到達した。

 

「よし、終わり!」

 

「ありがとうございます。中でお茶か朝食でも――」

 

とグリシナが言いかけたので、キクレーが急いで遮った。

 

「と申し上げたいところですが、聖闘士以外は男子禁制の神殿でございます。その決まりは越えないで下さいまし。お礼もできずに申し訳ありませんが」

 

「いいよべつに。俺だって向こうの建物に行けば朝飯が待ってる。それじゃな」

 

 少年はあっさり立ち去った。

 

 キクレーが神殿の中に戻ろうとすると、グリシナが緩い笑みを浮かべながら背中をつついてきた。

 

「なかなかの男前じゃない」

 

「やめてよ。グリシナだって美人と言われて浮かれてたくせに。神殿に男を招き入れたと知れたら叱られるだけじゃ済まないのに、なに考えてるの」

 

「だってあなたが止めてくれるって分かってたから。そこで改めてお礼すればいいのよ。あなたが」

 

「私が?」

 

 キクレーは立ち止まって聞き返した。グリシナは思わせぶりな含み笑いと共にさっさと奥の部屋に戻っていった。

 

 ところで巫女たちは特別な針仕事も行う。女神の衣装や教皇の法衣、儀式で使われる祭具の下に敷く敷物などは、彼女たちの手によって飾られるのだ。呪術的な意味が含まれていることは言うまでもない。

 

 キクレーは祭壇の飾りの合間に、手慰みで自分用のクッションにも取りかかっていた。それの刺繍の意匠を途中で変えた。グリシナには「色も地味だし、可愛くなくなった」と不評だったが構わなかった。男の子にあまり可愛い物を渡しても迷惑がられるだけだろう。

 

 刺繍が完成すると「雪の日のお礼です」と手紙を添えて、教皇の弟子に渡してくれるよう女官に託した。

 

 

 少年が再び神殿に現れたのは春先のことだった。

 

 キクレーが見かけた時、彼は階段に腰を下ろして聖域を眺めていた。それがふと振り返り、彼女に笑いかけた。

 

「よう」

 

「……こんにちは」

 

「クッションありがとな。死んでる時の枕にちょうどいい」

 

 使っている状況は分からなかったが、使ってもらえていると知ってほっとした。「お礼、ですから」

 

 彼は手の中に握っていた物をスルスルと伸ばした。刺繍を施した二組の綺麗なリボンだった。彼女の視線がそれに注がれているのを見て、少年はにやりと笑った。

 

「このまえ聖闘士と一緒に俗世で仕事してきたんだ。これはその土産。あんたたちに」

 

「ありがとうございます。グリシナも呼んできますからお待ち下さい」

 

「あんただけでいい」

 

 少年はキクレーをその場に留めると、リボンを彼女の栗色の髪の横にあてた。手が髪に触れて、キクレーは思わず身じろいだ。

 

「二本ともあんたに似合いそうなのを選んできたんだ。好み分かんねえから色は変えて。だから好きなのを先に取れよ。残ったほうがもう一人の分。あ、残り物だってことは言うなよ」

 

 リボンを渡されて、彼女は戸惑った。

 

「グリシナのほうが美人なのに、なぜ私に構うんですか」

 

「そりゃあんたが気に入ったから。言ったろ、目が綺麗だって」

 

「からかわないでください。他の女の人にも同じようなことを言っているんでしょう」

 

 少年は慣れた仕草で肩を竦めた。

 

「信用ねえなあ。つうか声掛ける他の女ってどこにいるんだよ。女官はババアだし、女聖闘士相手に下手なことしたら、殴られるのが目に見えてるっつうの」

 

「嘘です」

 

「嘘じゃねえよ。今度確かめに行くか」自分で言ったことを妙案だと思ったのか、彼はしきりに頷いた。「そうだ。そうしよう。なあ、キクレーは花は好きか」

 

 唐突な質問に少女は戸惑った。神殿付近には雑草さえあまり生えないから、しばらく草花を見た記憶がない。しかし思い返せば嫌いではなかった。

 

「じゃあいい所がある。せっかく堂々と顔を晒して生きていける身なんだ。たまには神殿から出てこいよ」

 

 言うだけ言って彼は立ち去りかけた。それを慌てて呼び止める。

 

「あの、マニゴルド様はどちらがいいと思いますか」

 

「何が?」

 

「リボン……。どちらがお好きですか」

 

 両手にそれぞれ持って、顔の横まで掲げてみる。少年は迷わず「赤いほう」と言った。やけにぶっきらぼうな口調だった。

 

 神殿内に戻ったキクレーは、部屋で寛いでいたグリシナに若草色のリボンを渡した。

 

「可愛い。どうしたの、これ」

 

「教皇のお弟子が外で仕事してきた時のお土産だって」

 

「うそ凄い。でも私が頂いていいのかな」

 

「もちろん。渡してくれって頼まれたんだから。私も色違いを貰ったの」

 

 見せてほしいとせがまれたので赤色のリボンも渡した。けれど二本を二人の共有にしないかという言葉には決して応じなかった。

 

 ある晴れた日に少年は迎えに来た。

 

 表から呼ぶ声に気づいたのはグリシナだったが、彼女にせっつかれてキクレーが対応に出た。

 

「こんにちは、マニゴルド様」

 

「ようキクレー。せっかく花を持ってきたけど、あんたの前には霞んじまうな」

 

 差し出された一輪のアネモネ。少女は顔を綻ばせた。

 

「気に入ったなら咲いてる所見に行こうぜ」

 

「誘ってくださったのは嬉しいです。でも巫女が神殿を離れればきっと叱られてしまいます。この一輪で十分です」

 

「大丈夫。見つからねえように行くから。そこに隠れて立ち聞きしてる姉ちゃん、そういうわけだから頼んだぜ」

 

 柱の陰からもう一人の巫女が顔を覗かせた。「逢い引きね。任せなさい」

 

「グリシナ!」

 

「女官にはキクレーは気分が悪くて臥せっていると言っておきますから、心配しないで出かけていらっしゃい。けれどマニゴルド様、私にも花を頂きとう存じます。一輪だけでは寂しいから、もっと沢山摘んできて下さいまし。それで手を打ちましょう」

 

「話が早くていいね。あまり遅くならないようにするから、後は頼んだぜ」

 

 マニゴルドとグリシナの間で話が付いてしまった。

 

 行ってらっしゃいと笑顔で見送られて、キクレーは少年と一緒に神殿を離れた。

 

 十二宮を抜けて山を下りるのかと思いきや、少年は教皇宮の裏手へ回り込んだ。使用人の使う隠し階段があるという。実際にその階段を見下ろして巫女は感心した。確かにこれなら見つかりにくい。

 

「でもあんたの足じゃ階段下るだけでも時間掛かりそうだな。……ちょっと失礼」

 

 いきなり抱え上げられ、キクレーは短い悲鳴を上げた。抱かれてみると安定感があることにも驚いた。筋骨隆々には見えず、身長も自分とさほど変わらない少年なのに。

 

「お、下ろしてください。まさかこれで麓まで行く気ではないでしょう」

 

「おんぶのほうが良いか? 安定するのは、あんたの横腹に頭を入れて肩に担ぐやりかただけど」

 

「そんな家畜みたいな運びかたは嫌です」

 

「じゃあこれでいいだろ」

 

 問答に飽きて少年は階段を下り始めた。キクレーの足腰に回された手にいやらしさはなかった。しっかりと荷物を抱えているだけだ。少女は彼の首にしがみついた。飛ぶような速さに思わず目を瞑ると、いつの間にか麓まで着いていた。一歩も歩いていないのに心臓が高鳴っていた。

 

「こっちだ」

 

 彼女を下ろすと、少年は慣れた様子で歩き始めた。

 

「あっちには闘技場がある。危ないから近づくなよ」「煙の上ってる辺りが宿舎だ。今の時間だとパンを焼いてるんだと思う」「あの塔は神殿からでも見えるだろ。火時計だ。時計座ってのが管理してるんだ。笑っちまうよな」「薬草園。世話してる奴がうるさいから勝手に抜くなよ」

 

 道すがら話す様子からは、彼がこの聖域を熟知していることが伺えた。

 

 連れて行かれた先は、緑の丘が連なる場所だった。

 

 赤や紫や白のアネモネが夢のように風に揺れている。菜の花の黄色も。柔らかい草の間でひっそりと咲いているのは白いカモミールだ。

 

 けれどそれより目に付いたのは、草から突き出す無数の墓標たちだった。

 

「ここはお墓ですか」

 

「そう。聖闘士の墓地。春は花が咲いてて綺麗なのに、誰も見に来ないんだよな。もう少し日が伸びたら薬草園のほうでも別の花が咲くぜ」

 

 誰も来ない。せっかく墓があるのに、戦い散った戦士たちを誰も悼もうとしないのか。それは少し寂しいように思えた。

 

 戦女神に仕える巫女は背を伸ばした。

 

 散っていった彼らの武勇を讃え、死を悼む歌を歌った。歌声は不思議と伸び、風に乗って丘の向こうへと伝わっていった。

 

 その間、少年は彼女の傍らで空を眺めていた。

 

「ありがとうございます、マニゴルド様。いつかアテナにもここをご覧に入れたいものです」

 

「俺の想像してた反応と違うけどそれなら良かった、のかな」

 

 そのあと持って帰る花を選びながら、キクレーはグリシナもここへ連れて来たいと思った。しかし巫女が揃って神殿を空けては問題になるだろう。一人では道が分からないだろうから、自分と同じように少年に連れ出してもらう必要がある。

 

 その件を頼むと少年は渋った。しかしキクレーはどうしてもと拝み倒した。マニゴルドは「その目で頼まれたら断れねえよな」と、苦笑と共に折れた。

 

 帰りの階段は背負ってもらった。彼の背に身を預けると安心した。温かい背。きっと聖闘士を目指している人だから、地上の平和を担う人だからだろうとキクレーは思った。行きと同じくもの凄い速さで駆け上るので目を閉じる。弾む足音。心地よい律動。

 

 階段の長さが二倍になればいいのにと思った。

 

 急に少年の動きが止まった。

 

 目を開けると、もう階段の尽きるところだった。ただし行く手に壁が立ち塞がっていた。教皇だ。西日を背負って待ち構えている姿にキクレーは恐怖さえ感じた。高揚していた気分が一瞬で冷える。

 

 彼女は少年の背から滑り落ちて跪いた。

 

「アテナの代理人たるお方に申し上げます。巫女の身でありながら許しなく神殿を離れたのは、偏(ひとえ)に私の軽率さゆえでございます。亡き聖闘士たちに挽歌を捧げたいと望み、通り掛かったこちらの方に墓地までの道案内を頼んだのです。私が頼んだのです。どうかマニゴルド様をお叱りになりませぬよう」

 

 本人は必死だが、片腕に大量の花を抱えた姿である。説得力はない。

 

 ざり、と少年が一歩前に出た。

 

「違う、お師匠。俺がこの巫女を神殿から引っ張りだした。アテナは聖域を治める存在なんだろう。そのねえやが聖域のことを把握してないで務まるか? だから俺は聖域を見せた。悪いことはしてねえ。文句あるか」

 

 石畳と見つめ合っている少女の耳に、重い溜息が聞こえた。老人の厳格な声が言う。「恐れ多くもアテナを言い訳に使うな」

 

 申し訳ありません、と彼女は更に身を縮めた。

 

「巫女よ。こたびの勝手な外歩きの罰をそなたに申しつける。その花をこちらへ」

 

「はい」

 

 お師匠、と少年が叫んだが、キクレーはもう諦めた。一生外の光を拝めなくなるか、逆に聖域から追い出されるか。いずれにせよ最後に良い思い出はできた。

 

「次にそこの浅慮者。明日、巫女二人に聖域を案内せよ。ただし十二宮を通って堂々とだ。候補生が巫女の供をするのだから、貴婦人の供をする下僕の如くせよ。当然肌に触れることは罷りならぬ。そして二人を平等に敬え。片方を贔屓することはならぬぞ」

 

「それじゃ十二宮をちんたら練り歩くことになるじゃねえか。俺に晒し者になれってのかよ」

 

「文句を言える立場か。考えなしに動きおって。闘技場に行くと嘘も吐いたな」

 

「闘技場のほうへ行くって言ったんだ。嘘は吐いてねえ」

 

「詭弁を弄するならもう少し工夫しろ」

 

「あ、あの猊下」とキクレーは思い切って二人の会話に割り込んだ。「私への罰はどうなるのでございますか」

 

 二人はよく似た表情で巫女を見た。どこか悪戯めいた、意地悪な笑み。しかし教皇がすぐに謹厳な顔を作ったので、似ているという印象は消えてしまった。

 

「すでに与えたであろう。これだ」と教皇は取り上げた花束を掲げた。「おおかた同僚への機嫌取りで持って帰るつもりだったろうが、それは許さぬ。没収とする」

 

 罰としては軽すぎる。そう思ったが口答えする勇気はキクレーに無かった。教皇の弟子が代わりに説明してくれた。

 

「このジイさんは神殿を離れたこと自体は問題にしてねえ。黙って抜け出して、それがばれた段取りの拙さを怒ってるんだ。その辺は俺のせいだから、キクレーが罰を受けるこたあ無いわけよ」

 

 彼が説明している間に、教皇は早くも踵を返して教皇宮へ戻っていった。

 

「良いの、ですか」

 

 安堵がぽろりと溢れた。少年は困り顔で彼女の頬に手を伸ばした。

 

 ……神殿には青ざめた顔のグリシナが待っていた。いきなり教皇がやってきて、巫女が一人いないのを見抜いて去っていったという。ごまかしきれなかったのは自分のせいだと、それで自責の念に駆られていた。

 

 謝る友人に、教皇は千里眼を持っているから仕方ないと、キクレーは笑った。

 

 翌日、二人の巫女は教皇の弟子に付き添われて聖域を回った。たくさんの花を摘み、遊び、彼女たちは久しぶりにただの娘に戻った。

 

          ◇

 

 あれからもう何年も経つ。

 

 女が物思いに耽っている間に、黄金の輝きを纏った青年は通り過ぎてしまった。

 

 彼女も汲んだ水の分だけ重くなった水桶を持って神殿へ戻ることにした。少女の頃から毎日続けている仕事だ。もう目を瞑ってでもできる。

 

 主にはこんな所で健気に咲いている一輪を捧げるより、一面に広がる花畑を見せたほうが喜ばれるだろう。なにしろ神殿と教皇宮の往復ばかりの毎日だ。気が塞いでしまうだろうし、たまの気晴らしに麓を散策するのは名案に思えた。それに花輪を身に付けているくらいだから、少なくとも花が好きなのは間違いない。

 

 主の喜ぶところを想像して、女は一人微笑む。十人の男がいれば十人とも心動かされるような美しい微笑みだった。

 

 聖域内を散策したいと言えば教皇はきっと許可を出してくれるだろう。問題は十二宮の守護者たちだが、そこはマニゴルドに教えてもらった裏の階段を使えばいい。あの生意気な悪戯小僧は、本当に色々な抜け道を知っていた。

 

 そうだ、そうしましょう、とキクレーは晴れやかに空を仰いだ。優雅に結い上げたその髪には、赤いリボンが編み込まれていた。

 



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舞踏の歌
無題、あるいは死


 

「おい見てみろよ、あれ」

 

 語らっていた候補生たちの一人が道の向こうを指差した。マニゴルドもそちらを見た。見慣れぬ二人連れが歩いている。

 

 一人は髪も髭も伸び放題の、吹けば飛びそうな老爺。ぼろを纏っているだけでなく、本人の肉体が朽ちそうだという意味でもまるでぼろきれだ。それに手を引かれている子供は、身なりこそまともだが生白くひ弱な感じがした。二人揃って聖域では浮いている風体だった。

 

 しかしそう感じたことにマニゴルドは舌打ちした。自分も聖域に入った時は薄汚い浮浪児に過ぎず、連れてきたセージは上品な旅装だった。見た目で判断するなど傲慢もいいところだ。

 

「新しい候補生かな」

 

「それを連れてる乞食みたいな爺さんは何だよ」

 

「昔の雑兵が孫を連れてきたんだろ。行ってみようぜ」

 

 少年たちは刺激に飢えている。蚊の群が人に集るように二人連れを取り囲んだ。仕方なくマニゴルドも二人を囲む輪の近くまで寄った。

 

 彼がセージに連れられて聖域に入った時は、すでに日も暮れて屋外に人はいなかった。しかし今は日中で人目を避けることは難しい。もしあの時も今と同じ時間帯だったら、きっと大騒ぎになっていたに違いない。

 

 想像してうんざりしたマニゴルドをよそに、候補生たちは嬉々として尋問を始めた。

 

「おい爺さん、どこに行く気だ」

 

「教皇に謁見する」老爺は枯れ木を抜ける風のような声で答えた。ひどく聞きづらい。

 

「あんた聖闘士かよ。雑兵だったんなら謁見なんて無理だぞ。そのガキを候補生にするだけなら謁見なんてしなくていいんだ」

 

「教皇に話がある。通してくれ」

 

「でも見るからに怪しいしなあ。怪しい奴をこの先に通すわけにはいかないなあ。通りたければ俺たちを倒してくって手もあるぜ」

 

 老爺と手を繋いでいる子供は周りを見回した。年上の少年たちに取り囲まれても不安がる様子はない。歩き疲れて苛立っているだけだ。しかしマニゴルドを見た瞬間に、連れの背中に隠れるように後ずさった。

 

「だいたいあんた本当にアテナ軍の味方なのかよ。子供連れて油断させようとした敵かも知れねえ。それともこいつがハーデスの依り代か?」

 

 誰かが物騒なことを言い出し、一同は色めき立った。もしそんなことになれば、聖域は敵の侵入を許したことになってしまう。

 

 マニゴルドはようやく口を挟んだ。

 

「おまえらその辺にしようぜ。俺たち候補生がぐだぐだ言ったところでしょうがねえよ。上に任せようぜ」

 

「上って?」

 

「十二宮の番人だよ。シジフォスは留守だけどさっきハスガードの奴はいたから、教皇に謁見させてもいいかはあいつに判断させりゃいい。それが仕事だろ」

 

「でもそこまでこの二人だけで行かせるのか」

 

 候補生たちは顔を見合わせた。金牛宮までとはいえ、不審者が十二宮を上るのを見過ごすことに抵抗があったからだ。

 

「じゃあいいよ。俺が見張りについてく」

 

とマニゴルドは請け負った。面倒だが仕方ない。候補生の身で十二宮の通行を許されているのは彼だけだった。友人たちは渋々ながら承諾した。老爺も受け入れた。

 

「嫌だ!」

 

と疳高い叫び声が上がった。子供がマニゴルドを睨んでいる。

 

「おまえはいやだ。近くに来るな」

 

「おお。嫌われたなマニゴルド」候補生の一人が苦笑した。「なんでこの兄ちゃんが嫌なんだ、坊主」

 

 他の者も呆れ笑いを浮かべている。幼い者に特有の理由のない反発だろうと、誰もが想像していた。

 

「だって死に神みたいだ」

 

 周囲が気まずさに固まった。かたや言われた本人は改めてうっすらと笑いを浮かべた。

 

「坊主、よく判ったな」

 

 マニゴルドは死と親しい。

 

 長く亡霊を遊び相手としてきた彼の身には、死の気配が馴染んでいる。無意識に発せられるそれを正しく「死」だと理解できる生者は、俗世にほとんどいなかった。せいぜい敏感な者が「暗い井戸の底を覗いているような気分」や「直視したくないのに目を逸らせない何か」を感じるだけだ。

 

 それさえも、少年が快活な態度で接していれば忘れられる程度のものだった。幸か不幸かそれを本能で理解していたマニゴルドは、陽気な性格に育った。

 

 彼と同じ事情は、積尸気使いとして熟練したセージやハクレイでさえも抱えている。だからハクレイは豪放磊落で破天荒だ。死と正反対の性質へ周囲の目を向けさせるという意味でマニゴルドと似ている。一方でセージは穏やかさで死の気配を包みこみ、ある種の慈悲を感じさせている。教皇となってから加わった威厳もそれに一役買っている。

 

 いずれも周囲の目をごまかしているのだが、彼ら自身はとくに意識してのことではない。あくまでも性格形成の一部として、自然に培われたものだ。

 

 おかげで敏感な者の多い聖域でも、これまでとくに問題は起きなかった。

 

 初対面でマニゴルドから死の匂いを感じた者は、その後の本人の態度にそれを忘れる。感覚の鈍いうちに彼と知り合った者は、そもそも死の気配に気づかない。あるいは何かの瞬間に察しても気にすることがない。警戒するような敵ではないとすでに知っているからだ。

 

 前者は小宇宙に目覚めて戦いに身を投じた聖闘士に、後者は一般人と変わらない候補生仲間や雑兵に多かった。

 

 しかし今、マニゴルドの為人を知らないままに死の匂いを感じ取った子供は、真っ直ぐにそれを指摘してしまった。未来の聖闘士候補に選ばれるだけの感覚の鋭さを持っているのだろう。

 

「ガキのくせに判るなんて、おまえ死にかけたことでもあんのか」

 

「うっせえ話しかけんな馬鹿」

 

 子供はますます警戒して老人の背中にしがみついた。枯れ木のような老爺はマニゴルドに詫びた。

 

「私の連れが失礼なことを言って済まない。おまえは積尸気使いか。いや、答えなくていい」

 

「隠してるわけじゃねえからいいよ。そうだよ。俺も俺のお師匠も積尸気使いだ」

 

 なにそれ、と候補生の一人が隣に囁いた。知らねえ、と聞かれたほうも首を傾げる。

 

 老爺は子供に、「安心しろ。彼はおまえの死に神ではない」と語りかけた。それでも子供は嫌だ嫌だと駄々をこねていたが、後ろからマニゴルドが蹴飛ばすふりをすると渋々連れに付いて歩き出した。

 

 十二宮の階段手前まで行くと、子供は地べたに座り込んだ。

 

「もうやだ。疲れた。歩きたくない」

 

 ギリシャに来た日に港から教皇宮まで歩かされたマニゴルドにしてみれば、甘えたことを抜かすなと怒鳴りたい気分だ。子供はあの頃のマニゴルドと同じ年頃でも、老爺の足取りはセージに比べれば亀の歩みだ。遙かに楽なはずだった。置いていけばいいという野次馬兼見送りの提案に乗ることにした。

 

 老爺は首を縦に振らなかった。教皇に謁見を求めたのはこの子供に関わる用件のためだという。マニゴルドは溜息を噛み殺した。

 

「ごちゃごちゃ面倒臭せえ。じゃあ爺さんをハスガードのところまで連れてく。その後でまた迎えに来るから、坊主はそれまでに覚悟しとけ。死神の迎えが来る前に自分で階段上ったほうがいいぞ」

 

「いやだぁ!」

 

 子供の悲鳴に苛々と笑う。周りのつられ笑いの中、マニゴルドは老爺と共に階段を上り始めた。

 

「あの坊主は爺さんの弟子? 孫?」

 

「弟子では、ない。が、縁あって病を、治してやって、な」

 

「もう息上がってんぞ。年寄りが無茶すんな」

 

 枯れ木のような老爺を背負う。階段下から仲間たちが「さすがの敬老精神」と茶化すので睨んでおいた。

 

 軽かった。

 

(うちのジジイとは大違いだ)

 

 将来はセージも痩せ衰えて軽くなるのだろうか。マニゴルドには想像しようとしてもまったく想像できなかった。

 

 金牛宮の前で老爺を下ろすと、彼は元の場所に取って返した。子供は一番目の白羊宮に続く階段の途中で突っ伏していた。

 

「情けねえ奴」

 

とマニゴルドは遠慮無くせせら笑った。しかし病み上がりなら、一人で階段を上がろうとした根性だけは誉めてやるべきかと思い直した。

 

「ほら行くぞ。俺に触るのが嫌なら、箒か棒きれ借りてきてやるからそれに掴まるか」

 

「……いい。引っ張れ」

 

 子供はふて腐れた態度で手を差し出してきた。マニゴルドが手を掴むと一瞬身を強張らせたが、すぐに慣れて「やっぱり背負え」と当然のように要求した。求めれば与えられてきた者の強みだとマニゴルドは感じた。

 

 金牛宮に着くと空気が冷えていた。雰囲気が、ではなく気温そのものが低い。いったい何があったのか。不思議に思いながら足を踏み入れる。すると大柄の若者が小柄な老爺の前に膝を屈しているのが目に入った。

 

 ハスガードがマニゴルドのほうを引きつった笑顔で振り返った。聖衣の表面になぜか霜が付いていた。

 

「おまえ……。なんて人を連れて来てくれた」

 

「あれっ。通しちゃまずい爺だった?」

 

「逆だ、逆。ここからは私もお力添えいたします。どうぞ」

 

 敬意を込めて老爺を背負ったハスガードと、子供を背負ったマニゴルドは、やや足早に十二宮を上り始めた。

 

 そして階段を抜けた先の教皇宮。正面入口前に教皇がいた。

 

 牡牛座の背から下りた敝衣蓬髪の老爺が口を開く。「しばらくぶりでございますな、猊下」

 

 豪華な刺繍入りの法衣姿で、教皇は丁寧に挨拶を返す。「お久しゅうございます。聖域に入られたとお伝え頂ければ、私のほうが伺ったものを」

 

「たかが一介の老兵風情に教皇が気を遣われますな。なに、私も久方ぶりに十二宮を歩いて見て回りたかったのです。しかし心の臓がくたびれましてな。結局この若人の手を煩わせることになってしまいましたわ」

 

「ご無理をなさいますな、クレスト殿」

 

 マニゴルドにもどこかで聞き覚えのある名前だ。記憶を辿れば、たしかセージの先輩格にあたる水瓶座の黄金聖闘士がそういう名前だったはずだ。ハスガードもセージも気を遣うわけである。

 

 教皇と元水瓶座、その連れの子供が教皇の間へ向かうのを若い二人は見送った。

 

 面会がどれくらい掛かるかは分からないが、用が済めばクレストと子供は山の麓まで下りていくことになる。このまま待っていようとハスガードに誘われた。

 

「あの二人を帰りも送らないと。そう嫌な顔をするな。クレスト様には下りこそ大変だろうからな。あの方がどういう方か、マニゴルドは知っているか」

 

「昔の水瓶座だろ。お師匠より年寄りってことなら知ってる」

 

「そうだ。さっきのやり取りを見ただろう。立場は教皇が上でも、猊下は年長者に敬意を示されたんだ」

 

 そっか、とマニゴルドは呟いた。ハスガードがさりげなさを装って「おまえも立場上は俺に敬意を示すのが礼儀だと思う」と言っていたが、それは聞き流した。

 

「全然関係ねえけど、ちょうどいいや。俺の知り合いが飛魚座《ボランス》になる最後の試練で外に行くんだけどよ、行く前に黄金位にあやかりたいって言ってた。あんた協力してやってくんねえか」

 

 聖衣か聖衣箱に触りたいそうだと伝えると、快く引き受けてくれた。

 

「おまえも大概面倒見の良い奴だな、マニゴルド」

 

「俺が?」おまえに言われたくない、と少年は声を高めた。

 

「友達のこともいいが、自分の修行はどうなっている。天馬星座は獲得できそうか」

 

「興味深い話をしているな」

 

 唐突に割って入ってきたのはアスプロスだった。

 

「マニゴルドの守護星座の話は初めて聞く。おまえみたいな奴にも天佑があるとは、物好きな星座もあるものだな」

 

「うっせえ。いきなり出てくんな」しっしと虫を追い払うように手を振る。

 

「それが黄金位に対する候補生の態度か」

 

 そうだそうだ、もっと言ってやれアスプロス、とハスガードが口を添えた。

 

「てめえだって候補生の頃にシジフォスやハスガードにため口利いてたくせに偉そうに。だいたい何で上にいんだよ、おまえ」

 

 そう問われると若き俊英は得意げな顔になった。

 

「神官から職掌について聞いていたんだ。黄金聖闘士になった以上、聖域のことは把握しておきたいから」

 

「真面目だなあ」とハスガードが感心した。

 

「言っとくけど神官にゴマすっても聖域は牛耳れねえぞ」とマニゴルドは吐き捨てた。

 

「べつに彼らに阿るつもりはないさ。それよりおまえの守護星座が天馬星座というのが本当なら、アテナが聖域に入られるのと同時に称号を与えられるかも知れないぞ。今のうちにしっかり修行しておけ」

 

「ちょっと待てよ」

 

 慌ててマニゴルドは手を上げた。勝手に話を進められては困る。

 

「本当のところはどうだか知らねえよ。色々考えたらそれが一番ありそうっていうだけで、お師匠は何も教えてくれねえんだから」

 

「何も?」

 

「それでも説得力はあるだろう。なあ、アスプロスもそう思うだろう」

 

 ハスガードに水を向けられ、アスプロスは拳を口元に当てる。その拳を放した時の表情は浮かなかった。

 

「……俺もハスガードもシジフォスも、かなり早い時期に何座の候補かということは聞かされていた。自覚を持たせるためだと思う」

 

 守護星座は生まれた時から決まっているから、修行の進み具合とは関係なく教えてもらえると、アスプロスは言った。もちろん例外はある。守護星座が複数あって、どの星座の天佑を受けるか本人の適性を見ながら考えるような場合だ。ただし天馬星座の聖闘士になる者がそうだった前例はない。生まれた時から一本道だ。だから公表するかどうかは置いても、本人にまで伏せる理由はない。

 

 アスプロスはそう述べると最後に付け加えた。

 

「不吉な予言を受けていて、それを揉み消したいと猊下がお考えでない限りはな」

 

「おい」

 

 マニゴルドは思わず咎めた。アスプロスの事情を知らないハスガードが不思議そうに二人を見やっている。

 

 冗談だよ、と双子座はつまらなそうに笑った。

 

「あくまでも俺の考えだ。猊下のお心など俺ごときが分かるわけないじゃないか」

 

 そうして、用事があるからと立ち去っていった。

 

 やがて小一時間も経った頃、教皇の間の扉が開かれた。マニゴルドが中に呼ばれ、玉座の教皇から改めてクレストへ紹介された。

 

 どうも、とマニゴルドは軽く挨拶する。普段ならそれで終わりだ。しかしこのとき少年は真面目に仕切り直した。

 

「教皇セージの弟子のマニゴルドと申します。偉大な先達の方とも気づかず、先ほどは大変無礼な物言いをいたしました。同輩の分も合わせてお詫び申し上げます」

 

 これには挨拶を受けた本人ではなく、教皇が驚いていた。マニゴルドは内心で腹を立てた。黄金聖闘士の二人から態度のことで言われた直後だったから、先輩の前で師の面目を潰さないように気を遣ったのだ。なのにセージ本人に無駄にされた気分だった。もう礼儀なんか知るもんか、とへそを曲げる。

 

「謝る必要はない。見知らぬ人間の侵入を警戒するのは闘士として正しい。こちらこそ負ぶって運んでくれて助かった。おまえからも礼を」

 

と、クレストは相変わらず聞き取りにくい声で傍らの連れに促す。子供は腕を組んでそっぽを向いた。

 

「やだね!」

 

 この反抗的な態度。マニゴルドは子供にうんざりした。目を逸らすと、なぜか彼を見ていたセージと視線がかち合った。セージの目は笑っていた。

 

 クレスト翁だけは淡々としている。

 

「良いお弟子をお持ちになりましたな、猊下。積尸気使いの後継も決まり、聖域は安泰でしょう。後は頼みます」

 

 それで終わりとばかりに出口のほうに体を向けた。セージは引き留めようとしたが、修行地に弟子を残して来ていると聞いて引き下がった。

 

 ハスガードに付き添われてクレストは退室した。

 

 マニゴルドは残された子供に近づいた。子供は広間の中央に根を生やしたように立ち尽くしている。老人が出ていっても追いかける素振りはなかった。

 

「お師匠、こいつは? ジイさんの弟子のアンジェロって奴か」

 

「クレスト殿の弟子の名はデジェルだ。後半の響きしか合っていないではないか。そしてこの子はデジェルではない。これから聖闘士を目指す者として聖域で過ごすことになる、おまえの仲間だ」

 

 子供が憎たらしく鼻を鳴らした。

 

 下の宿舎まで連れて行ってやれとセージから言われたので、マニゴルドは新しい後輩を連れて教皇宮を出た。見下ろせば山腹をうねる長い階段。先に下りていったはずのハスガードたちの姿はもう見えなかった。

 

 二人は階段を下り始めた。

 

「宿舎かあ。寝台が柔らかいといいなあ」

 

「そんなことよりマシな指導役に当たるように祈っとけ。面倒な奴に当たると、どっかの奴みたいに性格ねじ曲がるから。俺みたいに口うるせえジジイが師匠ってのも大変だぜ」

 

 候補生に対しては、素質を見出した聖闘士がそのまま指導者となることが多い。しかしこの子供を連れてきたクレストは指導を辞退して去った。そこで聖域側のほうで改めて適切な指導役をつけてやる必要がある。

 

 マニゴルドはそう見たが、まだ聖域の体制を知らない子供には他人事だった。無邪気な、そして傲慢な幼さで口にする。

 

「要らねえよ指導役なんて。だってさっき上にいた、なんかズルズルの服着た偉そうな爺さんのことだろ。アタマ固そうだったし、その上口うるさいなんて、冗談じゃねえ」

 

「心配しなくてもあのジジイがおまえの指導をすることはねえ」多分、と心の中で付け加える。

 

 一度に指導できる弟子は一人きりという掟はないから、セージが新しい弟子を取らないという保証はない。少なくともマニゴルドの立場では断言できなかった。子供は口を尖らせて不満を示した。

 

「なんでだよ。おまえさっき『お師匠』って呼んでたじゃんか。これから仲間って言ってたし、だから俺の師匠でもあるんだろ」

 

「どういう理屈だこのガキ。てめえみたいなおとうと弟子は要らねえ」

 

「じゃ俺があに弟子か」

 

「階段から突き落としてやりてえ」

 

 子供を候補生用の宿舎まで連れて行き、すでに連絡を受けていた舎監代わりの雑兵に引き渡す。マニゴルドの役目はそれで終わりだった。

 

 教皇にそのことを報告すると、セージはやけに上機嫌な様子で彼の対応を誉めてくれた。マニゴルドは却って不安になる。

 

「もしかしてお師匠はあのガキを弟子にするのか? 本人はそのつもりだったぜ」

 

「無茶を言うな。おまえだけで手一杯だ。それとも弟分が欲しくなったか」

 

「違げえよ」

 

 弟子の内心を見透かしたように師は微笑んでいた。

 

 

 翌日、件の子供は年上の候補生に絡んでいた。「俺と戦え!」と腕を引っ張られている側はうんざり顔だ。

 

「遠慮する。小宇宙を体得したら相手してやるよ」

 

「聖闘士は戦うのが仕事だっておまえ昨日言ったじゃないか。なんで俺と戦わねえんだよ」

 

「俺は忙しいんだ」

 

 あしらっているのはマニゴルドと仲の良いユスフだった。遠巻きに見物している友人に気づいて「おう」と手を上げる。マニゴルドも同じように返した。

 

 するとユスフの腕に子供が噛みついた。突然のことに彼は叫び、自由な片手で払いのけた。弾かれた子供が宙を飛んで地面に落ちる。

 

 マニゴルドはなかなか起き上がれないでいる子供に近寄り、脇にしゃがみ込んだ。

 

「止めとけクソガキ。相手にされねえのは、おまえが弱いからだ。病み上がりなんだろ。元気になって嬉しいのは解るけど、今の状態で勝負しろってのはある意味卑怯だぞ。こっちが弱い者苛めしてるみてえじゃねえか。大人しくしてな」

 

「いやだ。大人しくするのはもう飽きた。我慢するのももう飽きた。ここに来れば俺も普通に跳んだり走ったりできるようになるって言われたんだ」

 

 聞けばこの子供は生まれつき心臓が悪く、これまで体を動かすこともなかったという。

 

 そんな者に聖闘士の修行をさせていいのか、と年長者二人は顔を見合わせた。

 

「これからは俺のやりたいことをやる!」

 

 それが捨て台詞だった。掴んだ土をマニゴルドに投げつけて、子供は走り去っていった。

 

 腕に付いた歯形を擦りながらユスフがぼやく。

 

「あー痛ってえ。躾の悪い犬みてえ。どっかの誰かを思い出すなあ、おい」

 

 マニゴルドは首を捻った。自分はあそこまで酷くなかった。

 

「やっぱり自覚なかったんだな。殺すつもりで組み手の相手を潰しにくる。指導役の言うことにいちいち反抗する。都合が悪くなるとギリシャ語が分からないふりをする。基礎訓練に参加しないで怠けてるかと思ったら、墓場で一人で遊んでる……。おまえ、教官たちに『面倒なお弟子様』って呼ばれてたんだぜ」

 

 先に修行を始めていた仲間に指摘されては、彼も苦笑するしかなかった。

 

「詳しいな」

 

「まあな。俺、正直おまえに嫉妬してたから」

 

 突然の告白。マニゴルドは戸惑い、友人を見つめた。ユスフは穏やかに微笑んでいる。

 

「いくら嫌がらせしても平気な面してるし、格上の相手にも態度がでかい。黄金聖闘士とだってため口で喋ってる。ずっと弱けりゃ馬鹿にしてやれたのに、実力だってどんどん追いつかれた。焦ったよ。やっぱり教皇自ら弟子にするような奴は、俺とは出来が違うんじゃないかってさ。隠してるだけで本当は猊下の称号を継ぐんだろうって疑って卑屈になったり。馬鹿みたいだろ」

 

 マニゴルドはただ相手を見つめるしかできなかった。

 

「でもいいんだ。たとえおまえに才能があっても先に聖闘士になるのは俺だ。聖衣は必ず手に入れる」

 

 そこまで言うと、ユスフは「あ、そうだ」と明るい声を上げた。

 

「牡牛座様に話付けてくれてありがとな。聖衣触らせてもらっただけじゃなくて激励してくれたんだ」

 

 マニゴルドも吐息に笑いを乗せた。

 

「ほんと、感謝しろよこの野郎」と友人の肩を小突く。「試練が済んで帰ってきたら、教皇宮から一番高い酒かっぱらって来てやるよ。それで祝杯上げようぜ」

 

「ああ。待ってろよ」

 

 数日後にはユスフは聖域を離れた。

 

 結果として彼は飛魚座の称号を逃した。マニゴルドはそれを書面で知った。教皇に提出された報告書を盗み見たのだ。

 

 聖闘士になる道を絶たれたユスフは、雑兵になる道を受け入れたらしい。試練の地の近くでちょうど駐在員に欠員が出たそうで、見習いも兼ねてそのままそこに収まることになったという。友人たちに顔を合わせづらくなった聖域育ちの候補生にはよくある進路だ。少なくとも数年は戻ってこないだろう。

 

 一方、クレストの連れてきた子供には指導役が付いた。セージではなかった。そのことにマニゴルドが胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。

 



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修復師たち

 

 板間には聖衣が散在している。

 

 先端の欠けたもの、ひびの入ったもの。表面が大きく凹んだもの。いずれも修復されるのを待ちながら、戦いの記憶を語り続けている。

 

 聖衣との密やかな対話。

 

 それは修復師見習いシオンが楽しみとする時間だった。後年はそれに耽溺する危うさもあったが、まだ年端もいかないこの時点では、文字通りただの児戯だった。

 

「シオン!」

 

 不意に怒鳴り声が耳に届き、子供はびくりと弾かれたように振り返った。部屋の入口に渋い表情をした師ハクレイがいた。その後ろ、戸口の陰にもう一人いる。顔は見えなかったがその服装から聖域の者と分かった。十中八九、聖衣の修復に来た者だろう。

 

「お呼びですか」

 

「何度呼んだと思うておる。ここに聖衣がなければ蹴り飛ばしとるわ」

 

 慌てて子供は師に駆け寄った。陰にいた者の顔が明らかになる。その人物はシオンと目が合うと軽く手を上げた。

 

「ようシオン」

 

 かつてジャミールに滞在したことのある年上の少年だった。たしかマニゴルドと呼ばれていた。記憶の面影よりは大人びているが、何度か遊んでもらったので幼いシオンも覚えていた。ハクレイの弟に師事しているというから、言うなればシオンにとっては遠方の親戚のようなものだ。

 

 ただし予想と違い、聖衣を持ってきた様子はない。疑問を浮かべた子供の視線を受けて、ハクレイが言った。

 

「マニゴルドは聖域からの使いじゃ。一月ほど滞在するから、おまえが相手をしろ。手始めに明日はこやつと一緒にガマニオンを採ってこい。北の大岩のほうじゃ」

 

「泊まりがけですか」

 

「否、日帰りで行ってこい」

 

「かしこまりました」

 

 ガマニオンは、オリハルコンやスターダストサンドなどと同じく聖衣の材料に使われる金属の一種である。原料の鉱石は世に出回っていないので、修復師が自分たちで採掘し、選鉱し、精錬してから加工する。その鉱石を採掘してこいというのだ。

 

 ハクレイが去ると、シオンは聖域の使者の前でさっそく採掘道具の準備に掛かった。後ろから眺めているマニゴルドに、自分も成長したところを見せる機会だ。

 

 ところが背伸びしても、棚の上に置かれたザルにどうしても手が届かない。苦戦しているとマニゴルドが代わりに取ってくれた。身長差でいえばシオンの背は彼の腰くらいまでしかない。面白くない。

 

「ほらよ」

 

「……どうも」

 

 シオンは口を尖らせて礼を述べた。マニゴルドは腰を屈めてその顔を覗き込んだ。

 

「もしかしてシオン。俺のこと忘れてるか?」

 

「おぼえてます。聖域の積尸気使いでしょう」

 

 もっともらしく応える。しかし「もうおばけは怖くないのか」とからかわれて「うるさい!」と喚くはめになった。

 

「わたしはもう修復師見習いなんです。からかわないで下さい」

 

「そういう反応がガキなんだよ」

 

 マニゴルドは笑った。教皇宮では彼もまた子供扱いされていることを、シオンが知る由もない。

 

 翌朝、小さな修復師見習いは異邦人を先導して歩き出した。

 

「どこまで行くんだ」

 

「あの山のふもとです」

 

 子供が指差したのは遠くに聳える峰だった。青空高く、鷲が一羽風に乗っているのが見えた。

 

 直線では大した距離には見えなくても、山を下り深い渓谷を渡りまた険しい尾根を越えて、という行程だ。普通の人間が歩けば片道だけで丸一日は掛かる。

 

 そこをシオンは小宇宙を燃やして一足飛びに駆け抜けていった。岩を飛び越えていく姿は燕よりも身軽だ。マニゴルドも引き離されずに付いてきたが、「道理でジャミール出身の聖闘士が多いわけだよ」と、シオンにはよく分からないことを納得していた。

 

 数時間かけて鉱床に到着した。

 

 そこはジャミールの集落よりだいぶ低地にある森の中。山陰の岩場から石を掘り出しては、運びやすいように砕いて鉱脈を含んだものだけを籠に詰めていく。

 

 単純作業が続く。だるいの腰が痛いのと、マニゴルドはひとしきり愚痴っていた。それが一段落すると、ようやくシオンに水を向けた。

 

「聖衣を直しに来る聖闘士とは、どういう話するんだ」

 

「何も」子供は手元に目を落としたまま言った。

 

「え、興味ねえの? なんで聖衣が壊れるはめになったかとか、普段はこいつら何してんだろうとか。相手が大人だから話しづらいのか? それとも喋る暇がねえのか。大変だな、おい」

 

 よく口が回る人だとシオンは思った。

 

「もしかしてジジイに禁じられてるのか」

 

「ジジイなどと呼んではおこられます。ハクレイ様です」

 

 マニゴルドの無礼を指摘してから、シオンは言った。聖衣の持つ戦いの記憶を見るほうが楽しいから人と話す必要はないのだと。

 

「人はうそをついたり、みえをはったりします。聖衣はほんとのことしか言いません。だから聖衣だけでいいんです」

 

「あー。それで俺をおまえに付けたのね。なるほど」またしても一人で納得している。

 

「よし、じゃあ聖衣が知らないような、聖衣を着けてねえ時の聖闘士の話でもするか。ちなみに俺は嘘を吐くのも大好きだ」

 

「じゃあ聞きません!」

 

「おら、耳塞いでると作業できねえぞ」

 

 聖域にいる聖闘士とそれを支える者たちのことを、マニゴルドは語った。彼の口から語られるのは戦女神に仕える闘士の姿ではなかった。笑ったり喧嘩をしたり酒で失敗したり愚痴をこぼしたりする、どこにでもいる男たちの姿だった。シオンはいつしかその話に引き込まれ、手が止まっていると何度か注意された。

 

「――で、そういう時は闘技場を使うんだよ」

 

「とうぎじょうってなに」

 

 大人びた口調を心がけていたシオンも、マニゴルドの砕けた態度に巻き込まれて、年相応の子供に戻っていた。

 

「地面を平らにして戦いやすくした、開けた場所のことだ」

 

「へんなの」

 

 実際の戦いは足場など整っていない場所でも起こるはずだ、という趣旨のことを訴える。

 

「そうだな。でも闘技場で経験積んだ連中はたいがい山とか孤島とかでも修行するから、べつにいいんだよ」

 

「じゃあマニゴルドもジャミールに修行にきたんだ」

 

 素直な連想に、マニゴルドは苦笑して言葉を濁した。

 

「あのね、わが師は修復師だけど聖闘士でもあるんだ。すごいでしょう。むかしはメイオウグンとたたかって勝ったんだって。マニゴルドもわが師とたたかってみるといいよ」

 

「そのうちな。ハクレイのジジイは自分より強いって、俺のとこのジジイが言ってたから、どんだけなのかちょっと興味ある」

 

「すごくつよいよ」

 

「分かった分かった」

 

 そんなことを話しながら二人は聖衣の材料集めに精を出した。

 

 岩を砕く間にも語らいは続く。と、不意にマニゴルドの足元に黒っぽい筋が入った石が転がり現れた。隣に並んでいたシオンが拾い上げて渡した。石に含まれる黒い筋こそが目的の鉱物だ。

 

「しってる? こうせきは地面の中から生まれてくるけど、空からおちてきたやつもあるんだって」

 

「隕鉄のことか?」

 

「インテツっていうのはしらない。目にみえないくらい小っちゃい星のかけらが、むかしは雨みたいに地面にふってたんだって。聖衣はそういうので作ったんだって」

 

 ちなみに宇宙由来の鉱物としては、金とプラチナが有名である。どちらも巨大隕石が地球に衝突した時にもたらされたという説が、現代では一般的だ。

 

「だからね、聖衣は星のかけらでできてるんだってハクレイ様がおっしゃってた」

 

「こいつが星ねえ。ただの石じゃん。山の中で地味に風化してくのがお似合いだ」

 

 マニゴルドはコインほどの大きさの石を目の高さに持ち上げた。口元が嘲りに歪んでいる。それを見てシオンは腹が立った。

 

「本当だよ。燃やすとよけいな混じりものと分かれてきれいになるんだ」

 

 ふうん、と年上の少年は呟いた。

 

 やがて日も傾く頃、二人は家路に就いた。

 

 早く帰って夕食にありつきたい。その一心で勢いよく山肌を疾走していたシオンは足を止めた。浅瀬を渡る直前だった。一拍遅れて背後に到達したマニゴルドも立ち止まった。

 

 行く手に一頭のヒグマがいた。

 

 まるで黒い小山だった。がっしりと盛り上がった肩に太い四肢。厚い毛皮と肉が全身を鎧のように覆っている。そして足先から覗く鋭い爪。風向きが変わると獣の臭いがはっきりと流れてきた。荒く太い呼吸がシオンの前髪を揺らすほどに近い距離だった。

 

 子供の足が速すぎて、互いに相手に気づく前に接近しすぎてしまったのだ。川辺に木が密集していて視界が狭まっていたという理由もあるが、今から悔やんでも遅い。

 

 シオンがこの危険な獣を見たのは初めてだ。けれどその大きさと力強さにただならぬものを感じた。ちなみにヒグマの前肢での一撃は牛馬の首すら叩き折るという。しかも獰猛で執念深く、狡猾なほど頭もいい。

 

 熊は感情の読めない眼でシオンを見ていた。

 

「シオン。敵から目を逸らすなよ。できればそのままゆっくり下がれ」

 

 子供は連れに言われた通りにゆっくりと足を引く。

 

 その刹那、黒い嵐が襲いかかってきた。

 

 ほぼ同時に襟首を後ろに引っ張られた。ヒグマの尖った爪が唸りを上げてマニゴルドの頭を狙う。そう、シオンではない。それを庇って盾になった者を狙った。

 

 マニゴルドは片腕で頭を庇った。避ければシオンに当たるからだ。

 

 シオンは間近にそれを見るしかできなかった。叫ぶ余裕すらなかった。降りかかってくるのは人の力と比べるのも馬鹿らしいほどの巨大な力。当たれば頭蓋骨など簡単に砕けて脳が散るだろう。

 

 しかしマニゴルドも小宇宙を体得した聖闘士の候補生。耐えきってはねのけた。ヒグマは後ろ足だけで後ずさった。巨体が少しだけ遠ざかる。聖域の少年は腕を振った。それから白い歯を剥いて笑った。

 

「わはは。やっべえ」

 

「マニゴルド!」

 

「うるせえ大声出すな。あいつ、なんて獣だ?」

 

 答える声を掻き消す勢いで再び巨大な掌が振りかぶってきた。避けても避けてもヒグマは執拗に襲ってくる。シオンは怖さに歯を噛み締めるのが精一杯だが、マニゴルドは涼しい顔をしていた。

 

「へーえ。あれが熊か。思ったより化け物じゃねえか。殺すとまずい生き物だったりするのか? ほら、ジャミールの神様の使いとか、そういうのあるだろ」

 

「しらない」

 

「じゃ、穏便にお引き取り願うか。ちょっと我慢しろよ」

 

 突如として至近距離で小宇宙が膨れあがった。

 

 突き刺さる苛烈な圧力に、シオンは「ひっ」と叫んでしゃがみこんだ。普段の修行でハクレイが発するものとも異なる、容赦ない威嚇。氷の針で肌の下を刺されているようだ。思わず逃げたくなった。現に梢から鳥が何羽も羽ばたいて逃げていった。

 

 熊は違った。ぐわんと太い首を振るうと、再び突進してきた。獣の眼には明らかに殺意があった。

 

「あれー。怒らせちまったかな」

 

 シオンは抱き上げられた。おかげで迫り来る獣の荒い息と殺意を背中に感じる羽目になった。間近から見上げたマニゴルドの顔は真っ直ぐに前を向いている。頃合いを見計らっているようだった。

 

 ぐん、と視界が上に昇る。宙に飛んだマニゴルドの腰が動き、強烈な蹴りが前方に――シオンにとっては背後だ――繰り出される。微かな反動。なにかが潰れる音がして、赤い飛沫が飛び散った。

 

 振り向こうとしたら、後頭部を押さえつけられた。

 

「見るな」とマニゴルドは囁いた。「見たらおまえ、今夜は怖い夢見るぞ」

 

 けれどシオンは見ることを選んだ。頭を失った黒い巨体がよろよろとさまよい歩き、やがて地鳴りを立てて地に伏した。

 

「……死んだの?」

 

「さてねえ。熊と出遭ったら死んだふりしろって聞くけど、熊が死んだふりしたらどうすっかねえ」

 

 そう言うとマニゴルドは一人で浅瀬に入っていった。そうして鼻唄を歌いながら足に付いた返り血を洗い流している。

 

 血の臭いを付けたまま集落に入れば長老であるハクレイはいい顔をしないだろう。それが想像できたのでシオンも後を追った。

 

 もう一度ヒグマのほうを見れば、うずくまる小山は二度と動く気配を見せなかった。

 

          ◇

 

 戻ってきた二人から事情を聞き、ハクレイは重々しく述べた。

 

「何はともあれ、大事な工具が無事で良かった」

 

「そっちかよ」

 

とマニゴルドは呆れた。「可愛い弟子に怪我がなくて良かったーとか、弟から預かった奴が無事で良かったーとか、なんかあるだろうが」

 

「おまえらなぞ怪我を負うても勝手に治るじゃろうが。どこか痛むなら唾でも付けておけ」

 

 ぞんざいな扱いに文句を言い立てても無視された。

 

「シオン。席を外せ」

 

 師の命令に従う前に、子供はマニゴルドのほうを振り向いた。彼が頷いてみせると、子供は後ろ髪を引かれながら部屋を出ていった。

 

「懐かれたようじゃな。目の前でヒグマを倒したお陰かの。おぬしも満足したろう」

 

 どこか嫌味な響きは詰責の前触れか。マニゴルドは先に弁解を試みた。

 

「仕方ねえだろ。鉱床への通り道だったんだ。誰かがまた遭遇するかも知れねえし、利口な獣には復讐心を持つやつもいるって聞いた。だから下手に手負いにさせたら後々却って厄介なことになると思ったんだよ。それが間違ってたっていうなら謝るよ」

 

「そんなことは言わん。獣と鉢合わせたのはシオンの落ち度じゃ。仕留めたというならそれで構わん。それはそうと、少し散歩に付き合え」

 

 少年は答えない。その暇がなかった。

 

 彼は咄嗟に横に倒れこんだ。勢いを殺さずそのまま転がり、立ち上がる。寸前までいた所に老人が人差し指を向けていた。

 

「ははははは! 勘は良いようじゃな小僧!」

 

「笑ってんじゃねえぞクソジジイ!」

 

 青い燐光が宙を舞う中、少年は部屋を逃げ出した。

 

 逃げる間にも何度となく冥界波が絡みついてくる。嵐の海に翻弄される小舟の気分だった。奮闘虚しく小舟が転覆したのはそれから間もなくだった。

 

 そして気づけば見慣れた黄泉比良坂。

 

「ぼさっとしとらんで構えろ悪たれ。いくぞ」

 

 それは時間にすればほんの十五分程度だっただろう。その僅かな間に、少年はハクレイの攻撃にさんざんに翻弄され、したたかに打ちのめされた。

 

 シオンの「一度戦ってみるといい」という戯れ言に同意したせいかと心の底から後悔した。

 

「し、死ぬ。まじで死ぬ……」

 

「なんじゃ、若い者が散歩くらいでだらしない」

 

 ハクレイは他愛ないことのように言う。しかしこの老人は、称号こそ祭壇座の白銀聖闘士という大人しめのなものでも、何度となくアテナ軍の一番槍として敵を蹴散らした男だった。老いてなお黄金位の若者たちに引けを取らない、あるいはそれ以上の猛者の一人である。セージが「自分より強い」と兄を称賛する所以だ。もっともそのセージ自身も普段は爪を隠した鷹なのだが。

 

 少年が岩場に引っ繰り返って降参すると、老人もようやく拳を収めた。

 

「セージは格闘も手ほどきしておるのか。よく時間があったのう」

 

「え? なんで知ってんの」

 

 マニゴルドは反射的に問い返した。が、やがて意味を悟って頬が緩んだ。翻ってハクレイの表情はどこか渋い。

 

「あ、あんたの弟子も散歩とやらのお供すんのか」

 

「いいや。シオンは連れて行けとうるさいが、積尸気使いでない者にこの世界を見せてものう」

 

「やる気はあっても素質がないなんて、あいつも気の毒にな」

 

 現時点でアテナの陣営にいる積尸気使いは、セージとハクレイ、そしてマニゴルドの三人だけだ。彼らよりも有能な使い手がこれから見つかる可能性はあるが、戦場に出す前に数年を掛けて鍛える必要がある。修行するまでもなく完成されている積尸気使いがいるとすれば、それはすでに他陣営に属しているか、ただの化け物か、どちらかだ。

 

「こればかりは努力では補えん。幸い修復師の才が豊かな子だから、そちらを伸ばしてやるづもりよ。無論、本人にその気があれば聖闘士にもなれよう」

 

 マニゴルドは身を起こした。

 

「ハクレイさんよ。俺はどう。聖闘士になれそう?」

 

「そんなことは己の師に聞け。と言いたいところじゃが、セージの立場を考えると逆に質問しづらいか。一応おまえも蟹座を継ぐ立場じゃからのう」

 

 魂を操り死に導く積尸気使いでなければ、蟹座の務めは果たせない。言い換えれば積尸気使いとしての道を歩き始めたマニゴルドは、他の者よりその称号に近い。そうと判っていても少年は手を振った。

 

「無い無い。そりゃねえよ。もし俺が第七感に目覚めてたとしても、蟹座だけはねえ」

 

「そんな強く否定せんでもいいじゃろう」と言うハクレイはなぜか笑いを含んでいる。「セージが悲しむぞ」

 

「お師匠は何も言わねえよ」

 

 老人の眼が意外そうに見開かれた。反対にマニゴルドの眼は不愉快さで細くなる。

 

「本当だよ。称号の話になると機嫌悪くなって黙っちまう。だから俺、自分が何座の候補なのかも知らねえ。だいたい継ぐもなにも、蟹座はうちのお師匠の称号じゃんか」

 

 ハクレイが口を開きかけたので、遮るように少年は言葉を継ぐ。

 

「考えてもみろよ、ジイさん。もしも俺が蟹座の候補だったら、なんでお師匠はそれを教えてくれねえんだ」

 

 己の持つ称号を弟子に継がせる気があるなら、押し黙る必要はない。弟子の出来の悪さに継がせるのを諦めたにしては、セージの態度に変化はない。

 

「だったら蟹座の候補じゃないって考えたほうが自然じゃねえか」

 

「なるほど。一理ある」

 

 ハクレイを感心させることに成功して、マニゴルドは気をよくした。

 

「なんてな。ごちゃごちゃ言ったけど、本当は蟹座なんてありえねえだけだよ。だってあれはジジイが後生大事に抱えてるもんだろ。そんなの貰えるわけがねえ。貰いすぎだ」

 

 老人が顔を歪めたので、口が滑ったことに気づく。少年は居心地が悪くなってそっぽを向いた。

 

 それから聞こえたハクレイの声は、いつもより抑え気味だった。

 

「……マニゴルドよ。前にも言ったがわしのところへ移ってくる気はないか。腕っ節はともかく、少し性根を入れ替えたほうが良い」

 

「根性が拗くれてるのは生まれつきだよ」

 

「たわけ」

 

 言い捨てて老人は先に現世へ戻っていった。

 



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大義と私情

 

 橙色の炎の舌が炉の中を舐め尽くす。熱は容赦なく炉の外にも吹き出し、目玉が火ぶくれを起こしそうだ。

 

 けれど修復師は瞬きの回数すら減らして火の色を見つめている。よくも我慢できるものだとマニゴルドは感心した。

 

 作業小屋にある土間で、ハクレイが聖衣修復の材料を原石から精錬しようとしていた。その原石はマニゴルドとシオンが毎日せっせと採掘してきたものである。

 

 さすがに精錬までは素人に手伝わせないだろうと思ったが、マニゴルドは炉に石炭をくべたり、ふいごを動かしたりする役を任された。作業前はただの力仕事だと侮っていたが、認識が甘かったことを今更ながらに思い知る。ハクレイの指示は細かいし、うるさい。なにより空気が熱い。汗が顎から滴った。拭く暇もない。

 

 石炭を運んでいる子供に彼はぼやいた。

 

「鍛冶屋は大変だな。なあシオン」

 

「かじやじゃない。修復師」

 

 シオンは律儀に訂正した。ハクレイは目を向けることもなく、口を挟むこともなく、ひたすら火を見つめ続けている。

 

 それから不純物を流し捨てた液状の鉱物を取り出して、別の材料を準備してある器に移し替える。そしてまた火に入れて融かす。聖衣が造られた古い時代からほぼ変わらない工程だそうだ。

 

「ふいご止め」

 

 厳しささえ響く声に、マニゴルドは素直に手を止めた。黄泉比良坂では積尸気使いがそうであるように、この作業場では修復師が全てを従える。

 

 部外者にはよく分からない作業をしてから、ハクレイは即席の助手のほうを向いた。見るかと誘われたのでマニゴルドは炉の前に移動した。

 

 暗い作業小屋の中で、円く切り抜かれたそこだけが太陽のように眩しかった。

 

 暗闇の中で燃える原初の火。火の中で沸き立つ金属もまた赫赫と光り輝いている。圧倒的な熱量。燃やして、燃やして、表面の残滓を燃やし尽くした後に残るのは純粋な。

 

 うわりと頭の中で何かが甦る。

 

 歓喜。

 

 あるいは陶酔。

 

 ほんの一瞬だけ聖衣と小宇宙の関係性を悟ったような気がした。けれどきっと錯覚だろう。

 

 一つ頭を振ってその錯覚を追い出す。

 

 炉の前をハクレイに返してマニゴルドはふいごの所へ戻った。

 

 やがて炉から出された飴状の金属が型に流し込まれた。再び溶解する時のために使いやすい形にしておくのだそうだ。ゆっくりと冷えた金属は、仄かに赤みを帯びた鉄灰色の塊と化していく。

 

 満足の行く成果を得たらしく、修復師は安堵の息を漏らした。諸肌脱ぎになっていた衣を着直す。

 

「あとは灰の中でゆっくり寝かせるだけじゃ」

 

 それを聞くとシオンは水甕の所へ飛んでいき、頭を甕に突っ込む勢いで水を飲んだ。マニゴルドはその小さな背中を眺めた。

 

「いくら弟子つってもさ、シオンに冶金仕事は早いんじゃねえの」

 

「修復師の修行を始めた以上、これも必要な事じゃ。小宇宙の真髄を知る手助けにもなる」

 

 たとえば一般的な金属の精錬に比べて短時間の沸かしで済むのは、火だけでなく、小宇宙も送りこんで原石の組成に影響を与えているからだという。そのため小宇宙の扱いに長けた修復師は優れた小宇宙の使い手になる。

 

 そういうことを説明されたが、マニゴルドは関心が湧かなかった。修復師にならない自分には関係ない。

 

 ハクレイは少年の肩を小突いた。それから所用があると言って作業小屋を出ていった。

 

          ◇

 

 教皇セージは座して目を閉じていた。一見すると瞑想しているようだが実際は違う。

 

 彼は今、遠くジャミールにいる兄と向かい合っていた。距離は兄弟の念話を遮るものではない。

 

(あの小僧は何をしでかした?)

 

 兄の話が前置きなしに始まるのはいつものことだ。弟子が何か粗相でもしましたか、とセージは落ち着きはらって問い返す。

 

(違う違う。おまえがジャミールに寄越した理由よ)

 

 セージは教皇の非公式の使者という名目で弟子をジャミールへ向かわせた。しかし十日も滞在する必要はない用事だ。それは当然ハクレイも理解していた。

 

「聖域の面倒に巻き込まれたくないから理由は聞かぬ、とおっしゃったのは兄上ですよ」

 

(いちいち指摘するな嫌な奴め。それが聖闘士に就けるかどうかと関わっておれば、無関心ではおられん)

 

 誰のことかと尋ねれば、おまえの弟子のことだと返ってきた。

 

(昨日気が向いて手合わせをした。力はそれなりに付いてきたと言っていい。おまえも初めての弟子で試行錯誤しておろうが、無駄にはなっておらん。ただしそれは弟子を聖闘士にする気があっての話よ。なぜ守護星座を伝えない)

 

 ハクレイ自身は、マニゴルドの守護星座を――つまりは蟹座の後継になり得ることを――知っている。以前セージから相談をもちかけた時に伝えてあった。

 

「それで兄上から教えてやったのですか」

 

(いいや。おまえの意図が分からんうちに勝手に喋ったりせんよ。なにせここ数代の黄金位はだいたい十四、五歳での授与が多い。今から最後の修行に入れば、あの悪たれもその頃に一人前に仕上がる。なのにそうせん理由が気になるじゃろう)

 

 理由。

 

 改めて考えると幾つもあるが、最も大きいのは、それが蟹座であることだろう。

 

 ハクレイとセージの兄弟は守護星座を同じくしている。ハクレイが蟹座の黄金聖闘士となり、セージが祭壇座の白銀聖闘士となる道もありえた。むしろ技量や人格では兄のほうが一段優れていると、セージ自身は感じている。

 

 そのため就任から長い年月が経っても、黄金位と教皇位は兄に相応しいという意識がセージにはあった。負い目のようなもので、これからも消えることはないだろう。できれば蟹座の称号も兄に返したかった。老いたハクレイ本人に今更返せなくても、その弟子に引き継がせればいいと考えていた。

 

 だから守護星座が一致したからといって、簡単に己の弟子に引き継がせるのは気が引ける。

 

 しかし「兄上に遠慮しているからです」とは口が裂けても言えない。それならマニゴルドを寄越せと言われるからだ。少年がハクレイの弟子になった上で蟹座を継承すれば、蟹座の系譜はハクレイに戻る。そう説かれることが目に見えている。

 

 ゆえにセージは念話では「まだその時期ではありません」と伝えた。これも偽り無しの本音である。

 

(何故じゃ。冥界波を使えれば後継には問題なかろう)

 

「あの者と立ち合った時に、兄上はどう感じられました」

 

 納得したかのような揺らぎが伝わってきた。ジャミールの地で兄が溜息を吐いたのかも知れない。

 

(やや粗っぽいが拳筋がおまえとよう似ておる。……まだ模倣に過ぎんがな)

 

 セージは静かに同意した。

 

「私と同じ蟹座だと告げれば、マニゴルドは私の模倣のまま満足してしまうかも知れません。黄金聖闘士になる者がそれではいけない」

 

 弟子が師の教えと基本を忠実に守るのは大切なことだ。しかしそれだけでは聖闘士として心許ない。教わった型を応用し、更に創意を加えた己の型を確立して初めて、一人前になったと言える。

 

 マニゴルドはまだセージに教わったことを己の中で消化しきれていない。

 

(しかし地位が人を作るという面もある。黄金の器ならなおのこと早く自覚させるべきよ。他に何か気に掛かる点があるように思えるがのう。あやつの何が不安じゃ。口と態度の他に悪いのはどこじゃ。素行か、頭か)

 

 そこで最初の問いに戻るらしい。

 

 ずいぶんと気に掛けてもらっている、とセージは嬉しくなった。兄が他人のことを悪し様に言うのは親しさの裏返しでもある。

 

「何か誤解されているようですが、今回ジャミールに遣ったのは、本当に無関係な事情です」

 

 しかしそんな回答でハクレイが納得するはずはない。結局セージは白状させられた。

 

 マニゴルドがアテナ神殿の巫女と戯れていたところを神官に目撃され、苦情が寄せられた。それで事が大きくなる前に落とし所を付けるつもりでジャミールに預けた。そういう事情だ。黄金聖闘士でさえ恐れるハクレイに預けるとなれば、それは根性を叩き直すことと同義。処罰を与えたと言い張れる。

 

(なるほど。つまり巫女を孕ませて聖域から飛ばされたと。やるな小僧め)

 

「そこまでは申しておりませんぞ。話を膨らませないで頂きたい」

 

(神官も頭が固いの。アテナは処女神であられるが、それを侍女にまで強いたりはなさらん。神の怒りで一物が腐ったりはせんぞ)

 

「ええ、兄上はよくご存知でしょうとも。経験豊富でいらっしゃいますからな」

 

 弟の嫌味は聞き流された。

 

(つまりあれよ、あの悪たれもいつまでも洟垂れ小僧ではないということじゃ。子供の成長は早いぞ。この前ようやく立って歩けるようになったと思ったら、いつのまにか成人して子を為していたりする。マニゴルドも称号を得たら、あれで存外立派な男になるやも知れん。おまえの後を継いで教皇になったら快挙じゃな)

 

 セージは頭を振った。「そんな事にはなりますまい」

 

 ややあってから兄は言葉を紡いだ。

 

(……のうセージ。おまえは一度はあの小僧を聖闘士にすると決めたはず。そうだな。気が変わったのか? 愛弟子を危険に晒すのが嫌になって、それで逃げ道を残しておくのか)

 

 気持ちは理解できるが、と念話も低く沈む。

 

 むしろハクレイのほうこそよく知る感情だろう。彼は多くの後進を鍛え上げてきた。その日々には確かに満ち足りた喜びがあった。なのに育てた若者を危険な任務に送り出しては失ってきた。殺すために育てる。その繰り返しで、背負う命ばかりが増えてきた。

 

(もしおまえの目が弟子可愛さで曇っているなら、教皇補佐が務めの祭壇座としては諫めねばならん。正直に言え)

 

 セージはしばらく考えた。やがて、「分かりません」と正直に答えた。

 

 弟子を贔屓せずに他の聖闘士と同じ死地へ送れるかと自問自答したことはある。できる。セージはそう結論を出した。今もその結論は覆っていない。

 

「マニゴルドは良い子です。口では何のかのと言いつつ、指示には素直に従ってくれます。きっと聖闘士になっても忠実に務めを果たしてくれるでしょう。死ねと命じれば死んでくれるでしょう。――私の命じるまま」

 

 彼は疲れた人のように顔を両手で覆った。

 

「あの者が力を付けていくのを見る度に、教えたことができるようになるのを見る度に、私は喜びと同時に恐れを覚えるのです。価値ある生を見せてやると言いつつ、悲願のために一人の子を犠牲にしているのではないかと」

 

 セージとハクレイの悲願。それは冥王の側近である死と眠りの双子を、聖戦という舞台から引きずり下ろすこと。

 

 死の神タナトスと眠りの神ヒュプノスは、俗世に伝わる神話では夜の息子として知られている。

 

 聖闘士の記録でも、古の時代よりハーデスの側近を務めてきたとされた。しかしその存在が注目されるようになったのは、セージたちの若い頃に起きた聖戦の後である。それまで冥王の戦いぶりを傍観していた謎の二柱の気紛れな参戦によって、アテナ軍は勝利を目前に瓦解した。

 

 最終的にはアテナの力で地上の覇権がハーデスに渡ることは防げたが、終戦を生きて迎えた聖闘士はあまりに少なかった。

 

 二柱の正体を掴んだ聖戦の生き残り――ハクレイとセージは、次の聖戦にも双子神が出てくるようなら女神軍の勝利は危ういと判断した。

 

 そこで神の正体を突き止めてからは、その魂を封じる方法を求め続けた。相手は神だから完全に滅ぼすことは難しい。ならばせめて聖戦に手出しできないようにしてやろうという計画を立て、準備に長い年月を費やしてきた。

 

 それは前聖戦を生き残った者の務めであり、先に死んでいった同朋への償いであり、数多の命を踏みにじっていった神への復讐でもあった。

 

 老いた兄弟にとって聖戦はまだ終わっていない。

 

 マニゴルドはそんなセージの宿願を果たす手伝いがしたいと言ってくれた。その気持ちが嬉しかったのは事実だ。曲がりなりにも積尸気冥界波を習得したと知った時には、宿敵を打ち倒す算段が付いたと胸が震えた。

 

 けれどふとした瞬間に抱く恐れがある。

 

 もしかしたら己に都合の良い駒が育つことを喜んでいるだけではないかと。

 

 それを聞くとハクレイは鼻で笑った。

 

(本人が判ってやっているのにおまえが悩む必要はなかろう。そも聖闘士は戦女神に拳を捧げる者。その代理人の指示に従って戦いに赴くのは当然のことじゃ。命令に忠実、大いに結構。何を悩む必要がある。これまで教皇の命じた任務で命を落とした者たちには何も思わなんだか。おまえが慈しむ命は己が弟子だけなのか)

 

 まさか、とセージは否定した。

 

「聖闘士は私にとって全て輝く星々です。マニゴルドの光が、その中で一番強いように私に見えるだけで」

 

(おまえに一番近い星だからの)

 

 ハクレイがふっと微笑んだような気がした。

 

(ならば割り切れ、セージ。聖戦のなかで斃れていく者がいるのは仕方がない。それでも最後まで生き残って次代に道を繋ぐ者もいる。かつてのわしらのようにな。少しでも生き残れる者を多くするのもわしらの務めぞ。そのために弟子を鍛えていると考えろ)

 

「指南したことのある聖闘士は皆同じような思いを抱えてきたのでしょうか。本当に教えるべき事はまだ何も教えてやれていない。そう不安になるのは私だけでしょうか」

 

 おそらく聖戦が近づいている時代でなければ。もしくは師弟の守護星座が異なれば。セージの苦悩はもっと軽かっただろう。マニゴルドもすんなり聖闘士になれたかも知れない。

 

 けれどその仮定は無意味だ。

 

(踏ん切りが付かん胸の内は判らんでもない。じゃがな、守護する星を明かさずにいても益はないぞ。おまえも覚えておろうが、わしの許にも積尸気使いがおったじゃろう。わしが言える立場ではないが、同じ事を繰り返しては兄弟揃って間抜けすぎると思わんか)

 

 かつてハクレイの弟子にも一人の積尸気使いがいた。ハクレイは自身の祭壇座の称号を譲ろうとしたが、蟹座を得るつもりだった本人はそれに納得できずに、真っ向から対立。結果、若者は師のハクレイと縁を切り、聖闘士になる道を捨てて姿を消した。

 

 いつまでも余計な期待を持たせるな、とハクレイは忠告する。セージもとりあえずは頷いた。

 

 兄弟の念話は終わろうとしていた。

 

 ところが最後にハクレイが思い出したように伝えてきた。

 

(おお、そうじゃ。先程のマニゴルドの守護星座の件な、おまえがわしに遠慮してのことなら、小僧はもらい請けようと思うておった。わしの弟子ならおまえも迷いはせんじゃろう)

 

 セージは絶句したあと苦笑した。まったく、兄には敵わない。

 

          ◇

 

 老兄弟が念話を交わしていた頃。精錬の片付けを終えたそれぞれの弟子二人――マニゴルドとシオンは、そのまま作業小屋で寝転がって休んでいた。

 

 マニゴルドはふと視線を感じて戸口のほうを見た。

 

 小さな子供が中を覗き込んでいる。ちょうど初めて出会った頃のシオンくらいの大きさだ。着ぶくれた衣の中に埋もれそうな様子もそっくりだった。

 

「おいシオン。おまえの弟が来てるぞ」

 

「弟なんて」と首だけ起こしたシオンは、現れた幼児を見て勢いよく身を起こした。「ユズリハ!」

 

 シオンは走っていき、その子供の前を塞いだ。ジャミールの言葉で、入っては駄目だと告げている。

 

「おいチビすけ。おまえも修復師になりたいのか?」

 

 マニゴルドが声を掛けても、幼い子供はぎゅっと口を引き結んでいる。代わりにシオンが答えた。

 

「ユズリハもハクレイ様の弟子になることが決まってるんだ。でもまだだめ。ハクレイ様が入っていいって言うまで来ちゃいけないんだよ」

 

 ユズリハと呼ばれた幼児は作業小屋に足を入れることはなかったが、敷居の向こう側にしゃがみこんだ。梃子でも動かないという意思表示なのだろう。なかなかに頑固そうな顔をしていた。

 

 どうしよう、とシオンは年長者に助けを求めた。

 

「しゃあねえな。お兄ちゃんが遊んでやるよ」

 

 言いながらマニゴルドはユズリハを肩車した。突然の高さに小さな子供は彼の頭にしがみついた。けれどその場でコマのように回ってやると、すぐに声を立てて笑い、喜んだ。シオンが羨ましそうに見ている。

 

「シオン。この後は何か作業することあるのか」

 

「ええっと、ハクレイ様に見てもらうだけ」

 

「じゃあそっちは任せる。行くぞチビすけ」

 

 小屋を離れるマニゴルドの背中に、「え、ずるい」と慌てる声が掛かった。次いで後ろから軽い突撃を受けた。軽くたたらを踏んで立ち止まる。腰にしがみついてきたシオンを意地悪い表情で振り返った。

 

「ちゃんと仕事しろよ。修復師だろ」

 

「ガマニオンがさめるのは明日だよ。一休みがおわったら手合わせしようねって言うつもりだったのに、マニゴルドのばか!」

 

「鍛冶仕事で疲れてるだろうに無茶するな。つうか弟に嫉妬するなんて可愛いところあるな、おまえ」

 

「ユズリハは弟じゃないし女の子だ。やくに立たない目玉なんかワシに食われちゃえ」

 

 脛を蹴られても、彼には「はいはい」と笑って返すだけの余裕があった。

 

 三人は小屋の前の開けた場所で遊び始めた。

 

 やがていつの間にか子供の頭数が増えていた。集落中の子供が集結したようだ。シオンもユズリハも他の子供たちに交じって楽しそうにしている。こうなるとお守りのマニゴルドは一緒に遊ぶより、一歩引いて見守っていたほうが楽だ。

 

 土壁に寄りかかって眺めていると、館のほうからハクレイに呼ばれた。所用とやらは終わったらしい。うるさいと叱られることを覚悟しながら渋々歩み寄った。

 

「なんだよ」

 

「ジャミールの地は好きか」

 

 いきなりの問いかけに少年は瞬きをした。前回の滞在の時には聞かれた覚えのない質問だ。

 

「飯も食わせてもらえるし、屋根のある所で寝させてもらえるし、何も文句はねえよ」

 

「わしがジャミールの長ゆえに弟子も血縁の者は多いが、外地から来た者も多い。おまえの存在を受け入れる態勢は整っていると思うが、おまえの目から見てどうじゃ」

 

「ああ、よそ者でも居心地悪い思いしたことはねえよ。言葉が通じにくいのはあるけど、こればっかりは仕方ねえもんな。それに聖域と違って女が仮面着けてなくていいよなあ」

 

「女は好きか」

 

「美人が好きだ」

 

 正直に答えると、老人は愉快そうに笑った。

 



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原石の憂鬱

 

 夜。眠りに落ちかけていたマニゴルドは、近づいてくる気配に静かに覚醒した。

 

 部屋に入ってきたのは一人。外で他に待ち伏せる者はなく、単独行動のようだ。殺気はない。そして気配を消す技量もない。足音こそ忍ばせているが呼吸が乱れている。素人だ。セージの寝首を掻こうとしていた頃の自分を思い出して、少年は恥ずかしくなった。

 

 戸を閉める音をきっかけに、マニゴルドは寝たふりを止めた。燈火と共に入ってきた者に目を向ける。年頃の娘である。ジャミールに滞在する間この部屋を貸してくれている一家の末娘だ。といっても彼よりは年上だった。

 

「なに。何か用?」

 

 声を潜めて尋ねる。

 

 娘はマニゴルドに目を向け、ひっそりと微笑んだ。そして彼に見せるように服を脱いだ。

 

 小さな火が娘の裸体を仄かに照らしだした。丸みを帯びた肢体と、そこへ落ちる微妙な陰影。息をする度に大きく上下する乳房をマニゴルドはまじまじと見つめた。それから柔らかそうな腹の下の、うっすらとした茂みを。

 

 その視線で自信を持ったのか、娘はマニゴルドの寝床へ滑り込んできた。年頃の少年としては惚れられたと思いたいところだ。けれど相手の態度があまりに潔すぎる。

 

「なんで俺なんだ」

 

 仮によそからの客をもてなす風習があったとしても、マニゴルドは客とは言いがたい。どちらかと言えば単なる居候である。彼がジャミールの言葉でなぜと問うと、娘は拙いギリシャ語で答えた。

 

「長からあなた強いと聞いた。強い男、好き」

 

「ヒグマの件か。俺じゃなくても聖闘士なら誰だってできる。修復する聖衣を持ちこむ奴だっているだろ。その度にこんな事してるのか」

 

 彼のギリシャ語をどこまで理解したのか、娘は宥めるように微笑んで「好き」と繰り返した。少年の硬い髪を指に絡めながら囁く。

 

「強い男の子供、きっと強い。母は偉い。強い戦士の母は、もっと偉い」

 

 まあいいや、とマニゴルドは温かな肌に手を伸ばす。「言っとくけど責任はとれねえからな」

 

「父になれば、あなたもジャミールの民。私の家に住め。長も認めた」

 

「は?」

 

 一気に頭が冷える。

 

 昼にハクレイからジャミールの暮らしはどうかと尋ねられたばかりだ。嫌でも連想する。

 

「もしかして、あのクソジジイがあんたを寄越したのか?」

 

 娘は首を傾げた。

 

 マニゴルドの中である図式が浮かんだ。もしジャミールの女に手を出したことが聖域に伝われば、彼が教皇の弟子に相応しくないという論調が復活する。そうなれば師も庇いきれなくなり、マニゴルドの身はハクレイの預かりとなる。そしてめでたくハクレイは弟子を一人獲得することになる。そんな図式だ。ただ懐柔を狙うよりも性質が悪い。

 

「悪りいなお姉ちゃん。今は相手できねえわ」

 

 彼は娘の滑らかな両肩を押しやった。娘は悲しげに何かを呟き、マニゴルドのその気になりかけていた部分を見やった。

 

「こっちはいいから。とにかく帰って。ごめん」

 

 床に脱ぎ捨てられていた服を押しつけて、戸を示す。態度の豹変した少年を繋ぎ止めようと手足が絡みついてきたが、それも押し戻した。太股を触った時には強烈に惜しい気はしたが、ここで敵の手に乗るわけにはいかない。

 

「ごめんな」

 

 再三謝るとようやく娘は服を着た。けれど部屋を出ていく様子はなかった。

 

 仕方なくマニゴルドのほうが部屋を出ることにした。

 

 その足で彼は長老の館に乗り込んだ。戸に鍵は掛かっていなかったが、もし戸締まりされていても破るつもりだった。敵の懐に入ったのは彼なりの考えだった。娘の行動がハクレイの差し金だったとしても、さすがにここまでは遠慮して追って来ないはずだ。

 

 物音で目覚めた館の主が出てきた。マニゴルドの抗議に、ハクレイは心外だとばかりに顔をしかめた。

 

「わしは罠なぞ仕掛けとらんぞ。ジャミールの女は強い男が好きじゃ。妙な勘繰りなどせんと抱けば良かったものを。それともあの娘が好みではなかったか?」

 

「そういうことじゃねえ。族長のあんたにゃ悪いが、俺はさっさと聖域に帰りたいんだよ。その場っきりで終わる商売女ならともかく、堅気の娘を押しつけるな」

 

「入り婿も悪くないと思うがの」

 

 やれやれと老人は首を振った。

 

 それでも長老の館からは追い出されずに済んだ。これで夜這いの問題は片付いたとマニゴルドは安心した。

 

 しかし早合点だった。次の夜は別の娘が部屋にやってきて、少年はやむを得ず梁の上に撤退した。

 

 翌朝ハクレイを睨むと、老人は素知らぬ顔でそっぽを向いた。

 

 そこへシオンが朝の挨拶に入ってきた。マニゴルドは口を閉ざした。子供に聞かせる話ではない。

 

「おはようございます、ハクレイ様」

 

「うむ」

 

 シオンはマニゴルドに、精錬したガマニオンが冷えたから見るかと他人行儀に尋ねた。

 

 ハクレイの耳がない場所に来てから、マニゴルドは子供の肩を小突いた。

 

「今朝はずいぶんと澄ましてるな」

 

「しっかりしてないと怒られる。ハクレイ様は師弟のれいぎにきびしいんだ」

 

「へえ」

 

 マニゴルドは顎を撫でた。自分たちとは大違いだ。

 

 彼は今更セージに対して畏まった態度を取る気が起きない。師のほうも周囲から苦言されているだろうに、一向に弟子の態度を改めさせようとしない。

 

「まあ、師弟も色々だよな」

 

「なんで笑ってるの」とシオンに袖を引っ張られた。

 

「なんでもねえよ」と彼は流した。

 

 作業小屋には誰もいなかった。修復を待つ聖衣が朝日を照り返して光っているだけだ。

 

 冷却を終えた鉱物が灰の山から取り出された。表面に灰を被っていることを差し引いても、ただの鉄の塊にしか見えなかった。

 

「見て」

 

とシオンは棒状に固まった一本を手に取り、ボロ切れで表面をゴシゴシと拭った。やがて粗く磨かれたそこだけが、淡い銀色の光を放ち始めた。

 

「星の光には遠いな」

 

 だが石ころと呼ぶには輝きが強い。

 

 シオンが頬を膨らませた。

 

「ちゃんとみがけばそこの聖衣みたいに光るよ」

 

「人間もそうだったらいいのになあ」

 

 子供はボロ切れをマニゴルドの顔に近づけた。目が真剣である。放っておくと本気で顔を拭かれそうなので「止めろ」と彼は子供を抱き止めた。

 

 日が沈んだ後、マニゴルドは鉱床で拾った最初の原石を取り出した。囲炉裏の明かりに照らして見ても、やはりただの石だ。火に投げ入れても黒く黙っている。

 

 部屋に入ってきたハクレイが炉の前の主人の席に腰を下ろした。すぐに石がくべられていることに気づき「危ないじゃろうが」と素手で取り出す。

 

「おや、ガマニオンか」

 

 老人はマニゴルドの膝の前に石を置いた。

 

「こんな普通の火では熱が足りんよ。もっと高い温度で燃やす。そうして初めて石ころは価値ある金属に生まれ変わる」

 

「ふうん」

 

「修復のために聖衣を持ちこむ聖闘士は多い。なのに実際の作業まで見る奴はめったにない。自分の身を守り、導いてくれる聖具のことくらい、もっと知っておくべきじゃて。体を鍛えるばかりが修行ではない。セージの奴も……」

 

 ハクレイは何かを言いかけて、話題を変えた。

 

「……ところでおまえは作業場の炉の中に何を見た」

 

 とろ火を見つめたまま、少年は答えた。

 

「星が燃えるところ」

 

 正確にはマニゴルドが思い出したのは、初めて小宇宙を燃やした時のことだ。体内の炉をふつふつと燃やして、煌めく星の名残を胸から掬いあげた、あの夜明け。

 

「でも俺は石ころのまんまだ。星になんて届かない。塵芥だ」

 

 冗談めかして言ったのに、ハクレイはにこりともしなかった。

 

「おまえはまだ温度が低いんじゃろう。不純物が落ちないまま燻っておるのもきっとそのせいじゃ。もっと小宇宙を燃やせ。燃やし尽くしたと思ったその先に、きっと手にするものもある」

 

「第七感?」

 

 それに対してハクレイは直言を避けた。

 

「さて、な。おまえの望む聖衣かも知れんぞ」

 

 それからもマニゴルドは昼は肉体労働をこなし、夜は迫り来る女たちから逃げ回ることとなった。

 

 老人が諦めるのが先か、少年が落ちるのが先か。

 

 そんな勝負に付き合ってはいられない。

 

 マニゴルドは覚えたばかりの念話でギリシャの師に泣き付いた。ジャミールの里に己の安眠できる場所はない、もう帰りたい。そう必死に訴える弟子の言葉をどう思ったか、セージは少し早めの帰還を許した。

 

 帰り際、ジャミールの長に別れの挨拶をすると、恩知らずな奴だと散々にこきおろされた。

 

「耄碌したかジジイ。世話にはなったけど恩知らずと言われるほどのことはしてねえぞ」

 

「黙れ悪たれ。おまえの将来を思って手を尽くしてやったのに、そんなにセージがいいか」

 

「女を使うことのどこが手を尽くしたことになるんだよ」

 

「聖域では自由に抱けんじゃろう。まあ小童には少しだけ早かったか」

 

 ハクレイは「セージによろしく」と言った後、思いついたように付け加えた。「帰ったらセージと語ってみるといい。あやつの持つ聖衣についてな」

 

「なんでだよ。俺には関係ないのに」

 

「まあそう言うな。あちらからは返す、こちらからは要らんと、まるで望まれない継子のようで可哀相じゃ」

 

 何の話だ、とマニゴルドは眉をひそめた。

 

 聞き直そうとしたら、シオンに服の裾を引っ張られて邪魔された。半泣きの表情だ。

 

「なんでもうかえるの。もっと聖域の話してくれるって言ったのに」

 

 懐かれてマニゴルドも悪い気はしなかった。弟分のような子供の頬を軽く拭ってやる。

 

「俺にも色々あんだよ。おまえが聖域に来い」

 

 シオンは目を輝かせて己の師を振り返った。けれどすげなく却下されて項垂れた。

 

「わしの弟子として表に出すには、まだまだ修行不足じゃ。悪たれも余計なことを吹き込むな」

 

「へえへえ」

 

 それじゃ、と軽く挨拶して、彼は世界を渡った。

 

          ◇

 

 聖域に戻ってすぐに師のところへ顔を出したが、セージは素っ気なかった。それどころか弟子の不在は小一時間程度だったかのような態度で、茶を淹れろと命じてきた。マニゴルドも気にしない。忙しい人だから弟子がいてもいなくても同じだろうと思っている。

 

 むしろ、そのあと麓で顔を合わせた友人に驚かれて、大袈裟だと感じたほどだ。

 

「マニゴルドじゃないか。もう終わったのかよ」

 

「何が」

 

 意味が分からず、彼は瞬きした。候補生仲間はその肩を叩き、荒っぽく祝った。

 

「とぼけるなよ。まずはおめでとう」

 

「だから何がだよ」

 

 そこで改めて聞いてみると、マニゴルドがジャミールに行ったことは、聖闘士になるための最後の試練として伝わっていたようだ。友人の反応は、それが帰ってきたからには称号を得たに違いないという、候補生ならではの思い込みによる。

 

「俺そんなこと言った覚えないぜ」

 

「だってジャミールだぞ。黄金聖闘士も裸足で逃げ出す凄い人がいるって言うじゃないか。あ、その人に負けて帰ってきたんだったら残念だったな。次の機会に頑張れよ」

 

 ハクレイに負けたのは事実でも、それが聖衣獲得の試練という事実はない。見当違いの応援にマニゴルドは苦笑した。

 

「まだ何座の候補なのかも聞いてねえよ」

 

「またまた。いい加減その嘘は聞き飽きた」

 

「じゃあ麒麟座で」

 

「ふざけんな俺の目指してる称号だぞ、それ」

 

 肩口を小突かれ、笑った。マニゴルドも分かって言っている。

 

「あ、マニゴルドだ」

 

「本当だ。何座になったんだ? 聖衣見せろよ」

 

 他の友人たちも集まり、また一から誤解を解く羽目になった。

 

 そのまま皆で談笑していると、背後から「隙あり!」と声がした。

 

 マニゴルドは真横に身を引いて跳び蹴りを躱した。子供の足が突っ込んできた。その持ち主の肩を掴んでねじ伏せる。

 

 一声叫んで潰れたカルディアは、彼を睨みあげた。傍若無人な表情が途端に変わった。

 

「なんでいるんだよ」

 

 間違えた。明らかにそう顔に書いてあった。

 

 人違いで襲われては堪らない。マニゴルドは子供を小突いた。

 

「クソガキ、どういうつもりだ。闘技場外での組み手は受け付けてねえぞ。やるんだったら特別料金だ」

 

「それなら拳をくれてやる。って言ってもいいけど、おまえなんかに用はねえ」

 

「じゃあこいつらの中の誰に用だ。誰に奇襲するつもりだった」

 

「うるせえなあ。誰でも良かったんだよ。おまえじゃなきゃ」

 

 二人の応酬を皆ニヤニヤと傍観している。子供がマニゴルドの背後に近づいてくる間も、そうして笑っていた連中だった。

 

「おいカルディア」と一人が子供に声を掛けた。「マニゴルドはおまえの餌食になったことのない候補生だぞ。相手してもらったらどうだ」

 

「こいつはいやだ!」

 

 そう吐き捨てて子供は走り去っていった。

 

「なんだあいつ」とマニゴルドは通り魔を見送った。

 

「カルディアだよ」

 

「それは知ってるけど」

 

「掟知らずの狂犬さ」

 

 友人たちは教えてくれた。

 

 候補生カルディアは、集団での基礎訓練には姿を現さないのだという。一方で、体力のないうちから場所も相手も構わず喧嘩を売っていたそうだ。聖域では闘技場以外での争いは私闘とされ、処罰の対象とされることもある。それを気にせずカルディアは奇襲紛いのことを仕掛ける。大抵は相手のほうが強いので、呆気なく負ける。むしろ格上の者にこそ挑んでは返り討ちに遭う。それを繰り返しながら力を付けている最中だという。

 

 へえ、とマニゴルドは熱のない相槌を打った。

 

「場所を弁えないのは良くねえけど、実践派ってやつじゃねえの」

 

 彼の言葉に友人たちは口々に反論した。

 

「馬鹿言え。夜寝てる時に喧嘩吹っかけられてみろ。鬱陶しくて仕方ない」

 

「あと便所に入ってる時な。あれ本当に止めてほしい」

 

「同じようにやり返すと怒られるのはこっちだもんな。年季が長いからってさあ。納得いかないよ」

 

「そもそもあいつ、人の言うこと聞かないから。先生がいくら注意しても『好きなようにやる』って言い張るし、当番の仕事もやらない」

 

 次々に飛び出すカルディアへの不満に、マニゴルドは口を挟んだ。

 

「でもそんな奴なら、新入り苛めで潰されそうなもんなのに」

 

「標的にはなった」

 

 目障りで聞き分けのない新入りということで、仕返しや宿舎でのいびりも陰湿なものになったそうだ。ところが勘と要領が良いのか、カルディアはうまく立ち回ってそれを凌いでいるという。それどころか過激な仕返しに出るので、今では積極的に近づく者はいないという。

 

 それを良いことに、カルディアはますます奔放に振る舞っている。

 

「ふてぶてしい奴だよ。あいつ絶対おまえに興味示すと思ったんだけどな」

 

「なんでだよ」とマニゴルドは首を捻る。

 

「同じ問題児同士、惹かれ合うものがあるんじゃないかと」

 

「あって堪るか」

 

 同類扱いとは心外である。カルディアと違って他の候補生に大した迷惑は掛けていないし、どんな集団にも掟があることは理解している。少なくともマニゴルド本人はそのつもりだった。

 

 憤然とした彼を見て、友人たちは笑った。

 

 別の日、彼は宿舎が並ぶ付近を歩いていた。

 

 向こうから勢いよく走ってくる者がいたので、なんとなくそちらを見る。カルディアだった。先方でもマニゴルドに気づいて、さっと建物の陰に入った。

 

 一瞬置いて、喚く声が聞こえた。

 

 露骨に避けられたことはどうでもいいが、誰かとぶつかったらしいと察してマニゴルドは冷笑した。現場に向かう。

 

 すると地面のそこかしこにパンが転がっていた。呆然と立ち尽くす二人の子供と、引っ繰り返った大きな籠。そして二人に罵倒を浴びせて走り去るカルディアの後ろ姿。

 

「あーあ。ぶつかってそのまま行っちまったのか」

 

 幼い候補生たちは年長者の登場に安心し、泣きそうな顔になった。シオンより僅かに年上なくらいだろう。

 

 マニゴルドは横倒しになっている籠を置き直した。それから何をしていたのかと尋ねた。

 

 子供たちのたどたどしい説明によれば、聖闘士たちの寝起きする宿舎で前日から竈が壊れているので、そちらの食事もまとめて用意して、出来上がった物から運ぶことになっていたという。地面に落ちたのは、その日の夕食の分だった。

 

「なるほど。こっちの宿舎の分は別に確保してあるんだろうな。ならそっちを聖闘士用に回せ。で、候補生連中には地面に落ちたほうを食ってもらえ。死にゃあしねえ。ほら、おまえらもぼうっとしてないで拾え。土ちゃんと払えば大丈夫だから」

 

 十八世紀当時の衛生概念は現代とは違う。加えて、大勢の分を用意し直すには時間が足らず、材料の損失も大きすぎるとマニゴルドは計算した。

 

「で、でも作ってくれる人にはなんて言えば……」

 

 大人に叱られるのが何より怖い年頃である。

 

「あー。じゃあそっちは俺が説明するから、おまえらは落とした分を拾ってろ。ただし候補生の皆に理由を話して謝るのは、ちゃんと自分たちでやれよ。そこまで付き合ってやらねえからな」

 

「ありがとうございます」

 

 幼い子供たちは声を揃えて礼を述べた。

 

 カルディアが彼らにぶつかった遠因が自分にあるとはいえ、少々甘いか。頭をがりがりと掻きながらマニゴルドは厨房に向かった。

 

 炊事係にしても、またパンを焼き直すのは手間だし、材料の無駄遣いだと神官からいびられるのは避けたいところだ。手短に事情を説明したら、すぐに了承を得られた。

 

 宿舎から出ると、声が聞こえた。

 

「ふざけんなよ! 地面に落ちた物なんか食わせんな!」

 

 逃げたはずのカルディアが戻ってきていた。「土の付いた物を洗いもしないで食うなんて汚いだろうが」

 

「パンを洗ったらふやけちゃうよ」と年少者が恐る恐る言い返す。

 

「当ったり前だ。だから食わねえって言ってんの! 床に落ちた物なんか召使いに片付けさせるもんだ。いいから捨てろ。そんなの食ったら腹壊す」

 

 籠が蹴られ、再びパンが散乱した、一つが踏みにじられた。

 

「なんだよその眼は。言いたいことあるなら言えよ。告げ口したきゃしてこいよ。俺は全然平気だけどな」

 

とカルディアはせせら笑った。

 

 マニゴルドは一度目を閉じた。そして静かに見据えた。三人のもとへ近づく。

 

 カルディアは彼が現れたことに気づくと、急いで身を翻した。それを捕まえて、相手の顔が地面に付くほど低く頭を押さえつけた。その鼻先には転がったパンがある。

 

「なんだよ放せよ」とカルディアは喚いた。

 

「拾え」

 

「やだね!」

 

 マニゴルドは掴んだ頭を地面に押し込んだ。痛い、と悲鳴が上がった。

 

「これでおまえも地面に落ちた物だな。食ったら絶対腹壊すから、捨てていいよな」

 

「ふざけんな。俺は食い物じゃない」カルディアは頭の上から腕を引き剥がそうと暴れた。それでもマニゴルドが離さなかったので、ふて腐れて呟く。「なんでおまえが怒るんだよ」

 

「てめえが食わねえのはてめえの勝手だ。けど食い物を粗末にする奴は許せねえ」

 

 安い日銭のために朝から晩まで働いてすり減っていくだけの者たちを、マニゴルドは知っている。体を壊して仕事にありつけず、安宿からも追い出される者たちを知っている。病を隠しながら夜ごと街角に立つ女たちを知っている。親を失い、いつも腐った匂いのする下水道でどぶ鼠と住まいを分け合う幼い者たちを知っている。

 

 そして糧を得るためなら人を殺めることも厭わなかった者を知っている。

 

「そのパンだって、勝手に空から降ってくるわけじゃねえぞ。どこかの百姓が育てた小麦を、聖闘士の稼いでくる金で買って、雑兵が聖域に運んできて、炊事のおっさんが捏ねて焼いてるんだぜ。それを簡単に捨てろとか、いいとこの坊ちゃんなんだろうな」

 

 喋っている間に人が集まってきた。面白がっている野次馬たちを見て、急に馬鹿馬鹿しくなった。掴んでいた頭を突き放す。

 

「まあどうでもいいや。拾え」

 

 カルディアは振り向いて睨んできた。それから顔を背け、黙ってパンを拾った。

 

 周囲の野次馬がざわついた。

 

 命じた本人にも意外だった。どうせそのまま逃走を図るだろうと予想していたのだ。しかし落ち着き払って声を掛けた。

 

「全部拾ったら土は払い落とせよ」

 

 カルディアはのろのろと言われた通りに動いた。行動が鈍いのはせめてもの抵抗だろう。作業を見張る間に、マニゴルドは幼い候補生たちに本来の仕事を終えるように促した。二人は素直に宿舎に駈けていった。

 

「あいつらだって悪いのに」

 

 自分だけ作業をさせられることにカルディアが不平を鳴らした。

 

「もう忘れたか。おまえは同じ事を二回やったんだぜ。一回目はおまえだけのせいじゃないと思ったから、俺たちで片付けた。でも二回目は違うよな。今やらせてるのは二回目の後始末だ」

 

 けっ、と吐き捨てるカルディアの尻を蹴飛ばした。

 

「おう坊ちゃん、まだ解ってねえな。後で宿舎の皆に謝るのもおまえがやるんだぞ。皆の飯を台無しにして済みませんでしたってな。泣き真似か体調が悪くなるふりするつもりなら、今のうちに練習しとけ」

 

「誰がそんな同情引くふりするかよ」

 

 野次馬たちはなおもざわめいている。彼らの囁き声がマニゴルドにも届いた。

 

「……あのカルディアが人の言うことに従うなんて」「しかもそれがマニゴルド……」「年下を叱るようになるとはなあ。聖域一の悪童もまともになって」「掟知らずの狂犬も指導次第では大人しくなるかな……」

 

 なにやらしみじみした雰囲気に、少年は居心地が悪くなった。説教をする柄ではないことは自覚している。作業を終えた後輩を引っ張って、早々にその場を立ち去った。

 

 そしてその夜の夕食の場で、同じ宿舎の者たちへ謝らせた。カルディアはふて腐れていたが、それでも詫びるところをみせた。

 

 これまで散々に掟知らずの狂犬に悩まされてきた一同は驚き、腕を組んで睨みを利かせているマニゴルドのほうを窺った。

 

 しかし彼は狂犬の飼い主ではない。軽く肩を竦めると、食堂から出て行った。後ろから「バーカ、もう来るな」というカルディアの罵倒が聞こえても無視した。関わりあいたくないのはお互い様だ。

 

 外にはカルディアの指導役がいた。少年の目が険しくなる。

 

「おいあんた。なに他人事みてえな面で突っ立ってるんだよ。あいつはあんたの弟子だろうが」

 

「済まない。師匠といっても私は名ばかりで、何を言ってもあの子の耳には届かないんだ。他の者でも駄目だった。きみが厳しく叱ってくれて助かった。あの子もきっときみを好いているから言うことを聞き入れたのだろう。これからもよろしく頼む」

 

「冗談じゃねえ」

 

 二重の意味で頷けなかった。

 

 カルディアは彼に好感情を持っているから指示に従ったわけではない。彼の怒りに怯んだのでもない。忌み嫌う「死に神」を早く遠ざけるには、逆らうのは得策ではないと気づいただけだ。

 

 マニゴルドも厄介な後輩の面倒など見たくない。だから頼まれようとも自分から積極的に関わるつもりはなかった。

 

 

 ――けれど事件は起きた。

 

 ある日、「死に神」の指がカルディアに向けられた。

 

 何のために、と問われればマニゴルドは躊躇いもなく答えただろう。

 

 無論、殺すためである。

 



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 紙をめくる度に、ぱらり、ぱらりと音がする。

 

「なんでこんな大昔の書き損じが混じってるんだよ……。ああ、やだやだ、物を捨てられない年寄りは」

 

 マニゴルドは生欠伸を噛み殺しながら古い文書の整理をしていた。主不在の教皇の執務室で一人、修行もせずに何をしているのかと我ながら疑問に思う。

 

 しかし師の言いつけだから仕方ない。セージにとって弟子は一番手近な雑用なのだろう。何かと用を言いつけられる。

 

 お陰で教皇の従者を務める老人には「いっそのこと従者座になっちまいな」とからかわれる始末だ。曰く、馭者座の聖闘士がいるのだから従者座がいてもいいだろう、とのこと。言うまでもなく、そんな星座も聖闘士の称号も存在しない。

 

 一通りの作業を終え、不要な文書をまとめて書庫に運ぼうと腕に抱えた。その時、机上にある報告書に気がついた。まだ片付けられない新しいものだが、なんとなく文面に目を通す。

 

 小さな罵りが唇から零れた。

 

 彼は文書の山をその場に残して部屋を出た。折良く用人を見つけたので呼び止める。

 

「あのさ、教皇宮で一番高い酒を出してくれねえか」

 

「それは猊下のご指示ですか。格式の高い物ではなくて値段の高い物と指定されたのですか」

 

「ええ? 他言無用である詮索するな。ってお師匠が。きっと公のほうの話だろうから、俺やあんたが首突っ込むことじゃねえよ。でもすぐ持って来いっていうから、急ぎで頼む」

 

 教皇宮で酒類の管理をしているのは用人である。男は少年を貯蔵庫の外で待たせてワインを出してきた。

 

「お待たせしました。これは普段お出ししているギリシャ産ではなくフランス産、樽で買い付けてきたシャトー・ラトゥールの――」

 

「何でも良いよ」と少年は酒瓶に飛びついた。

 

「杯は何脚お持ちしますか」

 

「要らねえ。じゃあこれ持ってくわ。ありがとな」

 

 マニゴルドは用人と別れて廊下の角を曲がり、人目が無くなったところで黄泉比良坂へ飛んだ。若い積尸気使いの姿が消えたことを知る者はいない。

 

 ワインを片手に黒い坂道を駆け上る。

 

 坂の先には何もない。ただ巨大な穴が待ち構えているばかりだ。その淵で彼は立ち止まる。左右からは亡者が続々と身を投げていった。

 

 盗み読みした報告書が少年をここまで駆り立てた。

 

 大西洋沿岸に駐在している雑兵たちが、嵐で難破した船の乗員と乗客を救ったという報告だった。なんでも、助けた乗客の中に某国の有力な銀行家がいて、命の恩人である雑兵とは個人的なつながりができたそうだ。

 

 しかしマニゴルドにとって重要なのはそこではなかった。救助活動の中で一人の雑兵が命を落としたという。報告によればその者は救助に出した舟から離れた海面に人影を見つけ、泳いで助けに向かった。そして溺れている者の所に辿り着き、そのまま波間に消えた。

 

 数日後に遺体が上がったその雑兵の名はユスフ。

 

 マニゴルドの修行仲間だった。

 

「飛魚座の候補だった奴がなんで溺れ死ぬんだよ。馬鹿じゃねえの」

 

 少年は声を上げて笑った。

 

 笑いながら酒瓶の栓を抜いた。一気に煽って一気に吐き出しそうになる。どうにか飲み込んだが口の中が渋くて仕方ない。

 

「くっそ不味い。なんだよこれ。騙された。一番上等な酒って言ったのに全然美味くねえ。インクみてえ」

 

 単に飲み慣れていない者の口に合わなかっただけである。そうと知らない少年は、悪態を吐きながらワインを大穴に撒いた。

 

 ユスフが聖衣を得たら祝杯に飲もうと約束した酒だ。

 

 底の見えない深淵にワインはただ虚しく吸い込まれていった。最後の一口を呑んで、空になった瓶を穴に投げつけた。それもまた手応えなく闇に消えた。

 

 口元を拭い、少年は呟く。

 

「……馬っ鹿じゃねえの」

 

 称号はなくても人を守るために動き、その結果溺れ死んだ。人としては尊い自己犠牲かもしれない。

 

 けれど聖域にとっては一人の雑兵が減った。それだけのことだ。

 

 深淵に佇む彼の両脇を、亡者たちが落ちていく。落ちるために坂を上がってくる。

 

 彼は亡者の群に友人を捜さなかったし、大穴に向かって名を呼びかけることもしなかった。それをするには遅すぎることを知っていた。

 

 

 現世に戻ったマニゴルドは文書を片付けてから闘技場へ向かった。ちょうど一人で修行していた友人を見かけたので、隅に呼び出した。

 

「なんだよマニゴルド。なんか酒臭いぞ。祝い事でもあったか?」

 

「そうじゃねえけど……」

 

 マニゴルドは口を濁した。

 

 ユスフと親しかった者に彼の死を伝えよう。そう思って出てきたのに、いざとなると余計なことのような気がしてきた。

 

「マティはユスフが今どうしてるか知ってるか?」

 

「最後の試練にしては長いよな。未だに戻ってこないってことは、聖衣は貰えなかったんじゃないか。俺のほうには何の音沙汰もないよ。元々あいつ手紙書くような奴じゃないからな」

 

「……だよなあ」

 

 想像通りの言葉。マニゴルドは俯き、地面を蹴る真似をした。

 

 普通の候補生に、一介の雑兵になった者の動向が伝えられるわけはない。友が雑兵になったことも、命を落としたことも、マニゴルドが教皇宮で報告書を盗み見て知ったことだ。訃報をわざわざ伝えるのは余計なことかも知れない。少なくとも修行に精を出すべき時期の者には、伝えないほうがいいだろう。そんな気がしてきた。

 

 何も知らない相手は不思議そうに彼を見やった。

 

「もしかしたら聖衣貰ってそのまま任務に行ったのかも知れないし、気にしなくていいんじゃないか。それで話ってなんだ。ユスフのことでいいのか」

 

「ん、ああ。そう。気になってたからさ」

 

 言い繕って、マニゴルドはよそを向いた。

 

 するとちょうど候補生用の宿舎に入る、双子座のアスプロスの姿が見えた。

 

 その視線を追って友人は言った。

 

「あそこはカルディアの部屋だ。あんな奴放っておいていいのに」

 

 それにはマニゴルドも同感だが、何があったのか一応聞いてみた。

 

「熱出したって指導役が言ってた。あのガキを池に突き落とした奴がいたから当てつけだろうよ」

 

 マティの声に同情の色は無い。それくらいで熱を出す奴に候補生は務まらないと突き放していた。

 

 マニゴルドは、あ、と手を打った。

 

「俺もそれやられて風邪引きかけたことあったわ」

 

「おまえもかよ。風邪なんて引きそうにないのに」

 

「馬鹿って言いてえのか、こら」

 

 まだ新入りで、ギリシャ語が分からなかった頃の話である。池はそれほど深くなかったが、上がってからがマニゴルドにとって大変だった。普通の候補生なら宿舎まで少し歩けば着替えられる。しかし彼の住まいは山の上。水気を含んだ服のまま風の抜ける山を登る羽目になった。誰かに拭く物や着替えを借りるという発想はなかった。誰が敵で誰が味方か、まだ見定めていなかったからだ。

 

 お陰で教皇宮に着いた時は死人のように体が冷えてしまった。血相を変えたセージにすぐに風呂へ投げこまれた。教皇宮には教皇の沐浴に使われる大きな浴場がある。そこで体を温めさせるつもりだったのだろう。ところが湯を沸かす前だったので、マニゴルドは再び冷水に落ちるはめになった。

 

 酷い仕打ちだと当時は憤ったものだが、今となっては笑い話だ。湯気の有無にも気づかないほどセージも慌てていたのだから。

 

 閑話休題。

 

「アスプロス様は下の者にお優しいから、きっとカルディアの具合を心配されて見舞われるんだろう」

 

「へえ。それはそれは」外面の良いことで。

 

 内心そう呟きながらマニゴルドは顎を撫でた。その様子を見て友人は、気になるなら見に行ってはどうかと勧めてきた。

 

「ついでに看病でもしてやれば」

 

「やだよ面倒臭せえ」

 

 食事の件で謝らせてからというもの、どうも周囲はマニゴルドを猛獣係として見たがるようになった。

 

 たとえば、大変だから来てくれと血相を変えた知人に呼ばれて行ってみれば、カルディアがスターヒルに登ろうとしている。候補生たちは自分も禁を犯す勇気はないのか麓で騒ぐばかりだし、聖闘士はまだ到着しない。マニゴルドが麓から声を掛けると、カルディアは顔色を変えて崖にへばりつく。仕方ないのでそこまで登って引き下ろしてくる。周囲は喝采する。

 

 下りてきたら牡牛座のハスガードもその場にいて、素知らぬ顔で拍手している。なぜ傍観しているのか問い詰めたら、「黄金聖闘士は聖戦のような非常事態でなければ動かない」とほざく。動きたくないだけだろうとマニゴルドはその向こう脛を蹴る。その間にカルディアは遁走している。

 

 ある時は、道を歩いていたらいきなり雑兵から感謝される。聞けば、寸前までしつこく絡んできたカルディアが、マニゴルドが現れた途端に退散してくれたという。「おまえが睨みを利かせてくれたからだ」と言われたが、そもそもマニゴルドはカルディアの姿を見ていないので、感謝される謂われはない。

 

 それが元となり、カルディアに襲われた時には「あっ、マニゴルド!」と叫んで相手が怯んだ隙に逃げ出せば良いという噂が広まった時には、どうしたものかとマニゴルドは考え込んだ。魔除けの呪文扱いされるとは思わなかったが、それより、免罪符よろしく名前使用料を稼げないかと思ったのである。結局その案は現実的でなかったので諦めた。

 

 実際、この魔除けの呪文は効果があったらしい。何を考えたのかカルディアが宿舎の各室の戸を夜中に叩いて回ることが続いた。その度に寝ていた者たちは起こされる。名ばかりの指導者が何を言っても止まらなかったその習慣は、「マニゴルドを呼ぶぞ!」という誰かの一声で、ぴたりと収まった。マニゴルド本人がそのことを知るのは数日後。

 

 万事がそんな調子だった。

 

 カルディアがマニゴルドを恐れるのは、同じ問題児の嗅覚がなせる業だろうと周囲は言う。

 

 しかし周囲は誤解していた。「掟知らずの狂犬」が「聖域一の悪童」に対してだけ大人しいのは、なにもマニゴルド本人に思うところがあるからではない。あくまでもマニゴルドに染みついている死の気配を嫌ってのことだった。

 

 それを知っているのは当人たちだけだ。

 

 無理にでも仲良くしたい相手ではなかったから、マニゴルドもカルディアには近づかないようにしている。病気で臥せっているからといって、その姿勢を変える気はない。

 

 部屋の内側から戸が開いた。アスプロスと一人の聖闘士が出てきた。二人は立ち話している候補生たちに目を付けた。

 

「マニゴルド。ちょうど良いところに」

 

 マティは修行に戻ると言い訳して逃げ去った。マニゴルドもそうしたかったが、名を呼ばれてしまったので仕方なくその場に残った。

 

「済まないが、私がいない間、中の子を見ていてやってくれないか」

 

とカルディアの指導役である聖闘士が言った。横でアスプロスは愁いを含んだ顔をしている。

 

 マニゴルドは即座に断った。

 

「いや、俺、病人の看病とかしたことねえし。それに伝染病だったら、俺から教皇に移しちまうかも知れない。他の奴に頼んでくれ」

 

「移るような病ではないんだ。小宇宙に目覚めた途端に熱を出したから、おそらく制御に失敗したせいだと思う。その事でこれから上に相談しに行く、その間だけで良いんだ」

 

「たかが一候補生のために教皇に相談? あんたも聖闘士なら自分で判断しろよ」

 

 聖闘士は言葉に詰まった。代わりにアスプロスが重い口を開いた。

 

「カルディアは蠍座《スコーピオン》の候補だ。水瓶座の長老に見出されて聖域入りした経緯もあるし、今の症状はどうも特殊なものに思える。相談されて様子を見たが、俺では手当てできない」

 

「そんなの、俺の手にも負えねえよ」

 

「何もしなくていい。というより私たちにも何もできないんだ。異変が起きたら知らせてくれればいい。これから猊下に目通りを願いに行ってくるから」

 

 頼むぞ、と念を押すと聖闘士は足早に十二宮へ向かった。アスプロスも同行するのは、黄金位がいたほうが面会が叶いやすいからだろう。

 

「俺は便利屋じゃねえっての……」

 

 数秒を右往左往に費やした後、彼は部屋に入った。締め切った部屋は生暖かかった。

 

 カルディアは寝台にいた。胸を押さえて浅い呼吸を繰り返している。

 

 子供は横たわったまま彼を見ていた。目にははっきりと拒絶の色。それを感じとってマニゴルドは口の端を引き上げた。

 

「死に神が迎えに来たと思ったか?」

 

 彼は狭い部屋を横切り、苦しむカルディアを見下ろした。

 

「痛むのは胸か。治ったんじゃねえのかよ」

 

「小宇宙、燃やすと熱で、苦しくなる。……すこし」

 

 少しというのが虚勢であるのは明らかだった。

 

 小宇宙に目覚めたのはいいが、それが原因で具合が悪くなってしまっては元も子もない。小宇宙とは生きる力の根源であるはずなのに。

 

「そんな目で、見るな。俺、は、ずっとこの心臓と……付き合ってきた。これからだって……生きてる限り、ずっと」

 

「おまえ、蠍座の候補なんだってな」

 

「らしいけど、どうでも……」いい、という言葉尻は空気を僅かに揺らしただけだった。

 

「そうだな。どうでもいい」

 

 マニゴルドは寝台の端に腰を下ろした。

 

 蠍座は黄道十二星座の一つだ。聖闘士にとっては黄金聖闘士、十二宮八番目の天蝎宮を守護する者の称号でもある。

 

 熱に苦しむ子供が担える大役とは思えなかった。

 

 たとえ今の症状を乗り越えて蠍座の聖衣を得ても、遠くない将来には聖戦が起きると言われている。戦場では聖闘士の格を問わず大勢が散るだろう。まして単身で女神軍の主戦力となる黄金聖闘士には、敵に背を向けることは許されない。

 

 聖衣を得ないまま終わったところで、平穏に暮らせるとは限らない。飛魚座の候補だった若者は名もなき雑兵として生を終えた。

 

 そこに至る道は様々であれ、人は死ぬ。

 

「苦しいか」

 

 尋ねれば小さな首肯。

 

 マニゴルドはカルディアの上に身を屈めた。初めてこの子供に対して優しい気持ちになれた。

 

「苦しいのが嫌なら俺に任せろ」

 

 ――楽にしてやる。

 

 子供は目を見開いた。

 

「生きて、たい」

 

「そんな苦しい生にしがみついてどうなる。その痛みの原因が小宇宙なら、聖闘士の道を歩く限りずっと付き合って生きてくことになるんだぜ。辛いだろう」

 

 かつて、瀕死の状態にあった女候補生が楽にしてくれとマニゴルドに願ったことがある。アスプロスでさえ手が打てない状態なら、このままカルディアを楽にしてやるのも情けだろう。積尸気使いならそれができる。

 

「嫌だ」

 

 カルディアははっきりと死を否定した。胸を守るように身を丸く縮める。

 

「俺は、生きてる。ここに、こうやって生きてる」

 

「でもそれはいつか終わる」

 

「知ってる」

 

「いいや解ってないね。一日でも長く生きたいなら大人しく療養してればいいのに、なんで聖域なんかに来たんだよ。しかも相手構わず喧嘩吹っかけて。後のことも考えずに好き放題にやりたいってのは、本当は早死にしたいからなんだろう」

 

「違う」

 

「俺にだけ喧嘩を売らないのは、死に近づくのが怖いからだろう」

 

「違う!」

 

 悲鳴のような否定と共に、カルディアは毛布を頭から被った。「苦しいのも熱いのも俺のもんだ。出てけよ糞ったれ!」

 

「大丈夫だ。怖くない。俺の技は痛くない」

 

 積尸気使いは優しく囁き、毛布の山に人差し指を向けた。

 

 熱を帯びた魂を導こうとした刹那。部屋に光が差した。

 

 逆光を背負ったアスプロスが戸口に立っていた。

 

 聡明な若者はマニゴルドの手元に目をやるなり、その表情を険しくした。

 

「何をしている」

 

「べつに。毛布が暑そうだから剥がしてやろうとしただけだ。おまえこそ何で戻ってきたんだよ」

 

 マニゴルドは言いながらカルディアの毛布に手を掛けた。しかし内側からしっかりと抑えられていたので諦めた。

 

「やはり留守番がおまえでは心許ないと思ってな」

 

「おーおー。信用されてるねえ。じゃ、後はよろしく」

 

 マニゴルドは茶化すように言い、友人の横を抜けて部屋を出ようとした。ところがすれ違いざまに肩を掴まれ振り向かされる。

 

「なぜ殺そうとした」

 

「あんまり苦しそうだったから」

 

 その返事にアスプロスは瞬きをし、やがて手を放した。眼差しは厳しいままだ。

 

「……猊下に報告するぞ」

 

「お好きなように。でも蠍座の候補がこんな有様じゃ、別の奴に取り替えたいと教皇も思うんじゃねえかな。おまえはどう思うよアスプロス。高いはずのワインが不味かったんだ。捨てる? 最後まで飲む? 誰かに押しつける?」

 

「酔ってるのか。道理で酒臭い」

 

 双子座は溜息を噛み殺して戸を開けた。陽光の溢れる外を指し示す。

 

「とりあえず出て頭を冷やせ。今日のおまえはおかしいぞ」

 

「引き留めたのはおまえじゃん」

 

 そう言った途端、部屋から蹴り出された。

 

 マニゴルドは首をぐるりと回して歩き始めた。

 

 死は生の先にある。遅かれ早かれ、全ての人にそれは訪れる。

 

 その訪れを少し早めてやることの何がいけないのか。

 

 同じ積尸気使いの師ならば、彼のしようとした事を理解してくれるだろう。力を人のために使うことを誉めてくれるだろう。

 

 そう思えば怖いものはなかった。

 



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どん底

 

 内々にお耳に入れたいことがある。双子座の黄金聖闘士からそう切り出された時、良い話題でないことは察しが付いた。アスプロスの端正な顔に迷いが浮かんでいたからだ。

 

 教皇の間から人払いをして、セージは話を促した。

 

 双子座の若者は報告した。セージの弟子が蠍座の候補生カルディアの命を奪おうとしたと。

 

 俄には信じがたかった。つい先刻その指導者が来たばかりだが、変わった様子はなかった。だからセージも相談された事についての指示しか与えなかった。

 

 尤もだと双子座は話を続けた。

 

「正に先ほど、その者が教え子の部屋を外していた間に起きたことでございます。私も教皇宮まで同行するつもりでしたが、候補生の容態が気になって途中で引き返しました。そこでマニゴルドが右の人差し指を寝床に向けるところを見たのです」

 

 異様な小宇宙の高まりもあって、その意味を察したアスプロスは、すぐに止めに入ったという。そのため候補生は命を奪われずに済んだそうだ。

 

「念のため指導者が戻ってくるまで側に付き添ってやりました。候補生は今も臥せっております」

 

「そうか。してマニゴルドのほうは」

 

「宿舎を出て行った後は存じません。問い糾した時にあっさり殺意を認めましたので、私としてはそのまま雑兵のところへ突き出すこともできました。しかし先に猊下のご判断を仰ぐべきと考えて、こちらへ参った次第です」

 

「蠍座の候補と我が弟子の間に確執があったか、そなたは何か知っておるか」

 

「それなりに縁はあったようですが……」

 

 双子座はためらいを振り切るように、猊下、と呼びかけた。

 

「しでかしたことは決して許されるべきではありませんが、マニゴルドの胸の内もご配慮下さいませ。己の守護星座も知らず未来の見えない焦りと苛立ちを抱えているところへ、黄金位候補と明かされた者がいきなり現れたのです。しかもそれが年下で病弱となれば、嫉妬も生まれましょう。聞くところによれば蠍座の候補生に、面と向かって死に神と罵られたこともあるそうです」

 

「その恨みを晴らそうとしたと?」

 

 聞きながらも、それは無いだろうとセージは内心で否定した。その程度のことで恨みを抱く弟子ではない。

 

「本人に自覚はないでしょう。ですが、殺そうとした理由を尋ねましたら、黄金位の候補がこの有様では教皇も取り替えたくなるだろうと申しておりました。それと戯れ言でしょうが『あんまり苦しそうだったから』と」

 

 セージは腹の前で手を組み、天井を見上げた。

 

 アスプロスが嘘を吐いて他人を陥れるとは思えなかった。彼は彼の目撃したことを正直に報告したのだろう。それでもセージは、マニゴルド本人の口から真実が聞きたかった。できれば蠍座の候補生にも話を聞きたいが、それは当人の体調が戻ってからだ。

 

 本当に殺そうとしたのか。

 

 何のために、誰のためにそうしようと考えたのか。

 

 天井の梁の木目をなぞりながら思案していると、若者がもう一度口を開いた。

 

「もしマニゴルドに処罰を与える時は、私にお申し付け下さい。友の過ちを見過ごすわけに参りませんし、お弟子の汚点を表沙汰にして猊下のご威光に傷を付けることのないよう、取り計らいましょう」

 

「あれの友と言ってくれるか。気遣いは嬉しいが、黄金位にそのような仕事はさせられぬ。下がれ。少し考えたい」

 

「若輩者が出過ぎたことを申しました」

 

 双子座の黄金聖闘士は綺麗に一礼して退出した。

 

 

 夕方になって戻ってきた弟子をセージは呼び寄せた。

 

「なにお師匠。今度は何の用事? 書類はちゃんと片付けただろ」

 

 屈託無く入ってきたマニゴルドは、手招きされるまま近づいて来た。服の襟元に、染みができていた。

 

「おまえ、私の名を騙って酒を持って行きおったな」

 

 初耳だ、と言わんばかりに弟子は目を丸くした。しかし襟元の染みを指してやれば、すぐに演技を止めて醒めた表情になる。

 

「用人の野郎がチクったな」

 

「あの者は職務を全うしただけだ。よりによって教皇命と偽るなど言語道断だ。しかも一番高価なものを指定したそうだな。誰と飲んだ」

 

「今は亡き我が友と」

 

 予想外に詩的な回答に、それはそれは、とセージは小さく笑った。弟子は相手の名を答えるつもりはないらしかった。

 

「では二つ目。候補生を積尸気送りにしかけたというのは事実か」

 

 マニゴルドは彼の目を真っ直ぐに見返した。

 

「本当だ」

 

 その言葉よりむしろ雄弁に目が語っていた。己の行いに恥じることは何もないと。

 

 セージは深く息を吐いた。一日にいくつ問題を起こせば気が済むのかと問い質したいところだが、もしかしたら関わりを持つ一連のできごとの可能性もある。

 

「そっちはアスプロスが言いつけたんだな。あいつに邪魔されて冥界波を掛けるところまでいかなかったんだよ」

 

「殺そうとしたのは、面罵された事への遺恨か」

 

「なんでそんな意味ねえこと」

 

「ではワインを捧げた亡き友とやらのためか」

 

「知らねえよ」

 

 弟子はとても柔らかく目を細めた。

 

「カルディアが苦しそうにしてたんだ。小宇宙を燃やすと熱が出るんだってさ。黄金の候補だっていうけど、そんな奴に聖闘士なんて重荷だよ」

 

「その者が消えれば蠍座の候補に成り代われると思ったのか」

 

「違うって。今にも死にそうな奴が目の前にいたら、いっそ楽にしてやるのが親切ってもんだ。お師匠なら判ってくれるだろ。俺たちには楽に死なせてやれる力があるんだから」

 

「本人が死を望んだのか」

 

 弟子は頭を振った。「生きたいって言ってた」

 

 それでもなお冥界波で魂を送ろうとしたのであれば、死を強要したことになる。それを問うと、弟子は至極当然という態度で頷いた。

 

「死ってやつはさ、住人の望む望まないに関わらず訪れる客なんだ。借金の取り立てみたいに、一度追い返したって必ず別の日に出直して来る。それが解ってねえ奴が多すぎる」

 

「ではカルディアには返済期限が来ていたのか?」

 

「べつに。まだ遠かった」

 

 セージは目を伏せた。すると、どこか誇らしげだった弟子の口調に曇りが生じた。

 

「……お師匠は俺が人助けするのが気に入らねえのか。それとも人を殺すのは良くないって言いてえのか。そんな今更なこと」

 

 今更だろうか。セージは弟子と目を合わせた。

 

「マニゴルド。かつておまえが追い剥ぎをして人を殺めていたことを私は責めない。しかし今回は違う。蠍座の候補はおまえの同朋だ。否、同朋でなくとも相応の理由と覚悟がなければ見逃すわけにはいかぬ。辛そうだから楽にしてやりたい、そう思うのはいい。しかし死を救いだと押しつけることはおまえの身勝手だ」

 

 弟子は苛々と首筋を掻いた。

 

「じゃあいいよ俺の勝手で。積尸気使いの力で何しようが俺の勝手だよ。なんだよ。殺しにしか使えねえ力を殺しに使って何が悪いんだよ。冥界波を教えたのはお師匠じゃねえか」

 

 セージは目の前の魂を積尸気の穴に叩き込んだ。

 

 続いて自分も肉体を纏ったままその穴に飛び込む。

 

 ――薄闇の空と不毛の荒野。鉛色に滲んだ地平線。冥界を目指す亡者たちの沈黙。

 

 そうして彼は、修行以外の場で初めて弟子に手を上げた。

 

 相手は咄嗟に腕で頭を庇ったが、セージはその防御もろとも張り飛ばした。よろめいて地を離れる体。それでも着地と共に体勢を立て直そうとする。

 

 そこをセージは上から蹴りつけた。マニゴルドの判断のほうが一瞬早かった。少年は身を起こさずに横に転がる。雷撃に似た蹴りは地面が受けた。重圧を受け止めきれず、地盤が砕けた。

 

 ガラガラと音を立てて地面が崩れていく。

 

 地の底の冥界まで届きそうな穴ができた。

 

 危うく難を逃れた弟子は、地面の惨状を目の当たりにして口を開けた。それからセージに見つめられていることに気づいて、爆心地から遠ざかろうとする。

 

「ちょ、ちょっと待てってお師匠! 顔がマジじゃねえか! やばいやばいやばい待って」

 

「うろたえるな小僧」

 

 冬の嵐の冷徹さでセージは相手に迫った。

 

 狼狽しながらもマニゴルドは嵐から身を守るために動いた。

 

 もし少年に肉体があれば、骨は折れ、内臓は破れ、身の内の至るところに血溜まりができているに違いない。防御を覚えた体が致命的な一撃を受けることを避けている。そのせいで余計に傷を負うことになった。

 

 苦しいだろう。痛いだろう。

 

 動きかたを教えたのは自分か、とセージは皮肉でもなんでもなく思った。

 

 イタリアで初めて会った時、その子供は虚無と死霊を友としていた。同じ異能を持つ者としてそのまま捨て置けず、セージは子供を聖域に連れ帰った。死に親しい者だからこそ感じ取れる生の素晴らしさがある。それを理解させたかった。

 

 人の命を弄ぶような者に育てたつもりはなかった。

 

(どこで間違えた)

 

 後から空しさと悲しみが追いついてきた。

 

 黄泉比良坂の大地がみるみる荒らされていく。絶え間ない地響きと轟音と小宇宙の暴風。雷よりも奔放な力の浪費が地上で繰り広げられる。

 

 黄泉比良坂は冥王の本拠地のすぐ手前にあるのに、その兵は誰も様子を見に来なかった。自分たちには関係ないと思っているならその通りだ。これはセージとマニゴルド二人の問題である。

 

 亡者たちも周りの変化に興味を示さず、冥界へ続く大穴を目指して歩き続けている。

 

 マニゴルドはその沈黙の行列を盾にしようとした。亡者の列を飛び越えてセージはそれを捕まえた。

 

 頭を掴んで地面に叩きつける。一度、二度。

 

 三度目の前にマニゴルドは自由な下半身をバネにしてセージの脚を払った。そのまま強引に彼の手を逃れる。距離を稼ぐと割れた額を触り、顔をしかめた。

 

「らしくねえよお師匠。ジャミールのジジイに何か影響されたか」

 

 ジャミールに預けている間に、ハクレイがマニゴルドの力を試すために黄泉比良坂へ連れて行った。そのことはセージも把握している。

 

「兄上は関係ない。これは不出来な弟子への折檻だ。理由が分からぬなら己の胸に手を当てて考えるがいい」

 

「その暇よこせ!」

 

 いつもの彼ならそうしただろう。弟子を叱る時に手を上げたことは、これまで一度もなかった。ひたすら言葉を尽くし、理を尽くす。それが彼の流儀だ。

 

 そのためマニゴルドに尋ねられたことがある。浮浪児上がりの子供を相手に長々と説教するのは徒労だと思わないのか、なぜ殴って言うことを聞かせようとしないのか、と。

 

 たしかその時こう答えた。

 

 ――おまえは獣ではない。力で押さえつけなくても、意志で行いを改めることができるはずだ。人は己の意志で変わることのできる唯一の生き物なのだから。

 

(偉そうなことを口にしながら、所詮は私も感情の生き物だったというわけだ)

 

 セージは額に手を当て、溜息を吐いた。

 

 不意に攻撃の構えを解いた彼に弟子が戸惑った。「え、本当に待ってくれるわけ?」

 

 甘い。答える代わりにセージは掌底を繰り出した。気づかぬうちに懐に入り込まれたマニゴルドは、まともに衝撃を浴びる。仰け反ってよろめく弟子の姿に、セージは再び溜息を吐きたくなった。

 

 だが法衣の袂を引き千切られているのを見て、それは飲み込んだ。無抵抗を貫く従順な弟子ではなかった。

 

「おまえに積尸気冥界波を授けたのは間違いだった、とは思いたくない。しかし未だに生を理解できないどころか、他人に死を強要する傲慢さを慈悲だと嘯くなら、師たる私が責任を持って、その過ちを正してやらねばなるまい」

 

「愛の鞭ってわけか。ありがたくって涙が出らあ」

 

 傷だらけになろうと口の減らない悪童である。

 

「いい加減真面目に聞け。本人が死を願ったのならともかく、生きたいという者を死に叩き込むのは傲慢だと思わぬか。生きるために泥水を啜ってきたはずのおまえが、なぜ他人のそれを簡単に捨てさせようとする。積尸気使いが他人の生殺与奪を自由にしていいという主張が正しければ、私がここでおまえにとどめを刺してもいいはずだな」

 

 暗い世界の一角が突如として照らし出された。蒼白く輝く炎。鬼火の奔流がセージの意思に従い、マニゴルドの体を包みこむ。少年が慌てた声で制止を求めるがセージは聞かなかった。

 

 温度を持たない炎には夢幻の美しさがある。けれど炎に巻かれた者にとっては劫火の責め苦。

 

 それは鬼火を糧に燃え上がる技だった。技を掛けた相手の魂を直接損なうので、軽々しく人に対して用いてはならない。そう弟子に教えたのはセージ自身だ。

 

 灼けつく痛みと己が表面から崩れていく恐怖には、誰もが泣き叫んで命乞いする。魂そのものを食らい尽くす、どちらかといえば外道な技かも知れない。

 

 マニゴルドは叫ばなかった。

 

 若い積尸気使いは歯を食いしばりながらこれに対応した。炎を生む鬼火の一つ一つに小宇宙を込めて、瞬間的に解放させる。すると鬼火が爆発する。火種そのものがなくなり、彼を取り巻く炎は消えた。

 

 ただしマニゴルドが使った技は、本来は霊的なものを爆発させて敵を攻撃するためのものだ。爆発の只中にいた本人もぼろぼろになった。

 

「なるほど。鬼蒼焔を魂葬破で消し飛ばしたか。考えたな」

 

 弟子の表情が緩む。

 

 しかしまだ終わっていない。セージは低く拳を繰り出した。腹をえぐる。

 

 マニゴルドの体は遠くへ飛んでいった。一度大きく跳ねてから、崖の向こうに消えた。亡者の群も同じ所へ消えていく。

 

 セージは歩み寄り、崖の下を覗いた。

 

 冥界へ続く奈落の淵にマニゴルドはいた。

 

 崖の端に指をかけて凌いでいる。凌いでいるだけだ。腕が伸びきっていて、すぐには上がれそうにない。少し離れた所からは亡者が落ちていく。

 

 高みから見下ろしたままセージは言った。

 

「生にしがみついておるな。それを引き剥がして穴に突き落としてやることが私の慈悲か」

 

「ごちゃごちゃ言ってねえで引っ張ってくれよ」

 

 黄泉比良坂の大穴に落ちれば、何人たりとも生きては戻れない。そのまま冥王の支配する世界へ向かうのが定め。積尸気使いにも覆せない摂理だ。

 

 セージは弟子の指先を勢いよく踏んだ。短い呻き声が上がった。無視して何度も踏みつけた。何度も。何度も。

 

「ほら、落ちろ。死にたくないなら早く謝れ。あるいは私を殺してこの足を退かしてみろ。おまえの言う積尸気使いならば容易いだろう」

 

「やめ、お師匠やめろよ、本気か」

 

 本気で冥界へ落とすつもりなら、手を踏むなどという回りくどいことはしない。手首を切断することも、崖の縁ごと叩き離すこともできる。なぜセージがそうしないのか考えない者に、本音は明かせない。

 

「おまえは積尸気使いの力を殺しにしか使えないと言ったな。私や兄上も積尸気使いだ。つまりは私たちもただの人殺しに過ぎぬと、そう言いたいのだろう」

 

 何も知らない他人の偏見などいくら受けても平気だが、同じ積尸気使いの道を歩む者には誤解されたくないことがある。ましてそれが弟子となれば。

 

「あ、あれは俺のこと! 俺のことを言ったんだよ! あんたたちは違う」

 

 必死に否定する相手に「何が違う?」とセージは優しく尋ねた。苦悶に顔を歪めながらマニゴルドは答えた。

 

「全部だ。あんたは教皇で、元は黄金聖闘士だ。ハクレイのジジイだってジャミールの長で修復師で、黄金連中も怖がる強さの鬼だ。二人ともやれることが沢山ある。俺にはない。強さも知恵も、何にもねえ。聖闘士になれるかどうかも分かんねえ。同じなわけねえよ!」

 

「同じよ」

 

 セージは足を引いた。

 

「おまえの守護星座は私と同じだ」

 

 弟子は目を見開いた。

 

「嘘だ」

 

「嘘ではない。おまえは私の聖衣を継いで、同じ蟹座の黄金聖闘士になる可能性がある。それでも違うと申すか」

 

 嘘だ、とマニゴルドは繰り返した。「どうせ俺をびっくりさせるための嘘なんだろ。だって今更そんな」

 

「黙っていたことは認めるが、断じてこの場限りの出任せではない。おまえは私と同じ蟹座だ」

 

 奈落の淵にぶら下がる少年は瞬きすら忘れて、彼を見つめた。見下ろすセージはふと思う。イタリアで初めて会った宵も、子供はこんな表情を浮かべて星空を見上げていたのではなかったか。

 

 急に哀れになった。

 

 積尸気使いのありようを誤解しているのは本人のせいではない。セージの伝え方が悪かっただけだ。まともな指導者に師事していれば、きっと輝かしい未来を手にしていただろうに。

 

 セージが教皇という責任ある地位について長い。聖域の統治はそれなりに巧くやっている自信はあるし、聖戦に向けての聖闘士の育成体制と世代交代も順調だ。なのにこの初弟子のことに限っては思惑が外れてばかり、見当外れのことばかりだった。

 

「不甲斐ない師で済まぬ。もっと早く伝えていれば、こうはならなかったかも知れぬな」

 

「お師匠――」

 

 ずるりと音がした。

 

 崖に張り付いていたはずのマニゴルドの体の前面が見えた。ゆっくりと仰向けになっていく。本人にも不測の事態であることは、その表情を見れば明らかだった。

 

 空を掴む手がやけに白っぽく見えた。

 

 弟子は黄泉比良坂の大穴に飲まれて消えた。小宇宙の気配も闇に消えた。

 

 そして灰色の辺に老人一人が残された。

 

          ◇

 

 弟子が冥界へ続く穴に落ちて、どれほど経っただろうか。セージは穴の中を見つめ続けていた。

 

 底の見えない闇が迫ってくる。

 

 その闇よりも彼の心は昏かった。

 

 女神の代理人と呼ばれて玉座に君臨していながら、弟子一人まともに育てられない不甲斐なさ。失望。悔恨。慚愧。罪悪感。聖闘士たちにも顔向けできない。

 

「申し訳ありません、アテナ」

 

 彼は立ち上がり、淵から身を乗り出した。

 

 後ろからもの凄い勢いで誰かが坂を駆け上ってきた。穴に飛び込もうとしていたセージは、胴体を抱えこまれて後ろへ引っ繰り返った。

 

 雨雲と同じ色調の空が視界一杯に広がる。それまで見つめ続けた穴の暗さに比べれば、その暗雲さえ明るく見えた。

 

「待て待て待て。なんであんたまで死ぬんだよ意味分かんねえ」

 

 下敷きになっていた背後の者が這い出して、彼の前に姿を現した。セージは息を呑んだ。相手が彼の目の前で冥界へと落ちていった弟子と同じ声、同じ顔をしていたから。しかもなぜか肉体をまとっている。思わず身を起こした。

 

「おまえ……落ちたのでは」

 

「落ちたよ。途中まで」

 

 穴を下っていく途中、無我夢中で積尸気の穴を開いた。頭上にではなく落ち行く足先に開けたのが功を奏した。魂は落下するまま自然にその穴を通り、現世に出ることができた。本人はそう言うのだ。

 

 死線をくぐり抜けたにしてはさっぱりした顔をしているのもあって、俄には信じがたかった。

 

「そんなでたらめがあって堪るか」

 

「怒るなよ。俺だって必死だったんだよ。もう一回やれって言われても、多分無理」

 

 あり得ない助かり方をしたのは偶然だろうか。それとも聖闘士になるべき者が死の間際に奇跡を起こしたか。

 

(アテナよ。これはあなたの御業か)

 

 あるいは冥王軍がセージの許へ送り込んだ偽者の可能性さえ疑った。

 

 乱れた思考のまま見つめていると、少年は彼の手を取って自分の首筋に当てた。温かい血が脈打っているのが感じられた。

 

「な、生きてるだろ。とりあえず体に戻って、しばらく執務室で待ってたんだぜ。けどいつまで経ってもお師匠帰ってこねえから、もしかしたらと思ってこっち来たんだ。そしたらこれだ。びっくりだよ」

 

 殺されかけた相手の様子を見るためにわざわざ戻ってきた。その事実にセージはまた驚いた。

 

「また穴に突き落とされるとは考えなかったのか」

 

 少年は見慣れた仕草で肩を竦めた。それならそれで仕方ない、と言う。

 

「お師匠がどうしても俺の息の根止める気なら、世界の果てまで追いかけて来そうだし。またやる?」

 

「いや、もういい」

 

 己の命さえ軽んじるこの姿勢、間違いなくマニゴルドだ。セージは軽く首を振った。弟子が生きていたことを実感した途端に肉体の疲れがやってきた。

 

「積尸気使いは死の力しか持たないという主張が正しければ、おまえは今生きていまい。落ちようとした私を引き留める者もいなかったはずだ。そのことをよく噛み締めよう」

 

 弟子は頷かなかった。

 

「土壇場で助かりたくて冥界波を試した時点で、俺が喧嘩に負けたのは分かってる。でもお師匠が何から何まで正しいとは思わねえんだ。冥界波はやっぱり人殺しの技で、積尸気使いはそれを使っていいと思う。でもお師匠の前では、そういう事は言わないようにする。それでいいだろ」

 

「それだからおまえを蟹座に据えられぬ」

 

「あっそ。だったら他の称号寄越せ。そんで蟹座の聖衣は墓の中まで持ってけ業突張りのジジイ」

 

「馬鹿者。よいか、積尸気使いであろうと人の命を軽々しく弄んではいけない。私が言っているのはそれだけだぞ。簡単なことだろう。なぜ理解できぬ」

 

「すみませんね頭悪いもんで」

 

 喧嘩腰の相手にセージも言い返そうとした。しかしそれでは話が進まない。そう思い直して一呼吸。

 

「……もう少し互いに頭が冷やそう」

 

 二人の周囲では今も亡者たちが絶え間なく零れていく。音のない雑踏である。騒ぐ者こそいないが、落ち着いて語り合うにはあまり相応しくない場所だった。

 

 静かな所に行きたいと思った。

 

「海に行こう」

 

と、聞く側にとっては脈絡のない提案を、セージは口にした。

 

 普段は山の頂上から睨みを利かせている教皇でも、聖域の外に出ることがある。一番多い機会はロドリオ村への訪問だ。次に各界の代表者や指導者との会合。聖闘士が歴史の表舞台に出ないからこそ、舞台裏では各方面とも付き合う必要があった。そんな会合の一つが近々港町で予定されている。

 

 非公式とはいえ教皇としての行事に、セージが単身で赴くことはない。聖域からは随行団とでも呼ぶべき一行が付き随う。最近膝の調子が悪い従者に代わってマニゴルドもそこに加われということだ。

 

「出立まで日がある。それまでは謹慎して、身の回りを片付けておけ」

 

「それって……」絶句しかけたマニゴルドは、一呼吸置いて畳みかけてきた。「だったら聖域から直接追い出せば良いだろ。弟子を育てるのに失敗したって知られるのがそんなに怖いかよ。旅先から追放なんて小細工するくらいなら、今ここで縁切ってみろよ教皇様! ほら、ほら!」

 

 当人にしてみれば、首に縄を掛けられたまま、中途半端に放置された気分に違いない。ただし別れるにしても、相応しい場所と頃合いというものがある。素直に、はいさよならというわけにはいかなかった。

 

 セージは喚く弟子を引きずって帰った。

 



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海辺の僧侶

 

 アテネから遠く北東に位置する港町で、聖域からの一行は礼節を持って迎えられた。会合の会場となるのはキュリエと呼ばれるイスラム教の複合施設だ。

 

 セージと神官の打ち合わせも順調に終わり、会合まで時間ができた。周囲は老体を気遣って別室での休憩を勧めた。セージはそれを断った。

 

「ここの養生所を見てみたいのだが、頼めるか」

 

 大都市のキュリエには、モスクを中心に市場、病院、救貧院、学校、共同浴場などを擁する巨大なものもある。この町にあるのはそこまで立派な施設ではなかったが、市場と病院が併設されていた。

 

 施設から宛がわれた世話役も心得て、すぐに案内すると即答してくれた。大勢で押しかけて入院患者を驚かせても悪いので、従僕代わりの弟子だけを連れて行くことにする。

 

 彼らは隣接する棟に案内された。

 

 青と白のタイルも鮮やかなモスクから一歩病院側に踏み入れると、素っ気ない漆喰壁の世界に切り替わった。

 

 病室に並べられた寝台では患者たちが思い思いに過ごしている。説明によれば、身寄りのない者や、自腹で医者にかかれない貧しい者が多いという。

 

 セージは病人の間を回り、一人一人に声を掛けた。時にはさりげなく相手に触れて、小宇宙を送り込んだりもした。生気の源である小宇宙を受け取れば、病の痛みや辛さも少しは和らぐ。

 

 触れられた者は奇跡を得た喜びで彼を拝んだ。彼の正体を病人たちは知らない。けれどその佇まいや自分の身に起きた小さな奇跡から、気品ある訪問者がただの慈善家ではないことを常人なりに察していた。

 

 マニゴルドはというと病室の入口に寄りかかって、

 

「まるで聖人だねえ、うちの長老サマは。ありがてえこった」

 

と聞こえよがしに呟いた。セージが見やると露骨によそを向く。入ってくるように呼びかけても無視。

 

 そこで次の病室へ移る際に、セージは案内人を待たせて弟子を廊下の端へ連れていった。先ほどの態度は何だと問い詰めると、そんなことかと冷笑された。

 

「小宇宙なんか分けたって無駄なもんは無駄だ。もうすぐ死ぬ奴に何したって寿命は伸びねえよ」

 

 積尸気使いには死期の近い者が分かる。この感覚が常人でも分かるところまで強まることを「死相が出る」という。セージが触れた者の中には、その日が間近である者も混ざっていた。

 

「つまり死が近ければ苦しんでも致し方ないと。苦しみから解放してやるために死を強制した者の言い分としては、些か矛盾しておるな」

 

 相手は言葉に詰まった。そして少し間を置いて、

 

「じゃあ俺があそこで冥界波を使っても良かったのかよ。あの部屋の病人、まとめて魂引っこ抜いて黄泉比良坂に送ったら、困るのはあんただろうが」

 

と言い返してきた。

 

「ほう。やれるものなら今からでもやってみるがいい。この養生所の内にある全ての魂を地に繋ぎ止めておくくらい、私には造作もない」

 

 未熟な積尸気使いは悔しそうに唇を噛んだ。セージはその肩に手を置いて歩みを促した。

 

「おまえも小宇宙を人に分け与えてみなさい。無駄かどうかを論じるのはそれからでも遅くなかろう」

 

 マニゴルドはセージの手を邪険に払いのけた。

 

「嫌だね。連中が求めてるのはお師匠だ。俺じゃねえ。それに病人との触れ合いで俺が改心するとでも思ってるなら大間違いだ。薄っぺらい善行ごっこなんか誰がするもんか」

 

「マニゴルド」図星を指されて思わず声が尖った。

 

 弟子も反抗的に彼を睨み上げた。久しぶりに目が合った。

 

 と、二人は同じ方角を振り向いた。案内人も何事かとそちらを見やった。

 

 ほぼ同時に一人の男が廊下の角を曲がってきた。正教会の修道服を身につけた初老の男だ。

 

 佇む三人が自分のほうを向いていることに男は驚いた。しかしセージを目指して一直線に駆け寄った。

 

「遅くなりまして申し訳ありません。初めてお目に掛かります。私は――」

 

 名乗りかけたのを制してセージは笑顔を作った。

 

「はて。遅くなったとは何の事でしょう。私は確かに人と会う約束をしておりますが、それはもう少し後の時刻。今は名も無き者として人々を見舞っているに過ぎませぬ。ここは養生所。静かにいたしましょう」

 

「……失礼。星の方にお会いできる喜びで舞い上がっておりました。差し支えなければ、しばらくご一緒してもよろしいでしょうか」

 

「はるばるコンスタンティノポリスからの旅路でお疲れでなければ、どうぞ」

 

 初老の男はほっと肩の力を抜いた。白髭が揺れた。

 

 二人の会話から男がセージの会談相手と察して、弟子は静かに退いた。普段は騒がしい悪童でも、その気になれば場を弁えることはできるらしい。

 

 白髭の男はコンスタンティノープル総主教である。そしてセージはアテナの代理人。両者に直接は関係のないイスラム教の施設が会合場所に選ばれたのには、諸々の事情があった。それを語るには多くの言葉を要するので、ここでは割愛する。

 

 少し遅れてキュリエの責任者であるイスラム法学者もやってきた。こちらはまだ黒々とした髭の壮年の男だ。会合の主役二人が揃っているということで、案内役を代わる。

 

 次の病室でもセージは小宇宙を病人たちに分け与えた。総主教は触れられた者たちの様子を注意深く眺めてから、彼の手元を覗きこんだ。解剖の講義に参加する医学生の熱心さだった。

 

「その手業が星の方の起こされる奇跡ですか」

 

「そんな大それたものではありませんが、聖闘士に興味がおありですか」

 

 セージが尋ねると、白髭の総主教は懐かしげに微笑んだ。

 

「昔、まだ神学生だった若い頃に、銀の星の輝きを見たことがあります」

 

 聖域から正教会に送り込まれた雑兵の報告によれば、この総主教はかつて、任務中の白銀聖闘士と接触があったそうだ。星の輝きとは小宇宙を発した状態のことだろう。

 

 一方で黒髭の法学者が首を傾げているが、これは仕方ない。彼は聖闘士とは直接の接点がなかった。

 

 白髭の総主教は思い出話を続ける。

 

「あの光景を見た時、心が震えました。身の内から滲み出すあの見えない輝きこそ、人が神の似姿を回復していく過程を形にしたものに違いありません。私もかくありたいと願ったものです」

 

 なるほど、とセージは控え目に相槌を打った。

 

 正教会においては、人は原罪を背負い堕落した存在ではない。不完全ではあるが、成長を続けて創造主の「すがた」に近づく可能性を持つ存在である。研鑽を積んで小宇宙を身に付けた聖闘士は、その意味で確かに神に近いだろう。

 

「ですからその星々を統べる方とお会いできると知って以来、この日を待ちわびていたのです」

 

「ご覧の通り、ただの白髪の年寄りですよ」

 

 年長者の謙遜に、総主教はとんでもないと手を振った。

 

「お会いして、ぜひとも克肖者(聖人)に加えるべき方と確信しました。いずれ列聖させて頂きたい」

 

 セージがやんわりと断っても引き下がらない。

 

「星の方々は表向きに正教会の一宗派を名乗られることもあるそうですね。でしたら何の問題もないでしょう。もちろん列聖はあなたの死後ですからご心配なく」

 

 相手は本気だった。セージは廊下に出てから改めて断った。

 

「お気持ちは嬉しいのですが、私はあなたがたの神の教えを心から受け入れる者ではありません。はっきり申せば異端どころか異教の者です。お申し出を受けることはできません。なにより正教会の信徒の方々に対して心苦しい」

 

 総主教は目を丸くしたが、すぐに落ち着いた表情を取り戻した。

 

「そうですか。残念です。……ですが、我が信徒のことを慮ってのお言葉に感謝いたします」

 

「申し訳ない」

 

「いいえ、却ってお気を遣わせてしまったようで、こちらこそ申し訳ない。ローマの強引な連中に比べれば余程お話ができる方と、些か舞い上がっておりました。異教よりも異端のほうが憎い、というのはなかなかの真実でして」

 

 ローマ教皇庁が「カトリックこそが唯一絶対の教会」という声明を出して正教会とプロテスタントから反感を買ったのは、二十一世紀に入ってからの出来事である。キリスト教が正教会と西方教会に分裂して以来、未だ和解は成っていない。この時の総主教は冗談に紛らわせたが、その言葉には日頃の鬱憤が混じっていた。

 

 黒髭の法学者が流れに乗った。

 

「解ります。一つの谷を挟んで向かい合った断崖があるとき、その距離が十分に離れていれば谷の深さよりも互いの遠さに気を取られます。しかし断崖の距離が近ければ近いほど、それを隔てる谷の深さと日の届かぬ暗さが強調されるものです」

 

「良い喩えですな」

 

「スンニとシーアよりも、同じ学派内の論争のほうが激しい弾劾合戦になる理由を考えたことがあるのです。なまじ身内に近いほうが骨肉の争いになるという、当たり前の結論しか出ませんでした」

 

 蛇足だが、後世の中近東でスンニ派とシーア派が対立しているのは、教義の解釈の違いといった宗教的な理由ではなく、政治的・経済的な理由に因るところが大きい。ここで三人が話題にしている信仰のあり方とは、別の問題である。

 

 セージは二人に言った。

 

「それでも論争ができるだけの仲間がいるというのは羨ましい。我々聖闘士にとっては仲間に出会えることがまず貴重なのです。派を割る余裕すらない」

 

 そして聖闘士の性として、意見が異なれば最終的には論ではなく拳で戦うことになる。その結果に納得できず離反する者や追放される者はあっても、個人の問題として片付けられてきた。

 

「小さな宗派でも割れる時は割れます。きっと星の方々はしっかりとした教義をお持ちなのでしょうね。それこそ羨ましい」と白髭の総主教が首を振る。

 

 女神の代理人は答えた。「明文化された教義や教典がなくとも、主神が定期的に降臨するのが大きいですな」

 

 それを聞いて、二人の宗教者は納得と羨望の表情を浮かべた。本人も気づいていないだろう侮蔑が微かに混じるのは、黒髭の法学者だ。

 

 セージは涼しい顔で「それはさておき」と続けた。

 

「いかがでしょう、この話題は立ち話よりも会合に相応しいと思われませんか。さきの喩えに倣うならば、崖の上に立つ互いの位置を元に己の場所を測るべき時です。自己と他者の違いを認め、その違いを元に己の考えをより磨く。それが理性ある者の務めだとあなた方もご存知のはずだ」

 

「そうですね。この貴重な機会は相互理解と交流のために設けられたのですから、仰る通りです」

 

「たしかに。自己の無謬性を信じて良いのは神のみ。人は他者という鏡によって己の姿を知るものです」

 

 二人と共に見舞いに戻ろうとしたセージは、その場に足を縫い止められた。

 

 前方にマニゴルドがいた。少年は彼らのほうを見ていなかった。随行の神官と言葉を交わした後、セージのほうを振り返ることのないまま走り去っていった。

 

 代わりにその神官がやって来て、身支度を促した。

 

          ◇

 

 会合は和やかに終わった。夜は法学者の自宅で宴を開いてもらうことになっていたが、それまでは自由な時間だ。

 

 セージは控え室で地味な平服に着替えた。部屋を出る時に神官に告げる。

 

「晩課の鐘かアザーンか、先に聞こえてきたほうに合わせて戻る」

 

「かしこまりました。お気を付けて行ってらっしゃいませ」

 

 会合後に微行することは予め伝えてあったので、神官たちは素直に送り出してくれた。護衛の聖闘士が遠くから付くし、傍には従僕も兼ねた弟子が付き添う。

 

 マニゴルドは会合前の苛ついた様子から一変して塞ぎ込んでいた。セージも具合を尋ねる空々しい真似はしなかった。

 

 港へ続く坂の途中に小さな食堂があった。そこで昼食を取ることにした。注文を済ませ店の人間が立ち去ると、マニゴルドは片頬を歪めた。

 

「これが最後の晩餐かな」

 

「おや。ではこの後おまえの接吻を受けると、私は冥王軍にでも捕まるのか」セージは服の上から懐の財布を叩いた。「実は私も、ここにある金を餞別代わりにやるつもりだった。銀貨三十枚ではないが」

 

 ユダがイエスを裏切った報酬として得たのが銀貨三十枚と言われている。弟子は表情を硬くした。

 

「俺はあんたを裏切ったのか。カルディアを殺しかけたことがそんなに酷いことかよ」

 

「裏切り者は私だ。星の導きやアテナの下された奇跡に抗って、おまえを俗世に返そうとした。聖闘士とそれに連なる者全てを裏切って私情に走った、ひどい教皇だ」

 

 黄泉比良坂で始末を付けてやるつもりだったのに、奇跡によって阻まれた。そうとなれば、師弟の縁を切って追放するしかないではないか。

 

「今のおまえは文字も読めるし計算もできる。若く健康な体もある。それだけあれば追い剥ぎに戻らず真っ当な職に就けるはずだ」

 

 彼は窓の外を眺めた。建物の間から海が見えた。港から少し離れた沖合には大型船が一隻。その上に広がる青空には海鳥が張り付いている。

 

「ここの港は各地からの船が集う。イタリアの、例えばバーリやブリンディジに行く航路もあるだろう。そう思って連れてきたのだが……」

 

「はいワインね」

 

と、店の女将が卓の横に現れた。

 

「旦那、せっかく注文してくれた焼き魚だけど、タイがもう切らしてたんだよ。スズキでもいいかい」

 

「ああ、構わない。マニゴルドもいいな」

 

 少年はおざなりに頷いた。

 

「ごめんねえ」と少しも悪びれない女将が去ったところで、セージは話を再開しようとした。

 

 ところがその時ちょうど大人数の客が入ってきて、店の中は一気に賑やかになった。お陰で真面目な話をする雰囲気が消えてしまった。マニゴルドは白けた顔を窓に向けた。セージも苦笑して、椅子の背もたれに寄りかかった。

 

 料理が来ると弟子はそちらに気を奪われた、ふりをした。

 

 大きなパーナ貝の酒蒸しは、二枚貝の出汁とウゾ酒の風味が濃厚だ。新鮮な身もぷりぷりと弾力があって美味しい。皿に溢れた汁にも貝の旨みがたっぷりと詰まっていた。マニゴルドは貝殻を匙代わりにそれを掬って飲もうとしたが、上手くいかずパンに浸して食べた。殻つきの海老をトマトソースで煮込んだサガナキは、熱せられた鉄板にソースと溶けたフェタチーズが弾けて食欲を刺激する音楽を奏でる。少し時間が掛かって最後にスズキの炭火焼きも来た。焦げた皮は香ばしく、中のふっくらした白身を塩が引き立てていた。好みでオリーブオイルを掛けてもいいが、他の料理が濃厚だったので淡泊な味が逆にありがたい。

 

 一時も休むことなく食べ続ける少年を見て、店の女将がセージに話し掛けてきた。

 

「お孫さん、いい食べっぷりだねえ。何か足してあげなよ、旦那。お孫さん育ち盛りなんだからさ」

 

 猛然と平らげる原動力は空腹だけではない。自棄と開き直りも混じっている。しかし訂正するほどのことではないので、セージは女将お薦めの一品とやらを追加した。

 

 孫と間違われた弟子が、海老の殻を剥きながら彼を見た。けれど指に付いたトマトソースを舐め取ると、再び視線を皿の上に戻した。祖父ではない老人も、ただグラスを傾けた。

 

 食事を終えた二人は緩やかに坂を下った。

 

 港は船荷の積み揚げで活気づいている。忙しく行き交う船乗りや商人たち。怒号に近い人足の声。

 

 港を通り過ぎ、そのまま歩き続けた。

 

 やがて坪庭ほどの小さな磯まで来た。

 

 午後の波が光る。沖の船は相変わらず小島のようにどっしりと構えている。眠気を誘う規則正しい波音が、やけに大きく響いた。

 

 朽ち果てた流木にセージは腰掛けた。水平線を眺める彼の傍らで、弟子は足元に視線を落としていた。

 

「海は嫌いか」

 

 べつに、とふて腐れた返事。セージは水面に目を向けたまま言った。

 

「ここは地中海の奥だが、西のジブラルタル海峡を抜ければ大西洋だ。おまえの友が散った海と繋がっている」

 

 マニゴルドは固まった。それで彼も自分の推測が正しかったことを確信した。

 

 聖域を発つ前に、彼は事件が起きた日の弟子の行動を洗っていた。元から不誠実な舌を持つ悪童だから、候補生を殺そうとした裏に、何かを隠していても不思議はない。

 

 そしてセージが見つけたのは一件の報告だった。雑兵たちが多くの人々を助け、新たな人脈を築いたという美談の陰に、命を落とした新米雑兵の存在があった。

 

「生者を間引いたところで死者は帰ってこない。分かっておろうに。死者を悼むなら……」

 

「そうじゃねえ。そうじゃねえんだよ、お師匠」

 

 少年は目を伏せたまま首を振った。

 

「生ってのは不公平だ。そんなのは分かってる。俺があの時カルディアも死ぬべきだって思ったのは、あいつが苦しそうにしてたからだ。苦しいのを我慢して修行しても、結局は死ぬんだなって思ったんだよ。あいつらだけじゃない。もちろん俺もそうだ」

 

「マニゴルド」

 

「積尸気使いのくせに俺はそのことをユスフが死ぬまで忘れてた。違うな。死んだと知るまで、だ。だからせめてカルディアの時は積尸気使いらしくやったんだ。なのに」

 

 不意に言葉が途切れた。

 

 マニゴルドは何かを拾い上げた。薄曇りの青空に似た色の小石だった。海水に潜らせたそれを日に透かせば、表面が濡れて薄青色の透明さが際立った。

 

「色つき水晶かな」

 

「ガラスの破片だろう」

 

 元々は瓶か何かの一部だったはずだ。割れた時は鋭く尖っていたであろう破片が、長い歳月と波に洗われて、柔らかな色と形を得た。

 

 貴石ではないと知ってマニゴルドは途端に興味を失ったらしい。ガラスの小石はその場に捨てられた。

 

 セージはそれを拾い直した。ざらつく表面や丸みを帯びた形は手触りも良い。

 

「なにも捨てることはあるまい。涼しげで趣があると思わないか」

 

「じゃあ持って帰れよ」

 

 少年の冷笑が潮風に混じって空気を振るわせた。これから弟子を捨てるのに、という含みがあった。

 

「話が途中だぞマニゴルド。『なのに』どうした」

 

 あまり乗り気ではない様子で少年は話を続けた。

 

 ――会合の間、他の随行員たちと一緒に待機することにマニゴルドは飽きた。そこでモスクの中庭に出て人でも眺めて暇を潰すことにしたという。

 

 しばらくすると隣に座る者が現れた。どす黒い顔の中年男だった。

 

『ここいいかい。一緒に病室を回っていたお祖父さんはどうしたね』

 

『別の用事の最中だよ。お師匠に何か用か』

 

『なんだ、肉親じゃないのか。いや、おまえさんと話したくてね』

 

 男は入院患者だった。初めはマニゴルドのことを尋ねてきたが、はぐらかすうちに察したのか少年の身の上には触れなくなった。代わりに頼んでもいない色々な話を聞かせてくれた。会合が終わるまで面倒事を起こしたくないマニゴルドも、大人しく相手をしていた。

 

 しかし次第に男のやけに優しい目つきが気色悪くなって、追い払いにかかった。

 

『もういいだろ。あっち行けよ。俺の周り、妙な感じがするだろうけど、勘違いするなよ。それ「死」の匂いだぜ。俺の正体はイズラーイールなんだ』

 

 イズラーイール(アズラエル)とは、イスラム教において死と魂を司る天使の名だ。ところがマニゴルドがわざと死の気配を濃厚にさせても、男は逃げなかった。それどころか『倅に似たお迎えなら諦めもつくさ』と疲れた表情で笑った。医者にも長くないと宣告されたそうだ。マニゴルドの目にも男の命数は残り僅かだった。

 

『おまえさんの背格好や仕草が倅に似ていて、それでつい話しかけた。無理に相手させて悪かったな』

 

『見舞いに来ねえのか、あんたの息子は』

 

『もう死んだからな』

 

 子供も妻も流行病で亡くして、酒浸りになって体を壊した末にこの病院に入院したという。

 

『死ぬ前にもう一度女房や倅に会いたかったんだ。それが未練と言やあ未練だったんだけども、だから神様はおまえさんを寄越して下さったのかな。告死天使、頼みがある』

 

 抱き締めさせてくれという願いをマニゴルドは聞き入れた。男は礼を言うと、息子の名を呼んで彼を抱き締めた。頃合いを見て冥界波で送ってやろうと若き積尸気使いは考えた。それが慈悲だろうと。しかし。

 

『あのご老体は幸せだな。いつかおまえさんに看取ってもらえるんだろう。身内に告死天使がいるってのも悪くない』

 

 マニゴルドは思わず相手を押しのけていた。

 

 突然の拒絶に男は驚いた顔で彼を見つめた。マニゴルド自身も驚いていた。咄嗟に口走った。

 

『俺はお師匠を送らねえ。あんただって送ってやらねえ。死ぬまで勝手に生きてろ』

 

 言い終えた途端、ひどく動揺した。それ以上その場に留まることができなかった。そして会合が終わるまで控え室に閉じこもっていた。

 

 ――そこまで語ると、少年は額に手を当てて表情を隠した。

 

「我ながら喋ってても訳分かんねえわ。あんなおっさん一人、黄泉比良坂に送るのは簡単なのに。なんでやらなかったんだろ、俺」

 

「そもそも殺す必要がなかったからではないか」

 

 積尸気冥界波は刃物のようなものだ。刃物で人を殺めることはできる。しかし、刃物を手にした者は必ず人を殺して回るべしという決まりはない。もしそう思い込んで、戦場でもない場所で実行する者があれば、それは狂人だ。

 

「つまりおまえは刃物の使いどころを理解していないだけで、何が何でもそれを振り回さないと気が済まない狂人ではなかったということだ。喜べ」

 

「気違いに刃物じゃあるまいし」

 

 呆れたような相手にセージは告げた。

 

「一緒に聖域に帰るぞ」

 

 波が寄せて返した。

 

 その後にようやくマニゴルドは困惑を示した。

 

「だって、お師匠は俺のやり方とか考え方が気に食わねえから破門するんだろ? 俺がただのおっさん一人殺せない奴だから逆に安心したのか。いきなりそんなこと言い出すなんて」

 

「唐突ではない。先ほどの会合前から考えていた」

 

 セージは手の中の小石をゆっくりと弄んだ。

 

「意見の違う他者の存在を認めよ、などと偉そうなことを言いながら、弟子の異論を認められない私は偏狭よな。同じ母から生まれた兄上とさえ考えが合わないこともあるのに、弟子のそれは許せないとは」

 

 師弟という関係はいつでも彼の距離感覚を戸惑わせる。むしろセージの言うことを弟子が鵜呑みにせず、違う考えを持てたことを喜ぶべきであったのに。自嘲する彼を見て、マニゴルドが眉をひそめた。

 

「私たちは違う人間である以上、ものの見方も違って当然という話だ。たとえ同じ守護星座、同じ積尸気使いの師弟であっても同じ考え方をするとは限らない。まずそのことを頭に入れておくべきであった」

 

 二人の宗教者との語らいが気付かせてくれた。弟子を手放すつもりでこの港町へ連れてきたのを、思い留まらせてくれた。

 

「じゃあ、本当に……?」

 

「ああ」

 

「本当に俺も蟹座なのか」

 

「ああ」

 

「貰っていいのか」

 

「意思を継いでくれるのだろう。ならば何を躊躇うことがある」

 

 何度も確かめられ、セージはその度に答えた。マニゴルドは深く息を吐いた。

 

「……俺が聖闘士になりたいって言い出した時には、もう守護星座のこと、お師匠は知ってたんだろ。後継ぎが俺ってのが嫌で黙ってたんじゃねえのかよ」

 

「そうではない。しかし私の後継になりうる身と早々に知ったら『ああやはり』と思うのではないか。何の縁もない浮浪児を拾ったのは、自身の後継者にする算段だったのかと」

 

「そりゃまあ。納得したと思うよ」

 

「それを避けたかった」

 

 聖闘士になれる素質のために拾われたと少年が思った場合、そのことにのみ己の存在意義を見出すことになりかねない。己に価値はないと卑下するよりはいいが、それもまた人として危ういことのようにセージには感じられるのだ。

 

「生の素晴らしさを教えるという約束を果たせないまま、おまえに苛酷な一本道を強いるのは卑怯だろう」

 

「お師匠は自分の聖衣が嫌いなのか」

 

「いいや」

 

 セージはハクレイとの兄弟間の機微について明かす気はなかった。話したところで問題は解決しないし、この少年の得になることは何もない。

 

 それに。

 

「先の聖戦を蟹座として戦えたことは私の誇りだ」

 

 多くの先達に捧げる畏敬。共感。彼らから託された情熱。悲願。歴史の重み。長年相棒として付き合ってきた聖衣への愛着。感謝。それらをまとめて一言で表すなら「誇り」以外に何があるだろう。

 

 それが紛れもない真実だった。

 

 少年は身を震わせた。ややあってから押し出された言葉はいつもの調子だったが、顔は僅かに紅潮していた。

 

「それでお師匠は、約束破られた俺がへそ曲げて修行しなくなるのを心配したわけか。信用ねえな」

 

「逆だ。私の悲願成就のために教皇の駒になると言い切ってくれたおまえのことだ。我を殺して、蟹座を継ぐに相応しい評価を得ようとしたに違いない」

 

 少年は「買い被りじゃねえの」とそっぽを向いた。

 

「思い通りに動く手足は便利だが、おまえにはもっと大きなものを見て、考えて、動いてもらいたかった」

 

 そのために役立てばと小宇宙や積尸気の技を教えたつもりだ。だからこそ「積尸気使いの力は人殺ししかできない」という言い分を許せなかった。与えてやれたのがそれだけだったと認めたくなかった。

 

「まして冥界波の力に奢る者には、危うくて聖衣は譲れぬ。おまえはもっと生を知らなければならない。人にはそれぞれ適した修行場所があるが、おまえの場合は聖域では足りないようだ。今回それが分かった」

 

 セージは相手の手の中にガラスの小石を押し込んだ。マニゴルドは不思議そうに手元を見下ろした。

 

「たとえ鋭い破片でも、波に洗われるうちに磨かれ形を変える。海に入れ。そして他の石とぶつかって来い。聖域からの放逐ではないぞ。疲れたら浜に上がればいいし、私が良い頃合いだと思ったら拾い上げてやる」

 

 弟子は小石の縁を指でなぞり、ぼやいた。

 

「それって切れ味が鈍るってことじゃねえかなあ」

 

「そうとしか受け止められないようでは、修行不足だな。言葉と同じよ。おまえはギリシャ語を覚えた時に私だけを師としたか。他の候補生とも語らって、彼らの喋りかたも真似たはずだ。神官や使用人や雑兵……様々な者の言葉に揉まれて、今のおまえのギリシャ語がある。生まれつき備わっているものではなく、他人と触れ合い知識を深めることで身に付けたものだ。それと同じだ。あらゆる生を知り、己の生を見つけろ。おまえにはそれが必要だ」

 

「それが次の修行?」

 

「そして最後の修行でもある」

 

 それが叶った時、マニゴルドは蟹座の守護者に相応しい、死に最も近いがゆえに最も生の価値を知る者になっているだろう。そこまで成長すれば、セージももう弟子の歩む道に不安は抱かない。

 

「よってそれを成し遂げたと判断した時に、蟹座の称号を授けると約束しよう」

 

「へっ。今の言葉、後悔するなよ」

 

 マニゴルドはガラスの小石を宙に投げた。そして落ちてきたそれを握りしめると、セージに向かってにっと笑った。

 

「べつに海は嫌いじゃねえんだ」

 

 そうか、とセージも微笑んだ。

 

 空を照り返し銀色に光る地中海。太陽から続く強烈な光の道に目が眩みそうだ。波の下にあらゆる生き物とその残骸を隠して、海神は静かに眠っている。

 



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葆光(包み隠された光)

 

 会合から戻ってきた翌日。マニゴルドが足を運んだのは、友人たちの集う闘技場とは反対の方角だった。

 

 無人の草原はいつもと同じように静かだった。

 

 少年を迎えるように風が吹き、草が靡く。

 

 丘を渡る緑の光。

 

 波だ、と彼は目を細めた。師から最後の修行を言い渡された海に似ていた。

 

「蟹座ねえ」

 

 嬉しさや戸惑いは既に消え去り、胸に残るのは、いかにしてそれを成し遂げるかという悩みである。

 

 セージの言いつけた修行は、あまりに曖昧で漠然としていた。決められた技の習得や、誰かとの手合わせに勝利するといった、分かりやすい目標が存在しない。

 

 何をすれば、あるいはどうなれば師に「十分に生を知った」と認められるのか。すぐには答の見つからない難問であった。

 

 草の上に寝転がり、海で拾ったガラスの小石を目の上に翳す。空色よりややくすんだ青色が視界の半分を覆った。そのまま目を閉じれば、滑らかな表面に瞼の体温を少しだけ奪われた。

 

 もう片方の瞼の上にも別の小石を乗せる。ごつごつとした確かな重みは聖衣の材料となる鉱物の原石だ。ジャミールから持ってきた。

 

 師は世間という大海に入れと言った。

 

 尖ったガラスの破片でも、波に洗われ他の石とぶつかることで丸く磨かれるという。

 

 その兄は熱を上げろと言った。

 

 表面の残滓を燃やし尽くした果てに、鉱石は金属に生まれ変わるという。

 

 同時に試みたらどうなるか、少し想像した。熱くどろどろに溶けたガラスが海に落ちて、周りの海水を少しだけ蒸発させて海底に沈んでいく。そしてそのままタールの塊のごとく冷える。そんな光景が浮かぶだけだった。二兎を同時に追うのは止めておいたほうが良さそうだ。

 

 取り留めのないことを考えていたら、名を呼ばれた。見知った顔の二人が丘を越えて現れた。その片割れ、双子座のアスプロスは少し離れた所で立ち止まった。もう一人はマニゴルドのほうへやって来る。

 

「こんな所で昼寝なんてよくできるな。変人」

 

 気色悪そうに吐き捨てたのはカルディアだった。

 

 マニゴルドは柔らかな草の原にいる。その足の先には草に埋もれかけた墓標。右手の近くにも墓標。左側にも墓標。頭の上にも墓標。彼は墓場の丘にいる。

 

 嫌なら帰れと言う代わりに、「静かで良い場所だぞ」と返した。穏やかな気分だったのもあるし、カルディアのほうから歩み寄ってきたことに驚いてもいた。そして殺しかけた相手に対する気まずさも。

 

 アスプロスに目で問うと、僅かに肩を竦める動きが返ってきた。カルディアは自分の意思でやって来たようだ。

 

「もう熱は下がったのか」

 

「そんなもん、とっくに下がってる」

 

 カルディアと顔を合わせるのは、事件以来初めてだった。

 

 黄泉比良坂から師弟二人で帰還したその場で、セージには謹慎を命じられたのだ。カルディアに謝りに行くための外出も許されなかった。師によれば『謝罪の気持ちがない者の口先だけの詫びほど無駄なものはない』ということだそうだ。事実マニゴルドは心から謝る気などなかった。セージは愁いを帯びた目で弟子を見据えた。

 

『おまえが同朋を殺めかけたことは動かぬ事実。候補生の体調が戻ったら話を聞いてみるが、それまでおまえを野放しにしておくことはできぬ。それ故のとりあえずの処分だ。事の次第によっては処罰を追加するから、覚悟しておけ』

 

 そして謹慎は解け、未だに追加の処罰はない。つまり師はカルディアの話を聞けていないのだろう。マニゴルドはそう考えていた。もし話を聞かれる機会があったら、カルディアは子供らしい邪悪さで、あることないこと告げ口したに違いないからだ。

 

 マニゴルドの前に仁王立ちしてカルディアは言い放った。

 

「てめえは勘違いしてる」

 

 宣誓のような厳かさだった。

 

 草上に胡座を掻いて、マニゴルドは後輩を見上げた。相手が落ち着きなく拳を握ったり開いたりしていることには、気づかないふりをしてやった。カルディアは死の恐怖と対峙して、それを乗り越えようとしている最中なのだ。そう思ってしばらく待っていたが、痺れを切らして先を促す。

 

「つまり何だよ。それだけ伝えに来たわけじゃねえだろう」

 

「うっせえ今から喋るんだ黙ってろ。あの時は熱があったから上手く喋れなかった。でも死にたがってる弱虫なんて勘違いされたままじゃ嫌だ。だから来たんだ」

 

 子供の手がぎゅっと結ばれた。

 

「俺は早死にしたくて強い奴に喧嘩を吹っ掛けてるわけじゃねえ。心臓がドキドキして血がドクドク巡って頭がバチバチいうような瞬間が欲しいんだ。そういう瞬間には生きてるって感じがするから。俺は死にたいんじゃない。生きたいんだよ。おまえは邪魔すんな」

 

「でも小宇宙燃やす度に熱が出るなんざ、この先大変だぞ。生きたいなら聖闘士なんて目指すの止めて、家で大人しくしてろよ」

 

 分かっていない、とカルディアは首を振った。

 

「苦しいのは嫌だけど、炭の中で燻ったままゆっくり冷えてく埋め火みたいな一生なんて真っ平だ。どうせいつか死ぬ命なんだ。ここぞって時に一気に燃やして、後に灰も残らないくらい燃やし尽くすほうが格好良いだろ。聖闘士になればそれができる。だから俺は戦う。ただ寝て死ぬのを待つのに比べたら、小宇宙を燃やして苦しくなるほうが何倍もましだ。生きてるってことだから」

 

 目の前の子供は確かに黄金聖闘士の原石だ。マニゴルドが教えられても理解できないことを、すでに知っている。それだけでも彼より先を歩んでいるといって良かった。殺しかけたことを済まなく思った。

 

 殺さずに済んで良かったとも。

 

「カルディアは生を知ってるんだな」

 

「当ったり前じゃねえか。病人ほど健康のありがたさを知ってる奴はいねえ」

 

 得意げな返しに、マニゴルドは静かに笑った。メメント・モリ。死によって縁取られる生を思え。

 

「そうか。せいぜい頑張んな」

 

 相手は獲物が罠に掛かった顔で、にやりと笑った。

 

「頑張るさ。それで俺、教わったばっかりの技があるんだ。十五発撃って初めて完結するんだってよ。協力しろマニゴルド。俺を殺そうとしたんだからそれを受けろ。十四発で許してやる」

 

 殴られろと言われたなら大人しく受けただろう。口先で謝るよりも互いの気が収まる方法だ。しかし相手は蠍座の候補だった。思い当たったのは蠍座の必殺技である。マニゴルドは顔を引きつらせた。

 

「ふざけろ。凄っげえ痛くて狂い死ぬって技だろ、それ」

 

「いいじゃねえか。教皇の爺さんがやってもいいって言ったんだ」

 

 逃げようとしていたマニゴルドは中途半端な体勢のまま止まった。

 

「もしかして教皇と会ったのか」

 

「あの日の次の、その次の日だったかな。俺の熱が下がった日の夜に部屋に来た」

 

 教皇は、『弟子の所業は指導役である自分の不始末である』と詫びたそうだ。一介の候補生に対して平身低頭する教皇の姿に、同席していた聖闘士が慌てふためく様子がおかしかった、とカルディアは思い出し笑いした。

 

「意外に話が分かる爺さんだな。弟子は愚か者でなにも解ってない、もう二度とそなたと――俺のことな――会うことのないようにするが、もしまた見かけた時に怒りが収まっていなければ、蠍座の技を食らわせてやってもいい、ってさ。殺すのだけは勘弁してくれって頼まれたから、十五発撃つのは止めておいてやるよ」

 

 マニゴルドは唇を噛んだ。師に頭を下げさせて、命乞いまでさせていたとは知らなかった。情けなくて、今すぐ黄泉比良坂の大穴にでも消えてしまいたくなった。

 

「解った。……よし。来い。きっちり受けてやる」

 

 カルディアは目を煌めかせ、勢いよく人差し指を突き出してきた。指はマニゴルドの体にぐにりとのめり込んだ。マニゴルドは軽く眉をひそめた。痛いが、激痛というほどのものではない。

 

 苦痛に顔を歪めたのはカルディアのほうだった。ゆっくり手を引き、人差し指を空いた手で握りしめる。俯いたまま、次の二発目を繰り出す様子はなかった。

 

「突き指したんだな」

 

「してねえよ! くそ、あの爺! これを見越してわざと教えたな。許さねえ」

 

「落ち着けって。そりゃ逆恨みだ。そうだ、きっと遅効性の痛みなんだ。受けてやるから続きやれ。あと十三発残ってる」

 

「もうやらねえよ馬鹿!」

 

 マニゴルドはセージの名誉のために相手を宥めた。聖闘士の修行を始めて間もない者が、形だけ黄金聖闘士の技を真似たところで、同じ結果が得られるわけはない。自分は聖域を離れる予定だった。技を使う機会がすぐに訪れるとは、発言当時の教皇も思っていなかったのだろうと。

 

「だいたい習ってすぐ使えるようになるわけねえだろ。俺だって冥界波に苦労したんだぜ」

 

「なんだそれ」正にその技を受けかけたとも知らず、子供は尋ねた。

 

「蟹座の技だ。俺も、蟹座の候補なんだ」

 

 ――ああ、言ってしまった。

 

 マニゴルドは息を止めた。

 

 けれどカルディアはどうでもよさそうな相槌を打っただけだった。突き指が痛むらしく、彼のほうを見てもいない。その反応に拍子抜けして彼は苦笑した。他人にはその程度の事実なのだ。

 

「カルディア、おまえがちゃんと技を覚えたら、改めて残りの十三発は受ける」

 

 これをやる、と黒い小石を相手に受け取らせた。

 

「何だよこれ。ただの石だろ」

 

「そのままならな。聖衣の材料になるガマニオンって鉱物の原石だ。とびきり高い温度で燃やして初めて役に立つ。おまえにぴったりだろ」

 

 カルディアは胡散臭そうにその原石を眺めていたが、やおら空いた手を出してきた。握手ではないようだ。

 

「もう一つ持ってるだろ。そっちも寄越せ」

 

「てめえ……。欲張りだな」

 

 マニゴルドはガラスの小石も渡した。曇ったガラスを透かし見て、カルディアは口角を上げた。

 

「ふーん。こっちのが綺麗じゃん」

 

「ちなみにそれ、ただのガラスな。海の中で揉まれて丸くなっただけ」

 

 マニゴルドにとっては意味のある師の教えでも、他人には無意味なガラクタだろう。はたしてカルディアは「畜生騙しやがって」と笑いながら叩き返してきた。

 

 そして用は済んだとばかりに踵を返しかけたので、マニゴルドは急いで呼び止めた。返された小石は二つあった。

 

「原石のほうも要らねえのか」

 

「要らねえ。欲しけりゃ自分で探す!」

 

 言い捨てて子供は走り去っていった。

 

 入れ違いに双子座の若者が近づいてきた。お勤めご苦労さん、とマニゴルドが声を掛けると、アスプロスは煩わしそうに頷いた。

 

 カルディアとマニゴルドを二人きりで会わせれば、何が起きるか分からない。そう警戒して来たのだろう。アスプロスはすでに、候補生二人の間で起きたことに少なからず係わりを持っている。

 

 マニゴルドが小石を弄んでいると、ガマニオンのほうを横から奪われた。

 

「聖衣の材料か。初めて見た。聖闘士を目指す者にはまたとない贈り物だろうに、あの子は勿体ないことをしたな」

 

 黄金聖闘士の手が一度小石を包みこみ、再び開かれた。黒かった小石は加えられた力で僅かに銀色味を帯びていた。精錬された後に現れた輝きと同じ色だ。

 

「同じ力をそちらの小石に加えても、ただのガラスは粉々に砕けてしまう。逆にそのガラスが受けてきた摩擦をこちらの原石に加えても、本来の価値は生まれない。聖闘士と人に置き換えてみると、なかなか含蓄がある」

 

「返せよ」

 

 石が掌に落とされる。と、不意に胸倉を掴まれた。ぐいと近づいたアスプロスは、目の奥に不愉快の気配を滲ませていた。

 

「なぜ戻ってきた。聖域を出発する時は処刑台に引かれる死刑囚のような顔をしていたくせに。それがどうして、何もなかったような顔をしてここにいる」

 

「俺が死刑囚じゃなくて死刑執行人《マニゴルド》だからさ」

 

「ふざけるな。訪問先へ連れて行って、ただ連れ帰って……。ほとぼりが冷めるまで遠くへ逃がしただけじゃないか。猊下はおまえに甘すぎる」

 

「甘かねえよ。お師匠にはあの日のうちに殺されかけた。教皇自身に半殺しにされるって相当な罰だろ。おまけにその後は謹慎だ。カルディア本人からの報復も受けてやらなきゃなんねえ」

 

「威張るな。さっきの様子からして、猊下が謝られたことも知らなかっただろう。俺は猊下を宿舎にご案内して、その場で見ていたんだ。あの方が一介の候補生風情に頭を下げられるところなんて見たくなかった。あんなご立派な方にそこまでさせたことを反省しろ」

 

 返す言葉もなかった。教皇セージを敬愛する聖闘士が知ったら、誰でも同じように憤るだろう。不出来な弟子だという自覚はマニゴルドにもある。

 

「悪かったとは思ってる」

 

「おまけに蟹座だと? おまえみたいな馬鹿が猊下と同じ聖衣を纏うなんて百年早い。天馬星座という話はどこへいった。この嘘吐きが」

 

「そんなつもりじゃない。俺の勘違いだったんだ」

 

 アスプロスは彼を解放した。腹に溜まっていたことを一通り口にしてすっきりしたのだろう。表情もすっきりとしている。

 

「まあいい。ようやく本当のことを喋る気になったということは、聖衣を授かる日取りが決まったんだろう。いつなんだ」

 

「あ、それはまだ。蟹座の候補だって言われただけ。これから最後の修行やって、それが認められてからだから、いつになるかは全然分かんねえ」

 

「またそうやってごまかす気か」

 

「本当だって」相手の疑いを否定しながら、マニゴルドはふと思うことがあった。彼が天馬星座ではなく蟹座だと、アスプロスはすでに予想していたのではないか。

 

 確かめるとそれはあっさり認められた。

 

「ご自身の弟子とはいえ、猊下が巨蟹宮での修行を候補生に許された理由を考えれば、おまえも蟹座の候補だとみるのが自然だ。アテナのご降臨と合わせて秘されているから天馬星座、という考え方も悪くはないが、おまえにあの称号は似合わない」

 

 黙り込んだマニゴルドを見て、アスプロスは意地悪く笑った。

 

「天馬星座説を随分と気に入っていたようだし、ハスガードと盛り上がっているところに水を差すのも悪いと思って放っておいた。何座であれ、俺より序列が上になることはないからな」

 

「アスプロスって他人より上に立つの好きだろ。馬鹿と煙は何とやらってか」

 

「……そうか。だったら、いつか天馬になる者が現れたら教えてやろうかな。黄金位になれるのに、勘違いで青銅位を目指していた奴がいると。おまえも名乗ったらいい。蟹座の黄金聖闘士とは仮の姿、天馬星座の青銅聖闘士こそ俺の真実の姿だ、とな。凄いぞ。きっと聖闘士の歴史上初めて下を目指した変革者だ」

 

 マニゴルドは顔が熱くなるのを自覚した。この一件で、この先いつまでもアスプロスにからかわれることを確信した。むしろ本物の天馬星座の聖闘士が生まれたら、いっそうひどくなるに違いない。

 

 その確信はある意味では正しく、ある意味では外れていた。天馬星座の聖闘士となる少年が聖域に入るのは、双子座の黄金聖闘士が聖域を去ったのちのことである。アスプロスはその生前、天馬星座の少年を知ることはなかった。

 

 一陣の強い風が吹いて、草が靡いた。

 

 顔に掛かった髪を煩わしげに押さえて、アスプロスは空を見上げた。マニゴルドもつられて天を仰ぎ見る。遠い空の彼方、大気の膜の向こうに星々の世界が広がっている。

 

「大地から星までの道は平穏ではない(Non est ad astra mollis e terris via)。おまえも年下の候補生に構っている暇があったら精進しろ。うかうかしてると追い抜かされるぞ」

 

 マニゴルドは首を傾げた。百年早いと言われたばかりなのに、まさか応援してくれるとは思わなかった。

 

「あれ、双子座様は俺が蟹座になってもいいの」

 

「俺たちのことを知っている奴が隣の宮に入るのは、ある意味では安心だと思う程度には期待している」

 

 黄道十二宮の順番に並ぶ守護宮は、双子座の双児宮と蟹座の巨蟹宮が隣り合っている。アスプロスの言葉が双児宮の秘密の住人のことを指しているにせよ、素直ではない言葉だった。

 

 それでも彼は去り際に真面目な助言をくれた。誤って天馬星座だと伝えてしまった者には、正しい守護星座を伝え直すべきだと。

 

「とくにハスガードにはな。会合に出かける時のおまえの様子を見て心配していた。もう問題ないならそう伝えてやれ」

 

 分かった、とマニゴルドも聞き入れた。

 

 二人の予想通り、ハスガードはマニゴルドの守護星座が明らかになったことを喜んでくれた。

 

「やったなこの野郎!」一声叫ぶなりその太い腕を少年の首に巻き付ける。「問題解決、称号も判明。でも調子に乗るなよ。俺のほうが先任だし年上だし背だって高い。守護宮だって俺のほうが二つも前だ。聖戦の出陣順も乾杯の音頭取りも、ひよっこには譲らないからな」

 

「出陣決めるのは大将だろ」

 

 マニゴルドも笑いながら肘で小突いた。

 

 ハスガードは本音と逆の態度を示さない。時と場合を弁えて控えることはあっても偽ることはない。つまり実直で信頼できる男だ。そんな男が同朋として歓迎してくれていることが嬉しかった。

 

「会合から猊下がお戻りになった時、アスプロスと一緒に留守中の報告をしに教皇宮に上がったんだ。でも猊下はおまえのことは何もおっしゃらなかった。そのうち大々的にマニゴルドが後継者だと公表するおつもりなんだろうか」

 

「そんな予定ないない。これ以上のやっかみは俺だってごめんだ」

 

「そうか。だったら俺も知らん顔していよう。あ、むしろ天馬星座として発表してしまうのはどうだろう。ただ隠すよりいい攪乱になると思うぞ」

 

 ここでも天馬星座が尾を引いている。相手に悪意がないだけに、マニゴルドは「勘弁してくれ」と頭を抱えた。今でさえ勘違いしていた時期の言動を思い出しては布団の中で七転八倒しているのに、恥の上塗りなどしたくない。

 

          ◇

 

 同じ年、一人の候補生が遠い修行地から帰ってきた。修行を終えて山羊座の黄金聖闘士になることが決まったエルシドだ。

 

 彼が聖域で修行していた頃に親しくしていた者たちが、知り合いの成功を祝いに集まった。しかし本人のあまりに淡々とした態度に白けて、すぐに解散してしまった。昔からこういう奴だった、と思い出したのである。

 

 マニゴルドが来た時には、彼の周りには誰も残っていなかった。

 

「おまえさあ、もう少し愛想良くすれば」

 

「べつに愛想の良し悪しで星に選ばれるわけでなし」と、黒髪の若者は答えた。「俺はひたすら拳を磨き、それが認められてここにいる」

 

 その三白眼が十二宮へ向けられた。守護することになった磨羯宮を眺めている姿は、傍目にはこれからの使命に思いを馳せているように見える。

 

 しかしマニゴルドを振り返って口にしたことは、まったく緊張感がなかった。

 

「あそこで暮らしたら怒られるだろうか」

 

 麓の役宅から山の高い所まで通うのは面倒だという。知るか、と山頂から毎日下りてきている少年は吐き捨てた。

 

「従者が嫌な顔するだろうけど、勝手にすれば」

 

「従者か」

 

 エルシドは溜息を吐いた。人里離れた山奥で、自分だけでなく指導者の身の回りのことをこなしてきた者からすれば、他人に世話されるのは却って気詰まりだった。

 

「黄金だからな。体裁ってもんがあるんだと」

 

「青銅や白銀なら体裁なんて気にしなくて良いのに。いっそおまえと守護星座を交換したい」

 

「ああそうだった、くそ」

 

 マニゴルドは髪を掻き回した。忘れていたが、この友人にも自分は天馬星座だと伝えていたのだ。余計な見栄を張るのではなかった。

 

「それ、俺の間違いだった。正しくは天馬星座じゃなくて蟹座だった」

 

 エルシドは片眉を上げて驚きを示した。

 

「どうやったら間違えるんだ」

 

「俺にも色々あんだよ。とにかく前に言ったことは無し。忘れてくれ」

 

 それは、と困惑気味にエルシドが言いかけた時、走ってきた候補生が通りすがりに野次を飛ばした。

 

「うわあガラの悪い奴が目つき悪い奴と悪巧みしてる! 怖え! 殺される!」

 

「てめえこらカルディア!」

 

 傍若無人な子供はげらげら笑いながら走り去った。今のは誰だと目つきの悪い友人が聞くので、仕方なくガラの悪い聖域暮らしは答えた。

 

「おまえが外地に行ってた時に入った掟知らずの狂犬。ちなみに蠍座の予定だ」

 

「なるほど。あれが聖域一の悪童よりも手に負えない問題児か」

 

 納得してからエルシドは漏らした。「シジフォスさんが間にいてくれて良かった」

 

 蠍座の天蝎宮と山羊座の磨羯宮の間には、射手座の守護する人馬宮がある。エルシドは、非情にも尊敬する先輩を盾にして嵐を防ぐことにしたようだ。

 

「いるけど外部任務で空けてること多いぞ。壁にはならねえだろ」

 

「それだ。さっきの話に戻るが、ついこの前シジフォスさんが修行地に来たんだ」

 

 任務の途中に寄ってくれた時に、話の流れで共通の知人であるマニゴルドのことが話題に上ったという。そこで相手も当然知っているものとして、エルシドは彼が天馬星座の候補だと話してしまったそうだ。

 

「口数少ないくせに余計なこと喋りやがって……」

 

「済まん。俺の聖衣継承に合わせて聖域に帰ると言っていたから、そろそろじゃないか」

 

 その言葉通り、射手座のシジフォスも久しぶりに聖域に戻ってきた。

 

「山羊座の継承おめでとう。これからはお隣さんとして、同僚として、よろしくなエルシド」

 

「こちらこそお願いします。一日も早くあなたに追いつきます」

 

「はは、背丈はもう追いつかれてるかな」

 

 山羊座となる後輩を祝った後、シジフォスはその場にいたマニゴルドにも声を掛けた。

 

「エルシドから聞いたぞ。おまえも早く天馬星座になれるといいな」

 

「間が抜けてんだよ、今頃」

 

 それからの手当たり次第の罵倒は、マニゴルド自身にも止められなかった。恥ずかしさを紛らわせるための完全な八つ当たりである。見かねたエルシドから事実を明かされたシジフォスは、笑っていた。

 



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余話「朝の宗教講義」

 

 まっさらな青空が中庭に覆い被さっている。

 

 セージは腰の後ろで組んでいた手を解いて、弟子を振り返った。

 

「今日は何から始めようか、マニゴルド」

 

 柱廊の縁に片脚立ちして遊んでいた少年はセージを見上げた。その拍子に体が揺れて、床に両足が付いてしまった。小宇宙どころか、闘士として基本的な体幹さえ身についていない子供だ。

 

 もう少し日が高くなったらマニゴルドは山を下りて、魚座のルゴニスの所へ顔を出した後に闘技場に行く。それまではセージとの修行の時間だ。修行と言っても、まだギリシャ語の日常会話と計算、それに聖闘士の常識のような簡単なことしか教えてやれていない。

 

 掛けなさい、と促してセージは柱廊の端に腰を下ろした。隣に少年も座り込む。セージの胸にも届かない背丈なので、座ってもやはり頭の位置は彼よりだいぶ低い。

 

「そういえば昨日おまえが見かけたという、黒い服に黒い帽子、付け髭を付けた者のことだが」

 

「そうそう。あの黒い男。聖域であんな奴初めて見た。あれ何だ?」

 

「普段は教皇宮で働いている神官だろう。用事で聖域の外に出る時、修道士の恰好をすることがある」

 

 少年は首を傾げ、今まで散々に見たことのある修道士の姿とは違うと言い返した。

 

「茶色とか灰色とか赤とか、坊主の服が色々あるのは知ってるけどさ、丸筒みたいな変な帽子被ってたし、髭の坊主なんて初めて見たぜ。待てよ、会う度に俺を睨んでくるおっさんも実は坊主で付け髭か」

 

「神官長は正教徒ではないし、髭も自前だ」

 

 でもあの髭が、と子供は妙なところに拘っている。

 

「髭は本人の好みだ。それ以上でもそれ以下でもない。今朝は、髭と同じように自由意志で決められる神の話をしよう」

 

 老人と少年、二人きりの講義が始まった。

 

          ◇

 

 世の中の信仰には二種類ある。

 

 何だと思う、とセージは尋ねた。

 

「神様を信じるか信じないか、だろ」

 

「多くの神々の中からその時自分に都合の良い一柱を選ぶやり方か、唯一の存在に頼るか頼らないかを決めるやり方だ」

 

「信じることが前提なわけね。俺には関係ねえな」と少年は嘲笑した。

 

 無神論者のようなことを言う。セージは物寂しい気持ちで弟子の肩を抱いた。

 

「そう言わずに話を聞きなさい。今ここにいる者たちは、数多の神々の中からアテナを奉じることを選んだ。しかし他に選びようがなかったのも事実だ。人の世界を守るためには、唯一手を差し伸べて下さったアテナにお縋りするしかなかった」

 

 その点で聖闘士は、多神教的であると同時に一神教的でもある。

 

「数多の神々がおられるという感覚は、まだおまえには理解しがたいだろう。だから今日は、唯一無二の全能神を信じる者たち――アブラハムの宗教についての話に限定しておこう。アブラハムの宗教は三系統ある。成立順にユダヤ教、キリスト教、イスラム教となる。おまえも馴染みがあろう」

 

「ねえよ」

 

「町でこういうものを見たことがあるはずだぞ」

 

 セージは地面に置かれていた枝切れを拾った。庭掃除の者が、主人のためにさりげなく用意しておいてくれた物だ。

 

 その枝切れでまず描いたのは、単純な十字。

 

「十字架なら知ってる」

 

「教派によって棒の長さや本数は様々に種類があるが、基本的にこれだな。これを掲げているのが、ナザレのイエスを救世主とするキリスト教の教会だ」

 

「けったくそ悪い坊主共の巣窟」と悪童は吐き捨てた。

 

「おまえの育ったイタリアではローマ・カトリックが主流だが、聖域周辺では正教会という別の教派が盛んだ。昨日見かけたという黒い修道服に黒い帽子、髭を生やした恰好は、正教会の一般的な修道士の装いだ。二つの教派の違いについては後で話そう」

 

 セージは次に、三重の同心円を横半分にした円弧の中心を、縦棒で貫いた左右対称な図を描いた。

 

「これは分かるか」

 

「知らない」

 

「ユダヤ教でよく用いられる七枝の燭台だ。百年ほど前に広まった図案としては、こういうものもあるな」

 

 隣に三角形を二つ重ねた六芒星を描くと、少年は「こっちは知ってる」と指差した。

 

 この時代、ユダヤ人の多くは東欧で暮らしていた。マニゴルドがユダヤ人に会いたければ、イスタンブールやフェズに行くのがいいだろう。

 

「ユダヤ教については、キリスト教で言う旧約聖書を唯一の正典とする教えということだけ、今は覚えておけ。最後にイスラム教だが、この教えは象徴的な図案を持たない。代わりに開祖の使った印章を象ったものや、信仰告白という短い言葉を掲げることが多い」

 

「それは書かないのかよ」

 

 セージは枝切れを地面に突き立てた。

 

「書かぬ。『神は唯一の存在であり、ムハンマドがその使徒である』という意味合いの言葉だぞ。ムハンマドというのはイスラム教の開祖のことだ。仮にもアテナの代理人たる私が、アテナのお膝元の大地に記していいものではない」

 

 三日月と星がイスラム教の象徴として広まるのは、オスマン帝国が国旗として制定した後のことであり、この時代から見ればまだ未来のことである。そもそもイスラム起源の図案ではない。

 

「お師匠にしては厳しいね」

 

 心外だ、とセージは片眉を上げた。

 

「信者同士の助け合いの精神は見習うべきだと思っている。しかしイスラム教は偶像崇拝を禁じているのだ。それだけなら好きにしたらいいが、他の信仰で崇められている神仏の像まで破壊して回る悪い癖がある。万が一聖域に侵入されて、向こうにおわす(とセージは後ろを仰ぎ見た)アテナの神像を汚されたらと思うと、気が気でない」

 

「十二宮で撃退しろよ」

 

「そのような日が来ないことを祈ろう。さて、三系統の括りについてはこれくらいにしておこう。理解できたか」

 

「全然。違いが分からない」

 

 率直な感想にセージは軽く頷いた。

 

「ユダヤ人が、絶対服従する代わりに豊かな地をもらうという約束を神と交わしたのがユダヤ教だ。約束を守ること、すなわち戒律を守ることが求められる」

 

 マニゴルドは膝に肘を乗せ、頬杖を突いた体勢で聞いている。

 

「ユダヤ人だけのものだったユダヤ教から派生したのがキリスト教だ。教えをユダヤ人以外に広めるために、神に服従する見返りを『救われる』ことにした。人があるべき姿を失ったという罪からの救いだ。ナザレのイエスを救世主とするのはここだけだ」

 

「後の二つだとどうなんの」 

 

「ユダヤ教にとっては神の子などもってのほかの異端者。イスラム教にとっては預言者の一人だ。逆にイスラム教で最後の預言者とされるムハンマドは、他の二つからは預言者を騙る知識不足の偽者とみなされている」

 

「お互い様ってわけだ」

 

「そうだな。イスラム教は、教えの内容はキリスト教と大差ない。先に言った偶像崇拝の禁止と、神がムハンマドを通して下したとされる聖典クルアーンを神聖視しているのが最大の特徴だ」

 

 イスラム教の宗派には、有名どころでスンニ派とシーア派がある。それに比べれば少数派だが、ドゥルーズ派という異色の宗派があった。それについて説明しようかどうしようか、セージは迷った。聖域と姿勢が似ているからだ。

 

 結局、イスラム教を初めて知った日のうちに教えても混乱するだけだろうという結論に至った。少年の理解力を軽んじているわけではないが、詰め込みすぎるのはよくないだろう。

 

「へいへい。今日は終わり?」

 

 飽きたか、とセージが笑いながら問うと、ちょっと、と弟子も笑った。

 

「もう少し続けるぞ」

 

 キリスト教の中の教派について。

 

「おまえの育ったイタリアに浸透しているのはローマ・カトリック。対してここギリシャで広く支持されているのが正教会だ。カトリックやプロテスタントのような西欧に広がった諸教会からは、東方教会とも呼ばれる」

 

「どっちの呼び方が正しいんだ」

 

「ギリシャでは正教徒がほとんどだから、正教会と呼ぶほうが無難だろう。――そうだな、ここにエクレシアというワインの醸造工房があったとする」

 

 セージは例え話で説明することにした。エクレシアとは人々の集まり、すなわち教会を指すギリシャ語だ。

 

「この工房のワインが広く売れ始めるにつれ、そこで働く職人たちの間に、理想のワインに対する考えの違いが生まれた。昔ながらの製法を守り『何も引かない、何も足さない』を座右の銘とする一派と、『客の求めと時代に合わせた普遍的な味を提供していく』ことにした一派だ。前者をまとめるのがオルトドクス氏、後者をまとめるのがカトリコス氏だ。二人は長らく工房の未来について話し合ったが、カトリコス氏を支持する町の不埒者が、オルトドクス氏の家を打ち壊したことがとどめとなって話し合いは決裂。喧嘩別れになった」

 

 第四回十字軍が正教会の中心地であるコンスタンディヌーポリを攻略した事件である。

 

 しかしこの事件がなかったとしても、いずれ二つの教会は分裂していただろう。それまでの数世紀の間に正教会とカトリックは、ローマ教皇に対する見解や祈祷文などを巡って差異を深めていった。たとえば相互破門はその経緯の一つに過ぎず、決定的な分裂のきっかけではない。

 

「エクレシア工房は二つに分かれた。オルトドクス氏は東に工房を構え、カトリコス氏は西に工房を構えた。それぞれが、『我こそが正当なエクレシア工房の味を受け継いでいる』と主張して今に至る」

 

「本家と元祖の争いみたいなもん?」

 

「まあそうだな。カトリコス氏の弟子の中に、『工房設立当時の職人が書き残した製法しか信じない』と抗議して独立した者たちがいた。ただし伝統を重視するといっても、オルトドクス氏のワインの造り方は参考にしていない。プロテスタントと呼ばれ、ドイツやイギリスにいる者たちのことだが、聖域で暮らす限りは縁がないだろうから省略するぞ」

 

 少年は深く息を吐いた。難しいか、とセージが問うと首を横に振った。

 

「カトリック教会の頂点にはローマ教皇がいる。翻って正教会はそのような最高権威を認めていない。全教会の頂点はハリストス(キリスト)と考えているからだ。その代わり地域ごとにまとめ役の主教がいて、最も格の高い総主教と呼ばれる者同士は対等とされている。儀礼上はコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭格となっている」

 

 かつて正教会が東ローマ帝国に庇護されていた頃は、皇帝に任命されたコンスタンディヌーポリ総主教が東ローマ帝国領を統括していた。トルコ、ギリシャからブルガリア、セルビア、ロシアまでを含む地域である。皇帝が幼帝の時には総主教が摂政となった例もあった。キリスト教会の首位の座をローマ教皇と争っていた時代もあったのだ。

 

 セージたちが生きているこの時代においても、コンスタンディヌーポリ総主教庁はオスマン帝国領内の正教徒を統括している。

 

「ここ聖域と正教会の仲は概ね良好でな。聖闘士が身分を偽って外地で活動する時には、正教会の一組織――自治教会を名乗ることもコンスタンディヌーポリによって黙認されている。というよりもこの自治教会は聖闘士のために用意されたものだ」

 

 この事実を知った聖闘士が大抵そうであるように、弟子も驚いたようだった。

 

「いいのか、そんなこと。教皇を認めてないなら、お師匠が教皇と呼ばれてることだって正教会からしたら許せねえだろうに。あ、そっちは秘密なのか」

 

「あくまで正教会が認めていないのは、キリスト教世界の頂点に教皇という一人物が立つ、という考え方だ」

 

 そもそも教皇《パパ》という呼称はローマ教皇だけのものではない。遠い昔は都市ごとの主教に対しても用いられていた。やがてその対象者は絞られていったが、十八世紀当時も二十一世紀においても、アレクサンドリアにいる正教会総主教とコプト正教会総主教の二人が《パパ》と呼ばれている。

 

「神秘主義の色が濃い辺境の一教会、というのがここ聖域に対する外向きの見解のようだ。狭い共同体の中で古い呼称が伝統的に残っているだけならば、教皇と呼ばれる存在がいても問題なかろうよ。むしろローマ教皇の無謬性を否定するためにも、教皇が複数存在したほうが正教会としては嬉しいかも知れぬ」

 

「正しいって何だろう」とマニゴルドは呟いた。

 

 少年の困惑に老人は頷いてみせた。

 

「正教とは何かということについて、正教会は『ハリストスのいのちそのものであり、いのちとは言葉で説明できないもの』という姿勢を取っている。その真髄は体験の中からしか掴めず、体験を通じてしか伝えられないのだそうだ」

 

 小宇宙みたいだ、と弟子は言った。話を聞くだけでなく体感しなければ理解しがたいという点において、聖闘士の真髄と共通している。

 

「そうだな。そういえば、神の像と肖という考え方が正教会にある。これも聖闘士を理解するのに役立つだろう」

 

「ぞうとしょう?」

 

 キリスト教において、人間は神の姿に似せて造られたとされている。ここまではどの教派も共通しているはずだ。

 

 正教会ではその似姿のことを、像と肖に区別する。神に近づくための力や可能性や出発点である神の像《エイコーン》と、その実現や完成を意味する神の肖《ホモイオーシス》だ。

 

「最初の人間が犯した『原罪』が、その子孫である今日の人間全てに染み渡ってしまい、人は神と別物の堕落した存在になったとするのがカトリックの考えだ。正教会は違う。神の肖はアダムとイブによって失われてしまったが、像のほうは消えたのではなく壊れた形でまだ残っている。ゆえに全ての人は神の似姿を残した尊いものだとされている」

 

 自身も含めて人は塵芥だと諦観する少年は、この時も黙って冷笑した。セージは胸の内に溜息を漏らして説明を続けた。

 

「つまり人はどんなに成長しても完成することのない不完全な存在ではあるが、成長することで神に近づき、神に似ていくことはできる。像はどんな人生にも関わらず失われないが、肖は意識的に自分の中に取り入れる必要がある。それが正教会の考えかただ。

 

 ……さて、修行を重ねた聖闘士が、必ず手に入れているものがある。それは何だろう」

 

 称号と聖衣、と弟子は答えた。それも間違ってはいないが、セージの求める返答ではなかった。

 

「小宇宙だ。奇跡さえ起こす生命力の源。たとえば青銅や白銀聖闘士の実力では百人束になったところで黄金聖闘士に歯が立たないが、小宇宙を高めることで実力差が帳消しになる可能性も生まれる。黄金聖闘士のように第七感に目覚めた者が更に極限まで小宇宙を高めれば、生死の理さえ超えることができる。それは神々に立ち向かうために、我々もその領域へ近づいていく必要があるからだ、とも考えられよう」

 

 足の先をぶらぶらと揺らしていた弟子が、その動きを止めた。

 

「考え方が似てるから正教会と聖域が仲が良いってのか。でも変じゃね? 聖闘士はアテナを奉って他の神と戦うんだろ。正教会はアテナを神様と認めてるのか」

 

 鋭いな、とセージは弟子を誉めた。

 

「たしかに正教会は一神教だ。神が唯一であることが第一に信ずべきこととされている。アテナは唯一神ではないから、彼らにとっては神ではないだろう。表面がいくら似ていても、根本では我々と違う」

 

「そらみろ」

 

「ただ正教会が地域的にギリシャや小アジアの影響を強く受けていることは、世間に知られた事実だ。聖域から正教会の内部へ送り込まれた雑兵も多いから、聖闘士の持っていた知識や思想も多少は先方に影響している。たとえばこの概念が、そうだ」

 

 セージは地面に「藉身(せきしん)」と書いた。

 

「受肉ともいうが、神が人となることを指す言葉だ。正教会ではイエスは神の子ではなく、神そのものとされている。神が人の子として生まれることを藉身という」

 

 藉身したことで、神は人の肉体だけでなく人としての全てを得た。生身の人となることで、喜びも、苦しみも人と分かち合った。

 

「降臨されるアテナと同じなのだよ」

 

 

 

 余話「朝の宗教講義」(了)

 



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さすらい人の夜の歌


 

 次はいつ来てくれるの、と女は客にしなだれた。柔らかな胸が相手の背で潰れて形を崩した。服が着られないと言われて離れるが、もう一度同じ事を尋ねた。商売としての愛想だけではない。女はこの若い客が気に入っていた。

 

 顔立ちは悪くないし、体つきも猫科の猛獣のようにしなやかだ。そして時折見せる、奇妙な雰囲気が好きだった。

 

 彼の体の向こうが、どこか知らない場所へ通じている。抱かれていると、そんな感覚に囚われることが時々あった。だからいつか本当に遠くへ連れ出してもらえそうな気がした。誰もいない、何もかも忘れられる場所へ。

 

 無論、それが都合の良い錯覚だと彼女は知っている。同じようなことを彼に感じる娼婦が他にもいるからだ。逆に、なんとなく彼が怖いと、近づくのさえ忌避する者もいる。それこそが彼の魅力だろう。

 

 この若者は、自分のことをほとんど話さない。それでも稀に溢れる言葉の断片を繋ぎ合わせると、親方の許で修行中の職人らしい。まだ一人前として認められていないのが不満なようだ。見たところ十五、六歳。そんなに焦らなくてもいいのにと女は思う。

 

 何の職人を目指しているのかは尋ねていない。

 

 服を着終えた客が振り返った。そこにあるのは、いつも浮かべている不敵な笑み。きっと悲しい時や腹立たしい時、死の間際にさえ同じ表情をしているだろう。

 

 その笑顔で客は答えた。――気が向いたらまた来るさ。つれない返事に、女は腕をつねってやった。

 

          ◇

 

 娼館を後にしたマニゴルドに、横から声が掛かった。顔見知りの遊び人だ。「よう名無し、どこ行くんだ! 一杯どうだい」

 

 もう帰るのでまた今度、と断るものの、他にも何度か同じような誘いを受けた。道行く彼に親愛を込めて挨拶をする者は多い。一見してその筋と分かる者とさえ、彼は気軽なやり取りを交わす。

 

「名無しの若旦那、たまにはうちの店にも顔出して下さいよ。用心棒をしてくれるなら、お代は安くしておきますよ」

 

「嫌だよ。この前の揉め事、まだ片付いてねえだろ。人を巻き込もうとすんじゃねえ」

 

 マニゴルドが釘を刺すと、「女たちが待ってるのは本当ですからね」と含み笑いを残して男は引っ込んだ。

 

 

 大通りに出たところで、彼は知り合いを見かけた。特徴的な大きな箱を背負っている。つまりは移動中の聖闘士だ。先方は彼の存在に気づいていないようなので、走り寄って声を掛けた。

 

「アンサー!」

 

 旅装の若者は振り返った。そして駆け寄って来た彼と、彼のやって来た通りを、順に見やって顔をしかめた。

 

「噂に聞く女遊びか。恥ずかしくないのか」

 

「羨ましいならいい娘紹介してやるぜ」と、マニゴルドはへらりと笑った。

 

「黙れ。おまえといると俺まで堕落しそうだ」

 

 足早に歩き出した友人の横にマニゴルドも並んだ。

 

「この前、ガキみたいな候補生にも言われたわ。女好きが移るから近寄るな、だと。傷付いたねえ。俺もう闘技場行けない」

 

「人のせいにするな」アンサーは彼を小突く振りをした。「おまえ、闘技場になんか全然来ないじゃないか。だからって代わりに白粉臭い修行を何年積んだところで、聖闘士になれるとは思えないぞ。腐ってないで、いい加減に心を入れ替えろよ」

 

 セージから最後の修行を言い渡されて数年。花街を歩いても不自然でない年頃になっても、マニゴルドの身分は未だに候補生のままだった。修行仲間が聖闘士や雑兵として歩き始めているのに、彼だけが揺籃の中で取り残されている。しかし彼の知り合いは皆、その状況を仕方のないことだと受け止めていた。

 

 何しろマニゴルドは、来る日も来る日も俗世で過ごしている。彼は酒場や娼館や賭場や、時にはもっと物騒な場所に出入りして、しかもその事を隠そうとしなかった。闘技場で汗だくになって訓練に励んでいたマニゴルド少年を知る者からすれば、今の彼は自堕落もいいところだ。

 

「金はどうしてる。まさか猊下から小遣いを頂戴しているわけじゃないだろうな。それとも何かくすねて売り飛ばしているのか」

 

「あ、勘違いしてんな。聖域とは関係ねえよ。俺が自分で稼いだ金だ」

 

 マニゴルドは腕を叩いてみせた。選り好みさえしなければ、世間には案外仕事が転がっているものだ。

 

「威張るんじゃない。余計に腹立つ。どうやって聖域を抜け出しているかは知らんが――いや言うな、聞きたくない――近場のロドリオ村で遊ばないのは、少しは後ろめたい自覚があるからだろう。いい加減に改めないと、どんどん肩身が狭くなるぞ。おまえの品行の悪さや評判が猊下のお耳に入ったら、お嘆きになるだろう」

 

 そのくらいで嘆いていたら自分の師は務まらない。元来がふてぶてしい弟子はそう思うが、黙っておいた。

 

 やがて二人の若者は人里離れた荒野に立ち入っていた。まもなく聖域だ。アンサーが立ち止まった。

 

「悪いが、ここからは離れて歩いてくれないか。嫌なことを言っている自覚はあるんだが……」

 

 聖域一の遊び人としての悪名ばかり高くなったマニゴルドは、気まずそうな相手のために笑った。

 

「気にすんなって。おまえにも立場があるってことくらい分かってるさ。先に行けよ」

 

「済まん」

 

「任務お疲れ」

 

 かつての候補生仲間は頷き、聖域へ続く岩山を登っていった。後ろ姿はあっという間に見えなくなった。

 

 一人となったマニゴルドは振り返り、来た道を遠く眺めやった。

 

 残日の黄色い光が大地に突き刺さっている。岩々は夕陽に磔にされた苦痛を、悲鳴を上げる代わりに影を伸ばすことで耐えていた。

 

 彼は再び前を向き、積尸気に通じる穴を開いた。雑兵や聖闘士に見咎められずに俗世へ出入りするための、積尸気使いならではの「近道」である。

 

 十二宮を抜ける階段は、このところ全く使っていない。彼の素行を心配して説教をしてくる者に、冷ややかな侮蔑の視線を向けてくる者。何か言いたそうにして何も言ってこない者。そういう鬱陶しい連中がいるからだ。

 

 積尸気経由で教皇宮に帰ったマニゴルドは、夕食の場で師と顔を合わせた。

 

「今日は早いな」と師が言う。

 

「まあな」とだけ弟子は答える。

 

 その日マニゴルドがどこで何をしていたか、二人は話題に上げようとしなかった。必要がない。セージは弟子の普段の行動を知っている。

 

 アンサーのように誤解する者は多いが、マニゴルドの悪所通いは遊興ばかりが目的ではない。より多くの人と触れ合うためである。

 

 彼は機会さえあれば聖域を抜け出して、世間に交わることを修行としていた。酒場で見知らぬ者と喧嘩するのも、年寄りの昔話に付き合うのも、賭博に一喜一憂するのも、女に溺れてみるのも、他の観客と一緒に滑稽芝居に笑うのも、人足やそれより危険な仕事で日銭を稼ぐのも、目的は同じだった。

 

 すなわち生者と触れ合うこと。

 

 剥き出しの欲望や本音で生きている者たちは、正に荒波に揉まれてゴツゴツと互いを削り合っている石だった。中にはそのぶつかり合いにも負けて、柔らかな泥に沈んでいく石もいた。かつてのマニゴルド自身が、その泥に頭の上まで浸かっていたようなものだった。

 

 けれどその泥の世界すら、聖域という特殊な環境で数年を過ごした後では新鮮に見つめることができた。死霊だけを友としていた頃とは違う世界が、彼の前に広がっていた。

 

 夕食の後、マニゴルドはいつものように二人分の茶を淹れた。部屋に用意されていた法衣に気付き、教皇に尋ねる。

 

「明日は何か行事あんの?」

 

「ああ。牛飼座の候補が仕合を行う。同格の白銀聖闘士に打ち勝てば、それを以て聖衣を授けようと思う。……おまえも見に来るか」

 

 弟子は返事の代わりにさりげなく切り出した。

 

「俺もそろそろ蟹座になっても良いと思うんだけど」

 

「否。まだ早い」

 

 この数年、師弟の間で毎月のように繰り返されたやり取りだった。弟子が聖衣の継承を願い出ては、その度に師に却下されている。

 

 それを受けて弟子は、大人しく引き下がる時もあれば、なぜ駄目なのかと食い下がる時もあった。この日のマニゴルドは後者の気分だった。

 

「一体何すりゃ認めてくれんだよ。お師匠が俺に何をさせたいのか全然解んねえ。今だって見当違いな努力してんじゃねえかって思うんだ。間違ってるならどうすりゃいいのか教えてくれ。お師匠だって、他人から白い目で見られる不肖の弟子なんて嫌だろ」

 

 セージは微かに目を細めて、彼を見つめた。

 

「仏陀の弟子にチューラパンタカという者がいる。前にこの者の話をしたことがあるな」

 

 覚えがなかったが、口にしても無駄だろう。二人で海に行った頃から、師は、物事を以前のように懇切丁寧には教えてくれなくなった。思い出したように教えてくれることはあっても、基本的には「自分で調べろ」「自分で考えろ」と突き放す。まして過去に教えたことを浚い直してはくれない。

 

 弟子の沈黙を肯定の返事と受け取ったのか、セージは視線を茶器の中に戻した。「温いぞ」

 

 腹が立った。

 

 マニゴルドは無言で茶を一気に飲み干し、席を立った。

 

 

 結局、彼は牛飼座候補の仕合を見に行った。師が誘ったのには理由があるのでは、と期待したのだ。

 

 久しく足を向けていなかった闘技場。近づけば土煙の中、二人の人物が対峙しているのが見えた。人だかりを避けて道の端から遠目に観戦することにした。

 

 どちらもマニゴルドより若い。十三、四といったところだろう。技倆も、小宇宙の扱い方も、彼の目には稚拙に映った。片方は現役の白銀聖闘士という話だが、とても見ていられない。会場に飛び込んで二人まとめて叩き伏せてやりたくなったほどだ。彼らがセージの弟子であれば、すぐさま師から手厳しい批判が飛ぶだろう。

 

 仕合を見守っている教皇の表情は読めなかった。少なくとも呆れている様子はなかった。

 

(俺のほうが強いのに)

 

 それにも関わらず、こうして彼らの後塵を拝している己は何なのか。マニゴルドは試合内容に興味を失った。数分もすれば挑戦者が勝つことは見えていた。

 

 見物人に目を向ければ、さすがに知った者が多かった。聖闘士も、候補生も、雑兵もいる。しかし候補生の集団の中に、ちらほらと知らない顔が増えていた。いずれもマニゴルドが初めて聖域に入った頃の年代だった。彼が最後の修行という沼に溺れている間に、あの子供たちは、その上をあっさり飛び越えていくかも知れない。

 

 頭の中に誰かの言葉が甦る。

 

『俺の実力なら十分に狙えると言われ続けて……、諦めきれずにいつの間にかこの歳だ。周りの候補生は皆、俺より年下になっちまった。情けないし、頭にくる』

 

 全く同感だ。慰め合いたいほどに共感できる。いったい誰が言った言葉だったろう。

 

 思い出して、目眩がした。咄嗟に木に寄りかかる。それほどの衝撃だった。

 

 それは、聖衣を得るために競争相手を陥れて殺した者の言葉だった。

 

 自分より劣っているはずの者に追い抜かれる屈辱。焦燥。それゆえの卑屈。砂地獄に落ちていく精神。

 

 当時それを聞かされたマニゴルドは、自嘲した者の心情を理解するには若すぎた。今なら分かる。あの年かさの候補生は、近い未来の彼自身だった。

 

 かつて軽蔑した者と同じ心境に堕ちるまで、同じ魔が差すまで、どれほど猶予があるだろう。

 

 ――このままではいけない。

 

 今までに覚えの無いほど強く、頭痛がするほど強く思った。

 

「大丈夫か」

 

 不意に肩を叩かれた。牡牛座の黄金聖闘士だった。

 

「酒の飲み過ぎか? 顔色が悪いぞ」

 

「放っとけ。大人しく仕合見てろ」

 

「相変わらずの堕落っぷりだな」ハスガードは歯を見せて笑った。「イリアス殿が戻ってきたら、おまえをしごいてもらおう」

 

「何でいきなりおっさんが出てくるんだよ」

 

「なんだ、面識があったのか。実は新大陸のほうにいらっしゃるという情報が前からあって、ずっと探索の任務を願い出ていたんだ。それがようやく認められた。長い船旅になるから、捜索自体に掛けられる日数が少ないのが問題だな。計画的に動かないと」

 

 そう言う青年は、既に探し人が見つかったかのように嬉しそうだ。

 

「呼び戻してどうすんだ」

 

「聖戦に備えるにあたって、経験豊富な方の助言が欲しくてな。お体の調子が良くないルゴニス殿には、あまり負担を掛けられないだろう。イリアス殿は最強の黄金聖闘士だ。組み手の対手をして頂いたら、それだけで世界観が変わる。だらけきったおまえでも真っ当な候補生に戻れる。そうしたら蟹座の称号もすぐに譲られるはずだ。なあ」

 

 ハスガードは微笑んだまま、マニゴルドの頬を手の甲で叩こうとした。マニゴルドはその厚い手を掴んで遮った。ハスガードの表情が引き締まった。掴まれた手を引き抜いて、逆にマニゴルドの手を包もうとする。目が本気だ。二人の攻防は、マニゴルドがハスガードの手首を打ったことで終わった。瞬きよりも短い時間での出来事だった。

 

 闘技場のほうで歓声が沸いた。無論、場外の一瞬の戦いに向けられたものではない。

 

「マニゴルド。肉体は正直だぞ。俗世で遊んでいるというのは、何かの偽装か」

 

「嘘でもふりでもねえよ」

 

 何か複雑な事情があるなら、と言いかけてハスガードは躊躇った。「……聞く気はないが、一緒に新大陸に行くか?」

 

 マニゴルドは相手の気遣いに軽く笑った。

 

「止めとく。船は酔ったことあるんだ」

 

 

 ハスガードが任務に出た後も、マニゴルドの俗世通いは続いた。

 

 ある日、師からジャミールの長老宛の書状を預かった。聖域一の遊び人に成り下がっても、セージの弟子までは辞めていない。彼はすぐにジャミールへ飛んだ。

 

 教皇からの書状を一読したハクレイは、返事を書くので一晩待つようにと言った。

 

 山に抱かれた天空の集落。訪れたのは数年ぶりだが、何も変わっていなかった。

 

 修復師の工房を窓から覗くと、少年が一人で作業をしていた。明かり取りの窓が遮られたことに気づいて、少年は顔を上げた。利発そうな面立ちになっていた。

 

「長はご自宅だ。用があるならそちらへ回ってくれ。でなければそこをどいてくれ」

 

 大人びた物言いに、マニゴルドは口角を上げた。「シオンのくせに偉そうに」

 

 声だけでは正体が分からなかったのだろう。シオンは訝しそうに窓の近くまでやって来た。「……マニゴルド?」

 

「当たり」

 

 少年の表情はめまぐるしく変わった。最初に浮かんだ喜びは何かに押し留められ、躊躇いに変わる。そして困惑に横を向き、再びマニゴルドに向き直った時には、微かに顎を上げて侮蔑を示そうとしていた。

 

「ろくに修行も仕事もしない、聖域の穀潰しが何の用だ」

 

「ひでえ言われようだな。誰から聞いたんだよ」

 

「聖域から来る者におまえのことを尋ねると、皆そう言うんだ。本当なのか」

 

 シオン少年がマニゴルドの行状の悪さを信じるまで、それなりの葛藤があったようだ。嘘だと否定して欲しい、と目が必死に訴えていた。ところがこの若者は、自身を善人だと思っていない。子供の願いをあっさり打ち砕いた。

 

「憧れのマニゴルドお兄ちゃんがろくでなしで、ごめんなあ」

 

「……誰もおまえなんかに憧れてない! 女の尻でも追いかけてろ、馬鹿!」

 

 音高く窓が閉ざれた。やれやれと芝居がかった仕草で首を振って、マニゴルドは工房を離れた。

 

 その日は長老の館で世話になった。しかしハクレイは姿を見せず(弟への返信を書いているのだろう)、訪う者もなかった。おまけにギリシャとジャミールでは時差があり、夜になってもすぐに眠る気になれなかった。

 

 マニゴルドは馴染みの場所に行くことにした。

 

 地上のどこにもない場所――黄泉比良坂。そこは大穴を中心とした世界である。噴火口のような大地のひび割れの奥には、冥界があるという。

 

 不思議なことに、マニゴルドがそれまで地上のどこにいようと、霊体だけだろうと肉体を伴っていようと、積尸気を抜ける度に、大穴は必ず少し離れた場所に存在していた。穴から遠い場所には何があるのかと、ひたすら地平線を目指して駈けたことも一度ならずある。しかし走り続けてふと気づくと、大穴はいつも彼の行く手に待ち受けていた。

 

 大穴が至る所にいくつも存在しているのか。それとも積尸気使いであろうと黄泉比良坂の存在意義、その求心力から逃れることはできないのか。人たる身には確かめようがなかった。

 

 さて、彼はいつものように積尸気を抜けて薄暗い世界にやってきた。地面に降り立つなり、大穴を頂上に抱く丘を見やる。その付近に何かの気配があった。

 

 冥王の兵である可能性が思い浮かび、彼はニヤリと笑った。せいぜい冥闘士《スペクター》とやらの面を拝ませてもらおうと、マニゴルドは亡者に混じって坂道を登った。

 

 大穴の向こう側の縁に、剃髪の少年が座っていた。

 

 見たところマニゴルドとシオンの中間くらいの年頃である。目を瞑り、両手を組んだ足の上で軽く合わせているところからすると、瞑想中だろうか。身を投げる亡者に次々と衣の裾を踏まれていたが、気にした様子はなかった。

 

 これは冥闘士ではない。霊体だけだが亡者とも違う。生者だ。同類か、と積尸気使いはしばらく少年を眺めていた。

 

 やがて少年は彼に意識を向けた。目を閉じたまま身動きすらなかったが、マニゴルドにはそう感じられた。そして二人は相手が求めているものを知った。

 

 少年は人の苦しみを感じ取れるがゆえに自らも苦しみ、苦行の先に悟りを見出そうとしていた。悟りと救いを求めて魂は肉体を離れ、地上を離れ、この黄泉比良坂まで辿り着いた。彼は積尸気使いではない。誰にも教わっていない。それでも、己の求めるものがどこかにあると信じて、生者には縁のない世界に乗り込む術を身に付けた。

 

 そんな少年の覚悟を知り、マニゴルドは自分を恥じた。求めるもののために未知の世界に乗り込もうという気概は、自分にはなかった。

 

 海に入れと師に言われて、それに従ってきたつもりだった。しかしこの少年の前では、浅瀬で水遊びをしていたようなものだ。荒海で揉まれてきたと胸を張ることはできなかった。蟹座の称号を得られないのも当然のことだった。

 

 ――このままではいけない。

 

 マニゴルドは両の拳を握りしめた。

 

 気づくと、剃髪の痩せた少年は姿を消していた。生者の世界に帰ったのだろう。

 

 

 翌朝、ハクレイは返信をマニゴルドに託した。

 

「なにやらすっきりした顔をしておるな」

 

「ん。やること思い出した」

 

 マニゴルドは答え、長老の後ろに置かれた仏像に目をやった。ジャミールの民はチベット仏教を信奉している。ハクレイ自身はアテナに拳を捧げているが、ジャミールの長としてはまた別の話である。

 

「なあハクレイさん。仏教絡みの言葉だと思うんだけど、チューラパンタカって知ってるか」

 

「ああ。周利槃特なら有名よ。なるほど、セージか。相変わらず弟子に甘い」

 

 老人は経緯を察して一人で笑う。それから快く教えてくれた。

 

 ――周利槃特は物覚えが悪かった。自分の名前すら覚えられずに、名前を書いた札を身に付けていたほどだ。兄と一緒に仏陀の弟子になったはいいが、師の教えが何一つ理解できない。覚えられない。他の弟子たちにも馬鹿にされてばかりだった。そこで他の道を探せと兄に諭された。

 

 教団を離れがたく、また己の愚かさを嘆いて周利槃特が泣いているところへ、仏陀が来た。仏陀は彼を慰めて言った。

 

『自分を愚かだと知っている者は愚かではない。自分を賢いと思い上がっている者が、本当の愚か者である』

 

 そして彼に毎日掃除をするよう言った。来る日も来る日も、周利槃特は二十年も愚直に掃除を続けた。あるとき、催し事のためにいつもより念入りに掃除することになった。日頃は動かしたことのない置き物をどかした途端、周利槃特はそこに埃が山のように溜まっているのを見つけた。そこで周利槃特は思ったそうだ。

 

『塵や埃はあると思っている所だけにあるのではない。無いと思い込んでいる場所にも、意外に溜まっているものだ』と。

 

 その気付きが初めの一歩となり、彼は悟りを得た。やがて兄と共に、仏陀の弟子で特に優れた代表的な十六人の一人に数えられるようになったという。

 

「おぬしが未だに称号を得られないことには意味がある。考えろ。出来ることは全てやったのか。……まあ、そんなところじゃろうて。ひょっとすると、おぬしのような出来の悪い弟子が一人前になるには、二十年掛かって当たり前だ、という嘆きかのう」

 

「二十年も掛かって堪るか」

 

 マニゴルドは両頬をぱしりと叩いて立ち上がった。

 

「なんじゃ。もう行くのか。仏教に興味があるなら、上と少し話をしていっても良いぞ」

 

「上?」

 

「言わなんだか。最近ここに子供を引き取ってな。今は二階におる。おぬしとシオンのちょうど間くらいの歳じゃが、聡明で慈悲深いために、歳に似合わぬ苦悩を背負っておる。仏門で修行をしていたから、仏教の話ならあやつもきっと乗ってくるじゃろう」

 

「気難しいガキの話し相手になれってか。嫌なこった。俺は子守じゃねえんだよ」

 

 若者は手紙を懐に、さっさと退散した。その「気難しいガキ」こそ、前夜に黄泉比良坂で会った少年だと知らぬままに。

 

          ◇

 

 横たわる白い山脈を旅人が往く。

 

 丸い肩の峠を越えて、脇腹までは下り坂。くびれて跳ね上がった腰から前に進むと、腹の丘に出会う。右に行けば温かな乳房の小山が二つ。丘を回り込んで左に行けば、谷間の奥に神秘の泉。

 

 それまで横向きになっていた山脈は仰向けになった。手の旅人は宙に浮いた。そして冒険を続ける気を無くしたのか、持ち主の体の横に乗せられた。

 

「なにかあったの?」

 

 山脈は女に戻って尋ねた。久しぶりにふらりと訪れた若い客が、彼女の体の線を確かめるように、手を肌に添わせてきたのだ。嫌悪感は覚えなかったが、今までにない行為だった。

 

「もうあんたとも今日が最後だからさ」

 

「どうして? 親方に叱られたの?」

 

 尋ねた声は自分でも驚くほど大きかった。客の若者も少し目を見張った。

 

「お師匠は関係ねえ。そうじゃねえ。しばらくこの町に来ないつもりなんだ。修行でちょっと遠くに行く」

 

 若者の視線は窓の外へ向けられた。横顔には決意がありありと見てとれた。これまで見たことのない、どこか高潔ささえ感じる横顔だった。

 

 本当に遠くに行くんだ、と女は思った。この若者に抱かれている時、彼の体の向こうが、どこか知らない場所へ通じている気がしていた。

 

「遠くって、どこまで行くの。どれくらい掛かるの。何の修行なの。修行が終わったら何の職人になるの」

 

「尋問かよ。行き先は一ヶ所じゃ済まねえだろうし、何年掛かるかも分からねえし、そもそも修行内容を口で説明するなんて無理だ」

 

 初めて色々と尋ねたことに、初めて色々と答えてくれたが、ほとんどが無意味だった。

 

 ねえ、私も連れてってよ。

 

 その言葉だけは飲みこんだ。女は若者の胸に手を触れた。

 

「修行が終わったら、戻ってくるんでしょう?」

 

「まあ、そうだな」

 

「じゃあその時また来てよ。数年もしたら私、この町一番の高級娼婦になってると思うけど、あなただけ特別に安くしてあげる」

 

「お、いいね。この町どころかギリシャで一番になってても会いに行くぜ。でも誰かの女になってたら、どうする? スルタンとかさ」

 

「忍び込んでくればいいじゃない。梯子を用意しとくわ」

 

 町の娼婦がハレムに召されることなど、万が一にもなかったが、女は澄まして請け負った。若者は楽しそうに笑った。

 

 別れ際、その若い客は名前を教えてくれた。後で一人になった時に、マニゴルドという耳慣れない響きを口にして、女は少しだけ泣いた。そしてそれきり、彼のことはきっぱりと忘れた。

 



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愚か者の旅立ち

 

 教皇の間は、アテナやその代理人たる教皇が、公に聖闘士に対面する場所として存在する。

 

 鏡と化すほどに磨かれた大理石の床。大理石と数種類の花崗岩を使った、物言わぬ巨人のような重厚な列柱。窓から差し込む光に照らされたその空間は、不思議な静粛さと清潔感に満ちている。

 

 慣れないうちは、その独特の雰囲気に呑まれる者もいる。任務から帰還し、たった今、教皇の御前で報告を終えた聖闘士も身を固くしていた。しかし彼が身を竦めているのは別の理由からであった。

 

「そうか。イリアスが死んだか……」

 

 教皇の独語に、跪いている聖闘士はますます巨躯を縮めた。

 

 古代の英雄のような逞しい肉体を誇る黄金聖闘士。牡牛座のハスガード。

 

 彼は、獅子座のイリアスを召還するという命を受けて海を渡った。大西洋を定期運航する船はまだなく、貨物船に便乗する形での船旅である。イギリス・リヴァプールで出航を待つこと一ヶ月。風向きが悪く航海にも二ヶ月以上掛かった。そして海の向こうでイリアスとの接触に成功したが、帰還することには同意してもらえなかった。ハスガードは説得を続けるつもりだったが、直後に冥闘士の襲撃を受けてイリアスが落命。かの地に亡骸を葬って引き上げてきた。帰りは船の空きが出るまで三ヶ月近く待ち、航海は三週間だった。

 

 つまりは八ヶ月近く掛けて任務に失敗したわけだが、それ自体にはセージは落胆していない。

 

 そもそも今回の任務は、教皇の命という形を取ってはいるが、ハスガードの再三の上申に根負けして許可を与えたのが実際のところだ。誰を送り込んだところで、イリアスを呼び戻すことはまず無理だ。最初からそう思っていた。イリアスは風だ。風だった。風を手中に留めることはできない。

 

 それでも戦闘以外の場所で、ハスガードの意外な才覚が発揮されたら儲けもの。それが人捜しの才能だったら、シジフォスのアテナ捜索に協力させても良い。その程度の期待で送り出した。

 

 申し訳なさそうにしているハスガードに、セージは優しく言葉を掛けた。

 

「黄金聖闘士といえど人は人。イリアスが死んだのは仕方ない。しかしあの者が並の冥闘士を相手に後れを取るというのも俄には信じがたい。ハスガードよ。イリアスの最後の戦いぶりは如何なものであった。相手は誰だ」

 

 若者は正直に分からないと白状した。

 

「戦いは見ていないのです。イリアス殿は冥闘士の襲撃時期も、敵の狙いが自分であることも予想していました。しかし、相手が誰かまでは……。森の向こうで激しい戦闘が始まった時、私は人々を避難させている途中でした。戦いの行方は気になりましたが、イリアス殿に頼まれた力のない人々を置き去りにすることもできません。後で現場に行った時には、竜巻が暴れ回った後のように荒れた森と、ひどく傷んだイリアス殿の遺体しか見当たりませんでした。しかし獅子座の聖衣を調べれば、その傷の付き方から敵の特徴を掴めるかも知れません」

 

「では、その聖衣はどこにある」

 

 ハスガードは戸惑い、目を瞬かせた。「先に戻ったのではないのですか?」

 

 イリアスの体を包んでいた聖衣は、埋葬のための穴を掘っている時にいつの間にか消えていたという。聖衣はただの防具ではない。ときに意志を感じさせるような、不思議な出来事を引き起こすことも記録されている。そこでハスガードも、てっきり聖衣が聖域に戻ったと思い込み、徒手で帰ってきた。

 

 しかし獅子座の聖衣は聖域にはない。

 

「あの黄金の輝きは無知な者の目にも美しく映るだろう。そなたが埋葬の用意でイリアスの側を離れている間に、何者かに持ち去られたのではないか」

 

 教皇の示した可能性に、牡牛座はあっと声を上げた。そしてその時初めて、イリアスにはレグルスという幼い息子がいることを報告した。

 

 その子供は避難の途中にハスガードの制止を振り切って父の所へ駆け戻り、そのまま姿を消してしまった。戦闘に巻き込まれて死んだものと、ハスガードは割り切った。辺りには冥闘士たちのものと思われる肉体の破片が散乱していたから。しかし死体を確認できなかったということは、生きている可能性もあるのだ。もし聖衣がイリアスの遺志を汲み取って動くことがあり得るなら、聖域に戻るよりは息子の側に留まって見守ることを選ぶだろう。

 

「そうです。きっとそうです。獅子座の聖衣は息子の傍らにあるに違いありません」

 

 セージは物憂く息を吐いた。

 

「きみは物見遊山にでも行ったのか。イリアス殿は連れ戻せず、息子は放置し、聖衣はみすみす奪われる」

 

 呆れたように言ったのは教皇ではない。牡牛座の入室によって伺候が中断されることになった、双子座のアスプロスだ。ハスガードが報告する間も、セージは彼を退室させることなく同席させていた。若い世代にとってイリアスは憧れの存在だった。同席させたのは、消息を知りたかろうという心配りのつもりだった。

 

 アスプロスは教皇に改めて発言の許可を求め、それが許されてから友人に向き直った。

 

「イリアス殿が戦死した動揺で、考えることを忘れたのか。それとも元々考える頭などなかったのか。考えろ。敵の目的は本当にイリアス殿だったのか? イリアス殿が敗れたのは、何か不利な条件を課せられたからではないか? 具体的には、戦場に向かったという息子が人質にされたからではないか? 息子の姿が戦いの後に見つからないのはなぜだ? 敵に連れ去られた可能性は? 獅子座の聖衣が消えたのも、父子の絆を利用して敵が奪ったのだとしたら? 敵の情報を得るには、聖衣よりもイリアス殿の遺体についた傷を調べるべきだ。きみは調べたか? 傷は何種類あった? 黄金聖闘士ならそれくらい判って当然だろうな」

 

 矢継ぎ早な質問に、ハスガードはろくに答えられなかった。見ていて痛ましいほどに悄然としてしまった。お陰でセージは彼を叱責する必要がなくなった。アスプロスが意図的にそうしたのだとしたら、大したものだ。

 

 セージはアスプロスが問題にしなかった、おそらくは気にしていなかった部分について尋ねた。

 

「イリアスの息子は父を失った。母は無事か」

 

「イリアス殿の奥方はすでに亡くなっているそうです。親戚くらいはいると思われますが」

 

「そなたが避難させた集落に、レグルスの安否を気にする者はあったか?」

 

 いなかったという。

 

「では、保護を期待するのは無理だな」

 

 寄る辺を無くした子供。野良犬の目。セージの脳裏には出会った頃のマニゴルドの姿が浮かんでいた。また一人、あのような者が生まれるのか。胸が痛み、老人は眉をひそめた。

 

「子供のお使い以下だな。見ろ、猊下も呆れられている」と、アスプロスが口を挟んだ。

 

「まこと、私の認識不足でした」やおらハスガードが床に手を付いた。「猊下、この度の私の不手際はご寛恕賜り、今一度機会をお与え下さいませんか。どうかイリアス殿の遺児を探しに行くお許しを下さい。イリアス殿を召還させられなかったからこそ、彼の息子を見つけて保護いたしたく存じます。なにとぞ猊下。お願い申し上げます」

 

「見苦しいぞ、ハスガード。少し黙れ」

 

と、アスプロスは友人を牽制した。おそらくは、これ以上ハスガードが教皇の不興を買わないように。

 

「私からも申し上げます。先ほど申しましたように、獅子座の黄金聖闘士の死とその息子の行方について、敵に何らかの思惑がある可能性も考慮に入れるべきです。このまま捨て置くのは聖闘士全体にとっても由々しいこと。なにしろ獅子座の聖衣が失われたということは、この先獅子座に相応しい者が現れても、称号を与えることが叶わないということです。せめて聖衣だけでも取り戻すべきでしょう。まず捜索を行うべきはイリアス殿が亡くなられた場所。そして聖衣を持ち去ったかも知れない、その息子。派遣するなら、息子の顔を知る者が良いかと存じます。ゆえに牡牛座を推挙いたします」

 

「アスプロスおまえ、いい奴だな」

 

「黙ってろ馬鹿」

 

 若者同士の言い合いを聞き流しながらセージは考えた。結論。

 

「その申し出は却下だ。黄金位を派遣するほど差し迫った懸案ではない。聖衣は十中八九イリアスの息子と共にあるだろうが、父の遺品でもあることを思えば、強引に取り上げるのは忍びない。仮に敵の手に渡ったとしても、あの聖具を壊すのは不可能だ。壊そうとしても無為に力と時を浪費するだけだろう。我らとしては労無く敵を消耗させられるから、それもまた良し。獅子座の候補が現れた時は、聖衣の捜索と奪還をその者の試練としよう。己の身を守る聖衣くらい、己で探させよ。異論はあるか」

 

「ございません」とハスガードは納得してくれた。

 

 人には得手不得手がある。ハスガードは調査任務に向いていないようだ。名誉挽回の機会は他に見つけてもらいたい。

 

 もしイリアスの許へ赴いたのが射手座のシジフォスだったら、事態は少し変わっていたに違いない。

 

 実弟が来ても、イリアスの翻意はなかっただろう。しかし今やシジフォスは探索の達人である。アテナ捜索の合間にも、調べ上げた各地の情報を逐一報告してくれるほどだ。彼ならば、イリアスの死後、何もせずに撤収することはありえない。

 

 同じく地道な調べが得意なのが、意外なことにマニゴルドだった。独りで生きていた頃に磨かれた肌感覚に、セージの与えた知識と知恵が融合して、優れた追跡者という一面を彼に持たせていた。神官たちの起こした事件では、その一面が役に立った。

 

 彼なら獅子座の聖衣が消えたことに気づいた時点で、盗まれたと判断して捜索を始めるだろう。蛇の道は蛇。後ろ暗いことをする時の人間の行動と心理について、彼は熟知している。必ず持ち去った者を見つけるはずだ。

 

 更に言えばマニゴルドは積尸気使いだ。イリアスが死んだ直後であれば、黄泉比良坂に飛んで本人に事情を尋ねるという荒技が使えた。それができたら、敵についての情報を今よりも掴めたことは間違いない。

 

(そうだ。あやつを送ろう)

 

 黄金聖闘士の失敗した任務の後始末に、格下の聖闘士を送るのは、体裁が悪いし理屈が合わない。自然なのは、イリアスの肉親であるシジフォスが「自発的」に、甥の保護へ向かうことだ。そのついでに「なぜか」獅子座の聖衣も発見してきてもらう。そうできれば良かったが、あいにくシジフォスはアテナ捜索で各地を巡っている多忙の身。次善の策としてセージはマニゴルドを使うことに決めた。公の任務として命じる必要がないのも理由の一つだが、外地に行かせたかった。

 

 弟子が蟹座の聖衣を継ぐための最後の修行に苦労していることは、セージにとっても心痛の種だった。

 

 人の生を知り、己の生を見つけること。

 

 俗世で人の営みを知ろうとする試みは悪くない。弟子が自分で考えたやり方だ。周囲の評判はセージの耳にも届いたが一蹴した。マニゴルドの心が堕落したわけではないことを、セージはよく理解していた。

 

 ところが数年経っても、修行を成し遂げたと認めることはできなかった。

 

 セージも悩んだ。弟子が一人前になったのを認められないのは、マニゴルドの側に問題があるからではなく、己のせいかとも考えた。後継者に対する目が必要以上に厳しすぎるのか、もしくは無意識に子離れしたくないのか。

 

 しかし冷静に考えても、言葉では言い表せない何かが弟子には足りなかった。殻を破るためのあと一突き。壁を越えるためのあと一歩。それが足りなかった。

 

 弟子はその一歩に苦しんでいた。それで目先を変えるきっかけになればと、先日ジャミールへの使いに出した。その甲斐あってか、送り出す前は鬱屈で曇っていた表情も、帰ってきた時には晴れ晴れとしていた。気合いを入れ直したようだった。それを裏付けるように、昨日は部屋を片付けていた。

 

 聖域から離れることが、マニゴルドに更に良い刺激となればいい。

 

 そう思いながら帰ってきたセージを、用人が教皇の従者を連れて待ち構えていた。二人とも表情が硬い。

 

「何かあったか」

 

「猊下、これを」

 

 用人が、従者がマニゴルドから預かったという書き付けを主人に手渡した。見間違えようのない弟子の字で記されていたのは、一言。

 

 ――行ってくる。

 

 それだけだった。

 

 そしてそれだけで充分だった。セージは理解した。

 

 いつもと同じように俗世に出かけるだけなら、弟子はこのような書き置きは残さない。奇しくもセージと同じ結論に達し、師から促される前に自ら聖域を離れることにしたのだろう。

 

 マニゴルドは揺籃を出ることにしたのだ。

 

 その意志が、簡単な一言に籠められていた。

 

 黙って書き付けを見つめているセージに、用人が恐る恐る当時の状況を伝える。

 

「この文をナーゼルに託される際、猊下のお世話は今後全て任せると告げられたそうです。料理番にも、もう自分の分の食事は必要ないと言い置かれていきました。他の使用人たちには、このことはまだ伏せてあります」

 

 従者はともかく、なぜ料理長に? セージは首を傾げたが、理由は単純だった。夜遊びで帰りが遅いマニゴルドに、用意した夕食が無駄にされてばかりで怒った料理長が宣言したことがあるそうだ。「飯が要らねえ日はそう言え。でなきゃもう金輪際てめえの分は無いと思え!」と。それ以来マニゴルドは、律儀にその日の食事の要不要を告げていたという。

 

 それが「もう不要である」ということは、教皇宮を去る意思表示に他ならない。

 

 セージは一度強く目を瞑り、開けた。主人の指示を待つ用人に言い渡す。

 

「相分かった。本人がそう申したのであれば、もう戻ってこないものと考えよ。教皇宮の者たちに隠すことはできまいから、いないという事実は明らかにしても良い。ただし神官や聖闘士に何か聞かれても、去り際のやり取りの件は答えさせるな。あの者の行動は教皇が命じたものである。答えさせるならそれだけに」

 

 蟹座の黄金聖闘士になるための答を探しに行ったのであれば、マニゴルドがセージの指示に従ったというのは偽りではない。

 

「かしこまりました」と、用人は安堵した様子で立ち去った。

 

 私室に着くと、セージは兜を外して、白髪頭を掻き上げた。不思議と心が軽い。清々しい寂しさだった。

 

 ふと、マニゴルドが使っていた隣室が気になった。

 

 以前覗いた時には、怠惰な若者の巣となり散らかっていた。今はただの空き部屋だった。部屋を使っていた者の痕跡は一切残っておらず、綺麗に片付けられていた。

 

 ところがセージの私室のほうで保管してあった少年の私物は、ほとんどそのまま残されていた。それどころか処分に困ったらしい品々が隣室から移されていたほどだ。現金だけ消えていた。

 

 以前の家出の時には持ち出されたナイフを手に取り、なんとはなしに鞘から抜く。曇った刃。

 

(もう今のあやつには必要ないのだな)

 

 頼もしいことだ。それでも金だけ持って行くあたりが弟子らしくて、セージは苦笑した。

 

 一方、従者は両手で捧げ持った兜をじっと見つめていた。

 

「どうした」

 

「この兜を磨くのは久しぶりだなと思いまして」

 

 そういえば、兜の手入れは従者の仕事だったはずなのに、いつのまにか弟子の毎晩の日課になっていた。どうしてそうなったのか、セージももう覚えていない。

 

「これからはまたおまえの仕事だ。頼むぞ」

 

「はい。それはもう」

 

 従者は、兜の装飾を愛おしむように指でなぞった。「しかしよく手入れされてますよ。私なんかよりずっと丁寧に」

 

 知っているとも。一瞬、セージの腹から怒りがこみ上げたが、すぐに穏やかに凪いだ。なにも相手はセージを責めようとして言ったわけではないのだ。

 

「隣の小部屋が空いたが、おまえが使うか」

 

 隣の部屋は本来、教皇の従者が使うための控えの間だった。けれど老いた従者には冗談交じりに断わられた。

 

「ありがとうございます。ですが、マニゴルド様がお戻りになった時にまたお使い頂きましょう。帰る場所を奪ったと思われたら、俺が恨まれます」

 

「帰る場所ということなら、この聖域全体がそうだろう。なにも部屋一つに拘ることはあるまい」

 

 喋りながらセージは、書卓に無造作に置かれていた箱を開けた。弟子が押しつけていった品の一つ、遊戯用のカードだ。元々は教皇への贈り物として書棚で埃を被っていた物だから、返されたというのが正しいかも知れない。弟子が聖域に来たばかりの頃は、たまに二人で遊んだものだ。

 

 蓋を開けた時の空気の動きで、一番上にあった一枚が滑り出てきた。

 

 荷物を担ぎ、杖を持つ一人の男。昂然と顔を上げて野を歩いている。描かれている絵は、今頃どこかを歩いているマニゴルドの姿のようだった。

 

「それでもやはり遠慮しておきます。もしかしたら事情が変わって、今日お戻りになるかも知れませんよ」

 

「……思うようにすればいい」彼は呟いた。「Aut viam inveniam aut faciam ――私は道を見つけるか、さもなければ道を作るであろう、か」

 

「何か仰いましたか、猊下」

 

「いいや。何も」

 

 セージはそのカードを箱に戻した。

 

          ◇

 

 マニゴルドが姿を消して数日が経った。

 

 教皇宮の者たちは恩知らずと罵ったり、寂しがったりしたが、そういった反応はあくまで教皇宮の中だけに留まった。「聖闘士にもなれず俗世で遊び呆けていた落伍者」が去ったところで、今さら気にする聖域住人はいなかったからである。

 

 例外はアスプロスだった。早々に事情を聞きつけて教皇の所へ乗り込んできた。

 

「お弟子を調査任務に向かわせたそうですね」

 

「耳が早いな。誰から聞いた」

 

「知り合いの神官からです。そう処理するように教皇猊下直々に仰せつかったと申しておりました。真でございますか」

 

 セージは掛けていた椅子の肘掛けを指で叩いた。

 

「事実だが、何か不都合でもあったか」

 

「猊下のご意向に異を唱えるつもりはございません。ですが、そのご指示はお弟子の出奔を隠すためという説も耳にいたしました。根も葉もない憶測だとは思いますが、念のためにお聞かせ願いたい。マニゴルドは何の調査に行ったのでしょうか」

 

 肘掛けを規則正しく叩いていた指を止める。

 

 聖闘士もしくはそれに準ずる者が許可なく聖域を離れることは、通常、脱走罪と見なされる。聖闘士の掟では、脱走は死罪となるほど重い罪だ。マニゴルドの外出がこれまで見逃されてきたのは、彼に逃亡の意志がなく、毎日必ず帰ってきていたからだ。外出が気づかれ騒がれる前に、何食わぬ顔で戻る。聖域の一番外側を覆う結界の所で見張っても、いつのまにかそれを抜けている。まるで隙間風のように自由にふるまう彼から、脱走の証拠を挙げることは難しかった。

 

 しかし今は違う。聖域を去る意思表示をして実際に出ていったという事実がある。これは脱走だ、探し出して口を封じるべきだ、と主張する者が現れてもおかしくない。ただし追っ手を差し向けられたところで、大人しく捕まって死んでくれるマニゴルドではないだろう。徒労に終わればいいほうで、追っ手が返り討ちに遭う可能性もある。それは避けたい。

 

 避けるのは簡単だ。「弟子を破門して聖域から追放した」とセージが公言すれば良い。それで丸く収まる。けれど、口先だけでも師弟の縁を切ることはしたくなかった。もう二度と。

 

「イリアスの任務を引き継がせた。彼が長らく探索で各地を巡っていたことは、そなたも知っておろう。先日そのイリアスが亡くなったので、役目を引き継ぐ者が必要になったのだ」

 

 アスプロスは探るような目を向けてきた。

 

「さようですか。調査任務という名目は、イリアス殿の放浪癖を隠すための猊下のご厚意だった。弟のシジフォスからそう聞いたことがございますよ」

 

「さもあろう。命じた私とイリアス本人しか知らぬ密命であったからな」

 

「今度はマニゴルドがその密命に従っていると」

 

「然り」

 

 老いた教皇と若き黄金聖闘士は見つめ合った。

 

 先に目を伏せたのはアスプロスだった。

 

「分かりました。猊下がそう仰るなら、もう何も申しますまい。もし不審に思う者が現れたら、今のお言葉を伝えることにいたしましょう」

 

 手間を掛ける、とセージが労ると、滅相もない、と若者は首を振った。

 

「直談判に来る者があって、却って私も安心した。あやつの存在を気に掛ける者がないというのも、師としては悔しいのでな」

 

「そこまで猊下にお心を砕かせるマニゴルドが、少し羨ましくもあります」

 

「なに、弟子の出来が悪くて苦労しているだけのことよ」

 

 アスプロスは声を立てずに笑い、「猊下」と軽やかに呼びかけた。

 

「私が猊下のお弟子ならば、マニゴルドのようにご迷惑をお掛けすることも、勝手に出奔して猊下にお寂しい思いをさせることもありません。いかがです、私を弟子になさってみては」

 

 老人が気落ちしていると思い、慰めてくれているのだろう。アスプロスのように優秀な若者が弟子ならば、たしかに何も心配はない。セージの感情を荒立てることもない。

 

 長い間、セージの心は落ち葉に水面を覆われた古沼のように静かだった。様々な出来事や記憶はゆっくりと底に堆積し、風が吹いても水面を僅かに揺らすだけだった。ところがある日、その沼の辺に一人の少年が現れた。

 

 少年は遠慮無く沼に石を投げこみ続けた。水面は荒れ、落ち葉は沈み、底から噴き上がる泥が水を濁した。そうして長年の澱みが取り除かれた時、セージの心は滾々と湧いていた。もう枯れ果てたと思っていた感情が、新たに、豊かに生まれ続けていた。少年と向き合うのは、時にひどく体力と気力を要する勝負でもあったが、思い返せば人として満ち足りた時間だった。

 

「ありがとうアスプロス。しかし私の弟子はマニゴルドだけだ。そなたのように既に立派な聖闘士として独り立ちしている者におとうと弟子になられては、あやつも立つ瀬があるまい。気遣いには礼を言うが」

 

「そんな恐れ多い。ただの戯れ言にございます。二番手は私も好みませぬゆえ」

 

 若者は淡々と返し、部屋を出ていった。

 

 そして季節は移ろう。アーモンドの桜色の花が散り、葡萄の花の芳しさが風に漂う。日差しが容赦なく地面に突き刺さるのを避けて、人々はプラタナスの木陰に憩う。オリーブが丸々とした実を付け、月桂樹の実が紫黒色に変わる。楓の葉が紅葉し、白鳥の群が南下していく。くぐもった遠雷と共に雨が訪れ、雪が舞い積もり、やがてそれも溶けてクロッカスが咲き始める。

 

 いつしか教皇の弟子の名は、誰も口にしなくなっていた。

 



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悔悛

 

 パンアテナイア祭というのがある。

 

 その起源は、アテナ神の誕生日と都市連合の成立を祝う古代ギリシャの祭典に遡るという。アテナを奉じる聖域にとっても、最も重要な年中行事の一つだ。

 

 とはいえ、内容自体は古代アテナイのものとはだいぶ様変わりしている。引き継いだ伝統といえば、名称と、盛夏の頃に催されるという二点くらいだ。古代のものが詩歌の披露や技芸の奉納が行われたのに対して、聖域のものは模擬戦が行われる。聖闘士を率いるのは軍神としてのアテナだからだ。

 

 今年もその日がやってきた。

 

 影が最も縮む頃、セージは教皇宮を出た。

 

 女神神殿と教皇宮の前はすでに清められ、篝火の準備も整っている。

 

 十二宮を通る教皇に気づいて、雑兵が作業の手を止めて一礼した。十二の守護宮に据えられた篝火の、最後の点検を行っていたようだ。セージは鷹揚に挨拶を返し、階段を下った。

 

 山頂から下りてきた教皇の姿に、近くにいた麓の者たちは歓声を上げた。すでに酔いが回っている賑やかさだった。

 

「ごきげんよう教皇猊下!」

 

「アテナとその代理人に乾杯!」

 

「天上の女神と、地上の星々に乾杯!」

 

「猊下にも一献。ささ、どうぞ!」

 

 一年に一回の祭とあって、聖域はどこも浮き足立っていた。この日ばかりは羽目を外しても大目に見てもらえる。子供たちには甘い菓子も配られる。酒も無尽蔵に振る舞われるし、一切の修行や務めは取り止めだ。お陰で翌日と翌々日は、聖域は機能しなくなる。

 

 セージは献杯の全てを受けた。本人も周囲も自重しないのは、これが多くの者にとって、堅苦しくない場で教皇に接することのできる貴重な機会だからだ。

 

 もっと普段から麓に来ていれば、ここまで騒がれることもないだろう、とセージは毎年のように後悔する。しかし教皇の威厳が損なわれると神官たちは声を揃えるし、目上の者が用もないのに現場を訪れては、少なからぬ者にとって目障りだろう。それを慮って控えている。教皇というのもなかなか気を遣う立場である。

 

 それでも麓の様子を知りたい時は、以前なら弟子がいた。悪童は聖闘士よりもその下の雑兵たちと仲が良かった。雑兵から知り得た「面白い出来事」を持ち込む弟子は、意図せずセージにとって貴重な情報源となっていた。いなくなって初めて分かるありがたさ、などと陳腐なことを言えば、本人は鼻で笑うだろうが。

 

 前後左右を囲まれながら歩いていた時、セージは息を呑んだ。同じ方向へ向かう者の背中が見えたからだ。その姿勢、歩きかた。しかも服の袖口には、女官が施した見覚えのある刺繍。

 

 セージは人垣を破って追いかけ、その肩を掴んで振り向かせた。

 

 振り返った顔は見知らぬ少年のものだった。姿を消した弟子とは似ても似つかない。

 

「な、何ですか?」

 

 教皇に突然引き留められるという、思いがけない出来事に相手は慌てた。背丈と姿勢だけは似ている。その事を認めてセージはすぐに少年から手を放した。

 

「候補生か」

 

「は、はい。そうです」

 

「その服はどうしたのだ」

 

「あ、はい。去年貰いました。もう自分は着ないからやるよって言われて。くれた人の名前は知りませんが、その後見かけてないから多分、異動になる雑兵だったんじゃないかと思います」

 

 セージは見知らぬ少年の着ている、弟子のものだった服を見つめた。旅立つ前に若者が不要な物を方々にやって処分したことは知っているつもりだった。それでも思わぬところから記憶が呼び起こされる。

 

「刺繍があるから修行着には勿体ないけど、祭の日ならいいかと思って……、申し訳ありません」

 

「謝ることはない。服は着られてこそ意味があるものだ。今日は楽しみなさい」

 

 うわずった声で礼を述べる候補生から離れると、セージは模擬戦の会場へ向かった。

 

 敵襲を想定した模擬戦を行うのは現役の聖闘士たち。二手に分かれて一方が敵軍に扮して聖域侵入を試み、もう一方が防衛する。戦力比は互角の年もあれば、どちらかに偏っている年もある。いずれにせよ敵方となった者たちは、どんな卑怯な手を使ってでも侵入を果たせと言い渡されている。聖域の守りの穴を見つけるためだが、普段の修行では疎かになりがちな集団戦を経験させるのも、目的の一つである。最も外側の防衛線である結界は破られたものとして戦いは始まる。

 

 これは余談だが、かつて襲撃側に回った黄金聖闘士が単身で防衛側の全員を屠り、教皇の喉元まで迫ったことがある。観戦していた別の黄金位が見かねて「おまえの強さを披露する場ではない」と同僚を横から投げ飛ばしたことで演習は終わった。それ以来、この模擬戦に黄金聖闘士は参加しない習わしになった。

 

 ちなみに実戦形式の演習はこうした特別な時にしか行えないが、セージ個人としては、チェスの駒と大きな地図とを使って古今東西の戦場を再現することがある。遊戯としてそのやり方を覚えた弟子に、仮想の戦争を相手させることもあった。後世で言う図上演習のようなものだ。そのことを射手座のシジフォスに話したら、「普通はそんなことは教えませんよ。ほとんどの聖闘士は駒の立場なのですから」と指摘された。

 

 それはさておき、パンアテナイア祭の日の教皇は忙しい。女神軍の司令官として模擬戦を観閲した後は、祭礼を取り仕切る祭祀長へと役割を変える。

 

 日没と同時に焚かれる十二宮の篝火。階段にも点々と置かれた小さな明かりがそれを繋ぐ。黒々とした山に火の蛇が寝そべる。女神神殿と教皇宮では更に盛大に火が焚かれて、祭の間は山上だけ夕焼けのまま時が止まる。

 

          ◇

 

 やがてその篝火も静かに消えていく頃に、アテナへ捧げられた熱狂の時間は終わりを告げる。

 

 例年通り、夜半過ぎには全ての神事が終わった。

 

 私室に戻ったセージは溜息を吐いた。重要行事を無事にやり遂げた安堵感に包まれていた。茶が飲みたくなった。何気なく呼ぼうとした名前を、どうにか飲みこむ。呼べばすぐに飛んできた弟子は、もう手元にいない。

 

 茶炉で湯が沸くのを待つ間、ふと思い出して机の引き出しを開けた。そこに、ほとんど使われていない蝋燭が一本入っている。これも弟子が置いていった物だ。少年が初めてパンアテナイア祭を経験した年に、セージが与えた。

 

 ――前もって内容を説明した時には、マニゴルドには関心を持ってもらえなかった。

 

『神様の誕生日ってナターレ(クリスマス)みたいなもんか。どうせお師匠が皆の前で説教とかするんだろ。だったら俺はいい。部屋で寝てる』

 

 教皇が説教や演説をすることはないし、候補生が一人くらい不参加でも祭の進行に影響はない。しかし弟子にはぜひ参加してほしかった。

 

『そんなつまらないことを言うな。ここには聖誕祭も復活祭もないが、きっとパンアテナイア祭も楽しいから』

 

『楽しいもんなの? お師匠は楽しい?』

 

『ああ、毎年楽しんでいるとも』セージは嘘を吐いた。祭儀で忙しい教皇に、楽しい楽しくないと感じている余裕はない。

 

 鋭い子供には案の定『嘘吐き』と見抜かれた。『だいたい俺は、ナターレもパスクア(イースター)も楽しんだ覚えはねえよ』

 

『そういう日はさすがにおまえも教会に行ったのか』

 

『飯貰いにな』

 

 貧しい者への施しがある時だけは俄信者になる者が多いのだと、元浮浪児は小さく笑った。

 

 寒い礼拝堂の後ろのほうで、俄信者たちは神父の説教が終わるのをひたすら待つ。楽しい時間ではなかったが、前のほうで灯されている火を眺めるのは嫌いではなかったと少年は言った。退屈と空腹を紛らわせるためというのもあったが、純粋に、その火を見るのが好きだったそうだ。

 

『あったかそうで、いいなあって思ったんだよ』

 

 幼い少年はその燈火が欲しくなった。隙を見て蝋燭を盗もうとしたが、『まだ素人並に腕が悪くて』早々に教会の者に見つかった。そして散々に罵倒され、「教会から盗みを働くとは救いようのない子供だ。最後の審判でも神に見捨てられよう」と言われた。少年は相手を蹴り飛ばして逃げた。

 

 そこまで語るとマニゴルドはにやりと笑った。

 

『まあそんなわけで、手癖の悪いガキは教会から見放され、俺も神を見放したってわけよ。俺にはこいつらがいるしな』

 

 嘘か真かそう言って、青い鬼火を呼び寄せた。

 

 当初はそのように祭に興味を示さなかった少年だったが、その後友人たちに話を聞いて気が変わったらしい。当日は昼前から麓に下りていった。

 

 セージが帰ってきた時もまだ起きていて、いかに自分が有意義な時間を過ごしたか、興奮気味に語ってくれた。

 

『篝火が凄っげえぼうぼう燃えてんの! 俺たちも松明振り回してどんくらい火の粉飛ばせるかやってたのに、雑兵が来て向こうでやれーって怒鳴りやがんだ。だから昼の戦場跡まで行って、皆でめちゃくちゃに松明ぶつけあってきた。あ? 火傷? そりゃ火の粉浴びてんだから火傷くらいするよ。それで持ってた松明が最後まで燃え残ってた奴が勝ち。俺じゃねえよ。お陰で火傷損だよ』

 

 なお、後年にはカルディアという更なる悪童が現れる。篝火を家畜の尻尾に括り付けて暴走させ、納屋の一つを半焼させた。パンアテナイア祭に余計な騒ぎを起こした罰として、一週間の謹慎を食らうことになった。それに比べれば、この時のマニゴルドたちの遊びなど、他愛ないものだった。

 

『楽しかったか』

 

『まあまあ』

 

『そうか。まあまあか』

 

 セージは用意してあった物を弟子の前に置いた。真新しい蝋燭と真鍮の燭台だ。

 

『これをやろう』

 

 燭台に立てられた白い蝋燭と老人を交互に見た後、少年は不思議そうに、『明かりなら部屋にあるけど』と首を傾げた。

 

『礼拝堂の明かりを盗もうとしたと、この前話してくれただろう。私ならおまえの望むものを与えてやれる、などと言うつもりはない。しかし冷たい鬼火だけがおまえの友ではない』

 

 共にはしゃぎ回る友人がいる。

 

 教皇宮で少年の暮らしのために働く者たちがいる。

 

『傍らには暖かい火がある。点けてみなさい』

 

 促すと、弟子は慎重に蝋燭を灯した。

 

 橙色の明かりが生まれた。

 

 黙って火を見つめていたマニゴルドは、数分もしないうちにさっさと吹き消した。気に入らなかったのかとセージは落胆しかけたが、違う理由からだった。

 

『放っといたら短くなっちまうだろ』

 

 それに今は寒くない。

 

 小さな呟きだったが確かに聞こえた。

 

 一瞬息が詰まり、すぐに湧き上がる喜びが老人の胸を満たした。セージは笑い出し、子供の頭をかき抱いた。

 

 すると弟子は焦って、『夏だから! 火なんか見てても暑苦しいって意味! なに笑ってんだジジイ!』と彼の腕から抜け出した。

 

 その後も少年は、蝋燭を灯して火を眺めてはすぐに消すということを時折していた。やがてその習慣もなくなった頃には、すっかり聖域に根を張っていた。

 

 ――その使いかけの蝋燭が、弟子の去った後も残されている。火を見つめて当時の思い出に耽りつつ、セージは茶を飲んだ。

 

 そして件の蝋燭は再び眠りに就いた。

 

          ◇

 

 早くも翌日、パンアテナイア祭で使われた道具が、山の頂上から順に片付けられ始めた。

 

 雑兵が作業をしながら喋っていた。

 

「凄い数の篝火だよな。今年初めて設営やらせてもらったけど、上だけでこんなに多いとは思わなかった」

 

「麓から見ても明るいんだから、そりゃこれだけの数が要るわな。猊下や巫女さんは大変だな。ここで儀式やってたんだろ。熱さで爺さん干からびねえかな」

 

「暑い昼間に真面目に働いてる俺たちだって大変だよ。あーあ。巫女さん出てきて労ってくれねえかな。神殿前で仕事してる男がここにいますよお」

 

「止めろ馬鹿」

 

 風に乗って流れてくる取り留めのない会話。セージは席を立ち、執務室を出た。

 

「しかし毎年不思議なんだがよ。星見の丘だけはいつも真っ暗だろう。あれ何でだろう。女神神殿も教皇宮も火を焚くなら、あそこでもやるべきだと思うんだ」

 

「俺は思わねえな。あんな高い所まで登らされるのも勘弁して欲しいし、第一あそこは教皇しか入れない場所だぞ。神殿前のこことは違うんだよ。言ってみりゃあ、たかが篝火を設置するためだけに女神神殿の中まで踏み込んでいいんですかって話だ」

 

「なるほど。そりゃ無理だ」

 

 スターヒルが教皇のみに立ち入りを許された場所、という認識は正しい。しかしセージは正式な聖闘士ですらない者をそこへ連れて行ったことがある。弟子に星見を教えるためだ。

 

 その当時は既に聖域の落伍者という目で見られていたマニゴルドだったが、師に対してまで投げやりな態度を取ることはなかった。どんなに酔って帰った夜でも、セージが星見に行くぞと告げれば、務めて神妙な顔で付いてきた。そして地上から隔絶されたような断崖の上で、セージは弟子に聖闘士の技術を学ばせた。

 

 その事を知ったらこの者たちはどう思うだろう。

 

 教皇は雑兵たちに声を掛けた。「暑い中ご苦労」

 

「へっ、あ、ひえっ!」

 

 背筋に氷を入れられたような声を上げ、一人が平伏した。二人目はまだ平静に、

 

「猊下こそお暑い中どちらまでお運びですか」

 

と返した。

 

「そなたらの声が聞こえてな。麗しい乙女でなく干からびかけの年寄りで悪いが、労ってやりに来た」

 

 うわあと叫んで二人目も平伏した。一人目が姿勢を低くしたまま隣の同僚の横腹を殴った。残る三人目が大慌てで謝ってくる。

 

「干からびるなどとんでもない。猊下にお声掛け頂けるとは光栄です。私たちのどうしようもない雑談でお耳を汚すことになり、誠に申し訳ございませんでした。どうか平にお許し下さい」

 

 セージは笑って流してやろうかと考えたが、静かに頷くだけにしておいた。互いの軽率さを罵り合っている雑兵たちに、女神神殿のほうを示す。

 

「そら、巫女も来たぞ」

 

 水甕を持って神殿から出てきた巫女は、教皇に挨拶をしてから、三人の男たちに水を振る舞った。素焼きの甕は表面から水が少しずつ気化するので、夏でも冷たい水を確保できる。優雅で美しい巫女から労られるのと同時に、教皇からは無言の圧力を受けて、雑兵たちは青くなったり赤くなったりしていた。

 

 恐縮する三人をその場に残し、巫女は教皇を神殿の日陰へと誘導した。

 

「あの者たちに聞かれると差し障りのある話か」

 

「少しばかり。かと言って教皇宮に改めて伺うようなお話ではないものですから、こちらへお越しの姿を拝見してこれ幸いと出て参りました。……キクレーのことなのですが」

 

 娘は声を低くして話を切り出した。

 

「猊下は、キクレーがマニゴルド様と誼があったことは当然ご存知でいらっしゃいますわね。実はマニゴルド様が聖域を去ったと知った直後から、キクレーが布を織り始めたのです。パンアテナイア祭でご神像の衣にするのだと言って、それはもう一心不乱に」

 

 古代アテナイの祭では、アテナの神像に奉納する布を乙女たちが織り上げていた。それを再現したいのなら、止める理由はない。しかし、古代の文献では複数の人間が九ヶ月掛かりで仕上げたという記述のある仕事だ。まして聖域のアテナ像は巨大である。とても一人でできる仕事ではなかった。

 

「もちろん今年の祭には間に合いませんでした。最初から無理だと傍目に判っていたので、私も静観しておりました。当日に間に合わなければ諦めるだろうと思っていたのです。けれど今日、また続きを織り始めました。きっとあの娘(こ)は、布を織り上げるまで諦めないつもりです。巫女のお勤めをしていない時間は、ずっと機織り機の前に座っていて、ろくに休みも取りません。いつか倒れてしまいます」

 

 私はどうしたらいいでしょう、と巫女は胸の前で両手を組んだ。

 

「去った人のことは忘れろと言っても、他に慰めになるようなものはございません。本人もアテナのために祈りを捧げているだけだと言い張ります。それでも、無理にでも止めさせるべきでしょうか」

 

 優美な顔を曇らせて、巫女は教皇に訴えた。

 

 セージは近くに聳える女神像を見上げて、溜息を吐いた。

 

「我が弟子のせいでそなたたちにも迷惑が及んでいるとはな。マニゴルドに代わって詫びよう」

 

「そんな、猊下」

 

「そうやってマニゴルドのことを忘れたいというなら、好きにさせてやれ。巫女の務めを疎かにしていないのであれば、後は本人の自由だ。だが一点だけ、グリシナよ伝えてくれ。マニゴルドは永遠に聖域を去ったわけではない。いつか戻ってくると」

 

 まあ、と巫女は嬉しそうに口元に手を当てた。「あの娘も聞けば喜びます。いつ頃でしょう」

 

「さて。それは私にも判らぬ。アテナの還御と同じで、明日か、それとも来年か。もっと先か。それはあやつ次第だ。無理に待つ必要はない。余計なことを付け加えるなら、キクレーがマニゴルドを想うほどには、マニゴルドはキクレーを想っておらぬかも知れぬぞ」

 

「恐れながら申し上げますが、それは本当に余計なことですわ、猊下」

 

 セージは軽く笑った。

 

 美しい巫女はアテナの像を仰ぎ見た。

 

「私たちはすでに待ち続けております。更に別の方のお戻りを待つことになっても、その間の想いを受け止めて頂かなくても、今更どうということはありませんわ」

 

 老人ももう一度神像を見上げた。

 

 夏の青空を背景に白亜の像が構えている。

 



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十二宮の人々

 

 デジェルは師から譲られた聖衣と、大量の蔵書を携えて聖域にやって来た。最初に彼を迎えることになった番兵は、荷車を押し潰しそうな量の本を見て、どこの貸本屋かと思ったそうだ。

 

 彼の師は水瓶座のクレスト。それまで最古参の黄金位として、遠い北の大地より聖闘士を見守り続けた重鎮だった。

 

 デジェル自身も若くして該博深遠、博覧強記の人であることはすぐに知れ渡った。その噂を耳にした教皇は、彼を星見の丘に建つ小屋に招いた。

 

 世界を見下ろす鐘楼のような、断崖絶壁の上。麓から決して窺い知ることのできない頂上は、一軒の平屋が建つだけの殺風景な場所だった。

 

 建物の中は、学者の研究室に似た雰囲気だった。たとえば部屋の主だけが理解できる法則で並べられた書物。無造作に放り出された貴重な品。使い込まれた計測道具。時代の埃と日焼けした紙と、歴代の前任者たちの溜息が地層を成している書き物机。

 

 その中でデジェルは、教皇を相手に知識を披露する羽目になった。老人は静かに話に耳を傾けていたが、若者の認識や理解が甘い部分があると容赦なく指摘し、更に深い質問を投げかけてきた。お陰でデジェルは、進講どころか教授の口頭試問を受ける学生の気分だった。

 

 それが終わると、星見の助手を務めるよう言い渡された。試験は合格だったようである。

 

 ある日のこと。机上に星図を広げて星の軌道を計算していたデジェルは、肘で本の山を崩してしまった。床に散乱した本を慌てて拾い上げ、埃を払う。と、本の間に挟まっていたと思しき紙も落ちているのを見つけた。

 

 それを見たデジェルは首を傾げた。星見の初歩の初歩、教皇がわざわざ文字に起こすとは思えないような基礎知識が記してあった。

 

「猊下、申し訳ありません。これはどちらの本に戻しておけばいいでしょうか」

 

 紙を一瞥するなり教皇は、「ああ、マニゴルドの覚え書きが残っていたか。戻さずとも良い。捨てておいてくれ」と言った。

 

 星見の丘に立ち入りを許された先客がいるなら、新参者として挨拶をしなければ。そう思ってデジェルは何の気なしに尋ねた。「マニゴルドとはどなたですか」

 

 すると教皇は言った。

 

「私の弟子だ。今はいない」

 

 太陽が昇る方角が東である、と言うのと変わらない口ぶりだった。

 

 デジェルが聖域に入ってからまだ日は浅い。知らない事の方が多い。けれど聖域の中枢に関わる事項や人物については、漏れなく伝えられているはずだった。教皇に近しい者がいれば、たとえばハクレイのことのように、間違いなく伝えられているだろう。それにも関わらず、今まで存在を伝えられていなかったということは、マニゴルドなる人物には何かある。

 

 教皇に直接尋ねることは憚られたが、調べてみたくなった。デジェルは知識の収集家にして探検家。未知の事柄に対して貪欲だった。

 

 

【蠍座】

 

 教皇の弟子の事を知りたいというデジェルの話を、カルディアは途中で遮った。

 

「だからって、何で俺が答えなきゃなんねえんだよ」面倒だ、という意志を表情と声色と身振りと、要するに全身で示された。

 

 天蝎宮の守護者、蠍座のカルディアはデジェルと同じ年に聖衣を授かった。生まれ年も同じとあって、他の同僚よりも気安い間柄になるまで時間は掛からなかった。

 

「そう言わずに頼む。おまえなら猊下に気を遣って口を閉ざしたり、新参者相手に当たり障りのない無難な話に脚色したり、そういうことはしないだろう?」

 

「そりゃそうだ」

 

とカルディアも機嫌良く笑い、座り直した。

 

「確かにあいつの話は誰もしねえけど、もういない奴のことだからだろ。おまえに伝えなかったのだって、その必要がなかったからじゃねえの。勘繰るような裏はねえよ」

 

 マニゴルドは、デジェルが来る一年前まで聖域にいた候補生だという。教皇の内弟子というのも事実で、候補生の宿舎ではなく教皇宮で暮らしていたそうだ。その更に数年前にカルディアが聖域入りした時点で、既に聖衣獲得を期待されていた実力者だったという(カルディアはその事実を認めるのも嫌そうで、彼にしては婉曲な表現を用いた)。

 

 ところが、ある頃から修行を放り出して俗世で遊ぶようになった。評判は地に落ち、ついにマニゴルドは姿を消した。

 

「なぜ?」

 

「知らねえ。多分逃げたんだ」

 

 どういう人物だったのか、デジェルは尋ねた。本来は誠実で堅実な性格だったのが、何かの拍子に身を持ち崩したのではないかと考えた。そうでもなければ、あの堅苦しい老人が弟子にするとも思えない。

 

 しかしカルディアの語ったマニゴルド像は、思い描いたものとはまるで違った。

 

「嫌な奴だったぜ。調子が良くて、いい加減で、小狡くて、乱暴で、年上だからって偉そうにしやがって。おまけに死の匂いをぷんぷんさせてた。聖闘士になれなきゃ、何かやくざな稼業に手を染めるしかなさそうな奴だった。俺が来る前から、雑兵連中にまで糞ガキだの悪ガキだの言われてた。そんな奴が遊び人だか渡世人だかになったって、べつに不思議でも何でもねえ。なるべくしてなった、ってやつだ。だからそんな奴が消えた理由を調べても無駄だって俺は言ってんだよ」

 

「しかし放蕩暮らしになるまでは、曲がりなりにも候補生として修行していたと、おまえも言ったじゃないか」

 

 デジェルは、マニゴルドが書いたという書き付けをカルディアに渡した。捨てろと言われた物だが、謎の人物に繋がる手がかりとして持ち帰っていた。

 

「どこで見つけた物だと思う」

 

 なんとなく受け取ったものの、活字嫌いのカルディアは見るなり「知らねえよ」と突き返してきた。

 

「星見の丘で見つけたものだ。弟子が書いた物だと教皇猊下が仰った。子供の字じゃない。紙とインクの状態から見ても、せいぜい二、三年前。既にマニゴルドが堕落していたはずの時期だ。猊下がいくらお優しくても、そんな者にわざわざ星見など学ばせるか? 本人だって学ぼうとするか? おかしいだろう」

 

「おかしかねえよ。学んだ結果、才能がなかった。それで師弟揃ってマニゴルドが聖闘士になるのを諦めた。筋は通る」

 

 カルディアは冷たく断言し、手元を見下ろした。右手の爪を弾く。

 

「だいたい、助手に選ばれて嬉しいのは分かるけど、おまえは教皇を買い被りすぎなんだよ。いくら偉くたって、所詮あの野郎の師匠だからな。俺があいつに殺されかけた後、仕返しで使っても良いって教皇に教えられた技がある。だけどあいつに仕掛けたら、逆にこっちが痛い目を見た。あのクソジジイは俺を騙したんだ。師弟揃ってろくでなしだ」

 

「カルディア」

 

 デジェルが窘めると、カルディアはそれまでの冷淡さが嘘のように快活に笑った。

 

「でももう技は俺のもんにした。もうあの頃みたいな事にはならねえ。マニゴルドを見かけたらあと十四発、ぶちこんでやるって決めてるんだ」

 

 

【双子座】

 

 自宮に戻ったデジェルは、書き付けを取り出した。

 

 文字をなぞる。几帳面さよりは大雑把さを感じさせる筆跡。カルディアには散々な言われようだったが、マニゴルドは教皇から期待されていたはずだ。少なくとも星見の丘で学ぶ事を許されるほどには。デジェルが星見の助手に認められたのが、彼の代わりだったとしたら……。

 

「通るぞ」

 

 外から声が掛かった。顔を上げると、双子座のアスプロスが教皇宮から下りてきたところだった。デジェルが知る限り、黄金聖闘士の中で最も教皇に接している時間が多い男だ。教皇からの信任も厚い。

 

「アスプロス。あなたはマニゴルドという人をご存知ですか」

 

「知っているが、それが何かな」

 

「星見の丘でこれを見つけたんです。猊下はご自分の弟子が書いたものだと仰っていました」

 

 書き付けを見せると、アスプロスはそれを読んだ後、口角を上げた。

 

「なるほど。猊下に目をかけられたと有頂天になっていたところへ、過去からの陰が差したか。それともあわよくば猊下に取り入って、奴の居場所に収まるつもりかな。止めておけ。きみごとき新参者がいくら努力したところで、奴の代わりにはなれないぞ」

 

 デジェルは頬と耳が熱くなるのを自覚した。それを楽しげに見据えながらアスプロスは喋り続ける。

 

「マニゴルドは猊下の唯一の弟子だ。他に弟子は取らないと猊下も仰っている。マニゴルドは奴なりに猊下を父のように慕っていたし、猊下もあいつを我が子のように慈しんでおられた。守護星座が同じという運命もあった。他人が成り代われる立場じゃない」

 

「では彼はなぜ姿を消したのでしょう。猊下ご自身から伺うまで、私はマニゴルドの名前さえ聞いた事がなかった。彼の存在を過去に葬りたいのだとしたら、その理由を知りたいと思うのはいけませんか」

 

 ふむ、とアスプロスは笑いを消した。「奴が消えた当時のことは誰かから聞いたか?」

 

「おそらく逃げたのだろうと、カルディアは言っていました。あまり詳しいことは知らないようでした」

 

「そうか。あんなに『殺す前に逃げられた』と息巻いていたのに」

 

 アスプロスは書き付けをデジェルに返した。

 

「奴が姿を消した理由について、当時有力な説が二つあった。一つは、十六歳を過ぎても正式な聖闘士に認められないことに業を煮やして、自ら出奔したという説。もう一つは、素行の悪さから師匠に愛想を尽かされ、放逐されたという説だ。いずれにしても猊下への批判に繋がりかねない憶測を孕んでいる。そこでマニゴルドに関する話題は、自然と禁句になった」

 

 そういうことならデジェルも納得できる。弟子の出来が悪いのは、弟子に逃げられたのは、教皇に人を育てる力がないせい。そういう論調になるのを人々は避けたのだろう。マニゴルドの話を聞く相手は、慎重に選ぶ必要がありそうだ。

 

「ちなみにあなたの見解は」

 

「俺は猊下に直接伺ったからな。奴は密命を帯びて聖域を抜けたそうだが」アスプロスは腕を組み、教皇宮の方角へ目を向けた。「それも方便ではないかと思っている。実際のところはマニゴルド本人に聞かなければ分かるまい。だが死人に口なしだ」

 

「彼は生きているのでしょう?」

 

「死んだも同然だ。好き勝手に遊んで、好き勝手に出ていって、あの馬鹿。どこかで好き勝手に野垂れ死んだに決まっている」

 

と苦々しげに断言する。デジェルが「ご友人だったのですね」と言うと、相手は酸欠の魚のように口を開閉させてから、諦めたように頷いた。

 

 

【牡牛座】

 

 双子座との最後のやり取りを聞いて、ハスガードは大笑いした。涙を拭き、「アスプロスを黙らせるとは大したものだ」とデジェルを賞賛した。

 

「その密命のことは俺もアスプロスから聞いた。方便ではなく事実だろう」

 

 マニゴルドは教皇の指示で動くことが多かったという。体の良い雑用だと本人は零していたが、ハスガードから見れば、候補生に任せるには荷の重い仕事が多かったそうだ。

 

「単なる候補生ではなく弟子だったから、と言ってしまえばそれまでだ。でも猊下の期待と信頼を背負っているからこその働きだったと思う。普段の言動からはとてもそうは見えなかったが、有能な奴だったよ」

 

「だから密命を受けても不自然ではない、と」

 

 ハスガードは少し迷った素振りを見せた。それから己の厚い掌を見下ろした。

 

「あいつが姿を消す前に、成り行きで少しやり合ったことがある。修行もせずに遊び回る姿が目撃されるようになってもう数年経っていて、落伍者という評価が定着していた。体も勘も鈍ったものと俺も思っていた。でも違った。あいつは俺の、黄金聖闘士の動きにも平気な顔で付いてきた。雑兵にもなれない落ちこぼれと蔑まれながら、弛まず鍛え続けていた。堕落したというのは嘘だ」

 

「え、ちょっと待って下さい」

 

とデジェルは話を遮った。

 

「するとあなたは、彼が周囲に見せていた遊興三昧の姿を、偽りだと考えているのですか」それではまるで、敵の油断を誘うために酒と女に溺れたふりをした、どこぞの軍師ではないか。

 

 ハスガードは真剣な顔で頷く。

 

「遊興すると見せかけて、俗世に何かを調べに行っていたんだ。だから、あいつが姿を消した理由を問うことにも意味はない。密命を隠すための表向きの理由に過ぎないのだから。おそらく教皇宮の記録にも、マニゴルドは調査任務に出ていると記してあるはずだ」

 

 これはとんでもないことになった。とデジェルは額に手を当てた。「ただ」と続けたハスガードの声に、顔を上げる。

 

「ただ、この意見はアスプロスにもシジフォスにも笑い飛ばされた。任務で失敗をした直後の俺が言っても、説得力がなかったんだろうな」

 

「任務に失敗?」

 

「まだ若い頃の話だ。今ならあんな考え無しに動いたりはしないさ」

 

 若い頃と言っても、たかだか数年前の話ではないか。そう思ったがデジェルは黙っていた。

 

 

【射手座】

 

 任務から戻ったシジフォスにも同じ質問をぶつけてみた。教皇の弟子はどういう人物だったのか。なぜ聖域を去ったのか。

 

「難しい質問だな」とシジフォスは頭を掻いた。長い旅暮らしの中で、日差しと風雨に晒され続けた髪は藁のようになっていた。

 

「まず知っての通り、俺はあまり聖域にいない。だから当時の状況を直接は知らないんだ。久しぶりに帰ってきて、そういえばマニゴルドの姿を見ないことに気づいて、聞いてみたら聖域から姿を消して半年も経っていた。そんな有様だ。俺が知った時には、もう彼の話題は過去のものになっていたよ」

 

「理由についてはご存知ですか。極秘任務に就いている、というハスガードの説を否定されたそうですが」

 

 シジフォスは苦笑いを浮かべた。

 

「べつに友人を馬鹿にしたつもりはない。そう睨まないでくれ。実際にマニゴルドは猊下の指示で、聖域に関する重要な調べを水面下で進めていた事がある。だから荒唐無稽な説ではないと思う。ただ今回は違うだろうと俺は考えている。かつて同じように極秘の調査任務に就いていた別の人物を知っていてね。目的も似たようなものだろう。それがハスガードの想像と異なるだけで、教皇猊下に認められて行動しているという点に関しては、俺も同意見だ」

 

 別の人物とは誰だろう、と思ったがそれは後回しだ。調べれば分かる。「その目的というのを伺ってもよろしいですか」

 

「済まん。俺からは言えない。聖域の未来を左右するような類のものではない、とだけ言っておく」

 

 デジェルは黙っていたが、不満が顔に出ていたらしい。シジフォスは別の話をしてくれた。

 

「昔、まだ子供だったマニゴルドが教皇宮を飛び出したことがあった。師である猊下と喧嘩をして、向こうが折れるまで戻らないと言い張っていた。なんでもマニゴルドが聖闘士を志して、猊下がそれを許さなかったそうだ。意味が分からない? まあいいじゃないか。師弟は色々あるだろう。それからしばらくの間、あいつは麓の納屋で寝起きしていた。一日二日の短さじゃない。周りの大人があれこれと目を配ってやっていたが、本人は気づいていなかっただろうな。いつまで続くかと見ていたら、ある日、猊下ご自身が迎えにいらっしゃったよ。あの悪童は、膨れっ面で猊下と一緒に教皇宮に帰って行った。……マニゴルドが聖域を去ったという話を聞いて、真っ先に思い出したのがそれだった」

 

 子供の家出ごっことは状況が違う、とデジェルは言った。もちろんそうだ、と男は穏やかに頷いた。

 

「またやっているのか、と思ったという話だよ。俺個人の感想だ。それでデジェルはどうしたいんだ。聴き取りをして、マニゴルドの人となりを知って、その後は」

 

 知識を得て、満足して。その後は。

 

「……分かりません」

 

「まさかそんなことはしないと思うが、猊下の歓心を得る参考にするつもりなら、止めておけと言っておく。守護星座も同じだった。本人の実力も十分にあった。それにも関わらず猊下はご自身の聖衣を譲られなかった。あの方も他人に見えない所で色々抱えていらっしゃるだろう。下手に弟子の思い出を刺激すると、逆効果になりかねないぞ。いくら頑張ったところで、きみはマニゴルド本人にはなれない」

 

「あなたもアスプロスと同じような事を言う」

 

「そうか。珍しくあいつと意見が合ったか」

 

 シジフォスは嬉しそうに笑った。

 

 

【山羊座】

 

 デジェルはエルシドの所へも行った。

 

「そういうわけで、マニゴルドという人の件を聞いて回っています」

 

 刃物のような雰囲気の男は、仲間である彼にも三白眼を向けた。

 

「俺以外にもあいつを知っている奴は大勢いる。今更なぜ俺に聞く」

 

「むしろなぜ今まで黙っていたんですか。越してきたばかりの隣人に近所の事情を教えてくれても、罰は当たらないと思いますが」

 

 山羊座の磨羯宮と水瓶座の宝瓶宮は隣り合わせである。エルシドに聞くのが後回しになったのも、隣人だからいつでも聞けるという思いがあったからだ。

 

「べつにわざと黙っていたわけじゃない。聞かれなかったから言わなかっただけだ」

 

「では、こうして尋ねたからには答えてくれるのでしょうね」

 

 ふんと短く笑い、エルシドは前方に目を戻した。二人の見守る闘技場では、候補生たちが汗と埃にまみれて訓練の真っ最中である。

 

「……あいつが聖域に来たのは、ざっと七年くらい前のことだ」エルシドは訥々と語り出した。「その頃は俺もまだ修行地に行く前でここにいたから、来た頃のあいつを知っている。色々あってあいつは教皇の弟子という扱いになった」

 

「猊下と同じ守護星座だと聞きました。そのために見出されたということですか」

 

 男は黙り込み、しばらくしてから「違うと思う」と答えた。

 

「マニゴルドは、自分の守護星座をしばらく勘違いしていた。実は自分は天馬星座だと俺に打ち明けてから、それは間違いで実は蟹座の候補だったと訂正するまで、年単位で時間が空いている。俺が修行地にいたせいもあるが、猊下が初めからご自身の後継者として見込んだのなら、そんな勘違いは起こらないだろう」

 

 静かな確信と共に紡がれる言葉。デジェルも思わず納得してしまった。

 

「ところで、彼が蟹座の候補だと明かしてくれたのは、いつ頃でしたか。もしや師の聖衣を継ぐという重圧に耐えかねて遊興に走ったのでは」

 

「時期的にはそうだな。あいつが聖域をちょくちょく抜け出すようになったのは、その後だ」

 

 では、と気色ばむデジェルを、男は手で制した。

 

「あいつが隠密の調査を続けているとか、堕落して放逐されたとか、おまえももう色々聞いているだろう。事実はもっと単純だ」

 

「単純」

 

「マニゴルドは修行の旅に出たんだ。己を見つめ、研ぎ澄ますためには聖域だけでは足りなかった。そういうことだ」

 

 これまでに聞いてきた話とは全く違う見解だった。正直、見当外れではないかと思う。デジェルは失礼にならないよう、そう考えるに至った根拠を尋ねてみた。すると一言、「勘」ということだった。

 

 やはり後回しにして正解だったな、とデジェルは安心した。

 

 

【魚座】

 

 デジェルが聖域に来て季節が一巡した頃、魚座のルゴニスが亡くなった。デジェルが生まれる前から十二宮を守っていた男だった。彼の死に伴い、魚座の聖衣はその弟子アルバフィカが受け継ぐことになった。

 

「知らねえおっさんが死んで、知らねえ奴がその後を継いだだけだ。興味ねえな」

 

 カルディアの暴言をデジェルは窘めたが、内心は同感だった。ルゴニスと顔を合わせたのは、水瓶座着任の挨拶に行った時の一度きり。彼の後継者には会ったこともない。教皇の間に集まった他の黄金聖闘士たちも同じようなものだろう。魚座の師弟は、隠者のように他者との付き合いを断っていた。

 

 やがてアルバフィカが数年ぶりに人前に姿を現した。同性ながら感心するほど美しい若者だった。しかし師を亡くしたばかりの顔は青ざめ、表情は乏しい。作り物のようだった。後で知った事だが、アルバフィカの魚座継承は、ルゴニスの死をもって完結するものだったらしい。他人にぶつけようのない怒りを押し込めて、若者は教皇に頭を垂れた。

 

 教皇は威風泰然とした態度で、新たな黄金聖闘士の誕生を祝福した。それからアルバフィカに小声で親しげに囁いた。若者の肩が僅かに震えた。軽く頷き、教皇に言葉を返す。二人の態度を見るに、初対面ではなさそうだった。

 

 立ち上がって振り向いた魚座は、広間を、そこに列席する黄金位を睥睨した。それは自らの存在を主張するようでもあったし、誰かを捜しているようでもあった。

 

 散会の合図があった後で山羊座が話しかけた。

 

「アルバフィカ。俺を覚えているか」

 

「その目つきの悪さは見覚えがある。山羊座を授かったのか」

 

「今はエルシドと名乗っている」

 

「そうか、またよろしく」

 

 ありきたりな再会の会話。アルバフィカは微笑すらしなかった。山羊座が手を差し伸ばすと、彼はそれを避けて身を引いた。

 

「悪いが触れてくれるな。いや、きみのせいではない。私の側の問題だ。この身体を流れる血は猛毒と化している。今の私は歩く毒壺のようなものだ。済まないが以前のような付き合いは期待するな。他の方々も、私には近づかないでほしい」

 

 広間に残っていた者たちに淡々と告げて、アルバフィカは足早に去っていった。それから新しい双魚宮の主は、再び人前に出なくなった。

 

 ある日、宝瓶宮にいたデジェルは上から駆け下りてくるアルバフィカを見かけた。

 

「通らせてもらうぞデジェル」

 

「あなたが」

 

 そんなに急ぐとは珍しいな、と言い終える間に相手は走り抜けていった。魚座の代替わりから一年以上が過ぎていたが、初めてのことだ。デジェルも読みさしの本を置いて後を追った。アルバフィカは快足を飛ばして階段を飛び降りていく。

 

「何があったんだ」とデジェルは走りながら聞いた。

 

「今ハスガードから念話があった」

 

 牡牛座は任務で外地に赴いたはずだ。それが寄越した連絡で魚座が動くとは、間違いなく火急の用件に違いない。

 

「彼はなんと?」

 

「放蕩息子を連れて帰ると。もう聖域に着く」

 

「放蕩息子?」

 

 アルバフィカは朗らかに答を明かしてくれた。

 

「マニゴルドが帰ってきたんだ!」

 



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荒野の会合

 

 荒野を二人連れの男が歩いてくる。

 

 一人は大きな箱を背負い、黒い外套を小脇に抱えている。服もはち切れそうな魁偉、牡牛座のハスガード。

 

 その隣に並ぶのは、さすがにハスガードには負けるがけっして見劣りのしない体格の若者。三年もの間、消息を絶っていたマニゴルドである。こちらはごく地味な私服と小さな荷物を担いだ平凡な旅姿だった。

 

 顔立ちからは幼さや甘さが抜け、精悍な大人の風貌になっていた。しかし皮肉っぽい薄笑いを浮かべて、どこか斜に構えた様子は、悪童と呼ばれた少年時代のままである。

 

 ハスガードが言った。「もうすぐ聖域だ」

 

「知ってるよ」とマニゴルドは小うるさそうに返した。「俺が何回ここ通ってると思ってるんだよ」

 

 辺りに人家はない。轍の跡もない。何も知らない者の目には、彼らがあてもなく闇雲に彷徨っているように見えるだろう。それこそが聖闘士の本拠地に続く道。知る者は限られている。

 

 二人はどちらからともなく足を止めた。聖域の一番外側を守る結界まであと僅か、という所だった。

 

「なんか知った顔がちらほらいる」

 

「おまえを連れて帰ると、さっき念話で伝えたからな」

 

「もしかして、あそこにいる全員に?」

 

「いや、黄金位にだけだ」

 

 彼らの行く手には聖衣を纏った聖闘士たちが立ちはだかっていた。蠍座のカルディア。水瓶座のデジェル。山羊座のエルシド。魚座のアルバフィカ。ハスガードは双子座のアスプロスにも連絡を入れていたが、その姿はなかった。射手座のシジフォスは、いつものように外地でアテナ捜索中である。

 

 しかしこの場に集っていたのは、ハスガードの念話を受け取った者だけではなかった。黄金聖闘士が集う状況から変事を察した、その下の聖闘士や雑兵、候補生も様子を窺っている。結界の内側に留まっているとはいえ、その数およそ数十人。

 

「やっぱ俺を捕まえるつもりなんだろうなあ」

 

と、やけくそ気味にマニゴルドが言った。正面で物々しい雰囲気を押し出す聖闘士を無視して、彼は遠くの雑兵たちに手を振った。

 

「おーいおまえら。久しぶり!」

 

 つられて手を振る者はいなかった。

 

「わっ、馬鹿、こっち見んな」

 

「来るなよ、絶対こっち来るんじゃねえぞ」

 

「似てると思ったけどやっぱりマニゴルドだったか」

 

「あの馬鹿野郎、わざとやってやがる。しっしっ」

 

 雑兵たちは急いで追い払う仕草をした。彼らは何年も聖域で働いている。外の修行地からやってきた聖闘士に比べれば、候補生時代の悪童と親しくしていた者は多い。しかし聖闘士たちが警戒している手前、男の帰還を歓迎するわけにはいかなかった。

 

 マニゴルドは傷付いた表情を作った。

 

「ハスガード……。昔の仲間にも拒絶された俺は、やはり帰るべきではなかったんだ」

 

「ふざけてないで行くぞ、ほら」

 

 苦笑して歩き出したハスガードの前を、蠍座が塞いだ。

 

「通してくれ」と牡牛座は穏やかに頼んだ。

 

「あんたは通ればいい。だけど隣のそいつは駄目だ。聖域を捨てた人間が今更何しに来やがった」

 

「予想通りの反応だな、おい」

 

「マニゴルドは聖域から離反したわけではない。調査任務に出ていただけだ。おまえも知っているだろう」

 

「知らねえな。どうせ嘘だろ、そんなの」

 

とカルディアは言い切った。

 

「おまえ、教皇猊下の命をよりによって偽りだというのか。それでも黄金か!」

 

「てめえも教皇って聞いただけで頭が空っぽになる癖、どうにかしろよ」

 

 一歩引いたところで様子を見守っていた水瓶座が、見かねて間に入った。

 

「二人とも落ち着け。記録の件は私も把握している。しかしマニゴルドという人がなぜ聖域を離れたのか、正しい事情を知る者はここにいない。聖衣を与えられなかった者が数年がかりの任務に赴いたと説明されても、俄には納得しがたい。大声で言うのも憚られるが、不名誉な理由で聖域を離れたことを隠すために任務扱いにしたという説さえある。そんな人物が聖域に戻ってきて、歓迎されると思うほうがどうかしている。聖域と敵対する勢力の走狗になったと疑われても仕方ない。ここを通りたければ、身の潔白を示してからだ」

 

「ほー。なるほどなるほど」マニゴルドが感心してみせる。「説明ありがとさん。にいちゃん、名前は?」

 

「デジェル。水瓶座のデジェルだ。ここでは新参者だが、あなたの噂はかねがね聞いている」

 

「碌な噂じゃなさそうだ」

 

 自虐的な言葉だが悪びれた様子はない。デジェルは少し笑って、頷いた。

 

 ハスガードは己の胸を叩いた。

 

「マニゴルドの身の潔白なら、俺が保証する。ここにいるのも、俺がぜひにと頼んだからだ。思うところもあるだろうが、通してくれ」

 

「信じるかよ、ばーか」

 

 口角を上げてもカルディアの目は笑っていない。

 

「黄金聖闘士が付き添っていようが、それで許されると思うな。脱走者、もしくは追放者に相応しい扱いというのがある。これまでの所業を悔い改め、聖闘士の手に掛かるというなら、それで良し。恥知らずにも弁解する気ならその前に息の根を止めてやる。さあどちらが良い、マニゴルド。最後の情けに選ばせてやる。っていうかそんなのどうでもいいけど死ね糞野郎!」

 

 マニゴルドは肩を竦めた。「せっかくそれっぽい口上だったのに、どうでもいいとか言っちゃ台無しじゃねえか。そんなに俺に会いたかったのかよ」

 

「うるせえ。ヘラヘラしてられんのも今のうちだ」

 

 カルディアの小宇宙が刺々しくなる。

 

「お待ち下さい。蠍座様」

 

 殺気立つ黄金聖闘士を引き留めたのは、数人の白銀聖闘士だった。

 

「マニゴルドといえば、聖衣を授かることができないまま追放された者と聞きます。候補生崩れの小物です。黄金聖闘士が相手をしては沽券に関わります。どうか我らにお任せを」

 

 水を差されたカルディアは小宇宙を昂ぶらせた。が、それを一瞬で鎮めた。「行ってこい」と白銀聖闘士たちに顎でしゃくる。それを受け、一人が進み出てマニゴルドに名乗ろうとした。

 

 ところが小物呼ばわりされた男は大声で、「いいよ。まとめて相手してやるから白銀全員で来い」と遮った。荷物と脱いだ上着をハスガードに預けて、腕まくりをする。そして彼らに向かって手招きしてみせた。「その代わり俺が勝ったら通してくれよ」

 

 白銀位からすれば愚弄されたも同然だ。

 

「身の程知らずが! 堕落した揚げ句、聖闘士の常識も忘れたか」

 

「聖衣も持たない者が、白銀聖衣を着けた我らに勝てると思うか」

 

「雑兵程度が百人集まっても、青銅位一人に勝てる道理はない。それすら理解できない愚かさだから追放されたのだろうよ」

 

 後ろからカルディアが落ち着いた声を掛ける。

 

「本人がいいと言ってるんだ。全員で掛かれ」

 

「そんな、蠍座様。相手は生身の人間です。まして聖闘士の戦いは一対一が基本の――」

 

「いいから行け。これ以上がたがた抜かすなら俺がおまえらを殺す」

 

 在位する黄金聖闘士の中で、最も容赦がないのがカルディアだ。誇張や脅しではないだろう。白銀聖闘士たちは、上位の者の指示ということで、大勢で一人を袋叩きにする後ろめたさを押し殺した。

 

 七人ほどが視線を交わし合った。

 

 彼らは土を蹴り、不埒な男に飛びかかった。マニゴルドは動かない。やはり白銀聖闘士の素早さについていけないのだと、多くの者は安心した。次の瞬間、飛びかかったはずの聖闘士たちは、一様に後方へもんどり打った。中央ではマニゴルドが涼しい顔で佇んでいる。

 

 場がどよめいた。

 

 カルディアを初めとする黄金聖闘士は動じない。彼らには、マニゴルドが迫り来る相手に次々と拳を叩き込む様子が見えていた。白銀聖闘士はそれに倒された。それだけだ。しかし多くの者にとっては、男の拳の速さは予想と限界を超えていた。目で捉えることすらできなかった。その事実自体が、ほとんどの者にとって驚きだったのだ。

 

 倒された白銀聖闘士たちも地面から起き上がれない。彼らは体だけでなく心にも衝撃を受けていた。殴られた箇所が、熱した鉄球をねじ込まれたように痛い。聖衣の上から受けた打撃なら、こうはならない。

 

 男は聖衣の隙間を狙い、いとも容易くそこへの攻撃を成功させた。まぐれ当たりでない証拠に、七名全てが同じ目に遭っている。数の優位も成り立たない実力差。白銀聖闘士を圧倒する力を持つ者は、そう多くない。

 

 もはや、この男を候補生崩れの小物と侮ることはできなかった。

 

「やっぱりこいつら程度じゃ歯が立たねえか」

 

と、蠍座が言った。指の関節をポキポキ鳴らしながら進み出てくる。嬉しそうな様子にマニゴルドは呆れた。

 

「そう思うならけしかけてやるなよ。可哀相に」

 

「ふん」カルディアは足元の敗者を爪先で小突いた。「邪魔だ。どけ」

 

「相変わらず勝手な奴」

 

「勝手に出ていった野郎に言われたくねえな」

 

 カルディアは生きた突風となってマニゴルドに襲いかかった。白銀聖闘士七人を一人でねじ伏せた男は、今度はすぐに身構えかけた。しかし何を思ったか、拳を受ける寸前で姿勢と重心を元に戻した。

 

 鈍い衝撃音。

 

 青空高く、一個の体が宙を飛ぶ。

 

 その放物線を、黄金聖闘士たちはそれぞれの表情で見守った。その他の見物人はわっと歓声を上げた。驚いているのは殴った当人である。ぽかんと口を開けた。

 

 マニゴルドは空中で体勢を立て直し、猫のごとく静かに地面に降り立った。殴られた顎を擦りながらカルディアに笑いかけた。

 

「おお痛てえ。なかなか重い一撃が出せるようになったじゃねえか。あのひ弱な坊ちゃんがよ」

 

 カルディアの顔がみるみる朱に染まった。

 

「……てめえ、わざと受けやがったな」

 

「俺なりの誠意さ」

 

「ふざけんな死ね!」

 

 カルディアは激情のままに男に踊りかかった。

 

「まだ俺のこと馬鹿にしてんな! おまえが修行しないで遊んでる間、どっかに行ってた間に、俺はずっと強くなったんだ」

 

 怒りを纏った拳が空気を切り裂き、顔に押し寄せる。マニゴルドは肘で受けた。ゴッと岩がぶつかったような音。二人の小宇宙が火花のように散った。

 

 今更ながら野次馬たちの胸に疑問が湧く。

 

 この男はなぜ現れたのか。

 

 蠍座と互角に戦っている男は、落伍者として聖域を去ったとされる者と同一人物なのだろうか。任務に遣わされたと聞いても、それを信じる者は当時からほとんどいなかった。聖衣も持たない者が正式な聖闘士のように扱われるはずがない。聖域から追い出すための体の良い口実だと思われていた。

 

 しかし彼は戻ってきた。

 

「そうだな。強くなった」

 

 今度はマニゴルドも一撃で相手を張り飛ばすというわけにはいかなかった。太腿の横への蹴りを中心とした速攻の連続。しかし黄金聖衣は白銀聖衣に比べて隙間が少ない。そこも聖衣に覆われた部位であり、蹴られた者にとっては大して痛くもない。

 

 カルディアは苛立ち、嘲笑した。

 

「おまえは弱くなったな。全然響いてこねえ」

 

「たしかに俺は弱くなった。でもまあ――」

 

 マニゴルドは胴を踏み抜く勢いで相手を蹴り飛ばした。カルディアは勢いに押されて後ろへ滑った。削られた地面から土煙が巻き起こる。間合いが広がる。カルディアは反撃に出ようとして、不意にがくりと片膝を付いた。ここへ来て、攻撃を受け続けた足の急所が悲鳴を上げていた。

 

 かつて死に神と呼ばれた男は、かつてそう呼んだ相手を見下ろして人差し指を向けた。

 

「――殺そうと思えば、この指一本でここにいる全員を一瞬で殺せる。抵抗も出来ずに、皆揃ってこの世からお別れだ」

 

 この場に彼の技を見たことがある者はいない。それでも今の言葉がはったりだとは誰も思わなかった。深い奈落の底を覗き込んだ時の気分。解放されたマニゴルドの小宇宙が感じさせるのは、それに似ていた。冷たい風が吹いた。

 

「奇遇だな」

 

 声を上げたのは、少し離れた所から見ていたアルバフィカだった。

 

「抵抗されずにこの場の全員を殺せる技なら、私も使える。おまえが聖域に牙を剥くなら、友であろうと容赦はしない」

 

 男は成長した幼馴染みへ陽気に返す。

 

「おう、アルバフィカ久しぶり。魚座になれたんだな。おめでとさん」

 

 魚座は冷ややかに頷き、手にした薔薇を旧友に向けた。

 

「蠍座の言にも一理ある。おまえは称号を得る前に師の許を去ったそうだな。事実がどうあれ、それは聖域との縁を切ったに等しい。今一度縁を繋ぐ気があるなら、ここにいる全員を納得させるだけのものを見せろ。探索に出ていたというなら、その成果でもいい。ここを通しても良いと思える物を示せ」

 

「黄金聖闘士の首級なんてどうだ?」

 

 不敵に笑う男に、周囲の緊張が高まる。

 

「なーんてな。ここで誰か殺したら、今度は俺が殺される。そんな面倒臭せえ事はやらねえよ。でも見せられるもんもないんだ。俺の顔に免じて許してよ」

 

 自らが作り出した緊迫した雰囲気を、マニゴルドはあっさり壊した。そもそもこの場に現れてからというもの、彼自身は陽気で軽薄な態度を崩していない。

 

「相変わらずだな」と、薔薇を持つ手も下ろされた。「蠍座。私の代わりに十発くらい殴っておいてくれ」

 

「指図すんな。てめえでやれ」

 

 カルディアは吐き捨て、再びマニゴルドに躍りかかった。二人の拳の応酬に空気と大地が痛めつけられ、極小規模の嵐を巻き起こす。

 

 彼らを眺めるアルバフィカが軽く溜息を吐いた。ハスガードは年下の僚友に歩み寄り、数歩の距離で立ち止まった。あまり接近すると、相手が神経質になるからだ。体内の毒で無意識に他人を害することを、アルバフィカは恐れている。

 

「よく来てくれたな。幼馴染みの出迎えはあの男にも嬉しかっただろう」

 

とハスガードは言った。昔の誼で、アルバフィカにはマニゴルドの帰還を伝えてあった。しかし隠者のように暮らしている魚座が人前に現れることは期待していなかった。嬉しい驚きだ。

 

「私はどうでもよかったんだ。水瓶座があいつに興味を持っていたので連れてきてやっただけだ」

 

 巻き込まれたデジェルが驚きの声を上げた。

 

 それより、とアルバフィカは澄まして話を変えた。「あなたが外部任務の途中でマニゴルドを見つけたという、そこまではいい。あいつは自分の意思でここに来たのか。それともあなたに連れて来られたのか」

 

「俺が説得して連れてきた。大丈夫だ」

 

 彼の懸念はハスガードにも分かっている。聖域から姿を消した者が数年ぶりに突然現れたのだ。敵の送り込んだ間諜ではないかと疑うのは正しい。マニゴルドが単身で戻ってくれば、その疑いを解くことはまず不可能だろう。だからハスガードは仲介者として一役買うことにした。

 

「その辺りの経緯が念話ではよく分からなかった。差し支えなければ聞かせてくれないか」

 

「私もぜひ聞きたい」

 

と、デジェルも乗った。

 

 本人が言うような、大勢を一度に殺せる技をもってすればマニゴルドがこの場を切り抜けることは容易い。そうせず堂々と聖域に乗り込む道を選び、カルディアと大立ち回りをしている時点で、間諜として動く気はないだろう。それをするには目立ちすぎた。だからといって、陽動を担っている可能性までは否定できない。

 

 ハスガードは地上の嵐を見やった。

 

 猛獣同士の危険なじゃれ合いに乱入しようという命知らずの小鳥はおらず、白銀以下の聖闘士たちは結界の内側へ避難した。万が一に備えて(あるいは自分も交ざりたいと思いながら)エルシドが見守っているから、致命的な状況にはならないだろう。

 

「べつに俺が誘導されたわけでもないが。語ってそれで納得してくれるなら」

 

 彼は語り出した。

 

          ◇

 

 ――石畳の路地の両脇に、小さな商店や露天商が立ち並ぶ。水煙草。絨毯や布地。金製品に銀製品、銅や真鍮の金物類。石鹸。籠や箒といった日用雑貨。午後いっぱいの長い休みを終えて、ようやく市場が開き始めた。

 

 路地の上は粗織りの日除け布が覆っている。風が抜けないので、どこに行っても人々の体臭と香水が入り混じった独特の匂いがする。それでも食材を取り扱う区画に比べればいいほうだ。ハスガードは襟元を緩めた。

 

 そこは地中海南岸に面したエジプトの港町。単身、任務に赴く途中だった。

 

 聖衣を入れた箱に目を付けたのか、彼に歩み寄る男がいた。

 

「旦那、旦那。そんな大きな荷物でどこに行くんだい。旅の人だろう。今夜の宿はもう決まってるかい? お薦めの宿屋があるよ」

 

「もう宿は決めている」

 

「そう言わずに。うちの寝台なら旦那みたいな大きな人でも足がはみ出さずに休めるよ。おまけに三百年続く、由緒正しい隊商宿だ」

 

 ハスガードが断ってもお構いなしに近づいてくる。肩が触れるほど近くまでやって来ると、その男は素早く手を動かした。何気ない仕草。ハスガードも納得して、同じ仕草を返した。二人は、互いが聖闘士の系譜に連なる仲間である事を確認した。

 

 名も知らぬ男は囁いてきた。「聖衣持ちの聖闘士とお見受けします」

 

 ハスガードは頷く。「怪異の件を報せてきたのはおまえだな」

 

「はい。この町で宿屋を預かっております」

 

 世間に溶け込みながら、地域の情勢を聖域へ伝える役目の雑兵が世界各地にいる。この男もその一員だった。彼から聖域へ、封印されていた古い精霊が目覚めたという遠方の噂が伝えられた。宿に泊まった客からの情報だという。その精霊は人を食うそうで、実際に人死にも出ているらしい。精霊と呼ばれていても、実態は冥闘士によって引き起こされた怪異の可能性もある。状況を確認する必要があると聖域は判断した。そこでハスガードが遣わされた。

 

 本来、黄金聖闘士の務めは聖域の中枢たる十二宮を守ることだ。聖域の外へ出陣することは求められていない。しかし時には「なぜこんな事にまで聖闘士が出張ってくるのか」と現場の雑兵に言われるような小事にも、黄金聖闘士が対応することがある。現場の下級聖闘士や雑兵の務めを知らなければ、彼らに適切な指示を出せないからだ。そこで本来であれば青銅位に適しているような任務に、敢えて黄金位が赴く場合があった。

 

「詳しくは後ほど。私はこれから夕食の材料を仕入れに行きますので、先に宿にお入りください。留守番には、大切なお客が来ると伝えてありますから」

 

 主人自ら買い物に出るくらいなら、その留守番とやらを使いに出せばいいものを。そんなことを考えていると、相手は付け加えた。

 

「ご安心を。聖闘士の世界は何も知らない奴ですが、頭も切れるし、気も利きます。本人にその気があるなら、表の仕事を手伝わせてやろうと思ってまして――」

 

「分かった」ハスガードは唐突に大きな声を上げた。俗世のことには、黄金聖闘士が干渉すべきではない。「そこまで言うなら、あんたの勧める宿にしよう」

 

 相手もすぐに切り替えて、「お客さん、うちの鳩料理は楽しみにしてくれていいよ」と、周囲に聞こえる程度の声量で応じた。

 

 それからハスガードは件の宿に着き、言われた通りに中に呼びかけた。

 

 間の抜けた返事があり、戸が開いた。留守を預かっていた男が現れ、ハスガードは驚いた。

 

 中から姿を見せたのがマニゴルドだった。

 



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放蕩息子の帰還

 

 目が合った途端、ハスガードの鼻先で戸が閉ざされた。閂の掛かる音で我に返る。今、目の前に現れたのは間違いなく彼だった。

 

「マニゴルド!」

 

 ハスガードは、往来の人々に借金取りと間違われる勢いで、激しく戸を叩いた。「おい! なぜ閉めた! 開けろ!」

 

 中から応えはない。ハスガードは躊躇わずに扉を蹴破った。奥へ駆けだす背中に手近にあった壺を投げつける。強靱な肩から砲弾並みの威力を与えられた壺は、男の後頭部めがけて飛んでいった。当たれば頭は西瓜のように割れてしまうだろう。男は振り向きざまに壺を叩き落とした。その一瞬を逃さず、黄金の雄牛は男に突進して床に組み伏せた。壺が派手な悲鳴を上げて破片へ変わった。

 

「なぜ逃げる。久しぶりに会ったのに」 

 

「久しぶりに会ったからだよ」

 

と、苦しそうな姿勢と、ちっとも苦しくなさそうな表情で、マニゴルドは答えた。「聖域時代の知り合いに見つかったら面倒臭せえと思ってたけど、よりによって黄金かよ」

 

 ハスガードは納得した。

 

「そうか。秘密の探索をしている最中だったな」

 

「なんだそれ」

 

「とぼけなくていい。教皇猊下から密命を受けたという話は俺も聞いている」

 

 マニゴルドは一瞬黙り込み、なるほど、と短く息を吐き出した。それから退いてくれと言われたので、ハスガードは相手の背から下りた。逃亡未遂者は身を起こし、わざとらしく壺の破片を払い落とした。

 

「野郎に組み敷かれるなんて経験、二度としたくねえな」

 

「相変わらずだな。元気だったか」

 

「まあな。おまえはどうよ」

 

 野次馬を追い払い、戸口を布で隠したマニゴルドは、ハスガードに茶と茶請けのデーツを出した。一応は客としてもてなすつもりのようだ。問われるまま、ハスガードはこの町へ来た経緯を答えた。それが一段落して相手に聞き返す。

 

「そう言うおまえは? ずっとここにいるのか」

 

「いいや。この町に来てせいぜい一月だ。聖域は地中海の向こうだし、聖闘士には見つからねえと思ったのにな」

 

「おいおい、ここは聖域の息が掛かった拠点だぞ」

 

「え、そうなの?」

 

と、マニゴルドは一段高い声を上げた。どうやら宿屋の主人は、裏の顔を隠したままこの男に接していたらしい。気づかずに留守番を引き受けた男は頭を抱えた。

 

「畜生。あのオヤジが聖域に通じてるとは思わなかった。自分から檻に飛び込んだわけか、俺は。間抜けすぎる」

 

「向こうもおまえの素性を知らないようだぞ。ここに来る前に市場で会ったが、素人に留守番を任せたと言っていた。俺より前に聖闘士に遭遇したことはないのか」

 

 もし会っていれば、そこまで追っ手を警戒する必要がないことも分かっただろう。

 

「出くわす前にこっちで避けてたからな。基本的に青銅や白銀は小宇宙を馬鹿みたいに垂れ流してるから、遠くからでも察しやすい」

 

 ハスガードも納得した。強大な小宇宙を持つ黄金位は、逆に、日常では極力小宇宙を抑えるのが習慣になっている。

 

「おまえも大分抑えているようだな。顔を見るまで気づかなかった」

 

「だろ。あんたのお墨付きも貰ったことだし、今からでも逃げようかな」

 

 そんな事を口にしながら、彼はまだハスガードの前に座っている。ただの一般人を装っていても、他人の魂を自由に抜き取れるという積尸気使いだ。ハスガードの行動の自由を奪って逃げることは容易いだろう。ハスガードはその技を見たことがないし、抵抗の仕方も分からない。本気で逃げられたら追いようがなかった。

 

「ここに来る前は何をしていたんだ」

 

「色々。マドラスとかジャワとか、あの辺まで行ったぜ。マダガスカルでやってた海賊稼業も面白かったけど、すぐに飽きちまって」

 

 ハスガードはどうにか茶を吹き出すことを堪えた。十七世紀から十八世紀にかけてのアフリカ東海岸からインド洋は、海賊が盛んに活動していた海域である。当時マダガスカルはその一大拠点として有名だった。

 

「船は嫌いだと言っていたくせに」

 

「言ってねえよ」

 

「密命を帯びての行動なんだろう。そう言ってくれ」

 

 生返事の後、男はだらしなく両手を広げた。「俺が探し物をしてるってのは事実だ。俺の生をな。探してんの。だけど見つからねえんだよ。どこにあるか、あんた知らねえか」

 

 煙に巻くつもりか、とハスガードは思った。この手の冗談をマニゴルドは昔から口にしていた。そして本心を明かしてくれない相手に、少しだけ落胆した。

 

「確かに人生に迷走していそうだが、これからどうするんだ。ここの亭主はおまえに宿屋の仕事を手伝わせたいらしいぞ」

 

 男は肩を竦めただけだった。

 

「決めていないなら、一度聖域に帰ってこないか。探索が名分なら、きりのいいところで引き上げてもいいだろう。現に何度も戻ってきている者もいる」

 

「シジフォスか。そういや女神は見つかったのかよ」

 

「残念ながらまだだ。しかしそう遠くないうちにお迎えする事になるだろう。聖戦は近い」ハスガードは太い指を一本一本折っていった。「十二宮のうち、すでに八宮が守護者が立っている。おまえの出ていった後に新たに二つの黄金位が埋まり、別の二つが代替わりした」

 

 同じように骨張った指を折って計算していたマニゴルドは、首を傾げた。「それなら九人じゃねえか」

 

「セージ様を巨蟹宮の守護者として数えていいなら、九人で正しいかな。同じように、宝瓶宮にも名目上ずっと守護者がいたんだ。俺も知らなかったんだが、後継者に譲られるまでクレスト翁が現役だったんだ。そこと双魚宮が代替わりした二宮だ。それでイリアス殿が亡くなられて獅子座が空位となったから、八人で合っている」

 

 マニゴルドは興味深そうにハスガードを見返した。「あんたがあのおっさんを殺したのか」

 

 あらぬ疑いにハスガードは急いで首を振った。「弔っただけだ。勝手に人殺しにするな」

 

「なんだ。渋い顔で言うから、てっきり後悔してるのかと」

 

 意地悪く笑うと、男はデーツを一粒つまんだ。ハスガードは思い出した。獅子座を連れ戻しに行く旅に誘い、断られたのが、マニゴルドと聖域で交わした最後の会話だった。

 

「イリアス殿は冥闘士の襲撃に斃れたんだ。俺はあの方を葬っただけで、他に何もせずに引き上げてきた。あの方には小さい息子があったのに、何もせず、馬鹿みたいに手ぶらで帰ってきた。任務以外のことに何も気を配らなかった。アスプロスに絞られたのも当然だ。俺はイリアス殿の子供を見捨てたんだ。他に身よりもない小さな子供を」

 

 当時を振り返る度に彼は胃の辺りに冷たさを覚え、掌に嫌な汗を掻く。

 

「そんな気にすんなって。ガキでも一人で案外逞しく生きていけるもんだ」と、マニゴルドは軽く受け流した。その軽さのまま言葉が継がれる。「その見捨てたガキの代わりに俺を連れ帰りたいんだな」

 

 ハスガードは首を横に振った。

 

「イリアス殿の件で俺の評価は下がった。一度失った信頼を取り戻すには真面目にこつこつやっていくしかないが、好機があるなら無視する手はない。そこでおまえだ。消息を絶っていた教皇の弟子を連れて帰って、そいつが蟹座に就任すれば、俺も功労者と称えられて一気に汚名挽回だ。おまえも一人で帰るよりは、聖域側の仲介者がいたほうが気が楽だろう。どうだ、お互いのために手を組まないか」

 

 デーツの種を吐き出し、マニゴルドは口角を上げた。

 

「挽回してどうすんだ。にしても、あんたがそういう事を言うようになるとはな。でも少し考えろよ、牡牛座のハスガードさんよ。そもそも俺は聖域に戻りたいなんて一言も言ってねえ。放蕩三昧の鼻つまみ者が戻ったって歓迎されるわけないし、戻ったところで蟹座になれるかどうか怪しいもんだ。前より弱くなったからな。それを無理に連れ帰っても、功労者どころか厄介を持ち込んだ大馬鹿呼ばわりされるのが精々だぜ」

 

「それは困ったな」と、ハスガードは深刻そうに腕を組んでみせた。「だけどおまえも、そろそろ帰りたくならないか」

 

「今まで一度も帰ってない、近づいてすらないってのが答だよ」

 

「それは脱走者扱いを恐れてのことだろう? だけど脱走しただの、追放されただのとおまえを非難する者には、正論で反論できるんだ。必要以上に警戒する必要はない」

 

 男はむくれたように横を向いた。

 

「……でも俺はまだ戻れない」

 

 手や爪に刻まれた労働の名残。横顔の輪郭の鋭さ。かつて周囲の空気をギラギラと突き刺していた激しい小宇宙は、死の気配と共に落ち着き、夜の海のように静かに彼を覆っている。最後に別れた時から三年。未熟な若者が大人になるには十分な時間だ。

 

「マニゴルド。本当に猊下から何かを命じられているなら、手伝ってやろうか」

 

「いや、いい」

 

「逆に俺の任務を手伝ってくれたら、大々的にその功績を聖域に伝えて、受け入れの下地を作ってやっても良いぞ」

 

 男は横に首を振り、苦く笑った。ハスガードはそれをじっと見つめ、やがて膝を手で叩いた。

 

「止めた。やはり率直に言おう。俺はおまえと再会できて嬉しい。このまま別れるのは惜しい。この出会いはきっと星の導きだ。イリアス殿の子供を見捨てた俺に与えられた、最初で最後の機会だ。おまえを連れ帰るのが俺の使命なんだ。猊下のお怒りが怖いなら、一緒に叱られてやる」

 

「人をガキ扱いするな。叱られるのが怖いって、何だそりゃ。馬鹿にするなよ。こちとら叱られるのには慣れてんだ」

 

「じゃあ怖いものは何もないだろう」

 

 押し問答の末、マニゴルドは音を上げた。

 

「しゃあねえな。確かにあんたと会ったのも何かの縁だろう。聖域には行ってやるよ。けど教皇はその場で改めて俺を追い出すはずだ。出直してこいって追い返されたら諦めてくれ。擁護は要らない。これは俺とあのクソジジイの話だから」

 

「……分かった。ありがとう」

 

 やがて宿の主人が帰ってきた。扉の惨事に呆然とした様子だ。

 

「ワフディ、あの入口はどうした。何があったんだ」

 

「お帰りおっさん。何もねえよ。なあ、お客さん」

 

「ああ」

 

 二人は何食わぬ顔で頷き合った。

 

「もしかして借金取りか何かが、おまえのところに押しかけてきたんじゃないだろうな。だったら尚のこと悪い仲間とは縁を切って真っ当に働け。な、ワフディ」

 

「縁切れってさ」マニゴルドは大男を盗み見て笑った。ワフドとは、ならず者や悪党という意味の言葉である。

 

 ハスガードは睨み返した。「ワフディとやら。借金があるなら今のうちに清算しておけよ」

 

「あー、そういう事言うんだ。あのな、おっさん。そこの入口ぶっ壊して突っ込んできたのはこの人だ。俺は脅されて口裏合わせただけなんだ」

 

「それを言うなら、扉を開けなかったのも、入口の側に置いてあった壺を割ったのも、全部おまえだろう」

 

「あんたが投げつけてきたんだろうが!」

 

 中年の亭主は、実に穏やかな表情で溜息を吐いた。ハスガードはすかさず財布を取り出した。

 

「亭主、これは詫びだ。足りなかったら言ってくれ」

 

「えっ、こんなに」

 

「この男の壊した分も入っている。それと一つ相談だが、この男を連れて行ってもいいか」

 

「道案内ですか。いいですよ。こいつも噂を持ち込んだ客の話を聞いてましたから、場所は知ってます」

 

「そうではなくて、聖域に連れて行く」

 

 客の突然の発言に、亭主は驚きながらも喜んだ。

 

「……そうかあ。良かったなワフディ。この方は聖闘士という、生ける奇跡なんだ。その従者に引き立てられるなんて願ってもない幸運だぞ。頑張ってこいよ」

 

「どうかな。すぐに首になるかも」

 

 何も知らない亭主の勘違いに合わせて、マニゴルドはとぼけた。ハスガードは彼を小突いた。

 

 その後は手早く任務を片付けて、二人で聖域に戻ってきた。

 

          ◇

 

「――と、そんな次第だ」

 

 ハスガードは話を結んだ。カルディアとマニゴルドの「じゃれ合い」は、まだ続いていた。

 

 結界の外は酷い有様だった。地表は抉られ岩は割れ、塵となって大量に舞い上がっている。その塵が二人の男の起こす小宇宙の摩擦で帯電し、極小の雷を混沌と孕んでいる。その中で二人は拳と罵倒を激しく応酬し合っていた。ほとんどの者が結界の内に引き上げていて影響を受けていないのが幸いだった。

 

 デジェルが風に乱された髪を押さえながら言う。

 

「つまり彼は本気で聖域に押し入るつもりはないんですね」

 

「ああ。俺の顔を立てて来てくれただけだ。猊下には認められないと当人は決めつけている」

 

 アルバフィカが首を傾げた。その時、

 

「この騒ぎは何事だ!」

 

と、鋭い一喝が空まで響いた。一瞬にして辺りを制した小宇宙に頭から冷や水を掛けられた気分で、二人の男も動きを止めた。

 

 双子座のアスプロスである。彼は静まりかえった場に乗り込むと、辺りを見渡した。

 

「これほど多くの者が持ち場を離れて聖域の外れに集まるとは、どういうつもりだ。騒ぎに乗じて敵が侵入したらどうする。平時であっても聖域の防衛は怠るな。……いや、白銀以下の者たちに罪はないな。上に立つ黄金がだらしないのが悪い。十二宮を空けて喧嘩見物に現を抜かしている者たちの自覚のなさを責めるべきだった。とくに蠍座。騒ぎを起こす側とは言語道断」

 

 睨まれたカルディアに「やーい。怒られてやんの」と、マニゴルドが囃し立てた。

 

「おまえもだ馬鹿野郎」アスプロスの矛先は彼にも向けられた。「聖域を出て三年。これまで一度も連絡を寄越さず消息を絶っていたくせに、急に戻ってきたかと思えば結界の外でのこの騒動。近隣住民の目を引き、隠された聖域の存在を世に知らしめようという魂胆なら許されないぞ」

 

「違うって。カルディアが怒ってるから一発殴られてやろうと思ったら、いつの間にかこんな事になっててさ。不可抗力だよ」

 

「そうか。俺も貴様の頭をかち割ってやりたいんだが、割らせてくれるか」

 

「いや、ちょっとそれは」

 

 口ごもる彼に双子座は詰め寄った。

 

「出ていった時と同じようにコソコソ戻ってくれば良かったんだ。黄金聖闘士を相手に私戦をやって、不必要な騒ぎを起こした罪に問われても文句は言うなよ」

 

 ハスガードが割って入った。

 

「待ってくれアスプロス。騒ぎを起こしたのが罪に問われるなら、その責を負うべきは俺だ」

 

 彼は喋りながらマニゴルドに上着を渡した。服が激しい戦いに耐えられずに襤褸切れと化していたからだ。返した上着は袖を通されることなく腰に巻き付けられた。ハスガードは自分の外套も貸してやった。ようやく文明人の格好が付いた男を庇い、彼は言う。

 

「マニゴルドは俺の説得に応じてくれただけだ。騒ぎになったのは同行を頼んだ俺の責任であって、彼のせいじゃない。ただし、この騒ぎは私戦ではないぞ」

 

「なんだと」

 

 アスプロスは眉をひそめ、ハスガードは堂々と胸を張った。

 

「来年のパンアテナイア祭に向けた予行演習だ。冥王軍に寝返った元聖闘士が聖域に侵入を試み、それを察した者が食い止めている。しかし元仲間ということもあって疑いを確信できずに傍観している者も多い。さあ皆はどう動く。そういう筋書きでマニゴルドには敵役をやってもらっている。どうだ」

 

 言い切った直後、ハスガードは腹を押さえた。アスプロスの拳が一発入っていた。彼は一人で現れたが、それは別の人物の露払いとしてであった。

 

「この方の前でもう一度同じ申し開きをできるか。……皆、控えよ。教皇猊下のお出ましである」

 

 法衣姿の老人が到着すると、人々は自然と膝を付いた。カルディアでさえ例外ではなかった。アスプロスも跪き、立っているのは教皇セージとマニゴルドの二人だけになった。

 

 こうして師弟は再会した。

 

 老人は聖域の領分である結界の内に。若者は俗世の側の結界の外に。境を隔てて対峙した。

 

 大多数の予想に反して、彼らはすぐには言葉を交わさなかった。念話を通じているのかと考える者もいたが、それも間違っていた。二人は本当にただ見つめ合っていた。

 

 ――セージは弟子を見て落胆し、そして安堵した。

 

 双子座から話を聞いて教皇宮から歩いてくる道すがら、成長した弟子の姿を思い描いた。数年も世間で過ごせば立派になっているだろうと期待していた。ところが実物はというと、寸法の合わない外套を羽織り、髪は乱れて全身のあちらこちらに傷を負っている。追い剥ぎ時代を彷彿とさせる姿だった。

 

 しかし目が違った。

 

 かつて廃墟から拾い上げた少年のそれは、厭世と諦観に昏く浸っていた。やがて虚無は受容へと変わった。

 

 聖域を去る直前の若者には、焦燥と鬱屈が焦げ付いていた。その後の変化を逐一見ることはできなかったが、若者が苦悩を抜け出したことは目ですぐに分かった。皮肉な陰にその名残があるだけで、春風のような掴み所のない軽やかさと明るさが表面を覆っている。

 

 その目で弟子は今、真っ直ぐにセージを見つめている。虚勢を張るでもなく、卑屈に愛想を良くするでもなく、ただセージを見ている。

 

 ――マニゴルドは師を見て安心し、それから緊張した。

 

 牡牛座から聖域の近況を聞かされた時、心配したのだ。ひょっとしたら自分がいなくなって師が落ち込んでいないかと。しかし杞憂だった。師は老け込んだ気配もなく、初めて出会った記憶の中から少しも変わらない姿だった。威厳も気品も何もかもがそのままだ。たかが三年程度で変わるわけがない。

 

 目も同じだ。

 

 かつて忙しい合間を縫って熱心に修行を付けてくれた頃は、優しく穏やかに子供を見下ろしていた。当時はそうは思わなかったが、今から振り返れば慈しみに満ちたものだった。

 

 蟹座の後継であると明らかにした後は、彼を見る目に厳しさと冷徹さが加わった。遊行を咎めるものではない。作り上げようとしたものの完成、もしくは失敗を見極めるものだった。聖域を去るまでその視線は続いた。

 

 その目で師は、今も真っ直ぐにマニゴルドを見据えている。内心を窺わせない靱い光が、彼の内側まで射貫いている。

 

 二人は相手の知りたい事を理解して答える術を持っていた。けれど言葉にはしなかった。それをするにはこの場には余計な人間が多すぎる。だから相手の目の中に己の求める答を探して向き合った。

 

 長い一瞬が過ぎた。

 

 マニゴルドはセージに跪いた。

 

「……ご無沙汰しております」

 

 教皇とはアテナの代理人。聖闘士に連なる者が教皇を敬うのは当然のことだった。けれどマニゴルドの不遜な為人を知る者にとっては意外な行動だった。一番驚いていたのは、そのような弟子の行動を目の当たりにした教皇セージだったかも知れない。

 

「目的は果たせたのか」

 

「いまだ道半ばです」

 

 周囲は気づいた。教皇が現れてからというもの、マニゴルドは口数が減っている。聖闘士と戦っている最中にもベラベラと喋り続けていた男なのに。

 

「それなのに戻ってきたのか。中途半端なことよ」

 

「一時的にです。すぐ荒海に戻ります」

 

 また海賊をやる気か、とハスガードが呟いた。

 

 その小声を拾ってセージは、そんな事をやっていたのかと呆れ声で弟子に問う。頷くのを見て苦笑に似た溜息が漏れる。

 

「しようのない奴だな。その調子ではいつまで経っても私の言いつけは果たされそうにないな」

 

 目線を落とした若者に教皇は告げた。

 

「マニゴルドよ。そなたに蟹座の黄金聖衣を授ける」

 

 その宣言は多くの者の耳に届いた。次いで大勢に向かって教皇は声を上げた。

 

「皆も聞け。この者は我が命に従い、数年に渡ってある探索の任に当たってきた。その内容について明らかにする事はできぬ。しかし巷で言われているような悪しき理由で聖域の外にいたか否か。またアテナに背く者か否かは、本人の今後の振る舞いを見て判断するがいい」

 

 蟹座を指名されたばかりの若者は顔を上げた。

 

「ちょっと待てよ。まだ」最後の修行が、と言いかけたところへ、セージは言葉を被せる。

 

「おまえが探しに行ったものは、人が死の間際にようやく悟るほどのものだ。それを考慮すれば『探索の任』はおまえの死ぬまで続くこともあり得よう。見つけたなどと抜かすようなら、逆に追い出すつもりであった。中途半端さが身を救ったな」

 

「なんだよそれ。俺めちゃくちゃ覚悟してきたのに。一度決めた事を成し遂げるまで顔を見せるな半端者、って説教されると思って」

 

「そうしても良いが、荒海に揉まれて三年経って、それでできあがったのが今のおまえなら、後はどこにいようとさほど変わるまい。これからは聖域を拠点として探索を続けろ。外部任務をたんまり用意してやる」

 

「どうせまた使い走りさせんだろ」

 

「嫌か」

 

「いや……いいえ」マニゴルドは表情を引き締めると、深く頭を垂れた。

 

「謹んで拝命いたします」

 

 他人が異を唱えられる段階が過ぎたことを、その光景を見た全ての者が悟った。マニゴルドは蟹座の黄金聖闘士になることが決まった。正式な授与は後日となるだろう。

 

 セージはアスプロスに皆を引き上げさせるよう命じると、来た道を戻り始めた。ふと振り返る。「いつまで突っ立っておる。手を引いてやらねば入れぬか」

 

 マニゴルドはまだ結界の外にいた。ある子供が初めて聖域に入った時は、セージと手を繋いでいた。そうしなければ結界を抜けられなかったからだ。

 

 その子供は今は「まさか」と不敵に笑って、あっさりと境を跨いだ。

 

 セージは頷き、再び歩き始めた。

 

 ……聖域の外れでは、マニゴルドが帰還できたことを我が事のように喜ぶハスガードと、まだ不満そうなカルディアが騒いでいる。マニゴルドは候補生時代の知り合いや雑兵たちに囲まれてもみくちゃにされている。「殴るなら立場の対等な今のうちだぞ」というアスプロスの助言を真に受ける者が少ないことを、良心的な少数派は祈った。

 

 聖域中枢への道を辿りながら、アルバフィカは口を尖らせた。

 

「猊下はあいつに甘い」

 

「そうか?」

 

と隣を歩いていたエルシドは受け流した。

 

「だってそうだろう。任務の結果が評価されたわけではないのだから。あいつは何も見せなかったし報告もしなかった。自分で道半ばだと白状した。それで良しと済まされるのか」

 

「任務に出ること自体が任務だったとしたらどうだ」

 

「どういう意味だ」

 

「俺は以前から言っていたんだ。あいつは修行の旅に出たと。それから帰ってきたから聖闘士になれたんだ」

 

 エルシドは僅かに誇らしそうに言った。

 

「だとしても猊下のお言葉からして、あいつの修行はまだ続きそうではないか。やはり甘い」

 

 アルバフィカは吐き捨て、道端に薔薇を捨てた。エルシドは黙って前を見た。隣の友人が言葉の割に嬉しそうだったので。

 



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夜明けの孤独

 

 聖域の外れ。そこに集っていた聖闘士と候補生たちはもういない。残るのはマニゴルドと、彼の帰還を歓迎する雑兵たちだけだった。

 

 ひとしきり手荒な歓迎を受けた後、マニゴルドは候補生時代からの知り合いたちを押しのけた。

 

「あー、首痛い。てめえら遠慮無くバカスカ叩きやがって、後で覚えとけよ」

 

 笑ってはみせたが疲労の色が濃かった。白銀、黄金との連戦。師との対面。その緊張がようやく解けてきた。

 

「そういやマニゴルドはこの後ずっと聖域にいるんだな。今夜とか、どこで寝起きするか決まってんのか」

 

 聖域の手前ですげなく追い返されると予想していたマニゴルド自身は、娼館に行く気だった。しかし予想は外れた。黄金聖闘士になると公にされた日に取る行動としては、あまり相応しくない。一方、彼をここまで連れてきたハスガードは、牡牛座の役宅に泊まらせるつもりだと道中話していた。帰還がすんなりと認められない可能性を見越しての計画だろう。その案に乗るのが無難そうだ。

 

 そう考えたマニゴルドは、ハスガードのところで世話になるつもりだと答えた。上に戻らないのかと、セージとの師弟関係を昔から知る者が意外そうに尋ねた。

 

 マニゴルドは苦笑し、「いきなりはちょっとな」と言葉を濁した。かつて身を寄せていたとは言え、一度は去ると決めた場所だ。自分から押しかける気はなかった。けじめというのがある。

 

「じゃあとりあえず俺らのとこ来いよ。なんか着る物貸してやるから」と、別の一人が言った。マニゴルドと同年代だが早々に聖闘士になることに見切りを付けたため、雑兵としては中堅どころだ。その言葉に周りも頷いた。

 

「そりゃありがたいけど、服くらいあるっての。俺の荷物は?」とマニゴルドは辺りを見回した。

 

「牡牛座様が持って行くのをさっき見たぜ」

 

 そのハスガードは、恐らく今頃は教皇宮に上がって任務の報告をしているはずだ。いつ報告が終わるかは予想が付かない。

 

 聖域の外れで待っていても仕方ないので、まだ無位の男は雑兵たちと宿舎へ移動した。何かあれば金牛宮なり教皇宮なりから呼び出しがあるだろう。しかし呼び出しは一向になく、日が沈むと自然に酒盛りになった。牡牛座からは上等な酒も届けられた。ありがたいことである。

 

 語らう中でマニゴルドが諸国を遍歴したことが明らかになると、それまで冷めていた一部の雑兵が、俄然興味を持って寄ってきた。

 

 聖闘士の活動範囲は世界各地に及ぶ。それを支えるのが世間に紛れて拠点を預かる者であり、聖域と各地を結ぶ者たちだ。聖闘士への伝令だけなら手紙や小宇宙による念話でも事は足りるが、それ以外の用件にはやはり人手が欠かせない。辺鄙な場所にあることの多い修行地への送金と、指導状況の確認。聖域の下部組織が回収した地代の確認や一部処理。候補生となりうる子供たちの保護と修行地への移送。聖域から雑兵が遣わされる機会は、聖闘士が知る以上に多い。

 

「聞けよチェフ。こいつ牡牛座様と会ったのはアレキサンドリアの拠点に寄った時なんだってよ」

 

 一人がマニゴルドの首を抱えて、隣の輪にいた別の一人に伝えた。

 

「本当か。じゃあフィラースにも会ったろう。拠点を預かって二十年のおっさんだけど、俺たちの仲間だ」

 

「名前は聞いてねえけど、隊商宿の亭主はここにほくろがあった」とマニゴルドは特徴を伝えた。

 

「あ、じゃあフィラースだ。元気そうだったか」

 

「俺に宿を手伝わせようとしてたけど、まあ元気だったと思うぜ」

 

 それを聞いて座は爆笑した。

 

「黄金聖闘士に雑兵の仕事させんのか。凄い先見の明だな」

 

「今度エジプト行く時に奴に報せてやれよ。おまえが雇おうとしてた野郎は黄金聖闘士になりますって」

 

 酒が足りなくなった。まだまだ飲み足りない面々が盛大に不満を訴えだした。マニゴルドが立ち上がった。

 

「よし。それじゃ俺が調達してきてやるか。シュルマ、デラス、一緒に行こうぜ」

 

「どこからかっぱらって来るつもりだ。教皇宮はさすがに止めとけ」

 

「遠すぎるわ。そこまで行かねえよ」

 

 酔った勢いで神官の宿舎に乗り込んだマニゴルドたちは、貯蔵庫から勝手に酒を持ち出した。神官の制止を無視して引き上げると拍手で迎えられた。

 

 その拍手が唐突に止む。不思議に思った共犯者たちが振り返った。出発した時にはいなかった顔が増えていた。手には隣の宿舎から強奪してきた酒の樽。

 

「蠍座様!」

 

「楽しそうなことやってたから交ざってみた」

 

 雑兵たちの悲鳴(歓声ではない)に、カルディアはからからと笑った。マニゴルドが遠慮しろと言っても、酒を運んだ自分にも飲む権利はあると屁理屈を捏ねる。そうして強引にカルディアも宴会に加わったが、マニゴルドが次に見た時には酔い潰れていた。

 

 やがてお開きという空気になった頃。水瓶座が、酔漢を引き取りに来たといって宿舎を訪れた。軟体動物と化したカルディアを抱えて、デジェルは宿舎の出口に向かった。通りやすいように戸を押さえていたマニゴルドと目が合う。手を貸そうかとマニゴルドが尋ね、デジェルはぜひにと答えた。二人は左右から支える形で、カルディアの体を運び出した。運ばれている当の本人は酒臭い寝息を立てていた。

 

 外は青い月光に沈んでいた。宿舎から漏れる明かりは、仄かに窓の縁を照らすだけである。

 

「デジェル、だったか。今はおまえがこいつの世話係か」

 

「そういう言い方は好きではないな」

 

「だったらお目付役、後見人。好きなの選べ。こいつが騒ぎを起こす度に巻き込まれて尻拭いする羽目になったりしてないか」

 

 デジェルは押し黙った。

 

「まあいいや。昼はアルバフィカとも一緒にいたよな。あいつとも仲良いんだな」

 

「魚座? いいや、それほどは」

 

 思わずマニゴルドは声を上げた。「なんだよ。水瓶座なら守護宮お隣さんだろ」

 

「確かにそうだが、先代の魚座も今の魚座も私はあまりよく知らない。魚座は人前には出てこないから」

 

「……へえ」

 

 マニゴルドは荷物から身を引いた。

 

「それじゃ聞こうか。わざわざ口実作ってまで俺に会いに来たのはどういう用事だ」

 

「用件というほどではないが、早めに伝えておきたいことがある」

 

 デジェルは生真面目に言うと、支えの半分を失ったカルディアの体を地面に下ろした。

 

「私はあなたに含むところがあって聖域への進入を拒んだのではない。教皇の密命が真実あったのなら、衆人環視の中でその証拠を見せろと無理難題を言って悪かった。正直あなたがどういう人柄なのかまだ解らないが、猊下がお認めになったのなら私はそれに従う。あなたが蟹座になるなら、共に十二宮を守る同胞だ。下手な蟠りは残したくない」

 

「そりゃどうも」とマニゴルドは拍子抜けした。その程度のことならわざわざ蒸し返さなくてもいいものを。

 

「実は私は、猊下が星見をされる際の助手を務めている。とても光栄に思っている。しかしその役目が本来、あなたのものであったなら――」

 

 マニゴルドは若者の話を遮った。

 

「確かに教皇から教わったことはあるよ。でも俺には才能がなかった。向いてる奴、できる奴が手伝えばいいだろ」

 

「しかし星見の丘の上の小屋で、あなたの覚え書きを見つけた」

 

 それも一つや二つではなかった。その足跡を見つけてデジェルが伝える度、捨ててもいいと教皇は言う。しかし決して自分では捨てようとしなかった。大事な物だからだろうとデジェルは考える。弟子の残した物だから、弟子が戻ってきた時のために取ってあるのだろうと。

 

 そんな見解を教皇の弟子は一蹴した。

 

「いやいや。単にあのジジイの癖だ。古い書き付けでもなんでも溜め込むんだよ。本当に捨ててくれていいから。弟子は弟子。助手は助手。星見はあんたがやってくれ」

 

「弟子を差し置いていいのだろうか」

 

「誰に何を吹き込まれたんだか知らねえが、教皇の仕事まで丸ごと引き継ぐ気は俺はねえぞ。むしろあの口やかましい年寄りの相手をしてくれるなら大歓迎だ」

 

 喋りながらも、少年時代の自分ならデジェルの存在に嫉妬しただろうとマニゴルドは思う。そうして一方的に相手に張り合って、師の歓心を得ようと無理にでも星見に取り組んだに違いない。

 

「猊下はうるさくなどないぞ。叡智と慈愛に満ちた素晴らしい方ではないか」

 

「外面がいいからな。あのジジイは」

 

 デジェルは反応に窮した。男は小さく笑い、それから別の話題を切り出した。

 

「あんたの師匠はあのクレストの爺さんだろう。どうだった、偉大な師の後を継ぐってのは。面倒じゃなかったか」

 

 デジェルは瞬きしてから、ゆっくりと空を見上げた。その面も月光に照らされ、まるで水中の人のように青ざめている。

 

「……正直に言えば怖かった。私などが継いでいいのかと思う一方で、継いで当然と思っている傲慢さを我が師に見透かされている気もした。修行地で師から聖衣を譲られてからこの地にやって来るまでの間に、何度か修行地に引き返そうとした。私に師の代わりが務まるとは思えなかったから。まだまだ修行が足りないと言われるほうがよほど楽だった。けれど、教皇猊下も誰も、我が師の役目を私に求めては来なかった。新米の一聖闘士として扱ってくれた。だから私も開き直ることにした。守護星座が同じでも、最初から我が師と同じ事はできない。新米の私にもできるくらいのことしかできないなら、師がそんなに偉大なはずがない」

 

「そんなもんか」

 

 マニゴルドが相槌を打つと、デジェルはぎこちなく微笑んだ。

 

「我ながらこういう事を吐露するのは初めてで、うまく伝わらなかったら申し訳ない」

 

「いや。十分に分かった。と思う。少なくとも参考にはなった」

 

「お互い似たような苦労を抱えているのだな。あなたとは良い隣人になれそうだ」

 

「おいおい。ちょっと共感したくらいで油断するなよ。俺が敵方の間者で、あんたを油断させようって魂胆だったらどうする」

 

「だとしたら、既に教皇と雑兵と一部の聖闘士が懐柔されているな。内部崩壊を狙う手強い敵だ」

 

 二人は声を立てずに笑った。

 

「となると、そこの酔っ払いが最後の砦かな。俺を殺す殺すってうるさかったから」

 

「カルディアならもう陥落していると思うが。あなたと和解するために雑兵たちの宿舎に乗り込んでいったくらいだ」

 

「まさかあ。俺に絡んでこないで勝手に酔い潰れてたぜ。単に騒ぎたかっただけだろ」

 

 デジェルは一瞬黙り込み、足元の荷物を乱暴に揺り起こした。「おいカルディア。起きろ」

 

 カルディアが目を開けた。「あれ、デジェルだ。おまえも飲みに来たのか」

 

「寝惚けるな。宴会はもう終わっている。おまえは『落とし前を付けてくる』と宣言していったじゃないか。相手に何も伝わっていないぞ。何をしに雑兵の所に行ったんだ」

 

「ただ酒を飲みに……」言いかけて酔漢はくしゃみを連発した。「寒みい」

 

 デジェルは呆れて天を仰ぎ、マニゴルドは失笑した。カルディアは立ち上がって両頬を叩いた。よし、と気合いが入った様子だ。

 

「それじゃマニゴルド。覚悟しろ」

 

「昼間のあれじゃまだやり足りないってのか」

 

 十二分に殴り合いを演じた相手の問いに、カルディアは獰猛な笑みを見せた。

 

「当たり前だろ。おまえには深紅の針を撃ち込んでやるって、ずっと前から決めてたんだ。無様に苦しむ姿を大勢の前で晒すなんて、てめえも避けたいだろ。だから今まで待っててやったんだよ」

 

 避けたかったのは衆人環視の中で技を使うことだろう。マニゴルドはそう思ったが、指摘することはなかった。己の技を秘匿するのは聖闘士として当然の心構えだ。カルディアもまた聖闘士だった。

 

 マニゴルドは改めて相手に向き直った。「いいぜ。おまえには後……えーっと、何発だったっけ、十三発か。それを撃ち込む権利がある」

 

「一発で十分だ」

 

「もう突き指するなよ」

 

「するか、馬鹿」

 

 マニゴルドは深く息を吐いて、「よし、来い」と促した。

 

 蠍座の一撃は躊躇うことなく彼の痛覚を貫いた。

 

 息さえできない激痛。体の内側をバリバリと砕かれていくような異様な衝撃がいつまでも続いた。脂汗がどっと流れた。なるほど、拷問に最適の技と言われるだけのことはある。マニゴルドは身を以て納得した。

 

 カルディアが言った。「な、一発で十分だろう」

 

 痛みを堪えながらマニゴルドも応えた。「そうだな、大したもんだ」

 

 カルディアはにんまり笑い、

 

「本当は泣き叫ぶのが見たかったけど、特別に許してやるよ。昔散々小突き回してくれた借りはこれで返した。おまえのせいで『カルディアに比べればマニゴルドのほうが全然まともだった』なんて腹の立つ貶し方されたのも、とりあえず忘れてやる。俺の腕前が上がってて良かったな。打ち所が悪けりゃ一発でおまえ死んでたかも知れねえからな。お互い成長してて良かった良かった」

 

と言いたいことを言って、意気揚々と去っていった。

 

 デジェルはマニゴルドを気遣ってその場に残ったが、問題ないと伝えると、やはり去っていった。

 

          ◇

 

 ジャミールでは、ハクレイの弟子たちが朝の挨拶のために師の許を訪れていた。老練の修復師は早くから大槌を振るって鋼を打っていた。その音がいかにも軽快である。

 

「師よ、何か良いことでもありましたか」

 

 シオンに尋ねられ、ハクレイは手を止めた。

 

「うむ、昨日セージから報せがあっての。おまえも知っておる者が聖闘士になることが決まったそうじゃ」

 

「私が知っている人……。そうですか。ジャミールからまた聖闘士を輩出できるのは師の指導の賜物でしょう。おめでとうございます」

 

 おめでとうございます、とシオンの後ろでユズリハとその弟トクサも声を揃える。

 

 少年の言葉に老人は「ああ」と声を上げた。「なるほど、おまえの中ではもうあやつのことは無いも同然じゃったか。ジャミール出身の者ではない。マニゴルドじゃ。あの悪たれが蟹座を継ぐ」

 

 シオンは驚いた。

 

 風の噂に、かの若者は聖域を失踪したと聞いていた。それがいきなり聖闘士の中でも重要な、十二宮の守護者に叙されるとは。しかもその称号は長らく教皇が保持していたものである。教皇の存命中に譲られる者が現れるとさえ、シオンは思わなかった。

 

「決定してすぐに報せてきたくらいじゃ。セージの奴め、よほどわしに伝えたかったとみえる。不出来な弟子が一生分の幸運と努力を使い果たして辛うじて一人前になれたと、憎まれ口を叩いておったがの」

 

 弟の喜びが移ったように、ハクレイもまた頬が緩んでいる。それを直視できずにシオンは俯いた。

 

 マニゴルドが、教皇とジャミールの長老という二人から、積尸気の使い手として期待されていたことは知っていたつもりだった。その実力が年を追うごとに増していったのも、彼がジャミールを訪れる折のハクレイの態度から窺い知れた。

 

 それなのにシオンは聖域の噂を鵜呑みにして、彼を落伍者だと信じ込んでしまった。そのことを恥じた。

 

 ハクレイは、少年の俯いたのを別の理由からと思ったようだった。

 

「案ずるなシオン。おまえも牡羊座の候補じゃが、マニゴルドとは年齢も事情も才能も異なる。不安がっている暇があるなら、早う手伝わんか」

 

「は、はい!」

 

 シオンは急いで道具箱に駆け寄った。

 

 やがて修復師の師弟が奏でる二重奏が、朝の山間部に響き始めた。

 

          ◇

 

 マニゴルドが起きてきた時には宿舎は閑散としていた。雑兵のほとんどは仕事場へ出払った後だ。残っていた者への挨拶もそこそこに、マニゴルドは空腹を訴えた。

 

「その辺にある物でも囓ってろ。そういやおまえが寝てる時に神官長が来たぜ。また出直すってさ」

 

 食堂にパンが残っていた。厨房に行ってもハムもチーズも見つからなかったが、ヨーグルトがあったのでそれをもって戻る。

 

「何だろ、昨夜の件かな。どうせまたガミガミ言われんだ。面倒臭せえ」

 

「帰ってきたって実感湧くだろう、悪ガキ」

 

 元悪童は顔をしかめた。ヨーグルトが腐っていた。

 

 腹ごしらえの後も食堂でだらだら喋っていると、神官長が訪ねてきた。にこりともしない渋面だ。

 

「帰還早々、昨夜はよくもやってくれたな。マニゴルド殿といい蠍座様といい、最近の若い者は黄金位の品格を守る気はないのか」

 

「やっぱり説教か」気まずさと得意さを混ぜ合わせた表情でマニゴルドは笑った。「ここの連中は喜んでくれたぜ」

 

「ならばこうしよう。就任祝いとして巨蟹宮に届ける分の酒から、昨夜盗人どもが持って行った分を差し引かせてもらう」

 

 神官長は卓上の食べかすを手で払い、重々しく書類を乗せた。

 

「さて、教皇猊下は速やかな継承を望まれている。日もないので、細かい話は抜きにして儀式の段取りについて説明する」

 

「ここで?」

 

「牡牛座様の預かりと聞いていたから、そちらで話すつもりだった。私も暇ではない。場を探す手間が惜しい。マニゴルド殿が理解すれば済む用件なのだから、打ち合わせなどどこでも良かろう」

 

 もしマニゴルドが娼館に泊まっていても、堅苦しいこの髭男はそこまで乗り込んできたに違いない。

 

 それから神官長は、マニゴルドが聖衣を得て守護宮に入るまでの流れについて話を進めた。身近に教皇と黄金聖闘士を見てきた若者にとって、聞き慣れないこと、想像も出来ないようなことはなかった。

 

「ところで巨蟹宮のことだが、宮付きの従者が掃除を怠っているようだ。務めを全うさせるなり、自分で手を動かすなりして、就任までに清めておくように。雑兵の機嫌を取るばかりでは上手くいかないこともあると理解する、良い機会になるだろう」

 

 従者が巨蟹宮を嫌がる理由は想像が付いた。積尸気使いはとくに気負うことなく諒承した。

 

「ただしもし巨蟹宮に行くなら日が沈んでからにするようにと、猊下からお申し付けがあった。まだ聖衣を授かる前の者が十二宮を往来する姿を、下々に見られてはけじめが付かぬ」

 

 子供の頃から通い続けている者に何を今更、とも思ったが、マニゴルドはこれも諒承した。聖域を空けていた数年の間に、教皇の弟子を知らない者が増えたのは事実だ。彼らを混乱させることもないだろう。

 

「随分と聞き分けが良いな」と、マニゴルドの素直さが不満だったのか、神官長は怪訝な顔をした。

 

「俺も大人なんでね。夜行きゃいいだけの話に、突っかかる理由がない。ところでそこのヨーグルト、この宿舎の特製なんだってさ。俺も思わず驚いた。あんたも試してみな」

 

 神官長は少しだけ口に入れ、すぐに吐き出した。機嫌を悪くして立ち去るその背を見送りながら、マニゴルドはげらげら笑った。

 

 隣でやり取りを聞いていた雑兵が話しかけてきた。

 

「さっきの巨蟹宮の話な。従者が怠けてるみたいな言い方だったけど、それだけじゃないらしいんだよ。前に巨蟹宮付きになった連中は皆あいつに同情してるんだ。様子を見に行く前に話を聞いてもいいと思うぜ」

 

 そうする、とマニゴルドは頷いた。

 

 彼はそのあと聖域をそぞろ歩いた。闘技場の近くでエルシドと鉢合わせた。

 

「よう」

 

「ああ」

 

 そのまま擦れ違おうとすると、手合わせをしないかと誘われた。昨日の戦いぶりからして遠慮する必要はなさそうだと、鋭い目に見据えられる。マニゴルドは辟易した。

 

「やだよ。昨日の今日ので疲れてるって分かんねえかな。遠慮しろよ」連戦の影響ではなく蠍座の技のせいであるが、体がだるいことに違いはない。

 

「だらしない。あ、蟹座獲得おめでとう」

 

「人殺しみたいな目で睨まれながら祝われても困る」

 

「目つきが悪いのは元からだ」

 

「知ってる」

 

 二人はとても善人には見えない笑いを交わした。候補生の少年たちが、怯えながら道の端を逃げていった。年の頃はちょうど、二人の男たちが聖域で肩を並べて修行していた頃と同じだった。

 

「昨夜水瓶座から聞いたんだけどよ、アルバフィカの奴あんまり表に出てこないんだってな。何でだ」

 

 エルシドが簡潔に毒のことを説明する。それを聞いてマニゴルドは「ふうん」とだけ口にした。

 

 闘技場のほうから修練中の気配が届く。屈託のない若い声。もう戻らない少年時代。

 

 男二人が無言の海に浸っていると、横からハスガードに声を掛けられた。

 

「こんな所で何をしているんだ。暇なら手合わせしないか。今とても清々しい気分でな。今朝は二本も出た」

 

「知らねえよ」とマニゴルドは突き出された二本の指を叩き払った。

 

 どうしてこいつら聖闘士は何かというと手合わせをしたがるのか。昔その疑問を師にぶつけたところ、言葉よりも小宇宙や拳筋のほうが相手の状態を量りやすいからだと説明された。単に体を動かすのが好きな者が多いというのもある、と暴れ者の兄を持つセージは苦笑していた。今のマニゴルドとしては後者の意見を支持するところだ。

 

「良い事があったようだな、ハスガード」と、エルシドが尋ねた。

 

「そうなんだ。昨日教皇宮に上がった時にな、猊下からお褒めの言葉を頂いた。良い時期にマニゴルドを連れ帰ってくれたと。新しい聖闘士の誕生は俺の功績だと仰った。それでもう、今までの俺の取るに足りない鬱屈は消えた。俺は行くぞ、マニゴルド。イリアス殿の聖衣と忘れ形見を探しに行く」

 

「お、おう。そうか」

 

 エルシドが首を傾げた。「マニゴルドはハスガードの客分なんだろう。昨日そういう話はしなかったのか」

 

「昨夜は雑兵の所で騒いでた。あ、ハスガード、差し入れありがとな」

 

「ああ。今夜はどうする。荷物は俺が預かっているが」

 

「今日からはあんたの世話になるよ。でも今夜は、夜になったら巨蟹宮に行ってくる」

 

「あれか……。行くなら夜より昼のほうがまだいいぞ」

 

 ハスガードがすぐに思い当たったのに対し、エルシドは不思議そうだった。

 

「通路部分の掃除はきちんとされているようだったが、奥は違うのか」

 

「掃除云々ではないんだが、もしかしてエルシドは何も感じないか」

 

「風通しが悪いとは思う」

 

 ハスガードは首を振り、マニゴルドに言った。「こういう者もいるが、肝試しに行くならおまえたちだけで行ってきてくれ」

 

「人の守護宮を化け物屋敷みてえに言うな。失礼な。守護者は名目上うちのジジイだぞ」

 

「それはそうだが、実際に守護されているわけではないから」と、ハスガードは口ごもる。

 

「肝試しなら手前の双児宮もお薦めだ。誰もいないはずなのに、時々人の気配があるらしい」とエルシドが言った。

 

「それはアスプロスに言うなよ。双児宮はアレだ、駄目だ。つうか俺は肝試しに行くわけじゃねえよ」

 

「では何をしに行く」

 

 掃除という返答は、二人に大層気味悪がられた。

 

 夜。

 

 マニゴルドは巨蟹宮に足を運んだ。

 

「なるほどなるほど」

 

 中に一歩足を踏み入れた途端、地下墓地に入ったような感覚に包まれる。冷ややかで濃密な気配。空気を埋める無音のざわめき。死者の世界に縁のない普通の者たちにとっては、昼でも十分に不気味だろう。

 

 カンテラを片手にマニゴルドは宮の奥へ進んだ。閉ざされた戸を開ける。

 

 壁や天井に無数の人の顔が浮かび上がっていた。修行をしていた頃にも見たことがないほどの、夥しい数の死者の顔があった。虫の羽音より微かな呻き声も、数が増えれば耳に響く。予想していたとはいえ、さすがに気持ちの良い光景ではなかった。

 

 聖域を出るまではマニゴルドがこまめに消していた。現状を見るに、それから今まで放置していたに違いない。

 

(俺がいなくなってから、ずっとそのまま)

 

 彼は呆れて苦笑しようとした。けれど胸が苦しくなってできなかった。唇を引き結び、静かに積尸気冥界波を放った。

 

 その指は亡者の想念を行くべき場所に導く。

 

 多くの気配は水に流れるように消えていった。

 

 呻き声と顔の消えた巨蟹宮は、呆気なくただの建物に戻った。掃除は翌日に宮付き従者に任せる手筈になっている。そしてその数日後にはここが彼の守る場所となる。カンテラの仄かな火に照らし出された天井を見上げた。

 

 彼は振り返った。

 

 法衣姿の白髪の老人が戸口に佇んでいた。

 

「……お師匠」

 

「送り終えたか」

 

 彼が頷くと、セージは「上まで来い」と言って踵を返した。マニゴルドは後を追った。そして新旧の守護者が立ち去った巨蟹宮は、数年ぶりに無人となった。

 



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かくして人は星に至る

 

 夜道を行く老人のために、その足元が橙色の火で照らされ続ける。決して老人の歩みを妨げず、逆に先を行きすぎることもない。従者のように遠慮することもなく、カンテラを掲げた青年はごく自然にセージの隣を歩いていた。

 

 そのマニゴルドが口を尖らせる。「回りくどいことしなくても、用があるなら教皇宮まで呼び出せばよかったのに」

 

「少し歩きたかったのだ」

 

 就任前に師弟で語らう時間を作るべきだ、というアスプロスの進言を聞き入れて良かった。こうして肩を並べて歩く機会は、あと何回残されているだろう。教皇宮へと至る山道の階段を上がりながら、セージは感傷に浸った。するといつの間にか足元が疎かになっていたらしい。

 

「お師匠さあ、歩くの遅くなったんじゃねえか。やっぱり年なんだから杖とか持っとけよ。なんなら背負ってやろうか」

 

「失礼な。まだそこまで足腰は弱っておらぬ。おまえを背負っていようと余裕で登りきれるわ」

 

 彼が憤慨してみせると弟子は、

 

「昔みたいにか」

 

と、明るく笑った。まだ青年が少年だった頃に、セージが背負って十二宮の階段を上がったことがあった。やはり夜だった。

 

 主なき獅子宮を抜けた後の階段で、セージは次の処女宮について語った。夜間は守護者も退出する十二宮が多い中で、現在の処女宮の主は、昼夜を問わず一日中そこで瞑想して過ごしている。

 

「そも乙女座の守護者のことは聞き及んでおるか」

 

「ハスガードに聞いた。なんか『あんな不誠実な奴が居座っているのは気に食わん』とか言ってたけど。あ、これ俺が言ったって内緒な」

 

 隔意を示すのは気さくな牡牛座にしては珍しい。セージは苦笑した。

 

「たしかに教皇宮が呼び出しをかけても、何のかのと理由を付けて引きこもっている。そのせいで誤解を受けているが、あの者は己の動くべき時を見据えておる」

 

「教皇がそう言うならそうなんだろうけど、偏屈な奴だったら嫌だなあ」

 

 二人は処女宮に入り、守護者アスミタの前を通った。床に足を組んでいる姿は、セージが先ほど教皇宮から下りてきた時と比べて少しも動いていない。老人はそのまま通り過ぎたが、弟子は立ち止まった。室内で唯一の明かりであるカンテラの灯が、アスミタの影を壁に浮かび上がらせる。

 

 瞑想者は俯き気味だった面を上げた。中性的な面立ちとほっそりした体格。そして大判の布を巻き付けただけのような修行者の衣。闘士らしからぬ若者は瞼を閉ざしたまま、静かに口を切った。

 

「……あなたか。やはりこの道を歩むと思っていた」

 

 見た目を裏切らない柔らかな声。それに対してマニゴルドはもどかしそうに尋ねた。

 

「どこで会ったんだっけ」

 

「涅槃の辺」

 

 ああ、とマニゴルドは声を上げてから、嬉しそうに顎を撫でた。

 

「そうか。あの時の坊主か。分かんなかったわ。ひょろかったのが大きくなってるし、髪も伸びてるし」

 

「目明きはとかく見た目に囚われる」

 

 違いない、とマニゴルドは喉の奥で笑った。それから不意に表情を改めた。

 

「探してたのは見つかったか」

 

「未だ遠い。そちらは求めるものを得られたようだな」

 

「いやいや。俺もまだだ。でもあの時あんたに会ったお陰で前には進めた。感謝してる」

 

「礼には及ばない」

 

 アスミタは淡々と応え、瞑想に潜っていった。マニゴルドは挨拶代わりに「ありがとな」と告げて、セージに追いついた。セージは若者たちが既に面識があったことをここで初めて知った。しかし不思議には思わなかった。

 

 やがて教皇宮に着いた。

 

 居住区間に入るなり、人の気配が濃くなる。まず用人が主人とその連れを待ち構えていた。「お帰りなさいませ、猊下。そしてマニゴルド様」

 

 頷くセージの横で、マニゴルドは「違う」と用人の言葉を否定した。「もうここは俺の住む所じゃねえ」

 

「さようですか。私はただ、聖域へ帰還された方へのご挨拶を申し上げただけでございますよ」

 

「え。……あ、そうか。それなら、うん。戻った」

 

 結構、と用人は表情を崩した。「お元気そうで何よりです。しばらく見ない間にご立派になられて」

 

 マニゴルドは頬を掻いた。

 

 そのやり取りを機に使用人たちがわらわらと現れて、若者の帰還と聖闘士就任を祝った。感涙を浮かべた女官が「勘当が解かれて本当に良かった」と口走る。下働きの男が「おまえのせいでまた俺の賭け金が」と嬉しそうにぼやく。待っていてもきりがなさそうなので、セージは弟子を促した。

 

 使用人たちから解放された師弟は、ようやく教皇の私室へ向かった。弟子はやや気遣わしげに従者の所在を尋ねた。集った使用人たちの中に、教皇の従者を務めていた老人がいなかったからだ。老僕は半年前に引退したことをセージは伝えた。

 

「近くに隠居したそうだから、暇な時にでも顔を見せに行くといい。最後までおまえの身を案じていたぞ」

 

「爺さんの後の従者は誰がやってんだ」

 

「新しく入った者だが、法衣の畳み方が未だに下手で困る。折を見て教えてやってくれ」

 

「俺は従者じゃねえっての」口を尖らせながらも若者はセージのために戸を開け、彼の後から部屋に入った。そしてその場に立ち尽くした。

 

 部屋の中央には大きな箱がある。聖衣を収める櫃だということは、聖闘士の修行をした者には一目瞭然だった。箱の側面に浮かし彫りにされた意匠が、中の聖衣の称号と合致することも常識だ。この部屋にある箱に刻まれていたのは、巨蟹カルキノスの意匠。

 

「何で蟹座の聖衣が」

 

「不思議はなかろう。前の主がここにいて」とセージは己の胸に当てた手を、「新しい主がそこにいる」と弟子に向けた。

 

「着けてみろ」

 

「ここで?」

 

 セージの予想通りマニゴルドは戸惑った。

 

「ハスガードからも聞いたが、おまえは己の生を探しに市井へ戻るつもりでいたな。いや、責めているのではない。己の未熟さを自覚しているのは良いことだ。しかし私が公衆の面前で宣言したせいで、覚悟の無いまま継承を受け入れることになったのではないか。聖衣は己の主人を見定める。聖衣を纏うことができて初めて、人は名実共に聖闘士になれる。迷いを捨てるためにも、皆の前で恥を掻かぬためにも、今ここで纏ってみよ」

 

 弟子は苛立った様子で頭を掻いた。

 

「……確かに聖闘士になるって言い出したのは、ここで暮らしやすくするためだった。早く聖衣を継承したかったのも、周りの連中に置いてかれるのが惨めだったから。そんな根性のガキに聖衣を譲ろうとしなかったのは正しかったと思うぜ。でも聖闘士になりたくなかったなんて俺は一言も言っていない。これからも言わない。聖域に戻ってくる以上は覚悟してた、ってほどじゃねえけど決まったことに文句はねえ。迷ってるのはお師匠のほうだろうが」

 

 そう言って勢いよく櫃の蓋を開けた。

 

 日光を濃縮した輝きが現れた。心なしか室内まで明るくなった。苛烈で厳正な死の側面を形にしたような、蟹座の黄金聖衣。たった今完成したばかりと言われても信じられるほど無垢な表面には、往年の激戦を経験した曇りはどこにも見当たらない。

 

 若者は息を詰め、ゆっくりとその縁を指でなぞった。憧憬の仕草をセージは見守った。

 

 ――セージとその兄ハクレイは、同じ守護星座を持つ。

 

 兄弟で同じ称号を目指した時期もある。闊達な兄が黄金位を得て、大人しい弟が輔佐に回るだろうと周囲には予想されていた。ところがハクレイはその勝負からあっさりと身を引き、白銀位を選んでしまった。兄によれば、自分より弟のほうが教皇の後継者に相応しかったからだというが、セージにはそう思えなかった。

 

 以来、彼の心には「兄に蟹座と教皇位を譲られた」という思いが巣食っている。

 

 時を経てもその思いは胸の底に沈むだけで消えず、一人の少年が彼の前に現れてからは再び水面に浮き上がることが多くなった。拾った子供を弟子とすることに戸惑い、聖闘士の道を歩ませることを恐れ、称号を譲ることに二の足を踏んだ。無論、それぞれの躊躇には理詰めで説明できる理由がそれぞれ存在している。けれど影に潜むのは、おそらく同じ。兄への遠慮。後継者に聖衣を着けさせようとするのも、セージ自身の未練と負い目を断ち切るためだろうと言われれば、否定はできない。

 

 反論しない彼を一瞥して、マニゴルドは聖衣を身に着け始めた。

 

 聖衣は、候補生や雑兵が着ける簡素な皮鎧とは構造が違う。時代遅れになり調度品に変化した甲冑とも違う。初めて体に合わせる若者にとっては、装着も一苦労だった。

 

 四苦八苦する様子を見かねて、セージも途中から手伝いだした。この聖衣は、共に何度も死線をくぐり抜けてきた相棒だ。着けかたは誰よりも知っている。

 

 足覆い、脛当て、腿当て、膝当て。腰回りは動きを邪魔しない垂れのようになっている。下半身の支度を終えたら上半身へ。背甲と厚い胸甲をしっかりと胴体に合わせる。首回りを守る襟立て。籠手を嵌める。小さな楯の付属した腕甲。特徴的な形の肩甲。

 

 ところで称号を問わず、聖衣は時として意志あるもののように自ら聖闘士の体を包むことがある。称号を授かったばかりの聖闘士は、大抵その恩恵に与るものだ。

 

 蟹座の聖衣はこの時、ただの甲冑のように黙していた。マニゴルドを拒んだのではなく、新旧の主人のためにそうしてくれたのだろうとセージは感じた。その証拠に着け心地を尋ねると、弟子は動きを確かめて、むしろ身軽になったと答えた。

 

 最後にセージの手元には頭部の防具が残った。額から頬にかけてを守る面のようなものである。

 

 それを両手で掲げる。若者は軽く身を屈め、戴冠する者のように神妙な面持ちで待った。セージは額当てと無言の祝福を与えた。マニゴルドは一瞬目を伏せて、それからゆっくりと背を伸ばした。

 

 視線が合う。

 

 堂々たる装いである。聖衣の存在感に負けない骨太の風格と軽妙な雰囲気が調和している。初めて見る姿だというのに、もう何年も見続けてきたような。そんな錯覚を起こすほど、しっくりと馴染んでいた。

 

 目の前の若者はまさしくその称号に相応しかった。廃墟から連れて来られた名も無き子供がここまで育ってくれると、誰が想像できただろう。

 

 己は良い師ではなかった。他人がどう言おうとセージはそう自覚している。教皇としての経験と知見は、弟子との関わりにおいて何の役にも立たなかった。むしろ弟子にまつわることで、思い通りに運んだことのほうが少ないのではないか。

 

 セージはしみじみと感謝した。

 

 不出来な師を慕って付いてきてくれた弟子に。

 

 師弟を見守り、彼の至らない部分を補ってくれた周囲の者たちに。

 

 愛弟子に歴史を引き継げる幸運に。

 

(そうか)

 

 兄ではなく弟が蟹座になったのは、きっとこの日のためだったに違いない。やがて弟子とするマニゴルドが蟹座になるためには、兄ハクレイではなくセージが蟹座になる必要があったのだ。

 

「そうだったのか」長年の蟠りが一気に氷解した。世界が明るくなった。

 

「子よ、汝既に一時の火と永久の火とを見て、わが自から知らざるところに來れるなり。われ智と術をもて汝をこゝにみちびけり、今より汝は好む所を導者となすべし、汝嶮しき路を出で狹き路をはなる」

 

「また『神曲』?」

 

 怪訝そうな若者に微笑む。

 

「なに。おまえが弟子でいてくれて良かったと思っただけよ。今までよく頑張ったな」

 

 弟子がいなければ、セージは負い目を抱えたまま死ぬまで暗い森の中に留まり続けていただろう。森から抜け出せたのはマニゴルドのお陰だった。明るい場所まで導くつもりが、逆に導かれていたのはセージのほうだった。

 

 『神曲』の主人公ダンテは、私淑するウェルギリウスに連れられて地獄と煉獄を抜けた。ウェルギリウスからみると、ダンテを案内する役目を負って初めて、自身の置かれた辺獄を離れることができた。ダンテが現れなければ、ウェルギリウスは永遠に薄闇の辺獄にいるしかなかった。

 

 マニゴルドに言わせると、危険から守り、安全な地まで導いてくれたウェルギリウスに対して、ダンテは薄情すぎるだそうだ。しかしウェルギリウスこそダンテに感謝すべきだと、今のセージは思う。ダンテこそが導き手なのだから。

 

「マニゴルド。これからはおまえがその聖衣の主だ。迷える魂をあるべき場所へ導け。おまえならできる。私の自慢の弟子なのだから。

 ……泣くことはあるまい。今までいくら叱っても叩きのめしても、涙一つ見せなかった小僧がこれしきの言葉で。嬉し泣きだと。分かっておる。おまえの涙を見るのは出会った夜以来だからな。少し驚いただけだ。よい。謝らなくて良いから存分に泣け。

 私は良い師ではなかったし、兄上の所へ行かせればもっと平坦な道を歩ませてやれた。それでも私と共に歩んだ日々に意味があったと思ってくれるなら、こんな嬉しいことはない。ああ、無理に喋ろうとするな。これからおまえには苦労をさせるだろうから、今はまだ言うな。私の臨終の床で聞かせてもらう。もっともまともな死に方ができればの話だがな。これ、笑いどころではないぞ。まったく、泣いたり笑ったり忙しい奴よ。

 そうだな。ああそうだ、おまえの言う通りだ。落ち着いたらこれまでの話を聞かせてくれ。酒もある。当たり前だろう。弟子の晴れ姿を誰よりも先に拝むことができた嬉しい宵だぞ。用意せぬわけがなかろう。のう、マニゴルド……」

 

          ◇

 

 十二宮四番目、巨蟹宮の新しい守護者が誕生した。

 

 諸々の儀式と手続きを終えて落ち着いた頃、マニゴルドは魚座の住まいに向かった。呼びかけに応じて現れた私服姿の魚座は、男の聖衣姿にやや目を見張った。

 

「一体何事だ。ここに来ないという約束を忘れたのか」

 

「そりゃお互いが黄金聖闘士になるまではって話だ。何事かなきゃ来ちゃいけねえのかよ。見ろこのケープ。なんと巫女が用意してくれたんだぜ」

 

と、男は聖衣の背に羽織った布の裾をひらひら振った。

 

「女に好かれて結構なことだな。帰れ」

 

「そう僻むなって」

 

 アルバフィカが止める間もなく、男は魚座の管理する敷地に押し入った。

 

「本当に何しに来たんだ」

 

「ルゴニスのおっさんに会いたかったんだ」

 

 当代の魚座の顔から表情が消えた。

 

「先生はもう亡くなられた」

 

「聞いてる。おっさんをどこに葬ったって?」

 

「あちらだ」と、アルバフィカは毒薔薇園のほうを示した。「墓参の気持ちはありがたいが、昔のようなことになりたくなければ近づくな。黄金聖衣を着けていても魔宮薔薇の香気は防げない」

 

 マニゴルドは先代魚座の眠る方向を眺めた。

 

「死人に用はねえ。あのおっさんには色々世話になったから、聖闘士になったら堂々と挨拶に来ようと思ってたんだけどよ。もういないなら仕方ねえ。ってことで代わりにおまえに会いに来た」

 

「それならもう済んだだろう」

 

 かすれた声でアルバフィカは言った。

 

「おまえはまだ知らないだろうから、改めて言っておく。私に触れるな。私の身体を流れる血は、今や猛毒に変化している。その毒が先生を殺した。私が先生を殺したんだ。先生の命を奪い、魚座の聖衣を奪った。分かったら帰れ」

 

「へえ、やるじゃん」

 

 マニゴルドは口笛を吹き、相手に一歩近づいた。対してアルバフィカは一歩遠ざかった。

 

「殺したって、どうやって。酒か食事に混ぜて飲ませたのか。刃物に塗って刺したのか。膏薬と偽って皮膚に塗り込んだのか」

 

 違う、と生ける毒は低く否定した。

 

「ああ秘密か。そうだよな。ここで話したら、二度と他の奴に同じ手を使えなくなっちまうもんな。便利な殺しかたは秘密にしとくのが一番だ」

 

「おまえに何が解る!」

 

 アルバフィカは激昂した。傷を抉る嫌な男の胸倉を掴みかける。けれど唐突に我に返り、相手に触れる前に握り拳を作って耐えた。そしてゆっくりと引き下がった。

 

 その様子をマニゴルドは静かに見つめていた。血が毒に染まろうと、触られるだけの相手が毒に冒されることはないだろうに。

 

「ルゴニスのおっさんは自分が死ぬと知ってたんだろ。そのせいでおまえが苦しむことも承知の上で」

 

「適当なことを抜かすな」

 

「今のおまえを見てりゃ分かる。殺したくて殺したんじゃねえなら、おっさんの側がそう仕向けたんだろうさ。おまえならきっちり殺ってくれるって信じてたんだな。その後も一人で大丈夫だろうと思ってたんだ。大した信頼だ」

 

 ああ、とアルバフィカは喘いだ。「そんなこと、言われなくても……」それから溢れ出す激情を抑えるように口元を手で覆った。

 

 マニゴルドは視線を逸らした。

 

 やがて、アルバフィカが鼻を啜りながら呟いた。「先生はおまえの話をしなかったんだ」

 

 話の繋がりが分からず、マニゴルドは聞き返した。

 

「おまえが無位のまま聖域を去ったと私は知らなかった。魚座の聖衣を授かった時、教皇宮に黄金聖闘士が集まったんだ。その中におまえもいると思っていた」

 

 その頃の彼は俗世を放浪中である。帰還が遅くなって悪かったとマニゴルドは謝った。

 

「もういいさ。代わりに教皇猊下が気を遣って下さったから。でも無性におまえと馬鹿話をしたかったよ。先生が元気で、私も遠慮なく他人と触れ合えた頃の思い出を肴にして」

 

「今からすればいいじゃん」

 

 事も無げに言うマニゴルドに、アルバフィカは「そうだな」と笑って同意した。

 

 

 魚座の住まいを出てまもなく、マニゴルドを発見したアスプロスが「いたいた」と駆け寄ってきた。彼を探していたようだ。

 

「おまえにも手伝ってもらうぞ」

 

「何を?」

 

「アテナ捜索だ。ハスガードが、獅子座の聖衣とイリアス殿の息子を探すと怪気炎を上げている。あれは抑えられん」

 

 ははあ、とマニゴルドは顎を撫でた。アスプロスの意図は分かる。

 

 任務を失敗したハスガードに、改めて聖衣とレグルスを探しに行く許しはおりないだろう。調査はできても、表向きは他の者に行かせることになる。居所を突き止めた後は、イリアスの縁者であるシジフォスに保護させるというのが無難なところだ。しかしシジフォスは真面目な男。身内より先にアテナを見つけるのが最優先だと主張するに決まっている。ならばその課題を解決して、後顧の憂いなくレグルス捜索に取りかかれるようにすべきだ――と、ハスガードを誘導したのだろう。

 

「角を矯めて牛を殺さないようにするのも大変だねえ」

 

「真面目な話、これだけ黄金聖闘士が揃っているのに主神が不在では、下の者を不安がらせる。聖域は、シジフォスだけに任せていないで全力を挙げてアテナをお救いする時期にきている。手始めに俺たちはシジフォスの足跡を再検討する」

 

「たちって誰だよ」

 

 薄々気付いているが尋ねてみる。アスプロスはにやりと笑った。人前では決して見せないような表情だ。

 

「俺とハスガードと神官数名、それからおまえな。教皇の密命とやらで各地を経巡っていた者の意見が欲しい。今まで遊んでいた分、せいぜい役に立てよ」

 

「遊んでねえって。それより教皇はそれ知ってんのか」

 

 双子座はやや関係ない話から入った。

 

「……マニゴルドが聖域に戻ってきた日、俺は教皇宮に出仕していた」

 

「うん。だからジジイと一緒に下りてきたんだろ」

 

「ハスガードから受けた報せをお耳に入れた後の、猊下の様子をおまえにも見せたかったぞ。興味のない素振りをなさっておいでで、俺が何度かお誘いしてようやく腰を上げられた。本当はすぐにでも飛んでいきたいという顔をなさっていたのにな。十二宮を抜ける速さは驚異的だった」

 

 顔の下半分をごしごしと擦って、マニゴルドは照れ臭さをごまかした。「つまり何が言いたいんだよ」

 

「つまりあの方は教皇だ。一度決定を下されたことを容易に翻すわけにはいかない。黙認とか追認とか、やりようはいくらでもあるが、俺たちの側から働きかけなければ、あの方は動けないんだ」

 

「強情なのは年寄りだからだろ」

 

「教皇位にそれだけの力があるということだ。ご自身は柔軟な方だから、多少の先走りは容認頂ける。心配ならおまえからお伝えしてほしい。弟子の経験が人の役に立つとなれば、猊下も否とは言われまい」

 

「そうかねえ」

 

 アスプロスは彼の肩を小突き、マニゴルドも同じようにやり返した。途中でハスガードも合流した。

 

「なんだ、おまえたち一緒にいたのか。ということはマニゴルドも話は聞いているな。地道な突き合わせ作業だが、頼むぞ新人」

 

「へっ。伊達にジジイの手伝いしてねえよ。俺に掛かればそんなのあっという間だ」

 

「それはいい。いっそシジフォスが帰ってくるまでに片付けてしまうか」

 

 盛り上がるハスガードとマニゴルドに、アスプロスが水を差す。

 

「言っておくが彼は今週には帰還するぞ」

 

「まじか。じゃ無理だ」

 

「おい諦めるなマニゴルド」

 

 彼らと行き違う一人の青銅聖闘士がいた。これから外地に赴くのだろう。旅装である。目下からの挨拶に、アスプロスとハスガードは軽く返して通り過ぎていく。旅装の青銅位もそのまま去りかけたが、「アンサー」と名を呼ばれて振り返った。

 

 そこに佇むマニゴルドと彼は、同じ時期を候補生仲間として過ごした。称号持ちと候補生という差が出来た時期もある。今や立場が逆転した。

 

 黄金位が「気い付けてな」と声を掛け、青銅位は「お言葉ありがたく頂戴します」と微笑んだ。そしてかつての修行仲間はそれぞれの道を歩き始めた。

 

 マニゴルドは先で待っていた二人に追いついた。三人の若者は十二宮の連なる山を目指して、明るい道を歩んでいった。

 

 ――アテナの化身である少女が、シジフォスに見つけ出されるのはこの半年後。獅子座の聖衣とイリアスの遺児が保護されるのも、同時期のことである。

 

          ◇

 

 それから同じ季節を迎えること五回。青空はいつもと変わらない――何も知らない無辜の民にとっては。

 

 無数の墓碑が建ち並ぶ緑の丘。柔らかな草が風に靡き、生まれたばかりの銀色の波は丘の向こうへ越えていく。

 

 一つの墓碑の前に二人の若い候補生がいた。墓碑に刻まれた名は彼らの師のもの。前日に命を落としたばかりだった。

 

 それを遠目に見つめている別の少年は、憂いに顔を曇らせている。背負われている箱から、彼が称号を得た正式な聖闘士であることが見てとれる。箱に刻まれた浮かし彫りは翼もつ馬。天馬星座《ペガサス》の少年が、人知れず聖域を離れようとしていた。

 

 高処から見下ろしていたマニゴルドは、酷薄に見える笑顔を浮かべた。

 

(悲劇の英雄みたいな面しやがって。それを捕まえようってんだから、さしずめ俺は悪役だよな)

 

 彼は教皇の命を受けて、これから天馬星座の青銅聖闘士を拘束するところだ。

 

 アスプロスがいれば、初志貫徹して天馬星座に成り代わるのか、と昔のことを持ち出してからかっただろう。しかしアスプロスはもういない。二年前、天馬星座が現れる前に彼は死んだ。双子の兄の死後、弟のデフテロスも姿を消した。

 

 聖戦が始まり、命を落とした聖闘士は日に日に増えている。少年時代のマニゴルドの勘違いをからかうような者たちも、多くが戦死者の列に加わった。黄金聖闘士に限っても然り。魚座が死んだ。乙女座が死んだ。牡牛座が死んだ。射手座は冥王の攻撃を受けて昏睡状態。マニゴルドは今や山羊座に次ぐ黄金聖闘士の年長者として、聖闘士を指揮していく覚悟をしなければならない。先任順ではマニゴルドより上の水瓶座と蠍座もいるが、彼らは指揮官向きではない。

 

 幸いなことに、真の指導者である教皇とジャミールの長老が健在だった。お陰でマニゴルドも、こうして憎まれ仕事に駆り出されている。

 

(汚い仕事とか厄介な仕事は全部こっちに回してくんだもんな、あのジジイ。まあ性に合ってるっちゃあ、合ってるけど)

 

 やがて天馬星座が迷いを振り切るように歩き出した。マニゴルドは機を見計らってその前に姿を現す。唐突に現れた初対面の男に戸惑い、少年は問いの声を上げた。曲がりなりにも聖闘士なら黄金聖衣から見当を付けろと言いたいところだが、勉強不足はこの際許してやろう。

 

 彼は黄金の聖衣を煌めかせ、堂々と答えた。

 

「俺か? 俺は蟹座《キャンサー》のマニゴルド――」

 

 

 

 

 

 

「蟹座の黄金聖闘士の話」(完)




最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。本編はこれにて完結です。このあとは年表といくつかの番外編を掲載予定です。


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補遺・余話
年表・参考文献


 

 年表

 

『ロストキャンバス冥王神話(以下原作)』の聖戦は、星矢や沙織たちが経験した聖戦から243年前に起きたとされる。よって本作では(作中もっぱら「来るべき戦い」という未来形で語られるのみではあるが)その開始時期を1740年代前半とした。以下は、聖戦開始年を基点とした相対年表である。

 

 出来事の前の記号について

 ■原作の記述から時期を確定、または推測できるもの。

 □原作に描写はあるが時期を特定できないため、便宜上その頃起きたと仮定したもの。または創作の都合上時期をずらしたもの。

 ・本作での創作

 

?年前

 ■蟹座のセージが教皇に就任したのちに聖戦勃発。アテナ軍の勝利に終わる。

 

29年前

 ■シジフォスが生まれる。

 

28年前

 ■ハスガードが生まれる。

 

27年前

 ■アスプロス、デフテロスの双子が生まれる。

 □双子に予言が下る。

 

26年前

 ■エルシドが生まれる。

 

25年前

 ■マニゴルドが生まれる。

 ・マニゴルド、生後すぐに教会に捨てられ孤児院に入れられる。

 

23年前

 ■アルバフィカが生まれる。ルゴニス(20)、捨てられていたアルバフィカを拾う。

 

22年前

 ■カルディアが生まれる。

 ■デジェルが生まれる。

 ・アスプロス(5)とデフテロスが聖域に引き取られる。デフテロスが凶星と決定される。

 

21年前

 ■アスミタが生まれる。

 □ハクレイ、称号継承を巡って諍いとなった積尸気使いの弟子を破門する。

 

20年前

 ・マニゴルド(5)、孤児院を脱走して町の浮浪児となる。

 ・アスプロス(7)、デフテロスを連れて聖域を脱走しようとするも失敗。

 

18年前

 ■シオンが生まれる。

 ■童虎が生まれる。

 

17年前

 □アスプロス(10)の心に悪魔が余計なことを吹き込む。

 ・マニゴルド(8)、盗賊団の下働きをするようになり、盗品の捌き方や死体の隠し方などを覚える。

 

16年前

 ■ユズリハが生まれる。

 ・マニゴルド(9)、ある浮浪児仲間の死後、盗賊団の首領を刺殺して町から逃亡。それまでの名を捨ててマニゴルドと名乗り、追い剥ぎをするようになる。

 

15年前

 ■レグルスが生まれる。

 ■テンマが生まれる。

 □セージ、視察先でマニゴルド(10)を見出し、聖域に連れ帰る。

 □シジフォス(14)、射手座の称号を得る。

 □イリアス(29)、聖域を離れる。

 ※原作準拠ならば、シジフォスの射手座継承とイリアスの旅立ちは一年前であり、イリアスは聖域を去った後にレグルスを儲ける流れになる。

 

14年前

 ■アテナが地上に降誕する。

 ・聖域に降臨しなかったアテナを見つけるための捜索隊が密かに組まれる。

 □ルゴニス(29)、アルバフィカ(9)に魚座を継承するための儀式を始める。

 

13年前

 ・一部の神官によるセージ降ろしの動きが活発になる。

 ・マニゴルド(12)、小宇宙と冥界波を体得する。

 ・大々的な神官の人事異動が行われ、同時期にアテナ捜索の人員が削減される。

 □ハスガード(15)、牡牛座の称号を得る。

 □アスプロス(14)、双子座の称号を得る。

 

12年前

 □エルシド(14)、山羊座の称号を得る。

 □カルディア(10)、クレストにより延命のための秘術を受ける。そののち聖域に入る。

 ・マニゴルド(13)、悪所通いを頻繁に目撃されるようになる。セージは弟子の追放を各方面から進言されるも無視。

 

9年前

 □アスミタ(12)、ジャミールの長老に見出される。のち聖域に入り乙女座の称号を得る。

 ・マニゴルド(16)、聖域を離れる。

 ■イリアス、冥闘士の襲撃を受けて死亡(享年35)。息子のレグルス(6)は行方不明となる。

 ・マニゴルドの出奔が原因でシオンとハクレイが大喧嘩になり、シオン(9)が牡羊座の正式な候補となる。

 

8年前

 □カルディア(14)、蠍座の称号を得る。

 □デジェル(14)、水瓶座の称号をクレストから継承したのち聖域に入る。

 ・デジェル、マニゴルドのことを探るもすぐに飽きる。

 

7年前

 □ルゴニス死亡(享年36)。弟子のアルバフィカ(16)が魚座の称号を継承する。

 

6年前

 □マニゴルド(19)、聖域に帰還して蟹座の称号を継承する。

 ※聖戦5年前の時点から見て直前に継承していることが原作描写より分かるが、アテナ還御よりは以前のできごととする。

 ■シジフォス(23)、アテナの化身(8)を見つけ出す。

 □シジフォス、亡兄の聖衣と遺児のレグルス(9)を見つけ出して保護する。

 

5年前

 ■マニゴルド(20)、アルバフィカ(18)と共にベネツィアで暗黒聖闘士と戦う。

 ■シオン(13)、マニゴルドに援護されながら牡羊座の聖衣を奪還。のちに牡羊座の称号を得る。

 □カルディア(17)、アテナの覚醒に一役買うも、散々に叱られる。

 □デジェル(17)、女に入れあげて血迷った恩師クレストを討つ。

 

4年前

 □童虎(14)、聖域に入り天秤座の称号を得る。

 

3年前

 ■レグルス(12)、獅子座の称号を継承する。

 

2年前

 ■アスプロス死亡(享年25)。デフテロスは双子座継承を辞退し、カノン島に隠遁。

 ■テンマ(13)、童虎(16)に見出され聖域に入る。

 

0年前

 ■テンマ(15)、天馬星座の称号を得る。

 ■聖戦勃発。アテナ軍の勝利に終わる。

 

 

 

 

ラテン語格言

 

「聖なる砦」より

Memento mori. (Remember your mortality)死を想え。

 

「面倒な友人」より

Cave quid dicis, quando, et cui. (Beware what you say, when, and to whom)何を、いつ、そして誰に言うかに注意せよ。

 

「山の牧神」より

Nervos belli, pecuniam. (Endless money forms the sinews of war)戦争の中枢、金銭。(作中では「金は戦争の神経である」と表記)――キケロ

 

「葆光(包み隠された光)」より

Non est ad astra mollis e terris via. (There is no easy way from the earth to the stars)大地から星までの道は平穏ではない。――セネカ

 

「愚か者の旅立ち」より

Aut viam inveniam aut faciam. (I will either find a way or make one)私は道を見つけるか、さもなければ道を作るであろう。――ハンニバル

 

「かくして人は星に至る」より

Sic itur ad astra. (Thus you shall go to the stars)このようにして星に行く。――ウェルギリウス

 

 

 

 参考文献・参考サイト

 

呉茂一『ギリシア神話 上』新潮社、1979

カール・ケレーニイ著/高橋英夫訳『神話と古代宗教』ちくま学芸文庫、筑摩書房、2000

P.ディンツェルバッハー、J.L.ホッグ編/石山穂澄ほか訳『修道院文化史事典(普及版)』八坂書房、2014

久松英二『ギリシア正教東方の智』講談社選書メチエ522、講談社、2012

高橋保行『ギリシャ正教』講談社学術文庫500、講談社、1980

永田雄三・加藤博『地域からの世界史8 西アジア下』朝日新聞社、1994

永田雄三・羽田正『成熟のイスラーム世界(世界の歴史)』中央公論社、1998

ダンテ著/山川丙三郎訳『神曲 上・地獄』岩波文庫、1979

ダンテ著/山川丙三郎訳『神曲 中・浄火』岩波文庫、1979

石毛直道監修/鈴木董著『世界の食文化9 トルコ』農山漁村文化協会、2003

 

 

「星座を見つけよう/88星座の名前」

http://www.zero-co.com/seiza/guide/88list.html

「Constellations of Words(星座について)」

http://www.constellationsofwords.com/

「日本聖書協会『旧約聖書 [文語]』1953年版」

https://ja.wikisource.org/wiki/文語訳旧約聖書

「日本聖書協会『新約聖書 [文語]』1950年版」

https://ja.wikisource.org/wiki/文語訳新約聖書

「Proverbium Latinae」

http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/latin/sub-latin-list.html

イギリスの土地所有制度 リースホールドとコモンホールドについて(文書名不明)

http://www.moj.go.jp/content/000083984.pdf

「Sacred days of the Athenian month」

https://hellenismo.wordpress.com/2012/11/27/sacred-days-of-the-athenian-month/

「Barbaroi!」

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/

「トゥライのトルコ料理」

http://www.asahi-net.or.jp/~qk5h-oosk/

「ギリシャのごはん」

http://girisyagohan.blog.jp/

 



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解題

 

 まずは「師弟 ――蟹座の黄金聖闘士の話――」をお読み頂きましてありがとうございました。

 現行のタイトルは連載途中で改題した二代目です。作者自身は最初の「教皇(パパ)の子育て奮闘記」が気に入っていたのですが、それが理由で読んでもらえないのでは意味がありません。いい改案が浮かばずに「だったらテーマそのものにしてやらあ」と開き直った現タイトルですが、改題して正解でした。当時ご指摘下さった作者スレの方々には御礼申し上げます。

 各章題はシュトラウスの交響詩『ツァラトゥストゥラはかく語りき』から取りました。映画『二〇〇一年宇宙の旅』冒頭で導入部が使われた有名な曲です。翻訳によって「墓場の歌」が「埋葬の歌」だったり、「世界の背後を説く者」が「世界に背を向ける者」「後の世の人々」だったりしますが、「さすらい人の夜の歌」というワードを使いたかっただけなので、その他の章題にあまりこだわりはありません。章立て自体、途中から取り入れたものです。

 

 

1.【導入部】

 導入のくせに読者を跳ね返すクリスタルウォール。元々はこの回だけで完結した短編でした。

 

「教皇と浮浪児」

 マニゴルドの出身地は、イタリア中南部というぼやけたイメージで収まる範囲にしたつもりです。理由もなくデスマスクとの縁を作っても仕方ないので、シチリアは避けました。ちなみにデスマスクとは、無印原作に登場する星矢達の時代の蟹座の聖闘士のことです。

 作中の船旅は数時間程度のクルーズのような雰囲気でしたが、実際は違います。高速船のある現代でさえイタリア=ギリシャ間の船旅は一日掛かります。まして原作の時代は帆船なので、順調にいっても7日以上は掛かるでしょうか。それだけの時間があれば、船酔いも治って当然です。

 

2.【後の世の人々について】

 導入部に続いて読者を拒む嘆きの壁。聖域と聖闘士の設定説明だけに終始しているから仕方ないですね。

 

「祭壇座の見解」

 ハクレイ登場。

 教皇の住む部分を「教皇宮」と称していいのか、「教皇の間」を拡大解釈すべきか、かなり悩んだ記憶があります。師弟の部屋が廊下に出ずに(=人目に付かずに)行き来できる設定にしたのは、マニゴルドが教皇のスパイとして暗躍するエピソードのため。結局そのエピソードは書かずじまいで死に設定となりました。

 作中で出てきたそら豆の煮込みは、鞘ごとオリーブオイルで玉ねぎと一緒に煮込んで、ヨーグルトソースを付けるゼイティンヤール・バクラをイメージしています。ついでに初日夜で登場させたスープはひよこ豆を使ったトルコ料理の定番メルジュメッキ・チョルバス。豆ばっかり。

 

「聖なる砦」

 現役教皇のガイドで巡る、聖域ウォーキングツアー半日コース。先着一名限定。

 そして魚座師弟登場。マニゴルドとアルバフィカは前者が二歳年上ですが、この時点では後者のほうが体格が良いくらいです(前者は栄養不足による発育不良、後者は生まれた時から聖闘士と同じ生活習慣で健康優良児のため)。なお、この頃のアルバフィカは毒への抵抗力が強いだけのただの子供で、他人に触っても問題ありません。まだ正式な魚座の後継者でないため、ルゴニス先生の態度も甘いです。

 

 

3.【大いなるあこがれについて】

 マニゴルドがセージの正式な弟子になるまでのすったもんだ。

 

「面白くない出来事」

 ニンニクと胡麻を使ったナスのペーストは、ババガヌーシュというレバノン料理です。ギリシャ名はメリジャノサラダ。まじ美味い。

 

「獅子来たる」

 イリアス登場。口調が丁寧なのは教皇の前だから。変わり者でもTPOは守ります。

 話の中で過去の蠍座が登場しますが、まさか後に原作で蠍座のザフィリが登場するとは、この時は思いもしませんでした。獅子座と魚座の他に在位する黄金位がいた場合、どこでバランスを取るかと考えたらやっぱりそこだよなあ、とコミックスを読みながらほっとしたものです(別案としては双子座)。

 説明するのも馬鹿らしいですが、マニゴルドが地面に落書きしたのは女性器のマークです。地域によっては魔除けにもなるとはいえ、さすがに処女神の近くでは問題があった様子。最後に倒れたのはバチが当たったんじゃないですか(適当)。

 

「師匠と弟子」

 ここでやっと地の文でのマニゴルド表記解禁。長かった。

 

「ささやかな嘘の始末」

 エルシド登場。

 アルバフィカに幸せな子供時代があってもいい、ということでマニゴルドと友達になりました。

 

「星と糸杉」

 イリアス父さんとキャンプファイア。タイトルはゴッホの「糸杉と星の見える道」から。

 表面にごまをまぶしたドーナツ状のパンは、トルコ名でシュミット、ギリシャ名でクルーリという伝統的な軽食です。十五世紀くらいのオスマン帝国の文献にはもう登場しているとか。少ししょっぱいくらいが美味しいですよ。

 

「教皇宮の人々」

 働くおじさん。教皇にも侍従くらいいるでしょう。

 マニゴルドがなぜわざわざ床の隅に眠るのか。それは彼の過去に関係している――という展開にこの後なるはずでした。ところが本作のマニゴルドはあまり過去を語りたがらず、セージも無理に聞き出そうとしないので、一向にその流れになりませんでした。

 

 

4.【喜びと情熱について】

 マニゴルドが聖闘士を目指すことをセージが認めるまで。この辺りからセージがマニゴルド関係限定で優柔不断になる傾向が現れます。

 

「子供の領分、大人の言い分」

 シジフォス登場。

 ドビュッシーのピアノ組曲から取った前半タイトルと、それに合わせた後半タイトル。元は二ページに分かれていたものを一ページに統合しました。

 二人が遊んでいたカードは、トランプの原型になったタロットカードです。この時代はまだ占いには使われず、もっぱらゲームで使われていました。豪華なものは貴族の贈答品にもなったそうです。セージの部屋にあったのも教皇への贈り物で歴史的価値のある物のはずですが、多分マニゴルドは知りません。

 

「ジャミールへ」

 ハクレイとマニゴルドの会話は、セージとマニゴルドより書きやすかったです。似たようなタイプなのと、会話のテンポが同じためでしょう。しかしそれ以上にハクレイとセージのほうが書きやすいという不思議。

 

「聖衣の墓場」

 聖衣の墓場については、アスミタが冥闘士を蹴散らした一本道の崖の下より、紫龍がジャミールの所に行こうとした時に通った道のイメージです。あそこで冥界波の練習をしたら捗りそうだと思いました。

 

「約束の夜」

 シオン登場。

 シジフォスによってアテナが見つけ出されたという原作描写の裏で、それまで聖域は何をしていたのか。シジフォスが独断で動いていたというのは考えにくく、少なくともアテナが地上に降臨したことは聖域上層部の共通認識だったはずです。それなら女神像の前に降誕しなかった時は関係者一同さぞかし混乱しただろう、という辺りを書きたかったのです。

 

「女神降臨せず」

 黄金と乳香と没薬は、東方の三博士がイエスに贈ったとされる品々です。

 マニゴルドの作った米だの野菜だのが入った具沢山スープは、グリークミネストローネことホルトスーパ。野菜の切り方が不格好でもごまかせるし味付けは料理人がするから教皇に食べさせても問題なし、と用人の許可がおりました。

 

「続・教皇宮の人々」

 働くおじさんの、あまり仕事と関係ない話。神官長が教皇の表向きの片腕だとしたら、用人は奥向きの片腕となります。役職名を用人ではなく執事としたほうがイメージは伝わりやすかったかも知れませんが、バトラーではないので。

 掲載当初は前後篇だったものを一ページに統合しました。

 

 

5.【墓場の歌】

 書きたいことは大体書けて満足した、デスマスクの話。マニゴルドに比べてデスマスクは情けない、みたいな論調で語るのは止めてほしいと思います。彼はあれでいいんです。

 

「黄泉比良坂」

 アスプロスとハスガード登場。

 生き物に魂が宿るときに天から魂が降りてくる「人の門(Gate of Men)」を蟹座だとする説では、対として、死後の魂が天に戻る「神の門(Gate of the Gods)」に対称星座の山羊座を当てます。作中では省略しました。

 作中の料理は、くりぬいた茄子やトマトに具入りのご飯を詰め込んで蒸し焼きにする(煮込む?)ドルマをイメージしています。

 

「蟹座の愛する世界」

 デスマスクの主張と行動をベースに、デストール(別作品の蟹座の聖闘士)と原作マニゴルドの行動を上乗せして、蟹座に共通のスタンスを探ってみました。無印原作とは時代設定が違うためナチスや日本軍の喩えの代わりに十字軍にしましたが、概ねデスマスクの主張をセージがなぞる形になりました。

 煮込み料理はオルマン・ケバブ(雰囲気は肉じゃが)。牛肉の場合もありますが、ラム肉のほうが地域・歴史的に手に入れやすい気がしたので後者にしました。

 

「柔らかな日々の追憶」

 四人が食べていたお菓子は、トゥルンバという、吐きそうなほど甘いドーナツのシロップ漬けです。日保ちしないから教皇宮で作られた物かもしれない。

 

「壁の住人」

 ロストキャンバスでは全く登場しなかった不思議空間、巨蟹宮。巨蟹宮と言えば死人の顔。デストールはせっせと棺桶で送り返すタイプ。セージはある程度まとめて一気に消すタイプ。デスマスクは偽悪的なのと忙しいのとで片付ける気が全くないタイプ。のようなイメージです。

 

「仮面たちの中の自画像」

 タイトルはアンソールの同題の絵画から。

 ここで登場する候補生は仮面繋がりで女になりましたが、最初はマニゴルドより年下の落ちこぼれ少年の予定でした。ニキアの三つ編みぐるりは、「風の谷のナウシカ」のクシャナ殿下や、ウクライナのティモシェンコ元首相の髪型を想像して下さい。

 豆を潰して揚げた料理は、ファラフェルというエジプトのコロッケです。

 

「第九の波濤」

 タイトルはアイヴァゾフスキーの同題の絵画から。海の透明感が上品で好きな画家です。アイヴァゾフスキーはウクライナ出身の画家で、ニキアの出身地もその辺りを想定しています。

 ゴメイサというのは子犬座のβ星の名前です。

 

「ろうそくの火を消す少年」

 タイトルはエル・グレコの絵画「ろうそくに火を灯す少年」から。

 本作最初の死人は一番可哀相な死に方になってしまいました。死ぬ前にマニゴルド少年を大人にする手助けをさせようかとも考えたんですが、物語全体の雰囲気を変えかねない強烈さだったので止めました。

 

「積尸気冥界波」

 候補生たちの名前は、五人ともエリダヌス座の星から取りました。とくに理由はありません。

 死体の歯を抜くのは義歯の材料として売るためです。当時のヨーロッパでは義歯に歯や骨を使っていました(見た目を取り繕うだけで噛むことはできませんし不衛生で臭い)。戦争が起きると戦死者の歯が樽詰めで戦場から送られてきたとか。ホラーですね。ちなみに同時代の日本では入れ歯はツゲの木で作られ、現代とほぼ同じ原理の総入れ歯も実用されていたそうです。

 

「聖域の人々」

 働くおじさん第三弾。長さや他とのバランスを見て止めましたが、火時計の管理人と家畜番も入れたかったです。

 

 

6.【科学について】

 教皇職を譲るにあたって候補者を試す、という原作セージの危険な賭けは一体どこから来た発想なのか。以前に似たような成功体験があったのではないか。ということを考えるうちにできたエピソード。アテナ捜索プロジェクトが成果を出せなかった頃に間違いなく起きていただろう衝突と絡ませたために、焦点がぼけました。

 

「入祭唱――アリの去就」

 本作のモチーフにダンテの『神曲』を使いたいとずっと思いながらも、ここまでそれを出す機会がありませんでした。

 

「救憐唱――ハーミドの決心」

 この章に小道具として本が多く登場するのは、やらかした神官の左遷先に写本室を想定していた頃の名残です。当初は死刑でなく懲罰程度で済む罪の予定でした。それでは地味だなと派手にしていったら、いつのまにか主君押し込めに発展。びっくりです。

 

「続唱――セージの退位」

 デフテロス登場。

 この章の各回タイトルにレクイエムの曲目を使っているのは、タイトルが思いつかなかったという身も蓋もない理由のためです。

 

「奉献唱――マニゴルドの脱走」

 世界ふれあい街歩き、ギリシャ・ロドリオ村編。原作の積尸気冥界波は何でもありの万能技ですね。

 

「三聖唱――テオドシオスの誤算」

 魂の運び手(プシュコポンポス)や盗人の守護神という職能を考えるほどに、ヘルメスはマニゴルドにぴったりだと思うのですが、アテナの下にいる人間をオリンポスの十二神に擬えるのもどうなんだと、その辺りは掘り下げませんでした。

 

「神羔唱――ヨルゴスの告白」

 露天で売られている焼き栗はとても美味しいです。秋から冬にかけての名物です。

 

「聖体拝領唱――ルゴニスの傍観」

 茶番。本当はこの後にもう一幕入れるつもりだったのですが、ここまでくるのに予定より文字数が膨らんでしまったので単純化しました。

 

「赦祷文――シジフォスの困惑」

 弟子も射手座も触れていない教皇の思惑がありますが、全部説明するとセージの非道ぶりがとんでもなかったので割愛しました。伏線投げっぱなしのまま終わりますが、作中で「あれ?」と引っかかる点を感じた時は、だいたいセージのせいにしてご解釈下さい。

 作中のお菓子はカダユフ(カダイフ・タトゥルス)のつもり。具体的には生地がざっくざくのバロリエのイメージでした。

 

「百獣の王と花の王」

 時系列的に番外編にせざるを得なかったエピソード。読者受けするのはパターン2でしょうが、書いた本人はパターン1のほうが好みなので両方載せました。

 

 

7.【病より癒えゆく者】

 原作のセージはデフテロスのことをどこまで知っていたのか、というあたりを考えてみた双子編。本作の聖域は現代の教育機関ではないので、下々の問題に教皇が首を突っ込む義理はありません。

 

「外は雪」

 タイトルはアコーディオン奏者coba氏の曲から。

 バトルが読みたいという感想を受けて書いた物。ただし雪合戦。それがなければ前半の雪掻きだけのエピソードで押し通して、タイトルも「続・聖域の人々」になっていたと思われます。

 使用人たちが飲んでいたのは、ウン・チョルバスという小麦粉とバターを使ったスープです。冬場だから使用人の食事ごときには野菜を贅沢に使えないのです。

 

「覆面の下の秘密」

 隠れて生きていたわりにデフテロスは真っ直ぐ育ったものです。一方、マニゴルドとアスプロスは理想論を語るには擦れてしまったもよう。寝技込みの実務ベースで話せる黄金は、この二人と童虎とカルディアくらいしかいないイメージです。あくまでイメージです。

 

「面倒な友人」

 原作で、シジフォスやアスプロスが神託を受けに行った神殿も「デルフォイ」と呼ばれていました。しかしデルフォイ神殿といえば、普通は太陽神アポロンの神殿を指します。そこで「アテナ信徒の聖闘士がアポロンの所に行って有益なお告げをもらえるのか?」という余計な引っかかりが生まれてしまいます。もしアポロンがアテナの敵対者と与してたらどうするのかと。そのため作中では神託所の名前を伏せてあります。

 なお、神託に対する聖域の対応は本作の捏造です。うちには星見があるから神託なんて必要ないし、と教皇が公言するわけにもいかない大人の付き合いがあるのです。

 

「兄弟」

 イサクは本作のオリジナルキャラですが、原作のアスプロスやデフテロスの回想に共通して登場する雑兵がモデルです。

 

「山の牧神」

 冠座の称号をラテン語名にしようか「クラウン」にしようかで散々迷った回。ゲンマはかんむり座α星の名前です。

 聖域の財政事情に関して原作では一切不明ですので、好き勝手に妄想しました。

 作中の、土地の利用権を売買するという考え方はイギリスのリースホールド(leasehold)をモデルにしています。この考え方はイギリスでは現在も主流でして、王室→大貴族→大企業・貴族→企業・個人の順に定期借地権が転売されています。後のほうになるにつれて貸借の期間が短くなります。作中では地主の元締めであるイギリス王室の部分に聖域をあてはめているわけです。

 次に隠れ蓑となる宗教施設を建てた理由について。聖域が地主業に直接乗り出さないのは、フロント企業を立てた方が世間との交渉がやりやすいからという理由があります。雑兵を辞めたい人を社会復帰させるためのプールとしても役に立ちます。さらに候補生になりそうな子供を集める時には、孤児や捨て子を引き取っても変に思われないというメリットもあります。

 こういう設定を考えている時が一番楽しいです。

 

「説教のあとの幻影」

 タイトルはゴーギャンの同題の絵画から。「ヤコブと天使が相撲を取っているのを眺める女たち」という絵の構図は、そのまま作中の「アスプロスとシジフォスの仕合を見物している聖域住人たち」に当て嵌まります。この時点ではアスプロスはヤコブなのです。

 セージがマニゴルドに報告書を書かせたのは、弟子のためだけでなく、聖闘士の仕事ぶりを確認するためでもあります。

 

「白と黒の双子」

 当初は「片付け」を実行するストーリーで書いていましたが、三章連続で人を殺して締めにするのはワンパターンかと思い直して、掲載した形に収まりました。具体的には遺体を埋める穴を掘っておいたマニゴルドの前で、ドヤ顔のアスプロスがアナザーディメンションで死体を消すところまで書いていました。

 書き直して正解でした。上記の流れのままだと、二人が仲良いままいられる結末がどうやっても描けませんでした。アスプロスと教皇の弟子が親しいほうが、聖戦二年前の事件がドラマチックです。

 

「続・聖域の人々」

 女の子が書きたかった、それだけの話。

 巫女たちは名前こそオリジナルですが、原作で子供の頃のアテナに付き添っていた女性がモデルです。ちなみにキクレーはつぐみ、グリシナは藤を意味するギリシャ語です。

 ついでに土産のリボンはメイドインフランス。当時のフランスと言えばヨーロッパの流行発信地であり、ギリシャの田舎娘からすると本気で嬉しい土産だったはずです。

 

 

8.【舞踏の歌】

 そろそろ天馬星座の勘違いを正してやらないと可哀相なので、正式に蟹座だと発表することにしました。

 

「無題、あるいは死」

 カルディアと彼に縁のあるクレスト登場。

 タイトルはタロットカード大アルカナの一枚から。作中でマニゴルドが死に神呼ばわりされましたが、西洋占星術で死と関連づけられるのは天蝎宮です。

 

「修復師たち」

 ひぐまはこわい。カナダで熊を殺しまくったベアーの檄は凄いなと思いました。

 

「大義と私情」

 ユズリハ登場。シオンと同じように彼女にとってもマニゴルドは、夏休みと冬休みに泊まりがけで遊びに来る従兄のような存在だったのではないかと想像します。

 

「原石の憂鬱」

 食べ物を粗末にするのはいけません。

 

「熱」

 作中の高級ワインは、教皇が普段飲むためのものではなく、教皇宮で晩餐会をする時のためのものです。同じボルドーでもラフィットにしなかったのは単なるフィーリング。用人がギリシャワインでなくていいのかと確認したのは、重要な行事では伝統のギリシャ産が用いられるという(どうでもいい)設定があったためです。

 

「どん底」

 アスプロスが恩着せがましい。

 一応本作は時代物を目指しているのため、現代的な響きの外来語は避けたつもりです。例えば「バランス」「レベル」「タイミング」は使えません。逆に「マジ」「やばい」「むかつく」は、現代の意味で使われるようになったのが江戸時代なので大丈夫です。「びびる」に至っては語源が平安時代なので余裕でセーフ。嘘のような本当の話です。

 

「海辺の僧侶」

 タイトルはカスパー・ダーヴィト・フリードリヒの同題の絵画から。

 イエスとユダの比喩を出したのは、後の回で「放蕩息子の帰還」というタイトルを使おうと思ったからです。バッハのマタイ受難曲からの連想です。

 ここで宗教者会議を挟んだのは、聖域関係者とのやり取りだけではセージの姿勢を変えられなかったからです。文字数が膨らみすぎて、アレクサンドリア総主教との会合は凄い事なんだぞ(たぶん)、という背景までは書けませんでした。

 

「葆光」

 タイトルは荘子の一節から、とみせかけて板谷波山の開発した葆光釉から取りましたが、なぜそうしようと思ったかは忘れました。

 書き直したい回第一位。

 

「朝の宗教講義」

 正教会とイスラム教について説明すべきだと感じたので、番外編で試みました。しかし本題だったはずのイスラム教について解説するまでに至りませんでした。また別の機会に、今度は候補生にした子供を改宗させるまでのステップも合わせて書いてみたいです。

 

 

9.【さすらい人の夜の歌】

 この章は書きにくかったです。マニゴルド青年の心情についてはぴったりの詩があり、それを読んでもらえば自分ごときが書かなくても……と、勝手に挫けていました。ちなみに高村光太郎の「道程」という詩です。有名な短いバージョンではなく、「どこかに通じてゐる大道を僕は歩いてゐるのぢやない」から始まる長い原型のほう。

 

「道」

 アスミタ登場。

 かつて殺した相手に自分がなりかけていることに気付いてショックを受けるマニゴルド、と、旅立つ弟子と見送る師匠を書くことは、かなり初期の頃から決めていました。

 周利槃特は、ミョウガを食べると忘れっぽくなるという話の元ネタの人です。茗荷という漢字表記も「名札を着けている」という意味だとか。

 

「愚か者の旅立ち」

 タイトルおよび作中に登場するカードは、タロットカード大アルカナの一枚から。時代的にはマルセイユ版なので、崖に向かって歩くデザインではありません。

 レグルス放置については、本当に何を考えているんだと原作ハスガードに聞いてみたいです。そもそもレグルスは子供の足でどこまで駈けていったのでしょう。

 

「悔悛」

 タイトルはジョルジュ・ド・ラ・トゥールの、マグダラのマリアを描いた同主題の絵画から。どのバージョンでもいいですが、モダンな雰囲気の「書物のあるマグダラのマリア」が私は好きです。

 パンアテナイア祭の記述に登場する「篝火競技」がどういうものなのか、よく分かりません。おそらく篝火を持って走るのでしょうが、トーチリレーですかね。

 

「十二宮の人々」

 デジェル登場。もしかしたらアスミタもこの時点ですでに聖域に来ていたかも知れませんが、いてもインタビュー相手にならないので省略しました。

 

「荒野の会合」

 最初の構想では、マニゴルドと戦う相手はセージの予定でした。師弟でもう一度黄泉比良坂で戦って、一応は弟子が勝利して聖域帰還と称号授与を認められる、という流れでした。バトルのバランスが難しかったので相手を変えました。

 

「放蕩息子の帰還」

 タイトルは新約聖書の例え話から。同主題を描いた絵画ではレンブラントが有名ですが、この回の雰囲気に近いのはムリーリョです。

 なおここで登場した宿屋の亭主は、本来「市井の人々」という回のメインになるはずでした。ハスガードを描くことに文字数を割きたかったので語り手交代となりました。

 

「夜明けの孤独」

 タイトルはフュースリの同題の絵画(Solitude at Dawn)から。物語の中では夜が更けていく時間帯ですが、主役の人生はようやく夜明けです。

 

「かくして人は星に至る」

 タイトルはウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』から。別案としては『神曲・煉獄篇』での「故にわれ冠と帽を汝に戴かせ、汝を己が主たらしむ」というセリフを使おうと思っていました。先にも書きましたが、本作のモチーフに神曲を使いたかったのです。

 そしてどうにか最終回でセージの負い目も解消できました。時間を置いたらもう少しシンプルに書き直したいです。

 

 

 以上で本編は終わりです。

 セージから見たマニゴルドの成長、というテーマに絞ったために省いたエピソードがいくつもあります。機会があればそれらを番外編として出していきたいです。

 元々「自分だけが楽しめれば需要が無くてもいい」と書き始めた本作ですが、他の人にも楽しんで頂けたのは嬉しかったです。長い話にお付き合い頂きまして、ありがとうございました。好き勝手に書いても破綻しない聖闘士星矢の世界は寛大だなと思いました。

 



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余話「少女と悪党」

 聖闘士の一団が聖域に戻った。羽織っているのは黒い外套。背負っているのは一様に大きな箱。揃いの姿は、彼らが外地での任務を終えたばかりであることを表していた。

 

 先頭を歩いていた者が言った。「女神像が見えると、やっと戻ってきたって感じがしますね」

 

 確かに、と別の者も同意する。集団の一人が最後尾を振り返って尋ねた。「蟹座様、このまま報告に上がりますか」

 

 全員が答を待った。

 

 蟹座と呼ばれた男は、年の頃は二十歳を少し過ぎたばかりと見えた。一行の中には彼より年長の者もいる。しかし彼が集団の統率者ということは、周囲の態度で明らかだった。

 

 蟹座は鷹揚に頷く。「そのつもりだ。一日は早く帰れたはずだからな」

 

 休む間もなしか。そう思った部下たちが落胆する寸前、彼はにやりと笑った。途端に雰囲気が変わる。冷静な指揮官から陽気な若者へ。声さえも軽くなった。

 

「……でもまあ、おまえらも楽しめただろう?」

 

 茶目っ気のある笑みにつられ、一行の雰囲気はぐっと砕けたものになった。

 

「そりゃあ、楽しませてもらいましたよ!」

 

「お陰様でいい女に当たりました」

 

 命令を矢継ぎ早に出して任務を早々に終わらせた蟹座は、すぐには聖域に戻らなかった。浮いた時間を自由時間として部下たちに与えたからだ。若い聖闘士たちは身銭を切って女を抱かせてくれた上役を、良き兄貴分として慕うようになっていた。

 

「帰還を遅らせると聞いた時には、耳を疑いましたけどね」

 

 年長の部下が苦笑しながら言うと、蟹座は彼にだけ聞こえるよう囁いた。

 

「聖戦が始まりゃ、こんな悠長なことはしてやれないからさ。若い連中には今のうちに生を謳歌させてやらねえと」

 

 部下の肩を軽く叩き、自身もまだ若い蟹座は前方に向かって声を張り上げた。

 

「おまえら、女の話はまた後でな。さっさと上への挨拶済ませるぞ」

 

 一行は任務の報告のために山の頂を目指す。山上に立つ女神像の足元では、聖闘士を統括する老人が待っている。

 

          ◇

 

 十二宮で最初に訪問者を迎えるのは白羊宮である。

 

 まだ正式な守護者ではないが、その候補者が入り口で待っていた。傷ついた聖衣があれば修復を行うためだ。少年の視線は一行を順に巡った。

 

「皆様の聖衣は無事ですか」

 

 聖闘士の怪我より聖衣を先に気にするあたり、さすがに修復師見習いだった。近々牡羊座の称号を授かることが内定している、早熟の英才である。

 

 蟹座が応えた。「牛飼座のが少し擦ったが、修復してもらうほどじゃねえ。他は無傷だ」

 

「擦った? 黄金がついていながら」

 

 厳しい非難の目を向けられ、蟹座は「おお怖い」と肩を竦めた。牡羊座は火の気性が強い。おどけた仕草に少年は却って苛立った。他の聖闘士もいることを忘れて、物心が付く頃からの知り合いに詰め寄る。

 

「いつもそうやって茶化す。黄金たるもの、少しは目下の模範たるべく行動しろ!」

 

「その手の説教は聞き飽きてるの、俺。皆のお手本には他の黄金がいるからいいだろ。上が堅い奴ばっかりじゃ下も息が詰まるって。じゃあな」

 

 昔遊んでやった洟垂れ小僧に説教されても、蟹座にとっては痛くも痒くもない。男は修復師見習いの肩を叩き、へらりと笑って立ち去った。

 

 

 二番目は牡牛座の守る金牛宮。

 

 守護者は大らかに一行の帰還を歓迎した。「全員無事で何よりだ」と一人一人の背中を叩く。丸太のように太い腕が叩くのだからさぞや痛いだろうと思いきや、繊細な動きにはむしろ包み込む優しさがある。

 

 牡牛座は彼らを統率してきた若者にも同じようにした。そして温かい目を向けた。単身の任務と、今回のように集団を率いて臨む任務では、苦労の種類が異なることを牡牛座は知っている。

 

「ご苦労だったな。猊下もお喜びになるだろう」

 

「どうだか」

 

 素っ気なく応えた蟹座に、牡牛座は微笑んだ。

 

 行け、と示された出口へ聖闘士たちは足を向けた。

 

 

 三番目は双児宮。

 

 蟹座が見たところ、聖域で最も「聖闘士の規範となる男」の役が上手い守護者がいるところだ。

 

 双子座は眉を顰めて一行を見やった。

 

「聖衣をまとわずに教皇の御前に出るのか?」

 

 咎める側の一分の隙もない聖衣姿に、下位の聖闘士たちは姿勢を正した。任務の報告のために上がるとなれば、双子座の言う通り聖衣をまとうべきだった。蟹座だけは飄々としている。

 

「俺の宮で着替えるから大丈夫だって。荷物もそこに置いていけばいいし、手間がない」

 

「おまえがその態度だから下の者まで緩むんだ」

 

 溜息を吐くと、双子座はつかつかと蟹座の前に立ち塞がった。蟹座は部下たちに目配せして先に行かせた。彼の守護宮はこのすぐ上だ。双子座はぞろぞろと出て行った者たちを無視して、蟹座の首回りを覆う布を引っ張った。

 

「ぐえっ」

 

 わざとらしく悲鳴を上げても、相手はにこりともしなかった。

 

「統率すべき黄金がもっとも着崩しているとは嘆かわしい。なんだこのクラバットのだらしなさは。直せ」

 

「いいじゃん別に。おまえ小姑かよ」

 

「なんだと」双子座に冗談は通じない。

 

「何でもないです。もうすぐ着替えるから見逃してお願い首締めないで」

 

「直せ。猊下の寛大さにおまえは甘えすぎだ」

 

 双子座の許可を得て蟹座が這々の体で双児宮を抜けたとき、巨蟹宮で待っていた部下たちはすでに聖闘士の正装たる聖衣を身に付けていた。

 

 

 蟹座の守護宮たる巨蟹宮。守護者空位の獅子宮。その次は六番目の処女宮だ。

 

 乙女座の地位にある者は、己の信仰を変えようとしない異端者として、腫れ物のように扱われていた。

 

「通るぞ、クソ坊主」

 

 しんと静まりかえった建物内に蟹座の声が響いた。返事はない。彼は構わず歩を進めた。一行も彼について無言のまま歩いた。

 

 処女宮を抜けた聖闘士たちはほっと息を吐いた。一人が蟹座に「大丈夫なんですか」と恐る恐る尋ねた。

 

「大丈夫って、何が」

 

「あのような……呼びかたをなさっても」

 

「別に声なんか掛けなくたっていいくらいさ」

 

 敬虔な女神信仰者である牡牛座は、乙女座を背信者呼ばわりして憚らない。蟹座もそうなのか、と皆思った。だが理由は違った。

 

「今あいつの魂はここにいないからな。抜け殻に声掛けても聞こえやしないんだよ」

 

 死の向こう側に通じる者の話である。誰にも理解できなかった。

 

 

 守護者空位の天秤宮を抜ければ、八番目の天蝎宮。

 

 素通りに近い宮ばかりの後に、十二宮で最も面倒な守護者が待ち受けている。

 

 蟹座は深呼吸した。他の者も気合いを入れ直した。

 

 宮に入った途端、先頭の蟹座を影が襲った。すばやく避ける。が、それは執拗に彼の首を狙った。蟹座は舌打ちし、加減せずに相手を蹴り飛ばした。

 

「遊んでる暇ねえんだよ、こっちは」

 

「つまんねえの」

 

 けろりとして立ち上がった蠍座は、一行をじろじろと眺めた。皆、目を逸らした。外地での任務を命じられることのない蠍座は、常に刺激を求めている。そのために天蝎宮を通る者に片端から攻撃を仕掛ける時があるが、所用あって通過したいだけの者には迷惑でしかない。

 

「なあ、おまえらシチリア行ったんだって? てことは、あの怪物の様子を見に行ったんだろ。どうせなら封印解いてくれば面白かったのに」

 

 とんでもないことを言う蠍座に、一同は血の気が引いた。蟹座が静かに言った。

 

「今のは聞かなかったことにする」

 

「ちっ、臆病者」

 

「臆病でも何でもいい。後で相手してやるからとりあえず通してくれ。教皇への謁見を済ませたい」

 

 黄金聖闘士らしくないと評される蟹座も、奔放な蠍座に比べれば真っ当な常識人だった。

 

「いいよな、おまえは。上に行けば教皇に遊んでもらえるもんな」と蠍座は子供じみた表情でぼやいた。

 

「馬鹿言え。説教食らいたいなら一緒に連れて行ってやるよ」

 

「冗談!」

 

 からからと笑う間に、蟹座は部下たちを追い立てて天蝎宮を去った。

 

 

 十二宮九番目は人馬宮。守護者は留守だった。

 

 射手座はイタリアの地から女神を見つけ出した功労者だ。そのためなのか、自覚の無いまま女神に奉られてしまった少女に対して、保護者めいた感情を抱いているようだ。留守にしているのも、おそらくは女神のお守り、もといご機嫌伺いに行っているためだろう。

 

 

 十番目の磨羯宮。

 

 守護者は宮の手前の階段に座ってぼんやりしていた。浮かべている厳しい表情と普段の訓練で見せる求道者ぶりから、思索に耽っていると思った者もいた。だがその実ぼんやりしていた。

 

 蟹座が「よう」と声を掛けると、山羊座は「おう」と応えた。

 

 長い付き合いだ。それで通じた。

 

 

 十一番目の宝瓶宮まで来れば、頂上の教皇宮まであと僅か。

 

 水瓶座は冷静沈着というより冷淡な目で、聖闘士たちの通過を受け入れた。土産があると蟹座は告げた。

 

「心遣いに感謝する。一体何だろうか」

 

 水瓶座の生まれ年は蠍座と同じだという。落ち着きを少し分けてやれと周囲がいつも思っていることは、当人たちは知らない。

 

「読みたい本があるってこの前言ってただろ。偶々見つけた」

 

 題名を伝えると、水瓶座の目がきらめいた。彼は読書を好む。両手でがっしり蟹座の腕を掴み、肉食獣の目でその顔を覗き込んだ。

 

「本当か。本当にあの書物を手に入れてくれたのか。いくらだ? いくら出せば譲ってくれる」

 

「落ち着けって。おまえへの土産だ。金は要らねえ」

 

 蟹座は苦笑して、腕に掛かった水瓶座の手を外した。ここまで喜んでくれるなら、任務の後で骨董屋に寄った甲斐があった。骨董屋に寄る気になったのは、部下たちと同じ娼館に入ったものの外れを引いて時間が余ったから、という事実はこの際置いておく。

 

「ああ、本当に心から感謝する。ありがたい。しかし、あの稀覯本をただで貰うのは気が引ける」

 

 水瓶座の真摯な申し出に蟹座は少し考え、代わりの案を出した。蠍座の相手をして欲しいと。

 

「用事が済んだら遊んでやるって言っちまった。だけど今日はこいつらとの約束があったんだ。だからあいつの気を逸らして、報告が終わって下りてくる時に顔合わせずに済むようにしておいてくれ」

 

「難しいが承知した。氷の柩に閉じ込めてでも成し遂げよう」

 

「頼むわ。本は巨蟹宮に置いてきたから、明日にでも届ける」

 

「承知した!」

 

 弾んだ声で水瓶座は言い、蟹座を快く送り出した。

 

 

 十二宮の最後。双魚宮。

 

 守護者の魚座は姿を見せない。彼が人を避けて守護宮の奥に籠もっていることは、聖域でもよく知られている。蟹座が通路の奥に向かって怒鳴った。

 

「相棒が帰ってきたんだから、お出迎えくらいしてくれよな!」

 

「ふざけるな。私の相棒は薔薇だ」

 

と、同じくらいの大声が奥から返ってきた。魚座が正しい。謁見を済ませたい聖闘士たちは、蟹座を促して先を急いだ。

 

「あいつの恥ずかしがり屋にも困るよな」

 

 蟹座の軽薄な呟きには、部下一同、誰も同意しなかった。孤高の魚座に交流を求めるほうがどうかしている。

 

          ◇

 

 重い扉を開けて、聖闘士たちは教皇の間に入室した。

 

 この広間は女神や教皇と聖闘士が対面する舞台だ。聖戦が始まれば実際的な軍議の場となるが、今はまだ平時。そこで繰り広げられるやり取りは、どこか儀式めいている。

 

 玉座に相対する位置に蟹座が膝を付き、頭を垂れた。その後ろに四人の聖闘士。指揮官と同じ姿勢を取る。代表して前列にいる者が口を開いた。

 

「われら五名、拝命の務めを終えて今し御前に帰還せり。輝く目を持つ戦女神よ、汝が御前に勝利と賛歌と敵の血を捧げん。大地の輝きと喜びに感謝を捧げん。全地に満つ汝の栄光を、われら絶えることなく永久(とこしえ)に讃えん」

 

 蟹座は淀みなく述べ終えた。厳粛な雰囲気にふさわしい、朗々たる声。堂々たる態度。

 

 その口上を受け取るべき女神の姿は、玉座にない。

 

 代わりに玉座の脇に控えている教皇が、老熟した深い声で返した。

 

「此度の働き大儀であった。汝らの働きは女神の知るところとなる。おお輝く目を持った者よ、槍を掲げる者よ。彼らの賛歌を聞きたまえ。彼ら戦女神の御名によって勝利せり。願わくば御手を上げて地に平和を与えたまえ、聖闘士に祝福を与えたまえ」

 

 女神を讃える蟹座と教皇の口上が終わると、広間にぴりりとした沈黙が下りる。

 

 教皇が言った。「此度の始末について申せ」

 

 蟹座は簡潔に報告した。詳細はいずれ後で報告書として提出する。

 

「エトナ山における封印は有効に働いており、かの怪物は未だ眠りについております。念のため私の判断で封印に補強を施しました。故意に解く者がない限り、封印が十年以内に薄れる可能性は低いと申し上げます」

 

「では次の検分は十年後で良いか」

 

「御意にございます」

 

「相分かった」

 

 黄金聖闘士の指揮の下に四人の聖闘士が動くという事態は、そうそうない。エトナ山には、オリンポスの神々すら完全には打ち負かすことの出来なかった古の怪物が封印されている。今回の聖闘士の任務は、その封印の状況を確かめるというものだった。それだけの内容に教皇は五人も派遣したのだ。怪物の力を抑えられる可能性のある聖衣、古来シチリアと縁のあった聖衣、封印の贄となった者と縁のある聖衣……。怪物が復活する最悪の事態に備えて、教皇と蟹座は布陣を敷いた。

 

 そして彼らは怪物の顎を覗き込みながら働いた。

 

 許しを得て、蟹座以外の四人は教皇の間を退出した。彼らが出て行くまで、蟹座は微動だにせず同じ姿勢をとり続けていた。

 

 白亜の建物を出ると、乾いた風が彼らを撫でた。ようやく一仕事を終えた安心感に、四人は緊張を解す。

 

「ああ疲れた。蟹座様が立派すぎて、逆にいつふざけ出すかってハラハラしてた」

 

「おいおい、曲がりなりにも黄金だぞ。ああ見えて我々より儀式には慣れていらっしゃるよ。多分」

 

「帰ったら女神のご尊顔を拝めると思ったのに、今日もおいでにならなかったな。神殿のほうにおわすのか」

 

「小宇宙の気配なりとも感じられれば良かったが、残念だな」

 

 彼らは主神を見たことがなかった。射手座に伴われて聖域に還御したという噂は伝わっていたが、それだけだった。任務に出発する前の謁見でも不在だったが、帰還した時には言葉の一つも掛けてもらえるだろうと期待していた。しかし期待は虚しく外れた。

 

「蟹座様が残られたのは、もしかして女神への我々の思いを猊下にお伝えするためじゃないか?」

 

「なるほど」

 

 一人の思いつきに別の聖闘士が頷いた。聖闘士の不満、あるいは射手座が女神を連れ帰ったというのが狂言ではないかという懸念。

 

「それじゃあの人が戻ってくるまで、しばらく下で時間を潰そうか」

 

 四人は階段を下っていった。

 

          ◇

 

 蟹座の背後で教皇の間の扉が閉まった。

 

 任務を共にした聖闘士たちが退出して、蟹座は顔を上げた。神妙な態度はあっさりと捨てて、飄々とした素の態度に戻る。

 

「教皇サマ、質問二ついいですかね」

 

 教皇の指示で、書記を務めていた神官も退出した。広間から他の者が消えると、蟹座は玉座の手前の階段に腰を下ろした。

 

「あんたが用心しろって言うから四人も連れて行ったけど、この任務、俺一人でもやれたんじゃないですか。俺そんなに頼りねえかな」

 

「馬鹿者。用心してし過ぎることはない」

 

 教皇は蟹座の不遜な態度を咎めず、玉座の脇に佇んだまま言葉をかけた。「もっとも、若い聖闘士に場数を踏ませる目的もあるにはあったがな」

 

「ほらやっぱり。それって俺のことじゃないですか」

 

 後ろの床に手をついて、蟹座は天井を見上げた。

 

「そんじゃもう一つ。あいつらアテナに拝謁できなくて、相当がっかりしてますよ。小宇宙の制御云々は抜きにしても、お顔だけでも見せてやれないんですか」

 

「聖闘士の不満はそれほど高まっているのか」

 

「不満ってほどじゃねえけど、勘ぐる奴はどこにでもいるもんです」

 

「ふむ」

 

 蟹座は下位の聖闘士との気安い交流が得意だ。そんな者の言葉とあって、教皇も真剣に受け止めた。

 

「べつに聖域にいないわけじゃねえんだから、お披露目もそろそろ考えとけば、とご注進申し上げますよ」

 

「わかった。考えておく」

 

 その時、教皇宮の一角から大声が聞こえてきた。射手座の声だった。常に落ち着いている射手座が、なぜか珍しく慌てている。

 

「なんか騒いでますよ」

 

「ああ、あれは女神をお捜ししているのだ」

 

「かくれんぼですか」

 

「否。ご勉学の休憩中にお姿を隠された」

 

 事も無げに言う教皇に、蟹座のほうが驚いた。

 

「ならあんたものんびり構えてないで、捜さないとまずいだろ」

 

「おまえの戻りを待っておった。案ずるな。聖域からはお出になっておられぬようだ。すでに巫女や射手座が捜索に当たっているから、おまえは彼らの見落としていそうな所を見てきてくれ」

 

「え、俺も捜すの? 人使い荒すぎねえか。任務帰りだぞ」

 

「億劫がるな。蛇の道は蛇であろう」

 

 それはまあ、と苦笑しつつ蟹座は立ち上がった。

 

「まあ女神にはご同情申し上げますがね。いきなり故郷から離されて訳の分かんねえ所に放り込まれたかと思ったら、訳の分かんねえ連中に崇め奉られて。独りになりたい時もあるでしょうよ」

 

「おまえもそうだったか」

 

「俺はべつに。ほら、下積みが長かったから」

 

 へらりと笑ったかと思うと、彼は表情を引き締めた。

 

「それでは教皇猊下。射手座に絡まれないうちに、私はお暇仕ります」

 

と、蟹座は流れるような見事な礼をとった。

 

 その退出を見送ると、教皇は後方を見やった。女神を捜す射手座の声がだんだんと近づいてきた。

 

          ◇

 

 青空を背にした巨大な女神の神像は、眼下の風景には目もくれず、いつもと変わらぬ無情さで遠くを見据えていた。

 

 一人の若者が麓から女神像を仰いだ。

 

 神像の足元には神殿も見える。神殿と神像が建っているのは断崖絶壁の山の上だ。そこから彼のいる麓の森までは建物一つ見えない。麓から神殿に至るには、彼のいる場所とは山を挟んで反対側にある十二宮を抜けていくしかない――というのが、建前である。隠し階段が麓から教皇宮まで通じていることを知る者は、聖域でも限られている。

 

「俺が冥王軍に寝返るなら、まずこのことを伝えるね」どうせ冥闘士は通れないけど、と独り言。

 

 彼は森の中に分け入った。

 

 獣道よりも細い茂みの隙間を縫って、がさがさと突き進む。と、行く手に人影を見つけた。古木の陰にしゃがみこんでいるのは幼い少女だ。華奢な体に纏うのは、ゆったりとした優雅な白い衣。巫女と同じ装いである。

 

(蟻の巣でも見てるのか)

 

 若者は音を立てないようにして少女に近づいた。

 

「よう、お嬢ちゃん」

 

 突然声を掛けられて少女は振り向いた。年の頃は八、九歳。濡れた頬、腫れぼったい目元。隠れて泣いていた少女は、見知らぬ大人に身じろいだ。何かを言おうとして口を開く。

 

 けれどそれより先に、若者は笑ってみせた。

 

「驚かせて悪かったな。先客がいると思わなかったんだ。この場所のことは、他の連中に内緒にしといてもらえるか」

 

「あなたの場所なの?」

 

「そ。秘密の隠れ場所。お嬢ちゃんは独りでここに来たのか。迷子だったら送っていってやるぜ」

 

「……迷子じゃない」

 

「ふうん」

 

 若者は呟いて木の根元に座り込んだ。まあ座れよ、と羽織っていた服を横の地面に広げる。少女はその上にそっと腰を下ろした。

 

「どうしてイタリア語で声を掛けてきたの? ここの人は皆ギリシャ語を話すのに」

 

「ああ、元々イタリア出身なんだ。ちょっと仕事で向こうに行っててな、慣れでギリシャ語より先に口から出ちまった。たとえ言葉が通じなくたって、可愛い子ちゃんが泣いているのを黙って見過ごしたら、男が廃るってもんだろ」

 

「生粋のイタリア人ね、あなた」

 

 少女は赤く泣き腫らした目で笑った。

 

「私も最近イタリアから来たの。だから余計にびっくりしちゃった」

 

「よし、どこから来たか当てさせろ」と若者は少女に向けた人差し指をくるくると回しておどけた。「北のほうだろ。……トレント。どうだ」

 

「違うわ」

 

「お嬢ちゃんの番だ」

 

 少女は戸惑いながらも、素直に若者の出身地を推量する。「えっと、ナポリ?」

 

「残念。それじゃ俺の番だな。コモ」

 

「外れ。北っていうのは当たってるけど。あなたはきっと南の人ね。私が育った所の人たちとは、喋りかたが違うもの。ローマ」

 

「外れ。ミラノでどうだ」

 

「それも外れ。えっと、ええっと……」少女は言い淀む。「私、小さな町で育ったから、あんまり他の土地のこと知らなくて、その……」

 

「そっか。まあ当たりっこねえけどな。俺はお嬢ちゃんが絶対に聞いたことねえような、小さな町の出身だ」

 

「ずるい!」と少女は若者を叩いて抗議した。

 

 すっかり元気を取り戻したような反応に、若者もほっとした。一回りも年下の小娘とはいえ、ご機嫌取りをしてしまうのは男の悲しい性である。

 

「それなら詫び代わりにいい物やるよ、ほら」

 

 持ってきていた袋から取り出したのは、果物を象った愛らしい菓子の数々。イチゴ、イチジク、洋梨、レモン……。色も鮮やかだ。

 

「わあ、可愛い!」

 

 若者の予想通り、少女には大いに受けた。指でつまんで、ためつすがめつしている。

 

「これ何?」

 

「フルッタマルトラーナって菓子だよ。食べてみな」

 

「いいの? 誰か女の人にあげるんじゃないの」

 

「子供はそんなこと気にしなくていいんだよ。あ、そうだ。遠慮しなくていいから、代わりにお嬢ちゃんの名前教えてくれよ。将来とびっきりの美人になりそうだ」

 

 少女はためらい、小声で「私は……サーシャっていうの」と囁いた。

 

「どうしてそんな小さな声なんだ。綺麗な名前じゃないか。ロシア系だからって苛められたことでもあるのか」

 

「この名前はもう捨てなさいって言われてるの」

 

 そう言うと、少女は両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。「ここに連れて来られる時に、今までの生活は忘れなさいって言われた。でも……できないの。儀式の時に何していいかも覚えられないし、小宇宙の使い方も分からない。早く覚えなきゃいけないのに、だめなの。私、全然なにもできないの」

 

 再び泣き出した少女の横で、若者は頭を掻いた。

 

「それが悔しくて、お嬢ちゃんはここで泣いてたってわけか」

 

 若者の言葉に少女はこくりと頷いた。俯いたうなじは折れそうなほど細い。

 

「サーシャ。泣いた後はドルチェだ」

 

 ほら、とレモンの形を模した菓子を掌に乗せて差し出す。少女はしゃくり上げながらそれを受け取り、囓った。

 

「甘い」と泣きながら笑った。

 

 やがて落ち着いたサーシャは、傍らの名も知らぬ若者を見つめた。

 

「あなたは聖闘士なの?」

 

「ただの雑用さ。ここで怠けてることは秘密にしといてくれや」

 

「言えるわけない。だって私も勉強を抜け出してきたの。……私、頭が悪くて」

 

 苦しそうに笑う少女を彼は慰めた。

 

「覚えることが多すぎて、頭が追いつかねえだけかも知れないぜ。でなけりゃ指南役が大勢で、言ってることが皆バラバラだとか」

 

「教えてくれる先生はいつも同じ」

 

「ふーん。どんな奴」と、若者は相槌程度といった具合に尋ねた。

 

「一人は……いつも私には難しすぎる課題を出すの。きっと私が何でもできると思ってるのね。できないなんて言ったら、きっと怒ると思う。今まで一度も叱られたことなくて、だから逆に怒られるのが怖いの」

 

「そいつ年寄りか」

 

「ええ」

 

「俺の知ってるジジイも厳しくてなあ。無理とかできないとか弱音を吐いたら、その程度の奴かって突き放されそうで、必死で食らいついていくしかなかったな。自分で決めた道だから、どうにか頑張ったけどよ。サーシャは違うんだから、少しくらい弱音を吐いてもいいと思うぜ」

 

「そうかな」

 

「そうさ。分かる奴が教える時は、相手がどこが分からないのかが分からないんだ。だから教わる側がちゃんと伝えないと。俺なんかしょっちゅうジジイに『説明が意味不明すぎる』って当たってたぜ。今度難問を出されたら、どこができないのか、なんで難しいと思うのか伝えてみな。怒られることはないから」

 

 少女は「そうしてみる」と言い、少し明るくなった声で別の教師についても話した。

 

「もう一人はね、ギリシャ語とか作法を教えてくれるの。女の人。簡単なお喋りから始めてくれる優しい人なんだけど、やっぱり覚えることが多すぎて、頭がごちゃごちゃになるの。そうするとその人が苛々するのが分かるの」

 

「もしかしてデスピナっておばさんか」

 

「デナを知ってるの」

 

とサーシャが聞くと、若者は懐かしそうに頷いた。

 

「昔、俺も少し教わってたことがある。生徒が躓くとすぐに苛つく癖、直ってねえんだな」

 

「悪い人じゃないんだよ。イタリアの話もしてくれるし、ピスタチオもくれるの」

 

「知ってるよ。少し気が短いだけだ。ていうか今でもピスタチオなのかよ、あのおばさんの和解の証は」

 

 サーシャは笑った。「昔からなのね」

 

「俺のときに味を占めたんだろうな」と若者は苦笑し、話を変えた。

 

「ところで勉強抜け出してくる時、よく誰にも見つからなかったな」

 

「うん。あのね、裏道があるって教えてくれた人がいるの」

 

「へえ、誰。あ、べつにそいつのことを上に密告しようとかじゃねえからな。こういう場所でばったり会った時に慌てたくないだけだ」

 

 務めを怠けている者同士、若者に気を許したサーシャはあっさりと告白した。

 

「キクレーって人。でもあなたとばったり会うことなんて無いと思う。抜け道は知ってるけど自分は使わないって言ってたから」

 

「なるほどね。まあ分かってるとは思うが、そいつに抜け道を聞いたことは他の奴には秘密にしとけよ。そいつが怒られるからな。ところでお嬢ちゃん、そろそろ勉強に戻ったほうがいいんじゃないか。きっと先生が心配してるぞ」

 

 力なく頷いた少女に、渡した袋を指差す。

 

「その菓子、実は女神への捧げ物なんだ。勉強を抜け出したことで怒られるのが嫌だったら、俺をだしに使え。捧げ物を預かりに席を外してたってな」

 

 幼い少女は袋を両手で持ち上げ、再び下ろした。

 

「でもそれだとあなたが叱られちゃうかも」

 

「気にすんな。でも今回だけな。次抜け出す時には先に言い訳用意して、周りに心配かけないようにしろよ。ここを使え」と若者は頭を軽く叩いてみせる。「知ってるか? アテナは知恵の女神なんだぜ」

 

「悪知恵でも許してくれるかな」と少女は吹っ切れたように立ち上がった。「私、もう行くね」

 

 途中まで送ろうかという申し出に、サーシャは大丈夫だと応えた。

 

「ねえ、あなたの名前を聞いてもいい? この捧げ物の送り主の名を女神に伝えたいの」

 

 若者はにやりと笑みを浮かべた。「悪党、だよ」

 

「意地悪」と少女は一瞬むくれてみせた。それから短く礼を言うと、袋を胸に抱き締めてしっかりとした足取りで去っていった。

 

          ◇

 

 蟹座の黄金聖闘士は、任務を共にした聖闘士と、ついでに声を掛けたら付いてきた者と一緒に、ロドリオ村で酒盛りを楽しんでいた。小宇宙抜きでの腕相撲大会は佳境に入り、蟹座は青銅聖闘士と肩を組んでやんやと野次を飛ばした。聖衣をまとわない彼らは、血気盛んなただの若者と変わらない。

 

 蟹座のもとへ念話が飛んできた。

 

 僅かに眉をひそめた彼は、酒場の外を一瞥して舌打ちした。

 

 他の客も巻き込み盛り上がる輪を抜け出して、店内を見回す。どうにか酔いの浅い部下を見つけてその肩を叩いた。騒がしい店内の中、蟹座は声を張り上げる。

 

「おまえ、まだそれほど酔ってないな」

 

「酒には強いんです。私なりに楽しんでますから、大丈夫ですよ」

 

「それならいい。俺は上に呼ばれたから先に戻る。払いは気にしなくていいから、後は勝手にやってくれ」

 

「何事ですか」

 

 わざわざ聖域に呼び戻される緊急事態が起きたのかと、その聖闘士は驚いた。腕相撲を見守っていた人だかりが騒がしくなった。どうやら名勝負が繰り広げられているらしい。

 

「分かんねえが深刻な用件じゃなさそうだ。まだ日暮れ前だからな。時間帯的に文句は言えねえ」

 

 蟹座の言葉に彼も外を見た。確かにまだ明るい。日のあるうちに酒盛りをしているなど、おそらく聖域の上層部は考えもしていないだろう。上層というなら、目の前のこの蟹座もその一員であるのだが。

 

「すぐに終わる用だったら、また戻ってくる」

 

「分かりました。早く戻ってきてくださいよ」

 

 一つ頷いてみせると、蟹座は酒場を出た。さすがに酒の匂いを撒き散らしながら聖域に顔を出すのは憚られるので、小宇宙を高めて酒気を払う。

 

 酒場から歓声が上がった。腕相撲の一勝負に決着が着いたようだ。少しだけ微笑み、彼は姿を消した。

 

          ◇

 

 聖衣を纏った蟹座は神妙な面持ちで教皇の間に入った。少し前まで酔って大騒ぎしていた名残はない。来る途中ですれ違った射手座が何かを言いたそうにしていたが、小言なら後で聞くことにしよう。

 

 彼は鮮やかにケープを翻し、膝を折った。

 

「我らが女神に初めて御意を得ます。蟹座のマニゴルド、お召しにより参上いたしました」

 

「面を上げよ」

 

 玉座の脇に佇む教皇から声がかかり、蟹座はゆっくりと顔を上げた。

 

 段上にいるのは教皇だけではなかった。聖闘士の仕えるべき至高の存在。戦神アテナ。人の肉体を持って生まれた女神が、純白の衣を纏ってそこにいた。

 

 玉座に在る女神と目を合わせ、蟹座は破顔した。

 

「よっ、お嬢ちゃん」

 

 流暢なギリシャ語から母語のイタリア語に切り替えた途端、彼の口調は馴れ馴れしくなった。今生のアテナであるサーシャは、少しだけ不満そうだった。

 

「あなた、知ってて声を掛けてきたのね。雑用なんて嘘吐いて」

 

「嘘じゃねえよ。そこのジジイの雑用係だ、俺は」

 

「じゃあもしかして、セージが私を連れ戻すために、あなたを森に来させたの?」

 

「こら、秘密にしとけって言っただろ。なに喋ってんだよ」

 

「言葉遣いを改めよ、マニゴルド。不敬であろう」と見かねた教皇セージが咎めた。

 

「はっ、アテナ様のご尊顔を拝することのできた喜びの余り、謹みが欠けておりました。ご無礼の段、お許し下さい。先ほどお目に掛かったのは偶然、私には僥倖でございました。で、我がことを女神のお耳に入れたのはそこのジジイでございますか?」

 

 なおも無礼な態度に、教皇は溜息を噛み殺して沈黙を保った。咎められてもなお蟹座がそうするのは、幼い女神のためであることは明らかだった。その証拠にサーシャの表情が柔らかくなる。

 

「勉強に戻ったときにデナに聞いたの。そしたらあなたの名前が出てきたの。私の前に唯一教えたことのある男の子。あなたの言ってたお爺さんもセージのことみたいだし、私たち、同じ先生に教わってるきょうだい弟子ね」

 

 シジフォスあたりに聞かれたら嫉妬されそうだ、とマニゴルドは内心で肝を冷やす。しかしこの無邪気な発見には、教皇から「かように不出来な者を御身と並べるなど、滅相もない」と否定が入った。そうなればマニゴルドから言うべきことはない。

 

「それで? 呼び出したのは俺の立場を確かめるためか。知らん顔して声を掛けたことに文句の一つでも言おうってなら謝るよ」

 

「違うわ」

 

 サーシャは玉座の隅に置いていた紙袋を膝の上に乗せた。先ほどマニゴルドが渡した菓子の袋だ。

 

「これはシチリアのお菓子だと教皇から聞きました。お仕事、じゃなかった、任務ご苦労でした」

 

 精一杯の威厳を示そうとする少女に微笑ましいものを覚えながら、蟹座は頭を垂れた。

 

「女神より直々のお言葉を賜り、恐悦至極に存じます。これを伝え聞きましたなら、我が部下も喜ぶことでしょう」

 

「本当に?」

 

「マジマジ。嘘言ってどうすんですか。皆、女神に会いたがってるんですから」

 

 とん、と床に降り立つ音がした。少女は階段を下りてきて、跪く蟹座の前にしゃがんだ。

 

「それじゃ皆に伝えて。私、立派な女神になるからもう少し待っててって」

 

「御心のままに、アテナ」

 

 マニゴルドは囁いた。「また任務に出たら土産買ってきてやるよ」

 

 少女は嬉しそうに頷いた。

 

 サーシャが戦女神として覚醒するのは、それからまもなくのことである。その時に起きた騒動について、手引きしたのではないかと疑われ、マニゴルドが痛くもない腹を探られるのは、また別の話。

 

 

 

余話「少女と悪党」(了)

 

 

 



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余話「夏の若者たち」

 当代の獅子座の黄金聖闘士は名をレグルスという。

 

 父イリアスの遺した聖衣と共に聖域に入った少年は、在任する黄金位の中で最も若い。

 

 彼は今、処女宮で隣人と対面していた。正確に言えば、瞑想中の乙女座を正面からまじまじと見つめていた。

 

「ねえねえ」

 

 いくら話しかけても相手は微動だにしない。目を閉じた面を僅かに俯かせ、足を組んで床に座している姿は石像のようだ。

 

「なんで無視するんだよ。寝てるの?」

 

 目の前の床に寝転がって下から覗き込んでみても、相手は一向に反応しない。亡父に似た雰囲気を彼の佇まいに感じて、暇のある時に話をしてみたいと思っていた。しかし相手がこの様子では、話どころか存在を認めてもらうことから始めることになりそうだ。

 

「何してんだおまえ」

 

 教皇宮からの戻りか、蟹座の黄金聖闘士が通りかかった。瞑想している処女宮の主の髪を若獅子が引っ張っているのを見て、素通りできずに立ち止まる。

 

 レグルスは口を尖らせた。

 

「だってこの人が俺のこと無視するからさ。どこまでもつかなと思って」

 

「止めろ止めろ、そんな子供っぽい気の引き方。おまえがやったら髪の毛引っこ抜けるだろうが。第一、そいつは無視してるわけじゃねえよ」

 

 首を傾げる彼に、蟹座は言う。

 

「今この男の魂は冥界にいる。おまえは主のいない留守宅の前で大騒ぎしているんだよ。大人しく家主が帰ってくるのを待ってろ」

 

「そんなことなんで分かるんだよ」

 

「見りゃ分かる」

 

 冷徹なほどの素っ気なさで答えると、男は出口のほうへ去っていった。

 

 見れば分かる。

 

 それは、何事もよく見ろと、亡父から言われ続けてきた早熟の天才に火を付けた。レグルスは他人の技を見ることで我がものとしてきた。見るのは大得意だ。

 

 乙女座を見た。じっと目を凝らした。しかしどれほど見つめても何も分からないまま時間だけが過ぎていった。

 

 どれほど経ったのか、不意に石像が口を開いた。

 

「きみはそこで何を得ようとしているのかね」

 

「わ、喋った」

 

 石像もとい乙女座は呆れたらしく、わずかに眉根を寄せた。レグルスはようやく話ができると思い、詰め寄った。

 

「あんたは今まで何してたんだ。ずっと瞑想してたってことでいいの? それとも寝てた?」

 

「その問いには沈黙をもって応えよう」

 

「冥界?」

 

 盲目である彼の意識がこちらを向いたのを、獅子座は確かに感じた。そこで隣人の蟹座から「見れば分かる」と言われたことを伝えた。ああ、と乙女座は納得したようだった。

 

「確かに彼ならば」

 

「分かるの?」

 

「さて。彼が『見れば分かる』と言うことと、実際に分かるかどうかは別物だ。どちらにせよ彼が何を見たのかは君には分かるまい。君は彼の目を持っていないのだから。同じことは私にも言える。私には彼が何を見たのかを正しく理解することはできないから、君の問いに是と答える気にならない。故に君にできるのは、彼の言葉を信じるか否かだけだ」

 

「……分からない……」

 

 こうした問答に慣れていない少年は意気消沈して退散した。

 

          ◇

 

 獅子宮に戻ってからレグルスは考えた。

 

 瞑想中に乙女座が魂を飛ばしていることを、蟹座は「見りゃ分かる」のだという。レグルスには一向に見えてこないし、乙女座は答をはぐらかすばかりだ(というより彼にも理解できる言葉で説明してくれない)。

 

 そこでレグルスは見る対象を変えることにした。幸い、蟹座とも十二宮の隣同士である。観察はしやすい。

 

 男の一日の行動を見る。朝起きて、気怠そうに出仕をし、定められた儀式を終えてまた億劫そうに十二宮を下りてくる姿を。彼の目が何を捉えているのか。彼に見えて己に見えないものなど、あるはずがない。見る。食事をする姿を。適当に訓練中の後輩たちを冷やかし、陰で指導役の聖闘士を夜遊びに誘うところを。洒落た私服に着替えて遊びに出かける様子を。彼の行動を邪魔しない所から、じっくりと見る。

 

 その眼は獲物を狙う肉食獣のものだった。

 

          ◇

 

「保護者出てこい!」

 

 青筋を立てて巨蟹宮の守護者は人馬宮へ怒鳴り込んできた。脇にはレグルス少年を抱えている。こんな大きな荷物を持って獅子宮からはるばる階段を上ってきたのだろうか。そう思って射手座の守護者が尋ねると、なんと聖域の外からだという。

 

「最近ずうっと付け回されて気が変になりそうだ。挙げ句の果てに娼館まで付いて来やがって、俺の楽しみを邪魔する気か、それとも相伴に与りたいのかって聞いてみりゃ『見てるだけ』だと? 何の嫌がらせだ。こいつに俺の行動を監視させて、おまえはどうしようってんだ」

 

「待て。何か誤解があるようだが」

 

「うるせえ。引き取れ!」

 

 押しつけられた弟子を、射手座は見下ろした。少年は何も悪いことはしていないという自信を持って師を見返した。

 

「レグルス、おまえはずっとこの男を見ていたのか?」

 

「うん。ずっと見てた」

 

 見る怪物とでも呼ぶべきこの少年にずっと粘着されていたならば、さぞや薄気味悪い思いをしただろう。私生活の素行がどうあれ、同情に値する。彼は被害者に深々と謝った。

 

「済まなかった。こいつにはよっく言い聞かせておくから」

 

「おう。詫びは要らねえから小遣いくれよ」

 

「ははは、射手座の矢で足りるか?」

 

「ははは」

 

「ははははは」

 

 男が再び夜の街に繰り出しに行くのを見送り、射手座は弟子に向かい合った。事と次第によって叱らねばならない。

 

          ◇

 

 乙女座は辺《ほとり》に佇んでいた。

 

 彼が立つのは冥界と地上の狭間。亡者が身を投げる大穴の淵だ。この世界で動くのは、穴を目指してくる亡者と、揺れる鬼火と、彼のような異界の訪問者だけだ。

 

 この穴の先に待つ世界を彼は知っているし、生者の身でありながら時折訪れることもある。しかし今はこの場所に留まっていた。

 

 やがて一人の男が現れた。

 

 穴を挟んで対岸に立つ男は黄金の気配を漂わせている。それを認識した乙女座は僅かに微笑む。初めて会った時を思い出した。

 

 男は、亡者たちが自分の左右から穴へ落ちていくのには目もくれずに、彼のほうを真っ直ぐに見ている。見られている事を乙女座も感じる。二人はしばらく無言で対峙した。生でもなく死でもない、薄闇の岸辺で。

 

 先に言葉を発したのは乙女座だった。

 

「レグルスの目に閉口させられているようだね」

 

 普通ならば声の届かない距離にいる二人だが、彼らの間で距離はそれほど深い意味を持たない。手を伸ばせば届く所にいるのと変わりない調子で話しかけた。

 

「その件は片付いた」

 

 男の声には、やや苦笑が混じっている。

 

「おまえが余計なことを唆したんじゃねえだろうな」

 

「責任転嫁をするな。きみが不用意なことを口にするからだ。見れば分かる、などと」

 

「事実だ」

 

「では大きさも重さも手触りも同じ二冊の書物があるとして、私がその二冊の違いが分からないと嘆いたら、やはりきみは『見れば分かる』と言うのかね」

 

 盲目の乙女座に問われて、男は答に窮する。

 

「まあ私は気にしないがね。目が開いていても何も見えていない愚か者が多い世の中だ。しかもそういう輩に限って己だけはしっかり世間を見ていると思い込んでいる。目明きのめくらというやつだな」

 

「よく喋るな、おまえ」

 

 空気が揺れた。男が穴の縁に沿って歩いている。亡者とは異なる気配がゆっくりと動いていく。

 

 ヴィジュニャプティ・マートラタ、と乙女座は呟いた。

 

「あ? なに?」

 

「一切の存在は己の認識によって作り出されるという唯識論のことだよ。見れば分かる。つまり、見ることができない者には永遠に分からない。若獅子にきみが与えた言葉を、私なりに彼に説明してやったのだが、理解してもらえなかった」

 

「そりゃはなから無理な話だ。あいつはこの世界を知らない。俺やおまえとは違う」

 

 男の足音が近づいてきた。

 

「あいつは『見る』ことに執着する。そうすることで他者を理解できると考えている。……まあ、世間的には間違いじゃねえだろうが。それがあいつの執着の真ん中だ」

 

「アートマ・グラーハ。我執か」

 

 乙女座の言葉に男が明るい声を上げる。「それそれ。自分と他人が違うことから来る苦しみってやつ」

 

「それできみは、その我執の鎖から若獅子を解放してやろうとしたのかね?」

 

「そんなおこがましいことは考えてねえよ。煩悩そのものの俺がやることじゃねえ」

 

 言い訳がましい言葉を受けて、乙女座は静かに微笑む。男は、地位に比して野卑だというもっぱらの評判らしい。実際、評判に違わない振る舞いが目立つが、他者の評判に無頓着な者にはどうでもいいことだ。

 

「煩悩は否定すべきものではないのだよ」

 

「へえ、そうかい」

 

「面倒見の良いきみのことだ。さぞや懐かれていることだろう」

 

「そりゃ考え違いだぜ。あいつはおまえのことが気になってるみたいだ。たまには相手してやれよ。お隣さんだろ」

 

「面倒事はご免被る」

 

 ざりり、音を立てて男は足を止めた。乙女座の横で穴の縁を眺めやっている。

 

 仏教における六つの根本煩悩。

 

 すなわち、貪欲、瞋恚、愚癡、驕慢、疑、悪見。

 

 見とは探求心や考え方に関わる煩悩のことである。若い獅子座はこの悪見の煩悩にとりつかれている、と乙女座はみている。そして己もまた。

 

「ところで私に何か用かね」

 

「いい加減肉体に戻って教皇宮に来い。招集が掛かってる」

 

「断る。顔を出しても私には利がない」

 

「おまえね」

 

「私が求めているのは理だ」

 

 男は呆れたようだった。溜息が聞こえた。

 

「……ここは何も育たない不毛の通過点だ。一人で考えても諦は得られないぜ。おまえが求める理とやらがどの諦なのか知らねえが、俺の縄張りにいられると、そうそう見ないふりで放っておくこともできねえ。よそ行ってやってくれ」

 

「私の求めるのはもちろんパラマールタ・サティヤだ」

 

 ――パラマールタ・サティヤ。究極の世界の理。真諦。

 

 男はふん、と鼻で笑った。「犬に食わせろ、そんなもん」

 

 乙女座がゆっくりと振り返った先で、声が嗤う。

 

「聖戦が始まるぜ」

 

 のんびり理を探してる暇はないと男は冷笑して、消えた。

 

          ◇

 

 処女宮の肉体に戻ったアスミタは眉をしかめた。

 

 髪を思いきり引っ張られている。

 

「止さないか」

 

「あ、起きた」

 

 レグルスは悪気のない様子で、アスミタの髪を手放した。

 

「あのさ、アスミタは寝てて知らないかもしれないけど――」

 

「招集が掛かったことならば知っている」

 

と彼が答えると、レグルスは驚いたようだった。

 

「俺がずっと声掛けてたのを聞いてたの? 寝たふりしてた?」

 

「きみの声はあいにく届かなかったが、話は蟹座から聞いた」

 

「え?」

 

 アスミタは立ち上がり、戸惑う若者を振り返った。

 

「聖戦の幕開け。黄金は教皇宮に集うと彼から聞いた」

 

 行こうか、と彼はレグルスを促した。

 

 長い階段を上りながら、若い獅子座は乙女座の顔を窺った。閉ざされている目によらずして、アスミタはその視線を正確に感じ取る。

 

「なにかね」

 

「招集がかかってすぐに俺は獅子宮から上がってきたんだ。それでずっとアスミタを起こしてたんだけど、あいつはその間にさっさと処女宮を通り抜けて、先に行っちゃった。こっちを見向きもしなかった。二人とも小宇宙を燃やしてなかったから念話もできないだろうし、いつ話したんだよ?」

 

「聞けば理解できるのかね」

 

 アスミタを地上に呼び戻しに来た男は、今頃教皇宮で他の僚友と談笑でもしているだろう。生者の世界で二人が言葉を交わすことはなかった。二人の共通点はただ一つ。生きながらにして生死の境を越えられるということ。

 

 生者の知らない世界を知っている二人は、そこで見たものを黙して語らない。言葉を尽くしても、見たことがないものを真に理解することは難しいからだ。

 

 レグルスは口を引き結んだ。

 

 おや、とアスミタは思った。好奇心の赴くままに問いをぶつけてくると予想していたのに、少年はそれを堪えている。

 

「シジフォスに言われたんだ」

 

と少年は自分に言い聞かせるように言った。

 

「俺があいつと同じものを見ることはできないって。いくら目を凝らしても見えないものもあるんだって。世界が違うんだって。同じように俺とアスミタの世界も違う。でも、アスミタたちの世界は、一部だけ重なるところがあるのかもしれないって、シジフォスは言ってた。それがあいつの言う『見れば分かる』ってことだったら、俺にはいくら頑張っても真似できないことだから」

 

 乙女座は沈黙する。天賦の才に恵まれた者ならば、生死の境をも飛び越えられる日が来るかもしれないが――今ではない。

 

「私がいい例だが、目に頼らずに分かることもある。ただあるがままを感じればいい」

 

 一拍置いて、「そうだね」と返ってきた。

 

「やっぱりあんたは俺の父さんに似てるな」

 

「父君?」

 

「うん。だから話がしたかったんだ」

 

 六つしか歳の離れていない相手からの思わぬ告白に、アスミタは珍しく動揺した。どこからか冷やかすような笑い声が聞こえた気がして、彼は上方の教皇宮に顔を向けた。

 

 苛酷な戦いが始まるというのに、静かな日だった。

 

 

 

 余話「夏の若者たち」(了)

 

 

 



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