ヒストリアの兄でございます (宇宙最強)
しおりを挟む

プロローグ01

なんとなくもう一度書こうと思った。


 ——姉さんが死んだ。

 

 そう少年が気付いたのは、己の眼前に姉らしき死体が目に映った時だった。

 鼻腔にくすぐる腐乱臭がとても不快な気持ちにさせる。

 青白い地下空間には、似つかわしくない真紅の液体が飛び散り凝固していた。

 辺りを見渡せば、姉さんの兄弟たちが醜い死体となって転がっている。

 殺された、姉さんは殺された。何度も頭の中で呟いては心に沈めていく。

 あの笑顔を見ることはもう叶わない。

 あの声を聞くことはもう叶わない。

 あの手を握ることはもう叶わない。

 そう考えるだけで、少年の心は凍てついたように固まった。

 これからどうやって生きていこう。

 答えなんて見えない真っ暗闇に落とされて、少年は己のあり方すらも見えなくなった。

 気持ちの悪い味が口の中で広がり、そして無意識にえずきそうになる。

 ——ああ、これが絶望か。

 少年がそう吐露すれば、自然と納得した。

 この世界は美しくもあり、だが時として残酷なものである、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 845年

 ウォール・シーナ北部の牧場にて——

 

 

「お兄ちゃん、おはよ!」

 

 朝一番、いつもその声で少年は目を覚ます。重い瞼を開けてみれば、そこには見慣れた妹の顔が鎮座していた。少女は少年の眠そうな顔を眺めると、くすりと可愛らしく微笑んだ。誰が見ても見惚れてしまうような可愛らしい笑顔である。だが少年はそんな少女の顔を見て、少しだけ眉間に縦皺を畳んだ。

 

「また勝手に入ってきたのか、ヒストリア」

 

 少女——ヒストリア・レイスは決まって夜中に少年の布団へと潜り込む癖があった。

 最初は何かと理由をつけて同衾を強請っていたのだが、今では黙って入り込んでいる。年頃の娘とまではいかないものの、それなりに性について知るべき年齢である妹に、兄として少年はどう言うべきなのかを決めあぐねていた。

 少年は妹が苦手なのである。別に嫌いというわけではないが、接していると何処かむず痒い気持ちになってしまった。

 それ故に少年は妹に対し雑な態度をとる。

 

「いい加減、一人で寝れるようになれよ」

「えー、だって一人で寝るの寂しいんだもん」

 

 しゅん、と萎れるヒストリア。

 少年もそうであるが、ヒストリアも愛を知らずに育った子供だ。夜中になると、その喪失感がより一層大きくなるのだろうことは少年も理解できた。

 

「はぁ……姉さんが聞いたら呆れるな」

「そんなことでお姉ちゃんは呆れないよ」

「どうだか」

 

 強く言い返す気にもなれない少年が、後頭部を掻いてそう言った。

 ——全くもってやり辛い。

 いつも妹が萎れると、少年は途端に言葉の出し方を忘れてしまう。こういうところが少年は苦手だった。

 少年とヒストリアが気まずげにベッドで座っていると、突然、腹の虫が鳴いた。

 

「あっ」

 

 出処はヒストリアらしい。恥ずかしそうにお腹の部分を抑え、頬を朱色に染めている。

 毎日毎日、牧場の仕事をさせられているのだから、朝は腹が減って仕方ない。そういう少年だって小腹が空いた感覚に襲われていた。

 

「朝飯作るか」

 

 少年がボソリと独り言のように言った。

 決して妹のために作ろうと思ったわけではない、とここに明記しておく。

 

「手伝おうか?」

「いや、いい。この前みたいにシチュー焦がすかもしれないし」

 

 妹の尋ねにそう返せば、少女は不機嫌そうに頬を膨らませ「今度はうまくやるもん」と言う。

 別に少年からしてみれば、ヒストリアが朝食作りに失敗しようがどうだっていいことだ。食べられれば味などどうだっていいとすら思っている。

 けれど、ヒストリアの実の祖父母だけはそうは思わないだろう。彼女らはヒストリアという存在自体を、目の上の瘤として扱っている。少年とは違い、ヒストリアは本当の孫娘だというのに随分とひどい待遇だ。きっと、ヒストリアがまずい飯を作れば、それだけで老夫婦の目は冷めたものになるに違いない。少年にとってそれは、あまり快いものではなかった。

 

「お兄ちゃん?」

 

 ヒストリアは金髪を垂らしながら小首を傾げた。少年が黙り込んだせいだろう。くりっと見開かられた大きな瞳に己の姿が映り込む。

 少年は出てき始めた太陽を透かし見ながら、なんでもないとだけ告げた。

 

 

 

 

 

 

 少年たちの1日は書き起こしてみると実に慌ただしい。朝に朝食作りと飼付、昼までに納屋と古屋の清掃か放牧と調教訓練、午後は馬体の手入れと飼付を再び行う。基本的にはこれが全てであるが、時期によって業務量も異なる。特に夏場の草地管理なんかは仕事の手間が増えて地獄だ。家業を主だってしているのが老父婦ということもあり、重労働は基本的に少年が行なっている。そんな大人でもハードに感じる仕事だが、少年とその妹は何食わない顔で進めていた。

 

「馬に飲ませる水はこれくらいでいいか」

「うん! それで十分だよ」

 

 水の入っている木桶を眺めたヒストリア。それを腰に力を入れて持ち上げると、えっちらほっちらと馬のところに持っていく。少年はそんな妹の後ろ姿を眺めながら、新しく手元に用意した木桶に水を汲んだ。

 ——本当は俺の方が水を持ち運びした方がいいんだろうな。

 ふと、少年は考える。妹が全身の筋肉を使ってようやく持ち上げられる木桶。どう考えたって、筋肉量が多い少年が馬のところまで持ち運んだ方がいい。

 だが、それができない理由というのもある。

 少年はどういう訳か動物に好かれない体質をしていた。例えそれが犬であろうと、猫であろうと、馬だろうと関係ない。馬は彼を見れば嘶きと前掻きを始め、犬と猫が少年を視界に入れれば一目散に逃げ去ってしまう。その体質故に少年は牧場の家業のうち、ほとんど裏方仕事しか出来ないのだった。

 

「お兄ちゃーん! 少し水多めにしてー! 日差しが強いせいか、みんな思ったより飲むみたーい!」

 

 厩舎で給水していたヒストリアがいつもと違うことに気が付いたらしい。少年はその言葉を受けて、素直に水の量を増やそうとする。

 と言っても、少年は先ほどもヒストリアが持てる量のギリギリを攻めていた。そのため、水の入った木桶を荷車に乗せて運びやすいように工夫してやった。

 

「あっ、わざわざ荷車用意してくれたの?」

「運べないだろうからな」

「ふーん……」

 

 一回目の水やりを終えたヒストリアが兄の様子を見て目を丸くした。いつも少年はぶっきらぼうのため、ここまで気の利いたことをするとは思わなかったのだろう。

 驚きも僅か、すぐに「ありがとう」と笑顔の花を咲かせたヒストリアは、鼻歌まじりにそれを押して厩舎へと戻っていった。

 

「おい、あれ見てみろよ」

 

 遠くの方からその声が聞こえた。少年はそれに対し面倒臭そうな表情を浮かべて、視線を柵の外へと放り投げる。視線の先には案の定、この村に住んでいる同年代の男の子三人組であった。

 

「やーい、虚仮(こけ)! いつもの婢女(はしため)娘はどこにいったんだよ!」

 

 虚仮——というのは少年のことを指した蔑称である。

 なぜそう呼ばれているのかは、少年本人ですら分かっていない。ただ、婢女娘という言葉が何故ヒストリアに指されているのかは知っていた。

 

「懲りずにまた来たのか」

 

 少年は柵の外で騒ぐ三人組に向かって告げる。

 この場は無視することが正しいのだろうが、放っておけば目障りになるため仕方なしの対応だった。彼ら3人組は、この歳特有の蛮勇さだけを一丁前に持ち合わせているのだ。

 

「うっ、お前には用ねーし」

「さっき俺のことを呼んだだろ。それともあいつに会いにきたのか?」

「ちげーよ!!」

 

 3人組のうちの一人が、慌てた様子で柵に乗り上がって言った。

 小さいながらも彼の右拳が硬く握りしめられている。このまま引くわけにもいかないのだろうと少年は悟った。彼の沽券に関わる的な意味で。何故、先ほどの問いかけでそこまで熱くなるのか分からないが、とりあえず少年はいつ喧嘩が始まってもいいように拳だけは握っておく。

 

「かかってくるなら早めに来てくれ。俺も暇じゃないんだ」

 

 ちらっと後ろを横目で見れば厩舎がある。そこそこの量の木桶を運んでいたことだし、ヒストリアは当分出てこないだろう。つまり自分が次の仕事に移るのには少しだけ余裕があるということ。

 だからと言って、時間をかけ過ぎれば家業の手伝いが疎かになってしまうのも事実。少年からしてみれば、彼らに時間を1分でも割くほうが無駄なことなのだと内心思った。

 

「く、クソッタレがああああああああ!」

 

 少年に走りかかったのは、3人組のうち柵に乗り上がっていた男の子だけだった。どうやら他の二人は前回少年にやられたのを体が覚えているらしい。一人だけ立ち向かった男の子は、そんなこと気にもせず柵を飛び越え少年に襲いかかる。だが、少年はそれをいとも容易く躱すと、男の子の頬へ見事に拳を突き刺した。

 

「ぶフゥ!」

 

 豚の鳴き声かと勘違いするような声を漏らす男の子。

 少年はそれを呆れた目で見下ろしながら、優しく手を差し出す。普通こんな対応する必要ないのだが、大好きな姉から喧嘩した後はこうしろと言われていた。

 少年にとって姉の教えは神の教えと同等の価値を持っている。姉が言うのなら間違いはない。そう思えるほど、少年は姉へと心酔していた。

 

「立てるか?」

「う、うるせぇ! いっつも人を馬鹿にしやがって!」

 

 少年の態度が気に食わなかったらしい男の子は、差し出された手を払い除けた。

 これも毎度のこと。だから少年も男の子の態度には何も感じない。

 

「次は負けねぇ……」

 

 ぎりっ、とした目で男の子が少年を睨み立ち上がる。アホらしいと思いながらも、少年は何も言わずにいた。

 

「お兄ちゃん?」

 

 すると、厩舎からヒストリアが出てきた。

 さっきから男の子が大声をあげていたせいだろう。外の喧騒に気付いたヒストリアは、何事かと心配して顔を出したに違いなかった。

 

「なに、してるの?」

 

 敵を見るような目で、ヒストリアは牧場に入ってきていた男の子を睨んだ。少女からすれば彼ら3人組は石を投げ打ってくる野蛮人である。

 そんな危険な男の子が牧場に入ってきている。ヒストリアの心情は決して穏やかじゃないであろうことは少年も理解できた。

 

「早く帰れ。俺たちはまだ仕事があるから」

 

 少年は男の子の背中を押して、そう言った。

 別に少年だって好きで暴力を振るいたい人間じゃない。さっさと相手が帰ってくれるなら、話し合いで事を済ませたいと考えている。

 

「う、うるせー! お前に言われなくてもな、こんなドブ臭い場所なんていられるか!」

 

 三流以下の捨て台詞を吐きながら去っていく男の子。あんなことを言っておきながら、次の日になればケロッとした態度で喧嘩を売りに来るのだ。

 自分たちのことが嫌いなのか好きなのか、分かったものじゃない。

 少年は少しだけ、あの意味のわからない男の子へと笑みを溢す。

 

「お兄ちゃん、どうして笑ってるの?」

 

 ヒストリアはそんな少年を見て、怪訝そうな声を出した。

 

「さあ、俺も知らん。ただ少し可笑しいと思っただけだ」

「可笑しい?」

「ああ。あいつは意味が分からなくて可笑しい」

 

 それだけ言って厩舎に戻ろうとする少年だったが、ふとある人物が目に付いた。

 

「姉さん!」

 

 喜色に満ちた声が少年から出る。彼からこうした声が出るのは、姉が目の前にいる時だけであろう。

 ヒストリアはそれを知っているせいか、隣で「むぅ〜」と唸り声をあげていた。

 だが、そんなことなど少年からしてみればどうでもいい。牧場に近づいてくる姉へと近づいた少年は手を振りながら声をあげる。

 

「おーい、今日は来ないんじゃなかったのー!?」

 

 麦わら帽子を被った姉は、そんな少年に気がついたのか手を振り返し、

 

「ちょっと時間が出来たから寄りに来たのよ!」

 

 と声を上げた。

 そして、そのまま駆け出し少年とヒストリアの力一杯に抱きしめる。いつも彼女がやっている行為だった。

 

「あー、会いたかったよ二人とも」

 

 姉——フリーダ・レイスは今日も快活な笑顔を浮かべてそう言った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

プロローグ02

「ごめんねー、この後用事があるからね。今日はここまで」

 

 フリーダがそう言って絵本を閉じた。少年はそれを名残惜しそうに感じながらも素直に頷く。

 いつもフリーダは何かしら忙しそうな女性だった。そのため少年たちと毎日会うことはできない。それだけ忙しい身分なのだから、今日は会えただけでも良かったと思うべきだろう。

 

「姉さん、次はいつ来れるの?」

「んー、あなた達が良い子にしてたらすぐにお話しできるよ」

 

 少年の問いに少し悩んだ素振りで返すフリーダ。

 これはいつも交わしているやり取りだ。姉はこう言いながらも、そこそこの頻度で会いに来てくれると少年は知っている。

 

「お姉ちゃんもう帰っちゃうの」

「ヒストリアごめんねー。次は違う絵本を持ってくるから許して」

 

 そして妹に甘いのもいつも通りだ。

 上目遣いでフリーダを見つめるヒストリアを、彼女はそっと抱きしめた。

 

「じゃあ、約束! 次は王子様が出てくるのが良い!」

「分かったわ。ヒストリアのご希望に沿う絵本を見繕ってくるわね」

 

 フリーダはそう言いながら、横目で少年を見る。

 

「あなたも何か希望ある?」

 

 ニコニコとした笑顔でそう言うものだから、少年は少しだけ考えた。

 

「特にないかな。姉さんが聞かせてくれるものなら何でも良いよ」

 

 だが、特に思い浮かばなかった少年の答えは実に無欲なものだった。

 これは少年が絵本というものの良し悪しをあまり測れないからだ。物語というのは、どれも読み手に刺激を与えるようにできている。少年からしてみれば、どれも絵本の中は新鮮で躍動感溢れるものばかり。

 感情に乏しいわけではなく、外の世界を知らないからこそ何でも面白いと思える。それが少年という人間だった。

 

「じゃあ、次はヒストリアのお願いを全面的に考えた絵本にしよっか。そうだなー、毒林檎を食べさせられた女の子の話とか良いかも」

「何それ! 私それが聞きたい! 絶対それがいい!」

「うん、良いよ。それにしよう」

 

 ヒストリアとフリーダが笑い合うと、少年も頷いた。

 

「よし、次の予定も決めたし私は行くわね。二人とも、大好きよ」

 

 最後に少年たちの頬へキスをしたフリーダ。そのまま立ち上がり、お尻に付いた土や草を払う。

 少年とヒストリアもそれに合わせて立ち上がり、柵の所まで見送った。

 

「バイバーイ!」

「またねー!」

 

 それぞれが別れの挨拶をすれば、幸せの時間も終わりを告げる。

 少年はフリーダの後ろ姿が見えなくなるまで手を振り続け、ようやく姿形が消えてから手を下ろした。

 

「仕事に戻ろう、お兄ちゃん」

「……」

 

 ヒストリアは兄の手を取り、幸せそうな顔で微笑んだ。だけど、少年は姉がいる方向をじっと見つめたまま動こうとは思えない。

 彼にとって色のある人生とは、姉がいる世界で生きているということと同義である。決して妹と家業の手伝いをすることが彼の幸福などではなかった。だからこそ、少年は誰よりも感傷に浸ってしまう。さっきまでの幸せな時間を隣にいる妹よりも噛み締めてしまう。それがまるで彼の全てであるかのように。

 

「……こんな生活、いつまで続くんだろうな」

 

 気がつけば少年の口から言葉がこぼれ落ちていた。

 愛もない人間たちのために家業を手伝い、柵の外にも碌に出られない生活。こんな形で生まれ落ちなければ、もっと自由に姉のところへ駆けていけたのだろうか。

 そう思えば悔しくて堪らなかった。自由がない生活に歯痒さを感じてしまう。食って寝るだけの生活になんの意味があるというのか。家畜同然の生き方をさせられて嬉しいと思えるはずもない。

 

「お兄ちゃん…」

 

 少年の顔を見たヒストリアも気分が沈んだような表情を浮かべた。

 

「……すまん、益体もない会話をした。仕事に戻ろう」

「……うん」

 

 ヒストリアに手を繋がれた少年は踵を返す。

 これからの人生など彼には全く想像もできない。一生ここで働いて、自由の無い生活に勤しまなければいけないのか。それとも、何かしらの転機が訪れて姉と自由に過ごせる人生へと変わるのか。

 今この時、その答えを知る者は一人しかいない。

 

 

 

 

 

 

 日も落ちた時間帯。少年はいそいそと餌付けのための飼料作りをしていた。馬体の手入れも、餌付もできない少年からしてみれば、この時間はこれくらいのことしか出来ないのである。そのため、ヒストリアは一人で馬体の手入れを行っていた。動物たちと触れ合う時間を大切にしている妹からしてみれば、今は至福のひと時であろう。動物たちから好かれたことのない少年からしてみれば、その気持ちは理解できないが。

 

「そろそろ終わりか」

 

 飼料作りをしている少年に、嗄れた声が投げかけられた。

 建物の入り口部分へと目を走らせれば、そこにはヒストリアの祖父が立っていた。

 

「はい。あと少しで終わります」

「そうか」

 

 仕事のことに関して以外、会話を交わさない歪な関係性。

 少年からしてみても、彼とは血の繋がりもないため別にどうでも良いことだった。老人もそれは同じらしく、少年の態度に感情の起伏を見せたりはしない。近くにあったバケツを手に取った老人はそのまま建物から出て行こうとし、

 

「そうだ。西側の柵に綻びがある。少し直しておいてくれ」

「分かりました」

「……頼んだぞ」

 

 それで要件は全て済んだらしく、老人は今度こそ建物から出て行った。

 少年はそんな老人の後ろ姿をなんの感情も映らない瞳で見送る。決して、姉と別れた時のような感情の色は見せない。

 そのまま飼料作りを再開させた少年は、ものの数十分でそれを終わらせると工具を持って、西側の柵へと足を運ばせた。

 今日中にやれとは言われていないけれど、明日になったら忘れている可能性があるからだ。

 暗がりの中、どこが綻んでいるのか探すのは大変である。とりあえず、一本ずつ触って確かめながら少年は探すことにした。

 

「これか」

 

 10本目あたりに差し掛かった頃、それは見つかった。

 確かに木杭が緩んでいるのと、板材がいくらか剥げ落ちている。この近辺で野獣といったものは出ないため、何者かにやられたか、自然と朽ちてしまったのか。

 板材を手に取って見てみれば、理由は後者であることが分かった。雨のせいで腐食が進んでいたのだろう。西側は馬を放牧するエリアのため、発見が遅れてしまったのだと思った。

 

「念の為、板を持ってきておいて良かった」

 

 少年は手持ちの工具と板材を地面に置き、さっさと修繕作業に入ろうとした。手先が器用な彼は、こういった事をするのが得意だったりする。暗闇の中であろうと、少年であれば一寸違わない位置に釘を打ち込むことができるだろう。

 だがその前に、まずは板材を貼り付けるための木杭をしっかり固定させなければいけない。そのため少年は、木杭を打ち直すのに必要な石が近くに落ちて無いか探すのから始めた。

 ——やはり無い、か。

 少年は心の中でそう呟く。

 馬の放牧エリアであるため、木杭を打ち直せるだけの大きい石は落ちていないらしい。

 

「外に出れば……」

 

 少年はそう言って柵の外側を見つめる。時間は夜のため一寸先は闇しかない。

 ——外に出る。

 その行為は生まれてこの方、少年がやったことが無いことだった。

 一度ヒストリアが外に出ようとした際、姉が見たことのない形相で怒ったことがある。それ以降、少年は姉の傷ついた表情を見るのが嫌で、自分から外に出るのを禁じていた。

 だけど、今日改めて感じた気持ちが少年の中で渦巻いた。このままで本当にいいのかと。柵に囚われたまま、会いたい姉と自由に会えない生活でいいのかと。

 そう考えれば考えるほど、彼の足は自然と前に進む。喉の渇きを忘れるかのように、額には脂汗が滲んで止まらなかった。

 

「出、た」

 

 気がつけば、少年の右足が柵の外に着地していた。すとん、と体の中で何かが軽くなったのが分かる。さっきまで姉に対する罪悪感で溢れていた心も、一気に開放感となって霧散した。

 ——自分は外に出られる。——自分は自由の身になれる。

 そんな成功体験とも言えない小さな経験が、彼の全てを軽やかにした。

 

「っ、石を探そう」

 

 我に返った少年が慌てた様子で左足も外に出す。もう彼を縛るものは何一つとして存在しない。今ならばこのまま何処にでも行ける気さえした。

 そんな気分の高揚が、少年の行動をおかしくさせてしまう。ちょっと外に出て石を探すつもりだった少年を、少しずつ外へ外へと出させたのだ。気がつけば、見たこともない村の道中に彼は立っていた。

 

「……やらかしたな」

 

 冷や水を頭に掛けられた思いで少年は呟く。

 今頃、兄の帰還が遅いのに気がついたヒストリアあたりが騒いでるかもしれない。そうなれば、この出来事は姉の耳に入り、彼女を悲しませてしまうのだろう。

『んー、あなた達が良い子にしてたら、すぐにお話しできるよ』

 その強迫観念とも呼べる言葉が、今頃ナイフとなって少年の心に突き刺さった。もう姉と会えないかもしれない。少年からしてみればそれは最悪のシナリオである。

 しかし、その時だった。少年の耳に村の喧騒が聞こえてきたのだ。

 

「おい、聞いたか! ウォール・ローゼの壁が破壊されたらしいぞ!」

「私はウォール・マリアまでしか陥落してないって聞いたわよ!?」

「嘘だろ!? 巨人は壁をどうにかできるほど力が無いんじゃなかったのか!?」

「もしかして、ここまで巨人が来るのか!?」

「嫌、それは無いはずだ! 王政だって何かしらの方策を決めているはず……!」

「うるさい、うるさい、うるさい! どうせどれもデマだよ。信じてるあんたらは馬鹿じゃ無いのか!」

 

 壁が破壊された。

 それは大抵の常識を姉から教えてもらっていた少年でも分かるほど、人類の危機であった。現在、人類は外敵である巨人により活動領域が大幅に制限されている。その内三分の一を取り囲っていたのがウォール・マリアと呼ばれる壁だ。

 もし、最初の男が言っていたようにウォール・ローゼまで破壊されていたら……。

 姉が昔言っていたような事に……。

 

「っ、姉さんはこの事を知っているのか!?」

 

 今日は用事ある日だと言っていた。用事の種類にもよるが、もしかしたら情報の伝達が遅い状況下にいるかもしれない。となれば、姉たちに壁が破壊された情報が伝達されていない可能性があった。

 今こうしている時も、もしかしたらウォール・シーナが陥落するかもしれない。もうこの壁の中は安全とは言えない可能性だってあるのだ。そう考えれば、いち早くここから逃げるための準備なり、戦うための準備なりをしなくてはいけない。

 

「姉さん!」

 

 少年はさっきまでの罪悪感や絶望感など殴り捨てて走った。

 姉がいつも来るのは牧場から決まって北の方向からである。さらに言えば、その方向に向かってヒストリアの母も仕事に出かける。これらの情報を照らし合わせれば、その方角に姉の生家——つまりレイス家の邸宅があるはずだった。

 だが、それだけで姉の今いる場所などは分からない。

 少年は騒いでいた村人の一人に飛び付く。

 

「ヒィ、だ、誰!?」

「おい! レイス卿の邸宅は何処にある!?」

「急に何を言って——」

「さっさと答えろ! こっちは切羽詰まってるんだよっ!!!」

 

 少年の気迫に押されたのか、村人は怯えながらも一本の指をある方向へと差した。

 

「こ、こっち側の入り口を出て、そのまま整備された道を行けば、つ、つく」

「本当か!?」

「ここで嘘なんかつくもんか!」

 

 なんとも大雑把な道順だが、それだけでも少年は十分だと判断した。

 

「おい、小僧。レイス卿になんの用事かは知らないが、今あの人らは礼拝堂にいるって聞くぜ」

「ああ、村々に近づかないよう言ってたしな」

「……礼拝堂?」

 

 だが、新たな情報が舞い込んできた。

 村々に言っていたと言うのなら、その信憑性は高いと言えるだろう。となれば、姉がいるのはレイス邸宅ではなく礼拝堂という事になる。

 飛びついていた村人をきっと睨めば、さっきと同じ方向を指で指し示した。

 

「礼拝堂はレイス邸の途中にある! さっきと同じ道順だ!」

 

 半分やけが混じったような怒鳴り声が村に響いた。

 少年は「ありがとう」とだけ言い残し、村人から体を離すと、そのまま勢いよく駆け出す。離された村人はそれを呆然とした表情で見つめた。

 

「なんだったんだ、あれ」

「知らないのかお前。アイツだよ、アイツ。牧場の……」

「あぁ、あの黒い噂を聞く兄妹か……なんでそんな奴がレイス卿に」

 

 少年が最後までその会話を聞いていたら、きっと少しは怒りを露わにしだろう。まぁ、それでも少年は姉の身を案じ、徹頭徹尾あいてにはしなかっただろうが。

 少年は今まで出したことのない速度で礼拝堂へと繋がるだろう道を駆けていく。耳は風切り音だけが轟き、拍動は次第に激しくなっていった。

 ただそんな状況下でも、少年の頭に浮かぶのはたった一人の姉の笑顔である。例え見たこともない巨人が攻めてこようと、少年はその小さな身一つで抗い続けるだろう。彼にとっての全てとは、フリーダ・レイスだけなのだから。




今更ですけど、アニメ勢のかたには馬鹿みたいにネタバレあるかも
アニメがどこまで進んでるか分からないから、なんとも言えませんが。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

プロローグ03

30巻のネタバレあり
アニメ勢は要注意


 礼拝堂に向かっていた少年の目に、一つの教会のようなものが見えた。絵本で見たことがある。たったそれだけのことなのに、どこか確信めいたものが少年の中で広がった。

 勢いよくその中に飛び込めば、中には誰もいなかった。それどころ明かりすらも点いていない。もしかしたら礼拝堂ではないのか、それとも違う礼拝堂が存在するのか。外を出たことのなかった弊害が、今にして少年に襲いかかる。

 

「くそっ! 巨人が壁を壊してるかもしれないっていうのに!」

 

 ドン、とあまりのイラつきで少年は床を強く踏みつけてしまった。姉を連れ出したい気持ちが前に出過ぎて、冷静さを欠いてしまっている。

 だが、それが功を奏したと言えるだろう。

 少年が床を踏みしだいた瞬間、一部の床が妙に盛り上がったのだ。

 

「これ、は」

 

 少年が近づいて見てみれば、それは隠し扉のようだった。

 もしかしたら、中にまだ姉さんがいるかもしれない。

 その希望に縋るように少年は恐る恐る扉を開ける。すると、そこは薄暗い地下に繋がっているわけではなく、その逆、妙に明るい洞穴のような場所へと繋がっていた。

 少年はその洞穴らしき場所へと、懐疑心を抱きながら入る。こんなところに姉がいるのかは分からないが、彼の直感とも言える本能はここへ入れと言っていた。だから、少年はそれに突き動かされるように奥へと足を進める。

 

「なに、してるの?」

 

 その時、ふと声が聞こえた。とても耳触りの良い声だった。

 少年は喜色に塗れた顔を浮かべ、その声の主人である一人の少女へと駆ける。

 ずっと会いたかった。今日あの時だけじゃ我慢でいないくらい、ずっと。こうして柵の外で、誰にも縛られず、最愛である姉に少年は会いたかった。

 

「姉さん!」

 

 気がつけば感情の抑制が効かず、少年はそう叫んでいた。さっきまで走っていた疲れなど一切感じない。ただ、この時のために自分は生きてきたのだと彼自身が実感できた。それだけで十分だった。

 だけど……

 

「……なんで外に出たの?」

「え?」

「……ダメでしょ、外に出ちゃ?」

「だって、巨人が」

 

 

「柵の外に出るなって言ったでしょ!!!?」

 

 

 それは今まで見たことのない鬼気迫る表情だった。瞳孔は開き、髪が振り乱れている。彼女の家族も、そんなフリーダを見たことがなかったのか目を見張っていた。父親らしき人物に至っては、少年の登場とフリーダの凶変に言葉が出ない様子である。

 少年はそんな状況下にも関わらず、姉に怒られたという気持ちだけが占有していた。さっきまでの意気揚々とした気持ちなど微塵もない。姉に嫌われたかもしれない。もう姉と会えないかもしれない。そんな憶測ばかりが彼の頭に先行した。

 

「私たちは罪人なの! 自由を求めちゃいけないの! ここが、ここで楽園を作らなきゃ、戦っちゃダメなのよ! ねえ、分かるでしょ!?」

 

 肩を抱かれ、姉に至近距離から怒鳴られ続けた。いつもなら嬉しいその接近も、今の少年にとっては地獄でしかない。己のことをまるで敵視するかのような姉の表情を、少年は好きだとは言えなかった。

 けれど、それもずっとは続かない。

 次第に姉の声は小さく萎んでいき、果てにはひどく落ち込んだ様子で膝を折った。目線の高さを少年に合わせてフリーダは言う。

 

「お願いだから、外に出ようなんて思わないで……あなたのことを嫌いになりたくないの」

 

 それはどういう了見で述べられたお願いだったのか。少年のちっぽけな頭でいくら考えても答えは出そうになかった。

 ただ、姉の言うことを聞かなければならない。少年にとって姉に直接言われたことは神の教えのように響くのだから。これから先、自分にどれだけの不自由さが纏わりつこうと、少年はその教えを破ろうとは思わないだろう。姉が生きている限り、姉のために生きたいと少年は願うのだから。彼女の全てを肯定し、彼女の全てを愛することが少年にとっての全てなのだから。

 

「ごめん、姉さん……」

 

 少年はただそう目を伏せて謝ることしかできなかった。

 

「君は……」

 

 後ろから少年を見ている男が言った。

 先ほど、フリーダの父親と思わしき人物だと推察した男だ。

 少年はそちらを一瞥し、ヒストリアの父親でもあるだろう男をその目に焼きつけた。

 

「そうか……、こんなに大きくなっていたのか。どこかあいつの面影がある」

 

 男は寂しげに笑うと、少年に歩み寄り頭を撫でた。

 

「さあ、もう帰りたまえ。娘の言う通り、君たちは柵の外に出てはいけない」

 

 男の言う「君たち」とは、きっとヒストリアを含んでいるのだろう。

 少年はそれを察して頷いた。

 

「すみません……ですが、最後に知らせなければいけないことがあります」

 

 うずくまった姉と、話の理解が追いついていない家族、そして目の前に立つ男が少年を怪訝そうな目で見つめる。いきなり祈りの邪魔をして、知らせたいことがあると言われても困るのだろう。それは姉に怒鳴られた少年が一番理解している。でも、これを伝えるためにここまで走ってきたのだ。確かに、自分が外に出た時の言い訳として来たのもあるが、本当の目的は姉に危険を知らせることである。それをおざなりにしてしまっては、元も子もない。

 

「巨人がウォール・マリアを破ったそうです。噂ではウォール・ローゼも突破されたかもしれないって」

 

 声を僅かに震わせながら言う少年に、フリーダは顔を上げた。

 

「知ってるわ……だから私たちはここで祈りを捧げてるの。私たちは罪から逃れられないから」

「罪?」

 

 少年が姉の言葉に疑問を持ったが、フリーダはかぶりを振って少年の目を見据える。

 

「さあ……もう出ていきなさい。ここは私と私の家族が祈りを捧げる場所。あなたが来るところじゃないの」

 

 そう言う彼女の手は僅かに震えている。

 少年はそれに気付き、自身が改めて姉を傷つけてしまったことを深く反省した。あの時、石を探しに外へ出なければ……。いや、不自由な生活を手狭だと感じ自由さえ追い求めなければ、姉があんな顔をしなくて済んだかもしれないと思う。

 だけど、そんなことはもう変えることのできない現実だ。少年が行ったものを今更どうやっても消すことはできない。今日以降、姉が自分たちに会いに来なくなったとしても、それは文句が言えるものではなかった。

 とぼとぼ、と少年は出口を目指し歩く。古びた扉を開けようとすれば、誰かが少年に向かって扉を開け放ったのが分かった。間一髪のところでそれを避け、少年は自分と代わって洞穴へ入ってきた男の後ろ姿を見る。男は扉に隠れた少年の姿を認知していないのか、そのまま姉たちがいる方向へと歩いていった。

 

「あの人も姉さんの本当の家族なのかな……」

 

 やるせない気持ちになりながら、少年はそう呟いてしまった。

 だって自分は姉と本当の家族じゃないのだから。きっと、あの場にいた親や兄妹たちが彼女にとって一番大切なものなのだろう。

 そう考えるだけで身が焼けるような思いだった。思考はフリーズし、手足は動かなくなった。

 ——少しばかり、姉の家族たちを見よう。

 ようやく動き出した頭で少年がそう考えたと同時、今まで感じたことのない熱風と衝撃が少年の体を襲った。

 

 

 

 

 

 

「フリーダ、どうして」

 

 父親であるロッドが、フリーダにそう問いかけた。きっとあの子を何故そのまま帰したのかという意味だろう。ここの場所を知られてしまった以上、あの子を無事帰還させるわけにはいかないのだとロッドは考えているのだ。

 けれど、フリーダからしてみれば、あの子に危害を加えるなんてことやろうとは思えなかった。あの子にはきつい言葉を与えてしまったが、それもこれも全てはあの子の身を案じての発言である。フリーダにとって確かに親や兄妹は掛け替えのない宝であるが、それと同時にヒストリアやあの子も、フリーダにとっては失いたくないものなのであった。

 気がつけば、フリーダの目頭には自然と雫が溜まっていた。それは少年に向けた「私の家族」という言葉に、あの子への拒絶が入っていたからだった。

 

「お父さん、私……またあの子たちと」

 

 その願いは、滅びを受け入れた王家の人間として、あるまじき答えなのかもしれない。人として非人道的な優しさなのかもしれない。

 エルディア人が滅びない限り、世界の怒りを鎮めることはできないだろう。それこそ、落胤が一人でも残っていれば、そこから巨人は生まれ出てくる。

 だけどフリーダは、今滅ぼされようとしているこの一瞬を後悔しそうになっていた。

 あの子が生まれてから、ずっと面倒を見てきたせいというのもある。今ではあの子に母性すら感じてしまっていた。だが、あの子だけじゃない。ヒストリアもこの領地に住む人々、兄弟であるディルク、エーベル、フロリアン、ウルクリンに自分の両親……全員が彼女にとって大切な家族だ。そんな彼ら彼女らが外の攻撃によって無作為に殺されていく。考えただけでも頭が沸騰しそうになる。

 しかしその度に、フリーダの中に眠る「不戦の契り」が彼女の思考を覚ますのだ。

 ——争ってはいけない、抗ってはいけない、戦ってはいけないと。だってそうすれば、これ以上自分たちが壁の外の人類を殺すこともない。死ぬのは、罪深い自分たちエルディア人だけで済むのだからと。

 何度も何度も、優しい声で心に語りかけてくる。それは最早、猛獣を縛る鎖のように体へ纏わりつき、身動きを取れないようにしてしまう絶対的な拘束であった。

 そんな時である。

 かつんかつん、と靴底を鳴らし歩いて来たのは一人の男だった。

 

「私は壁の外から来たエルディア人。あなた方と同じユミルの民です」

 

 フリーダはその男に対しとてつもない不信感を覚えた。

 

 

 

 

 

 

「つまり未来を見ることが可能なのだ」

 

 壁の外から来たエルディア人の男は、自分の中に宿る巨人の能力をそう告げた。フリーダはそれを黙したまま聞くことしか出来なかった。始祖の巨人の力は、完全に彼女のものとなったわけではない。そのため、男の言葉を確かめる術は持ち合わせていないのである。

 

「進撃の巨人の特性? そんな話は……」

「あなたがそれを知らないことも知っている……。『不戦の契り』で始祖の力を完全に扱えないのは、王家と言えどあなたも同じ」

 

 フリーダは思わずそこで絶句した。

 始祖の力が王家にしか使えないのは勿論だが、それを知ってなお、何故この力を狙うのか分からないからだ。

 未来を覗き見えると言ったこの男。始祖の力を奪い、その後どうするのかも彼は知っているということなのだろう。だが、不戦の契りは王家全員に発動する。誰に始祖の力を譲われたところで、この力を十全に扱える人間などいないはずだ。

 そう、ある人物を除いて……。

 

「あなたの狙いは本当にこの力だけですか……?」

「違う、私の狙いはもう一つある」

「もう一つ?」

「そうだ。私はここで王家の血を絶やす……そういう未来だと決まっている」

 

 男がそう言って持っていたナイフを自身に突き立てようとする。

 ——巨人化するための自傷。

 フリーダは咄嗟にそう判断し、家族を後ろの方へと追いやった。男の言うことが本当なのであれば、王家と言うだけで家族は殺される。

 この男の思想は危険だとフリーダは判断した。エルディア人の滅びを世界が望むと言うのであれば、彼女もそれを甘んじて受け入れたであろう。けれど、男の狙いは未知数だ。エルディア人の滅びを素直に受け入れるような人間には見えない。始祖の力を使い、エルディア復権のために力を行使しようと目論む可能性だってある。

 どのような方法で始祖の力を行使するのか不明だが、楽観視していいことではないと覚悟を決める。また壁の外の命が脅かされると言うのであれば、全力で男と戦わなければならない。それはフリーダや初代壁の王が望むところではないのだから。

 だが、男の手からは自傷用のメスがこぼれ落ちた。

 

「できない……私に子供を殺すなど……」

 

 男も男で葛藤しているようだった。

 子供を殺す。それはきっと後ろにいる妹や弟のことを言っているのだろう。もしかしたら、既にあの子やヒストリアのことを知っているのかもしれない。

 どれもこれも憶測でしかないが、とりあえず男は思いとどまったようだった。

 家族はそれでも警戒を続け、フリーダに殺すよう懇願するが、フリーダにそのつもりはない。相手が争ってこないのであれば、彼女としても力に訴えるつもりはなかった。

 

「思いとどまってくれたようで感謝します。ですが、最後に聞かせてください。あなたはどのようにして始祖の力を使うつもりだったのか」

 

 フリーダの問いかけに、男はわなわなと面を上げる。

 

「分からない、私は全てを見せてもらったわけじゃないんだ……。ただ、前まで見えていたものが不鮮明になりつつある……何か恐ろしいことが起こっている……」

 

 男がそう言うと、再びこぼしたメスを手に取った。

 

「だから、そうだ……もう分からないから……私は歩みを止めてはいけないんだ……。妹のため……みんなのために」

「何を言って」

 

 フリーダがそう言うと、男は歯を食いしばったまま己の右手にメスを突き刺す。深々と刺さったそれは、手の甲を貫通し、そこから鮮血を吹き出した。

 

「すまない、フリーダ……俺はもう止まれないんだ」

 

 男の安らかな顔。

 フリーダはそれを見て、男との衝突が避けられないことを察した。

 

「う”あ”ああああああああああああっ!!」

 

 手を噛みちぎり、フリーダも巨人化する準備を整えた。

 お互いがお互いに譲れないものがある。二人は睨み合ったまま、自身らに宿る巨人の力を発動させた。

 片や恰幅のいい無精髭の巨人。片や艶やかな長髪をした女型の巨人。

 常軌を逸した熱量が辺りを包み込み、熱風が吹き荒んだ。

 

 

 

 

 

 

 ——なんだ、あれは。

 熱風で押し飛ばされた少年は内心でそう吐露した。

 真っ白い蒸気から、突如見たこともない巨人が飛び出してきたのだ。

 本当にあんなものがこの世に存在していたのか。

 姉の口から幾度となく巨人については聞き及んでいたが、それでも初めて目の当たりにした少年は呆然とする他なかった。

 だが、それも束の間。我に返った少年は姉がまだ洞穴の中にいるのだと再認識する。つまり、あの二体の巨人の足元に姉がいる可能性があるのだ。

 そう気がついた少年の行動は早かった。すぐに自身に乗せられた瓦礫を退けようと力を込める。だが、びくともしない。子供という基準で考えれば、かなり力持ちである少年ですら、瓦礫を退けるまでに至らなかった。

 

「くそっ、くそっ、なんでこんな時にっ!!!」

 

 大きく自身を拘束している木材を殴りつける。時間をかければ、小さな隙間を利用してこの中から出ることもできるだろう。けれど、今出なければ姉を救うことはできない。その焦りだけが少年の中で降り積もった。

 そんな時である。少年の前方からヒストリアやフリーダの父親が、気も狂わんばかりに走ってきた。

 

「はぁ、はぁ、誰か……誰か助けてくれ……!」

「ぐっ」

 

 少年の存在に気がついていないのか、男はそう叫びながら瓦礫の上を這いずってあがっていく。その際、瓦礫が少年の脇腹をさらに圧迫し、思わず汚いうめき声が口から飛び出てしまった。

 ロッドに自分の存在を気づかせようとしていた少年にとって、最大のチャンスをそこで失ったのだ。

 それを憎たらしいと思いながらも、ロッドが逃げて来れたということは他の人たちも逃げてくるだろうと少年は考えた。

 けれど、その考えは甘かったと痛感させられる。前方を見てみれば、そこには男の巨人が女の巨人に跨り、何度も殴りつけている光景が広がっていた。周りにはロッドと違い、無惨な死体となって放置されている姉の家族たちがいた。

 

「まさ、か……」

 

 考えたくもない事実だ。

 姉の家族は先ほど逃げてきたロッド以外の全員が死滅し、姉はその中にいない。

 人間が巨人になれるなんて少年は終ぞ聞いたことがなかった。あの博識な姉ですら、少年にそのようなことを教えてくれなかったのだから。

 だが、現状考えられることはそれしかない。二体の巨人と、その周りに群がる死体たち。自分とすれ違いざまに入ってきた男が、馬乗りになっている無精髭の巨人で、馬乗りにされているのが自身の最愛である人……。

 

「そんなわけない、そんなわけない、そん、なはず……」

 

 息をするのすら億劫なほどの痛みを伴いながら、少年は何度も呟いた。

 なまじ目が良い少年は、女の巨人がどのように甚振られているのかが分かる。顔の肉が削ぎ落ちてしまうほど、男の巨人の拳は何度も女の巨人へと突き刺さっていた。

 ぐったりとした女の巨人は、最後の抵抗と言わんばかりに、そのなよなよしい動作で手をあげる。が、それも男の巨人によって呆気なくもぎ取られた。

 ——仕上げだ。

 少年がなぜそう感じたのかは分からない。しかしそれと同時、男の巨人は女の巨人のうなじに齧り付いた。そしてそのまま、女の巨人を首元から噛みちぎると、男の巨人は盛大に吠えたのだ。まるで獣の雄叫びのように。高らかに、喉を打ち震わせながら。

 

「あ、あぁ……」

 

 少年の視界はぼやけ、やがて口からは水分が失われていく。

 頭部を乱雑に捨てられた女の巨人を見てみれば、最後に彼女と目があったような気がした。ろくに動かないはずの唇を上下させ、何かを訴えているように錯覚して見えた。

 だが、男の巨人はそんなことにも気が付かない。ゆったりとした動作で立ち上がった化け物は、そのまま瓦礫で動けない少年を無視し、外へと飛び出していった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

プロローグ04




 これはとある男の視点である。

 

 その日、一人の男が狂乱していた。

 目頭には涙を浮かべ、身振り手振りで何かを喚いていた。

 男の声は終始荒げており、嗚咽が混じっているせいか言葉はよく聞き取れなかった。

 分かることと言えば、何か懇願しているような雰囲気が伝わるということぐらいだった。

 

 一人の女がそんな男を諭すように、ゆったりとした口調で丁寧に語りかけていた。

 慎重に、男の感情を読み解くように言葉を選んでいるようだった。

 そんな女の後ろには家族がいた。

 子供から大人まで幅広い年齢層の男女が、諭す女の背後で怯え切った目をしていた。

 

 女に諭されたせいか、取り乱していた男は絶望していた。

 膝をつき、首を垂れ、醜く地面に伏せていた。

 よく見てみれば、男の手には小さなメスのようなものが握られていた。

 もしかしたら、あれで女を殺すつもりだったのかもしれない。

 

 女はそんな男を憐むように見下ろした。

 彼女の家族は男を侮蔑するような目をしながら罵っているようだった。

 まさに阿鼻叫喚という言葉が似合う光景。

 これ以上の地獄絵図は存在しないのではないかと思えるほどだった。

 

 絶望していた男が、突然、顔をあげた。

 先ほどまで憔悴しきった表情は見る影もなく、代わりに何かに堪えるよう歯を強く食いしばっていた。

 男は握ったナイフを力強く握りしめ、そのまま己の右手を貫く——。

 

 次の瞬間、光が破裂した。

 蒸気が辺りに満たされ、熱量を帯びた風が吹き荒ぶ。

 普通の人間が至近距離で浴びれば、間違いなく大火傷を負ってしまいそうなほど高熱な暴風だった。

 

 煙の中から二体の怪物が顔を出した。

 一人は黒い髪に黒い髭、中年の男性を模したような体。

 もう一人はふっくらした胸に髪の長い女のような巨体だった。

 

 男性の怪物は最初に、女が守ろうとしていた家族を見た。

 家族は自分らが標的にされていることを察し、必死に何か喚いていた。

 しかし、二人の人間は呆気なく踏み潰された。

 頭の骨や、体の骨は砕かれており、柔い内臓などは薄っぺらに広げられていた。

 さらに、二人の人間は容易く叩き潰された。

 腕や足が反対方向に曲がり、口から内臓が飛び出している人がいた。

 最後の一人はくしゃりと握り潰されていた。

 口からはドロドロの血を流し、白い歯が真っ赤に染まっていた。

 肢体の節々からは、何か見てはいけないものが飛び出していた。

 気がつけば周りには死体が溢れていた。

 

 女の巨人は激昂した。

 最初に家族を襲われたことが我慢ならなかった。

 だが、男性の巨人はそれを一笑に付すと、そのまま女の巨体を投げ倒し、頸を食らった。

 肉と骨が噛みちぎられる音。

 そんな不快音が轟き、女の巨人は首元から胴体と別れを告げさせられるのであった。

 

 

 

 

 

 

 数日に渡って少年は、瓦礫から抜け出すことに成功していた。最後に男の巨人が飛び出した際、その衝撃でいくらか瓦礫の隙間が大きくなったおかげだった。

 少年は覚束ない足取りで姉であるフリーダを探した。最後に見たのは、蒸気が辺りを支配する前までだ。蒸気が晴れてからは、フリーダの姿を見ていない。つまり、あの男の巨人に殺される瞬間は見ていないと言う事になる。

 だが、頭の中では理解できていた。あの女の巨人が姉であろうことは。人が巨人になるなんて終ぞ聞いたことがなかったが、それでも目の前の現実は受け止めなくてはならない。そう、現実は受け止めなくてはならないのだ。

 

 ——姉さんが死んだ。

 

 鼻腔にくすぐる腐乱臭がとても不快な気持ちにさせる。青白い地下空間には、似つかわしくない真紅の液体が飛び散り凝固していた。辺りを見渡せば、姉さんの兄弟たちが醜い死体となって転がっている。

 殺された、姉さんは殺された。何度も頭の中で呟いては心に沈めていく。

 あの笑顔を見ることはもう叶わない。

 あの声を聞くことはもう叶わない。

 あの手を握ることはもう叶わない。

 そう考えるだけで、少年の心は凍てついたように固まった。

 これからどうやって生きていこう。

 答えなんて見えない真っ暗闇に落とされて、少年は己のあり方すらも見えなくなった。気持ちの悪い味が口の中で広がり、そして無意識にえずきそうになる。

 ——ああ、これが絶望か。

 少年がそう吐露すれば、自然と納得した。この世界は美しくもあり、だが時として残酷なものである、と。

 

「なん、で……なんで俺を殺さなかった……!」

 

 ふつふつと湧き上がる怒りに歯を食いしばりながら、女の巨人があった場所で蹲る。

 あの時、本当に死ぬべきだったのは姉ではなく自分のはずだ。最後の最後で姉を怒らせてしまった。敵意を向けるような姉の瞳。あれが姉との最後の会話になってしまった。柵を出てはいけない罪人。それが自分自身だと少年は思っている。

 誰にも優しく、領民からも好かれていた姉。

 物知りで、困った時は優しく撫でてくれた姉。

 物心ついた時から姉にはよく世話になった。遊び相手になったこともあるし、文字の読み書きも教えてくれた。

 

 それなのに——その姉がどうなったかを少年は最後まで見ていた。

 

 なんの恨みがあってやったのかなんて知らない。あの男にどんな事情があるのかなど興味もない。

 ただ姉がいなくなった深い絶望感だけが少年を襲った。最後まで見えていたはずなのに、何も出来なかった自分に深く絶望した。

 ——ああ、もうどうでもいい。こんな世界、どうだっていい。

 少年の心にぽっかりと空いた穴。無気力な彼の頭に今までの思い出が蘇る。

 楽しかった。どれも楽しい日々が続いていた。

 姉と、ヒストリアと、自分が牧場で過ごしている。それだけが彼の癒しだった。

 

「ヒス、トリア……」

 

 なぜか分からないが、少年の口からはたった一人の妹の名が紡がれていた。牧場で自分の帰りを待っている妹の顔が、鮮烈に脳内で過った。

 

「……帰ろう」

 

 頭の中で煩雑に木霊する声が少年を突き動かす。ろくに力の入らない足腰で己を立たせれば、ふらつきながらもなんとか一歩を歩み出すことに成功した。

 もうここに居る意味はない。少年が求めていたものは、どこまで言っても一人の姉なのだ。

 だからこそ帰る。姉の記憶がまだ残るあの場所へ……姉の記憶がまだ残る妹の元へ。

 ここにはもう、自分の知る姉はいないのだから……。

 

 

 

 

 

 

「お兄ちゃん、なんで帰ってこないの……」

 

 ウォール・シーナの小さな牧場でヒストリアはそう呟いた。

 最愛の兄が姿を消してからもう数日が経つ。どこに行ってしまったのかは祖父母ですらも知らないらしかった。

 ただ、西側の柵を直そうとしていたのは確からしい。柵の近くには、いつも兄が愛用している工具箱が置かれていたからだ。祖父も兄に柵の修理を頼んでいたと、ヒストリアに教えてくれた。

 消えた兄のことを考えるだけで、ろくに食事が喉を通らない。口に物を入れてみても、どれも質素な味がするだけ。いつも兄が料理をしてくれていたことを考えれば、全ての食事に味がないように感じてしまうのは仕方がないことだった。

 そんなある日の晩、コンコンと玄関の扉がノックされる音がした。

 ヒストリアは兄が帰ってきたのだと喜び、急いで藁のベッドから跳ね起きると、そのまま玄関へと直行する。ふと、窓から見えた外の景色に馬車が止められているのが見えた。兄は馬車に乗って帰ってきたのだろうか。そんな風に考える。

 

「おかえりなさい、お兄ちゃん!!」

 

 扉を壊す勢いで開け放てば、そこに居たのは最愛の兄などではなかった。高貴な服装を見に纏い、短髪で切り揃えられた黒髪が深い闇を表した男。

 男は笑顔で飛び出てきたヒストリアの顔を見やり、帽子を取った。

 

「初めまして、ヒストリア。私はロッド・レイス……君の父親だ」

 

 その男性はこの土地の領主の名前を名乗った。横をみれば、数年振りに見る母親の姿もある。この男性が言っている「父親」という言葉は、本当のことなのだとヒストリアは確信した。

 けれど、今ではどうでもいい話だ。ヒストリアにとって母親は所詮、ただの生みの親でしかない。父親もまた、ただ産まれるために必要だった種馬と同義だ。ヒストリアにとって大切なのは、常に共に過ごしてきた兄であり、家族と言える存在は()()()()()()()()。今更、父親が現れたところで、兄を求めていた彼女は落胆しかできないのである。

 

「ヒストリア……これからは私と過ごそう」

 

 レイス卿はそう言ってヒストリアの手を握る。

 これから過ごす、と言うのはこの家から離れるということだろうか。そうなってしまっては、兄が帰ってくるのを待てなくなる。

 それ故に、少女は男の提案を強く拒絶した。

 

「すみません、私ここで待たなきゃいけないんです」

 

 ヒストリアの母親である女は、その言葉を聞いて目を見開く。

 

「何を言ってるのっ!? せっかく旦那様が一緒に暮らそうと言ってるのに、それを拒むんじゃないわよ!!」

 

 唾を飛ばしながら汚らしく喚く母親に、ヒストリアは何も言えなかった。

 これでも相手は産んでくれた母親だ。自分に愛情を教えてはくれなかったが、多少の恩義は感じている。

 だがそれでも、少女にとって兄という存在は非常に大きなモノだった。

 

「……どうして私たちと過ごせないんだい?」

 

 レイス卿は頭ごなしに否定してくる母親と違い、優しくヒストリアに語りかけた。

 ヒストリアはそんな優しげな男の瞳に、意を決したように口を開く。

 

「私がここを離れたらお兄ちゃんを待てないんです。だから、私はここに居ます。お兄ちゃんと離れたくありません」

「お兄ちゃん……か」

 

 ヒストリアの言葉を噛み締めるようにレイス卿は呟いた。

 そして少しの間、何か思い悩んだような表情を浮かべると、再度ヒストリアの手を取る。

 

「ヒストリア。君には悪いが、その兄はもういない。今頃、盗賊たちに殺されていることだろう」

「え?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ヒストリアは自身の足場が崩落したような気持ちになった。

 兄はもういない。兄は既に殺されている。

 そんなバカな話があるのかと少女は思った。兄はいつも3人組の男の子を蹴散らすだけの力を持っていた。妹である己を守ってくれる力を十分に備えていた。そんな兄が誰かに殺されるだなんて信じられない。いや、信じたくなどなかった。

 けれど、兄が数日間も帰ってきていないのは真実である。ウォール・マリアが陥落した日、その晩に兄の姿は忽然と消えたのだから。

 

「嘘、ですよね……お兄ちゃんが、いないなんて……」

「嘘じゃない。彼は数日前、私のところに訪れた折、不慮の事故が重なって殺された。死体は見ていないが、今もなお帰ってきてないところを見るに、そういうことだろう」

 

 淡々と告げる男の声が、ひどく気味が悪いものに感じる。

 ヒストリアは目頭に涙を溜めて、胸が強く締め付けられる感覚に苦しんだ。ずっと兄といたいと思っていた少女にとって、男の報せはまさに死刑宣告と変わり無い。

 立っていることすらできなくなったヒストリアは、その場で蹲ってしまう。足に力が入らず、呼吸すらままならない。拍動は強く打ち続け血の流れが加速する。全身は熱を帯びたような感覚に陥り、最終的には大して入っていない胃の中の物が逆流しそうになった。

 

「いや、お兄ちゃん、いや、いや、いやっ!!」

 

 頭を抱えて痛みに耐えるヒストリアを、男は可哀想な目で見つめた。少女にとってあの少年がどれだけ大きな存在だったのか、それを目の当たりにしてしまったからだ。

 だがそれでも、今はやるべきことがある。

 男は小さく丸まったヒストリアを抱えようと歩み寄り、そしてその足を止めた。

 

「誰だ?」

「困りますな、レイス卿。このようなマネはご容赦していただきたい。ウォール・マリアが破られたことで不安に襲われましたか」

「ヒィイぃぃ!!」

 

 いつの間にかヒストリアたち3人は大勢の大人に囲まれていた。その中でも、一人のリーダー格らしき中年の男は、ヒストリアの母親を後ろ手に拘束している。あまりの恐怖心に、母親である女性は、涙を流して歯を食いしばっていた。

 しかし、ヒストリアにとってはそんなこと些事でしかない。兄が死んだ世界で生きていこうとも思えない少女は、そんな阿鼻叫喚な状況下でも蹲ったまま動こうとはしなかった。

 

「レイス卿。一応聞きますがね、こいつらはあんたと何か関係があるので?」

 

 問われたロッドはそれに対し、目線を幾らか彷徨わせる。

 主に見えるのは、自身の壊れてしまった娘だった。ロッドからしてみれば、始祖の力を取り戻すためにも、王家の血族は必要不可欠である。その中、たった一人の娘となってしまったヒストリアを手放そうとは思えなかった。

 が、仕方ない。ここで全てを話してしまっても、結局は目の前にいる男に殺されるだけなのだから。ロッドは渋々とした様子で、男の問いかけに頷きで返した。

 

「ああ、この二人は私と何も関係ない」

「やはりそうでしたか」

 

 男はそう言うと、容赦無くヒストリアの母親の喉元にナイフを押し当てる。

 

「なに、なにを!? 話が違うではありませんか、旦那様!」

 

 そこでようやく、ヒストリアは自身の母が危険な立場であることを理解した。伏せていた顔を上に上げてみれば、そこには今にも殺されそうになっている母がいる。

 ヒストリアの母親は、自身の娘の姿を見るなり一筋の涙を流した。

 

「あんたさえ、あんたさえ産まなけ——」

 

 母親の命はそこで幕を落とした。

 その呆気ない終わり方に、ヒストリアは何も言えずにいる。兄もこんな風に殺されたのだろうか。この場に不釣り合いな考えだけが、少女の頭を過った。

 

「さて、次はお前だ」

 

 母を殺した男は血のついたナイフをヒストリアに向けた。

 このまま男に抗わなければ、きっと兄のところへ行けるのだろう。この世界は辛いことばかりだから、あの世では兄と今度こそ幸せに過ごしたい。二人で牧場を経営し、子供に恵まれて、笑い合いながら最後を共に過ごすのだ。

 そんな密かな願いを抱きながら、少女はそっと目を閉じる。

 が、そんな願いが叶うことは無かった。

 

「うおっ」

 

 母を殺した男が、そんな剽軽な声を漏らしたのである。何事かと思い、ヒストリアが閉じていた瞼を開ければ、そこには己が欲して止まなかった存在が、静かに立っていた。

 

「お兄、ちゃん……?」

 

 兄である。

 死んだと言われていた兄がいた。

 突然の少年の登場に、ヒストリアのみならず、その場にいる全員が驚きの声を漏らす。

 

「何しようとしてんだ、オッサン」

「あぁん? もしかしてお前……」

 

 男は訝しげな目線で少年を舐め回した後、何かを察したように突如笑い声をあげた。

 

「フハハハ!! こいつは傑作だ! お前があれか、ウーリの隠し子か!」

「ウーリ?」

 

 その言葉に眉を顰めたのは少年とロッドである。少年の出生については、ウーリとロッド以外は知らないため訝しんだのだろう。

 だが、そんなロッドの反応も男からすればどうでもいいことだった。

 

「いやぁ、近くで見ると似てる、似てるぜお前! こいつは面白いものを見せてもらった。俺はケニーってんだ。ウーリとは仲良くさせてもらってたぜぇ」

 

 少年の肩を手加減も知らず叩く男——ケニー。さっきまでの畏まった雰囲気など微塵もない、型破りな風貌だけが顕になっている。それ故に、見ている者は何処か気持ち悪さを感じずにはいられなかった。兄の後ろに隠れているヒストリアですら、何故か分からない恐怖に固唾を飲んでいる。

 

「——だがまぁ、悲しいことにお前とはここでお別れだな」

「っ」

 

 一頻り笑い終えた男が告げたその言葉。

 ナイフを目にも止まらぬ速さで少年の首元へと走らせる。

 けれど、それが届くことは無かった。少年は男の額を蹴り上げて、続け様にその足で首元へと強打を加えたからだ。まさか反撃すると思っていなかった中央憲兵は、唖然とした様子でそれらを見つめた。

 

「……痛ってぇな、おい。どチビの癖に動きが様になってんじゃねえか」

「なん——」

 

 ギロリ、と殺意の籠った目線が少年を貫く。

 華麗に全ての攻撃が入ったと思っていた少年は、男の威圧に押されて喉奥をキュッと締めた。

 

「こいつはちょっとだけ教えてやらねーとな。大人にはきちんと敬意を払ってよ」

 

 そこからは一方的な暴力だった。ケニーは少年の頭を鷲掴みにして、そのまま地面に叩きつける。後は馬乗りになって抵抗する少年の顔面へと、拳の雨を降らした。

 少年の口や鼻から血という血が噴き出る。唾液まじりに吐き出されたそれらを、ケニーはまるで汚物でも見るような目で見た。

 

「やめて、お兄ちゃんを殺さないで!!」

 

 そんな凄惨な場面に立ち会ってもなお、ヒストリアは足を動かした。大好きな兄を殺させないために、絶対に立ち向かってはいけない男に拳を振り上げた。そうすれば、ケニーは脊髄反射とも言えるスピードで、ヒストリアの頬へと拳を突き立てる。あまりの威力にヒストリアの矮躯は易々と後方へと吹っ飛んだ。

 

「邪魔だ」

 

 一言そう吐き捨てて、再度少年を殴り殺そうとする。

 だけれど、その拳は小さな手のひらによって止められた。

 

「……ろす」

「チッ。まだ止める元気があったのかよ。しぶてえな」

「……ころ、す」

「ああぁ? 聞こえねぇなー? なんだってー!?」

 

 そう言って彼は少年の口元へ耳をやる。

 挑発行為も兼ねての行動なのだろう。男の顔には余裕の二文字がありありと浮かび上がっていた。

 だが、その慢心がいけない。

 

「ぜったいに、ぶっころす——」

 

 少年がそう叫ぶと同時、彼の左手に握られた石がケニーの頭に叩きつけられた。こめかみ部分から血を垂らすケニー。それを無視して、少年は男の持っていたナイフを取りに腰部分へと手を掛ける。

 

「おっと、危ねえ危ねえ」

 

 間一髪のところで意識を回復させたケニーは、少年の動きに気付き直様後ろへと逃げた。今し方まで馬乗りで殴られていた少年に、男の動きへ追いつく体力は残っていない。再び距離が開けられたことで、少年の逆転はほぼ不可能と化した。ケニーもそれを理解しているのか、くつくつと笑っている。

 

「なるほどな。このどチビ、根性だけはある」

 

 ケニーが汚れた拳を真っ黒いコートで拭いながら、嬉しそうに言った。

 その言葉の裏に何が眠っているのかは分からない。殴り飛ばされたヒストリアは重い体を引きずって、倒れている兄へと覆い被さる。

 

「許してください、許してください、許してください……」

 

 見ていて痛ましいその光景に胸を痛めたのは誰だったのか。

 ロッドは二人の兄妹を見つめて、覚悟を決めたように中央憲兵を見た。

 

「この子達自身に罪はない。罪があるのは名前とこの土地に住んでいるからだ。……どうだろう、彼らに名を改めさせずっと遠くの土地で慎ましく生きてもらうというのは」

「……情でも移ったんですかい?」

「いや。そういうわけではない。ただ、私の兄であればこうすると思っただけだ」

 

 ロッドはそれだけを告げると、ヒストリアに近づいた。

 

「今日から君はクリスタ・レンズだ。ヒストリアという名前ではない、新しく生まれ変わる。君の兄も新しい名前を名乗るように言っておくんだ」

 

 そこからは目まぐるしい変化が、彼らを枚挙に暇がなく襲った。

 ロッドは馬車に乗り邸宅へと帰り、ボロ雑巾のようになった少年と、それを抱きしめるクリスタは中央憲兵に連れられて開拓地へと送られたのだ。開拓地へと放り出される際、少年はあのケニーという男と何事かを話していたが、その内容をクリスタが知ることはなかった。

 数日経って、少年がまともに歩けるようになった頃、少年は突然クリスタにこう告げた。

「俺たちの姉さんが死んだ」と。

 だけど、クリスタはその言葉の意味が理解できなかった。自分の家族は愛情を与えてくれない祖父母と母、そして目の前にいる兄だけである。少女は生まれてこの方一度も、姉と思える存在に出会したことなどなかった。

 だから、クリスタは兄にこう返す。

「何を言っているのお兄ちゃん。私たちにお姉さんはいないよ」と。

 それを聞いた少年の顔を、クリスタは一生忘れることができなかった。




あと一話でプロローグが終わりです。
次回は少年視点のこのお話。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

プロローグ05

プロローグはこれで終わりですね


 少年はどういう道のりで牧場に戻ったのか分からなかった。ただ気がつけば、目の前には見慣れた家屋や厩舎があるということ。それともう一つ、こちらは見慣れない人間たちが、何かを取り囲んでいるのが見えた。

 

「さて、次はお前だ」

 

 血塗られたナイフを片手に、中年の男がそう呟いた。

 少年が人垣から覗き見れば、男の目の前には蹲って固まっている妹が見える。多分、このまま放置すれば妹はあの男に殺されるのだろう。柔らかい彼女の柔肌が、鋭い刃物によって切り裂かれる未来が易々と想像できた。

 ここで助けるべきなのか、と少年は一瞬だけ逡巡する。

 妹のことは別に好きでも嫌いでもない。ただなんとなく苦手には感じている。

 そんな妹が抵抗もせず殺されそうになっているのを見て、少年は自身の身の振り方を悩んだのだ。

 だが、そこで頭の中で響くものがあった。それは姉と一緒に微笑んでいるヒストリアの笑顔である。

 ここで妹を見殺しにすることは容易いことだ。踵を返し、何事もなかったかのように振る舞えばいい。だけど、それをしてしまえば姉の残り香が消えてしまう。姉の居場所が消えてしまうような気がした。

 だから少年は駆ける。姉との思い出を減らされたくないと、そう思ったから。

 

「うおっ」

 

 男が、突如飛び出してきた少年を見て驚きの声を上げた。

 

「お兄、ちゃん……?」

 

 横目でヒストリアを見れば、彼女は兄を見て瞠目している。数日間、姿を消していた少年に心底驚いているのだろう。もしかしたら、彼女は少年のことを死んだ人間と思っていたのかもしれない。

 

「何しようとしてんだ、オッサン」

 

 声を一気に低めた少年が、眼前に佇む男へと問いかけた。

 姉が死んだ今、わずかに残る残影こそが少年にとっての光である。その残影は、姉と共に過ごしたこの牧場であり、姉と一緒に過ごしたヒストリアのことだ。これらを無くされてしまっては、少年が再び立ち上がることなど出来ないように思えた。

 

「あぁん? もしかしてお前……」

 

 そんな少年の気持ちなど知ってか知らずか、男は半目になってその姿を見た。

 すると、

 

「フハハハ!! こいつは傑作だ! お前があれか、ウーリの隠し子か!」

「ウーリ?」

 

 その言葉に眉を顰めたのは少年とロッドである。

 少年にとっても「ウーリ」という人物に聞き覚えはない。隠し子、という言葉から察するに、自身の親の名前なのだろうとは察しがついた。

 けれど、少年は自分の出生について何一つと知らないのである。いつ、どこで、誰から生まれたのか。また、なんでこんな牧場で預けられているのか。それらについてはあの姉ですら教えてくれなかったし、当然、男の後ろで倒れているヒストリアの母親も、「知らない」の一点張りであった。

 そんな重要機密じみた事を、なぜこの男が知っているのか。

 少年は警戒レベルを引き上げながら、男を訝しげに睨む。

 

「いやぁ、近くで見ると似てる、似てるぜお前! こいつは面白いものを見せてもらった。俺はケニーってんだ。ウーリとは仲良くさせてもらってたぜぇ」

 

 少年の肩を手加減も知らず叩く男——ケニー。

 どうやらケニーは少年の親と面識があったそうだ。多分、少年についてもウーリと呼ばれる人物から聞き及んでいたであろうことが分かる。

 

「——だがまぁ、悲しいことにお前とはここでお別れだな」

「っ」

 

 一頻り笑い終えた男が告げたその言葉。瞬間、少年の背筋に悪寒が走る。ケニーが持っていたナイフが、目にも止まらぬ速さで少年の首元へと駆けたのだ。

 咄嗟に少年は男の額を蹴り上げる。意識を刈り取るつもりで、出したことのない全力の蹴りをお見舞いした。そしてそのまま、ダメ押しと言わんばかりにケニーの喉仏目掛けて、再度蹴り上げた足を突き出した。

 まさか反撃すると思っていなかった中央憲兵は、唖然とした様子でそれらを見つめている。

 

「……痛ってぇな、おい。どチビの癖に動きが様になってんじゃねえか」

「なん——」

 

 ギロリ、と殺意の籠った目線が少年を貫く。

 華麗に全ての攻撃が入ったと思っていた少年は、男の威圧に押されて喉奥をキュッと締めた。

 

「こいつはちょっとだけ教えてやらねーとな。大人にはきちんと敬意を払ってよ」

 

 ケニーの言葉と同時、少年の頭は鷲掴みにされた。ミシミシと骨が軋む音が、頭の内部から全身に響いている。そのまま鷲掴みにされた頭を勢いよく地面に叩きつけられれば、少年の意識が吹っ飛びそうなほどの激痛が身を襲った。

 ——やばい、殺される。

 少年のその確信めいた推論は、痛みとなって現実になった。

 ケニーから放たれる殺意の篭った拳の雨。それらは絶え間なく少年の顔面へと突き刺さり、それに合わせて血やら唾液やらが飛び散った。

 格が違うとはまさにこの事である。手も足も出ず、ただ殺されるのを待つだけのように、少年はケニーの拳をたらふく味わった。

 次第に薄れていく意識の中、少年が願ったのは一つの事柄である。

 どうか、あの世では姉さんと一緒に……。

 

「やめて、お兄ちゃんを殺さないで!!」

 

 そんな少年の思考を遮るように響いたのは、妹の声だった。

 腫れてしまった瞼を無理やり開けば、そこには心配そうな顔でこちらを見つめるヒストリアがいる。ぶれた視界の中、少年はその姿に姉の姿を重ね合わせた。

 

 ——ねえ、さん。

 

 声にもならない言葉が、ふっと出されては消える。

 昔は姉もこんな風に少年を心配してくれた。

 あの時は、あの3人組が投げた石からヒストリアを庇って倒れたんだっけ。

 ひどく遠い昔のように思えるその記憶を、少年は自嘲しながら思い出した。

 けれど、それも束の間。大好きな兄を殺させないために立ち向かったヒストリアは、ケニーの拳によって容易に吹き飛ばされた。あまりの威力にヒストリアの体が1、2度地面にバウンドしたほどだ。少年はそれを見て、次に数日前の光景を思い出す。

 それは、ある男の手によって殺された姉の姿。

 誰からも慕われ、誰からも必要とされていた姉を殺されたワンシーン。

 ノイズが走るその凄惨な状景を脳裏に焼き付け、少年の中にある言葉が浮き上がる。

 

「……ろす」

 

 姉の顔と共に湧き上がるのは、今まで感じたこともないどす黒い感情。気持ちの悪い欲情と、心地よい快感が脳内を満たし、身体中に力を与えているようだった。

 

「……ころ、す」

 

 どうすればいいのかなんて分からない。どこにいるのかも知らない。

 巨人化できる人間を殺す方法なんて本当にあるのかも甚だ疑問だ。そもそも今後一生、あの男を見つけ出せれる保証なんてものはどこにもない。

 けれど、それでも前へ、前へ前へと

 

「ぜったいに、ぶっころす——」

 

 この瞬間、少年は誓った。

 全てを捨ててでも復讐を果たすのだと。

 何を失おうと、何を犠牲にしようと、ただ姉を殺した男だけは絶対にこの手で葬り去るのだと。

 少年は目の前で顔を近づけてきた男に向けて、転がっていた石を頭に叩きつけた。自分から姉を奪おうとする目の前の男を殺すべく、少年は抗うことを決めたのである。ケニーにトドメを差すべく、少年は男の持っていたナイフを取りに腰部分へと手を掛けた。だが……

 

「おっと、危ねえ危ねえ」

 

 間一髪のところで意識を回復させたケニーは、少年の動きに気付き直様後ろへと逃げた。今し方まで馬乗りで殴られていた少年に、男の動きへ追いつく体力は残っていない。再び距離が開けられたことで、少年の逆転はほぼ不可能と化した。ケニーもそれを理解しているのか、くつくつと笑っている。

 

「なるほどな。このどチビ、根性だけはある」

 

 そんな言葉を掛けられても、少年からしてみれば少しも嬉しくない。結局、姉を傷つけた男を殺せなかったのだから。

 少年はケニーへ強く舌打ちをした後、力がつきその場で倒れ伏した。

 数日間、彼は休む暇なく動き続けていたのだ。それに加えてケニーからの暴行は相当少年を消耗させていた。とてもではないが、これ以上少年は動くことができない。

 薄れゆく意識の中、殴り飛ばされたはずのヒストリアが、己を庇うべく身を覆い被せているのが見えた。

 

「許してください、許してください、許してください……」

 

 その姿がまた姉と被ってしまう。ヒストリアから伝わる熱が、姉に抱きしめられた時のものに似ていて、自然と心が安らいだ。

 ここにいたんだ、姐さんはここに……。

 その言葉を最後に、少年の意識は完全に闇の中へと落ちていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 少年が目を覚ませば、眼前には開墾されていない荒地が広がっていた。隣には自身に抱きついて離れない、頬の腫れたヒストリアがいる。

 

「あ、お兄ちゃん」

 

 ヒストリアがそう呟けば、悲しそうな目をして胸に頭を沈めてきた。

 少年はそれをどう扱ったらいいのか分からず、混乱した頭でとりあえずヒストリアを撫でる。昔、姉にヒストリアの扱いが分からないと相談した時、そうすればいいと教えてくれたからだ。

 

「ここは……」

「開拓地だ。ウォール・マリアが破られてからは食糧難を解決するために、上層部が必死に開墾させようとしているのさ」

 

 状況整理のためにも少年がそう尋ねれば、答えたのはヒストリアではなく、己を殺そうとしていたケニーだった。

 

「お前っ」

「おいおい、やめとけ。今殺し合ってもお前が確実に負けるぞ?」

「そんなこと知るか」

 

 鈍く光る少年の眼光に、ケニーはまたもや面白そうにケタケタと笑った。

 少年からしてみれば、数少ない自分と姉の思い出を持つ妹は大事な存在である。そんな妹を殺そうとしたケニーは、超危険人物だった。また昨晩のように、妹を殺そうとするのであれば、少年は次こそ己の命と差し違えてでもケニーを殺すだろう。その決意の表れとして、少年の拳は硬く閉ざされていた。

 

「ハハ、その一丁前の根性だけは認めてやる。どうもお前はウーリに似ても似つかないガキらしいからな」

 

 だがケニーは、そんなボロ雑巾のような少年を一笑すると、首根っこを掴んで持ち上げた。その際、ひっついていた妹のヒストリアを遠ざける。どうやらあまり聴かれたくない話をするらしい。

 ヒストリアは、一瞬だけ困ったような顔をするが、少年が「心配するな」と言うと、それを信じて声の聞こえないところまで歩いていった。

 

「さて、少しお喋りの時間といこうじゃねえか」

 

 ケニーはヒストリアの姿を遠目で確認して言った。

 

「力が無え奴は淘汰される。力がある奴が支配する。この世ってのは不思議とそう出来ている。シンプルだと思わねえか? お前がしたいことも力さえあれば簡単にできるんだぜえ?」

「俺の、したいこと……」

 

 少年のやりたいことは一つ。

 姉を殺した男をこの手で辱め、最大の苦痛と痛みを伴い殺すこと。それこそが復讐である。そのためにも力がいるのは必然。ケニーが言っていることは間違っていなかった。

 

「仕方ねえから、テメーにはこの俺が処世術を教えてやる。感謝しろよぉ、どチビ。中央憲兵様がわざわざ面倒を見てやるんだからよ」

 

 男はそう言うと、徐にコートの内側を弄って一つの手紙を出してきた。

 

「ああ、それとこいつはレイス卿から預かったもんだ。中身は俺も見た、が、つまらねぇことばかり書いていやがった。どうやらあの男は、お前とヒストリア以外にレイス家の秘密を話したく無いらしい。お前らの監視はウォール教とかいう訳のわからねえ新興宗教だ。そいつ伝いにまたレイス卿から連絡が来るかもな」

 

 ケニーが無理やり少年のポケットにそれを押し込むと、そのまま乗ってきた馬車へと戻る。どうやら話はこれだけで終わりらしい。最後のあたりは、心底つまらなそうな顔をしていた。

 

「それじゃあな、どチビ。今度は俺がお前に処世術を教えに来るときだ。それまで精々、そのボロボロの傷で死なねーよう生きるこった」

 

 それを最後に、ケニーを乗せた馬車がどこかへと走り去っていく。少年はまるで台風のような男に呆然としながら、ポケットにねじ込まれた手紙を取り出した。

 中身を開いてみれば、確かにケニーの言った通りの内容が羅列してある。ヒストリアの名前がクリスタになったこと、ウーリというのは自分の弟であること。そして、

 

「姉さんが巨人の力を引き継いでいた、か……」

 

 心底どうでもいいと思った。

 少年からしてみれば、巨人の力を持っていようがいまいが、姉を殺されたという事実に変わりない。巨人の力云々に関して、少年はさほど興味を抱くことすらなかった。

 手紙には、現在ロッドがその力を継承していると書かれている。どうせこれは嘘だろうと少年は思った。理由は知らないが、ロッドはあの男に巨人の力を奪われたことを隠している。きっと、あのケニーという男が何かしらの要因なのだろう。

 少年はその手紙を細かく破ると、近くに流れている川へと放り去る。

 彼のやることは既に決まった。

 姉の仇である男への復讐と、姉の残影が残る妹を守ること。

 これ以上、何者からも姉を奪われてたまるものかと、少年は誓ったのだ。

 

「お兄ちゃん、大丈夫?」

 

 ケニーが去ったのを確認したヒストリア——もといクリスタが少年のところに駆け寄った。少年はそれを横目で確認すると、短く「ああ」とだけ返す。これからどのようにして力を付ければいいか分からないが、ひとまず傷を治すのが先決だと少年は考えた。

 

 

 

 そこからは開拓地に移り住んでからの生活である。

 いつか、あの姉と過ごした牧場に帰りたいと思いながらも、仇である男を殺すまでは戻れないと覚悟した。少年にとっての全ては、相変わらずフリーダであり、そしてそれと築き上げてきた彼女との記憶なのだ。それ以外の事柄は、等しく少年にとってどうでもいいことと成り果てた。

 ようやく少年がまともに歩けるまで回復した頃、ふと少年はクリスタに姉のことを教えようと思った。これは、クリスタに姉の死を告げることで、自分と同じく姉への悲しみを共有したいからだった。

「俺たちの姉さんが死んだ」

 そう告げれば、クリスタはきょとんとした顔になった。

 思っていた反応と違う少年は訝しむ。少年が求めていたものは、クリスタが泣き喚き、共に姉へ追悼することである。そうすれば、自分たちと姉は一緒に過ごしていたのだという実感を得られると考えたからだ。

 けれど、クリスタから返ってきたのは衝撃的な一言だった。

「何を言っているの、お兄ちゃん。私たちにお姉さんはいないよ」

 その瞬間、少年の中でナニかが崩落する音が鮮明に聞こえた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

訓練兵編01

この前に一つ編を挟もうか悩んだがやめました。


 ——847年 冬。

 

 この年も盛大に北風が労働者の体へと吹き荒ぶ季節だった。

 今から一年前の奪還作戦により大勢の労働者が狩り出されたせいで、開拓地の耕地化は思ったよりも進んでいない。しかも、残された労働者の大半が、子供と老人、または身体的障害者という有様だった。憲兵団もその作業効率に業を煮やしているのか、日々彼らの怒号が開拓地で響き渡っている。開拓地で働く労働者からしてみれば、お前たちのせいで遅れているのだと、声を高らかにしたい気持ちで一杯だった。

 そんな中、比較的まだ耕地化が進んでいるこの場所に一人の少女が働いていた。

 

「悪いね、クリスタちゃん。私たちの分まで」

「ううん。いいんだよ。おばあちゃんは腰を早く良くしてね」

「ああ、あんた達のためにも早く治して働かなきゃね」

 

 耕地にする場所から、あらかた大きな石を取り除いてきた少女——クリスタは笑顔で老婆の言葉に頷いた。

 

「それにしても、本当に悪いのはあんたのお兄さんさ。私たちのせいで訓練兵になるのが遅れちまったんだろ」

 

 老婆がそう言って見たのは、この二年間ぴたりと会話する量が減った兄であった。昔はもっとたくさんおしゃべりしていたはずなのに、今の兄は人が変わったように口を閉ざしている。

 やはり、あのケニーという男にやられたのが原因なのだろうか。もしくは、クリスタの出生を聞いて幻滅でもさせてしまったのか。

 変わってしまった兄のことを考えると、クリスタの表情は自然と暗くなる。それは老婆も気付いていたのか、申し訳ないと言って頭を下げた。

 

「ごめんね。あんた達はあまり仲が良くなかったね」

「そんなことないよ。今はちょっと色々あって話ができてないだけ」

「そうかい? ……それだけならいいんだけど」

 

 クリスタは自分が嘘をついているとは思っていなかった。だって、兄と自分はかけがえのない大切な家族同士なのだから。兄が自分のことを嫌いになっているはずがないと、少女はそう謎の確信を持っていたのだ。それが例えただの虚勢であっても、少女はただそれを盲信することだろう。2年前から変わらず、少女にとっての全てとは兄だけなのだから。

 

「兄さん。石拾い終わったよ」

 

 老婆と別れたクリスタは、石拾いを終えたことを兄に告げる。

 ここの開拓地一帯を任されているのは、なんとここらではまだ若年の兄である。そのため、こういった業務報告などもみんな兄に集中していた。

 

「手が空いた奴は薪を作れ。夜の備えだ」

 

 クリスタにではなく、周りを通して出される兄からの命令。少年はクリスタの返事も待たずそのまま業務に戻った。

 これもいつも通り。

 クリスタの顔を見ようともせず、直接話そうともしない。ただ冷たい態度で接し続ける。そこに、昔あのケニーから命を張って守ってくれた兄の姿はない。この二年間、兄と目を合わせて話した回数は片手の指で足りる程度であった。

 本当はもっと話したいことがあるのに……。

 どうして訓練兵を目指すのか、どうして一年待ったのか。自分も訓練兵になろうと思っているとか、一緒にこれからも生きていこうとか。そんな他愛もない会話すら、今はできなくなってしまっていた。

 クリスタは思わず「どうして?」と言いそうになる。

 けれど、その言葉は胸の奥に仕舞い込まれた。

 きっと開拓地での生活が忙しいから、私に構う暇がないのだろう。

 そんな言い訳だけを頭に並べて、必死に納得しようとして、そのままクリスタはとぼとぼと仕事に戻るのだ。いつも兄に報告しに行く時、今度こそはという気持ちで伝えに行っているのに。何度も何度もその気持ちは裏切られる。

 

「お兄ちゃん……」

 

 クリスタは今にも泣きそうな気持ちをグッと堪え、薪を作る作業へと移った。

 訓練兵になれば、訓練兵にさえなってしまえば……環境も変わって昔の兄が帰ってくる。そんな希望的観測を思い描きながら、クリスタは一人静かに仕事に励むのだった。

 

 

 

 

 

 そして数ヶ月の時が流れ……

 

「貴様は何者だ!?」

「ウォール・マリア南東の都出身! クリスタ・レンズです!」

 

 金髪の少女がそう名乗った。

 教官は予想に反して威勢の良かった返事に目尻をわずかに上げると、クリスタの顔にグッと近づく。

 

「何しにここに来た!?」

「じ、人類の役に立ちたいと思い志願しました!」

「そうか。ならば精々巨人の注意を引くための餌として役立ててもらおう。お前のような小さい女はさぞ食いやすいだろう」

 

 教官はそれだけを言うと、クリスタから離れ、次の訓練兵に怒鳴り始めた。覚悟していたとは言え、予想以上の悪言を吐かれたクリスタは、少し泣きそうな顔をする。

 隣には、そんなクリスタを一瞥することもなく、ただ茫然と前を眺め続ける兄の姿があった。まるで隣にいる少女とは無関係であるかのように、何も声を掛けてやらない。そんな無機質な男の対応に、クリスタはさらに涙が溢れそうになった。

 けれどこれでようやく訓練兵になれた。

 クリスタはそのことだけに喜びを覚える。ここであれば、兄もみんなのために仕事をしなくて済む。少しは余裕が出来て自分に構ってくれる。

 そう考えるだけで胸はときめき、明日への活力が満たされるような気がした。

 けれど、現実というのは甘くない。

 この日、結局兄がクリスタに向かって喋ることは、一度もなかったのだから。

 

 

 

 

 

 

 恫喝の儀式が終わり夕食の時間。視点はクリスタからその兄へと移り変わる。

 空が赤焼けになった頃、男は食堂へと足を運んでいた。

 食堂の入り口を見ると、複数の男女が談笑しながら芋女の走り姿を眺めている。男は邪魔だなと思いながらも、食堂に入るため後ろを黙って通ろうとした。

 

「なあ、そう言えば君も出身を聞かれなかったけど、どこから来たんだい?」

 

 複数人の男女の内、そばかすの男がそんなことを聞いていた。男は一瞬、歩行スピードを緩めるが、自分に聞かれたわけではないのだろうと思い直し、そのまま彼らの後ろを通り過ぎようとする。が、そんな男の進行を阻止するように、坊主頭の男が彼の肩を掴んだ。

 

「お前だよ、お前に聞いたんだ」

 

 男はそこでようやく自分に聞かれたことなのだと分かり、体を坊主頭達の方へと向けた。

 

「ウォールマリア南部の都だ」

 

 男は事前に用意していた偽装の出身地を話す。必要最低限のことしか受け答えしないその姿勢に、周りの人間は少し驚くも、坊主頭だけは機嫌を良くした。

 

「そうか! 俺はコニーってんだ、お前名前は?」

「フリーダ」

「フリーダか、なんか呼びやすいな」

 

 こうして人懐っこい笑みを浮かべるところを見ると、案外良いやつなのかもしれない。

 

「ウォール・マリア南部の都ってことは僕たちと近いね。僕たちは最南部に位置するシガンシナ区の出身だよ。あ、僕はアルミン・アルレルト。こっちはエレン。さっき君に出身地を聞いたのがマルコ。よろしく」

 

 中性的な顔が目立つアルミンはそう言ってにこやかに笑みを浮かべると、フリーダに手を差し伸ばした。しかし、フリーダはその手を握ろうとせず、ただ黙って見つめる。流石のアルミンも、握られない手に気まずくなったのか、そのまま何も言わず恐る恐る引っ込めた。

 

「なあ、ウォールマリアの南部ってことは、お前も鎧の巨人を見たのか?」

 

 コニーがフリーダへ喜色の声音をさせながらそう尋ねた。巨人を見たのか聞くなど、随分呑気な奴だと思ったが、フリーダは特にその点を気にすることはしなかった。

 フリーダは自身の経歴詐称を押し通すため、少しばかり思い出す素振りを見せるが、鎧の巨人なんて当然見ているわけない。なので、この場は適当にはぐらかすことにした。

 

「いや。俺はその時、門の近くにはいなかったな」

 

 見ていないということがわかり、コニーはあからさまに残念そうな顔をするが、マルコはどこか納得したように頷いてくれる。

 

「じゃあ、ちゃんと見たことあるのはアルミン達くらいなんだね」

 

 マルコにそう話を振られたアルミンは、遠い目をしながら「ああ、そうみたいだね」と呟くだけであった。

 アルミンの様子が少し気になったのか、マルコがそろそろ配膳も始まるということで、一旦食堂に入り、その後、話の続きしようというと提案した。フリーダもコニーに誘われたため、ひとまず同じテーブルに着く事にする。何気に、フリーダは同年代の男子から誘われることが初めてのことであった。牧場にいたときは、変な三人組がいつも喧嘩を売ってきた記憶しか彼にはない。

 しかし、それで調子に乗ったのがまずかった。どうやらエレンやアルミンの語る超大型巨人達の話は、自然と人を集めてしまうらしい。気がつけば、いつの間にかフリーダ達の周りには同期の連中が押し寄せていた。

 みんな、見たことのない巨人について興味があるのだろう。どんな見た目をしているのか、どれくらいの大きさだったのか、どのように人を食べるのか。実際に、巨人の恐怖を味わったことのない人間たちは怖いもの見たさでエレン達の話を聞いているに違いはなかった。

 フリーダは落ち着いてスープを飲めない事に少し倦厭を感じながらも、黙ってエレン達の話に耳を傾けていた。普通の巨人について興味はないが、逐一コニーが反応を求めてくるため、聞かずにはいられないのである。

 

「巨人なんて、実際大した事ねえな。オレ達が立体機動装置を使いこなせるようになれば、あんなの敵じゃない!」

 

 エレンが得意げな顔で啖呵を切った。同期のみんなは、エレンの決意のようなものに圧倒されていたが、フリーダだけはそれを横目で見ながら「こいつは早死にするな」と何となく思った。特に死相が見えたとかそういうのではないのだが、こういう己の命を蔑ろにする奴に長寿の道があるとは思えなかったのだ。

 エレンが豪語していると、馬面の男が茶化すように横槍を入れる。エレンの志が高い分、鼻につくのは仕方がないと言えば、仕方がないことではあるのだが。それでも、調査兵団に行くと主張する男なんかにわざわざ構いにいくところ見ると、この馬面も相当捻くれた性格の持ち主ということが分かる。

 

「正直なのはオレの悪い癖だ。気い悪くさせるつもりは無い」

 

 少し険悪なムードになっていたが、どうやら無事馬面の男とエレンは仲良くなれたらしい。最終的に手を打ち合って仲直りしていた。

 あれが男の友情というものなのだろうか。今まで友達が出来たことのないフリーダからすれば、馬面の男が最初やたら喧嘩腰だった意味が分からなかった。

 初めてみるコミュニケーションの仕方に首を傾げていると、カンカンと晩食の終わりを告げる鐘が鳴る。フリーダはその音を聞いて、食器を片し割り振られた自室へ戻ろうと食堂を出た。

 少し歩いていると、目の前に見覚えのある金髪の少女が歩いてくる。昼間、教官の怒号に涙していたクリスタであった。

 フリーダはそんなクリスタのことをまるで認知していないかのように、横を通り過ぎようとする。開拓地ではいつもこのようにして接していた。しかし、今日のクリスタは珍しく服の裾を掴んでまでフリーダを止めた。

 

「兄さん、なんで何も話してくれないの……。昔はあんなに仲が良かったのに」

 

 今にも泣きそうな瞳で彼女はそう言う。クリスタがこうなっているのも無理はなかった。

 フリーダが姉についてクリスタに聞いた日以降、彼は妹を無視するようになったのだ。明確な理由というものはフリーダも持ち合わせていない。ただ、姉のことを知らないクリスタが、ひどく不愉快に感じたのがきっかけだった。

 そこからは自然とそういう流れである。フリーダは姉のことを知らないと言うクリスタを、大事な存在とは思えなくなっていた。どこで野垂れ死のうと、どこで何をしていようと、彼は一切合切がどうでもいいと判断する。

 だが、それはフリーダだけの見識であり、クリスタからしてみれば違うのだろう。今にも凍え死んでしまいそうな彼女は、大好きな兄の服を掴んでいなければ真面に立てそうも無かった。

 

「ねえ、兄さん。何か言って、お願い、だから」

 

 縋り付くような声。

 フリーダは今にも死にそうな顔をしているクリスタを見ると、裾の部分をそっと離させる。久々に触ったクリスタの手は確かに震えていた。

 ついに兄が何か言ってくれるのか、そう歓喜し見上げるクリスタ。しかし、そこにはいつも通りの鉄仮面が鎮座しているだけであった。

 

「っ、何も、言ってくれないの……」

 

 クリスタが目を伏せる。兄の冷たい眼差しがとても怖かったのだろう。

 フリーダはその言葉に否定も肯定もせず、クリスタを置いてそのまま自室へと歩き出した。その行動が意味するものとは一体何なのか、姉を忘れてしまったクリスタには一生分からないのだろうと、フリーダとなった少年はなんとなしにそう思った。




リメイク前の流れを汲んではいます。
が、オリジナルの話を織り交ぜつつ出していきます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

訓練兵編02

 胸がキュッと苦しくなる。誰かに心臓を鷲掴みにされているような気さえする。

 けれど、その原因たる兄さんは私を歯牙にもかけようとしない。まるで、いない存在であるかのように扱い、言葉すらも直接かけてこない。

 ——何か、私はいけないことでもしたの?

 頭で何度もそう問いかけてみるが、答えなどありふれていて一向に定まらない。

 私が妾の子だと知って幻滅したのか。

 それとも、私のせいで開拓地に行ったのを恨んでいるのか。

 あるいは、私がろく動けなかったことに腹を立てているのか。

 どれもあり得そうな理由ばかりだ。私が兄さんに嫌われるには十分な判断材料が出揃っている。

『いい子にしてたら、すぐにお話しできるよ』

 ふと、そんな言葉が私の中で沸いた。誰に言われたのかは分からないが、いつもそんな風なセリフを聞いていた気がする。

 自分と仲の良かった人間は兄を除いていないため、きっとこれは兄が昔、口癖のように言っていた言葉なのだろう。ならば、私が良い子にすれば兄も振り向いてくれるのだろうか。

 何かが壊れる音がする。

 それがなんなのか分からない。大事なものが砕けてしまったような気さえする。

 けれど、それは気のせいだと思った。だって一番大事なものを私は知っているから。

 

『頑張らないと』

 

 兄さんともう一度、昔のように仲良くなるため、

 そして、もう一度大好きな兄が自分に話しかけてくるようにするため、

 私は、誰からも認められる良い人にならないといけないのだ。

 

「お前、良いことしようとしてるだろ」

 

 そう。私は良いことをしようとする。

 

「それは他の誰かのためにやったのか?」

 

 違う。他の誰かなんてどうでも良い。私は私のために良いことをし、良い人を演じる。

 

「お前の得たものは、その労力に見合ったか?」

 

 見合うはずだ。私の存在価値など、とうの昔から決まっているのだから……。

 

 

 

 

 

 

 次の日からは訓練が始まり出した。最初は立体機動装置の適性検査を兼ねた姿勢制御訓練であったが、フリーダは難なくクリアしていた。ブレなんてものは一切感じさせないほどの適正だ。教官連中をはじめ、同期の訓練兵もみんな一様に驚いていた。訓練兵になるまでの間、フリーダが行ってきたことを考えれば当たり前の結果でもある。

 当然、することの無くなったフリーダは暇を持て余した。何かすることがないものかと思い、あたりを散策していたら、金髪でガタイがいい男が座っているのが見える。

 

「おう。お前も余裕組か? どうだった?」

 

 金髪の男もどうやら暇をしていたらしく声を掛けてきた。

 彼の名前はライナーというらしい。連れがまだ適正検査を受けていないため、一人で訓練風景を見守っていたとのことである。

 

「簡単だった」

 

 愛想無い様子でフリーダが返すと、ライナーは笑い返した。

 

「確かに。あれはぶら下がるだけだからな。できる奴からすれば、何でできないのか分からないぐらいだ」

 

 そう言って、ライナーが見るのは上体をひっくり返してぶら下がるエレンの姿である。「あれはダメだな。明日には開拓地送りだ」とライナーは頬を掻きながら言った。

 男の言う通り、兵士になるには巨人と戦うため立体機動装置を扱えることが最低条件になってくる。その適性を図るための姿勢制御訓練で、あそこまでの体たらくを晒してしまったエレンは、早い段階で除隊する事になるだろう。力無きものは去るしかない。それが、この訓練兵団の掟である。

「お前上手かったらしいじゃ無いか。何かアドバイスでもしてやらないのか?」ライナーがそう言ってフリーダを見る。

「いや、あれは根本的問題だ」とフリーダはそう素っ気なく答えた。あそこまで大きく体勢を崩しているとなると、もはや適正の有無だけではないように感じる。

 そんな風に考えていると、教官の叱責が遠くから聞こえてきた。どうやら、エレンの有様を目にしてしまったらしい。

 ライナーはほんのり苦笑いを浮かべると、違う話題を振り始めた。

 

「そう言えば、お前の名前聞いてなかったな」

「フリーダだ」

「フリーダ、ね。家名は?」

 

 ライナーの問いかけにフリーダは逡巡する。

 開拓地では、一応フリーダ・レンズと名乗っていた。戸籍の登録も、中央憲兵にはそれでお願いしてある。

 そのため、普通にフリーダ・レンズと名乗ってもいいのだが、如何せん、クリスタとの血縁者だと思われるのが面倒だと感じた。今の二人の間柄を周りが見てどう思うのか。それを分からないほどフリーダも鈍くはない。

 けれど、ここで嘘を言うのも後々面倒になるのは目に見えている。クリスタは人目を憚らず、きっとフリーダのことを「兄さん」と呼ぶだろう。兄妹というのが露呈するのは、結局のところ遅いか早いかの違いしかなかった。

 

「……レンズだ」

 

 そのため、フリーダは正直に教えることにした。ここで出し渋って、変に勘ぐられるのは望むところではない。

 

「フリーダ・レンズか。いい名前だな。なんだか呼びやすい」

「そうか」

「フリーダはどうして訓練兵になったんだ?」

 

 単純な質問だった。

 大半の若者は世論に押されて訓練兵になる。生産者に回ることは腰抜けだと言われるからだ。

 だが、フリーダの纏う雰囲気は、そんな屁っ放り腰の奴らとは違うと感じたのだろう。凍てつく空気と言えばいいだろうか、周りの奴らとは一線画しているように思えてならないのだ。

 フリーダは一瞬だけライナーと目を合わせると、すぐに訓練場へと視線を投げる。

 

「やりたいことがある」

「やりたいこと? それはあれか、巨人を殺すことか」

「ああ」

 

 巨人を殺すこと。それはフリーダがフリーダになった時から心に決めた事項である。

 ただ、少年が殺したいのはエレンのような無垢の巨人どもではなかった。知性のない獣なぞ、少年からしてみればただの前戯に過ぎないのである。少年が殺したいのは、知性ある巨人。自分の愛した姉を殺し、その家族を弄んだあの男である。少年はあの男を、惨めに殺すことだけ頭の中で何度も何度も想像していた。

 

「お前、変わってるな」

「そうか?」

「ああ。大抵の人間は巨人を見て殺してやろうなんて思わん」

「そうか」

「俺も憲兵団になるためにここに志望した。間違っても調査兵団には入りたくないね」

 

 ライナーがそこまで告げると、じっとフリーダの顔を見つめる。

 フリーダも別に調査兵団に入ろうなどとは思っていないため、ライナーの意見に対して、どうこう言うつもりは無かった。そもそも、フリーダが殺したいのは巨人になれる人間である。その他には興味すら湧かなかった。

 そこからはライナーと談笑した。どこから来たのか、好きな食べ物とかあるのか、訓練兵で可愛い子は見つけたか、と言った世間話が中心であった。同年代とあまり話したことのないフリーダからすれば、どれも目新しい話題ばかりだったが、元々そこまで喋るのが苦手でもないため難なく受け答えする。これも姉の教育のおかげなのだろうと、フリーダは密かに思いを馳せた。

 会話に一段落ついた頃には、いつの間にか姿勢制御訓練が終わっていたらしく、周りにいた人は少なくなっていた。ふと空を見上げれば、青い色だったはずの空が黄金色に変色しつつある。

 フリーダは自分が割り振られている武器庫の整理を思い出し、ライナーにそれを告げた。彼は「手伝おうか」と聞いてくれたが、フリーダはそれを断る事にする。武器庫の整理は重い荷物の移動があるので、筋肉を鍛えるのに丁度良かったからだ。

 ひとまず、ライナーと別れ武器庫へと向かう事にしたフリーダ。ふと姿勢制御装置の方を見てみれば、未だ教官から認められていない訓練兵が何人か自主練に励んでいた。そこには当然、エレンがいる。

 

「まだだ、俺は巨人どもを駆逐するために、力を得なければいけねえ!こんなところで挫けてられねーんだよ!」

「気持ちは分かるけど、これ以上は危険だよ。何度か頭を打ち掛けているし、今日はもう休むべきだ……」

「エレン。頭の損傷は下手をすれば後遺症が残る。ここで無理をしてはいけない」

「うるせー! そんなことにビビってたら、出来るもんも出来なくなる! 俺は、()()()()()()()()()()()()()()!」

 

 周りを気にせず大きな声で喋る三人組。フリーダはそれをじっと眺めていた。自分が無茶をするとき、ああ言う風に、いつも二人の妹と姉が宥めてくれていたのを思い出す。

 とても懐かしい記憶。もう何十年も昔のように感じる。

 少しの間考えた後、エレンの失敗具合を思い出しながら、フリーダはエレン達の方に寄る事にした。

 

「あ、フリーダ」

 

 アルミンがフリーダの接近に気がついたのか、声をかけてくる。エレンともう一人近くにいる女も、その声でフリーダに気がついたのか、一斉にそちらへ視線が向けられた。

 

「よ、よう。何の用だ、フリーダ」

 

 姿勢制御ができ無い事に焦りを感じているのか、エレンの声は妙に上ずっていた。目は大きく開き、唇を忙しなく震わせているところを見ると、心此処にあらずと言った有様なのが見て取れる。

 フリーダはそんなエレンの様子に構う事なく、アルミンが握る取手を見つめた。

 

「アルミン。あげてくれ」

 

 フリーダの申し出に困惑を見せるアルミンは逡巡した。「え、でも。まだエレンの準備が……」

 それに続くように、隣で見ていた女もアルミンに同調する。「これ以上は危険。少し休んでからの方が良い」

 

「エレンの失敗している原因が分かるかもしれん。できれば時間をかけずに教えたい」

 

 フリーダは二人の意見を一笑に付すと、エレンの方を見る。結局のところ、やるかやらないかを決めるのはエレン自身でしかない。エレンがやりたくないと言うのであれば、フリーダはそのまま武器庫に行くだけであった。

 

「いや、構わない。オレはいつでもいける。アルミン上げてくれ!」

 

 覚悟を決めていたのか、エレンはアルミンに吠える。

 アルミンもエレンの覚悟が伝わり決心がついたのか、気前よく「分かった」と言って取手を回し始めた。

 女の方はあたふたした様子でそれを見守っているが、フリーダは注意深く、ある一点の場所を見つめる。

 二、三回取手を回せば、エレンの足が地面から離れ体が持ち上がり始める。

 徐々に、徐々に。上へ、上へ。

 一番高いところまで持ち上げられた上体は、姿勢を綺麗に保てたかと思うと、何の拍子もなく前傾に回転した。

 すぐさま、地面にぶつかりそうになったエレンの頭をフリーダが足でキャッチする。

 

「エレン大丈夫!?」

 

 女が回転したエレンを心配する。

 フリーダはエレンをそのままゆっくり地面へと下ろし、エレンから装備を外させると、ベルト部分を見つめた。

 

「ベルトの点検不備ではない、か」

 

 そもそも、ただぶら下がるだけの訓練で、エレンの反応は異常であった。エレンの体つきから言えば、相当な運動音痴でもない限り、前転するなんてことは起こり得ないはずである。となれば、必然的に他の部分がエレンの足を引っ張っているとしか思えない。

 そのため、ベルトの点検項目をもう一度見直してみたのだが、どうやらどこにも異常は見つからない。となれば……

 

「点検項目以外も見てみたか?」

 

 フリーダは眼光を鋭くさせながらエレンに問うた。

 

「え? いや、指定されたところだけを確認したけど」

「なら、そこ以外も隈なく見た方が良い。もしかしたら、というのがあるかもしれん」

「っ、まさかベルトの破損が!?」

「可能性の話だ。まだ分からん」

 

 フリーダはそう言って、エレンにベルトを押し付ける。さっきまでのやりとりを聞いていたアルミンや女も、こぞってエレンの持つベルトの点検を始めた。

 それにしても可笑しな話だ、とフリーダは思う。

 整備不良にしても、点検項目以外の場所が壊れるなどフリーダは聞いたことがない。もし本当にベルトのどこかが破損していたとすれば、それは偶発的にではなく、故意的に行われた細工だろう。

 ——誰が、なんのために……。

 そんな言葉がフリーダの頭の中で羅列されるが、そこで思考を止める。

 ケニーの教えのせいで、思考力は大分伸ばされたものの、如何せんどうでも良いような場面でもそれが発揮されてしまう。メリハリをつけるのが大事だ、とフリーダは空を見上げながら再度思い直した。

 すると、どうやらアルミンがベルトの破損部分を見つけたらしい。「あっ」と声を漏らした彼は、そのまま小枝のような細い人差し指で、ベルトのある部分を指し示した。

 

「本当だ。これが原因だったのかな。でも、こんな所破損するなんて聞いたことが……」

 

 アルミンの言うとおり、この部分は誰かが故意に壊さない限り、破損しない場所であった。そのため、装備点検の欄からも外れており、この部分を点検する人間などほとんどいない。

 エレンは心底恨めしそうな目でベルトを見つめると、誰にも聞こえないくらいの大きさで小さく舌打ちをした。

 

「まじかよ、そうだとしたら、何回やってもうまくいく訳ねえじゃねーか」

 

 エレンはそう愚痴を溢すと、早速、「体格の似た誰かからベルトを借りてくる、フリーダ、アルミン、ありがとな!」と言って走り出した。

 実に愚直な彼らしいと言えば彼らしい行動なのだが、その周りにいる人間からしたら迷惑極まりない。エレンの妙なせっかちさに思わずアルミンと女がため息を吐くと、フリーダに向かって深々とお辞儀をする。フリーダも、そんな事を望んでいたわけではないため、手を振ってそのお辞儀をやめさせた。

 二人がエレンを追っていくのを見届ける際、ふと牧場でかけっこをする自分とヒストリア、姉の姿を少年は思い出した。

 

 

 

 

 

 

 武器庫に着くと、どうやら先客がいたらしく一人の女が椅子に座っていた。そばかすが特徴的な女である。

 本日の作業は自分一人が担当のはずなので、フリーダは彼女のことを無視して武器の整理を始めようとする。最初は軽いものから運ぼうと考えた。

 

「なあ、あんたクリスタの兄貴だって?」

 

 突然、女がそんなことを尋ねてくる。

 クリスタとの関係をフリーダはまだ誰にも言っていないはずなので、女はクリスタの友達かなにかだろうと決めつけた。

 

「……そうだ」

 

 フリーダがそう返すと、女は眉毛をぴくりと上げ、驚いた顔をする。

 

「へぇ、結構すんなりと認めるじゃねーか。確かにクリスタが言ってた通りの寡黙さではあるけどな」

 

 女の言う通り、フリーダは開拓地に言ってからというもの確かに寡黙な男になった。自分から喜んで喋らないし、あんまり誰かと笑いあったりはしない。けれど、尋ねられれば喋るし、別に話すことが嫌いというわけでもなかった。その証拠に、今日の訓練時はライナーと談笑する程度のコミュニケーション能力はまだ存在している。

 フリーダが喋らないようにしているのは、この世でただ一人の妹だけである。

 

「私はユミルだ。お前の妹と結婚する者と思ってくれよ」

 

 一部変なセリフが聞こえたが、フリーダは彼女の名前を聞いて、目を細める。

 ユミルという名前にとても聞き覚えがあったからだ。

 

「お前はユミルなのか?」

「何だ? 私のことを知ってたのか?」

「いや、知らん。だが、その名前はすごく聞き覚えがある」

「……まあ、別に変な名前ではないだろ?」

 

 ユミルがそう言うので、確かに珍しくはないかとフリーダは思う事にした。それに、聞き覚えがあったとしても、それはただの偶然だと考える。

 

「で、話があってきたんだよ。お前さ、クリスタのこと嫌いだろ?」

 

 ユミルがからかうような顔をしながら言った。

 フリーダはそれに動じる事なく、頷いてみせる。

 

「あれ、あっさり認めるのか」

「他人に隠す事でもない」

「ふーん。何でまた妹を嫌ってるんだ?」

 

 先ほどのような戯けた顔ではなく、真剣な顔つきでユミルが聞いてくるので、フリーダもため息を吐きながら己の心中を吐露した。

 

「……昔から俺は、あいつのことが苦手だった」

「あぁ? それはどういう意味だよ」

「そのままの意味だ。あいつは俺のことを好いていたが、俺はそれに対してどう返せば良いのか分からなかった。正直、どう扱ってやれば良いのか、どうするのが正解なのか微塵も分からなかったんだ」

 

 それは、フリーダが牧場に住んでいた時、妹に覚えていた感情である。

 

「別に嫌いじゃねーって言うなら、なんでクリスタに話してやらない」

「……」

 

 そう問いかけられたものの、フリーダはそれ以上話せない。

 姉のことを知られるわけにもいかないし、かと言って、それ以外にクリスタと話さない理由は特にない。そのためフリーダは、自然と己の口を閉じるしかできなかった。

 

「……おい、急に黙るなよ」

「すまん」

「すまんって、お前なぁ」

 

 ユミルは面倒くさそうに頭を掻いた。素直にフリーダが謝ると思っていなかったのだろう。目の前の唐変木は、思ったよりも素直なところがあるらしい、とユミルは気付いてしまったのだ。

  

「なあ、本当にクリスタと話す気はないのか」

 

「ない」と即答する。フリーダは今後一生クリスタと話す気がない。勿論、彼女がどう生きようとそれを止めるつもりもない。嫌悪感を抱いているというよりも、彼はクリスタに対して興味関心が持てなくなった、というのが正しいのかもしれない。

 

「それでも兄貴かよ」

「……」

 

 ユミルから批判の声が聞こえるが、それでもフリーダはやめるつもりがなかった。

 最早、兄として、一人の男として、自身が行っている行為が最低なことは自覚している。でも、姉を忘れてしまった妹に、今更どのような感情を向けろというのか。

 少年にとって、死してもなお姉は偉大な存在である。彼の基準は全て姉であり、それから逸脱してしまった妹のことなど、思慮の範囲外としか言いようがなかった。

 

「ああ、そうかい。じゃあ良い。精々、妹を苦しめるんだな」

 

 そんな言葉だけを残して、ユミルは乱雑に、けれど静かな立ち振る舞いで武器庫を後にした。

 ユミルが立ち去った後も、苦しめる、という言葉だけがフリーダの中で引っかかる。

 少年にとってクリスタとは——いやヒストリアとは姉を知っていて当然の存在なのだ。自分の知る妹などもうこの世にいないのかもしれない。

 ——ああ、なるほどな。

 と少年はそこで悟る。

 この二年間、あの問いかけから今日に至るまでの間。自分の中でずっと突っかかっていたもの。

 それは、

 

「あいつも殺されていたのか……」

 

 フリーダはそう寂しげにつぶやいた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

訓練兵編03

待たせたなぁ(渋いボイス)
感想は見ています。ネタバレしてしまう可能性があるので返信できませぬが。
くっ。


 大分、訓練兵団の過ごしも慣れてき始めた頃の話である。具体的に言えば、3週間が経過しようとした時であろうか。いつものように食堂でフリーダが晩御飯を食べていると、その女は突然話しかけてきた。

 

「あなたの名前フリーダっていうんですか?」

 

 なんとも言えないぎこちない笑顔。人前で作り笑いをするのに慣れたようには思えないくらいに、その表情は硬かった。

 そんな、どこか見覚えのある顔が尋ねてきたが、フリーダは何も答えなかった。正確には口を開こうとはしなかった。誰だか分からない異性に突然話しかけられたからというのもあるが、何故かその少女の笑顔が胡散臭く感じたからだ。

 

「あぁー、すみません。私はサシャって言います。怪しい者じゃありませんよ」

 

 フリーダが沈黙していたせいで、サシャと名乗る少女は気まずくなったのだろう。彼女はまず、自分のことを語り始めた。

 だが、別に彼女のことを知りたい訳でも無かったフリーダは、続けて何かの返事をしようとしない。というよりも、自分も何を喋れば良いのか分からないのである。相手は自分の名前を知っているようだし、自己紹介をするのも変だと思考したのだ。その結果、フリーダはただ黙して、サシャが何故自分に話しかけてきたのか、その要件を聞くことに集中していた。

 そうしてフリーダが何も言わず見つめていると、彼女は突如頬を赤くする。

 少し相手を見過ぎたのかもしれない。

 フリーダは自然と視線を逸らすため、スープをとりあえず一口含んだ。

 すると次は、サシャが目を見開く。どうやらこの行動は間違いだったらしい。フリーダは彼女が何をしたいのかわからないため、今度はきちんと口を開いた。

 

「なんだ?」

「あー……そのー、パンを食べてなかったので、どうしたのかなーと思いまして……」

 

 フリーダは基本的に食事が遅い方なので、パンまでたどり着くのに時間がかかっているだけなのだが、どうやら彼女はそれを狙っているらしい。

 フリーダはそれを理解するとパンを徐に持ち上げた。当然、彼女にあげるためではない。やらないと意思表示する為に食べておこうと思ったのだ。

 

「っ!? くれるんですか!?」

 

 しかし、何を勘違いしたのか、サシャは持ち上げたパンを凝視する。誰もあげるとは言っていないのだが、この娘は食事をもらえて当たり前と思っているのかもしれない。

 フリーダはサシャの切望の眼差しを無視して、己のパンをかじりついた。姉から欲しいと言われたならまだしも、見ず知らずの人間に食料を分け与えるほど、フリーダは優しい人間ではない。最近では、クリスタが同期の間で無償の優しさをふるまっているらしいが、それとこれとは別の話なのである。

 

「んのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 

 フリーダがパンをかじりついたことが相当嫌だったのか、サシャは机を大きく叩いた。おかげでコップに入っていた水が2割ほど溢れる。

 

「なに騒いでるんだよ、芋女」

 

 騒ぎを聞いて駆けつけたのはコニーであった。フリーダの食事が遅いのを知っている為、手助けを兼ねて寄ってきたのだろう。

 コニーはいまだ悔しそうに唸り声を上げているサシャを小突いた。

 

「いや、フリーダにパンをねだってまして」

 

 彼女は照れ臭そうにそう頬をかく。

 照れ臭いのであれば、最初から乞食のようなことをしなければいいのでは無いだろうか。

 

「また、自分が食う分を増やしてるのかよ。意地汚ぇー」

 

 そうコニーが、心底呆れたように、その場に座りながら苦言を漏らした。

 しかし、サシャはコニーの言葉に首を横にふる。どうやら、自分の食べる分を増やすのが目的では無いらしい。

 

「そういう訳ではありませんよ、別に」

「じゃあ、どういう訳なんだよ」

「フリーダは良く一人で食べているので、一緒に食べてあげようと思ったんです。ほら、食事はみんなで食べると美味しいでしょ?」

 

 今度はサシャが屈託のない笑顔でそう答えた。それは偽物の笑顔なんかではなく、彼女が本来見せる本当の顔なのだろう。

 コニーはその笑顔に驚かされたのか、目を見開き言葉を失っている。他人の食い物を奪うだけの存在と思っていた彼女が、初めて真面な発言をしたのだ。仕様が無い。

 コニーはかぶりを振りながら、こめかみ部分を指で抑えると、苦々しい声でサシャに問いかけた。

 

「……とか言いながら、本当はフリーダが残したのを貰いたいだけだろ?」

「ぎくっ! そ、それも、少しはあるやもしれんけど……」

 

 フリーダとコニーはそのとき思った。

 なんだ、その喋り方は、と。

 

 

 

 

 

 

 サシャ・ブラウスにとってフリーダは寡黙な男だった。

 最初、目についたのは食堂で彼が一人黙々と食事をしているときだ。食堂では、席数が多くないため、自ずと誰かと食事することが普通になる。それなのに、フリーダの周りには人という人はいなかった。いつも一人で喋らず、何より楽しくなさそうに食事を摂っているのだ。そんな姿が印象的で、サシャは自然とフリーダのことを目で追うようになった。

 訓練の時になれば、フリーダが誰かと話すこともあるようだった。主に話しているのは、アルミンやコニー、それに訓練兵の兄貴分ライナーだった。そこまで観察を続ければ、ある程度のことがわかってくる。フリーダは自分から喋りかけることがほとんどないと言うことに。大半は、誰かに話しかけられればそれに受け答えし、必要な時以外は口を閉じていることが多い。事務的といえばいいのか、それとも受動的と表現すればいいのか。なんにしても、フリーダはここの訓練兵とは少し違う空気感を纏っているように見えたのである。いつ

 しかサシャは、そんなフリーダの空気感に吸い寄せられるようになっていた。

 本日の夕食時、ついにサシャは意を決してフリーダに話しかけることにした。

 なんて話しかけようか。

 そんなことすらも考え惑う状態で、それでもサシャの足は止まらない。自分の分の料理を両手で持ち、いつも空席のフリーダの近くへと腰掛ける。それに対する周りの反応は皆無だった。

 何も会話が出来ず、ただ食事を進めていけば、いつの間にかサシャの皿は綺麗な状態で机の上に置かれていた。会話をせずに食事を進めていたせいで、食べることに集中しすぎたのだ。

 ふとフリーダの方へ目を配らせれば、まだ彼は食事を続けている。食べるスピードが猛烈に遅いのか、すでに食べ終わったサシャと比べて、彼のスープ皿はまだ4分の1以上残っていた。さらに、その隣に置かれているパンは手をつけられていない。

 じゅるり。

 気がつけば、サシャはさっきまで苦悩していた第一声を放っていた。

 

 ——あなたの名前フリーダっていうんですか?

 

 そこからのことは成り行きに任せた。

 パンを純粋に欲しいと思ったのでフリーダにねだってもみたし、彼と食事を楽しんでみたいと赤裸々な思いを告げたりもしてみた。途中、コニーが邪険にするような態度で割り込んできたものの、概ねサシャのやり遂げたかったフリーダとの会話は成功で終わったのである。終始、フリーダが笑わなかったのは少し気がかりでもあったが、訓練兵になってからまだ3週間。これから、彼が笑うところを探せばいいとサシャは思った。

 大部屋に戻ったサシャはベッドに腰を落ち着かせ、1日の疲れを取ろうとした。辛い訓練を終えた兵士たちは、いつもこの大部屋で思い思いの過ごし方を満喫している。

 

「おい、芋女。今日あのフリーダと何を話してんだ?」

 

 そう言って近づいてきたのは、クリスタを脇に添えたユミルだった。

 お願い事をされる以外で話しかけられるのは珍しい。少しの警戒心と、多大な懐疑心を胸中に抱きながらサシャはおずおずとした態度でユミルを見る。

 

「えーと……ただの世間話ですかね」

 

 どうしてそんなことを? と付け加えながらサシャは問いかけた。

 

「いや、いつも一人で食ってるあいつに話しかけるなんて、何かやましいことでも考えてるんじゃないかって思ってね。お前のことだ、どうせフリーダの飯でも狙ってたんだろ?」

「ぎくっ、そんなことありませんよ!」

「どうだか。芋女はこう言ってるが、クリスタはどう思う?」

 

 ユミルが冗談半分、されど本気半分といった目でクリスタを見た。

 

「サシャはそんな悪い子じゃないよ。決めつけは良くないと思うな」

 

 相変わらずの神様的対応に、サシャの瞳には後光が差したクリスタが見えた。訓練初日、晩飯抜きを言い渡されたサシャに、水とパンを持ってきてくれた時を彷彿とさせる。

 だが、サシャとは対照的に、クリスタに否定された当のユミルは面白くなかったらしい。けっ、と短く息を吐けば、「良い子ちゃんのフリするなよ」とクリスタの髪を掻き乱した。

 

「でもよ、実際問題フリーダなんて口も開かねー陰気野郎だ。そんな奴とお近づきになりたいなんて物好き以外の何者でもないぞ」

 

 そんなこと、と思わずサシャはユミルへ反論しそうになった。しそうになった、と言うことは途中でサシャの口から言葉が消え失せてしまったのである。

 確かにユミルの言う通り、彼は物静かで周りに関心がないように見える。彼を知りたいと思うのは、まさに物好き以外の何者でもないのだろう。フリーダに関心を持ってしまったサシャも、その物好きの一人であることは否定しようがない。

 だから、

 

「フリーダは悪い人ではないですよ。話しかければ話返してくれますし、寡黙ですけど反応はきちんとくれます。付き合い方が少し特殊なだけで、悪い人じゃないんです」

 

 物好きは物好きなりに、彼のことを理解してあげようと思えた。

 すると、それをユミルの隣で聞いていたクリスタは小さな子供のように笑う。妖艶とは違った扇情性がそれにはあった。

 

「そうだね。兄さんは物静かで、時々怖い時もあるかもしれないけど、あの人はいい人だから……サシャも仲良くしてあげてね」

「……兄さん?」

「そう、フリーダ・レンズは私の兄さんなの」

 

 まさかまさかの大告白に、サシャは思わずギョッと目を見張った。同じく部屋にいる女兵士たちも聞き耳を立てていたのか、それぞれ微妙な顔つきになっている。みんな、目の前にいる誰にでも優しく愛嬌ある女の子が、あのフリーダの肉親であるとは思えないのだろう。エレンとジャンが兄弟と言われた方が、まだいくらか信憑性高い。

 にわかに信じられない事実に、サシャはゆっくりとユミルと顔を合わせるが、彼女はこくりと頷くだけで何も言わなかった。

 

「そうだ、サシャ。兄さんって馬術の補習で旧宿舎の修繕を言い渡されてるの。よかったら、差し入れついでに仲良くしてあげてね」

 

 そう言って差し出されたのは小さなパンと水だった。

 多分、己の兄へ差し入れするために、自身の食事を削っていたのだろう。それは自分で渡すべきです、とサシャが言えばクリスタは小振りに頭を揺らした。反論の暇も与えないその態度に、サシャは渋々とそれらを受け取る。

 

「差し入れは、私からってことを隠して渡してね」

 

 そう言って微笑むクリスタの顔は、先程の笑顔よりも痛ましく、どこか悲しそうに見えた。

 

 

 

 

 

 

 騒がしい晩だったな、とフリーダは先程のことを思い出しながら宿舎の修繕をしていた。

 別に彼は罰を受けているわけではない。ただ、馬術が絶望的にできないフリーダのため、教官が苦肉の策として出した「補習」を彼は受けているのである。当然、馬術がフリーダレベルでできない人間はいないため、必然的にこの補習は彼一人の仕事となっていた。

 フリーダからしてみれば、ありがたいことだと思っている。

 本来であれば、このような処置をとってもらうことなどできないのであろう。全ての科目において、ある程度の成績を残さなければ、訓練兵団に残存することは許されないのが通説だ。それなのに、フリーダのような特別な訓練兵がいるというだけでも、凄いことだと言える。逆に言えば、これまでのルールを掻い潜ってでも、訓練兵団はフリーダを手元に置いておきたいと考えているのだ。

 カンカンカン。

 フリーダの思考を打ち消すように、木槌の叩く音が外に響く。そうすれば、決まってそこに現れる人物がいた。

 

「また良いかな?」

 

 その声の主はアルミンである。

 彼は宿舎の修繕の際、フリーダが夜遅くまで明かりを灯しているのを良いことに、その明かりで書物を読み耽るのが日課となっていた。

 フリーダからしてみれば、特にアルミンがいて困ることもないので、「ああ」とだけ返す。これも彼の日課であった。

 

「フリーダって変だよね。僕みたいな人間、普通は嫌がると思うのに」

「嫌がって欲しいのか?」

「そういう意味じゃないよ。ただエレンたち以外で、こういう風にしてても何も言ってこない人は初めてだったから」

「そうか」

 

 アルミンがそこまで話すと、彼は明かりを頼りに本を開いた。

 フリーダは一定のリズムで木槌を叩きながら、横目でアルミンが読んでいる本を見る。別に見たいと思って見たわけでなく、なんとなく、そう引き寄せられるように、彼の目線がアルミンの書物へと動いたのだ。

 表紙にある小さな文字を見てみれば、そこには「毒林檎を飲んだ姫」と書かれていた。

 

「……面白いのか?」

 

 気づけば、フリーダの口は動いていた。

 

「え? ああ、うん。面白いよ。最近は息抜きにこういう書物を借りてるんだ」

「毒林檎を飲んだ奴が、息抜きになるのか」

「んー、どうだろうね。人によっては嫌な気持ちになるかもしれない」

 

 ペラペラ。カンカン。

 本を捲る音と、木槌を叩く音が交差する。

 

「フリーダは本とか読まないの?」

 

 アルミンのその質問にフリーダは少しだけ自分の言動を振り返った。

 文字の読み書きを覚えてからと言うもの、彼はあまり本を読んだ記憶がない。妹であったヒストリアは、母親を真似してか暇があれば本を読んだり、それを少年に聞かせたりしてはいた。

 だから、本を読んではいなくとも、そことはかとなく内容だけを知っているものなども多く存在している。

 それに、彼に読み書きを教えた姉も、よく少年に本を読み聞かせていた。

 

「読むことはあまりしないが、内容は知っていたりする」

「へー、誰かに教えてもらったんだね」

「……ああ。よく読み聞かせてくれた」

 

 フリーダの手がそこで止まった。

 

「その本も、読み聞かせてくれると約束していたんだ」

 

 声は小さく、どこか儚げな声音をしていた。

 そんな声をフリーダが発するものだから、アルミンも自然と顔をあげてしまう。彼の瞳に映ったのは、光明が鼻のあたりで止まってしまっているフリーダの顔だった。

 

「そっか、色々とあったんだね」

「……ああ」

「深くは聞かないよ。僕だって人には話せないこと、一つや二つはあるからさ」

 

 二人の声がそこで止まった。最早、ページを捲る音もしなければ、木槌が奏でるメロディも存在しない。ゆらりと揺れる灯りだけが、二人の男を怪しく照らした。

 けれど、そんな時である。

 

「フリィィィダァァァァァァァァァ!!」

 

 突然、背後から女特有の甲高い声が聞こえてきた。

 名前を呼ばれたフリーダは勿論のこと、その近くにいたアルミンも、ギョッとした目で振り返る。

 

「サシャ!?」

「あ、アルミンもいたんですね」

 

 サシャがにへらと力無く笑えば、それとは対照的にアルミンがげんなりとした顔を作った。

 

「そんなことよりも、これですこれ。フリーダに渡そうと思って」

 

 取り出されたのは一つの水とパンだった。それも小さなパンだ。

 笑ってやるべきなのか、それともあえて触れないでおくべきなのか。フリーダがアルミンをすっと見てみれば、彼もどう反応するべきなのか決めあぐねたような表情をしていた。

 

「あ、あのさサシャ。これってどういう……」

 

 そんな中、困り果てているフリーダを見かねたのか、アルミンが助け舟を出した。

 しかし、サシャはそんな状況下にも関わらず、厚顔無恥な態度で胸を張る。

 

「神s……じゃなかった、クリスタからフリーダがいつも古びた宿舎の修繕をさせられていると聞いたので、差し入れです。今日の夕食時、そこまでお話しできませんでしたし」

 

 サシャがフリーダの手をとると、そのまま彼女は自身が握っていたそれらを手渡した。入団式の際、教官の前で堂々と芋を食っていた人間とはとても思えない所業だ。

 フリーダもますます気味が悪くなってきたので、臆さずその理由を尋ねることにした。

 

「なぜ俺に?」

「クリスタのお兄さんだって知ったからですかね。言わば、神様の兄であるフリーダへのお供物です」

「お供物……」

 

 じっとそれらを見つめるフリーダ。

 お供物が水と小さなパンというのは、いかがなものだろうか。

 そんな益体もない感想を内心で漏らしながらも、フリーダはあえて口にすることはしなかった。女の子からいただいた好意は素直に受け取るんだよ、と姉から教えられていたからだ。牧場に住んでいたときも、その言葉を守って、ヒストリアから意味の分からないプレゼントを受け取ったのは苦い思い出である。

 

「え!? そんなことより、フリーダってクリスタのお兄ちゃんだったの!?」

「あれ、アルミンも知らなかったんですか?」

「え、いや、だって、えっ!? 確かに僕はフリーダから家名とか聞いたことなかったけど、そんな素振り見せたことなかったし。というよりも、今まで一緒にいてフリーダの口から妹がいるなんて一度も聞いたことが」

「アルミン、長くなってます」

 

 サシャがそう告げると、アルミンは咄嗟に自身の口を手で押さえるのであった。

 

 

 

 

 

 

「よかったのか、クリスタ? 芋女に差し入れなんて渡して」

 

 ユミルは窓に映るフリーダたちを眺めながら聞いた。

 女子寮からフリーダたちの声は聞こえないながらも、微かに灯る光のおかげで、彼らの動向がよく見える。ユミルの隣に腰掛けているクリスタも、そんな小さく映るだけの兄を、愛おしそうに眺めながら、力ない笑みを浮かべた。

 

「兄さんに友達ができるのは良いことだよ」

「良いことって……本当はお前が話しかけに行きたかったんじゃないのか?」

「私が行っても、兄さんは喜ばないから」

 

 はぁ、とクリスタが窓ガラスに息を吹き掛ければ、それは白い丸となって曇った。今にも落書きできそうな白いキャンバスである。それはまるで白磁器のような美しさを伴っており、哀愁漂う少女の横顔は儚い造形物のように美しい。ユミルはクリスタのそんな姿を、肘をついたまま眺め、次第に諦めがついたようにため息を吐いた。

 

「まあ、クリスタが良いっていうなら私は構わないさ」

 

 特に面白くもなさそうにユミルがそう言うものだから、クリスタも自然と誤魔化すように笑ってしまう。ユミルという少女は、時折他人の核心をついてくるところがあり、クリスタはその度、心臓をギュッと掴まれる思いをしていた。

 けれど、それを踏まえてもユミルはいい子だとクリスタは思っている。いつもはふざけてばかりいるし、口が悪い時もあるけど、クリスタのことを親身になって考えてくれる。

 きっと、ユミルに出会わなければクリスタは兄の喪失感から気が狂っていたかもしれない。

 今もこうして前を向こうと思えるのは、一重に彼女の存在があるからだと、クリスタは確信していた。

 

「いつも心配してくれてありがとう、ユミル」

「……ふん。別にいいさ」

 

 鼻を鳴らしそっぽ向くユミルを、可愛らしいと感じながらクリスタは指を動かす。

 白いキャンバスに描くのは、にっこりとした笑顔のマーク2つだ。それを兄たちがいる外と照らし合わせながら、クリスタは再度窓ガラスを曇らせるのであった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

訓練兵編04

お久しぶりです。
えぇ、本当にお久しぶりです。
ストックが溜まってきたので投下します。


 本日の訓練は午前中から対人格闘術であった。最近では、立て続けに兵站行進や立体機動が続いたため、体を休めるという配慮がされているのだと思う。この計らいに甘んじている者は、みな適当に力を抜きながら組み手をしていた。

 そんな中、フリーダは本日三人目の相手を探すため周りを見渡していた。さっきまで組んでいた二人の訓練兵を医務室送りにしてしまったためである。

 当然だが、このような野蛮な人間と組みたいと志願する勇者はおらず、誰もフリーダと目を合わせようとしない。体の頑丈さが売りのライナーですら、初回の対人格闘術で医務室送りにされたため、彼と組むことを嫌っていた。

 もし、フリーダが優秀な格闘術でも身につけていれば、相手に怪我をさせることなく綺麗に技を仕掛けられるだろう。だが、生憎彼は技巧の劣った格闘術しか身についていない。全てが実践向けで、覚えている戦い方は効率の良い人体の壊し方と、相手を痛め苦しめる関節技のみである。彼に戦闘術を教えた人間が良くないと言えばそれまでだが、フリーダがその戦い方を改める気がないのも問題であった。

 そんな破壊の申し子のようなフリーダと組みたがるのは、さっさと気を失い訓練をサボろうとするバカか、組み手相手を見つけられずフリーダに捕まってしまう哀れな子羊のみである。

 今は対人格闘術が始まって残り半ばくらいの時間が過ぎており、流石にフリーダの相手をしようと名乗りでる者はいなかった。

 フリーダは仕方がないと思い、教官に組み手相手が見つからないことを報告する。教官からも組み手相手を医務室送りにしていることは何度か苦言を漏らされたが、それでも新しい組み手相手は見繕ってくれるだろうと考えた。

 キース教官は辺りを一周見回すと、二人の少女と少年の名前を呼ぶ。呼ばれた二人は、訓練を一旦中断させて、キース教官とフリーダの元へと駆け寄ってきた。

 呼ばれた少年 アルミンはフリーダの顔を見て表情を曇らせる。なぜ教官に呼ばれたのか察しがついたらしい。

 一方、もう一人の少女 ミカサは何も思わないのか凛とした面持ちでキース教官を見ていた。

 

「こいつの相手をしてやれ、アッカーマン訓練兵」

 

 それだけを言うと、教官は一歩後ろへ下がる。どうやら、フリーダとミカサの組み手を見守るらしい。アルミンも教官の動きに見習い、フリーダとミカサから少し離れた。

 周りの人間がざわつく。同期最強の呼び声高いミカサと破壊の申し子フリーダの組み手である。熱くならない者はいない。

 みな、教官が近くでいるため、体は動かし続けるものの、目線はミカサ達の方へと釘付けにされていた。

 

「よろしく」

 

 ミカサが短く挨拶をして、ファイティングポーズを取る。誰に教えられたわけでもないのに、彼女の構えは熟練された格闘術者を彷彿とさせた。

 対してフリーダは軽く頭を下げると、木製ナイフを持ったまま棒立ち状態で止まる。彼は格闘術の一切を知らないために構えというものを知らなかった。

 熟練された格闘術と、実戦に対応した戦闘術。

 技という面であれば確実に格闘術が勝り、相手に何をするか読ませないという面では戦闘術が勝る。

 フリーダはならず者役として、ミカサに仕掛ける。

 大きく振りかぶられた右手。それをミカサは小振りのジャブで叩き落とそうとする。

 ナイフを持っていたフリーダの右手首に衝撃が走る。早さを重視した拳の威力とは思えない重さ。フリーダの予想を遥かに超えたパワー。

 フリーダはわざとその衝撃に従いナイフを落とすと、ミカサのがら空きになった左脇腹へ本命の蹴りを繰り出した。

 ミカサは反応しない。ジャブを打った体勢で無理やりガードをすれば最悪腕を持っていかれる。

 腹に力を入れ、痛感に耐えるよう唇を固く結ぶ。

 次の瞬間、想像していた何倍もの衝撃がミカサの体に襲う。全身の力を溜め込んで放たれたフリーダの蹴りは、悠々とミカサの体を後方へ吹き飛ばした。

 周りから関心の声が漏れる。近くで見ていたアルミンは、初めて幼なじみが飛ぶシーンを見て瞠目した。

 地面に落ちたミカサは豪快に吹き飛ばされたものの、ダメージが入っていないのか、悠然と立ち上がる。フリーダもそれに特段驚くことはせず、落としたナイフを拾い上げた。

 アルミンは吹き飛ばされたミカサが無傷なのをおかしく思い、先ほどまでミカサが立っていた地面へと視線を落とす。そこには、吹き飛ばされたはずなのに足跡も、地面が擦れた跡も存在していなかった。

 どうやらミカサはフリーダがナイフを落としたのを見て、先に飛び退いていたらしい。結果的にそれがフリーダの蹴りの威力を削ぐこととなり、派手に飛びはしたが、ダメージが入っていないのだろう。

 

「思ったより強い蹴りだった。見事」

「いや、そちらも鋭いジャブだった」

 

 お互いにお互いを褒め合いながら、フリーダとミカサは距離を縮める。ならず者役のフリーダがとどめ刺すところまで追い詰めるか、ナイフを奪われないかしない限り、この組み手は終われない。

 二人は手が届きそうな場所まで接近すると、それぞれが持つ相手を打ち倒すための技を繰り出した——。

 

 

 

 

 

 

 フリーダは夕食の準備である芋の皮むきをしながら考える。今日の朝、対戦したミカサ・アッカーマンという少女に関してだ。

 アッカーマンと言う名を持つからには相当な強さを持つと思っていたが、それでも彼女は女。フリーダは油断していた。やはり、アッカマーン一族は化物しかいないらしい。

 

「おい、フリーダ聞いてるのかよ」

 

 物思いに耽っていたせいか、最近一緒にいることの多いコニーの声が今更ながら耳に入る。

 フリーダはばつが悪そうな表情を浮かべると、「すまん」とだけ呟いた。コニーが話していた内容は、フリーダの頭に一つも入っていないからだ。コニーはそれに対し嫌な顔を作ることはせず、代わりに唇を尖らせる。

 

「フリーダって時々、押し黙る時がありますよねー。何か考え事ですか?」

 

 同じく皮むきをしていたサシャが首を傾げながらそう言った。

 

「少し今日の対人格闘について思い出していた」

「あぁ、ミカサとやり合ったらしいですね」

 

 サシャがフリーダの言葉に同意しながら、再び剥いていた芋へと視線を落とす。口振りから察してもらえるように、彼女はフリーダとミカサの対戦を見ていない。それはコニーも同じで、「俺も見たかったなー」とぶつくさ言い始めた。

 さて、何故この二人がフリーダvsミカサという夢のカードを見られなかったのかと言うと、それは対人格闘術の時間まで遡る。コニーとサシャはふざけていると教官に思われ、一日中走らされていたのだ。しかも、昼食抜きで。

 本人たちには全くふざけていたという自覚がないため、叱ってきた教官へ憤りを感じていた。しかし残念ながら、どれだけコニーやサシャが真面目にしていたと主張しても、第三者から見て、それを同意することができない有様だったのは言うまでもない。

 

「フリーダとの試合が見えなかったのは、コニーのせいですよ! コニーが変な構えしたからです」

「それ、お前が言うか! 鷹のポーズとかいう変な構えしてただろ!」

「あれは歴とした伝統ある構えなんです! コニーのような若輩者には分からないだけです!」

 

 激しく罪をなすり付け合う二人だが、フリーダからすれば五十歩百歩である。お互いに変な構えをしていたのは、格闘術に疎いフリーダでも分かる。

 

「第一、コニーはいつも考えがなさすぎますよ。昨日だって立体機動中にガスの残量みていなかったですし」

「お前は刃の扱い方が雑で、教官に怒られていたけどな」

「あ、それを言いますか!? だったらコニーだって——」

 

 いつの間にか、間にいるフリーダも忘れて二人は罵り合い出した。

 できることなら、目の前にある芋の皮を全て剥いでから口論して欲しいのだが、生憎フリーダに喧嘩の仲裁をできるほどの器量はない。いや、制止させようと思えばさせられるのだが、バカ二人の喧嘩の仲裁はフリーダでも骨が折れるためする気にはなれなかった。

 

「二人とも、そこまでにしよ?」

 

 突然、後ろから二人の口喧嘩を止める者が現れる。

 フリーダはその声の主が誰か察したため、振り向くことはしなかった。

 

「クリスタ! でも……」

 

 サシャは歯切れの悪い言葉を紡ぐ。コニーも、どこか気まずげに顎をそらしていた。

 

「その、悪かったな。言いすぎたよ……」

「いえ、こちらこそすみませんでした……」

 

 互いの非を認め合うことができたのか、二人は芋の皮剥き作業へと戻る。二人がああして白熱した喧嘩をするのは珍しかっただけに、他の取り巻きたちも安堵の声を漏らしていた。

 フリーダはいまだに浴びせられている背後の視線にあえて気づかないふりをしながら、剥き終わった芋を水の入った樽へと放り込んだ。

 

 

 

 

 

 

「やっぱりフリーダはすげぇな。いやー、ミカサとあんないい勝負するなんて」

 

 そう子供のようにはしゃいだのはミカサの隣に並び立つエレンである。数刻前の対人格闘術のことを思い出しながら、腕をびしばしと前に出しては頬を綻ばせていた。

 ミカサはそんな純粋なエレンの姿を見て、ふと数週間前のことを思い出す。

 ——そう、フリーダ・レンズは私の兄さんなの。

 衝撃の告白に、あの時の女子寮は微妙な空気に囚われていた。

「兄」という単語は誰にだって分かる。クリスタとフリーダが兄妹だという情報は、すでにあの日を境に訓練兵団中に広まりつつあった。

 それと同じくして、フリーダとクリスタの不仲説も兵士間で囁かれている。なんでも、フリーダとクリスタが会話をしているところを、誰一人として見たことがないらしいからだ。

 噂の信憑性は置いておくとしても、ミカサ自身、確かにフリーダとクリスタが仲良くしているところを見たことがない。食事だって、二人は別々に摂っているし、訓練中も事務的会話すらしていないのを見る。

 家族という存在に、特に思い入れ深いミカサにとって、フリーダとクリスタの関係性は薄気味悪いものでしかなかった。

 

「ねぇ、エレン」

 

 ミカサは隣で今も興奮を隠せていないエレンに話しかけた。

 どこか雰囲気のおかしいミカサに気が付いたのか、エレンは眉間に縦しわを作る。

 

「なんだよ、急に真面目な声だして」

「エレンは家族と話せない状況をどう思う?」

「あぁ? なんだそれ。謎かけか何かか?」

 

 彼にとっては要領を得ない質問だったのか、エレンは不思議そうに首を傾げた。

 だが残念なことに、ミカサの質問は謎かけでもなければお遊びでもない。漠然とした質問ながらも、その中には彼女なりに憂いが混じっている。

 

「そうじゃない。ただ、家族と話が出来ないことをどう思うのか純粋に聞いてる」

 

 改まってミカサがそう言ったものだからか、エレンは「あー」と思慮深い声を出した。

 

「そりゃ、悲しいに決まってるだろ……俺だって父さんや母さんともっと話したいことがあった」

「そう……」

「お前だって同じだろ?」

「……」

 

 エレンの問いかけにミカサは何も言わず、ただ頷いた。

 家族と二度の別れ。

 一度目は人攫いの男たちによって殺され、二度目は巨人に食われて死んだ。どちらもミカサの目の前で家族は死んでいく。みんながみんな、彼女の存命を願いながら死んでいく。

 家族が死ぬのはいつも唐突だ。もっと話をしていればよかったな、と思うのはいつも手遅れになってからだ。

 失って気づいてからは遅いこともある。いや、この世界の大半は失ってしか気づけないのかもしれない。家族の尊さも、日常の幸福も、眩い光だってそうだ。

 気づいてからでは遅いのだ。

 

「やっぱりだめ」

 

 ミカサが自然と言葉を溢せば、それに合わせて彼女の体は踵を返した。

 家族を二度も失った人間として、フリーダとクリスタの問題を見過ごそうとは思えない。家族は共にあるべきだ、と。理想論かつ夢物語が彼女の頭の中で浮かんでは膨れる。

 他人が介入するべき問題ごとではないのかもしれない。

 踏み込んではいけない領域があるのかもしれない。

 それでもミカサは、己の行動が間違っていないと信じることにした。

 

「エレン、ごめんなさい。私は少し寄るところがある」

「……それ、別に謝ることじゃないだろ?」

「そうかもしれない。ありがとう」

 

 ミカサがそう言えば、「別に感謝することでもねーよ」とエレンは告げるのだった。

 

 

 

 

 

 

 芋の皮むきも終わり、あとはスープとして煮込むだけとなった。フリーダは料理当番のため、その最後の工程まで面倒をみなければいけない。フリーダ以外の訓練兵は居らず、さっきまでいた人たちは皆んな思い思いに休憩していた。

 こうしてスープを煮込んでいると、フリーダの脳裏に牧場で住んでいたときの記憶が蘇る。朝起きて、妹の顔を見、朝食のシチューを作る。一連の流れとして確立されていたルーティンは、あの日以降一度も行われていない。それなのに、姉に教えてもらったシチューの作り方だけは、脳裏に焼き付いて取れそうになかった。

 

「何をしているの?」

 

 その言葉と共に、調理室へと入ってきたのはミカサ・アッカーマンだった。

 フリーダはいささか驚いたように目尻を上げるも、すぐさま何でもないように戻す。ミカサから話しかけてくること自体、フリーダにとって稀な出来事だった。

 

「スープを煮込んでいる」

 

 フリーダがそう言えば、ミカサは静かに目を伏せて、今し方、自身が入ってきた扉を閉める。

 

「クリスタの兄だと……アルミンから聞いた」

 

 放たれた言葉はシンプルで、誰でも理解できるような構文だ。

 フリーダは頭の中で考えることもせず、「そうか」とだけミカサに返す。

 

「なぜ、妹と話さないの?」

「……」

 

 しかし、次の質問には沈黙で返した。

 なぜ妹と話さないのか。

 それはユミルからも聞かれた言葉であるし、それは今でも一部の訓練兵から度々問われていることである。フリーダからしてみれば、他人に話せない内容が多分に含まれているため、理由を教えるつもりはなかった。

 

「困ったら口を閉じる。アルミンから聞いた通り」

 

 そう言われても尚、フリーダの口が動くことはない。

 

「家族は大事にするべき。あなたとクリスタの間に何があったかは知らないけど、たった一人の家族……なんだと思う。クリスタはいい子だし、あなたもエレンを助けてくれた、悪い人じゃない。アルミンだってあなたに気を許している」

 

 少々、文言がおかしくなりつつあるとフリーダは思った。ミカサの中でも、どのようにして言葉を紡げばいいのか、未だに模索している最中なのだろう。彼女の言った通り、ミカサはフリーダのことが分からないし、フリーダはミカサのことが分からない。ただ、家族を失ったと言う痛みだけが、なんとなく二人の中で共通認識として流れているようだった。

 ふと、ミカサの視線がフリーダの瞳から逸れた。フリーダはその視線を這うように合わせると、いつの間にか玉杓子を握る力が強まっていたことに気がつく。何故ここまで自身の力が入っているのか分からないが、ミカサの言葉がどこか自分の琴線に触れたのだろうと思った。

 

「俺には……やるべきことがある」

 

 ぽつりとフリーダが呟く。

 

「それは妹よりも大切なこと?」

「……」

「家族を切り捨ててでも、成し遂げるべきことがあるの?」

 

 ミカサの瞳を、じっと冷めた眼差しで射抜きながらフリーダは口を開けた。

 

「昔、ある老人が言っていた。『何かを変えることのできる人間は、何かを捨てることができる人間だ』と。『化け物を凌ぐ必要に迫られたのなら、人間性をも捨て去ることができる人のことだ』と」

 

「それに」とフリーダはさらに続けそうになるも、これは言わなくていいことだと頭を振る。今の妹は別人など、誰にも言えることではなかった。

 ミカサは何かを言い淀んだフリーダに、一瞬だけ怪訝な表情をするも、直様いつもの無表情へと戻した。

 

「……そう。あなたはどこかエレンと似ている」

「?」

 

 マフラーに顔を埋めるようにして、ミカサは自然と視線を横に流す。

 

「エレンには夢がある。今は話さなくなったけど……多分まだそれを追い求めている。その夢を追いかけている時のエレンは誰にも止められない。あなたと同じ」

「……」

「でもこれだけは覚えておいてほしい。家族はいつ失われるか分からない。話せる時に話しておいた方がいい。あなたならまだ間に合うから」

 

 それだけを告げ終えると、彼女は静かに調理場を後にした。

 残るのは重たく冷たい静寂と、それを身に纏う一人の少年のみ。ミカサの言ったことを頭の中で反芻させながら、フリーダは一人小さな息を漏らす。

 家族を失う痛みを知っているのは何もミカサだけじゃない。フリーダも、その辛さを嫌というほど味わっている。

 目の前で大切なものが殺される苦痛。それに対し、何もできなかったという不甲斐なさ。全てが黒い感情となって己の胸で渦巻き、次第に吐き気のする憎悪となって体外へと放出される。

 それが向かう先はなんなのか。そんなものフリーダには分からない。

 ただ姉の死後誓った「巨人になれる男への復讐」と「妹()()()者への苦悩」は、どうもフリーダの中で噛み合わずにいた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 5~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。