血塗れエルフと指輪の担い手 (生野の猫梅酒)
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第一話 流浪のエルフ

 ──中つ国の中でも有数の尾根であり、エリアドールを東西に分かつ霧ふり山脈の山道にて。

 

 カツンと、石突が硬い地面とぶつかる音が狭い空間に木霊した。

 

「これは……旅人の一行がゴブリンたちの犠牲になったのかな?」

 

 そう呟いた人物の装いは旅人のそれ。槍を持ち、弓を背負ったその人物は灰色のマントを着込み、同じ色のフードをすっぽり被っている。肩の辺りで二つに結わえられた黒の長髪がフードの外へと零れていた。

 彼女──声の高さからして女で間違いない──はその山脈の中に開けたその空間を静かに見渡した。暗闇の中でも爛々と輝く赤い瞳は壁の方に置き去りにされた複数の荷物を見つけている。しかし持ち主たちは何処にもおらず、ただ不気味な静寂だけがこの空間を支配していた。

 

「本道だけじゃなくて、こっちにまでゴブリンの罠が出来てたなんてね。ご愁傷様、名前も知らない旅人たち」

 

 霧ふり山脈には昔からゴブリンたちが数多く巣食っている。狡猾な彼らは旅人たちが休めるようなところに罠を張って、寝入っているところを攫ってしまうのだ。しかもこの場所の罠はしばらく前まで無かったはずだから、運の悪い旅人たちはあえなく新造の罠の餌食になったようである。

 可哀そうではあるが、中つ国ではままあるような出来事だ。旅人の女はそのことを熟知していたから勇んで助けようとは考えない。むしろ残された荷物をありがたく拝借し、今後の旅に役立てるつもりでいっぱいだった。残酷なようだが、旅をする以上はそのような非情さも求められる。

 

 ひとまず残された荷物を集め、後は必要な物だけ取ってそそくさと立ち去ろうと女が考えていたその時だった。

 女がやってきた方と別の入口から、不意に杖をかざした老人がやって来た。灰色の装いにとんがり帽子を被った魔法使いの装い。一瞬身を強張らせた女はすぐに正体に気付いて破顔した。

 

「おや、これはガンダルフじゃないですか、このようなところで出会うなんて奇遇ですね。気を付けてくださいね、ここはどうやらゴブリンたちの罠場らしいので」

「お前さんに言われなくてもそんなことは見れば分かるし、わしがここに来たのも奇遇では無いぞ、ミリアンよ」

 

 旅人の女は魔法使いをガンダルフと呼び、そのガンダルフは旅人の女をミリアンと呼んだ。気安いやり取りから見ても、この二人はどうやら旧知の仲であるらしかった。

 

「それより、いつからここに居る? ドワーフ達の一行を見かけたりはしなかったか?」

「ドワーフ達ですって? いいえ、全然。東から西へと向かって来ましたがドワーフどころか人一人だって見かけませんでしたよ」

「やはりか……となれば、万が一にも難を逃れて取るものも取り敢えず逃げおおせた訳では無いようじゃ」

 

 そう話すガンダルフの視線が置き去りにされた荷物へやられているのを見て、ミリアンは何となくの事情を察した。

 

「もしかして灰色の放浪者(ミスランディア)、あなたドワーフ達と結託して何かしてましたか?」

「無論していたとも。いや、している()()()()()と言うべきじゃな。ここで彼らがゴブリンの手に落ち死んだとなれば目的は達成できなくなるが」

「だったら難しいでしょう。たとえ灰の魔法使いが救援に向かったとしても、広大なゴブリン町に迷い込んで生きて出られる望みは薄い」

 

 しかしガンダルフはミリアンの言葉に耳を貸さず、荷物の傍の地面を触り何かを確かめているようだった。 

 

「まだ地面は温かい。彼らが罠に落ちてからそう時間は経過していないはずじゃ。助けに行かねば」

「……お言葉ですがガンダルフ、あなたはこのようなところで無謀にかまけて無駄死にをしていい方では無いはずです。考え直した方が良いのでは?」

「そういうお前はいつから臆病なほど冷静になったのじゃ、血塗れエルフ、柊郷(エレギオン)の復讐者よ。それにわしが助け出したいのは何もただのドワーフではない、山の下の王じゃ」

 

 山の下の王、と黒髪の女エルフは小さく呟いた。その名は無論知っている、かつて栄華を誇ったドワーフの国の王を指す言葉だ。しかしかの国は竜の襲撃によって失われて久しく、数多の財宝共々打ち捨てられた王国であると記憶していた。

 まさか、とミリアンは口を開いた。

 

「ドワーフ達と結託してエレボールを奪還するつもりですか? 竜を相手に?」

「そのつもりじゃ。そしてそのためにはこのような場所でトーリンらを失う訳にはいかぬのじゃ。お前さんとこうして話している間にも貴重な時間は刻一刻と過ぎておる。手遅れになる前に手を打たねば」

 

 それからガンダルフは、ミリアンを見やると少しだけ笑みを浮かべた。

 

「ここで出会ったのも巡り合わせ、奇遇な縁の一つじゃろう。彼らを助けるために力を借りたい」

「……えー」

「何を渋っておる。お前さんの抱く憎しみの一端を滅ぼし、ついでにドワーフ達の財宝の数々と復興したエレボールの威容を再び目にする良い機会ではないか。何より、こうして時間を浪費している責任の一端はそちらにもあるのじゃぞ」

「確かに金銀財宝を鍛えたり眺めたりするのは好きですけども。ああ言えばこう言う、さっきは奇遇じゃないとか言ってたくせに」

「どうとでも言え、時間が惜しいわい。わしはもう行くぞ」

 

 既にガンダルフの決意は固いようで、こうなると何を言っても曲げられないとミリアンは知っていた。それなりに長生きしているせいか付き合いも長いのだ。

 魔法使いの杖が光り、そのまま地面へ勢いよく叩きつけられた。一瞬の閃光、ついで地面に隠されていた罠の扉が勢いよく下に向かった口を開けた。どうやらここからドワーフ達は落ちていったらしい。

 覗き込んだ先は非情に暗く、まったく先の見えない落とし穴。誰が見てもゾッとするような深い穴へ、けれどガンダルフは一瞥だけすると身を躍らせて穴の下へと降りていった。

 

「まったく、仕方ないですね。あのエレボールが絡んでるなら少しは手伝いますよ」

 

 やれやれと頭を振って、結局ミリアンもまたガンダルフを追いかけ穴へと飛び込むのだった。

 

 ◇

 

 ゴブリン町の奥では既にドワーフ達が殺される瀬戸際まで来ていた。そこをガンダルフが魔法による閃光と衝撃でゴブリン達を吹き飛ばし、立ち上がれと檄を飛ばしたところである。

 

「私、場違いだなー」

 

 別にドワーフ達の仲間でもなんでもなく、ただの成り行きでやって来たミリアンにとっては居辛いことこの上ない。どちらの陣営からも『誰だこいつは』という目で見られつつ、ぼやきながら手に持つ槍でゴブリン達を突き殺す。その動作に淀みはまったく無かった。

 ただ、ガンダルフの他にもミリアンというエルフを知っている者は存在するようで。ゴブリン達の首領、大ゴブリンはミリアンを見て目を丸くしていた。

 

エルフの宝石細工師たち(グワイス=イ=ミーアダイン)の最後の生き残り、ケレブリンボールの娘が何故ここに居る? 数多のオークとゴブリンの血を浴びてまだ満足しておらぬか!」

「ご紹介どうも。というか、私のこと知ってるなんて随分と博識な」

 

 何千年も昔のミリアンの経歴を知っている人物などそうは居ない。さらに古くからのエルフの名剣を知っていたりもする辺り、この巨大なゴブリンは醜い外見に反してかなりの知識を持っているようだ。だからといって手加減してやるつもりは毛頭無いのだが。

 その後は案の定と言うべきか、無数のゴブリン達の追跡を振り切りながらの殺し合いとなった。広大かつ複雑なゴブリン町を駆けまわり、どこにあるとも知れない出口を探しながら武器を振るう。ドワーフ達は想像以上に屈強かつ器用にゴブリン達を蹴散らしていく。この調子なら別に私が居なくても良かったのでは、と槍を握りながらミリアンは考えていた。

 

「お主、人間ではなくエルフだな。何故ガンダルフと共にいた、裂け谷から追いかけてきたのか?」

 

 走りながら一人のドワーフがミリアンへと声を掛けてきた。エルフの名剣オルクリストを振るい、明らかに他のドワーフ達と一線を画す風格を持った壮年のドワーフである。

 

「そういうあなたはトーリン・オーケンシールド、まさか本当に山の下の王が出てくるとは。ドゥリンの一族は今も壮健なようで何よりです」

「質問に答える気は無いと?」

「私はミリアン、流浪のエルフです。上で偶然ガンダルフと出会って助力を頼まれました。ドワーフは好きだし、オークとゴブリンは皆殺しにしたいのでこうして共に戦ってます。これで満足ですか?」

「ミリアン……まさかあの『指輪細工師』のミリアンか? だとすればお主のことは好かんが、今は言ってる場合でもない」

 

 頑固で、かつあまりエルフを好かないドワーフの王もさすがにこの状況で言い争う気は無いようだった。不満を持ちながらもそのまま殿(しんがり)につくと追ってくるゴブリン達を斬り落とし駆けていく。王自ら一番危険な役を買って出る心意気は見事なものだ。

 

「そういう王様、私は好きだな」

 

 トーリンと真逆に好感を覚えながらミリアンも走っていく。槍の一突きでゴブリンを二体刺し貫き、薙ぎ払えば三体は谷底へと叩き落していく。雑兵程度は歯牙にもかけない戦いぶりを見せつけながら余裕を持って走っていく。

 この分なら、思っていたよりも簡単に難を逃れて一息つくこともできるだろうと、この時のミリアンは考えていたのだった。

 

 ◇

 

 その後は待ち伏せしていた大ゴブリンをガンダルフが斬り殺し、谷底へと滑落しつつどうにか外へと脱出すると難を逃れることに成功した。ミリアンもガンダルフもドワーフ達も、まったく欠けることなく逃げおおせたのは奇跡に近い。

 

「いや助かった、あれだけの大群を相手となるとお前さんの力を借りれて幸いだったとも」

「別に私が居なくとも十分に逃げられたと思いますけどね。こっちは裂け谷の「最後の憩」の館へ行くつもりが、結局東側に戻って来ちゃったし」

「それはすまなかったとも」

 

 あんまり悪く思ってなさそうな灰色の魔法使いへミリアンはこれ見よがしに溜息をつく。彼女からすれば本来の目的地からは遠ざかるし、今もドワーフ達からは敵対に近い疑惑の視線を向けられているしで居心地が悪いといったらない。エレボールという興味の対象が無ければすぐにでも去っているところだ。

 

「あーあ、これからどうしようかな」

 

 女エルフは一人夕焼けの空を見上げながらぼやく。ドワーフ達の話題はいつの間にかもう一人の仲間の話になっていたようで、本格的にミリアンの出る幕が無い。手持無沙汰な彼女は仕方なしに鞄からパイプとパイプ草を取り出すと、火を付けて一服。人間やドワーフ、それに小さな人の間で流行っている嗜好品だが、これを吸うエルフをミリアンは他に見たことが無かった。

 

 ぷかぷかと煙を吐きながら思い出すのは、かつて見たドワーフの王国の絢爛たる様だ。

 

「エレボールの財宝はまた見たいなぁ……」

 

 エルフというのは美しいものを生み出すのが好きで、それ故に石細工が巧みで宝石を掘るのに長けたドワーフ達とも本来は仲が良い。ただ、過去の遺恨から種族によってはドワーフとの確執があり、確か山の下の王の場合は他に闇の森のエルフと救援などの関係でいざこざがあったとミリアンは記憶していた。

 なので別にミリアン自身はドワーフに対して隔意は無く、むしろ種族としては大変好きな部類だ。特に冷淡な態度を取ったことも無い。だから旅に同行しエレボール奪還の手助けを行うことも嫌ではないが……果たして成り行きで出会った程度の相手を秘密主義のドワーフが信用するかどうか。

 

「まず無理かな、うん」

 

 自分でそう結論づけて思考を打ち切った。財宝奪還の旅は大いに興味があるが、同行は難しいし元々の目的地もある。無理を押して付いていく必要はないだろう。

 と、話も終わったのかガンダルフがやって来た。いい加減にドワーフ達にミリアンを紹介しようという腹だろう。面倒だし断ってこのまま去ろうかなと考えていた、ちょうどそんなとき。

 

 身の毛もよだつような遠吠えが夕焼けの斜面に響いた。

 

「──これは」

「ワーグだ!」

「オークが来ているぞ!」

 

 この場の誰もがその意味を知っている。闇に潜む呪わしき生き物たちがこの場を目掛けて近づいている。

 ドワーフも魔法使いも、遅れてやってきた小さな人も全員が身構えた。一難去ってまた一難、誰かがそう呟くのが聞こえる。そして巻き込まれたエルフはといえば、「これは面白くなった」とばかりに赤い瞳を輝かせた。

 

「なんですかガンダルフ、あなた達オークに追われてるんですか? 早く言ってくれれば良かったのに」

「ああそうじゃな、そんな余裕があればどこかで言ってるとも。無駄話をしている暇はない、全員走れ!」

 

 最後はこの場の全員に対しての指示だった。一挙に駆けだした彼らの間を縫いつつ、ガンダルフはミリアンに対してだけ静かに付け加える。

 

「この旅はオークだけでなく、『()()()』の息も掛かっているとわしは踏んでいる。どうじゃ、我らを助けてはくれんかの?」

「なるほど、それはまた」

 

 果たして、かつて『血塗れエルフ』と呼ばれた女は愉快そうに喉を鳴らした。

 

「サウロンとオークが絡んでるなら私の領分です。追手の半分はこちらで請け負いましょう、奴らを血祭に上げてみせますから」

「頼もしい限りじゃ」

 

 ──ノルドール・エルフの一人にして、かつて『力の指輪』の作成に携わったエルフ達の最後の生き残り。

 

 仲間も親も殺され、故にサウロンとオークに対して絶えぬ憎悪を燃やし続けている女こそ、ミリアンというエルフだった。



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第二話 血と憎悪の女

 もう何千年も昔、古い時代の話だ。

 中つ国に住まう強大なエルフ達は、自らの知恵と力を活用して世界をより美しく保つことが出来ないかと考えた。それは単に土地や民を維持するのでなく、魔力によって支えようという試みだった。

 そんなとき、正体を偽りエルフ達に接近してきたのが冥王サウロンだった。彼はエルフ達の知識に対する貪欲さに目を付け、自身の持ちうる知恵をエルフ達に授けつつ彼らの技術を学ぶことで魔力ある指輪の作成方法を会得してしまう。

 

 魔力ある指輪──すなわち『力の指輪』であり、後に善と悪の壮大な戦いを引き起こすことになる指輪の誕生した切っ掛けである。

 

 この時のエルフ達の長が柊郷(エレギオン)の領主ケレブリンボールであり、また冥王が製造した『一つの指輪』の存在を一番最初に察知したのも彼だった。ケレブリンボールは遠く離れた地に居るサウロンが口にした詩を耳にしたという。

 

 

三つの指輪は、空の下なるエルフの王に、

 七つの指輪は、岩の館のドワーフの君に、

 九つは、死すべき運命(さだめ)の人の子に、

 一つは、暗き御座の冥王のため、

 影横たわるモルドールの国に。

 

 一つの指輪は、すべてを統べ、

 一つの指輪は、すべてを見つけ、

 一つの指輪は、すべてを捕らえて、

 くらやみのなかにつなぎとめる。

 影横たわるモルドールの国に。

 

 果たして、サウロンと共同で作成された『力の指輪』たちはすべてがこの『一つの指輪』に支配され、彼の悪意に晒されてしまうこととなった。唯一ケレブリンボールが独力で作成した『三つの指輪』だけは支配を逃れエルフの王に託されたが、それさえサウロンの手に渡ればひとたまりもない。

 結局、自身の悪意を隠さなくなったサウロンの手によってエレギオンは滅亡し、名高きエルフの細工師たちも散り散りとなるか死に絶えるかの結末を迎えた。特に長であるケレブリンボールの死にざまは惨く、死ぬまで『三つの指輪』の所在を吐かなかった彼の死骸を旗と掲げてサウロンは進軍したのである。

 

 これが、『力の指輪』を生み出す契機を作ってしまった者たちの末路。

 知識と力を求めすぎたが故に騙され滅亡したが、決して始まりの思想が悪だった訳では無い。

 そしてただ一人生き残った、ケレブリンボールの一人娘──ミリアンという名のエルフは、彼を死に至らしめた冥王とオークの軍勢を相手に慟哭のまま復讐を誓ったのだった。

 

 ◇

 

 槍の穂先が月光に輝くと、次の瞬間にはオークの首が二つは飛んだ。

 

 吹き出す鮮血に怯むことなく血を浴びながら前へと踏み込む。するとすぐ横をワーグに乗ったオークが通過していくから、添えるように槍を突き出すだけで簡単に地面に叩き落された。返す刃を首元に叩き込み、息の根を即座に止める。

 その間に後ろから忍び寄ってきたオークには一瞥すらせず槍の石突を食らわせ、怯んでいる間に正面のワーグへと槍を投擲。躱しきれず脳天から串刺しとなったのを確認せずに弓を取り出すと、背後のオークへ振り向きざまに矢を放つ。一人、また一人とオークとワーグは数を減らし、優位にあったはずの闇の住人たちは呆気なく単独のエルフを前に敗北したのである。

 

「はぁ……これで全部かな。後は確実にとどめを刺してと──」

 

 かくして、すべての敵を殺し尽くして返り血に塗れたミリアンは弓を仕舞って槍を引き抜いた。灰色のマントにも黒髪にもどす黒い血がこびりついているが、それこそ戦功とばかりに彼女は気にしていなかった。

 あの後、やってくるオークとワーグの集団の半分ほどをミリアンは引き受けた。エルフはオークにとって大敵の一つであり、さらに言えばミリアンはこれまでに山ほどのオークを葬ってきた実績があった。オークからすれば襲撃対象外だとしても捨て置ける相手じゃない。

 そして結果はこの通り、無視できぬ相手を追いかけた果ては戦闘というより虐殺だった。さらにそれだけで飽き足らず、ミリアンは執念深くオークの心臓を突いて首を刎ねて回った。

 

「死ね、死ね! 冥王の従僕ごときが、中つ国をうろつくな……!」

 

 何度も槍を突き立て、虫の息な者も死体も分け隔てなく、心からの恨みと憎悪を込めて丁寧にその命を終わらせる。けれど()()()()()()()右手を頭にかざすと嘘のようにミリアンは落ち着き、深く息を吸うと槍を動かす手を止めたのだった。

 今度こそ仕事を終えたことを確認した血塗れのエルフは、すっかり暗くなって月の浮かぶ空を見上げた。やって来た方角へとよく目を凝らせば空を舞う大きな鳥たちの影がいくつも点在しているのが確認できた。

 

「あ、ガンダルフ達は大鷲に乗って逃げたんだ。良いなぁ、私も乗らせてほしかった」

 

 知恵を持ち言葉を解す大鷲たちはガンダルフの友だ。彼らならば窮地であっても駆けつけ助け出すくらいは簡単だろう。ひとまず知己がオークに殺されず一安心とミリアンは胸を撫でおろした。

 さて、これからどうするか──復讐の炎と、かつて宝石細工師だった者としての好奇心が交じり合った結果として、ミリアンはすぐに心を決めた。

 

「ドワーフ達を追いかけよう。オークは殺すし、エレボール奪還にも興味はある」

 

 冥王死すべし。いつか必ず父の仇を取り、その魂を無明の闇へ叩き落すと誓っている。故にドワーフの敵はミリアンの敵であり、オーク共を追い落とすのに躊躇いは欠片も無い。

 大鷲たちの行先はおそらくアンドゥイン河の北に聳え立つ見張り岩だ。安全地帯となるそこでドワーフ達は降ろされ、彼らはまた北への旅を続けるはず。ミリアンの現在地である霧ふり山脈の東側からならまだ追いつける。エルフの足ならば可能だった。

 

「それじゃ、行こうかな」

 

 槍の血を拭って背負うと、軽快にミリアンは駆け出した。

 オークとワーグの死骸を山と築いたばかりと思えないくらい、晴々とした表情をして。

 

 ◇

 

 ミリアンが数日ほど走っている間にも何度かオークやワーグの群れを近くに感じることがあった。ドワーフ達を追い立てる彼らを横から殺しに行くことも考えたが、ドワーフ達に追いつく前に余計な体力を消耗するのは避けたいと彼女は判断していた。

 そして追跡をすることしばらくの後、久しぶりに身体を落ち着けたのは、北方でも随一の狂暴な人物と呼ばれる相手の屋敷だった。

 

「宿を提供してもらってありがとうございます、ビヨルンさん。しばらく走り通していたので助かりました」

「ドワーフ達の後にエルフの一人くらい構わない。それにオーク共の返り血を浴びた相手を見過ごすのもすわりが悪い」

「感謝します」

 

 巨大な食卓を挟んでミリアンと向き合うのは大柄な男である。動物たちをまるで召使のように使い、給仕をさせながら豪快に木のコップをあおっている。

 彼の名はビヨルン、『皮を取り換える者』として人の姿と巨大な熊の姿を自在に取ることができる人物だ。今や人も少ない荒れ地の国に住まう数少ない者であり、恐ろしい人物ながらも良識と敬意を持って接すれば唯一の安全地帯を提供してもらうことも可能だった。

 

「まだ幼い頃、悪さをすればオークの血を被った恐ろしい黒のエルフがやってくると寝物語に聞かされたことがある。お前が戸口に現れて宿を求めた時、俺は寝物語の怪物が中つ国へ這い出てきたのかと驚いた」

「あはは、ご心配には及びませんよ、私が殺すのは闇に根を張る輩だけなので。そんな無差別に殺して回る幽鬼のように言われるのは心外です」

「……なるほど、寝物語もしっかり事実を基に作られてはいるようだ」

 

 既に灰色のマントを脱ぎ、熱い湯で返り血も落としたミリアンは美しいエルフの姿を取り戻してはいるものの、内心に秘めた暗い憎悪と怒りの炎までは隠しきれていなかった。

 ともあれ、憮然とした面持ちのままビヨルンはコップを『血塗れエルフ』へと差し出した。並々と注がれたミルクを一気に飲み干すのを見届けてから更に話を続ける。

 

「それで、わざわざ此処を訪ねてきたのも休憩がてらというだけではあるまい?」

「ええ、その通りです。先ほども仰ってましたけど、ビヨルンさん、ドワーフ達を見かけてますよね?」

「ああ、ちょうど昨日の朝にこの屋敷から送り出した。俺の馬たちを貸し与えもしたな」

「なるほど……行先はもしや緑森大森林──闇の森の古森街道だったりしませんよね?」

「あっちは駄目だ、既に道が木々と沼に沈み、南からやって来た巨大な蜘蛛たちが徘徊している。だから北のエルフの道を行くように薦めた」

「懸命な判断です。あなたの知性と良心に感謝を、皮を取り換えるお方」

 

 エレボールへ向かうにはこの先に広がる闇の森を抜ける必要がある。そのための横切る道が二つほどあるのだが、片方は既に闇の勢力の影響なのか消えてしまって久しい。ミリアンも実際に確かめたことが、オークを含む闇の生物の通り道となっていて非常に危険だった。

 しかしエルフの道もあまり安全ではない。道を外れれば魔法にかかって迷うし、夜となれば先も見通せない暗闇だ。魔法使いの先導があっても危険は尽きない。

 

「ありがとうございます、必要な情報は揃いました。このお礼は必ず」

「もう行くのか?」

 

 確認してきたビヨルンへと大きく頷いた。

 

「もしオーク共が先に追い付いてドワーフが殺されるようになれば寝覚めも悪いので。エルフの宝石細工師たちはドワーフの友ですから」

「しかし容易な道ではないだろう。敵はただのオークではない、強大だぞ」

「何か知っているのですか?」

「トーリン・オーケンシールドを追いかけているのは穢れのオーク、アゾグだ。その息子ボルグもおそらくは動いているはず」

「アゾグ! モリア東門の戦いで死んだと聞いてましたけど。生きてるなんて意外だな、息子共々早く殺してやらないと」

 

 名のあるオークまでもがエレボール奪還を阻止するために動いているのは予想外だった。いや、ガンダルフが語ったように背後に本当にあの冥王が居るのなら、それも当然なのかもしれない。かつてドワーフの抵抗に遭い、指輪の支配も受け付けなかった種族を冥王サウロンはたいそう憎んでいるのだから。

 ミリアンは立ち上がった。敵の正体も知った今、ますます休んでいる場合ではない。急いで追いついて影ながらでも助力できるようにしておきたい。

 

「では私も発ちます、たくさんのお湯と食べ物をありがとうございました。差し出がましいですけど、馬を一頭お借りしても?」

「構わない。だが闇の森に入る前に放してやってくれ、ドワーフにも同じことを頼み、それを見届けた」

「分かりました、我が故郷エレギオンに誓って約束は守りましょう」

 

 勝手に追いかけ、勝手に助力するつもりで、勝手にエレボールの財宝を見たいと願うのは傲慢かもしれないが。

 ともあれ、このエルフにとっては一挙両得となる得難い機会なのも間違いなく、その行為が悪によるものでないのもまた確実なのだった。

 

 ◇

 

 闇の森は今や闇の生物たちが蠢く危険地帯であり、しかもひとたび道を外れればあっけなく迷ってしまう幻惑の魔力すら掛かっている。

 しかも北の一角にあるエルフ達の王国にうっかり足を踏み入れてしまえば、不法に侵入した罪で捕らえられることも考えうる。個人的にも確執のあるトーリンがエルフ王スランドゥイルの下に取り立てられたら何が起きるかは想像に難くなかった。

 

「そういう訳じゃから、ミリアンには彼らの道案内を頼みたい。信用はされぬじゃろうが、先導が無いよりマシじゃろうて」

「何がそういう訳なんですか……」

 

 ミリアンは頭を抱えた。いや、相変わらず過程を省いてまず結論から告げてくる灰色の魔法使いに辟易したと表現すべきか。まさか魔法使いだけ闇の森の方から戻ってくるとは露程も考えていなかった。

 

「お前の性格ならわしらを追いかけてくることは分かっておったとも。そしてわしは、これから"白の会議"の一員としてドル・グルドゥアで大事な役目があるのでな」

「白の会議ですって? まさかあのサルマンが攻撃に同意して、しかも今から死人占い師(サウロン)を叩きに行くとでも?」

「その『まさか』かつ『しかも』じゃ。本当はこの旅が終わってから始まる予定じゃったが、時期が早まった。トーリンの旅路によって行動が活発化したのを賢人たちが危険視した結果じゃ」

 

 白の会議──それは中つ国をサウロンから守るために集った賢人たちの組織だ。エルフの諸侯や魔法使いたちが名を連ねており、ミリアンもまた、かつてサウロンに謀られ指輪造りに関わった者たちの末席として責任と共に所属していた。

 

「私、そのことを知らなかったのですけど。仲間外れにでもしました?」

「放浪エルフの所在が掴めなかっただけじゃ。この数十年いったいどこを旅していた」

「……東も東、遠くの方まで足を伸ばしてましたけども」

「なら仕方なかろう、文句を言うな」

 

 だから休息を求めて西へ向かったのに、そう呟くミリアンだった。

 

「それならそうと、私をドル・グルドゥアに向かわせれば良いじゃないですか。わざわざあなたと役割を入れ替える必要はありますか?」

「大いにある。オーク共を倒すことにかけてはミリアンの方がわしよりも適任じゃろう。もし彼らがオークの妨害により失敗し、エレボールに巣食う竜がサウロンと手を組んだら恐ろしいことになる。わしはその可能性も恐れているのじゃ」

 

 なるほど、とミリアンは頷いた。

 冥王と竜が手を組む。そんなことになれば数千年前の時代、上古と呼ばれた頃の大戦争もかくやな事態になりかねない。

 

「……ミスランディア、あなたの言うことは結果的にいつも正しい。私だってそこはよく知ってます」

「ならば──」

「元からそのつもりだったんです、あなた一人が居なくなっていてもやる事は変わりません。まだ肝心の彼らとはほとんど面識すらないですけど、ね」

 

 ゴブリン町で成り行きのまま助け、一行のリーダーとほんの少し会話を交わした程度である。信頼とは程遠い間柄であり、ハッキリ言って無謀なのはミリアンもガンダルフも認めるところだ。

 それでも、魔法使いはこのエルフを信頼しているし、腕に間違いないことも知っていた。彼女ならば十分に自らの期待に応えられると知っていたし、だから安心してより強大な悪へと挑みに行くことができるのだ。

 

「なら早く行ってください。どうせ奴の運命は指輪と結びついているのです、指輪と共に苦しみながら消える様を見届けるのはそれまでの楽しみにしておきます」

「わしとしては、是非ともその予言は外れて欲しいところじゃがな。では行くとしよう、そちらは任せたぞ!」

「ええ、任されました」

 

 こうして魔法使いはより凶悪な存在へと挑みに行き、エルフは予定通りに行動を開始したのである。




大まかなストーリーはひとまず映画版を踏襲してますが、整合性を取りつつ原作小説の設定も取り込んでいきます。


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第三話 エルフとドワーフ

 どうしてこんな事態になったのだろう──ミリアンは思わず天を仰いだ。

 

 眼前には眉目秀麗なエルフ王スランドゥイルが座していて、一触即発の雰囲気を醸しているのは山の下の王トーリン・オーケンシールドだ。雰囲気が最悪を通り越して凍り付いた彼らの間を取りなすようにミリアンは立っている。

 

「さて、ケレブリンボールの娘ミリアンよ。そなたの金銀細工の腕と引き換えにこのドワーフ達を見逃せとの事だが、状況はあまり芳しくないと見える」

「ドワーフがエルフの助けを得るつもりはないぞ。ましてはなれ山に眠る我らの財宝を望む者の手など、永劫借りることは無い!」

「はぁ……」

 

 エルフとドワーフの間で板挟みだ、困ったなー。

 呑気にそのようなことを考えるミリアンだが、彼女もまた渦中であることに変わりない。思わず現実逃避じみた思考が漏れる程度には状況の難しく、既に逃げ出したくなっていた。

 

 このような事態になった原因は、数時間程前にまで遡る──

 

 ◇

 

 闇の森へと足を踏み入れたドワーフ達の一行だが、案の上と言うべきか道を逸れて迷ってしまった。

 後から森へと踏み入り、ようやくの思いでミリアンが彼らに追いついた時には巨大な蜘蛛に絡めとられている始末。といっても、エルフ達の王国すぐ傍まで邪悪な生物が勢力を伸ばしているとはミリアンも予想だにしていなかったので、油断大敵とドワーフを責めるのも酷というものだが。

 

 そして彼女は、助けるよりもまず身を隠すことに専念していた。

 

「あー、えっと、エルフの人ですかね? 僕はともかくなんであなたまで隠れてるんです?」

「静かに。今バレたら事態がややこしくなるので」

 

 大木の陰に隠れつつ、自身の胸程度の身長しかない小さな人の口を塞いだ。視線の先では蜘蛛の難を逃れたドワーフ達が闇の森のエルフ達に連行されているところだ。口々に文句を言いつつ仕方なしに歩を進めている。

 しばらく経ち、エルフもドワーフも皆が居なくなったところでようやくミリアンは小さな人の口を塞いでいた手を外して、ホッと息を吐いたのだった。 

 

「まったく、まさか蜘蛛退治に出てたエルフとも鉢合わせるなんて。あなた達も運が無い」

「運が無かったのは仰る通りだと思いますけどね。僕としてはこれ以上の不運は見たくないので、早く彼らを助けに行きたいところなんですが」

 

 早口で彼はまくし立てた。その間にも横目で何度もドワーフ達が消えていった方向を見ているところに焦りが見て取れる。

 ただ、エルフの王国の方角をおおよそ知っているミリアンはいたって冷静そのものだった。

 

「エルフの王国に忍び込むのは並大抵のことじゃない。それともあなたには手段の当てがありますか、勇気ある蜘蛛殺し」

「勇気ある蜘蛛殺し、良い呼び名だ。でも僕はビルボ、ビルボ・バギンズというホビットです。そういうあなたは?」

 

 そういえばまだ名乗っていなかったなと黒髪のエルフは気が付いた。

 礼儀正しく自分から名乗った相手に対し、彼女もまた敬意を持って頭を下げる。

 

「私はミリアン、エルフの一人でガンダルフの友です。この前は霧ふり山脈で囮になったりもしましたが、覚えてますか?」

「ああ、なるほど、あのときの。ガンダルフも何も言わないからてっきり死んだものかと」

「失礼な。これでもオーク殺しには一家言あるのですが」

「それはまた……頼もしい限りで」

 

 じゃ、これでとビルボはさっさと背を向けた。その後ろをミリアンもまたついていく。

 数歩歩いてからホビットが先に止まった。エルフもまたすぐに止まる。

 またビルボが歩き出す。今度はミリアンも歩き出した。たまらずビルボは振り向いて一言、

 

「ついてくる気ですか?」

「どこに行くのかと思って。エルフ達の王国はあっちですよ」

「それはどうも」

 

 すぐに方向転換、ミリアンの指示した方へとビルボは足を向けたが、やはりミリアンはついてくる。というより、行動を見守っているかのようだ。

 ──本当は今すぐにでも洞窟で拾った"魔法の指輪"を使って姿を隠してしまいたい。けれどビルボの中にはどうしてか、他人にあの金色の飾り気のない指輪を見せたくないという気持ちが芽生えていた。指輪に触れた子蜘蛛を激情のまま刺し殺し、何かおかしいと感じたばかりだというのに。

 

 もちろんそんな事情をミリアンが知る由も無いし、逆にビルボからすれば彼女の目的そのものが不明だったのだが。

 上手く撒くのも難しそうで、結局二人は肩を並べて気配を殺しつつ森を進んでいく。

 

「どうして、僕に着いてくるんです?」

「ドワーフ達を助けに行くのでしょう? 私も同じ、ガンダルフによろしく頼むと言われたので。それにほら、エレボールの見事な造りと財宝がいつまでも竜に独り占めされてるのも癪ですから」

「エレボールに行ったことが?」

「ありますよ、ノルドールのエルフはドワーフと同じ石細工が好きな民ですから。私も何度かお邪魔しては巨像の彫りだしを手伝ったり、宝石細工をするために場を借りたり、割と仲良くやってましたよ」

「へぇ、じゃあ当時のトーリンとも会ったことがあるの?」

 

 これには明確に首を横に振った。

 

「いいえ、会ったことがあるのは彼の祖父スロールと父スラインの方。でも最後はほとんど喧嘩別れみたいなことしたからなぁ……」

「何か無礼なことでも言ったんですか?」

 

 エルフからすれば子供のように背丈も低く、力も劣るホビット(ビルボ)にも丁寧な態度のミリアンが無礼を働く姿など想像できなかったが、好奇心からビルボは訊ねてしまった。

 問われたミリアンの方は苦笑を零しつつ、後悔を滲ませながらその顛末を振り返る。指輪造りに関わった者としての矜持から出た決別だった。

 

「ドゥリンの一族に伝わる七つの指輪の一つ、それを捨てるべきだとスロール王に警告したんですよ。そしたら『一族の宝を捨てろとは何事だ!』と怒られて、口論になった挙句にエレボールから追い出されてしまいまして」

「指輪が、原因……でも王家の宝を捨てろなんて言われたら怒るんじゃないの?」

「侮るなかれ、ビルボ・バギンズ。それはただの指輪じゃなくて魔法の指輪です。しかも邪悪な意思の込められた、飛び切りに危険な代物なんですから」

 

 かつてドワーフ達に贈与されるはずだった七つの指輪はサウロンの手に落ち、邪悪な意思を吹き込まれた後で彼らの手に渡った。種族的な頑強さのおかげか"指輪の幽鬼(ナズグル)"とはならなかったが、好ましい道具では断じてない。

 

「だけど、聞き入れては貰えなかった。彼らは数千年の間に指輪が与える富に夢中になってしまった。あなたも仮に魔法の指輪を手に入れても軽々に扱うべきじゃないですよ。往々にしてそれらは定命の者への毒となってしまうから」

 

 共に宝石を細工し、石を削り、職人としての信頼関係を作ったうえでの忠告だった。

 しかし王家に伝わる宝をそう簡単に手放せるはずもなく、心からの忠告はごく当然の心理によって無駄に終わった。後から考えてみればそれもそうだと笑ってしまうが、当時のミリアンにとってはこれが最善かつ最短だと疑っていなかったから情けない。

 

「心からの忠告も時には聞き入れてもらえないこともある。そういうとき、簡単に相手のことを見限ってしまっては駄目ですよ」

「あー……気を付けます、ええ」

 

 ちらりと見えたエルフの右手に、簡素な青白い指輪が嵌まっているのをビルボは見た。指輪の話をしていたから目についたのかもしれない。

 説教臭い話はともかくとして、指輪のくだりはビルボとしても興味深かった。もし自分のポケットに入っている指輪を見せれば、どのような力を持っているものか正確に教えてくれたりするのだろうか? 話に挙がったドワーフ達の七つの指輪とやらより値打ちは無いだろうけども、思いもよらない発見があるかもしれない。

 

「……いや、やめとこう」

 

 だけど結局、悩んだ末に『この指輪って何?』という簡単な言葉すらビルボの口から出ることは無かった。

 理由は本人にも判然としない。ただ指輪を見せたくない、取り上げられる可能性がある、だとすればすごく惜しい、今後も透明化の力はきっと必要になる……等々、奇妙な執着と打算が入り混じっていた。

 

「さてと、そろそろスランドゥイル王の領地となりますが。一緒に来ます?」

「いや、結構。僕は僕なりにやりたいですし、第一まだあなたを信用し切れている訳じゃあない。悪いですけど別行動ということで」

「道理ですね、ではそうしましょう」

 

 あっさりと了承してミリアンは一人先へと進む。彼女の先には立派な橋と門が掛かっており、ちょうどドワーフ達を飲み込んで門が閉まり始めるところだった。それを見つつ木陰に隠れたビルボも指輪を嵌め、黒髪のエルフの後を追いかける。

 こうして一人は堂々と、一人は影からエルフの王国へと立ち入って、ドワーフ達を救うべく行動を開始したのである。

 

 ◇

 

 現存する最後の細工師、エレギオンの領主の娘という肩書はそう侮られるものでもない。真正面から名乗り出てひとまず王国へと入り込んだミリアンは、すぐにスランドゥイル王の下へと案内された。姿を隠したビルボが何をするつもりかは知らないが、時間稼ぎしつつ交渉を進めることが彼女の目標だ。

 

 粛々と玉座へ案内されたミリアンの眼前には、この国の王が座していた。

 やって来た相手を驚くこともなく一瞥したスランドゥイルは、少しばかり皮肉気な調子で口を開いた。

 

「久しいな、フェアノール家最後の生き残りたるミリアンよ。余の王国への侵入者が捕らえられた時と同じくしてやって来るとは、そなたも運が無い」

「運が無かったのは仰る通りだと思いますが、けれどその原因は違います。私にとって運が無いと感じる最大の理由は、ドワーフと共に来たことでなくドワーフがあなた方に捕らえられたことなので」

「なるほど。やはりそうか、髪の黒き(ノルドール)のエルフらしい言い草だ。かつてモリアのドワーフ達と懇意にしていただけのことはある」

 

 そなたの望みは見抜いている、と灰色(シンダール)エルフの王は続けた。

 

「先に捕らえられたドワーフ達の助命であろう? であれば安心するが良い、余とて彼らをいつまでも牢に置いておく趣味は無い。彼らの言葉次第で出してやろうではないか」

「慈悲に感謝いたします、エルフ王。無論、こちらとしても対価無しではありません」

「申してみよ」

 

 先を促され、ミリアンは自らの腕を前に出した。

 適度に筋肉の付いた白くて細い腕。幾度となく槍と弓を握ってオークを殺してきた腕だが、他にも誇るべき特技をいくつも継承してきた。

 

「私の鍛冶細工師としての力を。かつて培った腕はまだまだ衰えてはいませんので、武器でも宝石細工でも王の望むままに創造してみせましょう」

「ほう、望むままとは大きく出たな」

「私は上のエルフではありませんが、曾祖父フェアノール、祖父クルフィン、父ケレブリンボールと受け継がれてきた技術を宿しております。既にこの中つ国に私以上の細工師は存在しないと自負しておりますが、いかに?」

 

 挑戦的な笑みを浮かべて問うミリアンの瞳には一切の虚偽が無い。本心から自分の腕が中つ国で一だと信じているし、実際にそれを許されるだけの実績が右手の指に嵌まっている。

 

「なるほど、傲慢なその言葉も他の誰でもないそなたが語るなら信ずるに足る。しかしまずは、ドワーフ共の出方を見てみようではないか」

 

 扉の方へと視線をやったスランドゥイルは入れ、と一言許可を出した。

 エルフの兵に挟まれて玉座の間へと連れてこられたのは、やはりと言うべきかトーリン・オーケンシールドだった。武器も荷物もすべて没収されているが、瞳に宿る眼光と王としての風格はいささかも衰えてはいない。この状況でも頑なであり欠片も諦めてはいなかった。

 

 トーリンは先客であるミリアンの姿を見て何かを言いたそうにしたが、先に口を開いたのはスランドゥイルの方だった。

 

「ドワーフ達の崇高なる旅が始まった、との噂は耳にしていた。目的も分かりやすい、王家に伝わる宝を取り戻し、ドワーフの七部族を招集することで竜を討つつもりであろう? 間違っているかね?」

「……いいや」

 

 苦虫を百匹は嚙み潰したような表情で山の下の王は肯定した。

 

「旅の賛否をここで判じるつもりはない。しかしそなたらは事の重大さ、竜の危険性を軽視しすぎている。少数での無謀な試みにより竜が目覚めるくらいなら、何もさせない方がよほど賢い」

「だからお主は我らを牢へ繋ぐつもりだとでも?」

「まずその前に、余の王国に無断で踏み入った罪がある。これだけでも捕らえておくには十分な罪状だ。しかしそなた次第で何事もなく解放してやっても良い」

「交換条件ということか。だが我らがお主の言に乗ると思うか? かつて竜と火に追われる我らを見捨てたお主らの言葉を信ずると思うか?」

 

 トーリンは過去の経験からエルフをまったく信用しなくなっており、猜疑的な言葉ばかりを投げかける。エルフの王はこれをしっかり理解しているようで、気にした様子もなく条件を提示しようとする。

 そして傍で聞くミリアンからすれば、エルフ達に竜と戦えというのは酷な話だが、支援の一つ二つは有って良かったとも感じるのでどちらの肩も持たない。共に言い分の筋は通っている。

 

「まずは聞くが良い。かの山には余の求める白の宝石も眠っている。もし王家の秘宝アーケン石だけでなく、これも共に回収して余に譲り渡すと誓うのならばここから出してやろう」

「信じると思うか?」

「これは王と王との約束であり、そなたが信じなければ牢で朽ち果てるのを待つだけ。そなたの野望とエレボールに眠る財を思えば安い取引であろう?」

 

 まるでシルマリルとナウグラミーアを巡る言い合いのようだな、と傍観者(ミリアン)は呑気に考える。

 とはいえ、これはスランドゥイルの方が譲歩している。エルフはこれ以上の財など必要ないし、たった一つ宝を渡す程度でこの窮地を抜けられるなら儲けものだが……

 

「この世の誰が我らのために心砕いてくれようが、お主の言葉だけは信じるに足りん! 竜の炎に焼かれろ、強欲で傲慢なエルフ王め!」

「竜の恐ろしさなど今更説かれるまでもない! 余もその昔、第一紀の頃から幾度となく竜とは戦ったとも」

 

 言葉と言葉がぶつかり合い、空気すら凍てつくようなにらみ合いが二人の間で発生する。

 たっぷり十秒ほど沈黙が場を支配した後、先に口を開いたのはスランドゥイルだった。

 

「では交渉は決裂という訳だ。ならば百年の歳月の間にそなたらが牢で朽ちるのを待つのも惜しくない……と言いたいところだったが。そなたらは運が良い、ドワーフのために対価を肩代わりしようという物好きがこの場にはいるのだから」

 

 そこでスランドゥイルは初めてミリアンの方へと目線をやり、会話の流れが二人の王から逸れていく。熱くなっていたトーリンも彼女の存在を思い出したのか改めて微妙な顔でそちらを見やった。

 

「ミリアン……かつて祖父に我らの秘宝を捨てるように迫った黒髪のエルフか。今更になって我らに何用だ、まさかエレボールの財宝が目当てか?」

「半分は正解ですね。私はガンダルフに頼まれてあなた方の旅を助けようと考えています。その果てに、取り戻したエレボールの見学や、今は失われた炉を使って鍛冶をさせてもらえれば嬉しいのですけど」

「貴様は既に我が祖父スロールにより山の下の王国へ入る権利を失っている。たとえ魔法使いに頼まれていようとその決定は覆らないと知れ」

「……随分と根に持っているようで」

 

 半ば承知していたが禍根の根は深い。今でも七つの指輪を巡る言い争いが尾を引いているとは、ドワーフが受けた恨みも忘れない性質であることを無意識に甘く見積もっていたというべきか。

 これは困ったな──ミリアンは口の中で小さく呟いた。相変わらず王同士は視線に火花を散らしているし、庇おうとしたら更に過去の遺恨を持ち出されるとは。誓って悪感情は無いけれど、証明するのも難しい。

 

「さて、ケレブリンボールの娘ミリアンよ。そなたの金銀細工の腕と引き換えにこのドワーフ達を見逃せとの事だが、状況はあまり芳しくないと見える」

「ドワーフがエルフの助けを得るつもりはないぞ。ましてはなれ山に眠る我らの財宝を望む者の手など、永劫借りることは無い!」

「はぁ……」

 

 結局、話はいつまでたっても終息を見ない。

 見通しが甘かったし、まさか巡り巡って七つの指輪に足を引っ張られてしまうとは。もはやミリアンが何を行っても逆効果にしかならないだろう。

 となれば、後はもう王国に忍び込んだもう一人に託す以外に道はない。大見得切った自身の滑稽さにため息をつきながら、ビルボ・バギンズによる牢獄破りの成功を祈るのだった。



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第四話 『力劣る指輪』

 スランドゥイルとトーリンの交渉は決裂し、ミリアン自身も落としどころを見つけることが出来ずに一夜が明けた。特に次善の策も思いつかず、いっそエレボールに単独で突撃してやるかと考え始めたところで、唐突に鳴り響いた角笛の音で思考を現実に戻された。

 

「最後は結局こうなるかー……」

 

 音の出所は湖の町へと繋がる川に面した方、おそらく水門を閉める指示だった。急いで現場に急行すれば意気揚々と王国から脱出していくドワーフ達とホビットの姿があるではないか。川の勢いに揉まれながら去っていく彼らの乗り物は樽だろうか? 随分と妙な選択をしたものだと訝しみながらミリアンは地を蹴った。

 こっそりエルフの王国へ忍び込んだホビットはどうやら首尾よくやったようである。どのような魔法を使って番兵の目を搔い潜り、誰にも露見することなく牢獄から仲間を脱出させたのかは知らないが、並外れた手際だ。

 

 しかしここからが問題であり、闇の森のエルフ達はそう甘くない。

 

 牢からの脱獄を彼らが許すはずもない。なので助太刀と行きたいがエルフ達を殺さず無力化というのも難しかった。第一ここで敵対することに一切の利点がなく、何かの間違いで殺してしまえば同族殺害となり、かつて彼女の一族(ノルドール)が犯した罪を繰り返すこととなる。これは避けたかった。

 

「水門を閉められたら脱出できないだろうし、これを補佐して私も逃げればいいかな」

 

 小火(ぼや)でも起こして注意を引き付けたところでこっそり水門を開こう──パイプ草を吸うための火起こし道具を取り出しながらミリアンは追いかける。追いついた先ではやはり水門を閉められ立往生しているドワーフ達の姿があった。

 既に門番達は臨戦態勢。これはまずいとミリアンもまた煙の出始めた火種を森の方へと投げようとして、異変に気が付いた。門番達の更に背後、そちらから集団の足音が地ならしのごとく響いてくる。

 

「オークだ!」

 

 誰かが叫んだ。その時にはもう門番の一人に矢が突き刺さり、その後ろから醜い影がぞろぞろと沸いて出るところだった。武装したオークの集団、彼らは執念深く闇の森までトーリンらを追跡していたようだ。

 さすがにエルフ達も意識を切り替え、抜いた剣をオーク達へと振りかぶる。ドワーフ達も樽の中から何とか応戦を開始していて、こっそりと様子を窺っていたミリアンは一瞬だけ手元の火種を見つめた。

  

「……とりあえず、投げちゃえ」

 

 近くにやって来たオークへ投擲、火の粉と煙を目眩ましにした所で背中の槍を手に取った。陽光の下、きらりと穂先が白く輝く。己が手で鍛えた槍の銘は『リンゲヒ』、飾り気のない白の槍はかつて上級王ギル=ガラドの振るった『アイグロス』の槍にも勝るとミリアンは自負していた。

 ともかく、絶大な自信に違わず槍の切れ味は見事なもので、優美な刃が翻る度にオークの首か腕が宙を舞う。長物の間合いを完全に掌握し、傷付くことなく血飛沫だけを浴びながら前進していく。

 

「血塗れエルフだ、なんとしても奴を殺せ!」

「血塗れエルフか、手を貸してくれ!」

「言われずともオークは皆殺しにしますよ、っと!」

 

 まったく同じ呼び名で正反対のことを言われるが、返り血を浴びてまわる黒髪エルフは止まらない。恨みと怒りをこめて殺しながら名の通りに灰色の外套を赤色に染め上げる。

 

「あれ、水門が開いてる」

 

 いつの間にか閉ざされていた出口が開け放たれている。誰か、というよりドワーフがこの乱戦を利用して開けたのか。殺すのに夢中で気付くのが遅れたと自省しながらミリアンも流れて行ったドワーフ達を追いかける。

 と、気が付けば闇の森のエルフ達も増援にやって来ていて、その先頭を走る男のエルフがミリアンへと目線をやった。

 

「エレギオンのミリアンか! あなたとはいつも殺し合いの場で遭遇する!」

「緑葉のレゴラス! こんな時に顔を見るなんて!」

 

 金髪のシンダール・エルフ、スランドゥイル王の息子レゴラスとは昔から何かと戦闘の場で出会うことが多かった。彼自身エルフの中でもかなりの実力者であるから、戦いの最前線でばかり見かけるのもある意味で当然なのかもしれない。

 再会の挨拶もそこそこに水門を越えて歩を進める。既にオーク達は川を沿うようにして展開しており、その周囲も木々が生い茂っているため槍一本で戦うのはいささか厳しいと判断、ミリアンも他のエルフ達に倣って槍から弓へと持ち替えた。

 矢を番え一射、二射と矢を射かけたところで、レゴラスが引き抜いた見事な業物が目に入る。鍛冶師としてその剣の存在自体は彼女も知っていたが、まさかここでお目にかかるとは思っていなかった。

 

「その腰の剣、もしかしてゴンドリンのオルクリスト?」

「ああ、そうだ」

 

 手際よくオークの首を落としながらレゴラスが答えた。次の瞬間にはオルクリストを仕舞って弓を持ち、かと思えば背中の双剣を振るっている。見事な早業、そして手並みだ。

 ミリアンが生誕した第二紀よりもさらに昔、上古と呼ばれる第一紀の頃に鍛えられたエルフの名剣がオルクリストだった。土地ごと水没する大戦争の末に失われたはずが、なぜ今更出てきたのか。

 

「ドワーフ達の頭領が持っていた。授かったものと語っていたが、おそらくは嘘だろう」

「へぇ、トーリン・オーケンシールドが。どこで手に入れたかは知りませんけど、それは運が良い」

 

 ただ、ドワーフが持っていたからとあまり決めつけるのも良くないが、と心の中で呟く。結局のところ剣は収まるべき主の手に収まるのだし、彼が持っていたのならそれが運命なのだろう。別にこの場で説いたりする気は毛頭無かったが。

 

「しかし何故あのドワーフ達はこうも執拗にオークに狙われている? 我々の国に侵入してまで追いかけてくるなど尋常では無いぞ。蜘蛛だって先日もタウリエルが駆除したばかりだというのに、昨日もまただ」

「それだけ強い悪意で統率されたオーク達という訳です」

 

 片手間にオークを射殺しながらこの戦いの原因について会話を交わす。

 

「近頃この森の南方、ドル・グルドゥアで動きがありました。これを受けて魔法使い達は裂け谷とロリエンの協力の下、いよいよ攻勢へと打って出るようです」

「なるほど、悪しき者からすればドワーフらが竜を討ってしまえば不都合があると」

「北方の脅威が減れば結果的に自らの支配も弱まるから、いよいよ死人占い師も手段を選ばなくなってきた、ということです」

 

 それに、とミリアンは付け加える。

 

「サウロンもまた宝には目が無いので、案外エレボールの財宝も狙っているのでしょうね」

「……意外と俗物なのか?」

「さてね、魔法使いにでも今度聞いてみましょうか」

 

 冗談めかしたことも言いつつ、ひとまずは会話を打ち切って目の前の戦いに集中していく。川の流れはいよいよ速くなりドワーフ達を入れた樽は先の方まで流れてしまっている。オーク達も追いかけているものの段々と引き離され、彼らに追いついたエルフ達との交戦が主となり始めていた。もはや互いにドワーフ達に構ってはいられない。

 

「あれ、私まで置いていかれたらあんまり意味がないような……」

 

 レゴラスが背後からオークに不意打ちされそうになったところを、トーリンが偶然なのか意図してなのか武器を投擲して救い、そのまま鬨の声と共に流れ去っていく。これを見送ることになってようやく、結局はミリアンまで上手いこと引き離されてしまったと気が付いたのだった。

 

 ◇

 

「あなたはどうする、ミリアン。一度我々の国へと戻ってくるか?」

 

 戦闘後、オークの一人を捕虜としたレゴラスに問われたミリアンは「うーん……」と悩んでから川の先を目でやった。

 

「ひとまず彼らを追いかけることにします。どちらにせよオークに追われているのは変わらないので、これを見逃す道理はない」

「相変わらずのオーク嫌いか。エルフは全員そうとはいえ、あなたの憎悪は群を抜いている」

 

 彼女の戦い方はあまりに苛烈だとレゴラスは知っている。ひとたび槍を抜けばオークを殺しつくすまで止まらないし、他に目的があってもなお殺害を優先してしまう。殺した後の死体にすら念入りに止めを刺してまわる姿は一種の狂気すら感じ取れるほどだった。

 そんなエルフが、かつて友好関係にあったとされるモリアのドワーフ達の末裔を助けようと動くのは、理に適っているはずなのにどこか歪さも感じ取れるのだ。

 

「これは私からの忠告だが、手段と目的を取り違えてはならない。どちらにせよエレボールの財宝は危険だ、願わくば彼らを止めて欲しいのだが……」

「彼らはそう簡単には止まらないし、私も鍛冶師の端くれなので。時間も無いですし私はもう行きます、きっと次に会う機会はそう遠くならないことでしょう」

 

 最後に予言とも取れる言葉を残してミリアンは去って行った。きっと彼女の中には彼女なりの正義があり、これに従うことに躊躇いが無いのだろう。中つ国を生きる流浪のエルフを言葉で留めることは難しい。

 

「あれが血塗れエルフですか……確かに実力はありますが、自由すぎるほどに自由」

「ああ、タウリエルは彼女と会うのは初めてだったか」

「ええ。エルフの間ですら半ば伝承とされる存在、間近で見れば頼もしいけど恐ろしかった」

 

 闇の森の王国の近衛隊長、タウリエルはミリアンのことをそう評した。古くから生きているエルフも今や少ない中つ国で、とりわけ貴重な血筋あるエルフが放浪者のごとく好きに生き、今もなお復讐の炎を絶やしていないのが信じられないといった顔だった。

 

「因縁、呪い、性格。様々なものが絡み合った結果だろう。私たちが関われることでもない。それよりもまずは、捕らえたオークを尋問して情報を吐かせるぞ」

「はい、わかりました」

 

 脱獄したドワーフ達に、これを追いかけていった血塗れエルフとオーク達。

 彼らについて思うところはそれぞれあれど、ひとまずは自らの王国へと帰還するのだった。

 

 ◇

 

 一方、樽に乗ったドワーフ達を追いかけていったミリアンは、一日遅れで湖に浮かぶ町へと続く桟橋にまでたどり着いていた。本当はドワーフ達の痕跡を見つけた地点から舟で渡りたかったのだが、生憎と近場に舟が置いてなかったので回り込む羽目になってしまったのだ。

 

「エスガロス……随分と活気も無くなって寂れたな」

 

 時刻は既に昼過ぎ、けれど町自体にどこか陰鬱な雰囲気が漂っているせいで影を感じる。かつてエレボールと谷間の国が栄えていた頃の交易による栄華は見る影もなく、久々に訪れたミリアンの目にはもの悲しく映っていた。

 エルフの王国とワインのやり取りをしている町だが、黒髪のエルフの来訪は物珍しいのか奇特の目で見られているのを感じる。灰色のフードを目深に被り、やや俯きがちになりながら情報収集を開始した。

 

「この町にドワーフ達がやって来たりしませんでしたか?」

「ああ、来たよ。ちょうど今朝はなれ山に向かって出て行ったよ」

「そうですか、ありがとうございます」

 

 人の集まっている市場で何人かに声を掛けてみれば、求めている情報はすぐに手に入った。

 どうやら既にドワーフ達はこの町すら出ているようだ。しかも物資の補給なども受けて万全の状態らしい。なら一刻も早く、万が一にも竜と対面してしまう前に追いつくべきか──

 

「そういえばさっき向こうでドワーフを見たよ」

「ああ、あたしも見たね。バルドの家の方に向かってたっけか」

「バルド? その話、詳しく聞いてもいいですか?」

 

 故郷の奪還に固執していた彼らがわざわざ町に残ることなどあるだろうか。何か事情があるのかもしれない、先にそちらを確認してから山を目指しても遅くはないはず。

 それに、町にドワーフが残っていることも問題の一つだ。このまま何もせずにいれば、確実にオーク達は湖の町へと追手を差し向ける。そうなれば無関係な人間にまで狼藉を働く可能性は非常に高い。

 

「バルドの家のドワーフ……ありがとうございます、有意義な情報でした」

 

 話に出てきたバルドの家の位置だけ聞くと話もそこそこに立ち去る。聞き込みをしているうちに時刻はもう夕方手前、うかうかしてると日が落ちオーク達の時間帯となってしまう。それまでに接触をしておきたい。

 ミリアンは博愛主義者などではないが、関係のない相手にまで被害が出るのを厭う程度の正義感は持ち合わせていた。何よりもオークを殺せる良い機会、これを逃す手はない。

 

 そうと決まれば行動も早く、湖の町の中を軽やかに駆けていく。人と人の間をすり抜け、軽快に小舟を渡りながら走って行った先には他と変わらぬような古びた小屋がある。ここがバルドの家であるようだと頷きながら戸口を叩く。

 

「ごめんください、ここにドワーフが居ると聞いてやって来たのですが」

 

 一拍置いてから扉がゆっくりと開いた。鋭い眼光に黒髪の長い男性だ。

 

「……誰だ」

「私はミリアン、エルフです。理由あってドワーフを追いかけているのですが、バルドという方の家に何人か来ていると噂を聞きました」

「そうか、なら人違いだ。帰ってくれ」

「あ、ちょっと!」

 

 バタンと閉められそうになった扉にブーツの足を差し込み閉じさせない。

 耳を澄ませば男の背後から複数人が慌ただしく動く音と、苦しそうなうめき声が聞こえてくる。

 

「ドワーフっぽいうめき声が聞こえてますよ。怪我したドワーフでも匿っているなら治癒の手助けくらいはできるはずですが」

「本当か? ……なら良い、こっちに来い」

 

 態度を一転させたバルドに招かれて家へと踏み入る。いたのは四人のドワーフ、それにバルドの息子と娘と思しき子供三人だ。彼らが一緒になって若いドワーフを介抱しているようだが、事態はあまり芳しくないように見える。

 

「毒矢にやられたらしい。症状は高熱と激痛、解熱剤を使ってはいるがまるで効果が無い」

「オークの毒……いや、ここまでとなると黒魔術(モルグル)の系統? どちらにせよ厄介なものを撃ち込まれたみたい」

 

 毒消しの作用がある道具もミリアンの手持ちには有るが、ここまで高等な毒となればどこまで効くか。むしろこんなものを平気で持ち出してくる辺り、想像以上にドル・グルドゥアの影は色濃くなっているのかもしれない。

 

「癒しの手を持つエルロンド卿なりドゥネダインの王が居ればよかったのだけど……」

「おいアンタ、誰だか知らんがちょっと下がっててくれ!」

「霧降り山脈で見たエルフか? 頼む、キーリを助けてやってくれ!」

「ボフールが王の葉を取りに行ってる! それで何とかできないか?」

「ちょっと待って、私にだって得手不得手はあるから!」

 

 矢継ぎ早に声を掛けてくるドワーフ達をいったん宥めて問題の病人──誰かが言っていたがキーリと呼ぶらしい──を見る。もう毒は身体中に巡っている、ここまで進行していると対症療法だけで毒が消えるのを耐えるのは難しそうだ。

 それでも出来ることはある。急いで荷物から取り出した小袋の中には幾つかの薬草が混ぜ込まれていて、これをちょうど沸かされたお湯の中へと放り込む。

 

「解毒と解熱とその他諸々の薬草を乾燥させてすり潰したのをお湯に溶かしました。簡易的な薬湯ですが無いよりはマシでしょう」

「そうか、助かる!」

 

 ここに来てドワーフとエルフの確執を持ち出す気も無いのか、一も二もなく受け取った若いドワーフがそれをキーリへと飲み込ませた。わずかに呼吸が楽になるが、まだ予断を許さない状況だ。

 

「あとは……」

 

 ミリアンの右手に嵌まる青白い指輪を見つめる。これを他人に貸し出すことはほとんど無い。可能な限りこの指輪のことは秘密にしてきたし、もし奪われたら地の果てまでも追いかけて取り返すだけの覚悟がある。

 しかし目の前に死にそうな相手が居て、これを解決できる可能性があるものを出し惜しみするのも性に合わない。そう結論付けたミリアンは右手からその指輪──『力の指輪』の亜種、『ファウティーン』を外すとキーリの指にそっと付けた。

 

「落ち着いて、心を静かにして。この指輪のことを意識してください。そうすれば少しは痛みも引いて、冷静になれるはず」

 

 ゆっくりと語りかけながら指輪を意識させると、うめき声と共に叫ぶばかりだったのが少し穏やかになった。誰ともなく家中に安堵の空気が漏れるが、まだこれで解決できた訳じゃない。

 

「この指輪は心と痛みの鎮静化を司りますが、毒を完全に消してくれる訳じゃありません。一刻も早い解毒は必要なので、そこはあなた達で何とかしてください」

「おい、アンタはどうするんだ?」

「私は──」

 

 静かに槍を抜いた。彼女の視線の先、窓から見える湖の町はすっかり夜の帳に沈んでいる。

 

「これからやって来るオーク達を皆殺しにする仕事があるので。指輪は後で絶対に返してくださいね、奪ったり失くしたりしたら絶対に許しません」

「わ、分かった……」

 

 扉を開けて夜の街並みの先を見通す。

 影から這い出してくる醜い生き物たちの気配、悪意と腐臭に満ちたその存在をミリアンは確かに察知していた。




感想・評価ありがとうございます、非常に励みとなっております。
中々ハーメルンでも見かけない原作ではありますが、少しでも認知されて楽しんでもらえているなら幸いです。


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第五話 オーク殺し

本作品の方針ですが、ハッピーエンドを目指してます。


 ──彼女は、己が手で美しいものを作るのが好きだった。

 

 宝石でも装飾品でも、武器や防具でも構わない。豪華絢爛なものから機能美に溢れた一品までと美の介在するものは何でも愛した。そして気が付けば自らが美しいものを世に生み出したいと考え始めたのも自然な成り行きと言えよう。

 こうしてエレギオンの領主の一人娘、ミリアンは鍛冶師を志すことになった。まだ人間と比較してもなお幼い頃から父たちの冶金技術を見て覚え、拙いながらも真似をしては怒られながら成長した幼少期だった。長じてからは自ら槌と鑿を手にし、大地が水を吸うかの如く知識を我が物とするのを喜びとするような、そんなエルフとして育っていく。

 

 美しい装いの内に鍛冶技術への知識を携えた来訪者──アンナタールがエレギオンにやって来たのは、ミリアンが誕生してから二百年が経過した第二紀一二〇〇年のことだった。

 アンナタールの持つ技術は素晴らしく、また為人(ひととなり)も見事だった。エルフの細工師(グワイス=イ=ミーアダイン)達はすぐに彼の持つ驚くべき技術の数々に魅了され、反対に教えを乞われれば喜んでエルフ達の粋の結晶を彼へと授けていく。

 そうした技術交流の輪には当然ながらミリアンも混じっていて、若手ながら凄まじい勢いで腕を上達させていた彼女も喜んで教えを受けるようになる。はっきりと述べてしまえば、彼女はアンナタールに敬愛の念すら抱いていた。

 

 かくしてエルフの細工師らはアンナタールの協力の下、『力の指輪』を生み出すに至った。その過程では試作品となる『力の弱い指輪』も無数に制作されていた。これらの大部分は大した力もなく無為に打ち棄てられたが、中には『力の指輪』に次ぐ魔力を持った指輪も存在する。

 その一つがミリアンの作成した鎮静の指輪『ファウティーン』であり、当時の彼女が持ち得る技術のすべてをつぎ込んだ一品だった。青白く輝く美しいそれにはアンナタールからの教えも自己流としながら混ざっていて、まさしくミリアンにとっては生涯の宝物となるべき作品だったのに。

 

 結局ミリアンは、エルフの細工師達は、最悪の形でアンナタールに裏切られた。冥王サウロンが姿を偽っていた姿が彼であり、『力の指輪』を支配する『一つの指輪』を『滅びの山』の火の室で造り出したことでその正体を現した。もはやエルフへの敵意と悪意を隠しもせず、真正面からエレギオンは彼とその指揮下にあるオークらの手で滅ぼされた。

 

「鍛冶師としての彼は悔しいくらいに尊敬できて、だから敬愛している自分が心の底から許せない。父と故郷の仇は必ず取るし、これを成すまで西の果てに帰れなくても構わない。私の指輪と心に誓って」

 

 『血塗れエルフ』の血と呪いに塗れた誓言は、こうして始まりを迎えたのだ。

 

 かくして『血塗れエルフ』は誕生し、フェアノール王家最後の生き残りは復讐のまま中つ国を駆け巡る。いつか必ず報いを与え、その配下共々地の底へと送り込んでやるために。自らの立てた誓言を達成するその時まで、地を這ってでも戦い続けるだろう。

 ただ一つだけ、ミリアンにとっての誤算はといえば。どれだけアンナタールとそれに騙された自分が憎かろうとも、ついぞ自らの指輪『ファウティーン』への情を捨てることが出来なかったことだった。

 

 ◇

 

 湖の町に残ったドワーフ達と合流し、毒に苦しむドワーフに指輪を貸し与えたミリアンは今、家々の陰に隠れて息を潜めていた。オーク達がはなれ山へ向かった可能性は考えない。『可能ならばいつでも、ドワーフを苦しめるように』とかつて触れを出したのは冥王その人だ。二手に分かれた内の弱っている方を狙わない訳が無いとミリアンは経験で知っていた。

 

「……やっぱり来た」

 

 月も出始めた夜半にて。屋根の上を静かに移動するオーク達の影を捉えた。どこで情報を得たのか真っすぐバルドの家を目指している。やはり残ったドワーフを叩きに来たようだ。

 不気味な一団を追いかけるように物陰から姿を出す。手に握った弓に矢を番えながら足音を立てずに地上から接近し、指を放す。夜の空気を裂いて飛翔した矢は過たずオークの喉笛を貫き、ただの一撃で醜い命を終わらせた。

 

 不気味な断末魔と共にオークの身体が痙攣し屋根へと落下していく。その光景に襲撃者の存在を悟るその前に、さらに一矢、二矢とオークが屋根から落ちて行った。

 

「奴だ! 『血塗れエルフ』が出てきたぞ!」

「散開しろ、狙い撃たれるぞ!」

 

 三人やられたところでようやく理解が追い付いたらしく、矢継ぎ早に指示が飛び出す。西方語の混じったオーク語で喋る司令塔は身体に鎧を継ぎ接ぎした不気味なオークだ。他とは違う風貌と装いからして彼がアゾグの息子、ボルグだろうとミリアンは予測を付けた。狙うならあれだ。

 

「蛇の頭を斬り落とせば一網打尽。オークの意志薄弱は軽蔑するけど助かるね」

 

 弓から槍に持ち替え屋根の上へと駆けあがる。武装したオーク達に包囲されているが問題は無い。槍を用いた対多数の戦いなど彼女は呆れるほどに経験している。

 屋根という不安定な足場をものともせずに敵を叩き落としながらボルグへと迫っていく。既にボルグも槍使いの狙いが自分だと気付いていた。ならば接近される前にと無骨な弓から毒矢を放つが、これをミリアンは近くに居たオークを盾にして防ぐ。矢に塗られたモルグルの毒に苦しむオークなど一瞥すらせず投げ捨てた。

 

 さて、後は周りの()()だけして一対一に持ち込むだけ──殺す算段を立てながら地上へと目をやって、新たに町の外からやって来た二人組と視線が合う。ミリアンは少しだけ笑った。

 

「親玉をやるなら手伝った方が良いか?」

「いいえ、レゴラス。奴は私が殺すのでお構いなく。町に被害が出ないようにだけ頼みます」

「任されよう。行くぞ、タウリエル」

 

 後からドワーフを追いかけてきたのか、闇の森のエルフ二人が参戦してきた。戦い慣れたエルフが三人もいればまず討ち漏らしの心配は無いと判断し、改めてボルグの方へと向き直る。

 

「あなたの相手は私だ」

「大きく出たな、雌犬風情が」

 

 弓からメイスへと持ち替えたボルグが挑発を仕掛ける。ミリアンからすればそよ風のようなもの、指輪の力を借りずとて冷静さは失わない。

 屋根という不安定な足場。どちらが先に一歩を踏み出すのか。ほんの数瞬彼我に横たわる間合いを睨み、先手を取ったのはミリアンの方だった。

 

「はぁッ!」

 

 身軽さを活かして跳躍、その勢いのままボルグへと槍を振り下ろす。唸りを挙げた穂先をオークはメイスの柄で防ぎ、そのまま蹴りへ繋いだ。中空で留まるミリアンは上手く身体をひねることで衝撃を逃がしつつ、屋根の上を転がった。

 落下する寸前でエルフは即座に立ち上がる。眼前にはメイスを振りかぶったボルグの姿。考える前に身体が横へと転がった。振り下ろされたメイスが誰かの家の天井を壊す音。ミリアンは申し訳なく思いながらも跳ね起きる勢いを乗せて槍を振り抜いた。

 

「私の槍、オーク風情があまり舐めてくれないで」

 

 ガキン、鋼と鋼の噛み合う耳障りな音が響く。ボルグが自らの身体に埋め込んだ鎧で槍の刃をいなしたのだ。しかしよく見ればいなした個所には不自然な横線が走っている。鉄をも切り裂く脅威の槍『リンゲヒ』、その切れ味が鎧の強度を上回った結果だった。

 自らの不利を悟ったのかボルグが半歩後ろへ下がる。追い上げるようにミリアンが一歩前に出た。槍とメイス、どちらも長柄の武器だが押しているのは槍の方だ。弧を描くようにして速度を増し、持ち手を滑らせているのか間合いすら変幻自在の槍にボルグは対応しきれない。少しづつ、けれど着実に鎧は切り裂かれ生身へと刃が到達を始めていた。

 

「……!?」

「雌犬相手に随分と余裕のない」

 

 防戦一方のオークに対してエルフには軽口を叩く余裕すらあった。それも当たり前だ、ボルグもまたオークながらに優れた戦士だが、この場合は『血塗れエルフ』の方が経験値で圧倒的に差を付けていた。

 寿命では死なないから何度だって奮起できる。己の弱さに打ちのめされて諦観を抱こうが立ち直る時間があり、弱点を潰す猶予もある。そんな存在が、殺意と憎悪を糧に油断なく己の技術を磨き続ければどのような怪物が生まれるのか。

 

 その答えが『血塗れエルフ』であり、『エレギオンの復讐者』と呼ばれる鍛冶師(非戦闘員)末路(すがた)なのだ。

 

 一合い、槍の勢いに任せて防ぎに入った腕の鎧を断ち切る。

 二合い、短く持った槍で胴を叩く。不安定な足場と相まってボルグが思わずたたらを踏んだ。

 三合い、即座に長く持ち替えた槍で突くことによりメイスを叩き落すことに成功した。

 さらに四合い、五合い、六合いと、閃光のごとき突きの連撃を無手で捌いたのはボルグの強さだったが。

 七合い、対応を間違えた右手が鎧ごと宙を舞う。次の一撃でさらに左手が肘の先から吹き飛んだ。

 

「さようなら、さっさと死ね」

 

 一度勢い付いたミリアンは止まらない。相手の挙動を最初から潰してしまい、反撃の機会を与えることなくすり潰す。そしてオークに与える慈悲の心など欠片もなく、銀に煌めく穂先が無防備になったボルグの首をスッパリと断ち切ったのである。

 これにて一件落着とばかりに穂先を払い、汚らわしい血を振り払う。それから念のためとばかりに首無しとなったボルグの心臓に槍を突き立ててから、ようやく周囲のオークが逃げ出していることにミリアンは気付いた。

 

 もちろん一匹たりとて逃がすつもりはない。すぐに背中の弓に持ち替えオークの追撃を行おうとするのだが……先ほどから気になっていたのだ。はなれ山の方から届く微かな地響きが。

 レゴラスも同じことを考えていたのか、散々に逃げていくオークを追撃せずにミリアンへと声を掛けてきた。

 

「ドワーフ達は既にはなれ山へ向かったと聞いた。まさかとは思うがこの地響きは──」

「ええ、竜が目覚めたのでしょう。元よりその危険はありましたけど、現実となると厄介です」

「あなたはどうする? 逃げたオークを追いかけるか?」

「そうしたいのは山々ですけど……」

 

 まだドワーフから自らの指輪を返してもらっていない、と心の中で付け加えた。あれを返してもらうまでは傍から離れることができない。

 

「今回は堪えましょう。そういえば、毒で苦しんでいるドワーフが居たはずですけどそっちは?」

「タウリエルが治療したらしい。今頃は毒も抜けていることだろう」

「へぇ、モルグルの毒を……それは凄い」

 

 心から感心したその時だった。再び山の方から地響きが届き、次いで不気味な破壊音が鳴り響く。二人揃って闇夜の先にあるはなれ山へ振り向いた。

 まるで岩石を無理やり跳ね除けたかのような、何かが這い出してきたかのような……これから起こることを予測するには十分すぎる破滅的な音。オークの襲来が児戯のように思える絶望がすぐにこの町目掛けてやってくる。

 

「一応聞くが、竜を倒した経験は?」

「さすがに無いですね。魔法使いなら経験があるかもしれませんが」

「つまりは打つ手無し、か」

「あなたはどうします?」

「先ほどのオークを追いかける。もし彼らが北のグンダバドから来ているのなら、確認しておかないとさらに厄介な事態になるだろうからな」

「分かりました、そちらはお願いします」

「……竜を前に逃げ出す臆病者とは、思わないで欲しいが」

「まさか」

 

 ミリアンは薄く笑った。

 

「誰しも自分の成すべき役割があって、それを遂行する人を臆病者と蔑んでいい道理は無い。私は私のやるべきことを、あなたはあなたのやるべきことを、それぞれ無事に遂行できればいいのですから」

「なるほど、ならばあなたが無事に竜を倒してくれることを期待しよう」

「きっと竜を撃ち落とすのは私ではないですけどね。彼は人間の手によって倒される、そんな予感がするので」

 

 本当にただの予感でしかないが、竜は人の手で倒されるという不思議な確信がミリアンには有った。経験からくる未来予測なのか、直感からくる勘なのかは本人にも分からない。そしてこういう言葉が総じて予言として扱われるのだとレゴラスは知っていた。

 

「ではそのようになることを祈るとして、私は行くとしよう。すまないがタウリエルの事もよろしく頼む」

「ええ、お互い最善を尽くすとしましょう」

 

 いよいよレゴラスはオークを追いかけて湖の町から去って行った。後は彼が戻って来たときに伝える相手が死んでいるなんて事が無いように、全力を以て竜を迎え撃つだけだ。

 

「と、その前に……」

 

 早いうちに指輪の回収をしておかねば。町が混乱に陥ってからでは遅いのだ。

 段々と異変を察知して民家から出始めた人たちを横目にバルドの家へと急ぐ。戻ってみれば確かにキーリの毒は癒えたようで、今は全員がこれからやって来る災厄に備えて慌ただしく動き始めているところだった。

 

「ああ、アンタか」

 

 まさに指輪を貸し与えていたキーリその人が、『ファウティーン』の指輪をミリアンへと差し出した。

 

「助かったよ、ありがとう。これが無ければ耐えられなかったかもしれん」

「礼は結構、ちゃんと返してもらえたなら十分です。それよりもこれから竜が飛んでくる、というのは把握しているようですね」

「当然よ、むしろこれからが本当の試練なのだから」

 

 答えたのはタウリエルの方だった。バルドの子供たちが急いで荷物をまとめているのを手伝いながらもしきりに外を気にしている。

 

「もうすぐ竜がやって来る。私たちは上手いことこれを掻い潜り生き残って、次の被害を抑えるべく動かないと」

「まずはエスガロスの民の避難が先です。あなた達の撒いた種なのだから、あなた方も異論はありませんね?」

「ああ、もちろんだ! やれることはなんだってやるさ!」

 

 後半はドワーフに向けての言葉だったが彼らもひとまず協力的。これならば少なくともバルドの子らは急いで湖を渡り対岸へと抜け出すくらいは間に合うかもしれない。

 

「……そういえばバルドは? 彼は何処に行ったの?」

「分からない。この子が言うには黒い矢を持って外に出たけど、途中で矢を預かって別れたきりで知らないのだと」

 

 話を振られたバルドの息子、バインも首を横に振った。この緊急事態に父が行方不明なのはさぞ心細いことだろう。

 だがミリアンとしてはもっと気になる個所が存在した。

 

「黒い矢……まさかドワーフが作った決して的を外れない黒い矢のこと? だとしたらバルドが竜退治の鍵になるやも」

「どうするつもり?」

 

 その問いに彼女ははっきりと宣言した。

 

「バルドを探してきます。ついでに、事態を飲み込めてない人へ避難も促しておきましょう」

 

 竜はすぐ傍にまで迫っている。やれること、やるべきことを躊躇っている暇など欠片も無いから、即座にミリアンは踵を返してエスガロスへと消えていくのだった。




映画版での中ボス退場。死なない存在が時間をかけて力を磨き、弱点を潰してしまえば恐ろしく理不尽な存在になります。


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第六話 竜を墜とした人間

 バルドが牢屋に閉じ込められたのはどこまで行っても理不尽な理由だった。

 

 もともと湖の町の頭領からは自分よりはるかに町民からの人気を集めていることを疎まれ、煙たがられていた。さらにドワーフ達がはなれ山を取り返し宝を山分けしようと宣言したことに、『予言では竜の火でこの町が滅びる』と水を差してくる始末。せっかくの機会を彼の言葉で棒に振られるのは面白くなかった。

 

「クソッ、竜の迫っているときに……こんなことをしてる場合では無いぞ」

 

 牢に入れられたバルドがいくら牢番達に警告しようと、能天気な彼らは一切の聞く耳を持たない。彼らとてはなれ山から届く地響きには気付いているだろうに、現実逃避なのか楽観視しているのか。どちらにせよ付き合っていられなかった。

 だが出る手段が全くない、どうすれば──考えても埒が明かないそんなときに、不意に異変が起きた。牢番達の方が妙に騒がしい。

 

「なんだ、貴様は──グアッ!」

「おい!? 侵入者だ、捕まえろ!」

「待て、まさかコイツは──」

「……何が起きている?」

 

 誰何の声と人を殴る鈍い音が聞こえた。人が床に転がされる音が途絶えない、どうも牢番達が束になっても敵わない拳の持ち主であるようだ。しかしそんな人物が湖の町に居ただろうか?

 訝しんでいるバルドを置き去りに全員をのしてしまったらしく、謎の相手は鍵を回収するとバルドの牢を開放した。見れば、つい先ほど出会ったばかりの女エルフではないか。名前は確かミリアンと言ったか。

 

「礼は言うが、何故わざわざ助けに来た?」

「あなたが竜を退治するだろうと思ったからです。すぐにでもやってくる災厄、それに対抗できるのは人間ですから」

 

 奇妙なことを語るエルフだ。しかし元より竜を迎え撃つつもりだったバルドにしてみれば好都合この上ない。都合よく壁に立て掛けてあった弓と矢を手に取って準備する。

 

「予言というのは俺にはよく分からないが、お前は竜退治に参加するのか?」

「しますよ、しますとも。ただし私の役目はまだここではない、そう感じているだけです」

「そうか、ならいい。俺は見張り台──町で一番高い、鐘のある塔へ行く。一緒に来るか?」

「遠慮しておきます。二人して同じところに固まっても一網打尽でしょうから」

「違いない。ならば行くぞ」

 

 結局そのようなやり取りをして、バルドとエルフは別れた。息子に預けた黒い矢の存在が気がかりではあったが、無くとも討伐することは可能だと信じている。故に握った弓矢の感触だけを頼りにバルドは見張り台へと一路向かうのだった。

 

 ◇

 

 バルドと別れて行動を開始したミリアンだったが、実のところ竜に対する秘策など持っていない。それでも竜に立ち向かう気概はあったが、同時に直感が『竜を倒せるのは自分ではない』と語り掛けているだけで。

 一応牢屋に向かう以前から竜が来るから逃げるよう呼び掛けているし、先ほど殴り倒した牢番達も出ていく際に水をかけて目を覚まさせておいた。非戦闘員の避難に際してやれる事はやったはずだから、後は災厄の到来を待つだけだった。

 

「──来た」

 

 空気が変わる。弾かれたように空を見上げた。

 微かな星明りに照らされ夜の空に浮かび上がる巨大な影。

 長大な翼を広げ、その瞳孔に数多の死を映す、今もなお中つ国に残る最強最悪の一種。はなれ山に巣食う黄金竜スマウグが寝床を離れて飛翔したのだ。

 その胸元は既に赤く、火の粉の漏れ出る口元を見ればスマウグが炎を吐くつもりなのは明白だった。

 

「竜が来た! 戦えない者は今すぐ水へ飛び込め!」

 

 自らは屋根の上に立って全域へと呼びかける。ついに竜を目視した町民達は一瞬にして恐慌状態だった。悲鳴を上げて逃げ惑いながら、けれど何処へ逃げれば良いのか分からなくなっている。ミリアンの言葉も果たして届いたかどうか。

 けれど、それ以上他者の心配している暇は無かった。スマウグが炎を吐きながら湖の町をまずは横断、それだけで家屋が燃えて倒壊していく。崩れていく屋根から急いで別の屋根へと飛び移ったミリアンへ、熱気と肉の焼ける嫌な臭いが届いてきた。

 

「酷いな、これは……」

 

 たった一度の攻撃でこのざまだ。もしこのままスマウグを野放しにすればどうなるか。考えたくない未来だ。

 空を悠々と旋回するスマウグへミリアンも矢を射かける。遠くからはバルドが射かけている姿も見えた。けれど竜の鱗と、さらに腹部に輝くのは黄金の鎧だろうか。それらに阻まれ命中しても弾かれてしまう。よく目を凝らせば様々な財宝で腹部を覆っているらしい。竜の腹部は唯一の弱点となるのだが、小癪かつ大胆なことに奪った財宝で守りを固めているようだった。

 それでも、走り回りながら戦うことを諦めない。腹部が駄目なら目か口内だと当たりを付けて飛翔する竜を追いかける。だがどれもこれも弾かれるか躱されるか、悪ければ矢を燃やされてしまい致命傷には至らない。

 

「ほう、誰かと思えばエルフではないか。この匂いは久しぶりに嗅いだぞ」

 

 竜の意識がミリアンへと向いた。家屋をいくつも踏みつぶしながら着地すると、その視線をただ一人のエルフへと注いでくる。

 

「森の小汚いエルフ達ではないな。宝石造り、石細工の好きなドワーフの同類と見た」

「さて、どうでしょう。この髪はシンダールにもシルヴァンにもあるはずだけど」

 

 スマウグの、そして竜の言葉には魔力がある。言葉を弄して他者を操ることで自らの望む結果を引き出そうとするのだ。その対処法は正面から言葉に付き合わずはぐらかすこと。ミリアンは知る由もないが、ビルボ・バギンズが会話をはぐらかした手法が一番竜には効果的だった。

 

「俺の目は誤魔化せないぞ、黒髪のエルフ。大方お仲間のドワーフ達に泣き付かれたのだろうが、残念だったな。お前も、ドワーフ達も、この町も、今夜で終いだ」

「さて、それはどうだか。生かしておけば案外と宝を無限に生み出してくれるかもだけど」

「下らんな、俺に媚びへつらおうとしてもそうはいかん。財は奪い貯めるもの、貴様のようなものなど最初から必要としておらんわ」

「そう」

 

 つまらない、人一倍細工師としての矜持が高いエルフはそう感じた。竜とは宝の正しい価値も理解せず、これを使うこともせず、ただただ死蔵するだけの存在だ。彼女も話には聞いていたが、宝を創造する者としてここまで不愉快だとは思わなかった。

 

「残念だな、宝の価値が分かるなら竜に似合う首飾りや指輪を鍛えてみるのも一興かと思ったのだけど。あなたみたいな価値の分からない蜥蜴風情に贈るものは何もない、残念だったね」

 

 だから、口をついて出た言葉も慎重さをかなぐり捨てたものだった。

 ここまで明確に侮蔑されたことはかつてなかったのか、スマウグの雰囲気が明らかに変わった。

 

「どうやら長寿に飽き、自ら命を捨てたいと見える。死にたいというのなら俺が望み通りにしてやろう!」

 

 怒りのままに炎が吐かれた。即座に跳躍して別の屋根に飛び移るように回避。その後をスマウグの炎が追いかけてくる。このままではなぶり殺しだと悟り、ミリアンは一気に前へと踏み出した。一歩出すだけで崩れていく家屋の上をエルフの足で軽々と駆け、唯一炎の安全圏となる懐へと肉薄していく。

 掻い潜り、身を屈め、時には落ちそうになりながらも復帰して、髪と肌を焦がされながらも前へ前へと突き進む。そしていよいよスマウグの巨体が間近に迫ったとき、ミリアンが持っていたのは弓ではなく槍の方だった。

 

「これでも──」

 

 極限まで武器としての性能だけを追求した、スマウグが見向きもしないような白い槍を振りかぶり。

 

「喰らっておけ!」

 

 迷いなく槍を投擲した。エルフの鍛えた『リンゲヒ』は炎の中でもなお溶けずに一直線、大本たるスマウグの口へと向かい飛翔する。

 竜からすれば予想外かつ炎が目くらましにもなる反撃だ。首尾よく口を貫けば倒せる可能性もあるかもしれないが……そう甘くないことはミリアンも理解してたし、この程度の小細工はスマウグも承知していた。

 

「それで、これで終わりか?」

 

 ガチンと音を立てて槍が牙と牙の間に挟み込まれた。瀬戸際でまだ折れていないが、このまま少しでも力を籠めるか炎を吐くかすれば終わりだろう。ミリアン最大最強の武器は無残に(こわ)され、すぐに持ち主も同じ末路となるのは明白だった。

 

 ──戦う意思を持つ者がミリアン一人であったならの話だが。

 

 強大で矜持もあるから彼は忘れていたのだ。最初から戦っていたのはこのエルフだけでなく、もう一人居たという簡単な事実を。

 

「終わるのはお前だ、強欲な竜め」

 

 遠く離れた見張り台から息子と並びそう呟くバルドの声を、不思議とミリアンとスマウグのどちらも耳にした。そして次の瞬間、飛んできた黒い矢により正確に()()()()を射抜かれて、スマウグは断末魔の声を上げたのだった。

 

 ◇

 

 スマウグの炎に焼かれ、さらに死んでなお巨体によって圧し潰された町の被害は酷いものだった。

 生き残った町民達は九死に一生を得ながら湖の岸へと上がり、まずは身体を暖め生き残りの確認をするだけで精一杯だ。どこもかしこも余裕が無く、明日を生きるだけでも難しいような有様である。

 

「随分と被害が出た。ドワーフだけを責めはしないが、ここでの暮らしはもはや絶望的だ」

「だとしてもあなたが竜を倒したことで最悪は免れた。それも空飛ぶ火竜スマウグをです。人間の中でも飛びぬけた勲なのは私が保証しましょう」

「名誉よりもまず、温かい寝床とスープが欲しいところなんだがな」

 

 竜退治の立役者であるバルドはその功績からなし崩し的に町の指導者に選ばれ、次の選択肢を考えることを余儀なくされていた。そこで一時とはいえ肩を並べたミリアンを呼び出し、長年を生きるエルフに次の指針を相談しているところだ。

 

「もう秋の頃で夜の寒さも厳しい時期に入ってる。このままでは俺たち全員が寒空で野垂れ死にだ」

「雨露を凌ぎ身体を休められる場所がいりますね。竜と町の近くでは休まらないことでしょう」

「だろうな。そうなると行先は一つしかない」

 

 湖の先、はなれ山の方へとバルドは視線をやった。竜によって滅ぼされた王国は何もドワーフ達のものだけじゃない。

 

「かつてエレボール共々栄えたとされる谷間の国デイル、その廃墟を再利用させてもらうしかないだろう。可能であれば山の財宝も町の復建分くらいは欲しいが」

「あまりお勧めはしませんよ。竜が討たれ、あの山とその財宝はすぐにでも狙われ始める。特にオークの件はあなたも知るところでしょう、戦争が起きる可能性もある」

 

 ドワーフを探しに来たオーク達がバルドの家を襲ったことは話している。自らの子供たちが味わった恐怖を想像したのか、彼は嫌そうな顔をしたが、「それでも」と言葉を続けた。

 

「目下の行き先が無ければどうにもならない。後の危険より、今死なないことが先決だ」

「なるほど、道理です。ではそちらの統率は任せましょう。部外者のエルフがあまり出しゃばっても面白くないでしょうから」

 

 言うだけ言ってミリアンは湖の町の残骸の方へと歩を進めた。

 

「おい、何をする気だ」

「少し竜の死骸を検めようかと。あの宝石の鎧、それに爪と牙はそれなりの価値があるでしょう。上手く回収できたら今後の資金としてあなた方にも譲りますから」

「……あまり期待しないで待っておく」

 

 呪われた竜の財宝などあまり欲しいものではない。とはいえ止めるほど危険なわけでもないから、微妙な顔のまま奇特なエルフを送り出したバルドであった。

 

 ◇

 

 湖の町に残っていた四人のドワーフ達ははなれ山を目指して出発し、エルフのタウリエルは一度戻って来たレゴラスと改めてオークの出所を調査しに行った。バルドは既に町民達の指導者として今後の方針を固め、明日の朝にでも谷間の国を目指すつもりらしい。

 そしてミリアンは、舟を一つ借りて竜の死骸のすぐ傍にまでやって来ていた。死んでから既に一日経過しているが、虫の類は一切沸いていない。まるで知性なき生物すら竜を恐れているかのようだ。

 

「竜の牙や爪を使った武装とかは聞いたことが無いな。邪悪すぎて誰も使いたがらなかったのかな?」

 

 竜の起源は冥王サウロンがかつて仕えていたという、冥王モルゴスにまで遡る。邪悪の中の邪悪から生まれた生物を利用するなど中つ国の民からすれば以ての外だったのかもしれない。

 しかしミリアンは血塗れエルフであり、戦いに役立つならば何でも利用する心構えがある。造る者としての好奇心と、復讐者としての手段の選ばなさが竜の死骸を検めるという挙に走らせていた。他にも、有用なものがあれば湖の町の人たちに分け与えるというのも本心ではあるのだが。

 

「この牙と爪は大きいし研げば短剣とかになるかな……鎧の方は腹部にこびり付いちゃって外すのは大変そう」

 

 考えを呟きながら淡々と作業を続けていく。少しずつ使えそうな部位を拝借し、腹部を守る宝石達も切り取っていく。竜の臭いや体液による汚れは磨きなおせば目立たなくなる。

 そのまま無心で作業を続けていく内、日も落ち夜へとなっていく。松明を灯してさらに作業を続ける。夜半を越え、月が段々と沈み始めたころになってようやく、ミリアンは作業を中断した。

 

「……そういえば、竜の黄金病なんてものがあったっけ」

 

 寝食を忘れて宝漁りに夢中となっていたが、あまり心奪われてしまえば財宝の(とりこ)となってしまう。ましてこれらは竜の魔力に汚染されたというべき品々、気を抜けばすべての財宝を独り占めしようとする悪い病に侵されかねない。これを竜の黄金病だったり、竜の病と呼ぶこともある。

 考えてみれば、とミリアンは振り返る。財宝には大なり小なり人を狂わせる魔力があるが、在りし日のエレボールの支配者、スロール王はだいぶ財宝に魅了されてしまっていた。指輪の悪影響もあったにせよ、莫大な財は十分に人を惑わしおかしくしてしまう。

 

 そして今、エレボールに眠る財宝は竜が長年懐に抱いていたもの。中にはトーリンが求めてやまないドワーフの至宝『アーケン石』もある。これらを奪還したとき、あの高潔さを感じさせた王がどうなってしまうのか──あまり好ましい予感はしなかった。

 これ以上は自分の心にも影響が出ると判断したミリアンは、すぐに舟に乗って竜の死骸から撤退した。実入りは大きめの袋にいっぱい入るくらいの宝石と、状態の良い爪と牙を三つずつ回収したので十分だ。特に宝石は磨きなおせばここから南にある国、ゴンドールで買い取ってもらえるかもしれない。

 

「先にエレボールへ向かったドワーフ達には生きてて欲しいけど、生きていたらまたひと悶着あるかなぁ……」

 

 願わくば理性を保ち高潔な王として振舞ってほしいものだが。

 今後待ち受けるだろう苦難を予期して、ミリエルは暗澹たるものを感じながら舟を漕ぐのだった。

 

 ◇

 

 その後、バルドを指導者とした一党は予定通り次の日の朝には谷間の国へ向けて出発した。

 ミリアンもこの一行に付き添って荷運びなどを手伝いながら歩んでいく。そこには純粋な親切心もあったし、オークとの戦いに備えた打算の側面もあった。

 ともあれ人間達の中に混じった黒髪のエルフは特に軋轢を生むこともなく、数日後には無事に谷間の国へと一党は到達したのだが、ここで想定外の──ミリアンからすれば予想の範疇の出来事が起こる。

 

 竜から逃れ生きていたトーリンらドワーフ達が、エレボールの門をすっかり固めてしまっていたのだった。



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第七話 鍛冶師と戦争

お待たせしました。


 ──カン、カン、カン、と規則的な音が高らかに響いている。

 

 かつて谷間の国だった廃墟は今、バルドの一党により大急ぎで復興が為されている最中だ。復興といっても資源も余裕もないため、寝床を揃えて食事を摂れるよう整えるだけで精一杯なのだが。

 誰もが明日を生きるために忙しなく活動を続けているこの急造の町。その一角に現在、剣や槍といった武具の類が無数に集められていた。これらはこの廃墟に捨て置かれたまま何年も放置され続けたもので、埃を被り蜘蛛の巣が張った惨めな保存状態だったものである。

 

 これらを火の途絶えて久しい鍛冶場へと集めさせたのは、槍の代わりに槌を握ったミリアンだった。

 かき集めた武具を見分する彼女の背後では炉にくべられた炎が轟々と燃えている。埃を払い、状態を確認してから小さく頷き、何事かと見守っていた群衆へと告げる。

 

「私がここにある武器を可能な限り鍛えなおします」

 

 その一言だけ放つと即座に武具を鍛えなおし始め、一昼夜が経過してもなおカンカンと鋼を叩く音が響き続けているのだった。

 ごく自然に鍛冶を続けるエルフは最初から町の一部だったのではと思われる程度には馴染んでいる。バルドがようやく負傷者の確認や今後の方針──エレボールとの交渉は全く実らなかった──を立て終えて様子を見に来た時には、鍛冶場の一角に輝かんばかりの剣と槍がずらりと並べられていたのである。

 

「よくそれだけ集中力が続くものだ」

 

 剣の一つを手に取りながらバルドが唸る。何年も放置されていたとは思えない輝きと刃の鋭さだ。これだけの作業を僅かな時間で実現し、しかも量産しているというのだから末恐ろしいエルフだと思う。

 ミリアンもバルドが来たことに気が付いたのか、ようやくその手を止めた。槌を持つ手と反対の腕で額の汗を拭うとすっくと立ちあがる。誇らしげな表情は疲れを一切感じさせない。

 

「どうですか、私の鍛えた武器達は。時間も無いので簡素なものですが、中々悪くないでしょう?」

「これだけの業物になるとは驚いた。どうやら随分と高名な鍛冶師でもあるようだ」

「当たり前です、この中つ国に私以上の腕を持つ鍛冶師はもういませんよ」

 

 普段の丁寧な態度はどこへやら、鍛冶の話になるとかなりの自信家になるらしい。けれど輝く武器の数々を見せられてしまえば尊大と笑って捨てることはできなかった。

 

「しかし、これだけの武器が必要になることがあるのか? 確かにオークの危険性はあるかもしれないが、考えすぎに終わる可能性もあるだろう」

「万が一を考えることは常に大事なことですから。なに、もしこれらの武器を使わずに済むことがあれば、今度エルフの王国やゴンドールにでも持っていけばいい。高く売れますよ」

「随分な自信だな。買い叩かれるやも」

「あり得ませんね、だってこの私が鍛えた武器なんだから」

 

 胸を張って断言したミリアンへとそれ以上追及する言葉を持たないバルドであった。実際にどのような価値として扱われるのか、町が復興するまで数少ない楽しみになるかもしれない。

 それより、彼はもっと重大な案件を抱いていた。この場に来たのもエルフ作の武器を褒めに来たわけじゃない。

 

「どうやら山の下の王はどうしても我々に宝を譲るつもりはないようだ。町で財宝の山分けを誓った言葉はどうやら嘘であったらしい」

「なるほど、そうですか……やはり彼は竜の病に侵されてしまったようですね」

「竜の病?」

「宝に執着してしまう状態を指す言葉です。まるで竜のごとく宝だけに執着し他に頓着しない、そして宝を奪おうとする者には誰であれ攻撃的となる、王様に対する致死毒のようなもの」

「厄介だな……王だの病だのは勝手にやっていて欲しいが、当座の金が無ければ何を仕入れるにも不自由する」

「そうでもないですよ」

 

 何てことの無いよう言い切ったのはミリアンだった。エルフは確かに人と比べて生存力も高いが、とはいえ。

 

「俺たちをエルフと同じように扱わないでくれ」

「宝ならそこに山ほど立て掛けてあるじゃないですか。わざわざエレボールの宝に拘らなくともそれで充分、むしろ少しでも早くエレボールから離れておくことをお勧めしますけどね」

「実際に売れるかもわからぬ武器に今後を賭けるのは博打がすぎるだろう」

「価値はこの私が保証してるんですけどね。まあいいです、後で驚きますよ」

 

 渋々といった様子で引き下がった。どれだけ自身の武器に自信があるのやら。

 どちらにせよこのままでは谷間の国に来ただけで何も状況は好転していない。むしろミリアンの言う通り、一触即発のドワーフ達の近くに居るためより危険かもしれない。これはどうしたものか──バルドが頭を抱えたその時、馴染みの顔が慌てた表情で転がり込んできた。

 

「バルド、ここに居たのか!」

「パーシーか、慌ててどうした。まさかドワーフが攻めてきたか?」

「いや──闇の森のエルフが来た」

 

 ◇

 

「まさかあなたが直接来るとは思いませんでしたよ、スランドゥイル王」

「余としても、いまだにそなたがエスガロスの民と共に居るとは思っていなかったぞ、ミリアン」

 

 兵を引き連れてやって来たスランドゥイルは、簡易的な天幕を張るとそこを仮の玉座としたようだった。その下では黒と金のエルフ二人と人間一人が向かい合っていた。

 悠々と座しているのは闇の森のエルフ王で、彼はあくまで自然体のままワインの盃を傾けている。ミリアンとバルドは座ることはせず、突然の来訪者相手に次の対応を決めあぐねているところだった。

 しかしスランドゥイルの方も手ぶらで押し寄せてきた訳ではなかったから、まずはバルドがそこから切り出した。

 

「この度はエルフの慈悲に感謝いたします、スランドゥイル王。あなたの持ち寄ってくださった食料のおかげで、我々はしばらく命を繋ぐことができる」

「礼には及ばん。むしろかの竜を討った者への報酬としては安すぎるくらいだろう」

「ありがとうございます」

 

 スランドゥイルの好意には素直に頭を下げるバルドであった。

 実際このおかげで湖の町の民はかなり楽になったのだが、少しばかり複雑そうな表情をしているのはミリアンだ。

 

「しかしあなたがこのような慈善を施すとは。正直なところ意外でした」

「エレボールが竜により陥落した日のことを言っているのか? であれば許せ、余とて竜を相手に戦う愚挙は侵したくない」

「たとえ目の前に難民が居ようとも?」

「下手に救いを施せば竜の目に留まり森を焼きに来る可能性すらあった。そうなったとき失われるエルフの数は計り知れないものとなったであろう」

 

 なるほど、とミリアンは口の中で小さく呟いた。王の考えとしては筋が通っているし、何よりミリアン自身は難民となった当事者ではない。いくらドワーフに肩入れしてもこれ以上の追及はさすがに失礼に当たると判断した。

 だから話を変えるためにも「しかしスランドゥイル王は一体何をお望みで?」と切り出した。

 

「今エレボールに踏み入れるのは危険です。美しい宝がお望みならば私があつらえても構いませんが」

「──余も誤算だった、まさか竜を目覚めさせたドワーフ達が生きていたとはな。命あることは幸運だっただろうが、しかし態度が頑なであることは我らにとって欠片も幸運なことではない」

「宝を取りに来た、と」

「必要なものだけだ。過ぎた宝は身を滅ぼす、よく知っているとも」

 

 エルフと人間の目的は共通していて、どちらもおそらく死んだであろうドワーフが居ない間に必要な宝だけエレボールから拝借していく予定だった。しかし結果的にトーリンらが生きていたという誤算と、さらに交渉にすら応じようとしない頑迷さのせいで事態が拗れているのだった。

 

「ラスガレンの白い石──余の求める財宝はただそれのみ。故に戦いなど最初から望んでいないのだが……」

「向こうは絶対に起こしますよ、飛び切りの戦いを。オークの魔の手すら迫っているのに、身内で戦っている場合はありません」

「オークだと?」

 

 そこで初めてスランドゥイルの顔に驚愕が浮かんだ。彼も自らの王国を襲撃されたことは把握しているが、オークが戦争を仕掛けるほど勢力を増しているとは考えていないようだった。

 

「何故オークがここで出てくる。さしもの奴らとて、国を取り戻し勢い付いたドワーフを追撃するほど愚かではあるまい」

「いいえ、スランドゥイル王」

 

 疑問に答えたのはバルドの方だった。

 

「エスガロスにもドワーフを追ってオーク共がやって来ました。間一髪で私の家族は助かりましたが、しかし狙いはどうもドワーフであったようで」

「執拗な追撃、エレボールに眠る財宝、スマウグの死とドワーフの復興に加えてドル・グルドゥアで伸張影……王様、あなたも内心気が付いているのではありませんか?」

 

 ──オーク達の背後に潜む、すべてを操っている黒幕に。

 

 ミリアンの言わんとすることはもちろん理解できてしまうから、スランドゥイルは事の重要さが段々と鮮明になり始めていた。もしそれが本当だとすれば、この場に兵を引き連れやってきたのは幸か不幸か。

 

「まさか……冥王がすべての指揮を執っているとでも?」

「『白の会議(私たち)』はまさにそう考えています。この上アゾグ率いるオーク共を小勢と見積もるのはあまりに危険かと」

「冥王? あまり良い響きとは思えないが」

「スマウグよりもっと邪悪で恐ろしい存在ですよ。何千年も前に滅んだはずが最近は随分と元気でしてね。こんな名前、知らない方がいいに決まってるんですけど」

 

 皮肉交じりの説明でバルドも事の大きさを飲み込んだようだ。これはいよいよ危ういことになり始めたと思考を回すも、彼らにとって今から行くべき場所など何処にもない。何もかもを竜の火で失ったばかりなのだから。

 

「仮にこれから戦争が起きるとして、どれくらい猶予はある? せめてここを離れるくらいは出来ないのか?」

「分からない、分からないけどあまり猶予は見ない方が身のためでしょう。最悪というのは大概の場合出てくる最善の機会を窺っているものですから」

「まったく嫌な教訓だ」

 

 このまま手ぶらで谷間の国から逃げたところで行く当ても暮らしの目処は無い。かといって留まったところで強欲なドワーフ達に振り回され、悪ければオーク達まで攻めてくるとなればどうにもならない。

 思わず町の指導者になったことを後悔する程度の暗雲だ。無言のまま難しい顔になったバルドに対してミリアンは掛ける言葉が無く、スランドゥイルもまた思索を邪魔することなく静かにグラスを傾けていた。

 

「……ここに残るしかないだろう」

「本気で?」

「行く当てもなく、明日を生きる糧すら心もとないのだ。ここを守り切れなければ遅かれ早かれ我々は死ぬしかない」

「苦しい道になるな。だが、余は支持しよう。もっとも困難な道を選んだときに活路が用意されていることもある」

「あなたはどうしますか、スランドゥイル王?」

 

 血塗れエルフからの問い掛けに彼は「愚問だ」と一蹴した。

 

「相手がドワーフであれオークであれ、ここで背を向けて逃げ帰るのは我々の沽券にも関わること。バルドの勇気にも免じ、共に戦うことも考慮しよう」

「ありがとうございます」

 

 これで人間とエルフの意思は統一された。後はオーク達に追われていた張本人、ドワーフ達が肩を並べてくれれば万が一に対する備えも完璧なのだが……こればかりはミリアンがどう言い張っても両者を融和させるのは難しい。こればかりはドワーフ側の誰かがトーリン・オーケンシールドの目を覚まさせてくれるのを待つしかない。

 

「その場合に期待できるのは──」

 

 脳裏に(よぎ)るのは闇の森で出会ったホビットだ。蜘蛛の魔の手からドワーフ達を救い出したビルボ・バギンズ、王への忠誠心のあるドワーフ達の中で唯一諫言を行えるとすれば彼をおいて他に居ないだろう。

 とはいえ、最初から期待しすぎるのも良くないが。バルドに語った通りあくまでも最悪を想定して動かなければならない。ドワーフの援軍は無いものとして今後の身の振り方を考えなければ。

 

「そなたは戦うのだろう、血塗れエルフよ」

「当然です。この私が戦場から逃げ出すことなど、例え至高の宝石(シルマリル)を眼前に積まれようともあり得ない」

「なるほど、覚悟は硬いようで結構だ」

 

 かつてノルドールの犯した過ちを引き合いにうそぶくミリアンに、シンダールの王は薄く笑うのだった。

 そして──

 

「どうやら話は決まったようじゃの、無益な言い争いをせずに済んで何よりじゃ」

 

 見張りの制止も聞かずに入って来たのは灰色の装いに杖を突いた老人のそれ。

 この場の誰もがその姿を見れば魔法使いだと分かる彼は、

 

「ガンダルフ!」

灰色の放浪者(ミスランディア)か……」

「魔法使いだと?」

 

 まるで見計らったかのように灰色の魔法使いがこの場に現れ、安堵の笑みを浮かべたのである。



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第八話 開戦

「やはりトーリンは竜の病に侵されてしまったか……エルロンド卿も危惧していたが、現実のものとなるとはな」

「仕方ない、とは言いませんが財宝の秘める魔力は凶悪なものです。私の先祖とて宝石には苦い思い出がありますし」

 

 既に陽も暮れ、夜の帳がすっぽりと空を覆う時間だった。

 松明の近くにあった段差に並ぶように腰かけていたのはミリアンとガンダルフである。呼気が白くなっているのはこの気温のせい──ではなく、揃ってパイプ草を吹かしているせいだった。

 手慣れた仕草でパイプを回し煙を吐きながらエルフは魔法使いを見やった。

 

「しかし戻って来るのが早かったですね。ドル・グルドゥアの方はもう良いのですか?」

「わしの役目は既に果たした。後はエルロンド卿と奥方がどうとでもしてくれるじゃろうて。それよりもトーリン達が竜の火に焼かれてしまっていないか冷や冷やしていたとも」

「結果的に生きていたのは良かったものの、といったところですか」

「ここまで事態が拗れてしまうとは。いや、わしも道すがら竜が死んだと聞いたときは一つ壁を乗り越えたと思ったのじゃがな」

 

 すっかり消沈した様子のガンダルフを励まそうとしたのか、「いります?」とパイプ草の詰まった袋を差し出すミリアン。彼はそれをありがたく受け取ろうとしたのだが、その前に何者かが横からさっと奪い取った。

 思わず目を白黒させたミリアンの前で、()()()()()()は袋から草を一つまみ取り出して一言、

 

「──うん、いい草だ。随分と羽振りがいいみたいで羨ましい」

「あなたは……」

「ビルボ! ビルボ・バギンズではないか!」

「ええ、あなたの選んだ忍びの者です。お久しぶりですねガンダルフ、それにミリアンさんも」

 

 愉快そうに笑う姿はまぎれもなくあのホビットだった。ドワーフ達と共にはなれ山へ赴いたはずの人物の思わぬ登場にガンダルフは顔を綻ばせ、まったく気配すら感じずに近づかれていた手腕にミリアンは心の中で感心する。

 

「お前と会えてこんなに嬉しいと感じたことは初めてじゃ!」

「僕も同意見ですよ。ですが今はそれを語りに来た訳じゃない、トーリンの事で悩んでるんだよね? 僕に良い案があるんだ、そのために山からこっそり戻って来た」

「良い案とな?」

 

 問われたビルボは、意味深に懐へと手を入れたのだった。

 

 ◇

 

「余の記憶に間違いがなければ、そなたは王国の牢からドワーフ達を川へと逃がした張本人で間違いないな?」

「はい……その点は、申し訳ありませんでした」

 

 ホビットの案を聞いたエルフと魔法使いはすぐさまバルドとスランドゥイルを呼び集めたのだったが、まず始まったのは若干気まずい空気だった。確かに、王様のひざ元から大脱出を繰り広げた下手人となれば気も竦むだろう。

 しかし本題はそこではない。ミリアンがこほんと咳払いして場の空気を戻すと、ビルボは懐から布に包まれた何かを取り出した。そして布が取り払われた瞬間、誰もが目を見張る。

 

 机の上に置かれた輝く宝石こそ、トーリン・オーケンシールドが求める至宝。

 

「山の精髄、アーケン石……! そなた、これを何処で」

「元々忍びの者には山の財宝の十四分の一が報酬として約束されていました。僕はその権利を行使して持ってきたにすぎません、そして望むならこれをあなた方にお譲りします」

「これを使って彼らと交渉しろと?」

「ええ、その通りです」

 

 山の下の王は確かにこの宝石に固執している。これを差し出す代わりに正当な取り分はせめて譲れと言えば、向こうも条件を飲まざるを得ないだろう。あらゆる意味で時間の無いバルドらにとっては特にありがたい。

 

「だが、何故そこまで俺たちに手を貸してくれる」

 

 当然の疑問を前に、ビルボは「あなた達だけの為じゃない」と首を振った。

 

「確かに町を焼かれた原因は僕たちにあるし、出来るなら助けたいとは思った。だけどそれ以上に、僕はドワーフ達を助けたい。頑固で気難しくて疑り深くて秘密主義、だけど我慢強くて恩を忘れず誇り高い彼らが破滅するのを見たくは無いんだ」

「なるほど……忍びながら見上げた精神だ」

「そうじゃとも、ホビットの強さは目に見えぬ所にこそ現れる。小さいからと侮っていい理由は無いのじゃ」

「ガンダルフの目に狂いはない。今回もそうだと証明されましたね」

 

 勇気も善性も、土壇場の中で発揮するのは思いもよらない難しさがある。死の恐怖、裏切り者の汚名、宝の誘惑、それらすべてを秤にかけてなお行動できた強さ。小さい人がこの場の誰より精神的に強靭だという意見に異論を挟める者は居ないだろう。

 

「ですが、不安はあります」

 

 少しばかり緩んだ空気を再び張り詰めさせたのはミリアンだ。

 

「アーケン石は確かにこちらの手の中に。けれどこれを返したとして、竜の病が治るかどうかは分からない。いえ、むしろアーケン石を手に入れてしまえば、より深刻化しそうな気がしますが」

「目当ての宝石を手に入れれば独占欲も収まるものではないのか?」

「いいえ、焦がれに焦がれた宝石を手に入れてしまったとき、いっそう欲深く傲慢になることは多々あります。伝承に寄ればとある兄弟も死に物狂いで手に入れた宝石によって最後は破滅したとか」

 

 まるで他人事のように伝承を引用してから、フェアノールの末裔は「つまり」と結びだす。これが彼女の血筋に伝わる呪われた行為の一つだとわざわざ前置きする必要はない。

 

「確かにビルボ・バギンズの機転と勇気は賞賛に値するものですが、素直に渡してしまうのも私は怖い」

「……スマウグも同じことを言っていた。竜の場合はもっと悪意のある言い回しだったけど、碌なことにならないだろうと言ってたのは同じだ」

「竜と意見が合うのは癪ですけど、そういうことです」

「ならばどうする? このまま無策でこの地に居座り続け、いつか山の下の王が正気に戻るのを待つのか? 我々はそこまで待てないし、待つ時間が無いと語ったのもあなただろう」

「それは確かに、そうなのですが……」

 

 遅かれ早かれエレボールを狙ってオークの大軍か、それに準ずる悪意ある集団はやってくる。それまでにトーリンが心変わりするかと言えば、これもやはり保証はない。ミリアンの意見にも一理はあるが正しいだけでは通らないのも道理だった。

 慎重さの富んだ正論だけが相手を納得させられる訳ではない。むしろ正しい事こそ痛みがあり、飲み込み難い棘を持つもの。中つ国の歴史とて正論と間違いの積み重ねで編み上げられたものであり、バルドを否定できる者は何処にもいない。

 

「ミリアン、あなたには感謝している。結果的に俺の家族を守ってくれ、行き場を失った我らに施しも行ってくれた。しかし今の俺には町を失った民を導く義務がすべての先頭にある。仮にアーケン石を渡すことで、彼が更なる狂気に陥ることになったとしてもだ」

「……なるほど。否定はできないし、あなただけはそれを言う資格がある」

 

 バルドの言葉に頷きながらスランドゥイル王の方へと視線をやる。

 果たして、彼の意見はあくまで変わらなかった。

 

「余はそもそもドワーフの事をそこまで快く感じてはいない。かつてドリアスで起きた悲劇を思えば、彼らが再び強欲さで身を滅ぼそうが『ああ、またか』としか思わぬであろう」

「灰色マントのシンゴルの悲劇ですか。私も伝聞でしか知りませんが、何千年にも続く禍根をこの場で解くことは期待できませんね」

 

 かつて起きたエルフとドワーフの殺し合いと、そこから今日まで続く因縁を思えばやはりこちらも納得するしかない意見だ。強欲は身を滅ぼす──この言葉を図らずも体言してしまったことがドワーフの歴史には幾度もある。スランドゥイルはそのことをよく知っているエルフの一人だ。

 

「ではお二人はあくまでアーケン石を交渉の道具にするつもりじゃと、その認識でよろしいか?」

「ああ、その通りだ」

「前言を返すつもりはない。そもそもバルドが言うように、早期の決着で得をするのはそなたらとて同じことであろう。この場における誰も損をせず、賢ければドワーフとてその例外ではない」

 

 結局スランドゥイルの言葉に誰も反論は出来ず、この場はこうして解散の運びとなったのだった。

 

 ◇ 

 

 次の日の朝にはトーリン達への交渉に赴くことに決まり、そのための準備なども含めて慌ただしく人が動いている。夜の冷たさも今ばかりは松明の明かりで追い払われてしまったかのようだ。

 しかしミリアンはその渦中から今ばかりは距離を取り、谷間の国の廃墟の端の方へと足を運んでいた。人気の少ないそこからは破壊されたエレボールの正門がよく見える。

 

 だがよく観察すれば、破壊された正門が瓦礫で埋められているのが見て取れることだろう。

 目を細めてエレボールの入口を眺めるミリアンの横に、小さな足音と共にそっと人がやって来る。敢えて振り向かずとも誰かは分かっていた。

 

「あの正門、トーリンが塞ぐように命じたんですよ」

「敵対者から宝を守るためにですか」

「その通り。といっても、今の彼には誰が敵か味方かも朧気かもしれませんがね」

 

 悲しそうにビルボは笑った。信頼していた主導者が乱心し、結果的に仲間を裏切ることになった彼の気持ちを推し量ることは簡単ではない。だから何も言わずいようかとも考えたミリアンだったが、気が付けば言葉を舌に乗せていた。

 

「落ち込んでますね、バギンズさん」

「ええ、まあ……実は仲間からも言われたんです、トーリンの手にアーケン石が渡らない方がいいんじゃないかと」

「賢明なドワーフですね、是非とも話をしてみたいものです」

「バーリンは親切な人ですよ。最初から僕にも丁寧に接してくれた。皆の知恵袋みたいなものさ」

「それはまた」

 

 破顔しながら鞄からパイプを取り出す。先ほどガンダルフと話しているときに吸いかけていた残りに少し葉を足し、慣れた仕草で火を付ける。その様子をビルボが興味と羨望の目で見ていたものだから、ミリアンは口を付ける前に「どうしました?」と聞いた。

 

「ホビットはもちろんドワーフも魔法使いもパイプ草を嗜むけど、エルフが吸ってるのは初めて見たなと思ってね」

「エルフはあまり喫煙に乗り気じゃないみたいですよ。私も愛飲し始めたのはまだつい最近、百年くらい前にガンダルフが吸ってるのを見て以来ですかね」

 

 エルフや魔法使いの集まる賢人会議に最初にパイプ草を持ち込んだのはガンダルフだった。他のエルフ達はあまり興味を示さなかったが、ミリアンは偶然発祥の地であるブリー村に出向いて以来パイプの虜になった口だ。

 

「へぇ……百年前が最近っていう感覚がまず凄いね」

「ちなみに、同じ魔法使いでも白色は全然乗り気じゃなかったですけどね」

「それはもったいない。あんなに美味しいのに。僕も屋敷に置いてきたパイプが恋しくなってきた」

「……少しだけなら、貸してあげますけど」

 

 あまりにも露骨にミリアンのパイプを見つめてくるものだから、さすがに彼女も無視を決め込むことは出来なかった。

 スッと差し出された吸い口にビルボは一瞬申し訳なさそうな顔をしたが、すぐに「ありがとう」と断って手に取る。

 

「久しぶりに吸ったな……これは南四が一の庄のものかい? かなりの高級品だ」

「よくご存じで。幸いお金を稼ぐ手段に困ったことはないので、嗜好品にかける余裕はあるものですから」

「それは羨ましい、僕も見習いたいね。僕もこの旅路にパイプを持ってくればよかったかも」

 

 それから一口、二口と大きく煙を吸っては、見事な輪を口から吐き出していく。それなりに吸いなれているミリアンはこういう煙遊びが苦手なものだったから、感心しながら空気へと溶けていく煙の輪を見送っていた。

 

「パイプで思い出したけど、僕にはちょっとした夢があってね」

「それは?」

「全部が終わって袋小路屋敷に帰ったら、パイプを吸いながら今回の旅を記録にまとめてみるんだ。詩を書いたり、思い出に耽ったりしてもいい。それから、唐突にドワーフが来たらもてなしながら一緒にパイプを吸うのも素敵だ」

「いい夢ですね。平和で、穏やか」

 

 何事も平穏である方がいいに決まっている。もっとも遠い道を歩んできた血塗れエルフでも否定できない真理だった。パイプの煙遊びでそれを思い出すのがなんとも素朴な感性だ。

 それからもしばらくビルボはパイプを吹かしていたが、やがて葉がすべて燃え尽きたのか煙が出なくなり、礼を述べながらミリアンへと返却した。その時にはもう、彼の顔つきは何度も苦難を乗り越えた旅人のものとなっていた。

 

「ガンダルフから聞きました、今もまた危機が迫ってるとか」

「事実です。いつ、何処からかは不明ですが間違いなくオークは来るでしょう。既にガンダルフ達が本拠地(ドル・グルドゥア)へと攻撃を仕掛けましたが、それで止まるとは思えない」

「エレボールはどうなる? ドワーフ達は?」

「分かりません。彼らが山を開き共に戦ってくれるのなら勝ち目もありますが、そうでない場合は……」

「最悪の可能性もあると」

 

 黙ってミリアンは頷いた。敵の規模などまったく不明、しかし本来手を取り合わなければいけない種族がいがみ合っている状況で勝てるほど甘い相手でないのも確かだ。アーケン石を中心に取り巻くすべての問題を解決できないことには、襲い来る脅威に対抗できるはずがない。

 結局のところ、いつ来るかも分からない敵の陰に怯えながら、いかに早くトーリンが正気に戻ってくれるかを待つしかないのだ。誰がどうこう出来る話でもなく、それ故にミリアンからすればもどかしい。

 

「オークを殺すだけで終われば話は簡単なんですけどね。数が多すぎるとさすがに私も困る」

「こればかりは出たとこ勝負ってことですか。全員が生き残ってめでたしめでたしは難しいと」

「物語のように都合よくは行かないということです。こればかりは如何ともし難いですね」

 

 色々な思惑が絡み合って複雑な状況へと陥った。

 予想できたことも、予想できなかったことも多くあるが、一つだけ確かなことを言うのなら。

 

「でも大丈夫ですよ、私たちは負けません。オークがいくら来ようと関係ない、すべて皆殺しにすれば戦いは勝利で終わりますから」

 

 気楽に告げられたその言葉は一見頼りがいのある、けれど無謀な宣誓とも思えるもの。

 なのだが、その裏に秘められた並々ならぬ殺意と憎悪の気配を感じたのか、ビルボは曖昧な笑みのまま何かを答えることは無かった。人には誰しも触れてほしくない個所はあるが、彼女の場合はまさにこれだと思えたから。

 

「そう、それは頼もしいね。じゃあ今夜はこれくらいにしよう、お休み」

「ええ、おやすみなさい」

 

 挨拶だけして去って行こうとする小さな背中に向けて、「忘れてました」と声が届く。

 ビルボは立ち止まって振り返った。

 

「その短剣、良いものだと思うので大切にしてください。鍛冶士は武器を大切にする人を尊びますから」

「もちろん、言われるまでもない。それから、こいつの名前は”つらぬき丸”です」

「良い名前ですね。大切にしてあげてくださいな」

 

 夜の一時的な邂逅は、今度こそこうして終わった。

 

 ◇

 

 次の日、人間とエルフの同盟軍はさっそくエレボールへと赴いた。

 エルフすら味方につけたバルド相手にいよいよ取りつく島も無い様子のトーリンだったが、アーケン石を眼前に持ち出されてから流れが変わった。

 アーケン石と引き換えに当初の約束通りの分け前を渡せとバルドが迫るが、それすら錯乱したトーリンには届かない。終いには偽物だと断じてしまい、危険を承知で戻ったビルボが事情を話せば彼さえ殺そうとする始末。もはや手に負えないと誰もが感じ、さらに東の方より現れたドワーフの援軍に最悪の未来を想定した。

 

 同盟軍の中に混ざっていたミリアンとガンダルフはすぐに事態の重さと複雑さを察した。

 

「くろがね連山の主にしてトーリンのいとこ、鉄の足のダインですか。決して頑固なだけでは無いですがどう出るか」

「まずはこちらの事情を話さなければ始まらない。ここで殺し合いが起きれば最悪という言葉すら生温い事態となるぞ」

 

 人をかき分け歩み寄りながらも急いで場を治めるための言葉を考える。説得に失敗すればすべて終わりだ、無益な血は一滴たりとも流してはならない。

 一触即発、そのような空気が漂う中で、ついにダインが腕を振り上げ突撃の号令を降した──その前に。

 大地が鳴動し微かな揺れが起きた。何かが近づいてきている。反射的に足元を見て、ついで周囲を見渡しても怪しい影はない。突如として起きた怪現象にこの場の誰もが動きを止めた。

 

 そして、答えはすぐに明らかとなった。

 

「オークが、来た」

 

 誰かが呟いた。いや、聞くまでもなく見れば分かるといった有様。

 地下から掘られた大穴を経由して、オークの大軍がこの状況下で攻勢を仕掛けてきたのだった。




あと2~3話くらいを目処に考えております。


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第九話 山の下の王

お待たせしました。


 槍の穂先が閃き、剣の鋭い一振りが弧を描く。

 倒しても倒しても押し寄せてくるオーク達の群れ、集団、軍勢。無限にも錯覚しそうな数のオークを相手取りながらミリアンは思わず叫んだ。

 

「ガンダルフ、やはり私が"からすが丘"へ向かいます! 現状を打破するにはこれしかない!」

「ならん、お前さんが一人で向かったところで囲まれて死ぬのが関の山じゃ!」

 

 牙をむきだしにしたオークを足蹴にしつつミリアンは歯噛みした。先ほどもガンダルフに止められたばかりであり、自身でも納得したこととはいえ、敵の首魁を確認しながら手出しできないのがもどかしい。街での防衛戦というのが性に合わない部分も多分にあった。

 

 ──地下から奇襲を仕掛けたオーク達の動きは素早かった。

 

 戦場を一望できる"からすが丘"に陣取ったアゾグの指示により、オーク達は迅速に二手へ分かれた。彼らはエレボール前に布陣したエルフ・ドワーフの連合の相手取る軍勢と、谷間の国の廃墟へと向かう軍勢に分かれて二面攻撃を開始したのである。

 当然ながら廃墟の方に残った人間の大部分は非戦闘員だ。このままオークの侵攻を許せば夥しい数の死者が出るのは間違いない。バルドを筆頭とした湖の町の人間らはすぐに踵を返したが、それでも多勢に無勢となるのは否めない。

 

 故にガンダルフは彼らと共に町へと戻り手助けすることを決意し、彼に引き連れられてミリアンも共に槍を振るう事となった。弱者を守るために戦う意義は彼女も理解しているが、しかし元凶の居場所が分かっているだけにもどかしい。

 デイルの廃墟を駆けまわり、目につく限りのオークを殺してはどす黒い血を被る。まるで因果がおかしくなったように時間が経つほど槍技はいよいよ冴えわたるが、ミリアンは内心の苛立ちをどうしても隠し切れずにいた。

 

「エレボールは依然として閉じられたまま、徐々にドワーフ達も追い詰められてきてる。なら直接アゾグを倒す方が結果的に犠牲は少ないし、私なら奴らに勝てる」

「そんなの無謀だって!」

 

 この場の三人目、ビルボがたまらず叫んだ。彼もまた勇気を振り絞って剣を振るっているものの、思いがけない大戦に声は若干震えていた。

 ガンダルフもまた同意するように頷いた。

 

「ビルボの言う通り、賭けに出るにはあまりに危険じゃ、罠を張られているやも。しかもこの場からお前が抜ければ最後、何人の自由の民が死ぬと思っておる。ミリアン、お前はそこまで薄情ではなかったはずじゃが?」

 

 曲がりなりにも戦闘経験を重ねてきたミリアンはこの場における要だった。縦横無尽に廃墟を駆けまわっては戦えない人間を助けているが、この場を離れてしまえばどうしたって犠牲は増える一方だ。

 

「私、は──」

 

 培ってきた自らの技体ならば、オークがどれだけいようと遅れは取らない。

 少数の犠牲でこの戦いに終止符を打てるならやるだけの価値はある。 

 何より、自らの手でオーク達を血祭にあげてやらない事には気が収まらない。

 

 正誤も倫理もない、あらゆる()()()()()がミリアンの脳裏を掠めては消えていく。そのどれかが口元まで上りかかったところで彼女は静かに息を吸い込んだ。

 

「……人命優先、それでいいですよ。どれだけ復讐を渇望しようと私は冥王じゃないし、誓言だけを刻みつけてるわけじゃないから。慈悲の心は忘れません、この指輪に懸けて」

「それでこそじゃ、エレギオンの復讐者よ。苦しい戦いじゃがいずれ転機は訪れる。それまで持ちこたえるのじゃ」

 

 転機──果たしてそれはいつになるのか。

 曇り空を思わず見上げる。いくら孤軍奮闘したところで物量差は圧倒的だ。想像以上の軍勢をもって攻め立てて来たのにエルフと人間、それにドワーフの足並みは揃わない。このままでは敗北は必定だった。

 

「ガンダルフ! ミリアン! あっち!」

 

 ビルボがはなれ山の方を指さして叫んだ。つられてそちらへ視線をやれば、その瞬間に角笛の重低音が戦場に響き渡る。唐突に鳴り響いた角笛の音色にガンダルフは自然と頬を綻ばせ、オークたちは戦闘を忘れてしり込みした。

 次いで封鎖されていたはなれ山正門が内側から破壊され、そこから十三人のドワーフたちが駆け出してくる。先陣を切るのは彼らの主導者にして王、トーリン・オーケンシールドに他ならない。

 

「山の下の王……! やっと執着から解放させたのね!」

「随分と遅い登場じゃが、よくぞ来たと言うべきじゃろうて」

「トーリン……!」

 

 たった十三人、されど苦難の旅を乗り越えた十三人のドワーフの援軍は心強いものだった。とりわけくろがね山から集ったドワーフたちにとっては王の出陣、王の帰還に他ならない。一時はエレボールのすぐ傍まで追い詰められていたドワーフの軍も勢いを取り戻し、一気呵成に攻勢へと打って出る。

 さらにはエルフ、人間どちらの軍も活気づき、この機会を逃さず奮い立った。ようやく一致団結を見せた自由の民たちにオークは動揺を抑えきれず、先ほどまでの優位を忘れて怯懦(きょうだ)と臆病さに支配され始めたのだ。

 

 劇的な変化による良い兆しだ。気が付けば徐々にだが押し返し始め、ミリアンとガンダルフの隣に勇気ある人間たちが増えている。彼らは一様に絶望ではなく希望によって目を輝かせていた。

 

「風向きが変わり始めた。ドワーフが勢いづいたことでエルフと人間も奮い立ち、逆にオークは怯えを見せ始めておる。ここがこの大戦の分水嶺じゃ」

「言われずとも分かってますよ。で、それならば……」

 

 会話をしながらもミリアンは弓へと持ち替え矢を番える。ガンダルフとビルボの背後に迫ったオークを二射で射殺し、自身のすぐ傍まで肉薄していたオークには矢を掴むとそのまま矢じりを突きこんだ。痛みに呻くオークを蹴り飛ばして見据えた先は、雪の積もるからすが丘だ。

 

「アゾグを討つ。今度こそ止めないでくださいよガンダルフ、いい方向に流れ出した今が好機なのだから」

「言ったところでどうせ聞かんじゃろうて。一度火が付いたお前はドワーフよりも頑固なことは知っておる」

 

 ミリアンは薄く笑った。

 

「この場は任せましたよ、魔法使いと忍びの者。血塗れエルフがあの醜い首をすぐに叩き落してきますので」

 

 そして風のように駆け出したミリアンは、一路からすが丘へと向かったのだった。

 

 ◇

 

 確かにトーリン・オーケンシールドとその仲間たちの参戦により一時はオークを押し返すことに成功した。

 とはいえこの優勢も長くは続かない。ここで決定的な勝機を掴めなければいずれ流れはもとに戻り、今度こそオークの大軍に蹂躙されてしまうだろう。誰もがその未来を予見していながら、しかし目の前の相手に武器を振るうことしか出来ない己にもどかしい思いを抱いていた。

 

「その任は我らが負おう、蛇の頭を斬り落とすには今を置いて他にない」

 

 故にトーリンはくろがね山の軍勢を率いてきたダインに対し、合流するやいなや即座に告げたのである。

 敵の総大将を倒そうと考えたのは何もミリアンだけではなかった。結果的にこの場でもっとも余力を残しており、かつ実力ある仲間たちを引き連れたトーリンもまたアゾグ目指してからすが丘へと進軍を開始した。

 山羊の戦車を乗りこなしながら彼らは一路からすが丘へと突き進む。道中で危機もあったがどうにか乗り越え、ようやくアゾグの本拠地へと踏み込んだトーリンらであったのだが──眼前に広がる予想外の光景に誰もが一瞬硬直した。

 

「これは……酷いな」

 

 思わず言葉を漏らしたのはこの場で最年少のキーリだった。無理もない、頂上へと向かう山道の至るところにオークの死体が山のように積み重なっており、死体から流れ出す黒い血が河を作っている有様である。いくら敵といえどここまで徹底的に虐殺されていれば眉を顰めるのも道理だ。

 

「矢で射抜かれたのと、こっちは槍の傷か? 執拗に止めを刺してるぞ」

「大方あのエルフの仕業だろう。今回ばかりは彼女とて味方だ、戦うべき相手を間違えるなよ」

「分かってますよトーリン。ただ少し、空恐ろしいものを感じただけです」

 

 警戒しながらドワーリンがオークの死骸を見分し、トーリンが冷静にまとめた。キーリの兄であるフィーリもやはりこの惨状に動揺はあったものの、すぐに立ち直ると一行の先頭に立って進み始めた。

 そのまま四人は警戒を解かず進んでいくものの、出くわすのは既に死体となったオークばかり。いっそ拍子抜けするほど何もないままからすが丘の山頂部、古い建造物の点在する地点へとやって来た。

 

「まさかこの場のオークはもう全滅してる……なんてことありませんよね?」

「雑兵はともかく、認めたくないがアゾグは強敵だ。そう簡単に倒されるとは思えぬし、生きているなら確実に我らを狙いにくるはずだ」

「油断大敵、といったところですな」

 

 剣と斧を構えたまま周囲を見渡すものの、やはり敵影は何処にも見当たらない。下で起きている戦いが嘘のような静まり具合に疑心暗鬼となったとき、遠くから微かに鋼の打ち合う音が聞こえて来た。眼前に聳え立つ荒れ果てた小さな砦、その内部からだ。段々と彼らの下へ近づいてきている。

 

「偵察に行きますか?」

「いや、待て。不用意に近づくのは危険だ、罠の可能性もある」

「しかしもし彼女であるなら、ここで見捨てるのも──」

 

 湖の町で少しといえどミリアンの助けを借りたキーリが躊躇いがちに提案したが、その心配は結果的に無用に終わった。

 砦の最上層から一つの影が飛び出した。長物を持ったその影は空中で身軽に身体を捻ると、危なげなく氷の上に着地する。二つに結わえた黒髪をやや乱しながら、肩で息をしているその人物こそこれまでオークを狩りつくしてきた主犯ミリアンであった。

 そしてこれを見下ろすように遅れて最上層へと出てきたのは、トーリンたちがその首を求めてやって来たアゾグである。彼の方も身体に無数の斬り傷が刻まれているものの、どれも致命傷には程遠い代物であり健在だ。

 

 アゾグは立ち上がったミリアンへと視線をやり、それから奥で状況を見ていたトーリンらに気が付くと、口角を釣り上げて不敵に笑った。

 

『臆病風に吹かれ、安全な山に引き込もった臆病者の王よ。わざわざ俺の手で殺されに来たとはな』

 

 その言葉は暗黒語であったからトーリンには詳細な意味を理解できない。けれど口調と雰囲気、何より視線から感じる侮蔑の念が何よりも雄弁にその意味を物語っていた。

 明らかな挑発である。これだけ言われて黙ったままではいられないが、しかし瀬戸際のところで冷静さを保つことは出来ていた。このまま誘いに乗って攻め込んでしまえば追い詰められるのは明白だ。

 

 故にこの場でどう行動するのが正解なのか、決めあぐねていたところでミリアンがトーリンを見やった。少しだけ揶揄うような笑みを浮かべている。

 

「正気に戻ったんだ、山の下の王トーリン。お祝いに何か宝でも鍛えましょうか?」

「皮肉ならこの戦いが終わった後にしてくれ。当分は黄金など見たくもないのでな」

「これはとんだ失礼を」

 

 黄金の魔力にまんまと魅了されて振り回された後では何も嬉しくない。そんな本音を込めた言葉にエルフは静かに頭を下げた。そして頭を上げたときにはもう、先ほどとは全く違う表情を浮かべていた。

 穏やかそうな容貌に反して、瞳に浮かぶ殺意と、憎悪と、怨念たち。エルフは誰しも少なからずオークを憎んでいるとは聞くが、これほどの者は見たことがなかった。

 

「私がアゾグ含めてオークを全滅させる。一匹たりとも逃がす気は無い」

「おそらく罠を張って待ち構えているはず。無用な危険を冒す必要はない」

「そんなものすべて食い破ればいい。私になら、それができる」

 

 大言壮語と切って捨てることが出来なかったのは道中の死体の山を見て来たからか。冗談じみた事を言う女に反論をする余裕もなく、一切迷う素振りも見せずに踵を返して砦の方へと駆けて行った。

 後ろ姿を見送りながらトーリンはそっと息を吐いた。あれはおそらく()()()()()の存在なのだろう。冷静で誠実そうな外面とは裏腹に内面は血と怨嗟でどす黒く染まってしまっている。

 

「止めなくていいのですか?」

「承知の上で死地に赴くのならば我らに止める権利もない。第一、我らの制止で止まるエルフではないだろう」

 

 図らずも少し前にガンダルフが述べた内容と同じことを言う。

 しかし誰もそんな事を知る余地もなく、ただの言葉としてミリアンを見送るものとなっていたのだが──

 

「そう、ガンダルフも同じことを言ってたよ。だけど今は駄目だ、呼び戻さないと」

「バギンズ殿か!? どうしてここへ?」

 

 本来ならば此処にいるはずのない人間の登場にドワーフたちにどよめきが走った。

 けれど当の本人は意にも介さず焦りながらまくし立てる。ビルボからすれば現状はとても危機的な状況だった。

 

「そんなことはどうだっていいよ! それよりも、北から新しい援軍がやってくる。遅かれ早かれからすが丘は包囲されるんだ! ミリアンにも同じことを伝えないと、彼女を見かけた?」

「あのエルフは……」

 

 誰かが言いづらそうに砦の方を見やった。ビルボもその意味を理解したのか、顔を青くして頭を抱えたのである。

 

 ◇

 

 実のところ、北から援軍が来る可能性はミリアンも最初から頭に入れていた。

 元よりレゴラスが逃げたオークを追いかけて『北方から来ている』という情報は知っていたのだ。故に詳細な拠点を知らずとも敵の数が増える可能性は考慮のうち。さらに冥王とアゾグの油断ならない巨悪が噛んでいるとなれば最悪を想定しない方が間抜けというものだ。

 

 ただし、それらをすべて踏まえた上でミリアンは言うのだ。

 

「で、()()()? 全員殺して私が生き残ればいいだけのこと」

 

 醜い獣(オーク)共がどれだけ頭数を増やし、足りない頭を絞って罠を構えてこようとも、そのすべてを踏みつぶし蹂躙することが役目。オークを侮っているのではなく大真面目にミリアンはこのように考え、そして経験値と技術を糧にこれまで幾度となく悪意の芽を潰してきた。

 死ぬ可能性があるから撤退する、危険があるから引き際を見極める──その思考が抜けているのではない。ただ常人よりも"危険と感じる線引き"があまりに緩すぎるのだ。サウロン相手に無謀な戦いは挑まずとも、オークの大軍相手に臆することが無いように。普通なら無理だと考える線引きが壊れてしまっている。

 

「復讐に目を曇らせた? ええ認めましょう、私はとっくに正気じゃない」

 

 返り血を浴びながらミリアンは一人ごちた。

 砦の中にはやはり大量のオークたちが潜んでいた。元より狭い建物の中で挟撃し殺していく算段だったのだろう。この場に至るまでにも殺しまわってきたとはいえ、本陣だけあって頭数はそれなりに多い。

 狭い廊下の中でも躊躇わず槍を振り回し、不思議なほど壁には当たらず敵の肉と鎧だけを切り裂いていく。数で包囲されるよりも早く殺しては前に進み、前に進んでは殺し、気が付けば砦の外へと再び躍り出ていた。冷たい風が頬を撫でる。ここまでアゾグの姿は見当たらない。

 

「図体ばかり大きい腰抜けのオークめ、恐れをなして逃げ出したか!」

 

 分かるような大声でアゾグを挑発する。暗黒語はミリアンも話せないため共通語だが、とはいえ意図は向こうにも十分伝わることだろう。どこかに隠れ潜むオークたちのざわめきを肌で感じていた。あと数秒もすれば我慢しきれずに飛び掛かってくるはず。そう考えていたが、しかし。

 

「誰も来ない?」

 

 ミリアンの予想に反し、砦の外に出て以降はオークの襲撃が止まってしまった。もっと腐肉に群がる蠅のように襲い掛かってくると考えていただけに拍子抜けだ。

 いや、それとも。最初からアゾグの目的はドワーフへの復讐と根絶やしであった訳だから。ミリアンという不確定要素が混じったとはいえ、初志貫徹をあくまで行うとするのならば。

 

「砦の内部に残っていたオークは全員時間稼ぎの囮だった……?」

 

 自身の身に迫る最悪の可能性は考慮し、その上で真正面から攻めることを選んだ。

 けれど他者の身に起こる最悪の可能性に関して、ミリアンは欠片も考慮に入れてはいない。むしろ自分を餌にしておけば問題ないと考えていたわけだが……オークという餌に釣られたのは彼女の方かもしれなかった。

 だとすれば、置いてきたトーリンたちの方にアゾグらが押し寄せる事態となる。彼らならばそう簡単に後れを取ることもないだろうし、ミリアンがそこまで面倒見る方が逆に失礼だ。

 

 故にただただミリアンの内に苛立ちと不快感が募りだす。

 

「私を出し抜いた挙句に無視するなんて、オーク風情が無礼てくれる」

 

 彼らのすべてを滅茶苦茶にしてやらないと気が済まない。元より復讐者とはそういうものなのだ、怒りをぶつけられる相手に対してあらゆる真っ当な思考が二の次に置かれてしまう。

 ドワーフたちの下へと急行するその前に、まずはこの場に潜むオーク共を鏖殺してしまおう。そう誓って血塗れエルフは槍を閃かせたのだった。



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第十話 行きて帰りし──

 ミリアンの懸念通り、オークたちはあくまで目標をドワーフから逸らすことはしなかった。

 初志貫徹と言えば聞こえはいいが、すなわちドワーフという種族の根絶を掲げた強い悪意に満ちている。故に彼らは決して止まることなく、たとえどれだけ恐ろしいエルフがやって来ようとアゾグの意思の下に統一され続けているのだ。

 

 だからこそ、からすが丘に到達した四人のドワーフと一人のホビットは、ここに来て最大の危機を迎えていた。

 

「トーリン!」

「こちらは大丈夫だ! バギンズ殿、そなたは下がっていろ!」

 

 自身を慮る叫びにトーリンはどうにか言葉を返した。その間にも剣を叩きつける動作を止めることは無い。いや、止めたら飲み込まれると理解していた。

 波濤のように押し寄せてくるオークの数、もはや数える気も失せるほど。中には北方からの援軍だけでなく霧降り山脈のゴブリンたちすら混じっていた。

 それでも、たった五人に対してその何十倍あるかも分からない敵に翻弄されながら、全員欠けることなく立っていたのは実力の高さを如実に示しているだろう。ビルボだけは戦士というよりすばしっこさを活かしてのものではあったが。

 

「それにしても、あのエルフの方は──」

「今は他人の心配をしている場合ではないぞ。こちらに集中するんだ」

 

 いくらミリアンが勝手に一人で突撃したとはいえ、ではドワーフが素直にここから引き下がるかと言われれば決してそんなことは無い。

 むしろ今回ばかりは仲間だからとビルボのもたらした情報を教えに行くか迷ったほどだ。けれど結論を下す前にアゾグ率いるオークたちが不意に現れ、なし崩しに戦闘へと発展しまったのである。

 

「まるで鉱山の蝙蝠のように湧き出てくる! こいつらが北からの援軍か!?」

「そうでしょうね! 僕もこんな数とは知らなかった!」

「無駄話してる暇は無いぞ!」

 

 斬って、躱して、斬って、斬って、躱して、斬られての繰り返し。少しずつ鎧はへこみ身体にも傷が増えてくる中で、トーリンがついに動いた。一歩、二歩と抜け出したその先にはドワーフを見下ろすアゾグの姿がある。かのオークは最初からトーリンたちに消耗を強いた後で嬲り殺しにするつもりだったのだ。

 

「私がアゾグを討とう。奴を倒さぬことには状況が変わらぬ」

 

 もっともだが、無謀な発言でもあった。

 

「危険です!」

「そうだよ! あいつはトーリンが来るのを待ってる!」

「だとしてもだ。ここで危険を冒さぬことには、待っているのは敗北と死のみだ。下の戦況とていつ変化するかも分からぬ」

 

 確かにこのままではいずれ数で蹂躙されるが、さりとて五人でやっと綱渡りを維持する状況で一人抜ける意味は大きい。

 せめてあと二人、いや、一人でもいい。この場に戦える人物が来てくれれば趨勢は変わってくる。そんな都合のいいことを誰もが願い、けれど即座に幻想を振り払った。

 希望は無い。ミリアンが無事かどうかも分からず、勇んでやってきた戦士たちはこの場に釘付け。誰かが命を賭けて時間を稼いだとして、それも急場凌ぎに過ぎないと分かっている。

 

「トーリン、ここは俺が──」

「待て、フィーリ!」

 

 それでもなお、若いドワーフには耐え忍ぶだけの現状が我慢できなかった。焦れたフィーリが自ら敵のただ中へと飛び込もうとし、一瞬遅れてトーリンが制止するがもう遅い。無謀な突撃で血路を開こうと飛び出したところで──不意に一本の矢が飛来した。

 

「フィーリ!」

 

 あまりにも急なことだったから、トーリンにはその矢が何処から、誰に向けて射られたのか理解できなかった。ただ風切り音が戦場に響き、ついで勢いよく肉に刺さる音を確認しただけ。

 まさかフィーリが射殺された? 誰もが混乱する中で視線をそちらへとやり、見た。そして聞いた。無数の矢がオークたちを貫く光景を。フィーリはまったくの五体満足のままオークへと躍りかかっていた。

 では一体何が起きた? 思わず振り返り仰ぎ見たその先には弓を構えた影が二つ。トーリンとドワーリンにはその正体が分からなかったが、フィーリとキーリは即座にその正体を察したし、ビルボも遅れて理解した。

 

「エルフだ! 僕たちにも援軍が来た!」

 

 闇の森のエルフ、レゴラスとタウリエルが遅れてからすが丘へと駆けつけたのである。

 

 ◇

 

 一方、蚊帳の外に置かれたミリアンは苛立ちを隠そうともしていなかった。

 この場には誰もミリアンを見ている者はいない。存在するのはただただ醜く憎い(オーク)たちだ。故に誰に憚る必要もなく自身の中の殺意と憎悪を振り撒き続けていた。

 

「死ね、死ねッ! オーク風情が私の道を邪魔するなッ!」

 

 リンゲヒの槍が閃くたびにオーク達の身体が比喩ではなく飛んだ。手が、足が、首が、胴が、切断されて地に落ちる度に鮮血で雪を彩っていく。泥と血と雪で汚れぬかるんだ地に足をつけ、血塗れエルフは次の敵を求めていく。

 どれだけ普段冷静で他者に優しい振る舞いを行おうと、一皮むいてしまえばこのエルフは血と復讐に酔った殺人者だった。かつて殺された家族の恨み、滅ぼされた故郷の怨念、まんまと騙されていた自身への失望。あらゆる情念を込めて丁寧に、種族の一匹すら生存を許さないとばかりに苛烈に戦いを続けていく。

 

「はぁ……はぁ……次は、誰?」

 

 荒れた呼吸を整えながら周囲を睥睨する。オークたちは既に及び腰だ。凄惨な殺戮を見せつけられた影響か、ここで数に任せて襲い掛かったところで死ぬしかないと本能が訴えかけているのだ。もはや怯懦ばかりのオークに彼女を殺せる手段はない。

 そして、そのように戦意を喪失した相手まで執拗に殺そうとする際に、決まってミリアンは思うのだ。結局これは、ただの八つ当たりに過ぎないのだと。

 

「誰も来ないなら、私が殺しに行く」

 

 返り血を浴びながら自嘲気味に笑った。

 どれだけ長命のオークだろうとエルフ並みに生き続けることなど不可能だ。だから本当にミリアンが復讐をしたい相手、故郷エレギオンの滅亡に加担したオークはとっくの昔に死んでいる。こうしてまったくの別個体相手に恨みと怒りをぶつけることが本質的に間違っているのは理解していた。

 であればすべての元凶であるサウロンへこの怒りをぶつけるべきだと言うのに、こちらには色々な理屈をつけて挑まない。敵う、敵わないの理屈でなく、挑んでない時点で狡い存在へと落ちぶれてしまっている訳で。

 

 故に頭の片隅で思ってしまうのだ。

 勝てる相手にだけ八つ当たりじみた暴力を振るうなど、それこそ冥王やオークのようではないかと。

 

「──違う!」

 

 大きな声で否定した。勢いあまって壁へとぶつけた穂先が瓦礫を撒き散らす。衝撃に痺れた手を堪えながら次の弱者(てき)を求めて槍を回した。

 自分もまた醜い存在だと理屈では分かっている。けれど心の内では認められないからこうして戦って、誰かの助けになろうとして、少しでも()()()()()()()()()()思えるように生きている。そうでなければ生き続ける理由そのものが消えてしまうから。死すら本当の意味で終わりでないエルフにとって、生きる理由の喪失は何より恐ろしいものだった。

 

「あぁ、まったく……最低の気分だね」

 

 どうしようもない。今更足を止めることなど出来ない。復讐のための誓約は既に()ってしまった、中途半端な結末など許されない。ないない尽くしのまま、サウロンとオークがいつか敗北するその日まで突き進むしかないのだ。

 血を被り、傷を増やしたところでようやくミリアンは止まった。周囲を見渡せばオークたちは全滅している。槍で、弓矢で、宣言通りに罠を踏み潰した結果だった。銀に輝く刃は血がこびりつき、多数持っていたはずの矢は一本残らず尽きているのが激戦の名残だ。

 一つ問題を解決した以上、後はドワーフたちの援護へと戻ればいい。もと来た砦内部へ戻って通路を急いで戻る──その前に、ミリアンは高所へと足を運んだ。もしアゾグたちがドワーフへ攻撃を仕掛けているならお行儀よく砦の内部に留まっているはずがない。

 

 元々アゾグが居座っていた砦の上から戦場を見渡す。やはりドワーフと出会った地点に彼らは居なかった。

 けれどよく目を凝らせば、遠くの方に戦闘する人影がいくつも見受けられる。背が高いのはオーク、小さいのはゴブリン、その中間くらいがドワーフだ。誰が誰なのかは判然としない。それに先ほどまで居なかったはずの姿が二つ増えている。

 

「あれは……エルフ? それに一人ドワーフが欠けてる」

 

 一体誰が欠けているのか?

 疑問に感じたミリアンであったが、その答えはすぐに得られた。視線をさらに動かした先、凍った湖の上で戦っているのは、巨漢のオークと小柄な影だ。オークの方は間違いなく穢れの王アゾグであり、となれば相手は因縁のあるトーリンと考えるのが自然だろうか。

 

「まったく、無茶をする」

 

 自分のことを棚に上げてミリアンは呟いた。王が敵の総大将と一騎打ちをするなど、心意気は買うが万が一があったらどうすると言うのか。いや、むしろそういう性格だからこそ臣下が着いてくるとも取れるのだが。

 どちらにせよ、エルフ二人が参戦したとはいえ押し寄せてくる敵はまだまだ多い。うかうかしていればいずれ負けるし、誰もトーリンへの援護に行けないのが現状らしい。自由に動けるのは遠くから状況を俯瞰しているミリアンしか残されていなかった。

 

「なら、やるべきことは一つでしょうに」

 

 一つ呟き、ミリアンは軽やかに駆けだした。

 迷いはない。ただオークを殺し、ドワーフを助ける。それだけだ。

 

 ◇

 

 戦士としてのトーリン・オーケンシールドは決して弱くない。むしろ王ながら戦士としての素質にも十分恵まれている。この戦場でこの瞬間まで生き残っていることが何よりの証拠だろう。

 しかし今回の相手は規格外だ。穢れの王アゾグ、オークの中でも指折りの存在。かつて致命傷を負いながらしぶとく生き延びていたその生命力といい、ドワーフへの復讐に燃える執念深さといい、凡百のオークをはるかに凌いだ強さを持つのも納得というものだ。

 

「ちぃッ!」

 

 氷の上をトーリンが転がった。つい一秒前まで彼の居た個所に巨大な石塊が叩きつけられる。鎖から伸びたそれはアゾグの扱う規格外のフレイルだった。勢いの付いたこれをまともに喰らえば一撃で決着がついてしまう凶悪な代物だ。

 フレイルを振り回すアゾグの前にトーリンは防戦一方だった。互いの体格差もあり間合いを詰めることが難しい。転がるように避け、眼前を横切る石塊を紙一重で回避し、綱渡りのような勝負を続ける。

 

 一対一の勝負だったのはせめてもの救いだろう。ここに至るまでの雑兵はエルフが露払いを行ってくれ、さらにアゾグも自らの手で殺すことに拘っているのか援軍を呼ぶ気配はない。しかしそれでも現実として彼我の戦力差には開きがある。

 それを証明するかのようにトーリンの回避が少しずつ遅れ始めた。それはここまでの戦闘による疲労だったのかもしれないし、宿敵との緊張感が影響し始めたのかもしれない。とにかく、地面に飛び込んで回避したはずの動きが見せかけであり、次の一撃こそアゾグの本命であるとドワーフが気が付いた時にはもう遅かったのだ。

 文字通り薄氷の上にあった天秤が大きくアゾグへ傾いた。フレイルを振りかぶったアゾグが勝利を確信し、地面に転がった直後のトーリンに回避する術はない。万事休す、どうすることもできず死を待つだけ。

 

 まさにその時だった。アゾグが弾かれたように背後を振り向いた。義手代わりに刺さった左腕の剣を振り抜く。一拍遅れて鋼の噛み合う甲高い音、空中を回転しながら舞っているのは銀色の槍だろうか? トーリンはそれに見覚えがあった。

 

『貴様は!?』

 

 アゾグが何事か叫んだ。トーリンには理解できない言葉だったが、オークの意識がこの瞬間だけトーリンから逸れたこと、また今の槍を弾いたせいで体勢を大きく崩したことは直感的に理解していた。

 無我夢中、そうとしか形容できない。気が付けばトーリンは立ち上がってアゾグへと飛び掛かっている。勢いのまま彼を地へと打ち倒し、その上に馬乗りとなった。即座に反撃を判断したアゾグが左手の剣でトーリンを斬ろうとしたが、もう遅い。

 

「終わりだッ!」

 

 山の下の王が、穢れの王の胸元へ深々と剣を突き刺した。

 

 ◇

 

 その後の顛末を語ると、嘘のような逆転劇の末に自由の民は勝利した。

 決め手となったのはアゾグを打ち倒したトーリンの功績と、さらに援軍として文字通り空から駆け付けた大鷲とビヨルンの参戦だ。彼らは現れるや否や風を生み出す翼で、熊の鋭い牙と爪で戦った。オークとゴブリンは彼らによって大打撃を受け、これに人間とエルフとドワーフが勢い付いたことで完全に趨勢が決したのである。

 当初の戦力差、そしてエレボールに籠ってしまったドワーフの頑固さを思えば考えられないような結末だ。最初は誰もが自分たちの勝ちを実感することは出来なかったものの、それでもトーリンが、スランドゥイルが、バルドが天に剣を掲げたことで勝利の波が広がり、ここに山も谷間も揺るがす大喝采が響いたのだった。

 

 こうして様々な種族の入り混じった、後に"五軍の合戦"とも呼ばれる大戦は終わった。この後も数日は逃げたオークたちの掃討は行われたが、もはやエレボールも谷間の国も戦場とはなり得なかった。特に谷間の国に逃れてきた人々にとっては待ち望んだ静寂である。彼らはようやく腰を据えて復興と冬を越す準備に取り掛かることが出来たのだ。

 そして、戦いの熱も引いて落ち着いた頃、トーリン・オーケンシールドはエレボールの王として即位した。かくして彼は一族の悲願である故郷を取り戻すことに成功したのである。一度は彼の手元から離れたアーケン石も約定通りバルドからトーリンへと返還され、これに報いるためにトーリンは快くエレボールの財宝の一部を彼に譲った。竜の病に翻弄されて失いかけた王の風格も、これにて山の下の王に相応しいものを取り戻したのだった。

 

 エルフ王にも此度の戦の報酬として──噂によれば渋々ではあったらしいが──彼の求める宝石が贈られたという。バルドへ贈られた財宝の中にこれが混じっており、それをバルドがエメラルドの宝と共に渡したという回りくどい方法であるが、スランドゥイルはこれにいたく満足したようだ。あくまで確執は残ったとはいえ、少しばかり歩み寄れたのは大きな進歩と言えよう。

 

「終わってみれば大団円ってことで良いのかな」

 

 そして、これらすべてを後から知ることとなったミリアンは、一人満足気に頷くのだった。

 可能な限りオークとゴブリンの残党を追い回し、戻ってきた時にはトーリンの即位や宝の譲渡は終わっていた。少し勿体なかったなと後悔しながら、けれど「またいつか見る機会もあるだろう」とすぐに切り替えたのは長命の成せるわざである。

 中つ国の北方は今回の戦を経て平和な世の中を迎えることになるだろう。竜が駆逐され、オークは大幅に数を減らした。もはやこの地で血塗れエルフが槍を振るう必要も無いし、今後そうならないことを祈るばかりだ。復讐を渇望していたって平穏が一番というのは彼女も認めるところである。

 

 活気づき始めた二つの国から少し離れ、ミリアンは近場の川にまで降りて来ていた。湖の町まで続く川は流れが穏やかであり、手ごろな岩に腰かければせせらぎの静かな音が聞こえてくるだろう。長閑な風景は数日前の熱気を忘れさせる力があった。

 そんな川の浅瀬で、ミリアンは黙々と銀の槍(リンゲヒ)にこびりついた血を洗い流す。下流へとどす黒い血が広がっていくのを眺めながら、思い出すのはオークの中でも最強の存在だ。

 

「まさか、あの一撃を防がれるなんて思いもしなかった」

 

 しみじみと思うのはトーリンとアゾグの決着の直前のことだ。もはやトーリンは殺される寸前であり、どうしても間に合わないと踏んだミリアンは槍を思い切り投擲した。アゾグの背後から投げられた槍は確実に不意を突いて息の根を止めるはずだったのだが……彼はこれに間一髪で反応して防いでみせた。あの一瞬だけはミリアンも「オークながらなんて奴」と思わず賞賛してしまったほどだ。

 けれど勝ちは勝ち、薄汚いオークの王を殺せたことに変わりはない。だから今回の経験も『次はより確実に不意を突く』という教訓へと昇華して、自らの一部に吸収すればいい。

 

 と、背後に人の気配を感じた。複数人分の足音、槍の手入れに夢中な彼女は敢えて振り返りはしなかった。

 

「ここに居たか、エルフ殿」

 

 しかし声を掛けられてしまえば仕方ない、まして山の下の王ともなれば無視する訳にはいかなかった。

 槍をわきに置いて振り向いた先にはトーリンと、それにガンダルフとビルボも居た。彼らは既に旅支度を済ませており、これから故郷へと帰ろうというところか。きっと仲間との別れも済ませてきたのだろう。

 

「こんにちは、山の下の王。この度は宿願叶いおめでとうございます。しかしわざわざ私の下を訪ねることもないでしょうに」

「だが、そなたには是非とも直接礼を言っておきたかった。思えば霧降り山脈でのゴブリン町から始まり、闇の森の王国でも我らのために口添えを行ってくれた。まして命を救われたとなれば礼を言わぬ方が王としての品位に関わることだろう」

 

 そうは言ってもね、とミリアンも言葉を濁して頬をかいた。感謝されるほどのことはしていない。大いに打算が混じっていたのも事実であり、オークへの復讐心から戦いに身を投じたのも真実だ。これほどまでに真正面から謝意を述べられると照れくさい。

 

「かつての一件もあり、そなたのことを悪く考えていたことは否定しない。しかし誤解が解けた今、そなたの望むものをばドゥリンとノルドールを繋ぐ友好の印として渡したい。何か希望はあるだろうか?」

「それなら──」

 

 一転して目を輝かせたミリアンにトーリンは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに元に戻った。そういえば彼女は最初から希望を言っていたと思い出したのである。

 

「エレボールの炉を使わせてもらいたいのと、復興に際して私の技術を山に刻み込むのを許していただきたい。最後のエルフの金銀細工師(グワイス=イ=ミーアダイン)の実力、中つ国でも一番のものと自負していますがいかに?」

「なるほど、大胆な挑戦状だ。ドワーフの職人たちが聞けばさぞ燃え上ることだろう」

 

 初めてトーリンが微笑み、つられてミリアンも静かに笑みを浮かべたのだった。

 

「それから」とトーリンは続けた。

「キーリが湖の町で助けられたとも聞いた。兄のフィーリ共々改めて礼を言いたがっていた、彼らにも顔を出してやってくれ」

「言われなくても行きますよ。エレボールの宮殿と財宝、もう一度見ないことにはこの地を離れられないので」

 

 当初の微妙な空気は欠片もなく、終始穏やかなまま二人の会話は終わった。トーリンは即位直後ということで他にもやることが山積みらしく、最後にガンダルフとビルボに別れを告げるとエレボールへと戻って行った。残された三人はようやくゆっくりと会話をする機会を得たのだ。

 

「終わってみれば、すべて無事に行って安心した。スマウグとアゾグという難敵、今回ばかりは恐ろしい事態となるやもと覚悟していたのじゃがな」

「無用な心配で終わった、ならばそれで良いじゃないですか。万事終わればこともなし、中つ国はなるようになるものです」

「竜とオーク、それに南方に潜んでいたサウロンの影……すべて駆逐できたとなれば、向こう数十年は安心じゃろうて。優秀な技師たちもおる、エレボールと谷間の国の再興も約束されたものじゃろう」

「なんといってもこの私が居ますからね」

 

 ふふんと胸を張った。きっと彼女の頭の中ではどのようにしてエレボールの装飾を直し、また豪奢にしていくか、無数の案を遊ばせているのだろう。あるいは谷間の国の復興にまで考えが及んでいるのかもしれない。血と復讐に染まったエルフも戦が無ければ鍛冶と細工が好きな一人の職人に過ぎなかった。

 

「そうだ、ミリアンさん」

 

 少し躊躇いがちにビルボが声を掛けた。「なんでしょう?」とミリアンが返す。

 

「一つエルフの知恵にお聞きしたいのだけど……魔法の道具というのは、この世に存在する?」

「ええ、しますよ。この世を支配してしまうような恐ろしい指輪から、取るに足らない玩具のような代物まで様々に。ただそれらは往々にして秘匿されていたり喪失してしまったから、一般に触れる機会が無いだけで」

「そっか、なるほど。じゃあ聞きたいのだけど──姿を消せる指輪について、聞いたことは?」

 

 そこでガンダルフとミリアンは顔を見合わせた。まさかビルボからそんな問いが出るとは予想だにしていなかったのだ。いや、ガンダルフの方はあまり驚いた様子もないから、ある程度ビルボの抱えていた"秘密"を察していたのかもしれない。

 内心の動揺を極力抑えて、かつあまり立ち入った話にはならないよう気を配りながら、ミリアンは答えた。

 

「指輪……あまりいい話は聞かない代物ですね。特に私のような一部のエルフや、ガンダルフを含む魔法使いは現存してるかも不明な"とある指輪"を探してる。一応聞くけど、どこで拾ったの?」

 

 直接的に尋ねられた疑問にビルボは目を逸らし、俯いて、明らかに言いたく無さそうにしながらも、ようやく重い口を開いた。もはや取り繕う必要もなかった。

 

「…………()()()()()()()、トロルたちの岩屋で拾った」

「なるほど。ガンダルフ、どう思う?」

「判断がつかぬ。だが、かの指輪ならばイシルドゥアの没落と共にアンドゥインの大河へと没したはずじゃ。もし誰かが拾い上げたとしても西へと流れつくとは考えられぬ、東ならばまだしもな」

「私も同感ですね。となればそれは、力の劣る指輪の一種と考えていいでしょう。ちなみに外見は?」

「金の指輪、別段飾り気がない」

 

 金の指輪で飾り気がない。"一つの指輪"もまさに同様の特徴だという伝承は残っているし、実際に三千年ほど前にミリアンは見たこともある。

 ただ、ミリアンの記憶の中では、試作品として作られた数多の指輪もそのような質素な形状と装飾をしていた。故にビルボの拾った指輪をそうと決めつけるのも早計であったし、何よりも──

 

「誘惑や、力が増したような感覚を覚えたことは?」

「いや、まったくそんなことは無かったよ。姿を消す以外は全然これっぽっちも」

 

 そう言われてしまえばミリアンも引き下がるしかなかった。力の指輪を扱ってなお危険を感じないのなら、本当に危険性は無いかもしれない。サウロンの悪意が吹き込まれた指輪がそう生易しいはずがなかった。

 もちろん真贋を問わず滅びの山へと投げ込む手も有る。しかし、それをするにはモルドールに横たわる闇と危険はあまりにも巨大すぎるといえよう。ミリアンですら無謀だと断言する段階の話だ。

 

「……分かりました、その言葉を信じましょう。ただし何か異変があればすぐにガンダルフか私に連絡を取ること、いいですね?」

「分かった、分かりましたよ。そこまで警戒されるほどの品とは思えませんけどね」

「それを決めるのもわしらの仕事じゃ、親愛なるホビット君よ。わしらは君の安否を気にかけているのじゃから」

 

 ガンダルフらしい優しい言葉だった。それでビルボも納得したのかそれ以上食い下がることもなく、背負った荷物の位置を直した。彼はポニーへと跨り、ガンダルフは立派な馬へと乗った。いよいよお別れの時間だ。

 

「それじゃあ、僕もそろそろ帰るとします。袋小路屋敷の椅子と本と食べ物が待ち遠しいんだ。ドワーフ(みんな)にも言ったけど、もしミリアンがお茶に来ても歓迎するよ。お茶の時間は四時、ノックはしなくていいからね」

「ありがとう、ビルボ・バギンズ。ぜひともお邪魔させてもらいましょう」

「わしはビルボをホビット庄の傍まで送ってくる。お前さんとはしばしの別れじゃな」

「いずれまた道が交わるときは来ますよ。私たちの共通の敵がいる限り」

 

 その言葉に灰色の放浪者(ミスランディア)はほんの少し悲しそうな顔をして、それからいつもの火のように朗らかな笑みを浮かべた。

 

「そうじゃな、またいずれの再会を祈って。さらばじゃ、エレギオンの細工師よ。そなたの槌がいつまでも高らかな音を奏でんことを!」

「魔法使いの花火が、いつの日も誰かの笑顔でありますように! 勇気ある忍びの者も、どうかお元気で!」

「また会いましょう、銀の槍のエルフさん!」

 

 かくして彼らの道は交わり、そして再び離れていった。

 けれど再会の日は決して遠くはないだろう。元凶が取り除かれていない限り、エルフと魔法使いは放浪することを止めないし、その度に戦いと謀略の中へ身を投じることだろう。片や自由の民を援助し、片や復讐のままに殺しつくす。それでも志は一つだ。

 

 ただし、一つだけ。

 すべての運命を握る"一つの指輪"が自らのすぐ傍にまで迫っていたことに気が付くのは──まだもう少し先の話となる。




やや駆け足となりましたが、これにて『ホビットの冒険』編は完結となります。お付き合いいただきありがとうございました。

二次創作でトーリンたちの生存ifを書こうとする作品は多いと思いますが、大体そこまでたどり着けず力尽きることが多いような気もしますので、まずは目標であるここまで書けて一つ安心しております。
いったんは本作も完結とさせていただきますが、今後は暇を見て指輪戦争までの話を書いたり、指輪戦争の話を書いたりしようと考えております。まだソロンギルだった頃のアラゴルン、かつてのローハン、ゴンドールに、モリヤ復興のあれこれ等々書きたいネタはたくさんありますので、その時はまた楽しんでもらえたら幸いです。


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