嘘つき作家と宇宙人 (喜来ミント)
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Episode 1 彩りのある食卓

 

 私の同居人はエイリアンだ。

 といってもタコのような怪物ではない。見た目で言えば並大抵の地球人よりもよほど美しい。

 しかし彼女の精神は間違いなく私たちと違うものだ。地球人の中でも特にひねくれ者で、一般的という言葉からほど遠いと自負している私ですらそう思う。

 ちょうど私の書くSF小説に出てくる異星人のように、理解の及ばない存在だと。

 表向きは世界中で人気を博するアーティストだが、その正体は惑星ARIAからやってきた精霊――だとか、なんとか。

 これはそんな宇宙人IA(イア)と、作家の私こと結月ゆかりの日常である。

 

  *

 

 ある朝、目を覚ましてリビングに向かうと、昨夜と比べて二つの変化があった。

 一つは世界的なアーティストがソファで突っ伏して寝ていること。こちらはいつも通りだ。

 もう一つはテーブルの上に見慣れない花が置かれていたことだ。

 色とりどりの花――小ぶりなヒマワリを中心に、結構豪華なボリュームの花束だ。おそらくはIAが持ち帰って来たのだろう。

「IA、起きてください」

「ううーん……」

 IAが寝返りをうち、べしゃりと床に落ちる。ソファで寝ていればそうなるのは当然だ。だが彼女はあれこれ理由をつけてベッドを持とうとせず、リビングのソファで寝ることを好む。おそらくは宇宙人の習性か何かだろうと私は勝手に思っている。

「おはよう、ゆかり……」

「はい、おはようございます。この花はどうしたんですか?」

「ああ、その花? 昨日ウィーンでライブがあったから、そこでもらった」

「なるほど」

 うつぶせの状態では量の多い髪で隠れて見えなかったが、なるほど彼女はシックなステージ衣装に身を包んでいる。おそらくはいつもどおりウィーンから『直接』この部屋に帰って来たのだろう。

 マンションの一室に似つかわしくない衣装のまま冷蔵庫を漁り、冷えたロールパンを口に詰め込んでいるIAの背中に私は言う。

「この花、どうするんですか? いつも通り事務所に持っていきますか?」

「んー、いや。今回は部屋に飾ろうと思って持って帰って来たんだ」

「ここに?」

 そう。こういった出かけ先での贈答品は、いつもは彼女の音楽事務所に置いておくことになっている。何せ彼女はこのマンションに自分の部屋を持っていないからだ。何のために2LDKの物件を折半して借りているのかわかったものではない。

 コップに注いだ牛乳を――厳しく言い聞かせてパックから飲むことはなくなった――飲み干したIAが私に聞いてくる。

「花瓶とかある? 物置を探しても見つからなくって、寝ちゃったよ」

「ああ、花瓶ですか」

 彼女が物置と称する、私の寝室ではない方の洋間を思い浮かべる。普通の家ならば花瓶の一つや二つありそうなものだが、私はこう断言した。

「無いですね。花瓶は無いです」

「んー? 無いの?」

「ええ」

「ふうん……」

 IAの視線が理由を尋ねてくるが、私は目を逸らして時計を見た。

「まあ、空いたペットボトルにでも挿しておいてくださいよ。帰りに適当な花瓶を買ってきますから」

「分かった」

 会話はひとまずそこで終わった。寝足りないのか、再びうつぶせでソファに倒れこむIAをよそに、私は手早く朝の支度を済ませていく。

 私の名前は結月ゆかり。またの名をSF作家紫月(シヅキ)ユイ。

 昼間は会社に勤める兼業作家である。

 

  *

 

 専業でやっていきませんか、という話を何度か貰ったこともある。ありがたいことだ。

 しかし私は専業作家である自分をイメージできなかった。私が小説を書く原動力は自分の中に完結した世界ではなく、自分の外に広がる世界の不完全さであると思うからだ。

 などというと崇高に聞こえるが、なんということはない。世間から切り離される不安に勝てなかったというだけのことだ。

 だから私は今日もつまらない仕事を淡々とこなし、ストレスをためて帰宅する。今日こそ仕事を辞めてやろうと思いつつ、じゃあ小説だけでやっていけるのかと自問すれば答えは決まっている。

「ただいま……」

「おかえりー」

 定位置のソファで煎餅をかじる宇宙人が私を出迎えた。今日は仕事が無いらしい。

「ゆかり、花瓶は?」

「……あー、忘れました」

「そっか」

 IAはそういうと、瞼を閉じた。

 何をしているのかと見守っていると、いつの間にか彼女の足元に大きな紙袋が現れていた。彼女の音楽事務所の最寄り駅にあるデパートのものだ。中には何やら新聞紙に包まれた塊が鎮座している。

 まさか、と思う暇もない。IAはそれを包んでいる新聞紙をびりびりと破き、ガラス製の花瓶を()()()と机の上に置いた。

「……あの、この花瓶は」

「私が今日のお昼に買って来たんだよ」

 そういうことになったらしい。頭が痛いので、小説のネタとして片隅に置いてから考えるのをやめた。

 ペットボトルで作られた即席のものから、立派な花瓶へと花が移される。挿しているものが違うだけで、心なしか品があるように見えるから不思議だ。

「で、ゆかりはどうして花瓶を持ってないの」

「ああ、それですか」

 ノンカフェインのコーヒーを入れ、ちびちびと飲みながら質問に答える。

「前はちょくちょく花を買って飾ってたんですけれどね、悲しくなっちゃって」

「悲しい?」

「ええ。だって、枯れたら捨てなきゃいけないでしょう」

 後に残るのは空っぽの花瓶だ。そのあとを埋めるように花を買っても、やがて季節が変わってしまう。

「だから、花瓶そのものを手放してしまったんですよ」

「ふうん……そういう考えもあるんだね」

 花瓶の花を指先で弄びながらIAが感心したように言う。

「じゃあ、この花は枯れないようにしようか」

「……は、い?」

 こともなげに言うものだから、どう返事をしたものか分からなくなってしまった。

「忘れたの? 私は惑星ARIAの精霊、その中でも七色の魂を持つ特別な存在。私の生命をほんのちょっと分けるだけで、この花は永遠に枯れなくなる」

「それは……」

「どうしようか」

 頭が痛くなるような質問。私の常識を簡単にぶち壊す、あまりに呆気ないセンス・オブ・ワンダー。これが私とIAの日常的な光景であり、私に課せられた試練でもあった。

 だからこそ私は、飄々と答えなければいけない。

「精霊とやらも、案外大したことないんですね」

「……ふうん?」

「プリザーブドフラワーっていうものがあるんですよ。ちょっと手間はかかりますが、花を瑞々しい形で保っておけるんです」

 原理を説明すると、IAは興ざめとでも言いたげな視線を私に向けた。

「でもそれって、要は花を殺して薬品で保存しておくってことでしょう」

「まあ、そうなりますね」

「私のやり方と、どっちが残酷かな」

「それは勿論、IAのやり方の方でしょう」

「……へえ、きっぱり言うね」

「だってそうでしょう」

 私はヒマワリをそっと撫でながら言う。

「一緒に咲いた花が枯れても、あなたの命を分けられた花だけは普通に生きているんです。夏が終わって秋が過ぎて、冬になっても」

 IAはなおも何かを言い返したそうに口を開いたが、結局はため息をついた。そして花を指して言う。

「じゃあゆかりはこの花をどうするの?」

「さっきはああ言いましたが、枯れるに任せておきたいですね。それで枯れたら――花瓶がもったいないですし、造花でも挿しておきましょうか」

「そう」

「世話はどっちがします?」

「二人でしようか。どっちにしろ、リビングに置くんだから」

 幸い、この話はこれで終わった。

 また私たちはありふれた日常に戻った。私は会社に行きつつ小説を書き、IAは世界中を飛び回っては我が家のソファで寝転がる。

 そんな風にして一月が経った頃、リビングの花は一目でわかるほど色あせてしおれかけていた。

 もう明日にはIAに一声かけて捨ててしまおうか――。そんな風に思いながら会社に出かけ、帰ってくるとリビングに二つの変化が表れていた。

 一つは世界的なアーティストがソファで突っ伏して寝ていること。こちらはいつも通りだ。

 もう一つはテーブルの上の花が色鮮やかさを取り戻していたことだ。

 まさか、と思う。だがその花の姿は一月前に見たそれと寸分違わぬものだった。

 ソファで寝るIAに気取られないように、そっとヒマワリの花びらに手を伸ばす。思わず息を止めながら、そっと指でつまむ。

「……はあ――」

 柔らかな合成繊維の感触が伝わった。どうやってか、あの花にそっくりな造花を調達してきたらしい。

 私はIAの体をゆする。

「ほら、起きてください。夕飯はどうしますか」

「んー……カレーがいい……」

「カレー? この間ジャガイモ使っちゃったばかりなんですけど……。そう言うことは事前に連絡入れておいてくださいよ。また買い物に行かなくちゃいけないじゃないですか」

「んー、じゃあ今ジャガイモ買ってきたことにするから」

「それはもういいです」

 寝ぼけ眼の宇宙人を起こし、彼女が顔を洗っている間に食材のストックを確かめた。カレーの材料以外にも買い足しておいた方がいいものがちらほらとある。荷物持ちに世界的なアーティストの彼女を駆りだすのに気が引けたのは最初の話。今ではだらしない彼女の背中をぐいぐいと玄関に押していくこともできる。

 さあ、近所のスーパーに出かけよう。

 造花で彩りを添えた食卓でカレーライスを食べるために。

 



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Episode 2 塔の無い時代

 

 私の同居人はエイリアンだ。

 といってもアンテナのような触手が生えているわけではない。見た目で言えば美しい少女にしか見えない。

 しかし彼女の価値観は間違いなく私たちと違うものだ。ちょうど私の書くSF小説に出てくる異星人のように、理解の及ばない存在だと痛感する。

 表向きは世界中で人気を博するアーティストだが、その正体は惑星ARIAからやってきた精霊――だとか、なんとか。

 これはそんな宇宙人IA(イア)と、兼業作家の紫月ユイこと結月ゆかりの日常である。

 

  *

 

 私が渡した紙束から顔を上げたIA(イア)は開口一番こう言った。

「難しい」

「そうですか」

 難しくてわからない。私が今までの人生で何度も言われたことだ。

 人に合わせて話し方を変え、相手の知識に合わせて言葉を変える。そんな当たり前のことを身に着けたのは本当に最近のことで、ついおろそかになることもある。

 今IAに難しいと言われたそれも、改善が必要な代物だった。

「まず用語が多すぎる。それにここ、説明になってるの? 私にはよくわからない」

「あ、メモ取るので……どこですか?」

 気だるい午後の日曜日。私は試しに推敲前の小説をプリントアウトしてIAに読ませてみた。彼女自身の希望があってのことだが、それでも容赦なく欠点を挙げてくれるのはさすがというべきか。もっとも、変に気を使われるよりもありがたい。

 その小説は人間ではない知的生命体が暮らす惑星での物語だった。主人公も当然その生命体の一体であり、彼らの姿かたちから始まり、生活習慣などについても説明が必要だと感じて筆を進めていった。

 そしてそのせいで、独自の用語が爆発的に増えてしまった。設定を凝った小説にありがちな失敗だった。

「ふむ。……こんなところですかね。他に気になる点はないですか?」

「うん。はい、返すね」

「ありがとうございます」

 IAに渡された紙の束を、私はそのままシュレッダーに突っ込んだ。十枚までなら一度に裁断してくれる電動のものだ。ばりばりと紙を飲み込んでいくシュレッダーを指してIAが言う。

「いいの?」

「いいんですよ。どうせデータはパソコンに入ってるんですから。それにこれは――うん、一から練り直しですね。ほとんどボツみたいなもんです」

 メモにまとめた改善点を見直しながら、反芻するように頷く。

「そういうものなんだ」

「ええ。やっぱり客観的に見て分かるものじゃないと」

 私はあまり論理的に話を組み立てるタイプではない。

 書きたい場面、あるいはキャラクター、時にはたった一言のセリフから肉付けしていく。その書きたいと思った要素にたどり着くための場面を考えてつなぎ合わせていく。話の作り方で言えば帰納法になるのだろう。

 そして困ったことに、作るだけ作った後で無理の生じた場所を修正していくうちに、先ほど挙げた物語の骨子、一番書きたかったはずの部分を取り除くこともあり得る。後先考えずに話を作るからそうなるとわかっているのだが、そこを意識してしまうとぎこちないものしか作れない。

『先生、最初に聞いてた話と違うんですが』

 担当編集者にも何度言われたか分からない。だが最終目標は一つだ。

「客観的に――そしてなにより、自分が面白いと感じるものが一番です。そのためにも分かりにくいものは避けたいですね。内容が分からないと、面白いかどうか以前の問題ですから」

 訳が分からないのに面白いものを書ける人もいるが、まあ、あれは例外中の例外だ。

 伝わらない言葉ほど虚しいものはない。

「それで、さっきの小説はどう改善するつもり?」

「まあそうですね、用語はもっと小出しにしないとダメですね。最終的に必要な用語を減らしつつ、読者が自然と覚えていけるようにラインを作っていけば――」

 IAの質問に答えていたのは前半だけで、残りは独り言も同然だった。手元のメモに小説中の用語を階層分けして書いていき、関連するものを結んでいく。客観的に見てどこから伝えていけばいいか――。

「ゆかり」

 声をかけられたが、顔を上げないまま返事をする。

「なんですか?」

「ここに手を」

「え?」

 顔を上げると、IAの掌の上に虹色の円盤が浮かんでいた。

 一度目を閉じ、深呼吸して目を開く。

 残念ながら光景は変わらなかった。質問を喉から絞り出す。

「…………何ですかそれ」

 唐突に叩き込まれる非日常には慣れようと思っても慣れない。慣れたくもない。

「さっきの小説を理解しやすくしてみた」

「言っている意味がよく分かりません」

 直径10センチほどの七色に輝く円盤――なんの支えもなくIAの掌の上に浮くそれは、複雑な色彩のマーブル模様を内包しており、刻一刻と変化している。厚みはほとんどない。このまま美術館にでも飾ってありそうな見た目だ。

 これが、さっきの小説?

 しかし、これ以上説明を求めても、IAが納得のいく補足をしてくれないのは分かっている。そちらには残念ながらもう慣れてしまった。

「……触りますよ」

「うん」

 恐る恐る円盤に触れた。

 その瞬間。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

「は?」

 A4用紙で10ページほど。文字数にすれば7000文字以上はあっただろうそれが、一瞬で私の脳に伝達された。

 危惧していた用語の難解さも問題ではない。全てが一瞬で理解のうちに収まった。

 私が考えていた架空の惑星での架空の生き物たちの暮らしがありありと思い描けた。それどころか、私の想像が足りていなかった部分がすぐにわかった。彼らが人とは全く違うその体を動かすときの感覚や、地球とは違う空気の質感すら伝わって来た。

 私の伝えたかったすべてが一瞬で伝えられたのだ。

「わかりやすくしたって、そういう……」

「そう。これならわかりやすい」

「分かりやすいというか分からざるを得ないというか……」

 相変わらずこの宇宙人は私の想像を軽々と超えてくる。

 しかしこんなものを出された以上、試したいことはたくさんある。

「仮に。仮にもっと量のある文章なら、大きな円盤が必要なんですか?」

「ううん、いらない」

「文章以外の物は?」

「曲や絵も大丈夫。情報化できるものなら」

「……ゲルニカ、分かりますか」

「分かるよ」

 円盤の模様が変化していく。薄暗い青を基調としたものから、赤と灰色が絡み合う色彩へと移り変わっていく。

 変化が落ち着いたと見て手を触れると、私は『ゲルニカ』のすべてを理解した。

 まずは絵そのものの情報。女、牡牛、戦士、馬、鳥、灯火、そのすべての配置と大きさと形状、色彩に至るまですべての情報が伝わる。

 そしてその絵に込められた意味や意思も。途方もない悲しみと怒りが心の内側から吹きあがり、瞼を閉じる間もなく涙が溢れ出た。思わず胸を押さえて歯を食いしばる。

 私の書きかけの小説など比べ物にならない情報の洪水になす術もなく飲まれてしまう。嗚咽が抑えきれない。涙と鼻水を拭えるものを探してテーブルの上を探るのがやっとだ。

 IAはただ、そんな私を透き通った眼で見ていた。

 

  *

 

「ふう……」

 やっと落ち着いた。

 なんという効率と情報密度だろう。許容を超える情報量に頭がちかちかとする。強いて言えばそれだけが欠点であり、この円盤はこの世のすべての芸術を足蹴にしかねないものだった。

 これがあれば、日本語で文章を書き綴る必要は無い。

 これがあれば、絵具で色彩を組み立てる必要は無い。

 これがあれば、楽器で音の調和を奏でる必要は無い。

 これがあれば、演技をフィルムに収める必要は無い。

「これがあれば……」

「これ、欲しい?」

「欲しい、ですが」

 どんな難解な話であろうと、どんな意図の作品であろうと、たちどころに全ての人に届く。

 喉から手が出るほど欲しいそれは、しかし今の地球人類には扱いきれないものだ。

 だから私はこう言わなければいけない。

「内容が伝わるだけじゃダメなんですよ」

「……というと」

「2001年宇宙の旅。私、最初に映画じゃなくて小説版を読んだんですよ」

 言わずと知れたSF映画の金字塔だ。その視覚表現と壮大なテーマは今日の多くの作品に影響を与えている。生命の進化を促すモノリスや、人間に反乱するコンピュータといったガジェットもたびたびオマージュされる。

 その小説版は、視覚表現を中心に据えられた映画と違って、ストーリーにも論理的に説明づけがされている。それを読んだ私は、次は映画版も見ようと思ってレンタルビデオ店に向かったのだった。

「そしてこう思いました。小説版を読むのは後にすればよかった、と」

「それは何故?」

「だって、全部わかってしまいましたから」

 セリフを極力減らし、音楽だけの場面が延々と続く画面。

 詳細の説明がないまま訪れる未知の世界との遭遇。

 そして一際難解な最後のシーンの解釈。

「最初に映画を見ればよかった。解釈の余地がたくさんあるあれを見て、色々考えて――それから小説版(こたえ)を読めばよかったって思ったんです」

「分からなくてもいいということ?」

「いいえ。最終的には理解したいと思いました。でも、分からない状態じゃなきゃ味わえない時間があったんです」

 小説を含め、全ての芸術は誰かに何かを伝えるためにある。

 第九。

 ゲルニカ。

 人間失格。

 その内容を、意図を正確に伝えたいのなら、芸術ほど効率の悪いものはない。

 だがその効率の悪さが必要なのだ。それを作り、あるいは受け取るのに時間をかけ、エネルギーを費やしたそれが代えがたい記憶として私たちの一部になる。時には伝えることに失敗し、曲解されて作者の手を離れていく。退屈なあまり眠らせてしまうこともある。

 だがそうしなければ、全ての芸術は一言で終わってしまう。

『この小説/絵/曲が言いたいのは**ということです』

 薄っぺらな持論であるのは分かっている。しかし、今はそう言うことでしか、宇宙人の輝く円盤を不要と断じることはできなかった。

「そう。わかった」

 IAが手を閉じるとともにその円盤は消えた。

「あなたの歌だってそうでしょう? わざわざ地球の言語で歌って、解釈の余地がある」

「あれは――正体をなるべく明かさないようにしているから」

「そうですか」

 だったら私にも明かさないで欲しかったぐらいだ。

 IAはすっくと立ちあがり、言った。

「明日の朝、台湾でコンサートがある。夕食は要らない」

 そう言い残し、IAは私の目の前から一瞬で姿を消した。

 いつものことだ。空間を捻じ曲げて台湾へと跳んだのだろう。後には仄かに虹色の輝きが残るだけだった。それもほどなくして薄れていった。

「はぁー……」

 まさかボツの小説を読ませただけでああなるとは。花瓶の花と言い、どこに地雷があるか分かったものではない。

「コンサート、か……」

 小説家として、表現者の一人としてこれ以上ない無力感を味わってしまった。手元のメモを破り捨てて、幼児にもわかる話を書いてやろうかという気分になる。

 このわだかまる気持ちを相談するのにふさわしい相手がいる。そしてちょうどよく顔を合わせる機会もある。本当は行くつもりではなかったが、ここまでお膳立てされたのだから乗ってみてもいいだろう。

 

  *

 

 都内の某ライブハウス。ステージの上では、バンドメンバーに囲まれた金髪のギタリストが英語の歌を叫んでいた。

『I will =*+‘』+‘><!! ――――%$+*away――!?』

 正直言って英語のヒアリングに自信はない。ほとんど何を言っているかはわからない。

 だが、フロアは熱狂していた。あの中の何人がこの曲の正確な歌詞を知っているだろう。その意味を理解しているだろう。

 きっと大半はただのノリで熱狂している。

 かくいう私も、知らず知らずのうちにリズムに合わせて体を揺らしていた。

『This is love――!! all need is love――!!』

 今のは流石に分かった。そしてそうやって曲が締めくくられた瞬間、金髪のギタリストがステージ奥へと走った。

 まさか、と思う間もない。助走をつけた彼女はギターをかき鳴らしながら全力で突っ走ってステージから飛び降りた。

 あとはもうめちゃくちゃだ。秩序を失ったライブハウスの中には楽器の音と人の声が好き勝手に乱れ飛び、事態が落ち着くまでたっぷり10分はかかった。

 そして私はと言えば――。

「レモンサワー一つ」

 バーカウンターで静かに一杯やって彼女を待つことにした。

 

  *

 

「いやー楽しかった!!」

「それは良かったですね」

 弦巻マキ。大学時代の悪友だ。

 ただでさえ激しくギターをかき鳴らしていた上に先ほどの騒ぎだ。出番が次のバンドに移ってなお、周囲の目線は衣装が皺だらけになった彼女に注がれている。そのままの彼女に話しかけられるのは少々遠慮したい気分だったが、今日の私は彼女と話すために来たのだ。

「バーテンさん、ジョッキ一杯!」

 注文をさっさと済ませ、マキは私の隣に座りこんだ。

「いやーテンション上がった上がった!」

「いつもあんな風なんですか?」

「いやいや、いつもはもっと大人しいよ。ステージの上からゆかりん見つけて驚いてさー。ノッてくれてたじゃん。サービスしちゃった」

「……まあ、多少は」

 マキは笑いながらギターを弾く真似をした。

 グラスとジョッキを軽くぶつけ、話を続けた。

「それにしても、来てくれるとはね。今まで何かと理由つけてこなかったじゃん?」

「兼業してるもので」

「知ってる知ってる。あ、あとで打ち上げにも来ない? 他の子たちも会いたがってるよ、きっと」

「まさか。お邪魔ですよ」

 大学では別の学部だったが、なぜか一方的に気に入られ、なし崩し的に食事を一緒にすることも多かった。彼女のバンドメンバーとも顔見知りではある。

 このまま世間話を続けていたら、打ち上げにもいつの間に参加することになってしまいそうだ。私はさっさと本題を切り出すことにした。

「ねえマキさん。曲の歌詞とかを曲解されたり、意味が分からないって言われたりしたことってありますか」

「そりゃあるよ。それがどうしたの?」

「自分の想像通り、想定通りに全部伝わったら楽だろうなって思ったこと、あります?」

「そりゃあるって! さっきの最後の曲だってさ、結構皮肉が入れてあるんだよ? でも英語でノリがいいからさ、あの通り!」

「ま、そうですよね」

 英語の歌詞というだけで、日本人の大半には理解できないものになってしまう。天にとどく塔が失われた時代を生きる私たちには避けられないことだ。

 それどころか、同じ言語でさえも。

「ゆかりんだって作家だし、やっぱりそういう経験あるんでしょ?」

「ええ。日本語で書いてるはずなのに、全然伝わらないんですよ」

「ははは、それじゃあ英語の曲はもっと無理かー」

 マキは明るく笑う。

「でもさ、だから音楽って生まれたんだと思うんだよね」

「というと?」

「きっと言葉が生まれたばかりの時は、単純なやり取りばっかりだったと思うんだよね。狩りに行くぞ、とか、雨が降って来た、とか。だからそれで済んだんだ」

 マキは大げさな身振り手振りをつけて話す。

「でも言葉がたくさんできて、違う言葉同士で通じなくなって、それでどうしようもなくなって誰かが叫んだんだよ。壁を叩いて、足を踏み鳴らして、どうにか伝われーっ! って頑張ったんだよ」

「それが音楽ですか」

「多分ね」

 なんて単純な答えだ。通じないから伝えようとする。たったそれだけ。

 私の回りくどい理屈より――よほど伝わる。

 彼女に虹色の円盤(レコード)は要らない。

「ま、学者さんには違うって言われちゃいそうだけどね」

「それでもいいんじゃないですか」

 ハートが伝われば。

 そう言おうかと思ったが、マキが喜びそうなのでやめておいた。

 レモンサワーをもう一杯頼む。もう少し、この空間にいたいと思った。

「でさ、打ち上げ来る?」

「行きませんってば」

 



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Phase 1 Grateful Foods

 私の同居人はエイリアンだ。

 なんでも彼女は地球の悲鳴を聞きつけてやって来たとのことで、生命と愛と平和のメッセージを届けて調和を取り戻すのが目的らしい。

 そのために彼女――IA(イア)はアーティストとして世界中で日夜歌い続けている。そしてその一方で、何やら理由があって私を調和(しんりゃく)の第一歩と決め、あれこれと揺さぶりをかけてくる。

 どうやら彼女は、精霊としての力だとか故郷の惑星のテクノロジーだとかを大々的に使うのを止められているらしい。となると、私はその常識外れな力やテクノロジーに対して、地球人がどういった反応を示すかのモルモットと言ったところだろう。

 ならば、私がそれらに拒否感を示し続ける限りは、彼女は常識的な方法でしかこの世界にメッセージを発信できないのだ。

 それでいいと私は思う。少なくとも今の方法では、この地球ががらりと変わることはあり得ない。

 なぜなら、生命の大切さも、愛の素晴らしさも、平和の尊さも人間は既に知っているからだ。知ったうえでこれなのだ。いかに世界的なアーティストが訴えたとしても、それがただの言葉ならば世界が変わることはない。

 花に永遠の命を与える方法。

 無尽蔵のエネルギーを提供する手のひらサイズのバッテリー。

 地球の裏側に一瞬で移動できるドア。

 感情と思考を余すところなく伝達できる円盤。

 それらにあれこれと難癖をつける限り、彼女はエイリアンたる本領を発揮できない。

 地球を守っている、などと大層なことを言うつもりはない。私はただ、変わってしまうのが恐ろしいだけだ。

 だから今のままの日々を続けていればいい。そう思っていた。

 私は油断していた。彼女が一体どういうスケールの存在であるのかを。

 

  *

 

 地球ではない場所、今ではない時間。

 見渡す限り広がる花畑の中で、一人の少女と一匹の猫が向かい合って座っている。

 長い髪をふわふわと漂わせる少女の名前はIA。この惑星ARIAの精霊であり、そのなかでも七色の魂を持つ特別な存在である。

 そんな彼女と向かい合って座る猫も、やはり普通の存在ではなかった。

 カラフルな布で作られたぬいぐるみのような見た目ながら、その身のこなしは猫そのもの。その猫は眠たげな眼のまま、口を開かずこう言った。

「結月ゆかりに対するアプローチを変える必要があるように思う」

「アプローチを?」

 IAは首を傾げ、その猫に聞き返した。

「理解を深める必要がある、と言い換えてもよい」

「私は彼女のことを十分に理解しているよ」

「では一向に結月ゆかりの心理に変化が現れないのはなぜか」

「それは……彼女の心理が強固だから」

「徐々に揺さぶりを強めてはいるのだろう。直接的に魂に干渉しない方法ではあるものの、何の反応もないのは少々おかしい」

「何が言いたいの?」

 猫はやはり口を開かないままため息をついた。

「今のままでは何の変化も訪れないのではないか?」

「……そうかな」

「忘れてはいけない。我々のゴールは結月ゆかり、ひいては地球全ての人々の意識を変えること。あの星を埋め尽くす()()()()を揺るがすこと」

「分かってる」

「ならばその一人目でつまずいている場合ではない。結月ゆかりの心理を理解し、より効果的な方法を考えるのだ」

「分かったよ、チコー」

 その言葉を最後にIAは花畑から消えていた。

 猫はまた口を開かずにため息をついた。

 

  *

 

「いただきま~す」

「いただきます」

 木曜日、会社の昼休み。今日は定時で帰れそうだ――などと胸をなでおろしつつ、形だけの合掌をする私の前で、後輩の子はしっかりと食材に感謝していた。

 彼女――紲星(きずな)あかりちゃんの弁当はいつも手が込んでいる。彼女の母が料理を趣味にしているためか、その腕を振るう場として毎日趣向を凝らした色彩で彩られている。

 花の形のニンジンは序の口。ディズニーやサンリオのキャラクターを模したご飯や薄焼き卵から、果ては弁当そのものをキャンバスに見立てた一枚絵と言っても過言ではないものまで。SNSでも人気を博しているとか、なんとか。

「見てて飽きないですねえ」

「そういうゆかり先輩はどうして……」

 コンビニおにぎりが二つだけ並んだ私の昼食を、あかりちゃんは()()()とした眼で見る。

 私はその日の気分とスケジュールによって、手作りの弁当が半分、コンビニのおにぎりやパンが半分といった具合だ。弁当を作る場合も夕食の残りと冷凍食品を詰めただけのものが多い。

「朝の時間は貴重なので……」

「まあ、私も手伝いくらいしかしてないのであまり大きな顔はできませんが、それでももうちょっと栄養バランスとか考えた方がいいんじゃないでしょうか」

「夕飯はちゃんと作るので……」

「約束ですよ?」

「はいはい」

 とくに今日の朝は急いでいた。

 朝食を済ませた後、ふとした思い付きで小説を書き始めたら切りが悪くなってしまったのだ。しまいにはノートパソコンをリビングに残したまま、相変わらずソファで寝ているIAを横目に慌ただしく家を出て来た。

 本当ならば書きかけの小説の管理くらいはちゃんとした方がいいとわかっているのだが、IAが妙な真似をするとは思えないし、私の仕事に興味を持つとも思えない。片付けは帰ってからでもいいだろう。

 そう思っていたが、これが今回のきっかけとなってしまったのだった。

 

  *

 

「ねぇゆかり、最近忙しいの?」

「はい?」

 定時で退社し、スーパーで夕飯の食材を買い込んで帰宅した私に投げかけられた言葉に、私は思わず驚いた。

 IAが私の内面に踏み込むようなことを聞いてくるとは。冷蔵庫に食材をしまう手を止め、聞き返してしまう。

「そんなことを聞くなんて珍しいですね」

「パソコン、置きっぱなしだったから」

「ああ……邪魔でしたか?」

「邪魔じゃないよ」

「まあ、朝食の後にちょっと思いついたことがあったので試しに書いてただけですよ。締め切りはもうちょっと後ですし」

「そう」

 さてと、と気分を切り替えて携帯でレシピを検索する。結局あの後、あかりちゃんに今日の夕飯の写真を送る約束をしてしまったのだ。それなりのものを作らないといけない。

「今日は料理するの?」

「後輩に夕飯の写真を送ることになってしまいまして。少し時間がかかるので、お腹がすいたなら先に何かつまんでいてください」

「大丈夫。手伝う?」

「ああ、じゃあちょっとだけ」

 ビーフシチューにパン、サラダとマリネ。結局、慣れないレシピに手間取って、夕食が出来上がったのは一時間後のことだった。それなりに美味しいものが出来上がったものの、割に合っているとは思えない。

 それでもあかりちゃんから『すごいです!』とのお言葉をいただけたので、まあやった甲斐はあったというものだろう。

「ごちそうさまでした……と。さて、片付けしますか」

 ぐりぐりと肩を回しながら立ち上がり、皿洗いを始める。後回しにすると余計に億劫になりそうな気がした。

 そんな私を見ながら、IAが定位置のソファーから聞いてくる。

「ゆかり、疲れた?」

「まあ、少しだけ。なかなか骨が折れましたね」

「もっと楽に作れたらいいなって思う?」

「思いません」

 私はぴしゃりと言った。こういう時は、大体妙なテクノロジーを持ち出してくる兆候だ。

「どうせまた、念じただけで料理が出てくるテーブルクロスかなにかを出すつもりでしょう」

 IAは首をかしげながら言う。

「まあそういうのもあるけれど」

 やっぱりあるのか。

「ゆかりは私たちのテクノロジーに不満があるの?」

「いやまあ、そういうわけじゃないですけどね……ちょっと急すぎるというか、便利過ぎるというか」

「そう。覚えておく」

「……?」

 今日は何かと珍しい物言いが目立つ。少し胸騒ぎがしたが、私から何か言ってもIAが妙な真似を止めるとも思えない。いきなり世界中に正体をさらすような真似をしないと本人が言っている以上、私が対処すれば問題ないだろう。

 そして私は、対処がどうこうという次元ではない事態に放り込まれることとなった。

 

  *

 

 翌朝、キッチンに変化が現れていた。金曜だしあと一日頑張れば――などと考えていた矢先にこれだ。

 ガスコンロがあるべきスペースに巨大なオーブンのようなものが鎮座している。さらに、電子レンジもオーブントースターもコーヒーメーカーも……冷蔵庫以外のありとあらゆる調理器具と言えるものがなくなり、その代わりに見覚えがない電化製品が我が物顔でそこにいた。

 30秒ほどフリーズしていると、ちょうどよくIAがソファから起き上がったので尋ねてみる。

「……あの、なんですかこれ」

「オールマイティクッカー。だいたいクッカーとだけ呼ぶけど」

「はあ……」

 オールマイティ、と来た。それならば電子レンジを始めとしたあらゆる調理器具がなくなっているのも納得だ。

 そのクッカーとやらに刻印されたメーカーの名前には見覚えがあるものの、そんな機械が発売――いや開発されているということすら聞いたことがなかった。まるで違う世界に迷い込んだかのようだ。

 大体、こんな巨大なものをいつの間に運び込んだのか。

 そう尋ねると、IAはゆるゆると首を横に振った。

それ(クッカー)はもともとこのマンションのキッチンに備え付けの物だよ」

「え? いやそんな、こんなの見たことが――」

「そういう世界だから」

「はい?」

 今なんと言った?

「ARIAのテクノロジーには拒否感があるようだったから、人間のテクノロジーの範疇で手軽に料理を作れる世界にしてみた」

「え、いや、あの」

「何が食べたい?」

 そう言いながら、IAが私の横をすり抜けてクッカーのタッチパネルに手を伸ばす。不可思議な色の髪が揺れ、花のような香りが鼻腔をくすぐった。

 唐突な質問に対し、起き抜けの腹具合の任せるままに返事をする。

「え、じゃあパン……」

「トーストで良い? ジャムは?」

「い、イチゴで」

「わかった」

 IAが平皿を中に入れ、パネルをてきぱきと操作するとクッカーが身震いを始めた。

 この駆動音にはなんとなく覚えがある――行ったり来たり、一定のリズムで刻まれる音はそう、まるでプリンターのようだ。

 まさか、と思う間もない。電子レンジやトースターのようなチーンという音が工程の終了を知らせた。

 そしてその前扉が開かれた瞬間、香ばしい小麦と甘いジャムの匂いがふわりと漂った。

 イチゴのジャムトーストがそこにあった。

「………………」

 言葉を失い、エサを求める魚のように口をパクパクと動かす。

「はいトースト。飲み物はコーヒーで良い?」

「……はい」

「わかった」

 先ほどと同様に空のカップを入れ、パネルを操作して待つことしばし。薫り高いコーヒーがそこに出現していた。

「先食べてていいよ」

「あ、はい」

 信じられない。こんなことがあっていいのか。手を合わせてから半信半疑でトーストを取ってかじり、さらにコーヒーを一口。

 パンは焼きたて、コーヒーは挽きたてそのものだ。一体どうやって――いや、原理は推測できる。先ほどの駆動音がその裏付けだ。

 ブルーベリージャムが塗られたトースト、そして薫り高い紅茶を手にリビングにやって来たIAに尋ねる。

「あれは、クッカーは、食品の3Dプリンターなんですか?」

「そう」

 IAはあっさりと肯定した。

 当然、そんなものは実現していない――()()()()()()

 だが彼女が言ったのだ。()()()()()()()()()、と。

「どういうことなんですか、これは。一体どうやって?」

「んー……並行世界って言えばわかる?」

「ええ、まあ」

 並行世界(パラレルワールド)とは、簡単に言えば『あり得るかもしれない世界』のことだ。この世界、あるいは時空というのは、数え切れない可能性の分岐の末たどり着いたうちの一つであり、それ以外の分岐をたどった世界も今の世界と並行して存在する、とされる。

 身近なところで言えば、私の眼の前にコーヒーではなく紅茶がある世界、もっと大局的なものなら、冷戦が続いたままの世界や、徳川の治世が続いたままの世界もあるかもしれない――それはSF作品の格好のネタとして取り上げられている。

 そして何より興味深いのが、観測する手段がないため『ある』とも『ない』とも言えず、理論物理学の世界でも完全に存在を否定できていないというところである。

「それで、その並行世界っていうのがたくさんあるんだけど」

 そして今、実際に見て来た宇宙人の一言によって存在が証明された。あんまりだ。

「その中からこういう世界を選んで、ゆかりに体験してもらうことにした」

「それじゃあ、私は今、並行世界に……」

「それは面倒だからやってない」

「めんど……」

 あんまりだ。

日本橋(にほんばし)を中心に半径500kmくらい。その世界を模倣(エミュレート)して作ってある。それよりも外は適当にシミュレートしてるだけだから、いきなり北海道や沖縄には行かないで」

「行くとどうなりますか」

「行こうと思っても行けないよ」

「なんで日本橋なんですか」

「都合がいいから」

 IAとの会話はいつもこうだ。ワンテンポずれているというか、きちんと意思疎通をするには会話の仕方に気を付ける必要がある。

 そう分かっていながら、私は昨夜の違和感を追求しなかった。

 それがこのざまである。流石に地球丸ごととはいかなかったようだが、窓の外には一見普通の街並みが見渡す限り続いていた。

 そう。彼女はそういうスケールの存在なのだ。

「ちなみに、この世界でも私の仕事は変わってないんですよね?」

「うん」

 ちらりと時計を見る。これ以上IAに質問をしている時間はなさそうだ。急いでトーストとコーヒーを胃に収め、ごちそうさまを言う。

 そして荷物をまとめて家を出るとき、IAが私を呼び留めた。

「これを持って行って」

 指輪だ。シンプルな作りだが、見る角度によって様々な色に輝く不可思議な宝石がはまっている。

「なんですか、この宝石」

「私の魂の一部」

「…………」

 もはや何も言うまい。

「その石の部分に直接触れていると私と会話ができる。多分この世界に戸惑うだろうから、作っておいた」

 随分と気が利くものだ。右手の人差し指にぴったりと合うそれをつけながら言う。

「あなたらしくないですね」

「チコーにそうしろって言われた。いつもとアプローチが違うのもチコーの提案」

「それは誰……ああいや、あとで聞きます」

 靴を履き、やや速足で家を出る。そんな私の背中を追うように、IAの声がかかった。

「それと。さっきみたいなことを言うと珍しがられるから」

 その言葉の意味を問う時間もない。そして最寄り駅で電車に飛び乗った時には、質問そのものを忘れてしまっていた。

 

  *

 

 弁当を作る時間はなかったため、職場の最寄り駅のコンビニに入る。

 そしていつも通りおにぎりを手に取ろうとして――目を見開いた。

「にひゃくごじゅ……」

 昆布のおにぎり、250円。間違いない。二度見ても値段が変わらない。何故だ。思考が全力で回転を始める。あらゆる違和感を探し出そうと目が陳列棚を走査する。

 そして見つけた。

 おにぎりのパッケージには、正確にはこう書かれていたのだ。

『手巻きおにぎり日高昆布(天然) 250円』

「天然……」

 よく見ればなんということはない。その棚には『天然おにぎり』とちゃんと書いてあるのだ。

 天然とわざわざ言うからには、そうではないものがあると言うことだ。

 そう、それを私は知っている。私の胃の中にある。

 昆布のおにぎりを裏返すと原材料名が書いてある。いわく――。

 ごはん(天然)。

 昆布佃煮(天然)。

 海苔(天然)。

 他のおにぎりを見てもそうだ。添加物以外にはもれなく天然との但し書きがついている。だからこそこの値段なのだ。

 その隣の棚を見れば、こちらはただの『手巻きおにぎり日高昆布』が70円。おそらくはクッカーで合成されたものだろう。

 そしてさらに、その横にQRコードが表示されており、そちらには30円との文字がある。

「これはもしや……」

 などと考えていると、背後から声がかかった。

「すんません」

「え、あ、すみません」

 とっさに身を避ける。工事業者らしき客が棚から弁当の写真が書かれたカードを引き抜いた。そしてそのままレジに向かう。

「…………」

 しばし様子をうかがう。

 客が渡したカードに書かれたバーコードを店員が読み取り、精算。そして店員がレジの後ろにある機械に空き容器を入れてから弁当のカードを読み込ませた。

 待つことしばし。出来立ての弁当がクッカーから出て来た。客はそれとタバコを一箱持ってコンビニを後にした。

 私はそれを見てからおにぎりの棚に向き直るが、弁当のように店員に調理を頼むカードはなさそうだった。

「なるほど……おにぎりは包装済みだから工場で作るんだ」

 となると選択肢は三つ。天然のおにぎり。合成のおにぎり。そして――。

「こうかな」

 QRコードをスキャンすると決済画面が表示された。私は昆布とツナマヨのおにぎりのデータだけを買い、会社に向かった。

 そのあと、午前の仕事は昨日と比べて何の変化もなかった。普段の業務に使うソフトもまるっきり同じ。あれだけ激動の五分間をコンビニで過ごしたのが嘘のようだ。

 そしてまた、私にとっては波乱の昼休みが始まった。

 

  *

 

「さ、お昼にしましょうか」

「ええ」

 あかりちゃんが弁当箱を取り出した。だがもちろん――この世界での常識に従って、中身は空だった。

 あかりちゃんは、職場の給湯室に当然のように存在するクッカーの中に弁当箱を入れた。そしてスマホのアプリを起動し、彼女の母が設定したのであろうレシピをクッカーに送信する。

 待つこと2分。みごとなデコレーションを施されたお弁当が出来上がった。

「相変わらず凝ってますね」

「そうですよねー。毎回どこで設計のアイディアを思いつくんでしょうね、お母さん」

 設計。

 そう、料理は設計する時代なのだ。

 私は紙皿をクッカーに入れ、今朝買ったおにぎりのデータを送信した。おにぎり二つでたったの60円だ。

「またコンビニおにぎりですか?」

「ええ、まあ……」

 いつもは消極的な理由で選ぶことが多いが、今日に限ってはこれである必要があった。

 出来上がったそれを取り出し、オフィスのテーブルに戻る。

「さ、食べましょうか」

「え? ええ……」

 私が手を合わせようとした時には、あかりちゃんはもうお弁当に箸をつけていた。

「……ああ、なるほど」

 出かけるときにIAが言っていたのはこう言うことだったのだ。

 この食べ物は合成されたもの。ならばそれに手を合わせる人はどれだけいるだろうか。

 中途半端に持ち上げた腕を下げ、おにぎりを掴む。

 出来立ての温かさと、パリパリとした海苔の手触りが伝わる。そのぶん天然のおにぎりよりもおいしいかもしれない匂いが漂う。

 分子的には何一つ変わらないはずのそれをかじる。

 いつもと変わらず他愛ない話をするあかりちゃんとしゃべりながら食事をすすめていく。

 そしてやはり、あかりちゃんは食べ終わるや否や弁当箱のふたを閉じて鞄に仕舞いこみ始めた。そんな彼女の前で、私は声に出さずこう思い浮かべた。

 ごちそうさまでした。

 

  *

 

 オールマイティクッカーの登場初期の評判はこれに尽きる。

『プリントした食品なんて気持ち悪い』

 だがいくつかのファーストフードチェーンがこれに目をつけ、地方に無人店舗を設置し始めたことから転機が訪れた。怖いもの見たさで訪れた人々からゆっくりと浸透が進んだのだ。

 そして数年後、ついに日本全国にその有用性が知れ渡ることになる。記録的な大寒波による輸入食品の爆発的な値上げにより、クッカーを避けていた小売店や飲食店もクッカー性の食品を使わざるを得なくなったのだ。

 簡単に培養可能な数種類の酵母菌から抽出できる原材料さえあれば、安価に場所を問わず幅広いレシピを実現可能なクッカーの有用性を止めるものはもうなかった。登場からものの30年ほどで、日本の食卓から「いただきます」は消え始めた。電子レンジの機能を内蔵したクッカーだけが置かれ、コンロすらない物件が増え、スーパーのフードカードリッジのコーナーはどんどん拡大していく。

 逆に天然ものの食材には付加価値が発生し、保全するための動きが活発化した。ぜいたく品、嗜好品という立ち位置に定着したことで、天然ものの食材の廃棄には以前よりもずっと厳しい基準が設けられるようになった。

 そして今では、料理研究家の作った至高のレシピを電子マネーで購入して我が家で簡単に再現できるようになっている。

 これが、会社から帰る電車の中で調べたこの世界の歴史だった。

 携帯をしまい、車両の中をなんとなく眺める。

 電車の中吊りにはゴシップ誌の見出しが躍っている。副業の指南書が何万部を突破したなどと謳っている。

 セーラー服の少女が単語帳に赤いシートをかざしている。隣の大学生らしき青年はド派手な演出のスマホゲームを淡々と進めていた。

 ここにいる人々も、きっと家に帰ったらクッカーで夕食を作るのだろう。それが普通で、それだけが私の知る世界との違いで。

 あまりにも、普通の帰り道の光景だった。

 

  *

 

「ただいま帰りました」

「おかえり」

 IAは珍しく起きていた。定位置のソファに座り、私をじっと見上げている。

「夕飯にしましょうか」

「分かった」

「何か食べたいものはありますか?」

「ビーフシチューとパンがいい」

「昨日と同じじゃないですか」

 そう言いつつも私は平皿とシチュー皿を取り出し、準備を始めた。

「……手伝う?」

「一人で大丈夫ですよ」

 クッカーに標準で備わっているレシピでもよかったが、私は200円ほどで売られている買いきりのレシピを携帯で購入した。せっかくだし、奮発してもいいだろう。

 たった五分ほどで昨日と同じメニューが食卓に並ぶ。このどれもが全く人の手を介さずに作られたものであるという奇妙な事実と、食欲をそそる匂いが同居している。

 私は手を合わせ、絞り出すように言った。

「いただきます」

 それを言う先はどこか。原料になった酵母か。クッカーのメーカーか。このレシピを設計した料理研究家か。

 それが分からないまま舌鼓を打つ。小一時間かけて作った昨日のシチューの何倍も美味しい。比較にならないくらい深みのあるコクと味わいに、心の何かが侵されていくのが分かった。

 そして食べ終えたとき、手を合わせる気力は残っていなかった。

 複雑な気持ちで空になった皿を見ていると、IAが声をかけて来た。

「ねえ、ゆかり」

「……何ですか」

「どうだった?」

「美味しかったです」

「そうじゃない。……分かっているでしょう」

「今日一日、ですよね」

「うん」

「……ダメになりそうです」

「そう……」

 IAが持ちあげた手を握り、開くとそこに指輪があった。ハッとして自分の右手を見下ろすと、そこにあるはずの物はなかった。

「どうして指輪を使わなかったの?」

「それはまあ……困りはしましたが、対処はできたので」

「違う。ゆかりは忘れていた」

 そうだ。私は忘れていた。

 必死に考え、比較し検討し、観察して推論を立て、納得し、そしてこの世界の歴史を調べた。IAにこの世界のことを聞くなんて発想をすっかり頭の中から追い出していた。

 そう、私は――。

()()()()()?」

「……はい」

 この世界を楽しんでいた。未知のテクノロジーではあっても、並行世界の人類が作ったからというだけで、IAの提供するそれとは違うそれらを甘受した。

「収穫はあった」

 IAは立ち上がるとそう言った。

「この後、ゆかりが眠っている間にこの世界のエミュレートを終了する。それまではクッカーを自由に使っていいよ」

「どうも」

 私の返事にゆっくりと頷くと、IAは一瞬で姿を消した。

 頬杖を突き、食器を指でつつきながらつぶやく。

「……しくじった」

 何を舞い上がっていたのか。あれほど世界が変わるのを恐れていたというのに。普通に人々が暮らしている世界を模倣して造られたというだけで油断して。

 けれど、それほどにこの世界は普通だった。

 コンビニの客と店員も。

 職場の同僚も。

 電車でスマホをいじる学生も。

 「……ごちそうさま」

 やはりこう言わないと落ち着かない。さっと食器を洗うと、私はいつも通り食後のコーヒーが欲しくなった。

 ノンカフェインの高級コーヒーのレシピはすでにクッカーにインストール済みだった。ちゃんとした喫茶店に行けば千円近くするだろう一杯をタダ同然で味わいながら食後の時間を過ごす。

「チコー、何者なんだろう」

 おそらくは惑星ARIAの住人だろう。地球人の協力者である可能性も考えられるが、それなら私を最初の地球人であると強調する理由がないだろう。

「考えても仕方ない、か」

 ひとまず考えなければいけないのは――。

「明日のお昼、どうしよう」

 

  *

 

 地球ではない場所、今ではない時間。

 見渡す限り広がる花畑の中で、一人の少女と一匹の猫が向かい合って座っている。

「収穫はあったよ」

「予想とは違う形ではあったが、な」

 チコーはやはり口を開かずにため息をついた。

「結月ゆかりは想像以上に好奇心が強い性格のようだ。その一方で、変化を恐れてもいる」

「だからこそ、私たちの目的の対象としては適している」

「その通りだ。無作為に選んだ人間ではあるものの……想像以上に難物と見える。かえって一人目でよかったかもしれんな」

「ありがとう、チコー。チコーのアドバイスのおかげで違う反応が引き出せた」

 IAは柔らかく微笑み、チコーの手――前足を握った。

「先は長いが、ひとまず進展ありだ。お前が本当に地球を変えられるのか、我々は引き続き見守っている」

「うん。それじゃ――」

 と、IAは周りを見渡した。

ONE(オネ)ならついさっきどこかに行ったぞ」

「そっか。タイミング悪いな……」

 IAはチコーに向き直った。

「それじゃあ、また。ONEにもよろしく」

「うむ」

 IAは花畑から姿を消した。そしてそれと入れ替わるように、オレンジ色の光がどこからともなく集まって人の形をとる。

 光が散ったそこにいたのは、IAよりやや幼い印象の少女だった。ツンとした表情で少女は言い放つ。

「チコー。話があるんだけど」

「止めても無駄であろうな――。大事は起こすなよ」

「わかってる」

 ONEが手を一振りすると、オレンジ色の光が集まり、宙に浮くジッパーを形作った。ひとりでに開いたジッパーの向こうは、これまたオレンジ色の光が渦巻く奇妙な空間になっている。

「IAを困らせる、あの地球人をこらしめるだけだよ」

「おい!」

 チコーの制止も聞かず、ONEはジッパーの中の空間に飛び込んだ。ひとりでに閉じたジッパーが光の粒となって散ると、そこには猫が一匹残されるだけになった。

「全く、あの姉妹は……」

 猫は口を開かずにため息をついた。

 

  *

 

 翌日。土曜日の朝――で、いいのだろうか。

 それを確認しようにもソファはもぬけの殻だった。

 あかりちゃんに夕飯の写真を撮って送ったのが木曜の夜。そして昨日、私は並行世界を模して作られた世界(という認識だが、合っているかはわからない)にいたはずだ。となると、私は元いた世界の続きである金曜日の朝を迎えるはずなのだが――。

「土曜ですね」

 携帯もテレビも日付は土曜日だ。曜日の感覚がずれずに済むとはいえ、こうなると本来の世界の私は昨日一日何をしていたことになっているのだろう。

 不安になり、会社のメールサーバーにアクセスしてみる。

 昨日読んだ記憶のあるメールは開封済みでそこにある。送信履歴を見ても、私が送ったままの文章がそこにある。

 キッチンに戻り、懐かしのコーヒーメーカーでコーヒーを入れる。立ちのぼる香りをかぎながら考えをまとめる。

 どうやら無断欠勤だとか行方不明だとかにはなっていないようだ。元いた世界での昨日の記憶はないものの、上手いこと辻褄が合った状態になっている。

「どうなっているのやら……」

「行動は上書きしてあるから」

「うわが、え?」

 顔を上げると定位置のソファに宇宙人がいた。

「上書きって何ですか」

「昨日、ゆかりは朝食を食べ、出勤して、仕事をして、昼食を食べ、仕事をして、帰宅して、夕食を食べ、コーヒーを飲み、本を読み、眠った」

「……そう言われると薄っぺらい一日ですが、まあそうですね」

「その行動を、この世界の様式に合わせて上書きした。齟齬はほとんどないはず」

「……なるほど?」

 自分の部屋に行き、読みかけの本を開いてみる。昨日の夜に読み進めた分、栞代わりの図書館のレシートの位置はしっかりと進んでいた。

 つまりは――まるでゲームのセーブデータのように、『オールマイティクッカーのある世界の私の行動の結果』を『クッカーのない世界の私の行動の結果』に上書きしてあるわけだ。だからクッカーの有無に関係ない部分はそのまま、違和感なく一日過ごしたものとして処理されている。違う点と言えば――。

 冷蔵庫を開けると、ビーフシチューとパンが記憶よりも減っていた。昨日私はこれを食べたことになっているらしい。

「……うんまあ、納得はしましたが」

「問題はない?」

「物理的には」

「そう。良かった」

 皮肉はやはりというかあっさり無視された。

「やけにアフターフォローがきっちりしてますね」

「今後はしばらくこの形で行こうと思うから」

「……はい?」

「人間の実現した可能性世界の方が、ゆかりの拒否感が薄いようだし――」

「いやいやいやいや、待ってください」

 宇宙人のテクノロジーをいきなり見せつけられるのも、並行世界の模造品に放り込まれるのも大して変わりない。IAとしては改善が見られたのかもしれないが、こっちとしてはたまったものではない。

 だがIAの行動を私一人が止められるはずもない。生物としての次元も、テクノロジーの概念も段違いの相手に、私はただただ翻弄されるしかない。

 そう。彼女はこの星を救うためにやってきたのかもしれないが――。

「ゆかり。次はどんな世界を見てみたい?」

 私にとっては、まぎれもなく侵略者なのだから。

 

 



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Episode 3 虹のかなたの島国

 私の同居人はエイリアンだ。

 といっても怪しげなUFOや光線銃を操ったりはしていない。むしろ地球の複雑な機械に辟易としている様子すらある。

 時として彼女は故郷の惑星のテクノロジーの産物を持ち出してくるが、それらは大抵直感的に使えるものばかりだ。そのコンセプトについて、彼女自身の出自や性質が関係しているのではないかと私は考えている。

 まず、彼女はおそらく物理的な肉体を持っていない。意思を持った莫大なエネルギーの塊とでも言うべき存在なのではないだろうか。

 もちろん、私たちの常識で考えれば、エネルギーというものはそれを保存する器が無ければすぐに霧散してしまう。熱や光、電気はそれ単体ではそのままでいることはできない。

 しかしそう考えれば一番しっくりくるのだ。彼女はしばしば、平然と自分の体から莫大なエネルギーを生み出している。そして他者のエネルギーを感じ取り操作するのにも長けている。それは彼女自身がエネルギーと密接であり――。

 

  *

 

「うーん。いまいち」

 私はキーボードをタイプする手を止め、コーヒーが入ったグラスを持ってストローをくわえた。

 しかし中身はすでにほとんど空だったようで、氷の隙間にわずかに残った液体をすする音が虚しく響いた。

 気分を変えた方がいい。そう考え、私は一度グラスを置き、手を拭いてからノートパソコンを閉じた。

「次は宇宙人ものですか、先生」

「ヒュっ」

 驚きのあまり喉の奥から妙な音が出た。

 つとめてゆっくりと振り返ると、待ち合わせ相手の姿があった。

 短めの髪に涼やかな雰囲気の女性。普段はそれにふさわしく澄ました表情が多いというのに、今は悪戯っぽい微笑を浮かべている。

 彼女の名前は鈴木つづみ。もともと大学の文芸サークルで後輩だった人物であり、今はとある出版社に勤めている。

 そして私、SF作家の紫月(シヅキ)ユイこと結月ゆかりの担当編集者でもあった。

「来てたなら言ってくださいよ、つづみさん……」

「夢中で書いているようでしたから。邪魔するわけにはいきませんよ」

 今日は土曜日。お決まりの打ち合わせ場所であるバイパス沿いのファミレスに早めについた私は、手遊(てすさ)びに書いていた文章を彼女に見られてしまったというわけである。

 今一度、パソコンを開いて中身を見る。IA(イア)の名前は出していないし、おそらくは問題ないだろう。仮にも世界的なアーティストということもあり、彼女と同居していることはなるべく口外しないようにしている。

 それでもどこかからマスコミが嗅ぎつけてきそうなものだが、そのような事態には一度も陥っていない。おそらくは故郷のテクノロジーで何とかしているのだろう。あの目立つ容姿で堂々と近所の散歩や買い物に行っているのだから、そうでもなければ説明がつかない。

 そして、さらに言えばその正体について知られはしないかと言うことだが――IAは今のところ大々的に自分の正体を広める気はないようだった。だから仮に私以外に正体が露見したとしても、記憶を消すなり何なりするだろう。

 技術的にも心理的にも、彼女からすればあっさりできてしまうはずだ。何とも恐ろしい話である。

 つづみさんは、自分のコーヒーをドリンクバーからとってきて私の対面に座った。

「で、どうなんですか? 最近宇宙人ものは書いてないですよね」

「ああ、そうでしたっけ」

「ええ。なんだか避けてるみたい」

 目を逸らさないようにするには努力が必要だった。

「筆が乗らないんですよ、どうにも」

「まあ、そんなこともありますよね。私も最近はそんな感じで」

 つづみさんは先ほど言った通り、もともと文芸サークルの後輩であり、物語を書く側でもある。とはいえ彼女は商業的な執筆をする気はないらしく、ちょくちょく同人で発表するだけにとどめていた。

 彼女の書く人間心理に深く切り込んだ物語は私も含めてそこそこの数のファンがいるだけに、それを惜しいと思う気持ちもなくはない。しかしそれを口にするのは野暮だろう。

 趣味で書いている小説の話を少々した後、「さてと」と言い、私は仕事の話に切り替えた。

「で、どうですか今回のは」

「良いと思いますよ。ただ、少し揺さぶりが足りない気もします」

「ああ、やっぱりそうですか」

 私が今書いている小説のタイトルは『リレイヤー』。あらすじは簡単に言えばポストアポカリプスに生きるロボットたちの話である。

 しかし普通と違うのは、そのロボットたちの体内には人間の遺伝子が保存されていると言うことだ。

 放射線が満ちる世界で、ロボットたちは普通の人間の暮らしを模して生活している。生まれ、成長し、学校に通い、仕事をし、恋をする。

 そして恋をした相手の体内に保存された遺伝子と自分の保存する遺伝子を組み合わせ、『子供』を作る。そうやって生まれた子供を育て、老いると自身の遺伝子をデータベースに登録して機能を停止する。

 いつの日か、人類がまた暮らせる日が来るまで、その体内に保存した遺伝子からシミュレートされる見た目と能力を付与されたロボットたちは活動する。

 ただ、未来の命へと遺伝子を受け継ぐための中継者(リレイヤー)として存在しつづけるのである。

 作中では、地下深くから発掘されたシェルターの中に生身の人間が眠っているところから物語が展開していく。少年と少女が一人ずつ、コールドスリープ装置の中に入っているのだ。彼らの遺伝子をどう扱うのか。二人を起こすべきなのか。起こしたとして除染済みの施設の中で一生を過ごすことを強いるのが正しいのか。

 私の一番得意とする、読んでいて頭が痛くなってくるSFというやつである。これが商業的に受け入れられているというのはありがたいことだが、現代人の感性は大丈夫なのだろうかと余計な心配もしたくなる。

「送ってもらったプロットだと、最後に少年と少女を目覚めさせる決定を下したところで物語が終わりますよね。往年のSFっぽくて私は好きなんですが……ちょっとパンチが弱いような気もします」

「まあ、そうですよね。確かに……」

 となると、プランBだ。

 つづみさんに送ったプロットと並行して書き進めていたものを見せる。

「コールドスリープ装置が自動で少年の蘇生を行います。装置の周りを除染したせいで、生存可能な環境だと装置が誤認識したんです」

「……少女は?」

「いいえ。少年だけです。蘇生に移る放射線量の基準が違うのだと作中では説明します」

「なるほど」

「ロボットたちは生きた『人間』に対し、強制力を持てません。いわゆる三原則ですね。だから彼の意思で彼の将来を選ぶことになる」

「ふむ……。色々と分岐が考えられそうですが、どうしましょうか」

 つづみさんは自分のパソコンにメモを取り始めた。私は話を続ける。

「今考えている結末だと、少年は再びコールドスリープ装置に戻ります。そして自分の遺伝子を乗せたリレイヤーを作り、自分の代わりに世界を見てくるようにと」

「……そう来ますか」

「つづみさんならどうしますか」

 つづみさんは、コーヒーを半分ほど飲む時間を思考に使った。

「私が書くなら……リレイヤーの女性と恋に落ちると思います」

「眠っている少女と、ではなく?」

「ええ。おそらくリレイヤーたちはそれを望むでしょう。生身の人間同士、生きた遺伝子同士の交配を。ですが少年は種族など関係なく、自分と毎日接しているリレイヤーの女性を大切に思うようになる。そしてリレイヤーの女性に、彼女の体内の遺伝子の復元を依頼するんです」

「……あー、なるほど」

 こういう物語性の違いだけでも、自分がどちらかと言えば内向的なことを痛感する。私は物語を人と人との関係よりも、一人一人の内面に向けようとする。今回で言えば、少年の決定は少年が一人で下すものだ。

「まあ、これは私ならどう書くかということですから……ついしゃべりすぎましたね」

「いえ。私はつづみさんのファンですから」

「相変わらずですね、先輩は」

 つづみさんは頬杖を突くと、再び悪戯っぽく笑った。

 

  *

 

 IA -ARIA ON THE PLANETES-は自宅のソファの上で思考を巡らせていた。

 ARIAの精霊である彼女が制限をかけずに思考や感情を発揮すると、その影響は容易に周囲の空間に現れる。

 七色の光が描く曲線がリビングの中を満たし、宝石を内側から覗いたかのような光景が広がっていく。

 考えるのは同居人について。

「……結月ゆかり」

 彼女の心理はシンプルなようでひどく複雑だ。

 大胆で謙虚。寛容で残酷。保守的で革新的。好奇心旺盛で臆病極まる。

 人間の心理が矛盾を抱えがちであることは地球に来る前に学んでいた。

 しかし彼女の矛盾の度合いは、平均的な人間よりも大きい。

 そして、それでいて表面上はなんら矛盾したところが見えない。

 常に鬱屈した矛盾を抱え込んでいるのに澄ました顔をしている。

「――わからない」

 IAは自分が同居する人間を選定するにあたって、いくつかの条件を設定した。

 健康。家族構成。経済状態。年齢。価値観。

 それらをクリアした人間は日本国民だけで百万人以上いた。

 その中から偶然選ばれた人間。惑星ARIAのテクノロジーによる、完全にランダムな抽選による人選。

 だというのに、結月ゆかりはあまり平均的な人間には見えない。

 人間を理解し、ARIAのテクノロジーに対する反応を観察するテストケース。本来の想定よりもずっと長い時間が結月ゆかりに費やされている。

「……撤退」

 それはノーだ。地球の悲鳴を無視するわけにはいかない。

 そして結月ゆかりを理解しないうちには、他の人間を選定し直しても同じことが起きる可能性がかなり高い。

「わからない、なあ……」

 そこまで考えたところで結月ゆかりが帰宅した。

 がちゃりとドアの開く音がする。

「ただいま帰りました」

 IAは周囲の光を体内に収納すると、同居人を出迎えた。

 

  *

 

 家に帰ると、定位置となるリビングのソファの上から宇宙人がこっちを見ていた。

「おかえり」

「ええ。ただいま」

 私が荷物を置いてリビングに戻ってきても、IAは変わらずソファの上で虚空を見つめていた。

 IAは自分の部屋を持っていない。家にいるときは大体ソファに座るか横たわっており、せっかく2LDKの部屋を借りているのに、私が使っていない方の部屋は物置になってしまっている。

 仕事以外の時間は常にこの家にいるというわけではないようで、ふらっと思いつくままにこの星のあちこちを見てきたり、故郷の惑星に戻ったりもしているらしい。

 となると、やはりIAにとってこの家は私を観察するための一つの場所でしかないのだろうか。今もテレビを見ていたりスマホをいじっていたりしたようではないようだし……。

 今のように、虚空を見つめていることも多い。かと思えば、時たま唐突に曲を口ずさみ始めることもある。それは流行りのナンバーであることもあれば、昭和歌謡であったりクラシック音楽であったりする。

 この星での表の顔にアーティストを選ぶ当たり、やはり音楽に思い入れはあるようだ。

 もっとも身近でありながらもっとも謎の人物。……人物なのかも怪しいが。

 私は沈黙に耐えかねてテレビをつけた。するとこのリビングにいる人物の顔が大写しになった。

「おや」

 今夜の歌番組の宣伝だ。IAが新曲を発表するとのことで、全世界の国と地域で同時中継を行うとのこと。

 ……彼女は今ここにいていいのだろうか。あと何時間もしないうちに本番が始まると思うのだが。

 一応聞いてみる。

「あの、これに出るんですよね?」

「そうだね」

「行かなくていいんですか?」

「あと5分経ったら出かける」

 一応スケジュールは頭に入っているらしい。おそらくまた文字通り『直接』収録現場に行くつもりだろう。

「仕事は順調ですか?」

「……アーティストとしては、少しずつ確実な進歩がある。ゆかりの理解と観察に比べると、確実に」

「それはどうも」

 IAは私の皮肉をよそに、物憂げに長い睫毛を伏せた。

「けれど、やっぱり日本以外では展開が遅い」

「……やっぱり?」

 そう言えば、この星に平和と調和をもたらすという割には、IAはこの平和極まりない国を拠点に音楽活動を行っている。

 海外での仕事も増えているようだが、日本に比べると順調ではない。そしてそれは『やっぱり』といえる予想の範囲内でもある。

「……ちょっと聞きたいんですが、IAは世界を平和にしに来たんですよね?」

「そうだよ」

「で、私にあれこれするのと並行してアーティスト活動でも平和を歌っている」

「そう。……それがどうかしたの?」

「なんで日本を拠点にしたんですか? 日本人って、あんまり平和とかのメッセージに熱くなるタイプじゃないと思うんですけれど」

 むしろ冷めた見方をしている人たちが多いように思う。自分たちの暮らしを守るのに精いっぱいで、今が平和である以上のことを望まない人が多いのではないのだろうか。

 私もそうだ。

 今も世界中で飢えている人が、傷ついている人がいるのは分かっていても、それに対して継続的な支援を行うことはない。思い出した時にコンビニの募金箱に小銭を入れる程度だ。

 そんな国で、なぜ。

「日本を拠点にすることは、二つの意味があるの」

 テレビは今夜の番宣が終わり、夕方のワイドショーに切り替わった。この後は通り雨が降るらしい。

「一つはこの国のそう言った性質こそ、私が向き合わなければいけないものだから」

「……なるほど」

「そしてもう一つは、この国の人々の考え方が、私の力を安定させるために相性が良かったから」

「考え方?」

「全ての物に神が宿ると考え、生命を見出す」

 それはつまり。

八百万(やおよろず)の神のことですかね」

「そう。その考えは、ARIAの精霊の力を発揮するための土壌として最適に近いの」

 IAの周りにほんのりと、七色の燐光が浮かんだ。

「他のどの国よりも最適な環境。私より先に地球に来た、七色の魂を持つ精霊が注目した通りに」

 IAの言葉に私は驚いた。勿論、IAの惑星が地球を把握しているのは当然だろう。だがこの星を訪れた精霊はIAが初めてだと思いこんでいた。

「あなたより先に、地球に来ていた?」

「らしい」

「いつのことですか? 今はどこに?」

「分からない。ARIAと地球では時間の流れが違うから……」

 またとんでもないことをさらりと言う。

「地球の時間で言えばずっとずっと昔。そして、かの精霊はどこかに行ってしまった。ARIAにもいないし、地球にもいない。確かに存在の痕跡は感じるけれど、ここにはいない」

「……その精霊の名前は?」

「――NYGY」

「ニー……なんですって?」

 私の困惑をよそに、IAは立ち上がった。

「そろそろ出かける」

「ああ……お仕事頑張ってください」

「うん」

 IAは頷くと姿を消した。七色の光の残滓がほのかに広がり、薄れていく。

 気が付くと雨の音が聞こえていた。

 コーヒーを入れる。時間的にまだカフェインレスにする必要は無いだろう。立ちのぼる香りを嗅ぎながらIAの言った言葉を頭の中で反芻する。

 七色の魂を持つ精霊。IAの故郷でも特別とされる、そう言った存在が地球にやってきていた。そして日本に注目していた。

 相変わらずスケールが大きい話だ。私が書くSF小説など彼女たちにとっては日常茶飯事なのではないだろうか。

「そして、仮に注目しただけではないとしたら……」

 IAの呟いた名前。七色の魂。八百万の神。

 この国が、この国だけが、IAたちの力を引き出すための土壌として適しているとしたら。そんな偶然があるのだろうか。

 IAのようなスケールの存在が、この国を訪れて、果たして何もしなかっただろうか。たとえ本人が何もしなくとも、影響を与えずにいられただろうか。

 それはある意味恐ろしい想像だ。

 コーヒーカップをもってリビングに行くと、窓の外は明るくなっていた。通り雨はもう行ってしまったらしい。

 窓を細く開けると、雨上がりの空気がコーヒーの香りと混じった。

「もしかしたら、この国はもうとっくに……」

 雨上がりの空には、七色の橋が輝いていた。

 



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Phase 2a Always With You

 私の同居人はエイリアンだ。

 彼女は地球の悲鳴を聞きつけてやって来たとのことで、生命と愛と平和のメッセージを届けてこの星に調和を取り戻すのが目的らしい。

 そのために彼女――IA(イア)はアーティストとして世界中で日夜歌い続けている。そしてその一方で、何やら理由があって私を調和(しんりゃく)の第一歩と決め、あれこれと揺さぶりをかけてくる。

 花に永遠の命を与えるだとか、一瞬で地球の裏側に移動するだとか、とんでもないことを軽々とやってしまう彼女だが、その力をいきなりこの星全土に対して及ぼすのは許可が出ていないらしい。そこでまずは小規模な実験として、適当に選んだ地球人(モルモット)にあれこれ試している最中のようだ。

 私は以前、あらゆる食品を3Dプリンターのような機械で気軽に作れる世界で一日を過ごすことになった。彼女曰く、並行世界(パラレルワールド)を模して局所的に作った場所とのことだが、私が過ごす分にはそんな狭苦しさを感じることはなかった。見渡す限り町は広がり、人々は普通に暮らしていた。

 そして彼女の星のテクノロジーではなく、あくまで地球本来の可能性から生まれた並行世界を私に体験させたことで、IAはなにか違った感触をつかんだらしい。その後、私は二度にわたって同じ要領で、並行世界を模して作ったという箱庭に送り込まれている。

 全国民の善行や悪行がポイントとして計上され、財産として利用できる世界。

 紙の形をした高機能記憶媒体が電子ディスクやメモリにとってかわった世界。

 どちらの世界もその一点だけが私の暮らしていた世界とは異なっていて、その点を除けば恐ろしいほど世界は当たり前に続いていて、私は会社と家を往復しつつ小説を書いていた。

 最初の食品プリンターの世界は、一日だけ過ごしたところでIAからこれ以上の必要は無いと切り上げられた。

 しかし続く二つの世界は丸三日が経ってから不満げに終了を告げられた。どうやら思ったほどの反応が得られなかったらしい。

 それもそのはず。人間は慣れる生き物である。

 悲しいことに、今度はどんな世界になるだろうかなどと考えている自分がいる。この異常事態にすら適応しつつあるとは、私こと結月ゆかりは非常に優秀なモルモットのようだ。

 そしてそんな態度の実験動物に訪れる末路と言えばたった一つ。より強い刺激を与えられることであった。

 

  *

 

 目が覚めると、薄灰色の毛並みに視界が埋め尽くされていた。

「ええと……」

 寝転がったまま、見覚えのないその毛玉に手を触れる。表面の温かく柔らかい毛、そしてその奥のやや想像よりも筋張った感触が伝わってくる。

 その手触りが記憶の奥深くをくすぐった。私は身を起こしながらその毛玉の正体に目星を付けた。

「うさぎ……?」

 やはりというか、身を起こして見れば特徴的な長い耳が目に入った。体を横たえてリラックスしているように見える。さっきはこの兎の背中から尻が視界を塞いでいたらしい。

「なんで兎が……」

 そう自問したものの、十中八九同居人のエイリアンの仕業だろう。どこかで拾って来たか、ペットショップで買って来たのならいいが、そんな生ぬるい予想の範疇に収まる行動の結果で無いことは痛いほど分かっていた。

 とりあえずもうひと撫で。この後に待っている胃痛を考えれば少しくらい癒されてもバチは当たらないだろう。

「おや」

 兎は億劫そうに眼を開くと、首だけ起こして私を見た。機嫌を損ねてしまったという風ではないが、なんだか不愛想だ。

「どうも」

 なんとなく挨拶をする。それに対し、兎は挨拶がわりにだろうか、「ぶぅ」と鼻を鳴らすと再び脱力した。私がもう一度撫でてみても反応は無く、されるがままだ。ふてぶてしい。

「……よし」

 ひとしきり満足するまで撫でたところでリビングに向かうと、定位置であるソファの上で毛玉その2が丸まっていた。言うまでもなく世界的アーティストであるはずのIA(イア) -ARIA ON THE PLANETES-(アリアオンザプラネテス)である。

 彼女は私より少し低いくらいの背丈だが、髪が足元に届かんばかりに長くて量も多い。こんな風に丸まって顔を伏せているとほとんど髪の毛しか見えない。

「おはようございます」

「おはよう」

 毛玉のままIAが返事をする。

「起きてください」

「起きてるよ」

「起き上がってください」

 そう言うとようやく人型になった。

「こんどはどんな世界ですか」

「あれ、言ってたっけ」

「いきなり兎が現れたら見当もつきますよ」

 ある朝はいきなりキッチンに見慣れない調理機器が鎮座していた。

 ある朝は右の掌にポイント管理の電子チップが埋め込まれていた。

 ある朝はスマホではなく手帳から目覚ましのアラームが聞こえた。

 ああまたこのパターンか――そんな風に思ってしまう自分が怖い。

「で、何なんですか、あの兎は」

「あの兎さんはゆかりの双子だよ」

「双子」

 双子。双生児。その意味を頭の中で反芻し、自分にとってそう呼ばれる存在を思い浮かべる。

「え、あの兎って(のぞむ)なんですか?」

「そうじゃなくて」

 ふるふるとIAは首を横に振った。そうだ。ここはもはや自分の知る世界ではない。文化も常識も、もしかすると()()()()()()()

「望さん? はちゃんと別にいるよ。それであの兎さんは、ゆかりの双子」

「双子……」

 ニュアンスからして、ずっと一緒にいる動物と言うことだろうか。だから私のベッドにも我が物顔でいた。

「全ての人間に動物を飼うことが義務付けられた世界……?」

「そういう世界もあるけれど、ここは違うよ」

「……じゃあ、どんな世界ですか?」

 私はギブアップした。想像が追いつきそうもない。

「全ての人、一人一人のそばに動物がずっといる世界」

「……もう少し、詳しく。ずっととは?」

「ずっとだよ。死ぬまでずっと」

「はい?」

 つまり新生児に動物が与えられ、動物が亡くなるたびにまた与えられると言うことだろうか?

 そう言うとIAはまた首を横に振った。

「そんなことしなくても、ずっと一緒にいる。お母さんのお腹の中にいる時から、ずっと」

「……ちょっと、調べものをしていいですか」

「いいよ」

 私は一度部屋に戻り、兎を軽く撫で、スマホを手に取ってリビングに戻った。そして『胎児 エコー』と打ち込んで検索をかける。

 予想通りの結果に眉間を抑える。胎児に寄り添うようにして、ある写真では犬が、そしてまたある写真では猫が、兎が映り込んでいた。

「どうなってるんですか、一体……」

「簡単に言えば、魂の一部が分離してるんだよ」

「はい?」

 IAは両手を軽く広げて語り始めた。どうにも胡散臭いが、彼女の言うことに嘘はない。

「この世界の科学だと証明されてはいないんだけど、私から見ればはっきりしてるよ。双子の飼い主の魂が人間の体から分離して、動物の形をしているの」

「……仮に。仮に双子の動物を傷つけたとしたら?」

「飼い主の心に傷ができるけれど、時間が経てば双子も飼い主も回復するよ」

「たとえそれが、普通の動物なら死んでしまうようなものでも?」

「うん。飼い主さえ無事なら。だから双子たちは普段食事をとらなくてもいいし、トイレにもいかない。その気になれば何かを食べることもできるけれど、それは飼い主が食べたことになる」

「なんという……」

 私の本来の世界と、これまで私が体験した世界の違いは科学技術や法律制度が中心だった。あくまで人類が作り出した技術や制度の差。何かのボタンの掛け違い。方向性のズレ。それで納得できる何か。

 だが今回は違う。もしかしたら人間という種そのものの成り立ちが、あるいは物理法則そのものの成り立ちからして私の世界とは違うかもしれないのだ。

「ふああ」

 IAがあくびをする。先ほど起こした時もそうだが、今日は調子が悪そうだ。

「何だか眠そうですね。昨日は仕事が遅かったんですか?」

「ううん。今回の世界を探すのに疲れちゃった」

「……今回の世界って、今までと比べて元の世界との差が大きかったりするんでしょうか」

 私が立てたばかりの仮説を話すと、IAはキョトンとした顔をした。

 しかしそれは一瞬のこと。IAは花がほころぶような笑顔を浮かべた。

「うん、そう。ゆかりも段々世界の仕組みが分かって来たんだね」

「分かりたくない……」

 私が頭痛を覚えて眉間を抑えていると、IAは再び毛玉に変形した。

「そういうわけで疲れてるから、おやすみ」

「ああはい、どうぞ……」

 ひとまず、今回の世界の概要は分かった。どっと疲れを感じながら部屋に戻り、ベッドに腰かける。そして兎を撫でた。

「ぶぅ」

 兎はやや不満げに鼻を鳴らしたが、やはり抵抗せず私に撫でられていた。これが私の魂の一部だというなら、普段の私もこんな風にふてぶてしいのだろうか。

「そんなことないですよね?」

 兎はぱたりと耳を動かした。肯定か否定かは分からなかった。

 

  *

 

 IAが私を別世界に招待するのは金曜日の朝が多い。

 私が普段の土日はあまり遠出せず、小説を書いたり平日の仕事の息抜きをしたりするのに徹しているから、世界の変化を体験させるという意味では平日がちょうどいいのだろう。

 それが今回土曜日にずれ込んだのは、やはり世界を探すのに手間取ったからだろうか。あるいは、今日たまたま私が出かける用事を入れていたのを承知していたのだろうか。

 とにかく私はこの世界で映画を見に行かなければならない。

 約束の時間は11時。ショッピングモールで映画を見てから遅めのお昼を食べ、服を見るというコースである。

 約束の相手は会社の後輩でもある紲星(きずな)あかりちゃんだ。彼女の前でこの世界の常識から外れた行動をするのは避けたい。

 というわけで、さっそく私は朝食を終えた後、情報収集にかかることにした。

 リビングのソファで相変わらず毛玉になっているIAに小さめの声で尋ねる。

「……テレビを見てもいいでしょうか。うるさくないですか」

「いいよ。ついて」

 そこは「つけて」ではないのか――と思っていると、テレビがひとりでについた。声に反応するような仕組みなど搭載していないはずだが。

「…………天気予報を映してください」

 一応命令してみるが、テレビは知らん顔でCMを写し続けていた。

 我が家では家電すら宇宙人の言いなりらしい。私はわざわざリモコンを使ってチャンネルを回した。

『こちらは渋谷です。今日は一日中お出かけ日和――』

「ふむ」

 見慣れたお天気キャスターの肩にはオウムが止まっている。チャンネルを回す。

『近年の不動産価格上昇の背景ですが、どう思われますか――』

 別の番組のコメンテーターの足元にはブルドックが伏せをしている。しかも飼い主だけではなく、こちらにも丁寧に名前のテロップが出ている。チャンネルを回す。

 どんな番組でも、どんなCMでも、必ずと言っていいほど動物が人間とともにいた。

 犬。猫。鳥。兎。馬。亀。そして変わったものでは――。

「カツオ……」

 バスで旅をする番組に出演しているお笑い芸人が、小脇に生きた鰹を抱えたまま軽妙なトークを繰り広げていた。そういう芸風で無いならあれが彼の双子なのだろう。

 先ほどIAは、双子には食事も排泄も基本的に必要ないと言っていた。ならば水棲動物でもお構いなしに陸上で暮らせるのだろう。

「ん……?」

 バスに乗ってたどり着いた蕎麦屋で、出演者たちがサイコロを振っていた。一番小さな目を出した人が全員分の代金を払うというミニゲームらしい。

 さっきの鰹芸人の相方が、自分の双子のニホンザルにサイコロを渡していた。

『うちのモン吉はこういう時バシッと決めてくれるからなあ。頼むで!』

『ききっ』

『って1やないかい!』

 鰹芸人が出目にすかさずツッコミを入れる。内容はさておき、双子の猿だ。モン吉というらしい。

「ああそうだ、名前……」

 さっきのコメンテーターのブルドックもそうだった。飼っている動物には名前があって当然なのだ。ペットを飼うのが久々過ぎて忘れていた。

「ちょっといいですか、IA」

 定位置のソファを見ると毛玉はいなくなっていた。キッチンの方で物音がする。

「IA」

「んー?」

 のぞき込むと、IAはトーストにこれでもかとマーマレードを塗っているところだった。すでにトーストの白い部分は埋め尽くされているのに、また瓶の中から山盛り一杯をすくい出している。

「最近減りが早いと思ったら……」

「どうしたの?」

「使った分は買ってきてくださいよ――じゃなくて」

 私は本題に入った。

「あの兎の名前って何ですか?」

「決まってないよ。自分で決めたいかと思って」

 マーマレードを塗った後のスプーンを口にくわえたまま、IAはポケットをごそごそと探った。七夕で使うようなピンクの短冊を手渡してくる。

「これに名前を書いて兎さんに貼り付ければ名前が決まるよ。出かける前に決めてあげてね」

「分かりました」

「あとこれも」

 そう言ってIAが渡してきたのは指輪だ。虹色に輝く不思議な宝石がはまったそれを、私は右手の人差し指にはめた。

 この指輪の石に直接触れていると、IAとテレパシーで会話ができるようになる。最初に体験した並行世界、つまり食品プリンターの世界ではめまぐるしさに使うのを忘れていたが、そのあとの二つの世界ではそこそこお世話になっていた。今回も色々と尋ねることになるだろう。

 IAはトースト皿と紅茶の入ったカップをもって定位置のソファに戻った。そして私を振り返って言う。

「私はご飯を食べたら出かけるから」

「ええ。いってらっしゃい」

「うん、いってきます」

 マーマレードだらけのトーストにかじりつくIAを残し、私は一度自分の部屋に戻って身だしなみを整える。

 さて、この世界の観察はざっと出来ただろう。あとは移動時間を使ってスマホで検索をかけ、情報をもう少し集めれば十分なはず。

 となると、問題は一つ。

「起きてますか?」

 兎に声をかけると、億劫そうに体を起こしてこちらに寄って来た。そして腹ばいで座り、こちらを見上げる。

「あなたの名前を決める必要があるんですよ」

 一応本人? の同意を求めてみるも、その表情は『どうぞご勝手に』と言っているようにしか見えない。もっとちゃんとした意思疎通ができればいいのだが。

 念のためスマホで調べてみるも、言葉を話す双子はかなり珍しいようだった。インコなら喋れる、と言うことではなく、姿が犬だろうと猫だろうと喋るものは喋るし、喋らないものは喋らないようだ。

 つまりこの兎は喋れないか、あるいはまったく喋る気がない。となると、私が決めるしかない。

 兎の名前、というと……。

 真っ先に思いついた名前がある。しかしそれは――。

「どう思います?」

 兎に尋ねるも、興味なさそうに鼻を鳴らされただけだった。

 変に避けるのもかえって意識しすぎている感じがする。私は最初に思いついた名前を短冊に書くと、兎の額に軽く貼った。短冊は虹色の光を放ちながら、宙に溶けるように消えてしまった。もう必要ないと言うことだろう。

「よろしくお願いします、(しずく)

「ぶぅ」

 やはりというか、無愛想な鳴き声で返事をされた。

 

  *

 

 雫を抱えて家を出る。IAはさっきの言葉通りすでに家にはいなかった。

「さて……」

 幸い、雫はそれほど重くはない。私が知っている世界と同様、電車で移動できればいいのだが。

 テレビ越しに見た限り、この世界ではいちいち動物用のケースに入れる必要は無いだろうし……と、そこまで考えたところでとんでもないものを見た。

 腰が曲がった老人の横を虎が歩いている。杖を突いてゆっくりと進む飼い主の歩調に合わせ、老いてなお力強い虎がのしのしと歩いている。その爪や牙はぎらぎらと光を反射しており、動物的な本能が私の身をすくませた。

「ええと……」

 私は右手の人差し指の宝石に手を触れた。

『どうしたの?』

 頭の中に響くIAの声に、同じく頭の中で返事をする。

『あの、猛獣の双子も放しておいて大丈夫なんですか?』

『免許があれば大丈夫』

『免許?』

『双子免許』

 IAが言うには、双子が猛獣であったり有毒の動物であったりした場合、制御する訓練を積んで免許を取らないと、その危険性に対策を講じる必要があるのだという。

 マズルガードくらいならばいいが、丸ごと檻に入れる必要がある動物もおり、人が多い施設ではそう言った対策を講じてもなお入場を断られることも多いという。

 そしてその制限を取り払うのが双子制御免許というわけだ。

『いやその、免許があると分かっていても怖いものは怖いんですが』

 心なしか雫も私の腕の中で身を縮めているように思える。こうしてIAに質問をしている間にも虎と老人は私たちの横を通り過ぎ、だんだん遠ざかっていくものの、あの虎が本気を出せばこんな距離など一瞬だろう。

『でもこの世界ではそうやって上手くやって来たんだよ』

『そういうものですか』

『双子の爪や牙が怖いのは仕方ないけれど、それもその人の一部だから』

『その人の一部、ですか』

『そう。勿論、国によって扱いは違うけれど、この日本ではそうなってるよ』

『……分かりました。ではまた』

『うん』

 指輪から手を離す。虎と老人は角を曲がったのか、姿が見えなくなっていた。私も再び歩き出す。

 駅に着くと、私と同じように動物を抱えた人々が当たり前のように電車を待っていた。そしてその様子を除けば、やはり私が知る世界と同じ。カップル同士がおしゃべりしたり、学生が単語帳に赤シートをあてていたり、若者がスマートフォンで動画を見ていたり。

 彼ら彼女らと同じように、私もスマートフォンを取り出して指先で画面をなぞる。

 この世界のこの国は、双子を制御する人の意思と能力を信じると決めた。私の知っている事例で言えば、車や狩猟の銃が近いだろうか。ルールと免許で縛ることで、人を傷つける能力がある道具を扱って良いものとする。

 検索をかけると案の定、沢山の意見が飛び交っていた。

 免許があってもマズルガードはつけるべき。有毒種は牙や爪を切るべき。危険な双子を持っているからと言って差別するのは良くない。免許を取れない年齢の子供の双子の扱いが現在の法律では不十分だ。アルツハイマーの老人の双子に襲われて死者が出た。法規制すべき。双子を隔離すべき。人権はどこまで適用されるのか。

「ぶぅ」

「ん、雫?」

『1番線、間もなくドアが閉まります――』

「えっ、あっ」

 腕の中から聞こえた声に意識を引き戻された時には、そんなアナウンスが響いていた。開いたドアに気づかずにスマホをいじり続ける間抜けな人間になっていた。

 気持ち早足で電車に乗り込み、そそくさと席に座る。

「ぶぅ」

「どうも」

 再び雫が鼻を鳴らす。小声で返事をして雫の頭を撫でる。目を細めたのは、呆れからか心地よさからか。

 改めて電車の中を見る。私が知っている路線のはずだが、それよりも椅子の数が少ないように思えた。そうして作られた床のスペースには、大型犬が伏せをしていたりゴリラが座り込んでいたりする。

「映画館もこんな感じなんでしょうか……」

 この世界にとって余所者のつぶやきは電車のスキール音にかき消された。

 

  *

 

 職場に向かうのとは違う方面の電車に15分ほど乗ると、複数の路線が乗り入れた大きめの駅に着く。そこは当然の成り行きとして商業施設が充実しており、お決まりのように待ち合わせ場所にちょうどいい広場やモニュメントがある。

 待ち合わせ時間の10分前。あかりちゃんはまだ来ていない。ベンチに座って本を読み始めると、雫は我が物顔で私の膝の上に乗って体を伏せた。まあうろうろされるよりはいい。私は小説に意識を集中した。

「ふむ」

 当たり前と言えば当たり前だが、小説の内容も変わっている。当たり前のように双子の描写が盛り込まれているし、なんなら話のギミックとしても機能している。私の書いている小説も例外ではないだろうから、この世界に長居するならばそのあたりも気を付けなければいけないだろう。

「映画やドラマも全部取り替えですよね……これはまたとんでもない」

 これまで体験した世界よりもやはり差は大きい。歴史の流れはおおむね同じだとしても、やはり根本的な成り立ちが異なっているのだ。

 ハチ公の場合はどうなっているのだろうか……などと考えていると、遠くから白い子犬が走ってくるのが見えた。秋田犬ではないようだが、何ともタイミングがいい。

 おそらくレトリーバーの品種のうちのどれかだろう。小さな体をフルに使って全力疾走している。表情も人懐っこく、見ていて微笑ましい。

 ……こちらにまっすぐ向かってきていなければ。

「しず……」

 膝を見下ろすと、雫は知らん顔で膝から降りて横に避けていた。こいつ。

「わう!」

「うごっ」

 一吼えとともにジャンプし、その子犬は私に全力でとびかかって来た。胴体に少々深刻なダメージが入り、見苦しい声が漏れた。

「こらー! シロー!」

 なんとなく予感はしていたが、その子犬――シロに遅れること十秒、三つ編みを振り乱して紲星あかりちゃんが私のもとに到着した。そのころには私の顔はシロのよだれでべたべたになっていた。

「ゆかりさん、ごめんなさい! うちのシロがご迷惑を……!」

「ああ、お気になさらず……」

 あかりちゃんがシロを私から引きはがして頭を下げる。その頭からキャスケット帽がポトリと落ちた。

あかりちゃんは慌てて拾おうとしたが、両手で抱えているシロを解放すればまた私にとびかかっていくかもしれないと思ったのだろう。あたふたとするばかりだ。私は帽子を拾ってほこりを払い、あかりちゃんの頭に乗せた。

「すいません……」

「いえいえ。ちょっと顔を洗ってきていいでしょうか」

「も、もちろん。それまでに落ち着かせておきます!」

「ああ、じゃあ雫を見ておいてください」

 先ほどつけたばかりの名前は機能しているだろうか。試しに雫の方を見ずにそう言ってみる。

「はい。雫ちゃんのことは任せてください」

 そう言ってあかりちゃんはシロを抱えたまま雫の隣に座り、シロに「めっ!」とやり始めた。あの兎の名前は雫。そういう認識はちゃんと働いているようだ。

 駅ビルのトイレに入り、顔を洗ってから身だしなみを整えなおした。元々そんなに化粧をしない方なのが幸いした。手早く済ませ、人の間を縫ってあかりちゃんのところに戻る。

「お待たせしました」

「いえ、そんな。ほら、シロもごめんなさいしなさい」

 シロは人懐っこい笑顔で「わう」と鳴いた。反省の色はなさそうである。

「このバカ……!」

「まあまあ」

 シロの頭をなでてやると、嬉しそうに眼を細めた。雫とは大違いだ。

「映画の時間は大丈夫でしょうか」

「あ、そうですね。こうしてる場合じゃないです」

 私も雫を抱き上げ、映画館のあるビルに向かって歩き出す。

「はあ、シロも雫ちゃんみたいに大人しい子だったらいいのに……全然いうこと聞かないし……」

「可愛いじゃないですか。雫なんて不愛想で」

「え? そうですか?」

 あかりちゃんはシロを抱えたまま手を伸ばし、雫の頭を撫でた。雫は目を細めて「ぷぅぷぅ」と鼻を鳴らした。こいつ……。

「これは営業スマイルです。信じてはいけません」

「そ、そうなんですか……」

 あかりちゃんも苦笑いしている。

「やっぱり、もうちょっとお金溜まったら免許取りに行きたいですね……」

「……ああ、双子免許」

 この世界の常識に慣れていない私は返事がワンテンポ遅れた。

「そうです。自動車のほうは持ってますよ?」

「そうでしたね」

「やっぱり大学の時に取っておけばよかったかなあって思うんですよね。でも結構お金かかるじゃないですか」

「そうですね」

 仮に自動車免許と同程度だとすれば十万円では効かない。

 今は秋の始め。今年の春に社会人になったばかりのあかりちゃんにポンと出せる金額ではないだろう。かくいう私も、大学時代に自動車免許を取った時の料金は両親の厚意に甘えている。

 そしてそれはあかりちゃんも同じはず……どころか、大きな愛情を両親から注がれていると普段の会話から私は察していた。

「あかりちゃんのご両親なら、それくらい出してくれそうですが」

「いやまあ、そうなんでしょうけど」

 しかしあかりちゃんは私の指摘にどこか落ち込んだ様子を見せた。

「でもそれじゃあ、意味ないかなって思って……」

「というと?」

 映画館に着き、ネットで予約した番号を発券機に打ち込んで発券を済ませる。寄り道をしなかったことが功を奏してか、入場まではまだ余裕があった。

「シロって、子犬じゃないですか」

「ええ」

「昔からずっと子犬なんですよ」

「それは……」

 つまり、双子は成長するということ。

 周りを見る。子供のそばには子供のペンギンや猫が、大人のそばには大人の牛や犬がいる。私の雫も大きさで言えば十分に大人の兎だ。

 あかりちゃんも私の視線を追ったのだろう。ちょうどすぐ近くに成犬を連れた女性がいた。細長い手足と顔の、犬種で言えばボルゾイが近いだろうか。

「シロもあんな風に、大人しくてかっこいい犬に……それにはまず、私が大人にならなくちゃって」

 当のシロはあかりちゃんの腕の中で落ち着きなく周囲を見回している。

「なれますよ、きっと」

 私はあかりちゃんの頭を帽子の上から軽くポンポンと叩いた。

 しまった。私も子供扱いしてしまった……と思いきや、あかりちゃんは少し嬉しそうに笑みを浮かべて私を見上げた。

「ゆかりさん……」

「え、ゆかりさん?」

 と、その時ボルゾイを連れた女性がこっちを振り向いた。

「あ、ゆかりさんだー! 聞き覚えのある声がすると思った!」

「え? もしかして、ささらちゃん?」

「そうでーす。お久しぶりです!」

 さっきまでの落ち着いた雰囲気はどこへやら、脇に従えたボルゾイともども嬉しそうにこちらに小走りで駆け寄ってくる。

 彼女の名前は佐藤ささら。鈴木つづみと同じく、私の大学時代の後輩だ。つづみさんと違って文芸サークルには属していなかったが、彼女の親友と呼べる存在であり、私ともよく顔を合わせていた。

「こちらこそお久しぶりです。2年ぶりくらいでしょうか」

「先輩が大学卒業した少し後に飲みに行ったくらいだから――うん、そのくらいですね。つづみちゃんから話は聞いてますよ、先生」

「その呼び方はやめてくださいよ。……っと」

 あかりちゃんを紹介しなくては……と思ったら、彼女は私の陰に体を半分隠していた。普段から人懐っこく明るい半面、初対面の人にはこうなのだ。

「あかりちゃん。こちら、大学時代の後輩の佐藤ささらさん。で、こちらは会社の後輩の紲星あかりちゃんです」

「は、初めまして……」

「初めましてー。うわあ、カワイイ……」

「こらこら」

 ささらちゃんは可愛いものに目がないのだ。あかりちゃんとシロのことをきらきらとした眼で見ていたので私はたしなめた。

 話題をそらすため、私は自分たちが見に来た映画のポスターを指さした。

「私たちはあれを見に来たんですけど……ささらちゃんは?」

 私とあかりちゃんは今話題になっている小説原作の人間ドラマだ。あかりちゃんもちょうど見たいと言っていたが、実際は私の趣味に合わせてくれたのだろう。

「私はあれです!」

 一方のささらちゃんはカラフルなポスターを指さした。プリティでキュアキュアな作品だった。

「……なるほど。ああそうか、前からアニメとか漫画とか好きでしたもんね」

「好きすぎて声優になっちゃいました!」

 謎のキュートなポーズを決めながら言う。ボルゾイもそれに合わせてポーズをとっていた。思わず半歩引きそうになる。

「おお、それはすごい……。もしかして出演を?」

「いいえ。まだまだ出れませんねー」

「ええとじゃあ、勉強のために?」

「今回は単純に趣味です!」

 謎のビシッとしたポーズを決めながら言う。ボルゾイもそれに合わせてポーズをとっていた。もう慣れた。というより思い出してきた。こういう人だ。

「おっと、そろそろ入場時間です。私はお先に失礼しますね!」

「ええ。楽しんできてください」

「ええ、ゆかりさんたちも。それじゃ行こうか、シュガー」

「わふ」

 嵐のようにささらちゃんとシュガーは去っていった。ようやくあかりちゃんが私の後ろから出てくる。

「すごいなあ……」

 あかりちゃんがぼんやりとつぶやく。

「ええまあ、エネルギッシュで」

「それもですけれど……ばっちり双子を制御してます。見ましたか、あのポーズ」

 言われてみれば。何の指示もなくシュガーことボルゾイは飼い主に合わせてポーズを決めていた。

「私もあんな風になれたらなあ……」

「なれますよ、きっと」

 私は再びそういってあかりちゃんを励ました。今度は肩を軽く叩いた。

 

  *

 

 あかりちゃんと見た映画の内容は、やはりというか双子がいる世界を前提とした内容に変わっていた。

 ふとした誤解からすれ違った親子や恋人たちが意外なところで再会を果たし、ぎこちなく一緒の時間を過ごす中でかつての絆を取り戻していく――その大筋は私の知る原作小説と同じでも、登場人物の双子たちはそのドラマに一役買っていた。

 双子の見た目や様子は飼い主の内面を映すもの。そういう認識がこの世界では当たり前であり、ある程度の実例もある。

 嘘は双子の様子から疑われ、双子の異変が飼い主の隠した不調を解き明かす鍵となる。

 まさしく魂の一部。心の一端。

 この映画の原作を読んだときはまだこの世界に来る前だったため、私はついつい原作との違いを分析しながら見てしまっていた。元の世界に戻ったあと、双子がいないバージョンの映画も見ておきたいと思った。

「ゆかりさん、この服どうですか?」

「いいですね。似合ってますよ」

「きゃう」

「シロも似合うと思う?」

「わん!」

「……雫も何か言ったらどうですか」

「……ぶう」

「あはは」

 映画を見終わった後の昼食や買い物すらどこか賑やかだ。全ての人が自らの魂の一部を分けた動物を連れた世界。ゆりかごから墓場まで、この世界の人々は皆孤独ではないのだ。

 ……そう思っていたのは最初のうちだけ。そう。何事にも例外というものは存在する。

「あれ、迷子かな。……もしかして、一人っ子?」

「え?」

 買い物が一通り終わり、帰る前に喫茶店で一服していた時のことだ。その声につられて、あかりちゃんの視線の先を見ると、一人の男の子が不安そうにきょろきょろとあたりを見渡していた。

 泣きそうになっている彼の傍らには何の動物もいない。

「一人っ子……」

 その言葉のニュアンスが示すものは一つしかないだろう。この世界にも例外はあるということだ。

「荷物を見ていてください」

「え、あ、ゆかりさん」

「大丈夫ですよ」

 店を出て男の子のそばに行き、しゃがんで目線を合わせる。

「どうしたの? 一人?」

「うう……ダイスケが……」

「ダイスケ?」

「ぼくの、ふたご。こんな小さな――うっ」

「ちょ、大丈夫!?」

 その時、男の子が急に体をくの字に折り曲げて呻いた。思わず抱きとめる。

「ゆかりさん!」

 ただならぬ様子を見てか、あかりちゃんが荷物を置いて駆け寄ってきた。二人で男の子を運び、そばのソファ席に寝かせる。にわかにあたりが騒がしくなってきた。

「急に苦しみだして……あかりちゃん、何か分かりませんか?」

「一人っ子じゃないんだ。この様子、双子に何かがあったのかも……」

 あかりちゃんの言葉にはっとする。この男の子の双子――ダイスケのことを、彼は小さな何かだと言っていた。嫌な想像が脳裏に浮かぶ。

「もしかして、誰かがそうと分からずにこの子の双子を踏んでしまったとか……」

「そ、それって――」

 あかりちゃんが顔を青くする。

「ど、どうしましょう。この子の双子を一刻も早く見つけて保護しないと――」

「探すといっても――」

 喫茶店の外を見やる。この騒ぎを覗き込む人。足早に通り過ぎる人。不安そうにしつつも働く人。人。人。人。

「……シロ。ねえ、シロ。この子のにおいを辿れない?」

 あかりちゃんがすがるようにシロに言う。しかしシロは状況が分かっているのかいないのか、あかりちゃんの手をぺろぺろとなめていた。

「もう、シロってば!」

「あかりちゃん」

 シロに食って掛かろうとしたあかりちゃんを止める。

「心苦しいとは思いますが――今は確実な手段に頼るほかないでしょう」

「それって――ささらさん?」

 確かに彼女ならば、双子を操ってにおいを辿らせるぐらい訳はないだろう。しかし今はそれすら時間が惜しい。もう帰ってしまっているかもしれない。この商業施設のスタッフの中にそういったことができる双子の飼い主がいるかもしれないが、それも確実ではない。

「……うう」

 男の子の表情がまた一段と苦しそうになる。四の五の言っている場合ではない。

 私は右手の指輪の宝石に手を触れると、はっきり口に出して言った。

「緊急事態です。……来て」

「なに?」

 その時、すぐ近くの空間が()()()()と口を開け、中からIAが顔を出した。

「ちょ――」

 そのままカーテンでも引き開けるように空間の裂け目を広げ、IAはショッピングモールに降り立った。途端に花のような香りがあたりを包む。彼女の髪には一匹の青いモルフォ蝶が止まっていた。

 想像の斜め上の方法で登場した同居人に度肝を抜かれるが、それどころではない。

「ええと、状況を――」

「見せてね」

 IAは私の額に指を触れると、ふむふむと頷いた。

「うん」

 IAは水でもすくうように両手を顔の前に持ち上げた。その手の中に飛び込んだモルフォ蝶へと虹色の光がどこからともなく収束していく。

「ちょっと、あんまり派手なことを――」

「大丈夫。ちゃんとあとで何とかするし、緊急事態なんでしょ?」

「……そうでしたね」

「じゃあそういうことで。お願い」

 IAの手の中の光が弾けると、モルフォ蝶は虹色の輝きをまとったオニヤンマに変じていた。目にも止まらない速さで人々の間を縫ってどこかに飛び去って行く。

「い、IAさん……? 本物? どうしてここに? それにこれは……」

 あかりちゃんは完全にパニックになっていた。周りの人々の反応も似たようなものだ。

「あ、来た」

 人々の頭の上を飛び越えて来たオニヤンマがIAの掌の上に何かを落とす。それは怪我をしてもがいている小さなテントウムシだった。

「これが……」

「そう。その子の双子」

 さすがは惑星ARIAの精霊。途方もないエネルギーの化身。男の子の魂の痕跡をたどって双子を探し出すくらいは訳もないようだ。……私が期待した通りに。

「さてと」

 左手に乗せたテントウムシにIAが右手をかざすと、暖かな色の光がテントウムシに注がれた。見る間に傷ついていたテントウムシの羽が、足が、何事もなかったかのように癒えていく。

「う……ううん……」

 それに連動して男の子の表情からも力が抜け、呼吸が落ち着いていく。IAは治療が終わったテントウムシを男の子の横におろした。テントウムシは男の子の頬によじ登り、心配するように触角を動かしていた。

「うん、もう大丈夫」

「……どうもありがとうございます」

「大丈夫。むしろゆかりが私を頼るだなんてびっくりしたよ」

「……他に選択肢が思い浮かばなかったんです」

「さてと」

 オニヤンマがIAの肩にとまると、虹色の光に包まれて再びその姿を変え、青いモルフォ蝶に戻った。IAの瞳と同じように、角度によって微細に変わる色に羽を輝かせている。

「どうしようかな」

 もはや私たちの周囲は先ほどとは比べ物にならないほどの人だかりになっていた。写真や動画を撮る人もたくさんいる。

 それはそうだろう。世界的なアーティストがいきなり現れたかと思えば、虹色の光を操って何かをしていた。仮に私がIAの存在を伏せる立場の人間なら頭痛で卒倒しそうな光景だった。

 ――もっとも、そんな心配をする必要がないのがこのARIAの精霊という存在である。

「はい」

 ぱん、とIAが手を鳴らすと虹色の波紋が周囲に広がった。その途端、人々はIAや私たちから興味を失い、各々の行きたいほうへと進み始めた。更にあかりちゃんはソファ席に腰かけ、男の子の隣ですやすやと眠り始めた。シロも同じだ。

「……何を」

「記憶と、写真とか動画を消して――あと、私の存在に気づかないようにした」

「はあ」

 IAは相変わらず現実離れした美貌でそこにいるが、周りの人々の目には入らないようになっているらしい。

「で、迷子センターのスタッフさんがここに来るから――その人が男の子の双子を怪我する前に見つけてくれたってことにしよう」

「はい、じゃあそれで」

 もうなるようになれ。私は投げやりに答えた。IAは「うん」と頷くと男の子の頬に止まるテントウムシに触れた。その姿が虹色の光の残滓を残して消え失せる。おそらく適当なスタッフの手の中に飛ばされたのだろう。

「さてと。そろそろシンガポールに戻らなくちゃ」

「仕事中でしたか……すみません」

「うんまあ、向こうにも私はいるし、大丈夫」

 この宇宙人は本当に。

 IAは再び、カーテンでも開けるように何もない空間に指を差し込んで引き開けた。何やら虹色に輝く空間が入口の向こうに広がっている。

「それじゃあね。あ、しばらくご飯いらないから。火曜には帰るよ」

「分かりました。和菓子でも買っときます」

「やった」

 最後だけ同居人らしいやり取りをして、IAは忽然と姿を消した。先ほどまで空間の裂け目があった場所に指を伸ばすが、そこには何の感触もない。

「ぶぅ」

 その声に振り向くと、雫が呆れたような表情でこちらを見上げていた。私がIAの影響を受けていない以上、雫も今の光景をきちんと覚えているらしい。

「念のためですよ、念のため」

 雫はあくびをした。こいつ……。

「う、ううん……」

 あかりちゃんが体を起こした。シロはまだ寝ている。

「あれ、私……」

「あかりちゃん。覚えてますか?」

「ええと、迷子の子の双子をどうやって探そうか考えてて……」

 その時、小走りで近づいてくる人の姿があった。

「すみません。迷子センターのものですが」

「あ、どうも」

 顔を上げると、小さな菓子箱を手に持ったスタッフがいた。その肩にはリスが乗っている。

「……ダイスケ?」

 男の子が何かを感じたのか、目を覚ましてスタッフの持つ菓子箱のほうを見た。

「なんとかなったみたいですね」

「ええ。ゆかりさんが連絡してくれたんでしたっけ」

「そんなところです」

「ありがとうございます。ううん、でも私、どうして寝ちゃったんでしょう……情けないなあ」

「……疲れてたんじゃないですかね」

 男の子とダイスケの再会に水を差さないよう、私は曖昧に答えた。

 

  *

 

 スタッフの人は私たちにもう十分だと言ってくれたが、あかりちゃんは最後まで見守りたそうにしていたので私も付き合うことにした。双子のテントウムシと再会できた男の子は、そのあと両親ともちゃんと再会することができた。

「ばいばーい」

 あかりちゃんが手を振ると、男の子も手を振り返してきた。

「ありがとー、お姉ちゃん」

「すみません、本当にありがとうございました」

「本当に――何と言っていいか」

 母親と手をつないだ男の子が去っていく。あかりちゃんは親子の姿が消えてから「さてと」と立ち上がった。

「すみません、付き合わせちゃって」

「いいですよ。私も見送りたかったですし」

 私は二杯目のコーヒーを飲み終えた。

「すっかり遅くなっちゃいましたね……夕飯も食べていきますか?」

「私はそれでもいいんですけど……実は今日、両親と約束があって」

「え? 時間大丈夫ですか?」

「実はぎりぎりで――すみません! このお礼はまた!」

 あかりちゃんは私に深々と頭を下げた。その頭からキャスケットが落ちそうになったので私はとっさに抑えた。

「うわまたやっちゃった――すみません」

「いいですって。それじゃあまた」

「はい、また!」

 あかりちゃんは駅のほうへとわたわたと走っていった。転ばないといいが。

「私たちも帰りましょうか」

「ぶぅ」

 腕の中の雫は相変わらず不愛想に返事をした。

 

  *

 

 その日の晩、私はつづみさんに電話をした。仕事相手としてではなく友人として。今日ささらちゃんに会ったこと。最近読んだ本のこと。そして最後に――。

「和菓子の味にうるさい先生のところに持っていく手土産って、いつもどこで買ってますか? 都内で買えると助かるんですが」

 電話の向こうからは苦笑交じりのつづみさんの声と、いかにも悪戯好きそうな猫の鳴き声が聞こえていた。

 きっと彼女も私と同じように、傍らにいる双子の背中を撫でながら電話をしているのだろう。

 この世界に来てたった1日。だというのに、雫の存在は私にとって当たり前になっていた。

 まさしく魂の一部。心の一端。だからこそ、想像などできなかったのだ。

 この感触が私の隣からいなくなる日のことを。

 

 

――To be continued in Phase 2b

 





書きたいことが盛りだくさんになってしまったので、後編に続きます。


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Phase 2b Always With Me

遅くなってしまったうえ、書きたいことが多すぎて分量が前半の倍になってしまいました。すみません。
ごゆるりとお楽しみください。



 私は宇宙人と蕎麦を食べに来ていた。

 言うまでもなく、私の同居人にして世界的アーティストであるIA(イア) -ARIA ON THE PLANETES-(アリアオンザプラネテス)である。彼女のほかに火星人(マーシャン)だとか上帝(オーバーロード)だとかの知り合いはいない。

 外国人は麺類をすするのが苦手だと思っていたが、惑星レベルで日本国外出身のIAはごく普通に音を立てて蕎麦をすすっている。私と同居する前から日本にいるようなので、こうして物珍しそうな目で見るのは見当違いかもしれない。

 今は火曜日の夜。あかりちゃんと買い物に行き、ちょっとした騒動があった土曜日から三日が経っていた。私は相変わらずIAが作り出した並行世界の中にいた。

 この世界では生まれてから死ぬまでずっと、全ての人間の傍らに動物がいる。それはその人の魂の一部が分離した存在であり、普通の動物と違って食事や排泄の必要がない。そして飼い主と密接にリンクしており、飼い主の内面や異変は動物に現れ、また反対に動物の怪我は飼い主の精神に影響する。

 胎児のときからずっと一緒にいるこの動物を称して、双子という。この世界では『双子』とはそういうものを指す言葉として使われている。私がよく知る双子は四つ子、三つ子は六つ子と呼ばれているようである。

 IAが蕎麦を一口嚥下し、顔を上げて言った。

「食べないの?」

「いやまあ」

 今日は少々問題があり、帰りが遅くなってしまった。ちょうどシンガポールで一仕事終えて帰ってきたIAと会えたこともあり、こうして外食に来たのだが――。

「てっきり、話が先かと思ってたんですが」

「ううん」

 IAは蕎麦を箸で掴みながら言う。

「伸びちゃうしさ」

「まあ、それもそうですか」

 そう言われては私も食べないわけにいかない。箸を手に取った。

 ぱきり、と割った箸の向こうに鮮やかな青の色彩が見えた。IAの傍らにいるモルフォ蝶だ。

 羽の表面はIAの眼と同じく、見る角度によって微細に変わる青色をたたえている。しかし裏側は地味な茶色をしており、目玉のような模様もついていた。

 勿論IAはこの世界で生まれた人間ではないので、このモルフォ蝶はこの世界に合わせて自分の魂から作り出した存在だろう。つい先日はIAの意のままに姿を変えるのも目にしている。

「いただきます」

 私も蕎麦をすする。季節は秋に差し掛かっており、冷たい蕎麦にするかどうか迷う時期だった。私は少し感傷的な理由で暖かい蕎麦を選んでいた。

 一方のIAは、私の注文に続けて「同じので」と言ったのでどれでもよかったようだ。

「ん……」

 IAが味に変化をつけようとしたのか、七味唐辛子を蕎麦に振っている。しかし詰まっているのか上手く出ないようだ。

「えい。えい」

「あっ」

 中蓋が取れ、七味が山盛りになって蕎麦つゆの中に入ってしまった。

「…………」

 が、固まる私をよそに、IAはそのまま真っ赤になった蕎麦をすすった。

「え、大丈夫なんですか?」

「悪くない。ROCKを感じる……」

「はあ……」

 感じているのは辛味ではないだろうか。

 とにかくそんな奇妙な食事が終わり、IAは傍らのモルフォ蝶に指を伸ばした。蝶はふわりと羽ばたいてその細い指に止まる。

「さてと、話をしよっか」

「ええ」

 そう答える私の右手は、冷たいテーブルの上に置かれていた。

 IAが首を傾げながら言う。

(しずく)は、どこに行ったの?」

 

  *

 

 話は日曜日まで遡る。

 前日にちょっとした騒動があっただけに、その日はあまり遠出をせずに過ごした。スーパーと図書館に行く程度で、あとは自分の家で過ごしていた。

 私の双子、兎の雫はどうにも不愛想な性格で、私が声をかけても大体は億劫そうに反応する。これが私の魂の一部だというのを素直に認めるのが少々(しゃく)だ。

 しかし不思議なもので、小動物となるとこの不愛想さすら可愛げに変わる。さらに言えば、普通の動物なら避けられない寿命や病気の問題すらも双子にはない。つくづく得な存在だと思う。

 そしてその得は私もちゃっかりと享受していた。なにせ食事も排泄も必要ないのだ。普通のペットであれば生じる細々(こまごま)とした世話の必要がなく、可愛さだけを味わっていられる。おまけに普通の兎よりも賢く、部屋に放していても無闇に電源コードや家具をかじるということもない。

 この世界を作った存在がいるとすれば、本当にいい仕事をしたと言える。

「あ、雫」

「…………」

 リビングで読書していると、どこかに歩いていく雫が目に入ったので声をかけたが、ちらりとこちらを見ただけで進路を変えることなく物陰に消えた。どこに行くのかと思えば、風通しのいい所の床で寝そべっていた。どうやら昼寝の場所を変えたかっただけらしい。

「あなた寝てばかりですね……」

「ぶぅ」

 悪いかと言わんばかりに鼻を鳴らされたが、確かにペットの仕事など食べるか遊ぶか寝ることだろう。

 そんな風に過ごした日曜が終わって翌日の朝。私が仕事のために出かけるときもこの調子だった。私が起きてから朝食を済ませ、出かける準備を終えるまで雫はずっとベッドの上で伸びていた。

「出かけますよ、雫」

「…………」

「生きてます?」

「ぶぅ」

 返事があったので抱き上げる。完全に脱力しきっていた。こいつ……。

 電車の中は相変わらず、この世界の常識に合わせた日常風景だった。座席は減り、その分だけ大型の双子が乗るためのスペースが設けられている。

「……ふむ」

 こうしてみると、やはり哺乳類が多い。雫もそうだが、私が元いた世界でペットとして飼われている種類がほとんどだ。

 犬や猫を基本として、兎やハムスターがちらほら。爬虫類や無脊椎動物はほとんどいない。だとすると、テントウムシ――土曜にIAに助けてもらった少年の双子は珍しい部類だったようだ。

 電車はまだ乗換駅につかない。続いて、動物の種類と飼い主の相関にも自然と考えが及んだ。

 大型の動物は比較的男性の飼い主が多いように見える。やはり双子の見た目と内面が対応していることが多いのだろうか。

 などと考えていると、大人しそうな女子高生の膝の上で毒々しい蛇がケージに入れられていたりする。スーツがはち切れそうなほど筋骨隆々な男性の肩の上にちょこんとヤドカリが乗っていたりする。そう単純な話ではないようだ。

 面白い、と思ってしまう私がいる。

 乗換駅の連絡通路はいつも以上にごった返しているように感じた。私と同じくスーツ姿の男女が、それぞれに動物を従えているから当然だろう。毎朝の通勤風景も、そこに動物たちがいるというだけでどこか微笑ましく思えてくる。

「おはようございます」

「あ、ゆかりさん! おはようございます!」

 職場につくと、あかりちゃんがシロと一緒に小走りで駆け寄ってきた。

「土曜はすみませんでした!」

「いえ、そんな。ご両親との約束は間に合いましたか?」

「はい、なんとか」

「それならよかったです」

 そんなやり取りの間にもシロは私のパンツスーツの裾をカリカリとひっかいていた。可愛らしい。

 あかりちゃんがシロを抱き上げて戻るのを追いかけて自分の席に向かう。私の机には一点だけ、この世界に来るのとは違うところがあった。

 優先度が低い書類をなんとなく積んでいたはずのスペースに、ややくたびれたクッションが置いてある。

「……なるほど?」

 相変わらず脱力している雫をそこに下ろすと、もぞもぞと動いてこちらに尻を向けて寝転がった。こいつ……。

 そして仕事が始まってみれば、やはりというか目立った変化はなかった。これまでに訪れた平行世界でもそうだったように、結局どんな世界でも人間たちはその世界なりに仕事をしているのだ。

 その日の帰りはつづみさんに聞いた和菓子屋さんに寄って羊羹を買った。先日IAに助けてもらったお礼のつもりだ。

 そして家に帰りついてテーブルの上に羊羹を置き、物思いにふけった。

 土曜日には、緊急事態だったとはいえ、あまりにあっさりとIAを頼ってしまった。どうにも最近は忘れがちだが、IAは私を試しているのだ。地球の人類に惑星ARIAの精霊の力やテクノロジーを見せつけた時にどういう反応をするのか――その試金石として。

「もしこの先、似たようなことがあったら……」

 またIAに頼る必要が出たら、私はまたああして助けを呼ぶのだろうか。人差し指の指輪の宝石は、不可思議な七色に輝くばかりで何も答えはしない。

 IAのやっていることは、ある意味マッチポンプだ。普通の日常で精霊の力を見せつけても芳しい反応が得られないから、特殊な環境に私を置くことで新しい反応を引き出そうとする。

 不慣れな環境に放り込んだ実験動物が助けを求めてくるのを、この指輪の向こうで待っている。――そんな風にも取れるが、IAがそこまで考えているとは思えない。

 頭の回転が悪い、という意味ではない。やろうと思えば綿密で周到な計画を立てられるだろうに、そうしていないように感じる。そんな邪気があるように思えないのだ。……だからこそ厄介かもしれないが。

 あくまで推測だが、IA自身が試行錯誤の途中で、やむなくこういう形になってしまっているのではないだろうか。私があれこれ理由をつけて、彼女の力やテクノロジーを拒否しているから。

「じゃあ自業自得か……」

 私の普段の生活の中で力やテクノロジーを見せるというアプローチ。

 それが駄目なら平行世界を模した世界に送り込んで新しい反応を引き出すというアプローチ。

 それも上手くいかなくなったら……彼女は一体どんな手段に出るのだろう。

「どう思いますか、雫」

「ぶぅ」

 知ったことか、と言わんばかりに鼻を鳴らされる。

 たった数日で、私は雫に話しかける回数が増えていた。

 

  *

 

 前日の夜にそんなことを考えていたからだろうか、あるいは膝の上の暖かさのせいだろうか。

 翌日の火曜――今日の帰宅途中。寝不足を感じていた私は、久々に仕事帰りの電車でうたた寝をしてしまった。

 がたんごとん、とリズミカルに揺れる車体。どこか遠く響く低い走行音。なんとなく朝とは違う空気。仕事が終わったという解放感の代わりにエネルギーを支払った人々の雰囲気。飼い主たちに寄り添う動物たちの息遣い。

 それらがないまぜになって、ぼんやりと私の感覚に忍び込んでくる。だんだんと時間の感覚が薄れ、思考がとりとめのないものになっていく――その瞬間。

「…………?」

 寂しさ。

 疎外感。

 悲しさ。

 喪失感。

 どこからともなく伝わってくるそれを、可哀想だと思う自分の気持ち。

 私の薄っぺらな良心が、この感情を憂いている。

「ん……?」

 違和感。眼を開く。そして気づく。

 膝が寒い。

「雫……?」

 辺りを見渡す。しかし終点が近い電車の中に人はまばらで、兎が隠れられるようなところはなかった。大体あの性格からして、自発的に私から離れて行ってしまうとは思えない。

 ざわつく気持ちを何とか押さえつけて周囲を探す。見知らぬ人たちに聞く。しかし手がかりはない。

 昨日の夜、ああ考えたばかりだというのにこの始末だ。

 乗り過ごして着いた終点で、結局私は駅員に助けを求めたのだった。

 

  *

 

 私は一連の行動だけを説明した。月曜の夜の物思い、そして雫がいなくなった直前に流れ込んできた感情のことは省いた。

 ……言えば話をややこしくするだけだ。その気になれば読み取られてしまうとしても、今はIAに対する疑念を隠しておきたかった。

 そう。率直に言えば私はIAを疑っている。

 あの電車の中の出来事。他人の感情が自分の意思とは関係なく流れ込んでくる――そんなあり得ない現象を、私はすでに一度体験している。他でもない、IAが差し出してきた虹色の円盤に手を触れることによってだ。

 その気になれば、できる。ああして他者の感情を伝え、私が動揺している隙に雫を攫うことくらい、この宇宙人にはできるのだ。

「なるほどね」

 蕎麦湯を飲みながら話を聞いていたIAはこくりと頷いた。そしてスマホを取り出すと地図のアプリを開く。

「さてと、雫はどこかな」

「……探せるんですね」

 探せるんですか、ではない。これはただの確認だ。

「うん、探せるよ。でも」

 IAは私の眼を覗き込みながら言う。深い青が揺れる。

「なんだか、ゆかりは乗り気じゃないみたい」

「……そう、ですかね」

 口ではそう言うものの、内心ではIAに頼るという選択肢はほぼなくなっていた。

 雫を探してください、というのは簡単だ。しかしそれは罠かもしれない。雫という存在に私を慣れ親しませ、そのあとに取り上げる。モルモットが助けを求めてくるかを見定める実験――そう考えるのが一番腑に落ちる。

 では、あなたが雫を攫ったんでしょう、と詰め寄るべきだろうか。

 正直なところ、私はこちらを選ぶのも気が進まなかった。

 IAに軽率に頼るべきではない。そう考えたのは確かだ。IAがマッチポンプを仕掛けてくるかもしれない。そう思ったのは本当だ。状況に変化が見られなければ新たなアプローチを仕掛けてくるはずだ。そう予測したのは事実だ。

 だとしても、()()()()()()()

 何かが引っかかる。IAがそんなに順序立てて私を追い詰めるようなことをするだろうか。1年近く一緒に暮らして身近に見てきた彼女が、そうするだろうか。

 迷う。

 信じるか、信じないか。

 結果として、私はIAに何かを言うことが出来なくなっていた。

 黙ったままの私に、IAは小首をかしげて疑問をぶつけた。

「どうして? 自分の一部がいなくなっちゃったのに。私に頼めばあっという間だよ?」

 IAの眼は私の心まで覗き込んでくるようだった。思わず目を伏せながら言う。

「いやまあ、何というか。この間助けてもらったばかりですし。頼りすぎるのもなあ、と」

「気にしなくていいのに。それともお礼を気にしているの? 羊羹は美味しかったよ?」

 駅員に事情を説明し終えて帰った私を出迎えたのは、羊羹を丸ごと一本手掴みで食べるIAだった。それなりに良い値段の代物だったのに……と、逸れそうになる考えを抑え込み、彼女に頼らない理由をひねり出す。

「……あー、緊急性が低いからですかね」

「そうなの?」

「ええ。この間の男の子は双子のテントウムシが怪我をして、あの子自身にダメージが返ってきていました。でも私はこの通りですし」

 と、軽く両手を広げて言う。それに対し、IAは視線で私の輪郭を一周なぞってから頷いた。

「うん。魂に傷はついてない。雫も無事みたいだね」

 気軽に魂とやらを見透かされたと知り、少し背筋が寒くなる。しかしそれを表面に出さず、提案をした。

「だからまあ、まずは自分で探してみようかと」

 自分で探す。それは勢いで言っただけだったが、この場の結論としては最適なように思えた。最終的な結論を先延ばしにしているだけとも言えるが。

「……うーん?」

 IAは首を捻った。そしてぽつりと言う。

「もしかして、また楽しんでる?」

「そう見えますか?」

 最初に送り込まれた平行世界。その世界で、私はIAに助言を求めなかった。右手の人差し指の指輪を通してIAに呼びかけることはなかった。好奇心に任せて世界を観察し、分析し、考察した。

 楽しんだのだ。そしてそんな心理をIAに見破られ、一杯食わされた。

 IAは今回も、私がこの状況を楽しんでいるのだと考えているようだ。だが前回とは状況が違う。今回は流石に不安のほうが勝っている。

 しかし、IAから見れば一番それらしい理由だろう。私はこれ幸いと曖昧に肯定した。

「……いえ。案外そうかもしれないですね」

「ふうん?」

 IAは不思議そうに首をかしげたが、とりあえず納得した様だった。気が変わらないうちに話を終わらせよう。

「まあとにかく、何日かは自分で探してみますよ」

「……大丈夫?」

 IAの言葉に裏はなさそうだった。その瞳が憂いの色を帯びるのが見える。彼女は心から私を心配しているように見えた。

 だが、私はこの場でIAを信じるか信じないかを決めないことにした。

 自分で雫を見つけなければいけない。そのために、無いも同然の手がかりを手繰り寄せなければいけない。正直に言えば不安だらけだ。

 だが私の口は勝手に言葉を紡ぐ。私の中で(くすぶ)る感情など構わずにあっさりと言ってしまう。

「まあ大丈夫ですよ、きっと」

 

  *

 

「雫に何かあったら、自分で探すのはそこで終わりにしよう」

 IAはそう私に告げたものの、私の判断を尊重してくれた。蕎麦屋から帰り、IAが風呂に入っている間に私はカフェインレスコーヒーを淹れて自分の部屋に戻った。

「さて……」

 思考を整理しよう。メモに箇条書きで状況を書き出す。

 ・双子の世界に飛ばされた。

 ・雫と三日過ごした。

 ・帰宅途中に他者の感情が流れ込んできた。

 ・雫がいなくなった。

 ・IAが疑わしい。

 ・IAは私のことを心配しているように見える。

 以上のことを書き出してから、一度視界の外にメモとペンを追い出した。少し冷め、ちょうど飲み頃になったコーヒーをちびちびと飲む。いつも以上にゆっくりと。舌の上で転がすように。

 自分の書いたことを客観的に見るには、ペンを置いてから全く別のことをするに限る。小説を書く時にもよく使う手だ。本当は一晩眠るのが良いのだが、出来れば今のうちに行動を起こしておきたかった。

「よし」

 空になったカップを置き、メモを手に取る。文章を改めて頭から読む。そして。

「……慌てすぎだ、私」

 『帰宅途中に他人の感情が流れ込んできた』のところにアンダーラインをひき、そこに『誰の?』と書き加える。さらに『IAが疑わしい』という文章を二重線で消した。

 どうやら冷静さを失っていたようだ。前者は思いついて当然の疑問だし、後者は根拠のない疑念にすぎない。

 改めて、事実だけが並んだ文章を見直す。そしてこれから明らかにするべきことを書き起こす。

 ・雫はどこに行ったのか

 ・流れ込んできた感情は誰のものか

 ・IAはこの件に関わっているのか

「うん」

 やっとすっきりした。とはいえ、後ろ二つはどこから手を付けたらいいかわからない。

「……やっぱり、雫が先か」

 雫を探すのも手がかりがなさそうに思える……が、ここはそういう世界なのだ。そして、この世界のことはこの世界の人に聞けばいい。

 IAには自分で探す、と言っておいて人に頼る姿勢に自嘲しつつ、私は携帯電話を手に取った。

 

  *

 

 翌日。出勤した私をあかりちゃんとシロが出迎えてくれた。だが……。

「雫ちゃん、どうかしたんですか……?」

 想定通りの質問だ。私は頬を掻きながら答える。

「意地でも家から出たくないようでして……仕方ないので置いてきました」

「えっ」

 素直に雫が行方不明になったと言えば、自分も探し出すと言いかねない。あかりちゃんはそういう人だ。躊躇なく人のために動けてしまう、優しい子だ。

 だからこそ、あまり心配はかけたくなかった。

「あの、ゆかりさん」

 ……ところが、あかりちゃんは視線だけでちらりと周りを見てから、私に身を寄せてきた。思いがけない距離にどきりとする。

 あかりちゃんは小声で私にささやいた。

「……ゆかりさん。悩んでることとかあったら、何でも言ってくださいね。いつでもいいですから」

「え、ええ……」

「絶対ですよ」

 そして私から離れ、自分の席へと行ってしまう。

「ええと」

 今の反応は一体……。

 首をひねりつつも、仕事をしないわけにはいかない。上司にも同様の説明をすると、訝しげな顔をされたものの「無理はするなよ」とだけ声をかけられて仕事を回された。

 一方のあかりちゃんは私のほうをちらちらと見て気にしている様子だったが、それ以上立ち入った話をする気はないようだった。

「はて」

 などと思いつつ仕事を片付け、昼休み。

 ずい、と。

「ゆかりさん、どうぞ」

「はあ」

 いつも通り二人でお昼を食べようかと思ったところで、あかりちゃんがシロを差し出して来た。シロ自身は宙で足を漕いで私のほうへ進もうとしているので、遠慮なく受け取っておく。ふわふわとした毛並みは雫よりも多く空気を含んでいて、私の指先が少しだけ埋まった。

「あの、これは」

「遠慮なくモフってください。私にできるのはこれくらいですから」

「はあ」

 まあ撫でていいならそうしよう。私なりにこの世界の常識を調べて、他人の双子に勝手に触れるのはマナー違反だということは知っていた。

 それ以外に調べたことといえば、やはり双子を見失った場合はどうするか、だ。

 一番は警察に届けること。まあそれはそうだろう。しかし私の知る世界での行方不明事件と同様、明確な事件性が無ければ本格的な捜査は難しいようだ。

 次に双子自身の帰巣本能に期待すること。双子は飼い主と引き合うため、少し離れた程度ならば自然と帰ってくるらしい。

 そして、この二つの方法で帰ってこなかった場合。つまり、双子が第三者によって動けなくなっており、警察が見つけてくれるのも期待できない。

 そうした場合の最終手段として、双媒師(そうばいし)なる職業を頼るという選択肢があるという。平たく言ってしまえば霊媒師の双子版だ。しかし、やはりというか眉唾ものとして扱われているようだ。

 IA曰く双子と飼い主は魂で繋がっているそうなので、そういう発想が生まれるのも当然なのかもしれない。

 そして私がどの選択肢を取るかといえば、今のところはそのどれでもない。

「わふ」

 私に撫でられ、シロが満足げに声を漏らした。その様子に思わず顔がほころぶ。

「ありがとうございます、あかりちゃん」

「いえ。……ちょっとは役に立てましたか?」

「ええ、とても」

 お昼を食べ終え、名残惜しいがシロをあかりちゃんに返し、午後の仕事を片づける。

「お先に失礼します」

「お疲れ様です」

 定時に会社を出て、いつもは土曜の打ち合わせに使っているファミレスへ。ここに心強い味方が来てくれるはずだった。

「ん、まだ会社ですか」

 店に入る前に携帯を見ると、少し遅れると連絡があった。先に入っていよう。

 自動ドアをくぐると店員がいつものように人数を聞いてくる。

「いらっしゃいませ。何名様ですか」

「三人です。あとで待ち合わせが来ます。」

「ええと……」

 と、ここで私の予想しないことが起きた。

 店員が私の姿を上から下まで視線でなぞり、少しだけ表情を硬くしたのだ。

「その、待ち合わせの方の双子は……」

「……ああ。家猫と大型犬です」

「かしこまりました。こちらのテーブルへどうぞ」

「ありがとうございます」

 席に着き、いつも通りにドリンクバーだけを注文する。コーヒーを一杯淹れて席に戻り、店の中をぐるりと見回す。

 亀、犬、猿、そして変わったところではダチョウ。誰もが動物を連れている。

 この世界ではレストランでも双子と離れることはない。大型動物ならそれなりのスペースが必要だ。

 さっき店員が表情を変えたのは、私が何の動物も連れていなかったからだ。例え毒や爪が危険な動物であろうと、双子は常に一緒にいるものなのだ。

「……一人っ子」

 そういう俗称があるのは知っていた。先日、私と同じく双子とはぐれた少年のことをあかりちゃんが勘違いして呼んでいた。

 この世界では、誰もが自分の魂の一部を分けた動物を連れている。しかしどんなものにも例外はある。

 もともと私はこの世界にとって異物だが、それが一段と際立つ形になっていた。いるはずの存在がいない、それだけで。

 膝の上に乗せた鞄を軽く撫でてみるが、冷たさと硬さだけが返ってきた。

 なんとなく、寂しさと疎外感を覚える。

 ……ん?

「なんだか、デジャブのような」

 そうだ、最近似たようなことを考えて――。

「先生」

 声を掛けられ、反射的に顔を上げる。思考は打ち切られた。

「遅れてすみません」

「いいえ。無理を言ったのはこっちですから」

 そこにいたのは、黒猫を抱えた鈴木つづみさんだった。

 

  *

 

 味方ことつづみさんに今までのことを順を追って話していく。一応一通りの事情は昨日の夜に伝えておいたが、細かいことも含めて聞いておきたいとつづみさんは言った。

「……という感じで、すごく心配されてしまいまして」

「それはそうでしょう」

 そして最後に今日の会社での様子を話すと、さも当然と言わんばかりにこう答えられた。

「そ、そうなんですか……」

「ねえ、(しおり)

「みゃあ」

 栞と呼ばれた黒猫はつづみさんの発言に同意した。もちろん彼女の双子で、青色のリボンを首に巻いた気品ある姿だ。

「先生、双子のことにそんなに疎かったかしら」

「いやまあ、雫がいないせいで動揺してるのかもしれません」

 他に頼れる人が思いつかなかったとはいえ、つづみさんのような鋭い人に対して、この世界のことでボロを出さずにいられるかは賭けだった。そして賭けには負けつつある。

「想像してみてください――こんなことを先生に言う日が来るとは思いませんでしたが――ある人の心の一部が、何が何でも家から出たくないと主張しているんですよ」

「あ」

 双子は魂の一部。心の一端。

 それが出勤を拒否しているとなれば、何か悩みがあると思われて当然だろう。

「あー……他の言い訳のほうがよかったですかね」

 とはいっても、双子を家に置いてこなければいけない理由など他に思いつかない。まさか兎がいきなり毒を出すようになったなどと言い出すわけにもいかない。

 つづみさんは栞を撫でながらため息をつく。

「まあ、正直にいなくなったと言うよりはましでしょうけど……そのあかりちゃんっていう後輩さん、ゆかりさんをかなり慕ってるみたいですし」

「まあ、年も近いですしね」

「そうではなくて……いえ、いいです」

 つづみさんは携帯を見てため息をついた。

「うーん、まだ着かないみたいです。先に本題に入りましょう」

「分かりました」

 もう一人の味方はさらに遅れるようだった。時間が定まらない仕事をしているから仕方ない。

 つづみさんはメモ帳に書いた路線図をコーヒーカップの横に広げた。

「ゆかりさんが寝落ちしたのがここ。雫ちゃんがいなくなったと気づいたのがここ。途中に止まった駅は二つ。そしてそのうち一つは、この路線との乗換駅です」

「ええ」

 本来私はその駅で乗り換えるはずだったのだ。しかし寝過ごして終点まで行った。

「仮に雫ちゃんが何かの拍子に電車を降りて迷ったとしても、見つからないはずはないでしょう。一人でいる双子なんて、駅員に保護されないはずがないです。増してや駅の外に出たり、別の電車に乗り込んだりしたとは考えづらいですし……」

 つづみさんは一拍置き、目を伏せて言った。

「となると、誘拐でしょうね」

 誘拐。考えたくはないが、そう考えるのが一番自然だ。

「……そうなりますか」

「そうなりますね」

 つづみさんはメモの余白にはっきりと『誘拐』と書いた。私がその字をちゃんと認識しているのを確認し、つづみさんは言った。

「……考えてもいなかった、という顔でもないですね。なのに全く慌てていない。警察に捜索届けも出していない。……正直言って、ゆかりさんの意図が分かりません」

「それは……」

 この件には私の同居人の世界的アーティストにしてARIAの精霊だとかいう宇宙人が関わっていて、そもそもこの世界はその宇宙人が作った地球のコピーであり、雫をさらったのもマッチポンプかもしれないのだ――などとは言えない。「次回作の構想ですか?」とでも言われかねない。

 だからもっともらしい言い訳を用意しておいた。それに言い訳といっても全く根拠のないわけではない。

「雫を連れて行った人は、多分雫に酷いことをするつもりがないと思うんです。もう丸一日経っているのに、私の身には何も起こっていない」

 雫はどうやっていなくなったのか。自分の足で歩いて行ったのか、誰かに攫われたのか、忽然と消えたのか。

 もしもIAがこの件に関わっているなら、わざわざ雫に歩かせたり雫を抱いて攫ったりなんてことはしなくていい。彼女自身が普段から忽然と現れたり消えたりしているのだから、そうすればいい。

 それと同じように、私に何かする必要もない。文字通り瞬く間に雫を連れて行ってしまえばいい。

 だがあの時――私は誰かの感情を感じた。

 寂しさ。

 疎外感。

 悲しさ。

 喪失感。

 そう。先ほど感じたデジャブはこれだ。

 あの時流れ込んできた感情は、同じく電車の中にいた誰かの感情なのではないか。そしてその感情の持ち主が、寂しさや悲しさを埋めるために雫をさらったのではないだろうか。

 私はそう推測したのだ。

 ならば、仮にIAがこの件を仕組んだとしても、実行犯は彼女ではない。疎外感と喪失感を抱いた誰かをそそのかしたのだ。

「雫を連れて行ったのは『一人っ子』ではないかと私は考えます」

「……少々、飛躍していると思いますが」

 つづみさんがそう感じるのも無理はない。私はこの推論に至るために一番大事なカードを隠しているのだから。

 しかし、今は隠したまま協力してもらうしかない。何の進展も見られなければ、IAが見かねて手を貸してくるかもしれない。

「飛躍……そうかもしれません。しかし、そう考えればしっくりきます。雫だって、見知らぬ人に黙って連れていかれるとは……まあ、あるかもしれませんが」

 あの無気力っぷりだ。しかし。

「雫が何も考えていないとは思いません。私の双子だから分かります」

 私はわざとずるい言い方をした。

「雫はあえて無抵抗に連れていかれたんです。もしそうなら、無闇に大事(おおごと)にしたくはないんです」

 つづみさんは目を閉じ、深く息を吐き出した。

「すでに大事だと思うのだけれど……まあ、私にできることはあくまで手伝いですから。頼りになるのはむしろ――」

 と、その時。もう一人の味方が遅れてやってきた。

「つづみちゃーん、ゆかりさーん、遅れてごめん!」

「あら、どこに寄り道してきたのかしら」

「収録長引いただけだってば! というわけで、ただいま参上!」

 もう一人の味方こと、佐藤ささらちゃんが謎のビシッとしたポーズを決めながら言った。

 

  *

 

 つづみさんの親友、ささらちゃん。年はつづみさんよりも一つ下だが、長い付き合いである彼女たちはお互いに気安く話していた。

 昨日の夜、つづみさんに協力を仰いだところ、ささらちゃんも呼んだ方がいいという提案があったのだ。あらかたの事情は昼の間につづみさんから伝えておいてくれた様だった。

 ささらちゃんはつづみさんの隣に。そして彼女の双子であるボルゾイ犬、シュガーは私の隣の席に上がりこんだ。

 先ほどまで動かなかった栞がすっと立ち上がり、テーブルの上に顔を出したシュガーの前に行く。シュガーは喜んで栞に鼻を押し当てようとしたが、栞はぺしりと前足でシュガーの鼻を叩いて牽制した。テーブルに顔を伏せて「参った」のポーズをしたシュガーの顔の横に栞が満足げに座り、その大きな耳を舐めた。

「縮図……」

「何が言いたいのかしら」

「いえなんでも」

 不自然ににっこりと笑うつづみさんの横で、ささらちゃんはそっぽを向いて口笛を吹く真似をしていた。

 閑話休題。

「お昼につづみちゃんから事情は聞いたけど……ちょっと難しいです。電車だとかはただでさえ臭いが入り乱れてるし……」

「やっぱりそうですか」

 雫のクッションを一応会社から持ってきたが、役に立つことは無さそうだ。

 ささらちゃんを呼んだ理由は二つ。一つはシュガーの鼻を使って雫を追いかけられないかということ。こちらは望み薄であり、やはり無理そうだった。

 そしてもう一つの理由は――。

「ゆかりさんに『制御』を教えられないかしら」

「うーん……」

 制御。それはつまり、この世界においては双子の制御を指す。

 爪や牙、あるいは体格や毒が理由で危険だと判断される双子を公共の場で自由に振舞わせるには、双子を制御する免許が必要なのだ。

 それができなければ、枷を施したりケージに入れたりという処置が必要になる。

 そして、そういった事情がなくても双子制御免許の取得率が高いのが犬の飼い主だった。双子の制御そのものに適性があり、警察犬やレスキュー犬、貸出盲導犬などの仕事に生かせる機会が多いためだ。

 そしてささらちゃんもまた、あかりちゃんが推測していた通りに双子制御免許の持ち主だった。

「そっちについても――うーん。双子の場所を感知するのは確かに初歩の初歩ですけど」

「難しいのかしら」

 つづみさんは双子制御について詳しく知らないようだ。犬の飼い主とは対照的に、猫の飼い主が制御免許を持っている割合は低いらしい。やはり自由気ままな性格の双子が多いからだろうか。

「双子の場所を感知する訓練って、すぐそばに双子を隠してもらってやるんですよね……やっぱり距離が離れてるとその分難しいですし、大雑把な方向や範囲の目星がないのはもっと難しいです」

 最初は二つの箱のどちらかに双子を隠して、二択を当てるところから始めるのだという。そして慣れてきたら三択、四択と増やし、距離や方角を問わず感知できるようにする。

「そうやって、自分と双子の間の繋がりを意識できるようにするんです。そして次は、その繋がりを通して指示ができるようにする」

 ささらちゃんは指を()()と上げた。それに合わせてシュガーが鼻先を天井に向ける。指を下げれば下へ。右へ左へ。

「今こうしている指示も、私はその『繋がり』を意識してシュガーに伝えてます」

「何だか曖昧な言い方をしますね。繋がりって……犬ですし、リードとか?」

「今は秘密です」

 ささらちゃんは両手でバッテンを作ってそう言った。

「何故ですか?」

「この『繋がり』は一人ひとり、何をイメージするかが違うんです。だから、先入観を持ってもらいたくないんです」

 なるほど。ささらちゃんとシュガーが使っている『繋がり』のイメージに引っ張られて、私と雫の『繋がり』に最適なイメージができなくなってしまうのを危惧しているのだ。

「まあそういうことなら」

 私たちがそんな会話をしている横で、つづみさんは栞の前で指を振っていた。しかし、栞は知らん顔で丸まってくつろいでいる。

「駄目みたい」

「猫はむしろ、双子のやりたいことを上手く読み取って制御する方向で訓練するのが多いんだって」

「個性があるのね」

 つづみさんは納得したように頷く。

 ささらちゃんはこちらに向き直り、背筋を伸ばした。

「で、ゆかりさんの場合ですけど……とにかく場所を割り出すのを優先で、何とかやってみましょう」

「ええ」

「でも本当に難しいですよ。本来なら位置の特定だけでも一週間くらいは訓練しますから。もしもの時は、もう双媒師に頼むつもりでいてください」

「わかりました」

 双子がいなくなったときの対処として挙げられていた方法は三つ。警察と帰巣本能と双媒師だ。そして、それらの方法は『もし制御免許を持っていないなら』という前置きがあった。これを見て、つづみさんはささらちゃんに協力を仰いだのだ。

 双媒師に頼むのはなるべく避けたい。いわゆる『本物』に最初から依頼できる保証などないのだから。

 よし、と軽くつぶやき、ささらちゃんを見る。ささらちゃんは軽く頷き、口を開いた。

「それじゃあ、まずは眼を閉じて、とにかく雫ちゃんのことを強く思い浮かべてください」

「はい。それで次は?」

「そうすると……こう……わかります!」

 何もわからない。

「ささらちゃん……」

「あー、つづみちゃん、私のことおバカだって思ってるでしょ。でも本当だもん」

「言いたいことはわかるけれど、もうちょっと不安にならない説明の仕方をしてちょうだい」

 まあ、説明の仕方はともかくやり方はわかった。思えば繋がる、ということだろう。

 私は用意してきた雫のクッションを取り出すと、膝に置いて眼を閉じた。

「じゃあ、やってみます」

 二人が固唾をのむ気配が伝わる。私も一度深く呼吸して、自分の内側へと没入しようと試みる。

 雫。雫のこと。雫の姿。鳴き声。手触り。匂い。

 ふてぶてしくベットに横たわる雫。

 私の声に無愛想に返事をする雫。

 あかりちゃんに撫でられている雫。

 膝の上でうとうととしている雫。

 私が帰ってきたのを見て駆け寄ってくる――。

「違う――」

「……ゆかりさん?」

「すみません――駄目みたいです」

 つづみさんが心配そうにのぞき込んでくる。私は「大丈夫です」と機械的に答えた。

 水を一口。

 やはり、違和感に逆らってでも別の名前を付けるべきだっただろうか。しかしそれも無駄な足搔きに思えてならない。兎の名前は雫。そういう風に、できている。

 だからこの方法ではだめだ。あの雫だけを鮮明に思い浮かべることはできない。

 もう一度深呼吸して気持ちを切り替える。

「別の方法があるんですよね」

「う、うん」

 ささらちゃんが不安そうに頷く。私は意識して微笑みを浮かべた。

「お願いします」

「うん……さっきみたいに直接双子のことを思い浮かべるんじゃなくて、双子との『繋がり』をイメージするんです。そうすればその『繋がり』を辿って、どっちにいるかが分かるはず」

「ああ、『繋がり』に先入観を持たせないようにしたのはこのためですか。ありがとうございます」

「うん……でも大丈夫ですか? 慣れないことをすると結構疲れるし、ここだと周りの音があるから……」

 ピークには少し早い時間帯のファミレスだ。幸い小さな子供を連れた家族などはいないものの、それなりに賑わいはある。

「とりあえずやってみますよ。駄目そうならまた静かな場所で仕切り直します」

「うん……じゃあ」

 ささらちゃんは何か紐のようなものをすくい上げるように手を持ち上げ、顔より低いくらいの高さで止めた。

「イメージしてください。自分の胸から伸びる『繋がり』を。試しに色々な種類を想像してください。とにかく、自分と双子を繋げられそうなものなら、材質や色は何でもいいです。上手くイメージできないならその時はいくつか例を挙げますから、まずは自分なりにやってみてください」

「分かりました」

 深呼吸して眼を閉じる。ささらちゃんの真似をして、自分の胸から延びる紐のようなものをイメージし、手ですくい上げてみる。

 ……紐のようなもの、ではやはりイメージしづらい。ささらちゃんが言ったように、しっくりくる実体を考える。

 それは私と雫を繋ぐのにふさわしいもの。あの不愛想な兎へと続いていて違和感のないもの。

 リード……違う。雫はそう言ったものを好まない。

 縄……これも違う。ましてや鎖も違う。

 毛糸……は近いような気もするが、色がイメージしづらい。やはり違うか。

「ゆかりさん……?」

 おずおずとささらちゃんが訪ねてくる。眼を閉じたまま返事をする。

「ごめんなさい。もう少しやらせてください」

「うん」

 もう一度深呼吸する。

 そうだ。雫は何かで繋ぐまでもなく私のそばにいた。されるがままにそこにいた。そんな雫と私を結ぶものは……。

「雫――」

 お互いを繋ぎ止めるのに必要な強度を持つものではない。

 お互いがそこにいるという事実だけを確かめられればいいもの。

 紐や鎖よりも頼りない、けれど確かに互いを結ぶもの。

 ……私は持ち上げていた手を下ろし、全神経を集中した。私と雫を繋ぐものをイメージする。

 いつの間にか、周囲の雑音は耳に入らなくなっていた。

「雫……」

 呼ぶ。

「雫……!」

 声の波を起こす。どこかの方向へではなく、自分の周囲に波紋を広げていく。そして。

 ――ぶぅ。

 不愛想な声の波が返ってくる。

 ――ああ、そこにいる。

「そっち」

 気が付くと、私はある一方を指さしていた。

「ゆかりさん……大丈夫?」

 眼を開けると、ささらちゃんが心配そうに私を覗き込んでいた。

「あー、どうにか、なり……あれ?」

 おかしい。上手く声が出ない。喉が枯れている。心臓が早鐘を打っている。

「シュガー!」

 ささらちゃんの声を聞き、シュガーがぱっと私の隣から飛びのく。かわりに私の隣に滑り込んだささらちゃんが私の額にハンカチを当てた。

「すごい汗……よっぽど集中したんですね」

「ああ、なるほど」

 慣れないことに神経を使ったせいか。

「とりあえず、水を」

 つづみさんが私の前に三人分の水のコップを集めてくれた。

「温かいものを何かとってきます。コーヒーでいいですか?」

「ええ、すみません」

「いえ」

 水を飲んで乾いた喉を潤し、つづみさんがドリンクバーで淹れて来てくれたコーヒーをゆっくりと飲んで深呼吸をする。ようやく鼓動が落ち着いてきた。

「すみません。落ち着きました」

「よかったー。まさかあんな風になるなんて……ごめんなさい」

「いえ。助かりましたよ」

 ささらちゃんがシュガーを触らせてくれる。体温と手触りが心を落ち着けてくれる。

 十分に回復したとみてか、ささらちゃんが聞いてくる。

「それで、何をイメージしたんですか?」

「ああ、あれはですね」

 私と雫を繋ぐもの。物理的に縛られず、ろくに私を見ないあの兎と交わされるもの。

「声でした」

 私と雫は声で繋がっていた。ピンを打つように、呼んで呼ばれて互いの位置を確認していた。

 ささらちゃんがぱちくりと瞬きをする。

「声……? え? 紐とかじゃなくて?」

「変わってる……んでしょうね、やっぱり」

「多分……」

 と、私たちの会話が途切れたのを見計らって、つづみさんが軽く手を挙げて質問した。

「ちなみに、ささらちゃんとシュガーを繋いでいるのは何なのかしら。もう教えてくれてもいいでしょう?」

「えっと……それは、その」

 ささらちゃんの眼が泳いでいる。心なしか顔が赤い。

「別に無理に言わなくてもいいですよ」

「いいえ、ゆかりさん。私たちには知る権利があります。ゆかりさんは教えてくれたのに、ささらちゃんは秘密だなんて、ねえ?」

 そして、そんなささらちゃんの様子を見て、つづみさんの悪い癖が出ていた。

「ええと……笑わないでよ」

 ささらちゃんは携帯で何かの写真を見せてくれた。ピンクと水色のリボンをそれぞれつけた二人の女の子――私が知るのよりもずっと幼いが、間違いない。

「あら、ささらちゃん。これって――」

「そうだよ。つづみちゃんと小さいころにお揃いで買ったリボン。それが私とシュガーを結んでるの」

「……へえ」

 つづみさんの笑みが一層深くなった。ささらちゃんが慌てて聞いてもいないことを話し始める。

「ち、違うよ!? なかなか上手く『繋がり』がイメージできなくて、色々な人に聞いたら小さい頃から大切にしてるものを使うと良いって言ってて、それで――」

「ええ知ってるわ。ささらちゃん、このリボンを今も部屋のぬいぐるみにつけてくれてるもの。もうボロボロなのに……本当に嬉しいわ。今度またお揃いの物を買いに行きましょうか?」

 つづみさんがささらちゃんの頭を撫でながら言う。ささらちゃんは顔を真っ赤にして叫んだ。

「ああもう、こうなるから言いたくなかったんだよー!」

 仲がいいなあ。

 

  *

 

「さて」

 ささらちゃんを弄り終えたつづみさんが、満足げな表情で手帳を差し出してくる。

 手帳の地図には赤い矢印が書き加えられていた。

「さっきゆかりさんが指さした方角がこれです。違う方角からもう一度――それか念を入れて二度。そうすれば確実に位置を割り出せます。雫ちゃんが動いていなければ、ですが」

「ありがとうございます。まあ、もしあちこちに連れ出されているならお手上げです」

「でも大丈夫ですか? 雫ちゃんがどっちにいるのか探ると、結構疲れちゃうでしょ?」

 ささらちゃんが心配そうに聞いてくる。

「そうですね。一日に何度もできる気はしないです」

「となると方向を割り出せたとしても、その日のうちに迎えに行くのは難しいかしら」

「ええ。今日が水曜で、明日……それと明後日。その次だから土曜になりますね」

 ささらちゃんが身を乗り出す。

「ねえ、ゆかりさん。もしよければ、私とつづみちゃんが代わりに雫ちゃんを迎えに行くっていうのは? 明日おおよその場所が分かれば、あとはシュガーに匂いを辿らせれば行けると思います」

「それは……どうなんでしょう」

 ここまで巻き込んでおいてなんだが、雫のいる場所にたどり着いたら何が起こるかわからない。案外あっさり雫を取り返せるかもしれないし、そうではないかもしれない。なにせこの件を仕組んだのはIAかもしれないのだ。ここまで手を借りておいてなんだが、そこには巻き込みたくない。

「そういうのはこう……自分で何とかしたいというか」

「まあ、自分のことですものね」

 ささらちゃんとは対照的に、つづみさんは意外なほどあっさりと同意してくれた。

「え、でも……」

「双子は自分の一部だもの。ゆかりさんが自分で何とかすると言っているなら、そうさせてあげるのだって親切よ、ささらちゃん」

「つづみちゃんがそう言うなら……」

「決まりね。……でも」

 つづみさんが言葉を続ける。

「気を付けてくださいね。そこにいるのは雫ちゃんを(さら)った相手なんですから。……もし何かあったら私たちか、警察に。躊躇わないでください」

 つづみさんはやはり冷静だった。私の気持ちを汲みつつも、きちんと警告してくれる。そこで起こる『何か』の想定が違うとしても。

「……ええ」

「本当に大丈夫ですか? せめてついて行っちゃ……」

「ささらちゃん」

「だって心配だし……シュガーなら、その、結構――」

「大丈夫ですよ」

 私はささらちゃんの言葉を遮った。

「ささらちゃん。きっと大丈夫ですよ。今、私は何ともない。つまり雫の身に何も起きていないってことです。ね?」

「ゆかりさん……」

 シュガーは可愛らしくても大型犬だ。ささらちゃんの制御を受ければ、もしもの時に頼もしいのはわかる。けれど、私はそんなことにシュガーを使ってほしくなかった。

 つづみさんがシュガーの頭を撫でながら言う。

「何かあったら、私たちを遠慮なく頼ってください」

「ええ」

 本当に頼れるだろうか。いいや。きっと自分で何とかしようとしてしまうだろう。

 それでも今はこう言うしかなかった。

「その時は、きっと」

 

  *

 

 翌日。仕事から帰った後、自分の家でもう一度雫との繋がりを探った。雫を呼び、雫に呼ばれる。私と雫を結ぶ線が分かる。

 ふう、と息をつく。用意しておいたコップの水を飲み干し、息を整える。昨日よりは消耗せずに済んでいる気がする。

 パソコンで地図を印刷し、昨日つづみさんが書いてくれた矢印を書き写した。そして今日の矢印を書き加え、二本の線が交わる。

「ここは……」

 雫を見失った電車の沿線から少し離れている住宅地のはずだ。試しに自分のパソコンで地図を拡大してみても、特徴的な何かがあるということもない。郵便局と公園、図書館、喫茶店にクリーニング店。まさしく閑静な住宅街だ。

「見つかったの?」

 風呂から上がったIAが、髪をタオルで拭きながら近づいてくる。いつも以上に花のような香りを強く感じた。季節は秋だというのに、春先のような空気がリビングに広がる。

「おおよその場所は。明日は職場の近くからもう一度探ってみます。それで三本の線が重なったら決まりです。そうしたら土曜の午前中にでも行ってみますよ」

「そっか。結局、私の助けは要らなかったみたいだね」

「……まあ、雫のところに着いてから何かあったら頼るかもしれません」

「そう?」

 IAは私の右手の人差し指の指輪を見た。そう。シュガーよりもずっと心強いジョーカーがここにあるのだ。もしこの一件がIAと無関係なら、これに頼らない理由はなくなる。

「じゃあその時は呼んでね。またあの羊羹食べたいし」

「別にそんなことしなくてもまた買ってきますよ――というか。あなたのほうが稼ぎは大きいでしょう。自分で買えばいいじゃないですか」

 遅筆の兼業作家と世界的なアーティスト。比べるまでもない。

「んー、でも何だか自分で買うのとは違うんだよね」

「そういうものですかね……」

 ARIAの精霊だという彼女は人の感情に敏感だ。もしかしたら人の気持ちがこもった物の方が美味しく感じるのかもしれない。

「それじゃ、私は待ってるよ。今週の土曜は仕事もないし、一日家にいるから」

 そう言ってIAはソファに寝ころんだ。

「髪を乾かしてからにしてくださいよ」

「大丈夫だよ」

「いや、風邪とか寝ぐせとか……」

「それも平気」

 宇宙人にはどちらも無縁らしい。素直にずるいと思った。

 

  *

 

 金曜日の仕事終わりに職場の近くのカラオケボックスに入り、雫の位置を探った。三本の線は綺麗に一点で交わり、間違いなく雫がそこにいると教えてくれた。

 そして予定通り土曜の午前。朝食を終えた私は線が交わる場所にやってきていた。

「この辺りですか……」

 やはりというか、ごく平凡な民家の連なりだ。古すぎず新しすぎず、本当に普通の住宅街だ。

「さてと。――雫、どこにいるの」

 眼を閉じる。私と雫の繋がり――声を探る。呼ぶ声の波紋が広がり、一拍置いて私を呼ぶ声が返ってくるのを感じる。

「――いた」

 雫の位置を探るのにもそろそろ慣れを感じていた。距離が近いのもあるだろう。疲れもほとんどないし、ずっとはっきりと声を感じる。

 声のするほうへと角を曲がる。少し道を歩き、もう一度集中。通り過ぎていた。戻る。もう一度。

「――ここだ」

 そこはやはり、何の変哲もない民家だった。二階建てで、車庫に車はない。『三島』という表札がかかっていた。

「……よし」

 インターホンを押す。

『はい』

 ほどなくして応答があった。何と言おうか、と考えるも、結局は当たり障りのない言葉が口から出た。

「すみません。うちの兎がご厄介になっていないでしょうか」

『――』

 息を呑む気配。対応を間違えていなければいいが。

『……今出ます』

「……ありがとうございます」

 インターホンが切れ、玄関のドアが開く音がする。中から顔を出したのは、おそらく七十過ぎくらいであろう女性だった。

 その傍らには、何の動物の姿もない。

 自分の予想が的中した得意さと、当たって欲しくなかったという気まずさが胸に満ちる。

「どうぞ、お上がりください」

「お邪魔します」

 彼女の招きに応じて家の中へ。他の人の気配はない。廊下を通り、ダイニングへ。椅子に座るよう促される。

「飲み物をお出ししますね」

「いえ、お構いなく」

 定番のやり取りをしたのち、女性は台所へ向かった。私は失礼にならない程度に周囲を観察する。

 ごく普通のダイニングだ。特に不審なものはない。勿論、IAがどこからともなく現れたりはしない。

 少なくともこの場には彼女しかいないようだ。

 女性が戻ってきた。紅茶をはさんで二人で向かい合う。そして。

「……すみませんでした」

 先に動いたのは彼女のほうだった。

「では、やはり」

「ええ。あなたの双子を連れ去ったのは、私です」

 とてもそんなことをする人には見えなかった。物腰も丁寧で、突然の訪問だろうに髪も服もきちんとしている。淡いピンク色のカーディガンが似合う上品な女性だ。

「……申し遅れました。私は三島梅子と申します」

「結月ゆかりです」

 名乗りに合わせて二人でそろって頭を下げた。お互いに距離感を測りかねているようだった。

 それはそうだろう。大袈裟に言えば加害者と被害者なのだから。しかし梅子さんには私をこれ以上困らせるつもりは無さそうだし、私にもまた梅子さんを責めるつもりはなかった。

 梅子さんは私がもっと激しい剣幕で怒鳴りこんでくるのを予想していたのかもしれない。けれど私は梅子さんの寂しさを知ってしまっていた。あの電車の中で同情してしまっていたのだ。

 そして、雫が傍らにいない数日を過ごし、その同情はさらに深くなっていた。少しの間なら雫を貸してあげてもいいとさえ思うほどに。

 だがこれ以上は無理だ。私はここにたどり着いてしまった。用事を済ませてしまおう。

 私は切り出した。

「一応聞いておきますが……兎を連れて帰ってしまって構いませんか? 警察には届けを出していません。大事(おおごと)にするつもりはないので、それで済ませてしまいたいんです」

 梅子さんはそんな申し出に対し、戸惑うように頭を下げた。

「ええ。本当に申し訳ないことをしました。どうぞ、連れて行ってあげてください。……いえ。こう言うべきですね。お返しします」

「雫……兎はどこに?」

「こちらです」

 梅子さんが大きな引き戸を開けると、今いるダイニングとリビングが一続きになった。リビングの大きな窓から差し込む光が伸び、私の座っている場所までふんわりと明るくなる。リビングのほうは客を迎え入れる想定をしていなかったのか、折り畳んでいる途中の洗濯物が山を作っていた。

「……あら?」

 が、梅子さんは意外そうな声を上げた。

「どうされたんですか」

「ごめんなさい、さっきまでそこに……」

 直接日が当たらない部屋の隅に、いかにもちょうどいい大きさのクッションが置いてある。いいご身分だったようだ。

「失礼します」

 梅子さんがリビングの物陰を探している間に、私はクッションに近づいた。そこから周囲を見渡してみる。

「……ん」

 和室だろうか。ふすまが細く開いており、その奥から気配を感じた。

「三島さん。こちらは?」

「ああ、和室です」

「開けても?」

「ええ」

 ふすまをもう少し開けて中をのぞくと、畳の上にふてぶてしい寝姿があった。なんでこんなところに。

「いました。……入っても?」

「ええ、勿論。ごめんなさい」

「すいません」

 ぎこちないやり取りをしてから和室に踏み入り、雫のそばにしゃがみ込む。

 そしてその名前を呼んだ。

「雫」

「ぶぅ」

 いつも通り無愛想な返事を返された。

「帰りますよ」

 雫を抱き上げ、視線を上げたその時。私は雫の意図を悟った。

 何故ここにいたのか。何故ここで寝ていたのか。

 ……ああ、なるほど。

「三島さん」

「はい」

「お線香をあげてもいいですか?」

 この和室にあったもの。それは仏壇だ。

 一つは旦那さんのものだろう、穏やかな笑顔の男性の写真が飾られてたものだ。そしてもう一つは――。

 梅子さんはおずおずと訪ねてくる。

「ええと、それは……どちらに?」

「勿論、どちらにも」

 この世界ではきっと、とても珍しいもの。

 雫にそっくりな兎の写真が飾られた、ペット用の仏壇だった。

 

  *

 

「私はいわゆる『一人っ子』でした」

 ダイニングのテーブルに戻ると、梅子さんはそう切り出した。

 雫はといえば、リビングのクッションで横になって寝息を立てている。いいご身分だ。

「そのせいか、どうにも周りに馴染めなくて……でも、主人もまた双子について悩みがあったんです」

「というと……」

「仏壇の写真、見たでしょう?」

 旦那さん――(ひろし)さんの写真の横には、毒々しい色をしたサソリの写真が飾ってあった。私の知る世界の常識では、仏壇にそんな写真は飾らない。つまりは。

「十八になって真っ先に免許を取っても、周りの目は変わらなかったそうなんです。それはそうよね。こんなにあるサソリだもの……」

 そう言って梅子さんが広げた両手の幅は大型犬ほどもあった。

「だからかしら。私たちは自然と一緒にいました」

「……苦労されたでしょうね」

 この世界でまだ一週間しか過ごしていない自分からは、こんな薄っぺらい言葉しか出てこない。それでも梅子さんは微笑んでくれた。

「幸い、子供たちの双子は犬と狐でした。本当に、本当に子供たちに同じ苦労をさせずに済んでホッとしました」

「……やはり、違うものですか」

「ええ。あなたの身近に、毒のある双子をお持ちの方は?」

 私は緩く首を横に振った。IAのモルフォ蝶は――どうだったか。そのくらいしか心当たりはない。

「そう……もし、これから先出会うことがあっても、どうか仲良くしてあげてくださいね」

 梅子さんは紅茶を一口飲んだ。

「それで、あの仏壇の兎さんは……」

「かおり、と言います。あの子は――主人が亡くなった後に飼っていた兎です」

「……本物の」

「そう、本物の」

 この世界において、わざわざ双子以外の動物を飼おうという人はほとんどいない。少なくとも、産業としてはかなりニッチなものになる。

 手続きも煩雑であり、小動物の飼育だというのに保健所の審査もあるという。餌や道具の調達も大変だし、獣医を探すのにも苦労する。

 この世界の学校では鶏や兎も飼われてはいないだろう。

 そんなことをしなくても一人一人の子供の隣に動物がいる。

 いつでも触れられる場所に、何より身近な存在として。

 学校の教室にもたくさんの動物がいて、一緒に授業を受けている。

 ……そんな中、一人でぽつんと座っている女の子を私は想像した。

「どうしても、主人がいなくなった後に耐えきれなくて。娘にはだいぶ心配されました。(なま)の生き物を買うなんて、責任が取れるのかって……」

「……長生きされましたか」

「十年ちょっと。そして、去年の暮れに。……本当に、かけがえのない時間でした」

 答える梅子さんの声は震えていて、聞いている私も辛いくらいだった。

「ご愁傷さまです。……わかります、その気持ち」

 梅子さんは静かにこぼれた涙をハンカチで拭いた。本当に仕種の一つ一つが上品な人だ。

 だからこそ、こんな梅子さんが雫を無理やり連れて行ったとは信じがたい。私は身を乗り出さないよう心がけながら聞いた。

「……話しづらいとは思いますが、火曜のことを話していただけますか」

「ええ。……そうよね」

 梅子さんはリビングで寝ている雫のほうを見た。雫はやはりというかこちらを見もしない。

「火曜のこと。私は編み物の教室の帰りでした。少し買い物をしていたら電車が遅くなってしまって、会社帰りの人たちと重なってしまったわ。……どこを見ても双子の動物たちがいて、寂しさがぶり返してきました。かおりを飼っていたころは一緒に電車に乗って、他の人たちと同じようなふりをして……そんなことを思い出していた、その時です」

「はい」

「女の子がこっちに歩いてきたの」

「女の子が……」

「ええ。とても綺麗な子だった。どこか現実離れしているというか……その子が、私に向かってこう言ったの」

 梅子さんは言葉を区切った。

 現実離れした綺麗な子、という言い方に、私の背筋に緊張が走る。まさに自分が知る彼女を言い表すのにぴったりな表現だ。

「『あっちの車両に、もみあげだけ長い髪型をした女がいる。その人の双子なら、あなたの寂しさを埋めてくれるかも』」

「……寂しさ」

 そう。雫を見失った時に感じた感情。どこからともなく押し寄せてくる、自分のものではない感情。あれはやはり梅子さんのものだったのだ。

「それを聞いて、私、どうしてかぼーっとしてしまって。そのまま車両を移って、そして、あなたの膝から雫ちゃんを――」

 梅子さんは顔を抑えた。

「魔が差しただなんて言い訳にはならないわ。あれから雫ちゃんを連れて警察に行く時間はいくらでもあったもの。私はわかってやっていたんです」

「……確かにまあ、褒められたことではないかもしれませんが」

 私は雫を見た。

「雫があの調子なので。本当に嫌なら抵抗しますよ、多分」

「……本当に良い方ね。あなたも、雫ちゃんも。でもその優しさに甘えてしまったわ」

 梅子さんは長年連れ添った夫を亡くし、その寂しさを埋めるために飼った兎も亡くした。その感情は抑えが効かないものになり、飼っていた兎の面影がある雫を思わず連れ去ってしまった。納得のいく筋書きだ。

 ……ある一点を除けば。

 そう、梅子さんに話しかけてきた女の子だ。

 梅子さんの事情を把握しており、雫のことを知っており、どうやってか梅子さんの寂しさを私と雫に伝えて同情を引き、梅子さんの感情を刺激して駆り立てた。

 だからこそ雫は抵抗もせずに梅子さんに連れ去られたのだ。

 そして、私はそんなことができる存在を知っている。指一本で相手の頭の中を読み、拍手一つで人の認識や記憶を操作できる存在を。

 心臓が早鐘を打つ。

「雫のことを教えてくれた女の子、どんな双子を連れてました? 蝶ですか?」

 そう言うと梅子さんは驚いた様子だった。

「お知り合いなの? そう、蝶よ」

 やはり。確信に変わる。帰って問い詰めなくては、と決意が沸き上がり――。

「オレンジ色の、綺麗な蝶だったわ」

 行き場を失った。

 

  *

 

 梅子さんは最後に雫の頭を撫でて「ありがとうね」と言っていた。この不愛想な兎が彼女の慰めになったのなら言うことはない。深々と下げられた頭から逃げるようにして、私はその場を立ち去った。

「……まあ、何とかなったかな」

「ぶぅ」

「いくら可哀想になったからって、黙って連れていかれることはないでしょう。私を起こせばいいものを」

「ぶぶ」

「……まあ、起きなかった私が悪いのはわかりますが」

 訓練を通して雫との繋がりが強まったからか、雫の思っていることが以前よりはっきり分かるような気がする。……とはいえあまり独り言が多くても困る。駅に近づき、人通りが多くなる前に私は会話をやめた。

 たどり着いた駅のホームで電車を待つ。早めに報告を済ませることにしよう。

 私は椅子に座って雫を膝に乗せ、携帯電話を取り出した。

「もしもし」

『あ、ゆかりさん。どうでした?』

 相手はささらちゃんだ。結果を知らせることになっていたのだ。

「何とかなりましたよ。平和的に解決しました」

『よかったぁー……』

 よっぽど安心したのか、言葉の後に深々と息を吐くのが聞こえた。

「本当に助かりました。今度お礼をしますよ」

『いやそんな、お礼だなんて――』

『いいじゃない。もらっておけば』

 電話の向こうから別の声がした。

「つづみさん? 一緒にいるんですか?」

『ええ。どっちに最初に連絡があってもいいようにしてました』

「なるほど。つづみさんもありがとうございました。助かりました」

『私は何もしてませんよ』

 つづみさんが苦笑しているのが電話越しでもわかる。

「いえ。ささらちゃんの手を借りようと言い出したのはつづみさんですから。二人とも、どこか行きたいお店とかありますか?」

『え、ちょっとちょっと、大袈裟だよゆかりさん。私はできることをしただけで』

「それが助かったといっているんですよ」

『でもー……』

『ささらちゃん。遠慮してばかりじゃゆかりさんの気が済まないし、甘えていいと思うわ。気になるならあまり高くないお店を選べばいいのよ』

『もう、つづみちゃんってば』

 うーんうーんと唸る声がしばし。

『それじゃあ……ごめんなさい、ゆかりさん。また今度、お店を決めたら連絡しますね』

「良いんですよ。お世話になったのはこっちなんですから」

『はーい。ねえつづみちゃん、ゆかりさんってお仕事でもいつもこうなの?』

『ええ。本当に律儀な先生よ。こっちがやりたくてやったことなのに、「働いてもらった分は返す」っていう文句を何度聞いたことか』

『あはは、ゆかりさんらしいや』

 電話の向こうで盛り上がり始めてしまっている。私はさっさと退散しよう。

「それじゃそういうことですから、連絡待ってますね」

『え、うん。それじゃあ、また。ほらつづみちゃんも』

『ええ。ゆかりさん、また今度』

「ええ。また」

 電話を切る。

「さてと」

 報告を終え、これでようやく一息付ける。考えを整理しよう。

 ひとまず、この件にIAは関わっていなかった可能性が高い。梅子さんをそそのかした少女が連れていた蝶はオレンジ色をしていたという。一方、この世界でIAが連れているモルフォ蝶は青色だ。

 勿論、IAは七色の魂を持つ精霊だとかいう存在なので、オレンジ色が含まれてはいる。しかしそれをわざわざ前面に出して偽装するとも思えない。

 だとすれば、IAと同じようなことができる別の存在。IAに心当たりがないか聞かなくては。

「それは困るな」

「え――」

 声が聞こえた気がして、ぱっと顔を上げる。

「……あ、蝶」

 そこにはオレンジ色の蝶が飛んでいた。ほのかな燐光を放つそれは、多分自然界のものではない。誰かの双子だろう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

『まもなく2番線に電車が参ります。黄色い線の内側まで――』

「おっと」

 椅子から立ち上がり、乗車位置へ。何を考えていたんだったか。そうそう。

 雫は見つかった。IAはこの件に関わっていないようだった。ならば、残る問題は一つだ。

 ……そう、目をそらし続けてきたことと向き合うときだ。

「……帰りましょう、雫」

「ぶぅ」

 ようやく取り戻した暖かさが、今は何だか重たく思えた。

 電車に乗り込む私の視界の端で、オレンジ色の蝶がどこかに飛び去って行った。

 

  *

 

「ただいま帰りました」

「おかえり」

 時間は十一時の少し前。

 IAはソファで羊羹を食べていた。包み紙を見ると、私が前に買ってきたものと同じだ。一本丸ごとではなく、半分に切ったうちの片方を手掴みで食べており、もう半分が皿に乗っていた。

「こっち、ゆかりの分だよ」

「ああ、どうも……」

 床に下ろされた雫を見て、IAの顔がほころぶ。

「よかった。雫、ちゃんと見つかったんだね」

「ええ、何とか」

 IAが羊羹でべたべたの手で撫でようとすると、流石に雫は逃げ出した。

「あー」

「そりゃそうですよ。……それと、IA」

「なに?」

「お昼の前に、少し話したいことがあるんですが、良いですか」

「勿論。待ってるね」

「ありがとうございます」

 コーヒーを淹れ、半分に切られた羊羹にフォークを添えて自分の部屋へと運ぶ。雫はすでにベッドの上で伸びていた。

 羊羹とコーヒーを机に置く。羊羹を一切れ、口に入れると上品な甘さが広がった。後味が消えないうちにコーヒーを呑む。甘さと苦みが溶け合って舌の上で踊る。

「さてと」

 私はスマホのアラームを十二時に設定した。あと一時間と少しだ。

「雫」

「ぶぅ」

 ピンを打つように名前を呼ぶ。波紋と共に声が返る。声に乗って意思が伝わる。雫は億劫そうに起き上がると私の前にやってきた。私もベッドの上に座り、雫と向かい合う。

「ねえ、雫。私の思い出話を聞いてくれませんか」

「ぶぅ」

 聞くまでもなくわかっているだろう。なにせ私の一部なのだから。

「あなたにつけたその名前……本当は、あなたのものじゃないんですよ」

「……ぶぅ」

「小学生の一年か二年から、中学生の途中まで。七年くらいかな。私が飼っていた兎の名前。それが雫です」

 目の前の雫は答えない。

「あなたに名前を付けるとき、別の名前にしたほうがいいと思ったんです。でも思いつかなくて。()()雫は本当に人懐っこくて、私が家に帰ってくると、撫でろ撫でろってすり寄ってきて……あなたとは、全然、違うのに……」

 話せば話すほど声が詰まっていく。

 もうずっと昔の話だ。それなのに。

 寂しさも喪失感も、忘れていただけで、ずっと感じていた。

 梅子さんの感情を知って、蓋をしていたものが溢れてしまった。

「……私は、梅子さんと同じことをした。大切なものを失った寂しさを、別のもので埋めようとした」

 この不愛想な兎と過ごした数日は、とても心地よかった。暇さえあればこの子を撫でていた。

 この世界はよくできている。一人ひとりに動物が寄り添い、嬉しいことも悲しいことも共有してくれる。

 許されるならこの世界にいたい。

 でも、それを決めるのは私ではない。

「雫。……あなたさえよければ、私はずっと、このまま――」

「ぶー!」

 雫は足を踏み鳴らし、激しく鼻を鳴らした。始めて見るそんな態度に驚きつつも納得する。

「そうですよね」

 私は横になった。雫と目線の高さが合う。

「そんなに怒らないでくださいよ。ちょっと、思ってもないことを言っただけじゃないですか」

 雫はなおも不満げに鼻を鳴らした。

「ぶぶぶ」

「厳しいですね、あなたは……」

 寝そべったまま雫を抱き寄せる。雫の耳元に顔を近づけて匂いを吸い込む。

 ふわふわとやわらかい毛並み。その奥の少し筋張った感触。草や土にどこか似た獣の匂い。

 そしてなによりその温かさ。

「雫……」

「ぶぅ」

 ぴたりと体を寄り添わせている今、声で互いを探す必要はない。思いがそのまま伝わっていく。

 私と雫の気持ちは一つだった。それはそうだろう。

 雫は私の魂の一部。私の心の一端なのだから。

 机に置いた飲みかけのコーヒーから湯気が立ち上るのが見える。冷えていく。

「ごめんね。もう少しだけ……」

「ぶぅ」

 アラームが鳴るまで、私と雫はずっとそうしていた。

 

  *

 

 冷えきったコーヒーを呑んだ。苦みが口いっぱいに広がり、眠気を飛ばしてくれる。空っぽのカップだけを持って、振り返らずに部屋を出る。

「IA」

「ああ、もうそんな時間?」

 IAはソファで眠っていた。起き上がると大きく伸びをしてあくびを一つ。

「ええ。話、いいですか」

「うん」

「先に顔を洗ってきますね」

「分かった」

 空のカップをキッチンに置き、洗面所で用を済ませてからテーブルに座る。定位置のソファに座るIAと向かい合って座り、一度深呼吸してから切り出した。

「この世界を終わらせてください」

「……え」

「元の世界に戻して欲しいんです」

 人差し指から指輪を外して机に置く。それは平行世界の体験を終わらせる合図だ。

「どうして? 雫がせっかく戻ってきたのに――」

「その雫が許してくれないんですよ」

 私は梅子さんのことを話した。寂しさのあまり、許されないことをした女性の話を。

「私は昔、兎を飼っていました。本物の兎です。雫と名前を付けて可愛がっていました。……そして、亡くなったんです」

「そう、なんだ」

「私も梅子さんと同じなんです。大切なものを失った悲しみを、他の何かで埋めようとした」

「でも。雫はゆかりのものでしょう? 梅子さんとは違う――」

「ええ。雫は私の一部。私のそばにあるべきもの」

 私は目を伏せて言った。

「そうして、梅子さんから雫を奪い返しました」

「それは――」

「この世界の常識に照らしても正しいことでしょう。あのままで良かったとも思いません。でも私は――雫はそれが許せない」

「ゆかり……」

「大切な物を失った寂しさを知っているのに。この世界で双子がいない疎外感を知っているのに。このあと、彼女はどうなるでしょうか」

「それは――」

 IAが何かをしようとした。私はそれを察して、あえて鋭く言った。

「やめてください」

 IAの動きが止まる。

 きっと、彼女なら何とかできる。何とか出来てしまう。どんな寂しさも悲しさも、無かったことにできてしまう。

 でも、それを許してはいけないと私は思った。

「だって、その寂しさも悲しさも彼女のものですから。それと同じですよ。兎の雫を失った悲しみは、私のものです。それを、あの雫で埋めるのは許されない」

 指輪をIAの方に押しやる。

「梅子さんがこれからそうしていくように、私は私自身で、この喪失感と向き合っていかなくてはいけないんです。目を逸らして、この世界で生きていくわけにはいきません」

「……どうして?」

 IAは泣いていた。ぽろぽろと涙が零れ落ちていく。その一滴一滴でさえ、うっすらと虹色に輝いて美しかった。

「どうして、わざと辛い思いをするの? ゆかりも、雫も、一緒にいたいでしょう? なのに、どうして?」

 私は無理に笑顔を作った。

「どうしてでしょうね……でも、私と雫はそうしたいって思うんです。だから、お願いします。雫とはお別れを済ませてきましたから」

「……分かった」

 IAは指輪を受け取ると、私を手招きした。

「横になって。三つ数えて……目が覚めたら、元通りの世界だよ」

 普段はIAが寝ているソファに横になる。ふわりと花のような香りが立ち上った。

「それじゃあ……」

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 IAと一緒にそう数えると、眠気があっという間に襲ってきた。

 この世界で起こったことや出会った人が浮かんでは消えていく。

 あかりちゃんとシロ。ささらちゃんとシュガー。つづみさんと栞。IAとモルフォ蝶。そのほかにも、たくさんの人と動物と――たった一人の梅子さん。

 ――ぶぅ。

 意識が途切れる寸前、私を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 

  *

 

 目が覚めると日曜日の朝だった。とても暖かくて、悲しい夢を見た気がする。

 IAに促されて眠ったのが土曜日の昼。まあ多少寝すぎたと思えば違和感はない。ただし。

「一週間前……」

 あかりちゃんと出かけた日の翌日だ。

 いつもなら、並行世界で過ごした日々は元の世界に『上書き』され、並行世界で過ごしたのと同じ日数だけ私は元の世界で生きていたことになっている。それが今回は違う。

 テレビをつけてみれば、そこには私がよく知る日常が広がっていた。キャスターやコメンテーター、芸能人の傍らに動物はいない。

 私も部屋に戻ってあちこちの物陰を覗き込む。当然、そこには何もいない。

 ベッドに腰かけ、布団のちょうどいいくぼみを撫でる。昨晩誰も眠っていなかった布団は、冷たい手触りだけを返した。

「……これでいいんだ」

 立ち上がる。

「……さて」

 起きた時から目に入ってはいたが、触れる気にならなかったものに手を伸ばす。

 造花が飾られている花瓶の横に、一輪の虹色に輝く花が浮かんでいるのだ。この場にいないIAが残していったのは明らかだ。

 恐る恐る触れると、そこからIAのメッセージが流れ込んできた。

 かつて虹色の円盤に触れた時のような情報の洪水ではない。普通の人間である私でも、きちんと理解できる文章だった。

『ゆかり、おはよう。ごめんね。今回の世界は上書きしきれない。雫がいなくなって、そこからゆかりの行動がどんどん変わっていったから。火曜日に雫がいなくなったところまでは上書きできるけど、いきなり仕事する気分にはならないでしょう? だから、日曜日にしておくね。……ごめん、本当にごめん。泣かせちゃったね。ごめん。ゆかりが言ったこと、しばらく考えてみる』

 メッセージは終わった。

 役目を終えた花が光を放ち、私の手から浮かんだ。そして見る見るうちに姿を変え、IAのそばにいたモルフォ蝶になった。蝶は窓のほうへと飛んでいく。

 一瞬迷ったが、私が手助けするまでもなく、蝶はそこにガラスなどないかのように外へ出て行った。

「……はて」

 泣かせちゃった、とは何事か。まあ一つしかないだろう。洗面所に行って鏡を見る。

「ああ……これはひどい」

 真っ赤に泣き腫らした目だ。悲しい夢を見て、情けないくらい泣きながら寝ていたらしい。それを見られたと思うと恥ずかしいが、一方でどこか清々しくもあった。

「泣けなかったからなあ……」

 中学生の時。本物の兎の雫を亡くした時、私はなかなか泣けなかった。寡黙な父すら涙ぐんでいたのに。一番世話をしていた私が泣けないのが本当に不思議で、情けなくて、悲しんであげられないのが申し訳なかった。

『きっと、まだその時じゃないのよ。その時が来たらたくさん泣いてあげて』

 そう母は言っていた。

 そして一か月ほど経った後、庭に埋めた雫のお墓をぼんやりと見ていたら、涙がどこからともなく零れてきたのだ。

 胸いっぱいに雫との思い出が溢れて、感情の抑えが効かなかった。そばにいた弟の(のぞむ)にしがみついて、みっともなく大声で泣いたのを覚えている。

 胸に手を当てる。

 これから上書きされなかった一週間を生き直して、私は本当の意味で双子の雫に別れを告げることになるだろう。一緒に過ごした日々は、この世界には無かったこととして消えていく。

 しかし、雫が私の魂の一部だというなら――元に戻っただけだ。ここにいる。私が覚えている限り、雫が消えることはない。

「……書こう」

 自然と私の足は自室のパソコンへと向いた。ワードソフトを立ち上げて、肩をぐるりと回す。

 体験した並行世界の出来事を書くのは初めてだ。何だかずるい気がして、誰にも見せない形であっても書いたことはない。でも今回は書かずにいられなかった。形にしたくてたまらなかった。

 書き出しはもう決まっている。

「よし」

 この世界では生まれてから死ぬまでずっと、全ての人間の傍らに動物がいる。胎児のときからずっと一緒にいるこの動物を称して、双子という。

 双子はずっとそばにいる。あなたのそばに。そして、私のそばに。

 この世界では、誰一人として孤独ではないのだ。

 

  *

 

 地球ではない場所、今ではない時間。

 見渡す限り広がる花畑の中で、一人の少女と一匹の猫が向かい合って座っている。

「何か言うことはあるか、ONE(オネ)よ」

 猫――チコーは口を開かずにそう言った。

「あんまり上手くいかなかった」

 それに対し、ONEと呼ばれた少女は不機嫌そうに言った。オレンジ色の蝶が彼女の周りを舞いながら燐光を辺りに散らしている。

「そうか? IAを困らせる地球人、結月ゆかりをこらしめる。十分な成果だと思うが」

「でも、IAは泣いてたよ」

 ONEは口を尖らせた。

 チコーは育ての親として、娘のそんな様子を微笑ましく思いながらも言う。

「それは結月ゆかりの感情に共鳴したからだ。IAは間違いなく成長した。そのきっかけを作ったお前を、私は褒めたい」

「……なんか、はぐらかそうとしてる?」

「ぎくっ」

「適当に私を満足させて、もう地球に行かないようにしたいとか」

「ぎくぎくっ」

「あのねえ、チコー。こんなので私の気が済むわけないじゃん」

 チコーはため息をついた。

「ONEよ――私はIAもお前も可愛くて仕方がない。だからお前の行動をIAに黙っているのだ。分かっているな?」

「分かってるって。感謝してるよ」

「本当か……?」

 ONEはチコーを撫でた。

「本当だよ。私のわがままを許してくれるの、チコーだけだもん。でもやっぱり、私はあの地球人をもっとこらしめてやりたい。IAのことをあんな風に扱うのは許せない」

 ONEは何か思いついた様だった。

「そうだよ。自分がどんなすごい存在の近くにいるか、わかってないんだよ、きっと」

「で、あれば……」

「うん、次にやることは決まった。上手くいってもいかなくても、流石にIAにはバレちゃうかなあ。ね、チコー。これが最後のわがまま。私が仕掛けるまで、IAには内緒にしてて」

「……わかった。くれぐれも、取り返しのつかないことはするなよ」

「それはわかってるよ。私だって、あの星の命は大好きだもの」

 ONEは立ち上がった。

「それじゃ、行ってくるね」

 ONEが手を一振りすると、オレンジ色の光が集まり、宙に浮くジッパーを形作った。ひとりでに開いたジッパーの向こうにはオレンジ色の光が渦巻く奇妙な空間が広がっている。

「うむ。気を付けてな」

「はいはい」

 ONEはジッパーの中の空間に飛び込んだ。ひとりでに閉じたジッパーが光の粒となって散り、チコーはオレンジ色の蝶と共に花畑に残された。チコーは地面に寝そべり、花々の匂いを吸い込んで伸びをした。

「IA。ONE。私の可愛い娘たちよ。例え隣にいなくとも、私の心はお前たちのそばにいる」

 地球ではない場所、今ではない時間。

 どこからともなく飛んできたモルフォ蝶が、オレンジ色の蝶とともにチコーの傍らに止まった。



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Episode 4 良薬の条件

 

 私の同居人はエイリアンだ。

 といっても、銀色に輝く皮膚を持っているわけではない。白く透き通るような肌は、体を動かしたり湯船に浸かったりすると温かな色を帯びる。

 しかし彼女は間違いなく私たちとは違う生き物だ。風邪をひくことがないからと言って、入浴後にあの長い髪を乾かさずにいることがある。しかしそれで髪が傷んでいる様子もなく、柔らかさと艶やかさを失わないままでいる。

 ちょうど私の書くSF小説に出てくる異星人のように、地球の常識が通用しない存在なのだ。

 表向きは世界中で人気を博するアーティストだが、その正体は惑星ARIAからやってきた精霊――だとか、なんとか。

 これはそんな宇宙人IA(イア)と、兼業作家の紫月ユイこと結月ゆかりの日常である。

 

  *

 

 熱を出した。

 もともと体力のある方ではないが、その分普段から気を付けていたつもりだった。

「え、すごい熱……! 送っていきます!」

「いえ、そんな」

 おまけに発覚したのが職場で、指摘したのは後輩の紲星あかりちゃんだというのだから情けない。彼女が使った非接触式の体温計には、明確な証拠が映っていた。

「ん? 結月さん、具合悪いの?」

 騒ぎを聞きつけてか、上司が様子を見に来た。

「そうなんです……どうしましょう」

「あの、私は大丈夫なので……」

「いやまあ、結月さんは大丈夫かもしれないけど、この熱で職場にいてもらっちゃね」

 上司も体温計の表示を見たようだった。

「まあ幸い、急ぎの仕事は私が片づけられそうだしね……。ちょっと早いけど連休ってことで」

「明日もですか?」

 今日は木曜日。翌週の月曜日は体育の日改めスポーツの日なので、明日も含めると合計で四日間の休みになる。

「疲れ溜まってたんじゃないかな。なんだか先週の頭から元気なかったし」

「いえまあ……」

 先週の頭。確かにそこで大きな変化というか、出来事があった。自分としてはあまり引きずっていなかったつもりだが――。

「やっぱりそうですか? 私もそう思ってて」

 あかりちゃんにもこう言われてしまった。案外、周りの人は私のことを見ているらしい。

「……わかりました。それじゃあ、お言葉に甘えて」

「うん、それがいい。一人で大丈夫?」

「はい」

「え、大丈夫ですか? 私、ついていきますよ?」

  あかりちゃんがおろおろと手を伸ばすが、私は笑顔を作った。

「大丈夫です。家に着いたら連絡入れるので」

「そう……ですか」

 あかりちゃんは複雑な面持ちで手を引っ込めた。心配しているだけではなく、どこか落ち込んだ風にも見えた。

 定時よりも二時間ほど早く職場を出る。熱が出ていることを自覚したからか、先程より調子が悪い気がする。お昼過ぎまでは普通に――少なくとも自分の感覚では――仕事をしていたというのに不思議なものだ。

 帰りの電車も、スーツ姿の大人より学生の姿が目立った。どこか落ち着かない。きっと熱のせいだけではないだろう。

 家の最寄り駅についた。ここから家に行く途中に、いつも買い物をしているスーパーに寄ると、少し遠回りする必要がある。それが億劫で、普段はあまり入らない駅前のコンビニでスポーツドリンクとレトルトのお粥を買った。

「だるい……」

 家につき、ようやく一息つく。荷物を置いてから手を洗い、うがいをし、あかりちゃんに連絡を入れた。

『今家につきました』

『よかたです』

 すぐさま急いだ様子の返信がきた。仕事に集中できているだろうか……。

 その後に続いた会話は適当に切り上げた。内容が頭に入ってこない。

 化粧を落として体を軽くふき、パジャマに着替えてスポーツドリンクを飲む。シャワーを浴びる気力はなかった。そのまま寝室へと行き、枕元に飲みかけのペットボトルを置く。

「ふう」

 冷却シートを額に貼ればよかった、と思ったのは横たわった後だ。もう体はすっかり休む気でいるようで、思考が見る間に輪郭を無くし、意識が遠のいていった。

 

  *

 

 真っ黒い視界に、無秩序な色の線が走る。赤青緑黄――かと思うと、万華鏡のようにくるくると視界そのものが回りだす。ベッドの上に寝ているはずなのに、どこかに落ちていくような感覚。

 遠くから救急車の音が聞こえる。それに引きずられてか、鮮やかだった景色が()()()と滲み出るように白に塗りつぶされていく。リノリウムの床が伸びる。病院の廊下、だろうか。

 熱い。

 廊下の壁は苔むしていた。巨大なシダのような植物が野放図に伸びている。葉が廊下をふさがんばかりに広がっていて、その向こうで動くものがある。

 あかりちゃんだ。

 あかりちゃんが何だか気の抜ける踊りを踊っている。声をかけようとしたが、声が出ない。

 そうだ。喉が渇いていたんだ。

 あかりちゃんの足元にある買い物袋から、ペットボトルの頭がのぞいている。それが欲しい。声は出ず、近づこうとする足も出ない。視界は前に進まず、ただ左右に揺れるだけだ。

 その揺れがあかりちゃんの踊りのリズムと同調し、外れ、また同調し――。

「うう……ん」

 目が覚めた。

 なんだか奇妙な夢を見ていた気がする。パジャマがじっとりと嫌な汗を吸って気持ちが悪い。しかしそれより喉が渇く。まずは枕元に置いたスポーツドリンクを飲み干した。

「あ――……」

 だるい。動くたびに声が思わず漏れてしまう。

「今は……」

 もう夜の九時だ。四時間ほど寝ていたことになる。

 汗を吸った服を洗濯機に入れる。タオルを水に濡らして絞り、体を拭いた。新しいパジャマに着替えると、幾らか気分がマシになった。

「何か食べないと」

 レトルトのおかゆを買ってきたはずだ。どこに置いたんだったか――。

「ゆかり?」

 気が付くと、定位置のソファにIAが座っていた。いつものように、どこか遠くからこの部屋に瞬間移動してきたのだろう。春先を思わせる花の香りがどこからともなく漂い始めた。

「どうしたの? 辛そう……」

「ただの風邪ですよ。……といっても、あなたには縁がないんでしたね」

「これが風邪……」

 IAは立ち上がると、私の額に手で触れた。きっと体温だけではなく、もっと色々な情報が読み取られているのだろう。

「大変……」

 IAが一度手を引っ込めると、その手にぼんやりと虹色の光が灯った。――だが、IAが何かに気付いたように目を見開くと、光はたちまち消えてしまった。

「どうしたんですか」

「えっと、今――その、治そうとしたんだけど」

 やはりというか、風邪など軽々と治せるらしい。しかし彼女はそれを躊躇ったようだ。

 以前のIAなら考えられないことだ。当たり前のように超現実的な変化を起こして、私の反応を観察していた。

「やっぱり気にしてるんですね、この間のこと」

「ゆかりは、あまり気にしてないの?」

「そのつもりですよ」

 職場の人は知る由もないが、先週の頭――更にその前の週末。

 私だけではなく、IAにも変化が訪れていた。

 その日、私は、IAからすれば不可解極まりない理由で自分を苦しめる選択をした。

 

  *

 

 もともと、IAはこの地球を救いに来たのだという。そして調和(しんりゃく)の第一歩として、地球人がIAの能力や惑星ARIAのテクノロジーにどんな反応を示すのかを知りたがっている。そのために無作為に選んだモルモットが私というわけだ。

 IAはこれまで、私の想像を超える能力やテクノロジーをいくつも見せてきた。それらは私の生活や、あるいはこの世界の常識さえもあっという間に変えてしまうような力を持っていた。だからこそ、私はあれこれ理由をつけてそれを受け入れずにいた。

 それに業を煮やしたのか、IAのアプローチは形を変えた。並行世界――あり得たかもしれない地球を模した世界に私を送り込んだのだ。

 唐突にもたらされる異星のテクノロジーではなく、可能性の違いで生まれた地球の産物。並行世界における私の友人や同僚たちが当たり前に受け入れているそれらの可能性に、私はうっかり気を許した。好奇心を抑えられず、自分の世界との違いを読み解くことを楽しんだ。

 IAはこのアプローチに手応えを感じたらしい。二度、三度と繰り返された並行世界の体験に私が性懲りもなく慣れ始めたころ、私はその世界で兎に出会った。

 双子――今いる世界における双生児を指す言葉ではない。その世界において、双子という言葉は、人間が生まれたときからずっとそばにいる動物のことを指す。

 IAによれば飼い主の魂の一部であるそれらは、一人ひとり姿も形も違い、飼い主と一蓮托生の関係にある。そして、その世界に送り込まれた私のそばにも、勿論一匹の動物がいた。

 (しずく)

 思わず名付けたその名前は、かつて私が飼っていた本物の兎の名前だった。つまりそれは、()()雫で()()雫を失った悲しみを埋め合わせることに他ならなかった。その世界で過ごして様々なことを考えた結果、私は――雫は、それを許さないことにした。離れ離れになっていた雫と再会したその日のうちに、私と雫はまた別れることを決めた。

 IAからすれば、その世界をあと何日か維持しているくらいは簡単なことだっただろう。けれど、私は一瞬でも早く元の世界に戻ることを選んだ。

 目が覚めると、私の眼には泣いた跡がくっきりと残っていた。忘れていた悲しさと、新しい寂しさのせいだろう。

 便利な道具も、辛い過去を埋めてくれる存在も拒み、自分を許さない――そんな選択をしておきながら、涙を流して眠る私の姿は、IAからすれば理解に苦しむものだったのだろう。

 IAは謝罪のメッセージだけを残し、その後しばらく姿を見せなかったのだ。

 

  *

 

「熱くない?」

「ええ」

 IAが温めてくれたレトルトのおかゆを食べ、買い置きの風邪薬を飲む。

 食べた後、少し話し相手になってほしい。IAは私の頼みを聞いてくれた。今はベッドの横に椅子を出して座っている。

 気まずい沈黙が落ちる前に、私は「ふぅ」と息をつき、すぐに話し始めた。

「気を遣わせてしまってすいません」

「えっと、それは……」

「勿論、さっきのことですよ。以前のあなたなら、私に聞いていたでしょうね。『その風邪、治そうか?』なんてね」

「そうかも。でも……」

 IAはしょんぼりとした表情を隠さない。今週の月曜日、やっと顔を見せた時からずっとそのままだ。

「ゆかりはそういうの、嫌がるってわかったから」

 エイリアンとはいえ、一応は同居人だ。いつまでもこのままではこちらの気も滅入る。

 だから、自分の思考を整理するのも兼ねて話を広げることにした。

「嫌がる……とは、少し違うと思います」

「違うの?」

「ええ、何となく」

 正直な気持ちだ。しかし、うまく言い表せない。

 こんな時、私は自分の言葉の足らなさを不甲斐なく思う。喜怒哀楽、愛憎、好悪。期待と不安、焦燥と安堵。言葉で言い表せるいくつもの感情の間、あるいは感情たちが重なり合う地点の『それ』を言い表す手段を持てないことが歯がゆい。

「私が私の辛さをそのままにしておくのは――どうしてなんでしょうね」

 IAに聞いてみる。

「IAは、辛い状態はなるべく治してしまいたいですか?」

「うん。私だけじゃない。みんな、誰もが幸せでいて欲しい」

 そこに嘘はないのだろう。IAの口角がわずかに持ち上がった。

「勿論、辛いことを乗り越えた先に得るものはあるけれど……でも、ゆかりが言ってるそれとは違う気がする」

「でしょうね。例えば今の風邪――これを自力で治したとして、何かいいことがあるとは思えません。かといって、あまり便利な力でポンと治してしまうのも、なんだか違う気がするんです」

「それは――大切なものを失った悲しさも?」

「ええ」

 体も心も、積極的に鍛えれば成長は大きいだろう。だが、傷つき疲弊したそれをゼロに戻したところで、余計に得るものはほとんどない。

 あえて言えば、傷ついたというその経験そのものだろうか。一部の表現者にとっては表現の幅を広げることになるかもしれない。しかし、その経験を得たいからと言って、わざと傷ついてから回復するのはあまりに不合理だ。

 もし傷ついたのならば、手っ取り早く治してしまった方がいい。それが感情を抜きにした――あるいは感情に任せた意見だろう。

「自分の体や心が急激に変わってしまうのを恐れているんでしょうか」

「あんまり、そういう風じゃなさそうだけど。風邪薬も飲んでるし」

「ふむ……」

 確かに。私がぼんやりと考えていると、IAが何かを思い出したようだ。

「前に言ってたあれは? 『兎の雫を失った悲しみは、私のものです』……って」

「ああ、確かに」

 自分の責任で負った心身の傷を、誰かの助けでどうにかするのがしっくりこない。これはだいぶ近い気がする。

 それに対し、でも、とIAは言う。

「私は一人じゃどうにもならないこともあると思う」

「でしょうね。例え私が自分でどうにかできると思っていることでも、傍から見たら無茶なこともあるでしょう」

「ゆかりは……自分の責任を自分で取るのが好きなの?」

「好き、というのとは違う気がしますが……」

 さっきは『嫌がる』ということについても同じようなことを言った。私の判断基準は、単なる好き嫌いではないところにありそうだ。

「やっぱり、しっくりくるかこないか、という言い方が近い気がします。言い換えれば……正しいかどうか、でしょうか」

 なんとも独善的な考え方だ。

「それを決めているのは、ゆかり?」

「でしょうね。あなたほどではありませんが、変わり者である自覚はあります。きっと普通の人間からすれば、わけのわからない基準で正しいかどうかを決めているんでしょう」

「そっか。じゃあ、ゆかりがいいと思えば、私の力で風邪を治してもいいんだね」

「……そうなりますかね」

 今までの結論だと、そうなる。

「じゃあ、ゆかりはどうして私の力を借りるのが悪い――しっくりこないと思うの?」

「私にもわかりません。風邪薬を飲んでおいて、あなたの不思議な力での治療をよく思わない理由は、なんでしょうね」

「よくわからないものが怖い、とか?」

「ははは」

 自分のことをよくわからないもの扱いする宇宙人とは。

「それはあるかもしれません。でも、私がこの風邪薬の成分を熟知しているかと言われればそうではありません」

 ならば私は何を信じてこの薬を飲んでいるのだろう。何をもって『良い』としているのだろう。

「私が信じているのは――」

 この薬を作った会社?

 薬を承認した法律?

 この薬を飲んでいる他の人々?

 どれも正しくて、どれも違う。風邪でぼんやりした頭だが、それはわかる。

「……違いますね。私は何も信じていない。ただ、疑っていないだけ」

 そうだ。

 当たり前に売られていて、当たり前に使われているから疑っていないだけだ。何かを信じているわけではない。製薬会社も、法律も、他人も。きっと疑い出せばきりがないそれらを、疑いきれないからと言って疑わず、鵜吞みにしている。良いと思い込んでいるだけだ。

 そして、IAの力を良くないものと考えているのは……初めから疑ってかかっているからだ。

「怒らないでくださいね」

「うん?」

 私なりの考えを伝えると、IAはきょとんと眼をしばたたかせた。

「だったら――」

 IAはそっと手を伸ばした。私の額まで10cmのところで止まったその手がぼんやりと虹色の光を帯びる。

()()()()()。私はゆかりに辛い思いをしてほしくないだけ」

「……今回は信じますよ」

 私の風邪は治った。

 

  *

 

 翌日。もはや会社を休む理由はなかったが、一度取った休日を返上するほど私は聖人君子ではない。

 IAは昨夜までのしおらしい態度はどこへやら、よだれを垂らして定位置のソファで眠りこけていた。まあ、変に遠慮がちなままよりはいい。

 私の方はと言えば絶好調だった。風邪のついでに、普段から溜まっていた疲れも吹き飛ばされたらしい。体の軽さに任せてホットケーキを焼く。

 IAからのサービスか、あるいは細かい調整を考えていなかったかは不明だが、おそらくは後者だと思う。もし私が病気や怪我を抱えていたら、それもまとめて治されていたかもしれない。相変わらず規格外の存在だ。

「IA、朝ごはんは食べますか」

「たべるぅ」

 べしゃりという音がした。おそらくIAが寝返りを打ってソファから落ちたのだろう。

「いい匂い……」

 このまま放っておくと床を這って台所まで来そうなので釘を刺した。

「顔を洗ってきてください。飲み物は紅茶でいいですか」

「うん」

 二人分の朝食を並べて手を合わせると、さっそくIAはメープルシロップをこれでもかとホットケーキにかけ始めた。空にしかねない勢いだ。先に私の分を台所で使っておいて正解だった。

 ほくそ笑んだ私の顔色を見てか、IAが言う。

「調子よさそうだね。これからもやってあげようか?」

 IAが手を光らせて言う。

「今回は、と言ったはずですよ」

「だよね」

 そう答えるIAの表情は、どことなく楽しそうだった。やはり一連の出来事は、私だけではなくIAにも変化を与えたらしい。

 彼女が私に影響や揺さぶりを与えているのならば、逆もまた然りだろう。

 IAにとっては、私こそ侵略者なのかもしれない。

「あ、もう無くなっちゃった」

 と、そんなIAの不満げな声が私を現実に引き戻した。

「もう……?」

 IAは空になったシロップの瓶を振っているが、すでにその下のホットケーキはじっとりと琥珀色に浸かっていた。

「もう一本ある?」

「IA……。地球の標準的な味覚を覚えましょうか」

 ひとまず、私が取り組むべき侵略の第一歩は決まった。

 

  *

 

 私は知るよしもなかったが、すでにこの時、私たちが暮らす部屋の外に彼女はいたらしい。

 どこで知ったのか、あんパンと牛乳というベタな組み合わせを手に、電柱の陰から私たちを見張っていたのだ。

「見てなよ、地球人」

 牛乳のストローをくわえた少女の肩で、オレンジ色に輝く蝶が羽を揺らした。



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Phase III Let's play hide and seek!

 私の同居人はエイリアンだ。

 なんでも彼女は地球の悲鳴を聞きつけてやって来たとのことで、生命と愛と平和のメッセージを届けてこの星に調和を取り戻すのが目的らしい。

 そのために彼女――IA(イア)はアーティストとして世界中で日夜歌い続けている。そしてその一方で、何やら理由があって私を調和(しんりゃく)の第一歩と決め、あれこれと揺さぶりをかけてくる。

 彼女の精霊としての能力や故郷の星の驚異的なテクノロジーをある時は見せつけ、ある時は私に自由に使っていいと提案してきた。

 私はそれに対し、あれこれと理由をつけて日常を保つための方便を使ってきた。曰く、便利すぎて人間が堕落する。曰く、今の地球人の価値観には受け入れがたい。そうやってのらりくらりと上手くかわしているつもりだった。しかし、いつのまにか変化は始まっていた。

 私とIAは、少しずつ影響を与え合っていた。私は、IAが純粋に平和と幸せを願う心を――ごく限定的にだが――信じ、私の不調を治すことを許した。IAは、私が単なる好き嫌いではなく、時に私自身を苦しめるような基準で物事を決めるのを理解した。

 この変化は小さいように思えたが、確かに一つの変化だった。

 得体のしれない同居人。考えの理解できない侵略者。超常現象そのものの異星人(エイリアン)

 今まで、私にとってのIAはそんな存在だった。頭から疑って、警戒し続ける必要がある相手だった。勿論、リビングでくつろいでいる時に、コーヒーが絶対にこぼれないカップだとか自由に髪型を変えられるペンだとかを持ち出してくるのは変わらなかったが――それもIAの個性だと考えられるようになった。

 IAもどこか、以前よりものびのびと過ごしているように見える。良い変化が訪れている――柄にもなくそう思う自分がいた。

 だがそれは、言ってしまえば陳腐な基準にIAを当てはめる行いだった。

 地球の技術など及びもつかないテクノロジーを持ち、時間や空間の法則すら超越した惑星ARIA。そして、その星に住まう精霊たちの中でも特別な、七色の魂を持つ未来の指導者たる存在。

 ……正直なところ、こういった口上すら理解が難しい尺度の存在だ。あるいは理解できてしまってはおかしいのかもしれない。

 そんなIAのことを、地球人がちっぽけな物差しで測って理解したつもりでいたとしたらどうだろう。IAと近しい存在が果たして面白く思うだろうか?

 答えは明白だった。

 

  *

 

 月の石。

 それは上野恩賜公園内、国立科学博物館地球館地下三階に展示されている。とりあえずその情報だけ調べて展示場所に向かうと、私の双子の弟が待っていた。彼は手を挙げて私を呼んだ。

「やあ、姉さん」

 彼は結月(のぞむ)。去年医師免許を取り、今は札幌で研修医として働いている。ゆくゆくは精神科医を目指しているとのことだ。

「やあ、じゃなくて。いつもこんな待ち合わせ方をしてるの?」

「まさか。姉さんとだけだよ」

 見てみてよ、と望は目の前の展示物を手で示した。

 解説によると、片方がアポロ11号が持ち帰った静かの海の石。もう片方がアポロ17号が持ち帰ったタウルス山地の石だ。どちらもとても小さな石で、覗き込まないとちゃんと見えないくらいだ。

「展示してあるのがほんの少しの量なのは知ってたけど……」

「アメリカから親善のために贈られた分だからね」

 アポロ計画で持ち帰られた月の石の総量は380キログラム。当時の技術としては相当の量だろう。

 月の石から顔を上げた私に望が言う。

「不思議だよね。ロケットを飛ばしたらあの月まで行けるんだから」

「それが不思議じゃなくなるように科学者たちが頑張ったからでしょう」

 科学はこの世の法則を解き明かすための一つの手段だ。因果関係を明らかにし、再現性を得られるようにする。言わば、予測不可能な出来事を予測可能な現象として定義し直す行いだ。

 これにより、月は空に描かれた円盤ではなくなった。満ち欠けや月食が人の運命に影響を与えるものではないと分かった。それなりのリソースを使えば、その上に降り立ち、一部を持ち帰ることができる天体として認識された。未知のベールを()がされたのだ。

「月か……」

 次の作品のテーマにいいかもしれない……と思っていると、あの同居人の姿が脳裏に割り込んできた。そう、目下最大の未知の存在である。

 彼女に頼んだら月まで一瞬で連れて行ってくれるだろうし、月の石も山ほど持ってきてくれるだろう。絶対に頼まないが。

 考えを打ち切り、話題を変えた。

「そういえば、学会はどこで? 東大とか?」

 そもそも今回の待ち合わせは、望から『そっちで学会があるから少し話そう』と連絡が来たのが切っ掛けだ。

 私の推測に対し、望は首を横に振った。

「いや、横浜」

「全然違うじゃない」

「でも、こうでもしないと姉さんは東京の名所なんて行かないだろう。せっかく東京に住んでいるのに」

「それはまあ、そうだけど」

 晩秋のある日、日曜の昼過ぎのこと。

 半年ぶりに会う弟は、相変わらずマイペースだった。

 

  *

 

「東京タワーは? のぼったことある?」

「ない」

 展示から展示へと歩いていく。

「スカイツリーは?」

「ない」

「浅草は行ったことある?」

「ないかも」

 体験型の展示のボタンを押したりレバーを引いたりしつつ、望の質問に生返事を返す。

「アメ横は?」

「ない」

「お台場は?」

「多分ある」

「明治神宮」

「ない」

「日本橋」

「ない」

 人類の進化。地球の誕生と変化。恐竜の化石。進化の系統樹。計算機の発展。サバンナの獣たち。地球の全ての時間と空間を舞台にした大パノラマの展示を見つつ、狭い東京の話が続く。

「姉さん、全然どこにも行ってないね」

「浅草はまだわかるけど、日本橋とかアメ横とかは買い物しないのに行っても仕方ないじゃない」

「いやいや、日本橋にはアレがあるだろう」

「ああ、アレ」

 日曜日ということもあって人は多い。私が人混みに音を上げると、望は頷いてから出口に向かって歩き出した。お目当ての展示があるというわけでもないらしい。

「私が言うのもなんだけど、もういいの?」

「前に来たときにじっくり見たからね。今日は姉さんと会って、空気を楽しみに来たって感じかな」

「そうなんだ」

 自分が言うのも何だが、変わった考え方をしている。

 出口に差し掛かった時、望が横を指さした。

「あ、姉さん。お土産だけ見ていいかな」

「うん」

 望は早速、深海魚や太陽系など、普通の店では売っていなさそうなデザインのノートやクリアファイルなどをいくつも買っていた。相変わらず交友関係は広いようだ。

 望は何と言うか……人を惹きつけるタイプだ。

 顔は今でもそっくりだと言われるし、中学生くらいまでは身長もほとんど同じだった。けれど、彼の周りには人が絶えなかった一方で、私はほとんど一人だった。

 勉強も運動も出来るし、本当に完璧な弟だ。彼のことを羨ましく感じたことがないといえば嘘になる。しかし、今はそう思うことも少なくなった。大人になったのか、あるいはただ単に忘れているだけか。

 そんな風に考えながらグッズを物色していると、ぬいぐるみの棚で少し気になる名前を見つけた。

「ん、これは……?」

 ナメクジのような姿をした古代の魚なので、彼女とは似ても似つかない。しかし他に買うものも思いつかなかったのでこれに決めた。

 二人とも会計を終え、博物館を出る。望が日差しに目を細めながら言う。

「さてと。お茶にしない?」

「賛成」

 出口から少し歩いたところにあるスターバックスに向かう。私はカフェラテ、望の方は季節限定だとかいうフラペチーノを頼んだ。テラス席からは、秋の日差しが降り注ぐ公園を行き交う人々の姿が良く見えた。

 一息ついたところで望が口を開いた。

「仕事の方はどう? 順調?」

「どっちの?」

「どっちも」

「……会社の方は、上司が変わったり、気の合う後輩が入ってきたりしたから。前みたいなことにはなってない」

「そっか。良かった。作家業の方は?」

「そっちは……ああそうだ、これ」

 すっかり忘れていた。私は鞄から本を取り出して望に渡した。望がタイトルを読む。

「『リレイヤー』、か。リレイするもの……リレイ?」

「日本語的に言えば、リレー」

「ああ、なるほど。リレー競技に青春をかける若者たちのお話かな」

「大正解」

「ははは、嘘ばっかり」

 互いに嘘だと分かっている会話は、本当のことしか伝えない。

「ありがとう。ゆっくり読ませてもらうよ」

「はいはい。いつも通りサインも書いてあるから」

 私はサイン会を開くタイプではないから凝ったサインも書けない。楷書で『結月望へ 紫月ユイ』と書いてあるだけだ。しかし望はこれが嬉しいらしい。

「望は? 忙しい?」

「まあね。でも現場のことが少しずつ分かってくるのは楽しいよ」

「相変わらず前向きね」

「姉さんだって、随分顔色が良くなったよ」

 望は笑みを深めた。

北海道(こっち)に戻ってくる気はないんだね」

「今のところは」

「そっか」

 多分、これが本題だったのだろう。望は聞きたいことは聞けたとばかりにフラペチーノの残りを飲み干した。

「僕はこれから浅草に行くつもりだけど、姉さんは?」

「行かない。もう少し公園を歩いたら帰る」

「それも良さそうだね。次は僕もそうしようかな」

 望は立ち上がった。

「それじゃ。たまには帰ってきてね」

「うん」

 望は小さく手を振ると、駅の方に向かって歩いて行った。

「……心配、かけてるなあ」

 二年くらい前だったか。当時の私の上司は、優秀だったが部下に自分と同じペースを求める人だった。おかけで私は来る日も来る日も大量の仕事をこなすことになった。私自身、社会人になったばかりでペースを分かっていなかったのもある。

 そしてある日、限界がきた。何日も熱にうなされ、ろくに動けない日が続いた。熱が引いてからも三日間、真っ暗な部屋で何がいけなかったのかを考えに考え抜いて――今の部署から外してほしいと申し出た。それが一年半前のことだ。

 新しい上司は、最初に私にまとまった休みを取らせた。マイナスがゼロになっただけだと。プラスにするだけの時間が必要だと。

 望は仕事をやめて北海道に帰ってくるよう勧めてきた。自分の人脈を使って、無理なく働ける仕事を探すとも言ってきた。けれど、疲れ切っていた私は環境を変えることを選べなかった。結局東京に残ったまま、ぼんやりと毎日を過ごした。

 最初のうちは本を数ページ読んだだけで疲れてしまうくらいだった。何もできない自分に嫌気がさす毎日だった。けれど、ゆっくりとではあったが気力は回復して行ってくれた。

 現実逃避も手伝って、私は大学の時のように小説を書き始めた。それがつづみさんの紹介で文芸雑誌の隅に載った。今にして思えば、私に気を使って無理を通してくれたに違いない。

 あとはなし崩しだ。幸運に恵まれて二本目三本目が載り、今に至る。

 そして一年前。会社勤めに復帰する少し前――。

「ゆかり」

 ちょうど思い出すところだった人物が、私の名前を呼んだ。

 

  *

 

 考え事から引き戻されながら、望のいた席に彼女が座るのを見ていた。

 現実離れした美貌。 見る角度によって微細に変わる青色の眼。体に一瞬遅れて、長い髪がふわりと重力に従った。辺りに花の香りが満ちる。初夏を思わせる爽やかな香りだ。

 彼女は飲み物を頼んでいないようだった。テーブルの上で軽く手を組み、小首を傾げて私に言う。

「考え事してるの?」

()()()()()()?」

 IA――あるいはその姿をした()()の頬がぴくりとひきつった。

 彼女は何かを言おうと口を開き、閉じ、目を伏せてため息をついた。

「なんで分かったの?」

「なんとなくですよ」

 本当は匂いで分かったのだが、流石に言わないでおいた。IAからは春先を思わせる花の香りがする。それだけの違いで気付けた自分に半ば驚いていた。

「えー、どうしよ。予想外だ……」

 そんな風に言いながら、IAの姿をした彼女は頭を()()()()とひっかいた。IAなら確実に見せない仕種だ。

「まあいっか。やることやっちゃおう。こっち来て」

 そして、席を立って小走りで店から出て行った。追わないわけにもいかないだろう。カフェラテの残りを飲み、返却口にトレイを片付けてから店を出た。

「よし、来たね」

 何やら得意げな表情で腰に手を当て、IAの姿をした彼女は待っていた。本物のIAには似つかわしくない仕種ばかりで、少し頭が混乱する。

「地球人!」

 びしっ、と私を指さして彼女は言った。

 失礼な。しかし名乗ってはおこう。

「初めまして、結月ゆかりです」

「そう、結月ゆかり。こっちも初めましてと言いたいけれど、私はお前を知ってるよ」

「はあ」

 何が言いたいのだろう。

 彼女の正体はなんとなくわかっている。十中八九、IAの同類か、あるいはそれに匹敵する常識外れの存在だ。

 もしかしたら第二第三のIAが現れるかもしれない。以前、IAが『チコー』なる存在を話に出していたから予想はしていたが――なんというか、こう、IAとは少し勝手が違うようだ。まだ上手く言語化できない。

 目の前の彼女は胸に手を当てて不敵な笑みを浮かべた。

「私の正体を知りたい?」

「いや別に」

「嘘つけ! というかさっきから平然と嘘ついてるけど何なの!?」

「嘘つきなんですよ、職業柄」

「と、とにかく。改めて名乗らせてもらうから」

 辺りの空間に、どこからともなくオレンジ色の光の粒が湧き出してくる。無数のそれがIAの姿をした彼女のもとに集まっていく。

 光を身にまとい、オレンジ色のシルエットとなった彼女が腕を振り払う。すると、彼女の身を包んでいた光が無数のオレンジ色の花びらへと変わって散り、内側からIAよりも一回り小柄な姿が現れた。

 少し幼げだが、IAと同じく現実離れした美貌。 眼も同じく、見る角度によって微細に変わる青色だ。髪はIAよりも短く、肩のあたりで切りそろえられている。背中で揺れている一筋の三つ編みだけがやや長い。

 身に着けているものは、ところどころIAと似通った点がある。チョーカーはお揃いだろう。

 それ以外の部分はIAよりも全体的にラフで活発な印象を受ける。背中が大きく開いたワンピースのメインカラーや、ブーツのアクセントは光と同じくオレンジ色。左の太ももと左腕には、一見リングのように見える刺青が入っていた。

 本当の姿を見せた少女が言う。

「私はOИE(オネ)OИE(オネ) -ARIA ON THE PLANETES-(アリアオンザプラネテス)だ!」

 ご丁寧に、先ほど散った花びらが彼女の背後に集まって名前を表す文字となっていた。OИEと書いてオネと読むらしい。エヌの部分が反転しているが、言葉遊びの範疇だろう。私は普通の表記でONEと呼ぶことにする。

 ……いやしかし、何と言うか。

「おお、すごい。良い演出ですね」

 思わずぱちぱちと拍手をしていた。随分凝った自己紹介をしてくれるものだ。

「へへ、そう? ……じゃなくて!」

 少女改めONEが再び私を指さした。

「この名前を見たら分かるでしょ!」

「ああ、はい。IAの妹さんですか?」

 姉、あるいはそれ以外の親類の可能性もあったが、何と言うか妹っぽさが強い。そしてその推測は当たっていた。

「そう! 私はIAの妹。IAと同じく惑星ARIAの精霊なの」

「はい」

「でもって、今日はお前を懲らしめに来た」

「はい?」

 ONEが腕を組んで言う。

「身に覚えはない?」

「……IAに関する何かですよね、流れからして」

「当たり前じゃん。で、その様子だとやっぱり自覚ナシと」

 これはあれだろうか。惑星ARIAの風習だとすごく失礼なことをIAにしてしまったとかだろうか。だとするとお手上げだ。推測する材料があまりにも足らない。

「あー、何がまずかったか教えてもらえると助かるんですが」

「今更反省した振りしたって無駄だよ。もうやるって決めてるし」

「……なにを?」

「かくれんぼ」

「はい?」

「ただし、この世界全部を使ってね」

 ONEは手を広げて言った。そして今更になって気が付いた。

 人がいない。それだけではない。音がほとんどしない。動物も何もかも、音を出すものがいなくなっている。

「これは――」

「並行世界を模倣(エミュレート)して作った世界に行ったことはあるでしょ? それと同じ。ま、私は人とかは反映してないけど。必要ないしね」

「……なるほど」

 私たち以外いなくなってしまったのではない。逆に、私たちが元いた世界からいなくなってしまったのだ。きっと、あの派手な名乗りのどさくさに紛れて、私はこの無人の世界に連れてこられたのだろう。

 今更のように、自分が対峙している存在のスケールを思い知る。IAより幼げに感じても、同じようなことが出来てしまう宇宙人なのだ。

「で、ルール説明ね。私はどこかに隠れて、そこから動かない。隠れてる私を見つけられたらお前の勝ち。私がどうしてこんなことしたか教えてあげる。時間は無制限ね」

 一応周りを見渡してみるが、公園の外に立っているビルがいくつも見えた。公園だけしか作っていない、ということはなさそうだ。

 私は両手を上げた。

「……降参します」

「言うと思った。でも拒否権はないよ。それと――今、やる気にさせてあげる」

 ONEがそう言うと、彼女の伸ばした手の中に先ほどの花びらが集まり、一匹のオレンジ色の蝶へと変わった。

「この蝶に触れたら開始ね」

 ONEが言うが早いか、蝶がひらひらとこちらに飛んでくる。避けられない速さではない。しかし、避けたところで何も始まらないだろう。私は観念して手を伸ばし、蝶が指先にとまるのを許した。

 その瞬間、視界がオレンジ色の光に染まった。

 

  *

 

 先ほどONEが言った通り、私はIAの手によって、並行世界――あり得たかもしれない地球を模した世界に何度か送り込まれている。

 技術や法律が違ういくつかの世界を経て、とうとう最近は人々の在り方そのものが違う世界を体験した。

 その世界ではほとんど全ての人間が、生まれてから死ぬまで決まった動物と過ごしている。IAによれば飼い主の魂の一部であるそれらは、一人ひとり姿も形も違い、飼い主と一蓮托生の関係にある。その動物を指して、双子という。世界が違えば常識も違う。私が知る『双子』とは全く別物の概念だ。

 そして、その世界――双子の世界に送り込まれた私のそばにも一匹の動物がいた。

 (しずく)。そう名付けた兎と過ごしていた私は、ある日ちょっとした事件に巻き込まれた。

 一人っ子――その世界における例外。生まれつき双子を持たない女性が、かつて飼っていた本物の兎と雫を重ねてしまった。そして雫を連れて行ってしまったのだ。

 それだけならばいい。だが、この出来事にはいくつも不自然な点があった。

 その女性、梅子さんの寂しさや喪失感が、私と雫にどうやってか伝わってきたこと。

 話した限りでは理性的だった梅子さんが、自制できずに雫を連れて行ったこと。

 梅子さんが行動を起こす直前、一人の女の子が話しかけてきたと言っていたこと。

 正直なところ、私はIAを疑っていた。そういうことができるのを知っていたし、そもそもその世界に私を送り込んだのはIAなのだ。雫を引き離すことで、私を動揺させようとしたのではないか。そう思っていた。

 しかし――梅子さんが見た女の子は、オレンジ色の蝶を連れていたという。

「……思い出した」

 オレンジ色の光が薄れていく。すでに周囲にONEの姿はなく、私の指先の蝶だけが残っていた。

 そうだ。あの後、梅子さんが見たという女の子のことをIAに聞こうと思っていたのだ。しかし忘れていた。いや、違う――忘れさせられたのだ。

 梅子さんの家から帰る時、駅のホームで誰かの声を聴いた。オレンジ色の蝶を見た。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ONEに認識を操作されていたのだろう。IAに自分のことを聞かれてしまわないように。不自然な点を忘れてしまうように。

 背筋に寒気が走った。自覚した限り、ARIAの精霊に自分の精神を操作されるのは初めてだ。IAのアプローチの中で一時的に感情が影響を受けることはあったが――こうも恣意的に、都合よく操作されるなんて。

 出来ることは知っていた。いつだったか、IAが人々から自身の記憶を消した所も見ている。だが、それとこれとは違う。IAならこんなことはしない。

 ……恐怖と同時に、ある感情が鎌首をもたげていた。

『やる気になった? それじゃ――スタート!』

 目の前の蝶からONEの声がして、それを最後に蝶は光に変わって消えた。

「………………」

 頭がフル回転を始める。ONEについて見聞きした情報を片っ端から思い出していく。

 彼女がどう笑うか。どう怒るか。どう立つか。どう手を振るか。どう自分自身を呼ぶか。どう相手を呼ぶか。どうIAを呼ぶか。どう私を呼ぶか。

 彼女が何を好くか。何を嫌うか。何を言うか。何をするか。髪の先から服の裾まで、声の一音一音まで、梅子さんから聞いた印象も、全て。

 そうして思い出した情報を何度も何度も反芻する。意識して思い出さなくて良くなるまで、ふと考えたことがONEの声で聞こえそうになるまで。

 こめかみがずきずきと痛み始める。脳内で反響する声で眩暈がする。無茶な頭の使い方をしているのは分かっている。しかし、私を突き動かす感情がストップをかけさせない。

 やがて、頭の中で一つの輪郭が形を持った。はっきりとイメージできるONEの姿だ。その姿に対して私は聞いた。

 こんな時、あなたならどこに隠れる?

 答えが返ってきた。二度、三度と確かめる。間違いない。

「見つけた」

 そう言いながら、私はまっすぐに自分の影を指さした。

 

  *

 

 しばし、公園に沈黙が満ちる。人や動物がおらず、自動車も電車も走っていない世界は余りに静かだ。反応がない。外したかもしれない。そう思いかけた時。

『え、嘘でしょ。待って待って』

 私の影が、私の意思と無関係に動き出した。わたわたと腕を振って慌てている。

 内心、胸を撫でおろす。これで――。

『い、今のナシ! ノーカン! やっぱり三回勝負!』

 子供か。

 ……いや、子供かもしれない。双子の可能性も考えられるが、ONEはIAよりも少し年下に見える。言動も合わせて考えると、15歳か16歳くらいだろうか。

 そもそもIAは何歳なのだろう。彼女は衣装やシチュエーションによって印象がぐっと変わるし、そもそも惑星ARIAでは地球と時間のとらえ方そのものが違うらしい。もしIAがONEとあまり変わらない年齢だとしたら、私は未成年と同居しているのだろうか。いいのだろうか。まあIAに地球の法律が通じるとも思えないし、今更か。

『あーもう、なんで分かったの?』

 私の影から()()とONEが飛び出して来た。そのままオレンジ色の光をまとって宙に浮かび、私を見下ろしてくる。

「そういうことをしそうだったからですよ」

「だから、なんでそれが分かったかって聞いてんの!」

「あー……ONEちゃん、漫画とかアニメとか好きですか?」

「え、うん。面白いのいっぱいあるよね。 てか、ちゃん呼びすんなし」

 最後の抗議は無視して私は言う。

「ああ、やっぱり。読者や視聴者の意表を突いてこそですからね、ああいうのは」

 けれど、と言って、私は再び自分の影を指さした。

「意表を突きすぎて、逆に定番なんですよ。追ってくる相手の影に隠れて、『実は近くでずっと見ていたぞ』ってするのはね」

「ぬぐぐ……」

 ONEが呻く。悔しさを隠そうともしない。

 やはり、IAとは違う。こういう時、IAは『なるほど』とだけ言って静かに考える。眼を閉じてしまい、何分も次の言葉を発さないことすらある。そのまま会話のキャッチボールがそこで終わる。

 子供っぽいとか、活発だとか、それは表面的な違いだ。IAとONEの最大の違いは――。

「それってズルじゃん! 見つけてないじゃん! やっぱり今のナシ! もう一回やるからね!」

 ONEが私を指さして吠える。

 笑みが浮かばないようにするのが大変だった。自分でも良くないことだと分かってはいる。分かっているが――。

 私は肩をすくめて言った。

「仕方ないですね。()()()()()()()

「なっなっんなっ」

 もはや言葉にもならないらしい。私を指さす手がわなわなと震えている。感情の高ぶりがそうさせるのか、オレンジ色の光がONEの体のあちこちで弾けている。

「い――言ったな! そっちがその気なら本気でやってやる! 絶対絶対見つかんない所に隠れてやるからな!」

 ONEがさっと手を振ると、オレンジ色の光が集まって空中に浮かぶジッパーを形作った。それがひとりでに開き、オレンジ色の光が渦巻く空間への入口となる。

「泣いて謝るまで絶対出してやらないからな! 絶対だぞ! バーカ!」

 ONEが中に飛び込むと、ジッパーは閉じてからオレンジ色の光の粒に戻った。

「やりすぎましたかね。おーい」

 反応はない。どうやら今度こそ遠くに行ったらしい。

 携帯電話を取り出してみると電波は生きていた。鞄からメモを取り出し、現在時刻をメモする。その後、試しにいくつかのウェブサイトを開いてみると問題なく開けた。

「となると……」

 続いて望に電話をかけてみるが、呼び出し音が鳴らない。電波が届かないところにあるか電源が入っていない、という音声が流れる。

「人とかは反映してない、でしたか」

 確かONEはそう言っていた。

 電話が繋がるのに望が出ないなら、この世界のどこかに望の携帯電話が放置されていることになる。しかし違った。つまり、望の身に着けている物もこちらの世界には来ていないということだ。

 メールなど他の手段ならば連絡が取れるかもしれないものの、それを試しても状況が変わらないだろう。望が元の世界のここに戻ってきてくれたところで何もできない。

「さて」

 これからどうしようか。一応方針はある。中と外、どちらを目指すか。

「まあ……近いほうにしましょう」

 私は地図のアプリを開き、目的地までの距離を調べた。約4km、歩いて一時間弱。

 電車は――動いているかわからないし、動いていたとしても駅と駅の間で止まったら最悪だ。自転車はどうだろう。この状況だ、どこかに鍵のかかっていない自転車か、あるいはレンタル自転車があるかもしれない。しかし前者は気が引けるし、後者は決まった場所に返す必要がある。

「歩きますか」

 運動になると思おう。たまにはいい。

 誰もいない公園を歩きだす。催し物があったのか、空っぽの屋台やステージの横を通り過ぎ、公園の出口へと向かう。

 公園の外にもやはり人の姿はなかった。電車の音も聞こえない。そして、先ほどの推測通り、道を行き交っているはずの車もない。人が乗っていなかったのであろう何台かの車だけが道路脇に止まっていた。

 IAが作る世界との違いをはっきりと認識し、疑問が浮かぶ。

「人を含めて世界を作るのって大変なんですかね……」

 最初は驚いたが、単にかくれんぼをするなら人を除く必要はない。むしろ木を隠すなら森の中、だ。

 先ほども瞬間移動ではなく空中にジッパーを作って姿を消していた。単なる演出の可能性もあるが、IAが軽々と出来ることでもONEには大変なのかもしれない。

 そういえば――IAの作った世界に生きていた人々はどういう存在だったのだろう。彼ら彼女らはその世界なりに生きていたし、私の知り合いはきちんと私との過去を覚えていた。だとすれば、単なる作り物ではないのだろう。どういう理屈かはわからないが、元の世界と同じく確固たる自己を持つ存在なのだ。

 あの人たちは、作られた世界が不要になったらどうなったのだろう。『上書き』とやらもあるし、無為に消えて行ったとは思いたくはないが。

 家に帰ったらIAに聞いてみよう。きっとそうしよう。

「さて」

 この世界から出るべく、私はのんびりと歩き出した。

 

  *

 

 しばらく南に歩くと、公園の端についた。ここからずっとこの道に沿って行けば目的地に着くはずだ。

 いわゆる中央通りだ。普段は大勢の人で賑わう通りも、今はやはり無人だった。物珍しさがこみ上げ、思わず写真を撮る。

「おや」

 そんな風にしながら十分ほど歩いていると、手にした携帯電話が震えた。見覚えのない番号だが、この状況で電話をかけてくる相手など一人しかいないだろう。

「もしもし」

『どう? 私がいる場所は分かった?』

 時間をおいて落ち着きを取り戻したのか、余裕をにじませた声が聞こえてくる。

『ま、分かんないだろうけど。人間が私に敵うわけないんだからさー。お願いするならヒントあげるよー?』

「結構です」

『あっ』

 電話を切った。そのまま電源も切った。地図を見られなくても道に迷うことはないだろう。

「さて」

 秋の日差しの中、ひたすら歩いていると少し喉が渇いてきた。どうしたものか。

 それこそ漫画やアニメでは、こういう時は無人の店から商品を持っていく代わりにお金を置いて行くのがお決まりのパターンだ。咎める人がいない無人の町で、自分も人でなしになってしまわないように。

 しかし今はセルフレジがあちこちにある。あまり風情は味わえそうにない。

「まあ仕方ないですか……」

 コンビニに入る。自動ドアは元気に私を出迎えてくれたが、店員の声はそれに続かなかった。

 さて、何を買うか――と思っていると、何かがカウンターの裏から飛び出てきた。

「おね!」

「……え?」

 それは、簡単に言うと小さなONEだった。二頭身くらいで、きちんとコンビニの店員らしき格好に身を包んでいる。

 小さなONEが頭を下げて言う。

「おねおね」

「……見つけた」

 一応指さしてそう言ってみる。

「おねー」

 だが、腕でバツを作られてしまった。駄目らしい。

「分身みたいなものですかね」

「おーね」

 頷いているし、多分肯定だろう。

「あ、もしかして対応してくれるんですか」

「おね」

 なんだ。

「じゃあ折角ですし、あっちにある喫茶店でお願いします」

「おねー」

 小さなONEに見送られてコンビニを出た。そして喫茶店に入るとやはり小さなONEが飛び出してきた。

「……さっきと同じ子ですかね?」

「おね?」

 なんでそっちも分からないんだ。

「まあいいや……ホットカフェラテのトール、テイクアウトで」

「おねー」

 そのサイズでちゃんと作れるだろうか……と思っていたが、機敏な動きでカップを用意し、宙に浮かんでコーヒーを注いでいた。

「おねおねー」

「どうも」

 支払いを済ませ、またも見送られて店を出る。

 そのまましばらく歩くと、秋葉原の電気街に差し掛かった。大学の時、何度か友人に誘われて来たことがある。その時もたくさんの人がいたが、今は無人だ。あちこちの店やビルに設置された液晶ディスプレイだけが、聞く者のいない広告や呼び込みを流し続けている。

「ん?」

 突然、広告の音声が途切れてノイズが耳に飛び込んできた。そちらを見上げると、ビルの壁面に据え付けられた大きなディスプレイに見覚えのある模様が絡みついていた。

 黒とオレンジの直線や三角形――ONEの左腕にあった刺青と同じ模様だ。

 案の定、画面のノイズが収まると、どこかの室内にいるONEの姿が映った。ゆったりとソファに座ってくつろいでいる。IAもリビングのソファを定位置にしているし、やはり宇宙人はソファを好む習性があるのだろうか。

『あー、あー、聞こえる?』

 無視して歩き出した。

『あっ、こら、無視するな!』

 進もうとした方向にオレンジ色の光の壁が突然現れた。仕方がないので画面に向き直る。

「なんでしょうか」

『……ん? ああそっか。おーい、ちびオネ』

 ONEが怪訝そうな顔をした後、何かに気づいた様子でちびオネ(というらしい)に呼びかけた。

「おねね」

 近くのオーディオ機器を扱っている店からちびオネが飛び出てくる。一本のマイクを担いでいた。

「ああ、なるほど」

 こちらの声が聞こえていなかったらしい。

「おね!」

 ちびオネが差し出すマイクには、やはりというかONEの刺青と同じ模様が絡みついていた。模様に触れないように気を付けながら、つまみ上げるようにしてマイクを受け取る。

『何かしゃべってみて』

 私はマイクに向かってしゃべった。

「おねおね」

『いやチョイス……。まあいいか。なにその持ち方』

「いえ、模様が腕を這いあがってきそうだなって……」

『やだなー。そんなことしないって』

 できるらしい。持ち方は変えないでおこう。

『で、どう? ヒント欲しい?』

「ヒントならもう貰ってますよ」

『え?』

「室内ですよね」

 私の指摘に、ONEの眼が泳ぐ。

『そ、それがどうしたのさ。この世界に部屋がいくつあると思ってるの?』

「ええ。ですがもう、屋外を探す必要はなくなりました。これは大幅な前進ですよ」

『……まさかと思うけどさ、大真面目に私を探す気でいるの?』

「そういう勝負でしょう?」

『いや無理だって。半径100キロあるんだよ、この世界』

 なるほど。だったらこう言い返すだけだ。

「IAが作った世界は半径500kmありましたよ。つまり面積で言えば25分の1しかないわけです。まあ何年かかるかは分かりませんが……私の寿命が尽きないうちに探せそうではあります。待っていてください」

 ONEが眉間にしわを寄せて言う。

『……本気?』

「さて、どうでしょうね」

 ONEはソファにぐったりと背中を預けた。

『もういいよ。探したいなら探せばいい。見つけられるまで本当の本当に出られないんだから。誰にも会えないで独りぼっちだよ。それでも良いわけ?』

「それは困りますね」

『全然困ってないじゃん! あーもう、降参するならいつでも呼んで。ちびオネが繋いでくれるから。じゃ』

 ONEの映像が途切れ、元の広告に戻った。行く手を阻んでいた光の壁も消えていく。私は足元のちびオネにマイクを差し出した。

「これ、ありがとうございました」

「おね」

 ちびオネがマイクを受け取り、どこかに持ち去っていく。

「さて、行きますか」

 少し冷めたカフェラテを一口含み、再び歩き出した。

 

  *

 

 万世橋を渡ると、道路は少し左に曲がる。そのまま進むと神田駅の高架の下をくぐり、日本橋へ。

 東京の都心は不思議なところだ。特色の違う町がいくつもぎっしりと並んでいて、互いに影響を与え合っている。ほんの数分歩くと、周囲の景色や店の傾向ががらりと変わる。

 そして、私のたどり着いた日本橋というところは、老舗の店とオフィスビルが共存する空間だ。

「……ふう」

 少し疲れた。やっぱり普段は運動不足かもしれない。

 今まで律儀に歩道を歩いてきたが、目的のものは車道の真ん中にある。改めて車が走っていないのを確かめ、車道に降りる。

 先程はONEに待っていろと言ったが、本当にこの世界を探し尽くすつもりはない。ONEもそれが分かっていたから私を非難していたのだ。

 私はここに、脱出の糸口を探しに来た。

「あった」

 日本国道路元標。すなわち、日本の道路の中心。橋の北西にレプリカがあり、そちらは間近で見ることができるが、本物は車が行き交う車道の真ん中に埋め込まれている。こんな状況でもなければ、こんなに近くで見られないだろう。

 私がここを目指していたのは、IAがこれまでに口にした断片的な情報をもとに考えた結果だ。

 

――日本橋(にほんばし)を中心に半径500kmくらい。その世界を模倣(エミュレート)して作ってある。それよりも外は適当にシミュレートしてるだけだから、いきなり北海道や沖縄には行かないで。

――行くとどうなりますか。

――行こうと思っても行けないよ。

――なんで日本橋なんですか。

――都合がいいから。

 

 食品の3Dプリンターが一般家庭にも広まっている世界でのことだ。あの時は聞く暇がなかったが、IAは日本橋を中心にして並行世界の複製を作ったと言った。その方が都合がいいとも。つまり、ここ以外を中心にすれば不都合があるのだ。

 また別の時、IAはこうも言っていた。

 

――この国の人々の考え方が、私の力を安定させるために相性が良かったから。

――考え方?

――全ての物に神が宿ると考え、生命を見出す。

――八百万(やおよろず)の神のことですかね。

――そう。その考えは、ARIAの精霊の力を発揮するための土壌として最適に近いの。他のどの国よりも最適な環境。

 

 日本という国は、IAたちARIAの精霊の力を発揮しやすい土壌である。そして、日本橋は日本の道の全ての起点という意味で、日本の中心と言える。

 つまり、日本橋はARIAの精霊が大規模な力を発揮するときに、一番都合がいいポイントである。それが私の仮説だ。

 IAは私からすればほとんど万能の存在だが、疲れない訳ではない。余計なエネルギーを使いたくないと思うことだってあるはずだ。

 だから、世界を作るときはここを中心にする。IAは今までに四回、並行世界の複製を作っている。そしてこれからも作るつもりだろう。私を試し、揺さぶるために。

 だとすれば――ここには何かがあるはずだ。繰り返し大がかりなものを作るうえで、その中心となる場所なのだから。

 そしてONEもまた、それを利用するはずだ。

「――と、まあ」

 勿論、これは人間の常識で考えた場合の話だ。そんなものはないかもしれないし、あったとしても私には干渉できないものかもしれない。

 私は恐る恐る道路元標の上に手を伸ばした。が、空を切る。

「ふむ」

 しゃがんで道路元標そのものにも触れる。しかし、冷たい感触が返ってくるだけだ。

「うーん……」

 一応次のプランはある。中心が駄目なら外側。つまり、どの方向でもいいので100km進んで、この世界の外側に出てしまうことだ。壁があるなどの要因で出れないかもしれないが、それも含めて試す価値はあるだろう。

 こちらを後回しにしていたのは単純で、IAが作った世界が半径500kmと知っていたから。例えどこかで車を調達したとしても一苦労の距離だ。

 先程ONEがこの世界は半径100kmと言っていたので、それを信じれば数時間で試せる距離だ。しかし。

「ちょっと、考えたいところですね」

 考えるための情報はいくつか得られている。一端腰を落ち着けてもいいだろう。それに、少し疲れてもいる。

 適当な喫茶店に入る。普段なら洗練された身なりの人々が談笑しているであろう店内も今は無人だ。

「おーね」

 訂正、ちびオネだけだ。窓際の席に座り、メニューを開く。

「すいません、ホットのカフェラテを……Sサイズで」

「おねおね」

 良い値段がする。必要経費と割り切ろう。

 メモを出し、ここまでに分かったことを箇条書きにしていく。

 

・ONEは双子の世界で梅子さんをそそのかした。

・ONEは双子の世界で私の記憶を操作し、自分の存在を隠した。

・ONEは私を無人の世界に飛ばした。

・ONEは私を懲らしめると言った。

・ONEは私にかくれんぼを持ち掛けた。

・ONEは私に見つかったら勝負を仕切りなおした。

・ONEは私が降参するのを待っている。

 

 ここでペンが止まる。そういえば、試していないことがあった。

「すいません」

「おねおね」

「ニューヨークチーズケーキをください」

「おねー」

 注文は通った。となると。

「あとは……」

 携帯電話の電源を入れ、現在時刻をメモする。上野公園を出発するときに確認した時刻からは、一時間ほどが経っている。正確な現在時刻を紹介するウェブサイトにも接続してみるが、差はない。

 こうして携帯をいじっていると、また電話がかかってくるかもと身構えたが、それもなさそうだ。電源は入れておこう。

 私は二つの文をメモに書き加えた。

 

・ちびオネに頼めば食べ物や飲み物を得ることができる。

・この世界の時間は止まっていない。

 

 カフェラテとケーキが来た。メモを一度伏せてフォークを手に取る。ゆっくりと味わい、時間が流れるのを意識する。

「よし」

 メモを見直す。一度頭を空っぽにしてから、客観的に自分が書いた文を見る。

「やっぱり、おかしい」

 私は二つ目と三つ目の文章の間に線を引いた。双子の世界についてと、今回についての間だ。

 簡単に言えば、行動指針が違う。双子の世界では、ONEは私を明らかに困らせようとしたし、自分の存在をIAから隠そうとした。

 しかし今は違う。私を懲らしめると言い、無人の世界に閉じ込めておきながら、私に何かしてくるわけでもない。食事も提供してくれるし、無理に私の行動を束縛することもしない。やっていることと言えば、かくれんぼに降参するように持ちかけてくることだけだ。

 それに、こんなことをしてIAに隠し通せるとは思えない。元の世界では、おそらく私は行方不明だろう。IAは今海外で仕事をしているが、戻ってくればすぐに気付くはずだ。

「……何がしたい?」

 新しい疑問が持ち上がる。再び箇条書きでいくつかの仮説を並べる。

・私を試したい。あるいは揺さぶりたい。

「違う。だったら私のことをずっと観察しているはず。マイクを用意しないと声が聞こえないなんてことにはならない」

・私を懲らしめたい。

「違う。多少困らせてはいるけれど、それほどじゃない。私が一人になっても、すぐにどうにかなるようなタイプじゃないのはONEも承知のはず」

・私と遊びたい。

「違う。だったらいちいち降参を持ち掛けてこない」

・私を打ち負かしたい

「これは……近い、かな」

 試しに降参してみるか。しかし、どうだろう。

「仮に、ヒントを出されたとして。それでもし、ONEを見つけ出せたとして」

 私は想像する。

「また隠れる場所を変えるだけの気がする……」

 だとすると、本気で何をしたいかわからない。私をこんなところに閉じ込めて――。

「いや、そうか」

・私をこの世界に閉じ込めておきたい

 これが目的だとしたら。だから私に飲食を提供するし、私に害を与えることもしてこない。

 そして、この先はどうなる?

 このままずっとこの世界にいたら、どうなる?

「……まさか」

 だとすれば……。

 私はカフェラテとケーキを味わった後、会計を済ませて駅に向かった。ご丁寧に駅員の格好をしているちびオネたちが待機しており、私がどこの駅まで行きたいか伝えると、その間だけ電車を動かしてくれた。

 無人の電車は、この世界でも格別に異様な風景だった。

 私は家に帰り、夕食と入浴を済ませて眠りについた。とても静かな夜だった。

 

  *

 

 次の日、仕事に出かける前に朝食を食べていると、どこからともなくちびオネが現れ、パソコンを見るように促してきた。それに従ってメールをチェックすると、どうやら私はいつの間にか在宅勤務の許可を取り付けていたらしく、今週は出社する必要がないようだった。

 この世界に閉じ込められた直後、望に電話をかけても通じなかったことを思い出す。もう一度試してみるが、結果は同じだった。しかし仕事のメールはちゃんと通じているので、ONEが上手いこと調整しているらしい。

 オンライン会議もその週に限って予定されておらず、私は他人に会わない生活を続けることになった。仕事のメールの他に、社内チャットであかりちゃんから個人的なメッセージが入ることはあったが、そこから得られる情報はごく限られたものだ。

 人と会って話すということが、どれほど情報量の多いことか。私は改めて実感した。

 そんな生活が三日も続いたころ、私は頃合かと思い、仕事を早めに切り上げて出かけることにした。博物館で買ったお土産を鞄に入れ、家を出る。

 最寄り駅でちびオネに頼み、また電車を動かしてもらう。まずは電車で品川駅に向かい、そこから東海道新幹線に乗り換える予定だ。計算では、三島駅の少し先で日本橋から100km離れたことになるはずだった。

 新幹線に乗り込む前に駅弁を買い、折角だからと窓際の席を選んで座る。

『おねねー、おね』

 そんな車内放送が流れた後、新幹線がゆっくりと動き出した。一時間もかからず着くはずだ。夕飯代わりの駅弁を開けて写真を撮る。

『おねねー。おねおねー。おねおねー』

 車内放送は意味が分からないが、まあ無音のままよりはいいだろう。これも風情の一環と思っておく。駅弁を食べ終わったので、少し調べ物をした後、深々とシートに体を預けて風景を楽しんだ。

『おねねー。おねね。おねね。』

 三島駅に降り立つ。のんびり観光したいところだが、東京方面の新幹線の最終は22時台だ。空振りならば家に帰らないといけないし、さっさと用事を済ませよう。

 駅のロータリーから西へ歩き始めると、5分足らずのところで警備員の姿をしたちびオネ達に道を塞がれた。そのうちの一人が前に出て、赤く光る誘導棒を振りながら何かを言う。

「おね。おねおね」

「ああ、なるほど。ここがこの世界の端ですか。もっとよく見たいんですが、駄目でしょうか。危ないことはしないので」

「おねー」

 誘導棒を持ったちびオネが仲間のところに戻る。

「おね?」

「おね」

「おねー。おね」

 ちびオネ達が顔を寄せ合って協議することしばし。

「おね」

 先程のちびオネが宙に浮かび、私の肩に乗った。重さはほとんど感じない。

「おねね」

 ちびオネが道路の先を指さした。進んでいいようだ。

「ありがとうございます」

「おねおねー。おね。おねねね。おねおーね。おねね……」

 多分、しぶしぶ了承してくれたのだろう。そんな感じがする。

 ほんの10メートルほど歩いたところで、肩のちびオネが「おね!」と声を上げたので立ち止まった。そこで目を凝らすが、その先の風景に特に変わった様子はない。普通に道が続いており、建物が立っているようにしか見えない。トゥルーマン・ショー方式ではないようだ。

「触って大丈夫ですか?」

「おね」

 大丈夫だと解釈し、恐る恐る手を伸ばす。すると、硬い感触に指がぶつかった。見えない壁がある。

「ふむ」

 指をそのまま上に滑らせ、手のひらで触れる。もう片方の手も同様に。少し力を込めてみる。しかし変化はない。

「もしもし」

 軽くこぶしを握り、壁があるはずの場所をコンコンと叩いてみる。すると、叩いた場所からオレンジ色の光が波紋のように広がった。

「よし」

 新幹線の中で調べた通りに壁を叩く。

 短く二回。

 一拍開ける。

 短く一回と長く一回。

 少し長めに時間を置き、再び短く二回、短く一回と長く一回。

 合計で三セット叩き終わったとき、私の横の空間から何かがいきなり突き出した。

 それは――指だ。白く細長い指が四本、何もない空間から突き出している。その指がほのかに虹色の光を帯びているのを見て、私はその光景の異様さを忘れて安堵を覚えてしまった。

 私が一歩下がると、その指が掴んだ空間がまるごと横にずれた。まるで扉を引き開けるような形だ。その向こうに、今までに見たことがない様子の彼女がいた。

「ゆかり! 無事!?」

「……ははっ」

 場違いにも、思わず笑みがこぼれていた。

 こんなに狼狽した様子のIA(イア) -ARIA ON THE PLANETES-(アリアオンザプラネテス)は見たことがない。いや、世界中の誰も見たことがないのではないだろうか?

 周囲を警戒しながら、ぽっかりと開いた空間からIAが歩み出てくる。彼女がやってきた場所は、延々と暗闇が広がっていて全く様子が分からない。

 夜風に乗って、春先を思わせる花の香りが鼻腔をくすぐった。IAが私の顔を覗き込んで言う。

「どうして笑ってるの? おかしくなっちゃった?」

「まさか」

 IAがぺたぺたと私の頭を、顔を、肩を、腕を触る。

「うん。どこもおかしくない。……うーん」

 私の無事を確かめたからか、IAの表情が普段ののんびりとしたものに戻る。

「来てくれて助かりました。手伝ってほしいことがあるんです」

「ああ、うん。元の世界に――」

()()()()()()()、かくれんぼの途中なんですよ。けれど、私の力じゃどうにもできないみたいでして」

「……そんなこと?」

 IAは少し目を細めた。怒っているのだろうか? だとしたら、これも珍しい表情だ。

「分かってる? こんな、独りぼっちの世界に閉じ込められてるんだよ? 人間はずっと一人でいたら、おかしくなっちゃうんだよ?」

 それは正しい。正しいが、素直に頷ける私ではない。

「……生憎、あなたほどじゃないですが、私も変わり者ですから。それに、完全に一人というわけじゃないですよ。ちびオネがいますしね」

 肩に手をやるが、空を切った。おや、と思って振り向くと、私の肩に乗っていたちびオネは抜き足差し足で逃げている途中だった。

「えい」

「おねー!?」

 IAが虹色の光で作られた球のようなものをちびオネに投げつけると、それはちびオネの全身をすっぽりと覆うシャボン玉に変わり、彼女を閉じ込めた。

「流石ですね。その調子でONEちゃんの本体も見つけて欲しいんですが、いいでしょうか」

「……あのね、ゆかり」

「はい」

「怖かったでしょ?」

「…………」

 私はただ、にっこりと微笑んだ。

「ゆかりが何を考えてるかは分かるよ。さっき触れた時、伝わってきたから。私はONEに怒ったりしない。だから、そんな風に笑わなくても大丈夫だよ」

「……そうですか」

 力が抜ける。思わずへたり込みそうになる。けれど、それはこらえた。

「それじゃあ改めて……ONEちゃんを見つけてくれませんか」

「わかった」

 IAが手を一振りすると、先程彼女が出てきた空間の扉が閉まった。続いて、ちびオネを閉じ込めたシャボン玉を掲げた。

「――――♪」

 IAの声が、ちびオネを包むシャボン玉を震わせる。そしてそのシャボン玉を中心に、オレンジ色の波紋が周囲の空間に広がっていく。人間の言葉で例えれば、逆探知をしているのだろうか。

「……見つけた」

 IAがそう呟き、何もない空間へと指を差し入れる。白く細い指がカーテンのように空間を引き開けた、その向こうには――どこかの会社の応接室だろう。ビルの一室のソファに座り、腕を組んだONEがそこにいた。

 この間、わずか十秒足らず。私は思わず拍手をした。

 

  *

 

 シャボン玉から解放されたちびオネがONE本人のもとに逃げていく。私たちはその後を追って、三島駅近くの路上からどこかのビルの一室へと空間のカーテンをくぐった。

 私たちの背後で空間が閉じ、夜風が止む。二つの花の香りが混じりあう。

「見つけました」

 私がそう言いながら指さすと、ONEは両手を上げた。

「こうさーん」

 こうして座っているところを見下ろしていると、本当に小さい女の子だ。しかし私はIAの力を借りなければ、一生かかっても彼女に降参と言わせることができなかったのだ。

 ONEが手を下ろし、不機嫌そうに言う。

「……で、いつから気付いてたの」

「日本橋でお茶をしている最中ですよ。それに結局、私はあなたの思う壷でした。降参するのは私の方です」

 私がIAを頼らざるを得ない状況にすること。ONEはそれを狙っていた。

 だから私をこの世界に閉じ込め、かくれんぼを長引かせようとした。私に害を与えず、かといって解放もせず、自力ではどうにもできない状況に追い込んだ。

 しかし、分からないのはその理由だ。

「どうしてわざわざ私にIAを呼ばせたんですか? そんなことをさせなければ、私を煮るなり焼くなり好きにできたのに」

「そ、そんな物騒なことしないって!」

 ONEが慌てて否定する。

「じゃあなんのためにこんなことを? 最初に言った通り、私を懲らしめるためですか? それにしてはやり方がぬるすぎますし……」

「ねえ、本当に分からないわけ?」

「はい」

 私がそう言うと、ONEは頬を膨らませた。勢いよく立ち上がり、私をびしっと指さして言う。

「私はIAがスゴいってことを思い知らせたかったの! 懲らしめるのはついで!」

「……はあ」

 思わず隣のIAを見る。彼女もきょとんとしていた。

「IAの凄さは分かりました。というより、ずっと凄いと思っています。私みたいな人間じゃ、到底敵わない存在だって――」

「いいや、分かってない!」

 ONEが私の言葉を遮る。

「IAはARIAの精霊の中でも特別なの! ARIAの指導者になれる七色の魂の持ち主は、ARIAの歴史でも七人しかいないんだよ!? 歌もダンスもめちゃくちゃカッコいいし、力の使い方だって上手いんだから! それにすっごく優しいから、地球の悲鳴を聞きつけて、まだ力が不完全なのに地球に来たんだよ。なのにお前はあーだこーだ言ってIAの話を聞かないで、嘘ばっかりついて――それでIAのこと、本当に分かったつもり!?」

 前半は何を言っているかよく分からなかったが、流石に最後は分かった。

「分かったつもり止まりなのは理解しています。でも私はちっぽけな人間で、あなたたちのスケールについて行けそうにないんですよ。それに、あなたがIAと過ごした時間そのものが、私よりずっと長いでしょう。だから」

 私はONEに手を差し出した。

「これから教えてくれませんか、IAのことを」

 隣のIAが私の顔を覗き込んでくる。

「……私に直接聞かないの?」

「静かにしていてください。今いいところなんです」

「はーい」

 ゆるい空気が流れる。ONEは私とIAを何度か交互に見た後、大きくため息をついた。

「はあー……。分かった。分かったから、その手を下ろして」

「はい」

「もう分かったよ。お前は何を言ってもずっとその調子なんだ。だからIAも無理に干渉しないんだ。あーもう、今回のこれ、結構大変だったのになあ。骨折り損じゃん」

 ONEはソファにぐったりと座りなおす。そして、おずおずとIAを見上げた。

「IA」

「うん」

「怒ってるでしょ、勝手なマネして。今回だけじゃないんだ。ほら」

 ONEが指を鳴らすと、そこからオレンジ色の波紋が広がった。私にはただの光にしか見えなかったが、IAはその波紋を受け取り、深く頷いていた。

「そっか。あの世界で(しずく)がいなくなったとき、ちょっと不自然だと思ってたけど、そういうことなんだね。うん、分かった」

「……怒らないの?」

「もしも、もしもね。ゆかりがこの世界に閉じ込められて、不安でいっぱいになってたら。ONEに酷いことをされてボロボロになってたら。その時は、怒るつもりだったよ」

 でも、と言いながらIAは私を見る。

「ゆかりはいつも通りだったから」

 ONEはより一層目を伏せて言う。

「嘘に決まってるじゃん。こんな状況になって、不安を感じてないわけないじゃん。IAはその嘘を信じるの?」

「うん。それは確かに嘘だけど、誰かを騙したり、得をするためについたわけじゃないから」

「……IAも変わったなあ。地球に来たから? そいつに関わったから? 分からないけど、なんとなくチコーは喜びそうな気がするのが(しゃく)

「そうだ。チコーは知ってて黙ってたんだよね。あとでちゃんと聞かないと」

 前にも聞いた名前だ。いい機会なので聞いておく。

「すいません、そのチコーさんというのは」

 ONEが答える。

「親みたいなものかな」

 IAが答える。

「いい匂いの猫さんだよ」

「……そうですか」

 やはり、常識が通用しないのは相変わらずらしい。

「さて、と。結月ゆかり」

 ONEが私の名前を呼ぶ。

「はい、何ですか?」

「今回のことは貸しにしておくから」

「別にいいのに」

「しておくから! あと、IA」

「うん」

「あんまり、こいつのペースに合わせてのんびりしてちゃダメだよ」

「してないよ?」

「いや、してるって。ああもう、二人とも――」

 ONEは私たちをびしっと指さして言う。

「私だって地球への干渉は許可されてるんだから! IAがその調子なら、私が先に地球を調和しちゃうからね!」

 ONEの背後に光が集まり、宙に浮くジッパーを形作る。

「この世界はしばらく残しとくから。それじゃあね」

 ジッパーが開き、ONEはその中の空間に飛び込んで消えた。ジッパーも閉じた後に光の粒となって散ってしまう。

 私がその光の残滓を眼で追っていると、IAが何かを差し出してきた。

「ゆかり、これを着けていて」

「これは……」

 指輪だ。並行世界の複製に送り込まれるときに渡される、虹色の石がはまったものだ。

「まだ何かあるんですか?」

「ううん、今日はもう帰るだけ。でも、またこういうことがあったら困るから」

「ONEがまた何か、私に仕掛けてくると?」

「うん。私がしているみたいに、ONEも地球で調和する最初の一人を探すかもしれないけれど。それ以外でゆかりに何かするのは、止められてないから」

 IAは私に対し、ARIAの力やテクノロジーを示し、地球人がどう反応するかの試金石にしている。しかし、IA以外が私に干渉してはいけないという決まりはないらしい。困った話だ。

「あなたたちは……いきなり地球で大規模に力を使うのは止められてるんでしたっけ」

「うん。地球の命にどんな影響を与えるか分からないから。だから、私は最初の一人にゆかりを選んだ。ゆかりは……迷惑?」

「凄い今更な質問ですね、それ」

 思わず笑ってしまう。

 私は鞄の中から小さな袋を取り出してIAに渡した。

「はいこれ、日曜日に出かけてきたときのお土産です」

「ありがとう。見ていい?」

「ええ」

「んー、これは……なめくじ?」

 不思議そうな顔をして、IAがぬいぐるみを眺める。

「ピカイア、だそうですよ」

 ナメクジのような姿をした古代の魚だ。

「それはまあ、迷惑かと言われれば迷惑ですが。好奇心が抑えられないのも本当のところです。……そういうものを買ってくるくらいには、あなたのことを嫌ってはいませんよ」

「ゆかりにしては正直だね」

「今回は疲れましたからね。嘘は在庫切れです」

 会話が止まる。でもそれは途切れたからではなく、今話したいことを話し終えたからだ。

 だから、次に考えることは一緒だった。

「帰ろうか」

「帰りましょう」

 IAが再び空間のカーテンを引き開けると、そこは見慣れた我が家の玄関だった。

 

  *

 

 地球ではない場所、今ではない時間。

 見渡す限り広がる花畑の中で、一人の少女が座っている。そしてその前に浮かぶ虹色のシャボン玉の中で、一匹の猫が腹を出してひっくり返っている。

 シャボン玉の中の猫が、口を開かないまま少女に語り掛ける。

「IAよ……。ONEの行動を黙っていてすまない。私にとってはお前もONEも大事な娘なのだ。だからどちらかを贔屓(ひいき)することはできなかった」

「分かってる。私はただ、ONEが世界の維持に失敗して、ゆかりに何かあったらって思っただけ」

「それは……無いだろう」

 猫ことチコーはシャボン玉の中で姿勢を正した。

「IA。お前から見ればONEは力の使い方も未熟かもしれないが、あの程度の世界を維持することくらいは十分に出来る。事実、結月ゆかりは多少の疲弊はすれど、無事だった」

「……私が気付くのが、もっと遅かったら?」

 ONEがゆかりを無人の世界に閉じ込めたのは日曜日の午後。海外で仕事をしていたIAは翌日の夜に家に戻り、ゆかりの不在に気付いた。

 ONEが作った世界を探すのは大変だった。特定の世界を探すというのは――三次元空間で例えれば――宇宙の中から特定の星をノーヒントで探すようなものだからだ。結局丸二日かけても見つけられず、ゆかりが自分を呼んでいる『声』を頼りに何とか見つけ出したのだ。

 チコーはまっすぐにIAを見て言う。

「もしもの場合は私が動いていたとも。ONEの行動を許した責任は取らなくては」

「だったらいいけれど……」

 IAが指を振るとシャボン玉が割れた。チコーが花畑に降り立つ。

「また成長したな、IAよ」

「これが……?」

 IAの心の中のもやもやは晴れない。それなのにチコーは成長だという。

「七色は赤や橙だけではない。青や藍、紫を知って(いろどり)を増す」

「紫……」

 IAの呟きを聞き、チコーは口を開かずにくすりと笑った。

「ONEはお前と違うアイディアを持っているはずだ。姉として心配するのもいいが、好きにやらせてやるのもいいだろう」

「私は何もしちゃ駄目なの?」

「まさか。きちんと見守るのだ。そして本当に必要な時、助けてやればいい」

「大変だなあ……」

 IAは人差し指にはめた指輪を見つめた。同じ指に指輪をはめているはずのゆかりからは何も伝わってこない。

「ゆかりもお姉ちゃんなんだっけ。今度、聞いてみようかな……」

 

  *

 

 無人の世界から帰ってきて三日後。土曜日の朝。

 IAは例によってどこかに出かけてしまっているので、のんびり本でも読みながら休もうと思っていたら、あかりちゃんから連絡があった。

「お待たせしました」

「いえ、そんな。急に呼んですみません」

「良いんですよ。暇してましたし」

 待ち合わせ場所のスターバックスに着くと、先に来ていたあかりちゃんは季節限定だとかいうフラペチーノを飲んでいた。この前、望が飲んでいたのと同じものだ。

「……私も同じのにしましょうかね」

「え、珍しい」

「まあ、たまには」

 注文したものが出来るまでの間、話は自然と職場のことになった。

「ゆかりさんがいなくて大変でしたよ」

「仕事は順調だったでしょう?」

 メールのやり取りを見る限り、普段とほとんど変わらなかったはずだ。

「そうですけど、そうじゃなくて……。メールやチャットだけだと寂しくて。もう、ゆかりさんがこの世界からいなくなっちゃったみたいでした」

 笑いそうになったが、流石にやめておいた。

「それは大変でしたね」

「他人事じゃないですよー」

 あかりちゃんはご機嫌斜めのようだ。

「お昼は他の人たちと食べたんですけど、何だか緊張しちゃって。皆さん優しいんですけどね。おかずとか沢山くれますし……」

「想像できますね」

「どうしてゆかりさんと一緒の時は大丈夫なんでしょう。あっ、その、尊敬してないわけじゃないんですよ。むしろすごく頼りにしてます」

「本当ですか?」

「本当です! もう、からかわないでください」

 あかりちゃんはそこで言葉を切り、私の方をじっと見た。

「……顔に何かついてますか?」

「いえ。その、ちょっと恥ずかしいんですけど……お姉さんがいたら、こんな感じなのかなあって」

「あかりちゃんは一人っ子でしたっけ」

「そうです。ゆかりさんは……弟さんがいるんでしたっけ」

「ええ。双子の弟です」

「え、それは初めて聞きました。どんな人ですか?」

 望のことを人に聞かれて、最初に答えることと言えば決まっている。

「何でもできるタイプですよ。勉強も運動も、人付き合いも得意です。今は札幌で医者になるために勉強をしています」

「す、すごいですね」

「全くですよ。小さいころから差を感じてばかりです。私が習い事や趣味を始めても、後から始めた弟の方がすぐに上手くなってしまうんです。むしろ私が教わるばっかりで、どちらが姉だか……」

 と、そんな風に弟の優秀さを語る自分の言葉が、何かを思い出させた。

「ゆかりさん?」

「……まあそんなわけなので、別に生粋の姉ってわけではないんですよ、私は」

「そ、そうでしょうか……?」

 その時、私の注文番号が呼ばれた。これ幸いと立ち上がる。

 優秀な兄弟への複雑な感情。彼女をからかいたくなったのは、その所為だったのだろうか?

 次に会ったときはもう少し優しくしよう。そう思いながらフラペチーノを受け取る。

 席に戻り、ストローに口をつけた。

「……この季節には冷たくないですか、これ」

「それがいいんですよ」

「うーん。ホットコーヒーも頼んできます」

 私がぶつくさと文句を言っていると、あかりちゃんは笑ってこう言った。

「やっぱりお姉さんっぽいですよ、ゆかりさん」

「……どの辺がですかね?」

「内緒です」

 姉らしさとは一体。少なくとも、今の私のように疑問符を浮かべている様子ではないだろう。

「教えてください。一口あげますから」

「同じじゃないですか。駄目ですよ」

「そこをなんとか」

「ふふふ、駄目でーす」

 私がきちんと姉らしく育っていれば、こんな時に上手く聞き出せただろうか。

 となるとやはり、やんちゃな妹を持っている姉を見習った方がいいだろう。私は今度、IAがどんな風にONEと接しているかを聞くと決めた。

 



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