[パッチワーク・オブ・ドリーム]ハリボテエレジー育成シナリオ (ターレットファイター)
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[ハリボテエレジー登場!]―ジュニア級・4月
[ハリボテエレジー登場!]その1
子供の頃の夢は、ウマ娘だった。トゥインクル・シリーズで活躍するウマ娘になることが夢だった。
ウマ娘のようにどこまでも速く駆けたい。
ダービーやオークス、宝塚記念や有馬記念みたいな大レースに出たい、そして勝ちたい。
それが、将来の夢だった。
――だけど、健康診断の結果と、小学校で身近な場所にはじめて現れたウマ娘の存在は、そんなものにはなれないということを私に教えてくれた。
だからわたしは、トレーナーの道を選んだ。
――夢を観た。
それは、あるウマ娘の夢。
レースで最後方に陣取り、最終直線での追い込みを図るウマ娘の夢。
速度は十分。レース中盤までは狙い通りの位置で後半へ向けて脚を溜める。そして、終盤にかけてスピードを上げ、ゴール前では先頭に立つ。
第三コーナー――レースが終盤に入る曲線の入口。前を行くウマ娘たちの背中を見ながらじわりと速度をあげる。
その瞬間、体がぐらりとカーブの外側へ振られる。腰のあたりで何かが裂ける音――
「――トレーナー君? トーレーナーくーん?」
ターフの上の景色が一瞬で消える。一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。
目をしばたたかせると、目の前にウマ耳を生やした茶色い髪の少女が――私が担当しているウマ娘――アグネスタキオンが全身から湯気を立ち上がらせながら不審げに私の顔を覗き込んでいる。
その顔を見て、ようやく今の状況を思い出した。タキオンの朝練に付き合って、走り込みのラップタイムを測っていたのだ。
「あっ! ラップタイム!」
手元のストップウォッチを見ると、ストップウォッチは無情にもラップタイムを切らずに時を刻み続けていた。
「ごめん、押し忘れてたみたい」
走り込み後の柔軟体操をしていたタキオンは肩をすくめると、不意に眉をひそめた。
「……押し忘れなんて君らしくないな。それに今日は随分と浮かない顔をしている」
タキオンが心配するというのはよほどのことだ。どうやら、わたしはそうとうひどい表情をしていたらしい。
「まあ……ちょっと、嫌な夢を見ちゃってね」
「ふぅン? 夢というのは無意識下のものが発露したものだとも言われている。君のパフォーマンスにそこまで影響を与えるなんて、どんな夢なのか興味があるね。聞かせてくれたまえ」
そして彼女が、担当トレーナーのひどい表情の原因に興味を持たないはずがなかった。
「ふぅン……」
わたしが見た夢の話を最後まで聞き終えると、タキオンは目を伏せて考え込む。
「ウマ娘になる夢というと……強い活力とかエネルギーに対する憧れの反映、体がバラバラになる夢というのは極度の疲労や混乱した状況の反映と一般的には言われてるが……君、そうなのかい?」
「そうなのかい、って言われてもなぁ……」
強い活力とかエネルギーに対する憧れはともかく、疲労や混乱状態に関してはさっぱり心当たりがない。むしろ今は、一段落して少しゆっくりしているくらいだ。
アグネスタキオンは去年の暮れに有馬記念、そしてほんの半月前にはURAファイナルズの中距離でも優勝して「最初の三年間」で十分な成果をあげて一段落。トゥインクル・シリーズに残るか、ドリーム・トロフィー・シリーズに移籍するかという話にしても今のところ移籍の方向でまとまりつつある。
「ふむン……。やはりこのあたりは当てになるか微妙なところだねぇ」
私の答えに、タキオンはそう言って首をかしげる。
去年の有馬記念以来、「精神的な要素が走りに与える影響」に興味を持ち出したタキオンは、心理学から占いの類まで、およそ精神に関係しそうなものなら分野を問わずに資料を集めて、その成果をわたしで試していた。今持ち出してきたのは、夢占いか何かの本から得た知識だろう。もっとも、そちらの方向での成果は今ひとつのようだったが。
「タキオンはウマ娘の夢を見たことはあるの?」
「私かい? 子供の頃から何回かそんなことはあったが……」
わたしの質問にタキオンはそう答えたあと、わずかに首を傾げてふと思い出したように呟いた。
「……そういえば、たいがいのウマ娘は一度はそういう夢を見ると聞いたことがあるね」
「そうなの?」
「ああ。そういえば、奇妙なことにその夢に出てきたウマ娘がレースでのライバルになることが多いという話もなにかの調査で――」
タキオンがそう言いかけたところで、チャイムの音が鳴り響く。朝の予鈴――ホームルーム十分前、八時の鐘だ。
「おや、もうこんな時間か。……トレーナー君、片付けはおねがいするよ」
「もちろん。行ってらっしゃい」
校舎までの距離を考えると、今すぐに出れば少しぎりぎりになるもののホームルーム前には教室にたどり着ける。確か、今日のホームルームで提出しないといけない書類があったはずだ。
「……あれ?」
しかし、コース脇の待機スペースにタキオンの通学カバンが置きっぱなしになっていた。
「桐生院さん、ちょっとお願い! タキオンを追いかけてくる!」
トレーニングの後片付けをしていたらしい同僚のトレーナーに声をかけると、グラウンドを飛び出す。
時計を見ると現在時刻は八時九分。ホームルーム開始まであと一分を切っている――今から走っていけば八時半に始まる一時間目の前には教室に届けられるだろう。
ひどい夢見に反して、今日は随分と体が軽かった。駆け足くらいのペースのつもりで走っているのに、視界を流れていく景色の速さは全速力のときでさえも見たことがないほどに速い。そのうえに、まだペースは上がっていく。
寮と校舎を結ぶ通路に出る頃には、自分でも驚くほどの速さになっていた。遅刻ギリギリで走っているウマ娘たちを追い越し、あっという間に校舎の前にある三女神像が見えてくる。なにか珍しいことでもあったのか、校門前でたずなさんが目を丸くしている。
少し意外なことに、タキオンはまだ校舎に入らず、三女神像のあたりにいた。
「タキオーン! 忘れ物!!」
タキオンのカバンを掲げながらそう叫ぶと、とても驚いた様子でタキオンがこっちを見た。かなり驚いているらしい――目を大きく開け、口をぱくぱくさせているのが遠くからでもはっきり見えた。実験でとんでもない結果が出たときのような興奮した様子ではない、どちらかと言うと、とんでもない不意打ちを受けたときのような表情だ。
「トレーナーくん! いったいどうしたんだい!?」
「忘れ物を届けに来た! 提出する書類は入ってる?」
「ああ……うん、入ってるね……」
ぎこちない手付きで、鞄の中を改めたタキオンが頷くと同時に、チャイムが鳴った。
「あれ、もうこんな時間? タキオン、もう一時間目が始まるんじゃない?」
けっこうなペースで走ったつもりだったが、実際にはそれほどでもなかったらしい。一時間目にも間に合わなかったということは、それどころか随分と時間がかかってる――そんな考えを見透かしたのか、タキオンが呆れたようにため息を付いた。
「……いまのはホームルームのチャイムだよ」
「え?」
さすがに、そんなことはないだろう――そう否定しようとするのを制するようにタキオンはわたしとの距離を詰めながら問いかける。
「それよりトレーナーくん……君、トレーニングコースを飛び出した時刻は覚えているかい?」
「うーん……ホームルームの鐘が鳴るまで一分を切ったあたりかな」
そう答えながら右手にはめた腕時計をちらりと確かめる。――もしかして、腕時計の時間が狂っていたのだろうか? だとしたらどこかで修理に出しておかないといけない。腕時計が示す時刻は八時一〇分をちょっと過ぎたあたり。ということは十分以上は時間がずれていることになる。
その一方で、タキオンはほとんど触れんばかりの距離で顎に手を当てて考え込む姿勢になっていた。
「ふむン……ここからコースまではざっと八百メートル……ヒトのその距離での世界レコードは確か一分と四十秒少々だったか……それくらいののペースなら差は一分程度、分針の位置を見間違えた程度で済むか……なあ、トレーナー君、君、実は陸上の中距離走でヒトの世界レコード並みのタイムを叩き出せる豪脚の持ち主だったりしないか?」
「へ?」
突拍子もないといえば突拍子もない質問に思わず首を傾げてしまう。
「いや、そんなことはまったくないけど……」
確かに、子供の頃はどちらかといえば脚は早い方だったが、それはせいぜいクラスの中で上位集団に入れるという程度のものだった。陸上部で大会に出るような同級生にはとうてい脚の速さではかなわなかった。ましてや、ウマ娘に追いつけるような脚ではないことは小学生の頃にさんざん思い知らされている。
「ちょっと君の腕時計を見せてくれたまえ」
そう言うと、タキオンは答えも聞かずにわたしの手を取って腕時計を覗き込む。わたしのことなどお構いなしに、時計塔の時計と腕時計を見比べたり、いろいろと角度を変えながら腕時計を観察する。
「デジタル時計となると針の見間違いではない……電波時計……時計塔の時計との誤差は殆どないな、これは……なあトレーナー君、もう一度聞くが……コースを出たのは八時九分を過ぎてからだったんだね?」
「まあ、この腕時計が正しければそういうことになるけど……」
わたしの答えを聞いて、タキオンはため息をついて額に手を当てる。わたしの腕時計が壊れていたことがそんなにショックだったのだろうか……?
そんなことを考えた拍子に、周囲のざわめきが耳に入ってきた。もうホームルームが始まっているというのに、やけにざわめきが大きい。たずなさんもどう対応したものか困った様子でこちらを見ていた。
「これは……さすがのわたしでもにわかには信じられないな……。ううン……けれども、いや、やはりあの走りを考えればこちらのほうが筋が通るが……」
「タキオン……?」
さすがに、遠巻きにざわついているのを見てると少し不安になってくる。トレーニングコースを出たあとにタキオンはまたなにか実験でもしていたのだろうか。だとしたら今日はお詫び行脚の日になるだろう。
そんなわたしの様子に呆れたのか、タキオンがもう一度ため息をつく。
「君、かなりとんでもないことをしたことになるぞ」
「え?」
「つまりだ、八百メートルをおよそ一分足らずで走り抜けたことになるぞ。四ハロン五十秒台、それもたぶん五十秒台前半のタイムということになる」
レース直前での追いきりであれば、よく仕上がったウマ娘の場合四ハロン八〇〇メートルのタイムの目安はおよそ五十二秒程度――四ハロン五十秒台前半というのは、それに迫るタイムを意味していた。
というわけで、読者にはバレバレですがタキオンのトレーナーはウマ娘になってしまいました。
次回は生徒会室で諸々のお話です。夕方に投稿するか、明日投稿するか、月曜日に投稿するかのどれかになると思います。
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[ハリボテエレジー登場!]その2
「――結論から言おう。手作トレーナー、君はウマ娘だ」
そう告げたシンボリルドルフの言葉には、はっきりと困惑の色が出ていた。
「……はい?」
けれどもそれは、言われたわたしからしても同じことだ。
そもそも、なんでこんなことになっているのかも飲み込めていないのだ。
放課後の生徒会室でシンボリルドルフと一対一――ほとんど生徒会室にいないナリタブライアンはともかく、エアグルーヴにまで席を外させてというのはそうとう重要な話だというのはわかるが、そんな話をされることになったのもよくわからないのだ。いや、されるとすれば朝の一件もあってサポート科の施設やら練習コースでの走り込みやらと今日一日かけて受けさせられた検査に関することなのだろうが、それにしたって自分が実はウマ娘だったという結果を聞かされることになるとは予想もしていなかったのだ。
思わず自分の頭のてっぺんあたりを何度もなでてみるが、当然そこにウマ娘の耳は生えていない。
「……生まれたときから耳は生えてなかったのですが」
「うん。そうだろうね。過去の検査記録でも、君はウマ娘ではないと診断されていた」
なんとかひねり出した答えに、シンボリルドルフはあっさりと答える。
「トレーナーであるなら当然『本格化』については知っているだろう?」
「ええ。ウマ娘がその能力のピークを迎え、競技者として開花する時期のことですよね?」
「ああ、そのとおりだ。そして、基本的に本格化は十代の半ばで起こる。――けれども、二十代になってから本格化を迎えるウマ娘も稀にいることは知っているね?」
「ええ。それほど事例はありませんが、そういう例があることは。ですが……その場合でも、もともとウマ娘であることが判明していた事例ばかりだったと記憶していますが」
「うん。そのとおりだ。とはいえ、ウマ娘の体についてはまだまだ未解明の部分も多くあることは知っているだろう? 極めて――本当に極めて稀に、成人してからウマ娘だと診断される事例もあるんだ」
「それは……確かにそのとおりですが」
確かに、そういう事例が極稀にあるというのはトレーナー育成学校のテキストのどこかに書いてあったような気がする。とはいえ、それも極めて稀で、そういった事例に出くわすことはまずないだろうと思っていた。ましてや、自分がその事例になるなどと考えたこともない。
「つまり……診断から漏れていただけで、わたしもウマ娘だった、ということですか」
「うん、そういうことだ。手作トレーナー」
ようやく事態を飲み込めたわたしの答えに、シンボリルドルフはあっさりと頷く。
子供の頃、ウマ娘になりたかった……そんな夢を抱いていたことが不意に頭をよぎる。ということは、気づかなかっただけで夢の一部はとっくにかなっていたんだな。自分の中のどこか冷静な部分がそう囁いていた。
とはいえ、ウマ娘だからといって誰もがレースに出られるわけではない。出身地では誰もかなわないような天才が――並みのウマ娘よりも遥かに素晴らしい才能を持つウマ娘の大半が大した結果を残せずに引退していく、それがレースの世界であることを子供から大人になるまでの間に知ってしまっていた。
だから、ウマ娘だとわかったところで、それだけのことなのだ。夢が叶うわけではない。
しかし、話はそれで終わりではなかった。
シンボリルドルフが次に放った言葉は、検査結果以上の特大の爆弾だった。
「さて、それでこれからのことなのだがね。手作トレーナー――トレセン学園に、編入入学する気はないかな?」
「……はい?」
「つまりだね、君にはトゥインクル・シリーズで活躍できるだけの素質があるということだ」
シンボリルドルフは手元の書類に軽く目をやりながら言葉を続ける。
「練習コースでのタイムを確認させてもらったよ。……その結果を見る限りでは、君の脚は十分に将来有望だ。レースに出ても十分にやっていけるだろう」
それはつまり――子供の頃に抱いた夢への道が、また開かれたということだった。
けれども、そんなことをいきなり言われたとしてもすぐ飲み込めるわけがない。
「考えさせて……ください」
そう答えるのが精一杯だった。
「そうだろうな。……即決できる話ではないだろうから、今すぐ答えなくてもいい。こちらとしても根回しなど準備がある」
それを見透かしたように、シンボリルドルフはそう言って柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます」
即決を求められなかったことに安堵して、生徒会室を辞そうと腰を上げる。
とりあえず、どうしよう――。
仮にトウィンクル・シリーズに出るとなるとトレーナーとしての業務にも影響が出るからとりあえずはタキオンに相談、あとは誰か同僚にも意見を聞いてみよう、桐生院さんあたりに聞いてみようか……。そういえばトレーナーとレース選手の兼業は認められるのだろうか。ようやく最初の衝撃から回復した頭が、これから先にすべきことのリストアップを始める。
しかし、彼女はわたしに、最後まで息をつかせる気はないようだった。
「手作トレーナー」
ドアに手をかけたわたしに、シンボリルドルフはゴール前の末脚のように、さらなる爆弾を投げ込んできた。
「――できればぜひ、君にはトゥインクル・シリーズへと出走して欲しい」
どきり、と心臓が跳ねる。確かに、さっき行った会長との併走ではゴール前であと一歩のところまで届いてはいた。だが、それはあくまで彼女がわたしの素質を測るためにある程度手を抜いてくれたからであり、わたしの実力を示すものではないと思っていた。
「君と併走してみて、君の末脚は相当なものだと思い知らされたよ。うっかり、にしてもあそこまで迫られるとは思ってもみなかった。油断大敵、レースなら負けていたかもしれない」
それが、彼女の意図したものではなかったとは――わたしが担当になる前、タキオンと並走したときのように、彼女も本気を出していたのだとは思ってもいなかった。
「君の素質はアグネスタキオンに負けずとも劣らない――いや、ひょっとしたらそれ以上かもしれない。クラシックレース、あるいはティアラ路線、それにシニア級以上のGⅠ――君の脚は、最上の格付けを持つレースでの勝負ができるほどの素質を持っている。そのことは、私が保証しよう」
タキオンと同レベルかそれ以上――それは、現役のウマ娘の中でもトップレベルの一角たり得るの脚ということだった。
「そう……ですか。検討してみます」
だが、気持ちはなかなか追いついてこない。そう答えることが精一杯だった。
「ああ。根回しをして待っているよ」
そう言いながら、シンボリルドルフの目は期待すべきウマ娘を見つけたときのように爛々と輝いてた。
「では、改めて失礼します」
今度こそ退室しようとドアノブを回す。その背中に、シンボリルドルフの声がかけられた。つくづく、彼女の仕掛けどころの選択のうまさを思い知らされる。
「ああ、そうだ、手作トレーナー。君が継承した想いの名前も伝えておかないといけないな――」
そういえば、書き忘れてましたが主人公の名前は手作さんです。チューリップ帽子がよく似合う手先の器用な長身の女性です
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[ハリボテエレジー登場!]その3
「……まったく、君のおかげで大変なことになったよ」
わざわざ待ち構えていたらしいアグネスタキオンは、わたしがトレーナー室に入るなりそう言ってため息をついた。
「君の走りのおかげで私まで今日一日尋問だ。おまけに、これまで溜め込んだ実験データを洗いざらい吐き出させられた挙げ句『さっさと論文を書け』だ……。まったく、そんな時間はないというのに……まあ、そのおかげでドーピングなどでもなく、私の試薬が無関係だと確認されたわけだが」
「あれ、タキオンの試薬は関係なかったの?」
「当たり前だ。ドーピングほどしらける行為はないからね」
給湯器に残っていたお湯で淹れた紅茶を受け取りながらタキオンは肩をすくめる。「ただの人間をウマ娘に変えられる薬など、どう考えてもドーピングだ。興味もないよ」
山盛りの砂糖を紅茶に注ぎながらタキオンはすっと私の顔を見上げる。
「まあ、それはいい。……トレーナー君、君はどうするつもりなのかな?」
「どうするって?」
「決まってるじゃないか、トゥインクル・シリーズへの出走だよ。会長に呼び出されたのもその件だろう?」
そう言うタキオンの目には、はっきりと期待の色が浮かんでいた。
その色から逃げるように、思わず目を伏せる。
「そうなんだけどね。……少し、迷ってるんだ」
「迷ってる? どうしたんだい?」
「……子供の頃は、トゥインクル・シリーズに出るのが夢だったんだ」
「ふむン?」
わたしが向かい側の椅子に腰を落とすと、タキオンは興味深そうに話の続きを促す。
「けれど、わたしはだのヒトの女の子だった。だから、トレーナーになったんだ」
そう、子供の頃はわたしも将来はウマ娘としてトゥインクル・シリーズに出るのだとずっと張り切っていたのだ。小学校に上がるくらいまではかけっこなら誰にも負けなしだった。
けれども、わたしにはウマ耳も、しっぽも、受け継いだ思いもなかった。
――タキオンのように、恵まれた脚もなかった。
小学生の時にはじめて出会ったウマ娘は、その存在をもってウマ娘とただのヒトの女の子の違いを教えてくれた。
ただのヒトの女の子では、どうあってもウマ娘の脚にはかなわないということを、彼女の背中に思い知らされた。
そして、進学先としてトレセン学園を選んだ彼女は――地元では敵なしという程度の脚ではとてもトゥインクルシリーズで活躍できないということをその戦績でもって教えてくれた。地元を出るときにはとても大きく見えた彼女の背中は、未勝利戦にすら勝てなかったという戦績とともに帰ってきたときにはしぼみきっていた。
――それでも、自分がウマ娘になれないのだとしても、たとえウマ娘だったとしても、ライブでセンターを飾れるような強豪になれるとは限らないのだとわかってもなお、わたしはウマ娘に関わる場所に行きたかった。
だから、トレーナーを目指したのだ。そのはずだったのだ。
「――それが急に実はウマ娘でした、しかも素質は抜群ですって言われてもね」
トレーナーとして、タキオンにこんな弱音を漏らしてもいいのだろうか、そんな迷いが一瞬だけ頭に浮かぶ。
けれども、言葉は止まらなかった。
「……子供の時見た夢に、わたしはまた手を伸ばしていいのかな、タキオン」
「ふぅン……君がそう言うなんてな……」
タキオンは目を細めて、じっとわたしを見つめるとぽつりとつぶやいた。タキオンの目が、狂気的な欲望にとりつかれた悪魔のような色を奥底にたたえた目が、正面からわたしへ向けられる。
「――『君と一緒に果てが見たい』」
「え?」
その言葉に、その目の底にある吸い込まれるような色に、どきりと胸が跳ねる。
「君の言葉だ。月桂杯のときに――それと、スカウトしたときに君が言った言葉だよ。そのままお返ししよう」
そう言ってタキオンは蠱惑的に微笑む。
「君のせいなんだ。君がそう言ったから――そのおかげで、諦めかけた夢をもう一度追いかけることになってしまった」
それは、巧妙に契約を迫る悪魔のような――あるいは、なにかキラキラ輝くものを見つけた無邪気な子供のような表情だった。
「だからね、トレーナー君。君がウマ娘になったのなら……その果てを私は見てみたいのさ」
「そっか……うん、ありがとう」
その言葉は、わたしの迷いを一瞬で吹き飛ばしてくれた。
「明日、会長に返事するよ」
速さの果てを目指すなら、タキオンが駆けてきた途を私も辿るだけだ。
「トレセン学園への編入入学をして、トゥインクル・シリーズを目指す」
「そうか。楽しみにしてるよ」
私の答えに、タキオンはほっとしたように笑みを浮かべた。
「タキオンこそ、ドリームトロフィーリーグ、頑張ってよ」
「あぁ……そうだったね」
わずかに面倒なことを思い出したような、迷いのある曖昧な相槌を打ってタキオンが腰を浮かせる。
「そういえば、トレーナー君……君が継承した想いは、どんな名前だったんだい?」
「……ハリボテエレジー」
それが、わたしの手の中に舞い込んだ夢の名前。
「それが、新しい私の名前だって」
そして、変則的な形で私のトレセン学園生活が始まることになった。
学籍上はトレセン学園の研究科――高校卒業後もトゥインクル・シリーズに残るウマ娘のために便宜上学籍を残しておくための学科に編入。授業は免除されるので、他のウマ娘たちが授業を受けている時間を使ってタキオンのトレーナーとしての業務を続けながらトレセン学園の生徒としてトゥインクル・シリーズを目指すという形だ。
「桐生院さん……いえ、桐生院トレーナー、よろしくおねがいします」
「こちらこそ、手作さん……いえ、ハリボテエレジーさん」
そして、選抜レースを待たずにスカウトしてくれた桐生院葵――同僚のトレーナーが私の専属に付くことになった。そして、彼女のサポートとしてサブトレーナーがもうひとり付く事になるとは聞かされていたが――
「……それでなんでタキオンがトレーナーのバッジをつけてるの!?」
「トレーナーじゃないよ、トレーナー補だ」
――それがタキオンだとは思ってなかった。
「どうして!?」
「サポート科の単位も取っていてね。実務経験を積むために、彼女の助手をさせてもらうことになったのさ」
わたしの疑問に、タキオンはしれっと答える。専属契約後はタキオンは落第しない程度の成績は確保するようになっていたから、学科に関しては彼女の自由にさせていた。なので、彼女がサポート科の内容までカバーしてるとは全く知らなかったのだ。
「えぇー……?」
「おや、学園一の問題児にしてクラシックレースとグランプリを含むGⅠを複数勝利、さらにURAファイナルズ制覇ウマ娘の指導は嫌かな? ハリボテエレジー君」
「そうじゃないけど……」
「なら決まりだ。よろしく頼む……ああそうだ、トレーナー君。ドリームトロフィーリーグへの移籍はなしだ。書類は後で取り下げておいてくれ」
「え!?」
「気が変わってね。そうだね……三年ぐらいはトゥインクル・シリーズで走ることにした。手続きを頼むよ」
そうして――私にとっての、ハリボテエレジーとしての「最初の三年間」が始まった。
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[間章・その脚に満ちた可能性]
[間章・その脚に満ちた可能性]
――放課後、日没も近くなった頃。
人気のないグラウンドで、ハリボテエレジーとシンボリルドルフの併走が行われていた。
トゥインクル・シリーズ、そしてトレセン学園に君臨する圧倒的な実力者であるシンボリルドルフとトレセン学園への編入入学を許された異色のウマ娘であるハリボテエレジーの併走――公にされていれば、相当数の観客を集めていたであろうそのレースは、行われることそのものを極力知られないようにしたシンボリルドルフの配慮のおかげか観るものはほとんどいなかった。
「ふぅン……」
その数少ない例外――関係者であるがゆえに併走が行われることを知っていた私――アグネスタキオンは観客席から走る二人を双眼鏡でじっと見つめていた。
リードを保ちながら走る会長の後方をハリボテエレジーが追走する形。その実力を計るため、あまりに引き離しすぎないよう会長が走っているのは間違いないだろうが、だからといってハリボテエレジーの脚が並外れて遅いというわけではない。
ハナを奪って前目につけるのでなければ、実際のレースでも条件戦であれば十分と言えるような速さで会長を追っている。
その脚は――ヒトの脚力としてなら規格外、ウマ娘としてならトレーニングを行っていないことを考慮に入れるならまあ優秀と言えるレベル。
しかし、トレセン学園の生徒としてみれば群を抜いて優秀と言えるほどのものではない。「本格化」を迎えたばかりであることを考えればこれからの伸びしろは見込めるが、それほどの素質があると思わせるほどではない走り。
私が見たときの走りはあんなものではなかったはずだが――
忘れ物を届けようと猛ダッシュをしていたときの彼女の走りは、あんなものではなかった。本来ならばもっと速いはずなのだが――。
内心で首を傾げている間にも、二人は向こう正面を通過し、コーナーに差し掛かる。
それと同時に、ハリボテエレジーの走りが変化した。
ぐい、とギアを上げたようにハリボテエレジーが加速する。逸走しかねない速度でコーナーへ突っ込み、会長との差を一気に詰める。速度を上げる会長に食らいつき、大きく外へ膨れながらもコーナーを曲がる。
双眼鏡の視界の中で、ハリボテエレジーの顔がこちらを向いた。三年間、ウマ娘とトレーナーとして向かい合ってきた瞳がこちらを見る。
その瞳は――夢見た世界に足を踏み入れ、熱に浮かされている無邪気な少女のようであり、荒野で猛る猛獣のようでもあり――
――呼吸も忘れるほど、魅せられる色をしていた。
「ふぅン……」
最終直線に入ると同時に瞳に浮かぶ色はますますその濃さを増し、そしてハリボテエレジーがさらに加速する。
シンボリルドルフを抜き去り、驚異的な末脚でリードを広げる。
「すごい……」
思わず漏れたそのつぶやきは、隣で観戦していた桐生院葵のものだった。その声に釣られるように、すっかり忘れていた呼吸を思い出し、そっと息を吐き出す。
ゴール前でトレセン学園随一の実力者の意地を示したシンボリルドルフがなんとかハリボテエレジーを差し返したところで双眼鏡を下ろすと、桐生院葵と目が合った。
「タキオンさんはどう思いました? 彼女の走り」
「そうだね――ゾクゾクするね」
軽く目をそらし、グラウンドの方を見やりながら答える。トレーナーは――ハリボテエレジーは、シンボリルドルフと肩を並べてクールダウンのジョギングをしていた。
――私も、一緒に「果て」が見たい。
かつて、彼女が私をスカウトする時に口にした言葉と、狂気に染まった彼女の目の色が頭をよぎる。
「誰もたどり着き得なかった『果て』を私が見せてやる――か」
そして、それに応えた己の言葉も。
「なあ……桐生院くんはトレーナーくんの――いや、エレジーくんの走りをどう見たのかな?」
「そうですね……」
桐生院葵はわずかに目を伏せて考える仕草を見せたあと、断言する。
「その……彼女さえ良ければ、ぜひスカウトしたいと思いました」
「ふぅン……」
定説では、ウマ娘の最高速度は時速約七十キロ、ヒトの最高速度はおよそ時速四十五キロ。その間にある溝は、けして埋めることのできない、深くて広い溝だ。
だが彼女の脚は、可能性の果ての手前にあるその谷を間違いなく飛び越えてみせた。
可能性だ、あの脚は、あの身体は――可能性に満ち満ちている。
ハリボテエレジーの――トレーナーの――あのとき、ともに「果て」が見たいと宣言し、
彼女の可能性の果ては、遥か彼方にある。
――ハリボテエレジーはもっともっと、速くなれるはずだ。
その可能性の果てを見たい――あるいは、かつて約束したように、ともにウマ娘の速さの可能性の果てをともに見たい。
あの脚を、あの脚がウマ娘の――あるいはヒトの速さの果てのその先にたどり着くのを見たい
そのためには、レースで――それも、できるだけ大きいレースでともに走ることが一番の近道だ。あの脚ならば、彼女はトゥインクル・シリーズへと出走することができるだろう。ならば、彼女が大きいレースへ出走するまでは――彼女と同じレースに出ることができるようになるまでは走り続けよう。
いや、レースだけではない。トレーニングでも、練習試合でも、彼女の走りのすべてをその目に焼き付け、データを取り尽くしたい。
そのために、必要なものは――
「なあ、桐生院くん」
体の奥底からこみ上げてくる震えをさとられぬよう、なるべくさり気なく聞こえるような口調でアグネスタキオンは桐生院葵に声をかける。
「君はハッピーミーク君の専属トレーナーも続けるのだろう?」
「ええ。そのつもりですが……」
「二人のウマ娘を同時に面倒を見るのはちょっと大変ではないかな?」
「それは……いえ、大丈夫だと思いますが。学園に頼んで、誰かトレーナー補をサブトレーナーとしてつけてもらうつもりですから」
「ほう、そうかい」
その言葉を聞きたかった。思わず浮かんだ笑みに、桐生院葵が首をかしげる。
おそらく、その目に映っているアグネスタキオンの瞳にも――かつて、トレーナーが担当を申し出てきた時に目に宿していたような光が浮かんでいるのだろう。
幸いなことに、理論の参考として、あるいはプランBを取ることとしたときに備えて取得しておいたサポート科・トレーナー育成課程の単位は、トレーナー補の資格を申請するために必要な単位数を満たしていた。
「では――GⅠレースとURAファイナルズでの優勝経験もある、現役ウマ娘のトレーナー補はいかがかな?」
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[デビュー戦に向けて]ージュニア級・7月
[デビュー戦に向けて]その1
トゥインクル・シリーズに出走するウマ娘にとっての初陣であり、ここで勝てるかどうかはレースに出走するウマ娘にとってその後を決める大きな分岐点となる。
ここで勝利することができれば次は勝利数でクラス分けされた条件戦、あるいはそれよりも上のクラスとなるオープン戦や条件戦へ。
ここで勝てなければ一勝を収めるまでは未勝利戦へ。未勝利戦でも勝てないレースが続けば――大半のウマ娘はそこで引退。
メイクデビュー戦も未勝利戦もそこから勝ち上がれずに終わるウマ娘のほうが多い。
現に、トレーナー補として、他のトレーナーを補助するサブトレーナーとして面倒を見てきたウマ娘たちも、勝ち上がってトゥインクル・シリーズで栄光を掴んだ娘のほうが圧倒的な少数派なのだ。
だから――メイクデビュー戦直前の本バ場へ続く地下バ道の雰囲気は、他のレースとは違って独特の雰囲気に包まれる。
初陣を前にした熱気。目の前のレースに向けて、ウマ娘たちの間から闘志が発散される。
トレセン学園に入学するウマ娘は日本中のウマ娘のおよそ五パーセント。全員が、徒競走に関しては地元では負け知らずの強豪たちだ。走りに自信があるからこそ、トレセン学園を進路に選び、トゥインクル・シリーズでの栄冠を夢見る。
そして――勝てなかったら、というほんのわずかな不安。
トレセン学園に集うのは徒競走に関しては地元では負け知らずの強豪たち。必然的に、ただの強豪ではいともたやすく埋もれてしまう。トレセン学園に入学すれば、そういった自分より遥かに強い強豪たちがいることを否応なしに突きつけられる。後にクラシックやシニア級GⅠで活躍したウマ娘であっても、それは変わらない。
トレーナー補として、あるいはトレーナーとしてこれまでに何度も目にしてきた光景だ。
「さて、エレジー君。調子はどうかな?」
「……うん、大丈夫」
傍らに立つタキオンの問いかけに、静かに頷いてみせる。本当のところは、ほかのウマ娘たちと同じように不安な気持ちは湧いてきていた。けれども、それを表には出せない。表面上だけは自信ありげに振る舞うしかない。今まで見てきたウマ娘たちと同じだ。トレーナー補になったばかりの頃はなかなかそれに気付けなくて苦労したし、不安ならそう言ってくれたほうが励ませるのにと思っていた。けれども、現にその立場になってみると確かにこう振る舞うしかない。
「……タキオンはメイクデビュー戦のとき、不安になったりしたの?」
「私かい? いやぁ、そんな事は全然なかったね。むしろ、早く終わらせて、研究を進めたいとじれったく思っているくらいだったよ」
「……まあ、タキオンならそうだよね」
タキオンの答えに、思わず肩の力が抜ける。
三年間トレーナーとして接してきてわかったことだが、このウマ娘にとってレースでの勝敗など、研究のための過程に過ぎないのだ。名高い一族の「最高傑作」と呼ばれ、それだけの才があることを自覚していた彼女にとってメイクデビュー戦とは勝って当たり前のレース。すでに意識はその先へ向いていたのだろう。逆にそこまで自信満々に返されると、なんだか不安に思っていたことが馬鹿らしく思えてしまうくらいだ。
「なあに、そこまで硬くなることはないさ。君の可能性の果てはこんなところじゃないんだ」
タキオンの隣に立つ桐生院さんも頷く。メイクデビュー戦までの数ヶ月の間に、こういうときはわたしとの付き合いが深く、併走相手もできるタキオンが普段のトレーニングの様子や指導を行い、桐生院さんはトレーニングメニューの決定や出走レースの選定など経験が必要な分野を受け持つという形の役割分担が成立していた。
「……うん。ありがとう」
そう言って頷くと、タキオンは「うん、それでいい」と言って笑みを浮かべた。
地下バ道の出口までやってくると、タキオンと桐生院さんは足を止める。
「さあ、行ってくるんだ」
トレーナーがついてこれるのはここまで。ここから先の本バ場へ出れるのは、出走するウマ娘だけだ。
「うん……そういえば、いつもとはあべこべだね」
今までは、ここで足を止めるのが
「ふふ、そのとおりだね」
愉快な冗談を聞いたように、タキオンが笑みを浮かべる。
「でも、これからは私が君を見送る場所になるさ。さあ、行きたまえ、トレーナー君……じゃなかったな、ハリボテエレジー君」
だが、これからは、
「――うん、行ってくる。いってきます」
小さく手を降って、地下バ道のなかと比べてまばゆいばかりの光に満ちた本バ場へ踏み出す。吹き付けてきた風が、未だにウマ耳の生えない頭を撫でる。
「――広い」
本バ場の空は抜けるように青く、そして広かった。
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[デビュー戦に向けて]その2
東京レース第五レース・芝一八〇〇メートル
晴れ渡る空のもと行われるメイクデビュー戦。
応援投票券の投票はわたしたちが地下バ道に入る直前に締め切られ、何番人気かはすでにわかっている。
三番人気はオユマルネンド。
一番人気はレジンキャスト。
そして、ハリボテエレジーは二番人気。単勝応援券の倍率はおよそ三.五倍。一番人気のレジンキャストとは僅差だ。
ファンファーレが鳴り響く。
最後の音が青空に消えると、レース場を静寂が包み込む。向正面発走のせいか、トレーナーとして観戦する時にいつも聴いている場内実況の音声が聞こえない。
ゲートが開く。同時に、隣の枠に入っていたレジンキャストの白い髪が翻り、弾丸のように飛び出していく。彼女は先頭に立ち、ゴールまで逃げ切るつもりなのだろう。
それには付き合わず、他のウマ娘を先に行かせるように後ろにつける。
ウマ娘・ハリボテエレジーの武器は切れる末脚だ。それを活かせる作戦は、後方から終盤に一気に追い上げる追い込み。そのために、終盤までは後方でスタミナを温存する。先頭集団から引き離されすぎない位置について、最終直線で一気に先頭へ躍り出る。
「――っ!」
直線から第三コーナーに入った瞬間、内ラチ越しに先頭を追うウマ娘の姿が見えた瞬間、視界が揺れた。
心臓が跳ねる。身体が熱くなる。己の意思に関係なく、脚に力が籠もる。
ぐい、と身体が加速する。
自分よりも前を走っていた、集団後方から前を伺っていたウマ娘たちが一瞬で視界の外へと吹き飛ぶ。
――早い!
第三コーナーの時点ではまだコースの半ばくらい。仕掛けどころとしてはあまりに早すぎる。しかし、己の意思に関係なくハリボテエレジーの身体は加速する。
――「掛かり」、ウマ娘がレース展開との折り合いを欠いてむやみに前へ出ようとする状態。
スタミナを浪費し、レース終盤、一番の勝負どころでの失速の原因となる。今までにもレースを見ていて幾度となく目にした光景が、指導していたウマ娘とともにいかにしてそれを克服するかに悩まされてきたそれが、今まさに自分に起きようとしている。
そして何より、今ここで――コーナーで速度を出しすぎれば、小さく曲がることはできない。
――曲がれない!?
直線に入るまでの間に加速したことで、内の最短距離どころかカーブを曲がることすらできない。どんどんと内ラチが遠ざかり、大外へと振られる。無理にでも曲がろうとした足が滑る。遠心力で身体のバランスが崩れる。
一瞬、頭の中が真っ白になる。内に入れないどころではない、曲がれないどころではない。このままでは転倒してしまう。
そうなれば――競走中止。このレースでは着順がつかないということになる。
それどころか、ウマ娘の全速で走ったまま転倒すれば、命に関わる怪我すらもありえる。
「曲がれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
意識するよりも先に、その叫びがほとばしる。
その瞬間、体が軽くなった。
これまで強烈に身体を前に押し出していた力が消え去り、頭が冷える。そうだ、まだ仕掛けどころではない。速度を落とし、大外からコーナーの出口へと最短コースへ足を向ける。大外に振れているうちに、再び後方集団の後ろへと後退していた。内ラチ越しに、先頭を走るレジンキャストの姿が見える。バ群は縦長に伸びている。
レジンキャストが第四コーナーを曲がり終え、直線を向く。二番手、三番手もわずかに遅れて直線に。そこからわたしが直線を向くまでの時間は一秒弱。
直線を向いた。メインスタンドが近づいてくる。府中の坂を登る。
――行ける!
強く踏み込むと、ウマ娘としての肉体は気持ちいいくらいに反応して身体を前に押し出す。第三コーナーで掛かったのとはまるで違う、心地よい感覚。
前をゆくウマ娘たちの背中があっという間に迫り、そして視界から消えていく。バ群を形成していたウマ娘たちは一秒と経たずに姿を消し、前方には逃げ粘るレジンキャストのみ。
それも、すぐに視界から消えた。
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[デビュー戦の後に・目指すべき場所]ージュニア級・7月
[デビュー戦の後に・目指すべき場所]
ゴール板の先で待っていたのは、歓声だった。
「どうしたんだいエレジー君、やけにぼうっとして」
検量所を出たあとタキオンに声をかけられてもまだ、私の身体は力の抜けるような充足感に包まれていた。素早く脈拍を測ったタキオンが興味深そうに顔を覗き込む。
「……ふぅン、随分と興奮しているようだね。どうだったかな、デビュー戦は?」
「……すごい歓声だった」
私の答えに、タキオンが不思議そうに首をかしげる。
「ふむン? 歓声の大きさという意味ならもっとすごいものを浴びたことがあるだろう」
「それは……そうだけど」
歓声の大きさでいえば、タキオンが走ってきたクラシックレースやGⅠとは比べ物にはならない。大きなレースのない日のメイクデビュー戦を見に来るのは相当のファンだけで、レース場の入場者数だってそれほどのものではないし、そういう日に訪れるファンが目当てにしているのだって午後に行われるメインレースだ。だから、メイクデビュー戦のあとにあがった歓声はだいぶ控えめなものだった。
そして、レースで勝ったウマ娘に向けられる歓声はトレーナー補として、あるいはトレーナーとしてこれまでにも聞いてきた。直接的にはウマ娘に向けられるものであっても、自分が担当したウマ娘が歓声を浴びる姿を見るの喜びはなににものにも代えがたい。
しかし、それを自分のものとして聞いたのは、これが初めてだった。
歓声は歓声であり、これまで聞いてきた歓声もその一部は自分に向けられたものとして喜んでいた、だから、その喜びは自分自身が走ったレースであっても変わらないと思っていた。
「……でも、自分で走ったあとに聞くのはまるで違うなって」
「ふぅン……」
私の答えに、タキオンは興味深そうに目を細める。その目に一瞬、不思議な光が浮かぶ。
「そうだね、エレジー君……」
その光は、これまで――トゥインクル・シリーズでの走りのなかでタキオンの目に浮かんでいたものとは、全く違う色をしていた。
「タキオン?」
「ああ、そうだったね」
思わず首をかしげると、タキオンはハッとしたように首を振る。
「疲労回復効果のあるドリンクだ。大丈夫、ドーピングを疑われるような成分は一切入ってない特別製だ。ぐいっといきたまえ」
そう言って怪しい色合いのドリンクを差し出すタキオンの目は、元の色に戻っていた。
特製ドリンクを飲み干すといつものように、どんよりと沈んだ目の色のタキオンが微笑みを浮かべる。
「エレジー君。――おめでとう。さあ、ウィニングライブに行ってきたまえ」
というわけでハリボテエレジーは無事、メイクデビュー戦で勝利することができました。
このあたり、元ネタであるジャパンワールドカップ1.0のハリボテエレジーは未勝利ですが、まあさすがにクラシックならともかく古馬戦線のGⅠレースでは未勝利馬が出てる理由付けができませんので……いやまああのレースどう考えてもサラ系指定競走じゃないし未勝利がどうのというレベルの話じゃないので突っ込むべきところはそこではないのですが。まあそれはともあれ、ウマ娘の育成シナリオなのでそのあたりはちょっとアレンジしています。モチーフとなった競走馬が未勝利のまま終わったハルウララもメイクデビュー戦普通に勝つしそのあと未勝利戦勝てないとどうにもなりませんし、その辺はウマ娘ナイズドされています。
そしてストックが尽きました。書き溜めてはいきますが、しばらく更新が止まります……。
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[勝負服イベント:夢のカタチ]―ジュニア級・11月前半
[勝負服イベント:夢のカタチ]
トゥインクルシリーズには、勝負服というものがある。
未勝利戦・条件戦・オープン戦・そして重賞と階層をなすトゥインクルシリーズのレース体系の中でも最上級の格付けを与えられているGⅠレースでのみ着ることのできる、自分専用の衣装、それが勝負服だ。オーダーメイドの勝負服を纏い、大一番のGⅠレースを走る姿はトゥインクル・シリーズにとっての最大の華であり、トゥインクル・シリーズを目指すウマ娘にとって共通のあこがれである。
そして、その憧れを現実のものとできるウマ娘はごく少数だ。
一握りの上位層しか出走できない重賞レースであるGⅡ・GⅢであっても出走するウマ娘が着るのは全員共通の運動着。
勝負服を着ることのできるGⅠレースに出走するのはトップ層のなかでもごくわずかだ。
ましてや、トゥインクル・シリーズでの一年目、ジュニア期に勝負服を着てレースに出走するウマ娘ともなれば、同世代の中でも指折りの実力者、翌年のクラシック路線やティアラ路線での活躍が期待される有望株という評価を与えられることになる。
「まさか、一年目で勝負服を着ることになるなんてなぁ……」
だからこそ、いざ自分がその「ジュニア期に勝負服を着て出走するウマ娘」の一人として勝負服のサイズ合わせをするときに浮かんだのは苦笑いだった。
ウマ娘としてトゥインクル・シリーズに出走するというだけでも未だに感情が追いついていないのだ。最高グレードであるGⅠに出走することになっても、もう気持ちが追いつくとか追いつかないよりも先にまず実感が持てないというのが正直な気分である。
「その気持ちはちょっとわかります。私もまだ担当のウマ娘というよりも、タキオンさんのトレーナーって感覚のほうが先立ってしまいますから」
私のつぶやきが耳に入ったらしい桐生院さんが勝負服のチェックを続けながらそう言って困ったような笑みを浮かべた。
「でも今回の出走を勧めたのは桐生院さんじゃないですか」
「それはまあ、芙蓉ステークスでの走りはそれだけのものでしたから。ほら、新聞でも来年のクラシック路線の有望株として紹介されていますよ」
そう言って桐生院さんが示した競馬新聞は「ジュニア期三強対決」の見出しで私の次走――三つしかないジュニア級GⅠレースの一つ、朝日杯フューチュリティステークスは来年のクラシック路線の有望株三強の勝負になると書き立てていた。
メイクデビュー戦で五バ身差を二着につけて圧勝、ジュニア級一勝クラス、ジュニア級重賞のGⅢ・新潟ジュニアステークスと三連勝。そのうえ、逃げ・先行・差しとどの戦法でも戦えることを証明済みのギンシャリボーイ。
未勝利戦を突破するのに二戦を要したもののその後は条件戦、オープン戦と連勝し、暴走さえしなければ強気の走りで馬群を突き破るパワーを持ち、今後の大きな成長が期待されるチョクセンバンチョー。
そしてメイクデビュー戦に加え芝二〇〇〇メートルのオープン戦・芙蓉ステークスでも驚異の末脚でもって最後方から最終直線で全員ごぼう抜きの二戦二勝と無敗。さらにレース内容を見ても芙蓉ステークスで二着に三バ身差と余裕のある勝ち方をしているハリボテエレジー。
この時期になると翌年のクラシック路線の有望株が新聞を賑わせるのは毎年のこととはいえ、その一角に自分が数え上げられているのはどうにも気持ちが追いついてこない。特に、一番最後のハリボテエレジーの紹介なんていったいどこのウマ娘の話ですか? と聞き返したくなるくらいだ。
「へぇ……これがエレジー君の勝負服かい」
軽くジャンプして腰のつけしっぽとカチューシャがずれたりしないか確かめていると、それまで部屋の隅でじっと様子を見ていたタキオンが首を傾げた。
「しかし……なんで勝負服をせっかく誂えたのに、汎用勝負服のデザインなんだい?」
私が注文したのは白をベースに紺色、緋色を配したデザイン――汎用勝負服と呼ばれる、GⅡ以下のレースのウィニングライブでウマ娘が着る衣装そっくりのものだった。
もちろん、そういうデザインにすることまで含めて私の注文でもある。
「これが一番馴染みのある、憧れのスタイルだったからね」
「いや、汎用勝負服は汎用でしかないだろう……?」
タキオンには今ひとつその意味がわからなかったらしい。首をかしげるタキオンの横で、ああ、なるほど、と手を打ったのは桐生院さんだった。
「『ウマ娘なりきりセット』ですか!」
「ええ、それです」
そう、私の勝負服はウマ娘なりきりセットのデザインを念頭に置いたものだった。
ウマ娘なりきりセットとは、汎用勝負服にウマ耳を模したカチューシャ、つけしっぽがセットになったウマ娘もヒトも問わない女の子向けの定番のおもちゃだ。
「ウマ娘なりきりセット?」
しかし、タキオンは遊んだことがなかったらしく、その名前を聞いても首を傾げたままだった。
「……タキオンさんは遊んだことありませんか? 私の家だと親戚一同集まったときはだいたいこれをつけて遊んでましたが……」
「いや、私はもとからウマ娘だったのだからなりきるもなにもないだろう?」
桐生院さんがスマートフォンで検索した画面を見せても、タキオンには思い当たるものがなかったらしい。確かに、タキオンの場合トゥインクル・シリーズに憧れてなりきりセットを着てた……というほうが逆にイメージが沸かない。
「まあ、そういうのもタキオンらしいといえばタキオンらしいけど……スターホースなりきりコレクションなら聞き覚えあるでしょ? タキオンがこういうので遊ぶくらいの年齢の頃だったらサイレンススズカとか……」
ウマ娘なりきりセットには、汎用勝負服のものだけではなくその年のトゥインクル・シリーズで活躍しているウマ娘の専用勝負服や耳飾りを再現したシリーズもある。
「ふうン……そんなものがあるのか」
汎用勝負服には興味がなくても、自分が子供の頃に活躍していたウマ娘に憧れてなりきりセットを……というのはタキオンにはなかったらしい。
「タキオンのも発売されてるよ、ほら」
「へぇ、こんなものがあるのかい……ふむン、カフェのもあるのか、これを着て走ってみたら面白いデータが取れそうだ」
そう言って笑ったあとに、タキオンがずい、と詰め寄ってくる。
「でだ、エレジーくんはどうして汎用勝負服なんだい? なりきりセットにするのなら別に汎用のでなくてもいいだろう、私の勝負服のなりきりセットもあるんだろう? ならばそっちにすればいいんじゃないかな? GⅠを複数、それもクラシックレースも取ったウマ娘だぞ、汎用勝負服よりはこっちのほうが縁起もいいんじゃないかい?」
わずかにむくれたような様子のタキオンに思わず苦笑してしまう。タキオンは割とそういう子供っぽいところがある。だけども、ウマ娘としてトゥインクル・シリーズを走る――子供の頃に夢見ていたことが実現するのなら、この服装だけは外せない。
「これは、子供の頃に憧れててなりきり遊びをした時に思い描いていたウマ娘の姿そのものだから」
なぜなら、専用勝負服を着ることができる――GⅠで活躍できるウマ娘は一握り。開催されるレースだってGⅠはそれほど多くない。休日になるたびにテレビの中で走り、ライブを踊っていたウマ娘たちは、この汎用勝負服を着ている姿のほうが多く、そしてこっちのほうが印象に残っているのだ。
だから、わたしにとっての夢は、専用勝負服よりも汎用勝負服を着ることのほうだったのだ。
「なるほど。『憧れの形』か……ふぅン、その感情は面白そうだねぇ」
目を細めたタキオンが、わたしの頭の上のウマ耳に手を伸ばす。
半年あまりが過ぎても、ウマ娘なら当然持っているはずのウマ耳がそこに生えてくることはなかった。だから、タキオンの手が触れたのも強化ダンボール製の作り物のウマ耳だった。
「そういうこと。せめて、姿だけでもそれらしく、ってね」
というわけでハリボテエレジーの勝負服のお話でした。次回からギンシャリボーイ・チョクセンバンチョーの朝日杯フューチュリティステークスになります。
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[朝日杯FS]―ジュニア級・12月前半
[朝日杯FSに向けて]その1
朝日杯フューチュリティステークス、阪神レース場・芝一六〇〇メートル。
――通称、クラシックへの登竜門。
ホープフルステークス、阪神ジュベナイルフィリーズと並んで三つしかないジュニア級GⅠレースであり、このレースで上位に入賞した多くのウマ娘が翌年のクラシック路線でも活躍したことから、その異名の通り翌年のクラシック路線を占うレースの一つとなっている。
故に、このレースで勝てば翌年に開催される皐月賞・日本ダービー・菊花賞のクラシックロードの有力候補に躍り出ることになる。
それだけに、地下バ道には来たるべきレースに向けての緊張感と発散される闘志で張り詰めた空気が満ちていた。出走できるのはトゥインクル・シリーズ一年目、ジュニア期のウマ娘だけだから全員同期生でお互い顔見知りだが、他のレースのときのようにおしゃべりに盛り上がったりする和気あいあいとした雰囲気は少ない。トレーナーと話す他には知り合い同士で互いに二言三言、言葉を交わす程度で地下バ道は静まり返っている。
わたしは、どのクラスにも籍を置いていないから同期とのウマ娘との交流もないので今回に限らずそういった挨拶やおしゃべりにも縁がない。大きく遅れて入学する形になった関係で年齢も大きく違うから、向こうにとっても話しかけにくいのだろうし、もともとトレーナーをやっていたからこちらから話しかけたらレース前なのに相手を変に緊張させることにも繋がりかねない。だから、誰かに話しかけられるようなことがなければ前のレースと同じように桐生院さんに送り出されたあとは黙って本バ場に向かうだけのつもりだった。
「ハリボテエレジーさん」
しかし、前二回と違って今回は話しかけてくるウマ娘がいた。足を止めて振り返ると、話しかけてきた栗毛のウマ娘はすっと頭を下げる。うなじのあたりできっちりと切りそろえた髪と、黄色いネクタイを締めたスーツスタイルの勝負服が真面目そうな雰囲気を醸し出していた。
「はじめまして。ギンシャリボーイです。よろしくおねがいします」
「こちらこそよろしくおねがいします」
新聞記事が三強の一角と書き立てていたウマ娘の挨拶に、私も軽いお辞儀で返す。
ギンシャリボーイがなにか言おうとしたところで、横から黒鹿毛のウマ娘が割って入ってきて、じろりとわたしを睨みつけた。
「あんたがハリボテエレジーか?」
白いストライプの入った紫のジャケットの上から羽織った長ランには「直線番長」の刺繍。
「チョクセンバンチョーだ。……ぜってぇ負けないからな!」
わたしとギンシャリボーイに順々に指を突きつけて一方的にそう宣言すると、三強のもう一角――チョクセンバンチョーは言うべきことは終わったとばかりに、さっさと背を向けて去っていった。即座にギンシャリボーイが頭を下げる。
「同期がご迷惑をおかけしました……」
「いや、ギンシャリボーイさんは関係ないでしょう。それにわたしも一応同期ですから……」
レース前にこうやって威嚇したり宣戦布告したりするウマ娘は少なくない。そういったウマ娘の宣戦布告がストレスにならないようにするのもトレーナーの仕事だから、ああいったウマ娘の挑発には慣れていた。それに、いきなり因縁をつけてきたのはチョクセンバンチョーであってギンシャリボーイはわたし共々宣戦布告をされたにすぎない。そう返すと、ギンシャリボーイは「あ、ギンシャリでお構いなく」と言ってから困ったように頬を掻いた。チョクセンバンチョーの宣戦布告で少し緊張が緩んだのか、表情がわずかに柔らかくなっている。
「どういうわけか一方的に敵視されてるというか、なにが気に入らないのかちょくちょくああやって因縁をつけてくるんですよ。食堂でご飯を食べてても勝手に張り合ってきますし……」
「ライバル視されてますね……」
「ライバル、ですか?」
わたしの指摘に、ギンシャリボーイは意外そうに目を見開いた。
同期のウマ娘での「あいつにだけは負けられねぇ!」とライバル視して競い合うのは割とよくあることだった。トレセン学園に入学してレースの世界を目指すウマ娘となれば、ウマ娘全体の平均よりも負けん気が強い。そして、そういったウマ娘たちがあつまって同じ学校に通い、寮生活を送るともなれば負けられない相手の一人や二人できても不思議ではない。条件戦からGⅠ戦線常連まで、そういった関係はどこでも見られるものだった。チョクセンバンチョーの振る舞いも、そういったものの一部だろうと指摘すると、「そうですか、そんなに意識されていたんですね」とギンシャリボーイが表情を緩めた。どうやら、チョクセンバンチョーがやたらと絡んでくる理由がわからず困惑していたらしい。
「ええ。新聞でも三強だなんだと書き立てられていましたし……それに、同期ですからどうしても気になるのでしょう。そうやって競り合う相手がいるウマ娘は強くなりやすいですよ」
「そうでしたか。ありがとうございます」
トレーナーとしての習慣で出てきたアドバイスに頷いたギンシャリボーイが「……ハリボテエレジーさんも三強の一角でしたよね」と首をかしげる。わたしが頷くと、ギンシャリボーイの表情がすっと引き締まる。緩んでいた雰囲気が、一瞬でレース前の緊張感を帯びた。
「ハリボテエレジーさん――わたし、負けませんからね」
「こちらこそ。――負けませんよ」
というわけで、ハリボテエレジーの同期はギンシャリボーイ・チョクセンバンチョーになります。ジャパンワールドカップの設定だとハリボテエレジーは6歳牡馬、ギンシャリボーイとチョクセンバンチョーは4歳牡馬で世代が違うんですが、世代差を考慮するとシニア期のジャパンワールドカップにギンシャリボーイとチョクセンバンチョーが出てこれないのでこの辺りはちょっとごまかしてます。
というわけで、次回発走です。
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[朝日杯FSに向けて]その2
阪神レース場第十一レース・芝一六〇〇メートル
GⅠ・朝日杯フューチュリティステークス
本バ場に入ると、芝の表面は本バ場入場直前まで降っていた雨で濡れていた。バ場を軽く走ってみると、水を含んだ芝は予想以上に重く感じられた。
「これは、重バ場かな……」
これだけバ場が水を含んでいたら、パワーの求められるレースになることは間違いない。そうなれば、早めにスパートをかけるようにしたほうがいいだろう。
そんなことを考えながらゲート入りする間に曇天のもと、ファンファーレが鳴り響く。
《クラシックへの登竜門、朝日杯フューチュリティステークス。ここから道は始まる!》
ゲートに入るとまず深呼吸。逃げに比べればスタートはそこまで重要ではないにしても、出遅れてしまっては少なくない不利を背負うことになる。
それから、左右を軽く見回す。ゲート試験、そしてトレーニングの中でゲート発走は何度も経験している。そこでの経験を踏まえると、わたしの場合は前ばかりに集中するのではなく、一旦周りを見て気を緩めたほうがいい。
それから、ゆっくりと息を吐いて前を向く。
一番最後の枠番のウマ娘が入り、後方のゲートが閉じられた。
《各ウマ娘、ゲートに入って体勢整いました》
しん、とレース場が静まる。片足を前に出し、前傾姿勢をとる。
体の奥底で、
《さあ、クラシックへの一番名乗りを上げるウマ娘は誰になるのか、朝日杯――スタートしましたっ!》
ガシャン、と音を立ててゲートが開いた。同時に、地面を蹴る。
逃げ・先行のウマ娘が全力で前に飛び出し、それぞれの目指すポジションへ突っ込んでいく。差しウマ娘は前に出ようとして力を使いすぎないようにしつつ、先頭から引き離されすぎないポジションを狙う。
《先行争いはコンパチキット、スナップフィット》
スタート地点から四〇〇メートル余り。大きくゆるやかに曲がる外回り第三コーナーが見えてくる頃にはそれぞれの位置がはっきりと決まる。
《三番手は⑯番ギンシャリボーイ。前をうかがっている》
逃げウマ娘二人の後方・先行集団の最前方、三番手あたりにギンシャリボーイ。
《⑪番チョクセンバンチョー、ここにつけています》
そこから中団を挟んで内ラチ沿いのバ群の中につけたチョクセンバンチョーは十番手あたり。
《そして最後方は⑧番ハリボテエレジー、脚を溜めている》
そして、わたしはそこから更に下がった最後方十八番手。先頭まではおよそ八バ身ほど。
先行集団が直線から第三コーナーへと突入。それを追って中団がわずかに崩れながら曲がっていく。コーナーに入る前の一瞬、わたしの真正面からウマ娘が消える。
同時に、体の奥底から奔流のように「前に出たい!」という感情が溢れ出す。
全身の筋肉が、耐えきれないように躍動を始める。
迷いは一瞬。
全体的に、逃げを選んだウマ娘が少なく、集団後方から最終直線で差し切るのを狙うウマ娘が多い。この様子だと、遅めのペースになって前方に陣取ったウマ娘が有利になる。おそらく、逃げウマ娘のすぐ後ろでチャンスを伺っているギンシャリボーイが最終直線まで脚を温存して前に出る展開になるだろう。そうなれば、バ場の重さもあってわたしの末脚ではギンシャリボーイを捉えきれない可能性がある。
――ならば、早めに前に出る!
直線の長い東京レース場のレースで第三コーナーからスパートを掛けても、スタミナは最後まで保ったからスタミナに関しては問題ない。
せめて、チョクセンバンチョーのいる辺りまではあがりたい。
押さえつけるようにしていた力を抜いた瞬間、弾かれたように大きく体が加速する。メイクデビュー戦で感じたのよりも猛烈な加速。正直、予期していたのよりも遥かに速い。
――行ける!
少し掛かっているのかもしれない。だが、これなら最後まで脚を溜めておけるはずだ。中団の後ろをかすめて外へと持ち出し、あとはチョクセンバンチョーとギンシャリボーイの動きを見ながらゴール前でもう一度スパートを掛けて差す。そのつもりだ。
体を傾け、ゆるやかなカーブを曲がる――
直後、足元で嫌な音がした。
ぐるん、と世界が回転した。
時速数十キロというウマ娘の走る速さのまま、曲線の外側へと体が放り出される。
《あっとここで転倒がありました! 転倒したのは二番人気⑧番ハリボテエレジー! ⑧番ハリボテエレジー転倒です!》
ほとんど反射的に受け身を取ると同時に、芝生に体が叩きつけられた。コーナーの内側を通ったウマ娘が蹴り上げた芝と泥がばらばらと降り注いでくる。
「ぐっ……」
立ち上がろうと手をつくが、雨に濡れた芝で手が滑り、べしゃりとモロに顔からバ場に突っ込んでしまう。
《さあ四コーナー回って直線コースを向いてくる! 最内スルスルとギンシャリボーイが上がってくる! 大外からチョクセンバンチョーが飛んできた!》
コーナーの先――最終直線に面した観客席から大歓声があがる。べっとりと顔についた泥を拭い、もういちど体を起こす。
《追い上げてくるチョクセンバンチョー! 先頭は変わらずギンシャリボーイ! チョクセンバンチョーよれる! ギンシャリボーイ、脚色は衰えない! これはもうチョクセンバンチョーは届かない!》
駆け寄ってくるURAの職員を制してなんとか立ち上がる。ここで手を借りてしまったら、競走中止となってしまう。
転んだときにひどく打ち付けたのか、体の所々が痛む。けれども、まだ脚は動く。せめて、完走だけでもしたい。
《ギンシャリだ、ギンシャリボーイだギンシャリボーイ振り切ったーっ!》
観客席からひときわ大きな歓声があがる。先頭のウマ娘が遥か彼方でゴールへと駆け込んだのだろう。今から駆け出したとしても、そこでの展開にもはや絡むことはできない。
それでもせめて完走だけでも――そう思って駆け出そうとして、ウマ耳カチューシャとつけしっぽがないことに気づく。周囲を見回すと、泥まみれになってコーナーの外の方に転がっていた。
とぼとぼとウマ耳カチューシャとつけしっぽを拾い上げ、小脇に抱える。勝負服の一部の脱落は。トゥインクル・シリーズの規定で競走中止の扱いとなるものの一つだった。
URAの職員の手を借りて、ラチの内側で待機していた救急車に乗り込む。
《一着は⑯番ギンシャリボーイ! これでデビューから四連勝、無敗でGⅠを制して世代の頂点に立ちました!》
《――お知らせします。只今の阪神第十一競走、朝日杯フューチュリティステークスで⑧番ハリボテエレジーは他のウマ娘に関係なく第三コーナーにて転倒し、勝負服の一部が脱落したため競走を中止したものであります》
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[朝日杯FSのあとに:夢のカタチは未だ見えず]
「エレジーくん、安心したまえ。軽い打ち身のほかに特に怪我はないそうだ」
医務室に入ってくるなりタキオンはニコリもせずにそう言うと、枕元の椅子に腰をおろす。
「さて、エレジーくん……何があった?」
不機嫌そう――というよりは、真剣に考え込みすぎて目つきが険しくなっているタキオンの問いかけに首を傾げる。
「雨に濡れたバ場でスピードを出しすぎて転んだ……という話ではないよね?」
朝日杯でわたしに起こったこととは、要約してしまえばそれだけのことだ。しかし、タキオンが聞きたいのはその程度の答えではないだろう。タキオンなら今日のバ場状況とレース展開を見ていればこの程度のことは容易にわかるはずだ。
「そうだね……。具体的には、第三コーナーに入るときだ。何があった?」
「第三コーナー?」
「ああ。君がいつものようにロングスパートをかけ始めていたことはわかった。だが……うぅン、なんと言ったものかな」
そう言うとタキオンはうつむきながらわしゃわしゃと自分の髪を片手でかき混ぜる。
「なんというかね……いつもの走りとは違うように見えたんだ。なにか、違うと感じたことはないかな、モルモットくん?」
うつむき加減のまま目だけこちらに向けてくるタキオンのわたしへの呼びかけ方がトレーナー時代のものになっていることに苦笑しながら、今日のレースの展開をもう一度ゲート入りからたどり直してみる。
ゲート入り、向こう正面、第三コーナー入り口でのスパート、溢れ出してきた「前に出よう」という感情――どれも、前二走と変わらない。
いや、一つだけ、ほんの僅かな違いがあった。
「そういえば……今日は、いつもよりも強く『前に出なきゃ』って感じてた気がする」
「ふぅン?」
わたしの答えに、タキオンが興味深そうに首を傾げて先を促す。タキオンの隣で話を聞いていた桐生院さんも黙って頷き、同じようにわたしの言葉を促す。とはいっても、わたしの答えだけで桐生院さんには何が起こっていたのかだいたいの推測ができているはずだ。
「コーナーに差し掛かるとなんだかよくわからないけど猛烈に前へ行こう、前へ出ようって気持ちが溢れ出してくるのだけど、今日はそれがとても強くて……気がついたら制御不能になっていた」
「……それで速度を出しすぎて転んだ、というわけか……」
私の答えに、タキオンはあきれたようにため息をつく。確かに、タキオンからしたらレース中に気持ちの制御が効かなくなって暴走するなどほとんど理解の埒外にあるものだろう。
「……掛かり癖のあるウマ娘でよく聞く話ですね」
「そうね。……掛かり癖かぁ」
桐生院さんの言葉に頷くと、思わずため息が漏れた。自分でレース中の状況を説明するまで全く気づいてなかったが、確かにこうやって整理してみると第三コーナー直前での自分は完全に掛かっていたと言えるだろう。
ウマ娘の本能がレース中に何らかの原因で暴走し、本人にも制御不能な状態になることを「掛かる」と呼ぶ。
レース中に度々掛かるウマ娘――掛かり癖のあるウマ娘というのは往々にしてトレーナー泣かせの存在でとにかく手がかかる。掛かる原因は初めての大レースで舞い上がってしまっていたり気負いすぎといった気分的なものや、闘争心が強すぎる、先頭の景色に固執しているなどの本人の性格的なもの、はたまた「ウマ娘として継承した魂が前に出すぎている」といったものなどいろいろあって原因を探すだけでも一苦労な上に、なにしろ本人にも制御不能なわけで言い聞かせたり気持ちのもちようだけでなんとかなるものでもないから厄介なのだ。
「そうなると、終盤まで抑えるトレーニングをしたほうがいいかもしれませんね」
「というと、前を塞ぐようなかたちで追い切り練習?」
「ええ。そうですね。それで終盤のいいタイミングまで抑えてから解放する経験を積むのがいいかと」
とはいえ、トゥインクル・シリーズだけでなく世界各地で行われているウマ娘レースでは日々様々な経験則が積み重ねられている。桐生院さんが口にしたのは、序盤で掛かって終盤に脚を残せないウマ娘向けとしては一般的なトレーニングだった。私でも、トレーニングプランの第一候補には同じものを挙げていただろう。
「タキオンさんの意見はどうでしょうか?」
「……ふむン」
桐生院さんに水を向けられたタキオンも、わずかに考え込んだあと「わたしも、それがいいんじゃないかと思うね」と答える。
「だが、それで抑えられるとは限らないだろう? 普段のトレーニングではそういう癖は出てなかったと思うが……」
タキオンの疑問ももっともなものだった。だが、普段のトレーニングではおとなしいのに、レースになると急に掛かりやすくなったり、走りが荒っぽくなるウマ娘というのも極めて少数ながらいないわけではない。
「確かに、本番でしか出ない癖というのもあります。なので、なるべく実践的なトレーニングを行って慣らすしかないかと。とりあえず、エレジーさんの調子を見ないとまだなんとも言えませんが、年明けは早めにオープン戦に出走して、そのあたりの感覚をすり合わせていきましょう」
当然、桐生院さんのプランは、そういったウマ娘のトレーニングを経て積み上げられた経験則に即したものだった。
「エレジーさんの武器はロングスパートをかけた上でも最終直線で一気に加速できる、切れのある末脚です。これから先、ダービーや菊花賞などで距離が伸びていくことを考えると最後まで脚を溜めるレースができるようにしていくことは必要だと思います」
というわけで、ハリボテエレジーの「曲がれない!」が発動しました。次回から、ハリボテエレジーの[曲線×][ガムテープの綻び]絡みのエピソードになります。
ちなみに、[朝日杯FSのあとに:夢のカタチは未だ見えず]は着順2着以下でのイベントですが、朝日杯に勝利したあとの[朝日杯FSのあとに:早く着きすぎた場所]だとハリボテエレジーは最終直線で足に違和感を感じて医務室に運び込まれ、同様のエピソードが展開されることになります。
[曲線×]:コーナーで冷静さを失ってしまう
[ガムテープの綻び]:原因不明の不調で足がもつれる……修理が終わるまでレースで能力を発揮しきれなくなる
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[クラシックに向けて・分かれ、いつか交わる道]―クラシック級・2月前半
[クラシックに向けて・分かれ、いつか交わる道]
トレセン学園・トレーニングコース外周、芝一六〇〇メートル。トレーニングに勤しむウマ娘の数も減ってきた時間帯を狙って設定された模擬レース。
およそ五バ身先で先頭を走るギンシャリボーイとチョクセンバンチョー。そしてその先には橙色に染まった芝コースと計測スタンド。
前へ、もっと前へ、もっと速く。全身の細胞がウマ娘の本能に従って躍動しようとする。掛かり癖のあるウマ娘の頭の中はこんなことになっているのかと思わされる。
だが、それをねじ伏せる。歯を食いしばり、加速する衝動を押さえつける。
転倒するほどには加速せず、しかし離されない程度の速度で第三コーナー、第四コーナーを乗り切り直線へ。
間違いなく、前よりも走りの制御ができるようになっている。
ゴーサインを出す。弾かれたように体が前に出る。ギンシャリボーイとチョクセンバンチョーの背中が一気に近づく。ゴール前の直線の半ばで横一列に並ぶ。抜かせない、だが置いていかれることもない。計測スタンドから観戦していた生徒たちの歓声が聞こえる。
至近距離から、二人の走りはこれ以上ないほどによく見えた。
ここまで先頭で模擬レースを走ってきたギンシャリボーイの走りは、教科書通りの、洗練された中長距離ウマ娘の走り方。変な癖も、フォームのブレもない、そのまま教本に載せられそうな走り。教科書通りの走りというのは、最も効率的で、だからこそ強い走り。むろん、それがそれぞれのウマ娘にとって合った走りであるかというのはまた別な話ではある――だが、これまでの走りを見る限り、ギンシャリボーイにとって教科書通りの走りが合っているのは間違いないだろう。何よりも、どれだけ走った後でも息が上がった様子もなくけろりとしている様子は底知れなさを感じさせる。
そして、その後ろを追走してきたチョクセンバンチョーの走りは荒々しく、己の力を芝に叩きつけるような短距離ウマ娘の走り方。どこまでも無駄なく効率的で洗練された走り方ではなく、多少の不利はねじ伏せてでも己の走り方を貫き通すスタイル。チョクセンバンチョーとは逆に、教科書から外れたような走り方のほうが彼女にとっては力を出し切れるのだろう。むろん、その「多少の無駄」はハンデとして付きまとい、彼女の適性距離を押し下げている。マイルやスプリントレースでも通用するような加速力とトップスピードを有してこそいるが、無駄なく走れれば、二〇〇〇メートル以上のクラシックレースでも通用するスタミナがあるはずだ。現に、模擬レースでの走りには彼女のスタイルから見ても無駄に力を消費しているように感じられる部分はあった。
そして、その走りを改善するコツも思い浮かんでしまった。
「はぁ? 何言ってんだアンタ」
クールダウンも終わった後、そのアイデアを伝えるとチョクセンバンチョーはめんどくさそうな様子でそう答えた。見ようによっては凄まれているようにも見えるかもしれない。けれども、彼女のトレーナー曰く別にそんなことはないらしい。ただ、切れ長のツリ目と上背のせいでどうしてもそう見えてしまいがちなそうだ。
「だいたいそんな細かい改善で変わるって……アンタ、トレーナーかよ?」
「……まあ、実際そうだけども」
トレーナーとしての仕事は一旦休止しているとはいえ、トレーナー資格を持ってるのは事実だし、実のところ、ハリボテエレジーとして走るようになってからも同じレースで走ったりして縁のできたウマ娘を中心にフォームの改善やトレーニング方法の相談に乗ったりもしている。
「そうだったな……クソッ、なんか調子狂うな」
「一応それで一回走ってみてもらえないかな。きっと、前より調子良く走れると思う」
「わーったよ。トレーナー、ちょっと走ってくるぞ」
チョクセンバンチョーは彼女のトレーナーに一声かけると練習コースに駆け出していった。わたしがアドバイスしたのはレース中盤での走り方だ。すっかり日も落ちて、照明に照らされるようになったコースをチョクセンバンチョーが少しゆっくりしたペースで走る。まだ、前のフォームとの違いはあまりない。だが、徐々に速度を上げていくうちに違いがはっきりしていく。模擬レースでの走りと比べて、体がブレにくくなっている。それはそのまま、無駄の無さにつながっている。
「……確かに前より楽に走れるな。力が分散せずに加速できている気がする」
コースを一周して戻ってきたチョクセンバンチョーは、渋々といった様子で効果を認めた。
「うん、これならスタミナの消費も少なくなるし、これから先、レースの距離を伸ばしていくときにも対応しやすくなるんじゃないかと思う」
そう、このアドバイスの最大のポイントは彼女のレーススタイル――天性のパワーをトップスピードを生かして最終直線で他のウマ娘を差し切る走り――を今よりも長い距離のレースでもできるようにするために、レース中盤でのスタミナの浪費を抑えることにあるのだ。
皐月賞、芝二〇〇〇メートル。
東京優駿、芝二四〇〇メートル。
菊花賞、芝三〇〇〇メートル。
彼女がこの先、クラシック路線を目指していくのならレースの距離は伸びていくことになる。現状の彼女はマイラー――それも、去年の朝日杯フューチュリティステークスでは三着以下を大きく引き離しながらも最終直線で体力が尽きてギンシャリボーイを捉えきれなかったことを考えると、スプリンター寄りのマイラーであり、レースの距離延長は大きな課題であるはずだ。だからこそ、こういったフォームの改善は必要になる。
「アンタもクラシックを目指すんだろ、敵に塩を送ってどーすんだ」
「まあほら、どうせなら相手は強いほうがいいじゃない。ギンシャリボーイもそう思うでしょ?」
「そうですね、チョクセンバンチョーさんが強くなって悪いことはありません」
ギンシャリボーイがおっとりした様子でそう返すと、「……ケッ」とチョクセンバンチョーが小石を蹴飛ばして踵を返した。
「……ったく、どいつもこいつものんびりしたツラしやがって……次のレースでは全員まとめてぶち抜いてやる」
立ち去っていくチョクセンバンチョーの背中を眺めながらギンシャリボーイがこてり、と小首を傾げた。
「……そういえば、ハリボテエレジーさんの次走はもう決まってるんですか?」
「私は若葉ステークスですね」
わたしが次に出るレースはクラシック級限定のオープン戦・若葉ステークスだ。
「僕は弥生賞、チョクセンバンチョーさんはスプリングステークスに出ますから……お互い何事もなければ次にレースで相まみえるのは皐月賞ということになりますね」
「そうですね。……皐月賞かぁ」
ギンシャリボーイの言葉に、思わず空を仰ぐ。GⅡ弥生賞、GⅡスプリングステークス、そしてオープン戦の若葉ステークス、どれも皐月賞のトライアル競走として指定されたレースであり、前哨戦となるレースだ。
それはつまり――クラシック競走を目指す、世代のトップクラスのウマ娘たちが集う大舞台の一つ。
模擬レースでギンシャリボーイ、チョクセンバンチョーと十分に勝負ができたことから考えても、その大舞台を、そしてその先にあるクラシックレースを目指せるだけの力がわたし――ハリボテエレジーにはあるのだろう。自分の中の、トレーナーとしての部分はそう判断している。
けれども、トレーナーではない、ハリボテエレジーでもあるわたし自身にとってはそこへの出走が現実的な選択肢となるようなところまで来ているというのは、まだすこし信じられないような気持ちがしていた。
「一生に一度のクラシック、正々堂々と競い合いましょう」
「……ええ」
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[間章・その脚に満ちた可能性の形]
[間章・その脚に満ちた可能性の形]
ハリボテエレジーのトレーニングは、プラン通りに順調に進んでいた。
同期のウマ娘や私との併走、校内で開催される模擬レースへの出走、そういったものを通して、ハリボテエレジーは順調に抑えるレース運びを身に着けていった。
目の前で今展開されている模擬レースは、そのトレーニングの集大成と言えるだろう。
ギンシャリボーイ・チョクセンバンチョー・ハリボテエレジーと三人揃った模擬レース。八人立て、戦績としては数えられない非公式の模擬戦とはいえ、同じ一六〇〇メートルの芝コースで開催されるそのレースは事実上の朝日杯のリベンジマッチと言えた。
そのレース展開は、朝日杯後に行ってきた「抑える」トレーニングの成果が結実したもののように見えた。
もともと、トレーナーとしての経験と知識があったこともプラスに働いているのかもしれない。スタンドから向けた双眼鏡の視界の中で最終コーナーを曲がるハリボテエレジーは、折り合いをつけて冷静に模擬レースを走っていた。
朝日杯と違って第三コーナーに入る前からロングスパートをかけることもなく、最後方で先頭から離されすぎず、バ群にも包まれない位置を確保。今回は先頭に立っているギンシャリボーイを射程圏内に収めたまま最終コーナーの出口へ向かう。
そして、直線を向くと同時に加速。スパートを掛けたギンシャリボーイとチョクセンバンチョーを後方から追い上げていく。
双眼鏡の視界の中で、ハリボテエレジーはじりじりとギンシャリボーイとの差を詰めて追い上げていく。一見するとその姿はこれまでと変わらない。ハリボテエレジーの追い上げに呼応するようにギンシャリボーイも粘り、チョクセンバンチョーも負けじと追いすがる。朝日杯を前にして、クラシック三強候補と呼ばれただけの能力で誰一人として譲らないままに団子になってゴール板にもつれ込む。タキオンの目には最後にわずかに伸びきれなかったハリボテエレジーが三着となったように見えたが、写真判定をしなければなんとも言えないほどの微妙な差だった。非公式の模擬戦では当然、写真判定の設備は使っていないから、全員の判断が一致しない限りおそらくは三人同着という扱いになるだろう。朝日杯一着、二着の有力バを相手にしてほぼクビ差・ハナ差の三着ならトレーニングの成果は上々と言えるだろう。少なくとも、クラシック三冠路線での活躍も期待できるはずだ。
「ふぅン……」
しかし、それを見守るタキオン自身も自覚できないほどわずか――本当にごく僅かに、その口元には不満が浮かんでいた。
最終コーナー、ハリボテエレジーは十分な加速を見せた。レースの展開も上々。
しかし――
その瞳に浮かぶ、魅入られるような狂った色は、だいぶんその濃さを失っていた。
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[若葉S]―クラシック級・3月後半
[若葉Sにて・大舞台へ]
トライアル指定競走とは、本番に向けた前哨戦としての意味の他に、優先出走権を獲得するためのレースという意味合いもある。
これまでの勝利数で出ることのできるレースが分けられている条件戦とは異なり、オープン戦ではメイクデビュー戦・未勝利戦で一勝を挙げ、さらに一部のレースでは指定されている出身地やクラシック級などの条件さえ満たしていればどんな戦績のウマ娘でも出走登録をすることができる。
けれども、一度に同じレースに出ることができるウマ娘の人数はレースごとに定められているから、クラシック競走のように人気の高いレースでは出走登録数が定員を越えることがある。そうなると、基本的に成績順で出走可能の判断がなされ、出走登録したなかで成績が下位のウマ娘はそのレースに出走できないことになる。
だが、優先出走権があればそうした成績順での出走制限とは関係なく、そのレースに出ることができる。デビューが遅れたり、なかなかレースに慣れられず勝ち上がるのが遅れた、あるいはジュニア級で怪我をしてそこから復帰するのに時間がかかったなどの理由でレースでの実績が十分ではないウマ娘にとっては、ここで優先出走権が獲得できるか否かはほぼそのまま皐月賞に出れるか否かに直結してくるのだ。
だからこそ、若葉ステークスに向かう地下バ道の雰囲気は、朝日杯のときと比べてあまり後がない、ピリピリした空気が流れていた。
「さて、エレジーくん、調子はいかがかな?」
タキオンのときは同じ皐月賞のトライアル競走でも弥生賞のほうだったが、どちらにせよ雰囲気は変わらない。それで慣れていたつもりでも、やはりトレーナーとして地下バ道を歩くのと、ウマ娘として――レースに参加する一員としてここを歩くのとではいろんなものが違っていたらしい。タキオンに促されるままに軽く屈伸をすると、知らず知らずのうちにこわばっていた背中の力が抜けた。
「ありがとう、タキオン。調子は……うん、大丈夫そう」
「それはよかった。ならば、もう少しリラックスしたまえ。適度な緊張は走りに良い効果を与えるが、あまり緊張しすぎたら万全のパフォーマンスを発揮できなくなる」
「そうですよ。大丈夫、エレジーさんの末脚なら十分勝機はあります。模擬レースのときの感覚を活かせれば行けるはずです。ほら、少し深呼吸しましょう」
「そうですね。――ありがとうございます」
桐生院さんに促されて深呼吸をして、肩を回す。地下バ道の出口は気がつけばもうすぐそこだった。
「――行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「行ってきたまえ。待ってるよ」
出口のスロープを上り、地上に出るとスタンドの歓声が聞こえてきた。
「――そういえば、あの子が出てたのもこのレースだったっけ」
わたしが小学生の時、初めて身近に接したウマ娘。ダンボウルカイツブリもトレセン学園に進み、若葉ステークスに出走していた。若葉ステークスまでの彼女の戦績は五戦ゼロ勝。今になって考えてみると、若葉ステークスへの出走は「クラシック競走のトライアル競走として指定されたレースに限り、未出走ウマ娘・未勝利ウマ娘の出走を認める」というルールを使い、優先出走権獲得に賭けてのものだったのだろう。
皐月賞への優先出走権が与えられるのは上位二人のウマ娘。
彼女は八着で優先出走権を得られず、その後のレースでもはかばしい成績を収められずに引退している。もしここで勝つことができれば、あるいは二着で皐月賞での優先出走権を得られていたら、その後も変わっていたのだろうか。ボロボロで彼女がトレセン学園から帰ってくることもなかったのだろうか。もちろん、若葉ステークスでの結果が変わって、皐月賞に出ることができたとしても結局力が及ばず、あのときと同じような状態で帰ってきてたかもしれない。クラシック競走に出ることができたとしても、上位人気に支持され、本番でも悪くない成績を収めたとしても、その後の成績が振るわないままに引退するウマ娘だって少なくはないのだ。けれども、ここでの一勝が分岐点になっていた可能性はあるのだ。今までに指導してきたウマ娘の中にも、最高の状態で僅かに及ばずに勝ちを逃したレースが分岐点になった子もいた。
だからこそ――
「――勝ちたいな」
勝って、皐月賞でギンシャリボーイやチョクセンバンチョーと競り合いたい。
遠くで響くファンファーレを聞きながら、そんな気持ちが湧いてきた。
そうなのだ、今日のレースは皐月賞に――ウマ娘として、人生に一度だけの大舞台につながっているのだ。
ゲートに入ると深呼吸を一つして、前をじっと見据える。レース場が静寂に包まれる。
《若葉ステークス……今、スタァトしました!》
ゲートの前扉が開いた。視界の端で、逃げウマ娘が先頭のポジションを取ろうと飛び出していく。まだペースは上げない。前目のポジションを取ることにこだわらず、前半のペースを上げすぎないようにすることだけに注力する。
隊列が定まったあたりでのわたしのポジションは九番手あたり。
わたしがやることは単純だ。中盤まではペースを上げず、暴走しないように努める。隊列の中でどこに陣取るのかは余りこだわらなくていい。
大切なのはタイミングだ。ハリボテエレジー最大の武器である末脚をどこで発揮するか、どこからポジションを押し上げていくかのタイミングだ。
《――一〇〇〇メートルを通過、タイムは……六一秒五、これは遅い!》
ペースが遅い。先頭を逃げるウマ娘が緩めたペースを誰もつつかなかった結果、前目につけたウマ娘が体力を温存できるペースになっている。仕掛けるのが遅ければ、逃げ切る前方集団を捉えきれない可能性が高い。
前よりも、「前へ、もっと前に、もっと速く!」という声は小さくなっている。そのお陰で、ずっと落ち着いてタイミングを計れた。
――第四コーナーを曲がり切る少し前、先頭のウマ娘が直線を向くかどうかのタイミング。団子状に密集したバ群の外側、他のウマ娘に進路を塞がれる心配のない位置。
「――ここ!」
力を込めて、スパートを掛ける。
その瞬間、これまでにないほどの力が溢れ出した。
まるで吹っ飛ばされたかのような加速。当然、わたしの体はそれについていけない。大外にそれていくことすらできない。
あっさりと世界がひっくり返り、ダンボールが潰れる音と――
――痛みとともに、肩から嫌な音が響いた。
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[神戸新聞杯]―クラシック級・9月
[神戸新聞杯に向けて]
トレセン学園の秋は、クラシック三冠・トリプルティアラの最後の一冠と、そこに向かうトライアルレースの季節だ。
春のクラシックレースで実績を残したウマ娘は夏の休養やトレーニングを終え、本番に向けてレースの感覚を取り戻すために、そして実力が確かであることを示すために、春のクラシックには間に合わなかったものの、夏の間に勝ち上がってきたウマ娘は残された最後の一冠に向けて実力を示し、弾みをつけるために、そして何らかの理由で春や夏を棒に振らざるを得なかったウマ娘はなんとか最後の一冠に間に合わせるために、それぞれの理由でトライアルレースに挑むことになる。
「――怪我、大丈夫なんですか?」
「うん、まあ。念のためギブスをつけているけど、もうほぼ治ったようなものだから」
レジンキャストの気遣わしげな視線に、ギブスに包まれた腕を軽く振って見せる。実際、若葉ステークスで転倒した際に折れた骨も、もうくっついていた。
「神戸新聞杯には間に合うよ。練習もそろそろ再開できるし」
実際のところは、怪我の間は最低限のもの以上のトレーニングはできなかったから、今から頑張っても菊花賞までに体を仕上げられるか怪しいところがあるが、それはあくまで口にしない。
「だといいんだけど……」
けれども、間に合うのか微妙なことは隠せないのか、レジンキャストの表情は曇ったままだった。
「むしろごめんね。前みたいにはトレーニングに付き合えなくなっちゃって」
「いえ、それは別にいいんです。ハリボテさんの怪我が治るまでって約束でしたから」
「治ったら併走とかでも手伝えたんだけどねー」
そうやってわざと笑ってみても、レジンキャストはニコリともせず、わずかにうつむいたまま、固く拳を握りしめていた。
「……それで、用事ってどうしたの?」
「はい」
「……九月いっぱいで退学することにしました」
トレセン学園の秋は、最後の一冠に向かっていく季節である。
同時に、クラシック級を中心に生徒の数がガクリと減る季節でもある。
クラシック三冠・トリプルティアラ最後の一冠へのトライアルレースが開催される季節であると同時に、最後の未勝利戦が開催される季節なのだ。
最後の未勝利戦が終わった段階で、未だに勝つことができてない生徒は選択を迫られることになる。
格上挑戦の不利を呑んで、一勝クラスの条件戦で戦い続けるか。
転属しローカル・シリーズでの活躍を目指す、あるいはそこで二勝を挙げてトゥインクル・シリーズへの道を繋ぐか。
障害試験を受験し、クラシック期以降でも未勝利戦が開催されている障害競走へ転向するか。
サポート科など、レース以外の場でトゥインクル・シリーズへ関わる道を選ぶか。
――はたまた、トレセン学園を退学し、レースの世界から去るか。
彼女は、それらの選択肢のうち一番最後の「レースの世界から去る」という選択をしたらしい。
私と競り合ったメイクデビュー戦でクビ差の二着、その後の未勝利戦でも概ね五着以内。
メイクデビュー戦の縁からときどきアドバイスに応じていたこともあって、退学する前に挨拶に来てくれたらしい。
「それで、退学後は……?」
「地元の高校に編入することになりました」
「そう……。転校先でも元気でね」
「……ありがとうございます」
ある種、型通りのやり取りが終わると沈黙が降りる。
どうしても、こういうときに掛けられる言葉は限られる。本人がなんだかんだで納得して、さっぱりした様子ならそれなりに励ましの言葉もある。けれども目の前のレジンキャストの表情は、まだトゥインクル・シリーズに未練が残っていることをありありと示していた。
そうなると、今の私の生半可な慰めは逆効果になりかねない。
どうしたものか、と言うべきことを考えているうちにぽつりとレジンキャストが口を開いた。
「一回戦っただけでしかも先着も出来なかったあたしが言うのも変な話だけですが……でも、ハリボテエレジーさん――あなたは、強いと思ってます」
それは、負けたなりの誇り、あるいは負けたからこその夢。
「だから、頑張ってください、神戸新聞杯」
それに対して、わたしが言えることなど一つしかない。
「ありがとう。頑張るね」
「今のクラシックはギンシャリボーイとチョクセンバンチョーの二強になってますけど――ハリボテエレジーがあの二人に勝ったらあたしだって自慢できますから。『あたしがメイクデビュー戦でギリギリで負けたハリボテエレジーはあんなに強いウマ娘だったんだ。一回だけ、一瞬だけだけど、あのハリボテエレジーとゴール前で競り合ったことがあったんだ』って自慢できますから」
トレーナー補をやっていたときや、担当のついていないウマ娘の担当教官をやっていた頃に、勝ち上がれずにトレセン学園を去るウマ娘を見送ったことは何度もあった。けれども、そんな夢を託されたことはなかった。
「そうだね。――レジンが自慢できるように、頑張るよ」
「うん、頑張って」
不意に、レジンキャストが窓の外に目を向けた。窓の外では、練習コースで次のレースに向けて走り込みをするウマ娘たちの姿があった。
「――あたしも走ってみたかったな、クラシック」
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[神戸新聞杯にて・段ボールの破れる音]
《クラシックロードへの最終便、神戸新聞杯。菊花賞への優先出走権を賭けてクラシック級ウマ娘一八人が集いました》
レジンキャストと話してから二週間後。わたしは阪神レース場のコースに立っていた。
神戸新聞杯、阪神レース場芝二二〇〇メートル。発走地点はスタンド前の直線のどん詰まりなので、ゲートの裏からも、スタンド席の観客たちの発するさざなみのようなざわめきがかすかに聞こえてくる。
ウマ耳カチューシャを触る。大きく一回、深呼吸をして気持ちをお土地科せる。
――勝負は第三コーナーに入ってから。それまでは、どんなに前に行きたくても抑える。
それが、春の経験から学んだことだった。コーナーでスピードを上げた場合――強烈な加速を制御しきれず、わたしは曲がりきれずにコーナーのどこかで転倒してしまう。
それが、後天的にウマ娘としての能力が発現したせいなのか、はたまた「ハリボテエレジー」というウマ娘の個性なのかはわからない。
確かなのは、わたしの加速力は、コーナーで発揮するにはあまりに危険すぎること――そして、コーナーから仕掛けることを捨てて、最終直線での末脚勝負になったとしても、最後方から先頭へと突っ込んでいけるほどの武器であることだけだ。模擬レースとは言え、ギンシャリボーイ・チョクセンバンチョー相手に末脚勝負を挑んで、並ぶところまでは行けたのだ。ギンシャリボーイもチョクセンバンチョーもいないここで同じことをすれば、勝てるはずなのだ。
だから、最終直線までは抑える。最終直線までは、前をゆくウマ娘たちを追いかけようとはせず、自分の出せる力だけで走る。
ゲート裏での準備運動を終え、ゲートに入る。大きく深呼吸。眼の前の扉に意識を集中させ、なおも聞こえてくるあの声を意識から締め出す。
《⑱番エアフィックスがゲートに収まりまして……クラシックへの最後の切符を手にするウマ娘は誰になるのか――神戸新聞杯、スタートしました!》
音を立ててゲートが開き、視界がひらける。
序盤は抑えめに。力みすぎないように、前に行くウマ娘たちを意識に入れないようにしながらゲートを飛び出す。
――おかしい。
体が重い――いつもと同じように走っているはずなのに、速度が上がらない。いつものように体を動かしているはずなのに、全然前にいかない。
前をゆくウマ娘たちがどんどんと遠ざかっていく。耳元を吹き抜ける風の音が聞こえない。やけにのろのろと流れていく観客席から、ざわざわと不安げなざわめきがやけにはっきりと聞こえてくる。
第一コーナーの時点で、バ群ははるか前方。ブービーの背中すらも見えない。思わず、足が止まる。
――もう、届かない。
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[可能性に満ちた脚]―クラシック級・12月後半
[可能性に満ちた脚]
――夢のグランプリ、有馬記念。
世代限定戦のホープフルステークス、ローカル・シリーズの東京大賞典を除けば、トゥインクル・シリーズで一番最後に開催されるGⅠであり、ファン投票による出走権の付与というシステムもあって、その年の締めくくりとしてダービーにも負けない人気を誇るグランプリレース。
堂々の一番人気は無敗クラシック三冠、さらにジャパンカップでシニア級相手のレースも難なく制し現役最強の呼び名も高いウマ娘、ギンシャリボーイ。
そして二番人気はシニア級との混合レースになるマイルチャンピオンシップを圧勝、ダービー、菊花賞と中長距離のクラシックレースでも善戦しギンシャリボーイとともにクラシック級二強の双璧をなすチョクセンバンチョー。
むろん、シニア級のウマ娘たちもGⅠを制した実力の確かなウマ娘揃いだが、すでに彼女らを相手に二人が確かな実力を示した以上、外野からの評価は完全に彼女たち二人の二強対決のムードとなっていた。
そして、わたしはと言うと――
トレーナー室で有馬記念の中継を、タキオンと桐生院さんと共に観ていた。
ただ、正確に言えば桐生院さんは有馬記念の中継を観るよりも図書室から借りてきたトレーニング関連の専門書を読んでいたから、中継を見ているのはわたしとタキオンの二人だけだった。
「桐生院さん、少し眠ったほうがいいんじゃ……」
「いえ、少しでも早くエレジーさんがもとの力を取り戻せるようにしないといけませんから」
わたしが声をかけても、桐生院さんは資料から目をあげようとする様子もない。その目の下には、傍目から見てもはっきりと分かるほど濃いクマができていた。
秋のわたしのレースでの成績は、惨敗というのも憚られる代物だった。
神戸新聞杯では第一コーナーにたどり着いたところであまりのタイム差に裁決委員の判断によって競走中止。
再トレーニングを経て挑んだオープン戦でも全くスピードを上げられず、タイムオーバーで出走停止処分一ヶ月。トレーニングではそれなりに走れているものの、タイムは明らかに前よりも悪くなっていた。現時点では次走の予定も全く立てられていない。
「桐生院くん、そう根を詰めても能率は上がらないよ。今日くらいは休んだらどうだい?」
見かねたタキオンが淹れた紅茶を桐生院さんの手元に置く。
「いえ、いまはとにかく時間が足りません。エレジーさんがまた元の走りを取り戻せれば――来年の有馬記念には出られるはずです。そのためにも、今のうちに解決の糸口だけでも掴まないといけません。これはメイントレーナーである私の仕事ですから、タキオンさんとエレジーさんは私に構わず有馬記念の中継をどうぞ。チョクセンバンチョーも、ギンシャリボーイも、来年の有馬記念にも出てきます。今のうちに、たっぷりとその走りを見ておいてください」
「そうは言ったってねぇ……」
紅茶に目をくれる様子もない桐生院さんにタキオンはため息をついた。
前だったら、私がタキオン相手にしていたやりとりそのものだった。もちろん、タキオンが休むように言われる側だ。
テレビからは有馬記念の予想が流れる中、不意になにか思いついたように桐生院さんが資料から顔を上げた。
「そういえばタキオンさん」
「なんだい? とうとう休む気になったかい?」
「いえ。こういうときになにか役立つお薬はないんですか?」
「睡眠薬ならあるが?」
「いえ、エレジーさんが力を出せるようなお薬です」
「ないよ」
タキオンがそう言ってゆるく首を振ると、ようやく専門書から顔を上げた桐生院さんが「どうして?」というように首を傾げた。
「私の作る薬はどれも才能を伸ばすためのものではなく、才能を十全に発揮させる――脚を補強するためのものばかりだからさ。ただ漠然と力を出せない、というのだけだと手頃な薬がない、かといってどこからか力が湧き出してくる――ともなればそれはもうドーピングだ。私の守備範囲外だよ」
確かに、タキオンの作る薬というのは能力をプラスする薬というよりは故障などを防ぐための薬ばかりだ。わかりやすく桐生院さんがしゅんとする。
「そう……ですか」
「ああ。まあ、紅茶でも飲みたまえ。多少なりとも休んでおくべきだよ」
すすすっと桐生院さんのそばに寄ったタキオンが紅茶を勧める。桐生院さんはちょっと迷った様子を見せてから、紅茶の入ったティーカップを手に取った。
「……ありがとうございます」
そう言って紅茶を一口すすった桐生院さんの身体がぐらりと傾く。タキオンが素早くその手からティーカップを取り上げると同時に、桐生院さんがぐだりと机の上に突っ伏した。
「……タキオン、紅茶に何を入れたの?」
「なに、睡眠薬を少しね。しばらくは起きないはずだよ。エレジーくん、彼女をソファーに寝かせたまえ」
タキオンに促されるままに桐生院さんをソファーに寝かせると、タキオンはティーカップに入った紅茶を流しに捨てる。
「エレジーくん、そろそろ有馬記念の出走だ。……紅茶を淹れてくれ」
紅茶を淹れて戻ると、テレビから関東GⅠファンファーレが鳴り響いた。
《天高く今年最後の関東GⅠファンファーレが鳴り響いて、ウマ娘のゲート入りが進んでおります。実況はわたくし、スプリングテレビジョンのアオシマバクシンオー、解説は現役時代には日本ダービーでの勝利経験もあるキズナカッターさんをお迎えしてお送りします》
ティーカップを眼の前に置かれても気づいてないように、タキオンは真剣な眼差しでテレビ画面を見つめている。テレビの前に腰を下ろすと、ゲート入りの様子が映し出されていた。
《さあキズナさん、出走ウマ娘に関してのまとめをお願いします》
《はい。一番人気のギンシャリボーイは過去の実績から見て非常に厳しい大外枠となってしまいましたが、実力で一つ頭抜けていることを考えれば、それほど大きな不利にはならないと考えることもできます。いっぽう、二番人気のチョクセンバンチョーは前走マイルチャンピオンシップから一〇〇〇メートルの距離延長に対する適性が問われるところですが……菊花賞でも三着と善戦してますし、距離に関しては問題はないでしょう。内枠の有利を十全に活用できれば実力から言って逆転も十分ありえます》
《ありがとうございます。さあ、最後に⑱番キャメルクラッチ、アラブからの移籍ウマ娘がゲートに入りまして――一年を締めくくる夢のグランプリ有馬記念、スタートです!》
ゲートが開く音。同時に、ウマ娘たちが一斉にゲートから飛び出した。
発走地点から第三コーナーまでの短い直線を駆け抜け、コーナーを曲がってスタンド前の直線を通り過ぎる頃には大まかな隊列が形成される。チョクセンバンチョーが先頭、ギンシャリボーイは十二番手辺り、一群となった後方集団の外側。
コーナーを曲がり切り、向正面にたどり着く頃にはチョクセンバンチョーが大きく二番手を引き離して単独での大逃げを図る形勢がはっきりし始めていた。
《①番チョクセンバンチョーから二番手⑤番チョンマゲワンダーまでおよそ五バ身、二番人気チョクセンバンチョーの思いがけぬ大逃げ、これは秘策かはたまた暴走か!? 一〇〇〇メートル通過タイムは――五十八秒ジャスト! 場内どよめく! これは速い! これはハイペースだ、チョクセンバンチョーはこれでもつのか!》
第一コーナーの手前、一〇〇〇メートル地点を通過した段階で先頭のチョクセンバンチョーから、七番手あたりまで位置を上げてきたギンシャリボーイまでの距離は目測でおよそ五、六馬身。大半のウマ娘はギンシャリボーイをマークして、先頭のチョクセンバンチョーを追っていない。
直線が短く、急坂もあるために中山芝二五〇〇メートルは基本的に前方にポジションを占めたウマ娘が有利なコースで、この差は詰められるのか。状況次第では、チョクセンバンチョーがそのまま逃げ切っても不思議ではない。
そのまま、画面の中のレースは第三コーナー、そして第四コーナーから直線へ。
《チョクセンバンチョー先頭! チョクセンバンチョーヨレながらも粘っている!》
後続集団に距離を詰められながらもチョクセンバンチョーはなんとか先頭に踏みとどまり、ギンシャリボーイはようやく集団中央あたり。ギンシャリボーイの上体が揺らぎ、バ群の中に姿を消す。ゴールを前にして圧倒的一番人気のウマ娘が体力の限界を迎えて倒れたような姿に悲鳴のようなどよめきがスタンドからあがる。
《ギンシャリは来ないのか! ギンシャリは来ないのか!? 直線も半ばを過ぎて、年末のグランプリ有馬記念はゴールまで残り一五〇メートル!》
ギンシャリボーイの姿は完全にバ群の中に消え、大逃げを打ったチョクセンバンチョーは未だ先頭。他のウマ娘たちは向正面からペースを上げてチョクセンバンチョーを捉えにかかったことで末脚が伸びない。
どう見ても、チョクセンバンチョーが逃げ切る展開。そう思われた瞬間――バ群の中から、低いシルエットが飛び出した。
《おっとここで飛び出したのは――飛び出したのは!?》
中継アナウンサーが一瞬言いよどむほどの異様なフォーム。両手で大地を掴み、草原を駆けるシマウマのように四足歩行で低く、地を這うような姿勢。ウマ娘の走る姿からあまりにかけ離れた姿勢。
だが、レース中のコースに、バ群のなかにいたのならそれはウマ娘だ。
《真ん中だ! 真ん中バ群を突き抜けてギンシャリボーイ上がってきたすごい脚! これが三冠ウマ娘の走りだスシウォークだ!》
異形のフォーム――菊花賞の最終直線で彼女が初めて見せた彼女だけが使う特殊な走法、スシウォークでギンシャリボーイがチョクセンバンチョーに並ぶ。
《ギンシャリ交わした! ギンシャリボーイチョクセンバンチョーを抜いた!》
並んでからは一瞬。地を這う風のようにギンシャリボーイがチョクセンバンチョーの足元を駆け抜ける。
《ギンシャリボーイ突き放す! 一バ身! 二バ身! チョクセンバンチョーは一杯だ! ギンシャリボーイだ! これはギンシャリボーイ! ギンシャリボーイ!!》
二バ身差――誰も寄せ付けずにギンシャリボーイがゴール板の前を駆け抜けた。
《有馬記念を制したのはクラシック級ウマ娘ギンシャリボーイ! 危なげもなく、あっさりと撫で切って史上初GⅠ六連勝、無敗の六冠バです!》
思わず止めていた息をゆっくりと吐き出した。
「スシウォーク……だったかな。彼女の走法は実に興味深い。菊花賞のときと比べてもより洗練されている。それに何より、あのフォームでタイムが伸びるとは……」
タキオンのつぶやきに、適当に応えながら、じっとテレビを見つめる。
画面に映し出されたギンシャリボーイはコーナーの半ばでペースを落とし、息を整えている。前半をハイペースで大逃げした同期――それもクラシック級でマイルチャンピオンシップを制した実力派の同期を直線だけで捕まえられるような猛烈な末脚を繰り出し、厳しいレースにたった今勝利したウマ娘とは到底思えない、あっさりとした姿に苦笑が漏れる。だが、彼女らしい姿だ。
第二コーナーの奥で一旦脚を止めたギンシャリボーイが、チョクセンバンチョーに促されて駆け足で観客席の前へと戻ってくる。スタンド前の直線を駆け抜けながら、ギンシャリボーイがガッツポーズをするように片手を上げる。テレビ越しにもわかるほど、はっきりとした歓声が、中山レース場を包み込む。観客たちが、勝者の名前を呼ぶ。
大満員のスタンドを前に、ギンシャリコールの鳴り響く観客席に向けて走りながら手を振るギンシャリボーイの背中がテレビに映し出される。
「――ああ、綺麗だなぁ」
思わず、そんなつぶやきが口から漏れた。
――わたしは、あそこには行けないんだ。
その実感は、すとんと胸のなかに落ちた。
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[見えてしまった夢]―シニア級・6月後半
[夢の終わり・黄昏]
ウマ娘には、三つの適性が存在する。
どの距離帯でのレースでなら、己のスピードを発揮できるのかを示した距離適性。
芝とダート、はたまた障害競走、どんな種類のレースであれば己の加速力を十分に発揮できるかどうかを示す馬場適性。
レース中、どのような位置についてどう走るのが最も己の性格や体質にあっているのかを示す脚質適性。
これらの適性に合わないレースであれば、どんなウマ娘でも己の力を十分に発揮できず凡走に終わったり惨敗を喫すことになる。故にトレーナー過程ではその適性を読むことも学ぶが、中途半端に距離適性の広いウマ娘であるとなまじ好走できてしまうだけに適性の合わない路線で勝ちきれないまま走り続けてしまうことも往々にして発生してしまう。
これままで、ハリボテエレジーのレースは芝のマイル~中距離、脚質は追込を中心に走ってきていた。
秋のレースでの惨敗を受けて、桐生院さんとタキオンはまずこの適性の見直しからやり直すことにした。
オープン戦・ポルックスステークス(中山・ダート一八〇〇メートル右回り)――十六着
未挑戦だったダート路線での適性に賭けてのレースは、秋と同じように言い訳のしようもない惨敗。
オープン戦・メトロポリタンステークス(東京・芝二四〇〇メートル右回り)――十八着。
ジュニア期に勝利したこともある中距離レースへの改めての挑戦。出足がつかず、追走できなくなっていたことを踏まえて暴走覚悟で序盤から力を使って走るも、まるでレースの展開についていけなかった。
スピードもパワーも足りない。どれだけ力を出そうとしても、どういうわけかジュニア期のような末脚が出ない。それどころか、まともについていくこともできない。
まるで、何かが抜けてしまったような状態だった。
怪我や体の成長によって体のバランスが変わり、それまでのような走りができなくなる、早熟で能力の伸びが止まる、あるいは本人にも周囲にも全くわからない原因によってある時期を境に急激に弱くなる、勝てなくなるウマ娘――私もその一人になってしまったとしか言いようがなかった。
思いがけない提案が舞い込んできたのは、最後の勝利である芙蓉ステークスからすでに一年半、夏に差し掛かった頃のことだった。
「――専属トレーナー契約の提案がありました」
春をすぎると、トレセン学園では選抜レースが開催され始め、来年にデビューを控えたウマ娘の専属トレーナーにならないかというオファーがちらほらと出始める。
ウマ娘の側からすれば、能力のあるトレーナーを早いうちに確保できるし、トレーナーの側からしても将来有望なウマ娘と専属契約を早いうちに結べることは来年以降の生活の見通しを明るくさせる。
私にも、そのオファーが届いたのだ。ウマ娘となってからの競走成績はパッとしない、それどころか突然謎の不調に陥っていることがマイナス点ではあるものの、トレーナーとしての実績だけを見るならばアグネスタキオンを育て上げ、しかもウマ娘としてのレースの経験もあることが評価されたらしい。
「そう、ですか……」
その報告を聞いた桐生院さんの反応は、その一言だけだった。
しかし、タキオンのように専属トレーナーの下でサブトレーナーをするのならともかく、専属としてトレーナーに復帰するということはトゥインクル・シリーズから引退するということとほぼ同義である。わたしの一存だけで決められることではない。だからこそ、桐生院さんの意見も聞きたい。そう伝えると、桐生院さんは「わたしは……」としばらく言いよどんだあと首を振った。
「エレジーさんの、いえ、手作さんの好きな方を選んでください」
そう言った桐生院さんの顔は、ひどく疲れた様子だった。曲がりなりにもクラシックの有望株と言われたウマ娘を預かりながら、そのウマ娘の育成に失敗し、凡走以下の走りしかさせられなくなった無能――詳しい事情を知らないファンからのそういった評価に苛まれ続けていたためだろう。
「……ごめんなさい」
そうつぶやいた桐生院さんの声は、消え入るように小さかった。
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[夢の終わり・見えてしまった夢]その1
「……何を言ってるんだい、トレーナー君?」
それが、トレーナー転向の話をしたときのタキオンの第一声だった。
「私はだね? 君の脚に眠る可能性に期待しているんだ。それがね? トレーナー補たる私に話もなく勝手に引退しようとするなんてどういうことだい?」
「だから今相談しようとしてるんだけど……」
わたしの言い訳に、「ならば、だ」とこれ以上ないほどにむくれた表情でタキオンは腕を組んだ。
「わたしは、君が引退してトレーナーに戻るなんて許さないよ」
「そんなこと言ったら、タキオンだって無期限の活動休止を宣言してたよね? 私に相談もしないで」
タキオンはわたしがデビューした直後、去年の夏に突如としてトゥインクル・シリーズでの活動を無期限休止することを発表していた。タキオンはそのときに事前に一切相談しないで、いきなり活動休止を決めていたのだ。
タキオンが秘密主義で、相談もせずに何かを決めるのは月桂杯のときもプランBのときもずっとそうだったし、もう慣れてしまった。けれども、それについてタキオンからこうも言われたら多少はカチンともくる。タキオン自身も自覚はあるのか、わたしの指摘に気まずそうに目をそらした。
「……それとこれとは別だよ」
そう呟いてから、タキオンは「……いや、別ではないな」と首を振った。
「そうなの?」
「ああ。なにせ、本腰を入れて君のサポートをするためだからね。トゥインクル・シリーズで走りながらでは君のトレーニングのサポートに専念できない。ならば、わたしが活動を休止してわたしも君のサポートに専念したほうがいいだろう、わたしも、桐生院くんも」
「タキオン……」
でも、なんだかんだで考えなしにそういうことをやるわけではないものね……そっか、そんなにわたしの走りに……と少しホッとしかけた瞬間、タキオンはボソリととんでもない爆弾を放り込んだ。
「……まあ、このところ本格的に脚の調子がおかしかったのもあるが」
「ちょっとまって、脚の調子がおかしいってどういうこと!? ちょっと脚を見せて!!」
クラシック期のときにタキオン自身が語っていたように、タキオンの脚は比類ないスピードと引き換えに繊細さを抱えるガラスの脚だ。そうでなくても、トゥインクル・シリーズを走るウマ娘にとって脚の調子がおかしいというのはちょっと体調が悪いどころの話ではない。下手をすれば競技者生命にも直結する怪我や屈腱炎の兆候という可能性だって十分にあるのだ。
大慌てで脚の触診を始めようとしたわたしから逃げるようにタキオンが素早く後退さる。
「……大した不調ではない。軽い屈腱炎さ。しばらく休養しておけば問題ないよ」
タキオンはちょっと鬱陶しそうにそう言ってひらひらと手を振ると、真剣な表情でわたしの顔を覗き込んだ。
「それよりも、問題は君のことだ」
窓の外から差し込む日差しが、タキオンをオレンジ色に染め上げる。
「わたしは、君に……君の脚に眠る可能性に期待しているんだ。ヒトとしての脚とウマ娘の脚、その両方を兼ね備えた脚がどこまで行けるのか……」
タキオンの目が、涙を堪えるように潤んだタキオンの目が、夕焼けにきらきらと光る。よく見ると、その目の下には隈ができていた。
「だからね、頼むよ。君の脚の可能性を引き出すためだったら――君がたどり着く、限界速度の果てを見届けるためだったらなんだってする、必要なデータを得られるんだったら、こんどこそ本当にプランBをしても構わない」
その目を染める色は、狂気的な欲望に取り憑かれた悪魔のような色であり――
「だからね……引退するなんて、やめてくれ。君の背中に乗っているいろんな想いのなかに、わたしの想いも入れて欲しいんだ」
――レースに無邪気に目を輝かせる少女のような、なにかに夢見る色をしていた。
「なあ、エレジーくん……いや、トレーナーくん。
――君が見た夢は、どんな夢だったんだい?」
――その日、夢を観た。
ハリボテエレジー、わたしと同じ名前をしたウマが、夢の中でもレースを走っていた。向こう正面から発走し、第三コーナー、第四コーナーを曲がるレースで彼は、馬群の最後方に陣取っていた。
速度は十分。レース中盤までは狙い通りの位置で後半へ向けて脚を溜める。そして、終盤にかけてスピードを上げ、ゴール前では先頭に立つ。そういう目論見なのだろう。馬群の最後方で控えたまま、妙に丸っこい胴体をしたそのウマは向こう正面の直線を駆けていく。
第三コーナー――レースが終盤に入る曲線の入口。そのウマもじわりと速度を上げた。
どこからか、人々の声なき声が聞こえてくる。それはレース場の観客席から響いてくる、勝ちウマ娘投票券を買った人々の「差せーっ!」といった声とよく似た声。観客席から投げかけられる、声援とも、観客自身の祈りともつかない声。
その瞬間、ダンボールの破れる音が響いた。
丸っこい胴体をしたウマがころりとあっけなく倒れる。
ウマの体が真ん中から真っ二つに引きちぎられ、前後の足がターフに投げ出される。
そして、そのウマの体の中には――二人のヒトが入っていた。
次回、12/15の投稿は冬コミの新刊の入稿で作者が忙しいためお休みします。次回投稿は来週12/20を予定しています
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[夢の終わり・見えてしまった夢]その2
コミケ前であれやこれやバタバタしてた上にメインストーリー第五章でタキスズが公式から叩きつけられたせいでプロットが生えてきたりなんやかんやしてすっかり間があいてしまいましたが[パッチワーク・オブ・ドリーム]、連載再開です。
目覚めたときの気分は、最悪だった。
どんより気分を引きずったまま、しかし習慣とは恐ろしいもので機械的に朝のトレーニングを終えて、コースを出たところでタキオンに行く手を塞がれた。
「どうしたんだい、随分と浮かない顔をしているじゃないか」
「……偽物の脚だった」
私のあまりにも簡単にすぎる夢の内容の要約にタキオンが首をかしげる。
「……いったいどうしたというんだい」
「ウマの夢を見たんだ」
そう言ってから、それでは正確な説明ではないなと首を振った。少なくとも、それでは肝心な部分を何も説明できていない。
「……ううん、ウマの夢じゃない。……ウマのふりをした、ヒトだった。ハリボテエレジーは、ウマじゃなかった。そういう夢を見たんだ」
「ふぅン……」
タキオンはわずかに考え込むような様子を見せてから、軽く手を振った。
「少し、話をしようか。……そうだな、わたしたちウマ娘が見る夢の話でもしよう」
「――わたしたちウマ娘は、ウマの夢を見るんだ。どこか遠い世界にいた、私達自身と同じ存在の夢だ」
「タキオンも夢を見たの?」
「ああ。アグネスタキオンというウマの脚に宿る可能性が人々に夢を抱かせ――そして、その脚の脆さが、その夢を終わらせる夢だ」
一限目が始まり、すっかりひと気のなくなったカフェテリア。タキオンはそう言うと、窓の外に目を向けた。
「夢の中でも私は――アグネスタキオンは皐月賞を勝っていた。四戦四勝、名前に冠された超光速の粒子にふさわしくその脚に宿る速度は抜群のもので、いずれは三冠も――そういう夢が語られるだけのものは間違いなくあった」
そう語るタキオンの横顔には、かつてプランBのことを話していたときのような、努めて冷静に、感情を抑えようとしながら――どうしても感情が僅かに漏れているときのこわばりがあった。
「だが、アグネスタキオンというウマがレースで走ったのは、皐月賞が最後だった。屈腱炎が三冠も、彼の可能性の果ても消し去ってしまった。私が見たのは、そういう夢だ」
そう言うと、タキオンは紅茶を口に運ぶ。
いつになくゆっくりと紅茶を飲んで喉を湿らせると、タキオンは目を伏せたまま、「まあ、私の夢のことはいい」とため息をついた。
「それ以上に大事なことはね――私達が見る夢は、いつだってウマたちの走りをコースの外から見たものだ、ということなんだ」
そう言って顔をあげたタキオンの目には、うってかわってどこか面白がっているような色が浮かんでいた。
「これはどんなウマ娘も例外ではない。カフェも、デジタル君も、スカーレット君もそうだ。その意味がわかるかい?」
私が「わからない」と首を振ると、ますます面白がるようにタキオンの笑みが深まる。わずかにタキオンが身を乗り出し、私の顔を覗き込んだ
「なぜなら私たちウマ娘は――ウマ娘が継承した想いというのはね、コースの外から見た人々の思いの集合体だからさ」
その目に浮かぶ光はまるで、破滅的な欲望に身を焦がす悪魔のようで――
「――君が見たものもそうだったんじゃないかな?」
――そして、その言葉はメフィストフェレスの誘惑のような、どうにもならない魅力的な響きを帯びていた。
「……タキオンは、アグネスタキオンという競走馬にどんな思いを抱いたの?」
「どうしたんだい?」
「もしさ、ウマ娘が継承した想いは、同じ名前のウマの走りを見た人々の思いなのだとしたら、そのウマの夢を見たタキオン自身の想いも、受け継いだ想いの中に入ってるんじゃないかってと思ったんだ」
意図的に目を逸らして、なんとか絞り出した私の問いに、タキオンは「うぅン……そうだね」と空を仰いだ。
「――わたしは、アグネスタキオンというウマの可能性の果てはどこにあるんだろう、その果てを見てみたいと、そう思ったね」
「……そっか。ありがと」
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[見えてしまった夢・その先へ]―シニア級・10月後半
[見えてしまった夢・その先へ]その1
東京レース場・芝一六〇〇メートル
GⅡ・富士ステークス
ゲートの中で頭につけたウマ耳カチューシャの感触をもう一度確かめる。カチューシャは触ってみてもまるで頭から生えているように微動だにしない。ウマしっぽも、ほかのウマ娘たちのように自由には動かないものの、体の一部であるかのようにしっかり安定していた。
隣の枠に入ったウマ娘から困惑したような視線を感じるが、無視して呼吸を整える。
富士ステークスはGⅡ競走。
通常、ウマ娘がレースで勝負服を着るのはGⅠレースのみだ。未勝利戦、条件戦、オープン戦、リステッド競争やGⅢ・GⅡのレースでは全員共通の体操服で出走する事になっている。
だが実のところ、それは明確なレース規定として制定されているわけではない。あくまで慣例のようなもので、それを破って勝負服で出走したところでそれを止められる規定は存在していない。ただまあ、後でちょっとした注意と、やりすぎた場合は内外からの批判にさらされるだけだ。
だから、オープン戦やGⅡに勝負服をまとって出走するウマ娘はたまにいる。そしてそういうウマ娘の大半は、勝負服を拵えたもののGⅠで活躍することもできず、重賞戦線でもはかばかしい戦績を収めることもできず、そのレースを最後に引退することが決まっているウマ娘だ。
ジュニア期でオープン入りし、朝日杯では三強の一角に数え上げられたものの転倒して競走中止。クラシック期のレースではブービーにすら大差をつけられての惨敗続き。
客観的に見るなら、わたしも引退ルートに乗っているウマ娘に見えるのだろう。
だがもちろん、わたしは引退するつもりなどない。
《全員ゲート入り完了! ――スタートしましたっ!》
ゲートが開き、一気に前方の視界がひらける。隣の枠に入ったウマ娘がスタートダッシュを決めてコース内側に切れ込んでいく。ウマ娘たちの背中が一瞬遠ざかる。
思わず、その背を追いたくなる。ペースを上げたくなる。追わなくては、追いつけなくなるような気がする。末脚の出せなかったレースの記憶が蘇る。
大きく息を吸い込む。遠ざかるバ群を見送る。
けれども、あの背中を意識から締め出しては行けない。
どれだけ遠くても、追い続けなくてはいけない。
《さあ先頭を走るのは⑦番トランペッター、今日も逃げる! 三バ身開けて⑤番ピットロード追走、ほとんど並んで②番スカイウェーブ……最後方は⑧番ハリボテエレジー、今日はバ群から離されず追走している》
あの夢を見て、タキオンが見た夢の話を聞いてから、体の調子はかつてないほどに上向いてきていた。その証にこのレースでもバ群から大きく引き離されることなく、下り坂で速めのペースの中でも離されることなく追走できている。
勝負は第三コーナー。向こう正面の直線を駆けながらじっと前を走るウマ娘に照準を合わせる。
コーナーを曲がるにつれて、観客席から響く歓声が大きくなっていく。応援しているウマ娘が先頭を逃げる様子を喜ぶ歓喜の声、応援しているウマ娘が中団で勝負どころに向けて脚をためる様にハラハラする声、あるいは応援しているウマ娘が出遅れて後方でバ群に包まれてどうにもならない様にたまらずあげた悲鳴。
叫んだからと言ってどうにかなるわけではない。「のこせ」と叫んだところで逃げウマ娘が最終直線で踏ん張れるわけではない、「差せ!」と叫んだところで後方にいたウマ娘の末脚が爆発するわけではない。叫んだところで、想いが奇跡を起こすわけではない。
だが――その声は、ひとつの祈りの形なのだ。
――ウマ娘が継承した想いというのはね、いろいろな人々の思いの集合体なのさ。
けれども、ウマ娘はその背中にいろいろな想いを載せて走るのだ。異世界から継承した想い、この世界でレースを応援するファンの想い、そして、自分自身の想い。
ならば、わたし自身だって祈りを叫んだっていいんじゃないか。
わたしの見た夢を、叫んだっていいじゃないか。
先頭を逃げるウマ娘が第三コーナーに突入する。
まだ勝負どころではない。仕掛けるにはまだ早いかもしれない。
だが、ハリボテエレジーにとっては、こここそが勝負所なのだ。大きく息を吸い込む。
「ハリボテぇぇぇぇぇぇぇ――」
先頭とは数秒の差で、第三コーナーへと到達する。
「――曲ぁがれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
それは、わたしが夢の中で耳にした声。
夢の中にいた、誰かが叫んでいた言葉。
わたしの脚が、しっかりと地面を踏みしめてカーブを曲がる。勝負服のスカートが風にはためく。
夢の中の世界のハリボテエレジーは、ウマではなかった。名前の通り、ハリボテエレジーはハリボテで、中にはウマ娘でもなんでもないただの人間が入っているだけだった。
ただのヒトが、ウマ娘とそっくりな存在であるウマのレースに入り込んでいただけなのだ。
――だけどそれは、わたしだって同じなのだ。
子供の頃に遊んでいた「ウマ娘なりきりセット」を元にした勝負服。
これは、子供の頃に憧れててなりきり遊びをした時に思い描いていたウマ娘の姿そのもの。
もともとわたしはウマ娘ではない。ウマ耳もなければ、ウマしっぽもない。けれど、どういうわけか今のわたしはウマ娘としてハリボテの勝負服を着てターフを走っている。
これはきっと、夢の続きなのだ。子供の頃に見た、『ウマ娘』という夢の続きなのだ。
夢はきっと醒める。
――でも、だからこそ、最後まで夢を見ていたいのだ。
第四コーナーを曲がる。直線を向く。
だから、まず私自身が夢を見るんだ、そしてそのためには、その夢がただの夢ではないことを示すしかない。
《直線に入って⑦番トランペッターが変わらず先頭! 追走する④番エアフィックスは届かないか!?
――おおっとここで、ここで大外から突っ込んでくるウマ娘がいる! ⑧番だ! なんと⑧番のハリボテエレジーだ!! すごい脚だ! エアフィックスを交わしてデンドウヤスリに迫る!
並ぶ! いや並ばない!
抜き去った!
一バ身!
二バ身!
三バ身!
ハリボテエレジー先頭でゴールインっ!
勝負服で堂々と二年ぶりの勝利、重賞初勝利を挙げたハリボテエレジー!!》
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[見えてしまった夢・その先へ]その2
「君ならやれると思ってたよ!」
レースを終えて私が地下バ道に入ると同時に、タキオンが勢いよく突っ込んできた。
「いやあやっぱり君の最大の持ち味は最終直線に入っての切れ味鋭い末脚だね! 適性距離が違うとはいえカフェのそれを彷彿とさせる実に素晴らしい走りだったよ!」
これまで見たことがないほどに――クラシックレースを制覇したあとも、有馬記念で限界速度の果ての領域に足を踏み入れたときにすら浮かべなかった、文句なしに晴れ晴れとした笑顔を浮かべながら早口でまくしたてる様子に苦笑していると、タキオンがぐいとわたしの身体を持ち上げた
「だがしかしまだ限界速度はまだ彼方にあるね! 最大の問題も解決されたことだし、ようやく限界速度の果てへの挑戦への入り口に立てたと言えるんじゃないかな!」
「うんありがとうタキオンありがとう――ありがとうだからさすがにちょっと離して!! 回さないで!!」
そのままぶんぶんと私の身体を振り回し始めたタキオンに、手を振り回して抗議するとぱたりと回転が止まった。
我に返って、ごまかすように咳払いをしたタキオンがいつもの蠱惑的な表情を浮かべる。
「……つい性にもなくはしゃぎすぎてしまったね。久々の勝利おめでとう、エレジー君」
その反応は、普段の振る舞いを思わず忘れてしまうほどにタキオンが私の勝利を喜んでくれているということを示していた。
「うん。ありがとう。タキオン。……ずっと迷惑をかけてごめん」
なんだかくすぐったい気持ちになりながら頭を下げると、「なに、気にすることはないさ」とタキオンが手を振った。
「エレジーさん、おめでとうございます」
タキオンと私のやり取りが一段落したのを見て取った桐生院さんが控えめな様子で頭を下げる。私がレースに勝利したことで表情は晴れやかになっているが、目の下に刻まれた隈はメイクでも隠しようがなかった。
「桐生院さん」
「はい」
私の呼びかけに、真剣な話の雰囲気を感じ取ったのか桐生院さんが背筋を伸ばす。
「ずっとご迷惑をおかけしました。トレーナー転向はしません。今年も走ります。――ウマ娘として」
「はい」
「だからもう少し、付き合ってくれませんか。――私の夢に」
「はい!」
力強く頷いた桐生院さんの瞳から光るものがこぼれ落ちる。
「そうなれば、これからのローテをどうするか考えないといけないねぇ」
「ええ」
「桐生院くんのことだ、もうローテーションの案は考えているのだろう?」
「はい」
タキオンに促されて桐生院さんが抱えていたファイルから出した紙には、秋のトゥインクル・シリーズのレースの最終目標と、それにむけてのローテーションが記されていた。ローテーションも、想定されるレース結果やコンディションに合わせていくつかのバリエーションが検討されている。昨日今日の作業で作られたものではない。もっと前から検討を重ねたものだとひと目で分かるつくりだった。
わたしが見た夢ののことは桐生院さんにはまだ話していなかった。トレーニングでそこそこのタイムが出せるのは凡走しているときもそうだったから、トレーニングのときの感触だけでは前のような走りを取り戻せたのか判断できなかったし、何よりレースで結果が出る前に桐生院さんをぬか喜びさせて、またがっかりさせたくはなかったからだ。
だけど、ローテーションの最終目標にはGⅠが書かれていた。
それは桐生院さんが、私が元の走りを取り戻せばGⅠの大舞台にふさわしい走りができると信じてくれていたという証だった。
「――秋の国際招待マイルGⅠ・ジャパンワールドカップを目標とするプランを、考えています」
ようやくクラシック期の迷走の話が終わってジャパンワールドカップ編に入れました……。
次回はジャパンワールドカップに向けて、ファン感謝祭でのチョクセンバンチョー・ギンシャリボーイとのお話になる予定です。
また、諸々の用事がありまして次回以降の投稿はしばらく不定期になると思います。遅くとも春先くらいには定期連載に戻せるといいのですが……。
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[ジャパンワールドカップ]―シニア級・11月
[ジャパンワールドカップに向けて・可能性]
内容は12月のコミックマーケット101で頒布した同人誌版に準拠して進み、月曜・水曜の18時に新エピソードの投稿を行います。今度は完結まで止まらないよ!
また、同人誌版の作成にあたっていろいろエピソードの加筆や整理を行ったため前の方にもエピソード追加をしました。
GⅠ・ジャパンワールドカップ。
国際グレード制への移行とそれに伴う海外出身のウマ娘の出走制限の撤廃などの各種制度の変更と連動して行われたゼロ年代前半の
となれば当然、そこに出走するウマ娘も一流の優駿揃いになる。
一枠一番、ギンシャリボーイ。無敗でのクラシック三冠に加え、クラシック級での有馬記念制覇が評価され、昨年の最優秀クラシックウマ娘、年度代表ウマ娘にも選ばれてている。そして何より、シニア級に上がった今年も無敗。春は大阪杯・天皇賞(春)・宝塚記念と春シニア三冠を達成し、秋は天皇賞(秋)にも勝利して天皇賞春秋連覇を達成している。
二枠二番、スーパーフェロモン、フランス所属。身を活かしモデルとしても国際的に活躍しているのみならず、レースではデビューこそ遅かったもののここまで無敗、欧州の中距離レースの最高峰、凱旋門賞を二着に七バ身差をつける圧勝で制覇した中距離レースでの実績抜群のウマ娘だ。
三枠三番、チョクセンバンチョー。世代戦での勝鞍はNHKマイルカップのみだったものの、クラシック級にして秋のシニア級マイルGⅠを制覇し昨年の最優秀短距離ウマ娘にも選ばれている。今年の春は高松宮記念、マイルチャンピオンシップ安田記念を制覇してスプリントマイル二階級制覇。さらに秋はギンシャリボーイへの挑戦を宣言。短距離路線ではなく中距離路線を選択し、天皇賞(秋)にも出走、二着。――これまでの実績を考えれば中距離戦であるジャパンカップに出るだろうと思われていたギンシャリボーイがマイル戦であるジャパンワールドカップに挑戦することを表明するきっかけとなったのではないかと噂されている、今年のシニア級GⅠ戦線を二分する二強の一角となる短距離の強豪ウマ娘。
四枠四番、ニンジャスナイパー、ロシア所属。忍者を模した勝負服に違わず、他のウマ娘の死角に潜みながら徹底的にマークを行うレース運びを得意とするウマ娘。主な勝鞍はイタリアの芝二〇〇〇メートルGⅠ・ローマ賞。
五枠五番、シーワールド、オーストラリア所属。オットセイのきぐるみの勝負服。主な勝鞍はオセアニアの中距離覇者決定戦とも称されることが多い、オーストラリアの芝二〇四〇メートルGⅠ・コックスプレート。
六枠六番、トロヤンホース、ギリシャ所属。四足歩行でウマ娘並みの速度で走ることができる神話生物である「馬」を模した機神を用いてトロイア戦争に勝利したというギリシャ神話上のエピソードに出てくる「木馬」を模した勝負服のウマ娘。一〇ハロン競走の最高峰の一角をなす英国のGⅠ・チャンピオンステークスを制している。
七枠七番、
八枠九番、メカハリボテ。アメリカ所属。数十億ドルの開発費を投じた超ハイテク勝負服。
そして八枠八番、ハリボテエレジー。
「……こうやって見ると、ハリボテエレジーだけ実績面で大きく負けていますね」
「ああ、そうだね。同期は精強、海外ウマ娘も例年にないほどに実力者揃いだ――勝てると思うかい?」
出走ウマ娘九人中六人がGⅠウマ娘。
桐生院さんが漏らしたつぶやきに、タキオンがいたずらっぽく笑う。
日本からの参戦は中距離でも好走する国内短距離王者に無敗の三冠馬と芝のGⅠ戦線のトップ格二人、欧州からは凱旋門賞、チャンピオンステークス、オセアニアからはコックスプレートと各地域の中距離GⅠの最高峰に数えられるレースを今年制したウマ娘たちが勢ぞろいしている。出走回避が相次いで九人立ての少数頭立てのレースになるのもやむなしと思えるような出バ表だ。
それに対して、わたしの戦績はたった二勝、主な勝鞍は芙蓉ステークス(OP)と富士ステークス(GⅡ)のみ。勝負になりそうな戦績ではない。
だが、桐生院さんの答えは簡潔だった。
「――もちろん」
「ふぅん……」
その答えを聞いたタキオンは面白そうに目を細めた。
「わたしも同感だよ。――ところで君、気付いているかい?」
妖しい光を目にきらめかせたタキオンが、桐生院さんの目を覗き込む。
「――きみ、モルモットくんみたいな目をしているぞ」
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[ジャパンワールドカップにて・たどり着く]その1
東京レース場・芝一六〇〇メートル
GⅠ・ジャパンワールドカップ
《どこまでも晴れ渡った秋晴れの空、秋の三大国際招待競走最終戦、ジャパンワールドカップ。出走ウマ娘は九人中六人がGⅠバ、空前絶後の豪華な出走メンバーとなりました。
誘導ウマ娘に先導されて、出走ウマ娘の本バ場入場です。
日本の誇る米の無敗街道はどこまで続くのか、無敗の三冠ウマ娘も今日は挑戦者、デビュー以来初めて一番人気を譲る形となりました、①番、ギンシャリボーイ。
凱旋門賞制覇がひときわ目を引きますが彼女の初重賞はマイル戦、凱旋門賞ウマ娘がジャパンカップではなくこちらへの挑戦です。世界のスーパーモデルが誰よりも美しくマイルを駆け抜けられるか。②番、スーパーフェロモン。
無敗の三冠ウマ娘が何だ、凱旋門賞ウマ娘がなんだ、マイルは俺の庭だと堂々の一番人気。日本の短距離・マイル王者が得意距離で三冠馬と世界の優駿を迎え撃ちます、③番チョクセンバンチョー。
アイエエ! ニンジャ! ニンジャナンデ!? 手裏剣一閃、北の国からやってきたニンジャの手裏剣狙撃が強敵を撃ち抜くか、④番ニンジャスナイパー。
かわいいきぐるみの勝負服、そして出走ウマ娘のなかで最年少ですがその実力は本物です、オセアニア最強ウマ娘、⑤番シーワールド。
チャンピオンステークスでのデッドヒートも記憶に新しい、ウマ娘の起源との伝説のある神話生物を象ったギリシャ神話の機神がトロイアから遥か遠く離れた府中のコースに降り立ちました、⑥番トロヤンホース。
未確認生物の名前にふさわしい詳細不明の戦績、今世紀最大の驚異がターフの上に姿を現します、⑦番
競走中止で涙を飲んだ二年前の阪神レース場、低迷の日々を抜け出して再びのGⅠ挑戦。かつて届かなかったゴールへ二年越しにたどり着けるのか。⑧番ハリボテエレジー。
スキージャンプ・ペアで活躍したウマ娘がレースの世界に転身、総開発費二十億円の勝負服に身を包んで日本競バに挑戦です。⑨番メカハリボテ。
以上、出走ウマ娘九人の本バ場入場でした。ジャパンワールドカップ発走までしばらくお待ち下さい》
ゲートに入ると同時に、遠くから風に乗ってファンファーレの音がかすかに聞こえてきた。
関東GⅠファンファーレ。
一度だけ深呼吸をする。後からのゲート入りになる偶数番で、しかも大外枠だからゲートに入ったら発走まではもうさほどの時間もない。ウマ耳カチューシャに触れて気持ちを落ち着かせると、気が散らないよう身体を沈めて前傾姿勢を取って、じっとゲートの前に伸びるターフだけを見つめる。
ゲートが開く。地面が揺れた。一斉に駆け出したウマ娘の足音だ。ギンシャリボーイが、チョクセンバンチョーが前に行き、ウマ娘たちの背が遠ざかる。
反射的に、ペースを上げて追いかけたくなる。
軽く息を吸い、そして吐く。身体がわずかに膨らみ、そしてしぼむ。
いまはまだ、追いかけるだけでいい。
スタート地点からコーナーまでの距離が長い府中芝一六〇〇メートルのコース、コーナーに差し掛かるまでに隊列が形成される。
先頭を走るギンシャリボーイが身体を傾けて第三コーナーに差し掛かる。わたしがコーナーに差し掛かるまで数秒。大きく息を吸い込んで、声をあげる。
「曲がれ、曲がれ、曲がれ――曲がれぇぇぇぇぇぇっ! 『ハリボテエレジー』ッ!」
《――大ケヤキを抜けて三、四コーナー中間。先頭③番チョクセンバンチョー、その後ろ①番ギンシャリ、②番スーパーフェロモン、そして最後方にハリボテがいる!》
大ケヤキの裏側をまわり、第四コーナーへ。はるか前方にチョクセンバンチョー、ギンシャリボーイ、そして海外の優駿たち。わたしの目の前にはなにやらいろんなメーターがせわしなく動く銀色の勝負服を着たメカハリボテ。
事前のトレーニングでわかったわたしが転びやすいポイントは二箇所。コーナーの曲がり始めと曲がり終わり。つまり、このレースで言えば第三コーナーの入り口と第四コーナーの出口。
その間は、ポジション取りよりもまず、自分が安定して走れる速度を保つことを重視して走ればいい。
第四コーナーを回りきった瞬間、目の前が開けた。
ここからでも地響きのような歓声が聞こえてくる観客席、広々と開けた最終直線、芝に刻まれた前をゆくウマ娘たちの蹄跡。そして、はるか前方で競り合う同期のウマ娘。
――二年前、阪神レース場でたどり着けなかった景色。
大きく息を吸い込む。身体が膨らむ。
すぐ前をゆくメカハリボテまで半バ身、その先まではおよそ二バ身。先頭で死闘を繰り広げるチョクセンバンチョーとギンシャリボーイまではおよそ一五バ身。
「行けぇ――」
残り四〇〇メートルのハロン棒が過ぎ去る。
「ハリボテエレジーッ!!」
大地が弾ける。吹き付ける風の質が変わる。音が消え去る。
ここまでだって、ウマ娘としてのスピードで――生身の人間ではおよそ出すことのできない速さで駆けてきた。それが、まるでちょっとした駆け足くらいにしか感じられないほどに速さが変わる。
一瞬で、遠くにいたはずの世界の優駿たちが間近に迫る。
あれほど距離があったはずの、ギンシャリボーイとチョクセンバンチョーの背中が、手を伸ばせば触れられそうなほど近くまでやって来る。スタミナを限界まで使って左右にふらつきながらも全身全霊で走り続けるチョクセンバンチョー、両足だけでなく両手まで使い、府中のターフに食らいつくように、全身の筋肉をしなやかに躍動させて――彼女だけが使いこなす異端の走法で地を駆けるギンシャリボーイ。
《さあ残り四〇〇を切ってチョクセンバンチョーはヨれている、ギンシャリボーイ大きく身体を倒してスシウォーク! 府中に芝を四足で駆けるギンシャリボーイ、スシウォーク発動で追い上げてきている!
――っとど真ん中ハリボテエレジーとメカハリボテが突っ込んできたこれは速い! 並ばない! 並ばずにギンシャリボーイを抜き去ったメカハリボテがわずかに前か二人並んでチョクセンバンチョーも抜き去ってハリボテ先頭! 怒号と悲鳴が響く東京レース場残り二〇〇で先頭はメカハリボテ二番手にハリボテエレジー、ギンシャリボーイスーパーフェロモンも内から追い上げてくるがこれは追いつけない! メカハリボテ先頭ハリボテエレジー二番手おっとこれはメカハリボテ失速か勝負服から火花が散っているこれは勝負服の故障か! ハリボテエレジーがメカハリボテを交わした! 三番手以下との距離は縮まらない!
すごい脚! すごい脚! 来るかエレジー、エレジー来た!
エレジー来たゴールインッ! 二着はメカハリボテ、三着は最後持ち直したかチョクセンバンチョー、まさかまさかのギンシャリボーイとスーパーフェロモンは四着争い!
コースの真ん中豪快に突き抜けたハリボテエレジー、二年越しのGⅠでのゴールイン、やっと目的地にたどり着きました!》
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[ジャパンワールドカップにて・たどり着く]その2
ひときわ大きい歓声が聞こえて、ゴール板の前を通り過ぎたことにやっと気づいた。歓声から遠ざかりながら、ゆっくりとスピードを落として第一コーナーの終わりあたりで足を止める。
「おめでとう、ハリボテエレジー」
肩を叩かれて振り返ると、ギンシャリボーイが肩で息をしながら苦い笑みを浮かべていた。
「――ようこそ、
「おい、今回だけじゃねぇだろうな?」
背後からどつかれて振り返ると、ゼイゼイと肩で息をしながらチョクセンバンチョーが後ろからすごい目で睨みつけていた。
「……有馬記念、俺もギンシャリも出る。逃げるんじゃねぇぞ!」
「エレジーは追い込みタイプだから
「そういうことじゃねぇよ!」
ギンシャリボーイのずれた返答に毒気を抜かれたらしい、チョクセンバンチョーはひらひらと手を振りながら背を向けた。
「まあいい。これで終わり、なんてこたぁねえだろ――また走ろうぜ」
「……まったく、バンチョーは素直じゃないんだから。――行ってらっしゃい、ウイニングラン」
チョクセンバンチョーに苦笑しながら、ギンシャリボーイもコースから出ていく。
「――しかし、負けたな。完敗だ」
コースに残ったのは、わたしひとり。
ざわざわと、スタンドのほうから聞こえてきていたざわめきが徐々に一つの名前に収束してゆく。
彼らが呼ぶ名前は、このレースの勝者の名前。
彼らが呼ぶ名前は、ハリボテエレジー。
「――そっか、勝ったんだ、
ウマ娘の一群が内ラチの向こう、少し遠い場所を走り去っていった。レース中にはけして広い場所とは感じられない最終直線も、コースの外から見るとびっくりするくらい広大で、そこを走るウマ娘たちは遠い。
走り去っていったのは、いずれも世界に名だたる優駿と言っていいウマ娘たち。
先頭に立つのはダンボール製のウマ耳カチューシャをつけた女性。ウマ耳のないウマ娘。アグネスタキオンと桐生院葵がその可能性に魅入られたウマ娘――ハリボテエレジー。
「届いた――届いたぞ桐生院くん!」
タキオンが抱きつくと、感情が追いつかず呆然としていた桐生院葵がやっと結果を認識したように「ええ、ええ……」と頷いた。
どよどよと、ざわざわと、思いもかけなかったであろう結果にざわめいていた観客たちの声が、いつの間にか一つの名前を形作り始める。
「エ・レ・ジー! エ・レ・ジー!」
観客たちが名前を呼ぶ中、彼女は第一コーナーの先から一人、コースを駆けて帰ってきた。ウイニングラン。GⅠを勝利したウマ娘だけに許された栄誉。
ハリボテエレジーはコースの外側の観客席に向けて大きく手を振りながらゆっくりとゴール板の前を駆け抜け、タキオンと桐生院の前に帰ってきた。
感情を映さず、固くピンと立ったダンボール製のウマ耳カチューシャ、アレンジを加えた汎用勝負服、腰からだらんと下がったつけしっぽ。一見してウマ娘のコスプレをした只人にしか見えないその姿は、間違いなく二人が可能性にその魅入られたウマ娘だった。
涙を拭った桐生院葵が向き直る。
「おかえりなさい、エレジーさん」
「――ただいま」
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[幕間・可能性の光]
[幕間・可能性の光]
――すごい脚! すごい脚! 来るかエレジー、エレジー来た! エレジー来たゴールインッ!
打ち上げも終わり、明かりも消してがらんとしたトレーナー室に実況のよく通る声が響く。
凱旋門賞ウマ娘、無敗の三冠ウマ娘、短距離・マイル王者――世界に名だたる優駿たちがゴール板の前を駆け抜ける。
その先頭を猛然と駆け抜けたのはハリボテエレジー。
――己が、可能性を見出したウマ娘。そして、レースの世界すらも投げ捨てようとしていた自分を踏みとどまらせ、可能性の低い困難な道を選ばせる後押しを無自覚にやってのけたかけがえのないトレーナー。
「――ヒトとしての脚とウマ娘の脚、その両方を兼ね備えた脚、か……」
確かに、自分はハリボテエレジーの可能性に魅入られていた。彼女がどこまで行けるのだろうと思っていた。だからこそ、ドリーム・トロフィー・シリーズへの移籍を見送り、さらには屈腱炎を口実にトゥインクル・シリーズをも休場して彼女のサブトレーナーに専念してきていた。トゥインクル・シリーズで、一度は己の限界速度の果てを垣間見ることができた。そして、競技者としてのピークも超えた者として、己の脚ではなく、己の知識によって新たな可能性を育てる。新たな可能性が限界速度へとたどり着くのを、トレーナーとして、指導者として目にしたい。そう考えていた。
――そのつもりだった。
「そうだ、可能性の種は芽吹いた――可能性の種は、芽吹いたんだ……」
そして、ハリボテエレジーはタキオンの期待どおりに、見込んだ通りの末脚で名だたる優駿たちを相手に勝利を収めた。
ハリボテエレジーが最終直線で見せた末脚は限界速度の果てを夢見させるには十分なものだった。生まれた時からではなく、後天的にウマ娘であることが確認された、稀有なウマ娘……ウマ娘の可能性の、新たな形。
ならば、今の自分にできることはその可能性の手助けをし、そしてどこにたどり着くのか見守る――そのはずだ。モルモットくんは、わたしに対してこれまでずっとずっとそうしてきてくれた。それがトレーナー、それが指導者として――外ラチと内ラチの間、コースの中に立ち入ることのできない存在としてあるべき姿なのだろう。
理性では、そうわかっている。彼女がコーナーを曲がり、末脚を発揮できるようになるための走りを体得した以上、今のプランは問題なく進んでいる。このまま順調に走り続ければ、ハリボテエレジーはきっと彼女の可能性の果てへたどり着くだろう。
すべて、プラン通り――いや、それ以上の成果だ。
中距離以上ならギンシャリボーイ、マイル以下ならチョクセンバンチョー。同じ土俵で競り合うライバルとの相乗効果の果てに、限界速度の向こう側にもたどり着けるかもしれない。なんの問題もない。私自身のトゥインクル・シリーズでの経験――マンハッタンカフェとの競り合いから考えても、同じ土俵で競い合うことのできるライバルとの競り合いは彼女をより高めていくに違いない。
そうだ、競い合うだろう。有馬記念、大阪杯、あるいは安田記念や宝塚記念。それらの大レースで。そうやって互いに相手の走りを間近で目にすることで、なにかを得るのだろう。
それを己はコースの外から、遠くから見ることになるのだろう。今日のように。
それなのに、物足りない。まだ足りない。
これだけでは、満たされない。
コースの外から、見ているだけでは。
外からでは足りないのだ。
不意にがらりとドアが開き、四角い光がトレーナー室に差し込んだ。
「あれ、タキオンどうしたの? なにか用事でもあった?」
廊下から差し込む明かりを背中に、ハリボテエレジーが――かつてのトレーナーが顔を出す。
「ああ、少し確認しておきたかったことがあってね」
「手伝おうか?」
トレーナーがこてりと首を傾げる。くりくりとした目にタレ目がちな目元、小柄さも相まって小動物を――モルモットを思わず連想させてしまう仕草に、思わず口元が緩む。
不意に、さきほどまで繰り返し再生していた動画の中での彼女の姿が、逆光を背負ったそのシルエットに重なった。
暗がりの中で、彼女の瞳を染め上げる深淵の色が――彼女の目に光る光が、強く輝く。
――『君と一緒に果てが見たい』
ああ――そうか。
その光が浮かび上がらせた答えは、あまりにもあっさりと胸の中に開いていた穴に――たった今まで、そこに欠落があったことにさえ気づいてなかった穴にピタリとハマった。
「――いや。もう用事は終わったよ、エレジーくん」
「そっか、じゃあ帰るところ? 一緒に帰る?」
「ああ、そうしよう。――少し長居し過ぎたみたいだ」
パソコンの電源を落とし、腰を上げる。椅子の上であぐらをかいた姿勢で長居しすぎたせいか、少し足がしびれる。
「なあ、モルモットくん、次はどこを走るつもりだい?」
机の周りに置きっぱなしにしていた書類をまとめながら尋ねると、ロッカーから出したコートを羽織りながらエレジーくんが答える。
「ちょうどさっき桐生院さんと話してたんだけど、有馬記念にしようと思ってる」
「ほう、ずいぶんと距離が伸びるが大丈夫かい?」
その問いは、半ばカマかけに近いものだった。身体を仕上げるのにかかる時間とコース形状の兼ね合いからマイルGⅠであるジャパンワールドカップを選択することになったが、彼女の能力を考えれば中距離以上のレースでも問題なく走れるはずだ。
「うん、距離は大丈夫だと思う。コーナリングについては……今日のレースで糸口は掴めたと思う。明日からのトレーニング次第だけど、今日よりはマシな走りができると思う」
その答えを聞いた瞬間、思わず口元に笑みが浮かんだ。
ハリボテエレジーにとっての最大の壁は距離の壁ではなく、コーナーを越えられるか、そしてコーナーまで追走できるかなのだ。そこさえ乗り越えることができれば――彼女の末脚は、彼女の可能性は、その果てにたどり着ける。
「すまないが予定変更だ。一緒には帰れない」
「どうしたの? どこか寄り道?」
「いや、行くべき場所ができた」
「ついてこうか?」
「大丈夫さ」
「そっか。タキオンもいろいろ気をつけてね」
「ああ。屈腱炎にでもなったら大変だ」
「そうだね。じゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみ」
時計を見上げると、もうとっくに深夜と言っていい時間になっていた。
真夜中の鐘が鳴るまであまり時間がない。
だが、少しだけ時間は残されている。
「ああ、そうだ、モルモットくん――いいや、エレジーくん」
ハリボテエレジーの背中に声をかけると、不思議そうに彼女は振り向いた。
「可能性の種は芽吹いた。――もう、わたしが教えられることはないよ」
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[有馬記念]―シニア級・12月後半
[有馬記念に向けて・可能性に魅入られて]
――トレセン学園練習コース・芝外周二五〇〇メートル。
内ラチが猛烈な速度で流れ去ってゆく。
内ラチの向こうには先頭を走るギンシャリボーイとチョクセンバンチョー。
そしてその先には照明が焚かれた計測スタンドと夕焼け空の残光を宿して橙色から藍色へのグラデーションに染まった空。
トレーニングに勤しむウマ娘もはけてくる時間帯の空の色だ。
先頭まではおよそ十バ身。今もじりじりとその距離は開きつつある。だが、今はそれでいい。
まずチョクセンバンチョーが、そしてそれを追ってギンシャリボーイが直線を向く。それと同時に、大きく息を吸って強く踏み込む。猛烈な加速に体の軸がブレる。阪神レース場で転んだ時の記憶が頭をよぎる。
「曲がれェッ!」
体を傾け、加速しながらコーナーを曲がる。黄昏時の空の色に染まる最終直線が目の前に広がる。前をゆく二人との距離が縮まる。
五バ身、四バ身、三バ身――
「来たなハリボテッ!」
ギンシャリボーイとチョクセンバンチョーのギアが上がる。
――二バ身。
チョクセンバンチョーは左右に体を揺らしながら走り、ギンシャリボーイはスシ・ウォークで低く地を駆ける。
――一バ身、なかなか距離が縮まらない。
それでもじりじりと、距離が縮まっていく。
――並んだ。それと同時に、視界の隅をゴール板が通り過ぎていった。
「残せた、か……?」
「差し切った、とは思いますが……」
「クソッ、残せたとは思うが自信がねぇな……。クビ差ハナ差ってところだろうな……」
三人で並んでペースを落としながら揃って首をかしげる。最後の最後、ギリギリのところで差し切った感触はあったが自身をもって言い切れない。写真判定でなければ決着はつけられない。
もちろん、模擬レースで写真判定の装置なんて使ってないから、着順をつけるとすれば三人同着――勝ち負けがつかなかったということになる。
「負けるのも嬉しかねぇがケリつけられんのも気持ち悪ぃな……もう一本やるか?」
「ええ、喜んで。――エレジーさんはどうでしょう?」
外ラチの方をちらりと見ると、ギンシャリボーイのトレーナーは静かに首を振り、チョクセンバンチョーのトレーナーは両腕で大きくバッテンを作った。
「……いや、この時期にもう一本やるのは二人共完全にオーバーワークになる」
模擬レースをやることを見越してトレーニングは軽めにしていたととはいえ、本番も近い時期にもう一本やるのは流石に疲労などを考えたら良くないだろう。
「そンなもんか。……それじゃ、次にこうやるときは中山だな」
「さすがに本番前に一緒に練習できるのは今日が最後だろうしね」
全員、次走は有馬記念――およそ二週間後に迫ったシニア級GⅠ戦線最終戦、レースでの実績に加えファン投票の結果によって出走枠が決定される冬のグランプリレースだ。
「そういえば有馬記念の人気投票、ハリボテエレジーもランクインしてたそうじゃねえか、おめでとう」
「ああ。僕も嬉しいよ」
「ありがとう。ちょっとびっくりしたよ」
数日前に締め切られたばかりのファン投票の結果はギンシャリボーイが一位、チョクセンバンチョーは僅差の二位、そしてハリボテエレジーは――なんと三位にランクインしていた。中間投票時は上位一〇〇位にも入っていなかったのを考えたら、驚異的な票の入り方だ。
チョクセンバンチョーとギンシャリボーイが呆れたようにため息をついた。
「そりゃあお前……無敗の最強のウマ娘サマに初めて土を付けたジャイアントキラーだからな」
「クラシック級になってからは一八〇〇メートル以下では無敗で、三冠ウマ娘を押さえて一番人気になっていた短距離王者にマイル・短距離で初めて土を付けた伏兵でもあるね」
ピキリ、とう空気にヒビが入った音が聞こえた気がした。ニコニコしながらチョクセンバンチョーがギンシャリボーイの肩を叩く。
「おうおう、今なら朝日杯のときのようにはやらせないぜ?」
ギンシャリボーイもニコニコしながらチョクセンバンチョーの肩を叩き返した。妙に力が入っているのか、バシバシとえらくいい音がした。
「いいね、ジャパンワールドカップでは決着がつかなかったし、一六〇〇メートルで模擬レースするかい? 負ける気はしないよ」
「おいおい、ジャパンワールドカップのときは俺様が先着してるのを忘れたのか? 受けて立とうじゃねぇか」
あ、ダメだこれ。
模擬レースが灰色の決着に終わったせいもあるのか、明らかにギンシャリボーイとチョクセンバンチョーのスイッチが入ってしまっている。どう考えても、この状態で二人に模擬レースをやらせたらバチバチに白熱したマッチレースを繰り広げて、有馬記念に向けての調整に悪影響が出る。その闘志は本番に向けて残しておいてほしい。
「ギンシャリ、バンチョー、ステイステイ! 今はレース前!」
「「勝ち抜けしたやつは黙ってろ!!」」
「あっ、ハイ」
割って入ると同時に、二人から凄まじい眼光で睨み返された。毒気を抜かれたように、ギンシャリボーイがため息をつく。
「……まあ、ジャパンワールドカップでの借りは有馬で返そう、バンチョー」
「ああ、そうだな。……有馬といえば、お前のトレーナーも出るそうじゃねぇか」
チョクセンバンチョーの言葉に、思わず首を傾げる。
「桐生院さんは有馬に出ようがないと思うけど?」
「アグネスの方だ馬鹿!」
「ほら、タキオンさんの復帰会見あったじゃないですか」
ギンシャリボーイの言葉にああ、と手を打つ。なんとなく、タキオンはタキオンというイメージだったせいでタキオンがサブトレーナーでもあることを半ば忘れていた。
ジャパンワールドカップの翌日、タキオンは突然、トゥインクル・シリーズへの復帰を宣言、中京レース場で開催される芝二〇〇〇メートルのGⅢ・チャレンジカップを復帰初戦に有馬記念を目指すことを発表していた。
「……エレジーさんはなにか聞いてません?」
「ううん。なにも聞いてない」
「なにもないんですか? 復帰するってときに聞いたりは……」
「それが、ジャパンワールドカップのあと全然連絡が取れないんだよね」
「おいおいおい、流石に俺でもトレーナーに一報くらいは入れるぞ、なんもないとか大丈夫なのかよ?」
「まあ復帰するって書き置きはもらったし、会見もしてるから大丈夫だと思う。タキオンなら自分でトレーニングのメニューも組めるしね」
「いいのかよ、それで……」
チョクセンバンチョーが呆れたような表情になる。普通なら良くはないのだが、ことタキオンに関して言えばまあ、ないことではない。長期休養からの復帰にしたって、休養の理由も重い故障ではないし、ジャパンワールドカップに向けてのトレーニングで併走相手をしたりとわたしと同程度のトレーニングはこなしていたから急な復帰でも問題ないはずだ。
「まあ、僕らより詳しいであろうエレジーさんがいいって言ってるなら大丈夫なんじゃないかな。それに、どのみちクリスマスの中山で会うことになるだろうし」
「それもそうだな」
チョクセンバンチョーはそう言って肩をすくめると、「そんじゃあな。今度は負けねぇぞ」と言い残して外ラチを飛び越える。いつの間にかコースを一周して、スタンドの前まで戻ってきていた。
ギンシャリボーイも柵の切れ目からコースの外に出ようとしたところで、足を止めた。
スタンドの照明を背に振り返ったギンシャリボーイの瞳の奥に、強い光が宿る。
「ああ、そうだ。ハリボテエレジーさん」
その光は、強い意志を秘めた、勝負に燃える色のようであり――
「あなたは――僕の
――そして、狂気的な欲望にとりつかれた、悪魔のような色をしていた。
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[有馬記念にて・可能性の果て]その1
中山レース場・芝二五〇〇メートル
GⅠ・有馬記念
パドックからスタンドを見上げると、どのフロアにも観客が鈴なりに連なっていた。
有馬記念、トゥインクル・シリーズの一年を締めくくる冬のグランプリ。日本ダービーと並んで、トゥインクル・シリーズで最も注目を集めるレースの一つだ。
それだけあって、パドックの時点から観客たちの注目度は高い。
視界に人の顔が入れば否応なしに意識してしまう視線。無数の視線が自分に向けられている、という感覚。
一人ひとりの声は小さくても、それが何千何万という単位で集まればけして無視できないものになるざわめき。
そしてそれらが合わさって織りなされる「場の空気」。
「観客、多いですね……」
レースに向けて集合合図がかかり、パドックから地下バ道に入ると同時に思わずほっとため息が漏れてしまう。自分で思っていた以上に、プレッシャーを感じていたらしい。
隣で、桐生院さんが苦笑する。
「タキオンさんのトレーナーとして来たときとはやっぱり違いますか」
「ええ。それに、ジャパンワールドカップのときとも全然」
トレーナーも付き添いや引率役としてパドックには出るから、有馬記念のパドックに出るのもこれが初めてではない。タキオンのトレーナーとしてパドックに出たときも、グランプリで一番人気を背負うウマ娘を担当するとこんなに目を向けられるんだと思ったのをよく覚えている。
だがやはり、レースの主役はウマ娘であり、そのなかでも上位人気のウマ娘に多くの注目が集まる。
そして、主役と脇役では向けられる視線の数も質も段違いだった。
――ギンシャリボーイ、チョクセンバンチョーに次いでの三番人気、単勝式応援券の倍率は六.三倍。
最低人気でほとんど注目されていなかったジャパンワールドカップのときとは異なり、今回は久々の上位人気。
朝日杯、それに若葉ステークスに神戸新聞杯と上位人気の一角としてメインレースに臨むのはこれまでにも経験してきたから、カチカチになることこそなかったとはいえ、それでも緊張するものは緊張するのだ。
「エレジーさん」
地下バ道の終点。
本バ場へと登っていくスロープの手前で桐生院さんが足を止める。
「ありがとうございます。ここまで連れてきてくれて」
「いえ」
桐生院さんの言葉に、ゆるく首を振る。
「ここまで連れてきてくれたんです。桐生院さんと、タキオンが」
地下バ道を出たらもう、トレーナーにできることは何もない。本バ場に出たら、トレーナーにできるのはその結末を見届けることだけだ。
けれども、地下バ道に来るまでに、トレーナーが担当ウマ娘にできることはたくさんある。トレーナーが向ける信頼が与える影響は、トレーナー自身が思っているものよりも遥かに大きい。それは、トレーナーとしてここに立っていたときには思いもしなかったことだった。
出口のスロープを登り始めてから、言い忘れた言葉があるのを思い出して足を止める。
「――行ってきます」
桐生院さんがにっこりと微笑んで手を振った。
「――いってらっしゃい」
「やあ、エレジーくん」
地下バ道の出口、西に大きく傾いた陽光が降り注ぐスロープにタキオンは立っていた。
「久しぶり、タキオン」
タキオンと並んで地上へのスロープを登りながら、タキオンの様子を伺う。
ジャパンワールドカップのときから一ヶ月。
打ち上げのあと、トレーナー室で出くわしたときと比べてタキオンの身体は格段に仕上げられていた。タイツの上からもうかがえる太もものハリ、全身からにじむ気迫。そして、三年間、担当トレーナーとして体調を管理してきたおかげで見えてきた、ちょっとした所作からうかがえる彼女の調子の善し悪し。
どれを取っても、GⅠにふさわしくきっちり仕上げてきていることが容易に伺えた。
「タキオン。一つ聞きたいことがあるんだけど」
だからこそ、タキオンに聞きたいことがあった。
「どうして、急に現役復帰を――それも、トゥインクル・シリーズに戻ることにしたの?」
――可能性の種は芽吹いた。もう、わたしが教えられることはないよ
トレーナー室での別れ際にタキオンが口にした言葉から考えれば、わたしがジャパンワールドカップに勝ったことが、GⅠを制覇したことがタキオンの一連の動きのきっかけになっていたことは容易に想像できる。タキオンがサブトレーナーとしてできることはもうない、と安心して競技者としての道に戻ることにした、そう考えることもできた。
だが、それでは急に現役に戻ることを――復帰宣言から一ヶ月ほどしか時間のない有馬記念に出ることも、ドリーム・トロフィー・リーグへの移籍ではなくトゥインクル・シリーズへの復帰を選ぶことも説明がつかない。結果的にきっちりと仕上げられているとはいえ、この短期間で仕上げるのは容易ではないのだ。ジャパンワールドカップの結果をもってサブトレーナーに専念する必要はないと判断したとしても、普通に考えたらドリーム・トロフィー・リーグに移籍するか、トゥインクル・シリーズに残るにしても来年の春のGⅠ戦線からの復帰ということになる。
「簡単さ」
タキオンはわたしの質問に、あっさりと、そして簡潔な答えを返した。
「君が出てくるからだよ」
「わたしが?」
「ああ、そうだ。言ったじゃないか、わたしは君に――君の足に眠る可能性に期待している。その可能性を引き出すためだったらなんでもやる、プランBをやったっていい。――君だって、アグネスタキオンに対してはそうじゃなかったかな、モルモット君」
あまりにも懐かしいタキオンの呼びかけに、コクリと頷く。
タキオンの瞳は、呼吸も忘れるほどに魅せられる色に染められると同時に――
「わたしと君は鏡みたいな存在だ。向かい合って初めて、本当の自分の姿に気付く」
――静謐に燃え盛る、炎の色をしていた。
「つまりだね、君は私の――
地下バ道のスロープを登りきると、スタンドからの歓声がわたしとタキオンを包み込んだ。
西日に照らされたターフには、チョクセンバンチョーとギンシャリボーイ。タキオンとともに、芝コースへ入る。
「追いついてみせるよ」
タキオンが薄く笑う。
「ああ、待っているとも。だが、追い越させはしないよ」
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[有馬記念にて・可能性の果て]その2
スタンド前で奏でられたGⅠファンファーレが風に乗ってかすかに響く。
ゲート裏、出走前最後のウマ娘たちが、発走直前の準備運動を打ち切り、係員に誘導されて黙々と奇数番から順にゲートに収まっていく。
ギンシャリボーイ、チョクセンバンチョー、アグネスタキオン、そして
ゲートに収まると、ウマ耳カチューシャに触れ、わずかに位置を直す。スカートの裾を払い、深呼吸をする。
一瞬だけ、レース場が静寂に包まれる。
音をたててゲートが開いた。地面を蹴り、ゲートから放り出されたような勢いで前へ飛び出す。視界の端に、ギンシャリボーイとチョクセンバンチョーの背中が映る。
第四コーナーを周り、スタンド前へ。場内実況とスタンドのざわめきがコースの外からどっと押し寄せてくる。先頭集団にギンシャリボーイとチョクセンバンチョー。アグネスタキオンは中団内側、そしてわたしは中団の後ろのほう外側。トレーニングの甲斐あって、前よりもコーナーで速度を落とさずに走れている。
ペースは遅くもなく、かと言って速過ぎもしないミドルペース。形成された隊列に変化もなく、淡々と第二コーナーを周り、向正面の直線に差し掛かる。
先頭のチョクセンバンチョーが足を芝に振り下ろすたびに芝が宙を舞う。筋力をそのままターフに叩きつけるようなフォーム。クラシック級のときの模擬レースに比べてそのフォームは格段に洗練され、体幹がブレることもなくなり、筋力が無駄なく推進力に変換されているのが見て取れた。
そして少し距離をあけてギンシャリボーイ。以前と変わらない、隙のない整ったフォーム。中長距離を走るウマ娘ならかくありたい、そう思わされるフォームはクラシック級の頃から変わっていなかった。
そしてタキオンの姿は――バ群に邪魔されて見えない。バ群の向こう、内ラチ沿いの一群のなかを走る栗毛の髪でかろうじてタキオンがそこにいると認識できるだけだ。
向正面半ば、斜め前の中団が動く。中目をついて、真っ白な勝負服の裾が翻る。遠くどよめきが聞こえる。栗毛のウマ娘の身体が低く沈む。
第三コーナー。直線半ばで動き出したタキオンがバ群を抜けて、内ラチ沿いに中団先頭に躍り出た。トレーニング中に幾度となく双眼鏡越しに観察した、見慣れたフォームで白衣をひらめかせて、西日を浴びてタキオンが駆ける。
三年前のときのような――シニア級の有力ウマ娘としてマンハッタンカフェとの競り合いの末に有馬記念を制したときの光のような加速ではない。この三年間――タキオンが、わたしのサブトレーナーを務めていた間に、彼女の競技者としてのピークは過ぎていた。復帰初戦になったチャレンジカップでのタキオンは五着。三年前ならば確実に先頭に躍り出た先行ウマ娘を捉えられていたであろう位置から加速して届かなかった。
だからこそ、タキオンはここで仕掛けたのだろう。ピークを過ぎ、以前のような末脚勝負には賭けられない。だからこそ、仕掛けどころを早めたのだろう。
タキオンが動いたことで、じわりとレースの流れが早まった。
わたしが仕掛けるのは第四コーナー。
それより早ければ最終直線にはたどり着けない。コーナリングがいくらか改善できたと言っても、トップスピードでコーナーを曲がれるほどには上手ではない。
それよりも遅ければ、中山の短い直線ではギンシャリボーイとチョクセンバンチョーを――そしてたぶん、アグネスタキオンも捉えられない。
第三コーナーを回り、第四コーナーへ。向正面から仕掛け始めたタキオンがギンシャリボーイに並ぶ。
第四コーナー。スタンドの歓声が正面から押し寄せてくる。
――ここだ。
ぐいと力を込めて地面を蹴る。
「曲がれ、曲がれ、曲がれ――」
全身に、力が満ちる。
「曲がれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
腰につけたつけしっぽが風に揺れる。ウマ耳カチューシャの回りで渦巻く風の音が聞こえる。中団に集まっていたバ群が視界から消える。
コーナーを曲がり切る。正面には、西日を浴びて輝くターフと超満員のスタンド。
――かつてのわたしが憧れて、そして諦めた
同級生が挑もうとして、でもそのためのチケットすら手に入れられなかった舞台、メイクデビュー戦で競り合ったあの子が行きたかった場所、指導者として関わった何人ものウマ娘たち――ウマ娘ではなかったがゆえに、勝ち上がることができなかったがゆえに、色んな理由でレースを志しながら、夢見た舞台で活躍することをできなかったたくさんの少女たちの立てなかった
ヨレながらも先頭を死守するチョクセンバンチョー、それに競りかけるアグネスタキオン、上体を低く沈め、スシウォークへ移行するタイミングを伺うギンシャリボーイ。
――わたしがここまで追いかけてきた、わたしの
ここが、わたしが立ちたかった場所だ。
「行くよ、『ハリボテエレジー』ッ!」
《――四コーナーを回って先頭はやはりチョクセンバンチョー、追ってアグネスタキオンが並ぼかけんとする勢い!》
第四コーナーを回りきる。内ラチ沿いには特攻服を翻らせるチョクセンバンチョー、後ろにはギンシャリボーイ、そしてはるか後方には――ハリボテエレジー。
《アグネスタキオンが並ぶ! さあ直線を向いてここからがトゥインクル・シリーズ一年間の締めくくり中山の大舞台!》
ヨレながらも先頭を死守していたチョクセンバンチョーに並ぶ。内ラチ沿いを駆けるチョクセンバンチョーの視線が突き刺さる。
クビ差、ハナ差――チョクセンバンチョーを抜き去った。紛れもなく先頭に躍り出る。目の前に広がるのは西日に輝くターフとゴール前の急坂のみ。
「まだだ、まだ――」
だが、まだ終わらない。まだレースは――限界速度へのトライアルは終わっていない。
――来た。
一つ一つは言葉としては聞き取れない、だが間違いなくそこにある歓声が――無数の声の集合体の叫ぶ名前が変わってゆく。
見なくてもわかる、
《ハリボテエレジーが上がってきた! 来たエレジー! やはり豪脚ダンボールの脚!》
「――タキオンッ!」
太極図の髪飾りが――混ざり合う陰陽が視界の隅で揺れている。汎用勝負服の――なりきりセットの白いスカートが翻る。風の中でバタバタと揺れるつけしっぽが、風の中でもピンと立って揺るぎもしないウマ耳カチューシャが並ぶ。目の前に金色に染まった中山の急坂が立ち上がる。
《残り二〇〇メートル先頭チョクセンバンチョーに変わってアグネスタキオンとハリボテエレジーが並ぶ!》
傍目から見たらウマ娘の格好をしただけの、なりきりセットでウマ娘のコスプレをしただけにしか見えない成人女性が――だが、紛れもなく光り輝く可能性を体現したウマ娘が隣を走る。
「行くぞ、モルモットくん―――!!」
《坂を登る! トゥインクルシリーズ史上初、空前絶後の師弟対決!》
中山の急坂で、全身の筋肉が悲鳴をあげる。心臓が躍動する。限界が近づく。
視界の隅で、大外から低く黒い風が――四肢を躍動させ、手足すべてを使って駆ける黒鹿毛のウマ娘が突っ込んでくる。異形の走りで、新たな可能性が吹き荒れる。
内側からも、一度は姿を消した番長が追い上げてくる。
《残り一〇〇メートル、限界速度の果てか! ヒトの脚に眠る可能性か! 外から三冠ウマ娘も飛んできている! 内で応戦するは短距離王者!》
「超えろ、超えろ、超えろ――!!」
中山の急坂で、全身の筋肉が悲鳴をあげる。心臓が躍動する。限界が近づく。
「この肉体に眠る可能性の果ては! ウマ娘が到達しうる速度は、思いを受け継いだウマ娘のたどり着ける果ては――!!」
《ギンシャリか、バンチョウか、ハリボテかタキオンか! コースの内外四人並んだ!》
可能性が、光り輝く米が、漆黒の番長が、そして超光速の光が並ぶ。外ラチの向こうから押し寄せる歓声が頂点にたどり着く。視界の中でかろうじて認められる、鮮やかな色の塊になったゴール板が過ぎ去る。
内外四人並んでゴールイン。
掲示板の着差表示に「写」の文字が三つ並ぶ。
――表示が切り替わった時、一番上に表示された番号は、ハリボテエレジーのものだった。
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[エンディング・可能性の脚]
[エンディング・可能性の脚]
有馬記念からおよそ数カ月後。
トレセン学園ではファン感謝祭が行われていた。
ファン感謝祭の出し物はいろいろ。普通の学園祭のような出店や展示、ステージを使ってのパフォーマンスもあれば、トレセン学園ならではの特殊な出し物もある。
その中で最たるものといえば――練習コースを使って行われる特別レースだ。それぞれに趣向を凝らされた特殊なルールで開催されるレースはファン感謝祭最大の目玉であり、それを目当てに足を運ぶファンも少なくない。
東練習コース第九競走、ウマ娘箱障害競走(トレセン学園ジャンプグレードⅢ)。
――最終直線上に設けられたハテナボックスを一人一個選択し、中から出てきたアイテムを使って走る特殊な障害競走。
西練習コース第九競走、コスプレステークス(トレセン学園オープン特別)。
――出走ウマ娘はコスプレを行い、それに合わせてひねりを加えた名前で出走登録をする仮装レース。どういうわけか、左耳に耳飾りをしたウマ娘が強いというジングスがある。
同じく西練習コース第十競走、アニマル国際(トレセン学園グレードⅡ)、出走できるのは動物の名前が入っているウマ娘のみ。そして、出走する際には自分の名前に合わせた着ぐるみを着て走るきぐるみ競走。
そして、わたしとタキオンは東練習コース第十競走のために用意されたトレーナー・ウマ娘控室にいた。
だが、今日走るのはわたしでも、ましてやタキオンでもない。
「やあ桐生院くん、調子はどうだい?」
タキオンの問いに、桐生院さんはガッツポーズで応える。
「バッチリです!」
桐生院さんの機嫌を反映したかのように腰のつけしっぽが楽しげに揺れる。頭の上には髪の色に合わせたウマ耳カチューシャ。胸に踊るファン感謝祭特別競走のゼッケンに書かれた名前は――ハリボテネイチャー。出走レースは東練習コース第十競走。
東練習コース第十競走――ハリボテ記念(トレセン学園グレードⅢ・ハリボテ種ウマ娘限定競走)
――ハリボテ種ウマ娘。
トゥインクル・シリーズをわたしが駆け抜けて以来、確認例が急増しているという「ウマ耳のないウマ娘」。これまではウマ娘としての潜在能力を見出されずに暮らしてきたウマ娘の俗称だ。
桐生院さんがウマ娘としての能力を発現したのはあの有馬記念の翌日。
URAファイナルズやらドリーム・トロフィー・リーグへの移籍やらバタバタしながらもわたしとタキオンがトレーナーを務める形でトレーニングを重ね、今日の特別レースがお披露目となる。
「――さて、そろそろ時間だ」
タキオンが腰を上げる。天井のスピーカーが本バ場入場時刻になったことを告げた。
控室を出るとコースの入口はすぐそこだった。
「エレジーさん、タキオンさん」
コースに入ったところで桐生院さんが足を止めて振り返る。
「――行ってきます」
「行ってらっしゃい」
今日は、わたしとタキオンが送り出す側だ。
手を振ると、桐生院さんは――ハリボテネイチャーはコースに駆け出していった。
「……①番ハリボテボーイはギンシャリボーイのトレーナー、③番ハリボテバンチョーはチョクセンバンチョーのトレーナーか」
コースに併設された掲示板に掲げられた名前を見たタキオンがつぶやく。
「なあ、エレジーくん……いや、トレーナーくん」
準備運動を兼ねたジョギングで発走地点に向かっていくハリボテ種のウマ娘たちをじっと見つめていたタキオンがポツリと呟いた。
「どうしたの、タキオン」
「――どうして、トレーナーをしてた人間が多いんだろうな、ハリボテ種には」
ハリボテ種ウマ娘についてはまだ発見例も少なく、わからない所も多い。
けれども、今のところ、ハリボテ種として能力が発現するウマ娘には、一つの共通点があった。
――大半のハリボテ種ウマ娘は、トレセン学園や、トゥインクル・シリーズに関連する仕事に人間だった。そのなかでも、トレーナーが最も多い。
「うーん……」
その問いの本当の答えはたぶん、これから科学的にいろいろな調査が行われて、何十年もかけてゆっくり解き明かされていくことになるのだろう。
けれど、ハリボテ種のウマ娘たちが継いだ想いの名前だけは、知っている。
「――きっと、ウマ娘に憧れてトレーナーになった人が、多かったからなんじゃないかな」
「ふぅン――憧れか」
タキオンが楽しげに笑った。はじめは低く、そして徐々にその笑いは高笑いと呼べるものへと変わっていく。
「――そうか、憧れか! なるほど――世界は可能性に満ちているな!」
ファンファーレが空へと吸い込まれてゆく。
ひとしきり笑い声をあげたあと、タキオンが目尻に浮かんだ涙を拭い、向正面の発走地点に目を向けた。
「ならば、いつか目にしたいものだね――彼女たちの抱いた想いの、可能性の果てを」
ゲートが開く。ハリボテの脚のウマ娘たちが、コースへと飛び出してゆく。
《――第一回ハリボテ記念、スタートしました!》
――その先にある、憧れた背中を目指して。
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