壮大で素晴らしく、残酷で狂った宇宙の中で (TUTUの奇妙な冒険)
しおりを挟む

壮大で素晴らしく、残酷で狂った宇宙の中で

 漆黒に塗られ、その上に小麦粉を振り撒いたように点々と散らばる恒星に彩られた、広大な宇宙空間の中を、ある『物体』が飛んでいた。ただただ、その物体は抵抗を受けず、虚無と言っても差し支えないであろう摩擦のない空間で運動を続けている。移動を続けているのである。

 その物体は通常の宇宙空間で自然に見られるような小惑星とはその形状において一線を画していた。どこかギリシアの彫刻を彷彿とさせるような、美を基本形とした痕跡が、化石を覆う母岩のような岩石の随所に見られた。もしレンズを使って詳細な観察を行ったならば、物体の表面には、中国で見つかる恐竜の化石よりも保存の良い、羽毛のような構造が認められただろう。もしこの物体が地球人の目に留まれば、アミノ酸があり、細胞もあり、微妙ながら体温があり、脈拍もあるこの物体は、世界の生物学者や鉱物学者が一堂に会するようなセンセーションを巻き起こしたことだろう。宇宙空間には生命が生存するに足る大気もなく、温度や放射線といった諸要素も余りに過酷である。絶対的な死の具現化とも呼べよう空間の中に生物の痕跡を持つ物体が存在するなど生物界の常識を覆す出来事であるし、仮に他の惑星から流れ着いた死骸であったとしても人類の歴史を永遠に変えてしまいかねない発見である。

 だが幸か不幸か、その物体は猛烈な勢いで──とはいえ、宇宙空間のスケールから見れば些末なスピードで──地球から離れつつあった。そしてその速度は他の天体の重力に捕まって加速を繰り返しながら、やがては太陽や銀河系の重力圏から脱出するに至った。まるで地球から存在自体を拒まれているかのように、運命で押し上げられているかのように、その物体は虚空へと秒速数十kmで進んでいく。

 その軌跡を逆向きに辿ると、物体の起源は誰もが知るあの惑星に辿り着く。銀河系の中央とも末端とも呼べない中途半端な位置に浮かぶ太陽系、その第三惑星。地球である。7:3の比率で海洋と陸地に分けられたその惑星から、物体はその内因的営力により弾き飛ばされてきたのである。

 地表に暮らす人類は最早その物体が地球から放たれたことなど記憶に留めていない。存在自体を知るものもほんの一握りである。しかし、そのごく僅かな有識者は、少なくとも地上に存在していた。出来事を直接網膜に焼き付けた者たちは、それを英語や独逸語といった西洋の言語に落とし込み、紙や電子媒体で管理した。やがて彼らが息を引き取った後も、後継者が手に取り、息を吞みながら、その記述に目を走らせたに違いない。

 その物体には名前があった。カーズ。10万年もの間地球上に存在し、世界大戦直後の地球に降臨した神となった男。母星から追放されたその溢れんばかりの欲望の残滓が、今、孤独に虚空を飛んでいるのである。

 

 

「だ……駄目か!こ……!凍るッ!く……空気が凍ってしまう、外に出ると凍ってしまうッ!」

「き……軌道を変えられん…も……戻れんッ!!!」

 カーズの神経系で最大の活動電位が生じたのは、大気圏内へ帰還できないという現実を直視した時であった。体内に溜め込んだはち切れんばかりの圧縮空気は、極低温に晒されてあろうことか凍結を始めた。推進力を得られないカーズの肉体は慣性と呼ばれる物理法則に抗えず、濁流に呑まれた一枚の木の葉のように、そのまま押し流されて行った。地球人を遥かに超越した頭脳を持つ彼は、すぐに自身の辿る末路を悟った。ありとあらゆるありもしない可能性が脳裏をよぎっては、聡明な脳が打ち消してゆく。二度と地球へ戻ることができないという暗い絶望の渦は、すぐに彼の思考を飲み込んだ。

 地球上の究極生命体として完成された肉体は、死の克服に成功していた。生身の肉体であればすぐに破壊してしまう放射線は、鉱物の生成により防がれてしまう。極低温や体液の沸騰による細胞の破損も含水率の低い鉱物に置換された。絶対的な終焉を拒絶する肉体は、死を渇望する彼の意志をも跳ね除けて、一つの地獄をここに成立させていたのであった。そのうちカーズは考えるのをやめた。

 ……ある時までは。

 

 

どしん、と強い衝撃がカーズを包んだ。

「……?」

 反応が遅れた。従来生物に備わっている反射という特性をも鉱物置換により失っていた彼は、その衝撃から数十秒が経過してようやく、外部から確認できるような変化をもたらした。表面の岩にヒビが入り、軋むような音を立ててパーツごとに外れていく。長い時間をかけて鉱石が外れて再起動したその瞳に映っていた光景とは、おおよそ宇宙空間とは思えない空間であった。

 それは人間が整えた家屋、否、何かの大規模施設の室内のようであった。何百年が経過したのか定かではないが、彼の脳のアーカイブにあるうちで最も特徴の合致するものは、世界大戦の後の軍事施設のようであった。

(……何が起きた?)

視線を移すと、おそらく先ほどの衝撃で貫通したであろう大穴が目に入った。室内の空気が猛烈な勢いで流出していること、そして穴の向こうに見慣れた星空が控えていることから、その穴が内外を繋げる要素であることが窺える。数世紀ぶりに脳に伝わる振動に音を感じながら、彼は活動を開始する。全身に大きくヒビが入って岩が砕け散り、つむじ風に呑まれた木の葉のように気流に乗って外の空間へ投げ出されていく。肌は見る見るうちに色艶を取り戻していき、標準的なヒトよりも健康的なイメージを想起させる、生物的な質感が復活する。

「これが扉か」

 見慣れないシステムではあったが、銃の解体法を瞬時に見抜く柱の男にはたかがドアの開閉ごとき造作もないことであった。湯気の立つコーヒーとトーストをプレートに載せて今から食事でもするかのように、何年もこの部屋で生活を営んできたかのごとく指を滑らせる。重厚な金属製の扉は、見かけに反して従順だった。隣の部屋へ滑り込むと共に扉を閉じ、次の部屋の内装に目を落とす。

 

 

 先に閉じた扉が空気を遮蔽したためか、気流は落ち着いていた。室内にはダクトや機械が犇き合い、コードが床の各所を走っていた。

「やはりこれは人間どもの……しかし構造が変化……いや、"進歩"しているのか?」

 真空の宇宙の中でも空気を保っていられるほど気密性の高い室内。地球の外へ人工物を持ち運ぶ技術といい、一体どれほどの時間が経過したのか。そう思案しながらカーズは隔壁に向かって歩を進めて次のドアを開いた。その向こうには廊下が続いており、いくつもの扉が鋼板にはめ込まれて並んでいる。

「……肉の臭いがするな。それも腐敗している」

 臭いの発生源が食糧庫であれば、管理が行き届いていないことを抜きにして特に異常はない。しかし、彼の鋭敏な嗅覚は鼻をつくような臭いの元を別の場所に捉えていた。それは廊下の壁に備え付けられた丸い小さな蓋の奥から漏れ出しているようであった。開いてみると、その奥には予想通り、何本かの細いチューブに接続された腐敗した肉が垂れ下がっていた。ドス黒い色を呈していて損傷が激しいものの、その概形はヒトの心臓として復元できるものであった。

 心臓の収納されたキャビティから目を離すと、撮影機材じみた装置が目に入った。これも彼が目にした人類のカメラからすると遥かに進歩した技術で構築されているようであったが、その先端部には潰れた体組織が付着していた。触れてみるとニチャリ、と気味の悪い感触と共に腐臭が漂ったが、その奥に硬い構造物の感触がある。どうやらヒトの水晶体の残骸であるらしい。

「人体を利用して機械の部品にしているのか。この船の設計者は人間ではない……のか?」

 

 

 廊下の端のドアをくぐると、そこには広い部屋が面していた。どうやらこの施設の中枢であるらしいが、人間は誰もいない。それは扉を開く前から体温で感知できていたことではあったが、いざ認識するとやはり違和感を覚える。奥へ向かうと、四角形のパネルに文字が表示されているのが目に入った。

「フランス語か」

 画面の隅に目をやると、日付の表示らしきものが記されていた。おそらく4桁の数字が西暦の年号であろうが、それによると3000年以上の時が過ぎ去ったようである。画面の外にずらりと並んだ計器類からは、この施設が宇宙空間をほぼ一定速度で航行しているらしいことが示されている。これまでの経緯を踏まえるとこの建造物が宇宙の飛行物体であることは自明であったが、それでも未だ、人類がこれほどの技術を確立したという事実を受け入れがたい。カーズはふぅ、と息をついて制御盤に体重をかけた。

 その時、画面の表示が切り替わり、電子音が鳴った。

「ようこそおいでくださいました」

「──何?」

 音声に驚いて画面に目を戻すと、そこには文章が入力されている最中であった。アルファベットが高速で整列し、意志疎通を目的とするような文言が形成されていく。

「これは……」

「これは自動音声ではありません。貴方に話しかけているのです。フランス語は分かりますか?必要であれば貴方の分かる言語に合わせます。地球の言語に限りますが」

 女性の声。

「そのままでいい。通じる」

「かしこまりました」

「私に話しかけているだと?」

「その通りです。宇宙を漂っている貴方を、私が拾いました」

「そんな──」

 バカな、と否定しようとしたが、すぐに地球での記憶が蘇った。人類一を自称するドイツ軍の喧しい男は、体の大部分を機械に置き換えながら生存し、あろうことか流暢な会話や戦闘までやってのけた。既存の機会とは一線を画すテクノロジーだった。そして科学とは日進月歩。その技術力が健在で、3000年もの時間も味方すれば、このように喋る船の建設も不可能ではないのかもしれない。

「──いいだろう。私を拾ったと。それで?貴様は何者だ?」

「私は……何と申せばよいのでしょう」

「早く言え。このカーズ、人間の産物ごときといつまでも会話はせん」

「カーズとおっしゃるのですね。分かりました。私も名乗りましょう。私はジャンヌ=アントワネット・ポワソン。レネット、というあだ名もあります」

「ジャンヌ、アントワネット、ポワソン──?待て、その名はどこかで──」

 

 

その瞬間、背後で突然の破壊音が響く。ジャンヌ、と名乗るコンピュータが警告を発するよりも早く、カーズはその破壊音の方向へ向き直した。その音の発生源では、19世紀フランスの服装に身を包んだ仮面の男が立っていた。遥かに超越的な科学の船の中では、極めて不釣り合いな古風の出で立ちである。纏っている空気もどこか異質に感じられた。

「そんなまさか、貴方、まだ生きていらして──」

「あれは?」

 視線を仮面の男に向けたまま彼は問う。空気が異質に感じる理由を彼はすぐに悟っていた。体温や呼吸が一切感じ取られないのだ。かつてのドイツ軍人と同様か、それ以上の無。形ある虚空が広がっているかのように、生命活動の痕跡が微塵もない。強いて言えば、衣類に付着したバクテリア程度のものだろう。

「あれはこの船の修理ドロイド……修理担当のロボット、機械です」

「修理……ああ、なるほど」

 カーズの脳内で、この船の異常と敵襲がすぐに結びつく。何万何十万という人体を切り刻み、煮込み、裏漉しし、実験に使い潰してきたカーズだからこその直観。地球上の誰よりもその手を紅に染めた男だからこそ、瞬時に敵の実態を理解できる。

「そういうことか。レネットとやら、機械に埋め込まれた人体は貴様の仕業かとも考えていたが……修理担当がいるのであればヤツが容疑者だ。大方修理のパーツが不足して、乗組員に手を出したというところだろう」

「理解が早いですね。その通りです。助かります」

「すぐに腐敗してしまう人体など私は使わないが……だが思い付きはする。道端に石が転がっていれば蹴ることもあろう。やろうと思えばやれてしまうのだ」

「壁ガ破損シタ。部品ガナイ」

「喋るのか、貴様も」

「部品ガナイ」

 修理ドロイドと呼ばれた機械は、腕から刃物を射出しながら急激に距離を詰めた。鋭利な切っ先がカーズの皮膚を切り裂くその寸前、そしてレネットの警告の間際、カーズは反撃に転じていた。

「機械など相手になるかッ!」

 人体では到底不可能な領域まで体を捩じり、指先でドロイドの頭部を突く。仮面が割れて弾け飛び、ウィッグが宙を舞い、その正体が露見した。無色で透き通ったガラス容器の内部には緻密な黄金色の歯車による構造物が収納され、精巧な連鎖により駆動しているようである。3000年の彼方で脈動する連続的な動作機構。その有様は芸術と呼んでも良い至高の領域であり、流石のカーズも目を見張るものがあった。

 ドロイドはカーズの突きを受けても僅かにバランスを崩しただけに留まった。一瞬のガタつきを経て体勢を立て直したドロイドから、二撃目の刃物が死角より飛び出し、カーズの喉元を捉えて飛来する。

「なるほどそれが素顔か……」

 意外にも、カーズは回避行動を取らなかった。古き仲間から耳にしていた東洋の仁王のように陣取り、その凶刃を真正面から肉体で迎える。刃物は喉に深々と突き刺ささった。

「これを破壊するのは犯罪と言っても良いかもしれぬ」

 しかし、刃を突き立てられてなお、カーズは平然と言葉を発する。血が一滴も流れ出ないばかりか、刃物はさらに深々とカーズの首の中へ沈み込んでゆく。鳥の巣に入り込んだ蛇が雛の逆襲に遭って引きずり込まれているかのように──攻守は逆転していた。ドロイドはカーズの肉体に呑み込まれつつあった。驚きながらもその光景を受け入れるレネットに対し、ドロイドは不可解な状況に判断エラーを起こしたのか、抜くとも刺すとも取れない不安定な動作を繰り返し始める。

「だが躊躇はせん」

 カーズが腕を振るうと、脱しきれないガラスケースに剛腕が直撃する。無色透明な容器が瞬時に砕け散り、無数の歯車もシャフトから外れて飛び散っていく。光を反射しながら雨のように降り注ぐ歯車と共に、機能を停止したドロイドは重力に吸い込まれてその場に崩れ落ちた。辛うじて残っていた歯車もここで損壊する。腕に備わった刃物も抜け落ち、一滴の返り血もなく床で跳ねて刃こぼれを起こした。

 

 

「……驚きました、やはり貴方は人間ではないのですね」

「宇宙を漂っていた岩石が人間に見えていたのか?」

「いいえ」

 しゃがみ込んでドロイドの構造を眺めるカーズに、笑ったようにレネットが話しかける。対するカーズは残骸をしげしげと手に取るのに感け、レネットの方に淡々とした声だけを返していく。

「人ではない殿方とはお会いしたことがあります。ドクター、という人物をご存じ?」

「知らんな。医者か?」

「いえ、お医者様ではありません。私が思うに、彼は元祖本物のドクターではないかと」

「どういうことだ?」

「突拍子もない話ではありますが──彼がドクターと名乗り、それが地球の言語で医者や博士を意味するようになったのではないか……と。彼はそのくらい不思議で神秘的な方でした。彼の前ではベッドの下の怪物も無力。彼は私を今の怪物から救ってくださったのです。何度も、幾度も」

「その男もこの船にいたのか?」

「……ええ。ですが今は去ってしまわれました。私がここに居ることも知らず」

「ン……?」

 ドロイドの破片から手を放し、カーズはここで画面に向き直した。支えを失った破片は滞空することもなく、床に自由落下して甲高い音を立てる。立ち上がったカーズの遥か高い視点からは、画面、そしてその奥のレネットに視線が向けられている。

「どういうことだ。貴様を救ったのではなかったのか」

「……話が複雑になってしまいますね。彼は一冊の本のページをめくるように、私の人生を俯瞰し──ああ、いえ、もっと根本的なところから話さなくてはなりませんね」

「良かろう。このカーズも情報が欲しい。ジャンヌ=アントワネット・ポワソンという名前、今思い出したがフランスの王妃、いや、フランス国王の妾だな。それも18世紀の。このカーズの目覚めた時代よりも200年も前の人間が何故、このような遥かな時が経った今、鉄屑の体となっているのか。非常に興味がある。話してみろ」

 すらすらと基礎情報を羅列しながら、カーズは煤けた金属台に腰掛け、限度を知らぬかのようにすらりと伸びた脚を組む。レネットの方へ差し出された彼の手は、繊細なワイングラスを支えるかのような、人を誘う優美な動きをしてみせる。

「その代わりに私も情報をくれてやる。私は10万年も生きてきた。人類が火を使い始めた頃からローマ帝国の時代を経て世界大戦に至るまでの知識がある。トレードオフだ。互いに歴史を学び合おうではないか」

「それは良いですね。この船の機械に残されている情報では限りがありますので」

レネットの声には、微笑んでいるような素振りがあった。

「私たちはこの広い宇宙で独りぼっちだったのです。これからも2人だけ。退屈しのぎにお話しをいたしましょう」

 

 

 新たな乗員を乗せた宇宙船マダム・ド・ポンパドゥール号は、宇宙の彼方へ飛行を続けていく。彼らが異星の文明と遭遇し、究極生命体の牙が力を示すのは、まだ先の話である。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。