人間らしく、人間らしい (雨宮彩織)
しおりを挟む

告知など
\NEW/プロデビュー・書籍化のお知らせ


 二年ぶりです、雨宮彩織です。タイトルの通りですが、このたび私、別名義で執筆しているオリジナル作品の書籍化と、それに伴ったプロ作家デビューが決定しました。いきなりのお話、ご報告となりまして、たいへん驚かせたことと思います……!

 

 ハーメルンではこのPNでやっておりますが、一次創作またはプロ作家としての活動は、諸事情によりここでは公開いたしませんが、別名義で今後も行わせていただきます。

 

 それにより、二次創作関係の活動は、やや手回しが難しいことをお話しておきます。本当は書きたい、もとより二次創作が古巣のようなものですので、いつかは戻ってきたいと思っていますが、ここ数年は難しいのではないかな、と想像しています……。

 

 今年は十月に書籍発売、来年の春頃まで同人ノベルゲームの制作、同時進行でフリーランス小説家としての生計立てなどを想定しています。現在十九歳、二十歳の誕生日を控えておりますが、若いうちから貴重な体験ができて、僥倖だなと感じている次第です……!

 

 二年間も更新をお待たせしてしまっていること、たいへん申し訳ないです。やはりこちらの手回しは難しいのですが、冒頭部分の改稿として、もっと面白いストーリーになるかなと思い、密かに書いていた話があります。こちら五話ぶん、お詫びに投稿します!

 

 旧版と新版で残しておくつもりですので、ぜひ読み比べてお楽しみください。新版の更新はさっそく本日、毎朝の七時五十八分に行います。バスに乗り遅れないでくださいね。

 

 

(ここから文字数稼ぎの蛇足になります。小説家としてどうなのかという話ではありますが……。私が小説を書き始めたのは、この緋弾のアリアでした。どんなラノベよりも面白く、いちばんハマりました。未だにご長寿作品で、赤松先生すごいの一言です!

 

最初の推しはもちろんアリア。ツンデレいいですよね……。いっとき、レキになびいたこともあります。クールなのにたまにデレるの可愛いですよね……。でも本命はアリア。

 

じゃあなぜ、理子ちゃんヒロインで書いてるのかって? 理子ちゃんにアリアと並ぶほどの良さを見出したからです。理子ちゃんの生き様、彩桂との出会いによる心境の変化、まだ全然描けていないのですが、書きたいことは決まっています。いつか、この作品に絞って書けば、半年あれば完結できると思います。その時が楽しみですね……!)

 

 

 以上、慌ただしくなりましたが、書籍化・プロデビュー報告と更新報告でした。

 少しでも応援、楽しんでくだされば幸いです。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

──新版──
眇たる可憐な一少女


 ──春に殺された。どうやら僕は一時、死んでしまったらしい。目蓋を射す朧気な曙光(しょこう)に目を醒ますと、窓硝子の向こうにある校庭に、爛漫(らんまん)と咲き乱れている桜の樹が見えた。きっと、あの桜の樹の下には、屍体(したい)が埋まっているのだろう。そうでなければ、こんなにも美しいはずがない。

 

 朦朧(もうろう)な、春に(とろ)けかかった脳髄を刺戟(しげき)してくるのは、あの春霞に覆われた雨催いの向こうから静謐(せいひつ)に、音も香もなく降り立ってくる、たった幾筋かの織り成す春光だった。それきりに寝惚け眼を擦らされながら、教室の机に伏せていた顔を上げる。自分の左半身に、窓硝子を擦り抜けた陽光が射すのを感じつつ、その麗らかな陽気に安堵していた。

 

 

「──あ、起きた? おはようっ」

 

 

 矢庭に両の耳が聞く、心持ち弾んだ少女の声はどこか、この春陽だとか春風だとか、そういった類と同じように、やたら甘美に感じられた。そうして、自分がいま感受している美しいものというのは、あそこに爛漫と咲き乱れている桜の──それぎりではなかったことに、不意に気が付く。

 

 それを自覚すると同時に、僕は思わず、椅子を引くなり身じろいだ。というのも、つい先程の声の主であろう眇々(びょうびょう)たる可憐な少女が、隣席から自分の顔を覗き込んでいたからに他ならない。春暁の微睡(まどろ)みに溺れてしまったのか知らん、これは夢か何かを見ているのではないのか知らん──と思い思い、丸眼鏡のレンズ越しに、少女を見詰める。

 

 

「……びっくりした。いつから居たんですか」

「うーんとね、さっきから?」

「さっきから、ですか……」

 

 

 一二〇ほどの脈搏(みゃくはく)が、けたたましい早鐘みたく心臓を鼓動させている。それは彼女にも勿論、気取られているに違いない。ただ気休めに手を当てつつ静めながら、口元に人差し指を遣って考え込むように答えた少女に、呆然とした。喫驚(きっきょう)に上手く声が出ない咽喉を、無理やり震わせてみる。

 

 

「……早い登校、ですね」

「でしょ? ちょっと用事があったんだよねぇ」

 

 

 まだ八時を回らない今では、この一年A組の教室には二人ぼっちだった。あとはただ、塵埃が春光に皓々(こうこう)と照らされて、輝石みたく色彩を放っているきりで、それがまた、一帯の森閑を増幅させている。そんな夢現の中で、僕は少女を観察した。いつからか隣席に座っていて、机に頬杖をつきながら、自分の寝顔を覗いていた、可憐な少女を──。

 

 (こと)に彼女は、日本人離れした風貌みたように思える。両側頭部にリボンで結った髪は、胸元のあたりで(なび)かせており、余した後ろ髪は腰まで下ろしていて、その髪色というのがまた、如何にも、西洋人形らしい金髪なのだった。

 

 二重になった目蓋のところには長い睫毛(まつげ)が覗いていて、愛嬌のある大きな瞳は、金眼だろうか──この陽春に爛々(らんらん)としていた。綺麗な鼻筋と小ぶりな口が端整な顔付きを形作っていて、少しあどけなさの残る雰囲気ではあるものの、そうした点も合わせて、やはり西洋人形みたく思える。

 

 武偵校の制服を羽織っているのかと思いきや、視線を寄越してみると、もはやそれは制服の体を成していなかった。白地のセーラー服に映えるのは、赤色をした襟元、同色のネクタイとプリッツスカートなのだが、それら全てに、着飾った西洋服みたようなフリルが装飾されている。どうやら袖口にもまた、そのフリルで装飾がしてあるらしい。

 

 しかも、その少女の短躯をまとう西洋風の制服を観察していると、およそ十六歳の異性とはなかなか思えにくい、少女らしからぬ胸部をしているのに驚愕した。とうに成熟しきった魅惑的な感じを、双丘から横溢(おういつ)させている。のみならず、これまたフリルをあしらったハイカットを履いた太腿は、雪肌の艶めかしい健康的な少女のそれであった。

 

 こうした彼女の風貌は別にしても、とりわけ面識の無い異性に寝顔を覗かれる──などという奇怪千万な、驚愕(きょうがく)に値するべき事態を目の当たりにして、僕は唖然としていることしか出来なかった。しかし眼前の少女は、それを微塵も気に留めていないらしく、例の声色で話しかけてくる。

 

「ねぇねぇ。もしかしなくても、最年少で芥川賞作家になった綺月彩佳さんでしょ? 本当に綺麗な髪の毛と目なんだね。ちょっと羨ましいかも──なぁんて。くふふっ」口元に当てがった手の合間から、特有らしい愛嬌のある笑い声を()らしつつ、隣席の少女は、からかいだか照れ隠しだか、そんなような風をして、睫毛の覗く目元を(ほころ)ばせた。

 

 

「……ありがとうございます」

 

 

 その動作に見蕩れているうちに、いま自分が相対している彼女といった存在がまるで、この春に生まれた、魔性の小悪魔みたように思えてきた。少女でありながら少女らしからぬ雰囲気と、窓硝子から射す春光に爛々とした金色の瞳と、そうして、嫣然(えんぜん)とした目付きの、それこそに──。

 

 依然として黙然としている僕に対して、こうした自分の態度を、眼前の小悪魔もどきは、殆ど何も気にしていないようだった。ただ頬杖を崩して、肉惑的な太腿に華奢(きゃしゃ)な両手を当てながら、妖艶(ようえん)な微笑みを浮かべつつ座っている。僕を見詰めているというよりは、ゆらくめいた面持ちだった。

 

 これは夢か、はたまた現であるのか──僕はただ、この窓際の最後列にある席に独特の、長閑(のどか)で穏和な雰囲気を味わいたいばかりに、入学式を終えた翌日の教室に、ただ一人だけポツネンと微睡んでいただけなのだ。そうして、いつの間にか寝落ちてしまっていた折に、この少女は音も香もない春光、或いは魔性の小悪魔のように、現れたのだ。

 

 夢現のどちらとも付かない僕の脳髄を蕩かしたのは、どうやら、この春だけではなかったらしい。下手をすれば、夢見心地を見せているのは、彼女ではないのか知らん──と勘繰ってしまうほどには、今の自分は動揺していた。それを少しでも緩和させようと思い思い、いったん席を立つ。

 

 

「あれ、どっか行っちゃうの?」

 

 

 すると彼女は、(いささ)か面食らったような声を出した。愛嬌のある金眼で上目遣いに、僕の顔を覗き込んでいる。

 

 

「えぇ、御手洗の方に」

「ふぅん……。ねぇ、待って」

 

 

 彼女の傍らを数歩ほど通り抜けたところで、矢庭に指先を掴まれた。肌理細(きめこま)かで温和な感触が、そのまま伝わってくる。それが久々に触れた異性の感触であることを自覚する余裕というのは、何のせいか朦朧とした脳髄には、それほど残されてはいなかった。(かえりみ)みるのが関の山であった。

 

 少女は僕を引き止めると、掴んだ手を解いて、椅子から立ち上がる。虚空に靡いた金髪が、皓々とする塵埃の合間を掻い潜って、それらを輝石みたように、彼女の周囲を舞い上げていった。或いは、鼻腔をくすぐる甘ったるい芳香を振り撒きながら、可憐な面持ちの眇々たる少女は、背伸びをして、僕の首元に華奢なその両腕を回してきたらしい。

 

 次に感じたのは、柔和な何かが軽く唇に触れる感触で、それが接吻だと気が付いたのは、目前に迫った小悪魔が、口元で何かしら音を立てたからだった。そうして僕から顔を離すと、首元に回していた腕も解いていく。彼女はそのまま、人差し指で唇を拭い取りながら、或いは、甘美な風に舌舐めずりをしながら、先のような──否、それ以上の、魔性の小悪魔にも相違ない、妖艶な笑みを浮かべていた。

 

 

「あのさ、理子と付き合ってほしいなっ」

 

 

 少女の肌理細かな肌に、ほんの僅かな紅潮の色が差し込まれているように見えたのは、そこに春の陽射しが爛々と降り注いでいるからだろう──それだけを、願っていた。




新版の投稿となります! お気に入り、評価などくれますと励みになります!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

告白と懊悩、雨催いに耽る

 それはあまりにも軽薄な、そうして軽い口付けだったように思う。並大抵の少女では到底、成し得ないような奇怪事を、目前の理子と名乗った小悪魔は成し遂げたのだ。甘ったるい芳香を鼻腔いっぱいに満ちさせながら、ほんの僅かに湿った唇の感触を、自覚するともなく自覚していた。

 

 その接吻に触れた少女の粘液が、嫌に甘ったるく感じられたのは、彼女の振り撒く芳香のせいばかりではない。ただ、脳髄だけは本当に、この魔性の少女に蕩かされてしまったのだろう。朦朧たる意識に茫然としたまま、何を考えるわけでもなかった。瞠目するのが、精一杯だったのだ。

 

 そうして僕は、夢現の()い交ぜになった脳内で、つい今しがた聞いた、彼女の告白というものを反芻する。『理子と付き合ってほしい』──付き合う──はて、何故だろうか。自分が、顔も名前も知らなかった、初対面の少女と? 依然として治まらない鼓動を他所に、そんなことを思う。

 

 

「……どうして。唐突すぎます」

「くふふっ。やっぱり、そうだよねぇ」

 

 

 喫驚に締め付けられた咽喉の奥から、僕は無理矢理に声を絞り出した。にも関わらず彼女は、如何にも磊落(らいらく)な口調で睫毛を覗かせながら、(あで)やかに笑っている。あまつさえ、こうした質問を予測していたかのような口ぶりだった。残念ながら今の僕には、荒唐無稽(こうとうむけい)を極めた奇怪な告白の、その裡面(りめん)を推し量ることが、どうにも出来そうにない。

 

 

「じゃあ、一日あげる!」

 

 

 そう言って、彼女は人差し指を立てた。

 

 

「理子の告白の返事を、その後に返すこと! どう?」

 

 

『どう?』と言われても──というのが、本音だった。ただ困惑という感情が胸臆(くおく)を侵略していくだけで、他にどうしようか、どうすれば良いのかという宛ては皆無だ。そもそも、何かの好奇心で僕の寝顔を覗いたというのならまだしも、初対面の人間に対して、口付けと告白とを一挙に畳み掛けてくる女子が、彼女の他には誰がいるだろうか。

 

 呆然と立ち尽くすうちにも、段々と正気は回復してきたらしかった。告白の返事とは、その大概が肯定か否定の二つに一つだ──そう自分に言い聞かせて、やっと治まりかけてきた脈搏に安堵しいしい、不承不承ながら「分かりました」と頷く。その時に彼女が見せた年相応らしい、喜色満面の笑顔だけが、凝固しかけた脳髄に浸透していった。

 

 

「このこと、誰にも内緒だからねっ」

 

 

 

 

 ──嗚呼、やはり、桜の樹の下には屍体が埋まっている。けれど、腐爛(ふらん)したそれを直視したわけではない。強いて言えば、幻視することくらいは出来るだろうけれども……。雨催いの曇天の下に吹くようずに頬を(ぬる)く撫でられながら、花鳥風月の零れ桜を見詰めるともなく見詰めていた。

 

 靴音を歩道に響かせながら、自分には似合わない溜息をしいしい、鞄を片手に武偵校の敷地内を歩いていく。というのも、やはり、峰理子という少女──魔性の騒乱小悪魔──に懊悩(おうのう)させられていたからだった。彼女が自分に齎した面倒は、接吻や告白といったものの後始末にあるのだ。

 

 細かな部分まで突き詰めれば、僕の隣席が例の少女になってしまったこと。そうして、つい先程に昼食を仕舞うまで、僕に話しかけてくるなり、一緒に昼食を()るなりしてきたこと、というのもある。それ以降は『用事がある』という理由を付けて、「えー、理子のこと放っとくの!?」と騒ぐ彼女を説得した上に、今に至るわけだけれど──。

 

 思い返してみると、不思議で仕様がない。峰理子という少女が何故、僕にあれだけの好意を向けているのかが。並大抵の人間は、一目惚れした異性に対して告白こそすれど、接吻を敢行(かんこう)するほど馬鹿ではない。最低限の理性を持っているはずだ。ともすれば、彼女は希少な例外であるのか。

 

 

「……流石に、それはないか」

 

 

 苦笑混じりに頭を振る。落胆する僕の心情を示唆するかのように、目の前を桜の花弁が散っていった。理性の有無に関わらず、彼女の様子を思い返してみても──仮に衷心(ちゅうしん)からの恋情に胸臆が満たされているのなら、あれだけ余裕のある少女の態度を、演戯だとしても採れるはずがない。

 

 だとすれば彼女は、意図的に綺月彩佳に接近してきたと類推する方が、まだ現実味を帯びているのではないか。それでは、何を目的として──そこだけが気にかかっている。雨催いの曇天も、ようずも、爛漫な桜も、何も教えてはくれない。それだけが無性に面白くなくて、歩調を遅めた。

 

 僕のどこに、例の少女に対する魅力があるのだろう。史上最年少で、文學界新人賞と芥川賞の受賞を果たしたこと? 確かに地位や名誉のある者と恋仲になりたいと思う人間は、多かれ少なかれ存在する──自分自身の存在意義に付加価値を与えたいがための、他人の権威を利用した自己満足という形で。その点、僕は彼女にとって身近な存在だ。

 

 地位や名誉という観点を少し変えると、自分の場合は一族の系譜というものにも、少なからず箔が付いている。綺月一族は元を辿れば、綺月彩雲という大文豪に至るのだ。彼は夏目漱石や森鴎外という錚々(そうそう)たる面々に並んで、近代日本文学の金字塔と仰がれている。知らない者はいない。他にも文芸評論家、当時の最年少芥川賞作家など、文芸家としての性格を持った先祖は、僕以外にも存在している。

 

 こうした系譜もまた、自己満足の補完には十二分に使えるはずだ。本当に例の少女が、たったそれぎりの理由で、僕に接近してきたとは思いにくいのだけれど……。受賞の際に貰った賞金や印税といった財産を狙うという方が、あまりにも現実的な話だ。そんな高校生がいても困るけど。

 

 少なからず彼女は、僕にある何かしらの魅力のために、僕へと接近してきた──それだけは大いに類推のいくところだろう。けれど、その理由は曖昧模糊(あいまいもこ)としている。そうであるならば、これは、単なる少女の遊びごととして結論を出しておく方が、今後の心理的にも遥かに楽と言えるのかもしれない。そこまで長考して、雨催いの空を見上げた。

 

 本校舎とは少し離れた学科棟の一帯を覆うように、今にも花散らしの雨が降り出そうかという面持ちを見せながら、いささか拗ねたようにして、雲は雨催いに(かげ)っている。そんなうちに僕は、在籍したての探偵科棟の前に向かった。というのも目的は授業ではなく、該学科の生徒向けに依頼を張り出しているらしい、そんな用途の掲示板である。

 

 

「ふぅん……」

 

 

 後ろ手を組みながら、何枚かの用紙が画鋲で留められている掲示板を、適当に読み流しながら吟味していく。成程、こういう案件を探偵科は受け持っているらしい。まずは肩慣らしに簡単なものを受けてみたいけれど──などと一考しているうちには、背後から軽快な足音が聞こえてきた。

 

 

「あれっ? ここに居たんだ」

 

 

 気抜けしたような声に振り返ってみると、そこに立っていたのは、つい十数分前に離散した例の少女だった。どうやら走ってきたらしく、乱れた前髪を指先で直し直し、そのまま僕の隣に並んで掲示板を覗いてくる。「もしかして、依頼でも受けるの? それなら理子が選んであげる!」

 

 そう笑って彼女は、僕が何か言おうとするのも聞かずに、適当な用紙を選んで見せてきた。眼鏡のつるに手を当てて凝視してみると、何とも面倒な依頼である。『警視庁管轄の強盗事件に対する鑑識科との合同捜査』という標題を読み上げているうちに、気が消沈してくるのを自覚した。

 

 

「残念ながら、却下です」

「えっ、なんで?」

「最初は、肩慣らしに受けたいので」

 

 

 苦笑を零しつつも、果たして煩わしげな雰囲気が、語調に現れていたろうか。彼女に「もしかして、意外と面倒臭がり屋さんだったりする?」とからかうように笑われてしまったのは、あの桜のように、顔に紅葉を散らすばかりだ。その紅葉さえも落とす気概で、僕は軽く首を横に振る。

 

 

「面倒臭がり屋というか、自分では、気分屋だと思ってますけどね。やりたいことをやる、気が進まないことは気分に任せて、という感じです。だから、良さそうな依頼とかあれば、受けてみようかなぁ──と来たんですが……」

 

 

「あ、あった」掲示板に視線を流していくうちに、ちょうど良い塩梅(あんばい)の依頼を見つけて、僕は思わず呟いた。用紙を手に取ると、目前の少女も中身を覗き込んでくる。彼女が面白そうに笑ったのは、それから数秒後のことだった。

 

 

「迷子の猫探し──くふふっ、こういうの好きなんだ?」

「えぇ、まぁ。実家に猫がいる影響で」

 

 

 照れ隠しの笑みを零しつつ、彼女の反応を、乳白色の前髪の合間から(うかが)い見る。──すると、どうしたことだろうか。両の手を強く握りながら胸元に掲げていて、先程よりも爛々とした瞳の色をしいしい、頬に紅潮を差しながら、少女は何故だか、僕の顔を食い気味に見詰めていた。

 

 

「猫を、その……モフったり、してるの?」

「はい。あとは、一緒に縁側でお昼寝したり」

「えー、いいなぁー! 理子もモフってお昼寝したい!」

 

 

 彼女は羨望(せんぼう)の眼差しを向けながら、些か拗ねたようにして口を尖らせた。とはいっても、京都にある実家の猫を愛玩(あいがん)していたのは、せいぜい、ここ東京に発つ前までで、そこから今に至るまで、なんと野良猫の尻尾すら見ていない。気紛れに猫と触れ合いたいのは、自分も同じなのだ。この依頼はまさに、棚から牡丹餅(ぼたもち)──という(ことわざ)の通りだろう。

 

 

「あっ、じゃあさ!」

 

 

 矢庭に彼女が切り出したのは、そんな折だった。

 

 

「その依頼、理子も手伝ってあげよっか? 人は多い方がいいし、もしかしたらモフれるかもしれないじゃん?」

「……それが本音ですよね。別に、構いませんけど」

「えっ、ほんと!? やったー! ばんざーいっ!」

 

 

 ──笑壺(えつぼ)に入ったように両手を上げている少女の姿が、どうにも今朝、僕が見た通りの嫣然な小悪魔だとは思えなかった。どちらが彼女の本性なのか知らん、或いはどちらも、彼女の持つ何かしらの目的のために被った猫なのか知らん──と、勘繰らずにはいられないほどの変貌である。

 

 だから僕は、浮かべた薄ら笑いの裡面に、彼女に対する疑惧(ぎく)というものを並べ立てていた。同時にそれを、出来るだけ今回の一件で、類推から仮定にまで持っていきたいとも考えている。峰理子という少女の性格、趣味嗜好(しこう)、生い立ち、能力──何かしら分かることがあるかも知れない。好意的に振る舞われている現況は、利用してやるつもりだ。

 

 

「それじゃあ、レッツゴー!」

「ちょっ──」

 

 

 などと考えを巡らせていると、彼女は唐突に僕の手首を掴むや否や駆けだした。異性の肌に特有な、肌理細かで温和な感触を自覚する暇は殆ど無い。ただ華奢なそれを少女に握られているという僅かな感覚の他には、彼女の甘ったるい芳香と、頬を撫でる春風とにのみ意識が向いている。

 

 少女の足取りは軽かった。屹立(きつりつ)する学科棟を背後にすると、二人して髪を靡かせながら、どうやら校門に向かっているらしい。遠目に見えるブレザーやセーラー服の視線を受けつつも、彼女は一顧(いっこ)も与えず飄々(ひょうひょう)として駆けていく。

 

 

「いぇい、校門とうちゃーく! くふっ、楽しかったね」

 

 

 少女はようやく立ち止まると、向き直り際に僕の手を撫でるように離した。円弧を描く髪の軌跡が、一筋二筋と虚空を彩っていく。細めている目元には睫毛が煙っていて、緩んだ口元の向こうには、八重歯が可愛らしく覗いていた。膝に手を当てながら小さく溜息をしいしい、心持ち彼女と同じ程度になったろう目線に立ちつつ、やっと口を開く。

 

 

「……はぁ。いきなり、走り出さないでください」

「えへへっ、ごめんごめん。それで、何処に行くの?」

「元麻布です。依頼主の自宅周辺を捜索してみようと思いまして。──けど、まずは自室に寄らせてください」

 

 手元の用紙を一瞥してから、四つ折りにして鞄に仕舞う。そう告げた時の彼女の顔が、雲間から射しかけてきた春光にあてられて、よく見えた。少しだけ面食らったような顔をして、なおも爛々とする金眼を僕の方へと向けている。

 

 

「自室って、ちょっとした準備とか?」

「えぇ。少し、制服を着替えたいので」

「それって私服姿? 見たい見たい!」

「見世物じゃないですよ、僕の服は……」

 

 

 一人で快活にはしゃぐ少女を横目にして、僕は桜の樹の上にある広大な雨催いの曇天を見遣った。それがなんだか、不穏に思えてしまって仕様がない。暗に、禍殃(かおう)の到来でも告げているかのように──そんなことだけを直覚した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

嫣然と可憐、雨催いに霞む

 寮の自室で用事を済ました僕は、待たせていた少女──峰理子とともに、ここ学園島から元麻布へと歩を進めていた。まずは芝浦ふ頭駅を目指して、そこから最寄りである麻布十番駅まで乗り継いで行こうというのが、この少女がくれた提案である。そうして駐車場を抜けたところで、隣を歩く彼女が不意に話しかけてきた。建物越しに見えるのは、今朝から何も変わっていない曇天の空模様である。

 

 

先生(・・)ってさ、いっつも和服を着てるよね。芥川賞の受賞会見の時も、テレビにゲスト出演した時も着てたでしょ? 好きなんだ? なんか結構、気慣れてる感じだね」

 

 

 少女は、腰まである金髪とフリルをあしらった制服とを虚空に靡かせながら、僕の数歩だけ先を行くと、軽やかに身を(ひるが)して、自分の風貌を見上げ見下ろしてきた。危なっかしくも手を組んで後ろ歩きをしいしい、殊に興味深そうな目付きをしているのが、なんだか面白く見えてくる。

 

 

「……よく見てますね。好きというか、和服しか持ってないんです。洋服は何回か着たことありますけど、和服と比べると、窮屈で。だから、制服から着替えたでしょう」

 

 

 その実、生家は祖父と父の影響で、平成でありながら昭和のような風情だった。純日本家屋の邸宅というのが起因して、更には昭和生まれの二人であるから、そうした雰囲気の中で洋服を着るというのも、言われてみればおかしな話ではある。そんなこんなで自分が生まれても、そうした色に染まると言うか、染められると言おうか──特に方針を変えることもなく進んできたのが、この綺月家だった。

 

 

「やっぱり精神的に、洋服だとキツい感じ?」

 

「そうですね。……今日も半日、頑張りましたから」

 

 

 苦笑しいしい、和服に身を包んだ自分の装いを見直した。正絹仕立ての紬着物は藍白で、紫苑色の羽織は、天然石を連ねた羽織紐で留めてある。そこに適当な草履を履いて、如何にも春らしい淡い装いになっていた。あとは信玄袋を手に提げて、空いたもう片方の手には和傘を握っている。

 

 その和傘を彼女は気に留めたのだろう──恐らくは、僕の風貌を見回して気が付いたものかも知れないけれど──「それって和傘? 雨って降るっけ?」と訊いてきた。小さく頭を降ってから僕は答える。「天気予報を見てきたら、どうやら局所的に晴れるらしいんです。だから、日傘として。僕は、ほら、体質的に紫外線が駄目なので……」

 

「あー、そっか」。彼女はそれに頷くと、納得したように声を洩らしながら、後ろ歩きを止めて隣に並んでくる。

 

 

「そういえば先生(・・)、アルビノだってテレビか何かで言ってたよね? だから髪色も瞳の色も日本人離れして、ちょっと白っぽいし。いつもUVカットのクリームを塗ってるとか、晴れの日は日傘も差してるとか、聞いたことあるよ。その眼鏡のレンズも、確か紫外線遮光なんでしょ?」

 

 

「よく知ってますね」組んだ後ろ手に信玄袋を握り直しながら、丸眼鏡のレンズ越しに見た少女に感嘆する。装飾された制服を、さながら零れ桜のように靡かせつつ、彼女は愛嬌のある金眼を少し見開かせて、十センチほどの身長差がある僕を見上げていた。それは穏和な目付きだった。

 

 

「だって、『史上最年少の芥川賞作家! 大文豪・綺月彩雲の玄孫!』って去年から一気に日本中で有名になって、ずぅーっとニュースや特集番組とかで見かけるもん。そりゃあ覚えちゃうよ。……でも、先生(・・)は理子のこと知らないでしょ?少し遅れたけど自己紹介してあげるねっ」

 

 

「じゃあ、まずは……これ!」と言って、彼女は制服のポケットから、名札を取り出して見せてくれた。そこには確かに、峰理子と彫られている。それは今朝、ホームルームの際に確認できた、彼女に関する唯一の情報だった。

 

 

「峰理子って言います! 誕生日は三月三十一日で、十五歳になったの。あと、学科もランクも先生(・・)と同じ、探偵科のAなんだよ? 好きなものは、ゲームとアニメ鑑賞と、あと……うーん、イチゴ牛乳とかポッキーかな? 隣の席で同じ学科だから、仲良くしてねっ。はいたーっち!」

 

 

 ハイタッチを求めてきた彼女に合わせて、自分も手の平を向ける。それが上手く重なったのか、軽快な音が聞こえてきた。自分と彼女とは何がなしに笑みを零しながら、その余韻に浸っている。一瞬だけ触れた異性の手は温柔(おんじゅう)で、その温もりがまだ、手の平に残っているような気がした。

 

 それにしても偶然の一致と言おうか、何かしらの仕合わせと言おうか、僕と彼女とは履修する学科も同じらしい。しかし、峰理子という少女の概要を知りたい今の僕にとっては、そうした知らせはある種の僥倖(ぎょうこう)だった。彼女と接触する機会が増えるということは、それだけ判断材料になる。

 

 今朝から数えて一時間ほどの会話で、僕は何故だか既に、峰理子という少女の性格を理解したような気がしていた。けれども、それが全くの自信過剰に他ならないことは、自分がいちばん分かり切っている。それでも、そう思ってしまうほどには、彼女の口調や挙止動作は特徴的だった。

 

 

「じゃあ次は、先生(・・)が自己紹介する番!」

 

「……今更、僕が自己紹介する必要ってあります?」

 

「理子が聞きたいから話して! 拒否権は無しねっ」

 

 

 そう告げた彼女は、たいそう楽しそうな笑顔を浮かべている。(まなじり)が下がっているばかりでなく、口元も緩んでいて、どこか呑気な猫みたようだな──と思いながら話し始めた。『拒否権は無し』という要望には苦笑してしまう。こう自己紹介をするのは、新人賞の受賞式以来だろうか。

 

 

「えっと、作家の綺月彩佳です。十一月十二日生まれの十五歳で、探偵科にAランクで入科しました。趣味は文芸創作と読書、他には──おじいちゃんに習った将棋や囲碁でしょうか。好きなものは……やっぱり猫ですね。ふふっ」

 

 

 自然に洩れた笑みを手で隠しながら、僕は「宜しくお願いします」と軽くお辞儀する。彼女も「くふふっ」と小さく笑っていて、それから「よろしくね、先生(・・)っ」と相好(そうごう)を崩した。綻ばせた目元と、口元から覗いた八重歯が、この薄明るい花曇りのおかげで、よくよく見えている。

 

 通りを進んでいくと、この学園島と本土とを繋ぐ連絡橋が視認できた。というのも、話に聞いたところ、東京武偵校を中枢とする学園島は人工浮島らしく、南北二キロ・東西五〇〇メートルの広さで東京湾に浮かんでいるようである。

 

 本校舎や各学科棟は勿論、学生寮からコンビニ・ファミレスに至るまで存在しており、最低限の生活には困らないというのが、入学の数日前から寮生活を続けてきた感想だった。モノレールも通っており、交通の便にも文句はない。その付近はゲームセンターやDVDレンタル店などで賑わっており、一種の商店街みたような雰囲気を漂わせていた。書店が一つだけど存在したのも、個人的には喜ばしい。

 

 

「ところで、なんで僕を先生(・・)と呼ぶんですか?」

 

 

 連絡橋の背後に屹立する大東京のビル群を望みながら、目下の東京湾に視線を落とし落とし、独り言ちるようにして零す。思えば、彼女は何度か僕を『先生』と呼んでいた。メディアやファンにそう呼ばれるのなら、まだ慣れているけれど、この少女とは今朝に話したばかりの関係である。

 

 彼女は、その金眼を心持ち上目遣いにして僕を見ると、またしても可憐に目元を綻ばせた。それはやはり、既に今朝から見慣れている、彼女の得意な表情そのものだろう。

 

「えっとねぇ、小説家だから『先生』って呼んでるのと、あとは理子がそう呼びたいから! もしかして嫌だった?」

 

 

「別に、嫌ではないですよ。むしろ慣れています」

 

「おぉー、さっすがー! やっぱりプロは違うねっ」

 

 

 そう言って、彼女は隣で飛び跳ねながら手を叩いてくれた。「ありがとうございます」と、僕は照れ隠しに笑う。子供みたく橋の欄干に手を遊ばせながら、口元を隠して。

 

 

「じゃあ、先生も理子のこと、好きに呼んでいいよ?」

 

 

 隣から聞こえてくる声に、「そうですか」と返事する。それから少しだけ、彼女のことをどう呼ぼうか少考した。無難なのは苗字で呼ぶことだけれど、いざ提案してみると「堅苦しいから嫌かも」と即座に否定されてしまった。

 

「理子さんと呼ぶのはどうですか。苗字よりは堅苦しい印象も無くなると思いますよ」と伝えても、「そもそも、『さん』っていうのが他人行儀すぎるかなぁー」と言われてしまい、これも駄目らしい。他には何があるだろうか。

 

 

「理子ちゃん──は、ちょっと軽薄ですね」

 

「それ! 可愛いからそれにしよう!」

 

「……特に構わないなら、そう呼びます」

 

 

 無邪気な声ではしゃぐ彼女を、眼鏡のレンズ越しに覗きながら、流石に『ちゃん』を付けて呼ぶのは、初対面の相手にしても、軽薄すぎではないのか知らん──と思いつつ、相手がそれで良いのであれば、と考えを打ち切る。これは彼女特有の友好的な態度なのだろう、とだけ付け加えて。

 

 それでも、一時間きりの初対面な少女を理子ちゃんと呼ぶのは、流石に気が引けた。しかし提案したのは自分で、承諾したのは彼女──理子ちゃんであるのだから、どうしたものか。せめて心の内で理子と呼び捨てにするくらいなら、露呈(ろてい)する恐れもないし、自分の心理作用について勘案してみても、これなら大丈夫だろうか……と思い至る。

 

 そんなことを考えているうちには、既に学園島は自分たちの背後にあった。現在はコンテナ群の立ち並ぶ芝浦のあたりを横目にして、適当な談笑をしいしい、芝浦ふ頭駅に向かっているところになる。屹立するビルの影を踏みながら髪を靡かせて、その隙間に(ほの)かな潮の香りを充満させた。

 

 

「先生は、今みたいにお出掛けすることってあるの?」

 

「体質が体質ですから、幼少期から殆どしていません。最低限、通学や用事の時に限りますけれど……。これからは依頼も受けていきたいですから、より頻度が増えますか」

 

「じゃあ、理子と一緒にいっぱいお出掛けしよう!」

 

「えぇ。東京の地理には疎いですから、それも手ですね」

 

 

 高架下に沿って、やがては交差点を通り過ぎていく。縦横無尽に大東京を行き交う自動車の音を、聞くともなく聞きながら、左をビル群に右を首都高にと挟まれて、心持ち影になった、仄暗い閑散とした通りを歩いていく。すると果たして、芝浦ふ頭駅と逢着(ほうちゃく)した。往き来の人々も段々と増加してきて、喧噪(けんそう)の度合いもまた、それに比例していく。

 

 

「……なんか、見られてたね。たぶん先生の方かな」

 

 

 駅構内へと続く階段を上りながら、不意に理子は、声を潜めて僕に洩らした。先程から制服の襟元を整えていたのは、そうした視線に堪えかねて、なんとか気を紛らわそうとしていたからだろう。心持ち気恥しいのか──彼女にしては物珍しそうな、ぎこちない笑顔がまた、新鮮だった。

 

 

「髪色といい、和服姿といい、僕は良くも悪くも目立ちますからね……。あとは綺月彩佳という人間に対しての、知名度ですか。居心地が悪いなら、先に自分の切符だけ買って、ホームに行ってても構いませんよ。どうします?」

 

 

 そう話しているうちに、切符売り場と改札口が見えてきた。理子はそれを一瞥するものの、すぐに今までの奔放らしい態度に戻って、「ううん、むしろ先生の彼女候補なんだーって自慢しちゃおうかな──? なぁんて。くふふっ」と、今朝のように磊落(らいらく)な口調で笑いかけてくる。「あっ、もしかしたら、週刊誌のスクープにされちゃうかも?」

 

 

「……告白の返事、拒否で返したっていいんですよ」

 

「えぇー、そんなこと言わないでさぁ! もっとこう、何か感想とか無いの? 理子みたいな超絶かっわいい女の子が、先生に一目惚れでキスして、告白までしたんだよ!?」

 

「ちょっと、こんなところで騒がないでくださいっ」

 

 

 如何にも奇を(てら)ったような彼女の言葉に、ただでさえ自分たちに向けられていた注目が、一気呵成に襲いかかってくるのを自覚した。切符を買っていたらしい老夫婦、往き来のサラリーマン、一般校の学生──老若男女が一様に好奇の色を瞳に透徹(とうてつ)させて、凝然と見詰めてくる。

 

 とうとう決まりが悪くなった僕は、出来るだけ泰然(たいぜん)を気取りながら、往来に向けて「お騒がせ致しました」と叩頭(こうとう)するきりだった。あとは、一帯が何のためか喧噪し始めたのを嚆矢(こうし)にして、隣にいる理子に構う余裕もなく、一人で切符を買いに草履の裏を擦り減らす。自分でも思うに、その動作の早かったこと──文字通り、脱兎の如くに……。

 

 今の脈搏が一〇〇以上を打っているのは、恐らく歩調を早めているせいばかりではない。泰然を気取っていることが見え透いた演戯だとしても、綺月彩佳という人間の印象を打ち壊しにしないためには、そうするしかなかったのだ。張り詰められた気は、なかなか弛緩(しかん)してくれない。それだけに些か焦燥(しょうそう)させられながら、深呼吸を繰り返していた。

 

 

「先生、行くの早いってばぁ! ……はぁ。怒ってる?」

 

 

 彼女が僕に追い付いたのは、改札を抜けた駅のホームだった。乱れた気息を心持ち整えながら、膝に手を当てて上目遣いに自分を見上げてくる。心做しか語調は悄然(しょうぜん)としていて、どうやら僕が怒ったのだと勘違いしているらしい。鉄道の到来を告ぐアナウンスを聞き流しつつ、頭を振る。

 

 

「……怒ってはいないです。ただ、どうにも気恥しいのに耐えかねて、逃げてしまっただけで。理子ちゃんが僕に何を言っても構いませんけれど、外聞を(はばか)ることくらいはします。僕にだって、世間体はありますからね。だから、そういう話は、外では控えてほしいかな──と」

 

 

 理子はそれを聞くと、心持ち安堵したのだろうか、「えへへっ、それなら良かったぁ」と締まりのない笑みをしいしい、納得したように見える。──と、折り良く鉄道がやって来たので、二人して乗車の気持ちを整え始めた。唸るような風切り音と風圧とを感受しつつ、また静静と……。

 

 

「先生、乗ろうっ。レッツライド!」

 

「そんなに急がなくても……、うわっ」

 

 

 手を引かれて入った車内には、僕と彼女の他には数人しかいなかった。仕事の出張みたような中年男性、出掛けらしい老紳士と老婦人くらいで、若年者といえば自分たち二人のみだろうか。彼等を横目に、僕は適当な座席に腰を掛けた。荷物を整理しているうちに、理子も隣に並んでくる。

 

 

「よいしょ──っと。二人がけだから、丁度いいねっ」

 

 

 金髪を円弧に踊らせながら、彼女はスカートを押さえつつ座席に座った。その踊った髪の毛が、またしても甘ったるい少女の芳香を、僕の五〇センチ間近で振り撒いていく。何か、香水でも付けているのか知らん──と思いながら、友誼(ゆうぎ)的に笑いかけてくる理子へ、微笑を返してやった。

 

 そうこうしているうちに、鉄道は発車したらしい。頬杖を突きながら窓硝子の向こうを眺め遣ると、東京湾に浮かぶビル群や学園島が横凪ぎに見えてくる。「あのビルはねぇ──」とか教えてもらっているうちに、ふと理子が浮き立っているらしいことを、その語調や表情から感受できた。

 

 

「……それでね、理子ね、すっごく綺麗なカフェ見付けちゃったんだ! なんかこう、秘密の隠れ家みたいな感じ? もし良かったらさ、先生も理子と一緒に行こうよ!」

 

「へぇ、カフェですか。そういうところには滅多に行きませんから、たまには良いかも知れませんね。適当な時間が取れたら行ってみましょうか。何処にあるんですか?」

 

 

 そうした彼女の様子に影響されてしまったのだろう──僕も心做しか弾んだ調子になってきて、それからは今朝のことも依頼のことも頭の片隅に追いやったまま、目前の少女と、さも歳頃の高校生らしく談笑していたように思う。その意識の根幹に、抱いた結論の影を垣間見ながら──。

 

 

「……くふっ。なんか先生、楽しそうだね」

 

 

 不意に理子は、小動物みたような愛嬌の笑みを洩らした。目を細めて、そこから僅かに覗いた金眼を僕に向けている。こう言われたのは、自分自身の心境の変化を自覚してから、そんなに時間は経っていなかったように思うが、どうだろう。

 

「僕よりも理子ちゃんの方が、よほど楽しそうですよ」

 

「もちろん好きな人と話せたら、きっと楽しいもんねっ」

 

 

 無邪気な声色で彼女はそう返事した。相変わらず、何かしら僕に魅力を感じているらしい──なればこそ、理子は自分に告白と接吻をしてきたのだ。そうして僕は昼下がり、それを単なる少女の遊び事として結論したのだ。恋愛遊びをしてみたいだけの少女が、少し手順を間違えて、いきなり告白から入ってしまった──と、そう仮定して……。

 

 こうした理子の様子を見ていると、今朝のような嫣然な小悪魔の面影は微塵も見えなかった。むしろ、あれは夢であったのか知らんと本気に思えてしまうほどで、いま可憐な笑みを零している女子高生が、真個の峰理子でありはしまいか──そう考えると、何故だか嫌に腑に落ちてくる。

 

 

「……はぁ。そうですか」

 

 

 小さく溜息をしいしい、「ちょっと先生、乙女の恋心を(ないがし)ろにしちゃダメっ! ぷんぷんがおー、だぞっ!」などと演戯ぶって戯れてくる彼女から、ふいと窓硝子の向こうに顔を向けた。薄ぼんやりと反射して見える少女の姿は、僕のすぐ隣にある。変わらないのは今朝から続く雨催いの空だけで、あれはやはり──禍殃の権化なのかも知れない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

小悪魔ふぜい

 閑静な元麻布の高級住宅街に囲まれながら、僕と理子とは黙然とするほど真剣きって、徐に歩を進めていた。彼女が握っている携帯電話の画面には、この周辺の地図と自分たちの現在位置が描き出されている。便利な世の中になったものだね──と嘆息しいしい、手元に視線を落とした。

 

 指先で摘んだ用紙には、依頼の概要が記されている。依頼主の連絡先や住所に始まって、探し猫の品種と名前、性別や年齢まで幅が広く説明してあった。解決金は一人あたり一万五千円で、相場よりも少し多めだろうか──というのも、依頼主の邸宅はこの近所らしい。周辺の立地からどうやら富裕層らしいところを見ると、それも納得できる。

 

 

「ねぇ先生。猫探しって言ってもさ、具体的にどう探すの? 手当たり次第にとか、そういう古典的な方法?」

 

 

 理子は凝視している携帯電話の画面から顔を上げると、僕を上目に見ながら話し掛けてきた。その声色には、何かしら憂慮(ゆうりょ)めいたものが混じっているようにも聞こえる。路地を挟んで(そび)える塗り壁の白に、彼女が靡かせている金髪は映えていた。どれもこれも豪奢に飾った邸宅であった。

 

 

「そんな非効率的で面倒な方法を採るくらいなら、最初から受けていません。これには少しポイントがあって、そこを踏まえていけば、大抵は上手くいくことが多いです。……と言うのは、ほら。この写真を見てください」

 

 

 そう言って僕は、用紙の一部分を人差し指で指し示した。肩を寄せて覗き込んでくる理子に、それを手渡してやる。

 

 

「わーっ、可愛い! 何だっけ? ベンガル猫ってやつ?」

 

 

そこに写っているのは、凛々しくも愛嬌のある顔付きをしたベンガル猫だった。豹柄で茶褐色の毛色をしている。爛々とした瞳が見据えているのは、飼い主の顔だろうか。

 

 

「えぇ。好奇心旺盛で活発、更には人懐っこい性格です。こうした点も勘案すると、捜索の目安になりやすいかと」

 

「ってことは、遠くに行っちゃってるかもしれないの?」

 

 

 探し猫の身を案じるように、彼女は悄然と洩らした。その可能性は低い──と思いたい。こうした思考を裏付ける、ある傾向というものを僕は知っていたので、やや弱気ではあるものの頭を振った。「……恐らく、それは無いかと」

 

 

「この子も例外ではありませんが、殆ど外出をしない飼い猫は基本、半径一〇〇メートルほどが行動範囲と言われています。警戒していますからね。それが、一日ごとに倍になっていく。『ふと逃げ出してから一日しても戻ってきません』とある通り、まずは該範囲を捜索してみましょう」

 

 

「ただ、長引くと心配です。外に慣れてしまうと、警戒よりも好奇心が勝るでしょうから」。アスファルトの舗道に視線を落としながら、今後の手立てを計画する。ひとまずは依頼主の自宅から半径一〇〇メートルを捜索、同時に近隣の住民にも聞き込みを行おうか。広大な邸宅ばかりの高級住宅街だから、なかなか舗道は交差していないが……。

 

 

「よしっ、頑張ろうね! えいえいおーっ!」

 

 

 矢庭に考え込む僕の手を取ったのは、理子だった。そうして繋いだ両手を大きく掲げて、雨催いの向こうに朦朧として見える太陽に透かしている。すると一変して、細々とした憂慮なぞはどうでもよくなってきた。むしろ彼女の奔放で溌剌(はつらつ)とした態度に、自分自身が感化されてきたらしい。春光の温もりが、僕の心臓を(まと)っていくように思えた。

 

 

「……ふふっ。そうですね、頑張りましょう」

 

 

 それから数分ほど歩くと、曇天の下に依頼主の邸宅が見えてきた。和洋折衷の平屋で、なるほど手の込んだ建築がされている。四方を外壁に囲んである邸宅の周囲には、水音さやかに用水路が通っていて、ここからは見えないが川か何かに繋がっているらしい。ここで一旦、歩調を緩めた。

 

 

「外を警戒している猫って、物陰で大人しくしていることが多いんですよね。車の下とか、木の上とか、用水路の中とか、色々と。見てみると怪しい場所、あるでしょう?」

 

 

 そう言って僕は、適当なところを指で指し示す。理子もそれを目で追っていった。

 

「……確かに。気を付けてみる」

 

「うん。それじゃあ、さっそく行きましょうか」

 

「うっうー! らじゃー!」

 

 

 彼女は珍妙な返事をしいしい、両敬礼をするように手を額のあたりに当てる。

 

 ──不意に笑みが零れたのは、そうした少女の姿が、歳頃に相応な女子高生そのものだったからであろうか。どうやら昼下がりの刻から僕は、彼女の横溢していた嫣然と可憐との差異に、振り回されているように思えてならない。理子は一種の遊び心で僕に近付いてきたのだ、と説得しても、同時にそれを首肯(しゅこう)しきることが出来ないでいる。

 

 そうして、『何故、僕に関係を求めるのですか』という質問の一つも、また出来ないでいた。これはどうせ()いたところで有耶無耶に返事されるだけで、本質になぞは手が届かない──と諦観(ていかん)している感情の作用に他ならなかった。彼女は僕を好きだと表層的な好意を投げかけてくるだけで、関係以上のことは要求してこない。理子にとって重要なのは、僕か或いは僕との関係、そこでしかないのだ。結局して、内容は昼下がりの結論から何も変わっていない。

 

 

「先生、まずはあっちから探そうっ!」

 

「……そうですね」

 

 

 溌剌とした少女の声に頷くだけ頷きながら、軽快な足取りで駆けていく理子の後ろ姿を、黙然と見遣っている。気を急かす必要などない、まだ彼女とは始まったばかりだ──そんなことを思い思い、草履の裏を擦り減らしていった。

 

 

 

 

 

 

「──あっ、先生、あそこ!」

 

 

 理子が声を潜めて僕に耳打ちしてきたのは、捜索を開始してから二時間ほどが経過した、午後三時を回った時分のことだった。華奢な手が尚も変わらぬ曇天に照らされて、その指先はアスファルトの舗道を突き抜けている。小川に沿うフェンスの向こうに、彼女は何かを発見したらしい。

 

「野良猫の井戸端会議ですか」。そう返事しいしい、僕は眼鏡のレンズ越しに目を細める。ペンキ塗りのフェンスを超えたところには、整然と切り揃えられた雑草が生えていて、そこに寝転がる野良猫が二、三匹ほどはいるようだ。しかしその中に、何やら雰囲気の違うものが、一匹だけ見える。思わず、安堵の笑みが洩れてくるのを自覚した。

 

 

「ふふっ、作戦成功ですね。まさか本当だとは」

 

「野良猫ネットワーク、都市伝説じゃないんだね……。実際にこれ見たら、流石に信じるしかないんじゃない?」

 

「うーん、何かあるんでしょうね。独特の生活圏が」

 

 

 そんな一言二言を交わしながら、僕と理子とは慎重な足取りをして、井戸端会議中の野良猫たちに接近していく。この二時間で聞き込みはそれなりに行ったものの、どうにも上手い話というのは得られずに終わっていた。日暮れまでに発見できるのだろうかという疑惧も持ち上がりかけていたなかで、いよいよ最後の手段に取り掛かったのである。

 

 そうして試用してみたかった手法が、実はこの『野良猫ネットワーク』だった。都市伝説めいた話だから、まぁ気休めにもならない手段ではあるが、こうして事が円滑に進行していったのは、僥倖か或いは必然であるのか……。

 

『野良猫ネットワーク』というのは、いわば猫的社会圏なのだろうと僕は思っている。それも、猫は人語を理解するという大前提のもとに成り立つものだ。『猫の口コミ』がそれに近い話で、人間よろしく近隣同士の関係に裏打ちされた、情報網──あれは何処の新参だとか、これは一帯の首領だとか、と、そういったものを把握しているらしい。

 

 だから『こういう脱走した飼い猫がいるんだけど、もし見掛けたら一緒にここで待っててくれるかな』といった頼み事も、人間的に一見して珍妙ではあるが、聞いてくれるに違いない──そんな期待を、胸の何処かに抱いていたのである。そうしてそれが、まぁ首尾よく実現したわけだ。

 

 

「この辺りは閑静ですけど、雰囲気は温和ですね」

 

「ね、春っぽい感じ。ごろごろーってしたいかも」

 

 

 用水路を兼ねているらしい小川沿いには、白詰草の咲く芝生が広がっていた。春らしい麗らかな匂いの中に、湿気を含んだような草葉や土壌のそれと、せせらぐ流水と──そんなような芳香とも呼べぬ匂いが綯い交ぜになっている。そこを僕は歩いていって、めいめいに寝転がる猫たちに目元を綻ばされながら、胸臆に安堵を携えて屈み込んだ。

 

 

「ちゃんと一緒に待っていてくれたね。ありがとう」

 

 

 微睡んだような目付きをして、二匹の三毛猫は何も言わないまま、僕を惚けたように見上げている。それから片方が呑気な欠伸を洩らすと、やがて小さな声で鳴いた。お礼の意味も兼ねて指先で頭を撫でてやると、どうやら満足そうに目を細めている。こうして触れたのは久し振りだった。

 傍らの理子は「わーっ、ベンガルちゃん可愛いねぇ! テアちゃんだっけ? モフっていい!? いいよね!? ほら、わしゃわしゃーっ! ……えへへ」などと、一人ではしゃぎながら遊んでいる。こんな彼女の様子に動じないところを見ると、テアという名前のベンガル猫は人懐っこいらしい。

 

 

「君、そんな呑気な顔して撫でられてるけど、ご主人が心配しておられたよ。そろそろ帰ろうか。いいかい?」

 

「だってさ、テアちゃん。理子が抱っこしてあげるねっ。……んふふ、可愛いねぇー。フワフワしてるーっ!」

 

 

 理子はベンガル猫のテアを抱き上げると、その毛並みと肌触りに満足したのだろう──頬を擦り寄せて、喜悦の笑みを隠すことなく零していた。テアも大人しく抱かれていて、嫌がる素振りも見せやしない。むしろ落ち着いているようで、茶褐色の豹柄にある爛々とした瞳を向けている。

 

 それから二匹の三毛猫には「ありがとう。助かったよ」と挨拶をして、またしても微睡んだような目付きを向けられたまま──それでも、揺らした尻尾で返事をされたように思う──依頼主の邸宅へと戻っていった。長閑な自然の匂いも薄れて、人工的なアスファルトの舗装が鼻腔を突く。

 

 理子が振り撒く芳香にも、慣れ始めてきた時分だろうか。彼女が僕に肩を寄せて「先生も、テアちゃん撫でる?」と訊いてきた時に、それをふいと自覚した。「それじゃあ、撫でてみようかしら……ふふっ、可愛いですね」頭を指先で撫でてやると、やはり目を細めて、恍惚(こうこつ)としている。すると、理子はテアに目を落としながら悄然と洩らした。

 

 

「寮でペットが飼えないの、本当に残念だよねぇ……」

 

「……とは言っても、規則ですから。天才的能力がある猫でしたら、何かしら理由をつければ許可されそうですが」

 

「じゃあさ、今からでも天才猫ちゃんを探す旅に──」

 

「行くわけないでしょう。もう疲れましたよ、僕」

 

 

 久々の外出は、虚弱な自分の身体には堪えたらしい。何となく疲弊した感じがするのは、テアを探すのに神経を使ったせいばかりではないだろう。明日は筋肉痛だろうか、酷ければ倦怠感に襲われることになるかも知れない。しばらく外出は控えようか知らん……、などと憂慮しているうちに、「──ん、降りたいの? お家だもんね。おっけーっ」

 

 見ると、理子が抱いていたテアを地面に降ろしていた。匂いか何かで、ここが自分の家だと断定したのだろう──そのまま門の隙間を敏捷に潜っていくと、無垢材らしい立派な玄関扉を前にして、甘えに甘えたような声で一鳴きしたきり、大人しく座っている。僕と理子とは、それを遠目に静観していた。呼び鈴はもう、一度テアが鳴らしたろう。

 

 

「……あっ」

 

 

 そう零したのは、僕だったか理子であったか、そこまでは傾注していなかった。ただ、その一瞬間に二人で顔を見合わせて、意思の疎通を暗々裏に交わしていたらしい。重厚な玄関扉が開いたかと思うと、テアは狭い隙間をものともせずに、身を捩らせて入っていく。その尻尾が、薄暗く見える扉の向こうに融けたあたりで、小さな悲鳴を聞いた。

 

 

「あれ、テアちゃん! 何処に行ってたの……あらら、無視して行っちゃった」

 

 

 老婦人みたく柔らかな声が、段々と接近してくる。それから玄関扉が開き切ると、果たして白髪混じりの老婦人が、調理用らしい前掛け姿のままに見えた。軽く会釈(えしゃく)をされたので、僕はお辞儀をして返事する。そうして玄関先に案内されたところで、彼女は破顔した。

 

 

「お二人がテアちゃんを探してくださったの?」

 

「えぇ。猫探しの依頼を完遂しましたので、ご報告に」

 

「あぁ、東京武偵校の生徒さん! ちょっと待っててくださいな、今すぐにね、依頼金をお渡ししますのでね……」

 

 

 老婦人は即座に室内へと翻ると、十秒しないままに二枚の封筒を手にして戻ってきた。その足元にはテアも一緒で、さぞかし主人と仲が良いのだろうと類推させられる。ひとまず老婦人は僕と理子とに封筒を手渡してから、甘えて主人に擦り寄るテアを抱き上げつつ、簡単な説明をした。

 

 

「額面通りの依頼金を、お二人にそれぞれお渡しします。同封してある書類には、ちゃんと印鑑も押してありますからね。この依頼書を東京武偵校が受理してくだされば、依頼は完了になるんでしょ? ……ね、そうよね。本当に感謝申し上げます。優しいお二人のおかげで助かりました」

 

 

 そう言って老婦人は、やや白濁した瞳を喜悦に爛々とさせて、皺の畳まれた目元を綻ばせた。慇懃(いんぎん)に叩頭されるのを、僕は心持ち気恥ずかしく思いながらも、可愛がっている家族との再会を果たせたならば、喜びもひとしおだろう──などと一考しいしい、安堵に胸を撫で下ろしている。

 

 

「こちらこそ、怪我なく無事に発見できて良かったです。また何かご依頼があれば、東京武偵校へご連絡ください」

 

「テアちゃん、おばぁちゃんと仲良くしてね! また逃げたりしちゃダメだよ? せっかく可愛いんだからさっ!」

 

 

 僕の言葉に続けるようにして、理子はやや前屈みになると、テアと目線を合わせながら相好を崩した。華奢な膝に手を当てて、長い睫毛の煙る目蓋のあたりでは、どうやら眦が下がっているらしい。そんな少女の緩んだ口元からは、愛嬌のある八重歯が、ほんの一瞬間だけ覗いていた。

 

 ──僕がまたしても彼女に見蕩れていたというのは、あながち虚言でもない。しかしそれは、異性に対する感情の何ものでもなかった。恋情に焦がれる憧憬(しょうけい)でもありはしなかった。ただやはり、理子は嫣然な小悪魔でも何でもなくて、単なる女子高生の肩書きを持った少女にしか過ぎないのだろう──それだけを再考して、見蕩れていたのだ。

 

 やがて邸宅を後にしてからも、いよいよ僕は、こうした僕自身の論理を強く肯定しがちになってきた。無邪気に会話をしては、磊落な調子で目元を綻ばせる少女──そこに今朝の面影が融和しているとも見えなくて、せめて融和しているというのなら、理子はやはり、皮被りの少女だろう。

 

 ──告白の返事は、もう決まっていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八面玲瓏、茜雨に降らる

 雨催いの曇天から西陽が顔を覗かせたのは、午後四時も半ばに差し掛けた時分だった。東京湾に腰掛けた斜陽は、茜と紺青、紫金の階調を着色していって、その色彩から逃げるように、僕は手に握っていた和傘を差す。木骨とか和紙とか紋様とか、そういうものに透ける陽光が眩しかった。

 

 依頼を済ましてからは、特筆すべき問題もないまま──とはいえ、道中での自分に対する視線は相変わらず感じていたけれど──僕と理子とは、芝浦ふ頭駅から戻って学園島を往来している真っ只中である。ここで解散しようと話した男子学生寮は、目測しても、まだ幾らか先にあるだろうか。談笑の種はどうにも、彼女のおかげで尽きなかった。

 

 やがて歩いていくうちに、斜陽が武偵校の校舎に翳っていく。瑰麗(かいれい)な色彩も陰に呑まれて、二人を覆いかけていた温和な暖気も、いっぺんにアスファルトの舗道に霧散した。校舎の窓硝子に反照する茜から目を背けつつ、僕は傘を傾けて、その木骨の端に掛かって見える少女に問いかける。

 

 

「──理子ちゃんは、どうして僕に関係を求めるんですか? 告白されてから気になっていたんです。ずっと」

 

 

 一緒に隣を歩く彼女は、上目で僕を一瞥した。そのまま、ふいと真正面に視線を戻したかと思うと、今度は冷淡なアスファルトの舗道にそれを彷徨させている。言い淀んでいるかのような姿が、奔放で諧謔(かいぎゃく)的な理子の性格には不似合いだった。金眼に燦々と降り注ぐ茜に、目を細めている。

 

 

「……一目惚れ。っていうのは、理由にならない?」

 

 

 幾らか悄気(しょげ)たような語調で、上目にこちらを見遣る彼女の仕草が、少女的な小聡明(あざと)さを孕んでいる──そのことに、僕が気付かないはずがなかった。恐らく理子の本心がそこに無いのだとしても、こう何度も一途に言われてしまうと、自分自身でも何だかやるせない心持ちになってくる。あの春霞が、胸臆の(もや)に変貌してしまったのかしら──などと思っているうちに、咽喉からの声は少し掠れていた。

 

 

「……いえ。でも、普通はそうですよね。好きでもなければ、他人に告白なんてしませんし。変に考えすぎでした」

 

「でしょでしょ? 先生はキチンと、可愛い乙女の愛の告白を聞き取ってくださーい、なんちゃって。くふふっ」

 

「ふふっ。まぁ、そこは僕の裁量になりますけどね……」

 

 

 そう言って苦笑を零しつつ、僕は一枚、彼女に見えないように皮を被った。やはり返事は仮初の返事らしきもので、理子が自分に告白した理由の本質というものは、なかなか見えてきそうにない。だから僕は、努めて賢明になろうと皮を被ったのだ。莫迦を演戯しようと皮を被ったのだ。斜に構えて本質に迫るよりも、悠然と待つのが好手と見て。

 

 しかし理子は、やはり僕のことを本気で好いていないように思う。普通なら告白から入るべきものが、接吻を先にするのもおかしい。その後の余裕綽々とした態度も、考えてみれば不思議な話だ。交わした会話も彼女が誘導して主導権を握る形になっていたし、あの溌剌とした語調には羞恥心の欠片も見られなかった。計画していた意図的な行動だろうと類推しているのだが、果たしてどうなのだろうか。

 

 

「ところで、僕のどこが魅力的だったんですか? 告白した以上、それくらいは教えてくれてもいいでしょう」

 

「えっ? えっと……ちょっと待ってね。あっ、そうだ! 三つ! 三つ理由があるの。まず一つ目はね──」

 

 

 一瞬だけ唖然としたような理子の語調と面持ちに、僕は何かしら物珍しさを感じた。それは彼女が駅で見せた、ぎこちない笑顔を感受した時と同じであるように思う。どこか素めいた態度が、僕にそう思わせたのだろうか。いつもらしい調子に戻ってからは、動揺したように視線を彷徨させたりしているものの、最終的には華奢な三つ指を掲げた。

 

 

「理子ね、テレビで初めて見た時に、凄く綺麗な顔の子だなぁって思ったんだ。後は、穏やかで優しそうに話してるから、一緒に話せたら、何だか良さそうだなって……。それに、学科も一緒でしょ? だから親近感っていうか……」

 

 

 気恥ずかしそうに笑う理子の態度を見て、これは彼女の衷心から湧き出た、最高純度の告白だと僕は思った。裡面に何かを秘めていそうな今までの態度とは反転した、真に迫った傑作が胸を突いてくる。理子が僕を異性として好きかはともかく、告白の本質の一端はこれだ──と直覚した。照れ隠しの笑みを零しながら、僕は無言で頭を下げる。

 

 

「一目惚れってそういうものですよね。容姿とか性格とか、そういうものに惹かれて、それが恋情になるから。好きだという感情の根幹には、何かしら魅力がありますし」

 

 

 彼女にとって何かしら魅力があったから、彼女は僕に関係を求めたのだ──少なからず、交際した上で得られる魅力というものが。それは名声のある者と恋仲になって、自分自身の存在意義に付加価値を与えたい──的な自己顕示欲ではないかと一時は思ったものの、その類推は違った。

 

 芝浦ふ頭駅に到着した昼下がり、理子が気恥ずかしそうに『見られてたね』と、ぎこちなく言ったのが、それを暗に物語っている。仮にも自己顕示欲があるなら、僕と一緒にいることを得意に思えるはずだ。それが得意にも思わず、まして気恥ずかしそうにしているのは、話にもならない。

 

 歩いているうちに建物の合間から射した陽線は、幾筋もの集塊となって、虚空を茜の一直線に染めていった。それが彼女の面持ちを明瞭に映し出していて、一時は校舎に翳っていた斜陽も、その裸体を覗かせて茜を横溢している。瑰麗な空模様には、雁群が微細な胡麻みたく飛んでいた。

 

 

「でも、一目惚れした相手が同じ学校の生徒だったなんて、ロマンス漫画かライトノベルにありそうでしょう。そういう話は大体、主人公が目的を持っていて、その目的を果たすためにヒロインに接近していく……とか、ね」

 

 

 そう問いかけると、理子は眦を下げて静かに微笑した。それは肯定も否定もない、どっちつかずの日和見(ひよりみ)を示唆した左見右見(とみこうみ)な態度にも思える。そうして、彼女が今朝に敢行した奇怪事というのは、どうやら刹那に思い付いた類推が裡面にあるかも知れないと僕は直覚した。

 

 少なからず理子には、何か達成したい目的があるのだろう。それには僕のような人間が必要で、こうした相手と手早く関係を結ぶには、恋情を煽る方が話は早く、その効果は思春期の男子高校生が相手なら見込める──と読んだのかも知れない。しかしそれは、初対面の僕に提案して協力させるほど、簡単に言い出せるものではないらしかった。

 

 ──理子ちゃんの物語は、どうなるんでしょう。

 

 それから二人は、自動車の駆動音とか、何処からともなく聞こえる喧噪とか、雁や烏の鳴き声とか──そんな噪音交響楽を耳にしいしい、特に会話をするでもなく、悠然と東京湾に腰掛けている斜陽を望んだり、お互いにお互いを一瞥したりしていた。傘を傾けて理子の姿を見ようとすると、もう何度も視線が合っている。それは今もであった。

 

 その度に可愛らしく微笑みを浮かべる彼女の姿が、もう小悪魔なぞではなくて、ほとんど眇たる可憐な一少女として僕自身の胸臆に首肯されてきた。組んだ華奢な後ろ手と、小首を傾げながら零す愛嬌のある笑み、そうして靡く髪の毛、斜陽が燦々と反照している瞳の色──まるで黄昏時の一場面を描いた絵画のような構図で、少女はそこにいる。

 

 聳える木立には青々とした葉が幾枚も幾枚も重なって見えて、その名前も分からないような木の幹から枝から葉から何からに至るまで、芽吹くような春らしさが横溢しているように、僕には思えた。殊にそれが緩く春風に靡いて、或いは煌々と落陽に照らされて、僕の目を射す時には──。

 

 

「いぇい、男子寮とーちゃく! お話してたら一瞬だねっ」

 

 

 可憐な声には春を秘めて、華奢な短躯からは芽吹きを横溢させて、理子は靡く葉のような足取りで僕の前に立ち止まった。それから弧線を描くように向き直ると、こうした軌道を追って、幾筋もの髪の毛が彼女の周囲を円舞していく。そんな理子に一拍だけ遅れて、僕もまた歩みを止めた。建物越しに見えるのは、あの瑰麗な空模様である。

 

 

「楽しいことってね、特別に早く過ぎちゃうんだってさ。──先生はどう? 理子と一緒に居れて楽しかった?」

 

「……はい、とても。家族以外と外出するのは久々で」

 

「えへへ、それなら良かったぁー。なんか嬉しいなっ」

 

 

 そう言って、彼女は無邪気な笑みを零した。僕にしろ理子にしろ、会話の内容なんて、他愛のないものはきっと忘れてしまっているだろう。それでも普通の高校生らしい会話をしたはずだと、お互いにそう思っている。彼女のお気に入りになったカフェは、いつに行こうかしら──なんて。そんなことを思い返して、僕は人知れず含み笑いをした。

 

 

「あと、今日は依頼を手伝ってくれてありがとうございました。理子ちゃんが一緒だったから、捜索も聞き込みも分担して負担が少なく出来ましたしね。感謝してます」

 

「えー、別に褒められるようなことしてないよ? ただ猫ちゃんがモフれればいいなぁー、って思ってただけ! ちゃーんとモフれたし、色々と楽しかったし、満足だけどねっ」

 

 

 楽しそうに頬を緩める理子に頷きながら、僕は帯に忍ばせていた懐中時計を取り出す。銀の鎖に繋がれている本体は和光謹製で、文字盤を取り囲むように、蔦らしい紋様が刻まれてあった。懐中時計らしくアンティーク調の雰囲気を醸成しながら、秒針は一秒ごとに時間を削り取っていく。文字盤を見てみると、だいたい五時付近を指していた。

 

 

「……あっ、もう五時だ。理子ちゃんは夕食の準備とか、大丈夫なんですか? 僕はこれから済ます予定ですけれど」

 

「今日はコンビニで買うつもり! 先生は自分で作るの?」

 

「取り敢えずは。面倒な日はお惣菜とか買いますけど」

 

「へぇー……じゃあ、理子があんまり邪魔して長引かせても悪いし、キリもいいし、今日はそろそろ解散にする?」

 

「そうですね、時間も時間ですから。早いうちに」

 

 

 僕は懐中時計を帯に仕舞い込んで、そう返事しいしい頷いた。彼女も小さく頷き返すと、組んでいた両手を解く。

 

 

「じゃあ先生、今日はお疲れー! バイバイっ!」

 

「うん、お疲れ様でした。さようなら」

 

 

 綻ぶ顔を隠そうともしないまま、理子は朗らかに手を振った。控えめに振る僕とは真反対で、それが一層、彼女の性格──少女らしさを全面的に押し出して首肯している。

 

 理子はそのまま、軽やかに身を翻して歩き出した。心持ち茜色に染まった髪の毛や、フリルで装飾された制服を春風に靡かせながら、どこか浮き足立ったような足取りをして、一歩二歩と歩を進めていく。何を考えるともなくその背姿を見送っているうちに僕は、僕自身の心境に突如として現れた──同時に今までとは一変した思想を発見した。

 

 それは理子に対する思いの吐露、彼女の言葉として換言するならば、告白の返事というものを、今ここでしてみたくなったのだ。その期日は明日だと理子は言ったけれども、そうして僕も、その言葉の通りに従おうと思っていたのだけれども──例えば寝床の狭苦しい暗闇の中で懊悩(おうのう)するよりも、今ここで分かりやすい単純明快な返答に、実に淡泊な感情で素直に乗付けたい気持ちになったからであった。

 

 

「──ねぇ、理子ちゃん」

 

 

 あの華奢な膝が七歩目を踏もうと持ち上がりかけたところで、僕はいよいよ彼女の背姿を呼び止めた。ふいと立ち止まった理子は首だけを回して半身で振り返ったかと思うと、いきおい片足を更に引いて、真正面に向き直る──そんな彼女の一挙手一投足に、僕は端無くも息を呑んだ。

 

 斜陽から燦々と降り零れる茜の雨に、理子は黙然として降られていて、西洋人形みたいな髪色も制服の装飾も、今ではもう全て的皪(てきれき)としたような、そんな瑰麗の一面を秘めている。そこに逆光して翳る彼女の面持ちは、爛々とした双眸のたったそれぎりでしか、色を現してはいなかった。僕を凝然と見詰めてくる金眼に、魅入るばかりであった。

 

 

「……えっと。やっぱり、話したいことがあります。少しだけ早いですけど、告白の返事、させてくれますか?」

 

 

 胸臆は凪いだ水面のように平穏としていて、しかし切り出した言葉は、継ぎ接ぎの雑音に塗れた録音機のような不出来さだった。それでも僕は構わず、丸眼鏡のレンズ越しにがんこうけいけいと視線を透徹させる。やがて無言で頷いた理子は、そのまま元の通りに歩み寄ってきて、それから、やや華奢な身躯を強ばらせて、いよいよ(ほぞ)を固めたらしい。

 

 

「……たった半日でも理子ちゃんと一緒にいて、少なからず性格とか趣味嗜好とか、見聞きするうちに何となく分かった気がしました。愛嬌もあって、快活な態度で接してくれるから、話してて楽しいし、飽きが無いのも事実です」

 

 

 でも、と僕は続ける。視線を理子から逸らしてしまったのは、彼女の背後に悠然と佇む斜陽が眩しかったから──たったそれきりの詰まらない言い訳を、口の中に転がした。

 

 

「でも、まだ少し早いんじゃないのかな──って感じました。僕は理子ちゃんを殆ど知りませんし、理子ちゃんが僕をどれだけ知っているかは分かりませんけど、どちらにしろそれは、色々と報道されているものの、上辺だけの評価だと思います。僕の素なんて当然、知らないでしょう?」

 

 

 そう問いかけると、逆光に翳る少女の影法師が、やや頷いたように僕には見える。すると彼女は矢庭に声を上げた。

 

 

「……けど、そういうのは付き合ってからでも知れるじゃん。理子は先生のことがもっと分かるし、先生も理子のことがもっと分かるようになるよ。それじゃ駄目なの?」

 

 こうした彼女の声を聞いていると、それは悄然のうちに恋々とした情を内包しているような語調だった。いや、どちらかというと、後者の方が多分を占めているらしい。それは小さく握られた手の様子からも、如実に現れていた。しかし僕は、そういうものに一顧も与えず委曲を尽くす。

 

 

「たとい最初は良かったとしても、後々いつかは相手の欠点が見えてしまうものです。その時に僕は幻滅したくないし、何より幻滅されたくない。相手の美点も欠点も受け入れるのって、急に踏み込んでいく限りは難しいでしょう」

 

 

 選り好みの二極端な僕にとって、例えばこうした告白の返事というものは、我ながら穏便が過ぎるほどの配慮だった。何につけても歯に衣着せぬ物言いで、行雲流水たる綺月彩佳という人間の思想は、その意思だけを羅針盤として行動に反映されていく──だからこそ曖昧模糊(あいまいもこ)な言い回しに、二極端の間の扞格(かんかく)を覚えずにはいられなかった。

 

 こうした物珍しい一種の例外に感心するとともに、これこそが現時点での自らの尊ぶべき、そうして行動に反映すべき意思なのだと首肯する僕自身が、同時に存在している。告白の裡面に秘された何か──峰理子という可憐で摩訶不思議な少女──これらが影響したのには間違いない話だ。

 

 そう自覚するや否や、僕はようやく彼女から逸らしていた視線を、いきおい元のように戻せたのである。口の中に転がしていた『理子に対する後ろめたさ』という言い訳は、既に僕自身には釐毫(りごう)の差し響きを与えることはない。とにかく眩い斜陽に目を細めてみると、やはり逆光のせいで、理子の面持ちを窺い見ることは難しいようであった。

 

 

「……そっか。先生がそう言うなら、理子も諦める」

 

 

 頬を撫で、髪の合間を吹き抜けていく春風が、物悲しそうな音色を帯びた彼女の声を耳元にまで運んでくる。けれど僕には、そうした理子の心境に同情するだとか、例えば先程のように後ろめたさを新たにするだとか、そういう世人の持つ低俗(・・)な精神は持ち合わせていなかった。

 

 

「やっぱり、ちょっと変だったかな。いきなりキスしちゃったりとか、その……怒ってる、よね。もしかしたら、理子がしつこく話しかけてくるのが本当は嫌だったとか……。そういうのだったら、ちゃんと謝る。ごめんね」

 

 

 斜陽に的皪とした少女の影像は心持ち項垂れて、悄然としたような語調がまたもや春風に乗せられてきた。理子の問いを反芻して答えるならば、僕はその接吻とやらには怒っていない。──けれど、茫然としてはいたらしかった。しかし、他の点も自分にとっては些細な問題でしかなく、告白の是非を判断する材料にさえなりはしなかったのだ。そうした心情を滲ませながら、僕は小さく首を横に振る。

 

 

「それより、何か勘違いしてませんか」

 

「えっ? 勘違い、って……」

 

 

 呆気に取られたらしく頓狂な声を出して、理子はやや瞠目したように見えた。僕は一つ頷くと、先を続ける。

 

「恋愛関係になるのは『まだ早い』とは言いましたけど、『お付き合いをしない』とは、一言も言ってませんよ」

 

「だから──」。そう零した声が端無くも詰まってしまったのは、返す返すも僕自身の失態だった。努めて泰然を気取っていようと理解していても、脈搏は何故だか加速度を増していく。それは、告げようとした言葉がある意味をして、自分から彼女への告白に該当するからであろうか。

 

 しかしその告白というものは──恐らく理子が僕に向けたものと全くの同一であるように──異性に対する感情の何ものでもなかった。恋情に焦がれる憧憬でもありはしなかった。あくまでも極めて、友誼(ゆうぎ)的な枠として収まっていたのだ。その事実を反芻しいしい、臍を固めて口を開く。

 

 

「──だから、っていうのも、変かもしれませんけど……。改めて、僕の友達になってくれますか?」

 

 

 口元から洩れた言葉は、春風に乗せられて彼女のもとまで漂流していく。あの細やかな指先から舞い上がって、肌理細(きめこま)かな頬を撫でて、茜に紅潮したらしい耳の、その鼓膜の奥へ奥へと押し遣っていった。こうした刹那に紫雲へと翳った斜陽の薄明かりで、僕はようやく、理子の面持ちを的皪とした逆光に邪魔されることなく直視できたのである。

 

 たなびく紫雲の絶え間から燦々と振り零れるのは、紫金と茜の綯い交ぜになった陽線であった。それらが眇たる少女の実体と影法師とを一挙に照らして、釐毫の穢れすらも見当たらない、清浄無垢な肢体を黄昏に描き出している。或いは八面玲瓏(はちめんれいろう)たる瞳にも燦然と反照し、かつ彼女の眉目良(みめよ)い容貌の仔細までを、それと如実に証明しきっていた。

 

 そうした理子の面持ちを観察するともなく観察していた数瞬のうちに、ほどなく僕は彼女の耳朶(じぼ)がやけに紅潮しているのを──初めは斜陽のせいかと思ったけれど、どうやらそうではないらしい。瞠目して覗いている瞳は僅かばかりの感涙にさえ潤んでいるらしく、やがて射しかかった陽光に目を細めると、眦を伝って紅涙が滴下していった。

 

 それを無邪気らしく拭った理子の目元が、気恥ずかしさに耐えかねて綻んでいるのも、僕は知っている。つい先刻まで悄然としていたはずの彼女の面持ちは、誰の目にも分かりすぎる以上に晴れがましくて、更には雲間から射した陽線にあてられつつ、眦も口元からも零れ落ちてしまいそうなほどに可憐な、とびきり屈託のない笑顔をしていた。あとは息を呑んだままに、大仰に一度、頷いたきりだった。

 

 

「……ふふっ。ありがとうございます」

 

「ううん、こちらこそ。ありがとね、先生っ」

 

 

 お互いに顔を見合わせつつ、またも僕と理子とは笑みを零す。僕のそれは羞恥心から来たものでも弛緩した調子から来たものでもなくて、ただ純朴な喜悦と安堵が形を伴って洩れ出たのだろう。友人と呼べるようなクラスメイトが皆無だった自分にとって、峰理子という奔放で摩訶不思議な新友人の存在は、素直に喜べるものとして首肯できた。

 

 同時に僕は、そうした僕自身の直情的な要求を改めて自分自身に頷くとともに、それとはまた別の、やや狡猾な意図を多分に秘めたもう一つの心情というものを自覚する。というのは、『努めて賢明になろうと』或いは『莫迦を演戯しようと』皮を被る──これこそに他ならなかった。『斜に構えて本質に迫るよりも、悠然と待つのが好手と見て』、僕は先程の告白というものを決断してもいたのだ。

 

 理子が綺月彩佳という人間に何かしら惹かれて、そうして接近してきたことは既に明々白々である。だから僕は賢明かつ莫迦を演戯することで、いつか彼女がその目的の一端でも吐露するであろう時までを、悠然と観察しいしい、同時に、クラスメイトや友人としても関係を続けるのだ──そんな明暗二通りの心持ちを、笑みの裡面に潜めている。

 

 ──といった僕の腹心などは微塵も類推していなさそうな態度で、理子は綻ぶ口元を隠そうともしないままにいた。

 

 

「友達……友達……。……えへへ」

 

 

 そう小さく洩らしながら、彼女は両の手を胸元で握り締めている。下がった眦も、綻ぶ口元も、喜悦に紅潮した頬も、そんな屈託のない笑みをするから僕は──狡猾な心情を抜きにしても、彼女のことを友達にしたいと、そう思ったのかも知れない。

 

 

「じゃあ、理子と先生、今から友達だね」

 

 

 そう告げる少女からは、あの甘ったるい香りがしていた。




ここまでお読みいただきありがとうございました。作者の雨宮彩織です……!

作品冒頭の報告でも告げたとおり、改稿部分のストックはここまでとなります。いかがだったでしょうか? 少しでも面白いとか可愛いとか思ってくれたら、ぜひお気に入り登録、評価、感想などくれますと嬉しいです! たいへん励みになります……!

少しでもファンの皆さんと触れ合える機会があったらいいなと思っています。
それではまた。お待たせしてしまいますが、ご了承ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

──旧版──
錦心繍口


本話は新聞記事を利用した書簡体形式となっております。そうした上で、『人間らしく、人間らしい』──その物語の冒頭を、どうぞお楽しみくださいませ。


文學界新人賞 最年少記録更新

京都府在住の中学生 文学史に名を刻むか

 

京都府在住の中学二年生、葉月葵さんが今期の文學界新人賞を受賞した。十五歳での受賞は史上最年少となり、前記録保持者の指原一二三氏の十八歳を三年も上回る快挙となった。文學界新人賞は石原慎太郎氏など多くの大作家を生み出した文芸誌で、芥川賞受賞への近道とも言われている。また、文章としての芸術性を重んじる純文学というジャンルに特化した新人賞のうちの一つである。新潮新人賞・群像新人文学賞・すばる文学賞・文藝賞と合わせて、五大文学新人賞と呼ばれている。

葉月葵さん著の『夢想夏郷』は、田舎の夏を舞台にした物語だ。自らの理想とする夏を追い求める文学少年が、田舎の地で夏の断片を探していく。けれども彼が本当に見つけたい夏は、なかなか見つからず──。「自分の思う夏の美しさを最大限に追究しました」と後書きで葉月葵さんは語った。

 

葉月葵さんについて今後の展開で注目されるのは、史上最年少記録を更新した実力もさることながら、それ故に、芥川賞の受賞候補に名が上がるかという点だろう。容易ならぬ道だが吉報を期待したい。

(五月一日 日本文藝新聞社)

 

 

 

芥川賞受賞候補 葉月葵さんも

史上最年少記録更新の壁 次なる大快挙

 

先日、文學界新人賞を史上最年少で受賞した中学生作家・葉月葵さんが、芥川賞の受賞候補のうちに入っていることが判明した。他には新潮新人賞を受賞した土井清治氏や、すばる文学賞の森山明日香氏など葉月葵さんに勝るとも劣らない若手実力者や、杉丸太夫氏や清見漢三氏などを始めとした大ベテランに至るまで、錚々(そうそう)たる面々が並べられている。いずれも葉月葵さんにとっては強敵だ。

(六月二十九日 日本文藝新聞社)

 

 

 

葉月葵さん 史上最年少芥川賞受賞

諸君、脱帽せよ これが天才だ

史上最年少の芥川賞受賞 現実に

 

文學界新人賞を史上最年少で受賞した葉月葵さんの『夢想夏郷』が、次いで芥川賞をも史上最年少で受賞した。文学史上に類を見ない大快挙、平成文学界の神童の誕生を目の当たりにしている。芥川賞に於けるこれまでの最年少記録保持者は綺月明暒氏の十九歳で、十五歳の葉月葵さんは大幅に四年もの差をつけた。神童による数百年に一度の大快挙は、文学界を大いに沸かせることとなった。翌日に予定している受賞会見で、神童は何を語るだろうか。

(七月十四日 日本文藝新聞社)

 

 

 

史上最年少芥川賞作家の葉月葵さん 突如の執筆休止を受賞会見で宣言

告白された神童の正体 露わに

 

「当方・葉月葵は、この名誉ある芥川賞を受賞させていただきましたことを切っ掛けに、皆々様がご期待なさっていたであろう、今後に於ける執筆活動の休止を、この場をお借りして宣言申し上げます」

昨日、史上最年少で芥川賞を受賞した葉月葵さんが、受賞会見にて、今後に於ける執筆活動の休止を宣言した。その理由は詳しく語られていない。その代わりと言うように、列島を震撼させるほどの衝撃的な事実が、握られたマイク越しに語られた。

 

「今から皆々様に申し上げるお話は、前々から決心していたことで、受賞をしたらその機会に、落選をしたらそのまま黙り通そうと考えておりました。実のことを申し上げますと、ペンネームとしても使用していた自分の本名は、葉月葵ではございません。まったくの偽名です。まずはこの事実をお伝え申し上げたいと同時に、深くお詫び申し上げる所存でございます。当方の本名は、綺月彩佳(きげつさいか)と申します」

 

綺月という苗字を知らない人は居ないだろう。必ず一度は教科書などで耳にしているはずだ──夏目漱石や森鴎外と同時期に活躍した明治の大文豪であり、彼等とともに近代日本文学の礎を築いた、綺月彩雲という人物を。葉月葵あらため綺月彩佳さんは、淡々とした口調で次のように言葉を続けた。

 

「恐らく皆々様ご推察の通りかと存じますが、自分は綺月彩雲の玄孫(やしゃご)、綺月明暒(めいせい)の孫でございます」

 

綺月彩雲は前述の通り、近代日本文学史に於いて非常に高名な人物だ。幼少期から漢学の教養に優れ、四書五経に親しんでいたといわれる。そうした経緯から漢詩や漢文調小説など数多くの作品を残しており、後世に大きな影響を与えた。処女作である『彩雲』をはじめ、『山麓』など在るがままを尊重する自然主義を追究してきたが、晩年はエゴイズムに代表される人間の本質を追究するようになる。『硝子窓に翳る』『胸臆』『鏡鑑の前に立つ』など。

 

綺月明暒氏は現役の芥川賞作家だ。病床で書き上げた『黎明』は当時十九歳の史上最年少受賞を果たし、ベストセラーとなっている。生と死・エゴイズムといった観念に美麗さを見出した明暒氏は、それを鮮鋭に表現した。「誰にも看取られず祝福されず、生まれ死にゆく美しさ」という書き出しは、非常によく知られている。近年は推理小説の『京都左京のホームズ』、将棋を題材にした『八十一の大海』など、純文学に限らず幅広い創作活動を続けている。

 

「自分がこうした文芸創作を始めたことには、高祖父や祖父への憧憬というものが裡面にありました。そうして、挑戦してみたくなったのです。今の自分が何処まで通用するのか──そのためには、綺月家の人間だということを隠し通し、祖父や父による宣伝広告を禁止するしかありませんでした。ですから偽名を用いまして、二人には固く釘を刺しました」

 

そう語る彩佳さんの顔には、無事に計画が済んだことに対する安堵と充足感が、ありありと見て取れた。そうして、正体を秘しておかなければならなかった理由を聞いて、綺月彩佳という芸術家の本気を目の当たりにさせられた。無いとは思いたいが、仮に大文豪の系譜である綺月家の人間が受賞の候補に残ったところで、選考委員の無意識的な忖度の可能性も大いに見受けられた。それを嫌ったのだろう。

 

「そうして有難いことに、文學界新人賞と芥川賞という名誉を、自分のような若輩者が、僭越ながら戴くことができました。かねてより設定していました一つの目標を、ここで達成できたことから、この区切りの良い今日只今、一度ここで筆を置いてみよう──と、そう思った次第です。来るべき先を見据えての断案となります。当方の独善をお許しください」

 

慇懃にお辞儀をしてから、彩佳さんは受賞会見の場を後にした。『来るべき先』とは何だろうか。現在十五歳の中学三年生という立場を鑑みると、ちょうど来年に高校受験が迫っている。そうした準備のために、執筆活動の休止を宣言したのだろうか。

(七月十五日 日本文藝新聞社)

 

 

 

綺月彩佳さん 初の顔出し テレビ出演

神童の見た、来るべき先とは

 

対談形式の番組『トークトーク』にゲストとして招かれた彩佳さんは、今回がテレビ初出演となった。薄灰色の男着物に濃紺の羽織り姿でスタジオに現れると、「本日はどうぞ宜しくお願い致します」と緊張気味に笑いながら頭を下げた。乳白色の髪と藍白の瞳、真っ白な雪肌が特徴的で、アンティーク調の丸眼鏡が着物姿によく似合っている。最初の話題は、そんな彩佳さんの特異な風貌から始まった。

 

「先天性色素欠乏症──通称ではアルビノと呼ばれる病気ですが、自分はまさにそのアルビノです。生まれつき色素が少ないので、髪の色も瞳の色も、こういう具合に薄くなるんです。紫外線に弱い体質ですから、外出の際には日傘などで対策をしないと、そこそこ大変なことになってしまうんですよね」

 

二万人に一人の割合で生まれるとされるアルビノは、メラニン色素を作り出す遺伝子が異常をきたす奇病だ。彩佳さんの説明の通り、アルビノは生まれつきの色素が少ない。そのため白色に近い白銀や白金の髪をして生まれることが多く、瞳の色については、奥の毛細血管が透けて赤く見えることもある。

 

「ところで、その眼鏡はアクセサリーなんですか? 何だか話を聞いてると、そういう風に見えなくなってきちゃったけど」という問いに、彩佳さんは「うーん、まぁ、身体の一部ですかね」と快活に笑った。「アルビノの人って大抵が視力が低くて、目も紫外線に弱いですから、眼鏡で対策しなければいけないんですよ。自分は軽度の近視なので、その矯正と、紫外線カットのレンズを入れています」

 

「自分の外見は気にしてるの?」という問いに対しては、彩佳さんは淡々とした口調で、同時に中学生らしからぬ前向きな人生観を教えてくれた。次のような言葉は、自分自身について悩む人々の、空へ空へと伸びるための頼もしい支えとなってくれるだろう。

「自分がこの風貌をしていることに、特に自分自身は、何らの感情も抱いておりません。これを病気だと悲観的になるよりも、むしろ個性だと楽観視した方が、この先を生きるのに楽だと思うんです。人間はひとたび悲観してしまうと、歯止めが効かなくなって、とことん悲観してしまう一面もありますので、何事に対しても楽観的に捉えるのが宜しいかと」

 

しばらくして話題は、彩佳さんの進路の話に移っていった。受賞会見の際に告げた『来るべき先』とは何なのか? その断片を聞き出そうと躍起になる。

「実は既に、自分の進路の方針については決定してあります。それはまた時期が来たら、会見で説明を申し上げようと思います。かなり注目してくださっているな──ということは、重々承知しておりますが」

穏和な雰囲気を醸し出しながら、毅然とした口調で、彩佳さんは現時点での結論を伝えてくれた。執筆活動の休止を宣言したことを考えても、卒業後にすぐ再開するとは思えにくい。どうやら進学をする方針のようだ。彩佳さんの学力に関して中学校へと取材をしたところ、彩佳さんは科目ごとに学習の優先度を決めていて、自分でレベルを調整しているらしい。国語は既に大学生相応とあることから、海外の大学に飛び級で留学する可能性も現れてきた。

 

天才の文学少年は、その先にどんな可能性を見ているのだろうか。往々にして自分の進路を軽率に語らないその姿勢を、今はただ見届けていることしかできない。会見は、来年の三月には開かれるようだ。

(十一月三十日 日本文藝新聞社)

 

 

 

綺月彩佳さん 待望の会見を明日に

満を持して語られる 神童の先

 

昨年の十一月末、テレビ初出演となる番組で語られた、彩佳さんの進路について──。往々にして寡黙だったその現実が、ついに目前に控えている。彩佳さんの故郷、京都府の京都市左京区にあるコンサートホールが会見の会場だ。大手民放各局、地方に至るまでの新聞社が一同に集結するのを見越してか、席数に余裕のある会場が選ばれていた。果たして、何が語られるのか。日本文藝新聞社は模様を生中継する。

(三月十九日 日本文藝新聞社)




皆様、お初にお目にかかります。綺月銀華(あやつきしろは)と申します。緋弾のアリアの二次創作『人間らしく、人間らしい』を投稿させていただくこととなりました。今後とも、本作含めどうぞ宜しくお願い申し上げます。

次回は彩佳の開いた会見から始まります。本話は新聞記事の形をとった書簡体形式ですので、少々つまらなかったでしょうか。次話は三人称視点での描写となります。本編に入りますと、彩佳による一人称視点でのお話となります。

本編に至るまでは、今しばらくお待ちくださいませ。次話の次が本編となります。どうぞお楽しみに! お気に入りや評価、感想などお待ちしております。それでは、また次回でお会いしましょう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

行雲流水

『人間らしく、人間らしい』は、より小説として楽しんでいただくために、明朝体の縦読み設定を推奨致します。


「──遠方より遥々と御足労いただいた皆々様に、まずは衷心から感謝の意を申し上げます。かねてより計画しておりました会見を、只今から開始したいと思います」

 

 

絢爛なコンサートホールの舞台上で、綺月彩佳は観客席に向けた簡単な挨拶を述べてから、慇懃に叩頭した。頭上から爛々と降り注ぐ照明に照らされて、整えられた毛髪の一筋一筋までが、白銀のような色彩で虚空に(なび)いていく。彼は緩慢とした動作で顔を上げると、その照明の予想以上に眩しいのに耐えかねて、思わず目を細めた。

 

アンティーク調に仕立ててある丸眼鏡にも、そうした照明は、その金縁の躯体に彩りを添えている。幾筋かの光の束が、彼の目元や視界の端で、煌々とした黄金石や、或いは虹のようにも分裂していって、その果ては輝石みたようなものに変貌していく様を、彩佳は煩わしく思っていた。

 

右手にマイクを握りながら、傍らに置かれているヴィンテージ調の椅子を一瞥する。そのまま白染めの大島紬の褄下あたりを気にしいしい、指先で摘みながら腰を下ろした。手にしているマイクを据え置きの卓上に静止させると、銀鼠の羽織の襟元を正してから、前方を凝然と見据える。

 

上下二階層に分けられている観客席は、この会見の模様を報道するために集合したメディアが独占していた。とりわけ階上は、民放各局の放送機材や関係者が、あちらこちらに散在している。階下はというと、こちらもまた全国各地から集結した記者が、文字通り座席を埋め尽くしている。

 

そんな彼等を前にして、彩佳は目蓋を閉じて瞑目した。やがて開かれた目蓋の向こうに見える瞳は、眼前に存在するはずの面々を微塵も映さずに、ただ宝玉のように煌々とした、彼の瞳の藍白だけを透徹させている。マイク越しに響いた彩佳の声は、それだけでも分かるほどに、玲瓏としていた。それは、転がした鈴の音色のようにも聴こえた。

 

 

「──行雲流水という言葉を、皆々様は御存知でしょうか。行く雲、流るる水、と書きます。雲も水も自然を象徴するものですが、同時に双方は、空を行く雲であり、川に流るる水でありまして、千変万化、ただ流動するままに移り変わっていきます。一つとして同じものはありません」

 

 

面々は、そんな彩佳の前口上を怪訝そうな面持ちで静聴していた。或いは、それに好奇の入り交じったような目付きで──、階上に点在する放送用のカメラはレンズを絞り、階下に散在する記者は一心に筆を手帳に走らせている。

 

 

「自然のままに一切の淀みがなく、また、そうして流動するままの自然の性質に身を任せて行動することを、このように行雲流水と呼ぶのです。晩年、綺月彩雲が『行雲』という作品を書きましたが、その内容もまた、自然主義思想によって、流動する自然の美しさを描いたものでした」

 

 

彩佳はそこまで話し終えると、黙考するかのようにして言い淀んだ。しかしそれも一瞬間のことで、会場内の誰かに違和感を覚えさせる暇すら与えずに、話を展開していく。

 

 

「いつだったか申し上げました通り、自分の進路は、昨年には既に決まっておりました。具体的には、芥川賞を受賞した数ヶ月後の時点です。その間は、本来なら受験をとうに視野に入れている時期ですけれど、実を申しますと、当時は、さてどうしたものかと彷徨していた時期なのです」

 

 

懊悩の数ヶ月前を懐古するかのように、彼は眦の上がった目を細めて、自嘲気味に苦笑を零した。普通の中学生ならば、とうに高校受験を視野に入れている──否、受験を見据えた勉強に励んでいる時分にも関わらず、自分はまだ将来を決めあぐねていた。熟考は必ずしも悲劇を招くとは限らないものの、それが喜劇に直結するとも限らないのだ。

 

 

「勿論、世間の一般に便乗して、自分も高校に進学しようかとも考えました。けれども、はっきり申し上げて、一般的な高校で学びたいことがあるのか──と問われると、素直に首肯するわけにはいかないのです。学びたいことは殆ど、この中学校の三年間で、済ませてしまいましたから」

 

 

──一般。つい今しがた告げた、たったの二語に、彩佳は何かしら心持ちの悪い気分がして、後に話そうとしたことも放ったまま、その二語に顔を向けつつ没頭していた。胸臆から沸々と想起してくるこの感情は、悄然とも似ているものの、どうやら厭忌に限りなく近しいものに思える。何より、彩佳は過去に一度、これと同じ感情を抱いていた。

 

そうした彩佳の態度にも気が付かず、記者たちは、待望していた話題に意識を傾注させる。身を乗り出して、一語一句も聞き漏らさぬ覚悟で、聴覚を必要以上に酷使しながら、彩佳の話に聞き入っていた。玲瓏な彼の声以外には森閑ばかりが漂流していて、彼以外が釐毫の吐息を放つことさえも(はばか)られる雰囲気が、そこにはあった。

 

 

「ここで懊悩という川に身を委ねても、行き着く先は懊悩という名の大海です。そこで、気晴らしに外出してみよう──と思い立ったのが、結果して功を奏したと言いましょうか。哲学の道に面したところに自宅があるので、晩夏の黄昏時に呑まれたまま、悠然と遊歩道を歩いていました」

 

 

当時の情景を克明に思い返しながら、彩佳はマイクを握る手を緩めて、穏和な面持ちで淡々と続けていく。眼鏡の躯体やレンズに爛々と映射する幾多の照明にも、今となってはもう、殆ど彼は気にしないでいた。それよりも、脳裏に浮かみ現れていく色鮮やかな色彩の方に、惹かれていた。

 

 

「昊天に腰掛けた斜陽に降られている紅葉(もみじば)が、それでも負けじと青々としているような時分でして、ただ、ところどころに初秋の翳りが見えてくるのを自覚しながら、苔の蒸した石垣を撫でてゆく流水の音を、聞くともなく聞いていました。石畳の上に、足を運びつつ」

 

「そうしていると」と彩佳は続ける。

 

 

「このような物思いに耽っている自分が、この山紫水明の大自然を前にすると、次第次第に空蝉の内の、眇眇(びょうびょう)たる矮小な存在にしか、思えなくなってきたのです。懊悩に懊悩を重ねることが、なんだか馬鹿馬鹿しく思えてきて、どうにも仕様がなくなってしまいました」

 

 

その時の心境を体現するかのように、彼は悄然とした口調で語りながら、やはり自嘲気味に、目元に笑みを浮かばせている。しかし「けれども」と逆説的に示した声色は、彩佳の抱いている泡沫の内に秘めてあった喜色が、ストロボを焚いたカメラみたように、軽快に弾けたらしく思えた。

 

 

「自分の来るべき先というものを、誰に言われるでもなく、不意に、自然に思い付いたのです。それこそ、観音菩薩か何かの神託のように。たとい、そうであるならば、こうした自然の流れに行雲流水の如く身を委ねて、その流れのままに生きてみたい──と、そう思った次第です」

 

 

彩佳はそこまで告げると、マイクを卓上に手放した。もしや、ここで会見を終わらせてしまうのではないのかしらん──と、内心で狼狽しかける面々には気にも留めず、彼は緑茶の入っている茶器に手を伸ばした。冷めかけた緑茶を啜ると、小さく溜息を吐いて、またマイクを手に取る。

 

彩佳が口を開いたのは、無意識の瞑目を終えてから数秒後だった。握る手に筋を浮かべて、伏せがちにした眼鏡越しの藍白を炯々とさせながら、間一文字に結んでいた口元を緩めていく。そこには彼の心模様が横溢していた。数ヶ月越しの機会を待ちかねた面々に向けて、鷹揚に宣言する。

 

 

「──東京武偵校に、入学致します」

 

 

最初に声を上げたのが、この観客席の中の誰だかは知れない。ただ、一度は反響したその波が、反響に反響を重ね、やがて潮騒に変貌していって、遂には潮騒とも呼べぬ喧噪に発展していく様を、彩佳は黙然として見遣っていた。

 

その喧噪が一頻り落ち着いた頃に、彼はまた口を開く。動揺と興奮の余韻が冷めやらない面々は、揃いも揃って彼を凝視し、レンズを向け、インクを歩かせていった。「そう来たか」と呟く民放の社員が居れば、「号外だ」と零す新聞記者も居る。「下らねぇ」と毒を吐く軽薄な者も居た。

 

 

「胸の内を申し上げますと、自分でも何故、こうした展開になったのかという理由が、明確に分かっておりません。不意に思い付いたと言うより、やはり、観音菩薩の救済であるとか、そうした神託として考えでもしない限り、納得がいきませんから。だから、行雲流水という前口上を皆々様に示しました。その前口上は、ここに帰結するのです。

 

行雲流水という思想に基いて考えるならば、こうして偶発的に起こった自然の流動に、やはり行く雲と流るる水の如く、そのまま身を委ねることが宜しいのではないか──いっそ懊悩を重ねていくくらいなら、こうした流れに悠然と揺蕩(たゆた)う方が、断然、生きやすいのではないか。何より観音様の救済を、無下にしたくは御座いません」

 

 

そう語る彩佳の面持ちは、穏和で晴晴としていた。澄んだ藍白の瞳で面々を見渡しながら、弁舌に万丈の気を吐いている。聴衆はいつの間にか、そうした彼の語り口に魅入られてしまっていた。淡々とした口調の裡面に秘めてある、彼の言い知れぬ魅力を、垣間見たような気がしていた。

 

 

「これは観音菩薩が与え給うた、自分に対する救済という名の、一種の好機ではないのかと思うのです。現在の東京といえば、かつての都であった京都のように、政治と文化の中枢であります。そうした最先端の地へと赴くことで、新たな知見を得ることができるのではないか──また、従来の探偵の印象とは全く異なる武装探偵ですが、こうした新たな探偵論というものに、実は興味が無かったわけではございません。むしろ、多分の興味を向けておりました」

 

 

武装探偵──武偵と通称される新たな国家資格は、今から数年前に設立された。凶悪化の一途を辿っていく犯罪者に対して、新たな対抗策として生み出されたのが武装探偵になる。免許を保持している者は武装が許可されているのが特徴で、警察に準ずる逮捕権等も有するなど、法律の範囲内とはいえ、幅広い活動が期待されているのだ。その武偵を育成するのが武偵校で、これは東京のみに限った話ではない。日本全国各地、或いは世界各国にも存在する。

 

 

「その点、東京武偵校は非常に都合の良い立地でした。どうやら港区の、レインボーブリッジに隣接するようにして存在するようですが、港区といえば、慶應義塾大学や東京タワーなどで有名でしょうか。何より、かねてから気にかけていた武偵という存在に、自らがなる──というのは、これこそ、何かしらの仕合わせのように思えています」

 

 

そこまで言い切ると、彼は眦の上がった切れ長の目元を綻ばせながら、口元に手を遣りつつ、小さな笑みを零した。

 

 

「自分は行雲流水という四文字に、例えば言霊のような、不可視の魅力があるように思えてなりません。こうして東京武偵校への入学が決定したのも、直感による偶発的な決断の結果ではなく、行雲流水という四文字が何処かで仕合わせてくれた、それこそ必然であったのかもしれません。

 

そうして、この来るべき先が、自らの唯一無常の安寧の地だとは微塵も思っておりません。艱難辛苦に苛まれる時もあるでしょうことは、容易に首肯できるところです。しかし、行雲流水の為すべきところとなりました先に、何かしら仕合わせがあるのだろうと類推して、今後も行く雲、流るる水の如く──先の人生を歩んで参りたいと思います」

 

 

静穏な口調で彩佳は言い終えると、握っていたマイクを卓上に手放した。ここで初めて、彼は掌が汗ばんでいたことを自覚する。我にもなく演説に没頭してしまっていたのかしらん──と苦笑しいしい、着物の褄下を摘みながら起立した。そのまま手を膝の前に当てると、恭しく叩頭する。

 

降りしきる照明に爛然と映射する彼の髪は、やはり一筋一筋に至るまで、白銀のような色彩を誇って煌めいていた。目蓋の向こうに隠れた藍白の瞳もまた、玲瓏に澄み渡っている。そうして、コンサートホールに咲き誇った満開の喝采が、煌々と照らされた綺月彩佳という文学少年の先を、何処かに暗示しているようにも、そう思えてしまった。

 

そのことを彼が感受したかは定かではない。ただ、何の気も見せない泰然とした態度で、正絹から仕立てた大島紬の着崩れだけを気にしいしい、元のようにして腰を掛ける。

「ここまでの話をご清聴いただきまして、誠にありがとうございました。これ以後は十数分ほど、質疑応答の時間を予定しております。あれば何なりとお申し付けください」

 

彩佳はそれだけ告げて、丸眼鏡の色付きのレンズ越しに、民放各局の社員だとか、新聞社の記者だとかに、右から左へと視線を巡らせた。それを左から右へと戻す頃には、見ただけでも既に、十数の腕が上がっているように思える。その内の一人を、「お願い致します」と彼は指名した。

 

 

「東都日報の榎本と申します。この度は東京武偵校へのご入学、誠におめでとうございます。二つ質問を申し上げたいのですが、そこではどちらの学科を専攻なされるのでしょうか。宜しければ、武偵ランクもお教え願います」

 

 

彩佳は途中に挟まれた好事の挨拶に頭を下げつつ、溌剌とした口調の、若々しい記者の質問に耳を傾けていた。彼はこうした話の最中に何回か頷きながら、思案げに目蓋を瞑っている。しかし、その記者の質問が終わってからは、大した間を置かないままに、いつもの通りに返事を返した。

 

 

「主に探偵術や推理学などを学ぶ、探偵科(インケスタ)への入科となりました。ランクはAでございます。これは余談ですが、自分の父──綺月有藍が現職の探偵でして、探偵科を専攻すると相談しましたら、快く探偵論に始まる講義や実習をしてくれました。昨年の九月中旬頃からの話です。最低でも結果は残せたので、父には感謝しています」

 

 

その返事に対して、榎本記者は「ありがとうございます」と一礼をしてから、手持ちのノートに向き合った。それと同時に、また別の記者が何人か挙手をしている。先程より数は減ったものの、それでもまだ多い。彩佳は適当な記者を指名すると、「どうぞ」と手で示しながら先を促した。

 

 

「日本文藝新聞社の壬生と申します。探偵科でAランクだと仰りましたが、それに対しての感想をお聞かせ下さい」

 

 

壬生記者の問いに小さく頷きながら、彩佳は答える。

 

 

「武偵ランクは、Eを最低としてSまであります。Aは六段階中の五段階目となりますが、最高に至らなかったのは、自らの稚拙なことに他なりません。学科が求める特有の能力・基礎身体能力・基礎学力を総合してランクは結論されるようですが、とりわけ基礎身体能力については、自分自身に非があると痛感しております。ひとまずは出来る限りのことをして、Sランクの頂に手を延べるべく尽力致します」

 

 

そう返答する彩佳の握った手は、口惜(くや)しそうに筋を浮かばせていた。心做しか表現も強めで、口調にも怒気が篭っていたように聞こえる。それは、自分自身に向けた感情以外の何物でもなかった。先天性色素欠乏症──アルビノを持つ虚弱体質のために、幼少期から頻繁に外出をしていたわけではなかった彩佳の体力は、目に見えている。

 

そのことを、会見を取材に来た面々の殆どは分かっていた。だからこそ、こうして躍起になる彼の気概に感心させられてもいる。しかし、穏和な彩佳の見せる表層的な風貌や性格というものとは別の、もっと深層に存在した、飛翔へと至る一途な向上心──そうしたものを感受していた。

 

壬生記者もまた、彩佳の言葉からそれを感じ得たのだろう──「頑張ってください、応援しています」と激励した。「ありがとうございます」と返した彼の言葉は、力強い。

彩佳はまた適当な記者を指名した。残る人数も片手で数えられるほどで、これならばすぐに会見は終わるだろう。

 

「京都新聞の遠藤と申します。例えば綺月先生が揮毫(きごう)なさるなら、どのようなお言葉になるでしょうか」

 

 

揮毫とは、将棋・囲碁棋士や有名人、政治家といった著名人が座右の銘などを書にしたためることで、扇子であるとか色紙であるとか、そういったものに揮毫されることが多い。つまるところ彩佳の座右の銘は──ということなのだろう。この問いにもまた、間髪を入れずに彼は即答した。

 

 

「『行雲流水』です。理由はもうお分かりでしょう。敢えて異なるものを挙げるとすると……、『韋編三絶(いへんさんぜつ)』でしょうか。繰り返し書物を読み、学問に熱心なことを言います。自分自身への訓戒としましょう」

 

 

そう言って、彩佳は笑みを零した。成程、というように遠藤記者は軽く頷くと、「申し訳ございませんが、続けて質問させてくださりますか」と言う。彼はそれに快諾した。

「先生にとって、行雲流水に生きるとは何でしょうか」

 

いかにも哲学的な問いかけに、初めて彩佳は黙考する。彼にとって行雲流水とは、単なる座右の銘などではない。綺月彩佳という人間の人生観を左右することとなった、単なるたった四文字に、それだけの影響を持つ言葉なのだ。

 

マイクを握る右手を下げながら、彼は何度か、眼鏡の奥の藍白の瞳を瞬かせる。そのまま目蓋を瞑って瞑捜していた。傍目にはたった十数秒ほどの時間でも、彩佳にとっては、数分の長考をしているかのように錯覚しているのだ。

 

そんな虚構の数分の中で、またしても彼は、胸臆に沸々と沸き立ってくる感情に整理をつけていた。それは先程、()()の語を聞いた時に抱いた感情──厭忌のそれと、殆ど酷似している。けれども、()()()()という四文字そのものを厭忌しているのではなく、それを説くに至った裡面に対してを、彩佳は厭忌していた。そのことは勿論、彼自身が、自覚しすぎる以上に自覚していた。

 

徐に開かれた、丸眼鏡の向こうの目蓋の奥は、またもや眼前に存在するはずの面々を微塵も映さずに、ただ宝玉のように煌々とした、彼の瞳の藍白だけを透徹させている。彩佳が視ているのは、現在でも未来でもなく、過去だった。

 

 

「──それは、人間らしいということです」

 

 

伏せがちにした藍白には、哀愁の色が混じっていた。




作者の綺月銀華です。前回に引き続き今回もお読みいただきまして、誠にありがとうございます。新聞記事の書簡体形式を採った前話でしたが、本話は三人称視点で書きました。多少なりとも、彼がどういった人物なのかは把握していただけたかと思います。また、前話では活かしきれなかった当方の文体というのも、把握していただけましたでしょうか。一人称でも、大体あのような感じに描写します。

ついに、次回からは本編に入ります。どういった進行になるのか、まだ自分自身でもまとめきれておりませんが……。ある程度の空想はしております。そうした内容も併せて、心待ちにしていただければ、嬉しいです。

お気に入り・評価はもちろん、批評を含めた感想もお待ちしております! どうか軽率になさってください。非常な励みになりまして、また創作意欲の向上にも繋がりますので、当方としては、やはり、心待ちにしている限りです。

それでは、今回はこのあたりで擱筆させていただきます。次回をお楽しみに! 綺月銀華でございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

眇たる可憐な一少女

「ねぇっ、ここ座ってもいい?」

 

 

心持ち弾んだ少女の声につられて顔を向けたのは、ちょうど入学式を終えた直後の、喧噪と雑踏とに塗れた新教室だった。自分の左半身に、窓硝子を擦り抜けた春昼の陽光が射しているのを感じながら、その麗らかな陽気というものを改めて感受しつつ、件の少女を注視すべく目を細める。

 

着色された眼鏡のレンズ越しに彼女を見詰めていると、色々なことが分かってきた。自分が言うのもなんだろうけれど、殊にこの少女は、日本人離れした風貌をしている。

両側頭部にリボンで結った髪は、胸元のあたりで靡かせていた。余した後ろ髪は腰まで下ろしており、その髪色というのがまた、如何にも西洋人形らしい金髪なのだった。

 

二重になった目蓋のところには長い睫毛が覗いていて、愛嬌のある大きな瞳は、金眼だろうか──この春光に爛々としていた。綺麗な鼻筋と小ぶりな口が端整な顔付きを形作っていて、少しあどけなさの残る雰囲気ではあるものの、そうした点も合わせて、やはり西洋人形みたく見える。

 

武偵校の制服を羽織っているのかと思いきや、視線を寄越してみると、もはやそれは制服の体を成していなかった。白地のセーラー服に映えるのは、赤色をした襟元、同色のネクタイとプリッツスカートなのだが、それら全てに、着飾った西洋服みたようなフリルが装飾されている。どうやら袖口にもまた、そのフリルで装飾がしてあるらしい。

 

しかも、その少女の短躯をまとう西洋風の制服を観察していると、およそ十六歳の異性とはなかなか思えにくい、少女らしからぬ胸部をしているのに驚愕した。とうに成熟しきった魅惑的な感じを、双丘から横溢させている。のみならず、これまたフリルをあしらったハイカットを履いた太腿は、雪肌の艶めかしい健康的な少女のそれであった。

 

 

「えっ、何で睨むの!? 理子なんか嫌なこと言った!?」

 

 

どうやらリコというらしい目前の少女は、自分が彼女の風貌を観察している様子を、何かしら勘違いしたのだろう──慌てたような手付きをして、両の手で口を押さえた。

こうした誤解を手放しにしておく自分ではない。首を軽く横に振ってから、リコと名乗った少女の瞳を見詰める。

 

 

「いえ。視力が低いので、貴女の風貌を観察するには、目を細めるくらいしかありませんでした。初対面の相手に、流石に近付いて観察するわけにはいかないでしょう。誤解を生んだことは謝ります。あ、どうぞ座って下さい」

 

 

そう釈明すると、彼女は安堵したように「なんだ……」と溜息を洩らした。「じゃあ、遠慮なく座らせてもらっかなぁー」そのまま溌剌な笑みを零すと、言葉の通りにして隣席に腰を掛ける。虚空に靡く金髪とか、制服だとかに合わせて、彼女の芳香も風に乗るままに漂流してきた。それは少女特有の甘美なもので、嫌でも鼻腔をくすぐってくる。

 

「ねぇねぇ」両の手で頬杖を突きながら、彼女は瞳だけをこちらに向けて自分に問い掛けた。「もしかしなくても、芥川賞作家の綺月彩佳さんでしょ? 本当に綺麗な髪の毛と目だね。ちょっと羨ましいかも──なぁんて。くふふっ」愛嬌のある笑い声を洩らしつつ、隣席の少女は、からかいだか照れ隠しだか、そんなような風で目元を綻ばせた。

 

その刹那に、不意に一帯の喧噪が森閑としてきたので、何だろう──と自分も彼女も揃って様子を窺い見ると、廊下を抜けて教壇の方へと歩いてくる一人の女性を視認した。日本人らしい茶髪をしていて、目を凝らしてみると、眼鏡を掛けているのが分かる。穏和な雰囲気の女性に思えた。

 

 

「さて、A組の子はみんな居るかな……。うん、全員とも居るみたいですね。それじゃあ、先生の自己紹介を兼ねたホームルームを少しだけしてから、今日は解散になります」

 

 

まだ若々しい雰囲気のあるその女性は、手短に告げてから背面にある黒板に向き直った。そうして新品のチョークを指に摘むと、『高天原ゆとり』の六文字を大きく書き示す。どうやら彼女は、自分たちの担任を受け持つらしい。

高天原先生は、服の上に落ちたチョークの粉末を手で払い払い、自分たち生徒を教壇から一望するようにして見回した。それから、成程というように頷くと、また口を開く。

 

 

「一年間みんなの担任になる、高天原ゆとりと言います。二十二歳です。こう見えて、探偵科の顧問もやってるので──この中に、探偵科の子も居るでしょ? そうしたら、お互いにお世話になると思います。その時は宜しくしてね」

 

 

そう言って、先生は笑顔を見せた。どうやら彼女は自分の在籍するA組の担任だけでなく、探偵科の顧問まで担当しているらしい。かなりお世話になりそうだな、と予感する。

そこからの話は、どこの学校でも聞くようなものばかりだった。「四月中は名札を着けててね」と名札を貰ったり、「これは時間割の紙だよ」とプリントを配られたりした。

 

武偵校らしいところと言えば、「帯銃と帯刀はしっかりすること」「各専門科目の棟は使っていいけど、授業は明日からね」「一年生が依頼を受けられるのは、これも明日からになってます。そこも注意してねぇ」くらいだろうか。

 

結局そんなままでホームルームは過ぎていって、あらかた話したい話題も尽きたらしい先生は、「じゃあ最後に、これだけ話して終わりにしよっか」と時計を見ながら笑う。何だろう、とクラスメイトたちがいっせいに耳を傾けた。

 

「特に要望がなければ、今の席のままで明日から授業するけど……大丈夫? 自分の都合で席を変えたいとか、そういう人はいないかなぁ。……うん、特にいないみたいだから、明日からはこの席で始めたいと思います。何ヶ月かして、席替えをしたくなったら言ってね。また対応します」

 

 

というような話だけを残して、高天原先生は簡単な挨拶とともに、忙しそうな挙動をしいしい教室を去っていった。脚元で眠っていた塵埃が春昼の陽射しに皓皓と照らされながら、この教室の天井あたりにまで舞い上がっていく。それら塵埃が目を覚ますのと同時に、閑静は眠りについた。

 

 

「……なんか席が決まっちゃったけど、良かったの?」

 

 

隣席の少女は、気抜けしたような口調でそう訊いてくる。良かった、とはどんな意味だろうか。『君の席はここで良かったの?』なのか、『自分がここに座っていてもいいの?』なのか──どちらにしろ、それに問題はなかった。窓硝子の向こうにある大東京を一瞥してから、口を開く。

 

 

「僕はこの、窓際の最後列の雰囲気が好きなんです。ちょっと長閑(のどか)で、四季折々の風景がよく見える。だからこの席を選びました。隣が誰かは気にしません。あくまでも自分の好みで席を選んだので、それ以外は何とも」

 

 

この蒼天には、一つの千切れ雲すら浮かんでいなかった。ただ春霞だけが悠々と、茜と紫金の階調を覆い尽くしている。陽光はその朧気を掻い潜って、誰に降るともなく、音も香もしないままに、静謐に地表へと降り立っていた。

 

彼女はそうした自分の答えを聞くと、その肌理細かな頬に、段々と紅潮を差し込ませていったように見える。この少女にだけ、春の陽射しが燦々と降り注いでいるのではないのかしらん──と錯覚してしまうような、そんな喜色満面の面持ちをして、長い睫毛を覗かせるように笑った。

 

 

「そっか。実は理子もね、窓際の席が好きなんだぁー。のんびりできるし、外もよく見えるし──あっ、そうだ!」

 

 

矢庭に声を上げた彼女は、そのまま椅子ごと自分の方に向き直る。何をするのだろう──と勘繰りながらも、取り敢えず彼女の動作に合わせるようにして、身体だけを向けた。自分と相対している少女は、肉感的な太腿に華奢な手を当てながら、また彼女特有らしい笑い声を零している。

 

 

「くふふっ。ねぇ、自己紹介やろう?」

「自己紹介……、確かに。やりましょう」

「じゃあ、まずは理子からね!」

 

 

そう言って、彼女は名札を見せてくれた。そこには『峰理子』と彫られている。軽く頷くと、理子は話を続けた。

 

 

「峰理子って言います! 誕生日は三月三十一日で、十五歳になったの。あと、学科もランクも先生(・・)と同じ、探偵科のAなんだよ? 好きなものは、ゲームとアニメ鑑賞と、あと……うーん、イチゴ牛乳とかポッキーかな? 隣の席で同じ学科だから、仲良くしてねっ。はいたーっち!」

 

 

ハイタッチを求めてきた彼女に合わせて、自分も手の平を向ける。それが上手く重なったのか、軽快な音が聞こえてきた。自分と理子とは何がなしに笑みを零しながら、その余韻に浸っている。一瞬だけ触れた異性の手は温柔で、その温もりがまだ、手の平に残っているような気がした。

 

たった数分きり話をしているだけなのに、何故だか既に、峰理子という少女の性格を理解したような気がしていた。けれども、それは全くの自信過剰に他ならないことは、自分がいちばん分かり切っている。それでも、そう思ってしまうほどには、彼女の口調や挙止動作は特徴的だった。

 

 

「じゃあ次は、先生(・・)が自己紹介する番!」

「……今更、僕が自己紹介する必要ってあります?」

「理子が聞きたいから話して! 拒否権は無しね!」

 

 

そう告げた彼女は、たいそう楽しそうな笑顔を浮かべている。眦が下がっているばかりでなく、口元も緩んでいて、なんだか猫のような形だな──と思いながら口を開いた。『拒否権は無し』という要望に、思わず苦笑してしまう。こう自己紹介をするのは、新人賞の受賞式以来だろうか。

 

「えっと、作家の綺月彩佳です。十一月十二日生まれの十五歳で、探偵科に入科しました。ランクはAです。趣味は読書の他に将棋、囲碁で、おじいちゃんに習いました。好きなものは……猫でしょうか。どうぞ宜しくお願いします」

 

 

照れ隠しの笑みを零しつつ、軽く叩頭してから、彼女の反応を、乳白色の前髪の合間から窺い見る。──すると、どうしたことだろうか。両の手を強く握りながら胸元に掲げていて、先程よりも爛々とした瞳の色をしいしい、頬に紅潮を差しながら、少女は自分を食い気味に見詰めていた。

 

 

「猫を、その……モフったり、してるの?」

「えぇ、まぁ。実家に一匹いるんですけど、よく一緒にお昼寝したり、それこそ撫でてやったり、色々と」

「えー、いーなぁー! 理子もモフりたい!」

 

 

彼女は羨望の眼差しを自分に向けながら、何故だか拗ねたようにして口を尖らせた。とはいっても、実家の猫を愛玩していたのは、せいぜい京都を発つ数週間ほど前までで、そこから今に至るまで、なんと野良猫の頭文字すら見ていない。気まぐれに猫と遊びたいのは、自分も同じなのだ。

 

そのことを説明すると、途端に「あれ、そうだったの? 理子は野良猫、朝に見かけたけど……。でもモフれなかったなぁ……」と目を瞬かせながら、気抜けした声を洩らした。自分としては、見ただけでも羨ましく思えてしまう。

 

猫を見かけるのは、果たしていつになるやら──と思いながら、羽織っている制服の内ポケットから懐中時計を取り出した。銀の鎖に繋がれている本体は和光謹製で、文字盤を取り囲むように、蔦らしい紋様が刻まれてある。懐中時計らしくアンティーク調の雰囲気を醸成しながら、秒針は一秒ごとに時間を削り取っていく。十時半を指していた。

 

 

「わ、懐中時計だ! 洒落たもの持ってるねぇー」

「えぇ、まぁ。芥川賞受賞式の際に戴いたものです」

 

 

そう言って、文字盤の裏を彼女に見せる。『第139回芥川龍之介賞 贈 綺月彩佳君 日本文学振興会』と書かれていた。芥川賞の創設当時は貧しい若者が多かったために、簡単に現金に換えられるような、銀の懐中時計にしたらしい。正賞は記念に残る品物であるべきとも言われていた。

 

 

「これ、和光のやつだよね? 結構高いんじゃない? これと似たような懐中時計で、確か、二十何万とか……」

「……結構するんですね。予想以上です」

 

 

陽線に銀光する懐中時計を覗き込みながら、彼女は些か驚いたように、その懐中時計と自分の瞳とを交互に見遣る。

まさかに高価そうではあると思ってはいたものの、二十何万もするような代物だとは、到底、考えもつかなかった。一度そう思ってしまうと、なんだか身に付けていることすら怖く思えてきて、そっと内ポケットに戻すきりだった。

 

その刹那に、ふと十時半という時刻を思い出す。文字盤に踊る長針と短針が示した、十時半──自分が一挙に思い出したのは、十時半という時刻のそれぎりではなかった。今から向かえば、恐らくお昼時には間に合うだろうか──。

 

 

「すいません。話途中で申し訳ありませんが、少し用事を思い出しました。すぐに行けるならば、行きたいのですが……。お時間があるなら、手伝っていただけませんか」

 

 

そうした自分の頼み事を、彼女は不思議そうに聞いていた。口元に指を当てて、考え込むように目を伏せている。それでも矢庭に顔を上げると、「うん、いいよっ。理子もどうせ暇だしね。何すればいいの? もしかして、こう見えて──実はデートのお誘いだったりする? くふふっ」

 

 

「……そんなわけないでしょう。付き合ってくださるのは有難いですけど、曲解されても困ります。取り敢えず、そろそろ出ましょうか。早めに到着して損はありません」

 

 

口元に手を当てて、嫣然(えんぜん)と笑う彼女に苦笑しいしい、机の横に掛けておいた鞄を手に立ち上がる。椅子を仕舞ってから教室の出口に向かうと、眇たる可憐な少女は些か慌てたようにして、自分の隣まで駆け寄ってきた。

 

 

「もしかして、ちょっと怒ってる?」

「……呆れただけです。怒ってはいません」

「えへへっ、それなら良かったぁー」

 

 

締まりのない笑みを零す隣の少女に、自分は小さな溜息を一つ吐きながら、そのまま廊下へと抜ける。一瞥した彼女は、心做しか、自分に歩調を合わせてくれているような感じがした。広めの廊下には、制服やセーラー服が雑多に行き交っていて、雑踏の坩堝に放り込まれたかのようだ。

 

その最中を掻い潜って、自分と彼女とは昇降口まで向かっていった。意外にも人影はまばらで、まだ校内に留まっている面々の方が多いらしい。下駄箱に入っている外靴の数を適当に数えながら、自分も外靴に履き替えていく。

 

 

「あっ、そうだ。少し自室に寄りますね」

 

 

そう告げた時の彼女の顔が、射しかけている春光にあてられてよく見えた。手提げ鞄を片腕に抱き抱えて、爪先立ちをしいしい、少し高い位置にある下駄箱の口に手を入れて、エナメル製の靴を取っている。ちょっとだけ面食らったような顔をして、その金眼をこちらに向けていた。

 

 

「やっぱり、理子をお家デートに誘うつもり?」

 

手提げ鞄で緩んだ口元を隠しながら、またしても彼女は眦を下げて嫣然に笑う。瞳に覗かせた黒い睫毛が、健康的な少女の雪肌に映えていて、こうした彼女の魅力を手放しにしておく者はいないだろうな──と何がなしに直覚した。

 

 

「違います。私服に着替えたいので」

先生(・・)の私服姿? 見たい見たい!」

「僕の私服、見世物じゃないですよ」

 

 

一人で磊落(らいらく)にはしゃぐ少女を横目にして、自分は硝子窓の向こうを見遣った。ふと春霞に覆われている青天井を仰いで気になったのは、霞に紛れた遠方にある雨催いの雲だけで、こちら側には千切れ雲の一つもないのが、なんだか不穏だった。暗に、禍殃(かおう)の到来でも告げているかのように──そんなことだけを直覚した。




皆様、またお目にかかりましたね。投稿時点では朝方なので、おはようございます──と挨拶をしておきます。当方は『人間らしく、人間らしい』の作者、綺月銀華です。

ようやく本編に入る形となりました。「ねぇっ、ここ座ってもいい?」から始まる物語です。本編は彩佳の一人称視点で描写していきますが、その中でも今回は、とりわけ理子の魅力を引き立てるような描写にしてみました。天衣無縫、天真爛漫といった言葉が似合うのが理子ですね。

そうして同時に、新聞記事や会見では分からなかった彩佳の一面というのも、把握できたのではないでしょうか。祖父の綺月明暒に教わった将棋と囲碁ですが、実は2人とも……。機会があれば、そのうち描写してみようかしら。

また彩佳は、猫が好きなようです。この様子だと理子も好きそうで、お互いに猫が好きというのは一致しているのではないでしょうか。可愛いですね。猫も、2人も。

果たして彩佳の用事とは何なのでしょうか。そうして、理子に手伝いを求めた理由とは? 次回もお楽しみに! お気に入りや評価、批評などの感想もお待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

雨催いに翳る

「おぉー、凄い! 本当に和服なんだねぇ」

 

 

男子寮の入口付近に待たせていた少女──峰理子と視線が合うなり、彼女は感嘆したように目を見開いた。金髪とフリルをあしらった制服とを虚空に靡かせながら、軽やかに身を(ひるがえ)して、自分の風貌を見上げ見下ろしている。興味深そうな目付きをしているのが、面白かった。

 

 

「和服しか持ってないんです。洋服は着たことがないというか、ほんの数回は着ましたけど、動きにくくて。だから、こうして制服から着替えてきたわけなんです」

 

 

実家は祖父と父の影響で、平成でありながら昭和初期のような風情だった。純日本家屋の邸宅というのが起因して、更には昭和生まれの二人であるから、そうした雰囲気の中で和服を着ないというのも、言われてみればおかしな話ではある。そんなこんなで自分が生まれても、そうした色に染まると言うか、染められると言おうか──特に方針を変えることもなく進んできたのが、この綺月家だった。

 

時代錯誤と揶揄されるかもしれないけれど、こうした雰囲気は嫌いではない。むしろ好ましく思えていて、段々と失われつつある伝統文化というものがまだ、こうして残されているのだ──ということを思うと、その気持ちに一層、拍車をかけていった。今では和装をするというのは、生活の一環でありながら同時に、趣味みたようなものだ。

 

「やっぱり精神的に、洋服だとキツい感じ?」

「そうですね。……今日も半日、頑張りましたから」

 

 

苦笑しいしい、和服に身を包んだ自分の装いを見直した。正絹から仕立てた藍白の紬着物に帯を締めて、紫苑色の羽織は、天然石を連ねた羽織紐で留めてある。そこに適当な草履を履いて、如何にも春らしい淡い装いになっていた。手に提げている信玄袋には、貴重品の諸々が入れてある。

 

 

「まぁ、制服より私服の方が気楽だよねぇ。そういえば、結局どこに行くの? もしかして、理子と和服デート?」

「老舗の呉服店に行くんです。港区芝にある」

 

 

そう言いながら、片手に持っていた蛇目傘(じゃのめかさ)を差しつつ歩を進めていく。紫外線に弱い自分にとって、直射日光を避けるための傘は、幼い頃からの必需品だった。これが無ければ、皮膚に損傷を与えてしまうのだ。新調したフェルト草履の裏側を気にしいしい、そんなことを思い返す。今ではもう、すっかり慣れてしまった。

 

 

「えっ、呉服店ってあの、和服とか売ってる?」

「そうです」

 

 

陽光に降られている少女は、後ろから小走りについてくると、すぐに自分の隣に並んだ。歩く速度は二人とも一緒で、それは彼女が自分に合わせてくれているのだった。意想外の返答に一度は面食らったような面持ちをしていたものの、すぐに例の笑みを、その端整な顔に現している。

 

 

「つまり、理子とショッピングデートってことかぁ」

「……いい加減、デートから離れてください」

 

 

何度目かの溜息を吐きながら、男子寮の駐車場を抜けて通りに出る。武偵校が中枢にある学園島は、本土と連絡橋で繋がれているから、まず目指すのは連絡橋だろうか。というのも、この学園島は人工浮島らしく、南北二キロ・東西五〇〇メートルの広さで東京湾に浮かんでいるようである。

 

武偵校の校舎や各学科棟は勿論、学生寮からコンビニ・ファミレスに至るまで存在しており、最低限の生活には困らないというのが、寮生活を一週間ほど続けてきた感想だった。モノレールも通っており、交通の便にも文句はない。その付近はゲームセンターやDVDレンタル店などで賑わっており、一種の商店街みたような雰囲気を漂わせていた。書店が一つだけど存在したのも、個人的には喜ばしい。

 

出た通りをそのまま左手に曲がろ──うとしたところで、彼女に羽織の袖を掴まれて、呼び止められてしまった。さて何事だろうと振り返ってみると、目前の少女は告げる。

 

 

「ねぇ、芝は反対だよ! そっちはお台場でしょ?」

「あれ、そうでしたっけ。こちらが芝かと」

「ちーがーいーまーす!」

 

 

自分の進行方向とは逆を指す少女に、内心で疑惧を抱きながら、ひとまず、彼女がそう言うのならば、そうなのかもしれない──と考えつつ、身を翻して歩き出す。芝とお台場を逆に覚えた記憶は無いのだけれど……と思い思い。

 

 

「……あっ、理子分かっちゃった」

 

 

彼女はめざとく見澄ましたかのように、嫣然な笑みとは異なった種類の笑みを、緩めた口元から洩らしていた。何を言うのかしら──と身構えながら、その金眼を見る。すると、隣の少女は面白そうに「くふふっ」と笑った。「もしかして、方向音痴だったりする?」と、後ろに続けて。

 

 

「じゃないと、自分が出かける時に『手伝って』なんて言わないよね? 先生(・・)がそれを自覚してるってことは、少なくとも一回は東京で迷ったってことでしょ? それも、頭を抱えちゃうレベルに! ちょっとの間違いなら済むけど、割と嫌な間違え方しちゃったから、少し参っちゃった感じかなぁ。それで理子をガイドにしたんだよね?」

 

 

簡単な類推ではあるものの、得意満面の表情で彼女は詰問してくる。流石に終始一貫して黙り通せるほど、この少女は磊落で諧謔(かいぎゃく)的な性格をしているわけではなさそうだった。「まぁ、その通りです。何もかも当たってます」と首肯すると、彼女は嬉しそうに笑みを零す。

 

 

「掻い摘んで言うと、例の呉服店には先々月に行きました。ただ最寄り駅を降りた後に、目的地とは真逆に進んでいってしまったんですよね。往来の人に案内してもらって駅までは戻れたんですが、今度は呉服店を中心にして、歪な円を描くように歩いていたらしいです。結局、到着したのは、予約していた時間の二時間後でした。京都と違って東京は道が雑多ですし、どの建物も似ていますから……」

 

 

そうして話に一区切りつけて、降りしきる陽光に蛇目傘を傾けながら、隣を歩く少女の姿を覗き見る。そんな彼女は口元に手を当てて、目元を綻ばせて、肩を小刻みに震わせて──どうやら、必死に笑みを堪えているように見えた。やがて耐えきれなくなったのか、吹き出すように笑う。

 

 

「あはははっ、方向音痴も度が過ぎるでしょ! 地図を持ってるのに、なんで真逆に行っちゃうかなぁ……ふふっ。しかも二回も迷うなんて、これもう、才能だと思うんだ! あー、面白い……。ちょっと理子、涙が出てきちゃった」

 

 

目尻に滲み出た涙を人差し指で拭い取りながら、彼女はたいそう面白そうに笑い続けていた。自分には何が面白いのか分からないけれど、どうやら彼女にとっては大笑に値するものらしく、痛くなったお腹のあたりをさすっている。それが治まってきたらしい頃に、隣に歩く彼女は零した。

 

 

「ねぇ、もう大丈夫だよ。理子が一緒にいてあげるから」

「誤解を招くような言い方は控えてください」

 

 

苦笑しながら、視線を彼女から離す。正面を見ると、奥には学園島と本土とを繋ぐ連絡橋が見えた。背後には大東京のビル群が屹立しており、それらは歩を進めるごとに接近してくる。そのうちには、既に連絡橋を通過していた。独り言ちるように零しながら、目下の東京湾を覗き見る。

 

 

「……学園島を出ると、道が全く分からないんですよね」

「理子が道案内したげる! お客さん、どこまで?」

「白峯呉服店さんまでお願いします」

「名前は知ってるけど、場所は知らないなぁ……」

 

 

困ったように笑う彼女を隣に、それでも自分たちは談笑しながら歩いていった。レインボーブリッジや公園、コンテナ群の並ぶ芝浦を横目に越していくと、目的としていた港区芝に辿り着く。高架下を抜けると、交差点が見えた。

 

 

先生(・・)さ、この辺りは分かるの?」

「確か、迷った時の道ですね……。芝四丁目の交番が見えた、というのは覚えています。例の呉服店は大きなお寺の隣にあるんですけど、それ以外は殆ど分かりません」

「この辺りにお寺……、あったかなぁ……」

 

 

自分と彼女とは、二人で芝四丁目の交差点に差し掛かっていた。旧海岸通りという名前が付いているらしい。あたりを縦横無尽に行き交う自動車の音や、往来の雑踏に揉まれながら、眼前に聳え立つマンションやテナントビル、小さな個人病院やケータイショップなどを横目に歩いていく。

 

やがて、芝一丁目の交差点に差し掛かった。自分はそこでいったん足を止めると、裏道へと続く通りに視線を遣る。そういえば、確か白峯呉服店は裏道にあったような気がした。そのことを隣の少女に告げると、「じゃあ行ってみよう!」と冒険心を剥き出しにしいしい、首肯してくれる。

 

 

「ところで、なんで僕を先生(・・)と呼ぶんですか?」

 

 

マンションやハイツの立ち並ぶ裏通りを歩きながら、自分は彼女に問いかける。思い返せば、何度か『先生』というような形で呼ばれていた。メディアやファンにそう呼ばれるのは慣れているものの、よくよく考えれば、この少女とは、まだ数時間ほど前に話したばかりではないか──。

 

彼女はその金眼を自分の方に向けると、蛇目傘に見切れたながらも、可憐に目元を綻ばせたのが分かった。「くふふっ」という笑い声が聞こえてきて、思わず傘を傾ける。そこにはやはり、既に見慣れた表情をしている彼女がいた。

 

 

「うーんとね、小説家だから先生って呼んでるのと、単に理子がそう呼びたいから呼んでるだけ! 嫌だった?」

「別に、嫌ではないですよ。むしろ慣れていますから」

「おぉー、さっすがー!」

 

 

彼女は隣で飛び跳ねながら手を叩いてくれた。照れ隠しの笑みに「ありがとうございます」と付け加えながら、傾けた蛇目傘を元に戻す。木骨とか和紙とかその紋様とか、そういったものに透かした陽光が、少しだけ眩しかった。

 

 

「じゃあ、先生も理子のこと好きに呼んでいいよ?」

 

 

隣から聞こえてくる声に、「そうですか」と返事する。それから少しだけ、彼女のことをどう呼ぼうか少考した。無難なのは苗字で呼ぶことだけれど、いざ提案してみると「堅苦しいから嫌かも」と即座に否定されてしまった。

 

「理子さんと呼ぶのはどうですか。苗字よりは堅苦しい印象も無くなると思いますよ」と伝えても、「そもそも、

『さん』っていうのが他人行儀すぎるかなぁー」と言われてしまい、これも駄目らしい。他には何があるだろうか。

 

 

「理子ちゃん──は、ちょっと軽薄ですね」

「それ! 可愛いからそれにしよう!」

「……特に構わないなら、そう呼びます」

 

 

無邪気な声ではしゃぐ彼女を、眼鏡のレンズ越しに覗きながら、流石に『ちゃん』を付けて呼ぶのは、初対面の相手にしても、軽薄すぎではないのかしらん──と思いつつ、相手がそれで良いのであれば、と考えを打ち切る。これは彼女特有の友好的な態度なのだろう、とだけ付け加えて。

 

それでも、数時間きりの初対面な少女を理子ちゃんと呼ぶのは、流石に気が引けた。しかし提案したのは自分で、承諾したのは彼女──理子ちゃんであるのだから、どうしたものか。せめて心の内で理子と呼び捨てにするくらいなら、露呈する恐れもないし、自分の心理作用について勘案してみても、これなら大丈夫だろうか……と思い至る。

 

そのまま舗道を進んでいくと、何やら見覚えのある道に差し掛かった。左手には平凡な民家が連なっているものの、右手の方には漆喰塗りの外壁が続いていて、そこに合わせて瓦が乗っている。その敷地内には荘厳な和風建築の遺物が顔を覗かせており、それこそが寺社に他ならなかった。

 

 

「先生の言ってたお寺って、もしかしてこれ?」

「えぇ。確か、ここの曲がり角を左に行くと──」

「あっ、あった! 白峯呉服店の暖簾(のれん)!」

 

 

そこには、瓦屋根の突き出した和風邸宅が建っていた。入口の両端に行燈が設置されており、白峯と染色された暖簾も掛かっている。漆喰の壁にも同じく、白峯と揮毫された無垢材が立て掛けられていた。相当な老舗で、嘉永五年──綺月彩雲の生まれ年に創業された呉服店らしい。

 

 

「そうそう、ここです。今回は無事に着けました」

「くふふっ、誰のおかげかなぁ?」

「分かっているくせに。ありがとうございます」

 

 

二人で笑みを交わしてから、いよいよ店内に入っていく。竹製の格子扉を開けると、すぐに色鮮やかな色彩が視界に飛び込んできた。それは女性物の振袖や訪問着で、この部屋の一帯に飾られている。他には和装小物が彩りに華を添えていて、見るからに豪華絢爛な色彩美を誇っていた。

 

すると、奥から一人の老婦人が紬らしい訪問着を召して、悠々とした動作で自分たちの目前まで歩み寄ってくる。それから、七十代に差し掛かったあたりと思える白髪をわずかに覗かせて、その老婦人は慇懃な態度でお辞儀した。

 

 

「昨日にお電話を差し上げました、綺月先生でしょ。お会いになるのは二ヶ月ぶりかしら。お頼みいただいたお着物は、キチンと仕上がりましたから、ご安心くださいね」

 

 

老婦人らしい穏和な口調で、女将は歯を覗かせた。そのまま奥にある座敷に手を向けながら、「さ、お上がりください」と言って、自分たち二人を案内してくれる。通された先は、十二畳の和室だった。そこには反物から仕立て上がりの完成品まで揃っていて、見ると、うち年季の入った一畳の中に、臙脂色の仕立て上がりが二着とも寝せてある。他にもう四着あるのは、恐らくこれは長襦袢だろうか。

 

それらは紛れもなく、自分が先々月に誂えてもらうよう依頼したものに相違なかった。同時に今後の三年間で、肌身離さず身にまとっていなければならないものにも、また──。取り敢えず進められたままに、自分と理子とは、用意してもらった座布団に、一礼をしてから正座をする。

 

 

「これね、武偵校の制服にするんですって?」

 

 

皺のある目蓋を幾らか持ち上げながら、老婦人は訊いた。自分はそれに頷いて返すものの、「えっ」と驚いたように洩らした隣の少女の声に、つられて視線を向けてしまう。

 

 

「先生、これ制服にするの?」

「『該制服では武偵活動に著しく影響を来すため』と異装届を申請したら、許可が下りました。代わりに幾つか条件がありまして、それを満たすなら許可するという話です」

「条件なんてあるんだ……」

 

 

不思議そうに洩らす理子を見て、自分は段々と彼女の服装の方が奇異に思えてきた。本来ならば、武偵校の女制服はセーラー服と殆ど相違ないし、むしろフリルで装飾しているのは、れっきとした改造行為なのではないか。それでも見咎められている様子は見えなかったし、もしかしたら、規定の際どいところを彼女は突いているのかもしれない。

 

そんな理子と自分の会話を女将は目視しながら、頃合いを見つつ、手元に用意しておいた着物を手渡してくれる。

「先生の注文通り、裏地は正絹で仕立てましたよ。ポリエステルならすぐに洗えるっていうけど、着心地を重視なさったんでしょ。まぁ、制服なら滅多に洗わないからねぇ」

 

 

袷着物を検めながら、女将の話に頷き返す。確かに裏地の手触りは正絹だ。しかし表地は、いま羽織っている防弾制服の手触りとよく似ている。ともすれば、要望通りに表地も、TNK(ツイストナノケブラー)ワイヤーの防弾繊維で仕立ててくれたのだろう。「これ、表地は防弾繊維ですね。武偵校からの絶対条件でしたので、助かります」

 

そのまま着物を広げてみると、あることに気が付いた。それは男着物には珍しい訪問着風で、腰部から下のあたりに、ぼかしを入れたらしく見える。「随分と洒落た仕上がりになりましたね。どなたが細工を提案したんです?」

 

 

「先生にそこらへんは任されたから、職人さんと相談して、どうしようかって決めていたのよ。制服とは言っても毎日ごとに着るし、これだと普段着に近いから、いっそのこと、お洒落したら良いんじゃないかってね。訪問着仕立てのぼかしが良いってね。ほら、この羽織もご覧よ──」

 

 

そう言って女将が自分に手渡した羽織は、着物と同じく臙脂色をしていて、ぼかしの入った淡い色彩をしている。「へぇー、凄い。綺麗だね!」と、隣から覗き込んでくる理子に頷きながら、また検めるべくあちこちと見回した。

 

こちらも表地は防弾繊維、裏地は額裏のある正絹仕立てになっている。何かの拍子に不意と見える額裏は、男性にとって、隠れたお洒落という観点で好まれ続けているのだ。背部を見ると、東京武偵校の校章が一つ紋で入っている。外出着としては最高格で、これなら応用が利くだろう。

 

 

「あれ? これって武偵校の校章?」

「えぇ、これも条件として頼まれました」

「そっか。制服にも入ってるもんね」

 

 

納得したように頷いた理子は、制服の腕部に入っている校章と、和服の背部に入れてある校章とを見比べていた。これで条件は全て満たせた。正式な式典では従来の制服を着用、生地は臙脂色、更には防弾性の確保と校章──この四つが、武偵校から提示された条件である。こうなれば、少なからず教務科から文句は言われまい──と直覚した。

 

検分を済ませた着物と羽織を畳んでいると、女将は「あと先生ね、これも頼まれたでしょ。紗と──」と言いながら、もう一着あった和服を手にして自分に渡してくる。それは今しがた畳んだ袷の着物とは違って、紗の着物であった。袷は夏以外に着用して、紗は夏のみに着用するのだ。

 

見ると、受け取った紗の方も、着物と羽織とを合わせて袷着物と同じ細工が施されていた。臙脂色で、表地は防弾繊維、裏地は正絹仕立てになっている。両方ともぼかしが入っていて、羽織には一つ紋も入れてあった。如何にも紗らしい清涼感と肌触りは、やはり夏に似合っているだろう。

 

「──こっちの四着は、長襦袢ね」続けざまに四着とも一気に渡された、柄の入っている白・濃紺・薄灰・藍の長襦袢の重みが、手に伝わってくる。これらは言うなれば、着物の下に着る肌着だろうか。勿論、この長襦袢も表地は防弾繊維に、裏地を正絹にして仕立てるように依頼しておいた。袷と紗に対してそれぞれ二着、季節別に用意したのだ。

 

 

「女将さん、みんな紙袋か何かに包んでもらえますか。畳紙(たとうがみ)は家にありますので、要りません」

「えぇ、えぇ。それでは預からせていただきます」

 

 

六着を一気に抱えながら、女将は座敷を下りて店内の奥へと引っ込んでしまった。その背後を見送りながら、自分と理子とは女将のしたように後をついていく。精算を済ますカウンターの前でしばらく待っていると、女将は二つの紙袋を手に握りながら持ってきてくれた。そうして手渡す。

 

 

「こっちが着物、こっちが長襦袢ね。お代金は……」

 

 

女将はあらかじめ用意してあったらしい伝票用紙を凝視すると、店内の雰囲気とは打って変わって現代的なレジに、淡々と金額を打ち込んでいく。信玄袋から取り出した封筒の口を開けつつ、既に絶句している理子を一瞥した。

 

 

「袷と紗がそれぞれ十五万円、長襦袢が四着で二十万ね。計五十万円、見積もりと同じような感じだったでしょ」

「えぇ。多めに持ってきて正解でした。あと五万円だけ高かったら、すぐにでも銀行に行っていたかと。ふふっ」

 

 

そう笑いながら、自分は封筒の中身に五万円だけを残して、後の五十万円を女将に手渡した。「あらー、沢山ねぇ」と嬉しそうに笑みを浮かべる老婦人、絶句に閉口させられた高校生の少女、五十万を所持していた高校生──なんとも珍妙というか、現実離れした光景だとは思う。

 

 

「……えぇ、キチンと五十万円ね。確かに預かりました。それじゃあ先生、また何かありましたら、私共のところにいらしてください。いつでもご相談には乗れますので」

「うん、この度は誠にありがとうございました。また機会がございましたら、貴店の方へ伺わせて頂きますから。それではもう、今日のところは失礼させていただきます」

 

 

必ずしも軽いとは言えない紙袋を両手に持ちつつ、自分は女将に叩頭して、理子を引き連れながら店を後にする。しばらくして彼女は、「着物、結構するんだね……」と洩らすように呟いた。「あんなに高いとは思わなかったよ」

 

 

「素材が正絹ですし、一から誂えたものですしね。値が張るだろうことは予測していました。とはいえ、過去に着物は散々に誂えてきましたけれども、あれは今までで一番の買い物だと思いますよ。都合良く印税が入りまして……」

 

 

安堵の笑みを零しながら、ふと空を見上げる。春霞に紛れて遠方にあったはずの雨催いの雲は、心做しか、自分の居る方へ接近してきているようにも感じられた。さながら、あれが禍殃の権化であると、告げているかのように──。

 

 

「……ここまで理子ちゃんに道案内してもらったお礼ですから、これから、一緒に昼食でも摂りに行きませんか」

 

 

背筋が物言えぬほどに心地悪いのを自覚しつつも、それを誤魔化すだけの口上を吐くくらいが、関の山だった。

 

 




いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。『人間らしく、人間らしい』の作者、綺月銀華でございます。

本話は理子の友誼的な性格を利用して書いてみたのですが、ちょっとしたデート風になってしまいました。良いのだか悪いのだか……。しかも、彩佳が五十万を呉服店で散財するだけのお話です。後半は自分でもよく分からないまま書いておりました。駄文で申し訳ございません。()

話の筋書きを考えていくと、どうやら早々にリメイクした方が良い箇所もありまして、暫くしたらリメイク版を書き上げるかもしれません。その時はまた読んでくださると嬉しいです。試行錯誤しながら、なんとか書いております。

お気に入り・評価・感想など、お気軽にどうぞ! また次回でお会い致しましょう。それでは、これにて擱筆します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。