彼の周りは少し愛が重い (澱粉麺)
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彼の一日:前編


はじまります。


 

 

 

布団の中で目が覚めて、その数秒後に目覚まし時計の音が鳴る。少しもたついた手先でそれを止めてゆっくりと起き上がる。

何故か肩が凝る。思い当たる節は幾つかあるが、どれか特定するのは難しい。ただまあ、突き止める必要も無い。

 

部屋を出て、階段を降りる。

既に良い匂いがする。今日は母と父共に早い筈だ。だからこれを作っているのは…

 

 

「兄さん、遅いですよ。

冷めてしまう前に食べてください」

 

 

「悪い、昨日ちょっと夜更かししちまって」

 

 

「まず顔を洗ってきて下さい。

お皿に目やにが落ちそうです」

 

 

洗面台に行き、顔を洗う。

歯を磨き、鏡で顔を見る。別にどうって事ない、普通の行動。普通の朝に、普通の光景。

 

ただ一つ、どう贔屓目に見ても普通でないのは

俺の顔に付いた大きな傷痕。酷い火傷の跡。

 

子供の頃に何やらやってしまった時の傷らしいが、正直なところ自分自身ではよく覚えてない。まあどうせストーブに顔から突っ込んだみたいな下らないことだろう。

 

 

「兄さん!何を愚図愚図してるんですか!」

 

 

うわっと。大きな声が俺を正気付かせる。

直ぐに身嗜みを整えて、椅子に座る。

 

今日は、妹の鈴が作った朝御飯。簡素な物ではあるが、寝起きにはむしろそれがありがたい。

するすると掻き込んでから、鞄を持つ。

 

追われるように玄関を後に。それに数瞬遅れ、後ろから扉が開いて閉じる音。

鈴が後ろに居る。

 

 

そうして、共に登校をする。

いつもの、平和な通学風景だ。

横には一人の少女。

 

古賀鈴。俺の自慢の妹だ。

セミロングの黒い髪ときっちりした着こなしはいかにも真面目そうであり、実際に真面目だ。

中学三年生であるというのが信じられないほど大人びて、しっかりしている。俺の上背が無駄に高くなければ、どちらが兄(姉)かわかったものじゃなかったろう。

 

 

「そういや、そろそろテスト期間だな。

鈴はやっぱ余裕か?」

 

 

中高一貫校に俺たちは通っている為、通学路は同じ。帰り道はそれぞれ放課後に用事がある為違うが。

だから、テストの日にちも殆ど同じ。それに起因する話題だったが、少し後悔する事になる。

 

 

 

「余裕…とまでは行きませんが、誰かさんと違って詰め込み学習をするつもりはありません」

 

 

うっ、と唸る。耳が痛い。

じとっと睨みながらの発言は、誰を表しているかを完璧に示していた。

 

 

「ま、まあ、なんだ。

平均くらいは取れてるしいいだろ?」

 

 

「一週間前に暗記する事の不健全さについて言っているんです。日々の予習、復習を徹底すればそんな事をする必要はない筈です」

 

「それに『いいだろ?』なんて私に許可を取る必要も。勉学とは自身の為に行うものであって誰かの納得を得る為の物では無いのですよ」

 

 

「…ハイ、一字一句その通りです…」

 

 

語調は少し強いが、鈴が言っている事は全て正しい事だ。しかも彼女は当然に口だけではない。実際鈴が詰め込みをしているところを見た事は無いし、成績も非常に優秀だ。

 

 

 

「…すみません、朝から説教臭くなってしまいましたね」

 

 

「俺の事を思って言ってくれてるんだろ。大丈夫、分かってるよ。鈴は昔から優しいからな」

 

 

 

そうして、頭を撫でようとする。それに気付き、手を途中で止める。

 

昔からの癖で、ついついやってしまいそうになるのだ。だが妹ももう思春期だ。家族にすら敬語を使うような程だし、下手に触るのもよくないだろう。

 

 

 

「…兄さん?」

 

 

「いや、なんでも…

…っと、あれ!?もうこんな時間かよ!

悪い鈴!ちょっと先行くわ!他の約束あるんだ!」

 

 

「え、ちょっと…!」

 

 

 

返事も聞かずに走り抜ける。

いや、本当にすまん。後ろでは時間管理がなってないと怒ってるだろうか。そう言われたら割と否定しようが無いな。

 

 

 

 

 

「……行っちゃった」

 

「……言い過ぎだった、かな…」

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

何とか、朝の用事には間に合った。

『そんな急がなくても、もし暇だったらくらいで良かったのに〜』と言われた時は力が抜けてしまったが、まあなんだ。クラスメイトの力になれたって事は喜ばしい事と思っておこう。

 

そうして、あっという間に昼休み。

昨日作り置きしていた弁当を早々に食べ終えてしまい、購買で何か買おうかと食堂へと向かう。

 

 

すると、ある一場所に人だかりが出来ていた。

なんだろうと目を細めて見る。そうして、なあんだ、と拍子抜けした。

なんだ、よくある事だ。

 

 

人だかりのほとんどは女子が占めていて、そしてその中に居る人物は非常に見覚えがあった。

 

すらっとした顔立ちに、高めの身長。清潔感のある、後ろに纏めた髪と、非常に珍しい赤い目の色。カラーコンタクトでもなんでもなく、地なんだそうだ。

 

 

それは、我が校の生徒会長サマだった。彼女はその中性的な口調や見た目から、女生徒ながら、他女生徒に王子的な扱いをされているのだ。

 

彼女は、シドと呼ばれている。

無論本名ではない。彼女の下の名前は史桐(しとう)と言うのだが、どうも本人がその名を気に入っていないらしく、『気軽にシドと呼んでくれ』とあだ名呼びを薦めてくるのだ。

 

 

 

 

「……ああ、ありがとう。ボクも嬉しいよ。

うん?…成る程、以前の意見は君のおかげだったのかい。感謝しているよ」

 

 

 

言葉の一節一節毎に黄色い悲鳴が聞こえてくる。遠目に見ると、その端正な顔には爽やかな笑みが張り付いていた。

 

それを見て、ふふっと笑いが出てしまう。

 

瞬間、悪寒がした。

目が合った。バッチリと、こっちを見ていた。一瞬だったが、完璧に目は笑ってなかった。

 

 

 

「……うん?いや、何も無いさ。

ふふ、心配してくれてありがとう」

 

 

 

黄色い悲鳴が遠くに聞こえる中、俺は頭を抱えてしまいたかった。ああ、放課後が怖い…

 

 

 

 

 

……

 

 

 

「それで?何で笑っていたのかな」

 

 

「いや、その…すげえあからさまな作り笑いだったからその…つい笑いが出ちまって…」

 

 

「あはは、キミは相変わらず素直だねえ。

つまりボクを馬鹿にしていたんだな?」

 

 

「違う、違うって!お前を馬鹿にしてたとかじゃなくてなんかこう…シュールで!」

 

 

「言い訳がド下手くそかキミは」

 

 

 

生徒会室で、赤い目が俺を糾弾する。

糾弾しているその顔は非常にウキウキとしてて、楽しそうですらある。

…この女やっぱり悪魔なんじゃなかろうか。

 

 

 

「おや、何かまた良からぬ事を考えてるな?古賀くん。反省が足りないんじゃないのかい?」

 

 

「なんで分かったんだよ!?

いだだだだ!!指絡めするのやめろ!」

 

 

「いい加減にポーカーフェイスを身につけ給えよキミは。ほら、さっさと詫びを成果で出しなよ」

 

 

……そう、いつからこうなったんだったか。

 

品行方正、才色兼備、成績トップで教師の評価も最高。そんな生徒会長サマは、この生徒会室、俺と二人きりの時だけにその分厚い猫の皮を脱ぐ。

我儘で、ねじ曲がったその性根を表す。

 

 

初めはそうじゃなかった筈だ。

(シド目当てでの)水面下争いが激しすぎて、他職の人員が決まらないのだという生徒会の仕事を俺が臨時で手伝う事になった時はまだ、俺の前でも彼女は猫を被っていてくれたんだ。

 

 

 

「おや、その書類も書き終えたのかい。

相変わらず仕事が早いねえ」

 

 

「お前に散々慣らされたからな…

あ、そのチョコくれ。甘いもの食いたい」

 

 

「これボクのだから駄目」

 

 

「一個くらい良いだろ!?」

 

 

「キミの断られた時の顔が見たいから駄目」

 

 

にんまりと笑いながら、悪びれもせず言う。

この野郎…とは、言わなかった。言う気力も尽き果てていたというか、言っても無駄だとわかっていた。

 

 

いやほんと、いつからこうなったんだったか。

 

げっそりとした俺の顔を見て、シドがカラカラと笑う。その笑顔は、昼休みに食堂で見た笑顔とは、まるで違った。張り付いたような笑みでは無く、心からの笑みのようだった。

 

それを見てると、まあこの関係も悪くはないかなんて思えてしまうからずるいもんだ。

 

 

 

「しかし珍しかったな、食堂で囲まれてるの。お前そういうの嫌がっていつも隠れて食うだろ」

 

 

「彼女らが他に迷惑をかけそうだったからね。仕方なーく姿を表したのさ。やれやれ、人気者も楽じゃあないね」

 

 

そう自慢じみた言葉とは裏腹に、表情は本当に困り、疲れてしまっているようだ。

 

 

「全く、キミといるくらいが幸せでいいよ。

いっそ逃避行しないかい古賀くん」

 

 

「勘弁してくれよ、俺が女子に殺されるだろ」

 

 

「はは、フラれちゃったか。…残念」

 

 

 

酷く、落ち込んだような顔をする。

どうせフリだろう。この生徒会長はとんでもない演技派なのだ。もう騙されないぞ。

 

 

 

「しっかし…よく付いてこなかったな、この生徒会室に。なんとか追い払ったのか?」

 

 

話題を変えようと思い、そう言う。あの数、あの熱狂を流すのには大変だったろう。

 

 

「…ん?ああ、そりゃあ全力で追い払ったさ。書類仕事の邪魔になるから、迷惑になるからとね。唯一の憩いの場すら壊されたくないもの」

 

 

一瞬の沈黙。

その後、低い声が聞こえてきた。

 

 

 

「それに、キミと二人きりの時間を他の奴らのせいで失うなんてあってたまるか」

 

 

 

その言葉を何度か反芻してようやく理解する。

 

 

 

「…おいおい、どんだけ俺虐めるの楽しみにしてるんだよ」

 

 

「アハハ、そういうことじゃないけどね。

いや、それもあるかも?」

 

 

瞬間、チャイムの音が聞こえて来る。

おや、もうこんな時間か。

 

 

「すまん、時間だ。まあ割り振られた分の仕事はしたし許してくれよ…くれよ?」

 

 

「オーケー、ボクを笑ってた分の残りの言及はまた明日にしようか」

 

 

「まだあんのかよ!…んじゃ、また明日な」

 

 

「うん、また明日。

…明日も来てね。約束だ」

 

 

 

最後に言ってた言葉は声が小さくてよく聞こえなかったが、まあきっといつものような軽口だろう。俺はただ、早歩きをし始める。

待ち合わせをしておいて、待たせる訳にはいかないだろう。

 

 

 

「……ちぇっ」

 

 

 

 

彼の一日、後編に続く




古賀集
→背丈が大きい、顔に大きな火傷跡のある青年。そのような見た目を怖がられる事も多かった為、自己評価がかなり低い。人助けがシュミ。


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彼の一日:後編






 

 

 

ふう、と軽く息を吐く。なんとか時間内に待ち合わせ場所に着くことが出来たが、きっと彼女はもう先に着いているだろう。

 

ここは図書館。俺たちの学校近くにある場所で、いつも閑散としている。だからこそ、静かに時間を過ごすにはいい穴場になっているが。

 

 

さて、と目を凝らす。

 

すぐに座っている少女の姿を見つけた。

座って、机に上体を寝そべってる。

静かに寝てしまっている。

 

顔は見えないが、彼女の少しぼさついた、おさげにしてある髪型で判別がつく。ついでに、制服も俺たちの高校のものだ。

 

 

くく、と笑う。

ただ寝かせて置く訳にもいかないだろう。

優しく揺さぶる。

 

 

 

「…ひさめ、ひさめさん。起きてくれー」

 

 

 

「……ん…あれ…」

 

「…あれ…?

……あれ!?こ、古賀さん!?

あわ、わ!待っ…ぼ、僕まだ!」

 

 

 

あわあわと慌てて、横に置いてある眼鏡を壊れんばかりの勢いで付けて、必死に髪を整えている。顔は真っ赤だ。

 

 

 

「あはは、そんなに慌てなくていいよ。

ていうかごめんな、少し遅れちまって」

 

 

「いや慌ててなんか…

いえ、遅れてはいな…え、ええと!」

 

 

 

何とか、落ち着こうとする姿を見る。

その姿を見て、自然と笑いが込み上げてくる。

 

 

「わ、笑わないでくださいよお…」

 

 

「悪い、つい…」

 

 

彼女の名前は村時雨ひさめ。高校一年生で…

まあ平たく言うならば、俺の後輩だ。

実は、先程俺の居た生徒会の、庶務でもある。(今はテスト期間の為に来て居なかったが…)

 

関係性はそれが初めてではなく、ちょっと奇妙な仲だったんだがそれについてはまあ説明するのも面倒だし、何より必要も無い。 

 

 

眼鏡におさげの髪、そしてひょこりと一本生えたアホ毛。彼女が意識してセットしているというわけでは無いらしいが、にしては見事に生えてるものだ。

 

そして、顔が良い。

野暮ったい服装や髪型などでもまるで霞んでしまわない程度には、非常に顔が良いのだ。

 

背格好が小さい事もあり、大きなキズが付いてる俺と並んでると正直誘拐の現場みたいだ。この制服が無ければ何度か通報されてたんじゃないだろうか。

 

 

 

「……じゃあ、そろそろ始めようか」

 

 

「は、はい。今日も宜しくお願いします!」

 

 

「ああ。…えっと、今日は何だ?」

 

 

「…はい。では…『これ』をお願いします…」

 

 

 

そう。そんな彼女と連日ここに集まっているのは何も彼女との密会だとか、そういう訳では断じて無い。ここに来ているのは…

 

 

 

「……『化学』か。

また少し教えづらいものを…」

 

 

「す、すみません…お願いします…」

 

 

 

…彼女のテスト勉強の為だ。

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「……うーん…採点終わったぞ」

 

 

「うへえ…ひ、低いですね…」

 

 

「何を他人事みたいに言ってるんだ…

ほら、そこの答えの解説一応書いておいたから、分からない所あったら言ってくれ」

 

 

「はいぃ…」

 

 

 

そうして、また頭をうんうんと悩ませる光景を見る事になる。

 

彼女はその…

とても、真面目だ。

真面目で、言われた事はやる。

 

ただどうしても勉強はそこまで好きではないのと、その…何というか、要領が悪い。

そのせいで、どうも成績が芳しくないのだ。

 

 

一世一代の告白のように、勉強を教えてください!と言われた時の事を思い出すと、ついつい微笑んでしまう。それを言うとひさめは拗ねてしまうが。

 

教える事により俺自身の知識の裏付けにもなる。だから教えるのも快諾した訳だが…

 

 

 

「…あっ。ここって…こういう事ですか?」

 

 

「…いや、ちょっと違うな…

もう一回考えてみ」

 

 

「うう…わかりました…」

 

 

 

…安請け合いした事を、ちょっとだけ後悔している節はある。

 

というのも、俺もそこまで頭が良い訳ではない。あくまで平均レベルだ。そんな人間が教えても彼女の力になれないのでは無いか。と、ついつい不安になってしまうのだ。

ひさめの時間を、みすみす無駄にしてしまってるだけなのではないかと。

 

 

 

「!わ、わかりました。

こういう事ですよね!」

 

 

「お、どれどれ…

……うん、そうそう!良く頑張ったな!」

 

 

「や、やったあ!」

 

 

疲労混じりの、にへらとした笑みを彼女がする。その笑顔がひどく可愛らしくて、ついさっき抱いた様な不安がさらさらと消えて行くのがわかる。我ながら現金なものだ。

 

 

 

「そろそろ休憩しよう。図書館だから飲食は出来ないけどまあ、息抜き程度にな」

 

 

「そうですね…

僕もちょっと疲れちゃいました…」

 

 

そう、ふにゃっと溶けていく。その様子を見てまた、笑いそうになってしまう。

馬鹿にしている訳ではなく、微笑ましさからだと上手く説明できればいいんだが。

 

 

 

「……しかし、何で俺なんだ?」

 

 

「…へっ!?な、何がですか!?」

 

 

「いや、教えて貰う人。

俺以外にもよっぽど賢い奴居ただろうに」

 

 

「あ、ああ、そういう事ですか。

…そうですね。以前その…教えてもらったじゃないですか。あの時、とてもわかりやすかった

のと…」

 

 

「と?」

 

 

「その…た、楽しかったので…」

 

 

 

そう言っている彼女の頬は少し赤くなり、微笑みを浮かべていた。

『あの時』の思い出が、彼女にとっては良い思い出になっていたらしい。それはとても嬉しい事だ。

 

 

 

「…そっか。そう言って貰えると嬉しいよ」

 

 

「は、はい。僕もその…古賀さんと一緒にいる事が出来て嬉しいです」

 

 

 

微妙に会話になっていないような会話を、少し怪訝に思いながら笑う。

彼女なりの俺が嫌いじゃないという意思は伝わってきた。それは、喜ばしい事だ。

 

 

 

「しかしその…すまん、失礼だけど…どうしてこの高校に来たんだ?ひさめの学力なら一つ下の所に行った方が楽だったと思うぞ?」

 

 

そういうと、ひさめはぴくりと肩を震わせた。

瞬間、こっちを真っ直ぐ見た。

 

 

 

「…ここが」

 

「ここが良かったんです。

ここじゃなきゃ、駄目だったんです」

 

 

と、いつもの気弱な様子すら消えてきっぱりとそう言った。

 

俺は様子を見てそれ以上何も言えなくなった。そうか、分かった。彼女が拘った訳を…

 

 

「…そうか、ひさめは寝坊助さんだもんな。家から近いこっちじゃないと厳しいか…」

 

 

「そ、そんな理由じゃありません!」

 

 

「あはは、冗談冗談」

 

 

 

そうこうしている内に、日が暮れていく。

図書館内に閉館のアナウンスが流れた。

 

 

 

「っと…そろそろ帰らなきゃか。

それじゃ、また明日な」

 

 

「あ…

…はい。それでは、また」

 

 

 

名残惜しげな顔をしてから、にこりと笑ってくれる。そんな顔をされたら、こっちまで名残惜しくなってしまいそうになる。だがだからといって帰らない訳にはいかないだろう。

 

 

 

「……また、明日」

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

家に戻ると、玄関に鈴が立っていた。何をしている訳でもなく、じっと遠くを見つめるように、ぼーっとしている。最近の鈴には珍しい光景だ。

 

しかし、何故玄関に?どうしたんだろう。鍵を落としでもしたんだろうか。

 

 

「ただいま。…どうした鈴。

家の鍵無くしたのか?」

 

 

「おかえりなさい、兄さん。

…そんな間抜けな事はしませんよ」

 

 

そう言われて家を見てみると、明かりは付いているし、良い匂いもする。既に料理も作っているようだし、鍵を無くしたという事ではないのだろう。

 

 

「…兄さんを待っていたんです。

帰りが遅かったから…」

 

 

「遅い?…って言っても、そこまでじゃないだろ。そりゃいつもよりちょっと遅めだけど」

 

 

「…帰ってきたのならよかったです。

さあ、ご飯を食べましょう。一緒に」

 

 

成る程。鈴は、恐らく一人で夕飯を食べるのが寂しかったのだ。今日は両親共に帰りが遅い。そうなると、俺以外食卓を囲める者は居ない。

 

鈴は、とてもそうは見えないが、案外寂しがり屋なのだ。本人にそう言うと躍起になって否定するが。

 

 

 

「はいよ…あ、その前に手洗わないとな」

 

 

「ふふ、そうですね」

 

 

 

 

 

……

 

 

 

「あー…今日は学校、どうだった?」

 

 

「…なんです、その聞き方」

 

 

「…ほんとだよ。娘との接し方がわからない父親じゃねえんだからな」

 

 

「ぷっ…ふふ!確かに、それっぽい」

 

 

 

食事を終えて、ダラダラとクイズ番組を見ている最中だった。なんだかよくわからない沈黙に耐えきれずに、変な切り出し方をしてしまった。まあ結果笑ってくれたから良し。

 

風呂上がりだからと言う事もあるだろうか。鈴の雰囲気は朝よりも幾分か柔らかい。

というよりも、家の中だと彼女から張り詰めた雰囲気が些か減るのだ。

 

 

 

「えー…これBじゃねえかな。絶対そうだよ」

 

 

「いや、Aですよ絶対。多分」

 

 

「どっちだよ」

 

 

「Aですって。100円賭けてもいいですよ」

 

 

「言ったな。じゃあ俺Bに100円」

 

 

 

財布を互いにぬるりと取り出す。小銭を漁ったら10円が10枚有った。通りで財布が重いはずだ。もし外れてたらついでにこれを押しつけてしまおう。

 

 

 

『答えはCです〜!』

 

 

 

「「……」」

 

 

「…ノーコンテストだな」

 

 

「…絶対Bって言ってたじゃないですか」

 

 

「いや鈴も絶対Aって言ってたろ!」

 

 

「私は『多分』に修正しましたから」

 

 

「うわずっる!コスずるいぞお前!」

 

 

「なんとでも言ってください」

 

 

 

静かに笑いながら、時間が過ぎていく。

だんだんと夜が更けていく。

 

明日も学校がある。それぞれ自然に、お開きの形になっていく。それぞれの部屋に戻る、そういう流れに。

 

そうして、リビングから部屋に戻ろうとした時に。

 

 

 

「兄さん」

 

 

 

急に、声を掛けられた。

 

 

 

「ん?なんか俺やらかしたか?」

 

 

「いえ、そう言う訳では…」

 

 

 

そう、鈴には珍しく語調が弱まる。いつも理路整然とした鈴らしくもなく、言い淀む。

 

 

 

「…その…朝は」

 

 

「?」

 

 

「朝は、すみませんでした」

 

 

「……?」

 

 

 

本当に思い当たる節が無く、首を傾げてしまう。それに、痺れを切らしたように鈴が叫ぶ。

 

 

「朝!説教をしてしまった事です!不快な思いをさせてしまったのではないかと思って!」

 

 

「え…ああ、あれか!なんだよ、全然そんな不快な思いなんてしてないって!謝る理由なんて無い無い」

 

 

「本当ですか?…なら、何故…」

 

「…なんで、撫でてくれなかったの?」

 

 

「ん?」

 

 

「朝、走って行っちゃったのも、どうして?」

 

 

 

…なるほど、どうも、俺の軽率な行動が鈴にとんでもない誤解を生んでしまっているようだ。

 

 

 

「あれは違うよ。走ったのはマジで約束を忘れてたからだし、撫でなかったのは…お前ももういい歳だから、嫌がるかと思っただけだ」

 

 

 

「…本当?…お兄ちゃんは嫌な事を嫌だって言わないから…我慢させちゃって、嫌な思いさせちゃってたかなって…」

 

 

「……考えすぎだよ」

 

 

そう言う傍らで、俺は自分に喝を入れてしまいたくなっていた。

 

そうだ。幾らしっかりしてるからって、強く見えたからと言って、鈴はまだ中学生。

 

そして、俺の妹なんだ。敬語を使い始めたから。思春期だから。そんな風に勝手に見切りを付けて、判断をするなんていけない事だった。

 

 

 

俺は静かに、鈴の頭を撫でた。

昔のように、ゆっくりと。

 

 

 

「鈴は寂しがり屋さんだな」

 

 

「…そんな事、無い」

 

 

「はは、そうだな」

 

 

 

必死になった時、取り乱した時、追い詰められた時、鈴はつい敬語が解けてしまう。俺を呼ぶ時も、以前のような『お兄ちゃん』呼びになる。勿論、そうそうある事では無い。

 

つまり今は、俺が彼女をそれくらい追い詰めてしまったと言う事だ。俺のせいで、そんなにも追い詰めてしまったのだ。

 

ただ、今のその顔を見ると、もう大丈夫なようだ。もう、一人でも大丈夫だろう。

 

 

 

 

「…それじゃ、おやすみ」

 

 

「…はい。

おやすみなさい、兄さん。また明日」

 

 

 

そうして、部屋に戻る。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

さて、寝る前に単語の一つでも見ておこうか。

そう寝床に転がりながら考えて単語帳を開く。

 

が、疲れていた事もあり、すぐに眠気に襲われてしまう。

 

いかんいかん。ちょっとは覚えておかないと。

そう思いながらも身体は正直だ。

 

 

あっと言う間に、眠ってしまった。

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

夢を見た。

それは、語るのも恥ずかしい夢。

 

おさげと眼鏡の少女が俺の手を取った。赤い眼の女性が、その手を奪うように手を取る。

そしてその横で、真面目そうな女の子が俺の裾を掴んだ。

 

 

そして、皆が言う。

 

『誰を選ぶの?』と。

 

 

 

 

ぴぴぴぴ。

ぴぴぴぴ。

 

目覚まし時計の音が鳴り、少しもたついた手先でそれを止め、ゆっくりと起き上がる。

 

 

(……我ながら、自意識過剰すぎるだろ)

 

 

わけのわからない罪悪感と、気恥ずかしさ。夢は無意識の表層って聞いたことがある。

つまりは、こんな事をちょっとでも考えている自分がいるって事だ。ああ、嫌になる。

 

 

 

そうだ。それぞれ、彼女たちが俺に好意を向けてくれてるのはわかっている。

 

だが、それはLoveではなく、Likeなのだ。そんな事はとうにわかりきっているだろう。

そう、洗面台で鏡を見ながら自分に問う。

 

そうしていると、顔にある火傷跡がいやでも目に入る。

ああ、そうだ。こんな傷がある人間を愛してくれる人間なんて、居るはずが無いだろうが。

 

そう思って少し笑った。

さっき見た夢の自嘲だ。

 

 

 

さて。頬をぱんぱんと叩き、それらを忘れる。

 

今日のご飯係は俺だ。鈴が起きてしまう前に色々とやっておいてしまわないと。

 

 

ちゅちゅちゅんと、雀が鳴く。

また、一日が始まる。

 

 

 

 

 

 



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リップスティック・アンド・レッド(九条史桐)






 

 

 

冬至が過ぎ去り、日々は暖かく、過ごしやすくなっていく。しかし急激に温度が上がる事は当然無く、肌寒い日は続く。

 

だからそうして、空気は渇いたままだ。

湿度が足りず、肌はかさつき唇はガサつく。

 

だからこうして唇が切れる事はよくある事だ。それは性別、老若男女に関係なく。

 

 

「…シド、血が出てるぞ」

 

 

「ん、ボクの生理事情なんて良く知ってるね」

 

 

「……知らねぇよそんな事。

俺が言いたいのは唇の事だって」

 

 

「冗談、冗談。本当はセクハラで訴えようと思ったけど」

 

 

「冗談じゃないじゃねぇか」

 

 

ポケットティッシュで口を拭いながら、そう下世話なジョークを飛ばす。その女性の目の色は異常にも見える、真紅だ。

 

 

「いやいや、流石に然るべき機関に訴えたりはしないさ。大切な友達を売るほど腐っちゃいない」

 

 

「どうだか…」

 

 

「した所で精々周りに『乱暴された』と言いふらすくらいだよ」

 

 

「……」

 

 

その真紅の少女と言葉を交わす男は頭を抱える。品行方正で才色兼備、皆々からの信頼も高い生徒会長さまがそんな事を言ったら自分はもはや石打ちになるだろう。

 

自分が信頼されていないとまではいかないが、男と女ならば女性の証言の方が絶対に信頼される。し、だ。

 

男は自分の風貌を鑑みる。

無駄にデカい身長と、顔に付いた大きな火傷痕。ストーブでやってしまったものらしい。物心もついていない頃の出来事だった為記憶も確かじゃないが、母親がそう言っていた。

 

これらのお陰で最初は友達を作るのにも苦労したものだった。今でこそそうでもないが…

 

 

閑話休題。

しかしまあ、これがまた不良のような信頼のない相手ならば大丈夫だろうが、言いふらそうとするのは、あのシドときている。

 

人間性も学力も非の打ちどころがない完璧な、超のつく優等生。それが彼女だ。

 

…そう、その筈なのだ。

 

 

 

「勘弁してくれよ…ていうか、お前そんな事言うキャラじゃなかっただろ?」

 

 

「おや、それは君の勝手な思い込みだよ。

これが本来のボクさ。君くらいにしか見せない本当のボクってやつ」

 

 

「そんなプレミア要らないから俺の前でも猫被っててくれよ!」

 

 

 

…そう、品行方正、才色兼備。まるで王子のようだと彼女に憧れる女生徒が今の姿を見たら卒倒するだろう。

 

生徒会長、シド。

彼女はある特定の人物と二人きりになる時だけ、その厚い化けの皮を脱ぐ。

 

 

 

「アハハ、そう照れずに!

あ。そのお菓子一口頂戴。」

 

 

「嫌だよ、前それで全部持ってったろ」

 

 

 

呆れたように、菓子を庇うこの火傷の青年。彼は、古賀集。

 

心優しく、誰かの役に立とうと生徒会以外にも様々な者を手伝っていたら、いつの間にか生徒会長とこのような関係になっていた。

 

何故だったか?実の所、彼自身もよく覚えていない。

 

 

「んじゃ、これ代わりにやるよ」

 

 

「?」

 

 

そんな古賀青年が渡したのは、菓子ではなく、一つの小さな円柱。

 

 

「リップクリーム。

血が出たのも乾燥してたからだろ、きっと」

 

 

 

ふと、不可思議な沈黙が場を包む。

 

古賀からすれば、どうせいつもの皮肉じみた言葉が飛んでくるのだと思っていた。

 

しかし実際は、シドは投げられたそれを、やけに大切そうに両掌の上に乗せ、茫然としたように眺めていた。

 

 

「あ、ありが、とう」

 

 

「…んん?」

 

 

 

普通の礼を言われた事に、違和感。

怪訝に思い、その顔を見てみると、妙な顔をしている事に気づく。

 

ああ!と、手を叩いた。

 

 

 

「安心しろよ、それ新品だから。

俺の使い古しとかじゃないって」

 

 

「……」

 

 

「いや、他の人にも配ろうと思っててさ。

安く売ってたからいっぱいあるんだ。

だから借りに思う必要もないぞ」

 

 

「…」

 

 

 

ふと、部屋の気温が少し下がった気がした。

しかし暖房は常に一定で、変わりはしない。

 

はあぁぁ…と、大きな溜息が部屋に放たれる。

 

 

 

「あーそうだろうね。そうだろうよ。君はそういう人だ。君は誰にだって優しいもんね。ふん。知ってたよーだ」

 

 

「お、おい、どうしてそこで怒るんだよ。

中古を押し付けたりもしてないし、むしろ感謝される事じゃ…」

 

 

「うるさい、ばーか」

 

 

 

そういうところが君ね…と、ブツブツ呟くシドを、理解もできずにただ眺める。

 

何を間違ったのだろうか。

最適解だったはずなのに、と。

困ったような顔をしてたのはそうではないのか?と、見当違いの事ばかり。

 

 

 

「やれやれ、感謝を覚えるのが馬鹿馬鹿しくなってくるよ…まあそれについては今はいいや。ありがとう。早速使わせてもらうよ」

 

 

「え、ああ」

 

 

 

返事も待たぬ内に少女はその華奢な指できゅぽん、と蓋を外し、リップクリームを唇に、患部になぞるようにゆっくり塗る。

 

唇の形を確認するように、なめらかに、上と下の両方に、じっとりと時間をかけ。

 

それだけの動作が、まるで何か艶美な雰囲気を醸す儀式のように思えた。

 

赤い目がまるで魔性そのもののようだった。

 

 

 

「…ふう。それじゃ、ハイ」

 

 

「えっ?」

 

 

 

古賀は、投げ返されたそれ…リップクリームを、惚けたようにキャッチをする。

 

 

 

「どうせキミ、自分の分は買ってないとかなんだろ?だからそれ使って。」

 

 

「は?いやいや、だからこれはお前にもう譲ったんであって」

 

 

「馬鹿にしないでくれるかな、リップクリームくらい自分のものがあるよ。…まさか本当に持ってないと思ってたの?」

 

 

 

男の思考が、唖然と止まる。その顔を見て愉快そうに生徒会長は顔を歪めた。

 

 

 

「フフフ、でもありがとう。

その善意は本当に嬉しかったよ。本当に」

 

 

「え、それじゃ何で使ったんだ…!

っていうか俺リップなんて要らないし!」

 

 

「うん?」

 

 

「いやだって、男だし、そんなクリームを塗る必要も機会も無いだろうしそれに…」

 

 

 

「…ちょっと勘違いしてない?」

 

 

 

 

そう言うと、シドがずずいと距離を詰める。

息と息が触れ合うような、そんな距離。

赤い目に射竦められるような、近さで。

 

 

 

「ボクは、キミに命令したんだ。

『これを使って』って。

お願いじゃあなくて。め、い、れ、い」

 

 

「…!ち、近……!」

 

 

「キミは自分の意思じゃなくて、ボクの意思でそれを使うんだよ。ボクが一度使った『それ』を、ね。皆の前で、判らせるように」

 

 

「わ、わかったから離れろって!」

 

 

 

本当は、何を言っているか何一つ判ってはいなかったが、その、あまりにも心臓に悪いシチュエーションから逃れる為にそう言う。

 

だがその懸命の努力は身を結ばない。

 

 

 

「いいや、何も判ってないよ。キミは。

だからホラ、眼を少し、瞑って…」

 

 

 

赤い目から逃れるように、少しでも正気でいられるように、すがる様に、言われるがまま目を瞑る。

 

 

すると、次第に青年の唇に何かが触れた。

 

 

それは湿っていて、少し冷たくて…

 

 

…冷たい?

 

 

眼を開けた。古賀の唇に当たっていたものは、シドの手にするリップクリームだった。

 

 

 

「…ク、アハハハ!なんだいその顔!

ひょっとして、キッスでもされると思ったかい?期待しちゃった?」

 

 

「…うるさいな…」

 

 

「フフ、いやぁ、キミもこんな顔するんだね。頑張ったかいがあったってものだよ」

 

 

照れに耐えきれなくなったように古賀はその部屋を出ようとする。

 

その間際にシドは語りかける。

 

 

 

「あ、そうそう。ちゃーんと使ってね、そのリップ。無いとは思うけど誰かに譲ったり、捨てちゃったりしたら……」

 

 

 

「……多分赦さないから」

 

 

 

ぞくぞくと、少し寒気を感じながら部屋から出る。そして、いつの間にか胸ポケットに入っている、くだんのリップを取り出した。

 

蓋を開けると、彼女のものと思われる赤色が少しだけ白の中に付いていた。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

…一人となった部屋で、シドは先ほど古賀の唇に塗り当てたリップを手に持つ。

 

これは、いつも自分が使ってるものだ。

ここ数ヶ月使い、すっかり自分の唇の形を覚えたもの。

 

その形が、少しだけ歪んでいる。

誰か別の、男の唇の形に。

 

 

迷わずにそれを、彼女は自分の唇に当てた。

赤い目は、魔性そのもののようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

 

…それは、ボクが彼に関心を持った時の記憶。

彼を初めて、面白く思った時の顛末だ。

 

 

初めて見た時は、正直気にも留めなかった。

背丈が大きいなぁとか傷があるねとかは思ったが、まあ別にそれだけ。

 

少しだけ目についたのは、迷い犬を拾ったという誰かに、その当人よりも必死にその犬について頭を悩ませてた所だ。

 

面白いとは思ったが、どっちかというと見世物小屋を見てるような風情だった。好奇と、僅かな侮蔑が混じるようなそんな。

 

正直、くだらないとも思っていたし…

…なんというか、見下していた。

 

 

 

ある日の帰り道。小腹が空いて軽く食べようとそこらのファスト・フード店に入った。

 

そういった所に入るのは結構久しぶりで、少しワクワクした反面、解らない事が多い。

 

聞かぬは一生の恥とも言うし、店員を呼んで聞いてみる事にした。

 

メニューを眺めながら店員が来るのを待つと、その影がぴしりと固まった気配を感じた。

 

その影は、ヤケに大きかった。

 

 

「…やっほ。見た事がある顔だ」

 

 

「……ど、どうも」

 

 

 

取り敢えず挨拶をしたが、何も頭に入っていないようだった。ハハ、あの時の冷や汗の量は…ガマの油の逸話が頭に浮かぶくらいだ。

 

まあ、密告なんてするつもりもない。そんな事したところで、下手にボクの手間が増えるだけな上、逆恨みまでされかねない。

 

何より、ボクは普通にこの間食を楽しみたかったのだ。

 

だからその旨だけ伝えてゆっくり味わって、そのまま帰った。

 

 

翌日以降、話しかけられたりはするかと思っていたが、本人も飛び火を恐れてかそういう事はしてこなかった。

 

…代わりに、馬鹿みたいにこっちを見ていたが。それなら一思いに話しかけて貰った方がマシだったというものだ。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

「前も思ったけど。

アンタ、こういう所来るんだな」

 

 

また別の日。

ボクはまた来店していた。

 

あの日以来、少し戦々恐々としてたが別にこれといった事は無く。すっかり安心しきった彼は、その日客が少なく暇だった事もあるのだろう。話しかけてきたのだ。

 

 

こういうところに来るのか。そういった偏見や、謂れのない憧れ。勝手に想像して、勝手に裏切られたとか言うつもりか、こいつは。他の奴らみたいに。

 

「人の事を何だと思ってるんだ。

そんなにお高く止まってるように見えた?」

 

 

そんな苛立ちをそのまま、言った。

しかしそうすると、そいつは本当に申し訳なさそうにオロオロとし始めた。そんなつもりじゃなかったと。そして、こう言った。

 

 

「…悪い。そういうつもりじゃなくてさ。なんかこう、アンタ…どこか遠くから俺らを見つめてるってか、関係無いものとして見てるような気がしてたからさ」

 

 

「…」

 

 

「き、気ぃ悪くしたならごめんな?

悪気があった訳じゃないんだ、ほんと」

 

 

砂を噛んだ様な気がした。ボクが遠くから見つめてる?馬鹿を言え、遠くから勝手に見つめているのは周りの方だろう。

…とは、不思議と言葉に出なかった。

 

代わりに口から出たのは、自分でも覚えていないような軽口。

 

 

 

「…ふうん、ここの店はカウンセリングでも副業でやるつもりかい?」

 

「君の趣味だっていうならやめておきなよ。人ってのは図星を言われたら、怒るものだ」

 

 

 

そう、乱雑に言い放った。

そこからは一言も話せはしなかった。

 

漫然と、店から出た。

頭がどこかぼやけるような。

そんな、不思議な感じがした。

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

「やあ、潰れかけって感じだね」

 

 

「……おお」

 

 

「前と同じセットで頼むよ。

覚えてないかな。幾分か前だしね」

 

 

「いや、覚えて…ますよ。

少々お待ち下さい」

 

 

彼は今更ながらに、バイトらしく敬語を使う。

本当に、今更だが。

 

 

「どうせ、暇だろう。

なら話でも聞かせてくれないかい」

 

 

そう、言った。

なんだか、もやもやとして仕方がなかったのだ。

彼の言うことを聞かねば、それは晴れない気もしていた。

 

 

「君、どうしてわざわざバレたらまずいとわかっていながらバイトを。苦学生なのかい?』

 

 

その答えはボクは知っている。

知っているが、それでも口から聞きたかった。

 

彼は、照れ臭そうに頭を掻き、そして言った。

 

 

 

「…実はさ。クラスメイトに犬拾ったって奴がいんだけど、それのワクチン代とか色々馬鹿にならなくて。それを稼ごうと思って」

 

 

返答は、そんな間の抜けたものだった。

自分が飼うわけでもないし、それを当人に要求された訳でもないのに。それなのにわざわざ働き、それに費やすというのだ。

 

馬鹿馬鹿しいとも思った。

いや、きっとボクはそれを…

 

 

「…優しいねぇ。

君はそんなに『いい人』になりたいのかい?」

 

 

皮肉たっぷりに、そう言った。こんな事を言うつもりでは本当はなかったし、表面的にでも褒めそやすつもりだったのに。

 

 

…多分、気に入らなかったんだと思う。

誰かがやれと言ったわけでもないのに、自分が努力して助ければいいというようなその、エゴにも近しい優しみが、何故か苛つく程に気に食わなかったのだ。

 

はっと思い直し、なんと取り繕おうかと彼を見た。

彼はただまっすぐな眼をしてこっちを見つめていた。

 

 

「ああ。俺は出来るだけ『いい人』で居たい。大きなお世話かもしれないし、余計かもしれなくても、それでもだ」

 

「それが多分、俺って人間の本質だから。

それに嘘つきたくはないんだ」

 

 

まだ照れ臭そうに。でも、迷いは一片も見せずに彼はそう言い切った。あろう事か、こうも言った。

 

 

「きっと、史桐さんもそうだろ。じゃなきゃあんなに、誰かの相談に乗ったりなんてしないじゃんか」

 

 

「……そうかな、そうかもしれない」

 

 

「絶対そうだ。

史桐さんもすごく優しいんだって」

 

 

 

……ボクが、優しいだって?

そんな事言われるのは、なんというか…

 

 

 

「……さん付けはいらない。同年齢だろう」

 

 

「ん、そっか。クラスメイトだしな」

 

 

「ああ。それに、気軽にシドと呼びなよ…」

 

 

 

 

 

……

 

 

 

クラスの友達に、ワクチン代を渡した。

最初はこんな大金受け取れないと言っていたが、これから先その犬を可愛がりにいかせてほしいからと、無理矢理握らせた。

 

その後、どうやらそのまますくすくと育っていっているらしい事を聞いて安心した。

 

 

 

「よかったね。君の努力は身を結んだみたいじゃないか」

 

 

机に座ると、そう声をかけられた。

隣からの声。

隣からは初めて聞く、声だ。

 

 

 

「…学校で話しかけられるの、なんか新鮮な気分だ」

 

 

「ボクも新鮮だよ」

 

 

「そりゃそうだな。

…で、急にどうしたんだ?」

 

 

「シンプルに、興味を抱いたのさ。君に」

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

「シンプルに、興味を抱いたのさ。君に」

 

 

そう、一連の会話と行動。

ボクは彼に著しく興味を抱いた。

 

一挙一足が面白い。考えが、普通とはまた違う。見た目じゃない、中身が変だコイツは。

 

 

「ところで、もうバイトはいいのかい?

最近はすぐ帰ってるみたいだけど」

 

 

「…はぁ、あそこ結局潰れちまって。

必然的に俺もクビになっちまったんだよ」

 

 

「へぇ。それじゃ、暇になったんだね」

 

 

「ま、今のところはな」

 

 

今なら、何故わざわざあそこに通い続けたかの理由がわかる気がする。保守的だから故にではない。

ボクの心が確信をしていたんだ。

 

 

久しぶりに、楽しみに心が笑った。

あの時確かに予感がしたのだ。

 

 

 

「ならば丁度いい!是非君に手伝ってほしい事があってね!どうも今の生徒会に人手が足りなくて–––」

 

 

 

ああ、そうだ。予感。

共にいれば面白い予感。こうしていれば何かが起こる予感。このつまらない日常の、変わる予感!

 

 

凜然と保ったはずの心を苛立たせてくる。整理した筈の持論を崩してくる。馬鹿馬鹿しいまでの善意を押し付けてくる。

 

嗚呼なんて、なんて…なんて楽しい男だろう!

 

 

 

「…だから君。生徒会に来て見ないか?」

 

 

 

ニッタリと笑いながら、ボクはそう言った。

彼の引きつった笑みが、赤い眼に映った。

 

 

 

 




九条史桐(クジョウ シトウ)(シド)
→生徒会長。少し長めの髪と大きめの背丈、そして世にも珍しい赤い目を持ち、男女問わずに人気がある。また、嘘をつかない(つけない)というクセがある。独占欲が強い。


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まほろばの陽だまり(古賀鈴)






 

 

 

俺は今、ある孤児院に向かっている。というのも、そこを経営してる人が両親と親交があり、幼少のみぎりからよく手伝いに行っており。今回もそのような流れで何か出来たら…という事だ。

 

向かっているのは、俺と…

 

 

「兄さん、あまり離れないように」

 

 

もう一人、古賀鈴。

つまり俺の妹だ。

 

本人も忙しいだろうし来なくても大丈夫だと言ったのだが「絶対に行きます」と言って聞かなかったのだ。

 

本人曰く、一人で手伝わせる訳にはいきません、との事だ。なんともまあ、ありがたい事だ。俺には勿体ないくらいの完璧な妹だ。

 

ただ、連れてくとなると一つだけ心配な事があるのだが…

 

 

「わかってるわかってる。

行き慣れてるし迷子にゃならないよ」

 

 

「万が一、です」

 

 

…流石にこれは過保護な気もするが。

でも善意からやってくれている事だ、咎めることもないだろう。

 

そんなこんなで歩いていると建物が見えてきた。何度も来たことのある場所だからか、ちょっとした安心感のようなものもある。

 

 

「…今日行く事は事前に連絡してありますよね」

 

 

「勿論。兄を甘く見過ぎだ」

 

 

「そういう訳じゃないんですが」

 

 

 

そんな風にして中に入る。

入り口には、今は誰も居な…

 

 

 

「にーちゃん、久しぶりー!」

 

「おっと」

 

 

急に足近くに飛びついてきた小さなシルエットを、少し驚きながら受け止める。

不意気味だったとはいえ、その衝撃はそこまで重いものではない。

 

 

「よお、元気だったか。…少し見ない間にちょっとデカくなったんじゃないか?」

 

 

「もう!女の子に重さとか、大きさとか聞くのはタブーだってば!」

 

 

「はは、悪い悪い」

 

 

そう、俺の足を掴んで嬉しそうに話す、小さな子を撫でる。

ここの孤児院の子の一人なのだが、何故だかかなり懐かれているのだ。

 

それ自体は微笑ましく、嬉しい事だが。

ちらりと横を見る。

その視線をどう思ったかは知らないが、妹は少し前に躍り出た。

 

 

 

「早く離れなさい。

兄さんが困っているでしょう」

 

 

「えー、そんな事ないよね?…ああ、まさかこれだけでヤキモチ妬いてるの?うわあ、心狭ぁ」

 

 

「脚にしがみついて、もし兄さんが貴方共々転んでしまったらどうするのです?そんな事も考えられないのですか」

 

 

「んー、言い訳がましいなー。

悔しいなら悔しいって言えばいいのに。

恥ずかしくて言えないのかなぁ?」

 

 

「安い挑発ですね。余程語彙が足りてないと見えます」

 

 

 

ああ、始まってしまった。そう、一つ心配な事とはこれだ。どうもこの二人は噛み合わせが悪い。どれくらいかと言うと、顔を合わせればすぐ喧嘩を始めてしまうくらい。

 

最初の頃はどうどうと二人を諫めてたが、最近はそれももう面倒くさくなってきた。

 

 

「いい加減に…しろ!」

 

「うっ」

 

「いてっ」

 

 

だからこうして、ごつんとゲンコツを一発ずつ。無論軽くだが。

 

さて、わざとらしく大袈裟に頭を抱える横あいの少女を引っ張るようにして先に。

 

今日は手伝いに来たんだから、小競り合いはまた今度。いや今後もされたら困るんだが。

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

「ふう」

 

 

とりあえず、やるべき事は大体終わったか。

そこらの椅子に腰掛けて少し休憩。

 

と、そうするや否や。

 

 

「にーちゃん、おつかれ!」

 

 

その膝にひょいと飛び込んでくる小さなシルエット。その呼び方をするのは一人しか居ない。

 

 

「よ、お疲れさん。俺らの作業、手伝ってくれてたろ?ありがとな」

 

 

そう言って、ねぎらいを込めて頭をポンと叩く。すると、弾けるような笑顔を返してくれた。

 

 

「へへー、もっともっと感謝してよね。

私がんばったんだから!」

 

 

「ああ。ほんとサンキューな」

 

 

「そうだ!ね、遊ぼ遊ぼ!

せっかく手伝ったんだし、ねぇ!」

 

 

「ん…まあいいが、そんな長居はするつもりもないぞ?もう時間も遅いし」

 

 

外を見ると、日が半分ほど暮れかけている。長いこと居座っても相手方に悪いだろう。

 

 

「えー、少しだけでいーから!」

 

 

「わかったわかった。

んじゃあ、何する?」

 

 

「私がにーちゃんの手を握って、で、ずっとそのままでいるの。いいでしょ?」

 

 

「…?」

 

 

正直、よくわからない。何かのまじないだろうか?にしても…しかし、子供の遊びやブームなんて分かろうとする方が野暮だし、断る理由も全然無い。

 

 

そうして。

差し出した手を、嬉しそうに握られる。

 

 

「なあ、これ…」

 

 

楽しいか?と聞こうとしたが、その顔を見たら、まあ楽しそうに、るんるんとしていた。

 

その顔を見たら、なんだか何か言う気も無くなってしまう。喜んでもらえるなら、別にいいかと。

 

 

「ねー、また来てね。結構寂しいんだから」

 

 

ぽつりと、そう言う。

その顔には一抹の悲しさがある。

 

結構大人びてる子だが、人恋しい所もあるんだろう。この、手を繋ぐ事も、その由来の行動なのかもしれない。

 

だから俺は笑って言う。

 

 

「ああ、またすぐ来るよ、きっと」

 

 

「ほんと?絶対だからね!絶対絶対にだから!」

 

 

「はは、分かってるよ」

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

「今日はありがとな、わざわざ付き合って貰って」

 

 

「いえ、寧ろ私が無理を言ったんですから。

…こちらこそありがとうございます」

 

 

敬語でそう返す妹を、少し寂しく思う。

いつからだったか、家族にも敬語を使うようになってしまった。

たまにパニクったりした時はそれまでの口調に戻るが、それを言ったら前怒られてしまった。

 

 

「それと…あの子と仲睦まじくしていましたが。その…何か言われたりしませんでした?」

 

 

「何かって…また来てねってだけは言われたけど」

 

 

「なら、いいんです。それなら」

 

 

俺が答えると、安心したようにそう返す。

 

 

「…なあ。どうしてお前、あんなに仲が悪いっていうかさ。つっかかるんだ?」

 

 

「!いえ、別にそんな…」

 

 

「『そんな』じゃあないだろ。

なんかやな事されたって訳でもないだろうに。…それとも何か、理由があるのか?それならちゃんと俺に言ってみろ」

 

 

「いや、でも」

 

 

「大丈夫、何でも受け入れるぞ。

それに、むしろ完璧な妹の弱味を見れるのは嬉しいくらいだからな」

 

 

冗談めかして、そう言う。

 

すると、彼女には珍しく語頭をごにょごにょと濁らせて、言いづらそうに話しだした。

 

 

「……だって、あの子ったら。

『お兄ちゃん』だなんて……」

 

 

「…兄さんを兄さんって呼んでいいのは、私だけなのに」

 

 

へ?と間抜けな声を出してしまった。

伏せた顔を見ると、すごく赤い。林檎のようだ。まあ、たしかに恥ずかしいだろう。

 

なんだ、本当にヤキモチだったのか。

 

敬語云々で距離を追いちまってたのは俺で、本当はコイツは、何も変わってない、甘えんぼのまんまなんだな。

 

ポン、と手を置き。そのまま頭を撫でる。

子供の頃、兄ちゃんに任せろと言ってよくこうしたものだった。つい癖になってしまっているから直そうとも思うんだが。

 

 

「なーに、変なこと心配してんだ。

お前が望む限りは、俺は、お前の兄貴だよ」

 

 

「…なら、いいけど…」

 

 

小刻みに震える頭を掌で感じながら撫でる。

その時間がそこそこ続いた。

 

ブーっと、携帯の音が響くまでは。

ビクリとその音で正気付いた彼女は、慌てて俺の手を退かした。

 

 

「い、いつまで撫でてるんですか!

ほら、早く帰りますよ!」

 

 

「はいはい。あ、今日のメシなんだって?」

 

 

 

赤い顔と共に家路に向かう二つの影。

すっかり暗くなった周りを街頭が照らす。

 

歩いて、帰っていく。

そうして、俺の1日が過ぎていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

 

 

……それは、私の追想。

私の、古賀鈴に刻みこまれた記憶。

今でも見る、夢。

子供のころの私たち。

 

 

お兄ちゃんの事は、好きだったし、優しくって遊んでくれて、いいお兄さんだと思った。

 

ただ、兄としてはあんまり頼りないかなぁ、なんて思ってた。いつも、私の意見にばかり賛同するし、何かやってと頼まれたらすぐやっちゃう。優しいんだけど、優しすぎるっていうか。

 

だから私がちょっと、支えてあげないと。

そう思っていた。

 

 

ある日の事。留守番をしている時、家の中でかけっこをしてた。

危ないよと止める兄に、これくらい大丈夫だよと言い張って。

 

おにさんこちら!と、キッチンの方に逃げて振り返った時。

 

あの優しすぎる兄が、鬼気迫るような顔をして、こちらに飛び込んで来て。

渾身の力で、思いっきり私を突き飛ばした。

 

痛くて、痛くて。それより怖くて。すぐ泣き出しそうだったし、泣くつもりだった。

 

でも、そんな場合じゃない事がすぐわかった。

兄はその顔から、全身にかけて熱湯をかぶっていた。火にかかっていたヤカンからの、それを。

 

そこでようやく理解した。

突き飛ばしたのは、私を庇う為だった事。

私のせいで、こんな事になった事。

兄ちゃんは危ないからと止めてたのに、大丈夫と言ったのは私だった。

 

 

頭が真っ白になったけど、このままじゃいられないと、何とか救急車を呼んで、氷とか水とかを必死にかけた。

それくらいしか、出来なかった。

 

 

……

 

………

 

 

幸い、お湯の温度がまだそこまで上がりきってなかった事や、冷やした事が功を奏したらしく、眼や身体に支障は無いらしかった。

 

 

ただ。火傷の傷は残ると思った方が良いと。そう診断された。

 

 

ベッドで寝ている兄の横に座って、起きるのを待っていた。

私は、真っ青になってぶるぶる震えていた。

 

痛々しい包帯が、私がどんな事をしてしまったか突きつけてくるようだったし、それに、もしこれで。嫌われてしまったらどうしよう。考えた事もなかった。

 

 

『…ッ…いてて…』

 

 

兄ちゃんが起き上がる声に、息を飲んだ。死刑宣告のベルが鳴ったみたいな心持ちだった。

 

 

『…ここは…

…そうだ!ケガ、ケガないか!

ごめんな、思い切り殴っちゃって!』

 

 

真っ先に、兄は私の肩を掴んでそう聞いて来た。起きて最初にやる事は、私の心配だった。

 

震える声で、私を恨んでないか。

聞いてみた。

 

 

『ん?確かに傷は痛いけど…まあ別に直ぐ治るしさ。それに、お前が無事で居てくれて良かった。兄ちゃん、それだけが心配でさ』

 

 

もう申し訳なくて、申し訳なくて。謝罪の言葉も、言ってしまえば兄の行動の侮辱になるみたいで、ただただ泣いてしまった。

 

兄はそんな私を、酷く心配していた。

大怪我を負ったのは、自分なのに。

 

 

 

 

それから私は、考えを変えた。

私は、自分が出来る限り完璧であろうと、そう思ったし、そうあろうと思った。

 

真面目に、勉学に励み、運動も出来、人に優しい。誰かに手を差し伸べられる人間になろうとする事が出来た。

 

そうでないと、兄さんの横に立つのにふさわしくないから。

大変だと思う事も何回もあったけど、それでもその一念があればこそ、頑張れた。

 

 

兄さんはいつも私を、自分には勿体ない完璧な妹だって言うけど、むしろ逆。

 

 

あの時、笑って自分を犠牲に出来た貴方が、私にとってはいつまでもヒーローなの。

 

 

私にとって。

貴方はいつでも完璧なお兄ちゃんだから。

 

 

 

 




古賀鈴(コガ スズ)
→古賀集の実の妹。ある事を機に「完璧」であろうとしており、頭も良くそつなく何事もこなすが、中学生らしくまだ未熟な所がある。兄に頭を撫でられることが好き。
独占欲が強い。


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春と桜が咲く頃の(村時雨ひさめ)






 

 

緑が萌える道の中を少女が通る。

少し強い風は吹くたびに桃色の花弁を散らせ、少女の髪をたゆたわせる。

 

少女はそれに構わず先へ、ゆっくりと。

 

歩いた先。少し開けた場所に出る。

 

そこには樹齢百は下らないだろう、大きな桜が咲き誇っていた。

 

まだ春先の暖かさが届ききっていない季節なのにもかかわらず、花を開かせたその姿は只々美しい。

 

少し切れた息をゆっくりと整えながら、少女はその眼鏡の奥の目を躍らせ、桜へ向かう。

 

 

(まだまだ満開だ。…綺麗だなぁ。

それに、今日は陽当たりも良い。)

 

 

少女、村時雨ひさめは、四日ほど前。周りに桜が無いのにも関わらず飛んできた桜の花弁を不思議に思い偶然にもここを見つけた。

 

そもそもあまり知られていない場な上、桜前線を裏切る狂い咲き。周りに他の人は無い。

 

ひさめはすとん、と木の麓に座る。

そして眼鏡を傍らに置き、眼を閉じた。

 

 

彼女は特別に桜が好きという訳では無い。

だが、日本人の御多分に洩れず少しは思う所があるし、加えて…

 

ひさめは眼を閉じたまま、その場を包んでいる静寂を聴く。

 

緑が風でさざめく音、花を散らせる風のひゅるりと言う音。それ以外はただ閑かな。

彼女はそんな、この空間を気に入っていた。

 

 

それまではここで少し静けさを味わい、すぐに去っていた。だがこの日は、天気が良く、風も生暖かく、うららかな暖かさだった。

 

ほんの少しもたげた眠気があっという間に少女の小さい体躯を包む。

 

そのまま彼女は春に意識を預けてしまった。

 

 

 

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

 

 

彼がその場を見つけたのはほんの偶然だ。

少し前、近くに大きな桜の木があると知り、知人よりそこが既に咲いていると聞いた。

 

だから少し覗いてみようか。

そんな軽い思いで青年は来た。

 

青年、古賀 集はその桜を見て驚く。

 

その木の威容にでも、桜の美しさにでも無く、その麓に座る少女に。

 

 

彼がよく知っている少女、後輩の村時雨の筈だ。

 

ただ、妖艶な程に美しい桜の元に座るその姿はいつものトレード・マークの眼鏡を外しているからか、まるで別の何かのようだった。

まるで桜の精のような。

 

彼はそれを見て、彼自身にもよくわからない不安に襲われる。

ふと近づき、顔の前に手をかざす。

勿論呼吸はしている。

 

頭には、花弁がはらはらと着地をしている。よく見ればもう一つのトレード・マークである三つ編みも今日は無い。成る程、通りで。

 

そんな事を思っていると、少女は気配に気がついたのか、眼を覚ます。

 

 

「………あ、あれ?

古賀さん、どうして?」

 

 

「今ちょうど、俺も驚いてる所だ。」

 

 

「…そう、ですか」

 

 

まだ夢うつつなのか、ゆったりとした口調で少女は話す。

 

 

「隣いいか?」

 

「…はい」

 

 

古賀は少女の隣にゆっくりと座る。

会話はあまり無かった。ただ、それまで通りの静けさが、その場にはあるのみだった。

 

 

「…髪。今日は結んでないんだな。

それに眼鏡もかけてない」

 

 

出し抜けに、古賀はそう話す。

 

 

「は、はい。整える事もないかと思いまして。

…変ですか?」

 

 

「いや。眠ってる時、一瞬誰かと思ったよ。よく似合ってる。」

 

 

「…前半部分は余計ですよ。

ただ、ありがとうございます」

 

はにかみながら少女が静かに下を向く。そしてまた、場を再び静寂が包む。その静寂は、不思議と心地よい静けさ。

 

 

「…似合うって言ってくれましたし、髪型を変えたりしてもいいかもしれませんね。どうでしょうか」

 

 

「いや。俺はいつもの方がいいな。

いつものひさめが好きだ」

 

 

 

古賀は自分でも意外な程に素早く出た否定に、しまった。と、気を悪くしてしまったか、と不安げに少女の顔を覗く。

 

彼女はただぽかんと口を開け…

…その後、照れ臭そうに、にこっと笑った。

 

 

 

「ありがとうございます。僕も古賀さんが–––」

 

 

–––––です。

 

 

その言の葉は、ひときわ強い風に花びらと共に攫われて搔き消える。少女の頬にその花弁の色だけを残して。

 

 

 

「…すまん、なんて言った?」

 

 

「…いえ、何でもないです。

…ね、そろそろ帰りましょうか?

ちょっと寒くなってきちゃいました。

 

 

「ん、ああ。大丈夫か?上着貸すか」

 

 

「大丈夫です。

…代わりでは無いですけど、帰り道エスコートしてください」

 

 

 

戯れるように、まだ座っている青年にひさめは手を差し伸べる。

 

 

古賀はそれを手に取り、立ち上がる。

 

 

気づけばもう日暮れ。

夕焼けが手を取り合う二人の影を照らす。

 

 

うらびれた、ある二人の話、

うららかな春の日を、少女は青年と過ごす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

 

それは僕と古賀さんが、再び会う時の話。

僕と彼が、先輩と後輩の仲になる時を、たまに思い出す。

 

 

 

「いやー、まさかひさめが私と同じ高校に入れるとは…私はもう思い残すことは無いよ…」

 

 

入学式。僕の友達のハルカがそう言う。

けんもほろろと言わんばかりの態度に、つい笑ってしまった。

 

 

「あはは、何言ってるのさ、そんな」

 

「だって、ほーんと大変だったんだもの!

もっと感謝して然るべきだよ、ほらほら!」

 

 

…そう。僕は正直、頭が悪い。

一応真面目に授業も受け、普通程度には復習もしているはずなのだがどうしても頭に入ってこず、いつもダメな成績を残していたものだった。

そんな僕が1ラインは高いこの高校の入学式に居る事は、奇跡に近く、そしてそれはこの友人によって齎されたものだ。

 

 

「うん、本当に晴果のおかげだと思うよ。

ありがとう、本当に…」

 

 

彼女がその身を削って勉学を教えてくれたのだ。

たまにダメさ加減に驚かれてしまう事もあったけど…匙を投げられなかっことは、ほんとうにありがたいことだ。

 

 

「…やっぱガチ感謝は無し!恥ずかしくなるじゃん!それに入れたのはあんたの努力の結果だってば。私じゃなくってね」

 

 

照れ臭そうに、彼女がそう言う。

自信満々な口調とは裏腹に照れ屋さんなんだ。

 

 

 

「…うん、ありがと!」

 

 

「ほらほら、説明会だからってずっとひっついてる事は無いでしょ。憧れのセンパイの所、行っちゃいなよ!」

 

 

 

……ギョッとする言葉が来た。

びくりと体を動かし、声を出さなかっただけ良かった。

 

 

「え!?い、いやいや、そんな急に!忙しいかもしれないし、それに、何処に居るかもわからないし、それに…!」

 

 

「それにそれにうるせー!

ほら、行った行った!」

 

 

「うわ、わっ!」

 

 

ごちゃごちゃと言い訳をする僕の背中を、ハルカは思い切り押した!転びそうになりながらも何歩か前に出る。そして振り返ると、もうそこにハルカはいなくなってしまっていた。

 

 

「…え!?ちょ、ちょっと!晴果?

置いてかないでよー!」

 

 

 

気のせいか、どこからか晴れやかに良いことしたっ!と言う声が聞こえたような気がした……

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

(…ま、迷った…)

 

 

その数十分後。既に僕はうろうろと学校をあてもなく彷徨って、結果自分がどこにいるかもわからなくなっていた。我ながら、情けない…

 

 

(うう…学校の地理なんてわかんないし…大体、あの人学校しか知らないし、クラスだとか部活だとかも知らないんだって…)

 

 

心の中で誰にでもない言い訳をぶつぶつとする。

だめだ。そうやって諦めようとするのはやめよう!って前に決めたんじゃないか!頬をぱしんと叩く。

 

 

(…図書館では、良く目立ってなぁ。背丈が大きくて、最初に話すようになったのも、届かなかったものを取って貰ったからだっけ)

 

 

『あの時』を思い出す。

そう、彼に初めて会った時。

 

 

(そう、あんな位に大きくて、目立って…)

 

「……え、ええ!?」

 

 

「?うん…あれ、君は…」

 

 

…幻かと思った。

いや、でも本物だ。

まさかこんな事があるなんて。

 

 

 

「あ、その、お久しぶ…

いやえっと、覚えてないです…よね?

その、僕は…」

 

 

しどろもどろに自己紹介をしようとする。

あんなに言葉を考えてきたのに、何も思い出せない。

 

 

「いやいや覚えてるって。

ひさめちゃんだろ?どうしたんだ、こんな所に」

 

 

覚えてる。覚えてて、くれてる。

その事実がまた、頭を真っ白にしてしまった。

 

 

「え…えっと…その…」

 

 

「……!制服着てるって事は…

今年からここに入るのか。おめでとうな!」

 

 

「!は、はい!その…古賀さんは何を?」

 

 

「いや、腐れ縁っていうか…今年から会長さんになる奴から生徒会の手伝いを頼まれててな。ここまで宣伝しに来てたんだが…」

 

 

「へえ…その、所属してる部活とかは良かったんです、か?」

 

 

「いや、俺部活とか入ってなくてな。

だから割とこき使われてるワケだが」

 

 

生徒会に。

ぴんと、真っ白になっていた頭にその言葉が入ってきた。

 

 

「…せ、生徒会の方にはその。

度々足を運んだりするんですか?顔を、見せたり?」

 

 

「?ああ、まあ、そうなるが…

どうした?そんな緊張しなくていいんだぞ?」

 

 

「にゃっ…なんでもないです!!」

 

 

 

噛んだ。肝心な時に。

死ぬほど恥ずかしかった。

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

「…お、遅かったね古賀くん。と言ってもボクもちょうど戻ってきた所だった…が……」

 

「……その子は?」

 

 

部屋に入った途端、そう言われて視線を感じる。

とても綺麗な人。それに、目がルビーみたいに真っ赤だ。

物語の中のヒトみたい。

 

 

「ん、近所の知り合いの子って言うか…

どうやら今年から入るみたいでさ」

 

 

「…ど、どうも…」

 

 

「ああ、こんにちは。

そんなに萎縮しないで、気楽にしてくれ」

 

 

そう言われても、緊張してしまう。

ガチガチに固まったまま、返事をした。

 

 

「……ふ…」

 

 

「はい、古賀くん。何故笑うんだい?

おかしい所はないだろう?」

 

 

「い、いやいや。

凄い猫被りだなって思って」

 

 

「やれやれ、失敬な。というかそんな可愛らしい子の前で誤解されそうな事を言わないでくれ」

 

 

 

仲が良さそうに話すお二人の姿。

それを見て、緊張が少しほぐれる。

というより、緊張を他の想いが少し上書きした。

 

 

 

「……あ、あの。僕、生徒会に入ろうかと…」

 

 

意を決して、そう言う。

瞬間、沈黙が場を支配する。

や、やっぱりダメだろうか?

 

 

 

「…何!?それは素晴らしい!」

 

 

…その人はガタリと椅子を立ちながら、大声で叫ぶ。

こ、怖い…

 

 

「いや、この頃わざわざそんな殊勝な子は少なくってね、かく言うボクもまあ期待の押し付けられというか…」

 

「…っとすまない話が脱線する所だった。いや、ボクは心から歓迎するよ。ただ、もし良ければ理由を聞いてもいいかな?嫌ならいいんだけれど」

 

 

「は、はい。その…僕、とろくって。こういう所に入れば少しはそういうのが治るかなって思ったのと。その…」

 

 

それは、少しあった本音。

でも、もっと大きいところの本音は…

 

 

「……」

 

 

つい、視線が彼の方に行ってしまった。

古賀さんの、方へ。

 

 

 

「?」

 

 

「!」

 

 

「……す、すみません、その、もう一つの理由は…」

 

 

「…な、るほどねぇ」

 

 

僕のそれを見て、生徒会長は何かを察したように、口を押さえる。そうして、何かしらを考え込み始めてしまった。

 

 

「なあシド、そろそろいいか?この後出来ればこの子を案内しようと思って…シド?」

 

 

「…下手にたらし込ませないようにと思って人の寄り付かない案内役にしたはずだったのに…まさかまさかの『攻略済み』だなんて…畜生、さすがに予定外だよ…」

 

 

「…シド?」

 

 

ぶつぶつと言っていたそれは僕には聞こえなかったし、彼にも聞こえなかったようだ。

 

 

「何でもないよ!ほーれ、もう行っちゃいなって。その子を…っと、失礼。名前を聞いてなかったね」

 

 

「…村時雨、ひさめです」

 

 

「うん、いい名前だ。ボクは…気軽にシドと呼んでくれ給え。さて、ひさめさんを待たせるのも忍びないだろ?行った行った」

 

 

 

生徒会長……シドさんは、そう、柔和な笑みを浮かべた。

本当にフレンドリーな方なんだろうけど、何故だか少しそれが怖く見えてしまった。僕はなんて失礼だろう。

 

 

 

「おう、んじゃまた後でな」

 

 

「ああ。

…『攻略済み』はその子だけじゃあないんだからな」

 

 

「ん?なんか言ったか?」

 

 

「独り言さ。じゃあね」

 

 

 

そうして扉が閉じる。

学校の案内に。

古賀さんの、案内…

つい、頬が緩む。

あとで、ハルカに感謝を伝えないと。

 

 

 

 

 

 

「…やれやれ。

予想だにしないライバル、登場かあ」

 

 

 

 

 

 




村時雨ひさめ(ムラシグレ ─)
→物静かで気の弱い少女。シド、古賀集の後輩にあたる。
真面目だが要領が悪く、色々と失敗しがちなへちょさがある。おさげに眼鏡と野暮ったい格好だが、顔がいい。独占欲が少し強い。


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エンカウント・エン・カウンター(九条史桐)





 

 

 

「『ずっと前から好きでした!

付き合ってください!』」

 

 

ボクこと、シド。

そして、可愛い後輩である村時雨ひさめ。

その二人は今、一人の男にそう言っている。

 

…無論、そのままそっくり本当の修羅場ではない。

 

 

 

「……」

 

 

 

「…なんだその眼は。健全なる男子生徒が、ボクらのような美女から告白を聞いた時の態度じゃないよ。さては同性愛者かい」

 

 

「えっ!?そ、そうなんですか?」

 

 

「ち!違う、違うって!…シド!あんまりひさめの教育に悪い事言うんじゃない!」

 

 

「親かキミは」

 

 

 

思い切り彼に向けてそう言えば、ほんの少しは顔を赤らめたり照れたりするかとも思ったけれど、なんともまあ反応は淡白だ。つまらない、全く。

 

 

 

「で、どうだい感想は。

そこまで下手くそって訳でもない筈だよ」

 

 

「なんていうか…お前が上手いのはなんかわかってたけど、まさかひさめまで上手いとは思わなかった」

 

 

「ふふん。女の子は皆、名役者なのさ」

 

 

「なんでお前が得意げなんだ」

 

 

「え…!僕、うまかったですか?」

 

 

「ああ、すごくな。経験でもあるのか?」

 

 

「まさか!人前に出ようなんて事も初めてで…!でも、それなら嬉しいな…」

 

 

「徒に人前に出そうものならそれこそパニックが起きかねないからね。彼女がこの純朴さを保てたのは奇跡と言ってもいい」

 

 

「…またお前は、なんていうか冷める事を」

 

 

「ん?ごめんごめん、単純に彼女とその周囲の優しさを褒めてたつもりだったんだけど」

 

 

 

ああ、そうそう。ボクらは計らずとも『人前に出る』事になる。

 

近くにある文化祭。

いつも通り生徒会は何もやらず、管理だけをする予定だったのが、一つ、何かしらやらなければならない…なんて言われたものだからさあ大変。使える予算もほぼ無く、予算無くして売店等は立ち行かない。

 

結局、友好関係にある皆から何とか『らしい』服を集めて、軽い演劇をやる事で茶を濁そうという訳だ。

 

 

 

「本当は目立つのは好きじゃあないんだけど。まあ、仕方がないか」

 

 

「…嘘こけ。今回わざわざお前が台本書いたんだろ?めっちゃノリノリじゃねぇか」

 

 

「大衆の前で演じるのとは話が別さ。まあ、頼れる新入生くんと協力者くんが居てくれるからボクはなんとか心が折れてないがね」

 

 

そう、生徒会ですらない古賀集くんは今回も今回とて無償でこの生徒会を非常に強力にサポートしてくれているのだ。

ああ、ありがたい事だ。本当に優しい友人を持ってボクは本当に幸せだ!

 

 

「…協力っていうか、脅迫だったがな…」

 

 

「?」

 

 

ボソリと何かを呟いた彼を、新入生、村時雨ひさめちゃんの純真できょとんとした目が貫く。どうもそれを向けられてしまったら弱いらしく、そのまま彼は笑う。

 

 

「な、ひさめもなんか大変だったらコイツみたいにガンガン頼ってくれ。ケータイでもいいからさ」

 

 

「は…はい。そう、します!」

 

 

 

微笑ましい会話。

だが、すこーし今のボクにとっては気になる事があるな。つっつきたくなるような。

 

 

 

「さっきから思ってたが…キミ達ずいぶん仲良くなってるんだねぇ」

 

 

「…ん?」

 

 

「ちょっと前までちゃん付けだったのが呼び捨てになってるし、ひさめちゃんも古賀くんへ堅さが取れかけてる。どうやら携帯電話の連絡先も交換してるようだ。ほうほう」

 

 

あと、話してる時二人とも凄く楽しそうだったとか、そういうのは言わないでおく。

 

 

「あー…いや、学校に入ったくらいから一応敬語とかにしてと思ってたんだけどさ。この前ひさめの方から今までと同じ呼び方や話し方で良いって言ってきてくれてさ」

 

 

 

ほお。なら連絡番号やら口調は最近仲良くなったのではなく、かなり前から既に、って事だったらしい。

 

ふと、ひさめちゃんを見てみた。

赤リンゴがそこにはあった。

 

 

 

「…えっと、これは違くて…」

 

 

「いやいや、仲が良いみたいで安心だよ。この間から少しぎこちないみたいだったからね」

 

 

「あれ、そうだったか?まあひさめも緊張してたんだろ。同じ学校にいる事だし、シドも居たし」

 

 

「そうだね。緊張は確かにしてただろうね。ふふふ」

 

 

「なんだその含みを持たせた言い方」

 

 

「そりゃあ二人きりで居たら緊張しちゃうだろうよ。だって、ねぇ?」

 

 

顔が、赤くなるのを通り越して白くなっている。なんともいじらしい。弄りがいがある。

 

まあ、これ以上やろうものなら万が一にもこれから怖がられてしまうかもしれない。それは嫌だ。彼女とは是非普通に仲良くなりたいんだ。

いささかマッチポンプ気味ではあるが、助け舟を出す事にしよう。

 

 

 

「さて…どうしようか。話してる内に遅くなってしまったし、解散にする?」

 

 

「っと、こんな時間か。悪いな、長いこと邪魔しちまった」

 

 

「いえ、僕達が引き留めてしまいましたし。

それに、良い気分転換にもなりました!」

 

 

 

そうして、結局の所解散する事となった。

使っていた部屋を軽く箒で掃き、用具はひさめちゃんが自分から申し出て片付けに行ってくれた。

 

二人となった部屋で、ふと疲労感に襲われながら彼に軽口を叩く。

 

 

 

「ひさめちゃんの言ってた事、同意する。

キミのお陰で肩の力が抜けたよ」

 

 

そう言うと、ふと。古賀くんの顔が真面目な趣になる。どうしたのだろう。今頃最初の告白が効いてきたって訳でもあるまいし。

 

 

「…本当に、無理だけはするなよ。

お前は断れないし、頑張っちまうからさ」

 

 

 

…コイツは、こういうところが厄介だ。

 

いつもはデリカシーも無いし、紳士でも無いのに。こういう時だけ一番言って欲しいような事を言ってくるんだ。もしもボクが顔に出易いタチだったらと思うとゾッとする。

 

 

「大丈夫さ。さっきも言ったろう?

有望な新入生はその存在と見た目でボクを癒してくれて、優しい協力者くんはボクを…」

 

「…強力に助けてくれている。

キミらがいる限りきっと大丈夫さ」

 

 

「…本当に、か?」

 

 

「本当に本当さ。知っているだろう?

ボクは嘘をつかないからね」

 

 

だから。劇の練習であろうとも、キミに最初に言った言葉は…

 

 

「なら、あの劇のセリフも嘘じゃないのか?」

 

 

「え?」

 

 

「ずっと前から好きだったってのも。

嘘じゃないのかって。そう言ってるんだ」

 

 

 

ああ、わかっている。わかっている。

 

彼にはこれは冗談のつもり。

悪友に向けた、悪いジョークだと。

 

でも、心が期待をやまない。

その言葉に、つい上気する。

 

ああ、クソっ。どうしてこうも、ボクが求めている言葉を、ボクが求めていない心で言ってくるんだ。

 

 

 

「…ってオイ、顔赤くないか?

やっぱり熱とかあるんじゃ…」

 

 

「無いよ!全く心配性だね!

ほら、そろそろ帰るよ!ひさめちゃんが気まずそうに待ってるじゃないか!」

 

 

そう言うと扉がガタッと大きく揺れる。

カマかけ的な一言だったが、まさか本当に居たとは。我ながら神がかり的な勘の良さ。

 

 

「え、あ、ああ…

おい、なんかキレてないか?」

 

 

「知らないよ、ばーか!」

 

 

背を向けて、早歩きで彼から離れる。ああ、手痛いカウンターを喰らってしまった。

 

ええい、いつか仕返ししてやる。

今度から、この借りは返してやるぞ。

 

ボクは復讐の決意を沸々と秘めて、憤懣やるかたなく、邪悪に笑った……

 

 

 

「良かったですね。

顔、凄く嬉しそうですよ?」

 

 

…嬉しそうに笑われながらひさめちゃんに言われてしまった。

 

 

あれま。

ボクの顔も、やっぱり嘘をつけないみたいだ。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

こうなるまでの顛末?どうしてこうなったかって?

彼はただ、やさーしく受け入れてくれただけだよ。

ボクへの助力をね?

 

 

 

 

「なあ、頼むよ古賀くぅん。こんな事頼めそうなのは君しか居ないんだって」

 

 

「嘘こけ!ぜってぇ周りに山ほど居るだろ!他の事なら大体やるけどそれだけはマジで無理だから勘弁しろって!」

 

 

「およよ、こんなに頼んでるのにダメなのかい?冷血漢、鬼、強姦魔」

 

 

「風評被害をバラまくのやめろ!

…って、どんな事言われても断るからな!」

 

 

「…そっかぁ。なら仕方ない。

ああでも、悲しみから口が軽くなるかもしれないなぁ」

 

 

「あ…?」

 

 

「ところで、これから職員室に向かうところなんだけどさ。君、バイト経験あったっけ?」

 

 

「やらせてもらいます。やらせて下さい」

 

 

「わぁ!ありがとう古賀くん!

やっぱり君は優しい人だぁ!」

 

 

「…てめぇなあ…」

 

 

 

 

うーん、優しいね!

 

 



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全部熱のせい(村時雨ひさめ)






 

 

 

「……38度か…まだ微妙だな…」

 

 

体温計が示す温度を見て、独り言をする。

一人で居るとどうも静かすぎて落ち着かない。

 

 

 

単刀直入に。

俺、古賀集は風邪をひいた。

 

原因は何かはわからないが、多分どこかから貰って来てしまったか、疲れが溜まり免疫が弱まった所に…みたいな良くある理由だろう。

まあ、正直原因はどうでもいい。

 

鈴に体調管理がなっていないと怒られてしまうかと思ったが、そんな事はなく、むしろ痛いところは無いか、辛い所はと、だいぶ過保護気味にとても気遣ってくれた。

看病の為に私も学校を休むと言い出した時は流石に閉口してしまったが…今思うと、鈴なりのジョークだったのかもしれない。

 

俺のせいでお前に迷惑をかける訳にも行かないから、と鈴を学校に送り出してから、家では俺一人になった。

 

 

大体のものは家にあったので、身体は気怠かったが粥を作る。卵と葱、醤油と塩くらいしか使わない簡素なものだったが、これくらいの方が今の身体には良い気がした。

 

そして、寝る。解熱剤は有ったが、まあそこまで辛いという程でも無く、何やら勿体無い気がして呑まなかった。

そんな無意味で間抜けな行動のせいか、いやに寝付けず、随分と寝苦しい事になったが…

 

 

 

 

……

 

 

 

微かな物音で目が覚める。

物を片付けるような音と、ひんやりとした冷えピタの感覚を額に感じる。ちょうど貼ってくれているようだ。

 

 

「…う…鈴。帰ってきてたのか。

移したら悪いしあまり部屋に来ない…方が…」

 

 

目は閉じたままにその手を、ゆっくりと掴む。

感謝を伝えようと思っての行動だった。

 

瞬間、どうも手の感覚が変な事に気づく。

いや変というか、なんというか。

朦朧としてるだけかもしれないが、これ本当に鈴の手か?

 

…いや違う。絶対違うなこれ!?

 

 

ばっと起き上がって目を開ける。

するとそこには…

 

…手を掴まれ、どうしようと顔を真っ赤にフリーズしてしまっている村時雨ひさめが居た。

 

 

「……えっと……」

 

 

「……」

 

 

 

…なんで?

 

 

 

「…なんっ…!げほ、ゲホッ!」

 

 

「わわわ、だ、大丈夫ですか!

えっと、お水お水!」

 

 

 

……

 

 

 

「え、えっと…まずはその、失礼しました。起こしてしまったのと…驚かせてしまったみたいで…」

 

 

「ああ、いや…看病をしてくれたのはありがたかったから、それはいいんだけど…」

 

 

さっき話すには、こういう事だ。

放課後に、ひさめの教室に鈴が来た。

そして申し訳なさそうな顔でお願いをしたのだという。兄の看病を頼めないか、と。

本当は自分がやらなければならないのだが、どうしても用事を抜けれなさそう、との事らしい。

 

 

「どうしても忙しいから、私が見てあげられないからって、悔しそうでしたよ」

 

 

そう言ってからにこりと微笑む。

その顔に、ちょっとどきりとしてしまう。

彼女にそういうつもりは無いとわかっていても、少し気恥ずかしいというか、照れる。

 

 

「と、いう事で鍵を借りて来たんです。

本当は起こさないようにしようと思っていたんですが…」

 

 

「ああ、いやごめん。うるさかったりは全然無かったよ。ただ単純に眠りが浅かったみたいだ」

 

 

そう申し訳なさそうな顔をする。気に病む必要もないだろうに。

 

 

「という事で、今日は古賀さんを看病します。今日は鈴ちゃんが戻ってくるまで予定がありませんから!」

 

 

…それはひさめが暇だって事なんじゃないか。そんなに胸を張って言える事なんだろうか。

 

あ、落ち込んでる。

どうもそれに気付いてしまったようだ。

相変わらずころころと表情が変わるなこの子。

 

そう思って、つい笑ってしまう。

 

 

「えっと…それでは…

そうだ、お腹空いてませんか?

おかゆとか作ったり…」

 

 

「あー…さっき作っちゃった」

 

 

「さ、さいですか…ええと、それでは喉は乾い…てないですよねさっき飲んだばかりですし。冷えピタもさっき変えたばかりですもんね」

 

 

「まあそうだな…」

 

 

「……え、どうしましょう。

な、何すればいいんでしょうか?」

 

 

「…ふ、っふふ…俺に聞くのか…」

 

 

頭に疑問符を浮かべたように困惑して話す様子は可愛らしく、それにまた笑ってしまう。

『もうやる事が無い』という事は、彼女はもうやるべき事は殆どやってくれている、という事なのに何を困る必要があるんだろうか。

 

 

「…ありがとう、ひさめ。

なんだか凄い楽になったよ」

 

 

「え?いや、僕なんか全然何も…」

 

 

「居てくれただけで、嬉しい。

それが嬉しいんだよ」

 

 

それを伝えた。

彼女がいる空間は、なんだろう。

なんというか、すごく和らぐ。

一人で大丈夫だと思っていたが、どうにも俺は思いの他、心細かったみたいだ。

 

 

「?や、役に立てたなら、良いんですが…

あ、熱測りましょうか」

 

 

「いや大丈夫」

 

 

今のこの顔の熱が、風邪によるものなのか小っ恥ずかしい事をつい言ってしまった事に起因しているかは解らない。

何を俺は言っているんだか。

 

 

そうしている内に、なんだか眠くなってきた。さっきまでのような無理矢理寝付いた時のようなそれではない、確かで重い眠気。

 

 

ひさめは、座りながらまだ少しだけ落ち着かなさそうにきょろきょろとしている。

知り合いだとは言え、やはり男の部屋に一人など気が気じゃないのかもしれない。

 

 

「…正座なんてしてたら足が痛くなっちまわないか?もっと楽にしてもいいんだぞ」

 

 

「へ?い、いえ!その…僕はこれでいいというか、畏れ多いというか?」

 

 

素っ頓狂な声と答えが返ってくる。

やはり緊張しているのだろう。

 

そんな彼女に、こんな事をしてもらおうと言うのはやはり申し訳ないだろうか。

彼女に負担を掛けてしまうだろうか。

 

 

「……なあ。

一つ頼み事があるんだけどさ」

 

 

「!はい、なんでも!」

 

 

「はは、元気だな…

って言っても大した事じゃないんだけど」

 

 

きっとひさめは断られないだろう。優しさを笠に、言ってしまっても良いのだろうか。そう思った気持ちもあった。

ただそれでも、言ってしまった。

 

 

「…ただ、横にいてもらえないか。

さっきは移らないようになんて言ってたけど、実はちょっと…いや、結構心細かったんだ」

 

 

「…そう、なんですか?」

 

 

「目覚めた時、驚いたのも確かだけど。ひさめが居てくれて、凄い嬉しかったんだ。だから、そこに居てくれないか」

 

 

「ええ。いいですよ。

それくらいなら、お安い御用です」

 

 

「もちろん嫌なら…って、いいのか。

…ごめんな、急にこんな事」

 

 

「…寧ろ僕、嬉しいです。古賀さんが僕の事を必要としてくれた事、これまでぜんぜん無かったですから」

 

 

掌に、何かの感触を感じる。

体温の感触だ。ひさめが、布団の中の俺の手をそっと握ってくれている。

 

 

「僕は貴方に頼ってばかりなのに、貴方が僕を頼ってくれる事はとても少ない。だから、今みたいな事を言って貰えると、本当に嬉しいんです」

 

 

そう言って、恥ずかしそうに俯く。

だがその発言を修正したりはせず、その目からはむしろ、確固たる意思を感じた。

 

 

そんな事は無い。

ひさめはいつもひたむきで、気が利く。俺がふとした時に物事が片付いていたりで、俺は寧ろ君に頼ってばかりなのにな。

 

ただ、気怠さと眠気がそれを口にする事を許さなくて。代わりに一言だけ。

 

 

 

「そうか、ありがとう。

ひさめは本当に優しいな…」

 

 

そう言っていく中で、眠気が限界になって、色々な物が曖昧になっていく。ただ手に残る別の体温と横にある気配だけが、そこに残っている。

 

 

ぼんやりとした、認識の中。

 

 

 

 

「……この瞬間がずっと続けばいいのに」

 

 

 

そんな微かな声と、唇に何か温かい物の感触があった気がした。

 

 

 

 

 

……

 

 

 

僕を頼ってくれた。

僕に横に居てくれと、言ってくれた。

 

 

『大丈夫、俺に頼ってくれよ』

 

いつもそうして、貴方は僕を助けてくれる。

笑顔で助けてくれて、その度に嬉しくなる。

でもそうしている度に不安になるのだ。

いつも迷惑ばかりかけてないか。

負担になってしまってるのではないかと。

 

彼はそんな事言わないだろうし、思いもしないだろう。でもだから、それなのに勝手に僕がそう思ってしまう。彼に釣り合って居ないのではと。意地悪な自分自身がそう囁く。

 

 

貴方の為に何かをしてあげたいなんて、烏滸がましいかもしれない。

貴方の助けになりたいなんて、夢のまた夢だったかもしれない。

 

そんな僕に言ってくれたのは、僕にしか出来ない事。僕を見て言ってくれた、『横に居てほしい』。

 

 

 

…ああ、最低だけれど。

本当は良くない事だけれど。

どうしても思ってしまう。

彼がこのような状態でい続ける事を望んでいる訳でもないのに。

 

でもきっと、これが終わってしまえば貴方はまた僕を助けてくれる。僕以外にも目を向けてしまう。今貴方は僕だけを頼ってくれる。

僕を見てくれている。

 

だから、ああ。

 

 

「この瞬間が、ずっと続けばいいのに」

 

 

自分の口から、そんな言葉が出た事が信じられなかった。だけれど自己嫌悪よりも、何故か先に湧いてきたのは熱に浮かされたような高揚感で。

 

 

そしてその熱に浮いたそのままに、目を閉じたその顔に、僕は静かに。顔を近づけて…

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

ぴぴぴぴ、と測り終えた音。

体温計が示すのは完全に平熱。1日ゆっくりと寝て、治ったようだ。良かった、これ以上休んでしまったら授業に置いてかれる所だ。

 

もう大丈夫ですか?と心配する鈴にもうバッチリだと示してから学校に向かう。一日しっかりと休んだ事もあり、体が全体的に軽いような気もする。

 

 

と、あれ。珍しい。

いつもこの時間帯には居ないはずだが、目覚めがいつもより早かったんだろうか。

 

目の前に、昨日世話になった後輩が居た。

そうだ、昨日も次目覚めた時にはもうひさめは帰ってしまっていたので、感謝を伝えられなかったのだ。

 

 

「よう、おはよう」

 

 

そう声を掛けた途端。

びくりとその肩が大きく震えた。

…そんな大きい声を出してただろうか。

 

 

 

「ひゃっ!ど、どうも、おはようございます。…えっと、その…」

 

 

…どうにも歯切れが悪い。

朝から話しかけるべきではなかったろうか。

 

 

 

「昨日は…そのう…覚え、ていますか?」

 

 

そう思っている内に、ひさめは俯きながらゆっくりとそう聞いてくる。昨日は横になっていたから俯いた顔の表情を見れたが、今はそれを伺う事は出来ない。

 

昨日。あの看病の事を言っているのだろう。もちろん覚えている。あの安心した感覚を忘れる事はないだろう。

 

 

 

「?ああ、覚えてるぞ。

昨日はどうもありがとうな」

 

 

 

「〜〜〜っ!」

 

 

 

そう言った途端、ひさめはバッと顔を上に上げた。その顔は…湯気が立ち上るという比喩がそのままそっくりに似合いそうな程に赤くなっていた。

 

 

「ひえっ…い、いやこちらこそ…

じゃなくて、いや…その…」

 

 

後退りしながら器用にもあわあわと両の手を顔の前で動かす。そして危なくないか?と少し手を動かした瞬間…

 

びくり。再び肩が動き。

 

 

 

「ご、ごめんなさいっ!」

 

 

…真っ赤な顔はその言葉と共にとんでもない速度で学校方向にすっ飛んでいってしまった。

 

 

 

「……ええ……?」

 

 

 

何か気に障る事をしてしまったのだろうか。昨日の横に居てくれるように言った事が彼女を傷つけたりしてしまったのか?そう悩みながらも登校すると、既にクラスでは登校中に後輩にフられた!と話題になっていた。

 

 

誤解だ、誤解!今回ばかりは本当に!

 

 



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夜目遠目、傘の内(古賀鈴)






 

 

 

ひどい雨の日だった。少し大きめの傘を持ってきてよかったと心の中で軽く安堵をする。そうして帰宅準備をしていた。

今日は珍しく何も無い日だ。たまには家にゆっくりと帰るのもいいだろう。

 

周囲が慌ただしく傘を借りに行ったり、走ってなんとかしている玄関近くの音に耳を澄ましてからクラスの外に出る。

 

ふと、傘が無いと嘆くクラスメイトの声が聞こえた。

俺は手の中の傘を見て……

 

 

「兄さん」

 

 

おや。

声の方を見ると、そこにはセミロングの少女。所在なさげに、少し居心地が悪げに壁に背を預けるその身体には中等部の制服を纏っている。鞄の状態の良さが彼女の清廉さそのものを表しているようだった。

 

 

そして俺は、その子の名前を知っている。

名前だけでないが。

だから、声を掛けた。

 

 

 

「…鈴、どうしたんだ?

伝えないといけない事とか?」

 

 

「お疲れ様です兄さん。いえ、伝えないといけない事などは無いんですが…」

 

 

そう言うと、また少しだけ気まずそうに前髪を弄っていた。彼女にしては珍しく、煮え切らない態度になんだか少し不安になる。

何か、問題ごとが有ったんじゃないだろうか。そう一つ声かけをしようとした時。

 

 

 

「…その、一緒に帰りませんか?」

 

 

ゆっくりと、鈴がそう言った。顔を見ると、気恥ずかしそうに目を逸らし、頬を染めていた。

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

「……いや、ごめん」

 

 

「いえ。どうせそんな事だろうとは思っていましたよ。兄さんはいつもそうですから」

 

 

「…悪い」

 

 

 

さて、今は下校路。鈴と一緒に帰っている。

…ただ普通と少し違うのは、俺たちは今一つの傘に入っている事だ。

 

こうなったのは、完璧に俺のせいである。傘が無いと嘆くクラスメイトに、結局傘を一つ貸したまではいい。というのも、こういった時用に俺はいつも折り畳み傘を予備に持っていたからだ。

 

だからそれを差して帰れば良いと思って…

バッグをひっくり返した。

無い。そこまでやって思い出した。バッグの整理の時に机に置いて、そのまんまだ!

 

 

ハッとした時には、妹は此方に呆れた様な視線を向けながら、傘に入ります?とジェスチャーをしていた。情け無くも、俺はその申し出を受けさせてもらった…

というのが、顛末だ。

 

 

『傘は兄さんが持って貰えますか?

私が持つと貴方の肩くらいにしか届かないと思いますので』

 

 

そう言われて、今は俺が右手で傘を持ち、大きめな傘の中に二人が居る状態になっている。

 

 

この状態は、何処か新鮮だ。

なんというか、過去に何度か経験をした筈でもあるけど。それでも、そう。これは。

 

 

「そういえば、鈴と一緒に帰るのなんて久しぶりな気がするな」

 

 

そうだ。懐かしいのだ。

…鈴は優秀で人当たりも良い。故に色々な所に助力を頼まれたり、そうでなくとも他の友人と共に帰宅する事が多い。

 

実際、いつまでも兄妹離れ出来ない俺に合わせるよりも友達と一緒に帰る方がいい筈だ。だから最近はもっぱら別に帰っていた。

だからこのような距離で、相合い傘で下校するなど、本当に子供の頃ぶりだ。

 

 

 

「今日は俺と一緒でいいのか?」

 

 

「なんです。私が居ると不都合でも?」

 

 

「違うって!嬉しいからつい聞いちまうんだよ」

 

 

 

そう言って、そのまま鈴の頭を撫でる。

…ハッと。これも良くない。わかってはいるんだが…つい、子供の頃からの癖は抜けない。また、この相合傘の距離が、俺の認識を昔と勘違いさせてしまっているのかもしれない。…

いや、しょっちゅうこんな事してるから違うか。

 

 

 

 

「…に、兄さん。

人の目もありますし…それくらいで…」

 

 

「う、ごめん」

 

 

「いえ…オホン!

話を戻します。私が今日わざわざ来たのは…」

 

 

思ったよりされるがままだった鈴は少しだけ頬を緩めていたが、少し経ってからわざとらしい咳払いをしてから体裁を取り繕う。そしてまたキリとした顔付きで言った。

 

 

「…私が来なければ、兄さんはまたどうせ誰かに傘を貸してずぶ濡れになってしまうんだろうなー、なんて思っただけです」

 

 

 

ぎくりと、身を摘まれる気がする。

顔を伺って見ると、ツンと俺の反対方向を向いてしまっていた。

 

むう、返す言葉も無い。

実際、あの場に鈴が居なければ俺はこの雨の中を猛ダッシュで駆けていた事だろう。

 

 

 

「…あれ?ずぶ濡れになる予想が付いてたって事は、俺が折り畳み傘忘れてたの気付いてたのか?それなら言ってくれてもいいのに」

 

 

「まさか。いえ、そんな意地悪はしませんよ。私は単純に、ただ…」

 

 

「ただ?」

 

 

「…兄さんなら、そっちも誰かに貸す、なんて馬鹿な事をしかねないなんて思ってたんです」

 

 

ざくり。

胸にその言葉がぶっ刺さったような気がする。

もう一度顔を伺おうとするが、顔はぷいとそっぽを向かれて、見る事は出来ない。

 

 

 

「……さ、流石にそんな事は…」

 

 

「しますよね?」

 

 

「………はい。します…」

 

 

 

負けを認めて自供する。というのも、これは根拠の無い詰めでは無いのだ。一回正に、そんな状況になってずぶ濡れで戻った事があった。その時は鈴にも怒られてしまったものだ。

そんな負い目もあり、まるで言い返せない。

 

いつからか、さっぱり妹に口喧嘩で勝てなくなってしまったなあ…そうしみじみと思っていると、ため息の音が聞こえる。

 

 

 

「…いつもそうです。私が付いていないとすぐに無茶をするんですから」

 

「というより、私が居ても無理しますし。

それでまた居ないと尚更ひどい無茶ばっかりしようとしますよね、兄さん」

 

 

「おいおい、そんな事はしてないって。

危ない事とかは流石に断るし」

 

 

「自覚ナシですか。全くもう…」

 

 

ぎゅっと、傘を握る手の上から握られる感触がある。外気に触れた、少しだけ冷たい手。

でもその小さな手は確かに温かだった。

 

 

 

「…大丈夫?

詐欺とかに引っかかったりしてない?」

 

 

「何詐欺だよ。

お爺ちゃんじゃねえんだぞ俺は」

 

 

「だって、生徒会長に何かこき使われてるって噂も聞くし。何か言いくるめて良いように兄さんを使おうとする人もいると思いますよ」

 

 

「…あー…アイツも、そういう訳では無いとは思うんだけど」

 

 

「ほら、もう。人が良すぎるんですよ兄さんは。もう少し人を疑う事を知るべきです!悪意のある人間なんて山ほど居るんですから!」

 

 

 

そう言うと、鈴が横歩きに俺の前に顔を出してくる。背の関係上、胸元くらいに顔があるような状態であるにも関わらず、その勢いに気圧され、少したじろいでしまう。

 

少しむっとした顔をすっと上げて、また鈴が歩き始める。俺はそれに置いてかれないように急いで前に進んだ。

 

 

 

「…本当は出来るだけ、一緒にとは思うんです。でもそれぞれ忙しいし、ずっと一緒には居られるわけなんてない。それもわかってる」

 

 

「ああ。気持ちは嬉しいよ」

 

 

「でもせめて、困った事は私に話して貰いたいです。相談してほしいんです」

 

 

相談。何かを聞かなければどうしようもないと言うような追い詰められ方をしている訳でもないんだが。

 

 

「…今、『別にそうする程じゃないのになー』みたいな事思ったでしょう」

 

 

…バレてる。

そんなに顔に出てたろうか。

 

 

 

「…例えば。今日の話です。傘を貸して、そして折り畳み傘は無い状態。もし私が来なかったら、きっと兄さんは濡れたまま帰ったでしょう。誰にも、私にも貸してと言わないままに」

 

 

「……まあ、そうだな」

 

 

確かに。言われなければ俺は誰かに借りたり、なんなら鈴と相合い傘で帰ろうという発想をしなかっただろう。

 

 

 

「ねえ、兄さん…」

 

「私、そんなに頼れない?」

 

 

 

 

 

……

 

 

 

雨の音が、遠く聞こえる。

代わりに心臓の音が少しだけ大きく聞こえた。

 

 

それは、さっきまでの緊張とはまた違う緊張。

一つ傘の下に居る喜び、肩が触れる距離の嬉しさからくる物では無い。

 

不安から来る緊張。もし、そうだ、と言われたらどうしよう。お前は頼れないと。仮初にでもそう言われてしまったらという思い。

 

 

ぎゅっと、傘を持つ兄さんの手を改めて強く握った。雨に濡れて冷たいその手からは、それでも体温が伝わってくる。

 

 

 

「…まったく、お前は自分を過小評価しすぎだよ。もしくは俺の過大評価」

 

 

ふわりと、頭に置かれる手の感触。

もう、いつもそろそろやめないとな、なんて言ってるのに全然やめる気配もないんだから。

 

そして、その感触につい良い気分になってしまう私も、駄目な子だ。

 

 

 

「俺はいっつもお前に頼りっきりだって。鈴の方がしっかりしてるし、料理も上手いし、何より俺よりよっぽど優しいし」

 

 

撫でられる感触と諌めるようなその声に、雨の音が更に遠くなる。心臓の音はまた、大きく聞こえてきた。

 

 

「まあでも、心配してくれてあんがとな。お前の言う通り、もっと色々頼るようにするよ」

 

 

そう、にっこりと笑った。

 

ああ、もう。

きっと、兄さんは変わらないだろう。

この人がこう笑った時はいつもそう。

聞いてないわけじゃないし彼なりにやろうとしてるけれど、結局ダメな時。

 

これから先も、私に言われた事なんて無かったみたいに一人で全部やろうとするし、人を疑う事なんて知らないまま。

 

 

「……もう。約束ですよ?」

 

 

でも、いいんだ。

不服と焦りの中に、不思議な、満足感みたいなものを一緒に感じる。

 

兄さんの肩を見る。じっとりと濡れている。それは兄さんが私の方に傘を傾けて、自分が濡れる事を勘定に入れてない、そんな持ち方をしていた事を表していた。

 

 

そうだ。私は、こういう兄さんだからこそ。

こんな彼をずっと見てきたからこそ好きになってしまったのだから。その無くならない芯のある姿が、私がずっと見てきた背中だから。

 

ため息を吐くほど心配な事に変わりはしない。でも、それが無くなって欲しいとも思えない。

 

 

 

「おう、約束。

困ったら俺は鈴に相談するようにする」

 

 

どうやっても、兄さんは知らんぷりをして何かを助けようと無茶をするだろう。まったく、いつだってそう。それのせいでどれだけハラハラしてることか知らないクセに。

 

 

だから私は、せめて側に居る。

妹だから、貴方の横に居られる。それ以外できないかもしれないけど、それだけはしたい。

 

それがどれくらい役に立つかも、わからないけど。それはただの自己満足かもしれないけど。

 

 

ふと気付いて、傘の外に出る。

雨粒は、止んでいた。

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「…雨、止みましたね」

 

 

「お、本当だ。傘はもう要らないかな」

 

 

 

そうして傘を閉じる。

良い天気になるとまではいかないが、雨粒が無いだけありがたいだろう。

 

 

「…んじゃ、そうだ。

早速頼って良いか、鈴」

 

 

「おや。珍しいですね、そんな事」

 

 

「…今日の献立、どうしようか。

冷蔵庫に何残ってたっけ」

 

 

「あー…ふふ、成る程。

確かにそれは重大な問題ですね」

 

 

「そうなんだよ、確かもう大根も古くなってたし使っちゃわないとって思って…」

 

 

「…ですが。

それについて考える必要はありませんよ」

 

 

おや、なんでだろうか。

もう廃棄してしまったとか?

 

 

 

「今日はお母さんが早上がりなので作ってくれるそうです。久しぶりにって言ってましたよ」

 

 

「………え!」

 

 

知らない情報だ。

急いで携帯を見てみる…と、確かにそれが書いてあった。…マジかよ。

 

 

 

「悩んだ意味ナシかよ…」

 

 

「ほら、落ち込んでないで帰りますよー。

また降られてしまったら面倒臭いですし」

 

 

「ん、そうだな。

まあそん時はまた傘を差せば…」

 

 

そう一人ごちていると、鈴がまた俺の前に立った。そして、少し嬉しそうにこう言った。

 

 

 

「どうです?

相談してみるの、悪くないでしょう」

 

 

 

そう、笑みを浮かべていた。

それはいつも見る利発そうな笑みでもなく、人当たりの良い爽やかな笑いでもなく…

 

にたりと、悪戯っぽい、笑い顔だった。

 

 

 

「えーい、やかましい」

 

 

そう、頭を上からぐりぐりとする。

鈴がくすぐったそうにそれから逃げる。

 

 

なんというか、愉快な帰路だった。

 

 

 

 



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あの夏の日に(村時雨ひさめ)






 

 

僕は一人でまた勉強をしていた。

ここは正直、僕に合ったレベルの高校じゃない。

だから、勉強をしないとついていけないのだ。

 

 

「うーーん……」

 

 

友人の晴果や、先輩に教えて貰ってある甲斐もあり、いつも赤点は回避し、平均のスレスレ下くらいはキープしている。

 

辛くないか?と、担任の先生に聞かれた事がある。

それは嫌味や発破ではなく、単純な心配だったようだ。

でもそれには、答えた。

大丈夫です、と。

 

 

そうして僕は今、最寄りの図書館で自習をしている。学校の図書室もいいのだけれど、僕の中では勉強といえばここだと思っているのだ。

 

そうだ、僕が本格的に学び始めた時。

学ばねばならなくなった時。静かな空調の音と古い本の匂いがふと、脳の中の記憶を思い出させた。ほんの少し前の貴方にあった時の事。『あの時』、僕に会った貴方との出来事。それの一番初め。

 

それは、この図書館で起こった。

少しだけ思い出す。ほんの少し、頬が火照る。

 

 

 

ああ、そうだ。

僕は覚えています。

でも、貴方は覚えているでしょうか。

 

 

 

 

……

 

 

その出会いは、本の背で手が重なるなんて演劇のようなものではありませんでした。

 

 

夏休み。僕は蝉時雨が鳴り響く外をぼんやりと眺めながら、図書館の中で座っていました。

あまりにも惨憺たる期末テストの結果に、流石に勉学に励むべきだと思っていたからだったけれど、既に少し、集中は切れていて。ぼーっとただ中空を眺めて時間が過ぎていました。

 

基礎が成っていないと学び直そうとしたはいいけれど、何処が成っていないかは判らないまま、ただ教材にバツだけが付いていく。そしてまた、それに飽き飽きしていた。

 

 

初めては、そんな時でした。

 

いつもみたいに鈍臭く歩いていたら、勝手に躓いて、本や教材やらを落としてしまって。コロコロと、少し僕より遠くまで行ってしまったそれを拾ってくれたのが、貴方でした。

 

 

その時はありがたく思ったけど、特に思う事は無くって…

 

…いや、それは嘘だ。ごめんなさい。僕は、拾ってもらった恩も忘れて、その上背と顔の傷にすっかり怯えていたんです。

顔についた大きな傷。大きな身体。ぞっとするような腕の太さ。同じ人間に思えず、ただ怯えていました。我ながらなんて失礼な…

 

 

出来ればあまりもう逢いたくないとまで思ってしまったあの時の自分が、今や勿体無いとまで思えてしまう。でも当時の僕の想いとしては確かで。

 

 

「そこ、途中式違うよ」

 

 

だから、そう優しく言われた時は、本当にびっくりしたんです。集中している時に急に話しかけられたからっていうのもですけど、もう一度話しかけられてしまったって事に。

 

ただそれでも、離れておこうと思えなかったのは貴方のその表情のせいでした。きっと、僕はまた、貴方に怯えた顔をしてしまってたんでしょう。

貴方の顔は、それを見ての、申し訳無さそうな顔。

諦めたような、悲しいようなそんな顔。

 

 

ふとそれを見て。僕にはどうしてもそれが悪いようには見えなくて。だから、少しだけ勇気を出して、どう間違えてるか教えて貰おうとした事。それがキッカケです。

 

なんだかバツが悪そうに問題を教えてくれている姿を見ていると、何か可笑しくて。終いには、最初に抱いてた恐怖やらなんやらはすっかり消えてしまいました。

 

 

 

 

それから。

図書館に行くのが少し楽しみになりました。

 

僕が少し早めに図書館に来て、その少し後に貴方が来る。その瞬間を待つようになっていく。

 

どうやら、貴方は思っていたより僕のような子と話すのに慣れているようで、勉強を教える事も慣れていて。

 

僕の覚えはとても悪く、苦労をかけてしまう事も多かった。頭を抱えさせてしまう事も、幾つか。

ただそれでも、なんとか簡単なものくらいなら出来る様になりました。そうなると貴方は僕を見て、何故か僕よりも喜んでいて。また可笑しくて笑ってしまったのを覚えています。

 

 

 

そうして少し経ったくらいに、いつもの様に僕は来て、待っていても貴方が来なかった事がありました。

 

まあ、考えてみれば口約束もしていない間柄だったし、仕方がない事だと思って、いつもみたいに教材を開いた…けれど、何故か進みが悪い。やる気も出なかった。結局、直ぐ帰ろうと外に出た時。

 

 

ばったり。

ちょうど遭遇をしました。

 

貴方は何故か、本当に申し訳なさそうに頭を下げて謝って、約束をしたわけでも無いですし、と言ってもなんだかずっと腰が低くて。それを見て、何処かモヤついてた心がすっかり晴れてしまいました。

 

 

『そうだ。

もし今回みたいに用事が入った場合に連絡出来る様に』

 

 

僕たちはこうして、連絡先を交換する事になりました。そちらは、覚えているでしょうか?

今、思い直しても不思議な関係ですね。変と言ってもいいでしょう。この時になるまで僕、貴方の名前すら知らなかったんです。

 

 

それからまた、図書館に行って、別に約束をした訳でもないのに教えてもらう。そんな、よくわからないけれど、でも楽しい日々が流れていきます。

 

 

 

…どこを境に、かは意識していなくて。

 

それはこの日々を初めて楽しいと思ったその時からか。はたまた名前を互いに知った時なのか。あんなに煩かった蝉時雨が貴方の声で聞こえなくなった時からか。

 

それでも、確かに抱いてしまったこの想いは。

伝えなくてもいいかな、なんて思っていました。

この日々が続くなら、漫然とそれを受け入れて、それでいいと。

 

 

 

『夏休みも終わったら、ここで会う事もなくなるな』

 

 

 

そう淋しげに、貴方が言うまでは。

 

…それは、当然の事。長期の休みが終われば、それぞれにやるべき事があるし、ここに居るような時間なんて無い。でもその時はそんな事考えもしなくて。茫然と、目の前に走る文字列がやけに難しく見えて。こんなにこの数式は難しかったかな?なんて思っていました。

 

 

その日から1日、1日と過ぎていくのが出来れば止まってくれないかなんて、無意味な事を考える時が増えました。夏休みが終わらなければいいのに、なんて。まるで健全な男子生徒みたい。

 

 

 

ああ、それでもやっぱり終わりの時は来て。

『それじゃあね。』と。いつもの『またね。』じゃない別れの言葉にその身を散らすようにして、暑い外に身を乗り出したんです。

 

きっとこれを言わなければずっと後悔するから。去っていく貴方を追って、その言葉を。言わないと。今、その時に。

 

 

 

教えてくれてありがとうございました。

 

 

 

貴方は嬉しそうな顔をしたけれど、そうじゃない。僕は、それじゃない事を言いたかった。でも口がそのまま、動かなくて。

 

 

つつがなく、ただその会話は。

夏休みは、終わりました。

 

アスファルトに水滴の跡だけを残して…

 

 

 

 

ーーまだ。

 

そう、思ったのは携帯をぼーっと弄っていた時。

 

そうだ、まだ。あの人と居たい。

もう二度と会えないなんて、嫌だ。

あの人の横に、あの人の声を聞きたい。

 

 

だから、さりげなく、世間話のような風体で。聞くんだ。貴方の通う高校はどこですかと。

 

 

その高校名は聞いた事があったものでした。

僕の友達が、推薦で決めたらしい場所。

 

…僕の頭では、到底入れそうにない場所。

 

 

夏が終わったこの時節。

……まだ、絶対に間に合わない訳ではない。

覚悟を決めた。

 

 

…その出会いは、運命だなんて大層なものじゃなかったと思います。

 

 

それでも。いや、だからこそ。

また逢いに行きます。

貴方に、何とか追いついて。

 

待ってて下さいなんて言いません。

止まっていてなんて言いません。

 

ただ、もう一度会った時に。

あの夏休みの続きを。

 

 

きっと、もう一度逢いに行きます。

その時こそ、貴方の横に居られるように。

 

 

 

 

……

 

 

 

 

は、と終業時間がなる鐘の音。

記憶から戻り、現在に戻る。

急いで荷物をまとめて図書館を出た。

 

 

携帯に、連絡。

着信名は、『古賀集』先輩。

 

 

「お疲れ!明日、やろうか?」

 

 

「ええ、お願いします」

 

 

つい頬が緩みながら、そう返信した。

 

 

 

 



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プラス・アフター・プリンス(九条史桐)






 

 

「お邪魔します…と、どうやら誰も居ないみたいだね」

 

「だから言ったじゃん、俺以外は多分帰って来てねぇぞって」

 

 

 

体躯の大きな青年と、目の赤い少女。

それぞれ、古賀とシドと言う。彼らは、前者の青年の家へ赴く事になっていた。

 

 

 

特に何かしらの理由がある訳では無い。

ただ、しかしこの状況は、以前に一度少女の方の家へと赴かねばならなかった事に起因している。

 

生徒会活動においての手伝い、その為に一度、青年を呼び寄せたのだ。ともすればそれは、ただの口実であったかもしれない。

 

ともあれ、一度来たのだ。

その時の事は今でも思い出せるようだった。

 

 

 

『でけぇ家。

なんつーか…金持ちなんだな』

 

 

『そうかい?普通だよ』

 

 

『うわっ金持ちっぽいセリフ!』

 

 

 

他愛のない会話すら記憶に焼き付くほどにその光景は驚くものだった。

 

だがしかし、まるでそう言った事については触れようとしない少女を見て、殊更に話題に出すのも失礼であるかと心に留めた。

 

広く、綺麗な部屋で気遅れはしながらも、しかし手伝うと決めた事くらいはと手伝う。

 

中途、所謂女給がお茶を出しに来た時もまた驚いたが。シド当人曰く、これもまた普通だろうと言う。

 

ともかく、仕事は終わり、帰ろうとしたところ、折角ならゆっくりしていきなよと引きとどめられる。

 

そして、少女はこう言った。

 

 

 

「ボクだけ家を見られるなんて不公平じゃあないか。この偏った天秤を公平に変えてみるつもりは?」

 

 

と、押し通すように家に行ってみたいという案を出され、そして押し切られてしまった。

というのが、今の状態の顛末である。

 

 

 

「んでここが俺の部屋だ。

…つっても面白いものはないけどな」

 

 

「本当だ…なんというか思ったより簡素だね。折角ならもっと話題になるものを用意しておいてくれよ」

 

 

「無茶ゆーな。

急に来られたのはこっちだぞ」

 

 

 

クスクスと、何かがおかしいように笑いながら部屋の中へ座る。洒落込んだ椅子なども無い為、クッションの上にそのまま座り込むがしかし、その様子はあくまで上品だ。

 

 

 

「…マジでここで業務作業やらやるのか?

ぶっちゃけ冗談のつもりだったんだけど」

 

 

「おやそうかい?だが言質は取ってるからね。残念だけど撤回はさせないよ」

 

 

「まあ全然いいけどよ。

門限とかはそっちは大丈夫なのか?」

 

 

「ああ。なんとでも言いくるめられるさ」

 

 

 

事もなげに、そうすんなりと言い放つシド。どうもそういった事には慣れてるらしく、良心の呵責等は表情には無い。

 

 

 

「しかしここ狭かないか?あの部屋が根底にあるってなると」

 

 

「いやあ。学校の教室と家を比べああ、部屋が小さいなぁ、とはならないだろう?」

 

 

「そりゃそうだが、それは校舎と家だからであってこの場合は…」

 

 

「いいんだよ、どれにせよ気にならないって事なんだから」

 

 

「ならいいんだけどな」

 

 

「しかし、いいじゃあないか。

君の言いぶりからも君の家族が暖かいものだって事がよくわかる」

 

 

「…そっか?普通じゃないか?」

 

 

「普通か…あんまり、ボクはそう思わないな。片方を持っていれば、片方が持ちにくいシステムでもあるんだろうか」

 

 

 

しんと、会話が途切れて空気が冷え込む。

先程までの藹々とした雰囲気は、どこか下火となり、そして少女は次第にそれに気づく。

 

珍しく、ハッとしたような。

『しまった』と言うような顔をした。

 

 

 

「ごめん、軽率だった。そういうつもりは無かったんだ。二度と言わないから許してくれ」

 

 

「うお、なんだ?何に謝られてるんだ俺」

 

 

「…あれ?図らずもその…君の家についてを馬鹿にしたニュアンスを出してしまって、それについて君も怒ってるだろうと思ったんだが…」

 

 

「いやいや、全然そんなん感じてないって!

ていうかあれと比べりゃそりゃ馬鹿にもされるレベルだと思うし。

俺がその…黙ったのは…」

 

 

古賀はごにょごにょと語尾を濁して、言いにくそうに顔を顰める。赤い目はそれを見てようやく得心がいったように、ああ!と手を叩いた。

 

 

 

「違う違う!『そういう話』じゃあないさ!別にネグレクトだとかそういうものは受けちゃいないよ。ごめんごめん、確かにそういう事も邪推させるような言いぶりだった」

 

 

「ああ、そっか!ならいいんだけどさ…」

 

 

「うんうん。ボクが言いたかったのはその…なんていうかね。あまり顔を見る事が無かったり、常に模範足るように言われる事が何かの上に立つには必要であって、それはつまり、それが無い人との幸福とのトレードオフなのかもしれないというか」

 

「なんて。ハハ、イヤミっぽいかな?」

 

 

「……」

 

「…ぜんっぜん」

 

 

「そうか、いやあ気を悪くしないでくれ。

こんな事で友達を失うなんて嫌だからね」

 

 

「……疲れないのか?そんな…」

 

 

「うーん、あまり考えた事は無いけど。

…でもそうだな」

 

 

「……少し、疲れたかなぁ」

 

 

 

突如、青年が自分の頭を抱え込む。

唐突で急激な動きだった。ガタンと音がし、シドも珍しくそれに驚く。

 

 

「ど、どうしたんだい。頭痛かい?」

 

 

 

「……ぜんっぜん、『そういう話』じゃねぇかよ。それに、散々俺に家でかいとか言われた時、なんで怒ってくれなかった。お前にとって気持ちいい話題じゃないだろ?」

 

 

「え?まあ…別にわざわざ言うことでも無いし、それでキミの機嫌を損ねっ!?」

 

 

 

その珍妙な言葉の切り方は当然彼女が意図したものではない。が、しかしそれは目の前の青年に肩をがしりと掴まれた際の不可抗力であったと言える。

 

 

 

「いいか、シド!確かにキッカケはお前に言われたからだが、それでも今、俺はお前の力になってやりたいと思ってんだよ!」

 

 

「あ、ああ?それは、ありがとう?

にしてもこの手はあんまり紳士的じゃ…」

 

 

「俺に隠すな!少なくとも、これ以上俺のせいで疲れたりなんかするな!頼むから、お前のその重苦を少しでも背負わせてくれよ!」

 

 

「…!それはまた、変な事言うね。

それじゃまるで、ずっと一緒に居なきゃならないみたいじゃないか。なんて…」

 

 

「居てやるさ!ずっと、横にな!」

 

 

「…!?」

 

 

「…勿論、お前が嫌じゃなきゃだけどな。

頼むから、俺にお前を助けさせてくれ」

 

 

「嫌では…いやでもそんな急に…!」

 

 

「なら、背負わせてくれ。

お前と一緒のものを、出来るだけ背負う。

だから一緒に居させてくれ。シド」

 

 

 

「………はい…」

 

 

 

一先ずの静寂と、少女のその眼のように赤くなってしまった顔を見て、ここでようやく古賀は正気付く。

 

肩を掴み、あまつさえ距離がひたすら近い。

自分でやっておいて、なのに狼狽したようにその状況から脱する。

 

 

「……わりぃ、熱くなりすぎてた。

肩痛くないか…っていうかその…

いや、本当にごめんなさい」

 

 

「…本当だね。

いや、疑うわけじゃあないが…」

 

 

「へ?」

 

 

「今言った事だよ!

…ふふ、凄い大口上だったじゃあないか。まるで演劇に出てくる王子様のようだったよ」

 

 

「茶化さないでくれよ。俺もちょっと熱に当てられてたんだ」

 

 

「いやいや、茶化してなんかないよ。本当にそう思ったのさ。

…オーケー、キミの気持ちは良くわかった」

 

 

ついでに自分自身の気持ちも、とボソリと付け加えたそれは青年には聞こえなかった。

 

しかしこれは聞こえなかった古賀を責めるより、聞き取らせない程度の大きさで呟いたシドを称賛するべきだろう。

 

 

 

「頼りにしてるよ?『王子様』」

 

 

「うう、勘弁してくれ…」

 

 

空間にはさっきまでのような団欒が戻っていた。赤く染まっていた顔色も、既にもうなくなっている。

 

だが一つ。少女の心には、先程まで確たるモノとしてなかったものが在った。

抱き締めている事の出来ぬ、しかし愛しいモノ。初めて手に入れたモノ。

 

 

 

 

……一方。

古賀宅から200m程離れた歩道にて。

 

古賀鈴は友人とも別れ、兄の顔を見る事を楽しみに一人、帰路についていた。

 

その後がどうなったのか。

それはまた、混沌の中……

 

 

 

 



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雛鳥の哀歌(古賀鈴)







 

 

 

兄が最近良く女性と会う。

 

 

いえ、別に会うだけなら良い。男女交際なんて個々人の自由なのだから。というか第一、別に知る事さえなければ別によかったのだ。私が知らなければ万事OKという事だった。

 

 

なのに、問題はその、知る他無いというか…

なんというか…家に連れてくるのだ。

兄曰く断っても付いてくるのだと言うが、そんな訳がないでしょう。そんな美人さんが押しかけてくるなんて、物語ですら無いですよ。

 

 

…いえ、まあ、連れてくるのもいいんです。ちょっと…いやだいぶ気に食わないような気もしますが、まあそれでもよかったんです。

 

問題は家に来る女の人が2人目になった辺り。それも、1人目と違って随分と体格の小さい。

ただでさえ、不特定多数の異性を連れ込むのなんて言語道断。しかもそれに加えて、二人ともその見た目が麗しいと来ていて。

 

それはもう、駄目だろう。

ラインを超えてしまっているでしょう。

母さんも父さんもニコニコしてる場合じゃないでしょう。

 

 

 

「ちょっと、兄さん!」

 

 

 

そう、怒鳴ってしまう回数が増えた。

別にそうしたい訳では無い。

無いのに、怒鳴ってしまう。

何か言い返してくれてもいいのに。

 

 

どうしてだろう?それは勿論、家族内における風紀を悪戯に乱すような行動を謹んでもらいたいが為。でも、それは兄だけが悪い訳では無いし、何より、そんなに申し訳なさそうな顔をさせるつもりは無かった。

 

そうわかってる筈なのに、どうしても頭がカッとなり冷静で居られなくなる。今日こそ冷静にと思っていても、いつもの兄の人当たりの良い笑みを見ると、どうしてか。

 

 

「勘弁してあげてくれないかな。

彼というより、ボクのせいだからさ」

 

 

 

そう最初に言ったのは、その連れ込まれた女性の一人だった。赤い目が記憶に残っている。

 

 

「兄妹として、兄の不貞を咎めねばなりませんので」

 

「話は聞いているよ、自慢の妹さんだって」

 

 

成り立っていないような、微妙な会話の後に、続けてこう言った。

 

 

「大丈夫、キミは思っているよりはお兄さんから愛されてる。だから、すぐに『取って食べたり』なんてしないし、出来ないよ」

 

 

「…すみません。何を言ってるか」

 

 

「怒る気持ちはわかるって事」

 

 

わかる、だと?何がわかるというんだろう。ニコニコと笑ったこの人に、私の、私たちの何が。私たちの関係の何がわかるというんだ。私たち兄妹の。私の。

 

わかっている、相手はそんなつもりで言ったのではない。それでも丹田の奥から、溶岩のような熱い何かが込み上がって止まらない。ぐつぐつと煮えたぎって、はち切れそうになる。

 

 

(ああ、ダメ。ダメなのに)

 

私は、完璧でなければならない。それがせめて兄に寄り添うに相応しい事なのだから。感情を御す事も出来ないなんて、よっぽど完璧からは程遠い。だから息を吸って落ち着こうとした瞬間。

 

ふと目があって。

 

 

瞬間、脳裏にあの光景がフラッシュバックした。

あの日の光景。兄はもう帰って居るだろうかと下校したあの日、顔をその目と同じくらい赤くして、兄に肩を掴まれる彼女。その、それを。

 

どうして、それがここで浮かんだのだろう。

どうして、それを未だ覚えてたのだろう。

 

…どうしてそれで、この胸の溶岩がタガを外したのだろう。

 

 

 

 

翌日、声が枯れていた。

声を張り上げる事なんて久しぶりだった。

 

声を荒げるなんて、良くない事だ。どうして、してしまった?考えないと。失敗を恥じるだけではなく、それの分析をして同じ過ちをしないようにしないと。

 

 

私は、あの赤い目の彼女に、仮初の理解を示された時に、どう思ったのだろうか。苛立ち。怒り。激怒。

…間違いない。ではその怒りは何故?

 

…嫉妬。何に向けての?私を知っているような言い振り、私たち兄妹を知ってるような口ぶり。私たちの繋がりを。私たちしか知らぬ筈のものを知ってるような。

 

そんな事で、私は怒ったのか?下らない。あまりにも。それでは、完璧であろうとしている私の想いも私自身に笑われよう。どうしてそんな下らない事で?独占しているはずの関係が無くなったみたいで。

 

関係の独占の無くなり?独占していたものが無くなったからどうだと言うのか。兄に関係性が出来たら、嬉しい筈だろう。

 

でも、違う。違う!

嬉しくなんて無い。思うだけで胸が苦しくなる。どうして私以外と話すの。どうして、私以外とも。

 

何故だろう。

……一つの答えが、ぷつりと繋がる。

 

 

『兄さんの事が好きだから』

 

 

 

 

「ーーーッ」

 

 

息が詰まった。馬鹿な、有り得ない。でも、そうなら全てに辻褄が合うのもまた事実。嫉妬も、怒鳴る苛つきも、全て。

この想いも、兄を見るたびに広がる暖かさも、兄の周りの人に抱く黒い想いもなにもかも。

 

 

…この時はあり得ないと蓋をした。

禁忌だからというそういう倫理も働いたのだろうけど、それよりも、自分の感情と思慕に名前を付けるのが怖かった。

 

 

だけど蓋をしても、ふとした時に擡げる。普通に話している時。後ろから見る時。一緒にTVを見てる時。私はこんなに、兄さんを見ていたんだっけ?

 

吐き気がした。初恋は甘酸っぱいレモンのような味だと聞いた。それは嘘だと、まじまじと感じた。

 

 

完璧であろうとした。

皆の為、兄の為?兄の横に並んでもいい存在になりたかった。違う。気に入られたかったから。なんで?確かに好きだった。でも、こんな。こんな、穢らわしい、汚い感情から、兄の隣に居ようとしたのか?

 

完璧であらねば。

兄さんの横に並ぶため?並ぶ為に完璧になろうとしたんだっけ?完璧になってわたしはどうしたかったんだっけ。わたしはどうなりたかったんだっけ?

 

 

わかんない、わけわかんないよお兄ちゃん。

頭が痛くなってきちゃった。

 

鏡を見ることが嫌いになった。

その中に映る者が、酷く汚く見えた。

 

 

 

……

 

 

ある日、兄の部屋に女性が一人入るのを見た。

あの赤い目の女の人ではない。

 

折角なら謝りたかったが、仕方がない。それに、私はまた怒鳴ってしまうかもしれない。それはもう嫌だった。これ以上、自分を嫌いたくは無かった。

 

 

 

「あ…えっと、妹さんですよね?

その、初めまして」

 

 

「…初めまして、鈴といいます。兄のご学友ですか」

 

 

「いや、僕は後輩で…

その、どちらかというと色々教えてもらってて…」

 

 

嫌になる。この人がじゃない。この人に向かう、自分の感情が。後ろ暗いものが。兄に纏わり付くなという、薄汚い自分が。

 

 

「…兄の事が好きなんですか?」

 

 

そう問う自分も、嫌だ。今までは人並みに自分を肯定できてたのに、この関連については、こんな思いばかりだ。

 

 

答えは帰ってこなかった。顔を見てみると、少し赤くしていたけれど、どちらかというと首を傾げてるようだった。

 

 

「う…多分…」

 

 

「多分?わかってないんですか?」

 

 

「うん」

「…わからないけれど。

でも一緒に居たいっていうのはだめかな」

 

 

「………ッ」

 

 

 

 

…なにもわからない。

この感情が綺麗なのか汚いのか。

この思慕が性欲なのか憧憬なのか。

私が兄にとって、よい妹でいれてるのか。

考えても、考えても。

 

 

それでも、一緒に居たい。

それだけは本当。

恋でも、愛でも。

 

 

…目を逸らしたいって事は、きっとこれは恋なのでしょう。してはいけない、ダメな。ここ最近ずっと感情の制御が出来ていなかったから、よくわかる。

 

 

 

 

「兄さん、これ出しっぱなしです」

 

 

「あ、わりぃ」

 

 

 

結ばれる事は絶対に無い。

それでもただ想いたい。

 

 

兄さんに、気づかれなくても構わない。

きっと生涯、気づかれる事はないだろう。

あの人は、とっても鈍感だから。

 

 

それでいい。

兄さんにとってはわたしはずっと良い妹。

それが幸せなんだ。彼にも、わたしにも。

 

 

…この想いを諦める事など到底できない。

するつもりも、ない。

それでも今は、ただ今のままである事を望む。

いつか終わる空間だとしても、だからこそ。

貴方と一緒の、唯一の時間だから。

 

 

結局、何も変わってなど無い。

兄はまた家に女の人を呼ぶし、私はそれに少しイライラする。その度に兄は困った顔をして、それを見た人がくすりと笑う。

 

 

でも、自分を嫌いになる事だけは少なくなった。

そんな、何の意味もない、小さな歌。

 

 

 

 



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ギブミー・オールユア・ラブ(九条史桐)






 

 

 

天気のいい日だった。少しだけ風が強い代わりに日が燦々と降り注いでおり、秋口だというのに汗ばんでしまいそうな程。

 

時計が示すは待ち合わせ時刻の30分前。

少し早かったかもなと思いつつも、まあ待てばいいだろうし、もし遅れてしまった場合を考えると早く着き過ぎる方が余程良い。

 

 

と、そう思っていると。

 

 

 

 

「だぁれだ」

 

 

世界が暗闇に包まれた。

目の周りには誰かの体温。

 

 

「…約束もしてない人が俺みたいのに絡みにくる訳ないだろ。シド」

 

 

「ん、大正解。にしてもキミは相変わらずやたらにデカいねえ、目を隠すのが大変だったよ。もっとボクに配慮して縮み給え」

 

 

「無茶言うなよ!」

 

 

 

すっと手が退けられ、初めに目に写ってくるのはどきりとするような赤い眼。女性的なシンボルである筈の後ろに結ばれ長く伸びた髪は、不思議とマニッシュな雰囲気に貢献している。

 

そこには、私服姿の我が校の生徒会長が居た。

 

 

 

「結構早く着いたと思ったんだけどな。

待たせちまったか?」

 

 

「いや、ボクもちょうど着いた所さ。よくも待たせたなとキミをネチネチと弄ろうとしたのに、アテが外れたよ」

 

 

「あっぶね。早めに出といて助かった…」

 

 

 

こうなった顛末は、一昨日の事。金曜の放課後にいつもの如く手伝いをしていた時の事だ。

外も暗くなり、鐘が鳴ってそろそろ帰ろうかという頃。

急に、がしりと手を掴まれ、こう言われた。

 

 

『そうだ、今週末空いてるかい?

もしよければデートしようじゃないか』

 

 

恐らくは、何かしらの手を借りたいという事だろうな。そう理解し、そしてまた断ったらロクな事にならない事もわかった俺はその場で誘いをOKしたのだ。OKをした時、妙に喜んでいたのは少し不思議だったが…

 

 

「で?今日は何をするんだ?」

 

 

「おや、気が早いね。それほど今日を楽しみにしてくれたのかな。やぶさかでは無いなぁ」

 

 

 

そうニヤつきながら視線を合わしてくる。そして流れるように俺の手を取り、手を繋いだ。

指と指を絡ませるその繋ぎ方はなんというか、少し失礼だけど、蛇を連想させた。

 

 

「目的地はあっち。それともデートコースを考えてきてくれてた?それなら悪いね、今日はボクに付き合ってもらうよ」

 

 

「はいはい、何処へなりともお姫様」

 

 

「なんだいそれ」

 

 

くすりと二人で笑いながら手を引かれる。堂々と背筋を立てて前を歩く姿は凛々しく、改めて目を惹かれてしまうようだ。

そして、他愛のない話を少ししながら歩く事数分程。辿り着いた場所は映画館だった。

 

 

「へえ…なんか意外だな。なんかこういうのにはあまり興味無いイメージだった」

 

 

「実際見る事自体は少ないけれどね。だから今日せっかくだからと思ってさ」

 

 

館前のポスターには幾つもの作品が描かれている。CMでやっているような話題作。新進気鋭のアイドル達が出演している青春作品。名監督と噂されるアニメ作品。

俺自体まるでそういうのに詳しくはない事もありどれがどうだかというのはあまり判らないが、好奇心を惹かれるのは確かだ。

 

…だがこの場で最も関心を惹かれるのは作品ではない。シドがどのような作品を選ぶか、だ。趣味らしきものをあまり見せない彼女はどのような物を好むのだろうか?

 

 

「と、いうことで。

今回見ようとしてるのはこれだ」

 

 

そう言い、ポスターの前で止まる。

指を指した先にあるもの、それは……

 

 

 

「……これ?マジで?」

 

 

「うん、マジ」

 

 

「…………なんで?」

 

 

 

その作品はその……

…最大限オブラートに包んで言って、あまり完成度は高くなさそうだった。ポスターの時点でそれってどういう事なんだ。

 

 

 

「こういう時ってもっとハズレがなさそうな…それこそあれとか選ぶんじゃないのか。ほら、あれなんてCMでも見たぞ」

 

 

「ハハ、つまらないかもしれないものを大画面で見るからこそ楽しいんじゃないか。万が一にも面白かったりするかもしれないしね」

 

 

「万が一っつったか!?

万が一ならやめとかないか!?」

 

 

「もうチケット買っちゃったから無理」

 

 

「行動はええな」

 

 

 

…そうして俺はイヤにウキウキとしたシドに手を引かれて館内に入っていく。

薄暗い館の中は、案の定ガラガラだった。

まあ、ここまで来れば見るしかないだろう。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

……うーん、なんというか…

感想を語れない。

 

それは勿論、素晴らしいからじゃなく、あの有様を表現するには少しばかり語彙が足りないという事だ。なんなんだあの横滑りするCGは。

 

 

 

「うーん、案の定相当つまらなかったねえ」

 

 

ストローでコップの中のドリンクを啜りながらシドがそう言う。ああ、そうそう。見終えてから俺たちはその横にあるカフェに入っていた。

 

 

「あ、よかった。やっぱりシドもそう思ってたのか。見てる最中すげえニコニコしてたからマジかよって思ってたんだけど」

 

 

「キミの横顔を見てるのが楽しくってね。

みるみる内に微妙そうな顔になってるの」

 

 

「いや映画見ろよ。

というか、シドはなんていうか…

…ああいう映画を見るのが好きなのか?」

 

 

「まさか。普段はもっと面白いものを見るさ。往年の名作であったり、新しいものもね」

 

 

 

じゃあなんで今日そのセレクトじゃなかったんだ。どういう事なんですか生徒会長。

 

 

「感性を育てるには、良いものだけを摂取しても不健全だ。特に芸術についての感覚は、いわゆる駄作を見る事で初めて育つものなんだよ」

 

 

「…なるほど?そういうもんか?」

 

 

淀みなく言うその言葉に納得しかける。

…いや、流されないぞ。その理屈が正しくても、俺を巻き込む必要の理由にはなってない。

なぜ、わざわざ俺を呼んだ?

 

 

「だってつまらない映画って一人で見るのは苦痛じゃないか」

 

 

答えは、呆れるほどシンプルだった。

 

 

 

「…お、お前なあ…」

 

 

「はは、冗談冗談!半分はね」

 

 

「半分は本気なのかよ!」

 

 

 

アハハ、と悪戯に笑う。その様子は邪気や含みの無い子どものような朗らかな笑みだった。

 

見たものがあまりにもアレであった事もあり、少しだけ文句を言おうとも思っていたが…

それを見たらそんな気すら失せてしまった。

 

いつも張り詰めたり、張り付いた笑みばかりしている彼女がこんなに楽しそうに笑うところを見るのは本当に久しぶりかもしれない。

それの役に立てたのなら、良かった。

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

「ああ、楽しかった!」

 

 

外はもう、夕暮れの日も殆ど落ちてしまいすっかりと暗くなっていた。風は相変わらず少し強く、吹くたびに髪が乱れる。

それぞれの手の内にあるものが飛んでいかないように気をつける。最後にと、歩き食いの為に買ったものを。多少行儀は悪いが、それを咎めるような人も居ないだろう。

 

 

「半分こしないかい?

せっかくなら甘いものも食べたい」

 

 

「俺もそれ少し食いたいな。

いいぞ、交換こだ」

 

 

そう言いながら手にあるたい焼きを半分にして渡す。代わりに相手の半分も貰う。

 

 

「…ふう。今日は急に呼んで悪かったね。そっちはどうか分からないけれど、ボクはとっても楽しかったよ」

 

 

「なんだかんだ俺も楽しかったよ。…ただ今度行く時はあんなんじゃないのを見てえな」

 

 

「おや、『今度』がある前提か。

これはこれは嬉しいね、フフ」

 

 

 

風が強く吹く。

髪を後ろに流れるようにたなびいたその頬が少しだけ紅潮しているようにも見えた。

 

 

「きっと、キミはよく知ってると思うけれど」

 

 

ぽつり、と語り始める。

俺はただ無言でそれを聞く

 

 

「ボクはまったくもって優秀だ。眉目秀麗にして成績優秀。人当たりも良く家柄も良い」

 

 

「普通自分で言うか?そういう事」

 

 

「フフン、事実だからね」

 

 

「……でもだからといって、弱みが無いわけじゃないし、あまり知られたくないシュミだってある。弱み云々じゃなく、プライベートはあまり知られたくないし」

 

 

「そりゃ、そうだろうな」

 

 

「わかるかい?ボクは今日、キミとそういう弱みを共有させてもらったのさ」

 

 

「さて。それが何を示しているかわかる?」

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

ボクは彼の何も知らない。

 

 

例えば、今ボクの手にあるたい焼きの半分。

 

餡が多く入った胴体を渡されたのは、彼なりの優しさなのかもしれないし、単純にカリカリしてて尾っぽ部分が好きなのかもしれない。最近のたい焼きはしっぽまで餡が入ってるから気にしてないだけかもしれないし、無意識に自分などが優先されるべきじゃないと思ってるのかもしれない。

 

当然答えなんてわからないし、敢えて聞く事でも無い。なんなら、聞いた所で無意識であったならば答えは出てこないだろう。

 

 

問題はたい焼きの事じゃない。ボクはそんな程度のキミのことすらわかっていないと言うことだ。

 

でも、知りたいじゃないか。

気になるし、何よりやきもきする。好きな人の事に付いての全てを知りたいなんて傲慢かもしれないけれど、当然の事じゃないか。これを傲慢と貶すなら、それこそ傲慢じゃないか?

 

 

だが、どうしよう。

全てについて教えてくれ、と言われてハイどうぞと教えられるようなものではない。

 

少し、考えた末に。

まずはボクの事を知ってもらう事にした。ボクの弱い所、ボクの本性、ボクの心。

じっくりと知ってもらおう。そうして彼をボクの色に染め上げてしまおう。そうすれば彼の事をすぐに理解できる。教えてもらうでもなく、彼の全てを理解できるじゃないか。

 

そう、思ったのだ。

 

結果的には、むしろ逆にボクが彼の色に染まってしまうかもしれない。その時はまあ、それで良いな。

 

もし彼がそれらを、ボクの立場が悪くなるように使ったりしたらと、考えもした。ただまあ、そうなったならきっとそれはボクが悪いんだろうし。そうなったにしても彼がこっちを向いたという事だから、あまり悔いは無いし。

 

 

 

 

「さあ、何を示してると思う?」

 

 

きっと答えられないだろう。

だがそれでいいんだ。今はまだね。

 

 

 

「…俺の弱みも知りたい、とか?」

 

 

「ハハ、それもいいね!

どっちかっていうと、目的の一つかも」

 

 

「ならいいぞ。

今すぐにとは言わないけど、教えるよ」

 

 

 

おや。

 

 

 

「…簡単にそういうことは言わない方がいいんじゃないか。言質を取ったと騒ぐかもしれないよ」

 

 

冗談のつもりでそう言う。

それに帰ってくる言葉が、虚をついた。

 

 

 

「いいよそれくらい。

…自惚れかもしれねえけどさ。そうしてる時のお前、すごく楽しそうなんだよ」

 

 

 

「…俺、嬉しそうに笑うシドが好きなんだ」

 

 

 

 

そう、笑う。

…唖然、呆然。

つい何も出来ないまま立ち尽くしてしまう。

 

馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、まさかここまでとは。行動の予測なんて立たない。理解なんてできない筈だ。彼の行動はいっつも予想の外から来る。

 

だからこそ。

 

 

 

「…シド?」

 

 

「…あ、ああ。いや、ごめん。ぼーっとしてた。流石にそろそろ帰ろうか。…質問の答えについては考えておいてくれ給えよ」

 

 

「ん、ああ。そうしとくわ。

正直全然わかんないし」

 

 

 

一際強く、また風が吹いた。

いやに熱い頬に、丁度いい冷たさだった。

 

 

(……『理解』なんて)

 

 

…やっぱり、やめだ。

理解できないキミだからこそボクは惹かれたんじゃないか。ボク色に染めるなんて、今日に見た映画よりもよほどつまらない。

 

 

 

「…だから、半分こだ」

 

 

「ん?」

 

 

「いやね。勝手にとはいえ、ボクの事を教えたんだ。だから今度は古賀クンの事をもっと教えて欲しいな」

 

 

「代わりにって…

教えるような事もないと思うぞ?」

 

 

「キミにとってはそうでも、ボクにとっては違うのさ。さあさあ、頼むよ」

 

 

そう笑うと、困ったように微笑みながら古賀くんは辿々しく話始める。

ボクらは道をゆっくりと歩きながら話し、話されを繰り返していた。

 

 

ゆっくりと静かに。

この手の中にあるもののように。

さあ、半分こ、しよう。

 

そして願わくば。その半分がそれぞれの全てになる日が来る事を。

 

想いの全てが、渡される日が来ることを。

 

傲慢を軽く咎めるように、風がまた強く吹いた。

火照った身体に心地良かった。

 

 

 

 

 



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Let's dance!前編







 

 

 

 

グイと袖を乱暴に捲りながら校内チャイムの音を聞く。…本当は下校時刻。クラスメイトももう皆帰っていった。だが少しだけ。せっかくだからもう少しだけ凝らせて欲しい。

 

明日になったらもう手間を加える暇は無い。

だからもうちょっとだけ……

 

 

 

「コラ、そこの不良生徒。

早く帰りの準備をしなさい」

 

 

 

屈んでる頭をこつりと叩かれる感覚。少しだけ強めのそれは、どうも既視感があるようにすら感じた。

 

 

「痛。…もうちょい。もうちょいだけだから見逃してくれよ生徒会長」

 

 

「ダメ。キミが残ったら監督しなきゃいけないからボクまで居残りさせられるだろうが」

 

 

 

振り向いた所に居るのは生徒会長、史桐。彼女とはプライベートでも少し会うような友人関係でもあり、そしてまた同じクラスでもある。

 

 

「そっか、なら流石に帰らなきゃあな…

…そういえばめちゃくちゃ今更だけど、お前生徒会で何かやるんじゃなかったか。このクラスに付きっ切りでいいの?」

 

 

「キミも知っての通り、前年の学園祭で不祥事が起こったからね。そうはならないように、今年の生徒会は見せ物は無しにして、その分監督を徹底するんだと。まあ、そもそも人数が足りなすぎたし中止も止むなしさ」

 

 

「そっか。…練習、無駄になっちまったな」

 

 

「なあに、ひさめちゃんやキミと楽しい時間を過ごせたからいいさ。ちょっと残念ではあるけど」

 

 

仕方がないとはいえ、急な中止を聞き、少しだけ心がナイーブになる。あんなに頑張っていたのにそれが無駄になる気分は、良くは無いだろう。

 

 

「…にしても、もう1年経つのか。

また学園祭の時期が来たんだなぁ」

 

 

「ハハ、何を黄昏てるんだい。

ジジむさいねえ」

 

 

「…それ昨日、鈴にも言われた…」

 

 

 

そう。明日は我が校の学園祭当日。学園祭といえば、学外から客も来て皆で楽しむ一大イベント。そう巨大な規模では無いにせよ、それでも楽しみだ。

 

俺はその気持ちがはやり、つい残って内装にしつこく手を加え続けていたのだった。

 

 

 

「ハイ、鞄。さっさと帰りなよ?ただでさえ帰りを待ってる人がいるんだから」

 

 

と、いつもより幾らかつっけんどんに俺のカバンを押しつけてくる。出していた筈の道具も全部仕舞われている。

 

 

「あれ、シドはまだ帰らないのか?」

 

 

「あー…まだやらなきゃいけない事があるんだ。流石に、クラスの事で手一杯だろうキミに手伝わせる訳にもいかないしね」

 

 

 

そう疲労感が隠しきれないため息をゆっくりと吐いた。

シドは、優秀だ。だからこそ、周囲から色々な事を押し付けられる。いつか潰れてしまわないか心配になってしまう。

 

 

「…いつも言ってる事だけど、無理だけはするなよな。言ってくれればなんでも手伝うぞ」

 

 

「おお、何でもと来たか、頼もしいねえ!

…大丈夫だよ。心配してくれてありがと」

 

 

疲れた顔で、しかしちょっと綻んだ顔で微笑む。安心したようにも見えたのは俺の気のせいか驕りかもしれない。

 

 

「それじゃ、また明日な。

せっかくだし、楽しもうぜ」

 

 

「はいはい、また明日」

 

 

しっしっと手を払うようにして帰りを催促されてしまう。苦笑をしながら下駄箱へと向かう。

 

…しかし、『やらなきゃいけない事』か。さっきは聞きそびれたが、一体どんな仕事なんだろうか。無理にでも手伝っていくべきだったか…

 

 

 

 

 

「……よーし、バレなかったな。さて、古賀くんが居ないうちにさっさと仕上げないと…」

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

校門の出先で、単語帳を読みながら待っている人影がある。眼鏡が夕日を照らして、下の影にはおさげと、アンテナじみてぴょこりと生えた髪がシルエットを作っていた。

 

そのシルエットは俺に気付き、嬉しそうに手を振ってから、それを少しだけ恥ずかしそうにしてこっちに近づいてくる。

 

 

「お疲れさまです、古賀さん!」

 

 

「あれ、ひさめ?…ごめんな、待っててくれてたのか。凄く待たせちゃったろ」

 

 

「い、いえいえ、好きで待っていただけですので気にしないでください。

…あ、好きってそういう意味ではなく!」

 

 

「はは、わかってるわかってる」

 

 

 

帰り道が中途まで同じな事もあり、俺はよく彼女とは一緒に下校している。

…ひさめの美貌もあり周りの目が少し、いや大分痛いこともあるがまあそれは些細な事だ。

 

だから今日も待っていてくれたのだ。もう既に帰っているものだと思って随分と居残りをしてしまったのに、それでも。なんて健気な。俺には勿体ない後輩だ。

 

 

「えっと、それじゃあ…」

 

 

「ああ、一緒に帰ろう。

早く帰らないと親御さんも心配しちまう」

 

 

 

そうして夕暮れ空を後ろに、帰路を行く。両腕で鞄を持つその姿は逆光と黒黒とした影のせいか、いつもよりも少し小柄なようにも見える。

 

 

 

「いよいよ学園祭だな。

ひさめのクラスは何をやるんだっけ?」

 

 

「あ、はい。僕のクラスはカフェというか…軽飲食店です。洋風な感じに教室もデコったんですよ」

 

 

「へえ!面白そうだな」

 

 

「えへへ。

…それでその…本当に、みんな頑張って綺麗にしたんです。僕も、接客で働くんです」

 

 

「おお、そうか」

 

 

「は、はい。…ですので…その…」

 

 

「?」

 

 

「…その、もし暇になったらでいいんですが、僕のところに来てくれませんか?」

 

 

 

そう、一大決心のように重々しく言い切る様子。更に身体が縮こまったようにすら見えた。顔は覗き込まないと見えないが、見なくともわかるような気がした。

 

 

 

「…困ったな…」

 

 

「!す、すみません!嫌でしたよね!

こんな事言ってしまってすみま…」

 

 

「いやいや違うんだ!その…

言われるまでもなく行くつもりだったから」

 

 

「へ…」

 

 

「本当は当日に急に来て驚かせようかな、なんて思ってたんだけどな。これじゃあ意味無くなっちまった」

 

 

「それじゃ…」

 

 

「ああ、行くよ。

というか是非行かせてくれ」

 

 

「あ…ありがとうございます!」

 

 

ぴょん、と身体が跳ねた。同時に、あほ毛がぴょこりと動く。コミカルなその動きと喜びように、つい微笑む。

 

だが、一方でまだ少しだけモジモジとしてる事に気付く。何か不安なことでもあるのだろうか?

 

 

「どうした?」

 

 

「え゛!い、いや…その…

…ほ、本当に忙しかったり先約が入っているなら大丈夫なんです!なんですが……」

 

 

すーはーと、深呼吸の音。

一呼吸にしては随分と長い間が空いた後。緊張に溢れ妙に大きな声でこう言った。

 

 

 

「あ、明日!僕のクラスに来た後!

もしよければ、僕と一緒に回りませんか!」

 

 

「おう、いいよ」

 

 

「…へ?い、いいんですか!?」

 

 

 

ぎょっと驚くような反応。

ひさめが言い出した事だろうに。

 

 

 

「いや、僕から言い出しておいてなんですが…その、他の方と回ったりする予定は…?」

 

 

「あー…特に無いんだ。ほら…色々やってる内に友達は皆予定が決まっちまっててさ…」

 

 

「…な、なんかすみません」

 

 

 

謝られてしまった。いや、ひさめは謝る事はないんだ、悪いのは俺だから…

にしてもあいつらは薄情じゃないか?

 

 

 

「…ふふ、なら僕、そのお友達さんたちに感謝しなきゃいけないかもしれません」

 

 

「感謝?」

 

 

「…今、そうは見えないかもしれないですが、小踊りしちゃいそうなくらい嬉しいんです。先に約束があったらそれも無かったと思うと」

 

 

「…いや、嬉しいのは見るからに分かる」

 

 

「ええ!?そんなに顔に出てます!?」

 

 

「出てる出てる。あと顔以外にも」

 

 

 

気恥ずかしさで早足になった歩きや、もじもじと動かす手先と、にっこりと弾けるような笑顔。その全てが彼女の嬉しさを表している。

 

 

 

「うう、恥ずかしいな…もっとポーカーフェイスの練習とかしようかなあ…」

 

 

「いや、そのままの君で居てくれ。

そういうとこが好き」

 

 

そう言うと、うぅと呻くようにして静かにしてしまう。しまった。今の発言は失礼というか、流石に無作法すぎただろうか?

 

 

 

「……ずるいですよ、そういうところ」

 

 

「?ずるい?」

 

 

「…誰かれ構わず好きだとか、言わないようにしてください!でないとその…

…勘違い、しちゃいそうになりますから…」

 

 

「…」

 

 

「そ、それじゃあ!

僕こっちなので!また明日!」

 

 

「あ、ああ。また明日…」

 

 

「…明日、楽しみにしてますからね?」

 

 

 

最後にぼそりとそう言われてから、大急ぎでひさめは走って去って行ってしまった。背中に声をかけようとも思ったが、転びかけてる様子を見てやめた。

 

 

 

「……そっちこそ、そういう事言うのやめてくれよ。俺こそ『勘違い』しちまいそうになる…」

 

 

そう、誰もいない空気にそう一人ごちる。顔をガンガンと叩いて正気を保つ。

違う。違う。あくまで、先輩への尊敬。俺に対してそんな感情を抱くなんてあり得ないって。

 

 

 

(…勘違い、しちゃいそうになりますから)

 

 

「……」

 

 

彼女の、ひさめの顔が瞼の裏に残る。どうしてもあの顔が離れない。珍しくこっちの目を見ながら言った、嬉しさや哀しさを混ぜたようなあの顔が。鼓動が早まる。顔が熱い。

 

 

だめだ、ここに居てもぼけっと考えて立ち尽くすだけだ。さっさと家に戻ろう。

 

結局、帰り道の途中、意味もなくずっと悶々としてしまった。なんだか脳裏から、あの発言と顔が離れない。ついにおかしくなってしまったんだろうか俺は。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「ただいまー」

 

 

「あらお帰り、集。

ごはん出来てるけど先にお風呂にする?」

 

 

「あれ母さん。今日早かったんだ」

 

 

「今日は更に珍しく父さんもいるわよ。

なんだか早く上がれたんですって」

 

 

「へえ!んじゃ先に飯にするよ。待たせちゃっても悪いし」

 

 

 

手を洗いすぐに食卓へ。ちょうど出来たくらいだったらしく、まだ湯気の立つ料理が机の上には並んでいた。そして椅子には既に鈴と父さんが座っている。

 

 

「よ、なんか久しぶりだな親父」

 

 

「…そうだな」

 

 

相変わらず、寡黙だ。

だが表情は豊かなのでどういう感情なのかはわかりやすい。多分今は疲れ半分、嬉しさ半分。

 

 

「では食べてしまいましょう。

冷めてしまってからでは勿体無いですし」

 

 

横から鈴の声。静かなその声を聞くと、やはりどこか落ち着く。

 

 

さて、それじゃあいただきます。

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

「明日、兄さんのクラスの方に行ってもいいですよね」

 

 

「ん?…ああ、勿論いいぞ。

ただそっちも忙しいんじゃあないのか」

 

 

「忙しくて無いって言ったら嘘になるけど…折角なら行きたいですし。勿論嫌なら行きませんが」

 

 

「ないない、ぜひ来てくれよ。

えっと、確か俺のシフトがこれくらいの時間だから…俺に会いたいならこの時間帯に来るといいぞ」

 

 

「はい。用事もそれに合わせます」

 

 

 

…会いたいならって部分は冗談のつもりだったんだけど真顔で受け止められてしまった。まあ確かにそんな面白いものでもなかったが。

 

 

 

「ま、学園祭!だから今日遅かったのねえ。鈴ったら帰りが遅いってソワソワしてたのよ」

 

 

「ソワソワなんてしてません」

 

 

「あら照れちゃって。いいのよ母さんにくらいは隠さなくっても。鈴はお兄ちゃんの事大好きだもんねー」

 

 

「もう、お母さんは静かにしてて!」

 

 

…相変わらず母さんは色々と強い。鈴も形無しだ。まあ生まれてからこの方ずっと見てきた子どもなんだし当然なのかもしれない。

 

 

「そっかー学園祭ねえ。母さんたちも行けたらよかったんだけどまた忙しくって。お父さんはどう?」

 

 

「…用事がある」

 

 

父さんはそう言葉少なく返す。だがその顔は相変わらず、口ほどに物を言っている。その様子に、やっぱり笑ってしまう。

 

 

「はは、そんな申し訳なさそうな顔しないでくれよ。行こうとしてたってだけで嬉しいんだから」

 

 

「すまん…」

 

 

申し訳なさそうな、なんならしょんぼりとした顔をする。その顔を見たら何も言えなくなってしまう。本当にそこまで気にしなくてもいいのに。

 

 

「コホン。

…それで、もし良ければ、それが終わった後に私と回りませんか?予定は空けますので」

 

 

その空気を断ち切るように鈴が言う。

その横で母さんがあらあらと楽しそうにし、それに対して鈴がまたムッとした顔をした。

 

 

「あー…すまん、明日は先約がある。

明後日、2日目ならいいぞ」

 

 

「おや、そうですか。

それなら仕方な………」

 

 

 

ふと、黙り込む。

どうしたんだろう。お腹が痛いんだろうか。

 

 

「どうした、お腹痛いか」

 

 

「違います。

………シドさんですか?」

 

 

「え?」

 

 

「その先約です。一緒に回る人はシドさんですか、と聞いています」

 

 

「いや、違うけど」

 

 

 

そう言うと、ほっと安心したようなため息を吐く。どうも鈴はあまりシドが好きじゃないみたいだ。本当は仲良くしてほしいが…まあ、仕方ない事だ。

 

 

「なら良かったです。

そうなると…私が知ってる人ですか?」

 

 

「ああ、知ってる人…っていうかひさめだよ」

 

 

 

冷っ。

なんだか空気が冷たくなった気がした。別にそんな事は無かったが、なんだか妙に寒気を感じた。

 

 

 

「……なるほど、そうですか。ふーーん」

 

 

「な、なんだよその何か言いたげなそれは」

 

 

「いえ、何でも。

ですがなんというかアレですね…兄さんは女の子とばっかり仲良くなりますね最近」

 

 

「そんなつもりはねえんだけど」

 

 

「つもりがあろうとなかろうとです。

…なるほど?ふーーん」

 

 

視線がなんというか痛い。刺さるような、冷え込むようなものを感じる。そんな悪いことしたのか俺?ただ後輩と一緒に回るってだけで…

 

(勘違いしちゃいそうですから…)

 

……

また、思い出してしまった。

あの時の発言を、今日の夕暮れを。

 

 

 

「…何を顔を赤らめてるんですか!

まさかひさめさんと何かあったとか…!」

 

「あらあら拗ねちゃって。しょうがないじゃないねえ、集もお年頃だもの」

 

「す、拗ねてない!

母さんは静かにしてて!」

 

 

そんなこんなで、家の中は騒がしい。

その様子を見て親父が口元をにこりと上げていた。俺はまたそれを見て、ククっと笑った。

 

 

 

さあて、明日は学園祭。

前日に楽しみで寝れないなんて小学生みたいな真似をしてしまわないようにしなければ。

 

 

さて、どんな日になるだろうか。

高揚と不安が胸をどくつかせるようだった。

 

 

 

 

let's dance!中編へ続く



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Let's dance!中編







 

 

 

鞄を手に、校門の前で一瞬立ち止まる。

そんな大層なものでは無いと頭ではわかっているが、それでも1日目の空気は少しだけ緊張する。それはきっと楽しみの裏返しでもあるのだろうとは思う。

 

 

よし、やるぞ!

そう意気込んで、教室に向かう。

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

…服を手に持ち、立ち尽くしていた。

呆然とする俺の前に、ニコニコといい笑顔で立っているクラスメイトたちがいる。

 

 

「……これを着ろと?」

 

 

疑うように、そう聞く。

きっと何かの間違いだと言ってくれるのだと

 

 

「ああ」

 

 

…そんな事はなかった。

 

 

 

「……いや、やめとこうぜ…」

 

 

…俺が教室に来るや否や渡された服は、今時、演劇やミュージカルでくらいしか見ないようなガチガチの燕尾服だった。ついでに渡されたのは度の入ってない片眼鏡。

…これを着ろってのか。本気で!?

 

 

 

「コスプレもいいとこだろこれ!

ていうか絶対浮きまくるだろ!」

 

 

「まあまあ、それで客寄せでもしてくれ。コンセプトを伝えるにはちょうどいいだろ」

 

 

「いや…コスプレ喫茶とかだと勘違いされるんじゃねえかな…」

 

 

見れば見るほど、なんというか…中世を舞台にした映画くらいでしか見ないような服装だ。俺のクラスの出し物は確かに洋風の飲食店だが、それにしても雰囲気にそぐわないくらいだ。

 

 

「しっかし、よくこのサイズのものあったな…一体どこにあったんだ、これ」

 

 

そうぼやくと、後ろの方で愉しそうにニヤついていた一人が声を上げる。

赤い眼をしている女子生徒…シドだった。

 

 

 

「いやあ、どこ探しても無かったよー。

だからボクの手縫い」

 

 

「手縫い!?」

 

 

「うん、キミが帰った後に細々とね」

 

 

は、と今更になって気付く。

そうだ。昨日含めて、帰らないのかと聞いた時の事を思い出した。

 

『あー…

まだやらなきゃいけない事があるんだ』

 

…ひょっとして、やらなきゃいけなかった事って、そういう…

 

 

 

「マジかよ、これが?すげえ上等な物に見えるんだけど…ていうかどうしてそんな手間をかけてまでこれを俺に」

 

 

「趣味…じゃなくて、キミに着て欲しかったからさ」

 

 

 

趣味って聞こえた。本音が聞こえたぞ一瞬。

 

 

 

「…もちろん、嫌だったら構わないけどさ。

着てくれないか。頼むよ」

 

 

ぐっ、と息が止まってしまう。

そう直球に頼まれてしまうと弱い。それに、俺なんかの為にわざわざ手間暇を掛けてこれを作ってくれたのだ。それを蔑ろにするということは、出来るはずが無い。

 

 

何より、いつも爽やかに、そして不遜に微笑んでいる生徒会長がしおらしく頼む姿にどうにかなりそうだった。

 

 

「わ、わかったわかった、着るよ。

ただ、片眼鏡だけは外させて貰うからな。流石に恥ずかしすぎる」

 

 

「わあい、優しいねえ」

 

 

 

…そうして俺は学園祭を、とんでもなく時代錯誤な燕尾服に身を包みながら過ごす事になった。

 

友達からはサングラスを手渡され、それをかけて『I 'll be backって言ってくれ』と言われた。…それ死ぬ寸前の奴じゃねえか!

 

 

ああ、もうなんというか…

前途多難だ。

 

そう思いながらも、

つい笑う口元を抑えきれなかった。

微笑ましく、楽しくなってもいた。

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

服を着て、僕、村時雨ひさめは鏡の前で立ち尽くす。…見れば見るほど恥ずかしくなってくる!

 

 

 

「…聞いてない!聞いてないよ!」

 

 

「うん、そりゃ言ってないしね」

 

 

そう、中学時代からの友人の晴果が悪びれもせずにそう言ってくる。

 

 

「な、なんでそんな騙すような事を…!」

 

 

「だって事前に言ったらひさめ絶対嫌がっただろうし…」

 

 

「そりゃそうだよ!

こんな格好、恥ずかしいし…!」

 

 

「大丈夫大丈夫!お客さんそんな来ないと思うし、もっと胸張って!似合ってるし!ほら皆もそう思うよね?」

 

 

そう言うと、クラスメイト達は頷く。

…こんなに見られてたの!?それを思うと、顔にどんどんと熱くなっていくのを感じる。

 

 

「ほらほら、可愛いって。だから胸張って接客してくれれば、すごく皆助かるの!頼むよひさめ〜」

 

 

「…う……わかった…」

 

 

「…あとついでに、呼んだあの先輩にイケイケドンドンしちゃいなよ」

 

 

ボソッと耳元で囁かれる。

…言われた内容に一瞬理解が遅れて。

数瞬後に、顔がボッと赤くなった。

 

 

「ななな、なんでその事を…!」

 

 

「あ、やっぱり誘ってたんだ!やるねえ〜」

 

 

「…っ!」

 

 

「ご、ごめんごめん、悪かったからそんな泣きそうな顔しないでったら。…でも、いつもと違う格好を見せたらきっとその人もメロメロになるんじゃない?」

 

 

「…そう、かな?」

 

 

「うんうん、絶対そう!だから頑張ろ!」

 

 

ふと、脳裏にあの人の事が思い浮かぶ。

いつも屈んで、僕に背を合わせてくれるあの人。大きな背丈を、いつも何かを助けたりする事に使ってる古賀さん。

 

…この格好なら、あの笑顔を僕だけに向けさせる事が出来るんだろうか。

そんな良くない事を一瞬、思ってしまった。

 

 

「…わかった、頑張ってみる」

 

 

「ん、その意気だ!」

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

「はぁ…だから言ったのにな」

 

 

俺、古賀集は今、クラスから離れて学校の中を歩いている。結局着替える事を許されず、あの燕尾服のままで練り歩かされている。通りすがる人が時たまギョッとしたような顔で此方を振り向いてくるのが、精神衛生上悪い。

 

働くべき時間のシフトが終わり、俺は今ある所に向かっていた。ある所…後輩のクラスに。

 

 

さて、俺の結果といえば…散々である。

まず客引きをすれば、どうしても怖がられてしまい学外の人はあまり入ってこない。かといって店内に居ると相手が萎縮しがちだ。ならば裏方にと思ったが、そうするとその格好で裏方かとクラスメイトにツッコまれる始末。

 

 

実働時間の3倍くらい疲れた気分だ。

幸いにも、今向かっている所は和風テイストのカフェらしい。そこで少しだけ休ませてもらう事にしよう。

 

そう思っている内にその教室が見えて来る。看板と外装を見るに、落ち着けそうな所だ。

 

 

 

よし、とその教室の扉を開け、中へ。

途端に受付の人が声をかけてくれた。

 

 

「い、いらっしゃいませ!

ゆっくりしていってくれたら嬉しいで…す…」

 

 

語末部分がさらさらと消えていく。

それを怪訝に思い、その声の方向に向き直った俺もまた、どきりと動きが止まる。

 

 

そこに居たのは、俺を来るように誘ってくれた後輩のひさめだった。そして固まっている彼女のその格好は丈の長い袴と着物にフリフリの飾りが付き、また前掛けとヘッドドレスが付いた…

 

…いわゆる、和装メイド姿だった。

 

 

 

「……え、えっと…」

 

 

「…ご、ご注文をどうぞー?」

 

 

目をぐるぐるにしながら、やけくそと言わんばかりにそう聞かれる。

俺も目を奪われ、上の空になってしまって、何を頼んだのかもわからないような状態だった。

 

 

「え、ええと…似合ってるぞ、それ」

 

 

席に座る前に一言、なんとか感想をいう事が出来た。後で言おうかとも思ったが、どうしても今言ってしまいたかったのだ。

 

 

気恥ずかしくなりながら案内された席に向かう。その背後で、ぼんっ、と。頭から湯気が出たような音が聞こえたような気がした。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

「お、お待たせしました!」

 

 

「おう。それじゃ行こうか」

 

 

 

結局、味もわからない程上の空のままにお茶を飲んでいた俺を正気付けたのはひさめだった。

 

真っ赤な顔でお盆で顔を隠しながら言っていた事を聞くに、もうそろそろシフトが終わり、一緒に回る事が出来るようになるから待って欲しいとの事だった。

 

 

「服、そのままでいいのか?」

 

 

「へっ!?…や、やっぱり変でしたか?」

 

 

「い、いやいや!動きにくかったりしないかなと思っちゃってさ。格好自体はさっきも言った通り良く似合ってると思うよ」

 

 

「そう、ですか。…よかったです」

 

 

ゆっくりそう言うと、ひさめがにこりと照れ臭そうに笑う。俯きながらもこちらの表情を少し伺ってくるその様子はいじらしく、そしてまた可愛らしい。

 

 

「そういえば、その…

古賀さんの格好も凄いですね」

 

 

「ん、ああ…これは…

やっぱり変だよな。自覚してる」

 

 

「いえ、似合ってると思います、本当に!

足も長いですし、黒色がシックな感じでとても合ってると思います!」

 

 

「うお…そ、そうか?」

 

 

「…はっ。す、すいません…」

 

 

 

そんな事はないと、興奮したように否定してくれた。それに少し動揺していると、ふと我に帰ったようで、またとても恥ずかしそうに身を縮めてしまう。ヘッドドレスに抑えられている髪の毛がくるくると動いているようにも見えた。

 

 

「はは、そう言って貰えると嬉しいよ。

ひさめは本当に優しいなあ」

 

 

「…そんな事、ないです」

 

 

優しい、と言うと、恥ずかしそうにしていた素振りも鳴りを潜めて、少し落ち込んでるようになってしまう。…なにか、気に触るような事を言ってしまったのだろうか。そうなら、悪い事をしたな。

 

 

「…ところで、先に行っておきたいところがあるんだけどそこ行ってもいいかな?」

 

 

話題を変えるように、そう聞く。

我ながら酷く不恰好な話題の変え方だが。

 

 

「…あ、は、はい。大丈夫ですよ。何処に行きたいんですか?着いていかせてください!」

 

 

「ああ。えっと…確かこっちだな」

 

 

「あれ、こっちの方面は…

中等部ですか?」

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

落ち着いた空間に、静かな音と周りの喧騒が聞こえて来る。

 

私、古賀鈴のクラスは小物作りの出し物をテーマにしている。食品関連もまた候補に出たが、需要に対して供給が過多ではないかという意見から、こういった物になった。

 

幸い学外学内問わず客は継続的に来てくれているし、子供連れの方の需要も満たしている。何より、少しだけ祭りの雰囲気に疲れた人のちょっとした休憩の場にもなっているようだ。

 

 

そうしていると、少しだけ受付の辺りが騒がしくなっている事に気が付いた。

何かトラブルでもあったのだろうか?とも思ったが、そういったわけでも無さそうだ。

怪訝に思い見に行ってみると…

 

 

「あ、鈴。忙しかったか?」

 

 

「ど、どうも…こんにちは…」

 

 

 

…なんだかおかしい格好の二人が来ていた。

 

片方は和装でふりふりの女中さんの格好。

そしてもう片方は巨大な背格好のスーツ…いや燕尾服、執事の…

 

 

 

 

「……」

 

 

「ど、どうした顎に手を当てて黙り込んで。

もしかして急に来られても困ったか?」

 

 

「いえ……なんでも。

いや、なんでもあるんですが」

 

「……とりあえず写真撮っていいですか?」

 

 

「なにがどうして!?」

 

 

 

ひとまず考える事をやめて衝動に身を任せた。

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

一通り写真を撮られ(後で母さんたちにも送るそうだ。やめてくれ!)た後に、鈴たちのクラスの出し物も体験する事にした。

 

小さな布のアクセサリーだったり、キーホルダーをデコレーションしたり、スマートフォンカバーに手を加えて自分だけの小物を作れるというコンセプトの出し物らしい。

なんとも楽しく、面白い試みだ。何より俺はこういう細かい作業が嫌いではないので、ついつい楽しくなってしまう。

 

 

「うあ…うまくいかない…」

 

 

「ああ、こちらはピンセットを使うとやりやすいですよ。もしよければ」

 

 

「あ、ありがとう。

えっと…古賀さんの妹さんだよね?」

 

 

「はい、その説はどうも」

 

 

 

にこりと愛想良く笑う鈴と、少しだけ人見知りぽく動揺しているひさめの姿を目の端に捉える。よかった、シドと鈴はあまり仲がよろしくなさそうだが、彼女達の仲はそこそこ良好なようだ。どちらも心根が優しく、相性がいいのかもしれない。…ああ、シドが優しくないという訳ではなく。

 

 

そうしている内に、手元の作業に没頭してしまい、二人の会話は聞こえなくなってしまった。ただ様子からしてあまり長いこと話していた訳でもなさそうだ。

 

 

 

 

……

 

 

 

「…今日、兄を誘ったのはひさめさんですか?」

 

 

「…はい。僕の方から。断られたらと思ってもいたんですが、快諾してくれて」

 

 

「そう、ですか。やはり兄の方から誘った訳ではないんですね。それならよかったです」

 

 

「……」

 

 

「…変な事を聞いてしまってすみません。

あと、先日はありがとうございます」

 

 

「先日…ああ、集さんが風邪をひいてしまった時ですね。こちらこそ、ありがとうございました。おかげで楽しかったです」

 

 

「楽しい、ですか」

 

 

「いや…実は本当は僕がやるべきような事をもう既にやってしまっていて。結局大した事は出来なかったんです」

 

 

「ああ、たしかに…そういう事をします、兄は。それはまた、心配をかけさせてしまったでしょう」

 

 

「いえ、大丈夫ですよ!お陰で、その…いつもは見られないような集さんを見られたので…」

 

 

「ふふ、そうですか。…これからも、兄の様子を見てやってくれますか?」

 

 

「い、いやいや!むしろ僕が面倒をかけてばっかりの立場でして!様子を見るなんてそんなおこがましいですって!」

 

 

 

 

……

 

 

 

「よし、出来た!」

 

 

だいぶ時間をかけて、一つ可愛らしいアクセサリーを作った。可愛らしい…というのは主観だが、まあそれなりには良いものだと思う。

 

 

「あ、古賀さんも終わりました?

…って、凄いですねそれ!」

 

 

「ああ、ひさめも終わってたか。

…えっと…ひさめのは…芸術的だな!」

 

 

「オブラートに包まれると尚辛いです…

昔っから不器用なんですよう…」

 

 

 

接着剤などを乾かすためにある程度時間が経った後にまた来てくださいと言われ、クラスから出る。座りっぱなしだった事もあり、少しだけ肩を伸ばした。

 

 

「そういえば、鈴と話してなかったか?」

 

 

「へ?あ、はい。話させてもらっていました。なんというかしっかりものの妹さんですよね…」

 

 

「だろ?自慢の妹だ」

 

 

「でしょうねえ…気持ち、すっごくわかります。僕一人っ子なのであんなお姉さんが欲しかったなあって思います」

 

 

「はは、妹じゃなくてお姉さんなのか」

 

 

「だってお姉さんって感じがしません!?こう…キッチリとしてて凛々しくって…!」

 

 

ひさめは、誰かを褒める時、とても口が良く回る。その様子を何度も見ているので、本当に誰かの良いところを探す事ができる、良い子なのだなあとつくづく思う。そしてそれはきっと、全く意識してない行動なのだなあとも。

 

 

 

「……それでも、負けたくないなぁ。

なんて、改めて思いました」

 

 

褒め終わる最後に、一言。

少し寂しそうなそう付け加えてもいた。

 

 

「?…なんの話だ?」

 

 

「えへへ、なんでもないです」

 

 

そう言って、はぐらかされてしまう。

その哀しみを含んだ笑み。昨日の、夕暮れをまた少し思い出してしまった。

誤魔化すように、顔を逸らす。

 

 

そうして、色々な所を回った。

輪投げやボウリングなどの娯楽をテーマにしたクラスだったり、たこせんなる物を売ってる所、中には古本屋(!?)などもあって、改めて色々なものがあると思ったものだ。

 

どこを行くに当たっても、俺もひさめもよく笑い、そして、楽しんだ。

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

こーん、こーん。

 

終了まで、あと少しだと知らせるチャイムが鳴り響く。外を見ると、日が落ち始めている。

 

 

言わなきゃ。

 

どくん、どくんと心臓が早鐘を鳴らす。

僕はそれを必死に、表に出ないように努める。

 

 

 

「ああ、楽しかったな。

…と、ひさめは楽しかったか?」

 

 

「ひゃい!た、楽しかったですよ!」

 

 

虚をつかれた事もあり、噛んでしまう。

またやってしまった…

そんな事ばかりしているから、僕はきっと…

 

 

 

「さて、そろそろクラスに戻ろうか。

明日もあるし、解散かな」

 

 

「!ま、待っ…」

 

 

 

待って。その一言すら、最後まで言えない。

どうして僕はいつもこうなのだろう。

 

…ちがう、『いつもこうなのだろう』じゃない。諦めるな。こんな自分にはさよならするって、あの時に決めたんじゃないか。

あの夏の日に、何も言えなかった日に。

 

 

 

「待った」

 

 

 

それを、言ったのは僕では無かった。

真剣な目をして、真っ直ぐにこっちを見ている、古賀さんがその言葉を発していた。

 

 

「…何を、言わなきゃいけないと思ってる?

何にそんなに追い詰められてるんだ?」

 

 

 

どきりと、した。

それはさっきまでの動悸とは異なる跳ね方。心を読み取られたような、驚愕だった。

 

 

「どう、して。

…どうして、わかったんですか?」

 

 

「多分…今日、1日中ずっと思ってたよな。

ふとした時に考え込んだり、ずっと何か思って、追い詰められてた。それくらい、見てたからわかるさ」

 

 

 

それほど、見た目に出ていたのだろうか。違う。それでも僕はわからないようにしていた筈。なのにどうしてここまで。

 

そしてどうしてここまで、見られているということに、喜びを覚えてしまってるのだろう。

 

古賀さんが言葉を続ける。

 

 

 

 

「…だから、今日ずっと、『何か言わなきゃいけない』みたいな感じで気負ってるように見えたんだ。…君がそれを決断したんなら尊重するけど、無理はしないで欲しいからさ」

 

 

「…ごめんな。気持ち悪いかもしれない。でも、これくらいの事は俺だって出来るから。君のこと、見てるつもりだから…一人で思い詰めないでくれ」

 

 

 

真っ直ぐと、こっちの目を見つめてくる。

その眼はたしかに、僕を見つめていた。

 

 

(……ああ、僕が写っている)

 

 

今日。絶対に言わなければならないと思っていた。今日に、必ず伝えるべきだと。

 

 

…きっと、言わなければいけないと思っていたのは、僕が周りを見ていたから。

 

生徒会長の、シドさん。

彼の妹の、鈴さん。

どちらも、僕よりも全然器量も良くて、可愛くて。僕なんかよりも全然に、優れている。

 

でも、きっと、違うんだ。

比べていたのは、僕が勝手にやっていただけ。少なくとも彼は、僕を見てくれているのだと。

 

そして何より、僕自身が一番、僕を見つめて居なかったのだ。

 

 

『何かと比べた』『何かよりも劣った』僕ではない。古賀さんは等身大の僕を、村時雨ひさめを見てくれている。

 

 

焦燥感がすうとひいていくのを感じた。

 

自分の事も見られてもいないような人を、彼が放っておけるわけがない。

だから今、想いを伝えた所で手放しに、恋仲になる訳なんてないじゃないか。

 

まずは自分を見てから。

自分を好きになってからと。

そう寄り添ってくれる筈だ。

 

僕は。

そんな彼の姿を見て好きになったんだから。

 

 

 

「……ごめん、説教臭くなったな。

それで、どうだ。伝えるべき事か?」

 

 

「…はい。

いつか、絶対に伝えなければいけない事です」

 

 

「そうか」

 

 

「…でも、それは、『今』伝えるべきではありません。それに気づけました」

 

 

「…そっか」

 

 

大きな手が、僕の頭を少しだけ強めに撫でる。ともすれば乱雑なそれがとても暖かく、心強いものに感じる事が出来た。

 

 

 

「でも、いつか伝えます。

…その時まで待っていてくださいね」

 

 

結局、伝えなくばならない事を伝えることのできない自分のままで終わってしまった。

 

だけど少し、いつもより、自己嫌悪に苛まれる事はなさそうだ。

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

…本日の文化祭は終了しました。

明日のお越しをお待ちしています。

 

ひさめとも別れ、日が沈み始める。

放送が、今日の祭りの終わりを告げる。

 

さて、残るは明日。

明日は鈴と学校を回るのだ。

 

ひさめと鈴の顔が脳裏にふと浮かぶ。

…瞬間、寒気が走った。

風邪か。違う。これは。

 

そうだ。その時に、ようやく気付いたのだ。

 

 

 

「……アクセサリー取りに行くの忘れてた!」

 

 

 

 

 

 

let's dance!後編に続く…



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Let's dance!後編






 

 

 

学園祭、二日目。

 

 

今日も今日とてクラスに向かう。

そして当然の如くまた燕尾服を着せられた。

…いや、流石にもういいだろ!

 

 

「ボクの目の保養になるから着てくれよ。…あとそれを見てギョッとするお客さんの顔が面白いから」

 

 

着るように言ってきた張本人に聞くには、そういうことらしい。

 

 

「後ろの方がメインだろおめえ!

というか俺なんか保養にならないだろ!」

 

 

「あー。はは、そうかもねえ」

 

 

少し寂しげに笑いながら、そう返してくる。ははーん、騙されないぞ。そうやって少ししょんぼりとした様子を出せば俺が流されると思ってるんだろう。

 

 

 

「…え?よく、分かったね。おくびにも出さなかったつもり…だったんだけど」

 

 

俺がそういう旨の事を言うと。キョトンと一瞬の間を空けて、びっくりしたような顔で、そう言った。その反応は随分と想定外というか…考えても居なかったもので、逆にまたこちらが動揺してしまう。

 

 

「え?わざとそういうフリをしたんじゃなくってか?」

 

 

「馬鹿言いなよ、そうした所でなんの得が…

いや、そうしたら多分君はボクの言うことを聞いてくれるか。確かにその手もあるね」

 

 

 

…裏を読もうとしすぎて、ただ厄介な事に気づかせてしまったかもしれない。ううむ、馬鹿の考え休むに似たりといった所だろうか…

 

 

 

「…うん。今日はまあ、もし嫌なら。その服装じゃなくっていいよ」

 

 

ぐ、と渋面をしていると。シドはふと思いついたように、そんな言葉を口にした。

それは待ち望んでいたことではあるが、一方で意外な事でもあり、まあ動揺をする。

 

 

「え、マジか。いや嬉しいけど…いいのか?」

 

 

「ああ、今は機嫌がいいのさ。…嬉しいもんだね。好きな人によーく観察されてるってのは」

 

 

と、こちらを真っ直ぐ見ながらそう言ってきた。なんの話だかいまいち解らないが、少し考えると、思い当たる節があった。

 

 

 

「…あ、ひょっとしてシドの親御さんが来てるのか?忙しいらしいって言ってたけど」

 

 

「ぜんぜん違うよ、ばあか。

…全く。敏感なんだか鈍感なんだか」

 

 

 

少し強めにデコピンをされて、額が少しだけひりひりとする。その様子がどこか可笑しかったのか、シドがくくっと笑った。

 

それを怪訝な顔で見ながら、まあいいかと、いそいそと準備をする。

 

 

 

「あれ、結局着替えないのかい」

 

 

「折角お前に作ってきて貰ったものだしな。

少なくとも働いてる最中は着る事にしたよ。

…この後学校を回るときは着替えるけど」

 

 

「へえ。大切にしてくれてるんだ?そりゃ結構。学園祭が終わった後も持っていってくれて構わないよ」

 

 

「……か、考えとく」

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

「いらっしゃいま…おや」

 

 

「どうも」

 

 

 

私、古賀鈴は高等部の方へと足を運び、そして兄のクラスに来ていた。そこでは外装、内装共に凝った軽洋食店が開かれており、中から聞こえてくる音から、中々盛況のようだ。

 

そして、受付をしているのは、一度ならず顔を見たことがある人。赤い虹彩が、嫌に脳裏に残る。

 

 

 

「これはこれは。古賀くんの妹さん…鈴ちゃん、だったかな?先日はすまなかったね」

 

 

「…いえ、史桐さんが謝るような事ではありません。むしろ、勝手に怒ってしまった事を謝るべきは私ですから」

 

 

心の中を落ち着けながらそう言った。

実際、そう思っている事は確かなのだ。

 

 

 

「うーん、いい子だねえ。君みたいな妹ならボクが欲しかったよ。…ああそうそう。お兄さんは今、裏方にいるよ。折角来て貰ったのにごめんね」

 

 

「いえ、ちゃんと皆さんの役に立っているのならば良かったです」

 

 

「…なんというか、しっかりものの妹どころか、妻じみてるなあ」

 

 

からかいの言葉は無視する事にした。いちいち反応してしまったらキリが無い。それよりもここに来たのは、兄に逢いに来たのとは別に、もう一つ理由があるのだ。

 

 

 

「一つ、聞こうと思っていた事があるんです。史桐さんに」

 

 

「おや、ボクにかい?なんなりとどうぞ。

あと、気軽にシドと呼んでいいよ」

 

 

「…他のお客の方もいるので手短に。

…あの燕尾服を着せたのは、史桐さんですか?」

 

 

 

質問を聞くや否や、にやりと、意地の悪い笑みが目の前に展開された。口が三日月のように歪められ、伴って眼も細まる。

 

 

 

「その質問は当然、彼の…

古賀集くんの事を指してるんだよね」

 

 

「聞く必要もないでしょう」

 

 

「クク。ああ、そうさ。ボクが着せた。すこーしだけ恥ずかしがってるようだったけど、最終的には気前良く着てくれたさ」

 

 

 

笑みを崩さず、そして誇らしげにすらなりながら、彼女は言い張った。その態度を見てるとまた、ふつふつと熱いものが丹田から湧き上がるようだった。

 

だが、それよりも色濃く湧き上がるものがある。それは怒りなんかでは無い。

 

 

 

「史桐さん…いえ、シドさん」

 

 

「ん?おや。この手は…?」

 

 

 

私はこの人が好きではない。いや、どちらかと言えば、かなり嫌いかもしれない。

 

なんでも見透かすような態度や、心の底で自分以外の全てを嘲るようなその精神性が気に入らない。私なんて眼中にも無いといわんばかりの余裕綽々の態度が、私を逆撫でしてくる。

 

 

ただ、今回は。

間違いなく、今回ばかりは。

 

 

 

 

「…どうもありがとうございます…!」

 

 

 

 

ただ、感謝の念だけがある。

 

言葉は無く。一対の女子生徒の間に、爽やかなハイタッチの音だけが鳴り響いた。周囲からの疑問符まじりの目線が痛かった。

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

13:00の鐘の音が鳴る。それは、俺の働くべき時間が終わった事を記している。少なくとも、昼の間は自由時間だ。

 

ただ周りを見ると、どうも予想を超える盛況であり、相当に忙しそうに見える。

 

 

 

「さあて、取り敢えずボクの仕事は終えたかな。古賀くん、キミもそろそろだろ」

 

 

「ああ、ただ昼時なのもあって少し忙しそうだからな…俺はまだ手伝っていこうと思うよ」

 

 

そう伝えるや否や、目の前の生徒会長はシワっと額に皺を寄せ、呆れたような目で此方を見る。『またか』とでも言いたげだった。

 

 

「…いいかい。キミの『誰かの役に立ちたい』我が儘で他の人に迷惑をかけるんじゃないの。キミが居なくても大丈夫なシフトにはしてあるんだから、余計なお節介だよ」

 

 

「…でも…」

 

 

「でももヘチマも無い。休む時に休まれないってのは管理する立場からすると迷惑この上ないんだからな」

 

 

どす、どす、と言葉が刺さっていくようだった。…確かにこれは俺の自己満足なのかもしれない。それにより周りが少しでも助かるならまだしも、迷惑とまで言われればぐうの声も挙げる事は出来ない。

 

 

「…それに、キミが来るのを待ってる子だって居るだろう。ちょっと早めに待ち合わせ場に行くくらいしてやりなよ」

 

 

最後に、そう言って教室から出ていく。…確かにその通りだ。俺はいつも遅れたり、そうでなくても鈴を待たせてしまう事が多い。ならば今回くらいは先に着いていても良いだろうか。

 

 

「…あ、そういえば。

シドは何処に行くんだろ、アイツ」

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「い、いらっしゃいま…あっ」

 

 

「おや。おやおや、おや!」

 

 

 

…ボクが麗しの後輩の元に行き最初に出迎えてくれたのは、フリフリの服装で、ぎこちない可愛げのあるポーズをしてくれている和風メイド。

 

おさげ髪と、ほんの少しズレた眼鏡がキュート。何より『あっ』と声を上げたきり赤くなりショートしてるその姿が最高に可愛らしかった。

 

 

 

「…うーん、そこの店員さん。

この子持って帰ってもいいかな?」

 

 

「な、何を言ってるんですかシドさん!

僕は非売品!非売品です!」

 

 

「えー、そりゃ残念。

……残念…ッ」

 

 

「そんな無念そうな顔をしなくとも…

ええと、元気を出してください…」

 

 

そんな事を話しながら、ボクは唯一の後輩、村時雨ひさめちゃんの姿を目に焼き付ける。

 

さて。ボクが席に着くと周りの視線がこっちに来るのを感じる。同輩たちの黄色い悲鳴を押し殺したような視線。

いつもの事だ。無視して注文をする。

 

 

 

「この『お勧めの品』を頼むよ。

勧めるくらいだ、美味しいんだろう?」

 

 

「はい!美味しいですよ!きっとシドさんもほっぺが落ちると思います!」

 

 

 

にっこりと、まるで邪気の無い笑みを見ると心が洗われるようである。全くもって純朴な少女だ、この子は。

 

 

 

「ねえ、すこーしだけお話をしてもらっていいかい?勿論、手が空いてたらで構わないけど」

 

 

「え、今…ですか?…まあ、お客さんもあまり多く無いので、大丈夫かな?」

 

 

少なくとも今、この教室にはそこまでの数の客はいない一番需要があるだろう昼時を少し過ぎたあたりだからだろうか、居心地が良く、回転率という点では決してよくないからだろうか。

なんにせよ好都合だ。

 

 

 

「忙しかったら会話を切り上げてくれて構わないよー。ちょっと、暇つぶしに付き合って欲しいなってだけだから」

 

 

「それなら…はい!いいですよ。

ぜひ付き合わせてください!」

 

 

男子生徒がこれを聞こうものなら、卒倒しそうなフレーズだ。そう思い、少し笑う。

 

 

 

 

「ああ。それなら、遠慮なく。

…昨日の逢瀬は楽しかったかい?」

 

 

 

からんと、ひさめちゃんの手からお盆が取り落とされた。急いで拾いあげている。空気が冷えかえる様な感覚がした。おや、そんな恐ろしげな顔をしなくてもいいのに。

 

 

 

「…それ、は」

 

 

「はは、違う違う!責めたりとか、そういう訳じゃないさ!ただ感想を聞いてるだけだよ」

 

 

「……楽しかった、です」

 

 

「そうか。それはよかった。最近、ひさめちゃんは何か思い詰めてるみたいだったから」

 

 

 

びくりと、肩が震える所が目に付いた。

なんだかなあ。怯えさせるようなつもりは、本当になかったんだけれど。

 

 

「…まあ、思い詰めてるのが無くなったみたいだし、本当によかったよかった。

古賀くんがなんとかしてくれたのかな?」

 

 

だからこの質問も、嫉妬だとか、詰問だとか、そういうつもりは全くなかった。無意識にそうなっていたとかも、無い。

好奇心からの質問だった。彼が何をして、重荷を取ってやってあげたのか。

 

 

でもそう聞くと、ひさめちゃんからは震えが消えた。そして、手に持っていたお盆をぎゅっと両手で抱えると、ボクの目を真っ直ぐ見た。

 

 

 

「………言えません」

 

 

 

静かに、微笑んで。その笑顔はさっきまでの、邪気の全く無いあの笑みとはまるで異なっていた。そう。それは…

 

 

「あ、す、すみません!他のお客さんが来てしまったので…ええと…」

 

 

「…ん?ああ、どうぞどうぞ!

ごめんよ、呼び止めちゃって」

 

 

「いえ、そんな事!ええと…ゆっくりしていってください!」

 

 

わたわたと応対をする彼女の姿は、さっきまでの無邪気な彼女そのままだった。

その背中をボクは、しばらく見つめていた。

 

 

 

 

長い間くつろいでから、店を出た。

廊下を歩きながら、顔を抑える。

 

 

全く後ろ暗い所が無い彼女の笑い顔はキュート。恥ずかしがりやのその姿は見ていてとても心が和やかになるものだ。

 

だが、新しい発見もあった。

 

ああ。あの何かを隠している笑み。

後ろ暗いところが、何かがあるあの彼女の笑み。それは、ボクがこれまでに見たどの村時雨ひさめよりもキュートだった。

 

 

クッ、クッ。

周りの目を気にしながら、含み笑いをする。手で顔の下半分を隠す。歪んだ口を誰にも見られてしまわないように。

 

 

あんな顔は、そうそう見られないだろう。

嗚呼。純朴な少女にあんな顔をさせるなんて、とんだ女誑しだよ古賀集。

 

あの顔をまた見たいなあ。あの可愛く、艶美な顔。

だからひさめちゃんにも、頑張ってほしいね。

 

 

 

ああ、当然。

だからと言って、譲りはしないけど。

絶対に。

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「げ」

 

 

集合場所に、20分ほど前に辿り着く。

そこで俺は暫く待つつもり…だったが。

 

 

 

「あれ?随分早かったですね。

もう少し待つつもりだったのですが」

 

 

そこには既に鈴が何食わぬ顔でそこに居た。

…どれくらい前には居たのだろうか。

 

 

「ほら、これ。昨日のアクセサリーです。

私が居たから回収できたものの、もしそうでなかったら破棄するしかなかったんですからね」

 

 

「ああ、悪い。本当に俺の不注意だった…こっちもひさめに渡しておくよ。ありがとうな」

 

 

「ええ、まあ。

役に立てたのなら良かったです」

 

 

そう言いながら、前髪を少し弄る。

俺は知っている。

鈴は人に感謝されるような事を率先してやるのに、真正面から感謝を伝えられると、照れ臭くなって前髪を弄る癖があるのだ。

 

 

 

「…何をニヤついているんですか、気持ち悪い」

 

 

「え。いやいや、なんでもない。その…お詫びも兼ねてこれを鈴にプレゼントしようかなって思って」

 

 

「!本当ですか?」

 

 

「え、ああ…

いや、正直詫びにもならないと思うけどさ」

 

 

「…いえ、嬉しいです。

本当にいいんですか?」

 

 

「ああ、お前が喜んでくれるんなら幾らでも渡すさ」

 

 

と、いつもの癖のように頭を撫でようとしてしまう。だからそろそろやめとこうって、俺。少なくとも、衆人の目がある所では。

 

 

「……そういえばあの燕尾服じゃないんですね。ちょっと残念です」

 

 

「…お前そのゴッツいカメラなんの為に持ってんのかと思ったけどまさか…」

 

 

「折角友人から借りてきたんですけどね」

 

 

「やめろよ!せめて普通にケータイのでいいだろうが!ていうか昨日いっぱい撮ってたろ!」

 

 

「私用にと思いまして…」

 

 

 

他愛の無い会話に二人で笑う。

何がきっかけという訳でなく、自然に二人で歩き始め、構内探索を始める。

 

歩きながら、また話をする。

 

 

 

「ああ、そうだ。早く着いてた理由を聞いてませんでしたね。何かほかに用事があったのでは?」

 

 

「あー、そういうのは無いんだ。本当は早めに着いて鈴の事を待とうかと思ってたんだけど」

 

 

「へえ…兄さんにしては随分気が利くじゃないですか。明日は槍が降るかも」

 

「…それ、とっても嬉しいですよ。出来ればいつもそれくらい気を遣って欲しいですけど」

 

 

ニコリと、微笑んでから手を繋いで背中を向ける。その背中から上機嫌である事が伝わってくる。結局、そんな嬉しそうな鈴を前にしてシドのアドバイスだって事を言えず終いだった。

 

 

嬉しそうな姿を見られる事は微笑ましく、嬉しい事だったが、一抹の罪悪感も感じてしまった。

 

 

「兄さん?どうかしました?」

 

 

そうした罪悪感もまた、その顔を見るとすうと消えていくのを感じた。

鈴の笑顔は、やはり幾ら見ても嬉しいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

…出来るだけ、人目に付かないような場所で私は静かにしていた。そんな事は無いと頭ではわかっている筈なのに、周りの視線がじろじろと刺さるような気がする。

土地と空気が変わると、世界そのものが変わってしまったようで、まるで息苦しい。

 

 

この町に戻ってきたのは、ごく最近の出来事。親の都合でこの町から出ていき、また親の都合でこの町に戻ってきた。久しぶりに来た光景は、小さな頃の私から風景とはまるで違って見えた。

 

訂正。この町にまた来た事は、私のわがままだ。親も、あまり自分の意見を言わないワタシの意見ならと快諾してくれたのだ。

 

戻ってくればあの人に、また逢えるかもしれないと。そんな、夢見がちな少女のような事を思い、ワタシは此処を希望した。

 

 

人が集まる場所に行けば、彼を見つけられるのではないかと思って、この、賑わっている学園祭の中に客として入って行った。

 

それで結果、ここで立ち往生しているのだから情けのない話だ。

 

…いつまでもここに立ち止まっている訳にはいかない。周囲の邪魔にもなるし、時間の無駄でしかない。

 

落ち込む事は無い。がっかりなども。

また、『彼』に逢えるなど、夢物語でしかない事など当然わかっていたのだから。

 

 

 

 

「そういえば、兄さんは昨日、あの後に何処に行ったんですか?」

 

「ん?あー…結構回ったからな。

それこそあそこのクラスにも行ったし、あとその横の奴も」

 

「それなら、兄さんが行っていない所を中心に回っていきましょうか」

 

 

 

は、と。声が聞こえてくる。

こちらに近付いてくる声に直前にまで気がつけないで、避けきれずぶつかってしまう。

 

 

「おっと…

…すみません、怪我はないですか?」

 

 

 

その、ぶつかってしまった方である大柄な男が、とすりと腕でワタシを静かに受け止める。

 

 

『……ハイ、大丈夫です』

 

 

「っと、英語…ええと…

『ならよかったです』…」

 

 

 

たどたどしい英語を話すその姿は、何処か既視感が有った。その横にいる、妹らしき人物はワタシに流暢に謝り、そして二人は歩いて行こうとした。

 

その瞬間に、ようやく大男の方の顔を見た。

当然、顔には覚えがない。

だけど代わりに、その大きな火傷傷の跡を見て。それに対して、はっと気付けをした。

 

 

 

「……シュウ……?」

 

 

 

 

小さな声は当然、周囲の音にかき消されて届く筈もなく。ただ、ワタシにだけ反響していった。

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

「…すげえ美人さんだったな、今の人」

 

 

「おや。

ああいう人がタイプなんですか兄さんは」

 

 

「いやいや、そんなんじゃなくて一般論!

…あと、すげえ綺麗だと思ったのは眼の色。凄くなかったか?」

 

 

「ええ、吃驚するほど青色でしたね。

…身近に赤色が居るので麻痺しがちですが」

 

「にしても…うーん…」

 

 

「?どうした、鈴?」

 

 

「いえ…なんというかこう…

見覚えというか…なにかモヤモヤするんです」

 

 

「…なんの話?」

 

 

「…いえ、私にもなんだか。少しすれば思い出せそうな気がするんですが…」

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

…今年度の文化祭は終了しました。

またのお越しをお待ちしています。

 

二回目の放送音声が聞こえる。昨日とは異なり、今日の音声は、今年の文化祭の全ての終わりを示している。

 

 

そうしてクラスで、後片付けをしていた。

ああまで頑張って作った内装やら様々が無惨に壊されてく様子はなんだか勿体ないような気がする一方で、清々しい感じもする。

 

ええい、と思いきり壊していく。

これも一種の祭りの醍醐味なのかもしれない。

 

 

 

 

 

「……って、こんな風に楽しんで来たよ」

 

 

「へー。なんだか学生らしいことしてんのね、アンタ。私なんか安心したわ」

 

 

「なんだよそれ」

 

 

 

時は飛んで、我が家。

楽しかったか?と聞かれて楽しかったと答えたところ、どんな風に楽しかった?本当に?嘘はついてない?と何故か根掘り葉掘り聞かれて、そのまま答えて、今に至る。

 

 

「…で、あれはその時の戦利品って訳だ」

 

 

「戦利品っていうか…」

 

 

 

ケラケラと楽しそうに笑う母さんを前に、俺は頭を抑えてしまう。

 

『あれ』…つまりは、あの馬鹿でかい燕尾服の事だ。結局断りきれず、勿体無いとも思って持ってきてしまったのだ。

静かに物置に仕舞おうとしていたら、鈴にその姿を見つけられた。

 

 

「……まあ、思い出って事でいいか」

 

 

「ねえねえちょっと着てみてよ。

一回見てみたいんだけど」

 

 

「あ、私も見たいです。

昨日結局あんまり見られなかったので」

 

 

「見せ物にされんのは絶対にイヤだ!」

 

 

 

……なんというか。

終始、この燕尾服に踊らされるような文化祭だった気がする。一緒に踊って、文化祭を終えてまでここで踊らされてる。

 

 

げんなりしたような、だけどちょっと感謝を述べるような目付きで服を見た。まあ、楽しかったのはお前のおかげかもな。そう思いながら。

 

 

 

………でもやっぱり片眼鏡だけはねえと思う。

 

 

 

 

 



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アオキユメミシ(菜種アオ)

今更ですが、今作品では『』は英語、「」は日本語ということでお願いします。




 

 

 

…この状況は一体なんだろう。

俺は今どういう状況にあるのだろう。

 

 

『シュウ先生。

これで合っている、のでしょうか』

 

 

「え、ああ合ってると思う。

うん、オーケーだ」

 

 

『ありがとうございます。先生のおかげです』

 

 

「……先生、かあ…」

 

 

面映いような、嬉しいような。自分にはどうしてもあわないような複雑な気持ちになってしまう。

 

 

俺が今いるのは自分の部屋。

自分の部屋にこんな少女が上がり込んでいる様子は見る人が見なくても事案を想起するような状態であると思う。なんなら、俺がこの様子を見たら即通報ものだ。

 

目の前にいるのは、美少女。

髪を横に結び流して、整った顔立ちはまるでモデルのようですらある。

 

そして何よりその眼。

その眼は、青い眼をしている。青空のような、海のようなその色は本当に綺麗だ。ハーフでありながら、髪色は黒。目の色は青と、それぞれの特徴をそれぞれに出した、とても珍しい見た目。一見アンバランスにも見えるが、そのような状態が不思議な調和を生んでいる。

…なんで俺の周りには変わった眼の色をした女の子が多いんだろうか?

 

 

閑話休題。

彼女の名前は菜種アオ(本当はミドルネームやらがあるらしいのだが、長ったらしくつい忘れてしまった)。親戚の女の子である。

 

アオちゃんは、ちょうど俺の1年くらい下。小さなころから外国で暮らしていたのだと言う。

それがつい最近、日本に戻ってきた。

そして、この辺に住み始めた。

どうもまだ小学生にもなっていなかったような頃、此処に住んでいたとかなんとか。彼女たっての希望だったらしい。少しでも馴染んだ場所が良かったのだろう。

 

 

で、本題。

どうしてそんな少女が俺の部屋にいるのか?

 

合縁奇縁、というべきか。

この少女の顔は、ひさめに少し似ている。表情や言動が異なり、雰囲気レベルではまるでそうは見えないが、まじまじと見てみると、目尻などのほんの少しの所だったりがにている事に気づけるだろう。

 

それは当然といえば当然だろう。彼女…アオは、ひさめとは親戚関係であるのだ。

 

 

経緯としては、こう。ひさめが、最近少し成績が上がったという事を家族に話したのだという。どうも、教えてくれる人のおかげだとも言ったらしい。

 

するとそれが伝言ゲームでアオの家にまで伝わってしまった。ちょうど、日本語学の初歩的な部分につまづいてしまっていた娘がいる家に。

 

 

……我ながら、何を言っているんだという経緯だ。下手なファンタジーよりも余程ファンタジーだと、言っておきながらそう思う。だが、実際そうなのだから仕方がないだろう。本当に、どうなってこうなったのだろうか?俺も断れば良かったのだろうが、誰かに頼られているのだと思うと、どうにも断りきれなかった。

 

ただ、まあ。国語の先生なんて出来るほど頭が良くないと思ってはいたが、思ったよりも初歩の初歩的なところであったため、今のところはつつがなく『先生』が出来ている。何より彼女自身の飲み込みが早い為、こちらも教えがいがあるというものだ。

 

 

 

『…!』

 

「…シュウのおかげ、です。

ありがとう」

 

 

「…ん?ああ、違う違う!英語がわからなかったわけじゃなくて、ただボーッとしてただけだから!ごめんな?」

 

 

そう。彼女自身、日本語が話せない訳ではない。むしろそこそこ、流暢に話せるのだ。ただどうしても、話す時は第二言語であるという感覚が抜けきれず、ぎこちないのだと言う。

だからアオは基本的に話す時は英語。日常と少し程度は話せるのでその点についても彼女とコミュニケーションが取れて良かったとは思う。

 

 

「ボーっと?

気が抜けているという意味ですね。

疲れてしまいましたか?」

 

 

「いや、そういう訳でもないんだが…

ただそろそろ休憩にしてもいいかもな」

 

 

 

と、瞬間。コンコンとノックの音が響く。

このノックの音は、彼女だろう。

 

 

「失礼します。お茶を持ってきましたよ」

 

 

俺の返事を待たずに、扉を開けて鈴が入ってくる。その手には菓子と茶が乗ったトレイを持っている。

 

 

「お、ナイスタイミング。

ちょうど休憩にしようかと思ってたんだよ」

 

 

「あら、それなら良かったです。

…変なことはしていませんよね?」

 

 

「変なことってなんだよ…」

 

 

「あら怖い顔。冗談ですよ、冗談」

 

 

かちゃりかちゃりと机の上にカップが置かれていく。そうしてその様子を、少し落ち着かないような様子でアオが見ていた。

それを見て鈴が、軽く会釈をする。

 

 

 

『こんにちは。勉学の方は捗ってますか?』

 

 

『!…ハイ、おかげさまで。

こちらの先生は優秀ですね』

 

 

『フフ、そう言ってもらえると私も嬉しいです』

 

 

『?私はシュウを褒めたのに、スズが嬉しいのですか?』

 

 

『そういうものですよ』

 

 

『…うーん、少しまだわかりません。

またシュウに教えてもらおうと思います』

 

 

『ええ。兄も人に教える事で色々と覚えるでしょうし、良い機会ですので、よろしくお願いします』

 

 

英語でのすらすらとした会話に、にこりと爽やかな笑み。うーん、我が妹ながらなんとも出来る女のスタイルだ。

その様子をぼけっと見ていると鈴に睨まれる。

 

 

 

「…何をじっと見ているんですか。

気恥ずかしいんですけど」

 

 

「悪い、なんか久しぶりにそんなカラッとした笑いの鈴を見た気がしてな。…あっそれ俺が台所に持ってこうか」

 

 

「ああ、お願いします。

…なんですかまるで私がいつも怖い顔をしてるみたいな」

 

 

そう軽口を叩きながら、さっきのティータイムに置かれていた空いた食器を片付けるべく二人で部屋を出る。アオも一人の方が気が楽じゃないだろうか。

 

 

 

「…あとなんていうか随分アオに優しいなーって。思ってさ。なんか最近の鈴、常に仏頂面のイメージあったから」

 

 

廊下で、また少し話す。

そう話すと、またムッとした顔をする。

ほら、そういう顔そういう顔。

 

 

「誰のせいですか誰の」

 

 

「お、俺のせいだっていうのかよ」

 

 

「…ええ、まあ…」

 

「というか、優しくもなりますよ。

だってほら。顔見知りじゃないですか」

 

 

「……?そうなのか?」

 

 

「……え?まさか覚えてないんですか?」

 

 

「え、何を!?

いや、文化祭の時に出会ったのは覚えてるぞ?

あのぶつかった時の人だよな?」

 

 

俺がそう答えると、鈴は食器を持ちながら頭を抱えて(器用だな!)ため息を吐く。

 

 

「…あーあ、気の毒に…同情しますよアオさん。

兄さんってばひどい男ですね」

 

 

「な、なんだよその反応!それまでに会ってたりするのか、もしかして?知ってるなら教えてくれよ!」

 

 

「だめです。それは自分で思い出すべきです」

 

 

何度か質問をしたが、それの一点張りで答えてはくれない。意地悪をするくらいならひどい男だなんて言わないでくれよ!

 

そう話している間に、片付け終わる。釈然としないまま俺だけがまた部屋に戻り、鈴はひらひらと1階に行ってしまった。

 

 

再び俺の部屋に。

するとアオはなんというか…

顔を軽く逸らして、お茶菓子にあまり手は付けていないみたいだった。

 

 

「あー…『お菓子は食べないのか?それ美味しいからオススメだぞ?』

 

 

『…ありがとう、ございます』

 

 

少し、顔を下げる。いつも無表情な顔からは、相変わらずうまく感情を読み取れない。ただその様子からすると、恐らく…

 

 

『すまん、時間がかかってから不安にさせちまったか?他人の家だし、一人で置いてかれるのは嫌だよな』

 

 

『いえ。随分楽しそうな声が聞こえてましたので、不安感だとか心配はしませんでした』

 

 

…違ったようだ。

恐らくこうだろう、なんて思っておいて恥ずかしい。

 

 

 

『…ただ、何も言わずに部屋を出ていってしまったので。少し寂しい気がして』

 

 

そう顔を見合わせて俺に言うと、アオはまた顔を少し下げる。その無表情な顔は少し高潮しているようにも見えた。

 

 

「…寂しかったのか。すまなかったな」

 

 

そう、頭を撫でる。そうしてから、鈴がみだりに女の子に触れないようにと言っていた事を思い出す。けどまあ手遅れだろう。

 

 

 

「…いえ、大丈夫です。シュウ先生」

 

 

声がほんの少し震えているようだった。

どうも、まだ日本語に慣れないらしい。

 

 

 

 

……

 

 

 

『えと…「本日はありがとうございました」

 

 

「いやいや、こちらこそ遅くまで引き留めちゃってごめんな。親御さん心配してるんじゃないか?」

 

 

「いえ、大丈夫です。恐らく」

 

 

ぺこりと、他人行儀気味に礼をする。

そうしてからアオは俺に抱きつき、頬にチークキスをした。

 

……外国の文化という事はわかっている。

わかっているんだが、その…なんだ。

少しだけ気まずいというか…

いや嬉しいんだが。嬉しいのが問題というか。

 

 

 

「………あー…なんだ。一応ここは日本だから、それはもうやめた方がいい、ぞ?」

 

 

「?何故ですか?」

 

 

「いや、こう…日本ではどっちかっていうとハグしたりだとかキスしたりとかは、好きな人に対してやるものだからさ」

 

 

 

「私、シュウ先生の事スキですよ?」

 

 

 

どきりと心臓が跳ねた気がした。

スキ、というのはLikeの事。そう、わかってる。わかってはいるが…さっきの事も含めてあまりにも刺激が強い。強すぎる。

 

 

 

「…そ!そういう発言もみだりにしないように!先生との約束だ」

 

 

「ハイ。約束、守ります」

 

 

そう言いながら軽く首を傾げる。

…全く。顔立ちはひさめに似ている筈なのに、本当に表情や言動が違いすぎて、そうは思えない。なんとも不思議な感覚だ。

 

 

「えっと…それじゃあな、アオ」

 

 

「ハイ。また明日逢いましょう」

 

 

そうして手を振り合う。

玄関の前で別れるだけであるのに、何故かどっと疲れたような気がした。

 

 

「………ん?また明日?」

 

 

はて。明日は家庭教師の予定を入れていなかったはずだ。アオの勘違いだろうか?彼女にもそのような事があるんだなと微笑ましく思う。

 

…なんだか嫌な予感がする自分を誤魔化しながら。

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

あんぐりと、口を開ける。

そうしか出来なかった。

 

 

 

 

「…なんと、今日の転校生は帰国子女さんです。みんな仲良くしてやってくれよー」

 

 

 

 

目と正気を疑った。

だがいくら目をこすろうが現実である。

 

 

 

「では、自己紹介をお願いします」

 

 

 

『ハイ』

 

「…アオと、言います。

これからこのクラスにてお世話になります」

 

 

 

可愛い女の子だ、人形のようだ。目が青で綺麗!とクラスがざわつく中、俺はただ疑問符だけが頭に浮かんでいた。

 

なんでこの学校に?

もっといいとこ通ってなかったっけ?

 

学年は?1つ下じゃなかったか?

年末の時間や日付関連で、アオがややこしい年齢になっていたという事を俺が知るのはこの転入の少しだけ後の事だった。

 

 

気付けば、アオは俺の目の前に居た。

 

そして…その目の前の席に着く。

なんでよりにもよって俺の席の周りが空いてるんだ。そもそも席が空くってなんだよ担任。もっとちゃんと人数管理しろ。

 

周囲の目が痛い。なんでお前ばっかり…とチクチクと言われているような気がした。あと背後からの視線が一番痛い。

 

 

 

『よろしくお願いします、先生?』

 

 

先生。

それで指していたのは、どちらの事だろうか。

…多分、俺の胃が痛くなる方面の事だろうなあと思う。

 

 

 

『……ああ、改めてよろしく…』

 

 

ただ、そう答えることが精一杯だった。

 

 

 

 

 




菜種アオ(ナタネ ─)
→ハーフの少女。作り物のような鮮やかな青い眼をしている。ひどい人見知りだが、仲の良くなった人には懐っこく、距離感も近い。ついでに胸が大きい。
独占欲がだいぶ強い。


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アオクカガヤキ(菜種アオ)






 

 

それは小さな日の思い出。まだ私が子どもで、何もわかっていなかった頃の話。

 

 

私は、不気味な子と言われることが多かった。無表情がすぎて、何を考えているか分からない。感情の読めない、虫のようだと冗談めかして言われる事もあった。それはきっと、本音に近かっただろう。

 

私はそれにどうとも思わなかった。

相手がそう思ったのならきっとそうなのだろうと考えたし、きっとそれは正しい評価なのかもしれないと考えてもいた。

それで納得したようにしていたのも、更に周囲に誤解されていたのかもしれない。

 

 

ただどちらかというと、他人がどうでもよかったり、他人と関わることをあまりする必要がないように思えていて、それが私の個であるのだとも思っていた。

 

幸い私の顔立ちは良い方で、黙っていれば人形さんみたいだと褒めそやされる事も多く、ただ静かにしていればなんとかなる事も多かった。

 

 

 

(…ああ、どうしよう)

 

 

だから最初に親から手を離して、迷ってしまった時も、そう思いながらもまあ、なんとかなるのだろうと楽観的に思っていた自分が居た。

 

そこは小さな商店街で、人通りはそこまで多いわけでもない。だからすぐに見つけられるだろうとも考えていた。

 

 

 

 

だけど私の身体は全く動かなかった。

すくんで、動かない。

 

まるで人形の様に弛緩して、動けなかった。

声が出ない。歩く事も出来ない。声をかけようとした人が私を無視して通り過ぎていった。思えばあれは、私の声が小さすぎて気付いてすら無かったのだろう。

 

目の前の、助けを求めた筈の人間が、テレビの映像の様に見えた。触れず、話すことが出来ない、ひんやりとしたものに。

 

 

そうなって、私は初めてわかった。他人をどうでもいいと思っていた訳じゃない。人と関わる必要がないと思っていた訳じゃない。

 

私は、他人が怖かったんだ。視線、声、雰囲気。自分以外が恐ろしく、息が激しくなる。自分から声をかける事が怖い。それで、どう思われるかが怖くて堪らない。気味悪く思われてしまったらどうしようと、そう思ってしまって。

 

 

(……あ…)

 

 

意を決して身を乗り出して、道行く人に声をかけようとした瞬間に、足元につまづいた。

動揺から、小さな段差に気付かなかった。

膝に痛みが走り、血が流れる。

その赤色を見て、それまで必死に心の中に抑えてた不安がどうしようもなく蓋が壊れた。

 

 

(……どう、しよう。どうしよう)

 

 

このまま、親にも逢えないかもしれない。

ずっと一人なのかもしれない。

そんな不安が心を支配して、それと一緒に膝がずきずき痛んだ。その痛みが、更なる不安を掻き立てて、それが痛みを考えさせる。

 

 

ぽろり、と。

涙が落ちてからは早かった。もう何も考える事が出来ず、大声で泣き叫ぶ事も出来ず、道の端で啜り泣いて座り込む。せめて往来で泣けば大人に気づいて貰えたろうに、何故か端に行ったのだから、救いようが無い。

 

 

 

「きみ、大丈夫!?」

 

 

しゃくりあげて声も出てこない。苦しくてどうしようもない私が顔を上げたのは、そんな、少年の声が聞こえたからだった。

 

顔を上げて、まず怯えた。

その少年の顔の半分には痛々しいガーゼが包帯と共に巻かれていた。ほんの少し覗き見えるその下には、痛々しい水膨れが。

 

その私の様子を見て、ふと少年が悲しそうに顔を隠す。そしてその後、その場から走り去っていった。

 

 

ああ、やってしまった。

私に声を掛けてくれた人を、追い払うだけじゃない。傷つけてしまった。

もう二度と、こんなチャンスは無いのに。

心配して声を掛けてくれたのに。罪悪感と絶望感が、更に足の痛みを増やしていく。涙が止まらず、酷い顔だったと思う。

 

 

 

「……よし、お待たせ!」

 

 

それからどれくらい経ったろうか。少しかもしれないし、長いこと経ったかもしれない。

再び、なにもできずに蹲っていた私に声が掛けられた。さっきの少年の声だ。

 

ばっと、声を上げた。

まず謝らないと。ごめんなさいって。

 

 

そう思った私は、次に驚いた。それはさっきのような恐怖故ではない。呆れで、だった。

 

 

少年は顔に、ひょっとこの面を被っていた。

不恰好で安っぽい、サイズがあってない面。

 

 

 

「ごめん、ちょっと痛いけど」

 

 

驚いてる間に、足にピリとした痛みが走った。消毒液と、それを吹いた痛み。そしてその後に何かが貼られた感触。

 

 

「さっき、怪我してたみたいだったから、そこのくすりやさんで急いで買ってきたんだ!

ついでにこのお面も!」

 

 

そう、少し自慢げに捲し立てる様子に、気づけば私は不安を忘れていた。ただ、呆然とそのひょっとこの少年を見ていた。

 

 

 

「えっと、君、迷子だよな?」

 

 

「…は、ハイ…そう、です」

 

 

「良かった!もうあんしんだぞ。

俺が案内してやるから」

 

 

「……そのお面…」

 

 

「…うん?あ、これ?

これなら顔、怖くないだろ!」

 

 

 

そう言って、ひょっとこの顔が近付いて来た。その下できっと、にこりと微笑んだのだろう。

その様子がどうも少し可笑しくて、ちょっとだけ笑ってしまった。

はっと、失礼かと思ったけれど、むしろ少年は満足げにしていた。

 

 

「きみ、歩ける?

それなら交番まで行こう。きっときみのおかあさん達探してると思うから」

 

 

「…ハイ、歩くくらいなら…」

 

 

よろり、と足がついた瞬間痛かったけどそれだも歩く事は出来た。これならまだ…

 

…そう思った瞬間、身体がふわりと浮いた。

 

 

「きゃあっ!?」

 

 

「よし、行くぞ!」

 

 

 

ひょっとこの少年が、私を無理やりおぶったのだ。恥ずかしかったけど、それを言う勇気や、何より暴れるような元気なんて無かったから、そのままになった。

その内に、そのまま落ち着いてしまった。

 

 

 

「………その、ありがとうございます」

 

 

「ん?俺、まだ君をおかあさん達に会わせられてないからいいよ。後で言ってほしい」

 

 

「…ハイ…えっと。

…あと、ごめんなさい」

 

 

「?何が?」

 

 

「さっき…声かけて、くれたのに。

私、酷いことをして…」

 

 

「…俺、集って言うんだ。

なあ、名前で呼んでよ!」

 

 

「…え?シュ、シュウ…?」

 

 

「うん、俺、集。

慣れてるから謝んなくていいよ」

 

 

「…でも」

 

 

「君は迷子になって不安で泣いてたんだ。だから、謝る必要なんてなんもない」

 

 

 

思えば、何も繋がってない発言だ。何故、泣いてたら謝る必要がないんだろう。きっと今の私が彼に質問したら、困ってしまうだろう。

 

それでも、困りながら答えるだろう。泣いてた子が謝るなんて様子を見たくなかったのだと。

少なくとも、当時の私も、その優しさだけは分かった。

 

おぶられて触れてる所が、暖かく感じる。

泣いている間に身体が冷えていたようだ。

 

 

 

「……ありがとう」

 

 

「そうだ、君の名前はなんていうの?」

 

 

「私?……私はーーーー」

 

 

「あーっ!お兄ちゃんようやく見つけた!」

 

 

 

びくり、とまた驚く。私の名前はその大きな声に掻き消された。声のした方向を見てみると、そこには一人の少女が居た。

その呼び方からすると、少年の妹のようだ。

 

 

 

「あ、鈴!ちょうどよかった!」

 

 

「ちょうどよかった、じゃない!

もう、急に走って行っちゃうんだもん!私凄いさがしたんだからね!」

 

 

「えー、鈴なら俺のこと見つけられるだろ」

 

 

「そういうことじゃないの!お兄ちゃんは私のいるとこじゃないとだめだって言ってるの!」

 

 

「なんだよそれ…ていうか仕方ないだろ。困ってる子が居たんだからさ」

 

 

「うん?…その子?」

 

 

「ああ。

これから交番に行こうと思ってたんだ」

 

 

「…!さっき、子どもを探してる人居たわ!

お兄ちゃん、それかも!」

 

 

「ほんとか!?えらいぞ鈴!」

 

 

「えへへー。

…ていうかお兄ちゃんそのお面なに?」

 

 

 

私が覚えているのは、これが最後だった。

私は少年の背中の上で、ただ泣き疲れて泣き疲れて、眠ってしまったのだ。

 

私が目を覚ました時には顔をくしゃくしゃに心配した両親が私を抱きしめるばかりで、あのひょっとこの少年…シュウとその妹はどこにもいなかった。

 

 

 

 

 

近所に住んでいるだろうから、もう一度逢いたい。すぐにでもそう言えたらよかった。

でも私は、そんな簡単な言葉すらいえなくて、お礼どころか、二度と会うことも無く。

この町を離れた。父の仕事の都合だった。

 

最後に町を去る時の車からの光景にずきりと心が痛んだ。

 

シュウ。せめてもう一度ちゃんとありがとうを言いたかった。

なんでそれすら言えなかったのだろう。言ったなら、両親は会わせてくれただろう。

でも言えなかったのは怖かったから。

何か言って、変な目で見られたらと。

 

そう、周りを気にして何もできない自分が、初めて嫌になった。

 

 

だから、その時決めた。

こんな事はもうこりごりだった。

 

今度もし、逢えたなら。

私は彼に会いに行くんだ。会って、思った事を言うんだ。思っている事を、積極的に。

間違っても、伝え忘れないように。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「いやあ、この商店街も最近あんま来ないからなあ。ちょっとぶりだよ俺」

 

 

 

そう話題を切り出す。

横に居る少女は相変わらず無表情だが、握られた手に込められた力が嬉しさを表している。

 

 

さて。今の状況についての説明をするべきだろう。昨日。急に少女、アオが俺に商店街に行きたいと言ってきたのだ。どうも道を詳しくないので教えて欲しいのだと。それなら俺以外でも…と言おうとしたが、シュウと一緒に見たいのだと押し切られてしまった。

 

 

 

『…やっぱり。

少し店並みは変わっていますね』

 

 

「ん。…『…そっか。そういえばアオはこの辺りに住んでいた事があるんだよな。この商店街にも来たことあったのか?』

 

 

『ハイ。ただ1回来たきり町を出たので、道を覚えていないのは本当です』

 

 

そう言って彼女は手を握りなおす。

 

 

 

「色んな所を教えてください。シュウ先生」

 

 

 

…その発言に、なんだか邪な想像をしてしまった自分の顔を一回ぶん殴り、俺はアオと商店街巡りをした。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

「…ほんとにそれでいいのか?」

 

 

「ハイ」

 

 

 

商店街をあらかた周り、大体を説明した。これ一回で覚えるのは難しいだろうが、そもそもあまり大きくない場所だ。覚えのいいアオならすぐ覚えるだろう。

 

その日のシメとして、俺はアオに『せっかくだし、好きなもの一つ俺が買うぞ』と言ったんだ。

まあ彼女の事だし、そこまで高価なものは求めてこないだろうと打算的な事も思い。

 

 

 

ただ、それは予想外というか、思ったよりもというか。彼女は迷いない足取りで古びた店に入ったと思うと、そこから一つの商品を出してきた。

 

その店は、何故か昔から残ってるうさんくさい古商。…古商なんて言うと聞こえはいいが、実際はガラクタしかない。昔の俺には宝の山に見えてたもんだけれど。

 

アオは、そこの店の、安っぽくてチープなお面を差し出して来た。それも、ひょっとこの。

 

 

 

『…遠慮とかしてないか?

もっと良いものでもいいんだぞ?』

 

 

『いえ、遠慮などはしていません。シュウは私に好きなものを選べと言っていましたよね?』

 

 

『それはそうだけど…』

 

 

「…私、これが良いんです。

これが欲しいです」

 

 

 

そう言われてしまったら断る理由も無い。俺は小銭を出してそのお面を買った。店主のおっさんががなんかいやにニヤニヤしていたが無視しておいた。

 

 

 

「はいよ。…付けていくかい?」

 

 

冗談のつもりでそう言う。

するとアオは、縦に頷いた。

 

 

「ハイ。シュウが付けてもらえますか」

 

 

「………え!?俺が!?なんで!?」

 

 

「お願いします」

 

 

……わからん。彼女の考えてることがさっぱり。ただ、頑として譲るつもりはなさそうだし、まあこれくらいならと思いお面を付ける。

 

そうして、また手を繋いだ。

互いに帰路に着く。

 

 

 

 

「シュウ。

ありがとう、ございました」

 

 

「ん、今日の事か?

これくらいならお安い御用だよ」

 

 

「今日のシュウと、ひょっとこさんにです」

 

 

「?」

 

 

 

そんなにひょっとこが好きだったのだろうか?外国暮らしをしている内に日本文化について調べてハマったりしたのかもしれないな。

 

きっとそうなのだろう。

何故なら、アオは、珍しくそう言うと。

ゆっくりと微笑んだのだ。

 

 

いやはや、多少恥ずかしかろうが、世にも珍しい彼女の微笑みが見れたのだ。これに勝るものはないだろう。

俺は、だいぶ満足だった。

 

 

………

 

 

……?

なんだか、既視感があるような?

 

 

まあ、気のせいだろう。

 

 

 



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変化する一日






 

 

 

「兄さん、兄さん」

 

 

ゆっくりと揺さぶられる感覚と、呼ぶ声が俺の眼を覚まさせる。目を開ければ当然というか、そこには鈴がいた。既に折り目正しく、いつもの如くの制服姿とさらりとした髪。

 

 

 

「どうし…

やっべ、寝過ぎた!?」

 

 

咄嗟に疑ったのは俺の昨夜の目覚まし時計のセットし忘れ。それを見かねて起こしに来てくれたのではと。

だが、そうではないみたいだ。

 

 

「いえ…遅刻では全くない…というか、まだ少し起床には早いくらいなのですけど…」

 

 

「?じゃあ困り事か何かか」

 

 

 

一人で背負い込みがちな鈴が、わざわざ俺を起こしてまで相談しようと言うことなのだ。重大な事ではないだろうか。そんな風に寝起きの頭が目覚めていく中、鈴の返答は釈然としなげな複雑そうな顔だった。

 

 

「困りごと…といえば、まあそうなんですが。とりあえず、見れば分かると思います」

 

 

上着を羽織って、鈴に連れられるままに玄関へ。寝巻き姿でボサボサな姿のまま外に出るのは情けないが、まあ仕方ない。

 

そうして、扉が開け放たれる。

するとそこには。

 

 

 

「おはようございます。シュウ、スズ」

 

 

 

…人形のような、青い目の少女が居た。

 

 

ばんと反射的に扉を閉める。

 

 

 

「なんで?」

 

 

「いや、私もまだちょっと驚いているんです。

おそらく…というか目的は十中八九分かっているんですが」

 

 

「と、とりあえず上がってもらおう!

外で待たせるのも悪いだろ」

 

 

「…そうですね。私がそうしておきますので兄さんはお早めに身嗜みを整えてください」

 

 

「ああ、そうする…!」

 

 

 

そうして、爆速…のつもりだったが、実際にそこまで早かったかどうかは分からない。ともかくとして気持ちの上では相当に急いで格好を整える。ネクタイはいつもより緩いが、まあ後で締め直せばいい。

 

 

二人がいる筈の居間へ戻ると、そこには、申し訳なさそうに佇んでいるアオと、悩ましげに腕を組みううんと唸っている鈴が居た。

 

 

「…っと、どういう状況?」

 

 

「あ、シュウ。…ええと、先ほどスズにも言ったのですが、迷惑をかけてしまってすみません」

 

 

迷惑…ああ、なるほど。彼女は朝に押しかけ、俺たちが動き回る様子を『迷惑をかけてしまった』と思ってしまってるらしい。

 

 

「そんな事は無いと言っているんですが…

慌てふためいてしまったのは事実ですし」

 

 

まあ確かに。鈴も俺も迷惑とは全く思ってないが突然の来訪に驚き、慌てまくったのは事実。なんならさっき俺は、扉を閉めるなんてめちゃくちゃ失礼な事をしてしまった気がする。

 

 

「こっちこそごめん。さっき俺は自分の体裁を守ろうとしてアオの気持ちを考えてなかったな」

 

 

そう謝ると、アオはきょとんとした顔で『体裁』の意味を聞いてくる。その様子がどうにも可愛らしく、くすりと笑ってしまう。

そしてその頭に手が伸び…

 

 

「兄さん」

 

 

…かけて、手を止めた。

いかんいかん、鈴がいなければ、ごく自然に頭を撫でてしまうところだった。

 

 

 

「…話を戻しましょう。

アオさんの目的はやっぱり…」

 

 

「ハイ。シュウ先生と一緒に。

登校しようかと思いまして」

 

 

 

なるほど。

アオは昨日より俺たちの学校に転入してきた。そしてそうなると、まだ道などには慣れないし、場合によっては迷ってもしまうだろう。

 

そうならないように既に学生である俺…いわば、『先生』と共に学校にいくつもりなのだ。

 

 

 

「…よし、いいぞ!シュウ先生に任しとけ」

 

 

と、ついついそんな事を言う。やはり素直に頼られると言うことは嬉しいものだ。

返事を聞き、アオの感情に乏しい顔が、ぱあと明るみを増したようにも見えた。

 

そうした横で、鈴は悩ましげにうーんと唸っている。なんなら、片手で頭を抱えている。偏頭痛か何かだろうか。

 

 

 

「そうですね。

ひとまず、今日は一緒に行きましょう」

 

「もちろん!私も一緒にです。

…アオさんもそれでいいですよね?」

 

 

「ハイ。皆で行けたら楽しいです」

 

 

 

そう、混じりっ気のない答えを聞くと、鈴は虚をつかれたようになり、そしてまた顰めっ面をしていた。

 

 

「さっきから大丈夫か?頭痛いのか」

 

 

「違います…自己嫌悪というか」

 

 

「?まあ、何にせよそろそろ出ようか。

そんなこんなしてる内にもう時間だ」

 

 

学生鞄を持ちながら、そう外に向かう。朝飯を食いそびれてしまったが、まあ昼までは全然保つだろう。

 

 

「おや、確かに…もうこんな時間ですか。

兄さん、弁当忘れています」

 

 

「あ、さんきゅ。

…それじゃ、アオも出る支度をしてくれ」

 

 

「ハイ」

 

 

 

ぎゅ。

 

淡白な返事と、その音は同時に鳴った。

 

この瞬間に、何が起こったのかをすぐに認識できた人間は居なかったろう。当事者の俺であっても、まるで理解が追いつかなかった。

 

ただ腕に感じる、何かしらの感覚。固く大きく、ほのかに柔らかみを帯びている。

 

ほんの少しの間があって。俺はこの時、初めて、さっきの音が。『ぎゅっ』という音が、俺と腕を組んだ音である事に気が付いた。

そしてこの腕にある感覚は、組む際に当たってしまっている……

 

 

 

 

「…〜〜〜〜ッ!!」

 

 

…声の無い絶叫が聞こえた。声が無いのに、聞こえたと云うと矛盾を起こしているようだが、そうとしか表現できなかった。

妹は髪が逆立っているようにすら見えるような勢いで、俺をアオから引き離してくる。

 

 

俺?俺はフリーズしてた。

 

 

 

 

「だめです!それは絶対だめ!」

 

 

「?なんでです?」

 

 

「なんでって…嫁入り前の女の子がそんな、ふしだらな真似をしちゃいけません!!」

 

 

「?ふしだら?」

 

 

「…なにはともあれダメです!今は家の中だから良かったものの、外では絶対やっちゃダメですからね!特にお兄ちゃんにはぜったい!!」

 

 

「わかりました…?」

 

 

よく分からなそうに首を傾げるアオ。それを見て、鈴もようやく落ち着きを取り戻し始める。俺もなんとか認識が戻ってきていた。

 

 

「…はあ、はあ…

…すみません、取り乱しすぎました。ちょっとだけ先に外に出て貰えますか?すぐに私たちも行くので」

 

 

「ハイ、わかりました」

 

 

ぱたんとドアが閉じる音。正直、色々と落ち着ける必要がありそうだったので、ありがたかった。いや、恐らく鈴はそれを考慮にいれて、先に行かせてくれたのかもしれない。

 

 

「…兄さん。

まさか『役得』だなんて思ってませんよね?」

 

 

 

「ま、まさか!そんなまさか。

そんなこと……」

 

「…少ししか思ってないです…」

 

 

 

「…不潔です!」

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「ふー…」

 

 

あの後、普通に登校した。

正直何か起こるのではとハラハラしていたが、あれ以降は鈴もアオも楽しそうに話すばかりで、特筆する事はなにも起こらなかった。

 

 

 

そして着くや否や、俺は自分のクラスとは違うクラスへと向かった。不安そうに何処に行くのかと聞いてくるアオに、他のクラスの手伝いをしにいく予定を入れてる旨を伝える。

 

不安そうになっている姿は心苦しくはあったが、だからといって用事をすっぽかす訳にもいかない。後ろ髪を引かれるようではあったが、そのまま用事へ。

 

そして用事を済ませ、教室に戻ると。

俺の席の辺りに人だかりがある。当然、俺の席に集まってるわけではない。正確に言うならば、俺の席の横にいる人物に人だかりが出来ているのだ。

 

 

 

席に座ったアオが、色々な人に質問をされたり話しかけられたり…とにかく、わちゃわちゃになっていた。

 

そして俺は、その顔を見て笑ってしまいそうになる。あの顔は、慣れていない人が見れば冷静に沈着しているようにも見えるが、本当は違う。あれは多分、あわあわと処理が追いついていない顔だ。

 

 

まあ悪さはされていないし、見守るつもりでいたが、何にせよ俺も席に着くためにその渦中に向かわなければならない。

 

 

 

「…!」

 

 

と、青い目と、目が合う。瞬間アオが立ち上がり。ささっと俺の後ろに隠れた。

 

 

「げ」

 

 

…人見知りな事はわかってはいた。

いたが、まさかここまでとは。

 

そして当然、そうなると周りの関心は俺の方向にも向いてくる。さっきまでアオを取り囲んでいたクラスメイトが一気に俺の方に…

 

いつのまに仲良くなったの?という声。

なんでお前ばかり!という声。

可愛いーと囃し立てるような声。

色々とごちゃごちゃで全部聞き取れない。

目が回りそうだ。

 

 

いやいや、わちゃわちゃと。

そうしていると。

 

 

 

ゾッと。背中を、それこそ刃物で刺されたような気すらした。

 

ばっと、反射的に背後を見る。

廊下に面した扉がある方向だ。

 

開いたままのドアと、そしてそこに立っているのは生徒会長。朝の仕事や連絡を終えて教室に戻ってきた、といったところだろう。

 

再びばっと、90度反転して元の方向に顔を向ける。幸いに、その様子を怪訝に思われても、何があったか訊かれることは無かった。

 

 

…目が。目が怖かった。本当に一瞬だったけど、見逃さなかった。というか見逃せなかった。見て見ぬふりをしたかったが、叶わない。

 

 

 

「…おや、お早う、今日も可愛いよ。ボクも先程業務を終えて、クラスに戻るのを楽しみにしていたよ。うん?ああ、そうだね」

 

 

人混みのいくつかがシドの方へと行く。それに対し、いつもの如く笑顔で応対していく。一挙一足に黄色い悲鳴が上がり、また別の騒がしさが展開されていく。

 

ふとシドの顔を見る。笑顔は、いつも通り。ああよかった、この分ならばさっきの視線は気のせいだったのだろう。

ああ、よかったよかっーー

 

 

 

「あ、古賀くん。後で」

 

 

 

 

 

…はい。

まあ正直、そんな事は無いと分かっていたさ。

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

昼休み。

鈴が作ってくれた弁当を手に持ちながら生徒会室へ。明日は俺が当番だ。何を作ってやろうか。冷蔵庫には何が残ってたかな。

 

 

 

「いやはや、随分仲がよろしいみたいじゃないか。これはとても宜しい事だねえ、全く」

 

 

 

…思考の中では半ば現実逃避をしていた。この目の前の状況に、胃が痛くならないように。

俺は椅子に座らせれて、シドはその目の前に立っている。まるで詰問をするように。

 

 

「転校初日の時点でどうにも仲良く話していたらしいがね。どうやって仲良くなったのか知りたいなあ。いやはや、参考までにね」

 

 

上の空の俺に気付き、ずいと、顔を顔に近づけてくる。あまりにも近い眼と口元にどこか居た堪れないような、何とも言えない恥ずかしさを感じる。

 

 

「…なんだい、最近は本当に女の子とばかり仲良くなるんだねキミは?うん?」

 

 

「…それ鈴にも言われたな…」

 

 

「おやおやボクが居る前で別の子の話題かい!さすが色男様は違うなあ!」

 

 

アハハ、と高笑いをされる。怖えよ。もう悪役の笑い方だそれは。

それは思いに留めて、口には出さない。冗談のつもりで言ったにしても、もう何を言っても逆鱗に触れてしまいそうだ。

 

 

「…ずるいじゃないか。

あんなに近くてひっついて、ねえ?」

 

 

シドが声を潜め、耳元でそう囁く。声は息を吹きかけるような微かなものであり、何か色が付いているような感覚がある。背筋がぞくぞくとした。

 

 

 

「……ずるいなんて言われても。アオが俺に引っ付いてたのは、ただ人見知りだったからで…」

 

 

「へえ?本当にそれだけだと?」

 

 

「?ああ。なんならシドも色々とめんどくなったら、俺の後ろに隠れてくれてもいいぞ」

 

 

「…意地悪め。ボクにそんな事をする勇気はないってのに」

 

 

ちらりと横に目をやり、顔を見た。苦虫を噛み潰したように、それでいて笑うような顔をしながら頬を吊り上げて。

 

そして、頬と頬を擦り合わせて来た。

あまりにも距離が近く、動揺する。

それまでの彼女との距離感では、無い。

 

 

 

「…ねえ、古賀くん。ボクはね。

前キミに言われた事を疑うつもりは無いんだ」

 

「きっとキミはずっと傍に居てくれるんだろうね。…ボクが、思っているのとは別の形でね」

 

 

 

耳元がぞくぞくとするが、しかしそのままに聞く。この声のトーンは、真剣に物を言っている時のトーン。茶化してはいけない時の彼女だ。

 

 

「ねえ。ボクは、キミを…」

 

 

…その先の言葉が紡がれる事は無かった。

ガラガラと、少し立て付けの悪くなった横引き戸の扉が開く音に掻き消された。

 

俺もシドも、そっちを向く。

 

 

 

「こんにちは」

 

 

するとそこには、青い眼の少女がいた。

 

 

 

「………おや…」

 

 

 

そろそろ冬先。

空気が冷え込む事は当然だが。

…こんなに寒かったろうか?

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

「アオ?どうしてここに?」

 

 

「シュウが何処に行ったのか他の人に聞いたら、生徒会室に居ると教えてくれまして」

 

 

「へえ…健気じゃあないか」

 

 

 

そう返すシドの顔をちらっと見てみると、いつもの外行きの顔だ。爽やかで人当たりの良い微笑みを浮かべている。

 

 

「そういえば自己紹介が遅れてしまっていたね。ボクは九条史桐。気軽にシドと呼んでくれ」

 

 

そうして握手の為に差し出した掌だが、しかしそれは空を切ることになる。アオは怯えたように俺の背後にぴたりと隠れてしまったからだ。

 

その様子を見て、シドの笑顔が少しだけ崩れる。眼輪筋がピクリと動いた。

 

 

「…まあいいや。何の用?勿論、用事が無いなら来るなと言うわけじゃあないけれど。その様子からすると用はあるみたいだしね」

 

 

「…ハイ。その…シュウと一緒にご飯を食べたいと思って」

 

 

「おや。転校してすぐなのに、もう仲がいいんだね。元から親交を深めてて、彼目当てで転入したのかな?なんて」

 

 

「……」

 

 

「ハハ。本当に、ひどい人見知りなんだね」

 

 

 

ニコリと笑いかける。その笑みはいつもよりどうもぎこちないように感じた。

 

 

 

「で、実際のところどうなの古賀くん。もしそうだとしたらボクはちょっと怒っちゃうよ」

 

 

「もうとっくにキレてるだろうがお前!」

 

 

 

いつものように、じゃれあうような会話をする。すると背後にある影が、ぴくりと動いたような感じがした。

それは当然の如く気のせいじゃなくて、アオが静かに動いていた感触だった。

 

 

 

「あまりシュウの事を怒らないでください」

 

 

 

そしてアオは、そう言った。さっきまでの弱腰に、俺の背後に隠れていた様子からは信じられないような、はっきりとした物言いだった。

 

 

へえ。

と、一言息を漏らすように言い。

 

 

「ふーん…可愛くないねえ。

キミ、ちょっとだけ嫌いなタイプだよ」

 

 

そう、言った。

それを聞いて、俺はびっくりした。絶対に言ったりしないような事だったからだ。というのも、彼女は上辺を取り繕うのがとても上手で、そして敵を作らないよう、優等生の皮をいつも被っている。それこそ俺と二人の時以外は。

 

だからこんな物言いを。何か敵を作るような発言は、非常に驚くべきものだった。

 

彼女の中で、何かが変わりつつあるのか?

だとしたら、何がきっかけで?

 

 

 

『奇遇ですね。私も、私の大切な人を理不尽に怒るような人間は少し嫌いです』

 

 

 

アオが英語で、そう言う。急だったこともあり、何と言ったかあまり聞き取れなかったが…

 

 

それを受け、シドが笑う。

爬虫類じみた、攻撃的な笑いだった。

 

 

 

「へえ…?『後ろに隠れることしか出来ないかと思ったけれど、ちゃんと話すことは出来るんだね?感心感心』

 

 

 

…きりきりと、胃が痛む。

正直、どうしてこうなってしまったのかもわからないし、実際にシドが変わりつつあるのか、ということもわからない。

 

 

 

ただ一つ分かることは、眼の色が表すように、どうもこの二人は相容れないようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

 

「……あ、古賀さ…!」

 

 

 

いつもの図書館に、いつものように彼女はいる。テストの返却と共に、その復習をと生徒会を空けているひさめの元に俺は向かう(なんだかいっつも勉強で欠席してるような感じだが、テストだとやむを得ないだけでいつもは本当に真面目に来てくれてるんだ)。

 

 

そうして俺に気付いたひさめは、嬉しそうにこっちを見て…瞬間に、固まった。

 

 

理由は当然わかっている。

それは、横にいる…

厳密には、手を繋ぎ共に歩いている…

 

 

 

 

「……仲良くなる速度早すぎません!!?」

 

 

 

…ひさめさん。

図書館ではお静かにお願いします。

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

「す、すみません。

その…びっくりしちゃって…」

 

 

「いや大丈夫…なんなら俺が一番驚いてるんだよ。なんでこうなったんだろうな?」

 

 

「…やはり迷惑でしたか?」

 

 

「え?ああ違う違う!

急すぎて心が追いついてないだけで、迷惑なんてかかってないぞ、アオ」

 

 

「!なら、よかったです」

 

 

 

話している様子をひさめはじっと見つめてくる。急激に仲良くなった様子を驚くのは、まあ当然のことだろうと思った。

 

だけれど、ひさめの事だからもっところころと表情を変えるかと思っていた。だから、こう無表情にじっと見られると、少し意外というか、少し気まずいような気がする。

 

 

 

「…そ、そうそう。

それでテストの結果はどうだった?」

 

 

「…え?あ、ああ。すみません、ぼーっとしてました」

 

 

ハッとしたように、こちらに向き直るひさめ。気付けをしたように、さっきの無表情は無くなり、代わりに自慢げな、嬉しそうな顔が浮かぶ。

 

 

「ふふ、今回は結構良かったんですよ!

少し古賀さんにも喜んで貰えると思います!」

 

 

「お、マジか!?」

 

 

「はい、マジですよ!

結果が…これです!」

 

 

ばん。と、少しどやっとした顔で答案用紙を出してくる。そうして期待して見た物は…!

 

 

…平均60…いや、50後半って所だ。いや当然悪い訳ではない。いつもこれまで赤点スレスレだった事を鑑みると、ものすごい進歩だと言うべきだろう。

 

いや、実際すごい事だ。

すごい事だけど…

 

 

 

「…あ、あれ?どうしたんですか…?」

 

 

「い、いや…なんというか。

…あれだな。もうすこし目標を高くしような」

 

 

「あれぇ!?」

 

 

 

そうして驚いたように目を見開く様子は、何処かコミカルで可愛らしい。そしてそんな様子を見て、なんだか少し落ち着いてしまう自分がいた。

 

 

「わ、笑わないでくださいよう!

これでも凄く頑張ったんですから!」

 

 

「いや、本当に頑張ったのは俺が一番わかってる。笑っちゃったのはその…ひさめって可愛いなって思ってさ」

 

 

「かわっ…!

う、嬉しいですけど…うーん…」

 

 

狼狽したように、あたふたと顔を赤く染める様子をにこやかに眺める。きりきりと傷んだ昼休みの胃が癒されていくようだ。

 

 

 

「で、そうそう。

今日はちょっと狙いがあってさ。アオに英語を教えてもらうってのはどうかなと思ったんだ」

 

 

「へ…アオちゃんにですか?」

 

 

 

急に話を振られて驚くかと思ったが、アオは驚くほどに冷静にこくりと頷く。

 

 

「ハイ。恩返しに、少しでもヒサメの役に立てたらと思いまして。足手まといになってしまうでしょうか?」

 

 

「い、いやいや!そんな事ないよ!

そっか、それなら…」

 

 

ひさめがほっと安心したように胸を撫で下ろす。そしてまた直後に怪訝そうに首を傾げた。

 

 

 

「『恩返し』って?」

 

 

「ヒミツ、です」

 

 

「え、気になるなあ、それ…

でも正直あまり言いたくない事?」

 

 

「…正直。恥ずかしいです」

 

 

「そっか。なら変には聞かないよ!その代わり…って言ったら恩着せがましいかな?…その分、僕を助けてもらえると嬉しいな」

 

 

ひさめが、少しだけへにゃりとした、可愛らしい笑顔を向ける。釣られるように、アオも少しだけ笑った。その光景は横から見ていて、非常に癒されるものだった。

 

 

 

「よし、それじゃあ早速、間違った問題に取り掛かってみようか。アオ先生もいる事だし、英語から行ってみよう」

 

 

「う。は、はい…頑張ります…」

 

 

そうして、渋々と言った様子で教材を出していく。どれもシンプルで可愛らしいサイズのものだ。

 

 

 

 

「そうだ。これからはアオもここで勉強するようにするか?静かで落ち着くんじゃないか?」

 

 

 

「え」

 

 

 

その声が聞こえて来たのは、アオからでは無く、ひさめの方からだった。用意していた筆記用具を手からからりと落とし、少し青ざめたようにまでなっていた。

 

 

 

「?どうした?」

 

 

「い、いや!すみません!

いや、大丈夫です。そう、大丈夫…」

 

 

 

大丈夫と自分に言い聞かせるように言う姿はどう見ても、大丈夫そうではなかった。その肩に手を置き、熱を測るように近づいて見る。

 

 

「……すみません。

なんでもないんです、なんでも」

 

 

そう言い張るばかりだ。

すぐに何事もなかったかのように笑い、そして教材に向かおうとしていたが、やはりと言うべきか集中が足りなくなっているようだった。

 

 

 

「大丈夫ですよ、ヒサメ。

私、ここにはあまり来ないつもりです」

 

 

「…ごめん。

気を遣わせるつもりじゃ無かったんだ。

僕は本当に情けないなあ…」

 

 

 

 

 

 

 

……取っていかないで。

この場所を。この学びの空間を。

ここの、古賀さんとの思い出まで……

 

 

 

 

 

「…はっ…」

 

 

ふと、居眠りをしてしまっていたらしい。

その中で、俺は綺麗な声を聞いた。その重々しい声は俺の名前を呼び、どろどろと溶けていきそうなほど綺麗な声だった。

 

 

それを打ち払うように、頭をがんがんと叩く。

もういい時間だ。二人に、帰りを促す。どうもあまり勉学は励まなかったようだが、仕方のないことでもあるだろう。

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

ふう。

と、半ばげんなりとしたように家に帰る。

 

 

 

「お帰りなさい兄さん。

……なんだかお疲れ様です」

 

 

「ん?ああ…いや、ありがと」

 

 

鈴が見かねて、そう言ってくれる。

今日はなんだか嫌に疲れてしまった。それはアオがどうとか、そういうことでは無い。

 

 

『いつもの日常と変わったから』、いつもより疲れているのだ。彼女がこのクラスに来たことによって、これまでルーティン的に暮らしていた日常の一部が変わっていった。

 

いつかまた、それが日常になるだけかもしれない。大した変化も起こらないかもしれない。

 

 

(…まあ、なんにせよ、かな)

 

 

そう。なんにせよ、今を生きるだけ。

とりあえずは目の前にある夕飯を食ってしまおう。

勿論、十分に味わいながら。

 

 

 

「どうです?」

 

 

「うん、相変わらず美味いな」

 

 

「そうですか。

…もっと褒めてもいいですよ」

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

きっと。今までのような一日のままでは居られないことを、皆が皆思ったのだ。

 

新しい日常への変化。新しき人が持ち込む変容。それはきっと、今までとは異なる様子をこの世界に持ってくるのだと。

 

 

そう、それは微かに。

そして、確かに皆が思った事。

 

静かな夜を迎え。それぞれの少女に、少しずつの変化が訪れようとしていた。

 

 

それは、良いことか、悪いことか。

分かる瞬間は、少なくとも今では無い。

 

 

『ーーあなたの事が好きです』

 

 

そう言われる光景は、いつかのその先に…

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「…兄さん!」

 

 

は、と目を覚ます。

今日こそ、目覚まし時計のかけ忘れだ。

 

変な夢をみたような気がした。

だが今の声で、すっかり記憶も吹き飛んでしまった。

 

 

(やべ、やべ!)

 

急いで身嗜みを整えて、髪型も整える。

 

さあ、今日も一日が始まる。

どんな一日になるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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清水の濁り(村時雨ひさめ)






 

 

 

往来に、銅像がある。それが何を記念して建てられたものかはきっと、その待ち合いに用いた人は誰も答えられないだろうが、待ち合わせにはもってこいの場所。ただそれだけが存在価値となり、像は未だに敬意を向けられている。

 

 

さて、そんな像が視界に入る程の距離になり、一人の少女が驚いたように身を弾ませ、小走りで像に向かう。

 

彼女が驚いたのは、待ち人が既にその銅像前に居たからであり、そしてまた、少し早めに来たはずなのにという後悔からだった。

 

 

「は、はっ…す、すみません!

待たせてしまいましたか!?」

 

 

 

村時雨ひさめは少しの息切れと共に、その少女がある人物に声をかける。そのおさげ髪に付いた控えめな髪飾りに小さなポシェット。それとふわりと浮くような白い服装は、見目麗しさを効果的にプラスしている。

 

 

「いやいや、全然。ちょうど来たところだ」

 

 

そして声をかけた対象はまた、一風変わった見た目をしている。それは服装というよりは、その背丈と、何より顔に大きくついた古傷。

古賀集は、のっそりと寄りかかっていた背中を離して立つ。

 

 

「も、もう少し早く来れば良かったです…」

 

 

「ちょっと以前が以前でな…

俺が早く来すぎたんだ」

 

 

「?以前?」

 

 

「いやなんでも。それじゃ行こうか。

あ、他に寄っておきたいとことかある?」

 

 

「あ、特には…で、では!」

 

 

出征のようにびしりと力を入れて、出発の声をあげる少女に、古賀が笑う。

どうにも彼女は面白いんだよなあ、と。

 

 

二人が向かう先は水族館だった。

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

(土曜日、その…空いていませんか?

勿論、予定が入っていたらいいんですが)

 

 

 

一緒に帰ることを提案された、金曜の帰り道。またなと手を振る直前、制服の裾を遠慮がちに摘まれながら、そう言われたのだ。

 

 

(一緒に…一緒に、遊びに行きませんか?)

 

 

そう、顔を耳まで赤くされ頼まれれば、断る理由など無い。元より予定も無く、承諾しようとしていたのだから尚更だった。

 

 

 

 

受付の従業員に学生を疑われ、学生証を見せてから、学生値段で館内へ入る。いつもの事とは言え、学生用の値段のチケットと顔を二度見される事は、青年に心のダメージを与える。

 

 

「…あ!見てください!

こっちですよ、こっち!」

 

 

その空気を変えようとしたのか、少女は項垂れた古賀の手を取り、ととんと小走りで前へと進む。その小さな手は少し熱く、少しだけ湿気を帯びていた。

 

そうして引かれるままに、先に進む。

するとそこには、愛らしい姿があった。

 

 

 

「おお、ペンギンか!」

 

 

「はい、この子達が此処の目玉らしいですよ。色々とパンフレットに書いてあります」

 

 

ひさめは少し誇らしげにそうパンフを古賀にも渡す。古賀はさっき既に貰っていたパンフを、気付かれないようにバッグの奥に仕舞い込んだ。

 

 

 

「ううん、目玉になる理由がわかる気がしますねぇ…見ているだけで癒される感じが…」

 

 

「そうだな…やっぱり所作が可愛いよな。

動きの一々とか、こう歩き方とか」

 

 

「あ、わかります!なんていうかこう…頑張っている感じが可愛いというか!」

 

 

 

目を輝かせながらそう力説する姿を見て、にっこりと古賀は笑う。反射的に頭を撫でようとして、ギリギリ止める。

彼もようやく自制が効くようになった。正確には、しようとする瞬間彼の妹の咎める声をふと思い出すようになったのだが。

 

なんとか踏みとどまり、そして再びにっこりと微笑みながらあることを思う。

そう、一々の所作に癒され、努力をして、そしてその様子が愛くるして仕方がないのは…

 

(ひさめはこのペンギンに似てるなあ)

 

と、そう思った心は、女性に言うには流石に失礼すぎると口には出さず、ただ無言にひさめを見つめていた。

 

その視線にどこか気まずそうに、照れ臭そうに身体を縮こめる姿のその手を、今度は青年が引く。

 

 

 

「さあ、他にも見にいこうぜ。

折角だしコンプしたいからさ!」

 

 

「は、はいぃ…!」

 

 

 

さっきよりもその手には、熱が籠っているように感じた。手のみでなく、顔まで熱く熱を帯びているようだったが、青年はそれには気付かない。

 

というのも、彼自身もまた、水族館にワクワクを隠しきれなくなっていたのだ。

 

 

歩き回る内に青年が足を止めたのは、深海魚のコーナーだった。

 

 

 

「えっと、そこは…深海のおさかなさんがいるところですね。古賀さん、好きなんですか?」

 

 

「いや…好きってんじゃないし、全然知らないんだけどちょっと気になってさ」

 

 

 

そう語る様子とその目には好奇の様子が隠しきれていなかった。それを見て、ひさめがくすりと笑う。

 

彼は優しく、俯瞰しているように全てを見ているようでありながら、どこか、少しだけ子供っぽいのだ。少女はあばたもえくぼというか、そこをこそ、微笑ましく見えてしまっている。

 

 

 

「ではそこにいきましょうか!

あ、この後これなんてどうでしょう?」

 

 

「お、いいな。じゃあさ、その後…」

 

 

「こっちも…」

 

 

 

 

…楽しき時間は、瞬く間に過ぎていく。

 

 

出る時になって、最後に見ようと二人で意見が一致したものは、意外にもクラゲであった。それはちょうど近くに水槽があったという事でもあり、その光彩が艶やかであったからでもあり。

 

 

 

「……綺麗ですね」

 

 

「ああ、ほんと」

 

 

透けるほどに透明な身体には警告の為なのかアピールの為なのか、白黄色の光を纏っている。その様子はいっそ人工的なもののようすら見えるほどに幻想的だった。

 

 

 

「……また、貴方と来れますか?」

 

 

出し抜けに、ぐっと手を握り、そう言う少女。

その顔は、海月の光の反射によって、少しだけ暗く影が映っているようだった。

 

 

 

「?ああ、また来よう。

また今度にでも」

 

 

 

そんな答えが返ってくる。

ああ、質問には十全に答えてはいるだろう。ただそれが答えであっても答えになってはいないことを、青年は気づくことは無い。

 

 

「そうですね」

 

 

少女は、少しだけ疲れたように笑った。

 

 

楽しい時間は、瞬く間に過ぎていく。

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

「あ、あれえ…?」

 

 

 

しわっと、困ったように、おろおろとしてしまうひさめ。

 

というのも、彼女は水族館から出た後に、レストランへの道案内を始めたのだ。

得意げに、リサーチ済みであるのだと。

 

ところが着いてみるや、そこは予想以上に人気の場所であったらしく、満席。

予約なども行っておらず、ただ立ち尽くす事になってしまったのだ。

 

 

そうしていると、古賀が少しわざとらしく財布を取り出して中身を確認する。

そして、言う。

 

 

「ごめん。実は今さ、ピンチなんだ。

ここ、結構いい場所だろ。だからちょっと厳しくってさ…あっちとかはどうだ?」

 

 

指差す先は、チェーン店のファミリーレストラン。見るからに、明らかに、気を回した提案。

 

ただその場は、その提案に従うしかなかった。

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

(ああ、まったくもう!)

 

 

…また、やってしまった!

電話でもなんなりでもして予約を取っておくべきだったのだ。なのにそんな事すらしないで、彼にも恥をかかせてしまった。

 

きっと、気にしてないと言ってくれるし、あの人は本当に気にしてなんかないんだろう。

でも、だからこそ、僕はつらい。

 

 

 

「ごめーー」

 

 

「本当はさ」

 

 

「!」

 

 

「…本当は俺がエスコートするべきだったんだ。男なんだし、何より先輩だし。なのに俺は任せっきりになっちゃってさ。情けないったらないよな」

 

 

「ごめんな」

 

 

 

違う。僕が急に誘って。直前までどうするかを言わなかっただけなのに。貴方がそんなことを思う必要なんて一つもないのに。

 

貴方が謝る必要なんて、ないのに!

僕こそが謝るべきなのに!

 

 

でも、古賀さんの言葉はそこで終わりじゃなかった。にかっと笑い、更に続ける。

 

 

「だから俺に、チャンスをくれ」

 

 

「…『チャンス』?」

 

 

「うん。

また来れるか、ってさっき聞かれたよな。

だから今度また、一緒に遊びに行こう」

 

 

「それでその時はさ。

今度は俺にエスコートさせてくれよ。な?」

 

 

 

彼はそう言って静かに手を差し伸べ、情けなさにうなだれていた僕の頭を、静かに撫でてくれた。すぐ後にびくりと震え、「やべ」と小さな声で言っていたけれど。

 

その手の感触に僕はただ、安らいでいた。

 

 

 

 

恋に落ちる、という言葉がある。

 

あれはきっと、1度きりのものではないんだ。

何度でも何度でも落ちる事が出来る。

どっぷりと肩まで浸かっている沼に、さらに足首を掴んで引きずり込まれるような、そんな風にして何度でも。

 

そうだ、それは、盲目になるだろう。

沼の、奥の奥に引きずり込まれて。

周りなんて見えるわけがないんだから。

 

 

自覚した感情が迸るように、胸が熱くなる。迸りをそのままに、感謝と、愛の言葉を口にしようとした。

 

 

その瞬間。

 

 

 

「そういえばアオもさ。

どこか遊びに行きたいって言ってたんだよ」

 

 

 

ずぐん。

胸に、何かが刺さるような痛みが走った。

鈍痛にも近しい、そして、傷ではないもの。

どうして、彼女の名前が出てくるんだ。

 

 

 

「今度、あの子にオススメしてみようかな。

此処、すごく面白かったし」

 

 

 

『どうして』。

わかってる。彼の中では、僕もあの子も、同じなのだ。同じ、可愛い後輩。

 

でも、だからといって。

いや、だからこそ。

 

 

 

 

「…やめた方がいいと思いますよ」

 

 

「え?」

 

 

 

ぽつりと、口に出していた。

 

 

 

「い…いや、ほら!水族館とかよりも、遊園地とかの方がいいんじゃないでしょうか?身体を動かした方が楽しかったりするでしょうし!」

 

 

 

すぐに気付き、なんとか頭を回してそう言い繕う。少し変だとは思ったようだけど、ただそれでもすぐになるほどと考え込んでしまった。

 

 

 

「うーん、なるほどな…

さすが、同じ女の子だと参考になるな」

 

 

「そ、そんなこと…きっと、古賀さんが考えてきてくれたものならなんでも喜んでくれると思いますよ!」

 

 

「はは、そうかなあ。そうだったら良いが」

 

 

 

僕がそうだから。

なんて事は口に出せなかった。

 

 

ぐつぐつと、何かが煮えたぎるようだった。

ああ、わかりたくない。目を逸らしたい。

なのに目を逸らす事が出来ない。

汚い蛾が街灯に否応なしに飛び込むように。

 

 

「そう、ですね。僕も出来る限りのアドバイスとかはしますけれど、古賀さん自身が考えて出した答えが、一番喜ばしいものです。きっと、そういうものですよ」

 

 

「そうか?」

 

 

「はい、勿論。

…だから今度の時も、提案してみてください」

 

「どうですか。集、先生?…なんて」

 

 

 

「あれ、それ…」

 

 

「えへへ、アオちゃんの真似です」

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「あ…」

 

(爪、切らなくっちゃ)

 

 

 

小学生の時分には治っていた癖が、また出てきてしまった。左手の親指の爪を噛む悪い癖。無意識に噛んで、爪がずたずたになってしまう、恥ずかしい癖だ。

 

 

帰り道で、誰も見ていなくて良かった。少なくとも、古賀さんが居たら、こんな姿見せたくなかった。こんな醜い姿を。

 

 

 

自分で言うのもなんだけど、昔から僕は物分かりがいい子だったと思う。言われた事はやるし、怒られたらやらない。こうして欲しいと言われれば、そうしていたし、諦めもよかった。

 

でも、どうしても諦めきれなかったり、どうしても納得できない時。この癖が出ていた。

もうずっと再発してないから、治ったものだと思っていたのに。

 

 

…他の人ならば、仕方ないと納得させられた。

才色兼備で、皆の人気者で、かっこいいシドさん。優等生で、しっかりしてて、年下なのに僕よりよっぽど強い鈴ちゃん。

 

本当はとても嫌だけれど、もし、彼が彼女たちに惹かれるならばそれは仕方ないと。

 

 

 

でも、アオちゃんだと納得いかない。

 

僕と似たような顔つきだろう。

後から逢ったんじゃないか。

僕と何が違うっていうんだろう。

 

考えたくもない、そんな感情が沸々と湧いてくる。彼女に、横を取られる事を考えると、どうしようもない感情が湧いてきて仕方がない。

 

教えられるのは僕だったじゃないか。後輩として可愛がっていたのは僕だけだったじゃないか。僕の、僕だけだったものを取らないで。

 

考えれば考えるほど心の中がいっぱいになって、何も考えられなくなる。一つの色で思考が染め上げられていってしまう。

 

ぐちゃぐちゃに、どろどろに、なっていく。

 

 

 

(ああ、嫌だなあ)

 

 

…これまでもほんの少し、抱くことはあったろう。誰かに抱き、それでも確かな形にはなる事はなく、それに心が囚われることも何一つなかった。小さなそれくらいならば、仕方がないことと流す事くらい出来た。

 

 

だからこれは、僕の初めての体験。

渦巻き、囚われ、動けなくなる最初の。

 

どうしようもない気持ち。

僕の、疑いようのない気持ち。

理解できなかった色々が理解できてしまうまでに、この想いを抱いてしまった。

 

沼の奥に沈み、もはや盲目になってしまった僕が心の内にわかる、グロテスクまでに明確な感情の罪だ。

 

 

(…シドさんの気持ち。

分かって来ちゃった)

 

 

 

 

ああ、そうだ。

 

 

これは、嫉妬だ。

 

 

 




汚れなき乙女は、貴方が穢してしまった。


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稲妻が照らすは(古賀鈴)







 

 

 

その嵐は、急な災害であったりだとか、季節外れの暴風と天気予報士が言っていた。そんな他己評価に負けじと言わんばかりに、窓をガタガタと揺らして、びゅうびゅうと風が吹き荒れる。雨が降り、雷が猛る。

 

 

台風と見まごうようなほどのそれは、夜半になろうとも降り止む事は無い。

 

 

 

乱れた気圧の影響か、はたまた単純に雨風と雷の音がうるさく目が覚めたのか。

青年はむくりと寝床から身を起こし、一つ欠伸をすると立ち上がり、リビングに出る。

 

電気を付け、軽く伸びをして、妙に冴えている目をしぱしぱと瞬いた。

こう天気が悪いと古傷が少しだけ痒くなるんだよなとぼやきながら、むずむずする顔を大きな手の小指だけを使って軽く掻く。

 

 

青年…古賀集は、そうしていると、階段の方に気配を感じる。

 

気配と云うと大仰に聞こえるが、実際はとんとんと軽い足音が耳に入っただけである。

そっちに目を向けてみると、そこには。

 

 

 

「あれ、鈴?

どしたこんな夜中に」

 

 

「それはこっちの台詞です」

 

 

彼の妹、古賀鈴が呆れたような微笑むような複雑な顔で立っていた。

 

その姿は、寝る前である故に当然、しっかりとした着こなしではない。

 

サイズがあわずワンピース姿のようになっているTシャツを着、下にはそれと少し合わないような可愛らしいスウェット。

黒い髪をいつもの如く真っ直ぐに撫で付けるでなく、軽く横に分けている事も相まり、ひどくラフな様相を醸し出している。

 

彼女が寝間着にしている少し緩めのTシャツは、数年前にサイズが合わないから雑巾にでも使ってくれ、と渡された兄の物である。

彼女曰く、「利便性ゆえです」と。適度に着古された布は寝巻きにちょうどいいのだと。

 

 

「さすがにそろそろボロいと思うんだけどな」

 

 

「?ああ、これですか。

捨ててしまうには勿体無いでしょう」

 

 

ぼそりと呟いた声に、あくまでキリとした様子で返してくるその答えに苦笑する。

物持ちがいいということは良い事だからと、集もこれ以上言及する事は止める。

 

そして代わりに、話題を元に戻す。

 

 

 

「鈴も眠れないのか?」

 

 

「…ええ、まあ」

 

 

「まあ、そうだよなあ。ホットミルクでも作ろうと思ってたんだけど、鈴も飲むか?」

 

 

「なら、お願いします」

 

 

「応。それならハチミツとかも入れて甘くするか。折角なら美味しい方がいいしな」

 

 

「そうですね。

…後で歯を磨くのを忘れてはダメですよ」

 

 

「母ちゃんかお前は…」

 

 

 

再びの苦笑。彼女なりの冗談であったのだろう、くすりと少しだけ悪戯に微笑む。

 

瞬間、雷が鳴る。

その音にびくりと二人が肩を震わせる。

 

 

 

「…っと、近いなあ。

停電だとかならないといいけど」

 

 

「え、ええ…そうですね」

 

 

 

ばたばたと、激しい雨が窓硝子に当たる音が、ミルクを温めるガスの音と混じりリビングの中に響く。ソファーベッドに座り込む鈴は、所在なげに片方の手でもう片方の二の腕を掴む。

 

 

 

「変に目が冴えちまったなあ…

そうだ、なんか映画でも観るか。ちょっとだけ借りてきたんだよ、シドから」

 

 

「へえ?あの人、映画好きなんですか?」

 

 

「ああ、当人曰くそうでもないって言ってたけど…まあ少なくとも俺よりは詳しいぞ、ありゃあ。そもそも俺が詳しくないんだけどさ」

 

 

「…前話してたみたいに、つまらない映画ばかり渡してきたりしたんじゃないですか?」

 

 

「俺もそれ怖くなって聞いた!

そしたら、『苦しんでる顔を横で見れないなんて勿体無いししないよ』だってよ…!」

 

 

「うわあ。なんというか、とことん…」

 

 

「な。ねじ曲がってるっつーか」

 

 

「全くです。まあ、そうなるとそこにあるものは面白いものであるに間違いはなさそうですね。これなんかいいかもしれません」

 

 

「はは、そうな。あいつのセレクトはハズレが無さそうな感じがする」

 

 

「…なんだか悔しいですが、わかります」

 

 

 

再び、かっと雷光が窓をつんざく。さっきよりは、遠いところに落ちたようだ。しかしそれでもその光と音は、人を驚かせるに足るものだ。

 

 

「…止みそうにないな」

 

 

「……」

 

 

「ほい、とりあえず鈴の分。

たまに飲むと美味いよなあ、こういうの」

 

 

 

鈴同様、ソファーベッドに座る古賀青年。机に二つのマグカップと、中から揺らめく湯気は隣り合い支え合うように横に並んでいた。

 

 

そうして座ると。

鈴は、ほんの少しだけ身じろぎをして、兄の方へ少しだけ、座っている位置をずらした。

ちょっとだけ足を動かして兄に近寄る。

 

 

おやと、その様子を見て、集が意外そうな顔をする。それを横目に鈴がまだ熱いミルクをからがらに啜る。

 

 

 

「雷、怖いのか?」

 

 

「っ、けほっ、けほっ…」

 

 

 

発言に驚いたように、動揺したようにむせかえる。そしてまた、少しだけ恥ずかしそうに顔を俯けた。

 

 

 

「………はい」

 

 

「そりゃあまた…意外だな。

子どもの頃はへっちゃらって感じだったのに」

 

 

「…いつからか、怖くなってしまったんです。

というか、音や光が怖いなんて、生き物として当然でしょう」

 

 

口を尖らせて、愚痴を溢すようにそう言う。その姿は今の髪型も相まり、いつもよりも数段幼いようにも見えた。

否。きっとこれが、取り繕わない彼女の姿の一つでもあるのだろう。

 

 

 

「…ふん、見損ないましたか?

いいですよ、怖いものは怖いですし」

 

 

拗ねたように、どこか諦めるようにそう吐露をする。少しだけぬるくなったミルクを2口ほど啜り、青年はそれに答える。

 

 

 

「いや、実は俺も怖いんだよ。

だから俺だけじゃなくて安心したんだ」

 

 

「………嘘ばっかり」

 

 

「本当だよ」

 

 

 

ごろおん。再び、雷鳴。

鈴の肩がびくりと震える。

その肩に、ごつごつとした手が置かれる。

 

 

 

「…まったく震えてないじゃないですか」

 

 

「お前の前だからかっこつけてんの」

 

 

「私のせいで無茶をさせてるって事?」

 

 

「違う違う。妹の前でカッコつけたがるのは、なんていうかな、兄貴としての本能なんだよ」

 

 

「よくわからないです」

 

 

「だろうな」

 

 

 

片腕で肩を抱き寄せ、震えを静かに抱き止める。だんだんと、小さな震えが消えてくる。

それぞれ片手と、両手で持ちながらホットミルクを啜り飲む音が聞こえる。

 

 

 

ことりと、コップが置かれる音。

そのコップは鈴が置いた音だった。

 

彼女は、肩を抱かれる程の近い距離の元に、ふと思い立ったように彼と向き合う。

そして、兄の頬を撫でるようにその手を這わせた。そのまま、傷を少しだけ撫でる。

 

 

 

「疼きますか?」

 

 

「…まあ、ちょっとはな」

 

 

「痒み止めなどは」

 

 

「そこまでじゃないさ。

最近は全然調子もいいし」

 

 

「軟膏、塗りましょうか」

 

 

「それくらい自分で出来るよ。

心配してくれてあんがとな」

 

 

 

会話はそこで途切れる。代わりに、その古傷をただするすると撫でる音が、雨の音に混じる。

互いに、少しだけ目を逸らしながら。

 

 

 

「…もしこれがなかったら」

 

 

 

古火傷の跡を、撫でる。

 

 

 

「……」

 

 

「………ごめん。

そういうこと、いわないって約束だった」

 

 

「うん」

 

 

 

傷を撫でる手が、離れていく。

重なるように向き合っていた二人の身体がまた、ソファーベッドに横並びになる。

 

冷め始めたホットミルクを、二人が啜り飲む。温もりはいつか冷めるもの。だからこそ、冷めない内に嚥下してしまおう。

 

 

ぐい、と青年が呷り飲む。それに釣られるように鈴もくいとコップを傾ける。一度に呑みすぎ、少しだけまたむせる。

兄はその様子を、横から和やかに見ていた。

 

 

「…美味しかったです。それでは」

 

 

「あれ、映画は見ないのか」

 

 

「夜更かしは健康にも美容にも良くないので。それに、今から見始めたら尚更眠れなくなりそうですし」

 

 

「まあそれはそうだなあ。

なら俺も素直に寝…」

 

 

 

 

ぴしゃあん!

 

語末が、雷鳴に消えた。光と音が同時に発生する様な稲光。青白い光は、その場に居るものを金縛りの如く止める程のものだった。

 

青年、集はそれを前に立ち上がりかけてた足腰が抜けてまたソファーに座り込んでしまった。

 

比較的、雷への耐性がある彼ですらそうなのだ。一方の少女、鈴は…

 

 

 

 

「…おおい。大丈夫かー、鈴」

 

 

「……ダメかも…」

 

 

 

へたり込みこそしないが、その寸前といった所。居間から出ようとしたその場所に縮こまり、止まっていてしまっていた。

 

 

やれやれと思い、窓から外を見る。当然、うんざりする対象は外の天気だ。こうも激しい雷雨では、おちおちゆっくりすらしていられない。

 

しかしそれでも、睡眠を取らない訳には行かない。翌日は休日ではあるが、ある程度規則正しい就寝は取らねばならないのだ。

 

 

 

「はは…ほら、しっかりしろー、頑張れ」

 

 

手を伸ばし、恐怖に震えるその手を取る。

無理もない事だ。ただでさえ苦手なものが、こうも目の前に落ちれば誰でもこうなる。それがあの冷静で完璧な彼女であろうと。

 

 

ただ、彼にとっては、少しだけ弱みを見ることが出来た事が少しだけ嬉しく、微笑ましくて。

 

だからついつい、こんなことを口走った。

 

 

 

「雷が怖いなら、お兄ちゃんが一緒に寝てやろうか?

 

 

 

なーんて。

という、冗談を表す言葉を継ぐ前に。

 

 

 

「本当?」

 

 

「え?」

 

 

 

有無を言わせないような返しが、その背を貫くように彼の目を見据えていた。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

「それじゃおやすみ」

 

 

「…はい」

 

 

 

一つの布団であると、兄さんの身体が大きいこともありあまりにも窮屈すぎるということで、あくまで布団を二つ並べるだけ。

 

ただ、それでもどこか懐かしかった。

本当に昔の事だけれど、怖いお話を聞いた夜なんかは、こうしてくれたものだった。そしてその時も言ったものだ。『俺も怖いから、鈴のおかげで助かるよ』と。

 

 

こちらに背を向けて眠る大きな背中。

私もそれに背中を向けて目を瞑る。

気恥ずかしいのと、彼の好意に甘える自分が、どこか汚らしいように思えて。

 

 

(……ッ)

 

 

 

また、雷が鳴る。

目が、覚めてしまう。

 

 

いつからか。兄の背丈がどんどんと伸びた時から、いつか避雷針みたいに、彼の頭に落ちてしまうんじゃないかなんて想像をして。

 

それ以来、すっかりと雷が苦手になってしまった。そんな考えがきっかけに、それそのものが恐怖のシンボルになってしまった。

 

 

兄はまだ起きているだろうか。

横のまま様子を伺うと、すうすうと寝息を立てて眠りについていた。きっと疲れていたのだろう、その眠りは深い。

 

 

ごろんと、寝返りをこちらにうつ。

 

すう、すう。人の良さそうな微笑みも、額に浮かんだ皺も、驚くように見開いた目も、今そこには無く、ただ全てゆっくりとその場にある。

 

そして手を投げ出すように横に開く。それはさっき、私の肩を抱いてくれた時みたいに。

それは、無意識の中でも、怖がり怯える私に手を差し伸べてくれているみたいで。

 

 

私の自意識過剰かもしれない。

ただの恥ずべき思い込みかもしれない。

でも私は、少しだけ身体を起こして、その腕の内に収まりに行ってしまった。

 

 

私以外の体温が伝わってくる感触。

胸元に、顔をそっと寄せる。

 

とくん、とくん。小さな鼓動が鳴っている事を感じた。この大きな身体に見合わないようにすら感じる、小さな音だった。

 

その小さな鼓動の音が、なによりも私を安らかにさせてくれるようだった。

するりと瞼が重くなり、頭が鈍麻していく。

 

 

 

(ずっと、このままでいいのに)

 

 

 

静かな体温を感じながら。

私はそっと、そんな事を思った。

 

このままでいい。

私が怖がって、貴方が手を差し伸べてくれる。

私は妹として、貴方が兄として、ずっと横にいる事が出来る。このままでいいのに。

 

 

どうして、何もかも変わっていくのだろう。

何も変わらなければいいのに。私は、お兄ちゃんの横に居られればそれでいいのに。

 

周りは変わっていく。

そんな事、わかっている。第二次性徴で身体が丸みを帯びると共に、それまでの距離感で居られなくなる事も当然わかってる。

 

関係も変わっていく。

ただ、周りに人がいるだけではない。彼を好む人が、どんどんと変化を伴っていくだろう。ただ仲のいい友人のままではないように。

 

 

変わらなくていいのに。

ずっとずっと、私とお兄ちゃんが、一緒に手を繋いで、眠れるようであればいいのに。

 

 

ぎゅっと、力強く兄の身体を抱いた。

どくんどくんと、さっきよりも鼓動が大きく聞こえるような気がした。

 

 

 

きっとこれは、罪なんだろう。人間が抱く、奈落へと落ちる原罪。抱かぬべき、しかし抱いてしまう、人間の七つの大罪の一つ。

 

怠慢。

それであると、ようやく気づいた。

 

完璧を名乗るなら。彼の為にと思うなら、それをすら治さねばならない。わかっている。

 

 

 

 

でも、完璧なんて、この温もりを手放してまで、手に入れなきゃいけないのかな。

 

 

 

 

ごろぉん。

よぎった邪念を咎めるように落雷が響く。

 

でも、目の前の温もりの前には、もうその光も音も怖くはなかった。

 

ただそれが、無くなってしまう事が怖かった。

 

 

 

 




稲妻が照らすは、古い傷と慕情。


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グリード・グリード・グリード(九条史桐)






 

 

 

少しだけ前の話。古賀集が風邪をひき、学校に来なかった。ただ、それだけの時の事。

 

 

いつも後ろの席から見ている大きな背中がその日は朝礼の時間になっても来なくて、風邪で休みな事が担任から告げられる。

 

ボクはただ、ああそうかと思って、なら今日の業務はちょっとだけ大変そうだとも思った。あと少し理不尽に、許可なしに約束を破るなんて酷いなあなんてことも。

 

 

最初にどうもおかしく思ったのは、そのすぐ後の事。1限の時間中、もうとっくに頭に入ってる授業内容に退屈するように筆先を動かしながら視線を動かした。

 

動かした先には何も面白いものなどない。あるのはただ空っぽの席だけ。仕方無しに窓から外を見るが見えるのはせいぜい遠くを飛ぶ飛行機くらい。

 

授業内容が退屈であるというのは、まあよくあることだった。それでも真面目に受けることはしていたし、何より退屈凌ぎが最近は出来ていた。

 

 

退屈凌ぎ?どうやって?何をして。

自分の視線が自然と向かう先に、いつもある大きな背中は無かった。それは当然だ。

 

 

その先も授業は随分と時間が長く感じて、昼休みになった時はああ、ようやくかとすら思った。

 

昼休みになり、色々な子たちがボクの周りに集まってくる。単に慕ってくれている子、明らかに恋慕じみた目で見てくる子、面白半分で近寄ってる子、それをあしらってる内に本気になってしまった子。様々だ。

 

いつものように笑ってそれを受け流す。

笑顔を振り撒き、相槌を打ち、当たり障りのないように、瑕疵の無いように。

 

 

それを、『猫をかぶっているなあ』と遠巻きに見て、笑う君はいない。

そんな事わかっている。当然だ。

ただ昼ご飯は、酷く味気のないものに感じた。

 

 

午後が過ぎて、すぐに放課後になる。別段、何かをするというわけでもなく、差し迫った業務も何もない。故に生徒会の業務はお休み。

 

なのにボクは生徒会室に足を運んだ。

何かを期待しているかのように、何の意味もない場所に足を運ぶ。何が起こるわけでもないと頭では理解しきっているのに。

 

当然、誰も居ない。

カーテンを開けてみる。

少しだけ落ち始めた日の光が差す。薄ぼんやりとそれを眺めてから、戸締りをした。

 

 

ひどく久しぶりな気がする、普通の下校。

 

放課後に業務に残るでもなく、後輩のひさめちゃんと一緒に居るでもなく、学校の閉鎖の時刻まで共に居残った彼と、古賀くんと帰るでもなく……

 

ある女子生徒が帰り道のボクに話しかけてくる。取り巻きの誰かだったか。何と答えたかも覚えていないが、満足そうな顔をしていたし、まあ無意識に上手いことあしらったのだろう。

 

 

あしらう。あしらうか。

これまでも少し思ってなかったと言ったら嘘になる。でも、ここまで明確に思うとは。

 

 

つまらない。

 

 

ああ、こんなに色褪せてたかな。

この世界はこんなつまらなかったか。

 

笑顔を振りまく自分も学校教育も仲良くしてくれる誰かの顔も脱色剤を振り撒いたようにのっぺらぼうでつまらない、褪せた何かに見えた。

 

色が抜け落ちた、モノクロームな感覚が背筋に刻み込まれるようだった。

 

 

 

家に戻る足が随分と重々しい。

何が嫌という訳ではない。ただ、退屈で白黒の現状に身を置きたくなかった。

 

いっそ彼の家に行ってみようか?

いいや、迷惑はかけてしまいたくない。

 

もし嫌われたら?そう思うとゾッとする。

 

 

ゾッとする。ゾッとするか。本当にただ想像をしただけなのに、心から、本当に嫌だと思った。動悸までしてくる。汗が出る勢いだ。

さっきまで退屈に喘いでいたボク自身が嘘のようだった。

 

 

 

なるほど。よくわかった。

どうしてこうも世界がつまらなく見えたのか。

 

以前と、それらが変わったわけではない。

見る世界は何も変わっちゃいない。

ただ変わったのはボクの脳みそ。

 

 

ボクは、これしか知らなかったんだ。

色褪せた世界とつまらない白黒。これが当然であって、これしか存在しない世界だった。だからこそそれを漫然と過ごしていたし、それを疑問に思うことすらなかった。

 

 

 

キミと出会ってからだ。

ボクの世界の色は、キミにどんどんと色付けされていってしまった。

 

あの男がボクに笑いかければ風景が瑞々しく光り、あの男がボクに話せばそれだけで全てが美しく見えた。彼の話した事がボクにある退屈な世界を、面白く、彩色に塗れた世界にした。

 

 

知らなければよかったのに。こんなにも世界に色があったという事を、初めて知ってしまったばかりに。その色が無くなってしまえば、元の白黒になんて戻れやしない。

一度こんな贅沢を覚えれば、それまでに戻れる訳なんて、ないだろう。

 

 

 

部屋に戻り、ドアを閉じて寄りかかる。

メイドには当分一人にするように言った。

 

 

 

どくん。どくん。どくん。

 

何十キロも走ったように息が切れていた。

 

自己思索なんて幾らでもやっている筈。

なのに、そこに彼の事を混ぜる。あの不恰好で、不躾で、無遠慮なあの男の事を考える。

 

それだけで不思議なくらい息が荒くなる。鼓動が早い。顔が熱い。正気でいられない!

どく、どく、どく。

鼓膜に反響するほどの鼓動。

 

 

「はっ、はっ、はっ…」

 

 

喉を渇かせた犬のように息を切らしながら、ドアに背中をつけながらずるずると座る。

妙に疲れているが、しかし興奮状態でもある。その変な高揚に身を任せるがままに。

 

 

口が、勝手に引き攣る。引き攣り笑う。

爪が立つ。床にガリガリと傷がつく。

 

 

 

 

「……渡すもんか」

 

 

自分の喉から出たと信じられないような声だった。人のフリをした食屍鬼が出すような、惨めで穢らしい声だった。

 

 

 

たった、一日。顔が見えない。それだけでボクの中の彼の存在の大きさがわかってしまった。自覚をしてしまった。

もう、ただの好奇心の対象で済ませる事なんて出来なくなっている事を、まざまざと。

 

 

 

「やるもんか!

奪われてなるもんかッ!」

 

 

えくぼが出来るほどに顔を歪めて、誰に言うでも無く、叫ぶ。

 

奪われるもなにもボクのものじゃないだろ。頭はそう言う。だが心が奪われたくないと叫ぶ。

 

 

この感情は、反吐が出るほどの強欲。

救い難いまでのそれだ。

 

ああ、よくない。

何かを欲しがって、それが手に入ったことなんて一度もないんだ。

 

 

でも、でもなあ。

欲しくって欲しくって、たまらない。

だから仕方がない。仕方がないだろ?

誰か、そう言ってくれ。

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

放課後の教室の中に、二人の生徒が居る。

一人は座っていて尚、その背丈が恐ろしく高い。もう片方もそこそこに背は高い筈なのに、それをまるで感じさせないようなそれである。

 

 

 

「あっちい…」

 

 

「…暑いね…」

 

 

 

その背丈の大きい男が、だれるように言う。

するともう片方、赤い目の女もそれに同意するようにじとりと答えた。

 

 

しかし、暑いとは、些か季節外れな発言だ。外には木枯らしが吹き始め、気温は低下の一途をたどり続けている冬口にかかる秋。冬至が来るまで更に寒くなるであろう季節に、暑いと。  

 

その理由は、単純明快だ。

 

 

 

「…なあシド。暖房が不調ってもさ。

こんな暑くなることってあるかよ…」

 

 

「実際なっているんだから仕方ないだろう…」

 

 

 

学校全体で、冷暖房の調子がおかしくなっている。きっかけはそれこそ数日前。生徒会室で暖房が付かなくなってしまった事だ。

 

それに困り果て、誰もいなくなった彼らのクラス教室の許可を取り、臨時の仕事場として手に入れたまではいい。

 

だが問題は、そのすぐ後に教室のものもどうも調子がおかしくなったのだ。効かない事はないのだが、些か「効きすぎて」しまう。

 

 

 

「…かといって窓を開ければ相当寒いだろう。いちいち開閉をするのもキリがないしね」

 

 

「はあ…まあ、かじかんで手が動きにくいよりはマシだと思うかあ」

 

 

「ハ、ポジティブだね古賀くん」

 

 

「誰かさんのが移ったかもな」

 

 

「おや、それボクの事?

ならもっと感謝してほしいね」

 

 

 

他愛もない事を話し合いながら手元にある業務を終えていく。学外活動時等の報告書作成、予算編成、決算書作成、出金管理、エトセトラ。やる事だけは綿埃のように積もっていく。

 

 

ついさっきまでは村時雨ひさめも書記として頑張ってくれていた。だがもうそろそろ遅くなってしまうことも鑑みて先に帰らせたのである。

 

シドは、古賀にも先に帰っていいとも言った。だが彼は頑として聞かず、まだやると言ってここに居座って仕事をしてくれている。彼の「役に立ちたがり」は、と呆れるようだった。

 

 

 

外からは部活で走り回る声。恐らくはサッカー部だろう。掛け声が聞こえた。

 

だが、部屋の中には二人きりだ。

本当に、久しぶりの二人きり。

 

 

少女はほんの少し頬を緩める。

押し付けられた業務といえど、この為ならばそこまで悪くないと思えた。

 

 

「しかし、放課後に二人きりの教室…か。なんだか、随分と不思議な気持ちになったりしないかい?」

 

 

 

ぽつりと、視線を向けながら話す。

いつもの余裕ありげな笑みはしかし、どうも気怠げである。暑さのせいだ。

 

 

 

「あ゛ー…いつもならなったかもしれない

今はちょっとな……」

 

 

「……はあ、そうだね」

 

 

互いに、ぐったりと机に倒れ込む。

実際の気温はそうでもない。だが寒さの対策の為に着込んできた服が、彼らに反逆の徒となって牙を向き、不快感を出させて来ていた。

 

 

 

「…悪い、ちょっともう我慢出来ん。

少しだけそっぽ向いててくれ」

 

 

と、古賀青年が身体をもぞもぞと動かす。

すると上半身を少しはだけ、下に着込んだシャツなどを脱ぎ始める。本当ならば廊下やトイレなどで着替えればよかったのだろうが、長いことその空間に居たせいで、判断能力が摩耗してしまっていた。

 

 

ふう、これでだいぶ楽になった。

とそう着替え終える頃にふと、視線に気付く。赤い視線が彼をじっ…と見据えていた。

 

 

 

「じ、じっと見てんなよ…

ていうかまさか今ずっと見てたのか?」

 

 

「…キミなんでそんないい身体してるんだい。なんだかもったいないねえ」

 

 

「バッチリ見てたのかよ恥ずかしい!

そっぽ向いててって言ったのに!」

 

 

「ごめんごめん、つい」

 

 

そう笑顔混じりに返しているが、へえ、と興味深そうに視線を隠そうとしない。

見られて減るものではないとわかってはいるがしかし、気恥ずかしいのも確かである。

 

 

「…というかお前はいいのか?

なんなら俺一瞬出てくぞ」

 

 

「ん?んー…まあ大丈夫だと思う。体質的に汗あまりかかないんだよね。代謝が良くないのかも」

 

 

「汗かかないからって…

じゃあ尚更脱いだ方がいいんじゃ」

 

 

 

彼がそこまで言うと、彼女はにったりといやらしい笑みを浮かべる。

古賀はそれにぞっとする。彼は生徒会長のその笑みに負の信頼を向けていた。ロクな事にならないぞ、と。

 

 

 

「…へえ?

そんなにボクの事を脱がせたいんだ」

 

 

「……ッ!ち、ちが…

いや確かにそういう事は言ったけどそれは」

 

 

 

 

「えっち」

 

 

 

「……」

 

 

 

彼はそう言われ、静かに押し黙ってしまう。

それは糾弾をされたからではなく、ぼそりと呟くように吐息混じりに言われた言葉を蠱惑的に感じ、ついどきりと反応してしまったからだった。

 

 

 

「あはは、へーんな顔。

でも素直な古賀くんにはご褒美だ」

 

 

 

そう言うと、彼女はリボンに手を掛ける。

そして緩めて、折り目正しいシャツの、そのボタンを静かに外していく。

 

 

 

「…ほら、じっくり見てもいいよ?」

 

 

上から見下すように、首を上げて、鎖骨が白日の元に晒される。常に隠れている喉仏やそれらは、今はしかし2人しか居ない教室の元で、異性に暴かれているのだ。

 

 

 

「じょ、冗談にしちゃ過激すぎるぞ…!」

 

 

「冗談じゃないよう。大丈夫、誘っておいて、見たら怒るなんて真似もしないから」

 

 

「そういう問題じゃないだろ…!

ほら、俺廊下出てるから!」

 

 

「あっ…」

 

 

 

『あっ』とは。

 

声を出した直後、しまった。というように、シドが自分の口を押さえる。

その声を聞いて、古賀が振り返る。

 

そして、彼女をじいと見つめた。

それはさっきまでのような照れが入ったような風ではなく、まじまじと。

 

 

「お前…何かあったのか」

 

 

「……」

 

 

「…さっきのも、何か俺に伝えたりしたかったからなのか。たしかに、いつもと違うような気がしたけど…元気もなかったし」

 

 

 

そう言う、彼の目はもはや照れやそういったものはない。一つの事に気が入ってしまって、他のことには目がつかなくなっている。

何が、友達が困ってるのではという疑念に。

 

 

それを見て。

シドが肩をすくめる。

少しだけ、諦めたように。

 

 

「君はなんかこう…あれだね。悲しんだりすると寄り添ってくる大型犬みたいだ」

 

 

「犬かよ俺は!」

 

 

「よく気付くなあって褒めたいんだよ。

ひねくれた言い方になっちゃったけど」

 

 

「!じゃあ、やっぱりなにか…」

 

 

 

「…………んだよ」

 

 

 

ぼそり、と呟く声。

耳を澄ませたが聞こえず、聞き直す。

すると、更に顔を下に向けながら、言った。

 

 

 

「……淋しかったのさ」

 

 

 

「…は?」

 

 

「……だって、そうじゃないか。

最近キミ、ずっと他の子とばかりいるし。

特にあの雌牛みたいな奴!ずーっとキミに引っ付いてるし!なんだいあのキョリ!」

 

 

ぐいと、近づいてくるシド。

その手は古賀の首元に伸ばされ、彼の顔をぐいと自分の方に寄せている。

 

 

 

「め、めすうしってお前な…」

 

 

「……すまない、ちょっと取り乱してた」

 

 

ハッと、正気に戻ったように、距離を取る。先ほど外したボタンを止めて、リボンをつける。表情はいつもの如く冷静然としている。

が、耳がどうにも赤くなっている。きっと暑さのせいだろう。古賀はそう思う事にした。

 

 

 

「……ああ、情けないと思うだろうし、なんなら失望したかい?ボクがこんな人間だなんて」

 

「ボクも、初めて知ったよ。ボクがこんな幼稚な感情を抱くような人間だなんて」

 

 

 

少し、バツが悪そうに呟く。

その表情は、少しだけ、子供じみて見えた。

まるで、好きな物を買ってもらえずに拗ねている子供のように。

 

それを見て、古賀が少し笑う。

そして、言った。

 

 

 

「まさか!むしろ俺、嬉しいぞ?

お前にそこまで大切に思ってもらえてると思ってなかったし」

 

 

「それくらいの事なら、もっとちゃんと言ってくれよ。話も聞くし、俺が『なんでも』力になってやるからさ」

 

 

「…本当?」

 

 

「おう。…まあ流石に出来る限りだけど」

 

 

 

瞬間、背筋がぞくつく。

何か、取り返しのつかない事が起こったような感覚。目の前の少女から不気味さを感じた。気のせいだと、信じ込ませる。

 

 

 

「…へえ…本当に本当?

ボクの言うことを?聞いてくれる?」

 

 

「…お、おう。不安になる聞き方するな…」

 

 

 

「……そうかあ……」

 

 

 

 

きーん、こーん。

チャイムが鳴り響く。

 

それは、もう家に帰る時間という事の表し。

 

 

 

「…っと、引きとどめて悪かったね。

そろそろ帰ろうか」

 

 

 

す、と。

さっきまでとはまるで違うような。

いじけたような、それでいて何処か怖い。そんな雰囲気が一瞬で消えた。

 

そこにいるのは、余裕然としていて、微笑みの絶えない、いつもの彼女だった。

 

 

 

「え?あ、ああ…」

 

 

彼は急激な変化に置いていかれるように、教室を出るシドについていく。廊下の冬の空気は、下着を脱いだ彼の身に突き刺さるように冷たかった。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

ああ、やっぱり。

 

ぜったいにわたすものか。

 

『これ』は全部ぼくのだ。

その視線から声から、なにもかも。

他の誰かになんてあげてやらない。

 

やっと決心できた。

誰かの許可なんていらない。

仕方ない、なんて言葉で誤魔化さない。

 

 

ぼくが、ほしいんだ。

 

強欲。強欲。強欲。

上等だ。

 

わたすくらいなら、どうなろうと構うか。

ボクも、ボクのまわりも、ぜんぶ。

 

 

 

 



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アオヒトリ(菜種アオ)






 

 

 

「…買い物に?俺と?」

 

 

「ハイ。是非ともお願いしたいです」

 

 

 

私が申し出ると、シュウは素っ頓狂な声をあげて聞き直してくる。彼はまた、自分がこう誘われる事を予想だにしていなかったのだろう。

 

ふと、嫌だった場合を思いつく。

そうであるならば断られても仕方がない。

 

 

 

「勿論、無理にとは言いませんし私と共に行く事が嫌ならば…」

 

 

「いや、そんな訳はない!俺なんかを誘ってくれて嬉しいさ」

 

 

『俺なんか』彼のそれは、自己評価の低さから来る発言。

それを聞く度に、少し悲しい気持ちになる。

 

 

 

「ただ、俺よりも適任な人が居るんじゃないかとも思って」

 

 

彼はそのままそう言う。適任。私には彼以上に適した人間は居ないと思っていた。

何故そう思ったのだろうか?

わからないままに、首をかしげる。

 

 

 

「服を買いに行く、ってんだろ?

なら男の俺よりも女の人と行った方が、色々話がスムーズに進んだりしそうじゃないか」

 

 

「別性の方の意見は必要だと思います」

 

 

「ああ、なるほど…

でも俺あまり服とか詳しくないしな。それこそアオのお母様と行った方がいいんじゃ」

 

 

「母には彼と行ってきなさいと言われました」

 

 

「なして…?」

 

 

よくわからない訛り方をして目を細める。彼に訛りなどは無かったはずだけれど。

 

 

「そうだ。鈴にも声かけて見ようか?

それこそ、出来るだけ色んな人の意見があった方がいいだろうし」

 

 

「……ハイ、確かにそうですね」

 

 

 

少し考え込んで、答える。

確かに言っていることは正しい。しかし何故か少しだけ考え込んでしまった。

スズと一緒など、嬉しいはずなのに。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「えっ行きませんよ、私」

 

 

「なんで!?」

 

 

 

今度はよくわからない訛りは無かった。

分析するに、さっきは多少冗談混じりであったのだろう。そして今度は、予想していなかったから驚いたのだ。きっと、そう。

 

 

 

「だって私が行くのも悪い気がしますし。

それに、ほら…」

 

 

「悲しく、なるでしょう」

 

 

「悲しく?」

 

 

疑問符を浮かべるシュウに、スズがふっと笑いかける。しかしその笑みはどこか悲しく、そして泣いているようにも見えた。

 

彼女は、自分の身体を撫でるような素振りをする。胸を撫でていたのだろうか。

そうして、私を見る。視線は顔ではなく、その下を見ているのを感じた。

 

そしてそれを見て、シュウが「しまった」とでも言うように青褪める。まるで、地雷を踏みしだいたように。

 

 

 

 

「…これ以上聞きますか?」

 

 

「すまない。いやほんとごめん」

 

 

「謝られた方が辛いからやめてください」

 

 

「ごめ…いや…うん。

二人で行ってくるよ。そうする」

 

 

「ええ、そうしてください…」

 

 

 

どんよりとした気配を纏いながらスズがそう言い放つ。

 

そうして外出の準備をしようと部屋を出て行ったシュウを確認してから、私に囁いた。

 

 

 

「是非楽しんできてくださいね」

 

 

「……ええ、ありがとうございます」

 

 

「はい。…アオさんには、これくらいは許されると思いますから」

 

 

「?」

 

 

「こちらの話です。

ほら。兄も、準備を終えたようですよ」

 

 

 

玄関から、私を呼ぶ声がする。私はそれを聞いて跳ぶようにそっちに向かう。手荷物は少ないけれど、それだけではない身軽さのようなものを感じるような、そんな気がした。

 

 

 

「…でも……」

 

 

 

背後で、何かを呟く声が聞こえたけれど、それが何を言っていたのかはわからなかった。

 

 

 

 

……

 

 

 

 

そこからの時間は、本当に早かった。

 

 

 

「こちらはどうでしょう?」

 

 

「……う、うーん…

それは…流石によしておいた方が…」

 

 

 

渋い顔で、手に取ったシャツの購入を止める彼。可愛いと思ったのに。残念だった。

 

 

 

「なあなあ、これなんかはどうだ?」

 

 

「…!こういったものが好きなのですか」

 

 

「好きっていうか…似合うと思って」

 

 

 

考え込んだと思ったら、ぱあっと明るい顔をして服を差し出してきた時の彼の顔。

そうして好みかと聞かれた、照れ臭そうな顔。

結局、その服は購入することにした。

 

 

「どうでしょう?似合ってますか?」

 

 

「うわッ!ちゃんと服を着てくれっ!」

 

 

 

顔を赤く、慌てながら顔を隠す彼。

本当は試着室に入ってみてくれた方が手間が省けると思ったのだが、それを言ったら凄い勢いで首を横に振られてしまった。

 

 

あっという間に時間が過ぎて行く。

気づけばもうこんな時間になってしまったのかと、自分でも驚いてしまうくらいに。

彼は楽しんでくれてたのだろうか。

私に、無理に付き合わせてしまっただろうか。今になってそれが気になる。

 

 

 

 

「…あ」

 

 

そんな事を考えながら歩いていたからだろうか、ふと。一人きりになってしまった。

いや、一人になることは、『目的』のために私が意図していた事。

しかし問題はもう一度彼と合流する事も出来なくなってしまったことだった。

 

 

(…迷ってしまった)

 

 

一人になる感覚。どうしても、心が痩せ細るような、どうしようもない寂寥感に苛まれる。不安感が心を蝕んでいく。

 

だけれど、一筋の光明があるように、潰れてしまわない。彼がいる限り、心の拠り所がある。

 

私自身も、彼を探す。

それでも、きっと。

きっと彼ならば私を。

 

 

 

「アオ!」

 

 

 

いつでも貴女は私を見つけてくれる。小さなあの頃の憧憬のように、あの小さなヒーローのように。息を切らしながら手を伸ばしてくれる。

 

 

 

「あ…」

 

 

「よかった、ここか!

ごめんな、目を離しちまって」

 

 

「いえ、いえ。違うんです。

私がこっそりと、一人になったんです」

 

 

「そうなのか?

…っと、そういえば、ケータイで連絡すれば良かったな。はは、焦ってすっかり忘れてた。我ながらバカだな」

 

 

 

安心したように息を吐く彼の顔。その額には、季節外れの汗がうっすらと浮かんでいる。

 

 

 

「心配をかけてしまってスミマセン。…どうしても、買いたいものがあったんです」

 

 

「買わないといけないもの…必需品とかか?」

 

 

「そういう、わけでは」

 

 

 

彼に、迷惑をかけてしまうつもりではなかった。迷惑をかけてまで渡すという事はどうにも情けないようにも思えた。

 

だけれど。

 

私は決めたんだ。

あの日以降、自分の勝手な思い込みで尻込みをしない。勝手に臆病になって、発言を止めたりしないように。せめて、大切な時だけは。

 

 

 

「これを。

…今日は、ありがとうございました」

 

 

 

私は、さっき買った手袋を渡す。

その大きな手を包めるものは、無骨なデザインのものしかなかったけれどサイズが合うものがあっただけ良かったと言うべきだろう。

 

 

 

「…これを、俺に?」

 

 

「ハイ。プレゼント、です。

私なりの恩返し…の、1つ」

 

「私、貴方に色々な事を教えて貰ってます。なのに、何も返す事が出来てません。これで全てになるとは思ってませんが、それでも」

 

 

「ありがとう…!すげえ嬉しい!

いや、ほんとありがとな!最近手先が冷たくって困ってたんだ!」

 

 

 

そう、子供みたいに無邪気に笑う様子は、いつも見る彼の笑い姿。なのにそれは、初めて見た人の顔みたい新鮮に見えて、胸がどくりと高く打つのをかんじた。

 

 

「喜んでもらえたなら、何よりです。

こちらこそ、ありがとう。シュウ先生」

 

 

 

そう、笑いかける。

いつも、愛想笑いすらも下手な私だが、この時だけは上手に笑えていたと思う。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

秋の日は、鶴瓶落とし。

そんな言葉を前に習った。

 

正にそのようだ。

時間としてはそこまで遅い筈では無いのに、外の世界はすっかりと暗闇で、街灯な無ければ足元すら見えないようだった。

 

 

シュウと私が、並んで歩く。

彼は、手袋を付けてくれている。

 

行き道と違って、「手が冷たいだろうから」と手を握る事は出来ない。

だから代わりに、「さっきのように迷ってしまわないように」と、彼の手を握る。

布越しの体温が不思議と心地よかった。

 

 

 

今日、一日。

私はシュウの色々な顔を見た。

 

楽しい記憶が幾つも出来た。

そしてそれは、全て彼の表情と共にある記憶。泡のように、楽しさに彼が付随する。

彼はどのような顔をするだろうか。

彼が、どのように思っているだろうか。

 

それが、何をするにも心に残る。

そしてそれは心残りは申し訳なさなどではなく、嬉しくすらあるのだ。

 

 

これは。この気持ちはなんなのだろう。

 

 

 

「…どうした?大丈夫か、アオちゃん」

 

 

「…ハイ。…いえ…」

 

 

 

釈然としない答えが、口から出る。

何故、彼は私の不調に気付いたのだろうか。

きっと、表情や行動から気づいたのだろう。

それを考えると、嬉しいようだった。

 

何故?それは、何であるかはわからない。

ただ言葉にすることも出来ない。

言葉を知らないからということもあるだろう。しかしきっと、言葉を知っていても、これを、この胸の内を表すことはできないだろう。

 

私はこれを知らないのだから。

 

 

 

「私…私は…」

 

 

「うん?」

 

 

 

『…私は、貴方から片時も離れたくない。ずっと傍にいたい。その温もりを感じていたい。貴方が居ない事は耐えられない。貴方にずっと抱き止められていたい、貴方に私だけを見ていてほしい。そうは出来ないのはわかっています。それでも』

 

『それでも私は貴方にだけ見つめていてほしい。貴方の顔をみていたい。変わる表情を、かける言葉を、全てを私にだけ向けてほしい。貴方の全てを私にだけ差し出してほしい。代わりに私の全てを差し出しても構いません』

 

 

「……どうでしょう」

 

 

 

「…?ご、ごめん。

もう一回言って貰えないか?」

 

 

 

申し訳なさそうに顔を歪めながら、シュウが私に聞き直す。

 

早口に、英語で言われれば彼が聞き取れない事はわかっていた。私はそれを利用したのだから。それを利用して、判られないままに、気持ちを口にした。自分でも理解できない、噛み砕けない感情を、ただ思いついたままに。

 

彼に聞かれてしまったら怖いから。

まだ勇気を出し切ることが出来ないから。

我ながら、汚い。ずるい事だ。

 

 

この想いを聞かれたら、きっと何かが壊れてしまう。いつか私は、それすら壊れてもいいのだと思ってしまうのだろう。でも今は。まだこの気持ちに名前をつけられてない今は、少なくともそうではない。

 

だから、こんな汚い真似をした。

だから、こんな騙すような真似を。

 

 

 

「…長々と言ったのは、感謝の言葉です。

要約、しましょう」

 

 

「ありがとうございます、シュウ。

私は貴方が『ダイスキ』ですよ」

 

 

 

ぐいと、繋いだ手をたぐり寄せるようにして、その大きな腕を、抱擁するように掴む。

 

 

しないようにと、スズに言われていた。

けれど、バレなければいいかな、と。

 

 

耳まで赤くなった彼の表情は、また随分と新鮮に、可愛らしく見えた。

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

大きな腕に、しがみつく気持ちが何であるのか。彼女にはまだそれが何かはわからない。

 

それは親兄弟に向けた親愛に近いものかもしれない。もしくは、愛玩動物に向けるような所有欲であるのかもしれない。

まだ、そう考えている。

 

 

彼女には、まだわからない。

 

これが本当に愛であるのかも。

それが、色欲なのかどうかも。

 

 

彼女は、カケラもそれを抱く事が無かった。

精神が、ずっと幼い。区分が出来ていない。

 

愛している事には間違いはない。

好きである事にも、間違いはない。

そしてそれが、どうあるべきなのか。

それだけがまだ、わかっていない。

 

 

 

「へ…くちっ…」

 

 

「っと、寒いか。

日が落ちるとどうしてもな」

 

 

「…いえ、大丈──」

 

 

「大丈夫かもしれないけど、これを羽織ってくれ。

俺を安心させると思って」

 

 

 

集青年が、掴まれていた腕をゆっくりと離させる。そしてくしゃみをした少女に、着ていたコートを被せた。ぶかぶかで、男物には似合わない背格好ではあるが、だからこそその姿は微笑ましくあった。

 

 

 

「ちょっと動きにくいかもしれないけど…

そこそこあったかくはあるだろ?」

 

 

「……ええ、あったかいです」

 

 

 

アオがにこりと微笑み、そしてまた腕に絡みつくように腕を組む。彼女の豊満な身体に青年は必死にその邪念を払おうとしているが、少女はその顔をすら愛おしげに眺めるのみ。いつもの無表情が、ただ嘘のように。

 

 

他人が見れば、いっそすぐに気づくような顔。多幸感に満ちたその顔は、ある一種の特別な愛が無ければする筈が無い顔だと。

 

色欲。その大罪を抱いていなければ。愛していなければ、そのような顔をする筈がない。

 

それでも本人が気付くまではその感情は、名も無い感情の、大きな奔流。あくまでただの、無名のままであるのだ。

 

 

 

ただそれに気付く事は、きっとすぐ。

それは、目の前にある幸せの青い鳥に気付く事よりも余程簡単に、冷徹に。何がきっかけというわけでもない。今すぐにそうなってもおかしくない。それ程に、危うい均衡の元になりたっている状態だ。

 

 

 

感情の奔流は、いつでもその愛に姿を変える。

そしてそうなれば。

彼女は、すぐに罪を背負う事だろう。

 

そしてその罪を、受け入れる。

他ならぬ少女自身の幸福の為に。

 

 

そして、彼をも幸せにする為に。人形じみた自分を救ってくれた彼を真に救う。貴方が私に愛させ世界を輝かせてくれたように、私は貴方に愛されよう。私が好きなように、貴方自身に貴方を好きにならせて。

 

 

 

(私なら、貴方を幸せにして見せます)

 

 

彼女の本当の罪は、その無表情に隠れた確かな傲慢であるかもしれない。

 

 




それは人形の幸福。


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雪兎に君は笑う:前編






 

 

 

その日はそこまで劇的に寒いというほどではなかった。

ただしかし、天気も悪く、底冷えするような寒さであることも間違いはなかった。

 

 

 

「にーちゃん、次はこれやろ!」

 

 

「はいはい、ちょっと待ってな…

…ん?」

 

 

 

だから、その日に、はらはらと雪が降り始めた瞬間には、驚きだったりと言うよりはなるほどな、という一種の納得があった。

 

 

「おお…もうそんな季節かあ」

 

 

「そういえば寒かったもんねー」

 

 

「『そういえば』で流せるような寒さだったかな…ってか、もう1年か」

 

 

 

ちょうど、孤児院の手伝いに来ている時に雪が降って来た。いつものように面倒を見たり、掃除や備品整理を終え、懐いてくれている子と遊んでいた。

 

彼女の名前はユキ。まだほんの小さな子だ。

 

ユキと、雪。名前の偶然ではあるが、少しだけ考えてしまう。

 

 

 

「…ちょうど降って来たって感じだな」

 

 

 

ふとそう呟く。

それが聞こえてしまったのか、ユキがこちらを覗き込んできた。バツが悪くなる。

 

 

 

「いや、ごめん。そういうこと言われるの、嫌いなんだったっけ」

 

 

「ううん。今はへいき」

 

 

「…そっか」

 

 

達観したように、空を眺めながらそう言う彼女にふと気を取られる。

 

 

 

「兄さーん!降って来てしまったことですし、そろそろ帰りましょう!」

 

 

 

呆けた俺を正気に戻したのは、そんな、聴き慣れた声だった。

 

 

「ああ、わかった!

…それじゃな。また」

 

 

「うん。またね」

 

 

いつもの元気な姿と少し違う、疲れたようなぼーっとしたような様子を少し心配になりながら、荷物を取りに戻る。

実際、そろそろ帰るべき時間である事は確かなのだ。これ以上は相手方にも迷惑がかかる。

 

 

「風邪、ひかないようにな」

 

 

「うん!」

 

 

そう最後に言うと、嬉しそうにぱあっと笑ってくれた。それがあっただけ、まだ良いだろう。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「ずいぶんとまた、降って来ましたね…」

 

 

 

辟易したように、鈴が言う。彼女は念のためにと折り畳み傘を持って来ていたが、当然二人が入り切るようなサイズではない。

 

兄さんが使ってください、いや鈴が使えという押し問答の果て、鈴が少し申し訳なさそうな顔で傘を使う事となった。

 

 

 

「な、すっげえ雪だ。こんな事ならもう少し厚手の服着てきてもよかったな」

 

 

「…そうですね」

 

 

「あ、ひょっとして鈴寒いか?それなら」

 

 

「大丈夫、大丈夫です!ただでさえ雪を浴びてるんですから上着を脱ごうとしないでください!馬鹿なんですか!」

 

 

「はは、冗談だって。

さすがに俺だって寒いし」

 

 

「どうだか、もう…」

 

 

 

すっかりと暗くなった道行きを、街灯の光を頼りに歩く。ざふ、ざふと、積もりかけている雪を踏みしだく音が静寂に響く。

 

手袋は互いに無い。だから代わりに、傘を持っていない方の腕を繋ぐ。片方の手は冷たいままだが、片方は少しだけ暖かい。

 

 

 

「せめてもの、ですが。玄関に着いたら払ってあげますから、それまでは少しでも身体を冷やさないようにしていてくださいね」

 

 

「はは、そんなことしなくっても大丈夫だって。心配性だな」

 

 

「見ていないと…いえ、目を付けていてもすぐにでも無茶をしますからね。それは心配性にもなりますよ」

 

 

「ごめんて…」

 

 

 

大袈裟に落ち込む姿を見て、鈴が少し笑う。その笑顔を見て、俺も少し笑った。握られた手が少しだけ強張ったように感じた。

 

 

そうこうしている内に、家に着く。

玄関で、まるでボディチェックのように雪を払う姿に、苦笑した。

彼女なりの、傘を独占してしまった罪滅ぼしのつもりなのだろう。気にしなくていいのに。

 

 

 

「お母さんは…居ませんね。

御飯は私が作るので兄さんは先にシャワーでも浴びて身体を温めてください」

 

 

「いや、冷えてるのは鈴も同じだろ。俺も作るの手伝うよ。まだ洗い物とかもやってなかった筈だし」

 

 

「……はあ、そう言い出したらテコでも動きませんからね。それではお願いします」

 

 

困ったように額に手を置きながら言う姿は、大分苦労に慣れてしまっているような気がした。

 

 

「誰のせいですか、誰のー」

 

 

そのまま聞くと、じとっとした目で思い切り指を指される。そこまで危険な真似はしてないし、最近はちゃんと断るようにもしてると弁解するが、その目は変わらない。

 

 

えい、と皺が寄っている額を指でほぐすと、変な顔になる。それに憤慨する鈴。

 

 

 

「…まったく、仕方ないですね」

 

 

ふと、彼女がそう言う。

何に対してかは聞けなかったが、彼女の微笑んでいる顔を見ると、怒っている訳ではなさそうだった。

 

 

 

それからは特筆するような事は無い。いつものように、晩飯を二人で食べる。そして少しだけ二人で駄弁り、それぞれの部屋に戻り、寝る。

 

 

自室の窓から外を見ると、白色が世界を埋め尽くしていた。少し前にもざあざあ降りの日が有ったが、その日と違うのは、あの時にあった音が今や無く、怖いほど静かな事。

 

今日はよく眠れそうだ。

そして、明日は相当に積もっているだろう。

 

わくわくするような、げんなりとするような。

その半々の気持ちで床についた。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「おお……」

 

 

思わず声が出てしまうような白い風景。

夜中しんしんと降り続けた雪は朝には止み、太陽に当てられ、眩ゆいばかりの明るさを朝日に照らしている。

 

だいぶ早くに家を出たこともあり、周りに歩いている生徒はいつもよりだいぶ少ない。雪が音を吸っているということもあるだろうが、いや、それも踏まえて。随分と静かなようだった。

 

 

そうして、少し気持ちがいいようにゆっくりと歩いていると、前方に少しだけ見覚えのあるような姿が見えた。座り込んでいる人の影。

 

それは小さな体躯に、少し大きめのおさげ。少し癖っ毛な、ぴょんと跳ねた髪が遠くから見た彼女を彼女だと分からせてくれる。

 

 

 

 

「おはよう、ひさめ。

朝早く何を──」

 

 

「うひゃあ!」

 

 

 

……こちらが逆にびっくりするほど、驚かせてしまった。

 

 

 

「あ、あれ?早いですね古賀さん?」

 

 

「それはまあこっちの台詞だけど…

とりあえず驚かせちゃったみたいでごめん」

 

 

「あ、いえいえ、そんな。

勝手に僕が驚いちゃっただけなので…」

 

 

胸に手を置き、顔を赤らめ深い呼吸をしてる姿はとても動揺しているようで、なんだか申し訳ない気持ちになってくる。

 

 

 

「いやあ…昨日、つい早く眠り過ぎて早く起きてしまって。せっかくだから早く出てみたら、つい…」

 

 

『つい』。その言葉が気になり、先ほどまで彼女が座っていた方を見る。

 

するとそこには小さな雪だるまが二つほど置いてあった。片方は、もう片方よりも少しだけ大きい。

 

 

 

「なるほど。つい作りたくなるよな。

こうも積もってると」

 

 

「そうなんですよ!こんなに積もったのほんと子供ぶりくらいで…!」

 

 

きらきらと、目を輝かす姿に微笑ましくなり、つい笑う。それを受けて、ひさめがはっと、恥ずかしそうに咳払いをした。

 

改めて彼女を見ると、全体的に丸くなっている。それは無論、急に太ったとかではなく、中に、外に着込んだ結果の事だ。冬毛になった動物を彷彿とさせるような姿である。

 

 

 

「し、失礼しました…ええと、古賀さんは?いつもより少し早くないですか?」

 

 

「ああ、よく知ってるな。そうなんだけどさ。先に学校行って、凍結対策の塩ナト撒く手伝いとかなんかさせてもらおうと思って」

 

 

「誰かに頼まれたわけでもないのにですか!?」

 

 

「?ああ」

 

 

「当然のように返されても…」

 

 

 

呆れたような顔をされてしまう。まあこれくらいは慣れたものだ。何より、自己満足の為にやってる事だし、やる事は変わらない。

 

 

 

「……しかし、なんで2つなんだ?」

 

 

「え」

 

 

「雪だるま。1つでは無いし、親子なら3つだろ。でも2つってことは意味があるのか」

 

 

「い……いや、別に……

いやほんと別にそういったことはぜんぜん…」

 

 

 

顔を俯けて、どんどんと小さくなっていく声。…軽い気持ちで聞いただけだが、あまり聞かれたく無い事だったのだろうか?

 

 

 

「…なあ、俺も一個作っていいか?」

 

 

「!はい、勿論!

えへへ、見ていると作りたくなりますよね」

 

 

「そうだな。そこまで凝ったりはしないけど、やりたくなっちまった…!」

 

 

 

そう語りかけながらぎゅっと雪を握って行く。手袋越しにひんやりと冷気が伝わってくるが、構いなしにぐいぐいと握る。

 

そうして出来たものは、ひさめが作ったものより大分大きいものになってしまった。それは手の大きさ的な事もあるし、妙に張り切ってしまったからというのもあるかもしれない。

 

だが、まあ、我ながら出来は悪くない。結構綺麗に出来たんじゃないか。満足しながら、二つ並んだその横に完成品を置く。

 

 

 

「な、何故横に…?」

 

 

「?他意があったわけじゃないけど…

ごめん、置かないで欲しかった?」

 

 

「い、いえいえ!そんな!

むしろ嬉し…いやそういうのじゃなくて!」

 

 

 

なんだかよくわからないが、楽しそうだ。楽しそうにテンパってる彼女の姿は見ていてなんだかほっこりとしてくる。

 

 

 

「…あ、そういえば時間は大丈夫ですか?

そこまで経ってはいませんが」

 

 

「ん。ああ…そろそろ行こうかな。

ひさめも一緒に行く?」

 

 

「はい!是非とも一緒に行かせてください」

 

 

 

ゆっくり、歩き始める。手袋を少し外して、はあと息を吹き掛けた。少し濡れた手袋は、付けてると少し冷たくなってしまう。

 

 

「えっと…手、冷えてしまいました?」

 

 

「まあ当然だな。

ひさめも冷えたんじゃないか?」

 

 

「僕はまあ基本冷え性なので慣れてるというか…あと…あ、そうだ」

 

 

 

と、懐から携帯ほっかいろを取り出す。

そして、冷えた俺の手にぽんと置いた。

 

 

 

「これ、あげます!多分2限くらいまでは保つでしょうから使ってあげてください」

 

 

「ああ、いや…嬉しいけど、いいのか?」

 

 

「いいんです。古賀さんはたまには誰かの好意をちゃんと受け止める事に慣れるべきです」

 

「…あはは、なんて偉そうに言っちゃいました」

 

 

 

そう言うと、照れ臭そうに頭を掻く。ただその言われた事は確かにそうあるべきだと思った。

 

 

 

「ありがとう、ひさめ」

 

 

「!は、はい。

お役に立てたなら嬉しいです!」

 

 

 

互いに笑い合う。

静寂の中に、それは思ったより大きく響いて、二人とも少し恥ずかしくなってしまった。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

手伝いが終わり、教室に。

予鈴ギリギリである為、当然教室はがやがやと賑わっている。

 

 

 

「お早うございます、シュウ」

 

 

 

席に着くや否や、そんな声が聞こえる。

横からは透き通るような声と、空のような目の色をした彼女が話しかけてきた。

 

 

「ああ、アオ。おはよう」

 

 

「何かして来たのですか?

少し疲れてるみたいですが」

 

 

「ん、用務員さんの手伝いを少しだけ。

でも全然大した事はしてないよ」

 

 

「……」

 

 

 

そう言うと、アオは覗き込むようにこちらの顔を見てくる。その表情はいつも通りに無表情…だがいつもよりもムッとしてるように感じる。

 

 

 

「あまり無理をされたら、怖いです」

 

 

「無理はしないさ!

倒れたら、周りにも迷惑かけちまうし」

 

 

『…自分の身を鑑みはしないのですね』

 

 

 

急な英語に少し戸惑うが、一応聞き取ることは出来た。心配、ともまた違う悲しみを抱いた顔を見て、どこかこちらも胸が締め付けられるようになる。

 

 

「大丈夫。俺だって、自分の身は可愛いよ。

…だからそうだな、ゆびきりしよう」

 

 

「?ゆびきり?」 

 

 

「ああ、こうやって小指を繋いで…」

 

 

 

ひさめに貰ったほっかいろで温めているが、しかしまだ冷えている手に、アオの体温は熱いようにも感じた。

 

 

「ゆびきりげんまん、俺は危ない真似はしないし、無理もしない。嘘ついたら針千本飲ます…って」

 

 

「針を千本飲ますのですか?それとも、ハリセンボンを丸呑みするのですか?」

 

 

「あ、つっこむ所そこなのか」

 

 

 

予想外の言及につい吹き出しかける。

もっと他の所を気にしてもいいだろうに。

 

 

 

「約束を、しました。

私、シュウを信じてますから」

 

 

アオがそう言って微笑む。

頬が少し上がる程度の、微かな変化ではあったが、それでも雰囲気が和らぎ、とても可愛らしい変化だったと思う。 

 

 

「そっか。

なら尚更破らないようにしなきゃな」

 

 

こら、そこイチャつかない。

そうしていると、教師にそう言われてしまう。

 

誤解だ、誤解!

アオにも失礼だろう!

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

気が重くなるようだった。

それはこれから言わねばならない事そのものもだが、その内容も、申し訳ない事だから。

 

と、目撃情報の通りに彼女がそこにいる。

すらりとした身体、長い足に、後ろ纏め。

 

 

 

「…よお、シド。今少しいいか?」

 

 

「おや、どうしたんだい?

今は忙しいわけでもないけど」

 

 

 

そんな生徒会長が、珍しく一人で歩いている所をなんとか捕まえて話しかける。

取り巻く生徒が居ないがしかし、周りに人がいる為か、彼女の顔にはのっぺりとした作り笑いが張り付いている。

 

俺はどうにもこの状態のシドが苦手だ。

なまじ、本性の方を知ってしまった故に、この時が何を考えているか分からなくて怖いのだ。

 

 

 

「何か用事かな?

珍しいね、古賀くんが話しかけてくるの」

 

 

「ああ、用事…って訳じゃないんだけど」

 

 

「成る程、何か話しておかないといけない事があるんだね。言ってごらん」

 

 

 

にこりと微笑みかけられる。

きっと、いつもの姿を知らなければ素直にどきりと出来たのだろうが、今となってはその顔は掴み所がなく、恐ろしいものに見えてしまう。

 

 

 

「いや…すまん。

今日生徒会の手伝い、行けなくなっちまった」

 

 

「……おや」

 

 

「ほんとごめん!先約はそっちなのに、急に予定入れちゃって…」

 

 

「その用事は」

 

 

「え?」

 

 

「なんの用事だ」

 

 

 

笑顔が急に、下手になったように見える。

それともこれは俺の気のせいだろうか?わからない、わからないが怒ってる事は分かる。

 

 

 

「…用務員さんに雪下ろしを頼まれてさ。どうしても重労働だから人手が欲しいって」

 

 

 

「……そうか」

 

「……うん、なら、いいよ」

 

 

 

向き直った時には、またその顔にいつものごとくの作り笑いが浮かんでいた。

 

 

「…いいのか?てっきりこっちに来るように言うかと思ってたけど」

 

 

「ハハ、まさか。

そんな横暴をボクが言う筈ないじゃないか」

 

 

 

嘘をつけ。いつもしてるだろうお前。

その非難の目つきを気付いてか気づかずか、一層笑みを深くする。

 

そして、言う。

 

 

 

「それに、わがままを言ってキミに嫌われてしまっては困るしね?」

 

 

 

どきり、とした。

固まっている俺をどう思ったかはわからないが、それじゃあねと笑いかけて、彼女はそのまま歩き去っていってしまった。

 

 

 

(……はあ、緊張した)

 

 

やはり、どうもあの状態の、猫を被った状態の彼女は掴み所がない。

 

というのも、明らかにウソである時は大抵、不自然で、その笑顔や、隠した何かを俺なんかでも見破れたりするものだが。

 

時たま、今のように本音を言ってるようにしか見えないような顔をするのだ。

それが彼女の、分からなさを助長している。

 

 

 

「まあ、何にせよ許可は取れたみたいでよかったな…」

 

 

不覚にも少し高鳴ってしまった胸を、そうひとりごちる事で落ち着ける。

それに、随分と時間がかかってしまった。

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

「ふーっ…」

 

 

鐘が鳴る音が聞こえてくる。

この頃にはもう、雪下ろしは大体終えていた。

勿論、頼まれた所はというだけだ。それくらい、キリがないように感じる。

 

いっそすぐに溶けてくれればいいのだが、普通に寒いせいでそうはならない。いちいち下ろさねば、まあ最低でも1週間程度はこのまま残るだろう。

 

 

よっこらせと雪を払った地べたに座り込む。

すっかり身体も冷えたし、何より疲れてしまった。案外こういった全身運動は辛いものだ。

 

 

(みんな、どうしてるかな)

 

 

シドとひさめは仕事をちゃんとやれているだろうか。元々俺が居なくても大丈夫だったし、それに戻ってるだけかもしれない。

 

アオは今頃誰かと帰っているだろうか。部活とかには彼女は入らないのだろうか?

そういえば鈴と一緒に回るみたいな事を言っていたような。鈴はちゃんと出来るだろうか、と考えるのは失礼か。

 

ユキちゃんは元気だろうか。あの日、風邪引いてしまっていないといいが。

 

 

 

(…っと、ぼーっとしてないで帰ろう)

 

 

 

立ち上がりながら伸びをする。

せっかくなら暖かい飲み物でも買っていこうかと、少しだけ歩き始める。

 

 

 

 

その、時だった。

 

 

ざく。か、がら。か。

そんな感じの、もしくはそれらを混ぜて割ったような音が、上から聞こえた気がした。

 

 

 

瞬間、頭に激痛が走った。

 

視界が反転するような感覚、脳が丸ごと揺れるような感覚。

五感が遠くなって行く感覚。世界が遠ざかる。痛みだけはその中でも鮮烈だ。

 

 

 

(殴られッ…?…いや、違う…)

 

 

 

視界の端に、赤が付着した雪が見えた気がした。いや、それは雪というよりも氷に近い。

 

 

 

 

(…落雪…)

 

 

 

どこから落ちて来たものだろう。

あれが当たればそりゃ痛いよなあ。

そんな事すら考えられなくなり。

 

 

 

 

世界が、ブラックアウトした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後編に続く



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雪兎に君が泣く:後編






 

 

夢を見ていた。

頭から降り掛かる災害。

雪。違う。熱い、熱い何か。

肌を破壊する温度の液体。

 

 

子供の頃の記憶が遡る。

この顔が焼ける瞬間を思い出す。

大事な存在を、自分よりも大切な存在を、家族を殴り飛ばしてまで、なんとかしようとして。

瞬間に意識を失えたらよかったのに、少しだけ痛みを感じる猶予はあってしまった。

 

 

俺はあの時一度、死んだのかもしれない。

怪我だとか、古傷だとかというわけではない。肉体がどうというわけではない。

 

ただ、親切から、何かを助ける俺はもうあの時が最後であったような気がする。

その痛みで、一瞬。その行動を少しでも後悔してしまった瞬間から。

 

今だって、親切からであるのは確かな筈。

だけど、またたしかにあるのは強迫観念。

誰かを助け続けねばならない、あの時の行動を嘘にしてしまってはならない。そんな思い。

 

後悔なんて嘘だと。あの瞬間に思ったのは嘘だと証明し続ける為に、誰かを、何かを。

 

 

ああ。つくづく俺は……

 

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

ハッと、目を覚ます。

 

見慣れない天井と消毒の匂い、そしてガンガンと痛む頭、顎、腕が、正気を取り戻した事を後悔させる。

身体の色々なところが、遅れてまた痛む。ぼーっと頭に血が回らないような、薄い膜がかかったような気がする。

 

 

そうして居るうちに、横たわっている臍の辺りにかかる、やわらかな重みにようやく気付く。

出来るだけ身体を動かさないように目を動かしてみる。そこには疲れが見える顔で寄りかかり、仮眠するアオの姿があった。

 

 

起きた身じろぎで、そんな彼女を起こしてしまったらしい。パチリと目を覚ましたかと思うと、そのまま驚きと喜びが混じったような顔をしてから、自分の開いた口を抑えた。

相変わらず表情は控えめだったが、しかしいつもより余程、表情に出ているようでもあった。

 

 

それに声をかけようと口を開けようとした途端に、また激痛が走る。

顎が痛い。しゃべれたもんじゃない。

咄嗟に、蹲るような前屈みになってしまう。

 

 

その様子を見たアオがおろおろと立ち上がり、そして大急ぎで部屋の外に出て行く。

 

部屋。部屋か。見覚えの無い白い部屋…

ここは病室か。保健室じゃないって事は、かなり深い傷だったみたいだ、あれは。

 

そうだ。

だんだん思い出して来た。

俺は、あの落雪で頭が割れた。それ以降の記憶は無いが、このギブスが巻かれた腕を見るに、怪我はそれだけじゃないらしい。

 

 

そんな事を、ぼーっとした頭でなんとか情報整理のように思っていると、病室にアオが息を切らしながら戻ってくる。後ろには、看護師らしい男の人を伴っていた。

 

 

果たしてその人は看護師であり、つらつらと現況説明と、その他色々な事を話してくれた。

 

まず曰く。軽い打撲や擦過傷などの細やかなものを除き、大まかな怪我としては頭部の3針ほど縫った傷、そして意識を失い転倒した際の右腕の骨のひびと顎部のひびらしい。

 

完全に折れるよりは当然治りやすくはあるものの、どうしてもそれぞれギブスを取るほどの治癒には3週間から1ヶ月程度はかかるらしい。

 

そして、次にアオに感謝するように言われた。

彼女による早期発見、通報、そして応急処置のおかげで後遺症やなんやらは残らないのだから、よく感謝を言うようにした方がいい、と。

 

あとついでに、つきっきりで離れようともしなかったのだと。その点についても、ちゃんとお礼を言うようにと。

彼女の憔悴した様子を見ると、俺はかなりの時間、意識を失っていたのだろう。そしてその時間ずっと、見ていてくれたのだ。その時間がどれほど心に負担がかかるものだったろうか。

 

 

最後に、最低限のコミュニケーションを取れるようにとホワイトボードとペンを渡して、看護師は去っていった。

 

 

 

「……」

 

 

どちらも喋らず、気まずい沈黙が流れる。

いつもなら他愛のない会話でもしようと思うのだが、まず口を開けれず、そして何よりそんな空気ではなかった。

 

 

[ありがとう]

 

 

なので、まずは伝えるべき事をホワイトボードに書く。相当、彼女に助けてもらったから。

 

 

それを見て、アオは力なく首を横に振る。

ただ、それきりで会話は終わってしまう。

こっちは話していないから、会話と云うのもおかしいかもしれないが。

 

 

 

「……約束、破ってしまいましたね…」

 

 

 

ぽつり、と。

俯いたまま彼女がそう言った。

 

約束。

指切りをしたのを覚えてる。危ない真似はしない、無理もしない。破ったら針千本飲ます、と。自分の姿をチラリと見る。これじゃあ、間違ってもそれを守れたとは言えないだろう。

 

こくりと、軽く頷いて肯定する。例え話せたとしても、返す言葉もなかっただろう。

 

 

 

「分かっています、これは不可抗力であり、事故です。だから仕方がない、のですが…」

 

 

「私、初めてです。

約束が破られて、こんなに辛い事。

そして、なにより…」

 

 

ぎゅ、と、服の裾を掴まれる。

その指は、肩は少しだけ震えていた。

 

 

 

「こんなに、怖かった事…こんなに…」

 

 

 

顔は、俯いてあり見えない。だがしかし、その声音と内容は、それを想像するに難くないようなものだった。

 

そうだ。彼女が助けてくれたということ。それは、彼女が一番、最悪な光景を見たということだ。

つまりは、雪かきの手伝いをしていると聞き、向かったその先で血みどろになりながら倒れ、あらぬ方向に倒れている俺の姿。

 

 

どれほど、怖いものだっただろう。

どれほど不安な思いをさせてしまっただろう。

ましてや、懐いている人物ならば尚更。

このまま死んで、戻ってこないのではと。

 

 

 

「……本当は、約束を破った事なんて良いのです。どのような事であれと、破る事なんて、少なくともある筈です」

 

 

「だけど、私は、アオは……」

 

 

 

そこで一度、息を呑むように言葉を失くした。そしてまたすうと息を吸い、言う。

 

 

 

「…もう、このような事をしないでください。

約束を破った事は、どうでもいい。

危険が及ぶような事。そして、貴方が、血を、血を流すような…」

 

 

 

語末が消えるように、言葉が失われていく。

頬に、つうと一雫が伝っていった。それは一雫だけではあったが、だからこそ、俺はそれに酷く心を乱された。

 

ずきりと、傷んだのは傷ではない。

 

 

 

 

[ごめん]

 

 

意味も無く、ホワイトボードにペンを走らせる。こんな謝罪がなんの意味もない事はわかっている。それでも、尚。

 

 

 

「…質問の答えになってません…!」

 

 

 

絞り出すように出される声。わかっている。それも、わかってる。でも、危険な目にもう合わない、と、無責任に言うこともまたできない。

 

そう云った旨の事を書きはしなかった。

ただ、頭を下げた。

 

 

 

「よく、わかりました」

 

「貴方が、貴方自身を大切にはしないことも、それを治そうとしてもそれが難しい事も」

 

 

 

俯いていた彼女が顔をあげる。

その顔は、いつものように無表情だった。

 

 

 

「…だからせめて、私が悲しまないようにと、シュウが自分から自分を傷つけない道を選ぶように。そうなるようにしようと思います」

 

 

 

口元を、少しだけ上げてにこりと微笑む。その顔は、そんなにはっきりと笑っているのに、どちらかと言うと泣いているようだった。

 

今でも、彼女を傷つけないようにはしているつもりではいる。

ただもう、それでは足りないのだろう。

 

 

 

「では、私はそろそろ失礼します。

両親も心配してしまいますから」

 

 

すっと、名残惜しげに荷物を持ち上げるアオ。

それを見て、こくりと頷く。

 

 

 

『傷つく事は怖いけれど、でも、それを無理に治せとは言わないわ』

 

『…私は、シュウのそういうところが好きになったのだから』

 

 

 

去り際に、静かにそう呟いた声が聞こえた。

いつのことを言っているのだろう。

学園祭でぶつかった時か?

いや、違う。もっと、もっと前に何かあったような…あれは、なんだったか?

 

 

ズキ、と頭に痛みが走る。思考が途切れ、再び顔をあげる時には既に彼女は去っていた。

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

片腕しかロクに動かせない為、出来ることも少ない。仕方がないので携帯電話を用い、友人や知人に現況報告、兼、暇潰しをしていた。

 

それをし始め、少ししたくらいの事だった。廊下から、ばたばたと騒がしい音が聞こえてきた。

実際騒がしいと言っても、そこまでの音では無かったが、携帯のフリック音すらうるさく聞こえるほど静かなこの部屋には、その音すらいやに響くようだった。

 

 

その足音は、どんどんと近づいて来た。そして扉の前に来て。そして足音は扉を開けた。

 

 

 

「兄さんッ!」

 

 

 

聞き覚えのある声が、聞き覚えの無いほど、焦った声で出力されていた。

扉を開けたのは、鈴だった。

 

 

 

「はっ、血を流して倒れて、病院に送られたって話を聞いて、急いで、来て…!」

 

 

額に汗を垂らしながら、息を切らして膝に手をつく彼女は、よほど急いでこっちにきたのだという事を否応なしに察せさせた。

 

 

 

「怪我は大丈夫なんですか!?骨が折れてるんですか?脳波に異常は?いや、まず、どうしてこんな事になってしまったんですか!?」

 

 

捲し立てるように、震えた声でそう幾つも問いかけてくる。その顔は青ざめて、頬が釣り上げられているように見えるほどひどい顔をしていた。

 

なんとか安心させようと、命に別状だとか脳波だとか、大袈裟な事は何一つないと言う事をボードで伝える。あとついでに、顎の傷のせいでしゃべる事は難しそうだと言うことを。

 

 

 

「……そう、ですか。よかった…」

 

 

それを読むと、放心状態のように、力が抜けたように座り込んでしまう。

…よほど心配させてしまったらしい。

本当に申し訳ない限りだ。

 

 

 

「……すみません。本当は、看護師の人やアオさんにも話を聞いてきてはいたんです。

ただ、病院に運ばれたと聞いたら、もう頭に入らなくなってしまって…」

 

 

鈴らしくもないと、思った。

だが気持ちは痛いほどわかる。俺も急に鈴が入院したと言われたら、それ以上の事は何も頭に入ってこず、聞き流してしまうだろう。

 

 

 

「はあ。なんにせよ、思ったよりは元気そうでよかったです。…ギブスや包帯は、痛々しいですけど…」

 

 

すくりと立ち上がると、そっと手を伸ばして腕や頭の包帯を触る…直前に、手を引っ込める。

触ったら痛むかもという、気遣いだろろう。

 

 

 

「……ええと、そうだ。当然ですが、家の食事当番は私が代わりますから安心してください」

 

「あと、その…学校の方や母さん達にも伝えておくのでそれも安心してもらって…」

 

 

 

すらすらと、さっきの動揺の様子とはうって変わって、連絡をしていく鈴。

だがその声は途中でピタリと止まる。

 

何かあったのかと思い、不安になり顔を覗きこんだ。瞬間、鈴が頭を抱え込んだ。

 

 

 

「違う、違う違う!

私は、私が言いたいのは…!」

 

 

そう言ったと思うと、ばっと顔をあげる。

そして、俺に飛びかかるような勢いでその身を乗り出してきた。

 

 

 

「……誰かを助けるのも、無茶をするのも兄さんの事だから仕方がないことだとはわかってる!私が諫めても、貴方がやめない事も!」

 

 

「それは、もういい。

もう、それでいいとも思ってるんです」

 

 

「…でも、怪我だけはしないでください…

お願いだから…お願いですからぁ……!」

 

 

 

そう言うと、ぼろぼろと涙を流して、わっと泣き出してしまった。シーツにしがみつきながら泣き続ける様子は、急に小さい頃に戻ってしまったようだった。

 

いつも、鈴が泣いてしまった時は頭を撫でて慰めたものだった。

だから手が、咄嗟に伸びかけた。

けど、途中でピタリと止めた。

 

俺のせいで、俺が心配をかけて、鈴を泣かせてしまったのだ。それを俺が慰める資格などあるのだろうか。

 

彼女は、いつも努力をして、完璧であろうとしていた。その努力を見ていた。

それが、堰が爆発してしまうような勢いのこの号泣は俺のせいなのだ。

 

 

 

「うっ…うう、あああ……!」

 

 

 

俺を案じ、泣きじゃくる鈴を、俺はただ何も出来ずに項垂れて見つめることしか出来なかった。ただ、張り裂けそうになりながら。そして、そんな気持ちになる資格すらないと思いながら。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

鈴は、暫くして泣き終えると、俺の着替えなど日用品を持って、また来ると場を開けた。

泣き腫らした目が未だに脳裏に残っている。

 

 

横になり、目を瞑っていた。

涙。涙。

俺が傷つくだけなら、良かった。なのに、皆を泣かせてしまう事は、なによりも辛い。

 

俺は、そんな事も考えてなかったのか。

俺は俺だけで生きている訳じゃ無い。それくらいわかっていた事だったろうに。

 

 

血の足りない頭がぐるぐると同じことを考えさせる。瞼の裏の暗闇が自責の為に作られた独房のように感じられた。

 

 

 

 

「おや、お休み中だったか?でも起きてくれよ。寝るくらいならいつでも出来るだろ」

 

 

 

その独房の扉を開いたのは、それまた聞き覚えがある声だった。午前に聞いた猫を被った声とはまた違う、少し落ち着くような声。

 

 

目を開けると、まず視界に入って来たのは赤い瞳。ギョッとするほど近い距離に思わず口が少し開き、その激痛に身を捩った。

 

 

 

「いや、すまない。狸寝入りだろうがそうじゃなかろうが、眠り姫ならばキスで起こそうと思っていたのさ」

 

 

 

…こんなむくつけき姫さまが何処にいるんだ。

それに、こいつは自分が王子様だと平然と言うつもりか。

 

そんな自信過剰の様子を見せるのは、生徒会長の九条史桐。…シドは相変わらずの態度で、目の前に座っていた。

 

 

 

「話は聞いてるよ。頭と顎と腕だって?

これまた痛々しいことになったねえ。フランケン・シュタインの怪物みたいだよ」

 

 

「その状態じゃ、まずは人助けよりも周りに助けてもらうんだね。無茶しないように」

 

「顎も…フフ、ちょうどいいかも。

喋るとなるとキミはすぐにたらし込む」

 

 

 

まあ、こちらが喋れない事を良い事に散々な事を言ってくる。

特にたらし込むってなんだ。怯えさせるならよくあるが、たらし込めなんてしねえ。

 

ただ、陰鬱とした気持ちになってしまっていた俺には、彼女の「いつも通り」が心地よかったのは確かだ。

 

 

 

「…はあ、こんな事ならあの時の別用を許可するんじゃあなかったよ。

もう二度と…といいたいけど、それは良いよ。そこまで束縛が酷いと君も辟易するだろう」

 

 

ただ、はあ、とため息を吐く彼女の表情はやはり、いつもより疲れているようにも見えた。

 

 

 

「で、さ。お見舞いに少し遅れたのはちょっと調べ物をしていたのさ。それでここに来たのはその確認」

 

 

何の?そう、キョトンとしていた俺に数枚の写真が差し出される。どれどれと見ていくと、次第にぞっとする気分になっていく。

 

その写真は同一人物を写してある。それは、変哲も無い用務員の姿。

ただその人物は、そうだ。

この雪落としを俺に頼んだ用務員さんだった。

 

 

 

「…うん。その様子からすると合っているみたいだね。ありがとう、用事はそれだけさ」

 

 

 

ぞっとした。

用事を切り上げ、椅子から立ち上がり、部屋から出ようとしたその顔は、今まで見たことがないほど冷酷で、感情がないように見えた。

 

 

 

「待゛ッ…!」

 

 

 

咄嗟に声を上げ、そして手を掴んだ。

動かした顎が泣き出したくなるほどの痛みを放ち、眩暈までしてくるようだった。

 

シドはそんな俺を見て、『ああ、やっぱり』といいたげな、嬉しそうな悲しそうな、呆れたような、なんとも言えない顔をした。

 

 

 

「…馬鹿だねえ。

そんな事をしたら治りが遅くなるよ?」

 

 

「そんな無茶をしてまで助けようと思うかい。不思議だね。君は、ただ職務を押し付けられ、その末に怪我をさせられただけだ。

 

「…そして『コレ』は君に押し付けた張本人。それだけだ。庇う必要なんてただの一つもない。断罪されるべき人間だ」

 

 

 

そう言われながらも手は離さない。きっと手を離してしまえば、もう手遅れになるから。

 

その必死な俺を見てか、シドはふっと笑い、写真をびりと一枚破った。

 

 

 

「わかった、わかった。そんな情熱的に求めないでおくれよ。そこまで血眼になって止めるならボクは何もやらないさ」

 

 

 

それを聞き、ほっと手を離す。

 

 

 

「『ボクは』、何もやらないよ。ただコイツにとってよくない噂が流れて自主退職せざるを得ない事にはなるかもしれないけど」

 

 

 

……びくりと、再び腕を掴もうとする。

 

ただもうその時には手の届かない場所に移られてしまっていた。

そしてまた、さっき破った写真と全く同じものを、シドはもう一枚取り出した。

 

 

どうして。

どうして、そんな事を。

そう思った心を読んだように、シドが笑う。

 

 

 

「理由は大まかに二つかな。

1つ。職務を怠慢した挙句、事情の聴取をされても『勝手に生徒が手伝っただけ』と知らんぷりをしているこの男が単純にムカつくから」

 

 

「そして2つ。キミがこんな目に遭ったから。品性も無いようなコイツさえいなければ遭わなかったのにと思うと、つい、ね」

 

 

 

違う。これはただの事故だ。

それにその人が私刑されたのなら、それは最低な事だろう。起こってはならないだろう。

 

なんとかそれらを伝えようとボードを掴んだ途端、声が聞こえてきた。

 

 

 

「軽蔑するかな。古賀くんが傷つくくらいなら、ボクはキミ以外の全てがどうなろうと知った事じゃないんだ」

 

 

 

詩でも引用するようにそう言いながら、彼女は部屋を出て行った。

 

 

目の前が真っ暗になるようだった。

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

目を瞑っていた。ぐるぐると、同じことを繰り返して思ってしまっている。

 

俺のせいで傷付けた。

俺のせいで涙が流れた。

俺のせいで…

 

 

同じことを考える。暗闇が、ズキズキと痛みを送る。それは脳を壊すような刺激だった。

物理的な痛みだったのか、心因性だったかは、わからない。

 

 

 

ふわり。

 

頭に、柔らかい手の感覚が触れた。

ゆっくりと、優しく撫でられる。その感覚に、少しずつ痛みが和らいでいく。

 

 

 

「…ふふ。いつもとは逆ですね」

 

 

 

優しい声が、耳に届く。

目を開けた。暗闇に慣れた目は、少し眩しく思いながら眼前の少女を照らし見る。

 

 

そこには、村時雨ひさめが居た。殺風景な部屋と、彼女のそのコントラストは、まだ俺は夢の中にいるのかと思わせるようだった。

 

 

 

「あ…起きなくて大丈夫ですよ?

寝てて、楽にしててください…」

 

 

 

そう言われながら、まだ頭を撫でられる。

自覚すると、とても恥ずかしかったが、それを跳ね除けるような元気もなかった。そして何より、それを止める踏ん切りが付かない。

 

 

 

「あはは、面会時間ギリギリなので、僕もすぐ帰ってしまいますけど…うなされていたのでつい、世話を焼きたくなってしまって」

 

 

誰かのお人好しがうつっちゃったのかもしれません、とへにゃりと微笑む姿は、彼女の気弱さとその人の良さを同時に表す、不思議な魅力を持っていた。

 

 

ちく、たく、と時計の音がうるさく感じるほどの沈黙。撫でる時の衣擦れの音までがオーケストラの大音量のようだ。

 

 

 

「…その、何に、うなされてたんですか?

 

 

聞きにくそうに、それでも、ひさめが聞く。

ぐっと、それでも目を見ながら。

 

 

俺はボードを手に持ち、ただ書いた。

 

 

 

[俺が悪いんだ]

 

 

 

その字を見て、ひさめがぐっと、思いつめたように唇を噛んだ。その顔は、涙こそ流してはいなかったけれど、ずくりと胸が痛むようなものだった。

 

 

 

「もう、いいじゃないんですか?」

 

 

 

ぽつりと、彼女が言った。

 

 

 

「怪我をしてまで、誰かを助けて。そしてその上で、気に病んでしまうくらいなら、僕はもう見ていられません…」

 

 

「……身体も、心も、ぼろぼろになって。それでいて尚自分を責めてしまうくらいなら、もう何かを助けないでいいじゃないですか。自分の為だけに動くだけで、もう、それでいいじゃないですか…?」

 

 

 

 

嫌だ。それだけは、嫌だ。俺が、俺からそれを取ったら何が残るんだ。何も残らない。

それをやめることだけは、出来ない。自己満足と誹りを受けても、否定をされても。

 

…誰かを悲しませてしまっても。

それでも俺はそれを止めることは出来ない。

 

ああ。つくづく俺は、最低だ。

 

 

[出来ない]、と。

ただそれだけを書いた。

 

しかしそれを見て、ひさめは悲しむでもなく、少しだけ、笑った。

 

 

 

 

「…そう、ですよね。

あはは、やっぱり、思った通りです。

古賀さんならそう答えますよね」

 

 

 

やっぱり、思った通りです、と。

愛おしそうにそう呟いた。

そして、少しの間が空いた。

 

 

 

「でもそれなら、僕に貴方を少しでも手伝わせてください。その背負ってるものを、少しでも背負わせてください」

 

 

「頼りないことはわかっています。でも、精一杯やります。古賀さんに、助けてもらっている分を少しでも返せるくらい。だから…」

 

 

 

「……だから、自分のせいだなんて、一人で背負い込まないで。少しだけでいいですから、僕にも背負わせて欲しいです……」

 

 

 

また、静かな空間が戻ってくる。頭を撫でられる衣擦れの音と、時計の針の動く音。

 

 

面会時間の終了まで、ずっとそうしていた。

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

結局、念のためにと脳波検査など行われ1週間程入院をしていた。

 

だが、逆にその程度で病院からは出ることが出来、後は家や日常を送りながら治していくべきだと、看護師の人には言われた。あとついでに君モテモテだねとも言われた。違うって。

 

 

そう、違う。こんな身勝手な人間を好きになる人間なんている筈がない。こんな、自分のためだけに誰かを助けている、糞のような人間を。

 

 

 

(ああ、久しぶりの外だな)

 

 

ふと、迎えに来てくれる家の車を待つまでに外に出て空気を吸った。

 

そして端にある、まだ積もった雪を見ていた。

 

 

誰が作ったか、大きな雪だるまにつけられた目はぽろりと取れ、その穴ぼこが涙を流すように溶けて水を垂れていた。

 

 

 

頭が、ずきりと痛んだ。

すうと、深呼吸をする。

少しだけ痛みがマシになったようだった。

 

 

 

 

 

 



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理性を蕩かす、アイ(古賀鈴、菜種アオ)






 

 

土曜日は、基本的に学校は休みだ。例外はあれど、それが変わる日はまあかなり少ないと言ってもいいし、実際にその日は学校が無かった。

 

 

「はい、口を開けてください」

 

 

「……いや、だからそれくらいは」

 

 

「怪我人が無茶をしないように。下手に動かして治りが遅くなったらまずいんですから」

 

 

「……うっす」

 

 

 

不承不承と言ったように、軽く口を開ける目の前の怪我人。包帯は取ることが出来たものの、それでも完治とは程遠い。まだ補助具は必要だし、今無理をすれば治るものも治らない。

 

そんな状態の、兄を私は今看病している。

 

 

手に持つのは柔らかくほぐした食べ物。流動食から固形物にまでなれただけ、まだ良かった。それくらい顎の傷が厄介だった。

コミュニケーションを取ることも難しく、しばらくの彼にとっては食事は少なからずの苦痛を伴うものとなっていた。

 

だからこうして、口を開けた彼の口に匙を突っ込む行動は、理由があってのものだ。

断じて私欲の為ではない。

 

 

 

「……なあ、ありがたいが、ここまではしなくても…」

 

 

「そう言って!ちょっと目を逸らしたらまた怪我をするんでしょう!

もう懲り懲りです、そんなの!」

 

 

 

そう、指を指して言うと、しゅんと落ち込んでしまう兄。少し心が痛むようだったが、これくらいはしておいた方がいい。彼にとってはいい薬だ。彼の無茶が周りを傷つけるという事を、少しくらいはわかって欲しい。

 

 

 

「それに、利き腕もまだ動かせないでしょう。その…零されてしまっても困りますし」

 

 

止めを刺すようにそう言うと、兄さんはそのまま俯いてしまう。ずきずきと胸の痛みがひどくなるけれど、我慢だ。

 

 

 

「く…くく…」

 

 

「……ん?」

 

 

「ふ、ふふ…痛てて、ははは」

 

 

「!?」

 

 

俯いた肩がぷるぷると震えたと思った途端、くつくつと抑えた笑いが目の前から聞こえてくる。なんで笑っているんだろう。ついにおかしくなってしまったのだろうか。いやいつもおかしいといえばおかしいのだけど。

 

 

「いや、ごめん。

鈴はほんっと優しいし、嘘をつけないよな」

 

 

「嘘なんて…」

 

 

「俺に気ぃ遣わせないように、自分から悪者になろうとしてくれたんだろ?

そんな事しなくても大丈夫だよ」

 

 

「……」

 

 

 

こっちを真っ直ぐに見据えて、全く私の善性を疑おうともしない綺麗な目。

私を腹の底まで見つめるようなその目…

 

 

 

「…嘘なんてついてない。

少なくとも、さっきの発言は本音です。

いつフラフラと居なくなって取り返しがつかないことになるか、わかったものじゃないし」

 

 

「迷子か俺は」

 

 

「それよりもっとタチが悪いです」

 

 

「ひでえ」

 

 

 

ぷい、と目を逸らす。

嘘なんてついていない。少し見ていない内に、二度と逢えないほどの怪我を負ったらと思うと恐ろしい。 

 

 

ただそれを伝えるよりも、その目からは視線を外してしまった。顔に付いたガーゼの痛々しさを見ていると、過去の光景がフラッシュバックしてきてしまう。

 

そして何より、その目にじっと見つめられてしまう事が嬉しくて、そして怖かった。この心の底の思いにまで気付かれてしまうのでは無いかと思って。

 

私が、暫く聞く事ができなかった貴方の声を聞けている、ただそれだけで悦んでいる事を貴方が知ればどう思うのだろうか。

 

 

そう目を逸らした私をどう思ったか、頭の上に手が置かれる感覚。利き腕ではないその撫で込みは、いつもより少しぎこちなかった。

 

 

 

「…それ、クセになってるからやめるんじゃないんですか?」

 

 

「あー、本当はやめた方がと思ってるんだけどな…でも二人の時くらいいいだろ?」

 

 

「…私にだけなら、いいと思います。

まあどうせ色んな子にやってるんでしょうが」

 

 

「うっ」

 

 

「だから、良くないと兄さんも思ったんでしょう?…みだりに女の子の髪に触れるような事は

無遠慮だと」

 

 

 

と、頭から手が離れて行きそうな感覚。その手をそっと片手で押し留める。その暖かさを逃してしまう事は、とても勿体無く思った。

 

 

 

「だから、私にはいいんです。

というか、私に留めておいたら兄さんだってクセを下手に治す必要もないでしょ」

 

 

「あ、ああ…そうかもしれないけど…

まさか手を抑えられるほどとは」

 

 

 

指摘され、急に気恥ずかしくなる。勢いに任せて、とんでもない事をして、言ってしまったような気がする。

 

 

「今のは、その…」

 

 

「はは、変な勢いが付いちゃう事あるよな。

そんな気にするなって」

 

 

 

いつもの事。よくある事。

そうやって笑いづらそうに微笑みながら接する彼を見ていると、ぷちりと身体の何処かから何かが切れたような音がしたような気がした。

 

 

 

「…今の行動は…

勢いだけのものじゃなくて」

 

「兄さん、私は……!」

 

 

 

ぴんぽーん。

 

インターホンの音に、私はびくりと肩を震わせる。その音が私を一瞬に正気つかせてくれた。

幸いにも音に気を取られ、兄は私の事を見ていなかったみたいだ。

 

 

 

「っと、誰だろ」

 

 

「…っ…私が出てきます。

兄さんは休んでてください」

 

 

 

返事を待たずに立ち上がり、部屋を出る。

扉を閉じて歩く最中、過呼吸のよう息が早まっていった。動悸が早まっているのを感じた。

 

 

 

私は、何を言おうとしていた?

 

この音さえなければ。違う。この音がなければ、私はこの心の内をそのまま言ってしまっていたんじゃないのか。言わないように、永遠に留めて置こうと思っていた筈のこの想いを。

 

あの時の決心はそんなに簡単に崩れるものなのか。私はそんなにも、理性が壊れやすい情けのない人間なのか。

 

そうかもしれない。

いや、きっとそうだ。

 

だから、そうだ。あの人の顔を見るたび、あの人と話すたび、この想いがどんどんと膨れ上がってる訳ではない。きっとそう。

もしそうだとしたら、もう貴方とまともに話す事すらも出来なくなってしまう。それはあまりにも、辛すぎる。

 

だから、私がただ弱いだけ。そんな見ないふりをする。そうしないといけなかった。

 

 

そうこうしている内に、インターホンの音を確かめようと玄関の前に立つ。

扉を開けようとして、ふと、止まる。

 

 

……何か嫌な予感がした。

 

 

しかし嫌な予感だろうとなんだろうと、相手を待たせてしまっていることは確か。

がちゃりとすぐに開ける。

 

するとそこには…

 

 

 

「こんにちは、スズ。

えと…看護師さんになりにきました」

 

 

 

…間に合ってます。

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

 

『自分を好きにならせたい?

ならば、押しかけなさい。行動は力です』

 

 

 

お母様にそう聞くと、そう答えてくれました。父がなんだかすごい顔でこっちを見ていましたが、関係がない事です。

 

 

きっと、シュウは怪我をして困っているでしょう。ならばそれを助ければ彼の役に立つ事も出来、私も好きになってもらえる。

 

私を好きになったなら、彼も、その「好きな対象を悲しませないよう」に、危ない行動を控えてくれる筈。それが私の今の行動原理。

 

あと本当は、彼の顔をただ見たかったから。

下心ありきとはいえ、役に立てたら彼の役に立てたなら本当に嬉しいから。

 

 

 

インターホンを押して少し待つ間は、柄にもなく少し緊張をしてしまいました。

迷惑だったかもしれない。それでも構わない。それより貴方が大切だから。相反する心の声がどちらも声をあげていた。

 

 

 

「こんにちは、スズ。

エト…看護師さんになりに来ました」

 

 

応対してくれた彼女にそう言うと、彼女は何やら困ったようなすごい顔をしていました。

…どういう感情だったのでしょう?

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

「いやあ、まさかアオが来てくれるなんてな」

 

 

もごもごと口をあまり開かずに喋る姿は相変わらず痛々しく、ただ、喋れるくらいにはなったことはまたほっとできる事でもあった。

 

 

「私が第一発見者ですし、最後まで面倒を見ねばとも思いまして」

 

 

「その理屈はおかしくないですか?」

 

 

我ながら無理があると思った理由付けだったが、やはりスズに言われてしまった。

ただこの場ではそれは良い。

 

 

 

「それではガーゼの取り替えなど」

 

 

「あー…鈴がやってくれた」

 

 

「む。それなら身体を拭いたり」

 

 

「それもさっき…」

 

 

 

さっき。

咄嗟にスズの方を見る。少し気まずそうに顔を赤らめ、こちらから顔を逸らしていた。

 

 

 

「むー…ズルいです」

 

 

「ズルいとはなんですか。

私はあくまで看病をしていただけで…!」

 

 

バツが悪そうに言い繕う姿は、いつも私に見せる姿とは似ても似つかない程に落ち着きがない様に見えた。そしてそれを眺めるシュウの顔は意地の悪い微笑みに染まっていた。

 

 

「ともかく。

来て頂いて申し訳ないのですが、アオさんが出来ることはもうあまり無いかと…」

 

 

「……むう…食事は」

 

 

「ああ、ちょうど取ろうとしていたとこだけど…ほら、そこに鈴が作ってくれた物が」

 

 

「……む…料理も終わっていましたか…」

 

 

 

ならばどうしようか。本当にただ、来ただけになってしまう。しかし他にやれそうな事がないこともまた事実…

 

仕方がない、と、置いてあるお椀と匙を手に取って中を掬い取って差し出す。

 

 

 

「シュウ、あーん、です」

 

 

「あー…あい」

 

 

「えっ」

 

 

 

 

小さく口を開けてそれを食べ咀嚼もそこそこに飲み込む。食事の様子からすると、やはりかなり治ってきているようだ。

元々、医者の方曰く、腕よりは顎の方がまだ怪我が浅いと言っていた。

 

 

 

「…なんで私の時はあんなに渋ったのにアオさんからは素直に食べるんですか」

 

 

「いやだって折角来てくれたし、やってくれる事を受け取らないのも悪いと思って…」

 

 

「それはさっきの私の時にも思ってください!私だって結構恥ずかしかったんですから!」

 

 

 

と、ふと考えに耽ていると、横で何やら二人が揉めていた。しかしそれは二人ともに笑顔があり、本気のものではない事は私にもわかる。

 

…いやスズは少しだけ本気で怒っているようにも見えたような。

 

 

 

「エト…」

 

 

「ん、ああごめん。とりあえず…食べちゃおうかな。冷め始めちゃってるし」

 

 

「なら私がまた…」

 

 

「いい!いいから!

…鈴もいいから!自分で食えるって!」

 

 

 

利き腕では無い手で、器用にお椀を取り、それぞれで食べていく。彼をサポートするつもりが、むしろ彼を邪魔してしまっただろうか?

 

そう思うと、申し訳ない気持ちになる。私はただ二人の空間に割り込んでしまっただけではないのだろうか。

 

そうして、自省する気持ちの中に少しだけ、それでよかったじゃないかと。そう、嫉妬している自分の中の声が聞こえる。

 

それを振り払うように、シュウの横に行く。この感情を、想いを、教えてくれた先生の元に。

 

 

ぎゅっと、食べ進めている彼の邪魔にならないように彼に抱きつく。そしてそっと、絶対に痛みを与えてしまわないように、彼の頭の傷をそっと撫でた。

 

 

  

「痛いの痛いのとんでけ、です」

 

 

気休め程度にしかならないでしょうけど、それでもほんの少しだけでも彼の救いになりたい。

それは彼の為というよりも、私の自己満足そのもの。それであっても良いとすら思えるほどの、大きな想い。

 

 

 

「…ア、アオ…

アオ…離れてくれ…

その距離はダメだ。本当にダメだ……」

 

 

「…あ、ゴメンなさい。邪魔でしたね」

 

 

「いや、そういう訳ではないんだけどダメなんだ。その……当たってて…」

 

 

「?胸を当てると嬉しいのだと聞いた事がありまして。イヤでしたか?」

 

 

「だ、誰から聞いたそんなの!」

 

 

 

口を開けて止まっていたスズがハッと、ぐいと私を引き離すまでそれを続けました。

本当に嫌そうならばやめていましたが…表情から察するに、そうでは無さそうでしたので。

 

 

 

「……し、刺激が強すぎる…

俺の傷口から血ぃ出てないか鈴」

 

 

「…ひとまず無事です。顔は真っ赤ですが」

 

 

「だよなあ…いや…ごめん…」

 

 

「……しかし。いつでも跳ね除ける事はできたんじゃないんですか?私が引き離す前に」

 

 

「………」

 

 

「…今回はその腕の傷のせいだという事にしましょうか」

 

 

スズが話し、それを汗を流しながら聞く様子は母親に説教をされる子供みたいで。

いつもしっかりとしてる彼とはまた、別の人のようでありながら、納得もしてしまいました。

 

 

お母様。私がその心を惹かせたい人は、危なっかしくて、少し子供っぽいです。

 

でも、だからこそ。

私はそんな所が好きなんです。

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

「遅くなって来たし、そろそろアオを送ってあげないと…

ごめん、鈴。行ってもらえるかな」

 

 

「ええ…いや、しかし兄さんは…」

 

 

「…気を遣ってくれる事はすごく嬉しいよ。でも、さすがにちょっと過保護すぎるよ。

それくらい心配をかけたって事なんだけど…」

 

 

「…ともかく、大丈夫。

少し空けるくらいならなんともないって」

 

 

「…わかりました」

 

 

 

 

そうして、私はアオさんを送るべく家を出た。本当は彼が行くつもりだったのだろうが、それを言い出さなかっただけまだ相当にマシになった方だ。

…と思うのは、甘すぎるだろうか。

 

 

すっかり暗くなった道を、二人で歩く。

 

アオさんは、相変わらず無口で、無表情。

ただ、やはりというべきか、兄といる時は、それらはもっともっと柔らかくある。

 

彼女自身、気付いていないのか。まだ、その気持ちそのものでは無いみたいだけど。

 

 

「…シュウは」

 

 

「はい?」

 

 

出し抜けに、兄の名前を出されて、少し驚き混じりに声が出てしまう。名前が出たこともそうだけれど、何より彼女が話し始めた事に驚いた。

 

 

「…これは、本当は聞くべき事ではないかもしれません。しかし…」

 

 

「何か、気になる事ですか?

私が答えられる事ならば力になりますよ」

 

 

「…ただ…」

 

 

「答えたくなければ答えませんから。

だから、話してみてください」

 

 

 

そう促すと、彼女はある程度決心をしたようにぽつりぽつりと話し始める。

 

 

 

「シュウは…『彼は、自分のことが嫌いです。

醜い傷故に他者から疎まれ、それから来る自己評価の故に自分自身からも疎まれている』

 

『それは仕方のない事。自己評価は他己評価から作られるものでもあるのだから。

私も、そうだった』

 

 

 

傷。当然、あの顔の傷の事を言っていることは直ぐにわかった。

 

あの傷が、兄の人生を、大きく変えてしまった事はわかっている。

それが良い方向にか、悪い方向にか。彼に聞けばきっと困った様に微笑みながら、良い方に向かったのだと答えるだろう。

 

 

あの傷を。

古い、火傷の傷を。

私を守ってついたあの傷が。

 

どくん、どくんと鼓動が早まる。汗が出てくるのは、無論、気温のせいじゃない。

 

 

 

「……本当は、聞くべきことではないとわかっているんです。

根掘り葉掘り聞いてしまうような事ではと」

 

 

「でももし。教えてもらえるなら…

…私知りたい、です」

 

 

 

どく、どく、どく。

全身が心臓になったような。

 

 

 

「あの傷は、一体何のせいなんでしょうか」

 

 

 

どん。

頭が殴られたような、頭痛がした。

 

彼女の純粋な好奇心と善意は、そのまま首を刎ねるギロチンになって私に突きつけられた。

 

 

 

 

「…………それは……」

 

 

 

答えを待つ静寂だけが、暗闇に響いた。

動悸の音が、耳にこだましていた。

 

 

 

 

 

 



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ワンノブ・ゼムの愚者(村時雨ひさめ、九条史桐)






 

 

 

「あ、えっと…」

 

 

教室から出てきた人物が彼だとすぐにわかった。

ああ、僕が心を奪われている先輩。

取れかけている包帯と、その大きな上背。

 

何よりも僕の五感が、嬉しい気配がすると理屈でなく感じ取る。ああ、きっと彼がいるぞと。僕はそれにもっと明るく声を掛けたいのに、いつもこうして吃ってしまうんだ。

 

 

 

「ああ、ひさめ。どうした?なんか用か」

 

 

「あ、用というよりは…その…放課後の事で。

その、お手伝いに来るのかな、と」

 

 

「ああ!今日こそ行くよ。

これまで行けなくてごめんな」

 

 

「い、いやいや違います!催促とかじゃなくって、まだ無理はしないで欲しいって事です!無理して来る必要はないってことで…」

 

 

「ん、そういうことか。

でもそろそろ大丈夫だよ、力仕事とかは無理でも書類整理くらいはできると思うし」

 

 

「はあ…さいですか…

本当に無理はしないでくださいね…?」

 

 

「大丈夫だって、皆大袈裟なんだから…」

 

 

そう言いながら彼は困ったように微笑みながら頭を掻く。それが、大袈裟ではないということは彼以外の全てが分かっている。まだ療養すべき状態であるのに。

 

 

 

「…そう、ですか。でもそれなら、今日、楽しみにしていますね?」

 

 

「応。…ちょっと寂しかったりしたか?」

 

 

「あはは、そんなこと…

ちょっとあったかもしれません」

 

 

「はは」

 

 

 

冗談に、冗談で返す。

そんな光景に彼には見えているだろう。

僕は、本気の答えのつもりだけれど…

 

 

 

「……その、聞きにくいんだけどさ。

シドの奴、俺の事についてなんか言ってた?」

 

 

「え?」

 

 

「いや、特に言ってなかったならいいんだけどさ。それならそれで」

 

 

 

そういうと視線を外しながら、少しバツが悪そうな表情をする。その顔を見て僕は、少しむっとしたような、悲しいような気持ちになる。

また隠してしまうのだろうか、と。

 

 

 

「…良く、ありません。僕、あの日に言ったことは気の迷いでもなんでもないですからね!」

 

 

 

尻込みすればその気持ちも掻き消えて言えなくなってしまう。だから、そう勢いのままに言う。頭の中で言葉も反芻せずに。

 

 

 

「?あの日…」

 

 

「僕も!古賀さんが背負っているような事を少しでも背負いたいんです。

……そのう、勿論嫌ならいいんですが……」

 

 

 

揚々と言ったは良いが、途中から自信がなくなってきてしまう。ひょっとして、相当出しゃばりな事を言ってしまってるのではないだろうか。古賀さんも呆れてるんじゃなかろうか…

そんな、ネガティブな思いがどんどんと出てきてしまう。

 

 

チラリと顔を伺い見る。

するとポカンと口を開けていたかと思うと、ニカリと大きく笑った。そしてその後、痛そうに眉を軽く顰める。きっと顎の傷だろう。

 

 

「痛て…

いや、ごめんな。ほんとにそこまで大した事じゃないんだよ。ただなんか俺についての事言ってたかどうか気になったってだけで」

 

 

「…何かがあった、訳じゃないんです…?」

 

 

「ああ、そういう訳じゃない。ほら、奴さん俺が居ないと俺について散々な事言ってそうだしさ…」

 

 

「あとそれと、クラスは同じだけど生徒会室にでも行かないとあいつとマトモに話す機会も少ないし、実際話さなかったんだ」

 

 

「……」

 

 

「元々人手が足りないから俺が手伝ってたってのもあるし、逆に俺のありがたみの事について言ってくれてねえかなって少し思ってさ」

 

 

「だからそこらを軽く聞きたかっただけなんだけど…ひさめ?どうしたひさめ。大丈夫か?」

 

 

 

「………大丈夫じゃなさそうです……」

 

 

 

人目も憚らず、顔を抑えてうずくまってしまう。目を合わせるどころかぷるぷると震えてしまうようだ。

 

早合点して、格好つけて啖呵を切った挙句見当違いな事だったなんて…恥ずかしすぎる!

しかも更に、彼らを疑うような内容で…

 

『馬鹿の考え休むに似たり』なんてことわざが脳裏に浮かんでくるようだった。顔から火が今にも出そうなくらい真っ赤っかな自信がある。

 

 

 

「はは、気にしなくていいって。俺の事を心配してくれたのは嬉しいし…それに、あの時言われた事も俺、本当に嬉しかったんだからさ」

 

 

「……で、でも僕なんか…」

 

 

「『なんか』なんて付けないでくれ。

……俺、割と初めてだったんだよ」

 

 

「初めて?」

 

 

「ああ、その…

俺のやってることを否定されるんじゃなくて、肯定もされるんじゃなくて。ただ一緒のとこに立ってくれようとしたの。それが嬉しかった」

 

 

立ち上がるように促しながら、彼はどこか遠くを見るようにぼーっと、そう言った。僕を見ているようで、更にその後ろを見ているように。

 

 

「……」

 

 

「悪い、急にそんなこと言われても困るよなあ」

 

 

「い、いえ!そういうのを待っていたんです僕!もっと言ってくれてもいいですよ!」

 

 

「お、おお…元気が戻ったみたいで何より」

 

 

ワンテンポ遅れてちょっとテンションが上がる。きっと今までの古賀さんなら、こういった自分を曝け出すようなことは言わなかった、言ってくれなかったのではと思うのはうぬぼれかな。

 

 

「…は、すみません、お時間を取ってしまって。そろそろ僕戻ります」

 

 

「おお、じゃあまた後でな」

 

 

「…はい!お待ちしてます!」

 

 

そう、自分でもわかるくらいに元気満々に答えてから後ろを向く。放課後がすっかりと楽しみになってしまった。

 

あ、別にシドさんと二人きりが楽しくないだとか、そういうわけじゃないんだけど。ほんとに!

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「と、いう事で。

今日は古賀さんが来るみたいです!」

 

 

「…!」

 

 

無邪気なひさめちゃんの声に、ぴくりと筆を動かす手が一瞬だけ止まる。

彼が来る。それだけに、動揺を隠せず。

 

 

 

「へえ、そうなんだ」

 

 

「…?はい」

 

 

「ここに来れるくらいは快復したんだね。それは本当に喜ばしい事だ」

 

 

「まあ、また少しは無理してるんじゃないでしょうか…無理はさせないようにしましょうね」

 

 

「そうだね。その点については全く異論を挟む余地もつもりもないよ」

 

 

 

互いにあの死にたがりの面を思い浮かべて、ふと笑う。それはあいつは仕方がないな、という呆れの笑みであり、そしてまた、ここに彼が来るという事に対しての喜びでもあった。

 

ただ少し、そこにボクが濁りがある。

素直に喜ぶことが出来ない、少しの濁り。

恐怖に近しいかもしれない。

 

 

 

こんこんこん。

扉がノックされる音が丁寧に3回。

 

 

 

「…いい加減、キミも顔パスみたいなものだろう。無言で入ってきていいよ」

 

 

 

ノック音にそう答えると扉が開いた。

そのまま入ってくるのは、その大きな上背に、包帯を巻いた怪物のような見た目の青年。

 

 

 

「いや、そういうわけにもいかないだろ。

何か取り込んでたりする事もあるだろうし、その…以前みたいに…」

 

 

「ああ、着替えてた時?

律儀に気にしなくっていいのにねえ」

 

 

「お前がよくても俺が気にすんだって…」

 

 

 

軽口を叩く。その横で、ひさめちゃんの驚いた顔が目に入る。え、そんなことがあったんですか!と今にでも言わんばかりの顔だった。

 

 

 

「……もう、来ないかもなんて思ってたよ。意外だな」

 

 

「正直…ちょっと気まずいけど。

ただそれで手伝わないのも、また話が別だろ」

 

 

「フム…確かに、そうかもね。でもそれは、普通なら一緒にされるものだよ?」

 

 

「なら、俺はそうじゃないだけだな」

 

 

 

きっぱりと、言い切られる。眼は、こっちを向いていた。何も迷いがない。

 

ああ、偏執的で、妄執的だ。

何かを助ける、なんてそんな美しい行為にこんな眼を向けれるだろうか?

そんなもの、『普通』ではない。

きっと彼は頭がおかしいのだ。

 

何にも染まらない。

いっそ高潔に見える程に、頑固。

ボクの色にすら全く染まらない。そういった所にこそ、ボクは惹かれているのだ。

 

 

クク。含み笑いを一つ、する。そしてそれらは口に出さず、ただ一言だけ本音を言う事にした。

 

 

 

「ま、なんにせよボクは嬉しいよ。

ありがとうね、来てくれて」

 

 

「……ん、ああ」

 

 

 

だのに、いや、だからこそ。キミはボクのやった行動を認められないんだろう。あの時の私刑が、どうにも引っかかっているのだろう?

 

禍々しいまでに、自分を曲げない。

それでこそ、ボクが愛した男だ。

 

 

まあ、なんにせよこの場ではその話はやめだ。

さっきからひさめちゃんがなんのこっちゃと、おろおろしながらボクらを見ているし。

 

古賀クンもまたそれに気づいたのだろう、ふうと脱力するように笑ってから席に着く。

そしていつものように書類を取ろうとして…

 

 

 

それを、ボクが止めた。

 

 

 

 

「………え?」

 

 

 

困惑するその顔は、見ていてぞくぞくするほど面白い。でも違う、今回はそれを目的にしたわけじゃない。今回ばかりは。

 

 

 

「…来てくれて、本当に嬉しいよ。それはホントだし、包み隠さない気持ちさ」

 

 

「だけど今日はお仕事は禁止。今日中はボクと、ひさめちゃんのお話相手になってておくれよ」

 

 

「…何!?」

 

 

 

抗議をせんとばかりに身を乗り出してくる彼。なんだ、思ったよりも全然元気そうじゃない。

 

 

 

「ほら、クラスでもたまーにまだ腕痛そうにしてたし。かといって利き腕じゃない方で書類なんて書けないだろ。キミ小器用だけど流石にそれは難しいはずだ」

 

 

「いや、普通にもう腕も治ったから利き腕で書くって」

 

 

「前半部が聴こえてなかったのか。痛そうなのを無茶して使わせて、悪化とかされたら本当に困るんだよ」

 

 

「いや、本当に治っ…」

 

「ボクは薄情で、人を人とも思わないような人間に見えるかもしれないね」

 

 

食い気味に彼の言葉を消し去る。

また出そうとする言葉を、近付き、唇に指を当てて止めてしまう。

ああ、困ったようなその顔がたまらない。

 

 

「…それは否定しないし、まあ、大体あってると思うよ」

 

 

 

「……だからと言って、心配しないわけじゃあないんだよ?」

 

 

 

そう言った途端に、彼からふと力が抜ける。

何か言う気が失せたらしい。

 

 

 

「……わかった。ごめんな、シドにまでそんな顔させるつもりは無かったんだ」

 

 

 

『そんな顔?』

はて、そんなヘンテコな顔をしてたかな。

ボクはいつも通りのつもりだったんだけど。

 

哀しむような顔でも、してしまったのだろうか。そうだったら、我ながららしくない。

 

 

 

 

「そ、そうですよ!

僕だって心配してるんですよー!」

 

 

ふと、静まりかえっていた空間にガヤのようにそういった声が入ってくる。

ボクら二人がきょとんとその声の方向を見ると、ひさめちゃんは恥ずかしそうに顔を真っ赤にしてしまった。

 

 

それを見て、同時にくくっと笑う。

全くもって可愛い子だなあ!

 

 

 

「んじゃ、何か話でもするか。

なんかリクエストでもあるか?」

 

 

「お、いつになく乗り気じゃないか。いいねえ。喜ばしい限りだよ。

…それじゃあキミの好みのタイプでも語ってもらっていい?」

 

 

 

そう言うと、二方向から吹き出すような驚く音が聞こえてくる。全く純情だなこの子らは。

 

 

 

「なっ!?

きゃ、却下!流石に嫌だ!」

 

 

「えー、けちんぼ」

 

 

「けちもクソもあるか!もっとなんかこう…当たり障りのないのにしてくれ!」

 

 

「嫌だい嫌だい。

それだとつまんないじゃなーい」

 

 

「人の異性の好みをゴシップネタにして楽しもうとするんじゃねえ!」

 

 

「だってひさめちゃんも気になるよねえ。

どうよ、彼のそういう赤裸々な事情」

 

 

そう、固まっている彼女に話を振るといやいや、僕は!と猛烈に首を横に振ってしまう。

嘘つけ。さっきからじっと耳を傾けていたのは見えていたぞ。

 

 

 

そうしている内に。

あっという間に時間が過ぎていく。おかしいな、こんなに放課後が過ぎ去る速度は早かったかな?名残惜しいなんて、久しぶりに感じた。

 

 

 

「…っと、そろそろ帰るか。

じゃあひさめは先に…」

 

 

「い、いえ。今日くらいは僕が残ります。

古賀さんは早く帰って、鈴ちゃんを安心させてあげてください」

 

 

「……わかった。そうするよ」

 

 

 

おお、スムーズ。彼はボクよりひさめちゃんが言ったことの方が素直に従うような気がするなあ。少しムカつく。

 

 

そのムカつきや、心にある寂しさだとか、名残惜しさ。そういうもののまま彼に近付いていく。帰る準備の為にしゃがんでいる彼の肩をトントンと叩いた。

 

 

 

「ん、なん……」

 

「今日は、ありがとね」

 

 

 

 

そのまま、振り向く頬に口付けをした。

 

うーん、惜しい。

もう少しタイミングをずらせば口だったのに。

 

 

おや、二人とも動きが止まってるったら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

帰り道。

 

 

すっかり日は落ちて、周りは暗い。そんな帰り道を、今日は横に一人いる状態で歩いていた。

 

 

 

「…さあて、何か聞きたいことが?」

 

 

 

無言のままで歩く僕に、その人…赤い眼を爛々と光らせて、問うてくる。

敵意や害意なんてものはまるでない。それでも僕は少し、身を縮こませてしまった。

 

 

「シド、さん…」

 

 

それは、これから聞く内容のせいでもあった。だが聞かねばならない。これだけは、絶対。

 

 

「シドさんは、古賀さんを嫌いになったんですか?」

 

 

 

「ボクが?彼を?まさか。嫌いな相手に口付けなんてしないだろ。むしろ、どうしてそう思ったんだい?」

 

 

それも、問いただすだとかではなく、本当に疑問に思っただけのようだった。

ああ、そうだ。彼女は根本的に、僕を敵として視野に入れてすら居ないのだ。それは、彼女の友人としては喜ばしい事だけれど。

 

 

 

 

「いや、なにか、というわけじゃないんです。

けれど…その…」

 

「……恐らく、古賀さんが嫌がるような事を何かやっていますよね?今日のお仕事を止めたことじゃなく、それ以外に何かを……」

 

 

 

思い切って、そう言う。

それは、彼を見た時からの直感だった。

そして、二人の会話で確信に変わった。流石に僕が頭が悪いと言ってもわかるというものだ。

 

 

へえ、と感心する声が聞こえる。

その直後に、シドさんはニタリと笑う。

 

 

 

彼女は、僕に教えてくれた。

彼を(間接的に)傷つけた用務員の事。そしてそれを調べ上げた、彼女の所業。それら全てを、包み隠さず。ひさめちゃんが知りたいなら、と易々と。

 

 

それを聞いて、頭が沸騰するようだった。

怒りも、あった。恐怖も。

ただそれ以上に頭を占めていた感情は、言葉では表しようのないものだった。

 

強いて言うなら、嫌悪に近かったかもしれない。

 

 

 

「……それは、ずるいですよ。

ええ、ずるい」

 

 

「ずるい?何がだい」

 

 

「それは勝手で…ただの独りよがりじゃないですか。彼が止めた事を行うことが、ずるい自己満足じゃなくてなんですか」

 

 

「違うね。彼が止めようと、ボクは彼の幸せの為に行動しなければならないし、する。

それだけだよ」

 

 

「…彼の幸せは彼が決めるものです」

 

 

「それも違うよ。幸せとは管理と強制から生まれるものだ。嫌がる子供に泣いているからと特効薬を打ち込むのをやめてしまったらその子は病気で死ぬだけだろう?」

 

 

 

「…その管理は、シドさんにとってだけの幸せかもしれないと考えたことは?」

 

 

 

「いいや。これは絶対に『彼の幸せ』さ」

 

 

 

ぞっとするような、確信を持った発言。それは僕には無い、絶対的な自信がもたらす言葉と思考だった。

 

 

 

「それに、もしボクだけの幸せだとしても…

それが彼にとっての幸福になるようになればいいだけだ。それにボクは、全てを尽くせる」

 

 

 

そう、恍惚として語る彼女の姿は。

どこか酷く哀しく見えた。

 

僕よりよほど賢く、顔も、体格も、全てを持っている彼女の筈なのに。手に入らなかった葡萄を酸っぱいものだと思い込もうとしているような、そんな痛々しいものに見えた。全然、見当外れなのに。

 

何かを管理し、指導する者としてでなく。等身大な、ワンノブ・ゼムの少女にしか見えなかった。

 

 

 

「…少なくとも僕には…貴女のそれは、彼への愛ではないように見えます。ただの、ねじくれた自己愛にしか見えません」

 

 

「……なんだと?」

 

 

 

「…すみません。言い過ぎました。

…それでは。僕、家の方向がこちらなので」

 

 

 

 

ただ一言、そう言ってシドさんに背を向けた。

言ってしまった事に後悔はあった。

恐怖もあった。

だから、その場から逃げるように早歩く。

 

 

 

 

「……だろう……」

 

 

「そんな事…あるはずがないだろう。

そんな事が……!」

 

 

 

 

(………っ!)

 

 

地の底から響くような食屍鬼じみた声が、真後ろで聴こえたような気がした。毒矢でも飛んでくるようなまでの恐ろしさ。まるで真後ろに立たれているかの如くハッキリと、それは聞こえた。

 

 

それからは確かに、『敵意』を感じた。

 

 

 

 

 




崩壊の序曲は、綺麗なプレリュードだった。


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悪魔と人形、怪物と蛇






 

【サイド・A】

───────────────

 

 

 

 

 

ブー、ブー、と携帯が振動する。

私のそれを鳴らした相手は、私がいつも気になる貴方からのものだった。

しかし、着いたメッセージは甘い言葉などではなく、切羽詰まった、短い言葉。

 

 

[鈴をみかけてないか]

 

 

文面越しにも伝わる、彼の焦り。シュウになにがあったのか。少しだけ嫌な気配がしながらも知らない旨を伝える。そうか、とだけ返ってきた。

 

おかしい。

絶対に、なにかがおかしい。

何か理屈があるわけではないが、絶対に変だ。

 

迷惑だろうかと、思って一瞬止まり。

それでも意を決して電話を掛けた。

2コール目で、声が聞こえる。

 

 

「ああ、もしもしアオ?

えっと、すまん、今…」

 

 

「何があったんですか?

勘違いでないなら、力にならせてください」

 

 

それだけを口早に伝えると、ぐっと唇を噛む音。

そして次に短い言葉が返ってくる。

 

 

「鈴が帰ってきてないんだ」

 

 

「!………連絡は?」

 

 

「取れない」

 

 

ぐっと、目を瞑った。そして静かに電話を切る。急いで彼の家に向かう。このままでは居られない。

 

 

スズが心配だった。電話越しよりも、実際に会って情報の確認をしたかった。そして何より、もし居なくなったのならば。

それは私の『あの質問』が……

 

 

ぶんと頭を振り、歩く。いつも近い家の道乗りがいやに遠く感じたのは焦燥感からか、もしくは恐れからか。

 

 

 

「シュウ!」

 

 

それでも、彼の部屋に転がるように上がり込む。

すると、そこには…

 

 

「やあ!」

 

 

笑顔でその声を上げるのは、私がよく知る赤い眼の女だった。

同じ学校。同じクラス。そして同じ人を。

 

 

私はただ、その彼女を睥睨した。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「いやあ。ボクも妹さんが居ないって相談されて気になってね。何かあったら困ると思って一度集まらせてもらったのさ」

 

「まあお互い考えることは同じだったってコト。気が合うね、菜種さん?」

 

 

 

いつも、ファーストネームで呼ばれる事が多い分、そう呼ばれる事は新鮮なようだった。そしてその呼び方は、心の距離感をそのまま表しているようにも感じた。

 

 

 

「…二人とも、ありがとう。

ごめん、急にこんな連絡をして」

 

 

「いえ。私もスズが心配ですから」

 

「なに、ボクが勝手に来ただけだから気に揉む必要はないよ」

 

 

 

殆ど同タイミングに声が挙がる。互いに目を見て、しわっと渋い面をした。それを見てシュウが少し気まずそうに首を掻く。

 

 

「まあ、その…なんだ。とりあえず覚えがある場所にはいくつか行ってみたんだ。それでも居なかったから…」

 

「……なんでもいい、思い当たる節があったりしないか?」

 

 

 

「…帰ってこないって言ったって、ただ誰かの家に遊びに行ってるだけじゃあないのかい?

キミが過保護すぎるだけかもしれない」

 

 

「そうかもしれない。そうかもしれないけど…!」

 

 

史桐サンの質問に答えるシュウは、沈痛な顔向きをしていた。『そうかもしれない』と答えながら、そう単純な事じゃないのだと直感しているのだ。スズが意味なくそう言ったことをするはずが無いと。

 

 

 

「…ごめんごめん、意地悪な事を言ったね。

でも…そうだな、あまり思いつかないんだ」

 

「…そっか…アオは、どうだ?」

 

 

「!わ、たしは…」

 

 

 

彼女の行った場所の見当は付かない。ただ一つ、彼女がこのように姿を消した事について思い当たる事がある。あってしまう。

その澱みが、言葉に迷いを生んだ。

 

 

 

「?どうし…」

 

 

 

プルルルル。

シンプルな電子音に、肩がびくつく。

それはどうもシュウの携帯の音だったようだ。

 

 

 

「悪い、電話だ。…一回席を離れるよ」

 

 

 

画面を見てから、私たちの顔をチラリと見る。そうしてから離席を宣言して、部屋を出た。

 

彼の、シュウの部屋に残るのは私と…

 

 

 

「ねえ。どうしてさっき言い淀んでたの?」

 

 

 

この、目の前の女だ。

 

 

 

「…答える必要はありません」

 

 

「おや。鈴ちゃんの事なんてどうでもいい、ってことかい。薄情だねえ」

 

 

「貴女に都合の良い妄言を私が言ったことにしないでください。話になりません」

 

 

「言い淀んだのは理由があるんだろ?何か思い当たる節がある筈だ。

なのに答えなかったのは、彼女がいると都合が悪いから…じゃないのかい?」

 

 

ギリと奥歯を噛みしだく。侮辱が過ぎる。何が一番腹立だしいか。それは、恐らく彼女は既に、そうではないと言うことをわかっているという事だ。疚しい事があり、しかしそれでも、私はシュウもスズも好きだと、わかっている。全部。その上で。

 

 

ただ、それを否定する事もしない。

どうせその答えは既に待っているのだろうから。

 

 

 

「……私は、貴女の事が嫌いです」

 

「気が合うね?ボクもキミが大嫌いだよ」

 

 

 

彼女はふと。私に顔を、身体を近づける。そして私の頬に、首に。するすると撫でつけるように、手を這わせる。

しなだれかかるような、まるで恋人との距離感のようにも見えるそれは、ただ恐怖のみを私に与えてくる。

 

 

「鈴ちゃんはからかい甲斐があって楽しい。

ひさめちゃんも…まあ、まだ大好きだよ」

 

「でもキミは別だ。見てると吐き気がする」

 

 

 

私の首に、ひたりと少し大きく細い手が置かれ、そこで止まる。全く力などは篭っては居なかったが、このまま締め殺されるのではと思うほどに圧迫感を感じた。

 

 

 

「キミの、その愛玩されるべく模倣の姿がどうしようもなく苛ただしく、そして哀れだ」

 

「菜種さん。キミには何もない。人形のそのままだ。愛玩されるべくして愛玩され、愛される為の教えを乞う事しか出来ないし、その模倣しか出来ない。必死に周りを見渡しても、自分の中身は見渡せないだろう?はなから空っぽなんだから」

 

 

歯噛みする。

それは怒りと、恐れ。それらのブレンド。

何を知ったようなと思い、また、内側のコンプレックスをじわじわと当てられていく恐怖。

それらを、やっとの思いで呑み込む。

 

 

 

「……気は済みましたか。

余程お喋りが好きなんですね」

 

 

頬の内側を噛み、気つけをしてから答える。目を見るとその心をまで覗かれているようで、その赤い虹彩が怖かった。

 

 

 

「それで。…何が言いたいんです。話を切り出すにしては、つまらない話です。私よりも口下手なのではないですか」

 

 

「おっと、失礼。つい、ね」

 

 

くすくすと笑う姿は、それは嬉しそうで。ああ、わかった。私はこれを、この距離感を敵意の表れかと思っていた。だが違う。

彼女は単純に性格が悪いのだ。

 

 

「まあ、今の通りの理由でボクはキミが嫌い。そして、キミもそりゃあボクが嫌いだろう」

 

 

「…ただ個人の好き嫌いをさておいて。そこに同盟じみたものを組む事はできるはずだ」

 

 

「…?」

 

 

何を──

 

 

 

瞬間、扉がばたりと開いた。そこには安堵と脱力に顔を綻ばせたシュウの姿がある。

 

 

 

「…ごめん、よかった!

ひさめのとこにいるらしい!その…体調が悪くなったらしくって、介抱してもらってたって!」

 

 

 

本当に、大袈裟に騒ぎ立ててすまない。

大事にしすぎてしまった、迷惑をかけたと謝る彼に、そんな事はないと言う傍で私は心底ホッとしていた。

 

ああ、よかった。何事もなかった。

彼女はただ体調を崩していただけと。

 

 

 

「…ごめん、帰りは…ええと」

 

 

「ああ、菜種さんはボクが送っておくよ。だから古賀くんは鈴ちゃんの方に行っておやり」

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

人の顔色を伺う事は、得意だった。

人形らしく、被造物らしく、そうあれともとめられたように。

今思えばそれは、期待に過剰に応えようとしただけの自業自得であるのかもしれない。ただ、人の表情を見る事が得意な事は変わらない。

 

 

 

あの時、知っているならば教えてほしいと軽々しく、シュウの顔の傷に、過去に踏み込んだ瞬間。

 

「知らない…」

 

そう、一言絞る様に答え、それ以降は何も言おうとはしなかった。ああ、明らかにその顔は、追い詰められたものだった。

 

何故、そこまで追い詰められるの。

そこまで、気に病む事じゃない。

 

 

まるで、加害者本人のような…

 

……

 

……あれは、彼女がやった事なのか?

 

 

そう思うや、胸が鑿岩されるように痛んだ。

あの彼女の表情は、ただ可哀想にと、我が事のように思いやる心だけではならない顔に見えた。

 

 

違う。そんな筈はない。私の見間違いだ。

スズは、お兄さんがだいすきな子。

そんなこと、ずっとわかっている。

 

 

この思いを、この少しの嫌悪を、彼女に。

鈴に向けたくない。

 

私はシュウも好きだけど、あの子の事もそれくらいに大好きだから。

 

だから私はそれに蓋をした。

その見た光景に蓋をするつもりだった。

 

 

 

「だからねえ。

キミと契約をしたいのさ」

 

 

 

悪魔が、囁いてくるまでは。

 

 

私は、みんなのことが好きだ。

シュウも、スズも、ひさめも。

こんな私に仲良くしてくれようとするクラスのみんなも、全員。

 

 

ただ、この人だけは明確に嫌いだ。

 

 

 

「……」

 

 

「最近、少し後輩が怖くってねえ…

だから、協力を出来たらなあ、と思うんだよ」

 

「キミは情報をボクに渡してくれるだけでいいし、いわば停戦。互いに手を出さなければいいだけさ。契約なんて仰々しく言うものの、リスクはほぼ無い」

 

 

 

「…メリット、は」

 

 

「そうだなあ。例えば、だけど。

こんなのはどうだい」

 

 

 

──代わりにボクが、菜種さんが知りたがっている事をなんでも一つ教えてあげよう。

 

 

 

 

ああ。

彼女がそう言うのならば、きっとどのような手段を取っても、その答えを用意してくれるのだろう。その契約に嘘を吐かない為に。

 

生徒会長は、嘘をつかないと有名だから。

 

 

 

「……なんでも…」

 

 

 

知りたくない、知るべきではないと蓋をした筈だった。

 

 

だのに、目の前に知る手段があるとなると、また愚かな感情が首をもたげる。知りたいという、愚かな感情。知らずにはいられない、愚かしい欲望が。

 

 

 

「……」

 

 

 

 

…私は悪魔の操り人形になった。

 

ただ、そこには自らの意思と共に。

その糸を断ち切る強固な想いだけを懐刀として隠しながら。シュウたちへの想いだけは空っぽと言わせない。その、意思だけ。

 

 

いつかは裏切り、断ち切る操り糸。破棄する契約。

 

しかし私は甘んじて受け入れよう。少なくとも、今はまだ。今だけは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【サイド・B】

───────────────

 

 

 

(ああ…)

 

 

机に突っ伏すような不作法なんて、久しぶりにやってしまったものだ。私…古賀鈴は、それなりに優等生だから。

 

 

ただ、その日はどうしてもそうなった。具合が悪い。それは風邪や病気ではなく、その…どうしても、あるもの。

『あの』日だった。

 

今日は頭痛や腹痛など、いつもの症状は少なく。

代わりに憂鬱感、気持ち悪さが酷かった。そして身体の調子が悪いと、それに連動して精神もどんよりと沈んでいく。なんとか自己管理をとも思うが、どうしても難しい事だ。

 

 

頭がぐわぐわと、回るような浮いてるような感覚のままにチャイムが鳴る。帰りの時刻の音。気付けばもうそんな時間だった。

 

 

帰らないと。そう思っても足が何故だか動かない。動けないほど、歩けないほど体調が悪いだとか、そんな訳ではない。

 

でも、下校路にただ立ち尽くして何故か帰路に着く気にはなれなかった。沈み切った頭が、ただどこにも行くことも、何をする事も考えず。ただそのままに。

 

 

ぐらぐらと頭が揺れる。心が鬱屈とする。この数日の光景や、出来事がフラッシュバックする。

 

 

 

 

「鈴、ちゃん…?」

 

 

 

は、とびくりと振り返る。

そこには、恐る恐るといった風に声をかけてきてくれる…

 

 

 

「ひさめ、さん…ああ、すみません。

邪魔ですよね…」

 

 

道を開けようとするけど、身体が金縛りのように動かない。どうしてだろう。今日に限って、どうしてこんなに。心配する彼女に、大丈夫ですと声をかけてなんとか歩こうとする。すると…

 

 

「だ、大丈夫じゃないよ!ひどい顔色してるよ!?」

 

 

そう、手を掴まれる。それに握り返す力も無いまま、ただぼうっとしてしまう。その様子を見て、ひさめさんはぎゅっと眉根を顰め。

そしてふと、そうだ!と少しだけ嬉しそうな顔をして私の手をぎゅっと握った。

 

 

 

「……うん、お姉さんに任せなさい!頼れないかもだけど、僕も一応、君たちの先輩なんだから!」

 

 

「…え?」

 

 

「よし、うん。歩けるかな?

流石にその…おぶれはしないから」

 

 

 

なんだかよくわからないままに、手を引っ張られる。それに何か抵抗をするでもなく、ただ引っ張られるままになってしまった。

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「おかえりなさ…

どうしたんだ、その子」

 

 

「えっと…僕の後輩…かな?

ともかくちょっと遊びに来てて…いい?」

 

 

「うん、いいけど…もう外も暗いしそんなに長居はさせられないよ?」

 

 

「う、うん。わかった!」

 

 

 

あれよあれよと、私はひさめさんの家に来ていた。父親らしき人物に許可を取る様子を後ろからゆっくりと見ていた。

どうにも、気弱そうな所は遺伝らしい。

 

 

 

「ご迷惑おかけして、申し訳ありません」

 

 

部屋に着き、ひと心地。そうなって、初めて礼儀を取り繕える程に体調が回復していた。

 

 

 

「いやいや、そんな事ないよ!

というか僕が勝手に世話を焼いただけだし…えへへ」

 

 

照れ臭そうにそう発言してくれるひさめさんが、ここに連れてきてくれた事は実際とても有り難くある。あのままではきっと、私はただ家に戻る事もなく、放課後にずっと、遅くなるまで立ち尽くしていただろう。

 

 

「しかし…なんで、こうまでしてくれたのですか?」

 

 

 

家に連れて、介抱をしてくれる。それは有難いが、しかし疑問でもあった。なぜ、こうまで優しくしてくれたのだろう。そこまで酷い顔だったろうか。そう思って彼女に問う。

 

するとひさめさんは言いにくそうに、言った。

 

 

 

「……何か、思い詰めてるんじゃないかな。と思って。そう思ったらいてもたってもいられなくなっちゃったんだ」

 

 

 

思い詰めてる。

思い詰めている。

ああ、そうだ。立ち尽くしていたのは、その、身体の不調からではない。心が、あの発言を。過去の過ちを。その全てを後悔してやまなかったから。愛する人にすら、合わせる顔が無いと自分を責め立てる声があったから。

 

 

 

「私…

私のせいなんです」

 

 

 

気づけば、声が出ていた。

震えた声は、自分の声で無いように思えた。

 

 

 

「最近は、もう考えることも少なかった。それをしても兄も悲しむだけだし、なにより、彼は助けてくれたのに。そんな兄さんに後悔させてしまわないようにって…」

 

 

 

あの傷は何が元だったか。

アオさんに聞かれて、知らないと答えた。知らんぷりをした。間接的に彼を傷つけたというトラウマなど、とうに脳では整理できていると思っていたのに。あれはただの事故だと、そうわかっているのに。

 

 

 

「でも…でも…また思い始めてしまって。

それを考えてしまったら止まらなくなって。

あの包帯を見てると思い出してしまって…」

 

 

 

それ以来、頭に巻いた白い包帯を見るたびに思い出す。思う。思わされる。私が、私の、私を。

あの倒れ伏した姿のおにいちゃんの姿を。

 

そうして、幾度も思うのだ。

 

 

 

「私が、私さえ居なければあんな…

おにいちゃんにあんな傷はつかなかったのに…」

 

 

そう、じくじくと。何度も。

意味がないとわかっていながら。

 

 

ああ、私は卑怯だ。

こう言うことできっと、彼女に軽蔑してもらえると思っていたのだ。こうして彼女に蔑視してもらえれば。

もう彼女の優しさを、後ろめたく思わなくてもいいのだという、驕慢。智恵の実を齧ることを唆した蛇じみた、汚らしい浅知恵。

 

唖然としたような、あ、と口を開けてこっちを見ていた姿が一瞬目に入った。その表情は、そのまま私を蔑むものに変わってくれるだろうか。いっそ、そうであったら楽だった。

 

 

 

「…違う」

 

 

 

だけれど帰ってきたものは、予想外の返答。静かに微笑みながら、痛いほど彼女の手を握りしめていた私の手をそっと握り返してくれる。

 

 

 

 

「…違うよ。それは、鈴ちゃんのせいなんかじゃない。

ぜったいに違う」

 

「お兄さんは…古賀さんは、確かに鈴ちゃんを助けたんだ。それは、彼自身が悔やんでないなら、君だって悔やむ必要なんてなにもない。

それが、助けるって事なんだから」

 

 

 

寄り添うように、そう言われる。だんだんと、救われたような気持ちになっていく。体調に伴う不快感や憂鬱感は消えないが、しかし、心が少しだけ軽くなっていくのを感じた。

 

そうなって、ようやく気付く。

ああ、私はきっと。

それでも悪くない、と、肯定される事を求めていたのだ。

 

なんと現金だろう。それでも、泣きたくなるほど嬉しくなる気持ちは抑えられなかった。

 

だからそれに感謝を述べようとして。

ありがとう、と口を開けようとして…

 

 

…瞬間に、凍りついた。

 

 

 

 

「…それに」

 

「………感謝、したいな。」

 

 

「あの傷が無ければきっと。

僕とあの人は会える事も無かったんだから」

 

 

 

絶句。顔を見ることができなかった。

邪念だとか、恨みだとか、そういったものは全く無かった。その声はただ和やかに出力されていた。いつものように、日常会話のように。

 

 

 

「それは、どういう」

 

 

 

何かの間違いかと、聞く。

それに、するすると答えられる。

いつものような、焦りから来る、どもりすら無く。

 

 

 

「うん。きっと、あれが無かったら、もっと色んな女の子と仲良くなってて。僕なんか視野に入ることもなかっただろうし。だからきっと、あの日あの時に古賀さんに逢えたのは傷のおかげかなって。最近、少し思っていたんだ。だから、ありがとう」

 

 

 

涙が引っ込み、ただ呆然とした。

これが、これがあのひさめさんだろうかと。

 

 

逸らしていた目を、合わせる。

恐る恐る、顔を見た。

 

それは何か恐ろしげな顔をしているでもない、いつものようなにっこりとした笑顔だった。いつものような、可愛らしい。

それが尚、怖かった。

 

 

(……ああ……)

 

 

…あの弱々しく、優しく、少し鈍臭い彼女の柔らかな面影は、その瞬間はどこにも無かった。

 

 

そこには、ただ美しい怪物が居た。

 

 

 

 

「ほら、それならお兄さんに電話しよ?

ひとまず、彼を安心させなきゃ!」

 

 

 

は、と正気に戻る。爛漫な笑顔で私に語りかけるその姿は、今や恐ろしいものには全く見えなかった。

 

 

 

(…ああ、だからこそ)

 

 

だからこそ、兄は貴女には渡さない。

それは、この心を救ってくれた恩人を、これ以上恐ろしげに変貌させない為か。私の中の我欲でしかないのか。

 

一つの言葉には、出来ない。

それでも、硬く固く、そう思った。

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

 

その日は、特筆すべき物ではない筈の日。

天気はよく。用事なども無い。

 

 

だけれど、その日は変わった日でもあった。

関係が変わった日。認識が変わった日。

それぞれの心と、心中の想い。

 

 

だからこそ、少女たちは歩を進める。

自覚できない程に、愛に身を窶しながら。

 

 

 

 

 



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リードステップ・トゥ・ヘル(九条史桐)






 

 

 

「パーティに来ないかい?」

 

 

だし抜けに電話を掛けてきた彼女は、出だしもそこそこに一言そう言った。

シドは、あいつはいつもこう無理矢理ってほど急に、唐突に、提案をしてくる。

 

 

 

 

「パーティ?なんの?」

 

 

「いやね。そろそろ年も終わることだし、クリスマスの祝いも兼ねて親戚や親しい人らでちょっとした会食でも催そうってなってるの。もしよかったらそれに来ないかい?」

 

 

「へえー…気にならないと言ったら嘘になるけど、さすがに俺は場違いすぎるんじゃないか?」

 

 

「ああ、それなら大丈夫。他の人らも友人を呼んでるらしいし」

 

 

「お、そうか。

…ならお言葉に甘えて行ってみようかな」

 

 

「ハハ、いいね。それじゃあ当日頼むよ。特に持参すべきモノとかはないから安心してくれ」

 

 

 

ぷつりと、電話が切れる。好奇心もあって、俺はそれに二つ返事でOKをしてしまった。

 

……俺はこの時の判断を、ただただ後悔する事になる。あの時素直に断っておけば…

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

俺は影だ。

影になるのだ。そう、俺は端っこでただ誰にも気づかれないような…いや無理だこの背丈だと。でもなんとか気づかれないように…

 

 

 

「あ、いたいた。おーい。

何を借りてきた子猫みたいになってるんだい」

 

 

 

……視線がこっちに向くのを感じる。

ああ、あの人に話しかけられるアイツは誰だと言わんばかりの。

 

話しかけたそいつは、全身をきっちりとしたスーツルックに固め、髪型をいつものごとく高く一つに纏めていた。

 

 

 

 

「……なるよ、そりゃあ!まさかこんな畏まった場というか…煌びやかな場所だとは思わなくって…!」

 

 

「まあたオーバーな。

そんなでもないだろう?」

 

 

 

そいつ…シドは、あくまでそう言う。

 

『そんなでもない』。全くもってそんな言葉が出てくるのを理解できない。この豪勢なホールを貸切で、しかもスーツまで貸し出されるような場所。知らない料理や装飾だらけのこのとんでもない場所を、そんなでもない?

どうすればいいって言うんだ俺に!もう、端っこで大人しくしてるくらいしか出来ないだろう!

 

 

 

「オーバーじゃねえよ、落ち着かねえ…

あとだいぶ胃が痛てえ…」

 

 

「はは、たしかに慣れてないとそうかもね。

少し配慮が足りなかったかな」

 

「まあ、何だ。ダンスを求められる機会なんてのも今時ありはしないから、そんな縮こまらなくっても普通に楽しんで良いと思うよ。

最悪恥を掻いても掻き捨てにすればいい」

 

 

 

ふと、間が空く。

何やら言葉を待つような瞬間であると、後になって考えればそう思えたが、その時はキリキリと痛む胃を気にする事で精一杯で。

 

 

「……」

 

 

「…ん、どした?」

 

 

「別にー」

 

 

彼女はそう言うと、少しだけ不満そうに、ふいと顔を背ける。その一瞬後に、即座にまたニコリと笑った顔になるが。

 

 

「ねえ。すこーし用事があるからちょっとまた一人でぶらついててくれ。なあに、心配しなくてもすぐに戻るから」

 

 

「えっ、ちょっ…置いてかないでくれ」

 

 

「ハハハ、そう言われるのはやぶさかじゃないけど、こっちはこっちで顔合わせとかしなきゃいけないんだ。…それとも一緒に行く?」

 

 

 

「…………まだ一人の方がマシそうだ」

 

 

「だろう?それじゃあ、まあ後で」

 

 

 

そう後手に手を振りながらアハハハ、と楽しそうに笑いながらどこかへ行ってしまう。

 

 

 

ああ、全く。どうするべきか。折角ならドリンクや食べ物も楽しめばいいのだろうが、悲しいかな小心な為にそれをすら満足に楽しめず、そのかなり美味しいだろうそれらも、ぼーっと食べることしかできない。

 

かといって当然、見ず知らずの誰かに話しかける度胸も湧いて来ない。

これが普段ならばするりと出来ただろうが、こうも…なんというか、豪勢な服を着こなしている人しかいないとなるとどうしても気後れする。

 

結局、また端っこに行くしかなくなる。うーん。周りの迷惑になっていなければいいが。

 

 

 

 

と、そうして端に居ると。

同じく端に蹲っている人を見つける。ウェーブがかった長髪からすると恐らくは女性の方だろう。周りを見渡してみるが、スタッフの方も誰も気付いていないようだ。

 

 

「大丈夫ですか?」

 

 

気付くと、身体が前に出てその人に話しかけていた。俺の顔に驚いたようだったが、やはりどうにも体調が悪くなってしまってたらしく、すぐにそれを気にしてる余裕すら無くなる。

 

顔色が青く、げっそりとしたその人に、少し失礼と服に触る。コルセットを緩めたり背をさすったりなどの応急処置を施したら大分マシになったようだった。

 

 

 

「すみません、色々とありがとうございます。

本当に助かりました」

 

 

「いえ、本当に大した事もしていませんし、また体調が悪くなってしまった場合も考えてスタッフの方に伝えて来た方が」

 

 

「…その前に貴方の名前を教えてもらえませんか。私、本当に気付いて貰えて嬉しくて…」

 

 

「え?いや、俺は…」

 

 

 

 

「私の学友ですよ」

 

 

 

 

びく。

つい、肩を揺らしてしまった。

それくらい唐突に、後ろから声が聞こえてきた。

 

 

 

「お具合が悪いのでしたら、人手を呼びましょう。そこで少し待っていただけますか。なあに、安心してください」

 

 

そう言われるとその人は「もう大分よくなりましたので」と、怖がるような様子でその場からそそくさと去っていってしまった。

…こいつ、周りから怖がられているんだろうか?

 

 

 

 

「…ハァーッ…

キミは…ほんといい加減にし給えよキミ」

 

 

「?何が…あとお前さっき『私』って言ってなかっ…」

 

 

 

中途で言葉が止まる。息を飲んでしまった。後ろから聞こえる声に顔を向け、その姿を初めて見て、ふと世界が止まったように思えた。

 

目の前に居るのは間違いなくシドだった。

 

問題は、その格好。さっきまでのスーツルックとはまるで違う。黒色がよく映える、瀟洒なドレスをその身体に纏っていた。黒曜石のようなその光沢は肌を隠し、眼の赤色を更に引き立てるようだった。

 

 

 

「……なんだい、その顔。

ほら、言うことがあるんじゃないか?」

 

 

「え、ああ。さっき一人称が私に…」

 

 

「そうじゃあなくて!

…もっと、エチケットがあるだろう!

女性に対してはさ!」

 

 

そこまで言われて、ようやく気付く。

なるほど、確かに言っていなかった。

心の中で留めてしまってた。

 

 

 

「…似合ってる。

いや、ほんと綺麗だと思う。

正直どう褒めようか迷ってるくらい」

 

 

そう言うと、一瞬きょとんとしたように顎元に手を置き、そのまま片手で口元を覆いながら笑い始める。

 

 

「へーえ?そうかい?そうかい。

当然だよ。ああ当然だとも」

 

 

にっこりと、笑みを顔中に浮かべて、喜色満面のままその場でくるりと回る。舞踏会に迷い込んだシンデレラが王子にその姿をアピールするような、無邪気な動き。少し赤らんだ顔が、どきりと胸を打つ。

 

 

 

「まったく、さっきのスーツ姿はまるで褒めてくれなかったからね。やっぱりキミはこういう華美でヒラヒラっとした女の子っぽい服装の方が好きなのかなあ」

 

 

「また人聞きの悪い。…というかこんな畏まった場で俺の癖を暴露するのをやめろ」

 

 

「おや、否定はしないんだね?

まあいいや、そこら辺の追求はまた今度」

 

 

追求自体はされるのか…と頭を悩ませていると、トントンと、腕を叩かれる。注射の前に静脈を出すような動作で、静かに。

 

 

 

「人混みで少し疲れたろう。

というかボクが疲れた。だから外に行こう。

とっておきの場所を知ってるんだ」

 

 

そう事もなげに手を差し出される。

 

 

 

「用事はもういいのか?」

 

 

「最低限は済ませて来たよ。

それに用事の一つは着替えだったんだ」

 

 

「なるほど。それじゃ、お言葉に甘える」

 

 

 

 

その手を取る。瞬間、小さな力が俺の身体を導いていく。

人の波を掻き分けて、先へ。あっという間に入り口から外へ。喧騒が遠く聞こえる。

 

 

ぶるりと身体を冷気が突き刺す。脂汗を掻きそうだった身体に少しちょうどいいといえば、ちょうどよかった。

 

同じことを考える人が居たのか、外には思いのほか人がいる。ただ皆、喧騒に疲れた故に外に出たからか物音は静かで、また、誰もかもが話しかけてこようとはしてこなかった。

 

 

「ほら、こっちこっち」

 

 

更に手を引っ張られ、人気の少ない所に。

どんどんと進んでいく。

 

 

たどり着いた所は、人っ子一人居ないような場所だった。なるほど、確かにとっておきの場所だ。少し枯れかけた芝生と、錆びついたベンチだけがそこにはある。どうしてこんなとこを知ってるか?といった疑問は不思議と出てこなかった。

 

 

 

「ふう、やっぱりここは誰もいないね。

さあさ、キミも座ってお休みよ」

 

 

 

そう、どかりとベンチに二人で座り込む。示し合わせたわけでもなく、そのままただ空を見上げた。すっかり日が落ち、冷え渡った夜空は星が綺麗に映っていた。

 

 

 

「迷惑だったかな」

 

 

「ん?」

 

 

「いやね。今日のお誘い善意100パーのつもりでやったんだけど。ただキミが萎縮してしまっているみたいだったし。少し申し訳なくなってしまったんだ。

…迷惑だったかな」

 

 

「まさか。本当に貴重な体験だったと思うし。

何より、お前のそんな綺麗な格好が見られると思わなかったから。それだけでと今日来て良かったと思ってるよ」

 

 

「……そういう事ばっかり言うからほんと、良い加減にしろって…いや…はぁ」

 

 

空を見上げていたシドはそう呟くと、なんだかとても懊悩しているように頭を抱えて下を向いてしまう。灯りは最低限あるものの、その顔を伺うことはできなかった。

 

 

「…よっ、と!」

 

 

すると、出し抜けに。彼女が勢いよくベンチから立ち上がった。何かを誤魔化すようなそれは、ただ次の動作でその怪訝をかき消された。

 

シドはすっと手を差し出し、言う。

 

 

「手を」

 

 

「ん?」

 

 

「…『手を取って。ねじを回してくれ。

そうじゃなきゃ、ボクたちは踊れない』」

 

 

 

おっと、聞いたことのあるセリフだ。

これはなんだったか…

 

そうだ。学園祭で演劇をやるって時に付き合った練習時のセリフだ。それ自体は結局無くなってしまったが、セリフは未だに覚えている。

 

 

 

「えーっと…

『君のネジはとっくに巻いてある筈だ。

でも、ダンスの申し出は喜んで受けよう』」

 

 

 

キザすぎるセリフを恥ずかしくなりながら答え、手を差し出す。差し出された手に重ねるように。

 

 

「ハハ、いいね!」

 

 

「うわっ!」

 

 

ぐいと引っ張られて、そのまま上半身を支えられる形に。ワン・ツー、ステップでそのままくるりと体勢が入れ替わる。

 

 

「お、おいおい!」

 

 

「そおら、ダンスをしようじゃないか!」

 

 

 

嘘つけ。これがダンスならラジオ体操は文化保護の対象だ!そんな事も言えないまま、ただ、俺は振り回されるだけ振り回され、シドはそれをけらけらと笑いながら動かしていく。

 

 

 

「ちょっと、待っ…」

 

 

「ハハ、待ーたない!足が止まってるよ!」

 

 

 

ペースが上がっていく。

ステップ、ステップ、ステップ!

なんとか転ばないように、目が回りそうになりながらなんとかかんとかついて行く。もう、なんだってこんなにテンションが高いんだ!

 

 

そう、ひーこらと身体をついて行かせてると内に。

ばん、と布が張る音がした。

 

 

 

「きゃっ…!」

 

 

「!」

 

 

 

今の音は思い当たる節がある。スカートの裾を踏みしだき、布が張り、足が引っかかる音。

そうなるとぐらりと重心が崩れ…

 

 

 

「…っと」

 

 

 

……なんとか、地面には激突させずに済んだ。これで怪我なんてさせようもんなら、俺はこの場から帰れなくなりそうだ。

 

 

「はしゃぎすぎだ、バカ」

 

 

「…誰がバカだい、馬鹿」

 

 

胸に抱き留めるような姿勢になってしまっているが、彼女は意外とその状態から急いで離れようとはしない。むしろ、脱力しているかのようだ。唐突に転び、気が抜けているのかもしれない。

 

その顔の近さから気恥ずかしくなり、つい顔を逸らす。

 

 

 

 

「大丈夫か?挫いたりしてないか」

 

 

「ああ、おかげさまで無傷だよ」

 

 

「……ったく、楽しくなる気持ちはわからないでもないが。お前らしくもないんじゃないか?」

 

 

 

「…たしかに、ドレスでこんなに動いたのは浅はかだったかも。でもボクだってなにも考えてなかった訳じゃないんだよ」

 

「……だって、ね?ほら。

こうやって古賀くんが受け止めてくれたじゃないか」

 

 

 

ギュッと、俺の胸に触れた彼女の手に力が入る。

強く強く、その腕に熱が籠るのを感じる。

 

 

 

 

「……ねえ。前のキスを覚えてるかい?

…あの時、本当は唇に、と思っていたんだ」

 

 

「ね。だあれも見てないよ。

今ここで、出来なかった事をしない?皆にはヒミツで」

 

 

「…じょ、冗談は……」

 

 

「冗談や酔狂でキスなんてしないよ。ボクがそんなふしだらな子に見えてた?だとしたら、悲しいなあ…」

 

 

 

バッと、恥ずかしさや照れで逸らしていた顔をシドに向ける。そういうことは本当に好きな人にやれ、と。

きっといつものようにニヤニヤとしたニヤけ顔なのだろうと。

 

 

彼女の顔は、うるうると目が潤み、頬が紅潮していた。笑みはそこには無く、少し不安げな口元がきゅっと閉められていた。

 

いつもは饒舌な、動かないその唇が、いつになく扇情的に見えた。涙に潤んだ赤い目がルビーのようだった。

 

それに引き寄せられるように、顔が近づき…

 

 

 

 

 

「…へっ…

 

 

 

…くし!」

 

 

 

 

……危うく、飛沫を彼女にかけてしまう所だった。なんとか顔を逸らすのが間に合った。

 

 

そうして、ふと正気に戻る。

今俺は何をしようとしてた?

今、もしくしゃみが出なかったら、俺は…!

 

 

どくん、どくんと心臓が耳に鳴る。

顔が熱くなる事を感じる!

 

 

 

「ハハ。中、戻ろうか。

ボクも身体が冷えてしまったよ」

 

 

「ッ!あ、ああ…」

 

 

 

…そこからは、俺は一言も言葉を発する事が出来なかった。

気まずいやら、恥ずかしいやら、色々でどうしようもなくなってた。いつも通りに接そうとすればするほど、いつも通りってどんなだったかわからなくなってしまった。

 

 

俺が…

…俺なんかが…

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

「た、だいま……」

 

 

「あ、おかえりなさい。

…どうしたんですそんな疲れて」

 

 

 

明らかに憔悴した俺を見て、鈴が少しだけ引くように聞いてくる。

それらの要因を全部言うわけには行かない。

だからただ一つ。

 

 

 

「……なんだかもうな…

色々と触れない世界に触れてた気がする」

 

 

「?

…ひとまず、今日は早く寝た方がいいのでは?」

 

 

 

「そうする…」

 

 

 

 

 

 

……その夜俺は夢を見た。

 

 

ワン、ツーのタンゴのリズムを踏む悪魔がその唇を静かに奪ってくる、そんな夢。

扇情的に、淫靡に。

地獄へのステップを、それでも幸せに。

 

 

その悪魔の眼は、赤く。

そして底冷えするほど、美しかった。

 

 

……そんな夢を見た事に、少しの罪悪感を感じた。

 

 

 

 

 

 




あけましておめでとうございます。しこしこやって行きますので今年も宜しくお願いいたします。


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毒餌は甘く、酸っぱく(古賀鈴)






 

 

季節が過ぎるのは、あっという間だ。

雪が降ったと思えば、すぐにクリスマス。

クリスマスが終わったらそのまま冬休み。

 

もうそのまま、すぐに年末だ。

そうして、皆が家にいる機会が増えた。

ただもちろん、そうなってもいつも通りに日々を過ごすだけだ。

 

そう、いつも通りに…

 

 

 

………

 

 

 

 

「鈴、痛いとこはないか?」

 

 

「鈴、どこか体調悪くは?」

 

 

「鈴、その…なんかやろうか?」

 

 

 

……顔を見るたびにちょっとずつ世話を焼きたくなってしまう。それは以前の事がどうしても脳裏に浮かんだ事が大きい。失踪や家出などはただ俺の勘違いであったけど、それが心配のタネになってしまったのは確かだ。

 

鈴の一挙一足にあたふたと反応してしまう。

何か力になれるなら…と声をいちいちとかけてしまうし、なんだか気まずくなってしまう。

 

 

その行動の代償は…

 

 

 

 

「兄さん…その……

ハッキリ言ってちょっとウザいです……」

 

 

 

「グハァッ!」

 

 

 

……手酷いダメージとなった。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

「鈴も難しい年頃なんだから子供のときみたいにいちいち構えば、全部解決ってわけじゃないのよ。きっと」

 

 

「むう…」

 

 

 

母に軽く相談すると、忙しそうに準備をしながらも真摯に答えてくれた。

 

 

 

「まあ傷つく気持ちはわかるけどねー。

集は特にあの子とずっと一緒にいるし、お父さんよりお父さんの気持ちじゃない?」

 

 

「うーん…そう、かも……」

 

 

「だからこそ変化を受け入れるのも大切よ?…っと、それじゃ私行ってくるわ。買い出しは帰りのついでにしてきちゃうからね〜」

 

 

「オッケ。んじゃいってらっしゃい」

 

 

 

 

ばたんとドアが閉まる音。

一気に音が少なくなったような気がする。

 

さて、鈴はもう初めている筈だ。

俺もそろそろ動かないとな。

 

 

 

 

「大掃除を、します」

 

 

そう鈴に宣言されたのはついさっきの事だった。確かに今日は天気も良く、色々と干したり換気をするのにはうってつけだ。

 

にしてもずいぶんとまた急だなと言ってみると、最近の兄さんは部屋の清掃を怠っているという小言を貰ってしまった。

確かに最近、部屋に戻ればつい疲れてそのまま寝る事が多い。気付けば放っておきぱなしの漫画本や埃が溜まっている。

 

それの矯正にも丁度良いからと、強制参加で大掃除をする事になったのだ。まあどちらにせよ年内にやらねばならないとは思っていたから断る理由も無いけど。

 

 

 

「鈴ー!雑巾どこだっけ!」

 

 

「さっき階段に置いておきましたー!」

 

 

 

2階に居る鈴に呼びかけると声が返ってくる。

部屋と窓は鈴に任せてもいいだろう。そうなると俺は1階部分、特に綺麗にすべきはキッチン周りだろう。常々、油汚れやちょっとした溢しとかで汚くなっている部分を見て見ぬフリをしていたのだ。

 

よーし、やるぞ。

一度初めてしまうとスイッチが入るんだ。

こうなったら徹底的に綺麗に!

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「ふー…」

 

 

気付けばすっかりと日が暮れ始めている。

日没が早いのも確かだが、掃除に気を取られすぎて時計を見るのもふと忘れていた。

 

まあ、その甲斐もあってそこそこ綺麗にはできたのではないだろうか。

もっともっとやるべきだとも思うが、今日はこれくらいにしておこうかな。

 

 

 

鈴はまだ二階から降りてきていない。

それぞれ皆の部屋を掃除すると言っていたが、調子はどうだろう。

父さんの部屋は特に、家に戻ってくる時も少ないし、汚れが溜まってそうだ。あと俺の部屋もかなりアレなのでひょっとすると重労働すぎたのかもしれない。

 

大丈夫かな、と様子を見に行こうとしてから一瞬立ち止まる。またウザがられてしまってはちょっとショックだなと思い、そっと階段を登り、そっと扉を開いて見た。

 

 

鈴の部屋…では無い。

では俺の部屋だろうか。

居た。

 

見渡すと、すっかりと綺麗になっている俺の部屋。おお、ありがたい。

あとは仕上げといった所だろうか?

 

鈴はまだこちらに気付いてない。

何かに夢中になってるようだ。

 

 

 

「……うーん、ここでもない。

持ってない…事は多分無いと思うけど…」

 

 

 

……

 

 

 

「タンス裏、棚の下…あとは押し入れの…」

 

 

 

ぶつぶつと独り言を言いながらいやーに奥ばった所を探し続ける鈴。

探す。探すって何を。いやまあそんな何かを隠すような場所といえば、だよなあ。

 

 

 

「………探してるようなのはないぞ」

 

 

「うわぁっ!?」

 

 

 

声をかけるとその場で飛び上がるように驚き、なんならその場で転んでしまう。

いつもはこうはならないところを鑑みると、よっぽどもって驚いたらしい。

 

 

「いい、いつから見てたんですか!?」

 

 

「いやそこまでは…

ベッドの下を見始めたあたりかな」

 

 

「結構ガッツリ見てるじゃないですか…!

ふーっ…これはその…違うんですよこれ。

はたきを何処に置いたか分からなくなって」

 

 

ふー、とため息をついてから落ち着いた顔で理路整然とした風に語る鈴。ただその眼は少しだけ泳いでいる。隠し切れてないぞ、と思う反面そもそも誤魔化すのは無理筋だと思う。

 

 

 

「いや、まあなんだ…掃除してくれてありがと。すごい綺麗になってるじゃん」

 

 

「え、ああ、はい。当然です。

窓の外は危険なので拭けていない所もありますが…埃の一片も残っていないと自負してますよ」

 

「後は断捨離ですね…こればかりは私が勝手にする訳にも行かないので」

 

 

「う、そうだな…いい加減に処分しないと」

 

 

 

どうにも、誰かから貰ったものだとか本や教科書などの過去の物を処分していくのが下手というか、つい取っておこうとしてしまう。それのせいでデッドスペースが増えてるのは確かだ。

 

 

「まあ日も暮れたので今日はこれで終いにしましょう。後は明日以降に少しずつ」

 

 

「ああ、そうだな…」

 

 

 

終わりだと思うと少し疲れる。

ふーっと息を吐くと、互いに身体から力が抜けるような気がして、そのなんとも言えない脱力感に、二人で微笑んだ。

 

 

 

「あ。あと兄ちゃんはそういうのに興味持つのは当然のことだと思うから。大丈夫だぞ」

 

 

「だ、だからさっきのは違うんです!

違うんですってば!!」

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「さて、後は料理の準備でもしてしまいましょうか。下拵えなどはするに越した事はないですし」

 

 

 

行動の弁解をあらかたし終えた鈴が、うんと伸びをしてからそう立ち上がる。

 

 

「そう連続して動かなくても良いんじゃないか?まず、いっぺん休憩したらどうだ」

 

 

「よくもまあ…

兄さんがそれを言えたもんですね…」

 

 

 

…そう言われると何も言えなくなってしまう。

いや違うんだって。確かに今また拭き直しとかしてるけどさ、一回場所を移してから戻ってくるとまた汚れが気になったりするだろ。しないか?

 

 

 

「…まあ、それならそうですね。

お言葉に甘えて、少しゆっくりしましょうか」

 

「勿論兄さんもですよ。

ほら、一旦中止して。座ってください」

 

 

「え゛…あ、ああ。わかった」

 

 

「何を『予想だにしなかった』って感じの声を出しているんですか。…逐一私に行動を聞くくらい心配してくれるなら、こういった要請をこそ素直に聞いてください」

 

 

「……はい、そうします」

 

 

「ん、わかれば良いんです」

 

 

 

ソファーに二人で並んで座る。

…なんだかよくわからない沈黙に包まれる。

かといってTVをつけるような程でもない。

 

 

 

「……あっそうだ、甘酒でも入れようか。

前買ってきたんだ」

 

 

「ほら、またすぐ動こうとする」

 

 

「インスタント!インスタントだからそんなじゃないから!」

 

 

「…それなら頼みます。が、完璧にワーカホリックですよそれは」

 

 

それは確かに…返す言葉も無い。

まだ学生なのに仕事中毒とはこれ如何に、とは思うが、言わんとしている事はわかる。

ただどうにも動かないと落ち着かないんだ。

 

 

そう思案している内に、お湯が沸く。

結構長いことぼーっとしてたらしい。

 

 

「ほい、熱いから注意してな?」

 

 

「それくらい大丈夫ですよ」

 

 

「…っと、そうだな。そういうとこがウザイって言われたばかりだった」

 

 

 

自分に戒めるように、そう言う。すると鈴がバツが悪そうにもにょりと口を動かす。

 

 

「いえ、その…前はすみません。流石に、言い過ぎました。兄さんは善意からしてくれたことだったのに」

 

 

 

少し恥ずかしそうに、顔を逸らしながらそう謝ってくる。悪いのは俺だから謝る必要なんてないんだけどな。鈴は優しい子だ。

 

 

「ただ少し…いやだいぶ…いやかなり纏わりつかれて面倒くさく思ってしまって…」

 

 

 

……優しさからくるフォローが尚更傷を抉ってくるが。というかこれ本当にフォローか。

 

 

 

「変に、気を使う必要なんてないんですよ。

…その…気持ちはわかりますが…」

 

 

 

静かにそう呟いた。

気持ちはわかる。そう、わかるだろう。

危なっかしく、急に居なくなってしまうかもしらない。そんな気持ちを俺は今回が初めてだったが、鈴は直前に。そしていつも思っていたのだから。

 

 

 

「…そうだな。

実は、前俺の看病をしてくれた時とかも流石にオーバーだな、とか思っちゃってたんだが…」

 

 

「ようやく気持ちがわかった気がするよ。大事な人がいつか居なくなるんじゃないかって思うとこんなにも、不安になるもんなんだな…」

 

 

 

間が空いた。変なことを言ってしまったか、と不安になり始めたくらいの後。

鈴が小さく震える声で呟く。

 

 

「大事な人、ですか」

 

 

「?ああ、そりゃそうだろう。

鈴が大事じゃないわけないだろ」

 

 

「それは…」

 

 

話そうとして、そのままやめてしまう。

代わりに、会話に使われる筈だった息がため息になって吐き出される。

 

 

 

「……罪な人」

 

 

「何がだよ」

 

 

「そういった、自覚すらない所ですかね」

 

 

 

言いながら、鈴が立ち上がり、座ったままの俺の頭を撫でられる。こうされると妙にむず痒く、恥ずかしくなってしまう。

 

 

 

「それじゃ、そろそろ動きましょうか。

そうだ。それなら、兄さんに手伝って欲しい事があるんです。頼めますか?」

 

 

「!おう、任せてくれ!

力仕事か?掃除か?」

 

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

「…下拵えを手伝ってほしいって…今日は俺が調理番なんだから、むしろ俺が手伝われる側なんじゃないのか?」

 

 

「細かいことはいいんです。

いいですか?いいんですね?」

 

 

「お、おお…なんだか最近なんか、押しが強くなったよな鈴…」

 

 

「頑固者が私のすぐ近くに居ますからね。

影響を受けちゃったんでしょう」

 

 

「…それ、俺の事?」

 

 

「他に誰が居ると思うんですか」

 

 

沈黙を紛らわすようにつけたラジオからはゆったりとした音楽が聴こえてくる。今年にヒットしたそれは、キッチンの音と混ざって、まるで別の曲のようにも聴こえてくる。

 

 

ちらりと隣を見る。

器用に、大きな手を動かす兄の姿がある。

 

 

 

「『変化を受け入れるのも大切』、か」

 

 

「?何の話ですか?」

 

 

「いや、当然なんだけどさ。鈴も俺の知ってるまんまじゃないんだよなあって思ってさ」

 

 

「…そんな変わりましたか?」

 

 

「ああ、自覚はないかもしれないけどな。

でもいい方向に変わってると思うよ、俺」

 

 

 

変わったのだろうか。

私に、あまり自覚はない。むしろ、変化はしないでいたいと思っていたのだから。

それでも否応なしに変わっていく。

 

それならば、もっと。

自分が、変わりたいと思うように私は変わっていけるだろうか。私が、心が望むように。

 

本当は、なってはいけなくとも。

 

 

とくんと心が高鳴る。

それは、背徳が齎すときめきでもある。

 

 

 

 

「その…なにをやってほしいかって、聞いてきましたよね。私に」

 

 

「ん?ああ。もしあったらでいいけどな」

 

 

 

急な話題の変換に戸惑いながらも、兄さんはそう答える。野菜の皮を剥くしゃりしゃりとした音とラジオの音が機械的に響く。

 

 

 

「……私、自分で言うのも何ですが、結構無欲な人間なんです。何かが欲しいとなる事は、あまり無い。無いし、きっと貰う事も嬉しいけれど、そこまで」

 

「ただこのままで居させて欲しい。何も変わらないで欲しいし、だからこその無欲だったんだと思います。それが私の望み……でした」

 

 

 

『そのままでいて欲しい』は、無欲に見えて、その実一番の強欲だ。

だからそれには手が届かない。

きっと二度と、そうはならない。

 

ならば、だからこそ。

 

 

 

「『でした』…ってことは?」

 

 

「はい。兄さんの言う通り、少し、変わったのかもしれません。それまではそうだったのに最近は…」

 

 

刃物を持っていないことを横目でちらりと、見て。その腕にぽすりと、頭を預ける。

この固く、優しい貴方が私は。

 

 

 

「少しだけ。もう少しだけ。ちょっとだけ贅沢が言えるようになりたいな…って」

 

 

意を決するように、言った。

声が震えた。ギュッと目を瞑った。

何を言われるか怖くてたまらなかった。

 

 

言葉は、返ってこなかった。恐る恐る私は目を開けて、顔を上げてお兄ちゃんの顔を見た。

 

 

 

(………!)

 

 

 

そこには、野菜の皮むきをぴたりと止めて、呆然としたようにこっちを見据え、口が空いたままの彼の姿。

 

 

え。とだけ、言い。

そして顔を赤くして、止まっている姿があった。

 

 

それを見た時の、私の胸の中に広がったその気持ちは一体なんと表せばいいだろうか。

 

それは、初めて甘くて酸っぱい味がした。

二度と離れられない、毒餌のように鮮やかな、初恋にはなかった悦楽の味だった。

 

この味を分かったからこそ、離れられない。

二度と離れるという事が出来なくなる。

 

もう二度と、離れる気もないのだけれど。

 

 

 

寄りかかっていた貴方の腕をぎゅっと身体で包むように抱きしめた。

 

そして私は顔を上げて、ただ一言…

 

 

 

 

 

 

ぴんぽーん。

 

 

 

 

 

「……またですか!!」

 

 

 

つい声を荒げてしまう。前もそうだっただろう!いっそインターホンを壊しておいてやろうか!

 

……つい、冷静でなくなっている自分に気がつく。いけない、いけない。

 

 

 

「!お客さんかな?

俺が出るよ、うん」

 

 

「…いえ、私が出ます。

兄さんはそのまま火を見ていてください」

 

 

「あ、ああ。わかった…」

 

 

 

半分あぜんとして、呆けたようになっている兄を尻目にドアに向かう。

その姿は可愛らしく、長いこと見ていたかったけれど、もう一度押されたインターホンの音に正気ついて改めてドアに向かった。

 

 

まったく、誰だろうかこんな時間に。

 

 

 

 

(…ッ…)

 

 

ドアを開ける前、少し嫌な予感がした。

これもまた、デジャビュ。そしてこういう嫌な予感の時は、とても当たってしまうのだ。

 

 

ただそのままでいる訳にもいかず、ドアを開けた。するとそこにはある一人の女性が居た。

ウェーブかかった髪型をそのまま流した、少し気弱そうな女の人。

 

 

そうだ、そこには…

 

 

 

「急にすみません。ええと…私、以前パーティ会場で助けていただきまして、その時のお礼をと思いまして」

 

 

「その…古賀集さんはご在宅でしょうか?」

 

 

 

…毒餌を啄ばんだ小鳥が、また一人、いた。

 

 

ああまったく、あの人は。

心の中で、歯噛みをした。

 

 

 

 

 




New Challenger!


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花紅柳緑(浮葉三夏)






 

 

 

「兄さん、お客様です」

 

 

「ん?ああ…俺に?

わかった、とりあえず中に入ってもらって…」

 

 

「いえ、外でいいと」

 

 

「そうか。…なんか怒ってる?」

 

 

「何も」

 

 

「…?」

 

 

 

明らかに機嫌を害した様子の鈴を怪訝に思いながらも、玄関に向かう。外はすっかりと日が暮れて、太陽の暖かさも消えて久しい寒さだ。

 

息も白くなるような暗がりにその人はいた。

街頭の明かりは彼女の少し明るい髪色と、疲れている顔を映し出している。

 

その、隈がかかった顔を見て思い出す。

そうだ、この人は…

 

 

 

「─覚えていませんよね。私は」

 

 

「ああ!あの時の!

あの後身体は大丈夫でしたか?」

 

 

 

この人は、あの時のパーティ会場で気分を悪くして倒れていた人だ。あの時、最後まで介抱することもできなくてずっと気になっていたんだ。あの後探しても見つからず、ずっと心に引っかかっていた彼女だ。

 

 

 

「……!」

 

「…はい、はい…!お陰様で、私…」

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

影が薄い人間というのは居る。誰かに嫉まれるでも無く、疎まれるでもなく、ただその場にいる人間からの認識が薄い人。

 

例えば宴会の時に、急にその場から去っても気付かれず、最後の会計の時に初めて「そういえばあいつはどこ行った?」と探されるような。そしてまた、まあいいかと流されるような人間。

 

 

 

そういった人種の一人が私だと思う。

 

自分で言うのも何だけれど、見た目はそう悪くない。体付きも、そう極端に悪いわけでもない。それでも、いや、だからこそ周囲に埋没する。没個性的になってしまっている。

 

 

それなりに何かをこなす事は得意だと思う。

人並みに頑張る事も、出来ると思う。それがまた地味であっても、それでもいいとも思う。

 

 

私は姉さんのようにはなれないから。

あの人みたいに、輝かしく動く人には。

私はきっと、輝く事は出来ない人間だ。

 

 

 

「ねえねえ、パーティに招待されてるんだけど、貴女これに出てみない?」

 

 

 

……そう、姉に言われたのは急な事だった。急に私の家に来たと思えば、お茶も出す暇もなくそう提案されたのだった。

 

 

 

「あ、ごめん。確認してなかったけれど。

貴女、好きな人とかは居ないのよね?」

 

 

「ええ、まあ…」

 

 

「ならよかった!

…お節介かもしれないけど貴女ほら。その、婚期を逃しがちな仕事でもあるじゃない。だから出逢いの機会は増やした方がいいわよ」

 

「幸いここにはお金持ちの人がいっぱい集まるらしいし。いっそ玉の輿をがっつり狙っちゃいなさいな」

 

 

「はあ…」

 

 

「貴女もう、今年で26でしょ?そろそろ誰かとくっついて私も親も安心させてあげなさい」

 

 

 

ウィンクをされながらびしりと便箋を渡さる。

ぼんやりと、考える暇もなく招待状を受け取った。それに書かれた場所を後から調べてみると、とっても豪勢な所で。気になる反面、既に気遅れもしてしまっていた。

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

「はあ、ふう…」

 

 

 

結局来たのは良いけれど、豪勢なホールや内装にただ呆けて頭がクラクラするばかりで。誰かに話しかけられたときもなんとか対応はできていたと思う。けれど、内心はいっぱいいっぱいで仕方が無かった。

 

締めたコルセットが圧迫感を与える。着慣れないドレスがぎゅうと私を絞め殺すようだった。その圧迫感は弱い私の心が作り出しただけの勝手なダメージだったかもしれない。

 

 

 

「…う…」

 

 

 

溺れた子鹿が藁でも掴むように、人気の少ない端の方へと寄る。頭がくらついて立っていられないようだった。最近、仕事の疲れか、立ちくらみが癖になってしまっている。

 

 

端に居る私を、誰も気づかなかったのは幸いとは言っていいかもしれない。こんな姿を誰にも見られたくはなかった。せっかくのこの豪奢な場も台無しになってしまう。

 

 

(………私は……)

 

 

 

姉さんには、申し訳ない。申し訳ないけど、私きっとこの場に来るべきじゃなかったんだわ。

私にこんな場所は似合わない。似合わないし、私なんかにはそぐわない。相応しい場じゃない。

 

シンデレラのような絢爛に憧れる事はあった。

けれどもう、憧れるような歳でも、存在でもない事はわかってしまっているのだ。

 

 

ふと、黒曜石のようなドレスを着てダンスをする、赤い眼の令嬢が目についた。

 

ああ。きっとああいう人こそが相応しい。

私にはもっと、更に隅がお似合い。

 

 

 

壁に寄りかかって、ぎゅうと目を閉じる。

訳もなく涙がじわと浮かんでくる。

 

 

なんだかとても惨めだ。それは嫉みだとか羨みが全くないと言ったら嘘になる。

 

けれどそれよりも、こんな所で顔色を悪くして何もできない自分を仕方ない、相応しいと受け入れて、あまつさえ安心している自分が。

 

いつも通りに『誰からも見つけて貰えない』自分が、惨めで仕方がなかった。

 

 

 

(…う、う…)

 

 

頭痛と立ちくらみに耐え切れなくなって、床に蹲ってしまう。ああ、いけない。せめて周りに迷惑にならないようにゆっくりとこの場を去ろう。それが唯一私に出来ることでもありそう…

 

 

 

 

 

「大丈夫ですか?」

 

 

 

心配の声音、しかし物怖じしない。

そんな声だった。

 

気付かれた。気付かれてしまった。

びくりと肩を震わせて振り返るとそこには…

 

…180後半、いやそれ以上はある。それほど背丈の大きいタキシードの人物が、そのごつごつとした手を私に差し出して来てくれていた。

その顔には、大きな火傷跡があった。

 

 

 

「えっ、いや、私は…」

 

 

「失礼します。

…おそらく酸欠ですね。立てますか?」

 

 

「…難しそうです」

 

 

「……ドレスに手をかけてもいいでしょうか」

 

 

「え…」

 

 

「多分、コルセットの締め過ぎです。

息がしにくくなるし、気持ち悪くもなる。ですので緩めるのがひとまずの処理として良さそうなんですが…

いや、すいません。女性の人を呼びましょう」

 

 

そう言うや否や、その男の人は周りを見渡す。そのまま何処かに歩いていきそうになった、その人の手を。

気付けば私はそっと握っていた。

 

 

 

「…大丈夫です」

 

 

「…!わかりました。出来るだけ目を逸らしますので、安心してください」

 

 

 

背のファスナーが開けられる感触。

そうしてぐっと圧迫感が少なくなる。それは物理的圧迫もある。そして、勝手に感じていた精神的圧迫が、ぐいと取り除かれた事もある。

 

そうだ。倒れている私を、見つけないで欲しいと思っていたのは確かだった。こんな醜い姿は見られたくないと。

 

であるのに、実際に誰かに見つけられて、助けを差し伸べて貰うことのなんと嬉しく、救われたものだろう。

 

この人は、私を私の自縛から救ってくれた。

 

 

 

「…よかった!

だいぶ顔色が良くなったみたいで!」

 

 

 

そして、その人は今や、てきぱきと的確に行動をしてくれた姿とはまたうってかわって、安心したような、からっとした笑顔になっていた。

 

その顔には子どものような可愛らしさがあるようで。さっきまでの精悍な顔との違いに、胸がドキリと揺れた。

 

 

 

「…すみません、色々とありがとうございます。本当に助かりました」

 

 

「いえ、本当に大した事もしていませんし!また体調が悪くなってしまった場合も考えてスタッフの方に伝えて来た方が…」

 

 

「その前に。…貴方の名前を教えてもらえませんか。私、本当に気付いて貰えて嬉しくて…」

 

 

 

手を握り、そう聞く。

本当はただ感謝を述べるだけのつもりだったのだけれど、気付けばそんな言葉が出ていた。

 

息が少し荒いのは、まださっきの息苦しさが残っているから。頭がぼーっとしているのはまだ立ちくらんでいるから。そう思いながら。

 

 

「え?いや、俺は…」

 

 

 

「私の学友ですよ」

 

 

 

その声は、唐突に聴こえて来た。

冷たく、恐ろしい声だった。

 

それはさっき目に入った、黒いドレスを身に纏う、血のように赤い目の令嬢。

その眼が、私に向けられていた。

宝石のように冷たい眼だった。

 

 

「お具合が悪いのでしたら、人手を呼びましょう。そこで少し待っていただけますか?」

 

 

怖い、怖い。彼女の言葉こそ丁寧だったが、その中身は敵愾心のみで出来ていた。近寄るな、ここに居るな。早く立ち去れ。消えろ。

そんなような。

 

 

「…い、いえ。もう大丈夫です。

大丈夫ですので、それでは…」

 

 

私はその場から、すごすごと立ち去った。

まだくらくらと目の前が揺れるような私に、ただそれ以外の判断が出来はしなかった。

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

パーティが終わって半死半生のままに家に戻って、ベッドに倒れ込むようにして寝転ぶ。

まだどうしても頭痛がする。瞼も重く、思考が纏まらなかった。

 

 

ああ、ただそれでもあのパーティに出なければよかった、とは思えなかった。

 

 

 

(………)

 

 

あの人の顔が離れなかった。

 

頭に、あの火傷のついた純朴そうな笑みが。身体に触れられた、あの大きな手の感触が。どうしても思い出してしまって忘れられなかった。

 

 

参加者の名前を調べた。電話をして、感謝を述べたいからと聞いてみればあっけない程その人の情報は直ぐに知れた。

 

集さん。あの人はそういうらしい。

 

急に向かってしまっては迷惑だろうか。

かといって、手紙でも送ろうか。それこそ迷惑になってしまうんじゃないだろうか。

 

 

ただ、お礼を言いに行くだけだ。

そう自分に言う。

そうして、怖気付く自分を動かした。

 

家の前に着いた時でもその恐れは首をもたげた。急に来られても失礼じゃないか。アポイントメントを取ってもないのに。夕方に来られても。そもそもこのお土産は喜ばれるのかしら。

 

 

ええい、ままよと。止まっていても始まらないとインターホンを押した。

 

 

 

「…少々お待ちください」

 

 

少し機嫌の悪そうな少女が応対してくれて、その件の彼を呼びに行ってくれる。

 

待つ時間は、心臓の鼓動が鳴り切ってしまうのではと思うほどに長く感じた。

 

 

きっと、私の事は覚えてはいないだろう。私は影が薄いし、覚えられるような人じゃない。

ましてや、あの人は人助けに慣れているようだった。その中の一人など、すぐに忘れてしまう筈だ。

 

だからこそ丁寧に。私の事を覚えて貰いたい。

せめて、少しだけでも。

 

 

扉が開く。

そこには、シャツ姿の彼の姿があった。

意を決して口を開く。

 

 

「覚えていませんよね、私は…」

 

 

「ああ、あの時の!」

 

 

ああ。そう、食い気味に答えた。

それは私の不安やすら消し去ってしまうようだった。覚えてくれた。私を忘れないでいてくれた。

 

 

「……!」

 

 

くうと胸が熱くなる。

鼓動が止まらなくなるようだった。

 

 

 

「はい、お陰さまで、私…!」

 

 

 

言葉が詰まって出てこなかったけれど、少なくともお礼は言うことが出来た。あの時はありがとうございました。本当に助かりました。こちらはお礼の品ですもしよかったらと。

 

 

あまり長々と話をしてしまっても悪い。

もうすぐに立ち去ろうと、そうした。

そう思ったのに、最後に。

往生際が悪く。

 

 

 

「その。また逢えますか…」

 

 

そう聞いた。聞いた直後に、はっと正気に戻ったけれど遅かった。

 

 

 

「?ええ、またいつか」

 

 

 

ああ。笑顔をそう返す姿に、是非また逢いたいと思ってしまった。

もう、逢わない方が彼に取ってはいいだろうに。それでも。

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

新学期。

 

そう、あっという間だ。

あっという間に学校が始まってしまった。

俺含め、大半の人はもっと休みたかったけれどこればかりは仕方がない。

 

 

新学期を迎えた学校は騒々しく、そして新鮮な気分になる。新しい風が吹くような感覚だ。

 

新しい生徒に、新しい先生。ひさめたちもいよいよもって先輩となるのだと思うとなんだか鼻が高いような不思議な気持ちになるものだ。

俺がなっても仕方がないだろうに。

 

 

そうして学校内を歩く。向かうは職員室。

それこそ、新任の教師の方を、助けてやってくれないかと頼まれてしまったんだ。別に元々そういったことをするつもりであったから構わないんだが。

 

 

そんな風に薄ぼんやりとしながら歩いていたからか。どん、誰かにぶつかってしまう。

ぶつかっただけならまだしも、その人が持っていたであろう教科書等の書類をぶち撒けさせてしまった。

 

 

 

「っと、すみません」

 

 

「いえ、こちらこ…そ…」

 

 

 

 

おや。ぴたりと止まっていく相手の謝罪の声は、どこか聞き覚えがあった。

 

まさか。いや、そんなまさか。

 

そんなことがあるはずが無い。

ただの他人の空似だろうと、顔を上げる。

 

 

 

「………集、さん…?」

 

 

 

…その、まさかだった。

 

 

 

嘘だろ、と心の中で呟く。

まさかそんな。そんなことがあり得るのか。どんな可能性なんだ、これは。いや、実際になってしまっているのだから、疑いようがないか。

 

 

 

「…えっと。

とりあえずこれ運ぶの手伝いますよ」

 

 

「ああ、どうも、ありがとうござ…」

 

 

「いやいや、敬語なんて。

先生に使われたらちょっと居心地悪いですよ」

 

 

「あ…確かにそうで…そうね」

 

 

 

 

そう、拾い上げた荷物を手に、二人で並んで教室に向かい始める。

 

 

 

「まさか、学生さんだったなんて」

 

 

「あー、この背丈とこの傷ですもんね」

 

 

「いえ、違くて!その…とてもしっかりしてて、大人びたように見えたから。

…でも、確かに。よく考えたら学友って言っていたものね…」

 

「……まさか、こんなすぐに逢えるなんて」

 

 

「いや、俺も驚きですよ。

まさかこんな形でまた会う事になるとは…

教師さんだったんですね。お仕事」

 

 

「ええ、まあ…

あまり仕事も、出来ないような教師だけど」

 

 

 

他愛の無い会話で廊下を歩いていく。

きっとおそらく、先生も俺と同じように、混乱する心をなんとかそんな当たり障りのない会話の中で整理しようとしていたんだと思う。俺は少なくともそうだった。

 

そうこうしている内に、目的の教室前に着く。ここにある教室が次の授業の場らしい。

 

 

 

「っと、俺それじゃあ…」

 

 

「ええ、ありがとうございます。

その…集、くん。その…」

 

 

 

そっ、と顔を赤らめ、目を少しだけ逸らしながら息を呑む。

その様子はとてもいじらしくあった。

 

 

 

「えっと…これから色々とわからない事があったら、先生、集くんに頼っていいかな?」

 

 

「!ええ、もちろん、是非!

えっと…

…すいません、そういえば名前…」

 

 

「あ、ごめんなさい。

確かに言ってなかったものね」

 

 

「…私…浮葉、三夏と言います。

気軽に、浮葉先生って呼んでね」

 

 

 

そう、にこりと笑った。

その笑顔は人目も付かないところに咲いた、手の触れられていない、綺麗な花のようだった。

 

 

 

 

花紅柳緑。

手を加えられていない自然のままの美しさ。また、そのさま。

 

 

 




浮葉三夏(ウキハ サンカ)
→26歳、国語教師。ウェーブかかった長めの髪の女性。少し影が薄く、それら由来で卑屈気味。自身をまっすぐ見てくれる人が少なかった為、そういった存在に依存体質気味。


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ソラノアオサヲ(菜種アオ)






 

 

 

「……いやあ、たしかに。多少抜け駆けしてボクだけの思い出にしようとした事は確かだ」

 

 

「ただこればかりは予想外というか…ボクもかなり牽制したしその上で連絡手段の妨害もしたんだけれど…まさかここまでされるとは」

 

 

「つまり、故意的ではないのですね」

 

 

「まさか!そんなことして何の得があるんだい。菜種さんだってわかるだろう」

 

 

「そうですね。……ところで、同盟だのなんだのぬけぬけと言っておいて、この有様ですか。抜け駆けだの、なんだの悪びれも無く」

 

 

「おお、怖い怖い。ただそれについては謝らないよ。どうせキミもそんな事はしてるだろう?いや、『これからする』のかもしれないけどね」

 

 

「………」

 

 

「だから、それを許すよ。

今回に免じてね」

 

 

 

 

電話を切った。確認が取れたのならばこれ以上会話をする必要はない。

 

どうしても話を聞く必要があった。一度見た光景。そしてその後に、彼本人から聞いた話について。

 

 

あの日、あの時。もし迷惑でなければと土産を持って彼らの家に向かっていた時。彼らの家の前で見たのは、見知らぬ女性がシュウに礼を述べている姿。

 

顔を見てすぐにわかった。

ああ、あの女性はきっと。

きっと、私と同じようなものだ。

もしくは、そうなるものだと。

 

ただそれでもそれに水を差す事は出来なかった。それを止める事は出来なかった。

 

 

 

彼は人を助ける。

ライフワークのように、もはや強迫観念のように、何かを見たら身体が動くような人だ。

 

ただその行動が単純に褒められたり、感謝される事は、母数に比べてとても少ない。

いいや、もっと多いのは感謝もされずに去られたり、怖がられて距離を取られる事だ。

泣き出されてしまう事すらある。中には、通報されそうになる事もいくつか。

 

だからこうして、助けた人に感謝をされる事は彼にとってとても嬉しい事であり、時間なのだ。だからそれを邪魔して無くしてしまう事は、とても偲びない。

 

それをただじっと見つめていた。心に沸々と、何かがおかしくなっていくのを感じ取りながら。

 

 

きんこん、とインターホンの音。はっと、鬱屈としていた心がそっちに取られる。そうだ、こんな事を考えている場合では無い。

 

急に心が弾み、少し息が切れるような足早さで玄関に赴く。扉を開ける前に、姿見で自分の髪を少し整える。

 

よし。

扉を開ける。

 

 

 

「どうぞ、いらっしゃい…ませ?」

 

 

「ああ、お邪魔します」

 

 

 

そこで微笑んでいる人は、笑顔のよく似合う、とっても大きな男の人でした。空の青さをそのままにぎゅっとしたような、爽やかな人。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

「お邪魔します」

 

 

さて、俺は今アオの家に来ている。

というのも年始に差し掛かり始めて少しくらいの頃に、アオに彼女の家に招待されたのだ。

 

家庭教師として面倒を見てもらっているのも当然ながら、学校でも色々と様子を見ている事について礼を言いたい、との事らしい。

 

礼を言われるような事ではない、むしろこっちが助かっているとそれまでは返していたのだが、再々の提案を断るのも失礼だと思い、喜んで行かせて貰うことになった。

 

 

 

「すみません。本来なら家族の皆で感謝をという話だったのですが、急に予定が入ってしまったらしく」

 

 

「あれ、そうなのか。

残念だな…一度お礼をと思ったんだけど」

 

 

 

いやに静かな宅内を怪訝に思った俺を見かねて、アオがそう補足してくれる。

皆さんに挨拶をしたかったけれど、それはまた別の機会になってしまいそうだ。

 

 

「その分、私がオモテナシします。

そこは安心してください」

 

 

「はは、期待しておく」

 

 

 

そう、するすると家の中を先導されてついていく。気付けば一つの部屋に辿り着く。

アオの部屋らしい。

 

 

「いいのか、入っちゃって」

 

 

「ハイ、どうぞ」

 

 

真っ直ぐに眼を見られて言い切られてしまっては、入らない理由もない。

なんだかよくわからない罪悪感みたいなものを抱きながら部屋に。

 

 

………

 

…一瞬、黙ってしまった。

その部屋はなんというか…

…最大限オブラートに包んだ上で、非常に殺風景と言う他無かった。

 

びっくりするほどに物がない。

最低限の寝台、机、本棚くらいしか無く、そしてその本棚もガラガラな上に占めている物は殆ど教科書などの教材だ。

あ、壁にチープなひょっとこの仮面が掛けてある。ただ本当にそれくらいだ。

 

 

 

 

「……綺麗な部屋だな!」

 

 

「そうですか?

そう言って貰えると嬉しいです」

 

 

 

 

無表情のまま嬉しそうに身体を揺らす所を見るとこの反応は正解だったらしい。

…今度、何かゲームや本でも勧めてみようか?

 

 

「えー…あ、そうそう。

お土産があるんだ」

 

 

 

俺にはだいぶ小さい机に座り、荷物を置いている時に今思い出したようにそれを出す。

 

 

 

「チョコレート、ですね?」

 

 

「ああ、うん。以前ちょっと手助けした人がお礼にって渡してくれたんだけど…美味しそうだし、折角だからみんなにも食べて欲しくてさ」

 

 

包装を剥いていくにつれ、無表情なアオのその目にキラキラと輝きが入り始める。

やはり彼女も、女の子の多分に漏れず甘いものはかなり好きみたいだ。

 

 

「…食べてみようか。

ちょっと残しておいてな」

 

 

「ハイ、そうしましょう」

 

 

そうして、幾つもある粒の内の1つを手に取り、二人で口に入れる。

とろけるような感覚と上品な甘味は香ばしく、とても美味しいものだった。

 

ちらりとアオを見てみると、まるで周りにパァと輝く表現がされたように、明らかに高揚していた。好物も好物だったらしい。

 

 

結構大きいサイズのパックだったが、中途で彼女が紅茶を淹れてくれたこともあり、二人して美味しいとかなり食べてしまった。

うーん、たまにはこんな贅沢もいいだろう。

 

 

 

「…とても美味しかったですね。もてなすつもりが、すっかりもてなされてしまいました」

 

 

「そんな事無いさ。俺の方こそ嬉しかったし」

 

 

「?紅茶、良かったです?

もう一杯飲みますか?」

 

 

「いや大丈夫。そうじゃなくて…チョコ食べてる時凄く嬉しそうだったろ?アオのそういう嬉しそうな顔を見れて、凄く嬉しくってさ」

 

 

「嬉しそう、でしたか…」

 

 

「ああ、うん。あんまり自覚はないかもしれないけど、そう見えたよ」

 

 

「そうですか。

…でも、確かにそうでしょうね」

 

 

 

少しだけ釈然としないような答えを聞きながら、微笑む。少しだけ服をパタつかせる。

 

ふと、彼女の顔が少し…いや、結構赤いことに気がつく。

 

 

「…顔赤いけど大丈夫か?

体調が悪かったりしないか」

 

 

そう聞いてみると、少しぽーっとしたようにゆっくりと口を開く。

 

 

「暖房を、効かせすぎたかもしれません。

少し暑いです…」

 

 

「あ、アオもそう思うか?

やっぱり暑いよな…」

 

 

 

ふむ、俺だけじゃ無かったみたいだ。

暖房の温度は少し下げたもののすぐに適用されるわけでは無い。ちょっと失礼して上着を脱いだ。

 

そしてアオもそれと一緒に上着を脱いだ。

…ちょっと待った!?

 

 

 

「まま、待った!ほら、俺の目もあるからちょっと我慢してくれ!」

 

 

「ガマン…?」

 

 

「暑いのは確かに嫌だけど、ほらその…その下結構インナーっぽいっていうか!布地がだいぶ薄いから…とりあえず着て、な?」

 

 

 

あたあたと今脱いだ上着を再びアオに被せる。

うーん、服が薄い…目のやり場に困る…

 

被せた瞬間、上着がまたぱさりと落ちる。そしてまたその上着に手をかけようとした時、ぐいとその手を引っ張られた。

前のめりに、おととっとバランスを崩す。

 

 

 

「そんなに、ワタシの肌が嫌いですか。

そんなに見るに堪えないですか…」

 

 

「へ」

 

 

『私は全然いいのに。

貴方にだったらいくらだってもう!』

 

 

「いや、ちょっ…」

 

 

「それなのに何がガマン!

ガマンしなくてはいけないほど嫌ですか私が!それならそうだってちゃんと言って下さい!」

 

 

急に、見たことも聞いたこともないようなアオの感情の爆発に当てられて、驚いて思考が数秒すんと止まった。

なんだ、何が起きてる?

 

 

 

「それは嬉しそうな顔もしますよ私は!うれしかったのは、これが美味しかったのも確かだけれど!シュウと一緒に食べれたからなの!どうしてわかってくれないの…」

 

 

怒っていたと思えば今度はくすん、くすんと涙を流し始めてしまう。顔はもう、さっきよりもさらに真っ赤っかだ。

 

 

…おかしい…いや、流石におかしすぎる!

 

アオがこんな急に感情を露わにするのもおかしいし、それに、俺の身体も火照りすぎてる。暖房の当たりすぎって感じじゃない。これは…

 

ハッ、と思い当たる節を思い、さっきのチョコのパッケージをよく見てみた。

そこには、小さくアルコール分の表示が。

 

 

 

(……なる、ほどなぁ〜…)

 

 

なるほど、二人してかなり食べたから、酔っ払うには十分だったらしい。

俺は図体がでかいからまだマシだが、アオは…

 

 

 

「ねえ…答えてください…

私は貴方にとって厄介者ですか…そんなに近寄って欲しくないのですか…」

 

 

縋り付くような、彼女らしくもないぐすぐすとした泣き声が俺の胸元から発せられる。

 

いや。彼女らしくもない、というのも勝手に俺が思っていただけで、本当はこれが彼女なのかもしれない。勝手に俺は、理想のアオの像を押しつけてしまって居たのかもしれない…

 

 

 

「……ごめんな。今までそうやって離れるようにばっかり言ってたせいでもあるよな」

 

 

泣いている彼女をそっと抱き留めて、とんとんと幼児をあやすように身体に手を置く。

暖かく、柔らかいそれに出来るだけ何も思ってしまわないように。

 

 

「そういう訳じゃないんだ。ただ、君はその…色んな人にとっても、俺にとっても凄く魅力的だから。そう距離を近くにされてしまったら、君自身が悪意に晒されてしまいかねないから」

 

「そうしたら、アオ自身がすごく傷付く事になる。そんなつもりは無かったと言っても、そんな理屈は通じないかもしれない。だから…」

 

 

「私はシュウ以外にはこの距離をしませんしシュウには『そんなつもりは無かった』なんて言いません」

 

 

「ん゛ん…ちょっと待った落ち着こう…」

 

 

 

ぐいと、胸の内にいるアオがぐっと更に身体を押しつけながらそう言う。

困った、止まる様子が無い。

 

 

「私はこうすると男の人が喜ぶと聞いていたからこそ当てていたのですが…それは迷惑でしたか?迷惑ではないのですか?ハッキリ言ってください。いやならやめます」

 

 

どこでそんな事聞いたんだと思いながら、一つの判断に苛まれる。

そうだ、ここではっきりと言ってしまおう。周りの眼もあって迷惑だからと言えば彼女の行動を止めることが出来る。少しだけ心が痛むくらいは必要経費だ。さあ言え、言うんだ。

 

 

 

「…………迷惑じゃないです…」

 

 

俺の馬鹿!

 

 

 

「ならやめる必要はありません。それともシュウ個人が、私の事を疎んでいるのですか」

 

 

「そんな訳ないだろ!」

 

 

「ならば、尚更やめる必要は皆無の筈です。

ゆっくりしてください。今は、二人きりです」

 

 

 

いけない、だんだんと頭が働かなくなってきた。何も考えられなくなってきた。

もういいんじゃないか。

 

がばりと起き上がり、寝台に彼女を置く。

そしてそのまま、覆い被さった。

 

 

「ぎゃうっ…」

 

 

それをした時にちょっと出た悲鳴を聞き、俄に正気付く。そして、しようとした事の重大さに一気に青褪めた。馬鹿か俺は。

 

これはアルコールのせいだろうか。そのせいにしてしまいたい。

 

 

 

「ご、ごめん!急に驚いたよな!?

もう触らないから許し…」

 

 

語末が消える。すー、すーと平穏な寝息を立てているのは目の前の彼女だった。すっかり酔いが回り切ってしまったのだろうそれは、ちょっとやそっとには目覚めそうになかった。

 

 

 

「………はぁーっ…

なんというか…色々と……」

 

 

 

パン、と思い切り自分の顔を挟み潰すように叩いて酔いを醒ます。あと邪念を祓う。

ベッドの上で熟睡をしている彼女にそっと毛布をかける。あとは書き置きだけ残しておこう。今日は一度解散すべきだ。

また翌日に謝罪と説明をしに行こう…

 

 

 

「…またな、アオ」

 

 

『ハイ…待ってます…ずっと…』

 

 

びくり、と振り向く。起きているのかと思ったが、どうやらただの寝言らしい。

 

なんだか会話が成り立ってるような成り立っていないようなその寝言だけを背に聞きながら、俺はその場を後にした。

ちょっと色々と悶々としながら。

…しばらく寒空に当たってこよう。

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

『それで、酔って寝てしまったというわけですか…嘆かわしい』

 

 

「…すみません。

折角機会を作って頂いたのに」

 

 

お母様に今日はどうだったのかを聞かれ、説明をする。幸いというか不幸というか、酔ってしまった時の記憶ははっきりとありました。

 

 

『まず、失礼を謝るようになさい。

明日に改めて来るそうですから』

 

 

「…!あ、明日ですか…」

 

 

 

少し痛む頭を抑えながらベッドに行く。ゆっくりと寝ていたせいで眠気はまるでないが、そうする他無かった。

 

 

 

その手から愛を知って。

その声から安らぎを覚えて。

 

そして、貴方のその優しさがこのどうしようもなく溢れてくる暗い感情の訳を教えてくれた。

 

貴方がいるおかげで、感情というものを始めて知ったかのようだ。貴方に再び会えてから、私の心はどれだけ乱されているだろうか。

 

 

貴方のおかげで自分の海の狭さを知り、空の青さを知れた。そのおかげか、せいか。

 

 

どんな顔をして貴方に会いにいけばいいのか。自分の顔が赤く火照っている事は、わからなくなってしまった。

 

 

ああ、どうしよう…

布団の中で、暴れてしまいたいようだった。

 

 

 

 



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紛紅駭緑(浮葉三夏)






 

 

がやがやと職員室が少しだけ賑やかになる。

その様子にふと気を取られて、ようやく今が昼休みであることに気付く。

 

 

いけない。ついまた周りが見えなくなってた。

ふーっと息を吐き、目元を指で抑える。

仕方がないのだけれど、来たばかりとなると、やはりやる事が多い。

 

こればかりは私がやらなければいけない事とわかっているけど、それでも多い物は多い。

 

あまり休み時間は取れないかもなと思いながら、傍から『昼ごはん』を出す。

 

 

 

「すみません。

ウキハ先生いらっしゃいますかー」

 

 

 

少し間延びした声が聞こえてくる。男子生徒の、少し低い声。その声に、ぴくりと身体が止まる。聞き覚えのある声、聞いたことのある声。聞きたい声。

 

 

 

「あ…こんにちは、集くん」

 

 

 

ちょっとだけ向き直って、彼の顔を見る。

座っている状態では彼の顔を見るには相当に顔を上げなければならなかったけれど、それはしかし、全く苦では無かった。

 

 

「ええ、どうも!これ、1年のノートだそうです。未提出の人の帳簿もここにありますから」

 

 

その大きな彼…古賀集くんは、そう言うと、とすんと机の上にそのノートの山を置いてくれる。ここまで持ってくるのは、意外と大変だから本当にありがたい事だ。

 

 

 

「ああ、ありがとう。助かります」

 

 

「いえいえ、ただ持ってきただけですし。…っと、ご飯の時間でした?邪魔しちゃいまいましたかね」

 

 

「いえ、大丈夫よ。どうせすぐ終わるし」

 

 

 

そう言うと、彼はじっとこっちを見据えてくる。なんだか少し居心地が悪いような恥ずかしいような気がしたけれど、しばらくするとその視線は私の手に向けられている事に気付く。

 

 

「……まさかなんすけど……

昼飯、それが全部じゃないですよね?」

 

 

 

彼は、ちょっとだけ青ざめた手でこちらを指さす。いえ、もっと具体的には私の手の中にあるカロリーバーと、机の横にあるゼリー飲料を指して。

 

 

 

「まさか!そんなことは無いわよ」

 

 

「そ、そうですよね…よかっ」

 

 

「流石にサプリメントは用意してあるわ。栄養のバランスは考えないといけないものね」

 

 

「……」

 

 

…あんぐりと口を開けている集くんの姿がいやに頭に残る。動揺が色濃く出たその姿だけれど、不謹慎ながら私はそれを少し、可愛らしく思ってしまった。

 

こんな顔も、するんだ。

 

 

 

「…ええと、集くんはいいの?

昼休み、終わっちゃわないかしら?」

 

 

ふと心配になり声をかける。

私なんかにかまけている間に、彼の時間は無くなってしまうのではないかという不安。

私に使っている時間は、無いのではないかと、

 

 

 

「え…あ、ああ。そうですね。

すいません、失礼します」

 

 

 

はっと正気を取り戻したかと思うと、その大きな体に見合わないくらいに、すごすごと静かに戻っていく。

 

そんな彼の後ろ姿を見て、口角が緩む。自然と笑顔になる自分をふと見返して、少し火照りながら首を横に振る。

 

誤魔化すように、サプリメントをじゃらりと幾つも飲んだ。水で嚥下をする。身体を上に伸ばすと、肩と首の周りがぱきりと音を立てる。

 

 

本当は、あまり良くないけれど。思ってしまうべきではないのかもしれないけど。

でも、あの子が来てくれて嬉しかった。

あの子の顔を見れて、喜ばしかった。

 

ほんの少しの休憩だけど、とてもリフレッシュになったようにも感じた。偏頭痛でこめかみの辺りがずきずきとするけれど、その痛みも少しだけ飛んでいったようだった。

 

 

さて、引き続き頑張らないと。

私は、私自身にそう言い聞かせる。

せめて今日言われた分くらいはやらなければ。あと、今渡して貰ったものの採点も行って、後はそうだ、帳簿に…

 

 

 

 

 

「…見てらんない…!」

 

 

…私は、そのまま仕事を進めていた。

これらの一連が、彼の心に一つ、ちょっとした火をつけてしまった事に気付かずに。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

「…ただいま」

 

 

「はい。おかえりなさい、兄さ…

…どうしたんですか帰ってくるなり慌ただしい」

 

 

「鈴、ちょっと明日の弁当当番代わってくれ。

俺が作ってもいいか」

 

 

「?別にいいですが。明後日は朝から忙しかったりするのですか。…いや、まさか」

 

「…さては、『また』ですか」

 

 

「ああ。…『また』なんて言われるほどやってたっけ俺そんなに」

 

 

「…まあ別に止めはしませんが…押し付けになってしまわないようにしましょうね」

 

 

「うん、そうする。

…あれ、箱もう一つどこだっけか」

 

 

「以前大掃除の時にそこに…

そうそう、そこです。

ついでに色々と手伝いましょうか?」

 

 

「いや、大丈夫。

これは俺がやらなきゃいけない…!」

 

 

「また変なスイッチ入ってる…」

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

ずきりと頭に鈍痛、それに眉根を顰めると少しだけ頭がふらつく。鉄分不足だろうか。葉鉄のサプリを増やさないとかな。

本当はもう少し寝る時間を増やしたほうがいいのだけど、そうも言ってられなそうだから。

 

 

じゃあねウキハちゃんせんせー、と親しく呼びかけてくれる女子生徒に笑いながら手を振る。そういう風に、仲良くしてくれる事はとてもありがたい事だ。もう少し提出物をちゃんと出してくれれば言うことはないのだけれど。

 

 

ずき、と頭にまた鈍痛。ちょっとだけ辛いけれど、後でとりあえず頭痛薬を飲んでおこう。

 

授業も終わり、職員室に向かう。

ピルケースは何処にしまってたっけと思いながら、ふらつきそうな足元を、出来るだけそうならないように取り繕う。

 

 

人並みに、普通にやる事が出来てないんだ。だからせめて、普通程度に取り繕うくらいはちゃんとしないと。

そう自分に言い聞かせる。

せめて、人並みくらいには、ちゃんと。

 

 

そんな風に歩いていると。ある一人を見つける。いや、見つけるというよりは、どうしても目に入る。職員室の近くに、とりわけ目立つ大きな人影がうろうろと待っていた。

 

わからざるを得ない、と思うのは、その背丈からつい目に写ってしまうからなのか。はたまた、私が無意識に彼を探しているからなのか。それはもう、わからない。

 

 

「!居た居た、先生!」

 

 

「あら、どうしたの?ひょっとして待たしてしまった?…何か火急の用事?」

 

 

「いや、全然そう言うわけでは。

ただちょっと渡したいものがあって」

 

 

「…?」

 

 

手には、一つの少し小ぶりの巾着。それをずいと、少し強めに差し出してくる。

以前、彼がそのような態度の時は、私を助けてくれた時だったと、ふと思い出す。

 

 

 

「ええと…何、かしら」

 

 

「先生、これ、俺を助けると思って受け取ってください。食えないものあったら残しちゃっていいので」

 

 

「え?」

 

 

「弁当です。それじゃ、すみません!この後ちょっと用事あって!」

 

 

「え!?あの、ちょっ…!」

 

 

 

急にぐいと渡されて、そのまま礼を言う暇も無く走り去って行ってしまう。

 

「廊下は走らない!」とその背中に向けて言うとぴたりと止まって、代わりに早歩きで歩いていってしまった。

 

 

半ば呆然としながら私のデスクについて巾着袋を開く。そこには少し無骨な2段の弁当箱があって、開くと色鮮やかなおかずたちが顔を見せた。

 

 

 

「…!おいしい…」

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

放課後。俺はぐいと背伸びをした。

ぱきぱきとどこかが鳴る音。

 

今日は生徒会は無く、代わりに他部活の力仕事の手伝いをしていた。倉庫の整理などは埃っぽく、力も必要なのでやらずに放置されてることが多いから丁度よかった。

 

心地よい疲労を身体に感じながら制服に着替え直し、廊下に出る。

 

 

 

「あ、もし…」

 

 

 

弱々しい声が、話しかける声。そっちを向く。そこにはウェーブかかった髪の、女の人。

俺の知っている、先生の一人。

 

 

「あ、ども。ウキハ先生。

…その、さっきは…」

 

 

ちょっとだけ気恥ずかしいような、気まずいように思いながら首を掻く。言い切る前に、彼女はにこりと微笑んで巾着袋をすっと手元に出した。

 

 

 

「これ、ありがとう。

その…とっても、美味しかったわ」

 

 

「そうですか?それはよかった…です」

 

 

「ええ、綺麗に食べちゃった。弁当箱は明日洗って持ってくるので大丈夫かしら?」

 

 

「あ、はい、それで…」

 

 

「うん、わかった。

忘れてしまわないようにするわ」

 

「……なんだか、あまり元気が無いように見えるけど、何か気になることでもあった?」

 

 

「え、あー…」

 

 

「…ごめんなさい、私の勘違いね。

私いつもこうやって失敗ばかりで…」

 

 

「いや、違うんです!気になること自体はあるんですけど、その…言うような事かなーとも思って」

 

 

「どんな事?」

 

 

「いや…その、急に渡しちまってすみません。つい衝動的に作って渡したはいいんですけど、渡した後に冷静になって。他に昼食持ってきてたんじゃないかって思って…」

 

 

「あら、行動を移してから変なところを気にするのね。

…ふふ、大丈夫。先生とっても助かった」

 

 

 

力無く微笑むその姿は少し目を離せばくらりと倒れてしまいそうな程に見えて、不安になる。彼女はいつもあんなような食生活ばかり送っていたんだろうか。と、お節介な心の声が声を出してくる。

 

 

「心配をしてくれてる、の?」

 

 

「…そうっすね。

あん時もでしたけど、なんていうかすごく疲れてるように見えて…」

 

 

「ふふ、正直ね。

…その…それなら、なんだけれど」

 

「今からここの見回りをするの。

…本当に、もし良かったらだけど。

一緒に回ってくれない、かしら?」

 

 

顔を斜め下に逸らし、妙にバツが悪そうにぎゅっと苦しそうな様に言っている姿を見て、断れるわけもない。断る理由もない。

二つ返事で了承した。

 

 

静かな廊下を二人で歩いていく。

外は日が長くなり始めたとはいえしかし、それでもやはり日が落ちるのはとても早い。

窓の外はすっかりと暗闇だ。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

きっと彼自身、やるべき事や、やった事は他にあるだろう。ただでさえ私の為に弁当を作ってくれたのに、更にこのような善意につけ込むような真似をするのは、とても情けなかった。

 

それでも、そんな想いをしてでも、彼と少しだけ話がしたかった。少しだけでいいから。

 

 

 

「今日は、本当にありがとう」

 

 

「いやいや、本当に自己満足でやっただけなので!むしろ俺が感謝したいくらいです」

 

 

「こら。感謝は受け取る時にちゃんと受け取らないとかえって失礼になってしまうわよ?」

 

 

「う。すみません、先生」

 

 

「ふふ。…無理をさせちゃったか不安だったけれど、その様子では大丈夫みたいね」

 

 

「ええ、手間は全然変わりませんよ。もしよければ明日以降も作ってきましょうか?」

 

 

「そ、それは流石に悪いな…!?それに、先生それに慣れちゃったらもう戻れなくなっちゃいそうだし」

 

 

 

…ほんとは、断らなければ良かったかな?なんてちょっと思ってしまいながらも、それでもちゃんと言わないと。

私なんかに使っている時間よりも、彼の時間は、彼の、彼が自分に使うための時間にしてあげたいから。

 

 

本気でそう思っているなら、この見回りも私一人でやればいいのに。そうわかっているし、思っている自分がいる。でもそれでも、この時間をそれでも確かに欲して、そして終わらなければと思っている自分もある。

 

 

くしゃりとした内面そのままに、今なら言えるかもしれないと思って口を開く。

 

 

 

「……浮葉先生、としてじゃなくて。私個人、浮葉三夏、個人として。お礼も言わせてください。あの時は本当にありがとうございました」

 

 

「…な、なんですか急に。

それに敬語なんて、そんな」

 

 

「…敬語は、これが最後ですから勘弁してください。一言、言いたくて仕方がなかったんです」

 

「あの日、私に手を差し出してくれてありがとう。今日も、私に手を差し伸べてくれてありがとう。私を助けてくれて、ありがとうございます」

 

 

 

あっけらかんとこっちを見る彼の顔に、また自然と口角が上がってしまう。きっと、呆れられたり、変に思われる事はわかっていた。私はそれでも彼にそれを言いたかったの。

 

 

「あの時の君は、わたしが教師だって知らないけれど助けてくれました。だからわたしも、君が生徒だと知らないように、礼を言いたいんです」

 

 

支離滅裂だ。

順序も違うし、理由も違う。

わたしの中でも無茶苦茶だとわかってる。

だけれどお礼を言わないと。

 

そのお礼は、してくれた事への正当な対価というよりは私自身の満足の為だとか、彼に対してこの心に在るあたたかいものを少しでも分けてあげたいというような、あやふやな考えからのそれだったようにも思える。

私には、もうわからないけど。

 

 

「…大層な事はしてませんよ俺は。

ただあの時、皆がやろうとしていた事をたまたま俺が先にやっただけです」

 

 

ちょっと寂しげにそう言う彼に、少しだけ影が落ちた気がする。その影の理由は私は何一つ知らない。

 

 

「…うん、『浮葉三夏』は終わり。

あとは『浮葉先生』として言うけれど、集くんはもっと自分のやっている事を偉い事だと認識した方がいいと思うわ」

 

 

「そう、ですかね」

 

 

「うん。私が保証する」

 

 

そう。こうして、幸福に溢れた私は、君がいなければなかったのだから。この心にほっこりとあたたかいものがあるのは、貴方のおかげなんだから。

 

だから、私が保証する。

貴方はとても、えらい人です。

それを貴方自身に認めて貰えたらいいな。

 

 

 

「さあ、そろそろ帰りましょうか。

ごめんなさいね、長々と引き留めて」

 

 

一言言って、彼の手を引く。

その手は少し冷たくて、そんな体温に少しどぎまぎとしてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

紛紅駭緑。

美しい花が咲き誇り、風に揺れてる様。

 

 

 

 



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終点の先が有るとするなら(村時雨ひさめ)






 

 

 

…それは、少し前の事。

その日は初詣の日だった。

彼女はゆっくりと呟いた。

 

 

 

「貴方は、そう。

誰にだって優しいんです」

 

 

それは相手に向かって言ったようでもあり。また、自分自身に聞かせるようでもあった。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

僕と貴方以外には誰も乗っていない車両の中。

そんな閑散とした風景だった。

がたんごとんと動くそれは電車であり、僕たちはそれに乗ったのだろう。

 

 

外は一面の青景色。海と空のそれぞれの青さが目に映るそんな景色を前に、貴方は。

背丈の大きな貴方は、あれは綺麗だ、これはどうだと僕に話しかけてくれる。いつしかその話題は僕らの他愛のない話になり、馬鹿馬鹿しい話にもゆっくりと笑い合うのだ。

 

その笑顔は僕を向いて、僕にだからこそということだけを話し、笑いかけてくれる。

 

僕だけを見ていてくれる小さな、確かな幸せ。そんな光景。

僕を。村時雨ひさめを。

 

 

ああ、わかる。

これは夢だ。

いつもこの酷い悪夢に辟易し目を覚ますんだ。

 

 

手を繋ぎ、互いの体温に落ち着きながらそしてまたぽつりぽつりと話す。沈黙が空間を占めることがあっても、それが気まずかったりすることは何一つ無い。じんわりと暖まるような、そんな想いをする。

 

 

本当に、酷い悪夢だ。

 

 

いつしか電車は終点に辿り着いて、そして貴方は席を立つ。僕を残してこの電車を降りて行く。僕はその去っていく背中を、座って見つめているだけだ。

 

扉が閉じる。

貴方に手を伸ばす。

 

 

 

そして、目を覚ます。

 

 

ああ、そうだ。あの美しく素晴らしい光景から覚めてしまうこと。あれは夢だと知らしめられる。それはつまり、そうではない全てが、現実だとわかるという事。

 

それは、悪夢であることこの上ない。

 

 

「……」

 

 

カーテンを開ける。

外には綺麗な日差しを差している。

 

年が明けてはじめての日差しはいつもと変わらなく、そしてなお一層明るかった。

 

 

年が明けた。新たな一年だ。春休みが終わったら、新たな学年に僕は上がることになる。

 

…そして、後一年で、古賀さんは卒業してしまう。もう会えなくなるかもしれない。

年なんて、越さなければいいのにな。なんてそんな意味のない愚痴とやるせなさが口から軽く溢れる。

 

 

 

そんな意味のない嘆きはきっと、あんな夢でナーバスになってしまっているからだ。そう自分に言い聞かせる。

 

こんな風に勝手に鬱ぎ込むくらいならば、いっそどこかに外に出た方がいいかもしれない。

そうして、衝動的に外に出た。

 

季節柄すっかりと空気は冷え込んでいるのは当然だが、それでも天気のおかげかある程度の暖かさは担保されていた。

寒がりの僕にはとてもありがたかったり。

 

 

そうだ。本当に突発的に家を出たけれど、このまま初詣に行ってしまってもいいかもしれない。少しバスに揺れたところに、小さな神社があった筈だ。

 

少しだけ億劫がる自分に敢えて鞭を打って、僕はそっちにいくことにしたのだった。

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

いつも閑散とした様子であった筈の神社は、人混みに溢れている。

 

賽銭箱やおみくじはどこだろうときょろきょろと眺めていくうちに、ギョッとする。

 

 

「……え…っ…!」

 

 

 

それは、その理由は見つけたものに由来する。

 

 

まず最初に思ったのは驚き。

次に、喜びと恐怖。

こんな事があるのか。いいや、こんな事はもう幾度めかだ。だから、だからこそこんなに幸運であって許されるのか。

 

最後に、自惚れ。

これは運命ではないのかなんて、卑しい、いやらしい考え。手前勝手な、そんな妄想。

 

 

 

人混みに、一層際立って目立つ人間がいる。

それを誰が見間違えようか。

夢にまで見るような、僕の好きな人。人違いなんかではないことは僕の全てが教えてくれる。五感が、心が、全部が。

 

 

たたっ、と駆け出そうとして。

転びそうになって一度冷静になる。

 

携帯電話のインカメラを手鏡にして髪型を整える。こんな事ならもっとちゃんとした格好をしてくればよかった。寝癖が残っているような気がする。自意識過剰だろうか。

 

最後に深呼吸をしてから。

そこで、初めて気付いたみたいなフリをして彼の方に歩いて向かっていく。

 

 

「あのっ…」

 

 

ちゃんと、あけましておめでとうございます!と爽やかに言うつもりだった。脳内では簡単に出来た事だったんだ。

なのに、本番になるとすぐに言葉が詰まる。

高鳴る胸が思考の邪魔をする。

 

 

「ん?…おお、ひさめ!

明けましておめでとう!」

 

 

こっちを見た彼はいつものように人の良い笑みを、少し意外そうな顔をしながらも向けてくる。

 

 

「はい、あけまして…

えと、初詣ですよね?古賀さんも」

 

 

「ああ、まあ、そうだな」

 

 

「ぼ、く…!」

 

「…今日、一人で初詣に来たんです。

その、だから、なんていうか…」

 

 

 

血液が逆流するような、沸騰するようだった。

どうにかなりそうな声が喉から出る。

どうしていつも、こうなる。どうしていつまで経っても慣れないのだろう。

それくらい、いつもいつも、緊張して、顔が燃えるように熱くなる。

 

 

 

「だからせっかくなら、一緒に…」

 

 

「あー…ごめん」

 

 

 

…申し訳なさそうに顔を伏せる様子。それに僕は、間抜けにも、え、と返してしまう。

 

 

 

「あ、いたいたにーちゃん。

…その人、だれ?」

 

 

 

ふと、少し遠くから声が聞こえる。

それはまだ小さな女の子だ。

 

 

「ん、俺の…学校の後輩。

今偶然出会ってさ」

 

 

「ふーん…」

 

 

 

値踏みするようにじっとりと僕を眺めてくるその子は、しばらくそうした後に僕からすすっと離れていった。

 

 

「…ユキちゃんって言って、俺がよくバイトしにいく孤児院の子なんだけどさ。初詣にこの子を連れて行ってやってほしいって言われて」

 

 

そこまで言うと古賀さんはちょっとだけ小声になって、申し訳なさそうに僕に囁いてくる。

 

 

 

「……この子、人見知りで。

一緒に回るのは少し、難しい」

 

 

 

それを聴こえていたのか、聴こえていないのか。それはわからないけど、その女の子がフンと腕を組んで言う。

 

 

「私、デート中なの。

あっちに行っててくれる?」

 

 

そう言われてしまう。

瞬間に、ぴたりと息が止まった。

何とか言葉を返す。

 

 

「え、ああ…

うん、ごめんね?」

 

「…古賀さんも、その、無理言ってすみません。それでは、また学校で!」

 

 

なんとかそう言い繕って。

僕はそのまま、その場から去った。

 

 

 

 

 

(……一瞬、動きが止まったのは…)

 

 

あの瞬間、ほんの少しだけ動きが止まってしまったのは何故だろう。

それは、わかる。ショックを受けたから。

 

たじろいで、ショックを受けたのはあの小さな可愛い子の、ユキちゃんの発言にではない。

 

あの可愛い子どもの、他愛なさにすら。こうして、ずるりと渦巻くこの感情。

そんな自分の狭量への恐ろしさ。それに対するものだった。

 

断られた。

正当な理由があったのはわかってる。仕方のない事だし、悪気があったわけではないのも。

 

 

でもそれなのに、どうしてそれだけで僕はこんなにも傷ついているのだ。

 

それなのに、どうしてこんなにも羨ましいなんて気持ちが消えてしまわないんだろう。

 

 

あんな小さな子にまで。誰だっていいのか?こんな調子じゃ、ペットの犬にまで嫉妬してしまいそうじゃないか。そう、自分を笑い飛ばしてみても全く心は晴れない。

 

余りにも醜い自分にびっくりする。

こんなにも僕は、汚らしかったのか?

いつのまに僕はこんなに、薄汚い存在になってしまっていたんだろう?

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

「それじゃね、にーちゃん!

今日はありがと!」

 

 

「うん、またなユキちゃん。

今度また一緒に遊ぼうな」

 

 

孤児院に、彼女を見送る。

名残惜しそうに走っていく背中を見てから、少し早歩きで帰路に着く。

 

 

 

いや、帰路に着く前にちょっとだけ。

寄りたい所があった。

 

急いで、そこに向かう。

バス停の近くに今から行けば間に合うか。

間に合わなかったなら仕方ないが…

 

 

 

「…あ、居た!間に合った!」

 

 

遠目からでも分かる。彼女は遠くからでも、きらきらと光るように目立つ存在だ。彼女自身はそんなことはあり得ないと思っているが。

 

ひさめが、半ばぼーっとしたようにバス停に並んでいる。それに声をかける。

 

 

「…あ、あれ…どうしたんですか?」

 

 

「どうしても今日に渡したいものがあって。ご機嫌取りって訳じゃないんだけど」

 

 

あの時、断った時に彼女はとても残念そうな、傷ついたような顔をしていた。

きっとそれを言えば優しい彼女は、俺に気を遣わせてしまったことをまた気に病んでしまうだろうから、言いはしないが。それでも、代わりにこれくらいは。

 

 

 

「わ、なんですかこれ…?」

 

 

「うん、お守りだ!…今日の代わりでは無いけどさ。受け取ってくれないかな」

 

 

 

小さな封筒を開封して、手に取ったのは、小さな手編みのお守りだ。

それを見て一瞬唖然としたような顔をして。

…そしてすぐに微笑んでくれた。

 

ああ、よかった。埋め合わせになった、とは到底思えないが、それでもひさめが喜んでくれるならこれ以上嬉しい事はない。

 

 

ひさめの笑顔を見て、自然と俺の顔も綻ぶ。

つい微笑んだ俺の顔を見て、また一瞬、ひさめの目に少し暗いものが走った。

 

 

 

 

ぼそりと、口からまろび出たように。

 

彼女はゆっくりと呟いた。

 

 

 

「貴方は、そう。

誰にだって優しいんです」

 

 

それは相手に向かって言ったようでもあり。また、自分自身に言い聞かせるようでもあった。

 

 

 

 

はっ。

さっと青褪めて口を抑えるひさめ。ぶるぶると震えて、自分を締め殺さんばかりに首を押さえ、目尻は今にも泣き出しそうになっている。

 

 

 

「…違…ッ!違うんです!

今のは違くて、その…!」

 

 

過呼吸気味にも見えるほど、否定しようとする彼女の手を、そっと握る。手袋を付けているはずのその手は、冷たく感じた。

 

 

 

「…そうだな。そうかもしれない」

 

 

「…言い訳だけど。でも俺は、誰にだって同じように接しているつもりはない。俺にだって嫌いな人くらいいるし」

 

「…何より、俺は君だけにしか見せないような態度だって、いっぱい取ってしまってると思うよ。他の人には恥ずかしくて見せられないような」

 

「だから、そうだな。俺は多分、ひさめの言う通りに誰にだって優しいかもしれない。それが気持ち悪いかもしれないな」

 

 

 

自分でも何を言いたいのか、わからなくなってきた。自分の後ろ暗いところを言語化しようとするには俺の経験はまだあまりにも未熟すぎるのかもしれない。

 

 

 

「それでも俺は、君と関わっていたいよ」

 

 

だから、ただ本音を言った。

これは、何にも包み隠す必要もない本音。

どう思われても言わなきゃいけない。

 

 

その言葉を聞いたひさめは、はっとこちらを向いた。俺の目を見た。数秒、互いに目を見つめあって、そして彼女はぼろぼろと泣き出してしまう。

 

 

 

「……ごめんなさい、ごめんなさい。そんな事を言わせるつもりじゃなかったんです。僕、あんな事言うつもりじゃなかったんです」

 

「…そんな悲しい顔、させるつもりじゃなかったんです…僕も一緒に居させてほしいです。ごめんなさい…僕のせいで、僕が…」

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

性懲りも無く、悪夢が続く。

新しい学期になって、また少し変わった日常になっても、また同じように。

 

 

がたんごとんと揺れる車両。

ただ少し変わった事は、電車の中に他の列客が乗っているようになった事。彼は時たま、そういった人たちを助けて他の人に目を向ける。

 

 

どくん、どくんと心臓が早鐘をうつ。

 

 

あの時言っていた言葉。

僕にしか見せない、彼の姿があるという言葉。

それはまた、僕以外にも。その他の人にしか見せないような特別な姿があるのだろうと言うこと。僕には見れない姿があるのだとも分かる。

 

 

それをすら見られない事を嘆くのは贅沢であるのはわかっている。わかっているのに。

 

 

ああ。欲望に底なんてないのに、自由は有限だなんて。なんてひどい皮肉だ。

 

電車の外の景色を見る。あんなにも綺麗だった青色はもうどこにもない。曇り空と、汚染されきった海が作り出す灰色だけが映る。

 

 

ただ、そうであっても良かった。

貴方が横に居れば幸せだった。ただあなたが横に手を握って、僕にしか見れないそれを見せてくれるならば、どんな景色だって。

 

扉の開閉音。

貴方が立ち上がる。

繋がれていた手がするりと離れる。

 

 

貴方が去っていく。

貴方が居なくなれば、残るのはただ汚くなり尽くしたこの景色しか無いというのに。もう貴方に去られる事など耐えきれないというのに。

 

 

(ああ、わかった…)

 

 

この悪夢の終点の先があるとするのならば。

きっとこうすべきなのだろう。

僕は共に席を立ち、貴方と共に電車を降りる。

 

その腕に、背中にしがみついて。

 

 

 

 

 

そうして目が覚める。

 

ああ、なんと都合のいい夢だろう。こんな勝手なものをみて、自己憐憫と自己反省に浸って気持ちよくなるつもりなのか、僕は。

救いようが無い。

 

 

陰鬱とした気持ちで、壁に飾ってあるお守りを見た。

 

 

少し可愛らしい意匠のついた、お守り。学業成就!と書いてあるそれは、くすりと微笑ませてくれる不思議な力がある気がする。それを見るだけで少しだけ心が晴れる。

 

 

そんな自分自身に、反吐が出そうだった。

 

 

 



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バレンタイン・パニック!:前編

1日早いですが。


 

 

 

2月14日。

それは愛を囁く日。

愛を囁き、伝え、伝え合う日。

 

2月14日。

それは、愛を成就する事を冀う日。

それは性愛であれ、友愛であれ。

 

 

 

がしかし。愛を囁く日であっても、それがそのまま誰かに愛を伝えられるか、又は愛を伝える勇気が出るかになるか、というのは別の話。

故にこの日は性別に関係なく、妙に闘志に満ち満ちた人間が散見される。英雄とならんとする兵士が如く。革命を起こす女傑が如く。

 

 

そして中には、そういった気負いが全く無い者も居る。渡し、渡すとは無関係と初めっから諦めきっている者だ。

そして、彼もそれである。気楽にあくびをしながら登校の準備を整えていく青年がいる。

 

名前は古賀集。

 

恐怖を与えるような上背、傷痕。友愛や義理では貰えようとも、その他は無いと。なんならいっそ作る方に回ろうかとも思っていたが、渡された相手が困るだろうと考えやめた。

 

 

さて。そんな風にゆるりと鞄を持ち家を出ようとする。そんな彼を見て、ある一人の少女がぴたりと横に着く。既に準備を整え終え待機していた少女は、そのまま歩きにくいのではないかと思うほどの距離をキープする。

 

彼女は、彼の妹である。

古賀鈴という。

 

 

 

「おはようございます。今日は登校も下校も一緒に行きますよ兄さん。片時も離れないように。ほんの少しもです。何か困ってる人を助けても私に一声掛けてからお願いします」

 

 

 

その日の起き抜けの一言だった。寝ぼけ眼にそう言われてしまえば、青年はただ頷くしかなかった。

 

 

 

「では行きましょう。繰り返すようですが私の目の届かない場所に行かないように」

 

 

「……俺今日死ぬの?」

 

 

「何を馬鹿なことを言ってるんですか」

 

 

「いやすまん。

ただ、この厳重さはなんなのかと思って」

 

 

「兄さんは気にしなくていいんです。

…いやちょっとは気にして貰った方がいい気もしますが…ひとまずはいいんです」

 

 

 

尚更何のことだかわからないと首を捻るそのままに二人は歩いて行く。

いつもよりも距離が近いそれはしかし、甘い雰囲気というよりはどこか剣呑というか張り詰めた雰囲気であるようだった。

 

 

 

「…目つき悪すぎやしないか鈴。寝不足か?」

 

 

「警戒してるんです」

 

 

「だから何を!?」

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

「ふー…」

 

 

当然というべきか、何も起こることは無く登校は終わる。

 

鈴は校門のぎりぎりまで離れることは無かったが、しかし学棟の違いだけはどうしようもない。名残惜しそうに、去って行く。

 

 

そうして、下駄箱に立った途端の事だった。

 

 

 

「すいません、古賀先輩。

ちょっといいですか?」

 

 

「ん?えーと、二年の…何かな?」

 

 

「──」

 

 

「……え?」

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

「おはようございます、シュ……」

 

 

「おはようアオ。……ん?」

 

 

名前を呼ぼうとし、途中で止まる彼女を見て怪訝そうに眺める古賀。次第に彼はその少女の青い目が彼というよりは、彼自身の手にある封筒に向いている事に気付く。

それに対して、それをさっと隠すように後ろ手に持った。

 

ただ当然ながら目の前で隠した、アオの前にはそれが何かというのは見えている。

 

 

 

「それは…むう、なんですか」

 

 

「ん、ああ、なんでもないんだ。

気にしないでくれ」

 

 

「……」

 

 

いまいち不明瞭に、バツが悪そうに言い濁る彼を、むっと睨むように見つめる。軽く隠されたそのピンク色の便箋を見て、彼女は目の周りをぴくりと動かすように身じろぎをした。

 

 

 

「……フン。仕方がないことです。むしろ私誇らしいですよ。シュウがいろんな人に愛してもらっているみたいで。私の審美眼は正しかったのです。ふん」

 

 

「アオ…なんか拗ねてる?

というかなんか勘違いしてないか?」

 

 

「してませんし拗ねてません。

しかし心配してくれるのは嬉しいです」

 

 

明らかに気分を害した様子で顔を逸らしていた彼女は、そう言うと気を取り直したように彼に向き直る。

 

 

「何にせよそれは早くバッグの中にでも隠した方がいいです。というか出来るだけ皆に見せないようにしましょう。ハリー」

 

 

 

「え?ああ…確かに見せびらかすみたいにこう持ってるのはよくないか。失くしそうだし」

 

 

「ハイ、そうでもあります。

……まだ生徒会長が教室に来ていなくて助かりました」

 

 

「ああ、確かにあいつがいたらなんか理由つけられて取られちゃったりしたかもな」

 

 

「そういう意味ではなく…」

 

 

そうぽつりと呟き、そしてまたふと思い出したようにアオはまた自身のリュックサックの中身を漁り始める。

 

そして一つ、白色の紙袋を取り出した。

 

 

 

「今日は、バレンタインデイですね。

なので私からシュウにプレゼントです」

 

 

「!もしかしてチョコか?

うわ、すげえ嬉しいよ!」

 

 

「喜んでいただければ幸いです」

 

 

そう言いながら無表情のままむふー、と誇らしげに胸を張る彼女の様子は微笑ましく、そしてこれがまた手作りであろう事も彼に教えた。

 

 

 

『結構、味見をしたので味は確かですよ?』

 

『だからたくさん味わってください。少なくとも、その時は私の事だけを考えるくらい』

 

 

 

渡した際に、その掌にそっと何かを書く様になぞり動かす。それは、ちょっとしたまじないの様でもあった。

 

 

 

「ああ!よーく味合わせてもらうよ。

お返しも楽しみにしててな」

 

 

そう、わしわしと頭を撫でられると、ぐいとその手を自身の頬の方に持っていくアオ。流石にそれはまずいと古賀が手を引くと、名残惜しそうにその手を眺めていた。

 

 

 

「ええ、楽しみにしています。

……ただ代わりに。明日からは少し…カロリーを控えた食事にせねばなりませんが」

 

 

「いや、そんなことしなくてもいいんじゃないか?俺から見ればまだ細すぎるくらいだよ」

 

 

「ムウ…その言葉に甘えてしまいたい気持ちも山々なのですが。少し服のサイズが合わなくなってしまったりしたので、いよいよ考えものであるとも思ってしまって」

 

 

「服が?」

 

 

「ハイ…どうにも、シャツのボタンが妙にきついというか。セーター等の丈もいまいち足りなくなってしまっていて。ダイエットとまでは行かなくとも現状維持をと」

 

 

「…………」

 

 

それを聞いて、それはひょっとして別の所が大きくなっただけなのではないか?と思った。

ただ一言言おうとして青年はやめた。

 

それは邪推であるかもしれないし、何しろそれが合っていようと無かろうと、完璧にセクシャル・ハラスメントであるからだ。

だからただ代わりに一言。

 

 

 

 

「…………そうだな!」

 

 

悶々と考えるのをやめて、そう返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

「おやいいとこに来たね勇者よ。

君に今日手伝って欲しい仕事は…

もうわかったかな?」

 

 

「……まあ、そんなこったろうとは思ってた」

 

 

 

少しだけ早く切り上げられた授業のそのままいつものごとく生徒会室に向かった古賀青年が見た物。それはチョコだらけ、チョコまみれの机。木の面が見えないほどに。

 

 

 

「うん。そういうことで助けて」

 

 

珍しく直球に助けを求めるのは、赤い色の眼をしている少女。九条史桐…シドだ。

 

 

 

「……俺が喰ったら、めちゃくちゃに失礼というかさ。意味ないんじゃねえのか?」

 

 

「んー…そうかも。ただこの量のチョコレートなんてボクが食べ切れる筈も無し、そうなると確実に廃棄されるよ。廃棄されるよりは食べた方が、まだ彼らの想いに応える事になるんじゃないかな?」

 

 

「…まあ、勿体ないのは確かにそうだな。

なら申し訳ないけど食わせて貰おう。

なんかどれか一つ取ってくれ」

 

 

「オーケー。

………はい、どうぞ」

 

 

ひょいと山の中にあるものから無造作に渡されるは、暗めの赤色の包装を施されたものだった。その包装を丁寧に開けると、中からはまた丁寧に容器に入った小粒のチョコが幾つも入っている。

 

 

 

「うお、すごい凝った物だな。

しかもだいぶ高級っぽく見えるが」

 

 

「そうかもね」

 

 

手を合わせてからさっそく食べる。一つ一つがそれぞれ別の味であり、そしてどれもまた相当に美味しいものだった。

 

 

「うーん、すげえ美味かった…ハハ、これを作った人もシドじゃあなくて俺に食われちゃって可哀想だな」

 

 

シドは満足そうに舌を唸らせた彼を興味深そうに、そして何やら満足そうに眺めると、こう言葉を返す。

 

 

「フフ、いいや。

そのチョコは本懐を果たしているともさ。

渡したい相手に渡されてるんだもの」

 

 

「…?」

 

 

「さあさあ、止まってる場合じゃない、他の物も食べていこうじゃないか。

あ、ついでに普通に書類仕事も頼んでいい?」

 

 

「相変わらず厚かましいな!

というか書類汚れちまうだろ!」

 

 

 

一瞬にして通常営業に戻ってしまった彼女を前に、青年はずっこけ気味になる。ふと、刹那にみた様な慈しむような顔は幻覚か何かだったのだろう。そう思う事にした。

 

 

そのまま仕事に移…

……ろうとして。

 

 

 

「あ、そうだ。

シドに渡すものがあったんだ」

 

 

 

古賀がふと、話題を転換する。

 

 

 

「ん?何。まさかラブレターかい?」

 

 

「ああ、そうそう」

 

 

「へえ。そうかい。

……え?」

 

 

 

サラリと言葉を流しかけて、そして驚愕して顔を凄い勢いで上げて古賀の顔を見るシド。滅多に見ることがないようなそんな顔を見て古賀青年も一瞬驚き止まり。

 

そして鞄から一枚の封筒を取り出した。

ピンク色の便箋である。

 

 

「はいよ、これ」

 

 

渡されたそれを、シドが呆気に取られたような顔で受け取る。鳩が豆鉄砲を食ったような顔だ。

 

 

「…いやいや、ハハ、まさか。まさかねえ。

まさかそんな…ねえ?」

 

 

 

へらりと笑い、手紙をひらひらと透かすように下から眺めて。ふと目を閉じて。

 

瞬間。獲物を捕らえるように。

急激に手紙をバッと開いた。

 

そこには、愛を綴る言葉が記されている。

 

 

 

 

「……………」

 

 

「……ラブレターじゃないかッ!!??」

 

 

 

「だからそう言ったろ!?」

 

 

「えっ、いやだってそんな…

こんな急かい、普通!?」

 

 

 

口が甘ったるくなるほどの愛の言葉の羅列。一字一句、愛を囁く、まごう事なく恋文。

 

『急にこのような手紙を出してしまって、すみません。それでも、この想いだけはと思い筆を取らせて貰いました』

 

そのようないじらしさが垣間見える文を見た時には脳内麻薬などエトセトラが出てしまうようほどだった。

幸福は、恐ろしいほどに盛り上がった。

 

 

『───○○○○より。』

 

 

…最後の行。

その、書いた差出人が見えるまでは。

 

 

 

 

「………」

 

「………??」

 

「………これ、誰が?」

 

 

 

「ん、ああ。さっき『シドセンパイに渡してほしいんです!』って二年の子に渡されたんだよ。名前は…聞く前に行っちゃったんだよな。

そこに書いてある?」

 

 

「……ああ、書いてあるよ、ちゃあんと。

………なる、ほどねえ」

 

 

「そっか!ああよかった。中身を勝手に見るわけにもいかないし後でちゃんと渡せたって伝えてやんないと─」

 

 

 

ふ、う。

シドが大きなため息を吐く。

それはまるで葉巻を吸うかの如く、大きく吸い、大きく吐く。そんなため息だった。

それにびくりと跳ねるように言葉が止まる。

 

 

 

「なるほどなるほど、なるほどねえ。

うん。よおくわかった。ほんとなるほど。

うんうん。なるほど?なるほど」

 

「フーッ……」

 

 

 

 

「…とりあえずキミは今日帰ってくれ色々とシラフで居られる自信がないんだ頼む」

 

 

「何の何の何!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

後編に続く



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バレンタイン・パニック!:後編


 



 

 

 

「あ、遅れてしまってすみま…

あれ?生徒会の方はどうしたんですか?」

 

 

「いやなんか…

帰って欲しいって言われて…」

 

 

「え、ええ…?どうしたんでしょうか…」

 

 

「俺もいまいちわかんない…」

 

 

 

生徒会室を追い出された彼がばったりと鉢合わせたのは、彼の後輩である少女である。

村時雨ひさめだ。

 

 

「まあ、なんにせよひさめも生徒会室に行ってみたらどうだ?いくつかチョコを食べさせて貰えると思うぜ」

 

 

「あはは、またシドさんったらチョコの山に悩まされてるんですか。

去年もあれが一番辛そうな顔してましたよね」

 

 

「そうそう、いつも笑顔のあいつがあの時だけゲンナリしててな」

 

 

くすくすと談笑をしていると、ふと、ひさめがはっと、聞きにくそうに声を上げる。

そのう…と、控えめに質問をする。

 

 

 

「…その!その…そういえば、なんですけど!

勿論答えたくなかったらいいんですが…」

 

「……その、古賀さんがラブレターを渡されている所を見たって…言う人が…

…それ、本当ですか?」

 

 

「ああ!渡されたよ、確かに。

だけどあれは…」

 

 

そう答えた瞬間に、え、と小さい声を出す。

そうして、沈痛そうな顔をしていた。まるで親しい人が事故死でもしたかのような、絶望感が色濃く出た顔。

 

 

「はは、違う違う!あれは代理でシドに渡してくれって言われた物だったんだって。

俺に渡されたもんじゃないよ」

 

 

それに気付いてか気付かずにか、彼はそう言葉を続ける。そしてそこまで聞くと、ひさめは露骨にホッとしたような顔をする。顔色まで良くなったかのようだ。

 

 

「そ、そうですか!良かった。これも無駄になっちゃうかな、なんて思ってしまって」

 

 

「『これ』?」

 

 

「はい!受け取ってくだしゃ…さい!」

 

 

一大決心のような気合い(噛んでしまっていたが)と共に差し出されたのは、赤い包装。

真っ赤な包装は、確かめずとも中に何が入っているかという事がすぐにわかるような物だ。

 

 

「お、チョコか!

ありがとう。大事に食わせてもらうな」

 

 

「はい!その…手作りではないのですが…

そっちの方が美味しいかもと思って…」

 

 

「すごく考えてくれたんだな。

その事実が一番嬉しいよ」

 

 

申し訳なさげに縮こまる彼女の頭を、大きな手がゆっくりと撫で込める。くすぐったそうに身体をよじりながら、その手に抵抗はしなかった。

 

 

「…よかったです。僕、受け取ってもらえないんじゃないか、喜んで貰えないんじゃないかってすごく不安で」

 

「でも不安になってるままじゃずっと変わらないから、勇気を出してみたんです」

 

 

「そっか。勇気を出した甲斐はあったか?」

 

 

「はい。出して、良かったと思いました」

 

 

「ならよかった」

 

 

 

そう、静かに撫で続けられる時間が続く。廊下の往来ではあったが、幸いにして放課後の閑散とした時間帯。人が通りかかることは無かった。

 

 

 

そうした最中に、古賀青年の視線がひさめの鞄の方へと行く。お守りは付いてはいない。

 

あれは付けてもらえてないか。

 

ふと、そう思ってしまった。そんな風に思ってしまう、女々しい自分に喝を入れるようにもう片方の手で頬を軽く叩く。

 

 

すると、それに気づいたのか。

ひさめははっと慌てたように彼に話す。

 

 

「あ、もしかしてあのお守りですか?あれはその、今はここにはないというか…だから違うんです。気に食わなかったとかそういうわけじゃ」

 

 

「いや、気にすることはないんだ!

こっちこそごめん、急に押しつけた上にこんな恩着せがましいような視線向けて」

 

 

「だから違うんです!だから…!」

 

「その!大事に部屋に飾ってあるんです!

汚れちゃったら嫌だから!

 

 

 

「……あ。」

 

 

 

墓穴を、鑿岩機のような勢いで掘った彼女はそのままフリーズ。そして、渡したチョコのラッピングよりも赤くなってそのまま動かなくなってしまった。

 

 

 

「失礼しますぅ…」

 

 

真っ赤な顔のまま、そのまま生徒会室へとからからと入っていく。その姿を見て、悪いことしたかもなと青年は頭を掻いた。

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

「あら、どうも集くん。

そろそろお帰り?」

 

 

仕方がないからと帰宅しようと準備をし、妹を待とうとしていた彼に声をかけたのは、またまた女性の声。ただそれは、学生の声ではない。

妙齢の、教師の声だ。

 

 

「あ、ども浮葉先生。

そうっすね、帰るとこです」

 

 

 

新任の女教師、浮葉三夏に、古賀は少しフランクに言葉を返す。

 

 

「ふふ、君は意味もなく教室に残っていたりはしなくていいの?私のクラスではそんな男の子がいっぱい居たけれど」

 

 

「ハハ、やめておきます」

 

 

くすくすと二人で笑いながら、ゆっくりと並んで歩き始める。昇降口の方に向かいながらのそろ歩きはゆっくりと、そして半歩ほどいつもより歩幅が小さい。

 

 

 

「なら…少しだけ、時間を貰っていいかしら」

 

 

「ん、用事ですか」

 

 

「いえ。用事って程では、ないのだけれど。

一瞬だけ職員室に寄って貰えると」

 

 

 

そうして、少しだけ寄り道をして職員室に着く。浮葉が軽く自分のデスクを漁ったと思うと、何かを持って古賀の方に戻ってきた。

 

そして彼女はまた、少し言いづらそうに、やりづらそうにそのウェーブかかった前髪をくるりと弄ってから、その包みを差し出した。

 

 

「その…

これ、受け取って貰えないかしら」

 

 

隈がかかった顔に、桜色が少し混じる。贈り物をする気恥ずかしさが彼女の中にあるむず痒さとを刺激してしまっている。

 

 

「その…結局あの後も、時たまお弁当を作ってもらっちゃってるし。なにより他にも散々教えて貰っちゃってるから、そのお礼も兼ねて私からも一つ、渡したいの」

 

 

何かに言い訳をするように捲し立てる浮葉を見ながら、古賀青年がにっこりと包みを受け取る。中身はなんだろうと眺める。

 

 

 

「ああ、チョコレートではないわよ。

そこに書いてあると思うわ」

 

 

「…っと、コーヒーですか?」

 

 

「ええ、コーヒー。

呑めるって言ってたよね?」

 

「…チョコはきっと私が渡さなくてもいっぱい貰うかなと思って。

うふふ、よかったじゃない」

 

 

「あー…からかわないでくださいって」

 

 

「あら、照れなくてもいいのよ。

例え友情でも義理でも、貴方が貰うほど感謝されてるのは確かなんだもの」

 

 

 

そう言われると何も言葉を返せなくなってしまう。それは痛いところを突かれた、などということではなく、言っていることが正しい、一理あると思ってしまうからだ。

 

いつもは、いつか倒れてしまいそうとすら見えるほどだ。支えたく思ってしまうほど。

 

であるのに、こうしたように教師として生徒を導いている姿を見ると。彼女の中にある経験だとか、知識だとか、『先生』であるのだなということを、古賀は実感する。

 

 

 

「まあ、だから。迷惑になっちゃわないように私からはチョコレートは贈らないけど…それが今回の代わりかな。

少しでも喜んで貰えたら嬉しいわ」

 

 

 

浮葉はそう言って、照れ臭そうに微笑む。少し疲れの残った笑顔は、しかし子どものように純粋なものであるようにも見えた。

 

 

 

「…は、はい。

こちらこそありがとうございます」

 

 

「うん、ちゃんと感謝が言えてよろしい。

…ごめんね、時間を取らせて。私はもう少し仕事があるから集くんは帰りなさい?」

 

 

「はい、そうします。

……そういえばさっき『お礼も兼ねて』って言ってましたけど、何を兼ねたんですか?」

 

 

「えっ!」

 

 

ふと疑問に思い、古賀が質問をする。何気ないその質問に、彼女はどきりとその肩を揺らした。

 

 

「それは、ですね…」

 

 

 

沈黙。

静寂。

音のない時間が経つ。

 

 

 

「……ごめん、先生の秘密ってコトで良いかな?」

 

 

「え、ええ?まあいいですけど…」

 

 

長考の末に出た答えはそんなもの。

結局、青年は疑問符を浮かべたまま、そのまま昇降口に再び向かっていく。その背を見送ったまま、浮葉は命拾いしたと言わんばかりにどっと脱力をした。

 

 

あの贈り物に込めた意味。

 

それは感謝は当然として、その次に。チョコではないとはいえ、『バレンタインデーの贈り物である』という事。それを鑑みれば、込められた意思は明白であるとも言える。

 

ただそれでも一応、それは隠そうと思った。

大っぴらには、絶対してはいけないと。

あくまで『友チョコ』などの体を取ろうと。

 

ただ、しかし。

 

 

 

「…うっかり口が滑っちゃった…

我ながら危なっかしいぞ、三夏…」

 

 

自らに戒めるように。

誰もいない廊下で彼女は呟いた。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

昇降口には、一人中等部の制服を纏う少女が立っている。古賀集は、ずいぶん待たせてしまったかと、少し駆け足気味に彼女の元に行った。

 

 

 

「悪い、鈴。

だいぶ待たせちまったか?」

 

 

「あ、兄さん。

…いいえ、そこまで待っては」

 

 

古賀鈴は、朝にした約束のそのままに、兄と下校をすべく彼のことを待っていてくれたのだ。

 

 

 

「ねえ」

 

 

よし、それでは帰ろうと靴を出した時。

瞬間に、鈴は声をかけて来た。

有無を言わさぬ速攻だった。

 

 

 

「…ねえ。兄さんがラブレターを渡されたって聞いたんだけど…誰?」

 

 

その声は冷徹なようで、そして更に内側に熱を帯びているような、溶岩じみた雰囲気を感じた。少なくとも、彼はそう思った。

 

 

「ああいや、違うんだそれ。

それはだな……」

 

 

「言い訳の前に、まず誰?」

 

 

 

…有無を言わさぬ速攻だった。このままでは埒があかないと思った古賀青年は、さっき、シドにちゃんと渡せたぞと報告をするにあたって再び会ったあの女生徒の名前を教える。

 

そうしてからようやく、どういう顛末だったかを教えることが出来た。

 

 

 

 

「…成る程。

はー、心配して損しました…」

 

「…全く誤算ですよ、ほんと一瞬すぐ目を離したらこうなるんですから…」

 

 

「お、なんだ。ヤキモチ妬いちまったか」

 

 

「してません」

 

 

「はは、照れなくていいだろ?

大丈夫だって」

 

 

「してないったら、もう!」

 

 

 

下校路を行きながら、じゃれあいつつ歩いていく。二人の背姿を夕陽が写し出し、影法師が伸びる。夕暮れ時の空を見上げ、目を細めながらその橙色に心を奪われていた、そんな中。

 

 

 

「…嘘です」

 

 

「ん?」

 

 

古賀青年はぎゅっと、その指を絡めて手を結ぶ感覚を、手に感じた。小さく、細い指だ。

言うまでもない、鈴の手。

彼女の感触だ。

 

 

「嘘です。確かに妬いてました。

それに、さっきまで。私が待ってるのに、兄さんは来ないんじゃないかと思ってました」

 

 

「さすがに約束は破んないよ」

 

 

「そうですよね。

そう、わかっているんですが」

 

 

握った、結んだ指がきゅっとその力を少しだけ増す。その手に込められた力はそのまま、寂しさと、心の中にある想いの大きさのようだ。

 

 

 

「ねえ」

 

 

「うん?」

 

 

「小さいチョコケーキを作ってるんです。

帰ったら、二人で食べましょ?」

 

 

「ああ。母さんと父さんにも取っといてな」

 

 

「うん。でもまずは、二人で食べるの。

それでいい?」

 

 

「ああ。

鈴の作るケーキは美味いからなあ。

実はずっと楽しみにしてたんだ」

 

 

「兄さんたら、あれ好きですよね」

 

 

「ああ。ガキの頃からずっと好きだな。

だから毎年楽しみにしてるんだ」

 

 

「ええ。知ってます。

だから私も、ずっと楽しみにしてました。

今日、ずっと」

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

……2月15日。

戦の、決算日。

 

昨日の今朝方、その憤懣たるやる気を出していたその兵士達は、その背に纏うものを哀しみに変えてしまっている。

 

 

結局母ちゃんのしか貰えなかったーとげんなりしながら宣う友人の話を、古賀青年はうんうんと聞いていた。

 

 

「…はーあ、お前は良いよなあ。

なんてったってチョコは貰えるわ、しかもみーんな美女揃いだし」

 

 

「そういう言い方は相手にも悪いだろ。

それに、俺に渡されたものがそういうものな訳じゃない」

 

 

 

そう言った瞬間、ふと雰囲気が変わった。

 

 

「……お前、それ本気で言ってるのか?」

 

 

「その、つもりだけど」

 

 

「…俺がとやかく言うべきでもない気もするけどさー…それ絶対間違ってる。普通にめっちゃ失礼だと思うぞ」

 

 

「…え」

 

 

「……んでさー、昨日呼び止められたからまさか俺宛て!?と思ったら……」

 

 

 

…一瞬に話題が変わったように、一瞬に話題が戻り、そのまま話が進む。だがさっきまでと異なり古賀青年の頭には、ただ、さっきの発言が渦巻き、何も聞こえていなかった。脳に膜がかかったように、ぼんやりと。

 

 

 

(……俺に………?)

 

 

彼は人知れず、ほぞを噛んだ。

そんな事は。

だが、しかし。

 

 

 

まさか。

 

 

 




小さな、小さな芽生え。
疑念という芽。


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祭りの後、若しくは







 

 

バレンタイン・デイ。

まあ、勝手に勘違いしたボクが悪いんだ。

というか彼にそんな期待をしたのが悪い。

そうはわかっていたが、平静を保てなかった。

 

そうしていると、室外で何やら騒ぎ立てる音が聞こえてくる。楽しそうな声は、はたまたボクの神経が苛立つようなそれでもあり。

 

 

その内の片方のか細い声の、失礼しますとの声と共にからからと扉が開き、ひとりの生徒が入ってくる。それは、ずっと顔を見合わせている後輩の一人。ひさめちゃんだ。

 

 

「…やあ、どうも」

 

「は、はい。こんにちは」

 

 

 

互いに少し、いやだいぶ赤い顔で挨拶を交わす。互いに、その赤くなっている要因は同じ人のせい。あの馬鹿の大男のせいだ。

 

はて、そういえばこの生徒会室で彼女と二人きりになるのは随分と久しぶりな気がする。

最近は大抵、「ちょっと行けなかった分の埋め合わせ」なんて言った彼が居たものなあ。

 

 

 

「………」

 

 

 

互いの間に奇妙な沈黙が立ち込める。彼女はどうだか知らないけれど、ボクはたださっきの手傷を癒すというか受け入れようとしているのに精一杯だった。

 

少し、ひさめちゃんがそわそわと落ち着かなくなった辺りで、椅子に座るように促す。

流石に足が疲れてしまうだろうに。

 

すると彼女はふと一言話し出す。

 

 

 

「……そ…その。この間は」

 

 

「うん?」

 

 

「…この間は、すみませんでした」

 

 

 

この間。この間?

ああ、あの事か。

覚えてはいるけど、まさか謝ってくるとは。

 

確かに覚えているとも。あの時に言われた事、否定された事。こっちを睥睨するように放たれたあの時の言葉も。

 

 

 

(…少なくとも僕には…貴女のそれは、彼への愛ではないように見えます。ただの、ねじくれた自己愛にしか見えません)

 

 

 

………

 

 

脳裏に、その言葉が浮かんでくる。そのままに圧縮冷凍されていたように、あの時の感情も。

 

 

 

 

「謝らなくていいよ」

 

 

 

一言だけ言うが、彼女の表情からどうにもその言葉が聞き入れられたようには見えない。全く、ひさめちゃんは変なところで頑固なんだ。

 

 

 

「そんな事よりも、これらの処理をちょっとでも手伝ってくれないかい?うっかり、望める最大戦力も帰らせてしまった事だし…」

 

 

 

「……」

 

 

 

返事は聞こえない。小さい声、というわけではなく声そのものが出ていない。

ただ椅子に座った所を見ると、その要請だけは聞いてもらえたようだ。

 

 

 

「……すみません」

 

 

「謝るなよ」

 

「謝るくらいなら初めから言わなければよかったじゃないか」

 

 

 

再び、沈黙に包まれる。

こんな事は言うつもりではなかったんだけどな。だけどつい、思いが口に出てしまった。

 

身じろぎの音が響く。ついでに、チョコレートを噛み砕くぱきりという音も。

 

 

「…僕が謝っているのは、あの発言そのものについてじゃ、ありません」

 

 

「おや」

 

 

 

意外な返事に、ぴたりと手が止まる。適当に齧った物は変化球を狙ったのか、妙に苦ったらしいチョコだった。

 

 

 

「えっと、その。言い過ぎた、事は謝ります。

でも、だからといって…」

 

「…言ったことを、撤回するつもりはありません。だからこれは、それについての謝罪でもあります」

 

 

 

「へえ」

 

 

 

その言葉自体には別段、心は揺れなかった。

問題は、彼女の様子。

 

さっきまで目を逸らしていた彼女は意を決したように、ぐっとこちらを見ていた。

その目には確かな光と意思を感じる。

仄暗く、それでいて果てしなく強い光。

 

どもりもせず、誤魔化しもせず、ただ目を見て伝えてくる。その、彼女らしくないそれに。

少しだけ口角が上がるのを感じる。

それは笑みというよりは。

 

 

 

「………なんだかなあ。

キミ、可愛くなくなってきちゃったなあ」

 

 

 

……ボクは利己的な人間で。だから害を及ぼすような人間は『嫌い』だ。ボクに不利益をもたらす。ボクに不快感を与えたり、ましてやボクの何かを奪っていくような人間が。

 

だからそういった点でひさめちゃんは、まだ『好き』だ。

無害で、可愛らしく、ふわふわとしていて、真面目で、動きがとろくって。

こんなものを好きにならない方が難しい。

 

 

 

 

「ふふ。そんな事ありませんよ」

 

 

 

であるのに。

そんな風に、蠱惑的な笑みを浮かべる彼女。

どんどんと可愛げの無くなっていく姿。

普通だった彼女は、愛というパワー・レベリングで育てられていってしまったのだ。

 

 

そんな彼女を、心の深く、奥底で。

本当に、奥の奥の小さな所で。

 

少しだけ、『嫌い』になっていくのを感じる。

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

私は放課後に何をするでも無く、下校もせずに、何故か学校内をふらふらと歩いていた。

 

何かを求めているわけでは無い。

ただなんだか、この甘い雰囲気が新鮮で、もう少しだけ味わっていたかったのかもしれない。

 

 

 

…シュウはいつもの如く生徒会の方の手伝いに行ってしまった。だから彼を見る事は出来ないけれど、しかし。

 

そう思いながら、少し歩き疲れて所属している教室に戻ってくる。置き放しの私のカバンは当然と言うべきか、さっきと全く変わった様子は無い。

 

なんとは無しに自分の教室で自分の机に座る。多少の疲労感にぐだりと机に突っ伏すけれど、眠いわけではなく、むしろ眼は冴えていた。

 

 

(……)

 

 

結局座っている事も落ち着かなくて、すぐに立ち上がってふらりと窓際から外を眺める。

日が落ち始めた空は薄暮よりも明るく、日脚は差してこない。そんなような空だった。

 

だから、そこからの景色は見えてしまった。

その、下校する二人の人影が。

 

 

その大きな背丈の人物は、見紛う筈もない。

シュウ。

そして、その横に笑いながら歩くのはスズ。

 

 

かっと、身体の何かが沸騰したような気がした。それが何故の物かはわからない。ただそれでもカバンを持って彼らの元に急いで奔ろうと思った。

 

その瞬間。

 

 

 

「…あら、どうしたの。

誰かを待ってるの?」

 

 

私に向かって話しかける声がした。

それに、止まらざるを得ない。

 

 

 

「イエ、そういうわけでは…」

 

 

話しかけて来た、彼女の顔には見覚えがあった。新しくこの学校に赴任してきた教員。時折、校舎内でも見かける。

 

…そして、ある日、彼に。シュウに感謝の念として贈り物を送っている所を見た。

 

確か、ウキハさんだったか。

 

 

 

「えっと…用事もないなら早く帰ったほうがいい、わよ?女の子なんだから、危ない目に遭わないように」

 

 

彼女はそう言いながら、チラリと私が見ていた窓の外を眺めた。

数瞬して、何を見ていたのかを分かったように、ああ。と納得するような嘆息を吐いた。

 

 

「…彼、集くんには私もお世話になってしまっているわ。案内も運搬も本当に、色々」

 

 

「そう、ですか」

 

 

「ええ。本当にお人好しなんでしょうね。

私にとっては、本当にありがたい事よ」

 

 

そう語るその表情に映っているものはやはり単純な感謝の念だけでは到底無い。それだけではあり得ないような感情が、明らかに顔に浮かんでいた。

 

 

私の中に少しずつ自覚して来た気持ち。

それと殆ど、同じようなものだ。

 

これは、この想いは。きっと特別でありながら、特別でないもの。

皆が持つであろう物でありながら、人により異なる感情。唯一で無く、そして唯一である物。

 

恋だとかの、一言で済ませてしまうのにはあまりにも味気ないそれは、皮肉にも周囲の抑圧によってみるみると形になっていっているのを感じる。

 

 

 

「……私、そういったあまり関係性には詳しくはない、のですが」

 

 

「うん?」

 

 

「先生と生徒間においては、そういった関係は、あり得ないと思います」

 

 

 

私がそう言うと、ウキハさんはそのまま呆然としたように立ちつくしてしまう。

そしてハッと正気を取り戻したと思うと、そのまま口を動かす。

 

 

 

「あ、あはは!

やだな、最近の子は。

ただ手伝ってもらってるだけよ、私」

 

「だから、そんなに怖い目で見なくていいのよ。ただでさえあの子が怖いんだから…」

 

 

 

そんな風に必死に誤解だと言う彼女を、しかしじっと見つめる。

その視線に、だんだんと観念したように頭を抱え始める。片頭痛を耐えるかのようなその動作は節々から疲れが見えるようだった。

 

 

 

「…はあ、恥ずかしい。

そんなに、バレバレかしら私…」

 

 

「私はまあ、そう思いました」

 

 

「アオさんが敏感なだけだって事を祈るわ…

ただ、本当に違うのよ」

 

 

「違う、とは?」

 

 

「…………その。

これ、本当に誰にも言わないでね…」

 

 

「ハイ」

 

 

そう念押しをして、キョロキョロと周囲を眺めて誰もいない事を確認してから、ウキハさんはゆっくりと話し始める。

 

 

 

「私は…その、彼に男性として惹かれてしまっているわ。『生徒だから』というよりは、『好きになった人がまさかの生徒だった』って感じだけれど…何を言っても言い訳にしかならないわね、これは」

 

 

「そうですね」

 

 

「…だけれど…

そう、私は別に彼を求めたりはしない」

 

 

 

彼女が言った言葉は、よくわからなかった。

何を言っているのだろうか。

何を言い出しているのだろうか。

 

 

 

「貴女、集くんの事が好きよね?」

 

 

ふと話を変えるように、そう問われる。

 

好きか、どうか。

 

恋だとか、恋慕だとか。この気持ちを全てそんな言葉で纏めてしまうのは酷く気持ち悪いし、なにかまた違うような気がするけれど、それだけは間違いない。

私は、シュウの事が好きだ。

彼の事が大好きだ。

 

 

「ハイ」

 

 

だから、即答した。

 

 

「いい返事ね。

うん、いいと思います」

 

「…私もね。きっと好きかどうかで聞かれたら好きとしか答えられないと思う」

 

 

 

いつの間にか椅子に座っていた彼女は、どこか慈しむような視線で私を見ていた。

それは間違っても敵を見るようなそれではなく、ただ優しく。

 

 

 

「でもだからこそ。

私は彼にとっての、そういう『大切な人』にはなりたくないのかもしれない」

 

 

「エ?」

 

 

それは、奇妙な体験だった。言語がわかるのに、言葉がわからない。意味はわかるのに、その意図が読めない発言だった。

 

 

 

「つい一緒に居ると嬉しくなるし、いつものお礼に何かを返したくなる。見ると楽しくなるし、笑顔になる。私の全てにしてもいいし、私の全てを捧げてもいいくらいには、好き」

 

「それでも、一緒にはなりたくないんだと思う。‥だから、違うの」

 

 

 

彼女の放った言葉全てを何度も反芻し、ようやく、ほんの少しだけ意味がわかったような気がした。いや、駄目だ。やはり、わからない。

 

好きなのに、一緒になりたくない?好きであるならずっと共に居たい筈ではないのだろうか?

 

 

 

「アオさん。

貴女にとっての彼は何。

彼にとっての貴女は、どうありたい?」

 

 

 

ウキハさん。いや、先生は。

彼女はゆっくりとこっちに語りかける。

 

 

私は、彼をどう思っているのか。

どう、ありたいのか。

私はさっき、スズが彼の横に居て、身体がかっと熱くなる感覚に陥ったのをふと思い出した。

 

 

……わかったかもしれない。ワタシは。

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

……家に着いて。

私は兄さんと共にお皿を用意していた。

焼かれたそれはふっくらと、ある程度暖かいチョコレートの香りを放っている。

 

 

 

「はい、出来ましたよ。ナッツ入りのでいいですよね」

 

「おお、あんがとさん。

それじゃ頂きます」

 

 

ひょいと手に取り、口に運んでいく姿を横目で見る。無言に食べ続ける姿は、彼が美味しいと思ってくれているのだとわかり、クスリと笑ってしまう。

 

こうして作ると、1ヶ月の後には兄が何かしらをまた作り返してくれるのだ。その物自体も当然楽しみではあるが、私にとってはこの作り合うこと自体そのものが、楽しくて仕方がない。

 

 

「…で、兄さんはチョコはいくつ貰ったんです?」

 

 

「ふが…ちょっと待ってくれ飲み込むから」

 

 

兄はとんとんと胸を大袈裟に叩きながらわざとらしく喉に詰まったような動きをする。全くと思いながら、お茶を用意する。

 

 

 

「えーっと…

確かアオがくれたものと、ひさめから1つ。

それくらいかな?」

 

 

「もう一人いるでしょう」

 

 

「うん?

……ああ、鈴から一つ。すまんすまん」

 

 

「ん、分かればいいんです。

…しかし、そんなものですか。私はてっきりもっとこう…どっと来るかと」

 

 

「はは。

だから、んな事無いって言ったろうに」

 

 

「……」

 

 

 

…私は全く、本当に矛盾だらけの人間だ。

兄がさまざまな人に目を付けられてしまわないように見張り、そして気にしていたのにもかかわらず。

 

いざ兄があまり貰わなかったりすると、それはそれでとても嫌な気持ちになるというか。『彼の何を見ているんだ!もっと兄さんを見ろ!』と、怒るような気持ちにもなるのだ。

 

 

 

「……まあ、これ以上障害物が増えないならば喜ばしいことではあるのですが…」

 

 

「?運動会の話かなんか?」

 

 

「違います。というか気が早すぎるでしょう」

 

 

 

ああ、ああ。こうして他愛の無い会話を出来る今こそが一番に楽しい。私のチョコレート・ケーキで喜んでくれる。私の話で微笑んでくれる。私の為に話題を振ってくれる。

この空間には、家族しか居れないのだ。

これは、私だけの特権なのだ。

 

と、そんな時にふと兄の鞄の中身が目につく。見ようと思ったわけではなく、見えてしまったのだ。

 

 

 

「…おや、これは…コーヒーですか?」

 

 

「あ、そうだ。それせっかくだから淹れようか。甘いものには合うだろうし」

 

 

「え、ええ。…兄さんが買ってきた、って訳ではないですよね」

 

 

「ああ。先生から貰ったんだ」

 

 

「先生?」

 

 

「うん、お礼だって。

ほら、弁当とか作ってるだろ?」

 

 

「………先生に作っていたんですかアレ!?

まさか女教師じゃあないでしょうね!」

 

 

「??言ってなかったっけ、そういや。

浮葉先生…って言ったらわかるかな。

ほら、始業式の時にも居た」

 

 

「…………」

 

「……兄さんはもっと…もっと人の心を考えれるようになりましょう…」

 

 

「な、なんだよ急に…

現代文の成績はそこまで悪かないぞ」

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

こうして、2月の14日は終わった。

停滞と進歩、それぞれの関係はあれど祭りは終わったのだ。

 

 

祭りの後も、日々は続く。

それはまた、当然の事だ。

 

そしてまた、祭りの最中にあった事は無くなりはしない。

それもまた、当然の事だ。

 

この日にあった事を踏まえて、彼らは、彼女たちはまた日々に戻っていく。

だんだんと、歪みながら。元に戻らないほどに歪んでいきながら。

 

 

春に近付き、様々な物が芽吹いていく。

それは息吹であり、福音でもあった。

 

 

 

 




祭りの後。
若しくは、後の祭り。


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夏霞と或いはリフレインの輪廻(浮葉三夏、九条史桐)






 

 

その日は休日で、俺はある用事から少し外に出ていた。天気はそこそこ良く、ゆっくりと散歩をしていってもいいかもしれないと思うくらいだった。

 

 

そしていると、ふと。

見覚えのある女の人の影が見えた。

その彼女はその俺の視線に気付いたようで、はっと気付けをしたように目を見開いてから、少しだけ早足でこっちに近付いてきてくれた。

 

 

「えっと…奇遇ね。なんだか、こんな事が多くてびっくりしちゃう」

 

 

「ええ、どうも。…ほんとっすね。最初の再会の時も『まさか』でしたし」

 

 

 

本当に、奇遇だとか偶然だとかこ言葉で片付けられないほどだ。約束もなく3度も合う人間は敵にしない方がいい、なんて昔なんかの本で誰かが言っていたような気がする。

その人物とは運命で繋がってるのだから、敵対するだけ損しかないのだと。

 

 

「集くんは、今日はどうしたのかしら。

なんて聞いたら失礼かしら?」

 

 

はっと、そう聞かれてぼーっとしていた事に気付き、気を取り直す。何を小っ恥ずかしい事を考えてるんだろうか。

 

 

「え、ああ。俺は…

ちょっとした用事で」

 

 

なんだか少しだけ照れ臭くなって、手に持った袋をすっと身体の陰に隠してしまう。

それを見て、浮葉先生は珍しく、ちょっと意地悪そうな笑みを浮かべた。

 

 

「もしかして、あまり見られたくないもの?

なら尚更聞くのは失礼だったかな。

見なかった事にしましょうか」

 

 

「いやいや!そんなんじゃないんですって!」

 

 

なんだかあらぬ勘違いをされてしまいそうな気がして、躍起に否定する。…でも、これ尚更勘違いを助長する気がするな。

 

 

「あら、ほんと?」

 

 

ああ、やっぱり!

 

 

 

「本当ですって。ほら、中身はこれです」

 

 

「これは…映画?」

 

 

「はい。友人に一人ちょっと映画好きが居て、それに触発されて、つい。

あと今日はそいつと会う予定もあってですね」

 

 

「ああ、なるほど…

…それならわざわざ隠さなくっても良かったんじゃない?」

 

 

「…まあ…そうですね…

ただなんかちょっと照れ臭くて…」

 

 

「私は立派な趣味だと思うけどなあ」

 

 

互いに、なんだか間の抜けた会話だと思い、くすくすと笑う。少し隈が残った笑顔は、しかし出会った頃に比べれば大分顔色が良くなったような気がする。

 

 

 

「先生は…買い出しですかね」

 

 

「あ…そ、そうね。

ごめんね、こんな油断した格好で」

 

 

そう言うとサッと、居心地が悪いように恥ずかしいように、身体を細めるような動作をする。

ただ俺にはこっちこそ、到底恥ずかしがるようなものには見えなかった。

 

少し厚めの首まで覆うセーターにジーパン。いつもは流している髪を横に纏めた少し活動的なその格好は、雰囲気をかなり違ったものに感じさせる。

 

いや、服装と髪もだが、一番は…

 

 

「先生、休日は眼鏡なんすね」

 

 

「え?ええ、そうね。

基本はコンタクトだけれど、休みの時は。

似合ってないかしら」

 

 

「あ、いやいや!

感じが違って、美人さんだなって!」

 

 

「あら上手。

…ふふ、ありがとう。とっても嬉しい」

 

 

少し顔を赤らめ、目をすぼめて笑う。

それだけの動作になんだか、ちょっとどきりとしてしまう。微笑む事はさっきもやっていたはずなのに、急に色が付いたようにも見えた。

 

 

 

「あー…お世辞ではなかったんですが」

 

 

「…ううん。さっきから思っていたんだけどプライベートな時くらい、敬語じゃなくていいわよ」

 

 

「え?」

 

 

だし抜けに浮葉先生がそう言う。言った後に、ちょっとだけ、『やってしまったかも』という顔をしたが、すぐに取り直して続けた。

 

 

「え、えっと…

勿論無理強いするわけでもないの。ないんだけれど…あまり、畏まっていてもと思って」

 

 

「うーん…いやそう言うわけにも」

 

 

「そう?…それじゃ私も敬語にしていい?

実は、そっちの方が落ち着くの」

 

 

「……いや、それなら互いに敬語はやめようか。それされたら俺も落ち着かないし」

 

 

「……」

 

 

「…何、その顔」

 

 

「え!?い、いえ。なんだかとっても新鮮というか、びっくりしちゃって。

ちょっとぼーっとしてしまったわ…」

 

 

「……やっぱやめます!」

 

 

「ああ、残念…」

 

 

 

そうしてまた、二人でくすくすと笑う。

 

なんだか少し頭が上がらないというか、この人には妙に翻弄されてしまうような気がする。

押しや我が強いだとか、そういうわけでも無いし、むしろ控えめな人ではあるのに。

やはり先生というのは凄い…んだろうか。

それとも彼女特有の物なのか。

 

 

そんな事を考えているとなんだか照れ臭くなってしまって、誤魔化すように頬をかく。

 

 

 

「本当はもし良かったらお茶でも、思うんだけれど…この後、お友達と会うって言ってたよね?」

 

 

「あ、ハイ。

借りてた物の受け渡しってくらいですけど」

 

 

「それならここでお別れね。

それじゃ…」

 

 

「…?」

 

 

別れの挨拶の中途で、言葉がピタリと止まる。どうしたのだろうか、と疑問に思うと、浮葉先生はすっとこちらに近付いてきた。

 

出し抜けなそれに驚き、そしてまたちょっとだけ真剣な顔付きに、何事かとどきりとする。

 

 

「あの、えっと…?」

 

 

「…少し、屈んで」

 

 

 

そう言いながら、そっと、手を伸ばされる。

言われるがままに屈むと、更に距離は近付く。思わず眼を閉じてしまいそうな程の距離は、随分と刺激的だ。

 

襟の辺りがとん、とんと正される音。

そしてついでに少しだけ頭を撫でるように、髪の毛を撫で付けてくれる。

その感覚に、なんだかこそばゆいようななんとも言えない気持ちになる。

 

 

「…と、ごめんなさいね。少しだけ気になっちゃって。それじゃあ、今度こそ。良い休日を」

 

 

「は、はい」

 

 

 

控えめに、肘から先をゆるゆると振るいながらこっちを見送ってる彼女の姿を、最初に少しだけ眺めてから、歩き出す。

 

 

顔が赤くなってしまわないか、不安だった。少し見えない程度まで離れてから、携帯のインカメラで見るが、そこまで顔には出ていなかった…と思う。まだよかった。

 

 

 

「……?

何か困り事でも思い出したのかしら?

今ちょっと、様子が変だったな…」

 

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

少し時間に遅れてしまったが、大丈夫だろうか。いや、大丈夫じゃないかもしれない。

何しろあいつは、自他共に時間に厳しい。

人に言うだけ会って、遅れたことが無い。

 

 

だから、待ち合わせ場所にはやはり既に…

と、そこには居なかった。ただちょうど、そこに歩いて来ている所だった。

 

花を摘みにでも行ってたのか、もしくは俺を探していたのだろうか。

 

 

もし後者だとしたら、恥ずかしいな。

 

『さっきの先生との会話ややりとりが、全部見られてた』かもしれない。

 

そんな事を思いながら、俺はそいつに声をかける。

 

 

 

「悪い、シド。

ちょっと知り合いと話し込んじゃって!」

 

 

 

そう話しかけるが、返事はない。代わりに帰ってくるのは気まずく、重い雰囲気だけだ。

ピリと肌がひりつくような気すらした。

 

 

「……ああ、そうだろうね」

 

 

 

そのたった一言の返事に身震いしながら、ただ頷くしかなかった。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

……まずい。

何がまずいって、明らかに機嫌が悪い。

 

どれくらいかと言うと、まだ仲良くなかった頃に一度地雷を踏んでしまった時同じくらいに、明らかに機嫌が悪い。

 

そして彼女が取り繕わず、機嫌が悪い事をすら隠さないというのは、相当にまずい事なのだ。

 

 

 

「……いや、本当にごめん。

遅れるつもりは無かったんだけど」

 

 

「……」

 

 

「……何言っても言い訳だよな。すまん…」

 

 

「…遅れた、なんて。

そんな事で怒ってる訳じゃないよ」

 

 

「!」

 

 

 

初めての返事だ。

ようやく一歩は前進出来たかもしれない。

 

 

「……この怒りは、そうだな。

どちらかというとキミそのものというよりは、彼女と…ボク自身の不甲斐なさや手落ちにおける失敗、その自己嫌悪ってのに近い」

 

 

「…す、すまん。

何言ってんのかわかんねえ」

 

 

「わかるように言ってないからね。

…キミもまあ、悪くないわけではないから少しは反省してほしいが」

 

 

「はあ…」

 

 

いまいち…いや、正直殆ど何を言っているのかわからないが、どうも俺も悪いらしい。それは自覚している事なので、まあ反省をしておけばいいらしい。

…遅れた事に怒ってるわけじゃないなら、何を反省すればいいんだろう。デリカシーの無さとかかな。

 

 

 

「…あ、そうだ。

渡しそびれてたけどこれ返すよ。映画」

 

 

「ん?ああ、それね。

…フム。往来で渡すのも無粋だろう」

 

「ボクの家、来るかい?」

 

 

そう、シドが提案する。事もなげに言ったそれに、俺はどうにも頭を悩ませる事になる。

普通なら悩ませる必要もないんだが、しかし。

 

 

 

「うん?うーん…どうしようかな。いや、急に行ったら申し訳ないっていうのと…」

 

 

「と?」

 

 

「……正直、色々と豪勢すぎてちょっと怖いんだよな」

 

 

そう。彼女の家はデカい。

びっくりするほど大きく、そしてそんな人の一人娘の友人として呼ばれたものだから、使用人(使用人なんて見たの初めてだった!)の方などの歓迎がとても来るのだ。

 

それは嬉しい反面、その…

…正直、申し訳ない気持ちになる。そんな歓迎してもらうような人間じゃないよ俺は!

 

 

 

 

「…まあ、無理強いをするつもりはないよ。

ただ残念だなあとは思うけど」

 

 

 

は。しまった。選択を間違えた。

 

ず、と雰囲気が暗くなるように感じる。

空気が冷え込むような感じがする。

こいつは何か能力でも使ってるのか。

 

 

 

「…いや、わかった。行く。

違うな、行かせてほしいな」

 

 

「それを聞きたかった!」

 

 

その瞬間、パっと笑顔になり、さっきまでの圧迫感のある雰囲気は一転して明るく変わる。

…まさか、今のは呼ぶのを確定させるために機嫌が悪いフリをしたんだろうか。

いや、まさかな。

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

「お、じゃまします…」

 

 

「ハハ、まるで泥棒みたいだよキミ」

 

 

「こんな図体のデカい泥棒がいるかよ…」

 

 

 

こっそりと、シドの部屋に忍び込むように入っていく俺の姿は、きっと何も知らない人間に見られれば即捕縛、通報モノだろう。

 

だがこれが最終的な折衷案なのだ。あまり相手方に手間をかけさせたくたい俺と、それでも招くシドとの。

 

テーブルの前に座って、ようやく一息。

 

 

 

「ふー、無駄に疲れた。

…んじゃこれ。二作目が特に面白かったよ」

 

 

「おや、そうかい?それは良かった」

 

 

 

…彼女に勧められた物であるのに、そう言うとどうにも他人事のように喜ぶシド。

なんだか、単純に疑問を覚えた。この作品好きだからこそ俺に勧めたんではないのか?

 

そのまま聞くと、なんだか彼女は見たことのない表情をした。しかめ面のような、笑ってるような、ちょっと困ったような。

 

 

 

「う…ーん。

これ、言うかどうか迷うんだけど」

 

 

「なんだ?」

 

 

「……正直ね。

何を見てもあまり面白いと思わないんだ。

最近とかじゃなく、ずっと昔からね」

 

「作品をどう思ったか、作品にどういう意図が込められてたか。わかった上で、どうにも心が揺れないというか。難儀なものだよ」

 

 

 

…ゆっくりと語ったそれは、中々に衝撃的な事だった。

どれも面白く感じない?こんなに詳しく、知識としてあるのは趣味だからじゃないのか?映画好きだからこそという訳ではないのか?

 

急に、以前のことを思い出した。

彼女が聞いていた曲の事に尋ねた時の事だ。

凛玲なクラシックの作曲者、歴史はつらつらと解説をしてくれたのに、『お前はどれが一番好きなんだ?』と聞いたら、少し答えが止まり、不思議そうな顔をしていた時のことを。

 

 

なんだか、少し背筋が伸びるようだった。それがどういう感情から来た物かは、自分でもわからない。

 

 

 

「…それなら、俺、もしかして無理矢理シドに付き合わせちゃったんじゃ…」

 

「いやいや、そんな事ないよ。

キミは心配性だね」

 

 

 

バッと顔を上げた俺の頭を、いつのまに俺の前に立っていたのか、そっと撫で込めるシド。

そっと触れるその手は、黒い羽毛のように柔らかなように感じた。

 

 

「だいじょうぶだよ。

ボクだって楽しかったし、今も楽しいもの」

 

 

「でも、今面白いと思わないって…」

 

 

「そうだね。それは、確かだ」

 

「でもそれでも、これらを見たキミを見ているのはすごく楽しいよ」

 

 

「楽しそうにキャラクターを語るキミ。

つまらなーいものを見て渋面をするキミ。

ボクに語ってくれる姿。

それらは、ボクにとって楽しいものだから」

 

 

さら、さら。

ずっと俺の頭を撫でながら、彼女はそう語る。

 

 

その言っていることは、とても喜ばしい事ではある。それは、当然だ。

こうまで言われて嬉しくない訳がないだろう。

 

だが一方で、危うさを感じた。

何か、踏み外しかねないような危うさ。シドの言葉とその目に、それを感じてしまったんだ。

 

 

 

 

もうとっくに、踏み外していた事には。

俺は気づいていなかったんだ。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

 

「こんにちは、先生」

 

 

 

教員に話しかける、女生徒の姿。

それは学校内外問わずによく見る姿である。

微笑ましく、誰も目に留めない光景だ。

 

ただそれは、びくりと、背を震わす教員の姿から眼を逸らせばだが。そして、それを目ざとく見ていた通行人は居ない。

 

 

 

「あ…ど、どうも、九条さん。

何が用事かな?」

 

 

 

浮葉三夏は、少しだけ冷や汗を浮かべつつ、生徒に応対する。

その、赤い眼の生徒に。

あのパーティ会場で見て以来、ぞっと背を向けていた人物だ。

 

 

 

「用事って程ではないんですけど。

少しだけ釘を刺そうかと思いまして」

 

 

単刀直入に。そう、彼女は切り出した。

耳近くまで近付いて、ひっそりと囁く。

 

 

「…貴女はつまらない。貴女が関わった彼はどんどんとつまらなくなる。だから出来れば、もう関わらないで欲しい。彼に、古賀集に」

 

 

直入に、簡潔で、そして鮮烈だった。

そのまま歩き去って行く。

もう、用事は済んだと言わんばかりに。

 

 

 

今までの浮葉三夏なら、そう言われ、すごすごと引いていたであろう。

 

だが、古賀集の名前と、ある一言が彼女をそうさせなかった。

『つまらなくなる』という、その単語が。

 

 

 

 

「……いいえ、いえ。違う」

 

 

 

青褪め、声は震える。

しかし、発言自体は安定していた。

それを意外に思い、シドが振り返る。

 

 

「彼は、彼自身の為に。彼の思うままに育つべき。彼が望むようにするべき、です。それは貴女の娯楽の為じゃなくて、ね」

 

 

娯楽の為に。そう言われ、ぴくりと眼輪筋が動くシド。だがそれ以上の感情は出さず、笑顔のままに、また話す。

 

 

 

「それは、先生が彼と関わる為の詭弁ではないのですか?個人の感情から来る、正当化ではないのですか」

 

 

「……それがある事は、否定しない。

私、嫌になるほど、彼にダメになってるから」

 

 

「それでも、彼が自主的に私に関わる事をやめたのならそれでいい。それを私は、できるだけ尊重するつもりよ」

 

 

すう、と、息を吸う。

三夏の発言は、一人の女性として。

そして、教師として。

彼女に言わねばならないと思っていた。

だからこそ、言うことができた。

 

 

 

「でもね。私、私には…

…貴女のその、彼に『面白くあってほしい』なんて欲求は。貴女のただのエゴのようにも見えてしまうわ」

 

(『ねじくれた自己愛にしか見えません』)

 

 

 

(…………ッ!)

 

 

一度、聞いたような発言。

一度、耳にしてずっと消えない発言。

それが、リフレインする。

 

目の前の教師。

あの日の後逹。

それらが脳裏で重なるように聞こえた。

 

 

 

「……ア、ハハ。

先生まで、そんな事を言うんですか。

これは、ショックだなあ」

 

 

 

「でも九条さん。私は貴女の想いは…」

 

「…!ま、待って!

まだ話は終わってな──」

 

「九条さん──なた──

──つもり─」

 

 

 

音がノイズ混じりに聞こえるようだった。

三夏が話す言葉も、何と言われたか不明瞭。

脳に、膜を貼られたように。

 

 

 

笑う、笑う。シドは笑顔を浮かべる。だがその笑顔は、さっきまでの愛想笑いではまるでなかった。

 

禍々しく、邪悪で。ギシリと音が鳴るような、そのような笑みだった。

 

 

 

 

「エゴ。自己愛。

ボクは何かを愛する事すら出来ないのか」

 

 

「……ならばもう、それでもいい。

それが、ボクの愛であるなら。

出来損ないの愛であっても」

 

 

「それでも、キミに」

 

 

 

 

 




ほのぼの回にするつもりだったんです


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さよなら、アイを込めて(古賀鈴、菜種アオ)






 

 

 

電話を切る。

 

 

目を瞑り、ああ、と空を仰ぐ。

顔が歪むのを感じた。いっそ泣きたくなるような心と裏腹に、空は嫌になる程の青色だった。

 

出てしまった真実と、この気持ち。

これを踏まえて私は。

一つの答えが、また出た。

 

 

 

それでも、言うのだと。

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

扉の前に立つ。ちらりと顔を上げれば、そこはもはや見慣れた家だ。

いつもは期待と幸福に打ち震えるそれに、今日は少しだけ仄暗いものが走る。この扉を開けたくないように思えてしまう、そんなもの。

 

でもそれでも、その多幸感と嬉しさが勝るから。私はいつものように笑ってその扉をノックする。その笑顔はとても下手だけど、彼はそれをわかってくれる。

 

 

扉が開く音。いつものように、ちょっと困ったような人の良い笑みを浮かべる姿。

そして横には、ツンと雰囲気の厳しい少女。

 

少し怯んでから、いつものように。

いつものように。

 

 

「こんにちは、シュウ先生。

本日は宜しくお願いします」

 

 

「はは、そう呼ばれるのも久しぶりだな。

こちらこそよろしく。

大したおもてなしは出来ないけど」

 

 

背負った少し大きな荷物を下げながら挨拶。

 

 

今日、私はこの家に泊まる事になるのだ。

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

年も越し、3ヶ月程経った。

 

しかしそれでも中々予定が合わずに私はシュウに勉強を教えてもらう事が少なくなっていた。というより、新しい学年になってからゼロだった。

 

だから今回、その溜まってしまっている分も含めて、一度に教えてもらおうという話になっていた。

 

 

そうしている内に、ふとアイデアが浮かぶ。

いっそ泊まりがけで勉強会を行ってしまえば良いのではないかと。

 

シュウは少し渋っていたそうだけれど(一応男がいる所に女性を泊らせるのもと)、それなら私もだめなんですかというスズの一言で縦に頷いたらしい。

 

そうして、私、アオは今、古賀家に来ているのだけれど…

 

 

 

 

「…荷物、持ちましょうか?」

 

 

「ア…いえ、大丈夫、です」

 

 

「……」

 

「…」

 

 

「……?」

 

 

 

 

スズと私の間になんとも言えない、気まずい空気が流れる。二人ともの脳に浮かぶのは、あの時の会話だ。

よるべ無く、沈黙になってしまっているそれを見て、シュウが首を傾げた。

 

そしてまたそれを払拭するように、彼はパン、と手を叩いた。

 

 

 

「よし、んじゃ早速やるか!

つっても正直俺が教えられるところも無くなってきた気もするけどな」

 

 

「ア、はい。

なんならば、私が教えましょうか?

英語なら最低限は出来ると思います」

 

 

「はは、普通に嬉しいかも。だけどまずは俺が教えないと色々怒られちまう」

 

 

「…っ。それでは、私は諸々の準備とかしてしまいましょうか。兄さんとアオさんは先に部屋に行っていてください」

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

空が赤らみ、夕方に鐘が鳴る。

 

どちらも集中力も切れてしまい、互いにペンを動かすことも教えることもせずに互いにぼーっと空を眺める。ハッとそんな状態を鑑みて、二人とも座り直すも、やる気は正直湧かない。

 

 

「シュウ。部屋を漁って見てもいいですか」

 

 

その提案は本当は彼の困った顔を少し見たかっただけの他愛もないものだったのだけれど。ちょっと息抜きの為のそれだったのだけど。

 

 

「おー、いいよ。

色々目新しいんじゃないかな」

 

 

その、見られて困るようなものは何もないと言うようなその答えになんだかちょっと悔しいような、そんな気持ちになって、ムキになってしまう。

 

 

「…なら、お言葉に甘えます」

 

 

本棚を見る。色々な本や漫画がある。

部屋を改めて見てみる。よくわからないテナントや、制服が掛けてある。彼の匂いがして、落ち着く部屋だ。

 

ふと、タンスに手をかける。開いて中を見てみると、大柄な服が幾つかかけてある。サイズが合うものは少ないのだろう、その中には基本的に無骨であったりの簡素な服しか無かった。

 

それは彼の、ちょっとした自分への無関心さの現れでもあるようにも思えた。

 

と、そうしていると奥の奥に、何やら華美な服を見つける。触れた限り、材質も良い。

興味を持ち、それを出してみる。

するとそれは…

 

 

「あっ、それは…」

 

 

ぎくりとしたように、座ってリラックスした姿勢から急に立ちあがろうとするシュウ。

何をそこまで?と、手にしたものをしげしげと見てみる。

 

そこにあるのは、華美なのは間違いがない。

ただ問題は、なんというか…

華美すぎる、というか。

 

それはまるで絵本の中に出てくるような、お屋敷の中にいる人のような。優美でスラリとした黒色の服。執事の服。

思わず、あっと口を開けてしまうようなそんなものだった。

 

 

 

「あ゛…いやな、それは…」

 

 

 

さっきまでの様子とはまるで違う、明らかに狼狽した様子。何かまずいと思うようなものなのでしょうか。何にせよ、いたずら心がむくむくと湧いてくる。

 

 

「趣味のものですか?

私はとてもいいと思いますが」

 

 

「いや、合縁奇縁というか…

ちょっと色々あって手元にあるというか」

 

 

シュウの少しだけ顔を赤らめて目を逸らす姿は、やはりいつ見ても可愛らしい。

 

 

 

「……これを着て貰っても良いでしょうか?」

 

 

「なんでだよ!?」

 

 

「大丈夫です、少しだけ。

少しだけでいいですから」

 

 

「い、いやいや!

ていうか少しだけってなんだって!」

 

 

 

「ちょっと、騒がしいですよ二人とも。

勉強は終わったので………」

 

 

どたばたとしていた私たちの様子を見に、眉を顰めながらスズがドアを開けて入ってくる。

 

そして呆れたように一瞬止まった。彼女の視線は、私の手にある服に張り付くように。

 

 

「………」

 

 

彼女はこちらを見て、そして兄を見て、再びこっちを見て。

それで全てを理解したようでした。

 

 

 

「……うん、一回着ましょう兄さん。そうでもしないとこの場は収まらないでしょうし」

 

 

「そんなことないんじゃねえかなあ!?」

 

 

「収まらないでしょうし、ほら」

 

 

 

二人で目配せをする。

そこには言葉は必要無かった。

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

眼福でした。あ、違う違う。

ちょっと目を逸らしている間に脱線しているとは、やはりあの二人は私が見ていないといけないかもしれない。

 

何にせよ、今私の目の前には顔を真っ赤にしながら執事服を脱いでいる兄さんと明らかにやる気が高揚しているアオさんが居る。

 

 

「はー…まったく…なんでこんな時にも息が合ってるんだお前たちは…」

 

 

そうぼやきながら、キッチリと付けられた片眼鏡を拭きながら仕舞っていく。

 

 

「いいじゃないですか減るものでもない。

写真はむしろ増えましたが」

 

 

「減るって!なんか物じゃないなにかが俺の中で減る感じがするんだよ!」

 

 

「私は凄く似合ってると思いましたよシュウ。

あ、スズ。後でその写真ください」

 

 

「ええ、いいですよ」

 

 

「勘弁してくれ!勘弁してくれ!」

 

 

赤くなるのを通り越してほんの少し涙目にまでなっている兄を見て、流石にやりすぎたかもしれないとちょっと申し訳なくなる。

 

 

と、そんな時に。

階下から聞き慣れたメロディが聞こえてくる。

これは家の湯船が沸いた音だ。

 

 

 

「お、風呂沸いたみたいだな!ホラ、俺の後だと嫌かもだし、二人のどっちか先に入りな」

 

 

明らかに話題を逸らそうとしていたが、まあそれを指摘する必要も無い。素直に頷く。

 

 

「私は夕飯の準備があるのでまだ良いですよ。

アオさん、入りますか?」

 

 

「ンー…いえ、まだ大丈夫です。

後で入らせてもらいたい、です。

シュウから入ってもらっていいですよ」

 

 

「あれ、そう?

まあ確かに変な汗掻いちゃったから入りたくはあるけど…二人とも年頃だし俺の後だと」

 

 

「「いや大丈夫です」」

 

 

「ふ、二人して言うならまあ…

お言葉に甘えるよ」

 

 

 

 

そうして浴室に歩いて行く姿を見てから、私は準備をするからゆっくりしていてくださいとアオさんに言う。

彼女も彼女なりに何かしておこうと思ったみたいだけど、そういった家事関連は大抵兄がやってしまっている為、最終的には少し落ち着かなさそうにソファーに座るに収まっていた。

 

 

と、そうして幾らか時間が経った後。

 

 

「上がったし、どっちか入りたいならどうぞ」

 

 

 

とすとすと歩く音。

はいはい、と私が返す。

いつもの事だ。

 

 

…いつもの?

 

しまった。

バッと、動作も止めて兄を見る。

 

 

 

 

「ちょっ、兄さん!

いつもはその、いいですが今日は…!

 

 

「ん?あっ」

 

 

 

そう言われて、ようやく気付いたようだった。

さーっと、青ざめる音すら聞こえてくるような声は、聞きようによっては愉快ですらあった。

 

 

「?…

………ッ!??」

 

 

ソファーベッドに寝転んでいたアオさんがころりと立ち上がり、そしてその状態で目を見開いて、口を開け呆然としている。

一気に濁流のような情報を与えられ、思考を停止してしまった猫のようだった。

 

アオさんの視線の先。

下着姿の兄さんが、そこには立っている。

 

 

 

「い、いつもの癖で!洗濯物を畳むの面倒だからもう乾いたものがあったら着ようと思って…!ごめん、本当にごめん!」

 

 

 

もう今日はホント反省する!と、部屋に逃げ込んでしまった彼を見ながら、アオさんはただ呆然としていた。

 

 

 

「…あの、大丈夫ですか」

 

 

「…え?あ、ハイ。いつもの事…という事はアレをスズは常日頃見ているのですか?」

 

 

「!…まあ、その…」

 

 

「…」

 

 

「…そう、ですね…」

 

 

「ズルイ」

 

 

「ず、ずるいとはなんですか!

何も卑怯な真似はしてませんよ私は!」

 

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

……目を逸らすなんて、惜しい事をした。ともかく。その後私はシュウ、スズと一緒に3人で食卓を囲んだ。

 

そうするとあっという間に眠気が私たちを襲う。非日常が、私たちから思ったよりも元気を奪っていたようだった。

 

 

 

 

「皆で、一緒に寝ませんか」

 

だから、そう提案したのは、最初は寝ぼけた頭で発した、考え無しの発言からだった。

 

当然ながらシュウはそれを首を横に振って否定をした。でも、スズは同じ部屋でそれぞれ離しておけば良いのではないかとも言った。

 

 

シュウは、そうまで言われると否定することはなかった。仕方ない、と言うように困ったように微笑み、一つの部屋に寝床を置き始める。

 

 

 

結果として、今がある。

 

一画一画が、随分と離れた川の字。

私が真ん中で、左がシュウ。右がスズ。

 

両端から寝息が聞こえてくる。

私はその真ん中で、どくん、どくんと高鳴る心臓を抑えるのに精一杯で、到底眠れない。

 

 

心から湧き上がるものが、噴出する。

 

 

ああ、ああ。

この空間は、なんと素晴らしいんだろう。

甘くて熱くて、反吐が出そうだ。

その反吐すら勿体無く、反芻したいほどに心地よくて、麻薬じみた空間だ。

 

 

 

「起きています、か?」

 

 

もぞりと寝床の中で動く。

動き、蠢いて、その大きな身体へ近づく。

呼びかけた背中は、ううんと寝返りをうつのみで返事は無い。

 

そっと、その背中に寄り添う。

そのまま、背中に抱き付く。

この鼓動がきっと、彼にも通じるように。

 

 

 

 

ずるい。

スズに、何度もそう思った。

 

ずるい、と思ったのは、何も裸身云々の話だけではない。これが当然である距離感の全て。気の置けない仲のそれ。近親者にしか見せない笑顔、顔、落ち着いたその顔。私には絶対に向けられない顔。

 

 

ずるいと思ってしまった。

そして、これを私も欲しいと。

 

あの時スズを見て、身体に熱いものを感じたのは、その羨望からのもの。手に入らないものを手にしている人へ。

持っている者へのルサンチマンにも近い。

 

 

 

そうだ。

私の中にあるこの気持ち。

この気持ちを、ようやく言語化できる。

 

 

 

「起きていますよね」

 

 

 

そう言うと、シュウの肩がピクリと揺れた。

身体を押し付けたままに、彼の、その背を向けたままの首筋にそっと口を這わせた。

 

びく、と身体が揺れたのを感じた。

本当に寝ているならばそれでいい。

これは、私の独り言なのだから。

 

 

 

『……ねえ、シュウ。

私ようやくわかったの。

私にとっての貴方はなんなのだろうって』

 

 

『私は貴方とずーっと一緒に居たい。

貴方の心が安らぐ場所になりたいし、逆に安らげてくれる場所になってほしい。共にいるだけじゃ足りない。血も肉も分けあって、苦楽も全て分けあって。それでもまだ足りない」

 

 

 

『だから、ね。

それを全部満たす方法もわかったのよ』

 

 

 

『ねえ、シュウ。』

 

 

『菜種アオは、貴方の、家族になりたい』

 

 

 

愛を込めて、そう囁く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

「それでは、お世話になりました」

 

 

「…ん、あ、ああ。

こちらこそ。それじゃ、また学校で」

 

 

 

いつにも増してぼーっとした兄の様子を横目で見ながら、私は頭を下げるアオさんを見る。

何も変わらないように見える。見えるがしかし、いつもよりも高揚している。

 

 

「…兄さん。私、送って行きます。

物騒ですし、何かあったら困りますしね」

 

 

「……」

 

 

「兄さん」

 

 

「!あ、ああ!ごめん!頼んで良いか?」

 

 

 

薄く隈が出来た彼の顔を伺い伺い、そう許可を取る。

 

 

「ええ、わかりました。

……行きましょうか、アオさん」

 

 

「…ハイ」

 

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

 

二人で道を歩く。

どちらも、無言。

 

示し合わせた訳でも当然無く、そしてまた心地の良い沈黙というわけでもない。

 

じりじりと、互いに追い詰められて行くような、針の筵のような沈黙。

 

 

 

「……スズも、起きていたでしょう。きっと」

 

 

 

先に、沈黙を破ったのは、アオさんだった。

そしてまた、その発言は彼女が最早撤回をするつもりも、戻るつもりもない事の証座だった。

 

ギリ、と唇を噛んだ。怒りもあった。だがそれよりも、辛さが大きかった。

 

 

 

 

「はい。昨夜、私は起きていました。

正確には起きてしまったのですが」

 

 

「……なら」

 

 

「はい。聞いていましたよ。

あの様子なら、多分兄さんもですね」

 

 

 

再び、沈黙。

 

 

 

「…………あの時。

言えなかった事を言いましょう」

 

 

「ッ!」

 

 

 

『言わねばならない事』を言おうとしている私よりも、アオさんの方がひどい顔をしていた。互いに、木乃伊じみた顔色をしていたんじゃないだろうか。血の気の引いた、そんな悪い色。

 

 

そうだ。彼女もわかっているのだ。

この一言が、訣別の証になる。決別と、二度と戻らない地平線になってしまう。

 

 

 

「……あの日、私は言いました。

兄のあの傷を付けたのは誰なのか。

それに対して、『知らない』と」

 

 

 

「……やめて、やめて、スズ」

 

 

 

怖い。

怖くてたまらない。

これを言ってしまえば、二度と日々は戻ってこない。心臓が早鐘を打つ。息が揺れ、思考が纏まらない。身体中が小刻みに震える。

 

 

 

「あれは、嘘です。すみませんでした。

私は知っています。誰よりも、彼自身よりも名刻に、はっきりと」

 

 

「やめてッ!」

 

 

 

泣き出すような金切声をあげるアオさん。

ああ、珍しい。

彼女がこんなにも感情を露わにするとは。

 

 

ああ。

それでも。

 

 

言う。言わねば。

 

 

 

 

「─兄さんにあの傷を付けたのは、私です」

 

 

「だから私は、その責任を取るんです。

ずっと。永遠に」

 

 

 

 

ああ、言ってしまった。

もう、戻れない。二度と、戻らない。

 

 

 

 

「だから、さよなら」

 

 

 

さよなら。

たった四文字に込められた気持ちは、一千字の文章であっても語り切れないような複雑な感情に満ちていた。

 

さよなら。これまでの日々。

さよなら。アオさんとの笑い合う仲。

さよなら。貴女の優しさとも。

 

 

 

彼女はきっと、答えを知っていたのだろう。

だがそれでも、私からそうではないと否定して欲しかったのだろう。

 

彼女は、私のことを好いてくれていたのは本当に伝わってきた。だからこそ、嫌いになんてなりたくないと。

 

 

 

だから、さよなら、愛を込めて。

 

貴女との日々。

これまでの仲。

本当に、大切にしたかった。

 

私だって、アオさんが本当に好きだった。貴女と話している時も、関わっている時も楽しかったし、心から笑えていたんだ。

 

それは、本当だ。

 

 

 

アオさんの顔を伺う。

 

彼女らしくもない。泣くように、嫌悪するような、悔やむような、酷い顔をしていた。

なんで、なんで、と。そう言いたげなように。

 

 

 

 

「……それで、いいんですねッ……!」

 

 

 

ああ、いい。

それでいい。私は。

 

 

力無く頷くと、アオさんは背を向けて走り去って行った。

路面に数滴の水が垂れた跡が残った。

 

 

 

ああそうだ。確かに大切にしたかった。

この手から離したくなんてなかった。

 

 

でもそれでも、それよりも、もっと。

 

 

 

 

 

(……巫山戯るな)

 

 

(兄さんの家族は、私だけでいい)

 

 

 

 

…彼に対するこの気持ちは。

それよりも優先される物だっただけだ。

 

 

 

 

 



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運命の三叉路






 

 

 

 

3月14日。

ホワイトデーに用意をする青年が一人。

その目の下には薄い隈がまだ残っている。

 

彼はただ、ぼーっと鏡を見ている。

着替え、髪を正し、呆けて。

 

 

 

「おはようございます、兄さん」

 

 

そんな背に、声が掛けられる。

薄氷のように優しい声。

声をかけられた青年、古賀集はその声にようやく正気を取り戻したかのように頭を上げる。

 

 

 

「!…あ、ああ。

おはよう。今日は早いな」

 

 

「?いつもと同じですよ。いつも朝起こしてるじゃないですか。何を言ってるんですか」

 

 

「うん、ああ…いや、そうだな」

 

 

どこか呆然としたような、呆けたままの状態で答える青年。その様子を見て、少女…古賀鈴は怪訝から心配へと表情を変える。

 

 

「……疲れてるんですよ、きっと。あまり根を詰めすぎないようにして下さいね。ただでさえいつもオーバーワーク気味なんですから」

 

 

「…ああ」

 

 

「なんなら、今日は学校を休んだらどうです?一日くらいならとやかく言いませんよ」

 

 

「いや、今日は絶対に行くよ。

お返しもしなきゃだからな」

 

 

「今日はホワイトデーですもんね。

確かに、大事なことです」

 

 

そっと、悲しむような目つきを少女がした事には青年は気付きはしなかった。

それは彼が疲労しているからだったかもしれないし、彼が彼だからかもしれない。

 

ともかくとして、妙にどんよりとした空気を入れ変えるように、話題を切った。

 

 

 

「そういや、今日はアオは一緒に通学しようと来るかな?それならちょっとだけ話したいことが…」

 

 

「アオさんは、来ませんよ。

おそらく、ずっと」

 

 

「え?」

 

 

すとん、と。

包丁が落とされたような、そんな声だった。

聞き返す事も、ただ反射で行っただけでそれをすらまともに行えないほど、鋭利だった。

 

 

 

「大丈夫です、心配ありませんよ。

私がいます。私がついていますから」

 

 

「一緒に行きましょう。

大丈夫、いつも通りに」

 

 

「私が、ずっと一緒ですから…」

 

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

そして、いつもの如く教室に着く。

通学の道はどこか記憶が朧げなようで、鈴に対して失礼をしてしまったのではないかと、ふと思う。そうでなければ、いいのだが。

 

 

 

「おはよう、シュウ」

 

 

席に着いた途端に、一人の少女が青年に近寄っていく。その姿には子猫が親元にすり寄るような微笑ましさがある。

そのように、見えるというだけだが。

 

 

「!ああ、お早うアオ。今日も…」

 

 

そしてそのままにぎゅっと、座った青年の顔を抱きしめるようにして抱擁をする。

それまでなら腕を組むなどであったそのボディ・タッチは、些か過激すぎるようだ。

 

 

「……〜〜っ…」

 

 

いつもより身体に熱を帯びているように感じたのはきっと、気のせいではないだろう。

 

 

集青年は、それらに言及をしなかった。

それは、気遣いであったりだとか、そう言ったものではなく、ただどう口にしていいものかさっぱりとわからなくなってしまったのだ。

 

 

だからその代わりにと言わんばかりに、鞄に手を入れて小包を取り出した。

 

 

 

「急で悪いけど、これ。ホワイトデーのお返しだ。口に合えばいいけど」

 

 

そう、自身を抱きしめる相手に平常心を保ちながら言うことが出来たのは、奇跡的と言っても良かったかもしれない。

 

 

「ア…ありがとう、シュウ。

中身はなんでしょう?」

 

 

「ン、ただのクッキーだよ。

ほんとは手作りのが良かったんだけど…

どうにも、最近忙しくて。ごめんな」

 

 

「私はお返しを貰えるだけで、十分です。

ただ、クッキーですか」

 

 

「…?嫌い、だったか?」

 

 

「イイエ、好物です。

なんでもありません」

 

 

少し、落ち込んだような色が顔に走った事を、めざとく青年が指摘する。ただアオは、その指摘を、何事も無かったように流す。

 

 

 

「…今日は、顔色が良くありませんね。

寝不足ですか?」

 

 

「……まあ、そうだな」

 

 

「私のせいですか」

 

 

「そうじゃない」

 

 

『あの言葉を、聞いていたのですよね?』

 

 

「……!」

 

 

 

眠そうに、ぼーっとしていた脳と目に刺激が走る。見開いて、ただ前を向く。

 

 

 

『ごめんなさい。そんなつもりは無かった。

答えはすぐに求めるつもりも無いし、困らせるつもりも、ね』

 

 

『………でも。できれば答えはちょっとだけ早くして欲しい、ですよ?』

 

 

 

瞬間に、ホーム・ルームの鐘の音が響く。

 

 

「フフ。それでは、後で」

 

 

にっこりと笑う、彼女を見る。

ニッコリと笑う、彼女。

無表情の彼女から、非常に珍しいものを見たのにも関わらず、感じるものは歓喜というよりは、むしろ身震いであった。

 

青年はまた、そんな自分を嫌悪した。

どうして、素直に喜べない。

どうして彼女を。

 

きっとそれは、笑顔でありながら、笑顔とは程遠いものだったからなのだろう。

 

 

 

そうしていると、ふと違和感の正体に気付く。

そう、先程から何か妙な違和感に襲われていたのだ。その正体に、ようやく気付いた。

 

 

アオと話している時。そんな時にいつもあるような、背後から射抜くような視線を感じなかった。そして、そんな視線の元より聞こえてくる黄色い悲鳴も、今日は聞いていない。

 

あの、赤い視線が。

 

席は空だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

思わず、青年は鞄を落とした。

驚愕、呆れ、虚脱感。それぞれ、6、3、1程の割り合いの感情からの行動だった。

 

生徒会室。

ただ向かった先に、今日、教室には居なかったある人物が一人で佇んでいた。

 

座る事すらせず、ただ立って。

 

 

 

「…どうしたんだよ、シド…!?」

 

 

彼の声音から、明らかな心配。

それは休みであった彼女が何故か学校にいる事への心配でも、ただ立ち尽くしていた事への心配でもない。

 

ひどい顔だった。

顔色が、蒼白よりも白だった。

それに対する、心配だった。

 

 

 

「……おや。来たのかい。

いいや、来ると思っていたのだけれど、ね」

 

 

「……元気そう、じゃないな。でも、せめて学校に来てるんだったら先生に連絡したらどうだ?クラスのみんなも心配してたぞ」

 

 

 

頭を掻きながら、取り直すようにそう言う青年は、次にまた仰天する。

 

少し目を逸らした隙に、彼女はグイとまた距離を近づけて来ていた。

それ自体は、シドがよくやることではあった。だが今日は何か、猛禽類を思い浮かべるような。そんな、飢餓じみたものがあった。

 

 

 

「へえ、心配してくれたのか。みんな」

 

 

「あ、ああ。当然だろ。

お前無断欠席するような奴じゃないし…」

 

 

 

「キミは?」

 

 

「?」

 

 

「キミは、心配してくれたのかな。

ボクの事を」

 

 

「当然だろ」

 

 

「そう、心配したろうね。

『皆と同じように』」

 

 

 

一部分を強調して話す、喋り方。皮肉じみたように話すそれに、珍しく青年が眉を顰めた。

 

 

 

「…何が、言いたいんだ?」

 

 

「もう、いまいち分かってないなんてツラはやめなよ。わかっているだろう、きっと」

 

 

「……『皆と同じように』心配されるのが気に食わないってことでいいのか」

 

 

「何故だと思う?」

 

 

「…」

 

 

「キミが、皆と同じような心配をしていると聞いたボクが、機嫌を損ねている理由は?」

 

 

「……わからない」

 

 

「嘘つき」

 

 

「…」

 

 

 

 

ふらふらと、足取りがおぼつかないように、青年の横を通り、出て行こうとするシド。

それを止める手は、彼からは出ない。

出すことのできる資格は、無い。

 

 

 

「…待った。

これ、もし良かったら」

 

 

「なんだい、それ」

 

 

「ホワイトデーのお返しだよ。お前からは直接貰ってないけど…色々いつも、世話になってるし。一応チョコは貰ったからさ」

 

 

「…………」

 

「…そういうこと、ばかりするね。

それをやめた方がいいのに。

特に、ボクみたいな相手にはね」

 

 

「…放って置けるもんか。お前の傍に居るって約束したじゃないか。これでも、覚えてるんだぞ。あの時言ったこと」

 

 

 

その言葉を聞いて緩慢に、しかし、ハッと驚いたようにシドが振り向き、彼の顔を見た。

そして、疲れたように笑う。

笑ったまま、つぶやいた。

 

 

 

「そんな目で、ボクを見ないでくれ…」

 

 

 

「え」

 

 

「…見ないでくれ…よ…」

 

 

 

「!?おい、シド!シド!?」

 

 

 

ふらりと倒れるその身体を何とか受け止める。

 

両の腕に、彼女がぐったりと、死体のように倒れかかる。その身体は、ぞっと怖くなるほどに軽かった。

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「……過労と寝不足、あとめまいが慢性化してたらしい。ひとまず寝たら、良くなるかもしれないって言ってた」

 

 

「そ、そうですか。

よかったですね、何事も無くて」

 

 

「ああ、本当に。

…ひさめもありがとう。急に運ばさせちゃってびっくりしたろ。ごめんな」

 

 

「いえ、そんな!

お二人の役に立てて本当によかったです!」

 

 

 

そう、へにゃり、と慣れていないような笑みを浮かべるのは村時雨ひさめだ。彼女は、倒れ、それを運ぼうとしている古賀集を目撃。生徒会室からシドを運んできたのだ。

 

 

「…あ、あとさっきのホワイトデーのお返しもありがとうございます。その、大事にとっておきます!」

 

 

「い、いやいや早めに食べてくれ。

そっちの方が美味しいだろうから」

 

 

「あっ、はい!確かにそうですね…」

 

 

申し訳なさそうな顔をする、ひさめ。

それを見てまた、古賀が複雑そうな顔をした。

 

 

 

「シドさん…大丈夫でしょうか」

 

「…なんて。

僕が心配する資格もないでしょうが」

 

 

 

ぞっとするほどの嫌悪を持って、そう吐き捨てるひさめ。その急な変貌に、集青年は思わずそちらを向いた。

 

 

「……どういう意味だ?それ」

 

 

「……」

 

 

 

顔を逸らし、苦々しい顔をし。

そして、ゆっくりと話す。

 

 

 

「…きっと、僕のせいなんです」

 

 

ああ、この嫌悪は何に向けている訳ではない。自分自身に向けたもの。だからこそ、それは恐ろしいものだった。自身をそれほど嫉み、厭う事ができるだろうかと。

 

 

 

「ひどい事を、シドさんに言ってしまったんです。言った上で、それを撤回するつもりが無いとも。その発言の意味が分かってない訳はなかった。なのに、僕は…」

 

 

「…僕は、どこかで、あの人ならばきっと何を言われても大丈夫だと思っていた。

シドさんはかっこよくて、強くて、完璧で。だから僕なんかが何を思おうが、変わらないまま凛然と立っているんだろうって」

 

 

一息に、早口に、言う。

そして深呼吸のように息を再び吸う。

息が明らかに荒くなっている。

 

 

「僕、僕は…本当に、あの人に感謝してるんです。あの人が生徒会に居てくれたから僕なんかでも居続けることが出来て、僕と友達になってくれて…なのに、なのに!」

 

 

「……」

 

 

「…なのにどんどんと自分の中でシドさんを嫌いになっていってしまう自分がいるのがわかる!それが嫌なんです、本当に。」

 

 

「そしてあまつさえ!これを、貴方のせいにしてしまいそうな自分の弱さが!貴方が僕を変えてしまったと貴方のせいにしても。貴方なら、きっと僕を許してくれるからって甘えが!」

 

 

「…嫌いだ…」

 

「こんな僕自身が、大嫌いだ…!」

 

 

 

ぜい、ぜいと肩で息をする。

その肩をゆっくりと抑え、顔を上げさせる。

涙こそ流れては居なかったが、その端正な顔がどうしようもなく、苦悶に歪んでいた。

 

 

「すみません…急に、こんな…」

 

 

「ひさめが何を言ったかは分からないけど。きっと、大丈夫。それは君のせいなんかじゃない」

 

 

「でも、僕は…」

 

 

 

「大丈夫、ひさめのせいじゃあない」

 

「………全部、俺のせいだ」

 

 

 

「…え?」

 

 

「…それじゃ!ひさめも今日は帰りな?

もう遅いし。俺も帰るから、じゃあな!」

 

 

「あっ、ちょっと…!?」

 

 

 

明らかに、何かを誤魔化すように。

焦るように去っていった彼の背中に手を伸ばし。そして伸ばした手をそのまま引っ込めて、そのまま下ろす。

そのまま、追う事もできないまま。

 

 

その背姿を見て、ひさめはまた、改めてため息をついた。恋慕、嫉妬、衝動。

 

 

 

(この気持ちの、折り合いが付けられない)

 

 

知らなかった感情。慣れていない想い。それら全てが、彼女を狂わせていく。それに慣れない。倫理と論理が支配をしてくれない。

 

 

(……早く。)

 

(言わないといけない。

僕自身より、彼の為に。

彼の周りを、どうにかしない内に)

 

 

そう、背中が見えなくなるまで見守っていた。そして放課後のチャイムがそのまま、思考の終わりとなった。

 

 

(…結局、保身か)

 

(……僕は、最低だ。)

 

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

集青年は、家に帰るでもなく、かといって何処に行ったというわけでもない。

 

空いた教室に。

力無く、そこにただ横たわっていた。

糸の切れたマリオネットのようだった。

 

 

 

 

「……ええと、最近流行ってるのかしら?

誰も居ない教室で黄昏るの」

 

 

 

優しく、しかし確かに困惑した声。

それは、また彼が聴き慣れた声だった。

 

 

 

「……あ、すいません、ウキハ先生。

教室、閉じますよね。

すぐに出ますんで」

 

 

「あ、ええ。…って、そんな急に立ち上がらなくてもいいのよ?ほらそんなにフラついて…」

 

 

ふと、浮葉が口をつぐむ。

 

すると、何を考えたか彼女は一つ椅子を引いた。否、それだけではなく、机を移動させ向かい合わせる。小学校の時分の給食の時のように。

 

 

「ほら、集くん。座りなさい」

 

 

「…え?いや、でも俺…」

 

 

「…そんな顔をしてる貴方を放って置ける訳ないでしょ。緊急、二者面談よ。

これは先生からの命令です」

 

 

「…はあ」

 

 

いつもならば、それに困ったような、それでいて爛漫な笑顔を見せたであろう彼。しかし、それすら無い。生気が抜け落ちたような状態だった。

 

 

 

「…本当は九条さんとももう一回話したかったの。あの時は誤解を招く言い方になってしまったけど、その気持ちは大事なものだって…」

 

 

「……」

 

 

「……っと、ごめんなさい。

今は話を聞く番だったわね」

 

 

 

再び、沈黙が襲う。気まずそうに浮葉が目を泳がすが、しかし席は立とうとはしない。ただゆっくりと話し出すのを待っている。

 

 

 

「…俺のせいなんです」

 

 

「何が、かしら」

 

 

「みんな、笑顔じゃなくなる」

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

ぽつり、と言われた。

外からは楽しそうな下校の声が聞こえる。

 

次につながる言葉を、浮葉は待った。

 

 

 

 

「…みんな、どんどんと笑顔じゃなくなってく。かっこよくて綺麗だったシドはあんなにやつれて、笑わなくなっちまった。ひさめは泣きそうな程追い詰められて、笑うことなんてめっきりなくなった。アオだって辛そうな顔をしてた」

 

「鈴だって!俺なんかが兄貴じゃなければもっと幸せだったはずだ!悲しませることもない、あんないい子ならもっと、もっと!」

 

 

「…何が人助けだ、何が。

俺は何も助けちゃいない、何も出来ない。

ただ自己満足に彼女たちを使っただけだ!」

 

 

 

聖人を気取ってのたまうその面は、どれだけ恥知らずならばできたのだろうか。

そんなように、けらけらと笑うのは正義感にあふれていた自分自身のような気がして、彼はただ嘲りながら涎を垂らした。

 

 

 

「……そっか。

貴方は、怖いのね。

周りから好かれている事も。

そして、それが皆を苦しめてる事も」

 

 

 

理解できないものを恐れる。これは、人間、生き物として当然のこと。

風が鳴る音の恐怖から人は妖怪を作り、疾病への恐怖から人は悪魔を作った。

 

分からないものは、こわい。

これは、当然のことだ。

 

 

彼には、わからないのだ。

 

自分をどうして好きになるのか?それが本当にわからない。何故。どうして。人として当然のことをやっているだけ。ましてや、それで自慰行為のようにしているだけ。

そんな最低な自分を、糞のような人間を。

それが何一つとしてわからない。根源的な恐怖に苛まれ、幼児のようにびくついている。

 

 

そしてまた、そんな自身を痛め付けている。そんなことを理解できない自分を、なんと出来の悪い奴であろうかと。好意をまともに受け止めることすら出来ない、出来損ないの人間。お前が不出来だから。お前が駄目な人間だから。彼女たちを苦しめているのだ。

 

そう、自身を延々と痛め付け続けている。

 

それが、今の彼だった。

ずっと、そうだった。それを隠し切れなくなったのが、今になったというだけであった。

 

 

 

「…ずっと、愛を向けてくれてるのはわかってた。薄々と、それでも気付かないフリをしてた…」

 

 

「だって、それに応えたら絶対に相手は不幸になる!俺が、俺なんかが…!」

 

 

 

そうして目を逸らせば逸らすほど、更に自己評価は下がっていく。『分かった上で目を逸らしている、最低な塵野郎』と。

尚更、気持ちに応えるべき人間では無いと思っていく。負の、ループだった。

 

 

 

「……俺は、愛される価値なんてない!

誰も幸せにすることなんて、出来ない…」

 

 

 

焦点が合わず