少女が神に至るまで ─ウマ娘プリティーダービー─ (嵐牛)
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序章:昼行燈を灯すのは
1話


 チチチとどこかで小鳥が鳴き、その(さえず)りに呼ばれるように欠伸(あくび)が口から顔を出す。

 桜の盛りは過ぎたものの季節の盛り、空に浮かんだ太陽はその輝きからは連想できない程に穏やかな陽気を地上へと振りまいている。

 春風の温もりと共に運ばれてきた芝の香りが、今やるべき全てのタスクを放り出して柔らかなターフに寝転がれと胸ぐらを掴んでくるようだった。

 隙あらば指先を這わせてくる睡魔の誘惑を、いかんいかん、と頬を叩いて振り払う。

 ヒリヒリした痛みに幾ばくか覚醒した意識で男は広大な敷地を持つ校庭を─────単に運動するための砂のグラウンドとは違う、1つの使用目的だけに特化した作りの芝のコースを見下ろした。

 

 走ること。

 その為に作られた緑色の道を、『少女たち』が駆け抜けていく。

 頭頂付近から生えた人間のそれとは異なる形状の耳と、腰から靡く人間には備わっていない流麗な尾。

 そんな異なる種族の特徴と共に、彼女らは掛け声に合わせて走る。

 ()()()()()()()()()()()()()という、異なる種族の証明たる走力で。

 

 

 人間とは少しだけ異なる存在───『ウマ娘』。

 時に数奇で、時に輝かしい歴史を持つ別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継いで走る運命を背負った少女たち。

 そしてここはそんな彼女らが他の誰よりも速くレースを駆け抜けるべく通う、"己の脚を鍛えるために日本各地に存在する学園"・・・・・・その中でも最大規模、およそ2000人超の生徒を擁する『日本ウマ娘トレーニングセンター学園』、通称『トレセン学園』。

 『走り、競うこと』を至上とする数多くのウマ娘が憧れ、才能を見込まれたウマ娘だけがその門戸を潜り、同じだけの数のウマ娘が夢破れて涙と共に去り─────そして一握りのウマ娘が栄光と威光を掴み取る戦場である。

 

 そして戦場たる学園に在籍する彼女らを鍛え導く存在、『トレーナー』。

 春の日和に瞼を(しばたた)かせていた男は、その肩書きを持つ者の1人だった。

 昨日は充分に寝たはずなんだがなあ、と首を捻っていると、ハッハッハと快活な笑い声が近付いてきた。

 欠伸をしていたトレーナーの同僚だ。

 彼は鳴らしていた靴音を男の隣で止め、揶揄うように顔を覗き込む。

 

 「よう、()()()()。眠たそうじゃないか。そんなのでまともに品評が出来るのか?」

 

 「・・・・・・古賀(こが)か。誰がチカミチだ」

 

 「はっはっ、悪い悪い」

 

 散々前からやめろと言い続けているはずの、()()()()()()()()()()()()()()()をトレーナーは吐き捨てる。

 その呼び名は、トレーナーのウマ娘の育成方針によるものだった。

 ウマ娘の性質を正確に把握した上で組み上げる、効率を徹底したトレーニングメニュー。

 定石とされるトレーニングも少しでもそのウマ娘に合わないと判断すれば、新たなトレーニングを1から作る。

 無駄は排して目指すは常に最短距離。

 だから、『近道(チカミチ)』。

 難色を示す本人とは裏腹に、彼をそう呼ぶ者は絶えない。

 それは常にウマ娘を第一に想う彼の姿勢と、確かな手腕に対する敬意を込めた渾名(あだな)だからだ。

 

 「しかしどうだ。今年の新入生は中々粒揃いじゃないか?」

 

 「ああ。特にあの黒鹿毛と・・・・・・鹿毛の2人だ」

 

 そう言って2人はグラウンドを見下ろす。

 今は体育の授業中で、新入生がレースで走るための基礎的な力を培うためのトレーニングを行なっていた。

 レースをしている訳ではない。

 本番に近いコンディションのコースと集団の中で走るというレースの空気に慣れる為に、十数人が纏まって走るのだ。

 なので着順での争いがある訳ではないのだが、その中でも抜きん出ている者・・・・・・・・・、早くも才能の片鱗を見せている者はやはり存在している。

 先頭とその付近を走る黒鹿毛と鹿毛の2人の目には、競走ではないと説明されていてもなお闘争心が燃えていた。

 

 「『ウメノチカラ』と『カネケヤキ』か。今年の目玉はこの2人かな。入試の時の時計もいいし、スカウトには苦労しそうだ」

 

 「『バリモスニセイ』あたりも傑物だが、やっぱり俺はそのどっちかを担当したいな。あの才能を自分が花開かせるなんて胸が躍るじゃないか」

 

 「そうか。じゃあ俺とは競合相手になるかもな?」

 

 「あっお前、まさか2人とも狙ってるのかこの業突く張りめ。まだ足らんのか、去年あれだけの成果を挙げておいて───────・・・・・・・・・・・・、・・・・・・すまん」

 

 「・・・・・・気にするな、分かってる。()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そう答えた男は、しかし握った手に力が入るのを抑えられなかった。

 古賀に悪意があった訳ではない。事実、このトレーナーは担当したウマ娘の経歴を誇るべき戦績で彩ってみせたのだ。

 ただしその結末が、彼にとっては余りにも苦く苦しいもので終わってしまっただけで。

 彼の指の圧に押されてくしゃりと紙が歪むのを見て古賀は目を伏せる。

 

 「気にしてはいないよ。だからお前が気に病むな」

 

 「ああ、ありがとう。俺はもう行くよ。・・・・・・本当にすまない」

 

 (・・・・・・今度酒でも奢らせるか)

 

 悄気(しょげ)た様子で立ち去った古賀に、トレーナーはやれやれと頭を掻いた。

 あれは気のいい男だ、わざとでは無くとも人の傷に触れてしまえばずっと気に病み続けてしまう。

 ならば何でもいいから適当に詫びの形でも取らせてやった方がいいだろう。

 これは自分が抱えていればいいものだ。他者に腫れ物として扱われたいとは思わない。

 

 気を取り直し、改めて新入生を観察する。

 似通った姿形でヒトを優に超える身体能力ばかりが目立つが、同時に彼女らの性質にはガラス細工のように繊細な部分がある。

 その内の1つは、環境の変化にヒト以上に敏感であること。

 新たな環境、初めて経験する訓練。そしてそこかしこに立って自分たちを見定める、これからの自分のレース人生を左右するトレーナーたち。

 緊張が高まる数多くのファクターに見舞われ、運動量以上に疲弊しているようだった。

 最後の組が走り終わっても、まだ最初に走った者たちは息が整っていない。

 

 これから彼女らはクールダウンの方法を教わる。

 トレーナーが着くか『チーム』に所属するか、レースのための本格的な訓練が課されるまでに、新入生たちは徹底的に自己管理のノウハウを叩き込まれる。

 最も重要で、しかし地味な講義。

 それ故に資質の多寡が聞く姿勢に出たりもする。

 普通に聞いている者や退屈そうにしている者、疲労に押されて半ば聞き流している者・・・・・・、あるいは真剣な顔で傾聴している一部の者。

 そういう所も判断材料としてトレーナー達はこれぞと見込んだウマ娘にアタックをかけるのだ。

 無論それはチカミチと呼ばれたトレーナーとて例外ではなく、首から下げた遠眼鏡を覗き込んで彼女らの様子を観察している。

 

 そんな時だった。

 

 「・・・・・・・・・・・・ん?」

 

 妙な生徒がいた。

 ウメノチカラでもカネケヤキでもバリモスニセイでもない、()()()()()()()()()()()()()()()()()鹿()()()()()()

 思わず彼女を観察し続けている内に講義は終わり、ストレッチを実践した後に授業は終わりとなった。

 周囲のウマ娘の様子と彼女の様子とを見比べて、また彼は首を捻った。

 

 

 

 次の日の体育の授業はダートコースを使ったマラソンだった。

 目的はもちろん基礎的なスタミナを身につける事だが、どの辺りで失速ないしはバテるかで自分の大体の脚質が明らかになったりもする。

 早い内に疲労で下がれば短距離(スプリンター)

 長くペースを保てれば中・長距離(ステイヤー)

 どちらが優れているという話ではないが、短距離路線のレースが軽視されている現状、スプリンターを望まないウマ娘は訓練を重ねて自らの脚質を改造していくことになる。

 

 その鹿毛のウマ娘は、集団の最後方にいた。

 皆が乱れる息を押し真剣な顔でペースを保とうとしている中、彼女ひとりだけがいかにも『仕方無しに走ってます』といった風情でぽてぽてと集団に着いていっている。

 

 そして授業は終わった。

 時間にすれば1時間程度の持久走だが、不慣れな土のコースが身体にかける負担は並大抵ではない。

 みんなが大きく肩を揺らして喘鳴を漏らす中、やはり他のトレーナーたちの注目はきのう古賀との会話で名前が挙がった2人を中心とした先頭集団のウマ娘に集まっている。

 しかし『近道』と呼ばれるトレーナーの視線の先にあったのは疲労の只中でも背筋を伸ばす彼女らではなく、最後方を走っていた鹿毛のウマ娘だった。

 

 その後も彼は、彼女が履修する全てのトレーニングを見学し続けた。

 鹿毛の彼女は、いつだって最後方を走っていた。

 

 

 そして少々の時が流れる。

 体育の授業が基礎トレーニングに加えてコーナーの曲がり方や折り合いの付け方などを学ぶ『コース追い』やスピードを鍛える筋力トレーニングが始まり、やがてトレーナー達の目に止まるための選抜レースが話題に上り始めた時、彼は行動を起こした。

 褒められた行為ではない。

 それどころかマナー違反と謗られるような、不文律を犯す行いだ。

 それを自覚しつつも、彼は足を止めることはなかった。

 

 「わかった。ありがとう」

 

 「いえいえ。見つかるといいですね」

 

 昼食後の休憩時間、彼女のクラスを訪ねたが空振り。

 彼女がいそうな場所を教えてくれた生徒に礼を言って教室を出た後、教室内で(にわか)にヒソヒソ話が発生した。

 ─────なぜ練習でまったく目立たない彼女にトレーナーが会いにくるのか?

 そんな事には委細構わず、トレーナーは教えてもらった場所に足を運んだ。

 彼女は自由時間には大体そこにいるらしい。

 そうでなければまた機会を改める気でいたが、どうやらその必要はなさそうだ。

 

 目当ての鹿毛のウマ娘は、日当たりのいい芝生の上で彼女はうたた寝をしていた。

 春眠暁を覚えずを地でいく気持ち良さそうな顔で目を閉じている様に、声をかけるかどうか、というか起こしてまで話しかけていいものか若干迷ったトレーナーだがその時、ぱちりと彼女の目が開いた。

 横目で自分の姿を確認した後、回るように動いた彼女の耳もこちらを向く。

 ────自分が来るのを知っていたのか?

 そう思うくらいに彼女の動作にはゆとりがあった。

 むくりと起き上がった鹿毛のウマ娘は芝生に胡座をかき、のんびりとトレーナーを見上げて言う。

 

 「そのバッジ、トレーナーさん?」

 

 耳を立ててこちらを注視する鹿毛のウマ娘。

 興味や注意を示すウマ娘の()()だ。表情からして悪い感情を抱かれている訳ではないらしい。

 内心で安堵しているトレーナーに、彼女はぱたぱたと手を振りながら飄々と嘯いた。

 

 「生憎だけど鹿毛違いさ。あたしはカネケヤキじゃないよ」

 

 「いや、彼女目当てじゃなくて」

 

 「冗談だよ。いつもあたしを見てた人だろ?」

 

 「・・・・・・気付いてたのか?」

 

 「そりゃあれだけジッと見られたらね。たぶん最初の授業の時からあたしを見てなかった?」

 

 何でもない風なその言葉にトレーナーは思わず仰け反った。

 カマを掛けている風でもない、半ば確信しているような物言い。

 あれだけあちこちに立っていたトレーナー達の中から、自分の視線に気付いていたというのだ。

 慣れない環境に初めての指導、生徒全員が疲れ果てたトレーニングの最中に、そこまで周りの様子を見る余裕が果たしてあったのだろうか?

 

 

 ─────いや、あったのだろう。

 彼女ならそれができたのだろう。

 何故ならトレーニングのあと皆が疲労困憊で肩で息をしている中で、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ごくり、と緊張に思わず唾を呑む。

 確信があった。

 今年の新入生の中には確かに煌びやかな主役がいる。

 だが今は姿を隠しているこのウマ娘は、間違いなく彼女ら全てを飲み込む台風の目となるだろう、と。

 

 トレーナーのその表情に何を見たか、ニィ、と彼女は笑うように口角を曲げた。

 立ち上がってスカートの土と葉を払い、彼女は高く持ち上げた尻尾を揺らして彼の元へと歩み寄る。

 

 挑むような強さや噛み付くような凶暴さでもない。

 まるで己という存在を使って相手を試すような。

 彼女の名乗りが無意識に孕む空気には、そんな圧があった。

 

 

 

 

 

 

 「あたしはシンザン。あんたは?」

 

 



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2話

 鹿毛の長髪と、前髪に白い流星。

 『シンザン』と名乗ったそのウマ娘は、気圧された様子のトレーナーを不敵な表情で見上げていた。

 

 

     ◆

 

 

 「へえー、開業してるんだ。思えば身近な割によく知らない世界だけど、それって大変なんじゃない?」

 

 「兄貴がいるとはいえ親父も若くはないからな。万が一があるから勤務してくれた方が安心できるんだけど、なにぶん頑固で」

 

 自己紹介を終えた後、お話聞かせてよというシンザンの誘いでトレーナーはベンチに腰掛けてとりとめのない雑談をしていた。

 自分の名前を聞かれた時のまるで下から物理的に持ち上げられるような気迫には圧されたが、トレーナーの話に興味深そうに足をぷらぷらさせている姿は年相応の少女に見える。

 

 「けどそんな遠目からどの娘がどれだけやるかなんて分かるもんなんだね。あたし何人か凄いのがいるって事しか分かんなかったよ。後はせいぜい自分が一番かわいいって事くらい」

 

 「その辺りは経験則と勘だな。もちろん肉の付き方や体格を見なきゃ詳しいところは分からないけど、君は1人だけ平然としてたから分かりやすかった」

 

 「やーん。エッチ」

 

 「バテてなかったからっつってんだろ」

 

 自分の身体を抱えてくねくねしてみせるシンザンに割とガチめの突っ込みを入れるトレーナー。

 この様子だと最初に見せたあの圧力は現段階の彼女の実力を示すものではなく、あくまでも潜在能力の片鱗であるらしい。

 ─────花開かせてみたい。

 むくれた顔を作ってみせる彼女を見ながらそんなことを考えていた時、ふと思い当たったらしいシンザンが、トレーナーの顔を下から覗き込むようにして尋ねた。

 

 「けど身体付きが大事っていうのなら、なんであたしに目を付けたのかね? 自分で言うのもなんだけど、あたし小さい方だよ?

 スタミナがあるから疲れてなかったんじゃなくて、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 「体格は確かに大切だが、俺はあまり重視しない。大切なのはそこに詰まった『密度』だと考えている。

 入学式の日に壇上に立っていた彼女を見ただろう? 君よりも小さい身体で、素晴らしい成績を残したあのウマ娘を」

 

 「確かに。密度ねえ・・・・・・」

 

 「それにね」

 

 大きさよりも密度が大事と聞いて自分の(トモ)を掌でぎゅむぎゅむし始めたシンザンに、トレーナーはにやりと笑ってみせる。

 本人としてはしたり顔のつもりだったようだが、後々の彼女が語って曰く、それは実に、実に悪そうな顔であったという。

 

 

 「少なくとも良い顔はしておくべき『トレーナー』の前でそういう事を飄々と言ってみせた時点で、君の自信家っぷりはよく理解できたよ」

 

 

 「・・・・・・・・・へえ?」

 

 彼女は否定も肯定もしなかった。

 揶揄(からか)うようなトレーナーの言葉にシンザンは目を細めてにんまりと笑い返す。

 互いに腹の内で(はかりごと)を楽しむような空気に、ほんの少しだけさっき彼女が見せた迫力が顔を覗かせたような気がした。

 悪い沈黙をしばし楽しんだ後、さて、と声で区切りをつけてトレーナーはベンチから立ち上がる。

 

 「もう行くの?」

 

 「ああ。実は選抜レース前に目当てのウマ娘に粉をかけるのはマナー違反でね。だからこの事について何か聞かれたら、勧誘されてた訳じゃないと言ってくれると助かる」

 

 「あんたも大概肝が太いね。スカウト目的でしたって言ってるようなもんだよそれ」

 

 「アプローチをかけた訳じゃない。嘘は言ってないだろう?」

 

 呆れたようなシンザンを尻目に手を振りながら立ち去っていくトレーナー。

 まあ実際、嘘は言っていない。ここまでの会話の中で、彼は『担当になってくれ』とは一言も言っていないのだから。

 ただ、言われた側(シンザン)としてはどうだろう。

 常日頃から振るわず目立ちもしない(じぶん)を相手に、『俺は君の素晴らしさを分かってる』だなんて─────()()()()()()()()()()()()()()()

 あの男がタラシの(たぐい)なのかそれとも無自覚なのか。都会は凄いところだね、とトレーナーの背中を見送っていた時、ふと思い出したように彼はシンザンの方を振り返った。

 

 「そうだ。最後にいいかな」

 

 「?」

 

 

 「たぶん君が1番かわいいって事は無いと思う」

 

 「とっとと失せろこの野郎」

 

 

 

 

 トレセン学園は寮制の学園だ。

 一部自宅から通う者もいたりはするが、基本的に彼女らは敷地内の宿舎それぞれの部屋に2人1組のルームシェアで住み込むことになる。

 栗東(りっとう)寮と美浦(みほ)寮、道路を挟んで向かい合うように建っている宿舎のうち、シンザンが入寮しているのは西側の栗東寮だった。

 窓から覗く空はもう茜色が傾こうとしている時、宿舎の一室のドアががちゃりと音を立てて開く。

 姿を見せたのは目つきの鋭い黒鹿毛。いの一番に彼女の目に入ってきたのは、ベッドに寝そべっているシンザンだった。

 

 「よう、ウメ。おかえり」

 

 「ただいま。・・・・・・本当に呑気だな、お前は」

 

 シンザンに()()と呼ばれた黒鹿毛、ウメノチカラはやれやれとベッドに鞄を放り投げる。

 彼女が吐き出す息に疲労が混ざっているのをシンザンは感じた。

 

 「そっちは自主トレ上がりかい? 頑張るね、今の時点でも問題なくデビューできるって言われてんのに」

 

 「デビューはゴールじゃない。その先を走り抜けるなら気は抜けん。・・・・・・打算的な話だが、そういう姿勢を見せれば有力なトレーナーの目に留まりやすくもなるだろうしな」

 

 「けっ。トレーナーなんてもんはね、あたしらの身体しか見てないんだ。身体目当てなんだよ。失礼な奴だよ全く」

 

 「今日一日で何があったお前」

 

 そりゃ身体目当てだろ競走ウマ娘だぞ、というウメノチカラの至極真っ当な指摘にもシンザンは頷かない。

 よもやこいつトレーナーに色仕掛けでもしたんじゃないだろうな、というひどい邪推まで成立してしまうが、こいつに限ってそれはないなと思い直す。

 トレーニングでずっとクラス最下位にも関わらず彼女のボサッとした態度は変化しない。

 呑気の象徴としての地位を確立しているこの性格が、色仕掛けなんて切羽詰まった真似をするとは到底思えなかった。

 ともあれ・・・・・・曲がりなりにもこの学園に在籍する者として色々とだらけきったこの態度は、他人事ながら苛立ちが募るのも事実。

 言葉の端に険が混ざるのを自覚しつつも、ウメノチカラはシンザンに真っ直ぐに忠告した。

 

 「顔見せの時にハク寮長からも話は聞いたろう。デビューしても未勝利のまま終わるウマ娘も、トレーナーが付かずデビューすら出来ずに終わるウマ娘だっているんだ。

 ・・・・・・日頃の様子からして、まずお前は危機感を抱かないと不味い立場だと思うがな」

 

 「大丈夫だよ」

 

 やさぐれつつ腰蓑を巻いた黒人を模した空気で膨らませるタイプのビニール人形を脚に抱き着かせ遊んでいた彼女は、妙にハッキリと断言した。

 呑気とはいえ流石に迷いなく言い切られるとは思わず鼻白んだウメノチカラにシンザンが返した言葉は、しかしいつものようにのんびりとしたものだった。

 

 「どうにかなる。目処(めど)は立った」

 

 ・・・・・・これだ。

 とぼけた風に振る舞いながら、こいつは時折こういう目をする。

 理由もなく根拠もなく、安全させるような信頼もない。だけど()()()()()()()()()()()()()()と腕尽くで黙らせてくる問答無用の圧。

 穏やかな森の木陰から凶悪な獣の唸り声が聴こえてきたような不意打ちの悪寒を、ウメノチカラは何度か味わっている。

 

 「・・・・・・勝手にしろ」

 

 そう吐き捨てて彼女は身体を投げ出すように椅子に腰掛けた。

 まるで自分にとって取るに足らないはずの者に気圧されたという事実を、虚勢を張って誤魔化すように。

 

 

     ◆

 

 

 選抜レース前に有力なウマ娘に粉をかけるのはマナー違反という暗黙のルールは有力なトレーナー達が優れた生徒を独占するのを防ぐためのものだが、生徒の側にそういう不文律は存在しない。

 むしろ彼女らは来たる選抜レースに向けて在籍しているトレーナーを調べ上げ、積極的に行動を起こす。

 ストレートに自分をスカウトしてくれと拝む者や、日頃の練習に対する姿勢や結果でアピールする者。

 走りについてあれこれ質問して向上心で自らを売り込む者もいるため、これにどう答えるかはトレーナー側の重要なアピールポイントになり得る。

 そして言うまでもなく1番人気は有名なウマ娘を担当した実績のあるトレーナーだが、日頃のトレーニングが振るわない者は誰彼かまわずアタックをかけたりするので、意外にも訪れる機会は平等だったりするのだが。

 

 「何人か纏めてスカウトしようとしてるトレーナーさんもいるみたいだけど、あんたもそうするのかい?」

 

 「いや、俺は1人だけにするつもりだよ。俺のやり方だとあまり大人数は見れないからね」

 

 いつものようにシンザンは校舎裏の芝生の上、大きく枝葉を広げる木陰の下に寝そべっていた。

 誰も彼もが目当てのトレーナーの元に足繁(あししげ)く通う休み時間に、彼女だけが普段と変わらない。

 道すがらそこに立ち寄ったトレーナーは彼女と二・三言ほど言葉を交わしてトレーナー室に向かった。

 

 「やあトレーナーさん。モテるねえ」

 

 「君も加わるかい?」

 

 「あたしはいいや」

 

 ある時はそんな軽口を叩いた。

 自分を売り込んでくるウマ娘たちに囲まれて団子になったトレーナーをからかったシンザンは、トレーナーの笑い混じりの誘いには乗らなかった。

 熱心にアピールされながら去っていくトレーナーの少女たちの身体に埋もれたトレーナーの背中を、シンザンはぱたぱたと手を振って見送った。

 

 「『チカミチ』ってトレーナーさんの事?」

 

 「・・・・・・・・・・・・」

 

 またある時はどこぞの誰ぞにいらないことを吹き込まれていたりもした。

 トレーナーはノーコメントを貫いた。

 昼休みに校舎裏に立ち寄るのはある種の日課になっていた。

 

 そして来たる日が差し迫り、ウマ娘たちの緊張も目に見えて高まってきたある日。

 いくらなんでも焦る様子が無さすぎるシンザンに、トレーナーはこんな事を聞いた。

 

 「君は誰かにアピールしたりしないのか?」

 

 「もうしたよ」

 

 そっか、と。

 それだけ言ってトレーナーは校舎裏の庭を去る。

 その日が訪れるまでの間、これが2人の最後の会話になった。

 ──────やがてその日は訪れる。

 年に4回行われる選抜レース、その1回目。

 彼女らの運命が、いよいよ回り始めた。

 

 

     ◆

 

 

 選抜レースとは、まだチームに所属していないウマ娘のみがエントリーできるレースだ。

 期待度の高いウマ娘はこの時点で多くのファンが見届けに来ることもあり、開催の規模は学内のそれとは思えない程に大きい。

 彼女らはトレセン学園の一大行事となっているこのレースで実力を示し、観戦に来ているトレーナーにスカウトされることを目指す。

 ここで残した成績によって今後の運命が決まると言っても過言ではない重大なイベントなのだ。

 そしてまた一戦、注目度の高いウマ娘が出走するレースが始まろうとしていた。

 

 「──────来たぞ! ウメノチカラだ!」

 

 ゲート前で身体を(ほぐ)している彼女を見て、観客やトレーナーたちのテンションが一気に上昇した。

 入念なウォームアップを終えコンディションをトップギアに調整した彼女の鋭い眼差しは、今回の選抜レースに向ける意気込みを何よりも雄弁に語っている。

 誰が見ても絶好調と分かるその様子に、それを観戦していた鹿毛のウマ娘が穏やかに笑う。

 

 「ふふ。ウメちゃん、やっぱり大注目ですね」

 

 「有名にもなるでしょう。トレーニングで出す時計(タイム)は貴女と並んでトップですから」

 

 おっとりとした言葉に冷静な調子で返したのは同じく鹿毛のウマ娘だ。

 髪の色は同じでも人に与える印象は随分と違う。

 かたや大人びた柔らかさのある少女で、かたや硬い表情のいかにも真面目そうな少女。

 性質が真逆な2人のウマ娘が、隣同士並んでコースを見下ろしている。

 

 「順当にいけばチカラさんが1着でしょう。彼女と競れるだけの選手が複数いれば()()もあるでしょうが、私も貴女も出走したのは別のレースですから」

 

 「リセイちゃんはやっぱり冷静ですね。レースではあんなに熱いのに、まるで別人みたいです」

 

 「・・・・・・バリモスニセイです。そんな呼び方するの貴女だけですよ、ケヤキさん」

 

 拒否するまでには至らないが半目になるバリモスニセイに、あらあらと微笑むカネケヤキ。

 バリモスニセイの予想に反対意見を述べないあたり、彼女もバリモスニセイと同じ結果になると考えているようだ。

 『このレースの主役はウメノチカラ』。

 この2人に限らず、見物人の多くがそう認識しており─────『彼女』もまた、他の誰の眼中にも写っていないウマ娘だった。

 

 「・・・・・・・・・・・・、」

 

 ウメノチカラはちらりと横の様子を見る。

 一様に緊張感を漂わせている出走者たちの中で、『彼女』だけが逆に異彩を放っていた。

 ─────シンザンだ。

 のんびりとストレッチをしているその顔に、緊張の一切は見られない。それどころかウメノチカラの視線に気付いて手を振ったりしている。

 あれから色々と忠告はしたが、結局ここに至るまで彼女が焦る様子は無かった。

 自分の運命が決まるこのレースで、なおも呑気な顔をぶら下げている。

 

 ならもういい。知ったことか。

 

 失望を通り過ぎた無関心でウメノチカラは鼻息を鳴らす。

 何を考えているのか知らないが、ここまで熱を重ねてこなかった者に振り向く女神はいない。こいつは今日それを思い知るだろう。

 自分はただ、ここまで重ねてきたものを全て出し切るまでだ。

 

 (大事な一戦。・・・・・・必ず勝つ)

 

 『それでは選抜レース第4走目を開始します! 出走者の皆様はゲートに入って下さい!』

 

 開始の合図。

 いよいよ出走者たちがゲートの中に収まった。

 ウマ娘が本能的に嫌う閉所の中、ルーキー達が緊張と集中の折り合いを付ける最後の猶予。

 スタートに向けて集中力を尖らせる彼女らが見据えるのは、間もなく解放されるゲートの向こうに伸びるターフの道のみ。

 いくつもの駆け引きが行われるレースの中で、この時だけは全員が己のみに意識を向ける。

 

 だから、彼女のことをトレーナーだけが見ていた。

 

 ゲートから覗く顔に強張りはない。

 集中を極めたその意識の中に他者への関心など存在しないのだろう。

 静かに揺らがず、ただ己がやるべき事のみを見据えた佇まいには、『自分は出来る』という圧倒的な自負がある。

 同じゲートの中で同じように構えておきながら、彼女だけが森の泉のように静謐だった。

 

 「・・・・・・・・・競走ウマ娘の理想だな」

 

 トレーナーは思わずそう(こぼ)した。

 あそこからどんな走りを見せてくれるのか、彼女はもしかして自分の予想を遥かに上回る傑物なのではないか、とも。

 彼女が予想以上に予想以上なものを見せてくれそうな予感に、彼は思わず身を乗り出していた。

 

 ただし。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 ガシャン!!!!

 とうとうゲートが開く。

 一斉に飛び出したウマ娘たちが地面を蹴り、我先に好位置を奪わんと2歩目を踏み出そうとした時。

 それは起こった。

 

 「え」

 

 ウメノチカラの口から声が漏れる。

 出走者たちも見物人も、それを見ていた全員がポカンと口を開けた。

 彼女は1人を除いて誰の眼中にも無かった。

 1人を除いて、誰も彼女を見ていなかった。

 そうなっても仕方ない位に実力が無く、そうなる位に目立たない。

 そのはずだ。

 そのはずだったのだ。

 

 

 地面を蹴る音は一際大きい。

 まるで自分でゲートを押し開けたかのように滑らかに、まるで助走を付けたかのような初速で彼女は一気に前に出る。

 

 このレースの出走者たちがスタートしてから最初に見たものは、開幕から大きく先頭に躍り出たシンザンの背中だった。



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3話

 

 「!? おい何だあのスタートダッシュ!」

 

 「開幕で2バ身は離したぞ! あんなスタートが巧いウマ娘いたか!?」

 

 どよめく観衆。

 1番人気のウマ娘を尻目に先頭に立って走るシンザンの姿にあちこちから驚愕の声が上がるが、何より気が動転しているのは他の出走者だ。

 こうなると事前に立てていた作戦は総崩れになる。

 普段から優れた結果を出しているウメノチカラを警戒していたのに、警戒の端にも入れていなかった()()()()()のデータなど把握している訳がない。

 あくまでも対ウメノチカラの策を立てていた彼女らは、ここに来て想定外の対応を強いられた。

 

 「このっ・・・・・・!」

 

 「行かせない!!」

 

 前を走るシンザンに何人かが並びかけてきた。

 レースはまだ序盤も序盤。本来ならまだ展開を窺うべき場面なのだが授業外での初めての実戦、それも今後が懸かった選抜レースだ。

 『こいつには負けられない』という焦りに押された者は早くもペースを上げてシンザンを追い抜かす。

 ここで落ち着いて様子を見ることを選んだウマ娘はなかなか冷静だろう。最初こそ動揺を見せていたが、ウメノチカラもまたその中の1人だった。

 

 (脚を溜めておかなきゃならん)

 

 先行策のベストポジションはシンザンに奪われた。

 距離が伸びる外を回るにも、バ群をくぐって内に潜るにも────勝負所でより多くの体力を消費する。

 ならば少し後ろで全体が見えるポジションに付け、最良の仕掛け時とルート選択を見極めるが最良。

 幸い負けん気が強い者が早い段階でシンザンに仕掛けにいった。これで仕掛けた側もシンザンも互いに削り合うだろう。

 後は脚を消耗した彼女らを最終直線で抜けばいい。

 自分ならそれが出来る。

 その為にこの中の誰よりも努力してきた。

 たとえスタートで遅れを取ろうとも・・・・・・

 

 (・・・・・・怠けた奴に、負けはしない)

 

 第1・第2コーナーを回って向こう正面の直線、レースは淀み無く進んでいく。

 現在ウメノチカラは5番手でシンザンは4番手。

 勝ちに(はや)って飛ばし過ぎた者は辛そうな顔をして徐々に速度を落としつつある。

 そろそろ(しお)だ、とウメノチカラは判断した。

 こうなるともう彼女らにルートを変更するだけの力はない。そのまま沈んで終わりだろう。

 その予想通り、第3コーナーに差し掛かったあたりで先頭から3人が後ろに下がり始めた。

 そうなるとシンザンとウメノチカラの順位は自動的に繰り上がり・・・・・・そして、彼女らが走っていたスペースが空く。

 

 「ここだっ!!」

 

 第4コーナー手前、彼女は速度を上げた。

 沈んでいく者と入れ違うように空いた内側のスペースに潜り込み、最も走行距離の短い内ラチ沿いにコースを取る。

 前にいたシンザンを内側から抜き去り、ウメノチカラは一気に先頭に躍り出る。

 

 「おお、ウメノチカラが出たぞ!」

 

 「仕掛けるのが早い! 大丈夫か!?」

 

 (問題ない! ()()()ように鍛えてきた!)

 

 歓声に紛れて聞こえた懸念に心の中で叫び返す。

 コーナーは重心の制御が必要なため体力の消費が大きい・・・・・・そこで加速するとなれば尚更だ。

 しかし、レースの序盤で焦らずに残した脚がここで活きていた。

 消耗の具合は想定内。

 ここからは選抜レースと同じコースで、何度も走った練習通りのペースでいける。

 

 つまり。ここからスパートが掛けれる。

 

 「絶対に──────勝つ!!」

 

 最終直線、ウメノチカラが一気に加速する。

 体力が削れた者はもちろん後方で四苦八苦していた者は追いかける事すら出来ず、そうでない者も追い付かない。

 単純に努力の差。あるいは才能の違い。

 重ねたものと立つ場所の差は、そのまま彼女と後続との差になった。

 

 「「「むっ、無理ぃぃいいい〜!!」」」

 

 後ろを走る者たちから弱音が漏れる。

 彼女らが追い縋ることを諦める程にウメノチカラの走りは強かった。

 ─────いける。

 そう確信したウメノチカラはさらに強く踏み込んでいく。

 ここで大きく差をつけて1着になれば、それだけ実力のあるトレーナーの目に留まる。

 そうなれば自分はより高い所へ行ける。

 デビュー前から受けてきた期待を肩透かしなどで終わらせる気は毛頭ない。

 まずはこの一戦、必ず勝利を─────

 

 「ッッッ!!??」

 

 振り向いた。

 振り落としたと思っていたはずの足音が1つ、すぐ後ろから聞こえる。

 その鹿毛のウマ娘は後ろに下がる事もなくウメノチカラのすぐ後ろを追随している。

 何故? ウメノチカラの頭に疑問符が浮かぶ。

 食らいついてくる奴はいるにせよ、どうしてお前が食らいついてくる?

 

 なあ、シンザン。

 どうしてお前がそこにいる?

 

 「見ろ、1人競りかけてきてるぞ! スタートがめちゃくちゃ巧かった娘だ!」

 

 「けどウメノチカラもまた加速した、先頭は譲らない!!」

 

 間もなく残り600メートル、レースは2人の一騎打ちの様相を呈していた。

 逃げるウメノチカラと追うシンザン。鎬を削る彼女らに沸き立つ周囲に反して、ウメノチカラの表情に余裕はない。

 スパートをかけた終盤でさらに加速できたのは脚を残す彼女の作戦が上手く機能したからで、他の相手ならこのダメ押しで押し切れただろう。

 

 しかしシンザンは離れない。

 ウメノチカラのすぐ後ろを、付かず離れず一定の距離を保って追いかけてくる。

 

 「く・・・・・・ッッ!?」

 

 加速してもまだ離れない、それはつまり向こうも加速を残していたということ。

 こうなると小細工なし、ゴール板を越えるまでトップスピードを維持できるかという勝負になる。

 レースの中でも最も辛い、ウマ娘自身のメンタル・・・・・・勝負根性が問われる時間。

 歯を食い縛ったウメノチカラが、必死の形相で芝を蹴る。

 残り400メートル。

 後ろのシンザンはまだ並んでこない。

 いま彼女がどこにいるか確かめる余裕はない。

 呼吸が動きに追いつかなくなってきた。

 

 残り200メートル。

 呼吸ができない。身体が重い。

 エネルギーは底を突き、精神が肉体を駆っている。

 

 残り100メートル。

 苦しい! 苦しい!

 アイツはどこだ!!

 早く、早く早く早く!!

 アイツに追い抜かされる前に!!

 私にゴール板を越えさせてくれ!!!

 

 「あああああぁぁぁぁああぁああッッ!!!」

 

 叫び、そして走り抜ける。

 どちらが先頭かはもう考えていられなかった。

 ゴール板を越えた瞬間に限界を迎え、息も絶え絶えに速度を落とすウメノチカラ。

 力尽きて転ばないようにするので精一杯。出し尽くして空っぽになった彼女の中に、スピーカーから響いたその声は何よりも強く響き渡った。

 

 『ゴーーールイン! ウメノチカラ1着! ウメノチカラ1着であります!!

 およそ1バ身離れて、2着はシンザン!!』

 

 わああああああああっっ!!と歓声が上がる。

 ─────勝った。自分が勝ったのだ。

 快哉を上げたいが呼吸が保たない。拳を掲げたいが腕すら上がらない。まったく警戒していなかった相手に精魂尽き果てるまで走らされてしまった。

 熱の灯らない昼行灯(ひるあんどん)とばかり思っていた者がよもやここまでの力を秘めていようとは・・・・・・。

 喜びの表現すらままならない彼女の元に、感極まった顔をしたトレーナーたちが休ませる間もなく押し寄せる。

 

 「流石だウメノチカラ! その素晴らしい才能をぜひ僕に磨かせてほしい!!」

 

 「実はあなたに最適のトレーニングメニューをもう考えてあるの! これを見れば私が相応しいと分かるはずよ!」

 

 「いいや、俺の所に来い! あの勝負根性は間違いなく俺と気が合うぜ!?」

 

 「ぜぇ、ヒュぅ、ちょ、ちょっと、待、」

 

 勝利の後に思い描いた通りの構図だが、いかんせん物を考える余裕がなかった。

 頼むからまともに頭が回る時に話をさせて欲しい。いま何より自分が欲しいものは秋波(しゅうは)ではなく酸素だ。

 若干掛かり気味のトレーナーたちに囲まれつつ肩で息をするウメノチカラは、彼らの身体の隙間から最後まで自分に食らいついてきた鹿毛のウマ娘がどこかに走っていくのを見た。

 ・・・・・・奴については、評価を変えねばならないな。

 酸素が足りない頭でそんな事を考えたウメノチカラが無意識のうちに抱いた違和感の正体に気付くのは、もう少し後のことだ。

 

 

 

 「あの、ケヤキさん。チカラさん勝ちましたよね」

 

 「ええ、リセイちゃん。鬼気迫る走りでした」

 

 「その走りにシンザンは着いていったんですよね」

 

 「はい。全く予想外でした。追い抜かすことは叶いませんでしたが、彼女の走りも素晴らしかったです」

 

 「ですよね」

 

 その光景を見下ろしていたバリモスニセイは鋭い眼を丸く見開き、カネケヤキは背筋に冷たい汗を伝わせる。

 2人は静かに息を呑んでいた。

 それだけ彼女らが見たものは信じ難いものだった。

 実力と前評判、共に1番人気のウメノチカラが見せた死力の激走。抜かせないにせよそれに着いていったのなら同じくらい消耗してしかるべきなのだ。

 そうでなければ、おかしいのに。

 

 「・・・・・・なら、()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 

 「素晴らしいスタートだった。勝利に必要だった最後の一押しを発揮できるだけの力、私なら君に与えられるだろう。どうかな?」

 

 そして1着のウメノチカラ程ではないにせよシンザンも注目を集めていた。

 大方の予想を裏切るスタートダッシュからウメノチカラの走りに着いていった走力。自分の全てを出し切った勝負で『もしも』は無粋ではあるが、『もしも』彼女のタイムがあと1秒速ければを考える者もいる。

 そもそもタイムを1秒縮めること自体にまず大変な努力を必要とするのだが、自分ならそれを実現させられるという自信を持つベテランが彼女に声をかける訳だ。

 いつぞや彼女がウメノチカラに言った『目処は立った』というセリフが実現した形になっているが、しかし彼女が言った()()はいま自分を囲んでいるトレーナーたちではない。

 シンザンは耳と顔で周囲をくるくると見回し、そして見付けた。

 ちょ、ちょっと、と呼び止めようとするトレーナーたちに目線すらくれずシンザンは一直線に『彼』の元へと向かい、呆れたような彼の前でにたりと笑ってみせる。

 

 「どうよトレーナーさん。あたしの走りは?」

 

 「不完全燃焼だよ。そこまで体力残ってるならもっと早くスパートするとか出来たんじゃないか?」

 

 「()()()()()()()()()()()()()()、わざわざ1着を獲る必要は無いだろ。体裁としてとりあえず悪くない結果も出したしね」

 

 「呆れたね。俺が君を選ぶと確信してるのか?」

 

 「何だ白々しい。あたしが自分から来ると分かってたからあんたは遠巻きに眺めてたんだろうよ」

 

 そう言ってニタニタと笑い合う。

 もうお互いがどんな(はら)をしているか理解している以上、()()はこれで充分だった。

 ポカンと口を開けてこちらを見ている者たちの視線の先で、2人はどちらからともなく手を差し出した。

 

 

 「()()()()()()()()、トレーナーさん」

 

 「ああ。()()を後悔はさせないさ」

 

 

 人間とウマ娘。似て非なる種族。

 彼らが1つになる時は慕情で心を重ねた時か────あるいは、同じ野望を抱いた時か。

 どちらにせよ2人が同じ方向を向いているのは確かな事だ。

 『近道』と呼ばれたトレーナーと、シンザンという(いま)だ未知数のウマ娘。

 

 2人の3年間が、始まる。

 

 

 

 

 

 

     ◆

 

 

 「そういえば、少し気になってたんだけど」

 

 「んん?」

 

 その日の内に担当契約を結び、トレーナー室でこれからのトレーニング方針についてミーティングをしていた時、トレーナーはふと思い出したようにシンザンに問うた。

 

 「選抜レースの後でさ、『わざわざ目立つ事はない』とか言ってただろ?

 それが()()()()()()()()()()みたいに聞こえてね。

 ウメノチカラとは同室らしいけど、彼女も素晴らしい才能に努力を重ねてる娘だ。大抵のウマ娘には負けないと思う。

 そんな彼女にそこまで勝つ自信があったのか?」

 

 「うーん、自信っていうかね。何でだろうね」

 

 自信は強さに繋がるが、行き過ぎた自信は傲慢に変わる。それはともすれば向上心を停滞させ、己を殺す毒になり得るだろう。

 トレーナーがそう尋ねたのは、彼女が自滅に陥らないために戒める意図があってのものだったのだが。

 

 「そりゃウメノチカラだって強いし。そういう肩肘張ってるようなのじゃなくて、自然にそう思ってるっていうかさ。根拠なんて無いもんだから、あんまり良くない事かもしれないとは思ってるんだけどね」

 

 ────トレーナーのその忠告は、どれほど過去に与えられれば彼女に影響を与えただろう。

 自分が1番だ、という自信。

 誰も自分に勝てはしない、という傲慢。

 彼女が抱いていたのはそういう所を通り過ぎた、『そういうもの』であるという『認識』だった。

 

 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 てへへ、と恥ずかしそうにはにかんで頭を掻くシンザンに、トレーナーは初めて彼女に会った時と同じものを感じた。

 新人の(いき)がりと一笑に付すのは簡単だ。

 だが全力を出さないまま名実併せ持つ1番人気を気力の底まで追い詰めた事実が、彼女の言葉に不気味な説得力を持たせている。

 ・・・・・・彼女の『これ』は劇薬だ。

 己を錆びつかせる猛毒にも、己を強く育てる妙薬にもなる。

 それがどちらに変わるかは自分にかかっている。

 

 ─────腕が鳴るじゃないか。

 

 一瞬呑まれそうになった自分に喝を入れ、トレーナーは腹の内に対抗心にも似た炎を燃やしていた。



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大山動かず獅子一頭
4話


 「よーしストップ! いいタイムだ!!」

 

 目の前をヒト型の疾風が駆け抜けると同時にストップウォッチを停止。

 そこに示された数字を見たトレーナーが快哉を上げ、2,000メートルを駆け抜けたウメノチカラは大きく息をついた。

 大人数で共有するためのバケツみたいなサイズの水筒から浴びるように水を飲み、熱された身体を潤していく。

 バインダーに挟まれた記録用紙に書き込まれたタイムは、デビュー前のウマ娘としてはかなり優秀なものだった。

 

 ウメノチカラだけではない。

 学園内のトレーニングジムでバーベルスクワットを行っているバリモスニセイは、自分のトレーナーだけでなく周囲のウマ娘の視線すら(さら)っていた。

 棒の両端に付いているウエイトは人間はもちろん、人間という種族よりも遥かに高い身体能力を持つウマ娘にすら使用を躊躇わせる積載量。

 ある程度の基礎は体育の授業で作られているとはいえ、重量も回数もデビュー前のウマ娘が行うような回数ではなかった。

 

 カネケヤキは徹底的にスタミナを鍛えていた。

 長さ50メートルのプールをもはや何往復目か、彼女より遅く始めた者が彼女より早く切り上げることを数度繰り返して、ようやく彼女はプールから上がる。

 髪から水を滴らせてクールダウンのストレッチ。脚の調子を確かめるように筋肉を伸ばし、大丈夫ですね、と呟いた。

 

 「どうした。気合が入ってるじゃないか」

 

 疲労に侵されながらも衰えない気迫に、感心した彼女らのトレーナーは一様にそんな賛辞を贈る。

 それに対する彼女らの言葉もまた、判で押したかのように決まっていた。

 

 「・・・・・・舐めてかかれない奴がいるんです」

 

 睨むように空を見つめ、口を揃えてこう返す。

 早くもライバルが出来たのかと良い兆候に顔を綻ばせるトレーナーたちは、自分の担当がライバル視しているだろうウマ娘の顔を思い浮かべた。

 少し前ならそこにあの鹿毛のウマ娘を思い浮かべることもあっただろうし、事実ウメノチカラたちも『彼女』を仮想敵としてトレーニングしていた。

 だが、今となっては彼女を強敵として見ている者はほぼいなくなっていた。

 何故なのか?

 確かに1着ではないにせよ、彼女もまた優れた走りを見せたのに──────

 

 「・・・・・・・・・なあ、シンザン。走らないか」

 

 「んぇぇぇえええ」

 

 「汚い鳴き声だなぁ・・・・・・」

 

 言語か否かで言えばギリ獣の側に判定される音を喉から発するシンザンに、トレーナーは呆れを通り越した感嘆の呟きを漏らした。

 担当契約を結んでから1ヶ月。

 指摘も指導も何のその。初夏の日差しを浴びながら、今日もシンザンはいつものように芝をぽてぽてと走っていた。

 

 

 気性難とは違うが特殊なタイプのウマ娘だということは分かっていたが、よもやここに至っても走らないとは思わなかった。

 

 授業は手を抜き、選抜レースですら抑え、自分と契約を結んでからもこの調子。

 あるいは相手がいないと気が乗らない闘争心ありきの性格なのかと他のウマ娘に併走を頼んだこともあるが、それでも未勝利のウマ娘に遅れを取るレベルで走らない。

 競走バとは何ぞやと思わなくもないが、一癖あることを理解していた上で担当契約を結んだ以上、これをどうにかしてどうにかするのが自分の務めである。

 

 「うう。ちょっと一息入れていいかい」

 

 「ああ、ちゃんと水分も取るんだぞ。今日は日差しが強いからな。まだ本格的に暑くなる前だけど油断はしちゃいけない」

 

 疲れたというよりは気晴らしがしたそうなシンザンの要求をトレーナーは2つ返事で通す。心と身体がチグハグな状態で走らせるよりは逐次気分のリセットを図った方が良い。

 はーい、と返事をして水筒の中身を幾分か喉に通したシンザンは、何やら考え込んでいる様子のトレーナーに雑談を投げかける。

 

 「けど、トレーナーさんが思ってたより優しくて少しビックリしてるよ。なんとなくトレーニングって『水を飲むと心が鍛えられない』みたいな事を言われるイメージだったけど」

 

 「最近まではそうだったんだが、耐えられなくなったウマ娘たちが地方のトレセンで学生運動じみた決起を起こして大事(おおごと)になったんだ。

 もともとスポーツ医学の最先端を取り入れてる中央(ここ)じゃ懐疑的な風潮だったけど、それを期にその手の根性論は完全に否定する立場に立ってるよ」

 

 「学生運動かあ。そういえば2年か3年前くらいにデカいのやってたね。ラジオで聞いた覚えがあるよ。・・・・・・芝の外は大騒ぎだ」

 

 「この国も過渡期なんだろう。声を上げてる誰の主張が正しいのかは分からないが、今を少しでも良くしようって気持ちはきっと明るい未来を生むさ。

 ・・・・・・『自由に水を飲ませろ』って願いを通した彼女たちのお陰で、今お前たちが健康にトレーニングできてるみたいにな」

 

 ファイトー、ファイトー、という掛け声の群れが聞こえてくる。

 先の選抜レースで残念ながらトレーナーから声が掛からなかったウマ娘たちが、教官の指導の元で集団トレーニングを行なっているのだ。

 少しだけ締め付けられるような顔をしている彼女たちの未来を掴まんとする気持ちも、いつかは明るい未来を生むのだろうか。

 少しだけ次の季節の熱を感じるようになった風が髪を撫でた時、トレーナーは区切るようにパンと手を叩く。

 

 「はい、時間稼ぎはここまで。ラスト3本」

 

 「バレてるかあ・・・・・・」

 

 締めるところは締める。

 流石に『やだ』という訳にはいかず、ちぇっ、と唇を尖らせてシンザンは再び走り始めた。

 

 

     ◆

 

 

 「ようチカミチ。()()の調子はどうだ?」

 

 昼休み、昼食の時間。

 からかうように肩を組んできた古賀の脇腹に肘鉄を入れて黙らせた。

 

 シンザンならぬ『新参(シンザン)』。

 いま彼女は、揶揄いの意味でそう呼ばれている。

 若いながら実力は本物と名高い彼が抜群のスタートを切り好走したシンザンと契約を結んだ事は、トレーナーの間でかなり話題になった。

 彼の指導と彼女の資質が合わされば、あるいは前回の栄光が再現されるのでは─────そう考える者も少なくなく、トレーニングが始まった当初は2人を警戒して彼らの様子を見に来る者も多かった。

 ・・・・・・・・・だが、当のシンザンがあの調子である。

 最初の方こそトレーナーがどう矯正していくか見守られていたが、まだ1ヶ月とはいえ変化の兆しも見られない。

 そして他のトレーナーたちは呆れて見に来なくなり、彼女の走らなさは広く知られるところとなった。

 

 「上機嫌だな、古賀。まだウメノチカラを射止めた喜びが抜けてないのか」

 

 「いてて、冗談だ、冗談。分かってるさ、お前の手腕を疑っちゃいない」

 

 トレーに乗った定食を前に、気心知れた者同士2人は隣並んで座っている。

 頂きますの唱和の後、ほくほくと湯気を立てる焼き鮭を箸でほぐしながら古賀はトレーナーに愚痴るようにぼやいた。

 

 「けど、早いところ矯正するなり結果を出すなりして欲しいのは事実なんだがな。どうせそっちの耳にも届いてるだろうから言うが、友達が()()()()()なんて笑われてるのは気分が悪い」

 

 「言わせておけばいいさ。結果を出せば黙る」

 

 「相変わらず自信家ね。変わってなさそうでよかったわ」

 

 「おう、桐生院(きりゅういん)さん」

 

 そう言ったのは黒髪を後ろで束ねた妙齢の女性だった。古賀に桐生院と呼ばれた彼女は彼らの前の席に座り、小鉢に卵を割りながら冷静な口調で指摘する。

 

 「とはいえ、私から見ても彼女の()()()は少々目に余るわ。結果を出すにせよ矯正は必須だと思うけれど、何とかする手立てはあるの?」

 

 「まずは性格を細かい所まで掴むところからかな。なんていうか、アイツの場合は怠け癖とは違うと思うんだよ。トレーニングには欠かさず来るし、手を抜きはしてもメニューそのものはきちんと消化するから」

 

 「手を抜くのなら怠け癖なのではなくて?」

 

 「いや、筋力トレーニングとかきちんとやるんだよ。ランニングみたいにゆっくりやって楽をするっていうのが出来ないからだと思う。要領よくサボってるのかとも思ったけど、『気乗りしません』って顔に出るのは走る時だけなんだよなぁ・・・・・・」

 

 「・・・・・・ここ走るための学園だよな?」

 

 「少し気難しい娘なのかしら。ウマ娘の気性はそれぞれだけど、ま、精々油断はしない事ね」

 

 啜っていた味噌汁の椀を置き、桐生院は怜悧な眼差しをトレーナーに向ける。

 彼らは友人だ。そしてライバル同士だ。

 気遣いこそすれど、相手がもたついているのならこれ幸いと置いていくのみ。

 可能性と古賀の口元にはもう、さっきまでの友好的な笑みはなかった。

 

 「周りは貴方達を揶揄ってるみたいだけど。貴方が鍛えた娘を相手にカネケヤキに気を緩めさせる気はないわよ、私は」

 

 「同感だ。せいぜい今のうちに差をつけるさ」

 

 ピリッ、と3人の間に電流が走る。

 才能による猶予はそうない。

 代々優れたトレーナーを輩出する名家の子女に、負けん気の強い叩き上げ。彼らもまた、この学園では名を馳せる名トレーナーなのだ。

 彼らの圧を一身に受け、『近道』は脳内で考えを巡らせる。

 

 (メニューを工夫してやる気が出る方向に誘導しようと考えてたけど、本人に直接聞いた方がいいな)

 

 ()()()()()()()()()()、と。

 ウマ娘の気性を重んじる故の方針を、彼は一気に転換する事に決めた。

 この場合は分析のために様子を見ていたから遅れたのであって最初からそうすればよかった、とも言えるのだろうが・・・・・・

 古賀と桐生院は、分析して理解する性質に同居するこの思い切りの良さこそを警戒しているのかもしれなかった。

 

 

 

 走るのが気乗りしない様子とはいえ、走る訓練から『走る』という項目を除外するなど有り得ない。

 シンザンは今頃ウォーミングアップをしている頃かな、と今後のメニューをどう変更していくかを思いながらトレーナーはトレーニングへと向かう。

 どうも彼女の場合これまでのトレーニングの定石は捨てて考えねばならないようだ。

 今までの経験則から使えそうな部分を抽出して組み合わせるか、それとも新たな文献を────

 

 「ん?」

 

 見慣れない顔があった。

 手元には手帳とペン。いかにも報道関係の出立ちをしているが、その男は少々見逃せないものを持っていた。

 首から下げた一眼レフだ。

 少しだけ厳しい顔になったトレーナーは、横から少しだけ強く彼の肩を掴む。

 

 「失礼。記者の方ですか? 写真を撮るなら許可を得てからでお願いします」

 

 「ん。ああ失礼、分かってますよ。職業柄ね、持ってないと落ち着かないもんで─────」

 

 そう言って中年の男は振り向き、トレーナーの顔を見て少しだけ目を丸くした。

 彼の顔を見たトレーナーもまた同じようなものだった。中年の肩から手を離し、顰めていた眉からも力が抜ける。

 

 「やあ何だ、あんたでしたか。お久し振りです」

 

 「そっちこそ沢樫さんでしたか。体型が変わってるので気付きませんでしたよ」

 

 「放っときなさいよ」

 

 どうやら前に会った時と比べて恰幅がよくなったらしい体格をいじられて渋面する沢樫。

 2人の間にはそれなりの交流があるらしく、警戒で一瞬だけ張り詰めた雰囲気も消えて砕けた口調で話をしている。

 沢樫の方は仕事でここに来ているらしい。

 

 「まだデビューする前から取材ですか。『月刊綺羅星(きらぼし)』も熱心ですね」

 

 「今年は早くも話題になってるウマ娘が多くてね。

 古賀(こが)篤史(あつし)トレーナーのウメノチカラ。

 桐生院(きりゅういん)(みどり)トレーナーのカネケヤキ。

 そしてあんたがどんなウマ娘を見出すか、我々も注目していましたが・・・・・・・・・、予想外でしたよ。悪い意味でね」

 

 「・・・・・・・・・」

 

 「身体つきは平凡で体育の成績も悪い。選抜レースじゃ良い結果を出したかもしれないが、その後のトレーニングも不真面目極まっており、ハッキリ言って中央を舐めているとしか思えない。

 トレーナーは昨年の輝かしい成果に目が眩み、こんなウマ娘でも自分なら大成させられると錯覚したのではないか・・・・・・」

 

 トレーナーの表情は変わらない。

 そういうやっかみなら何度も耳に入ってきているし、それに返す言葉など決まり切っているからだ。

 『好きに言えばいい』。

 『これからの結果を見ればお前も黙る』。

 そう返そうとして口を開きかけたが、それよりも先に沢樫はこう続けた。

 

 「・・・・・・ま、以上がさる評論家の意見ですわ」

 

 「あなたは違うと?」

 

 「勿論。前回あんたが育てたウマ娘を見てたら、体格の小ささにケチは付けられませんな」

 

 くくく、と沢樫は喉で笑う。

 

 「あんたと担当が送った3年間を取材して自分は確信してますよ、この男は今回も絶対に成果を上げるってね。『見出された才能、栄光の手腕』・・・・・・いい見出しじゃあないですか」

 

 「ずいぶん贔屓してくれますね」

 

 「その頃からのファンだもんで。記者としての確信と信頼を以って・・・・・・この沢樫(さわがし)静夫(しずお)、今後もあんた達を追いかけますとも」

 

 それでは自分はこれで、と沢樫は去っていくが、途中トレーニング中のウマ娘を見てカメラを構えそうになり、いかんいかんとカメラを手放している。

 記者の本能と理性が若干拮抗しているらしい。

 大丈夫かな、とやや不安になりつつその背中を見送っていた時、コースの方から自分に声がかかった。

 

 「おーい、トレーナーさん。アップ終わったよう」

 

 「ああ分かった。今行く」

 

 雑談で待たせては悪い。トレーナーは小走りで担当ウマ娘の元へと向かう。

 ウォームアップでは普通に走るんだよなぁ、とやはり話を聞くことの重要さを再認識しながらトレーナーは今日のメニューをざっくりと説明。

 いざ走ろうとなったその時に、シンザンは沢樫が消えた方を見ながらトレーナーに尋ねた。

 

 「さっきの人、友達?」

 

 「知り合いの記者だよ。過去に彼の取材を受けてたんだけど今回も取材する気みたいだから、これからシンザンも話す時があるんじゃないかな」

 

 「え、記者さん。じゃあ谷啓と知り合いだろ。会いたいって伝えといてよ」

 

 「な訳ないだろ芸能無関係の月刊誌の記者だぞ。知り合いだったとしてもまずそんな願いは通らないよ」

 

 「嘘だあ。東京は有名人と仲良くなれる街だって聞いたよあたしは」

 

 「まずそのお上りさんみたいな幻想を捨てなさい」

 

 ガチョーン、と芸の物真似をしながらぶーぶー言うシンザンに、ほらほら走れと背中を叩く。彼女は唇を尖らせながらトレーニングを開始した。

 このノリとペースを許してくれている時点でトレーナーは思ったよりというか大分優しいのだが、彼女はその点に関しては()()()()()と向こうも分かった上で契約したんだからええやろの精神で流している。

 相変わらずのスローペースで流しながら彼女はちらりと自分の足を見て、

 

 「・・・・・・まだ、保つね」

 

 ぽつり、とそう呟く。

 地面を蹴る音と掛け声に掻き消され、彼女のその声がトレーナーに届く事は無かった。

 



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5話

 そしてトレーニング終わり、内容のフィードバックの時間。

 トレーナーに走るのが気乗りしない理由を問われたシンザンは、うーん、と腕組みをして天井を仰ぐ。

 叱責と捉えられ萎縮されるのは好ましくなかったが幸いにして(?)彼女にその様子はない。反省してんのかと思わなくもなかったが、こういう質問にも率直に答えてくれる彼女の図太さはトレーナーとしては有り難いものであった。

 

 「自分でもよく分かんないんだけどね。なんかね。なーんか気持ちが乗らないんだよ」

 

 「うん。それは見てて分かる」

 

 「なんかこう、真面目にやらなきゃとは思うんだけど、『真面目にやってもなあ』って気持ちが出てくるっていうかさ。

 やる意味あるのかなって考えちゃって、そんでダレちゃうんだ。

 お前ここに何しに来てるんだ、って言われると返す言葉がないんだけどねえ。どうにもなんなくて」

 

 流石にまずい事を言っている自覚はあるのか、シンザンはどこかバツが悪そうにしていた。

 その言葉だけ聞けばただの不真面目だが・・・・・・

 トレーナーはしばし思考の海に沈む。

 ─────これが字面通り『しなくても勝てるから訓練など無駄だ』という意味なら、そもそもトレーニングに来ることすらしないだろう。

 そしてあの選抜レースでも自分がセッティングした併走でも手を抜かず勝ちに行ったはずだ。相手に勝たねば『訓練は無駄』という主張は通らないのだから。

 シンザンの答えをそのまま捉えたら、彼女の行動にはいくつか矛盾が生じる。

 仮説を組み上げたトレーナーは意識を浮上させ、いくつかの不明点をシンザンに投げかけた。

 

 「・・・・・・ウォームアップじゃ普通に走るし、他のメニューは別に怠けないよな?」

 

 「あれはただの準備運動だし、トレーニングそのものが面倒な訳じゃないんだよ」

 

 「選抜レースもそこそこ真面目だったよな」

 

 「流石に自分をスカウトする男の前で不真面目な走りをするのはね。あんたと知り合ってなきゃ目立つために1着を獲りに行ってたけど」

 

 「併走は気乗りしなかった、と」

 

 「そこで本気を出したところでねぇ・・・・・・」

 

 

 理解(わか)った気がする。

 これが正解かは確認してみなければ分からないが、少なくともこの仮説なら彼女の答えの全てに矛盾なく説明がつく。

 彼が何かの答えに行き着いたのを察して姿勢を正したシンザンに、トレーナーは下から窺うように自分の中で組み上げた彼女の核心を口にした。

 

 「・・・・・・・・・もしかしてさ。『明確な利益や名誉がないと走る気が起きない』って話なのか?」

 

 

 

 

 「それ聞いて『それだーーー!!』って叫んじゃって。トレーナーさん引っくり返っちゃってね」

 

 「それだじゃない。実績も態度も何もかもがそのモチベーションに噛み合ってないんだよ」

 

 「早いうちに明らかになってよかった、と前向きに捉えるべきなのでしょうか・・・・・・」

 

 宿舎への帰り道、シンザンの話に聞いていた全員がこめかみに指を添えた。

 栗東のシンザンとウメノチカラに、美浦のカネケヤキとバリモスニセイ。それぞれクラスや宿舎が違う彼女らは誰が言い出すでもなく集まって帰り、ひととき今日一日のあれこれを語り合う。

 専らの話題はトレーニングのあれこれだが、周囲と比べて色々とズレているシンザンも割と話題の槍玉に上がる。

 主に3人からの総ツッコミという形で、だが。

 

 「だけどシンちゃんは自分を分かってくれる人に出会えたんですねぇ。私のトレーナーさんもよくシンちゃんのトレーナーさんの話をしてるんですよ」

 

 「私のトレーナーもです。事あるごとにあいつに対する警戒は解くなと」

 

 「私もだ。他に警戒すべき奴は勿論いるが、特別お前を・・・・・・、というかお前のトレーナーを睨んでるように思う」

 

 「へえ。トレーナーさん凄い人なのかね」

 

 「「「 えっ? 」」」

 

 3人が口を揃えて音を発した。

 知らないんですか?と驚いているカネケヤキに呆気に取られたバリモスニセイ、何言ってんだこいつと引いてすらいるウメノチカラ。

 なぜそんな顔をされるのか分からないシンザンはただ首を傾げるばかりだった。

 そんな彼女を見て真実を教えようと口を開こうとしたバリモスニセイだが、その言葉はウメノチカラに口を塞がれて止められた。

 

 「(チカラさん?)」

 

 「(放っておけ、どうせそう遠くない内に知るだろう。せいぜい驚かされればいい)」

 

 「ちぇっ、何だい何だい。あたしだけ除け者かい」

 

 「これについてはその、知らなかったシンちゃんがびっくりというか・・・・・・」

 

 緩やかに3対1の構図だった。

 自分としては正直『誰がトレーナーになっても自分は勝つ』くらいの心構えでいたのだが、しかしこのまま3人から気の毒な子みたいな扱いをされるのも癪なので明日トレーナーに直接聞こうとシンザンは決意した。

 

 「まああたしのトレーナーさんがどんな人であれ、だよ。選抜レースから2ヶ月経ったけど皆どうだい。自分のトレーナーさんとは上手くやれてるのかい」

 

 「そうですね。要求したトレーニング強度が無茶だと言われますが、私の意思を最大限に尊重して下さっています。本当に駄目な時は止めて下さいますし」

 

 「同じく、です。あの人の知識の深さに驚かされるばかりで」

 

 「負けん気が強い人だからな。トレーナーとしてだけでなく、そういう所も個人として気が合うと思っている。・・・・・・そういうお前はどうなんだ、シンザン」

 

 「うん?」

 

 「お前の()()()()()はもう有名な話だ。選抜レースでこそ悪くない結果は残したが、なぜあんな不真面目な奴がスカウトされて自分は声を掛けられなかったのかという奴もいる。

 正直私はトレーナーのお前に対する警戒すら疑問に感じ始めてるぞ。

 悪評を伝える伝書鳩になぞなりたくは無いが・・・・・・今のお前を担当したいというトレーナーなどいるまい。今のトレーナーに愛想を尽かされたら、その時点でお前は()()()だ」

 

 「優しいんですねぇ」

 

 「誰が!!」

 

 くすくす笑うカネケヤキに噛み付くウメノチカラ。

 よほど指摘されたくなかった所だったのか切れ長の瞳をかっ(ぴら)いて歯を剥いている彼女に、何だかんだ良い奴なんだよね、とシンザンは少しだけ笑った。

 

 「ありがとうね、ウメ」

 

 「やかましい。気を遣った訳じゃない」

 

 「知ってる。それについては大丈夫だよ。もしそういう事を言われたら、あたしはトレーナーさんの言葉をそのまま伝えるからさ」

 

 「トレーナーの言葉? 何だそれは─────」

 

 

 

 「言わせておけ。結果を見れば全員黙る」

 

 

 

 「・・・・・・・・・、」

 

 「ってな具合にね。結果を出す前から封殺できるから便利なもんだよ」

 

 からからと笑うシンザンに息を呑む3人。

 ただの引用では到底発し得ない言葉の重さ。

 つまり彼女のトレーナーは確信しているのだ。

 シンザンというウマ娘はそれが出来るだけの力を秘めていると。

 また彼女自身も、黙らせられるだけの結果を自分は出せると────揺るぎなく信じている。

 言葉で語る意味はない。

 脚で語ればそれでいい。

 ・・・・・・実に気が合うコンビと言える。

 綺麗に黙らされた3人を見て、シンザンはまた面白そうに笑っていた。

 

 

     ◆

 

 

 「ん・・・・・・、んぅ・・・・・・」

 

 トレーナー室に少女の呻き声が小さく響く。

 微かに布の擦れる音。衣擦れに混ざる少しだけ質感の異なる柔らかな音は、押し付けられた肌と肌が擦れる音に相違ない。

 ごつごつと骨張った男の指がその柔肌に埋もれる度に少女は小さく息を漏らした。

 頭頂部から伸びた耳をぱたぱたと振りながら、ズレた眼鏡を戻しつつ少女は男に問いかける。

 

 「・・・・・・彼女の様子はどうですか?」

 

 「相変わらず良し悪しの所感は率直に答えてくれるからやりやすいよ。性格に沿ってトレーニングメニューは暫定的に組み直したから、後は調整かな」

 

 「ふふ。やりやすい娘は、ふっ、走りを怠けることなんて、ないでしょうに・・・・・・ん・・・・・・」

 

 「まあ色んな性格の娘がいるからな。手のかかる子ほど何とやらだ」

 

 「あら? それでは私は、可愛くは、はぁっ・・・・・・、無かったですか?」

 

 「いやそういう意味じゃないよ」

 

 知ってますよ、と。

 自分の上に被さる男を困らせてやった事に、赤らんだ顔の少女は悪戯な顔で微笑んだ。

 ・・・・・・ウマ娘は耳がいい。

 この時彼女は1つの足音がこちらに近付いてくることに気付いていたし、この時間にここを訪ねる人物にも見当がついていた。

 だからその事を男に教えなかったのは、()()に対する小さな悪戯心である。

 

 その日、シンザンは朝練が始まるいつもの時間より早めにトレーナー室を訪れていた。

 たまたま朝早くに起きただけなので別に早く向かう必要もないのだが、丁度いいから昨日ウメノチカラたちに呆れられた事についてトレーナーと話そうと思ったからである。

 彼女らの雰囲気からするに何やら凄い人物らしい。

 お互い完全にフィーリングで選んだものと思っていたが、もしかすると向こうは何かしらを見出した上で自分を選んだのだろうか?

 だとすると自分の()()()()()()()にもある程度の説得力が付いてくれるのだが。

 そんな事を考えながらトレーナー室のドアノブに手をかけようとした時、ドア越しに音をキャッチしたシンザンの耳がピクリと震えた。

 

 トレーナー室から艶っぽい声が聞こえる。

 しかも自分と歳が近そうな女の子の声で。

 

 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 ドアに頬をくっつけ、ピトッと耳をドアに当てる。

 聞き間違いではなかった。

 音を立てないようにノブを回して少しだけドアを開け、細い隙間からそっと中の様子を窺う。

 

 

 自分のトレーナーがソファの上で、自分と同じ制服を着たウマ娘の下半身に乗っかっていた。

 

 

 「あれ? シンz」

 

 「どっせいっっっ!!!!!!」

 

 ドアを開けて突入、掛け声1発。

 栗毛の少女が声を発する間もトレーナーが何か弁解できる程の間もなく、シンザンの剛腕にトレーナーが()()()()()()()

 初夏の朝、爽やかな空気の中。トレセン学園の片隅に、悲鳴と愉快な破壊音が響き渡ったのであった。

 

 

 「マッサージぃ?」

 

 「うん、マッサージ。ただマッサージしてただけだから。(やま)しい事じゃないから本当に」

 

 満身創痍である。

 ちゃぶ台返しのようにブン投げられ天井に激突したトレーナーは蛍光灯の破片と共に床に落下。

 悶絶しているところに『ウメ達が言ってたのはこれかぁぁああ!!』と追い討ちをかけようとしたところで栗毛のウマ娘に羽交い締めにされて止められた。

 違う違うそうじゃないと荒ぶるシンザンを宥めたところで、大惨事の室内でようやっと誤解を解く事が出来たらしい。

 とはいえ怒りは鎮まっていないようで、男と栗毛の前で鹿毛は未だ憮然として腕を組んでいる。

 

 「だとしてもあたしが途中で割り込んでなかったらどうなってたのかね。都会の男はいつだってあわよくばを狙ってるってお母ちゃんが言ってたからね」

 

 「お母ちゃんの格言もいいけど少しは俺の倫理観も信じてくれ・・・・・・。ウマ娘相手にあわよくばを狙うトレーナーはヤバいだろ・・・・・・」

 

 「言い訳したところで事実は変わらないね。

 しかも相手がよりによって()()()ときた!

 良くないと思うねえ! 神聖な学び舎でねえ!

 ああいうねえ!! エッチな事はねえ!!!」

 

 「思いの外初心(うぶ)なんですね」

 

 「きーっ!!」

 

 栗毛からの想定外の奇襲だった。

 まさかの2対1である。昨日から自分の味方が1人もいない哀しい事実にキレかかるシンザンだが、対照的に栗毛の方は穏やかなものだった。

 眼鏡の向こうの目を細め、初々しい反応を楽しむようにくすくすと笑う。

 事実として歳下ではあるのだが、普段どちらかと言えば周りをたじろがせる側のシンザンが彼女の前では随分と幼く見えた。

 

 「諸々事情がありまして、彼には時折こうして脚を(ほぐ)してもらっているんです。心配しなくても大丈夫ですよ? 貴女が想像しているような事は何も起きていませんから」

 

 「・・・・・・まあ、本人がそう言うのなら。それにしてもねえ・・・・・・」

 

 こう穏やかに諭されるとこれ以上騒ぎようがない。

 ホッとした様子のトレーナーをジトッと睨みつつシンザンは改めて目の前に座るウマ娘を見る。

 栗毛だ。そして自分よりも体格が小さい。

 見間違えようもなかった。

 まさか早起きがこんな展開を招こうとは────何とも形容し難い顔でシンザンは頭を掻いた。

 

 「まさかこんな所で話す機会ができるとは思ってなかったよ。・・・・・・・・・生徒会長の剃刀(かみそり)さん」

 

 もちろん名前は知っている。

 成し遂げたものに敬意を込めて、シンザンは最初に彼女を肩書きと渾名(あだな)を合わせて呼んだのだ。

 それが伝わってか伝わらずか─────

 小さな身体の栗毛の彼女は、嬉しそうに胸の前で手を合わせる。

 

 

 

 「はいはい、そうです。私は剃刀(かみそり)

 ─────生徒会長のコダマです♪」

 

 

 

 引き継ぐように彼女はそう名乗る。

 時代を(おこ)した英雄は綻ぶように笑い、遊ぶようにシンザンの言葉を繰り返した。



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6話

 『コダマ』。

 3年前の『年度代表ウマ娘』にして『最優秀クラシック級ウマ娘』、そしてトレセン学園の生徒会長。

 無敗の7連勝で皐月賞と日本ダービーのクラシック二冠を獲得し、ファンだけでなくその外にまで大きな話題を呼んだことはまだ記憶に新しい。

 そして戦績だけではない。『剃刀』と謳われたその脚であまり火の強くなかった競走バのブームを巻き起こした、まさに今の時代を象徴するウマ娘だ。

 こうして言葉を交わしてもまだどこか現実感が湧いてこない。

 テレビの向こうにいた白黒の大スターが今、色のついた姿で自分の前で微笑んでいるのだ。

 

 「・・・・・・入学式で見たとはいえ、こうして目の前にいるとビックリだね。まさかトレーナーさん繋がりでこんな有名人と関わることになるとは」

 

 「俺に谷啓に会わせろって言った奴のセリフか?」

 

 「黙らっしゃい」

 

 「ふふ、そこまで軽口に話せるなら信頼関係は良好みたいですね。どういう経緯でトレーナーさんと芸能界が繋がったのかは非常に気になりますが・・・・・・」

 

 2人のやりとりを微笑ましそうに眺めるコダマ。

 奇妙な心持ちだった。

 こんなに柔らかく人当たりのよさそうな女が─────いざレースになって芝に立つと、あんな鬼気迫る(かお)で走るのだ。

 もしや双子かそっくりさんか何かなのでは、とシンザンが思い始めていた時、コダマが思わぬことを言った。

 

 「()()()()()()()。まだ時間に余裕がありましたら、少しだけシンザンさんと2人だけにして頂けませんか? 騒がしい初対面にはなってしまいましたが、ちょうど彼女と話したかったんです」

 

 「えっ」

 

 「ああ、朝練が始まるまでなら大丈夫だよ。それまででよければゆっくり話してて」

 

 トレーナーは平然と了承したが、眼を丸くしたのはシンザンの方だ。

 自分も1度は話してみたいと思ってはいたが、まさかこんな形でそれが実現するとは全く思っていなかったのだ。

 向こうが自分のトレーナーと関わりがある理由も、自分と話したがっている理由も何も分からない。

 それじゃ先に出てるから、とトレーナーがドアの向こうに消え、室内にはコダマとシンザンだけが残される。もしや自分は知らないうちに何かをやらかしてしまったのかと緊張し始めたシンザンだが、コダマは穏やかな空気を纏ったままだった。

 

 「私は以前からあなたの話を聞いていましたが、こうして直接お話しするのは初めてですね」

 

 「え。ああうん、そうだね」

 

 「入学してから2ヶ月ですが、もう学園での日々は慣れましたか? この時期になると、選抜レースの結果や家族と離れている事などで心細さを覚える子もいるんです」

 

 「そこは大丈夫かな。結果は手に入れたし、仲のいい友達もいるしね」

 

 「それはよかったです。もしも何か悩みや不安が出来たら、気軽に生徒会室に来てくださいね。いつでも相談に乗りますから」

 

 生徒会長らしい優しく頼もしい言葉だ。

 悩みや不安ではないが、さっきからずっと気になっていた事ならある。

 ともすれば危うい事情が出てきそうで聞く事が躊躇われたがあまり放置するのもトレーナーとの信頼関係に関わってきそうなので、シンザンは思い切って踏み込んだ。

 

 「・・・・・・その、さ。トレーナーさんとはどういう知り合いなんだい? 何かしら事情ありきとはいえ、(トモ)のマッサージって専門の人の仕事じゃないのかな」

 

 「あら。聞いていなかったんですね」

 

 少しだけ意外そうにコダマは目を丸くした。

 聞いていない方が不思議だということは後ろ暗い何かは無さそうだ。

 ひとまずはホッと胸を撫で下ろしたシンザンだったが、続く彼女の言葉には驚愕を禁じ得なかった。

 

 

 

 「あの(ひと)()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 「・・・・・・、!? え!? そうなの!?」

 

 「そうなんです」

 

 思わず身を乗り出すシンザン。

 成程これは知らない方がおかしい─────カネケヤキ達が言っていたのはこれだったのだ。

 二冠ウマ娘・生徒会長コダマの活躍を支えた名トレーナー、それが彼。自分がまさかの人物に見初められていたことをようやく理解したシンザンに、コダマは滔々と話を進めていく。

 

 「だから私には、あなたが彼に選ばれた理由が何となく分かるんです。

 あなたの様子は彼を経由して聞いていましたし、選抜レースでの走りも見ていました。

 他者に揺らがない自意識と、決して大きくはない身体に備わった比類なき脚。

 ・・・・・・似ていたんでしょう。私と同じ種類の才能を、彼はあなたに見出したんだと思います」

 

 何だか自画自賛みたいになっちゃいましたね、と。

 恥ずかしそうに肩を竦めるコダマを前に、シンザンは噛み締めるように目を細めた。

 じんわりと胸に染み出してきたのは純粋な喜び。

 コダマが言った言葉の意味に、彼女は少しだけ頬を緩ませた。

 

 「・・・・・・そう言ってもらえるなら嬉しいね。テレビの向こうにいた憧れに認められるなら、あたしもここに来た甲斐がある」

 

 「私が憧れ、ですか?」

 

 「あたしに限らない。ここにいる奴は皆、大なり小なりあんたの背中を追いかけてるよ。

 今の時代はあんたが創った。

 元からいた奴もそうでない奴も、みんな巻き込んで燃え上がらせちまったあんたを見て─────あたしは学園の門を叩いたんだ。

 ・・・・・・今度は、自分が()()()()()()と思ってさ」

 

 「それは、今の私の状況を知っても、ですか?」

 

 「知ってる。・・・・・・()()()()()()()()()()()()()

 

 面映そうな顔を少しだけ俯けるコダマ。

 シンザンはそれを見た上で彼女の言葉を肯定した。

 それを聞いたコダマは、安心したように自分の脚を軽く(さす)る。

 

 ─────屈腱炎(くっけんえん)

 別名、『ウマ娘の癌』。

 レースに生きるウマ娘たちをしばしば絶望に叩き落とす病だ。

 物理的刺激で腱の繊維が切れる・上昇しすぎた体温で腱の組織が変性することが原因となる性質上、優秀なウマ娘ほど発症しやすいというもので・・・・・・・・・彼女(コダマ)もまた、その病に侵されたウマ娘だった。

 日本ダービーの後で思うような結果の出せない不振の秋に、追い討ちをかけるように屈腱炎を発症。

 休養の後に落ち着きを見せたと思った矢先、天皇賞を前にして症状が再発するという、日本を沸かせた二冠の栄光から叩き落とされるかのような仕打ちを彼女は味わっている。

 『新幹線(こだま)どころか各駅停車にも劣る』という散々な批評をシンザンは雑誌で見た事があった。

 

 「だけど、あんたは最後の最後で大舞台を制した。聴いてるだろ? あの宝塚記念・・・・・・全員があのラストランで上げた大歓声。

 不屈の意味はあんたで学んだ。憧れるには充分さ」

 

 「ありがとうございます。復活の証明、有終の美だと讃えてくださる方は多かったですが、しかしこうして真正面から言われると・・・・・・面映いというか、恥ずかしいですね・・・・・・」

 

 頬を染めてはにかむコダマ。

 憧れの存在が見せたそう見る機会のない顔に、不覚にもシンザンはときめいてしまった。

 まだ『尊い』はおろか『萌え』という表現も存在しないこの時代、形容し難い疼きにギュッと顔のパーツを中心に寄せて下唇を噛んでいたシンザンだったが、直後にふわふわした感情は墜落する事となる。

 

 「だけど、あのひとは引きずり続けた」

 

 ピリッ、とコダマの空気が僅かに変わった。

 

 「私はこの脚をレースに使い切ったことに後悔はありませんし、あのひとも私の意志に応えて全力を尽くしてくれました。

 だというのに『ああすれば防げたんじゃないのか』、『こうすれば症状は抑えられたんじゃないか』といつまでもいつまでも。口に出さなければ気付かれないと思っているんでしょうか?

 こっちは形だけでも償いになるように、必要でもない脚のマッサージを態々(わざわざ)させているというのに」

 

 「・・・・・・・・・、」

 

 「シンザンさん」

 

 静かな、しかし純粋な怒りだった。

 彼女とトレーナーの重ねてきた年月が含ませる言葉の重みは口を挟むことを許さない。

 10秒前との落差に気圧されて動けなくなっているシンザンに、コダマはそっと自分の手を差し出した。

 

 「トレーナーとは傲慢なものです。

 2人で精一杯努力して、暗闇のなか手探りで掴んできた()()を、『もしも』を重ねて神様の視点で眺めるのが大好きな人たちです。

 ・・・・・・信頼する人をそんないじけ虫にしたくなければ、どんな状態でも結果を出すしかありません。

 だから────どうか勝ち続けてください。

 あなたたちが残した歴史に、もしもの余地が入らないくらいに」

 

 「・・・・・・言われるまでもないさ」

 

 愛憎半々って感じかね─────

 コダマの気迫に、そんなメロドラマみたいな感想を抱きながらシンザンは彼女の手を握り返す。

 『勝ち続ける』。言われるまでもない。こっちはそのつもりでここに来ているのだ。

 しかし自分は勝つ気しかしていないので問題ないが、もしトレーナーと自分が組まなかったら他の生徒がこの圧を喰らったのだろうか?

 それはちょっと可哀想だね─────とりとめもなくそんな『もしも』を考えていた時、コダマの手を握っていた自分の手に圧力がかかる。

 握る力が強くなっている。

 今度はなんだとやや身構えたシンザンに、コダマはぽつりと話しかけた。

 

 「先程も言いましたが、あなたの話はトレーナーさんから聞いています。・・・・・・間違いなく素晴らしい素質を持ってはいるが、どうにも練習の態度に問題がある、と」

 

 冷や汗が出た。

 不味い。この流れは非常に不味い。

 この話の流れでこの話題に触れたということは、これから洒落にならない詰め方をされる。

 及び腰になったシンザンだがしかしコダマの口調は穏やかなままで、そして手の力は緩まないままだ。

 

 「そこについては何も言いません。気性はウマ娘それぞれですし、あの人はそれに沿ったトレーニングメニューを組む。少なくともあなたが怠けることはないでしょう」

 

 「う、うん。真面目だよ。サボってなんかないよ」

 

 「ですが周囲は正直なものです。人はあなたを()()と呼ばわり、あの人を『ハズレを掴んだ』と笑う。

 結果で語るのはあの人の流儀ですが、その過程で侮られるのに無頓着なのは相変わらずですね。

 そして今その嘲笑を(そそ)げるのは、彼の流儀で鍛えられたあなたをおいて他にいません。なので」

 

 みしり、と手の中で音がする。

 コダマの両手で包むように握られたシンザンの手の骨が軋んでいるのだ。

 まるでその言葉を、痛みによって相手に刻もうとするかのように。

 眼鏡の奥の目を細め、口元だけの微笑みを浮かべつつ彼女は言った。

 

 「あの人の名に泥を塗らない走りを───どうか、お願い致しますね」

 

 

     ◆

 

 

 腕時計を見る。朝練が始まる時間。

 トレーナー室を見るとちょうどドアが開き、シンザンと自分に一礼したコダマは校舎へと戻っていく。

 ────脚の症状は落ち着いてるな。

 彼女の歩様を見て安心しているトレーナーの元に、ぷらぷらと右手を振りながらシンザンがやってきた。

 

 「時間ピッタリだ。何を話してたんだ?」

 

 「あの人をよろしくお願いします、だって。生徒会長のトレーナーやってたなら言ってよ、あたし恥かいたじゃないか」

 

 「え、手前味噌だけど有名な方だから知ってると思ってた。本当にトレーナーの下調べもしてなかったのか・・・・・・」

 

 「誰がトレーナーでも勝つって思ってたからね。それであんたを引き当てたんだからやっぱりあたしは()()()()よ」

 

 「すごい自己肯定感だ」

 

 感嘆した様子のトレーナー。

 自分という存在をどっしりと中心に据えた彼女の在り方には驚かされるばかりだ。

 ゲート内での様子から読み取れた通りメンタルが非常に強い・・・・・・というか、『自分』以外の要素を意識的に自分の中から排するのが上手いというべきか。

 いずれにせよそこから発揮される集中力は強い武器になるだろう。

 

 「さて、シンザン。今日からトレーニングのメニューを変更する」

 

 「うん?」

 

 「これからは筋力トレーニングとスタミナの増強を重点的に行う。心肺機能の強化でプールを使うことも多くなるから水着の用意は忘れないように。走りは理想的なフォームを徹底的に覚えていこう。速度は出さなくていいから、丁寧な形で走るんだ」

 

 ・・・・・・・・・、と。

 何でもないように伝えられたその内容に、シンザンは少しだけ呆気に取られた。

 自分を変えようとするのではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 自主トレのメニューについてああでもないこうでもないと悩むルームメイトを見ているため、メニューを組むにも正確な知識と少なくない労力が必要なのは理解している。

 それを走らない自分に合わせて、こうもあっさりと変更してのけたのだ。

 

 「どうしたんだ?」

 

 「いや。コダマさんの言う通りだと思ってさ」

 

 「え、俺の話してたの? なんて言ってたの、ねえちょっと気になるんだけど」

 

 「・・・・・・大した事じゃないさ。あんたに憧れてここに来ましたって言ったら、あの人が私を育てたんですって返ってきただけだよ」

 

 「なんだ、お前コダマに憧れてたのか? それなら早く言ってくれよ、もっと早くに会わせてやれたのに。

 まあ何を話してたのかは分からないけど・・・・・・どうだった。『憧れの先輩』と話してみて」

 

 「んー、そうだね・・・・・・」

 

 期待するように弾むトレーナーの声。

 シンザンは少しだけ考える素振(そぶ)りをして見せて。

 重く厳かな声で、ぼそりと呟く様に言った。

 

 

 

 

 

 「あの女すっげえ怖い」

 

 「わかる」



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7話

 コダマ「トレーナーは傲慢なものです」

 コダマ「特にお前」





 さて、トレーニングのメニューを変更したからには『これからはこれで頑張ろう』で終わらせる訳にはいかない。肝心なのはそこからのフィードバックを通してさらに最適な形を探っていくことだ。

 ウマ娘の気性と才能を繋ぐためには実際にトレーニングを行うウマ娘の詳細な所感が不可欠。

 このトレーナーには何でも意見した方がいいことを理解したシンザンもより忌憚のない意見を言うようになった。

 そのせいで

 『やっぱ目的が無いとどうも気分が締まらないね』

 『 "速く走るため "じゃ駄目なのか?』

 『それは "サボらないため " の目的だから』

 というトレーナーが頭を抱えた会話が発生したりもしたが、良くも悪くも遠慮が無くなった証拠だろう。

 とはいえ正確なフォームは身体的な素質ではなく努力のみによって身につくものであり、それを言われるでもなく理解していたシンザンの態度は今までに比べればずっと真剣だった。

 暫定的に変更されたメニューは、総合的には概ね良好な改善だったと言える。

 

 そこから更に3ヶ月ほど経ち、季節は夏。

 基本的に暑さが苦手なウマ娘のために屋内でのトレーニングが増える時期の、ある日のミーティングの終わり際。

 晩御飯なに食べようと考え始めていたシンザンに、トレーナーは一段と真剣な声でこう言った。

 

 

 「────メイクデビューの話をしよう」

 

 

 晩飯のことなど吹っ飛んだ。

 いよいよ来た。

 競走バとして芝を駆ける初めての舞台。

 時期的にそろそろ話に上るかと思っていたがやはり具体的な話が始まると実感が湧くようで、シンザンは見るからにワクワクし始めていた。

 トレーナーはシンザンの前に様々なメモが書かれたレースのスケジュール表を出し、その中のひとつをペンで指し示した。

 

 「11月の10日に行われる『デビュー戦』。そこをお前のレースの始まりにしたいと思ってる」

 

 「分かった。ただの興味で聞くけど、その時期にした理由は?」

 

 「訓練の進行具合と、単純に気候が良いからだよ。身体を動かすには丁度いい気温だし、ある程度力はついたはずの時期だからな」

 

 「ついた()()? なんでそんな自信無さげなのさ」

 

 「今の実力すら不透明だからだよ。お前ちっとも走らないから正確な指標が分からないんだ・・・・・・」

 

 目線を逸らして口笛を吹くシンザン。

 改める気がなさそうというか、やはり『自分はこう』という柱を傾ける気はないらしい。

 しかし最近では『あのコダマのトレーナーなら大丈夫でしょ』みたいな呑気さも目立つようになってきた気がしなくもないので、もうコダマを通じて叱ってもらおうかなどとトレーナーが考えている事をシンザンは知らない。

 ともあれそれは最終手段として温存しておくことを決めながら、トレーナーはやや厳しい口調でシンザンに警告する。

 

 「・・・・・・だが、同じ理由でこの時期にデビュー戦を定めるウマ娘は多い。それに11月というのはデビューには比較的早い時期でな。つまり実力に自信があるウマ娘たちが出走してくるんだ。

 舐めてかかると痛い目を見るぞ」

 

 「それはあたしよりも周りの娘に言うべきだね。宣言しとくよ。あたしはそのメイクデビューで、4バ身は離して勝つ」

 

 油断させないために言ったのだが、その忠告は届いているのかいないのか。

 結果で語ってみせるというトレーナーの方針通りに皮肉にも従う形だ。

 何でもなさそうな顔でさらりと放たれた言葉に、いい加減慣れたつもりでいたトレーナーも少しだけ彼女を自信過剰であると感じた。

 1バ身がおよそウマ娘1人分の距離。

 言葉にすると大したものではないように感じるかもしれないが、追い抜かす側の脚の具合によっては絶望の距離になり得る長さだ。

 それを4つ分。もう圧勝と言っていい差である。

 

 「異存が無いならその日に合わせてスケジュールを組もう。トレーニングもその日に狙いを定めて行っていくぞ」

 

 ん、お願いね、と。

 首を縦に振った彼女には気負いも不安な様子もなく、ただ自分の初陣が決まった高揚のみがある。

 自分が負ける可能性を露ほども考えていない。

 しかしその自信に結果を伴わせるのが自分の仕事。

 そのためにはある程度()()()()()必要が出てくる。

 ─────どのみち気乗りしないからといって、避けて通らせる訳にはいかないのだ。

 

 

 『ラップ走』というトレーニングがある。

 ラップタイムを一定に保ちつつコースを何周も走るという、レースを走る上で欠かせない訓練だ。

 マラソンと何が違うのかといえば、これは体力よりも()()()()を鍛えるトレーニングだという点だ。

 『このペースで走るとタイムはこのくらい』。

 『今の速度は普段よりも速い・遅い』。

 この感覚はレースでの駆け引きに非常に重要で、これを疎かにすると容易に()()()か術中に嵌まる。

 他人のペースや策略に振り回されて自分の走りが出来なくなると言えば分かりやすいだろう。

 それを防ぐため・あるいはフェイントなどの小技の精度を上げるために、ウマ娘たちは長く何周も走り続けて自分のペースを固めていくのだ。

 

 ここまで説明すれば大体察しはつくだろうが、シンザンはこのトレーニングが大嫌いである。

 

 『この回数までやる』というハッキリした目標がある筋トレなどとは違う、曖昧で長丁場なランニング。

 息切れ知らずのスタミナを持ちながらマラソンで最後方をぽてぽて走っている事から推して知るべし。

 ペースを保つくらいはやるが、速度を上げて速いラップを刻み続けるとなると途端に「んぇぇぇえええ」と鳴き声を上げる。

 しかし実感できる名誉や実利がゴールにないとやる気にならないというニュービーにあるまじきモチベーションも、この時ばかりは優先してはもらえない。

 周回を繰り返し蓄積していく疲労の中においても正確に時計を刻む脚と感覚を手に入れることは競技者として必須なのだ。

 ・・・・・・とはいえ「いいからやれ」と締め付けたとて、本人にやる気がなければ身に付こうはずもなし。

 いかにして彼女にやる気を出させるかは、トレーナーの目下の悩みどころだった。

 

 『まずは1ハロン13秒、その次は12〜12.9。

 そこからハイペースの11.9〜11.5秒を正確に。

 11.4秒あたりがラストスパート手前くらいだ。

 遅いペースから身体に覚えさせよう。

 いくら嫌いで好みじゃなくとも、これを蔑ろにしてレースの勝利はあり得ない』

 

 『うへえ・・・・・・』

 

 いつも通りの指示に拒否は示さないものの、いつも通りに肩を落とすシンザン。

 そしてこの時、トレーナーはふと考えた。

 

 ─────このトレーニングも目に見える実利があれば真面目にやるのか?

 

 試してみる価値は大いにある。

 実行するなら早い程いい。

 だから彼はこう言った。

 

 

 『このペースを覚えて1週間維持できたら、街に出かけて色々と奢ってやろう』

 

 

 そんな会話をしたのが少し前の話で。

 

 「ほい、約束通りだ。(たが)えはナシだよ」

 

 「お前さあ!!!!」

 

 指定したラップタイムの記憶と継続。

 ご褒美のにんじんを目の前に垂らされたシンザンは、今までのグダグダは何だったんだと言いたくなるような真剣さで課題をクリアしてしまった。

 したり顔で腕組みをするシンザンに、目論みが成功したはずのトレーナーはひどく腑に落ちない顔でやり切れない思いの丈を叫ぶのだった。

 

 

     ◆

 

 

 そして休日。

 オフの日が重なる日に予定を合わせた2人は、トレーナー寮の駐車場の前で待ち合わせていた。

 言質を取って調子こいているシンザンが人の財布でいろいろ買い込む事が予想されたため、荷物を乗せるために車での行脚である。

 すっかり暑くなったなぁ、と手で顔を仰ぎつつ春風に眠気を感じていた頃を懐かしんでいた時、予定の時間通りに彼女はやってきた。

 

 「やあやあ、お待たせ。約束より早く到着してるとは殊勝だね」

 

 「暑いけど足が相手を待たせる訳にもいかないしな。とはいえもう少し待たされると思ってたけど」

 

 「化粧する身だから準備は早めにしとかないとね。別にスッピンでもよかったんだけど、ウメに『鹿か!!』って怒られちゃって」

 

 「まあ男で言えば『髭を整えずに遊びに行きます』みたいな話ではあるからな・・・・・・」

 

 幼い頃は家族で出かける前に延々とドレッサーの前で格闘する母親に地団駄を踏んだものだが、あんな大変な作業が身嗜みのマナーになっている女性は大変なのだなと他人事ながら今になって思う。

 とはいえ、たとえ薄化粧でもバッチリメイクした人間の女性に劣らない辺り彼女たちは相当恵まれているのだろう。

 例外なく見目麗しい容姿である事もウマ娘の特徴である。

 果たしてそのせいなのか分からないが、そもそも化粧品そのものを大して持ってないからね、と宣っている辺り、シンザンはかなり見た目に無頓着らしい。

 

 「それじゃ行こうか。欲しい物を揃える日だと思ってたから特にプランは立ててないけど、まずは何から揃えたい?」

 

 「蹄鉄!」

 

 「了解」

 

 元気よく色気の無い返事をしたシンザンを助手席に乗せ、彼はエンジンを始動させる。

 中央のトレーナーになったばかりの頃に景気付けに奮発した、今となってはやや型落ちの愛車(クラウン)

 鮮やかな水色に塗装された4輪の箱が、己と同等の速度で駆ける生物を乗せて府中の街へと繰り出していった。

 

 「ありゃ、こっち行くの? 用品店なら別の方向にあるけど」

 

 「そこじゃなくてもっと大きい所に行く。少し距離はあるけど品揃えは一気に良くなるぞ」

 

 「へえ。じゃあ次からそこまで行ってみようかな」

 

 「ウマ娘でもこの距離を走るのは骨じゃないか?」

 

 「じゃあまたラップ走やって連れて来てもらおう」

 

 「奢りもセットで考えてないだろうな」

 

 よくない条件付けが発生したかもしれない。

 今後も嫌いな訓練に対してご褒美を用意させようとするシンザンをトレーナーは早めに牽制しておいた。

 いいじゃんケチ、と酷く肝の太い反抗をしてきたシンザンを軽く車体を蛇行させて黙らせつつ、トレーナーは横目で彼女を見た。

 

 (しかしなあ・・・・・・)

 

 シンザンを物で釣ろうとしたのがおよそ2週間前。

 今に至るまでの約14日間、シンザンは最初の1週間で速度と時間の感覚を掴み、残りの1週間でそれを維持し続けた。

 要するに─────真面目にやれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 トレーナーとしてトレセン学園の門を叩いてそれなりに経つが、見たことも聞いたこともない飲み込みの早さだ。

 自信過剰とすら言えるような自負と自意識を、まるで裏付けるように明らかになっていく走りのセンス。

 氷山の一角の才能でこの輝き、果たしてそれが全て表に出てきたのなら、その走りはいったいどんなものになってしまうのだろうか─────

 

 (・・・・・・末恐ろしいな、まったく)

 

 「あ、そうだ。特にプランは無いって言ってたけどそんなんじゃ困るよ。買い物以外にもあちこち遊びに連れてってくれなきゃ承知しないからね」

 

 「どうした。『奢る』の拡大解釈が過ぎるぞ」

 

 「土産話求められたら困るからだよ。あたしウメたちに『トレーナーさんが本気で計画したデートに連れてってもらう』って吹いて来てるんだから」

 

 「なんて事してんだよお前」

 

 

 

 

 そして到着したスポーツ用品店。

 レースを走るウマ娘の為のあれこれを取り揃えたコーナーの入り口で、シンザンは「ふへえ」と声とも吐息ともつかない音を発した。

 普段から自分が使っていた店とは段違いの広さだ。

 そしてトレーナーの言う通り、インナーやシューズ、果てはその中敷きに至るまで選り取り見取り。

 この中からさらに自分に合うものを選ぶのだろうが、果たしてどれがどれなのやら。思考が『なんだかすごい』で止まったまま勝手知ったるトレーナーに蹄鉄が陳列されたコーナーに連れられ、ずらりと並ぶ『Ω』の形の前で彼に問いかけられた。

 

 「とりあえず蹄鉄だったな。訓練用とかレース用とか種類は色々とあるけど、どんなのが欲しいんだ?」

 

 「あ。えーと、頑丈なやつ。重くてもいいからとにかく頑丈なやつ」

 

 「頑丈なやつか。じゃあ・・・・・・これかな」

 

 シンザンのリクエストにトレーナーはさして悩む様子もなく歩き始め、そして1つの蹄鉄を手に取った。

 それを手渡されたシンザンはパッケージに記された会社のロゴを見て、僅かに目を丸くした。

 

 「あれ。これって」

 

 「見たことあるマークだろ? この会社がレースの業界に参入してきた時は驚いたけど、信頼できるものを作ってくれてるよ」

 

 そんなことを言いながらトレーナーは用途に合わせてあれもこれもと見繕う。

 無作為に商品に手を伸ばしているように見えるが、そこに記されているロゴはどれも同じものだった。

 

 「蹄鉄ならどこのメーカーも作ってるけどな。他のと比べて割高ではあるけど・・・・・・品質も含めるなら、ヒンドスタン重工製のが1番だ」

 

 後はこれかな、と再び蹄鉄に手を伸ばすトレーナー。シンザンを差し置いて1番買い物を楽しんでいそうな風情だが、これもまたトレーナーの(さが)なのかもしれない。

 そんな時、どむん、と身体の横から衝撃。

 慌ててたたらを踏んで転倒を免れたトレーナーは、一体なんだと衝撃のあった方向を見る。

 シンザンだ。

 何故かシンザンが横から身体をぶつけてきたのだ。

 

 「・・・・・・し、シンザン? どうした?」

 

 「ん?」

 

 どむん。

 

 「シンザン? シンザン??」

 

 「んん?」

 

 どむん。

 どむん。

 

 「シンザンさーん?? シンザン様ー???」

 

 「んー? ふふふ」

 

 どむん、どむん、と。

 トレーナーに聞かれても理由を明かさないまま、シンザンは何かの気が収まるまでトレーナーに身体ごとぶつかり続けた。

 トレーナーは持っていた蹄鉄ごと転んだ。



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8話

 マンハッタンカフェ2人来ました。


 「・・・・・・アレだな。本当に容赦が無いな。お前は」

 

 「いいじゃん、大切に使うからさ」

 

 椅子の横に紙袋ふたつ。

 そこには服や化粧品など、女性の財布の痛め所がみっちりと収まっている。

 外見には無頓着そうだから安く済むかなとトレーナーは考えていたのだが、用品店から百貨店に移動し、到着した直後にシンザンは化粧品売り場に直行。

 「どうして・・・・・・」と呆然とするトレーナーの前で彼女は実に楽しそうに化粧品売り場と洋服のコーナーを練り歩き、あれもこれもとホクホク顔で商品を手に取っていった。

 ともあれ買い物がひと段落ついたので、今は百貨店内の食堂で昼食を取っている所である。

 

 「けどトレーナーさん、これだけ買い込んでもやめろって言わない辺りかなり()()()()よね。どうでしょう旦那、次は貴金属店でも」

 

 「どうでしょうじゃない揉み手をするな」

 

 「流石に冗談だよ。けど、ちょっと気になってはいるけどね・・・・・・この人、本当にあたしに尽くすなあ、って」

 

 じいっ、とトレーナーを見つめるシンザン。

 彼女が言っているのは普段の彼の様子であり、つい先刻のショッピングの話でもある。

 シンザンが買ってもらったのはトレーナーが選んだ蹄鉄と、やはり耐久性重視のシューズだ。

 しかし彼はその他にもレース用のアルミ製のものや訓練用に重量を増加させた鉛製の特殊蹄鉄、膝を保護するサポーターなどを複数買い込んでいる。

 全てシンザンの為のものだ。彼が個人的に利用するものは1つもない。

 カツ丼をかつかつと掻き込みながらトレーナーは何でもないように言った。

 

 「他と比べてどうなのかは知らないけど、トレーナーっていうのは大体そういうものだろう。ウマ娘のコンディションや足回りの管理も仕事の内だ」

 

 「あん? 休日のお出かけに仕事を持ち込んでんじゃないよ。くらえこの野郎」

 

 「尻尾を入れるな!!」

 

 食べかけのカツ丼にエビフライの残骸を箸で投げ込まれそうになったトレーナーが慌ててどんぶりを死守した。

 周囲の視線を集めつつわちゃわちゃしながら2人は昼食を終え、行き当たりばったりのお出かけの次の予定を話し合う。

 

 「で、ここから先は完全に無計画なんだが。遊びに行くならどこがいい?」

 

 「浅草がいいねえ。おいしい露店がいっぱい並んでるそうじゃないか」

 

 「いいけどまだ食べるのか? 実のところ体重の管理もトレーナーの役目だったりするんだが・・・・・・」

 

 「当たり前だね。この程度の量でウマ娘が満足できるとでも思ってんのかい。そんでその後はそうだね、映画でも見に行こうよ」

 

 「門限ギリギリまで人の財布で遊ぶ気だなキサマ」

 

 「もちろん」

 

 悪びれる様子は全く無い。

 頬杖をついてにたりと笑い、純度100パーセントの確信を持って自分の正しさを口にする。

 

 「あたしはね。それだけやっていい価値のあるオンナだよ」

 

 己の価値を疑わない自信。

 相手もその価値に相応しく動くだろうという傲慢。

 思い返せば自分は初対面からでも垣間見えた彼女のこういう自意識に惹きつけられたのかもしれないなと考えつつ、トレーナーは今月は少し慎ましく生活することを決めるのだった。

 

 

     ◆

 

 

 「ホリーはさ。幸せになれるチャンスは何度かあったんだよね」

 

 夜に光る街灯、学園へと帰る車の中。

 助手席に座るシンザンは中空に記憶の映像を再上映させながら、考え込むように映画の感想を口にしていた。

 

 「元旦那が迎えに来た時と、念願叶って富豪と結婚するところまで漕ぎ着けた時。

 だけど2回とも自分の行いでダメになった。夢を掴もうとする手で自分の首を絞めちまったんだね」

 

 「『君はもう自分で作った檻の中に入っている』ってポールの言葉が全てだったな。彼のプロポーズを『檻に入れられるのは嫌』と言って断ったホリーの言う『檻』が何なのかは考える余地は大いにある」

 

 「そりゃ『不自由』じゃないかい? 終始玉の輿に乗りたくて頑張ってたんだから、売れない作家の妻なんて遊べない身分は嫌だろうよ」

 

 「俺もそう思うんだが、ポールとホリーとで『不自由』の意味が違うんだろうな。

 金で兄を呼び戻してメキシコで暮らすのが夢という割に、兄がもうすぐ除隊するからまた一緒に暮らそうと迎えに来た元旦那を拒んだ。

 狙ってた富豪の結婚を知ればさっさと相手を切り替えるドライな性格かと思えば、別の富豪のホセとの結婚に向けて勉強してる時は幸せそうだった。

 ホリーの言う『檻』はシンザンの言う不自由の意味で合ってると思うけど、ポールは彼女のそういう気質を『檻』と表現したのかも知れない」

 

 「・・・・・・そういやホリー、元旦那が乗ったバスを見送る時も泣きそうになってたね。

 考えてみればどっちつかずというか場当たり的というか、その場その場の気分で動いて後から後悔してる感じというか。

 束縛とは無縁の自由な女に見えたけど、確かに立ち位置はずっと変えられないままだった。ずっと同じ場所をウロウロしてるだけで」

 

 「そんな自分をずっと変わらず愛してくれたポールはホリーにとって救いだっただろうな。『静かな気分になれる場所で暮らす』って夢はすぐ隣にあったと考えるとロマンチックじゃないか」

 

 「そうだねえ。・・・・・・トレーナーさん、何だかんだであたしより楽しんでないかい?」

 

 「・・・・・・まあ、映画とか久し振りで・・・・・」

 

 顔を覗き込んでくるシンザンから気恥ずかしそうに顔を背けるトレーナー。

 彼は二の腕をつついてくるシンザンの肘を払い、咳払いをして誤魔化すように彼女に聞く。

 

 「俺はともかくとしてだ。お前はどうだ。リフレッシュにはなったか?」

 

 「ん、合格。楽しかった。トレーニング頑張ったらまた連れて来てよ」

 

 「ご褒美が安直過ぎたかなぁ・・・・・・」

 

 今度はもっと条件をキツくするぞ、と。

 助手席から飛んでくるブーイングを左から右へと受け流し、日の沈んだ街をクラウンが駆ける。

 休日はお終い。

 明日からはまた、2人で勝利に向けて訓練を続けるのだ。

 

 

 

 「・・・・・・危ない。門限ギリギリだ」

 

 「おかしいね、ちゃんと余裕みて帰ってたはずなのに。夜の街が新鮮であちこち遠回りさせたくらいじゃこうはならないよ」

 

 「原因はそれだよ間違いなく」

 

 最後までシンザンに振り回された休日だった。

 何だかんだで自分も楽しんではいたが、門限過ぎまで担当ウマ娘を学外に連れ出しているトレーナーは流石に問題になる。トレーナー寮に戻らず栗東寮の前に車をつけたトレーナーは、急いでトランクから荷物を引き摺り出してシンザンに持たせた。

 

 「はい。これで全部だな? 忘れ物をしたら渡すのは明日になるぞ」

 

 「えー、これあたしが持つの? トレーナーさんが持って上がってよ。男の人でしょ」

 

 「やかましい。厚かましさに拍車を掛けるな。お前の力で運んだ方が間違いなく早いし、だいいち学生宿舎はトレーナー立ち入り禁止だ」

 

 唇を尖らせるシンザンの頭にチョップを入れる。

 それじゃあまた明日、と別れを告げ、さて戻ったら事務仕事を少し片付けるかと車に乗り込もうとした時、パタパタと駆けてくる足音があった。

 そちらを振り返れば、宿舎の玄関口から駆け寄ってきていたのは黒鹿毛のウマ娘だった。

 

 「ハク寮長?」

 

 「ハクショウ。どうした」

 

 「シンザンのトレーナーさん? ちょうど良かった。実は学園に電話があって・・・・・・」

 

 そしてハクショウからの言伝(ことづて)を聞いたトレーナーは、車に乗り込んで再びエンジンを始動させる。

 向かう先は住処であるトレーナー寮ではない。

 シンザンを送り届けたその足で、トレーナーは再び夜の街へと車を転がしていった。

 

 

     ◆

 

 

 脱力した人間の身体は本当に重い。

 この役回りを受け持つ度にそれを実感する。

 「ほら、水は飲ませたから持って帰って」と慣れた様子の女将に代金を立て替え、カウンター席に突っ伏した男に肩を貸し、強引に引き上げるように立たせてヨタヨタと店の出入り口を潜る。

 温い熱を孕んだ夜風と体温が上昇している『荷物』という中々に不快指数が高い組み合わせにやや辟易しつつも入口前に停めた車に戻ろうとして、

 

 「ふへえ・・・・・・。流石に疲れたね・・・・・・」

 

 肩で息をしている担当ウマ娘を見付けた。

 流石に閉口するトレーナー。

 忘れ物か届け物か、少し考えてみても理由が思い当たらないので、彼は直接聞く事にした。

 

 「・・・・・・シンザン。何でここにいるんだ」

 

 「見ての通りだよ。追いかけてきたからさ」

 

 「方法の話じゃない。目的の話だ」

 

 「そんな顔して出て行った理由が知りたくてね。せっかく楽しい気分で1日が終わろうって時に、あんな湿気(しけ)た顔で消えられちゃ堪ったもんじゃない」

 

 言葉そのものに怒気はなく、少しだけ()()()が過ぎた子供を問い質すような硬く静かな声。

 しかし彼女にとっては余程承服し難いものだったのだろう。その答えを聞くために門限やその他を振り切ってここまで追いかけてきたのだから。

 ・・・・・・ただ、話す気はない。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 一緒に送るから乗れ、と質問には答えず促そうとした時、肩を貸していた男がふらふらと歩き出した。

 

 そして男は前にいたシンザンの両肩を掴み、自重を支えきれず崩れ落ちるように両膝をつく。

 彼女の鼻が自分の前で(くずお)れた男から感じたのは、強いアルコールの匂いだった。

 

 「ん、んん?」

 

 「済まない・・・・・・。本当に済まない・・・・・・」

 

 戸惑うシンザン。

 男が泥酔している事は容易に理解できるが、自分が謝罪を受けている理由が分からない。何故なら自分は、この男とは間違いなく初対面だからだ。

 それを見ていたトレーナーは溜め息を吐き、男をシンザンから剥がして再び肩を貸して立ち上がらせる。

 

 「・・・・・・違うぞ、よく見ろ。そいつはあの娘じゃない。送るから大人しく乗ってくれ」

 

 「うう・・・・・・」

 

 「ほら、シンザンも後ろに乗れ。門限も過ぎてるんだ、帰りも走るのは嫌だろ」

 

 「え。あ、うん・・・・・・?」

 

 泥酔した男を助手席に放り込み、シンザンも疑問が解消されないまま後部座席に乗り込んだ。

 問い質すタイミングを完全に逸し、次の機会も訪れないままクラウンは再び彼女らを運んでいく。

 意識が朦朧としている助手席の男は、蚊の鳴くような声で尚も謝り続けていた。

 

 そして学園に到着した時、シンザンは少しだけ目を丸くするようなものを見た。

 泥酔した男をどこに送り届けるのかと思いきやトレーナーは学園に直行。トレーナー寮の駐車場に車を停め、そのまま男を助手席から引き摺り出したのだ。

 

 「シンザン、悪いが宿舎へは歩いて帰ってくれ。少しこいつの世話をしなきゃならないからな」

 

 「あ、うん・・・・・・トレーナーなんだね。その人も」

 

 「ああ。俺の後輩だよ・・・・・・、っと」

 

 肩を貸して立ち上がらせようとしたトレーナーが手を滑らせ、男が地面に尻餅をつく。

 いや、トレーナーが手を滑らせたのではない。

 泥酔している男が、自分の意思でトレーナーの手を振り払ったのだ。

 

 「・・・・・・いいんです。放っといて下さい」

 

 「良くない。ほら立て」

 

 「おれはここにいていい奴じゃない」

 

 「馬鹿言うんじゃない。帰るぞ、もうすぐそこだから。シンザン、お前もさっさと帰りな」

 

 「え、でも大丈夫? あたしも手伝った方が」

 

 「いいから。ほら早く行け」

 

 「俺のせいだ。俺のせいなんだ」

 

 「ああもう、行くぞ。話なら聞くから─────」

 

 

 

 「だって!! 俺は勝たせられなかった!!!」

 

 

 

 男が吼えた。

 会話も成り立たない程に混濁し虚に呟くようだった彼の発した絶叫に、シンザンは思わず耳を手で倒して塞ぐ。回避したかった状況に陥ってしまったトレーナーは手で顔を覆っていた。

 

 「周りに劣らない才能があったはずなのに!!

 あの娘は誰よりも勝ぢだいと願っていだのに!!

 俺が潰じだ!! 俺があの娘の夢を潰じだッ!!!」

 

 「そんな事はない。お前は頑張ってたよ」

 

 「ぞんなの何の意味もないっ!!

 勝ぢに繋がらなぎゃドレーナーの意味がないっ!!

 俺はあの娘に何もでぎながっだんだ!!

 俺にもっど知識が!実力があればッッ!!

 俺の所為で!! 俺のせいで!!

 おれのせいでぇぇええエエエエッッッ!!!」

 

 ・・・・・・涙も涎も、鼻水も。

 顔から出せる液体すべてを滝のように垂れ流しながら泥酔した男は泣き叫ぶ。

 鬱屈とした全てを爆発させるような慟哭に、シンザンは全てを理解した。

 

 「トレーナーさん。この人が担当してた娘は」

 

 「お察しの通りだ。勝てないまま引退したんだよ」

 

 諦めたようにトレーナーは答えた。

 

 「あの店は前から何人も自棄(やけ)を起こした奴の相手をしてくれててな。知り合いがそうなる度に俺が迎えに行ってたら、いつの間にか俺が回収する係みたいになっちゃって」

 

 「ああ、それでトレーナーさんの所に伝言が来たんだね。・・・・・・でもさ、それでもこれはひどい潰れ方してるよ。何でここまで荒れてるんだいこの人」

 

 「お前には関係のない話だよ」

 

 「まあそうなんだけどさ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 僅かな沈黙。

 何かを庇おうとするような、何かに反論しようとするようなそんな雰囲気。

 言葉に出そうか出すまいか躊躇っている様子を見て、自分があまりよくないものを踏んだのを察したシンザンはじっとトレーナーの行動を待つ。

 ────そうだな。もう見せちゃったしな、と。

 そして吐くような勢いで泣き続けている男の前で、トレーナーはぽつりと彼女に問いかけた。

 

 「シンザン。俺たちトレーナーがどんな時に死ぬか知ってるか?」

 

 「・・・・・・結果を残せなかった時?」

 

 「そこまで曖昧じゃないさ」

 

 「担当したウマ娘が勝てずに終わった時?」

 

 「正解はしてる。けどそれだけじゃない」

 

 「・・・・・・・・・そのウマ娘に、『お前のせいで勝てなかったんだ』って罵られた時」

 

 「正直それならまだマシだ」

 

 罵倒すらまだ良い方。

 そうなるともう考えつくものがない。

 何も答えが浮かばなくなったシンザンに、トレーナーはどこか遠い目をしてこう言った。

 

 

 「正解はな。勝たせられなかったウマ娘に、泣きながら『勝てなくてごめんなさい』って謝られた時だ」

 

 

 無言があった。

 空っぽの夜空に、男の号泣がただ響いている。

 

 「"トレーナーにとっては長いキャリアの一部だが、ウマ娘にとっては一生に一度"。

 そんなプレッシャーの差を皮肉る言葉があるけどな。俺たちトレーナーは、その『一生に一度』をいくつもいくつも背負っていくんだ。

 しんどいぞ、自分の通ってきた道が夢破れて泣く姿で満たされていくのは。

 良くて1勝・・・・・・まして未勝利、未出走のまま終わるウマ娘が大半を占めるこの世界じゃ尚更な」

 

 「・・・・・・・・・・・・、」

 

 「初めての奴も乗り越えた奴も、毎年何人かが()()()()辛さに耐えられなくなってトレーナーを辞める。

 何も思わないようにすればいいなんて言うトレーナーもいるが、敗北の先を考えない奴に担当ウマ娘は勝たせられない。

 だから、どうか迷惑に思ってやらないでくれ。

 形はどうあれこうして爆発させられる奴は、きっといいトレーナーに育つから」

 

 ほら、だからもう行くぞ、と。

 少し強引に男を担ぎ上げたトレーナーはそのまま宿舎へと歩いていく。

 その言葉はシンザンに対する説明というよりは、心が折れかけている男への激励だったのだろう。

 背を向けて去っていくその背中に、シンザンは思わず声をかけていた。

 

 「トレーナーさん」

 

 「ん?」

 

 「トレーナーさんも、そんな風になったのかい?」

 

 「ああ。そうだよ」

 

 答えは少しの間もなく返ってきた。

 その声は過去の傷を思い出すように小さくて。

 トレーナーとはただ自分達を育てる存在ではなく過去に幾つもの悔恨を乗り越えてきた人間であることを、彼女はこの時、初めて意識した。

 

 

 

 「今も夢に見る」

 

 

 

 

 

 

 『シンザンさん。トレーナーとは傲慢なものです。2人で精一杯努力して、暗闇のなか手探りで掴んできた最善を、「もしも」を重ねて神様の視点で眺めるのが大好きな人たちです』。

 

 『信頼する人をそんないじけ虫にしたくなければ、どんな状態でも結果を出すしかありません』。

 

 『だから、どうか勝ち続けて下さい』。

 

 『あなたたちが残した歴史に、もしもの余地が入らないくらいに』。

 

 

 泣きじゃくる声が遠くなっていく。

 薄い月明かりに照らされた2つの背中が宿舎へと消えても、シンザンはしばらくトレーナーが去って行った方向を見つめている。

 駐車場のアスファルトを、男が流した涙や鼻水が黒く濡らしていた。

 

 

 

 

 「ようやく戻ったか。じきに門限だという時間にどこまで走って行ったんだ」

 

 がちゃりと部屋のドアが開く音に反応して、机に向かって授業の復習をしていたウメノチカラはそちらを見ずに小言をぶつける。

 トレーナーが走り去ったと同時に、荷物を放置しての謎の追跡。意味不明な門限破りはハクショウにも説教されただろうが、ウメノチカラにも文句を言う権利がある。

 

 「おい、私に礼の1つも言うべきだろう。お前が放置した荷物を持って上がったのは私だぞ」

 

 「ああ。ありがとね」

 

 ぞんざいな感謝だった。

 流石にもう一言二言も文句を言いたくなったウメノチカラは、少しの苛立ちと共にシンザンの方を見た。

 

 そして何も言えなくなった。

 

 彼女は何を見たのだろう。

 多くの荷物を抱えて返ってきたデートの帰りとは思えないような空気。トレーナーを追いかけていったその先で何があったのかは分からない。

 落ち込んだとも悲しんだとも違う。ただ彼女が何かを強く、深く決意したことが分かる。

 呑まれて二の句を継げなくなったウメノチカラに、シンザンは静かに口を開いた。

 

 「ねえウメ。ウメはさ、前に『自分は優れているという周囲の声に応えたい』って、『自分を送り出してくれた両親に報いたい』って言ってたよね」

 

 「あ、ああ」

 

 「あたしもね、決めた。今日決まった」

 

 どさり、とベッドに身を投げる。

 説明も無く、返答も求めていない。

 天井に輝くライトを何に見立てたか、シンザンは上に向かって手を伸ばし、そして強く握り締めた。

 

 

 「()()()()()()()()()()()()()

 あたしは絶対にあんな顔はさせない。

 あたしとの記憶に一片の染みも付かない位に─────あいつの経歴を、あたしのトロフィーで埋め尽くしてやる」

 

 

 生まれ持った才能があったからではなく。

 あるいは、その決意こそがシンザンというウマ娘の始まりだったのかもしれない。

 2人の絶望と過去の傷を見つめたこの日。

 彼女は天とここにはいない彼へと向けて、強く、強く宣誓した。

 



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9話

 それ以降シンザンはトレーニングに対する姿勢が少しだけ改善し、嫌いなメニューを行う際に上げる鳴き声も少しだけ緩和された。

 決意の割には表に反映された割合が少ないようにも感じる、他者から見れば気付かない程度のものだったが、それはトレーナーから見れば確かな成長の一歩であった。

 

 そしてまた少しばかりの時が流れる。

 季節は秋。残暑も消えた11月の10日。

 

 舞台は京都レース場。

 入学以来『新参』と揶揄(からか)われ続けた、推定大器のメイクデビューが始まる。

 

 

     ◆

 

 京都レース場の距離1,200。

 シンザンが初めて走るレースの条件はそれだ。

 1,200メートルは短距離に分類される長さであり持久力を持ち味とする彼女には噛み合わないように見えるが、メイクデビューで走る距離といえば凡そこんなところだ。

 初めての実戦でトレーニング通りのパフォーマンスを発揮する事は難しく、緊張やプレッシャーで速く走る事しか考えられなくなるウマ娘も少なくない。

 つまりこの位の距離は、ペース配分を意識できずとも走り抜けられはする長さなのだ。

 勝って門出となるか負けて未勝利戦へと突入するか、どちらになってもここで実戦の空気や感覚を掴んで次に繋げる。

 そしてパドック前の観客席最前列で始まりの時を待っているウマ娘たちは、いずれも無事に門出を終えた者達だ。

 

 「こうして見ていると妙な気持ちですね。シンちゃんのメイクデビューの日なのに、彼女がもうすぐそこに現れるって実感がまだ無くて」

 

 「気持ちは分かる。あいつは目立つ舞台に上がるイメージが何となく湧かないからな。気付けば飄々とそこにいる奴というか」

 

 ウメノチカラとカネケヤキ。

 それぞれ1週間前と先月にメイクデビューを迎え、共に1着を勝ち取って華々しくデビューを飾った2人だ。

 その傍らにはまだデビューを迎えてはいないが、1年生(ジュニア級)の中でも実力は確かだと(もく)されるバリモスニセイもいる。

 

 「控え室で話した時も緊張の欠片もありませんでした。流石に気が抜け過ぎているのではないかとも思いましたが、あのメンタルコントロールの巧さは私も本番前に身に付けたい所です」

 

 「そっか、リセイちゃんのメイクデビューは12月でしたね。ただあれはメンタルコントロールというか何というか・・・・・・」

 

 「あれはただ図太いだけだ。それに力を発揮するには適度な緊張は必要だ、リラックスしていれば良いという話でもない。トレーナーがそこを引き締めてくれればいいが」

 

 「チカちゃんがそう言っても『へーきへーき』って笑うだけでしたもんね。固くなるよりはいいかもしれないけど、少し心配です」

 

 「糠に釘だ。いい加減理解した、あいつは自分のペースでしか動かない・・・・・・というか私の名前をそう略す奴は初めてだ」

 

 『京都レース場、第3レース。出走するウマ娘たちの紹介です。1枠1番──────』

 

 「!始まりました」

 

 アナウンスが流れ、出走するウマ娘たちのお披露目が始まった。

 据え置かれた舞台の赤、開いたカーテンの向こうから名前を呼ばれたウマ娘が歩いてくる。

 彼女らの反応は十人十色だ。

 自信満々に胸を張っている者や緊張で硬くなっている者。初陣故にその時のコンディションが如実に動きに現れる。いずれも長年のレースファンから見れば初々しく微笑ましいものだ。

 初めて実戦の芝を踏む者たちのお披露目が進む。

 そして開かれた赤いカーテンの向こう、ウメノチカラたちが応援する鹿毛のウマ娘が現れた。

 

 『続いて3枠3番、シンザン。1番人気です』

 

 胸を張るでも緊張するでも無く。

 名前を呼ばれたシンザンが、てくてくと普段通りの歩様で登場した。

 身体のどこにも強張りが無いのはいいが、これからレースを走る者にしてはボサッとしているというか何というか。

 パドックでは『肩に掛けた上着を勢いよく脱いでみせる』というお決まりの所作があるのだが、シンザンはそれもまともにやらなかった。

 トレーナーにジェスチャーで指示されてようやく肩の上着を脱ぐが、派手に翻すどころか手に持ち直しただけ。

 この場の誰よりもやる気の感じられない彼女は、露骨に「ここ要る?」とでも言いたげな顔をしていた。

 

 『緊張はしていない様子ですが、あまりレースに気が入っていなさそうですね。出走前にコンディションをどこまで戻せるかが問題になりそうです』

 

 「枠番はかなり恵まれしたが・・・・・・パドックであそこまで面倒臭そうにしているウマ娘は初めて見ました。それでも1番人気なんですね」

 

 「選抜レースの印象が残っているんだろう。勝者こそ私だが、あのメンバーの中なら1番走りで()()()()()()のはアイツだからな」

 

 「とはいえ結果は分かりませんね。確かにあの時は2着ながらに圧倒されちゃいましたけど、その後はあまり真面目にトレーニングしていない様子しか知りませんから・・・・・・」

 

 ────うーん。こりゃ駄目かなあ。やってくれそうだと思ったんだけど。

 ────調整不足か? あの様子じゃ次の未勝利戦でリベンジする事になりそうだ。

 やはり周囲も期待の言葉より不安の声の方が多い。

 そんな騒めきもどこ吹く風でシンザンは再びカーテンの向こうへと消えていく。

 注目は次に現れた意気込みも露わなウマ娘に移り、シンザンの話題は調整失敗で片付けられてお終い。

 パドックでの紹介が終わり、ウマ娘たちは地下道を通っていよいよレース場へと向かう。

 皆が光差す出口へと歩いていく中で、あまりにもボンヤリしていたシンザンの様子をトレーナーが見に来ていた。

 

 「どうした。何かあったのか」

 

 「いやさ、パドックって必要かい? 走ってるところを見せれば充分じゃないか」

 

 「見に来てくれたファンへの挨拶だ。蔑ろにするんじゃない」

 

 「あと観客が少ない気がするねえ。あたしだよ? あたしがデビューするってのにだよ?」

 

 「・・・・・・デビュー戦はそんなもんだ。もっと沢山の声援が欲しければこれから勝ちを重ねるんだな」

 

 「はーい」

 

 結局は個人的な不満だったらしい。

 唇を尖らせて不承不承返事をしたシンザンに、心配の肩を透かされたトレーナーががくりと肩を落とす。

 ・・・・・・だが、彼女はこういう性格だった。

 やりたくない事はやりたくない。

 自分が高級であることを疑わない。

 ならば自分が今彼女にするべき事は、心配や励ましなどではないだろう。

 顔を上げたトレーナーは、彼女の顔を真っ直ぐに見据える。

 

 「シンザン」

 

 「うん?」

 

 

 「勝ってこい」

 

 「当然」

 

 

 くるりと軽快に背を向けてシンザンは歩き出す。

 勝負への不安も敗北への恐れもそこにはなく、どこまでも自然体な姿だ。

 図太いのはそうだろう。だが呑気とは違う。

 心乱れる理由が無いだけだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 (そうそう。それでいいんだよ)

 

 喧騒が近付く。

 出口から差し込む光が強くなるにつれ、芝の匂いと空気の動きが強くなっていく。

 歩みを進める程に広がっていく四角く切り取られた風景は、音のない地下道からはどこか現実離れしたものに感じられた。

 しかし、そここそが現実。自分の戦場。

 パドックから続く地下の道、ひととき覚悟の猶予を与えてくれる出口から、彼女は初めての一歩を踏み出した。

 

 「あんたが見初めた女は、こんな初っ端で負けやしないんだから」

 

 そして視界が大きく開ける。

 今までは白黒で見ていた景色が、いま鮮やかに色付いて挑戦者たちを迎え入れている。

 観客達が今か今かと見守るターフ。

 夢へと至る階段の1歩目。この日より我こそ(さきがけ)たらんと心を燃やす者たちの戦場に今日、シンザンは降り立った。

 

 

 「ねえ。シンザンってあんたよね?」

 

 いよいよゲートインの時間が迫る。

 軽く身体をほぐしていたシンザンに出走者の1人であるウマ娘が話しかけてきたが、どうやらあまり友好的ではないらしい。気に入らないという感情が視線にありありと表れている。

 そして彼女はその感情を視線だけに留めておく気はないようだった。

 

 「何なのあの態度。みんなが今日デビューしようって時にどうしてあんな面倒臭さそうに出来るわけ」

 

 「んー?」

 

 「普段の練習もあまり真剣じゃないって話も聞くし、みんな努力してここにいるのに恥ずかしいと思わないの?」

 

 「んん」

 

 「聞いてる? ふざけてるの?」

 

 「ん」

 

 どんどん返答の文字数が減っていく。まるで小石にぶつかった程度にしか反応していない。

 格下と思っている相手に明確に流されている事に苛立ってか、彼女の言葉がだんだんと荒くなっていく。

 

 「・・・・・・本っ当、なんであんたなんかがあのトレーナーの担当になったのかしら」

 

 舌打ち混じりの暴言。

 そうだったとしてトレーナーが覚えているかは怪しいが、もしかすると彼女は選抜レース前に彼にアタックを掛けていたウマ娘たちの中の1人だったのかもしれない。

 恐らくはやっかみが多分に混じった彼女の毒は、反論がないのに背中を押されて加熱していく。

 

 「ま、今回のレースの結果であんたもトレーナーも目が覚めるでしょ。何ならレースが終わってあんたが契約解除された後、あたしが─────」

 

 「そりゃ無理な話だ」

 

 言い切った。

 無関心を貫いてきたシンザンの突然の断言に、暴言をシャットアウトされたウマ娘が面食らう。

 面倒だと切り捨てたのか、そうまでする価値も感じなかったか。どちらでも無かったにせよ、シンザンは彼女の事を眼中にも入れていなかったに違いない。

 何故ならこの時、シンザンが彼女の顔を見る事は最後まで無かったからだ。

 

 「あいつを笑わせるのはあたしだ。あたしがそう決めたからね」

 

 

 

 そしてファンファーレは鳴る。

 各ウマ娘がゲートに収まり、京都レース場は束の間の静寂に包まれた。

 今か、今か。まだなのか。

 密室で高まっていく緊張と焦燥を集中力で抑えようとする彼女らの中で、そのウマ娘だけが誰より深い所にいるとこの場の何人が気付いたのだろう。

 ─────自分とゲートとスタートダッシュ、それ以外の全ては無駄。

 その時の彼女に何かしらのインタビューをしたら、そんな返答をされるかもしれない。

 

 そして。

 

 『スタートしましたジュニア(クラス)デビュー戦、各ウマ娘一斉に走り出しました!』

 

 ゲートが開く。

 誰よりも早くシンザンが飛び出す。

 パドックでの気怠げな様子は不調ではなくただの自然体であっただけなのだと、その瞬間に見ていた全員が思い知らされた。

 

 『おっとシンザン早くも抜け出した!早くもハナを奪う素晴らしいスタートを切りました!』

 

 「やはりスタートが恐ろしく強い・・・・・・。選抜レースの時も見ましたが、更に磨きがかかっているようにも見えます」

 

 「集中力と足腰だ。悪い噂は多かったがトレーニングを怠っていた訳ではないらしい。いや、トレーナーが怠けさせなかったのか」

 

 「少なくともパドックの様子は不調じゃなかったみたいですね。メイクデビューであれをやられると凄く怖いです」

 

 『先頭シンザン、いい位置につけました。2バ身離れて5番ホシツキ。その後にアイデンスタンとニホンピローが続きます』

 

 ─────私の時と同じだ。

 レースの実況を聞きながらウメノチカラは状況を分析する。

 選抜レース以来シンザンと走った事はないが、序盤の状況はその時と似ている。

 あのスタートダッシュで先んじて好位置を奪い周囲に対応を強いるのだ。そして後半、位置取りをキープしつつ周囲が体力を消耗した潮を見て一気に末脚で交わす先行型。

 あの時の自分は何とか粘り勝ったが・・・・・・、あのレースには疑惑がある。

 

 (・・・・・・アイツが本気じゃなかった可能性)

 

 その真偽も今回のレースで明らかになるだろう。

 14人立てのデビュー戦、ウメノチカラは静かにレースの推移を見守っている。

 

 京都レース場はスタート直後に登り坂がある。

 抑えて登るのが定石のコースだが今回は短距離、下り坂に備えて逃げを打とうとしていたウマ娘たちは体力を消費してでもシンザンを追い越そうとする。

 第2コーナー過ぎで道は一度平坦に戻り、そして最終コーナーの下り坂でピッチが上がる。

 1,200メートルというハイペースな展開、早くもレースは終盤に差し掛かる。

 そこでシンザンに続いて2番手を進むウマ娘・ホシツキは虎視眈々と仕掛け所を狙っていた。

 

 (シンザンはここまで先頭、このペースで走っていたらラストスパートのタイミングで失速するはず。彼女を目印にペースを保てた私にはまだ脚が残ってる)

 

 そして2番手故に焦りなどの精神的な負荷も少ないために思考能力も冷静なまま。

 彼女の目にはターフにこれから進むべき進路が見えていた。

 加速して先頭を抜き去り、自分が最初にゴール板を踏むための道筋が。

 

 (位置取り良し、タイミング良し。仕掛ける!)

 

 下り坂に差しかかりいよいよスパートを掛けるかという時、いの一番にホシツキは加速。まだハナを進むシンザンはその時、冷静に考えていた。

 

 今の自分のペース。

 それを基準にした周囲のペース。

 

 流石にバテている者はいなさそうだが、後ろのウマ娘はあまり速度が伸びてくる様子はない。スパートをかけるとしたらこの辺りだろうが、最初の登り坂で自分を抜かそうとして体力を使ってしまったのかもしれない。

 ─────ああ、なるほど。

 ─────こういう考え方に繋がるなら、ラップ走って大切だね。

 ちらりと後ろを確認。

 彼女らもいよいよ勝負を仕掛けにきた。

 しかし勝負所のペースアップにしては、まだ速度を一定に維持している自分に対する距離の詰まり方が遅い。

 2番手のウマ娘が迫って来ているが、彼女も相応に脚とスタミナが削られているのか。

 対する自分はどちらも充分に残っている。

 

 問題ない。千切れる。

 

 

 「よし。行くよ」

 

 

 一際強い呼気と共に踏み込む。

 2番手が並びかけてこようとしたゴール板まで残り600メートル地点。

 好位置で溜めていた脚を解き放ち、シンザンは一気に前へと躍り出た。

 

 「ちょっ・・・・・・!?」

 

 『シンザンいった、シンザンいった! 並びかけたホシツキを突き放し、シンザン驚愕の二枚腰!!』

 

 「おお、来たぞ!シンザンが来た!」

 

 「不調じゃなかったのか!? 先頭のままだぞ!」

 

 1番人気がとうとう動いた。

 後方のウマ娘も懸命に追うが彼女の背中はどんどん離れていく。並ばせるどころか詰める事も許さない圧倒的な走力。

 残り400を通過、13人のウマ娘が1人の背中に追い縋る。

 ハナを進む彼女の足音は一際大きかった。

 

 「速い! 選抜レースの時よりも!!」

 

 「なんて分厚い逃げ。これがシンちゃんの本気ですか・・・・・・!?」

 

 「シンザン・・・・・・シンザン!そうか、お前は!やはりお前はあの時は・・・・・・っ!!」

 

 『残り200メートル! 2バ身3バ身、2番手との距離がどんどん離れていく!

 現在先頭はシンザン、先頭はシンザン!!

 2番手のホシツキ懸命に追うが届かない!!

 脚色に衰えはありません! そして今─────

 

 

 

 ─────ゴールイン!! シンザン1着!!

 

 ()()()()()()()()()()()!!

 

 およそ()()()離れて2着ホシツキ───!!!』

 

 

 ─────先頭を行く鹿毛が誰よりも早くゴール板を駆け抜け、誰よりも早く脚を止める。

 自分の名を呼ぶ実況の叫び。弾む息を整え見れば、掲示板の1着の欄には自分の番号が表示されていた。

 自分の前には誰もいない。振り返れば自分以外の全員がいる。

 それら全てが自分の勝利を証明していた。

 

 全身を『味』が満たしていく。

 手に入ると望んで疑わなかったもの。

 望み通りに手に入ったそれ。

 自分のものだと最初から確信はしていても、こうして実際に手にしてみれば予想以上に・・・・・・・・・

 

 「・・・・・・・・・悪くないね」

 

 

 望外の喜びに自然と笑みが浮かんできた。

 ───黄金に彩る自分の道。

 その第一歩に、まず1つ。

 沸き上がる歓声、己の後ろを走った彼女らに、勝って戻ると誓った者に。

 我今来たると言わんばかりに、シンザンは拳を高々と空に突き上げた。



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10話

 『ジュニア(クラス)デビュー戦を制したのは1番人気シンザン、圧巻の4バ身差!強いとしか言えない走りで見事メイクデビューを飾りました!』

 

 「はっ、はぁっ、な、何なのよあの子・・・・・・」

 

 「不真面目なんじゃなかったの・・・・・・!?」

 

 膝に手を着き肩で息をするウマ娘たちが咀嚼しても中々飲み込めない結末を喘鳴と共に吐き出した。

 『逃げ』というものは難しい。

 高いスピードと豊富なスタミナが必要なのは勿論だが何より、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 レースの展開に左右されない・自分の走りが出来るという強みはあるが、それは裏を返せば『駆け引きの余地が(ほとん)ど無い』という事。

 先頭で逃げるペースを基準に後ろのウマ娘がペースを固定して脚を溜め、先頭が疲労したと見るやスパートをかけて差しに来る。

 余程のフィジカルか手練れでなければ捕まってしまうのが『逃げ』という作戦で─────、まだ戦略を練れる段階にある者がいないデビュー戦、モノを言ったのはシンザンのフィジカルだった。

 

 「へえ、あれが会長の言う『シンザン』か」

 

 観客席の高い場所から見下ろしながら、頬杖をつく鹿毛のウマ娘が面白くなさそうにボヤく。

 その隣には誰もが顔を知る栗毛のウマ娘・コダマが柔和に笑っていた。

 

 「随分と千切ったじゃねえか。デビュー戦アタマ差で負けたの思い出すなあ畜生」

 

 「そっか、リュウさんもメイクデビューはここでしたね。頼もしい後輩じゃないですか」

 

 「いやそうだけどよお。会長はどう思うんだ? 随分アイツを目にかけてるみてーだけども」

 

 「もちろん期待以上ですが・・・・・・それ以上にホッとしました。不真面目な態度で不甲斐ない結果を出された日にはと考えると、今日まで気が気ではなくて」

 

 うふふと笑うコダマに対して、『リュウさん』と呼ばれた鹿毛のウマ娘が顔を引き攣らせつつ彼女から若干の距離を取る。

 彼女は自分の脚を気に病み続ける元トレーナーを立ち直らせる役割を、彼が次にスカウトしたウマ娘・・・・・・つまり自分の後釜に求めているようだった。

 しかし時代を創ったこの二冠ウマ娘が求める最低水準は、即ち『自分と同じレベル』に他ならない。

 皆に優しい生徒会長にして()()()()()()()()()()()()()()の異名を持つコダマは、前線から退いてなお内面の気質に衰えを見せていなかった。

 

 「さて、早いですが移動しましょう。彼女には労いの言葉も掛けたいですし、まだ見るべきものも残っていますから」

 

 「へ? レース以外にチェックするもんあるか?」

 

 「ウイニングライブですよ。そこまで完璧にこなしてこそレースに生きるウマ娘なのですから」

 

 ほら早く早く、と。

 そう言ってコダマは席を立って観客席の出入り口に向かいつつ鹿毛のウマ娘に手招きをした。

 どうやらそこまでチェックされるらしい。そこいらの姑よりも重箱の隅をつつこうとしている。

 そこまでやるなら後釜に任せず自分でやればいいのにと思うが、彼女の中では明確な線引きが為されているのだろう。

 走りきった自分は此処(ここ)まで。

 過去から吹っ切らせられるのは、これからを走る者であると。

 

 「・・・・・・後輩がここまで圧かけられてんなら、オレもキッチリ見せるべきもん見せとかねえとな」

 

 よしっ!と。

 気持ちを締め直すように自分の両頬を手で打って、リュウフォーレルも立ち上がる。

 見据えるは月末、秋の盾。

 夢に見れども出走すら叶わぬ者が殆どの、最高峰の一角のレースだった。

 

 

     ◆

 

 

 「や。終わったよ、トレーナーさん」

 

 ガッツポーズもそこそこに即行で引き上げてきたシンザンがトレーナーの方へと駆けてきた。

 観客席とコースを隔てる(ラチ)に寄り掛かり、目を丸くしている彼に向けてにたりと笑う。

 

 「()()()()()()()()()()()()()()()()。どうだい、これで安心しただろう」

 

 「ああ、正直驚いた。てっきり先行で走ると思ってたよ。初戦の逃げでここまで突き放すのは並大抵の事じゃない」

 

 「そのつもりだったけどね、周りのペースを見てたら緩めなくてもいけるなって。これでペース配分の感覚は身に付いたって事だし、もうラップ走やらなくていいだろ?」

 

 「継続だバカタレ」

 

 「んえぇぇえ」

 

 元より真面目とは言い難い練習態度の中でも特に萎えきるのがラップ走なのだが、よもや自分の勝利を盾に交渉を仕掛けてくるとは思わなかった。

 交渉を跳ね除けられてグダッと(ラチ)に溶けたシンザンに気持ちを切り替えさせるべくトレーナーは話題を変える。彼女にはまだ仕事が残っているのだ。

 

 「それよりこの後のウイニングライブだ。もちろん休憩はあるけど、シャワーだの化粧だのと詰まってるからそうのんびりは出来ないぞ。ダンスに関しては教官に任せて余り関わってないけど大丈夫か?」

 

 「ああ、そうだったそうだった。大丈夫、ちゃんと覚えて来てるよ。面倒だからセンターの振り付けしか練習してなかったけど」

 

 「怖いことを言うなぁ・・・・・・」

 

 もし1着を逃していたらどうするつもりだったんだろうか。

 他のポジションになっても踊れるように厳命しなければ・・・・・・知らぬ間に担当ウマ娘がステージ上であわや棒立ちという危機に直面していたことを知ったトレーナーの背筋にストレートな寒気が走る。

 さーて汗流そ、とさっさと歩いていくシンザンに続くようにトレーナーも控え室へと急いだ。

 鍛えて送り出すだけがトレーナーではない。

 レース後のクールダウンや脚のチェックなど、ウマ娘のあらゆるメンテナンスもトレーナーの役割だ。

 そして地下道を戻る道すがら、シンザンの前に立つ影が3つ。

 

 「・・・・・・お疲れ様です。凄まじい走りでした」

 

 「1着おめでとうございます。恥ずかしながら、シンちゃんがあそこまで強かったとは私も見抜けませんでした」

 

 「やあやあ、ありがとね。・・・・・・1人だけ労ってくれそうな雰囲気じゃあないみたいだけど」

 

 中央に仁王立ちして行手を阻むウメノチカラと、その両脇で彼女を宥めようとしているバリモスニセイとカネケヤキだ。

 実際、2人が腕を抑えていなければ彼女はシンザンに掴みかかっていただろう。ウメノチカラの瞳には、それだけの怒りと屈辱が赤々と燃えていた。

 その様子で何となく用件を察したシンザンに、ウメノチカラは理性の表面張力が限界に達している声で問うた。

 

 「端的に聞こう。なぜあの時は手を抜いた」

 

 「本気になる必要が無かったからね」

 

 怒りを猛らせる友の前。多少なり気圧されるか萎縮するような対面で、シンザンはあまりにもあっけらかんとそう答えた。

 

 「まあ縁に恵まれてね、あの時あたしはもうトレーナーが決まってるようなものだったんだよ。だから体裁として見栄えが悪くない順位を取っとけばよかったんだ。いらない所で疲れる必要はないだろ?」

 

 「勝負を舐めているのか?」

 

 「そんな事はないさ。ただあたしが戦うべきところはあそこじゃなかっただけ」

 

 「お前は─────」

 

 叫ぼうとして、やめた。

 勝負を愚弄する行いや1つ1つのレースに皆が懸けている想いを説いても、彼女には何ら意味がない。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 自分の物差しでものを言ったところで、彼女にとってのそれは自分と同じ大きさとは限らないのだ。

 強張っていた身体から力を抜く。

 ウメノチカラの胸に渦巻く怒りと屈辱は、ただ唯一共通していた価値観に向けて吐き出された。

 

 「─────・・・・・・次は負かす。完膚なきまでに」

 

 「うん。あたしが勝つよ」

 

 確信。規定事項であるような物言い。

 せっかく区切りが付きそうだった炎が再燃しそうになっているウメノチカラの横を通り過ぎゆくシンザンに、カネケヤキが思い出したように声を発する。

 

 「シンちゃん。レース前に何かあったんですか?」

 

 「?」

 

 「ほらその、レース前に何か言い争ってるようだったので。見たところ一方的に何かを言われていたみたいでしたが、あの子と何かあったのかなって」

 

 「あー、あの子ね。あの子、あの子・・・・・・」

 

 しばし口の中で呟いて記憶を辿るシンザン。

 時間にしておよそ5秒と少しだろうか。

 レース前に会話を交わした記憶から出走していたメンバーの顔を思い出し、そして()()()と笑ってこう言った。

 

 

 「()()()()()()()()()()()

 

 

 それで話を打ち切った。

 もちろんその理由はシンザンが最初から最後まで彼女の顔を見ていなかったからなのだが、顔を見ていたとしても彼女が覚えていたかは怪しい。そのレベルで無関心だった事は、何ら気にしていない彼女の口振りから容易に察せられる。

 そんじゃね、と軽く手を振って歩き去っていくシンザンに、3人は背筋に薄寒いものを走らせた。

 ───自分達は今、何か恐ろしいモノの片鱗と目を合わせたのではないか。

 遠ざかっていく足音に、3人は深淵に潜む化物の(いびき)を聴いたように感じた。

 

 そんな底知れない彼女も舞台で歌って踊るのだ。

 記念すべき初めてのウイニングライブ。

 先に1着を飾ったウメノチカラやカネケヤキの舞台を見ていたのもあってか、『自分が勝者である』という晴れ姿を全身で誇示できるウイニングライブに対するシンザンのモチベーションはパドックの時と比べれば遥かに意欲的だった。

 ・・・・・・この時までは、意欲的だったのだ。

 

 「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」」

 

 沈黙があった。

 ライブの衣装に着替えて化粧を施し、そして姿見の前に立ったシンザンと隣にいるトレーナーは一様に口を閉ざしている。

 シンザンはともかく、すぐ側で見ている自分が無言なのはマズいとトレーナーも理解しているのだろう。

 浮かんでくる感想に含まれる単語や文節たちに変換に変換を重ね、どうにかこうにか当たり障りない言葉に変えてトレーナーはシンザンに声をかけた。

 

 「その、似合ってる。いいと思うぞ? 華やかさとは違う魅力があるな。垢抜けない素朴な可愛さというか親しみを感じるというか、そう、安心感を覚えるというかさ・・・・・・」

 

 「濁さず正直に言ったらどうだい」

 

 「野暮ったいなぁ」

 

 「正直に言ってんじゃねえよ」

 

 予想以上に最短距離で特攻(ブッコ)まれた言葉のナイフにシンザンの乙女心が悲鳴を上げた。

 気遣いが辛くて正直に言えとはいったが、実際は言われずとも分かっているのだ。

 自分のボディラインはこうも平凡というかずんぐりむっくりとしていただろうか?

 普段は気にする事も無かったが、こういう華やかな衣装を着るとどうにも衣装が浮いてしまうようだ。

 流石にメイクには何の問題もないが、そのせいで尚のこと田舎者の背伸び感が出ているというか・・・・・・

 これで衆目の前で歌い踊れと言われると・・・・・・

 

 「トレーナーさん。あたし本当にコレで出なきゃ駄目かい。2着のホシツキって子と代わってもらうとか出来ないのかい」

 

 「お前センターの振り付けしか練習してないだろうが。それにウイニングライブってのは自分を応援してくれた人に対する感謝と礼儀だ。1番人気にまで推されたのなら尚更な」

 

 「でもさあ」

 

 「コダマがキレるぞ」

 

 反論が止まった。

 我儘を言っている自覚もあったのだろうが、彼女に怒られるのは流石に嫌だったらしい。彼女を『すっげえ怖い』と評したあの朝に何があったのだろう。

 だが出ずに済むなら出ずに済ませたいとはまだ考えているようで、頭頂部の耳は浮かない気分を反映してペタンと伏せられたままだ。

 

 「大丈夫、笑顔で歌って踊る姿は走りと負けない位に自分を輝かせてくれる。そもそも可愛くない訳じゃないんだ、野暮ったいと思う奴なんていないさ」

 

 「いま目の前にいるんだけど」

 

 「それに何より・・・・・・」

 

 「?」

 

 「・・・・・・俺が純粋に、歌って踊るシンザンを見たい。担当したウマ娘がセンターに立つ姿は、トレーナーにとっては何よりの誇りだからな」

 

 やはり沈黙。

 照れ臭いことを言ってみたが駄目か、とトレーナーが肩を落としそうになる。

 だがその時、それを聞いて伏せられたシンザンの耳がゆっくりと持ち上がっていくのを見た。

 ふーーーーーっ、と長く息を吐く姿は、うだうだ言っていた腹をようやく括ったという覚悟の証だった。

 

 「トレーナーさん。考えてみればウイニングライブで、舞台衣装じゃなくて別の服を着て踊ってるウマ娘がいるよね」

 

 「? ああ、それは『八大競走』後のウイニングライブだな。重賞レースの中でも特に最高峰とされるレースで、そこで3着以内に入ったウマ娘はその後の舞台で()()()()()()()を着るんだよ」

 

 「うん、だよね」

 

 切り替えるように首を振り、姿見から視線を切る。

 決意を宿した瞳で慣らすように肩を回す姿は、何ならレースの前よりも戦いに赴く風体をしている。

 突然の変貌に静かに驚いているトレーナーを尻目に、シンザンは控え室のドアを開けた。

 

 「─────このライブ終わったらすぐ一緒に考えるよ。あたしにバッチリ似合う衣装」

 

 

 

 

 そして始まった彼女が主役のステージ。

 見た目の野暮ったさから観客の意識を逸らすために、シンザンは覚えた歌を演歌の声と節回しで歌うという奇策に打って出た。

 当初は動揺していた観客たちだが予想だにしない彼女の美声に最終的には喝采を贈るに至り、観ていたコダマも「これはこれで」と頷いたとか何とか・・・・・・

 

 ともかく、シンザンは文句無しの圧勝でメイクデビューを飾った。

 彼女は翌月の『月間トゥインクル』の小欄に、ウメノチカラやカネケヤキと共に筆者の期待を添えて名前を記される事となる。

 『期待の新人』というウイニングライブの様子を交えて付けられたその称号が、今後どれだけ大きくなっていくのか。

 この時はまだ、誰も知らない。



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11話

 春に出会って夏に鍛え、秋に芽を出し冬になる。

 冷たい中空を吐息で白く彩りつつ、トレーナーはシンザンと出会ってからこれまでの事を思い返した。

 授業は手を抜き選抜レースですら抑え、契約を結んだ後のトレーニングもまあ真面目とは言い難い。

 そのくせ本番のレースでは他を圧倒する走りをするときている。

 

 あれからシンザンは2度のレースを制した。

 11月末のオープン戦を2と2/1バ身、12月中旬のジュニア級中距離特別をまたも4バ身。

 3日後に控えているオープン戦も問題はないだろう。ここまでの経過と結果を鑑みてトレーナーはそう確信している。

 

 ケチの付けようもない3連勝。

 担当したウマ娘に対するトレーナーの理解と試行錯誤の1年間、戦績を含めれば自分は上々と言っていい結果を出せたと思う。

 試行錯誤については長引きそうだが、今のところは順調だ。

 

 「トレーナーさん。なに物思いに耽ってるんだい」

 

 遠くを見つめているようなトレーナーの背中に声が投げかけられる。

 一緒に初詣にやってきたシンザンだ。

 厚手の上着を着込み、中身の暖かさを感じるように両手で紙コップを握って甘酒を啜っている。

 

 「ん。去年は色々あったなと」

 

 「ちょっと、あのくらいでボンヤリしてどうするんだい。今年は去年なんか比べ物にならないくらい色々と起こるんだから」

 

 「分かってるさ、いよいよお前も『クラシック級』だ。密度の高い1年になるぞ」

 

 「いいね。とうとう本格的に始まるって訳だ」

 

 言ってシンザンはちびちび味わってきた甘酒を一気に飲み干し、唇についた液体を舐め取りながら空の紙コップを握り潰す。

 ウマ娘の力で小さなボールになった容器をゴミ箱に放り投げる可能の目は、冬の寒気を押し退けるような熱に燃えていた。

 

 「しっかり神様に言っとかないとね。あたしの走りを見逃すな、ってさ」

 

 神に必勝を願うのではなく、己を見ていろと宣う。

 ここまで傲慢な態度で神前に立とうとする者はこの場では彼女をおいて他にないだろう。

 色々と爪痕を残したウイニングライブ後、現地に1泊してから学園に凱旋した日。ミーティングでレース内容の振り返りを終わらせた後に、いつかの夏の日のようにトレーナーは切り出した。

 

 『メイクデビューは果たした。これから挑戦する進路を決めよう』。

 

 クラシック級に上がり、なおかつ優れた結果を出したウマ娘の前に提示される二通りの道。

 重大な選択だが、シンザンは前々から自分の進む道を決めていたのだろう。

 彼女は、迷う事なく『クラシック路線』に進むことを宣言した。

 

 

 『桜花賞』。

 『皐月賞』。

 『オークス』。

 『日本ダービー』。

 『菊花賞』。

 『天皇賞(春)』に『天皇賞(秋)』、そして最後に『有記念』。

 特に結果が重要視される重賞レースの中でも別格の、出走の権利を得るだけでも栄誉とされるそれら8つのレースを合わせて『八大競走』と呼ぶ。

 中でもクラシック級のウマ娘のみが挑む事を許される5つのレース、その内の3つのレースから構成される2つの進路を彼女たちは選択することになる。

 

 皐月賞と日本ダービー、菊花賞で構成され、王道と呼ばれる『クラシック路線』。

 

 桜花賞とオークス、そして同じく菊花賞からなる『ティアラ路線』。

 

 全てに出走する事は出来ない。

 皐月賞と桜花賞、日本ダービーとオークスがそれぞれほぼ同時期に開催されるためだ。

 そしてシンザンが選んだクラシック路線は、王道と呼ばれるだけあってそれぞれのレースにこんな格言がある。

 『最も速いウマ娘が勝つ』皐月賞。

 『最も運のいいウマ娘が勝つ』日本ダービー。

 『最も強いウマ娘が勝つ』菊花賞。

 この全てを制した者は即ち、『最も速くて強くて運がいいウマ娘』と言えるだろう。

 その称号は自分にこそ相応しい、とシンザンは堂々と言ってのけた。

 

 ────『三冠ウマ娘』。

 日本のレースの歴史において過去に1人しか存在せず、コダマでも手が届かなかった、『最強』に最も近い称号。

 多くのウマ娘が夢に見て、そして挑戦の権利すら与えられず終わる至高の玉座を、シンザンは己の手の内にあってしかるべきものとしている。

 

 (・・・・・・シンザンが大きな怪我をしませんように)

 

 鈴と小銭の音を鳴らしてトレーナーは祈る。

 賽銭箱の前の長蛇の列。

 言動の割には意外にもトレーナーの横で小銭を投げてニ礼ニ拍手一礼をしたシンザンに少しだけ可愛げを感じたトレーナーは、軽い調子で彼女に聞いた。

 

 「何を祈ったんだ?」

 

 「トレーナーさんが日和りませんように」

 

 「・・・・・・・・・まだ根に持ってるのか。あの決定は日和った訳じゃないし、お前もそれに頷いただろ」

 

 「従うのと納得する事は別だね。喜ぶがいいよ、あんたの目論みは成功してるんだからさ」

 

 

     ◆

 

 

 事の発端は去年、2週間と少し前まで遡る。

 『朝日盃ジュニア級(ステークス)』。

 後に朝日杯フューチュリティステークスという名前で国際格付けの最上級に分類される、ジュニア級ウマ娘のチャンピオンを決める重賞レース。

 そこにウメノチカラとカネケヤキが出走したのだ。

 

 『らぁぁあああああッッッ!!』

 

 『やぁぁぁあああッッ!!!』

 

 ゴール板へと駆け抜ける彼女ら2人の雄叫びは、今も鮮明に思い出せる。

 ジュニア級ながら素晴らしい熱戦だった。

 14人立ての8枠14番、最も外枠という不利を背負ったウメノチカラが凄まじい負けん気を発揮。

 最終直線でカネケヤキと熾烈なデッドヒートを繰り広げ───ウメノチカラがアタマ差で勝利した。

 そしてこのレースを含め年に3勝をあげたウメノチカラはこの年の『最優秀ジュニア級ウマ娘』に選出され、先だって3勝していたカネケヤキにも惜しみない賞賛が注がれた。

 『彼女らはこの世代の両翼になるだろう』。

 そんな評価と期待は、彼女らの才能と実力に(たが)わぬものであるはずだ。

 

 問題は、トレーナーが出走資格を得ていたシンザンをこのレースに出走させなかった事。

 シンザンに出走させたジュニア級中距離特別は、その前日に開催されたレースなのである。

 

 『どういう事だい?』

 

 その決定を下されたシンザンは低い声で問うた。

 耳を後ろに絞って足で床を掻くように蹴るという、ウマ娘の()()の中でも最上級に不機嫌であることを示す危険信号を前にしてもトレーナーは怯まない。

 彼女がこのレベルで怒る事を覚悟していたからだ。

 

 『聞いたままだ、お前を朝日杯には出さない。それにこのレースは重賞でこそないがオープン戦よりも注目度は高いんだ、それで納得しろ』

 

 『目の前にある頂点から手を引けって? ()()()()? よりによってあんたが??』

 

 『今のまま走らせても負けるだけだからな。これで話は終わりだ。また明日』

 

 蹴りすら飛んできそうな怒気を一身に受け、トレーナーはシンザンに背を向けてトレーナー室のドアノブに手を掛ける。

 ──────()()()()()

 クラシック路線に進むと聞いた彼がシンザンに対して思ったことはそれだった。

 確かに彼女には未だ計り知れない才能がある。

 しかしそれだけでは勝てない。

 時に執念は才能を刺し貫くということをトレーナーは知っている。

 まして野望に燃える者達が集う八大競走、生半(なまなか)な心構えでは到底──────

 

 『()()()ってんだろ』

 

 振り向いた。

 獲れて当然のトロフィーを見逃さねばならないという傲慢な憤りを勝利への執念に変換・代替させようという目論見をその場で看破されたトレーナーの顔が少しだけ引き攣る。

 いや、駄目だ。顔には出すな。

 見抜かれたことがバレたら、この作戦は台無しだ。

 

 『何のことだ?』

 

 『1年近く一緒にやってきてんだ、あんたの考えは大体分かる。まあ正直反抗はしにくいね。もしあたしが真剣にトレーニングやってたら、あんたもこういう判断はしなかっただろうし。

 分かったよ、あんたの決定に従う。この鬱憤は来年に叩き付ける事にするよ』

 

 決め打ちだ。もう誤魔化す余地もない。

 最早多くを語る必要すらないという確信でシンザンは自分の魂胆を見抜いてきた。

 この手のやり方は失敗すると信頼関係に響く可能性があるが、果たして彼女の心中は如何許(いかばか)りか。

 ぴしっとトレーナーを指差しながら、シンザンは突き付けるように念を押した。

 

 『ただしこれだけは覚えときな。あんたは自分の経歴に飾るトロフィーを、一個ふいにしたんだよ』

 

 

     ◆

 

 

 「あんなに強かった力道山も()()()の刃物に刺されて死んだ。トレーナーさんが言いたかったのってそういう事だろ?」

 

 「そのニュースを絡めるのはやめてくれ、結構ショックなんだよ・・・・・・。けどまあ、そういう事だ」

 

 代金を払って巫女さんからおみくじを貰いながら会話は続く。

 

 「実力者揃いのレースで物を言うのはここぞという所の勝負根性だ、ウメノチカラがいい見本だろう。

 刃物を振り回せとは言わないが、走りで殺すくらいの気迫がないと大事な所で圧し負ける。

 目論見通りになってるならいいけど、そういう渇望は普段から感じてないと結果には出にくいからな」

 

 「穏やかじゃないね。確かにあたしはウメやケヤキみたいな顔で走った事はないけど、結局は脚が速い方が勝つんじゃないのかい? ・・・・・・なに出た?」

 

 「凶」

 

 「何やってんだい縁起の悪い。あたしのあげるから上書きしなよ。ホラ、どうせ大吉だから」

 

 「どうせ、ってまだ開封前じゃないか。まず大吉とは限らな・・・・・・」

 

 大吉だった。

 うお、と目を丸くして自分を見るトレーナーに、シンザンはにやりとしたり顔をしてみせる。

 

 「凄いだろ。あたし生まれてこのかた大吉しか引いた事ないんだよ」

 

 「マジか、それは本当に凄いな。そういう話を聞くと本当にお前は何かを持ってるって感じるよ」

 

 「持ってるんだよ。おみくじの事が無くたって、あたしは自分の天運ってやつを信じてる」

 

 トレーナーが持っている凶と大吉2つのおみくじをひょいと取り上げ、重ねて折り畳んでおみくじ掛に結び付ける。

 絡まった2つの運勢を見てこれでよしと頷き、シンザンは戸惑っているトレーナーの背中を叩いて鷹揚に笑ってみせた。

 

 「だから多少の不運はあたしが吸い取ってやる。あんたはどっしり構えてな。あたしからの()()()だ」

 

 ・・・・・・・・・少しだけ自分を恥じた。

 自分はかつての至らなさを、自身の成長ではなく都合の良い曖昧な何かに求めようとした。

 しかし彼女は違う。

 都合の良い何かなんて必要ない。

 自分ならやれる、求めたものを必ず獲れると心の底から信じている。

 ならば、自分もそれに(なら)おう。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 身が引き締まるのは寒さの所為にしておこう。

 彼女を教え導くというのなら、堂々と胸を張って立つのは最低条件だと思うから。

 

 

 「お前が自分の天運を信じるなら、実力は俺が担当しよう。・・・・・・今年は厳しく行くぞ。シンザン」

 

 

 半目になった2人の口角が上へと曲がる。

 まるで出会った時の再現。相手を測るような沈黙をお互いにしばし楽しんでいた時、シンザンがふと思い当たったように大きく(まばた)きをした。

 頭上に「!」のマークを弾けさせながら顔を上げた彼女が、神社の一角にあるコーナーを目指してくるりと踵を返す。

 

 「あ、ちょっと待ってて。絵書いてくから」

 

 「なんだ、やっぱり願い事があるのか?」

 

 「覗いちゃ駄目だよ」

 

 簡単に釘を刺してからシンザンはぽてぽてと絵のコーナーへと走っていった。

 小銭を渡して五角形の木の板を受け取り、ペンで何事かの願い事を背中を丸めて書き込んでいる。

 大きくない体格でそんな姿勢をするものだから、上着のせいでよりずんぐりむっくりになっている背中が可愛らしく揺れていた。

 その様子を見ているトレーナーの心に小さな悪戯心が芽生える。

 ────こっそり背後から近付いて、シンザンの絵を覗いてやろう。

 例によって人間よりも鋭いウマ娘の感覚器官だが、神社に溢れる人々の喧騒や焚火の匂いは自分の接近を隠してくれるはずだ。

 ()()掛所(かけどころ)に願い事を書いた木の板をかけたシンザンの背中にそっと近付いて、頭越しに彼女の書いた絵を覗き込んでみる。

 

 

 

 『トレーニングが厳しくなりませんように』。

 

 

 

 「何卒(なにとぞ)・・・・・・!!」

 

 「おい。俺の目を見て言ってみろ」

 

 真剣な顔で手を合わせるシンザンの背後で、トレーナーのドスの効いた低音が響いた。

 『気質を鑑みて抑え目に組んでいた追い切りメニューをガッツリやらせる事に決めたトレーナー』vs『何としても正月は休みたいシンザン』。

 元旦から始まった小競り合いの結末は、その後トレセン学園のグラウンドに響いた汚い鳴き声から推して知るべしだろう。

 

 そして迎えた1月4日のオープン戦。

 特筆するような事は何もない。

 2着のハナビシに2バ身離して、息も乱さずにシンザンは勝った。

 ただそれだけの話だった。



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12話

 

 

 フラッシュバックというものを体験した事はあるだろうか。

 過去に受けた心的外傷が突然に、あるいはその時の経験と近似した光景がトリガーになって鮮明に思い出される現象の事だ。

 4日のオープン戦を終え、レース後の負担を考慮して流す程度のトレーニングを行なっている最中にトレーナーを襲ったものがそれに近い。

 

 「ぎゃふんっ!」

 

 柔らかな何かが引き裂かれる音。

 硬い何かが砕けて割れる音。

 人間の耳にも聞こえるような大きさのそれと共に、走っていたシンザンがターフの路にすっ転んだ。

 

 右脚を押さえ苦悶の表情で(うずくま)るコダマ。

 診断を下された彼女の絶望的な表情。

 もう走れなくなるかもしれない。

 視界が狭く暗くなっていくあの感覚と共に、目の前の光景に過去の記憶がいくつも重なり合っていく。

 

 「────────シンザンッッッ!!!」

 

 心と思考が悲痛な青に染まる。

 顔の色を失ったトレーナーが、引き裂かれるような声で名前を叫びながら芝に倒れる彼女へと駆け寄っていった。

 

 

 

 ウマ娘の大小様々な故障と隣り合わせな学園の性質上、トレセン学園の保健室に常駐する養護教諭には医療免許の所持が必須とされており、保健室も同様に応急処置より上に踏み込んだ医療行為が行える程度の設備が備えられている。

 つまるところ学園内に小さなを病院を抱えているのと同じなので大概の身体的なアクシデントはここで対応できるのだが、シンザンの身に起きた事は対応の範囲外だった。

 消毒液の匂いが漂う室内で、トレーナーはぽかんと口を開ける。

 

 「壊れただけ?? シューズと蹄鉄が??」

 

 「はい、腱の断裂や骨折は見られませんね。軽い打撲と擦り傷だけです」

 

 『どうした、どこをやった、どこが痛む』。追い詰められた顔で矢継ぎ早に聞かれて気圧されている様子を苦痛で声が出ないのだと判断したトレーナーが、シンザンを抱え上げて全速力で保健室に駆け込んだ。

 提携している病院に運び込んでくれと取り乱すトレーナーを落ち着かせ、ベッドに寝かされたシンザンを一通り診察した養護教諭の診断がそれだった。

 

 「軽傷で済んだのもゆっくり走っていたからでしょうね。とはいえ暫くは様子を見て、痛みが強くなったり長引くようなら病院にかかった方がいいでしょう」

 

 

 「寿命が縮んだ・・・・・・・・・」

 

 「何だかお騒がせしちゃったね。あたし自身も身体の方は大丈夫だと思うよ、うん」

 

 トレーナー室で上履きに履き替え申し訳なさそうに座っているシンザンの対面で、30分足らずの間で精魂尽き果てたトレーナーがデスクに突っ伏している。

 普段は何か問題が起きても冷静に考えて淡々と処理するような男がこうも取り乱す様を見て、彼がウマ娘の故障にどれだけ敏感になっているかをシンザンは初めて実感した。

 それでも1度は屈腱炎になったウマ娘にレースを全うさせた手腕は確かなものだと思うのだが、回復に腐心した期間とその後走れなくなったという事実はそれだけ辛いものだったのだろう。

 自分の方でも気を付けなければならないなと反省しているシンザンの前で、起き上がったトレーナーは壊れたシューズと蹄鉄を改めて検分する。

 

 「走ってる最中にシューズや蹄鉄が壊れる事はあるし、そういう場面を見たのは俺だって初めてじゃない。しかし・・・・・・」

 

 さっきまで自分が履いていた靴をまじまじと見つめられているシンザンがその手から靴をひったくってやろうかと考えつつある視線を受けながら、トレーナーは呻くように率直な感想を漏らした。

 

 

 「信じられない。こんな壊れ方は初めて見るぞ」

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 頑丈なものを選んだはずの蹄鉄は煎餅のように擦り減り、薄くなった真ん中で綺麗にへし折れている。

 シューズに至っては散々だった。

 ヒール部分には亀裂。最も動きが大きく負荷が掛かり、故に最も頑丈に作られているはずの部分が綺麗に引き裂かれている。軽く揺らすだけでぱかぱかと大口を開閉する腹話術の人形みたいになったシューズをシンザンに返し、呆れたように彼女に言う。

 

 「蹄鉄もシューズも痛み方が尋常じゃない。走ってる時の不具合も凄かっただろ。物持ちがいいタイプなのかもしれないけど、これはいくら何でも貧乏性ってもんだ」

 

 「・・・・・・・・・・・・」

 

 「この間出かけた時に買い込んでおいて正解だったな。これからシューズや蹄鉄は違和感が出たらすぐに交換するように─────」

 

 「これで最後」

 

 「え?」 

 

 「買ってもらったシューズも蹄鉄もこれが最後」

 

 信じがたい言葉を聞いた気がした。

 唖然とするトレーナーに対してシンザンはばつが悪そうに顔を逸らす。決して安くはない物の数々をすぐに消費してしまった申し訳無さか、彼女の説明にはいつもの飄々とした図太さはなかった。

 

 

 「()()()()()()()()()()()()。あたし昔からこうなんだよ。どんなに優しく使っても、すぐに靴がダメになるんだ。交換しようとは思うんだけど、その度に買い直すのもキツくて」

 

 

 あの数のシューズと蹄鉄が、ものの数ヶ月で駄目になる。

 俄には信じがたい弁明だったがトレーナーの脳内でその瞬間、全てが繋がった。

 あのスタートダッシュが答えだ。

 ──────()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 シューズが痛み方の割に汚れが少なかったのはそれだけ短い期間で寿命を迎えたからで、薄っぺらくなった蹄鉄はそれだけ交換をケチっていた証拠だろう。

 思い返してみれば出かけた時に服や化粧品を買い漁っていたのは、シューズや蹄鉄に財布を圧迫されていたからなのだ。

 蹄鉄やシューズは生徒自身で申請すれば経費で落ちる物品だが、彼女のペースでは不正利用の可能性有りと申請が通らなかったのだろう。

 親からの仕送りを含めてもカツカツだったのか。

 外見に無頓着なのではなく、金をそちらに回す余裕が無かっただけで。

 

 (となるとそうか・・・・・・。練習で走らないのもシューズと蹄鉄の摩耗を抑える為だったのか・・・・・・)

 

 「まあその、そういう訳でね? 断じて絵の話じゃないけどね。練習のメニューを軽ーく、軽ーくしてくれないかな? 特にラップ走をね、無くしてもらえたらなって。ホラあれ凄い走るから」

 

 (いやものぐさなだけだな・・・・・・)

 

 こんな状況なのに瞳に「あわよくば」が透けていた。靴が保たないという正当性に期待を込めてそわそわと尻尾を揺らしている。

 『練習そのものが面倒な訳ではない』とその口から聞いた覚えがあるのだが、果たして彼女の中で如何なる理屈が通っているのだろうか。

 それについても今後のために早いうちに解明しなければならないが─────

 

 それはもう少し後でいい。

 いま直ちに解決するべきは、彼女が十全にトレーニングするための環境を整える方法だ。

 

 

 「? トレーナーさ・・・・・・・・・、」

 

 黙り込んで反応が無くなったトレーナーの様子を伺おうとしたシンザンが、彼の顔を見て何かを察したように口を閉じる。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 恐らくは自分に発生したアクシデントを再発させないための、いま自分を取り巻く問題を解決するための方法を模索しているのだ。

 寿命の短いシューズに蹄鉄に金銭的な問題、それら全ての問題を最短で結ぶ()()を。

 こうなったらこちらも集中を削ぐような事はしないほうがいい。

 トレーナーの言葉を黙って待つ事およそ2分。

 茫洋とした目に意識が戻り、思考の海から帰還したトレーナーは開口一番にシンザンに言い放った。

 

 「よし。お前の下半身を調べさせてくれ」

 

 「なに言ってんだいド助平!!」

 

 「違うそういう意味じゃない」

 

 思わず自分の両脚を抱いて叫んだシンザンに突っ込みを入れる声はどこまでも平坦だった。

 お前の言い方が悪かったんちゃうんかと微妙に腑に落ちない思いを抱えることになった彼女に、そうじゃなくてさ、とトレーナーは改めて自分の考えを話し始める。

 

 「覚えてるか? ほら、初めて会った時にウチの家業のこと話しただろ」

 

 「? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()って話だろ。覚えてるけど・・・・・・」

 

 

 「そうだ。うちでお前(シンザン)専用の蹄鉄を作る」

 

 

 恐ろしく予想外の結論が出てきた。

 自分の足に合う蹄鉄を自分に合うように調整するのは当たり前の事だが、最初からそのウマ娘専用の蹄鉄をオーダーメイドする事例は未だ聞いたことがない。

 目を丸くしているシンザンの前で、トレーナーはさらに詳細な説明を続ける。

 

 「その為にお前の脚のサイズから筋力まで詳細な数字が欲しいんだ。だけどただ蹄鉄を改良すれば済む話じゃない。どんなに急いでも完成には1ヶ月、いや2ヶ月は掛かるだろう。

 だから今日のトレーニングは大事をとってここで終わらせて、身体に異常が無ければ明日ジムでデータを取りたい。いいか?」

 

 「う、うん。分かった。ちなみにその1、2ヶ月のトレーニングはどうすんの? まだ経費の申請が通るか分かんないし、靴と蹄鉄がないと・・・・・・」

 

 「やるとすれば水泳でスタミナを強化する位だな。筋トレについてはあまりサイズが変動すると試作品も作れないから、維持する程度に控えめに」

 

 「お、言ってみるもんだね。単純に水泳のメニューを増やすことになるのかな?」

 

 「明日までにメニューを作って渡すよ。俺も完成までそっちに付きっきりになるからシンザンには自主練してもらうようになる。難しい仕事を投げると親父と兄貴だけじゃ本業が回らなくなるからな」

 

 「・・・・・・それなら、自分で『今日は体調が悪いな』ってなった時は?」

 

 「休暇も自己判断に任せようじゃないか」

 

 「言ってみるもんだねえ!!」

 

 目を輝かせて尻尾を振るシンザン。

 この時点でもう真面目にやるかどうか怪しいのだが、如何なる意図があるのかトレーナーがそこについて言及する事はない。

 ただ一言だけ、彼女に次のレースに対する忠告するだけに留めた。

 

 「油断はするなよ。2ヶ月後のスプリングステークスは謂わば『皐月賞』前の腕試し、三冠を目指す強敵揃いだ。油断してると足元を掬われるぞ」

 

 「うんうん、分かってる。ちゃんとやるよ」

 

 その翌日、身体の異常は見られなかったシンザンは約束通りにトレーナーのデータ収集に付き合った。

 足のサイズや幅、(トモ)の太さや現時点での筋力に至るまで恐ろしく詳細なデータを収集されながら、シンザンはふと疑問に思う。

 

 ─────足のサイズは分かるけど、何で(トモ)のサイズや筋力まで調べられるんだろう?

 

 まあ自分が知らないだけで蹄鉄のオーダーメイドはそれだけ精密にやるものなんだろうと自分で納得し、メニューを渡されて解放されたシンザンはそのままプールへと移動。

 指示されたメニューを消化するべくしばし水中を泳いでいたが、見ている者も会話する者もいない。途中で張り合いが無くなってプールから上がる。

 練習内容の半分も終わらせない内に本日分のトレーニングを切り上げたシンザンは、せっかくなので学園外に遊びに行く事にした。

 百貨店や服飾店などをあれこれ物色し、今度トレーナーと遊びに出た時にねだるものを頭の中にメモしてから帰宅。

 

 ─────やっぱりねえ、持つべき物は身体を労ってくれる優しいトレーナーだよ。

 

 のんびりとベッドに寝転がりながら、彼女は同室のウメノチカラにそう語ってみせたという。

 シンザンには案の定『サボり癖』がついた。

 そんなある日。

 

 「おい。お前のトレーナーが理事長室に呼ばれたようだが、何か心当たりはないのか?」

 

 お前に関わる何かではないのかと、シンザンはウメノチカラからそんな報告を聞いた。

 

 

     ◆

 

 

 「よく来たね」

 

 座ってくれ、と。

 理事長室の扉を開けたトレーナーを迎えたのは、つば広の帽子と空色のタイトなドレスを纏った暗褐色の髪の女性。その(かたわ)らには同じように帽子を被り、歳を感じさせぬ程に矍鑠(かくしゃく)とした、金色のロケットペンダントを首に掛けた眉雪(びせつ)の女性が立っている。

 応接用のテーブルとソファに通されたトレーナーは、自分の芯の部分が石のように固まっていくのを感じていた。

 あまり良い話をされる予感がしない。

 呼び出された時から感じていた予感は今も段々と膨れ上がっている。

 トレセン学園で3番目に怖い女がコダマなら、1番目と2番目は目の前にいる彼女達だ。

 ドレスの女性は眉雪の女性がテーブルに置いたお茶に口を付けるよりも早く、まるで天気の話でもするかのように切り出した。

 

 

 「今日ここにキミを呼んだのはね。キミには彼女ではなく、他のウマ娘を担当してほしいからなんだ」

 

 

 トレセン学園理事長・秋川さつき。

 そして理事長秘書・日聖(ひじり)ミツヱ。

 敬意と共に恐れられる学園の統治者は、トレーナーが重ねてきたものを実にあっさりと崩しに来た。



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13話

 「・・・・・・どういう事ですか」

 

 「そのままの意味だよ。キミには今年から他の生徒の担当になってほしい」

 

 硬い声で聞き返したトレーナーに秋川さつきは感情の読めない微笑みを湛えたまま繰り返すように答え、さらにその続きを口にした。

 

 「理想としては入学してきた新入生達も交えたチームを組んで欲しいかな。キミの基準だと加入するための合格ラインはかなり高くなるだろうけど、その辺の裁量は全面的に任せたいと思う」

 

 「そうじゃありません。なぜシンザンとの契約を解除しなければならないのかを聞いているんです」

 

 「分不相応だからさ。キミの優秀さは僕もよく知るところだ。慢性的なトレーナー不足に悩まされているこの状況で、芽の出そうにない種に水や肥料を回す余裕はないからね」

 

 「ご自身がいま何を(おっしゃ)ったか自覚していますか? 学園の長の言葉にしては余りにも冷酷すぎる。トレーナーとして到底納得することは出来ません」

 

 「()()()()()()()()()()()()()使()()()()()

 

 秋川さつきはそう断言した。

 何らかの根拠と確信を持った者の静かで強い語気。

 押し黙ったトレーナーの前で出されたお茶にようやく口を付けた秋川さつきの口元には、もうさっきまでの微笑みは無かった。

 

 「『もはや戦後ではない』。高度経済成長を迎え消費意欲の高まったこの国では、それほど一般的ではなかったウマ娘のレースにも高い注目が集まっている。

 それを成した第一のスターがコダマだ。

 ウマ娘としての容姿と競技者としての『脚の速さ』、偶然にも特急電車と同じ名前という『運の良さ』により得た知名度、そして不振と故障を乗り越え勝利を飾った『強さ』で灯されたこの火を、僕は大火に至るまで(おこ)さなければならない。

 ()()()()()()()()()()()()()

 競走ウマ娘の世界を発展させて更に上へと押し上げるためには2人目の彼女が、大復興の象徴となる存在が必要なんだよ」

 

 「シンザンはそれ足り得ないと言うんですか」

 

 知らずトレーナーは身を乗り出していた。

 彼らは皆、担当したウマ娘が華々しい結果を残すことを願って彼女らを育て鍛える。そんな彼女らをたとえ直接的な言い回しでなくとも花開く器でないと言われて黙っていられようはずも無かった。

 

 「彼女のここまでの戦績を知らない訳ではないでしょう。デビュー戦含めて4連勝、それも最低でも2バ身離しての圧勝だ。同期の中でも特に優れた結果を出しているのに、何故そうまであなたは彼女を蔑ろにするんですか?」

 

 「勝てそうなレースを選んでいるだけでしょう」

 

 割って入ったのは日聖ミツヱだった。

 皺の刻まれた顔から覗く鋭い眼差しが、淡々と問い詰めるようにトレーナーに突き刺さる。

 

 「確かに数字を見れば優秀な成績と言えます。

 しかしその実情はどうですか?

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 もし違うというのであれば、なぜ朝日杯に彼女を出走させなかったのですか? 彼女は先に挙げた2人ですら成し得ていない3連勝を誇っていたというのに」

 

 「彼女が今後勝ち続けるために必要なものを手に入れさせる為です。彼女らと走れなかった憤りは確実に次のレースで発揮される」

 

 「その憤っているはずの彼女は随分のんびりと過ごしているようですが、貴方は彼女の側を離れて何をしているのですか? 自主練のメニューを渡していないなどという事はないでしょうが、今の彼女にレースを走るに足る心構えがあるのかは甚だ疑問と言う他ない」

 

 「彼女が抱えている問題を解決するために動いている所です。休んでいるという事は彼女自身がそれを必要としているからでしょう。ここまでのレースのスケジュールを考えれば何らおかしな事ではない」

 

 「だとしてもこれまでの練習の態度は? お世辞にも真面目とは言い難いだろう。怠け癖を指導され続けて尚あの調子では早晩埋もれて消えるのがオチだと思うけれど。

 (もっと)も、キミが今まで何の指導もせず好き放題させていただけというのであれば話は変わってくるけどね」

 

 「あれは生来の気質です。言って矯正するよりもそれに沿う形でトレーニングさせた方が効率がいい」

 

 2人の指摘はどれも当然のものだ。

 トレーナーとてシンザンの手抜き癖に向き合う方法は模索している最中だし、客観的に見れば彼女らの意見の方に分があるのだろう。

 しかしだからといってハイそうですね分かりましたと受け入れられる訳がない。

 これまでの努力や結果を今になって黙らせつつある言葉で否定されたトレーナーは、苛立ちも顕に眉を吊り上げる。

 

 「お二人がシンザンを認めようとしない理由は分かりました。しかし自分は彼女のそういった面を含めた上での計画を立てているんです。その道半ばで素質無しと断じられるのは横暴が過ぎる」

 

 「・・・・・・・・・、」

 

 「理事長の理念は分かります。優秀であるという評価はありがたいですが、自分はシンザンの担当を降りるつもりはありません。チーム結成の件も含めてお断りさせて─────」

 

 

 「ああ言えばこう言うね。キミは」

 

 

 凍てついた。

 目を細めて一言、ただそれだけで周囲の温度が氷点下まで冷え込んだような錯覚に陥る。

 吐き出す言葉は冷気の如く。脊髄に氷柱を突き立てられたトレーナーに、白い(もや)すら見えるような吐息と共に薄氷の下の本性を剥き出した。

 

 「これが思い付きの提案だとでも思うのかい? 1人のウマ娘からトレーナーを奪う選択を直近の印象だけで決定したとでも?随分とこちらを無礼(なめ)てくれるね。

 全生徒の日頃の授業態度やトレーニングへの姿勢、全て把握した上での話に決まっているだろう」

 

 「だとしても」

 

 「確かにキミは優秀だ。彼女には光るものがあるのかもしれない。しかしそれを自ら磨こうとしない者に差し伸べる手はこの学園には存在しないんだよ。

 努力なんて大前提、そうして磨かれた才能が激突し続けて最後に最も煌びやかな宝石が残る。ここはそういう場所だろう。

 ・・・・・・分かるかな? そもそもこちらは()()()()が拒否を許される程の軽い命令は下してないんだよ」

 

 「──────、」

 

 「まあ、とはいえこちらの言葉の選択が誤解を与えたのも事実。言い方を変えようか」

 

 極地のように冷たく、氷山のように重い言葉。

 淡々と列挙される厳然たる事実は口を挟む余地など1つも与えられる事はなかった。

 瞳に暗く冷たい光を灯して口元を扇で隠した秋川さつきはどこまでも感情を排した判断を下す。

 一大組織の長として目的の達成を成す為には、個人の思いは些事に過ぎぬと。

 

 

 「辞令を出そう。1週間以内にシンザンとの担当契約を解消し、その後に新たにチームを発足させる事を命じる。尚そのチームにシンザンを在籍させる事は認められないものする」

 

 

 バンッッッ!!!と硬いものを強く叩く音。

 秋川さつきの命令を聞いたトレーナーが、目の前のテーブルを両手で叩いて立ち上がったのだ。

 僅かに眉を上げる秋川さつき。

 圧し潰すような氷の意思に反抗したのは、誇りを持ってこの場所に心血を注ぐ者の熱だった。

 

 

 「─────外すのなら俺を殺してからにしろ」

 

 

 低く唸るように突っぱねた。

 対極の温度を持つ2人の意志が理事長室内で対流を起こしている。

 扱い難そうなこの駒を()()()()()()()と双眸を細めて思案する秋川さつきの前で、トレーナーは一歩も退かずに彼女を睨み付けた。

 しばし膠着する空気。

 そんな中で風向きをトレーナーの方へと誘導したのは、意外にも日聖ミツヱだった。

 

 「機会を与えてみてはいかがですか?」

 

 「と言うと?」

 

 「シンザンの姿勢に問題があるのは事実ですが、そんな彼女を曲がりなりにも4連勝させている彼の評価は高い。良い結果を出しているコンビを強引に解消させたとなれば他のトレーナーや生徒達の不信に繋がる可能性もあるでしょう。

 そして我々が下した決定に対して彼が勝ち星を盾にするのであれば─────、近く行われる大きなレースの結果で判断するのが妥当な折衷案かと」

 

 「・・・・・・成る程ね。黒星も合わせれば説得力は盤石になるし、結果を重んじる者同士それで決めた方が後腐れもない。それに僕の言う条件を満たすチームを結成させるには(いささ)か時期も早いから、機会を与える時間も丁度良くあるという訳だ」

 

 ふむ、と脳内の算盤を弾く秋川さつき。

 日聖ミツヱの案を採るかそれとも手っ取り早く処理するか、しばし合理と損得の勘定を計算して比較していた彼女は、宙を見ていた目をきょろりと眼前のトレーナーに向けた。

 

 「次のレースは決まっているのかな」

 

 「はい。3月の『スプリングステークス』です」

 

 「なら丁度いい。コダマを育てたキミの実績に免じて、こちらから少し歩み寄ろうじゃないか」

 

 閉じた扇で秋川さつきはトレーナーを指す。

 淡々と口からでる言葉はやはりさっきと同じように有無を言わさぬ冷たさと硬さだったが、トレーナーにとっては春と冬ほどの違いがあるものだった。

 

 「キミ達の処遇はそのレースの結果によって決めるものとする。そこで彼女が1着を獲ればキミと彼女のコンビは継続、そうならなければ僕の辞令に従ってもらおう。

 これが最大限の譲歩だ、これも拒否するというのであればこちらも粛々と強硬手段に移ろう」

 

 「(たが)えはありませんね?」

 

 「勿論。書面にでも起こそうか?」

 

 「いえ、結構です。貴女の言葉を信じましょう」

 

 「決まりだね。じゃあ話は終わりだ、戻っていいよ。・・・・・・誠実にいこうじゃないか。()()()()

 

 

 失礼します、と一礼して理事長室を出る。

 扉を閉めて2人の魔物が巣食う部屋から遠ざかることおよそ20歩と少し、トレーナーはぴたりと歩みを止める。緊張から解放された身体の機能が、ようやく自分の役割を思い出したのだ。

 

 「〜〜〜〜〜〜っ、ぶはっ!!! はっ、はァっ!」

 

 膝に手をついて必死に酸素を取り込むトレーナー。

 呼吸する事すら忘れていた。

 秋川さつきと日聖ミツヱ。2人と衝突する立場に立った時に感じる圧迫感たるや、終わってみるとよくぞここまで歯向かえたものだと自分の胆力を疑う。

 どんな才能と教育があればあんな氷山のような圧が出せるのか。『所詮は女と舐めてかかった横柄なスポンサーが(ことごと)く縮み上がって帰っていった』という逸話の真偽を実体験で証明してしまった。

 

 だが、自分はやり切った。

 譲れない一線は首の皮1枚で繋がったのだ。

 

 顔に張り付く冷や汗を拭い喘鳴を整える。

 勝てるだけの力が彼女にはある。ならば自分がやるべき事は、その力を可能な限り引き出す事だけ。

 ─────こんな道半ばで終わってたまるか。

 心を引き締めたトレーナーは、意地と矜持を胸に燃やして再び歩き出す。

 

 緊張からの解放感で意識に余裕が無かったからか。

 理事長室から出た瞬間、嗅いだ覚えのあるシャンプーの香りが鼻を(よぎ)った事に、トレーナーが気付く事はなかった。

 

 

 

 「あなたは優しいね」

 

 トレーナーが退室した後、秋川さつきは隣に立つ日聖ミツヱにそう言った。

 

 「我ながら目的以外が見えなくなりがちで困る。今でさえ氷の女と言われているのに、貴女がいなければ僕は今ごろ雪女とでも呼ばれているかもしれない」

 

 「差し出がましい真似だったでしょうか」

 

 「いや、助かったよ。僕にとっても彼にとってもベストの提案をしてくれたと思う。だけど、僕とあなたでは少しだけ考えにズレがあるようだ」

 

 日聖ミツヱの目をじっと見つめる秋川さつき。

 しかしそれは上司としての訓戒ではない。

 同じ視座に立つ者としての意見を述べ、また相手にもそれを求めるという議論に近しいものだった。

 

 「あなたがウマ娘とトレーナーの繋がりを尊重する理由は理解している。だけどもうあなたが経験した悲しい時代は終わったし、ご友人が味わった悲痛な別れももう無いんだ。

 追い風が吹く時代だからこそ僕たちに緩みは許されない。危機感と焦燥という、最も強く闘争心を駆り立てる感情を忘れさせてはならないんだよ」

 

 「負の要因が力を生むという主張に対しては議論の余地があるでしょう。しかし私は優しさから彼に機会を与える事を進言したのではありません」

 

 「つまり?」

 

 「憂いを晴らして勇気を与える。暗い時代にも光を灯す。たとえその結末が辛苦に満ちたものになろうとも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 貴女の理念と最後通牒を受けてなお噛み付いた彼の覚悟で、シンザンがそのように変わる可能性もあるいはゼロではないと考えたのです」

 

 「そうならなければ?」

 

 「あのトレーナーはシンザンには過ぎた導き手だった。それまでの話です」

 

 淡々とそう答えた日聖ミツヱに、秋川さつきはくつくつと喉を鳴らして笑う。

 合理的ではないだろうが、本当に優しさとは違う。ただ可能性としてあるかもしれない取りこぼしを拾っただけ。

 結局、考えの方向性は同じなのだ。

 それを改めて理解した秋川さつきは、扇を懐に仕舞いながら揶揄うように己の秘書に言う。

 

 「ミツヱさん。あなたも大概()()()(ひと)だ」

 

 「私も伊達に(しわ)を刻んでいませんよ。・・・・・・ともあれ、自覚するべきです。

 結果がものを言う世界においても、第三者はその過程も評価の対象にしているという事。

 相手が自分を尊重しているという事は、相手は自身を蔑ろにしているという事。

 そして、自分の自由の代償を背負うのが自分であるとは限らない事を」

 

 「? ・・・・・・さあ、懸案にも解決の目処が立ったし、仕事を片付けよう。そろそろ僕も一息入れる時間が欲しいからね」

 

 「かしこまりました」

 

 自分ではなくここにはいない誰かに言い聞かせるような日聖ミツヱの言葉をひとまず流し、秋川さつきは仕事に戻る。

 ─────盗み聞きしたのはただの好奇心だった。

 理事長室の出入り口、両開きの扉の出口側。

 トレーナーが押し開けた扉の影に隠れるように縮こまったシンザンが、耳を伏せて俯いていた。

 

 

     ◆

 

 

 「シンザン。俺にも仕事というものがあってな」

 

 「いいじゃん。担当ウマ娘のコンディションの管理も仕事の内って前に言ってただろ」

 

 「同じ時に『お出かけに仕事を持ち込むな』ってお前に言われた覚えがあるんだが」

 

 「それはそれ。これはこれ」

 

 「あ、はい」

 

 『気分転換したいから散歩に付き合え』。

 唐突にそう言われてトレーナー室から引き摺り出されたトレーナーは、シンザンと2人並んで河川敷の道を歩いていた。

 ・・・・・・が、駆り出されて以降会話がない。

 てっきり前回のように無限のホスピタリティ精神を要求してくるものと考えていたのだが、今回はいやに静かというか何というか。

 しおらしい。

 そうだ、()()()()()()()

 いつもより耳が倒れており、何かを言い淀むように頭を動かしている。

 

 (何か相談したい事があるのか・・・・・・?)

 

 少しずつそんな疑念が鎌首をもたげてくる。

 彼女が腹を括って言い出すのを待つべきかそれとも自分から聞いてみるべきか、逡巡している内に先に口を開いたのはシンザンの方だった。

 

 「トレーナーさんはさ。後悔とかしたりする?」

 

 「後悔?」

 

 「そのー、さ。ああしとけば良かったとか、こうするんじゃ無かったとか、そういう。小さいのじゃなくて、そこそこ大きめのやつ」

 

 「そんなのは多かれ少なかれ誰でも抱えてるものだと思うけど、本当にどうしたんだ? 俺の勘だけど、お前が聞きたいことってもっと具体的な、『何を後悔してるか』って話じゃないか?」

 

 シンザンの言葉が僅かに止まる。

 伏せられた目線がトレーナーの目と合わさる事はない。少しの沈黙が流れた後、彼女の口から出てきた言葉にトレーナーは思わず息を呑んでいた。

 

 

 「・・・・・・あたしを担当にした事、後悔してる?」

 

 

 余りにも。余りにも()()()()()言葉。

 自分に対して絶対の自信と価値を自負する彼女らしからぬ弱気な問いかけに、トレーナーは肯定と否定の選択肢が頭から消えた。

 

 「・・・・・・本当にどうしたんだ。急に」

 

 「()()()()()()()()()()()()()んだけどね。自分を尊重してくれる人は自身をほったらかしにしてるとか色々聞いちゃって。それにトレーナーさん自身も、えーと、あたしが真面目じゃないせいであれこれ言われてるみたいだしさ。

 ()()()()()()()()()()()、偉い人がトレーナーさんとあたしの契約を解消させようとしてるなんて話も耳に入ってきちゃったし」 

 

 「・・・・・・・・・・・・、」

 

 「ウメからも散々言われた事だけどさ。今のあたしって、あんたの優しさでレースに出れてるようなもんなんだよね。あたし自身がどうにもならない所をあんたは受け入れてくれてるけど、周りはそうじゃないんだよ。

 あんたにしたって、あたしがもっと真面目に練習してくれたらとは間違いなく思ってるだろうしさ」

 

 そう言ってシンザンはトレーナーの目を見た。

 いつかトレーナーが飲み込まれそうになった彼女の瞳に宿る光が、今は不安げに揺れている。

 きっと否定してくれると信じていて、だけどどこかで疑ってしまっていて。これからもこの人に頼って許されるのか悩んでいるその姿は、ちゃんと年相応の少女に見えた。

 

 

 

 「トレーナーさん。もっと手の掛からない真面目なウマ娘を捕まえれば良かったって、そう思った事はないって心から言い切れる?」

 

 「まあマジで手が掛かるなコイツとは思ってる」

 

 「オイ」

 

 想像以上に直で返ってきた。

 余りにも悪びれる様子のないトレーナーの態度にビックリするほど低い声が出たシンザンを他所に、トレーナーは『何だそんな事か』と安心すらしていそうな顔をしていた。

 

 「前も言ったかどうかは忘れたけど、気性はウマ娘それぞれだ。確かに真面目な子ならトレーニングはやりやすいけど、気難しい子だって方向性を噛み合わせれば爆発的に伸びるんだ。一概にどれが優れてるなんて結論は出ないよ」

 

 「そりゃ手抜き癖のあたしにも当てはまるのかい?」

 

 「事実として今まで勝ってきてるだろ? そしてこれから先もずっと勝たせ続けてみせる。お前とならそれが出来ると思ってるし、その確信はお前の走りを見た時から今までずっと変わらない」

 

 いつになく小さくなっている彼女の背中を、トレーナーの手のひらが強めに叩く。

 いかにも男らしい粗雑な励ましだが、そこから伝わる力は何よりの説得力として働きかけるだろう。

 この人になら寄りかかっても大丈夫だという、何より原始的な安心感として。

 

 「揺らぐな、シンザン。自分の強さと価値をあそこまで強く信じられるのなら、俺の事くらい同じだけ信じてみせろ」

 

 シンザンは少しだけ目を丸くしてトレーナーを見て、ぷいと顔を逸らした。

 言葉に対する返答はない。

 まさか何か言葉を間違えてしまったのかとトレーナーが不安になり始めたそんな時、どむんっ、と身体の横から衝撃。

 いつかと同じ展開だった。

 また何故か横から身体をぶつけてきたシンザンに、説明を求めるようにトレーナーは話しかける。

 

 「あの、シンザン? 今度は何だ?」

 

 「ん?」

 

 もう一回。どむんっ。

 軽くぶつかってくるだけでも、ウマ娘の膂力の前にトレーナーは簡単にたたらを踏んだ。

 

 「ちょ、シンザン強い。前回よりも力が強い」

 

 「んん?」

 

 もう1回、もう1回。

 立て続けに弾かれるトレーナーがどんどん道の脇へと追いやられていく。

 

 「シンザンさーん?? シンザン様ー???」

 

 「んー? ふふ、ふふふっ」

 

 行動の理由は相変わらず明かさないままだった。

 何かの気が収まるまで彼女はトレーナーに身体ごとぶつかり続け、最終的にトレーナーは河川敷から転がり落ちた。

 ひどく腑に落ちない表情で草の生えた斜面にひっくり返っているトレーナーを、シンザンはしゃがんで見下ろしている。

 気弱な姿はどこにもない。

 瞳と表情に決して揺れない自信を宿した、いつも通りの彼女の姿だった。

 

 「もう大丈夫。心配いらないよ」

 

 ありがとね、と。

 憂いは晴れた。光は灯った。

 ならば、後は走るだけ。

 ニコニコと笑う彼女に、トレーナーは草まみれで転がったまま親指を立てて返事をした。

 

 

 

 そして2ヶ月後、その時は来た。

 

 3月29日『スプリングステークス』。

 

 彼女たちの命運が懸かった、未来を決める大一番。

 

 シンザンにとって初めての重賞で、そして彼女とウメノチカラが初めて激突するレースだった。



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14話

     ◆

 

 

 3月29日、東京レース場。バ場状態は良。

 晴れ渡る空の下に押しかけた大勢の観客達の騒めきが春風に乗って流れていく。

 今日のスプリングステークスは4月に開催される八大競走『皐月賞』に挑む前の腕試し、つまりウマ娘たちが世代の主役に名乗りを上げるレースだ。これから本格的なクラシック級で走る彼女たちを応援するファンの注目度も高い。

 出走するウマ娘達が三々五々にストレッチをしているパドックの周囲に集った観客達は、銘々に誰が勝利を掴むかの話で盛り上がっている。

 

 「やあ。お前は誰が勝つと思う?」

 

 「そりゃやっぱりブルタカチホさ。メイクデビューから3連勝、弥生賞じゃ2着だけどアタマ差だ。練習内容も好調って話だし、今回は彼女で決まりだよ」

 

 「俺はウメノチカラだと思うな。順位の浮き沈みは激しいけど朝日杯での走りは本物だよ。あの負けん気は絶対に一着を獲ってくれるさ」

 

 「私なんかはトキノパレード辺りが─────」

 

 ああでもないこうでもないと各々の知識と勘で誰が勝者となるのかを議論する観客達。これから始まる勝負への期待と興奮か、彼らの声はどこか陽気に弾んでいるようだった。

 大勢に推されているファン人気の高いウマ娘は大勢の口からその名前が出てくるし、そうなれば必然その声はパドックのウマ娘に届く。

 自分を応援してくれている人がいる。その実感はウマ娘にとって最大の力になる。

 どこかから自分の名前が聞こえてきてひっそりと笑みを深める者もいれば、応援してくれたのが誰かが分かればそちらに笑顔で手を振る者もいた。

 観客の側にもこういう小さな触れ合いからファンと呼べる程レースに入れ込む者も多数存在するのだが、同時刻、学園で紅茶を啜っている彼女は、少なくとも今はその情緒からは切り離されていた。

 

 「流石にスプリングステークス。皆いい表情をしているね」

 

 画面越しだとよく分からないけど、と。

 最適な温度で淹れられた茶葉の香りを楽しみながら、秋川さつきはテレビの前に座っていた。

 

 「連勝中だけにシンザンもクラシック級の注目株ではあるけど、彼女以上に調子を上げている実力者は何人もいるし、まあ彼との賭けは僕の勝ちだろう。

 あの後も彼女はろくにトレーニングをしなかったようだしね」

 

 「初めての重賞レースというのも少なからずメンタルに影響を与えそうです。参考までに貴女の見立てでは誰が1着になると思いますか?」

 

 「ウメノチカラかな」

 

 斜め後ろに控えている日聖ミツヱの問いかけに、秋川さつきは少しの間も置かずに即答した。

 

 「彼女はメイクデビュー後のジュニア級特別で、シンザンへの対抗心が空回りして11着と大敗した。

 その後のオープン戦と朝日杯で勝利した後は弥生賞で8着と凡走。

 つまり彼女は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そして前走のオープン戦ではキッチリと1位を獲り、コンディションを最高の状態に持っていっている。かなりの好走が期待できるね」

 

 「成る程、理解しました。しかしその理由にはかなり好意的な解釈が含まれているような気もしますが」

 

 「否定は出来ないけれどそうするだけの信頼はあるよ。彼女は実直だ、経験した全てを吸収しようという姿勢がある。彼女のトレーナーも彼女の負けん気をよく理解して教導しているしね」

 

 そう言って紅茶を口に含む。

 彼女の言葉に納得した様子の日聖ミツヱを振り返りながら見上げつつ、好奇心を胸に芽生えさせた秋川さつきは逆に彼女に問いかけた。

 

 「あなたの予想も聞きたいな。全く違う視点や判断基準を持つあなたなら、僕の予想とはまた違った結論に至るだろう。あなたは誰が勝つと思う?」

 

 四角い画面の向こうでは出走者たちが入れ替わり立ち替わりパドックに立ち、今日の意気込みとコンディションを立ち振る舞いで表している。

 彼女の目に映ったのはその中の1人だった。

 パドックに現れてお決まりの動作をして、そしてパドックを去っていく、何の変哲もないウマ娘。

 その後パドックに現れた何人かを見てしばし黙考した後、日聖ミツヱは静かに口を開いた。

 

 「私は──────」

 

 

     ◆

 

 

 「ねえ。『シンザン』って君だよね」

 

 シンザンがパドックの裏に控えて自分の順番を待っていた時、不意にそう話しかけられた。

 何の用だろうとそちらを見れば、そこにいたのは顔見せを終えて戻ってきた黒鹿毛のウマ娘。枠番で言えばシンザンより1つ前に位置している彼女は、シンザンに気さくに笑いかけてきた。

 

 「話すのは初めてだね。アナウンサーも言ってたけど、私、ヤマニンスーパー。よろしく」

 

 「ん、よろしく。急にどうしたんだい?」

 

 「いやさ、お互い人気が低いから少し親近感湧いちゃってさ。君はここまでの戦績もいいみたいだから、この人気についてはどう思ってるのかなって」

 

 「うーん。確かに今までは1番人気とか2番人気になってたけど、特に何も思わないねえ。どうせ最後にはあたしが1番だって気付くんだし」

 

 「あははっ、強いね君! まあそういう私は『そうでもない』んだけどさ。ここまでの戦績も特筆するようなものは無いし、特段トレーニングの調子が良かった訳でもないから。だから8番人気って結果は妥当ではあるんだけどさ」

 

 あはは、と軽く笑うヤマニンスーパー。

 自分の立ち位置を諧謔的に話してみせる彼女に対して、結局何が言いたいんだろうと疑問に思い始めた時、彼女は糸のように細く目を開いた。

 

 

 「腹が立つよね。どいつもこいつも」

 

 

 形だけは笑みに似る。

 しかしその表情に明るいものはない。

 薄く吐くように滑り出てきた言葉は、春の陽気を掻き消すような寒気に満ちていた。

 

 「誰も私の名前を呼ばない。名前が出たと思えば『厳しそう』とか『勝てないだろう』とかさ。私の何を知ってるんだろうね? それを決めるのは他人じゃなくて私だっていうのに」

 

 笑わない笑みのまま彼女は肩を竦めた。

 動作の雰囲気の軽さに反して彼女の腹には黒いものが燃えている。フレンドリーな初会から直滑降するような急激な落差に軽く仰け反るシンザンだが、ヤマニンスーパーにそれを気にした様子は無い。

 

 「最後に結果で分からせればいいっていうのは心底同意だよ。人気の序列は絶対じゃない、他人が決めたただの数字。私は私より上にいる奴を、皆から望まれてる奴を全員食ってやるつもりでいるからさ。もちろん君も含めてね」

 

 単にパドックの順番が自分の次だったからなのか、あるいは勝つのは自分だという平然とした自意識を感じ取ったのか。

 自分より人気のあるウマ娘も多くいる中で彼女が何故それをシンザンに言ったのかは分からないが、皐月賞を見据えて意気込む面々の中でただ1人平静な顔をしていたのが逆に目立っていたのかもしれない。

 言いたいことを全て言い切ったヤマニンスーパーは、歩き去るすれ違いざまにシンザンの肩をポンと叩いた。

 

 「お互い頑張ろ。以上。宣戦布告でした」

 

 

 

 「・・・・・・ふへえ」

 

 解放されたシンザンの口から無意味な息が漏れる。

 メイクデビュー後にウメノチカラに迫られた時とは違う、怒りではなく憎しみに近しい感情の矢印。

 ふと感覚に違和感を覚えて自分の腕を見る。

 皮膚が粟立っていた。

 ヤマニンスーパーに()()()()()のだと気付く。

 

 (ああ。トレーナーさんが言ってたのはこれかい)

 

 腕を摩って鳥肌を消しながらそう思う。

 勝利への執念。格上を殺し得る刃。

 あれを自分に手に入れさせる為にトレーナーは腐心しているのだ。

 向けられた(きっさき)、その鋭さは、掴めたはずの頂点を見送る事になった自分の鬱憤とどちらが上か。

 彼女の牙は言葉通りに自分を食らう力を持っているのだろうか──────

 

 

 「うん。どうという事はないかな」

 

 

 『続いて3枠3番、シンザン。6番人気です』

 

 彼女の炎に確かに波立たされた自分の心にその答えを求めたシンザンは、ただ一言だけ結論を残してパドックへと歩みを進める。

 『連勝はここで止まる』。『この面子に休み明けで勝つのは不可能だ』。漏れ聞こえてくるそんな声。

 誰も自分の勝利を想像していない。

 初めての東京レース場。初めての重賞。

 緊張は、無かった。

 

 

 「パドックじゃ驚きましたよ」

 

 パドックでの紹介を見届け、観客席の最前列でレースの開始を待っているトレーナーの横で、一眼レフのシャッターを鳴らしながら沢樫(さわがし)静夫(しずお)が問いかける。

 

 「初めてのレース場に初めての重賞だというのに、まるで(ヌシ)のような落ち着きっぷりだ。トレーナーの目線から彼女の調子は如何(いかが)です?」

 

 「いつも通りですよ。場所や状況に左右されないメンタルの太さは彼女の強力な長所です」

 

 「成る程、環境の変化に敏感なウマ娘にとってその強みは大きいですな。・・・・・・しかし、今日という日に『いつも通り』というのは大丈夫なんですかい?」

 

 含みを持った言い回しをした沢樫の口調は厳しい。

 記者として長年レースに関わってきた彼の知識と分析力は、シンザンが苦境に立たされていることを誰に聞かずとも理解しているのだ。

 自分が分かっているのならお前も分かっているはずだろうと言わんばかりに、それに対する答えを求めるように沢樫は言葉を続けた。

 

 「このレースは謂わば皐月賞の前哨戦、強力なライバル達もコンディションを上げて挑んでくる。トレーニングもほぼやらず前走からの2ヶ月間の殆どを休養に充てたのであれば、シンザンさんは最低でも絶好調でなければならない。

 それにその筋の噂によれば・・・・・・何でも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 「・・・・・・あなたの耳の良さの詳細には触れないとして、休ませてばかりだった訳ではありませんよ。

 それにシンザンは特殊なタイプだ。必ずしも追い切りを必要とせず、自分自身のペースを保つ事でコンディションを維持するんです」

 

 話を聞きながら手帳にメモを走らせる沢樫。

 トレーナーはただ真っ直ぐにゲートに収まっていく出走者たちを見つめていた。

 知らず知らず握り締めた拳。

 緊張に少しだけ震えた声は、この喧騒の中では流石にウマ娘の耳にも届かない。

 ただ彼は自分に言い聞かせるように、殊更に強く言い切った。

 

 「状態は最高。ならば勝ち切れる。・・・・・・自分はそう信じています」

 

 

 「シンザン」

 

 ゲート入り直前、ウメノチカラに声を掛けられた。

 真正面に立ち塞がって腕組みをし、闘志の炎を瞳に滾らせている。

 眉間の皺や引き結ばれた唇、険しい表情と相まってさながら仁王像の風情だった。

 ブルタカチホに続く2番人気という本命に推されている彼女は、ここに来てもまだ平然とした顔をしているシンザンを射殺す強さで睨む。

 

 「お前のメイクデビューからずっとこの時を待ち焦がれた。お前に勝ちを譲られたことを知った屈辱、今まで忘れたことはない」

 

 「あたしもさ。朝日杯を見送った時から、あんた達に勝ちたくてしょうがなかった。だけどどうかね。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 「言われずとも分かっている。私は実力者たち全員を相手に1着を獲るために鍛えてきた。

 私の復讐とはその結果として付随するものに過ぎないが、そこには何よりの意義がある」

 

 そう言ってウメノチカラは目線を切る。

 突き付けられた言葉は過去に地下道で口にしたものと同じだが、込められた熱量に一切の衰えはない。

 ゲートに向かう彼女の背中には、確かに執念の鬼が見えた。

 

 「手を抜く余裕は与えない───お前を負かすぞ。宣言通りに」

 

 

 『全ての出走者がゲートに収まりました。第13回スプリングステークス、いよいよ始まりの時が迫っております』

 

 ちらりと隣を見る。

 ヤマニンスーパーが静かにその瞬間を待っていた。

 逆側を見る。

 一つ飛ばした隣の隣には気迫を放つウメノチカラ、その向こう側の観客席に自分のトレーナーが見えた。

 表情が固い。

 彼は理事長との賭けをシンザンに打ち明けてはいないが、シンザンがそれを盗み聞きしていた事を知らない。彼女のペースに不安要素を入れないための配慮なのだろうが、シンザンとしては要らぬ心配だった。

 何故なら自分の不安など、あの日の河川敷で全て取り払われてしまっているのだから。

 シンザンは小さく笑みを浮かべて正面に向き直り、そして感情の波と表情が消える。

 いつもの集中、極限のコンセントレーション。

 違う事と言えば、意識をレースに向ける直前に少しだけ独り言を呟いた事くらい。

 

 

 「楽に待ってなよ。いつもみたいに勝つからさ」

 

 

 『スタートです! 各ウマ娘一斉に走り出しました、シンザン非常に良い走り出し!! 早くも先団の好位置に取りついた!!』



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15話

 歓声と共にレースは始まった。

 一斉にゲートから弾き出されたウマ娘達がターフに無数の跡を刻んでいくが、この時早くも予期せぬアクシデントが発生していた。

 タイミングの違いはあれど皆が淀みなく走り出す中で、1人のウマ娘がゲートから出た瞬間にもつれるようによろめいた。

 

 「きゃ・・・・・・っ!?」

 

 『おっと4番人気トキノパレード少し出遅れた、やや後方からのレースであります! 気負いのせいか否か全体的にバラついたスタートですがハナを奪ったのはブルタカチホ! 先頭を軽快に飛ばしていく!』

 

 これはついている。

 実況を聞いたブルタカチホは心の中でガッツポーズをした。

 スタートが遅れれば集団に追い付くまでにより体力を消耗し、そこから良いポジションを確保するのも難しくなる。

 更に全体的にスタートがバラついていた────出遅れが多発していたという事は、それだけ多くのウマ娘から精神的なゆとりが削がれていたと考えていい。

 だからブルタカチホは咄嗟に逃げを打ったのだ。

 出遅れた者たちで後方のポジション争いは激化するだろう。そんな中で序盤から先頭を飛ばしていく者を見れば、彼女らはより焦って脚を消耗してくれるかもしれない。大切なレースの初手で躓くというミスの大きさを考えれば充分に期待していいレベルだ。

 ただし、そのまま他のメンバーを振り捨ててゴールという青写真を描くにはまだ早い。

 チラリと後ろを振り返れば、出遅れなかった者たちの視線がしっかりと自分に突き刺さっている。

 2番人気のウメノチカラや3番人気のアスカなど安定した実力者たちがしっかりと追走してきている中で、彼女の目には1人の鹿毛のウマ娘が異質に映っていた。

 

 (シンザン。やはり油断出来ませんね)

 

 話に聞くだけで実際に見るのは初めてだったが、同じ出走者として見る彼女のスタートの上手さは凄まじいものだった。

 トレーナーや先輩の話によれば、スタートが上手いウマ娘とは()()()()()ウマ娘であるらしい。

 闘争心に逸り過ぎても体勢が整わない。

 かといって呑気なだけでは反応が遅れる。

 閉所への苦手意識と勝負に対する闘争心、2つの本能を上手く制御して集中力を保てるウマ娘がゲートに、ひいてはレースに強いのだという。

 その観点から見ればシンザンは抜群に強い。

 パドックでの落ち着きっぷりからのこのスタートは、彼女が泰然と構えつつも高い闘争心を保っている証拠。

 故に彼女は冷静に考えているはずだ。

 自分がどこをどう通ってどのタイミングで脚を使うべきか、自分が勝つための道筋を。

 

 他に目立った強者がいなかったとはいえ4連勝を記録しているシンザンのフィジカルに、朝日杯で大外枠というハンデを背負いながらも1番人気のカネケヤキを退け勝利したウメノチカラの末脚。

 あとは阪神ジュニア級(ステークス)2着の実力者アスカ、他も油断はならないが目下の脅威はこの3つ。

 序盤にスタートに失敗した者たちも、遅れを取り戻すためにペースを上げてきた。

 

 「あーもう最悪、サイアクッ!」

 

 「待てこらぁっ!!」

 

 叫んだのはジュセンとアイエルオー。

 その他の後発組も得意のポジションに着こうと続々と先行したウマ娘たちに追い付いてきた。

 ブルタカチホと2番手との差も縮まってきたが、今のまま逃げに固執する必要はない。

 ポジショニングにさえ気をつけていれば、この段階で抜かしてくれても大いに結構。背後の様子を確認した彼女は少しずつ脚色を緩めていく。

 良い位置と順位を保てている以上、脚を残しておくためにはここで余計な力を使う訳にはいかなかった。

 

 

 「皆焦ってますな。流石に『皐月賞』のトライアルレース、実力者揃いながら気負っている子が多い。これは荒れそうだ」

 

 「その点は安心して見ていられますよ。シンザンにはプレッシャーを受け止める大きな度量がある。少なくとも自分の走りを乱される事はないでしょう」

 

 バラついたスタートを見て難しい声を出した沢樫とトレーナーはそんな会話をしていた。

 第2コーナーを過ぎた直線でペースを上げ先頭に立った栗毛のウマ娘を見て、トレーナーも同じくらい難しい声色で状況を分析する。

 

 「とはいえ油断は出来ません。いま先頭の彼女・・・・・・ブルタカチホは実にクレバーにレースを進めていますよ。さすが弥生賞でほぼ同着1位なだけはある。彼女は今、後ろを確認して作戦を逃げに変えた」

 

 「ああ、彼女には取材しましたよ。用心深く殆ど答えてはもらえませんでしたが、相当作戦を練っているようですな。果たしてあのまま逃げ切りを狙っているのかどうかも・・・・・・」

 

 『後方のウマ娘達がペースを上げ中段が詰まって参りました! 現在先頭はブルタカチホ、2バ身開いて2番手はアスカ! ほぼ横に並んでウメノチカラとホマレライサン、5番手シンザンここにいた!

 ヤマニンシロと入れ替わって6番手はアカネオーザ─────』

 

 「そろそろですな」

 

 ウマ娘達の順位を実況が振り返っていく中で、2人は彼女らが駆けていくコースの先を見ている。

 そこにあるのは芝の坂道。

 どこのレース場にもあるコースの起伏だが、ここ東京レース場の坂道はかなり厳しい作りになっている。

 走ることそれ自体を否定するような2つの障害だ。

 

 「ええ。東京レース場の最初の洗礼です」

 

 今日という日を見据えて作戦を立てたウマ娘は、この坂道の攻略に随分と頭を悩ませただろう。

 そう頷いたトレーナーの視線の先で、ウマ娘たちの前に1つ目の難関が聳え立っていた。

 

 『さあ向正面第3コーナー手前、各ウマ娘たちが最初の坂に差し掛かりました!』

 

 「ふっ・・・・・・!」

 

 鋭い呼気と共にウメノチカラは坂道での最初の一歩を踏み込んだ。

 歩幅は小さくして脚の回転を上げる。

 『ピッチ走法』という加速力に優れ上り坂でも速度を落とさない走り方なのだが、脚を多く動かすぶん体力の消耗が大きい。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 下りなら楽というのは嘘だ。脚にかかる体重の負担は上りを上回る。

 ここをどう攻略するかはそのまま勝敗に影響するだろう。何せ越えなくてはならない上り坂は、これ1つきりではないのだから。

 

 (いかんな。意識し過ぎている)

 

 後ろを振り返っていたウメノチカラは視線を戻して自省した。

 見るべき後続の様子よりも先にシンザンの位置を確認してしまったからだ。

 後続はペースを上げて追いつこうとしている。

 ハナを進むブルタカチホも流石にこの坂で脚を緩めており、結果として自分との差は縮まっていた。

 全体的にバ群が固まってきている。このままいけばコーナーでバ群が団子状態になるかもしれない。

 

 (となれば今の好位置はキープしておきたい)

 

 東京レース場の直線は長く幅も広い。上手く外に持ち出す事が出来れば開けたコースを憂いなく走れる。

 坂を登り切り第3コーナーに入る下り坂に入ったウメノチカラは後続の様子を確認しつつ内側へと舵を切り、最も距離を節約できる経済コースに近い場所を抑え気味に走る。

 前との差を詰めつつポジションを維持するために速度を緩めず坂を登った分の体力消費をここで賄おうという狙いだ。

 他の者も坂道でスピードダウンするため、抑えてスタミナを節約する余裕はある。

 ─────このコーナーは距離と体力を節約し、第4コーナー終わりから外に持ち出して仕掛ける。

 ここまではまずまずの調子でレースを進めている。余程のアクシデントが無ければ良い形でラストスパートに入れるだろう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 自分の後方、実況によれば5番手を追走しているらしい鹿毛のウマ娘が、自分の中でジワジワと存在感を増していくようだった。

 

 芝1,800メートル、残す距離はあと三分の一。

 八大競走に向けたマイル戦は一気に加速する。

 

 『第4コーナーを回って直線に入りました! 先頭は依然ブルタカチホ! アスカが徐々に進出を開始、ウメノチカラは外を回る! 東京レース場最大の関門に向けて各ウマ娘一斉にスパートをかけました!!』

 

 いよいよ勝負所が近い。

 坂を上り下りしつつ1,400メートルを駆け抜けた脚に襲いかかるのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 これが最後の、そして最大の難所。

 ただ一周するだけでも急な坂道を2度も越えなければならない、何よりもタフネスを要求されるのがこの東京レース場なのだ。

 脚の具合はどうだ。体力はどうか。

 今の状態で前を抜けるか?

 そう己に問いかけて、そして答えは瞬時に返る。

 

 問題ない。行ってみせると。

 

 「貰うぞ、一着・・・・・・!!」

 

 「行かせない!!」

 

 ウメノチカラとアスカ、好位置で脚を溜めていた2人が一気に速度を上げる。

 標的は未だ先頭のブルタカチホ。

 仕掛けたウメノチカラに呼応して加速したアスカに追い立てられるように彼女も速度を上げた。

 目指す先は500メートル先のゴール板、その手前に立ちはだかる急坂の関門。

 相手に先んじる事を目標とするレースにおいてもそこを通る瞬間だけは自分との戦いになるだろう。

 いよいよ来たる試練に向けて、彼女たちは己の脚と心臓を破裂させる覚悟を決める。

 脇目は振らない。

 ただ前だけを見て彼女らは走る。

 ブルタカチホやウメノチカラがそれに気付いたのは、猛烈な勢いで迫ってくる足音が聞こえたからだ。

 

 

 

 『いいか。このレース場には難所が2つある。第3コーナー前の上り下りと、ラスト400メートルから始まる上り坂だ』

 

 『どちらも2メートルの高低差がある急坂だ、普通に駆け上がるのは難しい。ピッチ走法を使って上るのが無難だな。

 学園内に東京レース場を再現したコースがあるから、邪魔にならないよう人が少なくなった時間にコースを歩くなりして走りのイメージを固めるといい。蹄鉄無しに走るのは危険だぞ』

 

 『がっつりスタミナを持っていかれる関門が2ヶ所もある以上、どこを走るかは体力の残り方に大きく関わってくる。それを理解して気をつけて走っても大概のウマ娘はこの最後の上り坂で一杯になるんだ。

 だから注意すべきは「位置取り」と「ルート選択」。全員が同じようにロスを減らそうとする中で最善を勝ち取り続けるのは難しいだろうけど・・・・・・』

 

 『そこを誤らなければ、最終直線─────お前のスタミナと足腰でブチ抜けるはずだ』

 

 

 2ヶ月前、そんなアドバイスと共に「どれだけ役に立つかは分からないけれど」と手渡された資料の分厚さには驚いたものだった。

 まずは直線やコーナーの長さ、勾配の長さや角度などが詳細に記された東京レース場の図解に書き込まれたどう上ってどう曲がるかの注釈の群れ。

 加えて出走者全員の現時点での走り方や特徴から導き出したいくつものレースの展開予想と、それに合わせたいくつもの自分のレースプランなどなど。

 トレーニングを手放さねばならない程の案件に手をつけていながらこれだけの情報を纏めるのにどれだけの労力と負担があったのか、自分が想像できる日は来ないのかもしれない。

 

 ならば報いなければならない。

 他の何より勝利を望む彼に応えねばならない。

 しかしそれにもう1つ。勝利を勝ち取るモチベーションに、恩義に負けない位に燃える想いを付け加えるとするのなら。

 

 「手前(てめえ)(めくら)を教えてやるよ」

 

 

 憎い(かたき)を踏み潰すように。

 蹄鉄を噛ませた芝の道を、シンザンは全力で後ろへと蹴り飛ばした。

 

 

 残り400メートル地点を通過、いよいよ最後の上り坂。肩を併せてブルタカチホに迫っていたウメノチカラとアスカの横を、鹿毛のウマ娘が抜き去った。

 大きな足音だ。それに見合う大きな加速だ。

 目を見開いた2人を一顧だにせず彼女は背中を着実に遠ざからせていく。

 外から見ていた観客達も驚愕するような末脚、その主の名は実況の口から飛び出してきた。

 

 ただし。

 実況が叫んだ名前は、ウメノチカラ達の目を見開かせたのは、彼女1人だけではない。

 

 

 「ねえ。私の名前忘れてたでしょ」

 

 

 特定の誰かに向けたものではないのだろう。

 しかしその一言は、一塊になって響き渡る足音の中でも静かに耳に滑り込んできた。

 

 『ここで来た、ここでシンザン上がって参りました! ウメノチカラとアスカを交わして6番人気シンザンは現在2番手!!

 そしてその後ろをヤマニンスーパー追走!!

 ()()()()()()()()()()!!!

 飛び出した2人が東京レース場の上り坂を力強く駆け上がっていきます!!』

 

 

 ─────言ったはずだよ、全員食うって。

 レース前の言葉を実現するかのように。

 静かに牙を研いでいた伏兵が、今こそ大物喰らいを成し遂げんと反骨精神の(こうべ)を上げた。



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16話

 「ヤマニンスーパー!? 8番人気の娘か!?」

 

 「凄い走りだ、これはもしかするぞ!」

 

 「だけど見ろ、シンザンだ! それでも────先頭に立ったのはシンザンだ!!」

 

 登り坂に入ると同時に、ハナを進んでいたブルタカチホをシンザンが交わす。

 歩幅を狭めて足の回転を速く。登り坂で速度を落とさないために誰もが使うピッチ走のテクニックだが、この急坂で速度を落とさないどころか加速していく彼女の走りにブルタカチホは目を剥いた。

 本当に最初の坂を越えた後なのかと疑うような足の回転数。

 戦略通りに脚を残せたのかそれとも元々のスタミナが潤沢なのか、どちらにせよ他の者から見れば絶望のスパートだった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 同じようにブルタカチホを交わしてシンザンの背中を追う。

 そしてブルタカチホに迫る危機はまだ終わらない。彼女の背中のすぐ後ろには、ウメノチカラとアスカが肉薄しているからだ。

 

 「くうう・・・・・・ッッ」

 

 殆ど肩を並べて走っている2人がとうとうブルタカチホを追い抜かす。彼女も懸命に差し返そうとするが、その脚は骨が鉛に差し代わったかのように重い。

 もっと早く、もっと速く。焦げ付くような焦燥にも鍛えてきたはずの脚は応えてくれなかった。

 ───東京レース場の最後の関門、心臓破りの坂。

 大概のウマ娘はここで一杯になる。

 1番人気にまで推されたブルタカチホも、それは例外では無かった。

 

 「くっそぉぉぉおおぉぉおおおお!!!!」

 

 もう自分が先頭に追いつけない事を理解した彼女の口から、気位の全てを捨て去った咬牙切歯の叫びが飛び出す。

 実力が足りなかった訳ではないだろう。

 作戦の穴か分析ミスか、想定外の小さなほつれで結果が狂う。それがレースというものなのだ。

 それでも今の最良を目指して走るブルタカチホの横を、7番人気のツキホマレが追い抜いていった。

 

 そして残り200メートル手前で登り坂が終わる。

 ゴール板に向けての僅かな直線、先頭はシンザン。

 平坦な道に足を付けた彼女は身体を低く沈め、2着以下を引き離すために更に加速した。

 ウメノチカラとアスカは交わした。

 ブルタカチホも引き離した。

 だけど足音が1つ、意地でも遠ざかっていかない。

 全員食ってやると言い放った彼女の執念が本物であったことを、シンザンはハッキリと理解した。

 

 『さあ残り200メートル抜け出したのはシンザン! そしてヤマニンスーパーが先頭のシンザンを追いかける!! ヤマニンスーパー差し切れるのか、シンザンとの差は1バ身!!!』

 

 「ぅぁぁぁあああああああッッッ!!!」

 

 吼えたのはヤマニンスーパー。

 必死の形相で身体に鞭打って先頭の背中を追う。

 ちらりと後ろを見たシンザンは、追いかけてくるヤマニンスーパーの様子をハッキリと認識した。

 フォームは疲労に崩れる寸前、口を割って走る様は2度の坂道に彼女の体力が底を尽きかけているのを如実に示している。

 それでも火はまだ消えていない。

 細胞の一粒まで燃やし尽くすような執念がシンザンの背中を炙っていた。

 

 「いけるか!? 差せるかヤマニンスーパー!?」

 

 「いや駄目だ!! シンザンが全然バテてない!!」

 

 『ゴールまで残り僅か、先頭は依然としてシンザン! 3番手争いはウメノチカラとアスカがほとんど横並び!! ヤマニンスーパー根性を見せるがどうだ!? 先頭には届かないか!?』

 

 (・・・・・・これ程か)

 

 遠い。

 先頭までの、宿敵までの距離が絶望的に遠い。

 1番前を走っているシンザンの背中に、ウメノチカラは必死の思いで手を伸ばす。

 晴らせなかった怒りが腹の底で地団駄を踏んだ。

 気合いや決意ではどうにもならないゴール前、自分と彼女の間に3バ身という絶対の距離が冷酷な真実として横たわっている。

 

 (これ程の差が、今の私とあいつの間にはここまでの差があるというのか・・・・・・!!!)

 

 少しだけ振り向いた背後には様々な顔が見えた。

 必死の形相で追ってくるヤマニンスーパーに悔しさに叫び出しそうなウメノチカラ、その隣で彼女だけでも抜かそうと歯を食いしばるアスカ。

 どれだけ皆が勝とうとしていたかが分かる。

 どれだけ悔しいのかは分からない。

 勝利に向ける彼女らの想いは、あるいは自分より強かったのかもしれない。

 そしてシンザンは自分の後ろから目線を切った。

 自分は今から、自分の理由に基づいて彼女らの想いを踏み潰す。

 ただ目の前にあるラインだけを見据えて、シンザンは彼女らの執念を振り切った。

 

 

 「あたし、まだあいつを笑わせてないからさ」

 

 

 『シンザン先頭で今───ゴールイン!!

 およそ2分の1バ身差でヤマニンスーパー2着、3バ身離れて3着はウメノチカラ!!! ほとんど並んでいたアスカはアタマ差で4着!!

 1着はシンザン!!

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 着差以上の実力を遺憾なく見せつけました!!!』

 

 

 番狂わせであった。

 観客席から大歓声が上がる。

 正に下評が覆された賞賛の嵐はどよめきにも似ていた。

 先頭でゴール板を踏んだシンザンは力を抜いて速度を緩め、後続とぶつからないようにメインスタンド側に退く。息も絶え絶えなヤマニンスーパーが力尽きるように芝に転がった。

 1バ身にも満たない着差。

 あるいは届いていたかもしれない距離。

 しかし届かなかった───全身全霊を以てしても。

 悔しさに食い縛った歯の隙間から喘鳴を漏らす彼女の耳に、しかしその声は届いていた。

 

 「凄かったぞヤマニンスーパー!!」

 

 「ウメノチカラにもアスカにも勝っちまったぞ! 2着でも大金星だ大金星!!」

 

 「頑張った頑張った! また次がある!!」

 

 自分の名前を呼んでいる。

 さっきまで自分を見てもいなかった奴らが、口々に自分を称えている。

 ヤマニンスーパーは燃料切れの身体を動かしてノロノロと立ち上がった。

 そして酸素の足りない肺腑で叫ぶ。

 勝利には力及ばずとも、確かに自分が見返してやった者たちへ。

 

 「ゲホッ、あんた達! 次こそ、見てなよ! ────次の、『皐月賞』!! はぁ、絶対、あたしが! 1着獲るんだから!!」

 

 

 「覚えてなさいよ。次は絶対、アタシがアンタをブチ抜くからね!」

 

 「・・・・・・ああ。受けて立とう」

 

 アタマ差で負かしたアスカからの宣戦布告に応えつつ、ウメノチカラは拳を握り締める。

 あの時のシンザンが本気では無かったのは分かっていた。分かっていたが、しかし────これ程とは。

 勝ちを獲りに来たシンザンがこれ程のものだとは!

 ウメノチカラは歯を食い縛り、煮湯のような敗北を胃袋に飲み下す。

 人気の序列は必ずしも実力と一致しない。

 シンザンは今の自分より強く、ヤマニンスーパーにも自分を負かすだけの力があった。それが事実だ。

 ウメノチカラは観客席の最前列にいた古賀(トレーナー)に苦い顔で結果を報告する。

 

 「申し訳ありません。1着を逃しました」

 

 「謝るな、お前は良く走ったじゃねえか。それに言っちまえばよ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。文句無しの結果だろ?」

 

 「・・・・・・・・・・・・、」

 

 「ま、納得いかねえよな。()()()

 

 眉根を寄せたウメノチカラに、古賀は思い切り歯を剥き出して威嚇するように笑ってみせる。

 ウメノチカラと同じ悔しさを感じているのだ。

 観客席の柵越しに彼女の両肩に叩くように手を置いた古賀は、胸を殴るように強い語気で彼女に言った。

 

 「獲るぞ『皐月賞』。俺達を負かした奴らに纏めてリベンジしてやろうじゃねえか」

 

 息が詰まるようだった。

 この大切な舞台で理解する。負けん気の強さで自分に売り込んできた彼は、本当に実際に走る自分と何ら変わらぬ覚悟と熱量を持っているのだ。

 ─────獲れる。この人となら。

 悔しさと確信を決意に変えて、ウメノチカラは力強く首を縦に振った。

 

 

 「やりました、やってくれましたな!! あんたの目と手腕は確かだった、この走りの強さは並大抵じゃあない!!早速インタビューさせてもらいましょうか、このレースで発揮された彼女の強みとはズバリ何でしょう!?」

 

 「ぜ、前面に出ていたのはやはり彼女自身のフィジカルで・・・・・・いや待って下さいこれは・・・・・・!!」

 

 腹を揺らしてはしゃぐ沢樫の横で、トレーナーはいつもの冷静さを失っていた。

 スプリングステークスとは5着以内に入ったウマ娘に『皐月賞』の優先出走権が与えられるトライアルレース。つまりこれでシンザンの三冠に向けた挑戦は盤石になった。

 だがトレーナーが昂っている理由はそれではない。

 心底からその走りに震えたのだ。

 2着との着差は2分の1バ身、数字で見れば差し切られていてもおかしくない距離。

 だがこのレースでそうなる事は有り得なかっただろうと確信がある。

 何故なら精魂尽き果てたヤマニンスーパーに対して、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 強い。思った通りに、思った以上に。

 

 ──────()()()()()()()()

 

 未だ彼女を測り間違えていたという事実に、トレーナーの脳裏にある種大それた予感が浮かぶ。

 

 「トレーナーさん」

 

 シンザンが近寄ってきた。

 観客席の柵に腕と顎を乗せて、やはり最前列にいるトレーナーに薄く笑いながら問いかける。

 

 「勝ったよ。見てくれてたかい?」

 

 「・・・・・・ああ。見てたよ」

 

 「あたしが負けると思ってたかい?」

 

 「緊張はしてた。けど勝つと信じてたよ」

 

 「安心したかい?」

 

 「ああ。座り込んでしまいそうだ」

 

 「トレーナーさん」

 

 もう1度シンザンは彼を呼んだ。

 自分の後方斜め上を指差した彼女に少しだけ首を傾げた彼だが、直後に彼女が示しているものが何かを理解する。

 彼女が指しているのはモノではない。指差す方向に渦巻いている空気。

 分かりきった事をその口から言わせようとする彼女は、悪戯っぽさを含ませてトレーナーに問いかける。

 

 

 「あたしは強いだろ?」

 

 

 歓声はまだ止んでいなかった。

 興奮の叫びと口々にシンザンを褒め称える声が渦を巻き、奔流となって思わず振り向いたトレーナーの身体を叩いて飲み込む。

 凡百の言葉を圧し潰す問答無用の説得力に1つの答えしか許さぬと胸倉を掴まれる感覚に、トレーナーは思わず口角を緩めていた。

 

 「──────ああ。強いとも」

 

 彼は笑った。

 自分の走りで確かに笑わせた。

 自分の往く道を守り抜き、気に入らない奴の鼻っ柱を叩き折って、そして掲げた決意を叶えた。

 自分は全てを()()()()()

 全てを思うようにしたシンザンは、胸を満たす満足感ににんまりと笑みを浮かべるのだった。

 

 

 『それにしても波乱の展開となりました第13回スプリングステークス!

 シンザンにヤマニンスーパーにツキホマレ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という荒れ具合!! どうなる今年のクラシック戦線!?

 只事ではない何かを予感させるレースに期待が今から高まってまいりました──────!!』

 

 

     ◆

 

 

 「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・、」」

 

 ところ変わってトレセン学園。

 テレビの前でそのレースを見ていた秋川さつきはあんぐりと口を開けていた。

 日頃の冷たく静まった様子からは想像もつかない愉快な表情だが、口に手を当て目を見開いている日聖ミツヱも大概レアな表情をしている。

 やがて頭の整理をつけた秋川さつきは、考え込むように視線を落としてブツブツと口の中で呟き始めた。

 

 「(周りの娘が弱かったというのは有り得ない。これはシンザンにとって確かに休み明けのレースだったはず。調子を維持する運動もせずどうやって身体やレース勘の鈍りを・・・・・・、いや完全に休息を取ったのがむしろ良かったのか・・・・・・? 身体的問題とやらがそれで解決されて・・・・・・)」

 

 しばし頭を回していた彼女だが、やがて思考を打ち切るようにソファの背もたれに身体を預けた。

 難しい顔をして唸った後、斜め後ろに控えている自分の秘書に独り言のように口を開く。

 

 「僕が予想したウメノチカラは3着。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。共にいい線は行ったが、勝ったのはシンザンだった。

 しかし何故あなたはヤマニンスーパーが1着だと?」

 

 「目です。感覚的な話になりますが、全員を食らってやろうという執念が画面越しでも彼女の目から伝わりました。ああなった者は恐ろしく強いのです。・・・・・・シンザンはそれを上回りましたが」

 

 「成る程、正に僕とは別種の物差しだ。・・・・・・そして僕もあなたも、彼女を自分の物差しで測ることは出来なかったという事か」

 

 はぁ、と秋川さつきは溜息を吐く。

 

 「彼の目は正しかった。理屈の捏ねようもなく彼女は強かった。才能を発掘する為にも彼にはチームを組んで欲しかったが・・・・・・認めざるを得ない。彼との賭けは、僕の負けだ」

 

 「正式な書面に起こしていない以上、立場を使って反故にする事も可能ですが」

 

 「鹿にしないでくれ、僕にも美徳というものがあるんだ。分かって言っているだろう」

 

 信頼する右腕から意地悪を言われた秋川さつきが日聖ミツヱを半目で睨む。

 それはそれとして()()()()()

 秋川さつきは口元に扇を当てて考える。

 『シンザンとのコンビを解消させて彼に新たなチームを発足させる』。その目論見が失敗に終わった以上、次善の施策をせねばならない。

 チームの発足はどうしても必要な事だ。

 しかしチームの発足を許可できる程に実力のあるトレーナーはそう多くないし、そのトレーナー達もチームを持つ事を望むとは限らない。1人に集中した方が良い結果を残してやれると考える者は多いのだ。

 1番の()()がシンザンとのコンビを継続する事になった以上、他の人材をどう『その気』にさせるべきか─────・・・・・・

 

 「・・・・・・・・・・・・」

 

 ぱちり、と目を開く秋川さつき。

 しばし脳内で浮かんだプランを反芻した後、彼女はソファから(おもむろ)に立ち上がった。

 何かのアクションを感じ取り命令を待つ日聖ミツヱに、秋川さつきは端的に指示を飛ばした。

 

 「府中に向かう。車を回してくれ」

 

 

     ◆

 

 

 「いや、大盛況だったね。重賞に勝つってこんなに持ち上げられるもんなんだ」

 

 「持ち上げられるとも。特に無敗の5連勝でスプリングステークスを勝つなんて凄まじい事だぞ」

 

 ウイニングライブでこぶしを唸らせ、沢樫が騒ぎまくっていたインタビューも大盛況。

 全てが上手く幕を下ろして上機嫌なシンザンとトレーナーは、楽しそうな声を車内に弾ませながら一泊するホテルへと向かっていた。

 トレーナーもいつになく饒舌にシンザンを褒めているが、彼としては最も胃の痛かった問題が最良の形で解決したのだ。気が大きくなるのは当然と言える。

 

 「でもシンザン。ウィナーズサークルのインタビュー、何であんなに蹄鉄の話をしてたんだ? 俺のイチオシというのはともかく会社の名前まで出して、あれじゃまるで営業だぞ」

 

 「んー? ちょっとね。しかしワクワクするね。次は無敗の6連勝で皐月賞を獲るんだよ? 今日以上の拍手喝采を浴びるんだ。トレーナーさんも楽しみだろ」

 

 「ああ、もうビッグマウスとは言えないな。そんな記録はコダマ以外に見たこと痛って何で蹴ったお前」

 

 「自分で考えなよ」

 

 そして駐車場に辿り着いた彼らが車から降りてホテルに入ろうとした時、自分達の前に現れた2つの人影にトレーナーは思わず硬直した。

 秋川さつきに日聖ミツヱ。

 学園にいるはずのツートップがそこにいた。

 思わずシンザンに被さるように前に出たトレーナーは硬い声で彼女らに問う。

 

 「・・・・・・わざわざここまで何の御用でしょうか」

 

 「そう警戒しないでくれ、悪い知らせを持ってきた訳じゃない。ただ私達は言動に対する筋を通しに来ただけだよ」

 

 そう言って秋川さつきと日聖ミツヱは頭を下げた。

 ただ首を前に倒すのではない。腰を直角に曲げる、謝罪としては最大限の謝意を示す所作だ。

 思わず仰け反ったトレーナーに対して、秋川さつきは静かな声で廉頗負荊(れんぱふけい)を口にした。

 

 「申し訳ない。私は目が見えていなかった。彼女が、シンザンがこれ程の大物だと・・・・・・私は全く考えていなかった」

 

 「あれえ? 頭が随分と低い位置にあるね。目が見えなくて足元が覚束無いのかい? もっと下げた方がよく見えるんじゃないのかい」

 

 「お前は事情も知らないのに何でそう煽れるんだ」

 

 顎を上げて台本でも用意していたのかというような舌鋒を振りかざすシンザンを逆に諌めるトレーナー。

 何も言い返せず黙るしかない立場ではあるが2人の手の指がピクリと震えるのを、彼は背筋が凍る思いで見ていた。

 「帽子も脱げよつむじが見えないだろ」とすら言いかけたシンザンの口をトレーナーが大慌てで塞いだ時、頭を上げた秋川さつきが気を取り直すように咳払いする。

 

 「それともう1つ。君は僕との賭けに勝利した訳だが、ここで僕から1つ提案があるんだ」

 

 「提案、ですか?」

 

 「うん」

 

 トレーナーのオウム返しを端的に肯定した秋川さつきは広げた扇で口元を隠す。そしてトレーナーを流し目で窺いつつ、彼女は飄々と言ってのけた。

 

 「新入生を交えたチームを組んでみる気はないかい? 加入の合格ラインの設定は君に一任するよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、だ」

 

 ・・・・・・図太い。あのやり取りの後でこの台詞。

 向こうも本気で引き受けてもらえるとは考えていないだろうが、取れる選択肢は全て拾おうという行動力を感じる。

 この女性が若くして学園のトップに立てている理由をトレーナーはまた1つ垣間見た気がした。

 返事は変わらない。

 言った通りに辞退させて頂く。

 チームは組まず今後もシンザンとのマンツーマンを続けていく意思を伝えようとしたその口は、しかしシンザンによって遮られた。

 

 「悪いね。そいつは無理ってもんだ」

 

 横からトレーナーの襟首を掴んだシンザンが、ぐいっと服を引っ張ってトレーナーを自分に近付ける。

 いきなり身長より低い位置に引っ張られてよろめくトレーナー。

 くっつくような近さまで彼を隣に引き寄せた彼女は、勝ち誇るような顔で学園の理事長とその秘書に言い放った。

 

 

 「他が割って入る隙間は無いよ。何せこいつ、あたしにゾッコンなもんで」

 

 

 

 

 

 前哨戦は斯くして終わる。

 勝利を掲げた唯一人と煮湯を飲んだ他全て。

 感じた全てを胸に秘め、見据える先は4月の舞台。

 『桜花賞』と『皐月賞』。

 全ての競走ウマ娘が焦がれる八つのレース─────まずはその2つが、闘志を燃やす彼女らを迎え入れようとしていた。



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梅と欅は深山に在り
17話 : 皐月の桜は卯月に開く


 目の前にあるのは酒である。

 そして彩の良い肴である。

 古今東西で祝いの席の定番といえば凡そこれだろうが、居酒屋の座敷に座る彼ら4人の前に並んだそれらは中々に豪勢なものだった。

 有名な銘柄の酒がどどんとテーブルに並び、いくつもの皿に盛られた料理から漂う香りはどれも只事ではない酒との相性を予感させる。

 前述の通りこれは祝いの席である。

 とあるウマ娘の劇的な勝利と同僚たちの躍進を祝う、実にめでたい酒の席である。

 

 「・・・・・・えー、それでは僭越ながら自分が音頭を取らせて頂きます」

 

 酒と料理が出揃ったタイミングで、4人の内の1人がこほん、と1つ咳払いをしてから慇懃な口調で切り出した。

 他の3人の注目が集まったのを確認してから彼はグラスを3人の前に掲げ、用意していた祝辞を述べる。

 

 「我が担当ウマ娘シンザンのスプリング(ステークス)勝利、並びにチーム《スピカ》《リギル》《カノープス》の発足を祝しまして─────乾杯!!」

 

 それに応える者は誰もいない。乾杯の声が返ってくることも、グラスとグラスがぶつかる音も何もない。

 ただ他の客から聞こえて来る笑い声や喧騒が彼らを虚しく包んでいた。

 3人はジトッとした半目の視線で空回りしている彼を睨みつつ、口を揃えて同じ内容の文句を垂れる。

 

 

 「「「お前(貴方)の皺寄せを食らってるんだが(だけど)?」」」

 

 「正直すまんかったと思っている」

 

 

 同僚の友人たちに率直に頭を下げるトレーナー。

 誰にとっても良い報せによる集まりであるはずのささやかな宴会は、びっくりするほどの居心地の悪さから始まった。

 

 

 トレーナーによるチームの発足。

 それは複数のウマ娘を担当してもトレーニングの質を落とさないだろうと見込まれた者にのみ許可が降りる、謂わば『敏腕』という学園理事長からのお墨付きだ。

 チームを立ち上げれば未所属の有望株に対して顔が売れる・大掛かりな施設を優先的に予約できるようになる・給金が相応に増えるなど公私共に恩恵が増えるし、自分の経歴にも箔がつく。

 もちろん仕事の量も大きく増えるが、それらを理由に『トレーナー』という職に就く者として自分のチームを発足させることを夢見る者も多い。

 

 じゃあ何で彼らが渋い顔をしているのかというと、そのチームの発足が自分の意思ではなく、このトレーナーの行動の結末が被弾した結果である為だ。

 

 賭けに勝利してシンザンとの二人三脚の続行を勝ち取った彼だが、秋川さつきの思惑はそこでは止まらなかった。

 彼女はあの日の翌日にはここにいる3人・・・・・・古賀や桐生院らを呼び出して、()()()()()()()()()()()()()()()

 そもそもにおいてトレセン学園は慢性的なトレーナー不足。『彼に断られた以上、君たちにやってもらわないと行き場のない生徒たちが溢れてしまう』という理事長の言い分は理解できる。

 できるのだがシンザンのトレーナーが突っぱねたお鉢を受け取るという立ち位置は気に食わないし、何より担当ウマ娘がこれから本格的にクラシック戦線に挑もうという時期に普段のペースが乱れかねない状況になるのは望ましくない。

 それを理由に断ろうとした瞬間に、秋川さつきが

 

 『そうそう、彼は断りはすれど出来ないとは言わなかったよ』

 

 などと煽ったものだからさあ大変、ライバル視している者と比較され意地でも断れなくなった彼らは無事に各々の新チームを発足する運びとなった。

 人選の基準は『チームを組むに値する実力』かつ『彼に対抗意識を持つ』者。

 秋川さつきはシンザンのトレーナーという逃した本命を利用して、他の優秀な候補者達を思う通りに動かしたのである。

 

 「そりゃ必要なのは分かってたからいつかはと思ってはいたけどな。お前が駄目だったから俺達みたいな流れが気に食わん」

 

 「というかシンザンとの契約は続行されたのだから貴方もチームを組めばよかったでしょう。いつまでマンツーマン指導を続ける気なのよ」

 

 「ついでに自分の担当の成績まで祝辞に突っ込みやがったのも腹立ちますね」

 

 「祝いの席でここまで責められる事あるか???」

 

 「とはいえ、だ。ウメノチカラが負けたのは業腹だが、あの女王の鼻を明かすとはやるじゃないか」

 

 皮肉そうに頰肉を曲げて笑いトレーナーを称賛した古賀は、そこから打って変わって難しい顔で唸りつつ髭の残る顎を撫でる。

 

 「今回の件で改めて感じたが、やはり彼女の采配は人情に欠ける。トップとして有能には違いないが、俺は好かんな」

 

 「素質と実力に見合った相手を。理事長の方針に間違いは無いんでしょうけど、古賀(あなた)みたいなトレーナーとの相性は悪いでしょうね。よく結果で判断させるまで譲歩を引き出せたものだわ」

 

 「日聖さんが助け舟を出してくれただけだよ。後はシンザンが勝っただけ。俺は何もしていない」

 

 「何もしてねェ奴が勝たせられる程甘いレースじゃねェでしょうに。相変わらず嫌味な位に謙虚ですね」

 

 胡散臭そうな物言いをしたのは古賀でも桐生院でもない、髪を茶に染めたピアスの男だった。そしてこの4人の中では1番若い。

 頬杖をついて面白くなさそうな顔をしている彼の顔を覗き見ながら、古賀は面白そうに相好を崩す。

 

 「佐竹(さたけ)よ、とうとうお前もチームを組んでいいだけの実力と認められたか。お前の同期の中じゃ1番の出世頭だな」

 

 「組まされただけですよ。そりゃ認められるのは嫌じゃないし、やるからにはしっかりやりますけど。やっぱこういうのは自分の意思で立ち上げたいです」

 

 「先輩先輩って後ろを着いて来てたお前がなあ」

 

 「古賀さん!!!」

 

 「ともあれ、よ」

 

 意地の悪い先輩に揶揄われている後輩を助けるように桐生院は話を切り替えた。

 

 「やるべき事は増えるけれど、まずは今年の選抜レースに目を光らせましょう。より身近に親しい競争相手が出来ればウマ娘たちの闘争心も上がるわ。変わった環境を活かせるかは私達次第よ」

 

 「そうだな。環境を活かすと言えば、皆はどんな方針でチームを作るんだ? 元々の担当ウマ娘もいるし、今やってる方針に合わせると思うけど」

 

 「・・・・・・そうね。《リギル》は統率を主眼に置いたチームにするわ。カネケヤキにもそれが合っているでしょう。状態の把握も故障の予防も、それがあってこそ行えるものだから」

 

 「モットーは自由に走ること! それが俺のチーム《スピカ》だ。好きな走りがあってこそ『それで勝ちたい』って気持ちが生まれるってもんだろ?」

 

 「そうですね・・・・・・《カノープス》もまァ、のびのびやれるチームに出来たらと思いますよ。うちのニセイはハードトレーニングが好きですけど、そういう奴もそうじゃない奴も、自分の目標が掴めるように」

 

 

 チームの結成は確かに上司の命令だっただろう。

 しかし彼らは既にこれからの展望を描いている。

 夢に燃えるウマ娘を支えて同じ時間を駆け抜ける事が、彼らが単純に好きなのだ。

 彼らはチームという環境を利用して、さらにウマ娘たちを強く育て上げるだろう。

 乾杯の音頭の後だというのに目の前の酒と料理に手を付けず鍛錬の自由と規律の是非を論じ始めた同僚たちを見て、トレーナーはそう確信した。

 ─────この2年間、気を抜けないな。

 内心でそのプレッシャーを楽しく感じているのを自覚しつつ、トレーナーは改めて咳払いをした。

 料理も酒も出された内に味わうべきだろう。

 議論を交わすのは良い事だが今は祝い楽しむべき席であることを思い出させるべく、トレーナーは改めてグラスを掲げた。

 

 「えー、それでは改めて全チームの躍進と・・・・・・それら全てを薙ぎ払う予定のシンザンに乾杯!!」

 

 「「この野郎!!!」」

 

 

     ◆

 

 

 無敗のままでスプリングステークスを勝利。

 自身の強さを遺憾無く見せつけ学園に凱旋したシンザンは大きな注目を集めた。

 元よりものぐさという悪評を持ちながら連勝を保っていたためクラスメイトから特異な目を向けられてはいたが、今回の勝利で一気に『本物』であるという評価が広まったのだ。

 そして「まああたしだからね」とバチバチに調子こいたコメントで学園紙の一面を飾った彼女は、来月の皐月賞に向けて1番の注目株になったのである。

 

 「だからさ、調子こいてる訳じゃないんだよ。ただ『空は青いよね』とか『夏は暑いよね』とか、そういったレベルの話をあたしはしてるんだよ。そういう当たり前の話を」

 

 「なあ、へし折っていいかその鼻っ柱を。今ここで。物理的に」

 

 「落ち着いて下さい」

 

 昼休み、食堂。

 味噌汁を啜りながらそうのたまったシンザンに握った箸を折りかけているウメノチカラをバリモスニセイが押し留めた。

 とはいえ自分を負かした相手がそれを目の前で「当たり前」などと言えば競技者として頭に血が昇るのは当然だろう。額に青筋を浮かべていたウメノチカラは、未だ冷めやらぬ悔しさを外に逃すように息を長く吐き出した。

 

 「・・・・・・分かっている。あの段階での私はシンザンに及ばなかった、それが現実だ。その台詞も差し支えない位の強さがあった事は認めざるを得ん」

 

 「自分は観ている立場でしたが、あの走りは圧巻でしたね。全員が歯を食い縛る中でただ1人悠々としていました。あのフィジカルは自信の裏打ちには充分でしょう」

 

 「ふふふ。では私は強力なライバルを回避できてラッキーなのかもしれませんね?」

 

 そう言ってのほほんと微笑んだのはカネケヤキだ。

 自分と当たるのを回避できるという意味が分からず首を傾げていたシンザンだが、その言葉の根拠となる自分と彼女の違いにそこで思い当たる。

 

 「あ、そっか。ケヤキはティアラ路線だったね」

 

 「ええ。この中では1人だけ違う道ですね。リセイちゃんも王道路線ですから」

 

 「王道路線は『強さ』、ティアラ路線は『華やかさ』というイメージがありますね。自分は強さの証明としてこの路線に進みましたが、ケヤキさんはどうしてティアラ路線に・・・・・・ああいや、ティアラ路線を軽視している訳ではなく!」

 

 「大丈夫です、誰もそう捉えてはいませんよ。そうですね、一言で言えば・・・・・・『憧れ』、でしょうか」

 

 「憧れ?」

 

 「はい。私の祖母はフランスでレースを走っていたウマ娘なんです。祖母とは幼い頃に話した記憶があるだけですが───何でも、()()()()()()()()()

 

 「「がっ、凱旋門賞を!?!?」」

 

 ウメノチカラとバリモスニセイが思わず叫んで身を乗り出した。

 凱旋門賞─────世界のレースの中でも最高峰とされるレースの中の1つ。レースを走るウマ娘達の憧れ。それを獲った者がごく近い者の身内にいるのだ、仰天するに決まっている。

 そんな彼女らの反応に親しみを感じるのか、カネケヤキはうんうんと頷きながら話を続けた。

 

 「物心ついた時にふと調べてみたら他にも大きなレースをいくつも勝ってた本当に凄いウマ娘だったみたいで、私も凄く驚いたんです。

 元々レースの世界を夢見ていたのですが、その夢が明確に目標に変わったのはその時でした」

 

 目を閉じて胸に手を当てる。

 いま口にしている事は、その奥に秘めている大切なものである事を自らに確認させるかのように。

 (たお)やかに動く唇が紡ぎ出した言葉は、他の全てを雑音として封じるような静かな力に充ち満ちていた。

 

 

 「祖母が走っていたフランス、凱旋門の聳えるパリは『花の都』と呼ばれます。だから私は『華やかである』と言われるティアラ路線を選びました。

 そこで大きな結果を残せば、海を越えて祖母に届くかもしれないから。

 ─────あなたに憧れた孫娘が、こんなにも立派になりました。と」

 

 

 

 「・・・・・・学園の食堂でこんな空気になるかね」

 

 「「シンザン(さん)ッ!!!」」

 

 「流石に揺らいではくれませんねえ」

 

 全員が押し黙る中でぼそりと呟いたシンザンにカネケヤキ以外の全員が噛み付いた。当のカネケヤキは頬に手を当てて優雅な所作で微笑んでいる。

 空気が読めなかったのか意図的に読まなかったのか、カネケヤキの側に傾きかけた空気をリセットしたシンザンは、さっきまでとは打って変わって真剣な眼差しをカネケヤキに向ける。

 

 「確かにどれだけ大切な理由かは伝わったけど、あたしを回避できてラッキーなんて笑ってはいられないよ。ウメもニセイもここにいる全員、どう転ぼうが()()()でぶつかる事になるんだから」

 

 「ええ、言われるまでもありません。そして言うまでもなく─────私はここにいる誰よりも()()になってみせるつもりです」

 

 火花が散った。

 シンザンとカネケヤキだけではない、ウメノチカラとバリモスニセイの眼光も4人の座る中間地点で衝突している。

 俄に殺気立つ食堂の一角、異変を察知してトーンダウンしていく周囲の雑談にこれ以上は昼食時に相応しくないと感じてか、今度はカネケヤキが場の空気を変えた。

 

 「そういえば。そろそろですね、『勝負服』」

 

 「ああ、確かに。あちらの会社とデザイン案のやり取りはしたが、やはり現物として仕上がってるのを早く見てみたいな」

 

 「そう考えると少し浮き足立ってしまいますね。自分も早くそれを纏ってレースを走りたいものです」

 

 「本当に楽しみだね、あたし舞台衣装好きじゃないから・・・・・・あ、そうだ。そろそろと言えばさ。今日のトレーニング前に皆ちょっと顔貸してよ」

 

 「? あ、そうか。完成したんだな」

 

 少し考えた後で察しがついたウメノチカラに、シンザンはぐっと親指を立てた。

 

 

 

 トレーナーが自分専用の蹄鉄を自作している。

 その話はシンザンが幾度となく話題に出していたためウメノチカラ達も知っていた。

 トレーナーが担当ウマ娘の蹄鉄を作るという聞いたこともない事例に大層驚いた彼女らは完成したら是非見せてほしいとシンザンに頼み、彼女もこれを快諾。

 シンザンにとってはおよそ2ヶ月という長期を費やして作られた、トレーナーからの丹精込めた贈り物ということになる。

 とはいえ、受け取るところから見せられるとは流石に思っていなかった。

 

 「何故受け取る場所が駐車場なんだ?」

 

 「さあ? トレーナーさんがここで待てって」

 

 この後のトレーニングに備え運動着に着替えた4人は、シンザンのトレーナーが指定した駐車場で待機していた。

 蹄鉄を受け取るにしては妙な場所の指定だが、シンザンが何かを疑問に思っている様子はない。

 それどころかぴこぴこと耳は揺れ、尾は左右に振られている。

 全て無意識だろう。

 心の動きを素直に表に出しているシンザンのそれらを見て、3人は生暖かい眼差しで彼女を眺めていた。

 

 「(すごく自慢したかったんでしょうねえ)」

 

 「(だな)」

 

 「(ですね)」

 

 「おーい。待たせたな」

 

 そしてトレーナーは現れた。

 なぜかクレーンの着いた軽トラに乗っている彼はそのまま駐車場の空きスペースに駐車、降りてきて何故かそこにいるウメノチカラたちに首を傾げた。

 

 「ん? ウメノチカラにカネケヤキ、それにバリモスニセイじゃないか。どうしてここに?」

 

 「シンザンに集められました。あなたが作った蹄鉄を見せてやろうと」

 

 「そうか、そんなに大したものじゃないけど・・・・・・シンザン。蹄鉄は荷台に積んであるから降ろしてくれないか。クレーンを使うのも手間だ」

 

 「え? うん・・・・・・?」

 

 蹄鉄とクレーンという単語が繋がらず、とりあえず言われるまま荷台に上がったシンザンの目の前にあったのは、頑丈なパレットに結束された何かだった。

 これは何だ、少なくとも蹄鉄じゃないぞと思いながらもとりあえず荷台から『それ』を降ろす。

 ウマ娘の力を以てしてもかなり重いと感じる重量を持つ謎の代物だった。

 

 「トレーナーさん、これなに?」

 

 「()()()()。解いてみろ」

 

 疑問が解消されないままシンザンは結束を引き千切って梱包を解き、布と金属がくっついて出来ているらしいそれの全貌を明らかにする。

 

 

 ()()()()()()

 頑丈な革や布を強固に縫製して作られたそれに、いくつもの金属製のパーツで構成されている。

 蹄鉄じゃないのかと困惑し、引っくり返して靴底を見れば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 補強の役割を果たしているのか『Ω』の形の真ん中のスペースにはT字型のブリッジが張られ、爪先の部分は金属製のカバーに覆われている。

 そして(すね)脹脛(ふくらはぎ)の部分に取り付けられたこの金属が本当に重たい。いったい何で出来ているのかそもそも何の役割があるのか。

 疑問符の洪水に脳内を押し流されているシンザンに、トレーナーが意気揚々と解説を始めた。

 

 「まず蹄鉄の内側にブリッジが張られてるだろ? それは補強の為だ。蹄鉄自体も素材を選び抜き分厚くした事で衝撃や摩耗にも強い。

 そして爪先を金属でカバーすることで最も力のかかる部分を頑強に保護してある。関節の可動域との兼ね合いには本当に気を使ったぞ。

 さらにブーツの部分もあちこちの会社を当たって特別に頑丈な革を─────」

 

 「え、トレーナーさんトレーナーさん。これってこのブーツそのものを含めて1つの蹄鉄ってこと??」

 

 「そういう事だ。早速履いて歩いてみてくれ」

 

 いそいそと急かしてくるトレーナーに従い、シンザンは未だ心の整理がつかないままその蹄鉄(ブーツ)を履いた。

 なるほど足や(トモ)のサイズを入念に測られただけあってピッタリと自分に馴染むサイズになっている。

 ただ、重い。

 本っ当に、重い。

 脚力自慢の自分でも重い。

 よいしょ、と1歩前に歩いてみると、()()()()()、とロボットみたいなとんでもない音が鳴った。

 

 「違和感はあるか?」

 

 「重いんだけど」

 

 「重いだけなら問題ないな」

 

 「これさ。蹄鉄と爪先の部分は分かるんだけどこれ、(すね)脹脛(ふくらはぎ)のとこに付いてるごっつい金属。これ何の為に着いてるの」

 

 「それは単なる重りだ」

 

 「は???」

 

 「シンザン。俺はずっと考えていたんだ。トレーニングで走りたがらないお前を、どうすれば上手く鍛えられるのか」

 

 ぽかんと口を開けて絶句するシンザンに、トレーナーはしみじみと語り始める。

 

 「不真面目なトレーニングで勝てるほどレースは甘くない。ご褒美で釣ってもその場凌ぎにしかならない。根本的な解決策を俺はずっと考えていた」

 

 シンザンの耳と尻尾の動きが止まった。

 

 「あの事故が起きたのはそんな時だ。脚力に道具がついていけないと判明した時、ただ蹄鉄が壊れただけならこの考えには至らなかった。靴も一緒に壊れたのを見て、まず蹄鉄と靴を一体化させる方法を思い付いたんだ」

 

 シンザンの耳がぺたりと倒れた。

 

 「そこからは・・・・・・ハハ・・・・・・天啓という他ないな。蹄鉄と靴を合体させて、やはり重量が(かさ)むという問題にぶち当たった時、俺の頭に電流が走ったんだ。

 ─────いっそこれを逆に滅茶苦茶に重たくして、ウェイトトレーニングを兼ねさせれば全てが片付くんじゃないか? ってさ」

 

 シンザンが尻尾を脚の間に挟んだ。

 

 「これが『答え』だ。特別に頑丈に使った蹄鉄と靴を一体化させる事で全体的な強度を底上げし、さらに重量を限界まで度外視する事で足腰の鍛錬も同時に行う正に一石二鳥の『最適解』。

 足の筋力を測ったのは元々重くなる事が予想されたからだけど、ここまで役に立つデータになるとは予想してなかったな」

 

 滔々と語るトレーナーに言葉を失うシンザン。

 何歩か後ろに下がりながらその様子を見ていたウメノチカラにカネケヤキ、バリモスニセイはそこで3人同時に理解した。

 自分達はウマ娘とトレーナーとの心温まるやり取りではなく、友達が処刑される瞬間を目の当たりにしているのだと。

 

 胸を満たす感情の落差は如何程のものだろう。

 それでも何かを訴えようと口をぱくぱくさせているシンザンに、トレーナーは春風のような爽やかさで言い切った。

 

 「よし。じゃあ今日からそれを履いて、早速トレーニングを始めようか」

 

 

 

 

 

 ─────ウメぇ。ウメぇ。あいつオニだあ。

 

 その日の晩。

 バッキバキになった全身をうつ伏せにベッドに横たえてめそめそと訴えるシンザンを、ウメノチカラは哀れみの眼差しで見つめていた。



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18話

バリモスニセイのヒミツ①
実は、威嚇してくるカマキリを眺め続けて遅刻した事がある。





 「ふう・・・・・・」

 

 仕事は一段落したがもう外は暗い。

 新しい蹄鉄を導入してからの訓練のデータとフィードバックを纏めた紙の束から目を離し、椅子の背もたれに寄りかかって固まった脊柱をバキバキと鳴らす。

 トレーニングに無茶は厳禁。

 それでもウマ娘に無茶を要求するのであれば、無茶を通せるようウマ娘の心身を修復するのがトレーナーの役目だ。

 特殊な蹄鉄を用いた超高負荷の訓練。

 過去に例のないやり方だが、実行する以上は絶対に怪我をさせる訳にはいかない。

 疲労の溜まり方や負荷のかかり方、それらに対する適切なケアなど考える事はごまんとある。

 

 (ウォームアップとクールダウンのストレッチはもっと長めに。アイシングは必須、氷嚢と氷をもっと多く確保。疲労の残り方によってはマッサージも必要だが・・・・・・)

 

 何となく嫌がられそうなんだよなぁ、と天井に激突する高さまでぶん投げられた記憶を思い出しながら考える。

 コダマがレースを引退してから担当を取らずひたすらウマ娘の故障とケアについて学び直していた時期に習得した技術なので素人という訳でもないのだが、他人に触れられる事に抵抗があるのなら、自分で行える(トモ)のマッサージを教えるという手もあるか。

 

 「コダマにはお墨付きを貰ったんだけどなぁ」

 

 「私が何ですか?」

 

 「うわっ」

 

 急に後ろから声を掛けられたトレーナーが椅子の上で僅かに跳ねる。

 自分以外はいないはずなのにと肝を冷やしたが何の事はない、単にコダマがいつの間にかトレーナー室に入ってきていただけだ。

 何やら大切に梱包された箱を手に持っている彼女が、やや呆れたように口を開く。

 

 「コダマか。どうした、こんな時間に」

 

 「大レースが近付くとやる事が増えるもので。それにしてもまた突飛な事をしているみたいですね。シンザンさんから私に陳情が来ましたよ? あの鬼畜生を何とかしてくれと」

 

 「心外だな。まさに今こうしてトレーニング内容の見直しと故障の予防に腐心してるっていうのに。・・・・・・何とかしに来たの?」

 

 「そういう事では無いと思うんです。・・・・・・『いつでも相談に来てください』とだけ言っておきました」

 

 要するに生徒会としては様々な方針のトレーナーが在籍するこの学園でこれを問題扱いする気はないという意思決定が下されたらしい。

 見方によってはひどい癒着である。

 とはいえこうして自分の元に報告が来た以上動いていない訳ではないのだが、明日はヘソを曲げていそうだな、とトレーナーは愕然とするシンザンの顔を思い浮かべた。

 そんな彼の机に山と積まれたスポーツ医学の資料や論文を見て、コダマは面白くなさそうに息を吐く。

 

 「あなたも随分と変わりましたね。落ち着いたというか可愛げが無くなったというか。ダービー前に私の脚が不調になった時あちこちの神社に願掛けして回ってたあなたはどこへやら」

 

 「やめてくれコダマ。その思い出話は俺に効く」

 

 「第一こだまの一号車の1番前に」

 

 「あああああ」

 

 テンパっていた頃の験担ぎの記憶をほじくられて頭を抱えるトレーナーをころころと笑うコダマ。

 居残り仕事をしていたトレーナーを一通りからかって満足したコダマは、とりあえず生徒からの陳情を受け取った生徒会長として話に挙げられた彼の話を聞く事にした。

 

 「昔と比べてどうかはさておいても、シンザンさんについては私も少しちぐはぐに感じますね。怪我をさせないように腐心していると思えば怪我をしかねない強度のトレーニングを課していますし、どんな方針で彼女を育てようとしているんです?」

 

 「・・・・・・ウマ娘が最も伸びる選択肢を採る。目標を叶える最適解を探る。今も昔もそれだけだ」

 

 そう言って彼は手元の紙を一枚手に取った。

 他のトレーナーと比べて明らかに記録量が多い彼がデータを元に参照した、様々な資料の集合知。

 それを他のトレーナーが見たとしても、果たして何かの参考になるかは怪しいだろう。

 何故ならそこに記された情報や分析は、あまりにも1人のウマ娘の為に特化されているからだ。

 

 「シンザンの場合は今のところアレが最適。そのリスクはトレーナーが摘む。俺じゃなくても当たり前のこと─────ちぐはぐな事なんて何もない」

 

 

 「・・・・・・そうでしたね、()()()()()()。あなたは何も変わっていない」

 

 「だからその呼び方はやめろ」

 

 紙の山をファイルに纏めつつ、本名に掠りもしていない呼び名に背中越しに文句を言ったトレーナーは柔らかなコダマの笑みを見ていない。

 そこで彼はふと本題を忘れている事に気が付いた。

 コダマが部屋に入ってから箱を抱えたままである。

 

 「そうだ忘れてた。その箱はどうしたんだ?」

 

 「ああ、そうでした。届け物ですよ。本当なら明日渡す予定のものなのですが、トレーナー室の電気が点いていたので、ついでに届けてしまおうかと」

 

 届け物? と。

 特に何かを注文した覚えもなく首を傾げたトレーナーだが、直後に思い当たって椅子から立ち上がる。

 いや、覚えはあった。確かに注文していた。

 これを受け取る時の『トレーナー』の高揚はウマ娘にも負けていないと彼は思っている。

 数年前と変わらず目を輝かせている彼の姿を、コダマは可笑そうに眺めていた。

 

 「─────来たか」

 

 

     ◆

 

 

 シンザンがトレーニングに来ない。

 正確にはロッカールームから出てこない。

 トレーニング前に軽い打ち合わせをしたのでサボる意思は無さそうだったのだが、何が彼女を閉じ籠らせているのだろう。

 

 「シンザン? ・・・・・・シンザン?」

 

 とりあえずドアをノックして呼びかける。

 返答はない。そして他の生徒の声もしない。

 どうやら他の生徒が着替え中という事もなさそうだし、万が一の異常事態に見舞われていれば一大事だ。

 若干の不安を感じながらロッカールームのドアを開けると、そこには特製の蹄鉄(ブーツ)を前に腕組みをしている運動着のシンザンがいた。

 

 「シンザン。どうしたんだ」

 

 「うるさいよ汚職トレーナーめ。生徒会と組んで担当ウマ娘をいじめる気分はどうだい」

 

 「なんだコダマに続いて人聞きの悪い。これまでを踏まえてトレーニングメニューを調整したと言ったじゃないか」

 

 「それだってどうせ楽なメニューに変更してくれた訳じゃないんだろ。あたしはもっと伸び伸びとトレーニングがしたいんだよ。だのに何だってんだいこの蹄鉄という名の足枷は」

 

 「蹄鉄という名の蹄鉄だぞ」

 

 「はーーーーもうやる気ない。絶不調だ絶不調。トレーニングしてほしけりゃあたしの機嫌を取るんだね。具体的にはあたしを遊びに連れて行くんだよ。さあ奢れ。やれ奢れ」

 

 予想はしていたが予想以上にヘソを曲げていた。

 何だかんだでサボらないウマ娘なのだが、どうやらあの期待とガッカリの落差が尾を引いているようだ。

 確かに手抜き癖に対する意趣返し的な意図が無かったと言えば嘘になるが、あのサプライズプレゼントは何というか思っていたのと違ったらしい。

 これは別途ケアが必要だなぁと考えつつも、トレーナーはひとまず今日を乗り切れるだけの手札を切った。

 

 「それはまた別の日に行くとして、今日は間違いなくやる気が出るプレゼントがあるぞ。何だと思う?」

 

 「土地かい?」

 

 「ふざけろ」

 

 「じゃあ何だい」

 

 彼の口から出てくる『プレゼント』という単語を信用していないらしい。猜疑に満ち満ちた眼差しを向けてくるシンザンに、トレーナーは自信に満ちた顔で一抱えの箱を差し出した。

 

 

 「昨日届いた。『勝負服』だ」

 

 「先に言いなよそういうのはさ!!」

 

 

 

 

 

 『勝負服』。

 八大競走に出走するウマ娘のみが着用を許される、一人一品オーダーメイドの特別衣装だ。

 どのウマ娘も具体的にデザイン案を練り始めるのはメイクデビュー後。

 随分と気が早い話に思えるが、その位から考えないとメーカーとのやり取りや製作が間に合わないのだ。

 だが、八大競走に出走するための条件は厳しい。

 デザイン案を考えても、それが形にならないままで終わるウマ娘が大多数。

 故に『勝負服』とは、着れるだけでも強者の証。

 そしてそれを身に纏って勝利を掴み、舞台の中心最前列に立つことは、競走ウマ娘の最大の名誉である。

 

 『おお、見なよトレーナーさん。和服だ和服。あたし達で考えた通りだ』

 

 『いいじゃないか。丁寧に作り込まれてる・・・・・・今更だけど和服って1人で着れるのか?』

 

 『教わればすぐだよ。あたしは着れる』

 

 楽しみにしていた届け物にシンザンは一気に機嫌が上向いた。

 その上『今日は皐月賞と桜花賞に出るウマ娘の写真撮影や取材があるからトレーニングは少ないぞ』と付け加えればもう何をか言わんやである。

 わくわくしながら着替えている彼女をロッカールームに残し、トレーナーはグラウンドで彼女が現れるのを待っている。

 ─────勝負服が届いた。

 この知らせに目を輝かせる担当ウマ娘を見るのは、実力あるトレーナーの特権だろう。

 

 「やあやあ、待たせたね」

 

 背後から呼びかけられ、トレーナーは期待に胸を膨らませて後ろを向く。勝負服を着た担当ウマ娘に心躍らないトレーナーはいない。

 そしてそこに立っていたのは、期待通りに期待以上の立ち姿だった。

 

 

 シンザンの勝負服。

 そのデザインは一言で言えば、紋付袴(もんつきはかま)のようなデザインだった。

 真紅に染められた長着に、(たけ)を膝の半ばで切り落とされた袴。そこから露出した脚を覆うブーツには、紐や(びょう)が飾るように打ち込まれていた。

 純白の羽織紐が真紅の長着と黒い羽織に映える。

 洋風の要素もアクセントとして織り込まれ、腰に巻かれているのは角帯ではなく太いベルトだった。

 そして最も目立つのは、彼女の纏う丈の長い羽織(はおり)

 ()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 質実剛健、そんな印象。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()が、シンザンそのものの飾らない美しさをそのまま表現しているようだった。

 

 「さあどうだいトレーナーさん。見たかっただろ、あたしだけの勝負服だ。感想を言ってみなよ」

 

 「ああ、本当に似合ってる。貫禄が凄いな。貫禄が凄い。貫禄が・・・・・・貫禄が凄い」

 

 「めかしこんだ女の子を前に何だいその感想は」

 

 「いや似合ってるのは勿論なんだけど、本当にその印象が殴りかかって来るんだよ。何だろうな・・・・・・その服を着た途端、シンザンの存在感に圧倒されるというか・・・・・・」

 

 何やら不満気なシンザンだが、トレーナーとしてもそれが嘘偽りのない感想だった。

 勝負服にはウマ娘の目標や信念、人となりといった事などもデザインの材料として盛り込まれる。

 つまり勝負服とはそのウマ娘をより強く表す象徴であり、それによってシンザンという存在の強度が大きく増したようにトレーナーは感じたのだ。

 そう、それはまるで、眼前に聳え立つ大きな山を見上げるように。

 

 「背中の紋様、松がモチーフだよな。いつも着けてる耳飾りといい、松が好きなのか?」

 

 「ん、まあね。思い出というか思い入れがあって」

 

 飾りの着いた右耳をパタパタ動かすシンザン。

 思い入れを身に纏うのは勝負服の常だが、勝負服にまで刻むモチーフへの思い入れは相当に強い。詳しい理由は分からないが、トレーナーはシンザンのルーツの一端に触れたように感じた。

 

 「そうだ、今日取材や写真撮影があるって言ってたよね。 て事は他の皆にももう勝負服が届いてるのかい?」

 

 「そのはずだ。もうお前と同じように袖を通して出てきてるんじゃないかな。あ、ほら」

 

 そんな事を話していた時、ちょうどシンザンの友人達がグラウンドに現れた。

 遠目からでも初めての勝負服に浮き足立っているのが分かる。

 その姿を遠目から確認し合った彼女たちが、お互いの元に一斉に走り出して集合した。

 

 「やあ、皆も届いたんだねえ! ウメもケヤキもニセイも綺麗じゃないか!」

 

 「ああ、思っていたよりもずっと良い出来だ。良いな・・・・・・うん、良い」

 

 「不思議な高揚ですね。今にも踊り出しちゃいそうです!」

 

 「これを着れば自分は誰にも負けない、そんな気になります。胸の内から自信が湧いてくるような・・・・・・!」

 

 俄に(かしま)しさが増すグラウンドの一角。

 己を象徴する衣装を纏った親しい友らの姿は、シンザンにこれから始まる新たな舞台の到来を赫赫と感じさせた。

 

 ウメノチカラの勝負服は、赤色の下地に梅の木が描かれた金縁の着物を片肌脱ぎにして、胸に晒布(さらし)を巻いた和装のデザインだった。

 黒いレギンスに首に巻かれた赤い刻刻(ぎざぎざ)模様の黄色いスカーフと相まって、型破りというか博徒のような鋭いイメージを感じさせる。

 

 カネケヤキは首回りから袖ぐりの下まで斜めに大きくカットされた、袖のない紫色のドレス。

 胸元に幾重にもあしらわれた黄色の薄いレースや散りばめられた色とりどりの装飾品は彼女がこうありたいと語った華やかさの表れだろうか。

 

 バリモスニセイはまるで歌劇団の装いだった。

 肩章(エポレット)の付いたパンツスタイルの空色の勝負服。

 純白の手袋と首飾り(ジャボ)、金の刺繍が施されたジャケットは、まさに舞台で謳う西洋の王子のようであった。

 

 「いやあ雰囲気変わるもんだねえ・・・・・・。ニセイとケヤキなんかご覧よ、2人並ぶとまるで貴族のアベックじゃないかい」

 

 「和装と洋装で綺麗に分かれましたね。チカラさんはかなり(かぶ)いてて驚きました」

 

 「最初はもう少し落ち着いたデザインを考えていたんだがな・・・・・・。これを着て走る事を考えるとどんどん熱が上がってしまって・・・・・・」

 

 「チカちゃんらしいですね。負けん気の強いチカちゃんにピッタリだと思いますよ」

 

 「ちょいと、あたしにも何か感想をおくれよ。あのおたんこにんじん『貫禄が凄い』としか言わないからさ。ほれほれ」

 

 そう言ってひらひらと袖を揺らすシンザン。

 自分の勝負服を纏い期待に瞳を輝かせている彼女の姿をじっと見つめた3人は同時に口を開き、異口同音に同じことを言った。

 

 「「「 貫禄が凄い(です)」」」

 

 「あんたらの辞書にはそれしか無いのかい!!!」

 

 

 

 

 「綺麗だなあ」

 

 「ああ」

 

 感慨深そうな古賀の言葉に、トレーナーは心からの同意を込めて頷いた。

 グラウンドのあちこちから弾む足取りで現れる、勝負服を着たウマ娘。

 色とりどりの装いが芝の上で踊る様は、春に芽吹いた花と蝶を思わせた。

 彼女らはここから羽ばたくのだ。

 ただ一つしか空席のない大空へと一斉に。

 ─────クラシックの激戦がいよいよ始まる。

 腹の底から上ってくる実感に、トレーナー達は慣れ親しんだ緊張感を全身で感じていた。



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19話

 「1人だけ! 結局1人だけだったねえ! あたしを可愛いとか綺麗とか言ってくれたのはねえ!!」

 

 「しかもかなりの誘導尋問を駆使してな」

 

 『月刊綺羅星(きらぼし)』を始めとした記者達による桜花賞・皐月賞の出走者に対するインタビューや勝負服を着ての集合写真、トレーニングの様子の写真撮影など全てのスケジュールを終えた帰り道。鼻息荒く憤慨しているシンザンにウメノチカラが軽く笑った。

 「貫禄」「迫力」「威風堂々」。

 勝負服を纏った彼女ら全体を称した褒め言葉を除けば、それらが最も多くシンザンを表現するために使われた言葉である。

 女の子として言われて嬉しい褒め言葉は貰えなかった上に、和服という方向性は同じなはずのウメノチカラが「綺麗」「格好良い」と言われていたのだから堪らない。

 もちろん褒め言葉は褒め言葉として遠慮なく頂戴したが、何というかどこか繊細なところが満たされていないのである。

 

 「ま、まあまあ。『背中から撮らせてくれ』って頼まれてたのもシンちゃんだけだったじゃないですか。シンちゃんだけの魅力だと思いますよ」

 

 「でも可愛いポーズをしたら『あ、そういうのじゃなくて』と断られてましたね。沢樫さんと言いましたか、人間のあんな真顔初めて見ました」

 

 「うるさいねえ思い出させるんじゃないよ! あと前から言いたかったけどケヤキ、あたしの事シンちゃんて呼ぶのお婆ちゃん以外だとあんただけだからね!」

 

 「そもそも服の方向性が可愛いや綺麗とは違うだろうお前のは・・・・・・」

 

 「きーっ!!」

 

 騒々しい声を夕暮れの空に響かせて4人は歩く。

 最初に気付いたのはシンザンだった。

 怒り疲れてふと視線を上げると、見えるはずの景色が違う。

 そこにあるのは栗東と美浦の2つの寮に挟まれたいつもの道ではない。

 いま自分達がいるのは、トレセン学園を象徴する三女神像が鎮座する中央広場だった。

 

 「・・・・・・あれ。あたし達何でここに来たの?」

 

 「ん? ・・・・・・本当だ。確かに寮に帰ろうとしていた筈なんだが」

 

 「不思議です。足が勝手にここに向いたような」

 

 「あら、あそこにいるのって・・・・・・」

 

 カネケヤキが示す先は三女神像の前。

 栗毛のロングヘアを背中で緩い三つ編みで束ねた眼鏡のウマ娘が、静かに目を閉じて手を合わせている。

 彼女は三女神像の前で何かを祈っていた。

 やがて目を開けた彼女はそこにいた4人を見つけて柔らかく口角を上げる。

 

 「生徒会長?」

 

 「シンザンさん。それにウメノチカラさんにカネケヤキさん、バリモスニセイさんも。取材や撮影お疲れ様でした」

 

 「当然の勤めです。会長はどうしてここに?」

 

 「そうですね。私は習慣というか・・・・・・年ごとの儀礼、のようなものでしょうか」

 

 そう言ってコダマは水瓶を担いで背中合わせに立つ3人の女神の像を見上げる。

 ─────『三女神像』。

 ウマ娘を常に見守り、導くと言われる三柱の神々。

 あるいは全てのウマ娘の始祖であるとも。

 学園創立からそこに立っているらしい石造りの偶像は、今も変わらない姿で生徒達を見守っていた。

 

 「トゥインクル・シリーズを走り抜けたウマ娘がこの像の前で想いを託し、これから走り始めるウマ娘がそれを受け取り力に変える。

 私もこの時期に想いを受け取り、前線を退いてからは毎年こうして想いを託し続けているんです」

 

 「想いを受け取る、ねえ。つまり気の持ちようじゃないのかい? 拝んで強くなるならトレーナーさんあたしにずっとここで座禅組ませてると思うし」

 

 「ふふ、有り得ますね。しかしただの気の持ちようでしかないのなら、この伝統はここまで続いてはいないと思いますよ?どうでしょう皆さん、ついでにここで祈っていかれては。もしかしたら知っている誰かの想いが届くかもしれませんよ」

 

 「新鮮なの頂戴(ちょうだい)よ。祈りたてホヤホヤの奴」

 

 魚を買いに来たような台詞を吐いたシンザンの後頭部をウメノチカラ達が一斉に(はた)いた。

 叩かれた場所を(さす)るシンザンの文句をスルーして、3人はさっさと目を閉じて手を合わせてしまった。

 ぞんざいな扱いに唇を尖らせたシンザンも、3人に倣って目を瞑って手を合わせる。

 くれるなら頂戴。あたしの(みち)に足りる程。

 図々しさを隠さずに彼女は心で両手を伸ばす。

 

 「続くものには意味がある。私も初めて想いを受け取ったのは皆さんと同じ────()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 すぐそばにいるはずのコダマの声が、随分と遠くから聞こえた気がした。

 

 

 

 何も無い場所にいた。

 天地も左右もない暗闇の中、自分の前方に眩い光がある。

 あれは何か。出口だろうか。

 そう思ったその時、背後から駆けて来た2人のウマ娘が流星のような光の線と共に自分を追い抜いていく。

 あれは誰なんだろう。どこかで見たような。

 走り抜けていった2人が光の中に消える寸前、片方がこちらを振り向いた。

 よく知っている顔だった。

 よく知っている微笑みだった。

 そうだ。あれは。

 

 『───コダマさん──────?』

 

 知らない内に自分も走り出していた。

 自分もあそこへ、光の先へ。

 2人に導かれるように、自分も暗闇の中の輝きに向かって走り出していった。

 

 

 

 「──────・・・・・・、」

 

 目を開いた。

 狐につままれたような顔でシンザンはぱちくりと目を(しばたた)かせる。

 他の3人も同じような顔をしていた。

 無言のまましばし互いの顔を見つめ合っていた4人は、誰ともなく口を開いて問いかけた。

 

 「見た?」

 

 「見た」

 

 「見ました」

 

 「え、夢? いまの夢??」

 

 夢なのだろう。きっと夢だったのだろう。

 しかし夢だというのなら、今この胸を満たす暖かさは何なのか。四肢の先まで溢れるこの力は何なのか。

 想いを託し、想いを受け取る。

 身に受けた今でも信じ難いが、話半分でしか受け取っていなかった儀礼は確かな真実だった。

 もはや不思議だ何だはどうでもいい。

 先人から更なる力を得た手応えに、ウメノチカラはぐっと拳を握る。

 

 「・・・・・・帰るのは後だ。受け取ったこの力がどれ程のものか、すぐにでも確かめたい!」

 

 「私も少しだけ走ります! こんなのを貰ってしまってはじっとなんてしてられません!」

 

 「自分もそうします。ここ最近勝ちきれないレースが続いているので、打開の契機になるかも。シンザンさんはどうしますか?」

 

 「あたしかい?」

 

 話を振ってみたバリモスニセイだが、シンザンも参加するだろう事はもう全員が察していた。

 何故なら彼女もまた、自分が受け取った想いと力に震えながら目を輝かせているからだ。

 あるいは今から見れるのかも知れない。練習だとトコトン走らない彼女が、心のまま全力で走る姿が。

 昂る心を拳に握り、シンザンは友人達と優しく見守るコダマに対して力強く宣言した。

 

 「みんな頑張れ・・・・・・! あたしは帰るよ・・・・・・!」

 

 全員がその場でズッコケた。

 マジかよコイツという4人分の視線を背中に突き刺されつつ、トレーナーさんに見つかったらアレ履かされるからね、と素知らぬ顔のシンザンは弾むような足取りで家路へと駆けていく。

 『人生で1番の快眠だった』。

 翌朝起床したベッドで朗らかにそう言い放った彼女を、ウメノチカラは言葉もなく眺めていた。

 

 

 

 

 「お疲れ様。今日はここまでにしましょう」

 

 「はぁ、ハァ、分かりました・・・・・・。タイムはどうでしたか?」

 

 「上出来ね。最後の追い切りでこの仕上がりならベストの状態で臨めるでしょう」

 

 日の暮れたグラウンド。

 荒い息で汗を拭うカネケヤキの問いかけに、桐生院翠は満足げにそう答えた。

 一先(ひとま)ずはコンディションが好調。無論ほかの出走者たちも仕上げてくるだろうが、少なくとも自分は万全の状態でレースに臨むことが出来る。

 ならば懸念するべきは─────

 カネケヤキは片足の爪先を地面に立ててぐりぐりと確かめるように足首を回す。それを見た桐生院は途端に不安そうな顔をしてカネケヤキに駆け寄った。

 

 「どうしたの? 足首が痛むかしら?」

 

 「いえ、大丈夫です。少しだけ調子を確かめただけなので」

 

 「そう、ならよかった。違和感を感じたらすぐに報告してちょうだい」

 

 分かりましたと頷いてカネケヤキはクールダウンのストレッチを始めた。

 身体を伸ばして脚を(ほぐ)す。疲労に硬直した部位を念入りに、念入りに。固く割れやすい乾いた粘土を柔らかく伸ばしていくように。

 今のところ問題は無い。

 大切なクラシックの冠をまず1つ、全身全霊で獲りに行ける。

 いつもの4人、先駆けは自分。

 温い夜風に鹿毛を揺らして、彼女は強い決意を拳の中に握り込んだ。

 

 

 季節は春。舞台は阪神。

 

 入学式を終えた4月の5日。

 

 『桜花賞』が、始まる。

 

 

     ◆

 

 

 芝状態は稍重。

 あまり天気に恵まれなかった阪神レース場のパドックに、大勢の観客が詰めかけている。

 八大競走が1つ『桜花賞』、走行距離は1,600。

 クラシック最前線を飾る最初のレースの盛り上がりは平時のオープン戦の比ではない。記者や元々のレースファンはもちろん高まる話題に興味を持って初めて見に来たご新規さんまで、様々な種類の熱い注目が出走者たちに注がれていた。

 

 「にしても23人立てかあ。聞いた時も驚いたけど、こうして見るとほんとうに多いね。下手なオープン戦の3倍は出走してるよ」

 

 「バ群に呑まれるとかなり辛いでしょうね。位置取り争いが熾烈になりそうです。『皐月賞』も24人立てになるので、自分達も他人事ではありませんが」

 

 「そう考えると私達クラシック路線は幸運だな。この人数のレースがどんな風に流れるかを事前に見ておける」

 

 パドックの観客席の最前列、これまで経験した事のない数の出走者に驚くシンザンと冷静な分析を加えるバリモスニセイ。

 この『桜花賞』は彼女ら3人が出走登録している王道路線の『皐月賞』よりも先に行われるため、ウメノチカラはそれを利用して自分のレースに役立てようと目論んでいた。

 友達が出走する一大レース。

 彼女らが応援しているのは勿論カネケヤキだが、無論勝利への道は高く険しい。

 その最大の障壁が今、紫と臙脂色の勝負服をひらめかせてパドックに上がってきた。

 

 『4枠10番、プリマドンナ。1番人気です』

 

 「強敵だな。下手をすればこのレース、彼女の独壇場にもなりかねんぞ」

 

 「え。あの子そんな強いの」

 

 「あの、シンザンさん。いい加減余計なお世話とは思いますが、有力な選手のデータは把握しておいた方がいいかと・・・・・・」

 

 そんなのトレーナーさんがやってくれるし、と膨れっ面のシンザン。

 クラシック期突入から4ヶ月、今更にも程がある指摘をする事になったバリモスニセイは深刻そうな声を出しているが、ウメノチカラは同室故にこういった事が多いのか慣れた様子で解説する。

 

 「『阪神ジュニア級ステークス』の優勝者だよ。去年の12月に私とケヤキが戦った朝日盃があるだろう、あれと(つい)になるレースだ。

 それにここまでの戦績は9戦7勝と凄まじい。

 連勝記録こそ途中で途切れているが、彼女の勝ち星の数はお前よりも上なんだ。

 これだけでも彼女の強さは分かると思うが、このレースにおける恐ろしさはもっと深い所にある」

 

 「深いところ??」

 

 「シンザンさん。阪神ジュニア級(ステークス)のレース条件は分かりますか?」

 

 「んええ、あたしあんたらが出たレースしかチェックしてないんだけど・・・・・・えーと、確か朝日杯とそう変わらなかったよね?

 1,600の右回りで、違うのは中山じゃなくて阪神レース場って位で・・・・・・あー・・・・・・」

 

 シンザンが気付いた。

 ウメノチカラから説明を引き継いだバリモスニセイが、硬い声でその解説の続きを述べる。

 

 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 さらに彼女は優勝したその阪神ジュニア級ステークスでレコードタイムを叩き出している。

 つまりこのレース、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 しかも前走の同条件のオープン戦で不良バ場にも慣れたとすれば・・・・・・」

 

 「いや、大丈夫だと思うけどね」

 

 もはや彼女に死角はない。

 そう言おうとしたバリモスニセイを遮るようにシンザンはプリマドンナの有利を否定した。

 自信を漲らせてパドックから退くプリマドンナと入れ替わって現れたのは、紫のドレスに身を包んだ鹿毛のウマ娘。

 指先にまで気品を漂わせるその立ち姿に一瞬、その場の全員が目を奪われた。

 

 「あの目を見なよ。ヤマニンスーパーと同じ色だ」

 

 『4枠11番、カネケヤキ。4番人気です』

 

 6着、4着、2着。

 あれがここ最近勝利から遠ざかり、4番人気まで身を落としたウマ娘と言われて誰が信じようか。

 まるでそこがレースのパドックではなく、パリ・コレクションのランウェイと錯覚するような。

 言葉無くして己の力を雄弁に語り、鮮烈な印象を残して彼女は毅然と舞台を退いていった。

 

 

 

 

 「ご機嫌よう、カネケヤキさん」

 

 プリマドンナの枠番は10でカネケヤキは11、ゲートに入ると隣同士になる。

 いち早くゲートインしてその時を待っていたカネケヤキは、隣に収まった彼女にそう話しかけられた。

 

 「どうしましたか? プリマドンナさん」

 

 「遅ればせながらご挨拶をと。(わたくし)、前々からこのレースにおける1番の強敵は貴女であると確信しておりましたのよ。人気の優劣ではない、パドックで見せた貴女の気位に敬意を表して・・・・・・良いレースにしましょう」

 

 「・・・・・・残念ですが、そのお願いは聞けません」

 

 予想外の返答に目を丸くするプリマドンナ。

 カネケヤキの視線は真っ直ぐ前に向けられている。

 見据えるはゴール。トロフィーを掲げる己の姿。

 なりたい自分に成るために、勝利を誓った者の目だった。

 

 「良いレースとは勝つ側の言葉。そして私はこのレースで、その言葉を私以外が使う事を許す気は全くありませんから」

 

 『クラシック戦線の幕開け「桜花賞」、 咲き誇る桜が女王の誕生を待ち望む! 勝利を祝う花吹雪は誰の頭上に舞い踊るのか!?

 各ウマ娘ゲートイン完了、体勢整いました────

 ───────スタートです!!』



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20話

 一斉に走り出した。

 どのウマ娘も出遅れの無い綺麗なスタートだ。それだけで桜花賞のレベルの高さが窺い知れるが、同時にこのレースが求めてくるレベルの高さを全員が知ることにもなる。

 出遅れがないという事はバ群が固まるという事。

 23人立ての大レース、熾烈なポジション争いを繰り広げつつウマ娘たちは最初のカーブへと殺到する。

 

 『各ウマ娘一斉に第2コーナーに向かう! 激しい先行争い、まず真ん中からプリマドンナ! その内と外にフラワーウッドとブランドライトが続いております! 大外を回りましてマスワカ、6番手にはカネケヤキ!!』

 

 「先頭はプリマドンナか。流石にスタートも上手いな。いち早くハナに立ってポジションを奪った」

 

 「だけどケヤキさんも負けていません。先行策の位置取りとしては理想的なポジションです。あの場所なら先頭を狙いつつ様子を窺える」

 

 「がんばれー」

 

 『第2コーナーを回って向こう正面に向かいます! 早いペースのレース展開でプリマドンナが2番手以降を引き連れて第3コーナーへと───』

 

 「やあああっ!」

 

 歓声と分析、呑気な応援が渾然となった阪神レース場、実況を遮るように1人のウマ娘が加速した。

 先頭争いをしていたプリマドンナとブランドライト、そしてフラワーウッド。

 レースはまだ序盤。しかしそこでフラワーウッドがプリマドンナからハナを奪った。

 仕掛けるには早いかというタイミングだが、比較的距離の短いマイル戦ならばそうおかしな判断ではない。相手のルートを塞ぐかペースを乱すか、距離が短く体力が温存しやすいぶん駆け引きの密度が跳ね上がるからだ。

 

 (なるほど、私を先頭に置くことを危険視しましたか・・・・・・、!?)

 

 2番手に下がったプリマドンナがフラワーウッドの意図を考える。

 まだ順位は悪くない。ここで焦ってくれるなら後半で差し返すのは容易だろう。そう考えていたがしかしその時、プリマドンナの後ろからさらに複数の足音が急速に迫り、そして追い抜いていったのだ。

 

 『内からオーヒメ、外からはマスワカ! インコースからフラミンゴが良い位置に上がって参りました! その後テルクインにカネケヤキ、外にはヤマニンルビーであります!!』

 

 フラワーウッドに釣られてかそれとも他の理由があるのか、予想外の動きに目を丸くしているプリマドンナが一斉に速度を上げてきた出走者たちに交わされていく。

 そして上がってきたのは実況に名前を呼ばれた彼女達だけではない。呼応するようにミスミー、アムビジョン達が前に出て、プリマドンナは一気に中団以下まで呑み込まれてしまった。

 

 「流れが変わった! フラワーウッドさんに触発されたんでしょうか、あそこまで呑まれると抜けるのは難しいですよ」

 

 「プリマドンナは反応が遅れたように見えるな。あそこまで一気に動かれたら無理もないが、しかし随分と動きが同期していたような・・・・・・」

 

 「そうだね。釣られたっていうか揃ったって感じに見えた」

 

 ここまでがんばれーとしか口に出していなかったシンザンが唐突にはっきりと意味のある事を言った。

 思わず注目するウメノチカラとバリモスニセイ。

 柵に寄りかかって前髪を弄りつつ、シンザンは気の抜けた声で駆け抜けていく同朋達に目を細めていた。

 

 「なーんだろうね。最初に抜けたフラワーウッドも加速してきたその他の子も、みんなプリマドンナを見てた気がするんだよねえ」

 

 

 「行かせないから・・・・・・っ!」

 

 「前には出してあげないよ!」

 

 「「 ひーん・・・・・・! 」」

 

 そんな台詞を吐くミスミーとフラミンゴ。

 大差で最後方をぽつんと2人走っているミンドクインとニホンピローの悲鳴がか細く響いている。

 シンザンの読みは当たっていた。

 9戦7勝、阪神ジュニア級(ステークス)レコードホルダー『プリマドンナ』。

 1番人気まで推されるに相応しいウマ娘。そんな彼女が他の出走者にマークされない訳がない。

 軽快に先頭を行く彼女に危機感を抱いて()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それがプリマドンナを背後から襲った大顎の正体だった。

 レースに絶対はない。

 例えそれが偶然であろうと、幾重にも重なった意図に絡まってしまえば勝利は手堅いと思われている者ですら容易に窮地に追い込まれる。

 その()()()や結び目に絡まりたくなければ冷静な思考と戦況を俯瞰する視点、その2つを常に働かせ続ける他ないのだ。

 そう、例えば彼女のように。

 皆がプリマドンナに注意を偏らせて動いている中で、彼女だけが自分の勝利に向けた最善を積み重ねていた。

 

 『第3コーナーに入りました先頭は7番人気フラワーウッド! 内側に2番手オーヒメ、3番手はマスワカであります!

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()!! 先頭集団が一塊になって第4コーナーに差し掛かる!!』

 

 再びスタンド前に現れたウマ娘を歓声が出迎える。

 名前を呼ばれたフラワーウッドにオーヒメ、マスワカにカネケヤキがほぼ一団となってカーブを曲がる。

 ゴールまで残り400メートルを切った。

 脚に力を込めて姿勢を低く。

 一斉にスパートを始めたウマ娘の中で、先団の真ん中から飛び出してきた1人の鹿毛のウマ娘。

 紫色のドレスを翻し、白い長手袋を煌めかせて彼女は誰よりも先頭に躍り出る。

 

 『()()()()()()()()()()()()()()()!! じわりじわりと後続を引き離していく! 他のウマ娘は差し返せるか、残り300メートル正念場!!』

 

 (抜け出せない! このままでは!!)

 

 焦燥するプリマドンナ。

 しかし前方への道は一向に開けない。

 息切れで速度が上がらず、かつ自分よりトップスピードに劣る者たちに囲まれて彼女は下げられた順位を上げられずにいる。

 厄介なライバルが縛り付けられているその間に先頭のカネケヤキを追い抜きにかかるフラミンゴとヤマニンルビー。

 だが届かない。

 レース開始前にプリマドンナが言っていた事は皮肉にも正しかった。

 皆がプリマドンナという大きな敵に釘付けになっている間に、彼女だけが己の走りを最良の形で完遂したからだ。

 

 (どうして今まで見えていなかった? 私は、私達は! 決して気を抜いてはいけない相手から目を離してしまった!!)

 

 

 ─────You may want to get her back(彼女を捕まえたいんでしょう?).

 

 

 『ゴールまで残り200メートル! 2番手争いはフラミンゴとオーヒメ! 外から突っ込んできたヤマニンルビー必死に追うが届かないッ!』

 

 

 ─────That's why you cannot have it all(だからこそそんな事はさせない).

 

 

 「勝つのは前提。その上で汗と泥に塗れるレースに理想たる『華やかさ』を体現するものがあるならば」

 

 

 ─────Have it all(ぜんぶ叶えてやる). Have it all(全て手に入れてやる).

 

 Have it all all all.....(全部、全部、全部を)──────

 

 

 「それは────『勝ち方』に他ならない!!」

 

 

 『ゴーーーールイン!! 先頭はカネケヤキ!()()()()()()()()()()()()()!! ライバル達を退けて、見事桜の道を駆け抜けた─────っっ!!』

 

 紫と黄のドレスが躍り、大歓声が上がる。

 誰よりも速くゴール板を駆け抜けたウマ娘の名を実況が高らかに謳い上げた。

 第24回桜花賞。

 勝利を飾った鹿毛の彼女は観客席に向けて優雅に一礼をする。

 弥生に咲いた桜の頭飾り(ティアラ)は、カネケヤキの頭上に戴かれる事となった。

 

 『2バ身離れて2着はフラミンゴ、僅差でヤマニンルビー3着! 美しい走りでしたカネケヤキ! クラシック最初の八大競走「桜花賞」、今年の桜の女王の玉座は彼女が勝ち取りました!!』

 

 『迷いの無いレース運びでしたね。常に状況を俯瞰してベストの選択をし続けた結果だと思います』

 

 「いや強かったなカネケヤキは! それにこう何というか、華やかというか!」

 

 「ああ。次のレースが楽しみだ」

 

 「・・・・・・今のレースはどう見る?」

 

 「そうだな。徹頭徹尾()()()()()()に荒らされた展開だったんじゃないか」

 

 ライバルのレースは当然見に来ている。

 観客達が口々にカネケヤキを褒め称える中、古賀に聞かれたトレーナーはそう答えた。

 

 「プリマドンナは間違いなく優勝候補の筆頭だった。カネケヤキが劣っている訳じゃないが、プリマドンナが勝つ可能性はかなり高かっただろうな。

 だが、それだけに彼女を警戒するウマ娘は多かった・・・・・・いや、()()()()()()

 彼女に対する警戒と牽制の数がこういった展開を生み出したんだろう」

 

 「ウマ娘達の心が作り上げた、まさに姿無き魔物だな。その点カネケヤキは本当に見事だった。あの動きの迷いの無さ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。あるいは桐生院さんが立てた作戦という事もあり得るが、いずれにせよそれを実行できたのはあの子自身の強さだな」

 

 「この大人数でのスタートから難敵をマークできる位置に着く巧さと、そのマークを切ってタイミング良く仕掛ける果断さ。そして他のウマ娘を引き離す走り。・・・・・・頭の痛いライバルだよ、本当に」

 

 逆にプリマドンナの敗因を考えるなら、恐らくは出走者の多さが1番に挙げられるだろう。

 もしかすると彼女は未知の人数が出走しているこのレースを、普段のオープン戦と同じように走ってしまったのかもしれない。

 人数が増えればマークしてくる敵も増える。1番人気まで推される実力があるなら尚更だ。そこにいつものように振り切る感覚で走っているところに想像を大きく超える人数からのマークが入ってしまい対応が遅れたのではないか?

 それが真実であるかどうかは、本人に聞かねば分からないが。

 

 「カネケヤキ!」

 

 控え室に戻る地下道、トレーナーである桐生院翠が駆け寄ってくる。

 

 「よくやったわ。非の打ち所がないレースだった。『桜花賞』1着、素晴らしい結果よ」

 

 「ありがとうございます。だけど私の目標には、私の理想にはまだ足りません。もっと、もっと走りを突き詰めなければ」

 

 「流石ね。だけど焦っては駄目よ」

 

 一歩ずつ確実に進んでいきましょう、と。

 焦るなという言葉が自分の何を指しているかを理解しているカネケヤキはその言葉には答えない。

 隠していたつもりの焦燥を見抜かれて思わず息を詰まらせた彼女の肩に、桐生院は優しく手を置いた。

 

 「まずはインタビューとウイニングライブからね。・・・・・・お疲れ様。おめでとう」

 

 その言葉でようやく力が抜けたらしい。

 強張っていた肩の力を抜いてようやく込み上げてきた勝利の実感と喜びに、はい、とカネケヤキは花が綻ぶように笑った。

 

 写真撮影にインタビュー。

 八大競走の勝者に対して行われるそれらの規模はオープン戦の比ではない。

 トロフィーを手に笑うカネケヤキを囲む大勢のカメラマンがシャッターを切り続け、記者達は何本ものマイクを向ける。

 見事な走りを見せてくれた今年度の桜の女王を前に、彼らも興奮を隠しきれないようであった。

 

 「おめでとうございますカネケヤキさん! 今のお気持ちは!?」

 

 「はい、とても嬉しいです。強力なライバル達を相手に抜け出す事ができたのは、トレーナーさんとのトレーニングが実を結んだお陰です」

 

 「今回のレースで危機感を覚えた所は!?」

 

 「そうですね、やはりプリマドンナさんが先頭を走っていた時でしょうか。彼女をどう捕らえるかは大きな問題でしたが、冷静に周囲を見れた事が勝因に大きく関わっていると思います」

 

 「知ってる? ケヤキの使ってる蹄鉄ね、あたしが使ってるのと同じやつなんだよ。いいかい、ヒンドスタン重工だよ。ヒンドスタン重工製のやつだよ。あたしのトレーナーさんもイチオシの品質だよ」

 

 近場にいた記者を捕まえて絡んでいたシンザンをウメノチカラとバリモスニセイがヘッドロックで連行していった。

 んええええ、と悲鳴が遠ざかっていくのを何人かのカメラマンがパシャパシャと撮影している様子にカネケヤキはころころと笑う。

 

 「・・・・・・え、ええと、いま連れ去られていったシンザンさん達は皆クラシック路線という事で。カネケヤキさんとは違う路線ですが、彼女らに対して何か考える事はありますか?」

 

 「うふふ、そうですね。シンちゃんもチカちゃんもリセイちゃんも、同期の中ではトップクラスの実力者だと私は思っています。

 なので3つ目を獲るレースは、とても熾烈な戦いになるでしょうね」

 

 「! 3つ目、という事は・・・・・・!!」

 

 「はい」

 

 期待に満ちた記者達に、カネケヤキは真剣な眼差しを返す。

 白い長手袋を纏った手のひらを胸に当て、撤回の利かない目と耳の群れを相手に彼女は力強く宣言した。

 

 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()。1つ目は今日獲りました。残るは『オークス』、そしてその次はクラシック路線と激突する『菊花賞』。

 この宣言の証明として次の舞台(オークス)では────必ずや今日以上の走りをしてみせましょう」

 

 その場の全員が湧き上がった。

 一斉に切られたカメラのシャッター音が爆発的なボリュームとなって炸裂し、会見の席は加熱した空気の中で幕を閉じた。

 ─────そして今度は、勝者の舞台が始まる。

 汗を落として化粧を直し、勝負服姿で開始を待つカネケヤキの背後から、バックダンサー用の舞台衣装を纏ったウマ娘が声を掛けてきた。

 

 「おめでとうございます、カネケヤキさん。7着という結果に終わってしまっては、賞賛の言葉も格好が付きませんわね」

 

 「いいえ。このレースは誰が勝っても、それこそあなたの・・・・・・プリマドンナさんの完勝に終わってもおかしくありませんでした。

 しかし私はこれから更に強くなる。次にまた戦う時は、今日とは別物になった私を見せる事ができるでしょう」

 

 「次に戦う時、ですか。残念ながら、それは随分と先の話になりそうですのよ」

 

 それはどういう・・・・・・、と問いかけようとした時に気がついた。

 プリマドンナの舞台衣装、その太腿の部分に普通では身に付けない装飾があった。その装飾は何かゴツゴツとしたものの上に巻かれているようで、彼女の脚線とは合わない歪な押し上げられ方をしていた。

 あの装飾の下には何があるのだろう? まるで何かの器具が取り付けられているような─────

 

 「ッッッ!? あなた脚が─────」

 

 「医師とトレーナーさんには止められました。ですがライブから抜ける気は絶対にございませんわ」

 

 血相を変えたカネケヤキをプリマドンナは確たる強さで抑え込んだ。

 まだライトに照らされる前の暗闇の舞台を見つめ、プリマドンナは狼狽えるカネケヤキに静かに語る。

 

 「ウイニングライブとは応援して下さった皆様に感謝を伝える場。そして敗れた者達が勝者を讃え、悔しさを力に変える為の儀式ですわ。

 (わたくし)は皆様の期待に応える事が出来なかった。そして脚が治った後、これまでのような強い走りが出来る保証もない。

 だから私はこの舞台に立たなければならないのです。それが競走ウマ娘としての私の意地」

 

 カネケヤキの息が詰まる。

 今の彼女とレース前に相対していたら、カネケヤキは気圧されたまま敗北を喫していたかもしれない。

 大きなものを失ってなお胸の底に鈍く輝くプリマドンナの黒鉄のような覚悟は、それ程までに堅く、重たいものだった。

 

 「カネケヤキさん、貴女は前を向いて歌いなさい。(わたくし)はその後ろで貴女を讃えます。叶わなかった私の願いを、勝手ながら背負って頂きましょう。

 ────次は『オークス』。トリプルティアラの2つ目を、必ずや獲得して下さいませ」

 

 

 そして歓声が上がる。

 幾人ものバックダンサーの前で色とりどりのライトに照らされたヤマニンルビーとフラミンゴ、そしてカネケヤキが踊っていた。

 勝負服を来て歌い踊る栄誉を勝ち取った上位3人。

 彼女らの前には自分達を讃える者達が、後ろには悔しさを噛み締めた者達がいる。

 そして、襲う苦痛を押して笑顔で躍る彼女が。

 

 自分は背負った。

 彼らの声援を。彼女の想いを。

 次も頑張れ、勝ってくれと自分に願いをかける者達に、任せてくれと答える為に。

 八大競走『桜花賞』の勝者、選ばれた者しか歌えない曲を、カネケヤキは強く、高らかに歌い上げた。

 

 

 「そうか。これが八大競走の舞台か」

 

 躍るライトに響く歌声。

 大喝采を浴びるステージを見据えながら、ウメノチカラは腕組みした手に力を込める。

 

 「ケヤキの応援に来て本当に良かった。この空気を肌で感じられた事には値千金の価値がある」

 

 「応援していた者が最前列の真ん中で歌う姿は昂りますね。何千ものこれに囲まれて歌うケヤキさんは本当に栄誉でしょう」

 

 「全くだね、あの気の入った歌い様を見なよ。今までのウイニングライブの比じゃあない。あれが勝者だ。あれが勝ち取った奴の晴れ姿って訳なんだ」

 

 眩しいものを見るように目を細めてしみじみと感じ入るシンザン。

 しかしそこにある想いは遠く眺める憧れではなく、いずれ手に入るものに対する待望。

 まるで注文した極上の料理がテーブルに出されるのを待つような心持ちで、彼女は酷くゆったりと(うそぶ)いた。

 

 「(たぎ)るじゃないか。考えてもみてごらんよ。今日の2週間後には、あたしがあそこに立ってるんだ」

 

 他2人が目線を研いで沈黙する。

 同じ競技者、同じ路線に進んだ者としては全霊を以て否定せねばならない物言いなのだ。心に反抗心が生まれるのは当然だろう。

 しかしシンザンがこういう物言いをした時に真っ先に嗜めるか噛みつき返すのはウメノチカラなのだが、今回はそうではなかった。

 

 「シンザンさん。その物言いは少々・・・・・・、驕りと過信が過ぎるのでは?」

 

 バリモスニセイだった。

 てっきりウメノチカラが差し返してくると思っていたシンザンが僅かに目を丸くするが、そのすぐ後にはいつもの不敵な表情に戻っている。

 

 「驕り? 過信? いいじゃないか。自分が勝つ事を自分で確信しないでどうするんだい」

 

 「はい、それも正しい考えだと思います。地に着いていないその足を(すく)おうという者がいない限りは」

 

 「どうかね。そもそも掬える奴がいるのかい? 浮いてるらしいあたしの足を」

 

 「少なくともここに─────」

 

 「2人とも落ち着け」

 

 間に割って入ったウメノチカラが2人の肩を叩いて嗜める。

 バリモスニセイよりも割と強めに叩かれて文句ありげなシンザンの視線を華麗にスルーしつつ、彼女は友人の歌う舞台を見つめていた。

 

 「火花を散らすのはここじゃなくていいだろう。私も言いたい事はあるが、今は祝わないか。最初の大舞台を見事に先駆けた、私達の友達を」

 

 そう言ってウメノチカラは2人の視線を前へと促す。

 堂々と舞い、高らかに歌う。己の象徴たる服を纏い、何万という憧れと賞賛を一身に受けるその姿。

 誰より華やかなカネケヤキのその在り様に彼女達は目を奪われた。

 主役の位置で光り輝く彼女に、自分の姿を重ね合わせながら。



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21話

 そして翌日紙面を賑わせたのは『カネケヤキの桜花賞制覇』と『プリマドンナの負傷・復帰時期未定』の2つの見出し。

 鮮烈に明暗の分かれた2つの報せは、クラシック戦線の栄華と過酷さを何よりも鮮烈にウマ娘達に思い知らせる事となった。

 勝者と敗者、苦難の足枷。残酷なコントラストに彩られたバトンは、そして王道路線の選択者たちに受け渡された。

 奮い立つ者に恐れる者。

 抱いた感情はウマ娘それぞれだろうが、よもや「面倒臭い」と感じている者は流石にいるまい。

 

 『はいワン・ツー・ターン! 笑顔が固い! 動きが緩慢!! 指の先まで気を抜かないっ!!』

 

 『んぇぇぇええええ!!!』

 

 「今日も汚いなぁ・・・・・・」

 

 いた。

 ダンスレッスン用の教室から漏れ聞こえてきたシンザンの鳴き声に、ドアの前まで様子を見に来たトレーナーは1つ頷いてその場を去る。

 前にセンターの振り付けしか練習していない事をトレーナーが咎めたにも関わらず、それを改善する気配が無いことをコーチから伝えられたトレーナーがとうとうコダマにタレ込んだのだ。

 今はバックダンス用の振り付け、要するにレースの結果が4着以下に終わった時のポジションを教わっているらしい。

 彼女は自分が『無駄』と感じた事をしない。

 一生踊る事のない振り付けを覚える意味が分からないと頑なだったシンザンだが、()()()()()()()()()()()というコダマとの個人面談に屈してこうしてトレーニング後に遅れを取り戻すためのマンツーマンの折檻(レッスン)を受けているという訳だ。

 そして開催まで2週間を切った大舞台を前にトレーナー室で追い切りメニューの調整をしていたところ、ノックもなくそこそこ大きな音でドアを開けて入ってきたウマ娘がいた。

 誰あろうシンザンである。

 普段はレッスンが終わるとぐったりと寮へ直帰するそうだが、そろそろ腹に据えかねるらしい。

 つかつかとトレーナーに近付いてきたシンザンは、何とかやり過ごせないかなあと気付かないふりをする彼の肩を掴んで振り向かせる。

 

 「トレーナーさん。すぐにコダマさんにもうレッスンは必要ないって言いな。負けた時の想定なんてあたしにゃやる必要も意義もないだろうがよ」

 

 「無茶を言うな。怒られたのは俺だって同じだぞ。自主性に任せるのはいいが1歩間違えれば放置と変わらないって。それも5つ以上歳下の()から」

 

 「あんた正月に言っただろ。忘れたとは言わせないよ。『お前が自分の天運を信じるなら、実力は俺が担当する』って。・・・・・・あんたが担当したあたしの実力は、3着にも入れないかもしれない程度でしかないってのかい?」

 

 ・・・・・・非常にシリアスな物言いだが、問題の根っこが「もうレッスンやりたくない」なのだから締まらない話である。

 非常に微妙な顔をしていたトレーナーだったが、しかしそれを言質に取る論法で来るのなら引く訳にはいかない。

 ずいっと顔を寄せて詰めてきていたシンザンに逸らしていた目線を合わせ、トレーナーは冷たい石のような声で彼女に突きつける。

 

 「お前達はプロだ。ファンの方々がお前達に最高の姿を望んでいるのなら、走りでもライブでもその期待に足るものを魅せる義務がある。

 そこに綻びがあってはならない。競走ウマ娘だけじゃない、どんな場所に立ってもその場所での最高をいつでも発揮してみせるのが一流というものだ」

 

 「発揮するに決まってるだろ。だからこんな無駄な事させんなって話をしてんだよあたしは」

 

 「その傲慢さはお前の強さだ。だがそれは少し踏み外せば怠慢に変わる。お前のように()()()()()()()()()()()()が『私は違う』と嘯きながら沈んでいくのを俺は何度も見てきたぞ。

 お前がどれだけ『自分は別だ』と考えていて、たとえそれが事実だとしても────俺が担当する実力に、そんな弛みは許さない」

 

 『驕ること』と『舐めること』は違う。

 舐めた言動は内面を腐らせ、腐った内面は言動を変えるのだ、と。

 今まで自分の気性を尊重してきたトレーナーの初めての説教にシンザンは思わず怯んだようだった。

 シンザンを聞かせる体勢にしたところで、トレーナーは彼女の要求に対する答えを整然と述べた。

 

 「無駄だ何だの話をするなら、サボった結果こんな状況になる方がよっぽど無駄だろう。ダンスが仕上がればコダマのレッスンも終わる、真面目にやってさっさと仕上げなさい。幸いお前は要領が良いんだから」

 

 「・・・・・・はーい」

 

 少なくとも反論は無いらしい。しかしやはり不満は残るのか不承不承といった様子で唇を尖らせるシンザンに、トレーナーは少しばかりのフォローを入れる。

 

 「もし不満ならそうだな、これからもレースに勝ってセンターに立ち続けてくれ。それを最後まで貫き続けたのなら、俺はお前に誠心誠意頭を下げよう」

 

 「言ったね?」

 

 部屋を出ようとしていたシンザンが足を止める。

 歩く途中で急停止して片脚立ちで仰け反るようにして上半身をトレーナー室に留めた彼女は、気に食わない目の前の男をジトッとした眼差しで睨みながら人差し指を向けた。

 

 「吐いた唾呑むんじゃないよ。この大舞台でまず1回、()()()()()()()を見せてやるからね」

 

 そんな台詞を残してドアが閉まった。

 期待してるよとドア越しに言葉を投げたトレーナーはちらりと時計の時刻を確認する。

 もう寮の門限が近い。自由に出来る時間がないというのは確かに彼女には自業自得とはいえかなりのストレスだろう。これを機に今後のレッスンはサボらずやってくれるといいのだが。

 さて、とトレーナーは仕切り直すように机に向き直る。

 弛みは許さないと言ったからには自分も気を抜いていられない。

 センターに立ち続けた彼女に頭を下げるのは、ひいては自分の理想・目標になるのだから。

 

 「・・・・・・火を着けるのが上手いねえ。相変わらず」

 

 口角を面白そうに曲げながらそう独り()ちる。

 来たるその日まで1週間と少し。

 ここ最近よりは軽い足取りで、シンザンは日の沈みかけた寮までの帰り道を歩いていった。

 

 

 

 

 「よう。担当の調整の具合はどうだ?」

 

 「上々だ。コンディションに懸念すべき点はない」

 

 「自分もやれる事は全部やりました。後はあいつを信じるだけです」

 

 (まばら)に降る雨の中、雨具を着た男3人が言葉少なに会話を交わす。

 普段は友人。レースではライバル。

 その関係はウマ娘だけに止まらない。大一番を前に力を尽くすのは彼女らのトレーナーとて同じ事。

 パドックに現れた1枠1番のウマ娘、自分の担当の前に立ち塞がる強敵の1人を、トレーナー達は鋭い面持ちで見据えていた。

 

 4月19日『皐月賞』。

 ティアラ路線の桜花賞に続く、()()()()()()()()

 『最強』の座を夢に抱いて心を燃やすウマ娘たちが刃を交わらせる最初の舞台が、とうとう幕を開けた。

 

 

     ◆

 

 

 「いやあ、初めて勝負服を着たウマ娘が上がるパドックはやっぱいいもんだな! 張り切ってるのがこっちにまで伝わってくる」

 

 「ああ、誰が勝つか全く予想がつかん。あの気迫は全員に可能性があるだろう。人気は低いがバリモスニセイもひょっとするかもしれないぞ」

 

 「13番人気は流石に無いだろ。メイクデビュー以降勝ち切れてない勝負ばかりだし、やっぱりここはシンザンで決まりだよ」

 

 「ちょっとアイツしばいていいっスか」

 

 「落ち着け莫迦(ばか)もん」

 

 聞こえてきた会話の主に舌打ちと共に詰め寄ろうとした佐竹を古賀が止めた。

 ギャラリーが増えれば口さがない者も多くなる。そういう相手への対処法を身に付けるのもトレーナーの通過儀礼のようなものだが、腕はあっても学園のトレーナーの中ではほぼ最年少の佐竹はまだ精神的な未熟さが残っているようだった。

 

 「後は信じるだけと自分で言ったろう。目に物見せるのは彼女の役割だ、熱くならずに構えてろ」

 

 「・・・・・・はいッス」

 

 「分かればいい。とはいえ気に食わない気持ちはよく分かるぞ? もうどこで聞いても、この皐月賞はシンザンの話で持ちきりだ」

 

 皮肉げな顔で周囲を見渡す古賀。

 声が集まって一塊となった音の中からでも『シンザン』という名前は聞こえてきた。

 ここまで無敗の5連勝、破竹の勢いでスプリング(ステークス)を制した今最も勢いのあるウマ娘。かつて『新参(シンザン)』と揶揄されていたとは思えない程の注目を集めており、レース前から盛り上がっていた彼女の評判は先程のパドックでさらに話題に上る事になった。

 例えばシンザンに対して前走のスプリング(ステークス)のリベンジに燃えるウメノチカラ。

 例えば13番人気という下評をこの大一番で引っ繰り返し己の力を証明せんとするバリモスニセイ。

 誰も彼もが眼光と立ち姿で気炎を吐くパドックで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 勝負服姿でのっそりと現れたと思えば降り始めた春の小雨の風情を楽しむように空を見上げ、そして思い出したように観客たちにゆるゆると手を振り、適当に腕組みのポーズをしてみせてからのっそりと退場していった。

 『・・・・・・牛か?』

 あまりにも落ち着き払ったその様子に、観客の誰かがそう呟くほどだったという。

 

 「あそこまでパドックで異彩を放つウマ娘はいない。少なからず緊張するものなのに、あの肝の太さは大したもんだ」

 

 「あれは自分が勝つのが既定路線と思ってるやつのリラックスですよ。・・・・・・前から気になってたんですが、レース前に一体なんて声を掛けてるんですか?」

 

 そう聞かれたトレーナーは思い出す。

 パドックに上がる前、控え室のイスで鼻歌でも歌いそうなほどにゆったりとしていたシンザンの様子。

 強張りは無く緩んでいる訳でもない、ベストパフォーマンスを確信できるコンディションだった。

 もはや自分が気を揉む事はなく、ただ「行ってこい」と送り出すのみと思われたその時、シンザンの方からトレーナーに会話を持ちかけたのだ。

 

 『トレーナーさん。そういやあたし、前から気になってる事があってさ』

 

 『っ、どうした?』

 

 思わず身構えた。

 シンザンの気になっている事というのが何かは分からないが、もし質問の答え方によってはレース直前にブレが生じるかもと考えると気楽ではいられない。

 自分よりも神経質になっているトレーナーに対して、シンザンが問いかけた心の(しこり)とは──────

 

 

 『なんで4月(卯月)にやるのに「皐月」賞なんだい?』

 

 『創設された当初から2回名前が変わって今の「皐月賞」になったんだが、レースが初めて開催されたのが4月の事でだな・・・・・・』

 

 

 「・・・・・・普段通りの雑談だよ。元々あいつが図太すぎるだけだ。俺は何もしていない」

 

 またそれだ、と言いたげな佐竹の不満顔。

 もしやその雑談の内容と言葉選びに秘密があるのではと更に探りに行く姿勢になっている彼だが、そう答えたトレーナーの目がどこか遠くを眺めているのを古賀だけは理解していた。

 

 

 (成る程、こりゃいい。一足先にケヤキが感じたのはこれだった訳だ)

 

 隙間なくひしめく観客の数。

 色とりどりの己の象徴を纏った出走者達。

 そして胸を満たす高揚。

 挙げる全てが普段とは別格、オープン戦とは比にならない『八大競走』の熱気を、シンザンは小雨に立ち上る芝と土の匂いと一緒に胸一杯に吸い込んだ。

 特に『勝負服』だ。

 これを全員が着ているというのがいい。

 着ているだけで溢れるこの全能感を全員が感じているのが最高だ。

 そんな奴らと一緒に走れば自分は絶対に楽しい。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 期待に胸を躍らせながら、シンザンは共に走る友人2人に朗らかに声をかけた。

 

 「ウメもニセイも難しい顔してんじゃないよ。せっかくの舞台だ、思い切り楽しもうじゃないか!」

 

 

 

 その言葉にどう答えたか、2人は覚えていない。

 ああとかうんとか、そんな返事をした気がする。

 頭に残らなかったのだ。

 前に1度見たはずの姿。紋付袴にも似た己の象徴を纏ったシンザンが一瞬、()()()()(おお)()()()()()()()



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22話

 『さあどのウマ娘も気合十分、続々とゲートに収まっていきます。見事期待に応えるか1番人気シンザン! 飛ぶ鳥を落とすか2番人気アスカ! 4連勝目を飾れるか3番人気クリベイ! 最も注目を浴びる彼女達はどんな走りを見せてくれるのか!』

 

 弾倉に装填されていく色とりどりの弾丸。

 銀色の箱に収まったバリモスニセイは胸に手を当てて大きく深呼吸をした。

 思えばシンザンと激突するのはこれが初めてだ。

 今やクラシック戦線の先頭に立つ彼女。甘く見積もれる訳がない。自分を含めてこのレースに出走する者全員、大なり小なり彼女のマークや対策を考えているだろう。

 

 (覚悟を決めて、それでも気圧された)

 

 気負い一つ無い立ち姿。

 八大競走という大舞台でああも肩の力を抜いて笑える肝の太さに、バリモスニセイは一瞬呑まれた。

 先のスプリングステークスで彼女と戦ったウメノチカラも感じたのだろうか。その意図無くして放たれる、圧倒的なサイズ差にも似た威圧感を。

 

 「ふんっ!」

 

 乾いた音が別々のゲートから2つ同時に響く。

 ウメノチカラとバリモスニセイが己に喝を入れる為に自分の頬を両手で挟むように打ったのだ。

 離れているのに行動が被った気恥ずかしさに僅かに頬の赤みが増すが、しかしそれが逆に緊張を解きほぐす切っ掛けになった。

 相手が強いのも強い相手に気圧されるのも、()()()()()()()()()()()()

 その中でどこまで自分を貫けるか。走りも心も、レースにおいてはそれが全てだ。

 ゲートの中で決意を抱き、滾る心を前の足に込めてウマ娘達はその時を待つ。

 今か。まだか。もう来るか。

 撃鉄に叩かれるその時を闘志の炸薬は今や遅しと待っている。

 『今度こそ勝つ』。

 『リベンジを果たす』。

 真の実力を示さんとするバリモスニセイに前走のリベンジを望むウメノチカラ。

 視界を占める鈍色の扉を睨む彼女らの中でただ1人、紋付羽織を纏った鹿毛が楽しそうに笑っていた。

 

 『ゲートイン完了しました第24回「皐月賞」、体勢整いまして─────今スタートです!

 各ウマ娘綺麗なスタートを切りました! 最初の先行争いはガルカチドリとバリモスニセイ、続いて3番手はウメノチカラ、1番人気シンザンは4番手!

 その後ろにアスカという体勢であります!』

 

 歓声と共にゲートからウマ娘達が飛び出した。

 ミスなく飛び出した24人は束の間だけ綺麗な横並びになり、そして各々の作戦によってそのラインは大きく崩れていく。

 逃げや先行を打つ者は前、差しは中段。後半の追い込みに懸ける者や判断の遅れた者は後方へ。

 間を空けずに形を変えて足音を轟かせるバ群は1匹の単細胞生物のようにも見えた。

 

 「バリモスニセイは逃げを打ったか。バ群に呑まれないメリットはあるが、あまりガルカチドリとの削り合いが長引くと不利だな」

 

 「問題ありませんよ。ニセイの粘り強さは目を見張るものがある。先に潰れるのは向こうの方です」

 

 『さあハナを奪い合うバリモスニセイとガルカチドリに引っ張られて集団が第2コーナーへと殺到する! ファイトモアとアスカがインコースから上がってきた、シンザンは変わらず好位置をキープ。

 ニューキヨタケ、キオー、ハナビシ、ダイセイオーと続いてマルサキング、ヤマニンスーパーは中団の位置につけております!』

 

 「・・・・・・っ、」

 

 ガルカチドリの頬に早くも汗が伝う。

 他のウマ娘と作戦が被るのはよくある事だ。この大人数で紛れないように早々に先頭に立とうと考える者がいるのは別にいい。

 問題は隣の彼女にどれだけ付き合うか。隣を走るバリモスニセイとの先頭争いをまだ続けるべきかだ。

 

 (このペースのまま先頭まで走り切れるって言わんばかりだな)

 

 このまま張り合うか、先頭を譲るか。

 すぐ近くを走る自分に目線もくれない自信満々のバリモスニセイの走りに、ガルカチドリは脳内に選択肢を巡らせる。

 ─────恐らくはペースを緩めた方がいい。

 このペースが続けば後半には失速は免れないし、逃げたウマ娘を標的にしようと考える者は多いはずだ。

 体力は残しつつ付かず離れずの位置で他のウマ娘と一緒にせっついて消耗させるのが賢い選択だろう。

 しかし、だ。

 

 「んなせせこましいマネしてらんねえよなあ!?」

 

 「!」

 

 ガルカチドリはそれを否定。

 獰猛に叫んで彼女はバリモスニセイに競りかける。

 13番人気の彼女と15番人気の自分、何の因果か同じ境遇・同じ方法で実力を示そうとした者同士。

 鏡に映った自分を相手に退くことを彼女の闘争心が許さなかった。

 第2コーナーを過ぎた直線に入ってガルカチドリは少しだけ後ろの様子を確認し、煮える頭の冷静な部分で思う。

 最初に抜け出すことが出来てよかった。

 この天候でバ群に呑まれたら危なかったな、と。

 

 「・・・・・・雨か。小雨とはいえ雨粒や蹴られた水が目に入ったら面倒だな」

 

 そうトレーナーは呟いた。

 レースは流れて向こう正面、第3コーナー前の上り坂に差し掛かろうというところ。

 3番手の位置で巡航していたウメノチカラは改めて周囲の様子を確認する。

 依然としてバリモスニセイとガルカチドリの先頭争いは続いており、ここからでは見え難いが実況の声から判断すると3番人気のクリベイはツキホマレにアカネオーザと共に後方にいるようだ。

 

 (そして振り返っても見えない辺りアスカは中団の内側か。他の奴らの居所も大体把握できたが・・・・・・)

 

 前走で自分をブチ抜くと宣言してきたウマ娘の存在を少しだけ気にしつつ脳内に戦場の俯瞰図を描くウメノチカラ。

 しかし何より気にかかるのは、自分のすぐ後ろにいる4番手の彼女である。

 

 (シンザンめ。絶好の位置で張り付いてくる)

 

 絶好のスタートからここまで彼女のレース運びに一切の淀みがない。誰よりも先んじて好位置を確保したシンザンは、そのままウメノチカラをマークする形で4番手をキープし続けている。

 視線に気付いて返事をするように眉を上げたシンザンに、ウメノチカラは気に入らないとばかりに鼻息を鳴らして再び前を向いた。

 しかしそんなシンザンを同じようにマークしているウマ娘が1人いる。

 明確に自分に合わせたペースの足音を近くから聞いたシンザンがちらりと後ろを見れば、そこにはよく見知った黒鹿毛がいた。

 

 (ヤマニンスーパー)

 

 執念の眼差しを背中に受けつつシンザンは走る。

 ────普通は中山レース場で行われるこの『皐月賞』、今年の開催は予定が変更されここ東京レース場での開催になっている。

 そう、東京レース場。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ヤマニンスーパーにとっては2度目の場所。人数や天候は違えど奇しくも前走の再現となったこのレースは、彼女にとってノウハウを蓄積した上で臨むリベンジとなる。

 

 「今度は貰うよ」

 

 余計な息は使わず口の動きだけでそう布告するヤマニンスーパー。

 坂を駆け上るフォームとリズムに乱れはなく、前走の経験を遺憾無く実力に変換したことを示していた。

 スプリング(ステークス)ではピッチ走法で走った上り坂をシンザンも同じように上っていく。

 ただ1つ前回と違う点を挙げるとするのなら・・・・・・

 

 (ありがとねトレーナーさん。あんたのお陰で脚が軽いよ)

 

 ちっとも感謝してなさそうな顔でシンザンは軽快に脚を回して上っていく。

 ここまで脚に履いてきた重りに比べれば、この程度の坂の負担なんて大したものではなかった。

 

 そして上り坂が終わって第3コーナーの下り坂に差し掛かかり、いよいよ正念場が目前に迫ってくる。

 今を機と見るかまだ抑えるか。最良の仕掛け所を見極めんと各々が神経を尖らせて俄にペースが上がり始める頃、とうとう1人目が動いた。

 

 「ここ、かな・・・・・・!?」

 

 『ニューキヨタケがここで仕掛けた! ペースを上げて3番手まで追い上げてくる! それに呼応するように他のウマ娘達の動きも活発になって参りました!』

 

 「「うおぉおーーーーっ!!」」

 

 ニューキヨタケに触発されたように何人かのウマ娘がスパートをかけた。

 シンザンの背後でぐっと姿勢を落としたファイトモアとタケシが咆哮を上げ、その気迫に尻を蹴飛ばされた後続が慌てたように勝負に出始めた。

 第3コーナーを過ぎた辺りで脚を伸ばしてきたダイセイオーがシンザンを追い抜かしてウメノチカラに接近、3番手を争うグループに入ってきた。

 しかしシンザンはまだ動かない。

 アスカはサンダイアルの側、中団やや前方で不気味に息を潜めている。

 

 「はっ、はっ、ハァッ、くっそぉ・・・・・・!」

 

 息を切らしてゆっくり引き摺られるように順位を落としていくガルカチドリ。

 先頭争いから脱落してしまったのだ。理由は単純なスタミナ切れ。ハイペースでハナを奪い合った影響がここで現れた。

 しかしここに『彼女』の姿がない。

 彼女と熾烈な先頭争いをしていた者の姿がない。

 ()()()()()()()()()()()()!!

 

 「このペースで走って、削り合ってっ・・・・・・まだ余裕があんのかよテメェえええっっ!!」

 

 追い縋る声も置き去りにされていくコーナー中間。

 逃げ切りを策す先行勢と追い込みを図る後続の熾烈な戦火が燃え上がる中、必然の(かげ)りを見せ始めた者がいた。

 ガルカチドリを競り落としたバリモスニセイだ。

 スタミナの枯渇は逃げの常。あの削り合いを制してなお先頭に立つ粘り強い走りは驚嘆の一言だが、スタートからここまで続いた衝突に消耗していない訳がない。

 己の脚が徐々に鉛に変化していくのを彼女はじわりじわりと感じ始めていた。

 

 (流石にキツい。だけどまだいける)

 

 気合を入れ直すように大きく息を吸い込み、バリモスニセイは鈍っていく脚に鞭を入れた。

 脚の残りはもう少ない。しかしまだ使える。

 ならば最後まで出し切るだけだ。

 たとえどれだけ消耗しても、最悪ゴール板を越えた後で倒れたとしても。

 

 「先にゴールすれば──────私の勝ちだ!」

 

 「そうだね。あたしの勝ちだよ」

 

 

 するり、と。

 そんな声がすぐ近くから聞こえてきた。

 思わず振り向くと確かにそこに彼女がいた。

 後ろから仕掛けてきた者らを振り切って、いつの間にかウメノチカラや自分より先に仕掛けたニューキヨタケすら抜き去って、()()()()()()()()()()

 

 『バリモスニセイの脚がやや鈍ったか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()! 第4コーナー中間でシンザンが5番手から一気に先頭を捕まえにかかる!!』

 

 シンザンがここで起動した。

 好位置で機を伺い続け、他のウマ娘が勝負を仕掛ける中でもじっと押さえ続けてから解き放たれた末脚。

 同時に仕掛けたはずのツキホマレはまるで彼女に届く気配を見せなかった。

 第4コーナーの終わり。

 ラストスパートに向けて固まっていたバ群が横に広がり、ウマ娘達の最後の力走が始まる。

 1番人気に予期せぬ伏兵、期待通りの実力者。

 逃げ切るか差し切るか、最終直線の最前線にまず躍り出たのは、奇しくもあの日三女神像の前で想いを受け取った者達だった。

 

 『並んできた! シンザンがバリモスニセイに並んで参りました! そして後方からはウメノチカラが先頭へと襲いかかります!!』

 

 「おおおおっ! シンザンが来たぞ!」

 

 「頑張れバリモスー! 押し切れーッ!!」

 

 「ウメノチカラぁあ──────ッッ!!」

 

 観客のボルテージが一気に上昇した。

 彼らが叫ぶ自分の名前に背中を叩かれるようにスパートを掛けた彼女らは正しく疾風となってターフを駆け抜けていく。

 ウメノチカラの後ろを走るツキホマレとナスノカゼは彼女らの背中を歯を食い縛って睨みつけていた。

 速度か体力か戦略か、仕掛けたタイミングは同じなのに開いていくこの差が煮え滾るように悔しかった。

 

 「逃さないわよウメノチカラ」

 

 そしてそんな彼女らを飛ぶように追い越していく影がひとつ。

 束ねた鹿毛を靡かせて、空飛ぶ鳥のような軽快さで彼女は中団から伸び上がってきた。

 

 「言った通りにアンタをブチ抜いて! そのまま1着も攫ってやるんだから!!」

 

 『シンザンがバリモスニセイを交わして残り400! ()()()()()()()()()()()()()()()()!! 中団から抜け出たアスカが一気に先団へと飛び込んで参りました!!』

 

 「まだだニセイ! お前なら差し返せる!!」

 

 「気張り所だぞウメ─────ッッ!!」

 

 身を乗り出す佐竹に拳を振り上げて叫ぶ古賀。

 それに応えるようにバリモスニセイはインコースで粘り、ウメノチカラも懸命に食い下がる。そしてそこに突っ込んでくるアスカ。

 勝負は未だ分からない。

 自分は何と言うべきだろうか。

 「勝ちたい」でも「勝ってやる」でもなく、ただ「勝ってくる」とだけ言って控え室から出た彼女に向けて『勝て』と言うのは違う気がした。

 ならば自分も彼女の勝利に対する確信に倣おう。

 前のようにただ「勝ってこい」と言おう。

 叫ぶ言葉が観客達の声援に負けないようにトレーナーは大きく息を吸い込んで、

 

 「シンザ──────」

 

 言葉が出なかった。

 黒い羽織に真紅の長着、悠々と先頭を走る彼女が。

 必死の形相で追い縋ってくる者を背に目の前を通り過ぎたその姿が一瞬、自分の視界が絵画になったかと思う程に完成されて見えたから。

 

 (まだだ、まだ終わりじゃない!!)

 

 (諦めません! 絶対に!!)

 

 (アタシが勝つ。アタシが勝つ!!)

 

 『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()! ウメノチカラとバリモスニセイが懸命に食い下がる!

 飛んできたアスカがウメノチカラを交わして外から急接近しかしシンザンは余裕充分!!

 届くか! 届くか! いやこれはもう届かない!!

 先頭はシンザン、先頭はシンザン!!

 栄光のゴールはすぐそこでありますッッ!!』

 

 ふざけるな。

 尚も勝利を諦めず走っている者にとってシンザンの勝利が、つまり自分の敗北が確定したようなその実況はどれほど腹立たしいものだっただろう。

 しかしどれだけ追ってももう届かない。

 宣言通りに彼女は勝つ。

 小雨降り(しき)る府中の芝。触れる事も叶わないその後ろ髪の向こう側で、彼女は確かに笑っていた。

 そして────────

 

 

 『───ゴールイン!! ()()()()()()、1バ身弱離れて2着はアスカ!!シンザン堂々と勝ちました!!

 これで無敗の6連勝!! 負け無しの戦績にクラシックの冠がまず1つ─────ッッ!!!』

 

 

 決着。

 実況の叫びに観客達は拳を上げて歓声を上げる。

 見事1番人気に応えてみせたシンザンの実績に違わぬ実力に全員が惜しみない賞賛を送った。

 大記録に沸き上がるレース場の芝の上、先頭を逃した者達は敗北の味に歯噛みしながらも恐るべきライバルの背中を睨み付けている。

 殺意すら込もったその視線の中には今はまだそう大きくない、しかし確かな畏怖があった。

 それだけ彼女が強かったのだ。

 第4コーナーで一気に伸びて前の数人を纏めて抜き去り、追い込んでくる後続をそのまま楽々と押さえ込んでしまった断ち切るが如きその脚が。

 

 『クラシック三冠を手に入れる』。

 かつて彼女はそう言った。

 それは誰もが夢に見て、挑む権利すら掴めずに終わる『最強』に最も近い称号。

 その戦場は彼女と同じように豪語した者が苦杯を飲んで夢破れてきた、豪傑達の百鬼夜行。

 

 ─────だけど、これは。

 

 ─────もしかすると。本当に。

 

 勝利した側は拳を上げて、負けた側は拳を震わす。

 そんな単純な図式の中、自分を見ながら拳を天に突き上げるシンザンに対してただ1人、トレーナーは高揚に震える拳を押さえ込んでいた。



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23話

 

 「うあぁぁぁああ!! 負けたぁぁぁああ!!!」

 

 「頑張った頑張った! 次だ次!!」

 

 「分かってるようるさいなあ! 次こそ見てろ!!」

 

 観客の激励にヤマニンスーパーが叫び返す。

 しかしそのレースを見ていたカネケヤキと隣に立つ桐生院(トレーナー)には彼らのように歓声を送る余裕は無かった。

 それだけシンザンの勝ち方が圧倒的だったのだ。

 何バ身と離すのではない、余力を残してゴール板を越えるという底の見えない勝ち姿。

 彼女を相手取る者にとってこれだけ見たくもなかった光景もないだろう。相手の全容が見えなければ効果的な対策も何も考えられないのだから。

 

 「頭の痛いライバルね。スタートからゴールまでこれといった弱みが見当たらないわ」

 

 「本当にそう思います。スプリングステークスの時よりもさらに大きくなっている。きっと全力を尽くした程度では、私は彼女には勝てないでしょう」

 

 頭痛のような呻きをカネケヤキは肯定する。

 発言としては弱気だが彼女の佇まいに弱さは無い。

 勝てないと口にしたのはただの現状の認識でしかなく、続く言葉はここから更に跳ね上がるぞという決意の表明なのだから。

 

 「死力を尽くします。どうか応えて下さい、トレーナーさん」

 

 「・・・・・・当然よ」

 

 迷いのない言葉、その要求。

 まるで刃の如く真っ直ぐに自分を貫いてくる眼差しに、桐生院は強く頷いた。

 胸に燃やす決意と覚悟、その重さと代償。

 全てを背負う彼女の強さに、決して自分が負けてしまわないように。

 

 

 

 「ガチガチの結果になったな」

 

 腕組みをした古賀が難しい顔で唸る。

 

 「1着に1番人気(シンザン)、2着は2番人気(アスカ)。そして3着には4番人気のウメか。スプリングSとは真逆だ。距離が伸びたぶん紛れが無くなったか?」

 

 「それはあるだろうな。加えて23人立ての大人数で走っての結果だ、強いと言われるウマ娘達がキッチリと実力を示したレースだったと思う。

 しかしバリモスニセイは大多数にとって思わぬ伏兵だっただろうな」

 

 「伏兵じゃない。強いウマ娘が実力を示したレースだって自分で言ってたでしょ。そんでニセイはまだまだここから強くなる」

 

 「おーい。見てたかいトレーナーさん」

 

 冷静に分析しながらも悔しさに顔を歪ませる古賀に観客席の策を強く握りしめる佐竹。その2人に挟まれているトレーナーの元に、ウイニングランもそこそこにシンザンが戻ってきた。

 相変わらず引き上げてくるのが誰よりも早い。

 柵に肘を乗せてもたれかかり、口笛を吹くような調子で彼女はトレーナーに絡んできた。

 

 「今日も今日とて勝った訳だけど? これであたし何連勝目だっけ? 数えてないからよく分かんなくてね」

 

 「・・・・・・6連勝だよ。大記録だ」

 

 「つまりあたしは強いよね?」

 

 「ああ! ケチの付けようもない」

 

 「じゃあラップ走と蹄鉄」

 

 「続行」

 

 頭突きされた。

 胸の中央に額をぶつけられて()せるトレーナーに尚も食い下がる姿を2着以下の出走者達が遠巻きに見つめている。

 観客達の拍手も届かない、三冠の夢破れた者やリベンジが叶わなかった者たちの無念と歯軋り。4分の3バ身で振り切られたアスカが低い声で絞り出した。

 

 「確かにリベンジには成功したけれど。1着じゃなくてもいいとは言ってないのよ、アタシは」

 

 「・・・・・・至言だな。私の胸にも刻んでおこう」

 

 三冠はもう叶わない。

 平静を装ってそう返したウメノチカラだが、その胸の内には激情が渦を巻いていた。

 冷静に、努めて冷静に。

 何度自分に言い聞かせても自分の意思と関係無しに握り拳が震えてしまう。

 『悔しさを外に発散したらモチベーションが逃げる』。それがウメノチカラのスタンスだ。

 だけど悔しいと叫びたい。拳を地面に叩き付けたい。競技者としての理性の声をウマ娘の闘争心が振り切ろうとしていた。

 ─────畜生(ちくしょう)。そんな悪態が喉から飛び出ようとしたその時。

 

 「お疲れ様です、チカラさん。残念ですが負けてしまいました」

 

 バリモスニセイがそう話しかけてきた。

 彼女の順位は4着。ウメノチカラとはアタマ差。

 ギリギリの所で入線を逃してしまった彼女は、晴れやかな表情で額の汗を拭っていた。

 

 「最善は尽くしたと断言できますが、正直満足のいく結果ではありません。次は更に強くなった自分で相手をさせてもらいます」

 

 「悔しくないのか、お前は」

 

 口が滑ったと気付いた時にはもう遅い。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、少なくとも自分と同等の力を持っている者が負けて平気そうにしている姿に、ウメノチカラは最も忌避する自分の姿を鏡のように重ねてしまった。

 

 「悔しいですよ。まして自分は『桜花賞』の後でシンザンさんに噛み付いた身ですから。それでも」

 

 しかしバリモスニセイにそれを不快に感じる様子はない。それどころか彼女は爽やかな顔で松が描かれた紋付羽織の背中を見ていた。

 

 「それでも滾るじゃないですか。勝ちたい相手の背中が高ければ。それを超える自分を思えば」

 

 彼女は溌剌とそう言い切った。

 心に爪を立てていた赫怒の腕がゆっくりと離れていくのを感じる。

 視界が広くなった気がした。

 腹の底に残った溶岩を冷ますように大きく息を吐き、芝を睨む視線を持ち上げるように背筋を伸ばす。

 彼女が普段の調子に戻ったのを確認したバリモスニセイが薄く微笑んだ。

 

 「すまん。冷静さを欠いてしまったな」

 

 「いえ、私も気持ちは分かりますから」

 

 2人は首を回して観客席の最前列を見た。

 そこではシンザンが柵越しにトレーナーの肩を掴んで何事かを訴えている。

 その両隣には自分達のトレーナーが立っていた。

 己に怒り、己を悔やみ、敵に対して復讐を誓う顔。

 今の自分と、同じ顔。

 

 「より励もう。私達はまだ強くなれる」

 

 クラシック最初の冠はシンザンの頭上に輝いた。三冠の夢はここに潰えた。

 だけど自分の隣には同じものを見据える人がいる。

 同じものに勝ちたいと願う相棒がいる。

 交わる視線で互いの決意を確認し合う彼女らの間で、トレーナーはシンザンに肩ごと頭をシェイクされていた。

 

 そして表彰式。

 若緑に銅色(あかがねいろ)で『皐月賞』と刺繍された優勝レイを肩に掛け、黄金色に輝くトロフィーを抱えてニッコリ笑顔でピースサインをするシンザンを無数のシャッター音が取り囲んだ。

 無敗の6連勝、皐月賞ウマ娘。

 熱闘の最前線に立つ彼女に、記者達は様々な質問を投げかけた。

 

 ─────今の気持ちは?

 

 「楽しかったねえ」

 

 ────最大のライバルは誰でしたか?

 

 「んー・・・・・・ウメとかニセイとか? 分かんない」

 

 ────この勝利でファンの期待もさらに高まった事と思いますが、そんな中掴み取った優勝レイとトロフィーの重みはどれ程でしょうか?

 

 「嬉しいねえ」

 

 ────え、ええと・・・・・・

 

 「シンザン、大事なインタビューなんだから一言で終わらせるな。記者が困ってる」

 

 「ええー」

 

 横で同じくインタビューを受けていたトレーナーが見かねてシンザンの肩を小突く。

 この問答を『無駄』と断じているのかそれとも本当にそうとしか考えていないのか、まあリップサービスの「り」の字もなかった。

 ともかく担当ウマ娘に広い範囲で責任を持つ役職としてこれ以上鸚鵡(おうむ)レベルの受け答えを放置する訳にはいかない。トレーニング緩和の交渉ではあれだけ饒舌なのになあと遠くを見るような目をしつつトレーナーはシンザンのフォローに入ろうとした時、中年太りの記者が発言するために手を上げた。

 沢樫静夫。

 見知った顔だった。

 見た目に似合わぬ鋭い眼差しでシンザンを測りつつ、沢樫は斬り込むように口を開く。

 

 「先立って『桜花賞』を獲ったカネケヤキさんは、実力者としてあなた方の名前を挙げた上で『トリプルティアラ』の達成を宣言しましたがね。

 どうでしょう、そんな彼女に対してあなたから何かアンサーはありますか」

 

 「んん? それこそ答える必要もない気がするけど」

 

 片眉を上げて首を傾げるシンザン。

 挑発的とすら受け取れる質問に対してどう答えるかで彼女の器を測ろうというのが沢樫の狙いだったのだが、その釣果はきっと大満足であったに違いない。

 力みも気負いも何も無い。

 彼の質問に答えた彼女は、なぜ態々(わざわざ)そんな事をと本当に不思議そうな顔をしていた。

 

 「『()()()()()()()』。言うまでもない事だろ?」

 

 おおおおおっ! と記者達から興奮の声が上がる。

 強い眼差しで宣言したカネケヤキとは真逆の自然な言い草。毅然と泰然、真逆のキャラクター性が正面から対立するという構図に会見は大きな盛り上がりを見せた。

 彼女の対応に納得したように沢樫も頷くが、しかし彼はこの場の盛り上がりに飲まれてはいなかった。

 シンザンを見ていた視線がトレーナーに向く。

 熱された空気に水が差されても関係ない、明らかにすべきものを明らかにしてこそ記者であると言わんばかりに、彼は更に奥へと踏み込んでいった。

 

 「分かりました。しかし彼女が三冠ウマ娘を目指すにあたって、あんた・・・・・・いや、シンザンさんのトレーナーにお聞きしたい事があるんですが────」

 

 

 

 『2週間後の今日には主役のあたしを拝めるよ』。

 桜花賞の後、トレーナーはシンザンからそう言われていた。

 楽しみにしてなと旅行にでも誘うようなその宣言は、言葉通りに実現する事となった。

 淡々と証明されていく彼女の有言実行主義に、トレーナーは自分の中の認識が書き換えられ続けていくのを実感していた。

 最初はただならぬウマ娘だと直感した。

 それは時代を創ったウマ娘すら超えるのではという予感に変わった。

 そして予感は今、確信へと─────

 

 「・・・・・・三冠、獲れるぞ。お前なら」

 

 『─────────♪♪♪!!!!!』

 

 シンザンが強く望んだ、自分の衣装で上る舞台。

 全ての『トレーナー』の悲願である、八大競走のウイニングで中央に立つ自分の担当ウマ娘。

 アスカとウメノチカラに挟まれ勝負服を纏いセンターで高らかに歌い上げる彼女は、スポットライトよりも眩しく輝いて見えた。

 

 

     ◆

 

 

 

 『あんた、いや、シンザンさんのトレーナーにお聞きしたい事があるんですが─────』

 

 三冠獲得の宣言に沸く中で放たれた沢樫の質問。

 それはトレーナーにとっては答え方によっては今後に響く詰問で、そしてシンザンにとっては吉祥の予感を期待させるものだった。

 

 『何でもあなた、普段シンザンさんに異常に重い蹄鉄を履かせているそうですな? それを使って普通ありえないレベルの負荷をかけてトレーニングをさせているんだとか 』

 

 シンザンは思わず沢樫を見た。

 

 『皐月賞での勝利がその厳しいトレーニングの賜物であったとしても、そのやり方は本当にシンザンさんの未来も考えての事ですかい?

 その蹄鉄についても調べましたが、アレは常用させていい代物じゃあない。正直、目の前の勝利を掴ませるために未来を犠牲にさせているのではと考えてしまいますな』

 

 良い流れだ。よく突っ込んでくれた。

 シンザンは心の中で拳を掲げた。

 ここで自分が辛いと言えばトレーナーもあの蹄鉄は履かせられなくなるだろう。いくら効率重視とはいえマスコミから責められては体裁を守らなければならないはずだ。

 さあ口籠れ、返答に困れ。

 今度は自分から反撃してやる。

 

 『ええ。()()()あんなものは使わせません』

 

 しかしトレーナーの返答は実に滑らかだった。

 

 『調べてあるならご存じでしょうがあの蹄鉄は自分の手作りでして、使用にあたりどんな弊害が発生するかは把握しています。故障のリスクについても最大限の注意と対策を張ってありますので、程度を誤らなければ常用しても問題ありません』

 

 『普通は使わせないと今言っていましたが?』

 

 『()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 こんなに不利な状況なのに。

 トレーナーは胸を張ってきっぱりとそう言った。

 

 『シンザンにはものの2ヶ月で大量のシューズと蹄鉄を駄目にしてしまう程の足腰がある。そんな特異な素質を持つ彼女に対して通常のトレーニングを行っては逆に才能が根腐れする可能性すらあります。

 彼女の抱えるその問題を解決しつつ効果的に才能を伸ばす、その最適解があの蹄鉄なのです』

 

 『ちょ、トレーナーさん・・・・・・』

 

 『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 彼女の力に耐え、同時に彼女を鍛えられるように造った、真の意味で()()()()()()()()()

 つまりこれはもうただの蹄鉄ではなく、

 ─────「()()()()()」と呼ぶべきものです』

 

 おお、と記者達がどよめく。

 コダマと二人三脚だった時代に彼女の故障に向き合い続けたトレーナーが、故障のリスクを完全にケアして打ち出した奇策に驚愕したのだ。

 ちらり、と沢樫がシンザンを見る。

 

 『なるほど。・・・・・・シンザンさん、これについて何かありますか?』

 

 彼はこう言っているがお前はどうなんだ、明らかにオーバーワークではないのか、と。

 まさに願ってもないパス回しだが、シンザンの耳は別の言葉を重点的に捉えていた。

 「自分にしか扱えない」。

 「自分以外には意味がない」。

 「自分の為だけの一品」。

 シンザンはわざとらしく髪を掻き上げ靡かせながら、澄ました顔で嘯いた。

 

 

 『(なに)って・・・・・・? 専用の蹄鉄でトレーニングしてるだけだけど?』

 

 

 

 

 「お前は莫迦(ばか)なのか?」

 

 「口を(つぐ)め・・・・・・・・・!!!」

 

 その答えに興奮した沢樫が書き上げた『月刊綺羅星(きらぼし)』の特集記事。

 『強豪シンザン、若年の名伯楽への絶対の信頼』という盛りまくった見出しと内容が踊るページを開いているウメノチカラは、部屋の壁に額を預けているシンザンに非常にシンプルな質問をしていた。

 

 

     ◆

 

 

 「いやしかし凄かったな今年の『皐月賞』!」

 

 「ああ、まさかシンザンがここまで強いなんて考えてもいなかった」

 

 「全くだ。あの末脚を見たか? 死ぬ気で追ってくるアスカやウメノチカラにもまるで動じなかったぞ。まさに剃刀(かみそり)、まるでコダマの再来じゃないか」

 

 「いいや違う、確かに髭だって剃れる切れ味だ。しかしあれは、あの分厚さは剃刀(かみそり)ではなく────」

 

 

 

 

 「(なた)だ。あの脚は(なた)と呼ぶべきだ!」



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24話 : かん呼にうもれ曵く手綱

 

 無敗のままに6連勝。

 押しも押されもせぬ『皐月賞ウマ娘』。

 自分を狙う強豪達を相手に堂々たる先行策で勝ち切ったシンザンは、さらにその名前を学園の内外に響かせる事となった。

 レースの翌日以降も続いた取材や写真撮影、オープン戦の中でも最大級の注目度を誇るスプリングステークスを優に超える注目を浴びてホクホクのシンザンは、トレーニング場で周囲の目線を感じつつ肩を(そび)やかしていた。

 

 「んー? 視線を感じるね? 何だろう、あたしまた何かやっちゃった? ちょっと『皐月賞』を獲っただけなんだけど?」

 

 「おいニセイそいつを押さえろ。今からそいつの腹を殴る」

 

 「任せて下さい」

 

 「落ち着いて下さい」

 

 いい加減イラッときたらしい。バリモスニセイに羽交締めにされたシンザンの前で慣らすように腕を回すウメノチカラの肩にカネケヤキが手を置いた。

 まあ前回から反省の色が見当たらない。

 殴るのではなく締めてみては、というカネケヤキの助言に従い2人からツープラトンの締め技を喰らう事となったシンザンが青空に汚い悲鳴を響かせた。

 

 「分かりましたか? 勝ち誇り鼻に掛けるのはあなたの特権。しかし敗北の悔しさを叫ぶのも私達の特権なんです」

 

 「叫ばされたのあたしなんだけど」

 

 「とはいえ、お2人に組み付かれて倒れないのは凄まじいですね。ましてそれを履いた状態で・・・・・・」

 

 「んー、そりゃあたしは強いからね・・・・・・」

 

 『シンザン鉄』という名称は一気に広まった。

 皐月賞を獲ったウマ娘が行なっている特別なトレーニングは大きな話題を呼んでシンザンの元には多くの見物人が訪れ、今日一日履いてみるかい?とさりげなく脱いで押し付けようとしたのがトレーナーにバレて今に至る。

 忌々しくてしょうがない足枷が自分をさらに有名にしたという割り切れない事実に、彼女は複雑そうな顔をして膝から下を覆う革靴(ていてつ)をがちゃんと鳴らした。

 

 「でもやっぱりコレで有名になった部分もあるからね。勝った今ならこの重さも辛うじて許せる気が16ハロンくらい先に見えてるよ」

 

 「小さな光が天皇賞レベルに遠いな」

 

 「どうしてそれだけ嫌がってるのにインタビューであんな事を言ったんですか。あそこでトレーナーさんの言葉を否定していればよかったのに」

 

 「そりゃ貰えるものは貰うさ! 褒め言葉を謙遜する事ほどしょうもない無意味はそうそう無いよ」

 

 「それって乗せられたって事じゃあ・・・・・・?」

 

 「・・・・・・いいだろ別に。あの人がああやって大勢に向けてコイツは凄いって言ったのあれが初めてだったんだよ」

 

 「おう、集まってるな」

 

 向こうの方からそう声が掛けられた。

 歩いてくるのは男3人に女1人、合計4人のトレーナー。言うまでもなく彼女らのトレーナーである。

 彼女らに向けて手を振っていた古賀が、クリップボードで肩を叩きながら朗らかに笑う。

 

 「さーて今日は先に言ってた通りの合同トレーニングだ。楽しくやれば身も入る。頑張っていこうか!」

 

 「環境が変われば違った視点の学びもあるはずよ。仲の良いメンバーだけど気を抜かないように」

 

 対照的に桐生院は冷静だった。

 具体的な狙いのある2人の企画かと思いきや今回の合同トレーニング、発案者はバリモスニセイのトレーナーである佐竹らしい。

 チームの設立を許されたとはいえ1番の若年、経験値の不足は否めない。それを補う為にあらゆる所から学びを得ようとしているとの事だ。見た目に反して生真面目な人とは彼女の評である。

 今回の合同トレーニングの企画も先のレースなどで自分より優秀な成績を残した先輩達からあわよくばノウハウを吸収しようとしてのものだろう。

 そして古賀と桐生院も敵情視察の為それに乗っかったという所か?

 地頭の良さで大凡(おおよそ)を察したシンザンは、『じゃあ何でトレーナーさんはこの提案に乗ったんだろう』と首を傾げていた。

 それぞれに思惑があるようだが今最も警戒されているのは自分達だ。具体的な方法は上手く考えつかないが、自分達の情報を得る為に他が結託して行動するというのも無い話ではあるまい。

 勿論こちらにも向こうの情報が得られるメリットはあるが、向こうがこちらを共通の敵としている以上情報の流出はトレーナーにとってかなりの痛手になるのではないか?

 

 (まあそもそもあたしは負けないから、関係無いと言えばそうなんだけどさ・・・・・・)

 

 「今日は自分の頼みを聞いてもらってありがとうございます。自分もニセイもまだまだ未熟ッスけど、全力で食らい付くんでよろしくお願いします」

 

 そう言って佐竹は頭を下げた。

 探りを入れる目的を隠すための方便だった。担当ウマ娘とも口裏を合わせているのか、バリモスニセイも宜しくお願いしますとスムーズに頭を下げる。

 そして古賀と桐生院も佐竹に続いた。

 頭を下げる訳ではない。2人が担当(?)しているのは、静かな圧力を掛ける役割だった。

 

 「という訳だ。後輩がここまで真摯に頼んでるんだ、()()()()()()()()()()()()()()()()? チカミチ」

 

 「そうね。まして彼女らの友人の前だもの、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 やはりそういう事か。

 シンザンは自分の予想が正しかった事を確信した。

 自分に真面目に走らせろと暗にトレーナーに要求しているのだ。

 相手の正確な情報など本気で走っている所を見てみなければ分からない。スプリング(ステークス)や皐月賞での走りだけで判断しない辺り流石の観察眼だろう。

 ────さてどうするんだい、トレーナーさん。

 彼のリアクションを見守るシンザンの視線の先で、トレーナーは彼らに向けて口元に不敵な笑みを浮かべてみせた。

 

 「知ってるだろ? うちのシンザンはトレーニングじゃさっぱり走らないぞ」

 

 「「「嘘だろ(でしょ)・・・・・・」」」

 

 全員が唖然とした。

 互いに協力し合うべき合同トレーニングにおいてまさかの独立(どくりつ)不羈(ふき)宣言にシンザンはからからと笑う。

 あるいはトレーナーも向こうの魂胆を読んでいたのだろうか。それは分からないが、少なくとも彼がシンザンに合わないトレーニングをやる気は一切無いのは明らかな事だった。

 

 

     ◆

 

 

 「本当に・・・・・・本当に走らないなお前は・・・・・・」

 

 「しょうがないねえ。トレーナーさんがあたしは走らないって断言しちゃったからねえ」

 

 流石に少しは力を入れると思っていたらしい。

 栗東寮の憩いの場、一階にある広々とした談話室に置かれたソファの上。ある意味においてシンザンの底知れなさを更に思い知った様子のウメノチカラに、シンザンは得意げなドヤ顔を披露していた。

 ウメノチカラにカネケヤキにバリモスニセイが訓練だろうとライバル達に劣るまいと先を争って走り・跳び・()く中で、シンザンだけが1番後ろをマイペースにのっそり動いていた。

 もちろん装着している『シンザン鉄』がとんでもない重量なのは知っているが、それを差し引いても追い込もうという気概がない。

 この機会にシンザンや他のライバルの偵察をしようとトレーナーに言われていたウメノチカラ達だが、見事に自分達のトレーニングの進み具合だけをスッパ抜かれてしまった。

 

 「でもいいだろ? あたしのトレーナーさんだって教え方に手は抜いてなかったんだ。そっちにだって得はあったはずだよ」

 

 「まあな。正に基礎トレーニングの鬼だった。()()というか、本当に1から丁寧に積み上げていく人らしい。・・・・・・しかしいつもやっていたあのリボンのトレーニング、考えたのがシンザンのトレーナーだとは驚いたぞ」

 

 「あたしもだよ。みんなやってるから普通のやり方だと思ってたらまさか爆心地があったなんてね」

 

 ウマ娘のトレーニングで特にトレーナーが苦労するのが『姿勢(フォーム)の矯正』だ。

 腕や脚の振り幅、振り上げる高さに体幹の傾き。

 時速60キロオーバーで駆け抜けるウマ娘のそれらの要素の誤りを見抜いて是正するには並々ならぬ眼力を求められる。

 『トレーナーになりたくば常にウマ娘を見続けろ』という格言の成り立ちがこれだ。フォームという基本中の基本を指導できないようではトレーナーとして立ち行かない。

 新米からベテランまで頭を悩ませるそれを()()()()改善するアイデアがその『リボン』なのである。

 

 「とはいえトレーナーさん今もずっと愚痴みたいに言ってるけどね。『手軽に映像を記録してその場で見たり戻したりできる機械が発明されてほしい』って」

 

 「私のトレーナーも常々『頼むから全ての記録を手軽に持ち運べてかつ欲しいものを簡単に見れる何かが生み出されてくれ』と言っているな。整理整頓が苦手で何かを探す度あちこちを引っ繰り返してるんだよあの人は・・・・・・」

 

 「それは片付ける癖をつける方が早いんじゃないかねえ」

 

 「やあ。トレーニング終わりかな? お疲れ様」

 

 頭上から声が降ってきた。

 静かな、しかし張りのある響き。聞いた事はないがこの声で歌う彼女のウイニングライブはさぞや聞き応えがあったろうとそんな事を考える。

 首を上に向けてみれば、そこにいるのはやはりよく見知った顔をしたショートヘアの黒鹿毛だった。

 

 「お。ハクさん」

 

 「ハク寮長?」

 

 「2人とも私の部屋に来ないかい? 色々と話してみたいんだ。美味しい紅茶もご馳走するからさ」

 

 

 

 寮長室は個室だ。そして他の生徒の部屋より広い。

 自分の寮に住む生徒達を監督する立場の特権だ。

 テーブルに出されたお茶請けを囲んでティーカップ2つと湯呑みが1つ。

 白磁の器に満たされた肉桂色を舌に乗せ、栗東寮の寮長『ハクショウ』は懐かしむように視線を宙に投げかけた。

 

 「そうそう、あのトレーニングね。身体のあちこちに目印のリボンを巻いて走るやつ。手脚の振り幅や身体の傾きが目視でずっと分かりやすくなるから皆がこぞって真似してたよ」

 

 「やってる事は単純極まるのにね。みんな思いつかないもんなんだね」

 

 「コロンブスの卵だろう。先輩達から眼を鍛えろと教えられてきたのなら発想に至るのは難しかったんじゃないか?」

 

 感心したように湯呑みの中身を啜るシンザン。紅茶で呼ばれたのに『あたし昆布茶がいい』と臆面もなく要求した太々しさの成果である。

 胡座をかいて背中を丸め胃袋を温める熱に気の抜けた息を吐く彼女は、向かいに座っているハクショウにこてんと首を傾げた。

 

 「けど何だって急にお招き頂けたんだい? 何かあたしらに頼み事とか?」

 

 「そういう訳じゃないよ。この栗東寮におけるクラシック最強格と言っていい君達が、いま何を思っているのかを聞いてみたくてね。片や皐月賞入線のジュニア級チャンピオン、片や無敗の『皐月賞ウマ娘』だ。個人的に興味が尽きないんだよ。

 ほら、私は『朝日盃』は獲ったけど『皐月賞』で大敗してるからさ」

 

 「だとしてもデビュー戦からの6連勝は誇るべき大記録でしょう。ましてあなたは」

 

 「確信してた通りに勝った、次も同じように勝つ。それで同じようにあの舞台で最高のあたしを見せてやる。特に何も変わらない、考えてる事なんてそれだけだよ」

 

 「・・・・・・・・・。こいつがこの調子なので、今はただこいつの横っ面を走りで殴ることだけを考えています。今回も黒星が重なりましたが、今度こそはセンターから押し退けてやろうと」

 

 「あははっ、いいね! とてもいい答えを聞けたよ。追い落とそうとするプレッシャーは追う側も追われる側も高めてくれる。

 私もそうだったよ。君達と同じ頃の私も、負けてたまるかって気持ちで走り続けてた」

 

 「あたしみたいなのがいたのかい?」

 

 「いや、『誰かに』じゃなくて『世代に』だね。私の世代は()()()()がえげつなかったんだ。

 

 筆頭はもちろん現生徒会長・剃刀のような末脚でブームを(おこ)した二冠ウマ娘『コダマ』先輩。

 

 獲得重賞多数、関西出身で初めて宝塚記念を制覇した『シーザー』先輩。

 

 安田記念と有記念、距離が大きく違うレースを2つともレコード記録で勝利した『ホマレボシ』先輩。

 

 大井で27戦17勝、中央に来てからは14戦9勝で天皇賞・春と有記念を制覇。地方と中央を名前の通りに虐殺した現生徒会副会長『オンスロート』先輩。

 

 そのオンスロート先輩と同郷で地方と中央でも鎬を削り、ついに彼女を刺し返して天皇賞・秋を獲った『タカマガハラ』先輩。

 

 コダマ先輩と『四強』と謳われた彼女達がシニアを席巻していた時代だったんだ、生半可な走りじゃこっちを見ても貰えない。

 本当に死に物狂いだったよ、1度でも負けたら私が芝の上から消されてしまうような気がしてね」

 

 ─────コダマさん以外にもレースを盛り上げたウマ娘がこんなにいたのか。

 どこか遠くを見つめているようなハクショウの話に、シンザンは素直な感嘆を覚えていた。

 コダマという憧れだけを握り締めてトレセン学園に入学した。それになる以外の好奇心は無かった。

 しかしここには、他にも沢山の勇者がいるのだ。

 思わず横にいたウメノチカラに話しかけようとしたシンザンだがハクショウの話に対する彼女の神妙な表情を見て、

 

 (あ。これ知らなかった方がおかしいやつだ)

 

 凄いウマ娘がいるんだねえ、という共有しようとしていた感想を引っ込めた。

 実に賢明な判断だった。



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25話

 「生徒会長と『四強』。彼女達こそ最強世代だと断言する声も多く聞きます」

 

 「あの時は必死に考えたものさ。彼女達に夢中な人達の目をどうしたら私に向けさせる事が出来るのか。

 そうして出した結論が─────()()()()()()()()()()()()()()

 

 そこでそのレースの名前が出てきた。

 シンザンとウメノチカラが次に挑まんとする大レース、そして恐らくはハクショウが2人との会話を欲した理由。

 会話が本題に入ったのを理解したウメノチカラにやや力が入り、ハクショウは瞼を閉じて記憶を辿る。

 

 「一生に一度の栄光。全てのトレーナーとウマ娘の憧れ。『八大競走』の中でも特に特別なこのレースに勝てばみんな私を見ざるを得なくなる。

 勿論ダービーで勝つことを目標にするウマ娘なんて珍しくもないけれど、その中でも私の熱意は抜きん出てたと今も思ってるよ」

 

 「そうそれ。あたし前から思ってたんだけどさ」

 

 話の腰を折るようにシンザンが緩く手を挙げた。

 

 「一生に一度の栄光って言うけど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 『皐月賞』や『桜花賞』、『オークス』や『菊花賞』も走れるのはクラシック期に1度だけだろ。

 別にそれに不満がある訳じゃないけどさ、『日本ダービー』だけえらく特別扱いされてるのって何で?」

 

 「・・・・・・先生が話していただろうが」

 

 「テストに出ない話の時は寝てたよ」

 

 「いい質問をしてくれたね。それじゃあハク寮長のダービーこぼれ話といこう。テストに出ないけどよく聞いてね。きっと君達にも思うところのある話になると思うから」

 

 

 

 

 「日本ダービーっていうのはね。目黒記念と並んで()()()()()()()()()()()()()()()

 

 紅茶の湯気が中空に消えていく。

 その大レースにまつわる背景を、ハクショウは(そら)んじるように滑らかに語り始めた。

 

 「日露戦争後、ウマ娘のレースが軍事訓練の一環として行われていた時代のことだ。

 当時のレースはギャンブルの性質を持っていてね、治安の悪化を懸念した国から胴元として収益を得る事を禁止されたのさ。

 それを補填する補助金も支払われたけど、それっぽっちじゃトレセン学園は火の車。いくつかの学園の経営が破綻した大不況を抜け出すべく英国(イギリス)の『ダービーステークス』を参考に創設されたのが『東京優駿大競走』・・・・・・つまり『日本ダービー』だ」

 

 「賞金の額もそれまでの最高額の4倍という破格ぶりだったと聞きました。そのタイミングでちょうど景気が回復し始めたとも」

 

 「そう。それによって無事にレースの需要は回復、業界を立て直す狙いは大成功に終わった。まあそもそもの収益を取り戻した方法はあまり褒められたやり方じゃなかったんだけど・・・・・・」

 

 「あ、分かった。ギャンブルとしての仕組みはそのままで、お金じゃなくて商品券か何かで払い戻したんじゃないかい?

 『払い戻したのはお金じゃないから賭博罪にはあたらない』みたいな建前でさ。

 その時の国が軍事訓練の名目に(こだわ)ってるならそういうの黙認してくれそうだけど。どうだいハクさん」

 

 「・・・・・・せ、正解」

 

 若干声が引き気味だった。

 嫌な要領の良さを発揮したシンザンにウメノチカラも思わず傾くように距離をとる。

 1の示唆から10までを組み上げるその地頭(じあたま)でどうしてトレーナーに乗せられるのか、よっしゃあ、と緩く拳を上げる彼女から理解することは出来なかった。

 心の死角に不意打ちを食らったハクショウが咳払いで場の流れをリセットして折れかけた話の腰を元に戻した。

 

 「もう1つ言うのなら、だ。2人が走った『皐月賞』は今年、予定が変更されて別のレース場での開催になっただろう?

 日本ダービーにはそれが無いんだ。

 第3回から東京レース場に移転してから一貫して同地で開催され、レース場の改修工事が被っても日程を変更して対応される。

 開催場所も走る距離も、昔から今まで変わらないままずっと受け継がれているんだよ」

 

 「ふうん。じゃあダービーが特別なのって昔からの慣例というか、そういう伝統的な理由なのかい?」

 

 

 

 「いいや。()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 熱い。そう思った。

 口の端から溢れた蛇の舌のような炎に首筋を舐められたような感覚。

 外面を作る皮が()()()と剥がれて顔を覗かせた最奥に鼓動する何かを前に、ウメノチカラは怯み、シンザンは机に(もた)れていた身体を起こす。

 皆を見守り監督する寮長としての顔ではない。己の脚で己を証明せんとする、ヒリつくような『現役』の片鱗だった。

 

 「『ダービーは大晦日でその翌日が元日』という言葉が象徴するように、クラシック前の1年間はダービーを制する為にあると言っても過言じゃない。

 優秀な兵士になれるウマ娘を育てる名目で開催され、明確な『強いウマ娘を育てて選抜する』というサイクルを日本のレース界に示したこのレースは、自然と全てのレース関係者の目標になった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 だから全員が死に物狂いでその頂点を獲りにくる。・・・・・・それこそ、全てを(なげう)つ覚悟でね」

 

 「! ハク寮長は・・・・・・」

 

 思わず目を見開いたウメノチカラ。

 全てを擲つ覚悟というハクショウの言葉に込められた意味を理解していたからだ。

 彼女が日本ダービーを語るという事は即ち、ハクショウというウマ娘のレース人生を語るという事に等しいのだから。

 

 

 「そう。()()()()()()()()()()()()

 

 

 特別な事情などではない。栗東寮では有名な話。

 とうに冷めた紅茶を啜り、ハクショウは静かに目を閉じる。

 

 「オークスを獲ってから連闘で殴り込んできた型破りを交わして、確実に勝ったと思った時に大外から1人が吹っ飛んで来てね。

 長い長い写真判定だったよ。あの時間を思い出すと今も胸が詰まりそうになる。

 下された決着は─────()()()()

 ハナ差という表現ですら足りない、髪の毛一本の差とすら言われた薄氷の1着だったんだ。

 そこで私は全ての熱を出し切ってトゥインクル・シリーズを引退した。

 だけど何の未練も後悔も無い。

 上の世代に対する対抗心や彼女らを倒す為に積んで来たトレーニングも、勝ち星を重ねていくはずだった未来も、きっと全てはこの髪の毛一本の差に先んじるためにあったんだ」

 

 「・・・・・・それ程ですか」

 

 思わず唾を飲むウメノチカラ。

 

 「あなた程のウマ娘が全てを出し尽くす程に、このレースは心を狂わせるというのですか」

 

 「私だけじゃない。関わる全ての人達もだ。

 そのレースに勝った事で燃え尽きてしまうウマ娘がいる。そのレースに勝たせられれば辞めてもいいとすら言うトレーナーもいる。

 『日本一』という称号を求めて、あらゆる全てを出し尽くし死に物狂いで手を伸ばすのさ」

 

 トゥインクル・シリーズ9戦7勝。

 『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 走り続けていれば間違いなく世代を象徴しただろう彼女は、(いざな)うように2人に手のひらを差し出した。

 

 「強く愛しき後輩よ、熱く熱く狂ってほしい。勝負と誇りのその世界では、必要なものは()()()()だ。

 一生の栄光が其処(そこ)で君達を待っている。

 ────────ようこそ。日本ダービーへ」

 

 その時の彼女がとうの昔に一線を退いた身と言われて誰が信じるだろう。

 栄光の記憶、思い出の輝き。

 それらを紐解くだけで放たれた心を炙るような熱は、そのまま日本ダービーというレースの異質さを象徴しているようで。

 あたしの先輩には怖い女しか居ないのかい、とシンザンは湯呑みの中身を喉に傾けた。

 

 

     ◆

 

 

 聞き覚えのあるアナウンス。

 かつて自分も聞いた歓声。

 トレセン学園に入学し、トレーナーを見つけてメイクデビューを飾る。そして訓練を積んで勝ち星を重ね、激動のクラシック戦線へと歩みを進める生徒達のサイクルは、こうしてまた始まりの地点に戻るのだ。

 『桜花賞』前に行われた入学式。

 ここまで行ってきた特訓よりも遥かにレベルの高いトレーニング。

 そして─────夢への第一歩。

 

 今年第1回目の『選抜レース』が今日開催される。

 

 ここから駆け上らんと鼻息荒く瞳を燃やす者達を期待を込めて見据えるトレーナー達と、これから未来のスターウマ娘に夢を見んとする観客達で今回もグラウンドは大きく賑わっていた。

 そんな観客達の中により深いレースファンがいれば、ずらりと並んだ金色バッヂの中に今もっとも勢いに乗っている者がいるのが分かるかもしれない。

 チーム《スピカ》古賀(こが)篤史(あつし)

 チーム《リギル》桐生院(きりゅういん)(みどり)

 そしてチーム《カノープス》佐竹(さたけ)一城(かずき)

 新たに発足する事になった自らのチームに有力なウマ娘を引き入れるべく目を光らせている彼らとは少し離れた場所に、どうしてだか彼の姿もあった。

 まず見付けたのは彼の担当ウマ娘。

 そして彼も自分の担当ウマ娘の存在に気付いた。

 眉を上げて驚く彼に、鹿毛の彼女は怪訝な顔で首を傾げる。

 

 「シンザン。どうしたんだ」

 

 「そっちこそ何でこんな所にいるんだい。選抜レースだろ今日。え、組むの? チーム」

 

 「違う違う何で耳を絞るんだ。これからお前のライバルになるウマ娘だっているはずなんだから、トレーナーとしてチェックしておくのは当然だろ」

 

 「ふうん。まあ確かに」

 

 「というか俺としてはお前がここにいる方に驚いてるよ。今日は一応休日だろ」

 

 「ちょっと気になってね。心境の変化って程でもないけど」

 

 へえ、とそこそこ驚いた顔のトレーナー。

 彼女を基本的に他人に関心を示さないタイプと考えていただけにここに来たのが意外だったらしい。

 トレセン学園は生徒数2,000を超えるマンモス校。

 単純にその内の3分の1が新入生と考えると、600人を超えるウマ娘達全員が走るレースを開催するのは相当な大仕事だ。

 故に選抜レースは学園内の休日を丸々使用して開催され、本来は休日であるため他の生徒達に出席・見学の義務はない。

 そんな条件下でシンザンが見知らぬ他人を見に来るというのは彼女を良く知る者としてはかなりの衝撃なのである。

 

 「このレースで手抜きしたのがバレてウメに詰められたんだよね。ケヤキとニセイともそこで知り合ったし、こうして見ると何か感慨深いや。それで、あたしの()()()()になりそうな子はいるのかい?」

 

 「前評判だと『ハツユキ』や『キーストン』かな。中でも新入生筆頭って言われてるのは『コレヒデ』だけど、個人的には『エイトクラウン』に注目したい」

 

 「あの子は何だい。さっきまで乗り気そうだったのにゲートインを粘り倒してる黒鹿毛の子」

 

 「『カブトシロー』だな。かなりの気性難と聞いてるよ。トレーニングの時計も(かんば)しくないみたいだけど、たぶん古賀はスカウトするんじゃないか?」

 

 「ウメのトレーナーってああいう子が好きなのかい? 熱心にスカウトしてたウメとはかなり真逆のような気がするけど」

 

 「負けん気の強いウメノチカラ然り、あいつは頑固な子や手のかかる子を気に入るんだよ。本人も自由に走らせるのがモットーだと言っていたし、古賀のチームでならあるいは驚くような成績を残すかもな」

 

 「そっか。色んな気質の子がいるんだね。・・・・・・そんな子たちも、やっぱり同じ場所を目指すのかね」

 

 「?」

 

 「トレーナーさん。『日本ダービー』って本当にレース関係者の最終目標なのかい?」

 

 火の着いた顔でハクショウの部屋を出たウメノチカラ程ではない。しかしどんな波風も我関せずなシンザンとはいえ、ハクショウのあの熱を真正面から喰らって何も思わないほど鈍感ではない。

 トレーナーに会ったのは偶然だが、皆が血相を変えて挑むという大レースの背景を知り、彼女が最初からダービーを目指していたなら同じ者が他にもいるんだろうかと新入生の存在が頭を(よぎ)ったのがシンザンがここに来た理由だった。

 事情を知らなければやはり意外に感じる彼女の質問に、ふむ、とトレーナーは頭の中に自分の記憶や経験を巡らせる。

 

 「そうだな。最終目標とまで言い切るのは本当にダービーに対する想いが強い奴だけだが、そうでなくても凄く重要なレースだと思う。

 俺だって担当を持つ度に勝たせたいと思うレースだし、それにダービーには華々しい記録も多いからウマ娘の憧れも強いんだ。

 今は更新されたけどレースレコードを叩き出して勝ったコダマに、日本初の三冠ウマ娘が記録した8バ身という最大着差。そういったものも日本ダービーというレースが特別視されている理由だろうな」

 

 「あ、そっか。コダマさんダービーレコード持ってたんだ・・・・・・」

 

 自分の憧れも輝かしい結果を残したレース。

 難しい顔で腕組みをするシンザンは、出走するレースに対して初めて頭を悩ませていた。

 しかもそれは自分自身についてではなく、他者から見た自分の姿についてという彼女にしてはツチノコレベルに希少な悩みである。

 芽生えた考えと自分の主義とをしばし戦わせるシンザンだが、結局結論が出なかったのでトレーナーに判断を委ねる事にした。

 

 「トレーナーさん、そこまで日本ダービーが大切なレースならさ。何バ身差とかレースレコードとか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 「突っ込みどころが大き過ぎるのはともかくとして、そうだな・・・・・・。俺個人の意見を言うなら、()()()()()()()()()()()

 

 流石に想定すらしていない答えだった。

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔のシンザンに見上げられながら、聞く人によれば邪道とすら言うであろう考えをトレーナーは何の臆面もなく言ってのける。

 

 「勿論それを目標にするというならトレーナーとして喜んでサポートする。だけど根本的に大切なのはまずそのレースに勝つ事であって、それさえ達成できれば他はもう何でもいいと俺は思う。

 着差もタイムも関係ない。

 どれだけギリギリの競り合いになっても─────、()()()()()()()()()()()()()

 

 清々しい程の合理主義。

 ダービーの大切さを語った直後にこれを言う、身も蓋もない率直さ。

 この男、もしかして自分以上に周囲の目を考えていないのではないか?

 普段とは逆に自分が呆れる側になったシンザンだったが、その後に湧き上がってきたのは『同類がいる』という()()()()()だった。

 

 「ふふっ、そうだね。あたしもそっちの方がしっくり来る。じゃああたしも勝てるだけの力で走ろうか。ダービーはダービー、あたしはあたしって事でさ」

 

 「手を抜いていい訳じゃないぞ。俺は全力で走る事を前提にこう言ったのであって、力をセーブして勝つなんてライバル達から頭5つは抜けてないと不可能なんだからな」

 

 「? だからそう言ったんだけど?」

 

 「完成予定のホテルニューオータニより高いぞお前の自己肯定感」

 

 

 「あっ、見てほら、あそこ! シンザン先輩!」

 

 「すごい、本物よ本物・・・・・・!」

 

 遠くから静かに興奮する声が聞こえてきた。

 新入生のウマ娘達だ。入学式でクラシック代表として壇上に上がったからか更に顔が広まったらしい。

 軽く手を振り返すと弾けるようにはしゃぎ始めた彼女らを見て、シンザンは得意そうな顔でトレーナーを見上げる。







 pixivにて『愛が重馬場』始めました。
 リンク貼っていいのかわからないのでタイトルだけ置いておきます。

 タイトル : 『人間様を無礼るなよ』

 肩の力を抜いて書いてます。
 もし気が向きましたら脳味噌を空にしてお読みください。


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26話

 「あれ? 何も言われないね? 触れてもらえなかったねえトレーナーさん。知名度足りてないんじゃないのかい?」

 

 「今は担当契約を受け付けてなくて新入生に配られるリストにも載ってないからな。新入生への知名度はこんなもんだ。憐れむならお前が有名にしてくれていいんだぞ?」

 

 「上手いこと口が回るもんだねえ。要するに『レースで勝て』ってだけだろそれ」

 

 「無理そうか?」

 

 「鹿言ってんじゃねえよ」

 

 シンザンがトレーナーを小突いた。

 グラウンドと客席とを隔てる柵に肘をつき、人差し指を彼の胸の中心に突き立てる。

 クオリティの低いジョークを聞かされた時と同じ種類の不快感。顰めた眉間に波風立った感情を隠すことなく押し出して、彼女は投げつけるように声を吐く。

 

 「あたしの何を見てきたんだい? あんたはいつもみたいに待ってりゃいい。次にあたしが走った時にゃ、あんたは何度目かのダービートレーナーだ」

 

 「いや違うぞ。次走は16日のオープン戦だ。ダービー前に1度()()話になってただろう」

 

 「・・・・・・あ、そっか。ダービーはその次か」

 

 粋がった感情が迷子になったシンザンが胸元を突いた指をすごすごと引っ込めた。

 グラウンドでゲートが開く。スタートの合図が切られたウマ娘達が一斉に何レース目かの選抜レースを走り始める。

 歓声と応援に包まれたその光景をどこか遠くを見るように眺めながら、シンザンはぼそりと低い声でぼやいた。

 

 「あー・・・・・・次オープン戦かあ・・・・・・」

 

 ついさっきまでの圧はゼロ。

 だらりと柵に(もた)れる姿に熱もない。

 まるで寝起きのような覇気の無いテンションになっている彼女に、トレーナーは薄っすらと厄介な可能性に気付きつつあった。

 そしてその予感は、見事に的中する事となる。

 

 

 「有望な新入生はいましたか?」

 

 「ああ、後はオレのスカウトの腕次第だな。人が増えて環境が変わればお前にもいい刺激になるんじゃねえか」

 

 選抜レースを全て消化した後の静かな学園内、トレーナー室で鉛筆を耳に挟んで座っている佐竹の元を自主トレ終わりのバリモスニセイが訪れた。

 トレーナーがこんな時間まで何かを考えているらしい。彼が真剣な顔で睨んでいるノートを彼は後ろから覗き込む。

 

 「スカウトに成功した子のデータですか?」

 

 「ぜひ入れてくれって喜んでくれたよ。ひとまず保留って子もいたけどな」

 

 「ではその子達がこのチームに決めてくれるように、私ももっと頑張らなければいけませんね」

 

 「おう。獲ろうぜ、次のレース」

 

 ノートにはこれからのチームの運営について纏められているらしい。

 何人までなら受け入れられるかどうやってウマ娘達を纏めていくか。『どんなウマ娘ものびのび頑張れる』という《リギル》よりは《スピカ》寄りの方針でいく以上メンバーが加入してからも考える事は多いだろうが、彼はその全てに妥協無く向き合おうとしている。

 担当契約こそ名の知れたトレーナーだったから結んだのが始まりだが、こういう生真面目な性格がバリモスニセイが気が合うと感じるところだった。

 

 「トレーナーさん。率直に言って私は勝てると思いますか」

 

 「勝てる。一歩届かないレースが多いからって弱気になるなよ? 勝てるだけの努力も実力もお前にはあるんだ」

 

 

 「いいえ。()()()()()()()()()()

 

 

 佐竹の言葉が止まる。

 トレーナーとして弱気な事は言いたくない。

 しかしバリモスニセイが言った『率直に』という要求を生真面目な彼は誤魔化すことが出来なかった。

 真っ直ぐ見つめてくるバリモスニセイの視線を受けて、彼は言いづらそうに頭を描く。

 

 「・・・・・・ネックは身体能力より()()()()だな。同じ中距離に分類されてても、400メートルの差は数字以上に大きい。もちろん勝てるように鍛えていくけど、今まで以上に厳しいレースになる」

 

 思っていた通りの答えだった。

 前向きとは言い難い展望。しかしそれで気落ちするほどバリモスニセイは気弱ではない。

 正面から彼の言葉を受け止めて、事実をありのまま飲み込んだ上で彼女は瞳に光を灯す。

 

 「ありがとうございます。お陰で火が点きました」

 

 「そっか。じゃあ次の80万下、勝って勢い付けてくぞ!」

 

 「はい!」

 

 ウマ娘が『やる』と言ったなら意地でも応えるのがトレーナー。気合を入れる佐竹に対するバリモスニセイの強い返事が、トレーナー室の壁越しに日の沈みかけた空に反響する。

 ウマ娘の耳は人よりも優れる。同じように自主トレを切り上げたウメノチカラとカネケヤキは、耳に届いた2人の威勢のいい声にもう1度気合を入れ直した。

 シンザンはウメノチカラの机から拝借した雑誌をベッドに寝転がって読んでいた。

 

 『桜花賞』の次は『オークス』。

 『皐月賞』の次は『日本ダービー』。

 競走ウマ娘達はそれぞれの路線で最初の冠に挑んだ後、二冠目に臨む前に適当なレースに出走する───一叩(ひとたた)きするローテーションを組む場合が多い。

 しかしそれを慣らし運転と侮るなかれ、1つ目の冠を逃した者達のダービーに懸ける熱は生半可なものではない。ここで勝って弾みを着けるべく彼女らは本気でレースに臨む。

 その中に『八大競走』の出走資格を得るために何としても獲得賞金のボーダーラインを越えたい者もいるなら何をか言わんやである。

 勝者への復讐を誓う者。

 次の舞台に進まんと闘志を燃やす者。

 そして、更なる栄冠を求める者。

 占いや願掛けなどという運任せな言葉は使いたくないが、そのレースでの勝敗にウマ娘達は己の運命を垣間見るのだ。

 

 

     ◆

 

 

 間違いなく勝てる。

 走っている最中に既にそう確信していた。

 焦りも(はや)りもなく、歩くような滑らかさで思考が没入していく感覚。

 だんだんと他者が周囲から消えていくような、そんな今までにない感覚の中で彼女はゴール板を越えた。

 

 『ゴ───ルイン!! 2着のタカブヒメから2バ身離してカネケヤキ快勝!! 前走の桜花賞から勢いは衰えません、早くも次のレースが楽しみになってまいりました!』

 

 5月3日、カネケヤキは順調に白星を挙げた。

 着差だけで言えばいつもの4人の中では最も調子を上げてきていると言えるかもしれない。

 重賞ではないとはいえ強敵が揃うクラシック級特別レース、弾みをつける為にも手を抜いている余裕などなかった。

 

 (・・・・・・念入りなケアが必要ですね)

 

 奥の方に違和感を感じる足首を気にしつつも、彼女の意識は既に次に向いている。

 ────ウマ娘は誰かの想いを背負って走る。

 ならば託された想いと己の矜持、その全てを思い描いた夢の果てまで必ずや持って行ってみせよう。

 次は『オークス』、樫の冠。

 悲劇が無ければ今も自分と鎬を削っていたはずの友に恥ぬ姿を、カネケヤキは自分自身に固く誓った。

 

 

     ◆

 

 

 『バリモスニセイ先頭で今ゴールイン!! 80万下レース1着はバリモスニセイであります!! 大きな勝利を掴み取りました!!』

 

 ─────勝った。

 ゴール板を踏み越えたバリモスニセイは額の汗を腕で拭う。

 メイクデビューを1度落とし、初勝利を挙げてから2着が2回、6着と4着が1度ずつ。

 皐月賞を除き1番人気に推され続けながらも勝ちきれない状況の中で今日5月9日、ようやくの勝利をもぎ取った。

 上がる歓声。自分への賞賛。

 痺れるように震える空気を彼女は全身で浴びる。

 

 (そうだ。自分は()()が欲しいんだ!)

 

 背中を昇る高揚感にバリモスニセイは拳を握る。

 日本一を決める最高の戦場が、華々しい戦績を残す友の背中が、もうすぐ目の前に迫っている。

 ようやくありついた勝利の味に空腹を煽られ、彼女は日本ダービーに向けて一層の飢餓を募らせていた。

 

 

     ◆

 

 

 5月10日、東京レース場。

 2,000メートルの重賞『NHK盃』。

 日本ダービーのトライアルレース故に実力者が出揃うこのレースは今、最高潮の熱量に達している。

 彼女らにとってはスプリングステークスから数えて3連続目の東京レース場で、2人のウマ娘が肩を並べて熾烈なデッドヒートを繰り広げていた。

 

 『さあ最終直線登り坂を終えて抜け出したのはウメノチカラにヤマニンスーパー!! 3番手サンダイアルここから抜け出すか、ヤマドリ若干位置が苦しい!さあ後は走るだけ、各ウマ娘最後の力走であります!!』

 

 重心を落とす。上体を倒す。

 最早走り慣れた2つの急坂。

 脚はまだある。残し方は覚えている。

 ライバル達もそうであるなら、最後に問われるのは尻の穴を晒してでも勝つという剥き出しの飢えと闘争心だ。

 

 『残り200メートル! さあ並んだ並んだウメノチカラとヤマニンスーパー!! 3番手を1バ身以上引き離して鬼気迫る追い比べが始まりました!! 』

 

 「「おらぁああああぁああっっ!!!」」

 

 『前に出た! ウメノチカラ僅かに前に出た!! ヤマニンスーパー差し返せるか残り100! 粘る粘るウメノチカラ! しかし食い下がるヤマニンスーパー!!

 さあ押し切れるか差し返すか、決まったか! 決まったか!?()()()()()()()()()()()()()()()()!!!

 ヤマニンスーパー僅かに届きませんでした!!

 大熱戦の「NHK盃」、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!!!』

 

 激戦決着。

 闘志を燃やした勝者への歓声に包まれて、ウメノチカラは両の拳を引いて渾身のガッツポーズをした。

 強敵揃いのレースだった。楽勝などとは到底言えない、ギリギリの所でもぎ取った勝利だった。

 だが────勝った。

 一線級の強敵達を相手にして、自分は真正面から競り勝てるのだ。

 

 「おめでと。負けたよ」

 

 後ろから軽く肩を叩かれた。

 息切れの中で振り向くと、そこにはつい十数秒前まで全霊で競い合っていたヤマニンスーパーが朗らかに笑っていた。

 

 「今日は穏やかだな。今までは1着を逃すと思い切り吠えていたのに」

 

 「お客さんにも叫び返してたら怒られちゃったんだよね。だからそれは控え室に戻ってからやるつもり。よかったらこの後あたしの控え室の前に来てみて? もうすっごいんだから」

 

 「・・・・・・あまりトレーナーに世話をかけるなよ?」

 

 「善処するよ」

 

 悪戯な顔をしてヤマニンスーパーは背を向ける。

 運動着の背中から揺らめくような熱気を放ち、彼女は凪ぐような冷気を吐き出した。

 

 「喧嘩の在庫が足りないなあ。シンザンにも君にも、立てる中指が不足気味で困っちゃうよ」

 

 ヤマニンスーパー。

 彼女が本当に恐ろしい存在になるのは標的を打ち破る悦びを知ったその時かもしれないな、と去っていく背中を見ながらウメノチカラはそんな事を思った。

 そしてそう、『打ち破る悦び』といえば。

 ウメノチカラはさっきのレース内容を反芻する。

 最終直線、ヤマニンスーパーとの叩き合い。

 勝利への渇望が自分を駆り立て続けるその中で、ふと周囲の音が遠くなっていくような時間があった。

 あの時だ。

 自分がヤマニンスーパーより前に出たのは。

 

 (・・・・・・だが、より深く()()()かどうかというという所でゴールが決まった)

 

 あの『感覚』に続きはあるのだろうか。

 あったとすれば、潜り続けた先で自分はどこに辿り着けるのだろうか。

 

 「よくやったウメ!! これで重賞2勝目だ、凄い結果だぞこれは!!」

 

 自分より喜んでいそうな雰囲気だった。

 もちろん全力で走ったが自分の目標はあくまでも日本ダービーで本番はこのレースではないと認識していたが、彼にとってはそうでなかったらしい。

 肩の力が抜けたウメノチカラは、自分に駆け寄ろうとして転んだ古賀(トレーナー)をしょうがない人だなと笑った。

 

 

     ◆

 

 

 そして5月16日、トリを飾るように彼女が走る。

 条件も名前もないオープン戦だが、彼女見たさの観客で普段の平均よりはレース場の客入りは多いという状態だった。

 いつも通りの空気、いつも通りのパドック。

 そしていつも通りの彼女の様子に、観客達は皆それぞれこのレースへの期待を語っている。

 

 「始まるぞ。誰が勝つと思う?」

 

 「そりゃあシンザンで決まりだろう! オープン戦でウメノチカラもカネケヤキもアスカもいないんだ、他のウマ娘なんて相手にならないさ」

 

 「そうか? パドックじゃ随分ボサッとしてたがなあ。他にやる気まんまんって子は沢山いただろうに」

 

 「いつもの事だ。シンザンはスプリングステークスでも皐月賞でもそうだったじゃないか。あの様子は間違いなく絶好調だよ!」

 

 誰が勝つかではなく、勝つ所を見に来た。

 そう考える者すら数多くいる、勝って当然という空気。

 そんな喧騒から切り離された控え室にトレーナーとシンザンはいた。

 背を預けられて軋むパイプ椅子。

 だらっと投げ出された手足。

 勝負に対する熱どころか身体の芯が物理的に抜けたようなだらけっぷりを晒し、シンザンは喉からヒキガエルのように低く濁った声を漏らす。

 

 「んえーーーーー・・・・・・」

 

 薄らと予感はしていた。

 というかこうなるだろうと半ば確信していた。

 だからトレーナーは狼狽えない。ただそこにある予測と違わぬ事実を、彼は淡々と受け止める。

 

 

 この女、完っっっ全にやる気が無い。

 

 

 このレース必要ある?

 シンザンがもう少しトレーナーを信頼していなかったらそんな事を聞いていたかもしれない。

 そもそもにおいてシンザンが競走ウマ娘になった理由は、頂点で燦然と輝くスターになろうと決めたからである。

 そしてその目標に向けた歩みは実に順調だ。

 注目を集めたスプリングステークスを勝ち、次走の皐月賞でも1番人気の評価に応えて一冠目を獲得。

 大きくなっていくレースの規模とファンの数はシンザンの自己評価を揉み手で全面的に肯定した。

 そこに来てのオープン戦。

 規模も観客数も重賞とは大きく劣るオープン戦。

 それで彼女が満足できる筈がない。

 平たく言えば「何であたしがこんな小っちゃい勝負をしなきゃなんないんだい」という、買い叩かれたような不満感をシンザンは感じているのである。

 なまじクラシックの冠を獲っただけに説得力を得てしまったその機微を理解しているトレーナーは、一応の確認としてシンザンに問う。

 

 「シンザン。一応聞くけど、やる気は出ないか?」

 

 「出ない」

 

 「具体的な理由は?」

 

 「規模が小さいお客さんが少ない。勝っても待ってるのは似合わない舞台衣装でのウイニングライブ」

 

 「じゃあ真ん中の3人(センター)に入るのも面倒か?」

 

 「それは流石に獲る」

 

 「お前はこれからダービーに挑む身だ。そしてここまで無敗の6連勝を達成している。どうやらファンの間には()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()らしいが、それでもか?」

 

 あー・・・・・・、とシンザンが若干悩んだ。

 無敗のままクラシック二冠。憧れが打ち立てた記録、それに並ぶことは確かに大きな意義がある。

 そんな気はする。

 だがそれはそれとして自分は面倒だ。

 自分のモチベーションとこのレースにおける勝利の意味、それをしばし天秤に掛けた彼女だが、結局優先されたのは自分の気分だった。

 

 「・・・・・・出ないねえ。それでも」

 

 「じゃあ丁度良かった」

 

 またも完全に予想外の返答が来た。

 思わず椅子から起き上がってトレーナーを見る。

 なに言ってんだコイツという鋭角に戻ってくるブーメランを表情で投げてくるシンザンに、トレーナーは気にする様子もなく言葉を続けた。

 

 「前から提案したい事ではあったんだけどな。今回のレースなんだが──────」



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27話

 「うぅ・・・・・・」

 

 迫る。迫ってくる。

 世代筆頭のウマ娘が、必死に駆ける自分の背中に。

 

 「ううっ・・・・・・!」

 

 会心の走りだ。その実感があった。

 なのに彼女は並びかけようとしてくる。

 

 「ううう・・・・・・ッッ!」

 

 負けたくない! 負けたくない!!

 認めてたまるか!!

 『自分の最高を出し切った走りで勝てない』なんてお先真っ暗な現実は何が何でも否定してやる!!

 

 「うああああああ──────ッ!!!」

 

 『ゴーーーールイン! ()()()()()()()()!! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!!

 そして3着には7番人気のセントパワー! 大波乱となりました今日(こんにち)のオープン戦! 思いもよらぬ伏兵であります!!』

 

 「おおおお!? シンザンが負けたぞ! ヤマニンシロだ、勝ったのはヤマニンシロだ!」

 

 「2人とも3着との差はほぼ3バ身差か。これは偶然じゃない本物かもしれんぞ・・・・・・!?」

 

 その歓声はどよめきに似ていた。

 デビューから今まで余裕綽々に無敗を誇ったシンザンが、皐月賞にも出走していたとはいえ何枚か格は落ちると見られていたウマ娘に敗北を喫したからだ。

 本命の油断と見るか伏兵の激走と見るか、いずれにせよ大多数にとって予想外の結末。ほぼ最低人気を背負っての大物喰らいを成し遂げてみせたヤマニンシロは、両の拳を震わせて高々と天に掲げて叫ぶ。

 

 「ぃやッッッたあああぁぁぁあああ!!!」

 

 彼女にとってはとても大きな一勝だった。

 スプリング(ステークス)12着、皐月賞で22着。優れた成績を残しながらも大切なレースで大敗が続き、自信が傾いてきた所でようやくの勝利。しかもそれは快進撃を続ける彼女の無敗記録を打ち破るという付加価値まで着いているのだ。

 油断大敵の勝負の世界とは言えども、有頂天になるのも無理なからぬ話である。

 困惑の声すら喝采に聞こえる心持ちの中で、ヤマニンシロは観客席の柵に寄りかかっている運動着のウマ娘を見た。

 シンザンだ。相変わらず戻るのが早い。

 どうやら最前列にいる自分のトレーナーと話しているようで、ヤマニンシロは何の気無しにその会話に耳を澄ませてみた。

 

 「トレーナーさん。こんな感じでよかったかい?」

 

 「ああ、走る姿勢やスパートへの移行もいい形だった。ただスタートが普段より少し悪かったかな」

 

 「あー、正直気ぃ抜いてたからねえ・・・・・・。ちょい反応し損ねた」

 

 「集中しろ。実際のレースほどスタートの技術を磨ける環境なんて無いぞ。後はそうだな、位置取りのイメージは出来たか?」

 

 「やってはみたけど出走者が半分以下だと難しいよ。今までのレースから下り坂や上り坂で周りがどう動くか考えながらは走ってみたけど、ドンピシャでそうなるかは分かんないしね」

 

 「考えながら走るにも場数がいる。けどこのハードなコースでそこまでやれるならそう心配はいらないな。後は今までのレースの記録から詰めていこう」

 

 「はーい」

 

 レースの反省会らしかった。

 実に淡々としている。彼女の負け惜しみが聞けるかもしれないという下心を少しだけ恥じたヤマニンシロは、何となく喉に引っかかるような違和感を覚えた。

 あの内容は今回のレースの反省点というよりは、もっと別の何かを主題にして話しているような。

 

 「ヤマニンシロさん! ウィナーズサークルへ!」

 

 「あ、はーい!」

 

 係員に呼ばれたヤマニンシロが慌ててそちらへと駆けて行く。

 そこに皆が待っている。自分が勝つ事を考えてすらいなかった人達が、自分を褒め称えるために舞台を囲んで待っている。

 その時にはもう感じていた違和感は彼女の頭から抜け落ちていた。

 

 「・・・・・・でもなぁ、シンザンにはコダマの記録に並んでほしかったなあ・・・・・・・・・」

 

 ちらほらと聞こえるそんな声は彼女に届いているのかどうか。届いたとして彼女の心が動いたかどうか。

 いつものように1番に地下道に戻り、1番に控え室に帰っていく。

 悔しさや情けなさなど、およそ敗者が抱くべきだろう感情はどこにもない。まるで塾帰りの子供を思わせるような軽い足取りで、シンザンは東京レース場の芝を後にした。

 その様子をレンズ越しに見据える視線には気付かないままで。

 

 レース場で開催されるレースは1日に1度ではない。昼間の内に重賞やオープン戦が複数開催され、そして夜にウイニングライブが行われる。

 つまり1度走ったウマ娘は、夜までの間に身体を休めたり他のレースを観戦したりなどの自由時間が生まれるのだ。

 それが起きたのはその時の事だった。

 自分に対するインタビューも終わり、せっかくだから他のレースも見てみようかと思い立ったシンザンが観客席へ向かうべく控え室から出て地下道を歩いていると、その歩みを阻むように彼女が道の中央に立っていた。

 栗毛を三つ編みにしたウマ娘。

 眼鏡の奥に覗く瞳に柔らかさはない。

 何を言われるか大凡(おおよそ)察しているシンザンの背筋にストレートな寒気が走る。

 静かな威圧でシンザンの足を自分の前で止めさせたコダマが静かに口を開いた。

 

 「勝負に絶対はありません。番狂わせもまた醍醐味。それによって勝負の奥深さを知ったならその敗北には意義があったと言えるでしょう」

 

 「ええと、コダマさんそれはね?」

 

 「しかしそれは大前提として本気で走っていればの話。相手を侮り力に驕り、それで喫した敗北には鉛程度の価値も無い。自らの浅はかさを喧伝し応援に来て下さった方々のチケットを紙屑に変える、競技者の対極に位置する心構えです」

 

 「あの」

 

 「長々と話しましたが、こんなもの今さら説明するまでもない事でしょう。

 なので私は多くの言葉を望みません。

 ただ端的な偽りのない事実、それのみをあなたに求めます」

 

 彼女は会話を欲していない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()。初めて言葉を交わした日に課した要求を最悪の形で放棄した理由、それのみを求めてここにいる。

 彼女を初めに『剃刀』と形容したのは誰なのか。

 硬く冷たく鋭い何かが動脈に触れる感触を、シンザンは目と言葉だけでコダマに感じさせられた。

 

 

 「答えなさいシンザン。あの為体(ていたらく)は何ですか?」

 

 

 ───もしかしてあたし殺される?

 数十年後あたりに『人生で最も恐怖した瞬間は何か』と聞けば、彼女はこの時のエピソードを話すかもしれない。

 熱も昂りも無く、ただただ冷たく、平坦。

 言葉を1つ誤れば首に感じる錯覚の感触が実体になるんじゃないかという根拠のない予感の中で思わず命乞いが出そうになる口を動かし、シンザンはようやくの弁明を始めた。

 

 「え、えっとね? 聞いてね? 確かにやる気はあったかって言えば無かったんだけど、このレースにはちゃんとした理由が」

 

 「ナメてんのかテメェッッッッ!!!!」

 

 叫んだのはコダマではない。

 地下道に響いたのは男の声。

 凄まじい剣幕の怒号に思わず声した方を振り向いた2人は、ただならぬ雰囲気を感じてその方向へと駆け出した。

 そこにいたのはよく知る顔。

 取材陣の囲みに割り込むように踏み入ってきた男に胸倉を掴まれているシンザンのトレーナーだった。

 

 

 「舐めてなんかない。俺は真剣だよ」

 

 「じゃあさっき言った事は何だ? あの言葉が人を鹿にしてなきゃ何なんだ! お前はレースを、彼女達の想いを何だと思ってる!!」

 

 「俺達が彼女らに勝たせるべきもの。そして俺達が何としてでも叶えるべきものだ」

 

 激怒の相を前にしてもトレーナーは揺らがない。

 何故なら彼は己の判断に何ら恥じる所はなく、そこに一欠片の慢心も含まれていないからだ。

 ならば背を丸める理由などない。

 自分の胸倉を軋ませる男に向けて、彼は毅然として言い放つ。

 

 「後ろめたい事なんてない。担当の目標を叶えるために最良と判断した手段を担当と相談した上で実行した。全てはシンザンを勝たせるためだ」

 

 「何とでも言え。勝ったのはこっちだ」

 

 「その通り。何を言おうとこちらの敗北に変わりはない」

 

 トレーナーはそれをあっさりと認めた。

 ここで喫した敗北など、彼(とシンザン)にとっては大事の前の小事でしかないからだ。

 だから視線は落とさない。()め付けてくる双眸を真っ直ぐに見返し、己が選択の正しさを証明せんと彼は好戦的な態度で怒りの炎を押し返す。

 

 「だから今回の黒星は次のレースで、────日本ダービーできっちり返させてもらうよ」

 

 「・・・・・・フン!!」

 

 掴んでいた胸倉を乱暴に手放し、鼻を鳴らして男は去っていった。

 未だ戸惑いを残している記者達に取材終了の旨を告げてその場は解散。難しい顔をしていた沢樫の背中を見送ったところでトレーナーはやや遠巻きにこちらを見ているシンザンとコダマの姿を確認した。

 

 「2人とも。見てたのか」

 

 「見てたっていうか駆けつけたっていうか。トレーナーさん、今の人ってもしかして」

 

 「ヤマニンシロのトレーナーだよ。取材を受けてたら内容を聞かれててな。服が伸びちゃったな・・・・・・身から出た錆ではあるけど」

 

 「そりゃそうだよ。乗ったあたしが言うのもなんだけど怒られるよ。ていうか今怒られてるよあたし」

 

 「あの・・・・・・、一体何があったんですか? シンザンさんは察してるみたいですけど、私はさっぱり分からなくて」

 

 「ああ。『適当に流して走らせた』って話したら怒られた」

 

 今度はコダマが言葉を失った。

 呆気に取られる彼女に、トレーナーは伸びた胸元を気にしながら悪びれる様子もなく語る。

 

 「大切なレース前に消耗する必要もないし、フォームや仕掛けるタイミングを意識させつつ最終直線だけ()()()()んだ。言ってみればダービーに向けた予行演習だな」

 

 「よ、よこうえんしゅう?」

 

 「皐月賞から筋量がグッと増えたから走る時の感覚も大きく変わってくる。実戦で今の状態を掴んでおく必要があったから、こういうオープン戦は調整にはうってつけだ。

 シンザンにはこのやり方が1番効率的だろう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 コダマの表情が固まった。

 少しだけ考えを巡らせるように視線を下に落とし、そして眉を(ひそ)める。

 まるで『違いますよね?』と言いたそうな顔で見上げつつ、コダマは恐る恐る窺うようにトレーナーに確認を取った。

 

 

 「・・・・・・・・・つまり。あなたは『レースをトレーニング代わりに使った』と、そういう事ですか?」

 

 

 そうだ、と。

 平然と返ってきたその答えにコダマは顔を(しか)めてゆっくりと俯いてこめかみに手を当てる。

 その様子を頭痛を堪えてるみたいだとシンザンは思い、それはあながち間違いではない。

 怒りが呆れか両方か、腹の底に溜まった思いを彼女は口の中で呪詛のように低く繰り返し呟いた。

 

 「本当に・・・・・・あなたは・・・・・・本当にあなた・・・・・・あなた本当・・・・・・本っ当にあなたは・・・・・・・・・」

 

 たぶんもう少し立場が違うか信頼が弱ければヤマニンシロのトレーナーよろしく罵倒していたかもしれない。どうやら皆の頼れる生徒会長もこんな顔をするものらしい。失敗し続ける感情の言語化を諦めた彼女は竜巻のような勢いの溜息を吐いた。

 

 「・・・・・・理解しました。考えあっての事ならばこれ以上は何も言いません。ただし納得には程遠い。

 その不遜な言葉を嗤い話にされないよう、ダービーにおいては必ずや勝利を掴むように」

 

 「ほらね? あたしはトレーナーさんの提案通りやっただけだからね。レースを舐めてた訳じゃないからね。裁くべき罪はここにはないからねえ」

 

 「同意した時点で同罪ですからね」

 

 「んえーーー!!!」

 

 

 

 全てのレースを消化し、ウイニングライブ。

 自他共にあまり似合わないと認める舞台衣装をしぶしぶ身に纏っていよいよ出番を迎えんとするシンザンは、『舞台衣装あんま似合わなくて嫌』という不満を少しでも解消しようと工夫してくれているコダマにふと尋ねた。

 

 「そういやコダマさん。トレーナーさんの話を聞いた時あんまり『予想外』って感じの驚き方してなかったけど、前にもこういう事があったのかい?」

 

 「似たような事があったのもそうですが、正確には『ここまで来たか』といった感想ですね」

 

 シンザンの胴体をコルセットで絞めて(くび)れを強調しつつコダマは答えた。

 

 「今のローテーションの組み方って、『出れるレースには全部出る』というのが主流なんです。

 高い競争率の中で結果を出して獲得賞金のボーダーラインを超え、重賞レースや八大競走に出走するにはそうするのが一般的ですから。

 ちょうど今と同じ日本ダービーの話です。

 他のウマ娘と同じように私もダービーのトロフィーを望んでいて、デビュー前にその事をあの人に伝えました」

 

 「ふんふん」

 

 「返答は『デビュー戦の結果で計画を立てよう』でした。そして私がデビュー戦を勝利してあの人が立てた計画が、日本ダービーを目標に据えたローテーションでした」

 

 大切な思い出なんだな、とシンザンは思う。

 顔は見えないがコルセットの紐を調整するコダマの声には温かな優しさがあった。

 

 「他のレースは問題なく勝てると判断した上での計画だったそうです。メイクデビューの結果が悪ければまた別の手段を取ったでしょう。

 ・・・・・・つまりその頃からレースを調整に使う発想の土台があったんですよ。まさか本当にそうする日が来るとは思っていませんでしたけ、どっ!!」

 

 「ぐえっ!」

 

 勢いに任せて紐を締め上げられ、シンザンの腹からヒキガエルのような声が漏れる。

 しかもその強度で固定された。あたしの身体ここまでやんないとこの服似合わないのかい、と静かにどんよりし始める彼女の背中をコダマは叩いて送り出す。

 そして舞台袖、いよいよステージに上がる出走者たちが控える場所でトレーナーは彼女を待っていた。

 コダマの手によって整えられた担当ウマ娘の舞台衣装姿を見て、彼は感心したように目を見開いた。

 

 「おおシンザン。垢抜けたじゃないか」

 

 「うるさいよ見え透いたお世辞を吐くんじゃない。初手であんたに野暮ったいって言われたのあたし忘れてないからね」

 

 「一生忘れなさそうだな。・・・・・・・・・まあ、確かに。似合ってるかと言われたらそうでもない」

 

 何だと、とトレーナーを睨むシンザン。

 流石に怒りのメーターが上がる発言だったが、しかしそこで言葉を切るほど彼女のツボを心得ていないトレーナーではない。

 『分かりきった事実の確認』。それこそが彼女の心を燃やす1番の材料。

 険しい顔のシンザンに口の端を曲げ、軽く顎を上げて挑発するようにトレーナーは言う。

 

 「やっぱりお前が歌って踊るなら、()()()()()()()()()()()()()?」

 

 「・・・・・・本っ当、イイとこ突いてくるよねえ」

 

 笑うべきか怒るべきか複雑な表情だった。

 そして出番がやってくる。

 曲が流れ出していよいよ舞台袖から彼女らが飛び出す時、シンザンはトレーナーの胸を軽く殴った。

 自分は当然自分が勝つと確信している。

 そして彼もそうである事を望んでいる。

 その事実が何よりも己を満たすのだ。

 

 「そうねだらなくても大丈夫だよ。2週間待てば見せてあげるからさ」

 

 そう言ってスポットライトの下へと飛び出した。

 中央で踊るヤマニンシロ。両脇を固めるのはシンザンとセントパワー。観客席のファン達が彼女らの登場に沸き、とりわけ見事な下克上を演じてみせたヤマニンシロに大きな歓声が上がる中で、しかしシンザンにだけは別のものが見えていた。

 これとは比較にならない数で席を埋めるファン達。最高の衣装を纏って中央で歌い踊る自分。

 1着で飾るダービーの舞台。

 レースの勝者を讃える色とりどりのライトの下で、彼女だけが次のレースのことを考えていた。



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28話

『黄金の馬シンザン』が届きました。


 

 

 「いよいよ今日からあの3チームが稼働するね。あのトレーナー達ならきっと彼女らを良く導いてくれるはずだ」

 

 「不安材料としては古賀トレーナーが1人かなりの気性難をスカウトしていたところでしょうか」

 

 「元より彼はそういうウマ娘に好かれがちだし、そういう子の扱いも心得ているだろう。彼には頑張ってもらいたいね。結果が残せないと肩身の狭い世界だ、叶うならどんなウマ娘にもよりよい青春を送ってほしいものだよ」

 

 「・・・・・・青春、ですか」

 

 「どうかしたのかい?」

 

 「いえ。・・・・・・ただ貴女も、本来ならば彼女達と同じように学園に通い、青春を送っているはずの年齢であるな、と」

 

 「ふふ、確かに僕は一般的な青春とは程遠い。だけど虚しさを感じた事は1度も無いよ。そんなものを感じる余裕のない使命もそれを背負うだけの教育も、同じ視座に立つ右腕も僕は持っているからね」

 

 

     ◆

 

 

 それぞれの前哨戦が終わり、本番を目前に控えるウマ娘たち。コンディションを盤石に仕上げる追い切りのこの時期に、もう1つ新たな始まりを迎えるところがいくつかあった。

 理事長の命令によってトレーナーが発足する運びとなったチーム。1番最初に担当されたウメノチカラの前には新たに加わる仲間がいる。

 最初こそ第二候補のような選ばれ方に不服を感じていたようだが、いざ始まってみれば随分楽しそうだなと隣の横顔を見ながら彼女は思う。

 ウメノチカラと並んで立ち、横一列に並んだ彼女らを前に古賀は元気よく腹から声を出した。

 

 「よーし、今日からチーム《スピカ》始動だ! それじゃ皆、改めて自己紹介してくれ!!」

 

 「うーい。カブトシローちゃんだぜー」

 

 「キーストン! です! よろしく!」

 

 「ハクズイコウですっ! やっとデビューが見えてきたぁぁ・・・・・・!!」

 

 「全員揃ってるね? はい復唱。『蹄鉄はやっぱりヒンドスタン重工』!」

 

 所変わってミーティングルーム。

 チーム《リギル》の方針の説明と今後のトレーニングの組み立て方を説明した桐生院が、オリエンテーション用の書類を片付けながらカネケヤキと共に新たなチームメンバーに促した。

 

 「ではコレヒデにダイコーター、それにハツユキ。これから頑張っていきましょう。不調や違和感を感じたら即報告。自主トレをする際は必ず申し出る事。いいわね?」

 

 「ふふふ、あまり(かしこ)まらなくて大丈夫ですよ。トレーナーさんは皆の事が心配なだけですからね」

 

 「そうだよ、怪我したら大変だよ。ヒンドスタン重工の蹄鉄を使えば安心だよ」

 

 そしてまた所変わってグラウンド。

 同様に新たにチーム《カノープス》を発足させた佐竹はさっそくチームで初めてのトレーニングに打ち込んでいた。

 科目はラップ走。ストップウォッチとクリップボードを手にタイムを記録する佐竹は、真剣な眼差しでコースを走る担当ウマ娘たちに声を張り上げる。

 

 「ニセイ少し掛かってるぞ! ハツライオー!ゴールデンパス!タイムが遅くなってきてる! キクノスズランはそのペースをしっかり覚えろ!」

 

 「ヒンドスタン重工製の蹄鉄を使えば走りやすいよ! あたしのトレーナーさんもイチオシだよ! 恋人が出来て宝くじが当たるよ!」

 

 

 「うちのシンザンがすいませんでした」

 

 「「「 塩を()いてやろうか!!! 」」」

 

 直角に頭を下げるトレーナー。

 頭を掴んで下げさせようとしてくるトレーナーの手に抗うシンザン。

 トレーニングに茶々を入れられてキレる自分達のチームトレーナーの背中の後ろで事の成り行きを見ている彼女らのシンザンに対するイメージが、『凄く強いけどなんか変な先輩』で確定した。

 

 

 

 「思ってた以上に怒られたねえ・・・・・・」

 

 「いま割と俺達の心証悪いからなあ・・・・・・」

 

 夕暮れの河川敷。いつかシンザンがトレーナーを転がした坂道。自主トレでランニングしているウマ娘を背景に2人並んだシンザンとトレーナーが体育座りをしていた。

 あのインタビューの内容がレース新聞で出回った結果トレーナーが少々の白眼視に晒されているのだ。『他のトレーナーも次の方針を決める為にレースを選んだりするでしょう。それと同じです』とも答えたのだが、やはり言い訳だの連勝記録が止まった負け惜しみだのといった声は少なくない。

 トレーナーはそれ自体は気にしないが、自分のやり方を理解している友人達にもガチ目に叱られたのはややショックだったらしい。どこか遠い目をしている彼の横顔をシンザンは珍しい顔だなと眺めていた。

 

 「でもお前があっちこっちで新入生に宗教勧誘みたいな蹄鉄のプッシュをしなければ俺が頭を下げる回数はかなり減ったと思うんだ・・・・・・。何なんだお前のヒンドスタン重工に懸ける熱は・・・・・・」

 

 「新入生の為を思ってやったんじゃないか! 質の良いものを薦めて感謝されこそすれ怒られる筋合いはないねえ!」

 

 「『あなたの為を思って』って言う奴が本当に相手を思い遣ってるところを見たことがないぞ」

 

 「じゃあよかったね。あたしが1人目だよ」

 

 「お前のその性格はいつか大きな敵を作ると思う」

 

 そこに惚れ込んだ俺が言うのもなんだけどさ、とため息を吐くトレーナー。

 自分の優位を確認した笑みを浮かべるシンザンに、そういえばとふと思い出したように彼は聞く。

 

 「新入生筆頭のコレヒデを捕まえた桐生院さんも流石だったけど、古賀がハクズイコウをスカウトしてたな。確かお前の同級生だろう」

 

 「うん。選抜戦から指の骨を痛めて走れなかったせいでトレーナーが見つからなくて、治ったと思ったらどこも募集が締め切られてたらしくてね。チームが増えたお陰だって言ってたよ」

 

 「そうだったのか・・・・・・」

 

 コダマの活躍からレースに対する関心が高まっている近年トレセン学園の門を叩くウマ娘が増えてトレーナーが不足してきているのは理解していたが、ハクズイコウはその被害を食らったらしい。

 大元の原因は故障のせいとはいえ、トレーナーというブレインが側にいれば患部に負担の掛からないトレーニングの立案などまだ良質な休養期間を送れただろう。シンザンとの一対一を貫いた事に若干の罪悪感が出てきた。

 しかし新入生主体のチームを組めと言われて即彼女を勧誘したという事は、彼はウメノチカラの他にも彼女を見出していたのか。

 

 (となると彼女も間違いなく『走る』。シンザンと激突するのはシニア期になるな。今から注意して見ておかないと)

 

 「さて、と。傷心のトレーナーさんに付き合ってあげたところでお願いがあるよ。24日にお休みちょうだい」

 

 「ああ、俺もその日は休みにしようと思ってた。たぶん目的は一緒だと思う」

 

 「おっいいね。じゃあ車出してよ」

 

 立ち上がって尻をはたく。

 今ごろ彼女は学園で予定されていたインタビューを受けている頃だろうか。

 1週間後、シンザンの友達が一足先に大舞台へと駒を進める。果たして彼女は己の宣誓を叶えるための2歩目を踏み出す事が出来るのか。食堂で彼女が自分達に布告した宣戦を思いつつシンザンはトレーナーを伴って帰路に着いた。

 

 

 「お疲れ様です、カネケヤキさん」

 

 インタビューを終えて一息ついているカネケヤキに床を叩く硬質な音が近付いてくる。

 艶やかな金髪を巻き、松葉杖をついたウマ娘。

 包帯の巻かれた(トモ)を制服から覗かせる彼女の姿を見てカネケヤキは足を止めた。

 

 「インタビューお疲れ様でした。堂々たる佇まい、流石でしたわ」

 

 「プリマドンナさん。脚の調子はいかがですか」

 

 「思わしくはありませんわね」

 

 やれやれと肩を竦めるプリマドンナ。

 生身の脚と木製の足、合わせて3本足になっている彼女は残念そうに眉を寄せて固定されている足を揺らす。

 

 「レースへの復帰は1年近くかかるとの事ですわ。乙女として1番脂の乗った時期ですのに」

 

 「思いのほか優雅ではない表現が出てきましたね」

 

 「いいえ。私は変わらず優雅でしてよ」

 

 カネケヤキの揶揄(からか)いにプリマドンナは可笑そうに笑いながらもきっぱりと言い切った。

 彼女の瞳がカネケヤキの瞳と直線で繋がる。

 プリマドンナの目からカネケヤキに届いたものは、割れてなお輝く金剛の光だった。

 

 

 「1年間の休養明け、復帰が叶っても今までのような走りは叶わないでしょう。もしかしたら入着すら出来ないレースが続くかもしれませんわね。

 しかし私は諦める気などありません。塗炭の苦しみを味わおうとも私は走り続けます。

 振るわぬ結果を笑われようと何度泥濘に塗れようと、─────私は誰恥じる事なく主人公(プリマドンナ)ですわ」

 

 

 「つ──────」

 

 次の《オークス》でも負けません、とカネケヤキは喉まで出かかった。

 この大レースで彼女がリベンジしに来るという実現し得ないビジョンがありありと浮かんできたからだ。

 脚に重度の故障を負ったとは思えない程に、それ程までに力強い姿だったのだ。

 停滞と苦難の未来を前に些かも怯まないその様に、カネケヤキは彼女の心に立つ柱を見た。

 

 「─────・・・・・・流石です。私も絶対に負けません。必ずや世代の女王と呼ばれてみせましょう」

 

 「その意気ですわ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、どうやら杞憂でしたわね。

 貴女の勝利を心から信じていますわ」

 

 「ありがとうございます。必ずや勝ちましょう」

 

 そんな激励を送ってプリマドンナは踵を返す。松葉杖の先端が地面を捉えるリズミカルな音が遠ざかっていく。段々と小さくなっていく3本脚の足音に耳を震わせながらカネケヤキは少しだけ俯いた。

 聞こえていたからだ。

 恐らくは聞かせるつもりなどなかったであろう、プリマドンナの悲しく転がる呟き。

 ────叶うなら貴女と鎬を削りたかった、と。

 

 「遺憾ながらその未来は訪れませんでしたが」

 

 胸の前で拳を握る。

 この脚には自分の夢だけではない。トレーナーの想い、皆の声援、そして友の無念が乗っている。

 叶えたい夢、叶わなかった夢。レースの因果全てを背負い、カネケヤキは心に炎を燃やす。

 

 「必ずや成ってみせましょう。あなたが自分の好敵手だったと胸を張って話せるような、誰もが見上げる華やかな私に─────」

 

 

 桜の玉座は樫へと続く。

 3つに連なる花冠、眩く輝く2つ目の栄冠。

 斯くあるべきと記した御旗を頂点の場所で掲げる日まで、女王の歩みは止まらない。

 来たる5月24日。

 《オークス》が始まる。

 

 

     ◆

 

 

 ざわめく東京レース場。

 出走する側のウマ娘にとっても馴染み深くなってきたここで、シンザンとトレーナーは並んで観客席に座っていた。

 自分とは関わりのないレースなので関係者枠の最前列は取れなかったが、全体がよく見える席を先んじて取るのは『トレーナー』として当然。

 売店でトレーナーに奢らせた軽食を口に運びつつ、シンザンは出走者たちの本バ場入場を待つ芝のコースを見下ろす。

 

 「出走者は20人、また多いけど桜花賞よりか走るのは楽そうだね。3人程度少ないだけでどれだけ違うかは知らないけど」

 

 「雨も無いしバ場状態も良と出てるから環境的な不確定要素は排していいな。しっかり見ておけよ、このレース展開の分析はお前にも大いに活かせるはずだ」

 

 「はーい」

 

 日本ダービーの参考にしろという事だ。

 返事をした後でそういえば今日はみんなこのレースを見に行くと言っていたしこの辺りにいるんだろうかとシンザンはふと周囲を見回してみた。

 最前列には新たに勧誘したチームメンバーを伴った桐生院がいる。

 また少し向こうには古賀とウメノチカラ、佐竹とバリモスニセイがやはりチーム単位で観客席にいた。

 一緒に見るという話になっていない辺りやはり今回は敵情視察の色が強いらしい。あまり意見交換などで自分の考えなどを悟られたくないといったところか。

 

 「トレーナーさん」

 

 「うん?」

 

 「ケヤキ1番人気だっただろ。けどほら、1番人気だからって勝つとは限らないじゃないか。あたしはケヤキに勝ってほしいけどさ、トレーナーさんから見て勝ちそうなのって誰なんだい?」

 

 「1番強いのは、か。それはまあ・・・・・・」

 

 ファンファーレが鳴った。

 《オークス》の開催、本バ場入場を告げる金管楽器の音色に(いざな)われるように色とりどりの出走者たちが地下道から現れる。

 これから樫の女王の座を争う彼女らに、または自分が応援しているウマ娘に向けて観客達から一斉に歓声が飛ぶ。

 

 「オーヒメーーー! 次はいけるぞーーーー!!」

 

 「リベンジだヤマニンルビーーーーー!!」

 

 「カネケヤキ先輩頑張って下さーーーーい!!」

 

 「勝てますよケヤキ先ぱーーーい!!」

 

 「が、がんばれー・・・・・・!」

 

 負けじと声を張り上げるのはコレヒデにダイコーター、ハツユキのチーム《リギル》。

 チームの先輩のダブルティアラが懸かっているのだ、応援にも熱が入るだろう。静かにしているが桐生院も気が気ではないはずだ。

 自分の頬を叩くもの、ガッツポーズで己を鼓舞する者、銘々が様々な方法で気合を入れている中、紫のドレスを纏うカネケヤキは静かに瞑目していた。

 チームメイトの声に気付いたのか目を開けて彼女らに微笑みながら手を振ると、再び彼女は目を瞑ってしまう。

 彼女の中で既に勝負は始まっているのだ。

 万一にも仕損じる事のない自分を仕上げにかかっている。



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29話

 『注目の1番人気は桜花賞ウマ娘、ダブルティアラの達成がかかっておりますカネケヤキ。リベンジに燃えるヤマニンルビーは2番人気、3番人気は八大競走初出走のサンマリノ。それぞれの想いを胸に着々と準備が整っていきます』

 

 各ウマ娘が続々とゲートに入っていく。

 しばしその場で佇んでいた彼女も目を開いてゆったりとゲートに収まった。

 いよいよティアラ路線2つ目の大舞台(オークス)が始まる。

 このレースは誰が勝つと予想するかという担当からの質問に、トレーナー達は奇しくも同じ答えを返していた。

 

 「カネケヤキよ。勝つ実力は十二分(じゅうにぶん)にあるわ」

 

 ハツユキの質問に桐生院が即答する。

 

 「前哨戦の特別レースを同じレース場でキッチリ勝ってたし、上り調子の今なら勝つ可能性はかなり高いだろ」

 

 バリモスニセイの質問に佐竹が唸りながら自分の見解を述べる。

 

 「プリマドンナがいれば分からなかったが、それでも彼女かカネケヤキかの2択だったな。今年のティアラ路線はそれだけこの2人が飛び抜けた存在だった」

 

 顎髭を撫でつつどこか惜しむような感情を滲ませて古賀はウメノチカラに語った。

 そしてトレーナーは最も率直な事を言った。

 ゲートの中で全神経を集中させる彼女らが聞いたらどれだけの怒りを見せるだろうか。指についたソースを舐め取っているシンザンが「じゃあ結果は見えてるね」とすんなり納得する位に彼の断言には自然な確信を感じられた。

 

 「つまり今回のレースには、カネケヤキの対抗と呼べるウマ娘がいないんだよ」

 

 『スタートしました東京2,400メートル第25回「オークス」! 綺麗なスタートです、樫の女王の座を目指しウマ娘20人が一斉に正面スタンド前!!』

 

 ゲートが開きウマ娘達が走り出した。

 全員がスムーズにスタートを切り大歓声に包まれながら観客達の前を通過する。

 ほとんど塊となっている20人分の一団をシンザンとトレーナーはじっと見据えていた。

 

 「流石に全員スタートが巧い。だがこのレベルで出鼻が拮抗すると序盤のコース取りがキツいな」

 

 「埋まっちゃうと面倒だねえ。あたしなら最初に脚使って先の方に抜けといて、第1コーナー過ぎ辺りから緩めて4番手くらいで進むかね・・・・・・」

 

 『さあインコースの方からエゾクイン! 真ん中辺りからはオーヒメ、外の方からはフラミンゴにカネケヤキが行きました!』

 

 (カネケヤキは桜花賞と特別レースのいずれも好位置から抜け出す先行策で勝った。レースの流れと仕掛けどころを見極める目を高いレベルで持ってる)

 

 斜め後ろを走る黄と紫のドレスを横目に低く身を沈める。桜花賞2着にシニア級特別7着、復讐の気炎を燃やして彼女は一気に前に出た。

 

 (なら少なくとも、このレースで勝つには・・・・・・自分のペースを作り出すのが最低条件!!)

 

 『さあフラミンゴ前に出た先頭はフラミンゴであります! それを追ってはオーヒメにカネケヤキエゾクインと続きまして最初のカーブに差し掛かります、先頭のリードはおよそ2バ身!』

 

 下り坂を利用して先頭のフラミンゴはさらに加速、ある程度のリードを奪って自分が単騎で逃げる形を作って目論見通りに自身がレースのペースメーカーとなった。

 そして第1コーナーを通過して第2コーナーに差し掛かり、各ウマ娘の位置取りが良くも悪くも確定する。フラミンゴを先頭としてインコースにはオーヒメ、アウトコースにはカネケヤキ。

 オーヒメは内側の経済コースで体力の温存を図り、カネケヤキは外目を通って追い抜く際の横移動を減らそうという狙いだろうか。

 この時点で全体的なレースの展望を(えが)けているならよい。しかし最初に判断を誤った、不運に見舞われたウマ娘には最大級の試練が待っている。

 

 「くっそぉトチッた・・・・・・!!」

 

 「これ、は、まずい・・・・・・!」

 

 早くも窮地に立たされたのはトヨタクラウンとミスカリム、その他数名。上手くスタートを切ったはいいが同じく好位置へと至近距離に殺到するウマ娘達に怯んで競り合いに負けた者達だ。

 彼女らにはこれから前に広がる十数人のウマ娘達の壁が立ち塞がることになる。

 おおよそ良いポジションを取れたのは前から6人といったところか。中団でバ群の中に揉まれているウマ娘は最終コーナーから直線で集団を抜け出すルートを今から考えなくてはならないだろう。

 オーヒメを左斜め前に見る形でカネケヤキは3番手を進んでいた。

 

 「かなり前目に着けたな。このレースは桜花賞は勿論、前走に比べても距離が600メートルも長い。・・・・・・ペースによっては潰れるぞ、ケヤキ」

 

 ウメノチカラが呟いた。

 逃げや先行は王道の勝ち方、差しや追い込みと違い『脚を溜める』という要素が薄くほぼウマ娘自身のフィジカルのみで相手を捩じ伏せる横綱相撲・・・・・・というイメージが強い。『華やか』である事を自らの走りに標榜するカネケヤキがその策を採るのは当然と言えば当然。

 しかし一言で先行策と言ってもペースによって適した場所がある。

 無理に前目で着いていけばスタミナが保たなくなる場合もあるだろう。距離が長いのであればなおさら。

 そんな懸念を他所に彼女は冷静だった。

 向こう正面を3番手の位置で進むカネケヤキは少しだけ首を回して後続の顔触れとバ群の形を確認する。

 

 (前からエゾクインさんにラッキーモアさん、ミスホクオーさんにローダンセさん、アイウィンさんに・・・・・・ヤマニンルビーさんはそこですか)

 

 得られた情報から脳内に俯瞰図を作る。

 4馬身ほど前に先頭フラミンゴ、斜め前にオーヒメ。エゾクインからアイウィンまでほとんど塊になっている。ヤマニンルビーは中団の前あたりのアウトコース寄りを走っており、より全体が見えるポジションから先を走る者達の推移を見極めていると思われた。

 それ以上はよく見えなかったが後ろはタカブヒメにサンマリノだろうか。目下の脅威はヤマニンルビーの差し足。

 ・・・・・・こんなところですか。

 これからの展開に影響しそうな要素を整理したカネケヤキは再び意識を前に向ける。

 迫り来るのは東京レース場1つ目の急坂。

 乗り越えるのは3度目の関門を前にしてこれからのプランを反芻する。

 この段階まで順調にレースを運べば後は定石通りに第4コーナーから抜け出せるだろう。

 残る課題はスパートをかけるポイントに至るまでに立ちはだかる2つの坂の越え方だ。桜花賞に比べて800メートルも長いこのオークスではそれが生命線になる。

 基本に忠実に、丁寧に走る。そうすれば無駄無くゴールに飛び込めるはずだ。

 落ち着いて丁寧に走れば、必ずや1着で─────

 

 【─────それでいいんですか?】

 

 胸の中で何者かが囁く。

 自分に瓜二つの顔をした、しかし瞳だけは野蛮なまでの輝きを放つ何者かが自分自身に問いかけてくる。

 定石通りに、丁寧に、落ち着いて。

 そんな『無難』に塗り固めた走りが─────

 

 【そんな既製品(レディメイド)のような走りが、あなたの求めた『華やかさ』なんですか?】

 

 音が遠くなっていく。

 共に走る者の息遣いも大地を蹴立てる足音も、観客達の歓声もまるで遥か向こうのどこかで沸き上がっているかのような感覚。

 覚えがあった。そこは3週間前、入口だけ見て去った世界。自分の走りの向こう側。

 この一歩先が『何者か』の住まう場所なのだと本能で理解できた。

 ならばどうする。囁きの答えなど決まっている。

 自分を世界から切り離すように深くなっていく意識の静寂に、カネケヤキは歌うように身を投げ出す。

 その場所に付けられた名前も知らぬまま、カネケヤキは軽やかな足取りで自分1人の舞台に上がった。

 

 『さあスーッとカネケヤキが仕掛けて来まして2番手に上がらんとしております! 先頭は依然フラミンゴ、ここでカネケヤキ完全に2番手に上がっていよいよこれから第3コーナーであります!』

 

 「「!?」」

 

 その実況にフラミンゴとオーヒメは耳を疑った。

 何故ならこの先にあるのは最初の急坂、脚を残して越える事に注力すべき場所。東京レース場で走るならどんなに早くとも坂を越えた第4コーナーからにするべきと考えていたからだ。

 突飛でも何でもない普通の認識のはずだ。

 なのにカネケヤキは仕掛けてきた。

 

 『カネケヤキ飛ばしたカネケヤキ飛ばした! 上り坂でぐんぐん脚を伸ばして先頭のフラミンゴに並びかけてまいります! カネケヤキ並んでさあここで前に出るのか!』

 

 トレーナー達が驚愕に目を見開き、ウマ娘達は思わず身を乗り出す。

 遠い向こう正面を走っている彼女の変質をレースに関わるそれぞれの勘が見抜いたのだ。

 20人ものウマ娘が走っているこのレースで、ただ1人彼女だけ段階が違う。

 思わぬタイミングで勝負に出た彼女に観客席が沸き立つ中で、桐生院は1人張り詰めた声で呟いた。

 

 「──────()()()()()

 

 

 「ありがとうございます」

 

 感謝の言葉は自然と口を突いて出た。

 好敵手のシンザンにウメノチカラにバリモスニセイ。何より自分の意思に応えてくれるトレーナーに、自分に夢を託したプリマドンナ。

 自分1人のエゴだけでは、彼女らがいなければ自分はここまで至れなかったと思う。

 だからここで証明しよう。

 

 ────── 絢爛華麗。

 

 あなた達と戦いあなた達が信じるこの私は、誰の手も届かない程に美しくターフに開く華であると。

 

 『フラミンゴを交わしてカネケヤキ先頭に立ちました! それを追うようにフラミンゴとオーヒメ! ()()()()()()()()()()()()()()()!! いよいよ600の標識を通過してウマ娘達が第4コーナーに向かって向かって参りました!!』

 

 花弁のように軽く、飛ぶように前へ。

 (まばゆ)く輝く眼光の軌跡を後ろに残して、必死に追いかける皆を他所にその背中はどんどん遠ざかっていく。

 花冠(ティアラ)の女王カネケヤキ。

 万感の想いを胸に抱き、緑の煌めく樫の舞台で彼女は完全に開花した。

 

 『さあ坂を下って第4コーナーの登り坂! カネケヤキ逃げるカネケヤキ逃げる、勢いが全く落ちません! リードを広げて3バ身、府中の直線を一人旅!!』

 

 「トレーナーさん。『入った』って何だい」

 

 時を同じくして同様の事を呟いたトレーナーに身を乗り出しながらシンザンが聞く。

 カネケヤキが化けたのは目に見えて明らかだった。

 その答えを知っている彼は重く厳しく、まるで警告を発するように口を開く。

 

 「極限の集中状態だ。自分の走りに頭の先まで没入した状態と言い換えてもいい。一度(ひとたび)その領域に足を踏み入れると感覚は研ぎ澄まされ、普段とは比べ物にならないほど圧倒的なパフォーマンスを発揮する。カネケヤキはその状態に入った」

 

 「・・・・・・まるで自分が体験したみたいに言うねえ」

 

 「()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 シンザンの瞳孔が僅かに開く。

 この話の引き合いにコダマが出てくる意味を理解したからだ。

 つまり彼女は自らの脚で象徴となったウマ娘と同じ『領域』に踏み込んだということ。

 樫の女王を争うこのレース、この瞬間に、彼女は時代の象徴に名乗りを上げた。

 

 「実例は少ない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。限界の先の先、自分も知らない自分の剛脚。まだ名前すら定まっていない・・・・・・、ただ"忘我(ぼうが)"と呼ばれる領域へ」

 

 『残り400メートルを切ってさらにリードが広がって参りました! 先頭カネケヤキ2番手との差は4バ身!! ミスホクオーここで前に出てオーヒメを交わす! 先頭はカネケヤキ!先頭はカネケヤキッ!!』

 

 届かない。届かない。絶壁に咲く花を見上げるようにその背中が果て無く遠い。

 空を舞う蝶のように遥か先を駆ける彼女の後ろで、ようやく2番手に上がったミスホクオーが敗北の苦渋に顔を歪めていた。

 ─────無茶苦茶だ。

 こんなハードなコースでこんな仕掛け方をして、どうしてここまでの差を着けられるのか。

 ゴールまであと100メートル付近に迫ってもなお彼女との距離が縮まらない。

 もう勝てない。

 ここまで来たら逆転の目などない。

 

 (なら、せめてっ、今の順位をキープ・・・・・・!?)

 

 そう考えた時点で順位を落とすことは決まっていたのかもしれない。ミスホクオーを横側から追い抜かしていく彼女は未だ折れていなかった。

 光明の差さない暗闇を道よ拓けと走り続ける。勝利を望み望まれているのは、彼女とて同じ事なのだ。

 

 「あああああああああっっ!!!」

 

 『ゴールまであと100メートルを切って()()()()()()()()()()()! いい脚を使ってグングン前に出てミスホクオーを交わし2番手に上がりました! しかしこれは、しかしこれは──────』

 

 光は潰えたか、そもそもありはしなかったのか。

 指先すら掠らない先の先でただ1人輝く。

 ゴール板を越える瞬間、確かに彼女は笑っていた。

 

 

 『────カネケヤキ先頭で今ゴールイン!! カネケヤキ1着、3バ身離れて2着ヤマニンルビー!

 カネケヤキ桜花賞に続いてオークスを勝利! 残す冠はあと1つ────ッ!!』

 

 

 第25回、オークス。

 樫の女王の名は、カネケヤキ。

 真の美しさは、ただ1人で咲く。



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30話

 『これで日本レース史上6人目のダブルティアラ!! かつてスウヰイスーが、ヤマイチが、ミスオンワードが噛み締めた無念を晴らすことが出来るのか! 桜と樫の女王の肩に大きな期待が掛かります!!』

 

 「・・・・・・確かに私はあの時に、私の夢も貴女に託すと言いましたが」

 

 席を立って歓声を上げる観客達に紛れるように松葉杖をついたプリマドンナが静かに吐き出した。

 仮にこの脚が完調だったとしても、自分はあの走りに勝つことが出来ただろうか。桜花賞まではカネケヤキを上回る戦績を誇っていた彼女にそう言わしめる程の走りだった。

 正に女王。自分が夢見たその姿。

 杖を握り締めるプリマドンナは、羨望の籠った畏怖の言葉を贈った。

 

 「どこまで強くなる気ですの。カネケヤキさん」

 

 そして誰もが押し黙っていた。

 ウメノチカラにバリモスニセイ、そしてシンザン。レースを観戦していた彼女のライバル達。

 いつか激突する者の余りにも鮮烈な開花に目を奪われた彼女らの沈黙は様々だ。

 目を見開く者、息を呑む者。

 明確な脅威をカネケヤキから感じ取っているウメノチカラとバリモスニセイに対してただ無言を貫くシンザンに、隣に座るトレーナーは低い声で告げる。

 

 「いいかシンザン。あれがお前と遠からず激突する相手だ。・・・・・・気合を入れろよ。カネケヤキは今、コダマと同じ領域に踏み込んだんだ」

 

 ふうん、と気のない声が返ってきた。

 ここばかりは緩んだ空気でいさせる訳にはいかないトレーナーは少し警告するべきかを考えたが、シンザンの横顔を見た瞬間にそれは不要だと理解した。

 危機感を覚えていないのではなく、ただこちらに意識をあまり向けていないだけだったからだ。

 まるで鼠を見つけた猫のような好奇心を口元に浮かべて芝の上に立つカネケヤキを見つめている。

 喝采に沸く観客席に恭しく一礼してみせる今年の桜と樫の女王に、シンザンは静かに両の目を細めた。

 

 

     ◆

 

 

 嵐を予感させるオークスから1日、生涯一度の大決戦まで残り1週間を切った。出走するウマ娘達は最後の追い切りにかかっている。

 カネケヤキの走りに当てられたかウメノチカラやバリモスニセイは目に見えて気迫を増しているし、その他のウマ娘も気合の入った姿勢を見せている。

 そんな中にいるトレーナーの懸念事項は、やはりシンザンの様子だった。

 普段通りなのだ。良くも悪くも。

 オープン戦で手を抜いたシンザンをこの大レースで負かしてやろうと鼻息を荒げている者も多い。

 皐月賞の時ですら『勝てるから勝っている』という風情の不動のメンタルは彼女の強みだが、下手をすれば勝負所で他者の気迫に呑まれて鈍る可能性も捨てられない。対抗するために彼女の闘争心を少しでも煽る方法があればとトレーナーは思考を巡らせる。

 ────勝ってくる事を前提とした物言いを自分がすれば手応えは返ってくるが、それはあくまでモチベーションの維持だ。勝負に対する着火剤が欲しい。

 それを見つけるにはシンザンというウマ娘をさらに深く理解する必要があり、その為には自分が普段見たことのない彼女の姿を知らねばならない。

 となればシンザンに近しい人物に話を聞くのが手っ取り早いだろう。出来ればまだライバル意識が薄く色眼鏡のないクラスメイト辺りから・・・・・・

 

 「すまない。少しいいかな」

 

 ちょうど近くを通りかかったウマ娘に声を掛けた。

 お(あつら)え向きの人物がいたからだ。

 チーム《スピカ》所属、シンザンのクラスメイトであるハクズイコウは、トレーナーからの唐突な質問にきょとんと首を傾げていた。

 

 

 「クラスでのシンザンさんの様子ですか」

 

 うーん、と上を見ながら唸るハクズイコウ。

 丁寧に思い起こしてくれているらしい。トレーナーが彼女の優しさにありがたみを感じつつ答えを待っていると、当てはまる表現を見つけたらしいハクズイコウが納得するように頷いた。

 

 「一言で言っちゃうと、『静か』ですね」

 

 「静か?」

 

 いきなり普段の印象と違う言葉が出てきた。

 トレーニングでしょっちゅう「んええええ」と鳴いている様子を見ている彼が静かな彼女を想像しかねているのを補足するようにハクズイコウは続ける。

 

 「静かというか動かないというか。席が窓際なので天気がいい日はずーっと席に座って日向ぼっこしてます。そんな時に話しかけても『んー』とか『そうだねえ』の一言しか返ってこないです」

 

 「・・・・・・クラスで浮いてるのか?」

 

 「最初は少し。今は超然としてる子と思われてます。いやシンザンさん自身は変わってないんですけど、周りの見方が変わった感じで」

 

 あまり積極的に他者とコミュニケーションを取る性格ではないらしい。

 ウメノチカラ達とは仲が良いようだが、交友関係を狭く深く築いていくタイプなのだろうか。

 自分の世界を強く持っているタイプなのかもしれないな、と入学して間もない友達作りよーいドンの時期に堂々と木陰で昼寝をしていた事を鑑みて思う。

 だがトレーナーとして気になることがもう1つ。

 

 「ハクズイコウ。うちのシンザンがトレーニング嫌いというのは多分知っていると思うけど」

 

 「有名ですよね」

 

 「その、あいつは勉強も嫌いだったりするのか? シンザンとは成績の話もするんだが、テストの点数が毎回平均ギリギリというか、割と赤点のラインに近いんだ。もし補講とかになったら」

 

 「そうそう、それですよ! ()()()()()()()()()()()()()()()()()!!」

 

 思い出したように手のひらを打ち鳴らした音がトレーニングにも支障がと続けようとしたトレーナーの言葉を遮る。

 頭が良い? テストの点が悪いのに?

 誰かとまるで真逆のその2つが脳内で繋がらず混乱するトレーナーに、ハクズイコウは若干怒っているような様子で捲し立てる。

 

 「シンザンさん『基準超えてたらいいんだろ』ってわざとそのラインで止めてるんですよ! ()()()()()()()()()()()()()()! それでその点数分だけ解いたら後は寝てるんです!!」

 

 「寝てる???」

 

 「授業中もですよ! シンザンさんって授業中も4割くらい寝て過ごしてるんです。なのに寝てるところを先生に指名されても黒板見て教科書パラパラって見直したらもう解いちゃう!!

 テスト前にノート見せてもらったらメモ書きみたいな板書がちょろっとあるだけでほとんど白紙だし──────」

 

 

 

 『出された課題や任された仕事はすぐに終わらせて後はのんびりしている』。

 『何も急いでいるように見えないのに気付けば誰よりも早くやるべき事を終わらせている』。

 質問に対する回答というよりはハクズイコウがシンザンに対して腑に落ちていないことを纏めてぶつけられたような形になったが、日頃のシンザンの様子について多くを知る事が出来た。

 やらなくていい事、必要のない事はやらないのは知っている通り。

 クラスではとても静かなウマ娘というのも意外だったが、しかし何よりの収穫は、シンザンが『やらない』と『やらねばならない』の行動の振れ幅がとても大きいタイプだと分かった事だ。

 新たに得られた情報を元にトレーナーの頭の中でトレーニングメニューが組み変わっていく。

 

 (うん、聞けてよかった。これはシンザンのトレーニングに役立つな・・・・・・)

 

 「んん? あれれ。どうしたんだいトレーナーさん。こんな所で」

 

 自分のトレーナーの姿を認めてぽてぽてと歩いてきた担当ウマ娘。

 今の今まで考え事をしていたトレーナーの顔を下からじろじろと眺め、シンザンはじとっとした眼差しを彼に向けた。

 

 「何だい? なんかさっきまで助平な顔してなかったかい? あんた今度はあたしをどうしようってんだい」

 

 「なんだ人聞きの悪い事を。俺は得られた情報から新たなトレーニングのやり方を閃いたところでな」

 

 「ほーーーーら助平な事を考えてやがったね。男ってやつはいつもそうだね。お母ちゃんの言った通りだったねえ」

 

 「お前はもう少し母親に対して疑いを持った方がいいと思う」

 

 予想されるトレーニングの激化を阻止すべく文句を垂れるシンザンを受け流しながら歩くトレーナー。

 必要な事以外はしないという彼女の行動原理から考えればこの抗議運動も『必要な事』に分類されるのだろう。

 少しずつ厚かましさを増していく要求を半分聞き流しつつ、もう少し建設的な方向に取捨選択の舵を切ってほしいなあと若干遠い目をしながら彼は考える。

 ──────ああ、でも。

 不要とすることは一切やらない彼女が。

 自分とのこういう無駄なやりとりを『必要な事』だと感じてくれているのなら、それはそのままでいいのかもしれない。

 ベルトを掴んで引っ張ってくる腕に全力で抗いながら、トレーナーは少しだけ笑った。

 

 

     ◆

 

 

 シンザンは憂鬱であった。

 何が憂鬱ってトレーニングが厳しくなりそうなのが憂鬱であった。

 近く本番の大レースがあるため今はいつも通りの追い切りになるだろうが、本番後のメニューがどうなるかを考えると気が重い。

 今度は腕にも(おもり)を着けろとか言われるんじゃないだろうな、とこれから自分の両脚に装着される拷問器具(ていてつ)を想う。

 場合によってはストライキも辞さない構えを見せなければならないなとぼんやり考えつつトレーニングに向かっていたシンザンは、歩いているうちに練習用のコースにはみ出していることに気付かなかった。

 

 「うぎゅっ!?」

 

 「わあ」

 

 ぶつかった。

 走っているところにふらりと出てきたシンザンに衝突したウマ娘が後ろに引っ繰り返り、衝突されたシンザンが軽くよろめいた。

 仰向けに大の字になって目を回している眼鏡をかけたウマ娘に、シンザンは腰を屈めて手を伸ばす。

 

 「あららら、ごめんね。ボーッとしてはみ出しちゃったね。怪我無いかい?」

 

 「ふぇ、あ、はい私は大丈夫です! そっそちらは!? 思い切りぶ、ぶつかっちゃいましたけど」

 

 「あたしは無事だよ。ちょっとよろめいただけ」

 

 「え、よろめいただけ・・・・・・?」

 

 私けっこう本気で走ってたんですけど、と隠しきれない動揺と混乱を浮かべて眼鏡のウマ娘はシンザンの手を取った。ひょいと助け起こされた彼女はズレた眼鏡を直して衝突事故を起こしてしまった相手を見る。

 ピントが正常に戻った視界で改めて相手の顔を確認した彼女は、もう一度引っ繰り返りそうになった。

 

 「しっ、しししし、しっ、シンザン先輩っっっ!? あわわっ、すいませんすいませんぶつかっちゃってすいませんっ!!」

 

 「そうだよシンザンだよ。まあ落ち着きなよほら」

 

 「あわわわわ脚はだいじょぶですかお怪我はないですか脚はないですか」

 

 「まあまあまあ脚はちゃんとあるからほらほら」

 

 「あわわわわ」

 

 「まぁまぁまぁまぁまぁ」

 

 「ひゃわーーーーーーっ!!」

 

 

 

 シンザンが来ない。

 トレーニングの時間なのにシンザンが来ない。

 またロッカー前でシンザン鉄を前に腕組みをしているのかと覗きに行ってみたら普通に他のウマ娘が利用していた。

 今世紀最大の声量で謝りながらその場から遁走して逃げ延びたグラウンド、肩で息をしながら視線を上げた先にシンザンはいた。

 何やらカチコチに硬直している眼鏡のウマ娘を後ろから抱き抱えてダル絡みしている。

 

 「・・・・・・シンザン。トレーニングは」

 

 「ん?・・・・・・あ、いけない。忘れてた。この子に構ってたら頭から抜けちゃったねえ」

 

 「その子はどうした。知り合いか?」

 

 「後輩の子だよ。ついさっき捕獲したよ」

 

 「は、はいっ! 『レッドリコリス』ですっ!」

 

 耳も尻尾も物差しみたいに伸びている彼女が緊張混じりにそう名乗った。そんなレッドリコリスを後ろから抱えたままシンザンは視線を促すようにトレーナーを指差す。

 

 「いいかい、この人があたしのトレーナーだよ。あたしにいつもえげつない蹄鉄でトレーニングさせる極悪人だよ」

 

 「いいかレッドリコリス、彼女がシンザンだ。時間通りに来なかった事に対して未だに謝る気配がない問題児だ」

 

 「え、ええと、私はどちらに頷けば・・・・・・!?」

 

 不条理な板挟みを喰らうレッドリコリス。

 緊張が過ぎてテンパり始めているためひとまずシンザンを彼女から引っ剥がした。

 話を聞くにボーッとしていたシンザンとぶつかったらしいが、そこでトレーナーは眉を上げた。

 どのウマ娘も大凡(おおよそ)この時間からトレーニングを始めるものだが、レッドリコリスが既に運動着を着ているという事は、彼女はそれより早くグラウンドに出てトレーニングしていたということになる。

 

 「私、ま、前の選抜レースで思うような結果が出なくて。だからもっと頑張らなきゃダメだから、その、少しでも多くトレーニングしなきゃって」

 

 「素晴らしい姿勢だ。ぜひ君の爪の垢をシンザンに飲ませてくれ」

 

 「せめて煎じておくれよ」

 

 飛ぶ鳥を落とす勢いで白星を重ねるシンザンとそのトレーナーのしょうもないやり取りに自分が混ざっている。

 入学して間も無いレッドリコリスが感じたのは自分が遥か遠い場所にいる彼女らと同じ所に立っているような感覚だった。

 少しだけ引っ込み思案な自分を胸の高鳴りで励まして、彼女は自分の胸の内を思い切って声に出した。

 

 「わ、私し、シンザン先輩みたいになりたくて! シンザン先輩みたいな才能があるかはわからないけど、選抜レースにもまだ勝ってないけど!

 努力すれば私も、あなたみたいになれますか!?」

 

 それだけ精一杯の言葉だったのだろう。

 顔を赤らめて震えながら叫んだ彼女に、シンザンの表情がにんまりとした笑顔に変わっていく。

 ─────後輩の憧れになる。

 自尊心を大いに満たされた彼女はレッドリコリスの肩に手を置き、嬉しそうに頷いて彼女を肯定する。

 

 「うん、うん! きっとあたしみたいになれるよ!」

 

 「そうか。じゃあ後輩にいい所を見せないとな?」

 

 「うん! 待ってなよリコリスちゃん、あたしダービー取ってくるから!」

 

 

 「じゃあ遅刻したぶん割増トレーニングな」

 

 「あ、はい」

 

 

 んええええ、とやっぱり鳴き声を上げるシンザンを引き摺っていくトレーナー。

 こちらに深々とお辞儀をして気持ち弾む足取りでランニングを再開したレッドリコリスの背中を見送り、引き摺られるままに四肢を投げ出したシンザンのつむじを見下ろす。

 

 「随分打ち解けたな」

 

 「あたしが何か言う度にわちゃわちゃするから面白くてね。かわいい子だよ。あたしみたいになりたいなんて見所あるじゃないか」

 

 運んでくれるなら歩く必要なしと考えているのか、一向に自立する気配のないシンザンは非常にご満悦そうだった。

 機嫌良さげに鷹揚に頷く彼女はトレーニング中の後輩の豆粒サイズに小さくなった背中を眺めつつ、感慨深さを滲ませて微笑む。

 

 「いいねえ。次のクラシックはあの子が中心になるんだよ」

 

 ほら運ぶならもっと丁重に運びなよというクレームをスルーしてトレーナーはシンザンを連行していく。

 ────次のクラシックはあの子が中心になる。

 シンザンの言葉を反芻して心の中で三女神に祈る。

 

 そうだな、とトレーナーは言わなかった。

 無責任な希望は、口には出来なかった。

 

 

     ◆

 

 

 走る。走る。

 研ぎ澄まされた双眸に映るのは自分が先頭で走り抜けるべき地点のみ。

 鼓動する心臓と自分の息遣い、猛スピードで流れる景色の中に『あの時』の続きを求めて疾走する。

 しかし求めていたものは訪れない。

 闇の中で手探りする歯痒さともどかしさを抱えたまま、ウメノチカラはゴールラインを駆け抜けた。

 

 「あーんもー、ウメ先輩速いっすー!!」

 

 ひいひいと息を吐きながら併走相手のキーストンもゴールラインを通過。古賀は手に持ったストップウォッチに目を落としてタイムを確認した。

 記録は上々。本番に向けての仕上がりは数字の上では万全と言える。

 そう、あくまでも数字の上では。

 ウメノチカラとキーストンの記録を書き込んでから古賀はウメノチカラに問いかけた。

 

 「よしっ、いいタイムだ。・・・・・・ダメだったか?」

 

 「駄目ですね」

 

 袖で汗を拭いながらウメノチカラの語気は厳しい。

 眉根を寄せた険しい顔は彼女が掴み取らんとしているものの困難さを如実に表していた。

 

 「NHK盃の時の感覚がありません。周りの音が消えていくような、自分自身に没頭していくような・・・・・・。それにあの感覚は、本当にトレーナーさんのいう"忘我"なのでしょうか?」

 

 「間違いない」

 

 古賀はそう断言する。

 彼はウメノチカラが時代を創るウマ娘である事を微塵も疑っていなかった。

 

 「実例が希少だから詳しい事は分からんが、つまる所は集中状態の極致だ。レース中の急激なパワーアップに寄与するものはその位しかないし、お前から聞いた話から考えてもそれは間違いない」

 

 「しかし意識してそこに入るなど可能なのでしょうか。こうしてその為のトレーニングを重ねていますが、なんの取っ掛かりも・・・・・・」

 

 何時(いつ)になく弱気なウメノチカラ。

 重量や時間など数値で表せるものとは違う、具体的な掴み所のない目標。正解かどうかも分からないそれを本番のレースを目前に追い続ける状況に少なからず焦りを感じているようだ。

 そして古賀もそれを理解している。

 打開の鍵を求めて思考を巡らせる彼は、そこで1つの解答に行き着いた。

 

 「再現しよう」

 

 「え?」

 

 「NHK盃の最終直線、お前が"忘我"に至りかけた状況に少しでも近付ける。そうする事で改めて見えるものがあるかもしれん」

 

 「みんなで併走っすね? 呼んでくるっす! シローちゃーん! コーせんぱーい!」

 

 元気に走り出したキーストンがチームメンバーを呼びにいった。

 夢のデビューに向けて張り切るハクズイコウとさっきまで真面目にトレーニングしていたのに急速にやる気を失っているカブトシローを集め、チーム《スピカ》全員による併走が始まる。

 スタートの合図は古賀の号令だ。

 一斉に走り出した4人がグラウンドの芝を蹴り上げて直線からコーナーに向かう。逃げるハクズイコウをウメノチカラとキーストンが追い、後ろからグダッとカブトシローが着いてくる。

 トレーニングとはいえ競走で負ける気はないし、1年分多くトレーナーに指導を受けていた意地もある。

 コーナーに入った最終直線手前でウメノチカラは早くも抜け出しにかかった。

 

 だが思うように距離が縮まらない。

 逃げるハクズイコウの二の足が、想定以上に鋭かったからだ。

 

 「まだまだぁあーーーーーーーっっ!!」

 

 「今回は勝つっすよウメ先輩!」

 

 「あたしも行くぜぇー・・・・・・!?」

 

 「・・・・・・!?」

 

 同じくスパートをかけたキーストン。

 急にやる気が回復したカブトシロー。

 全員が想定を超えた力を発揮してきた。

 ─────これは(スタミナ)が保つか?

 こうなると完全に自分のミス。スパートのタイミングを間違えた。認識の甘さが招いたピンチにウメノチカラは歯噛みした。

 

 『集中状態に入るためのトリガーを探したい』

 

 併走前、トレーナーはそんな事を言った。

 

 『ダービーに向けた執念。ヤマニンスーパーとの鍔迫り合い。そこで感じた事を思い出して走れ。あのレースの再現がきっと"忘我"の入口に繋がる』

 

 

 『ウメ。お前はあの直線で何を思った?』

 

 

 何を思ったか、なんて。

 何かを考える余裕なんてあった訳がない!

 ゴールまでの直線、差を詰めてきたメンバー相手に全力で走るウメノチカラは心の中でそう叫んだ。

 あの時はただ夢中に走っていただけだ。

 鎬を削る強敵に負けたくなくて、絶対に勝ちたくて、無我夢中で走っていただけで──────

 

 

 「あ」

 

 

 その時、ウメノチカラは自覚した。

 あの時と同じだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ハクズイコウにキーストンにカブトシロー、古賀(トレーナー)に見出された彼女らはいずれも強者。

 うかうかしていれば容易に敗北を喫する相手。

 その全員を自分は倒したいのだ。

 並み居る強豪を打ち負かし、レースの世界で最も輝く場所に立ちたいのだ。

 

 ──────『勝ちたい』。

 

 思うまでもない。考えるまでもない。

 それこそが混じり気のない自分の本能。

 勝ちたい。負けたくない。

 真正面から打ち倒したい。

 ハクズイコウを。

 キーストンを。

 カブトシローを。

 

 バリモスニセイを。

 

 カネケヤキを。

 

 

 そして何より、───────シンザンを。

 

 

 ずるり、と。

 まるで粘質な何かが剥がれ落ちるように、ウメノチカラの世界から音と声が消えていった。

 

 

 

 そして5月の31日。

 晴天に恵まれた東京レース場、潮騒のような観客席のどよめき。例年を遥かに上回る入場者の中に花冠の女王はいた。

 見届けるのは好敵手の行方。

 宣言通りに2つ目を手に入れるのか、あるいは逆襲が果たされるのか。

 『最も運の良いウマ娘が勝つ』と言われるこのレースで、彼女達が積み上げてきたのは己を信じた不尽の努力。

 

 日本ダービーのファンファーレが鳴った。

 

 



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31話

 

 

 

 レース当日の朝、東京レース場。これからダービーが行われる芝のコースに十数人程の人影があった。

 それらは皆ダービーに出走するウマ娘のトレーナー達であり、無論その中にはシンザンのトレーナーの姿もある。

 彼らの目的は芝の状態の確認だ。

 前日の土曜日の朝に降った雨を気にしているのだ。

 空を見れば雲は気持ちよく晴れており、レース時の天気の方は問題ないだろう。公式発表でも一応は「良」と出ている。

 しかしこういうものを一度気にし始めるとキリがないという用心深い者達や自分の目で確かめる事を信条とするベテランが、こうしてレースの始まらない朝の内にコースを歩いているのだ。

 そして彼らの判断は正しかった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 「これ、は、見に来て正解だったな・・・・・・」

 

 「ああ。これは突っ込ませられんぞ・・・・・・」

 

 これがあるから自分の目で見る事が大切なのだ。

 バ場状態を良と判断した公式発表に仄かに苛立ちつつトレーナーと横にいた古賀が呻く。

 よりにもよってスパートを掛けるだろう場所がこの状態だ。場合によっては作戦の変更を余儀無くされるウマ娘もいるだろう。シンザンの枠番は4枠10番と中央に近くインコースの回避は比較的容易なため、走り方を大きく変更する必要はなさそうだが。

 

 (ウメノチカラは辛いだろうな・・・・・・)

 

 「見ろ、このインコース。とても走らせられん」

 

 「よりにもよって経済コースがこれッスか」

 

 佐竹や他のトレーナーにも同じ事を言って回っている古賀を見ながら彼は思う。

 ウメノチカラの枠番は1枠1番の最内だ。ひとたびバ群に呑まれてしまえば彼女は為す術もなくこの不良バ場に突っ込む事になる。

 しかしだからといって何もしない。

 自分の担当ウマ娘の勝利が第一。

 故障しろなどとは思うはずも無いが、ライバルが抱える不安材料はどれだけあってもありすぎという事はないのだ。

 脳内でシンザンに伝えるべき懸念点などを纏めつつ直線の坂の下まで歩いてくると、芳しい香りが匂ってきた。

 薔薇の花の香りだった。

 

 (親父なら一句詠みそうなところだな)

 

 胸に過った風流心にふと俳諧を嗜む父を想う。

 自分の家で打った独自の蹄鉄で大活躍するシンザンをいたく気に入ったようで、皐月賞を獲った後にも彼女の勝利を祝う句を送りつけてきた。

 インタビューの際についそれを見せてしまい月刊トゥインクルに父親の句がそのまんま紹介された時は苦笑したが、何ならもう一句詠ませてやろうという気概はある。

 

 (勝てるはずだ。シンザンなら、必ず)

 

 不安を押し潰すように強く想う。

 運命の時までもう2時間もない。

 彼の後ろでは、まだ古賀が他のトレーナーを捕まえてインコースの不良ぶりを説いていた。

 

 

     ◆

 

 

 芝の上に立てばそこは彼女らの世界。

 トレーナーの仕事の仕上がりはトレーナー自身が控え室で確かめる。

 無事最高のコンディションで当日に臨んだシンザンが、勝負服姿で椅子に(もた)れかかっていた。

 大一番を前に鼻唄すら歌う彼女はまるで海にでも遊びに来たかのような風情で、気負うものなど何も無いとばかりに目を閉じて微かに届いてくる騒めきに耳を澄ましていた。

 

 「いいね。皐月賞よりずっと人が多い。どのくらい来てるんだい?」

 

 「8万7000人。東京レース場の入場者レコードだ。それだけの人がお前の二冠目に注目してる」

 

 「前のレコードはいつ?」

 

 「・・・・・・4年前。コダマのダービーだな」

 

 「んんー」

 

 絵に描いたようにご満悦なシンザン。

 既に彼女の頭の中にはダービーのレイを肩に掛け勝ち名乗りを上がる自分の姿が描かれているのだろう。

 これがこれまで自分が担当してきたウマ娘なら一言ピシャリと喝を入れる所だが、シンザンの場合はこれでいい。これが彼女のコンセントレーションだ。

 だから自分がやるのは1つだけ。

 レースに対する真剣さを引き締めてやる事だ。

 

 「油断するなよ。人気上位は(いず)れも強豪揃いだ。アスカにヤマニンスーパー、何よりウメノチカラ。

 全員がお前にリベンジを誓ってる。気を抜いてると足元を掬われるぞ」

 

 「ちょっとちょっとトレーナーさん。あんた今まであたしの何を見てきたんだい」

 

 「レースに絶対は無い。お前の事はデビュー前から見てきたが・・・・・・()()()()()()()()という事実は、それよりもずっと長い間見てきたぞ」

 

 ふうん、と鼻を鳴らすシンザン。

 まだその段階なのかと仄かな失望のニュアンスが含まれていたが、トレーナーに動揺が見られないのを見て「頑固だねえ」と彼女は肩を竦めた。

 最近こういう試すような行動が増えてきた気がするなとトレーナーは思う。自分が二つ返事で彼女の勝利を肯定するように『教育』しようとしているのかもしれない、とも。

 そうはいかない。

 ウマ娘の才能に殺されていてはトレーナーなどやっていられない。

 やがて本バ場入場の時間になった。

 控え室から出ればもうトレーナーの出番はない。

 最後に一言添えて送り出そうとドアを開けた時、目に入ったのはチームメンバー全員から激励を受けるウメノチカラだった。

 

 「いける、勝てるよウメちゃん!」

 

 「胴上げの練習はバッチリっす!」

 

 「1番人気喰っちまえよセンパイ!!」

 

 ハクズイコウらに続いて古賀が咳払いをした。

 腕を組んで胸を張り、地下道に響き渡る大声でウメノチカラの背中を叩く。

 

 「トレーナーとして断言する! 今日は間違いなく勝てる!! 今日のお前は! 最高だッ!!」

 

 「─────はい!!!」

 

 彼に負けない程の声量で応えるウメノチカラ。

 トレーナーだけでなくメンバーにも恵まれたか、気力・身体共に充実している事が分かる。

 チームからの声援を背に昂然と胸を張って歩くウメノチカラはすれ違いざまにシンザンを鋭く見据えてそのまま去っていく。

 梅の木が描かれた片肌脱ぎの勝負服と黄色と赤のスカーフを靡かせる彼女は、もはや言葉は不要だと、今日自分はお前に復讐を果たすと気迫で語っていた。

 

 「うん、うん。そう来なけりゃあつまらない」

 

 深い笑みを浮かべるシンザンの後ろでトレーナーが古賀と火花を散らす。

 仕上げは完璧、後は結果をご(ろう)じろとばかりにニヤリと笑みを浮かべた古賀にトレーナーは同じように不敵な表情を返し、そして2人はウメノチカラと同じように無言のまま視線を切る。

 ウマ娘達がレースによって覇を争うように、彼らには彼らの土俵があるのだ。

 ─────トレーナーの領分はここまで。

 後はもう彼女達の世界だ。

 ウメノチカラに続いて本バ場へ歩く松を背負った紋付袴に、トレーナーは仕上げの一言を贈る。

 

 「シンザン。最後にひとつだけ」

 

 「うん?」

 

 

 「腹を括って勝ってこい。重いぞ、2個目の冠は」

 

 

 

 無責任な事は言わない。教育などされない。

 そんなものをされるまでもなく、担当ウマ娘の勝利を信じないトレーナーがどこにいる。

 必要な事だけ伝えて去っていくトレーナーに少し遅れてシンザンも再び先に進んだ。

 すると目の前に芦毛のウマ娘が立ち塞がった。

 眦を吊り上げて耳を絞るその様は並々ならぬ怒りを顕していた。

 

 「シンザン。私を覚えてるでしょ」

 

 「うん」

 

 「今度は手を抜いたなんて言わせない。このレースであんたを完膚なきまでに負かして! 私の方が強いんだって分からせてやるから!!」

 

 そう言い放って彼女は出口へと去っていった。

 まるで本バ場に入るのも私の方が先だというような後ろ姿に、シンザンはぽつりと呟いた。

 

 「・・・・・・誰だっけね、あの子」

 

 思い出そうとしてやめた。そんなどうでもいい事を考えている暇は無かったからだ。

 やれやれ、とシンザンはこまっしゃくれた幼子に向けるような顔をした。

 言われるまでもなく自分の勝ちを確信しているなら最初からそう言えばいいのだ。

 トレーナーとしての役割もあるだろうが、忠告という回り道などせずとも良いのだ。

 

 「コダマさん。今日であたしはあんたに並ぶよ」

 

 喉の奥から笑いが漏れる。

 このレースが終わった後、自分が尊敬する彼女はどんな顔をするだろう。

 大歓声と称賛に囲まれる自分を見て、彼はどんな顔をするだろう。

 喜びか、優越感か、それ以外でも何でもいい。

 欲した全てを差し出されれば、両手を上げて自分の全てを肯定する。

 

 「トレーナーさん。あんたの栄光を持って帰るよ」

 

 自分が栄光に向けて歩くのではない。

 まるで栄光が自分に向けて歩いてくるのだとばかりにシンザンは両手を広げて地下道の出口を潜る。

 トンネルに遮られていた人々の音と日の光が、抱擁するかのように彼女を包み込んだ。

 

 

     ◆

 

 

 「さて。当日だけど自信の程は?」

 

 「「「シンザン(ウメ)(ニセイ)が勝つ」」」

 

 「そう言うと思ったわ」

 

 分かりきった返答だった。同時に断言した古賀と佐竹とトレーナーに、桐生院がこれといった感情もなく言葉を返す。

 

 「やれる事は全てやりました。負けないッスよ、アイツは」

 

 「芝の状態や警戒すべき相手は伝えたが、後はシンザン次第だな。メンタルも好調、後は力を出し切るだけだ」

 

 「ハッハッハ甘いぞ佐竹にチカミチ! 俺達は出走直前まで勝つ為のベストを尽くしてるからなぁ!」

 

 「貴方達が尽くしてるベストってあれ?」

 

 呆れた顔で桐生院が見るのは観客席の最前列に齧り付くチーム《スピカ》の面々。

 全員が両手の平をウメノチカラへと突き出して「勝てぇぇぇええ」と呪詛のような念を送っていた。

 チームメイトの勝利を祈念するのは当たり前だし、かつてダービー前に神社を巡って願掛けした身としては微笑ましくもあるのだが、あれは果たして彼女の勝利に寄与するのだろうか?

 真剣な面持ちで精神を研ぎ澄ましている最中にうっかり目撃してしまったウメノチカラが思い切り噴き出している。

 とはいえ、成程。確かにこれは古賀のチームだ。

 

 「『人事を尽くして天命を待つ』、か。・・・・・・ここまで日本ダービーを的確に言い表す言葉もないな」

 

 皐月賞は『最も()()()ウマ娘が勝つ』と言われるのに対し、このレースは『最も運の良いウマ娘が勝つ』と言われる。

 フルゲートで行われる大人数の大レース故に、ひとたびバ群に呑まれようものならそこから勝つのはまず不可能と言っていいからだ。

 加えて出走資格のハードルと倍率の高さ。

 この何百人という夥しい数の淘汰を勝ち抜いて1着を掴み取ったウマ娘は、確かに豪運と呼ぶべきウマ娘だろう。

 だが、しかし。それにしても。

 トレーナーは後ろを振り返って観客席にひしめく人々を眺める。

 

 これだけの観客が集まったのは決してシンザンの注目度によるものだけではない事をトレーナーは理解していた。

 東海道新幹線に首都高速道路網、4年に1回の祭典を控えて昼夜兼業の工事が進む、高度経済成長計画のもとに組み立てられた数々のロマン。

 一般にはあまり浸透していなかったウマ娘のレースが、潮のように押し寄せる熱狂を受けて国民的なイベントに生まれ変わろうとしている。

 

 そして今日この時、強さと時代が揃った。

 レースの世界に訪れた過渡期に、シンザンというウマ娘が現れた。

 

 いかに時代が熱くともウマ娘の強さが生半可では激流に呑まれて消えるだけ。

 いかに強いウマ娘でも時代の熱が下火ではその名は日本に轟かない。

 シンザンが(おお)きな才能を持って生まれ、コダマという火付け役に惹かれてこの時代に芝に降り立った事を『出来過ぎだ』と感じてしまうのは、贔屓が過ぎる考えだろうか。

 

 「・・・・・・『最も運のいいウマ娘が勝つ』、か」

 

 二冠目のレースの格言をぽつりと呟いて。

 熱に浮かれたどよめきの中、トレーナーは芝の上に立つ赤と黒の紋付袴を見下ろした。

 叫ぶ実況。沸き上がる大歓声。

 詰めかけた全員が新たな『時代』を待っている。

 自らにその期待を背負う膂力があるのかどうかを、彼女達はもう間もなく己の脚で証明するだろう。

 レースの名は『東京優駿(日本ダービー)』。

 緑に光る芝の上、日の丸が如き闘志の炎が赫赫と天に立ち昇る。

 

 『注目のウマ娘を紹介しましょう!皐月賞では2着と好走、3番人気アスカ! 前走のNHK盃は6着なれど気合充分、待望の勝利を掴めるか!!』

 

 『2番人気はウメノチカラ!! 同じく前走のNHK盃で優勝をもぎ取った勝負根性が今日も発揮されるのか! 皐月賞ウマ娘へのリベンジにジュニア級チャンピオンが燃え上がっております!!』

 

 『そして! ここまで圧倒的な勝率を誇ります皐月賞ウマ娘シンザン堂々の1番人気!! 確信している己の勝利を泰然自若と見据えます、宣言通りの三冠目指して! さあ見せてくれナタの末脚!!!』

 

 



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32話

 「んん? 何だい、ナタの末脚って」

 

 「あなたの事を言っているみたいですね」

 

 実況が叫んだ内容に軽く走ってウォーミングアップしていたシンザンが足を止める。

 首を傾げた彼女の疑問に答えたのは、同じく出走権を獲得していたバリモスニセイだった。

 

 「それだけ皐月賞での勝ち方が強く見えたんでしょう。かつて異名が付いたウマ娘は何人かいたようですが、末脚そのものに名前を付けられたのは・・・・・・」

 

 「『カミソリ』以来かい」

 

 粋な名前付けてくれるじゃないかと満足そうにしているシンザンを横目に、ウメノチカラは入念にウォームアップを行う。

 筋肉は温まっているか? 関節の動きに違和感は?

 緊張で固くなっていないか?

 今の自分は、力の全てを出し切れるか?

 軽く走って身体を温める中で脳内のチェックリストに印を付けていき、その全てにウメノチカラは最高のクオリティを確信する。

 トレーナーは確かに最高の状態に仕上げてくれた。

 これならば万に一つも仕損じる事はない。

 

 『さあ各ウマ娘続々とゲートに収まっていきます。最も「運の良い」ウマ娘が勝つと言われるこのレース、果たして勝利は誰の手に舞い降りるのか!』

 

 とうとうその時が来た。

 ウマ娘達が気合の入った面持ちで銀色の箱に収まっていく中、シンザンは観客席を見上げる。

 記録的な数字で押し寄せた人々。そこから放たれる歓声。期待、熱気。それらのエネルギー。今にもこちら側に雪崩れかかってくるのではないかという物理的な気配すら感じる透明な圧。

 皐月賞すら上回る熱狂。

 これがダービー。

 シンザンは目を瞑り、会場に満ちる熱で体内を満たすように深呼吸をして大きく髪を掻き上げた。

 

 「ふぅ──────・・・・・・」

 

 レース前のパドックで毎度のんびりしているシンザンの呑気さについて記者から質問を受けた彼女のトレーナーはこう語る。

 『シンザンは()()()()や興奮といった感情を知らない。しかしシンザンには明確なスイッチがある』

 『どこで気合を入れればいいか、どこで力を入れればいいか。勝負するべき所を本能で理解している』

 『彼女が戦う顔になるのは本バ場に出た時でなく、ゲートに入るその時です』

 

 

 「──────・・・・・・良し」

 

 

 ぞわっっっ!!!と。

 開かれた瞳が爛々とした光を放ち、五体に殺気と思い違うような気迫が漲る。

 まるで突風が吹いたようだった。

 呑気そうな外面を内側から吹き飛ばすようなプレッシャーに周囲のウマ娘が怯む。ゲートに収まったシンザンの両隣の枠番のウマ娘が、彼女の隣に入るのを躊躇うように立ち竦んだ。

 離れていても肌を刺してくる威圧感にウメノチカラは皐月賞の日を思い出した。

 勝負服を纏ったシンザンが途方もなく(おお)きく見えたあの時。その時よりも彼女はさらに大きくなった。

 だけど自分はもう萎縮していない。

 それだけ自分も強くなった。

 

 (後は・・・・・・あいつらのお陰かな)

 

 適度に心を(ほぐ)せたのは彼女らの力だ。「勝てぇぇえええ」と念を送ってきていた後輩たちを思い浮かべて、ウメノチカラはくすりと笑った。

 そして。

 

 

 『27人立てのフルゲート、各ウマ娘体勢整いまして──────スタートです!!』

 

 

 歓声が上がった。

 高めたコンセントレーションを解放。ゲートから撃発されたウマ娘達が一斉に走り出し、スタートに秀でるシンザンが普段通りに一歩先を行く。

 だからそれを1番に味わったのはシンザンだった。

 今まで出走してきたレースの中でもとびきり強烈な、津波に追われているかのような背後からの圧。

 ・・・・・・レースには正念場というものがある。

 例年通りの皐月賞ならば急坂と小回りなコーナーでテクニカルな立ち回りを要求されただろう。

 何よりタフさが要求される菊花賞や天皇賞ならウマ娘の勝負根性が問われる。

 それぞれのコースや距離によってレースの難所は変わるものだが、()()()()()()()()()()()()()()()

 『運の良いウマ娘が勝つ』と言われる最大の所以。

 雪崩れるように走り出したウマ娘達に、彼女らのトレーナーは拳を握ってただ祈る。

 

 「頼む。少しでもいい位置に着いてくれ・・・・・・!」

 

 土石流が起きたかと思った。

 走り出した27人が我先にとポジションを奪い合い熾烈な火花を散らす。

 背後から覆い被さってくるような猛烈な足音の塊に蹴立てられるようにシンザンの脚の回転も早くなる。

 いきり立つ敵にも無関心じみた平常心を崩さない彼女も、何としてもと鬼気迫る彼女らの執念の波には冷や汗を流した。

 

 (話にゃ聞いたけどこいつは凄いね。これがダービーのポジション争いかい!)

 

 ────超大人数で行われるこのレースの特性上、大外枠からのスタートや道中で後方に位置してしまったウマ娘には勝つチャンスが殆ど無い。

 故に「ダービーを勝つには10番手以内に付けなければいけない」と言われるようになり、こうした位置取りを『ダービーポジション』と呼ぶ。

 だから運が要求されるのだ。

 良い枠番を引き当て良い展開を呼び込み、かつ他者のそれを上回るだけの『強運』が!

 

 『おっと1人飛び出して参りました! ダイトウリョウ、ダイトウリョウであります! 思い切った走りでシンザンを交わしダイトウリョウが先頭に立った!』

 

 「うおっしゃーーーーーーーー!!!」

 

 叫んだのは26番人気のダイトウリョウ。

 気炎を上げて飛び出した彼女がシンザンを交わし、スタンド前でハナを切っていく。

 最初から飛ばして先頭に立てばポジション争いも何もない。勢いで突っ走っているだけに見えても、運という要素を排除する立派な作戦だ。

 シンザンは追わずに2番手につけていつも通りの先行策、その後ろにウメノチカラ。

 おおよそこの辺りで各ウマ娘のポジションが決まり始め、第1コーナーにかかってくるともう変更はきかない。カーブを曲がっている最中、まして20何人という規格外のバ群の中で速度の変更や左右移動など不可能だからだ。

 

 (・・・・・・なに、これ)

 

 ポジションが取れずバ群の中に潜ってしまったウマ娘達は、まだ千メートルも進んでいない段階で絶望を味わう事になる。

 四方を何重にも囲む出走者たち。

 横にも動けず抜け出す隙間もなく、ただ周りのペースに合わせて進むしかできない閉塞感。

 レースなのか? これが?

 足並みばかりを揃えたこの行進が日本ダービー!?

 

 (こんなの、鳥籠と変わらない・・・・・・!!)

 

 『さあ第2コーナーに差し掛かりまして先頭で後続を引っ張るのはダイトウリョウ! ガルカオンワードとホマレライサンが前に出て参りました! シンザン落ち着いてポジションを保っておりますが他のウマ娘の位置取りはどうか!?』

 

 逃げるダイトウリョウがペースを作り、その後ろにいるウマ娘達が冷静に流れを見極める。第2コーナーを回り正面に入ってからも単独で逃げる彼女がペースメーカーを務めるかと思われたが、そこに進出していくウマ娘たちがいた。

 実況に名前を挙げられたガルカオンワードとホマレライサン、そしてマルトキオーの3人だ。

 

 (そろそろ好きに走らせたくはないよね!)

 

 (潰して塞ぐ。このペースで逃げるならダイトウリョウは勝手に潰れてくれそうだけど)

 

 (本当に警戒すべきは・・・・・・!!)

 

 ちらりと後ろを見るマルトキオー達。

 彼女らが位置を上げてきたのは逃げるダイトウリョウに圧力をかけて体力を消耗させて潰す為だが────、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 シンザンは今インコースの5番手。文句無しの好位置、『ダービーポジション』を走っている。

 勝利を狙う彼女らとしては頭抜けた実力者であるシンザンを好きに走らせる訳にはいかない。

 故に前に出て逃げウマ娘を追い立てつつ彼女の進路を塞いで今後のコース選択やスパートを邪魔しようというのだ。

 そしてその意図はシンザンにも伝わっていた。

 

 「やれやれ。大人気だね」

 

 力を示せば警戒は増える。

 しかしそれでいい。そうでなくてはつまらない。

 自分の威名を知らしめるにも、山場がなくては盛り上がりに欠ける。

 とはいえ彼女が『山場』と認識しているのは自分の前を塞ぐ3人ではない。

 自分の背後の内と外、ギラつく視線を突き刺してくるヤマニンスーパーとウメノチカラだった。

 

 

     ◆

 

 

 「流石に警戒されてるか。前の4人は問題なく交わせるけど、ウメノチカラとヤマニンスーパーのマークは怖いな」

 

 「直線でシンザンと競り合うなら今度は面白い事になるぞ。俺達の意地を甘く見るなよ?」

 

 同じように腕組みをしても表情は対照的。

 担当ウマ娘の勝利を信じているという根底は同じくしつつもトレーナーはレース展開に気を揉み、古賀はやれる事は全てやったという自負を全面に押し出している。

 

 「随分と気を揉んでるな。出来る事を全てやったなら後はドンと構えて信じりゃいいんだ。仕上げに自信がないからそう不安になるんじゃないか?」

 

 「彼女らはこれから先も走り続けるんだ、レースの展開と傾向の分析は次の結果に直結する。お前のそれは自信じゃなくて能天気と言うんじゃないか?」

 

 「お????」

 

 「んん???」

 

 「よく見なさい。あれが大人気(おとなげ)なさというものよ」

 

 「なるほどっスね」

 

 大体お互いに承知している事をネタに煽り合っているのだから始末が悪い。火花を散らし始めたトレーナーと古賀を桐生院が指差して佐竹が頷いた。

 担当ウマ娘のカネケヤキがティアラ路線で出走していない為この中で最も冷静な桐生院がレースの状況を俯瞰する。

 

 「人気のウマ娘は全員いい位置に付けたわね。今回ウメノチカラがシンザンの後ろに付いたのは、前回先に仕掛けて負けた反省かしら」

 

 「うむ。シンザンに勝つには最高のタイミングで最高速度をぶつけねばならんからな。ウメの末脚もよくキレるが、前回はシンザンの力と脚の使いどころを見誤った」

 

 「ヤマニンスーパーも同じ考えらしい。やっぱり実力のある人気所に戦略的なミスは望めないか・・・・・・。バリモスニセイはどうなんだ? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 「やっぱ気付いてたんスか・・・・・・。問題ありませんよ、ここまで作戦通りなんで。()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 食えない人だと気に食わなさを隠そうともせず、しかし佐竹は堂々と言い放つ。

 自分の担当ウマ娘はシンザンやウメノチカラと張り合う世代の最前線を走る器であると彼はトレーナーからの揺さぶりを真っ向から跳ね除けた。

 バリモスニセイは現在中団前目の9番手。

 佐竹の自信を裏打ちするかのように、彼女の顔に焦りの類は見られなかった。

 

 (2,400という距離は・・・・・・私にとっては長い)

 

 最初から分かっていた事だ。

 トレーナーとの訓練の日々で明らかになった自分の弱点。それは─────()()()()

 日本ダービーは自分にとっての適正距離ではない。恐らくはここを得意距離とする者達と勝負が成立するのかどうかという際どいラインだ。

 だが、だからといって退くものか。

 この大舞台に立たない選択などあるものか。

 勝つ気で挑まない勝負などあるものか!

 だから今は脚を溜める。

 残りの距離と体力の折り合いがつき、かつ好位置の範囲に収まるこのギリギリの位置を保つ!

 

 (仕掛けるタイミングも位置取りも何一つ間違えられない。だけど掴み取ってみせる!!)

 

 『向こう正面第3コーナーの坂に差し掛かって中団のウマ娘達が一斉に襲いかからんとしております! 先頭ダイトウリョウからサンダイアルに変わって集団を引っ張る、サンダイアルが仕掛けた仕掛けた!

 早くも坂を登って快調に飛ばしております!!』

 

 「お先に失礼っ!!」

 

 「うああーーーっ・・・・・・無理ぃ〜〜〜っ・・・・・・」

 

 序盤に掛けられた圧力もあってか登り坂で脚が尽きたダイトウリョウがずるずると後ろに下がっていく。

 入れ替わるように先頭に立ったのはサンダイヤル。

 それに引っ張られるようにして外から一団のバ群が好位置に付いていた人気の高いウマ娘達を包み隠すように覆い被さってきた。

 シンザンはじっと展開を見極めていた。

 先頭サンダイアルは第4コーナーに差し掛かっている。しかしあまり好位置ではないやや外側から攻めて来たからか体力にそう余裕はなさそうだ。

 中団のウマ娘達が外から仕掛けてきた。第4コーナーを過ぎて横に広がられると非常に邪魔になる。

 

 (で、トレーナーさんが絶対に突っ込むなって言ってたのが・・・・・・あそこだね)

 

 悪くなっている道を確認。

 そこを踏まずに走る理想的なルートを定め、他のウマ娘達の動きと照らし合わせてタイミングを測る。

 ちらりと後ろを見た。『山場』もそろそろ動く頃。

 そこから導き出される答えとは。

 ─────動くべきは、今。

 

 

 「良し。行くよ」

 

 シンザンが姿勢を落とす。

 外からペースを上げてきたウマ娘達が被さってくるより前にポジションを外側に持ち出して、一気に脚を解き放った。

 見る見るうちに位置を上げていくシンザン。

 まるで大地の代わりに自分が踏みつけられたような─────他のウマ娘が味わったプレッシャーは、ほとんど重力に等しい重さを誇っていた。

 

 『シンザンが仕掛けた! シンザンがここで仕掛けてまいりました!! 先頭目掛けてグングンと位置を上げていく!! さあサンダイアル粘れるか、ウマ娘達の最後の力走が始まらんとしております!!』

 

 (きた・・・・・・ッッ!!!)

 

 先頭で粘るサンダイアルと前の位置で同時にスパートしたオンワードセカンドとナスノカゼが戦慄する。

 背後から響く二十数人もの足音の中からでも彼女の足音は一際大きく響いてきた。

 尋常ならざる足腰。死神の足音と呼ぶには余りにも猛々しい轟音が迫ってくる。

 速度を上げていくシンザンは前を走る彼女達が既に脚を全力で使っているのを察知していた。

 どうやらここが限界らしい。

 じゃあ、もう、『勝ち』だ。

 自分はまだまだ脚が残っている。

 約束された栄光を前に、シンザンは早くも目尻と口角に余裕を見せた。

 

 「うん。こいつは貰ったねえ」

 

 

 

 

 

 「()()()()()()

 

 

 

 するり、と。

 シンザンが避けたインコースから、強い確信を秘めたウメノチカラの声が聞こえてきた。



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33話

 集団から抜け出た梅の模様が加速する。

 先頭を駆けていたサンダイアルをあっという間に射程圏内に捕らえた彼女の姿に全員が目を疑った。

 何故なら彼女が選んだルートは最内。レース前にトレーナー達全員が担当ウマ娘に通らせるべきではないと判断したルートなのだ。

 誰も通ろうとしなかった泥濘(ぬかるみ)で勝負服を汚しながら疾駆する彼女を見て思わず身を乗り出したトレーナー達の横で古賀はとぼけた顔で嘯いた。

 

 「おっ? これはツイてるぞ。まさか仕掛けどころの経済コースがガラ空きとはなぁ」

 

 「いや、ちょっ、え!? あそこ通らせられないって言ってたの先輩っスよね!? 何でウメノチカラ普通に走って────」

 

 「おい古賀。お前()めたな」

 

 狼狽える佐竹の向こうから低い声でトレーナーが睨み、素知らぬ顔で古賀は口笛を吹く。

 トレーナーの方を振り向いて真意を問おうとした佐竹もそこで気が付いた。

 レースが始まる前に古賀はコースの下見に来たトレーナー達を捕まえては内側の道の悪さを説いていた。

 それにしてもやけにバ場の悪さを強調しているのは気になったが彼の担当ウマ娘も末脚を武器としているため、それだけ勝負所のコンディションが悪いのが気に食わなかったのだろうと思っていたが違う。

 古賀は全員を誘導していたのだ。

 バ場の悪さを刷り込まれた彼らが、自分の担当ウマ娘にそのルートは避けろと伝えるように。

 自分の担当ウマ娘が、走るべきルートを悠々と走れるように。

 

 「実際に芝の状態は悪かったから全員がそのルートは避けさせた。だけどそれは走りのロスに繋がるからだけじゃない、全員が『危険だ』と判断したからだ。

 あの泥濘であのスピードは転倒すら招くぞ。

 確かに勝つ事は大切だ。けどその判断は彼女の身を軽視してるんじゃないか!?」

 

 「何だチカミチ、()()()()()()()()臆病になったな。言うまでもなく彼女達の無事は大切だが、彼女達にとって勝利は何より欲しいものだろ。

 それに俺は危険な事をさせてる気はないぞ?

 走れるように鍛えたから行かせたんだ。

 悪路がどうした。そんなもの彼女の敵じゃない」

 

 『オンワードセカンドとナスノカゼが出て参りました! しかしサンダイアル粘っている! そしてインを突いてはウメノチカラであります! ウメノチカラが最内から襲い掛かってまいりました!』

 

 佐竹は己の未熟さを突き付けられたように感じた。

 自分がここまで尽くしたと思っていたベストは最高とは程遠いものだったんじゃないか、そう考えてしまう程に尊敬する先輩の自負と担当ウマ娘に対する信頼は大きい。

 ついさっきトレーナーを煽った文言をそのまま引っ張ってきた古賀は、したり顔で顎髭を撫でていた。

 

 「出来る事を全てやったなら後はドンと構えて信じりゃいいんだ。仕上げに自信がないからそう不安になるんじゃないか?」

 

 容易い道ではない。

 一歩一歩に通わせた神経が僅かでも綻べばたちまち足を取られて失速、下手をすれば転倒するだろう。

 だが出来る。自分は()()()。その確信を腹に据えた『挑戦』こそが彼女のトリガー。

 意識の中から音は抜け落ち、荒々しく燃える眼光が尾を引きながら後ろに流れていく。

 今こそ応えよう。

 両親の、チームメイトの、トレーナーの期待に。

 己の勝利を願ってくれる人々の想いに。

 

 

 ─── 雪魄氷姿。

 

 雪を押し除け花開くようにウメノチカラは時代の舞台へと上がる。

 万感の想いを胸に抱き、彼女は今"忘我"に至った。

 

 『さあウメノチカラが捕らえた捕らえた! サンダイアルを交わしてウメノチカラ先頭に立ちました!オンワードセカンドを押さえてぐんぐん差が開いてまいります!!

 さあ残り400メートル、抜けた抜けた一気に飛び出してウメノチカラ先頭─────!!』

 

 (嘘、でしょ・・・・・・!!)

 

 上り坂で脚を使い切ってしまい下がってきたナスノカゼを交わしたヤマニンスーパーが、見る間に小さくなっていくウメノチカラの背中に絶句した。

 最短距離かそうでないかの差もあるだろう、しかし仕掛けたタイミングは殆ど同じだったはずだ。

 なのにこの差。ここまでの差。

 NHK盃では同じ場所でアタマ差で競り合ったはずの敵が遥か前を走っている冷酷な現実に、ヤマニンスーパーは呼気に混ぜて血を吐くように叫ぶ。

 

 「あの時は本気で互角だったのに・・・・・・っ、どこからその脚、引っ張り出してきたの・・・・・・ッッ!!」

 

 場内が沸いた。

 ただ1人悪路を選んだ彼女が覚醒する瞬間を目の当たりにした人々の歓声が坩堝のように渦を巻く。

 ────逆襲なるかウメノチカラ。

 観客の胸にそんな期待が膨らんでいく。

 誰よりも疾く駆け抜ける彼女の姿に、さしものトレーナーも目を見開いた。

 

 「信じられん。カネケヤキだけでなく彼女もあそこに至ったのか」

 

 「ああ、音が消えていく感覚がしたと聞いた時は耳を疑ったぞ。断言できる、俺のここまでのトレーナー業の中で1番の仕事は彼女のトリガーを見付けた事だ!!」

 

 「いっけーーーー!!ウメ先ぱーーーい!!!」

 

 「そのまま行っちまえーーーー!!」

 

 「ウメちゃーーーーーーん!!!」

 

 最前列で叫ぶチーム《スピカ》。

 握った拳を震わせる古賀。

 自分が担当するウマ娘が時代を象徴する器を示した瞬間を目撃したのだ、栄光はもうすぐそこにあると彼が確信するのは当たり前の事だろう。

 今に彼女の願いが叶う。

 熱望した勝利と復讐は今日、遂げられる。

 掻き消してくる歓声には負けんとばかりに拳を掲げて大声を張り上げた。

 

 「1着は貰った!! 突っ走れ!! もうすぐお前が日本一だ──────ッッ!!!」

 

 一歩一歩が走るのではなく飛ぶ、まるで脚に翼が生えたような自分の走りをウメノチカラは静かな世界で感じていた。

 邪魔する全てを抜き去った自分の前には何者も存在せず、自分の後ろから追いついてくる者もいない。

 これは勝つ。自然にそう思った。

 今まで感じた事のない底力を掌握した自分こそが最強であると、ウメノチカラはそう確信していた。

 

 それは唐突だった。

 

 「それはどうかな?」

 

 雷が落ちたか地面が揺れたか、ドン!!!!!という轟音が背後から聞こえてきた。

 音すら排除された自己の世界にまで届く何かの存在を感じたウメノチカラは咄嗟にそちらを振り向く。

 ・・・・・・いや、本当は振り向くまでもなかったのかもしれない。

 ただこの目で見たかったのだ。

 知る限りでは誰より強く、そして間違いなく此処に至る好敵手の姿を。

 

 「勝ったと言うにはまだ早いぞ。確かにウメノチカラは素晴らしいウマ娘だ。けどここまで他の追随を許さない力を示し続けてきたシンザンも同じ領域に辿り着いていると考えるのが自然じゃないか?」

 

 「! シンザンも入口を見付けてたのか!? もちろん彼女もその器だって話には何の疑いもない。だが今までのレースやトレーニングの様子も注視してたが、そんな様子は何一つ無かったぞ!」

 

 「ああ、特に何かを掴んだ様子はない。何せウメノチカラとは対極の不精者だからな、今がようやく入口といった所だろう。

 ・・・・・・だけど、やはりシンザンは天才だ。見ろあの顔を。彼女は闘争心の極限じゃなくて────ただ楽しむ事で"忘我"の領域に指を掛けてるんだ!!」

 

 トレーナーの背筋に震えが上っていく。

 数年前にも感じた予感。時代が変わる確信。

 呼応するようにシンザンのボルテージが上がる。

 やはりあいつが、あいつこそが要。

 自分の栄光の道を彩る最も大きく綺麗な華。

 前を行くその背中を見据える自分と巨大な気配に振り返ったウメノチカラ、2つの視線が激突した瞬間に未知の力が脚に漲るのをシンザンは感じた。

 思考は要らない。ただその衝動の命じるままに、シンザンはその力で強く強く地面を後ろに蹴り飛ばす。

 

 「さあ! ウメ!! 遊ぼう!!!」

 

 「勝負だ!! シンザン!!!」

 

 チリチリと火花のような光を瞳から散らしてシンザンは叫び、呼応するようにウメノチカラは吼える。

 地に伏せた龍が微睡みから薄く瞼を開くのを感じたウメノチカラ。彼女の目に映るシンザンは、とても楽しそうに笑っていた。

 

 ウマ娘の末脚とはどういうものか。

 レース的な意味としてはゴール前の最終直線における最後の加速の事であり、身体的な意味としては脚そのものの性能を指す。

 速さは勿論のことスピード勝負の過負荷や長丁場の疲労にも負けない持久力や、そこから加速する瞬発力。

 高いレベルでそれらを備えた脚を持つウマ娘が末脚が()()()と評価される。

 具体的にイメージし辛いなら、いま目の前を走っている2人を見れば理解が早いだろう。

 ウメノチカラとシンザンは、それだけ別格だった。

 

 『シンザン来たシンザン来たシンザン来た!! オンワードセカンドとヤマニンスーパーの間からシンザン抜けて参りました!! アスカはどうだ伸びないか!! ウメノチカラは先頭で粘っている!!』

 

 歯を食い縛って脚を回すが前との差が詰まらない。

 自分が加速していない訳じゃない。ただ前の2人が速過ぎるのだ。隣を走るヤマニンスーパーと前にいるオンワードセカンドの顔は見えないが、恐らくは自分と同じ顔をしているだろうなとアスカは思う。

 その予想は概ね正しい。

 間違っている所があるとするなら、(じき)にウメノチカラも例外ではなくなるというところだ。

 ────ここまで来たら駆け引きの段階ではない。

 ただ残った全てを出し切るだけ。そして自分はこのペースのまま走り切れる。ならば彼女より先に没入して前に出た分、自分の方が有利。

 ウメノチカラはそう思っていた。

 

 「あははははは!」

 

 『伸びてきた、シンザン良い脚を使って伸びて参りました! グングングングン差が詰まる! ウメノチカラの脚色はどうだ! リードはおよそ半バ身!!』

 

 「・・・・・・・・・・・・ッッ!?!?」

 

 加速度的に増していく圧。

 極限の集中に割り込む程のプレッシャー。

 ()()()()()()()()()()()()()

 飛ぶように走り、走るように飛ぶ。そんな理想を体現して(なお)、最大の敵を落とせない。

 ついさっきまで3バ身は離れていた彼女が、もうすぐ後ろまで迫って来ていた。

 

 「粘れ! 粘れウメ!! 走り切れ!!!」

 

 「ウメ先輩逃げてーーーーー!!!」

 

 観客席からの声援はもう悲鳴に近かった。

 それだけウメノチカラは追い詰められている。

 自分に何ら不調は無い。まるで自分がルームランナーの上で走っているような錯覚を感じる程に、只々(ただただ)シンザンが強過ぎる。

 自分より後に仕掛けたにも関わらずこの短い区間で自分に追い付く瞬発力と最高速度を維持する持久力。

 『ナタの末脚』─────

 脳裏に浮かんだ言葉に戦慄が走った。

 

 『さあシンザンが並びかけて参りました! 後続との差はおよそ3バ身先頭は完全に2人のマッチレース!! シンザンとウメノチカラ、シンザンとウメノチカラの熾烈な鍔迫り合いであります!! さあ残り200メートルを切ってここで前に出た、前に出たのは─────』

 

 

 ふと1年前の事を思い出す。

 初めてシンザンと走った最終直線、彼女に抜かれまいと死力を尽くして1着を掴み・・・・・・そして彼女は手を抜いていた事が発覚したあの選抜レース。

 もし彼女が真剣に走っていたとしたら、ちょうど今のような展開になっていたのだろうか。

 敗北の色に染まりかけた心を、ウメノチカラは気迫で吹き飛ばした。

 

 「あああああああああああッッッッ!!!!」

 

 皆に背中を押してもらった。

 沢山の期待を背負ってここに立った。

 勝ちたい! 勝ちたい!! 負けたくない!!!

 ここまで来て、ここまでしてもらっても駄目だったら自分は──────

 

 

 

 楽しい!!

 彼女の心を満たすのはそれだけだった。

 一歩踏み出す毎に扉が開く感覚がする。

 地面を蹴る度に意識から全てが遠ざかっていく。

 もしかするとこれがそうか? これがトレーナーの言っていた場所なのか?

 時代を創るウマ娘が至るという領域が、いま自分が立っているこの先にあるのか?

 それじゃあもっと潜ってみよう。

 まだ先がある、まだまだ深い場所がある。

 潜って潜って底にあるものを掴めたら、自分の走りは一体どれ程の──────

 

 

 「おっと。いけない」

 

 

 

 呼吸も捨てて走る自分。

 その横に並んで追い抜いていく足音。

 自分が睨み付けた彼女の横顔は、どこまでも真っ直ぐに前だけを見つめていた。

 

 

 

 

 

 第31回、日本ダービー。

 

 その最終直線で背負った期待は確信に変わる。

 

 全てのウマ娘を捩じ伏せて名乗りを上げた挑戦者を悠々と超えていくその姿に、人々は熱狂の夢を見た。

 

 断ち切る末脚。鹿毛の大鉈。

 

 彼女の名は──────

 

 

 ──────シンザン。

 

 

 『()()()()()()()()()()()()()()()!!!!

 2着にはウメノチカラ、3バ身ほど離れて3着はオンワードセカンド!!

 いやこれは強い! シンザンが強過ぎる!! 他のウマ娘を圧倒、まるで寄せ付けませんでした!!

 ついに頂点の栄光に王手を掛けました!!

 ()()()()()()()()()()()()()()()()!!!!』

 



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34話

 大歓声も大歓声、割れんばかりの声の嵐を浴びながら拳を突き上げたシンザンがゆったりと減速する。

 諸手を上げて叫ぶ大観衆。ラストスパートから震えっぱなしだったトレーナーも噛み締めるように両の拳を引いた。彼の隣で唖然と口を開ける古賀と固く目を閉じて俯く佐竹に、いつ見ても残酷な明暗だと後ろに立つ桐生院は思う。

 それにしても──────

 

 (凄まじいものを見たわね)

 

 ウメノチカラは素晴らしい走りをした。

 道中で好位置を守り抜いたのはもちろん勝負所で危険な選択肢を通し、尚且つ最高のタイミングで自分の全てを出し切った末脚を繰り出してみせた。あの走りを狙って出せれば何度走っても勝てるとすら思える。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 好位置で脚を残してからのスパートという同条件で・・・・・・否、最内に対する外側という距離的不利を背負った状態から。

 傑物だなどと他人事ではいられない。

 半年後にはカネケヤキがあの怪物と激突するのだ。

 

 「・・・・・・ウメは最高の状態だったはずだ。チカミチ、お前どんな手品を使った?」

 

 「この日に向けてトレーニングを徐々に軽くしていったんだよ。それとシンザン鉄はすぐに脱がせてストレッチにアイシング。後はマッサージとか栄養補給の指導とか、とにかく念入りにトレーニング後の負荷を抜いた。最高のコンディションに負担を残さず持っていく為に」

 

 その口から出てきたのは奇策妙策ではなく、トレーナーとして余りにも当然のアプローチ。しかしこの男がそれをどれだけの繊細さで、どれだけのバランス感覚で行っていたかを古賀は察する事が出来た。

 恐らくそれは、日毎に変化して一歩狂えば引っ繰り返るような綱渡りの調整だったはずで。

 

 「日頃無茶をさせている自覚はあるからな。お前がレース直前まであらゆる手を尽くしたように、俺も俺でギリギリまで色々とやっているのさ」

 

 『今回のレースも炸裂しました鉈の切れ味! 勝ち時計は何と前年のレコード記録と0.1秒差という超好タイムです! 向かう所敵なしのシンザン、秋に向けていよいよ我々の期待も最高潮に達して参りました!!』

 

 とうとう事実を受け入れた古賀が重く項垂れる。

 彼の担当ウマ娘は素晴らしい走りをした。それだけ勝利が叶わなかった時の落胆も大きくなってしまったが、彼女の勝ちを確信していたのは自然な事だろう。

 そして彼女ら26人も同様に敗北の味を味わう。

 ただ1人の勝者が華々しい喝采を浴びる中、バリモスニセイは悔しそうに歯噛みした。

 彼女の結果は7着と凡走。

 道中に問題はなかったものの脚を残せなかった。やはり彼女は典型的なマイラーなのだ。

 

 (結果だけ見れば凡走。しかし不向きな距離をこの大人数で走ってこの順位という事は、レース運びと仕掛け所を間違えた訳ではなかったということです)

 

 しかし─────だからこそ展望はある。

 悔しさに握り締めた拳を解き、彼女は無念を希望に変えた。

 

 (ならば残る課題は肉体のみ。必要なのはとにかくスタミナ。ダービーで7着にまで食い込めたのなら、いつか私の脚でもこの距離に届く!)

 

 バリモスニセイが次の課題と戦いに向けて炎を燃やす中、そのウマ娘の胸中にはただ遣る瀬無さが沈んでいた。

 八大競走には遠く及ばないオープン戦だが、確かにあのとき自分は勝った。

 だから自分もやれると思った。

 手抜きで走ったなどと抜かしたその横っ面を張り倒して、自分の強さを証明してやる気だった。

 ──────結果は?

 尻から数えた方がずっと早い。

 

 「・・・・・・勘違いだった、かぁ・・・・・・」

 

 出走するだけ名誉。数百人の中から選ばれた27人。

 そんな言葉は何の慰めにもならない事を実感しながら、ヤマニンシロは雲の上にいる紋付袴を茫洋と眺めていた。

 ある者は次に燃え、ある者は現実に立ち尽くし、またある者は力及ばなかった己に憤る。

 3着のオンワードセカンドからさらに4バ身離されてのゴールとなったヤマニンスーパーとアスカはその最たるものだった。

 レースに絶対はない。もう一度走ればまた違う結果にもなったかもしれない。

 だがこれは一生に一度のレースで、そして自分は完敗した。それだけが事実だった。

 

 「・・・・・・勝ち切れないわね。お互い」

 

 「そうだね。悔しい。メチャクチャ悔しいんだけどさ。今は何だろ、呆れてるよね、最早」

 

 はあ、と溜息を吐いてヤマニンスーパーは視線を遣る。遠く見るその先にはやはり今回の勝者がいた。

 

 「どんな伸び方してるんだって話だよ。こっちも全力で走ってるのにどんどん遠くなっていく。やっぱり私達、とんでもない奴と同世代みたいだね」

 

 「多分アイツも同じ気持ちね。あれだけ完璧なレース運びで負けるのは流石にやってられないでしょ」

 

 傷を舐め合うような性格のアスカではないが、全てを出し切った反動で膝に手をついて肩を上下させるウメノチカラには流石に同情を寄せた。

 走っている自分から見ても思わず見惚れてしまう程に、それだけ完璧な走りだったのだ。

 それを悠々と超越してみせたあのウマ娘がどれだけ規格外か、それは最後まで競り合った彼女が一番理解しているだろう。

 それでも。

 それでもあの走りは影に隠れていいものではない。

 あの走りが日の目を見ないというのなら、自分達はもう何処にも目指すものがない。

 ウメノチカラに歩み寄ったアスカは、同じ競技者として精一杯の賞賛を込めて彼女の肩に手を置いた。

 

 「負けたわね、アタシたち。でもアンタの走りも凄かった──────、っっっ!!?」

 

 誤って熱した薬缶に触れたかのようにアスカが手を押さえて飛び退いた。

 見て、触れてしまったからだ。

 肩で息をするウメノチカラの下げた首から僅かに覗いた横顔、そこに浮かんだ憤怒と憎悪。敵のみならず自分すら焼き尽くすような黒い炎を。

 彼女は何かを見たのだろう。あの最終直線でシンザンとの鍔迫り合いの中、己の誇りや矜持を深く深く傷付けるような何かを。

 それが何なのか聞こうとも思えない。

 聞いてしまったが最後、その暗い熱の矛先が自分に向けられるような気がして。

 

 

 視界が赤く染まる。

 指が食い込む膝の痛みも遠く感じる。

 霞のように不明瞭な意識は疲労かそれとも自分を乗っ取ろうとしている怒りによるものか、いずれにせよ今は顔を上げる事ができそうにない。

 今あいつの姿を視界に入れてしまったが最後、最悪殴りかかるのを自制できる自信がまるでないからだ。

 ─────()()()()()()

 辛うじて息をしている理性が堂々巡りに思考する。

 あいつは自分を追い抜いた後、少しだけこちらを振り返った。

 ゴールまでの距離と自分との開きを確認して、途中からスパートを止めた。

 無為だったのか?

 無駄だったのか?

 無意味だったのか?

 自分の努力や全力は────シンザンにとっては遊びの範疇でしかなかったのか?

 

 「はは、参ったな・・・・・・。日本ダービーという大舞台でも君を狂わせることは出来ないのかい?」

 

 観客席にいたハクショウが戦慄を混ぜて笑う。

 ライバル達の、ウメノチカラの狂熱を平熱のまま凌駕する彼女を見ると、本当にかつて自分が燃え尽きたのと同じレースを走ったのかと疑念すら湧いてきてしまいそうだった。

 鳴り止まない歓声を受けてウィナーズサークルに向かいながらシンザンは隣を歩くトレーナーを見上げ、にい、と口角を上げてみせる。

 

 「ほら喜びな、これで2つ目だ。残りの1つは半年後を楽しみにしとくんだね」

 

 「感無量だよ。何ならここで踊り出してもいいくらいだ。しかしシンザン」

 

 「うん?」

 

 「お前も『入口』を見たんだろう? あの走りを見れば分かる、お前は間違いなく"忘我"に至ったはずだ。だけど途中で脚を緩めた。それはどうしてだ?」

 

 「どうしてって」

 

 力を抑えて勝つならば頭5つは抜きん出ていなければならない。そう言った時のキョトンとした顔をハッキリと思い出せる。

 ほぼ不可能だという意味を込めた例え話を平然と実現してのけた彼女は、まるでイタズラを成功させた子供のような顔をしていた。

 

 

 「勝てる以上の消耗は無駄。ハナ差だろうが勝ちは勝ち。そうだろ?」

 

 

 そうだったな、とトレーナーは苦笑する。

 走る度に認識の甘さを思い知らされる。

 歩き方どころか息遣いすら何一つ乱れていないこのウマ娘は、本当にたった今最高峰のレースを走り抜いたばかりなのだろうか。

 ウィナーズサークルで日本ダービーの優勝レイを肩に掛け、カメラのフラッシュに囲まれたシンザンは取材陣に向けてピースサインをしていた。

 勝利の証にして『2つ目』、道半ばのメッセージ。

 しかしその顔に普段通りの平静な笑みを浮かべている彼女に全員が息を呑んだ。

 ─────この勝利は日常の延長に過ぎない。

 その様子を見たトレーナーの心中に鎌首を(もた)げ始めたものがあった。

 ─────シンザンなら大丈夫か?

 コダマの時は取り返しのつかないミスをした。

 自分がしっかりしていればダービー直前の落鉄や脚部不安も防げた()()()。屈腱炎や股関節の痛みだって自分が何かしらの兆候を見落としていなければ回避できた()()()

 治療に押されて『充分なトレーニング』を行えないまま競走ウマ娘としてのキャリアを空転させるなんて事にはならなかった()()()

 

 しかしシンザンなら。

 これだけ強くて頑丈なウマ娘なら。

 

 記者やカメラマン達の壁の後ろで、担当ウマ娘を見詰めるトレーナーの眼にシンザンの前では見せた事のない類の光が滲み始めた。

 自分自身の野心、そして野望。

 その光にはそんな名前がある事を、トレーナーは久し振りに思い出そうとしていた。

 『息切れもせずにシンザン勝利』。

 翌日の新聞や雑誌の一面は、そんな文言と共に彼女のピースサインで飾られる事となる。

 

 

 

 (・・・・・・流石ですね。シンちゃん)

 

 未だ収まらぬ寒気に客席のカネケヤキは思わず二の腕を(さす)る。

 トリプルティアラを為す上で最も頭の痛いライバル達が同じ領域に至っている。その事実が堪らなく恐ろしく、そして堪らなく誇らしい。

 締め括りにはこの上なく相応しい大舞台になる。

 だが気がかりなのはウメノチカラだった。

 あの走りは誰が見ても彼女の最高峰と分かる程のもので、だからこそそれが破られた時のダメージは察するに余りある。

 彼女は生真面目だ、心に大きな負債を抱え込むだろう。しかしこればかりは彼女のトレーナーが上手くケアしてくれるのを祈るしかない。

 友人なれど敵同士。

 停滞するなら置いていくだけだ。

 ───どうか彼女が乗り越えて来ますように。そう願ってカネケヤキはその場から踵を返した。

 

 

     ◆

 

 

 敗戦後の地下道、鉛のように重い足。俯いて歩くウメノチカラの視界に革靴の爪先が映る。

 視線を上げて顔を見ようとしたが、自分のトレーナーだと分かったところで再び視界が下を向く。

 余りにも情けなくて、余りにも申し訳なくて。

 それでも彼女は声の震えを押し殺し、いつものように次に向けた話をしようとした。

 

 「・・・・・・トレーナー。今日の走りは、どうでしたか。改善点はどこかに」

 

 「無い」

 

 古賀はハッキリと言い切った。

 ウメノチカラの呼吸が止まる。

 

 「お前は理想的なレースをした。・・・・・・それで負けたんだから、シンザンは本当に強いウマ娘だ」

 

 それが彼にもどれだけ無念な事だったかは見るだけで分かるだろう。腕組みをして歯を食い縛り、痛みを堪えるような声を歯の隙間から搾り出している。

 しかしウメノチカラにとってその言葉はどうしようもなく救われない言葉だった。

 あの走りが最高だったのなら。

 あの走りが理想的だったのなら。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ──────じゃあ、自分は、どうすれば。

 

 

 パキリ、と。

 心のどこかが罅割れる音がした。

 

 

     ◆

 

 

 「見ていかないのですか」

 

 日が落ちたライブ会場の外、ライトアップが漏れ出す屋外で背を向けて去っていく人影を日聖ミツヱが呼び止める。

 呼び止められた人影の頭頂部には人間とは違う形の耳。年齢的には日聖ミツヱと同程度だろうか。(いかめ)しさを皺で刻み込んだような顔立ちの高齢のウマ娘は、彼女の言葉に鼻を鳴らして答えた。

 

 「見る価値もない。期待できる奴がいるって言うから来てみりゃとんだ腑抜けだ」

 

 「何故あの走りが腑抜けだと?」

 

 「聞く必要があるか。()()()()()()()()。勝負事を貫けねえ奴に何の意義がある?」

 

 「その批判を跳ね除けてきたのが彼女です」

 

 「うるせえ。今さらガキ共に何に期待しろってんだ。何の苦労も知らねえ鼻ッタレ共が三冠獲るなんざ思い上がりでしかねえよ。そうやって蝶よ花よと育てた結果が去年の醜態だろうが」

 

 隠す気のない嫌悪感に日聖ミツヱの眉に険が寄る。

 しかしもう引き止める事はしない。

 これ以上は無駄だと知っているからだ。

 彼女の捩れと失望は、言葉では到底届かないところに沈んでいる。

 

 「どいつもこいつも浮ついてばかり。オレ達の時代で終わってんだよ。日本のレースは」

 

 そう吐き捨てて『彼女』は去った。

 闇に消えた背中をしばらく見送って、日聖ミツヱはライブ会場へと歩き出す。

 元々自分の我儘で仕事を置いて来させてもらったのだ、要件が済んだらすぐに戻らなくてはならない。

 シンザンの勝利を受けてあちこち動き始めている秋川さつきが、右腕の帰りを今か今かと待っている。

 

 

     ◆

 

 

 酒は好きだが強くはない。

 そんな自覚はあるが今日だけは別だ。

 シンザンのウイニングライブを終えて学園の宿舎に帰還したトレーナーは、勝利の余韻を肴にちびりちびりと酒を呑んでいた。

 何せ二冠。二冠ウマ娘。

 もちろん担当ウマ娘の努力のお陰だが、これを2人も輩出した事は『トレーナー』として大偉業である。呑んでもバチは当たるまいが明日も仕事、この位にしておこうかと瓶を置いたところで玄関をノックしてくる者がいた。

 どこの誰だとドアを開ければそこにいたのは桐生院翠だった。

 酒の匂いに若干顔を顰めるもすぐに真剣な表情に戻った彼女は、何の脈絡もない来訪に戸惑うトレーナーに真っ直ぐに頼み込んだ。

 

 「相談したい事があるの」



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35話 : 天に嘶け 汝も菊にいざ酌まん

 

 『そうか。行くんだな。トレセン学園に』

 

 『はい。先生からも学力の方は問題無いと評価されました。走力についても見込みは充分との事です』

 

 『まあ、まあまあまあ!! 凄い、凄いわ! あのトレセン学園に入学できるだなんて! 早速腕のいい教官をお呼びしなくちゃ!』

 

 きゃあきゃあと少女のように喜ぶ母と静かに自分の言葉を繰り返す父。いつものように対照的な両親。はしゃぐ母に肩を叩かれまくっている父はしばし考え込むように目を伏せ、そして自分を見る。瞳を通して自分の奥底にあるものを見据えてくるような真っ直ぐな眼差しだった。

 

 『聞かせてほしい。トレセン学園に進むのは本当にお前のやりたい事なのか?』

 

 『ちょっとお父さん・・・・・・!?』

 

 ここに来て激励とは真逆の言葉が出るとは思わなかったのだろう。目を丸くして言い募ろうとする母を手で遮るように落ち着かせ、父は静かに口を開いた。

 

 『お前は昔から利発だった。大抵の事は周りに一歩先んじて出来るようになるし、その為の努力を進んでやる子だった。そんなお前に私達は、親戚達もずっと色めき立っていたな。末は学者かスターかと』

 

 『はい。私は─────』

 

 『その期待が知らない内にお前の道を奪っていたんじゃないかと、私はそう考えてしまうんだ』

 

 重たい声だった。

 今ここに至るまで父が抱えてきた苦悩や後悔が丸ごとのしかかってくるような感覚に、私は胸を殴られたように言葉を詰まらせた。

 

 『私達が喜べばお前は喜んだ。そんなお前に私達はあれもこれもと求めて、お前は全てに応えてくれた。・・・・・・そしてお前はこう言ったな。「次は何をすればいいですか?」と』

 

 『──────、』

 

 『本当にやりたい事があるのなら聞かせてくれないか。私達の望みではなく、お前の望む未来を私達は尊重したい。今更な話かもしれないが、親のエゴに付き合う道理なんて無いんだ』

 

 気付けば母も黙っていた。

 我が子が自分の希望を口にした時のことを思い出そうとしているのかもしれないが、しかしどうにも記憶に引っかからないようだ。思えば自分だって「これがやりたい」と最後に口にしたのがいつだったかが分からない。

 父の言葉に裏表は無く、私を試すような意図は全く無かっただろう。しかしその時の私は自分の覚悟を示さなければならないと思った。

 そこで表明した決意は今も変わっていない。

 

 『・・・・・・父さん。確かに私がトレセン学園への進学を決めたのは、将来はきっと大物になるという皆様の期待に応えるためです』 

 

 『それなら』

 

 『でも、レースの世界を選んだのは私の意思です』

 

 父は僅かに目を見開いて言葉を止めた。

 

 『歌手でも女優でも作家でも、一角(ひとかど)の人物になる道はいくつもあります。その中で私はレースを選んだ。あの世界で大物になろうと、なりたいと思った。

 これは父さんや母さんのエゴではなく─────、紛れもない私自身のエゴです!』

 

 ハッと口元を覆った母が震えながら感涙を目に溜める。思えば自分の自己肯定はこの人に育まれてきたなとふと考えた。

 さっきとは打って変わって静かになってしまった母の横で父はじっと自分を見つめていた。

 さっきと変わらず静かなまま、しかし口元は溢れそうな何かを堪えるように引き結ばれている。

 それから何十秒かの沈黙が流れた。反らした胸から力が抜け、反応がない事に不安を感じ始めた頃にようやく父が口を開いた。

 それは溢れた想いの一欠片。

 それだけで自分は、他の何よりも強く背中を押して貰えたのだ。

 

 『ウメ。立派になったな』

 

 

     ◆

 

 

 シンザンの凱旋は大いに盛り上がった。

 皐月賞に続いて日本ダービーの勝利、即ち二冠ウマ娘の誕生。着差以上の強さを遺憾無く見せつけた彼女の『世代の象徴』としての地位は確立されたと言っていい。

 そして校内の、世間の注目は彼女が宣言したクラシック三冠が達成できるかどうかに向いていた。

 4年前のコダマ、去年の彼女、そして今年のシンザンと立て続けに現れた二冠ウマ娘。今年こそ歴史的瞬間が見れるのではと早くも鼻息を荒げている者も多い。レースから暫く経っても校内でその話題が尽きなかったのを見れば期待の大きさも推し量れるだろう。

 そして彼女にはそれに応えねばならない。

 レースに勝つだけではない。声援に対して手を振り返すのは、皆に支えられて成り立つアイドル的な側面も持つ競走ウマ娘の果たすべき役割だ。

 つまりそれが何を意味するかと言うと・・・・・・

 

 「ん゛え゛ぇ゛・・・・・・・・・・・・」

 

 「ほら頑張れ頑張れ」

 

 シンザンの限界である。 

 

 

 

 トレーナーの仕事はウマ娘を鍛えるだけではない。

 報道陣や雑誌記者によるインタビューのスケジュール管理、メディアからの出演依頼の交渉、グッズ開発の打ち合わせ等その業務内容は多岐に渡り、そしてその量と密度は担当ウマ娘が活躍すればする程に激しさを増していく。場合によっては自分にまで注目がフォーカスされる事もあるため、そうなれば自分用の応対まで考えなければならない。

 まして二冠達成という偉業を成し遂げたウマ娘を担当している彼は輪をかけて多忙極まっているが、トレーナーとしては嬉しい悲鳴と言えるだろう。

 しかしシンザンが上げている悲鳴はシンプルに悲鳴である。

 

 「何だい? 何なんだい? 雑誌のインタビューが終わったら別の雑誌のインタビューが始まってグッズの打ち合わせが終わったと思えば番組出演の話が追加されて。それでその次はイベントの出演依頼ときた! 競走ウマ娘は走りが本懐じゃないのかい!? あたしはいつになったらこの輪廻から解脱できるんだい!?」

 

 「最初は凄い乗り気だったじゃないか。『どいつもこいつも欲しがりだねえ』って」

 

 「限度ってもんがあるねえ!!」

 

 トレーナー室のソファに突っ伏して叫ぶシンザンにトレーナーが雑な調子で口を挟む。

 疲労に対する気遣いの気配が薄いのは首を縦に振った仕事は完遂させるという厳しさもあるが、単純にトレーナーも疲労が溜まっているのである。似たような繁忙期はコダマを担当していた時に経験したが、喜ばしかろうが激務は激務だ。

 

 「今後お前が活躍するほどこういう引っ張りだこが増えてくる。休む訳にはいかないぞ。これは俺達の義務だからな」

 

 「いやいやいや休みは要るだろバカ野郎。大体なんだいこのスケジュールの過密さは? コダマさんもこんな感じだったのかい」

 

 「そうだな、まあこんな感じだったけど・・・・・・正直コダマの時より忙しい」

 

 「あたしがコダマさんより注目されてるから?」

 

 「あー・・・・・・」

 

 うつ伏せのまま首を回してトレーナーに顔を向けるシンザン。

 小さな期待に彼女の目の光が若干戻りつつあるためトレーナーは本当の事を言うべきかどうか少しだけ迷ったが、後で判明してしまった時が面倒なので結局本当の事を言う事にした。

 

 「・・・・・・理事長があっちこっちからメチャクチャ仕事引っ張ってきてるから」

 

 「期待して損したねえ!! あの女スプリングステークスから邪魔しかしないじゃないか!! 金の卵を産むガチョウを初手で殺そうとするとは何事だい!! 」

 

 引っ繰り返って喚き始めた。

 俺シンザンに理事長との賭けの話はしてないよな?と戸惑う裏側で、やはり彼女のストレスが看過できないレベルで溜まっていることを確信する。

 ───彼女は『仕事』をサボらない。

 怠惰に見える部分も多々あるがそれは性に合わない事をやっている時であり、必要な事はちゃんとやる。

 ただそれが状況と噛み合っていない。

 彼女の『やる』は『必要な事は手短に終わらせる』であり、『終わらせた(そば)から追加される』現状が決定的に相容れないのだ。

 シンザンは自分だけの時間を・・・・・・、例えば休み時間には芝生で転寝(うたたね)するように、外界から切り離された時間を好む事をトレーナーは理解していた。

 この遊んで満たされるのとは別種の欲求は独立独歩の気質故か、こればかりはスケジュールを握っている彼が時間を作って解消する他ない。

 

 「大丈夫だ。お前は死なない。何故なら今日は?」

 

 「完全オフ!」

 

 「取材や打ち合わせは?」

 

 「無し!」

 

 「トレーニングも?」

 

 「休み!!」

 

 「俺に『ありがとう』は?」

 

 「それはあんたの義務」

 

 「それはそうだ」

 

 まあウマ娘のコンディションに合わせた予定の組み立ては実際にトレーナーの仕事である。

 とりあえず今日が完全オフの日である事を再認識して気分が持ち直したシンザンは寝返りを打って仰向けになったままペシペシと机を叩く。

 

 「ハイそうと決まればお茶とお煎餅を用意しな。そこの戸棚に常備してるの知ってんだからね。あたしは今日何もしないからねえ」

 

 「冠を獲る度に太々しくなるなお前は。そのくらい自分でやりなさい、俺はこれから理事長室に行かなきゃならないんだから」

 

 「・・・・・・何で?」

 

 「分からない。相談というか意見を聞きたい事があるんだとか。何ならお前もだらけるなら自室の方がいいんじゃないか? 仕事中の人間が側にいたら落ち着かないだろ」

 

 「ここでいいよ。部屋戻ってもつまんないし」

 

 しょうがなしに身体を起こして自分で戸棚を漁り始めたシンザンがゲンナリしたようにぼやく。

 トレーナーが思わず部屋を出ようとする足を止めたのは彼女が煎餅ではなく来客用の茶菓子に手をつけようとしていたからではない。戻ってもつまらないと言った理由に一抹の不安を感じたからだ。

 

 「ウメの奴がこの所ずっと辛気臭い面しててねえ。別に空気悪いのは気になんないけど、延々続くとそろそろ面倒なんだよ」

 

 

 

 ウメノチカラがシンザンを特別ライバル視しているのは知っている。その相手に舞台の皐月賞と日本ダービーで連敗を喫しては精神的にも(こた)えるだろう。

 『トレーナー』としては気掛かりだがウメノチカラのメンタルケアは自分の領分ではない。古賀も彼女の不安に気付いているはずである。

 彼が不安に思ったのはシンザンの考え方だ。

 友人とはいえ敵同士。下手な慰めなど要らないだろうし、彼女らにしか分からない想いもあろう。

 しかし彼女は「面倒だ」と言った。

 他者の心の機微の一切を切り捨てた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()』なのだとしたら、それは彼女の学園生活にも影響が出てくる。

 そしてそれはもうすぐにでも・・・・・・

 

 「気掛かりな事でもあるのかな?」

 

 「あ、いえ。シンザンが忙し過ぎる仕事量に憤慨していまして」

 

 「なら特に問題は無さそうだね」

 

 いい思い出が浮かんでこない理事長室。

 信頼なのかどうなのか、生徒のケアは担当トレーナーの仕事とバッサリ割り切る方針らしいトレセン学園理事長・秋川さつきが緩やかに扇で顔を煽ぐ。

 その斜め後ろには静かに秘書の日聖ミツヱが(はべ)っており、これが話し合いの場なら既に不公平だと感じるような無自覚の圧が二人から放たれていた。

 

 「シンザンがまたレースの世界に火を着けた。僕はそれを徹底的に燃え広がらせたいんだ。だからまだまだ働いてもらうよ。彼女を見誤った責任も取らねばならないしね」

 

 「取ってつけたようなフォローですね」

 

 「そんな事より本題に入ろうじゃないか。話というのはね、()()()()()宿()()()()()なんだ」

 

 雑談を打ち切るように秋川さつきが扇を閉じる。

 

 「ここ最近のシンザンや他の生徒達の活躍と僕の東奔西走でスポンサーが増えてね。ミツヱと話し合って、夏合宿の規模を一気に拡大する事にしたんだ。

 候補としては海辺の宿泊施設を丸ごと貸し切ってしまうか、あるいは北海道まで足を伸ばすかの2つなんだけど、キミならどちらを選ぶかな?」

 

 随分と豪快な二択だった。

 捨てるにせよ掴むにせよその判断の果断さには舌を巻くばかりだが、何故わざわざ呼び出してまで・・・・・・と考えた辺りでトレーナーは気を引き締めた。

 大切な用事だから呼び出されたのだ。

 下手をすれば自分の答えが生徒の進路に直結する。

 海と北海道。真逆の環境。

 渡された候補地の資料に目を通ししばし顎に指で触れて黙考した後、顔を上げたトレーナーは確信を得た語気で答えた。

 

 「海にするべきかと」

 

 『よく言った!!!!』

 

 非常に聞き覚えのある声の、選挙演説を聞いたシンパみたいな叫びがドアの向こうから聞こえてきた。

 立ち上がってドアを開けてみたが誰もいない。

 とうに逃げ去った後らしい。

 

 「・・・・・・お茶と煎餅を与えておいた(はず)なんですが」

 

 「彼女は何か僕を警戒しているのかな・・・・・・? まあいい、理由を聞こうかな」

 

 「まず環境が良い。砂浜は脚への負担が少なく、波のある水で泳げば心肺機能や全身をバランス良く鍛えられる。さらに周辺には整備された山道もあるためハードメニューも容易に組めます。それに海辺という季節らしい環境は生徒達のいい刺激になる。オフの日は遊べばストレスの発散もしやすいでしょう。

 もちろん北海道も悪くありません。広い大地で走る開放感はウマ娘の精神にも良く、涼しい気候で避暑にもなりますが・・・・・・」

 

 「が?」

 

 「帰ってきた時の寒暖差による体調への悪影響が懸念点として残りますので。全体的に強度を高めたトレーニングを効果的に行うには、やはり海で夏合宿を行うのがいいと考えます」

 

 「成る程、よく分かったよ。どうかな? 彼も海を選んだだろう」

 

 秋川さつきがどこか得意げに日聖ミツヱに言う。

 言っている意味がよく分からず首を傾げるトレーナーに、日聖ミツヱが補足するように事のあらましを説明した。

 

 「合宿地の候補として北海道を挙げたのは私で、海を挙げたのは理事長です。そして私達の知識だけでは判断材料として心許ないため現場の意見を参照する事になりました。

 そうして貴方を含めた複数のトレーナーを呼び出し、根拠と合わせて選択させた次第です」

 

 「結果、8割程度のトレーナーが海を選んだという事さ。北海道を選んだトレーナーはやはり気候を判断材料にしていたね。無論どちらが間違いだという話ではないが、ここまで答えが偏る事実を踏まえれば夏合宿は海で決まりかな」

 

 「そういう事でしたか。・・・・・・ちなみに桐生院さんはどちらを?」

 

 「彼女も海だね。それがどうかしたかい?」

 

 いえ特には、と短く否定するトレーナー。

 彼女がそちらを選んだ事に何か思う事があるのを察した秋川さつきだが、そこには触れないことにした。

 その代わり彼に踏み込んだ。

 何やら思案顔のトレーナーに彼女は揶揄うように小さく笑いかける。

 

 「実を言うとね。私達はキミは北海道を選ぶと思っていたんだ」

 

 「自分が北海道をですか?」

 

 「ああ。コダマの屈腱炎からキミは慎重に偏っていたきらいがあったから、ウマ娘のコンディション優先で気温の高い海は避けるんじゃないかとね。だからキミが海を選んだ時は少しだけ驚いた。まして目的をトレーニング強度の上昇に据えていたからさ」

 

 「──────、」

 

 「どうやらキミにも変化が現れているみたいだ。シンザンというウマ娘を通して、ね」

 

 在るがままで評価を変えた。

 在るがままで環境を変えた。

 そして今、人の価値観を変えつつある。

 どこまでも『自分』な彼女の特異性が、少しずつ明らかにされていくようにトレーナーは感じていた。



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36話

 そして知らないところで自分の評価が上がっているシンザンは、理事長室前での盗み聞きから飄々とトレーナー室に帰って鼻歌を歌っていた。

 何故なら海。海である。

 夏と言えばコレである。

 トレセン学園の合宿に正直期待はしていなかった。自身の強化についてではなく主に娯楽的な意味でだ。

 近場に走れる敷地や器具を備えて尚且つ多くの生徒達を受け入れられる宿泊施設には限りがあり、そして利用者もトレセン学園の生徒だけではない。そんな中で確保した合宿先に遊べる場所があるかは望み薄だったのだが、海となれば話は違ってくる。

 

 (トレーニングはしんどいからね。楽しいものは近くにあればある程いいんだよ)

 

 そもそもトレーニングは必要だからやるけど好きじゃないというスタンスの彼女である。

 事実上決定したようなものではあるとはいえまだ海に行くと正式に決まった訳ではないのだが、シンザンの中では既に浮き輪に乗って波間を漂うビジョンが見えていた。

 どれ景気付けにいいものを貰おうと戸棚の中の来客用のお茶菓子の封を切ろうとしたところでトレーナー室のドアがノックされた。

 間の悪いタイミングで水を差されたシンザンが唇を尖らせる。

 来客ならばトレーナーに用向きのある者だろうが、今この場には自分しかいない。どう応対するかを少し考えて、そして面倒臭くなった。

 

 「誰もいないよー」

 

 『いらっしゃるではないですか』

 

 「あたししかいないよ」

 

 『貴女に用があるのです』

 

 室内にシンザンがいるのを確認した訪問者がドアを開けた。

 気品のあるウマ娘だった。

 自然体でありながらぴしりと伸びた背筋。耳飾りや薄く乗せたメイクにも過ぎた華美さは無く、その佇まいだけで彼女が高貴な生まれである事が察せられた。

 目の前に立たれたら立たれた側まで直立してしまいそうな彼女に視線を遣ったシンザンだが、急須を湯呑みに傾ける手は止めない。

 自分にほぼ関心が向けられていない事を悟っても黒鹿毛の彼女は表情を変えないままだった。

 

 「何だい。あたしは今日なにもしないって決めてるんだよ」

 

 「お話したい事が御座います。少々御足労願えませんか」

 

 「話ならここで出来るだろ。無駄足は御免だよ」

 

 「どうしても、でしょうか」

 

 「んー」

 

 たった一音にここまでやる気の無さを込められるのか。自分の価値がお茶とお茶菓子以下と見られている事に黒鹿毛のウマ娘が少し思案するように俯くが、元より『そういう奴』だという噂は耳に入っている。

 湯気の立つお茶を啜り始めたシンザンに対して、彼女はその意識に割り込むように少しだけ声を張った。

 

 「私が胸を出しましょう。これで如何でしょうか」

 

 あっさり着いてきた。

 学園外の喫茶店、奢ってもらったメロンクリームソーダのチェリーとクリームを別皿に寄り分けているシンザンに黒鹿毛のウマ娘が怪訝な目を向ける。

 

 「・・・・・・何をなさっているのですか?」

 

 「きちんと分けてるんだよ。サクランボはサクランボ、アイスはアイス、ソーダはソーダ。別々のものはちゃんと別々に立ってなきゃならないからね」

 

 「成る程。理解するには私の見識が足りていないようです」

 

 「で、あんたはどちら様? 話とやらよりまずはそっちを聞こうじゃないか」

 

 噂通りに噂以上かもしれない。

 名前はそれなりに知られている方だと思っていた黒鹿毛のウマ娘が内心で肩を落とす。

 そんな自己認識を持って当然の実績が彼女にはあるのだが、同時にその認識も仕方無いのかもしれないなと彼女は思う。

 ()()()()()()()()()()()()

 長い睫毛に縁取られた瞳には、未だ関心の薄さが透けて見えるシンザンが映っていた。

 

 「申し遅れました。私の名前はグレートヨルカ。─────()()()()()()()()()()()

 

 

     ◆

 

 

 「ん、あ、あー。そういや聞いた事あるねえ。そうだそうだ、先輩だった」

 

 「ご存知でしたか。以後お見知り置きを」

 

 思い当たったらしいシンザンに少しだけ胸を撫で下ろしたグレートヨルカが軽く頭を下げる。そもそも自分がジュニア級で走っている間にクラシックの冠を獲った彼女の名前を言われて思い出す程度の認識なのがかなり異端なのだが、彼女はもうそこに触れてもしょうがないと判断したらしい。

 

 「ははあ読めたよ。それで有名になったあたしを自分の派閥か何かしらに引き入れようってんだね。でも残念、これっぽっちの奢りじゃあたしは釣れないよ。あたしの底値はとっくの昔に過ぎてるからね」

 

 「いえ、私は学園内にそのような組織を作ってはおりませんので。・・・・・・私が貴女に御足労願ったのは、これから話させて頂く事を貴女のトレーナーに聞かれてしまうと少々角が立ってしまうからです」

 

 ミルクを注いだコーヒーをスプーンで混ぜながら彼女は湯気に乗せるように言葉を溢す。

 真剣な眼差しだった。

 とりあえず真面目な話が始まる事を悟り口を挟む代わりにサクランボを口に入れたシンザンにグレートヨルカは問いかける。

 

 「シンザンさん。貴女に好敵手はいますか?」

 

 「それよく聞かれるけど、特にこれっていうのは思いつかないんだよねえ。路線が違ったり走るレースが被らなかったりでさ。よく突っかかってきて楽しいのはウメなんだけど、最近はね」

 

 「どうかなさったのですか」

 

 「ずーっと沈んでばっかなんだよねえ。あたしに負けが込んでるからなんだろうけど、負けたくらいであそこまで気落ちするもんかね?」

 

 「・・・・・・彼女にとってはただの敗北ではないのでしょう。その方に如何なる(いわ)れがあるのかは分かりませんが、彼女の心中は推し量れます」

 

 首を傾げるシンザン。

 どこが分からなかったのだろう。ただの敗北ではないとはどういう意味なのか、あるいはウメノチカラの心中がなのか、恐らくは両方なのだとグレートヨルカは察しが着いた。

 これは───想像以上かもしれない。

 じわりと存在感を強めてきた『強敵』を前に、彼女は静かに居住まいを正す。

 

 「私にも好敵手がいました。レースでは2番人気より下に落ちた事がないような、強敵にして好敵手が」

 

 「へえ」

 

 「初めて戦った東京記念の白星をスプリング(ステークス)で差し返されて以降、私は常に挑む側でした。加えて皐月賞とダービーはレコードタイムで完敗。私の世代は正に彼女の一強状態でした」

 

 「それがどうかしたのかい?」

 

 「貴女は彼女とよく似ています。性格も考え方も、まるであの時の彼女を見ているとすら思える。故に私には、この先貴女の辿る道も分かります」

 

 彼女がコーヒーをかき混ぜていたスプーンをソーサーに置く。ぶつかり合った金属と磁器が区切るように小さな音を奏でた。

 シンザンが口からサクランボの種を出す。

 対面の彼女の口から放たれたのは鋭い警句。

 呑気に揺蕩う彼女に突き刺して縫い止めるように彼女は強く断言する。

 

 

 「次の菊花賞。貴女は敗北するでしょう」

 

 

 少しの間沈黙が流れた。

 真剣な面持ちを前にしたシンザンがソーダの上から下ろしたアイスクリームを口に運んだ時、シンザンの敗北を予見した彼女は再び口を開く。

 

 「三冠は確実とすら言われた彼女を殺した毒がその驕りでした。己の力を絶対と信じ、栄光の光に曇った瞳は己を狙う刃を映しません。貴女の双肩に懸かっているものが何なのか、今一度見つめ直すべきかと」

 

 「なんで?」

 

 「あの失望は繰り返されるべきではないのです。世間が二度目の王手に浮き足立つ今、貴女は盤石の足取りで進まなければなりません。まして貴女を差し返そうという好敵手がいるのなら」

 

 「ごちそうさま」

 

 残ったメロンソーダを一気に飲み干してシンザンはグラスを置く。話を打ち切られる気配を察したグレートヨルカだが、彼女が制止するより先に二冠ウマ娘は席を立った。ひらひらと振る手で別れを示し、社交辞令をそのまま形にしたような笑顔で言う。

 

 「ありがと、いい店だね。今度また来てみる」

 

 ドアのベルが鳴る音だけを残してシンザンは去った。胃袋から逆流して口から出ようとする炭酸を手で抑えながら窓の向こうへと消えていく彼女を目で見送り、一人残されたグレートヨルカは手付かずのコーヒーを口に運ぶ。

 どうやらこれ以上の話は無駄と判断されたらしい。

 

 (せめて何故こんな話をしようと思ったのか、疑問には思って頂きたかったのですが)

 

 舌に残る苦味を乗せて嘆息する彼女だが、しかし原因は自分にあるなと思い直す。

 初対面の相手にいくら何でもずけずけと言い過ぎた。彼女からすれば見ず知らずの先輩にいきなり説教を喰らわされたのだ、適当な理由を着けて退席するのは自然な流れとも言える。

 自分の思慮の至らなさに口をへの字に曲げるグレートヨルカだが、そこでふと自分自身に疑問を抱いた。

 ───なぜ自分はこうまで一方的に喋った?

 彼女を諫めようとしたのはそうだが、そもそもなぜ面識も義理も無い相手を連れ出してまでそうしようと? なぜ自分はああも感情的な語気で─────

 

 「ああ。成る程」

 

 しばしの黙考の後、彼女は答えを見つけた。

 その肩に懸かっているもの、繰り返してはならない失望。全ては自分が口にした事。

 あれこれと持って回った言い方をした割には、自分を動かした想いの正体は実に単純なものだった。

 

 「私は、怒っていたのですね」

 

 勝ちたいと思った。

 この女は試練だと、この女を倒さなければ自分の栄光は無いと拳を握り締めた日々。誰も隣を走れないあの強さは超えるべき壁にして自分の憧れで、そして誇りですらあった。

 だからそれが壊滅する様に耐えられなかった。

 三度の逆襲を誓った好敵手が慢心の脂肪に脚を引かれて沈んでいく様は今も鍋底の焦げのように記憶に残っている。

 勝負としては自分は逆襲を果たした。

 しかし、こんな筈ではと歪んだ横顔を追い越して、ただ自滅していった者を相手に晴らした雪辱に何の意味があったのか。

 クラシック最後の冠を争うレースを走る自分の胸の内にあったのは、今までの自分の悔しさや努力それら全てを無為にされたような怒りと虚しさだった。

 

 それだけは繰り返して欲しくなかった。

 彼女は強者として君臨し続けるべきだと思った。

 全霊を以て斃さんとする復讐者の執念に十全に応え得る、圧倒的な存在として。

 

 『ウメノチカラ』。

 シンザンに逆襲を誓う彼女は今も牙を研ぎ続けているだろう。骨身に染みて思い知らされた力を、ともすれば自分の中で実物よりも大きくなった虚像(イメージ)を乗り越える為の努力を重ね続けているだろう。

 ────()()()()()()()()()()()()()()

 それがグレートヨルカの心情であり願いだ。

 

 「どうか十全の走りをなさって下さい。ゴール板を過ぎた後、好敵手から罵声を浴びる事のないように」

 

 空っぽになった対面の席。かつての『彼女』がいたはずの場所。

 届かない言葉をそれでも綴り、グレートヨルカは少し冷めたコーヒーを口に運んだ。

 

 

 

 「もうちょっと黙って聞いてればよかったかねえ」

 

 そうしたらもっと奢って貰えたかもしれなかったのに、と自分の反射的な行動をシンザンは少しだけ後悔していた。

 必要無い事はやらない、しかし何だかんだでトレーニングと一緒だ。『いいこと』は我慢の後に来る。これからはもっと先を見据えた損得を考えるべきかと彼女は学園への帰路をのんびり歩きながら思案する。

 それにしても、まだ。

 まだ自分を諫めようとする者がいる。

 結果を出せば全員黙るとトレーナーは言っていたが予想以上に小心者が多い。そもそもお小言の多いトレーナー自身がもう小心者ではないかと内心思っているが、彼含めて全員を黙らせるにはクラシック二冠でもまだ足りないようだ。

 

 「うん。やっぱ要るね、三つ目が」

 

 頭の中で買い物のリストを作るような調子でシンザンは独り()ちる。

 史上二人目の偉業を成し遂げんという決意表明にしては余りにも軽い物言いだが、その程度の軽さで考えるなら学園に帰った後でトレーナーにどう謝るかを考えていた方が有益だったかもしれない。

 何故なら彼女には、淹れかけのお茶と開封しっぱなしのお茶菓子を放置していた事について叱られる未来が既に決定しているからだ。

 

 

     ◆

 

 

 「うん。状態は分かった。これからプランを組むから、そっちも合宿が始まったらよろしく」

 

 「分かってる。感謝するわ」

 

 シンザンが放っていった湯呑みだ急須だお茶菓子だを机の脇に寄せて交わされる声が二つ。何事かが記された紙の束を受け取ったシンザンのトレーナーとカネケヤキのトレーナーである桐生院翠だ。

 会話の内容は不明だが少なくとも明るい話題ではなかったらしい。トレーナーは真剣そのものの顔をしており、桐生院の方も固く口を引き結んでいる。何か大きな覚悟を腹に括った、そんな顔だった。

 

 「・・・・・・桐生院さん。何度も同じ質問をするけど、本気なんだな?」

 

 トントンと紙の束を揃えながら彼は問う。

 

 「俺としてはもっと安全な、堅実な道を選ぶべきだと思ってる。もちろん彼女の意思は尊重したい。だけど俺達の道は」

 

 「一言一句違わず答えるわ。本気よ」

 

 断ち切るように桐生院は言い切った。

 

 「私は彼女の覚悟に添い遂げる。彼女の願いを叶えてみせるわ。彼女達の道を万全に整えるのが私達の道なら・・・・・・彼女達の覚悟に応えるのも、また私達の道でしょう」

 

 そうだな、とトレーナーは肯定する。

 再三に渡る確認はただの自分の経験からくる不安によるものだ。

 考え直して欲しくないと言えば嘘になる。しかし桐生院の選択は紛れもなくウマ娘に対する『トレーナー』としての大きな決断であり、それに対して口だけで翻意を促せるなどと思ってはいない。

 それに自分だって、担当であるシンザンを勝たせる為に彼女の話に乗っているのだから。

 目的は決定的に違えているが、自分達はある意味で共犯と呼べるのかもしれないな、とトレーナーは自らのエゴを嗤った。

 

 

     ◆

 

 

 外は暗い。もう幾許もしない内に寮の門限が来る。

 にも関わらずグラウンドには足音が響いていた。

 躍動の気配が消え静寂が支配するコースでただ一人芝を蹴る彼女の元にもう一つの足音が近付いていく。

 顎髭を無精に生やした彼は、無言で走り続けている彼女の肩を掴んで引き留める。

 

 「戻れ、ウメ。オーバーワークだ」

 

 「・・・・・・走っているウマ娘の肩を掴むなんて何を考えているんですか。下手をしなくても大怪我に繋がりますよ」

 

 「掴んでも問題なかったからだ。自分の状態を把握してるか? どんなペースで走ってるつもりだったかは知らんが、今のお前は人間と同じ程度のスピードしか出てなかったぞ」

 

 そう言われて初めてウメノチカラは自分の疲労を自覚した。意識していなかった筋肉の硬直が一気に現実となって襲いかかってくる。

 集中していて気付かなかったのではない、思考が空回りしていたせいで意識に入って来なかったのだ。

 やっと自分が限界に達していたことに気付いた彼女に水筒を手渡し、古賀は静かな声で通達する。

 

 「二日、いや三日は休息に充てろ。その時の状態によってはもう少し延長する。お前が今やるべきはトレーニングじゃない」

 

 「不要です。私に休む暇などありません」

 

 「このままだと有効活用するべき合宿すらままならんと言ってるんだ。強くなりたいなら休め。正しいトレーニングを正しく血肉にしたいのならな」

 

 「・・・・・・正しいトレーニングでは・・・・・・」

 

 ウメノチカラは何かを言いかけて辞めた。その代わりに水筒を受け取ってフラフラとした足取りで寮へと戻っていく。

 ダービー以降彼女はずっとこうだ。責任感や自責の念、それ以上の何かに駆り立てられるようにして無茶な自主トレーニングを繰り返している。

 勝ちたい、ではない。()()()()()()()()

 そんな強迫観念にも似た気配を古賀は感じていた。

 

 (一度面と向かって話がしたいんだが・・・・・・)

 

 今、自分は彼女にどことなく避けられている。

 理由を聞いても答えない。

 まるで自分には自分しかいないと思っているような態度にチームメイトからも心配の声が上がっている。彼女がダービーでのリベンジにどれだけの熱を捧げていたかを知っているからだ。その敗戦がどれだけショックなのかは察するに余りある。

 彼女が自分を無力と責めているのなら、自分は彼女に教えなければならない。

 百歩譲ってお前が無力なのだとして、その無力を共に粉砕するために自分はいるのだと。

 彼女がレースで滾らせるギラつくような闘争心はまだ死んでいない。

 己のすべき事を再確認した彼は、強い眼差しでウメノチカラの背中を見据えていた。

 

 

 

 残す冠はあと一つ。

 最後の栄冠を前にした彼女達に贈られるのは二ヶ月に渡る時間の砥石。

 それぞれの決意と思惑を熱気の中に巻き込んで、トレセン学園の夏合宿が始まる。

 

 






シンザンのヒミツ①
実は、外食では和食か定食メニューしか頼まない。


燃え残った全てに火を着けているため筆が滞っております。


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37話

 『うん、そうだね。楽しかった。やっぱ大舞台で上げる勝ち名乗りが一番爽快だね。こうさ、みんな気合入ってる風だったから気持ちよかったよ。それ全部抜いていくのが』

 『え? うーん、誰かって言うならウメかな。アレは最後伸びてったからねえ。これ抜いて勝つのカッコいいなって思ったよ。トレーナーさんもウメを一番警戒してたし、じゃあやっぱウメが一番強かったんじゃない?』

 『あーそうそうそれよく言われるんだけどね、オープン使って調整すんのはトレーナーさんの方針だからね。ていうかそもそも本番前に一回叩くって皆やってる事じゃないかい。なんでここまで怒られるのさ』

 『ファンや評論家の立場としては腹が立ちます? 誰が言ってんだいそれ』

 『小山(こやま)?評論家の? へえ、聞いた事ないね。まあどうでもいいさ。今の方針を変える気は・・・・・・口を閉じろとは何だいトレーナーさん、あんたが一言で終わらすなって言うから長々話してるんだよこっちは』

 ─────月刊綺羅星(きらぼし)
 シンザン特集記事のインタビューより


 

 「よしじゃあ取材班と撮影班は準備進めて! 明後日には現地入りするよ!」

 

 「向こうのスケジュール押さえとけ!トレーニング合間のオフショットは鉄板だぞ!」

 

 「Tスポとダブルブッキングしただぁ!? 大手に負けんな!! ブン殴ってでもこっち優先にしてもらえ!!」

 

 (にわ)かに騒がしさを増していく月刊綺羅星(きらぼし)の編集部。殺気立った怒号すら飛び始めるような緊張感が社内に満ちていく中で、沢樫静夫は壁に(もた)れつつ静かに煙草の煙を(くゆ)らせていた。

 手元に開かれた手帳のページは大量の書き込みで真っ暗に染められており、かつその文字は凄まじい乱筆で判読不能ときている。恐らくは書いた沢樫本人にしか分からないだろうそれと睨めっこしている彼のデスクに若い男が近付いてきた。

 

 「難しい顔でなに考えてるんすか?」

 

 「取材するトレーナーやウマ娘達への質問内容の兼ね合いをな。俺のやり方だとそういうのを考えなきゃならんのよ」

 

 「あー、センパイって結構トレーナーと揉めますもんね。課題はバシバシ指摘するわ下手なトレーニング内容にはケチ付けるわで・・・・・・、褒めるとこは褒めるとこで誇張しまくるし」

 

 「それもだがそうじゃなくて、掘り下げて取材すると載せる情報にも気を遣うのよ。前に有望株のウマ娘の俺から見た強みと弱点を載せたらそのトレーナーに怒鳴り込まれた事があってな・・・・・・」

 

 「そりゃ情報漏洩もいいとこですしねえ・・・・・・、ライバル達にはありがたい話だったでしょうけども」

 

 まだ未熟だった頃のミスだと沢樫は言うが、ウマ娘のレースに限らずスポーツ誌には取材した注目選手の傾向やそれこそ弱点が掲載されるのは当然の事で、筋違いなのはそのトレーナーの方だ。にも関わらず怒鳴り込むに至ったという事は彼の考察が他のライバルに見られたら致命的なまでに的を得ていたからで、その事件はそのまま沢樫の知識の深さを示している。

 彼がしばしばトレーナー達と揉め事を起こしながらも会社の第一線に立っているのは、その専門性の高い記事に根強い支持層が付いているためだ。

 

 「せっかく今回から取材に着いて来れるようになったんだから、お前はついでにそういう立ち回りも覚えときなさいよ。活躍しそうなペアを見つけても向こうに嫌われたらどうにも出来ないんだから」

 

 「そりゃ頑張りますよ! 新入りの下っ端卒業のチャンスなんすから。自分達はやっぱりあのトレーナーに突撃ですか?」

 

 「勿論。クラシック三冠に王手を掛けたコンビに密着しないなんて有り得ない。お相手さんとの信頼の積み重ねがこういう場面で活きるんだよ。誰もがこぞって話を聞きたがる人に最優先で密着できるんだから」

 

 そう講釈した沢樫だが若者の返答がない。見てみれば彼は何か納得していなさそうな、どこか釈然としていないような顔をしている。

 何かを言おうかどうか考えているらしいのを察した沢樫が黙ってその様子を見ていると、それを促されていると理解した若者が思い切ったように口を開いた。

 

 「あの。密着するのシンザン以外にしませんか」

 

 「そりゃまたどうして?」

 

 「他にも注目するべきウマ娘がいると思うんすよ」

 

 そう言って彼は自分の考えを主張する。

 

 「何ていうかシンザンって強いですけど、言ってみれば強い()()じゃないすか。

 レースに対するモチベーションも薄いし強い目的意識も無いし、正直彼女を追っても良い記事になるとは思えない。ファンの間でもそこが物足りないって空気があるみたいだし、それこそウメノチカラとかカネケヤキとかを取材した方が面白くなりますよ。

 どうせ彼女は他所もこぞって取材するだろうし、それならウチは物語性から独自性を────」

 

 「成る程、言いたい事は分かる。お前さんはレースのドラマに魅せられて入社したクチだったな」

 

 得心したように手を打った沢樫だがその目に感心や納得といった色は無い。手の中で弄ぶようにペンを回しながら、彼は生徒の質問に答える教師のような声で若者に問いかける。

 

 「じゃあ聞こうか。数十年前のウマ娘『セントライト』が今まで語り継がれてる理由は何だ?」

 

 「? そりゃ日本初の三冠ウマ娘だからっすよ。戦時の暗い空気に息詰まる人たちを勇気づけた大偉業! 『彼女の走った後には聖なる光が差す』と言われたその走り、叶うならこの目で見てみたかった・・・・・・!」

 

 「そうだな。『クリフジ』は?」

 

 「セントライトから僅か二年後に現れた第二のレジェンド! オークスからダービー、菊花賞を制した変則三冠にして全戦全勝! ほぼ全てのレースを大差で引き千切ったその脚は・・・・・・、歴史に残り続ける強さで・・・・・・、」

 

 「最近のもいこうか。コダマは」

 

 「・・・・・・無敗の二冠ウマ娘・・・・・・、その末脚は剃刀の切れ味と呼ばれ、『幻のウマ娘』の再来と・・・・・・」

 

 途中から若者の言葉の歯切れが一気に悪くなった。

 これが正しいと信じた主張が初手から矛盾している事に気付いたからだ。

 自分の言わんとする事を若者が察したのを認めた沢樫が木槌(ガベル)を鳴らすように手帳をペンで叩く。

 

 「お前さんが求める物語(ドラマ)はな。強ければこそ生まれるものなんだ」

 

 ハッキリと、切り捨てるように沢樫は言った。

 

 「モチベーションの高いウマ娘はざらにいる。目的意識の強いウマ娘もごまんといる。その中から『強いウマ娘』だけが名前を刻む。

 お前さんはウメノチカラとカネケヤキの物語性を推してるみたいだが、彼女らが結果を出していなかったらお前さんはその二人に注目したか?」

 

 「ぐっ、」

 

 「シンザンの周囲に対する『無関心さ』は確かにレースそのもののファンに受けが悪かったが、しかし彼女自身のファンにはその『超然的な孤高さ』が覿面に効いてるのよ。そして二冠達成という偉業を前に悪印象を抱いていた層も(なび)きつつある。

 上昇志向が薄くとも強ければその在り方は物語として時代に名を連ねるんだ。いま最も注目すべきは間違いなくシンザンだろう。

 そのついでにお前さんに大切な事を教えとこうか」

 

 沢樫が何も言えなくなった若者の肩に手を置く。

 しかし肩を掴む力は強く、発せられる声は低い。

 それは忠告ではなく警告。この業界に居る者として決してズレてはならない芯を覚え込む、新米にとって大切な始めの一歩だからだ。

 

 「賞賛にせよ批判にせよ客観的な事実のみに基づけ。書きたいものに引き摺られて本質を見失うのは記者の重大疾病だ。そこを蔑ろにして書き上がるものは感想文以下の落書きだぞ」

 

 分かりました、と若者は言うがどこか不承不承(ふしょうぶしょう)といった様子で、正しいのは分かるがどこか納得し切れていないらしいのが見て取れた。

 素直な性格だ。それでいいと沢樫は思う。

 未熟は若者の特権、反骨は若者の華。今の言葉が胸に残ったなら、悩みや過ちを通してこれから腑に落とせばいい。

 ───『本物』を前に彼はどんな顔をするだろう。

 少しだけ肩を落とす若者を眺めながら、沢樫は自分が新米だった頃を思い出していた。

 

 

     ◆

 

 

 青い空。青い海。空と砂浜から包み込む熱気。

 大人達と少女達の声と混ざり合った潮騒は、東京の府中にいる時と比べてより一層鮮烈に夏の躍動を心に伝播させてくる。

 バスから降りて合宿所に到着、トレーニングは荷物の整理を済ませての午後から始まった。

 学校指定の水着を纏い砂浜でストレッチをするウマ娘達。修学旅行の自由時間のような絵図だが彼女らの表情は真剣そのもので、その側に控えるトレーナー達も表情を引き締めた。

 当然だろう、この合宿の後に大舞台が待っている。

 《菊花賞》。

 『最も()()ウマ娘が勝つ』と言われるレース。

 皐月賞と日本ダービーに続くクラシックの最後の冠を必ずや手に入れんと、あるいは出走は叶わずともここで力を着け次の第一線に戦うために全員が闘志を燃やしている。

 学園にいた時より更に厳しく強度を増す二ヶ月間の始まりの日に、一組だけ異質なペアがいた。

 頭を下げるウマ娘と厳しい顔の男。

 ────シンザンとそのトレーナーだった。

 

 

 「蹄鉄を忘れた?」

 

 のしかかるようにトレーナーは復唱する。

 トレーニングの内容と使う道具は早い内に共有した方がいいだろうというシンザンの提案に彼は同意し、合宿の準備は共同で行った。

 事あるごとにメニューの緩和を提案してくるだろうというトレーナーの予想に反してシンザンは素直(当社比)に彼の組んだメニューを受け入れたのでトントン拍子でスケジュールの詰めは進み、その流れで量が嵩んでしまった器具の一部の持ち込みをシンザンに任せたのだ。

 そして、『漏れ』が起こった。

 彼女に任せた最重量のシンザン鉄を忘れたのだ。

 

 「うん、本当にうっかりしてた。あれやこれやと手に持って、気付いた時にはバスの中・・・・・・なんて言い訳にもなんないね。完全にあたしのポカだ。あんたの組んだメニューをいきなり狂わせちまった」

 

 申し訳ない、と彼女は深く頭を下げた。

 

 「だけどその分の埋め合わせはする。アレが無くても充分な仕上げにしてみせる。だからトレーナーさん、無茶を言ってるのは承知だけど今からでもメニューを組み直して─────」

 

 「大丈夫だ。シンザン」

 

 ぽん、と彼がシンザンの肩に手を置いた。

 顔を上げた彼女の目に優しく笑う彼が映る。

 優しさだろうか。いいや違う。

 これは余裕と言うものだ。

 

 「こんな事もあろうかと・・・・・・俺の方で持って来てるからな・・・・・・・・・・・・!!

 

 「んえぇええぇぇええええ!!!」

 

 ウマ娘のサル知恵は通じなかった。

 策を潰されたシンザンが深く重く崩れ落ちる。

 クラシック三冠に向けた大切な強化期間、彼女達のその一日目はひどくダメそうな感じで幕を開けた。

 

 

 

 走る。走る。走る。

 蹴立てるのは芝や土ではなく砂浜だ。

 いまウマ娘達が行っているのは3ハロンダッシュ。走り切った者は列の最後尾に並び直して順番が来たら再び走る、複数人での併走形式だ。

 力が分散して走りにくい砂上で行うことにより大きく強度が増したこのトレーニングは何よりタフさが要求される長距離レースの終盤、その勝負所で必要とされる体力と勝負根性、そして二の脚を鍛えることを狙いとしている。

 無論、キツい。繰り返す内に夏の日差しに炙られて体力を削られ、次第に顎と上体が上がり走る姿勢を保てなくなっていく者が現れ始める。

 シンザンもそうなりつつある一人だった。

 

 「どうしたシンザン! 遅れてるぞ!」

 

 歯を食い縛って脚を回すも他の者の背中はどんどん遠ざかっていく。シンザンが併走で周囲に(おく)れを取るのはいつもの事だが、しかし今の彼女は本気で走っている。

 そうでなければ走りの体裁も保てないのだ。

 だがそれでも彼女は最後尾のまま─────

 

 「ゴール! 一着ミスホクオー、二着ダイイチヒカリ! 三着────」

 

 走り終わった彼女らが肩で息をしながら最後尾に戻る。間髪入れずに下されたスタートの号令を聞きながら戻って来た担当ウマ娘に、トレーナーは彼女の疲労を承知の上で厳しく改善点を指摘する。

 

 「フォームが崩れてる。あの形じゃ満足に力が伝わらない。もっと脇を締めて腕を振れ、脚も高く上げて真下に接地するように。上半身の傾きは」

 

 「できるかあっっっ!!!」

 

 聞いた事がないほどドスの効いた低音の叫び。

 サイドスローでシンザンにブン投げられたトレーナーが、水切り石のように海面を滑って水柱を上げた。

 

 「ゲェッホ、げほっ、何するんだお前!! メチャクチャ海水飲んだだろうが!!」

 

 「本気で言ってんのかいこのおたんこにんじん!フォームなんて気にしてる余裕ある訳ないねえ!! だってあたしだけ 輓曳(ばんえい)やってるからねえ!!!」

 

 濡れ鼠になって海から帰還したトレーナーにシンザンが手足の重りを鳴らしながら猛抗議する。

 言うまでもないだろう。シンザン鉄である。

 平地であってもしんどい代物を砂浜で装着させるというとんでもないスパルタだが、ここまで削られてなお怒鳴る力があるのは恐るべきタフさだと言える。並のウマ娘ならとっくのとうに立ち上がれなくなっている負荷なのだ。

 

 「『必要な事』だ。生半可な負荷じゃお前の才能は腐る。同じトレーニングでもお前はより多くを背負わなくちゃならない」

 

 「重量オーバーだっつってんだろ!! あたしが策を練ってまでこいつを持ち込ませまいとした理由を考えてほしいねえ!!」

 

 「そら、まだ休んでる暇はないぞ。トレーニングとはいえお前に先着できそうだと聞きつけた子たちが集まってきてるんだから」

 

 「シンザンに勝てるって聞きました」

 

 「シンザンに勝てるって聞きました」

 

 「かき氷奢ってもらえるって聞きました」

 

 「伝言ゲーム失敗してる奴がいるねえ!!!」

 

 「よし残り十本いこう! それが終わったら一旦休憩! その間はシンザン鉄は外してよし!!」

 

 トレーナーに対する憤怒をヤケクソのエネルギーに変えて十本ダッシュを終えた休憩時間。呼吸を整えて充分な水分補給と入念なマッサージの後にさあ次のトレーニングだというところでシンザンの物言いが入った。

 髪に砂が着くのも構わず砂浜に大の字になる姿は意地でもここから動きませんという意気込みを感じさせる。耳を絞って尻尾で地面をベシベシと叩くシンザンは心と腹の底から声を張り上げた。

 

 「もーーーーーやだ!! 今月のトレーニング用の体力ぜんぶ使った!! あたしは何しにここに来たんだい!? 青い海と白い砂浜に立ってあたしは何をやってるんだい!?」

 

 「夏合宿のはずなんだけどな」

 

 しんどいしんどいヤダヤダと全てを放り出して駄々を捏ね始めたシンザンを逆に感心したように眺めるトレーナーだが、このまま砂に転がしておいても何も話が進まない。しかし引き摺っていっても本人にやる気が無ければどうにもならないのも事実。

 恐らくシンザンはこの夏合宿にレジャー要素を強く求めていたのだろう。生まれ育った故郷が気候的に海水浴が一般的ではないため夏の日差しの中で海で遊ぶのを楽しみにしていたのにいきなり泳ぐ体力も残らなさそうなトレーニングにご立腹といったところか。

 ふむ、としばしトレーナーは脳内で諸々を組み直し、そして現状の最適解を導き出した。

 

 「よし分かった。スケジュールは前後するが泳ごうか。その為のエリアがあるからそこに行こう」

 

 即起き上がったシンザンがトレーナーに案内されたビーチの一角には多くのウマ娘達が集まっていた。

 しかしこれから遊ぶという割には全員が真剣な眼差しをしており、引率と(おぼ)しきトレーナー達はどうしてだか数隻の小船に分かれて乗り込んでいる。

 その表情を写真で切り取ってタイトルを付けるとしたら『裏切り』が最も相応しいだろう。

 表情が抜け落ちたシンザンがほとんど口を動かさずに平坦な声で問いかけた。

 

 「トレーナーさん。何だいこれ」

 

 「遠泳」

 

 「(声にならない憤激の叫び)」

 

 

 夏合宿初日、終了。

 キレさせつつもトレーニングを完遂させた辺りはトレーナーの方もシンザンの扱い方を心得ているという事かもしれない。

 なお遠泳の後にまた海にブン投げられた事については考えないものとする。

 





 あの

 仕事が 残業が

 忙しゅうて忙しゅうて

 その ね


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