フォークボールが投げられない (恥谷きゆう)
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決め球はフォークボール

 本気で甲子園を目指していた。相棒と二人でバッテリーを組めば、地区優勝も夢じゃないと本気で思っていた。

 

 実際、俺は優れたピッチャーだったと思う。140キロを超えるストレートに、決め球の落差の大きいフォークボール。

 俺の球をまともにミートできる選手はほとんどいなくて、地元では敵なしだった。中学では何度もトロフィーを搔っ攫い、エース投手として賞賛を浴びた。高校でも二年生で既にエースの座を奪い取り、これから活躍する、はずだった。

 

 相棒である(とおる)もまた、優れた選手だ。強肩強打の名捕手として俺と共に中学時代から活躍していた。

さらに、家が隣だった俺たちは、幼い頃からずっとキャッチボールをしていた仲だ。そのため彼は俺の球をよく理解していて、決して後逸はしなかった。

 理解しているのは俺の放るボールだけではなかった。俺の心理状態をよく理解して、苦しい思いをしている時は、いつも最高のタイミングでマウンドまで駆け寄ってきてくれた。

 

 

 ――しかし、俺たちの夢はあっけなく散った。後天性の性転換病。原因不明の難病が、突然俺を襲った。

 女の体になるということは、劇的な変化だった。縮む体と小さくなった手のひら。必死に鍛えた上半身も、頑張って走りこんだ下半身もすっかり筋肉を失っていて、もう野球部でやっていくことは不可能だった。

 

 まさしく、絶望した。俺にとって野球は、ピッチャーは俺のすべてだった。勉強の時間を捧げ、交友の時間を捧げ、女性と付き合うことすらしなかった。それを失って、いっそ死んでしまおうかと、本気で思った。

 そんなときに、あいつが声をかけてくれた。それは例えるなら、サヨナラのピンチのマウンドに颯爽と駆け付けてくれたような、俺の欲しいものを、言葉を、欲しい時にくれる、あいつにしか言えない言葉だった。

 お前はいつも、俺に必要な言葉を必要な時にかけてくれる。でも俺は、もうお前の信頼に応えることはできない。ストレートはお前のミットに一直線に届くことはもうないし、得意だったフォークボールは投げることすら叶わない。

 だから俺は、私は、今度はお前が欲しいと言っていた、理想のマネージャー像を捧げることにした。

 

 

 ユニフォームではなくジャージで、スパイクではなく運動靴を履いて、ホームベースの近くまで駆け寄る。

 

「はい、先輩!タオルですっ!」

「ああ、さんきゅ……でもわざわざひかるがグラウンドまで駆けてこなくても……」

「はい、スポーツドリンクですっ!少し薄めて、糖分は少な目になってますよ」

 

 渡した水筒の中身は、スポーツドリンクのパウダーを少し過剰に薄めたものだ。彼の飲んでいるものくらい良く知っている。水筒を受け取った亨に、少しはにかむ。できるだけ魅力的に映るように鏡の前で練習した、とっておきだ。

 

「ああ、ありがとう。いや、ありがたいんだけどさ――その口調は、なんだ!?」

「ええー、急にどうしたんですか先輩。ほら、佐々木先輩がマウンドで待ってますよ。早く行ってあげてくださいよ」

 

 渋々といった様子で、亨が定位置に戻っていく。

 ふふふ、うまく隠したつもりだろうが、私には見えていたぞ。はにかみかけた時の、暑さとは異なる微妙な照れから生まれた顔の赤らみ。間違いなく、効いている。私のマネージャーロールは、刺さっている。当然だ。私は彼の好みを彼本人から聞いているのだ。

 

 男同士の猥談とは、もっとも本音の出る瞬間だ、と私は思う。女性の理想像について、彼はこのように語っていた。

 

「やっぱり野球をやってる身からすれば、可愛くて健気な後輩マネージャーって憧れるよな。甲斐甲斐しく自分の世話を焼いてくれるとか、もう最高だろ」

 

 覚えている。何なら私の「亨の好みノート」にメモしてある。あいつは私の癖を良く熟知していたが、それは私も同じだ。アイツの癖、というか性癖、はよく知っている。さながら相手の四番を徹底マークするように、私は常にあいつに優位な球を投げることができるのだ。

 ふふ、待っていろ亨。幼馴染が突然自分好みの後輩マネージャーになってドギマギするお前の姿、余さず観察して楽しんでやるからな!

 

 

 

 

 私たちの丁越高校は、それなりの強豪校として知られている。甲子園出場経験こそないものの、地区大会では数多くの好成績を残している。そのため練習時間も長く、私たちが下校する頃には、春の空は暗くなっていた。

 

「お疲れ様でした~。さあ、帰りましょう、亨先輩!」

「……その謎口調はいつまで続くんだ?」

「ああ、グラウンド離れたらマネージャーじゃないからいいか。お疲れ、亨」

「マネージャー?」

「そうそう、どうだった?私のマネージャー姿。間違いなくお前のツボだったと思ったんだけど」

「…………ああ、なるほど」

 

 長い沈黙を経て、理解したと彼が呟いた。少ない情報だけで分かってしまうのは、私の理解度ゆえか。

 

「馬鹿なひかるの考えそうなことだな」

「な、なんだとー!?私のどこが馬鹿だ!」

「自覚がないのがもう馬鹿だよ。自分の思考が筒抜けなことくらい理解したらどうだ?」

「え?」

「男だったお前が俺にとって女として魅力的に映るなんて無いから、前みたいに普通に付き合ってくれよ」

 

 なんだかすごく酷いことを言われた気がする。でもきっと彼のことだから私がこれくらいで傷つかないことを分かって言っているのだろう。……ムカつく。

 

「えいっ」

「お、おい!路上で急に抱き着くなよ!」

「あれー?動揺してるんじゃないの?胸の感覚を楽しんでるんじゃないのー?」

「やかましい」

「ふぎゃっ」

 

 彼のゴツゴツとしたゲンコツが落ちてきて、私の頭を揺らした。いつもより痛いのは、きっとゲンコツの勢いが増したから、ではない。

 

「あんまそういうことすんなよ?今のお前、冗談抜きで襲われたら抵抗できないんだから」

「はいはーい」

 

 説教めいた言葉に少し腹が立ったので、適当に返事する。彼が少しムッとしたように眉を顰めたが、見ないふりをした。

 

 

「あ、公園開いてるじゃん。今日はできそうだな、キャッチボール」

「またやるのか?まあいいけど」

 

 俺たちの家の近く。かれこれ十年ほど使っている公園には今夜は人影がなかった。ここが開いている時は、私と亨はいつもキャッチボールをしてから帰っていた。

 彼がキャッチャーミットをバッグから取り出したのを見て、昔使っていたピッチャー用のグローブを取り出す。

 決して広くない公園はキャッチボールに適しているとは言い難い。距離を取れて精々20メートル程度か。目視でだいたい18メートルくらい距離を取って、少し地面を掘る。立ったままの彼との、頼りない街頭が頼りのキャッチボールが始まった。

 

「行くぞ。ストレート、外角低め」

 

 何度かボールが行き来して肩が温まった後。亨がその場に座り、ミットを真っ直ぐに私に構える。胸が高まる。ワインドアップから放たれた直球は、緩い弧を描いて彼の元に届いた。パス、という小さな音。

 

「ナイスボール」

 

 嘘つけ、と思いながら返球を受け取る。座ったまま投げた彼の球は、私の肩のあたりに真っ直ぐ飛んできた。

 

「次、カーブ」

 

 先ほどよりも大きな弧を描いたボールは、僅かに左に曲がり、彼のミットに届いた。

 

「ちょっと高いな」

 

 違う、それ以前の問題だ。あまり言葉を交わすことなく、ただミットとグローブがボールを受け止める音だけが夜の公園に響く。ストレートとカーブを交互に投げていた私は、返球を捕ると、逡巡の後、球種を告げた。

 

「次、フォークボール」

 

 一番自信のあった決め球。人差し指と中指で硬球を挟み込む。小さな手に対して、高校球児の使う白球はあまりにも大きかった。

 深呼吸。力を籠めてボールを挟み込み、全力で腕を振る。

 ボールは私と亨の間にポトリと落ち、コロコロと彼の元に転がっていった。

 

「――ッ」

 

 グローブを叩きつけたくなるのを必死に堪える。亨が無言で返球してくる。

 

「フォークボール!」

 

 叫ぶように告げた。黙って突き出されるキャッチャーミット。人差し指と中指の間から放たれた白球は、またしても地を這った。無言の返球。

 

「フォーク!」

 

 祈るような絶叫だった。痛いほど握られたボールはへろへろと宙を舞い、14メートルほどで地面に落ちた。

 

「ウウ……」

 

 もう、返球を待つために前を向くことすらできなかった。雫が地面に落ちて、公園に染みを作った。下を向く私に亨が近づいてくるのが、気配だけで分かった。

 

「帰ろう、ひかる」

「ごめん亨。変なことに付き合わせて」

「変じゃない。ひかるの気持ちは変じゃないよ」

「……ありがとう」

 

 ああ、やっぱり駄目だった。

 現実から目を逸らすために私は何か別のことを考えようとする。しかし野球のために生きてきた私にとって、野球以外のことだけを考えるのは難しかった。思考を巡らして、思い出す。

 そうだ、私は理想の後輩マネージャーになって、亨を誘惑するのだ。こんなに楽しそうなことを忘れていたなんて、どうかしてた。

 

「そうだね、じゃあ帰りましょうか、先輩」

 

 私は亨の方を向くと、できるだけ魅力的にほほ笑んだ。



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俺と彼女の日常

もっとタグとか付けたほうがいいのかなあと思いながら、この話を形容する言葉が思い浮かばない今日この頃です


「先輩!遅いですよ!」

 

 プクっと可愛らしく頬を膨らませるひかるが、少しも怒っていなそうに俺を諌める。今日も綺麗な黒髪はツインテールに纏められていて、少し幼い印象を受ける。くりっとした丸い瞳は柔らかく微笑んでいた。

 同級生に先輩と呼ばれるのは違和感しかないが、実際今のひかるは後輩だった。

 

 ひかるが後天性の性転換病で倒れたのは、昨年の春だ。そこから半年ほど、ひかるは入院生活を余儀なくされていた。それだけ、体が男のものから女のものに変わるのは大変な事なのだ。骨が軋み、新しい器官が無理やり生成される。その痛みは出産にも匹敵するらしい。場合によってはその過程で死に至ることすらあるという、難病だ。

 ひかるが復学できたのは、学期の都合上今年の春。一年遅れて二年生になることになったのだ。

 

「先輩、早くしないと朝練遅れますよ?チームの四番がそんなんじゃダメですよ」

「ああ、悪い。……ひかるは別に行かなくてもいいんだぞ?」

「何言ってるんですか!私は、亨先輩のお世話をするためにマネージャーになったんですから!あなたのいる所に私あり、です」

 

 えへん、と胸を張ると、少し揺れた。きっと計算づくの動きなのだろう。顔を背けた俺を見て、にししと笑うのが見える。

 

 肩を並べて、通学路を歩く。隣にあるのは小さくて華奢な体。その体は二度と元には戻らず、彼女の人生の選択肢を大きく狭めた。もうあの、綺麗な回転をした140キロのストレートは見られない。もうあの芸術的なまでの落差をしたフォークボールは見られない。

 それでも、ひかるは生きてここにいてくれる。それだけで十分じゃないか。自分にそう言い聞かせて、俺の今の生活に満足することにした。

 

 

 

 

 朝のグラウンドには、野球部員たちの元気な掛け声が絶え間なく響いていた。春の朝方はやや寒かったが、彼らの熱気はそれを全く感じさせなかった。

 グラウンドの端、身長大のネットのすぐ近くに立って、バットを構える。右打ちで構える俺のすぐ近く、右前方には、ボールを下に構えたジャージ姿のひかる。

 朝練も中盤になり、俺はティーバッティングの時間だ。投げ手のひかるが下手で軽く投げたボールを、ネットに向けて打つ。

 この練習は投げ手の上げるトスと上手く呼吸が合わないと、練習にならない。その点、ひかると俺の相性はばっちりだ。俺の打ちたいタイミングに合わせて、ひかるがトスを上げる。俺が打ちたいボールをひかるは常に投げてくれる。しばらく、ボールをミートする気持ちの良い金属音だけが朝のグラウンドの一角に響いていた。

 

「調子よさそうですね、亨先輩」

「ああ、ひかるのおかげだ」

 

 形は違えど、それは在りし日のバッテリーを組んでいた俺たちのようで、心地よかった。投げるひかると、それを受け取る俺。しかしあの時とは逆に、ひかるが俺のペースに合わせて投げる。

 

「相変わらず鋭いスイングしてますねえ。今年もホームラン量産できそうですね」

 

 ひかるの、後輩然とした賞賛の中に、仄かな嫉妬を感じた。言葉を返せず、ただ無言でバットを構えた。ボールが緩やかに飛んできて、ミートする。ボールはネットの前でワンバウンドした。

 

「あれあれ?可愛い後輩に褒められて動揺しちゃいましたか?いやあ、すいません」

 

 いたずらっぽく、ひかるが笑う。その顔は相変わらず、怖いくらい俺の理想のマネージャ像だった。男の心をよく理解しているゆえの魅力の作り方。あの日、冗談でも理想のマネージャー像なんて語るんじゃなかった。取るに足らない猥談を後悔する日が来るとは思わなかった。

 

 ひかるの手元の籠が空になり、二人で転がるボールを拾い集める。俺の視線の先には、ジャージ姿で屈むひかるがいた。ジャージに包まれた臀部が突き出され、やや大きな尻の形が分かってしまう。思わず目を逸らした俺を、またもやひかるがいたずらっぽく見ているのが分かった。

 

「あれ?何見てるんですか先輩」

 

 にししと笑うひかる。

 

「……喋ってないで、早く拾うぞ」

「ええー?」

 

 揶揄いながらも、その手は素早く白球を拾い集めていた。練習に対する真剣な態度は変わらない。小さな手が、大きなボールを握る。しかしそれは、ひかるが上達するためではなく、俺のためだ。

 かわいらしい少女が自分のために尽くしてくれるその態度は、たしかにグッとくるものがある。しかしそれがあのひかるの姿だと思うと、素直に喜べない自分がいた。

 

「「あっ」」

 

 ボールを拾う手が、重なる。そのすべすべした感覚に動揺する俺。また揶揄われるかと思ってひかるの方を見ると、その顔には何の表情も浮かんでいなかった。素早くボールを拾っていた手が止まっている。

 

「ひかる?」

「ああいえ、何でもないんです。ただ」

「ただ?」

「──大きな手だなあ、と」

 

 それだけ言うと、ひかるはまた静かにボールを拾い始めた。俺は何も言えずに、白球を拾い始めた。花冷えする四月の上旬の風は、まだ寒さを感じた。

 

 

 

 

 昼休みになると、ひかるはわざわざ俺の教室までやってくる。

 

「せーんぱい、お昼食べましょう」

 

 三年生の教室は、後輩である彼女の登場にあまり注目していない。もう慣れたらしい。ひかるのことを二年生の頃から知っているクラスメイトはともかく、その他の生徒は最初、下級生のひかるが教室にくるたびに物珍しそうにジロジロと見ていたものだ。しかし今ではそれもすっかりなくなった。

 むしろ見せつけるように、ひかるは堂々と俺の席に椅子をくっつけ自分の弁当を開いた。白米に色とりどりのおかず。女子の理想の弁当といった様子だ。

 俺も母に作ってもらっている弁当を開く。こちらは質素だ。

 

「先輩、今日のご飯も足りなそうですね。私のおかず何かあげますよ」

 

 弁当では足りずに購買でパンを買っていた俺を見かねたひかるは、よくこうしておかずをくれる。

 

「何がいいですか?ちなみに今日は卵焼きが上手くいったんですよ!見てください、この綺麗な黄色。どうです?食べさせてあげましょうか?」

「いやいや、自分で食べるよ。でも卵焼きはもらおうかな。ありがとう」

 

 礼を言うと、嬉しそうにはにかむ。いつもの怖いほど理想的で綺麗な笑みではなく、ふにゃふにゃとした愛らしい笑み。

 感謝を伝えると、ひかるはいつもひどく嬉しそうに笑う。いつもそうだ。それはきっと必要とされたから、なのだと思う。役に立っていることが分かる瞬間。野球という生きがいをなくしたひかるが、新しい人生の意味を見つけられる時だ。

 

「あまっ!いつもと味全然違くないか!?」

「えへへ。気づいてくれましたか。嬉しいです」

「気づくに決まってんだろ!?塩だと思って舐めたら砂糖だったのと同じくらい違うぞこれ!」

「なんですかー?可愛い後輩の手料理が食べられないんですかー?」

「いや、頂くけどさ……」

 

 いつも何を食べても美味しいひかるの料理だが、今日の卵焼きはとても甘く、俺の口内はしばらくそれを忘れられなかった。

 

 

 

 今日も厳しい練習を乗り越えて、夜の通学路を帰る。隣には、いつものように華奢なひかるの肩。立ち位置は男だった頃と変わらなかったが、その目線の高さはすっかり変わってしまった。

 

「いやー今日もコーチの指導は厳しかったですね。先輩大丈夫ですか?足プルプル震えてないですか?」

「いや、いつもやってることだしなあ。そういうひかるこそ、一日グラウンドにいて疲れたんじゃないか?」

 

 性別の変わったひかるは、お世辞にも運動神経がいいとは言えなかった。センスがないわけがないので、それはきっと身体構造の変化に戸惑っているだけなのだろうと思っていた。──そうならきっと、またあのボールを見れるかもしれないと思った。

 

「後輩女子を気遣って見せるその態度、嫌いじゃないですよ?でも、私以外にしないでくださいね」

「する相手もいないよ。ずっと野球のことばっか考えてたから女子との接点なんて全然なかったし」

「知ってますよー。生まれてこの方モテたことないですもんねー」

「……それは言いすぎだろ」

「ああ、そうですね。現在進行形で私という美少女を侍らせていますもんね」

 

 柔らかい表情をさらに柔らかくして、ひかるが魅力的に笑う。男の頃には見られなかった笑みに、惹かれる自分と、拒絶した自分がいた。──お前はそんな笑い方しなかっただろう。

 

 歩く二人の間には、たわいない世間話がダラダラと続けられていた。春の夜は少し寒かったが、ひかると話していれば全く気にならなかった。しかし、突然寒風が首元を撫で、背筋が震えた。

 

「……ああ、公園空いてますね」

「……寄るのか?」

 

 恐る恐る、確認する。昨日のことを思い出す。夜のキャッチボール。フォークボールを投げられなかった彼女の姿。うずくまり、静かに泣く彼女の姿。

 

「いや、今日はいいよ」

 

 男の頃のような口調で、ひかるは答えた。気のない返事をするその瞳は、夜の公園をじっと見つめていた。寒風が沈黙の下りた俺たちの間を吹き抜けた。

 

 公園から家までの僅かな距離を、二人して黙って歩く。視線は交わらず、歩く方向はどこまでも平行だ。夜のしじまは、昔と違って堪らなく居心地が悪かった。家の前まで着くと、短く別れの挨拶を交わして、別々の方向へ向かう。

 ずっと平行だった俺たちの足取りは、ある一点を境に全く別の方へと歩き出した。

 



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私の胸の熱

過去編


 俺の親友はある時突然いなくなって、彼は再び会った時には彼女になっていた。

 ひかるとの面会が初めて許されたのは、すっかり冬らしくなってきたある日のことだった。性転換病という難病に苦しんでいるという親友の見舞いにようやく行ける。高揚したような、不安なような不思議な気持ちだった俺を出迎えたのは、全く見知らぬ美少女だった。

 

「──」

「亨、久しぶり」

 

 言葉を返すことができなかった。話には聞いていたが、実際に会うと、その衝撃はすさまじかった。ひかるのような口調で喋る彼女が、親友だった彼であるということを、俺は受け入れられなかった。

 

「なにまぬけ顔してるんだよ。いいからこっち来いよ」

「ああ、悪い」

 

 冗談めかした言葉に少し既視感を覚えて、ようやく我に返る。近寄ると、その少女の容姿の美しさがさらによく分かった。サラサラとした、濡れ羽色の髪。愛らしさを感じさせるようなクリクリとした瞳。少し大きな唇がぷっくりと膨れていて、柔らかそうだった。

 そしてなによりも、小さい。180センチにも届こうかという大柄の彼だったが、今の身長はせいぜい150センチといったところか。華奢ななで肩も、折れそうなほど細い腕も、彼の面影と全く重ならなかった。

 

「何見とれてんだ?惚れたか?」

 

 その気安い口調だけが、彼女が彼であることを教えてくれる。高く澄んだ声は彼と全く似ていなかったが、それでも彼だと確信できる何かがあった。

 

「馬鹿言うな。親友のお前に惚れることなんて絶対ねえよ」

 

 彼女は嬉しそうな笑みを浮かべた。その笑顔に何か新しい感情が芽生えそうで、目を逸らした。殺風景で寒々とした病室の窓からは周辺の自然の景色が見える。寒空の桜の木は、すっかり葉を失って寂し気に立っていた。

 

「それで?いつ学校に戻ってこれるんだよ」

「多分春の新学年からだってよ。この意味が分かるか?なんと俺な、高校生にして留年することになったんだ」

「ハハッ、馬鹿なひかるにはちょうどいいな」

「なんだとこの野郎!お前だって大して変わらないだろうが野球馬鹿!」

 

 軽く冗談を言い合うと、もう俺たちは昔に戻れたようだった。自然、二人の頬が緩む。どこか暖かい空気が、寒々とした病室を支配する。

 しかしそれも長く続かなかった。ひかるの頬が強張り、少し雰囲気を変えると、冷たさが戻ってくる。

 

「その、野球、だけどな」

「ああ」

 

 その言葉に、俺の表情も強張るのが分かった。俺たちの一番の関心事。あるいは、人生そのもの。

 

「わるい、しばらくはできそうにないわ!」

 

 底抜けに明るく、ひかるが告げる。予期していたその言葉は、想像以上に心に響いた。

 

「しばらくって、いつまでだよ」

 

 たまらず、真剣なトーンで返してしまった。馬鹿なひかるの空元気など、見たくなかった。

 

「まあ、俺の筋力が戻るまで、だな。これでも病室の中で腹筋とかしてるんだぞ?まあこの前先生に怒られちゃったけどな」

 

 ハハハと笑うひかるの声には、どことかなく力がない。見ていられなくて、核心に触れてしまう。

 

「で、でもさひかる、その、甲子園はさ」

「ああ、女は出れないんだろ」

 

 静かな声だった。音が全て無くなったかと疑うほどの沈黙が、その場を支配する。ひかるは窓の方に顔を逸らした。静寂の中で、自分の軽率な問いを後悔する。そのことについて、ひかるが考えていなかったわけがないじゃないか。聞かれるまでもなく、その残酷な事実はずっと彼女の胸の中を渦巻いていたはずだ。

 

「なんでだ」

 

 突如、ひかるが沈黙を破る。それは、先ほどのような静かな声だった。けれどそこに籠められた感情は、先ほどまでの比にならないほどだ。激情が、爆発する。

 

「なんで!俺がこんな目に合わなくちゃならないんだ!」

 

 か細い喉がはちきれてしまうのではないかと思うほどの絶叫だった。こちらに向き直ったその双眸からは涙が溢れていた。

 

「ひかる……」

 

 かける言葉が見つからなかった。その怒りは誰にぶつけられるわけでもなく、ただひかるの胸中でグルグルと回り続いていたのだろう。

 なぜ、どうして。神でも恨めばいいのだろうか。それとも、彼女を救えない科学を罵ればいいのか。

 

「俺は、いったいこれから何のために生きたらいいんだろうな」

 

 答えなんて持ち合わせているはずもなかった。口を閉ざす俺に、ひかるは静かに告げた。

 

「今日は、帰ってくれないか」

 

 その言葉に返す言葉すら見つからず、俺はその場を後にすることになった。

 

 

 ◇

 

 

 あれから、亨は何度も俺の病床を訪れた。野球部の練習の後、たまの休日、飽きもせず彼は何度も病院まで足を運んでくれた。

 しかし俺たちの間の会話はいつもどこかぎこちなかった。当然だろう。俺たちの間の会話の話題なんて野球がほとんどだったんだ。急に野球の話題を避けるようになったんだから、ぎこちないのも当然なこと。でも、俺にとってはそれでも良かった。

 

 

 今日の亨は平日の夜にも関わらずわざわざ来てくれた。きっと先ほどまで野球部の練習があったのだろう。学生服姿の彼の手には、ビニール袋。

 

「見舞い品、本当にシュークリームで良かったのか?」

「ああ、おれ……私、味覚が変わっててな。甘いものが堪らなく美味しいんだよ。女になってよかったことの一つだな」

 

 よかったこと、などと嘯く。体を鍛えるために糖分は控えていた俺だが、最近では甘味を欲することが増えてきた。食べている間は、自分の中のやり場のない怒りや焦りが少しは和らぐ気がした。

 

「……太るぞ?」

「あれあれ?亨君、女の子にそういうこと言っちゃメッ、だよ?」

「女の子ってガラかよ」

 

 いたずらっぽく片目を瞑りながら、人差し指を突き出して、チッチッと振る。悪態をつきながら顔を逸らす亨だったが、その顔は僅かに赤い。この硬派な見た目の親友は、たまに女らしい口調で話すといい反応を返しくれる。ぶっちゃけ楽しい。くせになりそうだ。

 

「ああそうだ、ひかる、少し外に出ないか?」

「いいけど、……寒いぞ?」

 

 初めての提案だった。最初に面会に来た時以来、どこか遠慮した態度を見せていてた亨だったが、その言葉には今までと違う決意を感じた。俺の体調もかなり良くなってきていて、少しの外出程度であれば先生の許可もあっさり下りた。久しぶりの地を踏みしめる感覚に戸惑いながらも、ゆっくりと歩く亨についていく。

 

「どこに行くんだ?」

「屋上」

「ええー。階段登るじゃん。……亨君、手、貸してくれないかなぁ?」

「なっ、慣れない真似すんなよ。似合ってないぞ」

「声震えてんぞ」

 

 少し甘えたような口調で言うと、彼は簡単に動揺した。……この童貞野郎大丈夫かな。美人局とかにあっさりひっかかりそう。

 顔を赤くしながらも手を差し伸べてくれた彼の手を、黙って握る。俺の小さな手を丸ごと包んでしまえるほどの大きな手。いつもミットを向けてくれていた彼の左手は、前よりずっと大きく見えた。手を引かれながら、筋力のなくなった足を何とか動かして階段を登る。手を引く亨の足取りはゆっくりで、視線は常にこちらを向いていた。

 

「屋上なんて初めて来たなあ。亨、なんでこんな場所知ってたんだ?」

「少し冷えるか?」

「いや、大丈夫だ」

 

 冬の夜は入院着にはやや寒かったが、短時間なら問題なさそうだった。むしろ暖房の入った室内にいた体が冷える感覚が心地よい。

 

「それで、こんなところで何の用だ?」

「上を見てみろ」

「上?」

 

 見上げる。寒空には、満天の星空が広がっていた。

 

「──わあ」

 

 思わず、感嘆する。黒に光る星がくっきりと見え、その一つ一つが俺に存在を主張しているようだった。

 

「どうだ?綺麗だろ」

「うん」

 

 視線は動かさず、返答する。こんな景色を見ること、しばらくなかった。夜なんていつも練習の後で、疲労困憊でとても空を見上げる余裕なんてなかったんだと思う。だから、その星空に引き込まれた。

 

「でも、なんでこれを私に見せようと?」

 

 視線を亨に戻して問いかけると、彼の瞳が真っ直ぐに俺を貫いた。

 

「たまには空を見上げるのもいいぞって伝えたくてな」

「ははっ……なんだそれ」

 

 少し笑ってしまう。真面目くさった顔で言うものだから、少し恥ずかしくなってしまった。でも、彼の表情は少しも崩れず言葉を続ける。

 

「ひかる、多分今できない野球のことばっか考えてるだろ?」

 

 図星だった。朝も昼も夜も、野球ができるか、そればかり考えていた。

 

「できないことばっか考えるのは、体に毒だよ。だから、少し他のことを考えて欲しかった」

「……」

 

 分かってはいる。もう叶わない夢を想い続けるのは、つらく、苦しい。でも想わずにはいられなかった。野球は、甲子園の夢は、俺の人生の意味そのものだったのだから。

 

「それは──」

「なあひかる、何のために生きたらいいのか分からないって言ったよな?」

「……ああ」

 

 分からない。野球をなくした俺に、何が残るのか。

 

「じゃあさ、仮にでいい。退院できたら、俺のために生きてみてはくれないか?」

「亨のために……?」

「ああ、大したことじゃない。──俺は親友がいない生活なんてもう嫌なんだよ。通学路にお前がいなくて、帰り道に愚痴を言い合うお前がいない。正直こんなの初めてでさ。耐えられないって思った。──生きてくれ、ひかる。姿が変わったなんて関係ない。俺には昔のお前も今のお前も、必要みたいだ」

 

 熱の籠った、感情の籠った言葉だった。北風に晒されていた頬が熱くなる。

 

「お前の、ために……」

 

 その言葉は、俺の胸の中に熱さを持ったまま残り続けて、空っぽだった俺を動かす力になった。

 

 

 ◇

 

 

「亨先輩!今日のおかずは自信作ですよ!」

「ひ、ひかる。そんな大声出さなくても聞こえてるから」

「なんです!?可愛い後輩からの手料理ですよ!少しくらい嬉しそうにしてください!」

「いや嬉しい、嬉しいから!周りの目とか少し気にしてくれ!」

 



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甘いソフトクリーム

ドロドロ成分が足りなかった気がする


 朝練のティーバッティングは、俺にとって日課みたいなものだ。守備だけでなく打撃についても期待されているらしい俺は、打撃練習の時間を少し多めにもらっていた。一人ではできないこの練習は、前は下級生に手伝ってもらったりしていたが、今はひかるがいる。俺にボールをトスするひかるの姿も今ではすっかり日常の光景になった。

 

 ひかるの上げるトスは相変わらず俺の欲しい所に上がってきて、俺は気持ち良く金属音を響かせることができた。

 

「そういえば先輩、今週の日曜日は予定ありますか?」

 

 ひかるの突然の問いに、俺は振り切ったバットを下ろして少し考えた。俺の若干の疲労を感じ取ったのだろうか。ひかるも少しボールを投げる手を休めていた。

 

「日曜日……ああ、買い物しようと思ってたんだ」

 

 日曜日は久しぶりの野球部の休みだ。この機会に駅前のショッピングモールまで行こうか、などと考えていた。

 

「ああ、ランニング用のシューズですか。結構ボロボロでしたからね」

「なんで分かるんだよ……」

「私、先輩のマネージャーなので!」

「説明になってなくない?」

 

 互いのことは知り尽くしている俺たちだが、そこまで推測できる自信は俺にはなかった。

 喋ってばかりというわけにもいかないのでバットを構える。すかさず、ひかるのトスが飛んできた。バットを振りぬき、心地よい金属音が響く。ひかりは新しいボールを構えながら、何か呟いた。彼女の手が軽く振られて、ボールが宙を舞う。

 

「じゃあ先輩、日曜日デートしましょう」

「ンンッ!」

 

 俺のバットはこの日初めて空をきり、白球はポトリと地面に落ちた。

 

 

 

 

 日曜の朝、俺は自分の隠し切れない高揚に困惑していた。何をそんなにワクワクしているのか。ただ親友と買い物に行くだけじゃないか。何度もやってきたじゃないか。

 

 ひかるが我が家まで来るのを待つ。彼女は俺の家に直接来ると言って聞かなかった。ひかる曰く、後輩が家まで押しかけてくるシチュエーション、良くないですか?とのことだ。……分からなくはない。

 

 家のインターホンが鳴る。高揚する気持ちを抑えるようにゆっくりと玄関に向かうと、そこには後輩然とした美少女がいた。すっかり春らしくなった五月、気候は穏やかだ。その温かさに合わせるように、ひかるの装いもまた、少しばかり露出が増えていた。明るい色のシャツに、調和のとれたスカート。白くて細い手足を惜しげもなく曝け出している。というか。

 

「スカート、短すぎない?」

「そうですか?これくらい普通ですよ」

 

 膝上程度までしか覆っていないスカートを見せびらかすように、その場で一回転する。見えてはいけないものが見えてしまうのではないかと冷や冷やしてしまう一場面だった。

 

「あ、危ないぞ」

「フフッ、大丈夫です。昨日鏡の前で練習しましたから」

 

 こいつは自室で何をしているのだ。ウキウキとした様子の彼女は、いたずらっぽく微笑む。女の子らしくて、完璧に魅力的な笑み。かつては見なかった表情。

 

「じゃあ、行きましょうか、亨先輩」

 

 当たり前のように手を出してくるひかる。白昼堂々と手を繋いで歩けとでも言うのだろうか。テンションの上がった彼女は、いつも以上に遠慮や恥じらいがない。

 気分が上がると周りが見えなくなるのは男の頃からだ。変わってしまった彼女の変わらない部分を見つけて、少し微笑ましくなる。

 しかし、見目の良いこいつと手を繋いで歩くなどごめんだ。そんな恋人みたいなことをすれば、周囲の視線が突き刺さることが今から予想される。危惧した俺は、浮かれ切った彼女を正気に戻す、おそらく一番効果的だろう言葉を選ぶ。

 

「……後輩マネージャーっていうか、これじゃ恋人同士だなあ」

 

 ぼそっと呟くと、ひかるの肩がびくりと震えた。動揺を見せたか彼女は、迷うように少し視線を彷徨わせると、こちらの目を上目遣いに覗いた。

 

「い、いきましょう、亨先輩」

 

 恥ずかし気な彼女は手を突き出すこともなく、近すぎた体の距離も少し離れた。どうやら自分が浮かれすぎていたことに気づいてもらえたらしい。良かった。良かったが、俺の顔の赤みは、彼女と同様消えそうになかった。

 

 

 

 

 日曜日のショッピングモールは、予想通り盛況だった。見渡す限りの人の群れ。通路も当然人の行き来が激しく、油断すればひかるとはぐれてしまいそうだ。

 

「そういえば、ひかるは何か買い物とかするのか?」

「ええ、まあ。でもまずは先輩のお目当ての店に行きましょう」

 

 そういうと、ひかるは足早に歩きだした。前を行く華奢な肩は、人混みの中で見失ってしまいそうなほど小さい。

 

「いたっ」

 

 突然、前を行く彼女がよろめいた。人とすれ違う際に肩をぶつけてしまったらしい。バランスを崩してフラフラとよろめくひかるの肩を支える。布越しに、熱が伝わってくる。

 

「おっと……大丈夫か?」

「あ、ありがとう……その、もう離していいから」

「ああ、悪い」

 

 いきなり素に戻るのは止めて欲しい。こちらも恥ずかしくなる。俺の手から解放されたひかるは、くるりと俺の方を向くと、いたずらな笑みを作った。

 

「ありがとうございました。先輩の手、おっきくて頼もしかったですよ!」

 

 女性らしい魅力的な笑顔。彼女のその笑みに、覆い隠された嫉妬のようなドロドロとした感情を見出してしまうのは、きっと俺の考えすぎだったのだろう。

 

 

 ◇

 

 

 頬の熱を隠すように前を向いて、再び目的地へと歩き出す。足を動かしながらも、思い出すのはさきほどの亨の手が私の肩を支える感覚ばかりだ。不意に触れた彼の手は、熱くて、頼もしくて、たまらなく大きかった。

 

 本当に、たまらない。白球くらいなら易々と手の中に収まってしまうほどの大きな手。それを感じ取った私の胸はドキドキと熱を発しだし、その大きさに妬ましさを感じた頭は急速に冷え始める。

 あの日から続く私の胸の熱と、かつて失ってしまったものへの悔い。相反する感情で、私はどうにかなってしまいそうだ。

 

 思考にふける私の目の前に、大きな店舗が見えてきた。

 

「先輩、ここですよね?」

「ああ、付き合わせて悪いな」

「いえいえ、好きでやってることですから」

 

 一直線に売り場へ向かい目的の品を吟味しだす亨。相変わらず無駄なものには目もくれない。らしいなあなどと思いつつも、私もなんとなく商品を眺める。革靴、運動靴、スニーカー。メンズ向けのシューズはどれも大きい。今の私にはとても合いそうになかったが、それらを眺め続けていた。

 

「ひかる、待たせて悪い。……ひかる?」

 

 ぼんやりとする思考に亨の声が割り込んでくる。早い。また即決即断で買ったのだろう。

 

「早かったですね」

「ああ、買う物は決まってたからな。……ひかるは何か買うものあるんだっけ?」

「はい」

 

 店外に出ると、相変わらずショッピングモール内部は人でいっぱいだった。また先ほどのようなことになるかもしれない。──だから、これは仕方のないことなのだ。

 

「先輩、はぐれないように手、繋ぎましょう」

「……そうだな」

 

 大きな手を離れないようにギュッと握り、歩き出す。しかし今度は亨がスッと前に出てきた。先導することを示すように、問いかけてくる。

 

「どこに行くんだ?」

「……上です。服飾は三階」

「分かった」

 

 言葉少なく、亨が人混みを掻き分ける。その背中は大きくて頼もしい。顔が、暑い。

 

 

 

 

 店を梯子すること一時間といったところか。私はようやく買い物をひと段落した。部活動とは別種の疲労に、亨の鍛え上げられた体も疲れを訴えているようだった。

 

「疲れたなあ……ひかる、買いすぎじゃないか?」

「仕方ないじゃないですか。今まで着てた服はほとんどがダメになったんですから」

「……確かに」

 

 今着ているのは、退院直後に母に買ってもらったものだ。母のセンスが良く、気に入って着ていたが、季節の変わり目が来て流石に新しいものが買いたくなったのだ。

 

「わざわざ付き合ってもらって、ありがとうございました、先輩」

「構わないけど……男の俺が付き合う必要あったか?」

「私に似合うかどうか見てもらう必要があったじゃないですか。それに、男だから、じゃなく先輩だから、ですよ」

 

 微笑みかけると、亨の頬がやや赤くなる。フフ、動揺していやがる。

 何回からかってもいいリアクションをするものだから、私はすっかり彼をからかうのがクセになってしまった。先ほどまでの商品を使った私のファッションショーでも、亨は良い狼狽具合を見せてくれていた。

 

「ひかる、何か食べていかないか?」

「いいですよ」

 

 亨の言葉に従って下に行くと、フードコートに辿り着く。私の買い物が長引いて昼時を過ぎたせいか、人はまばらで席を取りるのに苦労はなかった。重かった紙袋を机に乗っけて、一息つく。

 

「ひかるは何を食べるんだ?」

「ソフトクリームですかね。疲れたので甘いものが食べたい気分なので」

「分かった。ひかるはそこで待ってろ」

 

 短く言うと、亨が席を立つ。私の分まで買ってくる気らしい。

 

「せ、亨!私が買いに行くから!」

「荷物でも見ててくれよ。疲れただろ」

「で、でも」

「お前が疲れてる時の歩き方の癖なんて散々見たんだよ。いいから待ってろ」

 

 少し強く言うと、亨はさっさと歩いて行ってしまった。

 ……見抜かれていたのか。私の弱弱しい脚は僅かに痙攣して、疲れを訴えていた。相変わらず、軟弱だ。

 亨の言葉を反芻する。「いいから待ってろ」なんて、温厚な彼に似合わぬ少し強い言葉。思い出すだけで少し顔が暑い。その熱は、私の弱くてすぐ疲れる体への苛立ちをかき消すようだった。

 

「ひかる、悪い。待たせたな」

「いえいえ、……さっき来たところですよ」

「……なんだそれ」

「お約束です。あ、ありがとうございます」

 

 ソフトクリームを受け取って、大きく一口食べる。冷たくて甘い。亨の方はホットドッグを買ったらしい。ケチャップとマスタードのかかったそれを、大きな口で一口食べる。

 

「たくさん買ってたけど、目的のものはもう買えたか?」

「はい、お付き合いありがとうございます」

 

 ブツブツ言いながらも最後まで付き合ってくれた亨に、本心から感謝を伝える。彼は照れくさそうに少し横を向いて、笑った。

 

「いや、俺も楽しかったからな。感謝されるようなことでもない」

「──」

 

 この男……!不意打ちとか私よりあざといのではないか?本心から言っていることが長年の付き合いから分かってしまう。誤魔化すように、ソフトクリームを舐める。白くて滑らかなそれは、口の中に甘さを残して溶けていった。

 



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その意味が分かってるか?

評価などありがとうございます!


 夏の夜の公園は人の気配がすっかり遠ざかり、辺りには俺とひかるのグラブから響く乾いた革の音だけが響いていた。俺たちの夜の公園のキャッチボールは、野球部の練習が終わった後、不定期に行われていた。しかし、ひかるが俺を座らせることは決してなかったし、俺も決して座ってミットを構えることはなかった。

 

「おっと、あぶないなあ」

「悪い、ひっかかった」

 

 頭上を超えそうになったボールを、軽く跳んで掴む。ひかるの口調は、キャッチボールの時だけは昔の男のような喋り方に戻っていた。それを嬉しく感じて、俺はひかるとキャッチボールすることを拒めずにいた。

 

「疲れてきたんじゃないか?」

「そうだな、今日はもうやめるか」

 

 ひかるは疲れてくると右ひじがだんだん下がってくる。その癖が出ているので止めるように訴えると、案外あっさりとひかるは頷いた。

 今日の球数はせいぜい50球程度。100以上投げることもあった先発完投型のかつてのひかるとは比べるまでもなく体力がなくなっていた。

 数度ボールを投げ合って、ひかるがグラブにそれを収めると、二人して帰る準備を始める。グローブをしまってくるりと振り返ったひかるは、もう既に後輩然としたにこやかな表情を浮かべていた。

 

「はやく帰りましょう、先輩」

「……ああ」

 

 それを残念に思う俺と、嬉しく思う俺がいた。すっかり暗くなった街路を、二人隣り合って歩く。家までのわずかな距離だったが、ひかるの口は休まることはなかった。

 

「先輩、今度勉強見てくれませんか?」

「ああ、中間テストか。ひかるは馬鹿だからなあ」

「本人に馬鹿って言う必要なくないですか?」

 

 ひかるの柔らかそうな頬がぷくっと膨らむ。高校生にはあざとすぎるような仕草も、ひかるのような美少女がすると絵になる。

 すっかり変わったひかるの顔を見ていると、気づいた。勉強を見てやるのは初めてじゃない。しかし──

 

「それで……どこでやるんだ?」

「決まってるじゃないですか!先輩の、部屋です!」

 

 ……やっぱりか。以前ならなんとも思わなかったが、この美少女然としたひかるを部屋に入れるとなると、少し話が変わってくる。

 

「その……ひかる的には抵抗ないのか?」

 

 おずおずと聞くと、ひかるがにんまりと笑った。まずい。

 

「あれあれー?先輩、まさか後輩女子を部屋に上げることに動揺してるんですかー?別に私を部屋に上げるのは初めてじゃないのにー?何をそんな緊張してるんですか?」

 

 とても嬉しそうに、彼女は俺をからかいだした。俺がとっさに言葉を返せずにいると、ひかるが顔をグッと近づけてきた。きめ細やかな肌が視界いっぱいに映る。

 

「もしかして──期待、してるんですか?」

 

 耳に息がかかるほどの至近距離で囁かれたその台詞は、あまりにも蠱惑的だった。顔が赤くなるのが自分でも分かる。その様子を見て、ひかるがクスクスと笑いだした。忍び笑いは、徐々に耐えきれなくなったらしく大笑いへと変わっていった。

 

「フフフッ、動揺しすぎだろ。あはははははは!」

 

 大口を開けて笑うその姿には、色気なんて微塵もなかった。

 しかしそこまで言われると、流石に親友といえど腹も立つというもの。──少しくらい逆襲してもいいだろう。俺は意図的に声を低くして、彼女に話しかける。

 

「ひかる」

「な、なんだよ」

 

 同時に小さな手をしっかり掴む。ひかるが目に見えて狼狽するのが分かった。

 

「あんまりからかうと、冗談じゃなくなるぞ?」

「な、なんだよそれ。放せよ」

「ひかる、かなり力が落ちたよな。今も俺の手も振りほどけないでいる。……その意味が分かってるか?」

「ひゃ……で、でも私は元々男で……」

「それが何か関係あるか?」

「へっ?」

 

 それ以上は喋らず、ぐっと顔を近づけてひかるの表情を観察する。白かった頬は熟れた林檎のように真っ赤で、視線は所在無さげに宙を彷徨っている。時折こちらを上目遣いに伺っては、またすぐに逸れていく。……思ったより良いリアクションされると、こちらも困るのだが。

 

「せ、せんぱ──」

「ハハハハハ!騙されたなひかる!なんだ、俺よりもずっと顔真っ赤じゃないのか?アッハハハハ!」

 

 ひかるは哄笑する俺をしばらく呆然と眺めていた。そして意味が飲み込めたらしく、これ以上赤くなることはないと思っていた顔がもっと赤くなった。

 

「ばっ馬鹿!」

 

 悲鳴と共に、ひかるの右腕が唸った。オーバーハンドから放たれるのは、教材一式の入った大きなバッグ。それは狙い通り低い音を立てて俺の顔面に直撃した。

 

「ゴフッ」

 

 あまりにも予想外の動きに反応できず、受け身の姿勢も取れなかった。ひかるの球を受け損ねるとは……不覚……。

 

「明日そのバッグを私の家まで持ってきてくださいね!拒否権なんてありませんから!」

「ちょっ、明日土曜……」

「勉強見てくれるんですよね?場所は私の部屋で決定です!」

 

 

 ◇

 

 

 自分の部屋を見渡して最終確認する。汚らしい部屋など、女子的にはアウトだ。勉強机、片づけた。本棚、整理した。床、綺麗。ベッドの上、綺麗。完璧だ。後は亨を待つだけだと考えて、ふと昨日の彼との会話を思い出した。

 

『ひかる、かなり力が落ちたよな。今も俺の手も振りほどけないでいる。……その意味が分かってるか?』

 

 グッと近づいた彼の顔と、自分の姿が写るほど近づいてきた大きな瞳。そしていくら力を籠めてもビクともしない手。

 

「ッ!」

 

 思い出しただけで顔が赤くなってしまうのが、自分で分かる。……こんなんで今日亨に会えるのだろうか。亨を動揺させるために無理やり私の部屋に来させることにしたが、このままでは私が動揺してまともに受け答えできそうになかった。

 

 昨日彼に掴まれた右手をそっと撫でる。今の私の小さな手くらいすっかり覆ってしまうような、大きな手。私が失ったもの。しかし今の私には、嫉妬よりも不思議な動揺の方がずっと強かった。

 

 あの日から続く胸の熱にも似た、焦がれるような心の動き。この感情に身を任せれば私はもう醜い感情に囚われることはないのだろうという確信と、諦めたくないという気持ちが葛藤していた。それはきっと、私が男だったがゆえの葛藤で、きっと誰にも理解されないものなのだろう。少し寂しくなって、亨の顔が見たくなる。

 

 折よく、家のインターホンが鳴った。胸の高まりを沈めるようにゆっくりと玄関に向かい、私は扉を開けた。

 

「よう、昨日ぶり」

 

 憎らしいほどに昨日のことを気にしていなそうな顔で、亨はそこに立っていた。彼の持っている私のバッグが手元にあったら、もう一度ぶつけているところだった。

 

「いらっしゃい先輩。さあ、上がってください」

「おばさんはいるか?久しぶりに挨拶したいんだけど」

「母は留守ですよ。……二人っきり、ですね」

 

 昨日の仕返しのように軽くジャブを打つと、わずかに彼が視線を逸らした。……いいぞ。やはり私はからかわれるのではなく、からかう側でなければ。

 私の部屋まで、亨は迷わずついてきた。何度も来たことがあるのだから、当然か。しかし、今の私は女。前とは違う状況だ。

 

「どうぞ、入ってください」

「お邪魔します……あれ、なんか綺麗だな」

「フフン、当然です。女子の部屋は綺麗と相場が決まっていますから」

「本当か……?」

 

 少なくとも、亨の描く理想の女子とはそういうものだろう。男の頃の感性から、それくらい推測できる。きょろきょろと部屋を観察していた亨は、私に恐る恐る、聞いてきた。

 

「……そういえば、中学の頃のトロフィーとメダルは?」

「ありますよ、ここに」

 

 私は小さなカーテンで覆われた棚の中を見せた。野球用品が集められたその棚は、部屋の隅にひっそりと存在している。亨が確認したので、カーテンをそっと閉じる。棚の中身は見えなくなった。

 トロフィーもメダルも、今の私にとってなんの価値もないものだ。見るだけで不快だったから、最初は本気で捨てようと思っていた。しかし捨てようとすると亨の顔がちらついて、どうしても捨てる気になれなかった。

 

「そんなことどうでもいいじゃないですか。勉強、教えてくれるんでしょう?」

「……そうだな。でも、ひかるがあれを捨てないでくれていて、嬉しいよ」

 

 にこりと笑う亨の顔は、心底安心しているようで、それを不快に思う自分と嬉しいと思う自分がいた。

 



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最終話 フォークボールが投げられない

 いつかと同じ、夜の公園。俺とひかるは、飽きもせずキャッチボールをしていた。いつもなら軽口をたたきながらダラダラと続け、疲れてきたらやめるのだが、今日が違った。

 

「亨、座ってくれないか?」

「……本当にやるのか?」

 

 ひかるからの、キャッチャーとして球を受けて欲しいという要求。以前の俺なら、嬉々としてそれを承諾しただろう。しかし、少し前のひかるの様子を思い出してしまう。山なりにしか届かないボールと、投げることすら叶わない得意玉。慟哭するひかるの様子はあまりにも痛々しくて、今でも鮮明に覚えている。

 

「今日で、最後だから」

「……分かった」

 

 そんなことをそんな顔で言われては断れないではないか。キャッチボールで使っていたグローブをバッグに仕舞い、代わりに使い込んだキャッチャーミットを取り出す。左手に馴染むそれを携えて先ほどの位置に戻る。

 その間、ひかるは地面を運動靴で掘っていた。軸足を嵌め込む穴を掘るその様子は手慣れていている。

 

「ストレート、いくぞ」

「来い」

 

 豪快なワインドアップから、左足が大きく上がり、やがてこちらにつんのめるように倒れる上体。そして、遅れて右腕が振りぬかれる。

 上級生相手に三振を取りまくっていた頃のひかるを彷彿とさせる、洗練されたフォーム。きっと沢山練習したのだろう。筋肉を失った状態で前のフォームを再現するのは難しい。いつかフォークボールを投げられなかった時よりも、間違いなく上手くなっている。しかし、そこから放たれるボールが、あまりに遅い。ミットを前に突き出し、できる限りの快音を鳴らす。

 

「ナイスボール」

 

 心から、そう言う。いいボールだった。コントロールは正確で、バックスピンの掛かったボールは失速することなくミットに飛び込んできた。しかし、ひかるの顔色は優れない。彼女が目指しているのはこんな球ではないと、不満を露わにしている。

 返球を受け止めて、足元をザッザッっと乱暴に掘る。

 

「もう一球だ」

 

 先ほどと全く同じフォームから、球が繰り出される。そして、球速もまた、先ほどと同じだ。コントロールも伸びも、完璧。それでも、ひかるが満足することはない。

 

 投げる。投げ返す。投げる。投げ返す。

 二人の間には会話は生まれず、ただミットとグローブが白球を受け止める音だけが夜闇に響いた。完璧だったひかるのフォームが、徐々に崩れ出す。一球投げるたびに右ひじが下がり、次第に呼吸も苦しくなってきたのか、肩を上下させ始めた。

 

「もうやめないか、ひかる」

 

 ポツリと呟いた言葉は、思いのほか響いた。彼女の動きがピタと止まる。やがて、大きく息を吐くと、俺よりも小さく呟いた。

 

「最後、フォークボール」

 

 振り抜かれた右腕から飛び出した白球は、俺とひかるの間にポツンと落ちた。

 

「ひ、ひかる」

 

 かけるべき言葉も見つからないままに、駆け寄る。いつだって、ひかるを励ますのは俺の役目だったのに。サヨナラのピンチでも、ノーアウト満塁の絶体絶命のマウンドでも、俺が声をかければひかるはすぐに立ち直ってくれるはずだったのに。フォークボールが投げられなくなってしまった彼女のことは、励ますことができなかった。

 

 18メートルを駆け、俯いた顔を覗き込もうとする。どうすればいいのか分からなかったが、せめてひかるの顔を見たかった。しかし、ひかるの顔が突然上がる。その表情は、驚くことに笑顔だった。

 

「すいません、亨先輩。帰りましょう」

 

 不安になるほどの完璧な笑み。それは、たった今夢が完膚なきまでに叩き潰された少女の顔としてはあり得なかった。

 

「それはいいけど……その、大丈夫か?」

「はい、心配してくださりありがとうございます」

 

 声は陽気で、笑みを浮かべている。それでも、彼女の様子は俺を不安にさせた。

 

「本当か?その、無理すんなよ」

「心配性ですね、先輩は。……そんなに不安なら、私の部屋まで来てくださいよ」

「……は?」

 

 それだけ言うと、ひかるは俺の前をずんずんと進んでいってしまった。

 帰り道を無言のままに二人で歩く。いつもなら下らない会話を交わしているその道が、今はとても気まずかった。夜の街路に人影はなく、二人の足音だけがその場に響いていた。

 しばらく歩きひかるの自宅までたどり着くと、こちらに手招きした。

 

「どうぞ先輩。挨拶は不要です。両親は今日不在です」

「あ、ああ」

 

 有無を言わせぬひかるの様子に、大人しくお邪魔する。

 ひかるの部屋は、相変わらず殺風景だ。何も落ちていない床に、綺麗に片付いた勉強机。ただ、今日は部屋の隅に置かれた棚のカーテンが開かれていた。いつかトロフィーとメダルが置いてあった、三段立ての棚は、どうやら野球用具の置き場らしかった。しばらく使われた様子のないスパイク、グラブのオイル。それから、使い込まれたハンドグリップ。

 唐突に、前を向いていたひかるが振り返る。その瞳はこちらを真っ直ぐに見つめていたが、その内心を推し量ることができなかった。

 

「こっちです」

 

 ひかるの腕が伸びてきて、俺の腕を掴む。意外に強い握力。無理に振りほどこうとすれば彼女を傷つけてしまいそうだった。だから、俺は急に腕を引かれても抵抗できなかった。

 

「うわっ」

 

 されるがままに、ベッドに倒れ込む。二人分の体重の乗ったベッドが軋む。俺の下にはひかるの華奢な体があって、慌てて手を付く。彼女に覆いかぶさるような体勢は心臓に悪かった。きめ細やかな肌も、柔らかそうな唇も、今ならなんでもできそうだ。自分の内から湧き上がる微かな期待に声が震える。

 

「ひ、ひかる、その悪ふざけは止めてくれないか」

「ふざけてなんてないですよ」

 

 その言葉は、蠱惑的とすら言えた。ひかるは掴んだままだった俺の手を引き寄せて、自分の胸に押し当てる。柔らかい感触が、右手いっぱいに広がる。

 

「私は抵抗なんてしないですから、好きにしていいですよ」

「……は?」

 

 思わず、聞き返してしまう。俺たちは幼馴染で、親友のはずだ。ひかるの姿形が変わっても、関係性までは変わらないはずだった。

 自分の胸に俺の手を押し当てたままで、ひかるがポツリポツンと言葉を紡ぐ。

 

「やっぱり、野球のできなくなった人生に価値なんて見出せませんよ。今の私には、何もありません。人生を捧げた野球を無くして、何のために生きるのか分からないですよ。だから、亨先輩が私の人生にもう一度意味を与えてください」

 

 その声は無機質で、感情を感じさせなかった。

 

「い、今のひかるでも野球ができないわけじゃないだろ。それに、俺なんかがお前の人生の意味になんて……」

「なりますよ。一度は亨先輩の言葉に救われた気がしたんですから。でも、それだけじゃ足りなかったんです。──あなたのために生きるだけじゃ足りなかったんです。私のすべてをあなたに捧げさせてください。理想の彼女像でもなんでも演じましょう。この体を好きにしていいです。これでも手入れには気を遣ってきましたから。全部です。私の全部」

 

 俺の腕を掴む右手の力が強まる。それは人生の意味を見失った彼女の、切実な懇願だった。おそるおそる、確認する。

 

「それは、今の関係のままでは嫌だ、ということか?」

「……はい」

 

 少しの沈黙の後に、肯定する言葉が返ってくる。その言葉に嘘偽りはないように見えた。しかし。

 

「ひかるは、俺が好きなのか?」

「…………はい」

 

 今度の肯定には、迷いがあるようだった。

 

「俺は正直、お前の好意がなんなのか、分からない。元からあった親友としての好意なのか、女になったお前の、恋愛的な好意なのか。……お前だって、分かってないんじゃないか?」

 

 ようやく、ひかると目があった。その瞳はわずかに潤んでいるようだった。

 

「分かるわけないじゃないですか!俺がお前を好きだったことも、私があなたを愛しく思うことも、中途半端は私の本当の感情じゃないみたいで、どれが本物なのかなんて分からないんですよ!──苦しいんだよ!私にはもうあなたとの関係性くらいしか残っていないのに、それすらも分からない自分が嫌なんだよ!だから今ここではっきりさせたかった!私が女であることをお前に肯定してほしかった!」

 

 いつの間にか、彼女の瞳は涙に溢れていた。分からないと嘆くその姿は幼子のようだった。俺は胸に当てられていた手を離すと、その両肩を掴んだ。

 

「少なくとも、俺は泣いている女の子に答えを迫るようなことをしたくない。──分からなくたって、いいじゃないか。だって俺だって分からない。ずっと男だった俺だって、分からないんだよ、ひかる。お前に抱く感情が親愛なのか、愛情なのか、それとも情欲なのか。でも、それをすぐにはっきりさせたいとは思わない。俺は、今の関係が好きだよ。昔と同じようにお前とキャッチボールして、たまの休日を一緒に過ごして、下らない会話をして。……それじゃあ、ダメなのか?」

 

恐る恐る聞いて、ひかるの濡れた瞳を見つめる。

 

「……今のままでも、私を必要としてくれるんですか?」

「当たり前だろ。何年一緒にいると思ってるんだ」

「……そう、ですか」

 

 ひかるは俺の背中に手を回すと、俺の体を抱き寄せた。

 

「ひ、ひかる、まだ答えは出さなくてもいいって……」

「少しだけ、このままでいさせてください」

 

 体の下にひかるの体温を感じる。それがどこか落ち着く気がして、抵抗せずにそれを受け入れることにした。

 

「先輩。私、フォークボールはもう投げられなくて良いかもしれません」

 




これにてひとまず完結とさせてください
でも番外編という形でまた投稿しようか、などと考えています。関係の進んだ彼らの話とか。



唐突な終わりで申し訳ないです。
もう一つの投稿作品の方の書き溜めがなくなり、こちらの定期的な投稿が厳しくなったのでひと段落させます。完結してない話を放置していると落ち着かないので。
一応、語りたいことは語って完結させたつもりです。なにぶん未熟者の文章ゆえ、粗末に感じられたらすみません。


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番外 野球観戦

「でもひかる、本当に野球観戦で良かったのか?」

「しつこいですよ先輩。そもそも私が言い出したことじゃないですか」

 

 でもそれは、ひかるが避けていたことじゃないか。そう言うこともできず、口を噤む。少し前までのひかるなら、他人が野球している姿なんてできるだけ見ようとしなかったはずだ。

 

 あの日から、フォークボールを投げることを諦めた日から、彼女は少し変わったみたいだった。野球への向き合い方もそうだが、なんだか女らしさに磨きがかかったようだ。綺麗な黒髪はいっそう艶を増し、その笑顔は魅力を増した気がする。

 

 何よりも、あの日から俺は、ひかるが投球している姿を見ていない。

 

 

 球場までの道のりは、また開始まで時間があるにも関わらず人で溢れかえっていた。熱心なファンたちは、応援するチームのユニフォームを羽織り、気合十分なようだ。

 かつてはひかるもそんな熱心なファンの一人だったが、今日は私服のようだ。女の子らしく手足を出した涼しそうな装いは明るい色で統一されて、彼女の屈託のない笑顔によく似合いそうだった。

 

「ひかるはこの球団のファンだったよな」

「ああ、そうでした。まあでも、今は応援とかあんまりしてないですよ。……なんですか?推しの選手とかいたら、嫉妬しちゃいますか?」

「そんな醜い嫉妬するかよ……」

 

 俺の反応を伺っていたひかるは、にししと笑った。自然な笑み。しかし人混みの中でこちらを見続けていたせいだろう。俺たちの後ろから歩いてきた男と肩をぶつけて、彼女の体がよろめいた。

 

「おっと、大丈夫か?」

 

 たたらを踏む彼女の肩を支える。薄い布地の奥の熱が伝わってくる。

 

「あ、ありがとうございます。その……もう大丈夫ですから」

「おお、悪い」

 

 彼女は素早い動きで俺の手から離れると、一歩二歩と距離を取った。しかしなぜか俺の方を向いたままだ。

 

「前見て歩かないとまたぶつかるぞ?」

「そうですね。……先輩、随分手慣れていましたね。私の知らない間に女性との付き合い方を学んだんですか?」

「そんなわけないだろ。そんな時間なかったし」

 

 何を馬鹿なことを、と思ったがひかるはその後も訝しげにこちらをチラチラと見てきていた。物心ついた頃からの付き合いなのに、どうやってひかるの知らないうちに経験を積むというのか。

 

 

 

 

 今回取れたのは三塁側のファールゾーン、ホームベースからはやや遠い席だ。チケット代のことを考えると、俺たちのようにそこまで熱心でもない観客としては悪くない位置だろう。

 球場では多数の飲食物が販売されている。俺たちも夕食にするために食品を買い込んで席に着いた。

 

 ひかるは先ほど買い込んだうちの一つ、チュロスを口にくわえていた。細長い棒状のそれを一口食べると、満足げな顔をする。相変わらず甘いものが好きらしい。その様子をなんとなく眺めていると、ふいにひかるがこちらを見た。

 

「欲しいですか?」

「いや、そういうわけでは……」

「あーん」

「いやだから……ムグッ」

 

 否定しようと口を開くと、むりやりチュロスを口にぶち込まれる。楽しげな彼女は人の話をまるで聞いていなかった。咀嚼しながら彼女の方を睨むと、俺の顔を見て笑っていた。

 

「あははは!怖い顔が膨れたお口で台無しですよ先輩!」

 

 ……こいつ。ひとまず、口の中のものを飲み込む。俺はひかるの柔らかそうな頬を摘まむと、グイグイと引っ張った。

 

「いひゃい!いひゃいです!離してください!」

 

 痛がるひかるを見ているとなんだか俺も楽しくなってきてしまう。ああ、そういえば小学生の頃にもこんなことあったっけ。男児だったひかると今のひかるの頬の柔らかさは、同じくらいかもしれない。

 

「いひゃいですって!はなして!」

「お、悪い」

 

 痛みにひかるが若干目に涙を滲ませていたので離してやる。……涙目でこちらを睨んでくる彼女の顔を見ていると、何かに目覚めそうだった。ぷりぷりと怒るひかるは、未だ少し涙を浮かべながらもこちらに命令してくる。

 

「ひどいです!お詫びにこのたこ焼きを私に食べさせてください!」

 

 彼女の大きく開けた口に、たこ焼きを放り込む。その味に満足いったようで、先ほどまでの怒ったような顔から一転、楽し気な顔に戻った。チョロい。

 

 

 

 

 ひかるとの雑談に花を咲かせていると、どうやら試合が始まったようだ。選手たちがグラウンドで躍動する。外野席からは応援歌が響き、球場は熱気に包まれた。

 木製のバットが鈍い音を響かせるたび、球場には多数の歓声や溜息が溢れる。そして多数の注目を浴びる選手たちは、それをものともせず自分のパフォーマンスを発揮していた。

 

「プロってすごいですよね」

 

 ひかるがぽつりと呟く。

 

「これだけのプレッシャーのかかる状況に身を置きながら、あんなに凄いプレイができる。……私が野球を続けていたとしても、プロになんてなれなかったかもしれませんね」

「……プロだって、一人で野球してるわけじゃないだろ。ピッチャーが困ったらキャッチャーが駆け寄る。同じだよ、俺たちと」

「そう、か」

 

 投手のボールを打ち返し、木製のバットが鈍い音を立てる。客席に飛び込むファールボールを知らせる笛が鳴った。見上げると、頭上には白球。ファールボールは奇跡的な確率で、俺たちの方へ飛んできた。

 

「ひかる!」

 

 何か考えている様子の彼女に声をかける。ようやく、彼女はこちらに飛来する白球に気づいた。

 

「え」

「伏せろ!」

 

 ひかるが頭を下げる。俺はボールの着地地点へ左手を伸ばす。緩い弧を描いて飛んできたボールは、ひかるへと迫り──そして俺の手の中に収まった。おずおずと頭を上げたひかるが、俺の手の中の白球を見つめる。

 

「あ、ありがとうございます」

「大したことはしていない」

 

 実際あのままひかるにボールが当たるかは微妙なところだった。

 

「先輩」

「なんだ」

「私、ボールが飛んできても手が出ませんでした」

「そうだな」

 

 自分の頭上の白球を見つけたひかるは、ただ俺の声に従って身を屈めた。

 

「まあ、グローブしてたわけじゃないし、そっちの方が安全だったろ」

 

 実際素手でボールを掴んだ俺の左手はじんじんと痛みを訴えてきている。硬式球など素手で取るものではない。

 

「先輩は、どうして私に屈むように言ったんですか?」

「……なんでだろうな」

 

 一言名前を呼ぶだけでも良かったのに。どうして俺は彼女にボールを捕ってほしくなかったのか。

 

「先輩、ボール貸してください」

「ああ」

 

 ひかるの小さな手が白球を掴む。しばらく手の中で遊ばすと、人差し指と中指でそれを挟む。フォークボールの握り。

 

「やっぱり、大きいですねぇ」

 

 その呟きには、もう以前のような焦燥はなかった。ただ事実を確認するような囁き。彼女はこちらを見もせずに、俺にボールを放ってよこした。無回転のトス。

 

「先輩、私を守ってくれてありがとうございます!」

 

 満面の笑みに、俺は少しも陰りを見出すことができなかった。

 



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