綾波レイを困らせたい (瑞穂)
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I couldn’t face my life, without you

「非常招集。 先、行くから」

 

 綾波レイ。

感情の起伏に乏しく、無表情な少女。

その割にわざわざ屋上まで来て、律儀にも一声掛けてくれる彼女の事が、やたらと印象に残った。

 

 

 

 

 同居人兼保護者、葛城ミサト一尉の一人暮らしのマンションの一室。

僕を監視する意味合いだと思うけど、成り行きで転がり込む事になったそこは、おおよそ人間の居住空間としてギリギリだった。

全ての部屋に散らばった缶ビールの空き缶と数えきれない程の焼酎瓶(なんと開封されたものも混ざっている)、脱ぎっぱなしの衣服と縛ってさえおらず放置された幾つものゴミ袋、うずたかく積もった段ボールと機密書類の入った封筒の山、あまりに凄惨な暮らしぶりだ。

 

『実は私も最近引っ越してきたばっかでね……ちょーっち散らばってるけど気にしないでね~』

 

……この惨状は、彼女にとって『ちょっち』なのか……?

逆に、何があれば入居して間もない新居をここまで汚す事ができるのだろう……。

 

 まあ、NERVの職員は皆一様に忙しそうにしていたし、ましてミサトさんは一尉なんて役職に付いている。

気苦労も絶えないだろうが、それにしても……。

精神衛生上、清掃は何よりも優先すべき急務だった。

食事も程々に、

『全ての部屋を清掃して散らばったものも出来る限り整理整頓しておくので、あまり見られたくないもの(下着や機密書類等)だけ先にどこかに一まとめにしておいて下さい』

と言ったら、泣いて感謝された。

お礼はいいから、少しずつでも自分で片付けできる人間になりましょう。

 

 

 という経緯で、数日に渡る大規模な清掃を行っている時だった。

遅い時間に帰ってきて疲労困憊なミサトさんが、黒いセキュリティカードを2枚手渡してきた。

 

「今日レイに渡しそびれちゃって……シンジ君、悪いけど渡しておいてくれる?」

 

 1枚は僕、碇シンジの、もう1枚は綾波のものだった。

NERVの中でも僕らパイロットに立ち入りが許されている施設、普段利用する施設の入館証みたいなものらしい。

僕と違って元々パイロットな綾波のカードは、更新用。

多分、数か月とかの頻度で更新するようなものなんだろう。

何かと無頓着そうな綾波の事だから、以前までのカードでロックが開かずに立ち往生している姿が容易く幻視できる。

早めに手元に届けてあげなければいけない。

 

「分かりました……あ、脱いだらすぐ洗濯機入れておいて下さいね。 皺になっちゃいますよ」

 

「シンジ君、お母さんみたいねぇ……」

 

 

 

 第3新東京市市営住宅第22番建設職員用団地6号棟。

ここが綾波の住むマンションらしい。

僕みたいな昨日今日関係者になったばかりの部外者にそう簡単に教えてもいいのだろうか、NERVという組織の倫理観が時折疑わしくなる。

『綾波』と書かれた表札を確認して、呼び鈴を鳴らしながら思考する。

 

 綾波って、困ったりするんだろうか。

僕の手元にあるこのカードは更新用、セキュリティの観点で過去のカードはもう使えないか、あと数日で使えなくなるだろう。

そんな時、綾波はあの無表情を崩したりするんだろうか。

 

 何日か、学校で彼女を観察していて思った。

綾波レイにはおおよそ人間らしい情緒がない。

常に無表情で、物憂げに窓の外を見つめている姿が印象的だ。

万物に興味がなく、プールはいつも見学。

食の好みもなさそうだし、死なないために栄養を補給しているような無頓着さ。

誰かと言葉を交わしている姿も見た事がない。

寡黙というには度が過ぎている。

綾波は、ただ死んでいないだけだ。

綾波の見ている世界は色褪せていて、なにもかも枯れている。

それは、寂しい事だと思った。

 

 そんな彼女にも例外がある。

唯一、父さんとだけは満足に話すのだ。

会話の中で年相応の笑顔さえ見せる事もある。

実の子どもの僕の事は見向きもしない癖に綾波を大層慈しんでいる父さんは、まあそういう人なので今更気になったりはしないが、綾波の変化には本当に驚いた。

始めて綾波の人間味に触れた気さえした、誰かを特別に想う事ができる程度には情緒を持った少女なのだと知った。

 

 つまり、綾波は父さんに関する事以外の全てに無頓着なのだと思う。

だとしたら、セキュリティカード1枚使えないぐらいで別に困ったりはしないのかもしれない。

それが原因で父さんに会えない、これなら少し困るだろう。

いかにも美しい父性愛だ、たいへんに溺愛されていると見える。

その愛のひとかけらでも、実子に向ける事はできないのか……。

実父ながら、ほとほと呆れ返るばかりだ。

元より機能不全家族だし、はなから期待などしていないが。

 

「碇くん?」

 

 暫らく待つと、扉を開けて鮮やかな青髪と目に毒な肌色が視界に飛び込んで来た。

 

「……???」

 

「……何?」

 

「綾波? 何で服着てないの??」

 

「? 碇君が呼んだから」

 

「いや、そういう事じゃなくて……僕の事は一旦いいから、まず服を着てよ」

 

「わかった」

 

 いや、わかったではないが。

何だこの娘、一般常識とかないのか。

年頃の女の子なんだからもっと危機感を持って欲しい。

 

「お待たせ」

 

 程なくして、綾波がちゃんと見れる格好で戻ってきた。

しかし制服か……。

綾波はちゃんと私服とか持っているんだろうか。

こういう詮索はマナー違反かもしれないけど、綾波の後ろに見えた部屋はがらんどうだった。

家具も殆どない、カーテンも閉めっぱなし、受診した医療機関の処方箋だろう、大量の内服薬の空き箱。

そう思えば、腕も足も不健康すぎるくらいに細い。

鉛筆やマッチ棒でももう少しマシな太さだ。

なんだか、僕の周囲は生活環境が過酷な女性ばかりな気がした。

ミサトさんはともかく、綾波はまだ十代なんだし最低限健康的な生活をして欲しい。

 

「いや、こっちこそごめん……それで、用件はこれ」

 

「……もう持ってる」

 

 差し出されたセキュリティカードを胡乱な眼差しで見つめる綾波。

怪しんでいる、というよりはただ眠たげな感じもする。

元々快活に喋るタイプでもないので、いまいち見分けはつかないけど。

 

「更新だって。 次からはそっちのカードを使うみたいだよ」

 

「……そう。 碇君、ありがとう」

 

 ほんの僅かに、綾波の口角が上がった。 

なんだ。

父さん以外にも、そうやって普通に笑えるじゃないか。

それにこうして面と向かって話してみると、無機質に見えて意外と感情豊かだ。

確かに普通の人に比べて少し分かりにくいけど、打てば響くというか、ちゃんと僕の一挙手一投足に小さく反応している。

だからこそ、余計に困った顔が見てみたいと思った。

 

 

 

 

 

 

「また、この天井」

 

 覚えている記憶に、連続性がない。

綾波の家を訪ねて、セキュリティカードを手渡してからの記憶が一切ない。

一面が真っ白で殺風景な病室、寝かされているベッド周辺にはよく分からない医療系の機器や液晶が沢山付いている。

ふと、視線を向ける。

左手が人肌程の温かさの何かに包まれていて、ほんのり気持ち良い。

 

「……綾波?」

 

「碇君、おはよう」

 

 なんと正体は華奢な綾波の手だった。

器用にも僕の手を握りながらもう片方の手で読書していたようで、開かれていた難しそうな西洋の本を閉じて挨拶してくれた。

露わになった装丁には小難しそうな英単語がつらつら並んでいた。

……僕はなんで綾波に手を握ってもらっていたんだろう。

 

「おはよう綾波。 えっと……綾波の家の呼び鈴を鳴らしたあたりから記憶がないんだ。 覚えてる範囲でいいから、何があったか教えて」

 

「わかった……碇君?」

 

「?」

 

「手……もういい?」

 

 ごめん、良くないかもしれない。

情けない事に、震えが止まらない。

身体が拒絶するような、痛みの記憶を受け入れるには心もとない。

綾波に触れているとなんだか落ち着く。

申し訳ないけど、良ければまだ頼みたい。

 

「……わかった」

 

 綾波が真摯に伝えてくれた情報で、経緯を思い出した。

綾波にカードを渡してすぐ、非常警報が発令して2人でNERVに向かった。

新たに発生した使徒を殲滅すべく出撃した初号機は、地上に上がった瞬間に使途の荷電粒子砲に焼き払われて意識不明、今に至る。

五臓六腑、感覚器官全てが焼けるような痛みだった。

避ける隙もない猛攻。

意識を失った事が救いに思える程、人生で味わった事のない激痛。

もう二度と、あんな思いはしたくない。

したくないが、そう遠くないうちにまた出撃する事になるのだろう。

 

 どのみち、僕か綾波が戦わなければ人類に未来はない。

多分、綾波はその予定を伝えるためだけにここでずっと待っていてくれたのだと思う。

まだまだ短い付き合いだが、綾波が律儀な人物である事を僕は知っていた。

 

「綾波、本当にありがとう」

 

「……別にいい。先に行ってるから」

 

 この後の予定を伝えると、綾波は左手に温もりだけ残して行ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『そっか……綾波にとって、父さんは大切な人なんだ』

 

『えぇ。 碇指令だけじゃないわ、みんな大切。 絆、だから』

 

『じゃあ……僕も、綾波の大切になれるように頑張るよ』

 

『ッ……!』

 

『? 何か変な事言ったかな』

 

『……そんな事、初めて言われたから』

 

 不思議な人。

私の大切になりたい、なんて、初めて言われた。

 

 やっぱり、碇君は碇指令に少し似ている。

けど、違う。

碇指令は私をとても大切にしてくれる。

でも碇指令にとっての私は、誰かの代替品でしかない。

 

 碇君は、私を見てくれる。

そうだ、お礼を言えなかった。

嬉しかった。

私に触れると落ち着く、と言ってもらえて。

なんだか顔も心臓も温かくなるけど、嫌じゃない。

 

 どうして?

どうして私は、眠っている彼の手を咄嗟に握ったのだろう。

苦しんでいたから。

魘されていたから。

少しでも楽になればいいと思ったから。

私がそうしたかったから。

 

 本当にそう?

 

……わからない。

自分で自分の事が分からないなんて、初めての感覚だった。

握っていた手を離すと名残惜しそうな顔をするから、私も苦しくなった。

碇君の近くにいると、ぽかぽかする。

碇君と話していると、もっとぽかぽかする。

彼は、私に晴れ間をもたらすひと?

 

 ぽかぽかはきっと、悪い気持ちじゃない。

碇君にも、ぽかぽかしてほしい。

碇君は時折、泣き出してしまいそうな表情をしているから。

……私は、碇くんのためになにができるだろう。

もっと、碇君の事を知りたいと思った。



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