Innocence… (よつゆともにぃ)
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Innocence…

“もっと大人っぽい人がいい”

コロニアの天蓋に吊られた無数の人工太陽がその熱量を弱めた頃、ニンナは四年間付き合っていた恋人から思いもよらぬ理由で別れを告げられた。

その言葉に、ニンナの心は自分で想像している以上に傷ついた。

半身が欠けたような喪失感。言い訳の言葉すら見つからないことに涙が溢れたこと。

その涙を、他でもない彼の手が不器用に拭ってくれたこと。

それらのあっという間の出来事を思い出すと、形容できない惨めさと情けなさを感じ、自堕落な生活に身を投げ打っていた。

 

居室をともにする姉にこの事実を伝えると、“学生同士の付き合いなんて”などとろくに相手にしてくれない。その辺りの話題に関していえば、同期よりも、小慣れた調子で饒舌になる姉を信頼していたものだったから、この達観した返答、ついでに遠回しの子ども扱いにはニンナも参ってしまった。

それにしたって、大人という表現をするのはズルいと思う。そういうのなら、もう少しくらい待ってくれたっていいのに。いじけて鼻をすするのが癖になったまま、ニンナは自分宛てに届いていた便箋を開ける。

 

この国では、二十歳になった次の誕生節、二十一歳になる少し前の季節に四季を司る天子の洗礼を受ける。成人の儀と呼ばれるもので、いわば大人になるための通過儀礼だ。

儀式を行わなかった者はそう遠くないうちに悪魔に付きまとわれる。

屈強な狩人の変死体。競技中に突然錯乱状態に陥るスポーツ選手。洗礼を受けなかった人に限ってそういう目に遭うものだから、特段の(主に宗教的な)事情がない限りはすぐにでも受けなさいというのが慣わしだ。

 

天子は役人扱いで、元々は普通のヒトである。

他の天子の洗礼を受けることで、身体のどこか、見える場所に質量のない輪っかが現出する。ニンナの家系ように、エレベーターの予約なしでは一面の青空を拝めない“蓋被り”の平民や、地底で独自の環境を作り上げて生活する陰気なドリン、コロニア群の最下層であるマルクトに住まう“泥踏み”、すべての種族、階級で生まれたヒトの子すべてが、天子となる可能性がある。

 

天子にはそれぞれ「座」があり、十七ある椅子のどれかが空かない限りは、新たな天子が現れることはない。逆に言えば、その椅子が空くまで洗礼を待つことで、どれだけ落ちぶれた血統でも天界に一番近い場所で暮らす権利を即座に与えられる可能性がある。言ってしまえば“椅子取りゲーム”の権利を一生に一度のギャンブル権として使うか、今後の安寧のために使ってしまうかという話だ。

この天子制度に不満を漏らす者はあまりいない。歴史上で何度か、天子の命が脅かされるような事件があったことは歴史の授業で教えられる。そういった事件で天子の椅子が空いた例は数えるほどしかないらしいけれど。

だからこそ天子となった者は、その瞬間から俗世から俗世から隔離される。これを幸福と捉えるか不幸と捉えるかはまた別のお話だ。

 

この案内に添えられた一文が、ニンナの心にずっと引っかかっていた。

『あなたの一番大切なものを天子様へ献上するように』

「お姉ちゃん。私の大切なものってなんだと思う?」

芯のない抜け殻のようなニンナの声に姉はまた恋愛相談かと呆れた。ほとんど毎日、この調子を続けられては不快感を覚えるのも当然だ。咎めてやろうとニンナを見下ろすと、見覚えのある便箋が目に留まった。

「ああ、成人の儀ね。あんなのなに持ってったっていいの。どうせ取られちゃうんだし」

済んだことのように姉は言った。事実、姉にとっては二年前に済んでいることではあるのだが。

「ああ、そうだ。あれいいじゃん。宝箱」

思い出したように姉が言ったのに、ニンナは飛び跳ねた。

 

宝箱、というのは文字通り宝物を入れておく容れ物のことだ。五歳の頃に父が買ってくれたもので、四桁の番号を忘れてからはただの箱になった。

宝物と言っても、小中学生の頃の思い出の品であるし、失くして困るものが入っているとも思えない。ニンナは翌日、それを取りに実家へ帰ることにした。

コロニアが樹でいうところの葉なら、幹はセントラルパスだ。定員五十名の巨大エレベーターで上の階層へ昇る。

大人っぽいというのは顔や身体つきのことを言っているのだろうか。確かに自分は平均と比べて少し小さくはあるが……。

エレベーターがゆっくりと天空目掛けて上昇し、ホドの階に到着するまでの間、ニンナはそんなことばかりを考えていた。

セントラルパスを出る直前、東口の売店でレジの頭上にズラリと並ぶタバコに目がいった。

レジ前に人影はほとんどなく、ディスプレイに映る流行りのアイドルがこちらへおいでよと手招きするのに魅かれていき、背を向ける店員に知っている銘柄を口にする。店員がニ、三度ニンナを伺うように目をやり、渋々白いパッケージを差し出した。その動作にニンナは少しだけ悪いことをしているような気になった。

腕時計型の端末を読み取り部にかざすと愉快な電子音を鳴らし、『この人は年齢的に大人です』と周囲に知らしめた。店員が自分に興味がなくなったように品出しの続きをするの見て、ニンナはそこはかとない優越感に浸っていた。

セントラルパスを出てすぐにある喫煙所。四階コロニアであるホドの南側は天蓋が空の半分も覆っておらず、はみ出した蒼と自然の熱が眩しすぎるくらいだった。

慣れない手つきで火を点け、吸い込んだ煙はほんのりと甘いバニラの匂い。

彼の匂いだ。今は少しだけ独特の苦さがきつかった。

 

成人の儀の当日。

姉が見繕った赤いドレスは少し派手ではないかと思っていたが、聖堂の華やかさを見るとなんだか自分がちっぽけに思えてきたのだった。

久し振りに会った友達との他愛もない会話で時間が過ぎるのを待っていると、ついに自分の名前が呼ばれる。

講堂を出て長い廊下を抜け、大部屋へ案内されると、液晶越しでしか見たことがなかった天子様がそこにいた。

「ようこそお越しくださいました」

このセフィロトの天子で、夏を司るイリーナ。長寿である天子の中ではまだ若く、どちらかといえば可愛らしい見た目をした天子。

気の利いた挨拶も思い浮かばず、「こんにちは」と返事をすると、イリーナはくすくすと笑った。

「早速で申し訳ないのですが、あなたの大切なものをそこの台に置いてください」

傍にいた役人であろうか。初老の男性がそう言うと、ニンナは抱えてきた宝箱を置く。

「中身を確認しても?」

「えっと、開けるための番号がわからなくって」

ふむ、と男性は思案したが、イリーナが手でなにかの合図をした。

「怪しいものは入ってないですよ。入っていたとしても、子どもの悪戯くらいのものでしょう」

イリーナには中身が見えているらしかった。神妙な面持ちで指を一本立てると、四つの数字を確かめるように、ひとつ、ひとつゆっくりと合わせていく。

ガチャ

魔法のように、いとも簡単に鍵が開いてしまったのにニンナは驚いた。誕生日、電話番号といった個人情報でないことは確認済みだった。

「番号は、何番だったんですか」

「ダイアナ節(二時節)/星三ー九日。当時五歳のあなたと彼が、はじめてキスをした日ですね」

はじめてキスをした日。

どうりで思い出せないはずだった。そんな子どもの頃の、おままごとみたいな――。

そこまで考えて、急に猛烈に恥ずかしくなった。

イリーナが堪えきれなくなった笑いを漏らす。その彼が今は友人になったこと。自分がその傷をついさっきまで引きずっていたこと。意地悪な天子の笑いにすべてを見透かされているようでニンナは肩身が狭くなった。

「笑ってごめんなさい。あまりにも可愛くって。中身を見させてもらうわね」

なんだかこの天子というやつは自分とそう変わらない年頃の女の子なのではないか。ニンナは内心で恨むようにそんなことを考えていたが、当のイリーナの方は中身の方に興味があるらしく、輝いた瞳をしていた。

糸のほつれたタオルケット。

へこへこのくまのぬいぐるみ。

おかしな模様の貝殻。

日焼けした絵本。

絵画コンクールに入賞した時の新聞の切り抜き。

文通。

母が昔使っていた二つ折りの携帯電話。それを嬉しそうに手に取ったイリーナはその日一番の感激の表情を見せて、「これでたまに電話してもいい?」なんて聞いてきた。

遠くに引っ越した友達の写真。さっきそこで再会を果たしたばかりだった。

etc……

二十歳になった私へ宛てた手紙。

 

気づけば先ほどまでの居心地の悪さはどこかへ吹き飛んで、じわりと温かいものが小さな胸の奥で湧き上がるのをニンナは感じていた。

儀式の場とは思えないほどはしゃいでいたイリーナも、その様子を見て微笑む。

「手紙と写真と容れ物だけ、お返しします。たくさんいただくのも可哀想だけど、大人になるためだから仕方ないわね」

大人になるため。

イリーナが申し訳なさそうにそう言ったのに、ニンナは反応せずにはいられなかった。

「大人になるって、なんなんですか?」

つい、そう口にしていた。イリーナは先ほどまでのからかうような笑みでも、慈愛に溢れた眼差しでもなく、せっつく子どもを宥めるような表情をする。

「ニンナ。これは内緒のお話ね」

イリーナは手招きすると、ニンナの耳元で囁く。

「私ね、大人なんて曖昧で面倒くさい生き物、いなければいいのにって思うの」

その言葉にニンナは面食らった。

自分が探してきたもの、自分がなりたかったもの。

何かが変わるかもしれない。

何かがわかるかもしれない。

その答えは、自分を“大人”に仕立ててくれるはずの張本人に否定されたのだから。

イリーナは口元に指を立てて、やはり、小悪魔のように意地悪く笑った。

 

今となってはその意味が、私なりになんとなくわかる。

私たちが本当になりたいのは、決して大人というものではないのだから。

 

その日の夜、知らない番号から電話がかかってきた。まさか、と思い応答した。

「もしもし。こちら可愛いイリーナちゃんです。ニンナ、今暇かしら?」



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