推理小説のワトソン役に転生したけど、原作ファンなので犯人もトリックも全部知っています (k-san)
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緑家晩餐会の顛末
第1話 解決編


 被害者にあてがわれていた客室を後にしたとき、僕は既視感の正体を理解した。

 

「まさか……」

 

「どうしたんだい?」

 

 突然立ち止まった僕に、綾城(あやじょう)さんが言った。

 綾城さんが持つ容疑者の腹のうちを覗き込むかのような強いまなざしは、いま、僕に向けられている。彼女に射竦(いすく)められ、それでも平然と関係者のなかに紛れ込む犯人の度胸の程度が知れた。

 

 僕は咄嗟(とっさ)に「いえ、くだらない妄想ですよ」と取り繕った。

 

「くだらなくてもいいさ。そういった一見取るに足らない思い付きが、事件解決の糸口となることが往々にしてあるからね。これまでもそうだっただろう?」

 

 そうだ。

 探偵・綾城彩花(さいか)とその助手である僕――七原(ななはら)五月(ごがつ)のコンビはこれまでに何度も複雑怪奇な殺人事件の謎を解き明かしている。その際、七原の発言が事件解決の間接的なヒントになった事例はいくつかあった。

 だけどそれは、七原の功績であって僕の功績ではない。

 

 なぜなら、僕は七原であって七原ではないからだ。

 

「なんでもいい。話してくれ」

 

「……本当にくだらないですよ?」

 

「だから、それでいいと言っている」

 

「じゃあ話しますけど……」と口にしつつ僕は言葉を探している。「例の死体が――眼鏡をかけている謎について、ですけど」

 

「ああ、この事件の最大の謎だ」

 

「被害者の三島(みしま)さんは――生前には眼鏡をかけていなかった――にも関わらず、なぜ死後に眼鏡をかけていたのか――」

 

「犯人が死体に眼鏡をかけさせたんだろうが、理由は不明だな。ただし、眼鏡の持ち主は隣室の町井(まちい)涼子(すずこ)と割れている」

 

「しかも――犯人は――三島さんの死体から目をくりぬいて持ち去っている――」

 

「猟奇的な犯行だが……まあ、犯人がこのミステリ読書会のメンバー内にいると考えれば、いかにもな趣向ではある。しかし、それがいったいどうしたって言うんだい? まさか犯人の意味不明な行動の動機がわかったのか?」

 

「それでですね――つまり、言いたいのはその――えーっと――」

 

 事件の振り返りで時間を稼ぐも、すぐに出尽くして言葉に詰まる。だがそうしている時間が長ければ長いほど、綾城さんの不信感は募っていく。

 

 考えろ! なんでもいいからなにか思いつけ、僕!

 

「えーっと――その――あ、そうだ!」

 

 思いついた!

 

「三島さんの死体の状況――あれって、犯人からのメッセージになってると思うんですよ!」

 

「まるでいま思いついたみたいな言い方だが……まあいいか。それで、メッセージと言うのは?」

 

 綾城さんの鋭さに怖じ気づくも、僕は言う。

 

「《眼鏡をかけてるのに目が無ぇ!》です!」

 

「……………………なるほど」

 

 と言って綾城さんは廊下を歩き出した。僕はその背中を追いかける。

 

 ……僕の評価が著しく下がった気がするが、誤魔化せたならまあいい。

 

 とはいえ、僕が素直に本当のことを白状したところで彼女は信用しなかっただろうし、むしろ、もっと白い目で見られることになっていただろう。

 それこそくだらない、愚にもつかない妄想だと一蹴されるはずだ。

 

 僕がこの事件の結末を知っているなんて。

 

 この世界が推理小説であるなんて。

 

 ◇◆◇◆

 

 前世において、《綾城彩花》シリーズの名はそこそこ有名なものだった。

 累計発行部数九〇万部の人気シリーズで、実写ドラマ化もされている。

 

 僕はその読者だった。

 すでに完結している原作をすべて買い揃え、通読し、何度も何度も繰り返し余すところなく読み尽くした。

 端的に言うと大ファンなのだ。

 だから当然、僕は知っている。

 この《緑家晩餐会》で起きた事の顛末を。

 

《緑家晩餐会》とはミステリ読者を中心とした読書会だ。根っからのミステリ狂である鮎川(あゆかわ)(とおる)が主宰する読書会で、無人島に建てた邸宅《緑家》にておこなわれる二泊三日の読書会と言えば特異だが、スケールが大きいだけで実態は普通の読書会から大きくはみ出たものではない。

 現実の名探偵として《緑家晩餐会》のメインゲストに招待され、その際事件に巻き込まれる――この状況はシリーズの短編『緑家晩餐会の顛末』と完全に一致している。

 

『緑家晩餐会の顛末』において謎の中心とされるのは、《生前には眼鏡をかけていなかった被害者が、死後、なぜ眼鏡をかけているのか》《被害者の両目はなぜ刳りぬかれているのか》の二点。

 もちろん、その謎の答えも僕は知っている。

 

 ……さて。

 僕はこの《綾城彩花》シリーズの世界で、どう立ち振る舞うべきだろうか?

 既にすべての謎が解けているこの世界で、僕はなにを演じるべきだろうか?

 

 そして、《綾城彩花》シリーズ作品全体を通して描かれるあの事件についてだが……いまは置いておこう。

 

 気がかりは二つ。

 

 しかしその前に――

 

 

「綾城さん」

 

「なんだい七原くん。さっきのダジャレについてなら、大いに推理の参考になったから安心するといい」

 

「いえ、そうではなく。……綾城さんって、かるたは強いですよね?」

 

 

 ――とっとと事件を終わらせてしまおうか。

 

 ◇◆◇◆

 

 実は緑家晩餐会メンバーと綾城さんの努力により、容疑者は絞り込まれている。

 被害者の死亡推定時刻である午前四時半から五時までの間にアリバイのある人物はほぼほぼいなかったが、被害者の打撲痕の位置と角度から、犯人は身長が推定160cm以下の人物であることがわかっている。

 

 その条件に当てはまっているのが、《緑家晩餐会》の女性陣――町井涼子、天久(あめく)瑞葉(みずは)(かがみ)水脈(みお)菖蒲谷(しょうぶだに)雪菜(せつな)の計四人。

 

 被害者の三島(かなえ)もまた女性であり、ささやかではあるが容疑者が女性で固まっていることの裏付けになっている。

 

 この容疑者四人のうちでもっとも怪しいとされているのは、被害者の隣室で、かつ被害者にかけられていた眼鏡の持ち主でもある町井涼子だ。

 

「そう緊張しないでください。皆さんに集まってもらったのは、ただゲームをするためです」

 

 綾城さんが、外向きの探偵スマイルを見せながら言った。

 

 遊戯室に集められた四人の容疑者は、それぞれ緊張の面持ちでいる。

 

「こんなときに、なぜゲームなんでしょうか」と恐る恐る言うのは鏡水脈。

「わたしは皆さんとの間にある溝を少しでも埋めたいのです。そのために、このような時間を設けさせていただきました」

 

「なにそれ。キレイゴト言ってるけど結局さ、このゲームのなかで容疑者のプロファイリングでもしたいんでしょ」と挑発的な口調で天久瑞葉。

「だとしても、犯人でなければ問題はないですよね?」

 

「それで、ゲームっていったいなにをするんですか?」と話をさっさと進めたそうな菖蒲谷雪菜。

「かるたです」

 

「え、じゃあ……あたし目が悪くて、すごく不利だと思うんですけど……」と焦る町井涼子。

 

 町井さんは現在、眼鏡をかけていない。

 死体にかけられた眼鏡が生理的に受け付けず、裸眼で過ごしているのだ。多少の不便を強いられることにはなるが、正常な反応と言えるだろう。

 

「その点については大丈夫ですよ。さあ、これをどうぞ」

 

 綾城さんが差し出したのは、町井さんの眼鏡。

 

「えっと、これ、かけられないんですけど」

 

「かけられないなんてことはないんじゃないですかね?」

 

「あたしがっ、かけたくっ、ないんですけどっ」

 

「さあ、始めましょうか」

 

「あの、聞いてます!?」

 

 そしてゲームは始まった。

 結局、町井さんは裸眼のままでかるたをするようだ。テーブルにギリギリまで顔を近づけて、かるたの一枚いちまいに目を凝らしている。

 

 ところで、どうしてここで綾城さんがかるたをすることになっているのか。

 それはもちろん、かるたをすることで犯人が分かるからだ。

 だがそのことを知っているのは僕しかいない。容疑者とかるたをするように勧めたのは僕だ。その名目は、表面上は天久瑞葉が言っていた通りの内容である。

 しかしかるたを強引に推す僕に綾城さんは疑念を抱いたようで、しぶしぶ引き受けつつも「ちゃんと話は聞かせてもらうからな」との言葉を受ける。

 こうなるだろうと読めてはいたが――頭が痛くなる。

 これは上手い言い訳を用意しておかなければいけないな。

 

 どうせ名探偵によって解決される事件なのに、どうして綾城さんに痛い腹を探られるかもしれないとわかっていながらわざわざ事件解決を早めようとするのか――もちろん理由はある。

 そう、そもそも『緑家晩餐会の顛末』とは、連続殺人を取り扱った短編なのだ。

 現時点で殺されているのは三島叶ただひとりだが、実際にはあとひとり――放っておけばまた死人が出る。

 人が殺されるかもしれない状況下で、それを阻止する手段を有しているにもかかわらずのほほんと堅実な推理などしていられない。

 ゆえにそんなものはすっ飛ばしてさっさと解決編に移らないといけないのだ。

 

 かるたを読み上げるのは助手である僕だ。

 

「《まずはこれ、探偵と言えばホームズだ》」

 

 パシンと音が上がり、綾城さんがかるたを取った。

 次に読み上げたものも、綾城さんが取ってしまう。

 

 そう、綾城さんはすべてのかるたの位置をすでに記憶しているため、およそこのゲームにおいて無敵の強さを有しているのだ。

 

「《名探偵、みんなを集めて、サテと言い》」

 

 だが、かるたの強さを見せつけることに意味はない。むしろ、度が過ぎれば人間観察においては邪魔にしかならない。

 

 ある程度の手加減を見せつつ、他のメンバーたちにもかるたを取らせていく。

 この調子ならば大丈夫だろう。綾城さんならそのうち違和感に気づくはずだ。

 

 そうやってゲームが進んでいき、まずは綾城さんがなにかに気づいたようにほんの少し眉を持ち上げたが、僕以外には分からない程度の変化だ。

 あのことに気づいたのなら、事件の謎も解けただろう。

 

「《無人島、なにも起きない、はずはない》」

 

 さらに進んで、ゲーム終盤。容疑者たちもことのおかしさに気づき始め、どよめきが生まれる。ここまでゲームが進めば、どうしても目に見えて《差》が生まれてしまう。

 

「《犯人を、指さす言葉は、ひとつだけ》――」

 

 すべてのかるたが取り上げられ、ゲームが終わるころには、一同の視線はとある人物にのみ注がれていた。

 

「犯人はあなたですね」

 

 と、綾城さんが言う。

 その言葉は、ゲームの序列最下位――かるたをただの一枚も取れていない、菖蒲谷雪菜を指していた。

 

 ◇◆◇◆

 

 いよいよ探偵による解決編だ。

 

《緑家晩餐会》の主旨である読書会は、食堂にて行われる。会員全員が一堂に会する唯一の場が食堂だ。故に事件の説明もここで行われる。

 つい昨日までは食事を楽しみつつ思い思いにミステリの面白さを語り合っていたこの場には、人の死が起きた重さと、《解決編》中の名探偵が醸す神聖な空気とが入り混じって霧のような静寂が降りていた。

 

 静寂を破るのは――もちろん《名探偵》。

 

 綾城彩花だ。

 

「――今回の事件の肝はもちろん、被害者にかけられた眼鏡と、抜き取られた眼球にあります」

 

 まずは僕たちが押さえるべき謎の焦点を絞り、前提を共有する。

 

 一見、犯人の異常性とも取れるこのふたつの行動には、もちろん意味がある。

 菖蒲谷雪菜がなぜかるたでああも極端な大敗を見せたのか――その理由を考えれば、事件のあらましが見えてくる。

 

「先ほど容疑者四人を集め、かるたをしました。その際菖蒲谷さんは、なぜかかるたを一枚も取ることができなかった。どうしてそのようなことが起こったのでしょう? 結論から言いますと、菖蒲谷さんにはかるたに記されている文字を読み取ることができなかったからです」

 

 町井さんは眼鏡をかけていないとかるたで不利と言ったが、それは菖蒲谷さんにも当てはまっていたのだ。つまり――

 

「いままで視力による問題が一切見られなかった菖蒲谷さんの、急激な視力低下。ここに理由を見出すなら……答えは単純です。普段は使用している視力補正器――彼女の場合はコンタクトレンズでしょう――を現在は使用していないから。これがもっとも蓋然性の高い推理です」

 

 概要はこうだ。

 

 犯行の際、被害者は菖蒲谷さんに強く抵抗し、そのはずみで菖蒲谷さんの片方の目からコンタクトレンズが零れた。

 

 被害者の殺害後、菖蒲谷さんはコンタクトを落としたことに気づく。当然、彼女は殺害現場でコンタクトレンズを探したはずだ。しかし、片方のコンタクトが外れ、視力の低下した菖蒲谷さんには小さく透明なコンタクトレンズを探し出すのは困難だった。

 

 ここで、彼女は大胆な賭けに出る。

 そう、彼女は隣室に侵入し、町井さんの眼鏡を拝借したのだ。

 結果、町井さんの眼鏡を盗むこと自体は無事に成功する――が、彼女はもう一つの賭けに負けてしまう。眼鏡の度は、菖蒲谷さんに合っていなかった。

 

 結局コンタクトは見つからず、いたずらに時間ばかり過ぎていく。そのうち会員たちは起きだすだろう……そうなれば菖蒲谷さんは終わり。そんな一刻を争う事態のなかで、菖蒲谷さんはある可能性に気づく。

 被害者との争いの際に外れたコンタクトレンズが、被害者の眼球の上に落ちた可能性だ。

 もちろんその可能性は低い。しかし、時間のない菖蒲谷さんはもはやこの可能性に縋るしかない。

 その際、じっくり検分するわけにいかない菖蒲谷さんは、《眼球ごとコンタクトレンズを持ち去って》いった。

 そして彼女はその賭けに勝った。コンタクトレンズは、たしかに被害者眼球の上に落ちていた。

 

 さて、殺害現場を後にする際、菖蒲谷さんは眼鏡の処分に困っただろう。

 町井さんの部屋に再度侵入するのはリスキーだが、証拠品を現場に残して去れば足がつくかもしれない。そこで彼女は、眼鏡を被害者にかけさせることを思いつく。

 そうすることで無数のメッセージ性を生み出すことができ、彼女の本当の目的を誤魔化せるためだ。ただその辺に眼鏡を置いて立ち去るのとでは印象がまったく異なる。

 

 また、眼球のない死体に眼鏡がかけられているという単に人を殺害するだけなら不必要なアイロニーによって、《犯人の異常性》を演出することができるのも理由の一つだろう。実際、短編では《犯人の異常性》についての言及が繰り返し行われていたし、その後に発展する第二の殺人ではカモフラージュのために別の趣向の《犯人の異常性》が演出されていた(というか、カモフラージュのために第二の殺人が起きた)。

 

 以上が、事件の顛末である。

 後期クイーン的問題も太刀打ちできない事件の真相である。

 

 以上の推理を披露した綾城さんは、最後にこう問いかける。

 

「動機はいったいなんだったのですか?」

 

 それも僕は知っている。

 事件の犯人であることを認め、項垂(うなだ)れる菖蒲谷さんに用意されている台詞は――

 

「《解釈違い》よ……」

 

 ◇◆◇◆

 

 事件という目の前の問題をとりあえず片づけた僕は、ゆっくりと今後について考える。

 

 七原五月としてここにいる僕は、今後どう立ち振る舞っていくべきだろうか?

 今回、僕は事件の解決に大きく関わった。それも、不自然な形で。

 そのことは綾城さんも分かっていて、すでに怪しんでいることだろう。

 今後事件に遭遇したとき、今回のように事件解決に直接つながる重大なヒントを綾城さんに与えてもいいのだろうか? 今回の僕の対応は冷静ではなかった。次なる被害者が出るのを阻止したいがために、勢いでああいう行動を取ってしまったが、僕はこの物語の正史通りに振る舞うべきじゃないだろうか?

 だが、僕が七原五月になったことで、物語の内容に変化があったら? そのことで、綾城さんが解けるはずの謎が解けないという事態になってしまったら?

 事件が起きているのに見過ごすことはできない。そのとき僕は、すべての答えを知り尽くしている者として、探偵を正史通りに導き物語を調整していかなくてはならないだろう。

 あくまで探偵の助手として。

 

 気がかりはもうひとつ。

 現在の時系列が『緑家晩餐会の顛末』時点なら当然のことではあるが、七原はすでに、あの事件を起こしている。

 シリーズ全体を通した謎である――秋庭(あきば)幸慈(こうじ)殺人事件を。

 

 七原が犯した殺人について、僕はどう振る舞っていくべきなんだろうか?




お読みいただきありがとうございます。

読んでいただいたうえでお願いを重ねるのは厚かましい限りなのですが、新しい読者に繋げるためにも、面白そうと思ってもらえたら下記の欄よりブックマーク、評価、感想など気軽にいただけるとめちゃくちゃ嬉しいです。

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メタレベルでの幕間
第2話 これからの基本方針


 かるたについての綾城さんからの追及は「なんとなくです」「よく分かりません」「答えません」「言いたくないです」「なんでもないんですって!」「答えることがないんです!」「言わないもん! 絶対に言わないもん!」「訊かないで! 言わないから! 絶対に言わないもんんんんんんっ!」という最悪の幼児退行で誤魔化した。

 

 僕の評価が著しく下がった気がするが、誤魔化せたならまあいい。

 よくねえ。

 

 本島に帰還する船を降りた僕は、いちど綾城さんと共に《綾城探偵事務所》へ戻ると、彼女からのさらなる詮索を逃れるため、疲れているとかなんとか適当な理由をつけてさっさと空っぽのワンルームに帰宅した。

 

《僕》として改めて見ると、怖いくらいに殺風景な部屋である。浮かび上がるのは無機質かつ不気味な人物像。この部屋の住人はいつか人を殺しそうだ。

 本棚を買おう。そしてこつこつと本を集めよう。作品世界の小説――つまり《作中作》とはいったいどんな具合だろうか? 僕はちょっとメタっぽい趣向のミステリにありがちな《作中作》の題名を出されるだけでわくわくする類の人間なのだ。

 

 そういえば、ミステリではときどき、作中に《偉大なミステリ作家》とされている架空の人物が登場したかと思えば、その横で『十角館』の名が平気で飛び出してくるようなことがある。

 作中の設定による《偉大なミステリ作家》と実在の人気作家が当たり前に並ぶ世界において、それぞれの評価はどうなっているのだろう。この世界で活動しているミステリ作家の相関図、あるいはミステリの歴史とは一体どんなものか。この世界にもドイルやクリスティがいたんだよな……。

 

 などと楽しい妄想でリラックスしてから、本題――今後について、さらに方針を固めていく。

 

 綾城さんは一国一城の主だ。《綾城探偵事務所》の所長兼所属探偵。故にシリーズにおいて綾城さんが遭遇する事件は《依頼型》と《巻き込まれ型》の二種類ある。

 

 先日の緑家での一件は《巻き込まれ型》に属する。こういったケースでは、僕にその気があれば事件そのものを起こさないように立ち振る舞うことも可能だろう。

 ただし正史通りに振る舞うのであれば、これはもちろんNG行動だ。起きるはずの殺人事件を事前に阻止するだなんて、そういった趣旨でないかぎり、ミステリにおいては最大級の歴史改変になる。そして《綾城彩花》シリーズはそのような捻りに捻った変わり種ではなくて、推理小説として至極真っ当な趣向のライトミステリなのだった。

 もちろん作者の定めた「作品にとっての正しさ」に則り、助けられるはずの命をそうと知っていながら無情に切り捨てるのはさすがに寝覚めが悪い。

 しかし僕にはもうひとつの問題があるのだった。

 

 そう、秋庭幸慈殺人事件についてだ。これは正直、考えあぐねているところがある。

《七原五月》と《僕》の意識は、シームレスなもので特に区別はない。しかしメタレベルで《僕》の存在が《七原五月》を俯瞰し、《七原五月》が《僕》に含まれているかたちとなっている現状、便宜的に僕は《僕》として自己を定義している。

 そんな僕なので、当然、殺人事件については藪から棒に突き付けられた理不尽という認識だ。その罪を被って逮捕されるなど、まっぴらごめんである。

 ところが《綾城彩花》シリーズのプロット上では、《七原五月》の犯した罪はすべて綾城さんに暴かれることになっている。ラスト、七原は綾城さんとのあいだに芽生えた絆を胸に、大人しくお縄につくのだ。

 

 つまり正史通りに振る舞えば、僕の行き着く先は逮捕エンド。

 それなら正史を無視してしまえばそれでいいのかと言うと、それも違うような気がする。読者として読む限り、《七原五月》の振る舞いはそれなりに最善を尽くしたものだった。下手に自由な振る舞いをすれば、かえって逮捕の時期を早めてしまいかねない。他人を助けようと躍起になって不自然な行動を続けた挙句、綾城さんの不信感を育ててしまっては目も当てられない。

 

 それで僕は考えあぐねているのだった。

 

 とりあえず、迷っているのなら判断が付くまでは正史通りに振る舞うのが保守的かと思っている。なのでしばらくは正史通りに振る舞いつつ、原作で七原が逮捕される起因となった行動などは廃するスタンスで行こう。

 

 その時々の判断で例外が発生するかもしれないが――それが僕の基本方針だ。

 



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マトリョーシカの最奥
第3話 名探偵・綾城彩花


 夏の寝苦しさと状況の変化に落ち着かず、結局三時間ほどしか睡眠を取れなかった。

 

 翌日、僕は妹の芽衣(めい)に手を合わせ、身支度を整えてから《綾城探偵事務所》に出勤した。

 

《綾城探偵事務所》は那覇市に居を構えている綾城さんの自宅兼探偵事務所だ。周辺にビルの乱立する窮屈な眺めだが、綾城さんはそれを気に入っているそう。僕の住まいも那覇市内なので、マンションからは徒歩十五分ほどで辿り着く。

 

 事務所のほとんどは応接スペースになっている。ドアを開けると窓際に所長のデスクがどんと待ち構えていて、ついで手前のソファーふたつとそれに挟まれたガラスのテーブルが視界に入る。綾城さんは自分のデスクで小説を読んでいた。薄く色の入った眼鏡とボブカット、夏用の黄色いタートルネックといった出で立ち。

 

「おはようございます」

 

「おはよう、七原くん。コーヒーでも飲むかい?」

 

 僕は慌ててコーヒーを淹れた。

 いちいちそういうふうに訊ねるということは綾城さんがコーヒーを飲みたがっているということだし、そういった雑事は助手である僕の仕事だ。

 

「すまないね」と言ってコーヒーを口にする綾城さんは、すらっとした足を組むそのしぐさも含め、とても様になっていた。

 

 僕は《綾城彩花》シリーズの読者だ。言ってしまえば、探偵・綾城彩花のファンである。強い憧憬の的でありながら、フィクションという決して手の届かない存在でもあるところの彼女。そんな綾城さんが目の前に存在しているという事実がなんとも奇妙であり、同時に心躍るものがあった。

 

 昨日は殺人事件のドタバタでそんな気持ちは露ほども抱かなかったが、今更ながら、深い感慨が胸に広がっていく。

 

 と、綾城さんが僕の視線に気づき、本から顔を上げた。

 

「そうまじまじ見つめられると照れる」

 

 か、かわいい!

 顔色の変化などは特になかったが、その一言は僕の男心をくすぐった。

 

 だいたい綾城さん、顔の造りが滅法良いのだ。もちろん原作の描写でも優れた容姿だとされていたし、実写ドラマでは当時売り出し中の美人女優が演じていたのだが、実際の綾城さんの外見はドラマのそれを超えて華があった。それでいてドラマ以上に綾城さんらしい綾城さんなのである。なんだかトリックアートでも見ているみたいに頭のおかしくなりそうな顔貌(かおかたち)だった。

 

 ちなみに七原はそこそこ。

 

「すいません、なにを読んでるのか気になって……」

 

 僕は誤魔化した。そういえば昨日から誤魔化してばかりだ。きっとこれからも誤魔化し続ける人生を送っていくのだろう。

 

「これかい? 『カササギ殺人事件』だよ」

 

「ああ、アンソニー・ホロヴィッツですか」

 

 この世界にもいたか!

 僕はにわかに興奮する。

 

「『メインテーマは殺人』も良かったですけどね、やっぱり『カササギ殺人事件』が衝撃でした……。なんといっても構成を活かしきった――」

 

「ふうん? 詳しいね。だがネタバレはよしてくれよ。まだ上巻なんだから」

 

「あ、すみません」

 

 反省。推理小説は(こと)にネタが命なのだから。

 

 気勢が削がれると、先ほどの饒舌が恥ずかしくなってくる。

 ひとり落ち込んでいると、綾城さんが笑った。

 

「今日の君はなんだかおかしいね。寝不足にはカフェインがひとまず有効だ。君も一杯どうだい?」

 

「あー……いいですよ」

 

 せっかくのお誘いだが、コーヒーは苦手だ。

 

 だけどそれより、さりげなく綾城さんが僕の寝不足を見抜いていたことに感嘆の念を禁じ得なかった。

 

 彼女は単に容姿が良くておまけにかわいいというだけでなく、やはり名探偵なのだ。鋭い観察眼で小さなことも見逃さない。尊敬に値する、この世界の主人公。

 

 これまでに数々の名推理を披露してきた綾城さん。そのすべてを僕はこれから特等席で観賞することができるのだ。

《七原五月》として転生し、その罪を被らなきゃいけなくなったことは災難だけれど、やっぱり《綾城彩花》シリーズの大ファンとしてはこのできごとは素敵な奇跡に違いない。

 

 不条理な目に遭わされる分、役得を期待しておこう。クールで頭脳明晰でひたすらに格好良い名探偵・綾城彩花の活躍が楽しみだ。

 

 ◇◆◇◆

 

「犯人は白間(しろま)鋭利(えいり)だよ」

 

 綾城さんは神様のごとき断定でこの密室殺人事件の犯人を指名した。

 

『緑家晩餐会の顛末』は《綾城彩花》シリーズ第三弾『綾城彩花は謎を遊戯(ゆげ)する』のトリを飾る短編である。短編集のタイトルは、各エピソードにおいて綾城さんがなにかしらのゲームに興じることで犯人を指名するという趣向に(ちな)んでいる。かるたの演出は僕のオリジナルではなく、原作にあった流れだった。

 

 では、時系列あるいは刊行順から言って、次の事件はシリーズ第四弾となる長編作品、『マトリョーシカの最奥』で描かれたあの密室殺人になる。そして現在、僕たちはその事件に巻き込まれている真っ最中。

 

『マトリョーシカの最奥』は、僕もとい《七原》の友人の伝手でとある館を訪問し、事件に巻き込まれるという筋の話である。つまり《巻き込まれ型》のエピソードだ。

 

 その気になれば事件自体を起こさないように仕向けることも可能であり、だからこそ犯人が凶行に及ぶのを知っていながらみすみす見逃さなくてはならないことに歯がゆい思いがあった。

 

 ところが諸々の悔しさやらやりきれなさは、たったいま浮上した問題により吹き飛んでしまった。

 

 それは名探偵の沽券(こけん)に関わることだし、もっと言えばこの世界の成り立ちそのものに関わる重要なことでもある。

 なにより僕自身にとってそれはあまりにも悲しすぎる――転生したら犯罪者だったことよりも失望に値する一大不祥事である。

 

 つまり――。

 

 綾城さん、犯人間違えてますよ?



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第4話 入れ子の館

 少し時間を遡ろう。

 

 七月十日の十五時ごろ。目の前を《ヤンバルクイナ とびだし注意!》という道路標識が通り過ぎる。僕は人気のない森の道路で車の運転役を(つかまつ)っていった。後部座席には綾城さん。前方には案内の車が。

 

《僕》自身は車を運転したことはなかったが、《七原》は自動車免許証を所持しており、ならば運転の作法は身体が憶えているだろうとの判断でこうしてハンドルを握った次第である。

 

 しかし《七原》が親戚から譲り受けたこの車は年季が入っており、だいぶガタが来ていた。つい先日車検に出して帰ってきたばかりなのだが、軽であるにも(かか)わらずかなりの料金をふんだくられ、この先しばらくは素寒貧(すかんぴん)を覚悟しなくてはならない程。次の車検の直前に手放そう。代わりにそれまでとことん乗り倒そう。

 

 とまあそんなボロ車なので、走ればガタガタ揺れて乗り心地は最悪だし、斜面でアクセルを踏み込めばかなり心臓に悪い音を立てるといった具合だった。ボロ車への不安と緊張から過剰に慎重な運転となる。《僕》は性格上運転に向いていないようだった。

 

 助手が無能で割を食うのは綾城さんである。

 いくつかのミスにも目を瞑ってくれた綾城さんだが、それでも事故に発展しかけたときにはさすがに小言を頂いた。

 

 

 

 さて、今回僕らが向かう先は、箱のような外観をした立方体の館――通称、《入れ子の館》である。それが『マトリョーシカの最奥』の舞台。

 

 その名の通り、館は入れ子構造となっている。

 例えば玄関の二重扉。扉の向こうの扉は更なるネストを生み出す。これも、一見そうとは分かりにくいが館の入れ子構造を象徴するものである。

 

 さらに、客人に宛がわれる客室も、それぞれ部屋の中にもうひとつの部屋を有しているという徹底ぶり。

 

 そんな一風変わった館の、入れ子の最奥で起こる密室殺人事件。

 

 こいつがまたとんでもない密室なのだ。扉は内側からしか鍵がかけられず、外側のノブには鍵穴すらない。他に出入口になるような窓や通気口は存在しない。完璧な密室の中で発見される自殺に見せかけた他殺体。

 それがこの事件の謎なのである。

 

 僕はその答えを知っているが――これから無知を装いながら驚いたり悲しんだりしていかなければならない。

 ボロは出ないだろうか?

 

 案内の車を追いながら、僕は憂鬱な気持ちでいた。

 

 嘆息を飲み込んでバックミラーを覗くと、後部座席の綾城さんと目が合った。

 

「なんだか元気がないようだね、七原くん」

 

「そう見えますか? まあ、少し緊張しているのかもしれませんね」

 

「相手はあの大城(おおしろ)龍太郎(りゅうたろう)だからな。頷けるよ」

 

 僕らが訪ねる《入れ子の館》――その主人が大城龍太郎だ。

 

 彼は日本を代表する小説家で、著作の累計発行部数は日本国内に限定しても四千万部を超えている。海外での訴求力も高く、現役の日本人作家としてはもっとも名の通った立場でいる。

 

 ――というのが《綾城彩花》シリーズにおける大城龍太郎の設定。もちろん《僕》の生きる現実には存在しない作家である。

 

 たしか、綾城さんは大城龍太郎のファンであったか。自宅に本棚のない七原がわざわざ友人に《入れ子の館》訪問の同席をお願いしたのは、その辺りに理由があった。

 

《七原五月》としての記憶にある限り、これまでメディアで報道されてきた彼の印象は職人と言って多くの人々がイメージする人物像そのまんまである。つまり厳格で偏屈。とても気難しい性格をした頑固爺。

 

 原作を読む限りにおいても、実際そのような人間として描写されていた。

 推理小説の被害者にするには格好の人物である。ネタバレすると彼がこの事件の被害者だ。

 

 

 

 森の中で車を走らせること約四十分。道が(ひら)け、箱型の建物が見えてくる。どうやら目的地に着いたようだった。

 

 僕は駐車場に車を停めた。が、勢い余る急停止で身体が前方に投げられ、それをシートベルトに(はば)まれる。

 

「……もう二度と君の運転する車には乗らない」

 

 綾城さんはそう呟いて車を降りた。少なくともあと一度は僕の運転する車に乗る破目(はめ)になるのだが、そのことは頭にないらしい。

 

「お疲れさまでした。荷物を預かりましょう」

 

 綾城さんに続くと、案内役の車を運転していたこの館の使用人・駒塚(こまづか)にとろがてきぱきとした口調で言った。

 

 僕は「あ、すいません」とか根暗の名人芸をぶちかましてトランクから二人分のボストンバッグを下ろし、綾城さんの荷物だけ駒塚さんに預ける。

 

 駒塚さん、なあ……。

 

 無言で頷いて館の入口に向かう駒塚さんの背中を追いかけながら、僕は複雑な気持ちでいる。そんな僕の視線に綾城さんが目ざとく気づき、茶化してきた。

 

「おや、七原くん。駒塚さんがそんなに気になるのかい?」

 

「え、そんなこと……」

 

「もしかして、いわゆる惚の字というやつなのかな」

 

「ちょっと、そういう冷やかしやめてくださいよ」

 

「そうかな? わたしにはだいぶ熱っぽく見えたけどね。君の、駒塚さんに注ぐ、視線が」

 

 からかうように言う綾城さん。

 正直、愉快ではない。僕にそんなつもりはないのだ。なぜならあなたが好きだから。

 

 僕が駒塚さんを熱心に見つめるその理由。それは、彼女もまた、この事件における被害者だからである。

 

 

 

 ひとまず用意された客室に荷物を置き、他の滞在者に挨拶をしようという流れになった。

 

 館に入り、玄関の二重扉を抜けると、友人の大城龍二(りゅうじ)が待っていた。エンジン音を聞きつけて駆けつけてくれたようだ。よっ、と言いながら僕に親しげな笑みを向けてきた。

 かと思えば、(かたわ)らの綾城さんに目が行くと、反応を返そうとする僕の存在なんて忘れてそちらに見惚れてしまった。気持ちはわかるがいい気はしない。二重の意味で。

 

 綾城さんが前に出て、右手を差し出した。

 

「本日はご招待いただきありがとうございます。七原くんから聞き及んでいるでしょうが、綾城彩花です」

 

「あっ、どうも。大城龍二っす。じいちゃん――いや、龍太郎の孫の」

 

 ふたりは握手を交わした。

 

「あなたの話は七原くんからよく伺いますよ」

 

 あまり話した憶えはないが。

 

「それと、誕生日おめでとうございます」

 

 そう、今日はこの友人の誕生日を祝うという名目で《入れ子の館》に集ったのだった。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 龍二は頬を紅潮させて綾城さんの手を上下に振った。傍から見ても手に力がみなぎっているのがわかる。そろそろ綾城さんが困惑しかねないので、僕はバッグで龍二を小突いた。

 

「おーい、そろそろ部屋を案内してくれよ」

 

「おっとそうだな。駒塚さん、俺がふたりを部屋に案内するんで」

 

 そう言って龍二は駒塚さんから荷物カバンを受け取った。

 

 僕ひとりなら案内を駒塚さんに任せていただろうに、調子のいいやつめ。

 

 ったく……。

 

 龍二の案内で僕らは用意された客室へと向かった。

 

 ◇◆◇◆

 

 大城龍二は七原の高校時代の友人だ。

 

 どこで「ウマが合った」のかはわからないし、そもそもその表現を用いることが正しいのかも怪しいところだが、あまり友人のいない七原にしてみればなにかとつるむことの多い知人と言えた。まあ優先順位の問題で友人と表現できるといった程度の存在である。

 

 そんなぼんやりとした関係ではあるが、龍二のほうはなんの(てら)いもなく七原を友達と断言して差し支えない存在だと感じているらしい。

 

《綾城彩花》シリーズにおけるふたりの描写を読んだ《僕》にはそのことがわかる。《七原》は知らないだろうが、実際のところ彼は気持ちのいい人物である。《僕》は龍二に好感を持っていた。

 

「――まあ案内って言っても、俺もここに来るのは初めてなんすけどね」

 

 部屋に向かう途中、龍二がそんな伏線を漏らした。

 

「そうなんですか」

 

「はい。この館はまだ建ってから半年も経ってなくて……人が集まるのは今日が初めてなんすよ」

 

「道理で綺麗なわけだ」

 

 と、話しているうちに客室へ到着する。

 

「ここが綾城さんたちの部屋っす」

 

 龍二が()()()()()()()()言った。《気持ちのいい人物》という評は訂正しようかしら。

 

 案内された部屋は、一見して「そこそこ」という評価のそれだった。《緑家》ほどの広さも豪華さもないが、一泊するには充分以上。ただし、《入れ子の館》の特徴はそこにない。

 

 部屋の向こう、ベッドの脇にひとつ扉がある。

 

 それを開くと――。

 

「面白いね、まるで鏡だ」

 

 扉の向こう側は、もうひとつの客室となっていた。

 

 家具の配置が鏡合わせになっており、視覚的にかなりトリッキーである。

 唯一の違いはと言えば、《奥の部屋》には廊下に面したドアがないという点か。要するに、二部屋合わせて「一部屋」と数えるのだ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「ふふっ、《(かがみ)姉妹》の事件を思い出すなあ。ほら、ここにあの双子を並べたら本当に鏡があるようにしか見えないだろう? 思えば、あのシチュエーションで《鏡》姉妹だなんて、あまりにも出来すぎているとは思わないかい?」

 

「たしかに名が体を表しすぎですね」

 

「あの、鏡姉妹って?」

 

 話のわからない龍二が訊ねたので、僕が答える。

 

「ああ、鏡姉妹っていうのは――」

 

 鏡姉妹とは、《綾城彩花》シリーズ第二弾の短編集に収められている『鏡姉妹のトリック』に登場する双子である。

 

 殺人事件の容疑者中、唯一アリバイのない人物が犯人だと疑われるが、綾城さんの華麗な推理によってその人物に犯行は不可能だと判明する。では真犯人は?――という筋の話だ。

 

 ちなみにトリックは、双子の片割れが鏡で自分の姿を映してもう片方のアリバイを成立させ、自由なほうが殺人の実行犯として動いていたというもの。タイトルが思いっきりネタバレになっているうえ、扱われているトリックがあまりにも小粒なので評判はよろしくない。ほとんど語られない短編だ。

 

「へえ! じゃあ、その事件を綾城さんが解決したんすね。まるで推理小説の名探偵だ」

 

「うん、まあそうだね……」

 

 本当に推理小説の名探偵なんだとは口が裂けても言えないな……。

 

 部屋割りについては、本来なら別々に部屋を取るところだが、この通り《入れ子の館》は特殊な構造の建物なので、僕と綾城さんは同じ部屋で寝泊まりすることになった。

 ただし同じ部屋と言っても、もちろん綾城さんが《奥の部屋》で、僕が《手前の部屋》だ。「奥の部屋は、内側からしか鍵がかけられないようですね。さあ綾城さん、どうぞ」と龍二を牽制(けんせい)しながら言うと、睨まれた。犯罪者でも見るような目つきが(かん)(さわ)るが、僕は犯罪者だった。



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第5話 この館の入れ子構造について

 荷物を置いて、それから僕らは客室以外の各スペースを見て回った。その中で、龍二がこの《入れ子の館》に滞在している人たちについて軽く教えてくれる。

 

 原作にあった設定も含めて推理小説の冒頭よろしく登場人物一覧にするとこうだ。

 

 

 綾城彩花  ――探偵

 七原五月  ――助手

 

 大城龍太郎 ――小説家、被害者(1)

 大城龍一  ――龍太郎の息子

 大城龍二  ――龍一の息子、七原の友人

 

 比嘉美津子 ――龍一の姉、漫画家

 比嘉小太郎 ――美津子の夫、シナリオライター

 比嘉小次郎 ――小太郎の息子

 

 大城次郎  ――龍一の弟、建築家

 

 白間鋭利  ――料理人

 

 駒塚にとろ ――使用人、被害者(2)

 

 

 現在はほとんどが自室に待機しているようだが、図書室に向かう途中で大城次郎とすれ違った。

 

 大城次郎は驚くほど透き通る白い肌で、整った顔立ちをした男性だった。髪の毛は金色に染められているが、それが不良みたいな品のない感じにならないのがすごい。壮絶な美少年が大人になったらこうなる、といった雰囲気だ。

 

 彼は確かこの事件の犯人で、建築家だったか。この《入れ子の館》は彼が設計し、建設の段にも細かく指導したらしい。

 

 次郎さんは気さくだが馴れ馴れしくはない笑みで僕らに向かった。

 

「叔父さん」龍二が会釈する。

 

「や、龍二くん。そちらは……初めましてだね。龍二くんの友達かい?」

 

「あ、はい。龍二とは高校のとき一緒で……七原五月です」

 

 相手が人殺し(まだだけど)だと思うとめちゃくちゃ緊張した。不自然に声がうわずったかもしれない。手汗が酷いので、握手は遠慮した。

 

「どうも、綾城彩花です。わたしは――七原くんの雇い主といったところですかね」

 

 ふたりは軽く握手。僕から綾城さんに流れが移って、ひとまずほっと一安心。

 

「僕は大城次郎。龍二くんの叔父だよ」

 

 次郎さんが自己紹介をすると、龍二がひとつ付け加える。

 

「この《入れ子の館》は叔父さんが設計したんすよ」

 

 その口ぶりはまるで自分の手柄であるかのようだった。叔父のことを尊敬しているらしい。先の展開を考えると複雑な気分だ。

 

 一方で綾城さんは興味を持ったよう。目に関心の色が浮かび、声が他人には気づかれない程度に溌剌とする。

 

「へぇ、次郎さんが? どういった意図で入れ子に?」

 

「ああ……僕はマトリョーシカ人形が好きなんだよ。だから意図というほどの意図はないかな。いわばこの構造それ自体が目的だから」

 

「なるほど」

 

 納得しかける綾城さん。いやいや、そんな誤魔化しに納得しないでくださいよ。僕は横から口を(はさ)む。

 

「でも、これって入れ子と言うより単に壁で仕切ってるだけですよね」

 

 僕の発言で、場に沈黙が降りた。

 龍二が「おい」と言って僕の背中を叩き、綾城さんが「すいませんね。今日はちょっと調子が良くないようです」と僕の代わりに頭を下げた。

 

 次郎さんは困ったように笑い、「いやあ、でも確かに七原さんの言うこともご(もっと)もかもしれないな」とこの場を収めた。綾城さんが小声で「ほら」と促したので、僕も綾城さんと同じように頭を下げて謝罪し、次郎さんとは別れた。

 

「おい七原、さっきのはなんだ。叔父さんに失礼じゃないか」

 

「そ、そうだよね。ごめん……」

 

「久しぶりに君に呆れたよ、七原くん。君は大きな失礼は犯さない程度には利口だと思っていたが……買いかぶりだったかな?」

 

《緑家》での僕のイカれっぷりは「呆れ」にカウントされていなかったようだ。なんかちょっと嬉しい。

 と素直に言うのもおかしいので、僕はただ頭を下げる。

 

「すみません……」

 

「しかしまあ、君の言わんとしているところはわかるよ。確かにこの館の構造は入れ子と言うには少し無理がある。それを設計した本人に向かって言うのはどうかと思うがね」

 

 僕がしおらしくしているとフォローを入れてくれた。こういうところ、好き。

 

 綾城さんも同意してくれる通り、この館は入れ子構造を謳っているが厳密には入れ子構造とは言えない。単に一部屋を壁で仕切って二部屋にするというやり口を繰り返しているだけだ。

 

 僕が次郎さんにああもぶしつけなことを言ったのは、そのへんの事情を一度強調しておくことでのちの綾城さんの推理の布石にするためだ。

 

 必要ないとは思うが、なんというか思い立ったら考えるよりも先に口をついて出ていた。どうも僕にはそういう気があるみたいので、これはこの世界での立ち回りにおける今後の課題だと思う。



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第6話 偽善のゆくえ

 そんなことがありつつ、一通り館を見て回った。その中で顔合わせできたのは広間で遊んでいた比嘉小次郎と、厨房にいた白間鋭利と、龍二と相部屋の大城龍一くらいだ。

 

 小次郎くんはまだ小学生。正直こんな森の館に同年代の知人もなく連れてこられたら退屈だろうに。彼は広間にある階段の手すりを滑り台のようにしてひとり遊んでいた。僕が「お母さんに叱られるよ」と脅すも、「うるせーよブス!」と聞く耳を持たなかった。

 

 白間さんはこの時間から調理をしていた。龍二のために、手間のかかった料理を用意するのだろう。原作小説ではやたら絶品ぶりを描写されていたので、楽しみだ。料理人ゆえ髪が短くおてんばな雰囲気を醸し出しているが、話してみるとなかなか人好きのする性格だった。

 

 龍一さんとは高校時代に顔を合わせたことがある。授業参観で話をしたくらいだが。彼は「久しぶりだな! 元気だったか?」と相変わらずの大声で僕の肩を叩いた。痛い。

 僕とのあいだでしばらく久闊を叙し、それから綾城さんに向かった。龍一さんは、綾城さんの自己紹介を受け「龍二も隅に置けないなあ!」とのコメントを残した。

 

 部屋に戻る前に、せめて主人には挨拶をしたほうがいいのではないかと綾城さんが提案したが、龍二が断った。龍二が言うには、龍太郎の部屋を訪ねるなら館を追い出されるくらいは覚悟しなくてはならないとのこと。龍太郎は自室で仕事をおこなうが、執筆を中断されるのを何よりも嫌うため、誰も部屋にいる龍太郎を呼ぶことはしない(あ、ここ伏線ね)。龍太郎の方から自発的に部屋を出るのを待つのみだという。それでも十八時には必ず晩餐の席につくので、不便はない。ちなみに僕はその辺の事情を知っていたので言い出さなかったが、本来綾城さんの提案は《七原》がするはずのものだった。

 

 というわけで他にすることもなく僕らは部屋で待機し、晩餐を待つ。

 

 

 

 十八時、食堂にはこの館の滞在者が白間さんを除いて全員揃っていた。駒塚さんは主人の傍らに立ち、彼の指示がない限りその場を動かない。

 

 僕らは席につく前に簡単な挨拶をした。一部からはあまり歓迎されなかったが――特に美津子さん――それは本来的には部外者である以上仕方がなかった。あくまでも主賓が人の良い龍二だから僕たちは滞在を許されているのである。

 

 俗世的なことにはてんで縁のなさそうな大城龍太郎だが、孫の誕生日くらいは祝ってやるらしい。逆に言えば、そんな日でもない限りこの森に引きこもった偏屈な老人を訪ねる機会がないので、親族らは積極的にこの催しを開くのだそう。

 

 そういった居心地の悪さもさることながら、同じ食卓を囲う被害者と殺人者の姿が、僕を神経質にした。よって楽しみにしていた白間さんの料理は、申し訳ないが味がしなかった。

 

 この中に殺人を計画している者がいる――。本来知りえるはずのない未来のできごとを知っている僕は、このめでたい席の中でもひとり不安との闘いを強いられる。

 ……いや、僕の他にもこの孤独を味わっている人物がひとりいるのか。今回の事件の犯人である大城次郎。彼もまた、これから自らのしでかすことの大きさに戦々恐々としているのだろうか。あるいは――。

 

 とはいえ、基本的に人々は浮かれていた。例えば綾城さんは、僕にあり大城次郎にあるであろう緊張をよそに、非常にリラックスした様子で、顔に笑みを浮かべながら尊敬する大城龍太郎に質問を飛ばしていた。

 

「大城先生の小説はいわゆる純文学とされていますが、ところどころミステリの影響が垣間見えるのは気のせいでしょうか」

 

 髪は総白髪だが、文化的巨人にありがちな偉そうな髭などは一切伸ばしていなく、それでいて眼光の異様なまでの鋭さが未来の古典作家としての存在感を放つ大城龍太郎は、誤魔化しなどせず答える。

 

「そもそも純文学などというものは存在しない。故に私の書く小説も純文学ではない。虫唾が走るので、その言葉は二度と使うな。ミステリの影響については、少なからずあるだろう。ミステリに限らず、若いころは様々な本を乱読したものだ」

 

「……失礼しました」

 

 綾城さんは笑みを崩すことなく言って、さらなる質問を飛ばした。

 

 そのやりとりを眺めていると、「お宅のお連れさん、お父さんに向かって馴れ馴れしいわね。厄介なファンがどうしてこの場にいるのかしら」と美津子さんが皮肉を言ってきた。そのあとで夫の小太郎さんが飛んできて、自分の席に戻った美津子さんの顔色を窺いながら「ごめんね、ごめんね」と繰り返した。原作を読まずとも夫婦の力関係というものがわかる一幕だ。

 

 晩餐開始から三十分以上が経過し、用意された食事があらかた片付いたところで、食堂の照明が落とされた。神経質になっていた僕は身構えたが、事件とは関係ない(推理小説では部屋の照明が落とされると事件が起こる)。陽気な歌声が聞こえてきたかと思えば、小さな灯りと共にバースデーケーキがやって来た。歌声の主は白間さん。例の人好きのする笑顔でケーキを運んできた。白間さんお手製のケーキは《七原》が地の文で評して曰く『甘露(かんろ)の如く』だそうで、正常時に食べることができたなら落ちたほっぺが床を貫通しただろう。

 

 白間さんの歌に一同が続いて――龍太郎は歌わなかったが手拍子はしていた――龍二を祝った。

 

 歌が終わり、「おめでとう」との言葉が飛び交う。龍二が照れながら礼を言って、蝋燭の火を吹き消した。辺りにパラフィンワックスの燃焼する独特の匂いが立ち込める。

 

 ああ、誕生日って感じだ。

 

 照明をつけてケーキを食べた。これも残念ながら堪能できなかったが、情報として『美味しい』ということはわかった。

 

 誕生日に歌にケーキとあって、場は和気藹々とした。

 

 その中で、僕はこれから殺人犯となる大城次郎と、殺人事件の被害者となる大城龍太郎・駒塚にとろの三人にばかり視線が行ってしまう。他の人も僕には興味ないようなのでお互い無関心でいいが、龍二の目までは誤魔化せない。

 

 龍二は「上の空みたいだけど、大丈夫か?」と僕を気遣ってくれた。気遣ってくれるというのは、はた目にも様子がおかしいということだ。

 

 気を付けなければいけない。特に探偵と犯人には。

 

 

 

 晩餐が終わり、部屋に戻って六時間後。日付が変わって少しばかりが経った。

 

 いま寝て起きたらもう事件は起こっているだろう。

 

 どのミステリでも館に潜む下手人(げしゅにん)は人々の寝静まる冷ややかな夜に殺人童貞を捨てる。そしていちど童貞を卒業した程度で「もう俺は《こっち側》だ」とでも言わんばかりに浮かれた犯行を繰り返し、己の大胆さを誇示するのだ。『マトリョーシカの最奥』における大城次郎も、その例には漏れない。

 

 長らく運転していたし、慣れぬ館に逗留するとあって疲労はそれなりに蓄積されているはずだが、事件のことを思うとまったく眠れない。

 

 それもそうか。

 人が死ぬとわかって気楽に安眠などできるわけがないのだ。しかし、決して助けようと考えてはいけない。それには危険が伴うし、未来を予知しているが如きの不自然な行動を取ってしまえば、名探偵の目は誤魔化せない。

 

 第一、僕は人殺しなのだ。助ける命とそうでない命を僕が決め、運命を操ろうだなんて傲慢だとは思わないか? それは偽善と言うんじゃないだろうか。

 

 今日は徹夜を覚悟しよう。

 僕はそう結論づけて、目を閉じる。別に寝ようってわけじゃない。偶然にも眠ることが出来ればいい、なんてダメもとで目を瞑ってみただけだ。

 

 それがいけなかった。

 

 目を閉じると、《助けられない命》だった少女の顔が浮かんだ。

 七原芽衣。

《七原》の殺された妹。

 

「……っ!」

 

 僕は飛び起きる。心臓がかつてない程うるさい。

 

 そうだ。これが仮に芽衣のことだったら。もし芽衣の身に命の危機が迫っていると知っていたなら、傲慢だろうがなんだろうが、僕は四の五の言わずに芽衣のことを助けようと動いたはずだ。もちろんそんなのは仮定であって、現実には芽衣の身に迫る危機に気づくことができず助けられなかった。だが今回の場合、僕はチャンスを与えられているのだ。だというのに、また同じ後悔を繰り返すのか? いや、そうなると知っていながら見て見ぬふりをするのは、芽衣のとき以上に悪質だ。

 

 僕はもう、二度とあんな苦い思いをしたくない。

 

 ――ああ、僕は馬鹿だ。

 

 大城龍太郎を助けたって、駒塚にとろを助けたって、僕にはなんの得もない。殺人を企てる犯罪者と対峙するには、非力なこの身体ではあまりに危険すぎるし、不審な行動には名探偵の追及の手が伸びる。

 

 だが、どんなに理屈をかためても、やはり人としての感情には背けなかった。それに、僕は人の命が失われる悲しさを知っている。

 

 僕は先日打ち立てた基本方針を捻じ曲げることにした。覚悟を決めて、部屋を出る。

 

 僕が殺人犯であるとか、名探偵の目だとかはもうどうでもいい。僕は僕の夢見のために誰かを助けることを肯定する。

 

 なってやろうじゃないの、偽善者に。

 

 ◇◆◇◆

 

 そうと決まれば早速被害者(予定)のもとへ。

 

 駒塚さんの部屋に向かう途中で大城次郎に遭遇したときは心臓が止まるかと思ったが、その場は数時間前の非礼を詫びてすれ違う程度に終わる。やっぱり駒塚さんを殺すために機を伺っているんだろうか?

 

 それから僕は駒塚さんを呼び出し、適当な理由をつけて会話の相手になってもらった。駒塚さんはその表情に困惑を湛えながらも、僕に付き合ってくれた。話を引き出そうと躍起になっていると、彼女が読書好きだということがわかり、図書室へと赴くことになった。大城龍太郎の使用人をしているのは、憧れの作家先生の仕事ぶりを間近で見られる役得に与ることができるからなのかもしれない。

 そう訊ねると、同意の言葉を貰った。

 

「このことは先生には……」

 

「もちろんですよ。この場だけの秘密です」

 

 駒塚さんはほっとしたようだった。

 

 僕は大城龍太郎の著作を読んだことがなかったので、ここぞとばかりに作家としての龍太郎について質問する。

 

 ……こうしていれば、大城次郎の魔手が駒塚さんのか細い首筋に伸びることはないだろう。が、大城龍太郎のほうはどうしたもんか。

 

 そうだった。駒塚さんを見ているあいだは、大城龍太郎のほうがおろそかになってしまうではないか。考えなしに飛び出しやがって、馬鹿じゃないのかお前は。

 

 悩んでいると、図書室に綾城さんが現れた。

 

「やっぱり駒塚さんと一緒だったか」

 

 綾城さんは得心の表情。そして僕の相手で神経を摩耗している駒塚さんに気づき、「あまり強引に押しかけたって相手は引くだけだよ。自分の好意を押し付ける前に、相手の気持ちを慮るべきだ。さ、君は帰った」と僕を図書室から追い出した。どうやら僕が無理を通して駒塚さんを口説こうとしているように映ったらしい。昼の冷やかしは単に僕をからかっただけであろうが、いまや本気にしているのかもしれない。ちょっとショック。

 

 しかし、と僕は考える。

 綾城さんは自身を柵に僕と駒塚さんとのあいだを隔てようとしている。ならば駒塚さんのことは綾城さんが見てくれるだろう。

 

 それならそれで好都合だ。綾城さんは体術にも優れているので、用心棒にはむしろ弱っちい細腕の僕なんかよりぴったりだ。

 

 僕は僕で大城龍太郎のもとへ行くことにする。――だけど、自室にこもる龍太郎を呼びつけたら最悪この館を追い出されるという。それでは元も子もない。

 

 しかたなく、僕は龍太郎の部屋の付近でうろちょろしながら大城次郎を牽制することにした。こうしていれば、大城次郎もおいそれと龍太郎に手を出せまい。

 

 

 

 しばらくそうし、十五分ほど経過したころ。

 

 ――いつまでこうしていればいいんだろう。

 

 そんなことを考え、僕は立ち止まった。

 夜が明けるまで? だが、夜が明けるったってあと何時間までが夜なんだ? というか、何時間もここでうろちょろして、もし龍太郎を守ることができなかったら、そのときはどう考えても僕が犯人にされるぞ。

 

 自分で始めておきながらいささか面倒になって来た。衝動的な行動は長丁場に向かない。

 

 そういえば駒塚さんのほうはどうなっているのだろうか。まだ綾城さんと一緒にいるのかな? 確信は持てないし、あとで見に行った方がいいかもしれない。でもそのときに龍太郎を見るのは……ああ、もどかしい!

 

 と、意識がここではないところに向いたのがよくなかった。

 

 視線が足元に向かい、意識がぼんやりとしたことで、僕は敵に隙を与えてしまう。

 

 瞬間、後頭部に強烈な何かが走った。というのはあとから振り返ったときのイメージであって、その瞬間は何も分からないままただ途絶するのみだった。

 

 つまるところ僕は犯人――大城次郎に襲われたのだ。被害者予定の周辺をうろうろし、犯罪計画の邪魔をしたあげく、間抜けな隙を見せたせいで。

 

 そう、殺人犯から被害者を守り抜くというのはこういうことでもある。

 

 暴力手段の最上級、これから法を犯さんとする者の邪魔をして、どうして僕は襲われないとたかをくくることができるだろうか?

 

 相手はもう四の五の言っていられない状況にいて、腹は決まっているのだ。チャンスはいましかない。だから、当然邪魔者は排除される。

 

 

 

 意識を失う直前、僕の気がかりだったのは、大城龍太郎と駒塚にとろの無事だった。

 



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第7話 入れ子の密室

 目が覚めると綾城さんの顔があった。

 

 最高のシチュエーションだが、喜ぶ暇はなかった。どうしてこうなったのか分からないからだ。しかし、混乱から少しずつ過去を取り戻す。ちょうど《七原》が《僕》として目を覚ましたように。

 

 そうだ、僕は襲われたのだ。

 

 思い出すのと同時に、綾城さんと目が合った。

 

「目が覚めたのかい」

 

「あの! おおし――あがひゃっ!?」

 

 大城龍太郎と駒塚さんの件を思い出して飛び起きると、後頭部がずきりと痛んだ。事件について訊こうと口を開いたところだったが、おかげで言い淀んでしまう。しかしいまの時点で僕が事件について質問するのは不自然なので、これは却って良かったのかもしれない。

 

「安静にしたまえ。君は襲われたんだよ。この館に潜む何者かにね」

 

「何者かって……それに、襲われたってどういうことですか?」

 

 僕は何も知らない演技をして適当に話を合わせる。

 

「憶えていないのかい? まあ無理もないか。いまから三十分ほど前、君が廊下で倒れているのが発見されたんだ。後頭部に大きなたんこぶを拵えた状態でね」

 

「ああ……そうなんですね。道理で……いてて」

 

「良かった、目を覚ましてくれて。犯人は君の命までは欲しくなかったようだ」

 

「《君の命までは》、というのは……」

 

 含みのある言い方に、一抹の不安がよぎる。

 綾城さんでも言いにくいのか、ためらいを見せつつ、少々暗いトーンで切り出した。

 

「大城先生が亡くなられたのだ。自室で、首を吊って」

 

「えっ! それって……」

 

 やっぱりか……。

 

 苦い気持ちが胸に広がる。そして先程までの興奮ぶりが思い起こされ、僕を攻撃した。

 

 なにが助けるだ。なにが守るだ。偽善もまともに熟せないじゃないか、僕は。

 

「現場が密室だったこともあり、自殺と考えるのが自然なんだが……君が襲われたことを鑑みれば殺人の線もなくはない。君が伸びていたのは大城先生の自室付近だったから、おそらく犯人にとって被害者周辺を彷徨(さまよ)う君が邪魔だったのだろうな」

 

「他の方は無事なんでしょうか」

 

「ああ、いまはみな広間に集まって警察の到着を待っているよ。あと二十分程はかかるだろうがね」

 

 どうやら、駒塚さんのほうは無事だったようだ。良かった。本来ならこの時点で駒塚にとろの殺害が行われているはずだが、歴史は変わったようである。しかしまだ油断はできない。犯人にとって、駒塚さんは生かしておいてはならない人物なのだ。よって早急な事件の解決が必須である。

 

「というわけで、事態は殺人にまで発展しているわけだ。……犯人は見ていないんだろうね?」

 

「すいません、見ていないです……」

 

 本当に不意を衝かれたのだ。

 わけもわからぬまま、いま目覚めてすべてを知る有り様。

 

 綾城さんは僕の無能をまったく責めなかった。むしろ、僕を安心させんと笑いかけてくれさえする。

 

「それならそれでいいさ。なに、犯人はもうわかっている」

 

「えっ! もうわかったんですか!?」

 

 なんだこの名探偵。頼もしすぎないか? 原作小説ではもっと解決に時間がかかっていたはずだが、歴史が変わったことで綾城さんの推理に必要なデータが早く揃ったのだろうか? もしかして駒塚さんが現場となった部屋を見たとか?

 

「ああ」

 

 と綾城さんは断言する。格好良すぎる。

 僕は期待のこもった眼差しを綾城さんに注ぎ、次のセリフを待った。『犯人は大城次郎だ』という声がもう聞こえてきたが、脳内の幻聴だった。

 

 だが綾城さんのセリフは、僕の想像を超えるものだった。

 

「――犯人は白間鋭利だよ」

 

 …………はい?

 

 いま白間鋭利って言った?

 

 世界が揺らぐ。

 大地が割れる。

 空が落ちて、海が消えゆく。

 

 あのー……、犯人は大城次郎なんですが。

 

 ◇◆◇◆

 

 回想終了。

 

 なぜか綾城さんがポンコツ化してしまった。

 

 あの絶対的な名探偵であるところの綾城さんが……なぜだ? どうしてしまったんだ?

 僕はとりあえず、白間鋭利を犯人とする根拠を訊く。

 

「なぜ、白間鋭利なんですか?」

 

「簡単なことだよ。首吊りに見せかけて人を殺害するのは、相当骨が折れるだろう。どんなに器用な人間だって、実行の際には必ずもたついてしまうはずだ。そうしているうちに被害者が起きてしまえば、抵抗に遭って自殺の偽装ができなくなる。確実性を求めるなら、事前に被害者に睡眠薬を飲ませるのが無難だろう。そして被害者の食事に睡眠薬を仕込むことが可能なのは――それを用意した白間鋭利に他ならない。故に白間鋭利が犯人だ」

 

 簡単というか雑だった。

 めまいがする。

 

「ええっと……首を吊る前に殺害したのでは?」

 

「それでは自殺の偽装にならないだろう。死因が特定されたら、他殺だとバレてしまうじゃないか。わざわざ現場を密室にするのだって、つまるところ自殺に見せかけるためなんだからな」

 

「なるほど! さすが綾城さん!」

 

 ……あれ、雑な推理に反論したつもりが、普通に反駁(はんばく)されて返す言葉がなくなってしまった。

 

「もっとも、大城先生の死を他殺とするわたしの推理は、そもそもが君が襲われたという事実に起因している。しかしその前提が間違っていたなら――つまり大城先生と君の件がまったく関係のない事件だったなら、大城先生の死が自殺だという可能性は大いにあり得る。というか、そのほうが蓋然性(がいぜんせい)は高いのだ。現場は完璧な密室で、人の出入りする余地などまるでなかったからな」

 

 犯人が出入りしているのなら、完璧な密室などありえない。

 しかしそれは犯行が殺人だと確定している場合にのみ言えることであって、今回の場合はその命題が逆転することによって自殺の可能性が示唆されている。

 

 だが僕はこの事件が殺人だということを知っている。だから、綾城さんの言う「完璧な密室」が間違いだということも知っている。

 

「本当に完璧な密室だったんでしょうか?」

 

 僕はそう問いかけてみる。

 

「ああ、完璧な密室だよ。《奥の部屋》へと通ずるドアは内側にしか錠がなく、外側には鍵穴すらない。錠は単純なサムターン錠だが、つまみは重くロックにはそれなりの力を要する。そして錠はピカピカの新品じゃないかと疑うほど綺麗で傷は一切なかった。つまり、《針と糸》のトリックで施錠した可能性はないということだ」

 

 

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「しかし錠をなんとかする以外にも、密室トリックにはバリエーションがあるでしょう?」

 

「無論、心理トリックだのは無しだ。《奥の部屋》に通ずるドアを蹴破ったのは他ならないわたしだからな。ドアが開かない演技で密室を強調したあと錠を壊して有耶無耶(うやむや)にするとか、実は部屋の中に隠れていて、わたしの目を盗んで部屋から出たとか、そういう間抜けなトリックもあり得ない」

 

 遠まわしに訴えても密室トリックの答えにはたどり着けなさそうだ。

 

 僕は諦める。

 

「まあ、そういうわけで大城先生が自殺したという可能性は大いにあり得る。君が襲われた件と無理やりに結びつけるなら、例えば君を襲った犯人が大城先生で、そのことに罪悪感があったとか犯罪者としての今後を憂いたとかで自殺したといったあたりだろうか?」

 

 僕を襲った犯人は大城龍太郎で、それが原因で自殺する。

 

 これに近い仮説は原作小説にもあった。正確には、駒塚にとろの殺害が大城龍太郎の手によるもので、良心の呵責に耐えられなくなった龍太郎が自殺したというものである。

 

 大城龍太郎の自室(《手前の部屋》)に強姦され殺された駒塚にとろの死体があり、続く《奥の部屋》で大城龍太郎が死んでいたため、そういう推理が飛び出した。

 

 もちろんそれは、犯人である大城次郎が事件を自殺として偽装するために、そう解釈できるよう仕向けた結果である。しかし駒塚にとろの死が回避されたことで、仮説に用いられる人間が僕と駒塚さんとで入れ替わってしまったようだ。

 

 さて、このままでは真相は闇の中。

 

 綾城さんは犯人を間違えるし、そもそも事件が殺人かどうかも現状では怪しいと来ている(原作では綾城さんの華麗な推理によって事件が殺人ということを暴くのだが、この綾城さんには期待できない)。

 

 差し出がましい真似かもしれないが、もう……こうするしかないよな。

 

「あーーっ!」と僕は声を上げる。

 

「なんだい、突然大きな声を上げて」

 

「あの、犯人は大城次郎です!」

 

 叫び声にはさほど驚かなかったが、さしもの綾城さんも突然の犯人指名には面食らったようだ。

 

「え、何を根拠に言っているんだい」

 

「襲撃に遭った瞬間のことを思い出しました! あのとき、大城次郎の顔をバッチリ見たんです!」

 

 実際には見てないが、まあ犯人はやつで合っているのだし、そういうことにしても問題はないだろう。

 

 ◇◆◇◆

 

 僕の指摘によって事件は解決し物語は幕を下ろす――なんてことはなく、普通に大城次郎から反論をされてしまう。

 

 僕は一同の会する広間へ向かった。龍二は僕を見るなりこちらに駆けつけて、しきりに声をかけてきた。かなり心配させてしまったらしい。ひとまず全員を安心させたところで、僕は襲撃犯の件を言い出した。しかし、次郎さんからの反論を受けてしまう。

 

「まず、僕が襲撃犯だという証拠はどこにもない。例えば、そこの七原さんが父を殺害し、疑いを逸らすために襲われたという狂言をしているだけかもしれないじゃないか。僕をスケープゴートにしてね」

 

 その反論には綾城さんが受けて立った。

 

「自分で自分の後頭部を殴りつけた、と?」

 

「例えばの話さ。それに、もしも父が殺害されたのなら、実行の段でなんらかのトリックを使ったってことだろう? 《奥の部屋》は密室だったんだから。なら自分の頭を殴るのだってなんらかのトリックを用いて実行したのかもしれない」

 

「大城先生の死を自殺に偽装しようとしているのに、わざわざ襲われたふりをして殺人の可能性を示唆する意味が分かりませんね」

 

「だから、例えばと言っているだろう? つまり僕が言いたいのはね、七原さんの証言が真実とは限らないってことさ。嘘でなくとも勘違いの可能性はある。第一、父の部屋の近くをうろうろしていて襲われたなんて、いかにも胡散臭いとは思わんかね。七原さんは、なぜあの場所にいたんだい?」

 

「それは――なんとなくで――べつに大した理由は――」

 

「だってさ」

 

 と次郎さんが肩を竦める。容姿の良い次郎さんがやると、ドラマみたいに様になっていた。

 綾城さんもやれやれとでも言うように頭に手を置いた。

 

 次郎さんは、更に追い打ちをかけてくる。

 

「そもそも現場は密室だったんだ。それなのに、僕がどうやって犯行に及んだって言うんだい? 僕が犯人だと糾弾するなら、まずは犯行方法を明らかにしたうえで、僕が殺したっていう証拠を持ってきてもらわないと、ここにいる誰も納得しないんじゃないかな。名探偵さん」

 

 最後の煽りに僕は顔を真っ赤にするが、次郎さんの言うことも、まあ一理ある。彼が犯人であると確信している僕だから納得いかないだけで……。

 

 というわけで、僕らは密室の謎を解かなくてはならなくなる。まあそれは原作と条件が同じだからいい。しかし、この綾城さんに密室トリックの謎が解けるだろうか?

 

 もちろん無理だろう。

 だから、僕がなんとかするしかない。

 

 名探偵のサポートをするのも助手の務めだ。

 

 

 

 僕と綾城さんは現場に赴いた。

 

 大城龍太郎の部屋は僕たちの宿泊する《客室》と同様、中央を壁で仕切られ《手前の部屋》と《奥の部屋》とで分かれている。違いは、《手前の部屋》にそれらしい家具が全然ないことだろうか。あまりにも殺風景。僕は《七原》の部屋を思い出す。しかし異質と言うなら、それは《七原》のほうなのだ。この部屋は館の主人がひとりで使う部屋なので、家具は一式で充分。

 

《奥の部屋》へと通じるドアは開け放たれていて、その向こうには一式分の家具と、大城龍太郎の首吊り死体が。首のロープはベッドの脚に伸びていた。

 

 

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 正直、一分一秒でも長くこの部屋にいたくない。

 

 よって僕は推理をなるだけショートカットする。

 最短距離で真相まで。

 

「なんだか両極端ですね。《手前の部屋》はこんなにも殺風景なのに、《奥の部屋》には家具が揃っていて、おまけに死体まで……」

 

「ユーモアのセンスが上がったじゃないか、七原くん」

 

「いや、ユーモアとかではなく。この部屋は狭すぎです」

 

「確かにな。とても同じ広さに等分されたとは思えない違いだ」

 

「そうだ、綾城さん。死体が発見されたとき、現場にいた人間って誰ですか?」

 

「そうだな……わたし、大城龍一、大城次郎、比嘉小太郎の四人だ」

 

「それ以外の方で現場に立ち寄った人はいます?」

 

「いや、誰も好き好んで死体を見たくはないだろう? それに現場の保全もある。さらに犯人が意図的に手掛かりを隠ぺいする可能性もあるから、容疑者はできる限り現場に入れない方がいいと判断した」

 

 ちょっと苦しいか?と悩みつつ、僕は大胆な提案を試みる。

 

「なるほど……ところでなんとなく思いついたんですけど、いちど容疑者全員を現場に入れて反応を見るのもありなんじゃないかと思うんです」

 

 綾城さんが眉をひそめる。僕はまずった!と思うが、言った言葉は取り消せない。

 

「容疑者全員と言ったって、君が疑っているのは大城次郎だけだろう? 彼を現場に……ってことかい? さっきも言ったが、大城次郎ならいちど現場を見ているよ」

 

「いや、この館の全員を、です」

 

 まあ本来なら駒塚にとろのひとりで充分だが、そこまで限定したら余計に不審がられるのは目に見えている。館の全員というのは方便だ。

 

 綾城さんは口もとに手を当てて考え込んだ。

 

 う……、さすがに不自然に思われたか?

 本当は出過ぎた真似はしたくないのだ。かるたの件もあるしな……。

 

 ドギマギしていると、綾城さんは、

 

「……ああ、なるほど。君の言うことも一理あるね」

 

 意外にもすんなり納得してくれた。

 

 え? こんなに簡単でいいのか……?

 二言三言あるかと思っていたので、下手な言い訳をせずに済んだことに胸をなでおろす。

 あー良かった。

 

 これで事件は解決だ。

 

 

 

 そして、広間の全員に綾城さんが告げる。

 

「いちど皆さんに事件現場に来て欲しいんです」

 

 セリフの途中で大城次郎の反応を窺うと、明らかに動揺した様子で駒塚にとろに視線を投げていた。そして綾城さんになにか言おうと口を開きかけるも、諦めたように項垂れる。それっきり表情は窺えなかった。

 

 代わりに異を唱えたのは比嘉美津子だった。

 

「あたしたちの気持ちは無視かしら。警察でもないのに、遺族に身内の遺体を見せて反応を窺おうなんて、あまりにも無神経極まりないわ」

 

「申し訳ありませんが、事件解決のためです」

 

「でもなあ。改めて現場に集まったって、それでなにがわかるんだ?」

 

 龍一さんがぼやく。

 

「率直に言えば、その時点で事件は解決へ向かうでしょう」

 

 これには広間がざわついた。小次郎くんなど、浮足立った様子で、現場をいまかいまかと待ち望んでいる。小次郎くんは先程からこの調子で、どうやら死体に興味があるらしかった。

 

 事件が解決するとなると、誰も綾城さんのお願いを強く拒めなかった。

 一同で大城龍太郎の自室へと向かう。

 

 さて、ここから先は見ものだぞ。原作小説にはなかったエンディング、新たな解決編。

 決定的な終止符を打つのは――散々ほのめかしてきた通り、駒塚にとろだ。

 

 部屋の中に入ったとき、駒塚さんが声を上げた。

 

「嘘……そんな……」

 

 その声は酷く動揺していて、全員の視線が駒塚さんに集まる。

 

「あ、あの、部屋を間違えていませんか? ここ、客室ですよ」

 

「いいえ、ここが大城先生の部屋で間違いありません」

 

「でも、だって……この部屋、《入れ子》になっているじゃあありませんか!」



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第8話 解決編(2)

 室内は異様なまでの静けさと緊張とで冷えきっており、つい壁にかかっていた温度計に目をやるも、室温はまったく変化していなかった。

 

「――つまり、こういうことです」

 

 綾城さんのよく通る声が響き、霧が一瞬にして晴れるような錯覚と共に、解決編が始まった。

 

「聞くところによると、大城先生は自室にて仕事を行うようですが、しかし他人に仕事を中断されるのを許せないという性癖があったらしいですね。故にこの館において大城先生の自室を訪問する者はなく、部屋の中を見たことのある人間は存在しなかった――ただひとり、この館の使用人である駒塚さんを除いては」

 

 駒塚にとろは使用人だ。この館での雑事は彼女の仕事である。もちろん、部屋の清掃もその範疇に含まれる。つまりその仕事柄、彼女は大城龍太郎の部屋の中を見ているに決まっているのだ。

 

 では、その事実はいったい何を意味するだろう?

 

 先程の駒塚さんの反応がすべてだ。

 

「駒塚さんはこの部屋を見ていたことで何を知っていたのでしょうか。逆に、いままでこの部屋の中を見たことのなかった我々は、何を知らないのか。それは、大城先生の部屋の真の構造です。ではその構造とは?

 ……結論から言うと、大城先生の部屋は他の客室と違い入れ子構造ではなかったのです」

 

 それが答えである。

 

 僕たちに宛がわれている客室は《手前の部屋》と《奥の部屋》とで分かれ、そのことを指して入れ子構造と謳われている。しかし実のところ、館の主人である大城龍太郎の自室はその限りではなかったのだ。大城龍太郎の部屋は他の客室よりも広くとられている。というか、大城龍太郎の部屋と全く同じ構造の部屋をちょうど二等分したのが僕らの客室なのである。

 

 だが、事件発生後に僕らの見た部屋は、実際には入れ子構造となっていた。

 だから大城龍太郎の部屋が入れ子構造ではないと知っている駒塚さんは、あのとき大城龍太郎の部屋を《客室》だと勘違いしたのだ。

 

 駒塚さんの認識と、実際の部屋の構造とが相違するこの不可思議な現象は、どのように起きたのか?

 

 それは――

 

「では現在、この部屋がどうして入れ子構造になっているのか。

 ――それは、犯人が大城先生を殺害した後、部屋の中央を後付けの壁で仕切ったためです。イメージとしては、パーテーションで部屋を仕切るのに近いでしょうか。そしてそれこそがこの密室を形成したトリックだったのです」

 

 つまり《手前の部屋》と《奥の部屋》とを隔てるこの壁は、大城龍太郎殺害の後、この部屋の中央に線を引くかたちで設置されたのだ。

 壁にはもちろんドアがついていて、その錠は最初から鍵がかかっていた。

 

 それが綾城さんの言うところの「完璧な密室」の正体だ。

 

 

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 綾城さんの説明に一同がどよめく。

 

 そりゃそうだ。あまりにも大がかりで大胆なトリック。正直バカミスの部類に入る代物だろう。そんなものを現実で目の当たりにしたならば、その馬鹿馬鹿しさに呆れるか当惑するかでしか反応できっこない。

 

 これには綾城さんも苦笑する。

 

「これまで数々の事件に立ち会ってきたわたしも、さすがにここまで大がかりなトリックは見たことがありません。

 密室を形成するために錠に細工をするのではなく、あとから壁ごと鍵のかかったドアを設置して部屋を密室にする。そのやり方も大胆ですが、下準備として、わざわざすべての客室に入れ子構造を持ち込み、大城先生の部屋があとから入れ子になっても不自然に思われないようカモフラージュするその段取りまでがあまりにも途方もない道のりで、スケールが大きすぎます。

 ところでこのトリックを成立させるためには、この部屋の真の構造を誰にも知られないことが前提条件となります。そうでないと事件発生前後の部屋の構造の違いを見破られ、トリックがあっさりと露見してしまいますからね。もしかしたら犯人は、この事件のなかで駒塚さんにも手をかけるつもりがあったのかもしれません」

 

 駒塚さんの顔が青ざめた。

 綾城さんの指摘はまったくその通りである。

 

「しかし昨夜は間が悪いことに、そこの七原くんが駒塚さんにうざ絡みをしていましてね。一応、わたしがその場を取りなして七原くんを帰しましたが――その後少しばかり話が盛り上がりまして、駒塚さんと一緒の時間を過ごしました。そのため、犯人は結果的に駒塚さんに手を出せなかったのでしょう。

 普通ならその時点で犯行は見送りにすべきですが、うかうかしていたら駒塚さん以外に大城先生の部屋の中を目撃する人物が現れるかもしれません。大城先生の部屋を訪問する者は基本的にいませんが、どのようなイレギュラーがあるかは分からない。だから犯人は、決行をできるだけ早める必要があった。まあ、そうして犯行を強行したことで、結局このように大事な証人を生かしてしまい、トリックが露呈する結果となってしまいましたが……」

 

 綾城さんは皮肉気に肩を竦めた。

 

「さて。ここまで来たらもう犯人の名前は指摘したようなものですね。大城先生を殺害し、このトリックによって密室を形成できる人物はひとりしかいません。それは――」

 

 例によって名探偵的な《溜め》が発動。

 僕らは綾城さんのとっておきに焦らされる。

 

 ……あの、早く犯人を指してくれません?

 

 そう思っていると、綾城さんの腕がまっすぐに伸び、その人差し指がある人物に向けられた。

 

「――この《入れ子の館》の建設に関わった大城次郎さん、あなたです!」

 

 わーーー! かっこいいーーーー!

 

 やっぱ犯人指名はこうでなくっちゃな!

 それにしても綾城さんがポンコツ化したときはどうしたもんかと思ったし、結局のところ僕の《調整》によって事件を解決したようなものだが、それでも名探偵による犯人指名シーンはどちゃくそかっこよくて、テンションがめちゃくちゃぶちあがる。

 

 これこそが僕の大好きな名探偵・綾城彩花だ。

 

 潔いことに、ここで大城次郎は反論などをしなかった。

 ここまで犯行方法が露見したならば、あとはどう言い逃れをしようと無駄だと悟ったのだろう。施工に関わった人物に裏を取れば、部屋の《真の構造》など諸々の事実は確認できる。そうなればこんな密室なんて一瞬で瓦解する。

 

 そんな次郎さんの反応に、甥である龍二は愕然としたようだった。瞳が揺れ、「嘘だろ……」と呆然と呟く。きっと本人によって否定されることを望んでいたのに違いない。彼は叔父である次郎さんを尊敬していたようだから。

 

 綾城さんの活躍に浮かれていた僕は、その反応に襟を正される思いだった。

 

 人が死んでいるのだ。手を下した人間が身内にいるのだ。

 目を輝かせている場合じゃないのだ。

 

 ここからは告白パートだ。

 

「この館は、最初から大城先生を殺害する目的で設計したのですね?」

 

 綾城さんの質問に、大城次郎は素直に答える。

 

「ああ、そうだよ。以前から父は自分の部屋に誰も近づけなかったからね。それで、僕はこのトリックを思いついたんだ」

 

「どうしてこんなにも大がかりな仕掛けを作ってまで大城先生を殺害しなければならなかったのですか? 何があなたをそうさせたんですか?」

 

 綾城さんがその動機を追及する。

 大城次郎は何かを回顧する素振りを見せて、自虐的な笑みを浮かべた。ものすごく魅力的な笑みだった。《あの動機》を裏付けるには充分なほどの。

 

「なぜ父が自分の部屋に誰も近づけなかったと思う? 仕事の邪魔をされたくなかったから? それは違う。僕は父に性的関係を強要されていたんだ。父の部屋の中で」

 

 大城次郎の告白に、綾城さんは二の句が継げないようだった。綾城さんだけでなく、誰もがそう。

 

 原作小説において、駒塚さんの死体に強姦された形跡があったというのは、この動機に起因している。つまり大城次郎は父と性的関係にあったので、精液の採取が容易だった。それを駒塚さんの死体の偽装に使ったのである。

 

 以上の状況から、原作での綾城さんは大城次郎が父・大城龍太郎を殺害した動機まで推理するのだが、今回はデータがなくそこまでは至らなかった。

 

「父の部屋はね、呪われているんだよ。そこにどんな秘密があろうと誰も気づかないし、知ろうともしない。だから僕は、僕の人生に纒わりつくすべての忌みをあの部屋に封印することにしたんだよ。父と一緒にね」

 

 と、『マトリョーシカの最奥』におけるすべてのイベントを回収した絶妙なタイミングで警察が到着した。

 

 大城次郎は素直にお縄につき、事件は幕を下ろした。

 

 ◇◆◇◆

 

 七月十一日。

 

 僕らは苦い気持ちで《綾城探偵事務所》に帰宅した。

 

 館を去る前、綾城さんは叔父と最悪のかたちで別れることになってしまった龍二に思うところがあったのか、とても親身にしていた。そんなことを言える空気では無いので我慢したが、正直嫉妬した。

 

 警察の事情聴取など、しち面倒な手続きで疲れきった身体だったが、最後に運転という大仕事が残っていた。珍しい綾城さんの絶望顔を拝むことができ、得体のしれない恍惚感が全身を駆け抜ける。な、なんだこの気持ちは……。僕はこんなの知らないぞ……。

 

 僕は先日同様に慎重な運転でなんとか無事に綾城さんを事務所まで送り届けることが出来た。

 駐車場に車を停めると、綾城さんもほっとしたようだった。

 

 すべてのエピソードでリスポーン地点となるこの事務所は、忌々しい彼岸の地から帰る現世(うつしよ)の象徴であるように感じられ、安心する。僕は応接用のソファーにどっと倒れ込んで、深いため息をついた。

 

「とんだ一泊二日旅行になったな」

 

 ソファーに倒れ込みこそしないが僕と全く同じ心中であろう綾城さんは、僕のはしたない行為を咎めることなく言った。

 まったくだ、と僕は思った。

 

 こんなことがあと六巻分も起きるのだと考えるとあまりにも憂鬱なので、僕は思考を断ち切り、今日のところはさっさと家に帰って自宅でゆっくり休むことにした。

 

 自宅までは徒歩で十五分ほどの距離だし、後部座席に責任を負わなければならない命もない。僕は安心して車を運転する。

 そしてマンションまでもう少しというところでハンドル操作を誤り、歩道に乗り上げ幹の太い大きな街路樹に車を突っ込んだ。

 

「あ……、が、が……ぃ………………」

 

 幸いにも僕に大きな怪我はなかったが、ボロ車の方はお釈迦。廃車確定だ。

 ああ、車検が終わったばっかりだったのに!

 

 もういちど気絶したかった。



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メタレベルでの幕間(2)
第9話 名探偵の絶対性


 館での件がひと段落つき、僕は休暇を貰った。メンタル的な疲労はまだ抜けないものの、昨日は十五時間も眠りこけていたので、睡眠時間はばっちりだった。これ以上は(やす)もうにも寝めない。

 

 スムーズに起床し、しゃきっとした頭で時間を確認すると、もう昼前だった。

 

 さて、今日は何をしようか……。

 何をするでもなく部屋を見回すと、改めてその殺風景さに思い至る。そうだ。本を買いに行こうと思っていたんだった。

 

 というわけで僕は近所の古本屋に向かうことにした。本当は大型書店へ向かいたいところだったが、しばらくは財布のひもを緩められない事情があった。

 

 古本屋に立ち寄る前に、安い牛丼チェーンで腹ごしらえをした。大盛の牛丼を注文し、勢いよくかっ食らった。しかし想定よりも量が多く――いや、僕の腹に収まる限界値が低く、か――途中で満腹になってしまう。

 

 う……どうしよう。

 どうもこうもない。注文した手前、残すわけにはいかず、僕は残りの牛丼を無理やり腹にかきこんだ。

 吐き気を催しながら、店をあとにする。

 

 

 

 古本屋に来てまず向かったのはノベルスの棚。そこでめぼしいミステリを籠に入れていく。見たこともない作家の名前があると、「もしやこの世界にしか存在しない作家か!?」と胸が熱くなった。単に僕の無知かもしれないが。

 

 文庫のコーナーへ行き、「あ行」から順に背表紙に目を走らせると、途中で「大城龍太郎」の名前を見かけた。

 

「あ……」

 

 冷や水を浴びせられた感覚。

 気持ちの昂揚(こうよう)が一気に冷める。

 

 なんとなく目を逸らし、かといって他の本を探すでもなくただその場に立ち尽くしていると、「大城龍太郎、死んだんだってね」と声がかかった。

 

「えっ!」

 

 急に話しかけられたのと、話題が大城龍太郎だったこともあって過剰なリアクションをとってしまう。

 隣を見ると、黒髪を肩まで伸ばしたパーカーの女の子が立っていた。前髪が眼鏡にかかるほど長い。陰か陽かで言うなら間違いなく《陰》の側にいるであろう雰囲気だった。おそらく高校生。

 彼女は僕の過剰反応に少し驚いたようで、目を丸くしていた。

 

「……なに、もしかして大城龍太郎知らない? すごい有名だし、地元の作家だけど」

 

「いや、知ってるよ。知ってる」

 

「あそう。もしかして死んだのを知らなかった? それでこんなところに立ち尽くしてるのかと思ったけど」

 

「あ、ごめん」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()僕が邪魔で声をかけたのかもしれない。

 

「いや、そういうんじゃないんだけどね。……ところであんた、大城龍太郎の小説は読んだことある?」

 

「まったく」僕は首を横に振る。

 

「ふうん。まあ、見るからに推理小説オタクって感じだもんね」

 

 少女は僕の籠の中身にちらりと目をやった。

 

「でも大城龍太郎ってミステリの影響受けてるっぽいとかよくミステリ読者から名前が上がるけどね。そういうふうに横に広げてったりはしないんだ?」

 

 そういえば綾城さんも確かそんなようなことを言っていたような……。

 この少女もミステリが好きなのだろうか? 僕はなんとなく嬉しくなる。

 

「まあ、そういうこともあるけど。大城龍太郎はたまたま読んでなかっただけだよ」

 

「じゃあこれを機に読むと良いよ。けっこう面白いし」

 

「君は本が好きなんだね」

 

「まあね。とくにミステリが好きかな。おたくと一緒だよ。話しかけたのも、本の趣味がいいなって思ってさ」

 

 少女は顎で僕の持つ籠を示した。

 

「じゃあ、君とは趣味が合いそうだ」

 

「私と趣味が合うだなんて、ろくでもないやつに決まってる」

 

「同感だ」

 

 僕らは笑い合う。

 

 

 

 それから少女とはなんとなくいい雰囲気になり、本棚の隅に寄ってミステリについて話し込んだ。その中で、僕はふと気になっていたことを口にした。

 

「ある日突然、名探偵が謎を解けなくなったとしたら、それはなんでだと思う?」

 

 無論、綾城さんのことだ。

 先日の《入れ子の館》での一件で、綾城さんの推理力が急に鈍るという珍現象があった。それがいったいなんであろうかと疑問に思ってはいたが、考える余裕がなくて保留としていた。

 綾城さんの前でこんなことは絶対に言えないけれど、この少女とは偶然出会い、おそらくこのまま二度と再会することはない。一期一会の相手なので、僕はなんでも訊けるのだった。この際だから、ミステリ談議にかこつけて現状の不可思議についてこっそり相談しようと思う。

 

「あんた、わかってないね」

 

 少女はそう言ってにやりと笑った。先程から生意気な口の利き方をする子なのだが、それが一貫して嫌な感じのしない不思議。たぶん、そのシニカルな態度が妙に板についているからだろう。僕がやったら二言目で殴られる。

 

「《名探偵》ってのは職業じゃない……これはわかるでしょ? 一般的によく言われるのは、名のある探偵に他者がつける称号ってやつかな。――でも、これも実のところ違う。なんも知らん馬鹿がよくメタミスのあらすじを見て『名探偵って自分で言うな!』とかほざくけどね。あれはプロットレベルに分解した《役割》を露骨に表現してるんだよ!

 ……ってああ、正解言っちゃった。そう、正解は《役割》だよ。推理小説において、最終的に謎を解き明かす者の役割を《名探偵》って言うんだ。つまり探偵だろうと刑事だろうと、素人だろうと探偵の助手であろうと、ミステリで最後に謎を解き明かすやつがいたらそいつが《名探偵》なんだ」

 

 これはわりとよく聞く名探偵論だ。だが改めて言葉にしてもらうと勉強になる。

 ふんふん、と僕は少女の話に聞き入った。

 

「より厳密に言うと、《名探偵》ってのはプロットにおける機能を指す。ミステリってのの機能を最大単位に抽象化すると、《謎》と《解明》のプロセスに分かれる。つまり『謎があってそれが解かれる』プロットを人はミステリと呼ぶわけ。

 でも本当にそれだけじゃあただのクイズであって、物語ではないでしょ? だからもう少し機能の単位を小さくすると、《謎》と《解明》のあいだに《推理》が生まれるのよ。まああいだに生まれるというよりは《解明》に含まれるって感じだけど。

 無論なんの媒介もなしに機械的に《推理》と《解明》が生まれるわけはないから、その具象化として――その触媒として《名探偵》の存在が現れる。

 要するに《名探偵》ってのはミステリというもののプロットから必然的に要請された機能であって、役割ってわけ。だから謎が解けない名探偵ってのは《名探偵》じゃない。米のないカレーライスみたいな矛盾した日本語」

 

 なるほどな。つまり謎が解けない綾城さんはすでに《名探偵》ではないってわけか。

 ……いや、僕の《調整》によって最終的に謎が解けているのなら、それは《名探偵》としての役割を全うしているということでは? それともその場合は僕が《名探偵》ということになるのか?

 

 ……ううん、難しい。

 

「ちなみにこの話を現実に敷衍(ふえん)するとさ、《名探偵》ってものの存在はあり得なくなる」

 

「え、なんで?」

 

 話が僕の問題にピンポイントで繋がったため、僕は食いついた。僕の食いつきに少女は気をよくして、更なる饒舌ぶりを見せる。

 

「言ったろ? 必ず謎が解けなければ《名探偵》ではないって。でも現実に事件が起きてさ、それを絶対、百パー、解決できるかって言ったら、絶対の保証はできないわけでしょ? 人間なんだし、間違いはある。それに解決できたとして、それが絶対の真実であるとは、神様でもなければわかりっこない。

 これは実は推理小説内においても言える。……《後期クイーン的問題》って知ってる?」

 

「知ってるよ」

 

《後期クイーン的問題》とは、いわば名探偵の絶対性に疑義を問いかける命題だ。

 

 ミステリにおいて《名探偵》は事件を解決する。僕たち読者は小説の終わりで投げられた《推理》を絶対の解答と見做し、謎が解かれた満足感や余韻と共に、静かに本を閉じる。しかし作中世界において、作中の現実を生きる《名探偵》には、自分の行った《推理》が絶対のものであるかどうかなんてわかりっこないのだ。

 

 もしかしたら《真犯人》が撒いた偽の手がかりをもとに、間違った人物を《犯人》として指摘したのかもしれない。《犯人》が自らの犯行を認めたとしても、それは誰かを庇っているだけなのかもしれない。どんなに完璧な推理をしたって、それに類する不安はどこかで必ず残る。

 僕たちはミステリのお約束としてそれが《正しい正解》と納得することができるが、作中の登場人物たちにとっては必ずしもそうとは限らない。

《名探偵》は自らの推理の絶対性を保証することができない。

 

 フィクションで絶対的に振る舞う《名探偵》の絶対性を揺るがす命題。それが《後期クイーン的問題》である。

 

「じゃあ話は早いね。《後期クイーン的問題》が解消されない以上、いくらフィクションの登場人物だからと言って一概に《名探偵》とは言い切れない。もちろんメタレベルでは《名探偵》の機能を全うしているだろうし、私たちの目線から推理小説の名探偵を《名探偵》と呼ぶことになんの問題もない。でも作中ってのは登場人物にとっては現実だ。現実である以上、《後期クイーン的問題》から逃れることはできない。だから作中のレベルで《名探偵》の存在はあり得ない。

 世の中に探偵小説を謳う作品はごまんとあるけどね、その中に真の意味で《名探偵》を描いた小説は一作もないと私は断言する」

 

 面白い論だが、名探偵を支持するミステリ読者としては納得しがたい。僕は反論を試みる。

 

「でもミステリの世界にはデータが揃えばその瞬間に必ず真相に到達する《メタ探偵》もとい《探偵神》がいるよ。それに、全知全能の神様が探偵役だとか、無謬の探偵だとか、そういった探偵だっている。作中レベルで《名探偵》があり得ないとは限らないんじゃないかな?」

 

「そいつらの場合は、作者によってメタレベルで()()と保証されているだけに過ぎない。メタレベルの私たちと連携があったら、厳密に作中レベルでの《名探偵》とは言えないね。第一、最初のやつなんて《メタ探偵》って言っちゃってるじゃんか。自家撞着(じかどうちゃく)にも程があるよ。

 これは確かに《後期クイーン的問題》を意識したキャラ付けではあるけど、結果行われていることは《名探偵》のパロディであって、つまり《後期クイーン的問題》を露骨に明示化しただけだ。解消ではないかな」

 

 なるほどなぁー……。

 つまり僕が《綾城彩花》シリーズとして名探偵・綾城彩花を追っていたとき、《名探偵》の絶対性は作者によって保証されていた。

 しかし僕が《綾城彩花》シリーズに転生した時点でここは現実となり、作者の保証の及ばない世界と化してしまった。故に綾城さんの持っていた絶対性は揺らぎ、《名探偵》としての機能は失われた。

 それがこの不可思議で危うい現状の正体ってわけか。

 

 ただし、物語のプロットを知っている僕の恣意的《調整》は、いわばプロット通りに物語を展開し登場人物を動かす《作者の恣意》と一致する。つまり《作者の保証》に限りなく近い類似品は僕が提供できるわけだ。その限りにおいて、綾城さんは《名探偵》としての絶対性を一応は確保できる。

 ことによっては綾城さんは《真の意味での名探偵》足りうる初めての存在なのかもしれない。

 

 はあ~……ミステリって奥が深いや。

 

「もしかしてあんたミステリ書き? それで意見を募ってるの? メタミスでも書くわけ?」

 

「いやいや、全然違うよ。そっちこそ普段ミステリとか書いてそうだけどね」

 

「ただの読み専だよ。ま、いまの話がなにかしらの役に立ったなら光栄だ」

 

 それからいくつか言葉を交わし、僕たちは別れた。

 僕は籠に収められた推理小説を購入し、ほくほくで家に帰る。テレビをつけると、地元のニュース番組が大城龍太郎の死を大々的に報道していた。



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暗闇
第10話 解決編(3)


 人生万事(ばんじ)塞翁(さいおう)(うま)、あるいは一寸先は闇ということだろうか。

 

 先日の自動車事故のおかげで(おかげと言うのも変だが)、僕は結果的に更なる大事故を回避することができたのだと気づいた。

 というのは、さきほど綾城さんの手によって事件がひとつ解決した際のこと。

 

 

 

 その事件は《綾城彩花》シリーズ第五作目の短編集『誰が探偵を語るのか?』に収録された『死の配役』という短編で扱われたものだ。『死の配役』は、逢坂(あいさか)(ほたる)という少女が『綾城彩花探偵事務所』に訪れる冒頭から始まる。

 

 僕らのもとにお嬢様然とした客が訪ねてきて、現実に聞くとおかしなお嬢様口調で逢坂蛍と名乗ったとき、僕は「ああ、始まったか」と思ったのだった。

 

 逢坂蛍は、服部(はっとり)進之介(すすむのすけ)という少年を捜し出してほしいと依頼した。

 そのでたらめな名前の少年は、ひと月ほど前から行方不明になっているらしい。それも、自室に多量の血痕を残して。

 床に広がっていた血液は、服部進之介のものでほぼ間違いないという。部屋に残された血痕と服部進之介本人とを直接結びつけるデータが存在しないため、父である服部進太郎(すすむたろう)との親子鑑定による個人特定が行われたが……その結果親子関係が認められ、間接的にその血痕が服部進之介本人のものであると証明された。出血量から見て、服部進之介の生存は絶望的と考えられている。

 

 ちなみに、服部進之介の失踪と同時に幼馴染みである平良(たいら)良平(りょうへい)の行方も分からなくなっており、現在は服部進之介失踪の重要参考人として捜索が行われているとのこと。

 

 以上の事実に、逢坂蛍はある不気味な噂を付け加えた。

 

 もともと両者は演劇部に所属しており、部活動歓迎会の一環として、とある劇を披露した。ところがその劇の台本がいわくのあるもので、噂によれば、登場人物のうちのいずれかが「演じると死ぬ役」であるらしい。服部進之介、あるいは平良良平も、「演じると死ぬ役」を演じてしまったがために失踪したのではないかと学校内でまことしやかにささやかれている。

 

 ここまで話を聞けば、「死人をどうやって捜すのか」という疑問が生まれるかもしれない。確かに死体は上がっていないが、生存は絶望的な出血量。そして、手を下したと思われる少年の失踪、いわくつきの劇。

 

 だが早合点してはいけない。逢坂蛍の話には続きがあった。

 

 そう、逢坂蛍は服部進之介失踪後に彼を目撃していたのだ。

 

 思いがけない死者との遭遇。それが意味するところとは……。

 

 もちろん服部進之介の生存である。

 

 しかし綾城さんが例によってポンコツぶりを発揮し、「まあ彼女の見間違いだろう」などとすべてを疑いに疑うのが本分であるミステリの名探偵にあるまじき世迷言を宣ったので、僕はまたぞろ事件解決の手がかりを揃えるべく奔走しなければならなかった。

 

 まず、事件の真の被害者と犯人を浮かび上がらせる。

 現在は被害者=服部進之介、犯人=平良良平ということになっているが、これは逆である。被害者=平良良平。服部進之介の部屋に拡がっていた血液は、平良良平のものだった。

 

 血液の主と服部進太郎との親子関係は認められている。服部進太郎の子供は、服部進之介以外にありえない。

 

 ――本当にありえないのだろうか?

 

 答えは否、だ。

 

 実は服部進之介と平良良平は取り違えられた子供だったのである。平良良平は服部進太郎の実の息子ゆえに親子鑑定は正しかった。

 ふたりの幼馴染みは、ある時点でお互いが取り違えられた子供なのだと気づいていたが、それを後生までの秘密としてそっと胸に潜めた。結果として、新生児取り違えを利用した人物誤認トリックは成立してしまったのである。

 

 僕は綾城さんに『そしてすべてがFになる』という映画を観せた。これは新生児の取り違えを題材とした家族ドラマだ。Fとはfather、つまり父を指している。この映画を観たことで綾城さんは服部進之介と平良良平の取り違えに気づき、彼の潜伏先を突き止め、事件は解決した。

 服部進之介の目的は、「演じると死ぬ役」の噂を真実にすることで、自分の書いた台本に破格の価値をもたらすというものだった。

 

 ◇◆◇◆

 

 自家用車を失った僕は、長距離間の移動をバスもしくはタクシーに頼るしかなかった。同じ那覇市内と言えど、事務所まで歩くとなると二十分も三十分もかかる。本来論理を重んじる探偵であるはずの綾城さんに、そんな汗や泥の臭いがする仕事はさせられない。僕はタクシーをつかまえた。

 

 冷房の効いた涼しい車内に乗り込み、目的地を告げる。

 

「さすがにプロのドライバーだと安心だな」

 

 しばらく走っていると、綾城さんがタクシードライバーへの称賛――もとい僕への当てこすりを口にした。僕はなにも言えない。

 

 褒められたと思ったのか、五〇代も半ばといった頃合いの運転手が「どうも、ありがとうございます」と嬉しそうに言った。美人が相手なので、喜びも五割増しだろう。

 

 勢いづいた運転手は、更に言葉を重ねる。

 

「この仕事も長いもんでですね、そろそろ二十年になるんです」

 

「へえ。どんな仕事でも、それだけ長く続ければいろんなことがあるでしょう」

 

 綾城さんが運転手に話を合わせる。

 

「それがね、これまでいちども事故に遭ったことがないんですよ。気をつけて運転していますからね」

 

 それは素晴らしいことで。運転手のなにげない言葉でさえ嫌味に感じられた僕は、むすっとしながら窓の外に目をやった。

 

「それはいいね。引き続き安全運転を心がけていただけると、わたしも道路上で発生する多くの不幸に憂慮せず済むから、とても助かりますよ」

 

 タクシーが交差点に差しかかった。

 

「お任せください! これからも安全に気をつけて、お客さんの安心を――」

 

 

 衝撃。

 

 なにもわからないまま僕たちの身体は強烈な遠心力のようなものに支配される。世界が回転し、旋回し、万華鏡のごとく移り変わり――やがて回旋しているのは僕たちなのだというコペルニクス的転回が訪れる。ゆるやかに感じられる一刹那のなか、僕は死を覚悟してギュッと目を瞑った。

 

 極限まで圧縮された時間――それでも、結果は訪れる。アキレスと亀のパラドックスは、あくまでも逆説に過ぎないのだから。

 

 

 

 ……恐る恐る目を開ける。まず確認できたのは、それほどまで車内の被害が深刻ではなかったということだ。少なくとも大惨事という感じではない。交差点の中央で、本来ならあり得ない方向に停車しているこの状況こそ異様だが。

 

 僕らの乗っているタクシーの左後ろに、損壊した軽自動車があった。あれがぶつかってきたのだろう。信号は青だったし、たぶん相手が悪い。

 

 僕ははっと気が付いて、

 

「綾城さん、大丈夫ですか」

 

 と声をかけた。

 

「ああ、無事だよ……」

 

 綾城さんの返事が。僕は心底ほっとする。

 

「だがそれより、彼の心配をした方がよさそうだ」

 

 綾城さんの言葉に釣られて前を見ると、運転手がぐったりしていた。ぶつかりどころの関係か、前の座席のほうが被害が大きかったようだ。

 

「わ! だ、大丈夫ですか!」

 

 僕がパニックになっている横で、綾城さんは冷静に救急車を呼ぶ。

 ……綾城さんが落ち着いた人で良かった。

 

 救急車を待っているあいだ、タクシー運転手や相手方の運転手の具合を確認した。

 交差点のなかにいる僕たちを、腫れもの扱いするように通り過ぎていく車両――そこには奇異の目線が雑じっていて、すさまじい居心地の悪さを覚えた。この感覚、綾城さんにはあるのだろうか。

 

 ほどなくして、遠くからサイレンの音が聞こえるようになる。

 駆けつけた救急隊員によって、ぶつかってきた相手も含めた僕たち四人は病院に運ばれた。僕と綾城さんはたいした怪我がなく、検査をしてすぐに退院できた。

 

 運転手のおじさんは、全治一か月の重傷を負ったものの、命に別状はなかったという。

 

 そこで僕はふと思い出す。

 

 そういえば原作の《綾城彩花》シリーズにもこんな展開がなかったか。

 

 あった。たしか『死の配役』のオチにあたるできごと……綾城さんと七原は、事件を解決したあと、事務所へ帰る途中で事故に遭う。

 後部座席に座っていた綾城さんは無事に済むが、運転手だった七原は全治一か月の重傷を負う。

 

 それが《綾城彩花》シリーズ第五作目の短編集『誰が探偵を語るのか?』の導入だ。

 

 つまり、七原五月という語り部を一時的に失った名探偵の活躍を語るのはいったい誰か?という趣向が施されたのがこの短編集なのだ。

 そのテーマを実現するために、七原は導入となる短編の終わりで、あの運転手のように入院することになるはずだった。

 ところが、先に《僕》が自動車事故を起こしたことでその未来は変わったらしい。代わりに、僕ではなく名も知らないタクシードライバーが怪我を負うことになった。

 

 それは大変申し訳ないとして。

 

 なんというか……ツイてるんだかツイてないんだかよくわからないが、とりあえず喜んでおこうと僕は思うのだった。

 

 あとで悪運のしわ寄せが来ないといいが。



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第11話 叙述トリック

 八月の中旬に入った。先日から降り始めた雨は、まだ止みそうもない。梅雨はとっくの昔に過ぎたはずだが。

 

 沖縄は雨が多く、湿度も高い。せっかく晴れてきたのに、いちど降り始めたら一週間また雨が続くなんてざらだ。買ってきた小説がよれるので、僕はこの気候がうんざりだった。コミックスなんかとくに酷くて、買った翌日には変形し、表紙とカバーが大きくカールする。

 

 その点、古本はそういった過程をすでに経ているのであまり変形しないし、変形してもたいしてお金をかけていないので「まあいいか」で済む。

 

 また明日、古本屋に行くか。

 

 なんてことを考えながら、僕は『次』に向けて気を引き締める。

 時期が八月で、雨のなかのできごとで、『死の配役』の次と言えば、これはもう『暗闇』しかない。

 

 このエピソードは、《綾城彩花》シリーズ中でもかなり異質な形式で描かれる短編だ。

「僕」という人物(僕=七原五月じゃないよ)による一人称小説、と言えばなんの変哲もない普通の短編に思えるが――そうと思わせるのが『暗闇』の最大の仕掛けであり、特異な点なのだ。

 

 実は、ここで言う「僕」とは、語り部の一人称ではなく、主人公の名前なのである。杉下(すぎした)(しもべ)――つまり「僕」という名前の人物を追った三人称小説というのが本当であり、『暗闇』は言わば「一人称小説だと思っていたら三人称小説だった」という、およそ他に類を見ない叙述トリックが仕掛けられた短編なのである。

 

 本来、《綾城彩花》シリーズではその巻で初出の登場人物の名前には必ずルビが振られる。しかしシリーズ中、いや『誰が探偵を語るのか?』中においても『暗闇』のみ登場人物の名前にルビが振られておらず、僕は「おや?」と思いながら、なにか据わりの悪さを感じていたのだが……それがある意味伏線だった。

「僕」という名前に「シモベ」とルビを振れば、叙述トリックが成立しなくなる。だから「僕」にルビを振らなかった結果、作中で表記ルールを統一するために、すべての登場人物にルビが振られないという事態になったのだ。

 

 ここを争点にフェア・アンフェア論争が起こったのはまた別の話。

 

 ちなみに付け加えるなら、杉下僕の性別は女であり、ついでのように性別誤認トリックも付随する(僕の一人称は「私」だ)。

 

 

 

《僕》はこれまで、「謎のトリックを知っている」状態で事件に臨んできた。

 しかし、「叙述トリックが仕掛けられていることを知っている」状態で現実の事件に臨むとは、どういうことだろうか?

 

 わからない。不思議な感じだ。

 

 叙述トリックは通常のトリックと違い、その性質上、作中の人物には認知されない。いわばメタトリックであってレトリックでしかなく、作品内世界を生きる《僕》がそれを認識できるのはあまりにも異例の事態なのだ。

 

 僕の目に叙述トリックはどう映るのか――。

 

 これまでとは一風変わった趣向に、正直、興奮を禁じ得なかった。

 



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第12話 依頼

 よく変わった名前だと言われる。

 

 いくどとなくからかわれ続けてきたこの名前が、小学生のときから嫌いだった。

 

 昔、授業の一環で母親に名前の由来を尋ねたことがある。

 

「私の名前はどういう意味なの?」

 

 母は、なんて答えただろうか――

 

 僕の記憶にはもうない。

 

 

 ◇◆◇◆

 

 

 開いて閉じてをくり返し、傘にかかった雨粒を払う。傘立てに傘を突っ込んで、僕は『綾城彩花探偵事務所』に足を踏み入れた。

 

 綾城さんは例によってブックカバーのかかった本を読んでいたが、ページの厚みからして中身は変わっているようだ。

 挨拶をして、僕は連続で事故に遭遇したことを冗談めかし「もう二度と車には乗りませんよ」と言う。すると綾城さんが本から顔を上げて、ただ一言、

 

「……良かった」

 

 と微笑んだ。

 

「いや、良くないですよ。こっちは散々だったんですからね」

 

 ぼやきながらソファーに腰掛けると、「ぐえっ」、何かを巻き込んだ。腰を浮かしてソファーを見る。そこには携帯を手に横になった(すずり)ちゃんの上目遣い――もとい睨み顔が。

 

「あ、硯ちゃん。いたんだ」

 

 言いながら僕は向かいのソファーに座った。

 

「いたんだ、じゃないですよ七原さん! ごめんなさいでしょ! 普通は!」

 

「ごめんね」

 

「許すかボケ! 死ねよ!」

 

 硯ちゃんは勢いよく上体を起こし、両手で中指を立てて僕に舌を出した。その舌先から飴玉が転がる。ガラステーブルの上に常備している飴玉だろう。慌ててキャッチして、再び口の中に放った。

 

 この少々品のない言動を取る子は名を芥子川(けしかわ)硯と言い、ときどき綾城さんの手伝いをしている。

 まだ高校生だが、先日の『死の配役』の事件でも服部進之介の通う高校に潜入し、劇の台本にまつわる噂話を蒐集(しゅうしゅう)するという活躍を見せていた。

 

 まあぶっちゃけ物語のプロット上におけるサポート役というか、ストーリーの進行にあたって立ちはだかる「この情報をどう手に入れる!?」などといった障壁をなんの説明もなく突破するためだけに配置されたであろう女の子だ。プロットにおける情報面での不自然を隠蔽するための、《名探偵》とはまた違った機能。要するに「忍者だからこの情報取ってこれました」みたいな便利キャラなのである。

 

 もちろん現実の彼女はただの《機能》ではなくひとりの人間だ。

 

 長い金髪にはところどころ黒が交じっており、これもまた彼女の俗っぽい印象に一役買っている。ただし頭頂部を見れば、プリン頭ではないのが分かる。身長は平均より低めだが、平均よりもだいぶ大きなバストがスクールシャツを押し上げていて……童貞には目の毒な子だった。

 

「今日は平日でしょ。学校はどうしたの?」

 

「サボり。でも遊ぶ友達もいないし、暇だからここに来た感じですかねー」

 

「ここは遊び場でも溜まり場でもないよ。一般的には職場というんだ」

 

「いいじゃないですかーお互い暇そうですし」

 

「暇も仕事のうちだよ」

 

「ていうか七原さん雰囲気変わりました? そんなキャラでしたっけ?」

 

 久方ぶりの会話でいきなり核心を突いてくる。おかげで僕は内心冷や汗びっしょりだ。常人ならここでボロが出るだろう。

 しかしそこは僕。即座に最適解を演算し、極めて冷静に切り返す。

 

「は、はあ!? 意味わかんねー! 何言ってんの!?」

 

「え、ええ……。あたしそこまでおかしなこと言いました……?」

 

 当惑する硯ちゃん。その様子に、僕はますます焦りを募らせる。――と、視線を感じ、デスクの方へ目を向けると、綾城さんが読み()しの本を机上に置いてこちらを見ていた。ニヤニヤと何を考えているのか分からない顔。

 

「で、デビューだよデビュー。硯ちゃんだって高校デビューとかしたでしょ?」

 

「そういうのって何かの節目にするもんだと思いますけどね……。まあ、べつになんでもいいですけど」

 

 不審そうなジト目でそう言い、携帯いじりに戻った。

 

 ところで彼女が『綾城彩花探偵事務所』にいるのは、『誰が探偵を語るのか?』において、綾城さんとの掛け合いをおこなうはずの七原五月が不在であるため、その代役として配置されたからだろう。思い返せば、あの短編集は硯ちゃんの事務所滞在率が妙に高かった。

 

 作者の事情というやつに思いを馳せながら、僕は本日『綾城彩花探偵事務所』にやってくることが決まっている少年を待った。

 

 

 

 愛川(あいかわ)(るい)という少年が訪ねてきた。

 

 茶色がかった頭髪。使い込み具合が伺えるが、手入れが行き届いているのか汚れはないスニーカー。少しはだけた高校指定のワイシャツからは、派手な色のTシャツがのぞいている。

 細身で、斜に構えた感じのするなりだが、しかし目だけはまっすぐな印象だった。

 

「うええ、お客さまだ」

 

 と硯ちゃんがソファーから飛び上がってなんとも言えない空間に所在なく立った。硯ちゃんは、サポート役ゆえエンドユーザーとの直のやり取りはない。依頼人を前にするのは初めてである。

 

 おっ、累くんが硯ちゃんの胸をチラ見したぞ。男子なんだなぁ。

 

 僕は累くんにコーヒーを差し出して、綾城さんの脇に控えた。彼は、遠慮がちにコーヒーを一口啜ると、「美味い」と呟いて目を(みは)った。ふふん。コーヒーを作るのがめちゃくちゃ上手いという理由だけで雇われ、月給をもらっている身なのだ、こちとら。

 

 彼は続けて二口三口、喉を湿らせてから、本題を切り出した。

 

「姉を捜してほしいんです」

 

 姉の名は愛川(あい)。彼の言によれば、行方がわからなくなって今日で三日になるという。

 

 失踪の直前、彼女は累くんに次のような電話をかけた。

 

「どこか真っ暗な場所にいる。なにも見えない。助けて」

 

 この台詞から、誘拐なども視野に含めて捜査がおこなわれているが……結果は芳しくないとのこと。

 最後に姉の声――それも助けを求める声だ――を聴いた彼は、強い責任を感じているようだった。警察が捜査をしているにも拘わらず探偵を頼ろうとするほど。まあ焦る気持ちは分かる。誘拐事件では、被害者の生存の見込みは時間とともに大きく減少する。二十四時間が生死の分け目なのだそう。

 

 しかし、そんな彼に対し、綾城さんはドライだ。

 

「依頼となると、それなりの額をいただくことになりますが」

 

 彼女はにべもなく依頼料を提示した。

 一介の高校生では簡単に払えないような額をふっかけた。

 ……わけではない。これはどの依頼人にも提示している標準価格だ。

 

「これが仕事っていうのはわかってますよ。でも、もう少しなんとかならないんですか」

 

「わたしはあくまでも職業探偵であり、慈善活動家ではありません。そして『綾城彩花探偵事務所』に学生料金はありません」

 

 綾城さんの探偵活動はビジネスであって、ボランティアではない。いかに同情すべき事情があれど、それが仕事の依頼である以上、相手の立場や背景で融通を利かせてはならない。

 

 しばらくの押し問答のすえ、累くんは悔しそうに去っていった。

 

「綾城さん、なんだか冷たいですね」

 

「芥子川くんは、貧乏にあえいでいる家庭のために、自分が経営しているスーパーの商品を無償で差し上げるかい?」

 

「えー、あたしだったらそうするかも」

 

 硯ちゃんがそう言うので、僕もつられて可哀そうに思えてきた。累くんは、姉が失踪して気が気でないのだ。

 加えて、僕は答えを知っている――それも、愛川藍がすでに亡くなっていることも知っているので、沈黙を保つことが極悪非道な犯罪行為であるような気にすらなってくる。

 

 だが、放っておいても事件はいずれ解決するのだ。

 

 明日、彼はこのことを杉下僕に愚痴るだろう。そして、杉下僕が答えを引っ提げて『綾城彩花探偵事務所』にやってくる。

 僕はただそれを待てばいいのだ。



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第13話 君

 夜、明かりの頼りない住宅街に、静かに雨が降っていた。ここ数日のあいだ降り続けている雨は、いつになったら止むのだろう。

 

 このあたりは、僕にとって見慣れない場所である。できるだけ人目につかないよう、ひっそりと歩く。

 

 目的地は《シティハイツ与那覇》という一〇階建てのマンション。その敷地に這入り、敷地を囲う塀と建物のギリギリの隙間をくぐり抜け、ベランダ側となっている裏手に回る。本来は人の通るような場所ではなく、また、マンションから投げ捨てられたゴミなどが散乱しているため、好んで通りたくはないが、僕には確固たる目的があった。

 

 ――はたしてそこには死体があった。

 

 誰にも気づかれず、しとしとと雨に打たれる愛川藍の亡骸。このマンション、一階は郵便受けやエレベーターがあるだけで、部屋があるのは二階から。発見はもうしばらく先になるだろう。

 

 僕は死体のちょうど真上に位置する八階のベランダを見上げ、死体と何度か見比べた。

 

 確認したかったのはそれだけだ。僕はマンションを後にする。

 

 

 

 古本屋に寄ると、以前、ノベルスコーナーの脇でミステリ談義に花を咲かせた例の人物と再会した。相も変わらずミステリの棚の前で、立ち読みに耽っている。

 まだ名前を知らないので、ここは便宜的に《古本屋の君》とする。

 

「また会ったね。憶えてる? 私のこと」

 

 と僕は声をかけた。

 

《古本屋の君》は軽く会釈して、

 

「ああ、久しぶり。お互いに行動範囲が狭いね」

 

 と笑った。

 

 ふたりして本棚の前に並び、友人みたく親しげに会話に興じる。

 

「それで、いいミステリは書けたかな」

 

「だから、ただの読み専だって。そっちこそ、趣味のほうで書いてたりしない? ただの読者と言うには、あまりにもよくまとまった探偵観を披露するじゃないか」

 

「私も書いたりはしないよ。でも――そうだな、書いてみたいとは思うかも」

 

「ぜひ読んでみたいな」

 

「恥ずかしいよ。それに、アイディアもないし」

 

「まあ、そこは、なにかの真似事からでもいいんじゃない?」

 

「『占星術殺人事件』でもパクるかな」

 

「いや、いくらなんでもそれは無茶がすぎるんじゃ……」

 

 僕たちは笑いあって、話を終える。会話のために古本屋に来たわけではないので、再び始まることもなかった。

 僕はミステリの棚を物色し、《古本屋の君》は立ち読みに戻った。

 そしていくつかの小説を手に取って、僕はレジに向かう。

 と、その前に、《古本屋の君》に挨拶をしておこう。

 

「じゃあ、私は帰るから」

 

「ああ、うん。気を付けて。このごろ物騒だし。この辺で女性が誘拐されたかもしれないって話、知ってた?」

 

「ありがとう。知ってるよ。でも、私なら大丈夫。ほら、魅力的ってタイプでもないでしょ? 身代金を出してくれるような身内もないしね」

 

 と僕は自虐した。

 



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第14話 僕

 雨が止んだ。久しぶりに気持ちのいい青空を臨める――わけではなく、まだこのあとの空模様はつかめないような曇り空が広がっていた。本来なら、再び降り出すかもわからない。

 しかし今日に限って言えば、僕は雨が降らないということを100%の精度で予想できる――予報では午後に再び雨が降り始めると言っていたが、先を知っている僕の方が正しい。汚れものが溜まっていたので、出勤前に洗濯物を干してきた。

 

『綾城彩花探偵事務所』のドアを開けると、綾城さんが電話をしていた。

 

「――うん、そうか。それはたしかに面白いね。うん、うん、ありがとう。それじゃこのへんにしようか。また」

 

 綾城さんが通話を切ったタイミングで挨拶をする。

 

「おはようございます」

 

「おはよう。ようやく雨が止んだみたいだね」

 

「そうですねー。今日は久しぶりに傘が要りませんでした」

 

「だが、午後からまた雨が降るようだよ。傘がなくて大丈夫かい?」

 

「ああ、それなら――」

 

 大丈夫、と言いかけて、そのセリフはおかしいことに気づいた。まるで未来予知ではないか。いや、ある意味そうなのだけど。

 

「コンビニで買ってくるんで、大丈夫です。いやー、忘れてました。一応天気予報は見ておいたんですけどね」

 

 誤魔化して、念のために近場のコンビニでビニール傘を買った。

 金欠なのに、要らない出費……。

 

 トイレの個室で仕事をサボるとき、出がけに水を流しておくのを忘れるタイプだな、僕は。

 

 

 

 

 

 

 そろそろ来るかなと思って時計を見ていたら、ジャストタイミングで累くんが『綾城彩花探偵事務所』にやってきた。

 そのかたわらには同伴者が。

 

 杉下僕。

 というか。

 

 彼女の姿に目を奪われる。

 肩まで伸ばした黒髪。前髪は眼鏡にかかるほどの長さ。陰か陽かで言うなら間違いなく《陰》の側にいるであろう雰囲気の、高校生。

 そう、彼女は――

 

「君は」

 

 僕が言うと、向こうも気が付いたようで、

 

「あっ! あんた……」

 

 古本屋の! と僕らは声を揃える。

 以前、というかつい昨日、古本屋で会った妙にミステリに詳しい女子高生。

 なんと彼女が杉下僕だったのだ。

 

「奇遇だね。こういうこともあるんだな」

 

 僕くん――いや、杉下くんが面白そうに笑う。

 

「七原くんの知り合いかい?」

 

「ええ、たまたま本屋で顔見知りになりまして……まあ名前も知らない程度の仲ですが」

 

 本当は知っているが、僕はそう答える。

 というか、そうか――彼女が杉下僕か。

 そうとわかって実際に相対してみると、ちょっと拍子抜けな感がある。古本屋で二度も会ったということとは関係なしに。

 原作の記述では、彼女は最後の最後まで性別を明かさない。一人称を明かさない。だが、僕が会っていた杉下僕は最初から女性だし、最初から「私」と言っていた。

 いまさら、「実は彼女、叙述トリックが仕掛けられてるんですよ」と云々されたところで、「はあ、そうですか」としかならないし、ぶっちゃけて言えば、「だからなんですか」という、この一言に尽きる。

 でもまあ、叙述トリックとはそもそもがそいうものであって、だからよく小説の帯に「映像化不可能」という惹句(じゃっく)がついたりするのだ。

 

「で、愛川さんと――」

 

 綾城さんが杉下僕に視線を固定する。

 

「そちらは――」

 

「杉下です」

 

 杉下くんは下の名前を言わなかった。それが、自分の名前が嫌いな彼女の、自己紹介の常である。

 

「――杉下さんね。それで、おふたりはなんの用でこの事務所まで? 昨日もお話したとおり、わたしは報酬のない仕事は一切受けません。それとも、その用意が?」

 

 累くんがなにかを言おうとするのを、杉下くんが前に出て制す。彼女は挑戦的な笑みを浮かべて、

 

「いや、悪いけど仕事を持ってきたわけじゃないんだ。ただ、与太話がしたくてね」

 

「与太話」

 

 椅子の背もたれに凭れかかっていた綾城さんは、ここで姿勢を正した。杉下くんの言葉に興味を引かれたようだ。

 

「与太話にかこつけて、サービス労働をさせようという腹じゃないだろうね」

 

 綾城さんは客人に対する口調ではなく、挑戦を受ける側の口調で喋っていた。

 

「もちろん。だって、愛川藍の行方はもうわかってるからね」

 

「ほう。どうしてわかるんだい?」

 

「推理だよ。あんたも探偵なんだから、推理するんだろ?」

 

「まあ、そうだね。そうせざるをえない状況なら、何度か経験があるな」

 

「なら、いまがその状況だな――」

 

 杉下くんは綾城さんのデスクの前まで寄ると、机上に手をついた。

 

「ゲームをしよう。私は愛川藍の行方を知っている。それを、あんたも推理で当ててみなよ。まさかただのクイズで金を取ったりしないだろ?」

 

「それに興じることで、わたしになんのメリットがあるのかな?」

 

「メリットなんてないよ。ただの知的遊戯だ。面白いからやる。探偵ってそういうもんだろ? ――だけど、そうだな。あんたは一般人の高校生でもできるような推理さえろくにこなせないような探偵がいる、なんて噂が立ったら嫌だろう?」

 

 でたらめな探偵観だが、彼女も理屈で喋ってるわけじゃない。綾城さんを舞台に引きずりおろすため、せいいっぱい駆け引きに出ているのだ。年齢相応のつたなさで、年齢不相応に頑張っている。

 

「面白い。いいだろう」

 

 綾城さんは応えた。仕事と言う建前さえ剥がせば、多少の融通も利くのだろう。

 

「でも、どういうルールなんだい? 思いつくままに愛川藍の行方を推理していけばいいのかな? でも先ほども言ったように、杉下くんの目的がわたしにただ働きをさせることなら、わたしはまんまとはめられたことになるが」

 

「私が愛川藍の居場所を言うから、どうしてそうなったのか、過程を推理してほしい」

 

「過程というか、君の思考を推理すればいいわけだ。なるほどね、わかったよ」

 

 綾城さんは楽しそうに足を組んだ。

 

「で、居場所はどこなんだい?」

 

「愛川藍の居場所は――彼女が住む《シティハイツ与那覇》というマンションだ」

 

「ふむ……」

 

 彼女は顎に手を添えて考える素振りを見せた。

 解けるのだろうか?

 さっきは『一般人の高校生でもできるような推理さえろくにこなせないような探偵』とか煽られてたけど、それがあながち間違いでもないのがいまの綾城さんなのだ。僕の助けなしで推理ができるか?

 

 しかし。

 

「わかったよ」

 

 と綾城さんが余裕たっぷりに言うので、僕は内心驚きでいっぱいだった。

 

「速いね、さすがに探偵だ」

 

「まあ、事件の概要は昨日聞いていたし、その時点で思うところはあったからね。まずあらすじからを振り返ろう。三日前、愛川藍は失踪する直前にそこの愛川くんに電話をかけた。たしか内容は――」

 

『どこか真っ暗な場所にいる。なにも見えない。助けて』

 

「そして現在も行方が知れず、誘拐の線で捜索が続けられている。――だが、これは明らかにおかしいことだよ。『なにも見えない』なんて、どうしてだい? 彼女は携帯電話を使って愛川くんを呼び出したんだろうが、それならダイオード――画面が発光することで、多少は周囲を照らせるわけじゃないか。なのになにも見えなかったなんて不自然すぎるね。この事実が指し示すのはひとつ、彼女は真っ暗な場所にいたわけじゃなくて、目が見えなかった――失明していたのだ」

 

「なるほど、それで?」

 

「もちろんそれで話は終わりではない。ただ単に失明していたというだけなら、その後からいまに至って音信不通なのはおかしい。

 ところで、彼女はどうして失明したのだろう? ただ失明するだけの突発性の病気なら、やはり音信が途絶えるのはおかしいし、たとえば眼球をくりぬかれたのなら、『真っ暗な場所にいる』なんて電話口では言わないよね。

 結論を言えば、彼女は自殺しようとしたのだ。自殺に使用したのは、おそらくメタノールだ。メタノールは服用することで死に至るが、そうでない場合は劇的な視力低下、最悪失明を引き起こすことがある。愛川藍は、自殺のためにメタノールを服用したが、死にきれなかったのだろう。いちど意識が途絶えたものの、彼女は結局目を覚ました。だが、その目は二度と光を取り込まなくなっていた。

 そして、薬品により前後の記憶が混濁した彼女は、自分が自殺しようとしたことも忘れ、混乱し果て――なんせなにも見えないんだからね――愛川くんに助けを求めたんだ。目が見えなくても、電話帳を開いてリストの一番上の人物をコールすることは不可能ではないだろう、あ行の愛川累くん?」

 

 呼びかけられた累くんは苦い表情だ。

 

「だがまあ、電話をかけたあとで、彼女は自分がメタノールの摂取により自殺を図ったことを思い出したのだろう。彼女は再度自殺を図った。だから連絡が途絶えたのさ。まあ、自殺未遂の直後にもういちど自殺を図る話はあまり聞かないが、彼女の場合、目が見えなくなったことで、今後の人生を憂いたのかもしれない。

 さて、では二度目の自殺の方法だが、失明していることからそう難しい方法は取れないとわかる。そして、死体が見つかっていないことを鑑みれば、部屋のなかで死んでいるのはありえない。であれば、おそらくベランダから飛び降りたのだろう。いかにもすぐに発見されそうではあるが、第三者が絡んだ誘拐と目されるこの事件では、ベランダから飛び降りたという可能性は考慮されない。ゆえに、いまだ愛川藍の死体は発見には至っていない。灯台下暗しというやつだな」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 綾城さんはそこまで言って、どうだ? と言わんばかりに杉下僕を見た。

 

 なんだ、綾城さん、やればできるじゃないか!

 

 ここのところ僕の助けなしじゃろくな推理もできなかった綾城さんが、見事な論理で鮮やかに真相を看破するなんて!

 

 累くんは、綾城さんと杉下くんを見比べて、「同じだ……」と驚いたように呟いていた。杉下くんが累くんに事前に話していた推理と綾城のそれが一致していたからだ。

 

 僕は『暗闇』を読んで、綾城さんの推理が正しいことを知っている。

 

 だが、『暗闇』はそこで終わらない。

 

「素晴らしい推理だ」

 

 杉下くんはわざとらしく拍手を送った。

 

「だけど、完ぺきとは言い難いね」

 

「さて、どこに瑕疵(かし)があったかな」

 

「いや、私のミスだよ。前提を伝え忘れていたんだけどね、私もそこまで推理して、愛川を通して警察の人にそのことを伝えたんだが――愛川藍の住む《シティハイツ与那覇》八〇二号室は施錠がきちんとされていたんだ。ベランダへ出るためのガラス戸に鍵がかかっていた。笑われたよ」

 

 

【挿絵表示】

 

 

「なるほど、それじゃあベランダから飛び降りたという推理は成り立たないね」

 

「ところがそうでもない。綾城さん、あんたの推理は完璧じゃないが、それはただ『足りていない』というんであって、『間違っている』わけじゃない。愛川藍は、確かにベランダから飛び降りたんだ」

 

「どうしてそう断言できるんだい?」

 

「死体を見てきたんだよ。《シティハイツ与那覇》の裏まで」

 

「はあ!?」

 

 累くんが声を張り上げる。

 

「なにやってんだよお前。だったら、なんで通報しないんだよ」

 

「お前が、この探偵の鼻を明かしたいって言ったんだろ? 通報ならあとでするから、いいから黙ってろよ」

 

 昨日、綾城さんに袖にされたのがよっぽど悔しかったらしく、綾城さんに目にもの見せたいがために勇んできたようだ。

 

「まあ、そんなわけだから、ベランダから飛び降りたっていうあんたの推理は間違っちゃいない。補足だけど、愛川藍の転落死体は番号が《○○二》号室になっている部屋のベランダのちょうど真下だったし、あのマンションに屋上はない。よって、愛川藍は確実にベランダから飛び降りたと断言できる。

 あんたには、この密室――外に向けて(とざ)された、いわば《逆密室》の解法まで推理してもらう」

 

「ふむ――」

 

 綾城さんは腕を組んで考え込んだ。

 

 愛川藍の行方の謎は、いまやベランダの逆密室の謎へと変わっていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 実は彼ら、綾城さんにぎゃふんと言わせたいのもあるが、自分たちではこの逆密室の謎が解けず、綾城さんに推理させるためにここまで来たのである。

 

 愛川藍がどうして密室を作ったのか、その真意を、その動機が知りたい。そこにこそ自ら死を選んだ姉の、最後の思いが窺えるのではないかと信じて。

 だが、この密室は《真意》を求めると途端に答えが分からなくなる構造だった。

 

 彼らにはきっと解けないだろう。

 

 しかし今日の、名探偵の絶対性を取り戻したかに見える綾城さんなら、原作小説で見せてくれた鮮やかな論理展開でもって真相を解き明かしてくれるんじゃないか?

 

 僕は期待のこもった目で綾城さんを見た。

 綾城さんは不敵な名探偵スマイルを浮かべ、

 

「ふ。なるほどね。この程度の謎なら、わたしが解くまでもないな。あとのことは、助手である七原くんに任せよう」

 

「えっ?」

 

 ぼ、僕?

 なんで僕なんだ。謎の答えがわかるなら、自分で言えばいいじゃないか。

 

 まさかこの探偵、謎が解けないってんで、助手に解答を丸投げしようって魂胆なのか!?

 

 最悪だこの探偵! 僕は、答えを知っているからたしかに解答できるけれど、客のふたりを見ろ。あまりにも突拍子もない発言に意表を突かれて、目を白黒させているじゃないか。

 

「ええ、助手で本当に大丈夫かよ……」

 

 累くんに心配される始末。

 

「あんた、この密室トリックが分かるのか? そこの探偵に無茶振りされてるんじゃないだろうな」

 

 杉下くんまで!

 

 とはいえまあ、心配には及ばない。

 僕は、

 

「わかりました。では僭越ながら、この七原五月がベランダの逆密室のトリックを明かして見せましょう」

 

 高らかに宣言した。

 

「本当かよ……」

 

「無論です! 早速、取り掛かりましょうか」

 

 勢いで言ったが、緊張で喉が渇いてきた。

 原作既読勢として、本来知りえないことまで僕は知っている。言ってはいけないことはないだろうか、頭の中で整理する。



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第15話 解決編(4)

「わかりました。では僭越ながらこの七原五月がベランダの逆密室のトリックを明かして見せましょう」

 

 と僕は宣言した。

 

「本当かよ……」

 

「無論です! 早速、取り掛かりましょうか」

 

 勢いで言ったが、緊張で喉が渇いてきた。

 原作既読勢として、本来知りえないことまで僕は知っている。言ってはいけないことはないだろうか、頭の中で整理する。

 

「この密室のポイントは、愛川藍さんが失明しているところにあります。目が見えない以上、彼女にあまり器用な真似はできません」

 

「そうだね、それがこの密室の不可能性を際立たせている」

 

 綾城さんが合の手を入れる。

 あんたは助手に推理を丸投げしたんだから黙ってろよ!

 

「そしてもうひとつは、彼女に密室を作る必要がないということです。本来、密室とは被害者を自殺に見せかけるために形成するものです。自殺である以上、わざわざ密室を作って不可能犯罪ならぬ不可能自殺を演出する理由も必然性も、彼女にはありません。よって、この密室は故意に作られたものではなく、偶然の産物であると推測できます」

 

「じゃあ、なにか。ガラス戸を強く締めたらその勢いで錠がかかったってことか?」

 

 累くんが言った。

 

「いえ、そうではありません。まだ、別の可能性が残っています。――累さん、あなたはお姉さんの部屋を見たことがありますか?」

 

「あるよ。それがなんだよ」

 

「部屋は綺麗でしたか?」

 

「まあ、整頓されてたよ。いや、綺麗ってより、あんまり物がなかったな」

 

「では、趣味はなかった?」

 

「いや、読書が趣味だった。びっくりするほどの本の虫だったしな……」

 

「充分です。これで鍵は揃いました」

 

「姉貴の部屋の様子が、この密室に関係あるのかよ」

 

「部屋の様子は密室に関係ありませんが、密室を解くためのデータにはなります。いいですか、密室とひとくちに言っても、そこにはさまざまなバリエーションがあります。まず、鍵がかかっているパターンと、実はかかっていなかったパターン。

 前者は物理トリックで、錠に細工したとか、針と糸を活用して施錠したとか、実際に出入口に仕掛けを施すものが多いです。最近だと、部屋を仕切っていた壁が実は後付だった、なんてものもありました」

 

「おい、それってネタバレか? ネタバレはやめてくれよ。けっこう面白そうなトリックじゃないか」

 

 杉下くんが抗議するが、小説ではなく実際の事件だ(いや、小説か)。しかしなんとも言えず、僕はスルーを決め込む。

 

「――続いて後者。こちらは心理トリックが主となるでしょうか。部屋の中に最初から隠れていて、みなが部屋に入ったタイミングを狙い、さりげなくたった今合流したかのように装うとか、部屋の錠がかかっているふりをして、ドアを破って有耶無耶にするなど。この場合、出入り口に細工はない場合が多い。

 そして、今回の事件は分類としては心理トリックにあたるでしょう。なぜなら愛川藍さんは目が見えないので、物理トリックを仕掛けようがありませんからね。

 では、なにが起こったのか。答えはシンプルです。

 彼女は目が見えないなりにベランダへ出るガラス戸を探り、開け、ベランダに出て、飛び降りた。これだけです。これで密室が完成したんです」

 

「なにを言ってるのかわからないな。それでガラス戸の錠がかかるわけないだろ。そもそも、ガラス戸を閉めたかもわからないじゃないか」

 

「ですが、先程も言った通り、愛川藍さんに密室を作る必要はありませんし、目が見えないゆえ、難しいことはできません。彼女は素直に飛び降りたはずです。

 しかし、密室は作られた――いや、厳密に言えば密室は作られていないんです。累さんのおっしゃる通り、ガラス戸は閉められてすらいないのかもしれません」

 

「じゃあ――」

 

 なおも食いかかる累くんを、杉下くんは止めた。

 真相に気づいたのだろう。

 

「実現された不可能犯罪は、不可能犯罪ではありません。また、不可能性の密室は、実際の出入りがあった以上密室ではありません。それは、あくまでも事象の表向きしか知らない人間の解釈にすぎない。開かれていた空間をそうでないと思い込んだ人間の頭の中にのみ、密室という幻想は生じるのです」

 

 いささか観念論めいてきたため、累くんが胡散臭そうな表情をしている。煙に巻くつもりは毛頭ないので、僕は答えに切り込む。

 

「結論を言いましょう。愛川藍さんは、部屋をふたつ借りていたんです」

 

 あっ――と声が上がった。

 累くんの声だが、それだけじゃない。綾城さんを見ると、「あっ、そうか」などと合点がいったような表情を浮かべていた。僕はもう、気にしないことにした。

 

「愛川藍さんが部屋をふたつ借りていたのは、物置として利用するためです。おおかた、大量の本をそちらにでも置いていたのでしょう。だから部屋が整理されていたのです。そして、彼女がメタノールによって自殺を図ったのは、物置の部屋であり、最終的に飛び降りたのも、その部屋のベランダだった。当然、錠はかかっていません。

 錠がかかっていたのは、あくまでも彼女の《住んでいた方》の部屋であり、実際に飛び降りた部屋ではない。外野が愛川藍さんの転落死体と実際に暮らす八〇二号室とを結びつけて解釈したとき、密室は生まれたんです。いわば《密室ならぬ密室》が、この《逆密室》の正体だったのです」

 

 僕は、説明を終えた。

 本来の僕が知りえていないようなことは、言わなかったはずだ。きちんと推理を装えていることを願う。



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第16話 私から、読者の皆さまへ

 

 僕の通報により、愛川藍の死体は発見された。僕が愛川藍の死体を事前に確認したうえで、いったん通報を保留した件は、当然伏せておいた。

 また、密室の件についても『綾城彩花探偵事務所』で繰り広げられた推理により説明はついた。

 こうして愛川藍失踪事件は、単なる自殺騒動として幕を閉じた。

 

 ◇◆◇◆

 

 これで『暗闇』は終わりだ。原作では、杉下僕が《綾城彩花》シリーズに再び登場することはなかった。

 だけど、物語が閉じたあとも人生は続く。小説の終わりのページの後も、関係が消失することはない。

 

 僕はまた古本屋に寄った。なんとなく、杉下くんに会いたいと思ったからだ。

 

 ノベルスのコーナーで、杉下くんは相変わらず立ち読みをしていた。

 

 彼女がつねに古本屋にいるのは、家に帰りたくないからだ。原作小説で、僕は彼女のバックボーンを読んでいる。

 杉下僕は親の虐待を受けて育った。彼女はシャーマンの一族の生まれだった。悲劇は、杉下僕が女として生まれたこと。杉下家は男系だったのだ。杉下僕の父は、長男であるにも拘わらず家督を継げず、その怒りを幼い杉下僕にぶつけた。それは、現在も続いている(ちなみにこの突飛な設定は、「一人称と思っていたら三人称だった」叙述トリックを成立させるための伏線として、地の文に杉下僕以外の人物の心の声を記述するのに不自然さを抱かせないよう、「シャーマンの血筋を引いているから心の声がわかるんです」という読者への言い訳として設定されたものだ。もちろん彼女にそんな能力はない)。

 

 この場所は彼女にとって唯一の逃避先。だから、長時間の立ち読みくらい許してあげてほしい。

 

「やあ、杉下くん」

 

「七原さん、先日はどうも」

 

 杉下僕は丁寧に本を閉じて棚に戻したが、その目がページ数をしっかりと確認していたのを僕は見逃さなかった。

 

「前に推理ができなくなった探偵がどうとか言ってたけど、まさか探偵の助手をしていたとはね。もしかしてその探偵って、彼女のこと?」

 

 げ。そういえばそんなことを言ってたんだった。僕は首を横に振る。

 

「いや、違うよ。綾城さんは立派な探偵だよ。これまで多くの事件を解決してきたすごい人なんだ」

 

「でも、密室の謎を七原さんに丸投げしたぜ」

 

「それは、探偵の助手としての修行の一環だよ。本当、あの程度の謎なら綾城さんにはわけなかったんだ」

 

「まあ実際、助手のあんたにも解けたわけだからな。私にゃ解けなかったから、完敗だよ。愛川からあの探偵の話を聞いたとき、なんか私までムカついて『目にもの見せてやる』って事務所に乗り込んだのにね。でも、いまにして思えばあの探偵もそんなに悪いやつじゃなかった」

 

「もちろん、綾城さんはいい人だよ。ただ、仕事である以上は責任と言うものがあって、簡単にただ働きをするのは――」

 

「そうじゃないよ。あの探偵――最初から手を貸すつもりでいたんだ」

 

 ほう?

 それは原作小説には描かれていなかった説だ。

 

「私が愛川藍の居場所を伝えてから、彼女が推理するまでの間がほとんどなかったの憶えてる? あのときは、『昨日、事件のあらすじを聞いた時点で思うところがあったから』なんて言ってたけど、愛川を事務所から追い返してその後ノータッチでいるつもりだったなら、事件のあらすじをちょろっと説明されたくらいであそこまで推理を固めたりしないだろ」

 

「なるほどね。でも、本当に推理が速かっただけなのかも」

 

「いや、それだけじゃない。事務所に行く前に私が《シティハイツ与那覇》まで愛川藍の死体を確認しに行った話、しただろ? あのとき実は、マンションの裏手の地面に足跡があったのを見たんだよ。その時点ではこの足跡がどう事件とどう関わるのかなんとも言えなかったし、硬めの土だったから、もしかしたら愛川藍が落ちる前からあった足跡なのかもしれないと思って話さなかったけど――あれはあの探偵の足跡だったんだな」

 

 げげげっ!

 それ、僕の足跡じゃん!

 杉下くんが事務所を訪ねてくるのは知っていたし、もし推理対決が始まったときに、綾城さんが僕に水が向けてきてもしっかり答えられるようにしておこうと、前日確認に行ったのだ。

 

 まさか、足跡を残していたなんて!

 

 僕、まじで業務中のトイレサボりできない人間だな……。

 犯罪などもってのほか。

 

 でも、杉下僕はあれが綾城さんの足跡だと思っているようだ。

 

「あの探偵も、自分の推理の確証が欲しくて実際に現地に足を運んだんだろう。そして、探偵としてではなく、ただの一般市民として警察に通報する用意をしていたんだろうな。そこに私らが来て、話をややこしくしてしまったのかもしれないけど」

 

 ……なんか勝手に解釈してくれている。

 

 よし、誤解は解いておかないでおこう。

 

「まあ、なんだ、だからその、改めて礼を言っておくよ。綾城さんにも、あんたにも。

 ――ありがとう」

 

 照れくさそうに言う杉下くん。僕は、素直に受け取った。

 

「どういたしまして」

 

「そうだ。あんたにはまだ、私の下の名前を言ってなかったっけ。恩があるっていうのに、失礼だったな。私の名前――僕っていうんだ。僕って書いて、シモベ。変だろ? 嫌いなんだ、この名前」

 

 彼女が嫌いな下の名前を教えてくれるというのは、信頼の裏返しだろう。秘密を打ち明けてくれたことに、僕は嬉しくなる。

 

「教えてくれてありがとう。お礼に、私からも。実は私、ゴガツって名前だけど、本当は五月って書いてサツキって読むんだ。でも、妹の名前が芽衣でさ、ほら――」

 

「ああ、トトロ」

 

「そう。トトロ姉妹ってからかわれるのが嫌で、ゴガツって通してたんだ。そしたら、そっちが本当になっちゃった。だから、私も自分の名前が嫌いなんだよ」

 

 僕は《七原》の秘密を打ち明けた。

 そのことで、なんだかお互い、より打ち解けた雰囲気になった気がする。

 

「なんか、私らって似たもの同士なのかもな」

 

「そうだね。なんというか、すごく波長が合うかも」

 

 僕たちは笑い合った。




お読みいただきありがとうございました。『暗闇』編終わりです。

上手く書けていなくて不発に終わったかもしれませんが、「序盤で叙述トリックのネタばらしをすることが発動のきっかけとなる叙述トリック」を仕掛けてみました。
成功していればかなりテクニカルですが……どうでしょう。これ前例あるんですかね?
この叙述トリックにオリジナリティ溢れる名前をつけてあげるとするなら、そうですね……

『術式開示』

とかどうでしょう!

それでは、次のエピソード書き溜めに入りますので、お待ちいただければ。そろそろメインストーリーのほうも動かしていきたいと思います。


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(おまけ)本当の『暗闇』

今回のエピソードの元ネタになった短編版『暗闇』を置いておきます。
高校生のときに書いた短編なので、直したいところ山ほどありますけど、そのまま掲載します。


 強烈な不快感が彼女を襲った。まるで二日酔いを極限まで酷くしたような……。まぶたを開くと、そこは真っ暗な場所だった。

 

「ぁ……」

 

 なんとか絞り出すことができたのはそんな掠れた声。もしかしたら何日も眠っていたのかもしれない。彼女はそういった知識に明るい方ではないが、体の感覚と、わずかな知識と知識で組み立てた直感でそれを悟った。

 

 光のない場所で、彼女はわけがわからなくなる。

 自分がここにいる理由。眠っていた理由。そして最後の記憶。

 最後の記憶で彼女は、家にいた。そこから先が曖昧だ。おそらく、その時自分は何者かに襲われここに幽閉されたのだろう。

 理解すると同時に、恐ろしくなった。

 人はわからないことに恐怖すると言うが、自分の死を意識せず、鈍感なまま日常の平行線で迎える最期と、死を宣告され、直前までそのことを意識させられた最期とでは、後者が圧倒的に残酷な終わり方のはずだ。

 

 死の予感を照らし出す暗闇で、彼女は声を張り上げた。

 

 

 ◇

 

 

 主人公が「僕」と言う一人称を使う小説が、僕は苦手だった。「僕」とは本来、あまりいい意味ではない、自分をへりくだって使う一人称だ。好き好んで「僕」と言う主人公の気が知れなくて、だからそんな小説を読んでいると背中のところがむずむずしてくる。

 書店にやって来て、手に取るのは「俺」や「私」などの一人称小説ばかりだ。もちろん僕の本棚に「僕」と言う一人称の小説はない。

 一応、僕にもたくさんの小説を自由に読みたいという思いはある。「僕」が一人称の小説だって、本当は読んでみたい。だけど、こればっかりは僕にはどうしようもできなかった。気合いで解決するような問題じゃないのだ。「僕」。その単語が目に入ると、体が拒絶反応を示すから。

 

 もっと、自由な読書生活を送りたいのに──。

 

 僕がそんな思いの丈を語ってみると、今まで黙って聞いていた累がようやく口を開いた。

 

「それで?」

 

 僕と累しかいない教室に、沈黙が訪れた。

 累は実につまらなさそうな顔で僕を見つめていた。火傷しそうなくらいに冷たい視線だった。

 

「それだけだよ」

「あっそ」

 

 ため息混じりの言葉。僕は、ゾッとするような寒さを覚える。

 

「どうしたんだよ愛川。今日は一段と冷たいじゃないか」

 

「どうしたもこうしたもねえよ、杉下。俺はそんな下らない話を聞くために放課後に呼び止められたのか?」

 

「そうだよ」

 

 僕がそう言うと、累はなにも言わずに立ち上がった。

 そして教室を出ていって、僕に「戸締まりよろしく」と言う。鍵は、僕の机の上にあった。

 

「ああ……」

 

 面倒だが、戸締まりは最後に教室を出た人間が行うのがルールである。僕はそのルールに従い、すべての窓のクレセント錠を確認し、後方のドアを閉め、電気を消して教室を出た。そして引違戸錠の鍵を下ろし、人気のない廊下を歩いていった。

 

 僕がいちいち累を引き留めたのには、もちろん理由がある。少しでも長い間、教室にいたいという思い──いや、家に帰りたくないという思いがそうさせたのだ。

 

 

 

 僕はそのあと、いつも通っている書店で時間を潰した。時間を潰すため読んだ本のなかに、主人公が「僕」という一人称の本はもちろんなかった。

 

 時間を潰すと、僕は家に直帰した。足取りは重く、夢のように不確かだ。

 

 ペンギンみたいにちまちまと歩いていると、何者かに声をかけられた。

 

「杉下先輩。こんばんは」

 

 徹だった。野球部のユニフォームを着て、胸一杯に氷の入った袋を担いでいる。そういえば、学校の製氷機が壊れていた。どうやらその期間だけ雑用を任されることになったようだ。

 

「やあ、徹くん。こんばんは」

 

 僕が名前を呼ぶと、恭しく頭を下げた。可愛い後輩である。

 

「家に帰るところですか?」

 

「そうだよ」

 

 答えると、徹はたちまち眉をひそめて悲しげな表情を作った。

 

「杉下先輩。今からでもうちに来ませんか?」

 

 うちに来ませんか、とは、つまりうちに住みませんかということだ。彼が僕にそこまで言えるのは、徹が僕の従弟だからである。

 

 杉下徹。それが彼のフルネーム。その彼が僕を「杉下先輩」と読んでいるのは、自分の名前が嫌いな僕を慮ってことのことだった。そうでなくとも僕という名前は変わっているから、気の置けない仲だって僕を下の名前で呼んだりしない。

 唯一僕を下の名前で呼んだのが累だった。「下の名前では絶対に呼ばないでください」という変わった自己紹介で教室の空気を悪くしてしまった僕に、累はその名前を連呼した。おかげで僕は新学期早々教室でゲロをぶちまけた。

 

「ありがとう。でも、迷惑はかけられないよ。それに、こうなったのも全部自分のせいだから」

 

 肩を竦めてみせる。

 

「杉下先輩のせいじゃありませんよ。俺がいなければ……」

 

 と、そろそろ空気が重くなってきた。それに何度めの問答だろうか。さすがの僕も飽きた。

 

 僕はずれてない眼鏡の位置を直す素振りをして、話を無理やり終わらせた。

 

「ま、いいじゃん。徹くんも、早く行かなくていいの? 先輩に怒られるんじゃない?」

 

「あ、そうでした! すいません。さようなら!」

 

 器用に片手で氷を抱き上げて、徹は僕に手を振って走り去っていった。

 

 僕は笑って見送っていたが、徹の姿が見えなくなると無表情に戻って家までの道のりを歩き始めた。

 

 十分ほどで家についた。

 

 玄関のドアを開けると、静かに家のなかに入った。「ただいま」と言うと怒られるからだ。一人前に「ただいま」なんか言いやがって、まるで家主のようじゃないか、と、確かそんな感じの理由だった。

 

 帰宅すると、僕はまず家事に没頭する。それが僕の役目であり、また、その間は誰も僕の邪魔をしないから。僕はできる限り丁寧に、長く作業をする。

 僕の両親は家族間に徹底的な上下関係を敷いている。親は絶対君主であり、僕は奴隷にも似た従者。毎日こき使われ、暇なときに殴る蹴る……。要するに僕は家事からストレス発散の手伝いまでなんでもこなす手頃なサンドバッグというわけだ。

 

 心休まる瞬間なんて一時もない。寝ることもできない。寝ていたら、その間なにをされるかわかったもんじゃないからだ。なにより、主が起きているときに寝る従者なんてこの世に存在していいはずがない。

 だから、僕にとって学校とは唯一心の休まる場所なのである。

 

 

 ◇

 

 

 彼女の声はどこにも響かなかった。喉は、長らく使っていなかったのか弱々しい上、なぜか体に力が入らない。

 出てきたのはせいぜい、「……ぁぁ…………あ……ぁ…………ぁ!」なんて掠れた声。助けを呼ぶにはあまりにも、弱すぎる。

 

 暗闇は晴れなかった。代わりに、さらなる絶望が訪れた。

 

 さきほどの彼女の声を聞き付け、犯人らしき人物の足音が近づいてきた。

 足音が彼女の前で止まると、突然体に衝撃が走った。

 小さく声を漏らして体は転がっていく。怒号が彼女に飛んできた。その声には聞き覚えがあった。

 しかし、彼女の頭にあったのは犯人の正体ではなかった。犯人の目星なんて最初からついている。そんなことより真っ先に頭に浮かんできたのは、この暗闇のなかで、どうやって犯人は正確に自分を蹴りあげたのだろうという疑問だった。

 

 

 ◇

 

 

 嫌な夢を見ていた気がする。

 

 僕が勢いよく上体を起こすと、授業中だった。

 

「いいところで起きたな。杉下、この問題を解いてみろ」

 

 妙に髪の毛が盛り上がっている教師が笑っていた。

 黒板の真ん中から右寄りの箇所を示している。そこで見たこともないような数式が踊っていた。

 

「わかりません」

 

 と正直に僕は答えた。

 

 授業中に堂々と寝ているはずなのに、なぜか黒板の難しい問題をさらりと解いてみせて教師を悔しがらせる、なんてシチュエーションが本当にこの世に存在するのかはたして疑問である。

 

 僕にはとても真似できない。

 

 学校は寝床という認識で、帰宅しても勉強なんてしない僕の成績は当然ながら悪い。赤点の常連である。そのため、夏休みはよく補習で学校に呼び出されていた。まあ、一秒でも家にいたくない僕にとっては好都合だが。

 僕があまりにも堂々とわからないと言うものだから、教師もクラスメイトも気をよくして笑った。教室が爆笑で包まれた。累も「ばーか」とでも言いたげな顔で笑っている。

 

 僕はたいして気にも留めずノートに向かった。せっかく授業中に起きれたのだから、たまには真面目に勉強してみようという腹具合だ。その意図を察した教師は、その意気だと思って授業に向き直った。

 

 

 

 放課後、僕は累に引き留められた。昨日僕がそうしたようにである。

 

「なあ、昨日この町で、萩原弘子って女が誘拐されたの知ってるか?」

 

 もちろん、僕は知っていた。教室はその話題で持ちきりになっていたから嫌でも耳に入ってくるし、集団下校するようにとのお達しがこの学校でもあったはずだから。いちいち確認するのも馬鹿らしい話である。

 

「知ってるよ。放送で呼び掛けられたし、プリントも貰ったでしょ」

 

「そうだな。……なあ、杉下の実家は確か、シャーマンみたいな家系なんだろ?」

 

「知らないよ。両親はとっくに勘当されてるから、詳しくは耳に入ってこないんだ」

 

 というか、僕は実家のやっていることに興味がない。

 生まれつき備わっている超自然的な能力を用い、様々な事件を解決する――だとかなんとか怪しい仕事をしているのが僕の実家だった。

 本来なら長男である僕の父が実家を継ぐところだったが、結局時期当主に選ばれたのは僕の叔父にあたる人だった。それが原因か、僕の両親は頭がパアになって勘当された。

 

 『おかしくなった』。その具体例が名前だ。

 もともと両親は、僕に「裕太」という普通の名前をつける予定だったらしい。しかし、頭の壊れた両親は、僕の名前に呪いを込めた。そして僕は一生、この名前に苦しめられることになったのだ。

 だから、僕は自分の名前が嫌いだった。そしてこの家のことも。

 

「たぶん、シャーマンとは違うんじゃないか? なんとも言えないけど」

 

 僕は曖昧に答えた。

 

「シャーマンかどうかはどうでもいいんだ。杉下、お前に超能力があればそれで。なあ、杉下は念動力とか読心能力とか持ってないのか?」

 

「持ってるわけないだろ。馬鹿らしい」きっぱりと言ってやった。「そういうのは、徹くんの方が詳しいよ。いずれ家督を継ぐのは彼だし」

 

「徹はそんなに仲良くねえからなあ……」

 

「話が見えてこないな。愛川、つまりなにが言いたいんだ?」

 

「お前の能力で萩原弘子を捜せないかと思ってな」

 

「そんなことできるわけないだろ。第一、なんで愛川がその萩原弘子って人を探さなくちゃならないんだ?」

 

 僕が訊くと、累が楽しそうに口の端を歪めた。

 

「友人づてで面白い話を聞いたんだ。まあ、お前になにか能力があれば手伝わせようと思ってたんだが……」

 

 残念だ、と繋げようとしてやめる。

 千里眼とか読心能力があれば楽に萩原弘子を捜せたんだがな……と、累は思った。

 

「なあ、本当になにも持ってないのか?」

 

「持ってないよ。物は直接触らないと動かない。遠くの景色は見えない。人の心なんて読めない」

 

 累は、つまんねえのと心のなかで吐き捨てて、教室を出ていった。鍵は僕の机の上にあった。

 

 最初は昨日と反対の構図だったが、最後は全く同じ構図になった。人を呼びつけておいてなんだと、僕は苛立ちながら戸締まりをして累を追いかけた。

 

 

 ◇

 

 

 今、真っ暗なところにいる。光源はひとつもない。最後の記憶はかなり曖昧で、車のなかにいたことは覚えている。外から環境音がする。そこまで狭くないから、少なくともバスルームではない。助けて。

 

 支離滅裂だった説明を要約すると、萩原弘子が最後に残した言葉はそんなところらしい。これは、萩原弘子の友人が昼間に受け取った電話で、萩原弘子本人が言ったことだ。連絡はそれっきりである。

 警察が萩原弘子の自宅に駆け付けると、そこに萩原弘子が通話に使用した携帯電話があったそうだ。

 

 被害者の言葉が本当なら、萩原弘子は太陽の光が届かない暗闇に拉致され、その場で友人に連絡したはずだ。それなのに、どうして携帯電話だけが自宅に残されていたのか謎だった。

 ちなみに、どうして累がこのことを知れたのかというと、累の友人──吉沢義人という人物の姉が萩原弘子から電話を受け取った張本人だかららしい。

 

「で、教えてやったんだから、当然捜索には協力してくれるんだよな?」

 

 たまたま通りかかった喫茶店でコーヒーを飲みながら、累は言った。

 

「それはもちろんだよ。でも、なんだってそんなに萩原弘子の行方が気になるんだ?」

 

「近くでこんなに面白い事件が起きてるんだぞ? ほっとけるか」

 

 つまりは単なる興味本意らしい。悪趣味なやつだった。

 

「ところで、警察は今どうしてるの?」

 

「当然、萩原弘子の捜索さ。一切光の届かない場所──一見地下室を連想させるが、外の環境音が聞こえてきたということはそうじゃないらしい。バスルームじゃないと本人が言ったそうだから、それなりに広い場所で、地下ではなく光の一切届かない場所。そう絞って捜査してるようだ」

 

「ふーん」

 

 参考にならなかった。警察はどうやら、全く見当違いな捜査をしているようだ。

 

「気のない返事だな」

 

「警察って使えないんだなって思ってさ」

 

 僕が正直に答えると、累はムッとした。大きい態度が気に入らないらしい。

 

「まるで、自分は真実を知ってるって言い方だな」

 

「うん。大体わかったよ」

 

「そうか大体わかったのか……。そうだよなあ、普通わかるよな──ってマジか!? もうわかったのか!?」

 

「うん」

 

 相当驚いたようだ。累は漫画みたいな反応をした。

 現実では初めて見る反応が面白くて、僕はつい笑ってしまう。

 

「やっぱり、超能力なのか?」

 

 累の頭にあるのは、「千里眼」という能力。

 

「残念ながら、違うよ」

 

「どういうことなんだ? 教えてくれ」

 

 いいだろう。僕は説明を始める。

 

「おそらくだけど、萩原弘子はもう死んでいると思う。死因はメタノールの摂取による急性アルコール中毒」

 

「急性アルコール中毒?」

 

 そう、と僕は一拍置いて話を続けた。

 

「通常、酒にはエタノールっていう成分が含まれている。だけど、質の悪い安酒だとメタノールっていう成分が含まれたりすることがあるんだ」

 

 僕が説明を続けても、累にはどうもピンと来ない。

 

「そもそも、エタノールとかメタノールってなんだよ?」

 

「どっちもアルコールだよ。エタノールでも急性アルコール中毒にはなる。だけど、エタノールはそこまで危険じゃない。危険なのはメタノール。こいつは誤って口に含むと最悪死んでしまうこともある猛毒なんだ。助かっても視神経がやられて失明するらしい」

 

「エタノールでも急性アルコール中毒になるんだろ? じゃあなんでメタノールの摂取ってわかるんだ」

 

「言ったろ、メタノールを摂取すると視神経がやられて失明することがあるって。彼女はたしか光源がひとつもない真っ暗な場所に幽閉されてたんだろ? でもおかしいじゃないか。携帯電話を使っていてどうして光源がひとつもないんだ? 携帯電話の明かりがあるはずなのに」

 

「あ」

 

 累も気づいたようだ。

 

「つまり、彼女の目には携帯電話の画面が発する明かりが届かなかったんだ。彼女は手探りでどうにか電話帳を開いて、一番上にあるだろう『あ行』の誰かに電話をかけたのさ」

 

「なるほどな……」

 

 今、真っ暗なところにいる。そう彼女は言った。だがそれはその場が暗かったのではない。彼女の目がなにも映さなかったのだ。

 

「それと、彼女は最後の記憶が曖昧とも言っていた。泥酔していた証拠だよ。車のなかにいたってことは、外で酒を飲んで、自宅まで車で送ってもらったんだろう。このあとは状況から推察した完全な想像だけど、運転手は萩原弘子を自宅まで送り、そのあと萩原弘子の自宅でまた飲み始めたんだと思う。彼女は一人眠ってしまった。そして運転手がコンビニにでも行ったときに、間が悪く萩原弘子は目覚めた。その時点で彼女は失明していた。恐怖から電話で友人に連絡し、その後息耐えた。戻ってきた運転手は、彼女が死んでいることに気が動転して、死体を処分してしまったんだと思う。とはいえ運転手も飲んでいたのならそう遠い場所ではないはずだよ。もしかしたらベランダから投げ捨てただけかもしれない。累が言ったように条件を絞って捜索をしているのなら、しばらくは見つからないかもしれないな。ほら、灯台もと暗し」

 

 かなり長い台詞だったので、僕は疲れた。口内の唾がなくなって喉が渇く。普段はこんなに喋らないから、喉が退化している。

 

 累はなにかを考え込む素振りをしていた。僕の推理を頭のなかで検証しているのだ。

 

「……愛川が萩原弘子を捜していた理由もわかるよ」

「あ?」

 

 愛川が身を乗り出してきた。ずいぶんとわかりやすい反応をする男だ。

 

「吉沢義人だなんてわかりやすいねつ造しちゃって……なあ? あ行の愛川累くん」

 

「……」

 

「萩原弘子の友人……それはお前の姉だろ? ははん、さしずめ姉に泣きつかれたんだろう。友人が異常な状況にあって、混乱している姉を見ていられなかった」

 

「……そうだよ、吉沢義人ってのは嘘さ」

 

 事実を指摘すると、累はあっさりと観念した。

 

「姉貴のために動いてますって正直に言うのが気恥ずかしくってさ……」

 

「ふーん。シスコン」

 

「……だから正直に言いたくなかったんだよ」

 

 累は僕をキッと睨んだ。僕は累の視線をさらりとかわす。

 

「ところで、どうしてエタノールだとかメタノールだとかそんな普通なら知ってそうもないことを知ってるんだ? お前ただでさえ成績悪いキャラのくせに」

 

「あいつをどうやって殺してやろうかなーって普段から考えてるからだよ。将来のために今から知識を蓄えておかないとね」

 

「うわ……」

 

 と累はドン引きしていた。

 

 もちろん僕の言葉はでまかせである。僕に誰かを殺すつもりなんてないし、将来その気になることもないだろう。

 

 僕にそんな知識があったのは、実際に萩原弘子と同じ体験をしたことがあるからだ。

 

 僕がまだ小さい頃、両親に無理やり安いワインを飲まされて一時的に失明したことがある。その間、彼女は両親に殴る蹴るなどの虐待を受けた。なにも見えない暗闇のなかで、だ……。今でも僕は、眼鏡をかけないとなにも見えないほどに視力が弱い。

 

 だから彼女は、累から萩原弘子の話を聞いたとき、真っ先に誘拐事件とメタノールを繋げることができたのだ。

 

 しかし、そんなことがあってなお、僕に両親のもとを離れるつもりはなかった。両親がおかしくなってしまったのは全部自分のせい。自分が、女に生まれてしまったのがいけないのだ。もしも僕が男に生まれていれば、僕の父は家を継いでいただろう。そうなれば、両親がおかしくなることもなかったはずだ。

 

「愛川」

 

「……なんだよ」

 

「もしも私が男に生まれていたら、どうなっていただろうか」

 

 突然の僕の質問に、累は意図が掴めない。

 

「はあ? んだよそれ。要領を得ない質問だな。なんだ? お前が将来人を殺す予定があるのは、女に生まれたからか?」

 

「そうだよ」

 

 僕はいい加減な嘘をついた。

 

「んー……。男だったら、お前の『シモベ』って名前もいくぶんか違和感がなかったろうな。女なのに『僕』って名前は変だ」

 

「だよね」

 

 そもそも男だろうが女だろうが「僕」って名前は変だけど。それに男に生まれていれば私は裕太だった。と、僕はそう思った。

 

「もしかして、殺すのは徹か? たしか徹の父親がお前の実家の次期当主なんだろ? だったらその次の当主は徹だろ。運悪く女に生まれて、当主の座を奪われた恨みか」

 

「違うよ」

 

 彼はなにも悪くないし、むしろそのことに心を痛めている。そんな彼を恨むなんて、彼女にはできない。

 

「じゃ、両親か。変な名前をつけられた恨みで……」

 

「めんどくさいな。お前なんかに教えるわけないだろ」

 

「つまんねえ」

 

「そんなことより、さっさと家に帰ってこのことをお姉さんに伝えてきなよ」

 

「ああ、そうだったな」

 

 彼は立ち上がった。

 

「じゃあな、杉下。また明日」

 

 累は軽く手をひらひらとさせて去っていった。

 僕ただひとりがテーブルに残される。

 

 ………………。

 

 僕はあのとき──目から光を失ったとき──生まれて初めて死を予感した。その恐怖は、今でも体にまとわりついている。彼女は暗闇に一時でも身を置けない。暗所恐怖症になってしまった。

 それでもこうして生きているのは、本当に奇跡というしかない。本来ならあのとき、彼女は死んでいたはずなのだ。

 そのことに少し、思うところがあった。

 

 

 ◇

 

 

 そのあと、萩原弘子は死体になって発見された。

 僕が睨んだ通り、死因は急性アルコール中毒で、死体は彼女の自宅近辺で見つかった。

 犯人は飲み会で彼女を自宅まで送った男だった。少し外出している間に死んでいた萩原弘子を見て気が動転したのか、どういうわけか死体を処分してしまったらしい。ただいま死体遺棄の容疑で取り調べを受けている。

 

「お前すげえよ。探偵になった方がいい」

 

 教室の窓から照らす夕日が、累の称賛を飾った。

 

「たまたまだよ。たぶん、急性アルコール中毒じゃなければこんなに推理が的確になることもなかった」

 

「急性アルコール中毒じゃなければ?」

 

 しまった。今の僕の言葉は失言だった。

 

「もしかしてお前、同じように死にかけた経験でもあるのか?」

 

 今度は、累が探偵になる番だった。僕の失言をきっかけに、累は彼女の事情を根掘り葉掘り訊いてきた。今度ばかりは僕にも隠し通せない。

 

「んだよそれ! 胸くそ悪ぃな……」

 

「お前みたいな顔面を生み出してしまった愛川の両親の方が胸くそ悪いよ」

 

 累が勢いよく立ち上がった。

 僕は今の発言に気を悪くしたのかと肩をビクつかせたが、そうじゃなかった。累は僕に背を向けて歩き出した。

 

「急にどこへ行くんだよ」

 

「お前の家に決まってるだろ」

 

「はぁ!? 私の家に? なんで?」

 

「一発ぶん殴らねぇと気がすまない」

 

 累は右手で拳固を作って左手のひらに打ち込んでいた。

 

 僕はこれまで、自分の家庭環境に他人が干渉するのを許したことがない。たとえ徹がなにを言おうとにべもなく断ってきた。

 

 しかし、累の場合、僕がなにを言ったところで話を聞いてはくれなさそうだ。もしかしたら今日で、僕のすべてが激変するかもしれない。

 環境の変化。僕は一瞬、不安になる。

 

 しかし不思議と、累が一緒ならどんな暗闇も晴れるような気がした。




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