ウマ娘の短めの怪文書集 (富岡牛乳)
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1.アグネスデジタルの天皇賞(秋)

10月下旬、土曜日。夜、トレセン学園栗東寮にて。

「ただいまァ」

そう気だるそうな調子で一人のウマ娘が自室に帰ってきた。袖がぶかぶかの白衣。寝不足気味のような瞳。アグネスタキオンである。

「おおおおかえりなしゃい~!タキオンさぁん!」

それに眼を輝かせ、一人のウマ娘が彼女を迎え入れる。アグネスデジタル。ルームメイトとしてアグネスタキオンと暮らしてしばらく立つにも拘わらず、その態度は依然として挙動不審なままだった。

「随分と落ち着いてるねェ」

とアグネスタキオンは彼女に呼びかける。

「落ち着いてえ?!」

その言葉に素っ頓狂な声を上げるアグネスデジタル。

「いや、言葉を誤ったねぇ。デジタル君はいつもと変わらないってことさ」

右手を右頬にやり、そして少しだけ顔を傾けて、どこか意地悪そうな目つきでタキオンはそう話した。

「明日、天皇賞なんだろ」

そう、明日は天皇賞(秋)。アグネスデジタルにとって一世一代の大舞台。そしてこのレースに参加すると決めるまで、紆余曲折、荒波を一身に浴びた経緯があった。

 

「貴方を天皇賞に出します」

そうアグネスデジタルのトレーナーが言い出した時、アグネスデジタルは言葉を失った。

四角いフレームの眼鏡を通して、目つきのきつい彼女のトレーナーの視線がそそがれ、ただ彼女に刺さりこむ。

「あ、あの・・・トレーナーしゃん・・・」

「トレーナーさんです。ちゃんと発音しなさい」

「アッハイ、すみません・・・」

このドSトレーナーが、乙女ゲーの二次創作だったら薄い本が大量に発行されてるぞこの、と脳内で毒づき、アグネスデジタルは床に視線を落とす。

「それで、どうしました?」

「あの・・・デジたん」

「一人称はちゃんと言いなさい」

「・・・わたしの聞き間違いで無ければ・・・天皇賞に出るって」

少し怯えた様子で上目遣いにアグネスデジタルはトレーナーの顔をのぞき込む。

「はい、そうです。天皇賞(秋)、貴方は出走します」

憮然とした、顔色を一切変えない態度で彼はそう言った。

「出たくないのですか?」

「い、いえ滅相もごじゃません!!!」

「なら結構」

話が終わるような雰囲気の最中、アグネスデジタルはトレーナーの前に依然として立ち尽くしていた。

「何か、言いたいことがあるのですか?」

それを察してか、トレーナーが声を掛ける。

「い、いや~~~そのぉ・・・。デ・・・わたしにとって大変たいへんありがた~ぁい話なんですけどぉ・・・わたしぃ芝のレースは」

ちょっと苦手と言おうとしたその時

「マイルチャンピオンシップ」

とトレーナーが遮るように一言発した。

「・・・ウス」

その言葉に死んだ眼でアグネスデジタルは頷く。それは紛れもなく、昨年彼女が1着を取った、芝1600mのG1レースである。

「これからは芝の練習を中心にしていきます。まぁ、本番前に慣れるという意味合いでですね。最後の追い切りです。厳しく行きますよ」

「・・・かしこまりましたぁ」

諦めたようにアグネスデジタルは項垂れた。厳しいのはいつものことじゃないか、と彼女は思う。

夏合宿だってそうだった。憧れのスペシャルウィークをどういう伝手か連れてきて、ここから秘密の花園の合宿が始まると期待したら、現実は昭和のスポ根アニメびっくりの超絶ハードな2ヶ月間。

どうせ芝に慣れるためだけとか言っても、実際はとんでもなくきつい練習が待っている。そうアグネスデジタルは思い浮かべる。

そしてそれは現実のもとのなった。

 

そうして練習を繰り返し毎日を過ごす中、アグネスデジタルの耳にある噂が入ってきた。

クラシッククラスのウマ娘の一人が天皇賞に参戦する予定だったと。彼女もNHKマイルを制した立派なG1ウマ娘。だが、それが叶わなくなる見通しだと。

そしてそれは、アグネスデジタルのせいだという、そんな噂。

 

話をまとめればこうである。

天皇賞(秋)に参戦できる椅子は残り1つだったらしい。そしてアグネスデジタルとその子が一つの椅子を巡って争うことになった。

そしてトゥインクルシリーズはアグネスデジタルを選んだ。今までの参加したレースの実績から判断してである。

しかし学園内ではその日から厳しい視線がアグネスデジタルに注がれることになった。

「ダートのウマ娘が天皇賞(秋)に出るなんて」

「勝つ気がないなら登録なんてしなければいいのに」

厳しい声が、アグネスデジタルを締め付けるように、遠回りに漂っている。

そしてその事実からもたらされたどうしようもないフラストレーションが、些細なことをきっかけに爆発した。他ならぬ、彼女のトレーナーに向かって。

「どうしてですか!?なんでデジたんが天皇賞に出るんですか!?」

いつもの繕った態度を投げ捨て、怒りを爆発させるアグネスデジタル。

しかしその声に平然とした態度でトレーナーは彼女を眺めていた。

「な・・・・・・!!!」

なんとか言ったらどうなんですか、と彼女は言おうとしたが、言葉が詰まって出てこない。そんな最中、トレーナーがため息をつく。

それに更なるいらだちを覚える中で、遂にトレーナーが口を開いた。

「貴方が天皇賞(秋)で勝てると思ったからです」

その言葉を受け止めて、彼女の胸に重たいつっかえが漂い出す。

「アグネスデジタル、貴方何か勘違いしてませんか?」

「か・・・?」

「レースは必ず敗者を作ります。そして事前登録も同様です。実績の無いウマ娘はいつまでも重賞に出ることは出来ません」

その言葉は正論だった。しかし正論故に腹ただしさをアグネスデジタルは覚え続ける。

「前走の南部杯。貴方は一着でした。そうですね?」

「・・・はい」

「その前の日本テレビ盃でも貴方は一着でした」

「・・・はい」

「その一着の栄光の陰には、無数のウマ娘の涙があったことを、貴方は覚えていますか?」

その言葉に彼女は応えられなかった。言葉が詰まり、ただうつむく彼女に、尚トレーナーは言葉を続ける。

「勝者は敗者を作ります。それがレースの掟です。そして今回の天皇賞の事前登録だってそうです。彼女の他にも出たいと思うウマ娘は山ほどいます」

トレーナーはただ彼女を見据え、なおも言葉を紡ぐ。

「もし誰も傷つけず、他のウマ娘のことだけを考えて、ただヘラヘラ笑って生きていきたいなら、すぐにトレセン学園を辞めなさい」

流石にその言葉に頭にきたのだろう、アグネスデジタルの顔が、きっ、と上向く。

しかしその視界の先にあったのは、今まで彼女が出会った誰よりも真剣な顔をした男性の顔だった。

「私は貴方が負けるなんて思っていません。必ず天皇賞(秋)で勝てるモノと、そう確証を持っています」

その真っ直ぐな言葉が彼女に浴びせられる。そして彼女の胸に巣食った怒りの蜘蛛の巣に穴が空いていく。

「だから勝ちなさい、アグネスデジタル。誰がなんと言おうとターフに立ち、貴方の強さを証明しなさい!」

力強い言葉。誰よりも自分の事を信じている、そんな意思。

同時に彼女の胸にあるモノが宿り始めていた。あたたかいような熱いような、胸を焦がすその衝動が彼女の身体を駆け巡り始めていた。

 

 

 

10月下旬、日曜日。東京レース場、第11レース。

芝2000m、G1、天皇賞(秋)。

天気は雨、バ場は重。

『土砂降りの雨の中!13人のウマ娘!吹きすさぶ雨風に向かって!!!秋の盾の名誉を賭けて!!!ゲート開いた!!!』

遂にアグネスデジタルの運命のレースが幕を上げた。

「うわっ!」

一人のウマ娘が足を滑らせて出遅れる。

『おおっと、サイレントスナイパー出遅れた!?』

それに被せる実況。

(え・・・?)

(マジで?)

そしてその動揺は他の12人のウマ娘にも伝わった。

ただの出遅れではない。出遅れたのは逃げウマだったのだ。ペースを引っ張るウマ娘が不在となったこのレース。皆がどうしようかと足を泳がす中、

『まさかのメイショウドトウが一番手!第二コーナーのカーブに入っていきました!』

(わたしが先頭ですかぁ~!?)

先行が得意なメイショウドトウが先頭に立った。

『その後ろにぴったりとつけましたテイエムオペラオー!そしてその内にはキンイロリョテイ!三強が先団を作ります!』

そしてその後ろにつけたのは彼女のライバル、テイエムオペラオー。

(ふふっ・・・!面白いレースになったね!)

そう思い瞳を輝かせメイショウドトウの背中を追いかける。

一方でアグネスデジタルは九番手・外側に位置取りをした。そしてトレーナーにレース前に言われたことを思い出す。

「今回のレース、最高の天候になりました」

そうトレーナーは彼女に告げた。

(どこがだよぉ!こんな雨の中ぁ!)

瞳に雨が刺さるようなそんな中、ターフを切り進めるアグネスデジタル。

「今回のレース、注目すべきはテイエムオペラオーとメイショウドトウです」

こうもトレーナーは彼女に告げた。

(わかってんの、そんなことぉ!)

悪態をつきながらアグネスデジタルは前を向いて走る。

この二人、この1年のトゥインクルシリーズを引っ張ってきた、誰もが知る英雄である。常にテイエムペラオーが一着、メイショウドトウが二着。ウマ娘であれば、誰もが認める実力者。

「そして、この二人は負けるんです。強すぎるが故に、ね」

そしてトレーナーはアグネスデジタルに企んだような笑みでそう言い放った。

(中二かよ!!!いくつなんだよアンタ!!!)

その記憶に脳内で突っ込むアグネスデジタル。

そうこうするうちに、レースは進み向こう正面へ入ろうとしていた。

『さぁ、第二コーナーから向こう正面!ウマ娘達、一団となり駆けていきますが・・・これはかなりのスローペース!今年の天皇賞、スローペースで進んでいます!』

これは無理も無いことだった。東京レース場といえば、最後の500mを超える長い直線がある。そしてその直線には心臓破りと称される急坂。レースになれたシニア級であれば、誰もが最後のホームストレッチを意識して脚を溜め、レースに臨むのが定石。

なおかつ今回は雨で重バ場。さらにレースをひっぱる逃げウマ不在。どうしてもスローペースにならざるを得ない、そんな展開になっていたのだ。

『第三コーナー!依然先頭はメイショウドトウ!そして、その後ろは団子状態!ウマ娘達、一団となりそこまで差がありません!!!』

(どうしましょうかぁ~・・・)

メイショウドトウは迷っていた。どこまで脚を使えばいいのか。慣れないペースメーカーになった彼女の後ろをウマ娘達が虎視眈々と狙っている。

そして、メイショウドトウも抜かれるのを臨んでいた。正直体力に余裕はある。ここで誰かが追い抜いてくれれば多少楽になる。

外からウマ娘が仕掛けてくるのを感じると、少しだけペースを上げてウマ娘を引っ張る。すると彼女もメイショウドトウを追い抜かず、少し後ろで併走する体制を取り始める。

(なんでですかぁ~・・・)

それに心の中で落胆するメイショウドトウ。

その様子を後ろからテイエムオペラオーはたたじっと観察していた。

(これは・・・皆、けん制しあってるね・・・)

テイエムオペラオーの考えは当たっていた。団子状態になったバ群。そしてペースメーカー不在の中で進むレース。

第四コーナーに差し掛かろうとしている最後の局面。最後の直線に向けて全力を出す準備をするために、好ポジションを獲得することが肝となり、余計な体力を使わないのが重要。だがペースが遅すぎるため、多少無理をし、他のウマ娘の余力を推し量りたくなるそんな局面だった。

そして状況は変わらず、第四コーナーが終わりを迎え始める。、

『さぁ第四コーナーを抜けて!最後の直線!!!ファン達の声援に彩られ!!!ウマ娘達が躍り出ます!!!』

実況が叫ぶ。観客も叫ぶ。雨の音にも、風の強さにも負けない声援が、13人のウマ娘に一斉に浴びせられた。

 

 

『先頭は依然としてメイショウドトウ!!!このまま行ってしまうのか!?』

(ここまで来たら・・・!最後まで・・・!!!)

ぬかるんだ重バ場を懸命に駆けるメイショウドトウ。

『ウマ娘達、横一線に広がった!!!これは大混戦の予感です!!!』

しかしその後ろには彼女を差しきろうと一線に並んだウマ娘達。

『空いた外からテイエムペラオーが伸びてくる!!!テイエムオペラオーが追い込んでくる!!!』

(今日こそはボクが勝つよ!!!)

テイエムペラオーの脳内によぎったのは宝塚記念の思い出だった。

この時、テイエムオペラオーは初めてメイショウドトウに敗北した。グランプリウマ娘の栄冠を手にした彼女の後ろで踊らされた悔しさを、テイエムペラオーは忘れていなかった。

だからこのとき、このレース中、テイエムペラオーはメイショウドトウを徹底マークしていたのだ。

『内ラチ沿いにはキンイロリョテイ!!!』

内側から伸びてくるウマ娘の陰があったが、そんなことテイエムオペラオーは気にしていなかった。

狙うはメイショウドトウだけ。その彼女の見立ても当たっていた。依然先頭を切り進めるメイショウドトウだが、脚色に一切の衰えがない。粘り強く先頭を保ち、差を縮めさせてくれない。

(これだから・・・!!!ドトウ・・・!!!君は最高のライバルなんだ!!!)

テイエムオペラオーの心が高ぶる。脚色がさらに輝きを増す。

(今日も・・・!!!負けません・・・!!!オペラオーさん!!!)

後ろからのプレッシャーを感じてか、メイショウドトウの脚色も輝き始めた。

『坂を登り切った!!!残り200!!!ドトウか!?テイエムか!?』

きつい坂を登り切り、最後の平らな直線。後はここで全力を出し切るだけ。

そんな最中だった。

「うおぉぉぉぉおおおお!!!!」

雨をもろともせず、泥だらけになったテイエムオペラオーの末脚が炸裂する。

「わたしだってぇぇぇええええ!!!!」

それに必死に先頭を保とうとするメイショウドトウ。

しかし

『先頭はテイエムオペラオーが抜けた!!!メイショウドトウ二番手!!!』

遂にテイエムペラオーがメイショウドトウを躱し先頭に立つ。

(勝った・・・・・・!!!)

その時、テイエムペラオーはそう思った。最大のライバル、メイショウドトウを下した。後は残りの直線を走り、それで終わりだと。

そしてその考えが、大きな誤算だった。それに彼女が気づくことなく

『大外からアグネスデジタル!!!大外からアグネスデジタル!!!』

ターフの外側を駆けたアグネスデジタルが迫っていた。

 

「テイエムオペラオーとメイショウドトウは、確かに強い。この1年間のG1戦線は、この二人のワンツーフィニッシュばかりでした。だから見誤るんです。テイエムオペラオーはメイショウドトウを下せば終わりだと。メイショウドトウはテイエムオペラオーに勝てば栄光を手にできると」

トレーナーの言葉を思い出しながら彼女はターフを切り進める。

七万人の大観衆の声を受け、彼女はゴール板めがけて一直線に脚色を輝かせる。

「ダートウマ娘の貴方が、外から強襲してくるなんて、そんな事一切想定しない。これは賭けです。特に宝塚の後で、二人の意識は一層それぞれに向いている」

アグネスデジタルにとって、その言葉は非常に身につまされる程に納得できるものだった。

(あぁもう!ムカつく!!!ムカつく!!!ムカつく!!!)

全てがトレーナーの言ったとおりレースが運んでいることに不満をまき散らかしながら、泥だらけになりターフを切り進めるアグネスデジタル。

いつも余裕たっぷりで、つんとした態度で、自信に溢れていて、そしてドSで。トレーナーの事を思い浮かべては心の中で毒を吐く。

しかし目の前の展開が、トレーナーとアグネスデジタルの想定通りになっていることに、自然と心が踊り始めていた。

「そして、今回の重バ場。貴方が勝てるレースです。私はそう信じています」

(かっこつけて!!!もう・・・!!!)

アグネスデジタルの脚色が一層輝く。一文字にターフを切り進めていく彼女。

『アグネス!!!差を詰めてくるアグネス!!!アグネス!!!アグネスデジタル!!!』

「なっ・・・!!?」

そしてこの局面でようやくテイエムオペラオーは気づいた。大外からとんでもない伏兵が飛んできていることに。

急いで脚色をさらに輝かせるが既に後の祭り。乗りに乗ったアグネスデジタルの脚色がどんどんと迫り、そして

『届くか!?届くか!?届いた!!!届いた!!!』

ゴール板、30m前

『アグネスデジタル、差しきりました!!!!!』

アグネスデジタルは、秋の天皇賞を一着で駆け抜けた。

 

 

 

『文句なし!!!文句なしの一着です!!!アグネスデジタルです!!!!!』

実況がそう叫び、7万人の観客がアグネスデジタルに声援を送る。

第一コーナーまで走り抜けたアグネスデジタルは

「・・・・・・マジで?」

その勝利をまだ信じられていないようだった。

しかし掲示板の一着は『10』の文字。観客席からはアグネスコール。紛れもない一着の祝福の証である。

身体中は冷たい雨滴で濡れている。泥だらけの勝負服が身体を冷やす。

しかしその胸の内に渦巻くのは熱い熱い鼓動。それは紛れもなく、勝利の喜びだった。

 

この後、ウイニングライブで歌の合間にトレーナーがステージに現れて

「今回の天皇賞、アグネスデジタルと私に対して、心ないことを色んな人が言いましたが、そんな言葉を吐いた人たちは皆恥かいたんじゃないですか」

と、観客の目の前で言い放って、アグネスデジタルの顔面を蒼白にさせた。

そして

「次のレースでもこの子は勝ちます。見ていて下さい。アグネスデジタルは私の一番のウマ娘です」

と続けざまに言い放って、アグネスデジタルの顔を真っ赤にした。

そして12月の中旬、まさにその宣言通りに、あるG1レースで大勝利を収め、歴史的快挙とアグネスデジタルが喝采を浴びるのはまた別の話。




実装おめでとうございます


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2.スマートファルコンとコラボシューズ

「コラボ…シューズですか」

「はい!」

スマートファルコンとそのトレーナー。トレセン学園の応接間にてある人物と面会していた。会議机を挟んで話をする相手は大手スポーツ用品メーカーの商品開発の人間である。

「スマートファルコンさんといえばウマドルとして立派なポジションを確立しつつ、ダートレースでもトップクラスの実力なのは周知のこと。ここはスマートファルコンさんがモデルしたシューズの販売をしたく、ご協力のお願いに参った次第です」

営業スマイルで彼が出したのはプレゼン資料。未だコンセプトの内容しか書かれていないものだったが、商品像のヴィジョン自体はしっかり整ったもののようにトレーナーには思えた。ウマ娘向け・人間向け・子ども向けの三つのラインナップ。スマートファルコンの監修の元、デザインだけでなく機能性も充実したモデルの開発プラン。

流石に人間向けの場合、ある程度は人間のアスリートの監修も入るのは致し方ないが、ウマ娘向けに作られたモデルについては、スマートファルコンのダートでの経験の蓄積を精一杯商品に反映したい。そう熱を持った言葉で商品開発担当は語る。

一通り話を聞いた後

「どうする?ファル子」

トレーナーが隣にいるスマートファルコンにそう問いかけると

「うんうん☆ファル子もやってみたい☆」

彼女は満面の笑みで、大賛成の言葉を彼に向けた。

「決まり、ですね」

と、トレーナーは商品開発の男性に微笑むと

「ありがとうございます!」

気合の入った言葉とともに彼は頭を下げた。

「それでは、今後の商品開発のスケジュール案については、社内の研究開発部と打ち合わせた後、追ってお知らせします」

「そうですか。連絡は僕にメールでいただけると助かります。ファル子は遠征が多いもので、FAXだとちょっと確認がしづらいんですよ」

「承知しました」

簡単な今後の打ち合わせをし、彼が去り行く最中のこと。

「それと、今回のコラボレーション企画の件ですが、もう一人、ウマ娘さんに協力いただくことになっています」

「もう一人、ですか」

「はい。気を悪くされたら大変恐縮なのですが、スマートファルコンさんはダートの頂点。そこで、ターフにおいて人気で実力のあるウマ娘の方にも同様のコラボレーション依頼をし、…ダート・ターフの二本立てで商品開発をしようと弊社では検討しています」

その言葉を聞いて

「あの、すみません」

スマートファルコンが彼に声を掛ける。

「ファル子以外に誰が今回の企画を受けるんですか?」

その言葉に

「あぁ、ダイワスカーレットさんです」

彼はにこやかにそう答えた。

その瞬間、一瞬スマートファルコンの目が細くなり、瞳の奥に鋭い輝きが宿る。

「へぇ☆そうなんですか☆」

そう笑顔で応えるスマートファルコンだったが、その顔は張り付いたような営業スマイルだった。

スマートファルコンの脳裏に浮かんだのは、有マ記念でセンターを飾りウイニングライブを行うダイワスカーレットの姿。彼女の東京大賞典以上に盛り上がっていたウイニングライブの光景を思い出し、静かな闘志を宿す彼女だった。

 

1週間後。スマートファルコンとスポーツ用品メーカーとの製品開発が始まった。クッション材の選定、靴の形、材質の選定から、蹄鉄の装着を考慮した検討、そしてスマートファルコンらしさと販売戦略を考えたデザイン。

あらゆる選択を考慮に入れ、コンセプトシューズを使ってはダメ出しし、改善品が出たらまたダメ出しをする。その態度はレースに挑むときのように真剣で容赦のないものだった。

トレーナーは、商品開発と研究開発の人間がやってきては、その結果に苦笑いをし、何度も出直す姿をただ見ていた。

「ファル子、容赦ないなぁ」

「だってトレーナーさん。ファル子がデザインする靴だよ☆最高の靴に仕上げないと☆」

言うは易し。ただファル子自身も貴重な練習の時間を割いて、今回の企画に付き合っている。ただでさえウマドル活動で忙しい彼女である。メーカーも確かに彼女に振り回されているが、彼女自身もそれだけ真剣なのだ。

だからこそだろう。メーカー側の人間も、やってくる度にやる気を見せているのは。

「随分と今回の企画、やる気なんだな」

「うん☆ファル子楽しみ☆」

満面の笑顔で応える彼女に、たまにはこういうのもいいか、とトレーナーは心の中で微笑むのだった。

 

半年後。ようやくスマートファルコンの満足のいく出来となったモデルが完成し、量産体制に入り、遂に一般販売が開始された。

販売初日。スポーツ用品店のシューズコーナーに目立つようにスマートファルコン監修の靴が詰まれる。そしてその隣にはダイワスカーレット監修の靴が同じように積まれていた。

スマートファルコンはそれと分からないように変装をし、都内のスポーツ用品店に入る。そして製品を探すふりをして、横目で靴の売れ行きを確認する。

目立つ場所に置いてあるせいか、多くのウマ娘や人間が、展示品を手に取って眺める。そして、

「私買っちゃお!」

一人のウマ娘が靴の箱を手に取ってレジに歩いていく。そしてその靴は、ダイワスカーレットデザインの靴だった。

その後も売れるのはダイワスカーレットのものばかり。決してスマートファルコンの靴が売れていない訳ではない。着実に売れてはいるものの、それ以上にダイワスカーレットの靴の方が圧倒的に売れ行きがいい。そして気づくと、ダイワスカーレットの靴は売り切れ、スマートファルコンの靴だけが残る結果となった。

 

その後、店を後にしたスマートファルコンが向かったのは、一般量販店の靴屋だった。そこには子ども向けモデルが販売されているのだ。

そして店内に入って彼女が見たものは、既に売り切れたらしいダイワスカーレットの靴の山の残り香。「ダイワスカーレットモデル 完売しました!」という手書きのポップが立っており、その横にスマートファルコンのデザインの靴が並んでいた。

(そっか…。スカーレットちゃんの…全部売り切れたんだ…)

と、ぼんやり眺める中

「ママー!だいわすかーれっとちゃんのくつがないー!!!」

と幼女が指を差しかつてあっただろう靴の山の跡に駆け寄ってきた。

「あら、本当ね。残念ね。また入荷したら買いに来ようね」

そう後ろから母親が声を掛けるが

「やだー!!!ほしいほしいほしいー!!!!!すかーれっとちゃんのほしいー!!!!!」

と駄々をこね、幼女は泣き出してしまう。

「うーん…困ったわね。…あ。ファル子ちゃんのじゃダメ?」

と母親がスマートファルコンの靴を指さすが、

「やだーーー!!!!!すかーれっとちゃんのくつがいいのーーー!!!!!」

幼女はそう言い、大泣きしてしまった。

「はいはい…。じゃ、お店の人に聞きにいこうねー。次はいつ買えますか、って」

そう母親は言い、べそをかく娘の手を取ってカウンターに向かっていく。

一部始終を見ていたスマートファルコンは、ただ自分がデザインした靴の山に向かい、展示品を手に取った。

かわいいデザインにした自信はあった。自分の勝負服を基調にし、かわいさを詰め込んだ渾身の作品だと。コンセプトデザインと量販品のデザインは、量販向けのため多少の変更はあるものの、決して大きくデザイン案を変更したものではない。

(かわいく…かわいくなるように……頑張ったんだけど)

スマートファルコンの手に映った展示品。茶色と白とピンク色で彩られた渾身の作品を、ただスマートファルコンは見つめることしかできなかった。

 

 

15時頃。

スマートファルコンは靴屋での視察を切り上げ、トレセン学園に向かっていた。次のレースに向けた打合せを、トレーナーと行う約束をしていたからだ。ただ、彼女の心は重たかった。売り切れたダイワスカーレットの靴。売れてはいるものの、水をあけられたように思える自分のデザインの靴。そして聞いてしまった子供の声。すべてが彼女の心に渦巻き、ただ憂鬱な気分に浸らせる。

しかしトレーナー室の前につくと、手鏡を出して、自分の顔を確認する。沈んだ顔つきになっていることに気づき、目をなんどもしばたたき、口角を上げ、笑顔を作る彼女。どんな時でもウマドルは笑顔で。そう自分に言い聞かせ

「よし☆」

最高の笑顔になったことを確認し

「失礼しまーす☆」

とトレーナー室の扉を開けた。

「お」

トレーナー室に入ってきたスマートファルコンを見て、トレーナーは少し驚いたように目を見開いた。

「何だ、打合せの時間よりちょっと早いじゃないか、ファル子」

「トレーナーさん☆ウマドルは時間に余裕をもって行動するのは基本だよ☆お仕事に関係する人に迷惑をかけちゃダメなんだから☆」

そうトレーナーに笑顔を向けるスマートファルコン。

ふと視線をずらすと、靴の箱が三つほどあることに気が付いた。それは紛れもなく、スマートファルコンがデザインした靴の箱である。

(あぁ…なんだ…)

その靴を見た途端、スマートファルコンの感情が急速に冷えていった。

その時彼女が思い浮かべたのは、靴屋に行って、自分の担当のウマ娘の靴が売れていないことに気が付き、自腹を切って靴を買い求めたトレーナーの姿。

売れないことに気づいての同情のつもりなんだろうか。そんな安っぽい同情を、目の前の指導者は自分にかけるのか。

そう思うと失望を通り過ぎて、ふつふつと怒りがわいてくるスマートファルコンである。

「あぁ、これか…」

とスマートファルコンの視線に気づくと、照れくさそうにトレーナーは笑う。

「恥ずかしいもの見られちゃったな…」

そう彼は頬をかいた。

「トレーナーさん、どうしたのそれ」

「あぁ、これな…」

トレーナーは彼女から視線を逸らして口ごもり、少し唸った後に

「欲しく…なっちゃってな…」

と呟いた。

「え?」

「あーもう!!!欲しくなったんだよ!!!お前があれだけ頑張って監修した靴だぞ!!!いいだろ!?欲しくなったって!!!」

照れ隠しのせいだろうか。叫ぶようにトレーナーはそう彼女に言い放つ。彼の顔は真っ赤に染まっていた。

「え…?」

その言葉の意図がいまいちわからず、スマートファルコンは面食らったように目を見開いた。

「トレーナーさんなら貰えたでしょ、メーカーの人から」

「おま…!違うんだよ!!!」

「違うって…」

「こういうのは自分で金出さないと意味ないだろ!?」

その言葉には表裏などなく。途端、スマートファルコンの胸に風が吹くような心地がした。

そんな彼女の心中など察することなく

「いいじゃねぇか…。履けなくても…。持っててもいいじゃねぇか!?」

逆ギレしたように叫ぶトレーナー。

「ふふっ…」

その様子を見てついスマートファルコンの口から笑みが零れる。

「何笑ってるんだよ!!!」

「あはははっ☆何でもない☆」

ニコニコと笑うスマートファルコンを見て、トレーナーが拗ねたように叫んだ。

「第一なぁ、結構買うの大変だったんだぞ。滅茶苦茶売れてるじゃねぇか、この靴」

「えっ!?」

その言葉に再度驚くスマートファルコン。

「トレーナーちゃん、売れてるって…」

「あぁ、俺が買いに行ったとき、マジであと少しで売り切れで焦ったんだぞ」

自分が経験したものと明らかに違う言葉。だが、決してトレーナーが嘘をついているようには彼女には思えない。

「それ、どこの靴屋で買ったの?」

「どこって…大井競バ場の近くの靴屋だよ」

その言葉を聞いた瞬間

(あぁ……そっか)

スマートファルコンは納得すると同時に、胸のすいた心地がした。

目の前のトレーナーがそうであるように、彼女のことを見ているファンは確かにいるのだ。ただそれが、自分は見えていなかっただけだと、スマートファルコンはこの時ようやく気が付いた。

「そっか☆」

そして彼女の顔にはいつしか笑顔が戻っていた。

「…ファル子、なんだよその顔」

「別に~☆」

上機嫌そうに笑うスマートファルコンを見て、顔を赤くしたままトレーナーは決まりがわるそうに彼女を見つめる。

「ねぇ、トレーナーさん☆早く打合せしようよ、次のレースの!」

満面の笑顔でスマートファルコンは話しかける。そこには作り笑いの陰などなく、心から出た明るさで、彼女の周りは満ちていた。

誰かと競うのも大切かもしれないが、それ以上に自分のことを一番に見てくれている人たちがいる。その想いは本物であり、これからもずっと大事にしないといけないもの。そのことに気づいた彼女の心には、先ほどの曇天のような重さは消え去り、すっかり本来の明るさを取り戻していた。

「ありがとね、トレーナーさん☆」

その声色に乗るのは心の底からの「ありがとう」。大事なことを気づかせてくれた目の前のトレーナーに対しての、最高の感謝の意思だった



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3.ウオッカと日本ダービー前夜

5月中旬、平日、トレセン学園、トレーナー室にて。

「頼むよ、相棒」

トレーナーである彼は、担当のウマ娘にそう言われ、呆気に取られていた。

短い髪の毛、活発的で男勝りな雰囲気を放つ彼女、ウオッカから出た言葉は、トレーナーを困惑させるものだった。

「ウオッカ…流石にそれは…」

「本当に…頼むよ。マジのお願いなんだ」

苦い顔をしてやんわりと彼女の願いを退けようとするトレーナーだったが、彼女の金色の瞳は真剣そのもの。真っすぐな彼女の視線にあてられて、トレーナーは腕を組んで唸る。

正直、ウオッカの調子はよろしくない、と彼は思っている。切っ掛けは4月に行われた桜花賞。そこで彼女は二着。一着を取ったのは、彼女の最大のライバル、ダイワスカーレットだった。そこから『自分らしいレースを』と望んだのがオークスを回避しての日本ダービーへの路線転換。ティアラ路線からのターニングポイントとなる彼女の意思を、彼も認めた。彼女の意思を尊重することが、彼女の自信を取り戻すことにもつながると願って。

だが、ウオッカの心には、ダイワスカーレットに負けたのがしこりとして残っていたのだろう。それから練習に向かう態度は、どこか焦り気味な所が見え隠れしていた。その度にメンタルケアに努めるトレーナーだったが、根本的な解決にはまだなっていないようである。

そして今回の彼女のお願い。それはかなり突飛なもの。

「…ナリタブライアンには相談したのか?」

「あぁ。先輩は『本能に従え』って」

「…そうか」

少しでも時間稼ぎをしようとナリタブライアンのことを口に出したトレーナーだったが、既にその道はウオッカが通っていた。八方塞がり。その状況に陥り、尚、彼はウオッカの嘆願を受け入れられずにいた。

彼女のお願いは、トレーナーとウオッカ、2人でしかできないこと。しかもそれをダービー前日に行いたいと、彼女は言う。

それをしたことで体調や調子を崩すリスクもある。またトレーナー自身、それをうまく行える自信もなかった。ウオッカにとって大事なことなのかもしれないが、彼女を預かるトレーナーとしては到底受け入れがたい。そう彼は思い、顔に苦しさを滲ませ続ける。

「頼むよ。相棒としかこんな事出来ないんだ…。オレ、こんな事を頼めるのはトレーナーしか…」

不安そうな彼女の瞳がトレーナーに向けられる。トレーナーもその視線を真っ向から受け止め

「……本当に、いいんだな」

と、彼女に重い口調で確認の意思を取る。

「いい」

その言葉に深く彼女は頷いた。まるで鋼のような意思を心に強く刻んだかのように。

その言葉に、その態度に、打ちのめされるようにトレーナーは天井を見て、ため息をつくと

「……わかった」

と、彼女の願いを聞き入れた。

途端、ウオッカが目を輝かせる。

「本当か!?」

「…あぁ」

「サンキュー!!!相棒!!!」

「ただ…一回だけだぞ」

「分かってるって!!!やったぜ!!!」

無邪気にはしゃぐウオッカの声が部屋の中に響く。満面の笑みで喜びを爆発させる彼女の姿を見て、脱力感と諦念を胸に渦巻かせ、苦笑いをするトレーナーだった。

 

そして日本ダービー前日、土曜日、午前10時ごろ。

トレセン学園栗東寮の前に、一台のクレーのマツダ・アクセラが停車する。ウオッカのトレーナーの車だった。

寮の前には一人のウマ娘が立っていた。ウオッカである。この日の前日、日本ダービー前の特別な練習という理由で、彼女は授業を全て欠席していた。

「おう、相棒」

そう言って彼女は車に乗り込む。その手には着替えの入ったリュックを持ち。

「荷物、後ろに置いてもいいぞ」

「あぁ、いいよ…ここで」

助手席に乗った彼女は、膝の上に自分のリュックを乗せて抱え込む。気持ち、その手が少しだけ、ほんの少しだけ震えているようにトレーナーには見えた。

「じゃ…、行くぞ」

「おう」

短い会話を経て車は走り出す。

「なぁ、相棒」

「なんだ」

少しの沈黙を経て

「オレ…はじめてでさ…」

と、少し恥ずかしそうに彼女は語る。

そんな彼女の様子を見て、ため息をつき

「…実は、俺も」

とトレーナーは言った。

「本当か!?」

「…あぁ」

その言葉に目を輝かせて嬉しそうに話すウオッカに、トレーナーは口をへの字にする。

「そっか…!相棒もはじめてなんだな…!」

そう嬉々とした態度で目を細くするウオッカの姿を横目で見て、少しだけ口元をトレーナーは緩ませた。

車は走る。郊外に向けて。暖かい日差しが地に満ちる、晴天の午後。

2人で行うある『約束』が始まろうとしていた。

 

 

翌日。

日本ダービーは最終局面を迎えていた。

『さぁ今、大ケヤキを超えて!先頭はカツシカカイザー!レースを引っ張る展開!!!』

第四コーナーに入り、先頭に逃げウマ1人がリードしペースを作る。そしてその後ろに2人が続き、その後ろにバ群。

11万3000人の観衆の声がウマ娘の耳に響き渡ってくる。

もうすぐホームストレッチ。運命の501,6mの長い直線。自然とウマ娘の脚色も浮足立ってくる。18人のウマ娘達はコーナーを綺麗にこなしていき、そして

『最後の直線コースへと入って参りました!!!』

遂に大観衆の熱気が初夏の陽気とともに躍る、勝負の舞台に姿を現した。

『カツシカカイザー先頭!!!ピンクの勝負服が先頭だ!!!』

坂道で歯を食いしばり、汗を噴き出し必死に逃げる先頭の逃げウマ。

『サンゼンセカイが二番手!!!』

そしてそれを差そうとする二番手のウマ娘。後続のウマ娘も最後の直線、長い200mの坂道を必死に登っていく。

そんな中で一人のウマ娘の末脚が光り輝く。

短い黒髪をたなびかせ、金色の瞳を輝かせ。

『さぁその後ろ!!!ウオッカ上がってきた!!!黒い勝負服、ウオッカ上がってきた!!!』

その姿を見て実況の熱声が響き渡る。

第四コーナーの八番手からの差し切り体制。心臓破りの坂道などもろともせず、大きく伸びた足が加速を極め、外から先頭にめがけて一気に突っ込んでいく。

『外からフェーズフェニックス!!!アロンクリンも上がってきている!!!』

必死に2人のウマ娘がウオッカを追う。

しかし

(くっそぉ…!!!)

(あぁ…!!もう!!!)

2人の脚色は確かに輝いている。しかしウオッカの背中が捕まえられない。いやむしろその差が開いていく。

そして残り200m、遂にその瞬間は訪れた。

「いっくぞぉぉぉぉぉ!!!!!」

ウォッカが叫ぶ。アクセル全開と形容して遜色ない脚色で、ウォッカが二番手、一番手を抜いて、そして

『しかし先頭はウオッカだ!!!ウオッカ先頭だ!!!』

遂にウオッカが先頭に躍り出た。

他のウマ娘たちの追撃を一切寄せ付けない脚色で、大観衆の声を一身に受け、そして

『なんと!!??なんと!!!!64年ぶりの夢叶う!!!!!ウオッカ先頭!!!!!ティアラ路線のウマ娘が見事に決めました!!!!!』

ウオッカはこの日、日本ダービーを見事に制した。

 

 

「よっしゃあ!!!!!」

喜びを爆発させ、満面の笑顔でウォッカは叫ぶ。

『ウオッカやりました!!!!!ウオッカ、右手でガッツポーズ!!!』

第一コーナーに向けてクールダウンしていく彼女だが、その心には熱い熱い興奮が胸に宿っていた。

『これは恐れ入りました!!!ジュニア級ティアラ路線の女王がなんと!!!クラシックの頂点へ!!!!!64年ぶりの快挙達成です!!!!!』

そして日本ダービーを制した彼女に、実況の、11万3000人の観客の声援が一斉に浴びせられる。

戴冠の栄誉を一心に浴びながら、ウオッカは会場に向けて手を振り始める。

「あぁ…」

そんな観客席で大きなため息をついた男性がいる。彼女のトレーナーである。しかしそのため息は安堵に満ちていた。心配していた彼女が無事に一着を取れたこと。それが大きな吐息となり彼の身体から出たのだろう。その証拠に彼の顔は緩み切った笑顔で満ちていた。

そして思い出したのは、昨日の、ウオッカと迎えた夜のことだった。

 

 

夜。東京都、郊外、某キャンプ場。

都会から離れたこの場所では、空に満面の星が躍る。とても1300万人が暮らしているとは思えない、大自然の中。

ウオッカはテントの中で眠っていた。

「ん……」

ふとウオッカの目が覚めた。聞こえたのは木がはぜる穏やかな音。そしてテントの中から見えたのは、ぼんやりとした橙色の明かり。少しだけテントの帳が開いており、ウオッカが眠気まなこで捉えたのは、一人の男性の姿。

「あい…ぼう…?」

寝袋から身を這いずらせ、テントの帳を少し開けて彼女は男性を呼んだ。

彼女の瞳に映ったのは、焚火のそばで座りこみ、赤い炎を無言で見つめるトレーナーの横顔。

「ウオッカ、寝てろ…」

トレーナーは彼女の方を少し向いてそう声をかけた。そして

「明日は…忙しくなるぞ」

焚火に視線を再度向け、低い声でそう呟く。

赤い光に照らされる精悍な男性の横顔。焚火の音。少しだけ肌寒い空気。それだけが漂う世界。

「ん……」

その雰囲気を感じる中で、彼女はテントの中に戻り、寝袋に再び入った。寝袋の中で、彼女の意識は急速に夢の世界へ向かっていく。焚火の暖かい光と穏やかな音をBGMに。そしてそんな世界で佇むトレーナーの姿をお土産に。

翌日の戦場、日本ダービーに向けて。

 

 

 

「うまく…いった……」

大歓声響く観客席で、トレーナーの顔は空を向く。手には先程まで握っていた汗で未だ湿っている。

ウオッカのお願いを聞いたときは面食らった彼である。『戦争映画でよくやっているような決戦前のワンシーンをやりたい』と言われ、彼女が何を言っているのかさっぱり分からなかったことを思い出す。日本ダービー前夜にやりたいと言い出したから猶更である。

「よ!」

観客席で全てがうまくいった事の余韻に浸るウオッカのトレーナー。そんな彼に話しかけた男性がいる。ダイワスカーレットのトレーナーである。

「おぉ…」

疲れたような、緩んだような笑顔でそれに彼は答え、右手を振った。

「ウオッカちゃん、やったじゃん」

「お陰様でな…」

「これでオレに借金をして努力した、お前の甲斐があったってもんだな」

「そうだなぁ…」

軽口を叩くダイワスカーレットのトレーナーに対して、ウオッカのトレーナーはただぼんやりとした笑顔で応える。

ウオッカのトレーナーが彼女の約束を聞き入れてから、彼の苦難の日々が始まった。何せキャンプなんて一回もやったことがない。大急ぎでキャンプ道具を調べ、買おうとしたが金が足りず、ダイワスカーレットのトレーナーに借金を申し入れ、どうにか大急ぎでキャンプ道具一式を揃えた。勿論、ウオッカが疲れないようにテントと寝袋の選択はハイグレードのものを選んだ。

そして次に秋川理事長に事情を説明し、トレセン学園の一角をキャンプ設営の練習場として使わせてもらう認可を得て、そこから毎日、普段の仕事をこなす傍ら、キャンプ設営の練習が始まった。不器用な彼である。苦労を重ねてどうにかキャンプ設営が滞りなくできるようにし、事前準備をなんとか整えられた。

そしてここからが運任せ。天候が悪ければキャンプは中止。幸いにもダービー前日の土曜日は晴れ。

安心してキャンプが出来ると思いきや、今度はタイミングよくウオッカを一瞬だけ起こさなければいけない。

焚火の準備をすべて整え、熟睡しきるウオッカのテントに入り、彼女の身体をゆすり、彼女が起きかかったのを確認して素早く焚火の前に戻って椅子に腰かける。ここでウオッカがそのまま寝たら折角の努力もすべて水の泡。流石に大事な試合の前に、余計な体力を消耗させるようなこと、つまり何度も起こすわけにはいかないのだ。

そしてこれはすべて彼女の調子が戻るためのお膳立てであり、これをやったからと言って日本ダービーに勝てるとは限らない。

ただ、この日、ウオッカは見事に日本ダービーの栄冠を手にした。トレーナーの努力はすべて実を結んだのである。

「ふふん!やるじゃない!!!」

観客席で満面の笑顔でウオッカを見つめるウマ娘がいた。ダイワスカーレットである。

「うちの子もあの通りご機嫌だし…、ま、これからもヨロシク」

そう言ってダイワスカーレットのトレーナーは彼の元を去っていく。

ウオッカのトレーナーはそれを見送り、ターフに視線を戻す。そしてそこには、自分の教え子が汗で濡れた身体をそのままに、勝者の祝福を全身に受け、会場に手を振る姿がただ映り込む。

「よかったな…ウオッカ」

今までの苦労はどこへやら。そんなことすっかり忘れ切り、目の前の常識外れの女王を見る彼の顔は、あの時の焚火のように、どこか穏やかで温かい光で彩られていた。

 

 



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4.エアグルーヴと頼りないトレーナー

ある日のトレセン学園。

芝の表面に太陽の光が踊る、そんな午後。

エアグルーヴはターフの上を切り進める。額には汗。その努力の滴が、ターフを走る彼女の後ろに流れて飛んでいき、日の光を浴びてただきらめく。

来たるべきレースに備え、最後の追い込み。それを行う彼女の瞳には真剣さが、女帝の誇りが宿る。

ゴールを抜けて、クールダウンをする彼女。

ターフからコースの外へゆっくりと歩みを進めていく中、一人の男性が彼女の目に入る。

背が高く、肩幅が広い。まるで大樹のような彼の姿を見て、少しだけ彼女の眉間に皺が寄った。

「お疲れ様でした」

そう彼はエアグルーヴにタオルを両手で差し出した。無言で彼女はそれを手に取ると、汗を拭き始める。

そして

「おい貴様」

と彼に話しかけた。

「何でしょう」

朴訥とした調子で問いかける彼に、ちらと彼のベルトの辺りに視線を移すと

「シャツが出てるぞ」

と苦虫を潰したようにエアグルーヴは言い、ため息をついた。

少しだけ彼は目を見開き、自分のベルト付近を見ると、確かに右側のシャツがスラックスからはみ出している。

「すみません・・・」

そう言って服を直す彼に

「たわけ」

彼の目を見ることなく、エアグルーヴはきつい調子で咎めた。

 

 

 

彼、エアグルーヴのトレーナーはいつもこうである。

ネクタイが曲がっている、寝癖がついている、髭のそり残しがある、など。どこか抜けていて頼りないことがままあるのだ。

トレーナー室にて練習が終わったエアグルーヴとそのトレーナーは次のレースへの打合せをしていた。

「次のレースですが、ご存じのように2週間後の土曜日、阪神レース場です」

「あぁ」

「走行距離は1600m。参加するウマ娘の数は16人。出バ票より傾向を見ますと、逃げ・先行を得意とする子が多い様子ですので、好ポジションを維持しつつ、最後に差しきるのが理想ですね」

「そうか。それで、当日のスケジュールはどうだ?」

「はい。第11レース、出走は15時35分からですから、当日に電車で移動すれば十分間に合いますが、レース当日にエアグルーヴさんに負担をかけるのはいかがかと思っています。そこで前日の金曜日より前乗りをし、当日の午前中はアップに努めて貰いたいのですが・・・いかがでしょう」

「構わない。それで行こう」

「ありがとうございます。当日の宿と移動手段の確保、それと午前中の練習場の予約をして参ります」

「あぁ」

そう言って彼は手帳を見て、打ち合わせした内容を書き込んでいく。それをエアグルーヴは憮然とした態度で見ていた。

正直彼女は苛立っていた。彼の態度にである。

それに気づいたのか、トレーナーが彼女の方に視線を移し

「あの・・・エアグルーヴさん」

と問いかけた。

「何だ?」

「他には何かございますか?」

「ない」

「そう、ですか」

ここで会話は途切れる。トレーナー室に、トレーナーが手帳にボールペンで文字を書き込む音だけが響く。

エアグルーヴの気持ちが刺立つ理由。それは、彼のマネジメントに一点の曇りも無いことである。

目の前のトレーナーはエアグルーヴの事に際しては、殆どミスをしたことがない。事前に余裕のあるスケジュールを組み、人伝手を作り、予算を確保し、万全の状態でレースができるようにしてくれる。

それはウマ娘に取って非常にありがたいことだったが、同時に彼女はいつも思うのだ。

(なぜ・・・貴様は自分の事についてはこんなに抜けているのだ・・・)

目の前の大きな男性はエアグルーヴの事については完璧にしようと努める一方、自分の事に際しては抜けている。それがどうしてか気に入らない彼女。どうしてそう思うのか、その理由については心当たりが全く思い浮かばない彼女である。

打合せも一段落し、

「今日は失礼するぞ」

と言い、エアグルーヴは席を立った。

「はい、明日も宜しくお願いします」

そう言ってトレーナーは頭を下げると、それに少し頷いて彼女はトレーナー室を後にした。

 

 

2週間後、日曜日、朝。兵庫県宝塚市。某ビジネスホテルにて。

前日に行われたレースでエアグルーヴは快勝。トレーナーの予想通り、逃げ・先行のウマ娘達が先を争う展開となった。彼女は中団で好位置をキープしつつ、脚をため、第四コーナーから徐々に前に進出。そして最後のホームストレッチで外から差しきり完勝。彼女の脚質にあった展開だった。

実力を出し切ることが出来た充実感をエアグルーヴは抱え、次の朝を迎えていた。天気はあいにくと重たげな雲が空を覆っていたが、前日のレースの結果があってだろう、気圧の低さも彼女には気にかからないようである。ホテルの朝食を取り、部屋にて適当に時間を過ごしているうちに、時計が8時前を指していることに彼女は気がついた。

「そろそろか・・・」

そう彼女は思い、身支度を調え始めた。トレーナーと前日に話したチェックアウトの時間は8時30分頃。

(今日は帰るだけとはいえ・・・時間は厳守しないとな)

すると自然にだろう、彼女の身支度の手は進んでいく。そしててきぱきと荷物を鞄に詰めていくと、余裕を持って自分の部屋を出たのだった。

 

 

ホテルのフロントロビーにて

「おはようございます」

「あぁ」

時間は8時35分頃。エアグルーヴがフロントロビーにて脚を組んで座っていると、エレベーターからトレーナーが降りてきた。

「すみません」

予定の時間を少し過ぎた事に大してだろう、少し焦りを含んだ声でそう彼は謝罪の言葉を口にする。

「構わん。早くチェックアウトをしてきたらどうだ」

そうエアグルーヴは言い、彼をフロントカウンターに行くことを促した。それに頭を下げると、すぐに彼はチェックアウトをするためカウンターに向かう。

そんな彼の後ろ姿を見た彼女は少し顔をしかめた。

彼が時間を遅れたことに対してではない。

(また・・・寝癖がついているぞ、貴様)

少し跳ね気味の彼の後ろ髪を、鋭い視線がずっと捉えていた。

 

 

 

「それでは行きましょうか」

「あぁ」

ホテルの駐車場にて。レンタカーのシルバーのフィルダーに乗った二人は、ホテルを後にし、駅に向かおうとしていた。

ギアをドライブに入れ、ゆっくりと車が動き始める。駐車場を出て、ホテルの敷地外へ向かおうとしている。

そんな最中

「朝は・・・本当に申し訳ございませんでした」

とトレーナーが呟いた。

「何がだ」

エアグルーヴが少し途惑ったかのように返事をする。

「その・・・遅刻について・・・」

心底沈んだ、消え入りそうな声でトレーナーがそう言う。

(何だ、そんな事か)

とエアグルーヴは思った。ちっとも気にしていない事を、右に座っている男はいつまでも気にしている。

それにどこか可笑しさを感じつつ、気にするな、と言わんとした、その時だった。

「うわ!!!」

「なっ・・・!!!」

車の左後ろから衝撃と金属がすれるような音が走った。ちょうど、ホテルの敷地外へ出て、歩道を横切り、車道へ出るため左折しようとしたその最中だった。

慌ててトレーナーはギアをパーキングに入れ。後ろを振り向く。しかし、そこには何の形もない。何かにぶつかったような感触はあったのだが、何もないことに怪訝な顔をする二人。

「あ・・・!エアグルーヴさん!お体は!」

「・・・何ともない。それより後ろを」

「は、はい!」

二人が外に出ると、すぐに衝撃の原因が現れていた。

「なんだ・・・」

とエアグルーヴは胸を撫で下ろした。リアホイールのカバーに傷がついている。縁石にリアホイールが擦っていただけのようである。

「良かったな、この程度で」

「はい・・・」

すっかり意気消沈するトレーナーを見て

「貴様、しっかりしろ」

とエアグルーヴは声をかける。

そこからはより慎重にと、ゆっくりしたペースで車は駅に向かい、何事も無く道程を終えた。

レンタカーの返却時には弁償金額は取られたものの、ホイールカバーのの擦り傷くらいなら、と大層な金額にはならなかった。

新幹線にて神奈川県・新横浜駅まで戻ってきたころには、すっかり正午を過ぎていた。

適当に昼食を取ろうと駅の外に出て、一件のファミリーレストランに二人は入る。

席について尚、すっかりしょげた顔をしている彼を見て、

(仕方の無い奴だ)

と、ため息をついたエアグルーヴであった。

 

 

 

ぼんやりとした靄が空にかかったかのような、ある日のこと。

エアグルーヴは病院の廊下を歩いていた。

彼女が怪我や病気をした訳ではない。彼女のトレーナーが車にて単独事故をしてしまったとのことで、その見舞いである。

(まったく・・・何をしているのだ)

そう思う反面、彼女は安堵していた。どうやら命に別状はないとの話は聞いている。頭を強く打ったため、トレーナーは少しの間入院するらしいのだが。

エアグルーヴは花束を手に病室の前に立つと、ネームプレートから自分のトレーナーが休養している病室であると確認する。

そして

「失礼する」

と彼女は病室に脚を踏み入れた。

エアグルーヴの視界にベッドに横たわるトレーナーと、その傍に立つ駿川たづなの姿が目に入る。

「エア、グルーヴさん・・・」

途惑った様子で駿川たづなが目を見開き、それに軽く彼女は会釈すると、トレーナーの前に立った。

「貴様、何をしている」

「はぁ・・・」

ぼんやりとした眼でエアグルーヴを見るトレーナー。その頭には包帯が巻かれていた。

「身体は平気・・・でもないようだな」

「はぁ・・・」

「命には別状はないと聞いているが・・・もう少ししっかりしないとな」

「はぁ・・・」

「気のない返事だな、貴様。まぁ、今はゆっくり休むと・・・」

「あの」

彼女の言葉を遮るようにトレーナーが話す。いつもと違う様子に途惑い、

「何だ」

と少しだけ不機嫌そうにエアグルーヴは言葉を返した。

そんな彼女に、トレーナーは怪訝な顔をして首を少し傾け

「貴方、誰ですか?」

と一言投げかける。

途端、エアグルーヴの頭が真っ白になった。何も言い返す事が出来ず、眼を見開きその場に硬直する彼女に

「エアグルーヴさん、ちょっと」

と、駿川たづなが彼女の手を取り、病室から引っ張るように廊下に連れ出した。

「あ、あの・・・駿川さん」

「来ちゃダメって言ったじゃないですか」

途惑うエアグルーヴにたづなが咎めるようにそう言う。

状況がよく飲み込めず、困惑するばかりのエアグルーヴに

「トレーナーさん、記憶喪失なんですから」

とたづながため息をついて、声を落としてそう話した。

「え・・・・・・」

エアグルーヴは何が起こったか分からないまま、その言葉を聞いていた。しかしその言葉は心の外を漂うばかりで、いつまで経っても心中に入ってこない。

「聞いていませんか?トレーナーさん、単独事故で記憶喪失みたいで」

「はい」

「ですから、しばらくお休みいただくことになったって・・・学園から通知が」

「聞いて、いません・・・」

その言葉を聞いてたづなは困ったように頭をひねった。

呆然と花束を手に立ち尽くすエアグルーヴだったが

「あの」

視線を下に向けたまま、どうにか絞り出すように声をだした。

「このまま・・・記憶喪失が続いたら・・・。どうなるんですか?」

その言葉にたづなは、真っ直ぐ彼女の目を見て

「トレーナーとして仕事をするのは不可能です。新しいトレーナーさんの元に編入する手続きを進めていくことになります」

と、真摯な声で、どこか堅さの残る声音で、彼女はそう告げた。

その言葉を聞いて、真っ直ぐにたづなの顔を見る。

途端、世界が歪み、エアグルーヴの目の前の景色が少しずつ白ばんでいく。

そして世界は消えてなくなり、彼女の目の前に現れたのはよく知る天井だった。

窓の外から聞こえるのは鳥の声。そして差し込むのは朝日。身体中に残った湿った汗の感覚。回りを見渡すと、同室のファインモーションが寝息を立てている。

「夢・・・か・・・」

エアグルーヴはようやく自覚した。悪夢から覚めたのだと。

ため息をつき、時計を見ると、時刻は6時前。手に残ったのは汗の感覚と、そして花束を握りしめたような強ばり。

「くそっ・・・」

彼女はその手を強く握りしめ、眉間に皺を寄せた。

ベッドから立ち上がると、汗で湿りきった身体を気持ち悪く思い、着替えることにした彼女である。

その朝の空は、その夢の内容とは裏腹に、澄み切った海のように薄い青色で満ちあふれていた。

 

 

その日、練習を始める前のこと。

「入るぞ」

そう言ってエアグルーヴはトレーナー室をノックし、足を踏み入れた。

「エアグルーヴさん」

そう答えるのは、いつも通りのトレーナーである。

「昨日は、すみませんでした」

それは日曜日のこと。車で縁石にこすってしまったことを指すのだろう。

そんな言葉を一切無視し、エアグルーヴは机に座るトレーナーの元に歩み寄る。

「あの・・・」

「おい、貴様」

「はい」

「立て」

突然の言葉に、途惑いの表情を浮かべ、トレーナーは立ち上がった。背の高く、肩幅の広いトレーナーの姿がエアグルーヴの目の前に現れる。

その姿を視界に入れず、視線を逸らして立ち尽くすエアグルーヴ。少しその顔にはためらいのような、恥ずかしさのような色合いが見え隠れしていた。

「あの・・・」

それに気づくこと無くトレーナーは頭をひねるが

「ええい!」

とエアグルーヴは腹の底から声を出す。大きく深呼吸して、彼女の口から出た言葉は

「撫でろ」

非常にか細く、照れを含んだ色合いだった。

「えっと・・・」

「頭だ!・・・撫でろ」

その言葉に途惑いながらも

「はぁ・・・」

トレーナーの右手がエアグルーヴの頭にゆっくりと向かった。

エアグルーヴの頭に大きな岩のような手が乗る。途端、少しだけ彼女の頭がびくっと震えた。

「あの・・・」

「いい!・・・いいから、・・・頼む」

その声に、いつもの気丈な彼女とは異なる、どこか恥ずかしげな声を受け、トレーナーは頷き、ただ彼女の頭を撫で始める。

彼の大きな手が触れる度、エアグルーヴの心がときめく。心臓の音が少し恥ずかしそうに跳ねたような心持ちのリズムを奏でる。

視線を逸らして顔をほのかに赤らめ、エアグルーヴは立ち尽くし、トレーナーの手の温かみを感じていた。

「そろそろ・・・どうです?」

「・・・もう少し、頼む」

短い会話を経て尚、トレーナーは彼女をなで続ける。そんな最中

「ひゃっ!?」

彼の手が、頭を離れ、エアグルーヴの左頬に伸びた。

「き、貴様!?何を!」

きっ、と睨むように目の前の大きな男性をにらみつけ、それに

「す、すみません!!」

とトレーナーは慌てた様子で手を離した。

「そ、その・・・。エアグルーヴさんが・・・こうして欲しそうな感じがしましたので・・・」

そう言って話すトレーナーの顔も、少し赤らんでいた。

視線を逸らし、どぎまぎした彼の様子。それを見てエアグルーヴはふっと笑い

「たわけ」

と言い、彼の手を取って、自分の左頬に押し当てた。

トレーナーが見たエアグルーヴの顔は、ほのかに赤色のツツジのような色合いを帯び、優しい微笑みを浮かべていた。、



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5.カワカミプリンセスの二度目のエリザベス女王杯

「やるんですよ、カワカミさん!」

そう彼は告げた。ふんわりとした軽いパーマ。垂れ目がちの目元。そんな柔らかな雰囲気を一蹴するかのような強い張りのある声で。

「でも・・・、でも・・・!わたくし・・・!!!わたくしは・・・!!!」

床に腰を崩して泣きじゃくるウマ娘がいる。彼女の名前はカワカミプリンセス。

この日行われたG1レース、ヴィクトリアマイルで10着だったウマ娘。ダブルティアラ、幻のアノマリートリプルティアラ<変則三冠>と呼ばれたウマ娘の姿はそこにはなかった。

ただ彼女は走るのに怯えていた。走ることがトラウマになっていた。

全ては、昨年の11月に行われたG1レース、エリザベス女王杯に遡る。

 

昨年のエリザベス女王杯。そこでカワカミプリンセスは見事、一着にてゴール板を駆け抜けた。

誰もが思った。変則三冠の女王が誕生したと。

しかし、彼女を待ち受けていたのは、レース実行委員会からの詰問だった。

「レースが終わり早々にすみませんね」

「いえ、どうしたんですの?」

トレーナーと彼女はレースが終わって数分後のこと、レースの実行委員会に呼び出され、裁決室を訪れていた。

「まず、この映像をご覧になっていただけますか?」

そう行って彼女の目の前で再生されたのは、エリザベス女王杯、最後のホームストレッチの動画だった。

第四コーナーを抜けて、残り300mの場面が映し出される。

「ここです」

そう言って彼女は動画を一旦停止する。

そこに写っていたのは、二人のウマ娘の間を抜けるカワカミプリンセスの姿だった。闘志をむき出しにし、中段から先頭めがけて加速しようとする場面。

「ここからスローで再生しますね」

そう裁決委員は言い、動画はゆっくりと送られ始める。

「あ・・・・・・」

ある場面になったその瞬間、カワカミプリンセスの青色の瞳が大きく見開かれた。

二人のウマ娘の間を通った瞬間、内側へ切れたためだろう、彼女の腕が内側にいたウマ娘の脇腹に接触していたのだ。

「・・・今、気づいたという感じ、ですね」

「はい・・・」

一時停止ボタンを押して、裁決委員はカワカミプリンセスの様子を見た。明らかに動揺した顔つき。どうやらわざとではないらしい。

「あ!あの!!!わたくし!!!」

「分かっています」

そう彼女を抑えつけるように裁決委員は言うと、トレーナーの方をちらと見た。しかしその表情はひたすらに能面のようなもの。というより意図的に感情を表に出していないように彼女には思えた。

だが、裁決委員の視線を真正面から見据えたトレーナーは、その視線をしっかりと両目で受け止め、深く頷いた。

それだけで十分だった。その表情と、首を縦に振る態度だけで。

すべてを裁決委員は理解すると、ため息を一つつき

「それでは・・・続きを再生します」

と言い、再生ボタンを再度押した。

そこに映し出されたのは、カワカミプリンセスが接触したことで、バランスを崩したウマ娘の姿。

もつれるように脚をなんとか立て直したものの、その脚色は鈍い。後続の2人のウマ娘もそのあおりを食らっている。他のウマ娘に抜かれて沈んでいく3人のウマ娘。明らかな進路妨害だった。

「・・・ご確認いただいたように、今回のレース、カワカミプリンセスさん、貴方に進路妨害が認められました」

カワカミプリンセスはその言葉を聞いて尚、何も言えずその場に立ち尽くしていた。脳内が真っ白となり、何も考えられない彼女に、裁決委員は真っ直ぐ彼女を見据える。

そして

「残念ながら、今回のレースですが、降着とさせていただきます」

静かにそう言い放つ。

「こう・・・ちゃく・・・」

その言葉の意味を理解できないまま、呆然とするカワカミプリンセス。

どういうことなのか、『こうちゃく』とは一体何なのか、何が起こるのか、頭の中をぐるぐると思考が駆け巡る中

「あの」

口を開いたのは彼女のトレーナーだった。

びくっと身を震わせて、カワカミプリンセスはトレーナーの顔を見た。彼女の瞳に映ったのは真剣な男性の横顔。

そしてその口から出たのは

「どうにかなりませんか」

『こうちゃく』を撤回しようとする言葉だった。

「教え子が迷惑を掛けたのは分かります。ですが、それはトレーナーである僕の責任です。ウマ娘である彼女が責められるのは筋違いです」

「いえ・・・それは・・・」

かぶりをふる裁決委員になおも彼は食い下がる。

「お願いします。彼女は誰よりも文句なしに速かった。それは誰もが認めることでしょう」

「それは・・・そうですけど・・・」

確かにその言葉には筋が通っている。カワカミプリンセスが接触していなくても、このレースは彼女の圧勝だった。だが、違反があったのも事実。それが覆ることはないと、裁決委員の苦い顔が語っている。

「お願いします!」

だが、トレーナーも決して折れない。

「お願いします!僕がどんな処罰でも受けます!どんな罰金でも!どんな始末書でも書きます!だから!!!だから!!!彼女を降着にしないで下さい!!!」

「と、トレーナーさん!?」

その時ようやくカワカミプリンセスは気づいた。とんでもない事をしでかしてしまったと。

「トレーナーを・・・トレーナーを首になっても構いません!!!だから!!!お願いします!!!お願いします!!!」

「そ!そんな・・・そんなこと・・・言わないでくださいませ!!!そんな・・・そんなぁ・・・!!!」

教え子のために必死に頭を下げるトレーナー。それに寄り添い涙目になるウマ娘。

涙色で溢れた二人の姿を見て、裁決委員は頭を右手で覆った。

そして首を重く横に振ると、二人に背中を見せる。

 

それから、数分後の事だった。

掲示板のてっぺんに掲げられた、カワカミプリンセスの『16』の数字が消え、二着の『15』の数字が一着に繰り上がったのは。

秋の京都レース場に、落胆の声が響き渡った瞬間だった。

 

「あんたのせいよ!」

病院にて。カワカミプリンセスはベッドに寝そべるウマ娘にそう怒声を浴びせられた。

「あんたが!!!あんたが斜行なんてしなかったら!!!あんたが!!!あんたが!!!!!」

涙目になり、枕をぶつけようとする彼女の腕を、彼女のトレーナーが必死に押さえていた。

「おい!落ち着けって!!!」

男の体重と両手の腕力にどうにか押さえつけられ、彼女の腕がしおれた花のようにその場に崩れ落ちた。

そして響くのは一人の少女のすすり泣く声。

カワカミプリンセスとそのトレーナー、そしてキングヘイローが黙ってその場に立ち尽くす中

「すまんな。もう、今日は帰ってくれんか」

怪我をしたウマ娘のトレーナーにそう言われ、なすすべもなく二人は病室を後にした。

 

カワカミプリンセスが接触したウマ娘。彼女は接触時に態勢を崩したことで怪我を負ってしまっていた。

病名:右脚浅屈腱不全断裂。シニア級で走っていた彼女に取って、その怪我は重すぎるものだった。

 

数日後。

トレセン学園栗東寮にて。

「離して!!!離してください!!!」

カワカミプリンセスはウマ娘立ちに取り押さえられ、廊下の床に這いずり回っていた。

彼女の目の前には引っ越し業者のウマ娘達が、忙しそうに荷物を運んでいる。

「お願いです!!!離して!!!離せ!!!離せ!!!」

必死な声を出し、彼女がもがく度に、ウマ娘達の身体が浮き上がる。その度にウマ娘達が筋力と体重を掛けて彼女を押さえつける。

そんな最中

「少しは大人しくしてくれないか」

そう彼女に語りかけたのは寮長のフジキセキだった。麗人の雰囲気は保っては居るものの、セットされた髪の毛はくしゃくしゃに乱れており、その衣服も汚れている。先ほど、カワカミプリンセスを取り押さえる際に彼女と取っ組み合いになったためだった。

「仕方ないだろう」

「仕方なくないですわッ!!!」

「そうは言ってもねぇ」

フジキセキはそう言ってカワカミプリンセスから視線を逸らした。

「仕方ないじゃないか。彼女、学園を去ることになったんだから」

彼女。それはカワカミプリンセスが怪我をさせたウマ娘のことだった。そして今日は寮からの退去の日。必死に荷物を外に出さないように抵抗するカワカミプリンセスが格闘することなんと12時間。ようやく大人しくなったとはいえ、持ち前のど根性はまだまだ健在。

しかし

「嘘ですッ!!!」

「嘘じゃない」

「退去なんて!!!」

「もう彼女は走れない」

フジキセキと交わす言葉の節々から、彼女の心が強く揺れ動く。

「うそです・・・こんなの・・・こんなのぉ・・・!!!」

そして出るのは止めどない涙だった。

「おねがいです・・・!!!わたくしなんでもします!!!だからもっていかないでください!!!にもつ!!!そどままで!!!そのばばで!!!」

その言葉を無視するかのように引っ越し業者達が荷物を運んでいく。淡々と、機械のように。その後ろから涙声のウマ娘の悲鳴が聞こえても、彼女たちのペースは一切とどまることなく。

 

それから30分程度立っただろうか。

「これで終了です」

「お疲れ様でした」

引っ越し業者が頭を下げ、フジキセキが送り状にサインをし、滞りなくすべての作業が終了した。そしてトラックが走り出す音が外から響き、その音は夜の闇に消えていく。

「ありがとね」

トラックを見送ったフジキセキが元引っ越し現場に戻り、ウマ娘達にそう声を掛けた。ウマ娘達の間から、ようやく安堵の声が漏れる。

蛙のように押しつぶされたように、床に組み伏せられていたカワカミプリンセス。ウマ娘達がひとり、またひとりと彼女から離れていく中で、カワカミプリンセスは涙の泉に溺れるように、すすり泣く声を止められずにいた。

「はいはい!もうすっかり消灯の時間は過ぎてるよ!!!戻ったもどった!!!」

手を鳴らしながらフジキセキがウマ娘達を退去させていく。

ちらとカワカミプリンセスを見ると、身を起こして尚、廊下にうずくまっていた。

フジキセキは彼女には何も語りかけず、彼女の肩を軽く叩くだけで、その場を去る。

 

消灯の時間を過ぎても、栗東寮の廊下の明かりも落ちる。

しかし、尚カワカミプリンセスはその場を動こうとはしなかった。

その場で1時間くらいしただろうか。座り込む彼女がようやく腰を上げ、向かった先は、『彼女』のいた部屋だった。

パートナーが偶々居なかった彼女である。そこには何も残っていなかった。ただ、がらんとした空き部屋が、月明かりに照らされていただけだった。

途端、カワカミプリンセスの腰が崩れ落ちる。涙とともに、床へ。

そして

「ごめんなさい・・・」

出てきた言葉は

「ごめんなさい・・・!!!ごめんなさい・・・!!!」

後悔、懺悔、自己嫌悪の叫び声。

この夜、一人のウマ娘の悲惨な声が、いつまでも嘗てあった夢の跡に響き渡っていた。

 

 

 

この出来事を境目として、彼女はレースを走ることが怖くなった。

またウマ娘を傷つけてしまうかもしれない。怪我を負わせ、再起不能にしてしまうかも知れない恐怖。

トレーナーが責任を取って学園を去ることになるかも知れないという怯え。

彼女の憧れのキングヘイローにも叱られたのだが、それも尾を引いていた。叱られたのは降着劇を起こした接触のためではない。降着処分の後、気が抜けきってしまっていて、3人のウマ娘に直接謝りにいくのが遅れたからである。そんな彼女にキングヘイローは付き添って一緒に頭を下げてくれた。それからは「しゃんとしなさい」と優しく声を掛けた彼女だが、依然としてカワカミプリンセスの脳裏にあったのは『キングヘイローにも見限られるかもしれない』という不安だった。

他のウマ娘の視線も気になった。自分が登校する度に、誰かが自分を責めているような幻聴を何度も彼女は耳にした。その幻に怯え、苛まれる呪縛から彼女は逃れることができないままに、5月のヴィクトリアマイルを迎えてしまった。そして絶不調の中の10着。もう彼女の心は限界に達している中で

「やるんです」

彼女のトレーナーはなおも諦めていなかった。

「今まで色々抱えていたことは知っています。でももう前を向きましょう。時間は元に戻りません」

「でも・・・!!!」

なおも食い下がるカワカミプリンセスに

「でもじゃない!!!」

気迫たっぷりにトレーナーは言い放つ。

目の前の王子様が、ひ弱な体つきをした痩せた男性が、力強く彼女の前に立っている。

その刹那、彼は膝をついた。彼女の肩をしっかりと両手で抱いて

「やるんです!カワカミさん!貴方と僕だけのやり方で!!!」

その力強い言葉に嗚咽を漏らすカワカミプリンセス。

そこに感じたのは、自分を信じてくれる人間のぬくもりだった。

「一年前の落とし物を拾いに行きましょう。もう一度出ましょう、エリザベス女王杯に!!!」

語られた言葉を胸に受け止め、彼女は

「はい・・・!」

溺れ続けていた泉から這い上がろうとしていた。蜘蛛の糸のような、一縷の望みをたぐるように。

 

 

 

11月中旬。京都レース場。

天気は晴、バ場は良。

芝2200m、第11レース、G1、エリザベス女王杯。

 

『秋の寒空が京都の空に広がっています。冬の訪れを感じさせるそんな空気ですが、なお、ウマ娘達の瞳には、熱い熱い闘志が宿っているのには変わりません。ティアラ路線を走り抜けた乙女達と、シニア級の乙女達が交わる本レース、エリザベス女王杯の時間です』

響き渡る実況。そしてレースの開催に胸を躍らせる観客達。

そんな最中、地下バ道から一人のウマ娘が現れ、歓声が巻き起こった。

『出て参りました!今年のティアラ路線の女王です!桜花賞ではダービーウマ娘のウオッカと死闘を演じ!オークスでは余裕の1着!そして皆さんの記憶に新しいでしょう!2週間前の秋華賞!!!見事トリプリティアラに輝いたウマ娘!!!緋色の女王!!!ダイワスカーレットの入場です!!!』

大きなツインテール。赤い色の瞳。新女王の姿がターフの上に現れた途端、誰もがその姿を目に焼き付けんとし、視線が一斉に彼女に集まっていく。しかしそんな何千何万の視線を受けて尚、ダイワスカーレットには心地のいい刺激だった。注目されればされるほど、闘志が巻き起こり、何が何でも一番になってみせる。そんな思いを胸に秘め、ターフの上から会場に手を降り始めた。

そんな最中

『もう一人出て参りました!!!昨年の女王の出陣です!!!桜花賞は実績が足りず出られなかったものの、無敗でオークス・秋華賞を制したその実力!!!ヴィクトリアマイルでは精細を欠きましたが今度はどうだ!?カワカミプリンセスの入場です!!!』

一人のウマ娘の登場に会場が沸く。

観客の歓声を受け、カワカミプリンセスはどこか落ち着いた素振りでターフに歩を進めていた。

しかしその心音は高鳴っていた。

(平常心・・・!!!)

そして、強く冷静になるよう自分に言い含め、にこやかに笑い会場に手を振った。

「カワカミさん!」

そんな彼女にダイワスカーレットが満面の笑みで話しかけてきた。

「スカーレットさん」

カワカミプリンセスも彼女に笑顔を見せる。

「今日はよろしくお願いします!」

「こちらこそ、よろしくおねがいしますわ!」

二人ががっしりと握手を交わす。

そんな中、カワカミプリンセスはダイワスカーレットとの出会った事を思い出していた。

「オークスで優勝した、カワカミプリンセスさん、ですよね!?」

昨年の6月上旬。トレセン学園の廊下でカワカミプリンセスは一人のウマ娘に話しかけられた。どうやら新入生のようであるが、体つきはがっしりとしており、クラシック路線のウマ娘と比べても遜色ない。

「アタシ、ダイワスカーレットって言います!!!レース見てました!!!無敗でオークス優勝!!!感動しましたッ!!!」

がちがちに固まりながらも必死に感動と憧れを口にする彼女の姿を見て、心が躍った思い出。彼女のジュニア級のメイクデビューに向けて、一緒にトレーニングに励んだ過去。

そして8月下旬。

「見て下さいッ!!!カワカミさんッ!!!」

見事メイクデビューを制し、満面の笑みで一着の賞状を見せてくれたその姿。

全てが鮮やかな万色に彩られた思い出。楽しい過去。そんな彼女が自分の前に立ち塞がる時が目の前に現れている。

「今日はいいレースにしましょうねッ!!!」

そう語りかけるカワカミプリンセス。

「はい!でも・・・」

ダイワスカーレットは鋭い目をして

「アタシが今日は一番になります!」

と彼女に言い放つ。

そうだ、そうなのだ。誰もが一着を取りたくてレースに挑む。誰がが勝てば誰かが負ける。苦難を超えて、恐怖を超えて。それでも尚、走ることを諦めないと誓ったのならば、言うことは一つだった。

「負けませんわよッ!!!わたくしが一着を取るんですからッ!!!」

龍のような瞳を細め、彼女もそう言い放った。

 

「いい感じじゃん」

観客席でカワカミプリンセスを見守るトレーナーの右隣より、一人のウマ娘がそう彼に話しかけた。

すらりと伸びた細い身体。長く麗しい金の髪。

「そうですか、シチー」

彼女を見ずに、トレーナーの視線はカワカミプリンセスだけを見ている。そんな彼の態度を見てゴールドシチーは彼の顔をのぞき込み、

「アンタ、あの子の練習に結構協力してあげたんだから。もうちょっと感謝してくれてもいいんじゃない?」

と一言。しかし彼の態度は変わらずに

「感謝はしていますよ。ただ今日は彼女の日です」

と言って、彼女と眼を合わせようとしない。

そんな彼を見て、少しその言葉と態度にいらついたように、ゴールドシチーが手すりに寄りかかり頬杖を着いた。

そんな中で

「くぁ~~~~!!!!スカーレットと姐さん!!!どっちを応援すればいいんだぁ~~~!!!!」

と叫んでいるウマ娘。黒い髪の毛を短く切りそろえた、活発そうな身振りをしている。

「ウオッカさん、落ち着いて」

そうなだめるようにカワカミプリンセスのトレーナーは彼女に微笑む。

「だって、だってですよ!?スカーレットは三冠制してもう一冠がかかってるし!!!姐さんは一年前の雪辱を果たすレースですし!!!もう!!!どうすればいいんだよぉ!!!」

はいはい、とトレーナーがなだめるようにしている最中で、ターフの上では順調にゲートインが終わり始めていた。

 

ゲートの中に入ったカワカミプリンセスは、レースが始まるのを瞳を閉じて待ち続けていた。

そばだてた耳から聞こえるのは、観客のレースの始まりを待ち望むどよめき。ウマ娘達の息づかい。だが一番大きく聞こえたのは、自分自身の心臓の音だった。

強く、少し浮き足立ったように、心臓の音が高鳴っている。それは忘れもしない、メイクデビューの時のよう。

(それよりも・・・少し、大きいかしら)

そう、彼女は緊張していた。オークス・秋華賞・昨年のエリザベス女王杯・ヴィクトリアマイル、そして今年のエリザベス女王杯。G1レースは5度目なのに、胸の高鳴りは最高潮。

心臓を締め付けるのは何故だろうか。心当たりは山ほどある。だが、その思いを背負いすぎないように。彼女は深く深呼吸をし、大きな瞳を開いた。

ターフが秋風に揺れている。澄み渡る空が広がっている。全てを決めるレースが、もうすぐ始まろうとしている中の静けさを一心に浴びて

『さぁ!!!新女王が戴冠を増やし、真の女王に駆け上がるのか!!!一年前の女王が落とし物を手にし、新たな伝説を作るのか!!!ゲート開いた!!!!!』

運命のエリザベス女王杯の、幕が切って落とされた。




実装おめでとうございます


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6.アグネスタキオンと雪降る僻地の家

12月下旬。トレセン学園、ある日のこと。

「有給休暇を取ります」

トレーナーは担当するウマ娘にそう告げた。

「有休休暇?」

それに首を傾げたのは彼の担当するウマ娘、ぶかぶかの白衣を纏った彼女、アグネスタキオンである。

「はい」

そんな彼女に真顔でトレーナーは首を縦に振る。

「民間企業では年間最低5日間の有給休暇の取得が義務づけられました。これを以て、少しはトレセン学園も世の流れに沿わねばと、有給休暇を取るよう指示が出ました。理事長が考えられたようです」

「ふぅん・・・」

少しだけアグネスタキオンは頭を巡らす。

確かに考えてみれば、目の前のトレーナーはおろか、他のトレーナー達も休んでいる素振りを見せたことがない。そんな記憶がぼんやりと彼女の脳裏を漂う中

「そういう事で、私は早めの冬休みをいただきます」

とトレーナーは静かに声をかけ、スケジュール帳のカレンダーを彼女の目の前に出す。

そこには有給休暇と正月休暇をつなげた連休の日程が現れていた。

「・・・トレーナーくん」

「はい」

「休み・・・長いねぇ」

「そうですね」

そこから二人の間に沈黙が流れるが

「今日の打合せは以上です、お疲れ様でした」

とトレーナーが頭を下げた。

しばらく目を瞬かせたアグネスタキオンだったが

「うん、分かったよ」

といつものように薄笑いを浮かべて席を立ったのだった。

 

 

そしてトレーナーの有給休暇1日目。

「やぁ、おはよう。トレーナーくん」

トレーナー寮の前にて、待ち構えたように私服姿のアグネスタキオンが立っていた。

「・・・何でここにいるんですか、貴方」

肌寒い空の中、少し厚着をしたトレーナー。リュックサックを背負ってどこかに泊まり込みで出かけるような格好だ。

彼はそんな彼女に少し低めの声で話しかけるが

「別にいいじゃないか!私がどこに居たって!」

と両手を広げて彼女は笑ってみせる。

そんな彼女に少しだけため息をつくと

「では私はこれで・・・」

トレーナーは駐車場の方に向かい始める。

「おおっと、どこに行くんだい?」

それを追いかけるようにアグネスタキオンが彼に続く。

敢えてそんな彼女を無視するように歩みを進めていた彼だったが

「実家ですよ」

遂に自分の車の前、リフトアップしたジムニーの前につくと、ぽつりと呟いた。

「そうかい」

と彼女は言い首を傾げて薄笑いを浮かべてみせる。

そして

「じゃぁ、私もついていこうかな」

変わらぬ調子でそう告げる。

その言葉を聞いた彼は

「本気ですか?」

あからさまに眉間に皺を寄せて彼女に話しかける。

だが

「当然さ」

そんな彼の態度などどこふく風。一切調子を変えず、アグネスタキオンはそう頷いてみせる。

「絶対後悔しますよ」

「どうしてなんだい?」

「私の実家はものすごい田舎です。止めた方がいい」

「構わないさァ。第一、トレーナーくんが居なくなったら私の食事は誰が作るんだい?」

何度か押し問答を繰り返すが、アグネスタキオンの意思は変わらなかった。

その鋼の意思の前に

「・・・・・・寮に寄ります。着替えや必要と思うものを出来る限り取ってきて下さい」

遂にトレーナーの心が折れた。

「わかったよ」

満足そうにアグネスタキオンが笑うと、二人は車に乗り込み、栗東寮の方へ向かったのだった。

 

 

そして二人の旅が始まった。

「郊外に出たねぇ」

「そうですね」

首都高速を抜けて、郊外の高速道路へ車は向かう。

「昼はここで食べましょう」

とトレーナーはSAに寄り、食事をするその最中

「トレーナーくん、まだ走るのかい?」

アグネスタキオンは彼に話しかける。

「そうですね、まだ走りますよ」

「ふぅん」

思ってみればトレーナーの実家がどこか知らない。ものすごい田舎と彼は言った。しかしその田舎像がいまいち想像がつかないアグネスタキオンである。

そして食事とトイレを済ませると、再び車は走り出した。

 

走り出して2時間程経過し

「トレーナーくん」

助手席のアグネスタキオンは彼に話しかける。

「まだかな?」

と。それに

「まだです」

と彼女と一切目を合わさずトレーナーは運転に集中する。

 

それから1時間ほどが経過し

「おっ・・・!」

アグネスタキオンが声を上げた。

「ようやくだねぇ」

それはようやく高速のICを降りることに対する言葉だった。

しかし

「?」

トレーナーは首を傾げる。

「高速、降りたじゃないか」

「あぁ・・・そうですね」

トレーナーは淡々とその言葉に応える。

アグネスタキオンは少し心が躍っていた。高速を降りたのだ。もうすぐトレーナーの実家だと、彼女は確信していた。長旅が遂に終ると。

窓から見える景色は地方の田舎のそれ。低い山に狭い空。そして広がる畑に、ドラッグストアやスーパー、やたら広い駐車場のコンビニ。

田舎といってもこんなものだろう。そうアグネスタキオンは思った。思っていた。

 

1時間後。

「トレーナーくぅん!」

「はい」

「まだなのかい!?」

「まだです」

一向に車は止まらなかった。それどころかどんどんと人気の無い方に景色は移っていく。周りは木々に覆われ、車線は1台がどうにか通れるもの。ヒビ割れたアスファルトが車体に伝わり車を揺らす。

気づけば日は沈みかけ、ヘッドライトが道を照らしている。

「どこまで走るんだい!?」

「もうすぐです」

「何か雪降ってきてないかい!?」

「この辺は降りますからね。タイヤはスタッドレスに変えてますから安心して下さい」

淡々と応じるトレーナーの顔を見て、思わずアグネスタキオンはため息をついた。

そして気を紛らわそうとスマートフォンを手に取って、

「トレーナーくぅん!!!」

彼女は叫んだ。

「はい」

「電波通じないんだけど!?」

「通じませんよ、この辺」

それにも『当たり前だ』と言わんばかりに淡々と言葉を彼は続ける。

あんぐりと口を開けた彼女だが

「返してくれよぅ!!!車を!!!」

すぐに言葉が口から出た。

「もう戻れませんよ」

そう言うトレーナーは続けて

「言ったじゃないですか。ものすごい田舎だって」

と、乾いた笑いをアグネスタキオンに向ける。

暗に『諦めろ』と言っているようなその視線を受けて

「こんなの田舎じゃないよ!!!未開の地じゃないか!!!」

「未開の地って・・・失礼な」

「あり得ない!!!こんなのあり得ない!!!」

「うるさいですね・・・もうすぐですから」

騒がしくアグネスタキオンの声が響く車内。人気無き道に、車は止まることなく進み続けていった。

 

 

「着きましたよ」

そう言われてアグネスタキオンは無言で車を降りた。

山奥にぽつんと古い家が一軒。周りには一軒の家もない。切り開かれた畑が少し広がり、トタン張りの小屋があり。その周りには木々が茂っている。

「トレーナーくん」

「はい」

「限界集落を越えているね、あっ、一軒だから集落ですらないね。限界突破孤立住宅だねぇ」

「何言ってるんですか貴方」

そう言って二人がそれぞれに荷物を持ち、家へ歩みを進める中、

「ただいま」

引き戸を開けて、トレーナーはそう一言。

それに

「あー、おかえりー」

一人の少し老いた女性が笑顔で彼を出迎えた。彼の母親だった。

「あ・・・そっちの子が」

そう言ってトレーナーの後ろにいたウマ娘の方に母親の視線が向く。

「うん、急にごめんね。母さん」

どうやら出発前にトレーナーはアグネスタキオンが同行することを連絡していたらしい。

そんな母親の視線に少し自慢気に

「やぁ、アグネスタキオンだ。お世話になるよ」

いつものように、いつもの調子で。アグネスタキオンは母親にそう声を掛ける。

自分は腐っても皐月賞ウマ娘。名は通っている自信はあった。

しかし

「アグ・・・タキ・・・?」

母親は首を傾げた。まるでその名前を初めて聞いたかのように。

「外国人みたいな名前なのね、よろしくね、タキちゃん」

そして困ったかのように微笑んだ。

「えっ・・・あっ・・・」

思ってもみない反応に言葉が出てこないアグネスタキオン。

「言ってませんでしたが」

トレーナーは小声でアグネスタキオンに話しかける。

「私の両親はトゥインクルシリーズの事を殆ど知りません。ルドルフ会長ですら知っているか怪しい。NHKで偶に映るスポーツ選手程度としか考えていないのです」

「へ・・・?」

その言葉に呆気にとられているうちに

「二人とも長旅お疲れさま。おあがりなさい」

と母親の言葉に促され、トレーナーは靴を脱いで家に上がろうとする。

(私を・・・知らない・・・?)

その事実に少しだけショックをうけつつも、気づけばアグネスタキオンも彼の背中を追いかけるように、自然と靴を脱ぎ、家にあがっていたのだった。

 

その夜は、トレーナーとその両親と、一緒に鍋をつついてあっという間に就寝となった。

テレビはNHKしか映らない。スマートフォンの電波は通じない。インターネットなど無論通っていない。電気は通っているが、下水道はない。何せこんな環境だとやることがない。長旅の疲れを言い訳に彼女は早々に枕に頭を預けたのだ。

翌朝。

「ん・・・」

アグネスタキオンが目を覚ます。鼻に入るのは畳の匂い。そして耳に入るのは静寂。

「寒いねぇ・・・」

ふと身を震わせて窓の外を見ると、雪が降り積もっていた。

時計に目を移すと、11時前。すっかり寝坊である。

だがそれでもいいのだ。今日は遅刻を叱る者もいなければ、興奮気味で起こしてくれるルームメイトもいない。

しかし特にやることもない。このまま布団に転がっていても仕方が無い。

そう思い、身体を起こし居間に向かおうとした。台所から何か音がして、そちらの方に向かうと、一人の女性が料理をしていた。

「あ。おはよう、タキちゃん」

そして彼女も、トレーナーの母親もアグネスタキオンに気づくと彼女に微笑みかける。

『タキちゃん』。アグネスタキオンにとって、その呼ばれ方は少々とも気恥ずかしさがあるものだった。だからと言って目の前の女性に「こう呼んで欲しい」という呼び方もない。

「あぁ。おはよう、・・・お母さん」

そして、アグネスタキオン自身もまた、トレーナーの母親にどう話しかけて良いか分からずにいたのだった。

「よく寝れた?」

「うん、まぁ・・・・」

母親の言葉に声を濁す中、アグネスタキオンは知らず知らずのうちに一人の男性の姿を探していた。トレーナーである。

それに母親は気づいたのか

「あ、あの子なら・・・雪かきにいったから。とりあえずゆっくりしてて」

と一言。

その言葉に少しいつもの調子を取り戻して

「そうさせてもらうよ」

と言うと、彼女は居間に向かい、こたつの中に脚を入れたのだった。

しかし

「やることが・・・ないねぇ・・・」

何もすることがないことに、彼女は少し途惑っていた。とりあえずNHKしか映らないテレビをつけてみるが

「・・・飽きたねぇ」

すぐにテレビを消してしまった。

何も映らなくなったテレビをぼんやりと見ていたが、何を思ったか彼女は立ち上がり台所に向かって行った。

 

12時になった。昼食時である。

雪かきから返ってきたトレーナーとその父親、トレーナーの母親、そしてアグネスタキオンが席を囲む。

ご飯に野菜炒め、おこわ、そして漬物などが並ぶ食卓。

「何だこりゃ」

トレーナーの父親が、声を上げた。

そこにあったのはリンゴの入った一鉢。だが剥かれたリンゴが妙に不揃いなのだ。

「あぁ・・・それね」

と母親は少し笑った。

「それ、タキちゃんが剥いてくれたの」

と彼に向かって話しかける。

一方でアグネスタキオンは無言で下を向いていた。

「ほぉ~~~・・・・・・」

と父親が神妙な声を出す一方

「貴方が・・・リンゴを・・・?」

トレーナーがアグネスタキオンを凝視する。信じられないという声色で。

「・・・何だい」

「いえ・・・」

「何か文句でもあるのかい?」

「いえ。特に」

そのアグネスタキオンの顔は、どこか決まり悪そうである。しかし

「リンゴは誰が剥いてもリンゴですから」

と言い、彼は一つアグネスタキオンが剥いたリンゴを口にする。

「そりゃそうだな」

彼の父親もそれに応じ、彼も一欠片を口にした。

「何か・・・ひっかかるねぇ・・・」

不満そうに視線を逸らすアグネスタキオン。

「タキちゃん、はじめて料理したんだから。もっと褒めてあげて」

それをフォローしたつもりだろう。しかしそんな言葉にもどこか気恥ずかしさを覚えながら、アグネスタキオンは少しだけ頬を赤らめるのだった。

 

日々は進む。

正月になり、寒さは一段と強くなり、毎日のように雪が大地を覆う。

トレーナーは感じていた。日に日にアグネスタキオンの様子が大人しくなっていることを。

やることがないのもあるのだろう。出来ることがないのもあるのだろう。普段の余裕ぶった態度は影をひそめ、研究に対するエキセントリックさも無くなりはじめ。

流石に暇を潰すのにも飽きただろう、と頃合いを見計らい、アグネスタキオンを雪かきに連れだそうとしたことがあった。レースに出ていないとはいえウマ娘。人間よりも身体能力は高いはず。気晴らしにもなるし、雪かきは速く進むから一石二鳥だとそう思い。しかし、そんな思いも裏腹に、思いも寄らぬ反対者が現れた。

「ダメよ」

「ダメって、何でだよ、母さん」

「当たり前じゃない!タキちゃんは女の子なのよ!」

自分の母親にそう言われ、何も言えなくなったトレーナーである。

その言葉をアグネスタキオンの目の前で言われ、いつものように見下げた笑みを浮かべているな、とトレーナーは思ったが、なんとそうでもなかった。

彼は覚えている。その時の彼女の顔を。

女の子。そう呼ばれて、どこかぽかんとした、そして宙に浮いたような表情をした彼女の顔を。

 

ふと、雪かきから返ってきたトレーナーがアグネスタキオンを探すと、彼女は椅子に腰掛け、ストーブにあたり、彼の実家にあった古い百科事典を読んでいた。

無言でただそれに目を通す彼女に、

「面白いですか?」

とトレーナーは話しかけた。

「いや・・・古いだけあって、割と間違ってる所があるよ。この辞典」

彼女は彼に向かわず、そう話す。

「そうですか」

トレーナーはそう言うと、一旦その場を去る。しばらくすると本と椅子を手にし、ストーブを囲むように腰掛ける。

「何だい、その本」

「昔、中途半端に読んでた小説です」

「そうかい」

短い会話を経て、二人は本に視線を落とす。

ページのめくれる音と、雪が溶けて屋根から落ちる音。それだけが響く空間。

そんな最中

「ここは静かだね」

アグネスタキオンがページを捲りながら話しかける。

「そうですね」

トレーナーが本に視線を落としながらもそう応えた。

「何もないねぇ」

「そうですね」

二人がそう言葉を交わす。

灯油の燃える明かりが広がる部屋で

「いつか、さ」

「はい」

「いつか。私もこんな穏やかな暮らしをする日が来るのかな」

透き通ったアグネスタキオンの声が響いた。

ふと、トレーナーが視線を上げると、端麗で落ち着いたウマ娘の横顔が目に入る。自分のウマ娘の姿だとは思えない、普段の印象とは全く異なるその顔が。

「いつか・・・そうなるのかも知れませんね」

トレーナーが発したその言葉に

「そうかい」

アグネスタキオンは静かに返事をしたのだった。

 

 

正月休みが終わった。

そして

「やぁやぁトレーナーくん!!!見てくれよ、この新薬を!!!」

怪しげな蛍光色の薬品を手に取り興奮するアグネスタキオン。

すっかり元に戻った担当するウマ娘の姿。そんな彼女に、死んだような目をしたトレーナーはただただ視線を向けていた。

アグネスタキオンがいつもの調子を取り戻すまで時間はかからなかった。

まず彼女が歓喜したこと。それは実家からトレセン学園へ向かう車中、スマートフォンに電波が入ったことを確認したその瞬間だった。

「やったよ!!!トレーナーくぅん!!!これこそが文明の光だよ!!!」

やたら興奮した調子で、彼自身にとって失礼な言葉を言ったことを彼は覚えている。

そして帰り道の彼女はやたらに饒舌だった。コンビニを指さし現代経済の恩恵を口にし、高速道路を走る最中はインフラの素晴らしさを口にして。

あのときの静かなタキオンはどこに行ったのだ、そう彼が思う最中だった。

「あ、あとだねぇ。良い物を買ったんだよ!」

自信満々に口をにやけさせるアグネスタキオン。

明らかに『聞いて欲しい』という態度をする彼女に

「はい、何でしょうか」

と応じるトレーナー。

そんな彼女が自信満々に取り出したものは、安っぽいプラスチックの器具だった。

「ほら見なよ!!!リンゴの皮むき器だよ!!!これさえあれば誰だってリンゴの皮がキレイに剥けるんだよ!!!」

そう興奮した調子で話す彼女に

(あ・・・気にしてたんだ、アレ)

と彼女の不揃いなリンゴを思い出した彼である。

 

そしてまたフラッシュバックしたのは別の記憶。古い百科事典を読むアグネスタキオンの横顔。

いつか、彼女もこのトレセン学園を去るのだろう。今以上にレースとは無縁の生活を過ごし、いつかはウマ娘とも関わらなくなるのかもしれない。

そしてその果てに、彼女の言った落ち着いた日々が来るのかも知れない。それが、果たしていつ来るのか、それは彼には分からない。彼女にも分からないのかもしれない。

「良い物を買いましたね」

「そうだろう!?」

興奮気味のアグネスタキオンに声を掛け、自信満々に高笑いをする彼女にトレーナーは視線を向ける。

そして、いつかその日が来るときまで、この変人のウマ娘に、もう少しだけ付き合おうと考えたトレーナーなのだった。



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