マスカレード・ヴェネツィアン・ホテル (neo venetiatti )
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第一話 黒ずくめの男

その日の予約をすべて無事終わらせたARIAカンパニーのプリマ・ウンディーネ、水無灯里は、沈みかけている夕日をふと振り返り、目を細めた。

 

「明日も晴れるといいなぁ」

 

このままゴンドラを進めれば、暗くなる前にARIAカンパニーに到着しそうだと、灯里は少しの安堵を抱えていた。

 

少し前方に見える船着き場のそばに、誰かひとり、人が立っていた。

黒いジャンパーに黒いズボン、黒いニット帽を被っていた。

その上、近づくことでわかったのだが、黒い大きなマスクを着けていた。

 

まさに全身黒ずくめだった。

 

灯里のゴンドラが近づくと、うつむいていた顔をあげた。

視線が灯里に向けられる。

 

灯里は、その目に魅入られたように見つめ返していた。

オールを漕ぐ手は止まり、ゴンドラがゆっくりと進んで行く。

 

そして、そのままその男の前を通りすぎようとした。

 

「ちょっと」

「はひっ」

「そこの」

「はぁ」

「ウンディーネさん」

「はぁ」

「ちょ、ちょっと!」

 

ゴンドラは、その黒ずくめの男の前を完全に通りすぎようとしていた。

 

「ああ~スミマセン~~。ついうっかりしてしまいました~」

 

灯里は、急いでゴンドラをその男の前まで戻した。

 

「ウンディーネさん、こんな時間に悪いけど、乗せてもらえないだろうか?」

 

その言葉は、見た目の印象とは違い、優しく丁寧な口調だった。

 

「そうですねぇ。このあとは特に用事もありませんので、構いませんけど」

「よかった。助かる」

「ちなみに、行き先はどちらですか?」

「サンミケーレ島」

 

灯里はギクッと固くなっていた。

灯里の脳裏に過去の記憶が甦ってくる。

 

こんな時間に、なんで墓地の島へ?

 

「ウンディーネさん?僕は幽霊でもなんでもないから心配いらないよ」

「えっ?」

 

まるで灯里の心の中を見透かしたようだった。

 

「いいかな?」

「は、はい。それでは、お手をどうぞ」

 

灯里の差し出した手の上に重ねられた手は、黒の皮の手袋がつけられていた。

夜風のせいなのか、その男の冷えた指先が、まるで灯里のからだの芯まで凍らせるようだった。

 

ゴンドラに乗り込んだ背中は、最初の印象よりも痩せた感じに見えた。

だが、静かに座るその後ろ姿は、なぜかとても存在感が感じられ、気になってしまい、目が話せない。

 

すっかり暗くなった海を進む灯里には、水を漕ぐオールの音だけが聞こえてくる。

進路を知らせる誘導灯が点滅し、その唯一の道しるべが心の頼りとなっていた。

 

まるであの時のよう・・・

 

不安な気持ちのまま、前方に船着き場を知らせる灯りが見えてきた。

ゆっくりとゴンドラを寄せた灯里は、安堵のため息をついた。

 

「お客様、サンミケーレ島に到着です」

「ああ、そうだね」

 

灯里の手を借りて船着き場に降りた男は、スッとその場に姿勢よく立った。

 

「ありがとう、ウンディーネんさん。ご苦労さま」

 

そう言った男は、ズボンのポケットから、折り畳んだ数枚の紙幣を取り出すと、そのうちの一枚を灯里に渡した。

 

「お客様、これは頂きすぎです」

「別に構わない。無理を聞いてくれたお礼だと思ってくれたらいい」

 

灯里は手にした高額紙幣と男を交互に見つめていた。

 

「それとウンディーネさん?」

 

男は灯里の手首をぐっと掴んだ。

 

「えっ?」

 

灯里の脳裏に悪夢が甦る。

 

「明日の朝、迎えに来てもらえないだろうか?」

「はひっ」

「今日はこのままお墓の前で夜を明かすつもりなんだ」

「そ、そうなんですか・・・」

 

翌朝迎えに来る約束をして、灯里はサンミケーレ島を離れた。

ゴンドラの上で、安堵のため息をついた。

 

だが、約束通りに翌朝サンミケーレ島に来た時には、男の姿はどこにも見当たらなかった。



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第二話 行き交う客

観光都市として人気の高いネオ・ヴェネツィアに、新名所といえるスポットが誕生した。

 

ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティー。

 

アクア全土のみならずマンホームからの観光客や賓客を想定されており、豪華で質の高いホテルと、開業当初から評判が高い。

 

その豪華ホテルのロビーでは、縦横整然と並べられたソファで談笑する者や新聞を広げる者、誰かを待ちわびている者など、あちらこちらに様々な客の姿があった。

 

正面の入り口を入り、そのロビーのソファ群を左右に見ながら、真っ直ぐにそのまま中央を進むと、横に長く延びた受付カウンターにたどり着く。

 

そこには何人かのフロントクラークが姿勢を正し、笑顔で客を待ち受けている。

 

その日、ちょうど交代したタイミングでカウンターの中央の位置に立ったアデリーナは、ロビーを見渡してから正面に顔を向けると、少しふっと息を吐いて、背筋を伸ばし、柔らかに微笑んだ。

 

アデリーナは、年齢はまだ若いが、接客の的確さと仕事に対する情熱で、周囲から一目置かれている存在だった。

 

「いらっしゃいませ。ようこそ、ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーへ」

 

アデリーナの前にやって来たメガネをかけた老紳士が、予約を入れていることを告げた。

 

「アダルベルト様、いつもご利用いただきありがとうございます」

 

「今日も盛況だね」

「はい、お陰様で、たくさんのお客様にご利用頂いております」

「そうだね。忙しいかい?」

「はい、とても」

 

アデリーナは少し冗談めかした口調で言った。

 

「ハハハハ、それはいいことだ」

 

アダルベルトと名乗る老紳士は、アデリーナの表情を見て、嬉しそうに笑った。

アデリーナも優しく微笑み返す。

 

「この度もお仕事ですか?」

「いや、今回は観光なんだ」

「そうでいらっしゃいますか」

「たまにはネオ・ヴェネツィアでゆったりと時間を過ごそうと思ってね」

「そうなんですね。もしご予定などお考えがございましたら、チケットなど必要なものを手配いたしますが、いかがなさいますか?」

「そうだねぇ。その時はお願いするよ」

「かしこまりました。いつでもお声をおかけください」

 

アダルベルトは、それほど大きくないトランクを持ったベルボーイとともに、客室へと向かった。

 

アデリーナの右側の、少し離れた位置に立っていた女性のフロントクラークが、その様子を見送りながら、アデリーナのそばにスッと身を寄せてきた。

 

「先輩?あの方、お知り合いですか?」

「何言ってるの、アガタ?お客様よ」

「そんなことは分かってます。そうじゃなくて、よく知ってる方なのかということです」

「初めてお会いするわね」

「どういうことですか、それ?」

「どうもこうもないわよ。お客様の第一声を覚えてる?」

「忙しいかって」

「その前」

「確か、盛況だねって言ってました」

「“今日も“盛況だね、でしょ?」

「つまり、何度も来られてると」

「何度もじゃない。三度目」

「えっ、そうなんですか?」

 

アデリーナは手元にあるタブレットを操作して、すぐさま宿泊記録を呼び出した。

 

「確かに、それを見ればわかるとは思いますが。でも先輩?この度もお仕事ですかって聞かれてましたよね?」

「ここを見て」

 

アガタはアデリーナが指差した項目を、顔をぐっと近づけて見つめた。

 

「ボートのご予約」

「そう。過去二度ともカ・ドーロへ行くために、ボートの予約をされている」

「それなら観光じゃないですか?」

「もともとカ・ドーロは、ヴェネツィアの起業家マリノ・コンタリーニの邸宅だったところ。その後は美術館になったりしたけど、ネオ・ヴェネツィアで再現され後、この前の改装後にはコンタリーニを称える意味で、起業を推進する場所としても利用されるようになったでしょ?だから、多くのビジネスパーソンが集まる場所になった」

「つまり、アダルベルト様は起業家ということですか?」

「おそらくだけど、起業する人を支援する投資家だと思う」

「なんでそんなことまでわかるのですか?」

「まあね」

 

不思議そうにタブレットを眺めているアガタに、アデリーナが肘で彼女の腕をつついた。

 

「ほら!お客様!」

「は、はい!いらっしゃいませ!」

 

アガタが持ち前の笑顔を取り戻して接客しているとき、アデリーナのそばに別のフロントクラークが近づいて耳打ちした。

 

「アデルモ総支配人がお呼びです」

「今?」

「はい。至急だそうです」

「至急・・・」

 

アデリーナの顔に緊張が走った。

 

「しばらく私が交代します」

「わかった。ありがとう」

 

アデリーナは何事もなかったように、フロントの後方へと下がって行った。



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第三話 殺人予告

アデリーナは少し緊張した表情で、総支配人室のドアをノックした。

 

勤務中、直々に総支配人に呼び出されることなど、ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーのフロントクラークに任命されてから初めてのことだった。

 

他のホテルで働いているところを、アデルモ総支配人にヘッドハンティングされ、新しく造られる話題の豪華ホテルのフロントクラークに大抜擢された。

アデリーナにとって大恩人といえるアデルモは、現場を第一に考える人物であり、従業員からの信頼も厚い。

 

そんなアデルモが、いきなりアデリーナを総支配人室に呼び出した。

 

「失礼します」

 

部屋に入ったアデリーナは、一瞬戸惑いの表情を浮かべた。

 

部屋の中央にある応接セットには、アデルモ総支配人の他に見たことのない人物がふたり座っていた。

 

「何かご用でしょうか?」

 

「すまない。勤務中に呼び出したりして」

 

アデルモは、額のしわを寄せて笑顔でこう言った。だが、いつもと違う、少し緊張感を漂わせていた。

 

アデリーナは、アデルモに促されるまま、彼の隣のソファーに座った。

 

「君には事情を知っていてもらう必要があると判断したんだ」

「どういうことでしょうか?」

 

アデリーナはチラリと前にいるふたりの男性に目を向けた。

明らかに普段接する機会の多いビジネスマンとは違って、独特の雰囲気を醸し出していた。

 

「そうだね。それでは先に紹介しておこう。こちらはネオ・ヴェネト州警察のアルフ捜査官とアロンソ刑事だ」

 

アデルモ総支配人の前に座っていたアルフ捜査官は、ソファーから立ち上がった。

それに合わせてアデリーナも立ち上がった。

 

「アルフです。よろしく」

 

差しのべられた手に、アデリーナは軽く握手した。

 

続いて立ち上がったアロンソ刑事とも握手を交わした。

 

「アロンソです」

 

アルフはとても紳士的に見えたが、アロンソは日焼けした精悍な顔つきで、目付きも少し鋭く感じ、違うタイプの人間のようだった。

 

「州警察の方がどうしてこちらに?何かあったのですか?」

 

アデリーナはソファーに座ると、緊張した面持ちでアデルモ総支配人に向き直って聞いた。

 

「実は少し厄介な事態になりそうなんだ」

 

アデルモがそう話始めたとき、アルフ捜査官が割って入った。

 

「総支配人?私からお話させていただいてよろしいですか?時間が迫っていることもあるので、手短に済ませたいので」

 

アルフ捜査官は、アデリーナの方に向き直って話始めた。

 

「これから話す内容は極秘事項となっています。限られた人しかお話していません。その事をまずご理解頂きたい」

 

アデリーナは「わかりました」としっかりとした口調で答えたが、その声には不安が滲み出ていた。

 

「一週間前ですが、殺人の犯行をほのめかす脅迫文が警察に届きました」

「殺人・・・」

「ええ。その内容からこれまで過去にあった殺人事件との関連性が浮上してきたのですが、ただその脅迫文にはもうひとつ、気がかりな内容がありました。数字の羅列です。当初はその意味がわからなかったのですが」

「わかったと」

「少々手こずりましたがね。なんせ、暗号を解読させるなんて小細工をしてましたから」

「それがこのホテルと関係があるのですか?」

「お察しの通り。そこにはある場所を示す座標が書かれてあった。その場所が、このホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーだったというわけです」

「ここ・・・」

 

アデリーナは話の内容にまだついていけず、把握できないでいた。

 

「つまり、殺人予告です」

 

アルフ捜査官は、あっさりと付け加えた。

 

「驚かれるのも当然です。だが、我々には正直申し上げて、時間がない」

 

アデリーナは、アルフの我々という言葉を聞いて、もう自分もその只中にいるのだと思い知らされた。

 

「これからどうするんですか?」

「そんなふうに頭を切り替えてもらえると有難い。もうお気づきだと思いますが、このホテルは本日から厳戒体制に入ります。それについては、総支配人と打ち合わせ済みなので、また話を聞いておいてください」

 

アデルモはアデリーナを見て、うなずいて見せた。

 

「そして、アデリーナさん?あなたにわざわざ来ていただいたのは、もちろんただ説明するためではありません。あなたには、重要な役割をお願いしたいのです」

「それって、どういうことですか?私に何を・・・」

 

困惑の表情のアデリーナを前に、一同は静まり返った。

 

「犯人逮捕の協力です」

 

アデリーナは絶句した。

 

「お恥ずかしい話なのですが、まだ犯人の目ぼしがついてないのです。いくつかの目撃証言もあるのですが、どれも有力なものではない」

「でもどうして私なんですか?」

「総支配人からお聞きしています。あなたは、他のホテルからヘッドハンティングされた優秀なお方だと。記憶力や対応の的確さなど、お若いのにとても優れていると」

 

アデリーナはアデルモを横目で見た。

 

「総支配人、買いかぶりです」

 

「違うのですか?」

「いえ、彼女の優秀さは私が保証します」

 

すかさずアデルモが答えた。

 

「申し訳ないのですが、あなたのその洞察力を、是非我々の捜査に生かしてもらえませんか?」

「でも私なんかが一体何をするのですか?」

「特に何かをしてほしいわけじゃないんです。いつものようにフロントクラークとしてお仕事をしていただければ結構です。ただ、その時に少しでも気になることがあれば、我々に教えていただければと考えています」

 

アデリーナは、事態の把握に努めようとしたが、普段の業務と捜査協力という話に、不安を感じずにはいられなかった。

 

「もちろん、危険なことにならないよう十分に配慮するつもりです。そのため、彼をそばにつけます」

 

アルフ捜査官は、隣に座っているアロンソに手を向けた。

 

これまでじっと黙ったまま、足を組み、両手を握り合わせて膝の上に置いていたアロンソは、少し上目遣いでアデリーナに目を向けた。

 

その目を見たアデリーナは、心の中がざわつくのを感じていた。



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第四話 ホテルマン

アデリーナは、いつでも客を迎えられるよう笑顔をつくろってはいたが、フロントから視界に入るアロンソが、どうしても気になっていた。

 

〈わかってはいても、なんか邪魔なのよね〉

 

そんなアデリーナに気付いたのか、アガタがそっと身を寄せてきた。

 

「先輩?どこ見てるんですか?」

「どこって、別にどこということはないわよ」

「そうなんですか?さっきからチラチラあの人のことを見てるように思うんですけど?」

「あの人?」

「あの日焼けした刑事さん」

「ちょっとアガタ!それを言っちゃダメでしょ?」

 

アデリーナは声をひそめるようにしていたが、強い口調でアガタに釘を刺した。

 

アロンソ刑事は、フロントクラークと同じ制服を着て、ロビーの中央寄りに立っていた。

昨日、アデリーナが総支配人室で会った時の印象とは違い、無精髭はきれいに剃られ、こざっぱりとしていて、制服のスーツ姿が板についていた。

アロンソは、いつでも対処できるよう、フロントクラークとしてホテルのロビーに張り付いていた。

 

「すみません、先輩。でも、私は何をしたらいいんですか?」

「いつも通りでいいのよ。フロントクラークとして、しっかりと働いていればいいの」

「でも先輩は、犯人逮捕に協力するんでしょ?」

「だからそういうことを口にしちゃダメだって!」

「スミマセン」

 

アロンソがフロントの方を振り返って、こちらにジロッと目を向けていた。

 

「私、あの人のこと、あんまり好きになれません」

「そんなこと、いいから」

 

アデリーナはカウンターの前にやって来た客に挨拶した。

アガタはすっと離れ、持ち場に戻った。

 

その時、アロンソの前にひとりの老婆がやってきた。

 

アロンソは、その硬い表情のまま、その老婆に顔を向けた。

 

「なんですか?」

「ここはホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーでよろしいですか?」

「ええ、その通りですが?」

「ホテルなんて久し振りなもんで、勝手がわからなくてね」

「それなら、あちらに行ってください」

 

アロンソはフロントの方を指差した。

 

その様子を見たアデリーナの表情が一変した。

 

「アガタ、ここお願い!」

「は、はい!」

 

アデリーナはカウンターの端へ回り込むと、急ぎ足でアロンソのところへ向かった。

声のトーンは低く抑えられていたが、抑えきれない気持ちが爆発しそうだった。

 

「どういうつもりですか?」

「何が?」

「何がじゃありません!」

「何をそんなにカリカリしてるんですか?」

「お客様にあんな態度はおかしいじゃないですか?」

「ああ、あの客?ちゃんとフロントに案内しましたよ」

「そうじゃないです!あなたの態度がホテルマンとして、あり得ないと言ってるんです!」

「僕はホテルマンじゃない」

「じゃあ、あなたが着ているその制服は、なんなんですか?」

「これは捜査のためです」

「その制服を着た以上、あなたはすでにホテルマンなんです!そんな振る舞いをされると困るんです」

「僕はちゃんと客に案内しました」

「客じゃありません!」

「じゃあなに?」

「お客様です!」

 

アデリーナの毅然とした態度に、アロンソは煙たそうに回りに視線を向けていた。

 

「こうしている間にも犯人を取り逃がすかもしれない」

「犯人なんてどうでもいいんです!」

「ちょっと、あんた!」

 

周辺の客たちが、ふたりに視線を向けはじめていた。

 

その時、別のフロントクラークの制服を着た男が、アロンソに近づいて耳打ちした。

 

「目撃者・・・ウンディーネ・・・証言を・・・」

「わかった」

 

二人は足早にフロントの奥へと姿を消した。

 

その姿に呆気に取られていたアデリーナにも、その声が耳に届いていた。

 

「目撃者が現れたの?それもウンディーネって・・・」

 

アデリーナは、急いでフロントへ向かった。

そして、カウンターの前にたどり着いた老婆に優しく声をかけた。

その老婆は、何も気にしていないと手を振って見せた。

 

アデリーナには、その老婆の白く細い指がとても印象的だった。



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第五話 目撃者のウンディーネ

水無灯里は、いつもようにシャッターを開けた。

 

朝の心地いい風と新鮮な空気。

 

「さあ、きょうもがんばりましょう!」

 

まばゆい光に目を細めて、どこまでも続くネオ・アドリア海を見つめた。

 

その時、ドアをノックする音がした。

 

「もう来られたのかなぁ、今日一番目のお客様。それにしても早すぎるような・・・」

 

灯里は、返事をしながら、ドアの方に向かっていった。

 

「おはようございます!ARIAカンパニーへようこそ!」

 

だが、ドアを開け、目の前に立っていた男二人は、明らかに客という雰囲気ではなかった。

なぜかはわからないが、違う目的で訪れてきたことが、その瞬間わかるような緊張感を漂よわせていた。

 

「ARIAカンパニーの水無灯里さんですね?」

「はい、そうですが」

「ネオ・ヴェネト州警察です」

 

そう言った男は、身分証を灯里に向かって見せた。

それに続いて、背後にいたもうひとりの男も身分証を出して見せた。

 

灯里は、驚きを顔ににじませ、身分証の顔写真と目の前にいる男を見比べた。

 

「警察の方が何か?」

「朝早くから、お忙しいところ申し訳ありません。実は、この辺りで、ある人物の目撃者を捜しておりまして、それでお伺いした次第です」

「はぁ」

「そこで水無さん?」

「はい?」

「三日前の夕方、どちらにおられました?」

「三日前の夕方ですか?」

 

灯里は〈う~ん〉と人差し指を頬に当て、考える仕草をしてみせた。

 

「え~と、そうですねぇ。三日前かぁ。三日前ということは、確かその日最後の、ご家族のお客様をお乗せして、それでその後、ARIAカンパニーへ戻ったと思いますが・・・」

 

二人の男はチラッと目を見合せた。

 

「実は、その日の夕刻にあなたを見かけたという人がいましてね。その人が言うには・・・」

「あっ、思い出しました!」

「何をですか?」

「おひとり、帰る途中にお乗せしました!」

「それは誰ですか?」

「そこまではちょっと・・・」

 

男は思わずため息をついた。

 

「すみません」

「謝っていただいても仕方ありません。それよりも、その時のことを詳しく聞かせ下さい」

 

灯里は、二人の刑事を店内に招き入れた。

そして、テーブルについた二人の前に紅茶を入れたカップを置いた。

 

「水無さん?早速ですが、その時あなたが乗せたという人物について、教えてください。できるだけ詳しく」

「はい、わかりました」

 

灯里は、刑事たちに向かい合うようにして、テーブルについた。

そして、その時のことを思い出すように、ゆっくりと話し始めた。

 

その人物は、船着き場にひとり立っていたこと。全身黒づくめの姿だったこと。黒のマスクをしていたため、顔ははっきりとはわからなかったこと。

そして行き先はサンミケーレ島だったこと。

 

「あの墓地の島ですか?」

「はい」

「そんな時刻に?」

「私も変に思いました。そんな時刻から行くと、島へ到着する頃には真っ暗になるので」

 

島に到着すると、料金としては考えられない高額紙幣を渡され、そのまま別れたことを伝えた。

 

「そのあとは?」

「そのまま帰りました」

「そのまま?」

「はい」

「その人物はどうしたんですか?」

「一晩お墓の前で夜を明かすとおっしゃってました」

「墓の前でねぇ」

「それで、翌朝迎えに来て欲しいと頼まれました」

「それで?」

「お迎えにあがりましたが、いませんでした」

「いなかった?」

「はい、誰も」

「じゃあ、ウンディーネさんがサンミケーレ島へ行く前に島を出ていったと」

「それはできないんです」

「なぜですか?」

「あそこは夜に行かれる方は、ほとんどいませんので、夜間から早朝にかけては、定期便のボートもないんです」

「じゃあどうやって島を出るのですか?」

「わかりません」

「他の方法は?」

「ないと思います」

 

 

 

ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーの中の会議室のひとつを、臨時の捜査本部にしていた捜査班は、ロビーに張り付いているベルボーイに扮した捜査員を残し、全員がその部屋に集まっていた。

 

パイプ椅子に座っている捜査員たちを前に、アルフ捜査官は、背後にあるホワイトボードにマーカーを走らせて、そして皆の方に振り返った。

 

「と言うわけだ。何か質問は?」

「そいつは、そもそも男なんですか?女なんですか?どっちなんですか?」

 

アロンソは、苛立ち混じりの声でアルフにくってかかった。

 

「目撃者のウンディーネ、水無灯里さんは男だと言っている」

「言っている?」

「全身黒ずくめだったということだ。あくまでもその時の印象にすぎない。身体は細身だったらしい。女性の可能性も十分ある」

「声は?声はさすがに変えられないじゃないですか?」

「だから、あくまでも目撃証言だ。だが、今は唯一の手がかりでもある」

 

アルフは一旦会議は終了だと告げ、皆に持ち場へ戻るように言った。

 

捜査員たちの動きとは逆に、アロンソはアルフの方に向かって行った。

 

「なんで俺に行かせてもらえなかったんですか?」

「お前はロビー担当だ」

「なんでですか?連続殺人犯の可能性があるんです。捜査に関わっていた俺に行かせるべきです」

 

アロンソは納得がいかないと言わんばかりにくいさがった。

 

「そんなことより、お前、ひと悶着やらかしたらしいじゃないか?」

「なんのことですか?」

「フロントクラークのアデリーナさんだ」

「ああ、あれですか?なんにもやらかしてません」

「お前がよくても、こっちの立場が悪くなるだろう?捜査協力をお願いしているのは、こっちの方だ!」

「フロントクラークに一体何が出来ると言うんですか?」

「今は自重しろ。これから先は、まだどうなるかわからない」

「それなら尚更じゃないすか?」

「このホテルがターゲットになってるんだ」

「だから、俺を専従捜査班に入れて下さい!」

「ホテルがターゲットになっている以上、ここも重要な捜査対象だ。何度も言わせるな!犯人が現れた時のことを考え、お前はロビーで張りつけだ!」

 

アルフは、持っていたマーカーをテーブルに投げつけ、部屋を出ていった。

 

「俺に行かせてくれれば、もっとなんとかなったはずだ。そんなウンディーネの証言なんて、当てにできるのか?」

 

アロンソは、怖い形相でアルフの後ろ姿を見送っていたかと思うと、思いっきりパイプ椅子を蹴りあげた。



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第六話 手詰まりのロビー

その日のホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーでは、どの従業員もいつも以上に忙しさに追われていた。

 

秋の観光シーズンを迎えていたネオ・ヴェネツィアにおいて、ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーは、今や観光の目玉スポットとなっていた。

 

持ち前の明るさとポジティブな姿が魅力のアガタは、先輩クラークのアデリーナに憧れ、そしていつかは彼女のようなフロントクラークなれるようにと頑張る日々を送っていた。

 

フロントに立っていたアガタの前に、高級スーツを着こなした男性がやったきた。

 

男はネクタイのしまり具合を気にするような仕草を繰り返していた。

目付きが鋭く、神経質な印象だった。

 

「いらっしゃいませ。ようこそホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーへ」

「アレキサンドロだ」

「アレキサンドロ様。少々お待ちください」

 

アガタは手元のタブレットの画面を軽快にタップしていった。

だが、彼女の顔には疑問の表情が浮かんだ。

 

「すみません、アレキサンドロ様。本日はご予約いただいておりませんが・・・」

「ああ、予約は入れてない」

「それでは、ご宿泊のご希望でよろしいですか?」

「ホテルに来て泊まること以外、何があるというんだ?」

「し、失礼しました」

 

アガタの顔に緊張が走った。

 

「一名様のご宿泊でよろしいですね?」

「ああ」

「お部屋はどのようになさいますか?」

「スイートで頼む」

 

アガタはすぐさま空き状況の確認を行った。

だが、スイートルームはすべて満室状態だった。

 

「申し訳ありません、アレキサンドロ様。本日スイートルームは満室となっております」

「満室?なんでだ?」

「そ、それは・・・申し訳ございません」

「ここはネオ・ヴェネツィアを代表する高級ホテルと聞いてきた!客室数もかなりの数を揃えているんじゃないのか!なんでスイートのひとつも取れないんだ!」

 

アレキサンドロと名乗る男の大声に、周辺が静まり返った。

 

その先では、ロビーの中央でフロントの方に振り返るアロンソが、鋭い目線を向けていた。

 

「一体このホテルはどうなってるんだ?客をもてなす気など、全くないんじゃないか?」

「お、お客様?すぐに別のお部屋をご用意させていただきます」

「なんだ、別の部屋というのは!お前は客をナメてるのか?そんな態度がホテルのフロントクラークと言えるのか!」

 

その大きなカウンターにいた他のフロントクラークたちは、それぞれ別の客の対応に追われいた。

その他のベルボーイたちも忙しく動き回っていた。

 

誰もがアガタの窮地をわかってはいたが、加勢に向かうことができないでいた。

 

すると、アレキサンドロはカウンターの上の、宿泊者名簿の横にあったペンをアガタに投げつけた。

 

そのペンが、避けようとしたアガタの胸元に当たった。

 

緊張が走った。

周辺にいた従業員たち誰もがその光景を注視していた。

 

アガタはどうすることもできず、ただそこに立ち尽くしていた。

 

「おい!聞いてるのか!」

 

アレキサンドロは、興奮した様子で、今度はアガタの制服に掴みかかろうとした。

 

その瞬間、アレキサンドロの手首を誰かが掴んでいた。

動きをいきなり止められたアレキサンドロは、驚いて振り返った。

 

アロンソの鋭い目が、アレキサンドロの目を捉えていた。

 

「その辺でいいんじゃないですか?」

「な、なんだ、お前は!」

「そこまでやれば、ご気分が晴れたでしょ?」

「て、手を離せ!」

 

アロンソが手を離すと、アレキサンドロは痛そうに手首をさすった。

 

「一体このホテルはどうなってるんだ!」

 

アレキサンドロはいっそう大きな声で、周囲にアピールするように言い放った。

 

アガタはその光景を前に、涙で潤んだ目を大きく開けて、茫然としていた。

 

その時、誰かがアガタの横に身を寄せるように音もなく現れた。

 

「お客様?大変失礼いたしました。このあとは、わたくしが代わって対応させていただきます」

 

アデリーナが、満面の笑顔でそこに立っていた。

 

カウンターの下では、アガタの腕に、後ろへ下がるよう合図を送っている。

 

だが、アガタはまだ茫然としていて、アデリーナの合図に気づいていない。

 

「お客様?ご気分を害されたお詫びといってはなんなんですが、もしよろしければエグゼクティブ・スイートをご用意させていただきたいと思うのですが、いかがいたしましょうか?」

「エグゼクティブ・スイート?」

 

アレキサンドロは、手首をさすりながら険しい顔をしていたが、その言葉を聞いて、アデリーナの方に向き直った。

 

「それはなんだ?」

「当ホテルが認めたVIPのお客様だけにご用意させていただいております、特別スイートルームでございます」

「そんなのがあるのか?」

「はい、ございます」

「そんなの、聞いたことないぞ!」

「これは一般にはご紹介しておりません」

「そ、そうなのか?」

 

アデリーナの勝利が確定した。

 

我に返ったアガタに、アデリーナは小声で下がるよう伝えた。

アガタはうつむいた姿で、そのまま消えていった。

 

アレキサンドロに宿泊者名簿の記入を促していたアデリーナは、カウンターから少し離れたところに立っていたアロンソに目配せした。

 

アロンソは「なんだ?」といった表情を返した。

 

アデリーナは、向こうへ行けと言わんばかりに、顎を突き出して合図を送った。

 

それを見たアロンソは、「はぁ?」とリアクションを返した。

 

それを見たアデリーナは、もう一度顎を突き出してみせた。

 

アロンソは肩をすくめて、ゆっくりとカウンターから遠ざかっていった。

 

アデリーナは、カウンターを回り込むと、アレキサンドロのそばにあったトランクを、身体を大きく傾けるようにして、持ち上げた。

 

「あんた、そこまでしてもらわなくても」

「ご迷惑をおかけしたわけですから、せめてお部屋までご案内させていただきます」

 

アデリーナにはどう見ても重たすぎるように見えるトランクを、笑顔を崩さないように気をつけながら、全身を使って運んでいった。

 

アロンソは、ロビーを見回しながら、チラッとアデリーナの方に目を向けた。

 

アデリーナの身体は、大きく斜めに傾いていた。

 

 

 

 

少し時間が経過したところで、アロンソは腕時計に目をやった。

苦い表情で辺りを見回す。

 

「誰を探してるんですか?」

 

アデリーナがすぐ後ろに立っていた。

 

少し驚いた表情になったアロンソは、アデリーナに背を向け、何事もなかったように、また周辺に目を向けた。

 

「ありがとうございます」

「何が?」

「アガタを守ってくれたこと」

 

アロンソはそのまま目線を他に向けていた。

 

「大丈夫だったんですか?」

 

アロンソは表情を変えずに言った。

 

「もしかして私のこと、心配してくれてるんですか?」

 

アデリーナは、背中から回り込むようにして、アロンソの顔を覗き込んだ。

 

その瞬間、二人の目が合った。

 

アロンソはそのまま顔を戻し、アデリーナはスッと姿勢を戻した。

 

「あんたに」

「えっ、なに?」

「あんたには、先に話しておこうと思う」

「何をですか?」

「目撃者の件」

「あの唯一の、でしょ?」

「そうだ」

「それが?」

「ここに来る」

「来るって、このホテルに?」

「ああ」

「どうして?」

「協力してもらう」

「確かウンディーネよね?」

「なんでそれを知ってるんだ?」

「こないだここで」

「ここで?」

「聞こえちゃったし」

「はぁ~」

「それで?」

「それで、君にはもう少し頑張ってもらうことになると思う」

「私が?なんで?」

「安心しろ」

「どういうこと?」

「優秀らしい。そのウンディーネ」

「その人ね」

「そうだ」

「ちなみにどこの水先案内店かわかりますか?」

「確か、アリア・・」

「ARIAカンパニー」

「それだ」

「でもちょっと待って?」

「どうかしたか?」

「ARIAカンパニーといえばアリシア・フローレンスだけど、彼女はすでに引退したはず・・・」

 

その時、正面のガラス扉がドアボーイによって、左右に大きく開かれた。

 

アデリーナとアロンソは、同時にそちらに目を向けた。

 

中に入ってきた女性は、ホテルの雰囲気にはまだ似つかわしくないくらいの若さで、その場に立って、辺りをキョロキョロと見回していた。

 

その様子を見たアデリーナは、すぐにその場に向かっていた。

 

「いらっしゃいませ。お客様?ご宿泊ですか?」

「あ、いえ、そのぉ」

 

そう言ったかと思うと、ロビーの高く広がる天井を見上げた。

 

「私、ここに来るの初めてなんです。こんなふうになってたんですねぇ~」

 

女性は、その場でポツンと立ち尽くすと、辺りを見回して感動に浸っていた。

 

「あのー、お客様?」

 

「はひっ」

 

「大丈夫ですか?」

 

「あっ、失礼しました。でも私、お客様じゃないんです」

 

水無灯里は、すまなさそうに、頬をピンク色に染めていた。

 

 



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第七話 プリマの教育係?

「初めまして。ARIAカンパニーの水無灯里と申します」

 

灯里は恐縮した面持ちで、捜査本部のある会議室にいた。

 

そこには、アルフ捜査官とアロンソ、そしてアデリーナまでも揃っていた。

 

「私はなんでここに呼ばれたのでしょうか?」

 

アデリーナはパイプ椅子のひとつに座って、正面のホワイトボードを背にして立っているアルフに向かって眉をひそめていた。

 

少し離れたところで、アロンソが脚を組んで黙って座っていた。

 

アルフは、自分の横で恐縮して立っている灯里に優しく笑顔を向けた。

 

「水無灯里さん、本日はわざわざ来ていただいてありがとう。そしてアデリーナ?それについても今から説明するから聞いてくれ」

 

アルフはそう言うと、軽く咳払いをした。

 

「アロンソには説明済みなんだが、この水無灯里さんは、ほぼ唯一といっていい、この度の事件の犯人とおぼしき人物の目撃者だ。ただ、それとて確たる証拠があるわけではない。しかし、現在の状況を考えると、重要な手がかりでもある」

 

アルフは、灯里に対し、そばにあるパイプ椅子に腰かけるよう合図を送りながら、自らも椅子に腰かけた。

 

「そこで、灯里さんにも捜査協力をお願いした」

 

灯里は、うっすらと笑みを浮かべたが、誰もそれに応えてくれそうにない雰囲気に、下を向いてしまった。

 

「つまり、このアロンソ刑事のようにロビーに張り付く、というわけですか?」

「アデリーナ、さすがに察しがいい。つまりはそういうことだ」

「でもどういう風に・・・もしかして、このウンディーネさんにも?」

「アロンソと同じ、とは、さすがに無理な話だが、ただいてもらうわけにはいかないので、彼女にもフロントクラークとして張り付いてもらうつもりだ」

「そうなんですか・・・」

「アデリーナ、何か不安でも?」

「ええ。もちろん不安はあります」

「彼女は、このネオ・ヴェネツィアで日々観光案内を行っている現役のウンディーネだ。そこは問題ないのでは?」

「それはそうなんですが・・・」

「ARIAカンパニーといえば、言わずと知れた水先案内店だそうじゃないか?」

 

アデリーナは、少し言葉をためらっているように見えたが、意を決したように口を開いた。

 

「灯里さん?気にさわったらごめんなさい。率直な意見を言わせてもらっていいかしら?」

 

「はい、構いません。おっしゃってもらって結構です」

 

灯里は真っ直ぐにアデリーナの方に向いて答えた。

 

「ARIAカンパニーと聞くと、私はどうしてもアリシア・フローレンスを思い浮かべてしまうの。もちろん、引退されたことは知っています。あのミス・パーフェクトと称されたアリシアさんなら、私は喜んでお願いしたと思う」

 

「そんなにすごいウンディーネだったんですか?」

 

思わずアルフが言葉を挟んだ。

 

「ええ。ウンディーネの世界でも群を抜いていたと思います。もちろん、姫屋の晃・E・フェラーリやオレンジぷらねっとのアテナ・グローリィーは、アリシアさんと並んで、水の三大妖精と呼ばれていた。でも、アリシアさんがなぜそこまで素晴らしかったかは、彼女がすべてをひとりでこなしていたからに他ならないからだと」

 

「確かにアリシアさんは今でも、私の憧れであり、目標でもあります。正直、近づくことすらできないかもしれません」

 

灯里は、率直に自分の気持ちを言葉にした。

 

「何もあなたをバカにして、こんな話をしているつもりはないの。ただ、ホテルの業務は時に過酷で、いろんなことが試される。お客様をお客様として扱えない人もいるくらいだしね」

 

そう言って、アデリーナはアロンソの方を向いた。

 

アロンソは、それには一切反応しなかった。

 

「アデリーナの気持ちはわかった。ただ、あくまでも捜査協力だ。ほんとうにフロントクラークになってもらうわけではない。それに、今回のことについては、ゴンドラ協会にも申し入れをして、理解をしてもらっている。対応に当たった、そのゴンドラ協会の理事だとい方からも、この灯里さんなら大丈夫だとお墨付きをもらっている」

「ゴンドラ協会の理事」

「ああそうだ。現在のARIAカンパニーを立派にひとりで切り盛りしている彼女だから、何も心配していないそうだ」

「そこまで・・・」

「ただ、身の安全だけが心配だと。何かあっては困るからと、かなり念を押された」

 

アデリーナは、そこで何かに気づいたような表情になった。

 

「ねえ、灯里さん?アリシアさんて、もしかして引退されてからゴンドラ協会の・・・」

「はい、名誉理事をされています」

 

「つながったな」

 

アロンソが口を開いた。

 

「つまり、あんたは、その人から引き継いだんだろ?そのARIAカンパニーを」

 

アロンソがじっと座ったまま、灯里に顔を向けていた。

 

アデリーナは、そんなアロンソの横顔を見ていた。

 

「確かにそうだな。アデリーナがそれほど素晴らしいと感じていたウンディーネから、灯里さんはその店を引き継いだ。それで十分だと思うのだが・・・」

 

アルフの言葉を聞いたアデリーナは、灯里の方に目を向けた。

 

灯里は、少し不安げな表情のまま、上目遣いでアデリーナと目を合わせた。

気まずそうに、思わず視線を床に向けてしまう。

 

「そこでだ。アデリーナ?君を見込んで頼みたいことがある」

「なんでしょうか?」

「灯里さんを君に任せようと思う」

「任せる?私に?それってどういうことですか?」

「つまり、彼女の教育係だ」

「私がですか?」

「そうだ。いくらウンディーネとして接客になれているからといって、フロントクラークとなるとまた別だと思う。それでいいですよね?」

 

アルフは灯里の方を見た。

 

「はい、私はそれで構いませんが・・・」

 

アデリーナは、うつむき加減に返事をする灯里を、ポカンと口を開けて見ていた。

 

その横でアロンソは、うつ向いたまま、クスッと笑ってみせた。



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第八話 安心できるところ

「それで灯里?あんたはそれでいいの?」

 

藍華は、ARIAカンパニーのカウンター越しに、灯里に問いかけていた。

 

「私はそれでいいんだけど・・・」

 

灯里は、テーブルを拭きながら、少し煮え切らない態度で応えていた。

 

「そんなんで大丈夫なの?」

「うん、もう引き受けちゃったし」

「ひ、引き受けちゃった?」

「うん」

「うんて、そんなあっさりと」

 

藍華は呆れたように、大きなため息をついた。

 

「大体さぁ、あんたにそんな大事なことが務まるの?ホテルよ、ホテル。わかってるの?」

「わっかてるよ、藍華ちゃん。いくら私でもそれくらいは」

「違うの、灯里?」

「何が?」

「私が言ってることと、あんたが言ってることと、多分違うと思う」

「どういうこと?」

「だから、事の重大さよ!」

「それくらい私だって・・・」

「殺人事件よ!あんたが関わろうとしているのは!なんかあったらどうするの?」

 

藍華は、バン!とカウンターを両手で叩いた。

 

「藍華ちゃん・・・」

「アリシアさんもアリシアさんよ。いくら警察からの協力要請があったからって、もう少し慎重になってもよかったはずよ!」

「アリシアさんは最初断ったって言ってた」

「そうなの?」

「うん。大事なウンディーネにそんな危ないことをさせられないって」

「じゃあなんで?」

「私から言ったの。協力しますって」

「なんで?なんでそんなこと言ったりしたの?」

「私も最初はどうしようか迷った」

「そりゃあそうでしょう?」

「でもね、藍華ちゃん?ネオ・ヴェネツィアって、いつからそんな不安な場所になちゃったの?」

「どういうこと?」

「ここは本来そんなところじゃなかったはずでしょ?」

「灯里・・・」

 

「とっても素敵なところで、毎日たくさんの人がやって来て、いつも笑顔があふれてる。そんなところだったはずでしょ?」

「灯里?そりゃあ、あんたの言うことはわかるけど」

「私は、少しでも早く事件が解決して、このネオ・ヴェネツィアに、いつでも安心してたくさんの人たちに来てもらえるようにしたいの。そのためだったら、私の出来ることがあるんだったら、協力したいと思っただけ」

 

灯里は真剣な眼差しで藍華を見つめた。

 

「あんた、そんなこと考えてたんだ」

「藍華ちゃん、そう思わない?」

「わかるわよ、灯里のその考え。でも、今回のことに関しては、普段の私たちの日常からは、かけ離れているんじゃない?不安じゃないの?」

「不安じゃないと言えば、嘘になると思う」

「でしょ?」

「うん・・・」

 

灯里は、そう頷くと、視線を下に下ろした。

気持ちとは裏腹に、表情には不安の色がにじみ出ていた。

 

「灯里、あんたって・・・」

「無茶だったかなぁ」

「うーん、もう!」

「どうしたの、藍華ちゃん?」

「どうしたもこうしたもないわよ!」

「なに?」

「もう決めたんでしょ?」

「うん、そうだけど」

「じゃあ、やるしかないじゃない!」

「えっ?」

「よっしゃあーー!」

 

藍華は両手を腰にあてて、仁王立ち状態になっていた。

 

「灯里、あんたの思うようにやればいいんじゃない?私はあんたに全面的に協力する!そう決めた!今決めた!」

「藍華ちゃん」

「あんたがそこまで思ってるとわかって、私が何もしないわけにいかないでしょ?」

「そこまで言ってもらえるとうれしいけど」

「けどなに?」

「何をするの、藍華ちゃん?」

「そ、それは、今のところ、まだ決まってるわけじゃないけど・・・」

 

そんな藍華の顔を見て、灯里は苦笑しつつも、うれしそうな表情だった。

 

「そうだ、灯里?犯人逮捕に協力するっていうんだったら、その間このARIAカンパニーはどうするの?」

「しょうがないけど、お休みにするしかないと思う」

「そうか。そうなるわねぇ・・・」

「藍華ちゃん?」

 

眉間にシワを寄せて、難しそうな表情をしていた藍華だったが、何かを思い付いたようにニヤリと笑った。

 

「なんか不安なんだけど、藍華ちゃん?」

 

 

 

ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーの、その大きなフロントの中央で、アガタは持ち前の明るい笑顔で客を迎え入れていた。

 

ロビーの片隅で子供の相手をしていたアデリーナは、その笑顔を見て安堵の表情を浮かべていた。

 

ロビーを横切って、カウンターから少し離れた場所に立ったアロンソの姿を、アガタは目で追っていた。

それに気付いたのか、アロンソがアガタの方に目を向けると、アガタは、何事もなかったように、別の方向に目を向けた。

 

「ヒーローはツラいですなぁ」

 

アデリーナは、いつの間にかアロンソのそばに立っていた。

 

「なに?」

「いえね、ヒーローになったご気分はどうなのかなぁと思って」

「ヒーロー?」

「別にいいんです」

「フロントクラークって、そんなに暇なのか?」

「別に暇じゃないですよ!」

 

アデリーナは口を少しとんがらせて、不満げな顔になってみせた。

 

「もういいのか?」

 

アロンソは表情を変えずに、辺りに視線を向けながら言った。

 

「ああ、あのお客様ですか?とりあえずは納得していただけたので、大丈夫かと思います」

「なんのことだ?」

「えっ?あの傍若無人のお客様のことじゃ・・・」

「朝から笑ってる」

 

アロンソは、そう言ってチラッとアガタに目を向けた。

 

「なんだ、アガタのことね」

「あんたのことは気にしてない」

「そうなんですか!ヒドイ言い方」

 

アデリーナは、そう呟いて、少しため息をついてみせた。

 

「あのあと、大変だった」

「何かあったのか?」

「控室でわんわん大泣きしてたかと思うと、ケーキや大福を食べまくって。そして悪態の連続。あの子、そこまで言うかってくらい凄かったんですよ」

「それは良かった」

「良くない!」

「なんで?機嫌直ったんだろ?」

「いくら腹が立ったって言っても、お客様に変わりない。限度ってもんがあるの!」

「そんなもんかねぇ」

「そんなもんなんです」

 

アデリーナはアロンソの背中に自分の背中を向け、胸の前で腕を組んだ。

 

「ところでエグゼクティブ・スイートって、そんな簡単に用意できるのか?」

「あれは、タイミングです」

「タイミング?」

「たまたまタイミングよく空きがあったんです。本来なら、特別な上得意のお客様のために、空けておくんです。それに、私にはそこまで独断で決められる権限はありません」

「じゃあ」

「総支配人から、少しお小言はありました。でも無事に納めることができたので、今回はおとがめナシというこになりました」

 

アデリーナは、アロンソから何も反応がないことに気づいて、振り返った。

 

アロンソは、正面玄関から入ってきた男の姿を、じっと凝視していた。

 

黒いジャンパーに黒いズボン、そして黒いマスク。

 

「えっ、ほんとに?」

 

アデリーナは、そう呟きながら、その男の方に歩き出していた。

 

アロンソは、その手首を掴んで、歩き出したアデリーナを引き止めた。



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第九話 再会

アロンソは、アデリーナの手首をつかんだまま、無線機のマイクを忍ばせた上着の袖口に口を近づけた。

 

「捜査官、全身黒づくめの男がロビーに現れました」

 

アデリーナは、自分の手首を掴んだ手を離すように、アロンソの腕を掴んだ。

 

「大丈夫です。お客様として接するだけです」

「しかし」

「もしなんかあったら、その時はお願いします。アガタの時みたいに」

 

アデリーナはアロンソにそう声を掛けて、黒づくめの男のもとへ向かった。

 

男はロビーの中央をゆっくりとフロントへ向けて歩いていた。

それはまるで、自らの存在を誇示すかのような姿だった。

 

アデリーナはその男の横からさりげなく近づいていった。

 

「いらっしゃいませ。ネオ・ヴェネツィアーティーへようこそ」

 

男は立ち止まると、アデリーナの方に顔を向けた。

 

「本日はご宿泊でしょうか?」

「いや、ロビーで人と待ち合わせをしている」

「かしこまりました。何かご用はございませんか?」

「今のところ、別に用はない」

「また何かございましたら、いつでも結構ですので、お申し付け下さい」

「わかった。ありがとう」

 

すらりとした外見の印象とは違い、男性的な、落ち着いた雰囲気の声だった。

 

男は辺りを少し見渡すと、玄関に程近いところに腰かけた。

 

フロントクラークやベルボーイに扮した捜査員たちは、一斉にその男に注意の目を向けていた。

 

ただならぬ雰囲気に、他の従業員たちにも緊張の空気が広がってゆく。

 

それに気付いたアガタが、その男をジーッと見つめた。

 

アデリーナはアガタに向かって、めくばせをしながら顔を横に振った。

 

〈あの子、なんでじっと見てるの?〉

 

その男に注意を注いでいるアロンソの前を通って、アデリーナは急ぎ足でフロントへ向かった。

 

「アガタ!ちょっと、何してるの!」

「先輩、あの人なんか怪しくないですか?」

「だから、そういうことを口に出すんじゃないって!」

「やっぱりそうなんですか?なんか急に空気がピリピリしてるような感じがしたんですよ」

 

アデリーナはアガタをカウンターから少し後ろに引っ張り、小声で話しかけた。

 

「あなたもロビーがピリついているのを感じたのなら、今どういうことが起こっているか想像がつくわよね?」

「もしかして、あの人が?」

「そんなの、まだわからないの!」

「なんだ、そうなんですか?」

「あなたって、ホントに緊張感ないわね」

「そんなことないですぅ!わたしだってピリピリしてますぅ~!」

 

アデリーナはため息ををつくしかなかった。

 

「もういいわ。休憩行ってきて」

「いえっ!私もこのホテルの立派なフロントクラークなんです!犯人逮捕に協力をしますから!」

「あのね、こんなことで名誉挽回しなくていいんだから・・・」

 

その時だった。

 

何気なくロビーに目を向けたアデリーナは、険しい表情でこちらに目を向けているアロンソと目が合った。

 

そのただならぬ気配を感じてエントランスに目を向けたアデリーナは、正面玄関から入ってくる人の様子に、思わず目が釘付けになった。

 

ひとりの老婆に連れ添うようにして、水無灯里が一緒にロビーに入ってきた。

しかもその老婆は、先日アロンソと言い争うきっかけとなった、あの老婆だった。

 

二人は、エントランス付近でそのまま何やら話し込んでいる。

だが、その近くには、ソファーに腰かけた、あの黒づくめの男がいる。

 

その距離、ほんの数メートル。

 

「先輩、どうしたんですか?」

「アガタ、あなたはここから動かないでね。絶対よ!」

「ええー、なんでですかぁー?わたし、なんかしました?」

「なんにもしないでほしいからよ!」

「そんなぁ~」

 

アデリーナは急いでロビーに向かった。

だが、途中で足を止めた。

そして、先程とは反対に、その場から歩きだそうとしたアロンソの腕を掴んだ。

 

「なんだ?」

「ちょっと待って」

「どういうことだ?あのウンディーネに変な動きをされたら、あいつを取り逃がしてしまうかもしれない」

「でももう少しだけ」

「どうして?」

「なんとなくだけど、彼女なら大丈夫な気がする」

「あんた、こないだはあのウンディーネを信用してなかったじゃないか?」

「そうなんだけど」

 

灯里の、その老婆に向けるやさしさの溢れた笑顔に、その老婆は思わず微笑んでいる。

 

そんな光景を見たアデリーナは、灯里がなぜ、あのアリシアから全幅の信頼を受けているのかが、少しわかるような気がした。

 

それと気がかりなことが、もうひとつ。

 

灯里の老婆に向けた視線の先には、あの黒づくめの男がいる。

 

その姿は、灯里の視界に入っていてもおかしくないはずなのに、灯里は全くなんの反応も示していない。

 

「どういうこと?」

 

灯里は、その老婆と一緒にフロントへ向かって歩き出した。

途中アデリーナと目が合った灯里は、ほほえんで会釈した。

 

アデリーナも軽く会釈を返した。

 

「ちっ」

 

すると、アロンソが舌打ちをして、走り出していた。

 

その様子に振り返ったアデリーナは、驚きの余り、声が出なかった。

 

あの黒づくめの男は、先程までいたソファーからすでに姿を消していた。

 

視線を戻すと、灯里と老婆が笑顔のままで、フロントからキーを受け取る姿があった。

 

もう一度エントランスに目を向けたアデリーナは、ホテルマンに扮した捜査員数名と駆け足で玄関を出て行くアロンソの後ろ姿を見た。

 

捜査員全員が注視している中、その男は忽然と消えた。

 

だが、アデリーナば何かを思い付いた顔をしたかと思うと、フロントの奥へと駆け出していった。

 

「先輩?トイレ・・・じゃないか」

 

アガタは、回りをキョロキョロ見回して、大きなため息をついた。

 

「あのー」

「は、はい!いらっしゃいませ!」

「先程、ホテルの前でこんなものを預かったんですが」

「はい?」

 

二十歳前後に見える青年が、ずれたメガネを人差し指で直しながら、カウンターの上に小さな箱を置いた。

 

「なんですか、これ?」

「わかりません。渡してくれって預かっただけですから」

「預かった」

「はい」

「誰宛とかないんですか?」

 

アガタはそう言うと、箱を持ち上げ、宛名らしきものがないかを見回した。

 

「なんにも書いてないですねぇ」

「じゃあ僕はこれで」

「えっ?ちょ、ちょっと待ってください!こんな変なもの置いていかれても困ります!」

「でも僕だって困ります。頼まれただけなんです!」

「頼まれたって、そんないい加減なこと、あります?」

「そんなこと言われても・・・」

 

その青年は、汗を拭いながら、困り果てていた。

 

「じゃあ、僕はこれで」

「すみませーん!捜査の方ぁー!ちょっとお願いできますかぁー?」

 

アガタの呼び掛けに、ロビーにいたベルボーイひとりと、アガタから少し離れたところにいた女性のフロントクラークが、ふたり同時にギクッと反応した。

 

「ちょっと、あなた!どういうつもりなの?」

 

フロントクラークに扮した女性捜査員が、血相を変え、アガタのそばに飛んできた。

 

アガタの言葉を聞いた青年は、顔をひきつらせると、くるりと振り返り、そのまま勢いよくロビーのど真ん中を走り出した。

 

その姿にすぐさま追いかけたベルボーイが、エントランスを出たところで、背後からタックルした。

青年は地面に突っ伏して倒れ、その勢いでメガネが道路に飛んでいった。

 

「えっと、あのぉ~、どういうこと・・・なんでしょうか?」

 

アガタが手に持って、カタカタ音を鳴らして揺すっていた箱を、そばにいたフロントクラーク姿の女性捜査員は、もの凄い形相で取り上げた。



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第十話 モニター越し

「すみません、アルフ捜査官?監視カメラの映像、私にも見せてもらっていいですか?」

 

アデリーナは捜査本部のある会議室に入ってくると、いきなりアルフに向かってそう告げた。

 

「今、先程の黒づくめの男をもう一度確認しているところだ」

「できれば私にもお願いしたいのですが」

 

そう言いながらアデリーナは、数台のモニターの操作している捜査官の、その後ろに陣取っていたアルフの横に並んだ。

 

「何か気になることでも?」

「実は灯里さんが、先日から宿泊されているご婦人と一緒に正面玄関から入ってきたんですが」

「ああ、それは確認済みだ」

「なんですが」

「君の言いたいことはわかっている。灯里さんは、あの黒づくめの男を見たはずなのに、何の反応も示さなかった。私もそこは重要な点だと感じている」

「捜査官もそうですか。ただ、それとは別に、なんだか変な違和感があったんです」

「違和感?」

「ハッキリとはしていないのですが、なんだか、こう、不自然というか」

「不自然というのはどの辺りが?」

「それがわからないんです。ですので、監視カメラの映像を見れば、何かわかるかもと思ったのですが・・・」

 

ぼんやりとその時のことを思い出そうとしていたアデリーナだったが、いくつか分割されたモニター映像のひとつに目が止まり、ぎょっと驚きの表情に変わった。

 

「ん?あれはなんだ?」

 

アルフ捜査官もアデリーナと同じ映像に目が止まった。

 

「拡大してくれ」

 

モニターの操作をしている者にアルフが声をかけた。

映像は、入り口付近からフロントの様子を捉えている。

 

アガタと話していた男が、そこから猛ダッシュで走り去る姿が写し出されていた。

 

別の画面では、追いかけたベルボーイ姿の捜査員が、玄関を出たところで飛びかかって取り押さえていた。

 

カウンターの映像には、アガタのそばに近づいたフロントクラーク姿の女性捜査員が、アガタが何やら手に持っていた物を、取り上げるように奪い去る様子が映し出されていた。

 

「あの子、いったい・・・」

 

その映像を見たアデリーナは、思わず呟いていた。

 

アロンソがすぐさまマイクに手を伸ばした。

 

「フロント、どうした?」

 

アデリーナはそばにあったヘッドフォンに手を伸ばし、耳に当てた。

 

〈若い男性がひとりやった来て、小さな箱を置いていったんです。ここへ渡すように頼まれたと言ってました〉

「それが玄関の外で取り押さえたヤツなんだな?」

〈はい〉

「わかった。すぐに連れてこい」

〈了解〉

 

「あの~」

 

アデリーナは、ちょっと言いにくそうにしながら、アルフに話しかけた。

 

「なんか、怒ってらっしゃるように感じたんですが・・・」

「そうか?」

 

アルフはもう一度マイクに向かった。

 

「フロント、まだいるか?」

〈了解、どうぞ〉

「ところで、そこにいるフロント係と何かあったか?」

〈はい、まあ・・・〉

 

モニターには、アガタの方にチラッと目を向けた捜査員と、それを見て反対側に目をそらしたアガタが映っていた。

 

「どうした?」

〈こちらのフロント係が、男が持ってきた箱を、カタカタとおもちゃのように音を立てて振り回していて〉

 

「振り回してません!」

 

アガタの声が小さいながらもマイクが拾っていた。

画面には抗議をするように、そばにいる捜査員に訴えかけるアガタの姿があった。

 

「それで問題はなかったのか?」

〈今のところ、問題はないようです〉

「わかった。事情を聞きたいから、交代が来たらここへくるよう、そのフロント係に伝えてくれ」

〈了解〉

 

その捜査員から話しかけられたアガタが、一瞬驚いたかと思うと、すぐに落ち込んだ様子がモニターに映っていた。

 

「私、戻ります」

 

アデリーナは、急ぐように会議室を後にした。

 

その直後だった。

 

〈捜査官、アロンソです〉

 

アロンソからの無線だった。

 

「どうだった?」

〈見失いました〉

「そうか。ご苦労。とりあえず戻ってくれ」

〈このまま追いかけます〉

「駄目だ、アロンソ。それは専従捜査班に任せろ。お前はロビーに戻れ」

〈どうしてですか?俺は今、目の前で見ていたんですよ?〉

「今ロビーは手薄になっている。そこを狙われたらどうするんだ。いいから戻れ!」

 

応答はなかった。

 

「おい、アロンソ?聞いてるのか!」

 

アルフは、耳に当てていたヘッドフォンをテーブルに投げつけた。

 

「あのー、お取り込み中のところ、申し訳ありません」

 

アルフが振り返ると、入り口のところで水無灯里が恐縮した様子で立っていた。

 

「灯里さん、どうぞ入ってください」

「はい、失礼します」

「今ちょっと取り込み中ですので、そちらで少しの間お待ちください」

 

アルフは、隣の部屋の、パイプ椅子の並んだ、誰もいないところに案内した。

 

「しょうがないやつだなぁ」

 

アルフが見ているモニターには、正面からロビーに入ってくるアロンソが映っていた。

 

別の画面には、フロントに到着したアデリーナの姿もあった。

 

 

 

 

アデリーナは、意気消沈しているアガタのそばにやってきた。

 

「先輩、私、またやっちゃったかもしれません」

「どういうこと?」

「変な男の人が小さな箱を持ってきたんです」

「さっき見てた」

「えっ、見てたんですか?」

「まあね。なんかカタカタ音をさせてたって」

「それもなんですけど・・・」

「他にもあるの?」

「私、思わず言っちゃったんです」

「何を?」

「箱を持ってきた男の人が、そのまま帰ろうとしたんで、このままじゃマズイと思って」

「で?何を?したって?」

 

アデリーナの顔が険しくなっていった。

 

「捜査の方ぁー!お願いしますぅー!って」

「ここで?まさか?」

「そのまさかですぅ~」

「アガタ、あんたって人は・・・もう!」

「協力したかったんですぅ~!」

「はあ~」

 

ため息をついたアデリーナが何気なくロビーに目を向けた先には、とてもホテルマンとは思えない険しい表情のまま、いつもの定位置に突っ立っているアロンソの姿があった。

 

「こっちもこっちなら、あっちもあっち!なんなの、いったい!もう~~!」



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第十一話 ウンディーネって・・・?

アガタはうつむいたまま、捜査本部のある会議室を出ていった。

 

アデリーナはアルフ捜査官の前に立っていたが、心配そうにその後ろ姿を見送った。

 

「あんまり落ち込まないように言ってくれ。いくらホテルの従業員とはいえ、こんなこと、そうそう経験することはないだろうしな」

「すみません、捜査官。後で私からも言っておきます」

「総支配人には?」

「まだです。少し事態が落ち着いてから話そうかと思っています」

「その方がいいな。私からも改めて話をする必要もある」

「はい。それは当然かと」

「状況は変わりつつあるということだ」

 

アルフはパイプ椅子の並んだミーティングルームの、ホワイトボードを背にして座っていた。

前には長テーブルがひとつ置かれている。そこにはアガタが受け取った小さな箱が置いてあった。

アルフは、その眼前に並んだパイプ椅子に座るよう、アデリーナに手で合図した。

 

アデリーナは一番前のひとつに腰かけた。

 

「アガタの言ったひと言によって、捜査員が張り付いていることがハッキリとわかってしまったわけだが、それを犯人が見てなかったことを祈りたいところだ。だが、この箱の一件が、そうでないことを物語っている」

 

アルフはその箱を持ち上げた。

そして、アガタを真似するようにカタカタと振ってみせた。

 

「結局それはなんだったんですか?」

「これはだな」

 

そう言ってアルフは蓋を開けた。

中にはキラキラ光る石がひとつ入っていた。

 

「宝石ですか?」

「ああ。もちろん、よく出来た偽物だがな」

「つまりわざと、ということなんですか?」

「おそらく。様子を見るためのものだろう。黒づくめの男も同じことだ」

「そこまで・・・」

「こちらの手の内を探るためだ。相手はなかなかの手練れとみるべきだろう」

 

アデリーナの顔に少し緊張が走った。

 

「そこでなんだが・・・」

 

アルフは、腕時計にチラッと目をやった。

アデリーナはその素振りを不思議そうに見つめた。

 

「おお、来た来た。丁度いい時間だ」

 

その会議室の入り口には、水無灯里が立っていた。

 

だが、振り返ったアデリーナは、灯里のその出で立ちに呆気にとられた表情で見つめていた。

 

「あの~、よろしくお願いしますぅ」

 

灯里は、フロントクラークの制服姿になっていた。

 

「とにかくこうゆうことだ」

「ええ・・・見ればわかりますけど」

「まあ、早いにこしたことはないと思ったんだがね」

 

アルフは灯里に入るように手招きした。

 

灯里は遠慮がちに部屋に入ってきた。

そして、アデリーナから少し離れたところに腰かけた。

 

「実はこの時間に来るように言ったのは私なんだ」

「そうなんですか。でもこの時間と言いますと?」

「あいつがいなくなってからの方がいいと思ってね」

「あいつ?・・・ああ、なるほど」

「相変わらず察しがよくて助かる」

 

灯里はふたりの会話にキョトンとしていた。

 

「灯里くん?君には聞いておかなくてはいけないことがある」

「はい。ですが、いったい、どういったことなんでしょうか?」

「先程のロビーでの件よ」

 

アデリーナが思わず割って入った。

 

「アデリーナ?悪いが捜査に関わってくる内容だ」

「すみません」

 

アデリーナは前屈みになっていた姿勢をまっすぐに戻した。

 

「君にも話しているとおり、このホテルは深刻な事態を迎えている。そのため、ホテルのあちらこちらには、監視カメラが取り付けてある。そのカメラ映像には先程君が老婆と一緒にロビーに入ってきた時の様子も映っていた」

「そうだったんですか?」

「そうなんだ」

「だとすると・・・」

「どうした?何かあったのか?」

 

灯里は怪訝な表情でアルフを見返した。

 

「実は私、先程なんですけど」

「どうしたんだ?」

「廊下の花瓶を落としそうになったんですぅ~」

「はぁ?」

 

リアクションをしたのはアデリーナで、アルフはそのまま固まっていた。

 

「灯里さん?」

「はぃ~」

「どのあたり?」

「五階ですぅ~。あのご婦人の部屋まで送っていった時なんですぅ~」

「で、大丈夫だったの?」

「はい~。なんとか掴んで落とさずにすみましたぁ~」

「それなら別に」

「ご婦人が〈ナイスキャッチ!〉と言ってくれました!」

「えっと・・・捜査官?」

 

アルフは背もたれによりかかると、咳払いをして自分を取り戻そうとした。

 

「それはよかった。その辺は後でホテルの方と相談してくれたまえ。いいね、アデリーナ?」

「ええ、結構です」

 

アデリーナはため息をひとつ漏らして答えた。

 

「他に何かあるのでしょうか?」

「ある。とても重要なことだ」

「はい・・・」

 

灯里は安堵の表情と不安な気持ちの、複雑な顔になっていた。

 

「先程話した老婆とロビーに入ってきた時の話だ。君はそこで少しの間、その老婆と話していたね?」

「はい。そのご婦人が足下が不安だから、一緒に来てもらってもいいかとおっしゃったので、構いませんと答えました」

「その時、すぐそばのソファーに座っている人には、何も気づかなかったのか?」

「ソファーのひと?」

 

そこからは、3人でとなりのモニタールームに移動して、その時の映像を見ながら話を進めた。

 

「見てくれ。君が老婆と話す視線の先に、黒づくめの男が座っているだろ?」

「確かに。ほんとですね」

「それを見て、何も思わなかったのか?」

「何もって言われても・・・」

 

灯里は少し焦った顔になっていた。

 

「つまり、あなたが先日、ゴンドラに乗せたという人物のことよ」

 

アデリーナは思わず話に割って入っていた。

 

「ああ、そのことですか・・・」

「どうなの?」

 

真剣の顔のアデリーナとは対照的に、灯里はうーんと考え込んでいた。

 

「違います」

「違うの?」

「ええ」

「ホントに?」

「はい」

「どういうこと?」

 

アデリーナとアルフは、思わず顔を見合わせていた。

 

「灯里くん?なぜそう言いきれるんだ?」

「だって、ぜんぜん雰囲気が違うんです」

「雰囲気?」

「はい。あの時の感じとは違うんです。何て言ったらいいか、こう、うまく言えないんですけど」

 

灯里はうまく言えない歯がゆさが顔に現れていた。

その様子に、アルフとアデリーナはため息をつくしかなかった。

 

「多分なんですが・・・」

「何かわかったのか?」

「あの方、ネオ・ヴェネツィアには、何度も来られてるような気がします」

「どっちが?」

「私がゴンドラにお乗せした、あの方です」

 

灯里は遠くを見るような、考え込む表情をしていたが、その後、何か納得したかのように、少し笑みを浮かべていた。



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第十二話 初仕事と深紅のドレス

朝からよく晴れ渡った陽の光が、表の通りからロビーへと差し込んでいた。

 

ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーは、ここ最近の出来事が嘘のように、穏やかな雰囲気で包まれていた。

 

ロビーの一角でぎこちなく立っていた水無灯里は、昨晩アデリーナから受けたレクチャーを、朝から頭の中で何度も繰り返していた。

 

普段プリマ・ウンディーネとして観光案内をしている灯里にとって、客と接すること自体は難しい話ではなかったが、それがホテルとなると勝手が違う。

 

唯一頼りになる言葉が、アデリーナからもらったアドバイスだった。

 

「いつもプリマとして接客しているときのようにやってもらえたら問題ないと思う。あなたならきっと大丈夫」

 

当初灯里のことを疑問視していたアデリーナから、そんな言葉がかえって来るとは思ってもみなかった。それだけに灯里のとってはうれしい誤算だった。

 

「あのー」

「はひっ」

「ちょっと、いいですかな?」

「あわわわ~」

「あわわ?」

「あ、あの、どうぞ!」

 

突然客から声をかけられ、戸惑う灯里。

いつものプリマの姿はどこかへ行ってしまっていた。

 

「ちょっとお訪ねしますが、あなたとどこかでお会いしたことはなかったですかな?」

「私とですか?」

「そうなんだが。さっきからその事が気になっていてね」

「はぁ」

 

もちろん、ここで灯里が本当はウンディーネだと言えないことはわかっていた。

 

だが、おそらくこの客は、どこかでARIAカンパニーのプリマ・ウンディーネ、水無灯里と会っていたのだろう。

あのアリシア・フローレンスの後を継いだだけに、最近は徐々にだが、世間に知られる存在になっていた 。

 

灯里は、その客とは適当な世間話を交わしてその場で別れた。

 

「あれ?灯里ちゃん?」

「いえ、人違いかと・・・」

 

今度ははっきりと名前で呼ばれてしまった。

 

「やっぱり、灯里ちゃんだ」

「似ているんですかねぇ、その人と」

「何してるの?こんなところで」

「いえ、あの~」

「もしかして、バイト?」

「えっ、そんふうに見えますか?」

「なんかね。上手くいってないのかい?仕事の方は」

「そんなことはないです・・・はっ!」

 

灯里は思わず両手で口を押さえていた。

 

「頑張ってね。応援してるからね」

 

最後は慰められてしまった。

 

灯里はその場でぐったりとうなだれてしまった。

 

その時、休憩から戻ったアデリーナと目があった。

カウンターのところから、灯里に向かって微笑んでいた。

 

灯里は、何事もなかったように微笑み返した。

自分でもぎこちない笑顔だと感じるほどだったが。

 

だが、アデリーナの前には、すぐに客が現れた。

アデリーナがそちらに集中し始めたことに、灯里は、少しほっとしていた。

 

「ウンディーネさん?」

「はい、いかがされ・・・はひっ!」

 

灯里は反射的に答えてしまった。

額から汗を流している灯里の前には、あの老婆が立っていた。

 

「あの~なんで私のこと、ウンディーネだと・・・」

「やっぱりそうだったのですね?」

「知ってるんですか、私のこと?」

「そうじゃないかと思ったんだけど、違ってたら悪いと思ってね。だから言わなかったんだけど」

 

灯里は、その老婆とロビーの端の方のソファーに腰かけた。

 

灯里が手を貸そうとしたが、その老婆は大丈夫と言わんばかりに手を大きく振って断り、自らソファーに座った。

 

灯里はそのそばのソファーに座った。

 

「ネオ・ヴェネツィアにはこれまで何度も来ているの」

「そうだったんですか」

「主人が旅好きだったこともあって、ここには思い出も多いわ」

「それでは今は・・・」

「今はひとりで、旅行をしながら余生を楽しんでいるところよ」

 

その老婆はソファーにゆったりと座りながら、外から差し込んでくる陽の光に目を向けていた。

そして、ゆっくりとロビーの様子を見回した。

 

「ここはいいわね。ゆっくりと落ち着いていられる」

「そうですね。私もそう思います」

「そう?」

「はい!」

「それでウンディーネのあなたが、どうしてここにいるのかしら?」

「ああ~~それは~~なんと申しましょうか~~」

「はははは!」

「どうも、すみません」

「別に謝らなくてもいいわ。何か理由があるのよね、きっと」

「はい・・・」

 

灯里は恐縮しきりだった。

老婆はその灯里の困った顔を見て笑っていた。

 

「あなたのような人と、もっと早く出会ってたらよかったのかも・・・」

 

その老婆は、ぼんやりとそう呟いた。

 

灯里はそんな老婆の横顔を見ながら尋ねた。

 

「お聞きしてもよろしいでしょうか?」

「ええ、なんでも聞いてもらっていいわよ」

「わたし、お客様をゴンドラにお乗せしたこと、ありましたでしょうか?」

「あるわ。もちろん。だから覚えていたんだと思う」

「それって、いつ頃のことでしょうか?かなり以前のことですか?」

「そうね。結構前だったと思う。はっきりしなくて悪いのだけど」

「いいえ、こちらこそ失礼なことをお聞きして申し訳ありません」

 

灯里は、恐縮した表情でその老婆の方に顔を向けた。

だが、なぜかすっきりしない何かを抱えているような顔だった。

 

「どうかしたの?」

「あ、いえ、その・・・」

「何?」

「一度だけですか?お乗せしたのは」

「そうね。たぶんだけど。それがどうかしたの?」

 

灯里は少しためらうような仕草をみせた。

 

「私の勘違いだと思います」

「勘違い?」

「はい。何度か私のゴンドラにに乗っていただいたような気がしたもので」

 

そう言った灯里は、穏やかな表情でその老婆に微笑んでみせた。

 

老婆は、そんな灯里をぼんやりと見つめ返していた。

 

「そうなのね」

 

その時、フロントの方から何やらざわついた様子が聞こえてきた。

 

灯里はその場で立ち上がって、フロントの方に目を向けた。

 

カウンターの中央に位置するところで、アデリーナが応対してる目の前に、一際目立つ姿の女性が立っていた。

 

長い黒髪とつばの大きい帽子、大きめのサングラスで顔は覆われていたが、遠目からでもわかるくらいの存在感が、多くの人の目を引き付けていた。

 

アレッサンドラ・テスタロッサ。

 

新進気鋭の女優がホテルのロビーに姿を現せば、いやがうえにも注目の的となってしまう。

アレッサンドラのトレードマークとなっている色の、深紅のドレスがその美しさをよりいっそう際立たせていた。

 

「初めて目の前で見ました。やっぱりキレイですねぇ」

 

灯里はうっとりした表情で見とれていた。

 

「私のウンディーネの友人が、実は直接会ってるんですけど・・・」

 

そう言って灯里が振り返ったところには、いるはずの老婆の姿が、そのソファーから消えていた。

 

「すみません!灯里さーん!」

 

フロントからアデリーナの呼ぶ声が聞こえた。

 

「灯里さん、お願いします!」

 

カウンターでは、新たな客に追われているアデリーナの姿があった。

 

そしてそのすぐそばには、小さめのトランクから長く伸びた取手に手を置いたアレッサンドラ・テスタロッサの姿があった。

 

灯里は焦りの表情で周りをキョロキョロ見回していた。

 

ロビーにいた従業員の誰もが忙しく動き回っていた。

 

手の空いているのは、当然自分しかいないとすぐにわかった灯里だったが、アデリーナが自分に対して、必死な声で呼んだ理由も、その周りにはベルボーイも誰もいないアレッサンドラの姿を見れば、察しがつくのも当然といえる状況だった。

 

「やっぱりそうですよね」

 

灯里は意を決したように一歩前に踏み出した。

 

だがその瞬間、その視線の先に立っている人物の真っ赤な色が、急激に鼓動を早くさせるのだった。



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第十三話 指先の感触

フロントクラークの制服を身にまとった水無灯里は、そのトランクから伸びた取手を持って、アレッサンドラ・テスタロッサの少し前を歩いていた。

 

フロントのそばでアレッサンドラに挨拶した時、軽く会釈だけ返してきた彼女の姿に、灯里は改めてそのオーラを感じずにはいられなかった。

 

エレベーターが到着すると、アレッサンドラに続いて灯里も乗り込んだ。

 

近づいた時から気になっていた香りが、二人っきりになったエレベーターの中に一気に充満した。

 

〈ああ~いい香りぃ~!やっぱり女優さんて違うんですねぇ~〉

 

心の中で思わず呟いていた灯里は、一瞬口から漏れていたのではないかと気になっていた。

 

「あの」

「は、はい!」

 

押しボタンの方に向いて立っていた灯里は、背後から声をかけられ、不意を突かれたように驚いていた。

 

〈やっぱり聞かれてたのかも・・・〉

 

灯里は振り返ると、とてもいい印象の笑顔で答えた。

 

「いかがなさいましたでしょうか?」

「ちょっと気になることがあるのだけど」

「はい。えっと、どのような件でしょう・・・」

 

アレッサンドラは、おもむろにその顔の半分を隠していた大きなサングラスを外した。

灯里に向けられたその瞳はとても大きく、輝きに満ちていて、相手を圧倒する力強さがあった。

 

「あなた、ARIAカンパニーの方よね?」

 

その一言に、灯里の身体は固まってしまった。

思わずクルリと反転し、押しボタンの列に額をぶつけた。

 

「あ、いえ、そのぉ、人違いではないかと・・・」

「先日は、アリスさんに大変お世話になって。ちゃんとお礼も出来てないの」

「はぁ」

 

アレッサンドラは、一生に一度しか手にすることができない、ネオ・ヴェネツィア国際映画祭の新人賞を獲得していた。

 

その時のプレゼンターが、ウンディーネの歴史で初の大役を担うことになった、オレンジぷらねっとのアリス・キャロルだった。

 

授賞式の後で、アレッサンドラは過去ウンディーネを目指していたことを明かしていた。

そして、残念ながらそのウンディーネにはなれなかったアレッサンドラが憧れていたのが、アリスだった。

 

そのアリスから受賞のトロフィーを受けとる。

 

アレッサンドラがアリスを、半分無理矢理ハグした時の写真が、その当時、かなりの話題となっていた。

 

「あなた、アリスさんとお親しいのよね?」

「ええ、まあ、親しいといいますか、なんといいますか・・・あっ!」

「違うの?」

「私はただのフロント係で・・・」

「あのARIAカンパニーの水無灯里さんでしょ?」

「まあ、そんな名前だったでしょうか・・・」

「てっきりそうだと思ったのだけど・・・」

 

アレッサンドラは、手に持っていたサングラスを再びかけ直した。

 

灯里はアレッサンドラに背をむけたまま、ゆっくりと息を吐き出した。

 

エレベーターが最上階のスイートルームに到着した。

 

カードキーを差し込み、ドアを開けると、ストッパーで固定して中に入っていった。

アデリーナにレクチャーを受けた通り、部屋の中を一通り見回し、異状がないかを確認した。

 

後に続いて入ってきたアレッサンドラは、サングラスを外し、中の様子をぐるりと見渡した。

 

「いいお部屋ね」

「ありがとうございます。お荷物はこちらに置いておきます」

「ありがとう。ご苦労様。これ、気持ちだけなんだけど」

 

アレッサンドラは灯里にチップを渡そうと、そのすらりとした白い手を差し出した。

 

「えっと、これは受け取ってもいいのでしょうか・・・」

 

戸惑っている灯里を前に、アレッサンドラはじっと灯里を見つめたまま、身じろぎもせずに立っていた。

 

「それでは遠慮なく、ちょうだいします」

 

灯里は丁寧な口調で、遠慮がちに両手を差し出した。

 

その手の上に、アレッサンドラはそっと数枚のコインを置いた。

 

その瞬間、アレッサンドラの指先が灯里の手に触れた。

 

灯里は、そのほんの指先ひとつの感触に表情が変わった。

 

「ありがとう。もういいわ」

 

アレッサンドラの言葉に、灯里は、はっと我に返った。

 

「失礼します」

 

灯里は、ドアのストッパーを外し、振り返って一礼しながら、ドアを閉じようとした。

 

すると、ドアが閉じるその寸前、その隙間からアレッサンドラの声が聞こえた。

 

「アリスさんによろしく」

 

 

 

 

灯里は、一階のロビーに戻ってきた。

 

そこで「ふぅ~」と大きく息をついた。

 

「灯里さん、お疲れ様。どうだった?」

 

アデリーナがそばまで来ていた。

 

少し心配そうにしている表情だったが、灯里の顔を見て、安堵しているようだった。

 

「少し緊張しました」

「そうね。アレッサンドラ・テスタロッサ様のような、著名なお客様は、これからもお越しになる機会があると思うの」

「そうなんですねぇ~」

「そうね。でもいつも通りやっていれば大丈夫だから」

 

アデリーナの言葉を聞いてはいたが、灯里はどこか上の空といった顔をしていた。

 

「ほんとに大丈夫?何かあったの?」

「あった、というほどではないのですが・・・」

「どういこと?」

「指が」

「指?」

「はい。チップを渡そうとされたのですが、受け取ろうとして手を出した時に、アレッサンドラ様の指が私の手に触れて、それで・・・」

「それでどうしたの?」

「いえ、別に何もなかったのですが、緊張したと言ったらいいか、なんていうか・・・」

 

灯里は、どう言えば上手くアデリーナに伝わるのか、言葉が見つからなかった。

 

「でも、灯里さんもプリマ・ウンディーネとして、いろんなお客様と接してきたわけでしょ?」

「それはそうなんですが」

「まあ、アレッサンドラ様のような方は、そう滅多に遭遇することはないかもだけど」

 

アデリーナはそんなこともあると言いたげな顔をしていた。

 

「冷たかったんです」

 

灯里は、アデリーナが続けようとした言葉を遮るように呟いた。

 

「冷たいって、アレッサンドラ様が?」

「指です」

「さっきの指のこと?」

「はい」

「それがどういう・・・」

「心の底まで見透かされたような、と言ったらいいでしょうか」

 

アデリーナは少し困惑している灯里の顔を、まじまじと見つめた。

 

「灯里さんて、詩人ね」

「わ、わたしがですか?」

「そうよ。いくらアレッサンドラ・テスタロッサが目の前に現れたからといって、そんなふうに表現しないわよ。私なら尚更だけど」

「そう言われれば、そうかもしれませんが・・・」

 

灯里はアデリーナに言われた言葉に、苦笑いの表情を浮かべていた。

 

「でも、灯里さんがそう感じたのなら、何かあるのかもしれないわね」

「何か、ですか?」

「だって、灯里さんがなぜここにいるのかという理由。それがあるわけでしょ?」

「はぁ。それはそうですけど」

 

その時、アデリーナが何かに気付いて、ロビーの中央付近に目を向けた。

 

「あの人、また!」

「はひっ!」

 

アデリーナの目線の先には、アロンソがいた。

 

アロンソのそばには、にこやかに微笑んだ中年の男性がひとり立っていた。

だが当のアロンソは、その男性に背を向けて、無愛想な表情をしている。

なのにその男性は、そのアロンソの背中にむかって、にこやかな表情のまま話しかけていた。

 

「ちょっと、行ってくる」

 

アデリーナは、まるでヒールで床を蹴るように、つかつかとアロンソ目掛けて進んで行った。



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第十四話 お嬢様と地味メイド

アロンソと、そのアロンソと親しげに話す中年の男性は、そのままロビーを抜けて、関係者入口の方へと向かって歩いていた。

 

アデリーナはアロンソの後をロビーの途中まで追ってきたが、片方の眉毛を上げて、不思議そうにその二人の姿を目で追っていた。

 

「なにあれ?なんであんなところに向かってるの?」

 

その後を追っていこうかとしたアデリーナは、呼び止める声に思わず足を止めた。

 

「ちょっと、いいですかな?」

 

振り返ったところには、数日前にアデリーナ自身が応対したあの老紳士アダルベルトが立っていた。

 

「失礼しました、お客様」

「お忙しいところ、申し訳ないのだが」

「いえ、どうぞ何なりとお申し付け下さい」

「そうですか?それなら少し頼みたいことがありましてな」

 

アデリーナは、アダルベルトとすこしばかりその場で話し込むと、そのままエレベーターホールへと向かった。

二人は笑顔のまま、楽しそうな表情でエレベーターに乗り込んだ。

 

灯里は周りを見渡すと、そのままゆっくりとロビーの中央付近に出てきた。

 

まだ誰が捜査員で、誰がホテルの従業員なのかハッキリとはわかっていないため、周辺にいるホテルの格好をしている人物が目に入ると、どうしても気になってしまう。

 

「あの人は確かホテルの人で、こっちの人は警察の・・・」

 

もし何かあったら、誰に何をいえばいいんだろう。

 

アデリーナもアロンソも姿が見えないことに気づいた灯里は、いっぺんに不安な気持ちが押し寄せていた。

 

だがそれでは、ホテルの従業員には見えない。

 

灯里は、気を引き締めるように、背筋をピンと伸ばした。

 

その時、正面のガラス扉が開いた。

 

少し小柄な、銀色の長い髪の少女と、そのすぐ後ろに寄り添うように、二十代半ばくらいの女性が姿を現した。

 

少女は水色のミニハットを頭に付け、膝下まであるスカートの、同じ色のドレスを着ていた。

ロビーには一輪の花が咲いたように、華やいだ雰囲気になっていた。

 

それに比べると、「お付きの人」という印象の女性は、黒のワンピースを身にまとい、少女とは対照的にとても地味だった。

 

物怖じすることなく歩くその少女は、ロビーの真ん中を悠然と歩いていた。

そして、灯里の前までやってくると、ピタッと動きを止めた。

 

「ちょっとそこのあなた」

 

少女は前に顔を向けたまま、横に立つ灯里に話しかけた。

 

灯里はというと、女の子の姿に口を開けて見とれていた。

 

「ねえ、ちょっと、そこ・・・聞いてるの!あなた!」

「はひっ!」

「はひって何?」

「私ですか?」

「あなたよ、あなた!決まってるでしょ!どういうおつもり?」

 

灯里は恐縮しまくっていた。

 

ホテルの従業員の中で、敏感に反応する姿が何名かいた。

その中のひとりのベルボーイが、イヤホンに指を押し当てていた。

 

「あなたにお尋ねするわ」

「は、はい」

「いいかしら?」

「どういったご用件で?」

「ご、ご用件でって、あなた、ホテルに来た客にどういった用件があるというの?」

「ああ~それは~失礼しました~~」

「いったいこのホテルはどうなってるのかしら?」

 

その少女は見た目とはかけ離れた高慢な物言いが、ものすごい違和感を醸し出していた。

 

いったいどうしたらこんな少女が生まれるのだろう・・・

 

その少女を見た誰もが、きっとそう思うに違いない。

それくらいインパクト大だった。

 

「じゃあ言うから、ちゃんと聞いてるのよ。いいわね?」

「はい!どうぞ!」

「なんか、調子が狂うわよね」

「大丈夫です」

「何が?」

「ちゃんとお聞きしていますから」

「当たり前よ!」

 

少女はため息をついた。

 

「それで」

「アリーチェお嬢様?」

「そう、私はアリーチェお嬢様・・・アルマ!なんでそんなタイミングで入ってくるの!」

 

アリーチェと呼ばれた少女は、くるっと振り返ると、その呼んだ本人をにらみつけた。

 

「あなたはいつもそう!大事な時にタイミング悪く話に入って来る!いったいどういうおつもり?」

 

アルマと呼ばれたその女性は、申し訳なさそうにゆっくりと頭を下げた。

 

「お嬢様?お怒りになられるのは、ごもっともではございますが、そろそろお時間が迫って来るかと」

 

アリーチェはその言葉を聞いて、アルマが差し出した懐中時計に目を向けた。

 

「アルマ?なぜもっとそれを早く言わないの?」

「お屋敷を出る前に、お嬢様が熊のぽーちゃんのぬいぐるみを、お持ちになるかどうかを1時間悩まれたことが主な原因でございます」

「なんでそれをここで言うの!」

 

近くのソファーに座っていた男性が、手に持っていた雑誌で顔を隠しながら、思わず吹き出していた。

 

「ちょっとあなた!」

「はいー!」

「時間が迫ってるから手短に申し上げるわ!いいわね?」

「はい。ですが、何かお急ぎなんですか?」

 

「もう間もなく、お嬢様のおねむの時間でございます」

「オネム?」

 

「アルマ!余計なこと、言わなくていいの!」

 

そう怒鳴りながら、後ろからアルマが再び差し出した懐中時計に目を向けた。

 

「ゴ、ゴホン!じゃあお望みの用件を言うから」

 

アリーチェは、灯里を見上げるようにして顔を向けた。

 

「このホテルの最高級ルームを用意してちょうだい。今すぐ」

「最高級ですか・・・」

「そうよ」

 

灯里はどう返事していいか迷っていた。

 

アデリーナからネオ・ヴェネツィアーティーの保有している部屋の構成は、一応は耳にしていた。

だが、観光シーズン真っ只中の繁忙期となると、アクア全土だけでなく、マンホームからの観光客も激増している。

そうなると、最高級スイートなどは、確保するのがむずかしくなってくる。

 

しかも最後の砦だった最高級エグゼクティブ・スイートは、アデリーナが先日の、傲慢な客をなだめるための方法として使ってしまっていた。

 

「お嬢様?そろそろおねむのお時間です」

「だからアルマ!言い方!」

 

灯里は、二人の間で額から汗を流しながら、あたふたしていた。

 

「もうその辺でよろしいんじゃなくて?」

 

紫色のワンピースに身を包んだ女性が、ロビーの空気を一変させるほどのオーラを放って、目の前に立っていた。

 

「ちょっと、あなた、なんなの?」

 

アリーチェは、自分を見下ろすように悠然と立つその姿に、明らかに苛立ったいた。

 

「お嬢様?アレッサンドラ・テスタロッサです」

「わかってるわよ!それくらい!」

 

顔の全てを隠さんばかりの大きなサングラスを、アレッサンドラはゆっくりと外した。

その大きく、そして輝きを放つ威圧的な目が、アリーチェを視界に捉えていた。

 

「お部屋なら、私が譲って差し上げてもよろしいですわ」

「なんですの、その言い方は!」

「お部屋が無くて、お困りなんでしょ?」

「別に困ってるわけじゃありません!」

「そうだったわね。困ってるのではなく、困らせている方だったわね」

「なんなんですの、このひと!」

 

アレッサンドラは、両手を腰に当てて、余裕のポーズを決めていた。

 

アリーチェは、大声を出しながらも、そのアレッサンドラに押されるように、少し後退りしていた。

 

「アレッサンドラさん!いくら名家の出身だからって、いい気になってるんじゃ」

「お嬢様?タイムアップです」

「なくて・・・」

 

アリーチェは、目をパチクリとしばたかせ始めた。

 

「お、お客様!大丈夫ですか?」

 

「お気になさらず。いつものことです」

「いつもの、なんですか?」

 

そうしているうちに、アリーチェは足下からガクッと崩れ落ちた。

 

「はひっ!」

 

だが、その小さな身体をアルマはスッと抱き上げた。

 

「タイムアップって、本当だったんですね」

 

アルマは冷静な眼差しで灯里の前に一歩歩み出た。

 

「フロントクラークの方?どこでも構いません。お部屋をご用意していただけますか?」

 

「それなら、私の部屋を使ってください」

 

アレッサンドラはサングラスをかけながら、さりげなくそう言った。

 

「今からお部屋を用意するの、面倒でしょ?」

「でもお客様が」

「私のことは気にしなくていいの。別になんとでもなるから」

 

アレッサンドラは、そう言ってホテルの外へ向かって歩きだした。

 

「灯里さん?今度、時間を作っていただけませんか?」

 

灯里のそばを通るとき、灯里の耳元にそっと呟いていった。

 

「アレッサンドラさん・・・」

 

灯里は茫然とその美しすぎる後ろ姿に見とれていた。

 

「ああ、いい匂いですぅ~~」



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第十五話 冷やかしの傍観者

アロンソは、ロビーで一緒になった中年の男とホテルのバックヤードにいた。

 

アロンソより少し背丈が低く、その背中越しに、とても親しげに話しかけていた。

 

「あんた、よく我慢してんな?以前のあんたからすると信じられないよ」

 

「アールド、あんまり大きな声を出すな」

 

アロンソは、そのアールドと呼んだ男に、邪魔者でも見るかのような視線を向けた。

 

「なんだ、久しぶりなのに冷たいなぁ」

「用件は?」

「そんな急がなくてもいいじゃないか?」

「わかってるんだろ?ここで何が行われているのか」

「だから顔を拝みに来たんだよ」

「相変わらず悪趣味だな。あんたって人は」

「まあ、そんなカリカリしなさんなって」

 

アールドはアロンソの肩を軽く叩いて、辺りに視線を巡らした。

 

「もう現れてるんじゃないの?」

「何が?」

「何がって、犯人に決まってるでしょ?」

「なんでそれを・・・」

「図星か」

「ちっ」

 

アロンソは横目でアールドを睨みながら舌打ちした。

 

「それで目星はついてんの?」

「なんであんたに言わなくちゃいけない」

 

アールドはニヤッと笑うと、怖い顔をしているアロンソの方に顔を向けた。

 

「最初は冷やかしだったんだけどね。あんたのその顔を見てると、なんかちょっと昔を思い出しちゃってね」

「昔?」

「あんたとバディ組んでた頃のこと」

「確かに昔のことだ」

「でもこの件は、ちょっと違うって顔してる」

「あんたに何がわかるっていうんだ?」

「わかるさぁ!いろいろ苦労させられたからね。でも、楽しませてもらったことも多かった」

「これ以上用がないなら戻るから」

 

アロンソはそう言ってその場から行こうとした。

 

「ちょっと待ちなって」

 

アールドはアロンソの肩を掴んで引き留めた。

 

「ウンディーネが目撃者なんだろ?しかも、ほぼ唯一の」

「あんた、いったいどこまで知ってるんだ?」

「まあ、そこは詳しくは話せないところだけどね」

「それで?」

「それでね、その目撃された翌朝、まだ暗いうちにゴンドラを見かけたっていう話があるらしいんだけど・・・」

「あのウンディーネが迎えにいくという約束でって」

「ウンディーネさんが働く時間じゃないんだよ、それって」

「じゃあなんなんだ?」

「それ以上はわからない」

「本当なんだろうな?」

 

アロンソは怖い表情でアールドに詰め寄った。

 

「どっちが?時間?それとも話そのもの?」

「どっちもだ!」

「おお、怖い怖い。ここまで来て、なんでウソなんかつく必要があるの?いい情報だと思ったんだけどなぁ」

 

アロンソはアールドから離れると、ふぅーっと息を吐いて通路の壁にもたれかかった。

 

「なんでそんな情報をこっちに流すんだ?」

「だから言ったろう?あんたの顔を見てたら、なんかおもしろくなってきたからだって」

 

アールドはそう言って背を向けると、手を振りながらその場を去っていった。

 

 

 

アデリーナは、老紳士アダルベルトの部屋の前でじっと待っていた。

 

アダルベルトとにこやかな表情でロビーからエレベーターに乗った彼女は、彼からの頼みを聞くため、部屋の前までやって来たわけだが、思ったよりも時間がかかっていることに、少しため息をついていた。

 

〈何かあったのかしら・・・〉

 

すると、その目の前のドアがおもむろに開けられた。

 

「すまないねぇ。時間がかかってしまって」

「いえ、お気遣いなさらずに」

 

そう言ったアデリーナは、手ぶらのアダルベルトの、その手元を不思議そうに見ていた。

 

「アデリーナさん、申し訳ない。予定が変わりそうなんだ」

「と申しますと?」

 

そもそもアデリーナがアダルベルトに呼ばれたのは、孫へのプレゼントを一緒に考えてもらえないかという相談のためだった。

以前からネオ・ヴェネツィアに行った際には、何か買ってきてほしいとせがまれていたという。

 

だが、部屋まで来てみると、仕事の連絡があるから少し待っていてほしいとアダルベルトがそう言ってきた。

そのため、アデリーナは部屋の前でまちぼうけを食らうはめになっていた。

 

「実は急用ができてしまってね」

「そうなんですか」

「だから時間が取れそうにないんだよ」

「それはご心配なく。お仕事のほうが大事です」

「こちらから頼んでおいて悪いねえ」

「またいつでもおっしゃって下さい」

「そうだね。そうさせてもらうよ」

「その時はまた、お孫さんの話を聞かせてください」

 

アデリーナは、アダルベルトのすまなさそうにしている表情に笑顔で応え、その場をあとにした。

 

 

 

灯里は、ロビーの真ん中で必死の表情で汗をかきまくっていた。

 

「あのートイレどこですか?」

「ああ、それはあちらの方へお進みください」

 

「お土産って、どこに売ってるんですか?」

「それは~、ええと~、お土産屋さんへ行ってください~」

 

「ここって、何がおいしいの?」

「それはもう・・・おいしいもの、いっぱいですよ~~」

 

「アレッサンドラがここに泊まってるってホント?」

「そ、それは、どうなんでしょうかぁ~~エヘヘヘ」

 

「ネオ・ヴェネツィアって、どこ?」

「ココですぅ~~!」

 

灯里は、立っている場所が災いしてか、とにかく質問攻めにあっていた。

 

「フロント係の方、ちょっといいかしら?」

「はい、どうぞ!」

「明日一日、観光を楽しみたいのだけど、あまりネオ・ヴェネツィアのこと、よくわからなくてね」

 

婦人会の旅行だという数名の女性たちの、その中のひとりが灯里の前にいた。

 

「是非、ゴンドラでの観光をオススメします」

「やはりそうなの?」

「はい!ゴンドラに揺られながら運河から眺める風景は、とても素敵なんですよ!」

「じゃあ、ゴンドラは絶対ね」

「はい!それはまるで、このネオ・ヴェネツィアがお客様のご旅行を祝福しているかのようなんです!」

「旅行を?」

 

そこには、まさにいつもの水無灯里がいた。

 

「どこかお目当ての場所などございますか?」

「そうねぇ。ため息がでるほど素晴らしい橋があるって聞いたのだけど、ほんと?」

「それはため息橋です」

「ほんとにあるの?」

「あるにはあるのですが、名前の由来は、実は他にあるのですが・・・」

「わかったわ。じゃあそれは、その時の楽しみに取っておきましょう」

「はい!」

「他にはおすすめはあるの?」

「あります。そのまま運河を進んで行くと、ネオ・アドリア海に出るんです。いきなり、パァーと視界が広がって、とても気持ちがいいんです。すると、目の前の海に教会が現れるんです!まるで、海の上に浮かんでるように見えるんですよ!」

 

灯里の、まるでその場にいるかのような、うっとりとした表情で話していた。

その様子に婦人は ニッコリとほほえんで聞いていた。

 

「そしたら是非その教会の鐘楼にのぼってください。対岸のネオ・ヴェネツィアの風景が一望できて、もうそれは感動的で・・・」

 

灯里はそこで我に返った。

ずっと一人でしゃべり続けていることに、やっと気がついた。

 

「す、すみません。私ばかりしゃべってしまって」

「いいえ、とてもよく伝わってくるお話だったわ」

「お褒めに預かりまして・・・はひぃ~」

 

灯里は、水先案内店やレストランの案内、予約の取り方を説明すると、そのままフロントまで行って、一通りの手続きを行った。

 

これで安心したといった婦人会の一団は、その足でホテルのレストランで食事をすると言って、賑やかにエレベーターホールへと向かった。

 

「さすがですね」

 

灯里のそばにはいつの間にか、フロントクラーク姿の女性が、その屈託のない笑顔で立っていた。

 

「確かあなたは」

「ちゃんと自己紹介、できてなかったわよね?」

「えっと、そうでしたですか・・・」

「はい!できてませんでしたっ!」

「はひっ」

「私、このホテルの期待を一身に引き受けています、フロントクラークのアガタです。よろしくね!」

「は、はい!」

 

アガタは自信満々の表情で、まるでアニメのセリフをそのまま口にしたかように、「エヘン!」と鼻の下をこすってみせた。



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第十六話 もうひとりのウンディーネ

「灯里さん?フロントクラークはね、まずは挨拶が基本となるのよ」

 

ロビーの中央付近で、アガタは灯里と並んで立ち、得意満面な顔でレクチャーを行っていた。

 

「いらっしゃいませ!はい!」

「いらっしゃいませ!」

「うん、いい線いってるわね。結構やるじゃない!」

「ありがとうございますぅ~」

「じゃあ、次ね。お辞儀はね、こうやって手を重ねて・・・」

 

「アガタ!」

 

聞きなれた声に、アガタは、お辞儀の姿勢のまま、前屈みになってクルッと顔を向けた。

 

「あっ、先輩!」

「ちょっと、なにやってんの?」

「お辞儀の練習ですけど」

「そんなことはいいの!」

「ええ~なんでですかぁ~?」

「灯里さんは、そんなこと必要ないの!」

「でもフロントクラークの基本じゃないですかぁー」

「あのね、灯里さんは長い間ウンディーネをやってるの。しかも今はプリマなのよ?そんな今さらお辞儀から教えるなんて、おかしいでしょ?」

 

「あ、いえ、いい勉強かと・・・」

 

「ほらぁ~灯里さんもそうおっしゃってるじゃないですか~?」

 

「謙遜なの!」

 

アデリーナは、灯里から少し離れたところへアガタの腕を引っ張っていった。

灯里の方にチラッと目を向けると、アガタを引き寄せて、小声で話始めた。

 

「はぁ~」

 

灯里は見て見ぬフリをして、気づかないようにとぼけていた。

 

「ちょっと、わかってるの?」

「わかってますよ。私は灯里さんのサポート役なんですよね?」

「そうよ」

「だから、フロントに復帰できたってことなんですよね?」

「そういうことね」

「それなら尚更のこと、先輩クラークとしてですね」

「だからそこは要らないの!」

「なんでなんですかぁ~?それじゃあ先輩の意味、なくないですかぁー?」

「先輩とか後輩とかないの!」

「ないんですかぁ~?」

 

アデリーナは先ほどよりももっとアガタを引き寄せ、声を落とした。

 

「灯里さんは、あくまでも犯人の目撃者としてここにいるの。それがまず第一の役割でしょ?だからホテルの従業員として見えていれば、とりあえずはそれでいいの!」

「はい、わかりましたです」

 

アガタは口をとんがらせて、仕方ないといった顔で答えた。

 

「それに」

「まだあるんですか?」

「私語は厳禁だからね」

「それくらいわかってます」

 

アデリーナは釘を刺すように、アガタの腕をグッと力を込めて引き寄せた。

 

「もう!それくらい私だってわかってますって!」

 

アデリーナが去っていく後ろ姿をアガタは睨み付けていた。

そして、アデリーナの後ろ姿を目で追いながら、灯里のそばに戻った。

 

「お待たせー」

「もうよろしいのですか?」

「大丈夫ですよ」

「そうですか」

「先輩って、ちょっと心配性なんですよね」

「はぁ」

「フロントクラークとしての心得くらい、わたしだってあるんですから」

 

アガタは、正面に向き直ると、ふぅーと息を吐いた。

 

「ところで灯里さん?」

「はい、なんでしょうか?」

「もう会ったんですって?」

「ああ、それは、わたしもどうなのかハッキリとはわからなかったんですけど・・・」

「そうなの?どうして?」

「なんとなくなんですが、違うような印象だったので、正直にお話させてもらったのですが」

「違う印象?うそでしょ?」

「申しわけありません」

「あんなひと、見間違うことあるんですか?」

「えっ?」

「あれだけ綺麗で、オーラ出まくりなのよ?」

「あ、あのー」

「アレッサンドラ・テスタロッサでしょ!」

「はひっ!」

 

アガタは驚いた顔で、まじまじと灯里を見つめた。

 

「アガタさん?ちょっと声が」

「うらやましいです。ここに来て、いきなりアレッサンドラ・テスタロッサって。私なんて犯人役専門の、あのおじさんの俳優さんしか見たことないですから」

「ア、アガタさん?」

 

アガタは胸の前で腕を組んで、目をとじ、ウンウンとひとり納得していた。

だが、そこでようやく異変に気づき、灯里とは逆の方にゆっくりと顔を向けた。

 

アガタの柔らかい左のほっぺに、人差し指がグッと差し込まれた。

 

アデリーナがアガタの肩に手を置いて、その人差し指をまっすぐ伸ばしていた。

 

「アガタ?」

「ふぁ、ふぁい!」

「ホテル、辞める?」

「よむぇもすぇん」

「えっ、何て言ったの?」

「しゅみむぁしぇ~~ん!」

「わかればよろしい!」

 

アガタは肩をすくめ、シュンと小さくなってしまった。

 

「お恥ずかしいとこをお見せしてしまいました。エヘヘヘ」

 

少し赤くなった左のほっぺをさすっていた。

 

 

 

いつもの殺風景な会議室で、アロンソはアルフ捜査官とふたりっきりで話し込んでいた。

 

「そんな話、どこから手に入れた?」

「それは言えません」

 

アルフは腕を組んで、鼻から息を吐き出した。

眉間のしわが、判断に迷いが生じていることを物語っていた。

 

「確かでない情報で、捜査班は動かせないぞ」

「そんなこと、わかってます。でもそれが本当だとしたら、手がかりになる可能性は大きい」

「うーん」

「捜査官!」

「ちょっと待て。確かにお前の言う通りだとすると、犯人もある程度だが、絞れてくる可能性もある。だが、今回の事件、まだ登場人物がハッキリとしている訳ではない」

「登場人物?」

「誰がこの事件の関係者となるのか。誰が関わっていて、誰がそうでないのか」

「黒すくめの男じゃないですか?」

「お前、本気でそう思ってるのか?そんな単純な事件じゃないことくらい、お前も感ずいているはずだ」

 

アルフからそう言われたアロンソは、何か言おうとしたが、その言葉を飲み見込んだ。

 

「犯人はなぜこのホテルをターゲットにしたかは、まだわかっていない。ホテルの主要な人物の背後関係を、専従捜査班にあたらせている。これに関しては、アデルモ総支配人にも知らせていない。総支配人もそのひとりだからだ。だが、犯人がこのホテルをうまく利用しているのは確かだ」

「利用している?」

「日々多くの人間が利用するホテルは、格好の隠れ蓑にすることもできるということだ。カモフラージュといってもいいだろう」

 

アロンソは苛立ちのあまり、アルフの前にあるテーブルをバン!と大きく叩いた。

 

「じゃあ、何も動かないということですか?」

「そんなことは言っていない」

 

その時、アルフの携帯が鳴った。

 

アルフは上着の内ポケットからそのスマートフォンを取り出した。

 

「うん、そうか。わかった。引き続き捜査を続けてくれ」

 

「何かあったんですか?」

 

アロンソは、スマートフォンに指先をチョンと当て電話を切ったアルフの顔を覗き込んだ。

 

「アロンソ、お前のさっきの情報だがな」

「夜明け前に目撃されたゴンドラの件ですよね?」

「かなり有力な情報になるかもしれん」

「それはどういうことですか?」

 

アルフは少し考えこんだかと思うと、パイプ椅子から立ち上がり、ホワイトボートにマーカーを走らせた。

 

「A ・・・R ・・・I・・・」

 

アロンソはその文字を言葉にして読んだ。

だが、アルフがその文字を書き終えた瞬間、口を固く結んでその文字を睨み付けた

 

「どういうことですか?」

 

アルフはその文字をマーカーで丸く囲むと、そのマーカーの蓋を閉じた。

 

「灯里くんは?」

「ロビーにいるはずです」

「そうか。じゃあこれは一体どういうことなんだろう」

「捜査官!」

 

アルフは、隣の部屋のモニタールームに移動した。

アロンソもそれに続いた。

 

「すまんが、ロビーの画面を拡大してくれ」

 

担当者がそれに返事をすると、大きなモニターにロビーの中央付近を拡大した映像が写し出された。

 

そこには、にこやかに立っているアガタの横で、少し苦笑しながらアガタの話を聞いている灯里の姿があった。

 

「捜査官?まさか、彼女が・・・」

 

アルフは両手を腰にあて、鼻から大きく息を吐き出した。

 

「専従捜査班からの報告で、さきほどARIAカンパニーのゴンドラが確認された」

「確認されたって、それって、どこで・・・」

「つい今しがただ。リアルト橋の下でな」

「リアルト橋の下?それって、観光案内してるってことですか?」

「そういうことだ」

「ARIAカンパニーって、彼女ひとりなんですよね?」

 

モニターをじっと睨み付けているアルフの横で、アロンソは顔をこわばらせて、同じ画面を見つめていた。



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第十七話 水先案内店の謎

「水無灯里はマンホーム出身で、ARIAカンパニーに就職するためにアクアにやって来たようです」

 

捜査員のひとりが、会議室に集まった専従捜査班チームの中で立ち上がって報告した。

 

「つまり、ウンディーネになるために、わざわざマンホームからアクアにやって来たと?」

 

アルフは怪訝な表情でそう反応した。

 

「そんなウンディーネって、どれくらいいるもんなんだ?」

 

「そこは現時点では、わかっていません。ただ・・・」

「ただ、なんだ?」

「水無灯里は、すこぶる評判がいいようです」

「それはウンディーネとしてだな?」

「というか、何と言うか」

「なんだ?」

「時に家族のような、そうかと思うと親戚の姪っこのようなと。別の人物からは、なんでも気軽に話せる近所の看板娘だとも」

「つまり、どういうことなんだ?」

「ええと、つまり、みんなから慕われているということになります」

「ふーん」

 

アルフは思わずため息をついた。

 

「それでは、そのままの印象じゃないか?」

「しかし、それ以外は、特に変わった情報はありませんでした」

「ないのか・・・」

 

「あっ、しかし」

 

別の捜査員が声を上げた。

 

「おお、なんだ?他に何かあるのか?」

 

「実は、これはウンディーネ仲間からの情報なんですが」

「なんだ?」

「水無灯里は、叱られた経験がないということです」

「それは一体、何の情報なんだ?」

 

アルフは一気に力が抜けたように、パイプ椅子に座ってしまった。

 

「ARIAカンパニーの前の経営者、アリシア・フローレンスは、ミス・パーフェクトと世間から呼ばれるほどの逸材だったようです。そのアリシア・フローレンスが現役時代、後輩だった水無灯里は、なぜか彼女から叱られた経験が一度もなかったと、ウンディーネ仲間に自慢していたそうです」

「なぜかって、どういうことだ?そのアリシア・フローレンスから全幅の信頼を受けているという話だったぞ?」

「水無灯里がまだシングルの時代、実は水無灯里は、結構間の抜けたウンディーネだったと、他のウンディーネからは、そう評価を受けていたそうなんです」

「ちょっと待て。私はそうは聞いてないぞ。どういうことだ?」

 

アルフは腕を組むと、眉間にシワを寄せた。

 

「それはつまり、嘘をついているということなのか?」

「そこまではわかりません。ですので、ARIAカンパニーには少し探りを入れる必要があるのかもしれません」

「探りといってもなぁ・・・」

 

その時、アルフの携帯が鳴った。

 

電話に出たアルフの顔が、たちまち怪訝な表情へと変わった。

 

「わかった。そのまま監視を続けてくれ」

 

電話を切ったアルフは、パイプ椅子を立ち上がって、捜査員たちを見渡した。

 

「ARIAカンパニーに人の出入りがあることが確認された。実は先日、夜間に灯りが点っていたという通行人からの証言も得ている。もちろん、灯里くんがホテルにいる時間の間の話だ」

 

すると、アルフはズボンの両ポケットに手を突っ込むと、緊張した面持ちで言い放った。

 

「今晩、踏み込む」

 

 

 

 

「晃ちゃん、ごめんね」

 

すっかり暗くなったネオ・アドリア海を背景にして、その海にたたずむARIAカンパニーのそばに、姫屋のチーフ・ウンディーネである晃・E・フェラーリと、その背中にくっつくようにしているゴンドラ協会の名誉理事をつとめるアリシア・フローレンスのふたりが立っていた。

 

「あのなぁ、アリシア?私も忙しいんだぞ?わかってるんだろうな?」

「私だって忙しいわよ」

「じゃあなんでなんだ?」

「だって、ほらぁ・・・」

 

二人の姿は、このウンディーネの世界を牽引してきた人たちには、到底見えるものではなかった。

知らない人が見たら、二人の姿は立派な不審者に見えていたに違いない。

 

「おかしいでしょ、あれ?」

 

アリシアが晃の背中越しに指差した先には、誰もいないはずのARIAカンパニーの二階の窓に、ぼんやりと灯りが灯っていた。

 

「確かに」

「ねぇ?」

「そうだな」

「でしょ?」

「わかった」

「えぇ?」

「帰る」

「何言ってるの、晃ちゃん?」

「だから、お前のいう通り、灯りが点いてることを確かに確認した」

「そうじゃないでしょ?」

「だって一緒に見に来て欲しいっていうから」

「見ただけでどうするの?おかしいわよ、晃ちゃん!」

「いや、おかしいのはお前の方だろ?」

「なんで?」

「だって、いい歳して人の背中にそんなに隠れるもんか?」

「だって、晃ちゃん?あれを見てなんにも思わないの?」

「何がだ?」

「だって灯里ちゃんは、今、ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーにいるはずなのよ?」

「ああ、あの犯人逮捕に協力するっていう件だな?」

「そうよ」

「頑張ってるじゃないか?」

「そうじゃなくってっ!」

「おっ、何年振りだ?お前が怒ったのは?」

「もう、茶化さないで!」

「でもあれだろう?夜には灯里は帰ってくるんだろう?」

「だから心配なんじゃない!」

「でもお前は何してたんだ?こんなところで」

「昼間は誰もいないでしょ?だから一度見ておこうと思ったの」

「それで来てみたら、こうだったと」

「そういうこと」

 

ふたりは身を寄せ合いながら、恐る恐るARIAカンパニーへと近づいていった。

 

すると、二階の窓に何か影のようなものが動いたように見えた。

 

「な、なに?あれ?晃ちゃん!」

「これは確かになんかいるなぁ」

「なんかって何?」

「それを確かめるんだろ?」

「うん。じゃあ晃ちゃん、お願いね」

「おい!アリシア!何言ってんだ?」

「だって、怖いもん」

「お前が頼むから来たんだろ?頼んだ本人が行かなくてどうするんだ!」

「そんな大きな声出さないで!」

 

晃は正面の入り口のドアのところまでやって来ると、ドアノブに手をかけた。

 

鍵がかかっていた。

 

「アリシア、鍵」

「はい」

 

アリシアは晃の肩越しに鍵を差し出した。

 

「なんだ。用意はいいんだな」

「もう、いいから!」

 

晃はドアノブに鍵を差し込み、ゆっくりと回した。

 

カチャリとロックが外れる音がした。

 

「開いたわ」

「ああ、当たり前だ」

「えっ、どういうこと?」

「鍵を入れて回したから・・・」

「当たり前でしょ!」

「人に先に行かせといて、なんか偉そうなんだよな」

 

晃はそっとドアを開けた。

 

一階は真っ暗で、中はなんにも見えない状態だった。

 

「アリシア、ライトは?」

「はい」

「さすが」

 

その時だった。

 

二階でガタンと音がした。

 

「晃ちゃん!」

 

晃はアリシアから受け取ったライトをすぐさま点灯させた。

 

一階の店内の様子が照らし出される。

 

そこはいつものARIAカンパニーとは違う、不気味な雰囲気を醸し出していた。

 

ふたりはゆっくりと二階へ上がる階段の方へ進んだ。

 

「アリシア?行くぞ!」

「ちょ、ちょっと待って!晃ちゃん!」

 

晃はもう待てないといった感じで、階段を上がっていった。

 

「危ないわ、晃ちゃん!」

「正体を突き止めてやる!」

 

階段をあがり切った晃は、ライトの灯りを周辺に向けた。

 

一瞬、誰か人の姿が見えた。

 

「だ、誰だ!」

 

その灯りの中に映し出された姿を見て、晃は思わず絶句した。

 

晃の背中に身を隠していたアリシアは、恐る恐るその様子を覗いてみた。

 

「どうしてなの?」

 

アリシアに続いて、ようやく晃も声を発することができた。

 

「お前、いったい誰だ?」

 

ライトの灯りに照らされた人物は、白地に赤色の、いつも目にしているユニフォーム姿のウンディーネだった。

 

「あ、あのー、もしかして、晃さんすか?」

 

眩しさを避けようと手をかざし、目を細めていたのは、あゆみ・K・ジャスミンだった。

 

「あゆみ?お前、そこで何やってんだ?」

「いやー、ちょっとした頼まれごとでして」

 

そう言って後頭部を気まずそうにかいたあゆみを見て、晃は大きなため息をついた。

 

「アリシア、先に謝っとく。スマン」

「どういうこと?」

 

アリシアはそう言うと、部屋の灯りをつけた。

 

「おい!あいつはどこにいるんだ!」

 

壁際には、ばつが悪そうに苦笑しているあゆみが座り込んでいた。

 

「やっぱり、そうなるっすよね?」



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第十八話 ウンディーネの誇り

藍華は、姫屋カンナレージョ支店のホールにひとり立って、辺りを見回していた。

 

「ふぅ~。今日もこれで終了ってとこかしら」

 

掃除道具を片付けていた従業員に、もうあがるように声をかけた藍華は、パンパンと手を打ち払った。

 

「さぁ、いっちょ上がりっ!」

 

そこへうつむき加減のあゆみが現れた。

 

「お嬢~」

「わぁ!ビックリしたぁー!」

「お疲れ様っすぅ~」

「う、うん、お疲れ様・・・って、あんた、なんでここにいるの?今晩は当番のはずでしょ?」

「その当番なんすけどね」

「何?お腹でも痛いの?」

「そんなお使いに行くのを嫌がっている子供と一緒にしないで下さいよ~」

「じゃあなんなの?」

「お嬢?至急ARIAカンパニーに来るようにって」

「来るようにって、一体誰がそんなこと言ってるの?」

「晃さんす」

「あ、晃さんが?なんで?」

「もう、察しがついてもよさそうなもんですけど・・・」

「察しがって言っても・・・えっ、ちょっと待って?もしかして・・・」

「そのもしかしてなんすよ!」

「な、なんで?ちゃんと計画を練って、準備も怠らずにしたのよ?なんでぇ~~」

「アリシアさんも一緒っす」

「アリシアさんも!」

「もう終わりなんです!」

 

藍華は顔面蒼白で、頭を抱え、思わず天井を見上げた。

 

「オーマイガァー!」

 

「誰なんすか、いったい・・・」

 

 

 

 

ARIAカンパニーの一階には、晃とアリシアが、テーブルを挟んで、捜査員たちと向かい合ってすわっていた。

 

晃は目を閉じ、眉間にシワを寄せていた。

足を組み、腕を組んで、身動きひとつせず座っていたが、内心冷静さを保つのに必死だった。

声を掛けようもんなら、溜まっていたものが一気に爆発しそうだった。

 

アリシアはその横で、とてもばつが悪そうに恐縮しきりだった。

うつむいたままで、時折正面に座っている捜査員たちの顔色をうかがっていた。

 

その捜査員たちは、明らかに怒っていた。

怖い表情で二人を凝視している。

 

「まだですか?」

「晃ちゃん?」

「もう少し時間を下さい。間もなく来ますので」

 

晃は全く動じることのない素振りだったが、かえってそれが、このあと起こるであろう場面の怖さを想像させた。

 

「晃ちゃん?冷静にね?あくまでも冷静によ?」

「わかってる」

「何か理由があったのよ。きっと」

「それは話を聞いてからだ」

「晃ちゃん、それはそうなんだけど」

 

その時、正面のドアをノックする音がした。

 

「失礼します」

 

藍華は、気まずそうに中の様子を伺いながら入ってきた。

 

「なんか、怪しい雰囲気の男の人たちが外にいますけども」

「怪しいのはお前の方だ!」

 

藍華の言葉に、間髪入れず、晃がいい言い放った。

 

「晃さん、すみません。実はこれには理由がありまして」

「まあ、座れ」

「は、はい!」

 

晃は藍華が店内に入ってきてから、ずっと目をとじたまま、藍華の方を見ることをしなかった。

 

「それでは、失礼して」

「いや、立ってろ」

「は、はい。それじゃあ」

「いや、やっぱり座れ」

「晃さん・・・」

 

「晃ちゃん?そこまでしなくてもいいんじゃないかしら?」

 

アリシアが思わず口を挟んだ。

 

「アリシア、お前は黙ってろ!」

「それはできないわ。これはARIAカンパニーのことだし、灯里ちゃんにも関わってくることよ」

 

晃は返事しょうとはしなかった。

 

「藍華ちゃん?とにかく座って?」

 

藍華はすっかり表情を失ってしまっていた。

アリシアに促されるまま、アリシアのそばの椅子に座った。

 

「ネオ・ヴェネト州警察です。いろいろとあなたには聞くことがあります。いいですね?」

 

「お前は二、三日帰って来なくていい」

 

捜査員の問いかけに藍華が返事をする前に、晃が口を開いた。

 

「刑事さん、こいつをしばらく牢屋にぶち込んでください!」

「晃さん、そんなぁ・・・」

 

藍華はすっかりうなだれて、情けない顔になっていた。

 

「まだ何も聞いておりませんので、どうするかはこれからです」

 

「晃ちゃん?藍華ちゃんからまだ何も聞いてないわ」

「だいたいのことは、あゆみから聞いて把握できている。だから、言ってるんだ。プリマにまでなって、お前は何をやってるんだ!」

 

晃は我慢していた感情が、ついに爆発してしまった。

 

「晃ちゃん、冷静に話す約束でしょ?」

「私は、やったことをどうこう言ってるんじゃない!コイツが、自分の立場をわかっていないことに腹が立ってるんだ!」

 

晃は藍華に向かって怒鳴り付けた。

 

「あの、姫屋の方?今は、このウンディーネさんがどう関わっていたかが重要なんです」

 

捜査員が思わず割って入った。

 

「刑事さん!コイツはですね、伝統ある姫屋の支店を任されるまでになっておきながら、こんなことにうつつを抜かしやがってですね」

「うつつ?」

「事件のことを何も知りもしないのに、バカをやってるヤツなんですよ!」

「しかし、ARIAカンパニーの水無灯里さんとは以前からかなり親しい仲だと聞いてますが?」

「親しいのは確かに親しいです。ですが、お互いウンディーネとして親しいだけなんです。コイツらは、それ以外のことになんの興味もないんです!」

 

「晃さん、それじゃあ私と灯里はバカみたいじゃないですかぁ?」

「お前は黙ってろ!」

 

晃は藍華の言葉をすぐさま遮るように言葉を放った。

 

「お前は、一週間の謹慎、給料は半分に減給。いや、それじゃあ足りん!無給だ!ボランティアだ!ネオ・ヴェネツィアの街中のゴミを拾え!」

 

「晃ちゃん、そこまで言わなくても」

 

アリシアが思わず言葉を挟んだ。

 

「コイツはそれくらいやらせておけばいいんだ!」

「晃さん、そんなぁ・・・」

 

晃はガタンと音をさせて立ち上がった。

 

「刑事さん?私はこれで帰ります。いつでも結構です。連絡してください。逃げも隠れもしません。ただ、私は姫屋のチーフ・ウンディーネとして責任があります。姫屋に所属しているウンディーネに関することは、必ず私を通して下さい」

 

晃は捜査員たちに一礼すると、そのまま出ていった。

 

藍華は、身動きひとつ出来ず、その場にじっとしていた。

 

「ちゃんと話してくれるわね?」

 

アリシアが目に涙を浮かべている藍華に優しく話しかけた。

 

 

 

 

「どっちがお好みなんですか?」

 

アデリーナは、アロンソに気づかれないよう、そっと近づいて驚かそうとしていた。

 

だが、アロンソの反応は期待したものではなかった。

 

「なんですか?」

「さっきから、あの二人を気にしているように見えるんですけど」

「気のせいです」

「そうなんですか」

 

そこでアデリーナは何か別のことに気がついたような顔になった。

 

「もしかして、何かあったんですか?」

 

アロンソは周辺に視線を向け、反応しなかった。

 

「ふーん。あったんですね?」

「何も言ってない」

「あったんだ」

「かまをかけたつもりか?」

「別に」

 

アデリーナは、アロンソの背中から覗くようにして、ロビーにいる灯里とアガタの方を見た。

 

「どっち?」

「どっちでもない」

「どっちかなんだ」

「好きにしろ」

「じゃあ、アガタ」

 

アロンソは何も反応しない。

 

「灯里さんなの?」

 

アロンソはくるっと振り返った。

 

「あんたは探偵にでもなったつもりか?」

「灯里さんなんだ」

 

アロンソはまたロビーに視線を移した。

 

「結構重要なこと、なんですね?」

 

アロンソは全く反応しなくなった。

 

「ふーん」

「彼女には、ここを外れてもらうかも知れない」

「えっ、また何かやらかしたの?あの子!」

「だから」

「あっ、そういうことね・・・灯里さんなの?」

 

アデリーナの驚いた様子に気がついたのか、アガタが振り返った。そして、アデリーナに批判的な目を向けてきた。

 

「なんであの子に睨まれなきゃいけないの?」

 

「こっちはこっちで、口を閉じてるところを見たことないな」

 

アデリーナは大きなため息をついた。

 

「私からまた言っておくわ。それより、灯里さんがなぜここを外れるの?」

「おそらくこの時間、ARIAカンパニーには捜査班がいるだろう」

「どうして?」

「疑われている」

「ARIAカンパニーが?」

「おそらくそこが問題になってくる」

「どういうこと?灯里さんはここにいるじゃない?なのになぜARIAカンパニーなの?」

 

アロンソは急に黙りこんだ。

 

「肝心なことは言わないつもりね」

「当たり前だ」

「灯里さんがここにいるのに、ARIAカンパニーには捜査班が向かっている。つまり・・・」

 

アデリーナは、ちらっとアロンソの顔色を伺うように見た。

 

「何?」

「わかったんじゃないのか?」

「そんな都合よくわかるわけないじゃない。他に何か当てがあるなら別だけど・・・」

 

アロンソがまただんまりになった。

 

「あなた、犯人ならすぐ捕まるかもね」

「なんだと?」

「意外と分かりやすい」

「うるさい!」

 

その時、他のフロントクラークがアデリーナに近づいて、耳打ちしてきた。

 

「わかった。わたしから話してみる。ありがとう」

 

アデリーナはそのフロントクラークを見送って、その場を離れようとした。

 

「何かあったのか?」

「あなたが教えてくれないことが、今わかった」

 

そう言って、アデリーナはロビーでにこやかに話している灯里とアガタのところに向かった。

 

アデリーナに気づいたアガタが、わざとらしく何事もなかったように、すまし顔で前を向いた。

 

「アガタ?」

「はい」

「ちょっとあっち行ってて」

「あっちって、どういうことですか?」

「灯里さんに大事な用があるから」

「大事な用なら、なおさら」

「アガタ!」

「は、はい!・・・わかりました。あっちですね」

 

そう言ってアガタはその場から、トボトボ歩き始めた。

 

「あっちって場所が、このホテルにあるんですか?」

 

アロンソの前にさしかかった時、チラッときびしい一瞥を向けて通り過ぎていった。

 

 

「灯里さん、少し落ち着いて聞いてほしいの」

「はい、なんでしょうか?」

「あなたは確か、姫屋の、あのオーナーの娘さんの藍華さんをご存知よね?」

「はい、知ってます。友達です」

「そうなのね」

「あの、藍華ちゃんに何かあったんですか?」

「その藍華さんなんだけど」

 

灯里は、一変に緊張が全身を走った。

 

「今、ARIAカンパニーで警察に逮捕されたって知らせがあったの」

「えっ、すみません。なんて言ったんですか?逮捕って聞こえたような・・・」

 

灯里の顔から、一瞬にして血の気が引いていった。

 

 

 

 

「わたし、灯里を説得するつもりでここに来たんです」

 

藍華は、さっきまで晃が座っていた椅子に腰かけていた。

 

アリシアは、隣で藍華の背中をさすって気持ちを落ち着かせようとしていた。

 

すみません、と小声で言った藍華は、ようやく話始めた。

 

「なんで灯里が犯人逮捕だなんて、そんな危険なことに協力しなきゃいけないのって」

 

アリシアは黙って頷いていた。

 

「アリシアさんもアリシアさんだって」

「わ、わたし?」

「はい」

「えっと、そんな話だったかしら・・・」

「でもアリシアさんは、実は断ったって言ってました」

「そうよね。確かそうだったわ」

 

アリシアは、ふぅーと息を吐いた。

 

「大事なウンディーネにそんな危険なこと、させられないって」

「そうね」

「そしたら、灯里が自分から協力するって言ったって」

「うん。確かにそうだった」

「なんでそんなことを自分から言うの?いまから断ったらっていったら、灯里、真剣な顔で言ったんです」

 

藍華はテーブルから顔を上げて、アリシアの方を向いた。

 

「ネオ・ヴェネツィアは、いつからそんな不安なところになったのかって。いつでも誰でも楽しんで来ることができる場所だったはずだって」

「灯里ちゃんがそんなことを」

 

藍華は、訴えかけるような真剣な顔になっていた。

 

「そのためだったら、自分が協力できることがあるのだったら、協力するんだって」

「そういうことだったのね。なぜそこまで協力する気になったのか、少し疑問だったの」

「灯里のいうことは、その通りだと思った。だから、反対するんじゃなくて、応援しよう、いや、するべきだと思ったんです」

「うんうん。そうだったのね。それでカモフラージュ、なのね?」

「はい。しはらく、このARIAカンパニーは休まなくてはいけないっていうから。でもそんなことしたら、無用心だし、第一、せっかくARIAカンパニーといえば灯里のことだと知ってもらえるようになってきたのに」

「藍華ちゃん、そんなふうに思っていてくれたのね」

「ええ、まぁ」

「でも灯里ちゃんは、このことは?」

「知りません。完全にわたしのお節介なんです。灯里はこの事に関しては、誓って何の関係もありません!」

「ということなんですけど」

 

捜査員二人は、二人の会話を黙って聞いていた。

そしておもむろに軽く咳払いをした。

 

「あの、アリシア理事?」

「なんでしょうか?」

「お話はわかりました。でも困ります」

「どういうことで・・・」

「そういった話は、我々が聞くのが仕事なんです。全部理事に聞かれてしまっては、やることがありません」

「あらあら。それは失礼いたしました♡」

 

アリシアのうっとりするような微笑みが、部屋中にいっぱいの幸福感をもたらしていた。

 

「理事?ただ、これだけで終わることは出来そうにないんです」

「まだ何かあるのでしょうか?」

「こちらの藍華さんが、犯人と通じていないと、完全に証明されたわけではありません」

「それなら大丈夫です」

「どうしてそう言いきれるのですか?」

「僭越ながら、ゴンドラ協会の理事として、また水先案内業界を代表して、そしてプリマ・ウンディーネとしてこのネオ・ヴェネツィアにすべてを捧げると誓った者として、私、アリシア・フローレンスは、ここにいる藍華・S・グランチェスタが嘘偽りのないことをお約束いたします」

 

アリシアは、捜査員を前にきっぱりと言い放った。

 

「アリシアさん・・・」

 

藍華は、もうウルウルが止まらなくて、どうしようもなかった。

 

「それでもダメですか?」

 

「もし何かあったら?」

「私がすべての責任を取ります」

 

捜査員たちは、難しい顔をしていたが、それ以上は何も言えなかった。

 

 

 

 

アルフ捜査官は、電話を耳に当てながら、少し苦笑していた。

 

「そうか。そこまでおっしゃったのか。仕方ないなぁ」

 

アルフは電話の相手にねぎらいの言葉をかけ、一旦引き上げるよう指示を出した。

 

そこに丁度、灯里が姿を表した。

 

「アルフさん?どういうことなんでしょうか?藍華ちゃんが逮捕って」

 

灯里は顔面蒼白で立っていた。

不安で仕方ないと、そんな気持ちが顔から滲み出ていた。

 

「逮捕?なんだそれ?」

「だって、捕まったって聞きました」

「灯里くん?幸いにといったらいいのか、それとも残念ながらといったらいいのか。この事件に関しての逮捕者は、まだ誰一人も出ておらんよ」

「そうなんですか?」

「安心したまえ。君の周りには、疑うような人はいないということだ。ただ・・・」

「ただ、なんでしょうか?」

「相当なお節介焼きがいるということだ!」

「はぁ」

 

アルフはグゥーっと背中を伸ばすと、大きく息を吐き出した。

 

「これでまた、振り出しかぁ」

 

会議室のドアのところに立っていたはずの灯里の姿が、いつのまにか消えていた。



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第十九話 夜のバックヤード

灯里は、ARIAカンパニーの外で、捜査員たちとすれ違うようにして店内に入っていった。

 

息を切らせて入ってきた灯里は、アリシアの横で座っている藍華と目が合った。

 

藍華は、少し落ち込んだ表情と、驚いた感情が入り交じった複雑な顔になっていた。

 

その横ではアリシアが、やさしくほほえんで灯里を迎えていた。

 

「藍華ちゃん、大丈夫?」

「灯里ぃ~~、ごめ~~ん!」

「捕まったって聞いたんだけど」

「ええーー!」

 

「あらあら♡そんな話になってるの?」

 

アリシアが驚いた表情で灯里に話しかけた。

 

「アリシアさん!私、捕まるんですか?」

「ううん、そんなことないと思うわ。さっきの警察の方たちの話の感じだと、そこまでのことにはならないと思うけど」

「本当ですか?」

 

「ホテルにいるアルフ捜査官さんも、今のところ、この事件に関しては逮捕者は出てないって言ってた」

 

「そうなのね」

 

「もう!灯里ぃ~!脅かさないでよ~~!」

「ごめんごめん、藍華ちゃん」

 

藍華は複雑な表情ではあったが、少し安堵の表情になっていた。

 

「でも、灯里?ほんとにごめんね。こんなことになるなんて、思ってもみなかったのよ」

「ごめん、藍華ちゃん。わたし、まだ事情がよくわかってないんだけど」

「そうだったの?」

「うん」

 

藍華はこれまでの経緯を一通り説明して聞かせた。

 

「私のいない間、私の代わりに、私がいつも通りお仕事しているよう、そう見えるようにしていてくれてたってこと?」

「そういうことだったんだけどね」

「それがどうしてこんなことになったんですか?」

 

灯里は疑問に対する答えを求めるように、アリシアに問いかけた。

 

「つまりね、灯里ちゃんがホテルにいるのに、ARIAカンパニーらしきゴンドラが街で目撃されたり、夜にはここに灯りが灯っていたりと、何か企んでいるんじゃないかって、警察は、そう考えたみたいなの。だから、灯里ちゃんが本当は何か関わってるんじゃないか、そして共犯者がいるんじゃないかって疑っていたってわけ」

 

「そういうことだったんですか。でも藍華ちゃんは、なんでそこまでしてくれたの?」

「だって灯里さぁ、ネオ・ヴェネツィアが不安に感じるところにしたくないって言ってたでしょ?だから、捜査に協力するんだって。私もそう思えたから、何か灯里に協力したいって思ったの」

「藍華ちゃん、そんなふうに思っててくれたんだ。ありがとうね」

「別にいいの。でも、私のしたことが、こんなことになるなんて、思いもしなかった」

 

藍華は苦笑いで頭をかいていた。

 

「でも、灯里?」

「なに?」

「一応確認しておきたいんだけどけど、本当のところ、どうなの?」

「えっ、何が?」

「なんか、関係してるとか・・・」

 

「そうなの?灯里ちゃん?」

 

「ちょっと!アリシアさんまで、どういうことなんですか?」

 

灯里はアリシアと藍華の顔を交互に見ながら困った顔になっていた。

 

「冗談よ、冗談」

「藍華ちゃ~~ん」

 

それはいつもの藍華と灯里だった。

 

「そんなの、冗談に決まってるでしょ?灯里ったら、真に受けるんだからぁ」

 

灯里は少し溢れてきた目尻の涙を脱ぐった。

 

「灯里?」

「灯里ちゃん、どうしたの?」

 

「よかった。藍華ちゃんがどうなるのか、心配だったから」

 

「灯里ぃ~~」

 

藍華は椅子から立ち上がると、灯里を抱き締めた。

 

「あんたって人は、もう~~」

 

 

 

「それで、とりあえずは疑いが晴れたってこと?」

 

アデリーナはアロンソの話に「ふーん」とうなずいていた。

 

「これでまた、灯里さんはここにやってくるってわけね?」

「そうなるだろう」

「なに?なんか納得してない感じだけど」

「ああ、そうだな」

「なんで?」

 

アロンソとアデリーナは、バックヤードの従業員通路で、ふたりコーヒーを飲みながら話していた。

少し灯りを減らした通路は、他の従業員の姿を見かけることもなく、閑散としていた。

 

「その原因はあんただ」

「わたし?どういうこと?」

「黒ずくめの男がホテルに現れたとき、あんた、あのウンディーネを信じるみたいなことを言って、待ってほしいって言ったろう?」

「ああ、あれね・・・」

 

アデリーナは気まずそうに、アロンソとは反対の方に顔を向けた。

 

「犯人からは何の音沙汰もなく、新しい動きもない。あるといえば、あの小さなおもちゃの宝石が入った箱ひとつ。そう考えると、あのとき黒ずくめの男がホテルに現れたのは、千載一遇のチャンスだったかもしれない」

「そうかもね・・・」

 

アデリーナは、もうほとんどコーヒーの残っていないカップの端っこを噛むようにしてくわえ、顎を動かしていた。

 

「一体あれはなんだったんだ?」

「そうね。強いて言うなら、違和感かな?」

「なんだ、違和感て」

「違和感は違和感よ」

「それじゃあ答えになってない」

「それはそうなんだけど、それ以上言いようがないのだから、仕方がないじゃない?」

 

アロンソはコーヒーを飲み干すと、カップをぎゅっと握りしめた。

 

「ちゃんと説明しろ」

「うん、わかったらそうするつもり」

「ちっ」

 

アロンソは思わず舌打ちをした。

 

「なんか嫌な感じぃ。そんなことより、あなたの方こそどうなってるの?」

「何が?」

「こないだ、ロビーで話してた男の人とここに来たでしょ?最初はお客様かなと思ったけど、あの雰囲気だと違うわよね?誰なの?」

 

アロンソは黙って別の方を向いた。

 

「誰?借金取り?」

「あんたには関係ない」

「人にはいろいろ聞いといて、自分は言わないつもりなのね。ふーん」

 

「まあどっちにしても、また明日からやり直しかしらね。灯里さんも戻ってくるし、そうなるとアガタのおしゃべりも、なんとかしないと・・・」

「いままで通りとは限らない」

 

アロンソはアデリーナの話を遮るぎるように言った。

 

「どういうこと?いままで通りじゃないって」

「本当に疑いが晴れたわけじゃない」

「それって、まだ灯里さんのってこと?あれは、姫屋の藍華さんのお節介の焼きすぎで、ああなったってことがわかったんでしょ?違うの?」

「すべての件がそれで解決できたわけじゃない」

「何よ、それ」

「早朝のゴンドラの一件が・・・」

 

アロンソはそこで話すのを止めた。

 

「えっ、何?まだ何かあったの?」

 

アロンソはそれには答えず、握りしめたカップをゴミ箱に投げ入れた。

 

だが、うまく入らず廊下に転がった。

 

それを拾おうともせずに、アロンソは行ってしまった。

 

「ちょっと!どういうつもり!ちゃんと拾って行きなさいよ!」

 

アデリーナは「ちっ」と舌打ちすると、その転がっているカップをおもいっきり蹴っ飛ばした。

 

弧を描いて飛んでいったひしゃげたカップは、見事ゴミ箱の中に入った。

 

「えっ?ウソ?入った!ナイスイン!」

 

そう言って今度は自分の飲み干したカップをゴミ箱目掛けて投げた。

 

だが、届かずに廊下を転がっていった。

 

「まあ、そんなもんよね。現実って」

 

 

 

「必ずこの先、計画を実行する際に、彼女は邪魔な存在になるだろう。どこかのタイミングで始末しなければならない」

 

耳に入れたイヤホンマイクに指を当て、小声でそういったその男は、廊下の隅に並べられた、荷物を積んだカーゴの影にいた。

 

目線の先には、廊下に転がったカップを取ろうとしゃがみこんだアデリーナの姿があった。

 

「彼女には悪いが、やはり消えてもらう運命だったんだろう」

 

そう言って話を終えると、その白いイヤホンを耳からはずし、黒いジャンパーの内ポケットにしまった。

そして、顎のところに下ろしていた黒いマスクを鼻の上まで戻した。

 

そこから動こうとしたその時、もう一度、アデリーナの方に目線を向けた。

 

「別にタイミングを図る必要もないだろう。今がその、いいタイミングかもしれない」

 

男はジャンパーの内側から、何かキラリと光るものを出し、そのカーゴの影から一歩踏み出した。

 

 

 

ロビーの中央付近では、つまらなさそうに、アガタがどこを見るともなく、ぼぉーっと中空に目を向けていた。

 

「あっち行けってゆうから、あっちに行ったのに、行ったら行ったでなんでいるのかって目で見られるし。こっち来たら来たで、みんなどこかへ行ってしまってるし。一体私はどこへ行けばいいの?」

 

はぁーと大きなため息を、ホテルの従業員とは思えない勢いで吐き出していた。

 

「今日は灯里さんは、いらっしゃらないの?」

 

そんな問いかけに、アデリーナはなんとなく返事しようと、振り返った。

 

「そうなんですよね。なんか私以外の皆さんは、とてもお忙しいようで。私なんてさっきから、あの天井のところにある同じ模様が何個あるか数えてる次第でして。えへへへ」

 

だがアガタは、自分に話しかけてきた人物とバッタリと目が合った瞬間、一瞬にして固まってしまった。

 

「どうかしました?」

「あ、あの~、その~、ええっと・・・ええー!本当ですかぁー!」

 

アレッサンドラ・テスタロッサは、その大きなサングラスをはずして、天井を見上げた。

 

「何が見えるんですって?」

「べ、べ、べ、べつに、見えるとかそんなんじゃあないんです!」

「そうなの」

 

その大きな瞳に見つめられたアガタは、どうすることも出来ずに立ち尽くしていた。

 

「ところで、灯里さんは・・・」

「ああー灯里さんですよねぇーえへへへ」

 

アガタはわけもなく笑っていた。

照れ隠しなのか、単にごまかしているのか。

 

「お休みかしら?」

「さあーどうなんでしょーかー?」

「わからないの?」

「はい、わかりませんですぅ~」

「あなた、大丈夫?」

「はい~~大丈夫じゃありませ~~ん」

 

すると、アレッサンドラはアガタの額に手を当てた。

 

「はっ!」

「熱はないようねぇ」

「どどどどどどど」

「ど?」

「どういうこと、なんでございまでしょうかぁ~~~!」

 

アガタは失神寸前だった。

 

その様子を見たアレッサンドラは、ふっと笑みを浮かべた。

 

「面白い人ね」

「おもももももも」

「じゃあね」

「しろろろろろい・・・って?」

 

アレッサンドラはサングラスを再びかけると、颯爽とカウンターの方に歩き出した。

 

ロビーは、一瞬にしてアレッサンドラの空気に一変してしまった。

 

だがそこで、アレッサンドラは立ち止まると、振り返り、アガタに声をかけた。

 

「そう言えば、いつもいる、もうひとりのフロントの方はどうなさったのかしら?」

 

その言葉に、アガタははっと我に返った。

 

「そう言えば、長いとこ、見てないかも」

 

アレッサンドラは、笑みをたたえて、また優雅に歩き出した。



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第二十話 動き出したネオ・ヴェネツィアーティー

アガタはロビーに戻ってきたアロンソにチラリと目を向けた。

 

浅黒い、仏頂面の顔がロビーを見渡している。

 

すると、フロントへ向かい、フロントクラークに扮した女性捜査員に話しかけ、そのまま従業員通用口に向かって歩き出した。

 

「あ、あのぉ~」

 

アガタはアロンソを追いかけて声をかけた。

 

その声に反応するようにアロンソは振り返った。

 

「なんですか?」

 

アガタはアロンソの顔を見ると、少し躊躇するような仕草を見せたが、声をかけた手前、後戻りできない状況にいた。

 

「なんか苦手なんですよねぇ・・・」

 

「なんですか?」

 

アガタは咄嗟に両手で口を押さえた。

 

「用がないなら」

 

アロンソはそう言ってその場から歩き出した。

 

「あ、あの!」

 

「なに?」

 

「もうお帰りですか?」

「そうですけど?」

「ちょっとお聞きしたいことがあって」

「なに?」

「別の方から聞いたんですけど、先輩と一緒にどこかへ行かれたと」

「だから?」

「だからですね」

「何?疑われてるの?」

「疑われてるって、一体何をしたんですか?」

「いや、あのさあ、何を言ってるわけ?」

「疑われるようなこと、したんですか?」

 

アロンソは思わず周りを見回した。

 

「先輩はどこなんですか?」

「バックヤードにいるんじゃないか?さっきまで、そこでコーヒーを飲んでたから」

「コーヒーだけですか?」

「あんた、何言ってるの?」

「だって、先輩なかなか戻ってこないですから」

 

アガタはちょこんと頭を下げると、アロンソの横を通りすぎ、従業員通用口に入って行った。

 

「子供じゃあるまいし」

 

アロンソもドアを押して中へ入っていった。

 

アガタとは違う方向に行こうとしたアロンソは、ふと立ち止まった。

 

振り返った先には、足早に遠ざかって行くアガタの靴音だけが響いていた。

 

 

 

アデリーナは、最初気づかなかった。

 

背中の辺りを誰かに撫でられたような感触がして、ふと振り返った。

 

目の前には、黒のジャンパーに黒のズボン姿の男が立っていた。

 

顔を大きくおおった黒いマスクから覗く目に、心底震えがくるような冷たさを感じた。

 

その瞬間、全身に悪寒が走った。

 

背中に生ぬるいものが流れるような感じがして、咄嗟に手を背中に当てた。

 

背中に痛みが走った。

 

戻した手は、真っ赤な色に染まっていた。

 

アデリーナは恐怖で顔から血の気がなくなっていった。

 

だが、目の前の黒ずくめの男が振りかざした手に、キラリと光るものが見えた瞬間、アデリーナは咄嗟に両手を思いっきり押し出していた。

 

目の前の男の胸元に両手がぶつかる感触があった。

だが、アデリーナは反動で床に崩れ落ちていた。

 

少し後ずさった男は、一歩前に出ると、もう一度手を振り上げた。

 

「先輩?どこですか?」

 

少し先の方からアガタの声が聞こえてきた。

 

黒ずくめの男は、後ろを振り返った。

 

「アガタ!逃げて!」

 

アデリーナは必死に声を振り絞った。

 

「先輩ですか?」

 

その瞬間、男は走りだした。

 

「アガタ!」

 

アデリーナは痛みに耐えかねたように、床に倒れこんだ。

 

だが、男はそのまま廊下を走り去っていった

 

すると、廊下の途中にある、丸い窓がついた両開きの扉が開いた。

 

「確かに先輩の呼ぶ声がしたんですけど」

 

「アガタ・・・」

 

「やっぱりいますか?」

 

アガタは声のする方へ進んでいった。

 

そして目の前の光景にはっとして、立ち止まった。

 

「先輩?どうしたんですか?」

 

走りよったアガタは、アデリーナが背中に手を当てて倒れているのを見て、背中の方を見た。

アデリーナのその手が赤く血に染まっていた。

 

「どうしてこんな・・・」

 

アガタはポケットからハンカチを取りだし、その背中のところに当てた。

 

「誰かぁー!誰かぁー!助けて下さーい!」

 

アガタは誰もいない廊下に向かって必死に叫んだ。

 

「アガタ、インカムは・・・」

 

「そ、そうでした」

 

アガタは震える手で、胸元につけているマイクのスイッチを探した。

顔を下に向け、そのスイッチをようやく掴んだ。

 

「大変です!先輩が、先輩が・・・先輩が死んじゃいますーー!」

 

「アガタ、あなたねぇ」

 

すると、廊下を近づいてくる足音が聞こえてきた。

 

「アガタ!逃げて!早く!」

「先輩、そんなことできないです」

 

アデリーナはアガタを自分から離そうとアガタの身体を必死に押していた。

 

「先輩、やめてください!怪我に触ります!」

「いいから・・・早く・・・」

 

「どうしたんだ!」

 

振り返ったふたりの前に、アロンソが立っていた。

 

「アロンソさん、先輩が・・・」

 

アガタはアデリーナを抱き抱えて、アロンソに必死に訴えかけた。

 

駆け寄ったアロンソに、アデリーナは歪んだ顔で言った。

 

「黒ずくめの男・・・だった」

「なんだと?」

「早く追いかけて。じゃないと、また逃げられてしまう」

 

アロンソはその言葉を無視するように、アデリーナの背中の具合を確かめた。

 

「傷はそんなに深くない。だから、動かずにじっとしてろ」

「そんなことより」

「もう遅い」

 

険しい表情でアロンソは呟いた

 

「遅いって、どういうこと?」

「俺は誰ともすれ違っていない」

「誰も?」

「ああ、そうだ。従業員通用口までは一本道だ。だが、誰も見なかった」

「なんで・・・」

 

通路の照明がすべて一気に点灯された。

 

薄暗かった廊下が明るくなったことで、アデリーナの周りに血が広がっているのが鮮烈に目に飛び込んできた。

 

遠くから足早にやってくる大勢の足音が聞こえてきた。

 

その時、アロンソが呟いた。

 

「いや、まだ終わってないかもしれない」

 

そう言って立ち上がると、すぐさま走り出した。

 

その様子を驚きと不安が入り交じった表情で、アガタは見送っていた。

 

アデリーナは、そのアガタの腕の中で、額から汗を流して顔を歪めていた。

 

 

 

ホテルから連絡を受けた捜査員たちは、厳戒体制に入っていた。

 

アルフ捜査官は久し振りの、自宅での夕食を切り上げ、急遽ホテルに駆けつけた。

 

捜査本部は一気に慌ただしくなり、本署から増員がかけられていた。

 

犯人の足取りを追っていた専従捜査班は、ホテル周辺の捜査に全力をあげていた。

 

本部で経過報告を聞いていたアルフは、アデリーナが大事に至らなかったことに安堵していた。

 

だが、次の瞬間、あることにようやく気づいた。

 

「おい!あいつはどうした!アロンソはどこ行った!誰か知らんのかぁー!」

 

急いで隣のモニタルームに移動したアルフは、力強くマイクを掴んだ。

 

「おい、アロンソ!聞こえていたら返事しろ!」

 

だが全く何の返事もない。

 

「誰かあいつをみかけなかったか?」

 

すると、フロント担当の捜査員から返事が帰ってきた。

 

「アロンソ刑事なら、引き継ぎして帰ったはずです。ですので、呼び掛けても応答はないかと」

 

「じゃあ、あいつはどこにいるんだ?」

 

そこへ別の捜査員から連絡が入った。

 

「アデリーナさんが襲われた現場に、もうひとりのフロントクラークが一緒にいたと言ってました」

 

「なんだと?アロンソが事件現場にいたって?」

 

アルフは目の前に並んだ沢山のモニターに次々と目を走らせた。

 

「あいつは一体、何をやってるんだ?」

 

 

 

アロンソは、バックヤードを片っ端から見て回っていた。

 

従業員通用口までの通路では誰ひとり出会わなかった。

もし通用口から出ていたら、その時間のカメラ映像をチェックすればすむはず。

しかし、犯人がそんな単純なことに引っ掛かるとは思えない。

 

何かに紛れて姿をくらましたとすると・・・

 

しかし、状況から考えて、そう時間はかけられない。

 

だがそれは犯人も同じはずだった。

 

アロンソは犯人が自分の姿をどうくらませようと考えたかを頭の中で巡らせながら、ヒントになるものがないかを探していった。

 

すると、深夜になったホテルの中で、まだ明るいままの部屋に出くわした。

 

「そうか。その手があったか」

 

アロンソは、どうしようか思案していたが、何かに気付いたような顔になったかと思うと、携帯電話を取りだした。

 

「頼みたいことがある。嫌なら別にいい」

 

一方的に吐き捨てるように言いはなった。

 

深夜の電話に最初は不機嫌な声だった相手も、仕方ないといった、いつもの軽い調子に戻っていた。

 

「見返りは何がいい?」

 

相手の話を了解したアロンソは、最後に念を押すように言った。

 

「必ずこれを言ってくれ。そうすれば、必ず通じる」

 

アロンソは、声をひそめて、ゆっくりと続けた。

 

「ホテルのあっちって、どっちだ?」



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第二十一話 クリーニングされないランドリー

 

深夜のホテルのロビーに現れたその男は、そこがやけに静か過ぎることが気になっていた。

 

よれよれのトレンチコートにビジネスバッグを肩からかけた姿は、終電にでも乗り遅れた、出張中のくたびれた中年サラリーマンにしか見えなかった。

 

だが、その男は、いつもと違うネオ・ヴェネツィアーティーの雰囲気を察知していた。

 

カウンターへ向かい、そこにいるフロントクラークに声をかけた。

 

「あの~ちょっとお伺いしたいことがあるんですが」

「いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょうか?」

「ご用件というほどのことではないとは思うんですがね」

「はい?」

「ああ、すみません。実はある人から伝言を頼まれましてね」

「伝言?どなた様からでしょうか?」

「それはちょっと言えない事情がありまして」

 

その言葉を聞いて、フロントクラークは回りをチラッと見た。

 

深夜のロビーには数名のベルボーイ以外、他に従業員はいなかった。

 

「大丈夫。怪しいものではありませんので」

 

怪しいものほど、自分は怪しくないというもんだと、そのクラークは心の中で呟いていた。

 

「ほんとになんてことないんですよ。ただ、あるフロント係の人に伝言を伝えるだけなんです」

 

その従業員は、さりげなくカウンターの下の緊急用ボタンを探っていた。

 

「ちょっと待って。早まらないで下さい」

 

その言葉にフロントクラークは、ギクッと動きを止めた。

 

「じゃあさぁ、その伝言を伝える相手の人をここに呼んでもらえるかなぁ。それなら問題ないでしょ?」

 

男はちょっととぼけたような調子で言った。

そして、腕時計に目をやった。

 

「あいつ、時間に結構うるさいからなぁ。見ためと違って細かいんだよなぁ」

 

「お客様?それでどうされますか?」

 

「ああ、そうだったね。ごめんごめん。えっと、アガタさんという方を呼んでほしいんだけど」

 

そこに慌てたように、女性のフロントクラークがやって来た。

 

「すみません。あとは私が変わります」

 

そのクラークはニンマリと笑っている男をカウンターの端の方に連れていった。

 

「アールドさんですよね?」

「なんで知ってんの?」

「同じ署にいたことがあります」

「そうなの?なんか見たことあると思ったんだよね」

 

その女性クラークは、周囲を気にするように見渡すと、声を押さえて話した。

 

「なんでこんなところにいるんですか?」

「やっぱりなんかあったんだ」

「そんなの、言えません」

「そりゃあまあ、そうでしょう」

「今ほんとに立て込んでるんです」

「そうなんだね。だからかぁ」

「何がですか?」

「気になる?」

「ですから、どういうことでここに」

「アロンソから頼まれた」

「えっ?」

 

そのクラーク姿の捜査員は一瞬顔をこわばらせた。

それとは対照的に、アールドはニヤっと笑って見せた。

 

「どういうことですか?」

「聞きたい?」

「アールドさん!アロンソ刑事とは連絡がとれなくて、アルフ捜査官の顔がものすごいことになってるんですよ!」

「それは見てみたい。でも、実はせかされてんの、こっちも」

「アロンソ刑事はどこにいるんですか?」

「そんなの、言えるわけないじゃない」

「でもですね・・・」

「わかった。そしたら、約束を果たさせてくれたら教えるって、どう?」

「本当ですか?」

「本当だとも!」

 

そのクラーク姿の捜査員は迷っていた。

 

その顔を見ていたアールドは、何かに気がついたような顔をした。

 

「あれぇ?もしかして、アロンソと付き合ってた人じゃない?」

 

その言葉に女性捜査員は目が点になっていた。

 

「な、なんで、そんなこと・・・」

「図星なんだ」

「何を根拠に」

「あそこの署にいたときは、あいつにはまだ奥さんがいたんじゃなかったっけ?」

「わかりました!」

「理解が早くていいねぇ」

 

 

 

 

フロントクラークに扮した女性捜査員とアールドは、ホテルの救護室の前にいた。

 

ドアの手前に立っていた警備の警察官と少し話をしたその女性捜査員は、ドアノブを回してそのドアを開けた。

 

いくつかあるベッドのひとつには、白いシーツを頭からかぶって寝ている人の姿があった。

 

女性捜査員はドアを閉じてその場に立ち止まった。

 

アールドは少し距離を置いたところまで近づいていた。

 

「あの、アガタさんですか?」

 

アールドは女性捜査員から大まかな事情を聞いていたこともあり、慎重にゆっくりと声をかけた。

 

「大変なところにお邪魔しているのは、重々承知の上なんですが」

 

ベットにいるアガタは、身動きひとつしない。

 

「あなたに大事な伝言を伝えるよう頼まれましてね。こちらとしても、どうしても伝えなけりゃならない事情があるもんで」

 

「早くてして下さい。もしこんなところを見つかったら・・・」

 

ドアのところに立っていた捜査員は焦りの表情を浮かべていた。

 

アールドはそれには構わずに話を続けた。

 

「とりあえず言いますので聞いといて下さい」

 

「先輩はどうなったんですか?」

 

頭からシーツを被ったまま、アガタは呟いた。

 

アールドは後ろにいる女性捜査員の方に振り返った。

 

「大丈夫よ。大事にはいたらないみたい。救急で運ばれて、手当ても早くできたことで、今は安静にしてるって」

 

「そうですか」

 

アガタの声は落ち込んでいたが、冷静さを取り戻しているようだった。

 

「それでなんだけども、いいかなぁ?」

 

アールドが割って入った。

 

アガタは返事をしなかったが、アールドはそのまま話を続けた。

 

「君も知っているアロンソから頼まれたんだが」

「あなた、誰なんですか?」

「私?そうだったね。自己紹介を忘れてた」

「そんなのは結構です」

「そうか。わかった。じゃあこれでどうかな?」

 

アールドは少し間をおいて言葉を続けた。

 

「ホテルのあっちって、どっちだ?」

 

シーツを被ったアガタの身体がビクッと反応した。

 

そして、アガタは頭だけシーツから出して、アールドの方に見た。

 

「おじさん、なんでそんなこと知ってるんですか?」

「お、おじさん?」

「それ、アロンソさんとしか話してないことなのに」

 

以前、ARIAカンパニーでの一件をアデリーナが灯里に知らせようとして、大事な話があるからと、アガタにあっち行ってと話したとき、アガタは愚痴るようにアロンソに話していた。

その時、アロンソには珍しく、「あっち」という言葉を使った、アデリーナのあしらい方がおかしくて、アガタと言葉を交わしていた。

 

アガタにとって、少し苦手にしていたアロンソと話したこともあって、印象に強く残っていたのだった。

 

アールドは、アガタが顔を見せたことでニヤリと笑ってみせた。

 

「だから言ってるだろう?アロンソとは・・・」

「アロンソ刑事はどこにいるんですか?」

「悪いが、今は言えない」

「捕まえたんですか、犯人のこと!」

「いや、それはまだだ」

「じゃあ一体何をしてるんですかぁ?」

 

アガタの口調がどんどん批判的に強まっていった。

 

「それを君に伝えるためなんじゃないの?」

「どういうことですか?」

「捜査本部が血眼で犯人を追っているのに、あいつはあなたに伝言を伝えてくれって、わざわざ夜中に電話をよこしたんだ」

「私に?どうしてですか?」

「他の誰かに知られちゃマズイことなんだろうねぇ」

「知られてはマズイこと?」

「あいつも結構孤独なやつでね。それだから誰に頼ったらいいか、わかるんだよ」

「わたし・・・」

 

アガタはベットの上でゆっくりと起き上がった。

ちょこんと座りこんだアガタの頭の髪は、ボサボサに乱れていた。

 

「ああ、それとまだ続きがあった」

「なんですか?」

 

アガタの目に力が戻ってくるの見て、アールドは思わず微笑んでいた。

 

「ホテルって、夜中でもクリーニング頼めるんだって?」

「ええ、頼めますけど」

「取ってきて欲しいんだって、洋服」

「ええ?なんですか、それ?」

「私に聞かれても困るよ。君たちにだけわかる暗号とかじゃないの?」

「暗号?アロンソ刑事と?」

「うん。黒の上下のスーツだとか・・・」

「おじさん!」

「な、なに!そんな大きな声出して」

 

アガタはシーツを投げ飛ばすと、いきなり部屋にある鏡の前に立って、勢いよく髪を整え始めた。

 

「おじさん!行きますよ!」

「私も?なんで?」

 

 

 

「うちのランドリーサービスは、基本バレットランドリーなんです。その辺のホテルと一緒にしないで下さい」

 

アガタは廊下の途中で、アールド相手に講義を始めていた。

 

「そんなの、どうでもいいんだけど」

「さっきクリーニングっておっしゃいましたよね?」

「言ったねぇ」

「それではお部屋のクリーニング全部を指すことになるんです」

「そうなんだ」

「だいたい中級以下のホテルにはコインランドリーなんかがあって、まあ、それはそれでいいところもあるんですけどね」

「なるほど」

「レジデンスタイプだとセルフランドリーが主流となりますけど」

「あのさあ、ホテルにもいろいろと事情があることはわかった。つまりは何が言いたいわけ?」

「つまり、おかしいということなんです」

「おかしいの?」

「はい」

「なんで?」

「お洋服のクリーニングは、お部屋に置いておいてもらって、他のシーツなんかと一緒に回収していくんです。もちろん、フロントに出してもらってもオッケーです。翌朝お部屋のクローゼットに戻しておくか、フロントに受取りにいくことになります」

「なるほど。で?」

「つまり、どっちにしても、どのお客様が出されたのか、その段階でわかってしまうということなんです」

「そうか。じゃああいつはなんで取りに行くなんてこと、させようとしてるんだ?」

 

アガタは〈リネン室〉と書かれた部屋のドアを開けようとした。

 

「リネン?なに?」

「ああ、これですか?シーツなんかのことをまとめてそんな感じで呼ぶんですよ」

「へぇー」

 

中には女性従業員がひとり、カウンターのところでペンを走らせて、何かチェック作業をしていた。

 

「お疲れ様ぁ~」

「お疲れ様です」

「どうですか?調子は?」

「そうですねぇ。ちょっと忙しいですねぇ」

「そんなんですねぇ」

 

アガタは後ろにいるアールドの方に振り返った。

 

「で、どうしたらいいんですか?」

「ちょっと、待ってくれ」

 

アールドは一旦部屋を出て、そこで携帯電話を取り出した。

かけた先は、もちろん決まっていた。

 

「おい、早く出ろよ。あいつ何してんだ?」

 

 

 

アロンソは、薄暗い部屋の中、ビニールのかけられた洋服の中をさまよっていた。

 

ポケットから出したキーホルダー型のLEDライトは、意外なほど明るくなかった。

 

「こんなときに充電切れなんて、やめてくれよ」

 

それでも一枚一枚しっかりと確かめながら、大量に部屋の中につられている洋服を見て回っていた。

 

「あたりをつけてみたが、違ったか・・・」

 

その時だった。

 

上着のポケットの中で、携帯電話のバイブが振動し始めた。

 

アロンソは着信の相手を見て、すぐに電話に出た。

 

〈どこにいんの?〉

「ナイショ」

〈ナイショってどこ?〉

「それより伝わったか?」

〈ああ、伝わった。私も連れてこられたんだけどね〉

「なに?なんであんたがいるんだよ?」

〈だって、一緒に来てくれっていうもんだから〉

「なにやってんだ?」

〈そんなことより、言ってたスーツのこと、説明してくんないと。どうするのか、頭悩ましてるぞ〉

「誰が?」

〈君の女神〉

「はぁ?」

 

アールドの電話には、ガサゴソと鳴る音が聞こえていた。

 

〈ほんとにさぁ、何をしてるわけ?〉

「だから、今取り込み中なわけで・・・」

〈えっ、なに?〉

 

少し間があいた次の瞬間だった。

 

「あった」

〈何があったんだ?〉

「探していたものが、ほんとにあった」

〈だからなんだって?〉

「必ず必要になるもの」

 

アロンソはビニールのかかった黒い服のタグを確認しょうとした。

 

だがタグはどこにもなかった。

 

「まあそうだろうけど・・・ん?じゃあどうやって回収するつもりなんだ?」

 

その時アロンソは、自分で想定しいていたことに不安な気持ちが沸きあがっていた。

 

「彼女は?」

〈ああ、あのアガタさん?〉

「そうだ。今どこにいる?」

〈このリネン室っていう部屋の中だけど。さっき会ったときは落ち込んでたみたいだけど、なんかやる気マンマンって感じだな、あれ〉

「あんたは?」

〈その外〉

「じゃあ他には誰もいないんだな?」

〈そうだな。いや、部屋に従業員がひとりいたな〉

「従業員?」

 

 

 

アガタは、腕組みをしてドアを睨んでいた。

 

「さあ、いつでもかかってらっしゃい!目にもの見せてやるんだから!」

 

「あの」

 

作業に当たっていた従業員が帰り支度をしていた。

 

「ああ、もうお帰りなんですね」

「ええ、まあ」

「わかりました。あとは任せておいて下さい!私まだ、用が残ってるんです。次の人が来るまで、ここで見張ってますから。安心してお帰り下さい!」

「そうなんですか。じゃあ、お言葉に甘えて」

 

その女性従業員は、アガタの前を通ってドアのところまで来ると、そのまま立ち止まった。

 

背中で見えなかったが、カチャリと音が鳴った。

 

「えっと、お帰りなんですよね?」

 

その従業員は、ゆっくりと振り返った。

 

だが、先程とは全く印象が違っていた。

 

能面のような顔が、アガタをじっと睨んでいた。

 

「あなた、なんで余計なことに首を突っ込むの?」

 

「えっ?」

 

その時、その能面の女の後ろのドアノブが、ガチャガチャと動く音がした。

 

そして、ドアを叩きながらアガタを呼ぶアールドの声が外から聞こえた。



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第二十二話 能面とカニとヒーロー

「あの、どうされたんですか?」

 

アガタは、能面のような顔で見返してくる女性従業員の様子に、少し恐怖を感じ始めていた。

 

「だから、なんでなの?あなたは、フロントクラークでしょ?なんでこんなところにいるの?」

 

その女の背後で、ドアノブを必死に回そうとしている音がしていた。

そして、ドアを叩きながら、外からアガタを呼ぶアールドの声が聞こえてきた。

 

「すみません。そのドア、開けてもらってもいいですか?」

 

「あなた、この状況がなんなのか、理解できないの?」

 

女はアガタから一切目を話さず言った。

 

よく見ると、女はほとんどまばたきをしていなかった。

アガタを見つめる目が、ガラス玉のように光っている。

 

「私の知り合いが、呼んでるんです。開けてください」

「だからぁ、なんで、あんたみたいな人が、こんなところで油を売ってるのかって聞いてるの!」

 

女の口調が一変した。

 

アガタはそれに押されるように、後退りしていた。

 

「油をって、なんなんですか?」

「そこ!?」

 

女は大きな笑い声を上げた。

 

「そんな大声で笑わなくても・・・」

 

「ここのホテルは、こんなのがフロントクラークをやってんの?だからあの女もバカをみるんだよ!」

「ちょっと、それどういうことなんですか?もしかして、先輩のことを言ってるんですか?」

「先輩?ああ、あんたあのバカ女の後輩かぁ」

「ちょっと!先輩を侮辱するなんて、許せません!」

「じゃあどうするんだい?」

 

アガタがその女を睨み付けている時、その部屋の奥にある、別のドアのノブをガチャガチャと回す音が聞こえた。

 

それに気がついた女が、ニヤッと笑った。

 

「あんたのお仲間は、いったい何人いるんだい?」

 

ドアの向こうでは、ドアを叩きながら誰かが何か叫んでいる声が聞こえた。

 

「さあ、そろそろ時間もなくなってきたようだし、終わりにしようか」

 

女は肩からかけていたショルダーバッグから、注射器を取り出した。

 

アガタは、その注射器に目を奪われた。

身体が震え始めていた。

 

「どっちにしたって、逃げられないですよ!」

 

アガタは、必死に声を振り絞って叫んだ。

 

女はそれには構わず、アガタに近づいていった。

 

アガタが壁に詰め寄られ、女が目の前まで近づいて来る。

 

その時、カチャリと静かにドアのロックが解錠される音がした。

 

廊下に面したドアが、音もなく静かに開いて行く。

 

その様子に気がついた女が、ゆっくりとドアの方へ振り返った。

 

開いてゆくドアの先には、ビジネスバッグを肩からかけたアールドが立っていた。

 

アールドは、アガタと目が合うとニヤリと笑ってみせた。

 

女が少し体を動かそうとしたとき、アールドが口を開いた。

 

「ちょ~っと、そのままでいてください」

 

女はその言葉で、動きを止めた。

 

アガタは、女が少し動いたことで、女の背後からアールドの姿が見えた。

 

女がなぜ言われるがまま、動かなくなったのかが、ようやくわかった。

 

アールドの手には拳銃が握られていた。

 

そのニヤケた顔と、緊張感のない風貌とは似つかわしくないものが、目の前の女性に向けられていた。

 

「アガタさん?」

「は、はい!」

「ちょっとそこのテーブルの方に移動してくれませんか?」

「テーブルですか?」

 

アガタは、テーブルの上に目を向けた。

 

部屋の中央付近にあるテーブルの上には、何冊かのファイルが重なって置かれている。

 

アガタは、慎重な面持ちで、カニ歩きでテーブルの方へ移動していった。

 

「おっと、そのままですよ」

 

アールドはアガタに指示を出しながらも、少し動こうと素振り見せた女から目を離さないでいた。

 

アガタはテーブルまで移動すると、さっとファイルを手に取った。

 

「おじさん?これですか?」

「アガタさん、ご苦労様」

「これは、なんか事件を解くカギかなんかですね!」

「それは特になんにも関係ありません」

「えっと、何ページ目を見ればいいのか・・・は、はい?」

 

ページを必死になってめくっていたアガタの手がピタッと止まった。

 

「じゃあ、なんで?」

「これで心置きなく撃てるようになったという訳です」

「えっ?」

 

アールドの目が鋭く光った。

 

「あなたがその女の後ろにいたでしょ?」

「はい」

「それじゃあ困るんです」

「困るんですか?」

「そうなんです。このまま撃つと、その女の身体を貫通してアガタさんにも当たってしまう」

「ええー!」

 

アガタは、大きく目を見開いた。

 

「でもおじさん?」

「なんですか?」

「そんなことしたら、犯罪ですよ!」

「犯罪?私が?」

「そうですよ!」

「アガタさん?一体私を誰だと思ってたんですか?」

「誰って、アロンソ刑事のお友達ですよね?」

「なるほど。お友達ねぇ。間違っちゃいない」

 

そう言って、アールドは笑いそうになるのをこらえた。

 

「違うんですか?」

「私はあいつと同じ職業なんですよ」

「そうだったんですかぁ?」

「はい。だから、この距離からだと外す自信がないんです」

 

その時、アールドのいる廊下から声が聞こえてきた。

 

「じゃあ、外す方に一杯」

 

声の主は姿を現すと、すぐさま部屋に入り、女の目の前に歩みよった。

 

女は注射器を持ったまま、アガタの方に向きを変えたが、そこまでだった。

 

女の手首を掴むと、その手にあった注射器を取り上げた。

 

「アロンソ、ちょっと格好良すぎるんじゃない?」

 

「じゃあ、撃っとくか?」

 

「それはムリ」

 

アールドは、女を取り押さえているアロンソに向かって、そのオートマチックのグリップの底を見せた。

マガジンが入ってなかった。

 

「なんだ、それは?」

「だって、危ないでしょ?」

 

アロンソは、テーブルのところでポカンと口を開けているアガタの方に向いた。

 

「どうだったんですか?」

「えっ?何がですか?」

「彼女」

「彼女?ああ!先輩ですか?」

「ええ」

「大事に至らなかったそうです」

「そうですか」

 

アガタには、アロンソの表情が少し和らいだように見えた。

 

 

 

 

取り押さえた女のバッグからは、刃物はひとつも出てこなかった。

 

そして、クリーニングされた洋服の山から見つかった黒い服は、女が着ていたと思われる痕跡はなかった。

 

だが、袖口付近からは、血痕らしきものがみつかった。

鑑識へ回し、アデリーナのDNAと一致すれば決定的となる。

 

アロンソは、捜査本部でアルフ捜査官からこっぴどく叱責されたが、状況を鑑み、とりあえず処分は保留となった。

 

逆にアールドが、なぜあんなところにいたのかが疑われた。

 

そこは、アガタが命の恩人だと訴え出たため、おおごとにはならないですみそうだった。

 

だが、結果としてアガタを危険な目に合わせたことは、二人に厳重注意が言い渡された。

 

「でもなんでアガタさんだったの?」

 

アールドは、会議室の外の廊下にある自動販売機のところで、アロンソとコーヒーを飲んでいた。

 

「犯人より先に受けとる必要があった。そのためには、犯人に気取られず、あの部屋に行く必要があった」

「だから、アガタさん?」

「彼女のケータイの番号は知らない。だが、あのタイミングで頼めるのは彼女しかいなかった」

「アガタさんにとって、大事な先輩が狙われたわけだしね。それで連絡係りに駆り出されたという訳か。でも、ショックを受けてるって思わなかったの?」

「そんなこと、言ってられない」

「へぇ~」

 

アールドは横目でチラッとアロンソを見た。

 

顔は疲れた表情だったが、目はギラついていた。

 

「あれだけのことをやっておきながら、犯人は逃走している。だが、そのまま従業員通用口や非常口から出ていけば、嫌でもカメラに映る。よっぽどのバカじゃなければ、わかりきったことだ」

「でもどこにも映ってなかった」

「手っ取り早いのは、着替えてしまうことだ。そもそも大きなマスクをしていて、顔を誰もはっきりとは見ていない。外見さえ変えてしまえば、わからなくすることができる」

「なるほどねぇ」

「ホテルで着替えることが容易にできて、それに違和感がなく、しかも証拠を回収することができる」

「だからクリーニングというわけか」

「別に本当にクリーニングをする必要などない。それを利用できればいい」

「そして、後でそれを回収しておけば証拠隠滅だ」

「でもこれはひとりではできない。受取に本人が現れたら、その場でアウトだ」

「じゃあ、あのリネン室の女は共犯者?」

「共犯といえるレベルなのかどうかはわからないが、犯人に協力しているのは間違いない。俺があの部屋に忍び込んだ時、あそこには誰もいなかった」

「そうだったの?早く言ってよ~!」

 

アールドはため息をもらすと、ゴクッとコーヒーを一口飲み込んだ。

 

「でも、俺が到着する前に部屋のドアが開いていたが、あれ、どうしたんだ?まさか、またやったのか?あんた、本当に刑事なのか?」

「なんか人聞きの悪い言い方するなぁ。アガタさんを助けたんだから、いいじゃないか」

「まあ、俺には関係ないことだけど」

「ああ、その言い方!」

 

アロンソは別の方を向いて知らん顔をした。

 

「これでとりあえず一歩前進てことかな」

「いや、まだだ」

「そうなの?」

「考えてみろ。じゃあ現れなかった犯人は、どこにいるんだ?」

「どこって・・・あっ、そうだった!」

「犯人は、まだこのホテルの中にいる」

「その通りだ」

「犯行を行っていながら、今頃堂々とどこかの部屋で高みの見物を決め込んでいる」

 

アロンソは飲み干したカップをギュッと握り潰した。

 

「ところでさぁ、肝心のロビーはどうなってるの?アデリーナさんが抜けて、アガタさんもこのままだと心配だし。あんたも今回のことで、またもや張り付けなんだろ?」

「人を増やすらしい」

「そうなるだろうけど、そんなところに、のこのこ犯人が現れるなんて考えにくいでしょ?」

「だから盲点だということもできる。今もって、犯人の真の目的はわかっていない。どう出るか、わからない」

「それじゃあ、尚更痛いね。アデリーナさんが抜けた穴は」

「ただ・・・」

 

「何?」

「こう手詰まりだと、違うアプローチが有効なときもある」

「なんだそれ?なんか手立てがるの?」

「アデリーナが気にしていたことが、最近引っ掛かりだしてきてね」

「なんだよ?教えてよ!」

 

アロンソはそれには反応せず、話を続けた。

 

「あの一件はどうなった?早朝のウンディーネ」

「ああ、あれね。有力な情報はまだないんだけど、結局その時のゴンドラは、どこに行ってしまったのか、わからないみたいだね」

「ゴンドラなんてどこにでもあるんじゃないのか?ここはネオ・ヴェネツィアだぞ!」

「それが以外と、管理にうるさいんだよ。ここは」

「管理ねぇ」

「聞いてみたらいいじゃない?」

「誰にだ?」

「ほら、あののんびりしてる目撃者さんに」

「ああ」

 

アロンソはなぜか返事を濁すように適当に答えた。

 

「もしかして引っ掛かってるって、あのウンディーネさんのこと?」

 

アールドが驚いて振り向いた。

 

「一番当てにしてなさそうに思ってたんだけど」

「あんた、どこでそんなこと・・・ほんとに油断できないなぁ」

「まあまあそんなことより、いつ復帰するの、あのウンディーネさん?」

「たぶん明日から」

「へぇーそうなんだぁ」

 

アールドはクセのある、にやけた顔でアールドを見て言った。

 

「なんか、おもしろくなりそうな気がするんだけど」



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第二十三話 灯里の一番長い日

灯里は、朝一番に捜査本部に顔を出した時、アルフ捜査官からひとりのフロントクラークを紹介された。

 

アヴェリーノと名乗る男性は、キリッとした切れ長の目にメガネをかけ、いかにも優秀という、絵にかいたような印象だった。

 

身体は細身で、動きはテキパキとしていて、アルフとの会話に的確に応える様子に、完璧を好むような雰囲気があった。

 

「アヴェリーノです。よろしく」

 

身体の前で手を組んだまま、灯里に挨拶した。

 

「灯里くん、アデリーナはしばらくは復帰できそうにない。その代わりといっちゃあなんだが、彼にフロントにいてもらうことになった。アデルモ総支配人の推薦だから、心配はいらないと思う。もちろん、いままで通りアロンソもロビーにいる」

 

だが灯里は、アデリーナの一件を耳にしてから、その事が心配で仕方がなかった。

 

「それで大丈夫なんですか?」

「今のところ心配はない。キズも浅く、大事にはいたらかった」

「そうですか。それは本当に良かったです」

 

アルフは少し間をおいて話を続けた。

 

「だから、きみが引き続き、こちらの頼みに応じてくれたことに感謝している」

 

灯里は目を伏せるように床に目線をおとした。

 

「私は、協力すると決めたので」

「そうか。ありがとう。でも今朝早くにゴンドラ協会から電話があってね。もう協力はしてもらえないだろうと、半分諦めていたんだ」

「ゴンドラ協会からですか?」

「そうだ。君の元上司からといえばいいかな?」

「アリシアさん・・・」

「かなり心配をされていた。だから、灯里くんに協力を求めるのはやめようと考えたんだ。そうしたら、きみのことをよろしくお願いしますっておっしゃってね」

 

灯里は茫然とアルフの顔を見ていた。

だがそのあと、やさしい笑みを浮かべた。

 

「きみのことを信頼しているとも。しかし、きみがここに現れるまでは正直心配だった。でもきみは来てくれた」

 

アルフは、真剣な眼差しで灯里に向かって言った。

 

「責任重大だと理解してる。アリシア理事にも約束をした。灯里くんの身の安全は私が責任を持つと。だから、絶対に事件を解決したい」

 

灯里も真剣な表情でそれに応えた。

 

「わたしはこれまで通り、いつもで楽しんで来て頂けるネオ・ヴェネツィアに戻ってほしい。それだけなんです。正直いって、難しいことはよくわかりません。わたしの願いは、ただそれだけなんです」

 

 

 

ロビーの一角で、灯里は窮屈そうにしていた。

 

「あ、あの、ちょっと近すぎると思いますが・・・」

 

灯里は、すぐ横で身体をくっつけるようにして立っているアガタに、どうしたものかと困り果てていた。

 

「大丈夫です、灯里さん!私がいる限り、百本の金棒です!鬼の力です!心配なんて、屁のカッパです!」

 

「最後は合ってるような気がしないでもないような・・・」

 

アガタは、アデリーナの一件があってもやって来てくれた灯里に感激していた。

 

「もう来られないと思ってました」

 

そして、こんなことが二度と起こらないように自分が灯里を守ると、今朝から灯里にピッタリ張り付いていたのだった。

 

「でもこれでは、あまりにも変じゃないですか?」

「いいんです!何かあってからでは遅いんです!」

「はぁ」

 

そして、なんとなくだが、アロンソもいつもより近いところにいるような感じがしていた。

 

「灯里さん?無理をなさらなくていいですから。何かあったらすぐに声をかけちゃって下さい。意外とあの人も頼りになるとこ、ありますので」

 

アガタはそう言ってアロンソの方にチラッと目を向けた。

 

「でもわたし、あの人はよくわかりません」

 

アガタは、アロンソのその先に見えるカウンターの、アヴェリーノに目を向けた。

 

「お知り合いではないのですか?」

「知りません、あんな人」

 

まるで会話が聞こえていたかのように、アヴェリーノは二人の方に目を向けてきた。

 

「ギクッ」

「あんまり変なこと言わない方がいいと思いますよ」

「聞こえてたりするの?」

 

アガタの不審者を見るようなアヴェリーノを見る姿に、灯里は思わず苦笑していた。

 

だがそのアガタの表情が一瞬にして、緊張感に包まれた。

 

カウンターの方に、目付きの鋭いスーツ姿の男が現れた。

フロントクラークと何か言葉を交わすと、そのまま玄関の方に向かって歩き始めた。

 

アガタはその様子を見るや、クルッと後ろに振り返ってしまった。

 

「あ、あのぉ~、アガタさん?」

「しぃー」

「はい?」

 

ロビーの中央を正面を向いたまま歩いてくるその男、アレキサンドロは、辺りに目を向けているアロンソに気がつくと、一瞬気まずそうな表情になったが、そのまま何もなかったように歩き続けた。

 

そして灯里とアガタの近くまでやって来た。

 

アガタは、気づかれまいと背中を丸めている。

 

「ちょっと」

 

その一言に、アガタは分かりやすいくらい、ビクッと身体をこわばらせた。

 

「はい、いかがなさいましたか?」

 

灯里は、アガタの異変に気付きつつも、何事もなかったように振る舞った。

 

「聞きたいことがあるんだが」

「はい、どういったことでしょうか?」

「この前ここにいたフロントクラークはどうしたんだ?」

「この前?」

 

アガタは必死に顔の前で、灯里にだけわかるように手を振っていた。

いないことにして欲しいらしい。

 

「部屋まで案内してくれた、あの女性のフロントクラークなんだが」

 

その言葉を聞いて、額から汗を流していたアガタは、ふぅ~と息を吐いた。

 

「先輩です」

「はい?」

 

アガタの声が小さすぎて、灯里が思わず聞き返した。

 

「だからぁ~センパイぃ~なんですぅ~」

 

アガタは灯里にだけ聞こえるように小声で必死に伝えた。

 

そこでようやく灯里に伝わったようだった。

 

「その従業員は、本日お休みをいただいております」

 

「そうか」

 

アレキサンドロは、一瞬チラッと背中を丸めているアガタの後ろ姿に目を向けたが、玄関の方に視線を向けた。

 

「じゃあ、あんたで構わない」

 

アレキサンドロはその鋭い目を灯里に向けた。

 

その瞬間、アロンソの視線が話している二人に向けられた。

 

周囲に緊張が走った。

 

だが、灯里はいたって自然な笑顔で応えた。

 

「どのようなご用件ですか?」

 

「実は、妻がサン・マルコ広場に行きたいと言っていてね」

 

「はい!」

 

灯里は、アレキサンドロの言った言葉に嬉しそうに笑顔で応えた。

 

「一体、広場の何がいいんだ?」

 

「お客様、それはですね・・・」

 

ホテルのロビーの中で、まるでその場にいるような観光案内が始まった。

 

アレキサンドロは、灯里のその言葉に思わず聞き入っていた。

 

アガタは背中を丸めた格好のまま、驚きの表情で灯里に目を向けていた。

 

「つまりそこがかの有名な・・・」

 

「はい!カフェラテ発祥のお店、カフェ・フローリアンなんです!」

 

「そうだったのか。だから、カフェ・ラテを飲みたいなんて言っていたのか」

 

「奥さまはおそらく、ご存知だったんですね」

「そのようだね」

「お時間があるようでしたら、是非お店の中をゆっくりとご覧になってください」

「中になんかあるのか?」

「お店の壁に絵が描かれているんです」

「壁画か?」

「はい。実はその壁画は、マンホームにあった本来のカフェ・フローリアンから、そのまま持ってきたものなんです」

「そんなのがあるのか?」

「はい。残念ながら、マンホームのカフェ・フローリアンはサン・マルコ広場とともに水没してしまいましたが、大事な壁画はいまでも、このネオ・ヴェネツィアで見ることができるんです!」

 

アレキサンドロは、灯里の顔を感慨深く見ていた。

 

「是非、奥さまと行かれてはいかがですか?喜ばれると思いますよ」

 

アレキサンドロは、腕組みをして、片手であごを撫でながら思案するように考え込んでいた。

 

「それにしても、あんた、やけに詳しいな?」

「実はわたし、そこの店長さんとお友達なんです!」

「友達?お店の店長と?」

「はい!」

 

灯里の屈託のない笑顔を見て、アレキサンドロは思わず表情を崩した。

 

「そんなこと、知っていたら・・・」

 

「はい?」

 

アレキサンドロは、灯里に向かって、これまでとは全く印象の違う笑顔を見せた。

 

「ありがとう。いい勉強になった」

 

「とんでもないです」

 

アレキサンドロは、表から差し込む光に目を細めると、そのまま玄関へと向かった。

 

アガタは、その様子を確かめると、ゆっくりと姿勢を戻した。

 

「ふぅ~」

「大丈夫ですか、アガタさん?」

「助かったぁー」

「何かあるんですか?」

「ちょっとね。一戦交えたことがあったの」

「一戦ですか?」

「完敗だったんだけどね。トホホホ~」

 

アガタは、丸めた両手を目の下に持っていって、大袈裟に泣く真似をしてみせた。

 

「でも灯里さん?怖くなかったんですか?」

「うん、特には」

「そうなんだぁ。やっぱりプリマ・ウンディーネって、並みじゃないんですね」

「並み?」

「わたし、ああいうタイプ、ほんとに苦手なんですぅー」

「フフフフ」

「なぁにぃ?」

「アガタさんて、結構苦手な人、多いですよね?」

「ああ~そこ聞かないで下さ~~い!」

「でもホテルで働いているのに」

「だからなんですぅ~」

 

アガタは思わず頭を抱えていた。

 

「せっかくこのホテルに就職できたんです。まだ転職したくないんですぅ~。灯里さ~ん!教えてくださ~い!どうしたらいいんですかぁ~~」

 

「アホくさっ!」

 

アガタは、背後からいきなり声をかけられて、驚きのあまり固まってしまった。

 

「そんなの、止めてしまえばいいんです!」

 

「なんでそんな、無慈悲なお言葉・・・」

 

銀色の髪を綺麗に伸ばした少女は、腰に手を当てて、アガタをバカにしたように見下ろしていた。

 

背丈はアガタの方が上だったが・・・

 

「大体あなたたち!ホテルのロビーで、なんて大きな声で話してらっしゃるの?信じられないわ!」

 

「す、すみません」

「はひぃ~」

 

「謝っていただいても、仕方ないですわ!」

「アリーチェお嬢様?」

「そう、私の名はアリーチェ・・・だから!」

「そろそろご出発のお時間です」

「アルマ!あなたはどうしていつもタイミングが悪いの!」

「お嬢様がご出発のご用意をされている時、ウサギのピョンピーはバックに収まりきらないにも関わらず・・・」

「もうその辺でいいの!」

 

フン!と鼻を鳴らすように、アリーチェは目を閉じて、胸の前で両腕を組んだ。

 

「だいたいなんであなたのタイミングの悪さとわたくしの持ち物とが関わってくるの?」

「申し訳ございまぜん」

「それに、ここのホテルは教育からやり直しよ!特にあなたたち!」

 

アリーチェは灯里とアガタに向かって、腕をまっすぐ伸ばし、人差し指をつきだした。

 

「ただ、そちらのあなた!」

 

今度は、アリーチェの指が灯里の方に向けられていた。

 

「あなたは、なぜそんなにネオ・ヴェネツィアにお詳しいのかしら?」

「わ、わたし、ですか?」

 

灯里は人差し指を自分の鼻の辺りに向けていた。

 

「あ、あなたねぇ、このわたくしの指が、あなた以外を指していますの?」

「いえ、私に向けられていると思います」

「思うも何も、あなたなの!」

「はひっ!」

「あっ、思いだしましわ!あなた、あの時のフロント係ですわ!」

「そうでした・・・」

 

その時だった。

 

ロビーに広がる、なんともいえない魅力的な香りが、その場にいた全員をうっとりさせていた。

 

「灯里さんが、なぜネオ・ヴェネツィアにお詳しいか。教えて差し上げても良くてよ」

 

緑のワンピースに白のハーフコートを肩に羽織ったアレッサンドラ・テスタロッサは、いつものように両手を腰において、余裕のポーズを決めていた。

 

つばの広い丸い帽子に黒のサングラスが、ハリウッド女優さながらの雰囲気を、よりいっそう際立たせていた。

 

「またあなた!」

 

「お久し振りね、アリーチェお嬢様?」

 

「あなたねぇ」

「アレッサンドラ・テスタロッサです」

「アルマ!そんなのは、とっくにわかってるの!」

「失礼致しました」

「ほんと失礼よ!だいたい、あなたにお嬢様って呼ばれるいわれはないわ!アレッサンドラ!」

 

「そうでした?それは失礼しました。でも、ホテルの寝心地はどうだったかは、聞いてもよろしいかしら?」

 

「寝心地って・・・はっ!」

「お嬢様が寝落ちした件です」

「あ、あれは確かに・・・そうねぇ・・・さすが最高級スイートって、とこかしら」

 

「つまり良かった、ってことでよろしいかしら?」

「良かったわよ!でもあなたのご自宅ではなくてよ!ここのホテルなのよ!」

「それはそれは。お譲りした甲斐があったというものです」

 

灯里とアガタは、ずっと口をポカーンと開けっぱなしで、ふたりのラリーを眺めていた。

 

「何?アレッサンドラ?もしかして、部屋代をよこせととでも言うおつもり?」

 

アリーチェは意地の悪そうな顔でアレッサンドラを睨んでみせた。

 

「灯里さんはね」

「アレッサンドラさん!」

 

灯里はアレッサンドラが本当のことを言ってしまうのではないかと、思わず声を出していた。

 

「ちょっと、あなたたち!勝手に話を始めてどうするの?」

 

「灯里さんは、私の敬愛するアリス・キャロル様のお友達なんです」

 

そう言って、アレッサンドラは灯里にウィンクをして見せた。

 

「だから、ネオ・ヴェネツィアのことはお詳しいんです」

 

「ああ、あの件ね。アレッサンドラ?あなたがウンディーネとやらに憧れていたという話でしょ?そんなことに肩入れをして、なんになるって言うのかしら?」

 

アレッサンドラは灯里に近づき、サングラスを少しずらすと、にっこりと微笑んだ。

 

アガタは、照れ臭そうにしている灯里と、灯里を見つめるアレッサンドラを、交互に見比べていた。

 

「お二人の関係って・・・」

 

「お友達よ」

 

アレッサンドラはアガタの呟きにすぐさま答えた。

 

「ところでお嬢様?お昼はいかがなさいますか?」

「アルマ!またあなたは変なタイミングで言ってくる!」

「それでは、料理長のお任せということで」

「オムレツよ!決まってるでしょ!」

「かしこまりました。いつものあれで」

「半熟よ!」

 

アリーチェはそう言うと、ふとアルマの方を振り返った。

 

「あなた、今日はどうなさいますの?」

「お嬢様、私は適当にいたします」

「それでいいの?」

 

アリーチェはアルマが手に持っていた懐中時計を、アルマの手ごと、グッと引き寄せた。

 

「クルマの用意は?」

「既に玄関に」

「わかったわ。じゃああなたもいらっしゃい」

「わたくしも、ですか?」

「そうよ」

 

ふたりのやり取りを黙って見ていたアレッサンドラは、ほんの少し笑みをもらした。

 

それが彼女の目の前にいた灯里にだけは、これまでとは違う表情に見えた。

 

「すみません、灯里さん?本当はランチをお誘いしたかったのだけど、どうしても抜けられない用事があるの」

「ああ、いえ~、そんなぁ、お気遣いなさらずにぃ~」

 

アレッサンドラは颯爽と玄関へと歩き出した。

 

それを見たアリーチェは、アルマに合図を送ると、歩幅を大きくとって歩き出した。

 

アレッサンドラを追い抜こうとしたが、すぐさま追い抜かれてしまう。

 

いっそう早く歩いたが、結局抜かれてしまっていた。

 

「はへぇ~」

 

灯里は、エントランスを出て行くふたりのセレブを見送ると、思わずため息をついた。

 

「ねえ、灯里さん?アレッサンドラさんとは、知り合いなの?」

「知り合いだなんて」

「違うの?なんか向こうはそんな感じだったけど。ランチがどうのって言ってたし」

 

アガタは、ちょっと疑うように灯里の表情を伺った。

 

「ああ、なんか疲れました。アガタさん?私たちもお昼にしませんか?」

 

「灯里さん、何言ってるの?まだ10時を少し回ったところよ!」

 

「ええ!まだそんな時間だったんですかぁ?」

 

「大丈夫ですか?」

 

「なんか、今日はすごく長く感じるんですけど。なんでだろう~はへぇ~~」



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第二十四話 灯里の一番長い日 ブランチ編

「でも、灯里さん?」

「はい、なんでしょうか?」

 

灯里とアガタは、朝から引き続きロビーで業務を続けていた。

 

アガタには灯里のサポート役という仕事があったが、それでも朝礼とは別のタイミングで副支配人から私語は慎むようにと釘を刺されていた。

 

だが、相変わらず灯里のそばに寄り添うように立って、絶え間なく話し続けている。

 

「なんか、おかしいと思いませんか?」

「おかしい、ですか?」

「はい。これは間違いなくおかしいですよ」

「はぁ」

「だって、静かすぎませんか?」

 

そう言われて、灯里は周辺をゆっくりと見回してみた。

 

「いつもと変わらないような・・・」

「だからおかしいんじゃないですか?」

「はぁ」

「だって、あんなことがあったのに、カメラマンもリポーターも誰も来てないじゃないですか?一体どうなってるんですか?」

「確かにそう言われるとそうかも」

「先輩があんなヒドイ目にあって、それなのになんの騒ぎにもなってないって、ヘン過ぎます!」

 

ホテル内で起こった殺人未遂事件。

確かにもっと騒ぎになっていてもおかしくないはずなのに、いつもと変わらない風景がそこにあった。

 

「聞いたところによると、アデルモ総支配人が外部に漏れないように押さえたっていう、もっぱらの噂なんです」

「総支配人さんがですか?」

「そうなんです。警察にも協力を要請したってことらしいです」

「はぁ」

「理解は出来ます。ホテルはお客様あってのものですから、変な噂は立てられたくない。でも、殺人予告の次は、実際に人が狙われたんですよ?しかもそれが先輩なんです。このまま黙ってるなんて、なんかおかし過ぎます!」

「アガタさん、ちょ、ちょっと声が・・・」

 

灯里の言葉にアガタはまわりに視線を巡らした。

そして、すっと肩をすくめた。

 

「すみません。つい力が入り過ぎました。私の悪いクセですね」

「でも、お気持ちは十分にわかります」

「そうなんですか?」

「はい。もし私の先輩がそんなことになったらと思うと、平気ではいられないと思います」

「そうですか。灯里さんも、ですか」

「はい、もちろんです」

 

少しうつむきながら話すアガタの横顔を、灯里は心配そうに覗きこんだ。

 

「それに、ずっと考えてたんです」

「はい」

「なんで、先輩が狙われたんだろうって」

「それってもしかかして、心当たりが?」

「ないです」

「あっ、そうなんですね・・・」

「だってそうじゃないですか?あの先輩が、人から恨まれるなんて考えられないです」

「そうですね。アデリーナさんて、気遣いがすごくて、いつも相手のことを考えている印象です」

「そうですよね?その通りなんです。先輩は本当に尊敬できる人なんです。そして、私の目標なんです」

「素敵ですね」

「灯里さんも、そう思います?」

「はい!アガタさんのことですよ!」

「わ、わたし?」

「はい。すぐ近くにそんな風に思える先輩がいて、アガタさんもその先輩を目標に頑張ってる。とても素敵なことだと思います」

「なんか照れます。えへへへ」

 

アガタはにやけた顔で頭をかいてみせた。

 

「でも、先輩みたいになれるかどうか、最近、雲行きが怪しくなってきたとういうか・・・」

「その辺はちょっと私には・・・」

「ああ、灯里さ~ん!その言い方気になりますよ~」

 

灯里は、アガタが少し笑顔を取り戻したのを見て、ほっとしていた。

 

だがアガタの顔が急に真剣な表情に変わった。

 

「もし、なんですが・・・」

「もし、どうされたんですか?」

「先輩が狙われた理由です」

「やはり心当たりがあるんですか?」

「以前、先輩に関する噂を聞いたことがあったんです」

 

「先輩って、いろんなことに気がついちゃうというか、見過ごせないというか。人によっては、それがウザいと思う人もいるようなんです」

「それが原因で?」

「まさか、そんなことで狙われちゃうなんてことになったら、やってられないですよ」

「そうですよね」

「でも考えられることと言ったら、それくらいしか思い浮かばないんですよねぇ」

「優秀だから、ですか・・・」

 

 

「ちょっと、お嬢さん方?」

 

スーツ姿が上品さをより感じさせる老紳士アダルベルトが、ふたりに声をかけてきた。

 

「談笑中のところ申し訳ないが」

「ああ~、とんでもございませ~ん!失礼致しました、お客様!」

「ちょっと気になることがあってね?」

「はいっ、なんでもどうぞ!」

「よく見かけるフロントクラークの方が、今朝から見かけないので、ちょっと気になってね?休みかな?」

「それはもしかして、お客様とお孫さんの話をした者ですか?」

 

アガタは、アデリーナからアダルベルトのことを聞いていたので、きっとそうだろうと聞いてみた。

 

「そうだね。何かご存じかな?」

「実は、ちょっと今、お休みをいただいている最中でして」

「体調でも悪いの?」

「まあ、悪いと言えばそうなのか、はたまた、そうではないのでしょうか・・・」

 

アガタの下手なはぐらかし方が、かえってアダルベルトに心配を抱かせてしまうような状態だった。

 

「そうなんですか。それじゃあ、あなたからよろしくお伝えください」

 

アダルベルトは、心配そうな表情のまま、玄関から出ていった。

 

「さすが先輩って人気者ですねぇ。これで朝から二人目ですよ。先輩のこと聞いてきたの」

 

その言葉が耳に入ったのか、アロンソが近づいてきた。

 

「灯里さん、どうします?」

「どうしますと言われても・・・」

 

「先程の話、どう言うことだ?」

「どういうことと聞かれても」

「二人も聞いてきたんだろ、アデリーナのこと」

「アデリーナって、いつから呼び捨てなんですか・・・」

「なに?」

「い、いえ、なんでもありません!」

 

アガタが横を向いてしまったので、灯里は代わりに話を続けようとした。

 

「あの~」

「なんですか?」

「そのアデリーナさんのことを聞いてきたお客様のことなんですが」

「何かあるんですか?」

「いつもこのロビーで見かけるのに、今朝から見えないということで、お聞きになってこられたということです」

「わざわざ?」

「お二人ともここへこられた時に、アデリーナさんと接点があったようで・・・ですよね?」

 

灯里は確かめるように、アガタの方に顔を向けた。

 

「接点?」

「ご案内をした、ということです」

「それだけで、接点ていうのか?ホテルの従業員なのに?」

 

「先輩は特別なんです!そんじょそこらのフロントクラークと一緒にしないで欲しいです」

 

アロンソはアガタの言葉には反応せずに、ロビーに視線を戻した。

 

「そんなことより、あの女の人は、いったいなんだったんですか?」

「女?」

「あの注射の人です!」

「ああ、あれ」

「あれって言いますけど、私も狙われたんですよ!死んでたかもなんですよ!」

 

アガタは、またもや感情が高ぶってきていた。

だが、今度はちょっと収まりきらないようだった。

 

「あの、アガタさん?」

「大丈夫ですから、灯里さん」

 

「それは大丈夫だ」

「大丈夫って、なんなんですか?」

「食塩水だった」

「食塩水て・・・なんなんですか?」

「別に死にはしない」

 

「そういう問題でしょうか?」

 

灯里から出た言葉に、アガタもアロンソも驚いたように灯里の方を見た。

 

「そういうことではないと思います」

 

「まあ、確かにその通りだ」

「そうですよ!あぶなかったんですから!」

「それは確かに認める」

「そうですよ!認めるって・・・えっ、認めるんですか?」

「あのときは、犯人に逃げられる前に取り押さえることに気をとらていた。アデリーナの言葉がどうしても気になっていたから」

「アデリーナって、また呼び捨て・・・」

「それにあんたに協力を頼んだのはオレだ」

「私は〈あんた〉って呼ぶんだ・・・」

「ん?」

「そうですよ。そうでしたっ!それで結局のところ、あの注射器能面女は、なんなんですか?」

 

 

 

捜査本部にしたホテルの会議室の一角で、関係者の周辺を調査していた専従捜査班のうちの二名とアルフ捜査官は静かに話をしていた。

 

それは、他の捜査員ですら聞かれたくないといった雰囲気が漂っていた。

 

「ヒットしました」

 

捜査員の一人の言葉に、アルフの声のトーンは、いつもより低くなっていった。

 

「そうか。詳しく話してくれ」

 

そう言って、いつも捜査会議に使う部屋の、もうひとつ奥にある部屋に捜査員とともに入り、そっとドアを閉めた。

 

そして、ドアノブのロックを回した。

 

そこにもいくつか並べられていたパイプ椅子のひとつにアルフは、背もたれを前にしてまたぐように腰かけた。

 

「で、誰だ?」

 

「アデルモ総支配人です」

 

その言葉にアルフは少し眉間にシワを寄せた。表情に厳しさが増していくようだった。

 

「それで?何が出た?」

 

「アデルモ総支配人は、このホテルに着任する前、いくつかのホテルの支配人を歴任し、その実力を買われてここに来ることになったということです」

「そんなことはよくある話だ」

「ただ、ある時期だけ経歴が空白になっているんです」

「空白ってなんだ?」

「わからないということです」

「そんなことってあるか?これだけのホテルを任されてるんだぞ?」

「二十年前のある時期だけ、どこで何をしていたかがわからない状態です」

「二十年前?なんでそんな前のことが出てきたんだ?その前後はどうなってる?」

「その前はマンホームのリゾートホテルでフロントクラークとして働いています。そこを辞めた半年後、ホテル・エクセルシオール・ネオ・ヴェネツィアの支配人に就任しています」

「エクセルシオールだと?あのネオ・リド島のか?」

「はい」

「マンホームからいきなりアクアで、しかも高級リゾートのエクセルシオールの支配人?一体どうやったらそんな出世が出来るんだ?」

 

アルフは脂で覆われた顔を、思わず手で撫でまわした。

 

そして、ふぅーと息を吐き出した。

 

「そのマンホーム時代は何か情報はあるのか?」

「残念ながらまだ何も掴めてません。マンホームの国際警察機構とも今後連絡をとっていいく必要がありそうですが、なんせそのホテルは現在水没してしまっているため、詳しい情報を得るのに時間がかかりそうです」

「わかった。マンホームの方はこっちでやっておこう。それでエクセルシオールの方はどうだ?」

「それもこれからになりそうです」

「そうか」

「ただ気になることが一点」

「なんだ?」

「アデルモ総支配人は、そこを半年で辞めています」

「半年?エクセルシオールをか?」

「はい。二十年前のエクセルシオールは、本島から少し離れていることもあって、本島の有名ホテルに比べるとリーズナブルな面がありましたが」

「今のエクセルシオールは、プライベートビーチも備えた、本島にはない本格的なホテルとして有名だ。それにしたってエクセルシオールはエクセルシオールだぞ?」

 

アルフは両腕を背もたれの上で重ねると、そこに顎を乗せて、ため息をついた。

 

「その後の足取りも含めて、引き続き頼む」

 

 

 

アガタのそばにいつの間にかアヴェリーノが立っていた。

 

「わっ!ビックリしたぁー」

「アガタさん、交代です」

「な、なんなんですか、いきなり?」

「しゃべり過ぎとのことです」

「んぐっ」

 

アガタは思わず両手で口を押さえていた。

 

「でも、誰がそんなことを?」

「副支配人です」

「やっぱりそうですか・・・」

 

見るからにうなだれてしまっていた。

 

「灯里さん、しばらくお別れです」

「そんな落ち込まないでください」

「ああ、灯里さんて、やさしいですね~~」

 

「早く行ってください」

 

アヴェリーノが冷たく言いはなった。

 

「言われなくても行きますぅ!」

 

アガタは「ふんっ!」と口をとがらせて去っていった。

 

灯里は、何事もなかったかように正面をじっと見つめていた。

 

だが、本当は気になっているアヴェリーノの方を、横目でチラッと見てみた。

そして、すぐに目線を戻した。

 

「プリマ、らしいですね?」

「あわわわ~」

「違うんですか?」

「あっ、いえ、その通りです」

 

灯里は気まずそうに下を向いた。

 

「大変ですね?」

「あ、あの、お気遣い、ありがとうございます」

「アガタさん、ボクのこと、怪しんでたでしょ?」

「えっ?」

「さっき、カウンターの方をみる目が怖かったから」

「いえ、そんなことは」

「それくらいわかります」

「はぁ」

「ところで」

「は、はい!」

「これからどうします?」

「どうしますというのは、どういう意味なんでしょうか?」

「ブランチ、と言いたいところなんですが・・・」

「はい?」

 

アヴェリーノはメガネの縁に人差し指をあて、そのズレを直した。

 

「犯人のあて、あるんですよね?」

 

アヴェリーノの言葉に、一瞬にして灯里の身体に緊張が走った。



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第二十五話 灯里の一番長い日 午後の再会編

灯里はアヴェリーノの問いかけにギクッとなり、思わずその顔を見つめた。

 

「そんなに驚くことですか?」

 

「だって、いきなりそんなこと言われると、驚くというか・・・」

 

「まあ、確かにそうですね」

 

アヴェリーノは、そのクールな顔にうっすらと笑みを浮かべた。

 

「それで・・・」

「はい?」

「いや、実際のところ、どうなのかなと思いまして」

「はあ」

 

灯里は少し困惑の表情になっていた。

 

「あの、なんでそんなこと、お聞きになるんですか?」

「だってそれは、いまこのホテルで起こっている出来事の、一番の関心事じゃないですか?」

「そう言われると、確かにそうですが・・・」

「別に無理にとは言いませんよ。だって、言いにくい話ではあるわけですから。そこは理解しているつもりです。でも、少しくらいは、信用してほしいけどなぁ」

 

本当にそう思っているのかどうか、アヴェリーノの真意は計りかねるところがあった。

 

「まだ、何もはっきりしていることはありません。それに、私はあくまでも何か気づいたことがあれば、報告するという程度のことだとしか聞いてませんので」

「ふーん、なるほど」

「変でしょうか?」

「変というわけではありません。ただ、灯里さんが考えてるほど、そう簡単ではないのかなぁと、僕は思ってる次第です」

 

アヴェリーノは灯里の方には顔を向けず、前方に視線を向けたまま、淡々とした表情で言った。

 

「ただ、これだけはわかっていてほしいんです。僕は灯里さんの味方だということを」

 

そう言って灯里の方に顔を向けた。

 

「はぁ」

 

灯里は、そのうっすらと浮かべた笑みを、どう受け止めていいかわからず、曖昧な返事を返した。

 

「ところで灯里さん?」

「はい?」

「本当にどうされます、お昼?」

 

灯里は、ロビーに飾られている大きな時計に目を向けた。

11時を少し回ったところだった。

 

「僕は責任上、しばらくここにいます。少し早いけど、今のうちに行かれてはどうですか?」

「そこは、大丈夫なんです。わたしはあくまでも、つけたしみたいなものなので。時間がくれば、いつでもそうしていいと言われているんで・・・」

「そうなんですか」

 

アヴェリーノはそう応えながら、灯里が何かぼんやりとロビーの方に目を向けていることに気がついた。

 

灯里の目線の先を追っていくと、ロビーを歩く一人の女性の姿があった。

 

黒いハーフコートにグレーのパンツ姿、ショートカットの髪型がボーイッシュな雰囲気を醸し出していた。

 

その女性は、ロビーの端の方をエントランスに向かって歩いていた。

 

「あの女性の方が何か?」

 

アヴェリーノの言葉に、灯里はハッと我に返った。

 

「あっ、いえ、その・・・なんて言ったらいいか」

「知ってる方なんですか?」

「ええ、そんなような感じがしたもので」

「それって、本業の方で、ということ?」

「うーん、はっきりとは・・・」

「じゃあ、聞いてみましょうか?」

「えっ、そんなこと!」

「冗談です」

「もう~アヴェリーノさ~ん!」

 

灯里の困った顔を見て笑っていたアヴェリーノだったが、すぐさま耳のイヤホンに人差し指を押し当てた。

 

アヴェリーノの表情が変わり、イヤホンから聞こえる音に集中していた。

 

その時には、アヴェリーノの少し先に見えていたはずのアロンソの姿はすでに消えていた。

 

「灯里さん、ここを動かないで下さい」

 

アヴェリーノの緊張した表情と声が、何かが起こっていることを知らせていた。

 

「どうしたんですか?」

 

「また、起こったかもしれません」

 

「起こったって・・・」

 

その時だった。

 

ロビーにけたたましい非常ベルの音が鳴り響いた。

 

一斉に緊張感に包まれるロビー。

ロビー中にいた多くの人たちは、何が起こったかわからないまま、色めきたっていた。

すると、一気に緊張の糸が切れたように、多くの人たちが出口に向かって走り出した。

 

「最上階で火災が発生したようです」

 

「火事?」

 

「だけど、今すぐどうなると言うわけではなさそうなんです。灯里さん、悪いけど慌てずに外へ向かうよう、声をかけてくれませんか?」

 

アヴェリーノは、出口に急ぐ人たちの群れを見ながらそう灯里に告げた。

 

「は、はい!わかりました!」

 

灯里は他の従業員たちと一緒になって、逃げようとして玄関に集中する人たちにむかって、必死に声をかけた。

 

「そのままゆっくりとお願いします!前の方を押すと危険です!大丈夫ですから!今すぐ危険はないんです!」

 

 

 

 

それは、誰もいないはずの部屋で起こっていた。

 

テーブルの上には焼け焦げた雑誌があった。

 

誰かが意図的に燃やしたとしか考えられなかった。

 

そして、やはり今回も内通者がいることが考えられた。

 

いや、いまやそれ以外考えられない状況だと言えた。

 

だが、目的だけがわからない状態のままだった。

 

アデリーナが襲われ、その犯人の逃亡の手助けをしたと思われるリネン室の女。

 

今度は誰もいないスイートルームでボヤ騒ぎ。

 

唯一はっきりしていたのは、当初の犯行予告の通り、このホテルがターゲットとなっていることだった。

 

アルフ捜査官は、会議室のテーブルを力任せにドンと叩いた。

 

「いったい犯人の目的はなんなんだ?それに、何も要求してこないのはどうしてだ?」

 

アルフのジャケットの内側のポケットの携帯電話が忙しく振動した。

 

アルフはかけてきた相手の名前を確認すると、急いで電話に出た。

 

「うん、ご苦労様。うん、うん、そうか。よくやった。そうだな。そのまま続けてくれ」

 

電話を切ったアルフは、険しい表情ながら、眼光は鋭く光っていた。

 

「繋がったな」

 

その時、アロンソがアルフの前に現れた。

 

「こうなったら、全従業員を調べるべきじゃないですか?」

 

アロンソは、アルフ同様、脂ぎった顔に苛立ちを滲ませていた。

 

「それは今の段階では難しい」

「なんでですか?」

「そんなに時間をかけてられない。それにそんなことをしたら、どこから情報が漏れるかわからん」

「わからんといっても、もう一部のマスコミは嗅ぎ付けているようじゃないですか?そんな悠長なこと、言ってられないでしょ?」

「総支配人から強い要請もある。この時期に変な噂が拡がると、ホテルの信用問題に関わると」

「捜査官?なんでそこまで総支配人に協力するんですか?既にひとり、怪我人が出てるんですよ?」

「お前の言っていることは、十分わかっているつもりだ。だが、ここで目立った動きをすることは、犯人の思うツボたど思わんか?」

「どういうことですか?」

 

「これまでの状況で、犯人は複数であることがわかってきた。そして、ホテルそのものがターゲットだということもだ」

「つまりそれは、目的がわかったということですか?」

「そうだ。ホテルの中で騒ぎを起こすということは、何か別に特別な目的があるのではなく、それ自体が目的だからだ」

「騒ぎを起こすことが?」

「おそらくそういうことだ」

「それなら、人を襲うことなんかしなくても・・・」

 

アロンソは苦い表情で、唇を噛んだ。

 

「そこは確かに疑問が残るところだ。だが、騒ぎをおこすことが目的なら、つじつまが合う」

「どういうことですか?」

「騒ぎが次々起こると、そのホテルは何か問題を抱えているのではと、世間はそういった印象を抱くだろう。それで困るのは誰だ?」

「アデルモ総支配人」

「ビンゴ」

 

アルフはパイプ椅子に腰かけると、ふぅーと息をついた。

 

「中で起こったことを外へ絶対に漏らされたくない。そこにこだわり続けたのは総支配人だ。ホテルの信頼性が関わるからというのも理由としては理解できる。だが、それだけではなさそうなんだ」

「何か掴んだんですか?」

「あの、能面注射器女なんだが」

「捜査官、その言い方・・・」

 

 

 

消防車や警察車両がホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーの周辺を取り囲んでいた。

 

騒然とした雰囲気に包まれた中で、宿泊客やホテルにやって来た訪問者たちは、その周りで心配そうに見届けるしかなかい状況だった。

 

ロビーに集合していた従業員たちは、このあとの対応をどうするかに時間を費やしていた。

 

ロビーには各部屋から避難してきた客の一部が、まだそのまま残って、推移を見届けていた。

 

灯里は、従業員の一団とは離れて、心配そうにロビーを歩き回っていた。

 

ロビーのソファーに腰かける客たちをひとりひとり確かめるよう歩いていた。

 

「灯里さん、どうしたのですか?もうすぐ総支配人が来るようですよ」

 

その様子に気がついたアヴェリーノが、灯里のあとを追いかけるようにして声をかけてきた。

 

「アヴェリーノさん、知りませんか?あのお客様」

「誰ですか?」

「あの、おばあさんです」

「おばあさんて、誰?」

「私が部屋までご一緒した方なんですけど」

「部屋はどこですか?」

「5階の502号室です」

「確かに、そんな人がいたっけかな?僕がフロントに入る前の話だね」

「そうなんですが、この騒ぎで、どうされたのかと思って」

「で、心配で探しているというわけなのか」

 

それを聞いたアヴェリーノもロビー中を見回したが、それらしい人の姿は見えなかった。

 

「外に避難したんじゃないの?」

「でもわたし、ずっとロビーにいました」

 

灯里は心配でどうしようもないといった表情だった。

 

「私、行ってきます」

 

そう言うと、灯里はすぐさま階段をかけ上がって行った。

 

「灯里さん!まだ警察の調べが終わってないっていってたよ!」

 

 

 

灯里は、少しだが焦げ臭さが漂う階段をかけあがり、5階の廊下までやってきた。

 

502号室のドアの前までやって来ると、息を切らしながらドアを叩いて呼び掛けた。

 

「お客様、いらっしゃいませんか?大丈夫ですか?」

 

灯里は何度も繰り返し呼び掛けたが、何の反応もなかった。

 

「やっぱり、もう外へ避難されたのかなぁ」

 

ドアの外でしょんぼりしていると、廊下の先の方で人の気配を感じた灯里は、そちらに目を向けた。

 

黒の帽子に黒のジャンパー、そして黒のズボン姿の人間が、そこに静かに立っていた。

顔を大きく覆った黒いマスクで、その表情は見えなかったが、余裕の表情でいることがわかるような様子だった。

 

灯里は、その人物がその場にいることがとても不自然に思えるくらい、異様な光景に見えた。

背筋が凍るような感覚に襲われ、その場を一歩も動けない状態に陥っていた。

 

だがその姿を見ていて、直感的にあることを思い出していた。

 

「もしかして、あなたがあの時の・・・」

 

その黒づくめの男は、黒い革の手袋を着けた右手を顔のそばまであげ、灯里に向かって何かを見せようとしていた。

 

「お嬢さん、これが必要なんじゃないかな?」

 

男は、灯里にわかるようにその手に持っているものを、ちらつかせてみせた。

 

「もしかして、カードキー?」

 

「正解です」

 

そう答えると、黒づくめの男はゆっくりと灯里の方に向かって廊下を歩きだした。

 

灯里は、その男の姿に魅入られたように、身動きひとつ出来ずに立ち尽くしていた。



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第二十六話 灯里の一番長い日 来訪者編

少し焦げ臭い匂いが漂う5階の廊下で、灯里は黒ずくめの男と遭遇していた。

 

502号室に宿泊しているはずの老婆を、ボヤ騒ぎの中、心配してやって来た灯里だったが、部屋の中からは何の反応もなく、ドアの前で立ち尽くしているときだった。

 

黒ずくめの男は、手に持っていたカードキーを灯里に見えるようにちらつかせると、そのまま廊下を歩きだした。

 

灯里は、その姿に魅入られたように、そに場にじっと立ち尽くしていた。

 

黒ずくめの男は、落ち着き払った様子でゆっくりと近づいてくる。

 

すると、階段をかけ上がってくる音が聞こえてきた

 

灯里はその音を聞いて、ハッと我に返った。

反射的に顔を階段の方に向ける。

 

だが、黒ずくめの男は、灯里の想像をはるかに越えて、いつの間にか灯里のそばに立っていた。

 

驚きで声も出せない灯里。

 

だがそこで、意外な言葉を耳にすることになった。

 

「この辺で手を引いてくれませんか?」

 

「えっ」

 

男の口調は、その場には似つかわしくないぼど、穏やかでやさしかった。

 

「あなたには関係のないこと。だから罪はこちら側にあると理解している。その上でお願いしたい」

 

灯里には何を言われているのか、皆目見当がつかない話だった。

 

「あの、何をおっしゃっているのか、わからないのですが・・・」

 

「君がここまで献身的な人だとは思わなかった。ホテルにまでやってくるとはね」

 

「私はただ、このネオ・ヴェネツィアがこれまでと変わらない、いつでも安心して来られる場所にしたかっただけです。そのために協力できることがあればと」

 

「そういうことだったんだね」

 

黒ずくめの男の目は灯里を凝視した。

それはまるで、灯里の真意を確かめているようだった。

 

「灯里さん!離れて!」

 

階段をあがったところにアヴェリーノが立っていた。

 

その姿を見た男は、意外な言葉を呟いた。

 

「総支配人には気をつけるんだ。その親近者も」

 

アヴェリーノが動き出そうとした瞬間、黒ずくめの男は灯里の前から消えていた。

 

「灯里さん、大丈夫ですか?」

 

「私は大丈夫です」

 

廊下の角を曲がる男の姿が、チラッと見えた。

 

「灯里さんはロビーに戻っていて下さい」

 

そう言い残してアヴェリーノは黒ずくめの男のあとを追いかけた。

 

「どういうことですか?」

 

灯里は走り去るアヴェリーノの後ろ姿を見送りながら、ポツリと呟いていた。

 

 

 

一旦ロビーに戻ったあと、502号室のカードキーをフロントで受け取った灯里は、戻ってきたアヴェリーノと一緒に502号室へと入った。

 

中には誰もいなかった。

 

部屋の中はきれいに片付けられていて、いつでも出立できるような感じだった。

 

「アルビーナ婦人は、どこに行かれたんだろう?」

 

「あの方のお名前、アルビーナさんておっしゃるんですか?」

「そうですけど。灯里さん、知らなかったのですか?」

「ええ、実は・・・」

 

灯里は気まずそうに、うつむき加減に答えた。

 

「なんだか気があってしまって、そのままになっちゃったんです」

 

アヴェリーノは難しい表情で腕を組んだ。

 

「アルビーナ婦人も見当たらない。黒ずくめの男も逃げられてしまった。一体どういうことなんだろう」

「あの、黒ずくめの人」

「何?心当たりがあるんですか?」

「いえ、なんとなくそう感じただけなんですけど」

「どういうこと?」

「私が最初に目撃した・・・」

 

「灯里さん、おしゃべりはそこまでだ」

 

二人が振り返ると、アロンソがそこに立っていた。

 

「それは今後の捜査に重要な証言となる。訳のわからない男と軽はずみに話さないで欲しい」

「訳のわからない・・・」

 

「いくら刑事さんでもその言い方はないでしょ?」

 

アロンソはアヴェリーノの言葉を無視するように、灯里に一緒にくるよう促した。

 

「アヴェリーノさん、すみません。私は協力するとお約束したので」

 

「わかってます。灯里さんは気にしないで下さい。それよりも、そいつ・・・」

 

気まずそうに振り返る灯里の背中を押すようにして、アロンソは振り返ることなく歩き出していた。

 

 

 

 

「灯里くん、ご苦労だったね」

 

アルフ捜査官は、アロンソと一緒にやって来た灯里にそう言葉をかけると、いつものパイプ椅子に腰かけるよう言った。

 

少し離れた椅子にアロンソは座った。

 

「さっそくだが、灯里くんが見たこと、話してくれないかな?」

 

「はい」

 

灯里はボヤ騒ぎをロビーで知ってから、黒ずくめの男と遭遇したところまで、出来るだけ思い出せるところまで詳しく話した。

 

「つまりその黒ずくめの男は、はっきりと総支配人と言ったんだね?」

「はい」

「そして親近者にも、と」

 

「それと気になるのが〈こちら側〉と言っていたことだ」

「複数犯ということか」

「見当はしていたが、そういうことだな」

 

「あと・・・」

 

「どうした?」

「あの黒ずくめの人なんですが、あの時の人だと思うんです」

「あの時の?」

「はい。あの時、あの夕暮れの時間にゴンドラにお乗せしたあの人」

「つまり、一番最初に灯里くんが目撃した、黒ずくめの男だな?」

「はい、そうです」

「どんな印象だった?詳しく話してくれ」

 

灯里は、ゆっくりと、その時の印象を思い出すように話していった。

 

「とても紳士的な方でした。人を傷つけるようには思えない、優しくて穏やかな印象でした。それは最初に会ったときと同じ印象でした」

 

「だが、身体ひとつであんたの前に現れた。話を聞いていると、とても大胆な登場の仕方だ」

 

アロンソは灯里の話が信じられないといった口調だった。

 

確かに廊下に現れた時の印象は、高級ホテルの廊下には似つかわしくない姿に、脅威すら感じるくらいだった。

 

だが、近づいた男は意外にもそんな最初の印象とはまったく正反対といってもいい、紳士的だった。

 

「というか、そもそも何が目的だったんだ?考えたら、そんな現れた方はリスクが大きすぎる。下手をしたら捕まってしまう」

「ということは、何か特別な理由があった?」

 

二人が考え込んでいるとき、灯里はふと上の方に向いた。

 

「あっ、それと」

「まだあるのか?」

「すみません。少しずつになってしまって」

「いや、かまわないですよ。何でも言ってくれたまえ」

 

「アルビーナ婦人がいなかったんです」

 

「アルビーナ婦人?誰だ?」

「例の老婆です」

「あの、ロビーで一緒になった、灯里くんが部屋までつれていった、あの老婆だな?」

「そうです」

「それが?」

 

「あのボヤ騒ぎのとき、わたし、ロビーにずっといたんですけど、全然みかけることなかったんです。それで心配になってお部屋まで確かめに行ったんです」

 

「そのアルビーナ婦人はおらず、代わりに黒ずくめの男と遭遇することになったと」

 

「それと、カードキー」

「カードキーとは?」

「その黒ずくめの人が私にわかるように見せたんです」

「その部屋の、ということか?」

「そこまではわからないですけど」

 

アルフは「うーん」と唸るように苦い顔になった。

 

「確かにタイミングが良すぎる。この前、ロビーに黒ずくめの男が現れた時も、そのアルビーナ婦人はいた。しかもその時も灯里くん、君もいた。」

 

アルフは灯里に、無理をせず、一旦帰るようにと告げた。

だが、灯里はホテルがまだ大変な状況にあるからと、もう少し様子を見てからと答えた。

 

だが実際は、灯里が事件そのものに深く関わり始めていると感じたアルフが、その危険性を心配していたからだった。

 

なぜ黒ずくめの男は、灯里に総支配人のことを告げる必要があったのか。

 

それは、灯里と総支配人を接触させたくない何かがあるからなのか。

 

 

 

「これで大分と見えてきたな」

 

「アデルモ総支配人には、過去に何か恨みを買うようなことがあって、その報復としてホテルが狙われた。残念だが、アデリーナはその巻き添えを食らった可能性がある」

「巻き添えですか?」

「アデリーナは、アデルモ総支配人の肝いりで抜擢された逸材だ。それにアデリーナは、若いが優秀で様々なことに気配りができる。もしかしたら、わからないうちに地雷を踏んでいたのかもしれない」

 

「それではつじつまが合わない」

「どこがだ?」

「犯人の動機が総支配人への恨みで、それでホテルをターゲットにしているのなら、なぜ犯人捜しに協力している灯里さんにあんなことを言ったんだ?」

「確かにそこは引っ掛かるな。それじゃあまるで、総支配人こそが犯人だと言わんばかりだ」

「総支配人が犯人・・・」

 

アロンソの何か思い付いたような表情にアルフは不安を感じていた。

 

「バカなことを考えてないだろうな」

「もう一言付け加えてましたよね?」

「親近者か?」

「それと、あのリネン室の」

「能面注射器女」

「気に入ってるんですか、捜査官?」

「アガタくんのワードセンスはいい線いってると思う」

 

アルフはニヤリと笑ってみせた。

 

「アデルモ総支配人が過去にいたホテルで接点があった」

「あれはかなり恨みを買っているな」

「でも犯人との接点がまだはっきりとしてない。しかもホテルの従業員として正式に登録されている」

「でも注射器を持ち出したのは確かだ」

「また、そこですか?」

「いやいやそこは冗談ではなく、アガタくんが危険な目に遭ったという事実だ」

「まあ、それは確かにそうですけど・・・」

 

「とにかくだ。犯人も含めて、このホテルに関わる人物たちには、まだまだ裏がありそうだ」

「裏か・・・」

「おい、何を思いついたんだ?」

 

 

 

消防や警察の現場検証が終わり、騒然としていたホテル内も、少しづつだが落ち着きを取り戻していた。

 

当然、ボヤ騒ぎとホテルの脅迫事件とは関連付けられずに終了した。

 

さすがにアデルモ総支配人は、まさに火消しに回っていた。そして、従業員たちにも戒厳令を強いた。

 

だが従業員たちの中に不安が広がり始めていた。

 

それは情報が外に漏れるのも時間の問題だと言えた。

 

 

灯里は、アデルモ総支配人から無理せず帰るように声をかけられていた。

 

アルフ捜査官からも同様のことを言われていたこともあったが、ホテルの現状を考えると自分だけ帰ることは、灯里にはできなかった。

 

それにアデリーナが抜け、アガタもすでに帰宅してしまっている。

 

アヴェリーノは二人が抜けたフロントをカバーするのに必死だった。

 

灯里は、自分の顔を両手でパンと叩くと、「よし!」と気合いを入れ直した。

 

その時、玄関の扉が開き、エントランスにサングラスをかけた女性客が姿を現した。

 

しかし、その女性は回りをキョロキョロ見回し、誰が見ても挙動不審に見える姿をしていた。

 

灯里は、何か困っているのかと思い、その女性客の方に近づいて行った。

 

だが近づいてくる灯里の姿を見るや、ロビーの端の方へと離れて行く。

 

「なんだろう、あの人」

 

立ち止まりドギマギしているところに灯里は声をかけた。

 

「あのー、お客様?」

「は、はい?」

 

明らかに驚いたその客は、その勢いで思わずサングラスを床に落としてしまった。

 

「あっ、サングラスが」

「あ、いや、その、えーと」

 

両腕を動かして、顔を見られまいと必死に隠そうとしている。

 

それを横から覗きこんだ灯里は、目を大きく見開いて、まじまじと見つめた。

 

「わちゃ~見っかっちゃったぁ!」

 

「どうしたんですか?」

 

「いや、どうしたんですかと聞かれても。まあ、これには色々と事情と言うものがありましてですね?」

 

「事情?」

 

「ええ、まあ」

 

「もしかして」

 

「はい?」

 

「休暇ですか?」

 

「えっ?」

 

「あゆみさん!」

 

あゆみ・K・ジャスミンは、赤いニット帽にボーダーのセーターという出で立ちで、気まずそうに、頭をかいていた。

 

「うちって、そんな感じに見えるっすか?」



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第二十七話 灯里の一番長い日 来訪者編 2

「あゆみさん、どうされたんですか?」

 

灯里は、ばつが悪そうに頭をかいているあゆみの顔を覗きこんだ。

 

赤いニット帽に赤白のボーダー柄のセーター姿のあゆみは、苦笑いの表情で立っていた。

 

「いやー、こんなはずじゃなかったのになぁ」

「一体何があったのですか?」

「うーん、いやぁ、そうだねぇ」

「はい?」

「こりゃ無理だわ!お嬢!降参です!」

 

あゆみは頭のニット帽を取った。

そして、ボサボサの髪を直しながら、やれやれといった調子で息をついた。

 

「ふぅ~」

「あの、あゆみさん?」

「あー、わるいわるい。かえって迷惑かけちゃったかなぁ」

「別に迷惑はかかってないと思いますけど・・・」

 

灯里はチラッとまわりに視線を巡らした。

 

幾人かのベルボーイが不審な目をこちらに向けていた。

明らかに怪しんでいる。

 

「いやぁ、実は灯里さんの様子を見てきてくれって頼まれましてね」

「頼まれた?誰にですか?」

「誰にですかって、灯里さん?ウチがここにいるわけですから、誰だかわかりそうなもんですけど」

「もしかして、藍華ちゃん?」

「その通りです。というか、それ以外ないっしょ?」

「まあ、そうですね」

 

灯里は苦笑いで応えるしかなかった。

 

「なんか、ホテルが大変そうだということを聞いて、いてもたってもいられないー!ってなって、それでこうなったというわけです」

「わかるような、わからないような・・・」

「つまり、自分じゃ行けないから行ってこい!ってなったわけっす。ほんとお嬢には困ったもんですよ」

「はぁ」

 

「要は、こないだのARIAカンパニーでの一件があったばかりでしょ?行きづらいっていうわけなんですけど、じゃあウチはどうなるんすかって言ったんですよ」

「藍華ちゃんは、なんて?」

「あんたはどうにでも食っていけるから大丈夫でしょ?だって。そんなのあります?」

「はぁ」

「だから言ってやったんですよ。お嬢が面倒見てくれるんなら、いいっすよって」

「はぁ」

「そしたら、あっさりと〈いいわよ〉って言うもんだから。そうなったら、断れないじゃないすか?」

「はぁ」

「なんか、ずるくないっすか?」

「はぁ」

 

あゆみは、そんなことを言いながら、ロビーの中を見回していた。

 

「それで、どうなんすか?」

「うーん」

「なんかあるの?」

「えーと」

「難しそうですね」

 

あゆみはそう言いながら、ちょっと怪訝な表情になった。

 

「なんか、ウチの勘違いかもしれないけど」

 

周りをチラチラと見回した。

 

「さっきから、なんか見られてるような感じがするんです。気にせいなのかなぁ」

 

〈あゆみさんの勘は当たってます〉

 

灯里は心の中だけで呟いておくことにした。

 

すると、あゆみが玄関の方にじっと目を向けた。

 

「あれぇ、まさかとは思うけど・・・」

 

そう言うあゆみの言葉を聞いた灯里も玄関に目を向けた。

 

そこには、サングラスをかけた女性が、何事もなく、すまし顔でロビーを見渡していた。

 

だが、その仕草は、何かを見つけようとして、必死な感じに変わっていた。

 

すると、今度は片手でサングラスをずらして、ぐっと目を凝らして見始めた。

 

「どこ?どこなの?」

 

その様子を見たあゆみは、大きなため息をついた。

 

「なんで来るんですか?それなら頼まなきゃいいんですよ、もう~」

 

「えっ、あれってやっぱり?」

 

キョロキョロ見回していたその女性は、灯里とあゆみの姿を見つけるなり、すっとサングラスをかけ直し、二人のいるところに向かって歩き出した。

 

「灯里、どうなの、調子は?」

 

藍華はサングラスを目の下にずらした。

 

「ねえ、藍華ちゃん?」

「ナニ?なんかあった?」

「今って、サングラス流行ってるの?」

 

ドタッ

 

「あんた何言ってんの?」

「だって、あゆみさんに藍華ちゃんでしょ?そうなのかなぁと思って」

 

その横であゆみは腰に手をおいて、違う方向に目を向けていた。

 

「あゆみ、ご苦労様。どんな感じ?」

「どんな感じも何も、今来たところなんですから」

「えっ、今来たところなの?なんで?」

「だって、トラゲットやってたら、いきなり代わりのウンディーネがやって来てですよ、ホテルの様子を見てくるようにって。いきなりですよ?灯里さん?」

 

「私はなんて言ったらいのか・・・」

 

「あんた、だからそんな格好なの?」

 

藍華はあゆみの格好をまじまじと見つめた。

 

「そんなことはいいんです!そんなことより、お嬢!来るんなら、ウチはいらなかったっしょ?」

「まあ、そこはあれよ。ひとりよりふたりのほうが灯里も安心するのかなって思ったのよ!」

「それって、お嬢がでしょ?」

「そんな、核心をつくのはやめなさい!」

 

「まあまあ」

 

灯里は困った顔でふたりの間に入った。

 

「あんまり大きな声を出すと、不審に思われるから」

 

藍華はギクッと肩をすくめた。

 

「お嬢は前科がありますからね」

「ちょ、ちょっと!それをゆうならあんたもでしょ?」

「ウチはお嬢の言いつけを守っただけですから」

「この子、今になって裏切る気?」

 

「藍華ちゃん?会話がホントにおかしくなってる!」

 

藍華がにらんでる横で、あゆみは涼しい顔でロビーを見回していた。

 

「藍華ちゃん?それでどうするの?」

 

藍華はちょっと心配そうに灯里の顔を見た。

 

「灯里、あんたは大丈夫なの?」

「うん、なんとか」

「あのさぁ、ウチは結構老舗だから、いろんな情報が入って来るのね。最近になって、あんまりいい話を聞かないのよね、このホテル。それに・・・」

 

藍華は周りを伺うように視線をめぐらした。

そして、前屈みになり、小声で話し始めた。

 

「怪我人が出たって話、ホント?」

「う~ん」

「ボヤなんかもあったって」

「藍華ちゃ~ん」

 

灯里の困った表情を見て、藍華はすっと姿勢を戻した。

 

「わかった。もう聞くの、やめにする。だけどこれだけは約束して?危ないことはやめてね。絶対よ!」

 

藍華はそう言って、あゆみを引っ張って行こうとした。

 

「ええー!もう帰るんすか?」

「あんた、ビビンバ好きでしょ?行くわよ!」

「ウチ、最近、ネギ塩豚骨ラーメンにはまってるんですけど・・・」

「ネギ塩とん・・・あんた、普段なに食べてんの?」

「ダメすかねぇ」

「なんでも食べればいいでしょ!」

「さすが!お嬢ー!」

 

ロビーには、ビビンバとネギ塩豚骨の言葉が響いていた。

 

 

灯里はロビーの中央付近に戻ってきた。

 

そこで、すでに立っていたアロンソと目が合った。

 

灯里が気まずそうにうぃていると、距離を保ったまま、さりげなく話しかけてきた。

 

「にぎやかですね」

「す、すみません。お騒がせしました」

「ちなみに俺は味噌醤油豚骨・・・」

「ちょ、ちょっと、待ってください!」

 

灯里は、アロンソのラーメンの好みの味を遮るようにした。

 

玄関から緑色の長い髪の少女が、またもやサングラスをかけた姿で現れた。

 

「またサングラス・・・」

 

ふわふわの襟の少し短めのコート、膝丈のスカートに茶色いブーツを履いて、頭にはかわいい山高帽を被っている。

 

まるでマンホームで古くから伝わる北欧の人形のような姿だった。

 

だがその少女は、灯里の存在に気がつくと、慌てたように近くのソファーに座った。

 

灯里がその少女の方に歩き始めると、すっと立ち上がり、離れた別のソファーへと移動した。

 

また灯里が近づこうとしたとき、また立ち上がろうとした。

が、タイミング悪く、間に合わず、その場でキョロキョロしていた。

 

「あのー」

「はい!なんかご用ですか?」

「それ、私が言うセリフだよ、アリスちゃん!」

 

アリスはぎょっとして固まってしまっていた。

 

「だ、だ、だ、だれのこと、おっしゃっているのですか?」

「もちのろん、アリスちゃんだよ」

「先輩、その言い方・・・あっ!」

「もう、わかっちゃってるし」

「そんなぁ~」

 

アリスはサングラスを取ると、力が一気に抜けたようにソファーに座り込んだ。

 

「アリスちゃん、どうしたの?」

「灯里先輩、いつわかりました?」

「うーん、ホテルに入ってきたところからかなぁ」

「じゃあ、最初からじゃないですか?」

「そうなるね」

「なんなんですかぁ~」

 

「お休みなの?」

「別にお休みではありません」

「じゃあどうしたの?」

「噂のホテルの様子を拝見しに来たんです」

「もう噂になってるっていうこと?」

「もうってどういう意味・・・灯里先輩、何かあったんですか?」

「あっ、ゴメン、アリスちゃん。そこは聞かなかったことで。エヘヘヘ」

「もう!先輩は、ごまかすの下手すぎです!」

 

アリスは、そこで被っていた帽子を取り、サングラスを外した。

 

「とりあえず安心しました。先輩が無事だったので」

「アリスちゃん、ゴメンね。心配かけて」

「そんなことはいいんです。それより聞きましたよ。藍華先輩のこと!」

「藍華ちゃんのことって、どれ?」

「どれって、どういう意味ですか?なんかいろいろやらかしてるってことですか?」

「やらかしたのかなぁ、やっぱり」

 

「わたし、言ったんですよ。灯里先輩におせっかい焼かないほうがいいんじゃないかって。藍華先輩が張り切りすぎると、なんかやらかすんじゃないか心配だって」

「アリスちゃん?もうすでにやらかしたあと、なんだよねぇ~~」

「やっぱりですか?はぁ~」

 

灯里はARIAカンパニーでの一件を説明した。

 

アリスは聞いていた話以上にやらかしていたことにため息をついた。

 

「それじゃあまるで、灯里先輩が幽霊みたいじゃないですか?」

「藍華ちゃんは、藍華ちゃんなりに協力したかったみたいなの。だから、そこはうれしく思ってる」

「もう!先輩はやさしすぎますよ」

「そうかなぁ」

 

 

「それでどうするの?」

「先輩の顔も見たことですし、もう帰ります」

「もう帰るの?藍華ちゃんもすぐ帰っちゃったんだよ」

「来たんですか、藍華先輩?」

「うん、来たよ。あゆみさんも一緒だった」

「あの人、人にはカッコのいいこというくせに、結局はひとりで来れないんじゃないですか!」

「アリスちゃん?前にも言ったと思うんだけど、藍華ちゃんは一応先輩なわけだし・・・」

「もちのろん、知ってます!」

「言っちゃった」

 

アリスは帰り際、振り返って灯里にやさしく微笑んだ。

 

アリスの思いやりに胸がじーんとする思いの灯里だった。

 

と言いつつも、ちょっと疲れたようなため息を灯里は、思わず漏らしていた。

 

「みんな、心配してくれて、ほんとにありがとう。でも、こうも立て続けに来られると、ちょっと疲れるかも」

 

灯里は、思わず苦笑いになっていた。

 

少し一息ついたところで、またアロンソが話しかけてきた。

 

「友達?」

「はい、そうなんです。みんな心配してくれて」

「わざわざ様子を見に来た」

「そうなんですぅ~」

 

「でも正直言って、あまり騒がしいのは」

「申し訳ありません」

「まさか、あれも違うよね?」

「えっ?」

 

正面玄関から入ってきた女性は、両手でサングラスを押さえながら、ロビーの中をぐるぐる見回していた。

 

だが、胸元から肩にかけて肌を見せたドレッシーな服装ながら、そのゴージャスな雰囲気とはちぐはぐな不審な行動をみせていた。

 

そして、灯里と目が合った瞬間、思わずその場で声をかけてきた。

 

「灯里ちゃ~ん!アリスちゃん、見なかった?」

 

「はひっ!」

 

すると、その背後から、またサングラスをかけた女性が姿を現した。

 

「おまえ、何考えてんだ!いきなり話しかけてどうするんだ?」

 

黒髪ロングの、バチッとカッコよく決めたパンツスタイルが、なおいっそうカッコよく見せていた。

 

「あ、あの~~お二人揃って、どうしたんでしょうかぁ~~~?」



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第二十八話 灯里の一番長い日 来訪者編 3

灯里の目の前に現れた女性は、少しポーズを決めて話しかけてきた。

 

「あの~、フロントクラークさん?とってもかわいい女の子を探してるのだけど、見かけたりしなかったかしら?」

 

先ほどまでの怪しげな態度とはまったく違う、余裕のポーズを決めていた。

 

「あ、あの~、アテナさんですよね?」

 

「ええ~~、なんでわかったのぉ~~?灯里ちゃ~~ん!」

 

「なんでと言われても・・・」

 

灯里は苦笑いするしかなかった。

 

すると、その後ろから黒髪ロングの、上下白のスーツスタイルでビシッとカッコよく決めた女性が現れた。

 

「おまえはバカか?」

「ちょっと!いくら晃ちゃんでもそれはヒドイわよ~~!」

「だからぁ、なんでいきなり名前で呼ぶんだ?」

「だってぇ~~」

 

晃はサングラスをはずすと、アテナの横に並んだ。

 

「一体、これのどこがお忍びなんだ?バレバレじゃないか!」

「そんなこと言ったって、灯里ちゃんがいたから、つい声をかけちゃったのよ。悪い?」

「もういい!お前とは二度とこんなところには来ないからな!」

 

「まあまあ、そんなこと言わないで下さい」

 

灯里は思わず間に入っていた。

 

「ほらぁ~」

「何がほらぁ~だ?」

「灯里ちゃんは、ちゃんとわかってるのよねぇ~」

「だから、何が言いたいんだ?」

「私がわざと分かりやすいように、声をかけたことよ」

「お前は、ただのドジッ子なだけだろ?」

「ちょっと、晃ちゃん!人前でなんてこと言うの?まるでこの私が、いつもドジばかりしてるみたいでしょ?」

「違うのか?」

「もう~~~」

 

「あの、お取り込みの途中で申し訳ありませんが、そろそろご用件をお願いできますでしょうか?」

 

「そうだったな。灯里は仕事中だった。邪魔してる場合じゃない」

「そうよねぇ。灯里ちゃんは今、大変な状況にいるのよね」

 

「それでお二人がそろって来られたわけは、どういうことなんでしょうか?」

 

「灯里、それは違うんだ」

 

「違う、と言いますと?」

 

「それはね、つまり、ふたりじゃないということよ」

 

「お二人じゃない、ですか?」

 

すると、晃とアテナが玄関の方に目線を移した。

 

「やっとお出ましか?」

「そうみたいね」

 

玄関の扉をドアボーイが両側から開けたところに、その人は登場した。

 

キレイにウェーブのかかった金髪の長い髪、肩からジャケットをはおり、タイトスカートで歩くその女性は、黒いサングラスがとてもクールに一段と美ししさが増しているようだった。

 

少し視線を横に向けながら、ハイヒールの靴音をロビーに響かせ、ゆっくりと三人のところに向かって歩いてくる。

 

「あ、あのー、もしかして・・・」

 

「なんだ?あいつ、なんかの撮影のつもりか?」

 

「カッコいいー!」

 

その女性はようやく三人のまえにやって来ると、ゆっくりとサングラスを外した。

 

「灯里ちゃん、ご苦労様♡」

「アリシアさん!」

 

「その勿体ぶった登場はなんなんだ?」

「アリシアちゃん、すごくイイ!」

 

「ありがとう、アテナちゃん。アテナちゃんもとってもキレイよ」

「ありがとう、アリシアちゃん!」

 

「晃ちゃんもカッコよく決まってる」

「そ、そうか?」

 

「あのー、ところで、さっきから聞いてるのですが、水の三大妖精の三人が集まって、一体どうことなんですか?」

 

「どういうことって、それは決まってるじゃない?陣中見舞いよ」

 

「陣中見舞い?」

 

「そうよ。灯里ちゃんが頑張ってるでしょ?だから、応援してあげたくなっちゃった♡」

 

「ついでにね、みんなでごはんを食べようとなったってわけ」

 

「それは、アテナ、お前が行きたい行きたいってうるさく言い出したからだろ?」

 

「そんなことないわよ!晃ちゃんだって、結構ノリノリだったわよ!」

 

言い合っているふたりの間で、アリシアはニッコリと微笑んだ。

 

「つまりね、みんなで灯里ちゃんを励ましてあげようとなったってことなの」

 

「そうだったんですか」

 

「お邪魔だったかしら?」

 

アテナが気を使うように聞いた。

 

「うれしいです!先輩方にわざわざ来ていただけるなんて、うれしいに決まってます!」

 

「そうか。それはよかった。来たかいがあったというものだ」

 

晃は、両手を腰において、ニッコリとほほえんで見せた。

 

「それで、皆さん、なんでそんな格好を?」

 

「これはね、みんなでホテルに合った格好にしようと考えたんだけど」

 

「私とアテナはまだしも、アリシア?お前のコンセプトはなんなんだ?」

 

「私はもちろん、大事な後輩の様子を見に来た、憧れの上司Aよ」

 

「自分で憧れって言うか?」

 

「なるほど」

 

「何がなるほどなんだ、アテナ?」

 

「だって、灯里ちゃんの元上司で、名前はアリシア。だから、上司A、でしょ?」

 

「アテナちゃん、大正解♡」

 

「だからぁ、ホテルだって言ってるだろ!」

 

 

 

 

晃とアテナは、先にレストランへ向かった。

 

灯里とアリシアは、ロビーの一角にあるソファーに向かい合うように座っていた。

 

「いろいろと話は聞いてるわ」

 

アリシアはサングラスをポーチにしまい、改めて灯里の顔を眺めていた。

 

「心配していたの。でも元気そうでよかった」

「はい。なんとかやってます」

「みんなも灯里ちゃんのことを心配しているわ」

「はい」

 

灯里は、それぞれがホテルに姿を現したときのことを思い出していた。

 

みんな忙しい身なのに、時間をさいてやってきていたのだった。

 

「アリシアさん、もしかしたら私の考えって、わがままだったのかなぁって思ってたんです」

「ううん、そんなことないわ。灯里ちゃんの思いは、みんなも同じなんだと思う。そう、それはネオ・ヴェネツィアへ思い。みんなにとっても大事なこと。だから、灯里ちゃんの勇気を、みんな尊敬してるのよ」

「尊敬なんて・・・」

 

「でもね、灯里ちゃん?」

 

穏やかだったアリシアの表情が真剣な表情へと変わった。

 

「はい?」

「無理しないでね、絶対に」

「アリシアさん」

「これだけは約束して。お願いだから」

 

アリシアの心配そうな顔を見て、灯里はアリシアに向かってしっかりと応えた。

 

「はい。わかりました」

 

すると、アリシアはほっとした表情で、ソファーに深くもたれかかった。

 

「灯里ちゃんの顔を見れたかしら?なんだかお腹がすいてきちゃった♡」

 

「アリシアさ~ん?私の顔って、お腹すくんですかぁ~~?」

 

「あらあら♡」

 

 

 

会議室のひとつ、モニタールームでアルフ捜査官は、ロビーを写し出していた画面から目を離した。

 

そして壁際にあるパイプ椅子に腰かけ、目頭を指でギュッと押した。

 

「灯里くんは、多くの人たちから慕われてるんだな」

 

そして、もう一度モニターに目を向けた。

 

「それに比べると、アイツはどうしたもんだろうか・・・」

 

アルフが見ている画面の中には、ロビーに立っているアロンソのそばに近づいてくる、くたびれたサラリーマン風の男が映し出されていた。

 

チラチラと灯里とアリシアの様子を横目で見ながら、にやけた顔でそのそばを通過しようとしていた。

 

 

 

 

「すごい美人だなぁ」

「うるさい」

「ちょっと、なにそれ?」

「うるさいからうるさいと言っているだけだ」

「誰?女優?あのウンディーネと親しそうに話してるけど」

 

アロンソは答えるのをやめた。

 

「今回の事件は、あれだね?」

「あれ?」

「ウンディーネが絡んでるね」

「ウンディーネが・・・何か分かったのか?」

「ほら、例の早朝のゴンドラの件」

「サンミケーレ島から消えた」

「そうそう」

「あれがどうした?」

「あれが正体不明」

「ふざけてるなら帰れ」

「正体不明のウンディーネ」

 

アロンソは別の方に顔を向けた。

 

「つまり、正体不明の水先案内会社」

「何?」

「存在してないんだよね、正式には」

「どういうことだ?」

「だから確かめたいんだけどさぁ」

 

アールドはそう言って、にこやかに話す灯里のそばに座っているアリシアを見ていた。

 

「いやぁ、ほんとに美人だなぁ」

 

アールドの言葉を聞いたアロンソは、アリシアの顔にチラッと目を向けた。

 

その瞬間、それに気づいたアリシアが、アロンソの方を見た。

 

アロンソはすぐに目をそらしたが、アリシアは怪訝な表情でアロンソ見ていた。

 

「あの手は気を付けた方がいいぞ」

「どういうことだ?」

「見ていないようでちゃんと見てる。怖い!」

 

「というか、お前、知ってるんだろ?」

「ああ、あの人ね」

 

アールドはアリシアに背を向けるようにして語り始めた。

 

「ゴンドラ協会名誉理事、すべてを完璧にこなす才女、アリシア・フローレンス」

 

「ウンディーネの現役時代、水の三大妖精と称えられたウンディーネ界のトップ3のひとり。だが実質的には彼女が飛び抜けていたらしい。ウンディーネの歴史でレジェンドと呼ばれているグランマから、これまた伝説といわれているARIAカンパニーを引き継いだ女性。なんでも完璧にこなすもんだから、ついたあだ名がミス・パーフェクト」

 

アールドはニヤリと笑って見せた。

 

「信じられる?あだ名にパーフェクトがつくんだよ。なにそれって感じ」

 

アールドは少し浮かれた調子でおどけていた。

 

「ロックオン」

「何?ロックオンて」

 

アールドはゆっくりとアリシアの方に顔を向けた。

 

アリシアが見ていた。

 

「うわー、どうしよう!」

「なんで刑事のお前がビビってるんだ?」

「何言ってんの、アロンソ?彼女の記憶力はハンパないんだから!覚えられたら、仕事がしにくくなるだろ?」

 

アロンソはロビーに目を向けながら、そのまま言った。

 

「それで、どうするんだ?」

「少しでも情報が欲しいとこだけど、今回は止めとく」

「お前らしくない」

「だって、アリシア・フローレンスだぞ?彼女に接触すれば、いろいろと勘ぐられるのは間違いない。俺の刑事としての勘が近づくなと言ってる」

「お前はなんかやらかしてるだろう」

「違うよ。刑事としてって言ってるだろう?」

 

 

 

「ねえ、灯里ちゃん?」

「どうしました、アリシアさん?」

 

アリシアはどこか遠くに目を向けながら、ちょっと怪訝な表情をしていた。

 

「私の顔、なんか変かしら?」

「アリシアさんの顔が変?どういうことですか?」

「ちゃんとメイクしてきたつもりなんだけど」

「アリシアさんのメイク、バッチリですよ!」

「ホント?」

「ホントですぅ~キレイに決まってますぅ~~!」

「よかった♡」



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第二十九話 ゴンドラの行方とニヤけた男

「アージア、28歳、独身。アデリーナとの接点は、いまのところ見つかってません」

 

普段使用している会議室の、もうひとつ奥にある部屋には、今回の事件に何らかの関係があると思われる人物を中心に捜査を行っている専従捜査班が集まっていた。

 

その中で、先日デリーナを刃物で切りつけた犯人と繋がっていると見なされていた、例の「能面注射器女」の素性を追っていた捜査員2名が、その女のことを報告していた。

 

「ホテルの従業員との関係性は?」

 

「あまり他の従業員との交流はなく、アージアのことをよく知っているものは、ほとんどいませんでした」

 

「いない?」

 

アルフは、「ウーン」と納得がいかないと声を漏らした。

 

「しかし、今のところアージアが犯人の手引きをしたと考えるのが妥当だ。なのに誰からもアージアのことについて、それらしき証言が出てこないだと?」

 

「勤務態度は真面目で、今回のことに繋がるような話はどこからも出てきていないのが現状です」

 

「アデルモ総支配人とはどうなってる?総支配人とは、同じホテルにいた過去があったよな?」

 

「その件ですが、新しい情報として、アージアの母親もホテルに勤めていた経歴があることがわかりました」

 

「母親?総支配人との接点はあるのか?」

 

「ありました」

 

「ビンゴ!」

 

アルフ捜査官は、正解だと言わんばかりに捜査員を指差した。

 

「どこだ?マンホームか?それともネオ・ヴェネツィアか?」

 

「ホテル・エクセルシオール・ネオ・ヴェネツィアです」

 

「また、エクセルシオールだと?」

 

「母、娘ともにエクセルシオールで働いていた経歴があります」

 

「親子でエクセルシオール?」

 

アルフは無精髭の顎をさすりながら、なにやら考え込む仕草をしていた。

 

「それともうひとつ」

 

「まだあるのか?」

 

「母親にはもうひとり、子供がいたという情報があります」

 

「つまり、アージアの兄弟?それとも姉妹か?」

 

「はっきりとはわかっていません。ただ、昔を知る人物が言うには、男の子のようだったと」

 

「男の子・・・」

 

アルフは眉間にシワを寄せた。

 

「それでその母親はどこにいるんだ?」

 

「わかりません」

 

「どういうことだ?」

 

「消息不明です」

 

「なんだと?」

 

アルフの表情が一変に険しくなった。

 

「これで間違いなく総支配人には話を聞かなければいけなくなったな」

 

報告を行っていた捜査員が椅子に腰かけると、アルフは何かを思い出したように、捜査員たちを見渡した。

 

「それとあの件、アルビーナ婦人の件はどうなった?」

 

担当していた捜査員が立ち上がった。

 

「アルビーナ婦人という人物は、存在していません」

 

「おい!ちょっと待て!どうしてそんな重要な情報を今まで知らせなかった!」

 

「すみません。正確にはいないというわけではなく、まだはっきりとした素性がわかってないんです」

 

「一体何を言ってるんだ?」

 

「実は、そのアルビーナ婦人は、1ヶ月程前からこのネオ・ヴェネツィアに姿を見せるようになっています。他のホテルの宿泊記録からもわかっています。ただ、どういった人物なのか、まだ何もつかめていない状態です」

 

「素性はわからない。だが、いることはわかっている。一体どういうことなんだ?」

 

アルフは、頭を抱えてしまった。

 

「それに重要な件が、もうひとつあった」

 

「なんですか?」

 

捜査員のひとりが訪ねた。

 

「ボヤ騒ぎのとき、灯里くんが遭遇した黒ずくめの男は、最初の目撃証言の、例のゴンドラに乗せた男じゃないかと、灯里くん自身が証言してる。そして・・・」

 

アルフは座り直すと、ぐっと正面を見据えた。

 

「その時から、アルビーナ婦人の姿が消えた」

 

「消えた?どういうことですか?」

 

捜査員のひとりが、難しい顔でアルフに問いかけた。

 

その時、アルフが何かに気づいたような顔になった。

 

「そうか。もし、そういうことなら・・・」

 

 

 

 

 

灯里は久し振りに、ARIAカンパニーで一日を過ごしていた。

 

様々な人たちが、灯里を訪ねて来たあの日、さすがに疲れた表情をしていた灯里を見て、アルフ捜査官は休みを取るよう言った。

 

灯里がアルビーナ婦人と一緒の時にホテルで遭遇した黒ずくめの男は、結局違っていたという灯里の印象だったが、ボヤ騒ぎの時に遭遇した男は、最初に会った男だと直感で分かったという。

 

これで、犯人は複数いることは確かで、目的はわからないが、黒ずくめの男もまた、複数いると想定することもできた。

 

これで、ほぼ、灯里の役目は終わっているといえた。

 

灯里がサンミケーレ島に送った黒ずくめの男。

間違いなく、犯人と繋がっている確証が得られたわけだった。

 

だが、肝心の灯里が、もうひとつ納得がいかない顔をしていた。

 

じゃあ、あの朝、あの男はどうやって島を出たのか?

 

「ゴンドラをうまく操れるのって、やっぱり・・・」

 

誰か、自分と同じ世界に属する者が関わっていたんだろうか。

 

その日の早朝にゴンドラを目撃した者がいたという話を、口外しないという約束の下、アルフから教えてもらっていた灯里は、そのことが頭から離れないでいた。

 

「ウンディーネさん?」

 

「はひっ!」

 

営業は行っていなかったが、カウンターのシャッターを開けていた。

 

そこから、とぼけた表情をした男が、中を覗き込むようにして立っていた。

 

「あ、あの~、今日はお休みなんです。申し訳ありません」

「あっ、いいのいいの。気にしないで」

「気にしないでといわれても」

「そうか。セリフがあべこべだね。これは失礼しました」

 

男はニヤリと笑った。

 

「あの、どういったご用件で?」

「ご用件というほどではないのだけど。いや、ご用件か」

「はぁ」

 

「僕のこと、覚えてません?」

「えっと、どこかでお会いしましたでしょうか?」

「そうなんだ。なんか、ちょっとショック」

「す、すみません!」

「いいのいいの。記憶に残らないタイプだから。昔から」

「そうなんですか・・・」

「街で前のかみさんとすれ違っても、完全に気づかれなかった。なんなんだろうね、女性ってのは」

「はぁ」

「あっ、違うか!問題があるのは、ボクの方だった!」

 

 

 

「ところで、あの~」

「ゴメンゴメン。ご用件だったね?」

 

男は背広の内ポケットから黒い手帳を出した。

広げたそこには、身分証と顔写真があった。

 

「ネオ・ヴェネト州警察のアールドと申します」

「警察の方?」

「見えない?」

「ああ~そういうことではなくてですねぇ~」

「ハハハハ!噂通りの楽しい人だね」

「それって、どんな噂なんですかぁ~~?」

 

 

「ところで、あなた」

「水無灯里です」

「ごめん。お名前あったよね?」

「一応」

「そうだよね。じゃあ、灯里さん?なんか噂では顔がすごい広いらしいけど、それでも知らないウンディーネっているの?」

「それは知らないわけですから」

 

アールドは目を見開き、驚いて灯里をじっと見た。

 

「あっ、一本取られた!」

「えっ?」

 

今度は灯里の反応に思わず笑顔になっていた。

 

「つまりね、あの早朝のゴンドラのことなんだけど」

 

アールドは、自分が言った言葉に灯里の顔が少しこわばったのを見逃さなかった。

 

「やっぱり聞いてた?」

「あっ、いえ、私は何も聞いてないというか・・・」

「灯里さん?それ、聞いてるのと同じだから」

 

アールドはそう言って、またニヤリと笑った。

 

「はぁ」

「ゴメンゴメン。変な聞き方だったよね?」

「ええ、まあ」

「じゃあ単刀直入に聞くね。灯里さんは、見たことないウンディーネって、見ればわかるの?」

「はぁ?」

 

アールドと灯里は、ちょっとの間、お互いの顔を見つめあっていた。

 

「おっしゃっている意味が、よくわからないのですが・・・」

「そうだよねぇ。ボクも何言ってるかわかんんない」

「はぁ」

 

「またまたゴメンね。つまり、ウンディーネじゃない人が、ウンディーネみたいなことやってたら、灯里さんのようなプリマからすると、見破れるもんなのかなぁと思ったんだよねぇ」

 

「そういうことでしたら、わかると思います」

「そうなの?」

「でも、普通は無理だと思います」

「無理ってどういうこと?」

「コツが要るんです。オールをこぐコツが。だから、まねごとでも難しいかと」

「そういうことかぁ」

 

 

「じゃあ、もうひとつ」

「はい、どうぞ」

「ありがとう、灯里さん。あなた、いい人だぁ!」

「そうですか・・・」

 

 

「ゴンドラって、もし処分するとしたらどこへ持っていくんですか?」

「処分ですか?」

「そうです」

「一応、専門の職人さんの工房のところへ持っていくと思います」

「それは、例えばお店をたたむときも?」

「辞めるってことですか?」

「そうなりますね」

「う~ん」

 

灯里は首をひねって考えてみた。

 

「なんだったら、聞いてみましょうか?ゴンドラ協会に知り合いがいますので」

「ゴンドラ協会って・・・もしや」

「現在、名誉理事をされているアリ」

「ああー!」

「どうされたんですか?」

「いいえ、そこは結構です!」

「いいんですか?」

「はい!そこは刑事の勘がやめとけっていうもんで」

 

 

「そこで灯里さん?」

「はい?」

「あなたに是非協力してほしいことがあるんです」

「刑事さんに協力ですか?」

「はい。もちろん危険なことは何もありません」

「はぁ」

「ただ、一緒に見つけて欲しいんですよ」

「えっと、一体何をですか?」

「例のゴンドラです」

「例のって・・・」

「あの早朝のゴンドラを」

「見つけるって、どうやってですか?」

「もちろん、やみくもに探すわけではないんですよ。ちゃんと目星はつけてあるんです」

 

アールドはまたもやニヤリと笑ってみせた。

 

「この事件、いろいろと裏がありそうなんですよ。それで、ちょっと仮説を立ててみたんです」

 

得意気にニヤリと笑うアールドの顔を見て、灯里もつられるようにニヤッとしたが、どう見てもひきつった表情になっていた。



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第三十話 唯一の誤算?

 

「ゴンドラって、結構管理が厳格に行われているらしいですね」

 

アールドは海沿いを歩きながら、隣にいる灯里に話かけていた。

 

「そうですね。一艘一艘が貴重なものなので、どの水先案内会社も大事に扱っています」

 

「そう聞いたので、仮説を立ててみたんです」

 

「仮説ですか?」

 

「ここからは、アルフ捜査官もアロンソ刑事にも内緒にして下さい」

「なんでですか?」

「まあそこは、いろいろと事情を抱えてるもので」

 

「でもそこは安心して下さい。あくまでも事件解決のためです」

「はぁ」

 

「今回のこの事件、どうも複雑な出来事が絡んでるように思えるんですね。ただひとつ、はっきりしていることが、ホテルがターゲットになっていることです。そこに焦点を絞り込んでいくと、いらないことがわかってきた」

 

「いらないこと?」

 

「そう。つまり、事件にそんなに関係がないと言ったらいいか、必要だったんだろうかと思える点なんです」

「ちょっとピンとこないです」

「そりゃそうだね。簡単に言うと、最初から別にいらなかったんじゃないかということなんだけど」

「えっと、すみません。余計にわけがわからないというか・・・」

「つまり、灯里さん、あなたのことなんですよ」

「私のこと?」

「だってそうじゃない?ホテルに何か迷惑をかけるとういうか、問題をしかけようとするんだったら、それをそのままやってしまった方が早い。こんな回りくどいこと、考えられない」

「そう言われると、確かにそうですが」

「だとすると、何か他に理由があるに違いない」

 

 

 

ふたりは、海沿いにあるゴンドラを扱う工房のひとつにやって来た。

 

古くからあるのか、工房の中は年期の入った雰囲気が漂っていた。

 

「あれ、ここは・・・」

 

灯里がポツリと呟いたとき、中からこれまた年期の入ってそうなおじさんが顔を出した。

 

「なんだ、灯里ちゃんじゃないか?」

 

「お久しぶりです」

 

灯里の笑顔に、その工房のおじさんも思わず笑顔になっていた。

 

その様子を見たアールドが、とぼけた顔でふたりの顔を見比べた。

 

「知り合いなの?」

 

「はい。いつも大変お世話になっています」

 

「そうなんだ」

 

「ARIAカンパニーのゴンドラに関しては、代々こちらの工房でお世話になっているんです」

 

「なんだ、そうだったんだ!それ知ってたら、こんな回り道しなくてもよかったのに」

 

アールドは頭をさすりながら、やれやれといった仕草をしてみせた。

 

「早速なんですが、こちらはあちこちの水先案内会社からゴンドラに関する依頼を受けてらっしゃるとお聞きしたんですが?」

 

その工房の主は怪訝な顔で灯里の方を見た。

 

「ああ~、こちらの方はですね」

 

「すみません。私としたことが失礼しました。ネオ・ヴェネト州警察のアールドといいます」

 

アールドは、胸のポケットから身分証をとりだして見せた。

 

「警察の人がなんなの?」

 

「今言った話なんですが、結構たくさんの水先案内会社と仕事をされていると?」

 

「まあそうだね。うちは古い方だから。でも最近は新しい工房も出てきたりしてるから、以前に比べたら減ってきてはいるけどね」

 

「なるほど。じゃあ、新しいお店からの仕事の依頼は?」

 

「滅多にないねぇ」

 

「滅多に?あるにはある?」

 

「ないわけじゃないよ。でも新規に開店するところは、どこも台所事情がいい訳じゃないから、手っ取り早く引き受けてくれるところに行く傾向にはあるよね」

 

「なるほどねぇ。で、ちなみにどうなんですか、こちらでは?」

 

「新規ねぇ・・・」

 

工房の主は、腕を組んで難しい顔になっていた。

 

「そういえば」

 

「なに?あったの?」

 

「正確にはあったというわけじゃないんだけど」

 

「なにそれ?」

 

「水先案内の仕事に興味があるとかで、ゴンドラについて色々と聞いてきた人がいたね」

 

「それって、店を持つということ?」

 

「そんなこと言ってたな」

 

「それで?どうなったの?」

 

「でも資金に余裕がないから、中古で揃えられないかって」

 

「ゴンドラを?中古で?」

 

アールドは不思議そうな表情で灯里の方に顔を向けた。

 

「そんなこと、あるの?」

 

「私はあまり聞いたことないですけど・・・」

 

すると、工房の主が言った。

 

「ないわけじゃない」

 

「そうなの?」

 

「滅多にはないけどね」

 

「それでその人はなんて?」

 

「とりあえず、そんなところはないかって聞いてきたんで、知ってる店を紹介しといたけど」

 

「そのお店、教えてくれます?」

 

アールドはメモをとると、今度は自分の連絡先のメモを渡した。

 

今度来たら、必ず知らせて欲しいと。

 

「わたし、そのお店知ってます」

 

アールドは灯里の顔をぼんやりと眺めていた。

 

 

 

灯里とアールドは、教えられたゴンドラを取り扱う店に向かった。

 

灯里の案内もあって、それほど時間もかからずに到着することができた。

 

「ウンディーネさんが一緒だと助かるねぇ」

 

アールドのニヤリと笑った顔に灯里は微笑んで返した。

 

作業場の内部が見えるところから海に面したところが斜めにスロープになっていて、いくつかのゴンドラが置かれていた。

 

どれもかなり使い込んだ様子が伺えた。

 

「いないみたいだねぇ」

 

アールドが誰もいない作業場を見て呟いた。

 

「ちょっと待って下さいね」

 

そう言うと、灯里は作業場の横手の方に入っていった。

 

「こんにちはー!おじさーん!」

 

すると、そこから汚れた作業服姿の男が顔を出した。

 

「おおー!誰かと思えば、灯里ちゃんじゃないか!久し振りぃー!」

 

「ご無沙汰してます!」

 

浅黒い顔をしわだらけにして、その男は豪快に笑った。

 

「灯里さん、あんたって人はなんなんだろうねぇ」

 

アールドは感心した様子で、その光景を眺めていた。

 

「お茶でも飲んでく?」

 

「それがですね」

 

「あーこれはこれは失礼しました」

 

「誰、あんた?」

 

アールドはルーティンのように身分証を取り出した。

 

「アールドと申します。少しお伺いしたいことがありまして」

 

「知り合い?」

 

その工房の主人は灯里の方を見て尋ねた。

 

「そのぉー、ちょっとした理由がありまして」

 

「こちらのウンディーネさんには、いろいろとご協力を頂いている次第なんです」

 

「へぇー」

 

その工房の主人は、釈然としない顔でアールドを上から下まで眺めていた。

 

「それで?」

 

アールドは紹介で来たことを告げ、これまでの経緯を簡単に説明した。

 

「おじさん、お忙しいのにすみません」

 

「灯里ちゃんの頼みとあらば、協力しないってわけにはいかないけども」

 

その工房の主人は、仕方ないといった感じでそばにあった作業用と思われる、使い込んだ椅子に腰をおろした。

 

「それでお聞きいたいことが、中古のゴンドラを探してる人がいたということを聞いたのですが?」

 

「いたね」

 

「いた?」

 

「そうだね。うちは修理専門だけど、古くなったもので使えそうなものは、引き取って中古として出す。だからそういう客は結構来るね」

 

「最近来た客は?」

 

「まあ、何人かは」

 

「何人かね。どんな人か教えてくれます?」

 

「どんな人って言ってもねぇ」

 

「水先案内店を開業することに興味があるって人とかは?」

 

「そういえば、そんなのがいたなぁ」

 

「いたの?」

 

「でもあれはちょっと違うなぁ」

 

「違うって何が?」

 

「店を持ちたいとか、そんなんじゃないね、あれは」

 

「えっ、ちょっと何それ?なんでわかるの?」

 

「あれは軍人だな」

 

「軍人?」

 

アールドは驚きと嬉しさがいっしょくたになって、顔がひきつっていた。

 

「灯里さん?」

 

「はい?」

 

「やっぱりあんたと来て正解だった」

 

「はぁ」

 

アールドはその主に向き直ると、真剣な表情に変わった。

 

「ところで、なんで軍人てわかるの?」

 

「そりゃあ、おれがそうだったからだよ」

 

「そうなんだ。何が違うの?」

 

「見ればわかるんだよ。理屈じゃないんだ。同じところに長年いると、なんだろう。身体に染み着くといったらいいか」

 

「へぇー」

 

「でもあれはまた、ちょっとちがうね」

 

「違うって?」

 

「筋金入りだが、俺らとは違う。根っからの軍人。つまり、かなりの上級クラスだね、あれは」

 

「そうなんだ。でもなんでそんな人が水先案内店なんて、考えたんだろうね」

 

「そんなの、わかるわけないだろう?」

 

 

 

 

「この事件て、ややこしそうでしょ?」

 

アールドは、帰る道すがら灯里に話かけていた。

 

中古のゴンドラに感心あるなんて人物は珍しいことから、また訪れることがあったらすぐに連絡をもらえるよう話をして、灯里とアールドはその工房を離れた。

 

そして、海沿いを歩きながら、アールドは灯里の横顔に話しかけていた。

 

「灯里さん、どう思います?」

 

「わたしにはちょっと・・・」

 

「そりゃそうだよね。でもね、こういうときこそ、何かきっかけになるポイントがあるもんなんだよねぇ」

 

「ポイント?」

 

「そうそう。この事件、誰が見ても用意周到に計画された犯行だと思えるよね。犯行予告から始まって、次々といろんなことが起こってるし、ホテルに内通者がいないと成立しないこともあるしね。なのに、なんかチグハグな感じもする」

 

「チグハグですか?」

 

「だってさぁ、用意周到に計画されたとしたら、あのフロントクラークの女性、狙う必要あったのかなって思ってね」

 

「アデリーナさんですか?」

 

「そうその人。だって、あんなことしたら、もっと警戒して下さいって言ってるようなもんでしょ?そもそもの目的がどこにあるのかは、まだわかったわけじゃないけど、やりにくくなるに決まってる。犯人自らハードルを上げてるようなもんだよ」

 

「はぁ」

 

「おそらくだけど、このチグハグさが指し示す意味は、犯人は一枚岩じゃないということ」

 

「それって、仲間割れみたいなことですか?」

 

「灯里さん、鋭い!」

 

「そ、それほどでも。エヘヘヘ」

 

「そもそもあのフロントクラークさんは、あのホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーが新設されるのを期にやって来たって話なんだよ。だから、狙われたきっかけが、まだよくわかっていない。ただ、総支配人の肝いりで抜擢されたってところは、ひっかかるんだけど」

 

「アデリーナさんはとても気配りができて、判断も的確で、ホテルの皆さんから一目おかれていました」

 

「そこだよね。捜査官は、地雷を踏んだのかもなんて言ってたらしいけどね」

 

アールドは納得したように、フムフムとうなずいた。

 

「ただね、こういうややこしい事件の時は、反対から見るのも、ひとつ、手だと思ってるんだよ」

 

「反対からですか?」

 

「用意周到に計画を練ったはずだと思うんだよね、犯人は。でも、そういう時こそ見落としてることってあるもんなんだよ」

 

「見落としてる」

 

「まだまだこの事件、何が起こるかわからないところもある。というか、起こすはずだ。だが、犯人が敏感に何かを感じ取れるヤツだったら、もう気付いてるはずなんだ。あれっ、こんなはずじゃなかったんだけどってね」

 

「何かあるんですか?」

 

「うん、あるね。ボクはこう推察してる。これは、犯人が判断を誤った唯一の誤算」

 

「先程の仲間割れとかですか?」

 

「いや、それはある程度わかっていた可能性もある」

 

「ということは、何か別のことで、ですか?」

 

「灯里さん、あんた本当にウンディーネさん?」

 

「わたし、それ以外の何かに見えますでしょうかぁ~?」

 

「ハハハハ!」

 

アールドは灯里の困惑した顔に思わず笑っていた。

 

「ごめんごめん。つまりね、計画を練りに練っても、そもそも知り得ないことは分かりようがなかったということだよね」

 

「そんなことがあったんですね」

 

「あったんですねって言ってるけど、灯里さん?」

 

「はい?」

 

「あなたのことですよ」

 

「わ、わたし!」

 

「犯人が予測出来なかった唯一の誤算て、あなたとことなんです」

 

「アールドさん!なんで私なんですか?」

 

「あの黒ずくめの男、灯里さんが第一発見者となった人物。当初はあれが唯一の手がかりだった。でも、考えても見てください。そもそも、そんなの必要ありますか?」

 

「でも、あの人、またホテルに来たんです」

 

「ボヤ騒ぎの一件ですよね」

 

「はい。私に手を引くように言ったんです」

 

「なるほどねぇ」

 

アールドは少し笑ってみせた。

 

「何がおかしいんですか?」

 

「だから、誤算だったからなんですよ。まさか、ウンディーネが灯里さんみたいな人だなんて思いもしなかった、ということなんです」

 

「すみません、アールドさん?私には、よくわからないのですが・・・」

 

「灯里さんがわからないのは当然です。だって、犯人だってそうだったんですから」

 

「アールドさん?」

 

「すみません、そうですね」

 

アールドは、エヘンと咳払いをして仕切り直した。

 

「黒ずくめの男なんて、本来必要じゃないんです。あれは、犯人はここにいるぞっていう、いわば目眩ましのようなものだったんです。つまり、犯人を特定されないようにするためのカムフラージュなんです。多分ですけど」

 

灯里は、少しどや顔で話すアールドの横顔を、「はぁ」とため息を漏らして見ていた。

 

「そこで、黒ずくめ男がいることをしっかりと証言してくれる目撃者が必要だった。しかも印象に残るシチュエーションでね」

 

「その目撃者が私ってことなんですか?」

 

「そういうことです。わざわざ陽も暮れかけた時間にサンミケーレ島までゴンドラで送らせる。これ以上ないシチュエーションでしょ?このネオ・ヴェネツィアにおいては特にね」

 

「確かに、あんな時間にサンミケーレ島に行かれる方なんて、ほとんどいません」

 

「そしてそれを、噂のARIAカンパニーのウンディーネに狙いを定めた」

 

「なんか、ちょっと、わかってきたような・・・」

 

 

 

「有名な水先案内店に素晴らしいと噂のウンディーネ。おそらく、前評判を聞いていたのでしょう。証言者としては、打ってつけです。誰も疑わない」

 

「でも、私だった」

 

「灯里さんには悪いけど、犯人は勝手に前の店長、アリシア・フローレンスのことだと思ったはず。だが、もしかしたら顔すら知らなかったのかもしれません」

 

「はぁ」

 

「それが犯人の誤算だった」

 

「アールドさん?なんか私、複雑ですぅ~」

 

「いやいや、灯里さん?そんなショックを受けるようなことじゃないですよ。さっきも言ったように、犯人の誤算は、ウンディーネが灯里さんだったことなんです」

 

「だから、アリシアさんではなく、私だった」

 

「そうじゃなくて、灯里さんのような人だと思ってなかったということですよ!」

 

「私のような人って・・・」

 

「まあおいおいわかってきますよ。それよりいま気になってること。ボクの勘では、きっと灯里さんは、この事件のキーパーソンになる」

 

「なんですか、それ?もうややこしいのは結構ですよ~~」

 

 

 

灯里とアールドは、ARIAカンパニーの近くまで戻ってきていた。

 

「灯里さん、お付き合い頂いてホントにありがとう。お休みだったのに申し訳ない。でも大きな収穫があったからね」

 

「お役に立ててよかったです」

 

「でも、まだ何もわかってるわけじゃないから気をつけてね」

 

「あのー、さっきのキーパーソンの話、気になってるんですけど」

 

「ごめんごめん。ちょっと驚かしちゃったかなぁ。大丈夫だよ、灯里さんは。なんと言っても主役だからね。多分だけど」

 

「なんかビミョーな感じですぅ~」

 

「ハハハハ」

 

アールドは灯里の困った顔がツボになってしまっていた。

 

「そう言えば、彼女どうしてんの?あのアガタ女史は?」

 

「私が休みなので、サポート役のアガタさんも、本日は休みだと思います」

 

「そうなんだ。彼女のポジティブさには頭が下がるよね」

 

「そうですね。先輩のアデリーナさんがあんな目にあったのに、あんなにも頑張ってらっしゃいます。わたし、あそこまで頑張れるかわかりません」

 

「彼女が居合わせたことで、あのフロントクラークさんも助かったわけだしね」

 

「そうですね」

 

「そう言えば、アロンソも居合わせたらしいけど、アガタ女史、フロントクラークさんを捜していたらしいんだよね。何があったんだろう。なんか聞いてない?」

 

「確か、誰かにアデリーナさんのことを尋ねたられたって言ってたような・・・」

 

「尋ねた人がいたの?誰?」

 

「えっと、そうだ!アレッサンドラさんです!」

 

「ア、アレッサンドラ?もしかしてあの女優の?スッゴい美人で有名の?ネオ・ヴェネツィア国際映画祭で新人賞を受賞した?あの、アレッサンドラ?」

 

「はひっ!」

 

「それって・・・」

 

「なんかあるんですか?アールドさん!」

 

「あるよ!いや、ない!」

 

「はい?」

 

「ボク、まだ会ってな~~~い!」

 

アールドは、これまで見たことない、情けない顔になっていた。

 

「今度ホテルについていくけど、いい?いいよね?」

 

「私には、なんとも答えようがないのですが・・・」

 

「灯里さ~~~ん」



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第三十一話 カフェラテのある風景

 

正面玄関から入ってきたその女性は、車椅子だった。

 

ホテルへ来ることを意識してのことだろうか、メイクをしっかりと施し、服装もきちっとしたジャケットを着こなしていた。

膝丈のスカートから伸びた二本の綺麗な脚はそろえられ、少し斜めに傾けられている。

 

灯里の横で、いつものように話しかけていたアガタは、その目線の先にその姿を捉えていた。

 

「私、行ってきます」

 

アガタはそう言って、灯里の前を通って玄関の方に向かって歩きだした。

 

「いらっしゃいませ、お客様。ようこそ、ネオ・ヴェネツィアーティーへ」

 

アガタは少し斜めの位置からその車椅子の客に話しかけた。

 

だが、その客は、その先に見えるフロントの方を見据えたままだった。

 

「あの、お客様?いかがされましたでしょうか?」

 

その言葉にやっと気づいたように、アガタの顔を見上げた。

 

「あっ、そうね。ごめんなさい。ぼーっとしちゃって」

 

「お身体の具合は大丈夫ですか?」

 

「大丈夫。それより、あそこで聞けばいいのかしら?」

 

「えーと、ご宿泊の手続きですか?それなら、ご案内いたします」

 

「あの人が泊まってるかどうか・・・」

 

「えっ?」

 

アガタはその客の言葉に戸惑ってしまった。

 

「調べてほしいの。できるでしょ?あなた、ホテルの従業員よね?」

 

「わ、わたしは確かにこのホテルの従業員ですが、その辺はちょっと無理だと思うんです」

 

「どうして?」

 

「ホテルには守秘義務がございましてですね、みだりにお客様の情報を話したりは出来ないことになってまして。個人情報の点からもですね・・・」

 

「いいわ。結構よ。あなた以外の人に聞くから」

 

「と申されますと?」

 

その客は、アガタを無視してフロントに向けて進み始めた。

 

「ああー、ちょっと、お客様!」

 

口をぼぉーっと開けている灯里の前を悠然と車椅子が進んで行く。

 

その後ろをあたふたとついてゆくアガタ。

 

その客はカウンター越しにそこに立つフロントクラークに毅然とした態度でこう言った。

 

「調べてちょうだい!泊まってるはずなの!」

 

「申し訳ありませんが・・・」

 

「どういうこと?客が頼んでるのよ?そんなことも出来ないの?」

 

灯里は、カウンター越しにいっさい怯むことなく声を上げるその女性と、その後ろで、あたふたするしかないアガタの姿を、茫然と見ていた。

 

「なんか、大変そう・・・」

 

すると、その女性客の発した言葉を聞くや否や、アガタが氷ついたように動かなくなった。

 

そして、二、三歩後退りし始めた。

 

カウンターから表に出てきたフロントクラークが、必死に説明を繰り返している。

 

「もういいわ!」

 

灯里には、そう言って車椅子の向きを変えようとしている女性の声が聞こえた。

 

そして勢いよく、車椅子を動かし始めた。

 

だが、灯里の前を通貨しようとした時、憤慨したその女性の顔に、なぜか悲しそうな表情が浮かんでいるように見えた。

 

それは、先ほどまでの女性の態度とは全く真逆の印象だった。

 

「あ、あの」

 

灯里の声は全く耳に届いていない様子で、その車椅子の女性は、ベルボーイが両側からタイミングよく開けた玄関の扉から外へ出ていった。

 

カウンターの前では、動かなくなってしまったアガタのそばでフロントクラークが心配そうにしていた。

 

その様子を見た灯里は、もう一度玄関の先にかすかに見える車椅子の姿を目で追った。

 

そしてその後を追うように、自然とそのまま歩き出していた。

 

 

 

 

「あのー、お客様?」

 

灯里のかけた声には気づかないまま、その女性は車椅子の車輪を動かし続けていた。

 

「大丈夫ですか?」

 

やっと気づいた女性がその場で車椅子を止めた。

 

はぁはぁ。

 

灯里は少し息を弾ませながら、その車椅子の横まで近づいて立ち止まった。

 

「何か用?」

 

その女性は、灯里の方には顔を向けず、前を向いたままだった。

 

「すみません。呼び止めたりして」

 

「だから何?なんか用があってついてきたんでしょ?早く済ませてちょうだい!」

 

「は、はい、その・・・」

 

灯里がどう切り出そうかと思っていた時だった。

 

その女性が車椅子を灯里の方に向きを変えると、灯里の右手をそっと掴んだ。

 

灯里が驚いていると、もう一方の手で何かを握らせてきた。

 

「お願いします。これでなんとかしてもらえない?」

 

その女性は表情を一変させていた。

 

灯里は、自分の手に握らせようと押し付けてきた高額紙幣を見て、心が締め付けられるような思いなっていた。

 

「お客様、これはどうして・・・」

 

「足りないのなら、もっとあげてもいいわ。だから、お願い。早くしないと手遅れになるかもしれない」

 

「手遅れ・・・」

 

灯里は、その場にしゃがみこむと、灯里の右手を掴んで離さない女性の手に、もう一方の手をそっと重ねた。

 

 

 

 

どんよりと雲が垂れ込めた空の下、灯里は車椅子を押して運河のほとりまで歩いてきた。

 

その女性は、落ち着きを取り戻していた。

そして、運河をぼんやりと眺めていた。

 

「ごめんなさいね、取り乱してしまって」

 

「いえ、お気になさらず」

 

「無理だとはわかっていた。でもいてもたってもいられなくて、あんなことになってしまったの」

 

「どなたかを捜されていたんですか?」

 

灯里は自分で聞いた手前、踏み込んだ質問だと思って下を向いた。

 

「すみません。こんなこと、聞いたりして」

 

「構わないわ。もうどうすることも出来ないと思う」

 

「そんな・・・」

 

 

 

「捜していたのは、私の主人なの」

 

「ご主人様をですか?」

 

「ええ。おかしいと思うでしょ?それなら直接連絡を取ればいいじゃないかって。でもあの人は、肝心なことを私には話そうとしないの。心配かけまいとしてね」

 

「そうなんですか」

 

「私がネオ・ヴェネツィアのことを口にしたばかりに、あの人、むきになりはじめてしまって」

 

「このネオ・ヴェネツィアのことですか?」

 

その女性は、運河をゆくボートの立てる並みをぼんやりと眺めていた。

 

「仕事が一段落したら、アクア中を旅して回ろうといってたの。でも、なかなかそう上手くいかず、先に私だけ旅に出た。待ちきれずに。そうしたら、その旅先のホテルが火事になって、逃げ遅れた私がこんな目に遇ってしまった」

 

「そうだったんですか・・・」

 

「あの人は、自分が一緒に行っていればと、ずっと悔やんでいたわ。そんなとき、何気なくポツリと口をついて出てしまった。ネオ・ヴェネツィアでゴンドラに乗って、サン・マルコ広場でカフェラテを飲みたかったって」

 

「はぁ」

 

「それなら行こうと言ってくれたんだけど、余計なことを私が言ってしまった。今じゃない。あの時だったんだって」

 

 

「それからしばらくして、あの人は、とりつかれたように何かを調べて始めた。そして、あまり家にも帰らなくなってしまった。きっと、あの時の事故のことを調べていたんだと思う。すると、ある時帰ってきたかと思うと、カフェラテのことを急に聞いてきたの。どんな店か知ってるかって」

 

「カフェラテですね。先程お客様が話していたサン・マルコ広場にあるんです、有名なお店が」

 

「カフェ・フローリアン」

 

「そうです!」

 

「そのカフェ・フローリアンのことを、無邪気に話すんです。そのお店の店長さんとお友達だという女性に会ったって」

 

「えっ、お友達・・・」

 

「あのホテルの従業員の女性の中に、そんな人がいるんだって言ってたんです。あまりに無邪気に話すもんだから、年甲斐もなく、私、ちょっと疑ったりして・・・」

 

「あ、あのー、それが理由でホテルにお越しになられたということでしょうかぁ?」

 

「うん、それもあった」

 

「はへぇ~」

 

「それだけだったら別に私は良かったんです。こんな私に、あの人はほんとに良くしてくれるんです。もったいないくらい。でも、事故の話になると、表情が変わるんです。怖いくらいに。きっと、何かを見つけたのかもしれない。だから、思い詰めて何かしてしまう前になんとかしないとと思って」

 

「それで、ネオ・ヴェネツィアーティーへ来られたのですね?」

 

「でも、いきなり行っても門前払いになるのは、当たり前よね」

 

灯里は、少し疲れたように微笑む女性の横顔を眺めていた。

 

「あの、私、友達作りの達人だなんて、よく言われるんです」

 

「友達作りの達人?」

 

「はい!だから、お友達となら色んな話をしても、おかしくないですよね?」

 

「どういうこと?」

 

「だから、聞いちゃいますね?」

 

「聞くって何を?」

 

「ご主人様って、もしかしてアレキサンドロさんですか?その方となら、この前、カフェ・フローリアンの話、しましたよ?」

 

「まさか、それってあなた・・・」

 

にっこりと微笑む灯里の顔を、その女性は、驚きに満ちた表情で見上げていた。

 

 

 

「アレキサンドロ・ペテルギウス。元建築家。妻が事故によって車椅子生活を送るようになり、しばらくして設計事務所をたたんでいます。妻の介護に専念するためというのが理由です」

 

アルフ捜査官は、専従捜査班からの報告を受けていた。

 

犯人が複数犯である可能性が色濃くなったきたことで、ここ最近ホテルとの間でトラブルを起こしている者はいないかを絞り込んでいたところ、先日のアガタへの暴言の件から、アレキサンドロの名前が急浮上してきたわけだった。

 

「その後は?」

 

「現在は、妻の介護の傍ら、古くなった建築物の修復に協力しています。それ以外は目立った動きはありません」

 

「建築物の修復か。このネオ・ヴェネツィアなら働き甲斐があるだろうなぁ」

 

「ただ、ほとんどが何も受け取らないで協力していると」

 

「ボランティアってことか?」

 

「そうです。先日まで行われていた、カ・ドーロの修復にも関わっていたとか」

 

「カ・ドーロねぇ。ん?カ・ドーロって、最近なんかで聞いたなぁ?」

 

アルフは腕を組んで「うーん」と唸ってみた。

 

「何か今回の犯行と接点は?なんでもいい。何かないのか?」

 

「そう言えば・・・」

 

「なんだ?何かあったか?」

 

アルフは思わず前のめりになっていた。

 

「アレキサンドロの妻の事故の件ですが」

 

「火災の時に逃げ遅れたってことだったが」

 

「どうも起こるべくして起こった、という噂がささやかれていまして」

 

「なんだ、それは?」

 

「そのホテルを建築する際に、電気工事に使うケーブルの類いを、質の落ちる粗悪品を使用していたんではないかと」

 

「ちょっと待て。ホテルなのか?その火災が起こったのは?」

 

「旅行先のホテルでの事故です」

 

「ちなみにホテルの名前は?」

 

「ホテル・ネオ・リアルト・グラン・カナル」

 

「おい、ちょっと待て。あんな目立つところで火事か?あそこはかなり綺麗な作りで・・・もしや、あれって建て替えか?」

 

「全焼は免れた訳ですが、結局ほとんどをやりかえたはずです。その時にケーブルに粗悪品が使われていたことが判明したわけです」

 

アルフは鋭い視線を、これまでの関係性を記したホワイトボードに向けた。

 

「まさか、その時そのホテルにアデルモ総支配人がいたとか?」

 

「いえ、従業員名簿にはありませんでした」

 

「そうか。だが、アレキサンドロの妻が、ホテルの火災事故と繋がっているのは、やはり気になる」

 

その時、ドアをノックする音がした。

ドアを開けて、モニタールームに張り付いていた係員が顔を見せた。

 

「すみません、お取り込みの途中悪いのですが」

 

「どうした?」

 

「アルピーナ婦人です」

 

「なんだと?」

 

アルフはすぐさま奥の部屋から、会議室を通り抜け、モニタールームに向かった。

 

ロビーを捉えたカメラのモニターには、正面玄関からゆっくりと入ってきたアルピーナ婦人が映し出されていた。

 

「疑わしい人物の、最有力候補のお出ましだな」

 

アルフは、顎の無精髭を撫で回していた。



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第三十二話 知らない自分との出会い

 

アルピーナ婦人を捜査員二名が部屋に訪ねていた。

 

もちろんボヤ騒ぎ以降、姿を見せていなかったことを聞くためだった。

 

これまでに掴んでいた捜査班の情報はこうだった。

 

アルピーナ婦人はある資産家の家に生まれ、夫が亡くなって以降その当主の座を引き継いだが、今は引退し、悠々自適の生活を送っているということだった。

 

だが、アルピーナ婦人の資産家としての活動実績が判然としない。

 

そして、最近の動向も。

 

ボヤ騒ぎ以降は知り合いのところに身を寄せていたらしい。

ホテルへの連絡が遅れたことは申し訳ないと釈明した。突然のことで気が動転していたという。

 

今のところ、事件への関与は認められないことから、捜査員を引き上げさせたアルフだったが、引き続き、アルピーナ婦人の身辺調査を続行するよう指示を出していた。

 

そして、アルフ捜査官にはもうひとつ、やっておかなければならないことがあった。

 

今回の本当の意味での最重要参考人、アデルモ総支配人に話を聞くことだった。

 

今となっては逃げることも出来ないであろう、アデルモは、ここ最近、総支配人室から姿を見せる機会が少なくなっていた。

 

アデルモは、ネクタイのしまり具合を確かめると、ジャケットを羽織り直し、そのドアをノックした。

 

中から返事が聞こえ、ドアをゆっくりと開けた。

 

眼鏡をかけた女性秘書が会釈すると、インターフォンでアルフが来たことを告げる。

 

「中へどうぞ」

 

アルフは言われるがまま、その先にあるでドアを開けた。

 

「捜査官、お待ちしてました」

 

アデルモはそう言って、大きな執務机を立ち上がった。

 

アルフはすすめられたソファーに腰掛けた。

 

そして、その向かい側にゆっくりとアデルモも座った。

 

「総支配人、予想されていたようですな」

 

「ええ。実は遅いぐらいだと思っていました」

 

そこにノックをして、先程の秘書が二組のコーヒーカップを運んできた。

 

「失礼します」とだけ言った秘書は、テーブルにカップを置いて、黙ったまま軽く頭を下げて部屋を出ていった。

 

そのドアが閉じられるのを待って、アルフは口を開いた。

 

「もっと早くにこうなると?」

 

「そうですね」

 

「つまり、そう理解されていた」

 

「捜査官、色々とお調べになっているんでしょ?」

 

「まあ」

 

アルフはいつもように、無精髭のあごをさすった。

 

「こうなった以上、当然調べられていると理解ぐらいしています。ただ、捜査官には、理解していただく必要がある」

 

「何をですか?」

 

「私は被害者だということです」

 

「まあ、確かにそれはそうでしょうなあ」

 

「当然です。大事な従業員が襲われ、別のフロントクラークまで危ない目に合ってるんです。その上、ボヤ騒ぎまで起こされている」

 

「理解しているつもりです」

 

「それにホテルとして大変な損失です」

 

「損失?」

 

「信頼を失うことです」

 

「確かに。だからマスコミ発表を遅らせることに協力させていただいた」

 

「それは捜査官には有難いことだと感謝しいています。だが、一部マスコミには漏れている」

 

「100パーセントは無理です。事件が事件だけにマスコミの格好のネタです」

 

「そこが困りごとだと言ってるわけです」

 

「そのうち、色んなことがほじくり返されるでしょうな」

 

「捜査官、それは一体どういう意味でおっしゃっておられるのか?」

 

アルフは、わざと焦らすようにコーヒーカップを持ち上げ、ゆっくりと口をつけた。

 

「こうなった以上、隠してもしょうがないじゃないですか?」

 

「何を言ってるんですか?」

 

「単なる嫌がらせとは考えにくい。そのことは、私と総支配人との間で考えは一致しているはず。ですので、心当たりのあることを話して頂けるとありがたいのですが」

 

「狙われる原因があると?」

 

「そうです」

 

「捜査官?こんな商売を長く続けていると、恨まれることなんていくらでもある。それをいちいち取り上げるなんて、実際無理な話というもんですよ」

 

「なるほど」

 

「あなたも警察の人間なら色んな事件に携わってきたんだから、おわかりでしょ?」

 

アルフは心の中で「だから聞いてるんだろう?」と呟いていた。

 

「ここまでホテルとしては全面的に協力してきました。できる限り早く事件を解決して頂きたい」

 

アルフは足を組み換えて座り直すと、ふぅーと息をはいた。

 

「ところで総支配人?昔、マンホームにおられたとか?」

 

「それが何か関係あるんですか?」

 

明らかにアデルモの顔色が変わった。

 

「参考までに聞いておこうと思いまして」

 

「知っているのなら、それでいいじゃないですか?」

 

「リゾートホテルで働かれていたとか?」

 

「その通りです」

 

「そのあと、アクアへ来られてからも?」

 

「ええ、当然です。私はホテルマンですよ!」

 

「丁度その間、半年間だけ経歴が空白ですよね?」

 

「捜査官?私は被害者だと言いましたよね?」

 

「気分を害されたのなら、謝ります。仕事柄、どうしても人にものを尋ねる癖が染み付いてまして」

 

「旅です。若いうちにあちこち回って見聞を広めようと思っただけです」

 

「旅ですか?ちなみにどちらへ?」

 

「だからあちこちです」

 

「ネオ・ヴェネツィアへは?」

 

「そんなの、いちいち覚えてませんよ!」

 

アデルモの苛立ちは、この事件の意図がどこにあるのか、それがまだわからないことを示しているように、アルフには感じられた。

 

だが間違いなく、この男の存在が事件のカギになっていることを、アルフは確信していた。

 

 

 

 

アデリーナは、病院のベッドから起き上がると、まだ背中に走る痛みに少し顔を歪めた。

 

じっとしていると、痛みがやわらいでくる。

 

こわばっていた身体の力が抜けて行き、ふと窓から外に目を向けた。

 

「あれからみんな、どうしてるだろう・・・」

 

そうぼんやりと呟いた時だった。

 

ドアをノックする音。

 

アデリーナは返事を返す。

 

ドアがゆっくりと開けられ、キャップを被った青年が顔を覗かせた。

 

「アデリーナさん、お届け物です」

 

「どうぞ」

 

青年はいく種類かの花をあしらった白いかごを抱えていた。

 

アデリーナはそれを窓際に置くよう青年に告げた。

 

サインをし、その青年が部屋を出てゆくと、背中にさわらないように、ゆっくりとベッドを降りた。

 

「誰からかしら」

 

だが、差出人を示すカードなどは、そこにはなかった。

 

すると今度は、病院の職員らしき人物が入ってきた。

 

「アデリーナさん、よかった。もう立てるようになったんですね」

 

「はい、お陰さまで」

 

「それはよかった。この分だと、退院も近いですね」

 

「ありがとうございます」

 

「うちの病院でも最高の腕を持つ外科医が執刀しましたから、安心していいと思います。傷痕も最小限で済むと思いますよ」

 

「そうですか」

 

「丁度マンホームから戻ってきたところだったんですが、急遽スケジュールがキャンセルされたんですよね。ほんとにタイミングが良かったですねぇ」

 

「そんなことがあったんですか・・・」

 

「それと、こちらも」

 

と言って、その職員は一枚の書類をアデリーナに差し出した。

 

入院費や手術代など、かかる費用のすべてが精算されていることを証明するものだった。

 

「これは?」

 

「そこにサインをいただければ、それで結構です。あとは何も必要ありません」

 

「必要ないって、どういうことですか?」

 

「ですから、全て精算済みです」

 

「全て?誰が支払ったっていうんですか?」

 

アデリーナは驚いた顔で、その書類の隅々まで目を通した。

 

そのサインを記入する欄には、見たことのない名前が記されていた。

 

「アンナリーザ・エレノア」

 

「お心当たりは?」

 

「ないです」

 

「そうですか。てっきりエレノア財団の方だと思っていたのですけど」

 

「エレノア財団?」

 

「だから、色んなことがスムーズに進んだのかと・・・」

 

アデリーナは、背中に痛みを感じてベッドに手をついた。

 

「大丈夫ですか?」

 

職員の手を借りて、アデリーナはベッドに横たわった。

 

「サインはまた今度で構わないので」

 

そう言って、職員は部屋を出ていった。

 

アデリーナは、手にした書類の、その署名をもう一度見た。

 

「エレノア財団といえば、アクアでも指折りの財閥グループのひとつ。それがどうして・・・」

 

何かの間違いだと考えようとしたアデリーナだったが、自分の知らないところでことが進んでいるような、そんな感覚に襲われていた。

 

「私の知らないところ・・・」

 

 

 

 

アリーチェは、受話器を戻すと、そばにいた秘書に話しかけた。

 

「アルマは?」

 

「本日は休んでいます。気分がすぐれないと」

 

「そうなの。そうでしょうね」

 

アリーチェは、歴史を感じさせる古い造りの執務室の、その大きな机を前にしてため息をついた。

 

どう見ても幼く見えるその姿には似つかわしくない部屋で、悠然とした態度で天井を見つめていた。

 

「お嬢様、ご気分がすぐれないのですか?」

 

「そうね。すぐれないかと言われれば、確かにそうなるわね」

 

「それでは、医務官にお薬を持ってくるよう伝えます」

 

「お薬は結構よ。この気分を沈める薬は、ないと思うから」

 

「それはどのような意味なのか、わかりかねますが・・・」

 

「いいのよ、わからなくて。それより、アルマに伝えて。気分が晴れても晴れなくても、どちらでもいいから、とにかくここへ来るように」

 

「今すぐがよろしいですね」

 

「そうね。私の気がそう長くないこと、知ってるはず」

 

アリーチェは、遠くを見るように目を細めた。

 

「あの子、なんてバカなことをしたの?」

 

 

 

 

アルフが会費室に戻って来るのを待っていたかのように、専従捜査班の一組が椅子から立ち上がった。

 

「ご苦労。何か収穫があったんだな?」

 

「アージアの素性がわかりました」

 

「そうか。話してくれ」

 

「アージアはホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーに来る前に、看護師として勤めていた経歴があります」

 

アルフはそう言って、パイプ椅子をまたぐように腰掛けた。

 

「つまり、アガタを狙ったあの注射器に入っていた薬物は、そこが出所だといえそうだな」

 

「その前は修道院にいた模様です」

 

「家は?生まれは?」

 

「アージアは、身寄りのない子供を預かっていた孤児院で育っています」

 

「親がいない?ということは、素性もわからないということか?」

 

「そうなるのですが、実は、アージアを捜していた人物がいたようなんです」

 

「捜していた?誰だ?」

 

「実際に捜していたのは、興信所の調査員だったわけですが、その背後にですね」

 

「なんだ?何か出たか?」

 

「エレノア財団の名前が出てきました」

 

「なんだと?エレノア財団?なんでいきなりアクアを代表する財閥の名前が出てくるんだ?」

 

「どうやら、アージアの生まれと関係があるのかも」

 

「関係って言ったって、孤児院で育てられた女の子が、実は財閥の娘だったとか言うんじゃないだろうなぁ?」

 

アルフはそう言って、何か腑に落ちない表情になった。

 

「おい、ちょっと待て。宿泊客名簿を持ってきてくれ!」

 

モニタールームにいた捜査員がアルフにそれを渡した。

 

アルフは眉間にしわを寄せて、その名簿に目を通していたが、あるところで目が止まった。

 

「まさかと思ったが、まさかまさかだな」

 

アルフが目を止めたところには、その印象的な名前が記されていた。

 

アレッサンドラ・テスタロッサ。

 

その誰もが目に止めるに違いないその名前を、訂正するために引かれた二重線の下に、別の名前が書かれていた。

 

「アリーチェ・エレノア。間違いない。エレノア財閥の第三十代目当主だ」

 

アルフは、事件の真相に間違いなく一歩近づいたと確信した。

 

だがそれは、とても厄介なことに首を突っ込みかねない、危ういことを意味していた。



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第三十三話 出会っていた?

 

その時は突然訪れた。

 

ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーの副支配人が、その日全く姿を見せないアデルモ総支配人を不信に思い、連絡を取ろうとしたが、どこにもその姿は発見されなかった。

 

アルフ捜査官は至急専従捜査班を召集し、アデルモの捜索に全力をあげるよう命じた。

 

万一のことを含め、アロンソを始め、ホテル班の捜査員もホテル内やその周辺をくまなく捜索した。

 

だが、その姿はどこにも見当たらなかった。

 

疑わしい人物として名前があがっていたアルピーナ婦人やアレキサンドロに加え、アガタや灯里たちもアリバイを調べられていた。

 

だが、アデルモにつながる証拠は何もあがってこなかった。

 

その一方で、少しずつアデルモの過去についてわかり始めていた。

 

アデルモがマンホームのリゾートホテルにいた頃から、本人がいうところの旅をしていた半年後に、ホテル・エクセルシオール・ネオ・ヴェネツィアで支配人となるが、それから金遣いが荒くなり始めていた。

誰かパトロンでもいるのかと噂されていたが、その一方で、女性と子供を養っていたという噂話も出てきた。

だがアデルモには結婚していた経歴はなく、そのプライベートをはっきりと知る者もいなかった。

 

「その当時のエクセルシオールを徹底的に調べろ!」

 

アルフ捜査官の激が飛んだ。

 

捜査班は、アデルモ本人の捜索とエクセルシオールにいた当時を調べる側と二手に別れた。捜査は完全にアデルモに的が絞られていた。

 

 

 

 

「はぁ~」

 

アガタは、灯里のそばまでやって来ると、大きなため息を漏らした。

 

「どうされたんですか?」

 

灯里は力なくうなだれているアガタを気遣うように声をかけた。

 

黒づくめの男の特定には至らず、その上アデルモの失踪という出来事まで起こり、どうすることも出来ないロビーでは、ホテル関係者全員がそのアリバイを調べられたことで、苛立ちがピークに達しようとしていた。

 

だが、灯里の横に戻ってきたアガタは、まるで関係がないかのように、不満だらけの表情をしていた。

 

「おかしいと思いません、灯里さん?」

 

「そうですねぇ。おかしいとは思います」

 

「でしょ?」

 

「はい」

 

「そうですよ。絶対におかしいです!」

 

「ところで、あの、どの辺がおかしいのでしょう?」

 

「ええー!灯里さん、それ、どういうことですか?」

 

「あっ、いえ、そのぉ~、なんか色々ありすぎて、ちょっとこんがらがってきてしまって」

 

「なるほど。そういうことですか。それなら、灯里さんの気持ちもわかります」

 

灯里は「エヘヘヘ」と何とか苦笑いでごまかそうとしていた。

 

「でもです!」

 

「はひっ!」

 

「納得いきません!」

 

「ああ、それは、結局のところ、何がどう、納得がいかないというか、なんというか・・・」

 

「あれですよ!あっ!れっ!」

 

アガタは人差し指をグイッとフロントの方につきだした。

 

そこには、他のホテルから急遽応援に駆けつけた女性のフロントクラークが、忙しく接客に追われていた。

 

「この私や、灯里さんがいるというのに、それを差し置いてですよ?なんであんな人が、あそこに、当たり前のようにいるのかです!」

 

「ア、アガタさん!聞こえますよ!」

 

「いいんです!ちょっと、綺麗だからって・・・フン!」

 

灯里は、またもや苦笑いを顔に浮かべていた。

 

「アガタさん、そこだったんですね・・・」

 

「これ以上気になることが他に何かありました?」

 

「だってアデルモ総支配人のことで、色々と・・・」

 

「それも確かにありました」

 

アガタはアデルモの名前を聞くと、少しうつ向いて暗い表情になった。

 

「実は前から気にはなってたんです」

 

「前からですか?」

 

「ええ。先輩といい、私といい、こんな若くて綺麗な乙女たちを、こんな豪華なホテルのフロントクラークに抜擢するなんて、なんかあると思ってたんですよ」

 

「そ、そうなんですね」

 

「やっぱり総支配人には、何か私たちには知らない別の顔があったりするのでは・・・」

 

「別の顔?」

 

「そうです!例えば、生きのいい女子たちを育てて、あちこちのホテルに派遣するんです!そして言うんです!返して欲しくなければ、いや、返して欲しければ・・・ん?あれ?」

 

「あ、あの、アガタさん?」

 

アガタの頭の上に、はてなマークが浮かんでいるところに、誰か後ろから冷めた口調で話かけてくる声が聞こえた。

 

「あんた、何をやらかしたの?」

 

アロンソだった。

 

「なんですか?いきなり。そんな言われ方される覚えはありません!」

 

アガタは不愉快だと言わんばかりに、口をとんがらぜた。

 

「じゃあ、なんで捜査官からお呼びがかかってんの?」

 

「お呼びですか?さっきちゃんとアリバイをお話しましたよ?」

 

「それとは別件のようだね。とにかく会議室に来てくれって」

 

「ええー?また行くんですか?そんなに暇じゃないんですけど、わたしたち」

 

「いや、あんただけ」

 

「ええー?なんでですか?脇役だからですかぁ?」

 

「そんなこと聞かれても知らない」

 

アガタは、ブツクサ言いながら、従業員出入口の方へ向かって行った。

 

灯里はそんなアガタを見送っていたが、ふとアロンソと目が合ってしまった。

 

「えーと、あのー、そのー」

 

その時、二人の背後から声がかけれた。

 

「アガタ女史は、相変わらず楽しそうに仕事してるねぇ」

 

「アールドさん!」

 

いつもの調子でくたびれたコートを引きずるように、アールドがニヤリと笑って立っていた。

 

「部外者は出ていってくれ」

 

アロンソもまた、いつもの調子で冷たく言い放った。

 

「またそんな冷たいことを言うねぇ」

 

「冷たいとかそんなんじゃなく、ほんとにそうだから仕方がない」

 

「またまたぁ」

 

灯里は、二人の言葉のラリーに口をあんぐりと開けて見ていた。

 

「そうだ、灯里さん?」

 

「はい、なんですか?」

 

「来てる?」

 

「来てるって、誰がですか?」

 

「灯里さんも、またまたぁ」

 

「またと言われても・・・」

 

「あれだね?ここのホテルはさぁ、ロビーにいると、とぼけるのがうまくなるんだね」

 

そう言われたアロンソと灯里は、なんとなくお互いを見ていた。

 

「まあ正直言って、どっちがどっちだとは言いにくいところもあるんだけどね」

 

「何が言いたいんだ?」

 

「ああ、ごめんごめん。一応仕事中だったね」

 

「だから帰れ」

 

「残念なんだけど、今日は灯里さんに用があるんだよねぇ」

 

「わたしですか?」

 

「だから、灯里さん?こないだ頼んだ件、覚えてる?」

 

「こないだって?」

 

「うそ!マジで?ほんとに?」

 

「す、すみません。えっと、なんだったでしょう~?」

 

「ひどいなぁ、灯里さん!あの超美人で有名な、こないだのネオ・ヴェネツィア映画祭で華々しく新人賞を取った、赤が世界で一番似合う、ほら、ね?わかるでしょ?」

 

「ああ、わかりました!」

 

「そうでしょ!」

 

「姫屋の晃さん!」

 

ドテッ

 

「い、いや、その灯里さん?」

 

「違いましたぁ?」

 

「当然違うよね?晃さんは新人賞取らないよね?だって、女優じゃないもんね?」

 

「違うかぁ」

 

「えっ、灯里さん?わざとなの?中年のおじさんをからかってるのかな?」

 

「だとすると」

 

「うん、だとすると?」

 

「藍華ちゃん!」

 

ドテッ

 

「違うよね?最初っからわかってるよね?というか、そんなに赤ってイメージでもないような気もするよね?」

 

「だって、クリムゾン・ローズって」

 

「だからそれは、さっきの晃さんの通り名だよね?」

 

「えっ、アールドさん?晃さんのこと、ご存知なんですか?」

 

「灯里ちゃん、もう止めよっか?このラリー」

 

「はひー」

 

「言えないなら、言えないって言ってくれればいいのにさぁ」

 

アールドは苦笑しながら、頭を掻いていた。

 

「スミマセン」

 

「別にいいんだけど。でも、本当はダメなんだけどね」

 

そこにアロンソが話に入ってきた。

 

「一体さっきから何を無駄口を叩いてるんだ?」

 

「お前さんはいいの。どうせ興味ないだろうし」

 

「アレッサンドラ・テスタロッサ」

 

アロンソはロビーに目を向けながらポツリと呟いた。

 

「そんなさぁ、あっさりとよく言えたもんだねぇ。灯里さんを見てみろよ?」

 

灯里は「あー」と口を開けて、抗議するような目で、アロンソを見ていた。

 

「女優のひとりやふたり、どうしたって言うんだ?」

 

「またそんなこと言っちゃって。ほらぁ、また灯里さん、怒らしちゃったんだから」

 

灯里は、アロンソに背を向けて、ブスッとほっぺを膨らませていた。

 

「個人情報ですよ、アロンソさん!」

 

「そうですよ、アロンソさん!」

 

アールドは灯里の真似をして言って見せた。

 

「それでなんだ?お前はそんなのに会いにきたのか?」

 

「会いに来たのかって言うけど、なかなか会えないんだからね」

 

「じゃあ、そこでじっとしればいい」

 

アロンソは、顎を近くにあるソファーに向けた。

 

「また、そんな言い方して。で、泊まってるの?どうなの、灯里さん?」

 

「だから、言えません!」

 

そう言った瞬間だった。

 

ロビー全体を一瞬にして空気を変えてしまう、かぐわしい香りが漂ってきた。

 

三人は同時に正面玄関に目を向けた。

 

アレッサンドラ・テスタロッサは、両サイドからドアボーイによって開けられたドアの中央から、オーラ全開の姿で現れた。それはまるで、舞台中央から主役の女優が登場でもしたかのような印象をそこにいる全員に与えていた。

 

トレードマークの大きなサングラスを少しずらしながら、その大きな瞳でもって、チラッと横目で視線を送った。

 

その姿に誰もが見とれ、動きを止めてしまう。

 

灯里は、あんぐりと口を開けたままだった。

 

アロンソは、いつもと変わらない表情で、その姿を見ていた。

 

その横で、アールドはニヤリと表情を崩していた。

 

アレッサンドラは、そのずらしたサングラスから見える瞳を、三人の方に向けた。

 

その時、ほんの一瞬だったが、その瞳が今までにない鋭い光を放っていた。

 

しかしそれは、誰に向けられたものかは、定かではなかった。

 

「いよいよお出ましか」

 

「えっ?」

 

灯里は、アールドが何気なく呟いた言葉に引っ掛かっていた。

 

「どういう意味・・・」

 

だが、そんな灯里の前にその美貌の主は、足を止めた。

 

そしてサングラスをゆっくりと外し、その印象的な瞳で灯里をじっと見つめた。

 

「灯里さん、お疲れ様。あなたには、本当に頭が上がらないわ」

 

「はっ?へっ?ほっ?」

 

「あなたのような献身的な姿をすべての人が見習うべきだと思う。もちろん、この私も含めてね」

 

「あ、あのー、そこまで言って頂いて恐縮しますデス」

 

「時間があるときに、是非お会いしましょう。そうね。その時はゴンドラに乗せていただこうかしら」

 

「はい!その時は、いろんなところを・・・はひッ!」

 

「どうしたの?」

 

「あ、あのー、わたしはフロントクラークでして、ハハハハ・・・ゴ、ゴホン!」

 

あたふたしている灯里を見て、アレッサンドラはクスッと小さく笑った。

 

「じゃあ頑張ってね。フロントクラークのウンディーネさん!」

 

「はい!あ、いや・・・ああー、どうして、そうなるんですかぁー?」

 

困った顔をしている灯里を尻目に、アレッサンドラは悠然と立ち去っていった。

 

「いやぁー、やっぱりすごい美人だねぇー!びっくりしたぁー!」

 

アールドはちょっと大袈裟と思えるように声をあげた。

 

「それにしても、灯里さん!知り合いだったの?なんであんな親しそうなの?」

 

「なんでって、それには色々と事情があってですね、うーん・・・」

 

「なんかマズイの?」

 

「だって、アールドさん!わたし、ここでは一応ホテルのフロントクラークなわけですから!」

 

「なるほど。彼女は灯里さんの事情を知ってるって訳だ」

 

「今さらなんですけども。トホホホ~」

 

「というか、灯里さん?それって、気にしてるの、灯里さんだけだと思うよ」

 

「えっ、どういうことですか?」

 

「灯里さんが、あのARIAカンパニーのウンディーネだなんて、まさに今さらだということ!」

 

「ええー!そうだったんですかぁ?」

 

「灯里さんが驚いてることに、驚いちゃうんだけど」

 

灯里は、その場でひとりぐったりとうなだれてしまった。

 

「でもアールドさんだって、なんか知り合いみたいなこと、言ってませんでした?」

 

「ボクが?そんなこと言ってた?」

 

「いよいよお出ましかとかなんとか」

 

アールドはそれを灯里から言われて、気まずそうに笑った。

 

「あーあぁー。そんなこと言ってたんだぁ。やっぱり灯里さんて、なんかあるのかなぁ?」

 

「なんかって、なんですか?それって、ゼッタイ誉めてませんよね?」

 

 

 

 

アガタは、捜査本部となっている会議室のドアの前に立っていた。

 

「さっきも来たばっかりで、また来ることになるなんて。私がなんかしたって言うんですか?」

 

ブツブツ呟きながら、そのドアをノックした。

 

中から聞き覚えのある声がして、アガタはドアを開けた。

 

部屋の中には、アルフ捜査官ともうひとり、見慣れないスーツ姿の男性がいた。

 

「ご苦労様。まあそこに座ってくれ」

 

アガタはアルフに言われるがまま、目の前のパイプ椅子に座った。

 

部屋の中は、明らかに数時間ほど前にアリバイの説明に訪れた時とは違う空気が漂っていることを、アガタは感じていた。

 

「実は君に来てもらったのは、改めてあのときのことを話してもらいたいからなんだ」

 

「あのときの?」

 

「そう、アデリーナが襲われた時のことだ」

 

アガタは少し動揺した顔になっていた。

 

「でもそれは、あの時、さんざん説明したはずです」

 

「そうなんだが、実はあの時、君だけが最重要人物二人に、同時に会っていたんだ」

 

アガタはアルフの言葉に、何か言おうとした状態で、動きを止めていた。

 

「私だけってどういうことですか?」

 

「そのままの意味だ」

 

「それって誰なんですか?」

 

アルフは、そこにいるもうひとりの男性の方を見た。

 

その男は、黙ったまま、頷き返した。

 

「そこにいた、二人の犯人だ」

 

「二人って」

 

「実行犯の姉と、それを手助けした妹」

 

アガタは言葉を失っていた。



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第三十四話 キナ臭い匂い

 

「アガタくん、こちらはインターポールの方だ」

 

アガタは状況が飲み込めずにいた。

 

その男から放たれた言葉も、今いる状況もすぐには理解できそうになかった。

 

「今はまだ詳しいことまでは言えないが、これまでとは少し、事態が変わり始めているんだ」

 

アルフ捜査官は、難しい顔をしているアガタにゆっくりと話しかけた。

 

「アガタくん、今一度あの時のことを思い出してほしい」

 

「思い出せと言われても・・・」

 

「なんでもいい。気づいたことだ」

 

「でもあの時お話ししたこと以外、何も見てません」

 

アルフは、そのインターポールの刑事の男に目を向けた。

 

男は軽く頷いた。

 

「少し混乱させてしまったようだね。それなら一旦先程の話は忘れてくれ。その上で、思い出してほしい。なんでもかまわない」

 

「そう言われても」

 

アガタは困惑の色を隠せないでいた。

 

「アルフさん?」

 

「なんだ?」

 

「さっき姉妹って言ってましたよね?」

 

「そうだ」

 

「誰だかわかったってことですか?先輩にあんなひどいことした人のこと!」

 

「いや、残念だが、まだはっきりとしたわけじゃないんだ。ただ、あのリネン室にいた女には、どうやら姉妹がいたらしい。だが、行方がわかっていない。今その関連を調べているところなんだ」

 

「じゃあ、その人が犯人なんですか?」

 

アガタの表情が険しくなった。

 

「でもなんで先輩なんですか?恨まれていたとかですか?」

 

「悪いが、そこはまだ話せない」

 

「なぜですか?」

 

「今回の殺人予告とは、また別の事件と絡んでるからなんだ」

 

アガタはアルフのその言葉を聞いて、もうひとりいるその男を見た。

 

これまで接してきたアルフやアロンソたちとは明らかに違う雰囲気を持ったその男が、そのためにここにいるということを、アガタはようやく理解することが出来た。

 

 

 

 

「お姉様、どうなさいました?」

 

アンナリーザ・エレノアは、歴史を感じさせる執務室の、その大きな机のところに、小さな身体で座っているアリーチェの様子に驚いていた。

 

「アンナリーザ、呼び出して悪かったわね」

 

「あら、お姉様がそんな謙虚ななことをおっしゃるなんて、どうされたのですか?お下痢でもなさいました?」

 

「お、お下痢?何を言ってるの、アンナリーザ?」

 

「違うのですか?」

 

「違うわよ!」

 

「それなら良かったですわ」

 

「どこで納得してるのよ!まったく、もう!」

 

アリーチェよりも背が高く、すらりとした身体で立つアンナリーザは、その辺のファッションモデルでは、太刀打ちできないほどの美貌を持っていた。

 

そんな彼女が、アリーチェのリアクションを見て少し安心したように微笑んだ。

 

二人は、部屋の中央にあるソファーのところで、向かい合って座った。

 

そこへ女性秘書が、紅茶を運んできた。

そして一礼すると、そのまま退出した。

 

「先日は、病院の手配を引き受けてくれてありがとう。助かったわ」

 

「そんなこと、造作もないことですわ。あそこは、昔からうちが支えているようなもの。ただ、説明をしただけです」

 

そう言ってアンナリーザはカップに口を着けた。

 

「ところでお姉様?アルマはどうしたの?いつもなら彼女が来ますのに」

 

「しばらく休んでるの」

 

「珍しいこともあるもんね」

 

「実は今日来てもらったのは、他でもない。アルマのことで頼みたいことがあって」

 

アリーチェは、少し上の方に目線を向けると、虚空をみつめるような表情をした。

 

「深刻なことですわね、お姉様?そのようなお顔をされるとういうのは・・・」

 

そう言ったアンナリーザは、驚いた顔で口をポカンと開けた。

 

「まさか、あのホテルの従業員のことと関係しているとか・・・お姉様?」

 

アリーチェは、大きなため息をつくと、目を閉じた。

 

「アルマの生まれの件は、あなたにも話したわよね。それを辿っていくうちに、身寄りのないと思われていた彼女に、腹違いの妹がいることがわかったの」

 

「そんなことが・・・。ということは、あの男に繋がっていると?」

 

「そういうことになる」

 

「まさか。だから、なの?」

 

「そう考えるのが、今のところ、妥当な結論でしょうね」

 

「それなら尚のこと、わからないわ。なぜあの従業員が狙われたの?」

 

「そこをあなたに調べてもらいたいの。私は、こんな立場だから、あまり目立った行動は出来ない」

 

「確かにそうですわね」

 

アリーチェは、紅茶を一口飲むと、またため息をついた。

 

「あの男、まだ何かあるに違いないですわ。それに・・・」

 

「お姉様、他にも何かあるのですか?」

 

「あの女、いつも派手に登場するのに、少しも尻尾をつかませない」

 

アリーチェの表情が、心配から嫌悪に変わった。

 

それを見たアンナリーザは、ふっと笑みを漏らした。

 

「お姉様も相当なお節介焼きですわね」

 

アリーチェは手に持っていたティーカップを皿に戻すと、真剣な表情でアンナリーザに目を向けた。

 

「アンナ、これだけは言える。時間はないということよ」

 

「そんなに深刻なのですか?」

 

「まだ、表沙汰にはなってないことだけど、あの男、姿を消したらしいの。三日前に」

 

「そうなのですか?」

 

アンナリーザは、いつもとは違う深刻な姉の表情に、心配になっていた。

 

 

 

 

「おっ、アガタ女史のお帰りだ」

 

アールドは、冗談めかしてアガタがロビーに戻ってきた姿を見てそう言ったが、アガタの表情が冴えないことに気がついた。

 

「アガタさん、お帰りなさい」

 

「灯里さん、ただいまぁ~」

 

アガタは灯里の横に立つと、大きなため息をついた。

 

「どうかしたんですか?」

 

「うん、そうですね。ありました。でも言うなって言われてますので」

 

アールドはそんなアガタの様子にちょっと驚いてみせた。

 

「へぇー、そうなんですね。なるほどね」

 

「なるほどねって、どういうことですか?ご存知なんですか?」

 

そこにアロンソが口を挟んだ。

 

「口車にのっちゃだめだ。こいつは捜査班の人間じゃない」

 

「えっ?」

 

アガタは驚いてアールドの顔を見た。

 

「おじさんて、警察の人ですよね?違うんですか?じゃあ誰なんですか?」

 

「違いはしないよ。でもこいつの言う通り、正式にはこの事件の捜査員ではないね」

 

「じゃあ、なんなんですか?確か、ピストル持ってましたよ?」

 

アガタは思いっきり白い目でアールドに視線を送った。

 

「おい、アロンソ!余計なこというなよ!これまで協力してきただろ?」

 

その様子にポカンと見ていた灯里が、クスッと小さく笑った。

 

「どうしたんですか、灯里さん?」

 

「僕たち、そんな笑われるようなこと、言ったつもりないですよ?」

 

「いいえ、なんでもないです」

 

灯里は振り返って、笑いをこらえていた。

 

 

 

 

灯里とアガタが今日の勤務を終えて帰路についた頃、従業員通路の自販機の側でカップを取り出そうとしているアロンソのそばで、アールドはぽつりと呟いた。

 

「新展開?」

 

アロンソはそれには答えず、黙ったままカップのコーヒーを口にした。

 

アールドはそのまま言葉を続けた。

 

「アデルモ氏が姿を消して三日。そろそろ次の展開があってもいいのに、捜査本部も目立った動きがない。そこでアガタ女史が改めて呼ばれた。アリバイなんか何回きかれてもそう変るもんじゃない。だが、彼女の神妙な反応。何か意外なことを聞かれたに違いない」

 

「そうだろうな」

 

「えっ?反応してくれるの?うれしいなぁ~」

 

「捜査官の態度が変わった。それは確かだ。だが、それ以上は話さない」

 

「つまり、現場の捜査員に知らせるには、ちょっと深刻な何かが出てきた?」

 

「そんなところだろう」

 

「なるほどね」

 

「なんだ?また何か情報をつかんでるのか?」

 

「つかんでるわけじゃないけど、ホテル業界ってさぁ、歴史がある分、いろいろ聞くじゃない?」

 

「いろいろねぇ」

 

「あんたも危ない橋を渡ってきた方だから、耳にはしてるだろうけど、影のフィクサーと言われている、あのホテル王の話。最近、耳にする機会があったんだよねぇ」

 

「それはまともな仕事の話か?それともわけのわからない、あんたの人脈の話か?」

 

「わけのわからないは、失礼だよ。でも、当たってるけど」

 

アールドはニヤリと笑ってみせた。

 

「関わってなければいいのにねぇ。せっかく総支配人にまでなったんだから」

 

その時、アロンソの電話が鳴った。

 

アロンソはアールドに背を向けると、少し離れていった。

 

押さえた声で話す雰囲気が、聞いているアールドに、何かを期待させる感じだった。

 

電話を切ったアロンソが振り返ってこう言った。

 

「その人脈の話、どれくらい信用できるんだ?」

 

「えっ?うーん、そうだなぁ。少なくとも、捜査本部ではわからないかもね」

 

ニヤリと笑うアールドの顔をじっと見ていたアロンソは、こう切り出した。

 

「交換条件だ」

 

アロンソの言葉に、アールドは目をふせて静かに笑った。

 

「いいよ。それで何がわかったの?」

 

「インターポールが動いている」

 

その言葉にアールドは思わず目を見開いた。

 

「そうなの?へぇ~~」

 

とぼけた反応を見せるアールドにアロンソは少し苛立った顔になった。

 

「そっちも言え」

 

「ホテル王の裏の顔といえる、ヤバい組織の連中がアクアに入ってきている。しかも先日、ネオ・ヴェネツィアでも目撃された」

 

アロンソは眉間にシワを寄せて、目付きを鋭くさせた。

 

「あの総支配人、もうこの世にいないってこと、ないよねぇ?」

 

アールドは、本当にそう思っているのか、疑わしいくらい気の毒そうな顔で呟いた。



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第三十五話 オーラがもたらすもの

捜査本部としているホテルの会議室で、アルフ捜査官は、一部を除いたほとんどの捜査員を召集していた。

 

それは、捜査方針の大幅な変更を余儀なくされていたからだった。

 

先日やって来たインターポールの刑事により、事態が急を要することを告げていた。

 

「みんなに集まってもらったのは、重要な用件があるからだ。ここへ来て、大幅な捜査方針の変更を行う必要がでてきた」

 

集まった捜査員たちに動揺の声が上がった。

 

「何かあったのですか?」

 

そんな声の上がる中、アロンソは黙って目を閉じていた。

 

「もうすでに知っている者もいるかもしれないが、先日インターポールから捜査員が訪ねてきた」

 

今度は先ほどとは違い、緊張感が漂い始めた。

 

「失踪したアデルモ総支配人に関して、情報の提供と協力を求めるものだった。インターポールでは、このホテルを立ち上げた当初からアデルモ氏をマークしていたらしい」

 

「今回の脅迫事件と何か関連があるんですか?」

 

「その部分は、まだはっきりしているわけではないが、おそらくその関連を探るためだろう」

 

「インターポールが動くということは、アデルモは、何か国際的な犯罪に関わっていたと?」

 

「彼自身が、というわけではないらしい。アデルモ氏が、関わっていた人物が厄介なんだ」

 

「誰ですか?」

 

「ホテル王、アイアート・ライデン」

 

一同がその名前を聞いて沈黙した。

 

「知っての通り、ホテル王として君臨する人物だが、もうひとつの裏の顔は黒一色。そして尻尾を掴ませない。だが、インターポールは何かを掴んだに違いない。そして、アデルモ氏の名前を出してきた。そんな中で起きたホテルの脅迫事件だ。全く関係がないとは考えられない」

 

今まで黙っていたアロンソが口を開いた。

 

「インターポールは、この脅迫事件をどこまで把握してるんですか?」

 

アルフは少し間をおくと、鼻からため息のような息を吐き出した。

 

「犯人」

 

「犯人をですか?」

 

捜査員一同がどよめいた。

 

「正確にはすべてではない。おそらく把握しているのは、アデリーナを襲った件だ」

 

「誰ですか?」

 

アロンソの語気が強くなった。

 

「リネン室で捕らえたアージアは、実行犯の協力者と我々の側でも見当はついていた訳だが、アージアはその実行犯の妹だということだ」

 

「じゃあその姉は?姉が実行犯ということですか?」

 

「そういうことになる」

 

「だから誰なんですか?」

 

「アルマだ」

 

「アルマ・・・」

 

その場にいた捜査員たちは、その名前に心当たりがないようだった。

 

だが、アロンソだけは、何かに気づいたようだった。

 

「捜査官?このホテルに来てますよね?」

 

その言葉に全員がアロンソに注目した。

 

「ああ、現れた」

 

「あっ、そうか!だから・・・」

 

捜査員一同がアルフの口から放たれる言葉に静まり返った。

 

「アリーチェ・エレノアのメイド、アルマだ」

 

どよめきが広がった。

 

そして、誰かから思わず声が漏れた。

 

「エレノア財閥が、どうして・・・」

 

会議室の空気が一変に重苦しくなった。

 

インターポールにホテル王が登場し、アデリーナの事件は姉妹の犯行、そこにエレノア財閥まで。

 

ホテルを脅迫した事件とは、桁違いの出来事に発展しそうな話だった。

 

しかも、渦中のアデルモはどこへ行ったかわかっていない。

 

「だがみんな、脅迫事件も、インターポールのお出ましがあっても、やはり鍵を握るのはアデルモだ。いったいアデルモが、どんなかたちでホテル王と関わり、アデリーナを襲った姉妹と繋がっているのかだ!」

 

捜査本部は、先ほどの沈んだ空気から一変、捜査員たちの目付きが変わり始めた。

 

「これまでの捜査の先に、必ず答えがあるはずだ!なんとしてもアデルモを追え!」

 

 

 

「灯里さん、それ、ホントなんですか?」

 

アガタは驚いた顔で、灯里の顔を見つめていた。

 

「はい、そのようです」

 

灯里は、捜査本部のアルフに呼ばれていた。そこで何か大事な話があったようで、ロビーに戻った灯里の、少し元気のない様子に、アガタは心配になって声をかけた。

 

灯里の返事はこうだった。

 

「お役目は終了とのことです」

 

それを聞いたアガタは、一瞬戸惑った様子で、じっと立ち尽くしていた。

 

「じゃあ、灯里さんは、もうホテルには来られないということですか?」

 

「そうなります」

 

「灯里さんは、それでいいんですか?」

 

アガタの声のトーンが強くなった。

 

「ごめんなさい」

 

「アガタさん、謝らないでください。これまでよくしていただいたのは、私の方なんですから」

 

「でもなんでなんですか?」

 

「捜査の方針が変わるそうで、私がここにいることも、あまり必要ではなくなったとのことです」

 

「そんなぁ~。じゃあこれまでやってきたことはなんだったんですか?灯里さんが目撃した、あのお騒がせ男はなんだったんでしょうか?」

 

「お騒がせ男?」

 

「あのくろずくめの、趣味の悪い男の人ですよ!」

 

「そういう意味なんですね」

 

「なんか騒がせるだけ騒がせといて、最重要人物だとか言っちゃって。なのに、いったいなんなんでしょうかねぇー!」

 

「アガタさん、ごもっともです」

 

「そうですよねぇー!」

 

アガタはそう言うと、ふぅーと息を吐き出した。そして、少し真顔になって灯里の方に再び顔を向けた。

 

「灯里さん?」

 

「はい?」

 

「ちょっと寂しくなりますねぇ」

 

「アガタさん」

 

「それに、いったい何がどうなってるのか、わからないことだらけです」

 

「はい」

 

「これから先、どうなるんでしょう」

 

アガタはここに居続け、この先どうなるかわからない不安と向き合っていかなければならなかった。

 

だが、アガタの不安は、灯里にも同じことが言えた。

 

確かに自分は、ここを離れたら、次の日からウンディーネに戻ればいい。

 

でもそれでは、このネオ・ヴェネツィアから、何も不安が解消されたわけではない。

 

灯里が捜査に協力を申し出た理由は、それがあったからだった。

 

何か得体の知れない大きなものに飲み込まれていくような、そんな不安を感じていた。

 

「灯里さん?」

 

「なんでしょうか?」

 

「いつか、ゴンドラに乗せてください」

 

「はい!是非!」

 

「そんな日が早く来ないかなぁ」

 

灯里はまた訪れることを約束した。

そして気になっていたアデリーナのところに、一緒にお見舞いにいくことも約束した。

そのあとは、アレッサンドラ・テスタロッサの映画を観に行くことも約束した。

 

「ここにいる限り、私はまた会えますからね。多分ですけど」

 

アガタは楽しそうに笑ってみせた。

 

だが、アガタの思いとは裏腹に、それは実現せずに終わりを告げることになりそうだった。

 

 

 

アデリーナは、担当医の診察の結果、予定されていた日よりも早くに退院できそうだった。

 

入院してから数週間、事件の被害者ということもあって、ホテル関係者とは、ほぼ誰とも面会できずにいた。

そのため現在のネオ・ヴェネツィアーティーのことをほとんど把握できていなかった。

しかも、アデリーナの方から連絡を取ることも禁じられていた。

それ故に、余計に気がかりで仕方がなかった。

 

「アデリーナさん、これから先のスケジュールが決まったので、お渡ししておきますね」

 

A4用紙に印刷された文面の中には、リハビリの日程も記されていた。

 

「順調にいけば、一週間で退院できるかもしれないわね。後は、通院をしばらくしていただいて経過を見る感じですね」

 

アデリーナは、その病院職員の話に明るい気持ちになっていた。

それは、少しでも早くホテルに復帰できることへの希望でもあった。

 

「それと、以前いらしてたアンナリーザさんが来られていたみたいね」

 

アデリーナはその名前をきいて、ハッと驚いた顔になった。

 

「その方、まだ病院にいますか?」

 

「どうだろう?院長先生と話されていたと思うので、もしかしたらまだいらっしゃるかも」

 

「会わせて下さい!」

 

「確認はしてみるけど」

 

「わたし、まだ会ったことがないんです」

 

「そうだったの?」

 

「はい。是非お礼を言っておかなくてはならないですし・・・」

 

アデリーナは、またとないチャンスに思えた。

 

自分の身に起きたことと、今置かれている状況を知る、唯一の人に違いない。

 

職員が出ていったあと、その答えを知るまでの間、胸の鼓動が早まるのがわかった。

 

その時、ドアをノックする音が鳴った。

 

「どうぞ」

 

アデリーナは、そのドアを開けて入ってくるのは、先ほどの職員だと思い込んでいたので、その姿を見た瞬間、何も言葉が出てこなかった。

 

「よろしいかしら?」

 

病室に入ってきたその女性は、なぜ同じ人間なのに、こうも違うのかと思わずにはいれないくらいの美貌の持ち主だった。

 

すらりと伸びたプロポーションとウェーブのかかったきれいなロングヘア。

どこの王室のプリンセスかと訪ねたくなるほどの、美貌とオーラを兼ね備えていた。

 

アデリーナはポカンとその姿に見とれてしまっていた。

 

「初めまして、アデリーナさん。アンナリーザ・エレノアと申します。お会いできて光栄です」

 

「どうも、初めまして」

 

アデリーナはそれ以上言葉が続かない。

 

「何かお聞きになりたいことがあるとか?」

 

アデリーナはうまく言えそうになかったが、このまま帰られたら、この先一生会えないと思い、話を切り出すことにした。

 

「あの、ほんとは最初にお礼を言わなくてはいけないのはわかってるのですが・・・」

 

アンナリーザは、躊躇しているアデリーナに優しくほほえんでみせた。

 

「お気になさらなくとも結構です。どうぞなんなりと」

 

「じゃあ、聞きます。理由を教えて下さい。なぜこんなことをするのかを」

 

アデリーナの真剣な眼差しに、アンナリーザはぐっとアデリーナの目を見つめた。

 

「いきなり直球勝負なのですね?」

 

アデリーナはその見つめる眼差しから目をそらすまいと、目線を外さないよう見返した。

 

だがアンナリーザからは、はなから勝負になりそうにないほどのオーラが放たれていた。



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第三十六話 路地裏と硝煙とサングラスと

アデリーナから真剣な眼差しを向けられたアンナリーザ・エレノアは、その表情に笑みをたたえ、目を閉じた。

 

「アンナリーザさんは、エレノア財閥の方だとお聞きしましたが、本当ですか?」

 

「ええ、そうですわね」

 

アンナリーザの眼差しは、当初と違って、落ち着いた、優しいものに変わっていた。

 

「わたし、わかりません。まったく縁もゆかりもないエレノア財閥から、支援を受けるなんて」

 

「理解します。ただ、アデリーナさんになくとも、こちらにはあるのです」

 

「どういうことなんでしょうか?」

 

「今はまだ、ハッキリとは言えないのですが、あなたには多大なるご迷惑をおかけした。それだけは申し上げておきます」

 

「多大なる迷惑・・・」

 

アデリーナは、困惑した表情で、改めてアンナリーザを見た。

 

「それってつまり、私が襲われたことと何か関係しているということなんですか?」

 

「それ以外に考えられませんですわね」

 

アンナリーザは、あっさりと答えた。

 

「いったいどういうこと・・・」

 

「先ほども申し上げたとおり、今の時点では、詳細については申し上げることはできないのです。それに、アデルモ氏本人に確かめなくてはいけないことでもあります」

 

「総支配人にですか?」

 

「ええ」

 

「ちょっと待ってください。私が襲われたことは、総支配人と関係があるということなんですか?あれは、ホテルを狙った嫌がらせみたいなことではなかったのですか?」

 

アデリーナの顔色が変わっていった。

 

「アデリーナさん?わたくしは警察ではありませんのよ。その辺のところは、警察に直接お聞きになられてはいかがですか?とはいっても、この状況ではできないですわね」

 

アンナリーザは、少しため息まじりの反応を返した。

 

「なんにせよ、そのホテルへの殺人予告は、本当だったということではないかしら?」

 

「つまり、私がその犠牲者・・・」

 

そう言ったアデリーナが何かに気づいたような顔をした。

 

「アンナリーザさん?今、殺人予告っておっしゃいましたよね?」

 

「そうですわね。それが何か・・・」

 

今度はアンナリーザがハッとした表情になった。

 

「なぜそれをご存知なんですか?正式には発表されてないはずですけど」

 

「それはなんといいましょうか・・・ハ、ハハ、ハハハハ!」

 

「アンナリーザさん」

 

「どちらにせよ、アデルモ氏に出てきてもらわないことには、ハッキリとしないことですわ!」

 

アンナリーザの言葉を聞いたアデリーナの顔に緊張が走った。

 

「出てきてって・・・」

 

アンナリーザは、またもやハッと表情を変えた。そして、自らの額を押さえた。

 

「総支配人に何かあったのですか?教えて下さい!どうしたんですか?」

 

「わたくしとしたことが、やらかしてしまいましたわ」

 

「アンナリーザさん!」

 

アンナリーザは、しょうがないといった感じで、大きく息を吐きだした。

 

「御姉様から調子に乗らないよう注意されていましたのに。これはわたくしの失態です。しょうがありません」

 

アデリーナの憔悴した表情をしっかりと見据えたアンナリーザは、決意したように口を開いた。

 

「ショックをお受けられると思いますが、気をしっかりとお聞きになって下さい。アデルモ氏はいなくなりました」

 

「いなくなった・・・」

 

アデリーナは目が点になっていた。

 

「わたくしの知る限りではございますが、警察の疑いがアデルモ氏に向けられ始めて、その数日後には、姿を消したということです」

 

「でも脅迫を受けていたのは、総支配人だったはず」

 

アンナリーザは、少し気の毒そうにアデリーナの様子を見ていた。

 

「そうですわね。あなたにとっては、あくまでもホテルの総支配人ですわね。でも、この数日で事態は変わってしまいました。あなたのように氏を受け止める人は、もういないかもしれません」

 

「どういうこと・・・」

 

それ以上、アデリーナには聞き返す気力がなかった。

 

「これ以上は、本当に申し上げることができませんの。実は、当初思われていた以上に事態は深刻のようです。ですので、知るということは、それだけで危険ということになります」

 

アデリーナからは、何も反応が帰ってこなかった。

ただ、茫然と前を見つめている状態だった。

 

アンナリーザは、その様子に憐れみの表情を浮かべた。

 

「そろそろ失礼致しますわ。退院は近いと聞いております。元気を出して下さいましな」

 

廊下に出たアンナリーザは、部屋のドアをゆっくりと静かに閉じた。

その直前に、ドアの隙間から見たアデリーナは、まだ前を見つめている状態だった。

 

 

 

 

アリーチェ・エレノアは、アデリーナへの対処は妹のアンナリーザに任せて、あまり目立った行動は避けるようにしていた。

 

だが、アクアを代表する財閥家として、その情報網を駆使すれば、現在ネオ・ヴェネツィアを取り巻く状況が、危機的状況に近づきつつあることは、容易に察知することができた。

 

アリーチェの頭の中は、この度のできごとが、自らが撒いた種が原因であろうと、責任を痛感する思いでいっぱいだった。

 

アルマのことを思ってしたことが、こんな裏目に出るとは・・・

 

だから、アリーチェは動かずにはいられなかった。

 

「当主、ここから先は危険かと」

 

「その当主って言うの、やめなさい!知らない人が聞いたら、私がどこかの野球チームでピッチャーでもやってるように聞こえますわ!」

 

「当主・・・投手・・・なるほど」

 

「バンザ・・・何を納得してるの!」

 

アリーチェと、アリーチェの元で仕事をしている第一秘書のアレグロは、少し寂しい裏通りを歩いていた。

目立った行動は命取りになりかねないと用心した結果、秘書だけを連れて出掛けていた。

 

「あの、当主・・・お嬢様?護衛をお付けになられた方がよろしいのではないですか?」

 

「目立ちたくないのよ!そんなことしたら、かえってこちらの存在を知らしめるようなもんでしょ?」

 

「ですが、このような怪しいところは、危ないのではないのですか?」

 

「今は、わかっている情報を頼りにするしかないの」

 

辺りをキョロキョロ見回しながら歩くアレグロの前を、緊張した面持ちでアリーチェは歩いていた。

 

アリーチェが得た情報、それはアルマが立ち寄りそうな場所だった。

 

「あの子の素性は知っていたつもりだったけど・・・」

 

そこは、決して豊かとは言いがたい街並みが続くところだった。

 

孤児院で育ったアルマは、その後、修道院で人助けをすることに日々を費やす人生を送っていた。

 

その頃のアリーチェは、自分のお側付きのメイドが何人も変わることに腹を立てていたが、知人の紹介でアルマと出会うことになった。

 

アルマは何事にも動じることもなく、アリーチェの無理難題も懸命にこなそうとする姿勢が認められ、アリーチェのお側付きとしての地位を築くことになった。

 

アリーチェのような何代も続く家系とは対照的なアルマは、天涯孤独と自分の出生については何も考えることをしてこなかった。

 

そこでアリーチェは、密かにアルマの身元を調べて、自分のルーツとは何かを知らせてあげようと考えた。

 

エレノア財閥の力を持ってすれば、すぐに調べられると考えていたが、意外にもそうではなかった。

 

むきになったアリーチェは、逆にそのことで地雷を踏んでしまうことになった。

 

「でもお嬢様?そこまでやる必要があるのですか?これ以上は危険かと。お嬢様に何かあっては、エレノア財閥にも影響は避けられません」

 

「そんなオーバーな!と言いたいところですが、確かに雲行きが怪しいですわね」

 

そう言ったアリーチェは、さりげなくチラッと後ろに視線を向けた。

 

「どうかなさいましたか?」

 

「アレグロ!後ろを向いちゃダメ!」

 

アリーチェは声を押し殺してはいたが、アレグロを制するように言い放った。

 

「つけられてる」

 

アリーチェの言葉にアレグロはカチッと固まったまま、前を向き続けていた。

 

「お、お嬢様?」

 

「いいからそのまま歩くのよ!」

 

アリーチェは少しずつ歩く速度を速めてゆく。

 

アレグロは、それについて行こうと小走りになっていた。

 

「アレグロ、いい?私が合図を出したら一気に走るのよ!」

 

「は、はい!」

 

そう言ったのもつかの間、その細い路地の向こうにサングラスをかけた、スーツ姿の男が三人、ゆっくりとこちらへ向かってくる姿が見えた。

 

振り返った先には、同じ姿の男たちがこちらも三人向かってくる。

 

その場で立ち止まったアリーチェは、どうするか迷った。

 

「お嬢様に何かあってはいけません!」

 

アレグロは、アリーチェの背中にピッタリとくっついて、離れようとしなかった。

 

「あ、あなた!言ってることと行動が合ってないわよ!」

 

だが、そんなふたりとは裏腹に、距離を縮めてきた男たちは、それぞれ上着の内側に手を差し入れた。

 

「アレグロ、あなた何か持ってないの?」

 

「何とおっしゃられても・・・あっ」

 

「ナニ?」

 

「ベルが」

 

「護身用ね?早く鳴らしなさい!」

 

チリンチリン♪

 

「帰ったらどうなるか、わかってるわよね?」

 

「だって、これしかないんです!」

 

後方から近づいてきた男は拳銃、前方からきた男はナイフ。

 

絶体絶命のピンチ。

 

「走って!アレグロ!」

 

アリーチェは、その小さな身体を投げ出すように、前からきた男に向かっていった。

 

「お嬢様!」

 

その瞬間、銃声が鳴り響いた。

続けざまにもう一発。

 

アリーチェがぶつかろうとした男が、その場でうずくまっていた。

 

反対にアレグロの目の前では、苦しさに耐えかねたように手を押さえて男が倒れていた。

拳銃は路面に落ちて、少し先に転がっている。

 

他の男たちは身構えて、辺りを忙しく目を向ける。

 

その中のひとりが、アリーチェに近づこうとした。

 

その瞬間、銃声が鳴り響き、男の足元で火花が散った。

 

続けざまに他の男たちの足元にも撃ち込まれてくる。

 

それはまるで、これ以上は許さないといっているかのような、鬼気迫るものがあった。

 

男たちは、少しずつ後退りしながら、一斉に駆け出していった。

 

口をあんぐりとあけたまま、その場に立ち尽くしているアレグロのそばで、アリーチェは厳しい目付きで周辺の気配に神経を尖らせていた。

 

風に乗って、硝煙の臭いが漂ってくる。

 

だがそれに混じって、アリーチェの神経を逆撫でする、あの香しい臭いが漂ってきた。

 

「どうして・・・どうしてあなたがこんなところいるの!」

 

少し離れた路地の角から、音もなく姿を表したその人物は、いつもとは違うレイバンの黒いサングラスと、黒のジャケットに黒のパンタロン姿で立っていた。

 

ただそれだけなら、どこかの世界的な有名モデルが、お忍びで街を歩いているようにも見えたが、決してそうは見えないのは、その片手には拳銃が握られていたからだった。

 

アレグロは、ずっと口を開けっ放しのまま、その姿を見つめていた。

 

その路地からふたりの方に近づいてきた姿を、アリーチェは正面からじっと見据えていた。

 

「そんな物騒なものを非合法でぶっ放したりできないわよね?どうなの?アレッサンドラ!」

 

少し近づいたところで立ち止まったその人物は、サングラスを外した。

印象的なその大きな瞳が、ふたりを捉えて離さないでいた。

 

「大丈夫?お怪我はないかしら?」

 

「もし当たったらどうするつもりだったの?」

 

アリーチェは批判的に言い放った。

 

「ご心配なく。かすりもしなかったでしょ?」

 

「あ、あなた!いったい何者なの?」

 

アレッサンドラ・テスタロッサは、拳銃をジャケットの脇の下にあるホルスターに差し込むと、きれいにウェーブのかかった髪をその手でかきあげた。



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第三十七話 キーパーソン

「ご心配なくって、あなたねぇ、それはこちらが言うセリフでしょ?」

 

アリーチェは、何事もなかったようにゆっくりとした足取りで近づいてくるアレッサンドラ・テスタロッサに向かって言った。

 

「ご無事で何よりだったですわね」

 

「それはまぁ、そういうことではあったかも・・・」

 

「お使いは、ほどほどになさってくださいな、ご当主?」

 

「お、お使い?」

 

アレッサンドラは、アリーチェたちを襲った男が残していった拳銃を拾うと、ジャケットの後ろをはらいあげ、パンタロンに差し込んだ。

 

ナイフは、ゴミの散乱しているそばの路地裏に投げ込んだ。

 

アレッサンドラのその動きは、素早く迅速だった。

 

「慣れていらっしゃるのね?」

 

アリーチェは皮肉混じりに言った。

 

「それより、早くここを離れたほうがよろしいかと」

 

「どうして?今あなたが追っ払ってくれたんじゃなくって?」

 

「いいえ、またすぐに来ます。今度は手加減なしで」

 

「アレッサンドラ?あなた、いったいどこまで何を知ってるの?」

 

アレッサンドラは、辺りに視線を配りながら、もう少しアリーチェに近づいた。

 

「ご当主?いくらご自身のメイドのためとはいえ、その範疇を越えていると、理解されてますわね?」

 

「そんなことをなぜ、あなたが・・・」

 

「事態は切迫していると申し上げておきます。あなたが動いたことで、連中はどうにかして証拠を隠蔽するでしょう。目指すものが違っても、結局は同じものにたどり着くことになる」

 

「つまりそれって、アデルモ?」

 

「そういうことです。まさかエレノア財閥が動いているなんて、連中は予想もしていなかったはず。ここから先は、命の保証はできかねます」

 

「それをどうやって信じろというの?あなたはいったい、どの立場に立ってそれを言ってるの?それを教えないで、信じろというのはむしがよすぎると思わなくて?」

 

「少なくとも、合法的にぶっ放すことが出来る立場だと申し上げておきますわ」

 

アレッサンドラは、仏頂面のアリーチェに、にっこり微笑んでみせた。

 

「それと・・・」

 

「なんですの?」

 

「アデルモ氏と同様に、黙ったままの姿で再会したくはありませんので、お気をつけ下さいまし」

 

「なんですの、それ・・・まっ!」

 

アリーチェは、文句を言いたげな顔をしていたが、その一方で少しその表情には緊張が走っていた。

 

「大事なお立場でしょうから、お屋敷でおとなしくしていることをお薦めいたします」

 

「余計なお世話よ!」

 

アレッサンドラは路地に消えていった。

 

それと入れ替わるように、アレグロがアリーチェのそばに近づいてきた。

 

「お嬢様?私の勘違いかと思うのですが、先程の方、どう見ても、あのアレッサンドラ・テスタロッサに見えたのですが?」

 

「どうもこうもないわよ。あの高慢ちきな女そのものよ!」

 

「でもどうして、あのアレッサンドラが拳銃を片手にあのような格好でいるのですか?」

 

「そんなこと、私に聞かれても知らないの!」

 

「もしかして、スパイか何かですか?」

 

アレグロは、アレッサンドラが消えていった路地の方を見ながら、嬉しそうに微笑んだ。

 

「スパイがこんなところでぶっ放した挙げ句、悠長に気取ってポーズなんかつけたりしないでしょ?」

 

「じゃあなんなんでしょうか?」

 

「少なくとも、私たちと同じところを目指しているに違いないわ。しかも、それなりの公の立場でね」

 

「女優ですよね?」

 

「そうなんでしょうね」

 

アリーチェも、アレッサンドラの後を追うように、路地の方に目を向けていた。

だが、先程までとは違い、真剣な眼差しが、何かを悟ったようだった。

 

「あの女、自分の正体を明かしてまで私達の前に姿を現してきた。事態は思っていたより深刻だというの?」

 

 

 

 

ARIAカンパニーの前にポツンと立って、そのかわいらしい建物を見上げていたアールドは、なぜかニヤリと笑った。

 

その疲れた中年のおやじの風貌は、どうしてもその場の風景と似合ってなかった。

 

岸辺から渡してある桟橋を進み、ドアのところで立ち止まった。

 

「ここへ来るのも、いつぶりかなぁ」

 

そう呟くと、アールドはドアをノックした。

だが、中からは何も返事がない。

 

もう一度ノックしたが、やはり同じだった。

 

「出掛けてるのかなぁ。それじゃあ・・・」

 

アールドは、デッキをくるりと回ると、海に向かって開け放たれたカウンターの方に回った。

 

中を覗き込んだが、誰の姿もない。

 

「営業中なのは間違いないようだけど。灯里さんの顔を拝んで、癒されようと思ったのにさぁ」

 

アールドは、カウンターに置いてある小さな花瓶に生けてある、小さな花にちょんと指を触れた。

 

「あれ?アールドさん?」

 

その声に振り返ると、ゴンドラに乗った灯里が、海の上から見上げていた。

 

「やぁ、灯里さん!お久し振り!」

 

「お久し振りですぅー!どうされたんですかぁ?」

 

「灯里さんの顔が見たくなって来ちゃった!」

 

「そうなんですね・・・」

 

苦笑している灯里とは対照的に、アールドは嬉しそうに目の前の灯里に手を振っていた。

 

 

 

テーブルのところでそわそわ座っているアールドの前に、灯里はカップを置いて紅茶を注いだ。

 

そのカップを手にとってアールドは満足げに香りを嗅いだ。

 

「うーん、いいねえ。なんか落ち着く。やはり灯里さんが入れてくれたからかなぁ?」

 

灯里は何も言わずに、にこやかに微笑んで返した。

 

「でもどうされたんですか?」

 

灯里はテーブルを挟んで向かい側に座った。

 

「灯里さんの顔が見たくなったって言ったでしょ?」

 

アールドはカップを皿の上に戻すと、にっこりと微笑んでみせた。

 

だが、灯里は黙ったままアールドを見返していた。

 

「わかったわかった!灯里さんにはウソつけないなぁ」

 

そう言うと、アールドはふぅーと息を吐き出した。

 

「あれからさぁ、誰か灯里さんに会いに来た人、いた?」

 

「会いに来た?私に?」

 

「うん。もちろんホテルに関係する人の中でね」

 

「いいえ、誰とも会ってませんけど」

 

「そうなのか。それならちょっと安心した」

 

「どういうことなんですか?」

 

「うん、そうだねぇ」

 

アールドは、部屋の中をぐるりと見渡した。

そして、壁にかかっているスケジュール・ボードに目が止まった。

 

「灯里さん、本当に営業再開したんだね?」

 

「そうですね。少し仕事から遠ざかっていた分、取り戻さないとと思ってます」

 

「そうなんだ」

 

アールドは紅茶を一口飲むと、おもむろに話始めた。

 

「実はね、今回のこの事件、いろいろと考えてみたんだけど、時間の経過と共に登場人物は増えてくるし、話自体も複雑になってくるし、いったいどうなってるのか、訳がわかんなくなってきたんだよねぇ」

 

「はへぇ~」

 

「それでね、もう一度整理しなおしてみようと思ったわけ」

 

「はぁ」

 

「やはりこういうときって、最初に戻るのがセオリーだと思うんだよね」

 

「最初ですか?」

 

「そうなんだよ。そこでこの事件の発端はなんだったかを考えたら、灯里さんが黒ずくめの男と出会ったところから始まった」

 

「はぁ」

 

「そして、犯人はわざと意図的にそれを実行したんじゃないかと、以前ぼくの推理を話したよね?」

 

「そうでした」

 

「ウンディーネに目撃させるための演出だとね」

 

「はい。私をアリシアさんと勘違いしたと」

 

「そうそう。灯里さんは重要な目撃者だったのに、捜査本部は、その灯里さんをフロントクラークから外した。まだ主犯格のめぼしがついたわけじゃないのにね」

 

「はい」

 

「つまり・・・」

 

アールドはそのカウンターから、明るく眩しい海に目を向けた。

 

「アールドさん?」

 

「いや、実はね、灯里さんには悪いんだけど、捜査本部は、この脅迫事件そのものから手を引こうとしてるんじゃないかって、ふと思ったんだよね」

 

「どういうことなんですか?」

 

「例えば、脅迫事件より、何か大きな事件になってきた、とかね。つまり、そっちの方が今の捜査本部、いや、ネオ・ヴェネト州警察にとって重要なのかもしれない。それだと、灯里さんがホテルにいる意味は確かになくなったのもうなずける」

 

灯里は、アールドが難しい顔で顎のあたりをさすっている様子をじっと見つめていた。

 

「でもね?」

 

「はい?」

 

「だからこそ、この事件の中心人物であるアデルモ総支配人に、もっと近づく必要があると思ったんだよね」

 

「はい」

 

「そこで改めて思ったんだけど、ゴンドラって、誰でも漕げるもんなの?」

 

「さすがに誰でもって訳にはいかないと思います」

 

「やっぱりそうだよねぇ。それなりに訓練て必要だよね?」

 

「はい」

 

「でもね、もしだよ?もしボートをこぐことに慣れていたら、意外とできちゃうのかと思ったんだけど、どうかなぁ?」

 

「その人によると思いますけど、出来ないわけではないと思います」

 

「そうなの?」

 

「はい、たぶん」

 

アールドは、今度は頭をかいて、また考え事にふけっていた。

 

「以前、灯里さんにゴンドラの工房を案内してもらった時、職人さんが軍人らしき人が訪ねてきたって言ってたじゃない?あれが気になっていてね。もしかしたらって考えてたんだよね」

 

「犯人、ですか?」

 

「うん。それに、あの黒ずくめの男も」

 

その時、アールドの携帯電話が鳴った。

 

「灯里さん、ちょっとゴメン」

 

アールドは席を立って、その場から少し離れて電話に出た。

 

灯里には背中越しからだが、アールドの様子が変わったのがわかった。

 

そして、声のトーンを一層落とすと、慎重に言葉を選んで話していた。

 

席に戻ったアールドは、ため息をひとつ漏らして、灯里の顔を見た。

 

「ちょっと、重要なことがわかったみたい」

 

「はぁ」

 

「灯里さんなら、カ・ドーロをご存知だよね?」

 

「はい、もちろんです。ネオ・ヴェネツィアを代表する観光スポットのひとつです」

 

「近年ではビジネスの要所としても利用されるようになったとか?」

 

「ええ、その通りです。カ・ドーロがどうかしたんですか?」

 

「灯里さんも会ってると思うんだけど、アレキサンドロ氏は建築家で、そのカ・ドーロの修復に携わっていたんだ」

 

「そうだったんですか?」

 

「それともうひとり、ホテルの客で関わっていた人物がいたんだ」

 

「誰なんですか?」

 

「知ってるかなぁ、アダルベルト氏」

 

「確か、アデリーナさんが相談に乗っていたお客様が、そのお名前の方だったと」

 

「そうなの?なにそれ?」

 

「アガタさんが話してくれました。初めて会った方なのに、資産家の方だともわかったと」

 

「アデリーナさんが?もしかして、そういう力がある人なの?」

 

「そういう意味ではなくてですね、フロントクラークとしての勘だということです」

 

「ああ、なんだ。そういうことね」

 

アールドは自分でもバカなことを言ったと苦笑して、頭をかいた。

 

「ただね、そのアダルベルト氏の経歴がわかってね?」

 

「はい・・・えっ?」

 

「お察しの通り、軍人だった過去があった」

 

「ちょっと待ってください!」

 

「どうしたの、灯里さん?」

 

灯里は誰が見てもわかるくらい動揺していた。

 

「それって、つまり、あの朝、ゴンドラをこいでいるところを目撃された人かもしれないということですか?」

 

「そういうことになるね」

 

「つまり、黒ずくめの男・・・」

 

灯里は呆然とテーブルの上を見つめていた。

 

「灯里さん、さっきからどうしたの?何かあったの?」

 

「その、実は・・・」

 

灯里が何か言いかけたとき、入り口のドアをノックする音が鳴った。

 

灯里はその音にビクッと反応した。

そして、そのドアをじっと見つめたままだった。

 

「灯里さん?どうしたの?出ないの?」

 

「あ、それが・・・」

 

灯里が躊躇している間に、ゆっくりとドアが開けられようとしていた。

 

その様子にただならぬ空気を感じたアールドは、動き出したドアに目を向けた。

 

そのドアの間から姿を現した初老の男は、眼鏡をかけ、ハットを被った、スーツをきれいに着こなした、紳士然とした姿をしていた。

 

だが、眼光はしっかりとした、力強い印象で、本当は見た目とは違うのだということを主張しているように見えた。

 

「これは失礼した。来客中でしたか?」

 

中の様子に気付いたその男は、やさしい口調でそう言った。

 

「す、すみません!お客様!」

 

灯里は椅子から急いで立ち上がった。

 

その様子を見ていたアールドは、男の姿に釘ずけになっていたが、事態を把握したのか、いつものようにニヤリと笑った。

 

「私のことはお構い無く。もう失礼するところだったので」

 

アールドは、立ち上がるとそう言って男の顔を見ると、笑ってみせた。

 

「アールドさん・・・」

 

その心配そうな灯里の声に気付いたアールドは振り返ってこう言った。

 

「灯里さん、お仕事がんばってね。また来るよ」

 

「はい・・・」

 

「よろしいのですかな?」

 

「ああ、気にしないで下さい!こっちの用は終わりましたので。なんか、パッと霧が晴れたような感じです!」

 

「それはよろしいですな」

 

アールドのオーバーな反応に、男は穏やかに笑ってみせた。

 

「じゃあ灯里さん、ぼくはこれで」

 

「はい、大したお構いもできず・・・」

 

アールドは男性とすれ違うようにして、ドアの外に出た。

 

そして、ゆっくりとドアを閉じながら、中から聞こえる声に耳をすませた。

 

「わざわざ来ていただいて、ありがとうございます。アダルベルト様」

 

少し不安が入り交じった灯里の声が、しっかりとその名前を告げていた。

 

アールドは、ドアを閉じて桟橋を渡り、そこでもう一度ARIAカンパニーを振り返った。

 

「やっぱりそうだった。ぼくの推理は正しかった」

 

アールドはいつもより、なお気持ち悪いぐらいニヤリと笑った。

 

「だから言ったろう?灯里さんはこの事件のキーパーソンだって」



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第三十八話 夕暮れのお墓の島

ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーのロビーは、ここ最近あった出来事がうそのように静かで、本来の落ち着いた佇まいを取り戻していた。

 

だが、実際は予断を許さない状況が、依然として続いていた。

 

捜査本部のアルフ捜査官は、ホテルへの脅迫事件からアデルモ総支配人そのものに捜査のターゲットを絞りこむと、捜査方針の変更を告げていた。

 

だが、依然としてアデルモ本人の消息は掴めず、しかも捜査方針の変更は、インターポールの介入によるものであることもあり、捜査員たちの不満と苛立ちがつのる結果となっていた。

 

だが、ロビーには、数は減らされたものの、依然複数の捜査員が張り付いており、その中には、相変わらず仏頂面のアロンソもいた。

 

ホテルの従業員には、どうしても見えない鋭い眼差しでロビーに視線を向けていた。

 

アロンソは、アデルモを追う捜査班に自分を入れるよう何度もアルフに食い下がったが、ロビーから解放されることはなかった。

 

まだ、アデリーナの事件は解決しておらず、脅迫事件の解明にもいたっていない。

 

つまり、犯人の殺人予告は、まだ継続中というのが、アロンソがロビーに張り付けになっている理由だった。

 

「あのー、今いいですか?」

 

アガタは、アロンソとの距離を縮めようと、先程からちょっとずつ、何気なく近づいていた。

 

アロンソは、聞こえているのかいないのか、そのままロビーから目を離そうとしない。

 

「あ、あのー」

 

「忙しく見えますか?」

 

「えっ?」

 

「そんなに気を使うほど、忙しそうに見えますか?」

 

「いえ、そんな感じには見えません」

 

アガタは、〈やっぱりこの人とは合わない!〉と心の中で叫んでいた。

 

「なんですか?」

 

「ちょっとお聞きしたいことがありまして」

 

「それで?」

 

「こんなところで聞くのもなんなんですが、何か捜査方針というものが変わったとお聞きしたのですが?」

 

「それが?」

 

「変に思われるかもしれないのですが、私がなぜそれをお聞きしたいかと申しますとですね?」

 

アロンソは、ちょっとイラついたようにアガタに視線を向けた。

 

「あ、あの、その・・・」

 

「彼女の件だろ?」

 

アガタは驚きの表情をアロンソに向けた。

 

「あんたの先輩」

 

「は、はい!なんでわかったんでしょうか・・・」

 

アロンソは前方を見据えたままゆっくりと答えた。

 

「あんたが心配そうなことといえば、それくらいだろうと思ったから」

 

「じゃあお聞きしますけど、どうなるんですか?」

 

「どうもこうも捜査中に変わりない」

 

「進んでるんですか?犯人探しは!」

 

アロンソがアガタの声の大きさに動きを止めた。

 

アガタもそれに気がついた。

 

「すみません」

 

「そんなに心配か?」

 

「当たり前です!そんなの、当然じゃないですか?」

 

「まあ、そうだな」

 

「あの、これは黙ってないといけないって言われていたから誰とも話してなかったですけど」

 

アガタは、少しためらいながらも決心したように、眉をりりしくさせてアロンソに向き直った。

 

「先輩を襲った犯人て、姉妹だったって話、あれ、本当ですか?先輩、その人たちに恨まれてたとかですか?」

 

「あのリネン室の女」

 

「そうです、それです!でもその人、ここへ来てまだ間もない人だったみたいです。私、聞きました。他の従業員の人から」

 

「ああ、そうだな」

 

「だから先輩が狙われた理由がわからないんです」

 

アロンソはすぐには答えようとはしなかった。

 

何か考えているのか、すこし間をおいて口を開いた。

 

「あんたには悪いが、狙われるには理由がある」

 

「先輩がですか?」

 

「ああ、そうだ。だが、本人が直接原因とは限らない」

 

「誰なんですか?先輩に迷惑をかけた人は!」

 

アロンソはそれ以上は話そうとしなかった。

 

だが、アガタは、そこで何かに気付いたように、前方をぼんやりと見た。

 

「もしかして、それって総支配人?」

 

アロンソは肯定もしなかったが否定もしなかった。

 

「でも先輩は、総支配人がヘッドハンティングしてきたくらいの、優秀なフロントクラークで・・・」

 

アガタは愕然とした顔でアロンソの横顔を見つめていた。

 

すると、二人の後ろから不意に声がかけられた。

 

「アガタさん、さすがだね」

 

二人が振り返ったところには、緊張感のかけらもない、中年のくたびれた男が、にやけた顔で立っていた。

 

「アールドさん!」

 

アガタの驚きとは反対に、アロンソはチラッと目を向けただけだった。

 

「アガタさんのお察しの通り。この事件の行く先を示す羅針盤の針は、全てアデルモ総支配人を指している」

 

アールドの言葉に、アロンソは咄嗟に目を向けた。

 

それには構わずアールドは言葉を続けた。

 

「アガタさんがおそらく聞いた姉妹の存在は、アデルモ氏に繋がっている話なんだ」

 

「じゃあ、先輩が襲われたのは?」

 

「言いにくいことなんだけど、巻き添えだと思う」

 

「そんなぁー!それじゃあんまりじゃないですかぁー!」

 

アガタは、厳しい表情でアールドに向かって言った。

 

「でもね、アガタさん?まだハッキリしたことじゃないんだ。それに、なぜアデリーナさんだったのかも、実は何かあるのだろうと、ボクはそう睨んでる」

 

「その辺にしておけ」

 

アロンソが割って入った。

 

「確かに、そうだね」

 

「何か分かってることがあるんですか?あるんだったら、教えて下さい!」

 

「ごめん、アガタさん。ボクはちょっとしゃべり過ぎた」

 

「どういうことですか?」

 

「先日、アガタさんがアルフ捜査官と会った人は、事態がもうちょっと深刻だということを意味している。本来ならアガタさんが会うべき人じゃなかったんだ。だから、これ以上は知らない方がいいと思う」

 

「じゃあこれから先、どうなるんですか?」

 

「捜査は続ける。途中でやめることはない」

 

アロンソが、アガタの質問に強い口調で答えた。

 

「おっ、アロンソ?どうしたんだ?お前らしくないなぁ。熱くなったりして」

 

アールドが茶化すように言ったが、アロンソは反応しなかった。

 

「もしかして、アデリーナさんだからなの?」

 

アロンソが一瞬反応したのを、アガタは見逃さなかった。

 

「ところでさぁ、僕から聞きたいことあるんだけど?」

 

アールドはキョロキョロ辺りを伺いながら、話しかけてきた。

 

「あの人、最近来られてます?」

 

「誰のことですか?」

 

「アレッサンドラ・テスタロッサ」

 

「ああ、はいはい・・・えーと、そういえば、最近見てないかも」

 

「そうなんだぁ。じゃあ、アリーチェ・エレノアは?来てる?」

 

「おい!」

 

アロンソが厳しい口調で言い放った。

 

「アリーチェ様なら、もうとっくにチェックアウトされてますけど」

 

「最後に見たのは?ひとりだった?」

 

「えっと・・・」

 

アガタはそれに答えようとして、そのまま動きが止まった。

驚いた表情が、その先に見える光景を信じられないと言っていた。

 

だが、次の瞬間、目から涙が溢れていた。

 

「どうしたの?アガタさん・・・」

 

アールドにもその意味がわかった。

 

アロンソは、鋭い目でその光景を凝視していた。

 

三人が一斉に視線を送ったその先にあるカウンターでは、その見慣れた姿が、他のホテルから応援で来ていた女性クラークの肩を軽く叩いて、笑顔で交代を告げていた。

 

そして、カウンターの前に立つと、ふっと息を吐き、いうものように姿勢を正した。

 

三人に気付いたその女性クラークは、笑顔で三人の視線に応えた。

 

「先輩・・・」

 

アガタは声をつまらせながら、カウンターへと駆け出して行った。

 

「アデリーナさん、もう退院したの?」

 

アールドはアガタの背中越しに、微笑んでいるアデリーナを見ていた。

 

「というか、アロンソ?いいの?」

 

「ああ、わかってる」

 

「だって、傷害から殺人未遂に切り替わったはずだよね?危ないんじゃないの?」

 

アールドは驚きと理解しがたい状況に、目が点になっていた。

 

「アロンソ捜査官は、いったい何を考えてんの?」

 

アロンソとアールドが複雑な表情で眺めているその先では、カウンターの中でアデリーナに飛び付いているアガタの姿があった。

 

 

 

 

灯里は、その初老の紳士アダルベルトにテーブルのところに座るよう声をかけた。

 

アダルベルトは、ハットを取って座り、テーブルの傍らにその帽子を置いた。

 

そして、灯里が入れた紅茶のカップを口元に運んで香りを嗅いだ。

 

満足げな表情でアダルベルトは一口飲んだ。

 

向かい側に座った灯里は、話をどう切り出そうか、ドギマギしていた。

 

「あ、あのー、こんなところまでお越しいただいて、申し訳ありません」

 

カップを皿に戻したアダルベルトは、優しく微笑んだ。

 

「そんなに気を使って頂かなくて結構ですよ。私のような歳の人間には、いくらでも時間がありますからな」

 

「それでも、こちらの事情に付き合わせてしまって」

 

「アルピーナ婦人から相談を持ちかけられた時は、正直驚きました」

 

「やっぱり」

 

「迷惑だと言ってるわけではないのですよ。今時そこまで人のことに心を砕く人がいるのだと感心した、ということです」

 

灯里はアダルベルトの言葉に恐縮していた。

 

灯里が以前出会っていたアレキサンドロの妻のことを、灯里はアルピーナ婦人に相談していた。

すでに灯里の素性に感ずいていた婦人は、今回の事件とは関係のない人物だと灯里は考えていたからだった。

ただ、婦人は自分があまり動き回ることが難しいだろうと言って、縁のあるアダルベルトを相談相手としてよこしてきたのだった。

だが灯里が安心できたのは、アールドから話を聞くまでのことだった。

 

もしかしたら、この人があの黒ずくめの男・・・

 

灯里の頭の中では、そんな考えがぐるぐる回っていた。

 

「大体のことは、婦人から伺っております」

 

灯里はアダルベルトの顔をじっと見つめていた。

 

「灯里さん?」

 

「あ、はい!」

 

「どうかされましたかな?」

 

「す、すみません。続けてください」

 

灯里は顔を紅くしてうつむいた。

 

「アレキサンドロ氏の奥方に、カフェ・フローリアンのカフェ・ラテを飲んで頂きたい。それもアレキサンドロ氏と一緒に。その話を聞いたとき、いいお話だと思いました」

 

「私のできることといったら、それくらいしか思いつかなかったんです」

 

「いえいえ、とてもいいアイデアだと思います。彼の奥方への気持ちと、その奥方が抱いているアレキサンドロ氏への思い。それを考えたら、素敵なおもてなしといえるでしょう」

 

「ありがとうございます。そう言って頂けるとうれしいです。もしかしたら、お節介なんじゃないかと思っていたので」

 

灯里は先程までと違って、表情がやっとほぐれてきたようだった。

 

「灯里さん?それで私に協力するようアルピーナ婦人が言ってこられたのだが、どのようなことかな?」

 

「アダルベルトさんは、アレキサンドロさんとご面識があるとお聞きしたのですが?」

 

「そうですな。彼とはまだ出会ってそれほど長い付き合いがあるというわけではないのだが、灯里さんならご存知だろう、カ・ドーロの修復工事。その折に偶然知り合ったんだ」

 

「確かアデリーナさんが、アダルベルトさんは資産家で・・・」

 

灯里は自分でそう言ってから、その先を話すのを躊躇してしまった。

 

アダルベルトは何かを察したように、少しうつむいた。

 

「アデリーナさんは、本当にお気の毒だったね。ホテル内であのようなことが起こるとは信じられない」

 

「あっ、そ、そうですね。ほんとに」

 

灯里にはまだ、目の前の男が事件に関わっている人物なのか、あの黒ずくめの男なのかどうなのかハッキリとしないため、疑心暗鬼でいっぱいになっていた。

 

「つまりこういうことですかな?」

 

アダルベルトは、紅茶をもう一度口に運ぶと、話を続けた。

 

「アレキサンドロ氏に、カフェ・フローリアンへ奥方と一緒に行くように説得して欲しいということですかな?」

 

「カ・ドーロでお知り合いになったというお話なら、ご協力をお願い出来るのではと、アルピーナ婦人がおっしゃったので」

 

「なるほど。で、灯里さんは、どのようなご計画を立てておられるのですか?」

 

「ご計画と言えるほどのものは、正直ありません。もしあるとしたら、サン・マルコ広場までご案内するぐらいかと」

 

「ゴンドラで、ですかな?」

 

「はい。でも奥さまは、両足がご不自由で・・・」

 

「なるほど。その辺はなんとかなるでしょう」

 

「なんとか?」

 

「はい。こう見えてもまだまだ若いですからな」

 

「そうなんですか・・・」

 

「見えませんかな?」

 

「あっ、いえ、その・・・失礼しました!」

 

「ハハハハ!」

 

 

アダルベルト氏は、灯里の予想通り、紳士的でやさしい人物だった。

 

話をしていても、とてもホテルを脅迫するような事件に関わっているとは思えなかった。

 

アルピーナ婦人が言っていた、ビジネス上の古くからの友人で、信頼できるひとだという言葉の方が、しっくりとしていた。

 

ただ、アールドが気にしていた軍人という言葉が、どうしても引っ掛かっていた。

 

そう考えると、どこかパズルのピースがうまくはまってゆくような、そんな感覚にとらわれる灯里だった。

 

 

 

 

暮れゆくサン・ミケーレ島は、人の気配を全く感じさせない、閑散とした空気があたりを覆い尽くしていた。

 

だが、船着き場からしばらく入り込んだところで、人の言い争う声がこだましていた。

 

切羽詰まったような顔をしている女性のそばで、若い男が中年男性の身体を縛り上げ、後ろから支えていた。

 

その少し離れたところには、その状況から一瞬たりとも目を離すことができないといった様子で、身動き一つせずに男が立っていた。

 

疲れきった様子の女性は、何か言いたげな素振りを示すが、うまく言葉にならないようだった。

 

その様子に、向かい側に立っている男が口を開いた。

 

「もう止めにしよう。こんなことをしても、何も解決しない」

 

その言葉に女はにらみ返して言った。

 

「今頃になって、何を訳のわからないことを言ってるの?協力すると言ったのは、そっちでしょ?」

 

「確かに言った。だが、こういうことをするつもりで言った訳じゃない」

 

「あなたたちがどういうつもりで言ったかは、わたしには関係ない。わたしはね、最初からこういうことが目的だったのよ!」

 

男はその言葉に一瞬身体が反応してしまった。

 

「おっと、動くんじゃない!」

 

女性のそばの若者が、縛り上げた中年男性の首もとにナイフをあてた。

 

「やめろ!それ以上はダメだ!もう引き返すことができなくなるぞ!」

 

「どこへ引き返すというんですか?アレキサンドロさん?」

 

アレキサンドロは額から汗を流しながら、じっと目を離さずにいた。

 

「あなたのような恵まれた人生を送ってきた人に、わたしの気持ちなんてわからないわ」

 

「君がそんなことを言うなんて・・・どうしてなんだ?私たちはわかりあえたんじゃなかったのか?だから計画を立てて、ここまでやってきたはずじゃないか?アルマ!」

 

アレキサンドロを見返すアルマは、アリーチェのそばにいたころの面影は、もうどこにもなかった。

 

感情を抑えきれなくなった思いが、恨みとなって吹き出しているようだった。

 

「どうしてそこまでのことをするんだ?」

 

「知ってしまったからよ。この男の本当の姿を!」

 

そう言って、アルマは締め上げたロープをぐいっと持ち上げた。

 

男が苦しそうに呻き声を上げた。

 

「仮にもその男は君の・・・」

 

後ろで支えていた若者が、アレキサンドロの言葉をさえぎるようにいった。

 

「もうやっちまおうぜ!どうせやるんだろ?」

 

アルマはそれには答えずに、アレキサンドロの方に目を向けた。

 

だが、アレキサンドロはその縛られて惨めな姿をさらしている男にむかって叫んだ。

 

「こんなことになって、なんとかいったらどうなんだ!アデルモ!」

 

殴られ腫れ上がった、その惨めな顔で、その縛られた男は、うめくように声を出した。

 

「す、すまなかった。ゆるしてくれ」

 

それを聞いた若者が、背後から怒鳴りつけた。

 

「あんた、そんな一言で終われると思ってるのかぁー!」

 

今にもアデルモの首にナイフを突き立てそうな勢いだった。

 

「待って。この男には、まだまだつぐなってもらわなくちゃいけない。苦しみも痛みも」

 

アルマはアデルモの顎のあたりを持って、ぐいっと持ち上げた。

 

「そこまでだ」

 

完全に不意をつかれた。

 

他に人間がいることに、アレキサンドロは全くきづかなかった。

 

そして、それはアルマも同じだった。

 

アルマもそのそばにいる青年も不意をつかれた顔になっていた。

 

いつの間にか拳銃をもった男たちに囲まれていた。

 

「アルマ、ご苦労だった」

 

「どういうことだ、アルマ!」

 

アレキサンドロは思わず叫んでいた。

 

「この男に復讐することに協力してくれるっていうから、手を組んだの。あんたたちみたいな生ぬるい考えじゃないってね」

 

「アルマ、お前いったい何を・・・」

 

その瞬間、拳銃の音が辺りに轟いた。

 

アデルモを支えていた青年が呻き声をあげて、その場に倒れた。

 

「えっ、どういうこと?」

 

「アルマ、さっき言ったろう?ご苦労だったなって。お前の仕事はこれで終わりだ。後はこちらに任せればいい」

 

「なんなの、それ・・・」

 

アルマは茫然と倒れている青年を見下ろしていた。

 

「お前は大した女だ。こんな場面でもまったく動じない。そう考えると、ちょっと惜しい気がする」

 

男は背広の内側から拳銃を取りだし、アルマに向けた。

 

その瞬間、アデルモがアルマに身を投げるように被さっていった。

 

「アルマ!」

 

それと同時に銃声が鳴り響いた。

 

しかも何発も。

 

撃ったのは、アルマたちを取り囲んでいた男たちではなかった。

 

その男たちの回りには、迷彩柄の軍服らしきものを着た複数の男たちが、自動ライフルを構えていた。

顔には迷彩のペイントを施していた。

 

「な、なんだ!お前たちは!」

 

アルマに拳銃を向けていた男は、そういうや否や、ライフルの銃把で背後から殴られ、失神した。

 

アルマのそばにいた青年を撃った男も同じ目にあって、倒れこんだ。

 

他の男たちは、背中にライフルを向けられ、観念して両手を挙げた。

 

「いったいあんたたちは誰なんだ?」

 

アレキサンドロは、茫然と立ち尽くしていた。

そして、その一言を言うのに精一杯だった。

 

すると、そのそばにひとりの少女が立っていた。

 

だが、その少女の目は、その前方にいるアルマをじっと見つめていた。

 

「間に合ってよかった」

 

アレキサンドロは驚いて振り返った。

 

「エレノアのご当主!なんでこんなところに?」

 

「今わたくしは、猛省しているところです」

 

そう言って歩き出したアリーチェは、アルマのそばまでくると、崩れ落ちたように座り込んでいるアルマの手を取った。

 

「この子はね、全く動じない、度胸のあるひとじゃないの。自分を押し殺して生きているうちに、人と共感できなくなった。それが理由」

 

アリーチェが握ったアルマの手は、ずっと震えが止まらずにいた。



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第三十九話 じゃがバターと時のひと

アデリーナは、いつものようにアロンソの背後から回り込むように、その顔を覗きこんだ。

 

「お久し振りです」

 

アロンソはロビーに視線を向けていた。

 

「大丈夫なんですか?」

 

「ええ、まあ、なんとか」

 

「そうですか」

 

「だってホテルがこんな大変な状況だと知って、じっとしてられないでしょ?」

 

「でも犯人が捕まったわけじゃない」

 

「わかってます。アデルモ総支配人がいなくなったってことも」

 

アロンソはチラッとアデリーナに目を向けた。

 

アデリーナは真剣な表情で前方に視線を向けていた。

 

「でも、あのあと、犯人を追ってくれたって聞いた。もう逃げられたかもしれないのに、必死になって」

 

「仕事だから」

 

「それでリネン担当の従業員にたどり着いた」

 

「当然仕事だから」

 

「アガタに連絡を取って、あの刑事さんも助けに来てくれて」

 

アデリーナは、少し離れたところで、目頭を指で拭っているアガタと、優しく笑いかけているアールドの方に振り返った。

 

「でも、あれはどうだったのかなぁ?」

 

「何がだ?」

 

「アガタを呼び出したこと」

 

「ホテル内を誰にも勘ぐられずに動けるのは、彼女しかいなかった。だから協力してもらった。それだけだ」

 

「でも危うくブスッと」

 

「ブスッと?」

 

アデリーナはアロンソの目を覗きこんだ。

 

「もういいわ。でもアガタを信用してくれたこと、ちょっとうれしかった」

 

アロンソはその言葉には反応せず、また前を向いていた。

 

「で、どうするの?」

 

「鋭意捜査中」

 

「ホントに?」

 

「ああ」

 

「なんか深刻なんでしょ?」

 

「知ってるならそれでいい」

 

「知らないわ。ほとんど。だって病室から出してもらえなかったから」

 

「安全のためだ」

 

「でも、私が狙われたのには、理由があった」

 

アロンソは黙った。

 

「そこに問題の糸口があるということね?」

 

「それ以上はやめておけ」

 

「危ないってこと?」

 

アデリーナの頭には、アンナリーザ・エレノアの顔が浮かんでいた。

彼女がうかつとはいえ、アデリーナの前で話したことが、単なるホテルを狙った脅迫事件でないことを裏付けていた。

そして、それはすなわちアデルモを指し示していることでもあった。

それに、なぜアンナリーザのような人物が関わっているのか。

 

だが、アデリーナにとっては、アデルモは今でもこのホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーに引っ張ってくれた恩人であることに変わりなかった。

 

そして、なぜ自分が狙われたのかを、自分にはそれを知る権利があると考えていた。

 

「アデリーナさん?退院祝いをすると、彼女が言ってるけど?」

 

アールドは自分の背中から顔を覗かせたアガタを振り返った。

 

「先輩?いいですよね?」

 

「どうしようかなぁ・・・」

 

アデリーナは、何気なくアロンソの横顔を見た。

 

それに気づいたアガタが、ちょっと怖い顔で睨んだ。

 

「あのぉー、これはあくまでも有志による参加ということで」

 

「アガタさん?有志なんて言葉、知ってるんだ!」

 

「ちょっとおじさん!失礼ですよ!」

 

「その、おじさんて呼び方の方が傷つくんだけどなぁ」

 

「そうだ!先輩!」

 

「どうしたの、アガタ?」

 

「灯里さんも呼びませんか?灯里さんもスッゴく心配してたんです!」

 

それを聞いてアデリーナは、ロビーを見渡していた。

 

「先輩、もしかして知らなかったんですか?」

 

「ええ。どういうこと?」

 

「灯里さん、お役目御免だそうです」

 

「あまり詳しくは言えないけど、捜査方針が変わったのでね」

 

アガタの後でアールドが説明に入った。

 

「そうだったんですか」

 

アデリーナは自分がいない間に、事態が大きく変わったことを痛感していた。

 

アデリーナとアガタがフロントの方に戻ろうとしたとき、アデリーナだけに聞こえるように、アールドが声をかけた。

 

「ちょっといいですか、アデリーナさん?」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「実は確かめておきたいことがありまして」

 

アールドはアガタやアロンソが気がついてないことを確かめるように、二人の様子に目を向けた。

 

「アデリーナさんは、エレノア家とは何かご関係がおありで?」

 

その言葉に、アデリーナは表情を固くした。

 

「ご存知なのですね?」

 

「まあそうですね。でも他に知れるのも時間の問題かと」

 

アデリーナは少し迷うような顔を見せたが、アールドをまっすぐに見て言った。

 

「初めてお会いしました。病院で」

 

「まあ、あそこはエレノア財閥の息のかかった病院ですから。あなたがすぐに出てこれたのもうなずける。相当な待遇を受けていたことは用意に察しがつきます」

 

アデリーナはそれを聞いて、少しうつ向いて目を伏せた。

 

「でも、ここはやはり、少々気をつけておかれた方がいいと思います。脅かすようで悪いですが」

 

アールドは顔に似合わず、神妙な表情だった。

 

「つまりそれって、総支配人と私が襲われたことと、何か関係していると・・・」

 

「ちょっと!そこで何をコソコソやってるんですかぁー!」

 

アガタが二人の方を向いて人差し指を突き出して、ほっぺを膨らませていた。

 

アデリーナは、それ以上聞き返すことはなかった。

 

 

 

 

アレキサンドロは、出された紅茶には手をつけず、じっと硬い表情まま座っていた。

 

通されたその大きな部屋は、豪華な調度品で彩られ、歴史を感じさせる重厚さが見るものを圧倒していた。

 

窓際の執務机には、その重厚な雰囲気には似合わないくらいの、幼さの残る少女が座っている。

 

アリーチェ・エレノアは、ため息をつくとそのゆったりとした皮張りの椅子の背もたれに身体を預けた。

 

「大体のことは、察しがついています。あなた方のことも了解済みでした」

 

アレキサンドロは、少し驚いたようにアリーチェの顔を見た。

 

「その上でアルマの気持ちを尊重しようと思った。でもそれは浅はかな行為だった」

 

アリーチェの口調は、見た目の印象と違い、老成した大人のようだった。

 

「ご当主は、なぜそこまでしてアルマのことを?」

 

「それは・・・もしかしたら、自分と似てるって思ったのかもね」

 

「ご自身と?」

 

「そうね。境遇は違っても、どこか孤独を抱えている。そこにシンパシーを感じたのかもしれない。もちろん、わたくしの勝手な思い込みですけど。それでもよかったのです」

 

アリーチェはくるりと椅子を、その背後の窓に向けた。そして、また元に戻すと、アレキサンドロの方を向いた。

 

「ところで、あなたたちの計画とやらを、ちゃんと聞かせていただけるかしら?」

 

アレキサンドロは、観念したようにソファーの背にもたれかかった。

そして、深いため息をひとつついた。

 

「すべてはあの男、アデルモでした」

 

 

 

 

 

アルピーナ婦人は、少しため息をつくと、ソファーの背にゆっくりともたれかかった。

 

「私たちの出会いは、正しかったのかしら?」

 

向かい側に座るアダルベルトは、組んでいた脚の上で手を組んだ。

 

「おっしゃりたいこと、理解できます。ここまで来ると、そうお考えになられても仕方がないかと」

 

二人は、ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーの、アルピーナ婦人が宿泊している部屋にいた。

 

アダルベルトは、先日、灯里に会うためにARIAカンパニーを訪ねた時のことを報告するため婦人の部屋を訪ねていたのだったが、それとは違う深刻な出来事がふたりを悩ませていた。

 

「ですが、必然だったと、あえて申し上げておきましょう」

 

「確かにそうかもしれないわね」

 

「ですが、婦人?先日もお話したように、事態は少し難しい状況になって来ました」

 

アダルベルトの言葉にアルピーナ婦人の表情が固くなった。

 

「アデルモを取り巻く状況が、我々が考えていたより厄介な状況だったことに加え、エレノアの当主が動き出しました」

 

「そうなの。仕方がないわね」

 

「ですが、このままでは沢山の血が流れる可能性もあります」

 

「アイアート・ライデン」

 

「その通りです」

 

「あの男と関わっていたとはね」

 

「ライデンとアデルモが繋がっていたことは、捜査関係者とまだ一部の人間しかしらないことではありますが、それも時間の問題です」

 

「そうなのね」

 

「その上、インターポールも、このネオ・ヴェネツィアに入ってきているようです」

 

「あなたが話していた情報より、少し早かったわけね?」

 

「申し訳ありません」

 

「謝ることないわ。いずれそうなることだった」

 

アルピーナ婦人は、窓の外に見えるネオ・ヴェネツィアの素晴らしい風景に目を向けた。

 

「こんなにも素晴らしい風景が目の前にあるというのに、それを楽しめないなんて」

 

「婦人?」

 

アダルベルトは心配そうに婦人に声をかけた。

 

「私たちも、そろそろ決断するときがやって来たということね?」

 

「決断ですか・・・」

 

「このままだと、アデルモはどうなるかわからない。アリーチェ当主の決断次第では、何も手を出せなくなる」

 

「婦人?まさか、エレノア家とやり合うおつもりですか?」

 

「ことと次第によればね。そうならない方がいいことはわかっているわ。でも、我々は復讐という目的のために、ここまでやってきた。それを断念するほど、お人好しになったつもりはないわ」

 

「そこまでご覚悟されておられるとは・・・」

 

アダルベルトは気持ちに迷いはないといった、婦人の表情を改めて見つめ返した。

 

「それなら、私にも考えがあります」

 

「考え?」

 

「私のこれまでの経験と人脈をフル稼働すれば、アイアート・ライデンを出し抜くことも可能かと」

 

アダルベルトは、その老成した風貌には似つかわしくない、鋭い眼光を放っていた。

 

「ただ、気になることがあります」

 

「何かあったの?」

 

「アデルモとアルマ、その二人と一緒に、アレキサンドロもエレノアのご当主のもとにいるという情報があります」

 

「アレキサンドロ氏もなの?」

 

「彼は仕事柄、ネオ・ヴェネツィアには昔から知り合いが沢山いるとのこと。そこからの情報となると、私よりも詳しい事情に触れる機会も多いでしょう」

 

「つまり、彼の方がアルマやアデルモの行方を先に掴んでいた。そうなると、アリーチェさんにこちらのことは、もうすっかり知られていると考えた方がいいかもね。彼は、ああ見えても、根はとてもやさしい人だから」

 

「おそらく」

 

「でも彼を責めることはできないわ。元々は抱えていた事情がそれぞれ違いますから」

 

「確かに」

 

「アルマもそう。もしかしたら、巻き込んでしまったといえるかもしれない。知らなくていいこともあるわ、人生には」

 

「それと・・・」

 

「まだあるの?」

 

「ライデン一派は、エレノア財閥が出てくることは想定していなかった筈です。彼らもアデルモの、このネオ・ヴェネツィアへ来てからの時間を全て把握していたわけではなかったでしょう。エレノア財閥と関係のあるアルマの登場となると、尚更です」

 

「そこに、あのフロントクラークの一件も」

 

「アデリーナさん?」

 

「そうね」

 

「そうなると、もうひとり」

 

「どういうこと?」

 

「ライデン一派が、アイアートの悪事の証拠を隠蔽するために、見境なく行動に出たとしたら・・・」

 

「一体誰に危害が及ぶという・・・まさか!」

 

「お察しの通りです」

 

 

 

 

ウッディーがいつものように、ARIAカンパニーの上空を通過しようとしている時だった。

 

ARIAカンパニーから少し距離をおくようにして、数ヵ所から数人の男たちが様子を伺っている姿が目に入った。

 

「いったいあれはなんなのだぁー?」

 

急ブレーキをかけたウッディーは、その場に止まった。

 

「灯里ちゃんは、今日は確かお仕事のはずなのだぁー。でも今頃はいないはずなのだぁ・・・」

 

上空でエアロバイクに股がったまま、腕を組んで首をかしげていた。

 

「なんか怪しいのだぁ。きっとこれは赤信号が点滅しているのだぁー!」

 

ウッディーは方向転換すると、エアロバイクを急発進させた。

 

「灯里ちゃんに知らせるのだぁー!急ぐのだぁぁぁぁぁー!」

 

 

 

「本日も数ある水先案内店から姫屋をお選びいただき、まことにありがとう・・・ぬな?」

 

藍華は、とある船着き場で降ろした客に、いつものように挨拶をしていた。

そこへ、いつもとは明らかに違う変な動きをしているエアロバイクを上空に見つけた。

 

「あれって、ウッディーさん?何してんの?」

 

すると、藍華の姿を見つけたウッディーが、すごいスピードで上空から舞い降りてきた。

 

「タイヘンなのだぁぁぁぁー!」

 

「な、なにごと?うわぁぁぁぁー!」

 

勢い込んで、そのまま運河に突っ込みそうになったウッディーは、なんとかその直前で水しぶきを上げながら止まった。

 

「藍華ちゃん、タイヘンなのだぁー!どうしようなのだぁー!」

 

「もう、びしょびしょですよ!ウッディーさん!どうしてくれるんですか?」

 

「それどころじゃないのだぁ!」

 

「いったいなんなんですか?」

 

「灯里ちゃんが」

 

「灯里がどうかしたんですか?」

 

「灯里ちゃんが」

 

「だから灯里が?」

 

「ストーカーに追われてるのだぁー!いや、囲まれてるのだぁー!しかも、いっぱいなのだぁー!」

 

「ストーカー?なんなんですか、それ?」

 

「緊急事態なのだぁー!」

 

「いや、あのですね?ちょっと落ち着いてください!」

 

「落ち着いてなんかいられないのだぁー!」

 

ウッディーはARIAカンパニーの上空から見た様子を藍華に説明した。

 

「なんか、にわかには信じがたい話だけど・・・」

 

「とにかく灯里ちゃんを探してくるのだぁー!」

 

「探すって、どこを探すんですか?」

 

「ネオ・ヴェネツィア全部に決まってるのだぁぁぁぁ!」

 

「ちょっと!ウッディーさーん!」

 

 

 

「前方に見えて参りましたのが、ため息橋と申しま・・・はぁ?」

 

アリスは、少し先にため息橋が見えてきたタイミングで、その説明をし始めた。

が、その上空をエアロバイクが通過してゆく。

 

伸ばした人差し指が、思わずそのエアロバイクを指していた。

 

「タイヘンなのだぁぁぁー!」

 

「そう、タイヘン・・・な、な、なんなんですかぁ?」

 

「アリスちゃん!タイヘンなのだぁー!」

 

「ウッディーさん?」

 

ウッディーはため息橋の手前で急ブレーキをかけると、急いでアリスのゴンドラのところまで戻ってきた。

 

「どうされたのですか?」

 

「灯里ちゃんがタイヘンなのだぁー!」

 

「灯里先輩に何かあったのですか?」

 

「いや、まだなのだぁー。というか、これからきっとおこるのだぁー!」

 

「あ、あのウッディーさん?大丈夫ですか?」

 

「おれは大丈夫なのだぁ!それより灯里ちゃんが心配なのだぁー!」

 

「えっと、つまり・・・なんなんですか?」

 

ウッディーは、藍華に話したことと同じ話をアリスにも聞かせた。

 

「つまり、ウッディーさんの話を要約するとですね?灯里先輩がストーカーらしき人たち数人から狙われているということでいいですか?」

 

「いいもなにも、その通りなのだぁー!急がないと危ないのだぁー!」

 

「うーん、でも、灯里先輩って、そんなに人気ありましたっけ?」

 

「そこはわからないけど・・・危険なのだぁー!」

 

アリスがポカンと口を開けている間に、ウッディーはため息橋をくぐると、急いでエアロバイクで上空高くかけ上っていった。

 

 

ウッディーの騒ぎは、あちこちでウンディーネたちの噂になっていた。

それによって、灯里は、なぜか時の人になっていた。

 

その灯里は、いつもの行きつけのじゃがバターの屋台のそばにゴンドラを止めて、岸に上がってホクホクと熱そうにじゃがバターを食べていた。

 

「やっぱり、おじさんのじゃがバターは最高です!」

 

「灯里ちゃんにそう言ってもらえるとうれしいねぇ。最近見なかったから心配してたんだよね」

 

「ちょっと他の用事で協力することがありまして・・・」

 

そう言いながら、笑顔でじゃがバターをほおばっていると、屋台のおじさんが、なにやら上空を見上げていた。

 

「なんだ?あのバイク便、なんか叫んでやがんなぁー」

 

「はへ?」

 

おじさんの見上げる方を、灯里も見上げていた。

 

すると、運河を通過してゆくウンディーネたちが、ジロジロと灯里の顔を見ながら通りすぎて行く。

 

「はへ?はんか、はった?ハフハフ」

 

「あんた!何してんのよ!」

 

「藍華ちゃん!」

 

藍華がゴンドラの上から睨みつけるように立っていた。

 

「何って、じゃがバターおいしいよ!藍華ちゃんも食べる?」

 

「そうね、それならわたしも・・・って言うわけないでしょ!」

 

「ほうひはの?ハフハフ」

 

「ちょっと!食べるの、やめなさい!」

 

「ええー、なんでぇ?」



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第四十話 その先の本命

藍華は、腰に両手をおいて、灯里の前で仁王立ちになっていた。

 

「どうしたの、藍華ちゃん?」

 

「あんたねぇ、よくもまぁ、そんな悠長に食べてられるわねぇ。感心するわ、ほんと!」

 

「だって、なかなか食べに来れなかったでしょ?久し振りに前を通ったら、つい・・・」

 

「はぁ~」

 

藍華は思わず大きなため息をついた。

 

「それでナニ?」

 

「ホントに何も知らないの?」

 

「うん、なんかあったの?」

 

「ウッディーさんがぁ、あんたがさぁー、危ない危ないって言ってぇー、ずっと飛び回ってるの!」

 

「私が危ないの?なんで?」

 

「そうよね。灯里、あんたの言う通りよね。一体どうしたら、この人のこの姿を見て危ないと言えるのか。不思議だわ、ホント」

 

「エヘヘヘ」

 

「笑ってるし」

 

藍華はウッディーから聞いた話を灯里にも聞かせた。

 

「そうなんだ」

 

「らしいわよ」

 

「それで」

 

「何よ」

 

「藍華ちゃん?」

 

「だからナニ?」

 

「私」

 

「はぁ?」

 

「どこで」

 

「どこで?」

 

「寝たらいいの?」

 

「寝る?」

 

「藍華ちゃん?」

 

「だからどうしたの?」

 

「今晩、泊めてくれる?」

 

ドテッ!

 

「あんた、そんなこと心配してんの?」

 

「だって、いっぱい人がいるんでしょ?帰れないじゃない!」

 

「そりゃそうかもしれないけど」

 

「私、ヘンなこと言ってる?」

 

「だってさぁ、普通、なんでそんな危険な目に会ってるのかを心配するんじゃないの?」

 

「心配だから、寝るところが心配なんじゃない!」

 

藍華は脱力感に見舞われると、灯里の側の大きな石に座り込んだ。

 

「わかったわよ。好きにすればいいんじゃない?」

 

「ホントに?」

 

「はいはい、どうぞどうぞ」

 

「藍華ちゃん、ありがとう♡」

 

「結局、あんたとは腐れ縁というかさぁ、いったいどうしたらこんな・・・」

 

「あっ、ウッディーさーん!」

 

「ちょっとぉー!まだしゃべってるでしょ!」

 

灯里の声に気づいたウッディーが、エアロバイクで急降下してきた。

 

「灯里ちゃーーん!」

 

「うーわっ!だから危ないって!ウッディーさん!」

 

ウッディーのエアロバイクの勢いで、じゃがバターの屋台周辺は、風が吹き荒れていた。

 

「あわわわ~~」

 

串の先に残っていたじゃがいものひとかけらが、地面に転がっていった。

 

「ああ~~」

 

「灯里ちゃん!スッゴい危険なのだぁーー!」

 

「もう、説明しましたぁー!」

 

「したのだぁ?」

 

「言いましたっ!」

 

「なんだ、そうなのだぁ・・・」

 

「もう!」

 

ウッディーは、バイクから降りると、灯里と藍華の横の椅子に腰かけた。

そして、少し落ち着きをとり戻した。

 

「ちょっと落ち着きました?」

 

「うん、まあ、落ち着いたのだぁ」

 

「灯里?あんたからも何か言いなさいよ?」

 

灯里は、先喉までじゃがいもの刺さっていた串を眺めていた。

 

「ウッディーさん?心配して頂いて、ありがとうございます」

 

「とにかく無事でよかったのだぁ。でも、ARIAKカンパニーへは戻らないほうがいいのだ!」

 

「その辺は灯里も納得していて、今夜はうちに泊まりにくることになってます」

 

「それはいいアイデアなのだぁー」

 

すると、今度は運河の方から灯里を呼ぶ声が聞こえてきた。

 

「灯里さーん!」

 

そこには、ひとつのゴンドラに一緒に乗っているアトラと杏がいた。

 

「大丈夫なんですか?」

「身体は無事なんですか?」

 

アトラと杏は、とても心配そうに声をかけてきた。

 

「うん、大丈夫だよ!」

 

灯里の笑顔を見て、二人は安堵のため息をついた。

 

「それにしてもあんたたち、なんで知ってんの?」

 

藍華はふたりの様子に呆気にとられていた。

 

「藍華さん!なんでって、あちこちでその噂でもちきりなんですよ!」

「そうですよ!あのウッディーさんが、あちこち飛び回ってですね・・・えっ!ウッディーさん!」

 

ウッディーは藍華に隠れるようにして、頭を掻いていた。

 

「ちょっと、やり過ぎたかもなのだぁー」

 

「今さら何を言ってるんだか」

 

ゴンドラを船着き場に停めた二人は、灯里たちのところまでやってきた。

 

「それで、アリスさんには連絡はされたんですか?」

 

「アリスちゃん?ううん、してないけど」

 

灯里がキョトンとしている横で、藍華は何かに気づいたようにギクッとしていた。

 

「あの~、ちょっとお伺いしますが、なんでそこで後輩ちゃんが出てくるの?」

 

「アリスさんがアメリア統括部長に進言したんです」

 

「進言?何を?」

 

「灯里さんが、どうやら大変なことに巻き込まれてるらしいと」

 

「それで?」

 

「それで、その時はすでにあちこちで灯里さんのことが噂になってたので」

 

一同は、チラッとウッディーに目を向けた。

 

ウッディーはギクッと固まった。

 

「ARIAカンパニーは灯里さんひとりなので、ここはオレンジぷらねっととしても

何か協力すべきではないかと」

 

「後輩ちゃんがそう言ったっていうの?」

 

「はい。そうしたらアメリア統括部長も、そうねって返事したとかで」

 

「後輩ちゃんて、どんな立場なの?」

 

「一気に話が進んで」

 

「で?」

 

「緊急時に出される救護挺を全部ARIAカンパニーへ向かわせたんです!」

 

「ぜ、ぜ、ぜ、全部?なんで?」

 

「こういうときのアメリア部長って、ハリキっちゃうというか、燃えるというか・・・」

 

藍華は厳しい顔でいきなり立ち上がった。

 

「灯里!」

 

「ナニぃ?」

 

「あんた、今日からVIP待遇だから!」

 

「ビップ?」

 

「そうよ!安心して!姫屋は灯里を全力で守るから!」

 

「はひぃ~」

 

「やってくれるわね!オレンジぷらねっと!」

 

「藍華ちゃん?いきなりどうしたの?今晩泊めてくれるだけでいいんだよ?」

 

「何を言ってんの?何泊でも泊まりなさい!なんだったら一生泊まっていけばいいわ!」

 

アトラと杏は、立ち上がった藍華をじっと見上げていた。

 

「藍華さんて」

「太っ腹ですね」

 

「そうよ!私は太っ腹よ!なんだったら、あなたたちも来る?姫屋に!」

 

アトラと杏は唖然と藍華を見上げていた。

 

「あの~そろそろ仕事の続きに戻らないとなのだぁ~」

 

ウッディーは気づかれないように、そおーっとその場を離れようとした。

 

「ウッディーさん!お仕事頑張ってください!」

 

灯里の声にウッディーはギクッとなって、直立不動になっていた。

 

「はい・・・なのだぁ~」

 

だんだん声が小さくなっていった。

 

 

 

 

ARIAカンパニーの周辺は騒然となっていた。

 

オレンジぷらねっとからやって来たたくさんの救護挺が、ARIAカンパニーの周辺をびっしりと取り囲んでいた。

 

いったい何事かと岸の方では、人だかりができていた。

 

その騒ぎを聞きつけた、ネオ・ヴェネツィアの周辺の海を警護する海洋局までもが出動する事態になっていた。

 

その頃には、ウッディーが心配していた、ARIAカンパニーの周辺に潜んでいた怪しい男たちの姿は、すべて消えていた。

 

 

 

 

「そう。うん。わかったわ。そうね。そのまま継続してちょうだい」

 

アリーチェ・エレノアは、執務室の大きな机の上で受話器を置いた。

 

第一秘書のアレグロは、その机の傍らで、じっとその様子を見つめていた。

 

「何かあったのですか?」

 

「そうね。正確には何も起こらなかった、ということかしら」

 

「どういうことでしょうか?」

 

「起こそうとしたのだけど、失敗したということ」

 

「お嬢様のいうことは、今一つ理解し難いのですけど」

 

「そうね。簡単に言うと、ライデン一派はなり振り構わず、アデルモの拘束を狙っている。そのためなら、手段は選ばない。ただ、向けるべき矛先を間違えたみたい」

 

そう言ってアリーチェは、高らかに笑い声をあげた。

 

「なぜそこを狙うの?」

 

アリーチェは更にお腹を押さえて笑い転げていた。

 

「それにしても面白いところね。このネオ・ヴェネツィアってところは」

 

しかし、その次には真剣な表情に変わった。

 

「ちょっと待って。あのウンディーネに目をつけたのには、何か他に目的があるということ?」

 

「お嬢様?」

 

「アデルモにつながる何かがあるというの?」

 

アリーチェは背後の窓に椅子ごとクルリと向きを変えると、空に浮かんでいる雲にじっと視線を向けた。

 

「ところでお嬢様?アレキサンドロ氏を、このままお返しになってもよろしかったのですか?」

 

「別に構わないわ。一応、大方のことは察しがついていた。第一、アデルモはこちらの手にある。どうしたって、今の状況では手を出せない。それにこれ以上アルマにバカな真似はさせられない。ただ・・・」

 

「何か気になることでも?」

 

「あの未だ素性のわからない資産家のふりをした婦人と、それなりに渡り歩いてきた元軍人の男。あのふたりがどう出てくるのか。まだプレイヤーの位置にとどまることができるのか?」

 

「そもそもお嬢様は、どこまでご存じなのですか?」

 

「そうね。そんなに知ってるわけじゃないですわね。というか、そもそもそんなに知る必要があるの?あんなアデルモみたいな男のために、こんなにも沢山の人が振り回されるなんて、バカバカしいと思わない?」

 

「それでは、なぜアイアート・ライデンまで乗り出してくるのでしょうか?」

 

「まあ確かにそこね。それに、あの高慢ちきな女に先を越されたくないし」

 

「もしかして、アレッサンドラ・テスタロッサですか?」

 

アレグロは急に目を輝かし始めた。

 

「ナニ?あなた、あんなのが好きなの?」

 

「だってお嬢様?あのアレッサンドラですよ?今をときめく人気女優の、あのアレッサンドラですよ?しかも私は知ってしまったんですから!」

 

「何をそんなに興奮してるの?」

 

「あのアレッサンドラが、実は秘密の情報機関のスパイだった!なんてったってドラマチックですよ!」

 

「あなたはそこなのね」

 

「お嬢様は違うのですか?」

 

「当たり前でしょ?あの高慢ちき女が言ってたでしょ?自ら拳銃を合法的にぶっ放すことができる立場だって。それを考えると、アイアート・ライデンの黒の部分に相当食い込んでる可能性が高いわ」

 

「インターポールも動いてるという件と関係しているわけですか?」

 

「そうでしょうね」

 

「つまり、アレッサンドラはインターポールの秘密特命特別捜査官てことですか?」

 

「そこ?それに長い!」

 

「ええ~~」

 

「それに、そんな単純な、分かりやすい肩書きなわけないでしょ?ドラマじゃあるまいし」

 

アリーチェは、アレグロにそんな言葉を向けながらも、どこか府に落ちるとも感じていた。

 

だが、そこに踏み込むべきかどうか、迷っていた。

 

「はっきり言って、アデルモがどうなろうと、別にどうでもいいわ。ただ、アイアート・ライデンと繋がっていることは、アルマとも繋がっている。だって、親子なんだから」

 

 

 

 

「アロンソ、聞いた?」

 

ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーの従業員出入口のセキュリティは、普通に厳しいものだった。

 

そこで、あれやこれやと質問攻めにあっていたアールドは、伝家の宝刀、身分証を警備員の目の前に見せつけてやった。

 

アロンソはそれには構わず、そそくさとパスを見せて出ていってしまった。

 

「ちょっと!冷たすぎるでしょ!」

 

急いでアロンソの後を追ったアールドは、息を切らせていた。

 

「あのさぁ、そんなに中年のおじさんをいたぶって楽しいの?」

 

そう言いながら、アールドはニヤリと笑って見せた。

 

「ところでさぁ、聞いたのかって?」

 

「なんのことだ?」

 

「またまたぁ。決まってるでしょ?ARIAカンパニーの件」

 

アロンソは特に反応せず歩き続けた。

 

「面白いよねぇ~。あっちは必死だっていうのに、こっちはコメディ劇場みたいでしょ?しかも当の灯里さん、何してたと思う?」

 

「じゃが」

 

「えっ、知ってたの?クククク」

 

アールドはお腹を押さえて笑った。

 

「じゃがバターだよ?おもしろ過ぎるって!灯里さんらしいって言えばそうなんだけどね」

 

アロンソは、そのじゃがバターの言葉を聞いて、ふぅーと息を吐いた。

 

「で、行くんでしょ?」

 

「わからん」

 

「わからんて、約束したんじゃないの?」

 

「特には」

 

「ええ~?それじゃあ、残念がると思うよ。行ってあげたら?」

 

「あんたは?」

 

「私はアガタ女史の誘いを断ることなんてできません!」

 

「なんだ、それ」

 

「それに、アデリーナさんの退院祝いと言われたら、尚更断れないでしょ?」

 

「なんでそれが、じゃが・・・」

 

「じゃがバター、でしょ?面白いじゃない?アガタ女史らしいよ」

 

「それで、あのウンディーネも?」

 

「なんかね、行きつけのおいしいお店があるんだって。実は今日もそこにいたってことらしいよ」

 

「そんなところに」

 

「別に事件現場ってわけじゃないわけだし、いいんじゃない?」

 

そう言って、アールドはまた吹き出していた。

 

「なんかね、ARIAカンパニーの回りでは騒然となってたらしいんだよね。海洋局までお出ましだったって。しかも、そのシルフ、ネオ・ヴェネツィア中灯里さんを探し回ってたらしいから、そこらじゅう噂になっていたって。なのに灯里さん、じゃがバターって・・・」

 

アールドは、また笑いが込み上げていた。

 

「でもさぁ、これで連中は、灯里さんには手を出せなくなった。結果オーライってとこだね」

 

「ライデン一派がか?」

 

「ああ、そうとも。おれの推理だと、灯里さんはこの事件のキーパーソンなんだ。間違いない。でも、今回灯里さんは結果的に目立つことになったので、狙われることはなくなったと思う」

 

そう言ってアールドは立ち止まった。

 

「なんだ?」

 

「いや、つまりね、本当の意味で、まだ明らかになっていないキーパーソンがいるってこと」

 

「ウンディーネは本命でないと?」

 

「多分。そこにつながるきっかけになると考えたのかも」

 

「その先に本命がいるというのか?」

 

「アデルモと本当の意味で繋がっていると考えられる人物」

 

「誰だ?どこからの情報だ?」

 

「うーん、まだ核心は得られてないけどね。というか、気づいてるんでしょ?アロンソ?」

 

アロンソはそれ以上は言葉にしなかった。

 

「さあ、行こう。あんまり遅くなると、ほっぺを膨らませておこるから」

 

アールドは、いつものようにニヤリと笑った。

 

だが、アロンソの硬い表情を見て、アールド自身もこの先の不安を感じれずにはいられなかった。

 

「そう言えば・・・」

 

アロンソが何かを思い出したようにつぶやいた。

 

「なに?なんかあった?」

 

「アージアが釈放される」

 

「釈放?なんで?」

 

「証拠不十分だ。アデリーナが襲われたことと直接関わっていたことを示す証拠がない」

 

「でも血痕のあったシャツが見つかったんでしょ?それにアガタ女史が襲われそうになった。充分でしょう」

 

「注射器の中身はただの食塩水だった。本人は護身用だと主張している」

 

「そんなのが通ったの?」

 

アールドは唖然としてアロンソの顔を見た。

 

「それと」

 

「まだあるの?」

 

「アージアの弁護人」

 

「まさか、エレノア財閥が?」

 

「いや、違う」

 

「誰・・・まさか?」

 

アロンソは険しい表情になった。

 

アールドはその表情を見て、驚きを隠せずにいた。

 

「いったい何をする気なんだ?アイアート・ライデン・・・」

 

ふたりの視線の先の方で、アガタが大きく手を振っていた。

 

そのそばに、穏やかな笑顔でアデリーナが立っていた。



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第四十一話 過る不安

エレノア財閥の若き当主、アリーチェ・エレノアは、ベッドの上で静かに寝息を立てている自身のメイド、アルマの、そのやつれた寝顔を眺めていた。

 

ベッドのそばの椅子に腰かけ、なぜこんなことになってしまったのかを考えていた。

その表情は、固く険しいものだった。

 

ドアをノックする音に、アリーチェは我に返った。

 

ゆっくりと静かに開けられたドアから、第一秘書のアレグロが、軽く頭を下げて入ってきた。

 

「お嬢様、失礼致します」

 

「ご苦労様」

 

アリーチェの元気のない声に、アレグロは心配そうにアリーチェの顔を見つめた。

 

「お嬢様?お身体の具合が、よくないのではございませんか?」

 

「今のところ大丈夫よ。それより、あなたの方こそどうなの?アルマがいない分、あなたにも負担がかかっていなくて?」

 

「私の方こそ、お気になさらず。それより、大事なご報告があります」

 

「何かあったの?」

 

「アデルモ氏がお嬢様に面会を望んでおられます」

 

「私に?あの男が?いけしゃあしゃあと?」

 

「はい」

 

アレグロは、アデルモの名前を聞いた途端、アリーチェの口調がガラッと変わったことに苦笑していた。

 

「で、あやつは何を話したいと言ってるの?」

 

「それは、お嬢様に会って直接話したいとおっしゃっています」

 

「直接ですって?」

 

アリーチェは眉間にシワを寄せ、「フン!」と鼻から息を吐き出した。

 

「今さら何を言うつもりなのか聞いてやろうじゃないの!」

 

 

 

 

「あのふたりは、私の娘ではありません」

 

意気消沈の姿でアリーチェの前に座っていたアデルモは、ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーの総支配人としての姿は、今や見る影もなかった。

 

髪は乱れ、顔には生気がなく、おそらく与えられたであろう白いワイシャツ姿が、もうどこにも行く宛のない男の姿に見えた。

 

だがそんなアデルモに、容赦ない視線で、アリーチェは睨みつけていた。

 

「いったい今になって、何を言ってるの?バカなこと、言わないで!」

 

「本当です、アリーチェ殿。それが事実なんです」

 

「それをそのまま信じろというの?あなたがしてきたことを考えたら、八つ裂きにしてもいいくらいよ!」

 

アデルモは、眉を下げて、困った顔になっていた。その情けなさは、アリーチェの苛立ちをいっそう強くさせるものだった。

 

「この期に及んで逃げるつもり?」

 

「違うんです」

 

「何が違うって言うの?」

 

「ふたりは・・・あの子たちは、アイアート・ライデンの子なんです」

 

「ラ、ライデンの?」

 

アリーチェはその言葉を聞いて、あんぐりと口を開けていた。

 

あまりの驚きに、アデルモの顔を大きく目を開けたまま、じっと見つめていた。

 

「今、あなた、何を言ったの?」

 

「ですから・・・」

 

「それ、本当なの?嘘だったら、承知しないわよ!」

 

アデルモは、床を見つめるようにうなだれてしまった。

 

「そんなまさか、よりによって・・・」

 

アリーチェは言葉を失っていた。

 

執務室の、その大きな机の前で、アリーチェは大きな椅子の背もたれに身を預け、天井を見上げた。

 

アリーチェにとって、それは予想外の展開だった。

 

アデルモに恨みを持っている者たちの存在はわかっていた。

 

そして、自分のメイドであるアルマが、その者たちと接触を図っていたことも把握していた。

 

それは、うかつにもアルマに身の上を教えてしまったアリーチェの贖罪として、ある程度は見過ごそうと思った結果だった。

 

だが、アデリーナの登場によって、事態は一変する。

 

それは、母親と自分と妹を見捨てたと思っていたアデルモへの憎しみを増大させ、かろうじて保っていた自制心を失わせてしまう結果となった。

 

なぜ自分の子を捨てておきながら、他人の子に肩入れをするのか?

 

しばらくの沈黙のあと、アデルモはゆっくりと話始めた。

 

「私は若い頃、マンホームでライデンの息のかかった、あるリゾートホテルで働いていました」

 

アイアート・ライデンがホテル業界を代表する富豪であることはつとに有名な話だったが、その裏の顔も噂されていた。

 

麻薬の密売は、ライデンの成功の証とさえ言われているぐらいだった。

 

アデルモは出世のためならと、ライデンの裏側にも関わるようになっていた。

 

だが、厄介なことを任されることになる。

 

妻に弱味を握られていたライデンは、浮気相手だった女性アレスタに子供が出来たことに困り、アデルモに後始末を頼んできた。

 

アデルモは親子を引き受けることへの交換条件として、ネオ・ヴェネツィア行きの約束をとりつける。

 

そして、ライデンの威光を背景にアデルモは、出世にとりつかれるようになってゆく。

 

「ライデンの浮気相手だったアレスタには、アルマの他にもうひとり、お腹に子供がいました。それがアージアです。だが、アレスタは元々身体があまり強い方ではなく、ネオ・ヴェネツィアの慣れない生活もあって、病気がちでした。それでもライデンは、不自由なく生活ができるように送金を続けていましたが、ついにアレスタが亡くなってしまった。その時を境に状況は一変しました」

 

ライデンはこれを機に、アレスタとの過去を精算しようと考えた。

 

そのため、まだ幼いふたりを別々の孤児院に預けたのだった。

 

だが、ここで歯車が狂うことになる。

 

うっすらと幼い頃の記憶が残っていたアルマは、孤児院に自分を送り届けたアデルモを、自分を捨てた父親だと思い込んでいた。

 

自分の過去を封印しようとしていたアルマは、図らずもアリーチェのはからいにによってその過去を知ることになり、母親の死と妹との生き別れ、その原因を作った男、アデルモへの憎しみを増大させていくこととなった。

 

「あなたはそのことを知っていたの?」

 

アリーチェは責めるような口調で、アデルモに聞き返した。

 

「いいえ、知りませんでした」

 

「どういうこと?結局はあなたが、その親子の面倒をみていたんでしょ?」

 

「それはそうだったんですが・・・」

 

アリーチェは険しい表情のアデルモの顔を凝視していたが、大きくため息をつくと、椅子の背もたれにどっと倒れこんだ。

 

「つまり、あなたも親子を見捨てたということ?」

 

「見捨てたというわけでは」

 

「結局は同じことでしょ!」

 

アリーチェはアデルモの中途半端な言い回しに、間髪いれず言い放った。

 

アデルモは両手を握りあわせて、前屈みになって目を閉じた。

 

「私は、ライデンの弱味を握ったと確信していた。これで好き放題にネオ・ヴェネツィアでやりたいことができる。その結果として、ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーの総支配人という地位を手に入れるところまで行った」

 

「その間、アルマとアージアはどうなったの?」

 

アリーチェは冷静だが、厳しい口調で言った。

 

「それだけじゃない。あなたのやり方は、多くの人の恨みを買った。でしょ?」

 

「それはその通りです」

 

「えらく素直じゃない?今になって反省しているとか?まさかね」

 

アリーチェは、厳しい表情で、皮肉たっぷりに言った。

 

「アデルモさん?あなた、自覚があるの?今、相当ヤバイ状況にいること、わかってらっしゃる?」

 

アデルモは、顔を上げると、アリーチェの厳しい眼光を見つめた。

 

「ハッキリ言って、あなたは調子に乗り過ぎた。自らの身の丈もわからずにね。ライデンは、今後、本気であなたをなんとかするでしょう。それに、インターポールが本格的に動き出してる。ライデンの悪事を、この際だから暴こうとするはず。あなたは、その重要な証言者よ。それに、あなたに恨みを持つ者たちの復讐が終わったわけじゃない。それなりに、覚悟が必要になると思っておいた方がいいでしょうね」

 

「それは理解しているつもりです。ただ・・・」

 

アデルモは何か言いかけて口ごもった。

 

「何かあるの?この際だから、吐いてしまえば?隠していたら、尚更こじれるかもしれないし。どうなの?」

 

「こんなこと、今さら言える立場ではないのですが・・・」

 

アリーチェは、何かを察したのか、怖い表情のまま、左の眉をつり上げた。

 

「ナニ?」

 

「あの子だけは、なんとかしてもらえないかと・・・」

 

「あの子?それってアルマのこと?」

 

「いいえ」

 

「誰?」

 

「ライデンの恐ろしさは理解していました。だから、今まで誰にも一切言わなかったことがある」

 

「あなた、まだ何か隠してるの?」

 

アデルモは、改めてアリーチェに向かって大きく頭を下げた。

 

「せっかく夢を掴んだんです。だから、娘は・・・アデリーナだけは、これ以上傷つけたくないんです!」

 

アリーチェは、あんぐりと大きく口を開けていた。

 

「まさか、あのフロントクラークが?どういうこと?」

 

 

 

 

アガタは、アデリーナの腕にくっついて、夜のネオ・ヴェネツィアを歩いていた。

 

姉に甘える妹のように、嬉しさいっぱいの表情だった。

 

「ああ~おいしかった!先輩はどうでした?」

 

「おいしかったわよ、とっても」

 

アデリーナは穏やかな笑みを浮かべ、前方の街路灯に浮かぶ街の景色を眺めていた。

 

「灯里さんのおかげです。こんなにおいしいじゃがバター屋さんは、初めてかも!」

 

ふたりの後ろを歩いていた灯里は、振り返ったアガタにニッコリとほほえんだ。

 

「とんでもないです。私の方こそ、声をかけていただいて、ありがとうございます。アデリーナさんもお元気そうで、何よりです」

 

その言葉を聞いて、アデリーナは足を止め、振り返った。

 

「ありがとう、灯里さん。私の方こそ、こんなおもてなしをしていただいて」

 

その言葉に反応するように、今度はアガタが会話に入ってきた。

 

「ああー、先輩?この会を企画したのはワタシですからねぇ~」

 

「わかってる。アガタもありがとう」

 

そこに今度は、咳払いをして割り込んでくる声があった。

 

「ゴホン」

 

「なんですか、おじさん?」

 

「ちょっと!そのおじさんは、やめてって言ったろう?」

 

灯里の後ろには、いつものニヤけたアールドと、ネクタイを緩めたアロンソが歩いていた。

 

「それで何か言いたいことでもあるんですか?咳払いなんて、わざとらしいですよ」

 

「アガタ女史は、いつもキビシイからなぁ」

 

「ワタシは優しいですよ。こんな会を開くくらいなんですから」

 

「確かにそうだ。アガタさんは優しい。間違いない!その分を少しでいいから、こっちにも分けて欲しいんだけど」

 

「考えておきます!」

 

アガタの間髪入れず返した言葉で、一同は笑いに包まれた。

 

「それでね、そろそろお開きとしませんか、という相談なんだけど」

 

「ええー!そうなんですか?」

 

「おじさんたちは、明日もあるしね」

 

「ワタシにだって明日はあります!」

 

「それは十分に承知しております!それに灯里さんも、また明日も営業でしょ?」

 

アールドに言われて、灯里は振り返った。

 

「そうですね。明日も朝から予約のお客様がいらっしゃいます」

 

「でしょ?」

 

アールドは、ほらぁと言いたげにアガタを見た。

 

少し不服そうなアガタは、ほっぺを膨らませていた。

 

「アガタ?もうこれで十分よ。みんなも忙しい身なんだし、ここでお開きにしましょう?」

 

アデリーナにそう言われて、渋々納得するようにコクリとうなずいた。

 

「わかりました。ここは灯里さんの顔を立てて、お開きにします」

 

「そこの言い出しっぺは、ボクなんですけど」

 

すかさず、アールドが言い返した。

 

「灯里さんはー、明日も忙しいとぉー、いうことでぇー、ご迷惑をー、おかけすることはぁー、できません!」

 

アガタに出しに使われた灯里は恐縮して、小さくなっていた。

 

「アガタさん、わたし、よかったら残りましょうか?」

 

「ほらぁ!アガタ!」

 

アデリーナがちょっと怖い顔になってアガタをにらんでみせた。

 

「すみません。もうこの辺でお開きにしましょう」

 

アガタは意気消沈となってしまった。

 

灯里は、そんなアガタの表情を見て、こう言った。

 

「アガタさん、またみんなで集まりませんか?」

 

「えっ、灯里さん?ホントですか?」

 

アガタの表情がみるみる明るくなっていった。

 

「今度はネオ・ヴェネツィアをゆっくりと見てまわりませんか?ネオ・ヴェネツィアには、まだまだ素敵なところがいっぱいあります!」

 

「じゃあ、その時は灯里さんのゴンドラに乗せていただけるんですか?」

 

「はい!もちろんです!」

 

アガタはアデリーナの腕を掴んで、ぴょんぴょん跳び跳ねていた。

 

「第2回が、今、決定しましたぁー!」

 

アールドは、やれやれといった感じで、眉が八の字に垂れ下がっていた。

 

だが、その少し後ろを歩いていたアロンソが、少し固い表情をしていた。

 

アールドは、そんなアロンソに声をかけようとしたが、その先のいる人影に気がついた。

 

「あれ、なに?」

 

「わからん」

 

「いつからなの?」

 

「少し前から」

 

「ゴメン。気づかなかった」

 

前を行く三人から少し距離をおいて、歩くスピードを緩めたアロンソとアールドは、わざと振り返って、その方向に顔を向けた。

 

するとすぐさま、その人影は路地裏に消えていった。

 

ふたりは、少し足を止めて、気配をさぐっていたが、何もなかったように歩き始めた。

 

だがアデリーナだけは、そんなふたりの様子を、不安な表情で振り返って見ていた。



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第四十二話 ロビーの光景

 

アダルベルトは、人気のない、運河沿いの古びた工場跡にいた。

 

黒皮のハーフコートを着た姿は、紳士然としたいつもの印象と変わらなかったが、黒いサングラスをかけた表情は、冷酷なほど厳しい印象を、見るものに感じさせていただろう。

 

そんなアダルベルトのそばに、音もなく別の人影が近づいてくる。

 

辺りを警戒しながら歩いてくると、アダルベルトの横にすれ違うように立ち止まった。

 

「悪いな。急なことなって」

 

アダルベルトのしわがれた声が静かに聞こえた。

 

「あんたが召集をかけるなんて、何年ぶりだろう」

 

その男も年期の入った声をしていた。

 

「実は少しややこしいことになってなぁ」

 

「ややこしい?おもしろそうだな、それは」

 

「初めはひとりでカタをつけるつもりだったんだが、意外とそういうわけにもいかなくなってね」

 

「あんたが言うくらいだ。結構なことなんだろ?」

 

「アイアート・ライデン」

 

「アイアート・・・」

 

そう言って、男は少し微笑んでみせた。

 

「また、エライことに首をつっこんだんだなぁ」

 

「成り行きでね。仕方がない」

 

「成り行きね」

 

男は懐からタバコを一本取り出した。

 

アダルベルトは、すぐさまライターを取りだした。

 

カチッと音が鳴って、炎があがると、男はその炎にタバコを近づけた。

 

少し吸い込んで、スゥーと吐き出す。

 

「で、何をやらかそうと言うんだ?」

 

「ある生き証人を横取りする」

 

「ライデンから?」

 

「エレノア財閥からだ」

 

男はそれを聞いて、思わずむせ返った。

 

「今何て言った?エレノア?ライデンじゃないのか?」

 

「その生き証人をライデンも狙っている」

 

「なるほど。そういうことか。へぇー」

 

「どうする?協力してくれるか?」

 

「かなりの戦争になるなぁ。またなんでそんなややこしいことに首を突っ込んだんだ?」

 

アダルベルトは、ライターの蓋を閉じると、目を地面に向けて、おもむろに話始めた。

 

「昔、世話になった恩人が破産に追い込まれた。その奥方が、なんとかして仕返しをしないと気がすまないといった。だから、協力すると言ったんだ」

 

「それがライデンとエレノア。どうしたらそんな大事につながるんだ?」

 

「だから、成り行きだ」

 

「なるほどねぇ」

 

「人生最後の大勝負になると思う」

 

アダルベルトはそう言って、目を閉じた。

 

 

 

アイアート・ライデンの側近として裏の世界で暗躍していた男、アガシは、筋金入りのスナイパーでもあった。

 

アクアにあるライデンの白亜の豪邸では、新たな麻薬の密売ルートを開拓できたとして、政界や財界から数々の来客で盛大なパーティーが繰り広げられいた。

 

だが、そんな中にあって、アガシの顔を知るものはいなかった。

 

そこにアイアート・ライデン本人が姿を現した。

 

70歳とは思えないほどの若々しさで、ネオ・イタリア製のスーツを優美に着こなしていた。

 

浅黒い肌に鋭い眼光。その上、他者を寄せ付けない、威圧的なオーラを放っていた。

 

タイトな高級スーツに身を包んだ女性秘書が、ライデンのそばで耳打ちをした。

 

そこには反応しないライデンだったが、目線は間違いなくアガシに向けられていた。

 

今度はそばにいる秘書に耳打ちすると、ライデンはパーティー会場のあちらこちらに挨拶をして回った。

 

そしてしばらくの後、ライデンの姿は、会場のどこにもなかった。

 

アガシもいつの間にか姿を消していた。

 

ライデンは、豪華な調度品で彩られた、広大な一室にいた。

 

葉巻をくわえながら、そこから見える広大な庭を眺めていた。

 

庭の中央にある大きなプールでは、若い女性たちがその自慢げなプロポーションをさらしている。

 

「相変わらず趣味が悪いな」

 

そこには、アガシがいつの間にか立っていた。

 

そして、部屋の中央にある豪華な応接セットの一角に腰をおろした。

 

「アデルモ、知ってるか?」

 

ライデンは、しゃがれた太い声で、窓の外に目をむけたまま、そう言った。

 

「アデルモ?確か、あんたの女と一緒にネオ・ヴェネツィアへ行かせたヤツだな?」

 

「始末して欲しい」

 

「ほう?結構重宝がってたんじゃなかったのか?」

 

「過去の話だ。ちょっと面倒なことになってきた」

 

「面倒?珍しいな。お前がそんなこと言うなんて」

 

「インターポールが動いている」

 

「ほう」

 

「それに、エレノア財閥もだ」

 

「エレノア?なんでだ?」

 

「アレスタの娘が関わってたらしい」

 

「エレノアか。あそこはちょっと厄介だぞ」

 

「なんでだ?」

 

「今の当主になってから、やり方がヤバイことになってるらしい。かねがね噂は耳に入っている。そういうことなら、早く片付けた方がいいだろうな」

 

「アデルモはエレノアの当主の手中にある」

 

「なるほど。そういうことね」

 

ソファーの皮がきしむ音がした。

 

ライデンが振り返ると、そこにはアガシの姿はもうすでになかった。

 

 

 

 

アリーチェは、アクアの中でも比較的新しい方の財閥だったエレノア家を、ここ最近はその存在感を世に知らしめるのに、多大なる貢献をしていた。

 

抱えていたグループ企業を大きく再編し、宇宙開発に大きく舵を切っていた。

 

そこに乗り出そうとしていた多くの企業と衝突していたが、すべて蹴散らし、ひとつの航行ルートを新規に開拓していた。

 

鉱物資源や人的輸送など、重要な交通網を手中に収めることに成功していたわけだった。

 

その一方で慈善事業にも力を入れていた。

 

アルマとの出会いは、そんな最中の出来事だった。

 

今、エレノア財閥は新たな局面を迎えようとしていた。

 

不正との決別。

 

それはアリーチェの人格そのものといえた。

 

だがそれはまた、これまでこの世界を支えてきた悪しき慣習との決別でもあった。

 

「アレグロ、いいかしら?」

 

アリーチェは、執務室の大きな漆黒の机の上にある、インターフォン越しにアレグロを呼び出した。

 

室内に入ってきたアレグロは、大きな窓越しにネオ・ヴェネツィアの風景を見ているアリーチェに、これまでとは違う雰囲気を感じていた。

 

「わたくしは、決心するべき時が来たと思っています」

 

アリーチェは、そのまま窓の外を眺めながら、独り言でもいうようにささやいた。

 

アレグロは、黙ってその場に立って、アリーチェの言葉を聞いていた。

 

「マンホーム時代から受け継ぐ、このエレノア財閥を、本当に意義のあるものにする。目先のことにとらわれず、真に人類の歴史に貢献する。そのために、まずわたくしが一歩踏み出すことにしますわ」

 

アリーチェは座ったまま、くるりと振り返った。

 

「このアクアにくさびを打ち込みます!」

 

アリーチェの決意のこもった言葉に、アレグロは驚いて目を見開いていた。

 

「くさび?打ち込むのですか?このアクアに?なぜ?」

 

「あなた、そんなにハテナマークばかり並べて、なにが不満なの?」

 

「不満というわけではないのですが・・・」

 

「人が強く決心した時は、そんなふうに言うもんでしょ?」

 

「そういうものなんですか・・・」

 

「何よ!今度は・・・ばかり!」

 

「それでお嬢様?その打ち込むというのは、結局のところ、何をされると?」

 

「乗っ取るの」

 

「はぁ?」

 

「あれやこれやら、すべてひっくるめて、全部乗っ取ってやるのよ!」

 

アリーチェは椅子から降りると、窓に向かって仁王立ちになり、高らかに笑い声を上げた。

 

「お嬢様、とてもお下品に見えます」

 

「いいの!もうなりふりなんて構ってられないですわ!」

 

「いったいどうしたらそんなふうになるのでしょう・・・」

 

「アレグロ、これから忙しくなるわよ!」

 

「わ、わたくしもですか?」

 

アレグロは頭を押さえていた。

 

思わずめまいで倒れそうな気分だった。

 

「できれば、危険でないこと限定でお願いします」

 

 

 

 

感情をすべて押し殺したような能面のような顔で、アージアは、その薄暗い部屋の中で、じっと椅子に座っていた。

 

目の前のテーブルの上には、鈍く重たく光る、荒々しい狂気のイメージを抱かせるようなサバイバルナイフが一本、無造作に置かれていた。

 

そのテーブルを挟んだ向かい側にいる人物が、写真を一枚、ゆっくりとアージアの前に置いた。

 

アージアは、その写真をじっと見つめた。

 

「さあ、どうするんだ?」

 

男の声が、ささやくようにアージアに語りかけた。

 

するとアージアは、サバイバルナイフにゆっくりと手を伸ばし、そっと握りしめた。

 

そして、なんのためらいもなく、写真に写る顔にまっすぐ突き立てた。

 

アデリーナの笑顔の真ん中に、その狂気は突き立てられていた。

 

 

 

 

 

アデリーナは、忙しくカウンターの中で動き回っていた。

 

朝からほとんど休憩も取らず、次々やって来る客への対応に追われていた。

 

その様子を見かねたアガタが、アデリーナのそばに近づいてきた。

 

「先輩?少し休憩を取ってください。いくら先輩でも、まだ病み上がりじゃないですかぁ?無理しないでください!」

 

アデリーナはアガタの言葉に少しほほえんでみせた。 

 

「でもこの状況だと、そういうわけにも行かないでしょ?」

 

アデリーナの事件の後、総支配人のアデルモも消息を絶ったことで、一時協力していた周辺のホテルも、応援に出していた従業員を引き上げ始めた。

 

ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーがトラブルに巻き込まれているだけでなく、何か厄介なことにも関わっているのではという憶測も流れ始めていたからだった。

 

それを裏付けるように、アイアート・ライデンが、このネオ・ヴェネツィアにおいても、多方面に手を回し始めているという情報が聞こえるようになっていた。

 

そして、それに追い討ちをかけるように、辞める従業員が続出していた。

 

「先輩、もう無理ですよ!こんなんじゃあ、手が回りません!」

 

「アガタ、とにかく頑張って!今はやれることを、やるしかないの!」

 

「そんなことを言われても・・・」

 

アガタは半べそをかきながら、客の応対に追われていた。

 

その一方で、アデリーナは驚いていた。

 

あの仏頂面のアロンソが、ベルボーイの荷物運びの手伝いをしていた。

 

「意外とわかってるんじゃない」

 

だがロビーを見渡していたアデリーナは、不思議な感覚にとらわれていた。

 

「やっぱりおかしい」

 

多くのソファーに座る客の姿やロビーを行き交う客たちの姿は、まさに盛況と言えた。

 

それは、とてもトラブルを抱えているホテルには見えなかった。

 

「なんでこんなに、たくさんのお客様が・・・」

 

すると、誰か背後から話しかける声が聞こえた。

 

「そんなに変ですか?ホテルが盛況だと」

 

振り返ったアデリーナは、その見たことのない若い男性が、従業員の制服を着ていることに驚きを隠せないでいた。

 

「あなたは?」

 

「申し遅れました。アヴェリーノと申します。よろしくお願いします」

 

「アヴェリーノ?」

 

「聞いてなかったですか?」

 

「ええ」

 

アヴェリーノは、どうしたもんかと、頭を掻いていた。

 

「叔父がいつもお世話になっている、いや、お世話になっていた、といったらいいでしょうか?」

 

「叔父?」

 

「私の叔父の名前は、アデルモといいます」

 

「叔父さん?総支配人が?」

 

「はい」

 

「そうなの?」

 

アデリーナは、あまりの突然のことに、言葉がでてこなかった。

 

「つまり、甥にあたるわけね?」

 

「もちろんです」

 

「で、なんでそんな格好をしてるの?」

 

「なんでって、当然、応援に来たわけです」

 

「応接?つまり、あなたもホテルマンということ?」

 

「見えませんか?」

 

アヴェリーノは、自分の格好を見回した。

 

「でも、こんな大変な時に、来てくれるなんて・・・」

 

「大変な時だからこそ来たわけです。アデリーナさんも、お辛いかと思ったものですし」

 

「まあ、そうではありますけど」

 

「アデルモ叔父さんが、無事だといいですね。これじゃあ、なんのためにアデリーナさんをここに引っ張ったかわからないですよ」

 

「何のために引っ張った・・・」

 

アデリーナは、アヴェリーノの言葉に引っ掛かっていた。

 

アヴェリーノは、少し気まずい表情になって横を向いた。

 

「余計なことを言いそうになった・・・」

 

「なに?」

 

「そうですよ!そんなところで、余計な油を売ってる場合じゃないです!」

 

アガタがふたりを指差して、怒鳴りつけてきた。

 

「アヴェリーノさんも、応接なら応援らしく応接してください!」

 

「アガタとは知ってるのね?」

 

「まあ、そうですね。応援は二回目ですから」

 

「そうだったの」

 

「ええ」

 

アヴェリーノは、なんとなく返事をしながら、ロビーを見渡していた。

 

「どうかしたの?」

 

アデリーナは、そんなアヴェリーノに声をかけた。

 

「ええ、まあ、そうですねぇ。あの人がいないなぁと思いまして」

 

「誰のこと?」

 

「灯里さんです」

 

「灯里さんも知ってるの?」

 

「そりゃまあ、知ってるというか、それが目的というか・・・」

 

「灯里さんは、もうここの役目は終わったの」

 

「そうだったんですか・・・」

 

その言葉に敏感に反応したアガタが、ふたりの方を見た。

 

「アガタ、ごめんね。ちょっとおしゃべりが過ぎた・・・」

 

「それですよ!」

 

「えっ、何が?」

 

「だから、灯里さんです!」

 

「灯里さんがどうしたの?」

 

カウンターの前には、いつの間にか、その緊張感のない、とぼけた中年の男がニヤケけた顔で、会話に参加していた。

 

「おじさん!」

 

「だから、そのおじさんていうの、やめて欲しいんだけどなぁ。これでも頑張って若くしてるつもりなんだけど」

 

「おじさん、すごくいいタイミングです!」

 

「だからぁ、そのおじさんを・・・ ナニ?いいタイミングって?どういうこと?」

 

カウンターの中の三人は、揃ってアールドの顔を見つめた。

 

「ボクって、いつからそんなに人気があったの?」



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第四十三話 必然の出来事

水無灯里は、再びホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーの制服に身を包んでいた。

 

ロビーの中央付近に立つ姿は、以前からそこにいたように見えるくらい自然な印象だった。

 

そして、いつものにこやかな表情にも、余裕が感じられるようだった。

 

「あら、あなた?久し振りね。最近見かけなかったけど、どうしてたの?」

 

ブランド品で着飾った、セレブな常連客の婦人が、灯里に気がついて立ち止まった。

 

「どうもお久し振りです。ちょっと大事な用事があったもので」

 

「そうだったの。がんばってね」

 

しばらくすると、今度は男性客が灯里に声をかけてきた。

 

「灯里さんじゃないか?どうしてたの?」

 

「お陰様で、なんとか頑張ってました!」

 

「そうなの?そりゃあよかった!」

 

少し言葉を交わすと、その客は笑顔で去っていった。

 

カウンターからその様子を見ていたアガタは、不満げな顔で見つめていた。

 

「なんか納得いきません!」

 

「何が?」

 

アデリーナは、そんなアガタの顔を見て、ふっと笑みを浮かべた。

 

「だって、しばらくご無沙汰だった灯里さんが、復帰していきなりあれですよ?おかしくないですか?」

 

「灯里さんらしいといえば、らしいんじゃないの?彼女はそういう人よ」

 

「でも、それなら必死にやってきた私たちは、なんなんですか?」

 

「だけど、灯里さんに応援を頼めないかって言い出したのは、アガタでしょ?」

 

「それはそうなんですけど・・・」

 

従業員不足を補うため、経験のある灯里に応援を頼めないかと言い出したアガタの案を、灯里は快く引き受けることにした。

そのため、本来ARIAカンパニーとして受けていた予約客のうち、さばききれなかった分を急遽藍華に依頼していた。

それを聞きつけたアリスまで協力を申し出てくれたことで、すぐにホテルのロビーに復帰することができた訳だった。

 

その頃には、水先案内業界にもホテル業界のざわつきが伝わり始めていた。

もちろんそこは、先日のウッディーの果たした役割(?)が大きかったわけだが・・・

 

同じ観光業界ということもあってか、次第に灯里の思いがネオ・ヴェネツィアに関わる人たちの思いへとかわりつつあった。

 

いつもの笑顔でいる灯里から少し離れたところで、これまた、いつもの仏頂面のアロンソが立っていた。

 

ネオ・ヴェネツィアーティーを取り巻く状況が変わってきていることを聞いていた灯里は、アロンソだけは変わらずそこにいることに、ちょっと驚きを感じていた。

 

アロンソの方を横目でチラリと見る灯里。

 

ロビーを見渡していたアロンソが、そのまま灯里に目を向けた。

 

「はひっ!」

 

「何か?」

 

「あっ、いえ、そのぉ・・・」

 

「いいんですか?」

 

「えっ?」

 

「ウンディーネの方は?」

 

「ああ、はい、そちらはなんとかなりました・・・ので」

 

「そうですか」

 

「はい~」

 

「それで?」

 

「それで?」

 

「聞いてるのはこちらなんですが」

 

「そ、そうですね」

 

灯里は大きくため息をつくと、意を決したようにアロンソの方に向いた。

 

「私がここでの役目を終えたということは、このホテルも一旦落ち着いたのかと思ったもので」

 

「それなのに、この男はまだいるのか?と言いたい訳ですね?」

 

「あわわわー!そんなことは・・・」

 

「顔に書いてある」

 

「えっ?」

 

灯里はうつ向くと、思わずほっぺに手を触れた。

 

そして、何かに気づいたように顔を真っ赤にしていた。

 

「私って、バカみたい」

 

灯里はアロンソの表情を確かめようと顔を上げた。

 

アロンソは相変わらずロビーに目を向けていた。

 

「冗談・・・なの?」

 

そんなふたりの変なやり取りの様子を、アデリーナは、フロントのカウンターからぼんやりと眺めていた。

 

そうしてると、目の前に客にが現れた。

そこでようやく我に帰った。

 

一通りの応対の後、ベルボーイと一緒に客は部屋へと向かった。

 

再び、ロビーに目を向けた時には、アロンソの姿はなかった。

 

灯里は、走り回っている子供の後を追いかけていた。

 

アガタは、客への対応で、フロントを離れていた。

 

その時、アデリーナの前の電話が鳴った。

 

「はい、フロントでございます」

 

アデリーナは、その電話に返事を繰り返していたかと思うと、すぐに電話を切って、その場を立ち去ろうとした。

 

だが、そこで伝言を残そうかと横を振り向いたが、アガタがいないことに気がついた。

 

アデリーナは、素早くそばにあった付箋に走り書きをして、それを電話の横に張り付けた。

 

そして、急いでその場を離れた。

 

フロントに戻ってきたアガタは、辺りをキョロキョロ見回していた。

 

「あれ?先輩はどこ?」

 

そして、カウンターの内側に目を走らせた。

 

「先輩らしくない。メモくらい残していけばいいのに」

 

 

 

 

 

縮小したとはいえ、ホテルへの脅迫事件が解決したわけではなく、ましてや姿を消した総支配人のアデルモが、あの裏の顔を噂されているホテル王のアイアート・ライデンと通じていた上、インターポールまで動き出したとなると、捜査本部をここから引き払うなど考えられなかった。

 

捜査の陣頭指揮をとるアルフ捜査官は、文句言いたげな無愛想なアロンソの顔をみて、大きくため息をついた。

捜査会議に使われていた部屋は、椅子の数も減り、様々な備品も大半が片付けられていた。

 

いつもの調子でパイプ椅子にどっかと腰を下ろしていたアロンソは、一部開いていたブラインドから見えるネオ・アドリア海を漠然と眺めていた。

 

「この前、お前が言っていた話を、もう少し詳しく聞かせてくれ」

 

「詳しくですか?あれ以外ないですけど」

 

アルフが聞い話は、アデリーナの退院祝いで集まった帰り道、誰かにつけられていた件についてだった。

 

アールドが言っていた、アデリーナが狙われたのは偶然ではなくアデルモとの関係が絡んでいるに違いないという話に、アロンソも同じ印象を抱いていた。

 

偶然、夜のバックヤードに居合わせただけで従業員を切りつけるだろうか。

 

そんな素朴な疑問は、アデルモの失踪でその深刻さが真実味を帯びる結果となっていた。

 

そして、アデリーナから聞かされた、エレノア財閥が格別の扱いをした上、治療費を全て支払ったという話。

 

その後、インターポールの刑事から聞かされた犯人と推察された姉妹の存在。

 

事件直後にアガタを襲おうとしたアージアの背後関係から、エレノア財閥の当主アリーチェが、その生まれを調べていたことがわかった。

 

そして、そのアージアの姉が・・・

 

「アルマ。アリーチェの側付きのメイドだ。だが、ここしばらく姿を消している」

 

「そのふたりがアリーチェを襲った犯人だから、、エレノア財閥が動いたと?」

 

「おそらく。そして、アルマはアリーチェの下にいるとふんでいる」

 

アルフは、無精髭のあごをなで回した。

 

「そして、アージアは証拠不十分で釈放されている」

 

アロンソは、太陽に照らされ輝いている海を目を細めて見ていた。

 

「そのアージアの足取りも掴めていない」

 

アルフはそう言うと、振り返ってホワイトボードに書き出されている、今回の事件の複雑な人間関係をじっと見つめた。

 

そして、黒のマーカーで、ある人物の名前を丸く囲った。

 

「こいつだけは、何をしでかすかわからん!」

 

バン!と叩いたところには、アイアート・ライデンの名前があった。

 

「実行犯と考えられているふたりが、今、どこにいるのかがわからないなんて、どうなってるんだ!」

 

アルフは、握りしめたマーカーのケツの部分でホワイトボードをガン!と突いた。

 

「捜査本部はライデンの不正疑惑の捜査にシフトしたんでしょ?」

 

アロンソは、冷めた口調でそう言った。

 

「ああそうだ。これを炙り出すことに成功したら、ネオ・ヴェネト州警察は世間から注目を浴びるのは間違いない」

 

「じゃあなんで、そんなにイラついてるんですか?」

 

「イラついてる?私が?出世が近づいている、この私が?」

 

「そんな風に見えますが?」

 

「バカなことを言うんじゃない」

 

アルフはホワイトボードの側のパイプ椅子に腰を下ろした。

そして、片腕を背もたれの後ろに回し、身体をあずけるように力を抜いた。

 

「ホテルへの脅迫事件、アイアート・ライデンの黒い疑惑、どちらにも共通しているのが、アデルモの存在だ。でもその中で、唯一といっていい被害者がアデリーナだ。そこだけは、なんとしても解決せねばならん。だが・・・」

 

「何かあるんですか?」

 

アロンソが鋭い視線をアルフに向けた。

 

「そうなると、アデリーナは、かなり重要な存在とみるべきだ。偶然なんかじゃなく、狙われたのは間違いなく必然だ」

 

「アデルモは、アデリーナをほぼ独断でフロントクラークに抜擢している。それほど実績があったわけじゃないアデリーナを。なぜだ・・・」

 

再び窓の外のネオ・アドリア海に視線を移したアロンソに、アルフは顔を向けた。

 

「アデリーナは今どこだ?」

 

アルフの顔が危機感でひきつっていた。

 

アロンソは、眉間にシワを寄せて、部屋のドアを睨み付けた。

その視線は、その先にあるロビーへと向けられているようだった。

 

一瞬の間の後、アロンソは部屋を飛び出していた。

 

アルフは、隣のモニタールームに飛んでいった。

 

 

 

 

 

ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーの七階の廊下は、しんと静まり返っていた。

 

そこに音もなく歩く人の姿があった。

 

生きているのか、死んでいるのか、それすらもわからないほど、生気を感じられない様子だった。

 

705号室の前で立ち止まった。

そして、ドアの横の呼び鈴を押した。

 

少しの後、ドアがゆっくりと開いた。

 

中から日焼けした恰幅のいい男が姿を現した。

 

「よく来てくれたね、アージア」

 

能面のような、感情のない顔の女性が、その男の手招きに続いて、部屋の中へと入っていった。

 

ソファーにアージアを座らせた男は、サイドテーブルに置いていた黒のアタッシュケースを開けた。

右手には痛々しいほどの包帯が巻かれていた。

それを苦々しい顔で睨み付けると、器用に口を使って、左手に黒皮の手袋をはめた。

 

「アージア、私はこれから大事な用がある。お前は、手筈通りにやってくれればいい。途中で連絡をいれるから、その時はこれを使って、作戦を実行してくれ」

 

男の手には、アージアが先日見たサバイバルナイフがあった。

 

「難しく考える必要はない。ただ、相手に向かって、まっすぐに差し出せばそれでいい」

 

男はくるりとナイフを回して、握りの方を向けて、アージアに手渡した。

 

細く華奢なアージアには、そのサバイバルナイフが、とても重く感じられた。

 

 

 

 

ライデンの側近だった、スナイパーのアガシは、住宅が並ぶ運河沿いのアパートの一室で、持ってきたポットからコーヒーをちいさなカップに注いでいた。

その香りを嗅いで、満足げな表情でコーヒーを口に運んだ。

 

「うーん、いい香りだ。こんな至福のときを味わえるというのに、なぜ命を粗末にするんだろうね」

 

アガシは、コーヒーを飲み干すと、ポットとカップをバッグにしまった。

 

スナイパー専用の、指先の微妙な感触を感じられる手袋をはめると、そばに置いてあったライフルを手にした。

 

そしてライフルを軽く構えると、そこにあるスコープを覗き込んだ。

 

アガシには、運河をゆっくりと進むボートが一艘見えていた。

 

そこには、日焼けした、恰幅のいい男が乗っていた。

 

岸につけるよう、ボートを漕いでいた男に指図した。

ボートが止まると、その男に何かを手渡して、ボートから降りるよう、あしらうように手を振って見せた。

 

その日焼けした男は、ひとりになると、辺りをキョロキョロと見回していた。

 

だが次の瞬間、鈍い破裂音とともに、男はボードの上で崩れ落ちるように倒れた。

 

それを見届けたアガシは、ライフルを解体して、バッグに納めた。

 

そして立ち上がると、振り返らずにドアへと向かった。

 

「ライデンと取引なんて、バカなことを考えなければよかったものを。アデルモ奪取を失敗した時に、お前は終わってたんだよ」

 

アガシが去った部屋の窓のから見える運河の上を、ボートがゆっくりと何もなかったかのように漂っていた。

 

 

 

そこから少し離れた、アパートメントに挟まれた細い路地に、身を隠すように立つ人影があった。

 

キャップを深々とかぶり、顔には黒いサングラス、モスグリーンのハーフコートにジーンズ姿のその女性は、ちょっとやそっとではお目にかかれないほどの、スーパーモデルのような印象の姿をしていた。

 

そして、コートの襟を立て、顔を隠すようにして、そのボートの行方をじっと静かに見送っていた。

 

「こんなことがあったなんて、あの人に知らせるわけにいかない・・・」

 

その女性は、そうポツリと呟いた。

 

そして、音もなく姿を消した。

 

 

 

 

アデリーナは、705号室の前に立っていた。

 

呼吸を整えると、呼び鈴を押した。

 

すると、ドアがすっと開いた。

 

ドア越しに人影が目に入った。

 

「お客様?フロントから参りました。緊急のことということでしたが、どうかなさいましたか?」

 

アデリーナの呼び掛けになんの反応も返ってこない。

 

「大丈夫ですか?どこかお加減でもお悪いのですか?」

 

すると、ドアが先程よりも少し動いた。

 

アデリーナは、そこではっきりと理解できた。

 

その部屋の客が、どうにもはっきりと見えないのは、部屋の中が真っ暗だからだった。

 

「お客様、お部屋の灯りはどうされたので・・・」

 

ドアの影から、その能面のような、真っ白で無表情の顔が、半分だけ覗いていた。

 

その瞬間、アデリーナは、自分でもどうすることもできないほど、震えが止まらなかった。

 

「あの、電話をいただいたアサド様は、確か男性の方でしたが・・・」

 

アデリーナは、その真っ暗な部屋の奥を覗こうとした。

 

だが当然何も見えない。

 

「アサド様は、いらっしゃいますか?」

 

その半分だけ顔を見せた女性は、無表情のまま何も反応しない。

 

「お客様?申し訳ありませんが、お部屋の中をあらためさせていただきたいのですが、よろしいですか?」

 

そう言ってアデリーナは、少しドアに手をかけた。

 

その瞬間、ドアが音もなく開かれた。

 

アデリーナはその勢いで、部屋に一歩踏み入れていた。

 

「えっ?」

 

目の前には、能面を被った、真っ白な顔が迫っていた。

 

そして、信じられないほどの力で手首を掴まれると、そのまま部屋の中へと引きずり込まれていった。



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第四十四話 ネオとアクアでお休み

「灯里さん?」

 

灯里がロビーを走り回っていた子供たちと、迎えに来た父親に手を振って見送っていた横で、アガタも手を振って立っていた。

 

「アガタさん、どうかされたんですか?」

 

アガタの表情がいつになく元気がなかった。

 

「なんかですね、最近わかんなくなってきまして」

 

「はぁ」

 

「なんか、いろんなことがありすぎて、よく整理できてないというか、なんというか・・・」

 

「整理ですか」

 

「そうなんです。なのに、なんでかわからないんですけど、やたらと忙しいんですよ。ここ最近」

 

「ホテルが忙しいのって、いいことじゃないんですか?」

 

「でも、程度ってものがあるじゃないですか?」

 

「まあ確かに、そうかも」

 

「でしょ?灯里さんもお仕事柄、あるんじゃないですか?」

 

「そうですね」

 

「ふーん」

 

アガタはロビーの真ん中で、大きなため息をついた。

 

「いったいこのホテルの教育はどうなってるの?」

 

灯里たちよりだいぶんと背丈の低い、お嬢様気質いっぱいのオーラを発散した少女がそこに立っていた。

 

「い、いらっしゃいませ!ようこそ、ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーへ!」

 

灯里は練習していたフレーズを条件反射のように言葉にした。

 

その横でアガタは、不思議そうな顔をしていた。

 

「確か見たことあるような・・・」

 

しかし、次のセリフを言う前に、数名の男性従業員が必死の形相で走ってきた。

 

「あれ、副支配人に部長に・・・」

 

アガタの前を通過すると、かしこまったように一同が直立不動になって立ち止まった。

 

「お待ちしておりました、アリーチェ・エレノア様!」

 

そのセリフを聞いて、アガタはようやくわかった。

 

「そうだ。あの、なんかやたらと偉そうなお嬢様です。ね?灯里さん?」

 

「そ、そうですね?いや、あの、その~~」

 

灯里は、アガタの声がアリーチェに聞こえていないか気が気でなかった。

 

「どうなの、ホテルの調子は?」

 

「はい、それはもう、順調でございます!ご当主様!」

 

「それはよかったわ」

 

副支配人は、従業員たちに指示を出す普段の口調とは大違いの声のトーンだった。

 

「君たちもちゃんと挨拶をしたまえ!」

 

副支配人は灯里とアガタに厳しい口調で言った。

 

「このホテルの新しいオーナー様だぞ!」

 

「オーナー様?」

「いつの間に?」

 

二人は目を丸くして、涼しげに微笑むアリーチェを見つめた。

 

「そういうことだから、よろしくね」

 

アリーチェは腰に手を当ててポーズを決めていた。

 

「お嬢様?あまりお時間がありません」

 

そのアリーチェの後方で、第一秘書のアレグロが声をかけた。

 

アリーチェの手がズルッと滑った。

 

「アレグロ!私の立場も考えなさい!それにタイミングも!」

 

アリーチェは、不満げな顔ながらも、ホテルの男たちを従えて奥へと進んでいった。

 

灯里とアガタは、大きく息をついた。

 

「アガタさんは、ご存知だったんですか?」

 

「知りません。いきなりですよ!そんな重要なこと、なんで従業員に知らされてないんですか?」

 

「そうなんですね」

 

灯里は、アガタのプンプン怒る表情を見て苦笑していた。

 

その時、アロンソが怖い形相でロビーに現れた。

ロビーを見回すと、そのまま階段の方へと走っていった。

 

「なんだったんでしょう」

 

「わたし、あの人、ちょっと苦手なんですよねぇ」

 

「ホント、なんだろうね」

 

いつの間にか二人に並ぶようにアールドが立っていた。

 

「おじさん!いきなりなんですか?」

 

「だからさぁ、アガタさん?もうさぁ、止めてくんない?」

 

言葉は冗談めかしていたが、アロンソの後ろ姿を追う目は、笑ってなかった。

 

灯里はそんなアールドの表情に、何か不安を感じ始めていた。

 

「そういえば、アデリーナさんはどうしたの?休み?」

 

「休みな訳ないじゃないですかぁー!」

 

「じゃあ、どこ?」

 

アールドはフロントからロビーへと視線を走らせていた。

途端に表情が曇り始めた。

 

「アールドさん、どうしたんですか?」

 

灯里は心配になって、アールドの緊張感を漂わせた横顔に尋ねた。

 

アガタは腕を組んで難しい顔で言った。

 

「わかりません」

 

「わからない?お客を部屋まで案内に行ってるとか?」

 

「それならそうとメモでも残すはずなんですけど、先輩にしては珍しく、なんにも書き残してないんですよねぇ」

 

「じゃあ今、アデリーナさんがどこで何をしてるかってことを、把握してる人はいないってこと?」

 

そのアールドの言葉を聞いて、アガタの表情が一変した。

 

 

 

 

アルピーナ婦人は、ホテルでぼや騒ぎがあって以来、長期滞在用の部屋へと移っていた。

 

その部屋から出ようとドアを開けた瞬間、目の前の廊下を灯里が走っていく姿があった。

 

廊下に出たアルピーナ婦人は、キョロキョロ辺りを見回している灯里の後ろ姿に声をかけた。

 

「灯里さん!」

 

その声に驚いて灯里は振り返った。

 

「アルピーナさん!」

 

「どうしたの?何かあったの?」

 

「はい、実は・・・」

 

灯里は言った方がいいのか、少し迷った。

 

「何か大変なことがあったのね?」

 

「アルピーナさんにもお聞きした方がいいのかも」

 

「どういうこと?」

 

「アデリーナさんを見かけませんでしたか?」

 

「アデリーナさんて、あのフロントクラークの方?」

 

「そうです!さっきから、どこにも見当たらなくて、手分けして捜してるんです!」

 

「いない・・・」

 

アルピーナ婦人はそう呟いて、灯里の顔を真剣な顔で見つめた。

 

「そう、いないの。いないのね?」

 

「アルピーナさん?」

 

「一足遅かった。また、同じ過ちを繰り返してしまったのかもしれない」

 

アルピーナ婦人は後悔の念を滲ませた表情をしていた。

 

「あの、どういうことですか?」

 

「おそらく、ライデンね」

 

「はぁ」

 

「アデルモ総支配人は、まだ戻ってないわよね?」

 

「総支配人ですか?まだ、戻られてないと思いますが」

 

「そうなのね。だから矛先を変えた」

 

「あの、アルピーナさん?」

 

灯里は話しが見えてこず、困惑していた。

 

「もしかして、アルピーナさんは、何かご存知なんですか?」

 

すると、先ほどアルピーナ婦人が閉めたドアが、カチャリと音がなって開いた。

 

「アダルベルトさん!」

 

部屋からは、浅黒い顔をした、眼光鋭い男が姿を現した。

 

「婦人?今、情報が入りました。ライデンが動いたと」

 

「そうなの」

 

不安な表情で見つめている灯里の方に、アルピーナ婦人はゆっくりと振り向いた。

 

「灯里さん?思っていたより、急がないといけないかもしれない」

 

「それってどういうことなんでしょうか?」

 

「このホテルは、負の連鎖に囚われている」

 

「あの、どういうこと・・・」

 

灯里はそれ以上聞けなかった。

アルピーナ婦人とアダルベルトの表情が、あまりにも真剣だからだった。

 

「悪いこと言わないわ。今からでも、ここを離れることはできないの?あなたのような方がいるべき場所ではないと思うの」

 

灯里はどう返事していいかわからなかった。

 

深刻な状況にいることは感じていた。

だが、ここを離れることはそれ以上に考えられなかった。

 

「婦人?先程の情報ですが、続きが」

 

アダルベルトが声をかけた。

 

「ライデンが配下の者を始末したというものです」

 

「配下?仲間ということ?」

 

「先日、アデルモの奪取に失敗した者のようです」

 

「でもそうすると、ライデンの目的は何?」

 

「おそらく推察するに、取引を持ちかけて始末された」

 

「でも、アデルモ氏はエレノアのご当主のところでしょ?アルマも・・・」

 

「つまり」

 

「だからなの?」

 

二人の会話を聞いていた灯里は、顔を強ばらせて動けずにいた。

 

「私には、お二人が何をおっしゃっているのか、わかりません」

 

アルピーナとアダルベルトは、灯里の言葉に不安な顔を向けた。

 

「灯里さん?」

 

「わたし、聞かなかったことにします」

 

そう言って、灯里は足早にその場を去っていった。

 

アルピーナ婦人は、そんな灯里の後ろ姿を見つめていた。

 

「確かに、灯里さんが知る必要のない話だったかもしれない。でもね、あなたが必死になって捜している人のことなのよ」

 

廊下の角を曲がっていく灯里の背中には、まるで不安と焦りが張り付いているように見えた。

 

 

 

 

 

アガタは落ち込んだ表情で、従業員出入口からとぼとぼとロビーに戻ってきた。

 

「どうだった?」

 

正面玄関から走ってきたアールドが、そんなアガタに声をかけた。

 

「いません。どこにも」

 

「そうか」

 

うなだれているアガタに、アールドはどう声をかけていいか、困った顔をしていた。

 

「先輩、どこにいったんですか?」

 

「アガタさん、諦めるのはまだ早い」

 

「誰も諦めてません!」

 

「そ、そうだよね」

 

アールドは気まずそうに頭をかいていた。

 

「アガタさん?バックヤードや関係者が出入りしそうなところ、それにホテルの周辺にもいないとなると、後は客室と考えるのが妥当だと思う」

 

「客室って言ったって、どれだけあると思ってるんるんですか?」

 

「確かにそうなんだけど、フロントにいたはずのアデリーナさんがそこにいないとなると、考えられるのは、お客への対応でフロントを離れたということじゃないの?」

 

「そうかもしれません」

 

「そうだ!宿泊名簿は見れる?」

 

「見れますけど」

 

「片っ端から捜すんだ!アデリーナさんがトラブルに巻き込まれそうな客はいないかを」

 

「捜すって、おじさん!このホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーに、どれだけの宿泊客が泊まってるって思ってるんですか?」

 

「別に全部って言ってるんじゃない。ここ一日二日の話だ。しかも短期の宿泊予定の客だ!」

 

アガタはカウンターの中に回り込むと、タブレットに指を走らせた。

 

「でも、ここ最近でも、30名ほどのお客様がいます」

 

「なんでそんなにいるの?」

 

「知りません!」

 

アガタは苛立ちと焦りの感情をアールドにぶつけた。

 

その時、カウンターに近づいてきた男性がアガタに声をかけてきた。

 

「予約をしていたのだが、いいかな?」

 

「は、はい!お客様!」

 

アガタは返事をしながらも、タブレットから手を離そうとしなかった。

 

「どうしよう・・・」

 

「こちらでお引き受けいたします、お客様?」

 

アガタの少し離れた横に、涼しげな顔をしたアヴェリーノが立っていた。

 

「応援のひと!」

 

「あのときの彼か!」

 

アガタとアールドは突然現れた救世主でも見るかのように、ふたり同時に声をあげた。

 

アヴェリーノはニッコリと微笑んで客への応対をしてくれた。

 

その様子に安心して、アガタはカウンターの上にタブレットを出して、アールドと宿泊者名簿に集中した。

 

アヴェリーノは手続きの後、ロビーに目をやった。

手の空いているベルボーイは一人もいない様子だった。

 

「それではご案内いたします」

 

そう言って、カウンターから出ていこうとした時、思い出したように振り返った。

 

「そうだ、アガタさん?今、七階って忙しいのですか?」

 

そう言われたアガタは、怖い顔でアヴェリーノを見た。

 

「今このホテルで、暇なところはひとつもありません!全部忙しいんですぅ!」

 

「そ、そうなんですね」

 

アヴェリーノは、困ったように眉を下げて苦笑していた。

 

そして、向きを変え歩き出した。

 

その時、ズボンのポケットから紙屑のような、黄色いものを出し、ゴミ箱に入れていった。

 

とても自然な、何気ない所作だった。

 

だが、アールドは視界の隅でそれを捕らえていた。

 

 

 

 

特別なVIPしか通されない豪華な部屋で、アリーチェはゆったりと大きなソファーに腰かけていた。

 

第一秘書のアレグロは、そのそばで澄ました顔で立っていた。

 

「どうして私たちは待たされているのかしら?」

 

アリーチェは釈然としない様子でポツリと呟いた。

 

「どうしてと聞かれましても」

 

「あのねぇ、仮にも第一秘書なんでしょ?」

 

「そのように仰せつかっております」

 

「もう!」

 

その時、アレグロの携帯電話が鳴った。

 

アレグロは、電話の相手に冷静かつ歯切れいい返答をしていた。

そして、その電話を切ると、おもむろにアリーチェにこう言った。

 

「アンナリーザ様から、アデルモ氏が逃走したとご報告です」

 

「ブホッ!」

 

アリーチェは、飲みかけのコーヒーを思わず吐き出した。

 

「いきなりナニ?どういうこと?」

 

「ですので、アデルモ氏が・・・」

 

「わかったわよ!そんな報告は一回で充分よ!」

 

アリーチェはカップを受け皿に戻すと、大きなため息をついて、ソファーに深々ともたれかかった。

 

「今さらなんでそういうことになるの?」

 

「それともうひとつ、ございます」

 

アレグロは冷静に言葉を続けた。

 

「まだあるの?」

 

「アルマもいなくなりました」

 

「アルマも?」

 

「どうやら手引きをしたのが、アルマだということのようです」

 

「アルマがアデルモの逃走に協力したってことなの?」

 

アリーチェは思わずこめかみを親指と人差し指で、グッと押さえた。

 

すると、ドアをノックする音が鳴った。

 

恐縮しきりの副支配人が、腰を低くして入ってきた。

 

アリーチェは、上目遣いで睨み付けた。

 

「ねえ、副支配人?この時間はナニ待ち?」

 

「申し訳ありません。実は少々手違いがございまして」

 

「手違い?」

 

「それで少々ホテルがバタバタしておりまして」

 

「バタバタって、忙しいってことなんでしょ?いいことじゃない。喜ぶべきよ」

 

「そうではございませんでして」

 

「なんなの?はっきりおっしゃい!」

 

「実は、従業員がひとり、いなくなりまして」

 

「いなくなったって、何をしてるの?ちゃんと従業員教育はやってるの?」

 

「そういうことではございませんでして、突然と申しましょうか、姿が見えなくなったということでございます」

 

「あなたねぇ、何をバカなことを言って・・・」

 

アリーチェは、何かに気づいたように突然、自ら言葉を遮った。

 

「アレグロ?あのフロントクラーク、ロビーには?」

 

「いませんでした」

 

「いない・・・」

 

「あの、ご当主?」

 

「それって、フロントクラークね?」

 

「なぜご存知で?」

 

アリーチェは苦い表情で、ソファーをバン!と叩いた。

 

「アレグロ!」

 

「はい、お嬢様」

 

「うちの特命チーム全員に召集をかけて!全員よ!」

 

「全員ですか?」

 

「そうよ!」

 

「別名“”アリーチェ隊“”ですよね?」

 

「なにそれ?私の知らないところでいつの間に・・・」

 

「あのー、実は二名が現在休暇中でして」

 

「当主が声をかけているのに、なんなのよ!」

 

「一名はネオ・ディズニーランドで、もう一名はユニバーサル・スタジオ・アクアです」

 

「なんでも、ネオとかアクアってつけたらいいってもんじゃないでしょ!」

 

「久し振りの家族サービスで、子供たちがはしゃいで喜んでるとかで・・・」

 

アリーチェは頭を押さえた。

 

「もうなんでもいいわ。とにかく集められるだけ集めなさい!」

 

「わかりました!」

 

「戦争よ!」



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第四十五話 能面 再び

「お前は、戻りなさい!」

 

アデルモは、重たい足をひきずるようにして、必死に歩き続けていた。

 

アルマは、その少し後ろを厳しい表情で歩いていた。

 

そして、片時も見逃すまいと、アデルモを凝視し続けている。

 

「勘違いしないで!あなたが逃げることに協力したわけじゃないから!」

 

「そんなことはわかっている。でもここから先は、お前が関わるべき話ではない」

 

「今さら何を言ってるの?関わるも何も、あなたが撒いた種じゃない?あなたには、それ相応の責任を取ってもらうから」

 

アデルモは、それには答えずに、フェンス際の道路を、その先を睨むように歩いていた。

 

雑草が生い茂った荒れ果てた空き地を横に見ながら、誰も人の姿を見かけることのない、閑散とした道路を進んでいた。

 

すると、少しずつだが潮の匂いが漂い始めていた。

 

その先を進むと、視界が開け、海岸が目の前にひろがっていた。

 

左右には古びた造船所跡が連なっている。

 

アデルモは左右を見渡していたが、すぐさま右の方に進んだ。

 

「どこへ行くつもり?」

 

アルマは、必死に歩いていこうとするアデルモの背中に向けて言った。

 

だがそれには答えようとしなかった。

 

「もしかして、ライデンと会うの?」

 

アルマはそう言いながら、アデルモとの距離を縮めた。

 

「そんなの、殺されに行くようなもんじゃない?」

 

「元々、お前だって私を引き渡そうとしていたじゃないか?」

 

「それは違うわ!あなたを捕らえ、あなたに恨みがあるひとたちのために罪を償ってもらうためよ!」

 

「そう言われたんだな?」

 

「言われたって、どういうこと?」

 

「お前の素性を知って、お前に近づいた。そしたら、その先には私がいる。労せずして始末が出来るというわけだ」

 

「それじゃあまるで、私は利用されたように聞こえるじゃない!」

 

「その通りだ、アルマ」

 

アデルモは冷静な口調で答えた。

 

振り返ってアルマの顔を見なかったが、アルマから言葉が返って来なかった様子に、その場に立ち止まった。

 

「悪いこと言わない。今からでも引き返しなさい。それがお前のためなんだ」

 

「私のため?そう言って、またごまかすつもりなんでしょ?」

 

「そうじゃない。それなら聞くが、お前に協力するようなことを言った者と、連絡は取れているのか?どうなんだ?」

 

「それは私だってお嬢様のところにいたわけだし・・・」

 

「エレノアのお屋敷か」

 

「あなただって同じでしょ?」

 

「アルマ?お前には悪いが、そいつはもういないと思う」

 

「いないって何?

 

「この世にはいないということだ」

 

「それって死んだということ・・・」

 

「そういうことだ。お前を使って私を誘きだした。そこまでは計画通りだったかもしれない。だが、そこでまさかエレノアの当主が直々に出てくることまでは想定していなかったはずだ。その段階でそいつは失敗したんだ。失敗はライデンにとって敗北を意味している」

 

アデルモは、ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーの総支配人の顔でも、幼い頃のアルマが知っている男の顔でもない、別人の顔をしていた。

 

「でも、アージアが・・・」

 

その言葉を聞いて、歩き始めようとしたアデルモは、また立ち止まって振り返った。

 

「今何て言った?アージアがどうしたんだ?」

 

「私が動けない状況にいることを知って、私の代わりに動いてあげるって」

 

「連絡が取れたのか?」

 

「証拠不十分で釈放になったからって」

 

「それで何をするって?」

 

「私の代わりにアサドと連絡をとって・・・」

 

「そのアサドって、まさかサン・ミケーレ島でエレノアの兵たちにやられたあいつのことか?」

 

「そうだけど」

 

アデルモの顔が変わった。

 

「なんてバカなことを・・・」

 

「なんなの?さっきから」

 

「だから、そいつはもうこの世にはいないはずだ!」

 

「じゃあアージアはどうなるの?」

 

アルマもことの重大さをようやく感じ始めていた。

顔から血の気がなくなって行く。

 

「アージアはどこなんだ?」

 

「わからない」

 

「どうしてだ?そもそもの計画はなんだったんだ?」

 

「それは、あなたを誘きだすことが目的で、それで罪を償わせて・・・」

 

アルマはそこで違うことに気がついた。

 

「それはあなたを、そのライデンという人に?」

 

「そういうことだ。私をライデンに引き渡すために、お前に近づいたんだ。お前は利用されたんだ」

 

「じゃあなんで、私たちは今まで苦労して、あんなことまでして・・・」

 

アルマの表情がみるみる崩れ落ちていった。

 

だがそこで、アデルモは顔をこわばらせた。

 

「ちょっと待て。じゃあいったいどうやって私を誘きだすつもりだったんだ?お前と私はエレノアの屋敷にいた。それをアージアも知っていたんだろ?」

 

「だから合流して、そこでアサドと会って・・・」

 

「そうじゃない!どうやって私を誘い出すつもりだったんだと聞いてるんだ!」

 

「だから、私がお嬢様の屋敷から連れ出して、そしてアージアはアサドと連絡を取って・・・」

 

アルマはそこで何かを思い出したのか、表情が固まった。

 

「どうした?アルマ!」

 

「私の代わりにちゃんとやり遂げるからって言ってた、あの子。それがあなたを誘い出す一番の方法だって」

 

アデルモの表情がいっそう険しいものになった。

 

「お前たちは、どこまで知ってるんだ?」

 

「知ってる?知ってるって何を?」

 

「アサドという男は、間違いなくライデンの手下だ。その男がアージアを利用することを考えていたとしたら、狙うべき矛先もわかっているということになる」

 

「いったい何をいってるの?わかるように話して!アージアは何をするつもりでいるの?」

 

アルマは必死にアデルモに詰め寄った。

 

「アージアは、私の采配でホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーに採用した」

 

「だから何?」

 

「だがあの子は、あまり愛想が良くない性格だったから、ロビーや接客には向かないと思って、なんとかリネン担当にねじ込んだんだ」

 

「それがなんだというの?今さら!」

 

「だからアルマ、正直に教えてくれ。あの夜、あの事件のとき、アージアは会ってるのか?」

 

「会ってるって・・・もしかして、あのフロントクラークのことを言ってるの?」

 

アデルモはうなだれるように、視線を落とした。

 

「お前たちが、あそこまで恨みを持っているとは思っても見なかったんだ。だが、それは私が招いたことだとも理解している。だが、あそこまでのことをやるとは・・・」

 

「ちょっと待って?それとアージアとどういう関係があるの?あの女はあなたのコネでホテルに入ったヤツでしょ?そんなヤツが、なんの苦労もせずにあんな大きなホテルのフロントクラークに抜擢されるなんて、おかしいに決まってるじゃない?それだけの報いを受けて当然よ!」

 

「それはわかった。だからアルマ、教えてくれ。あの夜、アージアはアデリーナと顔を会わせているのか?」

 

「なんなのさっきから!会ってるわけないでしょ?アージアはリネン室で捕まったんだから!」

 

「やっぱりそうか・・・」

 

アデルモは、腰が抜けたようにその場に座り込んでしまった。

 

それを困惑した表情でアルマは見下ろしていた。

 

「いったい何だって・・・まさか、あの子」

 

「私はそれを一番恐れていたんだ」

 

「それは私がすべての責任を負うから、だから絶対に手を出さないでねって言ったはず・・・」

 

「アージアはどこなんだ?」

 

「わからない。でも、あなたのコネでホテルに入ったヤツなんてゆるせないと私がいったら、あの子、黙ってしきりにうなずいていた。だから、あなたを誘きだすために、あの女に近づくとなると、どうしたって・・・」

 

「わかった」

 

そう言ってアデルモは立ち上がると、今来た道を戻ろうと歩き始めた。

 

「ライデンは?会ってケリをつけるんじゃないの?そうしたら、私の話に従うって言ったじゃない!」

 

アルマはアデルモの腕を掴んで引き戻そうとした。

 

「もうそんなこと、言ってられなくなった」

 

アデルモはそれを振り払おうとした。

 

「親子げんかはそこまでだ!」

 

アデルモとアルマは、その声に身を固くして立ち止まった。

 

「まあ、仮の親子だがな」

 

いつの間にか十名以上はいるであろう男たちが、ふたりを囲むように立っていた。

そして、手には拳銃が握られていた。

 

 

 

 

真っ暗だと思われていた部屋の中には、ロウソクの小さな炎が、目の前のテーブルの上で、わずかながら揺れていた。

 

目を覚ましたアデリーナは、自分が眠っていたことにようやく気がついた。

 

ソファーの上に座っていたが、なぜか窮屈な苦しさが身体を覆っている。

 

ハッと目を見開いて、反射的に姿勢を直そうとしたが、その窮屈さが動きを阻む。

 

そこで自分のおかれている状況が飲み込めた。

 

後ろ手に両手を縛られ、両足も足首のところで縛られていた。

 

勢いをつけて立ち上がろうとした。

 

だが、誰かに両肩を力強く押さえつけられた。

 

それによって、アデリーナはソファーに勢いよく倒れこんだ。

 

背もたれ越しに見上げた顔には、ロウソクの灯りを受けた能面の仮面が、怪しく浮かび上がっていた。

 

「あなた誰なの?どうしてこんなことをするの?」

 

アデリーナの必死の問いかけに、何も反応しない。

 

そして音もなく後ろにさがってゆく。

その能面の顔は、かろうじて照らしていたロウソクの灯りから消えていった。

 

アデリーナは少しずつ目が暗さに慣れてきたことで、辺りを見回した。

 

カーテンはすべて閉じられていた。

 

そして、ホテルの備え付けの調度品以外、目に見える範囲には何も置かれているものはなかった。

 

身体をねじって必死になって振り返った。

ぼんやりと薄明かりの中、椅子に座る人影が見えた。

 

しっかりと目を凝らして見ないと、そこに人がいることすら気づかないくらい、その能面の女には全く気配を感じられなかった。

 

アデリーナは顔を前に戻すと、あきらめたように、身体の力を抜いた。

 

「お願いだから、どうしてこんなことをするのか教えてくれない?」

 

相手の感情を逆撫でしないように気を使いながら話しかけた。

 

だが何も反応がない。

 

「何も答えないつもりなの?いったい何が目的?それくらい教えてくれてもいいんじゃない?」

 

アデリーナは、まるで誰もいない部屋で、独り言でも言っているかような錯覚におそわれていた。

 

「そういえば、アサド様はどこ?まさか、あなたが・・・」

 

違う。

 

心の中で、アデリーナはそう感じていた。

 

自分で言ったことを打ち消すように。

 

根拠があるわけではなかった。

だが、その能面を着けた女からは、意思のようなものが感じられなかったからだった。

 

「あなた、もしかして、待ってるのね?」

 

部屋の中の空気が、わずかだが変化したように感じた。

 

ロウソクの灯りだけだったことで、返って鋭敏な感覚になっていたのかもしれない。

 

その時だった。

 

「あなたは、いつもそんなふうに、ひとのことがわかったつもりでいるのね?」

 

か細く弱々しい声だった。

だが、皮肉めいた言葉には、アデリーナへの批判的な気持ちが込められていた。

 

「わたしのことを知ってるのね?」

 

アデリーナはまた首をねじってそちらの方を見ようとした。

 

能面の女は笑っていた。

 

うっすらとだが、アデリーナの反応を嘲笑するように声を漏らしていた。

 

「何がおかしいの?」

 

「あなたにも知らないことがあった。いつも自信に満ち溢れたあなたがね」

 

能面の女はさっきよりも笑い声をあげた。

だがその弱々しさに変わりはなかった。

 

アデリーナはじっと息をひそめるように押し黙っていた。

 

「無駄よ。あなたにはわからない」

 

心を見透かされたような怖さをアデリーナは感じた。

 

あの女は私のことを知っている。

だが、私はあの女のことを知らない。

 

どこで接点があったのか?

どんな会話をした?

なぜ会っている?

 

アデリーナには思いつくような記憶が何も出てこなかった。

 

「あなたの、その困った顔を見せてあげたかった」

 

能面の女には見えていないはずの表情。

 

でも、その通りだった。

 

眉間にシワを寄せて困惑していた。

 

アデリーナは、終わりの見えない迷路に迷い混んだような感覚に囚われていた。

 

 

 

 

 

灯里はホテル一階の廊下をとぼとぼと歩いていた。

 

客室以外の調べられるところは、とにかく調べて回った。

 

だが、どこにもアデリーナの姿はなかった。

 

「やっぱりどこかのお部屋にでもいるんでしょうか?」

 

誰にというわけでもなく、思わず口をついて言葉が出ていた。

 

すると、少し前方の部屋のドアが開いた。

 

中から出てきたのは、アロンソだった。

 

ポケットから取り出した携帯を急ぐように耳に当て話始めた。

 

「ええ、はい、わかりました。何かあったのは間違いない」

 

アロンソは厳しい表情で答えていた。

 

そして電話を切って、それを上着のポケットにしまいながら、歩きだそうとした。

 

その時、廊下の真ん中にポツンと立ち尽くしている灯里と目が合った。

 

「何かわかったのですか?」

 

アロンソは、灯里の表情を見て、ほんの一瞬だが何かを考えるような顔になった。

 

「灯里さん?」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

灯里の声に緊張が走る。

 

「アデリーナは間違いなくどこかの客室にいる」

 

「そうなんですか?」

 

「今しがた、本部でモニターを確認した。そこには急いでフロントを離れるアデリーナの姿が映っていた。何か緊急の要件が発生して出ていったんだろう。副支配人や他の関係者から呼び出された形跡はない。そうすると、あと考えられるのは客室だけだ」

 

アロンソは、そこで何か言おうとして躊躇した。

 

灯里には、それが自分に言うべきかどうか迷っているように見えた。

 

「アロンソさん?」

 

アロンソは灯里に鋭い視線を向けた。

 

「言ってください。私にできることがあれば何でもやります!協力させてくれませんか?」

 

灯里の目は、ロビーで見ていたいつものものと違って、真剣そのものだった。

 

「これから先は危険なことが起こるかもしれない。それに、あなたにはこれ以上関わる義務もない。それでも・・・」

 

「それでもです!」

 

アロンソは灯里の真剣さに驚きを隠せずにいた。

 

「もしアデリーナさんに何かあったらと思うと、私、どうしたらいいか・・・」

 

灯里の表情は今にも崩れそうだった。

 

「灯里さん、約束してくれませんか?」

 

その言葉に、灯里はうつむいていた顔を上げた。

 

「危険なことには決して近づかない。何があっても必ず誰かに連絡をを入れる。いいですか?」

 

灯里は涙目の顔をパッと明るくさせた。

 

「はい!」

 

その時、アロンソの後ろのドアが開いた。

 

アロンソが振り返った先のドアには〈リネン室〉と表示されている。

 

中から従業員姿の女性が顔を出した。

 

「よかった。刑事さん、まだいたんですね?」

 

「何か?」

 

「先ほど気になることがないか聞かれてましたけど、実は・・・」

 

灯里は、アロンソの背中越しに覗き込むようにその従業員を見た。

 

「たまにあることではあるんですけど、フロントで受けとることになっていたクリーニングを受け取りに来られなかったお客様がいらして、それでこちらに戻ってきたスーツがあったもので」

 

アロンソは前に踏み出すと、思わずビニールに入ったそのスーツを掴んでいた。

 

「スーツを受け取るはずだった客の名前は?」

 

「えっと、アサド様です。705号室の」

 

「チェックアウトは?」

 

「フロントに聞けばわかると思いますが」

 

アロンソは、そのまま走りだそうとした。

 

「あっ、ちょっと待って、刑事さん!」

 

「あ、あのー!アロンソさーん!まだ続きがあるようですけどー!」

 

振り返ったアロンソは灯里に向かって言った。

 

「灯里さん!聞いておいて下さい!」

 

「ええー?!私がですかー?」

 

その後ろでリネン担当の従業員も大きな声を張り上げていた。

 

「あの子、久し振りに会ったんだけど、別によかったのかなー?!」

 

灯里は振り返って尋ねた。

 

「その方って、誰なんですか?」

 

「地味な子であまり印象はなかったんだけど、確か・・・アージア」

 

灯里はアロンソの方を向いて声を張り上げた。

 

「アージアさんという方、ご存知ないですかぁー?!」

 

アロンソは廊下の途中で立ち止まった。

 

「はひっ!」

 

振り返ったアロンソの顔は、表情を失っていた。



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第四十六話 予想外の推理

 

灯里は、ホテル一階のロビーに戻ってくると、必死の表情で辺りを見回した。

 

すると、フロントのカウンターを挟んで何かを覗き込むように立っているアガタとアールドの姿が見えた。

 

灯里は少し気を落ち着かせようと意識的にスピードを押さえて歩き出した。

だがどうしても足早になっしまう。

 

「アガタさん!アールドさん!」

 

その声に顔を上げた二人は、急ぎ足で迫ってくる灯里に驚いた表情を向けた。

 

「どうしたんですか、灯里さん!」

「なんかあったんだね?」

 

アガタとアールドは同時に声を上げた。

 

「あわわわわ~~」

 

「灯里さん、ちょっと落ち着いて!」

 

「あ、あの~~先ほどなんですけど~~」

 

「どうしたの?」

 

「アロンソさんが、自分は先に行くから知らせて来てくれっておっしゃってですね?」

 

「行くってどこなんですか?」

「誰に知らせろって?」

 

「あわわわ~!どちらからお答えしたらいいですかあぁー!?」

 

「どっちでもいいから!」

「そんなことはないけど・・・」

 

「じゃあ話された順番でいいですか?」

 

「もう!灯里さん!」

 

アガタは何か言おうとしたアールドの口を手で押さえた。

 

「アデリーナさんは、きっとそこにいるって走って行かれたんです!」

 

「なんだって!」

 

アールドはアガタの手を押し退けて声を上げた。

 

「それ、どこなんですか?」

 

「アサド様という方が、クリーニングのスーツを取りに来られなかったんですね?」

 

「なんの話?」

「誰なんですか、灯里さーん!」

 

「だからぁ、取りに来られるはずだったアサド様が、来てないということでですね?」

 

「わかったぁ!」

「誰なんですかぁー!おじさん!」

 

「もう!アガタさん!」

「なんですか!」

「調べて!それで!」

 

アガタはハッと気がついて目の前のタブレットを手前に引き寄せた。

 

「705号室です」

 

「灯里さん、知ってたの?」

 

「はい。リネン担当の方がそうおっしゃってました」

 

「じゃあ行きましょう!今からみんなで乗り込んで・・・」

 

アガタはアールドの難しい顔を見て、途中まで上げた握りこぶしを下ろした。

 

「ちょっと待って。そもそもなんでそこにアデリーナさんがいるってわかったの?アロンソは、なんでそう思ったわけ?あいつ、なんて言ってたの?」

 

「ああ、それは、なんていうか、それだと言わんばかりの勢いだったと申しましょうか・・・」

 

「よっぽど高級なスーツなのに取りに来なかったから、とか?」

 

アガタはそう言って、ふたりの顔を見た。

 

「誰も突っ込んでくれないんですね」

 

「そうだ!」

 

「うわぁ!びっくりしたぁ!」

 

アガタはうつむきかけた顔を、灯里の声に驚いて勢いよく上げた。

 

「それともうひとつ、ありました!」

 

「何があったんですか?」

 

「そのリネン担当の方が久しぶりに会ったっておっしゃったんです。そしたら急にアロンソさんの表情が変わって・・・」

 

「誰!」

「誰!」

 

「そんなぁ、おふたり同時に・・・」

 

「あいつ、誰って聞いたら驚いたの?」

 

「確か、アージアさんというお名前だったです」

 

「えっ!それホント?」

 

アールドは思わずアガタと顔を見合わせた。

 

「能面女!」

 

アガタは眉間にシワを寄せて怖い顔でそう言った。

 

「能面?」

 

「そうか。灯里さんは知らないんだ」

 

「灯里さんは、あの注射器女、知らないんですか?」

 

「えっと、能面?注射器?それってなんでしょうかぁー?」

 

アールドの顔色が変わった。

 

「これはちょっと急がないと、マズイことになりそうだ」

 

「そんな大変なことなんですか?」

 

「灯里さん?アデリーナさんがバックヤードで襲われた一件があったとき、先ほど言ってたリネン室でアガタさんも襲われそうになった話は知ってるよね?」

 

「はい、お聞きしてます」

 

「それ時の女がアージア。アルマの妹なんだ」

 

「アリーチェ様のお側付きのメイドの、あのアルマさんの?」

 

「そうなんだ。これはまだ、世間には公表されてない話なんだけど、その姉妹がアデリーナさんを襲った犯人だという話を、あるところからあってね」

 

「インターポールです」

 

「ちょっと、アガタさん!」

 

「しかも、総支配人とも関係があるらしいんです」

 

「アガタさんさぁ・・・」

 

「しかも、もっとややこしいことにもなってるって噂です」

 

「あぁ~~」

 

アールドは額を押さえていた。

 

「おじさん!わかったんなら、急がないとダメじゃないですかぁー?」

 

「いや、待って。それはマズイかもしれないんだ」

 

「なんですか?」

 

「ボクとアガタさん、それにアロンソの3人は顔を知られている。あの時の3人だからね。だから、うかつに動いて刺激したら、どうなるかわからない」

 

「それじゃあ、どうするんですか?」

 

アガタはカウンターに乗り出すように手をついて詰め寄った。

 

「灯里さん?アロンソは他に何か言ってなかった?」

 

「他にですか?うーん、何か言ってたかといわれても・・・」

 

「おじさん?警察の人たち、たくさんいるんですよね?みんなで一斉に行けばいいんじゃないですか?」

 

「アガタさんには悪いが、ここにはたくさんの警察の人は、実はいないんだ」

 

「どうして?あの無精髭のおじさんがいつもいるじゃないですか?」

 

「そうなんだが、ホントのこと言うと、いつもはいないんだ。特に最近はね。他に大きな事件が絡んで来ちゃったから」

 

「そうなんですか?じゃあ他の人は?」

 

アガタは、改めてロビーを見渡した

 

正面玄関にドアボーイに扮した男性がひとり、客の対応をしている女性のフロントクラークがひとり。顔の知っている捜査員は、ロビーには二人しかいなかった。

 

「つまり、そういうこと」

 

驚いた顔のアガタに、アールドはすまなさそうに応えた。

 

「ちょっと、待ってください!おかしいですよ!ホテルの脅迫事件はどうなったんですか?先輩の事件は、まだ何も解決してません!」

 

「アガタさん、声が大きいよ」

 

アールドはアガタをなだめるように声をかけた。

 

だが、アガタはタブレットをカウンターの中にしまうと、そのままその場を離れようとした。

 

「アガタさん、どこ行くの?」

 

「行ってきます。705号室に」

 

「行ってどうするの?」

 

「助けるんです!先輩を!」

 

「ちょっと、早まっちゃダメだよ!」

 

「じゃあ、どうするんですか?」

 

「うーん・・・」

 

二人の会話を聞いていた灯里がこう切り出した。

 

「それじゃあ、私が行きます」

 

「灯里さんが?」

 

「お話を聞いていたら、そのアージアさんという方が関係しているようですよね?そして、そのアージアさんと私は面識がない。それなら、私が適任だと思うんです」

 

「それはダメだ。危険すぎる。灯里さんは、あくまでも人手不足を補うために来てる人だ。そんなことはさせられない」

 

「でもアールドさんもアガタさんも顔を知られてるから動けないんですよね?だったら、私が行った方がいいんじゃないですか?」

 

「それでもダメだ。どんな事態になるか、わからない。第一、行ってどうするつもりなんですか?」

 

「それは説得というか・・・」

 

すると、アガタが大きな声を出した。

 

「おかしいです!」

 

「ど、どうしたの?」

 

「だって、このホテルでこれだけおかしなことが起こってるのに、なんで何もできないんですか?だれも、協力してくれないんですか?」

 

「協力っていったって・・・」

 

「そういえば・・・」

 

灯里がポツリと呟いた。

 

「あのー、実は、ある方がなんか難しそうな話をしていたんですが」

 

「どうしたの、灯里さん?」

 

「少し前から滞在いされているアルピーナ婦人に、アデリーナさんがいなくなった話を私がしたら、何か事情をご存知のような話し方をされて」

 

「事情か。アルピーナ婦人が絡んでたか。やっぱりな」

 

アールドは頭をかく仕草をした。

 

アガタはキョトンとした表情をしていた。

 

「なんでいきなり、あのご婦人が出てくるんですか?」

 

それに答えようとしたアールドより前に灯里が話し始めた。

 

「その時、お部屋からアダルベルト様が出てきて、えーと、確かライデンが動いたとかなんとか」

 

「灯里さん?ライデンて言ったの?」

 

「それを聞いた婦人が、矛先を変えたとかおっしゃって」

 

「それでどうしたの、灯里さん?」

 

「なんか聞いてはいけない話しに聞こえたので、そこからは聞かずに別れました」

 

「そうか」

 

アールドは何か考えるように視線を遠くに向けた。

 

「そうだ!あの人は?アレキサンドロ氏は最近どうしてんの?」

 

「あんなひと、知りません!」

 

アガタが即座に答えた。

 

「そういえば、最近はお見かけしてないかもです」

 

「そうか。それなら、いよいよ動き出すのかもしれない」

 

「いったいおじさんは、さっきから何をブツクサブツクサいってるんですかぁー?」

 

「いやぁー、アガタさんには参るよなぁ。なんかね、ようやく役者が揃ったって感じがしてね?」

 

「役者?」

 

「ホテルが脅迫されて、アデリーナさんが襲われて、ぼや騒ぎも起こったりして。そして総支配人がいなくなったかと思うと、インターポールのお出ましで。なんかきな臭い匂いまでしてきて」

 

「だから、おじさんは何を言いたいんですか?」

 

「つまり、登場人物が多すぎて、何がどうなってるのかが、わからなかったってわけ。だけどようやくここへ来て繋がり始めたような感じ」

 

「それで?」

 

「それで?」

 

「犯人は誰なんですか?」

 

「犯人かぁ・・・」

 

アガタはバン!とカウンターを両手で叩いた

 

「もう!そんなの、全員捕まえればいいんです!全員が犯人です!きっとそうです!間違いありません!」

 

「アガタさん」

 

興奮しているアガタに、灯里は困ったように苦笑していた。

 

「なるほど。当たらずとも遠からずってところかも」

 

アールドは逆に、感心したように呟いた。

 

「アールドさんまで」

 

「違うんだよ、灯里さん?そう考えると、全部がちゃんとつながる」

 

「へっ?」

 

アールドは、腕を組んでプンプン怒っているアガタの方を見た。

 

「ねえ、アガタ女史?フルネーム聞いてもいい?」

 

「なんなんですか、おじさん?こんな時に!私の名前は、アガタ・クリスティです!」

 

アールドはニヤリと笑った。

 

「あ、あの、アールドさん?まさかと思いますけど・・・」

 

 

 

 

 

アリーチェ・エレノアは、信じられないくらい装甲の分厚い黒塗りのリムジンの、その後部座席に険しい表情で座っていた。

 

「お嬢様?」

 

その一つ前の、二列目のシートに座っている第一秘書のアレグロは、少し振り返りながらアリーチェに呼び掛けた。

 

「何かしら?」

 

「先ほどお知らせした休暇中の二名の隊員が、今しがた本部に到着したと連絡がありました。間もなくチームと合流いたします」

 

「そうなの。ご苦労様。それぞれのご家族に何か送っておいてくれる?」

 

「かしこまりました。それではネオ・最中饅頭でも送っておきます」

 

「だから、なんでもネオってつけたらいいと思って・・・」

 

言いかけて途中で言葉をやめたアリーチェに対し、アレグロは不思議そうにチラリと目を向けた。

 

「どうかなさいましたか、お嬢様?」

 

「なんか腑に落ちないのよね」

 

「と、おっしゃいますと?」

 

「例のフロントクラークよ。てっきりホテルでトラブってると思ったのに、特命チームからの報告だと、ライデンの方には動きがないっていうじゃない?じゃあどういうこと?」

 

「どこかに隠れているとか?」

 

「なんのために?」

 

「さぁ」

 

「ちょっと、アレグロ?適当に相づちさえ打ってればいいと思ってるんじゃないでしょうねぇ?」

 

「まさか!そんなこと!」

 

「ちょっとオーバー言い方が余計に怪しいわね」

 

その時、アレグロの電話が鳴った。

 

「今度はナニ?」

 

アリーチェが面倒くさそうに言った先で、アレグロが声のトーンを落として電話の相手に返事していた。

 

「お嬢様?特命チームからの連絡です」

 

「ナニ?フロントクラークの居場所がわかったの?」

 

「アデルモ氏とアルマが、先ほどライデンに捕らえられた模様です」

 

「なっ・・・」

 

「お嬢様?」

 

アリーチェは押し黙ってしまった。

そして、窓の外を流れる景色に視線を向けていた。

 

「つけられていたのね。うかつだったわ」

 

そう言ったアリーチェは、悔しそうに唇を噛んだ。

 

「アレグロ!戻って!」

 

「どちらまで?」

 

「決まってるでしょ?ネオ・ヴェネツィアよ!」

 

「でもあそこはお車では入れません」

 

「そんなことわかってるの!」

 

「それでは・・・」

 

「ボートでもなんでも用意するの!」

 

「いよいよアリーチェ隊の出陣ですね?」

 

「その言い方、やめなさい!」

 

 

 

 

アデルモとアルマは、周囲に拳銃を持った男たちに囲まれて、戻ろうとした道を、再び進んでいた。

 

「アルマ、私がなんとか気を引くから、その隙に逃げなさい」

 

アデルモは周囲に聞こえないように、後ろを歩くアルマに出来るだけ小声でそう言った。

 

「どうやって逃げろっていうの?」

 

「そうでもしないと、コイツらのアジトに連れて行かれたら、もう戻ってこれない」

 

そこでアデルモは背中を拳銃の銃把の硬い底の部分で殴られた。

 

息がとまりそうになり、その場に倒れ込んだ。

 

「余計なことをしゃべるな!」

 

アデルモを殴りつけた男が、そう怒鳴った。

 

「ちょっと!ヒドイじゃない!」

 

アルマは、膝まずいたアデルモを抱え起こそうとした。

 

「お前も殴られたくなければ、黙って歩け!」

 

アデルモの腕を肩に回して、アルマは必死に歩き続けた。

 

その時だった。

 

銃声が轟き、男たちのひとりがうめき声をあげて倒れた。

 

続けざまに一発。そしてもう一発。

 

その銃声とともに拳銃を持った男たちもひとり、ふたりと倒れた。

 

「そこまでだ!」

 

気付かないうちに、ライフル銃を構えた男が、アデルモたちから少し離れたところにひとり立っていた。

 

「打て!打て!」

 

男たちの中のひとりがそう言ったかと思うと、拳銃を持った男たちは一斉に構えた。

 

だが、次々と繰り出される銃声とともに、男たちも倒れていった。

 

銃声は、周囲から無数に聞こえていた。

 

アデルモとアルマの周囲には、もう誰も立っている男はいなかった。

 

ふたりの正面に立っている、ライフルを持った、迷彩柄の服を着た男が静かに近づいてきた。

 

「なんとか間に合ったな」

 

「あんたは誰なんだ?」

 

アデルモは困惑の顔をその男に向けた。

 

「勘違いしないで欲しい。あんたを助けに来たわけじゃない。ライデンに持っていかれると、罪を償わせることができなくなるからだ」

 

その言葉を聞いて、そばにいたアルマは驚いた顔で、その男の顔をじっと見つめた。

 

「あなた、まさか・・・」

 

「やっとわかったのかね、アルマ?」

 

日焼けした顔が、その刻み込まれたシワを幾重にも浮かべて、笑って見せた。

 

「アダルベルトさん!」

 

信じられないといった表情で、アルマは呆然と立ち尽くしていた。

 

「誰なんだ?アルマ!」

 

アデルモは苛立つようにアルマに問いかけた。

 

「悪いが、そんな悠長な話しをしている暇はない。すぐに追っ手が来る」

 

港に面した造船所跡に向かって、無数のモーターボートのエンジン音が迫っていた。

 

「やれやれ。こんなかたちで最後の戦争をすることになるとはな。だが、アイツが相手なら不足はない」

 

すべてのモーターボートの上には、多くの男たちがライフルを構えていた。

 

そして、その一番中央のボートには、悠然とひとりの男が立っていた。

 

「ライデン・・・」

 

アデルモは、その男の姿をじっと睨み続けていた。

 

 

 

 

アージアは、じっと座っていた。

息をしているのかすらわからないほど、じっとしていた。

 

ソファーに座らされているアデリーナの後ろで、少し距離をおいて、そこからアデリーナを監視し続けている。

 

反対にアデリーナは、疲れきった表情で、ぼんやりとテーブルの上のロウソクを見つめていた。

 

「ねえ?いつまでこうしているつもり?」

 

反応は何も返って来ない。

 

「どこからか連絡が入って来るんでしょ?それを待ってるんでしょ?でも、遅すぎない?おかしくない?」

 

アージアの気持ちに少しでも訴えかえようと、アデリーナはずっと語りかけていた。

 

だがアージアからは、何一つ返ってこなかった。

 

ただ唯一、誰からの連絡を待っているのかと聞いたことに反応したことに、アデリーナは何か解決の糸口がそこにあるのではと、辛抱強く繰り返し聞いてみるのだった。

 

だが、時間が経つにつれ、冷静になってみると、こんなことをする理由がなんなのかが、一番の疑問に変わり始めていた。

 

アデリーナにとって、自分が狙われる理由。

 

すぐに、あのバックヤードの夜のことが頭をよぎった。

 

そして、頭の中にあった、脅迫事件とアデルモ総支配人との関わり。

 

そこに自分が関係している。

 

アデリーナは、自分とホテルとは、あくまでも従業員としての関わりしかないと考えていた。

 

だが、それだけではない、何か他の理由があるとしたら・・・

 

「ねえ、もしかして、あなたもホテルに勤めていた経験があるんじゃない?」

 

ほんの少しだが、その問いかけに反応したように見えた。

 

「やっぱりそうなのね?だとすると、ホテル・ボンヴェネチアッティー、じゃない?」

 

能面のような顔のアージアは、あえて何も反応しないよう振る舞っているように見えた。

 

「あなたもあそこにいたっていうこと?」

 

アデリーナがアデルモに引き抜かれる前に勤めていたホテル。

それが、ホテル・ボンヴェネチアッティーだった。

 

「意外ね」

 

アージアが口を開いた。

 

「意外ってどういうこと?」

 

「あんなちっぽけなホテルのこと、まだ覚えていたのね」

 

「規模は大きくはないかもしれないけど、伝統のある老舗のホテルよ。私にとっては思い出深い場所」

 

「何を格好つけてるの?そんなウソ話を人は信じると思ってるの?」

 

「ウソって、なんでそんな・・・」

 

「じゃあなんであんたみたいな三流のホテルマンが、いきなりこのネオ・ヴェネツィアーティーのフロントクラークなの?それ、本気にしてたの?」

 

アージアは笑い出した。

それはこの世のものとは思えない、不気味な笑い声だった。

 

「本気にって、どういうこと?」

 

「まだわからないの?あなたって、つくづくおめでたいのね」

 

「何か知ってるのね?私の知らない何かを!」

 

「あんたってバカなの?あんたとアデルモはね・・・」

 

その時、ドアのベルが鳴った。

 

少し間があって、今度はドアを叩く音。

 

「お客様?いらっしゃいますか?」

 

続けてドアを叩く。

 

「お返事がなければ、このままお部屋に入りますが、よろしいですか?」

 

アージアの表情が変わった。

 

それを見たアデリーナが大きく目を見開いた。

 

「あれって、仮面じゃなかったの?素顔ってこと?」

 

だが、アージアはその華奢な体つきからは想像できないほど素早い動きをみせると、アデリーナの両手を縛っていたロープを掴むと、アデリーナをソファーからひきづり下ろした。

 

その勢いで床に身体を打ち付けたアデリーナは、なすすべもなく、そのまま引きすられて行った。



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第四十七話 最新のネオ・ヴェネツィア事情

 

港の外れにある造船所跡では、銃撃戦がくり広げられていた。

 

海からボートで乗り付けたライデン一派は、周辺に散らばった手下とともに総攻撃をかけていた。

 

アダルベルトは、傭兵仲間たちと手慣れた様子であちこちに別れて応戦していた。

 

だが、どうしても数の点で分が悪かった。

しかも、その傭兵たちはかなり年季の入った顔ぶればかりだった。

 

アダルベルトの後ろについて移動していたアデルモとアルマは、物陰に隠れて逃げるのに精一杯だった。

 

すると少し遠く離れた造船所の影から合図を送っている人間の姿が見えた。

 

その男は、なんとか銃撃の雨をかいくぐってアダルベルトたちのところまでやって来た。

 

息を荒くしてその場にしゃがみこんだのは、アレキサンドロだった。

 

「すまない、アダルベルト。少し手間取ってしまった」

 

「ご苦労だったね。あなたをここまで巻き込むつもりではなかったんだけど」

 

「協力は惜しまない。そう約束したはずだ」

 

アデルモとアルマがふたりの会話に何なのかと、アダルベルトの顔をみていた。

 

「彼には船の用意を頼んでいたんだ。ことネオ・ヴェネツィアに関しては、建築物の修復に携わっていた彼の方が詳しいからね」

 

だがそのアレキサンドロ本人は、この銃撃戦の状況に険しい表情となっていた。

 

「しかしこの状況では、ここから逃げるのもかなり難しいのでは?」

 

「逃げる?」

 

アダルベルトはアレキサンドロの言葉にすぐに反応した。

 

「私は逃げるとは、一言も言ってないつもりだが?」

 

「しかしこの状況では・・・」

 

アダルベルトは耳のイヤホンに人差し指を押し当てた。

 

「いや、待て。まだそこまでの状況じゃない」

 

「どうしたんだ?」

 

「仲間のひとりが、手榴弾かバズーカー砲の指示を言ってきた」

 

「バズーカー砲・・・」

 

アダルベルトとアレキサンドロの会話に、アデルモは茫然となっていた。

 

「アデルモさん?我々の感覚からしたら、別に特別なことではない」

 

「でもここはネオ・ヴェネツィアですよ?そんなことをする場所じゃない!」

 

アデルモの言葉に、アレキサンドロが割ってはいった。

 

「あんた、今さら何を言ってるんだ?これは、あんたが招いたことでもあるんだぞ?」

 

「私が招いた?」

 

「あんたがアイアート・ライデンというケダモノを引き寄せたんだ!」

 

アレキサンドロは憎悪に満ちた顔で、アデルモに怒鳴った。

 

「アレキサンドロさん?今はそれよりも、ここからどうやって抜け出すかが、一番我々が考えなければならないことです」

 

アダルベルトは冷静に語りかけた。

 

「でもこれでは・・・」

 

アレキサンドロの周辺にも時折、コンクリートの壁や柱に跳ね返る銃弾の音が響いていた。

それは、そこにいる四人にも危険が迫りつつあることを物語っていた。

 

「私にいい考えがある」

 

アダルベルトがぽつりと呟いた。

 

「私が敵を引き付けておく間に、アレキサンドロさんは、この二人をつれて用意したボートで逃げてくれればいい」

 

「そしたら、あなたはどうするんですか?」

 

「私は元来プロの傭兵だ。こういうことは慣れている。それに傭兵といっても、何も戦争ばかりやって来たわけじゃない。守ること、逃げることだって、請け負った来た。仕事だったからね」

 

「しかし・・・」

 

「勿論ここは戦場だ。間違いない。それに私にとって最後の戦争になるだろう。それがライデンなら相手に不足はない」

 

アダルベルトはニヤリと笑って、眩しそうに遠くに視線を向けた。

 

「アダルベルト。あんたって人は・・・」

 

アダルベルトは相手の様子をうかがいながら、中腰になってライフル銃を構えた。

 

「アルマ?あなたを巻き込んだ責任の一端は私たちにもある。だから、せめて罪滅ぼしをさせてくれ。そして、誰かを恨んで生きる人生は、もうこれで終わりにするんだ」

 

「アダルベルトさん?どうして今になってそんなこと・・・」

 

アルマがその背中に言葉をかけようとしたとき、アダルベルトはもう走り出していた。

 

アダルベルトがライフルを続けざまに乱射しながら走り出した途端、残された三人のところにも銃弾の雨が降り注いだ。

 

アダルベルトは柱や積み上げられた資材の影に逃げ込みながら、三人からどんどん離れていった。

 

「さあ、次は我々の番だ!」

 

アレキサンドロは、そう声をかけると銃撃が止んだタイミングで、柱の影から走り出した。

 

それに続いて、アデルモとアルマも走り出した。

 

だが次の瞬間、銃声とともに、アレキサンドロは勢いそのままに地面に突っ込むように倒れていった。

 

反射的に身体を低くして身構えた二人のその先で、アレキサンドロはうつ伏せのまま倒れていた。

 

身動きひとつなかった。

そして、胸のあたりから赤い液体のようなものが広がっていくのが見えた。

 

「アレキサンドロさん!」

 

アルマは思わず叫んでいた。

 

だが、アデルモはそのアルマの手首を掴んで走り出そうとした。

 

「早く走るんだ!このままだと撃たれるぞ!」

 

「でもアレキサンドロさんが・・・」

 

だが、銃を持った数名の男たちがふたりの方に向かってくる姿があった。

 

「生け捕りにする必要はないといわれている」

 

その中のひとりが、わざと二人に聞こえるように言った。

 

「ライデン!これが血を分けた娘に対してやることかぁ!」

 

アデルモは怒りに任せて勢いよく立ち上がった。

 

それを見た男たちが一斉に銃を構えた。

 

銃弾の雨に撃たれるはずだった。

 

アデルモの目の前を、疾風の如く何かが通り過ぎた。

 

次の瞬間、男たちの全てが地面に倒れていた。

 

アデルモは、訳がわからずその場に茫然と立ち尽くしていた。

 

そこにいる女性は、その常人とは思えないプロポーションの身体にピッタリと張り付いた黒皮のジャケットとパンツ姿で、涼しい顔をして立っていた。

 

長い髪は頭の上に巻き上げられ、額のほつれ毛が、いま信じられないスピードでやったことなど微塵も感じさせないように、海からの風に揺れていた。

 

「命を大切になさい」

 

その女性は冷静に言った。

 

「悪いけど、あなたたちには今死んでもらう訳にはいかないの。こちらに協力してもらうから」

 

アデルモは眩しそうに、そこに忽然と立つ女性に目を細めた。

 

「あんたは・・・」

 

そこに背後からアルマが呟いた。

 

「アレッサンドラ・テスタロッサ。どうして、あなたがここにいるの?」

 

 

 

 

705号室のドアの前に立って、アヴェリーノは、そのドアをノックしながら中に向かって声をかけていた。

 

「返事がないようでしたら、中に入ります。よろしいですか?」

 

少しの間そのまま待ったが、何の返答もなかった。

 

「この部屋にいるはずだ。それしか考えられない」

 

アヴェリーノは、ポケットからカードキーを取り出した。

 

そして、ドアノブにある差し込み口に、その手をゆっくりと近づけて行った。

 

その時、横から別の手が伸びてきて、アヴェリーノの手首を掴んだ。

 

「何をしてる?」

 

驚いたアヴェリーノが咄嗟に顔を上げた先には、鋭い目を向けたアロンソがいた。

 

「なんですか?」

 

「質問しているのはこちらだ」

 

「何って、部屋の中を確認するんですけど?」

 

「宿泊中のはずだ」

 

「それはわかっています」

 

「わかってるなら、勝手には入れないだろ?」

 

「呼び掛けましたが、返事がなかったので」

 

そう言って、アヴェリーノはアロンソの掴んだ手を振りほどいた。

 

「知ってるんだな?」

 

「何を言ってるんですか?そもそも、あなたはロビー担当の刑事さんでしょ?こんなところで油を売っていていいんですか?」

 

「あんた、アデルモ総支配人の甥なんだって?」

 

「それがなんだっていうんですか?緊急事態だっていうから、応援に来てるわけです。悪いですか?」

 

「悪いわけじゃない。だが、この部屋には、うかつに入ってもらっちゃあ困るんだ」

 

アロンソは凄みをきかせるように、自らの顔をアヴェリーノに近づけた。

 

「アデリーナがフロントからいなくなったあと、短い時間だったが、誰もいない時間があった。その時、あんたがフロントに姿を現したのが、ちゃんと防犯カメラの映像に写っていたんだ」

 

アヴェリーノは少したじろいで後退りした。

 

「ホテルの仕事をしていて、フロントに顔を出すなんて、当たり前じゃないですか?」

 

顔が見るからに焦りの色を浮かべていた。

 

「あの直後から、アデリーナの姿を誰も目撃していない」

 

「だから」

 

「そしてあんたは、この部屋の前に立っている。どういう理由でだ?」

 

「だから、この部屋のお客様から急ぎの用があるっていう呼び出しが・・・」

 

「いつそれを受けたんだ?」

 

「だから、さっきあんたが言っただろ?フロントにいたときだ!」

 

「映像では、あんた、電話に出てなかったが?」

 

アヴェリーノの顔から、みるみる血の気が引いてゆくのがわかった。

 

「とりあえず話を聞かせてもらおうか?」

 

 

 

 

一階のロビーのエレベーターが開くと、アヴェリーノと、その背後に身体を近づけたアロンソが降りてきた。

 

「あれ?」

 

それにアールドが気がついた。

 

「あれは応援くんと無愛想さん」

 

アガタは、さりげなくディスるように言った。

 

「アガタさんは、ネーミング番長だね」

 

「おじさん?ムリして変な言い方しなくてもいいんですよ」

 

そのそばで灯里がクスっと笑っていた。

 

「どうしたの?なんか灯里さんに伝言して走って行ったんじゃないの?」

 

そうだと言わんばかりに、灯里が心配そうにアロンソに顔を向けた。

 

すると、その前に立っているアヴェリーノが顔を背けるように下を向いた。

 

「こいつが705号室に入ろうとしていた」

 

「えっ?どういうこと?」

 

「それを聞くために連れてきた」

 

アヴェリーノは、ふてくされたような態度で、辺りをキョロキョロ見回した。

 

「こんなところでいいんですか?」

 

「こんなところで悪かったですね!」

 

アガタが間髪入れずに突っ込んできた。

 

「そういう意味じゃなくて、人に聞かれてはマズくないですか?」

 

「なるほど。そうだね」

 

アールドが納得したようにこたえた。

 

「じゃあ、奥で」

 

アヴェリーノはそう言うと、カウンターを回り込んで、奥へと入って行こうとした。

 

途中、先ほど705号室で使おうとしたカードキーを、ポケットから手を滑らせて、床に落とした。

 

その瞬間、素早くゴミ箱から何かを掴み出した。

そして誰も気づいてない様子に、そのままカウンターの奥へと進もうとした。

 

「えっと、何かなぁ?」

 

アールドがとぼけた口調でそう言った。

 

「おじさん、なんですか?」

 

「いやね?その応援くんが、そこで何かを拾ったみたいな感じがしたものでね?あっ、ゴメン。回収したのかな?」

 

アヴェリーノはポケットに突っ込んだ右手を、そのまま出そうとしなかった。

 

「何のことだか、ボクには・・・」

 

「705号室のお客様から緊急の連絡です。行ってきます。アデリーナ」

 

アールドはシワになっている小さな黄色い紙を広げてそれを読み上げた。

 

顔色が変わったアヴェリーノは、ポケットから出した同じような黄色く小さい、クチャクチャになった紙を必死になって広げた。

 

そして、愕然とした顔でそれを見つめた。

 

それを横から奪うように取り上げたアロンソは目を通した。

 

「先輩、キャラメル・マキアートでいいですか・・・」

 

「そうだ!忘れてた!」

 

アガタが声を上げた。

 

アヴェリーノは、その場に崩れるように尻餅をついた。

 

「アールドさん?それって、もしかして・・・」

 

灯里は戸惑いの表情でアールドに尋ねた。

 

「灯里さん?これは、アデリーナさんが残した付箋のメモだ」

 

 

 

 

 

「アリスちゃーん!」

 

アリス・キャロルは、サン・マルコ広場のすぐそばの船着き場で、そこで下ろした客を見送っているところだった。

 

突然声をかけられて、驚いてキョロキョロと周りに見回していた。

 

人だかりの中、同じ色のユニフオームを着たふたりのウンディーネの姿を見つけた。

 

いつもの人懐っこい、やわっこい表情の杏と、おしとやかなアトラが、こちらに向かってくるところだった。

 

「アリスちゃーん!元気ぃー?」

 

「杏さん、アトラさん、どうしたんですか?」

 

ふたりはアリスの目の前まで来ると、うれしそうに微笑んだ。

 

「お久し振りね、アリスさん?」

 

「そうですね、アトラさん・・・」

 

「こんな時間に会えるなんて、いつくらいぶりかなぁ?」

 

杏は無邪気にアリスに話かけていた。

 

「確かに、こんな時間、ですよね?お二人ともどうしたんですか?」

 

太陽がまだまだ高い時間に、しかも観光客が溢れ返っているサン・マルコ広場のそばで、ウンディーネ同志が立ち話しているのは、いかがなもんか、といった感じだった。

 

「実は今日のトラゲットね、午前中でちょっと中断になったの。アリスちゃん、知らなかった?」

 

「中断ですか?急なことですね。何かあったんですか?」

 

「そうか。アリスさんは、ずっと観光案内していたから、まだ知らされてなかったのね?」

 

「それって、どういうことですか?」

 

「なんかね、ちょっとしたトラブルがあって、念のために街の交通機関をストップさせてるらしいの」

 

「トラブル?それって結構深刻なことなんですか?」

 

「何かって、ハッキリしたことはわかってないんだけどね」

 

「それで、お二人はここにこうしているわけなんですね?」

 

「そういうことなんだよねぇー」

 

「でもアリスさんは、このあとも営業ってこと?」

 

「さあ、まだ何にも聞いてませんので」

 

三人は、お互いの困惑した顔を見比べていた。

 

すると、ボートが一艘、結構なスピードで向かってくるのが見えた。

 

「あれ?あのボート、うちのじゃない?」

 

アトラが呟いた通り、それは緊急時に出動する、オレンジぷらねっとの救護ボートだった。

 

しかも、オレンジぷらねっとの従業員でも滅多に見ることのない、いざという時に身を守るために必要な重装備を積んだ、特別仕様のボートだった。

 

「あれはどう考えても、アリスさんに向かって来てるわよね?」

 

「わ、わたしですか?」

 

その言葉のとおり、ボートはアリスのゴンドラのそばまできて止まった。

 

乗船していた制服姿の乗組員が岸に上がって来ると、アリスの前でビシッと敬礼した。

 

杏とアトラは、ぞの横で呆気にとられていた。

 

だがそれ以上に、アリスはポカンと口を開けていた。

 

「オレンジ・プリンセス殿!アメリア統括部長よりのご命令をお伝えします!」

 

「ご、ご命令?」

 

アリスはすぐにアメリア部長の得意気な顔を思い浮かべた。

 

「よろしいでしょうか?」

 

「ど、どうぞ!」

 

「本日、ヒトサンマルマルよりオレンジ・プリンセス殿は、通常任務を解除となり、オレンジぷらねっと本社にて待機任務となります。以上!」

 

「ヒ、ヒト?マルマル?それは一体なんなんですか?意味がさっぱりワカリマセン!」

 

どうしていいかわからない状態で、立ち尽くしているアリスの横で、杏とアトラは、感心したようにその光景を見ていた。

 

「やっぱり扱いが違うのね。私たちとは」

 

「ちょっとなんとか言ってください!アトラさん!」

 

「二階級特進は、伊達じゃないわよね?」

 

「冗談でも止めてぇー!杏さーーん!」

 

 

 

 

「おい!藍華!そこにいたのか!」

 

藍華は、姫屋本店のロビーのテーブルのところにため息まじりに、ぼぉーっと座っているところだった。

 

そこへ急に大声をかけてきたのは、チーフ・ウンディーネの晃・E ・フェラーリだった。

 

「びっくりしたぁー!どうしたんですか?」

 

「急に呼び出したりして悪かったなぁ」

 

「一体なんなんですか?私だって、暇じゃないんですけど」

 

「わかってるわかってる」

 

晃は、藍華の向かい側に座ると、脚を組んで目を閉じた。

 

「緊急事態だ」

 

「なんか、態度とセリフが合ってませんけど」

 

「細かいことは気にするな」

 

「わかりました。それで、なんなんですかぁ?」

 

「藍華?心して聞いてくれ。今からここは、前線基地となる」

 

「はぁ?いったい何をおっしゃってるのか、意味がさっぱりわかりませんが?」

 

「おい!藍華?まだわからないのか?」

 

「それだけで、わかるわけないじゃないですかぁ!」

 

「珍しいなぁ。お前が世間に疎いなんてなぁ」

 

「世間?疎い?私が?」

 

「そうだ。てっきりお前のことだから、すでに知ってるのかと思ってたんだがなぁ」

 

「だから、なんなんですか?」

 

「これだ!」

 

晃は右手の人差し指と中指を二本真っ直ぐに伸ばすと、右手を支えるようにその下に左手を添えた。

 

「バキューン!」

 

「ちょっと晃さん!子供と遊びたいなら、他行ってやってください!いい歳して、何やってるんですか?帰りますよ!」

 

「オレンジぷらねっととの共同作戦になりそうなんだが・・・」

 

「ちょっと待ってください!今、オレンジぷらねっとがどうしたとか、言いませんでした?」

 

「ああ、言った」

 

「なぜそれを先に言ってくれなかったんですか?」

 

「そう来ると思った」

 

晃は目を閉じると、口元を緩めた。

 

「それで、なんでウチが前線基地なんですか?」

 

「なんだ。ちゃんと聞いてたんだ」

 

「もちのろんです!」

 

「なんだ、それ?」

 

ネオ・ヴェネツィア特別行政自治区より、各水先案内会社に緊急の通達が出されていた。

 

一部の港で多数の発砲事件が発生し、その周辺地域を封鎖することとなった。

 

安全を最優先にするため、主要な交通手段、特にゴンドラでの観光案内とトラゲットは一時運休とするというものだった。

 

そこで水先案内会社には、街の混乱を避けるため、ウンディーネたちに迂回路や安全地域への案内を協力して欲しいというのだった。

 

「つまり、連絡本部ってところだな」

 

「でもそれって、大丈夫なんですか?」

 

「一応周辺は完全封鎖にするらしい。それにウンディーネは、あくまでも案内役だけだ。細かい説明もしないし、第一関わりようがない」

 

「まあ、そうでしょうけども。それでオレンジぷらねっとは何をするんですか?」

 

「会社が抱えているすべての救護ボートを出して、対応にあたるそうだ」

 

「それってもしかして、最新の、なんか凄いヤツを出してくるんじゃないですか?」

 

「まあ、あり得ることだな」

 

「ちょっと、晃さん!ウチも買いましょうよ!最新のなんかを!」

 

「なんかってなんなんだ?」



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第四十八話 ホントの理由

 

アヴェリーノは観念したように、イスに座り込んでいた。

 

その周りを取り囲むように、アロンソ、アールド、そしてアガタが立っていた。

 

「アガタさん?あなたはお仕事の方に戻られてはいかがですか?」

 

アールドはやんわりと、隣で腕組みして鼻息荒くしているアガタに話しかけた。

 

「何言ってるんですか?この人は先輩が残した大事なメモをゴミ箱に捨てたんですよ!信じられません!」

 

「それはそうなんだけどね」

 

アールドは困った顔で頭をかいていた。

 

それには構わずアロンソは、近くにあったパイプイスを引き寄せ、腰を下ろした。

 

「応援に来ていたはずのあんたが、なんでこんなことをしたんだ?」

 

アヴェリーノは、そのまま力なくうなだれていた。

 

「それに、ひとりであの部屋に行って、何をするつもりだっんだ?」

 

納得いかないとばかりに、アガタは答えようとしないアヴェリーノに掴みそうな勢いで歩み出た。

 

「この裏切り者!」

 

「う、裏切り者?」

 

「そうじゃないですかぁー!この人は総支配人のいとこだという立場を利用して」

 

「甥っ子だけど」

 

「そう!その甥っ子という立場を利用してですよ!私たちを欺いたんです!」

 

「アガタさんて、興奮すると結構難しい表現が出てくるんだね」

 

「そんなことに食いついてる場合ですか?」

 

「まあ確かに」

 

アールドはそう言うと、長テーブルに手をついてため息をついた。

 

「そこなんだよねぇ、わからないのが。なんでそんな変な立ち回り方になってるの?アガタさんのいう通り、裏切るにしても理由はなんなの?もしかして、ライデンと繋がってるの?」

 

それを聞いたアヴェリーノは、心外だと言いたげな顔をアールドに向けた。

 

「あんな野蛮人と一緒にしないでください!」

 

「じゃあなんなの?」

 

「ボクは・・・」

 

額に垂れた髪を直すと、改めて仕切り直すように話し始めた。

 

「ボクは、アデルモおじさんとは血が繋がっている関係じゃないんです」

 

「えっ、いきなりナニ?」

 

アールドがすっとんきょうな声を出した。

 

「おじさんが昔付き合っていた人の、妹の子供なんです。おじさんが、ネオ・ヴェネツィアで新しく立ち上げることになったホテルで総支配人をやるって知って、昔からネオ・ヴェネツィアに憧れていたボクにとって、いいチャンスだと思ったんです。それでなんとかホテル業界に口をきいてもらって・・・」

 

「コネでなんとかしてもらった?」

 

「まあ、そうともいいます」

 

「そうとしか表現ないと思うけど・・・」

 

アロンソは、そのやり取りをじっとアヴェリーノを凝視して聞いていたが、口を開いた。

 

「そのあんたが、アデリーナの伝言のメモを、なんで握りつぶす必要があるんだ?」

 

「それは・・・」

 

アヴェリーノが言い淀んだ様子に、苛立ったアガタが思わず怒鳴った。

 

「吐いちゃいなさい!」

 

「アガタさんさあ、ちょっと落ち着こうか?」

 

「ゲロしろ!とか言うんですよね?」

 

「ドラマの見すぎ」

 

アガタとアールドのやり取りをスルーするように、アヴェリーノは話を続けた。

 

「早く終わって欲しかったんです」

 

「終わる?何を?」

 

「このホテルで起こっているゴタゴタのすべてです!」

 

「それって、つまり脅迫事件ていうことか?」

 

「それももちろんですが、アデルモおじさんの件についてもです」

 

「総支配人の件てどういうこと?やっぱりライデンのことなの?」

 

アールドがちょっと高い調子で聞き返した。

 

「言っておきますが、ボクは関わってません!ボクがそのことを知ったのは、このホテル業界で働き出してからですから!」

 

「そうなの?」

 

「おじさんの名前を出すと、なんか周囲の目が違うって感じるようになって、それでわかったんです。あのホテル王のアイアート・ライデンと関係があるって」

 

「へぇー、そうなんだぁ」

 

「おじさんがいなくなったって聞いて、咄嗟にその事が頭に浮かんだんです。やっぱりヤバイことに巻き込まれたんだと」

 

「それで何?君はなんで、このホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーに来ようと思ったわけなの?」

 

「それは・・・」

 

また言い淀んでいるアヴェリーノを見て、アールドの腕を引っ張って、アガタが前に出てきた。

 

「素直にお縄につきなさい!このままだと、市中引き回しの上、獄門張り付け、遠島への島流しですよ!」

 

「なんなんですか、それって!」

 

「あ、あの、応援くん?聞かなくていいから」

 

そこには一切反応しないアロンソが、代わりに口を開いた。

 

「そう時間があるわけじゃない。結論を言うんだ」

 

アヴェリーノは少しため息をついた。

 

「アデルモおじさんがアイアート・ライデンと知り合いだと知って、きっと危ないことにも関わっていたんだと思った。だから、おじさんがいなくなった理由はそれに違いないと。だから、おじさんとライデンの間で話がつけば、こんな面倒なことは早く終わらせることができると思った。だから、申し訳ないと思ったんだけど、アデリーナさんには犠牲になってもらって・・・」

 

そこにいた三人の表情がいっぺんに険しいものへと変わった。

 

「ちょっと、どういうことなんですか?犠牲ってなんなんですかぁー?」

 

アガタがすぐに詰め寄った。

 

「それってつまり、総支配人をライデンに引き合わせるってことなんでしょ?そう考えたってことでしょ?なんでアデリーナさんなの?」

 

「だってアデリーナさんは、アデルモおじさんの実の子供ですから」

 

アヴェリーノの言葉にすぐには誰も聞き返すことができなかった。

想像していなかった言葉が出てきたことで、みんな一瞬黙ってしまった。

 

「それってホントの話なの?アロンソ、知ってた?」

 

アロンソはいっそう険しい表情になっていた。

 

「それなら、理解できるところもある」

 

「そうなの?」

 

「アデリーナがヘッドハンティングでここにやって来たのは、すべてアデルモの意思だ。一介のホテル従業員が、いきなりネオ・ヴェネツィアを代表するホテルのフロントクラークに抜擢された。すべてはアデルモの独断だ」

 

「おじさんは、アデリーナさんの存在をひた隠しにしていたんです。ライデンには絶対知られたくなかったからです。だから、あくまでも優秀な人材を発掘することが目的だと、周りにはそれを理由にしていたわけです」

 

「自分の娘がホテル修業をやってることを知って、思わず手を貸したくなった。もしかしたら、アデリーナさんと自分との関係がバレてしまうかも知れないのに」

 

「でも、ボクはちょっと違います」

 

「どういうこと?」

 

「おじさんは、やっぱり身勝手なひとだったと思う。仕事の口をきいてもらって、こんなこと言うのおかしいと思うかもしれないけど」

 

話を聞いていたアガタは、うつむいてしまった。

 

「アガタさん、大丈夫?」

 

「私は大丈夫です。そうじゃないんです。あれだけ一生懸命、誰よりも頑張っていた先輩が、そんな感じで扱われて、なんか、おかしいですよ」

 

アガタの言葉には、いつもの元気がなかった。

 

だがそこで、アロンソが話に割って入った。

 

「今は感傷に浸っている場合じゃない。言ったはずだ?結論だ。なぜ、705号室に行ったことを隠す必要があったんだ?」

 

「そうだ!そこだよ!なんで応援くんはあの部屋のことを知ってたの?」

 

「見たんです。あのリネン担当のひとが、その部屋に入って行くのを」

 

「アージアを?見たの?」

 

「アデリーナさんが襲われた事件にあの人が関わっていたかもしれないと噂を聞いていたので、気になってました。そうしたら、フロントのメモを発見して、何かあると思ったんです」

 

「何かって何?」

 

「今度は本当に何かあるんじゃないかと」

 

「つまり、アデリーナさんがまた狙われるってこと?なんでそんなふうに思うの?」

 

「だって、以前と同じように狙われたんだとしたら、ライデンの仕業と考えるのが筋が通ってるんじゃないですか?アデルモおじさんは、あの男のヤバイことを知ってるんでしょうから、つまりは取引きをしようと企んでいたんじゃないですか?」

 

「そう考えたってことか・・・」

 

アールドは、ウーンと唸るような声を出した。

 

「違うんですか?」

 

アヴェリーノは、アロンソとアールドの顔を見比べた。

 

アロンソは床に目を伏せると、少しため息を漏らした。

 

「さっき、アルフ捜査官から連絡があった。港の外れの造船所跡で、銃撃戦が起こっているらしい」

 

「何それ?!」

 

アールドは思わずテーブルに腰を下ろした。

 

「もちろんライデンだ。そこにアデルモとアルマも巻き込まれてるようだ」

 

「おじさんが?」

 

アヴェリーノは状況が読めずに混乱していた。

 

「ちょっと待って?じゃあ相手は誰なの?ライデンとやりあうなんて、そんな物騒なこと考えるやつは?」

 

「多分、アデルモを必要としている別の誰かだ」

 

それを聞いたアールドがアガタの方を見た。

 

「アガタさん?アルピーナ婦人は?」

 

「まだいらっしゃると思います。チェックアウトはされていないはずです」

 

「じゃあ考えられるのは、元軍人のあの男か」

 

「それと、エレノア家」

 

「そうだ!あのお嬢様もだ!」

 

「アルマが絡んでるってことはそうに違いない」

 

アロンソとアールドの会話についていけてないアヴェリーノは、困惑の表情を浮かべていた。

 

「じゃあなんで、こんなことになってるんだ・・・」

 

アールドはアヴェリーノの肩にポンと手を置くと、やれやれといった調子で言った。

 

「君は、思い違いをしていたんだよ。アイアート・ライデンが自ら動いたってことは、もう君のおじさんとは話は終わっていた。いや、終わっていたというより、終わらせようとしたってことだ」

 

「それなら、なんでアデリーナさんは705号室にいるんですか?」

 

「アロンソ?」

 

アールドはアヴェリーノの言葉を聞いて、何か確かめるようにアロンソの顔を見た。

 

「ホテルの周辺に捜査員を配置するよう連絡は入れた。まだ動きはないはずだ」

 

「じゃあ、応援くんの言った通り、何やってんの?あの部屋の中でさぁ?」

 

「何も起こってないと思いたいが・・・」

 

それを聞いて、アヴェリーノが立ち上がった。

 

「ボク、やっぱり行きます」

 

「行くって705号室に?行ってどうするの?」

 

「だって・・・」

 

そこで黙って腕組みをしていたアガタが話始めた。

 

「ちょっと待ってください!さっきから聞いてると、訳がわかりません!何を言ってるのか!そんなことより、先輩は大丈夫なんですか?今どうなってるんですか?」

 

「アガタさんの言うことはもっともなことだ。だけど、話の流れから察するに、今すぐどうこうということではないと思う」

 

「なんでそんなことが言い切れるんですか?」

 

「確かにアージアは、ライデンとの関係で動いていた可能性が高い。だが、そのライデンは、もう直接ケリをつけることを選んだ。じゃあ今のアージアはなんであの部屋にいるのかということだ」

 

「だからなんなんですか?」

 

「もしかしたらだけど、もしかしたら孤立無縁なのかも」

 

「意味がわかりません!」

 

「アージアと繋がってたヤツが、何かの都合で消えた、としたら?」

 

「消えた・・・」

 

「言い方を変えると、消された・・・といった方がこの世界には合ってるのかも」

 

「先輩・・・」

 

アガタは困惑と不安で虚ろな表情になっていた。

 

アロンソは、力なく座り込んでいるアヴェリーノにもう一度、その険しい顔を向けた。

 

「あんたにはもうひとつ確認しておかなければならないことがある」

 

疲れきった、落ちくぼんだ目でアヴェリーノは顔を上げた。

 

「なぜそこまで急いでいたんだ?アデルモがこのホテルにいない今、アデリーナを相手に差し出したからと言って、すぐどうこうなるって訳でもなかっただろ?」

 

「確かにそうだ。応援くん?他に何かあるんじゃないの?」

 

「だって・・・」

 

「往生際が悪い!早く言いなさい!」

 

また言い淀んだアヴェリーノにアガタが間髪いれず突っ込んだ。

 

「だって、灯里さんが大変そうだったから・・・」

 

「はぁ?」

「はぁ?」

 

アガタとアールドは、同時に眉をつり上げた。

 

「なんでそこで灯里さんが出てくるんですかぁ!」

「そうだよ!誤魔化してもダメ!」

 

「だってぞうじゃないですか!こんなことに関わっている間、いったいどれだけ灯里さんがウンディーネの仕事から遠ざかってると思ってるんですか?これはネオ・ヴェネツィアにとって、いやアクアにとって大きな損失なんです!」

 

「損失って、何それ?」

 

アールドは口をだらしなく開けていた。

 

「ボクがここにやって来た本当の理由は、灯里さんを助けるためなんです!」

 

アガタは思わず一歩前に出た。

 

「それって、灯里さんの大ファンてことじゃないですかぁー?!」

 

「アガタさんまで・・・ファンて何?」

 

そこでアロンソがボンヤリと前方を見つめながらポツリと呟いた。

 

「それがネオ・ヴェネツィアに憧れていた理由か・・・」

 

「ちょっと!なんでアロンソまで理解してるの?」

 

 

 

 

「クシュン!」

 

水無灯里はひとりポツンと、取り残された子供のようにカウンターに立っていた。

 

「あの~まだ終わらないんですかぁー?」



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第四十九話 美貌のライオン

 

アレッサンドラ・テステロッサは、うつ伏せのまま倒れているアレキサンドロの側でしゃがみこんだ。

 

アレキサンドロは苦悶の表情だったが、意識はあるようだった。

 

アデルモとアルマは駆け寄ると、心配そうにアレキサンドロの様子を覗き込んだ。

 

「アレキサンドロさん!大丈夫ですか?」

 

アルマはアレキサンドロの、その苦しさに歪んだ顔に向かって叫んだ。

 

だが、アレキサンドロはそれに答えるだけの余裕はなかった。

 

「心配だけど、今は動かさない方がいいわ。そのうちに、うちのチームが来るはずだから」

 

アレッサンドラはそう言うと、アレキサンドロの身体をゆっくりと仰向けに寝かせ、持っていたハンカチを胸にあてた。

 

「さっき、ボートを用意したって言ってた」

 

アルマは、アレキサンドロの胸に手をあてて、その表情を見ているアレッサンドラに向かって言った。

 

「それはどこ?」

 

「確か、あの造船所の向こうからやってきたから」

 

「そうなの」

 

アレッサンドラは厳しい表情でアルマが示す方向に目を向けた。

 

「でも、いったいあなたは何者なの?」

 

「詳しいことは後でいくらでも聞いてちょうだい」

 

そう言って腕時計に目をやった。

 

「あなたたち、ボートは動かせる?」

 

「操作ぐらいなら、なんとかなると思う」

 

アデルモが真剣な表情で言った。

 

その時、近くの柱やコンクリートの路面に何発も銃弾が跳ねる音がした。

 

アレッサンドラはアレキサンドロの身体を柱の陰まで引きずって行った。

 

アデルモとアルマもそれを手伝った。

 

「このままじゃ、らちがあかない。私がそのボートまで走る。その間、アルマ?ここに手を当てて、できるだけ止血をして?出来るわよね?」

 

一瞬だがアルマは、その目の前の光景にたじろいだが、すぐに気を取り直し返事した。

 

「やります」

 

アレッサンドラが押さえていた手を緩めると、すぐさま血が流れ出した。

 

アルマは必死になってそこを自分の手で押さえた。

 

「じゃあお願い」

 

アレッサンドラがそう言って立ち上がった時だった。

 

「その必要はないわ!」

 

その甲高く高飛車な声は、その古びた造船所の中から聞こえてきた。

 

姿を現したアリーチェ・エレノアは、両手を腰に置いて大きく脚を開いて立っていた。

 

「さあ、アレグロ!我が特命チームに指示をお出しなさい!」

 

「かしこまりました!」

 

アリーチェの背後には、分厚い防弾チョッキに防弾ヘルメットを身につけた第一秘書のアレグロが、グッと腰を据えて構えていた。

 

そのアレグロが高らかにゴーサインを出すと、一体どこの軍隊かと思わせる程のしっかりとした装備を身にまとった兵隊たちが、ライフルを構えたまま次々と走り出てきた。

 

そして、アレッサンドラたちの前にやってくると、次々にライフルを乱射し始めた。

 

すると今度は、担架を持った数名の兵たちが慣れた手つきで素早くアレキサンドロを担架に乗せ、造船所の中へと消えていった。

 

「緊急脱出用のヘリを用意させたから、すぐにこの戦線を離脱し、直ちに緊急手術を行うことになるわ」

 

アリーチェはいつもの調子で得意気に言ってのけた。だが、顔は真剣そのものだった。

 

「お嬢様・・・」

 

アルマは路上に座り込んだ状態で、茫然とアリーチェの様子を見ていた。

 

「アルマ?私が来たからにはもう心配はいらないわ!」

 

そう言ってアリーチェは高らかに笑い声を上げた。

 

その瞬間、アリーチェの顔のすぐ横を銃弾がかすめて行った。

 

「なっ・・・」

 

「お嬢様!」

 

「な、何をそんなにうろたえているの?こんなタマの一発や二発くらい・・・」

 

今度は先程とは顔の反対側を銃弾が通過していった。

 

「ちょっと!どこを狙って撃ってるの?私が誰かわかっての狼藉ね!」

 

だが次の銃声が鳴った瞬間、アリーチェは誰かに掴まれるようにして横に引き寄せられていた。

 

そして、アリーチェが立っていたところの少し後方のコンクリートの柱に銃弾が命中した。

 

アリーチェのすぐ斜め後ろに立っていた第一秘書のアレグロは、直立不動のまま身動きひとつできず 棒立ちになって顔面蒼白になっていた。

 

「ご当主に申し上げたはずです。お屋敷でお留守番をお願いしますと」

 

アレッサンドラ・テステロッサは、まるでハリウッドスターのような、誰もが憧れるような笑顔で、アリーチェの腕を掴んで、その小さな身体を引き寄せていた。

 

「アレッサンドラ!」

 

「いくら威勢がよろしくても、このような場所は似合わないですよ、ご当主?」

 

「このぉー!と言いたいところですが、今は感謝を申し上げておきますですわ」

 

アリーチェはばつの悪そうな顔をアレッサンドラには見られまいと反対側に背けていた。

 

「ご当主?」

 

「な、なんですの?」

 

「兵たちに攻撃を前方に集中するようにご指示を出していただけると有難いですけど?」

 

「みんな!攻撃を前方に集中なさい!」

 

アレッサンドラの言葉を聞くやいなや、間髪入れずにアリーチェは大声で怒鳴りつけた。

 

「その間にアデルモ氏とアルマさんを後方に引かせて・・・」

 

そう言いかけたアレッサンドラは、次の瞬間、信じられない早さで動き出していた。

 

「えっと、アレッ・・・」

 

アリーチェが気がついた時には、もう横にはいなかった。

 

アレッサンドラはその銃撃の雨の中、空中高く跳躍していた。

 

その後ろには立ち上がろうとしていたアデルモがいた。

 

アレッサンドラは空中で回転しながら手に持ったベレッタで続けざまに撃ち続けていた。

 

だがその瞬間、アレッサンドラの巻き上げた髪がほどけ、その長い髪が空中に大きく舞い上がった。

 

その場にいた誰もが言葉を失った。

 

アレッサンドラはコンクリートの路面に転がるように着地した。

 

「アレッサンドラ!」

 

アリーチェは思わず叫んでいた。

 

「みんな撃って!撃つのよ!」

 

その後ろでアレグロは膝から崩れ落ちていた。

 

「そんな・・・」

 

アリーチェの兵隊たちは、アレッサンドラを狙ってきた方向にライフルを撃ちまくった。

 

だがまた別の方からも銃声が鳴り響いていた。

 

アデルモは目の前にいるアレッサンドラの身体を柱の陰に動かそうとした。

 

だがその瞬間、アデルモは首の後ろの襟を掴まれ、その場に引き倒された。

 

「まだ気を緩めないで!」

 

上体を起こしたアレッサンドラが銃を構えながら叫んでいた。

 

髪が顔を覆うように乱れていた。

なのに、その姿さえ美しさに溢れていた。

 

「アレッサンドラ!」

 

今度は歓喜の声があがっていた。

 

アレッサンドラは、犬の子を扱うようにアデルモを後方に引きずって行った。

 

「あ、あなた?いくらなんでもその扱いは・・・わかるけど」

 

アリーチェが思わず呟いていた。

 

「この人は大事な証人なので、この場で死んでもらう訳にはいかないの」

 

アレッサンドラは真剣な眼差しで長い髪をかきあげた。

 

その様子を見ていたアレグロは、目に涙を浮かべて見つめていた。

 

「あの」

 

「何かしら?」

 

「よかったです。ご無事で」

 

「そう?ありがとう」

 

「あの」

 

「ん?」

 

「できればで結構なんですが」

 

「なに?」

 

「サインいただけないですか?」

 

アリーチェはその様子に振り返ってにらみつけた。

 

「アレグロ!あなた!仮にも第一秘書なのよ!プライドを持ちなさい!」

 

「それとできれば写メを。待ち受けにしますからぁ!」

 

「アレグロ!」

 

アリーチェはアレグロの黒い防弾ヘルメットをバチン!とはたいた。

 

「ごめんなさいね。サインはお断りしてるの。当然写真はムリ」

 

アレグロは残念そうにうつむいていた。

 

だがアリーチェは、真剣な表情でアレッサンドラに向き直った。

 

アレッサンドラはその場に膝まづいて、アリーチェの兵隊たちの様子と、その向こうに見えるライデンの私兵たちの様子を見つめていた。

 

「アレッサンドラ?あなたのお仕事については察しがついてるわ。でも、どうしてそこまでするの?」

 

アレッサンドラはすぐには答えようとしなかった。

 

「あなた、以前言ってたわよね?その手にお持ちの拳銃を合法的にぶっぱなすことの出来る立場だって。それなら、その組織のお力でもって解決出来るんじゃなくって?」

 

アレッサンドラは静かに話し始めた。

 

「ご当主にも、許せないことってお有りではないですか?」

 

「どいうこと?」

 

「私は幼い頃、ネオ・ヴェネツィアに来て、この街の素晴らしさに感動した覚えがあります。以来、ことあるごとに訪ねるようになった。それには他にも理由があったから」

 

アレッサンドラは何かを思い返すように、少し間をおいた。

 

「あるウンディーネと出会ったんです。その方は、まだ学生だった私に他の観光客とかわりなく接してくれた。その上、いろんな相談にも嫌な顔ひとつせずに親身になって聞いてくれた。当時悩みを抱えていた私にとって、その方と、このネオ・ヴェネツィアで会うことが、どれだけの救いになったことか」

 

「それが理由?」

 

「だからネオ・ヴェネツィアを汚す者は許せない」

 

「それってつまり、ライデンてこと?」

 

「あいつはケダモノ。許すわけにはいかない。それに・・・」

 

アレッサンドラは言いかけて、話すのをやめた。

 

「何よ?そこまで話しておいてやめるの?」

 

そう言われたアレッサンドラは、目を閉じると、ふっと笑みを漏らした。

 

「私、ウンディーネを目指していたことがあったんです」

 

「ウンディーネって、あのウンディーネのこと?あなたが?」

 

すると、後ろで黙って聞いていたアレグロが口を開いた。

 

「姫屋に所属されて、ペアとして活躍されておいででした!」

 

「ペアで活躍って・・・」

 

アレッサンドラは少し声を出して笑って見せた。

その横顔は、今までのアレッサンドラと違って、まるで少女のような、あどけない表情だった。

 

「あの頃は、ウンディーネなんてって思ってた。オールをうまくさばいて、観光案内なんて出来るって。でも違ってた。憧れていたプリマ・ウンディーネたちは、確かに思い描いていたものとは、少し違っていた」

 

「何がそんなに違うって言うの?」

 

「後でわかったことだったのですけど、強いて言うなら、覚悟と、言ったらいいかしら」

 

「何よそれ?格好よすぎでしょ?」

 

「そう、ご当主の言う通り。それがあったから、あのプリマたちは格好よく見えた。輝いて見えていた」

 

「じゃあ、あなたは?」

 

「聞かないでください。その事がわかったのは、諦めた後のことでしたので」

 

「ふーん」

 

アレッサンドラの表情は、諦めたという言葉とは裏腹に、スッキリとしていた。

 

アリーチェはその場で腕を組んで、前方で繰り広げられている光景に視線を向けていた。

 

「それでは、次はご当主の番です」

 

アレッサンドラの言葉にアリーチェは拍子抜けした顔になっていた。

 

「何よ、それ!」

 

「人にしゃべらせておいて、ご自身は何も話さないおつもりですか?」

 

「そうですよ、お嬢様!」

 

アレグロが後ろから突っ込んできた。

 

「あなたねぇ、何を調子に乗ってるの!」

 

「次はお嬢様の番ですぅー!」

 

「わかったわよ!」

 

アリーチェは観念したように、大きなため息をついた。

 

「わたくしの場合、答えはとってもカンタン!それは、悪との決別よ!」

 

「なるほど」

 

「何がなるほどなの?」

 

アレッサンドラの反応に少し不満げに言い返した。

 

「冗談に聞こえるかも知れないけど、わたくしはいたって真剣ですの。エレノア財閥の当主として、そしてこのアクアを愛する者として、この世界から本気で排除するつもり。ああゆうライデンのようなヤツは特にね!」

 

アリーチェは腕を胸の前で組んだまま、大きく脚を広げて、高らかに宣言でもしているようだった。

 

「残念だけど、どこにだって悪はついてまわるもの。この星を人類の叡知によって開拓し、満々たる水の惑星に作り替えたのは奇跡に値することだわ。それでも、悪は存在した。それが人というもの。だけど、それもわたくしの代で終わりにするの。このアクアを、その名前の通りに、澄んだ、透明なところにするために」

 

アリーチェはいつになく真剣な眼差しで、目の前に繰り広げられている光景を、冷静な、でもどこか熱い眼差しで見つめていた。

 

「アレグロ?そう言えば、うちの第二チーム、第三チームはどうしたの?」

 

「先程入った連絡では、この地域一体が完全封鎖されているため、なかなか入って来れない状況のようです」

 

「やってくれるわねぇ、ネオ・ヴェネツィア特別行政自治区!じゃあ時期に海洋局もやってくるわね」

 

アリーチェは鼻息荒くして言った。

 

「アレッサンドラ?わたくし思ったのだけど、あなたの考えとわたくしの考えは、似ているように感じるのだけど、どうかしら?」

 

「そうですわね」

 

「あなたのこと、イケスカナイ女だと思ってたのだけど、ここはどうかしら?こんなこと、早く決着をつけるべきでしょ?協同戦線ていうことで、どう?」

 

その言葉を聞いたアレッサンドラは、スッとその場に立ち上がった。

 

アリーチェはその時に初めて、アレッサンドラの左の二の腕の部分の、皮のジャケットが破れて、その裂け目のところが赤く滲んでいることがわかった。

 

「あなた、その腕・・・」

 

「ご当主?悪いけど、そのお話には乗れそうにありません」

 

「どうして?あなただって、こんなことにいつまでも振り回されている場合ではないでしょ?」

 

「ご当主のお言葉は、有りがたく頂戴しておきます。ですが、もうそろそろ本当に終わる時がやってきたかと」

 

「どういうこと?」

 

アレッサンドラが海の向こうに視線を向けたのを見て、アリーチェも海の先に目を向けた。

 

造船所跡を取り囲んでいたライデンのボートたちよりも、はるかに多くの船が迫ってくるのが見えた。

 

しかもそれらの船は、物騒な装備をしっかりと備えたものばかりだった。

 

「ようやくお出ましなのね?海洋局も本腰をいれる気になったということね」

 

アリーチェは鼻からフン!と息をはいた。

 

「いえ、違います。あれはウチのチームです」

 

眩しそうにアレッサンドラはその光景を見て言った。

 

「チ、チーム?あれが?」

 

すると今度は空から次々とヘリコプターが姿を現した。

 

「何よあれは!今度は空からなの?」

 

「あれもウチのチームです。敵の拠点を攻撃する強襲ヘリです」

 

すると、そのうちのヘリの1機がミサイルを発射させた。

 

命中したボートが木っ端微塵に吹っ飛んだ。

 

「ちょっと!これがなんでチームなのよ!」

 

もうそれだけで十分だった。

 

ライデンの手下の連中は、みんなボートから海へ飛び込んで、海の中から両手をあげていた。

 

だがよく見ると、そこにはライデンの姿はなかった。

 

それを知ったアレッサンドラは、怖い表情になって呟いた。

 

「あいつだけは、絶対逃がさない」

 

アレッサンドラは銃撃の止んだ港を一気に走り出した。

 

長い髪がその勢いにたなびいていた。

 

「あの人は、わたくしたちと同じ人間なの?」

 

思わずアリーチェは、その走って行く後ろ姿を見ながらつぶやいていた。

 

その姿は、まるでたて髪を揺らして疾走するライオンのようだった。



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第五十話 終演を告げる演出家

 

水無灯里は、705号室のドアの前にいた。

 

誰が見てもホテルの従業員とわかる制服姿であったが、灯里自信、そうなんだと自分に言い聞かせるように、心の中で何度も繰り返しつぶやいていた。

 

目の前には、四角いワゴンがあった。

 

そこには、本来この部屋の宿泊客だったアサドのクリーニングされたスーツと、小さな箱がひとつ置かれていた。

 

灯里は、それをじっと見つめながら、自分に言い聞かせるようにポツリとつぶやいた。

 

「練習通りやれば、大丈夫だから」

 

そして、大きく息を吐き出すと、今度は確かめるように言葉を出した。

 

「それでは行きます」

 

ドアの横のボタンを押す。

 

部屋の中では鳴っているはずの音を想像しながら、ドアが開くのを待った。

 

だが、なんの反応もない。

 

もう一度ボタンを押す。

 

時間はそんなに経っていないはずだったが、灯里は辛抱強く待ち続けた。

 

すると、ドアのロックが解除される音が鳴った。

 

ゆっくりと開けられ、その隙間から能面のような表情のない顔が、半分だけ覗いていた。

 

「なに?」

 

感情を押し殺したような静かな声がそう話しかけた。

 

「あ、あの、頼まれていたものをお届けに上がりました」

 

灯里は、緊張のため上ずった声を、なんとか落ち着かせるように話した。

 

「頼まれていた?知らないわ」

 

「はい、この時間にと・・・」

 

「そこに置いておいて」

 

「あわわわわー!」

 

「なに?」

 

「それでは困るんです!」

 

「なんで?なんであなたが困るの?」

 

「私ではなく、アサド様からのお申し付けでして」

 

「アサド?」

 

その名前を聞いたアージアは、何かを考えるように、ワゴンの上に視線を移した。

 

「今何時?」

 

灯里は左手の腕時計を見た。

 

「間もなく午後三時になります」

 

「三時・・・」

 

アージアは怪訝な表情でその時間を繰り返した。

 

「この時間になったら届けるようにと、アサド様が伝言されて行かれたと聞いております」

 

灯里は額に汗を滲ませながら、必死に言葉を続けた。

 

「じゃあ、その箱だけ預かって・・・」

 

「ああ~~それもダメなんですぅー!」

 

「一体何がダメなの?客がそれでいいって言ってるんでしょ?」

 

「違うんです。アサド様がおっしゃるには、そう言われても、ちゃんとお部屋の中まで運ぶようにと言って行かれたということなんです。大事なものだから、そうするようにと」

 

「そんなに?そんなに大事なものって、一体なんなの?」

 

困惑しているアージアに向かって、とにかく灯里は必死になって食い下がった。

 

「とにかくですね?アサド様がおっしゃるには、時間が大事だからとご伝言されたということで、ですので、お部屋の方に、入らないと・・・いけないんですぅー!」

 

灯里は今にもワゴンごとドアから突っ込んでいきそうな勢いだった。

 

「わかったわよ!」

 

これまで冷静だったアージアが焦ったように応えた。

 

「それでは失礼します」

 

灯里はワゴンを押して部屋へ入ろうとした。

 

「はへ?」

 

だが部屋の奥へと進もうとして、途中で立ち止まった。

 

そに先は真っ暗だった。

 

そして背後では、ドアが閉じられた。

 

視界が遮られたような感覚になった。

 

灯里は進めなくなってしまった。

 

「何をしてるの?部屋に入るんでしょ?」

 

「あ、あの、お先が真っ暗でして・・・」

 

そう言ってると、徐々に目が慣れてくるのがわかった。

 

そに先にぼんやりと炎のようなものが揺れていた。

 

灯里はそれを頼りにワゴンを部屋の中へと進めた。

 

ソファーに挟まれたテーブルの上に、ろうそくの炎が揺れていた。

 

灯里は部屋の中を見回した。

 

「いない・・・」

 

思わず小さくつぶやいていた。

 

そして今度は何かを探すように辺りに目を向けた。

 

壁そばに腰の高さくらいある小さなテーブルが備え付けられていた。

 

そのそばまでワゴンを運んだ。

 

「さあ、用がすんだら出て」

 

アージアが少し苛立ったように言った。

 

「あの、それが・・・」

 

「まだ何かあるの?」

 

「ですから、時間ちょうどに渡すようにとの、アサド様からの伝言でして・・・」

 

アージアは灯里の態度に何かおかしいと感じた。

 

「ちょっと、それを見せてもらうわ」

 

「ああ~~ですからお時間丁度なんですぅ~~!」

 

灯里がワゴンの前に立ってアージアからその箱を防ごうとした。

 

その時、ドアの呼び鈴がなった。

 

二人の動きが止まった。

 

「今度は誰なの?」

 

アージアの能面の顔が明らかに焦っていた。

 

「えっと、練習とは段取りが変わったの・・・?」

 

アージアが灯里の方に振り返った。

 

灯り里は思わず自分の口を両手でふさいでいた。

 

「あなた、出て」

 

アージアは灯里のつぶやきが聞こえてなかったのか、灯里に出るように言った。

 

灯里は、恐る恐るドアの方へ向かった。

 

途中振り返ると、表からは見えないように、アージアが壁の角から覗いていた。

 

その人間味を一切無くしたような目が、灯里の動きをじっと見ている。

 

灯里は、両腕を肘を曲げて胸の前でキュッと縮こませた。

 

恐怖心を滲ませた顔をドアに向けると、その顔を近づけた。

 

「あの、どちら様ですか?」

 

少し間をおいて、女性の落ち着いた声がドアの外から返ってきた。

 

「アルピーナの申します」

 

「アルピーナ婦人?」

 

灯里は、思わず小声で言った自分の言葉に、驚いたように肩をすくめた。

 

そして、恐る恐る振り返った。

 

アージアに伝わっているのかいないのか、判断のつかない表情だった。

 

「アルピーナ婦人とおっしゃる方が来られてます」

 

灯里は咄嗟に自分は知らない人だという言い方にした。

 

なぜいま、ここにアルピーナ婦人がやって来たのか、わからなかったからだった。

 

アージアはすぐには答えようとしなかった。

 

だがもう一度、灯里が尋ねようとした時、アージアから口を開いた。

 

「どうぞ」

 

低く、感情のない落ち着いた声だった。

 

灯里はそれを聞いて、再びドアの方に向いた。

 

ロックをはずし、ゆっくりとドアを開けた。

 

「アルピー・・・」

 

そこに立っているアルピーナ婦人と目があった瞬間、灯里は婦人の名前を口にしようとした。

 

だが婦人は、人差し指を自分の口に当てて見せた。

 

そして、優しく灯里に微笑んだ。

 

「入ってよろしいかしら?」

 

「は、はい!」

 

灯里の前をゆっくりと婦人は歩いていった。

 

ドアが閉じられると、一気に暗くなる。

 

「悪いのだけど、歳なもんだから目が悪いの。もう少し明るくしてもらえないかしら」

 

灯里の方に振り返りながら、婦人はそう言った。

 

灯里はすぐ様、近くにあった照明のスイッチに手を伸ばした。

 

部屋中の壁の間接照明が一斉に灯った。

 

それによって、部屋の中の様子がすべて浮き彫りになった。

 

だが、部屋の中は、灯里の運び込んだワゴン以外、何もなかった。

 

そこには、テーブルの上のろうそくだけがポツンとあるだけだった。

 

アルピーナ婦人が部屋の中へ入って行くと、アージアはそのまま後退りしていった。

 

「お久し振りね、アージア」

 

アージアは返事をしようとせず、警戒してじっと婦人を見つめていた。

 

「アルマとは何度も会ったことあるけど、あなたとはそうは会ってなかったから、私の顔を覚えてないのかしら?」

 

「用件はなんですか?」

 

ようやくアージアが口を開いた。

 

「そうね」

 

アルピーナ婦人は、少し話を切り出すのをためらっているように見えた。

 

だが、アージアの頑なな態度にきっぱりとした表情に変わった。

 

「アージア、もう終わりにしましょう」

 

アージアは婦人の言葉に態度がかわった。

 

「何を言ってるんですか?私にはよくわかりませんが?」

 

「先程、インターポールが本格的に動き出したと連絡を受けたわ。つまり、決着をつけることにしたということね」

 

「だから?だからなんだと言うんですか?」

 

アージアは身じろぎせず、アルピーナ婦人から視線をはずそうとしなかった。

 

灯里は、婦人の肩越しにその様子を目の当たりにして、身震いするぼどの怖さを感じていた。

 

「もう終わった。そういうことよ。あのアイアート・ライデンはこれで終わるの。そうなると、アデルモも逃げることはできない。つまり、私たちの復讐も終わる。だから、あなたがここにとどまる理由もなくなるということよ」

 

アージアは、含み笑いをするような声を漏らし始めた。

 

そして、これまでの印象とはまるで違うように、高らかに笑い声をあげた。

 

「あなたは今頃何を言ってるの?バカじゃないの?もうそんなことはどうでもよくなったのよ!」

 

「ではどうしてここにいるの?」

 

「それはね、復讐を完結させるために決まってるでしょ?」

 

皮肉めいた表情が怪しく光っていた。

 

「何を言ってるの?私たちの復讐は、アデルモの罪を世間に公表して、その上で罪を償わせることでしょ?インターポールが正式に動き出したということは、それが現実になるということよ」

 

「今、私たちと言いましたよね?勘違いしないでください。いつからあなたたちと私たちが一緒だと言いました?」

 

「アージア?あなた、何を言ってるの?」

 

「そもそも、あなたたちと私たちとは、考えも目的も違うの。私たちの復讐は、あいつが大事にしているものを奪い、傷つける。それが目的なのよ!」

 

そう言ってアージアはまた高らかに笑い声をあげた。

 

「アージア?あなたは知らないのね」

 

奇妙な笑い声を引きつかせながら、アージアはアルピーナ婦人を正面から見据えた。

 

「アルマは今、アデルモと一緒なのよ」

 

その言葉にアージアの動きが止まった。

 

その能面のような顔が上目遣いになって、鬼のような形相で婦人を睨んでいた。

 

「それはどういうこと?」

 

「アデルモはライデンと決着をつけようと、自らライデンのもとに向かった。それを見届けようとアルマも同行した」

 

「じゃあ、合流する計画は?あの女を差し出して、アデルモを連れてくるはず・・・」

 

「連絡はあった?どこからもないでしょ?そんな話は、どこにもないの」

 

「アサドは、あいつは協力してくれるって。だから、姉さんの代わりに私が・・・」

 

「アージア?残念だけど、あなたは騙されていた。最初からアデリーナさんを殺すなんて、そんな話はなかったのよ。ライデンと取引をするため、人質として都合がよかった」

 

「じゃあ、アサドは?連絡をよこしてきたわ!」

 

アージアはワゴンの上の箱に目を向けた。

 

「あ、それはまだ・・・」

 

灯里は思わず声をあげていた。

そして、アルピーナ婦人の前に出てきた。

 

「アデリーナさんが見つかってから・・・」

 

アージアは勢いよくワゴンに飛びかかっていた。

 

そして箱を手にすると、その蓋をむしり取るように開けた。

 

「なんで?」

 

何も入ってなかった。

 

茫然としていた顔が、般若の如く豹変した。

 

「騙したのね!」

 

アルピーナ婦人は灯里の前に出た。

 

「ここへも警察が来る。もう終演の時が来たの、アージア?あなたの役は舞台を降りるタイミングが来たということなの」

 

アージアは婦人の言葉に返って火がついたように怒りを向けていた。

 

「こんなことでは終わらない。終わらせないわ!」

 

アージアはアルピーナ婦人に飛びかかろうとした。

 

その婦人を押し退けて、灯里が前に出た。

 

三人が互いにぶつかるような格好となった。

 

だが次の瞬間、灯里はアージアに後ろから羽交い締めにされて捕まってしまった。

 

そして、そのままジリジリと婦人から距離をとるように後退りしていった。

 

「やめて!アージア!その人は関係ないでしょ?」

 

「この人は私を騙した!」

 

首を絞められた格好になった灯里は、苦しさに顔を歪めていた。

 

アージアは、腰の辺りでサイドテーブルにぶつかった。

すると、その上を手でガサガサと探り始めた。

 

引き出しを探り当てたアージアは、ガタガタと音をたてながらそれを引っ張り出した。

 

そして中に焦るように忙しく手を突っ込んだ。

 

そこから出てきた手には、恐怖すら感じるぼどの、鈍く光るサバイバルナイフが握られていた。

 

「灯里さん!逃げて!」

 

アルピーナ婦人の声とは裏腹に、その鋭い刃先は灯里の頬に向けられた。

 

だが、アージアがその動きを止めた。

 

アージアは、驚いた表情で婦人の顔を見つめていた。

 

「今、なんて言ったの?」

 

婦人は、そのアージアの驚愕の目が、背後から灯里に向けられていることに気がついた。

 

「アージア?あなた、その方の名前を知っているのね?なら、その人が本当は誰なのかも知っているということよね?」

 

婦人から向けられた言葉に、アージアはすぐ目の前に見える灯里の横顔に目を向けた。

 

耳のそばからピンク色の髪が長く伸びている。

 

「そんな・・・」

 

灯里は目をギュッと閉じて、苦しさに耐えていた。

 

改めて、アージアはその横顔を見つめた。

 

「あのときの・・・あのゴンドラの・・・」

 

すると、アージアの顔から、その能面が剥がれ落ちていった。

 

それはまるで、その時を思い出したかのように、少女のような、あどけない表情に変わっていった。

 



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第五十一話 想い出のゴンドラ

 

水無灯里は、シングルのウンディーネとしてようやくスタートを切る時期を迎えていた。

 

あの水の三大妖精のひとりとして世間から注目されているアリシア・フローレンスの後輩として、いよいよ本格的にプリマになるための修行に取り組む日々を送っていた。

 

だが灯里自身、本当にそこまで行けるのかどうか、どこか不安を抱えていた。

 

ARIAカンパニーの一階の壁に掲げられたスケジュールボードには、今日も、そしてこれから先もアリシアの仕事の予約がぎっしりと書き込まれている。

 

半分口を開けた状態で、灯里はそれを見上げていた。

 

「あら、灯里ちゃん?どうしたの?」

 

「あっ、いえ・・・なんでもないです」

 

支度を終えたアリシアが姿を現した。

 

少し目を伏せるような灯里を見て、アリシアは何かを感じたように心配な表情になった。

 

「灯里ちゃんの今日のスケジュールはどんな感じなの?」

 

「今日は、まだ残っているお店の中の片付けと、アリシアさんが戻ってくるお昼までに買い出しを済ませておこうと思ってます」

 

「合同練習は?今日はどうするの?」

 

「藍華ちゃんは晃さんのゴンドラに同乗するそうで、アリスちゃんは学校で試験があるって言ってました。だから今日の合同練習はありません」

 

「じゃあ灯里ちゃん?午後は少し気晴らしにどこかへ出掛けてみるのは、どうかしら?」

 

「でも、アリシアさんは今日もスケジュールが詰まってるじゃないですか?なのに私だけそんなこと、できません」

 

灯里は申し訳なさそうに目を伏せた。

 

「灯里ちゃんの気持ちはうれしいわ。でもね、時には街を歩いてみるのも大事だと思うの。いつもとは違う、何か新しい発見があるかもしれない」

 

アリシアは優しく微笑んでみせた。

 

灯里は、今日の一組目の客を乗せたアリシアを見送って、すぐに部屋の片付けに取りかかった。

 

 

 

アリシアとお昼をすませ、午後からの客とアリシアを送り出した灯里は、アリシアの好意を素直に受けることにした。

 

だが、今日は合同練習がないこともあって、少しでもゴンドラに乗る時間を作ろうと、練習がてらゴンドラで出かけることにした。

 

アリシアに言われた通り、街の様子を意識しながら、様々な運河を進んだ。

 

途中、観光スポットといえる混雑が増すところを通るたびに、あることが気になっていた。

 

「今日はなんだか子供たちが多いなぁ」

 

幼い子供たちの走る姿や歓声が聞こえてくるのが印象的だった。

 

そこで灯里は、昨晩、アリシアから聞かされた話を思い出した。

 

明日は、ネオ・ヴェネツィアがアクアの恵まれない子供たちを招待する、年に一度のイベントがある日だというのだった。

 

あちこちの孤児院や施設から、いろんな地域から順次招いて、一日ネオ・ヴェネツィアを楽しんでもらおうということだった。

 

そして、今回は地元といえるネオ・ヴェネト州から招待する日でもあった。

 

「そうか。アリシアさんが言ってたことって、このことだったんだ」

 

灯里は子供たちのはしゃぐ姿に、思わず笑顔になっていた。

 

 

 

サン・マルコ広場の前を通りすぎ、いっそう賑やかなマルコ・ポーロ国際宇宙港前を通過した。

 

そして、少し賑やかさも落ち着いてきたあたりの船着き場に差し掛かったところで、ひとりの女の子の姿が目に止まった。

 

女の子は、じっと遠くの海を見つめていた。

 

灯里のゴンドラが近づき、通過しようとしても、女の子の視線は海に向けられていた。

 

灯里は、少し通過したところで、ゴンドラを止めた。

 

なぜか、どうしてもその女の子のことが気になってしまったからだった。

 

少しの間、その場で振り返って女の子を見てみた。

 

「海、好きなの?」

 

灯里の問いかけに何の反応もない。

 

「海っていいよねぇ。大きくてどこまでも続いていて。わたしもね、時々思うんだよ。この先って、どこに繋がってるんだろうってね」

 

女の子は、ずっと海を見つめたままだった。

 

「ごめんね。お姉ちゃん邪魔だったね」

 

灯里は女の子の様子に、すまなさそうに苦笑していた。

 

「あそこはナニ?」

 

すると女の子が話しかけてきた。

 

「えっ、どこ?」

 

驚いた反応の灯里に、女の子はまっすぐ前に人差し指を突きだした。

 

海の上に建物が浮かんでいるように見える島。

 

「あれはね、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島っていうんだよ!すごいでしょ?あれ全部教会なんだよ!」

 

興奮ぎみに説明する灯里に、女の子は表情を変えずに見つめていた。

 

だが、ポツリとつぶやいた。

 

「浮かんでる」

 

灯里は、女の子の方に目を輝かせて振り返った。

 

「そうなんだよ!」

 

「えっ?」

 

「ああ~~ゴメン!そう見えるってことだよね・・・エヘヘヘ」

 

女の子は、気まずそうにしている灯里の顔をじっと見つめていた。

 

「なんか、顔についてるぅー?」

 

「お姉さんて何やってるひと?」

 

「わたし?」

 

灯里は自分の格好に改めて目を向けてみた。

 

「わたしって、なんに見える?」

 

「うーん、なんか運ぶお仕事のひと?」

 

「間違ってないけど。運ぶというより案内をするの」

 

「案内?」

 

その女の子は、ウンディーネのことを知らないようだった。

 

「このネオ・ヴェネツィアにはね、毎日たくさんのひとがやってくるのね?そういうひとたちに、こんないいところがあるんだよって説明するの」

 

「説明?なんで?」

 

「なんでって・・・」

 

灯里はどう説明すれば伝わるのか、困ってしまった。

 

女の子の様子を見ると、またぼんやりとサン・ジョルジョ・マッジョーレ島を眺めていた。

 

「あそこには行けるの?」

 

「うん、行けるよ!」

 

「どうやって?」

 

「ボートだとか、例えばこのゴンドラだとか」

 

だがそれを聞いて、女の子は黙りこんでしまった。

 

「どうしたの?」

 

女の子は小さくつぶやいた。

 

「お金、いるんでしょ?」

 

灯里はハッとした。

 

目の前にいる女の子の姿は、まるで現実の世界に拒絶されて、立ちすくんでいるように見えた。

 

灯里はその時、以前アリシアから聞いた、あるエピソードを思い出した。

 

 

 

アリシアがまだシングルだったある日、どうしても運河を渡って行かないといけないという女の子と遭遇した。

 

だが、その女の子はトラゲットを利用するお金すら持ってなかった。

 

その時、アリシアはグランマから聞かされたことを思い出した。

 

ウンディーネは、ただ観光案内をするだけでなく、日々の中で何が出来るかを考える仕事なんだと。

 

その時の自分なら、何ができるのか。

 

アリシアは、その女の子の悲しそうな顔を見て、少しでも気持ちを和らげてあげたくて、とっさにその言葉を口にしていた。

 

「ねえ、わたしたち、今日からお友達にならない?」

 

「お友達?」

 

「そうよ。そういうことにしましょう!それなら大丈夫!」

 

冷静沈着にみえて大胆なアリシアの性格は、この時からすでに発揮されていた。

 

 

 

「ねえ、あの島に行ってみない?」

 

灯里は、女の子にそう声をかけていた。

 

「えっ・・・」

 

「そうしよう!」

 

「でも、わたし・・・」

 

「こういうのはどう?私たち、今日からお友達になるの!」

 

女の子は驚きと戸惑いが入り交じった表情になっていた。

 

だがそのあと、ためらうように小さく灯里に訪ねた。

 

「お友達になってくれるの?」

 

そう問いかける女の子の不安そうな顔を見て、灯里は胸の奥で少しズキンと痛くなるのを感じた。

 

でも灯里はいっぱいの笑顔で応えた。

 

「うん、なろう!」

 

 

 

ふたりを乗せたゴンドラは、ネオ・アドリア海を進んでいた。

 

女の子は、不安と驚きが入り交じった表情で、周りの光景に目を奪われていた。

 

両手はゴンドラのへりをしっかりと掴んでいる。

 

振り返るとそこには、耳のそばから伸ばした、ピンク色の長い髪を風になびかせて、灯里が嬉しさいっぱいの笑顔で前方の海に目を向けて立っていた。

 

灯里は、自分でも信じられないくらい、悠然とオールを漕いでいた。

 

それは、片手にグローブを着けた灯里にとって、はじめての経験だった。

 

サン・ジョルジョ・マッジョーレ駅にゴンドラをつけると、ふたりはそのまま、目の前にそびえ立つ鐘楼を登った。

 

陽が傾き始めた対岸の風景は、ふたりの心を震わせるほど素晴らしくて、しばらくそこから離れられそうになかった。

 

サン・マルコ広場の大鐘楼やマルコ・ポーロ国際宇宙港、その周りの街並みすべてが鮮やかにオレンジ色に染まっていた。

 

灯里は、まだそこにいようとする女の子を促して、ゴンドラで再びネオ・アドリア海に漕ぎ出した。

 

行きと違って、帰りは、その輝く海と、そこに浮かび上がる風景に思わず目を細めるほど、眩しさに満ちていた。

 

その時、灯里が何かに気付いた。

 

マルコ・ポーロ国際宇宙港近くの船着き場で、誰かが大きく手を振っている様子が見えた。

 

少しずつ近づくにつれ、その姿がはっきりとわかるようになってくる。

 

そこに立つ男性は、眩しそうに目を細めたながら、力いっぱい大きく手を振っていた。

 

自分の居場所はここだとわかるように。

 

そしてそれは、どう見ても灯里のすぐ目の前に座っている女の子に向けられていた。

 

その男性の笑顔は、これ以上ないくらい優しさに溢れていた。

 

 

 

 

 

その腕の力が、少しずつ緩んでいった。

 

それにつれて、苦しさで歪んだ顔の灯里の身体が、ゆっくりと床に崩れ落ちていった。

 

「灯里さん!」

 

アルピーナ婦人は、それを支えようと駆け寄っていった。

 

アージアは茫然と力なく立ち尽くしていた。

 

いつの間にかアージアの背後には、アロンソが立っていた。

 

サバイバルナイフを持ったアージアの手ごと、握りしめていた。

 

灯里の首を締め付けていた腕は、アロンソが肘のあたりを掴んでいた。

 

アルピーナ婦人は、灯里を抱き抱え、そばのソファーに座らせた。

 

「手を・・・振ってました・・・」

 

苦しそうな表情の灯里が、何か呟いていた。

 

「どうしたの灯里さん?」

 

「手を振ってたんです・・・確かに」

 

「手を振ってた?どういうこと?」

 

灯里は、眉間にシワを寄せながら、ギュッとつぶっていた目を、かろうじて半分だけなんとか開けた。

 

「とても・・・とても優しい笑顔でした」

 

困惑している婦人の横で、灯里は必死に何かを伝えようとしていた。

 

「ねえ、アージアさん?」

 

アロンソからナイフをもぎ取られたアージアは、その場に座りこんで、壁にもたれ掛かっていた。

 

目は虚ろなままだった。

 

そのアージアに、灯里は振り返って話しかけていた。

 

「見えていましたよね?あなたにも」

 

聞こえているのか、アージアは虚空を見つめていた。

だがその表情は、確かに何かを見ているような表情だった。

 

「私には、そのひとの顔までは、ハッキリとはわからなかった。でも、とても優しい笑顔で手を振っていた。それだけは私にもわかりました。そしてそれは、アージアさん?あなたに向けられていた」

 

アージアは少し顔を歪めたような表情になった。

 

「あなたには、その顔が誰か、見えていたんですよね?」

 

その言葉を聞いた途端、アージアの目から涙が溢れだしていた。



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第五十二話 決着

 

灯里は、アルピーナ婦人が持ってきたコップの水を、なんとか両手で持ちながら口に運んだ。

 

「ありがとうございます」

 

それを少し口に含んだだけで、目の前のテーブルに置いた。

 

それとは対照的に、手にサバイバルナイフを持ったまま、アロンソが部屋の中を必死の形相で歩き回っていた。

 

すると、壁にもたれかかって茫然と座り込んでいるアージアの前で、アロンソはしゃがみこんだ。

 

「どこだ?彼女は、アデリーナはどこなんだ?」

 

アージアの虚ろな目は、目の前のアロンソを見ているようだったが、焦点は合っているようには見えなかった。

 

「おい!」

 

アロンソは思わずアージアの両肩をつかんで、力任せに揺すっていた。

 

「あの人には、アクアの海に返ってもらうのがいいと思った」

 

「何を言ってるんだ!」

 

身体を揺り動かされるまま、アージアの頭が、されるがままに前後に揺すぶられていた。

 

「きっと、アクアの水がキレイにしてくれるはずだから」

 

アロンソは、そうつぶやいたアージアの顔を凝視した。

 

「水?」

 

すると、アロンソは急に立ち上がって走りだした。

 

そして、バスルームの扉を力任せに開けて中に入っていった。

 

水がいっぱいに溜められたバスタブの中にアデリーナはいた。

 

蛇口から少しずつ落ちる水が、今にもバスタブを満たそうとしていた。

 

だがアデリーナの顔が半分近くまで、その水の中に沈み込んでいた。

 

アロンソは、そのままバスタブの中に片脚を突っ込んだ。

 

勢いよくバスタブの水が溢れて出た。

 

両手両足を縛られたアデリーナの身体を抱き抱え、水の中から引っ張りあげた。

 

そして、そのままタイルの床に倒れ込んだ。

 

「おい!しっかりしろ!」

 

アロンソはアデリーナの片方の頬をパンパン叩いた。

 

すると、アデリーナが苦しそうに眉間にシワを寄せ、むせるように息を吹き返した。

 

その様子を見たアロンソは、アデリーナを横向きに寝かせた。

 

アデリーナは咳き込みながら水を吐き出した。

 

アロンソは思わずタイルの床に座り込んでいた。

 

アデリーナは、そばにいる人物がアロンソだとわかると、顔を歪めたまま、ゆっくりと手を伸ばした。

 

そして、びしょ濡れのスーツの袖口を掴んだ。

 

アロンソは、その手をぎゅっと握りしめた。

 

 

 

部屋の中では、灯里の横のソファーに座っているアルピーナ婦人が心配そうに灯里に寄り添っていた。

 

「アデリーナさん、大丈夫だったみたい」

 

それを聞いた灯里は立ち上がろうとした。

 

だが、苦しそうにまたソファーに腰をおろした。

 

「無理しないで、灯里さん?」

 

その時、ドアが開く音がした。

 

ゆっくりとドアが開くと外の廊下の灯りが入り込み、恐る恐る誰かが覗き込む頭が見えた。

 

そして、小声で話す声が聞こえた。

 

「先輩?大丈夫ですか?」

 

アガタが、ゆっくりと足音がしないように忍び足で入ってきた。

 

両手にはスティック型のコードレスクリーナーを持っていた。

 

腰を低くし、それを前に突きだしている。

 

「アガタさん?そんなもの振り回さないほうがいいと思うけど」

 

アガタの後に続いて、アールドが入ってきた。

 

「いいんですぅ!何かあったら、これでやっつけてやりますから!」

 

ドアを閉じたアールドは薄暗い部屋の先を目を凝らして見つめた。

 

「なんかやけに静かだなぁ」

 

そう呟くと、壁の照明のスイッチを入れた。

 

部屋中の灯りが灯った。

 

すると部屋の奥に入ろうとしていたアガタがその場で立ち止まった。

 

「灯里さん!」

 

アガタは灯里の姿を見つけるなり、コードレスクリーナーを横に投げ出し、そばに駆け寄った。

 

「大丈夫なんですか?」

 

「うん、なんとか大丈夫」

 

「心配してたんですよ?予定の30分を過ぎても何も知らせて来ないからぁー」

 

「すみません、ご心配をおかけして」

 

「何を言ってるんですか!灯里さんたらぁー!もうー!」

 

その後ろに立って安堵の表情を浮かべていたアールドは、その横の方の壁にもたれかかって床に座り込んでいるアージアの姿を目に留めた。

 

アージアの前にしゃがみ込むと、ゆっくりと両手首に手錠をはめた。

 

アージアはされるがまま、そこからまったく動くこともなかった。

 

「灯里さん?アロンソはどこ?」

 

アールドは、アージアの虚ろな顔を見ながら、そう声をかけた。

 

灯里が何か言いかけたがしっかりと声にならなかった。

 

代わりに横にいたアルピーナ婦人がそれに答えた。

 

「先ほど、浴室で彼女を見つけたわ」

 

「見つけた?」

 

「大丈夫。安心して。アデリーナさんは無事よ」

 

するとその言葉と同時にアデリーナを両腕で抱き上げたアロンソが浴室から姿を現した。

 

「先輩・・・」

 

それを見たアガタが目に涙を浮かべてその場に立ち上がった。

 

目を閉じた、苦しそうな、やつれた顔のアデリーナを見てアガタは、心配そうにゆっくりと近づいて行った。

 

「先輩!」

 

そして、だらりと力なく下がったアデリーナの腕に思わずしがみついた。

 

「死んじゃイヤですぅー!」

 

どこかに電話していたアールドが、その叫び声に驚いてそちらに目を向けた。

 

「あっ、違うんです!大丈夫なんです!」

 

「ああー先輩ぃー!」

 

「本当なんですよ!」

 

「なんでなんですかぁー!先輩が~なんでぇ~こんな目に合わなきゃいけないんですかぁ~~!」

 

「あっ、いや、大丈夫なんですって!」

 

「せんぱい~~!」

 

「本当なんです!嘘ついてもしょうがないじゃないですかぁー!」

 

「ああ~~~」

 

「信じて下さいよ~~!」

 

すると、アデリーナがうっすらと目を開けた。

 

「先輩!気がついたんですか?」

 

「アガタ?」

 

「なんですか?なんでも言ってください!何か欲しいものでもありますか?」

 

「アガタ?」

 

「はい!」

 

「今、いいところだから」

 

「はぁ?」

 

うっすらと微笑んだ顔でそう言ったアデリーナの言葉を聞いて、アガタはその意味に気がついてアロンソを睨み付けた。

 

アロンソは何もなかったように、横を向いた。

 

「もう~~~~~!」

 

 

 

 

ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーの周辺は、騒然となっていた。

 

ネオ・ヴェネツィアの観光スポットとして注目されていたホテルで、いったい何が起きたのかと多くの人たちが取り囲んでいた。

 

正面玄関には多くの警察車両が停まり、派手に赤色灯を回転させていた。

 

厳戒体制になっていることを示すように、黄色い規制のテープが張り巡らされ、警察官が厳重に見張っていた。

 

そことは反対の、関係者出入口となっている裏口の方には、こちらも何台もの救急車が停車していた。

 

すべての救急車のバックドアが両側に開け放たれ、すぐにでも出発できる準備が整えられていた。

 

そこにストレッチゃーに乗せられたアデリーナが運ばれてきた。

 

乗せられた車両にアガタも一緒に乗り込んだ。

 

そのあとから灯里を乗せたストレッチゃーも出てきた。

 

そこにはアルピーナ婦人が付き添っていた。

 

それを止めようとした警察官を、アールドが制した。

 

それに微笑んだアルピーナ婦人が振り返った。

 

「逃げも隠れもしないから」

 

二台の救急車は続けざまに出発した。

 

アロンソとアールドは、その様子を並んで見送っていた。

 

やれやれといった表情で、アールドは頭を掻いた。

 

「ところで、あんたはいいの?一緒に行かなくて?」

 

アロンソは、けたたましい音を鳴らしながら走り去る救急車の姿を目で追っていた。

 

「ああ」

 

「そうなんだ」

 

すると、ふたりの背後の従業員出入口から、両脇を刑事たちに抱えられたアージアが姿を現した。

 

歩くのがやっとといった状態のアージアは、手錠をかけられたまま、もう一台の救急車に、刑事たちと乗り込んでいった。

 

「いろいろと検査を受けるんだとさ」

 

アールドは何かスッキリとしない表情で、そうつぶやいた。

 

「それと、ネオ・ヴェネツィアのとある運河で、ボートの上で男の死体が見つかったって。風体からあの705号室のアサドらしい。しかも、射殺されてた」

 

「アージアがそのアサドからの指示を待ち続けていた」

 

「そうだろうね。連絡も指示も、もう何も届くことはなかったんだよね。虚しい復習劇だったってことだよ」

 

アールドは少し感傷に浸っていた。

 

その横でアロンソがその様子を見ながら、アールドに向かって言った。

 

「それで、あんたはどうずるんだ?」

 

「どうするって、何が?」

 

「さっき、どこに電話してたんだ?」

 

「どこって、そりゃあ本部に決まってるでしょ?」

 

アロンソが顔を向けた先で、アルフ捜査官が深刻な表情で電話をしていた。

 

「捜査官ならそこにいる」

 

「ほんとだね。忙しそうだ」

 

「で?」

 

「で?ってなんだよ!」

 

「言わないつもりなんだな」

 

「な、なんだよ」

 

「じゃあ、あの話はなかったことでいいんだな」

 

「話し?なんの?」

 

「あの夜、あんたにホテルまで来るよう頼んだとき」

 

「ああ、あの夜でしょ?アガタさんと会うように電話してきたとき・・・」

 

アールドはそこで重要なことに気がついた。

 

「ちょっと、待ってよ?」

 

「おれに協力する代わりに、取引したけど」

 

「ああ!」

 

アールドは焦った顔でキョロキョロと辺りを見回した。

 

「いいんだよな?」

 

「ちょっと!それはないんじゃない?」

 

「じゃあどうする?」

 

「わかった!わかりましたー!降参ですぅー!アロンソ様!」

 

アールドはアロンソの背中に手を回すと、振り返って、なにやらコソコソと話始めていた。

 

「おい!お前たち!そこで何やってんだ?」

 

ビクッとしたアールドが、ゆっくりと振り返った。

 

そこには、アルフ捜査官が浮かない表情で立っていた。

 

「いやー捜査官?ご苦労様です」

 

「何コソコソやってんだ?」

 

「そんな、いい歳した大人がコソコソだなんて。それより、捜査官こそ浮かない顔して、どうかしたんですか?」

 

アルフは遠くを見つめるように空を見上げた。

 

「クレーム」

 

「クレーム?誰からですか?」

 

「あの人、見た目はすごく優しそうなのに、なんか怖い」

 

「怖い?捜査官が?」

 

「なんでなんですかって、すごく冷静に理詰めでくるんだよ」

 

「理詰め?」

 

「そう。あのゴンドラ協会の、お美しい理事様が・・・」

 

「それって、もしかしてアリシア・フロー・・・」

 

「顔を出せって言ってきた」

 

「言ってきたって、捜査官に?」

 

「ああそうだ!灯里さんの身の安全の保障を約束したじゃないか!ってな具合で・・・」

 

「まあそうですねぇ。約束したんなら、仕方がないんじゃないですか?」

 

「おい、ちょっと待て!忙しいから応援を頼んだらしいじゃないか?誰が頼みに行ったんだ?」

 

「誰って言われても・・・」

 

「アールド!」

 

「は、はい!」

 

「お前が代わりに行ってこい!」

 

「ええー?!」

 

助けを求めようと振り返ったが、すでにアロンソの姿はなかった。

 

「なんか、損してるぅー!」

 

 

 

 

埠頭沿いの海を一台のボートが疾走していた。

 

黒く日焼けした顔は、その実年齢が想像できないほど、力がみなぎっているようだった。

 

勢いよく風を受けた顔は目を細めていたが、怯むことはなかった。

 

そのボートの少し後方からヘリコプターが接近していた。

 

激しいヘリの爆音が、みるみる近づいてくる。

 

しかも、そのヘリの下には長いはしごのようなものが吊り下げられていた。

 

そして、その一番下のところには人がしがみついている姿があった。

 

その勇敢な姿はさながら、たてがみを風に吹かれて疾走するライオンのようだった。

 

アレッサンドラ・テスタロッサは、眼下に見えるボートに、その燃えるような目でロックオンしていた。

 

だが、そのボートの進む先に目が行くと、顔色が変わった。

 

大きな運河の入り口が見えていた。

 

〈あそこに入られると、ネオ・ヴェネツィアの市街地へ入り込まれてしまう!〉

 

そうなると、いくら人間場馴れしたアレッサンドラでも、うかつに手を出せなくなってしまう。

 

どんな被害が及ぶかわからない。

 

それに・・・

 

アレッサンドラは、ヘリの操縦士に指示を出した。

 

すると、ヘリは速度を上げて、ボートの前に回り込もうとしていた。

 

〈あいつには絶対ネオ・ヴェネツィアの土を踏ませない!〉

 

だが、その瞬間、銃声が轟いた。

 

そして、アレッサンドラの掴まっていたはしごの片方がプツンと切れた。

 

アレッサンドラは一気にバランスを崩し、絶体絶命の状態になった。

 

アイアート・ライデンが自ら操縦するボートから、ライフルを構えるアガシが姿を現した。

 

「あの女狐め!なんてしぶといんだ!」

 

アレッサンドラは片方の切れたはしごにしっかりとしがみついていた。

 

アガシは揺れ動くボートの上で、しっかりとライフルを構えた。

 

そして引き金を引いた。

 

だが、それに反応するようにアガシは身を屈めた。

 

アガシが目を向けた埠頭には、ボートと平行して走るジープの姿があった。

 

そのジープにはアガシに狙いを着けた男がライフルを構えて立っていた。

 

迷彩柄のアーミースタイルで決めたアダルベルトが、自分の身体をシートにくくりつけてライフルを構え、ピタリとアガシに狙いを定めていた。

 

「あんたが相当の腕の持ち主なのはわかるが、それも今日で見納めだ!」

 

アダルベルトが撃ってくるのに応戦するように、アガシもライフルを撃ち続けた。

 

だが、今度は上空のアレッサンドラも銃撃を始めていた。

 

器用に脇に挟んだライフルで撃ちまくっていた。

 

「バケモノか!あの女!」

 

アガシは両方からの銃撃に耐えられず、逃げるように海に飛び込んだ。

 

だがライデンはそれには一切構わずにボートを走らせていた。

 

もう後がないと判断したライデンは、その先に見えてきた運河に入り込もうと、必死にボートの操縦かんを握りしめていた。

 

だが、ヘリの音がボートの真上に接近した瞬間だった。

 

ライデンの目の前で、たてがみを風になびかせた、その美しきライオンがボートの上に降り立っていた。

 

燃えるような瞳が、圧倒的な威圧感で迫っていた。

 

「勝負あった!ジタバタするんじゃない!」

 

ライフルから拳銃に持ち変えていたアレッサンドラは、ライデンに照準をピタリと合わせていた。



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第五十三話 夢をみるとき

 

灯里は、ぼんやりと目を開けた。

 

そこに見えるのが、白い天井と照明の灯りだとわかった。

 

周りを見回したが、見慣れない光景に戸惑いが顔に浮かんでいた。

 

その時、ドアをノックする音がした。

 

灯里はそこで、自分がどこかの部屋の中で寝ていることに気がついた。

 

ドアがゆっくりと開いてゆく。

 

「灯里さん?」

 

そう言った男は、中を覗き込むようにしながら静かにドアを開けていった。

 

そこでベッドの上の灯里がドアの方に顔を向けた。

 

「あっ、ゴメン。起こしちゃった?」

 

アールドは、気を使うように部屋の外から声を小さくして話しかけた。

 

「アールドさん?」

 

「うん。いいかなぁ、入っても」

 

「どうぞ」

 

灯里は、まだはっきりしない表情で答えた。

 

「どうなの?」

 

「えーと、そうですねぇ・・・」

 

「どうしたの?大丈夫?」

 

「あの~~」

 

「なに、灯里さん?」

 

「ここどこですか?」

 

「ああ、そこね」

 

アールドは表情を崩すと、ドアを途中まで閉めながらゆっくりと話した。

 

「ここは病院だよ。灯里さん?ほら、ホテルでさあ、ちょっと大変なことがあったでしょ?あれで様子を診るために、少し入院することになったってわけ」

 

「ホテルで、大変なこと・・・」

 

灯里はアールドの言葉を繰り返した。

そして、見上げた天井に目の焦点が少しずつ合ってくると、顔つきが変わり始めた。

 

「確か、お部屋にお届け物をして、そこで中に入って・・・」

 

「そうだね。アロンソがワゴンの下に隠れてさぁ、何かあったらすぐに出ていくって言ってたくせに」

 

「そうだ!」

 

「ナニ?」

 

「どうなったんですか?」

 

「だから、灯里さんがアルピーナ婦人を助けようとして、3人で揉みくちゃになって」

 

「アージアさんは?アージアさんは、あれからどうなったんですか?」

 

アールドは、心配そうに話す灯里の顔を見ながら、八の字に眉を下げて呟いた。

 

「なんでさぁ、自分の首を締めた人の心配なんかしてるのかなぁ・・・」

 

 

 

 

アールドは、壁際にあったイスをベッドのそばにおいて腰かけた。

 

灯里は、まだ少し虚ろな表情で天井に目を向けていた。

 

「アージアは、彼女は今、検査入院してる。別の病院だけどね」

 

「そうなんですね」

 

「重要参考人だからね。ホテルの脅迫事件やアデリーナを襲った一件、ライデンの手下とも関わっていたし。結構な重要参考人だよね」

 

「アデリーナさんは?」

 

「彼女も入院してる。彼女はここの病院だから、時期が来れば会えると思う。ただ、騒がしいのが、付きっきりだけどね」

 

「アガタさんですか?」

 

「ご明答!」

 

灯里はクスッと小さく笑った。

 

「アガタさんにも会いたいです」

 

「心配しなくても、そのうちやって来るから。耳栓用意しておいた方がいいかもよ」

 

「はい、そうします」

 

「灯里さん、言うねぇー!」

 

ふたりは顔を見合わせて笑った。

 

「ところでさぁ、灯里さん?」

 

灯里は、少し表情を変えたアールドの方に顔を向けた。

 

「少し気になることを聞いたんだよねぇ?」

 

「なんですか?」

 

「あの時、僕がアガタさんと705号室に入った時、すでにアージアは壁にもたれて座り込んでたんだけど、なぜ、あーなったの?」

 

「なぜって、アロンソさんがアージアさんを捕まえて、それで・・・」

 

「うん、それは聞いてる。でも彼女、結構興奮してたって。それで灯里さんを盾にしたってことだったわけでしょ?アロンソはアデリーナさんがどうなっているかがわからないうちは、出るかどうしようか迷ったらしいんだけど、状況が危なくなって出たって言ってた」

 

「そうだったんですか・・・」

 

「僕が聞きたいのはそこじゃなくて、その前のこと」

 

「その前ですか?」

 

「つまり、アージアがなぜ、ためらったのかということ。アルピーナ婦人は、アージアが灯里さんの名前を聞いた途端、驚いて灯里さんの顔を確かめたって言ってたんだよね?それってもしかして、アージアは灯里さんのことを知ってたってことだよね?」

 

「そう・・・だったんですね」

 

灯里は考え込むように、天井を見つめた。

 

「それにアルピーナ婦人が、もうひとつ気になることを言ってたんだけど。灯里さんがしきりに、手を振ってたとか、誰かのことを言っているようだったとか・・・」

 

灯里はそれには答えようとしなかった。

 

アールドは言葉を続けようかどうしようか迷いながら、灯里の横顔を見つめた。

 

すると灯里がポツリとつぶやいた。

 

「不思議だったんです」

 

「どういうこと?」

 

「あの時、私も忘れていたことを、思い出したんです」

 

灯里は、シングルに成り立ての頃、ある少女と出会ったときのことをアールドに話した。

 

じっと海を見つめていた少女とサン・ジョルジョ・マッジョーレ島へ渡ったこと。そこにある鐘楼に登って、対岸の景色のすばらしさに思わず見とれていたこと。そして夕陽に染まるサン・マルコ広場の大鐘楼を目指して帰ったこと。そして・・・

 

「つまり、その時の少女がアージアだってこと?」

 

「わかりません。だいぶんと前のことなので。でも、一緒に見ていたから。だから、アージアさんもわかったと思うんです」

 

「それ、どういうこと?」

 

「あの時の光景を、アージアさんと見てたんです」

 

「ちょっとゴメン。わかるように話してくれる?」

 

「私にもわかりません。でも確かにアージアさんと一緒に同じ光景を見ていました。それだけは、はっきりとわかったんです」

 

「つまり、その少女がアージアで、一緒に体験したことを、その時、同時に思い出したってことなの?」

 

「たぶん」

 

「たぶんかぁ・・・」

 

アールドは思わず後頭部を掻いていた。

 

「それで、どうなったわけなの?」

 

「それが・・・」

 

灯里は少しためらうような表情になっていた。

 

「今となっては確かなことだとは言えないのですが、誰かが手を振っていて、それは明らかに私の目の前に座っていた女の子に向けてだったと・・・」

 

「それは誰かわからないの?」

 

「すごく眩しそうにしていて、でもとっても笑顔が印象的で・・・それはわかったんですけど」

 

「そうか。だから灯里さんはアージアに尋ねたんだね?アージアならそれが誰かわかったんじゃないかと」

 

アールドは、何か少し納得したような仕草をした。

 

それを見た灯里は、アールドに真剣な顔で見つめた。

 

「何か知ってるのですか、アールドさん?」

 

「うーん、そうだなぁ。灯里さんはそれ以上、その時のことは思い出せないんだよね?」

 

「はい。それ以上は・・・すみません」

 

「謝らなくてもいいんだよ。ただね、ずっと気がかりだったんだよね。なぜ、アージアは思いとどまったのか。灯里さんの名前を聞いた途端様子が変わって、しかもふたり同時に忘れていた記憶を思い出すなんて。なんなんだろうってね」

 

「はぁ」

 

灯里は力の入らないため息をもらした。

 

「ただね、灯里さんの記憶に残っていた最後のシーン。それを聞いてもしかしたらって、思うところはあるんだよね」

 

アールドは、灯里の方をチラッと見た。

 

灯里はアールドの話しかけた言葉に、真剣な眼差しを向けていた。

 

それを見たアールドは、思わず苦笑いの表情で後頭部を掻いていた。

 

「まあ、あんまり細かいことまで話すのはどうかと思うんだけど・・・まぁ、いいか!灯里さんだし!」

 

「ええー!どういうことなんですかぁ?」

 

今度は表情の崩れた灯里の顔を見たアールドは、うれしそうにニヤリと笑った。

 

「多分なんだけど、アージアもその日、ネオ・ヴェネツィアから招待された子供のひとりだったんだと思う。彼女も孤児院で育ったんだ。だからその日出会った。灯里さんとね?」

 

「そうだったんですか・・・」

 

「彼女が生まれてからしばらくして母親は亡くなっている。父親とはもっと前に離ればなれになっていたから、その存在すら知らない。だけど、そんなアージアの父親代わりになっていた男がいたんだ。時折孤児院にやって来るその男を、幼いアージアは父親だと思っていたんだと思う。でも状況が一変した。ある事情で、会うことも一切なくなってしまった」

 

「どうしてなんですか?」

 

「灯里さんもそう思うよね?なんでそんな可哀想なことをってね。実はその親代わりをしていた男は、アージアの本当の父親から目をかけてもらっていて、裏切るわけにはいかなかったんだ。だから、その実の父親がアージアとの繋がりを、母親が亡くなったことをいいことに切ってしまおうと思った。だから、父親代わりをしていた男も会うわけにはいかなくなった。会っていたら、それは裏切りになってしまうからね」

 

「そんなぁ・・・」

 

灯里は悲しそうな顔でアールドを見つめていた。

 

「でもね、本当は面倒を見ていたんだよ。内緒でね。だから、大きくなって、看護師の仕事についたのを知って、とても嬉しかったらしいんだよね」

 

「えっと、アールドさん?」

 

灯里はさっきまでの表情とは一変、少し不思議そうな顔になっていた。

 

「だけど、途中から歯車が狂いだしたんだ」

 

「だから、あの、なんでそんなに・・・」

 

「えっ、ナニ?」

 

「ああ、いーえ、どうぞ続けてください!」

 

アールドの詳し過ぎる話に、灯里は苦笑いするしかなかった。

 

「それでね、ある時、そのアージアがホテルの仕事を始めたんだ。なぜそんなふうに仕事を急に替えたのかなって思ったんだけど、先程の灯里さんの話を聞いたときに、ちょっとぴんときたんだよね。それってもしかして、その時の記憶が原因になってたのかなぁなんて思ってね」

 

「それって、もしかしてネオ・ヴェネツィアがきっかけということなんですか?」

 

「そうかもってこと。でもね、そのことがアージアの気持ちを狂わせることなるんだよね」

 

「どういうことなんですか?」

 

「そこで、あのエレノア財閥のご当主が登場となるわけ」

 

「アリーチェさんがですか?」

 

「そういうこと。灯里さんも知っての通り、お側付きのメイドであるアルマを気に入っていたアリーチェさんは、身寄りのない彼女を哀れんで色々と調べた。もちろん善意だったわけだけど。そこで結果としてアルマの生まれの秘密を知ってしまう。しかも妹の存在という事実まで知ることとなる」

 

「よくなかったように聞こえますが?それって、家族が見つかったということになるんじゃないんですか?」

 

「それだけで終わってたらなんだけどね」

 

灯里は不安と困惑を同時に抱えた表情になっていた。

 

「父親代わりをしていた男は、自分の力を使ってアージアを自分が支配人を務めるホテルに採用する。ほんとはそこまでの実力はなかったんだけど。そこで、運命の出会いをすることになるんだ」

 

「あのー、もしかして、そのホテルって・・・」

 

「わかった?」

 

「はい。つまり、再会をしたってことなんですよね?」

 

「灯里さん?そんないい話だったら、今回の事件はそもそも起こらなかったんじゃない?」

 

「そう言われてみると、確かに・・・」

 

「運命の出会いをしたのは、父親代わりの男と一緒に、裏切りの存在とも言うべき人物とも」

 

「どういうこと・・・」

 

灯里は、自分でも気がついたことを、考えたくはない気分だった。

 

「そうなんだよね。アデリーナさんは、彼女たち姉妹にとって、父親だと思い込んでいたアデルモ氏の、裏切りの象徴だった。アデリーナさんは、アデルモ氏にとって、唯一の本当の娘だったからね」

 

それを聞いた灯里は、これ以上ないくらいに大きく目を開けていた。

 

「えっ!アデリーナさんて、支配人さんの娘さんだったんですか?」

 

「えっ!て、どういうこと?知らなかったの?」

 

「いつからそんなことになってたんでしょうか~~?」

 

「結構前からだと思うけど」

 

「そうか。どうりで大変なことだったんですね~~」

 

「なんなんだろう、この人って」

 

 

 

灯里は、ベッドの上に起き上がって、大きなクッションを背に座っていた。

 

アールドがやって来たときよりも、しっかりとした表情になっていた。

 

「灯里さんは、どう思う?」

 

アールドは、灯里の横顔に向かってたずねた。

 

「やっぱりあれは、あの手を振っていた人って、支配人さん、アデルモさんだったってことなんでしょうか?」

 

「結論からすると、そういうことになるんだろね。アージアは、自分はひとりきりだと思っていたのに、姉がいることを知った。しかも、幼い自分を捨てていなくなったと思っていた男には、別に娘がいて裏切られたと思っていた」

 

「だとすると、あの笑顔はなんだったんでしょうか?あんなにもやさしそうで、あんなにも温かい気持ちになる笑顔って・・・」

 

アールドは、それを聞いて少し下を向いてしまった。

 

「アールドさん、どうされたんですか?」

 

「灯里さん?僕は仕事柄、いろんな人の人生を見ることには慣れてるつもりなんだけど、こういうのって、ちょっと辛くなるんだよね」

 

「どういうこと・・・」

 

「その男の人が手を振っていたという光景なんだけど、もしかして、アージアの夢だったりするんじゃないかと」

 

灯里は驚いた表情でアールドの方に向いた。

 

「でも私も見ました!あの時、アージアさんと見たんです!」

 

「でも灯里さんには、顔がわからなかったんだよね?」

 

「だって、その時はまだ、支配人さんとは会ってなかったから・・・」

 

「逆だよ、灯里さん?知らない人だからこそ、何かイメージくらい残っていてもいいんじゃない?」

 

「だから、とても笑顔で、とてもやさしそうで・・・」

 

灯里の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

 

「それじゃあ、アージアさんと会ってたのは、あれも夢だったんですか?私の記憶ではないんですか?」

 

「それはわからない。灯里さん自身も忘れてたって言ってたよね?何かのタイミングでふたりの記憶が重なってしまったとしかいいようがない」

 

「でも、アージアさんは、私の名前を聞いて何かを思い出したって、アルピーナさんがいってたんですよね?」

 

「確かにそうは言ってたね」

 

「それじゃあ・・・」

 

「灯里さん?大丈夫?」

 

灯里はうつ向いて涙をポロポロ流していた。

 

「そんなの、悲しすぎます」

 

アールドは大きなため息ををついて、また後頭部をかいていた。

 

「灯里さんとアージアが見た光景は、アージアが幼い頃から望んでいた光景だったのかもしれない。でもそれと灯里さんが繋がった。それはアージアにとって、ただの夢でなくて、誰かと一緒に見たことで真実になったのかもしれない」

 

「でも・・・」

 

「灯里さん?誰でも夢は見るものじゃない?僕は時々それでもいいんじゃないかって思うときがあるんだよ。だって、それがその人にとって、救いになるんだったらってね」

 

アールドは、ポケットから出したハンカチを、そっと灯里に差し出した。

 

それで鼻をかんだ灯里は、まだ目に涙を浮かべながらアールドに向かって言った。

 

「アールドさんのお話しは、夢ではないんですよね?」

 

「ナニ?いきなり」

 

「なんでそんなに、色々とお詳しいのですか?ちょっと、おかしくないですか?」

 

「おかしいって、どういうこと?刑事だよ、これでも」

 

「いったい誰なんですか?アールドさん!」

 

灯里は、まだ潤んだ瞳でアールドをにらんで見せた。

 

「誰って、なんに見えるって言うの?」

 

「宇宙人!」

 

「まあ確かに、アクア生まれだからね。マンホーム出身の灯里さんからすると、間違ってないというか・・・」



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第五十四話 カナル・グランデS字化計画?

 

アールドが灯里の病室を出たあと、そこにアガタがやってきた。

 

それまで静かだった病室が一気に騒がしくなった。

 

矢継ぎ早に話すアガタの様子に、灯里は苦笑しつつも、嬉しそうだった。

 

アデリーナの様子やその後のホテルの状況など、いっさいがっさいをまくしてた。

 

その嵐のような時間が過ぎ去ったあと、今度は、灯里のことを聞きつけた藍華やアリス、あゆみやアトラ、杏までもが心配な顔でやって来た。

 

しかも、みんなそれぞれが、なんとか仕事のやりくりをして駆けつけた次第だった。

 

「なんでこういうことになるの?」

 

怒り心頭の藍華は、その場で両手を腰に置いて眉間にシワを寄せ、仁王立ちとなっていた。

 

「灯里も灯里よ!ホテルが大変な状況で、それを手伝うっていうから、こっちも協力したんじゃない?なんでそんな危なっかしいことに首を突っ込んだりしたのよ!」

 

そう言いながらも、藍華は少し涙ぐんでいた。

 

「藍華先輩、でっかい支離滅裂です」

 

「仕方ないでしょ!灯里がこんな無茶をするから・・・」

 

「藍華ちゃん、心配かけてゴメンね」

 

灯里は、気持ちがこみ上げてきた藍華の、その手をそっと握った。

 

「みんなにも心配かけてごめんなさい。でも、もう大丈夫だから。安心してね」

 

みんなはそれぞれ、灯里に声をかけ、病室をあとにした。

 

それからしばらくして、アリシアが花を持って現れた。

 

「灯里ちゃん?具合はどうなの?」

 

「お陰様で、大丈夫です」

 

「ごめんなさいね、すぐに来れなくて。いろんなことが次から次へと起こちゃって、どうしても離れることができなかったの」

 

アリシアはとても申し訳なさそうな顔だった。

 

「気にしないで下さい。アリシアさんの今の立場なら、当然のことだと思います。それより私の方こそ、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

 

「ううん、いいのよ。灯里ちゃんは、精一杯頑張っただけのこと」

 

「アリシアさん・・・」

 

「でも本当に大変だったわね。まさかこんなことになるなんて、思いもしなかったわ。私ね、警察の方にはちゃんと言ったの。灯里ちゃんの身の安全だけは、絶対お願いしますって」

 

「聞いてました。アリシアさんが、その事を強く言って下さったってこと」

 

「だからね、ちゃんと強く抗議しておいたから」

 

「アリシアさんが抗議ですか?」

 

「当たり前でしょ?ちゃんとゴンドラ協会まで来ていただいて、説明をしてもらったわ」

 

「ゴンドラ協会まで・・・ちなみに、どれくらいの時間、警察の方々はいらっしゃったのでしょうかぁ?」

 

「そうねぇ。6時間ほどだったかしら」

 

「6時間・・・」

 

灯里は涼しげな表情で語るアリシアを思わず見つめてしまった。

 

「あら、どうしたの?」

 

「いいえ、なんでもありません」

 

アリシアは呆れたように「ふぅー」と息を吐いた。

 

「仕方がなかったのだけど、私もお付き合いをしたわ。だからその日は一日仕事にならなかったわね」

 

「はぁ」

 

灯里はため息をのような声を漏らした。

 

でもそのあと、クスッと笑顔がこぼれた。

 

「アリシアさん、ありがとうございます。やっぱりアリシアさんがいてくれて、心強いです」

 

アリシアはそれを聞いて、にっこりと優しくほほえんだ。

 

「あらあら」

 

それからふたりは、これまでの積もり積もった話で時間を過ごした。

 

そして、そろそろアリシアがイスから立ち上がろうとした時だった。

 

「そういえば、灯里ちゃんに聞いておかないといけないことがあったの」

 

「何かあったのですか?」

 

「実はね、ある人が訪ねてきたの。どうしても謝りたいことがあるっておっしゃって」

 

「謝りたいことですか?」

 

「そうなの。ネオ・ヴェネツィアを守り切れなかったって。すごく悔やまれていたわ」

 

「悔やまれて・・・」

 

「その方、私に会うなりとても申し訳なさそうな顔をされてた。そして、灯里ちゃん?あなたにもって」

 

「私にですか?どういうことなんでしょうか?」

 

「それ以上は何も話されなかった。でも・・・」

 

アリシアは頬に手を当て、少し考え込むような仕草をした。

 

「あの方、多分だけど、アレッサンドラ・テスタロッサさんだったと思う」

 

「アレッサンドラさんが?ゴンドラ協会に来られたのですか?」

 

「はっきりと名乗られたわけじゃないのよ。普段の雰囲気とは少し違って見えたしね。でもそうとしか思えなかった」

 

「アレッサンドラさんを見間違えるなんて、そんなこと、あり得ないと思います」

 

「確かにそうねぇ」

 

「アレッサンドラさんが、一体何を悔やまれていたんだろう・・・」

 

灯里は、ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーの、あの豪華なロビーを颯爽と歩くアレッサンドラの姿が、今でも脳裏から離れずにいた。

 

そして、部屋へ案内したときに間近でみた、あの圧倒的なまでに美しく光る瞳が忘れられそうになかった。

 

「ところで灯里ちゃんは、アレッサンドラさんと知り合いなの?」

 

「そんなにお会いしてるわけじゃないです。ホテルのお客様として何度かお越しになられた時にお会いしているだけです」

 

「そうなの。でもなんだか、向こうは知っているような感じに見えたんだけど・・・」

 

「そうだったんですか?実は何度か一緒にお食事にって誘われていました」

 

「アレッサンドラさんから?」

 

「はい」

 

「そうなんだ」

 

「アリシアさん?」

 

アリシアはちょっと不服そうに口をとんがらせていた。

 

「いいわね、灯里ちゃん」

 

「あ、あの、それってどういう・・・」

 

「どうもこうもないわ。嫉妬よ、嫉妬♡」

 

「何をおっしゃってるんですかぁー!私の方が羨ましいに決まってますぅー!アリシアさーん!」

 

「もう、灯里ちゃんたら。うふふふ」

 

 

 

 

その大きな窓から見渡せる風景は、観る者を感動させる素晴らしさだった。

 

アリーチェ・エレノアは、ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーの最上階にある執務室から、ネオ・ヴェネツィア全体を見渡せる眺めに満足げな表情をしていた。

 

サン・マルコ広場の大鐘楼からサン・ジョルジョ・マッジョーレ島、そしてその向こうへ広がるネオ・アドリア海を望む眺めは、絶景以外の何物でもなかった。

 

すると、その部屋の重厚なドアをノックする音が鳴った。

 

「どうぞ」

 

副支配人が腰を低くして入ってきた。

 

「お呼びでございますでしょうか?」

 

「どうなの、最近の状況は?」

 

「はい、それはもう順調でございます、ご当主様!」

 

「あのね、前にも言ったわよね?その呼び方やめて頂ける?」

 

「そ、そうでございました!ご当主・・・はっ!」

 

「このままだと、どこかの野球チームのオーナーにでもならないといけなくなるでしょ?」

 

「ご当・・・オ、オーナー様は、野球がお好きなのですか?」

 

「そういうことを言ってるんじゃないの!」

 

その時、またドアをノックする音がした。

 

「もういいわ。肝心なところは実務者部隊に聞くから」

 

副支配人はホッと胸を撫で下ろした様子で執務室を出ていった。

 

それと入れ替わるように、第一秘書のアレグロが入ってきた。

 

「失礼します」

 

「今度は何かしら?」

 

アレグロは、大きなゆったりとしたチェアに、その小さな身体をどっかと委ねるように座ったアリーチェのそばまで歩みよってきた。

 

「医療チームからの経過報告でございます」

 

「わかったわ。教えて」

 

「まずは水無灯里様ですが、精密検査の結果、異常は見つからなかったということで、間もなく退院となります」

 

「あのウンディーネね。それはよかったわ」

 

「次にアデリーナ様ですが、かなり衰弱されていたようでして、今しばらくは入院が必要だということです。それで特に異常がなければ、無事退院の運びとなるかと」

 

「それはなによりね。ただ、彼女にはまだ、試練と向かい合う仕事が待っているわね」

 

「はい、少し大変なお仕事となりそうです」

 

「そうね。それで、その原因を作ったあやつはどうなの?」

 

「お嬢様?急に雑なお言葉になってらっしゃいます」

 

「いいの!続けて!」

 

「そのアデルモ氏ですが、特に問題はないとのことです」

 

「図太いわねぇ。いつの世も悪は栄えるというけれど、ホントね」

 

「それとアルマですが、やはり重要参考人ということで、警察の監視下での療養となりました」

 

「わかっていたことだったけど、仕方がないわね。いくら恨みがあったからといって、やってはいけないことがある。ただ、その原因を作ってしまった私にも、責任の一端はあるわ」

 

「そのことなんですが・・・」

 

「なに?」

 

「ネオ・ヴェネト州警察からお嬢様にもお話をお聞きしたいと、先ほど連絡がありました」

 

「そ、そうなの?」

 

「どうなさいますか?」

 

「どうなさいますかって?いい根性してるじゃない!どこへでも行ってやるわよ!見てらっしゃい!」

 

「あ、あの、お嬢様?警察とケンカをするわけにはいかないですので」

 

「そんなのわかってるの!はい!次っ!」

 

「次にアージアですが、アルマと同じく警察の監視の下となります。その上で、精神鑑定に図られるとのことです」

 

「確かにアージアについては、わたくしもそんなに良くはわかっているつもりではないですから。特に、アージアが思い止まった理由を、もう少し知りたいですわね」

 

「そうですね。それから・・・」

 

「まだいるの?それじゃあ病人だらけじゃないの?」

 

「その病人の中でも一番大変だった方、アレキサンドロ氏なんですが」

 

「そうだわ!忘れてた!で、どうなの?」

 

「一命はとりとめました」

 

「それは当然でしょ?ウチの医療チームをなんだと思ってるの!」

 

「幸いにも撃たれた銃弾は身体を貫通していたので、深刻な状態には至らなかったとのことです」

 

「こやつも図太いってことね」

 

「以上でございます」

 

「そうなのね・・・いや、ちょっと待って。あの女は?あの高慢ちきなイケスカナイ女はどうなったの?」

 

「それはもしや、アレッサンドラ様のことでしょうか?」

 

「それ以外何があるっていうの?」

 

「そうですね。アレッサンドラ様のことは一切わかりません」

 

「一切わかりませんて、何なのそれ?」

 

「お立場を察するに、今後もわからないままかと」

 

「そんなの、どうにでも調べれば済む話でしょ?」

 

「それが・・・」

 

アレグロは、急に言葉をつまらせ、目に涙を浮かべていた。

 

「どうしたの、アレグロ?もしや、あの女の身に何かあったの?」

 

「あったもなにも・・・」

 

「うそ!そんなことが・・・」

 

「今朝のニュースで」

 

「ニュースになったの?」

 

「はい。今朝のニュースで発表が」

 

「そんなことに・・・」

 

「芸能界を引退されるんです」

 

ドテッ

 

「アレグロ?あなた、なんの話をしているのかしら?」

 

「お嬢様!あのアレッサンドラ・テスタロッサ様が女優をお辞めになるというんですよ!」

 

「だからなに?」

 

「なぜそのような冷たい態度なんですか?一緒に同じ釜の飯を食った仲ではございませんか?」

 

「いつ!いつ食ったっていうの!聞かせてちょうだい!」

 

「やはりあの時、一緒に記念撮影を頼んでおくべきでした」

 

アレグロはしんみりした表情で窓から遠くを見つめていた。

 

「だから、あなたみたいな人とは撮らないのよ」

 

アリーチェは、アレグロの様子を呆れ顔で眺めていた。

 

すると突然、アレグロが大きく目を見開いた

 

「ずみません!忘れるところでした!」

 

「何よ今度は?」

 

「水無灯里様からご伝言を預かってました」

 

「伝言?あのウンディーネから?」

 

「はい。できれば、早い方がいいかもとおっしゃってました」

 

「急ぎの用ってこと?」

 

「そのようです。それについては、お嬢様のお力添えがあると有難いと」

 

「私の力添えって、なんなの?カナル・グランデを正確なS字にしろっていうの?」

 

「いくらそれを出来たとしても、ネオ・ヴェネツィア中から大ヒンシュクを買うのは間違いないです」



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第五十五話 タイムリミット

 

灯里は久しぶりに戻ったARIAカンパニーの店内を見回していた。

 

まだ早朝の時間ではあったが、窓から入り込む外の明るさのおかげで、灯りを点ける前の店内が、いつもと変わらない様子だとほっとしていた。

 

そこでカウンターのシャッターを開けた。

陽の光と海からの風が一気に流れ込んできた。

 

灯里は身体いっぱいに空気を吸い込むと大きくゆっくりと息を吐き出し、思いっきりの笑顔で目の前に広がるネオ・アドリア海を見つめた。

 

「ただいま帰ってきました!」

 

すると、灯里の足元で、これまたいつもの声が聞こえてきた。

 

「ぷいにゅーい!」

 

「アリア社長?ご心配お掛けしましたが、無事帰ってきました!」

 

「ばいちゃばいちゃばーい!」

 

灯里は姿勢を少し低すると、アリア社長と顔を見合わせてニッコリほほえんだ。

 

そして早速店内の掃除にとりかかった。

 

そこで壁に掲げているスケジュールボードを見た。

 

そこにあったはずの予定は、すべて消えていた。

 

ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーへの応援を頼まれ、急な話にも藍華やアリスたちが快く協力を申し出てくれたことで、急いでARIAカンパニーを飛び出していた。

 

その少し消え残った文字の跡形が、その時の慌ただしさを物語っていた。

 

医者からのアドバイスもあって、すぐには仕事に復帰する予定ではなかった。

 

だが、何も書き込まれていないスケジュールボードを眺めて、灯里は本来のウンディーネの仕事からしばらく遠ざかっていたことを実感せずにはいられなかった。

 

「仕事したくて、ウズウズしてるんじゃないの?」

 

その声に振り返ると、カウンターの外にアールドが立っていた。

 

いつものニヤけた顔だったが、どこかしら懐かしく思える。

 

「久しぶりだね」

 

「アールドさん、おはようございます!どうされたんですか?こんな時間に」

 

「こんな時間だから、さすがに大丈夫だろうと思ってね?」

 

「でもまだ早朝ですけど?」

 

「ゴメン。迷惑だった?」

 

「いえ、それはいいんですけど・・・」

 

「よかった。実は、この時間の方が都合がよかったもんでね?」

 

「はぁ」

 

アールドの意図がわからない様子の灯里は、ため息まじりの相づちを打っていた。

 

「灯里さんが是非リクエストに応えたいと言ったということだからなんだけど・・・」

 

「リクエスト?なんなんですか?」

 

「あれ、違うの?そう聞いたんだけど?」

 

アールドは不思議そうに顎にこすっていた。

 

「カフェ・フローリアンの件ていえば、わかってもらえるのかなぁ?」

 

「わたし、いったいなんの約束を・・・あのぉ、もしかしてなんですけど?」

 

「多分、そのもしかしてだと思う」

 

「そうなんですかぁー?」

 

「思い出した?」

 

灯里はパッと晴れやかな顔になっていた。

 

「アレキサンドロ様の奥様の件ですよね?もう無理なんだと思ってました!」

 

「確かにそう思うよね。それが普通だしね」

 

「でもどうして急に?」

 

「実のところ、今日がタイムリミットなんだ」

 

「タイムリミット?」

 

 

 

アレキサンドロの行動を疑っていた妻が直接ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーまでやって来たが、宿泊客の情報は教えられないと言われ、仕方なく帰ろうとしたとき、灯里が追いかけて事情を聞いた。

 

アレキサンドロがカフェ・フローリアンの話をホテルの女性従業員と話したことが疑いのきっかけだったが、実はその女性従業員とは灯里のことだった。

 

灯里は、車椅子生活を送っていた妻に、夫婦でカフェ・フローリアンに行くお手伝いをさせてほしいと申し出ていた。

 

アールドが言ったリクエストの意味は、そのことだった。

 

「外で待ってもらってるんだ」

 

アールドの言葉に、灯里は玄関のドアを開けた。

 

店に渡る桟橋の向こうに、杖をついたアレキサンドロ、その横には車椅子に乗った妻がいた。

 

そしてもうひとり、優しい笑顔の婦人が立っていた。

 

「アルピーナ婦人!」

 

「お久しぶりね。心配していたんだけど、元気そうでよかったわ」

 

3人を店内に招き入れた灯里は、少し離れたところにも、誰か隠れるように立っている人の姿を見つけた。

 

「あいつは、罰として手伝わせるために来させたんだ」

 

アールドの言葉を聞いて、物陰に隠れていた男が姿を現した。

 

「もしかして、アヴェリーノさん?」

 

「やあ、灯里さん!いや、ARIAカンパニーのアクアマリン!」

 

「はひっ!」

 

アヴェリーノは、灯里に会えた嬉しさのあまり、思わず駆け寄ろうとした。

 

「ステイ!しっ!しっ!」

 

アールドが追っ払うように、忙しく手をパタパタさせていた。

 

「こいつはね、こともあろうに私利私欲に走った大迷惑男なんだよ!自分のおじさんがやらかしたことも省みず、ましてや灯里さんに早くウンディーネの仕事に復帰して欲しいとか、違う目的でホテルに来やがったヤツなんです!」

 

「私が復帰って、どういうことなんでしょうかぁ?」

 

「違います!ボクは正真正銘の灯里さん推しなんです!」

 

「うるさい!お前に発言権はない!ステイ!」

 

アールドの厳しい叱責にアヴェリーノはシュンとなってしまった。

 

「灯里さんんもコイツには甘い顔を見せちゃダメですからね!」

 

「はぁ。よくわからないですが・・・」

 

「じゃあ、ボク、アヴェリーノがこれまでの経緯をかいつまんで・・・」

 

「ステイ!」

 

 

 

アヴェリーノの役割は、アレキサンドロ夫妻をゴンドラに乗せる手伝いをすることだった。

 

結果として、彼はホテルにおいて捜査の妨害をしたとなり、事件には関わっていなかったが、おとがめ無しとはいかなかった。

 

このあと、警察でたっぷりとしぼられることは避けられそうになかったが、今のアヴェリーノはまだそれには気づいてなかった。

 

だがそれ以上に厳しい結果となりそうな人たちが、灯里の目の前に集まっている。

 

「詳しいことは後で説明するから」

 

アールドは、お茶の用意をしようとキッチンに向かった灯里に、そっと耳打ちした。

 

そして、いよいよゴンドラでサン・マルコ広場へ向けて出発するとなり、外で待たされていたアヴェリーノがデッキを回ってやって来た。

 

アールドとアヴェリーノも手伝って、アレキサンドロ夫妻をゴンドラに乗せ、婦人の車椅子も折り畳んで乗せた。

 

その時、灯里はアルピーナ婦人の姿がそこにいないことに気がついた。

 

灯里がすぐに店内にもどると、婦人は、まだテーブルのところに座っていた。

 

「婦人は行かれないのですか?」

 

「私はここまで」

 

「どうして・・・」

 

理解できないでいる灯里のところに、アールドがやって来た。

 

「さっきも言った通り、タイムリミットなんだ」

 

「どういうことなんですか?」

 

「本当は、ここへ来ることもできないはずだったんだ。でも灯里さんが、アリーチェ・エレノアに人肌脱いでくれないかって頼んだでしょ?」

 

「私が頼んだことって、そんなことに?」

 

「あのご当主、事情聴取も兼ねて署までご足労願ったわけなんだけど、大変だったみたい」

 

「そんなにですか・・・」

 

「今回は、あのアイアート・ライデンを一応しょっ引くことができたわけで、ネオ・ヴェネト州警察としては株を上げたってわけ。そこに貢献したエレノアのご当主をじゃけんに扱うわけにもいかなく、協力しましょうとなったということなんだよね」

 

「はぁ」

 

「灯里さんがピンと来なくても無理もない。今度の件で、アクアにおけるエレノア財閥の存在感は確実に増したわけだし、しかも、悪との決別!なんて言っちゃてるしね」

 

「はぁ」

 

「それでもここが限界。これ以上の協力はいくらなんでも無理だね。なんせホテルの脅迫事件の首謀者だからね」

 

「はい・・・」

 

灯里たちは、アルピーナ婦人をひとり店内に残し、ARIAカンパニーを出発した。

 

灯里は、別れ際に言ったアルピーナ婦人の言葉がまだ耳に残っていた。

 

「ごめんなさい。あなたを巻き込むつもりはなかった。あなたのような、ネオ・ヴェネツィアを守ろうとした人を」

 

その後悔の気持ちが灯里には痛いほど伝わってきた。

 

それだけに、なぜこんなことになったのか。

 

ゴンドラは、サン・マルコ広場近くの船着き場に到着した。

 

そこには、ぜえぜえと苦しそうに息をしているアヴェリーノが、前屈みになって両手を膝の上に置いて、なんとか立っていた。

 

「はひっ!」

 

「あいつには走ってこいって言っといたから」

 

アールドはあっさりと答えた。

 

カフェ・フローリアンの開店時刻ちょうどに到着した灯里たちは、アレキサンドロ夫妻をオープンテラスのところまで案内した。

 

その時には気づかなかったが、ひとしきり時間が経過したところで、スーツ姿の男たちが周りを取り囲むようにして座っていた。

 

「灯里さん、時間だ」

 

アールドが腕時計に目をやってそう呟いた。

 

「えっ・・・あ、はい。わかりました」

 

その頃には、灯里にも事態を理解することができていた。

 

ただ、お客様を送り届けに来たわけではないことを。

 

アールドはばつが悪そうに後頭部をかいていた。

 

そして、一緒にテーブルを離れるように、灯里に合図を送った。

 

アレキサンドロ夫妻は、テーブルを立った灯里に感謝の言葉を送った。

 

その時の夫妻の優しそうな笑顔を、灯里は忘れることができそうになかった。

 

「奥さんはエレノア財閥の関連施設で面倒をみるとアリーチェ当主から申し出があったらしい」

 

そのアールドの言葉を聞いて、灯里は少し安堵していた。

 

「でも断ったらしい」

 

「えっ?」

 

「ひとりで頑張って、旦那の帰りを待つんだとさ」

 

「そうなんですか・・・」

 

テーブルから少し遠ざかったところで、灯里は振り返った。

 

テーブルには、アレキサンドロの妻だけが、ひとり座っていた。

 

アレキサンドロは、数人の男たちと一緒に遠ざかる後ろ姿だけが見えていた。

 

灯里はその瞬間、駆け出していた。

 

さっきまで座っていたテーブルに向かって。

 

アールドはその光景を見て、またもや頭をかきながら苦笑していた。

 

 

 

灯里は、アレキサンドロの妻を、彼女に言われた通りの場所まで送り届けた。

 

妻は、ひとり車椅子でその場を去っていった。

 

それを一緒に見送ったアールドとも、その場で別れることとなった。

 

「これで灯里さんともお別れだね」

 

「でもまたどこかでお会いすることもあるかもです」

 

「刑事なんかに会いたい?」

 

アールドはいつものニヤケ顔で笑ってみせた。

 

「じゃあ、これでホントにお別れだ」

 

「えっ、アールドさん?」

 

いつもの調子と違うアールドの声に、灯里は驚いていた。

 

「まさかさあ、ネオ・ヴェネツィアでの最後の仕事が、エレノア財閥のお使いだなんて思わなかったよ」

 

アールドは冗談まじりにそう言った。

 

 

 

 

灯里は、ネオ・ヴェネツィアの運河をゆっくりと回った。

 

仕事から離れて改めて見る風景は、少し空しさを感じていた灯里の心を癒してくれるようだった。

 

灯里の姿を見つけた人たちから、あちこちで声をかけられていた。

 

灯里は、ようやく本来の日常に戻ってきた気分を味わっていた。

 

そして、それは何にも変えがたい安心感にもつながっていた。

 

陽が傾き始めた頃、灯里はやっとARIAカンパニーへ舵を切る気持ちになっていた。

 

ゴンドラで向かう先に見えるARIAカンパニーの姿を見たとき、ホントに帰ってきたんだと、そんな実感を感じていた。

 

だが、近づいてくるARIAカンパニーのデッキには、誰かが立っている姿が見えてきた。

 

ベージュのコート、ブルーのジーンズ姿。

 

いつもの大きなサングラスをかけ、長い髪は片側の肩にまとめていた。

 

その姿は、一見スタイルのいい、どこかのモデルのようにも見えたが、灯里にはすぐにそれが誰なのかわかった。

 

灯里は、ゴンドラをそのデッキの下に寄せると、呆然とその姿に見とれていた。

 

「もうお仕事再開したの?」

 

その女性は、とても親しげに灯里に話しかけた。



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第五十六話 カフェラテのひととき

 

ゴンドラを係留し、急いでデッキに上がってきた灯里を待っていたのは、今や世間の注目の的の、あの美人女優アレッサンドラ・テスタロッサだった。

 

「お帰りなさい」

 

「ただいま・・・」

 

灯里は、かけられた言葉に思わず返事をしていたが、どう考えても違和感だらけの光景だった。

 

「もうお身体はいいの?」

 

「は、はい!大丈夫です」

 

サングラスを外したその美しい眼差しが、夕陽を背景に信じられないほどの輝きを放っていた。

 

灯里はその姿に思わず見とれてしまった。

 

「アレッサンドラさん?どうしてこんなところに?」

 

「そうね。今の私は、あまり出歩かない方がいいかもね」

 

アレッサンドラは穏やかにほほえんだ。

 

「あなたのゴンドラに乗せて欲しかったから」

 

「ゴンドラにですか?」

 

灯里は驚きを隠せないでいた。

 

「以前にも話したわ。是非灯里さんのゴンドラに乗せてほしいって」

 

「はい、そうでしたけど・・・」

 

「最後だしね」

 

「女優さんをお辞めになるとか?」

 

「それもあるけども・・・」

 

アレッサンドラは、ぼんやりと海の方に目を向けた。

 

 

 

アレッサンドラをひとり乗せたゴンドラを、灯里はゆっくりとネオ・アドリア海へと進めた。

 

夕陽にきらめく小さな波の連なりがゴンドラに当たり、その音だけが聞こえてくる。

 

そしてそれは、灯里の動かすオールのきしむ音と重なってゆく。

 

「静かね」

 

アレッサンドラがポツリとつぶやいた。

 

「はい、そうですね」

 

「こんなふうにネオ・ヴェネツィアで、ゆったりとゴンドラに乗って過ごすことが憧れだったの」

 

アレッサンドラはとても穏やかにそう言った。

 

「でもアレッサンドラさんは、確かペアのウンディーネとして姫屋にいた経験があるとお聞きしてましたけど・・・」

 

「そうね。ちょっと、いろいろと事情があったんだけどね」

 

「はぁ」

 

灯里はアレッサンドラの反応を不思議に思ったが、アレッサンドラがそれ以上話そうとしなかったので、灯里も聞き返そうとしなかった。

 

「私ね、本当にウンディーネになりたいと思ったことがあったの」

 

「そうだったんですね。でも女優さんになられた」

 

「そっちの方がなりやすかったから。向いてたんでしょうね」

 

「はひぃ~」

 

アレッサンドラは灯里の反応に思わず笑っていた。

 

「スミマセン・・・」

 

「だから、ゴンドラに乗るウンディーネに憧れていたの」

 

「アリスちゃんに憧れていたっていう話は本当だったんですね」

 

「そうね。それは本当だった」

 

そう言ったきり、アレッサンドラは話さなくなった。

 

ぞしてしばらくして、ようやく話を切り出した。

 

「灯里さんに謝らないといけないことがあるの」

 

「あ、あの、それなんですが、そんなことをゴンドラ協会でもおっしゃられたって、アリシアさんが言ってました」

 

「そうね。アリシアさんにも言わなければいけなかった。でも、本当はすべてのウンディーネにそうするべきだった」

 

「アレッサンドラさんがそこまでおっしゃられることって、どういったことなんですか?」

 

「それは・・・」

 

アレッサンドラはすぐには次の言葉を出そうとしなかった。

 

灯里は、そんなアレッサンドラの背中を見つめて待った。

 

「このネオ・ヴェネツィアを守り切れなかったこと」

 

それはアレッサンドラの後悔の想いがつまった言葉だった。

 

「昔、私を助けてくれたこのネオ・ヴェネツィアを守り抜くことが、私にとっての恩返しだと心に決めていたの。それなのに心ない奴らに汚されてしまった。これは私の役目だったはずなのに」

 

灯里は、落ち着いた口調ではあったが、その力強い言葉に聞き返すことが出来ずにいた。

 

そんな灯里に気づいたのか、アレッサンドラは振り返って微笑んで見せた。

 

「ごめんなさい。こんな話をして」

 

「あ、いえ、その・・・」

 

「何?」

 

「聞いてもいいでしょうか?」

 

「どうぞ」

 

「それをなんで私に話されるんですか?」

 

「それは灯里さんの想いに触れたから」

 

「私の想い、ですか?」

 

「灯里さんが、あのホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーに現れたとき、ほんとに驚いたのを今でもハッキリと覚えている。なんで、観光案内が仕事のウンディーネさんがここまでするんだろうと」

 

「それは成り行きといいますでしょうかぁ・・・」

 

「謙遜されなくてもいいの。あなたのネオ・ヴェネツィアに対する想いを知ったその時、私の心は決まったの」

 

灯里は改めてアレッサンドラの背中をじっと見つめた。

 

しっかりとした、背筋をピンと伸ばした姿。

 

でもよく見ると、意外なほど華奢に感じられた。

 

「そこまでおっしゃられるアレッサンドラさんて、一体どういった方なんでしょうか?」

 

アレッサンドラは驚いて振り返った。

 

「灯里さん?ホント?」

 

「えっと、何がなんでしょうか・・・」

 

アレッサンドラは前に向き直ると、背中を丸めて笑い声を押し殺していた。

 

「私、なんか変なこと、言いましたでしょうかぁ~~?」

 

「違うの!,灯里さんは、やっぱり灯里さんだなぁと思って」

 

「なんか、複雑です」

 

アレッサンドラは少し気持ちが落ち着いてくると、こう言った。

 

「ありがとう、灯里さん。あなたに会えて本当によかった。これで思い残すこともないわ」

 

「それって、本当に女優さんのお仕事は、もうされないということですか?」

 

「そう、ね」

 

アレッサンドラは楽しそうにほほえんだ。

 

「でも、アレッサンドラさん?」

 

「何?灯里さん?」

 

「来たくなったら、いつでも来てください。待ってますから」

 

その灯里の言葉を聞いたアレッサンドラは、少しの間黙り込んでいた。

 

そして、こう答えた。

 

「ありがとう。その時は是非お願いするわ。今から予約を入れておくから」

 

「はい!」

 

灯里は嬉しさいっぱいの笑顔で応えた。

 

「でもそんなに忙しいのって、アレッサンドラさんには別のお仕事ってあるんですよね?教えていただくことって、やっぱりダメですか?」

 

アレッサンドラは、心の底から嬉しそうに笑っていた。

 

「あ、あの~」

 

「ダメ!教えなーい!」

 

「ええーー!」

 

 

 

 

 

灯里は、いよいよ本格的に仕事に復帰する準備を始めていた。

 

そこで藍華とアリスたちと、時間ができた時に改めて会おうと約束していた。

 

そこはやっぱり、あそこしかなかった。

 

心地いい風が吹き抜けていくオープンテラスは、カフェ・フローリアン名物のカフェラテを楽しもうと沢山の観光客で賑わっていた。

 

「それにしても、とりあえずよかったわね」

 

藍華は腕を組んでひとり納得したようにうなずいていた。

 

「藍華先輩のいう通り、大事にならなくて、でっかいよかったです」

 

アリスも目を閉じて、うんうんとうなずいていた。

 

「心配かけてゴメンね」

 

灯里は二人を前に困ったように苦笑していた。

 

「あれでしょ?もうホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーには行かなくていいんでしょ?」

 

「うん、もう行かなくてもいいよ。だって、一応事件は解決したしね」

 

「灯里先輩?それって解決って言っていいんですか?」

 

「後輩ちゃん?どういうこと?」

 

「だって、話を聞いていると、なんでああなって、こうなって、そうなってってのかが、今もって不明です」

 

「確かにそうよねぇ」

 

「はぁ」

 

「はぁ~じゃなくて、どうなってるのよ?灯里?」

 

「元々私は、黒づくめさんを捜すことに協力することが目的だったから。誰だったかもわかったしね」

 

「黒づくめに“さん“をつけるのは、あんたくらいでしょうね」

 

「それで、事件の黒幕は誰だったんですか?」

 

「後輩ちゃん、あんた何?もしかして、小説でも書くつもりなの?」

 

「違います!結局のよころ、この大騒ぎはなんだったんだろうと思っただけです!」

 

「黒幕って言われても。アガタさんが言うには、全員が犯人だって言ってたけど」

 

「あのホテルの人でしょ?そんな小説みたいな話を真に受けてるの?」

 

「なんか、話が複雑でよくわかってないっていうか・・・」

 

「ああ、めんごめんご!あんたに聞こうとした私が悪うござんした!」

 

「藍華ちゃ~ん」

 

「でも灯里先輩は、絶体絶命のピンチだったわけですよね?その辺はどうだったんですか?」

 

「うん、それはそれで、警察の人も困ってた」

 

「警察の人が困ってた?灯里?あんた何やらかしたの?」

 

「違うよ!何にもしてないから!ただ、私の見た光景が、きっと何かに繋がったとしか思えないんだけど・・・」

 

「ああ、はいはい!後輩ちゃんも変なこと聞かない!」

 

「変なことですか?どこがですか?」

 

「あのね?」

 

と言って、藍華は灯里のおでこに手を当てた。

 

「この人は、まだ本調子じゃないってことなの!」

 

「ああ、なるほど」

 

「アリスちゃんまで~」

 

「そんなこと言ってもさぁ、灯里?いよいよ戻ってくるんでしょ?ARIAカンパニーのプリマ・ウンディーネとして」

 

「うん、そのつもり」

 

「灯里先輩も、本格的に再始動というわけですね」

 

「お待たせ♡」

 

「何それ?うぇ~~」

 

「藍華ちゃん!」

 

藍華はオーバーにのけぞってみせた。

 

その瞬間、イスごと倒れそうになった。

 

「藍華ちゃん!大丈夫?」

 

藍華は座り直すと、思わず灯里の言葉に反応した。

 

「ダイジョウブ」

 

「鼻つまんでる」

 

「解説はいいの!」

 

アリスは、ふたりのやり取りを聞き流すように、目を閉じてカップのカフェラテを一口飲んだ。

 

「相変わらずの漫才は、その辺にしておいて下さい」

 

「なっ!」

 

「そんなことより」

 

「灯里?そんな呼ばわりよ?わたしたちの会話」

 

「どうしたの、アリスちゃん?」

 

「ちょっと!ワタシのことは?」

 

「先輩方?そろそろ明日からの仕事のことを真剣に考えて下さい!」

 

「だから何?」

 

「チャリティーイベントを再開するって決まったらしいです」

 

「チャリティーイベント?」

 

「灯里?あんた、もう忘れたの?」

 

「灯里先輩?あれです。年に一度、ネオ・ヴェネツィアがいろんなところから子供たちを招待する、あのイベントです」

 

灯里は、アリスの説明を聞いて、驚いた顔になっていた。

 

「長らく行われてなかったのを、今回復活させることとなったわけです」

 

「後輩ちゃん?なんか詳しい感じみたいだけど、なんで?」

 

「それは当然です。だって、アテナ先輩がその復活をお祝いして、歌を披露することになってるからです!」

 

「そうなの?」

 

「そうなんです!あのサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の大聖堂で歌うんですよ!楽しみで仕方がないんです!」

 

「ちょ、ちょっと待って!あんた、いくつなの?」

 

「なんですか?」

 

「なんですかってねぇ、チャリティーなんでしょ?子供たちのための」

 

「そうですよ。決まってるじゃないですか?」

 

「決まってるのね」

 

「これは当然といえることなんです」

 

「なんでそんなに自慢気なわけ?」

 

「だってあのときも、アテナ先輩が歌ったじゃないですか?」

 

「アリスちゃん!いつのこと?」

 

灯里がいきなり二人の会話に入ってきた。

 

「いきなりどうしたの、灯里?」

 

「先輩、どうしたんですか?」

 

「アテナさんが歌ったって、そのチャリティーでってこと?」

 

「そうですよ。ちょうど地元のネオ・ヴェネト州の子供たちを招待することになった前回のとき、まだ現役のプリマだったアテナ先輩が急遽でしたが、リクエストに答えて歌ったって聞きましたけど・・・」

 

「確か、そんなこと、言ってたわね」

 

「アリスちゃん、藍華ちゃん・・・」

 

「どうしたの、灯里?」

 

「どうしてなんだろう、わたし、覚えてない・・・」

 

灯里は愕然としていた。

 

「だいぶんと前の話だしね。覚えてないとしても仕方がないんじゃない?」

 

藍華は心配そうに灯里の顔を覗き込んだ。

 

「なんで?そんな滅多にないイベントのこと、なんで私だけ覚えてないの?」

 

「灯里?そんなに深刻にならなくても」

 

「そうですよ、灯里先輩?先輩も今度のコンサートを見れば何か思い出すかも知れませんよ。今回もサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の大聖堂で行いますので」

 

「そうなの?」

 

「はい。今日もリハーサルで行ってるはずです。アテナ先輩」

 

灯里は、イスをガタンと音をさせて立ち上がった。

 

「何?どうしたの?灯里?大丈夫なの?」

 

「私、行ってくる」

 

「行くって、どこぉ?」

 

「サン・ジョルジョ・マッジョーレ島」

 

「なんであんたが行くの?歌うの?」

 

「聞いてくる」

 

藍華とアリスは、真剣な灯里の表情とは対照的に、ポカンと口を開けていた。

 

「後輩ちゃん?あんた、体温計持ってる?」

 

「いいえ。そんなもの、いくらプリマになったからって言ったって、いちいち持ち歩いてません!」

 

「そうよね」



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第五十七話 背中を押してくれる人たち

 

灯里は、目の前に近づいてくるサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会を見上げながら、ゴンドラを進めていた。

 

船着き場にゴンドラを係留すると、その場で少し考えるような顔で、改めて教会を見上げていた。

 

アテナがチャリティーコンサートを行う大聖堂の周辺には、そのための機材が多数置かれていた。

 

様子を伺うように大聖堂の入り口までやってくると、少し開いているドアの隙間から、中で行われているリハーサルの音が聞こえてきた。

 

恐る恐る中に顔を突っ込んだ灯里は、あちこちに目を走らせた。

 

「アテナさんは、どこにいるんでしょうかぁ・・・」

 

すると、その様子に気づいたスタッフのひとりが声をかけてきた。

 

「すみません。リハーサル中なんで、関係者以外の方はお断りしてます」

 

「あ、いえ、その・・・そうですよね」

 

灯里は中に突っ込んだ頭をゆっくりと戻そうとした。

 

「あれ?灯里ちゃん?」

 

スタッフと打ち合わせをしていたアテナが、その様子に気がついて声をかけてきた。

 

「アテナさん?お忙しいところ、スミマセンデス・・・」

 

 

 

 

「もういいの?」

 

「はい、お陰さまで」

 

ふたりは大聖堂のそばの、海の見えるところに腰かけていた。

 

ふたりのいる、ちょうど影になっているところから、陽射しにきらめく海が目の前に広がっている。

 

そして、その向こうにはサン・マルコ広場の大鐘楼が見えていた。

 

そのふたりのそばを心地いい風が吹き抜けて行く。

 

「でも、よかったわ。アリシアちゃんから聞いたときは、本当に心配したわ」

 

「ご心配をおかけして、申し訳ありません」

 

灯里は恐縮しきりだった。

 

「それでどうしたの?わざわざこんなところまで来るなんて」

 

「あの、実は、アテナさんにどうしてもお聞きして確かめたいことがありまして・・・」

 

「なに?」

 

アテナは、海に視線を移した灯里の横顔から、何か心配事を抱えていることがわかった。

 

「今回のようなチャリティーコンサートに以前にも出られたって、アリスちゃんから聞いたんですけど」

 

「そうね。だいぶんと前になるけど、出演したわ。出演したって言っても、ただのウンディーネとしてよ?」

 

「はぁ」

 

「あの時は急な話で、わたしもどうしようか迷ったんだけど、地元のネオ・ヴェネト州の子供たちを招待するということで、特別に協力してもらえないかということだった。それで、私が歌うことで何かのお役に立てるのだったらとお引き受けしたの」

 

「つまりその時はまだ、プリマとして観光案内をしながらということですか?」

 

「そうよ。忙しい最中だったけど、子供たちの喜ぶ顔を見ていると、疲れなんて吹っ飛んじゃったのを覚えてる」

 

「そうだったんですね」

 

そういう灯里の表情は、もうひとつ冴えないものだった。

 

「どうしたの?その時のことで、何かあるの?」

 

「その時のことで、他に何か覚えていることってないですか?」

 

「他に?」

 

アテナは考え込むように、うーんとうなってみた。

 

そして、はぁーと息を吐き出した。

 

「他ねぇ。他って、例えばどういうこと?」

 

「例えば・・・そうですねぇ・・・何て言えば・・・」

 

アテナは、灯里の困ったように顔を横目で見つめた。

 

「灯里ちゃんは、どうしてその時のことが気になってるの?」

 

灯里は少し黙り込むと、意を決したようにアテナの方に向いた。

 

「わたし、その時のことをはっきりと覚えてないんです」

 

「覚えてない?どういうこと?」

 

「わかりません」

 

灯里の表情から、事態は深刻なんだとアテナは感じた。

 

「灯里ちゃんにとっては、いつ頃のことか思い出せる?」

 

「多分シングルに成り立てのころだったと思います」

 

「そうか。アリシアちゃんとお客様をお乗せすることも、まだそうは経験してない頃よね」

 

「藍華ちゃんやアリスちゃんにはそれぞれの記憶があるのに、なぜかわたしだけ・・・」

 

「でも、なぜこのチャリティーコンサートなの?ここに何か大事なことがあるの?思い出さないといけないこと?」

 

灯里は、これまでアージアと一緒に見た記憶の断片のようなものが、本当のものなのか、違うものなのか、それらがはっきりしないことで、他の者に言うことをためらっていた。

 

しかも自分だけ記憶が曖昧なままで・・・

 

「灯里ちゃん、ごめんなさい。協力できなくて」

 

「アテナさん!謝らないで下さい!私がしっかりしてないことが悪いんです」

 

「だけど・・・」

 

アテナと灯里は、灯里のゴンドラを係留している船着き場まで、一緒に歩いてきた。

 

「気をつけてね」

 

アテナは、申し訳なさそうにしていた。

 

「アテナさん、わたしの方こそ申し訳ありません。お忙しいのに」

 

「大丈夫?行ける?」

 

アテナは海の向こうに見える大鐘楼に目を向けた。

 

「だ、大丈夫です。さすがに・・・」

 

灯里は思わず苦笑いになっていた。

 

「この風景を見て、何か思い出せればいいのにね」

 

「そうですね」

 

「あっ、そういえば、ええと・・・」

 

アテナはそう言って、ぼんやりと前方に視線を向けていた。

 

「どされたんですか?」

 

「あの時、確か、誰かが勝手に入って来て・・・」

 

「えっ、なんですか?」

 

「私は見てないんだけど、関係者の人が言ってたの。誰かが勝手に教会の鐘楼に上がってたって・・・」

 

「それ、本当ですか?」

 

「そうそう!思い出した!子供が勝手に入ってきて上まで登ってたって!」

 

「子供が・・・他には?他には誰かいなかったですか?」

 

「他ねぇ。でもあの時は、たくさん子供たちがいたから、誰もあまり気にはしてなかったと思うの」

 

「そうですか」

 

灯里の表情は明らかに落胆していた。

 

「でも」

 

「はい?」

 

「でもね?確か晃ちゃんが何か言ってたと思う」

 

「晃さんが?なんて言ってたんですか?」

 

「なんか、すごく怒ってた!」

 

「怒ってたんですか?」

 

「なんかね?プリプリ怒ってたわね」

 

「プリプリですかぁ・・・」

 

灯里は、困惑と苦笑が入り交じった複雑な顔になっていた。

 

「よろしく言っといてね?」

 

「はい?」

 

「行くんでしょ?晃ちゃんのところ」

 

「あ、はい。そのつもりですけど・・・」

 

「何かわからないけど、その大事なこと、見つかればいいわね?」

 

アテナは、そのいつもの優しい眼差しで灯里に微笑みかけた。

 

 

 

 

灯里は、観光客で賑わっているサン・マルコ広場周辺の船着き場を避け、少し離れたところにゴンドラを停めた。

 

そこから、晃が姫屋の後輩たちの実地訓練によく利用する船着き場へと向かった。

 

少しずつ観光客の数も増え始めて、賑やかさが感じられるようになってくると、緊張感であたふたしていた新人の頃の自分を、ふと思い出す。

 

だが、その周辺には姫屋のユニフォーム姿のウンディーネたちを目にすることはあっても、晃の姿はなかった。

 

「今日の研修は、もう終わったんだ」

 

灯里は、ぼんやりとその光景を眺めながら呟いていた。

 

その時、誰かが後ろから灯里の肩をツンツンと指先で突っついてきた。

 

「はい、誰で・・・」

 

「なんだ!そんなに私の実地訓練を受けたいのなら、そう言ってくれればいいのに!」

 

そこには晃が満面の笑顔で立っていた。

 

「はひっ」

 

「そうか!そうかぁ!」

 

「あっ、いえ、そういうわけじゃ・・・」

 

「遠慮するな!灯里と私との仲じゃないかぁ!」

 

「どんな仲でした?」

 

「まあまあ」

 

晃は困った顔の灯里の背中をポンポンたたいていた。

 

「あ・・・の・・・で・・・す・・・ね?」

 

「ん?どうした?」

 

 

 

灯里と晃は、観光客を避けるように、少し路地に入ったところにあった腰掛けに座った。

 

そのそばにあるタンブラーの中で、かわいい花たちがそよ風に揺れていた。

 

脚を組んで座った晃は、目を細めてその様子を見ていた。

 

だが、その横に座った灯里は、少し居心地悪そうにしていた。

 

「あのぉ」

 

「なんだ?なんでも言ってみろ?遠慮なんかしなくていい」

 

「はい」

 

「そのためにわざわざ来たんだろ?」

 

「ええ」

 

灯里は、穏やかに目を伏せて座っている晃の横顔を見つめた。

 

「なんか顔に書いてあるか?」

 

「い、いえ」

 

「それとも灯里?お前の知りたいことでも、書いてあるか?」

 

「晃さん」

 

「人目見てわかった。どうしても知りたいことがあるんだろ?いいから言ってみろ」

 

「はい」

 

灯里は前に向き直って、話始めた。

 

「晃さんは、以前このネオ・ヴェネツィアあったチャリティーイベントのこと、覚えてらっしゃいますか?」

 

「ああ、そのことか。もちろん覚えてる。近々またやるって話だな」

 

「その時のことをなんでもいいんです。教えていただけませんか?」

 

「そのときのこと?なんでそんなこと、聞きたいんだ?」

 

「わたし、はっきりと覚えてないんです」

 

「覚えてないって、どういうことなんだ?全然記憶にないってことなのか?」

 

晃は驚いた顔で灯里の方に振り向いた。

 

「いえ、全然てわけではないんですが・・・」

 

「覚えてないって。そりゃまた、どういうことなんだ・・・」

 

灯里はうつむいてしまった。

 

晃はその灯里の顔をじっと見つめた。

 

「その時のことで、なんか大切なことがあるんだな?」

 

「はい・・・」

 

「その調子だと、あまり詳しくは話したくないというわけか・・・」

 

「すみません。話せる時がきたら、ちゃんとお話します」

 

「そうか。わかった」

 

晃は大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。

 

「私が灯里に教えてあげられることといったらだなぁ・・・」

 

「あのぉ、アテナさんがおっしゃってたのですが」

 

「なんだ?アテナとは話したのか?」

 

「はい。実は先ほどサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会でお会いしました」

 

「そうだったのか。確かチャリティーコンサートをやるんだったな、アテナのやつ」

 

「はい。そこでアテナさんから、前回のコンサートのとき、晃さんが何かプリプリ怒ってたってお聞きしまして・・・」

 

「私が?プリプリ?なんだ、それ?」

 

「そんなふうなことをおっしゃってました・・・ですぅ」

 

「アテナのやつ、またいい加減なことを言いやがって!」

 

「ああ~それは~何か怒るようなことがあったということじゃあ~ないでしょうか~~?」

 

「怒る?」

 

「はい」

 

「あっ!」

 

「な、なんですか?」

 

「あった!」

 

「あったんですか?」

 

「あった!確かに!」

 

「それはいったいなんなんでしょうか?」

 

「灯里!」

 

「は、はい!」

 

「お前だぁ!」

 

「ええ~~!なんなんですかぁ~~?」

 

 

 

 

晃は、手を腰掛けの後ろについて、路地のアパートの隙間から空を見上げた。

 

はるか高く、白い雲が流れている。

 

「遠くからだから、はっきりとわかったわけじゃない。だが、確かに人を乗せたゴンドラがネオ・アドリア海を進んでいた。それも淀みなく、まっすぐに」

 

灯里は真剣に晃の話を聞いていた。

 

「だがな、すぐにわかったんだ。そいつは、そのウンディーネは、間違いなくペアだった」

 

「ペアだったんですか?」

 

灯里は大きく目を見開いていた。

 

「ああ。それだけはわかった。毎日多くのウンディーネを目にしているからな。それだけは確かだ」

 

「ペアですか・・・えっ、ちょっと待ってください!なぜそれが私なんですか?」

 

「ARIAカンパニーでアリシア以外といったら、お前しかいないだろ?」

 

「それはそうなんですが・・・」

 

「追いかけた!」

 

「あわわわ~」

 

「でも距離がありすぎた。途中で見失ってしまった。私としたことが・・・」

 

晃はまるで昨日のことのように悔しがっていた。

 

「よかったです」

 

「なんだ?よかったって!」

 

「ああ~~違うんですぅ~~」

 

灯里は思わずその光景を想像してしまっていた。

 

「そ、それで、結局、その後はどうなったんでしょうか?」

 

「当然抗議に行った!」

 

「あの~もしかして~」

 

「もちろんARIAカンパニーだ!」

 

「はひっ」

 

「そんなこと、他で言えるわけないだろ?いったいなんでそんなことになってるのか、直接聞くしかあるまい」

 

「それはその通りですぅ~」

 

「でもな、灯里?」

 

「はい?」

 

晃は急に真剣な顔になって言った。

 

「今でも忘れられない。あの時の、あいつの顔」

 

「アリシアさんの顔?」

 

晃は遠くを見るような目を、目の前のアパートの壁に向けていた。

 

「あいつ、言い切ったんだ。そんなことをするウンディーネは、うちには、ARIAカンパニーにはいないって」

 

「アリシアさんが?」

 

「そうだ。今思えば、お前を必死にかばったんだと思う。でも、それ以上にお前のことを本当に信じていたんだと思う」

 

晃は少ししんみりした顔になっていた。

 

「晃さん?それでどうされたんですか?」

 

「それからか?」

 

「はい」

 

「何もない」

 

「えっ、何も?」

 

「ああ、そうだ。何もない。だって、あいつに、アリシアにあそこまで言われちゃあ、どうすることもできないだろう?」

 

晃はそう言うと、少し表情を緩めて笑みをもらした。

 

「それに・・・」

 

「はぁ」

 

「あそこまで、人を信じきれるだろうかと、ちょっと羨ましかったんだ」

 

「羨ましい・・・晃さんが・・・」

 

「アリシアと、そして灯里?お前たちのことをなっ!」

 

「晃さん」

 

灯里は、清々しい表情で空を見上げる晃の横顔に思わず見とれてしまった。

 

「でも勘違いするな?」

 

「へっ?」

 

「ペアが人を乗せられないのは、今も昔も変わらないことだ!」

 

「はぁ~それはごもっともですぅ~~」

 

だがその灯里の反応を見た晃は、いきなり笑いだした。

 

「ハハハハハ!」

 

「晃さん?」

 

「お前、なんでそんなに恐縮しているんだ?」

 

「だって、晃さんが黙っていて頂いたおかげで、今日の私が、ここでこうして・・・」

 

「でも覚えてないって言ってなかったか?」

 

「それはそうなんですが・・・」

 

晃は脚を組み直すと、そこに肘をつき、頬杖をついて灯里の顔をじっくりと眺めた。

 

「あのな、灯里?」

 

「はい~」

 

「そんなふうに、あの時はこうだったとか、この時はどうだったとか、そういったことを相談するのに一番の適任者がいるだろ?」

 

「適任者?」

 

「そうだ!お前のすぐそばに!」

 

「私の、すぐ、そば・・・」

 

晃は灯里の背中を、また勢いよくたたいた。

 

「あぎだざ~~ん」

 

「さあ、行ってこい!行って、ちゃんと思い出して来い!プリマ・ウンディーネに戻るんだろ?ARIAカンパニーのプリマに!」

 

「はい!」

 

灯里は、晃の太陽のような笑顔に、背中を叩かれ・・・いや、押されて、その場を走り出していた。



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第五十八話 あずけた記憶

ゴンドラ協会の玄関のガラス扉を開けて、スーツ姿の男性が現れた。

 

その男性は外側に立つと、ドアの取っ手を持って中に向かって声をかけた。

 

すると中からアリシア・フローレンスが姿を現した。

 

アリシアは、その男性に笑顔で会釈した。

 

男性は、そうすることが当然のように、そして嬉しそうに笑顔で応えた。

 

軽く言葉を交わしてその男性と別れたアリシアは、正面の通り沿いにある運河の柵のそばで、ひとりポツンと立っている灯里を目にとめた。

 

「どうしたの?」

 

心配そうに声をかけたアリシアの前で、灯里はばつが悪そうに立っていた。

 

「お忙しいところ、すみません」

 

 

 

灯里とアリシアは、ゴンドラ協会から少し歩いたところにあるカフェに入った。

 

観光地の真ん中から離れたところにあるため、窓から見える通りは、穏やかに時間が流れているように見えた。

 

「灯里ちゃん、もういいの?」

 

「はい。お陰様でもうすっかりよくなりました」

 

「そうなの。よかった」

 

二人は運ばれてきた紅茶を口にした。

 

「それはそうと、急にどうしたの?」

 

「実はアリシアさんにお聞きしたいことがありまして・・・」

 

「聞きたいこと?何かしら?」

 

「はい、あの~」

 

「ん?何か困ったことでもあった?」

 

「そのぉ、実は、思い出せないことがあって・・・」

 

灯里は、これまでの経緯をアリシアに話した。

 

アリスからネオ・ヴェネツィアでチャリティーイベントが再開されることやアテナのコンサートがあることを聞かされたが、それを聞いた灯里は、以前のイベントの時のことがはっきりと思い出せなかった。

そして、その時のことを聞くためアテナと晃に会いに行ったことも伝えた。

 

そしてそれは、アージアと見た、あのイメージに繋がっていることも。

 

「でも、その時のことを、ちゃんと思い出せないんです」

 

「そうなの」

 

アリシアは、灯里の曇った表情を心配そうに見つめた。

 

「灯里ちゃんがそこまでのことを抱えていたなんて知らなかった。それは大変だったわね」

 

「はい・・・」

 

「つまり、灯里ちゃんは、その時の出来事が本当だったのかどうかを確かめたいってこと?」

 

「そうなんです!」

 

アリシアは、深刻な表情で見つめる灯里を心配そうに見ていたが、少し微笑んで返した。

 

「あの時のことは覚えているわ」

 

「本当ですか?」

 

「なぜかというと、その日あったことを、灯里ちゃんがとても嬉しそうに話してくれたから。私の帰りを待ちわびていたかのように次から次へと、ね?」

 

「そうだったんですか・・・」

 

「特に、あるひとりの女の子との出会いを、とても熱心に話してくれたわ。灯里ちゃんにとって、とても嬉しい出会いだったんだろうなぁと思った」

 

「アリシアさん!そうなんです!」

 

灯里はやっとのことで、知りたいことに近づけたような気分だった。

 

「それで私はなんて話したんですか?」

 

「その女の子がサン・ジョルジョ・マッジョーレ島へわたりたがっているように見えたけど、自分にはそれがまだできなかったから、どうしようか困った。その時、私から聞いたあるエピソードを思い出した」

 

「はい!そうなんです!アリシアさんが言ってた、お友達としてならっていう、あの話です!」

 

「その話をしたら、その女の子がとても嬉しそうに笑ったって」

 

「はい!それで教会へ行って、鐘楼にのぼって・・・」

 

「ネオ・ヴェネツィアの風景を一緒に見た。夕陽に染まる大鐘楼をよね?」

 

「はい!」

 

灯里は、やっとその時のことを思い出せそうになって、胸が高鳴っていた。

 

「そして、二人でサン・マルコ広場を目指して帰った」

 

「はい、そうなんです・・・」

 

灯里は急に表情を暗くさせた。

 

「どうしたの?灯里ちゃん?」

 

「それから、私、なんて言ってました?」

 

「なんて言ってたって、どういうこと?」

 

「だから、そこから先が・・・」

 

アリシアはうつ向いた灯里を、心配そうに見つめた。

 

「そういうことだったのね?」

 

「どうしてもそこから先が・・・」

 

「迎えに来てたって」

 

「えっ?」

 

「その女の子を誰かが迎えに来てたって言ってたわ」

 

「それは誰って言ってました?」

 

「誰かとは言ってなかったわ」

 

「言ってなかったって、なんでですか?」

 

灯里は、自分が体験したはずのことを、アリシアに問いかけていた。

 

「すみません」

 

アリシアは穏やかに微笑みかえすと、灯里の手を両手でそっと優しく握った。

 

「灯里ちゃんはね、こう言ったの。きっとその女の子のお父さんに違いないって。だって、その女の子がとても嬉しそうにしていたからって」

 

灯里はアリシアの言葉を聞いて目に涙を浮かべていた。

 

「灯里ちゃん?大丈夫?」

 

「ありがとうございます、アリシアさん。それが聞けただけでも良かったです」

 

「本当にこれでよかったの?」

 

灯里は、嬉しさと切なさが入りまじった複雑な顔に微笑みを浮かべて、アリシアに応えようとしていた。

 

 

 

 

灯里の気持ちが落ち着いてきたところで、アリシアは話を切り出した。

 

「でも、灯里ちゃんて結構大胆なんだと、とっても驚いたわ」

 

「えっ、どういうことですか?」

 

アリシアの意外な話の展開に、灯里は先ほどまでの感動的な表情はすっかり消えていた。

 

「だって灯里ちゃんたら、まだお客様を乗せた経験もなかったのに、いきなり女の子を乗せて、しかもサン・ジョルジョ・マッジョーレ島まで行っちゃうんだもん!」

 

「えっ・・・ええーー!」

 

「本当に覚えてないの?」

 

アリシアはイタズラっぽく灯里を見返した。

 

「アリシアさ~ん!本当なんですぅ~~」

 

「ホントに?」

 

「信じてください~~!」

 

アリシアは灯里の困った顔を見ると、少し安堵した表情になった。

 

「アリシアさん?」

 

「灯里ちゃんの言うことを信じるわ」

 

「よかったですぅ~」

 

「でも」

 

「で、でも?」

 

「でも、実はその後が大変だったわ」

 

「大変だったんですか?」

 

「あの時、灯里ちゃんには言わなかったけど、実は怒鳴り込んで来た人がいたの」

 

「ああ~、それは、先ほど聞いたような・・・」

 

「〈お前のところのウンディーネは、いったいどういうつもりだぁー!〉ってね」

 

「やっぱりそのようなことが・・・」

 

「知ってるの?」

 

「さきほど、晃さんにお会いしたときに、そんなようなことを・・・」

 

「聞いたのね?」

 

「はい」

 

アリシアはテーブルに頬杖をついて灯里の顔をじっくりと見た。

 

「あ、あの~」

 

「ホントにどうしようかと思ったわ」

 

「その節はご迷惑をお掛けして・・・」

 

「でも、晃ちゃんは一切口外しなかった」

 

「それもお聞きしました。アリシアさんが私を必死になってかばってくれたって」

 

アリシアは、窓の外に目線を移した。

 

「それって、灯里ちゃんにとって、とても大事な経験をしたんだと思ったの。これからウンディーネとしての日々を続けていったとしても、その先同じ経験をするとも限らない」

 

「アリシアさん・・・」

 

灯里はアリシアの言葉に胸が熱くなるような思いだった。

 

「アリシアさん?」

 

「なあに?」

 

「やっぱりその時の私って、まだペアだったということですよね?だから、晃さんが怒ってたということですよね?」

 

「そうね。灯里ちゃんは確かにペアだった」

 

「わたし、まだペアだったんですね・・・」

 

灯里は、やはり自分の記憶との違いに驚きを隠せないでいた。

 

「どうしたの?」

 

「私の記憶では、私はシングルなんです」

 

「シングル?ホントに?」

 

「片手にグローブをつけて・・・オールの感触もこの手に残っていて・・・」

 

「何かの勘違いじゃないの?」

 

アリシアは目を丸くしていた。

 

「私の記憶って、どこに行っちゃったんだろう・・・」

 

 

 

 

灯里はオレンジ色に染まる海岸沿いを進んでいた。

 

アリシアに気持ちを打ち明け、久し振りにいろんな話もできたことで、少し気持ちを落ち着かせることができていた。

 

そして、ARIAカンパニーの姿が見え始めると、戻ってこれたという安堵の気持ちになっていた。

 

だが、近づくにつれ、なにやら話し声が聞こえ始めていた。

 

灯里は目を凝らして見てみると、海に面したデッキのところに人影が見えた。

 

それもひとりではなく、三人ほどの・・・

 

すると、その中のひとりが灯里に向かって大きく手を振って来た。

 

「灯里さーん!」

 

灯里にはそれが誰かなのか、すぐにわかった。

 

灯里がゴンドラで近づいて行くと、そこにいる人たちが笑顔で迎えてくれた。

 

「アガタさーん!アデリーナさーん!それにアロンソさん!」

 

「お久し振りですー!元気してましたかぁー?」

 

「はい!お陰様で元気してましたー!」

 

アガタはデッキに上がってきた灯里と手を取り合うと、ぴょんぴょん飛び跳ねていた。

 

「アデリーナさんもお久し振りです!お身体の方はどうですか?」

 

アデリーナはニッコリ微笑んだ。

 

「私はお陰様で大丈夫よ。灯里さんの方こそ、お元気でなによりだわ」

 

灯里を挟んで、アガタとアデリーナはうれしさいっぱいの表情で、久し振りの再会を喜びあっていた。

 

「でも三人揃ってどうされたんですか?」

 

「それは決まってるじゃないですかぁー?灯里さんに会うためですよー!」

 

「そうなんですね」

 

灯里はアガタの勢いに思わず苦笑していた。

 

「灯里さんにも都合があるからって言ったのだけど・・・ね?」

 

「いいんですぅ!ねぇー?」

 

アガタは灯里の顔を覗き込むようにしてニッコリと笑った。

 

「うれしいです!来ていただいただけでも!」

 

「ほらぁー!灯里さんも言ってるじゃないですかぁー!」

 

「わかったから!」

 

灯里はそんなふたりから少し離れて立っているアロンソの方に、チラッと目を向けた。

 

アロンソは、穏やかな表情で眩しそうに海に目を向けていた。

 

「ねえ、灯里さん!今からでも、乗せていただけますか?ゴンドラ!」

 

「アガタ!無理を言っちゃ迷惑よ!」

 

「ええー?そうなんですかぁ?だって、また明日から忙しくなるから、こんなときぐらいしか時間がとれないじゃないですかぁ?」

 

アガタはとても残念そうな顔で、つないだ灯里の手を左右にゆらゆらと揺らしてみせた。

 

「大丈夫ですよ」

 

「本当ですかぁー?」

 

それを聞いたアガタは、今度はまるでダンスでも踊るように灯里の周りを跳び跳ねていた。

 

「もう!アガタったら!」

 

 

 

灯里は、アデリーナとアガタをゴンドラに乗せると、再びデッキに上がってきた。

 

「アロンソさんもどうぞ」

 

「いや、私はここで結構です」

 

そう言ってアロンソは軽く手を振ってみせた。

 

「そうですか」

 

ゴンドラの上でせかすように声をかけてきたアガタに合図を送って、灯里はアロンソに会釈をしてそこから離れようとした。

 

「灯里さん、ちょっと待って」

 

アロンソがその背中に声をかけた。

 

「実は灯里さんに渡すものがあって・・・」

 

「はぁ」

 

アロンソは上着の内ポケットに手を突っ込むと、何かを持ったその手を引き出した。

 

「それは?」

 

アロンソの手には、何か白いものが握られていた。

 

「アールドのやつからあずかってきたんです。どうしても灯里さんに渡せって言うもんだから」

 

「私に?」

 

灯里はアロンソの方に一歩近づいた。

 

「それって・・・」

 

「実はこれ、アージアの持ち物の中にあったものなんです。でもアージアには身寄りがなかったから、警察で一時預かることになってたんですが、アイツが、アールドのヤツが、これは灯里さんが持ってるべきものなんじゃないかって、しつこく言ってきたものだから」

 

灯里は一歩前に踏み出た。

 

その瞬間、灯里の顔色が変わった。

 

「それ・・・手袋・・・」

 

アロンソが手を開くと、そこにはウンディーネがオールを漕ぐ際に使う手袋があった。

 

だが、そこには片方の手袋しかなかった。

 

灯里はそれに釘付けになっていた。

 

「灯里さん?どうかした?」

 

灯里には見覚えがあった。

 

白いが、使い古された手袋。

 

それは、ARIAカンパニーのウンディーネであることの証の手袋だった。

 

「なんでそれが、アージアさんの持ち物の中に?」

 

「そこまではわからない。ただ、かなり大事にしていたようだった」

 

灯里は、それが自分が思っているものかどうかを確かめようと、その手袋に手を伸ばした。

 

その瞬間、灯里の全身に稲妻が走った。

 

目の前が真っ白になり、気を失うように意識が遠のいていった。

 

 

 

 

 

灯里はゴンドラの上にいた。

 

目の前には夕陽にきらめく海。その向こうには、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島が見えている。

 

眩しそうに目を細めるひとりの女の子が、海沿いの船着き場に立っていた。

 

灯里は一緒に行こうと女の子に声をかけている。

 

嬉しそうに笑った女の子に伸ばした手には、白い手袋があった。

 

そして、もう一方のオールを握る手にも。

 

女の子を乗せたゴンドラがまっすぐサン・ジョルジョ・マッジョーレ島へと向かっていた。

 

誰かが遠くから怒鳴っている声がかすかに聞こえてきたが、灯里は脇目もふらずに、オールをこぎ続けていた。

 

そこにあった教会は、神々しく輝いていた。

 

灯里と女の子は、躊躇することなく、その鐘楼を上っていった。

 

途中、どこからか、うっとりするような歌声が聞こえてきた。

 

その声に、心が満たされてゆくような幸せを感じた。

 

ふたりは、鐘楼の一番上から見える対岸の、夕陽に照らされたネオ・ヴェネツィアの街並みに目を奪われていた。

 

サン・マルコ広場の大鐘楼からは、荘厳な鐘の音が鳴り響いている。

 

下の方では、誰かがふたりの方を見上げて、指差していた。

 

ふたりは、そこから離れ難い思いで鐘楼をあとにした。

 

今度は、あの輝く大鐘楼を目指してゆくゴンドラ。

 

その時、女の子が振り返った。

 

そして灯里にこう言った。

 

「またいつか来てみたい」

 

灯里は「いつでもおいで」と応えた。

 

そして、片方の手袋を外すと、その女の子に手渡した。

 

これを見せてくれたらわかるから、と。

 

「大丈夫!私が保証するから!ちゃんと預けておくからね!」

 

船着き場に近づくと、誰かがその女の子に大きく手を振っている姿が目に入った。

 

ゴンドラを降りた女の子は、そこにいた男性に向かってかけていった。

 

そして、手をつないで歩き始めた女の子は、振り返って灯里に手を振った。

 

満面の笑みを浮かべて・・・

 

 

 

 

灯里は、夕陽の沈みかけたネオ・アドリア海の上にいた。

 

アデリーナとアガタは、向かい合うように座って、その心奪われる風景に見とれていた。

 

だが、アデリーナは、先ほどとは表情の違う灯里のことが気になっていた。

 

ゴンドラの向きが変わると、目の前に教会の島が浮かんでいるのが見えてきた。

 

すると、少しずつ、誰かの歌声が聞こえてきた。

 

アガタは、キョロキョロ辺りを見回していたが、目の前に浮かぶ教会を指差した。

 

アデリーナもそこへと目を向けた。

 

それは、心が洗われるような美しい歌声だった。

 

うっとりと耳を傾けていたアデリーナは、嬉しそうでいて、どこか寂しげな表情でゴンドラの上に立っている灯里の姿に目を奪われた。

 

夕陽が沈みかけた空の下、辺りが薄暗くなった風景の中で、灯里の姿だけを最後の夕陽が照らし出していた。

 

目を細めた灯里の表情は、アガタとふたりで見ている風景とは違うものを見ているようだった。

 

なぜだろうか。

 

アデリーナは、その灯里が見ている風景を、自分も見てみたいという思いに駆り立てられていた。

 



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第五十九話 物語の終わりと始まり

灯里は、すっかり暗くなった海を見ながら、カウンターのシャッターを下ろそうとしていた。

 

その時、入り口のドアをノックする音がした。

 

「こんな時間に誰だろう・・・」

 

少し不安をおぼえながら、ドアのところへ向かった。

 

「どちら様でしょうか・・・」

 

そう言いながら開けたドアの外には、先ほど別れたばかりのアデリーナが立っていた。

 

「どうされたんですか?」

 

「もう少しお話がしたくて」

 

アデリーナはニッコリと微笑んだ。

 

 

 

 

灯里はアデリーナの前に置いたカップに紅茶を注いだ。

 

「ごめんなさいね」

 

アデリーナはそばに立つ灯里の顔を見上げながら言った。

 

「いえ、大丈夫ですよ」

 

灯里はポットをテーブルに置くと、アデリーナの向かい側に座った。

 

「正直、驚きました」

 

「ご迷惑だった?」

 

「いえ。実は、私も少しアデリーナさんとお話がしたかったんです」

 

「そうなの?」

 

「はい」

 

灯里はアデリーナの不思議そうにしている顔に、にこやかにほほえんだ。

 

「あの」

 

「はい?」

 

「どうぞ飲んでみてください。今朝届いたカモミール・ティーです。いつもご贔屓にしていただいているお客さまが、私が復帰すると知って送って頂いたものなんです」

 

「そうなの」

 

アデリーナは、カップを手に取ると、その金色に輝く水面をじっと見つめた。

 

そして、ゆっくりと口をつけた。

 

「おいしい」

 

「よかったです」

 

「灯里さんには、こんなふうに、灯里さんの帰りを待ちわびている人がいるんですね」

 

「そう、ですね。ありがたいです」

 

アデリーナは感慨深くもう一度その紅茶を口にした。

 

そこからふたりは、先ほどまで見ていたネオ・アドリア海の夕暮れの風景のことを話した。

 

そして、そこに聞こえてきたあの美しい歌声のことも。

 

「アテナさんです。アテナ・グローリィー。私のとても尊敬している先輩であり、このアクアを代表する歌い手の方です」

 

「あの歌声はそうだったの?」

 

アデリーナは驚きとともに、とても意外そうだった。

 

「アデリーナさんもご存知だと思いますが、明日行われるチャリティー・イベントのための、コンサートのリハーサルなんです」

 

「そうね。明日だったわね」

 

「ホテルの方も何かやるんですか?」

 

「そうなの。ほらあの子、アガタも言ってたでしょ?明日から忙しくなるって」

 

「そうですね」

 

灯里は思わずほほえんでいた。

 

「それに、そのチャリティーイベントが終わったら、ホテルを以前のような状態に本格的に戻すことになるの。新オーナーの肝いりでね」

 

アデリーナは少しイタズラっぽく笑って見せた。

 

「そうだったんですね」

 

「それでね、灯里さん?」

 

「はい?」

 

「こんなふうに灯里さんとお会いできるのも、もうこの先、そんなにはないと思うの。だから、話しておこうと思って・・・」

 

「はい・・・」

 

「灯里さんも、もうご存知だと思うんだけど。私の身の回りにいろんなことが起こって、もちろん私自身にもいろんなことがあって、正直言って、まだ整理がついてない状態なの。それでも、アリーチェ様が私にこれからもホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーで働くように言ってくださって。しかもフロントを管理するチーフでって言って頂いて」

 

「そうなんですか?すごいですね!」

 

「本当に有難い話だと思う。彼女たちのことを、アルマやアージアのことを考えると、私もその責任の一端に関わっていた。知らなかったとはいえ、ホテルに迷惑をかけたのは事実」

 

「でもアデリーナさんは、どちらかと言えば、被害者なんじゃないですか?」

 

「そう言ってくれる人もいる。でも心苦しいのも事実としてあるの。わたし、これからどんな顔してロビーに立てばいいんだろうって」

 

「そうか。アデリーナさんの気持ちは、複雑なんですね」

 

「でもね、これからもあそこで働けると思うと、やり甲斐も感じてるの。よし!やるぞぉー!ってね?」

 

灯里はアデリーナの意外と思える態度に思わず笑っていた。

 

「えっ、何?わたし、そんなにおかしい?」

 

「違うんです。だって、まるでアガタさんみたい」

 

「ええー?そうなの?」

 

ふたりは、そのキーワードといえるような言葉に思わず笑っていた。

 

「アガタに言っておくわ!灯里さんが、こんなこと言ってたって!」

 

「ええー!アガタさん、仕事休んで文句を言いにくるんじゃないですか?」

 

「その反対!喜んで飛んで来ると思う!」

 

「そうかもですぅー!」

 

 

 

 

アデリーナはその紅茶の、最後の一口を飲み干した。

 

「ごめんなさいね。私の話ばかりで」

 

「いえ、そんなことありません。お話が聞けてよかったです」

 

「灯里さんは?灯里さんも話したいことがあるって」

 

「そうですね」

 

「もしかして、アージアのこと?」

 

「えっ?なんでわかったんですか?」

 

「さっきね、ゴンドラの上にいる灯里さんを見ていて、ふと、そう思ったの」

 

「はぁ」

 

「灯里さんは、あの時、私とアガタが見ている風景とは違うものを見てるんじゃないかって思った」

 

「違うものですか?」

 

「そう。そう思った時、なぜか無性にそれを見たいと思った」

 

「それって、どういうことなんでしょうか?」

 

「実は・・・」

 

アデリーナは少しうつむくと、何かを思い出すようにテーブルを見つめた。

 

「聞いたの。あの時、灯里さんが何かを見たって」

 

「それは・・・」

 

「それをアージアに問いかけたって。あなたも見たはずだと。アージアも何かを思い出したようになって、床に崩れ落ちた」

 

それを聞いた灯里もテーブルに視線を落とした。

 

「何を見たの?」

 

アデリーナの問いかけに、灯里は少しためらうように、すぐには答えようとしなかった。

 

「もし話すのが嫌だったら・・・」

 

「あの時見たのは、私とアージアさんの、一緒に見た記憶です」

 

「一緒に?一緒に見たってどういうこと?」

 

「私たち、会ってたんです。以前に」

 

「会ってたの?いつ?」

 

「私がまだウンディーネを始めた頃で、アージアさんはまだ小さかったと思います」

 

灯里は、自分が見たその光景をアデリーナに話した。

 

その時の光景は、ただの想い出ではなく、アージアにとっては大事な記憶になっていると、なぜか確信できたことを。

 

だが肝心の灯里の方は、記憶の断片をたどるような、本当のことだったのかどうかすら、確信が持てなかったことも。

 

「でも、それがさっき・・・」

 

「もしかして、アロンソと話してたけど、何かあったの?」

 

「はい。アロンソさんから渡されたものがあって・・・」

 

「何?渡されたって?」

 

「手袋です」

 

「手袋?」

 

「オールを握る時に使う、ウンディーネの手袋です」

 

「それをアロンソがなんで?」

 

「アージアさんの持ち物の中にあったらしいんです。それをアールドさんが私に渡すように言ったので、それで持ってきたって」

 

「その手袋って、灯里さんのものなの?」

 

「はい」

 

「どういうこと?なんでアージアがそれを持ってたの・・・」

 

アデリーナは何かに気づいたように驚いていた。

 

「もしかして、その時にってことなの?」

 

「たぶん」

 

「そんなことって・・・」

 

灯里はポケットから、アロンソから受け取った手袋を出して、テーブルの上に置いた。

 

「この手袋のおかげで、記憶がはっきりとしたんです。あの時、何があったのか。そして、なんで私の手袋をアージアさんが持っていたのかも」

 

灯里は目を細めて、いとおしそうに見つめた。

 

「私が渡したんです」

 

「どうして?」

 

「その時、一緒にゴンドラに乗った女の子が、また来てみたいって言ったんです。それなら、いつ来ても、それを見ればその時の女の子だとわかると思ったので」

 

「それがアージアだったっていうこと・・・」

 

アデリーナは、目の前にある使い古された、少し汚れた白い手袋をじっと見つめた。

 

「その時のことをアージアも思い出したわけなの?」

 

「そうだと思います」

 

「でもそれで、アージアはなんで思い直したんだろう・・・」

 

灯里もその手袋を見つめた。

 

穏やかに、でもどこか寂しげに、灯里はほほえんでいた。

 

「正直に言うと、私もよくわかってるわけではないんです。でも、あそこまでのことをしたアージアさんは、何かをとても憎んでいたのではないでしょうか?」

 

アデリーナはそれを聞いて、何か思い当たるような表情になった。

 

「そうね。それはわかるような気がする。ほんとは私がそれを言う権利はないのだけど」

 

「でも、それも必要なくなったんじゃないかと」

 

「どうして?誰も過去のことを精算できたわけじゃない。ただ、それがあったとわかっただけなのに?」

 

「すみません、アデリーナさん。わかったようなことを言ってしまって」

 

灯里はアデリーナの深刻な表情に恐縮していた。

 

「いいえ、少し感情的になってしまったわね。ごめんなさい。灯里さんの考えを聞きたかったのは、私の方なのに」

 

灯里は軽く微笑むとこう言った。

 

「もう要らなくなったんです。きっと」

 

「要らなくなった?アージアにとって、この手袋は大事なものだったんじゃないの?」

 

「これが私のところに戻ってきたってことは、この物語は、もう終わろうとしているんだと思います」

 

「物語が終わるって、どういうこと?」

 

「この手袋は、私とアージアさんが見た記憶を繋ぐ唯一の想い出だったんです」

 

「この手袋が想い出・・・唯一の・・・」

 

「おそらくなんですけど、アージアさんがアージアさんらしくいられた時の、大事な、数少ない想い出だったのではないかって。勝手な想像なんですけど」

 

灯里は照れ臭そうに、笑みを浮かべながら語った。

 

「だけど、なぜそれが、灯里さんだけがそういうことになったの?その時に初めてあったのよね?アージアとは」

 

「それはただの偶然だったのかもしれません。それでも、誰か、それがそうなんだと言ってくれるひとが必要だったんだと思います。アージアさんひとりでは、ちゃんと想い出として確信が持てなかったのかもしれません」

 

「つまり、灯里さんの記憶がそうだってこと?」

 

アデリーナは、灯里の話がまだ信じられないといった表情で、灯里を見つめていた。

 

「私の元に私の記憶が戻ってきたってことは、もう必要なくなったってことだと思います」

 

「そんなことって、あるの?」

 

 

 

 

「私、こうも思ったんです」

 

ARIAカンパニーの玄関のドアを出たところで、灯里はアデリーナの背中に向かってこう言った。

 

「また新しい物語が始まるんだって」

 

振り返ったアデリーナの、室内の灯りに照らされた顔は、とても羨ましそうにほほえんでいた。

 

「灯里さんて、なぜそんなに前向きなの?」

 

「私って、そんなに前向きではないような気がしてるんですけど・・・」

 

灯里は照れ臭そうに笑っていた。

 

「ぜんぜん前向きよね?」

 

アデリーナは、灯里の笑った顔を見てパッと表情を変えた。

 

「ありがとう、灯里さん。これで、少しは前を向いて歩けそうだわ」

 

「アデリーナさん」

 

「それと」

 

「はい?」

 

「それと、こんなこと言うの、ちょっと照れ臭いのだけど」

 

「はぁ」

 

「私も、頑張ることにする!自分の新しい物語を描いてゆくために!」

 

「はい!」

 

「でも責任とってよ?」

 

「へっ?」

 

「こんなこと言うキャラじゃないんだから!」

 

「ああ~~わかりましたぁ~~」

 

「わかったの?」

 

「あっ!たぶん・・・」

 

アデリーナは、灯里の困った顔を見て、いとおしそうにほほえんだ。

 

「じゃあ、また。いつか会う日まで、灯里さん」

 

「はい。いつか、きっと・・・」

 



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第六十話 でじゃびゅ?

 

アリア社長は、その開け放たれたカウンターの上で、キョロキョロと海の方を見回していた。

 

まあるいお尻が、左右にプリプリ動いている。

 

「アリア社長?何を探してるんですか?」

 

灯里の問いかけに返事もせずに、アリア社長はいっこうにやめる気配がない。

 

「アリア社長?いつまでやってるつもりなんですかぁ?もうそろそろ・・・」

 

その時、アリア社長が大きな声をあげた。

 

「ばいちゃ!ばいちゃーー!」

 

「アリア社長?」

 

灯里は、アリア社長の後ろ姿の、そのリアクションだけでなんなのかがわかった。

 

「帰ってきたんだね」

 

アリア社長は何かの動きに合わせるように、右から左へとカウンターの上を移動していた。

 

そして、階段からかけ上がってくる足音が、カウンターの方にやって来た。

 

「アリア社長!ただいまぁー!」

 

「ばいばいばいーー!」

 

その弾んだ声は、いっぺんに店内を明るくしていた。

 

「アイちゃん、お帰りー!」

 

「灯里さん、ただいまぁー!・・・って、なんでいるんですかぁ?」

 

「なんでって、いるとおかしい?」

 

灯里は困ったように苦笑していた。

 

「だって、今日は忙しくなるかもって言ってませんでした?」

 

「言ってたよ。でもほら、あれが急遽決まったでしょ?」

 

「あれって・・・ああ!あれですね!」

 

「そうそう!」

 

「だからヒマになったんですか?」

 

ドテッ

 

「あ、灯里さん?」

 

「違うよ~逆だよ~~」

 

「逆ということは、忙しくなったというわけですか?」

 

「その通りだよ~」

 

アイは、不思議そうな顔から、パッとひらめいた顔に変わった。

 

「わかりましたぁー!お手伝いします!任せておいてください!」

 

「任せておいてって、わかってるの?」

 

「もちろんです!あれですよね?チャリティーですよね?」

 

「そうなんだけど・・・」

 

「だからかぁ・・・」

 

「なに?どうしたの?」

 

「あずさが、今日は早く会社に戻るって言ってたんです」

 

「合同練習でってこと?」

 

「はい。今日は忙しくなるから、早く切り上げて戻ってこいって言われてたらしいです」

 

「そうなんだぁ」

 

「でも丁度よかった」

 

「どうして?」

 

「だってあのふたり、時々、やりにくいんです」

 

「あずさちゃんとアーニャちゃんでしょ?やりにくいの?」

 

「なんかあるごとに〈やっぱりARIAカンパニーのウンディーネは違う〉とか、〈さすがARIAカンパニーだね〉とか、とにかくうるさいんです!」

 

「そんな感じなんだね」

 

灯里は、プリプリ怒っているアイに笑うしかなかった。

 

「ところで灯里さん?私は何をすればいいですか?」

 

「そうだねぇー。今回は、地元のネオ・ヴェネト州の子供たちがたくさん来るから、とにかく案内だとか、道を教えたりとか、きっと、あちこち走り回ることになると思うよ」

 

「そうなんですかぁー?じゃあ間違いなく、私の出番ですね!」

 

アイの目がキラーンと光った。

 

「自信たっぷりだね。頼もしい限りだよ!」

 

「はい!頑張りますからねー!」

 

アイは腕まくりのまねごとをしながら、店内の拭き掃除をせっせと始めた。

 

灯里はその様子をほほえましく眺めていた。

 

「あっ、そうだった!」

 

アイが突然声をあげた。

 

「どうしたの、アイちゃん?」

 

「さっき、合同練習から帰ってくる途中、サン・マルコ広場の少し先の船着き場で、女の人に声をかけられたんです」

 

「女の人?なんて?」

 

「ARIAカンパニーのウンディーネさんですかって」

 

「へぇーそうなんだぁ。で?」

 

「そしたら、かわいいウンディーネさんねって言われまして」

 

「そうなんだね」

 

「そこはもちろん、ちゃんと〈はい!〉と答えておきました!」

 

「ああーなるほど」

 

「でもその方、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島の方をじっと見てたので、もしかしてあそこに行きたいのかなと思って・・・」

 

「ちょっと待って!まさか、違うよね?アイちゃん?」

 

「何がですか?」

 

「だって、そのぉー、まさか・・・」

 

「いいところですよねぇーって言いました」

 

ドテッ

 

「灯里さん?」

 

「いいのいいの。気にしないで。続けて?」

 

「それで行かれますかって聞いたんです」

 

「ア、アイちゃん?」

 

「でもふたりいっぺんに、いきなり乗せるって、ちょっと抵抗感がありまして」

 

「い、いや、乗せるって・・・えっ?ふたりも?」

 

「はい。その方、赤ちゃんを抱いていました」

 

「赤ちゃん?」

 

「さすがに、ちょっと荷が重すぎると思いまして・・・」

 

「アイちゃん?だからね?」

 

「大丈夫です。灯里さんが心配するようなことはしてません!」

 

「それならそれでいいけど」

 

「ペアなのにお客様を乗せるなんて、そんなバカなことするわけないじゃないですかぁー!」

 

「そ、そうだよね」

 

「当然です!じゃあお友達ならなんて、そんな反則技は、ペアでも無理です!」

 

「ごめんなさい!」

 

「灯里さん?なんで謝ってるんですか?」

 

「なんか、そんな気分だったから・・・」

 

「でもその方、なんかよく知ってるような感じでした」

 

「どういうこと?」

 

「アテナさんがサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の大聖堂で歌うのって、急遽決まったことでしたよね?でも知ってたんです、その方」

 

「知ってた?」

 

「はい。当然みたいに〈歌うんですよね?〉って」

 

灯里は、なぜか胸騒ぎに似た感情を抱いていた。

 

「昔にもあったんですよね?」

 

「昔って、誰に聞いたの?」

 

「アーニャが言ってました。昔、まだアテナさんが現役のプリマの頃に急に頼まれたことがあったって、アリス先輩から教えてもらったって」

 

「そう・・・あった・・・」

 

「灯里さん?」

 

灯里に、想い出の奥にしまっていたはずの光景が一気に甦ってきた。

 

「そうだった。鐘楼にあがっていって、そしたらとても素敵な歌が聞こえてきて・・・」

 

「灯里さん?なんでそのことを知ってるんですか?」

 

「えっ、どういうこと?」

 

「それって、その女の人が言ってた話ですよ?」

 

「えっ?」

 

灯里は急にその場に立ち上がった。

 

「ど、どうしたんですか、灯里さん!」

 

「私、行ってくる」

 

「行くって、どこにですか?」

 

「アイちゃん?その人と会った場所、教えてくれる?」

 

「場所って、会いに行くんですか?今から?」

 

「うん」

 

「もしかして、お知り合いだったんでしょうか?」

 

「うん。かも・・・」

 

「でも、もう無理だと思います」

 

「どうして?」

 

「だって、そこでお別れしました!その方とは!」

 

「別れた?」

 

「はい!」

 

灯里は、アイの返事を聞いて、力が抜けたようにゆっくりとそばにあったイスに座りこんだ。

 

その様子を見たアイは、ふぅ~~と大きく息をついた。

 

「灯里さん、大丈夫ですか?」

 

「うん・・・大丈夫だよ・・・」

 

「全然逆に見えますけど」

 

 

 

 

「灯里さん?今日はもう閉店にしますか?」

 

アイは、ぼんやりとカウンターから海を眺めている灯里の背中に話かけた。

 

「ゴメン、アイちゃん。もう大丈夫だから」

 

「そうですか?」

 

灯里はパッと振り返ると、アイに笑顔を向けた。

 

「今日は、忙しい日だからね。ガンバって行こうー!」

 

「おお・・・」

 

灯里に続いて、アイも拳をあげるまねをしてみた。

 

「あれ?」

 

「何ですか?」

 

「アイちゃん?手袋は?

 

アイは、ウンディーネの必需品といえる手袋をつけてなかった。

 

「あっ、そうでした!さっきも言われたばっかりだった・・・」

 

「さっきも?」

 

「着けてました、その時は。そのさっきの女の人に会ったときなんですけど・・・」

 

「どういうこと?」

 

「私、ちゃんと着けてたんですよ、手袋。でもその人が言ってたきたんです。手袋をなくさないようにって。きっと大事な想い出になるからって」

 

「そんなことを・・・」

 

「灯里さん?やっぱり今日は、もう閉店にしませんか?」

 

「やっぱり、行ってくる」

 

「行くって、どこぉ?」

 

「サン・ジョルジョ・マッジョーレ島」

 

「行ってどうするんですか?灯里さんも歌うんですか?」

 

「確かめてくる」

 

灯里はそのままデッキからゴンドラへとおりていった。

 

「ええー?ホントに行くんですか?」

 

アイはカウンターから身を乗り出すと、そそくさと海に出た灯里のゴンドラを呆れた顔で眺めていた。

 

「いったいどうするんですかぁー?チャリティーはぁー?」

 

「店番お願いー!」

 

アイはビックリした顔で振り返った灯里を見ていた。

 

「聞こえてたんだぁ・・・」

 

 

 

 

灯里はサン・ジョルジョ・マッジョーレ島へ向かう前に、アイの話から予想した、その女性と出会ったという場所を通っていった。

 

その時、遠くから呼ぶ声が聞こえてきた。

 

「ちょっとー!灯里ぃー!」

 

「へっ?」

 

「止まれー!止まりなさーい!・・・止まれって言ってるでしょうがぁーー!」

 

「はひっ!」

 

そこには猛スピードでやってくるゴンドラの姿が。

 

そして、そこに乗っている人の姿にも見覚えが・・・

 

「藍華ちゃん!」

 

「ちょっと!聞こえてんの?」

 

「なに?ちょっと急いでるんだけど」

 

「こっちだって急いでんの!」

 

「じゃあ、この辺で」

 

「そうね・・・って言ってる場合じゃないの!」

 

「なにぃ~?」

 

「ちょっとさぁ、あんたんとこの新人、やってくれるじゃない?」

 

「アイちゃんのこと?」

 

「そうよ!あのただ乗りの子よ!」

 

「何かあったぁ?」

 

「あったも何もないわよ!ペアの分際でお客様を乗せようとしたって言うじゃない?」

 

「お客様を?ああ、それ?」

 

「ああ、それって、どういうこと?」

 

「乗せなかったよ」

 

「そんな、あっさりとした答え方しちゃって」

 

「だってそうなんだもん。仕方ない」

 

「まあ~しらばっくれちゃって!あんたからも何か言いなさいよ!」

 

と言われたあずさが、藍華の後ろから姿を現した。

 

「あずさちゃん、いたんだ。お疲れ様~」

 

「灯里先輩、お疲れです」

 

「そう、挨拶はちゃんとしないと・・・って、そういうこと言ってんじゃないでしょ?」

 

「だって藍華先輩?私は遠くから見かけただけで、そうだとは言ってないわけですし・・・」

 

「あんたは、あの子と親しいからそんなこと言ってんでしょ?これとそれとは違うんだからね!」

 

「藍華ちゃん?」

 

「なにぃ?」

 

「じゃあそろそろ・・・」

 

「なに言ってんの?これは重大な問題で・・・ちょ、ちょっと!灯里ぃ!まだ話してるでしょ?」

 

「藍華先輩?」

 

「何よ!」

 

「あの人、後ろ向きで漕いでます」

 

「あれは、勢いつけるときにそうするの!」

 

「そんな方法があるんだぁ・・・今度アイちゃんに聞いてみようっと」

 

「そんなのあるわけないでしょ!」

 

 

 

 

灯里は、混雑し始めているサン・ジョルジョ・マッジョーレ島の、少し端の方にある船着き場にゴンドラを止めた。

 

そこから、駆け足で大聖堂まで急いだ。

 

コンサートのための機材やら何やらでゴチャゴチャしているところをすり抜けて、関係者出入口らしきところにたどり着いた。

 

「すみません。ここは関係者以外入ることはできません」

 

スタッフに止められてしまった。

 

「違うんです」

 

「関係者の方?パスはお持ちですか?」

 

「それが関係者でもないですし、パスも持ってないですけど・・・」

 

そのスタッフは、胸元の小さなマイクに向かって話始めた。

 

「今、スタッフの入り口に不審者が1名・・・」

 

「あわわわ~」

 

その時、灯里にはまるで天使のように、その声が聞こえた。

 

「灯里先輩?そんなところで何してるんですか?」

 

灯里の前には、アリスが驚いた顔で立っていた。

 

「アリスちゃ~~ん」

 

「なんなんですか?そんな気持ち悪い声出して!」

 

「私、不審者じゃないって言ってぇー!」

 

「もう!」

 

 

 

アリスは、入り口から少し入ったところにあるイスに灯里を座らせた。

 

「それで、いったいどうしたんですか?」

 

「それがちょっと、説明するとなると、時間がかかると思うんだけど」

 

「どういうことか、説明できないんですか?」

 

「うーん・・・」

 

「はぁ~」

 

アリスは頭を抱えた。

 

「できれば、アテナさんと話がしたいんだけど」

 

「灯里先輩!」

 

「はい!」

 

「先輩もわかってますよね?ここで今から何が行われるか」

 

「うん、わかってるつもりではいるけど・・・」

 

「もうすぐ本番なんですよ?アテナ先輩のステージ!」

 

「そうだよねぇ」

 

アリスは灯里の煮え切らない態度に、これ以上ないくらいの大きなため息をついた。

 

「わかりました!言ってください!私で協力できることがあれば、協力させていただきますっ!」

 

「アリスちゃん、ありがと~~やっぱりアリスちゃんはアリスちゃんだねぇ~」

 

「もうっ!」

 

 

 

「で、その人がどうしたんですか?」

 

アリスは諦めた様子で灯里に付き合うことに決めていた。

 

「忙しいのにごめんね」

 

「だったら早くしてください!」

 

灯里は恐縮しまくっていた。

 

「だからね、そういった赤ちゃんを抱いた女の人を見なかったということなんだけど」

 

「灯里先輩?」

 

「何?」

 

「見てください。外の様子を」

 

少し開いたドアの隙間から、たくさんの人々の様子が見えていた。

 

「先輩には悪いですけど、これだけの人がアテナ先輩を一目見ようと集まっているわけです」

 

「はい、そうだね」

 

「ですから、一人の人を探すなんて、無理なのはわかりますよね?」

 

「うんそうだね。ゴメンね」

 

その時、予想外の言葉が横から聞こえてきた。

 

「私、見ましたよ」

 

それは、あっさりと答えるアーニャだった。

 

「アーニャ?どういうこと?」

 

アリスは驚いて目を丸くしていた。

 

でもその横で、灯里が今にも涙を流しそうな顔をアーニャに向けていた。

 

「先ほど、赤ちゃんを抱いている女性の方がいらっしゃったので、席をご案内しようと思ったのですが、お断りになられて」

 

「それでどうしたの?」

 

「会場には入られずに」

 

「に?」

 

「あちらの鐘楼の方に行かれました」

 

灯里はそれを聞くと、勢いよく立ち上がった。

 

そして、そのままドアを出ていった。

 

「アリス先輩?」

 

「何?」

 

「今現在は、鐘楼も立ち入り禁止になってます」

 

「追いかけてぇー!不審者じゃないって説明してあげてぇー!」

 

「わかりましたー!」

 

アーニャは灯里の後を追って、ドアの外へ駆け出して行った。



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第六十一話 教会の浮かぶ島で

 

水無灯里は、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の鐘楼の前で立ち止まると、高く上の方を見上げた。

 

後ろの方からは、息を弾ませてアーニャがやってきた。

 

「灯里さーん!ちょっと待ってくださーい!」

 

灯里に追いついたアーニャは、その上の方を見上げている背中に話しかけた。

 

「アリス先輩から不審者じゃないことを説明するよう頼まれましたけど・・・灯里さん?」

 

「アーニャちゃん?」

 

「はい、えっと、どうかされましたでしょうか?」

 

「まだいるかなぁ」

 

「先ほどの女性の方ですか?うーん、どうでしょうかぁ~」

 

「じゃあ、見てくる」

 

「えっ、灯里さん?」

 

灯里は、アーニャの心配を気にすることなく、そのまま歩きだした。

 

鐘楼の入り口に立っている男性が、灯里の姿を見て一歩前に出てきた。

 

「あ、あのー、こちらの方は、けっして不審者ではなくてですね・・・・」

 

アーニャは、あたふたして説明に必死になっていた。

 

「灯里ちゃんじゃないか?久し振りだねぇー!」

 

「あれ?」

 

その男性は、灯里に笑顔で話しかけてきた。

 

それも相当親しそうに・・・

 

「お久し振りです。お元気されてました、司祭さま?」

 

「灯里ちゃんこそ元気そうで何よりだねぇ」

 

「あ、あの、シサイサマ?」

 

アーニャは二人の会話の前で、頭の上にはてなマークを浮かべていた。

 

そんなアーニャに、灯里は振り返って説明した。

 

「こちらは、教会の司祭さま。教会で何か行事があるときは必ず来られる、とても重要な立場の方です」

 

「そんなジューヨーな方がどうしてこんなところに・・・」

 

「なんでも手伝うのが私の流儀でな。こういうときは少しでも人手が必要じゃろ?」

 

司祭は親しげにアーニャに答えた。

 

「はぁ、そうなんですか・・・」

 

「あなたもお忙しいのにご苦労様ですな」

 

「あっ、初めまして!オレンジぷらねっとのアーニャと申します!」

 

灯里と教会の司祭は、アーニャの挨拶をにこやかに聞いていた。

 

「ところで司祭さま?赤ちゃんを抱いた女性の方が来られませんでしたか?」

 

「うん、先ほど来られたなぁ」

 

「その方は?」

 

「上がってもらったよ」

 

「そうなんですね!」

 

「なんじゃ?灯里ちゃんの知り合いだったかな?」

 

「そうなんです!」

 

「そうかそうか!じゃあ行っておいで」

 

「はい!ありがとうございます!」

 

灯里は弾んだ声で鐘楼の中に入っていった。

 

「ああ~」

 

アーニャは開いた口が塞がりそうになかった。

 

「これがいわゆる、アリス先輩が言ってた〈でっかい友達作りの達人〉ていうやつなんだ」

 

アーニャはそうつぶやくと、くるりと振り返って、軽快に歩き出した。

 

そして、ふと立ち止まると鐘楼の入り口の方にまた振り返った。

 

司祭がにっこりと笑って、小さく手を振っていた。

 

 

 

 

灯里は、いつかの出来事を想い返していた。

 

なぜか、何も躊躇せず、そして疑うこともなく、ひとりの少女と登ったあの時のことを。

 

階段を登りながら、途中窓から見える風景が段々と遠くまで見えてくる。

 

それを眩しそうに眺めながら。

 

すると、美しい歌声が聞こえてきた。

 

教会の島に響き渡るその歌声が、鐘楼の中にまで響いていた。

 

「始まったんだ。アテナさんのコンサート」

 

灯里はその歌声を聞きながら、鐘楼の最上階を目指した。

 

すると、その一番高いところに近づいたところで、赤ちゃんのはしゃぐような声が聞こえてきた。

 

それは、まるでアテナの歌声に反応しているようだった。

 

灯里は、まだはっきりとわからない、そこにいる誰かに鼓動が早まるのを感じていた。

 

階段から明るい空が見えてくる。

 

窓のそばには、赤ちゃんを抱いた女性が立っていた。

 

優しくほほえむその横顔は、明るい陽射しの下、子供を抱く母親の顔そのものだった。

 

だが、灯里にはそれが誰なのか、わからなかった。

 

階段を上がりきったところで立ち尽くす灯里に、その女性は気がついて振り返った。

 

「灯里さん?」

 

灯里は、そうたずねる女性の顔をじっと見つめた。

 

「あの、もしかして・・・」

 

「灯里さん、お久し振りね。わかる?私のこと」

 

その女性は、まだぼんやりとした灯里の表情を、楽しそうに微笑んで見つめた。

 

「もしかして、アデリーナさんですか?」

 

「もしかしなくても、私よ」

 

灯里の顔にいっぺんに笑顔が溢れた。

 

それを見たアデリーナも、喜びを溢れさせていた。

 

「お久し振りです!アデリーナさん!」

 

「ホントにお久し振りね。かねがね活躍ぶりは耳にしているわ」

 

「ええー!なんて言ったらいいでしょう~~」

 

「フフフフ」

 

照れ臭そうに笑った灯里の目は、アデリーナに抱かれている赤ちゃんに向けられた。

 

「かわいい!おいくつですか?」

 

「先日一歳になったばかりよ」

 

「そうなんですかぁー!って、結婚されたってことですか?」

 

「そうよ」

 

「いつですか?」

 

「この子が生まれる、ちょうど半年ほど前に」

 

「そうだったんですかぁー」

 

灯里は思わず赤ちゃんの顔を覗き込んでいた。

 

「あの~、旦那さまはどなたか聞いてもいいですか?」

 

「アロンソ」

 

「そうなんですねぇー」

 

 

 

 

 

「灯里さんはあれから何か変化あった?」

 

「そうですねぇー。変化といえば、わたしにも後輩ができました!」

 

「そうだったわね。かわいい後輩さんね」

 

「そうでした!もうすでに会ってたんですよね?」

 

「会ったわ。とてもいい方ね。私の様子をみかねて、ここまで送りましょうかって言ってくれたわ」

 

「アイちゃん、やっぱり・・・」

 

「もちろんお断りしたわ。まだペアのウンディーネだったしね?」

 

「ス、スミマセン。ちゃんと教育しておきますぅ~」

 

アデリーナは灯里の恐縮した顔に嬉しそうに笑っていた。

 

「そうか。灯里さんもいよいよか・・・」

 

「アデリーナさんは、ホテルの方はどうされたんですか?」

 

「今は育児休暇中ってところかな」

 

「じゃあ今ホテルは?」

 

「もちろん彼女がしっかりと守ってくれているわよ」

 

「彼女って、もしかして・・・」

 

「アガタよ」

 

「そうなんですね!」

 

「私が帰ってくるまで、絶対に自分がこのホテルを守るって」

 

アデリーナの穏やかな顔に灯里はなんだか幸福感を感じずにはいられなかった。

 

だがアデリーナは、少し違うようだった。

 

「アデリーナさん?何かあったんですか?」

 

アデリーナは子供の顔を見ながら、何か複雑な心境のようだった。

 

「ここに来れば、きっと灯里さんに会えると思ったの」

 

「どういうことですか?いつお店の方に来ていただいても大歓迎ですよ」

 

「ありがとう。でも、ここじゃないと意味がないの」

 

「ここ、ですか?」

 

「実は私、ここに来るのは今日が初めてなの」

 

「そうなんですか?」

 

「ここへ来るには、少し勇気が必要だったから」

 

 

 

 

「一度はここへ来る必要があると思ってた。でもそれを受け入れるには、あの頃の私には無理だったの」

 

「あの頃?」

 

「そう、あの頃。あの事件のあと、あれこれいろいろとあって、すぐには日常には戻れなかった。特に私の置かれた環境は、とても複雑で、どう受け入れていいのか、困惑していた。でも、ホテルを立て直すのに必死で、悩んでなんていられなかった。今から思うと、そんな忙しさが、救いになってかもしれない」

 

「アデリーナさんにもいろいろあったんですね」

 

「ほんとに、いろいろとね。今では、ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーに残っているメンバーであの頃の人は、私とアガタだけになったわ」

 

「そうなんですか?」

 

「アリーチェ・オーナーが、すべて人事を刷新してしまったの。残ったのは二人だけ」

 

「はぁ~すごいですぅー!」

 

「ほんとに」

 

 

 

 

「あの時の事件に関わっていた人たちは、それ相応の裁きを受けることになった。ただ、それぞれに動機があったから、そこは聞き入れてもらったみたい」

 

灯里は黙ったまま、真剣な眼差しで聞いていた。

 

「ただ、その原因を作ったのはアデルモだったから、本当は私が何も言える立場じゃないけど」

 

「アルピーナ婦人は、どうなったんですか?わたし、未だに信じられないんです。婦人が中心にいたってことらしいですけど」

 

「アルピーナ婦人の亡くなったご主人が、アデルモと同じホテルで働いていた時に、トラブルがあったようだった。アデルモはその頃からこの業界を転々としていたから、残されたご主人が相当苦労されたという話で。破産寸前まで追い込まれたということだった」

 

「そんなことが・・・」

 

「おそらく婦人は、灯里さんのような人には話すつもりはなかったんでしょう。決して自慢できる話ではなかったし、灯里さんとは、ネオ・ヴェネツィアの将来や夢を語り合いたかったんだと思う」

 

「私と・・」

 

「アダルベルトさんは、そんなご主人にお世話になったという話だし、アレキサンドロさんも奥様への思いがあった。だから、アダルベルトさんやアレキサンドロさんも、決して犯罪を進んでやろうとした訳じゃなかったと思う。それぞれに思いがあって、結果としてそれを踏みにじられて・・・」

 

アデリーナの重く苦しい表情が、痛々しかった。

 

「ごめんなさい。嫌なことを思い出させてしまって」

 

灯里は自分の興味から聞いてしまったことに反省していた。

 

「いいの。気にしないで。それより、肝心なことを伝えないとね?」

 

「はい?」

 

「アージアのこと」

 

「あっ、はい・・・」

 

灯里は、その名前を聞いて少し表情を固くした。

 

「今、アージアはマンホームにいるの。アデルモと一緒に」

 

「マンホーム?」

 

「アデルモが若い頃にいたリゾートホテルが受け入れてくれることになって、そこからもう一度やり直すって。そこにアージアを連れて行ったの」

 

「そうだったんですか。じゃあアルマさんは?」

 

「彼女は、アリーチェ様が責任をもって引き受けることになって、少しだけ刑の軽減があったの。さすがに無罪放免とはいかなかったけど」

 

「でもそれって、アデリーナさんが被害者のはず・・・そうか。つまり、そういうことなんですね?」

 

「私も少しだけ、協力させてもらった」

 

「大変だったんですね」

 

 

 

 

 

「アージアさんは結局のところ、どうされたのか、聞いてもいいでしょうか?」

 

「もちろん。そのために来たんだから」

 

アデリーナはその時のことを思い出すように、明るい海に目を細めた。

 

「最初はなかなか話すことさえままならなかったけど、灯里さんの話だけは出来たわ」

 

「わ、わたしの話?」

 

「だって二人の共通の知り合いだったからね?」

 

「私の話で盛り上がりました?」

 

「別に盛り上がるというわけじゃなかったけど」

 

「それはそうだと思います」

 

灯里の改まった顔が、思わずアデリーナをほほえませる。

 

「アージアにとって、幼い頃の大事な想い出だったことは間違いないわ」

 

「そう・・・だったんですね」

 

「孤児院で育ったアージアにとって、あの時のことはアデルモと繋がっていた唯一の想い出だった。その後、アイアート・ライデンの圧力もあって、アデルモがアージアを訪ねてくることはなくなってしまった。だから、灯里さんはその想い出をつなぐ唯一の存在だったの」

 

「私が唯一の存在」

 

「だから灯里さんには重荷を背負わせてしまった」

 

アデリーナは、灯里の方を向いて、申し訳なさそうに悲しい表情をしていた。

 

「そんなことありませんよ?」

 

「えっ?」

 

灯里はそんなアデリーナに向かって、にこやかに答えた。

 

「私がアージアさんとアデルモさんとをつなぐことに役立っていたのなら、こんな光栄なことはありません!」

 

「灯里さん、あなたって・・・」

 

「実は私も何かスッキリしないところがあったんです。いったい私はあの時、なんであそこにいたんだろうって。今、初めてわかりました。ちゃんと、誰かと誰かとをつなぐことに役立っていたんですね!」

 

「灯里さんにそんなふうに言っていただけたら、少しは気が楽になれ・・・」

 

「それはきっと、このネオ・アドリア海の女神様が、私たちに下さった出会いの奇跡に違いありません!」

 

「奇跡・・・なのね」

 

アデリーナは、窓の外に広がる海を見つめている灯里の横顔を優しい表情で眺めていた。

 

「確かにそうかも。奇跡かもしれない。それに・・・」

 

そう言って、アデリーナは我が子の顔を見つめた。

 

子供は、アデリーナの腕の中ですやすや眠っていた。

 

「この子がいてくれたから、ここへ来る勇気をやっと持てたのかもしれない」

 

灯里もそのかわいい寝顔に思わず顔がほころんでいた。

 

 

 

 

 

「ありがとう、灯里さん。アージアにも伝えておくわね。きっと、彼女も喜ぶと思う」

 

「えーと、それに、それに・・・」

 

「なに?どうしたの?」

 

「なんかいろんなことがありすぎて、誰のことを聞けばいいのか、わからなくなってしまって」

 

「そうよね」

 

「アールドさんはどうされてますか?アロンソさんとご結婚されたなら、何かご存知ですか?」

 

「ああー、彼ね・・・」

 

「ど、どうかされたんですか?」

 

「これは内緒の話なんだけど」

 

「ゴクン」

 

「どこか、飛ばされたみたい・・・」

 

「飛ばされた?」

 

「実はね、彼は隠密専門をやってたのね?」

 

「隠密・・・つまり、忍者・・・」

 

「潜入捜査ってこと」

 

「ああ、そ、そういうやつ・・・大変そうですねぇ~はははは・・・はへぇ~」

 

「元々その途中で知り合った人と結婚したの」

 

「そんなロマンスがあったんですね」

 

「捜査対象の人に手を出しちゃったの」

 

「はへぇ~~」

 

「でもその後、離婚騒ぎになっちゃったの。それでバレて、今じゃどこにいるのやら・・・」

 

アデリーナは大きなため息をついた。

 

「アロンソも何か協力するという約束で、いろいろとアールドにも協力してもらってたみたいだったんだけど・・・」

 

灯里は、目を丸くして、口を大きく開けていた。

 

「あ、あの~、そうだ!アデリーナさんは、アレッサンドラさんのこと、何かご存知ですか?」

 

「アレッサンドラ・テスタロッサでしょ?」

 

「はい!結局、何も教えていただけなくて・・・」

 

「それはだって、彼女はアクア方面特命捜査班特別指令官で・・・」

 

「あわわわー!なんなんですか!それぇー!」

 

「えっと、灯里さんて、もしかして・・・」

 

「私がなんなんですかぁー?」

 

アデリーナは灯里の困惑ぶりに目を丸くしていた。

 

そして思わず吹き出していた。

 

「アデリーナさ~ん」

 

「あのね、灯里さん?」

 

「なんですかぁ?」

 

「彼女はどこまでもファンタジーの世界の人なの。だから自分のプライベートは話したくないって」

 

「なんだ。そうだったんですね。さすが女優さんです」

 

「どういうこと?」

 

「だって、最後まで演じきってたってことですよね?」

 

「灯里さん?」

 

「はぁ」

 

「やっぱり、あなたって、スゴイ」

 

「なんかそれって、複雑な気分なんですけど~~」

 

 

 

 

 

アデリーナは、連絡船が停泊している船着き場で、夕陽の中、灯里と対岸に見えるサン・マルコ広場の大鐘楼を眺めていた。

 

アテナのチャリティーコンサートは、大盛況の中、無事に終演を向かえていた。

 

大聖堂の周辺は、人影もなく、すっかり静まり返っていた。

 

「もうそろそろ時間だわ。じゃあ行くわね」

 

今日最後の、ネオ・ヴェネツィア本島への連絡船が、出航の合図の鐘を鳴らしていた。

 

「またお会いしたいです」

 

「きっとそうしましょう。この子の手が離れたら、時間が取れると思うしね」

 

「いつでもいらしてください。今度はARIAカンパニーへ。年中無休でお待ちしています」

 

「それもお願いしたいけど、是非ホテルに遊びに来て!ウンディーネのお仲間と一緒にね!」

 

「わかりました!是非!」

 

夕陽に輝く海の上を、連絡船はゆっくりと出航した。

 

少しずつ離れてゆく船の上の、我が子を抱いたアデリーナをみていると、あの日の光景が甦ってくるような、そんな感傷的な気分になっていた。

 

「みんな、あんなふうだったらよかったのに・・・」

 

灯里は、ついに、これまでの時間を費やした物語が終わろうとしているんだと、胸に迫ってくるものを感じていた。

 

そして、たくさんの人たちが登場したなかで、ようやく本当の自分の役割を知ることができたよう気分だった。

 

これからも、誰かとつながってゆくことになる。きっと。

 

このネオ・ヴェネツィアで・・・

 

 

 

 

 

「ちょっとー?そこでひとりで何やってんのぉー?」

 

「もう!藍華ちゃーん!」

 

「さっきから、でっかい黄昏てましたよね?」

 

「アリスちゃん!」

 

海からはゴンドラに乗った藍華が、後ろからはアリスがやって来た。

 

「二人ともどうしたの?」

 

灯里は藍華とアリスとを、キョロキョロ交互に見比べていた。

 

「どうしたもこうしたもないわよ!仕事が忙しくて、アテナさんのステージを見損なったのよ!」

 

「藍華先輩?今頃来ても遅すぎますよ。もうすっかり終わってます」

 

「そ、そんなの、わかってるの!それでもちょっとぐらいは、見れるかなって思っただけよ!」

 

「本当ですか?少し天然の同僚が気になったんじゃないですか?」

 

「何言ってんの?そんなことより、あんたは何してんのよ?コンサートは終わったんでしょ?」

 

「私はまだ片付けが残ってるんです!これでもでっかい忙しいんですから!」

 

すると、アリスの後ろから声がかけられた。

 

「アリス先輩?もう帰りませんか?片付け終わりましたよ」

 

「アーニャ!タイミングが悪すぎます!」

 

「はい?」

 

ゴンドラの上の藍華はニヤリと笑った。

 

「へっ、へっ、へっ、へっ」

 

「なんですか?その笑い方は!」

 

「ホントはアンタが黄昏てたんじゃないの?」

 

「違いますー!」

 

すると今度は藍華の後ろから声がした。

 

「藍華先輩?もうそろそろ帰りませんか?灯里さんの無事な様子も確認できた訳ですし」

 

あずさが藍華の顔を覗きこむようにしていた。

 

「なっ!あ、あんた!なんでホントのことをばらすの?」

 

「だってウソついてもしょうがないですし・・・」

 

その様子を見ていた灯里は、ちょっと照れたような、それでいて嬉しそうにしていた。

 

「藍華ちゃん、アリスちゃん、それにあずさちゃん、アーニャちゃんも、ありがとう」

 

「それで、あんたの用は無事にすんだの?」

 

「うん、すんだよ。これで一応次へ進めそうな気がする」

 

「そうなの。じゃあよかったじゃない?」

 

「これで、灯里先輩も心置きなくプリマ・ウンディーネに専念できるってわけですね?」

 

「アリスちゃんて、そんなふうに心配してくれてたの?」

 

「まあ、心配というか、なんというか・・・」

 

「それで灯里?その次っていうのは何なの?」

 

「次?なにそれ?」

 

「い、いや、あんたが今自分で言ったでしょ?次へ進めるって」

 

「次かぁ」

 

「で?」

 

「う~ん」

 

「だから?」

 

「わかんない」

 

ドテッ!

 

灯里以外の四人全員がずっこけた。

 

藍華は勢い余ってゴンドラから落ちそうになっていた。

 

「大丈夫?藍華ちゃん!」

 

「ダイジョウブ」

 

藍華はギリギリのところで姿勢を保っていた。

 

そこへ後ろのゴンドラにいたあずさが、心配するよりも不思議そうにたずねた。

 

「前から思ってたんですけど、先輩はそういうとき、なんで鼻をつまむんですか?」

 

「あんたねぇ、そんな冷静に突っ込んだら面白くもなんともないでしょー?」

 

それを聞いた灯里が、ぷっと吹き出した。

 

「わたし、突っ込んだつもりなかったんですけど?」

 

「もういいの!」

 

その様子に、アリスが話に入っていきた。

 

「よかったですね?藍華先輩?」

 

「何?どういうこと?」

 

「新しく漫才コンビになってくれる人が見つかって」

 

「な、なに言ってんの?なんでよりにもよって、後輩と漫才コンビを組まなきゃいけないの!」

 

「藍華ちゃん?そこはやっぱり突っ込みが欲しかったんだ!」

 

「灯里ぃ~!あんたまで何言ってんのよ~~!」

 

「人気者ですね」

 

 

 

 

 

 

そこからしばらくの月日が流れていた。

 

灯里は、何かを決心するときは、いつもそうだったように、ARIAカンパニーの、その海を望むカウンターから、きらめく海を眺めていた。

 

その時が、もうすぐそこにやって来ていると感じていた。

 

すると、海から灯里を呼ぶ声が聞こえてきた。

 

近づいてくるゴンドラから、愛野アイが手を振っていた。

 

アイは、ゴンドラをつけると、急いで階段をかけあがり、カウンターのところまでやってきた。

 

「灯里さん!もうそんな時間ですか?」

 

驚いた顔に目を大きくして、ドンとカウンターに手をついたアイは、中にいる灯里の方に身を乗り出していた。

 

その両手には、すでに手袋はなかった。

 

「もうそろそろ行くね?」

 

「ええー!まだいいじゃないですかぁ?来たばっかりでしょ?」

 

「でも船の時間があるから」

 

「じゃあ明日に変更すればいいじゃないですかぁ~」

 

「アイちゃん」

 

スーツに身を包んだ灯里は優しい眼差しで、甘えるように文句をいうアイに困った顔をしていた。

 

「ホントに行っちゃうんですか?」

 

「大丈夫だよ。もう返って来ないわけじゃないんだから。一週間くらいだから」

 

「でもひとりは心配です」

 

アイはプリマになってから初めて、ひとりでARIAカンパニーのお留守番をすることになっていた。

 

きのうまでは「任せて下さい!」と胸を張っていたアイだったが、その日を迎えると、不安が募ってくるようだった。

 

「そんなに大事な用なんですか?」

 

「うん、そうだね」

 

灯里は、次のステップに進むための準備を始めていた。

 

いったい自分には何ができるのか。

 

グランマ、アリシア、そして・・・

 

相談したアリシアは、こう言った。

 

「それなら一度行ってみてはどうかしら?原点回帰・・・っていうでしょ?」

 

灯里の夢は、いつまでもネオ・ヴェネツィアがこのままであり続けること。

 

それは、変わりゆく時代への、灯里なりの挑戦だった。

 

そのためにも、この世界がどこから出発したのかを見てみることは必要だと、アリシアがヒントをくれた。

 

「じゃあ行くね」

 

「わかりました。それならせめてメールを送ってください。マンホームに着いたら」

 

「そうだね。メール・・・」

 

「どうしたんですか?」

 

「私がマンホームにいて、アイちゃんがネオ・ヴェネツィアで。それでメールを送るんだね?」

 

「ホントだぁー!」

 

アイはその事に気がついて驚いていた。

 

灯里は、そんなアイの可愛らしい笑顔を優しく見つめていた。



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第六十二話 大鐘楼のメッセージ

 

灯里の乗った旅客機は、マルコ・ポーロ国際空港に降り立った。

 

内陸部からヴェネツィア本島へ渡る大きな橋の、その付け根に位置するところに空港はあった。

 

搭乗ロビーの大きなガラス窓から見るヴェネツィアの空は、どんよりと曇っていた。

 

その空の色は、これから先の灯里の気分を象徴しているかのようだった。

 

トランクを受け取り、そのままロビーを進んだ。

 

ネオ・ヴェネツィアへ向かうとき、確かにここから出発したはずだった。

 

でも今は、懐かしさよりも知らない街へ来たような気分だった。

 

出入口の方向を思い出しながら、灯里はまだしっくりこない印象のまま、ロビーを歩いていた。

 

「灯里さーん!水無灯里さーん!」

 

その声に驚いて、キョロキョロと辺りを見回していた灯里は、こちらに向かって手を振っている少女を見つけた。

 

すると、不思議そうに見ている灯里のところに向かって、その少女は駆け足でやってきた。

 

「水無灯里さんですよね?」

 

「はい、そうですけど」

 

「よあったぁ。遅れたかと思って、ヒヤヒヤしてたんです」

 

少し息を弾ませて、その少女は安堵の表情を浮かべた。

 

「あなたは、どなたですか?」

 

「私は環境衛生局のアローラと申します。よろしくお願いします」

 

灯里がマンホームに行くと決めたのを知ったアリシアが、ヴェネト州の環境衛生局に手を回してくれていたわけだった。

 

だが、そこに現れたのは、明らかに後輩のアイよりも年下に見えるひとりの少女だった。

 

「長旅ご苦労様でした。お疲れじゃないですか?」

 

「いえ、大丈夫なんですけど・・・」

 

「そうですか?なんか、ご気分が優れないような感じですけども」

 

「そんな感じに見えますか?」

 

確かにアローラの言った通り、灯里の表情は今一つすっきりはしていなかった。

 

「もしかして、やっぱりあれが理由じゃないですか?」

 

アローラは、その大きな窓越しに見える外の風景に目を向けた。

 

ヴェネツィア本島へ伸びる連絡橋の先に、これまで見たことのない光景があった。

 

「あれがヴェネツィア?」

 

灯里は想像していたよりも、その異様なその姿に茫然となっていた。

 

遥か高い壁に囲まれていた。

 

そこにあるはずの島の風景は見る影もなかった。

 

かろうじて、サン・マルコ広場の大鐘楼の頭の部分が見えているだけだった。

 

「地盤沈下と潮位の上昇が思ったよりも早く進行してしまって。モーゼ計画も継続されてきたのですが、地球規模の環境の変化にはついて行けず、結局、ああするしかなかったんです」

 

「そうだったんですか・・・」

 

ヴェネツィア島は高い壁に囲まれて、なんとか持ちこたえている状態だった。

 

その痛々しい姿に、灯里はやるせない気持ちになっていた。

 

 

 

 

「寄って行かれますか?」

 

アローラは、灯里にそう声をかけた。

 

頭にはヘルメットを被っていた。

斜めかけにしたバッグと、片方の腕にはたくさんの書類を閉じているファイルを抱えていた。

 

二人は、環境衛生局が用意したボートの上にいた。

 

波の上で大きく揺られながら、ボートはヴェネツィア島へ近づきつつあった。

 

だが、目の前には高々とそびえ立つ壁が迫ってくるだけだった。

 

「内部はかろうじて、崩れるのを食い止めています。今は、海からの影響を最小限に押さえていますので、地盤沈下の対策に集中しています。それも、これのおかげなんですけどね」

 

アローラは、目の前に迫る巨大な壁を見上げた。

 

「失礼なんですけど、アローラさんて・・・」

 

「そうですよね?灯里さんもそう思われますよね?」

 

「えっと、どういうことでしょうか?」

 

「だから、思ってたより若いなぁとか、いやいやそれよりも幼く見えるよなぁとか、じゃないですか?」

 

「まあ、そんなこともあるような、ないような・・・」

 

「別に気にしてません。だって私、十五歳ですから!」

 

「ええー!そうなのー?」

 

「いきなりタメ口で嬉しいです!灯里さん!」

 

「ゴ、ゴメン・・・なさい」

 

アローラは、灯里の反応に思わず笑い声をあげていた。

 

「やっぱり、灯里さんだぁ・・・」

 

灯里はアローラのつぶやきが気になって、その無邪気に笑う横顔を見つめた。

 

「私の所属する環境衛生局にはいくつもの部署があるんですけど、第七環境課の中に環境再生チームていうのがあるんです。私、そこのチーム主任なんです!」

 

「それはそれは!」

 

「チームは私ひとりなんですけど・・・」

 

「そ、そうなの?」

 

「でもね、通称〈ヴェネツィア・チーム〉って呼ばれてるんです!」

 

「そうなんだぁー!」

 

「他の誰も知りませんけど・・・」

 

「はひぃ~」

 

「環境再生チームは、実はまだ立ち上げられたばっかりなんです。これまでは、ヴェネツィアの環境破壊を食い止めることに精一杯で、内部のことまで、手が回らなかったのが実情でした。でも、いろんなところからの支援もあって、街を再生するためのプロジェクトが開始されることになったんです!」

 

灯里は、明るく話すアローラを見ていて、少し気持ちが晴れるのを感じていた。

 

「そうだったんだ。スゴイね!アローラさん!」

 

「いやぁ~私なんて、まだまだですからぁ~」

 

アローラは照れまくって、顔を紅くしていた。

 

「でもアローラさんてスゴイね。まだ十五歳だなんて信じられない」

 

「そうですか?私、このために来たので」

 

「来たって?」

 

「私、アクア出身なんです!」

 

「ええー!そうだったのぉー?」

 

灯里は目を丸くしていた。

 

 

 

 

灯里はアローラの薦めを断った。

 

今はヴェネツィアの中を見て回る気にはなれなかった。

 

「それじゃあ、あそこに行きませんか?」

 

アローラが指差したのは、アクアでも見慣れていたサン・ジョルジョ・マッジョーレ島だった。

 

だが、ここマンホームのこの島をモデルにしたはずなのに、違う島に見えた。

 

「灯里さんがそう思われるのも無理もないです」

 

アローラは感慨深くそうつぶやいた。

 

「あそこは、本当に海に浮かぶ教会になったんです」

 

「どういうこと?」

 

「フロート・アイランド。海の上に浮かべているんです」

 

「島全体がってこと?」

 

「そうなんです。そうした方がいろいろと都合がよかったんです」

 

灯里は、そう聞いてしまうと、なんだか教会が揺れてるように感じてしまった。

 

頭が自然と斜めに向いてしまう。

 

「灯里さん?」

 

「なに?」

 

「揺れませんから」

 

「はっ!」

 

アローラがクスクス笑っている様子を見て、灯里は照れ臭そうに顔を紅くしていた。

 

船着き場に到着し、降りようとした灯里は、改めてアローラの方を見た。

 

「ホントに?」

 

「大丈夫です!」

 

大聖堂から鐘楼と、そのどれもが見れば見るほどそっくりだった。

 

灯里は感心して辺りを見回していた。

 

「灯里さん、本気ですか?」

 

「ゴ、ゴメン。ついそんな気分になっちゃった!」

 

アローラは、目の前の高い鐘楼を見上げた。

 

「ここへ誘ったのは、これが目的だったんです」

 

「それって、この鐘楼のこと?」

 

「はい」

 

アローラは灯里に、その入り口へとエスコートをするように手招きしてみせた。

 

「わかった。行きましょう」

 

灯里はそのアローラの仕草に笑顔で応えた。

 

だが、上へ登るにしたがって、そこに見えるものは、灯里の中にあったイメージのものではないことに改めて気づかされた。

 

全くと言っていいほど、違う風景がそこにはあった。

 

どんよりとした空の下、高い塀に囲まれた島の全容が露になった。

 

端から端まで、あのヴェネツィアの風景は、異様な島の要塞と化していた。

 

灯里は、ヴェネツィアの現状を知るためとはいえ、マンホームまでやって来たことに、少し後悔していた。

 

だが、灯里は驚かされた。

 

横にいるアローラは、流れてくる風に髪を揺らしながら、その顔は嬉しそうにほほえんでいた。

 

灯里にはわからなかった。

 

アローラの笑顔の真意が・・・

 

「灯里さん?ショックを受けられたのではないですか?」

 

「あっ、うん、そうだね。でも、なんでわかったの?」

 

「なんとなく、わかります」

 

アローラはまっすぐに目の前の風景を見つめていた。

 

「私がこのチームの主任に任命されてから、これまで私のした仕事といえば、再建を待ち望んでいる、この痛々しいヴェネツィアを案内することだけでした」

 

「だけ?」

 

「はい。それだけです。だから、私みたいのでよかったのかも知れません」

 

「そんなこと・・・」

 

「わかってたんです。それでも引き受けたんです」

 

「どうして?」

 

「だって、灯里さん?ヴェネツィアですよ?あの、ですよ?」

 

アローラは灯里の方に振り向いて、力強く言った。

 

「ヴェネツィアの再建に携われるなんて、こんなこと滅多にあることじゃ、ないじゃないですか!」

 

アローラはホントに嬉しそうな表情を灯里に向けた。

 

「それに、運命だと思いました」

 

でもそう言ったアローラは、またヴェネツィア島の方に視線を移した。

 

「私の母は、何かあると必ずサン・ジョルジョ・マッジョーレ島の鐘楼に連れていってくれたんです」

 

「アクアの、だよね?」

 

「はい。そして、あそこから見える対岸の風景をながめながら、しばらく過ごすんです。すると、いつも同じ話をするんです。もういいっていうくらい」

 

灯里は懐かしそうに話すアローラを優しく見つめた。

 

「そうなんだ。お母さんとの思い出なんだね。ちょっと聞いてみたい気もするけど・・・」

 

「いいですよ」

 

アローラは開け放たれた窓のところに手をついて、少し前に身を乗り出した。

 

「それは、あるウンディーネさんとひとりの女の子のお話なんです」

 

灯里は、ハッとなってアローラの横顔を見た。

 

「そのウンディーネさんは、まだお客さんを乗せられないのに、島へ行きたそうにしている女の子を見て、思わず乗せて行ってしまったそうなんです」

 

「アローラさん、それ・・・」

 

「でもそれが女の子にとって、とてもかけがえのない想い出になった」

 

アローラは灯里の方には振り向かずにいた。

 

「そんなとき、母が必ず言うんです。後悔をしないこと。それはとても大事なことだと。それがどんな結果になってもって」

 

「アローラさん?あなたって・・・」

 

「私にとっての想い出のあの島と教会は、とても素晴らしい風景で、いつも母と一緒の想い出なんです。でも、もしあの風景がなくなったらと考えたとき、とても悲しくなって・・・」

 

灯里は、もう何も聞かずにいようと思った。

 

何も聞かなくても、その横顔をじっと見つめていれば、わかるような気がしたからだった。

 

「ある時知ったんです。ヴェネツィアが瀕死の状態だと。それまで関心がなかったのに。それで母に相談したんです。ヴェネツィアに行かせて欲しいと」

 

「それで、お母さん、アデリーナさんは何て言ったの?」

 

アローラは、思いっきりの笑顔で振り返った。

 

「すぐに言ったんです!行ってきなさいって。自分の娘がマンホームに行っちゃうんですよ?どういう母親なんですか?」

 

アローラのその屈託のない笑顔を、灯里は眩しそうに眺めていた。

 

 

 

 

灯里は、信じられない思いと、目の前にしている少女の笑顔に、どうしようもなく感動していた。

 

目の前の風景は、切ない気持ちにさせていたが、それを打ち消すように、この出会いは、いつまでも輝き続けるに違いないと思わずにはいられなかった。

 

「でもアローラさん?私、気になってることがあるんだけど、聞いていい?」

 

「どうぞ、なんでも聞いてください!目下のところ、それが私の役目ですから!」

 

灯里はアローラの笑顔に聞いてみた。

 

「この鐘楼に登ってきたとき、正直言って、私、とてもショックだったの。こんなヴェネツィアを間近で見て。でもその時、アローラさんは、なぜか笑ってた。それはなぜ?」

 

アローラはそんな灯里に向かってやさしく微笑んだ。

 

「灯里さん、見てください」

 

そう言って、アローラはバッグから小さな双眼鏡を出して灯里に手渡した。

 

「あそこです」

 

アローラが指差した先を辿ってゆくと、そこには高い壁の上に突き出ている大鐘楼の屋根と、最上階が少しだが、かろうじて見えていた。

 

「あれって、サン・マルコ広場の大鐘楼でしょ?」

 

「そうなんです。でもよく見てください」

 

灯里は、アローラに言われるがまま、見えている大鐘楼の、壁から出ているところをじっと見つめた。

 

すると、灯里の表情が変わった。

 

「うそ・・・」

 

今まで全く気づかなかった。

 

誰もそれを噂にもしていなかった。

 

でも、その最上階の窓の少し上のところに、それは書かれてあった。

 

「ネオ・ヴェネツィアより愛を込めて」

 

誰かが書いた落書きが、薄汚れて、少し消えかかっていたが、そう書かれていることはちゃんとわかった。

 

「どうして、あんなところに・・」

 

「不思議ですよね。誰があんなこと書いたんだろうって。でもあれを見るたび、納得しちゃうんです。そうだよねって。いつかそんな日が来るって!」

 

灯里は、ただただ信じられないといった顔で立ち尽くしていた。

 

アローラはそんな灯里の表情に、すごく納得した顔になっていた。

 

「いったい誰が告白に来るんだろうって、思ったりして!」

 

アローラは頬をピンク色に染めて、自分で言った言葉に照れていた。

 

「こんな時って、なんて言ったらいいか・・・」

 

「これって、きっと、ヴェネツィアの想いが遠くアクアにまで届いて、そして・・・」

 

灯里は言葉をつまらせていた。

 

「大丈夫ですか?」

 

「そして、誰かがその想いを受け止めて、それを届けにやって来る。これって、壮大な愛のメール便だね」

 

「えっ、灯里さん?」

 

「なに?」

 

「なるほど。これが、例の、あの噂のやつなんだぁ~」

 

「なんのことぉー!?」

 

 

 

 

「ところで灯里さん?このあとはどういった予定になってるんですか?」

 

灯里とアローラは、再びボートに乗って、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島をあとにした。

 

「特には決まってないけど・・・」

 

「けど?」

 

「あのー、アローラさん?」

 

「なんですか?」

 

「アローラさんも、ホテルに詳しいとか、なんとか・・・」

 

アローラはポカンとしていたが、理解したようにニンマリと笑ってみせた。

 

「もしかして、宿泊するところが決まってないとか?」

 

「決まってないとかじゃなくて、そもそも予約するの忘れてたというか・・・」

 

「ええ?アクアから来るのに、ホテルの予約もせずにやって来たんですか?」

 

「エヘヘヘ」

 

「灯里さんて、結構オトナですよね?」

 

「そんなふうに見ないでくれる~?」

 

「わかりました。それなら結構いいところ知ってますので、ご紹介しますよ!」

 

「いいのぉ~?ありがとう~アローラちゃんていい子だねぇ~アデリーナさんの育て方がよかったんだねぇ~」

 

「わかりましたから!」

 

 

 

 

マルコ・ポーロ国際空港から少し海沿いをボートで進んだところに、目的のホテルがあった。

 

こじんまりとした、落ち着きのある印象だった。

 

だが、白色に統一された外観は、観光客を意識したおしゃれな作りになっていた。

 

アローラは、灯里のトランクを嬉しそうにコロコロと引っ張っていた。

 

「おじいちゃんがオーナーなんだけど、実質はおばさんがやってるようなもんなの」

 

「そうなんだ」

 

「ここがあったから、母もマンホーム行きを許してくれたようなもんなんだよね」

 

「親戚がいるなら安心だよね」

 

ホテルの玄関から、そのままアローラは躊躇することなく入っていった。

 

「おばさーん!お客さん連れてきたよー!」

 

すると、カウンターで接客していた女性が振り返った。

 

そしてアローラを見るなりちょっと厳しい顔になった。

 

「アローラ?そこはお客様が使うところでしょ?何度言ったらわかるの?あなたはそこからじゃなくて・・・」

 

アローラからおばさんと呼ばれたが、それほど歳が大きく離れているようには見えないその女性は、正面から入って来たアローラの方を見るなり、動きが止まった。

 

目を大きく見開いて、口を開けたまま、信じられないといった表情をしていた。

 

「おばさん、悪かったわ。でも今日はお客さんを連れてきたんだって。この人は・・・」

 

「灯里さん?」

 

アローラが紹介するより早く、その女性はその名前を呼んだ。

 

「えっ、どういうこと?知り合いなの?」

 

灯里は正面のガラス扉を入ったところで、じっと立ち尽くしていた。

 

「アローラさん?おばさんて・・・」

 

「アージアおばさん。灯里さん、知ってたの?」

 

「おばさんて言ったから」

 

「ああ、確かに若く見えるよね?お母さんよりも少し年齢は若いはずだよ。ねぇー!おばさーん!そうだよね?」

 

灯里よりも年下のはずのアージアは、どう見ても灯里より落ち着いて見えた。

 

「えっと、何歳だっけ?灯里さんて、おいくつなんですか?」

 

「いいの、アローラさん」

 

「すみません。灯里さんて、年齢を言いたくない人だったんですね?失礼しました」

 

アージアは、灯里のところまでやって来ると、涙を浮かべて、じっと灯里の顔を見つめた。

 

「こんな日が来ようなんて、思わなかった」

 

灯里もつられて涙を浮かべていた。

 

「そうですね。お久し振りです、アージアさん。お元気でなによりです」

 

「こちらこそ、お会いできて光栄です。灯里さん、お身体の方はどうですか?」

 

「大丈夫です。元気でやってます。ご心配いりません!」

 

アローラは、二人の感動的な再会を前に、あっけに取られていた。

 

「なに?どうなってんの?」

 

 

 

 

 

灯里とアージアは、併設されたラウンジのテーブルに座っていた。

 

静かで落ち着いた雰囲気の中で、二人はゆっくりとした時間を過ごしていた。

 

想い出というには、あまりにも短く、劇的で、そして忘れられない時間を二人は共有していた。

 

だから、何から話していいのやら、戸惑いと嬉しさが入り交じった不思議な気分になっていた。

 

「それじゃあアローラさんは?」

 

「知りません。アデリーナは、一切あの子には話さなかった。私はあの子にとって、ただのマンホームにいる親戚のおばさんなんです」

 

「そうなんですね」

 

灯里は、そう話すアージアの顔に、昔の面影を探していた。

 

でも、あの頃を思い出す面影は、もうアージアの顔にはなかった。

 

「私、覚悟をしてました。いつかはこんな日が来ると。いつかは終わりが来るとわかってました」

 

「アージアさん?私、別にそんなことは・・・」

 

「でももう少しだけ時間をいただけないですか?せめてあの子の夢を叶えさせてあげたいんです」

 

アージアは苦しそうに声を振り絞っていた。

 

だが、灯里はそんなアージアに優しくほほえんでみせた。

 

「アージアさん?私、そんなことを目的にマンホームに来た訳じゃないんですよ」

 

「どういうことですか?」

 

「アージアさんが、まさかここでホテルのお仕事をされてるなんて知らなかったし、アローラさんがヴェネツィアの再建に関わってることも初めて知ったし、それにアローラさんがアデリーナさんの娘さんだなんて、今日初めて知ったんですよ!」

 

「灯里さん」

 

「私って、何歳にみえます?」

 

「はい?」

 

「まるで竜宮城から帰ってきた人の気分です!」

 

灯里は満面の笑顔でそう言った。

 

「あっ、えーと、違った。竜宮城に来てる最中でしたー!」

 

アージアは、そんな灯里の明るく笑う表情に救われた思いだった。

 

「あなたって、本当に・・・」

 

「それに私、実は愛の使者なんです」

 

「えっと、灯里さん?ちょっとその辺は、私にはついていけないかも・・・」

 

「いいんです。また時間がある時に、アローラさんに聞いてみてください」

 

灯里はそう言って、ちょっとうつむき加減になっていた。

 

「私、実は後悔してたんです。ヴェネツィアに来たことを。まさか、あそこまでになっているなんて思ってなくて」

 

「ヴェネツィアに行かれたんですね?」

 

「そうなんです。でも、中にまで入る勇気はありませんでした。それでも、アローラさんがサン・ジョルジョ・マッジョーレ島まで連れていってくれて、そこで思い直すことができたんです。あの鐘楼から見えるメッセージの存在を教えてくれたおかげなんです」

 

アージアは灯里の話を聞いて、ふっと顔を上げた。

 

「わかりました。今度あの子からじっくりと聞いてみます。あの子が灯里さんの気持ちを変えることができたという話を」

 

「はい!是非!」

 

そこに着替えを終えたアローラがやって来た。

 

「ちょっとー!二人で何を話してるの?」

 

「アローラさんて、結構乙女少女だってことで、盛り上がってたんですよ?」

 

「灯里さん!ちょっとぉー?あれって、まだ灯里さんにしか話してないんですよー!」

 

「ええー!そうだったのぉー?」

 

二人の会話に微笑んでいたアージアが、立ち上がった。

 

「さあ、灯里さん?お食事にしましょう!お腹すいたでしょ?」

 

「ああ~やっとご飯の時間ですね?」

 

「灯里さん、そんなにお腹へってたんですか?」

 

アローラは目を丸くしていた。

 

「だって空港に着いてから何も食べてなかったんだよね~」

 

「うそ!?」

 

「もうペコペコ!」

 

 

 

 

 

灯里は用意された料理を前に、信じられないくらい、目を輝かせていた。

 

「いただきまーす!」

 

「灯里さん、お電話です」

 

ドテっ!

 

「大丈夫ですか?」

 

アローラは灯里のズッコケぶりに思わず声をかけた。

 

「これくらいは、よくあることと言うか・・・それでどこからですか?」

 

「アクアからです。愛野アイ様からです」

 

「アイちゃん?」

 

灯里は、受け取った受話器を耳に当てた。

 

「もしもし?」

 

〈ちょっと、灯里さん!マンホームに着いたらメールするって言ってませんでした?〉

 

「あっ、ゴメン。忘れてた!」

 

〈そんなことだろうと思ってました!灯里さんがマンホームで、私がアクアで、以前とは反対だねって、灯里さんが言ったんですよ!〉

 

「ホント、そうだったね。ごめんね、アイちゃん」

 

〈もう!〉

 

「それでなに?なんか急ぎの用なの?」

 

〈ちょっとその言い方、なんか怪しいです〉

 

「怪しいって・・・」

 

〈なんか食べてるでしょー?〉

 

「ギクッ」

 

〈いったいいつの人なんですか?〉

 

「アイちゃん、すごい!」

 

〈何がですか?〉

 

「私、竜宮城に行ってきて・・・」

 

〈はい、はい〉

 

「なにそれ~」

 

〈どうせ美味しいもの食べてるるんでしょ?〉

 

「わかる?舌鼓をね、打ってたの。ポンポン」

 

〈ああ、そうですか〉

 

「そうなんだよねぇー。ポンポン」

 

〈緊急事態です〉

 

「急になに?」

 

〈ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーで事件らしいんです!〉

 

「それ、もう終わったよ」

 

〈だからぁ!〉

 

「どういうこと?」

 

〈わかりません!なんかやたらとうるさい人がですね?とにかく灯里さんじゃないとダメだって、うるさいんですぅ!〉

 

「とにかくうるさいんだね?誰かは想像がついてるけども・・・」

 

〈今すぐ帰ってきて下さい!〉

 

「ええ~?今からお食事なんだよね~ポンポン!」

 

〈ポンポンポンポンて、いったいいくつなんですか?灯里さん!〉

 

「私ね、マンホームに来て、年齢は言わないタイプの女性になったんだよ?」

 

〈いい歳をして、何を言って・・・プツン!〉

 

「あっ、切れちゃった」

 

そこへアージアがすまなさそうにやって来た。

 

「ごめんなさい、灯里さん?今晩ね、システムメンテナンスだったの、忘れてた」

 

灯里とアローラは、ポカンと口を開けていた。

 

でもそのすぐ後、灯里ははずしかけたナプキンを両膝の上におき直した。

 

「灯里さん、いいんですか?」

 

「うん、いいの。ポンポン」

 

その様子にアージアは、吹き出していた。

 

「えっ、おばさんもそんなふうに笑うんだ」

 

「アローラさん、食べよう?ポンポン」

 

「なんか、結構気に入ってますよね?」

 

「そんなこと、ないよ。ポンポン」

 

次の日、予想よりたくさんのお土産を買うことになったのは、言うまでもない。

 

 

 

 

「灯里ちゃん?ヴェネツィアのリポート、早めにお願いね?」

 

この人には冗談は通じなかった。

 

「ところで、なんか美味しいものを食べたんだって?ポンポン」

 

「もう言いませ~~ん!」

 

 

マスカレード・ヴェネツィアン・ホテル  完 (一応)

 



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