サトリな僕とTSな君 (虫野 律)
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僕と君①

 2週間前、僕は異能に目覚めた。理屈は知らない。けど、事実らしい。

 

 僕が目覚めた異能は、人の思考や感情を読むという、ありきたりなものだ。どれくらいありきたりかというと、この高校の偏差値くらい。

 

「以上が近年注目されている織田信長女性説の根拠だ」日本史の三上(みかみ)先生が、イマイチ納得できない授業を締めくくるべく、言った。「今日はここまで。まず間違いなく受験には出ないから覚えなくていいぞ」

 

 それならどうして丸々1コマをその解説に費やしたのか、とか、このクラスはほとんどが進学希望なのに酷くないか、とか言いたいことは幾つかあるけど、1番伝えたいのは、男子生徒の大半がエロい目で三上先生を見てて授業は全然聴いてなかったですよ、ということだ。

 言っておくけど、僕は違う。いや、授業を洒落てないBGMとみなして真剣に聴いてなかったのはそのとおりなんだけど、別に三上先生の女性ホルモン過多なボディラインに注目していたわけじゃない。

 

 僕の意識の向く先、つまりは、春夏秋冬(ひととせ)さんから彼女の心の声が僕の頭に飛び込んでくる。

 

(はー、やっぱ麻美(あさみ)ちゃんいい身体してるわ)

 

 麻美ちゃんとは、三上先生のことだ。

 春夏秋冬さんは女の子ではあるものの、男子に交ざって三上先生を視姦する強者(つわもの)でもある。

 ただし、美少女だ。どれくらい美少女かというと、この高校の偏差値とは比べものにならないくらい。具体的には、日本を代表するアイドルのボスが裸足で逃げ出すくらい。

 

「避妊はしろよ」という言葉を残し、三上先生は去っていった。

 

(余計なお世話だ!)

 

 春夏秋冬さんが内心でツッコミを入れている。哀切を感じさせる、風情あるツッコミだ。

 春夏秋冬さんの表情が少しだけ陰る。

 

(……次は体育か。やだなぁ)

 

 それは僕も同感だ。移動と着替えが面倒くさい。

 

(……なんで俺だったんだろうなぁ)

 

 物憂げな面持ちが実に様になっている。

 

 

 

 

 

 

 僕が春夏秋冬(ひととせ)さんに興味を持ったのは、お人形さんみたいで人間離れしているにもかかわらず、下手な美容整形のような不自然さのない美しい容姿に惹かれたからではない。

 春夏秋冬さん曰く、曰くと言っても頭の中を勝手に覗いただけだけど、とにかく彼女は自分のことを元男だと信じている。1年生と2年生の間の春休みに、神様を名乗る大きな(はえ)に女の子にされたらしい。周りの人間の認識も改竄(かいざん)されていて、誰も彼女が元々は男だったと気づけない。

 みたいなことを春夏秋冬さんは確信している。勿論、僕は半信半疑どころか、9割は疑っている。10割じゃないのは、僕みたいな奴もいるし、もしかしたらあるかも、という思い故だ。

 

 さて、そんな、頭のおかしい系美少女の春夏秋冬さんは、所謂、ぼっちというやつだ。といっても、虐められているわけではない。彼女がみんなを拒絶しているんだ。

 春夏秋冬さんに言わせれば、男子は下心──彼女視点では同性からの下心だしね──がウザいから嫌で、女子に対しては、女子特有のノリが面倒で関わりたくないそうだ。ちょくちょく垣間見えてしまう、女子連中の嫉妬心も鬱陶(うっとう)しいらしい。

 まぁ春夏秋冬さんはこんな感じの人だ。

 そして、そんな彼女だからこそ僕は興味を抱いた。

 勘違いしないでほしいんだけど、僕は彼女に対して恋だとかセックスだとかの性的コンテンツは求めていない。

 僕が春夏秋冬さんに惹かれているのは、彼女の(いびつ)さを面白いと思ったからであって、僕の好奇心を満たしてくれさえすればそれ以外は何もいらない。

 

 というわけで、僕は春夏秋冬さんに話しかけてみることにした。

 

「春夏秋冬さん」放課後、校門の辺りで、帰ろうとしていた春夏秋冬さんへ声を掛けた。

 

「……何」鈴を転がすような声が、実際はどういう声になるかは分からないけど、きっとそういう表現がよく似合う声で、しかし警戒心を隠そうともせずに春夏秋冬さんが言った。

 

(うわっ、誰だっけこいつ。やべ、名前思い出せね)

 

 嘘ついた。警戒とかそういうレベルじゃなかった。

 

「ねぇ、僕の名前分かる?」つい、虐めてみたくなるのは僕の少年らしさに由来するのか、春夏秋冬さんの愉快な雰囲気のせいなのか。

 

「え゛」春夏秋冬さんの口から、透明感のある濁音が発せられた。「えー……」

 

(なんてこったい。まったく思い出せないのに、ピンポイントで攻めてくるなんて……)

 

 笑いを堪えている僕は、結構凄いと思う。

 

(ん? 待てよ)

 

 春夏秋冬さんは何かに気づいたようだけど、彼女に外形的な変化はない。

 

(こいつ、そんなことを訊くために話しかけてきたのか?)

 

 言われてみれば、たしかにおかしい。

 

 春夏秋冬さんのぱっちりお目々が、不審者を見るそれへと変貌してゆく。

 

 なので、とりあえず爆弾を落としてみる。「春夏秋冬さんって、なんで急に女の子になったの?」

 

「!?」春夏秋冬さんが目を見開く。

 

(──?!)

 

 何やらノイズばかりで思考を上手く読み取れない。

 

 しかし、僕は続ける。「誰も気づいてないし、何がどうなってるの?」

 

(──!??)

 

 混乱してるなぁ、と思っていると、春夏秋冬さんは、ガッと僕の手首を掴んで早足で移動し始めた。なかなかキレのあるいい動きだ。

 周りから視線を感じる。彼ら彼女らが何を考えているかは、異能を使わなくてもだいたい分かるから、あえて思考を覗いたりはしない。

 

 春夏秋冬さんは無言である。しかし、頭の中はそうではない。

 

(こいつ、何者だ? どうして認識が改竄されていない? なぜ俺にそれを伝えた? 目的はなんだ? つーか、名前なんだっけ)

 

 やっぱり僕の名前は思い出せないようだ。別にいいけれど。

 

 

 

 

 

 

 僕たちの住む街は、中途半端な規模の中核市だ。だから、それほど人目の多くはない、しかも子どもの遊んでいない公園を見つけることも難しくはない。

 

「分からない、か……」()びついていて危険性の高い遊具に座った春夏秋冬(ひととせ)さんが、風鈴のような声音で呟いた。

 

 春夏秋冬さんに〈どうして(みなもと)(僕の名前だ)は気づけたんだ?〉と訊かれて〈分からない〉と嘘をついた結果、難しい顔でブランコに乗る春夏秋冬さんという光景ができあがって、今に至る。

 

 時刻は17時20分を過ぎている。

 

「今日はもう帰る」春夏秋冬さんがブランコから飛ぶように、しかし実際には跳ぶように降りるも、自身の手の平を見て、「うわ、きったね」と声を上げた。

 

 おそらく錆が手についたのだろう。

 

 春夏秋冬さんが嫌らしい顔で僕を見て、「おらっ」と手を擦りつけようとしてきた。

 

 ので、避ける。「何すんのさ」ひょいひょい、と。

 

「避けんなよ」雰囲気が完全に男言葉だけれど、違和感はそれほどない。しかし、しつこく僕の制服をおしぼり代わりにしようとする点には納得できない。

 

 そうして何度か攻防を繰り返していると、飽きたのか諦めたのか、春夏秋冬さんは、「腹へった」と呟き、「帰る」と宣言した。

 

「さっき聞いた」

 

 しかし、春夏秋冬さんはそれには釈明せずに、「じゃあな」と言って、帰っていった。

 

 やっぱり変な奴だと思う。

 

 

 

 

 

 

 あれから、僕は春夏秋冬さんとちょくちょく関わるようになった。

 

「おい、源」春夏秋冬さんが、受験業界で最も有名な数学の参考書を片付けようとしていた僕の下へやって来て、言った。「焼きそばパン買ってこい」

 

「やだよ」いつから僕はパシリになったのか。それに何より、春夏秋冬さんは子ども舌でめんどくさいのだ。「だいたい、紅生姜抜きの焼きそばパンなんて、田舎で進学校を気取ってる2流高校の売店には売ってないよ」彼女は辛いものが壊滅的に駄目らしいので、〈焼きそばパン=紅生姜抜きの焼きそばパン〉と解釈する必要がある。

 

「ぷっ」隣の席の(さかき)さんが吹き出した。紅生姜抜きの焼きそばパンという、肉の入っていないチキンカレーのような料理を所望した春夏秋冬さんを嗤ったのか、国立大学至上主義者の和田(わだ)先生が浮かべた、苦虫を噛み潰したような、とまではいかない、冷えきった天ぷらを食べたときのような顔を笑ったのか判然としないが、まぁどうでもいいことだ。

 

 しかし、春夏秋冬さんは超マイペース人間だ。周りの様子などまったく気にせずに、「昨日さ」とステレオタイプのヤンキー然としたセリフを直前に吐いたとは思えない親しげな(おもむき)で口を開いた。「観たんだよ」

 

「何を」僕の隣で聞き耳を立てている気配。

 

「祭りのやつ」春夏秋冬さんは、しばしば言葉足らずになる。

 

 けれど、僕にはピンとくるものがあった。昨日、ニュースで地元の祭りが取り上げられていて、去年のものらしき屋台の映像が流れていたのだ。

 

「祭りの屋台がどうとかそういう流れで焼きそばを食べたくなったの?」僕は、仕方なく推理のようなものを披露した。

 

「そう、それ」当たったようだ。春夏秋冬さんがお金の取れそうな笑みを見せる。「どうして屋台って旨そうに見えんだろうなぁ」

 

「でも、紅生姜は抜きなんでしょ?」

 

「当たり前だろ」一転、神妙な顔で断言した。

 

 今度、こっそり紅生姜を何かに仕込んでやろう、と誓う。

 

(無理矢理食べさせて、可愛い顔を歪ませたい。泣かせてみたい)

 

 榊さんも内心で声高に賛同している。このクラスにはろくな(やから)がいないみたいだ。担任の三上先生にはちょっとだけ優しくしてあげよう。

 

 ちなみに、〈焼きそばパンを買ってこい〉と言った時の春夏秋冬さんの内心は、〈飯、食いに行こうぜ〉である。

 

 

 

 

 

 

 窓から見える空には、どんよりとした雲が広がっている。天気予報によると雨は降らないそうだ。けれど、その信憑性は下降中だ。

 

「……」

 

 雨、降らないといいなぁ。

 

 僕の異能は雨の日には使えないのだ。もう少し成長すれば改善するのだろうか。

 

「それでよ。山下(やました)がよ──」春夏秋冬(ひととせ)さんはプロ野球が好きらしく、弁当箱を空にした後も山下なる打てる捕手の話題を延々と展開していた。

 

 しかし、僕は興味も知識もほとんどないため、基本的には聞き流している。

 

「──(みなもと)はどう思う?」春夏秋冬さんの瞳が僕を射貫く。

 

 何のことか分からないので思考を読んでみる。

 

(こいつ、また聞いてなかったな)

 

 バレてた。

 

「ごめん、聞いてなかった」言い訳しても無駄なので正直に白状する。

 

「はぁ」春夏秋冬さんの溜め息。「いいよいいよ。お前が野球どころかスポーツ全般に何の価値も認めていないポンチキだってのは知ってるから」

 

「ポンチキってポーランドの揚げ菓子のことだよ」

 

 僕がそう言うと、春夏秋冬さんは、「はあぁー」とさっきの倍はありそうな空気の塊を肺から絞り出した。「うっざ。うっざいわぁ、そーゆーのいらねぇんだわ、実は」

 

「ごめん」

 

「……ところでよ」謝罪を聞けて満足したのか、春夏秋冬さんが話の流れを変えた。「週末暇か?」

 

「暇と言えば暇だけど」

 

「じゃあ、シルバーフェニックスの試合、観に行こうぜ」親父からチケット貰ったんだ、と。

 

 シルバーフェニックスとは、10年ほど前にできた、僕たちの住む県に本拠地を置く球団だ。春夏秋冬さん曰く、だいたい最下位争いをしているそうだ。

 

 正直、たとえ優勝争いの常習犯であったとしても興味を持つことはないだろうけど、絶対に行きたくないというわけでもない。予定もないし、「いいよ」と答える。

 

 春夏秋冬さんは口元をもにょもにょとさせ、「おう」とだけ。

 

 しかし、内心は、(よーし、よしよし、1人で行くのは淋しいんだよな。よーし、よし)である。

 

 なんだろう、この人。おもしろ。

 

 なので僕は言った。「やっぱり、ごめん。予定思い出した」

 

「はぁ?!」

 

(はぁ?!)

 

 

 

 

 

 

 土曜日、僕と春夏秋冬さんは真新しいスタジアムに来ていた。デイゲームらしい。

 

 (おびただ)しいわけではない観客がガヤガヤとしている中、やはり春夏秋冬さんは目立っていた。次元の違う美少女が球団のユニフォームを着て、〈あー、お前なんで今打たねぇんだよ、クソが〉とか〈信じてた。お前はやればできる子だって俺は知ってる〉とか〈ふっざけんな、俺たちはホラー映画を観に来てるんじゃねぇんだよっ〉などと喚き散らしているのだ。これがそこら辺にいるおじさんなら馴染むんだろうけど、春夏秋冬さんは黙っていれば、裏でグループメンバーを虐めているアイドルを視線だけで改心させるレベルの美少女。違和感がすごい。

 周りの観客も、(お、見所あるやんけ)とか(ほう、なかなかどうして……)とか(横の男、邪魔だな……)などと野球観戦ではなく春夏秋冬さん観戦に半ば移行して邪なことを考え出す始末だ──とりあえず殺気を飛ばすのはやめていただきたい。

 

「あ゛ー」突然、春夏秋冬さんが、ホラー映画に登場する、発狂しながら死んでいくキャラクターみたいな声を上げた。「負けた……」

 

 試合を観戦する春夏秋冬さんを観戦する観客を観戦するのに忙しくて、試合は真面目に観ていなかった。いつの間にか終わっていたようだ。

 スコアボードには13対15の文字。野球ってこんなに点の入るスポーツだっただろうか? と首を捻る。

 

「……帰る」春夏秋冬さんがボソッと言った。すくっと立ち上がり、空を見上げた。「まだ明るいな」

 

 

 

 

 

 

 春夏秋冬(ひととせ)さんの心によると、彼女は、男だったころは天才野球少年としてそれなりに有名だったらしい──たしかにうちの学校は進学校を自称しているくせに甲子園の常連さんだ。そして、春夏秋冬さんはプロ野球選手を目指していた。

 しかし、女の子になっちゃったことで、彼女の思い描いていた未来は絶対的に訪れなくなった。女子プロ野球もあるみたいだけど、それは違うらしい。あくまで子どものころから観てきた男のプロ野球の世界に行きたい。そこで活躍したいというのが、彼女の夢だったそうだ。

 

 とはいえ、彼女はそれで不貞腐れて野球を嫌いになったりはしなかった。もう仕方ないから1ファンとしてプロ野球を楽しもう。そんなふうに自分に言い聞かせていた。

 

 僕らは、帰りのバスを降りて初夏の街を並んで歩いていた。

 春夏秋冬さんは、相変わらず取り留めのない話をしている。しかし、心裏の底には、ざわざわとした感情がとぐろを巻いているような、そんな不穏さがある。

 

 といっても、心中の大半は、(あー、俺も野球やりてぇ)である。

 

 なので、僕は、「キャッチボールでもする?」と提案してみた。

 

 しかし、すぐに後悔した。なぜなら僕はキャッチボールをした経験が本当に1回もないからだ。平均よりは運動神経のいい自信はあるけど、それで意識高い系の春夏秋冬さんを満足させられるだろうか──不完全燃焼な気分にさせてしまうかもしれない。

 

「……どのくらいできるんだ?」春夏秋冬さんも疑問に思ったようだ。

 

「やってみないと分からない」

 

「いや、あのな」と呆れたような声音。「その回答がすべてを物語ってるんだよ」絶対、下手くそだろ、と春夏秋冬さんは片眉を上げた。

 

(へ、俺のチェンジアップを見せてやるぜ)

 

「……」

 

 言動と内心が見事に一致していない。

 この人、女優とかになったほうがいいんじゃないかな。朝にやってる、どこが面白いか分からないドラマにしれっと出演してても違和感はないと僕は思う。

 

 しかし、今の僕は違和感を覚えている。それに従い、「素人相手のキャッチボールで変化球を使ったりはしないよね?」とやる気満々の春夏秋冬さんに問うた。

 

「使ってはいけないというルールはない」春夏秋冬さんは力強く断言した。

 

「その回答がすべてを物語っている、とは誰の言葉だったか」

 

「……多分、お前、キャッチャー向いてるわ」唐突に春夏秋冬さんは、そう口にした。

 

「なんでさ」僕のキャッチーのイメージはお相撲さんだ。けれど、僕は痩せている。

 

「性格悪いもん」春夏秋冬さんは即答した。「ブロックはできなそうだけど」

 

「RINEブロックしようか?」

 

「……」

 

(こ、こいつっ……!)

 

 

 

 

 

 

 翌日、僕たちは近くの河川敷にいた。

 Tシャツにジーンズという、如何にもやる気のない格好の僕とは対照的に、春夏秋冬さんは有名なスポーツメーカーのジャージを身につけ、軽快に準備運動をしている。

 

「よっしゃ。やるか」と宣言した春夏秋冬さんは、「ほら、これ使え」と年季の入ったグローブを僕に渡してきた。

 

「……結構厚いんだね」想像よりしっかりしている。

 

「そうか?」と春夏秋冬さんはポニーテールを揺らした──普段は下ろしている。「そんなもんだぞ」

 

「春夏秋冬さんのは、そんなに厚くないじゃん」

 

「俺はピッチャーだったからな」

 

「ふーん」

 

「そんなことより早くやろうぜ」

 

 というわけで、僕の人生初のキャッチボールが始まった。

 

 

 

 

 

 

 春夏秋冬さんが、昨日観た投手(負けてたほう)のようなフォームで腕を振る。白球が放たれた。

 一応、見えてはいるので到達予測地点にグローブを構える。すると、次の瞬間にはボールがグローブに〈パシッ〉と収まった。

 

 意外といけるもんだね、というのが僕の率直な感想だ。

 

 しかし、春夏秋冬さんは不満があるのか、「うーん……」と首を傾げている。

 

「どうしたの?」

 

「やっぱ感覚がちげぇなって思って!」

 

 なるほど。

 

「ま! いいや」春夏秋冬さんはコロっと表情を変え、「予想よりできるみたいだから、次からしゃがんでみてくれ」とにこやかに通告した。そして、ボールを持った手を縦に揺らしたりしつつ、「これが真っ直ぐでこれがカーブ。これがチェンジな」とよく分からないことを言っている。

 

 多分、どれを投げるかのサインなんだろうけど、正確に読み取る自信がないから、素直に異能のスイッチを入れる。

 

(うーん、軟式だとMAX110キロくらいか? きっついな)

 

 球速のことだろうか。野球をやっている人は感覚で分かるようだ。すごい。

 

 この、ユルいような、そうでもないような空気のまま、僕たちはキャッチボールを続けた。春夏秋冬さんのコントロールがいいことに加え、何をどこに投げたいかを正確に把握できるので、初心者の僕でも問題なくこなすことができた。

 

 

 

 

 

 

「デート中にごめん。ちょっと相談があるんよ」河を見ながらお昼ごはんのお握りを食べている僕らの下へやって来た、隣の席の(さかき)さんが、両手を合わせながら言った。

 

 僕と春夏秋冬さんが見交わす。

 

(こいつ誰だっけ)

 

 春夏秋冬さんはクラスメイトにもう少し関心を持ったほうがいい。

 

 春夏秋冬さんは役に立たなそうなので、僕が対応する。「どうしたのさ?」

 

「実は──」と榊さんが語り出した。

 

 話の内容を要約すると、〈この河川敷で榊さんの兄が所属する草野球チームの試合があるんだけど、選手の人に急用ができて人数が足りなくなったから、助っ人に入ってくれないか〉ということらしい。榊さんは僕らのキャッチボールを見てて、〈もしかしたらオッケーしてくれるかも〉と考えたそうだ。

 

 なんか人が集まってるなぁ、と思ってたらそういうことだったのかぁ。

 

 だめかな、と上目遣いの榊さん。「……」

 

(……くっ。全然、効いてる感じがしない。春夏秋冬さんレベルに慣れてるせいで感覚が麻痺してやがる。なんてムカつく男なんだ)

 

 これが人にものを頼む態度だろうか。いや、態度は問題ないんだけど、内心がアウトだよ。間違いなくゲッツーだよ。

 

 腕を組みながら表面上は不気味なくらい静かに聞いていた春夏秋冬さんが、(おもむろ)に口を開く。「……条件がある」

 

 すっごく偉そうだ。

 

「じょ、条件?」榊さんは、ごくりと喉を鳴らす──ノリノリである。

 

 うむ、と春夏秋冬さんが頷く。そして、「俺に投手をやらせろ」と傲慢な悪役キャラみたいに言い放った。

 

「いいよ」榊さんがあっさりと答えた。

 

「え、いいの?」春夏秋冬さんの気勢は削がれてしまったようだ。

 

 榊さんは、うん、と肯首し、「今、うちのチームにピッチャーできる人いないし、見た感じ春夏秋冬さんフォームもきれいだし」とチームの人たちを見やる。

 

 褒められて気を良くしたのか、春夏秋冬さんはニヨニヨと美少女じゃなければ引かれるであろう笑みを浮かべ、「仕方ねぇな。そこまで言うならやってやる」と承諾し、次いで、僕の肩に手をポンッと置いた。「あ、あと、捕手はこいつな」

 

「え、なんでさ」ルールすらよく分かっていない僕に何を期待しているのか。

 

「いいよ」榊さんは再びあっさりと頷き、そして、口角を歪め、「いやぁ、春夏秋冬さんも女の子してるねえ」と地雷を踏み抜いた。

 

 しかし、僕の予想とは裏腹に春夏秋冬さんは、「うるせえよ」とぶっきらぼうに言っただけだった。

 

 



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僕と君②

「無理を言ってすまないね」(さかき)さんとよく似た涙袋を持つ青年──榊さんのお兄さんが言った。

 

「おう」感謝しろよ、と春夏秋冬(ひととせ)さんが尊大な声音で答える。

 

 しかし、お兄さんに気分を害された様子はない。緩やかに微笑み、「うん、ありがとね」と溶けた飴が染み込んだ声帯から発せられたかのような声。

 

 2、3歩引いた位置から春夏秋冬さんとお兄さんのやり取りを眺めていると、脇腹を小突かれた。榊さんだ。

 

「うちの兄、イケメンでしょ」

 

「かもね」たしかに春夏秋冬さんと並ぶと絵になっている。

 

 榊さんが、にやっとする。「やきもち焼いちゃってる?」

 

 ずいぶんと楽しそうなところ申し訳ないが、そんなことはない。でも、それをストレートに伝えるのも面白みがない気がする。

 

 なので、僕は言った。「僕らも浮気しようか」

 

 榊さんは、一瞬、ぽかんとしたものの、すぐに相好(そうごう)を崩壊させ、声を上げた。「春夏秋冬さーん! (みなもと)くんが私と浮気したいってー!」

 

「?」けれど、春夏秋冬さんは〈なんだそりゃ〉という顔をしただけだった。

 

「えー」榊さんはいたく不満そうだ。

 

 

 

 

 

 

 3回裏、春夏秋冬さんが放ったボールが打者の膝の辺りに構えた僕のミットに収まると、どこからやって来たのか分からない審判の人が、「トライクッ」と若干の手抜き感のある言い方で打者に死刑判決を下した。

 

 スリーアウトでチェンジってやつだ。

 ここまで春夏秋冬さんは全ての打者を打ち取っている。お兄さん曰く、リリースとコントロールがプロ上位クラスなうえ、配球がえげつないことが要因らしい。

 配球に関しては、ズル──打者の心を読んで裏をかいている──をしているからそう言われても反論はできない。

 

 とはいえ、相手のチームには数年前まで独身リーグ(?)でプレイしていた人も何人かいるみたいだし、少しくらいズルしても許されるでしょ、きっと。

 

 春夏秋冬さんがニッコニコで駆け寄ってきた。一緒にベンチに向かいつつ、正直、僕はちょっと引いている。初めて見たよ、こんな顔。

 

 チームの人たちが、「ナイピッ」とかなんとか春夏秋冬さんに声を掛ける。

 

「こんくらい、ヨユーよ、ヨユー」春夏秋冬さんの言葉に周りが、おー、と沸く。

 

 けれど──。

 

「大丈夫?」ベンチに戻った僕はこっそりと春夏秋冬さんに訊いた。

 

 春夏秋冬さんは、内心、苛立っていた。この程度の球しか投げられない自分に。

 男だったころは、調子がいいと150キロ以上は出せていたらしい。変化球ももっと良かった。コントロールだって。

 

「何が?」春夏秋冬さんは惚けた。弱いところを見せたくないようだ。

 

 なので、僕は笑った。「お兄さんにときめいてないかなって」

 

「……だから、なんなんだよ、それ」怪訝そうに眉をひそめた。「……」

 

 

 

 

 

 

 最終回である7回の裏、春夏秋冬(ひととせ)さんは打ち込まれていた。デジタル製の小さなスコアボードには7対5とあり、それがたった今、7対6に変わる。

 

 マウンド上の春夏秋冬さんは肩で息をしている。

 

 女の子になってそもそもの身体能力が落ちたことに加え、トレーニングもここ2ヶ月はやっていないことが原因だ。純粋なスタミナ切れにより、制球が乱れ、球の威力も低下して、結果、6回と7回だけで6点取られてしまった。

 

(くっそ──!)

 

 春夏秋冬さんの投げたボールが大きくストライクゾーンを外れる。それほど速くはないため、僕でもキャッチはできる。だから、まだ試合の形にはなっているけれど、状況は悪い。

 

 僕は立ち上がり、「ちょっとすみません」と審判をやってる厳ついおじさんに声を掛けた。「タイムってできますか?」

 

「ええよ、行っといで」見た目が明らかに堅気じゃないのに、声色が優しすぎて気持ち悪い。

 

 という感想はおくびにも出さずに、「ありがとうございます」と頭を下げてからマウンドに向かう。

 

 マウンドに到着した僕に、春夏秋冬さんは、「なんだよ」と少しだけ唇を尖らせた。

 

 春夏秋冬さんは、この試合を自分の中の〈区切り〉にしようとして榊さんの頼みを承諾した。つまり、悪い言い方をすれば、野球に対する未練だとかそういうのに折り合いをつけるためにこの試合を利用したということ。

 春夏秋冬さんは、相手チームを知っているようだった。その名を榊さんの口から聞いた時、彼女はこうなることを予期していた。だから、引き受けた。打ち崩されれば諦めもつくだろう、と。

 

 でも、だ。それが投手の(さが)なのか、春夏秋冬さんの性格なのかは判然としないけれど、彼女は今、勝ちたいと願っている。

 ただ、僕にはテクニック面でのアドバイスなんてできない。だから、できることをやる。

 

「あのバッターさ」僕はちらりとバッターボックスの35歳くらいの選手──前田(まえだ)さんに視線を送る。「今日が息子さんの誕生日らしくてさ、なんでも、『ホームラン打って』って子どもにお願いされてるみたいだよ」

 

 嘘偽りのない実話だ。相手チームのベンチでは、小さな男の子が携帯ゲームで遊んでいる。

 

 春夏秋冬さんは、形容し(がた)い、1種の顔芸のような複雑な表情を浮かべ、「源はどっちの味方なんだよ」と苦言を呈した。

 

 さぁ、と受け流し、「投げにくくなった?」と返球。

 

「そうでもないけど」春夏秋冬さんが顔に張り付いた髪の毛を払う。「なんでそんな情報教えたんだよ」

 

「困らせることができるかなって思って」

 

「……ふん」春夏秋冬さんが鼻で笑う。「くだらな」

 

 少しは肩の力が抜けただろうか。

 

「じゃあ僕は戻るよ」マウンドを後にする。 

 

(わりぃな……)

 

 

 

 

 

 

 試合は再開された。春夏秋冬さんは僅かに持ち直し、現在、カウントはスリーボールにツーストライク。息子さんにいいところを見せたい前田(まえだ)さんは、非常に集中している──しかし、息子さんは大手ゲーム会社の新作RPGに集中している。

 

 前田さんは高めのストレートを待っているようだ。

 この場合、僕は、外側低めギリギリでストライクゾーンを(かす)めるカーブかチェンジアップ、又は避けなきゃデッドボールになるような高めのボール球を要求するのが、今までのパターンだった。組み立てがどうのとかはまったく知らないけど、なんとなくやられたくないだろうなぁ、と思うからだ。

 

 しかし、塁は埋まっているし、フォアボールは出したくない。

 勿論、こちらがそう考えてストライクを取ろうとすることは前田さんも分かっている。春夏秋冬さんがストレートで決めたがることも──投球の傾向や彼女の性格もすでに把握されている。

 また、スタミナが切れた今、確実性が高い──コントロールが比較的安定している──のは変化球ではなくフォーシームだということも、前田さんがストレートに的を絞った根拠の1つだ。

 

 2秒だけ迷って、チェンジアップのサインを出そうとして──止める。

 

 春夏秋冬さんの声が聞こえた──というわけではないけれど、なんとなく。

 

 指を使ったサインをせずに、ど真ん中にミットを構える──好きに投げてくれというサインだ。つまりは、職務放棄の手抜きである。

 

 春夏秋冬さんが、黒幕くさい獰猛な笑みを見せた。

 

 そして──。

 

 

 

 

 

 

 前田さんが意気消沈し、肩を落としている。せっかく逆転サヨナラ満塁ホームランを打ったのに、息子さんに、「見てなかった」と言われたからだ。流石の僕もこれには同情を禁じ得ない。

 

 試合は7対10でサヨナラ負けだった。

 春夏秋冬さんは、前田さんのように分かりやすくしょんぼりはしていない。ベンチに座り、榊さんから受け取ったスポーツドリンクを飲んだり、飲まなかったりしている。

 

「お疲れ様」榊さんのお兄さんが、僕に声を掛けてきた。

 

「お疲れ様です」僕が言うと、お兄さんは、「すごく性格の悪いリードだったよ」と僕の肩を軽く叩いた。

 

「そうですか?」野球をやってる人がそう言うのならそうなのだろう。

 

「ああ」とお兄さんが頷く。ついでに周りの皆さんも頷いている。「何か部活はやってるのかい?」

 

「いえ、何もやってないですよ」

 

「それなら、気が向いたときでいいからまた一緒にプレイしないかい?」お兄さんは人好きのする笑みで僕を誘った。けれど、僕が一瞬、春夏秋冬さんに目をやったのを見逃さなかったお兄さんは、「あー、まぁ、彼女さんがその気になったときで大丈夫だよ、うん」と微笑を苦笑へと変えて言った。

 

 今までスルーしていたけど、訂正してみる。「僕らは友だちのような感じですよ」

 

「え、そうなのかい?」そうは見えないけどなぁ、とお兄さんが頬を掻いたとき、榊さんが溌剌(はつらつ)とした声を発した。「源くん! 彼女が帰るって!」その目は、〈ちゃんと送っていけよ。彼氏だろ〉と圧を放っている──気がする。

 

「……」「……」

 

 微妙に納得がいかないので、榊さんの心を読んでみる。

 

(ちゃんと慰めてやれよ。彼氏だろ)

 

 ちょっと違った。

 

 

 

 

 

 帰り道、春夏秋冬さんはいつもと同じように、妹が鬱陶しい、とか、母親が〈女の子らしくしろ〉としつこく言ってくる、とか、三上(みかみ)先生の授業が本当になんの役にも立たない、とか、ブラジャーがきつい気がする、とか、そういった聞き流しても問題のなさそうな話をしていた。

 

 ぽたぽたと小雨が降っている。傘は持ってきていないけれど、仮にあったとしても差すか否か迷う程度の強さなので今朝の判断は間違っていなかったと信じている。

 

「なぁ」僕と同じく雨に晒されている春夏秋冬さんがシリアスな雰囲気で言う。「聞いてないだろ」

 

「聞いてるよ」

 

「じゃあ、俺のブラジャーのカップサイズは?」

 

「……」

 

 今は雨のせいで読心能力が使えない。つまりは、自力(?)で答えるしかない。

 

「C」だったような気がする。

 

「……ちっ」舌打ちしたよ、この人。多分、正解されて当て(・・)が外れたんだろうなぁ。

 

「ちゃんと聞いてるんだって」嘘だけど。

 

「……源はデカイのと小さいのどっちがいいんだ?」春夏秋冬さんが唐突に話題を変えるのはよくあることだけど、これは変化の度合いが小さめだから〈唐突に〉とは言えないかもしれない。

 

「どっちでもいいかな」これは嘘ではない。

 

「じゃあ(けつ)派か」春夏秋冬さんが拍子抜けしたように言った。

 

「いや、肋骨派」

 

「うっわ」きも、と春夏秋冬さんが若干距離を取る。

 

「そういう春夏秋冬さんの性癖は?」

 

「……匂い」

 

「へぇ……」

 

 女の子みたいだね、とは言わないでおいた。 

 

 

 

 

 

 

 月曜日も雨は続いている。梅雨前線というワードがニュースに登場していたから、きっと梅雨なのだろう。僕の異能はお休みだ。

 

「おはよっ」クラスの自分の席でぼやっと単語帳を眺めていると、榊さんが、朝からよくそんなにテンション高くできるなぁと感心させる元気な挨拶をしてきた。

 

「おはよう」

 

「昨日はありがとね」榊さんはクラスをぐるっと見回す。「春夏秋冬さんはまだ来てないの?」

 

「今日は休むんだって」

 

 昨日の夜、〈()明日休む〉というRINEがあった。読点(とうてん)がなくて読みにくいことは()くとして、気になるのは一人称に〈私〉を使っている点だ。少なくとも僕の知る限りでは、内心含め初めてのことだ。

 

「ほー」と榊さんは訳知り顔を浮かべた。

 

「どうして変な顔してるの?」と訊いた瞬間、頭をぱしっと叩かれた。痛くはない。「痛い」

 

「勿論、お見舞いに行くんでしょ?」榊さんは、僕の抗議を完全に無視して、自分の言いたいことだけを口にした。

 

「まぁ、気になるし」何も言われなくても行くつもりではいた。

 

「よろしい」どうして榊さんが満足げな顔をするのか理解に苦しむけれど、よろしいならばよろしいよ。

 

 

 

 

 

 

 行く、とは言ったものの、僕は春夏秋冬(ひととせ)さんの家にお邪魔したことはない。家の前まで行ったことがあるだけだ。

 一応、RINEで、〈学校終わったら行っていい?〉〈いい〉〈どっち〉〈来ていいカフェオレ買ってきて〉〈黒コーヒー買っていく〉〈しね〉というやり取りがあったから、お邪魔しても問題はないと思われる。

 ちなみに、このRINEを見た榊さんがにやにやしていたので、早く席替えしたいなぁ、と聞こえるように呟いたら、今度は二の腕を叩かれた。

 

 というわけで、春夏秋冬さんの家にやって来た。かなり大きい家だ。車も、なんだか高級そうなやつが、不審者を威嚇する番犬よろしく貧乏人を威嚇している。

 でも、車は、ひいてくるだけで吠えてはこないので大したことはない。

 

 玄関チャイムを鳴らす。数秒後、『ちょっと待ってろ』と春夏秋冬さんの声。

 

 そして、すぐに玄関が開けられた。

 

「おう、上がってくれ」普通に元気そうに見えなくもない春夏秋冬さんが現れ、言った。

 

「うん、お邪魔します」と広い玄関に入り、指示された場所に傘を置いて靴を脱ぐ。

 

 リビングらしき部屋に案内された。外観から予想されたとおりの小綺麗な内観だ。

 

「私しかいないから、そんなに硬くならなくて……」春夏秋冬さんが僕を見て、言葉を止めた。「緊張してなさそうだな」

 

「うん。まったくしてない」どんな場面でも安定しているのが自分の長所だと僕は思っている。「それより、なんで急に〈私〉とか言い出したの?」

 

「……母さんがうるせんだよ」そう答えて背を向けた春夏秋冬さんは、ドアに向かいながら、「お茶とコーラとアイスコーヒーでどれがいい」と訊ねた。

 

「じゃあコーヒーで」と言いつつ、コンビニの袋からカフェオレを取り出す。「カフェオレ買ってきたよ」

 

「せんきゅー」

 

 

 

 

 

 

 リビングから春夏秋冬さんの部屋に移動し、漫画を読んでいる時に、彼女は突然、口走った。「源って好きな奴とかいるのか」

 

 僕は、読んでいた漫画──ダブル不倫の末にメインキャラが軒並み死んでいく話──から顔を上げ、春夏秋冬さんを見る。僕とは違い、彼女は漫画から目を離していない。

 

「いないよ」

 

「そうか」春夏秋冬さんがページを(めく)る。

 

「……」

 

 カーテンで窓の外は見えないけれど、雨の降っている気配は続いている。

 

「なぁ」春夏秋冬さんが、歪んだ鈴を転がすような声を発した。

 

「何?」

 

「セックスしてくれって言ったらしてくれるか」

 

「どうだろ」ちょっと真面目に想像してみる。そして、僕はあることに気づいて、「あ」と洩らした。

 

「なんだよ」

 

「コンドームがないから無理だね」

 

「……」春夏秋冬さんは無言のまま、漫画をぽいっと床に放り、立ち上がった。次いで、学生鞄を漁って小さな紙袋を取り出し、漫画と同じように、ぽいっとした。「ある」

 

「へぇー」せっかくなので(?)、紙袋を開けてみる。黒をベースにしたデザインだ。0.01とある。

 

 春夏秋冬さんが僕の近くに腰を下ろす。「気持ち悪い奴だと思うか」

 

「いや特には」

 

「じゃあ──」

 

「でもさ」僕はわざと春夏秋冬さんの邪魔をした。「無理してセックスしようとしてる人とは、したくないかな」

 

「……」

 

 当たり前だけど、読心能力は使えなかったとしても、人の感情がまったく分からなくなるというわけではない。単に少し前までの僕に戻っただけだ。

 今の春夏秋冬さんは、いつもより随分と強張っている。つまりは、〈男に戻りたい〉という気持ちを無理やり消し去ろうとしている、気がする。

 初めて心を読んだ時から、春夏秋冬さんの中には、男としての自我や感性と女としてのそれらが混在していて、微妙な均衡を保っていた。そして、男としての自我や感性は〈プロ野球選手になりたい〉という夢と不可分に一体化している。

 要するに、急に一人称を〈私〉に変えたのも、僕とセックスしようとしているのも、男の自分を消し、精神的にも完全な女になろうとしているからで、それは、完全には男に戻れない、夢を諦めなければならないという現実を受け入れるためなんだと思う。

 

 まぁ、推測だから間違っているかもしれないけど、でも、今の春夏秋冬さんは──いつも以上に辛そうだ。

 

 なので、僕は言った。「焦りすぎじゃない?」

 

「……」春夏秋冬さんは、黙したまま僕を見つめる。

 

「人の感覚とか価値観なんて急には変わんないと思うよ」

 

 16年も男として生きてきて、つまりは16年かけて作られた自我が、たった1回のセックスで根本的に変わるなんてのは現実的ではない気がする。というか、僕にはそんな劇的なセックスはできない。

 

「ゆっくり折り合いをつけていくしかない」大変かもしれないけど、と()くように彼女の髪を(もてあそ)ぶ。さらさらと流れてゆく。

 

「……」春夏秋冬さんは眉間に(しわ)を寄せ、瞳を揺らす。「ひと事だからって──」

 

「でも、どうしても試してみないと気が済まないって言うんなら」髪から指を離す。「いいよ。春夏秋冬さんが納得するまで付き合うよ」

 

「……」

 

 春夏秋冬さんも僕も喋らない、静かな時間が訪れた。ふと気がつけば、雨の気配は消えていた。

 

 そして、春夏秋冬さんが溜め息と共に口を開いた。「……はぁ。悪かった。冷静じゃなくなってた」

 

「うん」気にしなくていいよ、と漫画を開く。いいところだったのだ。

 

 しかし、春夏秋冬さんは、僕の──僕のものじゃないけど──漫画をひょいっと取り上げた。「なんか食おうぜ」

 

 時計を見ると、19時を過ぎていた。そりゃあお腹も減るよね。

 

「ちなみに、何を食べるつもりなの?」

 

「それは冷蔵庫の中を見てから決める」

 

「なるほど」

 

 もしかして料理する流れだろうか。僕は戦力にならないけど、いいのかな。

 

 

 

 

 

 

 春夏秋冬さんの料理を、飾りつけた名詞で表現すると、〈必要に迫られてやっているだけの、そんなに料理が好きじゃない人であることが伝わってくる、不味いとは言えないけど間違っても、料理上手だね、とは口にできない感じ〉だ。一言でまとめると〈微妙〉である。

 

 とはいえ、社交辞令が大切なときもある。「美味しい」とシンプルな味付けの豚肉を呑み込んでから僕は言った。

 

 しかし、春夏秋冬さんは僕の言葉を信じていないようだ。(絶対、嘘だ)とジト目で咀嚼(そしゃく)している。

 

 いい具合に騙せる舌先三寸(したさきさんずん)はないだろうか、と頭を捻ったものの、結局、「でも、春夏秋冬さんが作ったって言えば、喜んでお金を出す人もいると思うよ」という、褒めているようでよく考えると皮肉にしか聞こえない言葉しか絞り出せなかった。

 

「源はいくら出すんだよ」

 

「僕はいいかな」

 

「おい」

 

「嘘嘘。身体で払ってもいいと思えるくらい美味しいよ」これも嫌味な響きになってしまった。わざとではないのにおかしいな。それに、そもそも男のセリフではない気がしなくもない。

 

「……」

 

 

 

 

 

 

 そろそろ妹が塾から帰ってくる、と春夏秋冬さんが言ってきたので、僕は素直に退散することにした。

 

 玄関まで来たところで、「明日は学校来るの?」と僕は訊ねた。

 

「行く」春夏秋冬さんは答えた。

 

「そっか」と囁くように言った。「じゃあ帰るよ──」

 

「待て」

 

「何?」

 

「……」春夏秋冬さんは、表情筋をもにゅもにゅさせている。

 

 何やってんだろ、この人。

 

 好奇心に逆らわずに心を覗いてみる。

 

(キスしたいやべなんだこれキモいだろもっと一緒にいたいいやいやいやホモじゃねぇしなんで帰るんだよ俺は巨乳好きなんだよ豚肉にしなければよかったぎゅうして臭い大丈夫かなただの友だちだろ落ち着く匂いああもう──)

 

 あまりの勢いにくらっときた。春夏秋冬さんは完全に混乱している。

 でも──笑ってしまう。だって、ほんの2、3時間前とは随分と毛色が違うんだもん。

 

 なので──。

 

「なんでわら──」唇を塞ぎ、そして、中に侵入させた。

 

 舌と舌がぶつかり、擦り合わされると、春夏秋冬さんが僅かに震えた。慰撫(いぶ)するように唇、歯茎や口内の粘膜を刺激してゆき、そして、不意に舌を絡める。

 次第に春夏秋冬さんも慣れてきたのか、僕の中へ押し入り、あるいは自らの中に僕を招き入れ、味わうように舌を動かし始めた。

 しかし、彼女は口内への刺激に弱いのか、時折、小さく痙攣(けいれん)し、その度に動きを止め、大きな隙を晒した。そして、霞がかった彼女の心が、もっともっと、とねだり、僕がそれに応えて隙間を埋めてゆく。

 

 しばらくそんなことを繰り返し、互いを、その輪郭を理解し始めた辺りでそれをやめ、少しだけ唇を離す。春夏秋冬さんから洩れた、熱く、湿っぽい息が、静かな玄関に溶けてゆく。

 

(──もうなんでもいいや)

 

 すると、今度は春夏秋冬さんからしようとしてきたので──僕は顔を()らし、彼女の唇を()けた。死球を回避する前田さんに匹敵する機敏さの、見事な避けっぷりだと思う、多分。

 

「……?」なんだよぅ、と春夏秋冬さんは甘えたような声を(したた)らせ、また欲しがったので、まぁ当然、避けた。

 

 春夏秋冬さんの感情に、じんわりと不満が(にじ)んでゆく。

 

 なので、僕は言った、若干早口で。「妹さんに僕のこと知られたくないんでしょ? いいの?」

 

 勿論これは建前で、本音は、焚きつけるだけ焚きつけてから突き放したらどんな顔をするか見たかっただけだ。

 

 春夏秋冬さんは、「ぅー」とか、「ぁー」とか唸った後、「帰れ」と捨て台詞を吐いてから部屋に引っ込んでいった。びっくりするくらい真っ赤だった。

 

「……ふふ」

 

 やっぱり人間っておもしろい。妖怪(ぼく)とは違うね。

 

 




続きを書こうか迷いましたが、本作の雰囲気やジャンルのバランスを維持したまま続けるのが難しいと感じたので、一応、これで終了です。青春小説や恋愛小説をほとんど読んだことがないからこういうことになるんですね泣

お読みいただき、ありがとうございました。


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好きな人①

開き直りました。



「他に分からないとこはあるか?」自身の机に着く星野先生が、心地いい響きの落ち着いた声で言った。

 

 星野先生は、私の通う塾の先生だ。ツーブロックと短めのマッシュを合わせた髪型がよく似合っている。

 

「えーと」ただ話したいから〈質問がある〉と嘘をついたのだ。分からないところは中学生の範囲では1つもない──あらかじめ用意していた質問は瞬く間に回答されてしまった。でも、もうちょっと仕事の邪魔をしたいので、なんとか知恵を絞る。「……最近、織田信長女性説が一部の界隈で通説的見解となりつつありますが、先生はどう思いますか?」

 

「……」星野先生は沈黙してしまった。

 

 訊いておいてなんだが、私もこの質問は意味不明だと思う。なんだよ、信長女性説って。どんな界隈だよ。怖いよ。

 奇天烈(きてれつ)な学説が、つい頭に浮かんでしまったのは、この前、お姉ちゃんがこの説について喋っていたからだ。つまり、容姿と運動神経に極振りした頭ポンチキなお姉ちゃんが全部悪い。

 

 だから、星野先生、そんな目で私を見ないで。いや、でも、これはこれで……。  

 

 私が妙な世界への扉を開きかけた時、星野先生は口を開いた。「噂は聞いてるけど、それってホントなのか? どこの教授(せんせい)が提唱し──あっ」

 

 星野先生の腕が彼のスマートフォンと鍵束にぶつかり、それらを床に落としてしまった。ちょうど私の足下に来たので、拾う。

 

 これは……。

 

 赤い熊のキーホルダーがかわいいのはいいとして、スマートフォンの待ち受け画面に表示された、明るい茶髪をグラデーションボブにした女の人が問題だ。ぞわっと嫉妬心が湧いてくる。

 

「この写真って」彼女さんですか、と続けようとして、しかし、星野先生に、「個人的なことには答えられません」と阻止された──星野先生の顔に一瞬だけ影が差す。

 

 しかし、私は軽佻浮薄(けいちょうふはく)な表情を作り、「もしかして照れてます?」とそれに気づいたことを隠す。「先生かわいいー」

 

「はいはい」星野先生があしらう。「もう質問がないなら帰りな。遅いから気をつけて帰れよ」

 

「はーい」と素直に従い、先生たちの部屋を出る。

 

 あの表情を見て、私は確信した。星野先生は振られた、則ち、今が絶好のチャンスだと。

 年齢的な(法的な)障害はあるが、淋しさ(性欲)を紛らわすのに丁度いい子が、都合のいいことを言ってすり寄ってくれば──お姉ちゃんほどじゃないけど私もなかなかのものだし──魔が差して一線を越えてしまうこともあるはず。

 そこまでいってしまえば勝ったも同然。星野先生の性格ならば、すぐに私に情が移り、無下にはできなくなるに決まっている──最悪、法律をチラつかせるのもありだろう。そして、ゆっくりと私に溺れさせ、なし崩し的に本命彼女の地位を手に入れるのだ。

 

「ひひ」おっと危ない危ない。誰かに見られたらいけない顔にな──。

 

「またキモいこと考えてるだろ」見られてた。同じ高校を志望する(たちばな)君が、呆れ顔をしている。

 

「なんのこと?」私は取り澄ました。「童貞君の妄想じゃない?」ついでに毒も吐いておく。深い意味はない。

 

「そっちこそ妄想はほどほどにしといたほうがいいと思うぞ」橘君は、一切動じずに毒を返してきた。「星野先生のことだろ、どうせ」

 

「……そうだけど、別にいいじゃん」好きなんだもん。

 

「……まぁ俺が口出しするのも違うか」

 

 私はピンときた。「もしかして私のこと──」

 

「それはない」断言された。

 

 そこまではっきり言われるとプライドが……。

 

「またまたー、正直に──」

 

「それはない」

 

「ぅぅ……」私は気合いで涙を出す。「私ってそんなに魅力ないかな……」

 

「可愛いけど、絶対に手は出したくない」橘君は、本当に何の迷いもなく即答した。「明らかな地雷を好き好んで踏む馬鹿はいないんだよ」

 

「いくら何でもひどすぎない?」心外甚だしい。まっこと遺憾である。「私、尽くすタイプだよ?」知らんけど。

 

「……ふ」鼻で笑いやがった。「地雷女の常套句(じょうとうく)だな」

 

「腹立つわー、同じ学校だったら女子どもを使って虐めてたわー」

 

 突然、橘君が、はっ、とする。

 もしやようやく自分の愚かさに気づいたのだろうか。しかし、今更謝っても許さぬ。私を──。

 

「お前ら、イチャついてないでさっさと帰れ」振り返ると、謝っても許さんぞ、と言わんばかりに眉を吊り上げた星野先生がいた。

 

 

 

 

 

 

「本当にここまででいいのか?」家まで送らなくてもいいのか、と橘君が訊いてくれた。

 

「大丈夫」心配してもらえると嬉しくなる。「ありがと」

 

 私たちは学区を分ける川の近くにいる。ここまでは同じ道なので、塾を出た後、一緒に帰っていたのだ。

 

「そうか」橘君にしつこくするつもりはないみたいだ。「分かった」

 

「うん。また明日」これでも受験生。明日も塾には行かないといけない。

 

「ん」とだけ応え、橘君は自転車に跨がり、橋を渡っていった。

 

 橘君の背中が小さくなり、やがて見えなくなった。

 

「……」

 

 多分、星野先生がいなければ好きになってたと思う。

 

「……なんてね」ないない、と呟いた時、川沿いの道の草が繁っている場所に光る物を見つけた。

 

 なんだろ。

 

 近づいてみると、熊のキーホルダーが落ちていた。鍵はついてない。

 拾って、月明かりに照らす。星野先生のと同じデザインだ。古くさいし、傷もたくさんついている。

 

 変なの。元の場所に戻そ。

 

 そう思ったけど、やっぱりちゃんとしたとこに捨てることにした。

 テキトーに鞄に入れて、家に向かって歩き出す。 

 

 

 

 

 

 

「ただいまー」と小さな声で言いつつ、玄関に入る。返事はないけど、珍しいことではない。

 

 まずは何か飲みたい。キッチンに向かう。

 食卓には、ラップをされた、私の分の料理が並んでいた。今日はお母さんはいないからお姉ちゃんが作ったものだろう。この雑な切り方からも、お姉ちゃんの犯行であることが窺える。

 

 冷蔵庫を開ける。お気に入りの炭酸飲料を取り出そうとして、それに気づいた。

 

「カフェオレ……?」

 

 朝にはなかった。しかも、お母さんやお姉ちゃんがいつも買うやつじゃない。

 

「……」

 

 ふと気になって、流しを確認する。食器はない、いつもは最後に食べた人が洗うルールなのに。

 

 もう一度、冷蔵庫の中を見る。

 

「……減ってる」

 

 朝の時点では、アイスコーヒーのペットボトルは未開封だった。しかし、今は開封済みだ。お姉ちゃんが飲むことはないし、お母さんも基本的には飲まない。お父さんは今日から4日は他県にいる。

 

 私はピンときた。

 

 お姉ちゃんに彼氏ができたんだ!

 

 最近、どうもお姉ちゃんの様子が変だと思っていた。いつもよりスマホに意識が行くようになっていたし、色々なお手入れも以前より気持ち丁寧にやっていた。

 

 口元が(ゆる)むのを抑えられない。

 

「ひひ」おっといけない。また人に見せられな──。

 

「邪魔なんだけど」ムカつくくらい透明な声。お姉ちゃんだ。

 

 お姉ちゃんの辞書には、愛想という言葉はない。非常にむすっとした表情でこちらを見ていた。

 

「ねえ、お姉ちゃん」

 

「なんだよ」お姉ちゃんは平均より少し背が高い。一方、私は平均より低い。つまり、機嫌の悪そうな顔で見下ろされているということだ。無駄に威圧感がある。

 

「このカフェオレどうしたの?」時代劇に出てくる悪代官のような笑みを浮かべたくて仕方がないけど、気合いで堪える。

 

「……買ってきた」お姉ちゃんはぶっきらぼうに答えた。

 

「ふーん。いつものじゃないのはどうして?」

 

「……理由なんてねぇよ」表情や声に違和感はない。

 

 お姉ちゃんは基本的に表情を取り繕うのが上手い。けれど、感情の大きさが一定レベルを超えると──。

 

「もしかして彼氏?」

 

 お姉ちゃんは、顔をもにゅもにゅさせる。

 なんて分かりやすい人なんだ。腕を伸ばし、よしよし、とお姉ちゃんの頭を撫でる。

 

「おい。やめろ」手を払われた。

 

「どんな人なの?」めちゃくちゃ気になる。

 

 昔からお姉ちゃんはスポーツ馬鹿で恋愛に興味を持たなかった。このルックスでなんという勿体なさだろうか、とお母さんと2人で嘆いていたけど、ようやく春が来たようだ。

 

 しかし、お姉ちゃんは犯行を否認するらしい。「はぁ? なんで彼氏がいることになってんだよ。そんなのいないっつーの」と冷蔵庫からカフェオレを取り出して口をつけた。

 

「もうキスはしたの?」

 

「っ」噴き出しはしなかったけど、ごほごほと()せている。キスはした可能性が高いようだ。

 

 背中をさすってやりつつ、「じゃあエッチは?」と追撃。背中が熱い。

 

「だから、相手がいないんだって」今度は反応が若干小さい。

 

「ふーん。あくまで認めない、と」

 

「なんなんだよ、鬱陶(うっとう)しいな」

 

「ふーん」

 

 やむを得ないね。そちらがその気なら、こちらにも考えがある。

 

「ひひ」

 

 ちょっと、そんなに引かないでよ。

 

 

 

 

 

 

 翌日の夕食は、私、お姉ちゃん、そしてお母さんの3人が揃っていた。

 

 早速、私は言った。「お姉ちゃん、彼氏ができたんだって」

 

「っ」相変わらず、お姉ちゃんは噴き出すのは我慢できる人のようだ──()せてはいるけど。ちなみに、私はお姉ちゃんの向かいには座っていないので心配はない。

 

「ほんとなの?!」お姉ちゃんの正面という危険地帯に座るお母さんが、噎せるお姉ちゃんに訊ねた。しかし、涙目でごほごほするだけで答えない。

 

 やむを得ず私がナイスなフォローを入れる。「ホントだよ。昨日、家に来て色々してたみたい」ね! と如何にも仲良く出来事を共有したかのようにお姉ちゃんに嗤いかける。

 

「お前マジふざけんなよ」ようやく味噌汁との喧嘩を制したようだ。「いないっつってんだろ」

 

「またそんな口利いて」お母さんは、お姉ちゃんのヤンキーみたいな言葉使いを許せないそうだ。「そんなんじゃ振られるわよ」しかし、今は嗤っているのであんまり怒ってはいないと思われる。

 

「大丈夫だよ、お母さん」楽しくなっているので私の舌は制御不能に陥っている。「お姉ちゃん、ご飯作ってあげたり、色々努力してるみたいだし、案外上手くやってるみたいだよ」

 

 食器が流しになかったということは、証拠隠滅したに違いない! かどうか定かではないけど、思いついたことを喋りたかったから仕方がない。

 

「うひゃん」と変な歓声を上げたのはお母さんだ。(とし)を考えてほしい。「料理嫌いの(そら)がねぇ」しみじみと呟き、しじみの味噌汁を(すす)った。

 

 この後もお姉ちゃんへの追及は続いた。ものすんごく食べづらそうにしてたけど、しっかり完食するあたり、本当は余裕があるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 時刻は21時過ぎ。リビングでスマホを弄りながらテレビを観ていると、お風呂場の方から気配。お姉ちゃんがお風呂に入るのだろう。

 

 どうやら次のミッションの時間のようだ。「ひひ」私は立ち上がり、2階へ向かう。

 

 しかし、「(はるか)、ちょっと来なさい」と廊下でお母さんに止められた。

 

 なんだよ、40分しかないんだぞ。

 

 渋々、お母さんとリビングに戻り、ソファの、今さっきまでいた場所に腰を下ろす。

 

「何? 私、忙しいんだけど」反抗期なのでつんつんしても許されるのだ。

 

「あなた、この前の模試、真面目にやらなかったでしょ」お母さんがチクチクした声色で言った。

 

「? 真面目にやったけど」私は惚けた。

 

 前回の模試は、めんどくさそうな設問は問題をほとんど見ずに解答を記入していた。そういう気分のときもある。いったい何をぷんぷんしているのか。更年期障害だろうか。

 

「嘘ね」お母さんは、洋館のダイニングルームで推理を披露する探偵を彷彿とさせる勢いで断言した。「あなたがあのレベルの英語長文でミスするはずがないわ」

 

 どうりで問題冊子まで要求してきたわけだ。この人、私が手を抜いたかを確かめるためにわざわざ問題文をチェックしたらしい。暇なのかな? 

 

 暇をもて余したおばさんはとても厄介だ。だからというわけではないが、私は開き直った。「いいじゃん、別に」だってさ、と続ける。「お姉ちゃんの成績に比べたらマシじゃん」

 

 お姉ちゃんは知能指数お姉ちゃんだからお姉ちゃんなのだ。

 

「はぁ」お母さんは溜め息をついた。「そういうことじゃないでしょ。お姉ちゃんは真剣にやってあれなの! でも、あなたは不真面目なだけでしょうが。私は、そういう態度が駄目だと言ってるの」

  

 なんという理不尽な話だろうか。お母さんの主張が正しいのならば、馬鹿は大した結果を出さなくても許されて、頭のいい奴は常に相応の結果を出さないと許されないということになる。

 非常に納得がいかない。頑張らなくてもそれなりにこなせる人間には、手を抜く権利があるはずだ。

 

「その理屈なら、全力を出しても0点しか取れないような、救いようのない馬鹿は、一切解答しなくてもいいってことになるよね? それって不平等じゃない?」

 

 外形上の変化がないのなら、内心の推定にも変化をつけられない。馬鹿の、〈真面目やりましたよ〉という抗弁を否定することはできないのだ。

 

「はぁーっ」お母さんは疲れているようだ。歳だろうか。「あなた、分かってて屁理屈こねてるでしょ。そういうとこよ、そういうとこ! もうちょっと真面目になりなさい!」

 

「えー」やだよ。私は、気分に任せて楽しく生きてゆきたいのだ。

 

「はぁ……。いったい誰に似たのか……」

 

 おっぱいだけはお母さん似だよ、と言いかけたけど、私にはまだ希望がある、となんとか踏み止まった。

 

 

 

 

 

 

 30分後、お母さんから解放された私は、お姉ちゃんの部屋にいた。

 お姉ちゃんの入浴時間は、込み込みで凡そ40分。残り10分しかない──お母さんがくだらないことに(こだわ)るせいで余裕がなくなってしまった。

 けれど、欲望を抑えることはできないし、できても抑えるつもりはあんまりない。

 

 私の目的はお姉ちゃんのスマートフォン──そこにあるはずの彼氏とのやり取りを調査することだ。

 

 さて、どこにあるかな、と部屋を見回す。コンセントの辺りにはない。机やベッドにもない。

 じゃあ、鞄かな。

 

 素早い動きで、学生鞄のファスナーをスライドさせる。鞄の中には、明日の授業で使うのであろう教科書やノート、無骨(ぶこつ)なデザインの長財布、中身の少ない化粧ポーチに、紺色の小さな紙袋……ん?

 

 紙袋を取り出す。全国展開しているドラッグストアのものだ。

 

「……ひひ」

 

 紙袋の中には、本当に大丈夫なのか、と心配になる薄さが売りのコンドームがあった。ここまで情況証拠が揃うともはや極刑は不可避だ。

 

 他には何か面白いもの──大人の玩具とか──はないか、と漁ると、横の収納スペースからスマホが出てきた。スワイプする。

 そして、顔認証とパスワードの2択からパスワードを選択。

 

『パスワードを入力してください』

 

 お姉ちゃんは知能指数お姉ちゃんなことに加え、ものぐさな嫌いがある。ので、とりあえずは、イニシャルと生年月日を試してみる。

 

『パスワードが違います』

 

 (そら)という名前は、頭空っぽの空という意味であることに争いはないといえども、流石にこんなに単純じゃないか。

 

 次の候補を入力していく。

 

 お姉ちゃんなら、複雑だったり凝ったパスワードにはせず、また、パスワード用の文字列をゼロから作ったりもしないと思われる。つまり、何かに使われている数字やアルファベッドの組み合わせを流用している可能性が高い。

 

 入力し終え、タップ。しかし、失敗。それなら、と少し順番を変えて──。

 

「……よし」クリアだ。

 

 お姉ちゃんの好きな野球選手を、よく話題に(のぼ)る順に並べ、背番号と登録名──ローマ字表記に変換した──の頭文字を入力した結果、2パターン目に当たりを引けた。記憶力の高さは、こういうことに()かしてこそである。

 

 うきうきしながら通話アプリを立ち上げ、履歴をチェック。

 昨日の履歴にある、家族以外の人間がそれだろう。

 

「見つけた」

 

 家族を抜かすと、〈(みなもと) 水季(みずき)〉と〈(さかき) 咲良(さくら)〉という名前が残った。男の可能性が高いのは前者なので、こちらが彼氏のはず。

 

 あ、でも、レズのパターンもあるのか。お姉ちゃん、男勝りなとこがあるからな。最近では、自分のことを〈俺〉とか言い出したし──まさか一人称を変えたのは役割(・・)を全うするため……。

 

 しかし、いや待てよ、と冷静になる。コンドームがあるのだからレズとは考えにくい。

 

 何はともあれ、中身を拝見してからだ。履歴を開く。そして──私は見た。見てしまった。

 

『今日はありがと』『春夏秋冬(ひととせ)さんもあんな顔するんだね』『うるさい』『可愛いかったよ』『しね』『そんなに嫌ならもう2度としない。ごめんね』『いやいってない』『へんじ』『おい』『でろ』『おねがい』『しねよ』『うそ』『ごめん』『でて』『ゆるして』『いじわるしないで』『通話時間〈1時間7分31秒〉』

 

「……」正直、きついっす。誰だよこれ。ホントにあのお姉ちゃんなのか。「ぅぅ……」

 

 言語化できない、羞恥心にも似た嘔吐感のような何かに悶えていると、私の耳は、恐怖という精神的概念を物理現象に昇華させた結果、誕生してしまった空気の振動をキャッチした。要するに、ドアを開ける音。

 

「な、にやって、んだ──?」お風呂上がりのお姉ちゃんが、震える声を発した。というか、声だけじゃなくて身体もぷるぷるしている。

 

 突然、〈好奇心は猫をも殺す〉という言葉が脳裏に過った。

 

 したがって、「にゃ、にゃー」と私は泣いた。何やってんだろ、私。

 

 ガチャリ、とドアが閉められた。

 

「シュレーディンガーの猫にしてやろう」お姉ちゃんは笑った。

 

 どういう意味だよ! こえぇよ!

 

 



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好きな人②

約12000字です。


 病む(ヘラる)才能のあるお姉ちゃんは、〈前に親父の財布から金を抜いたことをバラす〉とか〈母さんの大切にしていたネックレスを勝手に持ち出して失くしたことをバラす〉とか、人の心がないとしか思えないことを言って私を脅迫した。

 か弱い私にはどうすることもできなかった。

 結局、1ヶ月、毎日、コンビニのスイーツを献上することを約束させられた──不服である。デブれクソが。

 

「今、生意気な目ぇ、したよなぁ?」椅子に座って脚を組んでいるお姉ちゃんが、妖刀のように瞳を鋭くさせた。

 

「してないです。気のせいです。誤解です。ごめんなさい」この屈辱、晴らさでおくべきか。というか、今、晴らしたい。「ねぇ、お姉ちゃん」

 

「なんだよ」

 

「どっちから告白したの?」

 

「……はぁ?」お姉ちゃんは、〈何言ってんだこいつ〉という表情を作っている。

 

 しかし、妹の私には分かる。一瞬だけ視線が揺らいだのだ。お姉ちゃんは、ここを攻めて、と誘っているに違いない。

 

「もしかして曖昧なまま関係持っちゃった感じ?」

 

 お姉ちゃんがもにゅる。つまり、当たりということだ。可愛いやつよのぅ。

 

「か、仮にそうだったらなんだって言うんだよ」お姉ちゃんは頑張っている。

 

「いやぁ、もしかしたら水季(みずき)さんは、お姉ちゃんのこと、面白い玩具としか思ってないかもよ?」知らんけど。

 

 ちなみに、下の名前で呼んだのは故意だが、深い意味はない。

 

「そんなこと……」お姉ちゃんが尻すぼみに声を落とす。「……」

 

 心当たりがあるようだ。おっしゃ、テキトーにこのまま押し切ろ。

 

「水季さんさ」さもお姉ちゃんを心配してますよ、という雰囲気を出す。「ちゃんと〈好き〉って言ってくれる?」

 

 言わないからなんだ、あるいは、言ってるからなんだ、という話ではある。

 

 しかし、お姉ちゃんは甚大なダメージを受けたようだ。不安な時のもにゅもにゅが絶好調だ。そして、ややあってから重々しく口を開いた。「……言ってくれない」

 

 面白くなってきた。

 

 私は、「あぁ……」と努めて悲しげな声を出し、次いで、「それは……」と意味深に言葉を詰まらせた。勿論、意味浅どころか意味無だ。

 

「やっぱり気持ち悪がられてるのかな……」お姉ちゃんは沈痛な面持ちで、そう洩らした。

 

 どうして気持ち悪がられていると考えたのかは分からないけど、とりあえず煽っておく。「ないとは言いきれない。男の人って遊びの女には本当に冷酷になれるから」

 

 我ながら、知りもしないことをそれっぽい雰囲気で語るの上手すぎると思う。

 

「わ、私はいったいどうすれば……」お姉ちゃんが瞳を潤ませる。弱りきった小動物のように庇護欲を掻き立てる犯罪的な可愛さだ。

 

「落ち着いて」聖母(笑)のように慈しみ(笑)を纏って、言う。「まだそうと決まったわけじゃないわ。まずは次のデートの時に然り気なく本心を探るのよ」気分で女言葉を使ったけど、なんかしっくりこない。やめよ。

 

「次のデート……」呟き、「そんなのない……」と更に表情を暗くした。

 

 おや? 割とマジで遊ばれてる?

 

 美人すぎると幸せになれないというのは、本当なのかな。

 

「へっ、ざまぁ」やべ。つい本音が。

 

「ん?」とお姉ちゃんが怪訝そうにするので、すかさず私は、「今すぐにRINEしてデートの約束をするべき。それしかない」とはっきりと言い切った。

 

「い、今すぐ?」

 

「そう。今すぐ」当然だ。なぜならお姉ちゃんで遊ぶのに飽きてきたから。

 

「わ、分かった」お姉ちゃんは、神妙に頷いてスマホを操作し始めた。

 

 そして、数分後、お姉ちゃんは顔を歪ませた。「『予定があるから今週は多分無理』だって……」

 

 おっと?

 

「今までもこういうことあった?」

 

「ない」即答した。「1日2日ならあったけど数日も続くのは初めて」

 

 前言撤回。もうちょっと遊ぼう。

 

「残念だけど、飽きられ始めてるかもしれない」お姉ちゃんに、痛ましいものを見たときの顔を向ける。

 

「……」完全に沈黙してしまった。 

 

 私からやっといてなんだけど、そこはかとなく可哀想になってきた。

 

「……お姉ちゃんならすぐ新しい彼氏ができ──」

 

「決めた!」いきなり声色が変わった。怖い。「(はるか)

 

「な、なんすか」

 

「尾行調査するから手伝え」

 

「……は?」

 

 何を言い出すんだ、この人は。

 

「だから、(みなもと)を尾行して妙なことしてないか調べるんだよ」当たり前だろ? とまるで私の感覚がおかしいかのようなニュアンスだ。

 

「なんで私も手伝うんすか?」

 

「バラされたいのか?」

 

「……喜んでお手伝いいたします」

 

 

 

 

 

 

 翌日の放課後、お姉ちゃんの高校を訪れた。まずはお姉ちゃんと合流する手筈になっているのだ。

 

 時間割の都合上、仕方ないのだけど、少し早く着いてしまったので校門で待っていると、「よっす」と制服姿のお姉ちゃんが現れた。

 

 水季さんはもう学校を出たのだろうか。

 

「ねぇ」私は訊いた。「水季さんはどこにいるの?」

 

「あれ」とお姉ちゃんが指差した先、凡そ100メートル離れた所に人影が見える。

 

 遠くて、痩せ気味ってことしか分かんない。

 

「あの人がお姉ちゃんの好きな人なの?」確認してみた。

 

「好きっつーか嫌いじゃないっつーか……」

 

 ストーカーみたいなことやろうとしてるくせに、なんで照れてんだよ。

 

「はいはい」水季さんに目をやる。「見失っちゃうよ。行こ」

 

「お、おう」

 

 

 

 

 

 

 お姉ちゃんが打ち震える。「お、女……?」

 

 一方、私は歓喜した。「やはり私の推理は間違っていなかった……!」

 

 私たちの視線の先には、水季さんと、星野先生が待ち受けに設定していたあの女がいる。つまり、水季さんが寝取った──女が乗り換えたのだ。間違いない。

 合流し、少し会話を交わした2人は駅前を歩き始めた。

 見たところ、女のほうが歳上。見た目だけはいいお姉ちゃんを落としたり、歳上の女を寝取ったりと水季さんもなかなかやるではないか。

 おかげで、私にもチャンスが巡ってきたのだから、素晴らしいクズ男である。

 

「……」喜ぶ私とは対照的に、お姉ちゃんは沈んでいる。「遥、私どうすればいいのかな……」

 

 知らねぇよ、と()()けたいところだけど、「まだ決まったわけじゃないよ。もう少し様子を見よう」と優しく(白々しく)言っておく。

 

「お、おう。そうだよな」そうだよな……、とお姉ちゃんは自分に言い聞かせるように繰り返した。しかし、その目は、すでに何人か手に掛けていそうなヤバい光を放っている。

 

「……」私は戦慄した。

 

 もしも、例えば2人が愛の宿に入っていくところを目撃したら、お姉ちゃんはどうするのだろうか。

 

 (かぶり)を振る。

 

 いくらなんでも常識は弁えてるよね?

 

「ちっ」お姉ちゃんの舌打ちに視線を2人に戻すと、乗り換え女は、清楚っぽい、男受けの良さそうな微笑みを水季さんに向けていた。

 

「……」

 

 今まで浮いた話なんて皆無だったから全然知らなかったけど、お姉ちゃんってこういう感じになるんだ……。普通に怖いわ。

 

「だ、大丈夫だよ。お姉ちゃん」私は、お姉ちゃんが凶行に走るのを止めるべく、意味不明なことを口にする。「お姉ちゃんのほうが清楚系レベルは上! 裏ボスの魔王と最弱の四天王くらいの差だよ!」

 

 なお、恐ろしさも比例していると思われる。

 

「清楚系?」片方だけ眉を上げたお姉ちゃんが訊いた。

 

「そ、そう、清楚系」サクっと男を乗り換えても、中身が残念でも、見た目がそれっぽければみんな清楚系なのだ。「男は清楚系が大好きだからお姉ちゃんならまだ戦えるよ!」

 

 しかし、お姉ちゃんは微妙な表情を顔に浮かべ、言った。「あいつ、肋骨で興奮する変態なんだけど、そんな奴でも清楚系が好きなのか?」

 

「あー……」

 

 この問いは、全国模試で県内1位を取るよりも難しい。学校の勉強が如何に温いかを教えてくれる良問と言えよう……。

 

 

 

 

 

 

 実のところ、私は初めから違和感を覚えていた。しかし、そういったものが大の苦手であるため、なんとか目を背けようとしていたのだ。

 思えば、星野先生の表情は、失恋を引きずっているといった雰囲気ではなかった──。

 

「おねおねねねぇちゃん!」私はすがりついた。「い、今、あの女、車をすり抜けたよね?!」

 

「だなぁ」お姉ちゃんは穏やかに答えた。

 

「『だなぁ』じゃねぇよ!!」

 

 乗り換え女は幽霊だった。

 だって、道行く人のほとんどが彼女を認識していないように見えるし、ショーウィンドウには映ってないし、車はすり抜けるし、これで普通の人っていうのは無理がある。

 

「まぁ、落ち着けよ」お姉ちゃんは、肉体的な浮気の可能性が減ったからか、随分と余裕がある。「まだそうと決まったわけじゃない。もう少し様子を見ようぜ」

 

「馬鹿なの!? 頭ポンチキもいい加減にしろよ! あれで幽霊じゃなかったらなんなんだよ! 馬鹿女が色ボケすると畜生並みに知能が下がるんか!? ふざけんなよ! おっぱい少し分けろ!」私は喚き散らした。

 

「……お前、私のことそんなふうに思ってたんだな」

 

「う、うるさい! 全部お姉ちゃんのせいだ! 私は帰るから! 勝手にヘラってろ!」

 

 鬱憤を吐き出した私は、少しだけ心に安寧を取り戻すことができた。このまま、あの女を視界に入れないように下を見ながらお家に帰ればいいのだ。

 

 そう思い、駆け出そうとした時、私は聞いた。

 

春夏秋冬(ひととせ)さん、尾行下手すぎ」優しげな声が苦笑いに溶ける。「妹さんかな。はじめまして」

 

 顔を上げると、水季さんがいた。そして──。

 

「ばぁ!」乗り換え女が、私と水季さんの間に入ってきた。「お化けだぞぉ!」

 

「──」

 

 頭の中で爆発が起きたかのような感覚と共に意識を失う直前、もしかしたら(たちばな)君が〈ほどほどにしとけ〉と忠告したのは〈今はそっとしといてやれ〉という意味だったのかもしれない、という、根拠のない推測が脳裏を(かす)めた。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 春夏秋冬さんがメンヘラ彼女みたいになった日の次の日、僕は三上(みかみ)先生に呼び出され、生活指導室でお茶を飲んでいた。

 

「悪いな。そう時間は掛からないから大目に見てくれ」三上先生はタイトなスカートのスーツを着こなしている。

 

「いいですよ、別に」お茶を置く。「それで用件はなんですか?」

 

 三上先生は、ああ、と頷いてから語り出した。「大学生のころから付き合いのある男の婚約者が、交通事故で亡くなってしまってな」

 

「はぁ、そうですか」いきなり情報量多いなぁ。

 

 三上先生が続ける。「その女、早紀(さき)って名前なんだが、未練たらたらみたいで、幽霊になってしまったんだよ」

 

「はぁ、そうですか」僕はぼんやりとした相づちを打った。

 

 だからなんなのだろう、という気持ちしか湧いてこない。幽霊くらい別に珍しくない。

 普段は男口調の女友だちが、通話だとなぜか甘えたがりの彼女みたいになって、〈まってもうちょっと〉〈いいじゃんけち〉〈もっとはなしたい〉〈あとすこしだけだから〉などと言って、15分以内に終わらせようとしていた僕に1時間以上の苦行を強いてくること並みによくあることだ。

 

 三上先生は、「暑いな」とわざとらしく洩らしたかと思ったら、シャツのボタンを1つ外した。

 

「……幽霊がどうしたんですか」渋々、話を促す。

 

「その男、直人(なおと)とは今も健全な友人関係を続けているんだが」三上先生は、暑いと言ったくせに腕を組んで胸部を中途半端に温めている。「どうも早紀は直人に()いてしまったみたいなんだ」

 

「なるほど」なんとなく話が見えてきた。

 

「ああ」三上先生は深刻そうに眉をひそめ、「直人のやつ、婚約者が死んで完全フリーになったというのに、私の相手をしてくれないんだ。身体以外は興味がないと言っても聞かないし、酷い話だろう?」と同意を求めた。

 

「酷いのはあなたの頭です」軌道修正するべく、言う。「つまり、早紀さんをどうにかしてほしいってことですか?」

 

「そう、それ」三上先生は、我が意を得たとばかりに僕を指差し、「私はそれが言いたかったんだよ」と満足げに頷いた。

 

「ちょっと気になるんですけど」素朴な疑問がある。「なんで三上先生が自分でやらないんですか?」

 

「昔、大学の図書館で直人とヤってるとこを早紀に見られたことがあったんだ。そのころからあいつらは付き合っていて、早紀はこれ以上ないくらい激怒してな、それ以降、嫌われてしまって今もろくに話をしてくれないんだよ」人間の女はよく分からん、と三上先生は肩を竦めた。

 

 ふー、と息を吐き出し、眉間を揉む。

 大して時間は経っていないはずなのに疲労感が凄い。春夏秋冬さんの、起承転結も序破急(じょはきゅう)もあまりない、無駄に細かい日記のような話を聞くのとは、また違った趣の辛さだ。

 

「分かりました」僕が言うと、三上先生は嬉しそうに顔を綻ばせ、口を開こうとしたので、それを遮るように、「勿論、タダじゃないですよ」と平坦な語調で続けた。

 

「ふふふ」三上先生が、見る人によっては〈妖艶な〉という形容動詞を頭に浮かべそうな笑みを見せる。「心配するな。分かっているとも。報酬は私とのセック──」

 

「それはいらないです」僕は言い切った。

 

「な、なぜだ!?」三上先生にとっては理解できない展開のようだ。教科書に載せたいくらい分かりやすい驚愕を表明している。「ここ3日はヤってなくて辛いんだ! それなのにどうしてそんな残酷なことを平然と言える!」

 

 三上先生は、淫魔、所謂サキュバスという種族だ。魔族と呼ぶ人もいるけど、僕には妖怪との違いがよく分からない。

 彼女たちは──僕も詳しくはないんだけど──セックスを人生の最重要事項と捉え、日々(いそ)しんでいるらしい。

 しかし、僕にはセックス依存症の患者にしか見えない。

 

 なので、僕は言った、笑顔で。「放置プレイと思えばいいんじゃないですか?」

 

「バカ者! 私は直接的かつ具体的かつ肉体的な快楽が欲しいんだ! そんなものでは満足できないんだよ!」怒髪が天を衝きそうな勢いだけど、三上先生の髪は緩く巻かれたセミロングで、いまいち迫力に欠ける。

 

「前も言ったような気がしますけど、僕ら(さとり)妖怪は性欲が弱いんですよ。三上先生の相手は務まらないです」面白い心を(つまび)らかにしたいという欲求が1番強いのだ。「他に手頃な人はいないんですか? というか、暇そうな生徒を襲えばいいじゃないですか」

 

「バ、バカ者っ。私だって誰でもいいわけじゃないんだぞっ」三上先生は頬を赤らめた。

 

 人間さん視点で見ると、クソビッチサイコモンスターのくせに、どうしてかわいこぶるのだろう?

 

 ちょっと心を読んでみよう。

 

(源なら乱暴に扱っても壊れないはず。私はおもいっきりヤりたいんだっ。源の声をもっと聞きたい。ムラムラする。もう力ずくでヤってしまうか?)

 

 三上先生は、背骨を内側から(くすぐ)られたかのようにもぞもぞしている。

 

「……三上先生」

 

「なんだ? やっとその気になったのか? 私の準備はできてるぞ?」

 

「僕、彼女できたんで無理です」

 

 彼女がいると、こういうときに便利だ。まぁ、いないんだけど。

 

「ふふ」三上先生が催淫(さいいん)効果のありそうな笑みを洩らした。「そっちのほうが燃えるから問題ない。常識だぞ」知らないなんて源もまだまだ子どもだな、と唇を舐め、シャツのボタンを更に1つ外した。

 

 この淫魔(ひと)、ホントめんどくさいなぁ。

 

 

 

 

 

 

 三上先生に報酬として〈日本史の成績に色をつけること〉を約束させ、生活指導室を後にした僕は、早速、足立(あだち) 早紀さんに憑かれているという星野 直人さんの下を訪れた。

 

〈圧倒的合格実績! 超コスパ! アットホームなノリ!〉という文字が記された看板の学習塾が星野さんの職場だ。たまたま休憩時間だったらしく、僕が塾の人に声を掛けるとすぐに出てきて、外でお話することになった。

 

「はじめまして。三上先生のクラスの源 水季と言います」

 

「さっき電話があったよ……」星野さんは、苦虫を口いっぱいに頬張り、たっぷり時間を掛けて咀嚼してやっとのことで呑み込んだ後のような顔で続けた。「本当にごめんな。あの淫乱に酷いことされなかったか?」

 

「いえ、大丈夫です。テキトーにあしらいましたので」

 

「そ、そうか」事実をそのまま伝えたら、若干引かれてしまった。

 

「はい」と応えてから、星野さんの後ろで浮いている、そこそこ綺麗な女の人に視線を向け、「足立 早紀さんですね?」と問うた。

 

「そうだけど……」足立さんがぼそぼそと答えた。

 

「では、事情を詳しく聞かせてください」

 

「え? 聞こえてるの?」足立さんは目を丸くし、「ホントに?」と訊いてきた。

 

「ええ、聞こえてますよ」

 

 三上先生によると、星野さんは足立さんの姿がぼんやりと見えるだけで──気配で彼女だと察してはいる──触れることも声を聞くこともできないらしい。だから、驚いたのだろう、普通に会話が可能な僕に。

 

 僕の言葉を聞いた足立さんは、「すごい! 会話できる人なんて初めて!」と星野さんの頭上ではしゃいでいる。

 

 そんな足立さんの様子に困惑気味の星野さんに、「さいならー」と男の子が挨拶をした。

 

「お、おう。橘か」一拍遅れて男の子に気づいた星野さんも挨拶を返す。「気をつけて帰れよ」

 

「……うぃ」と気怠げな声を発した男の子は、チラリと足立さんに目をやり、次いで僕を見た。「……」一瞬だけ固まるも、しかし、すぐに視線を外し、自転車に乗って帰っていった。

 

 あの子……。

 

 クエスチョンマークを顔に浮かべる星野さんの上に浮かぶ足立さんが、「どうしたの?」と疑問を浮かべた。

 

 なので、僕は、「意外といるもんですよ、会話できる人」と教えてあげた。

 

 可能ではあっても会話するつもりのない人だと思うけど。

 

 

 

 

 

 

 足立さんが、〈直人の前では話したくない〉と言うので、塾の近所にある川沿いの道を散歩しながら話を聞いたところ、なんでも、〈星野さんからの告白イベントのあった修学旅行で買った思い出のキーホルダーをどこかに落としてしまい、それが心残りで逝くに逝けない〉らしい。

 

 これを聞いた時、僕は、〈そんな事情無視して無理矢理、幽霊を消滅させる方法も普通にありますよ〉と言いたくなったけど、流石に空気を読んで、〈どこら辺に落としたかは分かりますか?〉と訊ねるにとどめた。

 

 すると、足立さんは、〈だいたいしか分からないんだよねぇ……〉と頬に手を添えて困ったように眉を曲げていた。

 

 そんなわけで、その、曖昧模糊(あいまいもこ)とした範囲を、足立さんと2人でキーホルダーを求めて徘徊する運びとなった。

 なので春夏秋冬さんの誘いを断ったのだけど、今日、学校で会った時には、(信じてる。だから尾行してもいいよな)と訳の分からないことを考えながら僕を見つめてきた。

 (はえ)に性別を変えられるという不思議な現象に遭遇してしまい、(いま)だ精神が混乱しているのだろう、と珍しく優しい気持ちになった僕は、春夏秋冬さんの頭を撫でてやろうとしたのだけど、みんなの意識が僕らに集中している気がしたので、直前でやめておいた。春夏秋冬さんの面白い顔を見れたので、やめて正解だったと思う。

 

 そして、現在、春夏秋冬さんの気配を感じながら──ある意味、幽霊よりも怖い──駅前でキーホルダーを捜索中だ。

 

「なんだかデートみたいだね」突然、足立さんはそんなことを(のたま)って、はにかみ混じりに微笑んだ。

 

「そうですか?」僕は疑問を呈した。

 

 なぜなら、デートではなく、デートにドタキャンされた姉に付き合わされる弟ってこんな感じなのかなぁ、と思っていたからだ。

 

「そうだよー。浮気だよー、いけないんだぁ」足立さんは、クスクスと笑いを溢しながら春夏秋冬さんのほうへ悪戯(いたずら)めいた瞳を向けた。

 

(あの子たち、かわいい~。青春だぁ~)

 

 完全に遊んでらっしゃる。もうあの世に強制送還でいいんじゃないかな。

 とか思ったけど、三上先生なんかに彼氏をつまみ食いされた可哀想な人だと思えば、許せるような気がしないでもない。

 

 やっぱり敗因はスタイルなのかな?

 

「なんか失礼なこと考えてない?」足立さんは、事実無根の戯れ言をほざいた。

 

「まさか。そのような事実はございません」

 

「本音は?」

 

「彼女が貧乳だと不満が溜まるのかなぁって思ってました」

 

「……君、正直者だねぇ」

 

 そうだったのか。知らなかったよ。

 

 

 

 

 

 

「一応、救急車呼んだほうがいいよね?」街の片隅に置かれたベンチに座り、失神してしまった妹さんに膝枕をしてあげている春夏秋冬さんに、僕は訊ねた。

 

「ああ、頼む」

 

 春夏秋冬さんがそう言うので、サクッと、病院行きの(やかま)しいタクシーを手配した。

 

 すると、妹さんが、「ぅぅ……」と幼い声を洩らした。そして、瞼を擦り、「お姉ちゃんの匂い……」と呟いて寝返りを打とうとして、「……ん?」と何かに気づく。「生理の(にお)──っい゛」

 

 春夏秋冬さんが、妹さんの耳を引っ張ったのだ。痛そう。

 

 春夏秋冬さんの妹さんがご乱心なさったのを面白がった足立さんが、〈挨拶に行こう〉と言い出したので、それに従ったら妹さんが気絶してしまった。ぐったりと脱力した彼女を近くにあるベンチに運んだのが3分くらい前だ。

 

 春夏秋冬さんから解放された妹さんが、むくりと身を起こす。「あ、寝取り二股おと……は!」と辺りをキョロキョロしてから首を捻る。「お化け、いない……?」

 

 また失神されたら困るので、足立さんには、実は巨乳好きなのに妥協して足立さんと婚約した疑いのある星野さんの下に帰ってもらった。

 

「いないよ。だから失神しないでね」僕は言った。

 

「はぁー、よかったぁ」妹さんは安堵の息を吐き出し、くたっと横になった。当然のように春夏秋冬さんの太ももを枕にしている。

 

「今だけだからな」春夏秋冬さんが無愛想な声を真下に落とす。「救急車が来るまでおとなしくしてろ」

 

「はーい」とおざなりに答えた妹さんは、「水季さんは、お化けなんかと何をしてたんですか?」と初対面にもかかわらずナチュラルに名前呼びをして、姉とは段違いのコミュニケーション能力を見せつけた。

 

()くしたキーホルダーを探してたんだよ」

 

「へぇー、そうだったんですか……」と妹さんは階段を下るように声量を落とすのに伴い、呑気な童顔をシリアス風味な思案顔へと変化させてゆく。そして、(おもむろ)に口を開いた。「そのキーホルダーって赤い熊のやつだったりします?」

 

「うん。そうだよ。どっかで見たの?」

 

 僕の問いには答えずに、ぴょん、と起き上がった妹さんは、学生鞄を開け、それを取り出した。「もしかしてこれですか?」

 

 妹さんの小さな手のひらには、僕たちが探していた、くすんだキーホルダーが確かに存在していた。

 

 

 

 

 

 

 翌日、僕は、足立さんを連れ出した。ついでに春夏秋冬さんもいる。乗りかかった船がどうとか建前を並べ、ついてきたのだ。

 

「キーホルダーってこれですよね?」三上先生の獣欲を満たしやすい環境作りのためのミッションをさっさと完了したい僕は、前置きなしに端的に訊いた。

 

「! うん、それっ」華が開くように答えた足立さんが、キーホルダーに手を伸ばす。しかし──、「あ……」と花びらが散るように表情を曇らせた。

 

 キーホルダーに触れることはできない。幽霊は、基本的に現実世界の物質に影響を与えられないのだ。

 

「そっか。そうだったね」お姉さん、うっかりしてたよぉ、と足立さんは儚く笑った。

 

「伝える決心はつきましたか?」僕は問う。

 

「!」足立さんは、丸くした目を(しばたた)いた。「気づいてたんだぁ」

 

「なんとなくですよ」と答えるしかない。

 

 そっかぁ、そっかぁ、と彼女はどこかを見つめる。

 

 足立さんの1番の心残りは、お揃いのキーホルダーを失くしてしまったことじゃない。

 雑念に(まみ)れた彼女の心の中心にあるのは、〈星野さんに、自分のことをずっと愛していてほしい〉という想いと〈自分のことは早く忘れて他の人と幸せになってほしい〉という願いだ。

 足立さんが嘘をついて、と言うと少し語弊がある──キーホルダーも心残りには違いないし──けれど、まぁ、そんな感じでキーホルダー探しをさせたのは、心を整理する時間を欲していたから……いや、逃げていたから、かな。

 

 でも、彼女は決めたようだ。「お姉さん、頑張ってくるよ」と言って、背を向けた。

 

 なので、とめた。「待ってください。僕も行きます」出鼻を挫かれた足立さんに更に追い討ちを掛ける。「通訳がいないと会話できないですよね?」

 

「あー、たしかに」お姉さん、うっかりしてたよぉ、と今度は柔らかく笑った。

 

(いったいなんの話をしてるんだ……)

 

 春夏秋冬さんは困惑している。したがって、頭を撫でておく。

 

 

 

 

 

 

 時刻は夜の23時。僕ら──僕、春夏秋冬さん、足立さん、星野さん──は、小さな川に架かる橋の上にいた。夏の湿った風が非常に邪魔くさい。

 

「あのさ」ここまで無言だった足立さんが僕に声を掛けた。「お願いできる?」

 

 通訳しろ、ということだ。お願いされたくないのが本音だけれど、やらないとヤられる可能性がないとは言えないので素直に頷く。

 

 星野さんに言う。「足立さんから星野さんに伝えたいことがあるそうです。僕が通訳するので聞いてあげてください」

 

「あ、ああ、分かった」なんとなく察していた星野さんは、僕のように素直に頷いた。しかし、些か緊張しているようだ。

 

 それじゃあいってみようか、と足立さんの目を見る。

 

 ちょっと待ってね、と言った足立さんは、すぅーはぁー、と深く呼吸し、そして、始めた。「せっかく買った指輪も契約したマンションも旅行の予約も何かも全部無駄になっちゃったね。こんなことになるなら私にしなければよかったって思ってるでしょ」

 

 星野さんは難しい顔をしているが、口を挟む気はないようだ。閉じられた口に動く気配はない。

 僕の口は忙しいのに理不尽である。ちなみに、読心能力の延長線上にある、声帯模写のような技を使っているので、声質は近いと思う。

 

「でもね」と足立さんは続ける。「私は今でも愛してる。もう触れることも、あなたのよく分からない趣味に呆れることも、あなたの興味のない話をして退屈させることも、一緒に歳を取ることもできそうにないけれど、でも、愛してる。ずっとずっと愛してる」だからさ、と彼女は笑った。「もう私のことは忘れて。私はすぐにいなくなるから、だから、直人は幸せになって」

 

 星野さんは(うつむ)いて震えている。そして、僕の横では春夏秋冬さんが瞳に熱を溜めている。

 

 一方、僕は不満だ。だって──。

 

(嫌だよ。直人が他の人と一緒になるのなんて絶対嫌。本当は私以外愛せないって言ってほしい。ずっと私だけを愛していてほしい。一緒にいたい。幽霊でもなんでもいいから離れたくない。愛してる。だから愛して。忘れないで。怖いよ。消えたくない。助けて。好きって言って抱き締めてよ。嫌だ。独りにしないで。怖い。愛してよ。いつもみたいに私に触れて──)

 

 みたいなことを足立さんは延々と考えてるんだもん。僕は疲れたよ。心の中と実際の話が違うから通訳する対象を間違えないようにするのが、予想以上に大変でさ。

 

 なので、僕は、星野さんが足立さんをはっきり認識できないことにつけ込んで、言った。「星野さん。足立さんが、『ここからが本番だから覚悟してね』って言ってます」

 

 足立さんが、〈え? 何? どういうこと?〉と怪訝そうに僕を見た。

 しかし、一般人の幽霊、謂わば一般霊ごときに何ができるというのか。睡眠中に襲ってくる蚊にも劣る雑魚キャラである。というか、いつの間にか腕を刺されていて、痒い。早く帰って痒み止めを塗らないといけない。

 

 それはそれとして、(さとり)の本能に従い、舌を動かす。「『直人、あなた、まだ麻美(あさみ)とセフレ続けてるでしょ』」

 

「!?」「!?」

 

 2人が目を大きく見開く。

 

 一拍後、先に復活したのは星野さんだ。「ご、誤解だ! 今はヤってない! 本当だっ、信じてくれっ!」必死さが伝わってくる、いい表情だと思う。

 

「『嘘つかないで! この前、スマホ見たんだから! あなたの浮気癖はもう諦めてるけど、あの女だけは絶対に駄目っ!』」

 

 足立さんは、なぜか三上先生だけは認められないようだ。理由は分からないような分かるような。

 

「い、いや。違うんだっ、麻美はただの友だち! そう、友だちなんだっ」

 

「『じゃあ、愛莉(えり)とはどうなのよ?! まだ連絡取ってるじゃない!』」

 

「い、いや、たまにRINEが来るからそれに返すことがあるだけで──」

 

 と、こんな感じで、この後も僕は、会話(くちげんか)がスムーズに行われるようにアドリブを入れたりしつつ、足立さんの心の奥底に溜まっていた不満や中心にある想いを勝手にぶちまけた。

 

 そして、一通り喋り尽くして幾分かスッキリした辺りで、僕は足立さんに訊ねた。「他に心残り(・・・)になりそうなことはありますか?」

 

 口を開けて口内を乾燥させることに夢中になっていた足立さんが答える。「ない……かな──」

 

「あ、ごめんなさい。まだありましたね」

 

 僕の言葉に、足立さんは困り顔で笑いを洩らすという器用な真似をした。「全部お見通しなのね」

 

 そうでもない。まだ全てを読めるわけではないよ。けど、分かることもそこそこあるみたいだ。

 

 なので、僕は言った。「『そんなあなたでも愛してる。ばか。あほ。ばか』」

 

 

 

 

 

 

 僕と春夏秋冬さんは深夜の住宅街を歩いていた──春夏秋冬さんを自宅まで送っているところだ。

 

 貧乳女と浮気男のバカップルは散歩をするらしい。

 僕にできることはもう何もないけれど、もう何もする必要はない──足立さんの気配は薄くなり始めていた──ので、お好きにどうぞ、と言って別れてきた。

 

「そういえばさ」月明かりの中、春夏秋冬さんが言った。

 

「何?」と前を見ながら応えた。

 

「なんであんなに声真似上手いんだ?」

 

「なんでだろ?」訊かれても、できるからできる、としか言えない。「分からないかな」

 

「ふーん」納得しているのか、いないのか、春夏秋冬さんは凪のような語勢でそう洩らした。そしてすぐに、繋がりのない次の話題を選択し、口にする。「なんか昨日さ──」

 

 僕は、いつものように心の込もっていない相づちを打ちながら、春夏秋冬さんの横を歩く。

 

 そして、〈この人、自分の話した内容をちゃんと憶えているのかなぁ?〉と割と真剣に疑問に思ったころ、貧乏人を見下すことに慣れすぎて見下していることを自覚できなくなった人間が買いそうな外観の家、つまりは春夏秋冬さんの家が見えてきた。

 スマホによると深夜の12時を過ぎている。

 

「怒られたりする?」僕は訊ねた。

 

「……」もにゅもにゅして、それから少しして春夏秋冬さんは言った。「か、か、彼氏と一緒ならいいって母さんが……」

 

 立ち止まる。家の前まで来たからだ。

 

 特に愉快な感想は出てこないから、「そっか」と無味乾燥な文字の塊を発した。

 

「……」春夏秋冬さんは無言ではあるが、内心は、(なんだよそれ。どうでもいいのか? 私だけ緊張してバカみたいじゃん。なんだよなんだよ……)といじけている。

 

 読心の異能をオフにしてから、「春夏秋冬さん」と呼び掛ける。

 

「……」返事はない。

 

「大好きだよ」

 

「……え」

 

「じゃあ、また明日。おやすみ」

 

 フリーズしたパソコンのようになっている春夏秋冬さんを放置し、自分のアパートに向かって歩き出す。

 

 多分、彼女の心の中は愉快なことになっている。けれど、覗きはしない。大量の情報が雪崩れ込んでくると辛いのだ。

 

「源っ!」春夏秋冬さんは大きな声を発した。

 

 足を止め、振り返る。彼女とはそこそこ離れている。

 

「私も大好きっ!!」

 

 そっか、と囁いた。

 

 




こういうはっちゃけたオカルトラブコメに需要があるかは分かりませんが、もう少し妄想を続けてみます。


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くるくるカプチーノ①

5話と6話は連続投稿です。
このエピソードは番外編のようなものだと思ってください。


 蒸し暑い夜、頭の代わりにシャープペンを回して、高校入試用の予想問題の解答が自然発生することを祈っていると、どこか間の抜けた呼び出し音が鼓膜を刺激した。

 

 誰だ?

 

 勉強机に置いてあるスマホを手に取って確認すると、テレビ電話用のアプリが、〈(あさひ)様から呼び出されてるよ? 早く早く!〉と俺を急かしていた。

 

「旭様か」呟く。

 

 百足(ももたり) (あさひ)は、日本の退魔師(悪い霊や妖怪を懲らしめる人)を束ねる百足家の現当主だ。そして、俺んち──(たちばな)家はあの人たちの子分、換言すると旭様は俺の上司なのだ。

 

 待たせるのは良くないので、さっさと応答する。画面が切り換わり、彼女が映し出された。

 

『こんばんは。こんな時間にごめんなさいね』着物姿の旭様が穏やかに言った。『今は大丈夫でしょうか?』

 

「お疲れ様です。勿論大丈夫です」

 

『よかった……』旭様は、幼い見た目にそぐわぬ艶やかな微笑を浮かべた。

 

 彼女は見た目こそ12歳くらいだが、実年齢は500歳を越えているらしい。なんだかよく分からないけど、大妖怪の血が混じっていて長寿なんだそうだ。

 

 旭様が続ける。『実は、(けい)くんの担当区域内に〈銀髪(ぎんぱつ)ちゃん〉がいたらしいのです』銀髪ちゃんとは指名手配されている妖怪のアダ名だ。長い銀髪が特徴らしく、分かりやすさ重視でこう呼ばれている。『場所は〈ゴーストパラダイス〉という廃墟です。知っていますか?』

 

 ゴーストパラダイスは打ち捨てられた遊園地だ。

 

「知ってはいますが」行ったことはない。

 

『では、お願いできますね?』廃墟を調べろ、ということだ。

 

 立場上断ることはできない。

 

「承知しました」

 

 仕事の話が終わったところで、彼女はほっぺを膨らませた。『最近、冷たいですね。もう飽きちゃったんですか』私の身体に、と飴玉を転がすように笑った。

 

 たしかに最近は会っていないが。「……そういうわけではありません」

 

 旭様とは肉体関係がある。

 意外と話しやすくて居心地がいい人だなぁ、としか思っていなかったのだが、そういう空気になったことがあって、我慢できずについ関係を持ってしまった。

 誤解のないように言っておくが、俺はロリコンではない。旭様は見た目こそ12歳くらいの少女だが、その立ち振舞いや話しぶりは完全に大人の女性だ。童貞には無理だって。あの色気には抗えないよ。だから、ロリコンではない。

 そんなわけで、旭様とはたまに会ったりヤったりしている。ただ、付き合っているのか、と訊かれてもよく分からない。彼女のことは好きだが、これが恋愛感情なのか、恋愛とは無関係の好意なのか、自分でも判然としない。

 それに、彼女がどう思っているのかも分からない。

 とはいえ、普通に考えたら、旭様にとって俺は都合良く遊べるガキでしかない、はずだ。彼女が飽きたら終わる関係、俺はそういうふうに認識している。

 

 それでも、画面越しでも、旭様はやっぱり綺麗だ。誰よりも。

 

 そんなことを考えていたからか、自然と口が動いてしまった。「俺が旭様に飽きることはないって」

 

 しまった、と思った。立場を弁えずにタメ口を使ってしまった。馴れ馴れしすぎる。これではセックスしただけで彼氏(づら)する痛い奴みたいだ。

 

 しかし、旭様は、『もう、またそんなこと言って……』と聞き分けのない子どもに呆れるように形のいい眉を歪めるだけで咎めたりはせず、けれど、それきり口を(つぐ)んでしまった。

 

 旭様との沈黙に耐えられないわけではないが、俺は切り出した。「……今度」俺が声を発すると、彼女は、どうしました? と首を微かに傾げた。心臓に悪い。「旭様に時間ができたときでいいんで──」何回やってもこういうのは緊張する。「どこかに遊びに行きませんか」

 

 旭様は少しの間を置いてから、『本当に仕方のない子ですね』と深刻そうに言い、『景くんには教育が必要なようです。覚悟しておいてくださいね』と心の(ひだ)(くすぐ)るように微笑んだ。

 

「……」

 

 寝れなくなるんでそういう顔やめてもらっていいですか?

 

 

 

 

 

 

 ゴーストパラダイスは、少子高齢化著しい我が県でも屈指の高齢エリアにある廃墟だ──俺の住む市から車で1時間ほど掛かり、周囲には(まば)らな民家とコンビニ、あとは墓地くらいしかない。

 ちなみに、この変な名前は、近くの墓地から幽霊が遊びに来てくれるように、という願いを込めてつけられたらしい。

 

 俺を乗せたタクシーが、廃墟の近くにある──近くといっても徒歩30分は掛かる──コンビニの広い駐車場に入り、そして停まる。

 

「ありがとうございました」と料金を支払い、領収書を受け取ると、タクシーはさっさと行ってしまった。

 

 さて、まずはコンビニでおにぎりを買おう、と冷房の効いた店内に入る。

 時刻は午前10時過ぎ。まだ暑さはピークではないものの、ひんやりとした空気が肌に心地いい。

 

「あれぇー」店員のお姉さんの声。「ない……」またぁ? などとぶつぶつ(こぼ)しながら、陳列されたおにぎりと手に持ったボードを交互に見ている。

 

 何か問題でも発生したのか? 

 

 あなたが今、見ているおにぎりを買いたいんだが……と、欲望(まみ)れの視線を送っていると、ようやく俺に気づいたらしく、お姉さんが、「あ、いっらしゃいませ」と取って付けたように歓迎してくれたので、近づいて、「万引きですか?」と話し掛けてみた。

 

「そう……なのかな?」お姉さんは歯切れ悪く答え、「分からないんだよね」と続け、すぐに、「あ、分からないんです、だね」と言い直した。

 

「……敬語使わなくてもいいですよ」

 

「ホント? ありがとー。いやぁあたし敬語苦手なんだよねー」水を得た魚だろうか。随分と滑らかに舌が動いておられる。

 

「それで何があったんですか?」と質問したのは妖怪の関与を疑っているからだ。

 

「最近さ」と彼女は俺に教えることがこの世で最も正当な行いであると言わんばかりの自然さで話し始めた。「気がついたら、飲み物とかお握りとかが無くなっちゃってるんだよね」

 

「監視カメラに犯人は映ってないんですか?」

 

「それがね、映ってないの」不思議でならないといった顔だ。「そんなんだからお巡りさんも信じてくれないし、なんか不気味だし、最悪だよね」

 

「それはかなり最悪ですね」と違和感のある日本語で共感したフリをしてから、「じゃあ、今も飲み物が無くなってたんですか?」と知りたいことを訊ねる。

 

「そうなの。今日は麦茶とおにぎり、あとはアイスも」

 

「なかなかいい昼飯ですね」暑いし、アイスが欲しくなる気持ちは分かる。

 

「ねー。私のお昼なんか具なしのパスタ弁当だよ?」ズルくない? と不満げだ。

 

「ズルいです」と頷く。「俺もアイス食いたいですよ」

 

「分かる」そして、「抹茶アイスがいい」とお姉さんは神妙に断言した。

 

「抹茶いいですね──」

 

 その後も中身のない会話をし、なぜかRINEを交換し、鮭おにぎりと高菜おにぎりを買ってコンビニを出た。

 お姉さんは、またね、と言っていたが、仕事でなければこんな何もない所には来ない。しかし、あえてそれを伝える意味はない、と適当に頷いておいた。

 

 

 

 

 

 

 炎天下、俺は、(せみ)の鳴き声を聞きながらゴーストパラダイスの入口に立っていた。

 

 旭様の式神──霊力で作られた鳥──が、ゴーストパラダイスの入口付近にいる銀髪ちゃんを見たらしい。しかし、すぐに気づかれ、破壊されたそうだ。

 戦闘用ではなかったとはいえ、旭様の式神を瞬殺するほどの手練、今回は楽な仕事にはならないだろう。

 そう考え、万全を期すべく、コンビニを出発した時から当代では俺だけが持つ特殊な眼、〈仙理眼(せんりがん)〉──色んなものが見える眼だ──を発動して辺りを観察しながら、ここ、ゴーストパラダイスまでやって来たわけだが、道中には怪しいものはなかったし、妖怪もいなかった。

 

 だが、廃墟内にはいた。

 

 広範囲の透視により、旭様と同じくらいの年齢に見える少女を発見したんだ。彼女は、入口から200メートルほど離れた位置にある遊具のコーヒーカップに座り、動かずにぼんやりとしているが、妖力(妖怪の不思議パワー)を(まと)っているので妖怪で間違いない。

 しかし、銀髪ではなく、ただの黒髪だ。〈銀髪ちゃん〉とは無関係の可能性が高い。

 ただし、コンビニの件とは関係があるかもしれない。

 

 気配を抑えつつ、少女のほうへ進む。

 そして、ぼろぼろのコーヒーカップまであと30メートルというところで、少女が、そろり、とこちらを見た。

 

「……」じっと見つめ合う。

 

 少女は眠たげな瞳をしている。一方、俺の仙理眼は、真っ黒な白目にエメラルドグリーンの虹彩(こうさい)と瞳孔という派手さだ。我ながら人間離れしたヴィジュアルだと思う。

 

「……」少女は、無言で目を合わせたまま、不思議そうにゆっくりと首を傾げた。

 

 にらめっこを続けていても仕方ないのでコミュニケーションを試みる。つまり、手を振ってみた。

 

「!?」少女はびくりとし、「(見つかった……?)」と小さく言った──聞こえはしないが、読唇術で把握したんだ。

 

「すみませーん。少しお話を伺ってもいいですかー?」と大きめの声を発する。 

 

 すると少女が頷いたので、静かな足取りで再び歩き出す。

 コーヒーカップが載る丸い床に上る。一歩進む度にぎしぎしと不安を掻き立てる音が鳴る、年季の入った床だ。

 

 少女の座るコーヒーカップの前まで来た。間近で見るとやっぱり幼い。しかし、少女の妖力の量はなかなかのものだ。油断せずにいこう。「はじめま──」

 

「好き」少女が淡白かつ平坦な語調で言った。

 

「──なんて?」当然、聞き返した。

 

「好き」当然のように繰り返した。

 

「……」

 

 

 

 

 

 

 少女は八神(やがみ) 透緒子(とおこ)と名乗った。種族は〈ぬらりひょん〉だそうだ。

 それでかぁ、と俺は納得した。

 ぬらりひょんは、隙間妖怪とも呼ばれ、隙間さえあればどこにでも侵入でき、さらに認識や感知の隙間に入り込んで人や機械の目を欺くこともできる、まさに万引きをするために生まれてきたと言っても過言ではない能力を持っているのだ。

 しかも、ひとの家に勝手に入って飲み食いすることに安らぎを覚えるという、非常に困った性質を有している。つまり、コンビニの食べ物が無くなったのは透緒子が食べていたから、ということだ。

 ただ、そういったこと以外は基本的に何もしないので危険はなく、原則として放置することになっている。

 のだが、透緒子は、ついていく、と宣言した。彼女はだいぶ変わっているようで、本気で隠れている自分を見つけた人と(つがい)になると決めていたらしい。意味が分からない。

 

 だいたい俺には旭様が……。旭様がなんなのだろう? 番……というか夫婦でもないし、恋人……とも違う気がするし……。

 

「やっぱセフレなのかな……」声に出すと、喉がひりつくような、不思議な感覚がした。

 

 なんてことはない、はず。

 

「セフレ……?」透緒子が純粋そうな瞳を向けてきた──俺たちは遊園地の端にあるベンチに座っている。

 

「……忘れてくれ」透緒子は旭様とは違い、外見どおりの12歳らしい。セフレなどという不適切な単語を覚える必要はない。

 

 透緒子は、こくり、と頷いて、また無言になる。蟬の鳴き声がやけに耳につく。

 

 この子の処遇は後で決めるとして、さしあたっては、銀髪ちゃんだ。

 

 俺は問う。「ここら辺で長い銀髪の妖怪を見なかった?」

 

「知らない……」こちらを見ずに答えた。

 

「じゃあ、銀髪以外の妖怪は?」

 

「兄さん」透緒子の声は氷のように冷たい印象を与える。

 

「お兄さんもいるのか。どこにいるんだ?」

 

「知らない……」透緒子は、悲しんでいるのか無関心なのか、はたまた他の何かなのか分からない声音で言った。

 

 となると、どうしようか。仙理眼で見た限りではゴーストパラダイス内にはいないし、怪しい物もない。

 もう少し調べてから旭様に指示を仰ぐか。それしかないよな。

 

 しかし……。

 

 透緒子を見る。

 

「?」気づいた透緒子がこちらを向く。

 

 この子のこと、なんて説明しよう。

 

 

 

 

 

 

 家に到着したのは19時過ぎだった。

 

 玄関を開け、「ただいま」と言った俺の横には透緒子がいる。

 

 結局、透緒子は連れ帰ることにした。彼女の様子を見るに、あのまま捨て置いても勝手に家に来そうだし──俺の霊力はかなり目立つのですぐに見つけられるだろう──何より後味が悪いし。

 

 とはいえ、番とやらになるつもりはない。本人曰く、もうお母さんになれるそうだが、仮に本当だとしても、だからなんだ、という話である。

 つまりは、時間を掛けて諦めるように説得していくつもりだ。そうすればそのうち出ていくと思われる。

 

 居間に入ると母さんがソファに座っていた。「おかえり。どうだった?」

 

「痕跡すら見つけられなかった」

 

「あらら、残念」と残念そうに見えない表情で応えた母さんは、俺の横にいる透緒子に目をやる。「で、その子は何?」

 

「万引きの常習犯」嘘ではない。「更正のためにしばらく家に置きたいんだけど、駄目かな」これは嘘かもしれない。

 

「なんの妖怪なの?」母さんは泰然自若(たいぜんじじゃく)としている。

 

「ぬらりひょんだってよ」という俺の言葉に続いて、透緒子が頷く。

 

「へー、レアじゃない」となんとも言えない感想を述べた母さんは、透緒子に問うた。「家の息子が好きなの?」

 

「好き」透緒子は即答した。

 

「どれくらい好きなの?」母さんは質問を重ねる。

 

「番になって赤ちゃん作る」と答えた透緒子は相変わらず眠そうな目をしている。

 

「へー」母さんは俺に顔を向けた。「やっぱりあんた、ロリコンなのね」

 

「違う。誤解だ」と透緒子に匹敵する速さで即答する。

 

 なんで子どもから好かれるだけでロリコン扱いされなきゃいけないんだよ。絶対おかしい。

 

「警察にだけは気をつけなさいよ」頭のおかしい母さんは煙草に火をつけた。

 

「話を聞け」という俺の訴えを無視した母さんは、「汗(くさ)いからお風呂入ってきなさい」と一切の反論を許さぬ趣で言い、「せっかくだから一緒に入ってきな」と続けた。

 

 この人は俺にどうなってほしいのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 風呂(たたかい)を終えた俺は自室にいた。20時に通話で旭様に報告する約束になっているので、晩飯は後回しだ。

 透緒子は居間で母さんといる──馴染みすぎだろ。母さんも適応力が高すぎる。どんな会話がなされているのか、知りたいが知りたくない。

 

 などと考えているとスマートフォンが鳴り始めた。すぐに出る。「お疲れ様です。ご連絡ありがとうございます」

 

『はい。こんばんは』と応じた旭様は珍しく真紅の口紅をしていた。

 

 久しぶりに見たせいか妙に色っぽく感じる。意思に反して顔に熱が集まってゆく。

 

 しかし、旭様はニコニコとするだけで何も言ってこない。

 余計に恥ずかしい。からかわれたほうがまだ気が楽だ。

 

「……ご報告いたします」強がるわけではないが、旭様の口紅に関しては触れないことにした。「ゴーストパラダイス及びその周辺を調査しましたが、銀髪ちゃんの痕跡は発見できませんでした」

 

『……仙理眼でもですか』旭様が息を洩らす。『やはり彼女は一筋縄ではいかないようですね』

 

「すみません」失望されただろうか。

 

 しかし、旭様は、『責めているわけではありません。そんな顔しないでください』と眉をハの字にして優しい声を出した。

 

 情けない気持ちが勢いよく湧いてきたが、「……調査を継続しますか?」と表情を取り繕う。

 

 旭様は、ふふ、と見透かしたような笑いを零し、『そうですね』と置き、そして、それを口にした。『……実は、私も銀髪ちゃんの調査に本格的に参加することが、生多研(せいたけん)で行われた今日の会議で決まりました』

 

「!?」少し驚いた。「ということは──」という俺の言葉を旭様が引き継ぐ。『5日後からしばらくそちらに滞在します』

 

「……」

 

 なんか雲行きが怪しくなってきた……。

 

 ここにはいない黒髪ショートの少女を思い浮かべ、背中の皮膚の内側を無数の子蜘蛛が這い回るような感覚を、俺は抱いた。

 

 いやいや大丈夫だろ、別に。彼氏でもあるまいし。

 

 しかし、結局、透緒子のことを報告することはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 23時16分。自室の椅子に座り、旭様綺麗だったな、とか、怒られたりするんかな、とか、旭様エロかったな、とかいろいろ考えながら悶々としていると、やにわに、太ももの付け根の辺りに重さと温かさを感じた。

 

「透緒子……」

 

 ぬらりひょんの異能を使って認識されにくくなった透緒子が、俺に股がり、そして、異能を解除した。結果、突然、目の前に現れたように見えた。そんなところだろう。

 

 妖怪ってこういうところがあるんだよなぁ。マイペースというか天然というか。

 

「隙間、埋める……」透緒子は、そう言って俺に抱きついてきた。

 

「……」

 

 同じシャンプーを使ったはずなのに俺とは違う匂い、衣服越しでも確かに感じる湿った熱、呼吸に合わせて微かに波打つ身体。透緒子からもたらされるすべての刺激が、俺の脳を溶かし、それへと駆り立て──いや、ねぇわ。

 

「しないってば」と透緒子をやんわりと押し返す。

 

「どうして……?」俺の目を真っ直ぐに見つめ、問うた。 

 

「だから、他に好きな人がいるんだって」この説明──嘘とも真実とも言えないような曖昧な──は3回目だ。

 

「何がいけないのか分からない」透緒子から邪気は感じない。本心から理解できないのだろう。

 

「分からなくても、駄目なものは駄目。俺にはできな──っ」

 

 不意に、透緒子がぐいぐいっと腰を前に押し出すように──押しつけるように動かし、それから、不思議そうに俺の瞳を覗き込んだ。「できそうだよ……?」

 

「……ご、誤解だ」

 

 単なる生理現象はノーカンだ。したがって、俺はロリコンではない。だから、早く離れてくれ──。

 

 



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くるくるカプチーノ②

5話と6話は連続投稿です。
地雷注意。


 私は親族から虐められていました。

 

 戦国時代の、妖怪(あやかし)を成敗することを生業(なりわい)とする百足(ももたり)家に私は生まれました。

 しかし、私には妖怪の血が混じっています──父が妖怪で母が人間です。当主の娘である母を身籠らせて姿を消した父は、殺すべき敵でした。

 当然、母は堕胎を望まれました。しかし、頑なに聞き入れず、産婆とお医者様に金貨を渡して殺さないように頼み込み、私を出産したのです。

 ですので、物心が付いたころには、お祖父様やお婆様、伯父様、他にもほとんどの血縁者から強い嫌悪を向けられている状態が当たり前で、子どもは皆こうなのだと──私が知らないだけで従兄弟や分家の子たちも同じような扱いを受けているのだと、稚児(ちご)の時分には信じていました。

 

 ところが、どうやらそれは違うようだと、いつからか理解していました。私の中に流れる妖怪の血が憎まれていたと知ったのです。

 当時の私は、どうしてそんなことに拘るのか、私は私なのにどうして、と不思議でなりませんでした。

 けれど、6つ、7つ、8つと歳を重ねるにつれ、その不思議は溶け、やがて諦念が現れました。

 仕方のないことだったのです。

 私の父はあまりに殺しすぎました。退魔を(ぎょう)とする者だけでなく、ただ日々を懸命に生きる民を、(まつりごと)の中枢を担うお方を、あるいは咎人(とがにん)を、一切の差別なく平等に殺しました、何人も何人も。

 

 そのような男を愛した母は、愚かな女だったのでしょう。箱入り娘が、甘い囁きに囚われ、快楽に溺れ、狂ってゆく。珍しい話ではありません。

 けれど、今になって少しだけ母を憐れに思います。誰かを愛すると心がおかしくなってしまいます。それは愚かではあっても……、いえ、やめましょう。このような自己弁護こそみっともないことです。

 

 私の肉体的な成長は12歳で止まってしまいました。父の血がそうさせたのでしょう。

 その時から私を見る皆さんの目はより暗くなってゆきます。

〈なんと(おぞ)ましい〉〈人喰いの子め〉〈化け物の分際で人のふりをするな〉

 このようなことをよくおっしゃっていました。

 しかし、私は追い出されたり、まして殺されたりはしませんでした。 

 この時代の妖怪は今と違い、人間を殺すことになんの躊躇(ためら)いもありませんでした。中には尋常ならざる力を持つ者もいます。

 彼らに対抗するために、私が必要だったのです──半妖の私は、人間の霊力と妖怪の妖力をどちらも有しており、また、莫大であり、強力な術をいくつも使用することができました。

 

 正直に申し上げますと、逃げ出したいと思ったことは何度もあります。けれど、実際に逃げ出したことは一度たりともありません。

 私がいなくなると、なんの力も持たない民が真っ先に殺されてしまうからです。私には彼らを見捨てることはできませんでした。

 だから、耐えて、殺して、そうして生きておりました。

 

 そんな私に転機が訪れました。私を(めと)りたいと言う殿方が現れたのです。

 初めは、どんな下心があるのかと疑いました。けれど、彼は退魔とは関係のないただの番匠(ばんしょう)。その下心が何なのか(つい)ぞ分かりませんでした。

 

 結局、彼が百足家の婿になるという形で婚姻はまとまり、与えられた離れ座敷で夫婦として暮らしはじめました。

 彼との生活は私に潤いをもたらします。

 母が亡くなってからというもの、私は独りでした。淋しくないわけがありません。けれど、それを埋めてくれる方はどこにもいないのだから仕方がない、と諦めていました。

 彼は、愛してる、と言い、口づけをし、私を抱きました。それが毎日のように繰り返され、そして、いつしか私は彼を愛していました。

 彼に喜んでもらうために何でもしましたし、彼も私を喜ばせました。とても幸せな日々だったと思います。

 

 しかし、そんな日々は唐突に終わりを迎えます。ある日、私が暴れ天狗を退治し、帰宅すると、彼の生首がありました。腕も脚もあります。しかし、胴体はありません。

 

 私の中に殺意が生まれたその瞬間、離れ座敷を囲む結界が形成されました。

 そして、数人の人間が現れました。皆、知った顔です。その中の1人、私の伯父は、〈いせ、いせ、今、殺すゆえ、殺すゆえ……〉とうわ言のように繰り返していました。

 いせ、とは伯父の妻だった女性です。私の父に喰い殺された女性です。

 彼らは、父の悪行の怨みを私にぶつけたのです。

 私の殺意に不純物が混じりはじめました。それは、哀れみかもしれないし、罪悪感かもしれません。はっきりとは分かりませんでした。ただ、その時に感じた、(はらわた)を掻き回されたかのような不快な苦しみは、今でもしっかりと憶えています。

 

 彼らは私を殺そうとしましたが、それは叶いませんでした。

 私のお腹には夫との子がいました。この子を殺されるわけにはいかなかったのです。

 だから、私は彼らを殺しました。皆、殺しました。

 しかし、寿命を代償にする禁術を使った彼らは強く、私は子宮を破壊されてしまいました。見つけることはできませんでしたけれど、私たちの子は、そこかしこにある赤黒い血溜まりのどこかにいたかと思います。

 それだけでなく、彼らの怨念が呪いとなり、私を(おか)しました。〈悪逆な妖怪の血を決して残さぬように〉との想いが込められた呪いです。臓腑が再生しても、子を()すことはできなくなりました。

 

 この事件は、妖怪が押し入って起こしたということにされました。本家の人間は、醜聞が広まるのを、また、お(かみ)との関係の悪化を危惧したのでしょう。

 

 夫と子を失ってからも私は退魔師として百足の家にいました。伯父のような悲しみを抱える人を増やしてはいけない、と思うようになっていたからです。

 私は懸命に戦いました。それは、あるいは憎しみや悲しみから目を逸らすためだったのかもしれません。

 周りの人間は今までよりも私を恐がるようになりました。老いることなく絶大な力を振るうのだから自然な感情でしょう。冷たい砂が肺を圧迫するかのような息苦しさを覚えましたが、仕様のないことです。

 

 私に対する恐怖や増悪はこのころが最も強かったと思います。私はまた独りになりました。小間使いの方との必要最低限の会話以外で誰かと話すことのない、そんな日々でした。

 しかし、それでいいと思う自分もいました。子を産めない女は、人殺しの半妖は、夫を、子を守れない女は誰かに愛されたいなどと願ってはいけないのです──烏滸(おこ)がましいことだと納得していました。させていました。

 

 夫と子を失ってから10年が過ぎたころ、妖怪との大きな(いくさ)がありました。

 (おびただ)しい血が流れ、しかし、京の仙理眼(せんりがん)使いの活躍もあって、なんとか人間側の勝利で終わることができました。この戦により妖怪たちは数を大幅に減らし、また、人間から隠れるようになり、無闇に人間を殺すこともほとんどなくなりました。

 需要が減ったことで退魔師もどんどん減少してゆきます。

 百足家も退魔業だけでは維持できず、他の事業に手を出しはじめました。意外なことに、百足の人間には商才がある者が多く、むしろ専業のころよりも財産は増えていきました。自分たちの真の適性を理解してしまった皆さんのなんとも言えない表情はなかなかに滑稽でした。

 

 やがて人々は、〈妖怪は滅んだ〉と、次第に、〈お伽噺の中だけの存在だ〉と思うようになり、かつての悲劇を忘れてゆきました。 

 

 穏やかな日々が訪れました。昔に比べ、随分と平和です。

 私に対する壁のようなものは依然としてありましたが、恐怖や増悪は長い時の中で減じてゆきました。やはり穏やかな日々でした。

 

 けれど、淋しい、その感情はずっと消えることなく、それどころか年々増しているように感じられました。

 とはいえ、それで何か具体的な害があるわけではありません。何より私のような女には独りが相応しい、そう思っておりました。

 

 520歳のころ、私は百足家の当主になりました。

〈1番実力のある旭様がやったほうがいいんじゃないか〉という意見が出たからなのですが、推測するに皆さん面倒くさがっていただけのように思えます。

 そういうわけで、私の仕事は少しだけ増えました。しかし、悪さをする妖怪はそう多くないので多忙ということはありません。

 

 空の高い日、東北の地に仙理眼を発現した者──13歳の少年──がいるという報告がありました。凡そ450年ぶりの開眼者です。

 私は複雑な気持ちになりました。

 たしかに戦力の大幅な上昇は喜ばしくはあるものの、今の世では過剰な力。彼がその才能を存分に発揮する日は来ないはずですし、また、来ないほうが良いのです。

 だから、少し可哀想に思いました。生まれる時代と才能が致命的にズレています。

 初めは、その程度の印象しかありませんでした。

 

 龍脈(りゅうみゃく)というものがあります。これは自然の気が流れる血管のようなもので、大地の中を通っています。そして、龍脈を流れる気が地表へと漏れ出る穴を龍穴(りゅうけつ)と言います。

 これらは物理的に(くだ)や穴が存在するのではなく、霊的な次元でそのような外形をしているにすぎません。

 仙理眼の少年の話を初めて聞いた日から丁度1年後の葉月(はづき)、西の地にある龍穴に異常が生じてしまい、私と少年が出向くことになりました。

 

 少年は、(たちばな) 景修(けいしゅう)と名乗りました。独特の霊力を持つ少年で、まだ14歳だというのに不思議な包容力を備えているように私には見えました。彼の近くにいると、まるで陽だまりの中にいるような心持ちです。

 

 私と少年、地元の退魔師で龍穴の問題の解決に当たることになりました。

 道中、少年と言葉を交わしました。初対面であったので当たり障りのないことしか話しませんでしたが、第一印象のとおり、彼の言葉は木漏れ日のように私の心に沁みてゆきました。

 それは、彼の霊力の質や雰囲気だけが原因ではありません。彼は、私に対して差別や偏見を砂粒1つほども持っていなかったのです。

 たしかに、昔に比べて妖怪への嫌悪や恐怖は減り、私への隔意(かくい)も目立たなくなりました。けれど、完全に無くなったわけではありません。私のような不老の半妖は、やはり本当の意味では受け入れてもらえません。

 人は残酷です。自分と違う存在を排除したがる、それが人という生き物なのです。

 しかし、少年は違いました。彼からはそのような意思や感情は微塵も窺えません。不思議な子です。そして、あたたかい子です。

 

 仙理眼で地底深くを透視した少年は、〈龍脈に(しこり)ができてんだけど。何これ生活習慣病かよ〉と零しました。〈大地の生活習慣とは、つまり環境問題に対する人間の意識が原因ということでしょうか〉と私は訊きました。そうしたら少年は、〈言葉の綾です。忘れてください〉と笑い、〈旭様って割と変な人なんですね〉と更に笑いました。心がじんわりとしました。

 

 仙理眼使いが最強と謳われたのは、透視や幻術の看破ができたからではありません。龍脈に流れる自然の気を自らの身体に取り込み、術や身体強化に使用することができたからです。

 少年は気でできた痼を吸収し、その気で不格好な式神を作製しました。おそらくは蛙だと思い、訊ねると、〈……(うさぎ)です〉と返ってきました。式神は苦手なのですね、と心の中で微笑みました。

 

 痼がなくなり、龍脈及び龍穴は正常に戻りました。流石は仙理眼、と皆さんは褒めそやしましたが、少年は居心地悪そうにし、時折私にすがるような視線を送ってきました。可愛らしいと思った私は、性格が悪いのかもしれません。

 

 東京に戻ってからも、少年とは〈すまぁとふぉん〉なる物で連絡を取り合っていました。

 

 私は、恥知らずにも少年に惹かれていました。私よりずっと年下の子ども相手に恋心を抱くなどどうかしています。それでも、彼と話している時は心の痛みが和らぎます。そこに嘘はありません。

 

 けれど、私は半妖です。我が子を見殺しにした母親です。愛する人を苦しめた女です。子を産めぬ不具者(ふぐしゃ)です。

 だから、この想いは秘めたままに。そのように考えておりました。たまに彼の声が聞けたら、私に微笑みかけてくれたら、それだけで充分。そのはずでした。

 

 ある夜、布団の中で目を(つぶ)っていた私は、もどかしい痺れに寝付けずにいました。

 熱せられてとろとろに溶かされた水飴が、身体の最奥で脈打つような、そんな甘ったるい(うず)き──私は酷く発情していました。

 寝る前に彼と話したのがいけなかったのかもしれません。彼のことばかり考えてしまいます。

 彼は私のことをどう思っているのでしょうか。どのような女が好みなのでしょうか。もう女を知っているのでしょうか。どのように女に触れるのでしょうか。どうすれば喜んでもらえるのでしょうか。

 

 気づけば、私はそこへ手を伸ばしていました。布団を被り、彼を想い、そして、達しました。

 

 数日後、蝦夷(えぞ)の地で私たちは再会しました。精霊が雨──通常の雨とは内包する気が異なります──を降らし続けているとのことで、私と彼が派遣されたのです。

 仙理眼のおかげで精霊はすぐに見つかりました。

 話を聞いたところ、失恋してずっと泣いていたそうです。彼の手のひらの上──精霊は3寸ほどです──で一頻り感情を吐き出した精霊は、幾分か落ち着きを取り戻したようで、名残惜しそうに去ってゆきました。空は晴れ渡っていました。

 

 その日の夜のことです。予約していたホテル──ホテル側の手違いでツインの部屋に宿泊することになりました──にいた彼と私は、いつものように言葉を交わしていました。

 私は幸せでした。これ以上は望んではいけません。たしかにそう思っておりました。

 けれど、私の中には獣が住み着いています。獣は淋しがりで、そして、淫らです。

 獣は彼の心を、情愛を欲しています。押し入り、刻み込んでほしいと願っています。愛を信じさせてほしいと焦がれています。

 

 不意に目が合い、言葉が途切れました。

 私の吐息は小さく痙攣し、瞳は(ほと)んでいました。ベッドに並んで座っていたため彼との距離はほとんどありません。誰が見ても、発情した雌が雄を誘っているのだと解釈するでしょう。

 意図して媚態を演じていたわけではありません。自然とそうなってしまったのです。

 目を逸らすことも動くこともできずにいると、彼が瞬きをしました。そして、唇に感触。一瞬だけ微かに触れる、そんな口づけでした。

 

 

 

 

 

 

 景くんと会うのは何日ぶりでしょうか、と私は子どものようにはしゃいでいました。予定よりも2日早く到着することができ、〈銀髪ちゃん〉の捜索のために訪れたはずなのに純粋に喜んでいました。

 

 しかし、その感情は長くは続きませんでした。私はそれを見てしまったのです。景くんを驚かせようと思い、気配を消して彼の家に向かっている時のことです。

 

 景くんと彼より2つ3つ年下の少女が楽しそうに街を歩いていました。

 

 たしかに、ただの友人や親類かもしれません。しかし、私の心臓は(きし)み、鼓動のたびに痛みを覚えます。

 それは嫉妬心ゆえに、ではありません。

 違和感なく並び歩く2人を見て、景くんには私のような女ではなく彼女のような年頃の少女のほうが相応しいのだと、自然と思ってしまったからです。

 おそらくあの少女は妖怪でしょう。けれど、外見どおりの年齢のはずです。私のような例は極めて稀なのです。

 それに、彼女は子を産めない身体ではないでしょう。論理的な根拠はないですが、きっとそうに違いありません。私ではできないことも彼女ならばできるのです。

 そして何より、彼女は汚れていないように見えます、子を見殺しにした女とは違い──。

 

「……」息を殺し続けます。

 

 もう充分でしょう。充分、夢を見ました。たくさんの温もりを貰いました。もう終わりにすべきです。

 景くんの人生に私はいらないのです。もしかしたら、今までの優しい言葉も可愛い笑顔も全て、立場上逆らえずに嫌々やっていただけかもしれません。好きでもない女の情欲に付き合わせていただけかもしれません。

 

 罪悪感、悔しさ、安心感、憎しみ、愛情、自己嫌悪、淋しさ、悲しみ、感謝の念、他にも様々な、そして、身勝手な感情が心裏に生まれ、矮小な私を圧迫してゆきます。苦しい、ただただ苦しい。

 

「……っ」

 

 ──私は逃げ出しました。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

『もう終わりにしましょう』

 

 突然、そんなRINEが旭様から送られてきた。

 自室にて、明日は旭様に会える、とにやにやしていたらこれである。いったいどうしたというのか。

 

 直ぐ様、返事をする。『話がしたいです。今、掛けてもいいですか』

 

 1分、5分、10分と沈黙を続けるスマホを手に、マジかよやべぇよやべぇよ、と焦っていると、15分が過ぎたころ、ようやく通知音が鳴った。

 

『橘さんには私のような女は相応しくありません。昨日、それを改めて理解しました。これからはただの上司と部下です。今までたくさんの幸せをありがとうございました。さようなら』

 

 心臓が跳ね、海底に引きずり込まれたかのように息が苦しくなる。

 落ち着け、と平静を保とうと努力する。

 メッセージをもう1度読む。

 

「……昨日?」呟く。

 

 脳裏に閃くものがあった。

 つまり、もしかして昨日の透緒子との買い物を見られたんじゃないか。

 昨日は、駅前に透緒子の服や雑多な生活用品を買いに行っていた。何らかの理由で旭様の予定が繰り上がることもしばしばあることだ。あの場にいたとしてもそれほどおかしくはない。

 

「……浮気だと思った、のか?」

 

 もしかしたらそれもあるのかもしれないが、メッセージを読むに少し違う気がする。

 じゃあ、シンプルに俺に飽きただけで文章自体に意味はない? それにしては一昨日、通話した時は楽しそうだった。演技? いやまさかな。そんな雰囲気はなかった。俺が鈍くて気づいていないだけ? なくはないと思うけどしっくりこない。じゃあやっぱり……。

 

「……はは」不意におかしさが込み上げてきて、笑ってしまった。

 

 旭様に対して恋愛感情があるかどうか分からないとか、飽きられたら終わる関係だとか、そんなふうにカッコつけていたくせに、いざ振られてみると別れを素直に受け入れる気なんて微塵も湧いてこない。

 

「……」

 

 旭様のこと、大好きじゃん、俺。つーか、愛してるんじゃねぇか、これ。

 

 電話には出てくれなさそうなのでRINEを送る。『チャンスをください。会って、話して、それで駄目なら諦めます』

 

 しばらくして返信が来た。『初めてあなたのお家に行った日に、私が滞在していたホテルにいます』

 

「……」記念日を忘れるとめちゃくちゃ不機嫌になる人なのだろうか、という疑問が頭を過ったが、今は()く。

 

 時刻は19時42分。

 立ち上がり、キレイめなズボンとポロシャツに着替えて──ドレスコードがあったような気がする──財布とスマホをポケットに突っ込み、部屋を出る。

 ホテルはちゃんと覚えている。とりあえずはそこに行って、それで……どうするんだ? 本心を明かしてくれるのか? 分からない。分からないけど、会いたい。許されるなら抱き締めたい。

 俺は家を飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 俺の町には、所謂上流階級向けのホテルは2つしかない。そのうちの1つ、(そび)え立つ摩天楼(まてんろう)と呼ぶには些か貫禄と資本金が不足しているホテルの前に、俺はいた。

 正面玄関口の付近では、警備員らしき人が暇そうにしている。

 

 部屋には宿泊客以外が入ることはできないので、『ホテルの前まで来ました。今、ロビーに来れますか』とRINEを送る。

 

 今度はすぐに、『はい』と返ってきた。

 

 よし行こう、ということで警備のお兄さんに、「こんばんは」と挨拶をしてホテルに入り、フロントに向かう。

 

「……いらっしゃいませ。ようこそニューガバリンホテルへ。本日はご宿泊でしょうか?」フロント係の茶髪の女性が、やや不審そうな趣で言った──中学3年生の子どもがこんな時間に1人だとこういう反応も頷ける。

 

 一瞬、仙理眼で幻術に掛けようかと思ったが、フロントの天井にある防犯カメラが、〈俺の(レンズ)は誤魔化せないぜ? 舐めんなよ〉と威嚇してきたのでおとなしく、「宿泊客の百足 旭さんと約束があるので、ロビーを使わせていただいてもよろしいでしょうか」と訊ねる。

 

 フロント係のお姉さんは若干たじろぎつつも、「はい。どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」と述べた。

 

「ありがとうございます」と応じ、振り返ると、エレベーターから降りる旭様が目に入った。

 

 ふい、と目を逸らされてしまった。悲しい。

 

 

 

 

 

 

「信じられません」ふかふかのソファに姿勢良く座った旭様は、言う。「それにあの少女が恋人であろうと友人であろうと、私の結論は変わりません」

 

 透緒子とは何もないということを説明したらこのように返ってきた。

 

「俺を嫌いになった理由を教えてくれませんか」

 

 旭様は何かを言おうと口を開き、しかし何の言葉も発せず、数秒の逡巡。そして、「理由はありません」と絞り出すように口にした。

 

 それはつまり、なんとなく嫌いになったから、飽きたから、あるいは、他の男に気持ちが向いたからということか……? と思う自分もいるけど、旭様の辛そうな顔を、腫れた目元を見ているとやはり違うのだろう。

 

 もしかして、というのはある。そうなのかな、と漠然と思いながらも、デリカシーに欠けると考えて気づかないフリをしていたことだ。

 

 でも、今はちょっとだいぶかなり余裕がないから、あえて踏み込ませてもらう。「旭様のお腹にある怨念(まみ)れの霊力と関係がありますか」

 

「──っ」旭様の呼吸が一瞬だけ止まった、ように見えた。次いで彼女は、「……流石ですね」と困ったように眉を曲げた。

 

 旭様はその怨念塗れの霊力に隠蔽用の術を施していたようだけど、その程度では仙理眼の障害にならない。初めて一緒に仕事をしたときから、その存在は認識していた。

 そして、付き合ううちに覚えたもう1つの違和感──生理だから、とセックスを断られたことが1度もないんだ。

 それほど頻繁に会えるわけじゃないからタイミングを見計らっていただけかもしれないし、肉体的な成長の停止が原因で初潮を迎えていないだけかもしれないし、逆に数百年を生きる間に閉経しただけかもかもしれない。

 

 けど、おそらくは呪いの類いであろう霊力が子宮に絡みついていることを併せて考えると、生理のない身体、つまり──。

 

 旭様は溜め息をついた。泣きそうな顔で言う。「私は母親になることができません。私の子宮は呪われているのです」

 

「……」そんなことは気にしない、と喚きたくなったが(こら)える。

 

「これは罰なのです」旭様は声を震わす。「私の父は多くの人を悲しませました。私もまた人殺しです。愛する人を、愛する子を守れなかった女です」そして、「今まで隠していてごめんなさい。こんな女でごめんなさい」と消え入りそうな声で続けた。

 

 それであのメッセージ──〈橘さんには私のような女は相応しくありません〉か。なるほど。だいたい分かった。

 

 頭の中を整理しようとして、整理するほどのことはないな、と気づき、何をやってんだ俺は、と内心で自分にツッコミを入れつつ、「旭様」と名を呼ぶ。

 

 浮世離れした美しい瞳が俺に向けられる。

 

 本当に綺麗だ、と微笑み、それから、バカみたいに単純な想いを言葉にした。

 

「愛しています」

 

「……」

 

 口にするとやっぱり恥ずかしい。けど、必要なときもあるのだと思う。多分。

 

「ガキだったんです。それで今まで自分の気持ちをよく分かっていませんでした」けど、と置く。「旭様にフラれて思い知りました。旭様のいない人生なんて考えられません。これからもずっとずっと旭様が必要なんです。旭様にどんな過去があったとしても、俺の知ってる旭様は、責任感が強くて、優しくて、ちょっと変わってて……」呼吸を挟む。「誰よりも可愛い人です。だから、愛しています」

 

 静寂が流れ、やがて一雫の涙が旭様の頬を伝った。そして、堰を切ったように溢れ出す。

 

 手で顔を覆い、声を押し殺して泣く旭様の横に移動し、背中を擦る。

 小さな背中だ。背負いすぎてしまう性格の旭様にはあまりにも。

 

 そう思う。

 

 

 

 

 

 

 しばらくして落ち着いた旭様は、「ごめんなさい、みっともないところをお見せしてしまいました」とはにかんだような笑みを浮かべた。

 

「みっともなくないですよ」俺は言った。

 

「ふふ」旭様は柔らかく息を洩らし、「景くん」と俺の名を口にした。そして、「私も愛しています」と。

 

「……」俺の表情筋はにやけないように踏ん張っているが、無理かもしれない。

 

 有り体に言って、ものすごくヤりたい。今すぐヤりたい。仕事も学校も放ってヤりまくりたい。

 

 のだが、旭様は纏う空気を変え、「ところで」と声色を暗くした。ぞくっとした。「昨日の子とは本当に何もないのですか?」

 

「何もないです。本当です」速やかかつ滔々(とうとう)と答えた。

 

「……ふーん、そうなんですか」旭様は唇を少しだけ尖らせ、「若い子のほうがいいですもんね。少しくらい許しますよ。だから気になさらないでくださいね」と圧(霊力と妖力)を放ってきた。

 

「誤解です。嘘じゃないです。頑張って我慢しま──」

 

「頑張って我慢したのですか?」旭様が意地悪な顔になる。「つまり、非常に強い劣情をあの少女に抱いたということですよね?」

 

 あ、あれ? 解決したんじゃなかったのか? おかしいな、と冷や汗を流しながらも、「違います。旭様のことしか考えていません。本当です。ロリコンではないので透緒子には魅力を感じません。旭様だけが特別なんです。嘘じゃないです。俺が愛してるのは旭様だけです」と(まく)し立てる。

 

「……ふ、ふーん。そうですか」と旭様は頬を朱に染め、この子はこれだから、などとぶつぶつ呟いている。

 

 一方、俺は、旭様って案外ちょろいのかも、とこっそり口角を上げ──。

 

「ひゃっ」旭様が控えめな悲鳴を上げた。透緒子がいきなり現れたんだ。

 

 相変わらずの、何を考えているのか分からない眠たげな顔をした透緒子は、至近距離で旭様を見つつ、「仲間」と小さな声を発し──そしてすぐに旭様にキスをした。

 

 え!? なんで?!

 

「んっ!?」悠久の時を生きてきた旭様でもこれは予想外だったのか、おもいっきり目を見開いている。いろんな意味でレアな光景だ。

 

 数瞬の後、透緒子は唇を離し、眠そうな表情のまま、「これからは(・・・・・)あなた()一緒にお風呂入ろ……」と旭様を誘った──空気が凍る。

 

「……景くん?」旭様は笑った。ただし、目元は除く。

 

「はい……」俺は、直視できずに(うつむ)いた。

 

 しかし、俺の顔を下から覗き込むようにした旭様は、「気持ち良かったですか?」と品のある笑みを深める。

 

「い──」俺が言い掛けるも、透緒子が、「すごく硬くなってた」と遮る。

 

「ふふふ……」

 

「……」

 

 どうすればいいんだろ……。

 

 ちらりとフロントに視線をやると、先ほどのお姉さんと目が合った──即、逸らされた。

 旭様に視線を戻す。怖い。

 

 けど、やっぱり。「旭様、可愛いなぁ」

 

「そんな言葉で誤魔化されませんからね?」と言いつつ、心なしか旭様の圧が和らいだように感じる。

 

 ちょろい。なんとかなりそう。

 

 俺は内心、ほくそ笑ん──。

 

「景くん?」圧が増した。

 

 無理そう。

 

 



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