【完結】サトリな僕とTSな君 (虫野律)
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僕と君①

 2週間前、僕は異能に目覚めた。理屈は知らない。けど、事実らしい。

 

 僕が目覚めた異能は、人の思考や感情を読むという、ありきたりなものだ。どれくらいありきたりかというと、この高校の偏差値くらい。

 

「以上が近年注目されている織田信長女性説の根拠だ」日本史の三上(みかみ)先生が、イマイチ納得できない授業を締めくくるべく、言った。「今日はここまで。まず間違いなく受験には出ないから覚えなくていいぞ」

 

 それならどうして丸々1コマをその解説に費やしたのか、とか、このクラスはほとんどが進学希望なのに酷くないか、とか言いたいことは幾つかあるけど、1番伝えたいのは、男子生徒の大半がエロい目で三上先生を見てて授業は全然聴いてなかったですよ、ということだ。

 言っておくけど、僕は違う。いや、授業を洒落てないBGMとみなして真剣に聴いてなかったのはそのとおりなんだけど、別に三上先生の女性ホルモン過多なボディラインに注目していたわけじゃない。

 

 僕の意識の向く先、つまりは、春夏秋冬(ひととせ)さんから彼女の心の声が僕の頭に飛び込んでくる。

 

(はー、やっぱ麻美(あさみ)ちゃんいい身体してるわ)

 

 麻美ちゃんとは、三上先生のことだ。

 春夏秋冬さんは女の子ではあるものの、男子に交ざって三上先生を視姦する強者(つわもの)でもある。

 ただし、美少女だ。どれくらい美少女かというと、この高校の偏差値とは比べものにならないくらい。具体的には、日本を代表するアイドルのボスが裸足で逃げ出すくらい。

 

「避妊はしろよ」という言葉を残し、三上先生は去っていった。

 

(余計なお世話だ!)

 

 春夏秋冬さんが内心でツッコミを入れている。哀切を感じさせる、風情あるツッコミだ。

 春夏秋冬さんの表情が少しだけ陰る。

 

(……次は体育か。やだなぁ)

 

 それは僕も同感だ。移動と着替えが面倒くさい。

 

(……なんで俺だったんだろうなぁ)

 

 物憂げな面持ちが実に様になっている。

 

 

 

 

 

 

 僕が春夏秋冬(ひととせ)さんに興味を持ったのは、お人形さんみたいで人間離れしているにもかかわらず、下手な美容整形のような不自然さのない美しい容姿に惹かれたからではない。

 春夏秋冬さん曰く、曰くと言っても頭の中を勝手に覗いただけだけど、とにかく彼女は自分のことを元男だと信じている。1年生と2年生の間の春休みに、神様を名乗る大きな(はえ)に女の子にされたらしい。周りの人間の認識も改竄(かいざん)されていて、誰も彼女が元々は男だったと気づけない。

 みたいなことを春夏秋冬さんは確信している。勿論、僕は半信半疑どころか、9割は疑っている。10割じゃないのは、僕みたいな奴もいるし、もしかしたらあるかも、という思い故だ。

 

 さて、そんな、頭のおかしい系美少女の春夏秋冬さんは、所謂、ぼっちというやつだ。といっても、虐められているわけではない。彼女がみんなを拒絶しているんだ。

 春夏秋冬さんに言わせれば、男子は下心──彼女視点では同性からの下心だしね──がウザいから嫌で、女子に対しては、女子特有のノリが面倒で関わりたくないそうだ。ちょくちょく垣間見えてしまう、女子連中の嫉妬心も鬱陶(うっとう)しいらしい。

 まぁ春夏秋冬さんはこんな感じの人だ。

 そして、そんな彼女だからこそ僕は興味を抱いた。

 勘違いしないでほしいんだけど、僕は彼女に対して恋だとかセックスだとかの性的コンテンツは求めていない。

 僕が春夏秋冬さんに惹かれているのは、彼女の(いびつ)さを面白いと思ったからであって、僕の好奇心を満たしてくれさえすればそれ以外は何もいらない。

 

 というわけで、僕は春夏秋冬さんに話しかけてみることにした。

 

「春夏秋冬さん」放課後、校門の辺りで、帰ろうとしていた春夏秋冬さんへ声を掛けた。

 

「……何」鈴を転がすような声が、実際はどういう声になるかは分からないけど、きっとそういう表現がよく似合う声で、しかし警戒心を隠そうともせずに春夏秋冬さんが言った。

 

(うわっ、誰だっけこいつ。やべ、名前思い出せね)

 

 嘘ついた。警戒とかそういうレベルじゃなかった。

 

「ねぇ、僕の名前分かる?」つい、虐めてみたくなるのは僕の少年らしさに由来するのか、春夏秋冬さんの愉快な雰囲気のせいなのか。

 

「え゛」春夏秋冬さんの口から、透明感のある濁音が発せられた。「えー……」

 

(なんてこったい。まったく思い出せないのに、ピンポイントで攻めてくるなんて……)

 

 笑いを堪えている僕は、結構凄いと思う。

 

(ん? 待てよ)

 

 春夏秋冬さんは何かに気づいたようだけど、彼女に外形的な変化はない。

 

(こいつ、そんなことを訊くために話しかけてきたのか?)

 

 言われてみれば、たしかにおかしい。

 

 春夏秋冬さんのぱっちりお目々が、不審者を見るそれへと変貌してゆく。

 

 なので、とりあえず爆弾を落としてみる。「春夏秋冬さんって、なんで急に女の子になったの?」

 

「!?」春夏秋冬さんが目を見開く。

 

(──?!)

 

 何やらノイズばかりで思考を上手く読み取れない。

 

 しかし、僕は続ける。「誰も気づいてないし、何がどうなってるの?」

 

(──!??)

 

 混乱してるなぁ、と思っていると、春夏秋冬さんは、ガッと僕の手首を掴んで早足で移動し始めた。なかなかキレのあるいい動きだ。

 周りから視線を感じる。彼ら彼女らが何を考えているかは、異能を使わなくてもだいたい分かるから、あえて思考を覗いたりはしない。

 

 春夏秋冬さんは無言である。しかし、頭の中はそうではない。

 

(こいつ、何者だ? どうして認識が改竄されていない? なぜ俺にそれを伝えた? 目的はなんだ? つーか、名前なんだっけ)

 

 やっぱり僕の名前は思い出せないようだ。別にいいけれど。

 

 

 

 

 

 

 僕たちの住む街は、中途半端な規模の中核市だ。だから、それほど人目の多くはない、しかも子どもの遊んでいない公園を見つけることも難しくはない。

 

「分からない、か……」()びついていて危険性の高い遊具に座った春夏秋冬(ひととせ)さんが、風鈴のような声音で呟いた。

 

 春夏秋冬さんに〈どうして(みなもと)(僕の名前だ)は気づけたんだ?〉と訊かれて〈分からない〉と嘘をついた結果、難しい顔でブランコに乗る春夏秋冬さんという光景ができあがって、今に至る。

 

 時刻は17時20分を過ぎている。

 

「今日はもう帰る」春夏秋冬さんがブランコから飛ぶように、しかし実際には跳ぶように降りるも、自身の手の平を見て、「うわ、きったね」と声を上げた。

 

 おそらく錆が手についたのだろう。

 

 春夏秋冬さんが嫌らしい顔で僕を見て、「おらっ」と手を擦りつけようとしてきた。

 

 ので、避ける。「何すんのさ」ひょいひょい、と。

 

「避けんなよ」雰囲気が完全に男言葉だけれど、違和感はそれほどない。しかし、しつこく僕の制服をおしぼり代わりにしようとする点には納得できない。

 

 そうして何度か攻防を繰り返していると、飽きたのか諦めたのか、春夏秋冬さんは、「腹へった」と呟き、「帰る」と宣言した。

 

「さっき聞いた」

 

 しかし、春夏秋冬さんはそれには釈明せずに、「じゃあな」と言って、帰っていった。

 

 やっぱり変な奴だと思う。

 

 

 

 

 

 

 あれから、僕は春夏秋冬さんとちょくちょく関わるようになった。

 

「おい、源」春夏秋冬さんが、受験業界で最も有名な数学の参考書を片付けようとしていた僕の下へやって来て、言った。「焼きそばパン買ってこい」

 

「やだよ」いつから僕はパシリになったのか。それに何より、春夏秋冬さんは子ども舌でめんどくさいのだ。「だいたい、紅生姜抜きの焼きそばパンなんて、田舎で進学校を気取ってる2流高校の売店には売ってないよ」彼女は辛いものが壊滅的に駄目らしいので、〈焼きそばパン=紅生姜抜きの焼きそばパン〉と解釈する必要がある。

 

「ぷっ」隣の席の(さかき)さんが吹き出した。紅生姜抜きの焼きそばパンという、肉の入っていないチキンカレーのような料理を所望した春夏秋冬さんを嗤ったのか、国立大学至上主義者の和田(わだ)先生が浮かべた、苦虫を噛み潰したような、とまではいかない、冷えきった天ぷらを食べたときのような顔を笑ったのか判然としないが、まぁどうでもいいことだ。

 

 しかし、春夏秋冬さんは超マイペース人間だ。周りの様子などまったく気にせずに、「昨日さ」とステレオタイプのヤンキー然としたセリフを直前に吐いたとは思えない親しげな(おもむき)で口を開いた。「観たんだよ」

 

「何を」僕の隣で聞き耳を立てている気配。

 

「祭りのやつ」春夏秋冬さんは、しばしば言葉足らずになる。

 

 けれど、僕にはピンとくるものがあった。昨日、ニュースで地元の祭りが取り上げられていて、去年のものらしき屋台の映像が流れていたのだ。

 

「祭りの屋台がどうとかそういう流れで焼きそばを食べたくなったの?」僕は、仕方なく推理のようなものを披露した。

 

「そう、それ」当たったようだ。春夏秋冬さんがお金の取れそうな笑みを見せる。「どうして屋台って旨そうに見えんだろうなぁ」

 

「でも、紅生姜は抜きなんでしょ?」

 

「当たり前だろ」一転、神妙な顔で断言した。

 

 今度、こっそり紅生姜を何かに仕込んでやろう、と誓う。

 

(無理矢理食べさせて、可愛い顔を歪ませたい。泣かせてみたい)

 

 榊さんも内心で声高に賛同している。このクラスにはろくな(やから)がいないみたいだ。担任の三上先生にはちょっとだけ優しくしてあげよう。

 

 ちなみに、〈焼きそばパンを買ってこい〉と言った時の春夏秋冬さんの内心は、〈飯、食いに行こうぜ〉である。

 

 

 

 

 

 

 窓から見える空には、どんよりとした雲が広がっている。天気予報によると雨は降らないそうだ。けれど、その信憑性は下降中だ。

 

「……」

 

 雨、降らないといいなぁ。

 

 僕の異能は雨の日には使えないのだ。もう少し成長すれば改善するのだろうか。

 

「それでよ。山下(やました)がよ──」春夏秋冬(ひととせ)さんはプロ野球が好きらしく、弁当箱を空にした後も山下なる打てる捕手の話題を延々と展開していた。

 

 しかし、僕は興味も知識もほとんどないため、基本的には聞き流している。

 

「──(みなもと)はどう思う?」春夏秋冬さんの瞳が僕を射貫く。

 

 何のことか分からないので思考を読んでみる。

 

(こいつ、また聞いてなかったな)

 

 バレてた。

 

「ごめん、聞いてなかった」言い訳しても無駄なので正直に白状する。

 

「はぁ」春夏秋冬さんの溜め息。「いいよいいよ。お前が野球どころかスポーツ全般に何の価値も認めていないポンチキだってのは知ってるから」

 

「ポンチキってポーランドの揚げ菓子のことだよ」

 

 僕がそう言うと、春夏秋冬さんは、「はあぁー」とさっきの倍はありそうな空気の塊を肺から絞り出した。「うっざ。うっざいわぁ、そーゆーのいらねぇんだわ、実は」

 

「ごめん」

 

「……ところでよ」謝罪を聞けて満足したのか、春夏秋冬さんが話の流れを変えた。「週末暇か?」

 

「暇と言えば暇だけど」

 

「じゃあ、シルバーフェニックスの試合、観に行こうぜ」親父からチケット貰ったんだ、と。

 

 シルバーフェニックスとは、10年ほど前にできた、僕たちの住む県に本拠地を置く球団だ。春夏秋冬さん曰く、だいたい最下位争いをしているそうだ。

 

 正直、たとえ優勝争いの常習犯であったとしても興味を持つことはないだろうけど、絶対に行きたくないというわけでもない。予定もないし、「いいよ」と答える。

 

 春夏秋冬さんは口元をもにょもにょとさせ、「おう」とだけ。

 

 しかし、内心は、(よーし、よしよし、1人で行くのは淋しいんだよな。よーし、よし)である。

 

 なんだろう、この人。おもしろ。

 

 なので僕は言った。「やっぱり、ごめん。予定思い出した」

 

「はぁ?!」

 

(はぁ?!)

 

 

 

 

 

 

 土曜日、僕と春夏秋冬さんは真新しいスタジアムに来ていた。デイゲームらしい。

 

 (おびただ)しいわけではない観客がガヤガヤとしている中、やはり春夏秋冬さんは目立っていた。次元の違う美少女が球団のユニフォームを着て、〈あー、お前なんで今打たねぇんだよ、クソが〉とか〈信じてた。お前はやればできる子だって俺は知ってる〉とか〈ふっざけんな、俺たちはホラー映画を観に来てるんじゃねぇんだよっ〉などと喚き散らしているのだ。これがそこら辺にいるおじさんなら馴染むんだろうけど、春夏秋冬さんは黙っていれば、裏でグループメンバーを虐めているアイドルを視線だけで改心させるレベルの美少女。違和感がすごい。

 周りの観客も、(お、見所あるやんけ)とか(ほう、なかなかどうして……)とか(横の男、邪魔だな……)などと野球観戦ではなく春夏秋冬さん観戦に半ば移行して邪なことを考え出す始末だ──とりあえず殺気を飛ばすのはやめていただきたい。

 

「あ゛ー」突然、春夏秋冬さんが、ホラー映画に登場する、発狂しながら死んでいくキャラクターみたいな声を上げた。「負けた……」

 

 試合を観戦する春夏秋冬さんを観戦する観客を観戦するのに忙しくて、試合は真面目に観ていなかった。いつの間にか終わっていたようだ。

 スコアボードには13対15の文字。野球ってこんなに点の入るスポーツだっただろうか? と首を捻る。

 

「……帰る」春夏秋冬さんがボソッと言った。すくっと立ち上がり、空を見上げた。「まだ明るいな」

 

 

 

 

 

 

 春夏秋冬(ひととせ)さんの心によると、彼女は、男だったころは天才野球少年としてそれなりに有名だったらしい──たしかにうちの学校は進学校を自称しているくせに甲子園の常連さんだ。そして、春夏秋冬さんはプロ野球選手を目指していた。

 しかし、女の子になっちゃったことで、彼女の思い描いていた未来は絶対的に訪れなくなった。女子プロ野球もあるみたいだけど、それは違うらしい。あくまで子どものころから観てきた男のプロ野球の世界に行きたい。そこで活躍したいというのが、彼女の夢だったそうだ。

 

 とはいえ、彼女はそれで不貞腐れて野球を嫌いになったりはしなかった。もう仕方ないから1ファンとしてプロ野球を楽しもう。そんなふうに自分に言い聞かせていた。

 

 僕らは、帰りのバスを降りて初夏の街を並んで歩いていた。

 春夏秋冬さんは、相変わらず取り留めのない話をしている。しかし、心裏の底には、ざわざわとした感情がとぐろを巻いているような、そんな不穏さがある。

 

 といっても、心中の大半は、(あー、俺も野球やりてぇ)である。

 

 なので、僕は、「キャッチボールでもする?」と提案してみた。

 

 しかし、すぐに後悔した。なぜなら僕はキャッチボールをした経験が本当に1回もないからだ。平均よりは運動神経のいい自信はあるけど、それで意識高い系の春夏秋冬さんを満足させられるだろうか──不完全燃焼な気分にさせてしまうかもしれない。

 

「……どのくらいできるんだ?」春夏秋冬さんも疑問に思ったようだ。

 

「やってみないと分からない」

 

「いや、あのな」と呆れたような声音。「その回答がすべてを物語ってるんだよ」絶対、下手くそだろ、と春夏秋冬さんは片眉を上げた。

 

(へ、俺のチェンジアップを見せてやるぜ)

 

「……」

 

 言動と内心が見事に一致していない。

 この人、女優とかになったほうがいいんじゃないかな。朝にやってる、どこが面白いか分からないドラマにしれっと出演してても違和感はないと僕は思う。

 

 しかし、今の僕は違和感を覚えている。それに従い、「素人相手のキャッチボールで変化球を使ったりはしないよね?」とやる気満々の春夏秋冬さんに問うた。

 

「使ってはいけないというルールはない」春夏秋冬さんは力強く断言した。

 

「その回答がすべてを物語っている、とは誰の言葉だったか」

 

「……多分、お前、キャッチャー向いてるわ」唐突に春夏秋冬さんは、そう口にした。

 

「なんでさ」僕のキャッチーのイメージはお相撲さんだ。けれど、僕は痩せている。

 

「性格悪いもん」春夏秋冬さんは即答した。「ブロックはできなそうだけど」

 

「RINEブロックしようか?」

 

「……」

 

(こ、こいつっ……!)

 

 

 

 

 

 

 翌日、僕たちは近くの河川敷にいた。

 Tシャツにジーンズという、如何にもやる気のない格好の僕とは対照的に、春夏秋冬さんは有名なスポーツメーカーのジャージを身につけ、軽快に準備運動をしている。

 

「よっしゃ。やるか」と宣言した春夏秋冬さんは、「ほら、これ使え」と年季の入ったグローブを僕に渡してきた。

 

「……結構厚いんだね」想像よりしっかりしている。

 

「そうか?」と春夏秋冬さんはポニーテールを揺らした──普段は下ろしている。「そんなもんだぞ」

 

「春夏秋冬さんのは、そんなに厚くないじゃん」

 

「俺はピッチャーだったからな」

 

「ふーん」

 

「そんなことより早くやろうぜ」

 

 というわけで、僕の人生初のキャッチボールが始まった。

 

 

 

 

 

 

 春夏秋冬さんが、昨日観た投手(負けてたほう)のようなフォームで腕を振る。白球が放たれた。

 一応、見えてはいるので到達予測地点にグローブを構える。すると、次の瞬間にはボールがグローブに〈パシッ〉と収まった。

 

 意外といけるもんだね、というのが僕の率直な感想だ。

 

 しかし、春夏秋冬さんは不満があるのか、「うーん……」と首を傾げている。

 

「どうしたの?」

 

「やっぱ感覚がちげぇなって思って!」

 

 なるほど。

 

「ま! いいや」春夏秋冬さんはコロっと表情を変え、「予想よりできるみたいだから、次からしゃがんでみてくれ」とにこやかに通告した。そして、ボールを持った手を縦に揺らしたりしつつ、「これが真っ直ぐでこれがカーブ。これがチェンジな」とよく分からないことを言っている。

 

 多分、どれを投げるかのサインなんだろうけど、正確に読み取る自信がないから、素直に異能のスイッチを入れる。

 

(うーん、軟式だとMAX110キロくらいか? きっついな)

 

 球速のことだろうか。野球をやっている人は感覚で分かるようだ。すごい。

 

 この、ユルいような、そうでもないような空気のまま、僕たちはキャッチボールを続けた。春夏秋冬さんのコントロールがいいことに加え、何をどこに投げたいかを正確に把握できるので、初心者の僕でも問題なくこなすことができた。

 

 

 

 

 

 

「デート中にごめん。ちょっと相談があるんよ」河を見ながらお昼ごはんのお握りを食べている僕らの下へやって来た、隣の席の(さかき)さんが、両手を合わせながら言った。

 

 僕と春夏秋冬さんが見交わす。

 

(こいつ誰だっけ)

 

 春夏秋冬さんはクラスメイトにもう少し関心を持ったほうがいい。

 

 春夏秋冬さんは役に立たなそうなので、僕が対応する。「どうしたのさ?」

 

「実は──」と榊さんが語り出した。

 

 話の内容を要約すると、〈この河川敷で榊さんの兄が所属する草野球チームの試合があるんだけど、選手の人に急用ができて人数が足りなくなったから、助っ人に入ってくれないか〉ということらしい。榊さんは僕らのキャッチボールを見てて、〈もしかしたらオッケーしてくれるかも〉と考えたそうだ。

 

 なんか人が集まってるなぁ、と思ってたらそういうことだったのかぁ。

 

 だめかな、と上目遣いの榊さん。「……」

 

(……くっ。全然、効いてる感じがしない。春夏秋冬さんレベルに慣れてるせいで感覚が麻痺してやがる。なんてムカつく男なんだ)

 

 これが人にものを頼む態度だろうか。いや、態度は問題ないんだけど、内心がアウトだよ。間違いなくゲッツーだよ。

 

 腕を組みながら表面上は不気味なくらい静かに聞いていた春夏秋冬さんが、(おもむろ)に口を開く。「……条件がある」

 

 すっごく偉そうだ。

 

「じょ、条件?」榊さんは、ごくりと喉を鳴らす──ノリノリである。

 

 うむ、と春夏秋冬さんが頷く。そして、「俺に投手をやらせろ」と傲慢な悪役キャラみたいに言い放った。

 

「いいよ」榊さんがあっさりと答えた。

 

「え、いいの?」春夏秋冬さんの気勢は削がれてしまったようだ。

 

 榊さんは、うん、と肯首し、「今、うちのチームにピッチャーできる人いないし、見た感じ春夏秋冬さんフォームもきれいだし」とチームの人たちを見やる。

 

 褒められて気を良くしたのか、春夏秋冬さんはニヨニヨと美少女じゃなければ引かれるであろう笑みを浮かべ、「仕方ねぇな。そこまで言うならやってやる」と承諾し、次いで、僕の肩に手をポンッと置いた。「あ、あと、捕手はこいつな」

 

「え、なんでさ」ルールすらよく分かっていない僕に何を期待しているのか。

 

「いいよ」榊さんは再びあっさりと頷き、そして、口角を歪め、「いやぁ、春夏秋冬さんも女の子してるねえ」と地雷を踏み抜いた。

 

 しかし、僕の予想とは裏腹に春夏秋冬さんは、「うるせえよ」とぶっきらぼうに言っただけだった。

 

 



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僕と君②

「無理を言ってすまないね」(さかき)さんとよく似た涙袋を持つ青年──榊さんのお兄さんが言った。

 

「おう」感謝しろよ、と春夏秋冬(ひととせ)さんが尊大な声音で答える。

 

 しかし、お兄さんに気分を害された様子はない。緩やかに微笑み、「うん、ありがとね」と溶けた飴が染み込んだ声帯から発せられたかのような声。

 

 2、3歩引いた位置から春夏秋冬さんとお兄さんのやり取りを眺めていると、脇腹を小突かれた。榊さんだ。

 

「うちの兄、イケメンでしょ」

 

「かもね」たしかに春夏秋冬さんと並ぶと絵になっている。

 

 榊さんが、にやっとする。「やきもち焼いちゃってる?」

 

 ずいぶんと楽しそうなところ申し訳ないが、そんなことはない。でも、それをストレートに伝えるのも面白みがない気がする。

 

 なので、僕は言った。「僕らも浮気しようか」

 

 榊さんは、一瞬、ぽかんとしたものの、すぐに相好(そうごう)を崩壊させ、声を上げた。「春夏秋冬さーん! (みなもと)くんが私と浮気したいってー!」

 

「?」けれど、春夏秋冬さんは〈なんだそりゃ〉という顔をしただけだった。

 

「えー」榊さんはいたく不満そうだ。

 

 

 

 

 

 

 3回裏、春夏秋冬さんが放ったボールが打者の膝の辺りに構えた僕のミットに収まると、どこからやって来たのか分からない審判の人が、「トライクッ」と若干の手抜き感のある言い方で打者に死刑判決を下した。

 

 スリーアウトでチェンジってやつだ。

 ここまで春夏秋冬さんは全ての打者を打ち取っている。お兄さん曰く、リリースとコントロールがプロ上位クラスなうえ、配球がえげつないことが要因らしい。

 配球に関しては、ズル──打者の心を読んで裏をかいている──をしているからそう言われても反論はできない。

 

 とはいえ、相手のチームには数年前まで独身リーグ(?)でプレイしていた人も何人かいるみたいだし、少しくらいズルしても許されるでしょ、きっと。

 

 春夏秋冬さんがニッコニコで駆け寄ってきた。一緒にベンチに向かいつつ、正直、僕はちょっと引いている。初めて見たよ、こんな顔。

 

 チームの人たちが、「ナイピッ」とかなんとか春夏秋冬さんに声を掛ける。

 

「こんくらい、ヨユーよ、ヨユー」春夏秋冬さんの言葉に周りが、おー、と沸く。

 

 けれど──。

 

「大丈夫?」ベンチに戻った僕はこっそりと春夏秋冬さんに訊いた。

 

 春夏秋冬さんは、内心、苛立っていた。この程度の球しか投げられない自分に。

 男だったころは、調子がいいと150キロ以上は出せていたらしい。変化球ももっと良かった。コントロールだって。

 

「何が?」春夏秋冬さんは惚けた。弱いところを見せたくないようだ。

 

 なので、僕は笑った。「お兄さんにときめいてないかなって」

 

「……だから、なんなんだよ、それ」怪訝そうに眉をひそめた。「……」

 

 

 

 

 

 

 最終回である7回の裏、春夏秋冬(ひととせ)さんは打ち込まれていた。デジタル製の小さなスコアボードには7対5とあり、それがたった今、7対6に変わる。

 

 マウンド上の春夏秋冬さんは肩で息をしている。

 

 女の子になってそもそもの身体能力が落ちたことに加え、トレーニングもここ2ヶ月はやっていないことが原因だ。純粋なスタミナ切れにより、制球が乱れ、球の威力も低下して、結果、6回と7回だけで6点取られてしまった。

 

(くっそ──!)

 

 春夏秋冬さんの投げたボールが大きくストライクゾーンを外れる。それほど速くはないため、僕でもキャッチはできる。だから、まだ試合の形にはなっているけれど、状況は悪い。

 

 僕は立ち上がり、「ちょっとすみません」と審判をやってる厳ついおじさんに声を掛けた。「タイムってできますか?」

 

「ええよ、行っといで」見た目が明らかに堅気じゃないのに、声色が優しすぎて気持ち悪い。

 

 という感想はおくびにも出さずに、「ありがとうございます」と頭を下げてからマウンドに向かう。

 

 マウンドに到着した僕に、春夏秋冬さんは、「なんだよ」と少しだけ唇を尖らせた。

 

 春夏秋冬さんは、この試合を自分の中の〈区切り〉にしようとして榊さんの頼みを承諾した。つまり、悪い言い方をすれば、野球に対する未練だとかそういうのに折り合いをつけるためにこの試合を利用したということ。

 春夏秋冬さんは、相手チームを知っているようだった。その名を榊さんの口から聞いた時、彼女はこうなることを予期していた。だから、引き受けた。打ち崩されれば諦めもつくだろう、と。

 

 でも、だ。それが投手の(さが)なのか、春夏秋冬さんの性格なのかは判然としないけれど、彼女は今、勝ちたいと願っている。

 ただ、僕にはテクニック面でのアドバイスなんてできない。だから、できることをやる。

 

「あのバッターさ」僕はちらりとバッターボックスの35歳くらいの選手──前田(まえだ)さんに視線を送る。「今日が息子さんの誕生日らしくてさ、なんでも、『ホームラン打って』って子どもにお願いされてるみたいだよ」

 

 嘘偽りのない実話だ。相手チームのベンチでは、小さな男の子が携帯ゲームで遊んでいる。

 

 春夏秋冬さんは、形容し(がた)い、1種の顔芸のような複雑な表情を浮かべ、「源はどっちの味方なんだよ」と苦言を呈した。

 

 さぁ、と受け流し、「投げにくくなった?」と返球。

 

「そうでもないけど」春夏秋冬さんが顔に張り付いた髪の毛を払う。「なんでそんな情報教えたんだよ」

 

「困らせることができるかなって思って」

 

「……ふん」鼻で笑われてしまった。「くだらな」

 

 少しは肩の力が抜けただろうか。

 

「じゃあ僕は戻るよ」マウンドを後にする。 

 

(わりぃな……)

 

 

 

 

 

 

 試合は再開された。春夏秋冬さんは僅かに持ち直し、現在、カウントはスリーボールにツーストライク。息子さんにいいところを見せたい前田(まえだ)さんは、非常に集中している──しかし、息子さんは大手ゲーム会社の新作RPGに集中している。

 

 前田さんは高めのストレートを待っているようだ。

 この場合、僕は、外側低めギリギリでストライクゾーンを(かす)めるカーブかチェンジアップ、又は避けなきゃデッドボールになるような高めのボール球を要求するのが、今までのパターンだった。組み立てがどうのとかはまったく知らないけど、なんとなくやられたくないだろうなぁ、と思うからだ。

 

 しかし、塁は埋まっているし、フォアボールは出したくない。

 勿論、こちらがそう考えてストライクを取ろうとすることは前田さんも分かっている。春夏秋冬さんがストレートで決めたがることも──投球の傾向や彼女の性格もすでに把握されている。

 また、スタミナが切れた今、確実性が高い──コントロールが比較的安定している──のは変化球ではなくフォーシームだということも、前田さんがストレートに的を絞った根拠の1つだ。

 

 2秒だけ迷って、チェンジアップのサインを出そうとして──やめる。

 

 春夏秋冬さんの声が聞こえた──というわけではないけれど、なんとなく。

 

 指を使ったサインをせずに、ど真ん中にミットを構える──好きに投げてくれというサインだ。つまりは、職務放棄の手抜きである。

 

 春夏秋冬さんが、黒幕くさい獰猛な笑みを見せた。

 

 そして──。

 

 

 

 

 

 

 前田さんが意気消沈し、肩を落としている。せっかく逆転サヨナラ満塁ホームランを打ったのに、息子さんに、「見てなかった」と言われたからだ。流石の僕もこれには同情を禁じ得ない。

 

 試合は7対10でサヨナラ負けだった。

 春夏秋冬さんは、前田さんのように分かりやすくしょんぼりはしていない。ベンチに座り、榊さんから受け取ったスポーツドリンクを飲んだり、飲まなかったりしている。

 

「お疲れ様」榊さんのお兄さんが、僕に声を掛けてきた。

 

「お疲れ様です」僕が言うと、お兄さんは、「すごく性格の悪いリードだったよ」と僕の肩を軽く叩いた。

 

「そうですか?」野球をやってる人がそう言うのならそうなのだろう。

 

「ああ」とお兄さんが頷く。ついでに周りの皆さんも頷いている。「何か部活はやってるのかい?」

 

「いえ、何もやってないですよ」

 

「それなら、気が向いたときでいいからまた一緒にプレイしないかい?」お兄さんは人好きのする笑みで僕を誘った。けれど、僕が一瞬、春夏秋冬さんに目をやったのを見逃さなかったお兄さんは、「あー、まぁ、彼女さんがその気になったときで大丈夫だよ、うん」と微笑を苦笑へと変えて言った。

 

 今までスルーしていたけど、訂正してみる。「僕らは友だちのような感じですよ」

 

「え、そうなのかい?」そうは見えないけどなぁ、とお兄さんが頬を掻いたとき、榊さんが溌剌(はつらつ)とした声を発した。「源くん! 彼女が帰るって!」その目は、〈ちゃんと送っていけよ。彼氏だろ〉と圧を放っている──気がする。

 

「……」「……」

 

 微妙に納得がいかないので、榊さんの心を読んでみる。

 

(ちゃんと慰めてやれよ。彼氏だろ)

 

 ちょっと違った。

 

 

 

 

 

 帰り道、春夏秋冬さんはいつもと同じように、妹が鬱陶しい、とか、母親が〈女の子らしくしろ〉としつこく言ってくる、とか、三上(みかみ)先生の授業が本当になんの役にも立たない、とか、ブラジャーがきつい気がする、とか、そういった聞き流しても問題のなさそうな話をしていた。

 

 ぽたぽたと小雨が降っている。傘は持ってきていないけれど、仮にあったとしても差すか否か迷う程度の強さなので今朝の判断は間違っていなかったと信じている。

 

「なぁ」僕と同じく雨に晒されている春夏秋冬さんがシリアスな雰囲気で言う。「聞いてないだろ」

 

「聞いてるよ」

 

「じゃあ、俺のブラジャーのカップサイズは?」

 

「……」

 

 今は雨のせいで読心能力が使えない。つまりは、自力(?)で答えるしかない。

 

「C」だったような気がする。

 

「……ちっ」舌打ちしたよ、この人。多分、正解されて当て(・・)が外れたんだろうなぁ。

 

「ちゃんと聞いてるんだって」嘘だけど。

 

「……源はデカイのと小さいのどっちがいいんだ?」春夏秋冬さんが唐突に話題を変えるのはよくあることだけど、これは変化の度合いが小さめだから〈唐突に〉とは言えないかもしれない。

 

「どっちでもいいかな」これは嘘ではない。

 

「じゃあ(けつ)派か」春夏秋冬さんは拍子抜けしたように言った。

 

「いや、肋骨派」

 

「うっわ」きも、と若干距離を取られる。

 

「そういう春夏秋冬さんの性癖は?」

 

「……匂い」

 

「へぇ……」

 

 女の子みたいだね、とは言わないでおいた。 

 

 

 

 

 

 

 月曜日も雨は続いている。梅雨前線というワードがニュースに登場していたから、きっと梅雨なのだろう。僕の異能はお休みだ。

 

「おはよっ」クラスの自分の席でぼやっと単語帳を眺めていると、榊さんが、朝からよくそんなにテンション高くできるなぁと感心させる元気な挨拶をしてきた。

 

「おはよう」

 

「昨日はありがとね」榊さんはクラスをぐるっと見回す。「春夏秋冬さんはまだ来てないの?」

 

「今日は休むんだって」

 

 昨日の夜、〈()明日休む〉というRINEがあった。読点(とうてん)がなくて読みにくいことは()くとして、気になるのは一人称に〈私〉を使っている点だ。少なくとも僕の知る限りでは、内心含め初めてのことだ。

 

「ほー」と榊さんは訳知り顔を浮かべた。

 

「どうして変な顔してるの?」と訊いた瞬間、頭をぱしっと叩かれた。痛くはない。「痛い」

 

「勿論、お見舞いに行くんでしょ?」榊さんは、僕の抗議を完全に無視して、自分の言いたいことだけを口にした。

 

「まぁ、気になるし」何も言われなくても行くつもりではいた。

 

「よろしい」どうして榊さんが満足げな顔をするのか理解に苦しむけれど、よろしいならばよろしいよ。

 

 

 

 

 

 

 行く、とは言ったものの、僕は春夏秋冬(ひととせ)さんの家にお邪魔したことはない。家の前まで行ったことがあるだけだ。

 一応、RINEで、〈学校終わったら行っていい?〉〈いい〉〈どっち〉〈来ていいカフェオレ買ってきて〉〈黒コーヒー買っていく〉〈しね〉というやり取りがあったから、お邪魔しても問題はないと思われる。

 ちなみに、このRINEを見た榊さんがにやにやしていたので、早く席替えしたいなぁ、と聞こえるように呟いたら、今度は二の腕を叩かれた。

 

 というわけで、春夏秋冬さんの家にやって来た。かなり大きい家だ。車も、なんだか高級そうなやつが、不審者を威嚇する番犬よろしく貧乏人を威嚇している。

 でも、車は、ひいてくるだけで吠えてはこないので大したことはない。

 

 玄関チャイムを鳴らす。数秒後、『ちょっと待ってろ』と春夏秋冬さんの声。

 

 そして、すぐに玄関が開けられた。

 

「おう、上がってくれ」普通に元気そうに見えなくもない春夏秋冬さんが現れ、言った。

 

「うん、お邪魔します」と広い玄関に入り、指示された場所に傘を置いて靴を脱ぐ。

 

 リビングらしき部屋に案内された。外観から予想されたとおりの小綺麗な内観だ。

 

「私しかいないから、そんなに硬くならなくて……」春夏秋冬さんが僕を見て、言葉を止めた。「緊張してなさそうだな」

 

「うん。まったくしてない」どんな場面でも安定しているのが自分の長所だと僕は思っている。「それより、なんで急に〈私〉とか言い出したの?」

 

「……母さんがうるせんだよ」そう答えて背を向けた春夏秋冬さんは、ドアに向かいながら、「お茶とコーラとアイスコーヒーでどれがいい」と訊ねた。

 

「じゃあコーヒーで」と言いつつ、コンビニの袋からカフェオレを取り出す。「カフェオレ買ってきたよ」

 

「せんきゅー」

 

 

 

 

 

 

 リビングから春夏秋冬さんの部屋に移動し、漫画を読んでいる時に、彼女は突然、口走った。「源って好きな奴とかいるのか」

 

 僕は、読んでいた漫画──ダブル不倫の末にメインキャラが軒並み死んでいく話──から顔を上げ、春夏秋冬さんを見る。僕とは違い、彼女は漫画から目を離していない。

 

「いないよ」

 

「そうか」春夏秋冬さんがページを(めく)る。

 

「……」

 

 カーテンで窓の外は見えないけれど、雨の降っている気配は続いている。

 

「なぁ」春夏秋冬さんが、歪んだ鈴を転がすような声を発した。

 

「何?」

 

「セックスしてくれって言ったらしてくれるか」

 

「どうだろ」ちょっと真面目に想像してみる。そして、僕はあることに気づいて、「あ」と洩らした。

 

「なんだよ」

 

「コンドームがないから無理だね」

 

「……」春夏秋冬さんは無言のまま、漫画をぽいっと床に放り、立ち上がった。次いで、学生鞄を漁って小さな紙袋を取り出し、漫画と同じように、ぽいっとした。「ある」

 

「へぇー」せっかくなので(?)、紙袋を開けてみる。黒をベースにしたデザインだ。0.01とある。

 

 春夏秋冬さんが僕の近くに腰を下ろす。「気持ち悪い奴だと思うか」

 

「いや特には」

 

「じゃあ──」

 

「でもさ」僕はわざと春夏秋冬さんの邪魔をした。「無理してセックスしようとしてる人とは、したくないかな」

 

「……」

 

 当たり前だけど、読心能力は使えなかったとしても、人の感情がまったく分からなくなるというわけではない。単に少し前までの僕に戻っただけだ。

 今の春夏秋冬さんは、いつもより随分と強張っている。つまりは、〈男に戻りたい〉という気持ちを無理やり消し去ろうとしている、気がする。

 初めて心を読んだ時から、春夏秋冬さんの中には、男としての自我や感性と女としてのそれらが混在していて、微妙な均衡を保っていた。そして、男としての自我や感性は〈プロ野球選手になりたい〉という夢と不可分に一体化している。

 要するに、急に一人称を〈私〉に変えたのも、僕とセックスしようとしているのも、男の自分を消し、精神的にも完全な女になろうとしているからで、それは、完全には男に戻れない、夢を諦めなければならないという現実を受け入れるためなんだと思う。

 

 まぁ、推測だから間違っているかもしれないけど、でも、今の春夏秋冬さんは──いつも以上に辛そうだ。

 

 なので、僕は言った。「焦りすぎじゃない?」

 

「……」春夏秋冬さんは、黙したまま僕を見つめる。

 

「人の感覚とか価値観なんて急には変わんないと思うよ」

 

 16年も男として生きてきて、つまりは16年かけて作られた自我が、たった1回のセックスで根本的に変わるなんてのは現実的ではない気がする。というか、僕にはそんな劇的なセックスはできない。

 

「ゆっくり折り合いをつけていくしかない」大変かもしれないけど、と()くように彼女の髪を(もてあそ)ぶ。さらさらと流れてゆく。

 

「……」春夏秋冬さんは眉間に(しわ)を寄せ、瞳を揺らす。「ひと事だからって──」

 

「でも、どうしても試してみないと気が済まないって言うんなら」髪から指を離す。「いいよ。春夏秋冬さんが納得するまで付き合うよ」

 

「……」

 

 春夏秋冬さんも僕も喋らない、静かな時間が訪れた。ふと気がつけば、雨の気配は消えていた。

 

 そして、春夏秋冬さんが溜め息と共に口を開いた。「……はぁ。悪かった。冷静じゃなくなってた」

 

「うん」気にしなくていいよ、と漫画を開く。いいところだったのだ。

 

 しかし、春夏秋冬さんは、僕の──僕のものじゃないけど──漫画をひょいっと取り上げた。「なんか食おうぜ」

 

 時計を見ると、19時を過ぎていた。そりゃあお腹も減るよね。

 

「ちなみに、何を食べるつもりなの?」

 

「それは冷蔵庫の中を見てから決める」

 

「なるほど」

 

 もしかして料理する流れだろうか。僕は戦力にならないけど、いいのかな。

 

 

 

 

 

 

 春夏秋冬さんの料理を、飾りつけた名詞で表現すると、〈必要に迫られてやっているだけの、そんなに料理が好きじゃない人であることが伝わってくる、不味いとは言えないけど間違っても、料理上手だね、とは口にできない感じ〉だ。一言でまとめると〈微妙〉である。

 

 とはいえ、社交辞令が大切なときもある。「美味しい」とシンプルな味付けの豚肉を呑み込んでから僕は言った。

 

 しかし、春夏秋冬さんは僕の言葉を信じていないようだ。(絶対、嘘だ)とジト目で咀嚼(そしゃく)している。

 

 いい具合に騙せる舌先三寸(したさきさんずん)はないだろうか、と頭を捻ったものの、結局、「でも、春夏秋冬さんが作ったって言えば、喜んでお金を出す人もいると思うよ」という、褒めているようでよく考えると皮肉にしか聞こえない言葉しか絞り出せなかった。

 

「源はいくら出すんだよ」

 

「僕はいいかな」

 

「おい」

 

「嘘嘘。身体で払ってもいいと思えるくらい美味しいよ」これも嫌味な響きになってしまった。わざとではないのにおかしいな。それに、そもそも男のセリフではない気がしなくもない。

 

「……」

 

 

 

 

 

 

 そろそろ妹が塾から帰ってくる、と春夏秋冬さんが言ってきたので、僕は素直に退散することにした。

 

 玄関まで来たところで、「明日は学校来るの?」と僕は訊ねた。

 

「行く」春夏秋冬さんは答えた。

 

「そっか」と囁くように言った。「じゃあ帰るよ──」

 

「待て」

 

「何?」

 

「……」春夏秋冬さんは、表情筋をもにゅもにゅさせている。

 

 何やってんだろ、この人。

 

 好奇心に逆らわずに心を覗いてみる。

 

(キスしたいやべなんだこれキモいだろもっと一緒にいたいいやいやいやホモじゃねぇしなんで帰るんだよ俺は巨乳好きなんだよ豚肉にしなければよかったぎゅうして臭い大丈夫かなただの友だちだろ落ち着く匂いああもう──)

 

 あまりの勢いにくらっときた。春夏秋冬さんは完全に混乱している。

 でも、笑ってしまう。だって、ほんの2、3時間前とは随分と毛色が違うんだもん。

 

 なので──求めに応じ、キスをする。

 

「!?」春夏秋冬さんの心は驚き、けれどすぐに甘い熱に支配されてしまう。「……」

 

 やがて柔らかな感触と別れ、しかしあと少しで鼻先が触れる位置で止まり、見つめ合う。

 そして再び唇を重ね、今度は中に侵入させる──春夏秋冬さんが僅かに震えた。慰撫(いぶ)するように唇、歯茎や口内の粘膜を刺激してゆき、不意に舌と舌を絡める。

 次第に春夏秋冬さんも慣れてきたのか、僕の中へ押し入り、あるいは自らの中に僕を招き入れ、味わうように舌を動かし始めた。

 しかし、彼女は口内への刺激に弱いのか、時折、小さく痙攣(けいれん)し、その度に動きを止め、大きな隙を晒した。そして、霞がかった彼女の心が、もっともっと、とねだり、僕がそれに応えて隙間を埋めていく。

 

 しばらくそんなことを繰り返し、互いを、その輪郭を理解し始めた辺りでそれをやめ、少しだけ唇を離す。春夏秋冬さんから洩れた、熱く湿っぽい息が、静かな玄関に溶けて消える。

 

(──もうなんでもいいや)

 

 すると、今度は春夏秋冬さんからしようとしてきたので──僕は顔を()らし、彼女の唇を()けた。死球を回避する前田さんに匹敵する機敏さの、見事な避けっぷりだと思う、多分。

 

「……?」なんだよぅ、と媚びるような声を(したた)らせ、また欲しがったので、まぁ当然、避けた。

 

 春夏秋冬さんの感情に、じんわりと不満が(にじ)んでゆく。

 

 なので、僕は言った、若干早口で。「妹さんに僕のこと知られたくないんでしょ? いいの?」

 

 勿論これは建前で、本音は、焚きつけるだけ焚きつけてから突き放したらどんな顔をするか見たかっただけだ。

 

 春夏秋冬さんは、「ぅー」とか、「ぁー」とか唸った後、「帰れ」と捨て台詞を吐いてから部屋に引っ込んでいった。びっくりするくらい真っ赤だった。

 

「……ふふ」

 

 やっぱり人間っておもしろい。覚妖怪(ぼく)とは違うね。

 

 




続きを書こうか迷いましたが、本作の雰囲気やジャンルのバランスを維持したまま続けるのが難しいと感じたので、一応、これで終了です。青春小説や恋愛小説をほとんど読んだことがないからこういうことになるんですね泣

お読みいただき、ありがとうございました。


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好きな人①

開き直りました。



「他に分からないとこはあるか?」自身の机に着く星野(ほしの)先生が、心地いい響きの落ち着いた声で言った。

 

 星野先生は、私の通う塾の先生だ。ツーブロックと短めのマッシュを合わせた髪型がよく似合っている。

 

「えーと」ただ話したいから〈質問がある〉と嘘をついたのだ。分からないところは中学生の範囲では1つもない──あらかじめ用意していた質問は瞬く間に回答されてしまった。でも、もうちょっと仕事の邪魔をしたいので、なんとか知恵を絞る。「……最近、織田信長女性説が一部の界隈で通説的見解となりつつありますが、先生はどう思いますか?」

 

「……」星野先生は沈黙してしまった。

 

 訊いておいてなんだが、私もこの質問は意味不明だと思う。なんだよ、信長女性説って。どんな界隈だよ。怖いよ。

 奇天烈(きてれつ)な学説が、つい頭に浮かんでしまったのは、この前、お姉ちゃんがこの説について喋っていたからだ。つまり、容姿と運動神経に極振りした頭ポンチキなお姉ちゃんが全部悪い。

 

 だから、星野先生、そんな目で私を見ないで。いや、でも、これはこれで……。  

 

 私が妙な世界への扉を開きかけた時、星野先生は口を開いた。「噂は聞いてるけど、それってホントなのか? どこの教授(せんせい)が提唱し──あっ」

 

 星野先生の腕が彼のスマートフォンと鍵束にぶつかり、それらを床に落としてしまった。ちょうど私の足下に来たので、拾う。

 

 これは……。

 

 赤い熊のキーホルダーがかわいいのはいいとして、スマートフォンの待ち受け画面に表示された、明るい茶髪をグラデーションボブにした女の人が問題だ。ぞわっと嫉妬心が湧いてくる。

 

「この写真って」彼女さんですか、と続けようとして、しかし、星野先生に、「個人的なことには答えられません」と阻止された──星野先生の顔に一瞬だけ影が差す。

 

 しかし、私は軽佻浮薄(けいちょうふはく)な表情を作り、「もしかして照れてます?」とそれに気づいたことを隠す。「先生かわいいー」

 

「はいはい」星野先生があしらう。「もう質問がないなら帰りな。遅いから気をつけて帰れよ」

 

「はーい」と素直に従い、先生たちの部屋を出る。

 

 あの表情を見て、私は確信した。星野先生は振られた、則ち、今が絶好のチャンスだと。

 年齢的な(法的な)障害はあるが、淋しさ(性欲)を紛らわすのに丁度いい子が、都合のいいことを言ってすり寄ってくれば──お姉ちゃんほどじゃないけど私もなかなかのものだし──魔が差して一線を越えてしまうこともあるはず。

 そこまでいってしまえば勝ったも同然。星野先生の性格ならば、すぐに私に情が移り、無下にはできなくなるに決まっている──最悪、法律をチラつかせるのもありだろう。そして、ゆっくりと私に溺れさせ、なし崩し的に本命彼女の地位を手に入れるのだ。

 

「ひひ」おっと危ない危ない。誰かに見られたらいけない顔にな──。

 

「またキモいこと考えてるだろ」見られてた。同じ高校を志望する(たちばな)君が、呆れ顔をしている。

 

「なんのこと?」私は取り澄ました。「童貞君の妄想じゃない?」ついでに毒も吐いておく。深い意味はない。

 

「そっちこそ妄想はほどほどにしといたほうがいいと思うぞ」橘君は、一切動じずに毒を返してきた。「星野先生のことだろ、どうせ」

 

「……そうだけど、別にいいじゃん」好きなんだもん。

 

「……まぁ俺が口出しするのも違うか」

 

 私はピンときた。「もしかして私のこと──」

 

「それはない」断言された。

 

 そこまではっきり言われるとプライドが……。

 

「またまたー、正直に──」

 

「それはない」

 

「ぅぅ……」私は気合いで涙を出す。「私ってそんなに魅力ないかな……」

 

「可愛いけど、絶対に手は出したくない」橘君は、本当に何の迷いもなく即答した。「明らかな地雷を好き好んで踏む馬鹿はいないんだよ」

 

「いくら何でもひどすぎない?」心外甚だしい。まっこと遺憾である。「私、尽くすタイプだよ?」知らんけど。

 

「……ふ」鼻で笑いやがった。「地雷女の常套句(じょうとうく)だな」

 

「腹立つわー、同じ学校だったら女子どもを使って虐めてたわー」

 

 突然、橘君が、はっ、とする。

 もしやようやく自分の愚かさに気づいたのだろうか。しかし、今更謝っても許さぬ。私を──。

 

「お前ら、イチャついてないでさっさと帰れ」振り返ると、謝っても許さんぞ、と言わんばかりに眉を吊り上げた星野先生がいた。

 

 

 

 

 

 

「本当にここまででいいのか?」家まで送らなくてもいいのか、と橘君が訊いてくれた。

 

「大丈夫」心配してもらえると嬉しくなる。「ありがと」

 

 私たちは学区を分ける川の近くにいる。ここまでは同じ道なので、塾を出た後、一緒に帰っていたのだ。

 

「そうか」橘君にしつこくするつもりはないみたいだ。「分かった」

 

「うん。また明日」これでも受験生。明日も塾には行かないといけない。

 

「ん」とだけ応え、橘君は自転車に跨がり、橋を渡っていった。

 

 橘君の背中が小さくなり、やがて見えなくなった。

 

「……」

 

 多分、星野先生がいなければ好きになってたと思う。

 

「……なんてね」ないない、と呟いた時、川沿いの道の草が繁っている場所に光る物を見つけた。

 

 なんだろ。

 

 近づいてみると、熊のキーホルダーが落ちていた。鍵はついてない。

 拾って、月明かりに照らす。星野先生のと同じデザインだ。古くさいし、傷もたくさんついている。

 

 変なの。元の場所に戻そ。

 

 そう思ったけど、やっぱりちゃんとしたとこに捨てることにした。

 テキトーに鞄に入れて、家に向かって歩き出す。 

 

 

 

 

 

 

「ただいまー」と小さな声で言いつつ、玄関に入る。返事はないけど、珍しいことではない。

 

 まずは何か飲みたい。キッチンに向かう。

 食卓には、ラップをされた、私の分の料理が並んでいた。今日はお母さんはいないからお姉ちゃんが作ったものだろう。この雑な切り方からも、お姉ちゃんの犯行であることが窺える。

 

 冷蔵庫を開ける。お気に入りの炭酸飲料を取り出そうとして、それに気づいた。

 

「カフェオレ……?」

 

 朝にはなかった。しかも、お母さんやお姉ちゃんがいつも買うやつじゃない。

 

「……」

 

 ふと気になって、流しを確認する。食器はない、いつもは最後に食べた人が洗うルールなのに。

 

 もう一度、冷蔵庫の中を見る。

 

「……減ってる」

 

 朝の時点では、アイスコーヒーのペットボトルは未開封だった。しかし、今は開封済みだ。お姉ちゃんが飲むことはないし、お母さんも基本的には飲まない。お父さんは今日から4日は他県にいる。

 

 私はピンときた。

 

 お姉ちゃんに彼氏ができたんだ!

 

 最近、どうもお姉ちゃんの様子が変だと思っていた。いつもよりスマホに意識が行くようになっていたし、色々なお手入れも以前より気持ち丁寧にやっていた。

 

 口元が(ゆる)むのを抑えられない。

 

「ひひ」おっといけない。また人に見せられな──。

 

「邪魔なんだけど」ムカつくくらい透明な声。お姉ちゃんだ。

 

 お姉ちゃんの辞書には、愛想という言葉はない。非常にむすっとした表情でこちらを見ていた。

 

「ねえ、お姉ちゃん」

 

「なんだよ」お姉ちゃんは平均より少し背が高い。一方、私は平均より低い。つまり、機嫌の悪そうな顔で見下ろされているということだ。無駄に威圧感がある。

 

「このカフェオレどうしたの?」時代劇に出てくる悪代官のような笑みを浮かべたくて仕方がないけど、気合いで堪える。

 

「……買ってきた」お姉ちゃんはぶっきらぼうに答えた。

 

「ふーん。いつものじゃないのはどうして?」

 

「……理由なんてねぇよ」表情や声に違和感はない。

 

 お姉ちゃんは基本的に表情を取り繕うのが上手い。けれど、感情の大きさが一定レベルを超えると──。

 

「もしかして彼氏?」

 

 お姉ちゃんは、顔をもにゅもにゅさせる。

 なんて分かりやすい人なんだ。腕を伸ばし、よしよし、とお姉ちゃんの頭を撫でる。

 

「おい。やめろ」手を払われた。

 

「どんな人なの?」めちゃくちゃ気になる。

 

 昔からお姉ちゃんはスポーツ馬鹿で恋愛に興味を持たなかった。このルックスでなんという勿体なさだろうか、とお母さんと2人で嘆いていたけど、ようやく春が来たようだ。

 

 しかし、お姉ちゃんは犯行を否認するらしい。「はぁ? なんで彼氏がいることになってんだよ。そんなのいないっつーの」と冷蔵庫からカフェオレを取り出して口をつけた。

 

「もうキスはしたの?」

 

「っ」噴き出しはしなかったけど、ごほごほと()せている。キスはした可能性が高いようだ。

 

 背中をさすってやりつつ、「じゃあエッチは?」と追撃。背中が熱い。

 

「だから、相手がいないんだって」今度は反応が若干小さい。

 

「ふーん。あくまで認めない、と」

 

「なんなんだよ、鬱陶(うっとう)しいな」

 

「ふーん」

 

 やむを得ないね。そちらがその気なら、こちらにも考えがある。

 

「ひひ」

 

 ちょっと、そんなに引かないでよ。

 

 

 

 

 

 

 翌日の夕食は、私、お姉ちゃん、そしてお母さんの3人が揃っていた。

 

 早速、私は言った。「お姉ちゃん、彼氏ができたんだって」

 

「っ」相変わらず、お姉ちゃんは噴き出すのは我慢できる人のようだ──()せてはいるけど。ちなみに、私はお姉ちゃんの向かいには座っていないので心配はない。

 

「ほんとなの?!」お姉ちゃんの正面という危険地帯に座るお母さんが、噎せるお姉ちゃんに訊ねた。しかし、涙目でごほごほするだけで答えない。

 

 やむを得ず私がナイスなフォローを入れる。「ホントだよ。昨日、家に来て色々してたみたい」ね! と如何にも仲良く出来事を共有したかのようにお姉ちゃんに嗤いかける。

 

「お前マジふざけんなよ」ようやく味噌汁との喧嘩を制したようだ。「いないっつってんだろ」

 

「またそんな口利いて」お母さんは、お姉ちゃんのヤンキーみたいな言葉使いを許せないそうだ。「そんなんじゃ振られるわよ」しかし、今は嗤っているのであんまり怒ってはいないと思われる。

 

「大丈夫だよ、お母さん」楽しくなっているので私の舌は制御不能に陥っている。「お姉ちゃん、ご飯作ってあげたり、色々努力してるみたいだし、案外上手くやってるみたいだよ」

 

 食器が流しになかったということは、証拠隠滅したに違いない! かどうか定かではないけど、思いついたことを喋りたかったから仕方がない。

 

「うひゃん」と変な歓声を上げたのはお母さんだ。(とし)を考えてほしい。「料理嫌いの(そら)がねぇ」しみじみと呟き、しじみの味噌汁を(すす)った。

 

 この後もお姉ちゃんへの追及は続いた。ものすんごく食べづらそうにしてたけど、しっかり完食するあたり、本当は余裕があるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 時刻は21時過ぎ。リビングでスマホを弄りながらテレビを観ていると、お風呂場の方から気配。お姉ちゃんがお風呂に入るのだろう。

 

 どうやら次のミッションの時間のようだ。「ひひ」私は立ち上がり、2階へ向かう。

 

 しかし、「(はるか)、ちょっと来なさい」と廊下でお母さんに止められた。

 

 なんだよ、40分しかないんだぞ。

 

 渋々、お母さんとリビングに戻り、ソファの、今さっきまでいた場所に腰を下ろす。

 

「何? 私、忙しいんだけど」反抗期なのでつんつんしても許されるのだ。

 

「あなた、この前の模試、真面目にやらなかったでしょ」お母さんがチクチクした声色で言った。

 

「? 真面目にやったけど」私は惚けた。

 

 前回の模試は、めんどくさそうな設問は問題をほとんど見ずに解答を記入していた。そういう気分のときもある。いったい何をぷんぷんしているのか。更年期障害だろうか。

 

「嘘ね」お母さんは、洋館のダイニングルームで推理を披露する探偵を彷彿とさせる勢いで断言した。「あなたがあのレベルの英語長文でミスするはずがないわ」

 

 どうりで問題冊子まで要求してきたわけだ。この人、私が手を抜いたかを確かめるためにわざわざ問題文をチェックしたらしい。暇なのかな? 

 

 暇をもて余したおばさんはとても厄介だ。だからというわけではないが、私は開き直った。「いいじゃん、別に」だってさ、と続ける。「お姉ちゃんの成績に比べたらマシじゃん」

 

 お姉ちゃんは知能指数お姉ちゃんだからお姉ちゃんなのだ。

 

「はぁ」お母さんは溜め息をついた。「そういうことじゃないでしょ。お姉ちゃんは真剣にやってあれなの! でも、あなたは不真面目なだけでしょうが。私は、そういう態度が駄目だと言ってるの」

  

 なんという理不尽な話だろうか。お母さんの主張が正しいのならば、馬鹿は大した結果を出さなくても許されて、頭のいい奴は常に相応の結果を出さないと許されないということになる。

 非常に納得がいかない。頑張らなくてもそれなりにこなせる人間には、手を抜く権利があるはずだ。

 

「その理屈なら、全力を出しても0点しか取れないような、救いようのない馬鹿は、一切解答しなくてもいいってことになるよね? それって不平等じゃない?」

 

 外形上の変化がないのなら、内心の推定にも変化をつけられない。馬鹿の、〈真面目にやりましたよ〉という抗弁を否定することはできないのだ。

 

「はぁーっ」お母さんは疲れているようだ。歳だろうか。「あなた、分かってて屁理屈こねてるでしょ。そういうとこよ、そういうとこ! もうちょっと真面目になりなさい!」

 

「えー」やだよ。私は、気分に任せて楽しく生きてゆきたいのだ。

 

「はぁ……。いったい誰に似たのか……」

 

 おっぱいだけはお母さん似だよ、と言いかけたけど、私にはまだ希望がある、となんとか踏み止まった。

 

 

 

 

 

 

 30分後、お母さんから解放された私は、お姉ちゃんの部屋にいた。

 お姉ちゃんの入浴時間は、込み込みで凡そ40分。残り10分しかない──お母さんがくだらないことに(こだわ)るせいで余裕がなくなってしまった。

 けれど、欲望を抑えることはできないし、できても抑えるつもりはあんまりない。

 

 私の目的はお姉ちゃんのスマートフォン──そこにあるはずの彼氏とのやり取りを調査することだ。

 

 さて、どこにあるかな、と部屋を見回す。コンセントの辺りにはない。机やベッドにもない。

 じゃあ、鞄かな。

 

 素早い動きで、学生鞄のファスナーをスライドさせる。鞄の中には、明日の授業で使うのであろう教科書やノート、無骨(ぶこつ)なデザインの長財布、中身の少ない化粧ポーチに、紺色の小さな紙袋……ん?

 

 紙袋を取り出す。全国展開しているドラッグストアのものだ。

 

「……ひひ」

 

 紙袋の中には、本当に大丈夫なのか、と心配になる薄さが売りのコンドームがあった。ここまで情況証拠が揃うともはや極刑は不可避だ。

 

 他には何か面白いもの──大人の玩具とか──はないか、と漁ると、横の収納スペースからスマホが出てきた。スワイプする。

 そして、顔認証とパスワードの2択からパスワードを選択。

 

『パスワードを入力してください』

 

 お姉ちゃんは知能指数お姉ちゃんなことに加え、ものぐさな嫌いがある。ので、とりあえずは、イニシャルと生年月日を試してみる。

 

『パスワードが違います』

 

 (そら)という名前は、頭空っぽの空という意味であることに争いはないといえども、流石にこんなに単純じゃないか。

 

 次の候補を入力していく。

 

 お姉ちゃんなら、複雑だったり凝ったパスワードにはせず、また、パスワード用の文字列をゼロから作ったりもしないと思われる。つまり、何かに使われている数字やアルファベッドの組み合わせを流用している可能性が高い。

 

 入力し終え、タップ。しかし、失敗。それなら、と少し順番を変えて──。

 

「……よし」クリアだ。

 

 お姉ちゃんの好きな野球選手を、よく話題に(のぼ)る順に並べ、背番号と登録名──ローマ字表記に変換した──の頭文字を入力した結果、2パターン目に当たりを引けた。記憶力の高さは、こういうことに()かしてこそである。

 

 うきうきしながら通話アプリを立ち上げ、履歴をチェック。

 昨日の履歴にある、家族以外の人間がそれだろう。

 

「見つけた」

 

 家族を抜かすと、〈(みなもと) 水季(みずき)〉と〈(さかき) 咲良(さくら)〉という名前が残った。男の可能性が高いのは前者なので、こちらが彼氏のはず。

 

 あ、でも、レズのパターンもあるのか。お姉ちゃん、男勝りなとこがあるからな。最近では、自分のことを〈俺〉とか言い出したし──まさか一人称を変えたのは役割(・・)を全うするため……。

 

 しかし、いや待てよ、と冷静になる。コンドームがあるのだからレズとは考えにくい。

 

 何はともあれ、中身を拝見してからだ。履歴を開く。そして──私は見た。見てしまった。

 

『今日はありがと』『春夏秋冬(ひととせ)さんもあんな顔するんだね』『うるさい』『可愛いかったよ』『しね』『そんなに嫌ならもう2度としない。ごめんね』『いやいってない』『へんじ』『おい』『でろ』『おねがい』『しねよ』『うそ』『ごめん』『でて』『ゆるして』『いじわるしないで』『通話時間〈1時間7分31秒〉』

 

「……」正直、きついっす。誰だよこれ。ホントにあのお姉ちゃんなのか。「ぅぅ……」

 

 言語化できない、羞恥心にも似た嘔吐感のような何かに悶えていると、私の耳は、恐怖という精神的概念を物理現象に昇華させた結果、誕生してしまった空気の振動をキャッチした。要するに、ドアを開ける音。

 

「な、にやって、んだ──?」お風呂上がりのお姉ちゃんが、震える声を発した。というか、声だけじゃなくて身体もぷるぷるしている。

 

 突然、〈好奇心は猫をも殺す〉という言葉が脳裏に過った。

 

 したがって、「にゃ、にゃー」と私は泣いた。何やってんだろ、私。

 

 ガチャリ、とドアが閉められた。

 

「シュレーディンガーの猫にしてやろう」お姉ちゃんは笑った。

 

 どういう意味だよ! こえぇよ!

 

 



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好きな人②

約12000字です。


 病む(ヘラる)才能のあるお姉ちゃんは、〈前に親父の財布から金を抜いたことをバラす〉とか〈母さんの大切にしていたネックレスを勝手に持ち出して失くしたことをバラす〉とか、人の心がないとしか思えないことを言って私を脅迫した。

 か弱い私にはどうすることもできなかった。

 結局、1ヶ月、毎日、コンビニのスイーツを献上することを約束させられた──不服である。デブれクソが。

 

「今、生意気な目ぇ、したよなぁ?」椅子に座って脚を組んでいるお姉ちゃんが、妖刀のように瞳を鋭くさせた。

 

「してないです。気のせいです。誤解です。ごめんなさい」この屈辱、晴らさでおくべきか。というか、今、晴らしたい。「ねぇ、お姉ちゃん」

 

「なんだよ」

 

「どっちから告白したの?」

 

「……はぁ?」お姉ちゃんは、〈何言ってんだこいつ〉という表情を作っている。

 

 しかし、妹の私には分かる。一瞬だけ視線が揺らいだのだ。お姉ちゃんは、ここを攻めて、と誘っているに違いない。

 

「もしかして曖昧なまま関係持っちゃった感じ?」

 

 お姉ちゃんがもにゅる。つまり、当たりということだ。可愛いやつよのぅ。

 

「か、仮にそうだったらなんだって言うんだよ」お姉ちゃんは頑張っている。

 

「いやぁ、もしかしたら水季(みずき)さんは、お姉ちゃんのこと、面白い玩具としか思ってないかもよ?」知らんけど。

 

 ちなみに、下の名前で呼んだのは故意だが、深い意味はない。

 

「そんなこと……」お姉ちゃんが尻すぼみに声を落とす。「……」

 

 心当たりがあるようだ。おっしゃ、テキトーにこのまま押し切ろ。

 

「水季さんさ」さもお姉ちゃんを心配してますよ、という雰囲気を出す。「ちゃんと〈好き〉って言ってくれる?」

 

 言わないからなんだ、あるいは、言ってるからなんだ、という話ではある。

 

 しかし、お姉ちゃんは甚大なダメージを受けたようだ。不安な時のもにゅもにゅが絶好調だ。そして、ややあってから重々しく口を開いた。「……言ってくれない」

 

 面白くなってきた。

 

 私は、「あぁ……」と努めて悲しげな声を出し、次いで、「それは……」と意味深に言葉を詰まらせた。勿論、意味浅どころか意味無だ。

 

「やっぱり気持ち悪がられてるのかな……」お姉ちゃんは沈痛な面持ちで、そう洩らした。

 

 どうして気持ち悪がられていると考えたのかは分からないけど、とりあえず煽っておく。「ないとは言いきれない。男の人って遊びの女には本当に冷酷になれるから」

 

 我ながら、知りもしないことをそれっぽい雰囲気で語るの上手すぎると思う。

 

「わ、私はいったいどうすれば……」お姉ちゃんが瞳を潤ませる。弱りきった小動物のように庇護欲を掻き立てる犯罪的な可愛さだ。

 

「落ち着いて」聖母(笑)のように慈しみ(笑)を纏って、言う。「まだそうと決まったわけじゃないわ。まずは次のデートの時に然り気なく本心を探るのよ」気分で女言葉を使ったけど、なんかしっくりこない。やめよ。

 

「次のデート……」呟き、「そんなのない……」と更に表情を暗くした。

 

 おや? 割とマジで遊ばれてる?

 

 美人すぎると幸せになれないというのは、本当なのかな。

 

「へっ、ざまぁ」やべ。つい本音が。

 

「ん?」とお姉ちゃんが怪訝そうにするので、すかさず私は、「今すぐにRINEしてデートの約束をするべき。それしかない」とはっきりと言い切った。

 

「い、今すぐ?」

 

「そう。今すぐ」当然だ。なぜならお姉ちゃんで遊ぶのに飽きてきたから。

 

「わ、分かった」お姉ちゃんは、神妙に頷いてスマホを操作し始めた。

 

 そして、数分後、お姉ちゃんは顔を歪ませた。「『予定があるから今週は多分無理』だって……」

 

 おっと?

 

「今までもこういうことあった?」

 

「ない」即答した。「1日2日ならあったけど数日も続くのは初めて」

 

 前言撤回。もうちょっと遊ぼう。

 

「残念だけど、飽きられ始めてるかもしれない」お姉ちゃんに、痛ましいものを見たときの顔を向ける。

 

「……」完全に沈黙してしまった。 

 

 私からやっといてなんだけど、そこはかとなく可哀想になってきた。

 

「……お姉ちゃんならすぐ新しい彼氏ができ──」

 

「決めた!」いきなり声色が変わった。怖い。「(はるか)

 

「な、なんすか」

 

「尾行調査するから手伝え」

 

「……は?」

 

 何を言い出すんだ、この人は。

 

「だから、(みなもと)を尾行して妙なことしてないか調べるんだよ」当たり前だろ? とまるで私の感覚がおかしいかのようなニュアンスだ。

 

「なんで私も手伝うんすか?」

 

「バラされたいのか?」

 

「……喜んでお手伝いいたします」

 

 

 

 

 

 

 翌日の放課後、お姉ちゃんの高校を訪れた。まずはお姉ちゃんと合流する手筈になっているのだ。

 

 時間割の都合上、仕方ないのだけど、少し早く着いてしまったので校門で待っていると、「よっす」と制服姿のお姉ちゃんが現れた。

 

 水季さんはもう学校を出たのだろうか。

 

「ねぇ」私は訊いた。「水季さんはどこにいるの?」

 

「あれ」とお姉ちゃんが指差した先、凡そ100メートル離れた所に人影が見える。

 

 遠くて、痩せ気味ってことしか分かんない。

 

「あの人がお姉ちゃんの好きな人なの?」確認してみた。

 

「好きっつーか嫌いじゃないっつーか……」

 

 ストーカーみたいなことやろうとしてるくせに、なんで照れてんだよ。

 

「はいはい」水季さんに目をやる。「見失っちゃうよ。行こ」

 

「お、おう」

 

 

 

 

 

 

 お姉ちゃんが打ち震える。「お、女……?」

 

 一方、私は歓喜した。「やはり私の推理は間違っていなかった……!」

 

 私たちの視線の先には、水季さんと、星野先生が待ち受けに設定していたあの女がいる。つまり、水季さんが寝取った──女が乗り換えたのだ。間違いない。

 合流し、少し会話を交わした2人は駅前を歩き始めた。

 見たところ、女のほうが歳上。見た目だけはいいお姉ちゃんを落としたり、歳上の女を寝取ったりと水季さんもなかなかやるではないか。

 おかげで、私にもチャンスが巡ってきたのだから、素晴らしいクズ男である。

 

「……」喜ぶ私とは対照的に、お姉ちゃんは沈んでいる。「遥、私どうすればいいのかな……」

 

 知らねぇよ、と()()けたいところだけど、「まだ決まったわけじゃないよ。もう少し様子を見よう」と優しく(白々しく)言っておく。

 

「お、おう。そうだよな」そうだよな……、とお姉ちゃんは自分に言い聞かせるように繰り返した。しかし、その目は、すでに何人か手に掛けていそうなヤバい光を放っている。

 

「……」私は戦慄した。

 

 もしも、例えば2人が愛の宿に入っていくところを目撃したら、お姉ちゃんはどうするのだろうか。

 

 (かぶり)を振る。

 

 いくらなんでも常識は弁えてるよね?

 

「ちっ」お姉ちゃんの舌打ちに視線を2人に戻すと、乗り換え女は、清楚っぽい、男受けの良さそうな微笑みを水季さんに向けていた。

 

「……」

 

 今まで浮いた話なんて皆無だったから全然知らなかったけど、お姉ちゃんってこういう感じになるんだ……。普通に怖いわ。

 

「だ、大丈夫だよ。お姉ちゃん」私は、お姉ちゃんが凶行に走るのを止めるべく、意味不明なことを口にする。「お姉ちゃんのほうが清楚系レベルは上! 裏ボスの魔王と最弱の四天王くらいの差だよ!」

 

 なお、恐ろしさも比例していると思われる。

 

「清楚系?」片方だけ眉を上げたお姉ちゃんが訊いた。

 

「そ、そう、清楚系」サクっと男を乗り換えても、中身が残念でも、見た目がそれっぽければみんな清楚系なのだ。「男は清楚系が大好きだからお姉ちゃんならまだ戦えるよ!」

 

 しかし、お姉ちゃんは微妙な表情を顔に浮かべ、言った。「あいつ、肋骨で興奮する変態なんだけど、そんな奴でも清楚系が好きなのか?」

 

「あー……」

 

 この問いは、全国模試で県内1位を取るよりも難しい。学校の勉強が如何に温いかを教えてくれる良問と言えよう……。

 

 

 

 

 

 

 実のところ、私は初めから違和感を覚えていた。しかし、そういったものが大の苦手であるため、なんとか目を背けようとしていたのだ。

 思えば、星野先生の表情は、失恋を引きずっているといった雰囲気ではなかった──。

 

「おねおねねねぇちゃん!」私はすがりついた。「い、今、あの女、車をすり抜けたよね?!」

 

「だなぁ」お姉ちゃんは穏やかに答えた。

 

「『だなぁ』じゃねぇよ!!」

 

 乗り換え女は幽霊だった。

 だって、道行く人のほとんどが彼女を認識していないように見えるし、ショーウィンドウには映ってないし、車はすり抜けるし、これで普通の人っていうのは無理がある。

 

「まぁ、落ち着けよ」お姉ちゃんは、肉体的な浮気の可能性が減ったからか、随分と余裕がある。「まだそうと決まったわけじゃない。もう少し様子を見ようぜ」

 

「馬鹿なの!? 頭ポンチキもいい加減にしろよ! あれで幽霊じゃなかったらなんなんだよ! 馬鹿女が色ボケすると畜生並みに知能が下がるんか!? ふざけんなよ! おっぱい少し分けろ!」私は喚き散らした。

 

「……お前、私のことそんなふうに思ってたんだな」

 

「う、うるさい! 全部お姉ちゃんのせいだ! 私は帰るから! 勝手にヘラってろ!」

 

 鬱憤を吐き出した私は、少しだけ心に安寧を取り戻すことができた。このまま、あの女を視界に入れないように下を見ながらお家に帰ればいいのだ。

 

 そう思い、駆け出そうとした時、私は聞いた。

 

春夏秋冬(ひととせ)さん、尾行下手すぎ」優しげな声が苦笑いに溶ける。「妹さんかな。はじめまして」

 

 顔を上げると、水季さんがいた。そして──。

 

「ばぁ!」乗り換え女が、私と水季さんの間に入ってきた。「お化けだぞぉ!」

 

「──」

 

 頭の中で爆発が起きたかのような感覚と共に意識を失う直前、もしかしたら(たちばな)君が〈ほどほどにしとけ〉と忠告したのは〈今はそっとしといてやれ〉という意味だったのかもしれない、という、根拠のない推測が脳裏を(かす)めた。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 春夏秋冬さんがメンヘラ彼女みたいになった日の次の日、僕は三上(みかみ)先生に呼び出され、生活指導室でお茶を飲んでいた。

 

「悪いな。そう時間は掛からないから大目に見てくれ」三上先生はタイトなスカートのスーツを着こなしている。

 

「いいですよ、別に」お茶を置く。「それで用件はなんですか?」

 

 三上先生は、ああ、と頷いてから語り出した。「大学生のころから付き合いのある男の婚約者が、交通事故で亡くなってしまってな」

 

「はぁ、そうですか」いきなり情報量多いなぁ。

 

 三上先生が続ける。「その女、早紀(さき)って名前なんだが、未練たらたらみたいで、幽霊になってしまったんだよ」

 

「はぁ、そうですか」僕はぼんやりとした相づちを打った。

 

 だからなんなのだろう、という気持ちしか湧いてこない。幽霊くらい別に珍しくない。

 普段は男口調の女友だちが、通話だとなぜか甘えたがりの彼女みたいになって、〈まってもうちょっと〉〈いいじゃんけち〉〈もっとはなしたい〉〈あとすこしだけだから〉などと言って、15分以内に終わらせようとしていた僕に1時間以上の苦行を強いてくること並みによくあることだ。

 

 三上先生は、「暑いな」とわざとらしく洩らしたかと思ったら、シャツのボタンを1つ外した。

 

「……幽霊がどうしたんですか」渋々、話を促す。

 

「その男、直人(なおと)とは今も健全な友人関係を続けているんだが」暑いと言ったくせに腕を組んで胸部を中途半端に温めている。「どうも早紀は直人に()いてしまったみたいなんだ」

 

「なるほど」なんとなく話が見えてきた。

 

「ああ」三上先生は深刻そうに眉をひそめ、「直人のやつ、婚約者が死んで完全フリーになったというのに、私の相手をしてくれないんだ。身体以外は興味がないと言っても聞かないし、酷い話だろう?」と同意を求めた。

 

「酷いのはあなたの頭です」軌道修正するべく、言う。「つまり、早紀さんをどうにかしてほしいってことですか?」

 

「そう、それ」三上先生は我が意を得たとばかりに僕を指差し、「私はそれが言いたかったんだよ」と満足げに頷いた。

 

「ちょっと気になるんですけど」素朴な疑問がある。「なんで三上先生が自分でやらないんですか?」

 

「昔、大学の図書館で直人とヤってるとこを早紀に見られたことがあったんだ。そのころからあいつらは付き合っていて、早紀はこれ以上ないくらい激怒してな、それ以降、嫌われてしまって今もろくに話をしてくれないんだよ」人間の女はよく分からん、と三上先生は肩を竦めた。

 

 ふー、と息を吐き出し、眉間を揉む。

 大して時間は経っていないはずなのに疲労感が凄い。春夏秋冬さんの、起承転結も序破急(じょはきゅう)もあまりない、無駄に細かい日記のような話を聞くのとは、また違った趣の辛さだ。

 

「分かりました」僕が言うと、三上先生は嬉しそうに顔を綻ばせ、口を開こうとしたので、それを遮るように、「勿論、タダじゃないですよ」と平坦な語調で続けた。

 

「ふふふ」見る人によっては〈妖艶な〉という形容動詞を頭に浮かべそうな笑みだ。「心配するな。分かっているとも。報酬は私とのセック──」

 

「それはいらないです」僕は言い切った。

 

「な、なぜだ!?」三上先生にとっては理解できない展開のようだ。教科書に載せたいくらい分かりやすい驚愕を表明している。「ここ3日はヤってなくて辛いんだ! それなのにどうしてそんな残酷なことを平然と言える!」

 

 三上先生は、淫魔、所謂サキュバスという種族だ。魔族と呼ぶ人もいるけど、僕には妖怪との違いがよく分からない。

 彼女たちは──僕も詳しくはないんだけど──セックスを人生の最重要事項と捉え、日々(いそ)しんでいるらしい。

 しかし、僕にはセックス依存症の患者にしか見えない。

 

 なので、僕は言った、笑顔で。「放置プレイと思えばいいんじゃないですか?」

 

「バカ者! 私は直接的かつ具体的かつ肉体的な快楽が欲しいんだ! そんなものでは満足できないんだよ!」怒髪が天を衝きそうな勢いだけど、三上先生の髪は緩く巻かれたセミロングで、いまいち迫力に欠ける。

 

「前も言ったような気がしますけど、僕ら(さとり)妖怪は性欲が弱いんですよ。三上先生の相手は務まらないです」面白い心を(つまび)らかにしたいという欲求が1番強いのだ。「他に手頃な人はいないんですか? というか、暇そうな生徒を襲えばいいじゃないですか」

 

「バ、バカ者っ。私だって誰でもいいわけじゃないんだぞっ」三上先生は頬を赤らめた。

 

 人間さん視点で見ると、クソビッチサイコモンスターのくせに、どうしてかわいこぶるのだろう?

 

 ちょっと心を読んでみよう。

 

(源なら乱暴に扱っても壊れないはず。私はおもいっきりヤりたいんだっ。源の声をもっと聞きたい。ムラムラする。もう力ずくでヤってしまうか?)

 

 三上先生は、背骨を内側から(くすぐ)られたかのようにもぞもぞしている。

 

「……三上先生」

 

「なんだ? やっとその気になったのか? 私の準備はできてるぞ?」

 

「僕、彼女できたんで無理です」

 

 彼女がいると、こういうときに便利だ。まぁ、いないんだけど。

 

「ふふ」三上先生が催淫(さいいん)効果のありそうな笑みを洩らした。「そっちのほうが燃えるから問題ない。常識だぞ」知らないなんて源もまだまだ子どもだな、と唇を舐め、シャツのボタンを更に1つ外した。

 

 この淫魔(ひと)、ホントめんどくさいなぁ。

 

 

 

 

 

 

 三上先生に報酬として〈日本史の成績に色をつけること〉を約束させ、生活指導室を後にした僕は、早速、足立(あだち) 早紀さんに憑かれているという星野 直人さんの下を訪れた。

 

〈圧倒的合格実績! 超コスパ! アットホームなノリ!〉という文字が記された看板の学習塾が星野さんの職場だ。たまたま休憩時間だったらしく、僕が塾の人に声を掛けるとすぐに出てきて、外でお話することになった。

 

「はじめまして。三上先生のクラスの源 水季と言います」

 

「さっき電話があったよ……」星野さんは、苦虫を口いっぱいに頬張り、たっぷり時間を掛けて咀嚼してやっとのことで呑み込んだ後のような顔で続けた。「本当にごめんな。あの淫乱に酷いことされなかったか?」

 

「いえ、大丈夫です。テキトーにあしらいましたので」

 

「そ、そうか」事実をそのまま伝えたら、若干引かれてしまった。

 

「はい」と応えてから、星野さんの後ろで浮いている、そこそこ綺麗な女の人に視線を向け、「足立 早紀さんですね?」と問うた。

 

「そうだけど……」足立さんがぼそぼそと答えた。

 

「では、事情を詳しく聞かせてください」

 

「え? 聞こえてるの?」足立さんは目を丸くし、「ホントに?」と訊いてきた。

 

「ええ、聞こえてますよ」

 

 三上先生によると、星野さんは足立さんの姿がぼんやりと見えるだけで──気配で彼女だと察してはいる──触れることも声を聞くこともできないらしい。だから、驚いたのだろう、普通に会話が可能な僕に。

 

 僕の言葉を聞いた足立さんは、「すごい! 会話できる人なんて初めて!」と星野さんの頭上ではしゃいでいる。

 

 そんな足立さんの様子に困惑気味の星野さんに、「さいならー」と男の子が挨拶をした。

 

「お、おう。橘か」一拍遅れて男の子に気づいた星野さんも挨拶を返す。「気をつけて帰れよ」

 

「……うぃ」と気怠げな声を発した男の子は、チラリと足立さんに目をやり、次いで僕を見た。「……」一瞬だけ固まるも、しかし、すぐに視線を外し、自転車に乗って帰っていった。

 

 あの子……。

 

 クエスチョンマークを顔に浮かべる星野さんの上に浮かぶ足立さんが、「どうしたの?」と疑問を浮かべた。

 

 なので、僕は、「意外といるもんですよ、会話できる人」と教えてあげた。

 

 可能ではあっても会話するつもりのない人だと思うけど。

 

 

 

 

 

 

 足立さんが、〈直人の前では話したくない〉と言うので、塾の近所にある川沿いの道を散歩しながら話を聞いたところ、なんでも、〈星野さんからの告白イベントのあった修学旅行で買った思い出のキーホルダーをどこかに落としてしまい、それが心残りで逝くに逝けない〉らしい。

 

 これを聞いた時、僕は、〈そんな事情無視して無理矢理、幽霊を消滅させる方法も普通にありますよ〉と言いたくなったけど、流石に空気を読んで、〈どこら辺に落としたかは分かりますか?〉と訊ねるにとどめた。

 

 すると、足立さんは、〈だいたいしか分からないんだよねぇ……〉と頬に手を添えて困ったように眉を曲げていた。

 

 そんなわけで、その、曖昧模糊(あいまいもこ)とした範囲を、足立さんと2人でキーホルダーを求めて徘徊する運びとなった。

 なので春夏秋冬さんの誘いを断ったのだけど、今日、学校で会った時には、(信じてる。だから尾行してもいいよな)と訳の分からないことを考えながら僕を見つめてきた。

 (はえ)に性別を変えられるという不思議な現象に遭遇してしまい、(いま)だ精神が混乱しているのだろう、と珍しく優しい気持ちになった僕は、春夏秋冬さんの頭を撫でてやろうとしたのだけど、みんなの意識が僕らに集中している気がしたので、直前でやめておいた。春夏秋冬さんの面白い顔を見れたので、やめて正解だったと思う。

 

 そして、現在、春夏秋冬さんの気配を感じながら──ある意味、幽霊よりも怖い──駅前でキーホルダーを捜索中だ。

 

「なんだかデートみたいだね」突然、足立さんはそんなことを(のたま)って、はにかみ混じりに微笑んだ。

 

「そうですか?」僕は疑問を呈した。

 

 なぜなら、デートではなく、デートにドタキャンされた姉に付き合わされる弟ってこんな感じなのかなぁ、と思っていたからだ。

 

「そうだよー。浮気だよー、いけないんだぁ」足立さんは、クスクスと笑いを溢しながら春夏秋冬さんのほうへ悪戯(いたずら)めいた瞳を向けた。

 

(あの子たち、かわいい~。青春だぁ~)

 

 完全に遊んでらっしゃる。もうあの世に強制送還でいいんじゃないかな。

 とか思ったけど、三上先生なんかに彼氏をつまみ食いされた可哀想な人だと思えば、許せるような気がしないでもない。

 

 やっぱり敗因はスタイルなのかな?

 

「なんか失礼なこと考えてない?」足立さんは、事実無根の戯れ言をほざいた。

 

「まさか。そのような事実はございません」

 

「本音は?」

 

「彼女が貧乳だと不満が溜まるのかなぁって思ってました」

 

「……君、正直者だねぇ」

 

 そうだったのか。知らなかったよ。

 

 

 

 

 

 

「一応、救急車呼んだほうがいいよね?」街の片隅に置かれたベンチに座り、失神してしまった妹さんに膝枕をしてあげている春夏秋冬さんに、僕は訊ねた。

 

「ああ、頼む」

 

 春夏秋冬さんがそう言うので、サクッと、病院行きの(やかま)しいタクシーを手配した。

 

 すると、妹さんが、「ぅぅ……」と幼い声を洩らした。そして、瞼を擦り、「お姉ちゃんの匂い……」と呟いて寝返りを打とうとして、「……ん?」と何かに気づく。「生理の(にお)──っい゛」

 

 春夏秋冬さんが、妹さんの耳を引っ張ったのだ。痛そう。

 

 春夏秋冬さんの妹さんがご乱心なさったのを面白がった足立さんが、〈挨拶に行こう〉と言い出したので、それに従ったら妹さんが気絶してしまった。ぐったりと脱力した彼女を近くにあるベンチに運んだのが3分くらい前だ。

 

 春夏秋冬さんから解放された妹さんが、むくりと身を起こす。「あ、寝取り二股おと……は!」と辺りをキョロキョロしてから首を捻る。「お化け、いない……?」

 

 また失神されたら困るので、足立さんには、実は巨乳好きなのに妥協して足立さんと婚約した疑いのある星野さんの下に帰ってもらった。

 

「いないよ。だから失神しないでね」僕は言った。

 

「はぁー、よかったぁ」妹さんは安堵の息を吐き出し、くたっと横になった。当然のように春夏秋冬さんの太ももを枕にしている。

 

「今だけだからな」春夏秋冬さんが無愛想な声を真下に落とす。「救急車が来るまでおとなしくしてろ」

 

「はーい」とおざなりに答えた妹さんは、「水季さんは、お化けなんかと何をしてたんですか?」と初対面にもかかわらずナチュラルに名前呼びをして、姉とは段違いのコミュニケーション能力を見せつけた。

 

()くしたキーホルダーを探してたんだよ」

 

「へぇー、そうだったんですか……」と階段を下るように声量を落とすのに伴い、呑気な童顔をシリアス風味な思案顔へと変化させてゆく。そして、(おもむろ)に口を開いた。「そのキーホルダーって赤い熊のやつだったりします?」

 

「うん。そうだよ。どっかで見たの?」

 

 僕の問いには答えずに、ぴょん、と起き上がった妹さんは、学生鞄を開け、それを取り出した。「もしかしてこれですか?」

 

 妹さんの小さな手のひらには、僕たちが探していた、くすんだキーホルダーが確かに存在していた。

 

 

 

 

 

 

 翌日、僕は、足立さんを連れ出した。ついでに春夏秋冬さんもいる。乗りかかった船がどうとか建前を並べ、ついてきたのだ。

 

「キーホルダーってこれですよね?」三上先生の獣欲を満たしやすい環境作りのためのミッションをさっさと完了したい僕は、前置きなしに端的に訊いた。

 

「! うん、それっ」華が開くように答えた足立さんが、キーホルダーに手を伸ばす。しかし──、「あ……」と花びらが散るように表情を曇らせた。

 

 キーホルダーに触れることはできない。幽霊は、基本的に現実世界の物質に影響を与えられないのだ。

 

「そっか。そうだったね」お姉さん、うっかりしてたよぉ、と足立さんは儚く笑った。

 

「伝える決心はつきましたか?」僕は問う。

 

「!」足立さんは、丸くした目を(しばたた)いた。「気づいてたんだぁ」

 

「なんとなくですよ」と答えるしかない。

 

 そっかぁ、そっかぁ、と彼女はどこかを見つめる。

 

 足立さんの1番の心残りは、お揃いのキーホルダーを失くしてしまったことじゃない。

 雑念に(まみ)れた彼女の心の中心にあるのは、〈星野さんに、自分のことをずっと愛していてほしい〉という想いと〈自分のことは早く忘れて他の人と幸せになってほしい〉という願いだ。

 足立さんが嘘をついて、と言うと少し語弊がある──キーホルダーも心残りには違いないし──けれど、まぁ、そんな感じでキーホルダー探しをさせたのは、心を整理する時間を欲していたから……いや、逃げていたから、かな。

 

 でも、彼女は決めたようだ。「お姉さん、頑張ってくるよ」と言って、背を向けた。

 

 なので、止めた。「待ってください。僕も行きます」出鼻を挫かれた足立さんに更に追い討ちを掛ける。「通訳がいないと会話できないですよね?」

 

「あー、たしかに」お姉さん、うっかりしてたよぉ、と今度は柔らかく笑った。

 

(いったいなんの話をしてるんだ……)

 

 春夏秋冬さんは困惑している。したがって、頭を撫でておく。

 

 

 

 

 

 

 時刻は夜の23時。僕ら──僕、春夏秋冬さん、足立さん、星野さん──は、小さな川に架かる橋の上にいた。夏の湿った風が非常に邪魔くさい。

 

「あのさ」ここまで無言だった足立さんが僕に声を掛けた。「お願いできる?」

 

 通訳しろ、ということだ。お願いされたくないのが本音だけれど、やらないとヤられる可能性がないとは言えないので素直に頷く。

 

 星野さんに言う。「足立さんから星野さんに伝えたいことがあるそうです。僕が通訳するので聞いてあげてください」

 

「あ、ああ、分かった」なんとなく察していた星野さんは、僕のように素直に頷いた。しかし、些か緊張しているようだ。

 

 それじゃあいってみようか、と足立さんの目を見る。

 

 ちょっと待ってね、と言った足立さんは、すぅーはぁー、と深く呼吸し、そして、始めた。「せっかく買った指輪も契約したマンションも旅行の予約も何かも全部無駄になっちゃったね。こんなことになるなら私にしなければよかったって思ってるでしょ」

 

 星野さんは難しい顔をしているが、口を挟む気はないようだ。閉じられた口に動く気配はない。

 僕の口は忙しいのに理不尽である。ちなみに、読心能力の延長線上にある、声帯模写のような技を使っているので、声質は近いと思う。

 

「でもね」と足立さんは続ける。「私は今でも愛してる。もう触れることも、あなたのよく分からない趣味に呆れることも、あなたの興味のない話をして退屈させることも、一緒に歳を取ることもできそうにないけれど、でも、愛してる。ずっとずっと愛してる」だからさ、と彼女は笑った。「もう私のことは忘れて。私はすぐにいなくなるから、だから、直人は幸せになって」

 

 星野さんは(うつむ)いて震えている。そして、僕の横では春夏秋冬さんが瞳に熱を溜めている。

 

 一方、僕は不満だ。だって──。

 

(嫌だよ。直人が他の人と一緒になるのなんて絶対嫌。本当は私以外愛せないって言ってほしい。ずっと私だけを愛していてほしい。一緒にいたい。幽霊でもなんでもいいから離れたくない。愛してる。だから愛して。忘れないで。怖いよ。消えたくない。助けて。好きって言って抱き締めてよ。嫌だ。独りにしないで。怖い。愛してよ。いつもみたいに私に触れて──)

 

 みたいなことを足立さんは延々と考えてるんだもん。僕は疲れたよ。心の中と実際の話が違うから通訳する対象を間違えないようにするのが、予想以上に大変でさ。

 

 なので、僕は、星野さんが足立さんをはっきり認識できないことにつけ込んで、言った。「星野さん。足立さんが、『ここからが本番だから覚悟してね』って言ってます」

 

 足立さんが、〈え? 何? どういうこと?〉と怪訝そうに僕を見た。

 しかし、一般人の幽霊、謂わば一般霊ごときに何ができるというのか。睡眠中に襲ってくる蚊にも劣る雑魚キャラである。というか、いつの間にか腕を刺されていて、痒い。早く帰って痒み止めを塗らないといけない。

 

 それはそれとして、(さとり)の本能に従い、舌を動かす。「『直人、あなた、まだ麻美(あさみ)とセフレ続けてるでしょ』」

 

「!?」「!?」

 

 2人が目を大きく見開く。

 

 一拍後、先に復活したのは星野さんだ。「ご、誤解だ! 今はヤってない! 本当だっ、信じてくれっ!」必死さが伝わってくる、いい表情だと思う。

 

「『嘘つかないで! この前、スマホ見たんだから! あなたの浮気癖はもう諦めてるけど、あの女だけは絶対に駄目っ!』」

 

 足立さんは、なぜか三上先生だけは認められないようだ。理由は分からないような分かるような。

 

「い、いや。違うんだっ、麻美はただの友だち! そう、友だちなんだっ」

 

「『じゃあ、愛莉(えり)とはどうなのよ?! まだ連絡取ってるじゃない!』」

 

「い、いや、たまにRINEが来るからそれに返すことがあるだけで──」

 

 と、こんな感じで、この後も僕は、会話(くちげんか)がスムーズに行われるようにアドリブを入れたりしつつ、足立さんの心の奥底に溜まっていた不満や中心にある想いを勝手にぶちまけた。

 

 そして、一通り喋り尽くして幾分かスッキリした辺りで、僕は足立さんに訊ねた。「他に心残り(・・・)になりそうなことはありますか?」

 

 口を開けて口内を乾燥させることに夢中になっていた足立さんが答える。「ない……かな──」

 

「あ、ごめんなさい。まだありましたね」

 

 僕の言葉に、足立さんは困り顔で笑いを洩らすという器用な真似をした。「全部お見通しなのね」

 

 そうでもない。まだ全てを読めるわけではないよ。けど、分かることもそこそこあるみたいだ。

 

 なので、僕は言った。「『そんなあなたでも愛してる。ばか。あほ。ばか』」

 

 

 

 

 

 

 僕と春夏秋冬さんは深夜の住宅街を歩いていた──春夏秋冬さんを自宅まで送っているところだ。

 

 貧乳女と浮気男のバカップルは散歩をするらしい。

 僕にできることはもう何もないけれど、もう何もする必要はない──足立さんの気配は薄くなり始めていた──ので、お好きにどうぞ、と言って別れてきた。

 

「そういえばさ」月明かりの中、春夏秋冬さんが言った。

 

「何?」と前を見ながら応えた。

 

「なんであんなに声真似上手いんだ?」

 

「なんでだろ?」訊かれても、できるからできる、としか言えない。「分からないかな」

 

「ふーん」納得しているのか、いないのか、春夏秋冬さんは凪のような語勢でそう洩らした。そしてすぐに、繋がりのない次の話題を選択し、口にする。「なんか昨日さ──」

 

 僕は、いつものように心の込もっていない相づちを打ちながら、春夏秋冬さんの横を歩く。

 

 そして、〈この人、自分の話した内容をちゃんと憶えているのかなぁ?〉と割と真剣に疑問に思ったころ、貧乏人を見下すことに慣れすぎて見下していることを自覚できなくなった人間が買いそうな外観の家、つまりは春夏秋冬さんの家が見えてきた。

 スマホによると深夜の12時を過ぎている。

 

「怒られたりする?」僕は訊ねた。

 

「……」もにゅもにゅして、それから少しして春夏秋冬さんは言った。「か、か、彼氏と一緒ならいいって母さんが……」

 

 立ち止まる。家の前まで来たからだ。

 

 特に愉快な感想は出てこないから、「そっか」と無味乾燥な文字の塊を発した。

 

「……」春夏秋冬さんは無言ではあるが、内心は、(なんだよそれ。どうでもいいのか? 私だけ緊張してバカみたいじゃん。なんだよなんだよ……)といじけている。

 

 読心の異能をオフにしてから、「春夏秋冬さん」と呼び掛ける。

 

「……」返事はない。

 

「大好きだよ」

 

「……え」

 

「じゃあ、また明日。おやすみ」

 

 フリーズしたパソコンのようになっている春夏秋冬さんを放置し、自分のアパートに向かって歩き出す。

 

 多分、彼女の心の中は愉快なことになっている。けれど、覗きはしない。大量の情報が雪崩れ込んでくると辛いのだ。

 

「源っ!」春夏秋冬さんは大きな声を発した。

 

 足を止め、振り返る。彼女とはそこそこ離れている。

 

「私も大好きっ!!」

 

 そっか、と囁いた。

 

 




こういうはっちゃけたオカルトラブコメに需要があるかは分かりませんが、もう少し妄想を続けてみます。


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くるくるカプチーノ①

5話と6話は連続投稿です。
このエピソードは番外編のようなものだと思ってください。


 蒸し暑い夜、頭の代わりにシャープペンを回して、高校入試用の予想問題の解答が自然発生することを祈っていると、どこか間の抜けた呼び出し音が鼓膜を刺激した。

 

 誰だ?

 

 勉強机に置いてあるスマホを手に取って確認すると、テレビ電話用のアプリが、〈(あさひ)様から呼び出されてるよ? 早く早く!〉と俺を急かしていた。

 

「旭様か」呟く。

 

 百足(ももたり) (あさひ)は、日本の退魔師(悪い霊や妖怪を懲らしめる人)を束ねる百足家の現当主だ。そして、俺んち──(たちばな)家はあの人たちの子分、換言すると旭様は俺の上司なのだ。

 

 待たせるのは良くないので、さっさと応答する。画面が切り換わり、彼女が映し出された。

 

『こんばんは。こんな時間にごめんなさいね』着物姿の旭様が穏やかに言った。『今は大丈夫でしょうか?』

 

「お疲れ様です。勿論大丈夫です」

 

『よかった……』旭様は、幼い見た目にそぐわぬ艶やかな微笑を浮かべた。

 

 彼女は見た目こそ12歳くらいだが、実年齢は500歳を越えているらしい。なんだかよく分からないけど、大妖怪の血が混じっていて長寿なんだそうだ。

 

 旭様が続ける。『実は、(けい)くんの担当区域内に〈銀髪(ぎんぱつ)ちゃん〉がいたらしいのです』銀髪ちゃんとは指名手配されている妖怪のアダ名だ。長い銀髪が特徴らしく、分かりやすさ重視でこう呼ばれている。『場所は〈ゴーストパラダイス〉という廃墟です。知っていますか?』

 

 ゴーストパラダイスは打ち捨てられた遊園地だ。

 

「知ってはいますが」行ったことはない。

 

『では、お願いできますね?』廃墟を調べろ、ということだ。

 

 立場上断ることはできない。

 

「承知しました」

 

 仕事の話が終わったところで、彼女はほっぺを膨らませた。『最近、冷たいですね。もう飽きちゃったんですか』私の身体に、と飴玉を転がすように笑った。

 

 たしかに最近は会っていないが。「……そういうわけではありません」

 

 旭様とは肉体関係がある。

 意外と話しやすくて居心地がいい人だなぁ、としか思っていなかったのだが、そういう空気になったことがあって、我慢できずについ関係を持ってしまった。

 誤解のないように言っておくが、俺はロリコンではない。旭様は見た目こそ12歳くらいの少女だが、その立ち振舞いや話しぶりは完全に大人の女性だ。童貞には無理だって。あの色気には抗えないよ。だから、ロリコンではない。

 そんなわけで、旭様とはたまに会ったりヤったりしている。ただ、付き合っているのか、と訊かれてもよく分からない。彼女のことは好きだが、これが恋愛感情なのか、恋愛とは無関係の好意なのか、自分でも判然としない。

 それに、彼女がどう思っているのかも分からない。

 とはいえ、普通に考えたら、旭様にとって俺は都合良く遊べるガキでしかない、はずだ。彼女が飽きたら終わる関係、俺はそういうふうに認識している。

 

 それでも、画面越しでも、旭様はやっぱり綺麗だ。誰よりも。

 

 そんなことを考えていたからか、自然と口が動いてしまった。「俺が旭様に飽きることはないって」

 

 しまった、と思った。立場を弁えずにタメ口を使ってしまった。馴れ馴れしすぎる。これではセックスしただけで彼氏(づら)する痛い奴みたいだ。

 

 しかし、旭様は、『もう、またそんなこと言って……』と聞き分けのない子どもに呆れるように形のいい眉を歪めるだけで咎めたりはせず、けれど、それきり口を(つぐ)んでしまった。

 

 旭様との沈黙に耐えられないわけではないが、俺は切り出した。「……今度」俺が声を発すると、彼女は、どうしました? と首を微かに傾げた。心臓に悪い。「旭様に時間ができたときでいいんで──」何回やってもこういうのは緊張する。「どこかに遊びに行きませんか」

 

 旭様は少しの間を置いてから、『本当に仕方のない子ですね』と深刻そうに言い、『景くんには教育が必要なようです。覚悟しておいてくださいね』と心の(ひだ)(くすぐ)るように微笑んだ。

 

「……」

 

 寝れなくなるんでそういう顔やめてもらっていいですか?

 

 

 

 

 

 

 ゴーストパラダイスは、少子高齢化著しい我が県でも屈指の高齢エリアにある廃墟だ──俺の住む市から車で1時間ほど掛かり、周囲には(まば)らな民家とコンビニ、あとは墓地くらいしかない。

 ちなみに、この変な名前は、近くの墓地から幽霊が遊びに来てくれるように、という願いを込めてつけられたらしい。

 

 俺を乗せたタクシーが、廃墟の近くにある──近くといっても徒歩30分は掛かる──コンビニの広い駐車場に入り、そして停まる。

 

「ありがとうございました」と料金を支払い、領収書を受け取ると、タクシーはさっさと行ってしまった。

 

 さて、まずはコンビニでおにぎりを買おう、と冷房の効いた店内に入る。

 時刻は午前10時過ぎ。まだ暑さはピークではないものの、ひんやりとした空気が肌に心地いい。

 

「あれぇー」店員のお姉さんの声。「ない……」またぁ? などとぶつぶつ(こぼ)しながら、陳列されたおにぎりと手に持ったボードを交互に見ている。

 

 何か問題でも発生したのか? 

 

 あなたが今、見ているおにぎりを買いたいんだが……と、欲望(まみ)れの視線を送っていると、ようやく俺に気づいたらしく、お姉さんが、「あ、いっらしゃいませ」と取って付けたように歓迎してくれたので、近づいて、「万引きですか?」と話し掛けてみた。

 

「そう……なのかな?」お姉さんは歯切れ悪く答え、「分からないんだよね」と続け、すぐに、「あ、分からないんです、だね」と言い直した。

 

「……敬語使わなくてもいいですよ」

 

「ホント? ありがとー。いやぁあたし敬語苦手なんだよねー」水を得た魚だろうか。随分と滑らかに舌が動いておられる。

 

「それで何があったんですか?」と質問したのは妖怪の関与を疑っているからだ。

 

「最近さ」と彼女は俺に教えることがこの世で最も正当な行いであると言わんばかりの自然さで話し始めた。「気がついたら、飲み物とかお握りとかが無くなっちゃってるんだよね」

 

「監視カメラに犯人は映ってないんですか?」

 

「それがね、映ってないの」不思議でならないといった顔だ。「そんなんだからお巡りさんも信じてくれないし、なんか不気味だし、最悪だよね」

 

「それはかなり最悪ですね」と違和感のある日本語で共感したフリをしてから、「じゃあ、今も飲み物が無くなってたんですか?」と知りたいことを訊ねる。

 

「そうなの。今日は麦茶とおにぎり、あとはアイスも」

 

「なかなかいい昼飯ですね」暑いし、アイスが欲しくなる気持ちは分かる。

 

「ねー。私のお昼なんか具なしのパスタ弁当だよ?」ズルくない? と不満げだ。

 

「ズルいです」と頷く。「俺もアイス食いたいですよ」

 

「分かる」そして、「抹茶アイスがいい」とお姉さんは神妙に断言した。

 

「抹茶いいですね──」

 

 その後も中身のない会話をし、なぜかRINEを交換し、鮭おにぎりと高菜おにぎりを買ってコンビニを出た。

 お姉さんは、またね、と言っていたが、仕事でなければこんな何もない所には来ない。しかし、あえてそれを伝える意味はない、と適当に頷いておいた。

 

 

 

 

 

 

 炎天下、俺は、(せみ)の鳴き声を聞きながらゴーストパラダイスの入口に立っていた。

 

 旭様の式神──霊力で作られた鳥──が、ゴーストパラダイスの入口付近にいる銀髪ちゃんを見たらしい。しかし、すぐに気づかれ、破壊されたそうだ。

 戦闘用ではなかったとはいえ、旭様の式神を瞬殺するほどの手練、今回は楽な仕事にはならないだろう。

 そう考え、万全を期すべく、コンビニを出発した時から当代では俺だけが持つ特殊な眼、〈仙理眼(せんりがん)〉──色んなものが見える眼だ──を発動して辺りを観察しながら、ここ、ゴーストパラダイスまでやって来たわけだが、道中には怪しいものはなかったし、妖怪もいなかった。

 

 だが、廃墟内にはいた。

 

 広範囲の透視により、旭様と同じくらいの年齢に見える少女を発見したんだ。彼女は、入口から200メートルほど離れた位置にある遊具のコーヒーカップに座り、動かずにぼんやりとしているが、妖力(妖怪の不思議パワー)を(まと)っているので妖怪で間違いない。

 しかし、銀髪ではなく、ただの黒髪だ。〈銀髪ちゃん〉とは無関係の可能性が高い。

 ただし、コンビニの件とは関係があるかもしれない。

 

 気配を抑えつつ、少女のほうへ進む。

 そして、ぼろぼろのコーヒーカップまであと30メートルというところで、少女が、そろり、とこちらを見た。

 

「……」じっと見つめ合う。

 

 少女は眠たげな瞳をしている。一方、俺の仙理眼は、真っ黒な白目にエメラルドグリーンの虹彩(こうさい)と瞳孔という派手さだ。我ながら人間離れしたヴィジュアルだと思う。

 

「……」少女は、無言で目を合わせたまま、不思議そうにゆっくりと首を傾げた。

 

 にらめっこを続けていても仕方ないのでコミュニケーションを試みる。つまり、手を振ってみた。

 

「!?」少女はびくりとし、「(見つかった……?)」と小さく言った──聞こえはしないが、読唇術で把握したんだ。

 

「すみませーん。少しお話を伺ってもいいですかー?」と大きめの声を発する。 

 

 すると少女が頷いたので、静かな足取りで再び歩き出す。

 コーヒーカップが載る丸い床に上る。一歩進む度にぎしぎしと不安を掻き立てる音が鳴る、年季の入った床だ。

 

 少女の座るコーヒーカップの前まで来た。間近で見るとやっぱり幼い。しかし、少女の妖力の量はなかなかのものだ。油断せずにいこう。「はじめま──」

 

「好き」少女が淡白かつ平坦な語調で言った。

 

「──なんて?」当然、聞き返した。

 

「好き」当然のように繰り返した。

 

「……」

 

 

 

 

 

 

 少女は八神(やがみ) 透緒子(とおこ)と名乗った。種族は〈ぬらりひょん〉だそうだ。

 それでかぁ、と俺は納得した。

 ぬらりひょんは、隙間妖怪とも呼ばれ、隙間さえあればどこにでも侵入でき、さらに認識や感知の隙間に入り込んで人や機械の目を欺くこともできる、まさに万引きをするために生まれてきたと言っても過言ではない能力を持っているのだ。

 しかも、ひとの家に勝手に入って飲み食いすることに安らぎを覚えるという、非常に困った性質を有している。つまり、コンビニの食べ物が無くなったのは透緒子が食べていたから、ということだ。

 ただ、そういったこと以外は基本的に何もしないので危険はなく、原則として放置することになっている。

 のだが、透緒子は、ついていく、と宣言した。彼女はだいぶ変わっているようで、本気で隠れている自分を見つけた人と(つがい)になると決めていたらしい。意味が分からない。

 

 だいたい俺には旭様が……。旭様がなんなのだろう? 番……というか夫婦でもないし、恋人……とも違う気がするし……。

 

「やっぱセフレなのかな……」声に出すと、喉がひりつくような、不思議な感覚がした。

 

 なんてことはない、はず。

 

「セフレ……?」透緒子が純粋そうな瞳を向けてきた──俺たちは遊園地の端にあるベンチに座っている。

 

「……忘れてくれ」透緒子は旭様とは違い、外見どおりの12歳らしい。セフレなどという不適切な単語を覚える必要はない。

 

 透緒子は、こくり、と頷いて、また無言になる。蟬の鳴き声がやけに耳につく。

 

 この子の処遇は後で決めるとして、さしあたっては、銀髪ちゃんだ。

 

 俺は問う。「ここら辺で長い銀髪の妖怪を見なかった?」

 

「知らない……」こちらを見ずに答えた。

 

「じゃあ、銀髪以外の妖怪は?」

 

「兄さん」透緒子の声は氷のように冷たい印象を与える。

 

「お兄さんもいるのか。どこにいるんだ?」

 

「知らない……」透緒子は、悲しんでいるのか無関心なのか、はたまた他の何かなのか分からない声音で言った。

 

 となると、どうしようか。仙理眼で見た限りではゴーストパラダイス内にはいないし、怪しい物もない。

 もう少し調べてから旭様に指示を仰ぐか。それしかないよな。

 

 しかし……。

 

 透緒子を見る。

 

「?」気づいた透緒子がこちらを向く。

 

 この子のこと、なんて説明しよう。

 

 

 

 

 

 

 家に到着したのは19時過ぎだった。

 

 玄関を開け、「ただいま」と言った俺の横には透緒子がいる。

 

 結局、透緒子は連れ帰ることにした。彼女の様子を見るに、あのまま捨て置いても勝手に家に来そうだし──俺の霊力はかなり目立つのですぐに見つけられるだろう──何より後味が悪いし。

 

 とはいえ、番とやらになるつもりはない。本人曰く、もうお母さんになれるそうだが、仮に本当だとしても、だからなんだ、という話である。

 つまりは、時間を掛けて諦めるように説得していくつもりだ。そうすればそのうち出ていくと思われる。

 

 居間に入ると母さんがソファに座っていた。「おかえり。どうだった?」

 

「痕跡すら見つけられなかった」

 

「あらら、残念」と残念そうに見えない表情で応えた母さんは、俺の横にいる透緒子に目をやる。「で、その子は何?」

 

「万引きの常習犯」嘘ではない。「更正のためにしばらく家に置きたいんだけど、駄目かな」これは嘘かもしれない。

 

「なんの妖怪なの?」母さんは泰然自若(たいぜんじじゃく)としている。

 

「ぬらりひょんだってよ」という俺の言葉に続いて、透緒子が頷く。

 

「へー、レアじゃない」となんとも言えない感想を述べた母さんは、透緒子に問うた。「家の息子が好きなの?」

 

「好き」透緒子は即答した。

 

「どれくらい好きなの?」母さんは質問を重ねる。

 

「番になって赤ちゃん作る」と答えた透緒子は相変わらず眠そうな目をしている。

 

「へー」母さんは俺に顔を向けた。「やっぱりあんた、ロリコンなのね」

 

「違う。誤解だ」と透緒子に匹敵する速さで即答する。

 

 なんで子どもから好かれるだけでロリコン扱いされなきゃいけないんだよ。絶対おかしい。

 

「警察にだけは気をつけなさいよ」頭のおかしい母さんは煙草に火をつけた。

 

「話を聞け」という俺の訴えを無視した母さんは、「汗(くさ)いからお風呂入ってきなさい」と一切の反論を許さぬ趣で言い、「せっかくだから一緒に入ってきな」と続けた。

 

 この人は俺にどうなってほしいのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 風呂(たたかい)を終えた俺は自室にいた。20時に通話で旭様に報告する約束になっているので、晩飯は後回しだ。

 透緒子は居間で母さんといる──馴染みすぎだろ。母さんも適応力が高すぎる。どんな会話がなされているのか、知りたいが知りたくない。

 

 などと考えているとスマートフォンが鳴り始めた。すぐに出る。「お疲れ様です。ご連絡ありがとうございます」

 

『はい。こんばんは』と応じた旭様は珍しく真紅の口紅をしていた。

 

 久しぶりに見たせいか妙に色っぽく感じる。意思に反して顔に熱が集まってゆく。

 

 しかし、旭様はニコニコとするだけで何も言ってこない。

 余計に恥ずかしい。からかわれたほうがまだ気が楽だ。

 

「……ご報告いたします」強がるわけではないが、口紅には言及しないことにした。「ゴーストパラダイス及びその周辺を調査しましたが、銀髪ちゃんの痕跡は発見できませんでした」

 

『……仙理眼でもですか』旭様が息を洩らす。『やはり彼女は一筋縄ではいかないようですね』

 

「すみません」失望されただろうか。

 

 しかし、旭様は、『責めているわけではありません。そんな顔しないでください』と眉をハの字にして優しい声を出した。

 

 情けない気持ちが勢いよく湧いてきたが、「……調査を継続しますか?」と表情を取り繕う。

 

 旭様は、ふふ、と見透かしたような笑いを零し、『そうですね』と置き、そして、それを口にした。『……実は、私も銀髪ちゃんの調査に本格的に参加することが、生多研(せいたけん)で行われた今日の会議で決まりました』

 

「!?」少し驚いた。「ということは──」という俺の言葉を旭様が引き継ぐ。『5日後からしばらくそちらに滞在します』

 

「……」

 

 なんか雲行きが怪しくなってきた……。

 

 ここにはいない黒髪ショートの少女を思い浮かべ、背中の皮膚の内側を無数の子蜘蛛が這い回るような感覚を、俺は抱いた。

 

 いやいや大丈夫だろ、別に。彼氏でもあるまいし。

 

 しかし、結局、透緒子のことを報告することはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 23時16分。自室の椅子に座り、旭様綺麗だったな、とか、怒られたりするんかな、とか、旭様エロかったな、とかいろいろ考えながら悶々としていると、やにわに、太ももの付け根の辺りに重さと温かさを感じた。

 

「透緒子……」

 

 ぬらりひょんの異能を使って認識されにくくなった透緒子が、俺に股がり、そして、異能を解除した。結果、突然、目の前に現れたように見えた。そんなところだろう。

 

 妖怪ってこういうところがあるんだよなぁ。マイペースというか天然というか。

 

「隙間、埋める……」透緒子は、そう言って俺に抱きついてきた。

 

「……」

 

 同じシャンプーを使ったはずなのに俺とは違う匂い、衣服越しでも確かに感じる湿った熱、呼吸に合わせて微かに波打つ身体。透緒子からもたらされるすべての刺激が、俺の脳を溶かし、それへと駆り立て──いや、ねぇわ。

 

「しないってば」と透緒子をやんわりと押し返す。

 

「どうして……?」俺の目を真っ直ぐに見つめ、問うた。 

 

「だから、他に好きな人がいるんだって」この説明──嘘とも真実とも言えないような曖昧な──は3回目だ。

 

「何がいけないのか分からない」透緒子から邪気は感じない。本心から理解できないのだろう。

 

「分からなくても、駄目なものは駄目。俺にはできな──っ」

 

 不意に、透緒子がぐいぐいっと腰を前に押し出すように──押しつけるように動かし、それから、不思議そうに俺の瞳を覗き込んだ。「できそうだよ……?」

 

「……ご、誤解だ」

 

 単なる生理現象はノーカンだ。したがって、俺はロリコンではない。だから、早く離れてくれ──。

 

 



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くるくるカプチーノ②

5話と6話は連続投稿です。
地雷注意。


 私は親族から虐められていました。

 

 戦国時代の、妖怪(あやかし)を成敗することを生業(なりわい)とする百足(ももたり)家に私は生まれました。

 しかし、私には妖怪の血が混じっています──父が妖怪で母が人間です。当主の娘である母を身籠らせて姿を消した父は、殺すべき敵でした。

 当然、母は堕胎を望まれました。しかし、頑なに聞き入れず、産婆とお医者様に金貨を渡して殺さないように頼み込み、私を出産したのです。

 ですので、物心が付いたころには、お祖父様やお婆様、伯父様、他にもほとんどの血縁者から強い嫌悪を向けられている状態が当たり前で、子どもは皆こうなのだと──私が知らないだけで従兄弟や分家の子たちも同じような扱いを受けているのだと、稚児(ちご)の時分には信じていました。

 

 ところが、どうやらそれは違うようだと、いつからか理解していました。私の中に流れる妖怪の血が憎まれていたと知ったのです。

 当時の私は、どうしてそんなことに拘るのか、私は私なのにどうして、と不思議でなりませんでした。

 けれど、6つ、7つ、8つと歳を重ねるにつれ、その不思議は溶け、やがて諦念が現れました。

 仕方のないことだったのです。

 私の父はあまりに殺しすぎました。退魔を(ぎょう)とする者だけでなく、ただ日々を懸命に生きる民を、(まつりごと)の中枢を担うお方を、あるいは咎人(とがにん)を、一切の差別なく平等に殺しました、何人も何人も。

 

 そのような男を愛した母は、愚かな女だったのでしょう。箱入り娘が、甘い囁きに囚われ、快楽に溺れ、狂ってゆく。珍しい話ではありません。

 けれど、今になって少しだけ母を憐れに思います。誰かを愛すると心がおかしくなってしまいます。それは愚かではあっても……、いえ、やめましょう。このような自己弁護こそみっともないことです。

 

 私の肉体的な成長は12歳で止まってしまいました。父の血がそうさせたのでしょう。

 その時から私を見る皆さんの目はより暗くなってゆきます。

〈なんと(おぞ)ましい〉〈人喰いの子め〉〈化け物の分際で人のふりをするな〉

 このようなことをよくおっしゃっていました。

 しかし、私は追い出されたり、まして殺されたりはしませんでした。 

 この時代の妖怪は今と違い、人間を殺すことになんの躊躇(ためら)いもありませんでした。中には尋常ならざる力を持つ者もいます。

 彼らに対抗するために、私が必要だったのです──半妖の私は、人間の霊力と妖怪の妖力をどちらも有しており、また、莫大であり、強力な術をいくつも使用することができました。

 

 正直に申し上げますと、逃げ出したいと思ったことは何度もあります。けれど、実際に逃げ出したことは一度たりともありません。

 私がいなくなると、なんの力も持たない民が真っ先に殺されてしまうからです。私には彼らを見捨てることはできませんでした。

 だから、耐えて、殺して、そうして生きておりました。

 

 そんな私に転機が訪れました。私を(めと)りたいと言う殿方が現れたのです。

 初めは、どんな下心があるのかと疑いました。けれど、彼は退魔とは関係のないただの番匠(ばんしょう)。その下心が何なのか(つい)ぞ分かりませんでした。

 

 結局、彼が百足家の婿になるという形で婚姻はまとまり、与えられた離れ座敷で夫婦として暮らしはじめました。

 彼との生活は私に潤いをもたらします。

 母が亡くなってからというもの、私は独りでした。淋しくないわけがありません。けれど、それを埋めてくれる方はどこにもいないのだから仕方がない、と諦めていました。

 彼は、愛してる、と言い、口づけをし、私を抱きました。それが毎日のように繰り返され、そして、いつしか私は彼を愛していました。

 彼に喜んでもらうために何でもしましたし、彼も私を喜ばせました。とても幸せな日々だったと思います。

 

 しかし、そんな日々は唐突に終わりを迎えます。ある日、私が暴れ天狗を退治し、帰宅すると、彼の生首がありました。腕も脚もあります。しかし、胴体はありません。

 

 私の中に殺意が生まれたその瞬間、離れ座敷を囲む結界が形成されました。

 そして、数人の人間が現れました。皆、知った顔です。その中の1人、私の伯父は、〈いせ、いせ、今、殺すゆえ、殺すゆえ……〉とうわ言のように繰り返していました。

 いせ、とは伯父の妻だった女性です。私の父に喰い殺された女性です。

 彼らは、父の悪行の怨みを私にぶつけたのです。

 私の殺意に不純物が混じりはじめました。それは、哀れみかもしれないし、罪悪感かもしれません。はっきりとは分かりませんでした。ただ、その時に感じた、(はらわた)を掻き回されたかのような不快な苦しみは、今でもしっかりと憶えています。

 

 彼らは私を殺そうとしましたが、それは叶いませんでした。

 私のお腹には夫との子がいました。この子を殺されるわけにはいかなかったのです。

 だから、私は彼らを殺しました。皆、殺しました。

 しかし、寿命を代償にする禁術を使った彼らは強く、私は子宮を破壊されてしまいました。見つけることはできませんでしたけれど、私たちの子は、そこかしこにある赤黒い血溜まりのどこかにいたかと思います。

 それだけでなく、彼らの怨念が呪いとなり、私を(おか)しました。〈悪逆な妖怪の血を決して残さぬように〉との想いが込められた呪いです。臓腑が再生しても、子を()すことはできなくなりました。

 

 この事件は、妖怪が押し入って起こしたということにされました。本家の人間は、醜聞が広まるのを、また、お(かみ)との関係の悪化を危惧したのでしょう。

 

 夫と子を失ってからも私は退魔師として百足の家にいました。伯父のような悲しみを抱える人を増やしてはいけない、と思うようになっていたからです。

 私は懸命に戦いました。それは、あるいは憎しみや悲しみから目を逸らすためだったのかもしれません。

 周りの人間は今までよりも私を恐がるようになりました。老いることなく絶大な力を振るうのだから自然な感情でしょう。冷たい砂が肺を圧迫するかのような息苦しさを覚えましたが、仕様のないことです。

 

 私に対する恐怖や増悪はこのころが最も強かったと思います。私はまた独りになりました。小間使いの方との必要最低限の会話以外で誰かと話すことのない、そんな日々でした。

 しかし、それでいいと思う自分もいました。子を産めない女は、人殺しの半妖は、夫を、子を守れない女は誰かに愛されたいなどと願ってはいけないのです──烏滸(おこ)がましいことだと納得していました。させていました。

 

 夫と子を失ってから10年が過ぎたころ、妖怪との大きな(いくさ)がありました。

 (おびただ)しい血が流れ、しかし、京の仙理眼(せんりがん)使いの活躍もあって、なんとか人間側の勝利で終わることができました。この戦により妖怪たちは数を大幅に減らし、また、人間から隠れるようになり、無闇に人間を殺すこともほとんどなくなりました。

 需要が減ったことで退魔師もどんどん減少してゆきます。

 百足家も退魔業だけでは維持できず、他の事業に手を出しはじめました。意外なことに、百足の人間には商才がある者が多く、むしろ専業のころよりも財産は増えていきました。自分たちの真の適性を理解してしまった皆さんのなんとも言えない表情はなかなかに滑稽でした。

 

 やがて人々は、〈妖怪は滅んだ〉と、次第に、〈お伽噺の中だけの存在だ〉と思うようになり、かつての悲劇を忘れてゆきました。 

 

 穏やかな日々が訪れました。昔に比べ、随分と平和です。

 私に対する壁のようなものは依然としてありましたが、恐怖や増悪は長い時の中で減じてゆきました。やはり穏やかな日々でした。

 

 けれど、淋しい、その感情はずっと消えることなく、それどころか年々増しているように感じられました。

 とはいえ、それで何か具体的な害があるわけではありません。何より私のような女には独りが相応しい、そう思っておりました。

 

 520歳のころ、私は百足家の当主になりました。

〈1番実力のある旭様がやったほうがいいんじゃないか〉という意見が出たからなのですが、推測するに皆さん面倒くさがっていただけのように思えます。

 そういうわけで、私の仕事は少しだけ増えました。しかし、悪さをする妖怪はそう多くないので多忙ということはありません。

 

 空の高い日、東北の地に仙理眼を発現した者──13歳の少年──がいるという報告がありました。凡そ450年ぶりの開眼者です。

 私は複雑な気持ちになりました。

 たしかに戦力の大幅な上昇は喜ばしくはあるものの、今の世では過剰な力。彼がその才能を存分に発揮する日は来ないはずですし、また、来ないほうが良いのです。

 だから、少し可哀想に思いました。生まれる時代と才能が致命的にズレています。

 初めは、その程度の印象しかありませんでした。

 

 龍脈(りゅうみゃく)というものがあります。これは自然の気が流れる血管のようなもので、大地の中を通っています。そして、龍脈を流れる気が地表へと漏れ出る穴を龍穴(りゅうけつ)と言います。

 これらは物理的に(くだ)や穴が存在するのではなく、霊的な次元でそのような外形をしているにすぎません。

 仙理眼の少年の話を初めて聞いた日から丁度1年後の葉月(はづき)、西の地にある龍穴に異常が生じてしまい、私と少年が出向くことになりました。

 

 少年は、(たちばな) 景修(けいしゅう)と名乗りました。独特の霊力を持つ少年で、まだ14歳だというのに不思議な包容力を備えているように私には見えました。彼の近くにいると、まるで陽だまりの中にいるような心持ちです。

 

 私と少年、地元の退魔師で龍穴の問題の解決に当たることになりました。

 道中、少年と言葉を交わしました。初対面であったので当たり障りのないことしか話しませんでしたが、第一印象のとおり、彼の言葉は木漏れ日のように私の心に沁みてゆきました。

 それは、彼の霊力の質や雰囲気だけが原因ではありません。彼は、私に対して差別や偏見を砂粒1つほども持っていなかったのです。

 たしかに、昔に比べて妖怪への嫌悪や恐怖は減り、私への隔意(かくい)も目立たなくなりました。けれど、完全に無くなったわけではありません。私のような不老の半妖は、やはり本当の意味では受け入れてもらえません。

 人は残酷です。自分と違う存在を排除したがる、それが人という生き物なのです。

 しかし、少年は違いました。彼からはそのような意思や感情は微塵も窺えません。不思議な子です。そして、あたたかい子です。

 

 仙理眼で地底深くを透視した少年は、〈龍脈に(しこり)ができてんだけど。何これ生活習慣病かよ〉と零しました。〈大地の生活習慣とは、つまり環境問題に対する人間の意識が原因ということでしょうか〉と私は訊きました。そうしたら少年は、〈言葉の綾です。忘れてください〉と笑い、〈旭様って割と変な人なんですね〉と更に笑いました。心がじんわりとしました。

 

 仙理眼使いが最強と謳われたのは、透視や幻術の看破ができたからではありません。龍脈に流れる自然の気を自らの身体に取り込み、術や身体強化に使用することができたからです。

 少年は気でできた痼を吸収し、その気で不格好な式神を作製しました。おそらくは蛙だと思い、訊ねると、〈……(うさぎ)です〉と返ってきました。式神は苦手なのですね、と心の中で微笑みました。

 

 痼がなくなり、龍脈及び龍穴は正常に戻りました。流石は仙理眼、と皆さんは褒めそやしましたが、少年は居心地悪そうにし、時折私にすがるような視線を送ってきました。可愛らしいと思った私は、性格が悪いのかもしれません。

 

 東京に戻ってからも、少年とは〈すまぁとふぉん〉なる物で連絡を取り合っていました。

 

 私は、恥知らずにも少年に惹かれていました。私よりずっと年下の子ども相手に恋心を抱くなどどうかしています。それでも、彼と話している時は心の痛みが和らぎます。そこに嘘はありません。

 

 けれど、私は半妖です。我が子を見殺しにした母親です。愛する人を苦しめた女です。子を産めぬ不具者(ふぐしゃ)です。

 だから、この想いは秘めたままに。そのように考えておりました。たまに彼の声が聞けたら、私に微笑みかけてくれたら、それだけで充分。そのはずでした。

 

 ある夜、布団の中で目を(つぶ)っていた私は、もどかしい痺れに寝付けずにいました。

 熱せられてとろとろに溶かされた水飴が、身体の最奥で脈打つような、そんな甘ったるい(うず)き──私は酷く発情していました。

 寝る前に彼と話したのがいけなかったのかもしれません。彼のことばかり考えてしまいます。

 彼は私のことをどう思っているのでしょうか。どのような女が好みなのでしょうか。もう女を知っているのでしょうか。どのように女に触れるのでしょうか。どうすれば喜んでもらえるのでしょうか。

 

 気づけば、私はそこへ手を伸ばしていました。布団を被り、彼を想い、そして、達しました。

 

 数日後、蝦夷(えぞ)の地で私たちは再会しました。精霊が雨──通常の雨とは内包する気が異なります──を降らし続けているとのことで、私と彼が派遣されたのです。

 仙理眼のおかげで精霊はすぐに見つかりました。

 話を聞いたところ、失恋してずっと泣いていたそうです。彼の手のひらの上──精霊は3寸ほどです──で一頻り感情を吐き出した精霊は、幾分か落ち着きを取り戻したようで、名残惜しそうに去ってゆきました。空は晴れ渡っていました。

 

 その日の夜のことです。予約していたホテル──ホテル側の手違いでツインの部屋に宿泊することになりました──にいた彼と私は、いつものように言葉を交わしていました。

 私は幸せでした。これ以上は望んではいけません。たしかにそう思っておりました。

 けれど、私の中には獣が住み着いています。獣は淋しがりで、そして、淫らです。

 獣は彼の心を、情愛を欲しています。押し入り、刻み込んでほしいと願っています。愛を信じさせてほしいと焦がれています。

 

 不意に目が合い、言葉が途切れました。

 私の吐息は小さく痙攣し、瞳は(ほと)んでいました。ベッドに並んで座っていたため彼との距離はほとんどありません。誰が見ても、発情した雌が雄を誘っているのだと解釈するでしょう。

 意図して媚態を演じていたわけではありません。自然とそうなってしまったのです。

 目を逸らすことも動くこともできずにいると、彼が瞬きをしました。そして、唇に感触。一瞬だけ微かに触れる、そんな口づけでした。

 

 

 

 

 

 

 景くんと会うのは何日ぶりでしょうか、と私は子どものようにはしゃいでいました。予定よりも2日早く到着することができ、〈銀髪ちゃん〉の捜索のために訪れたはずなのに純粋に喜んでいました。

 

 しかし、その感情は長くは続きませんでした。私はそれを見てしまったのです。景くんを驚かせようと思い、気配を消して彼の家に向かっている時のことです。

 

 景くんと彼より2つ3つ年下の少女が楽しそうに街を歩いていました。

 

 たしかに、ただの友人や親類かもしれません。しかし、私の心臓は(きし)み、鼓動のたびに痛みを覚えます。

 それは嫉妬心ゆえに、ではありません。

 違和感なく並び歩く2人を見て、景くんには私のような女ではなく彼女のような年頃の少女のほうが相応しいのだと、自然と思ってしまったからです。

 おそらくあの少女は妖怪でしょう。けれど、外見どおりの年齢のはずです。私のような例は極めて稀なのです。

 それに、彼女は子を産めない身体ではないでしょう。論理的な根拠はないですが、きっとそうに違いありません。私ではできないことも彼女ならばできるのです。

 そして何より、彼女は汚れていないように見えます、子を見殺しにした女とは違い──。

 

「……」息を殺し続けます。

 

 もう充分でしょう。充分、夢を見ました。たくさんの温もりを貰いました。もう終わりにすべきです。

 景くんの人生に私はいらないのです。もしかしたら、今までの優しい言葉も可愛い笑顔も全て、立場上逆らえずに嫌々やっていただけかもしれません。好きでもない女の情欲に付き合わせていただけかもしれません。

 

 罪悪感、悔しさ、安心感、憎しみ、愛情、自己嫌悪、淋しさ、悲しみ、感謝の念、他にも様々な、そして、身勝手な感情が心裏に生まれ、矮小な私を圧迫してゆきます。苦しい、ただただ苦しい。

 

「……っ」

 

 ──私は逃げ出しました。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

『もう終わりにしましょう』

 

 突然、そんなRINEが旭様から送られてきた。

 自室にて、明日は旭様に会える、とにやにやしていたらこれである。いったいどうしたというのか。

 

 直ぐ様、返事をする。『話がしたいです。今、掛けてもいいですか』

 

 1分、5分、10分と沈黙を続けるスマホを手に、マジかよやべぇよやべぇよ、と焦っていると、15分が過ぎたころ、ようやく通知音が鳴った。

 

『橘さんには私のような女は相応しくありません。昨日、それを改めて理解しました。これからはただの上司と部下です。今までたくさんの幸せをありがとうございました。さようなら』

 

 心臓が跳ね、海底に引きずり込まれたかのように息が苦しくなる。

 落ち着け、と平静を保とうと努力する。

 メッセージをもう1度読む。

 

「……昨日?」呟く。

 

 脳裏に閃くものがあった。

 つまり、もしかして昨日の透緒子との買い物を見られたんじゃないか。

 昨日は、駅前に透緒子の服や雑多な生活用品を買いに行っていた。何らかの理由で旭様の予定が繰り上がることもしばしばあることだ。あの場にいたとしてもそれほどおかしくはない。

 

「……浮気だと思った、のか?」

 

 もしかしたらそれもあるのかもしれないが、メッセージを読むに少し違う気がする。

 じゃあ、シンプルに俺に飽きただけで文章自体に意味はない? それにしては一昨日、通話した時は楽しそうだった。演技? いやまさかな。そんな雰囲気はなかった。俺が鈍くて気づいていないだけ? なくはないと思うけどしっくりこない。じゃあやっぱり……。

 

「……はは」不意におかしさが込み上げてきて、笑ってしまった。

 

 旭様に対して恋愛感情があるかどうか分からないとか、飽きられたら終わる関係だとか、そんなふうにカッコつけていたくせに、いざ振られてみると別れを素直に受け入れる気なんて微塵も湧いてこない。

 

「……」

 

 旭様のこと、大好きじゃん、俺。つーか、愛してるんじゃねぇか、これ。

 

 電話には出てくれなさそうなのでRINEを送る。『チャンスをください。会って、話して、それで駄目なら諦めます』

 

 しばらくして返信が来た。『初めてあなたのお家に行った日に、私が滞在していたホテルにいます』

 

「……」記念日を忘れるとめちゃくちゃ不機嫌になる人なのだろうか、という疑問が頭を過ったが、今は()く。

 

 時刻は19時42分。

 立ち上がり、キレイめなズボンとポロシャツに着替えて──ドレスコードがあったような気がする──財布とスマホをポケットに突っ込み、部屋を出る。

 ホテルはちゃんと覚えている。とりあえずはそこに行って、それで……どうするんだ? 本心を明かしてくれるのか? 分からない。分からないけど、会いたい。許されるなら抱き締めたい。

 俺は家を飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 俺の町には、所謂上流階級向けのホテルは2つしかない。そのうちの1つ、(そび)え立つ摩天楼(まてんろう)と呼ぶには些か貫禄と資本金が不足しているホテルの前に、俺はいた。

 正面玄関口の付近では、警備員らしき人が暇そうにしている。

 

 部屋には宿泊客以外が入ることはできないので、『ホテルの前まで来ました。今、ロビーに来れますか』とRINEを送る。

 

 今度はすぐに、『はい』と返ってきた。

 

 よし行こう、ということで警備のお兄さんに、「こんばんは」と挨拶をしてホテルに入り、フロントに向かう。

 

「……いらっしゃいませ。ようこそニューガバリンホテルへ。本日はご宿泊でしょうか?」フロント係の茶髪の女性が、やや不審そうな趣で言った──中学3年生の子どもがこんな時間に1人だとこういう反応も頷ける。

 

 一瞬、仙理眼で幻術に掛けようかと思ったが、フロントの天井にある防犯カメラが、〈俺の(レンズ)は誤魔化せないぜ? 舐めんなよ〉と威嚇してきたのでおとなしく、「宿泊客の百足 旭さんと約束があるので、ロビーを使わせていただいてもよろしいでしょうか」と訊ねる。

 

 フロント係のお姉さんは若干たじろぎつつも、「はい。どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」と述べた。

 

「ありがとうございます」と応じ、振り返ると、エレベーターから降りる旭様が目に入った。

 

 ふい、と目を逸らされてしまった。悲しい。

 

 

 

 

 

 

「信じられません」ふかふかのソファに姿勢良く座った旭様は、言う。「それにあの少女が恋人であろうと友人であろうと、私の結論は変わりません」

 

 透緒子とは何もないということを説明したらこのように返ってきた。

 

「俺を嫌いになった理由を教えてくれませんか」

 

 旭様は何かを言おうと口を開き、しかし何の言葉も発せず、数秒の逡巡。そして、「理由はありません」と絞り出すように口にした。

 

 それはつまり、なんとなく嫌いになったから、飽きたから、あるいは、他の男に気持ちが向いたからということか……? と思う自分もいるけど、旭様の辛そうな顔を、腫れた目元を見ているとやはり違うのだろう。

 

 もしかして、というのはある。そうなのかな、と漠然と思いながらも、デリカシーに欠けると考えて気づかないフリをしていたことだ。

 

 でも、今はちょっとだいぶかなり余裕がないから、あえて踏み込ませてもらう。「旭様のお腹にある怨念(まみ)れの霊力と関係がありますか」

 

「──っ」旭様の呼吸が一瞬だけ止まった、ように見えた。次いで彼女は、「……流石ですね」と困ったように眉を曲げた。

 

 旭様はその怨念塗れの霊力に隠蔽用の術を施していたようだけど、その程度では仙理眼の障害にならない。初めて一緒に仕事をしたときから、その存在は認識していた。

 そして、付き合ううちに覚えたもう1つの違和感──生理だから、とセックスを断られたことが1度もないんだ。

 それほど頻繁に会えるわけじゃないからタイミングを見計らっていただけかもしれないし、肉体的な成長の停止が原因で初潮を迎えていないだけかもしれないし、逆に数百年を生きる間に閉経しただけかもかもしれない。

 

 けど、おそらくは呪いの類いであろう霊力が子宮に絡みついていることを併せて考えると、生理のない身体、つまり──。

 

 旭様は溜め息をついた。泣きそうな顔で言う。「私は母親になることができません。私の子宮は呪われているのです」

 

「……」そんなことは気にしない、と喚きたくなったが(こら)える。

 

「これは罰なのです」旭様は声を震わす。「私の父は多くの人を悲しませました。私もまた人殺しです。愛する人を、愛する子を守れなかった女です」そして、「今まで隠していてごめんなさい。こんな女でごめんなさい」と消え入りそうな声で続けた。

 

 それであのメッセージ──〈橘さんには私のような女は相応しくありません〉か。なるほど。だいたい分かった。

 

 頭の中を整理しようとして、整理するほどのことはないな、と気づき、何をやってんだ俺は、と内心で自分にツッコミを入れつつ、「旭様」と名を呼ぶ。

 

 浮世離れした美しい瞳が俺に向けられる。

 

 本当に綺麗だ、と微笑み、それから、バカみたいに単純な想いを言葉にした。

 

「愛しています」

 

「……」

 

 口にするとやっぱり恥ずかしい。けど、必要なときもあるのだと思う。多分。

 

「ガキだったんです。それで今まで自分の気持ちをよく分かっていませんでした」けど、と置く。「旭様にフラれて思い知りました。旭様のいない人生なんて考えられません。これからもずっとずっと旭様が必要なんです。旭様にどんな過去があったとしても、俺の知ってる旭様は、責任感が強くて、優しくて、ちょっと変わってて……」呼吸を挟む。「誰よりも可愛い人です。だから、愛しています」

 

 静寂が流れ、やがて一雫の涙が旭様の頬を伝った。そして、堰を切ったように溢れ出す。

 

 手で顔を覆い、声を押し殺して泣く旭様の横に移動し、背中を擦る。

 小さな背中だ。背負いすぎてしまう性格の旭様にはあまりにも。

 

 そう思う。

 

 

 

 

 

 

 しばらくして落ち着いた旭様は、「ごめんなさい、みっともないところをお見せしてしまいました」とはにかんだような笑みを浮かべた。

 

「みっともなくないですよ」俺は言った。

 

「ふふ」旭様は柔らかく息を洩らし、「景くん」と俺の名を口にした。そして、「私も愛しています」と。

 

「……」俺の表情筋はにやけないように踏ん張っているが、無理かもしれない。

 

 有り体に言って、ものすごくヤりたい。今すぐヤりたい。仕事も学校も放ってヤりまくりたい。

 

 のだが、旭様は纏う空気を変え、「ところで」と声色を暗くした。ぞくっとした。「昨日の子とは本当に何もないのですか?」

 

「何もないです。本当です」速やかかつ滔々(とうとう)と答えた。

 

「……ふーん、そうなんですか」旭様は唇を少しだけ尖らせ、「若い子のほうがいいですもんね。少しくらい許しますよ。だから気になさらないでくださいね」と圧(霊力と妖力)を放ってきた。

 

「誤解です。嘘じゃないです。頑張って我慢しま──」

 

「頑張って我慢したのですか?」旭様が意地悪な顔になる。「つまり、非常に強い劣情をあの少女に抱いたということですよね?」

 

 あ、あれ? 解決したんじゃなかったのか? おかしいな、と冷や汗を流しながらも、「違います。旭様のことしか考えていません。本当です。ロリコンではないので透緒子には魅力を感じません。旭様だけが特別なんです。嘘じゃないです。俺が愛してるのは旭様だけです」と(まく)し立てる。

 

「……ふ、ふーん。そうですか」と旭様は頬を朱に染め、この子はこれだから、などとぶつぶつ呟いている。

 

 一方、俺は、旭様って案外ちょろいのかも、とこっそり口角を上げ──。

 

「ひゃっ」旭様が控えめな悲鳴を上げた。透緒子がいきなり現れたんだ。

 

 相変わらずの、何を考えているのか分からない眠たげな顔をした透緒子は、至近距離で旭様を見つつ、「仲間」と小さな声を発し──そしてすぐに旭様にキスをした。

 

 え!? なんで?!

 

「んっ!?」悠久の時を生きてきた旭様でもこれは予想外だったのか、おもいっきり目を見開いている。いろんな意味でレアな光景だ。

 

 数瞬の後、透緒子は唇を離し、眠そうな表情のまま、「これからは(・・・・・)あなた()一緒にお風呂入ろ……」と旭様を誘った──空気が凍る。

 

「……景くん?」旭様は笑った。ただし、目元は除く。

 

「はい……」俺は、直視できずに(うつむ)いた。

 

 しかし、俺の顔を下から覗き込むようにした旭様は、「気持ち良かったですか?」と品のある笑みを深める。

 

「い──」俺が言い掛けるも、透緒子が、「すごく硬くなってた」と遮る。

 

「ふふふ……」

 

「……」

 

 どうすればいいんだろ……。

 

 ちらりとフロントに視線をやると、先ほどのお姉さんと目が合った──即、逸らされた。

 旭様に視線を戻す。怖い。

 

 けど、やっぱり。「旭様、可愛いなぁ」

 

「そんな言葉で誤魔化されませんからね?」と言いつつ、心なしか旭様の圧が和らいだように感じる。

 

 ちょろい。なんとかなりそう。

 

 俺は内心、ほくそ笑んだ──。

 

「景くん?」圧が増した。

 

 無理そう。

 

 



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雨のち雨

約14000字です。


 7月の雨は、夏の暑さを和らげてくれる。それはさながら砂漠に恵みをもたらすオアシスのようだ。

 なんてことがあればいいなぁ、と冷房の風に当たりながら考える。そして、冷房こそがオアシスである、と結論付けた。

 

 最近は、雨の日でも少しだけ異能が使える。理由は分からない。

 大して気にしていないし、なんの問題もないのだけれど、日曜日で暇だったので、どういうことだろうか、と父さんに電話したみたら、そんなもんじゃない? と返ってきた。訊いた意味はなかったと思う。

 

 僕はアパートで1人暮らしをしている。

 で、今──午前10時過ぎ──はそのアパートで、部屋干しした洗濯物を眺めながら、洗濯洗剤の容器に汚れのようにこびりついている〈抗菌〉とか〈ふわふわ〉とかの自信満々な自己PRについて、修羅場を勢いで乗り切る男のように人工的な匂いで無理やり雰囲気を出して誤魔化しているだけなんじゃないかな、と腑に落ちない気持ちになっていたところだ。

 

 すると、スマートフォンから勢いのない通知音が鳴った。アプリを立ち上げる。

 

『今日ひまだよね』春夏秋冬(ひととせ)さんからだ。

 

 たしかに暇ではあるけど、確信したような口ぶりには逆らいたくなる。ので、『東証1部上場企業の闇について考えてるからとても忙しい』と送る。

 

 次の瞬間には既読がつき、2秒も経たないうちに、『源の家に行きたい』と表示された。

 

 春夏秋冬さんは生き急いでいるらしい。しかし、僕はそうではないのでゆっくりと入力する。

 

 けれど、『いいよ』という短い文なのですぐに完成してしまった。

 

『学校の近くのカースに迎えに来て。一緒にDVD選ぼ』カースとは、全国展開はしていないレンタルビデオ店だ。今後はネット視聴の波に押されて消えていくと思われる。

 

『分かった。何時にする?』

 

『1時間後』

 

 ということらしいので、のんびり準備することにした。

 

 

 

 

 

 

 日曜日なのでいつもより人が多い気がする。

 といっても、市の実施している人口減少対策はあまり実を結んでいないらしく、歩きにくいということはない。

 なので、このまま焼け石に水にしかならない政策をぜひとも続けてほしい──と一瞬考えたけど、面白い人間に出会う確率が減るのも困るため、やっぱり今の市長は支持しないことにしよう、と決めたところで、新作映画を物色している春夏秋冬さんを発見した。

 

 すぐに僕に気づいた春夏秋冬さんは、おう、と雑な挨拶をし、手に持っているアクション映画のDVDに視線を戻す。

 

 このコーナーにあるのは金に物を言わせてクオリティを上げたご都合主義の詰め合わせのような映画が大半なんだろうな、と考えつつ、でも表情には出さずに、「それ観たいの?」と問う。

 

「ん、そうでもねぇかな(観たい)」

 

「……試しに観てみたら?」

 

「源がそう言うなら借りてもいいけどよ(意……合……かな……へへ)」

 

 雨が降っているせいで心の声が途切れ途切れだ。でも、嬉しそうな顔に見えなくもない。

 

 ふと思った。「春夏秋冬さんってさ」

 

「? なんだよ」と僕の目を見つめる。

 

「可愛い性格してるよね」

 

「……何言ってんだよ、ばか」

 

 

 

 

 

 

 カースを出て、アパートに向かって歩いていると、「昼飯何食いたい?」と訊かれたので、「なんでもいいよ」と答えたら、春夏秋冬さんは、「本当だな? 本当になんでもいいんだな?」と支持率の低下してきた独裁者を彷彿とさせる疑心暗鬼に陥ってしまった。

 

 暗殺もしないしクーデターも起こさないから安心してほしいという気持ちを込めて、「肉でも魚でも微妙すぎる春夏秋冬さんの料理でも文句はないよ」と優しく言ってあげた。

 

「うるせぇよ。パラドックスみたいな言い方で(けな)しやがって」春夏秋冬さんはいたく不満げだ。

 

「そっちは何食べたいのさ」

 

「……」春夏秋冬さんは無言でスマホを取り出して、素早く操作し、「これ」と画面を見せてきた。

 

 そこには、クリームパスタらしき画像と〈調理時間・10分〉という文字が表示されていた。

 

 要するに。「作りたいの?」

 

「そういうわけじゃねぇけど」と否定しつつ、DVDを観たくないと言った時と同じような雰囲気が漂っている。

 

 なので、「作ってくれると嬉しいな」とお願いしてみた。

 

「しょーがねぇなぁ」春夏秋冬さんは勝ち誇ったように口元を綻ばせる。「そこまで言うなら作ってやるよ」

 

「うん、ありがと」

 

 ちなみに、パスタの中では唐辛子多めのペペロンチーノが1番好きなんだけど、辛いものが苦手な春夏秋冬さんにそれを伝える意味は、おそらくない。

 

 

 

 

 

 

 チーズはだいたいなんにでも合う。だから、春夏秋冬さんの作ったチーズ過多のパスタでもちゃんと美味しい。

 

「美味しい」とそのまま伝える。「前に食べたやつより好き」

 

「だろ? 本気出せばこんなもんよ」春夏秋冬さんはやたらと得意げだ。

 

 でもこれすごく太りそうだよね、とか、本気っていっても簡単なパスタじゃん、とか気に入らない嫁の料理にいちゃもんをつける姑のように会話に工夫を凝らすことはできるけど、ほっぺたにクリームをつけてむしゃむしゃと頬張る春夏秋冬さんを見ていると、余計なことは言わないでおこうという気分になる。

 

 でも、ただ黙々とカロリー爆弾を貪るだけだと味気ないので頭に浮かんだ言葉を読み上げる。

 

「結婚してほしい」

 

「うん。する」

 

 即答した春夏秋冬さんは、いつかみたいに真っ赤になって口を閉ざしてしまった。もしかしたら頬のクリームを温めているのかもしれない。

 

「……」

 

 口にしてから思ったのだけど、料理を食べた後にプロポーズをするのは、君の長所は家事能力の高さしかないんだから僕の家政婦になれ、と言っているようなものじゃないかな。

 

 フェミニストが聞いたら憤死する可能性があるなぁ、ところでフェミニストってどこが原産なんだろう、カリフォルニア辺りかな、フェミニストロールとか売ってたりするのかな、そういえば最近お寿司食べてないなぁ、そうだ今度春夏秋冬さんに山葵(わさび)入りのやつを食べさせてみよう、と思考を転がしていると、多分フェミニストではない春夏秋冬さんが口を開いた。「でも、どうすっかなー、私、こう見えてかなりモテるんだよねー、源を選んでやるかはやっぱりちょっと分からないなー」

 

「へー、そうなんだ」そりゃあどう見てもモテるでしょうね。選択肢が多くて何より。

 

「……」春夏秋冬さんの顔に若干の不満が滲み、「一昨日もさ」と唐突に話し始めた。「3年の先輩に、付き合ってくれって言われたんだ。そいつのことよく知らないし興味も湧かなかったから断ったんだけど、気が向いたときでいいから、って連絡先を渡されたんだよ」

 

「一応持っておけば?」春夏秋冬さんに損はない。

 

「……」

 

 とてつもない圧を感じる。ような気もするけど、ほっぺたの白いクリームがすべてを台無しにしている。

 

 いけるかは分からないけど、異能のスイッチを入れてみる。

 

(……だ……かよ。こいつ……か。じゃあ……は……) 

 

 無理だね。聞こえない部分が多すぎる。

 

 この後も重苦しい空気は続き、春夏秋冬さんは映画を観ることなく帰っていった。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 (そら)(みなもと)の雰囲気がおかしい。

 いつもは、同棲4ヶ月目みたいなこなれた空気を教室で作ってんじゃねぇよ自分んちでやれ、とツッコミを入れたくなる仲の良さなのに、今日は違った。

 空は朝からずっとピリピリしてるし、今だって独りでお昼ご飯食べてるし、源はどっか行っちゃったし。

 

「なぁ、咲良(さくら)」友だちの(しおり)が話し掛けてきた。彼女は、「あれ、いいの?」と空に目を向けた。

 

 栞は、いかにも読書が好きそうな名前をしているにもかかわらず活字が大嫌いな女の子だ。当然、勉強も嫌いなんだけど、髪を脱色(ブリーチ)したいという理由で一応は進学校と地元では認識されているこの学校を選択したらしい──うちの高校は制服さえ着ていればあとは自由な格好をしていいのだ。

 

 その栞に促されたから、ではなく、元から構うつもりだったので、空の席に向かう。

 頼むぞ、という視線を教室のみんなから感じる。

 空みたいな美人がピリピリしているとみんな怖いのだろう。不機嫌でさえなければ〈男は度胸、女は愛嬌〉という言葉の不完全さを私たちに教えてくれる顔面偏差値の絶対王者なのに、今は〈触らぬ神に祟りなし〉という言い訳の汎用性の高さを実感させてくれる怖い女だ。

 でも、私は、男だけじゃなくて女にも度胸が必要だと思っている。

 

 というわけで、空に訊いてみた。「源と喧嘩でもした?」

 

 気づけば教室は静まり返っていた。

 

「……喧嘩じゃない。私が独りで怒ってるだけ」空は、いやに大人びた声色で答えた。

 

 

 

 

 

 

「それはまた……」私は言葉に詰まってしまった。

 

 空を私の机に連行して話を聞いたところ、〈今まで1度も嫉妬や束縛をしてくれたことがなくて、愛されていないんじゃないかっていう不安と不満が限界まできた〉ことが原因でイライラしていたらしい。でも、素直にそれを問い質す勇気もないそうだ。

 

 乙女レベル高! これが顔面偏差値絶対王者の実力か、と感心した。そして、なんと言ったものか、と困ってしまった。

 

「まぁでもさ」一緒に愚痴に見せかけた惚気を聞いていた栞が軽い調子で言う。「そういう奴もいなくはないっしょ」

 

 しかし、独占欲のない男は空の理想とかけ離れているのか、「えー、それはやだ」と眉間に(しわ)を寄せた。

 

「気持ちは分かるけどさ」栞は共感を示し、卵焼きを口に運ぶ。美味しそう。

 

「他の不満は?」私は訊ねた。

 

 すると、空は、「うーん」と顎に手を当て、「ねぇな」と呟いた。

 

 自分の感情に素直になって、〈惚気やがってよぅ!? 彼氏のいない私らに喧嘩売ってんのか!?〉と言いたいところだけど、この程度で喧嘩売買契約を締結(ていけつ)していたら人生に疲れてしまうので、「他に女がいる気配があったりは?」と訊くに留める。

 

「あー」と半開きの口から洩らした空は、「いない、と思う」となぜか赤面した。

 

 いや、ホントになんでだよ? 

 

「あっはー」という特徴的な笑い方は栞のものだ。「何それ、かわいー」

 

「なんだよ、可愛くねぇよ」空は気分を害したように、しかし可愛く口を尖らせた。

 

 わざとやっているのだろうか?

 

 

 

 

 

 

「送ったぞ」空は不安げな顔で言った。

 

 私は、〈冷静になるために少し距離を取ってみたら?〉とアドバイスした。彼女たちは付き合い始めて2ヶ月とちょっとのはず。つまり、そろそろ倦怠期に入っていてもおかしくはない。

 2年2組を代表するバカップルの場合は一般的な倦怠期とは少し違う気がしなくもないけど、価値観の違いによる不満が原因なら倦怠期亜種みたいなものでしょ、きっと。

 というわけで、べったり状態から脱却すべく、空は、早退した源にその旨をRINEで伝えたのだ。

 

「大丈夫かなぁ……」空は本当に不安そうだ。

 

「大丈夫大丈夫」一方、栞はまったく不安そうではない。「早く行こ」

 

 授業も終わったので、これから3人でカラオケに行くのだ。空を放置するのは可哀想だしね。淋しさと不安で苦しむところもちょっぴり見てみたいけど、流石にそこまで鬼畜ではない。

 

 空のスマホが鳴った。多分、源だろう。

 

「なんて来たの?」私は食いついた。当たり前である。

 

「ちょっと待って」空はスマホを操作し、次いで、渋い顔になる。「『分かった』って言ってる」

 

 ごねてほしかったのだろう。余計に沈んでしまった。

 割と罪悪感があるけど、必要な処置なのだ。許しておくれ。

 

「予想はしてたけど、やっぱり源ってドライなんだな」栞は軽そうな鞄を肩に掛けた。

 

「だね。空みたいな子相手にこれって筋金入りかもね」私は同調した。

 

「どういう意味だよ?」空が疑問を挟む。「私が女っぽくないからじゃねぇのか?」

 

 女っぽくないってあんた。「それ本気で言ってんの?」

 

「本気に決まってんだろ」と言う空の声は、私らの中で1番女の子してる。

 

「あっはー。おもしれー」楽しそうな栞に対して、空は、「おもしれくねぇよ」と不服そうだ。

 

 彼氏のことで頭がいっぱいになっている美少女が、〈私は女っぽくない〉と主張しても説得力はない。あるわけがない。

 

 どうせカラオケでも女子力高めソングを歌うんでしょ? 分かってる分かってる。

 

 

 

 

 

 

 下手ではない。しかし、上手くもない。しかし、声はいいからそこはかとなく格好はついている。

 空の歌はそんな感じだった。ただ、少しだけ意外だったことがある。

 

「アニメ観るんだ」私はほとんど無意識に洩らした。

 

「小学生のころはな」地獄耳なのか、聞こえていたようだ。

 

 空は、歌に興味のない人でも知っている超有名ソングか、少し前に放送していたアニメの主題歌を、曖昧な記憶に従って、一般人の音域で、つまりは音痴なのではなく純粋な知識と技術の不足という理由で音程の安定しない歌い方をする。

 のはいいのだけど、なんというか男の子っぽい歌がやや多い気がするのだ。最近の大ヒット曲(ロック)→5年くらい前の恋愛映画の主題歌(バラード)→比較的歌いやすい男性アイドルの歌→バトルもののアニメの歌、という感じ。別に駄目ではないけど、空のイメージとは違ったから少し驚いた。

 

『~♪』

 

 有名な洋楽の前奏が始まった。

 次は栞だ。彼女は、カラオケ好きの人でもあまり知らないであろうインディーズの洋ロックをよく聴くらしい。好きな歌がカラオケに入っていない、としょっちゅう嘆いている。

 

 栞が歌い出す。日本、というかこの田舎からも出たことがほとんどないくせにやたらと流暢な英語だ。

 子音だけでなく母音も完璧に発音しているように聞こえるのは、どういうことなのか。あなた英語の成績も悪いでしょ? と私はいつも得心がいかない。

 

「かっけー」私とは違い、空は素直に称賛している。

 

 ちなみに、私はボカロ一択だ。高音にこそ真実がある。これは譲れない。

 

 

 

 

 

 

 6日が経った。

 空は日に日に曇ってゆき、そろそろ(あめ)が降るんじゃないか、と私たちを不安にさせている(これはこれで乙である、と主張する派閥もある)。

 原因は言うまでもなく源だ。

 空はここ6日間、源の顔を見ていない。彼は、早退してからずっと学校を休んでいるのだ。うちの学校はいろいろと緩いから、先生たちは問題視していないけど、空は淋しさと不安が爆発しそうになっている──アドバイスに従って、連絡は控えめにしているようだ。

 

 今日は日曜日で暇だったので、私と栞は空の家にお邪魔している。

 デカくて綺麗な家に、空のマウント性能の高さを(いま)だ甘く見ていたと反省した。しかし、空の頭にはマウントという概念はなさそうだ。今は特に。

 

「このまま終わっちゃうのかな……」空が雨模様な声色で言った。

 

 6日ぐらいで何を大袈裟な、と思わなくもないけど、こういう曖昧な感じが続いた結果、自然消滅することもあるので馬鹿にはできない。というより、私のアドバイスが原因なので罪悪感がすごい。

 

「そんなことないって」と言ったものの、距離がどうとか助言しなければよかったかな、と後悔し始めている。

 

「もう直接訊いちゃえば?」栞は深く考えてなさそうだ。「空がさ、『私のこと好きじゃないの?! 私が他の男に中出しキメられてもいいの?!』ってキレればいいんじゃない?」深く考えていないどころか、面白半分だった。

 

「……」ところが、空は真面目に思案している。「そうすっかな」

 

 あっはー、と栞が笑う。

 

「ちょい待ち」私は止めた。そんな言い方したら上手くいくものも上手くいかないだろう。

 

「待たない。もう無理」空から確固たる何かを感じる。「早くくっつかないと死んでしまう」

 

 思っていたよりも依存しているっ……!

 源がやり手なのか、空がちょろいのか。いや、ちょろくはないか。彼女の前には屍(振られた男たち)の山ができている。じゃあ、やっぱりあのぼやっとした源がやり手? 

 人は見かけによらないんだなぁ、と私はまた1つ賢くなった──。

 

 じゃなくて空を止めなければ。「せめて言葉は選びなよ──」

 

 スマホの通知音が鳴った。「あ」と空は声を発する。「源からRINE来た」

 

「おおぅ」と私は動揺し、「へー」と栞は動揺しない。

 

 滑らかな手つきでRINEを確認した空の顔に不安が浮かぶ。「『会って話したいことがある』って」

 

 まさか……。

 

「振られそうじゃん」栞は事も無げに言う。「こんな美人でも振られるときは振られるんだな」

 

「栞!」と私が睨むと、栞は、「冗談だよ、悪かったって」と肩をすぼめた。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 今日も雨が降っている。

 

 僕はどうやら春夏秋冬さんの機嫌を損ねてしまったらしく、昨日からいつもとは違う目を向けられている。

 読心能力も中途半端にしか機能しないから当てにならない。割と困っているような、そうでもないような、そんな感覚を抱えて4時間目の古典を聞き流していると、僕の目の前にワープでもしてきたみたいに突然そいつが現れた。

 

「よー。久しぶり」と言ったのは、ぬらりひょんの八神(やがみ) 君丸(きみまる)──3歳上の、僕の幼なじみだ。

 

 教室にいるみんなは君丸を認識できていない。気づいているのは僕だけ──これがぬらりひょんの異能だ。

 つまり、ここで僕が普通に、〈久しぶりだね〉などと言ってしまうと、みんなから、授業中に突然独り言を喋る奴と認定されてしまう。佐伯(さえき)先生の授業が退屈にすぎるからって、独り言の言い訳にはならないだろう。

 

 なので、筆談する。『今、話せないからあと10分待って』

 

「おー」君丸はおかしそうな声を出す。「ちゃんとしてんなー」

 

 さらさらとシャープペンシルを動かす。『君丸よりはね』

 

「そりゃあそうだ」君丸はからからと笑い、後頭部からしっぽのように垂れ下がっている長い三つ編みを揺らした。

 

 

 

 

 

 

 昼休み、人目を避けようと屋上にやって来た。

 いつもなら屋上の扉は、まるで伝説の大妖怪が封印されているかのように厳重に施錠されているのだけれど、流石は手癖が悪いことで有名なぬらりひょん、鍵をサクッと盗ってきて、カチャッと開けてしまった。

 

 屋上では、何処からか飛んできたとおぼしき正体不明のゴミがちらほらと見受けられる。雨はそうでもない。けど、一応、傘はさしている。

 

「2年ぶりくらい?」手始めに僕は訊ねた。

 

「そんくらいだなー」君丸は広げた傘をくるくると回している。

 

「今日はどうしてこんなとこまで来たの?」君丸は東京に住んでいる。遠路遥々どうしたのだろうか。

 

「実は、妹が、『旅立つ 探すべからず』って掛軸を残して失踪したんだよ」

 

 つまり、探しに来たということか。

 

透緒子(とおこ)ちゃんだっけ? 個性的だね」と分厚いオブラートに包むと、君丸は、「気安く妹の名前を呼んでじゃねぇよ」と包まれていない部分に反応してしまった。

 

 そういえばシスコンだった。

 

「ごめんごめん」悪いとは(つゆ)ほども思っていないけど、とりあえず謝っておく。「それで、妹さんは見つかったの?」

 

「ああ。遊園地で遊んでた」

 

 特に言うことはないけれど、なおざりにするのも(はばか)られるので、「へー、よかったじゃん」とおざなりに返す。

 

「それよりよ」君丸は方向転換。「お前、暇だよな?」

 

 春夏秋冬さんといい君丸といい、よっぽど僕が暇人に見えるらしい。しかし、今は暇ではない。「曇り空の原因について考えているから忙しい」

 

「意味分からん」

 

「恋人のような子を怒らせちゃったんだよ」

 

「へー、何やらかしたん?」

 

 それが分からないから困ってるんだ。「さぁ?」

 

「あーはいはい、そういう感じね。詳しく話してみ」

 

「それが──」と昨日のことを教えた。

 

 すると、「(さとり)のくせにダメダメじゃねぇか」と呆れられた。「水季(みずき)らしいっちゃらしいけどよ」

 

 そうなのか。

 

 それで僕はどうすればいいんだろうか、と口にしようとしたら、「丁度よかった」と君丸がわざとらしく言った。「今日、水季に会いに来たのは、仕事を手伝ってほしいからなんだ」

 

「除霊の?」君丸は心霊関係の仕事をしている。

 

「そう。大口の依頼が入ったんだよ」

 

「それがどうして丁度いいのさ?」

 

 君丸は、はぁー、と日本古来の妖怪のくせにアメリカ人みたいに肩を竦める。傘が横になって雨が顔に当たるが、気にした様子はない。「物でご機嫌を取るんだよ」いいか、と胡散臭い宗教家のような顔で言い、続ける。「俺の仕事を手伝う、バイト代を貰う、その金でプレゼントを買う、謝りつつ彼女にプレゼントを渡す、みんなハッピー。こうなる。分かったか?」

 

 僕は疑いの目を向けた。

 

 君丸がたじろぐ。「な、なんだよ?」

 

「僕に仕事をさせようとして、適当で都合のいいこと言ってない?」

 

「まさか!」と潔白を主張するかのように腕を広げ、また雨に晒される。「そんないい加減なことするわけないじゃないか」

 

「……」無言で異能を発動する。

 

(透緒子が1人、透緒……2人……子が3人……)

 

 嘘でしょ?! そんな防御法ありなの?

 

 

 

 

 

 

 除霊対象の霊は、隣の県との境目にある大きな湖の近くにいるらしい。ので、学校は早退することになった。

 

 君丸の口車に乗るようで少し(しゃく)だけど、そこまで悪い案ではないような気がしたので、彼の車に乗り、現場に向かっている。

 

 でも、1番肝心な怒らせてしまった原因が、(いま)だ分からないままだ。これがはっきりしなければ謝りようがない。

 

 それを訊ねると、「独占欲って分かるか?」と質問を返された。

 

「理解はしているつもりだよ」けど、共感はできない。異性に関して言えば、僕にはない感覚だ。

 

「普通、独占欲っつーのは愛情とセットになってんだよ」それだけじゃねぇけど、とただし書きを置き、続ける。「彼女さんは、お前にやきもちを焼いてほしかったんだよ。それで愛情を確かめようとした」それなのによー、とおちゃらけるように言う。「塩対応にもほどがあるって。お前は彼女の血圧を上げたいのか?」

 

「そうわけじゃないけど……」嫉妬しないことがそこまで重要な問題だとは考えていなかったから、思ったことをそのまま口にしていた。

 

 君丸は更に説明を噛み砕く。「じゃあよ、例えばお前の彼女さんと俺が付き合い始めたらどう思う?」

 

 どうって……。

 

 具体的に考えてみる。

 春夏秋冬さんと君丸が一緒にいる? んー? どんな会話するんだろ? ちょっと興味あるかも。男同士の友だちって感じになりそう。でも、彼氏彼女っぽい雰囲気になったとしたら──。

 

「……言われてみれば、たしかに少し嫌かもしれない」

 

 君丸は苦笑いを洩らす。「その気持ちを誇張して伝えれば、機嫌治してくれるっしょ」あ、あとプレゼントな、バイト代で買ったやつな、と僕の脳に刷り込むように付け加えた。

 

「……」

 

 そうか、と思う。人間に恋するなんてあり得ないと思っていたけど、案外そうでもないみたいだ。

 僕もきっと恋してる。多分。

 

 

 

 

 

 

 春夏秋冬さんからRINEが来た。

 

『頭を冷やすために少し距離を置きたい』

 

『分かった』と返信する。

 

「もう少しで着く」君丸が運転しながら言った。

 

 どこを見ても緑色しかない。僕らの町も東京とかに比べたら田舎だけど、ここは次元が違う。伝説の妖怪が封印されていても不思議ではない。そんな風情がある。 

 

 数分後、メッセージが2つ送られてきた。

 

『別れるとかじゃないから』『浮気すんなよ』

 

 なるほど、と小さく笑い、また『分かった』と送る。

 

 

 

 

 

 

 結論から言うと、除霊はなんとか終えることができた。

 金鵄(きんし)だか八咫烏(やたがらす)だかの霊と鬼ごっこしたり、雨が降っていても普通に読心が使えるようになっていたり、県外に行ったり、鳥頭の馬鹿鳥が派手にやりすぎたり、若作りの鬼ババが説教しに来たりといろいろあったけど、クリアはクリアだ──2度とやりたくない。

 

 見慣れた住宅街を君丸のSUVが進む。やっと帰ってくることができた。

 

「お疲れさん」君丸は言う。

 

「本当にね」非常に疲れた。妖怪じゃなければ倒れていてもおかしくはない。

 

「返す言葉もございません」と君丸が軽い笑いを零したところでアパートに到着した。「ちっと待ってな」と質の良さそうな長財布を開く。

 

 バイト代は、お札をそのまま渡すつもりのようだ。お小遣いを貰う気分になる。

 

「ほい」と手渡されたのは、半年はアパートの家賃の支払いに悩まなくてもよくなる額だ。

 

「ありがと」言ってから、いやでも正当な報酬だよねむしろ少ないまである、と感謝を撤回したい気持ちが湧いてきた。わざわざ撤回はしないけど。

 

「ああ、助かったよ。また頼むぜ」

 

「仕事内容による」ろくに説明もされずに秘境めいた辺境に連れていかれるのは、大変よろしくない。

 

「ははは」という、有耶無耶にしようという魂胆が透けて見える笑い声を聞きつつ、車を降り、ドアを閉める。

 

 ドアウィンドウは完全に開けられている。じとっとした目をしていると、君丸は、「じゃあ俺行くわ! 彼女さんと仲良くな」と勢いのある声を出し、車を発進させて行ってしまった。

 

 ちなみに、このお金って法的にどうなんだろ、といった悩みはない。他の妖怪もみんなこうなのかは知らないけど、少なくとも僕の性格では気にしない。

 

 

 

 

 

 

『お願いがあるんだけど』と妹さん──遥ちゃんにRINEを送ると、『なんですか』『お姉ちゃん変』『何があったんですか』と1文ずつメッセージが返ってきた。

 

『買い物に付き合ってほしい』

 

 すぐに、『え』『私にも手を出すんですか』『こわ』『性欲魔人じゃないですか』と来た。

 

 春夏秋冬さん、と打とうとして、紛らわしいな、と思い、やめる。『空へのプレゼント選びに協力してくれないかな?』

 

『お姉ちゃんは出し(・・)ですか』『ヤバいですね』『行きますけど』『勿論私にも何か買ってくれますよね?』僕の知り合いの中で、遥ちゃんの入力が1番早い。

 

 今の僕はそこそこリッチなので、『いいよ』と軽い気持ちで承諾する。

 

『やった!』『水季さん大好き♡』『いつにします?』『水季さんに合わせますよ♡』

 

「……」

 

 姉妹で性格が違いすぎる。のは問題ないのだけれど、この子、大丈夫だろうか。今からこの調子だと将来どうなるのかな、と思って、『そういうの、ちゃんと相手を選ばないと危ないよ』と深く考えずに送る。

 

『説教きた笑』『親父くさい笑』『まさか例の構文の使い手……』

 

『遥ちゃんに何かあったら、空が悲しむから』

 

『ラブラブっすね笑』『お義兄(にい)さんって呼んだほうがいいですか?笑』

 

 

 

 

 

 

 遥ちゃんにはハイブランドのリップを買ってあげた。税込で5000円いかなかったからいいんだけど、あまり親しいわけでもない高校生にナチュラルにハイブランドの化粧品を要求するあたり、なかなか肝が据わっていると思う。

 遥ちゃんは、〈ありがとうございます。これからも協力は惜しまないんで、いつでも言ってくださいね(お姉ちゃん、水季さんを捕まえてくれてありがとー)〉と喜んでいた。なお、僕はあまり喜べなかった。

 

 春夏秋冬さんを怒らせてしまった日から1週間後の日曜日、僕は彼女の家の前にいた。右手にはトートバッグを提げている。

 

 春夏秋冬さんに、〈会って話したいことがある〉とRINEしたら、〈いま家にいる〉〈どこで会う〉と返信が来た。〈行っていい?〉と訊ねたら、〈うん〉と許しが出たので、いそいそと準備をして、7月の炎天下、とぼとぼと歩いてきたのだ。

 

 チャイムを押す。すると、すぐに玄関が開けられた。

 

「……久しぶり」春夏秋冬さんにいつもの元気がない。読心を使ってみる。

 

(振られるのかな……。嫌だ。絶対やだよ)

 

「……」ごめんね、という言葉は心の中に留め、「久しぶりだね」とだけ声に出す。

 

「入ってくれ」元気はないけど、口調はいつもと変わらない。

 

「お邪魔します」

 

 

 

 

 

 

 両親は仕事に、遥ちゃんは友だちの家に行っているらしく、春夏秋冬さんと2人きりだ。

 

 春夏秋冬さんの部屋で、〈クッション〉という横文字で表現するのが適切に思える小洒落た座布団に座っていると、春夏秋冬さんが麦茶とチョコレートを持ってきた。「お待たせ」と小さめのテーブルにお盆ごと置き、腰を下ろす。

 

「……」「……」2人揃って沈黙してしまった。

 

 このまま、にらめっこを続けていても仕方がないので、「あのさ」と始める。「僕は今まで女の子に対して、〈他の男と仲良くしないでほしい〉とか〈独占したい〉とかって思ったことがなかったんだ」

 

「……」

 

 春夏秋冬さんの状態や考えていることは、物欲に忠実な協力者に探ってもらったので、会う前から把握している。

 

 麦茶に口をつけてから、続ける。「それっていうのは、多分、本気で誰かを好きになったことがなかったからなんだと思う」

 

「なんだよそれ」春夏秋冬さんが苛立ちと悲しみを混ぜ合わせたような声を発する。「じゃあ全部嘘だったのかよ! 好きっていうのも一緒にいた時間も全部、ぜんぶ……」

 

「違うんだ。そうじゃな──」

 

「違わないだろ!」険しい瞳に涙が滲んでいる。

 

「違う。春夏秋冬さんだけは違ったんだ」声を(あら)らげるのは苦手だから、いつもの語勢で僕は言った。

 

「……」

 

「本気になった経験がないから、なかなか気づけなかった。本気になるなんてあり得ないと考えていたから、春夏秋冬さんがモテることに対しても特に何も感じないのだと思い込んでいた」息継ぎをする。「でも、いろいろ考えてようやく分かった。僕は君に恋してる。自分でも驚いているけど、春夏秋冬さんを誰にも渡したくないと思うくらい、本気だよ。本気で好きなんだ」

 

「……ぇ、ぁぅ……」春夏秋冬さんがみるみる赤くなっていく。

 

「今までごめんね」

 

「……ぅん、もう、怒っ、てない」顔を真っ赤にして激怒している、との解釈が成立するくらいには赤いけど本当に怒ってないの? と訊いてみたいというのが本音だけど、流石に我慢する。

 

「ちゃんと言葉にしてなかったから、今から言うね」なんだか変な感じだけど、言うねって言っちゃったから、言う。「僕の彼女になってほしい」

 

「……ぇ、ぅぅ……ぁぅ……」

 

 感情が爆発して言語機能に障害の発生している春夏秋冬さんを眺めながら黙って待つ。

 これで振られたらカッコ悪い振られ方選手権の決勝トーナメントに出場できそうだ。

 

 しかし、数分経って復活した春夏秋冬さんが、「今更かよ。遅すぎだ、ばか。けど、可哀想だからギリギリ許してやる」と依然として赤いまま口にしたので、惜しくも大会出場資格を逃してしまった。 

 

「じゃあ、ついでにもう1つ許してほしいことがあるんだけど、いいかな?」

 

「な、なんだよ」なぜか身構えている。

 

「これからは、空って呼びたい」

 

「ぁぅ……」また待つことになるのかな、と思ったけど、すぐに、「い、いいぞ」と言語機能の正常っぷりをアピールしてきたので、よかった。「その代わり、私も、み、み、水季(みずき)って呼ぶから」

 

「みみみずき、じゃなくて水季ね」

 

 さて、と次のミッションに移る。

 ミッション達成の必須アイテム──やたらと人件費の掛かったプレゼントを取り出そうと、持ってきた安物のトートバッグのファスナーを開ける。すると、またしても空は警戒するのように顔を強張らせた。

 

 さっきからなんなんだろ? と異能を発動させる。

 

(今度は何をするつもりだ? これ以上は嬉しすぎて頭がおかしくなる。行動もめちゃくちゃになる自信がある。そしたら引かれ──待てよ。世の中そんなに都合良くいくか? いかないよな。……つーことは、これは夢? 起きたらまた源……水季がいないのか? それで私は振られる……?)

 

 混乱を極めてまた涙目になっている。やっぱり根本的に不思議な思考回路をしているようだ。

 

「振らないから落ち着いて」

 

「お、おう」

 

「これあげる」と白いリボンが掛けられた箱をテーブルに置く。「臨時のバイト代が入ったから、プレゼント」

 

「ぉ、ぉう」ぷるぷるしている。「開け、てもい、いか?」

 

「いいよ」

 

 空は、しゅるり、とリボンを(ほど)き、実際にはどうか分からないけど雰囲気だけは高級な包装紙を(ひら)いてゆく。そして、蓋を外す。

 

 箱の中には白を基調としたデザインの腕時計がある──僕が買ったのは、頑丈なことで有名な腕時計だ。

 正直、デザインだけで選ぶなら他のにしていたのだけど、この人、身体を動かすのが好きだから丈夫なほうがいいかな、と思ってこれにした。

 

「それ、ペアウォッチになってるんだ」トートバッグから僕のやつ──包装された箱を取り出し、「こういうの嫌じゃなかった?」と空のやつの横に並べる。

 

「いやじゃない……」しかし、空は動かない。

 

「そっか。よかったよ」と隙だらけの手首に時計を着けてやる。

 

「あり、がと……」

 

 遥ちゃんが密かに拝借してきた空の腕時計を参考にバンド調整をしただけはあって、丁度良いサイズ感に見える。

 

 突然、空は、すくっと立ち上がった。僕の横に移動し、すとん、と座る。そして、もたれ掛かるように抱きついてきた。そのまま押し倒される。

 

「すき、すき……」僕の胸に頬を密着させるようにした空が囁き声で繰り返す。

 

「僕も好きだよ」と頭を撫でると、指が空の耳に触れ──「んっ……」と空が、(つぼみ)のような吐息を洩らす。「……」僅かな沈黙の後、むくり、と顔を上げた彼女は、僕の唇を啄み、「すき」と囁いた。すぐに、今度は頬に口づけをし、「すき」とまた言い、首にキス──「すき」とキスの雨を降らし始めた。

 

(すき、すき、すき……)

 

 心の中も同じ言葉がループしている。これは大丈夫なのかな? 落ち着いたらいつもの空に戻ってくれるのだろうか? 

 

 と少し心配になったけれど、可愛いからこのままでもいいか、と空の後頭部に手を回す。

 察した空が切なげな瞳で僕を見つめる──すぐに彼女を引き寄せ、美味しそうな桜色の唇を僕のものにする。あえて核心を避けるように中には()れず、下唇を甘噛み──口内に柔らかな感覚。

 空のほうから舌を挿入してきた。逆らわずに彼女を受け入れ、流れのままに彼女の口内を味わう。

 今までに感じたことのない感情が、僕の中で膨れ上がってゆく。戸惑いはあるけれど、悪い感じはしない。

 その情動に従い、より激しく空を求める。

 そうして深く深くキスを交わし続けていると、空が不意に唇を離し、上体を起こした。

 

 彼女は大きく息を吸い、吐く。

 

 そんな、なんでもないことさえ愛おしく思えてしまう──僕はおかしくなってしまったようだ。

 

 なので、言わずにはいられない。「空のこういうところ」と彼女の腰に手を添える。「僕以外に見せたら駄目だよ」

 

「──」

 

 空は、麗らかに微笑んだ。

 

 



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迷えるメロディ①

8話と9話は連続投稿です。


水季(みずき)に愛してるって伝えたい)

 

 僕の部屋で、映画──1つ歳を取るたびに親しい人が自殺する淋しがり屋の女の話──を観ているふりをしている空は、ちらちらとこちらに視線をやったりやらなかったりしながら、そんなことを考えていた。

 

(でも、なんだか恥ずかし……。愛してる、なんて誰にも言ったことねぇよ。いきなり言ったら変だよな……?)

 

 少なくとも僕らが今、観ている映画よりは変じゃない。

 

「水季はさ、私に言われたい言葉ってあるか?」さらっとした声音で訊かれた。 

 

「あるよ」

 

「例えば?」大して興味のなさそうな雰囲気を頑張って作っているようだけど、心の中は、(水季も同じことを考えてくれてる? 嬉しいな……。ん? もしかしてエロいセリフか……? いったい何を言わされるんだ? それはそれで恥ずかし……。でも、言ったらもっと激しく……)とあらぬ方向に進んでいる。空の頬にじんわりと赤が広がり始めた。

 

 期待を裏切ってみる。「『これからは辛いものも絶対に完食すると約束します』かな」

 

「……」違うそうじゃないもっとあるだろ、とでも言いたげな瞳が僕を射貫く。しかし、素直に〈愛してる〉と言葉にすることはできないようだ。

 

 そんな空にお手本を見せるかのように、『愛してる』とテレビの中の女優さんが口にした。『あなたのいない世界に価値はない。あなたがいなければ私は生きていけない。愛してる。本当に愛してるの。だから……』

 

「……」2人きりだと空はすぐに赤くなる。(ぎゅぅってしてほしい)

 

 らしいので、「おいで」と呼ぶ。

 

 やにわに、スマホが鳴った。空のだ。

 

 しかし、空にスマホを確認する気はないらしく、スマホとは反対方向にいる僕に近づき、抱きつく。

 そりゃないっすよ。先にこっちを見てから始めてださいよ。スマホに心と口があったとしたら、こんなことを言いそうだな、とくだらないことを思う。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 姉さんは東京でガールズバンドをやっている。憧れていたインディーズレーベルと契約できた、と無邪気に喜んでいたのが、およそ1年半前のことだ。

 彼女たちの音楽活動は順調なようで、いつも楽しそうにライブの話や出演したテレビ番組の話をしてくれる。

 

 しかし、スマホ越しに見る、今日の姉さんは冴えない顔をしている。『(しおり)ちゃんはどう思う?』

 

「そうだなぁ……」

 

 姉さん曰く、最近ライブハウスで怪奇現象が発生しているらしい。ライブ終了後のパブタイムという名の打ち上げの時に、黒板をひっかいたような音が聞こえるそうだ。

 

「はっきりとは分からないけど、幽霊じゃない?」夏だしな、と笑う。

 

『やっぱりそう思うよね』と嫌そうに顔を歪める。

 

「でも、音が鳴るだけなんでしょ?」そんなに怖がらなくてもいいじゃん。

 

『もう! ひと事だと思って!』姉さんは、バンドのボーカルよりも幼稚園の先生とかが似合う、おっとりとした容姿をしているので怒ってもまったく迫力がない。

 

「あのさ」

 

『あによ』不満たらたらだが、やはり怖さはない。

 

「私のクラスにものすごく霊感の強いバカップルがいるんだけど、訊いてみようか?」私にも霊感はあるが、多分彼女たちのほうが上だ。

 

『いいの?』姉さんはコロっと表情を変えた。『ありがとう。栞ちゃん優しいー』

 

 本当は初めから怒っていなかったのではないか。そう思わせる笑顔だ。

 

『それで』と落ち着いた声音に切り替えた姉さんは、『どんな子たちなの? そのバカップルは』と問うた。

 

「スーパー美人な依存女と童顔のドライ男」

 

『……キャラ濃そうだね』

 

 そうかもしれない。

 

 

 

 

 

 

『ごめん、気づかなかった』私がRINE(ライン)を送ってから約1時間30分後にバカップルの片割れ──空から返信が来た。『相談って何?』

 

 いまいち信用できない言い訳については触れずに、『空たちって霊感強いんだよね? 幽霊関係なんだけど、今って通話できる?』と訊ねる。

 

『できるよ』

 

 ということなので電話を掛ける。すぐに、『おう、どうした?』と見た目からは想像もつかない男口調が耳に飛び込んできた。

 

「それが──」と姉さんの周りで起こっていることを説明する。一通り話し終え、「音を止めるにはどうすればいいと思う?」と意見を求めてみる。

 

『ちょっと分からん。水季に訊いていい?』

 

「頼む」

 

『おっけー』

 

 ──なんかライブハウスでポルターガイストっぽい変な音がするんだって。ふーん。どうすれば消えるんだ? 原因によって違うから一概には答えられない。そうなんか。うん、見てみないことにははっきりしたことは言えない。

 

 どんな距離で話しているのか、2人の声が丸聞こえだ。

 

『現場に行かないと分からないってよ』空は言った。

 

「全部、聞こえてた。今はどういう体勢なの?」

 

『た、体勢? 普通な感じだけど……』見事な尻すぼみだ。

 

「今日、すごく暑いよね」

 

『うん? それがどうしたんだ?』

 

「くっついてると暑くない?」

 

『冷房もあるし服も着てないから丁度い……』何かに気づいた空は言葉を止めた。

 

「空さ、頭ポンチキって言われるでしょ?」

 

『……』

 

 

 

 

 

 

 後日、市立の図書館の休憩スペースで咲良に姉さんのことを話したら、彼女は、「じゃあ、みんなで東京に遊びに行こうよ」と軽い語調で言った。〈帰りにファーストフード店に寄っていこうよ〉と言う時とまったく同じ顔をしている。「せっかくの夏休みなんだし、丁度いいんじゃない?」

 

 言われてみればそんな気もする。久しぶりに姉さんに会いたいし、彼女たちのライブも観たいし、たしかに丁度いいかもしれない。

 

「私はいいぞ」いちごミルクを飲み干した空が先に賛成した。「でも、どこに泊まるんだ?」

 

「多分、姉さんのマンションに泊まらせてもらえると思うけど……」と空を見る。

 

「なんだよ?」大量の糖分を摂取したくせに、空の頭はあまり働いていないらしい。

 

 一方、無糖のストレートティに口をつけた咲良はそうではないようだ。「源はなんて言うかな、ってことでしょ?」

 

「そうそう」私は肯首した。

 

「あー、たしかに、来るにしても女だらけの所に男1人で泊まるのは嫌がるかも」つーか私がしてほしくない、と空は細君(さいくん)らしい貫禄で付け足した。

 

 にやにやと咲良が嫌らしい笑みを見せる。「空と源はホテルにでも泊まれば?」

 

 空は間に髪を容れずに、「それは名案だ」と咲良を褒める。

 

 その様子を見て私は思い出した。そういえばさ、と話の舵を切る。「この前、私のRINE無視して源とヤってたよね?」

 

「お」と咲良が食いつき、「え゛」と空が顔色を変える。

 

「源ってどういう感じなの? 巧いの?」あのぼんやりした源がエッチをしているところはあんまり想像できない。だから、気になる。

 

 それは咲良も同じなのだろう。勉強している時とは比べものにならないほど目を耀かせている。「好きな体位について一言お願いします」とエアマイクを空に向けた。

 

 しかし、顔を赤くするだけで、「うるせぇな、なんでもいいだろ」と教えるつもりはないようだ。

 

「空は密着できるやつが好きそうだな」私の中で、〈空=ひっつき虫〉という等式が真理になっている。

 

「分かる」と応じた咲良は、「で、源は?」と迷惑なゴシップ記者に成りきる。

 

「ぅぅ」と悩ましげな声。しかし、逃れられないと観念したのか、「……顔のよく見えるやつがいいらしい」と白状した。

 

「あんた相手なら誰でもそう言うって」咲良は拍子抜けしてしまったらしい。声から張りが消えている。「他になんか面白いネタはないの?」

 

「面白いネタって、お前なぁ」空は呆れを浮かべた。けれど、「他の奴は知らないから違うかもしんないけど、多分、水季は巧いと思う」と咲良の期待に応える。

 

「ほー」咲良は興味を復活させた。

 

「おー」勿論、私も興味がある。

 

「その心は?」と問うたのは咲良だ。

 

 もじもじした空は、「……私の考えてることを全部分かってるみたいに、何も言わなくても、してほしいことをたくさんしてくれる」と更にもじもじする。

 

「すご」「ヤバイわそれ」言葉は違えど、私と咲良の心境は一致しているはずだ。

 

 源の意外な一面に驚愕する私たちに対し、空は心なしかどや顔をしている。

 

 ふと思う。もしかしてここまでの流れも全て計算して匂わせた……?

 

 空を見る。頭、空っぽそうな雰囲気を漂わせている。やはり気のせいだろう。この子にそんな真似は無理だ。

 

「東京では迷子にならないように気をつけなよ」私は知らず知らず、そう言っていた。

 

「子どもじゃねぇんだからならねぇよ」

 

 本当だろうか?

 

 

 

 

 

 

 私たちは東京駅にいた。姉さんが迎えに来るのを待っているのだ。

 

 東京に行くメンバーは、予定どおり私、咲良、空、源の4人だ。

 空は、大きなサングラスを掛けて現れた。人が多い所だと視線がウザすぎるかららしい。芸能人かよ、というツッコミが脳裏を(かす)めたが、〈モデルとグラビアをやってます〉と言っても誰も疑わないレベルの容姿をしているから、素直に、美人も大変だな、と納得してしまった。

 

 けど、サングラス程度では隠しきるのは難しいようで、今も東京駅の人混みの中から空を見つけた人が、ちらちらと彼女を見ている。男女を問わずというのがまた恐ろしい。

 そんな彼ら彼女らが次に見るのは、一目でそれと分かる距離にいる源だ。鬱陶しい感情が飛んできているが、源はどこ吹く風でいつものぼやっとした顔をしている。

 

「源ってさ、美人と付き合うのに慣れてるのか?」私は源に訊いた。

 

 一瞬だけ空に目をやった源は、「慣れてないよ」と受け流すように否定した。

 

「エッチが得意な遊び人なのに?」からかってみる。

 

「得意ではないし、遊び人でもないよ」

 

「ふーん」

 

 

 

 

 

 

 姉さんの第一声は〈栞ちゃん、久しぶりー〉で、その次は〈こんな可愛い子、実在するんだねぇ〉であった。

 

 姉さんの車──7人まで乗れるミニバンだ──でまずは彼女のマンションへ向かう。荷物を置いてから少し休んで、それから問題のライブハウスへ行くのだ。

 

文音(あやね)さんは普段は何を聴くんですか?」咲良が運転席の姉さんに訊ねた。「やっぱり洋楽ですか?」

 

「栞ちゃんはそうだけど」と姉さんが笑う。「私が好きなのは邦ロック」

 

「へー、カッコいい系が好きなんですね」咲良は無難に返した。

 

「そんなふうに見えないでしょ? もっとゆったりした歌が好きそうってよく言われるんだ」

 

「それは否定できないですね」咲良はおかしそうに息を吐き、「空も前、ロック歌ってたよね?」と隣に座る空に話を振る。

 

「え」歌にはそれほど興味のない空は、会話に参加しようとは思っていなかったのだろう。不意打ちに、驚いた声を洩らした。「私?」

 

「うん」咲良は頷き、「Fake laughter(フェイク ラフター)歌ってたじゃん」と曲名を口にした。

 

「歌ったけど……」という空の言葉と、「あー、あれね」という姉さんの声が重なった。

 

「空って歌声も可愛いんですよ」ズルいですよね、と咲良は言う。

 

「へぇー、聴きたいなぁ」姉さんも乗る。「ちょろっと歌ってくれると、お姉ちゃん嬉しいなぁー」いつからこの人は空の姉に転職したのだろうか?

 

「え゛」空は、声帯を閉鎖するだけでなく喉も締めてしまった声を出した。「プロに聞かせられるレベルじゃないっすよ」

 

「そんなの気にしなくていいのにー。でも、どうしても嫌なら1番だけ(ワンコーラス)でいいよー」姉さんは見かけよりずっと押しが強い。「はい! じゃあ、いってみよー」

 

「Yeah!」「いえー!」私と咲良が阿吽(あうん)の腹式呼吸で退路を塞ぐ。

 

「ワンコーラス? え?」空は混乱している。「歌うの? マジで? しかもアカペラ?」

 

 ここで今まで黙っていた源が一言。「僕も聴きたいな」

 

「……」途端におとなしくなった。そして、「分かったよ。しゃーねぇな」とぶっきらぼうに口にした。

 

 あっはー。姉さんは笑った。

 

 

 

 

 

 

 問題のライブハウスは吉祥寺(きちじょうじ)にある。

 地下への階段を下る。壁には大量の広告(フライヤー)が張られているが、ごちゃごちゃしすぎていて見る気が湧いてこない。

regret(リグレット)〉という文字が記された扉に突き当たった。姉さんが何の躊躇(ためら)いもなく開ける。

 

 入ってすぐの、右手側のフロントで何やら作業をしていた男性──ネームプレートには〈(しずか) 健太郎(けんたろう)〉とある──が顔をこちらに向ける。「あ! 文音ちゃん、いらっしゃい」と声を弾ませた。

 

「はぁい、お疲れー」と返した姉さんは、「助っ人連れてきたよ」と空と源を見る。

 

「うす」「こんばんは」

 

「おー、可愛いじゃん」静さんは源を見て、言った。「吉祥寺の子?」

 

「!?」空は唖然とする。

 

 しかし、源は平然としている。「東北の田舎から来ました」

 

「マジか」空ほどではないが静さんも驚く。「遠いとこからありがとな」

 

「早速、調べてもいいですか?」源はホールの入口の扉に視線をやる。

 

 今日は、ライブはお休みでミュージシャンやお客さんはいない。

 

「もちろん」静は即答した。

 

 

 

 

 

 

 ステージに彼女はいた。

 そこにいるのに輪郭が曖昧で認識しづらい。顔は特にぼやけていて、まるでモザイクが掛かっているかのようだ。声が女性のものだから、かろうじて性別は分かるけれど、それ以外はほとんど分からない。

 彼女は間違いなく幽霊だ。私、空、源以外は認識できないみたいだが、確かに存在している──姉さんの言う〈黒板をひっかいたような音〉は、霊感のある私たちには優しい歌声に聞こえる。つまり、ポルターガイストの正体は彼女の歌だったのだ。

 彼女曰く、自分の名前も年齢も住んでいた場所も愛する人のこともほとんど全て思い出せないそうだ。

 けれど、好きな人に会いたい。あの声をもう1度聴きたい。

 そう思って歌っていた──歌っていると恋人が会いに来てくれる気がしていろんな所で歌っていたそうだ。それで、今日はたまたま〈regret〉に来ていたらしい。

 

「うぅ……」空が涙ぐんでいる。源のTシャツの裾を強く握っているのは、空の弱さのせいだろうか。愛情の深さのせいだろうか。

 

「あーもう、泣かないで」綺麗なふたかめが腫れちゃうよ、と幽霊さんが空に言う。

 

 ぐしぐしと源のTシャツで涙を拭いた空は、「だって、ぅぅ、好きな人のことも思い出せないなんて、そんなの悲しすぎる」と迷惑そうな顔をしている恋人のことはスルーして、答えた。源は、鼻はかまないでね、と油断なく構えている。

 

「ありがとね」幽霊さんは笑った。顔は見えないけれど、きっとそうだろう。

 

「水季ぃ」と源のTシャツを更にくしゃくしゃにする。「なんとかしてやってよぅ」可哀想だよぅ、と鼻を啜った。彼のTシャツもなかなかに可哀想だ。

 

「……」源はすぐには答えず、けれど、そう間を置かずに、「分かった。やってみるよ」と少しだけ乱れてしまった空の髪を()いた。

 

「ねぇねぇ」と背中をつつかれた。振り返ると咲良が居心地悪そうに、「私はどうすればいいのかな……」と訊ねてきた。

 

 それは私にも分からん。

 

 

 

 

 

 

 数分後、取り乱して悪かった、と空が復活を宣言したので、情報を整理しよう、と私は提案した。

 そうして詳しく話を聞き、〈生前は恋人と2人でバンドを組んでいた〉〈バンドは、おそらく男女混声ボーカル〉〈死因は癌〉〈歌は、彼女たちのオリジナル曲を1曲だけ覚えている(歌っていたのはこの曲だ)〉〈オリジナル曲のタイトルは不明〉ということが分かった。しかし、裏を返せばこれしか分からないということだ。これっぽっちの情報で恋人を捜し出せるのだろうか。

 

 まずは幽霊さんの歌の歌詞を検索してみたが、それらしいものは見つからなかった。メロディから歌を探すアプリでも駄目。ということは、〈プロではなかった〉又は〈まだ発表していなかった〉のどちらかだろう。

 次に、〈バンド〉〈癌〉〈女〉で検索したが、これも空振り。

 

「姉さんは心当たりない?」私は訊ねた。

 

「それが、ないんだよねぇ」姉さんは静さんに顔を向ける。「健太郎くんは?」

 

「うーん、俺も記憶にない」20年近くこの業界にいるんだけどなぁ、と呟いた。

 

「私たち、全然人気なかったのかもね」幽霊さんは感情を窺わせない声を発した。

 

「いやでも、歌はかなり上手いですよ」と私はフォローする。それだけでやっていけるような甘い世界ではない、と姉さんたちを見ていると思うけれど。

 

「なぁ水季」と言ったのは空だ。「ちょっとあれやって」

 

 あれってなんだよ、とクエスチョンマークを浮かべる私たちを嘲笑うかのようにすぐに察した源は、「いいけど」と答え、そして、幽霊さんの声で、「何をするんだろう?」と言った。

 

「嘘……」「エッチ以外も得意なのかよ」「ひゅ~」「いい声帯操作ねぇ」「私の声やっぱりかわいい!」

 

「へへ」と空が嬉しそうにしたので、すかさず、「彼氏自慢かよ」「はいはい、よかったね」と私と咲良が仕事をする。

 

「ち、ちげぇよ」彼氏自慢とかしてねぇしバカじゃねぇの、と抗議の声を上げた空は、「水季がこの声で歌うところをSNSにアップして、『私とバンドをやっていた人は連絡ください』って呼び掛ければ恋人からダイレクトメッセージ(DM)が来るんじゃねぇか、って思ったんだよ」と言い訳と提案を両立させた。いちいち自慢なんてしねぇよキリねぇし、と自慢と惚気をトッピングすることも忘れない。

 

「悪いけど、僕は歌唱力や歌い方の癖まではコピーできないよ」

 

「そうなんか……」空はしょぼくれた。

 

「それだけ柔軟な喉があるなら歌も上手いんじゃない?」と姉さんが言うも、「歌は普通ですよ。普通の素人です」と源は否定した。しかし、「それよりも」と続ける。「この中に魂の相性のいい人がいれば、その人に憑依してもらって、それで幽霊の彼女が主導して歌えばそれなりの完成度の動画はできると思うよ」

 

 つまり、誰かが幽霊さんに身体を貸してあげるということか。そうすれば、彼女の歌をみんなに聞かせることができる、ひいては彼氏にも気づいてもらえるかもしれない、と。

 

「おもしろそう! やってみたい!」幽霊さんは乗り気だ。

 

「いいね。こういうノリ嫌いじゃないよ」静さんも便乗する。

 

「〈White Headache(ホワイト ヘェデイク)〉も協力してあげる」姉さんはバンドメンバーも動かす気らしい。

 

 やる気になっている大人組に源は言う。「憑依に適した魂の人がいなければ無理ですからね?」

 

「分かってるって」と幽霊のことをあまり分かっていなそうな静が答えた。「けど、可能性はあるんだろ? ならやってみようぜ」

 

「止めてるわけではないですよ」期待しすぎないほうがいいってだけです、と源はどこまでも冷静だ。「憑依の仕方って分かりますか?」と幽霊さんに問う。

 

「分かんない!」顔は見えないけれど、爽やかな青空のような笑みが目に浮かぶ、元気な声だ。

 

 大丈夫か、これ?

 

 

 

 

 

 

「どうかな?」幽霊さんに憑依された空が問う。空が同時に、というより、幽霊さんが問う、だろうか。

 

 力のない霊が生きた人間に憑依するには魂の相性が重要だと源は説明した。基本的には同性かつ同世代のほうが憑依成功率が高いそうだ。

 とはいえ、私たちの中で憑依を成功させたのは空だけだった。

 幽霊さんは、〈何この身体……。後輪駆動のスーパーカーで雪道を運転してる気分なんだけど〉と分かるような分からないようなことを零していたものの、ライブハウスにあるキーボードを演奏し、歌った。

 曲調は今の流行りとは少し違う。が、それほど古くさい印象もない。テンポは速くもなければ遅くもない、よくあるJーPOPといった感じだ。

 声自体は空のものだけれど、それが曲の魅力を低下させてはいないし、歌唱技術もプロで通用するラインを上回っている。

 切なく、優しい歌だ。1番で終わってしまった幼く自分勝手な恋に思いを馳せ、2番で未だ(くすぶ)恋慕(れんぼ)の情に気づき、ラスサビで再会して想いを告げる。そんな陳腐なストーリー。

 

 正直に言うと、私の好みとは違う。好き好んで聴くことはないだろう。

 でも、間違いなく素晴らしい歌だ。

 

 それだけにもどかしい。この歌は1人で歌うようには作られていない。今、私たちが聴いたのは、男性パートもすべて女性である空が1人で歌ったバージョンだ。

 

「いいと思うよ」源が言う。

 

「だな」静さんも同意する。「ちょっと違和感はあるけど、みんな素人の歌とは思わないだろうね」

 

「どうする? ギターとかベースは要る?」姉さんは、必要があればバンドメンバーを呼び出すつもりのようだ。

 

「ありがと」幽霊さんは微笑み、「でも、大丈夫」とキーボードを弄ぶ。滑らかに指が踊り、たった今聴いたばかりの旋律が再び静かなライブハウスに響く。「これだけで十分」言ってから喉に指を当てた。「けど、もう少し練習させて。まだおっかなびっくりなとこがあるから」と続けた。

 

「おっけー。じゃあ、家の防音室使っていいよ。楽器も一通り揃ってるし」狭いけどね、と姉さんは笑う。

 

「ホント?! ありがとー」喜びの声を発した。

 

「撮影場所はどうする?」静さんは姉さんに訊ねた。

 

「やるなら妥協はしたくないし、スタジオ借りようよ。お金は出してあげる」

 

 と姉さんが太っ腹なことを言ったのとほとんど同時に、ぽやんとした音がした。源がスマホを取り出したので、彼のスマホの通知音だったのだろう。確認した源は口を開く。「少し気になることがあるから僕は別行動を取るね」

 

「え! なんで?!」空は、悲痛に近い感情の混じった声を上げた。これは幽霊さんの操作によるものではないだろう。表情の動かし方や語調が完全にいつもの空だ。

 

「……答え合わせのためかな」

 

 えー、という空の声がライブハウスに染み渡った。

 

 

 

 

 

 

〈水季1人で動くのか?〉〈いや、東京の友だちに協力してもらう〉〈女?〉〈男〉〈証拠は?〉〈証拠って言われても……〉〈じゃあ一緒にいるとこの写真送って〉〈分かった〉〈どれくらいで帰ってくる?〉〈早ければ3日ぐらいだと思う。けど、上手くいかなければもう少し掛かるかな〉〈そんなに掛かんのか〉〈多分〉〈……ちゃんと小まめにRINEしなきゃ駄目だからな〉〈知ってる〉〈めんどくさいって思ってるだろ〉〈少しね。でも嫌じゃないよ〉〈……うん〉

 

 という会話がバカップルの間で交わされたのが3日前。

 そして、姉さんたちのバンド、〈White Headache(ホワイト ヘェデイク)〉のアカウント──彼女たちは以前から自分たちの曲を上げていた──を使い、幽霊さんの歌ってみた動画を投稿したのが昨夜のことだ。そちらのほうがいいスタートダッシュを切れるから、と姉さんはバンドメンバーに話を通したのだ。

 空がサムネイルを飾ったらそれだけで十分な訴求力を得られると私は思ったのだが、空は、〈顔出しだけは嫌。それは絶対に無理〉と突っぱねた。

  

 というわけで、顔は見せない方向の動画になった。しかし、スタイルもいいので首から下だけでもそれなりの集客力はあったようで、動画の再生数は順調に伸びている。

 動画の説明欄には〈この曲を知っている方はDMを下さい〉と載せてあり、現在、幽霊さんの彼氏さんか彼女たちを知る人物からのDMを待っているのだが──。

 

「それっぽいの来ねぇな」姉さんのパソコンを睨みつけていた空が、自身の座る椅子を回し、こちらに正面を向けた。「考えが甘かったんかなぁ」

 

 私たちは姉さんの部屋にいる。

 

「これくらいしかできることってないから甘いも苦いもないさ」というふうに慰めてはみたが、空は難しい顔で、「まぁな」とだけ応えて、胸の大きさについてのコメントに低評価を付与した。

 

 姉さんと静さんは東京の音楽関係者に〈癌で亡くなった女性ボーカリストのいた、男女混声ボーカルのバンド〉について訊いてくれた。が、みんな、〈知らない〉と首を振るばかりだったらしい。

 

 割と困っている。

 

 動画を投稿してからまだ15時間くらいしか経っていないのだから焦らずに待つべきなのだが、そうも言っていられないのだ。

 

 窓際で雲1つない青空を見ている幽霊さんに目をやる。気づいた彼女は薄ぼんやりとした顔を私に向けた。「どうしたの?」

 

「何でもない」

 

 彼女は3日前よりも存在感が希薄になっている。時間はもうほとんど残されていないということだ。

 最近になってポルターガイストが発生したのは、源曰く、消滅を悟った彼女の焦りが霊力を強めた結果らしいし、こうなることは最初から分かっていた。しかし、そうはいってもあまりいい気分ではない。

 

 不意に彼女は揺蕩(たゆた)う。「最期にもう1つ我が儘言っていいかな?」

 

「おう?」なんだ? と空が応じた。白いTシャツ越しにインナーがうっすらと透けている。

 

「消えちゃう前にライブがしたい」躊躇(ためら)いがちな様子で彼女は輪郭を揺らした。

 

「お、おう……」煮え切らない返事だ。

 

 空は、一部例外はあるものの、容姿を持て(はや)されるのを嫌っている。

 

 つっても、中規模以下のライブハウスでなら、そこまで大事(おおごと)にはならないっしょ。「仮面を被って歌えばいいんじゃない? オペラとかで見る、上半分だけ覆うやつ」指で輪を作り、目元に当てる。

 

「あー、それならまぁ……」空って意外と押しに弱い?

 

「源も惚れ直すんじゃない?」と根拠のないことを言ってみる。「ステージで歌ってるいつもと違う空を見たら、『可愛い』とか『カッコいい』って褒めてくれるかもよ」いや確実に褒める、と訳知り顔を作る。「今まで以上に可愛がってくれるようになるよ、間違いなく」

 

 うんうん、と幽霊さんも頷いている。はず。

 

「……」空の、新雪のような白に桃色が浮かび上がってゆく。「ま、まぁ、水季のことは抜きにしても、仮面ありでいいならやってもいいぜ」

 

「あっはー、空、ちょれー」

 

「……」

 




ポンチキに恨みはないです。響きが可愛いから使ってるだけです。


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迷えるメロディ②

8話と9話は連続投稿です。


 ライブハウス、〈regret(リグレット)〉にて、幽霊さんと空は歌った。

 観客もそれなりに聴き入っていたし、ライブ自体は成功と言ってもいいはずだ。

 しかし、彼女たちの顔は冴えない。幽霊さんの彼氏は見つからないし、源もここにはいないからだ。

 源はまだ少し掛かるらしい。いったい何をしているのか。一応、三つ編みの軽薄そうな男との写真を送ってきたから、嘘はついていないと思われるが、詳細は話してくれないみたいだ。

 

 現在の時刻は24時過ぎ。〈regret〉の営業終了時間は24時だ。後片付けを手伝おうと申し出たのだが、〈子どもは寝る時間だぜ〉と静は私たちを追い出した。礼は述べておいた。

 外はまだ蒸し暑い。東京の夏は、私たちの町のそれよりもずっと湿っている。郷土愛なんて1ミリも持ち合わせていないけれど、慣れ親しんだ夏のほうが私は好きだ。

 

 最寄りの駐車場を目指して街を歩きながら、姉さんは空とその隣の空間に一瞬だけ視線をやった。「すごく良かったよ」

 

 初めて憑依して歌った時に比べ、のびのびと声を出せていた。硬さは歌の天敵だ。慣れたことでそれがなくなったというのは、やはり大きかったのだろう。

 

「ありがと」「うん」幽霊さんと空がそれぞれ応えた。

 

「それにしても」と咲良は言う。「幽霊って本当にいるんだねぇ」

 

「本当にね」幽霊さんが真っ先に同意した。「私もまさか実在するとは思ってなかったよ」しかし、この声は咲良には届いていない。なので、私が代わりに、「自分でも驚いてるって」と伝える。

 

 そういうもんなのかぁ、という呟きは風に乗り、どこかに消える。

 

「ん」空はダメージジーンズのポケットに手を入れ、スマホを取り出した。

 

「どうしたの?」姉さんが訊ねる。

 

 答えるより先に空は嬉しそうに、そして、安心したように相好(そうごう)を崩した。「水季が、『吉祥寺に着いた』って!」

 

 同性でもドキリとする、心の柔らかい所を(くすぐ)る笑顔だ。

 

 うひゃー、と誰かが洩らした。もしかしたら私かもしれない。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 僕のような音楽に興味のない妖怪が、ライブハウスなる空間に足を踏み入れる日が来るとはまったく思っていなかった。なんだか陰気くさいな、というのが、陰気くさい僕が最初に抱いた感想だった。もっとたくさん人がいれば印象は違ったかもしれないが、いないのだから仕方ない。

 

 僕を〈可愛い〉と言った静という男性に、バンドマンなる如何にも如何わしいカテゴリーの人間が騒ぎ立てる場所へと案内された──案内といっても、迷路ではないから僕らだけでも迷う可能性はない。したがって、今のところ僕の中で静さんの存在意義はない。

 

「あ」という声が誰から発せられたのかを突き止める前に、僕はステージで歌う女性を発見した。

 

「水季」と空にTシャツの裾を掴まれた。

 

「分かってる」そう答えると、「どんな感じだ?」と空は質問した。

 

「普通の幽霊だね。危ない感じはしないよ」

 

「そうか」と安堵を洩らす。安心すればTシャツを解放してくれるだろう、と考えていたのだけれど、そんなことはなく、空は僕の近くに居座るようだ。

 

「え? 本当になんかいるの?」(さかき)さんが驚きと疑いを言葉にした。彼女は見えない人だからこの反応も不思議ではない。

 

 一方、4回くらいは脱色していそうな髪色の椋本(くらもと)さん、ある程度は覚悟していた静さんと文音(あやね)さんには大きな動揺はない。

 

 いつの間にか、歌声は止まり、静寂が地下空間を占有していた。

 

「こんばんは」僕は挨拶した。「どうして歌っているんですか?」

 

「やっぱり見えてるんだね」幽霊さんは言った。

 

 歌声でなくとも彼女の声はスルっと頭に入ってくる。

 だから、僕は(うなぎ)を連想した。彼女の声帯で生まれた声が、口から飛び出して、にゅるり、と耳から脳に侵入するのだ。

 やはりバンドマンは得体が知れないな、と内心、頷いた。

 

 

 

 

 

 

 最近、分かったことがある。

 それは読心の異能と恋愛感情の関連性だ。本当に空が好きなのだと自覚してから、僕の読心能力は雨の日でも問題なく使用できるようになった。

 彼女と過ごし、そういった感情が深くなるにつれ、心もより深く読めるようになっていった。

 

 だから、幽霊さんの中にある、本人が見ないようにしている記憶の欠片も見ることができた──その欠片は数枚の静止画だ。

 

血塗(ちまみ)れで倒れている男性〉〈建物にぶつかった状態で停止した車〉〈交差点と青い空〉〈七条河原町(しちじょうかわはらまち)の案内標識〉

 

 これらは彼女が見た光景のはずだ。視点が低いことから判断するに、彼女自身も道路に──おそらく仰向けに──横たわっているのだろう。

 つまり、彼女と血塗れの男性は自動車の事故に遭ってしまった、と解釈し得る。

 

 彼女は、死因は癌だった、と説明したが、嘘()しくは勘違いである又は辛い現実を受け入れられずに自身の記憶を捻曲げた可能性も否定できない。

 

 そして、もう1つ無視できないのが、〈七条河原町の案内標識〉だ。ネットによると七条河原町は京都にあるそうだ。

 空が泣いているのを見て、幽霊さんは〈ふたかめ〉と口にしたけれど、これは京都などの方言で〈二重瞼(ふたえまぶた)〉という意味らしい。ということはつまり、観光で訪れて事故に遭ったのではなく、京都で暮らしていて不運にもそうなってしまった、と考えるのが妥当な気がする。

 

 でも、そうすると、どうして東京にいるのか、という疑問が生まれる。ない話ではないけれど、どのパターンかを断定するには情報が足りない。

 それに、探している恋人が記憶の男性であるならば、そして、恋人がその事故で亡くなったのならば、東京で探していても見つからない可能性が高い。

 

 だから、僕は京都に行くことにした。

 観光業界は、近所のコンビニに行く気軽さで京都にも行くことができると確信しているみたいだし、その自信がどこから来るのかは一切不明だけれど、突発的に京都への旅行を決定することも何ら非常識ではないと僕も確信することにしたのだ。

 とはいえ、仮に非常識であったしても、空に、〈なんとかしてやってよぅ〉と言われてしまったので、やはり京都を訪れていただろう。これが俗に言う、惚れた弱みというやつなのかもしれない。

 

 というわけで、僕と君丸(きみまる)は京都にいた。

 車を出してほしい、とRINE(ライン)したら、ほないきまひょか、と西の言葉が返ってきた。ので、スムーズに京都まで来ることができたのだ。

 

「早速、清水の舞台から飛び降りてみようぜ!」君丸ははしゃいでいる。

 

「君丸は周りから認識されないようになれるからいいかもしれないけど、僕がやると変な人って思われちゃうよ」

 

「言われてみれば、たしかに……」盲点だった、と眼球が特殊な構造をしていることを言い訳にした。

 

 僕の知識が正しいのならば、清水紐なしバンジーは観音様に願掛けする際のエンターテイメントだったはず。つまり、君丸には叶えたい願いがあるということだ。

 

「何を願うの?」

 

透緒子(とおこ)に変な男が近づかないようにしたい」

 

「……そっかぁ」

 

 

 

 

 

 

 清水の舞台から飛び降りた君丸は、〈あんま気持ち良くなかった。清水さんにはもっと頑張ってもらわねぇとな〉と文句を言っていた。

 

 しかし、その後は文句を言わずに僕の調査に付き合ってくれた。

 初めに〈七条河原町〉で、記憶にあった交差点を探し出したのだが、平和そのもので手掛かりらしきものや地縛霊(じばくれい)は見当たらなかった。

 次に、ライブハウスや楽器店巡りをした。〈事故死〉〈バンド〉〈女〉〈京都〉で検索しても有益な情報が得られなかったので地道にやるしかないのだ。

 そうして刑事気分を満喫し、4軒目のライブハウスでそれらしい情報をゲットできた。

 中年の男性スタッフは、〈もしかして……〉と心当たりを語ってくれた。

 曰く、5年ほど前に七条河原町の交差点で、歩いていた男女2人組が自動車に突っ込まれて死亡するという事故があったそうだ。なんでも、その2人組はアマチュアバンドとして京都で活動していて、2人とも演奏と歌唱をこなしていたらしい。

 おそらくその時に亡くなったのが幽霊さんとその恋人だろうと思い、スタッフさんに彼らのことを詳しく訊いていろいろと教えてもらった。

 

 そして、京都の名所に寄り道したり、悪さをしている霊を退治したりしながら、彼らがライブを行っていたというライブハウスや公園、歩道を回り、1人の浮遊霊を発見した──場所は鴨川に架かる四条(しじょう)大橋。年の頃は25くらいで、ありきたりなショートヘアの男性だ。記憶にあった血塗れの男性はこの人だと思われる。

 

 彼に近づき、自然体で話し掛ける。「鴨川なのにカモいなくないですか? いつもこうなんですか?」

 

 だとすると詐欺もいいところだが、もしかしたら遠回しに、(さぎ)ならいますよ、と伝えようとしているのかもしれない。その場合は詐欺でありながら詐欺ではないということになる。京都にはひねくれ者が多いのだろうか。

 

「今は見えないけど、カモはいるよ」彼は答え、「ん?」と疑問を浮かべた。「あんたら何者だ?」

 

「幽霊が見える一般人ですね」と僕が言い、「カモは見えないけどな」と君丸が補足した。

 

「へー」男性は納得していなそうに相づちを打った。「で、何の用なんだ?」まさか鴨川の名前にいちゃもんをつけたかっただけとか言わないよな? と鳥のいない川面に切れ長の一重瞼の目を向けた。

 

「あなたを探している女性がいるんです」すでにこの男性──辻 俊哉(つじ としや)さんの心は読んだ。吉祥寺のライブハウスで聴いた歌を恋人と作っていた記憶も事故の記憶もあるし、この人で間違いない。「茶川(ちゃがわ) 七海(ななみ)さんっていうんですけど、知ってますよね?」恋人の名前、つまりは空たちといる幽霊さんの名前を口にした。

 

「……っ」息を呑み、「どこにいるんだ?!」と唾を飛ばす。

 

「茶川さんは東京にいます」

 

「やっぱり生きて──」

 

「いいえ。あなたと同じ浮遊霊になっています」

 

「!?」辻さんは朧気な身体を揺らした。「そんなはずは……」と弱々しく洩らす。

 

 辻さんが浮遊霊として目覚めた時、茶川さんは京都からいなくなっていた。どうやら実家は東京にあるらしく、推測するに、両親が遺体を引き取って家族の墓に埋蔵したのだろう。だから、彼女は東京にいた。

 のだが、辻さんは心のどこかでその可能性に気づきながらも、しかし、彼女の死を受け入れられずに目を逸らしていた。死体を見たわけじゃない、自分が眠っている間に引っ越してしまっただけだ、と。

 だから、京都から出なかった。東京に行くと恐ろしい現実を目の当たりにしてしまうかもしれない。そんなのは認められない、と逃げていた。

 しかし一方で、茶川さんに会いたいという気持ちはどんどん強くなっていく──せめて最期にもう1度一緒に歌いたいと願っている。

 これが辻さんを5年もの間、浮世に留まらせた未練。辻さんにとっては、まさに()き世であったんじゃなかいかな。

 しかし、現実から目を逸らしていては願いが叶うことは永遠になくなってしまう。

 

 なので、僕は真実を伝える。「茶川さんは歌っています。あなたに逢いたい、あなたの声を聴きたい、と()いています」空は僕のために歌ってくれるのだろうか、と頭に浮かんだ。けれど、表情は変えずに続ける。「逢いに行きましょう。多分、そのほうがいいと思いますよ」

 

 苦しげに眉間を隆起させた辻さんは、それでも、「本当なのか。本当に七海なのか」と都合のいい夢幻にしがみつく。

 

 気持ちは分からなくもないけれど、それだときっと後悔する。いやでも、消えてしまえば後悔も愛情もなくなるか。そんなことはない、と誰かに言ってほしいようなそこまででもないような不思議な気持ちになり、君丸を見ると、彼は、「ここに1週間前に買い替えたスマートフォンがある」と手帳型ケースに包まれた、手帳の遥か上をいく利便性のアイテムを取り出した。

 

 君丸はささっとスマホを操作し、「あった、あった」と独言(どくげん)した。画面を辻さんに向け、「この動画は、あんたの彼女さんが、こいつの彼女に取り憑いて歌ったやつだ。聴いてみ」とタップし、再生を開始した。

 

 前奏が流れ始めた瞬間、辻さんの表情が歪む。それは、母親に悪戯を見つかってしまった幼児を思わせる、後ろめたさと恐怖を孕んだものだ。

 この歌は辻さんたちの未発表の楽曲で、歌えるのも演奏できるのも彼らだけ。にもかかわらず声も体型も違う人間が歌っている。

 

 Aメロが始まり、Bメロ、そして、サビへと進むと、やがて辻さんから強張りのようなものが抜けてゆく。もう否定仕様がない、と思ってくれたみたいだ。

 

「分かった。もう分かったよ」辻さんは諦めたように言う。「エッジの多用も抑揚やビブラートの癖も、キーボードを触る指使いも全て七海のものだ。こんなの……」認めるしかねぇじゃん、と呟いた。

 

 分かってくれたようで何より、と君丸はスマホを自分に向け、画面をスクロールする。「あ」と声を発した。

 

「どうしたの?」僕は訊ねた。

 

「俺のコメントに低評価つけられてる……」

 

「なんてコメントしたの?」

 

「〈これは痩せ型美乳のDカップ 間違いない〉って書いといた」

 

「……」

 

 そのとおりだけど、あえてコメントする必要はないと思う。

 

 

 

 

 

 

「東京のどこに向かえばいいんだ?」辻さんが訊いてきた。自力で行く必要があると勘違いしているようだ。

 

「目的地は吉祥寺ですが、僕らがちゃんと送り届けますよ」

 

 君丸が自慢のSUVを指差す。「あれでな」

 

「……幽霊って車に乗れるのか?」辻さんは首を捻った。「すり抜けて置いてけぼりを食う羽目(はめ)になるんじゃ──」

 

「ふはっ」君丸が吹き出した。「車に乗るイメージをしっかり持てば大丈夫だって」

 

「実際に座席に座るわけじゃないけど、座ってるのと同じような状態になるんですよ」僕の、分かる人にだけ分かればいい、というスタンスの説明に、辻さんは、「……とりあえずやってみるわ」と納得してくれた。

 

 結果は成功。「すげー、ちゃんと乗れてる」と楽しそうだ。

 

 斯くして、男3人のドライブが始まった。

 

 

 

 

 

 

 出発してから数時間後、吉祥寺に到着した。 

 時刻は深夜の12時を過ぎているが、この街は僕らの地元に比べたらまだまだ人間の気配が濃い。

 

『ウィッチパーキングまで来れる?』『はやく会いたい』と空がRINEしてきたので、それに従い、どうせ魔女のいないであろう駐車場に向かう。

 

 辻さんは緊張している。

 

「大丈夫ですよ」根拠はないけれど、僕はそう口にした。

 

「ああ、分かってる」根拠なく、辻さんはそう答えた。

 

 

 

 

 

 

 深夜の吉祥寺で、彼らは再会した。そして、僕らも。

 

「おせーよ、ばか」言葉とは裏腹に空の表情は柔らかく、心は、(ぎゅってしたい。してほしい。でも、流石に今は我慢したほうがいいよな……。辛い)と可愛らしい。

 

 後でね、と空を(なだ)め、無言で見つめ合う辻さんと茶川さんを見る。

 薄靄(うすもや)のようだった茶川さんの顔が明確なものへと変化するのに伴い、(俊哉、七海、〈告白〉、〈flying apples(フライング アップルズ)〉、事故……)と記憶が(よみがえ)ってゆく。

 彼女は、医者に癌だと診断されていたようだ。それを辻さんに伝える前に事故に遭ってしまったらしい。死因は癌、という言葉が出てきたのは、こういった背景があったから──恋人の死から目を逸らすために自らの病気を無意識に利用したのだろう。

 

「俊哉……」呆然と名を口にした。「俊哉」もう1度、今度は噛み締めるように。

 

「七海。ごめん」辻さんは顔を伏せた。「俺が出かけようって言わなければ──」

 

「関係ないよ。あんなのどうしようもないって」そして、茶川さんは笑った。「ねぇ!」

 

「?」顔を上げる。

 

「歌おうよ。またあなたの歌を聴かせて」それだけで私は大丈夫だから、と。

 

「……」少しの後、分かった、と頷いた。

 

「姉さん」という声が横から聞こえた。椋本(くらもと)さんが文音さんに話し掛けている。「〈regret〉使わせてもらえないかな?」辻さんたちに目をやる。「歌いたいんだってさ」

 

 夜の光に文音さんの笑みが照る。「いけるいける。お姉ちゃんに任せて」

 

 それを見た君丸が、魔女みたいだな、と呟いた。

 

 そうだね、と言う。

 

 

 

 

 

 

 ステージで歌ったほうが気持ちいいっしょ。椋本さんはこう言って、辻さんと茶川さんを〈regret〉に誘導した。

 もう深夜の1時だというのに静さんはピンピンしていたし、他のスタッフさんも4人も残っていた。このノリは何なのだろう、と僕は理解に苦しんだ。

 けれど、ふと浮かんだ。この人たちは音楽に恋をしているのかもしれない。だから、音楽のためならよく分からない連中の非常識なお願いにも寛容さを失わないでいられる。

 

 ステージはそんなに広くない。一方、客のためのスペースはそこそこ広い。僕らの学校の古くさい50メートルプールよりも少し狭い程度だ。しかし、収用人数500人と(うた)うのは無理があると思う。が、今は9人しか観客はいないので無理なことは何もない。

 

 隣の空を見る。彼女が微笑む。これは茶川さんだろう。雰囲気が空のものではない。

 僕と空はステージにいる──僕はギターを、空はキーボードを担当する。

 なぜこんな珍妙なことになっているのかというと、最初は辻さんと茶川さんが2人だけでアカペラを披露したのだけど、霊感のある僕と空、君丸、椋本さん以外には〈黒板をひっかいた音〉にしか聞こえず、何とも言えない微妙な空気になってしまったからだ。

 茶川さんは言った、〈空ちゃん、身体使っちゃ駄目?〉と。

 最初のアカペラにいたく感動していた空は2つ返事で応じ、次いで、僕に、〈辻さんに憑依してもらうことってできないのか?〉と上目遣いに問うた。僕の隣でそれを見ていたスタッフさんが、ごくりと喉を鳴らしていた。

 

 というわけで、辻さんは僕の身体を、茶川さんは空の身体を使い、霊感のない人にもちゃんと聴こえるように歌う運びとなった。

 ちなみに、僕は声帯模写のような能力──心の声を僕が代弁するイメージだ──を使用して歌う予定だ。

 

(なんだかこういうの嬉しいな。水季との共同作業……)と空の心の声。(俊哉と歌った〈告白〉を聴いてもらえるなんて……)これは茶川さん。(なんだろう、この感覚。身体の芯に不思議な熱を感じる)と妖力に戸惑っているのは辻さんだ。

 

「今から歌う曲は〈告白〉と言います」空に憑依した茶川さんがマイクに向かって声を発する。「幼い恋の終わりと、若い愛の始まりの歌です」

 

 わぁー、と沸くことはないけれど、しっとりとした拍手の音が深夜の地下空間に響く。

 

 キーボードの前に座った空が僕に視線をやる。僕らを通して、茶川さんと辻さんの目が合う。どちらからともなく頷き合い、そして、空の美しい指が白と黒の鍵盤の上を舞い始めた。

 

 優しく、切ない旋律が流れ、次いで、僕らもアコースティックギターの弦を(はじ)き、演奏を開始する。

 雪が降り、静かな湖面に不確かな波紋が生まれてゆく。そんな光景が浮かぶメロディ──辻さんの心が誰かの影に思いを馳せ、茶川さんも郷愁に似た情感を奏でる。

 そして、空の歌声が始まった。濡れ雪が降るように深々(しんしん)(ことば)が紡がれてゆく。1番は、すれ違いと別れを後悔混じりに歌う──主役は空と茶川さんだ。

 照れだろうか、若さゆえの意地のようなものだろうか、そういった未熟さを表現した歌詞は、辻さんと茶川さんの中にある古い感情だけでなく空の心とも重なり、やがてそれは雪片(せっぺん)を思わせる美しい歌声に、より強い哀切(あいせつ)(にじ)ませる。

 辻さんが内心、複雑な微笑を浮かべている。彼にも、彼らにもいろいろあったのだろう。2人にしか見えない景色があったのだろう。

 なんてことをのんびり考えていると、僕と辻さんが主役の2番まで来てしまった。ここでは、自分の心を見つめ直し、そうして失ったものの大きさに気づく。

 辻さんは深い感情を歌声に乗せている──僕の声帯模写は対象者の感情が強ければ強いほど精度が増す。だから、今の僕の声は限りなく彼のものに近づいている。

 細く柔らかい息により生まれた声の新芽が、喉、口腔(こうくう)鼻腔(びくう)で共鳴し、しなやかな成木となる。どこか綿菓子を思わせる、甘く優しい歌声は聴く者の心を癒してゆく。

 観客は、衣擦(きぬず)れの音すら(いと)うように動かずに耳を傾けている。

 

 2番が終わり、間奏中に空を見れば、紅葉した山々のように頬が色付いていた。(この歌のラスサビは……)と彼女の心はざわめいている。

 

 落ちサビと呼ばれる、ラスサビ前のテンションを落としたパートに入った。演奏はギターのみ。

 茶川さんが、空が語り掛けるように歌う。恋しい気持ちが溢れ、ただ会いたいと願うシンプルな歌詞だけれど、彼女たちが歌うと陳腐さは感じられない。

 

 そして、楽曲──物語のクライマックスであるラスサビへと進む。ここはもう本当に真っ直ぐに〈告白〉するだけ。

 

(水季……)空の心が僕だけに向く。

 

 仮に空がプロの歌手としてステージに立っているのならば、観客を忘れるのは恥ずべきことだろう。でも、僕たちには関係ない。ただの素人で、ただの彼氏彼女だ。

 だから、この瞬間、僕は空だけを想う。

 

 辻さんと茶川さんの懐かしい告白、僕と空の初めての告白。それぞれが心を込め、最後のフレーズを歌い上げる。 

 

 ──だから、君を。

 

 空の声が。

 

 ──君だけを。

 

 僕たちの声が。

 

 ──愛してる。

 

 交わった。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 みんな、空と源──茶川さんと辻さんの歌に、たったの5分の旋律が創り出す世界に引き込まれていた。

 

「……」

 

 最後のメロディ(アウトロ)が終わったというのに、誰も何も言えない。1秒、2秒と無音の時が過ぎ、やがて静さんが声を上げた。「やるね~! いいじゃん! おっちゃん、年甲斐もなくキュンキュンしちゃったぜ!」

 

 失笑──塞き止められなかった苦笑が観客全員から洩れる。隣を見ると、咲良と目が合った。「これ、発表しないの勿体なくない?」

 

「勿体ない」私ではなく、姉さんが答えた。勿体ない、と私も肯首しておく。

 

「ですよね」と深く頷いた咲良は、ぷっくりとした涙袋の、存在感のある瞳を空たちに向けた。

 

 多分、バカップルに退路はない。

 

 

 

 

 

 

 空と源、茶川さんと辻さんのレコーディングは淀みなく完了し、編集作業も本気を出した静さんと姉さんの手によりあっという間に終わってしまった。

 姉さんは、彼女たちの歌を、〈知り合いのバンドの「告白」って曲ですー。聴いてってね〉という言葉を添えて自分のバンドのアカウントから投稿した。

 空と茶川さんのみで歌った動画とは、いい意味で伸び方が大きく異なっていた。コメント欄も、芸術性すら感じさせる、空のスタイルの美しさと顔出ししていないにもかかわらず溢れ出る圧倒的美少女オーラについてのもの、純粋に歌のクオリティについてのもの、源と辻さんのイケボについてのものなど、混沌とした盛り上がりを見せている。

 

 投稿から2日後の夜、茶川さんと辻さんは完全に消滅した。

 

〈ありがと、楽しかったよ〉〈わざわざ京都まで来てくれて本当にありがとう。次はカモを見られるといいな〉

 

 これらが彼女たちの最期の言葉となった。

 

 なぜカモ? 源は京都でいったい何をしていたんだ?

 

 源に訊いたら、〈京都の人はひねくれてるみたいなんだ。だから、ややこしい〉と訳の分からない答えが返ってきた。君のほうがひねくれてんじゃない? と言っておいた。

 

 車窓の中の景色が凄いスピードで流れゆく。

 

 私たちの時間もすぐに終わってしまうのだろうか。

 

 地元に帰る新幹線の椅子に座りながら、柄にもなくそんなことを考えていた。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 東京から帰った空はまるでたった今思い出したかのように言った。そういえば夏休みの課題いっぱい残ってたんだった、と。

 そうなんだ大変だね、と僕は受け流した。しかし、彼女は僕の手をガッチリと掴み、一緒に勉強しようそのほうが効率的だそうに決まってる、と力説し、そして、最近になって上手くコントロールできるようになったらしい媚びを孕んだ可愛い声で、ね、お願い、と宣った。

 

 なので、仕方なく空の部屋で、屁理屈と正論の狭間をさ迷う評論文の問題を解いている。

 

 肝心の空はというと、苦手な日本史の問題に向かって、「なんて読むんだよ。変な名前付けんな」とか「なんですぐ(けんか)するんだよ。ばかじゃねぇの」などとぶつぶつ言っている。

 

「少し休憩しよう」僕も疲れたので、そう提案した。屁理屈は嫌いじゃないけれど、現代文の問題になると途端に魅力がなくなるのだ。

 

「そうすっか」パッとシャープペンシルを放し、座ったまま、うーん、と上半身を伸ばす。

 

 平和だなぁ、と空を眺めつつ、「愛してるよ」と口にした。他意はない。ただそう思っただけだ。

 

 表情を弛めた空は、猫みたいに柔軟な身のこなしで、クッションに座る僕に接近し、「私も……」と抱きついてきた。「私も愛してる」

 

(恥ずかしい……けど、幸せ……)僕を抱きしめる力を強め、(……まだ時間はあるし、長めの休憩(・・・・・)を取ってもいいよな? でも、勉強手伝ってってお願いした私から誘うのも気が引ける……。ぅぅ、駄目だと思うと余計シたくなってきた……)と楽しそうだ。

 

 なので、僕は優しい声で言う。「課題が終わるまではプラトニックな関係でいよう」

 

「……」

 

(バレてる。エッチしたくなってんの完全にバレてる。……いやでもバレてんならもう開き直っちまうか。よし!)

 

「強引に始めようとしても乗らないからね」

 

「……いじわる」

 

 知ってる。 

 




青春ものと言えばバンドだ、という偏見に従い、このエピソードを作りました。


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心を開いて①

10話と11話は連続投稿です。
一応、ホントの最終エピソードのつもりです。


 私の中には2人分の記憶がある。

 1つは男として生まれ、野球のことばかりを考えて生きてきた記憶。

 もう1つは女として生まれ、両親から野球をすることを許されなかったり、妥協してバレエを習ったり、周りの子たちと上手くいかなくて辞めたり、そんな感じの少女の記憶。しかし、女としての記憶は神様を自称する大きな蝿に植え付けられた偽物だ。

 信じがたいことに、世の中にはアホな野球少年を美少女に変えてしまう神様がいるらしく、ある日、目を覚ますと女の子になっていた。

 部屋に漂う薬品の(にお)いと白を基調とした内装からそこが病室であると察した私は、ヤバい奴らが寝ている私を(さら)い、無断で性転換手術を完遂してしまったのかと疑った。神様だとか怪奇現象だとか認識の改ざんだとかを信じていなかったからだ。

 しかし、どうやらそれは違うようだった。親父も母さんも妹も皆、私を元から女の子であったと認識していて、〈昨日までは(そら)という名前の高校球児で、150キロオーバーの直球を投げられたんだ〉といくら主張しても信じてもらえず、彼女たちは静かに首を振り、私を心配した。

 医者が言うには、意識のない私が突然、病院の待合室の長椅子に出現したそうで、看護師たちが大層騒いで、患者から、〈院内ではお静かにお願いします!〉と叱られていたらしい。 

〈後頭部にたんこぶができているが、身体に異常はない。むしろ健康すぎるくらいだ。念のため数日入院してもらうけど、まぁ何もないでしょうね〉と中年の女医は予言した。整形外科医をしている母さんは、〈頭は悪いけど、身体能力だけはすごいんです、この子〉と薄い胸を張っていた。

 

 予言は的中し──退院し、私は高校2年生になった。

 神様には美的センスがあるようで、私はいろいろな人から性欲と妬みの視線を向けられるようになっていた。たしかに野球少年だったころも嫉妬されることはあったし、エースの座を争った先輩から複雑な敵意を感じたこともあったけれど、こんなに強烈に男連中から顔と胸と尻と股に性的な視線をぶつけられた経験はなく、非常に戸惑った。私も男だったから気持ちは分かるが、やられるほうはあまりいい気はしない。

 だから、私は、見られていると悟られぬように細心の注意を払い、推定Fカップの三上(みかみ)先生を観察し、人生において絶対に必要のない授業を凌いでいたのだけど、その日、私に事件が起きた。クラスメイトの男の子が聞き捨てならないことを口にしたのだ。

 私の性別が変わったことに気づいている人間はいない。神様曰く、全ての人間の認識を改ざんしたそうだ。にもかかわらず、その男の子は真実を知っていた。びっくりした私は、周りの目も憚らずに彼の手を握り、人目の少ない公園まで連行した。

 それが、源 水季(みなもと みずき)との友人関係の始まりだった。

 

 水季は変な奴だ。最近はそうでもないけど、最初のころは性的な視線を寄越すことが一切なく、私を見ているようで違う何かを見ているような、でもやっぱり誰よりも私を真剣に見ているような、一言では言い表せない不思議な目をしていた。

 そういう奴だったから、嫌悪感は抱かなかったし、無駄に警戒する必要もなかった。気楽に話すにはもってこいの相手だった。 

 いつからあいつを好きになっていたのかは分からない。

 一緒にいることが多くなって、話を聞いてもらうことが当たり前になって、最高に居心地がいいことを自覚して、ふと淋しさが込み上げてきて、自分の容姿が気になり出して、不安になって、2人でご飯を食べて、空回りして、キスをして、怒って、キスをして、セックスをして、また話をして、そういうことを繰り返して、気がついたら愛していた。

 

 

 

 

 

 

 私たちは水季のアパートでテレビ──お昼のニュースを観ている。

 最近、私はラッコ座り──水季が後ろから包み込むように座る──というものに大いなる可能性を見出(みい)だした。強い安心感を得られるのだ。したがって、今も水季の中に収まっている。

 

『……紙谷(かみや) 貴登(たかと)被告人は、事件のことは憶えていないと主張しており……』アナウンサーが春に起きた殺人事件の情報を伝える。『……弁護人は、〈被告人は事件当時、統合失調症により心神喪失状態にあった〉と……』

 

 画面に紙谷さんの顔が映される。くりくりとした目と胡座(あぐら)をかいた鼻が印象的だ。

 

「大変だなぁ」私はしみじみと言った。詐病でないのならば、みんなが可哀想な事件だ。

 

「ちょっと会ってみたいな」水季はたまに変なことを言う。「紙谷さんって、どんな人なんだろう?」

 

「さぁ?」としか答えられない。「私に分かるわけないだろ?」

 

 そんなことよりおやつを食べたい、とキッチンにあるスナック菓子を取りに行こうとした時、テレビ画面にそれが流れた。

 

『どうして息子が、と思わない日はありません。犯人には精神障害があるようですが、そんなことで……』どこか見覚えのある中年男性が、溺れているかのように苦しげな顔で言葉を吐き出している。画面左のテロップには、〈月見里(やまなし) (たまき)くんの父親の(たける)さん〉とある。

 

 不意に、痛みに似た不快感が喉の奥からせり上がってくる。頭がズキリと痛む。痛みが爆発的に拡がる。

 

「空?」水季の声がした。

 

 けれど、「ぅ、ぁ……ぁ」と上手く答えられない。世界が不規則に回転している。苦しくて不安で水季の手を強く握る。

 

 握り返され、でも水季の中で死ねるなら悪くはないな、とアホなことが頭を過った瞬間、私の意識は途切れた。

 

 

 

 

 

 

 これは夢だろう。

 気がついたら、私は投手をしていた。マウンドからバッターを見下(みお)ろす。目が合うと、諦めと僅かな怯えが彼の瞳に浮かんでいた──私に萎縮しているようだ。

 だが、手加減はしない。捕手(あいかた)のサインに頷き、大きく振りかぶり、真っ直ぐ(ストレート)を放つ。

 分厚いキャッチャーミットから心地()い音が生まれた。今日は調子がいい。空振り三振だ。

 

 場面は変わり、先ほど私のボールをキャッチしていた捕手の少年が、「調子いいじゃねぇか」と笑う。

 

「まぁな」と私は応えた。すると、監督らしき人が、「環! ちょっと来い」と大きな口を開いていやに白い歯を見せてきた。私を呼んでいるようだ。なんだよ、と思いつつ、向かう。

 

 夢というものにまともなストーリーなんてない。だから、典型的なおっさんである監督がいきなり銀髪の美少女に変わっても不思議ではない。

 河原に、怪我をしている銀髪の子と私がいる。どういう状況だ?

 

 そう思ったら、今度は住宅街にいた。少し離れた所を私が歩いている──ん?

 自分が2人存在している。おかしいな、と気持ち悪さを感じるも、俺は環なんだから何もおかしくはないということに思い至り、胸を撫で下ろす。

 突き当たりのT字路から1人の男が現れた。ニュースで見た紙谷なんとかっていう人だ。彼は私に視線を向け──。

 

 

 

 

 

 

 ぼーっとしている。眠い。また寝ようと寝返りを打つ。

 

「……」

 

 あれ? と違和に気づく。枕の匂いが違う。

 

「おはよう」聞き慣れた声がした。そちらに顔を向けると、水季がいた。背もたれのない椅子に座っている。

 

「ああ、おはよう」応え、「ここは病院?」と殺風景な白い個室を見て、訊いた。

 

「うん。空が気を失っちゃったから救急車を呼んだんだ」それから水季は私たちの町にある総合病院の名を口にした。

 

 今は何時だろう、と時計を探す。見当たらないな、と諦めたのとほとんど同時に、「今は夜の19時過ぎだよ」と水季が教えてくれた。

 

 本当に察しがいい。

 

 もしかして水季は私の心を読めるんじゃないか? 

 

 そんなふうに思うことがある。幽霊も蝿の神様もいるのなら心を読める人がいても不思議ではない。

 

「……」なぁ、水季は私の心が分かるのか? と無言で見つめる。

 

 水季は立ち上がった。「お母さんとお医者さんを呼んでくるよ」

 

「待って」その前に少しだけ触れてほしい。不安なんだ。

 

〈月見里 環〉〈殺人事件〉〈銀髪の少女〉〈襲われた私〉

 

 いくつかの記憶の断片が私の心をかき乱している。

 私はなんなんだ? なんで今まで男のころの名前を勘違いしていた? 空という男の子が女の子に変えられたんじゃないのか? (おれ)はどうして──。

 

 ふと、頬に熱を感じた。いつも私を安心させる手のひら。「何があっても僕は空の味方だよ」

 

「……うん、ごめん、ありがと」愛してる。言葉にはしなかった。きっと伝わっているだろう。

 

 水季の顔に一瞬だけ複雑な影が差す。気のせいだろうか。

 

「呼んでくるね」

 

 手のひらが離れた。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 空の身体に異常はなく、次の日には退院した。

 しかし、心には問題が発生していた。不自然に忘れていた記憶を思い出したらしい。自分の存在が不確かになり、〈私はなんなんだ〉と不安を覚えている。

 

 それが原因でいつもよりも離れたがらない。今はまだ夏休みだから僕のアパートでひっついていてもいいけれど、学校が始まるとそうもいかないから少し困った状況だ。

 

 飲み物を取ってきた空が僕の隣──安物のシングルベッドに腰を下ろす。隙間はない。

 

 夜の8時過ぎ、テレビでは男性アイドルが司会を務めるバラエティー番組が流れている。

 空は、今日はこちらに泊まる。父親がごねていたそうだけど、母親と(はるか)ちゃんが、〈まぁいいじゃない〉〈そうだそうだ、金離れのいい彼氏はいい彼氏なんだぞ〉と援護したらしい。

 

 しばらく無言でテレビを眺めていると、とうとう不安に耐えられなくなった空が口を開いた。「前、大きな蝿に女に変えられたって言ったじゃん」

 

「言ってたね」

 

「でもさ、もしかしたら私、死んでるかもしれない」言ってから自分の発言のおかしさに小さく息を吐く。「元気ではあるんだけど」

 

「そうだね、元気に甘えてるね」

 

 うるせーいいだろ別に、いっぱい甘えさせろ、と僕の膝をぺちっと叩いた。白く綺麗な指と何も付けていない自然な色合いの爪が目に入った。

 

(環という少年の記憶も神様の記憶も空という少年の記憶も、すべて私の妄想って考えるのが1番現実的だよな……)けどそれならどうして、と空は自問する。(スムーズに投手をやれた? 遥や母さんは私に野球経験はないって言ってるし、意味が分からない。観てるだけで変化球や立ち回りも問題なく習得できるなんてあり得ない。いくら私でも少しは練習しないと無理だ)普段は、僕と長い時間くっつき続けるためにはどうすればいいかとか、打てる投手の量産に必要な野球教育についてとか、そんなことしか考えていない脳みそが、頑張って働け、と鞭打たれている。

 

 空は自分の中にある記憶について話し出す。環はこんな感じで、男の空はこんな感じ。女の空は野球経験がないのに投手できるし。殺人事件の記憶。殺された月見里 環の父親を見た時の懐かしい気持ち。銀の少女。

 

 一通り言葉にし、それから、「水季ならさ」と自身の美しい手を僕の手に重ねた。「私の心の中にある、この記憶の正体が分からないか?」

 

「……どうだろうね」今の空の心は複雑な状態だから簡単ではない。けど、「やるだけやってみるよ」と安請け合いする。

 

「ありがと」今日はいっぱいサービスしますよ、お客さん、と笑う。

 

「空ってセックス好きだよね」

 

「……私は悪くない」ひねくれた子どもが言いそうなことを口にした。「水季が私をこんなふうにしたんだぞ」そして、責任取れよ、とめんどくさい女の子が好きそうなセリフを呟いた。

 

 

 

 

 

 

 翌日、空を自宅に送り届け、彼女のお母さんに見つかり、〈この子わがまま言ってない? 大丈夫?〉と心配され、〈無理なことは言われないので大丈夫です〉と中途半端に否定し、彼女たちと別れ、次いで、この地区を担当している退魔師の家──(たちばな)さんの家へと向かった。

 

 彼らの家は市の中心部、市役所の近くにある。和風な雰囲気を漂わせている家だ。

 

 チャイムを鳴らす。間を置かずして、玄関が開けられた。インターフォンは完全無視である。

 

「……」黒髪の少女──透緒子(とおこ)ちゃんが、半開きの玄関扉に手を当てたまま僕の顔をじぃっと観察し、数秒後、「……水季?」と自信なさげな声を発した。

 

 正解、と告げ、「久しぶりだね。元気にしてた?」と再会を形式的に喜ぶ。

 

「元気」と答えた透緒子ちゃんはキョロキョロと周囲に視線を巡らす。「兄さんは?」

 

「いないよ。僕1人。橘さんちの人と百足(ももたり)さんに用があって来たんだ」

 

 無言でこくりと頷き、「入って」と扉を開けきった。

 

「お邪魔します」

 

 

 

 

 

 

 橘君は僕を見て、あ、と声を洩らし、星野(ほしの)となんかやってた妖怪ですよね? と問うた。そうだよ、と答え、君と百足さんに訊きたいことがあって来たんだ、と伝えた。

 

 そして、僕は応接室に案内された。

 

 百足さんと橘君が並んで座り、向かいのソファに僕と透緒子ちゃんが座っている。透緒子ちゃんはいなくてもいいんだけど、彼女は自分も参加するのが当然と思っているようで、実に堂々と無表情を披露している。

 僕らの中心にある小さめのテーブルには、透明なコップに入れられた冷たいお茶がある。氷が、カラン、と涼しげな音を立てた。

 

「それで、私たちに訊きたいことというのは何でしょうか?」百足さん、つまりは若作り特化型の鬼女(きじょ)が、鬼らしい優しい声音で言った。

 

 鬼族は優しい方が多い。ただし、本気でキレると額に角が出現してヤクザみたいな口調になる。ギャップが凄くてとても笑えるので、彼女たちのことは割と好きだ。

 

 けれど、特別愛想良くするつもりはない。なので、普通に言う。「人間の性別を変える大きな蝿について何か知りませんか?」神様らしいんですけど、と補足する。

 

「……なんですか、それ?」怪訝そうな顔をし、「(けい)くんは知ってますか?」と隣を向く。

 

 景君と呼ばれた橘君は、「聞いたことないです」と即答し、「そういう神様を見たって人がいるんですか?」と僕に問いかけた。

 

「うん、まぁ、いると言ったらいるんですけど」

 

「信頼に足らない、ということですか?」百足さんが僕の言葉を先取りした。

 

「特殊な事情がありまして。では、記憶に関する異能を持つ妖怪か、銀髪の少女については──」知りませんか、と最後まで言う必要はない。真剣さの増した百足さんと橘君の表情が、〈知っている〉と物語っているし、心中でも(知っている)と述べている。

 

「何があったか詳しくお話ししてくださいませんか」やはり丁寧に、しかしある種の鋭さをその声に滲ませ、百足さんは言葉を使った。

 

「分かりました」

 

 

 

 

 

 

 空のことを聞いた退魔師の2人は、〈銀髪ちゃん〉という記憶を抜き取る妖怪が関与している可能性が高い、と推理し、彼女について教えてくれた。

 

 一般人から一部の記憶が消滅する事件が、数年前から散発的に発生している。この事実を察知した、国の妖怪・心霊現象対策機関──生物多様性総合研究所は、百足家に〈なんとかしてくれ〉と依頼を出した。

 退魔師たちは、記憶に関する異能を有する妖怪か霊の仕業だと考え、調査を開始した。しかし、簡単にはいかなかった。目撃情報が存在しなかったのだ。被害者すら、いつの間にか記憶がおかしくなっていた、と言うだけで、怪しい人物は見ていない、と口を揃えた。おそらく目撃者の記憶を消すか、そもそも目撃者の記憶に残らないようにしているのだろう、と彼女たちは推測する。

 手強い相手だ、と溜め息をつきながらも、諦めずに調査を継続していると、ついに目撃者を発見した。その目撃者によると、長い銀髪の少女──高校生くらいの美しい──が被害者と会話をしている瞬間を見たそうだ。銀という奇抜な髪色の人はそう多くはない。にもかかわらず被害者の記憶にないことから異能を使用している可能性が高く、したがって、彼女──〈銀髪ちゃん〉と呼ぶことに──を犯人と推定した。ようやく掴んだ糸口に退魔師たちの調査にも熱が入る。

 しかしそれでも、なかなか捕まえられない。銀髪ちゃんの妖怪としての地力は非常に高いようで、記憶への干渉を封じられた状態でも退魔師を退けてみせたそうだ。

 そんな中、僕らの県で式神が彼女を目撃。退魔師が彼女を発見して戦闘を行ったのが隣県であったこともあり、東北地方を重点的に調べる必要があると考えた百足家は、最高戦力である百足 (あさひ)さんを派遣した。

 

「そして、仕事もせずにいい年して男子中学生に夢中になっている、と」

 

「なっ、ち、違います!」百足さんは、後頭部にあるお団子からぴょんと飛び出した黒髪を揺らした。「ちゃんと仕事()しています!」

 

「僕が来るまでイチャイチャしてましたよね?」

 

 銀髪の少女の話題を出すまで、これからだったのに本当に間の悪い子ですね、などと内心で頻りに文句を言っていた。

 

「あなたはまだ学生だから分からないでしょうけれど、休むことも仕事なのです」

 

「橘君はあまり休めていないみたいですよ」肉体的に、ではなく精神的に、だ。1人の時間が欲しいらしい。

 

「え?」なぜ俺を巻き込むのか、と橘君が僕を見る。

 

「景くんには仙理眼(せんりがん)があるので問題ありません」自信たっぷりに断言した。「それに、とってもエッチな子なのでこれくらいが丁度いいんです」

 

「本当にそう」透緒子ちゃんが同意する。「妖怪でなければ体力が持たない」無表情で滔々(とうとう)と言った。

 

 精力絶倫のロリコンに顔を向けると、目が合った。素朴な疑問が浮かぶ。「透緒子ちゃんが大人になったら、捨てるの?」

 

「!?」珍しく透緒子ちゃんが動揺する。

 

 しかし、橘君は慌てることなく、「捨てないです」と答えた。

 

「ロリコンなのに?」

 

「いや、ロリコ──」ンじゃないですし、と言いかけて、「ロリコンでもです」と言い直した。

 

 一瞬、カッコいいなぁ、と思ったけど、よく考えると全然カッコよくない。でも、透緒子ちゃんと百足さんは喜んでいる。早く帰ったほうがよさそうだ。

 

 

 

 

 

 

 橘君たちから得られた情報はたしかに有益ではあるが、真相を究明するにはまだ少し不十分だ。

 なので、次は父さんに訊いてみる。

 前に空と来た公園のベンチに座り、電話を掛ける。3コールで繋がった。

 

『どうした?』父さんは田舎で小説家をしている。電話できない時間は、基本的にはないから都合がいい。

 

「退魔師が銀髪ちゃんって呼んでる、記憶に関する異能を使える妖怪がいるんだけど、父さんは知らない?」

 

『記憶の異能は知らないけど、銀髪の妖怪なら1人知ってるよ』

 

「どこの妖怪なの?」

 

『俺たちの親戚』

 

 流石に驚いた。本当に? と疑うも、『本当に』と返された。『名前は……えーと、なんだったかな?』父さんは名前を憶えるのが苦手だ。自分の小説のキャラクターの名前もよく忘れるらしい。『あーと、たしか琴 雫(こと しずく)ちゃんだ。水季と同じくらいの年の子だよ。というか、昔、一緒に遊んでなかったか?』ほら、秋水(しゅうすい)さんの葬式の時、と僕の記憶を喚起しようとする。

 

「ちょっと待って」

 

 アルバムを(めく)るように古ぼけた記憶を確認してゆく。

 銀髪の子、銀髪の子、と思い出を探しても見つからない。

 でも、〈そういえばそんな名前だったような……〉という子には思い至った。

 

 自己満足のための不気味な儀式に飽きてしまった僕が、自宅葬の行われている大きな平屋の家から外に出ると、庭で同じくらいの年齢の子を見つけた。その子は木の下でしゃがみこんで地面に真剣な眼差しを向けている。いい暇潰しになるかも、と近づくと、彼女はもの凄い勢いで木に隠れてしまった。

 好奇心に従い、〈なんで隠れるの?〉と訊くと、数秒後、〈他者が怖い〉という答えが涙目の彼女から返ってきた。〈なるほど〉と納得はしつつも配慮するつもりはなかったので、〈暇潰しに付き合ってよ〉と勝手に構い続けた。

 最初から最後までびくびくしていたけど、〈一人っ子〉〈テレビをよく観る〉〈自分の髪色が嫌いで、お母さんに妖術で染めてもらっている〉〈妖術を教えてもらってるけど、なかなか上手くできない〉と自分のことを話してくれた。 

 

 葬式が終わり、彼女と別れ、それ以来会っていない。

 

「思い出したよ」と静かに待っている父さんに伝える。次いで、「彼女は今どこにいるの?」と1番重要なことを訊ねた。

 

『それは分からない。数年前に雫ちゃんのご両親は亡くなっているし、風の便りもないしね』

 

「そっかぁ」

 

 それから少しだけ話を続け、そして、電話を終わらせた。

〈禁止事項……⑨野球、サッカーその他の球技……〉と記された看板の前でキャッチボールをしている少年たちから白球が飛んできて、足元で止まる。拾って、投げてやる。

 ありがとうございまーす、という言葉を聞き流し、結論を出す。

 

 空に妖怪であることを伝えよう。

 

 そうすれば──。

 

  



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心を開いて②

10話と11話は連続投稿です。


 話があるんだ。

 そう言って呼び出すまでもなく、空は僕のアパートにやって来た。小綺麗な内装と財布に優しくないお値段で他店との差別化をしているスーパーのロゴの入ったビニール袋を持っている。

 15時を過ぎたばかりで、まだまだ明るいし暑い。

 

「今日はアジにした。安かったんだ」この夏休み、空は通い妻よろしく僕のアパートに入り浸っていた。

 

 値段で選ぶならば質よりも量と安さを優先させている他店にしたらいいのに、と思わなくはないけれど、育ちがいいゆえのこだわりだろうか。

 

 という思考は表情に出さずに、「いつもありがとう」と彼女からビニール袋を受け取る。

 

 空は人気のスポーツブランドのスニーカーを脱ぎ、部屋に入る。一方、僕は食材を仕舞うために冷蔵庫を開ける。

 

 妖怪であることを伝えると、この緩すぎる日常が終わってしまうかもしれない。

 そう思うと、珍しく精神が不安定になる。けれど、真実を知り、空の不安を解消するには必要なことだ。

 

「涼しいー」いつの間にか冷房の前に陣取り、顔に風を浴びていた。「狭いとよく冷えるぜ」

 

 思ったことを配慮という名のフィルターを通さずに口から発しているだけで、嫌味ではない。空はこういう人だ。

 

「狭くて悪かったね」

 

 不機嫌ではない。ひねくれた性格という名のフィルターを通すと、自然とこうなるのだ。

 

「怒んなって」と空は笑った。

 

 

 

 

 

 

「やっぱりそうだったのか!」空は、アニメのように分かりやすく手を打った。

 

 実は妖怪なんだよね、僕。それで心を読めるんだ。

 僕のカミングアウトを聞いた空が抱いた感情は、疑いでも拒絶でも驚愕でもなく納得であった。

 

「おかしいと思ってたんだ」彼女の舌が活発になる。「性別が変わったことに気づいたのも、配球がえげつないのも、エッチがやたらと巧いのも、要領を得ない私の話をすぐに理解できるのも、すべて心が読めるからだったんだな」なるほどなぁ、と顎に指を当て、すりすり。

 

「『じゃあ、今、私が考えてることを当ててみろよ』とか言わないんだね」

 

「じゃあ、今、私が考えてることを当ててみろよ」

 

「〈隣の客はよく柿食う客だ〉〈子どもは3人〉〈最近、料理が好きになってきた〉かな」

 

 うっは、と空は愉快そうに息を吐き出した。「すっげー。完璧じゃん」

 

 軽いなぁ、と眺める。すると、彼女の頬が染まりはじめた。

 

(私のすべてを知って、そのうえで……愛してくれてんだよな)

 

「まぁそうだね」

 

 空が笑う。「ちょっと、いやかなり恥ずかしいけど、会話めちゃくちゃ楽(とりあえずくっつきたい)」

 

「いいよ、おいで」

 

「おおう、すげーなほんと」

 

 いつもどおり。いつもどおり空を抱きしめた。

 

 

 

 

 

 

 読心能力がその性能を最大限に発揮するには、対象者の同意が要る。つまり、心の最奥(さいおう)まで読まれることを空に受け入れてもらうことにより、彼女が忘れている記憶や認識していない感情まで知ることができる。

 だから、わざわざ妖怪であることを打ち明けた。

 

「要するに、水季に対して心を開けばいいんだな?」空は、ベッドの端に座る僕の太ももを枕にして仰向けに寝そべっている。

 

「簡単に言うとそうなるね」

 

「いいぞ」好きなだけ私の中を見てくれ、と事も無げに言った。

 

「分かった。じゃあ、始めるよ」

 

 瞳を閉じて、意識を集中する。僕の妖力が空を包み込み、中に入ってゆく。

 (まぶた)を上げると、澄み渡る空が眼前に広がっていた。僕は青空に浮いている。自由に飛べるようだ。

 ぐるりと見回す。光が(きら)めいた。近づくと、空に浮遊するルビーらしき赤い宝石であった。触れる──次の瞬間、僕らがキャッチボールをした河原に倒れている銀髪の少女の映像が見えた。〈え?〉と驚く少年の声。少女に走り寄る。声や身体から判断するに、これは(たまき)という少年の記憶だろう。

 映像が終わり、振り返る。知らぬ間に幾つもの宝石が出現していた。エメラルド、ダイヤモンド、サファイア、琥珀など──様々な色が青すぎる空を華やかにしている。これらが空の記憶か、と僕は蒼穹(そうきゅう)を駆ける。

 

(しずく)……、と名を告げる銀の少女〉〈淋しがり屋でコミュニケーションが苦手な雫さん〉〈雫さんと仲良くなる環君〉〈妖怪である雫さんを受け入れる環君〉〈遊びに行く約束〉〈友だち〉〈雫さんの父親の命日〉〈雫さんの母親の命日〉〈男に突き飛ばされる空〉〈空に包丁を向ける男〉〈空を助け、刺されてしまう環君〉

 

 宝石に触れるたびに、空の、環君の記憶が僕の脳に刻み込まれ、それを繰り返し、そして、忽然と見慣れた部屋にいた。

 

「はふぅ……」空が艶かしい息を洩らした。(何これヤバい)

 

「終わったよ」

 

「終わらないで」もっとして、と瞳が潤んでいる。

 

 そう言われても妖力の残量が心許ないから、「また今度ね」と猫にするように空の顎を(くすぐ)る。

 

「絶対だぞ」と僕の手を捕まえた。

 

「約束するよ」

 

 空は長い脚をすり合わせた。

 

 

 

 

 

 

 少しばかり頭を働かせて、空に起こったことを推測してみた。

 まず、大前提として神様を名乗る大きな蝿も性別が変わったという事実も存在しないのではないだろうか。思うに、雫さんが、死んでしまった環君の記憶を空の中に入れただけのような気がする。その際に、意図的か否かは分からないけれど、〈空という名前の男子高校生が大きな蝿に性別を変えられ、加えて、周りの人間の認識も改ざんされた〉というふうに記憶──認識の変更が為された、あるいは不可抗力的にそうなってしまった。

 つまり、〈空は元々女の子で、ただ単に環君の記憶の一部を持っているだけ〉ということだ。

 

 この、名推理と言うには論理性の足りない、探偵から怒られそうな憶測を空に説明した。

 

 すると、空は眉間に皺を寄せ、目と口を閉ざした。しばらくして、「全部思い出した!」と閃光のように発した。身を起こし、僕に正面を向けるようにしてベッドの上で胡座をかく。「(おれ)は妖怪の雫と友だちで、(わたし)は野球が好きな普通の高校生だった。紙谷(かみや)って人に刺された記憶もあるし──」そして、目を合わせたまま、「多分、水季の言うとおりだ。やるじゃねぇか」と口角を吊り上げた。

 

「……」

 

 空は強いな、と思う。こんな異常な事実を突きつけられても、目を逸らそうとしていない。不満を抱くことも怒りを覚えることもなく、不器用な少女の心配をしている。だけに留まらず、自分を殺そうとした人間を憐れんでさえいる。

 

「なんだよ」こそばゆそうに言った空が愛おしい。

 

「僕の彼女になってくれてありがとう」

 

「……」僕の言葉は想定外だったらしく、無言になる。しかし、すぐに、「ずっと大切にしろよ」と柔らかい笑みを見せた。

 

 うん、そうするよ、と頷く。

 

「……」なんだか気恥ずかしい。それを誤魔化すために、「ところで、記憶はこのままで大丈夫?」と平静な声音で訊ねた。雫さんに環君の記憶を消してもらいたいか? という意味だ。完全に元どおり──普通の女の子になれるかは分からないけど、それに近い状態でいいならば可能なはず。

 

「記憶はこのままがいい」空は答えた。続けて言う。「でも、雫に会いに行こうとは思ってる。あいつが心配だし、謝らないといけないこともあるし」 

 

 空の心には、晴朗(せいろう)な春を思わせる親愛の情がある。

 空の心が僕から離れてしまうのではないか、と少しだけ不安を覚える。

 

 空がニヤニヤし出した。「心配すんなって。今はもう、雫に対して恋愛感情はねぇから」

 

 たしかに、空には、自覚できるほど明確な恋愛感情はないけれど、その残り香のようなものはある。

 

 こちらだけが不安になるのは不公平なので、僕も情報を開示する。「実は、雫さんとは親戚なんだ」

 

「は? うそ……」目をぱちぱちとさせる。それが、鯉が口をパクパクさせる様と重なり、笑ってしまう。

 

「結構仲良かったんだ」1度しか会ったことないけど。「可愛いよね、雫さん」空のほうが可愛いけど。

 

「同窓会で女漁りをする男みたいなことを考えてるんじゃないよな?」空の脳裏では、〈浮気〉の2文字が赤色に明滅している。

 

「心配しないでよ。今はもう、雫さんに対して恋愛感情はないから」

 

「うぜぇ」

 

「ごめんごめん。雫さんが環君の好きだった人だと思うと不安でさ」

 

 一拍の後、空は表情を弛め、「へー、そうかそうか……」とベッドから床に降り、立ち上がった。「悪かったよ。でも、もう水季以外はあり得ないから」心を読めるなら分かるだろ? と膝に手を当てて前屈みになり、僕の目を覗き込む。

 

「それだけ空を愛してるってことだよ」

 

 空の瞳に僕が映っている。彼女は、「かわいい奴め」と桜色に笑い、「ご飯作る」と腰を伸ばした。

 

「なんか手伝えることってある?」

 

「ないな」即答された。「台所狭いし、水季役に立たないし、普通に邪魔」

 

「じゃあ、おとなしくテレビでも観てるよ」

 

「おう、そうしてくれ」(これは、所謂、半同棲──いや、事実婚? この調子で行けば数年後には……)

 

「楽しそうだね」

 

「ああ、最高に楽しい」

 

 僕も楽しいよ。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 銀の髪が嫌いだ。

 物心ついたころには、そんなふうに思っていた。

 お母さんもお父さんも他の大人もみんな、黒とか茶とかなのに、私だけが生まれつきこの色だったのだ。どうして私だけ仲間外れなのか、と幼心にも理不尽さを感じていた。

 5歳くらいの時だったか、親戚のおじさんの葬式に連れていかれたことがあった。

 行きたくない、と駄々をこねたのをよく憶えている。

 私は他者が苦手だ。怖いとも言い換えられる。理由を訊かれても、生理的に、としか答えられない。誰もが納得できる明快で具体的な原因は一切ないけれど、とにかく苦手なのだ。

 だから、知らない妖怪がたくさん来る葬式には行きたくなかった。

 しかし、お母さんとお父さんは私を(なだ)めすかし、車に乗せ、秋水(しゅうすい)さんの家へ向かった。

 案の定、秋水さんの家は辛い空間だった。何人いただろうか、多くの妖怪と少しの人間がいて、秋水さんは人気者なんだなぁ、と私はぼんやりと考え、すぐに庭に避難した。

 庭は、ある種の異界のようだった──家の中から漂ってくる気配と誰もいない庭のコントラストが不思議な風情を醸し出している。

 いくらか安心できた私は、木の下で蟻を数えることにした。

 83匹を数えたところで事件が起きた。男の子が話しかけてきたのだ。愛着が湧きはじめていた蟻のことは一瞬で頭からなくなり、ほとんど無意識に木の陰に逃げ込む。

 しかし、その男の子──水季君は続けて言葉を寄越してきた。ガクガクと震え、なんで私に構うんだよ、と嘆いていたのだけど、彼も暇だったらしく、どこかに行く素振りは見せない。

 彼の話しぶりは静かで、口数も多くはない。強引に腕を掴まれるということもなく、だからだろう、少しずつ慣れていくことができた。

 そうして、私も声を出した。髪の色やテレビの話をして、川の近くでバッタを捕まえ、ゲームで対戦し、大人たちがもう帰りたいと言うまでの時間を潰した。

 友だちがいたらこういう感じなのかな。そんなことを考えていた。

 

 私は(さとり)と呼ばれる妖怪で、通常ならば遅くとも10代後半には〈他者の心を読む異能〉に目覚めるはずだった。しかし、15歳の私が覚醒したのは〈他者の記憶を操作する異能〉だった。それはつまり、私が突然変異であるということだ。おそらくは銀髪もそれが原因だろう。

 ただ単に記憶を操作できるだけならばそう問題はないのだけれど、この異能には副作用があった。

 それは食性の変化。

 それまでの私は、多くの妖怪や人間と同じような食事で生存に必要な栄養を摂取することができた。

 でも、覚醒後は違った。好きだったハンバーグもグレープフルーツジュースも舌と胃が受け付けなくなっていた。不味いのは当然として、無理矢理飲み込んでも吐いてしまうのだ。

 何を食べるべきかは本能で理解していた──人間の記憶だ。

 人間の記憶を食べると、間違いなく退魔師に追われることになる。彼らは寛容ではあるが、怠惰でも無能でもない。考えなしに食い散らかしていたらすぐに捕まってしまうだろう。

 私は生まれ故郷──両親はすでに亡くなっていた──を出て、人目を避けるようにいろいろな場所を転々とする生活を始めた。

 元々、両親を除き、他者との直接的な交流はなかったので、1人で生きていくことに抵抗は覚えなかった。人々の記憶に残らない状態になれるため、ぬらりひょんに近いこともできるし、不自由は少ない。

 

 ある日、退魔師に見つかってしまった。異能の効きが悪い人間がいたようで、その人間の目撃情報を基に占い系の術を使い、居場所を特定したそうだ。

 仕方ない、とその退魔師の記憶を操作しようとしたら、見たことのない術で防御されてしまった。もう1度試しても、何度やっても結果は同じ──負けるかもしれない、と心にさざ波が立つ。

 けれど、記憶操作なしでも私は弱くはないらしく、妖力をほとんど消耗(しょうこう)し、かつ傷を負ってしまったものの、自分のことを天才陰陽師だと臆面もなく言っていたその女性退魔師から逃れることができた。彼女の気配を感じなくなってからも全力で駆け、気がつけばどことも分からない河原にいた。

 そこで私は意識を失った。体力の限界だったのだ。

 

〈……い! ……ぶか!〉誰かの声が聞こえ、濁った水に沈んでいた自我が水面へと浮上していく。

〈ぅうん〉と喘ぐように息を吐きながら瞼を上げると、同じくらいの年の男の子と目が合った。短髪の、気の強そうな子だ。

 急速に思考がクリアになっていき、それに伴い、恐怖も膨らんでいく。

 逃げよう。そう思い、起き上がろうとして、しかし身体に力が入らない。

〈おい! 動くな。今、救急車を──〉と彼──環君が言うや否や、〈やめて!〉と私は発した。〈救急車はやめて。私に構わないで〉本心からそう続けた。

 赤の他人に触られるのも会話をするのも苦痛でしかない。早く環君から離れたかった。

 けれど、それは叶わなかった。他人とのコミュニケーションによる精神的なストレスと退魔師との戦闘による肉体的な疲労が原因で舌がいつも以上に回らない中、頑張って交渉し、救急車を呼ばれることだけは阻止することができたが、しかし、それだけだった。〈わりぃけど〉と環君は私を背負い、歩き出したのだ。

 熱っぽい背中と汗の匂い。

 もしも身体を動かせたならば取り乱していただろう。逃げ出していただろう。しかし、幸か不幸かそれはできなかった。

 私の世界は再び黒く塗りつぶされる。

 

 次に目覚めた時、私はベッドにいた。顔を横に向けると、野球選手のポスターや金色のトロフィ、茶色のグローブなどがある6畳ほどの洋室だと理解できた。

 この時、私の精神は衰弱を極めていた。

〈ぅ……ぅ……〉意思に反して涙が溢れ、止めることができない。

 元々、私は精神的に強い妖怪ではない。妖力こそ退魔師が顔を引きつらせるくらいはあるらしいが、精神力は人間の子どもと同じか、もしかしたらもっと弱い可能性もある。

 どうしてこんなに辛い目に遭わないといけないの。なんで他者が怖いの。普通の覚に生まれたかった……。

 考えないようにしていた不平不満が心を圧迫していく。

 ドアが開く音がして、環君が現れた。すぐに私の状態に気づき、〈あー、うん。よく分かんねぇけど、とりあえずなんか飲むか?〉と視線をずらす。

 何も言えなかった。

 

 身体が動くようになるまで、私は環君の家──父子家庭であり、かつ父親が出張中で、実質的に1人暮らし状態だったようだ──で過ごすことになった。初めは苦痛でしかなかったけれど、次第にぎこちないながらも会話ができるようになっていった。

 ただし、大きな問題があった。普通の食事を一切摂らないのに回復していく理由を説明しないわけにはいかなかったのだ。

〈ヨウカイ? ヨウカイってあの妖怪?〉と環君は驚いていた。けれど、私の予想よりは落ち着いていた。

〈そう〉と肯定すると、環君はまた質問する。〈なんの妖怪なんだ?〉

〈覚……〉答えると、〈へー、すげぇな〉と彼は他意のない様子で言った。

 ふと、心に切なさを感じた。そして、自然と言葉が溢れてゆく。

 突然変異であること。数週間に1回、人間の記憶を食べる必要があること。退魔師という怖い人間に追われていること。家族がいないこと。他者が怖いこと。

 いろいろなことを話した。ここに至ってようやく自覚した。私は誰かに受け入れてほしかったのだ。

 他者が怖いから1人でいるのが1番いいと思っていたが、間違っていた。孤独も同じくらい怖い。我ながら難儀な性格をしている、と溜め息が出る。

 でも、〈めんどくせぇ奴だな〉と環君が笑ったのを見て、少しだけ自分を好きになれそうな気がした。

 

 元気になったころ、〈週末、遊びに行こうぜ〉と誘われた。

 その翌日の夕間暮(ゆうまぐ)れ、1キロほど離れた位置にいる環君の霊力が凄い速さで減少していくのを感知した。胸騒ぎに従い、環君の家──まだ居候していた──を飛び出し、彼の下へ向かう。

 住宅街の小さなT字路には2人の人間がいた。1人は環君。血溜まりに眠っている。もう1人はスタイルのいい少女。彼女も硬いアスファルトに横たわっている。

 環君に駆け寄り、抱きおこし、〈……っ〉と息を呑んだ。胸部を中心に滅多刺しにされていたのだ。解剖学の知識のない私でも、彼の肉体はもう取り返しのつかないくらい壊されていると分かってしまった。

 環君を異性として意識していたわけではないと自分では思っていたけれど、それを目の当たりにした時、頭が真っ白になり、とにかく彼を生き返らせなければならないという合理性の欠片もない考えに取り憑かれた。

 でもどうやって……、と夕空を見上げる。すると、天啓のようにある考えが脳裏に生まれた。

 ──環君のすべての記憶を他の人間に移せば、蘇生や転生をしたのと同じではないか。

 時間が経って冷静になった今ならばまったくの別物であると分かるが、この時の私には天才的な閃きに思えた。

 すぐに行動に移す。死体に異能を使った経験はなかったけれど、なんとか記憶の一部を取り出すことができた。次いで、近くで気を失っている少女に植え付ける。迷いなんて微塵もなかった。

 その際、少女と環君の記憶と認識に大きな乱れが発生した。焦りつつも、バラバラになり、変質してしまった記憶と認識を繋ぎ合わせ、整合性が取れるように無理矢理に調整。間一髪で人格の崩壊を回避することができた。

 そして、少女──春夏秋冬 空(ひととせ そら)さんの身体を背負い、近くにある総合病院へと駆け出した。

 

 春夏秋冬さんの中に、私に関する記憶は残されていない。つまり、私は赤の他人ということだ。

 また仲良くなりたいという気持ちはあったものの、後から湧いてきた罪悪感が彼女に近づくのを躊躇わせた。そうして数日が経過し、自分のしたことを正しく認識する。都合のいい妄想を続ける強さは、私にはなかったのだ。

 環君の記憶や人格が混ざろうが、春夏秋冬さんは本質的には春夏秋冬さんのままだ──環君は蘇生も転生もしていない。

 私のしたことに意味なんかなかった。

 春夏秋冬さんの中から環君の記憶を消そうとも考えた。しかし、尋常ではない負荷を掛けられた彼女の心は、奇跡的なバランスで正常を保っている。これ以上の記憶の操作は精神崩壊に繋がるリスクがある。結局、何もできなかった。

 私は、少し前の私に戻ることにした。1人で日本全国を旅し、たまに食事をする。会話をせず、退魔師に見つからないようにコソコソと生きる。

 悲しいし、淋しい。けれど、環君に代わる新しい友だちを作ろうという気にはなれない。それに、そう簡単にできるとも思えない。

 だから、仕方ない、と諦めた。孤独を受け入れるしかない。

 そして、私は環君のいた町を後にした。

 

 およそ3ヶ月の後、環君のお墓を訪れた。

 季節外れのお墓参りだったからか墓地には誰もおらず、田舎ということもあって気が緩んでしまい、そのせいで墓地の近くにある遊園地の廃虚──入口には〈ゴーストパラダイス〉とあった──の辺りで鳥型の式神に見つかってしまった。

 直ちに破壊したけれど、情報は術者に伝わったはずだ。失敗した、と溜め息をつき、しばらくは西日本にでもいようか、と移動を開始する。

 

 

 

 

 

 

 8月23日はお母さんの命日だ。この日は、毎年お墓参りをしている。

 お母さんが亡くなってから、もう6年も経つが、私の心にある彼女の記憶は変わらず鮮明なままだ。昔から記憶力はいい。もしかしたら突然変異であること──記憶操作の異能と関係があるのかもしれない。

 

(こと)家之墓〉という字の彫られた黒い墓の前に私はいる。墓地には私、独りだ。

 雨は降っていないが、晴れてもいない。どんよりとした鉛色の雲が暑さを抑えているので過ごしやすい。

 

「……」墓石を這い回る蟻を眺めていると、ふと気づいた。お墓参りでしか故郷に帰っていない。「……別にいいか」それくらいしか帰る理由がないのだから問題もないということにも、すぐに気づいた。

 

 風が吹き、長い銀髪がなびく。お母さんが好きだと言っていたから長いままにしているけれど、やっぱり切ってしまおうか、と最近は思いはじめている。

 

「ん……?」遠くに3つの気配を感じ、声を洩らした。

 

 知っている妖力と霊力──水季君と春夏秋冬さんに、知らない霊力が1つ。それなりのスピードで近づいてきているから、車だろう。つまり、知らない霊力は運転している人間のものだと思われる。

 彼らの移動が墓地の入口の辺りで止まる。少しして知らない霊力の人間は、水季君と春夏秋冬さんを残し、来た道を引き返す。一方、2人はこちらに向かって進みはじめた。

 心臓が一層うるさくなる。脈打つ度に身体が波打つ。しかし、逃げてはいけない。と思う。怖いけれど。

 

 お墓に視線を固定して蝋人形のようになっていると、足音が大きくなり、そして、立ち止まった。

 

「久しぶりだね」「よっ、元気だったか?」水季君は(たい)らかに、春夏秋冬さんは軽やかに言った。

 

 身体の正面を2人へ向ける。

 

「水季君……だよね」

 

「うん、そうだよ」声変わりはしているけれど、その奥にある響きは昔と変わらない。「雫さんに会いに来たんだ。少し話がしたいんだけど、いいかな?」

 

 頷く。

 

 記憶を読めば、話を聞かなくても用件は把握できる。でも、それをするつもりはない。彼女たちの言葉を大切にしたいから。

 

 春夏秋冬さんが半歩前に出る。「約束、守れなくてごめん」

 

 約束? 何のことだろうか、と自分の記憶を調べる。ほとんど間を置かずに思い当たった。きっと〈遊びに行く約束〉のことだろう。

 そんなことを気にしていたのか、と驚く。殺されてしまったのだから、本当にどうしようもない。春夏秋冬さん──環君が謝る必要はない。

 

 謝らなければならないのは私だ。「ごめ、ごめんなさい」噛んでしまった。「勝手に記憶を入れ……て……」言っている途中で、春夏秋冬さんはどこまで知っているのだろうか、という疑問が頭を過り、言葉が尻すぼみになった。

 

「大丈夫、全部理解してるよ」水季君が赤ん坊をあやすように答えた。私の心を読んでいたらしい。

 

「そう……なんだ」と絞り出し、「怒ってないの……」と春夏秋冬さんに訊ねた。

 

「怒ってねぇよ」

 

 どうして、と思う。「私はあなたの記憶と精神を勝手に弄ったんだよ? 本来のあなたを歪めたんだよ? それなのにどうして──」

 

 彼女は、はは、と小さな笑いを零した。「だってよ、冷静に考えてみろよ。(わたし)は殺されかけて、(おれ)に助けられて、結果、(おれ)は死んじまった。(わたし)からすれば、(おれ)は命の恩人なわけ。(おれ)の記憶を受け入れて、ずっと憶えててやるのは、多分、(わたし)の義務だ。(わたし)が悪いとは思わないけど、(わたし)(おれ)の死の一因ではある。違うか?」

 

 違うような、違わないような、よく分からない。返答に困っていると、「今も記憶は食べてんだよな?」と彼女が質問してきた。

 

 頷く。

 

「そうか」と囁き声に近い声量で言ってから、「じゃあ、これからは空と環(わたしたち)の記憶を食べてくれよ」と続けた。

 

 そういえば、と環君の言葉を思い出す。〈俺の中にある雫と過ごした記憶を少し食べて、また一緒にいて記憶を作って、また記憶を食べてってのを繰り返せば、実質的に被害者ゼロだから退魔師から怒られないんじゃねぇか?〉記憶を自炊するんだ、と訳の分からないことを言って、自分の発言に自分で吹き出していた。

 

「ありがとう」でも、それはできない。「これ以上、春夏秋冬さんの記憶を操作すると、精神がバラバラになってしまう可能性が高いの。だから、できない。ごめんなさい」

 

「マジかよ」春夏秋冬さんは、綺麗に整えられた眉を少しだけひそめた。そして、後ろを振り返り、水季君に言う。「どうしよう、当てが外れた。水季ならなんとかできないか?」

 

 飾らない声音で甘える彼女の姿とそれを見る水季君の優しい目を見て、私は察した。この2人は頼り頼られるのが当たり前の関係なんだ、と。

 羨ましく思う。そういう相手が私にもいてくれたらな、と心が(きし)む。

 

「雫さんはさ、食べる記憶を指定されるのは大丈夫なんだよね?」水季君に問われた。

 

「大丈夫だけど……」

 

「僕の知り合いの退魔師に、雫さんの食事についてお願いしてみてもいいかな?」

 

「どういうこと」

 

「退魔師ってさ、僕ら妖怪と敵対してるわけじゃなくて、人間と妖怪が共存するための調整役なんだよね。だから、雫さんが無関係の人間から記憶を奪わなくても済む方法があるんなら、多分、協力してくれると思うんだ」

 

「そうなの……?」本当だろうか。

 

「本当だよ。あの人たちのトップだって半妖だしね」

 

「……」数秒、考えて、「分かった」と──。

 

「よし、決まりだな」春夏秋冬さんが、夏の晴天を思わせる爽やかな声を発した。そして、すたすたと移動し、私の横、つまりは琴家のお墓の前に立った。手を合わせ、その大きな瞳を閉じる。

 

 墓地が静けさに包まれた。夏の日射しに耀く彼女の肌は汗が滲んでいる。つー、と汗がこめかみから顎に流れた。

 

 束の間が過ぎ、彼女は瞼を上げた。こちらに向き直り、口を開く。「じゃあ、遊びに行こうぜ」

 

「?」が頭に生まれ、ほとんど無意識に、「私に言ってるの?」と訊いていた。

 

「他に誰がいるんだよ」春夏秋冬さんは呆れ顔だ。

 

「……」何と答えればいいか分からず、黙してしまう。

 

 そんな私を見かねたのか、水季君が春夏秋冬さんの言葉を補う。「空は、雫さんを友だちだと思ってるみたいなんだ。嫌じゃなければ付き合ってあげてよ」

 

「え……あ、うん」意味がよく理解できず、曖昧に肯首した。

 

「ほら、ぼさっとしてないで行こうぜ」と彼女は私の手を取る。「それとも、またおんぶしてやろうか?」

 

「やめて!」恥ずかしさを思い出して存外に鋭い語調になった。

 

 ふふ、と笑った春夏秋冬さんは、「冗談だよ」と続けた。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 早速、水季は雫のことを退魔師に相談した。退魔師から記憶の一部を貰えないだろうか、と単刀直入に言ったらしい。

 いきなりどうしたんですか……、と困惑する退魔師に事情を説明したところ、非常に驚かれたらしいが、最終的には条件付きで了承してもらったそうだ。

 その条件とは、〈雫が退魔師の手伝いをすること〉。基本的には退魔師の助手のような立ち位置で働き、その退魔師から、なくなっても困らない記憶を報酬として貰うという形になったようだ。

 

 9月に入り、暑い日と涼しい日が入り乱れるようになった。朝晩の寒暖差もある。水季には体調を崩してほしくないので、最近は栄養バランスを考えて料理を作っている。妖怪が風邪をひくかは知らないけど。

 

 金曜日は学校帰りに水季と買い物をして、そのままアパートに泊まるのが私たちの勝利の方程式だ。シルバーフェニックスの中継ぎ陣にも、私たちを見習って1日も早く必勝パターンを見つけてほしいものだ。

 

 水樹と肩を並べていつもの道を進んでいると、アパートの近くの十字路で、右目の目尻にある泣きぼくろが儚げな印象を与える美人──雫に出くわした。紙袋を手に提げている。

 

「あ、こんにちは」とひかえめな声量で挨拶をする雫の表情は、以前よりも明るくなっているように見える。

 

「よう」「こんにちは」私と水季が応じると、雫は、「お土産買ってきたよ」と紙袋を持ち上げた。

 

 彼女は昨日まで退魔師の仕事で県外に行っていた。出発前に、お土産頼むぜ、とお願いしていたことを今、思い出した。

 

 もちろん、馬鹿正直にそれを白状するつもりはない。「さんきゅー」何食わぬ顔で感謝を伝え、「せっかくだから上がっていけよ」と提案する。

 

「頼んだくせに忘れるってどうなの」水季が余計なことを口走ったので、尻を叩く。痛い、と聞こえた。

 

 雫が笑う。「夫婦みたいだね」

 

「おう」顔に熱が集まってゆく。

 

 最近は水季との結婚生活をよく想像する。〈家事の分担はどうしよう〉〈仕事は何をしてるんだろう〉〈子どもの名前はどんなのがいいかな〉といったことを自然と考えてしまうのだ。

 水季には全部バレているはずだけど、具体的なことは何も言われない。何を考えているのだろう、と不安になることはある。でも、水季も同じ気持ちだと信じてる。

 

 水季が、ふふ、と息を吐き、「結婚式でさ」と話し出した──私の心が跳ねる。「新郎新婦の馴れ初めを紹介することがよくあるみたいなんだ」

 

 話の先を察したのだろう、雫は柳眉(りゅうび)をハの字にし、「ごめんなさい」と躊躇うように口にした。

 

 感謝してるんだよ、だから謝らないで、と水季は静かな声音で言い、「僕らの場合、特殊すぎるからどう切り抜けようかって悩んでるんだ。無難に嘘で固めるのは面白みに欠けるしね」と一瞬だけ私に目をやった。そして、「なんかいい案ない?」と雫に問う。

 

「ぇ……、うーん……」雫は思案し、しかし、「ごめんなさい。すぐには思いつかない」と結論付けた。

 

「そっか。じゃあ、思いついたら教えて」

 

「うん。考えとく」

 

 根性のひん曲がった水季のことだから、私の心を(くすぐ)って、からかっているだけかもしれない。でも、水季への愛が不安と疑いを塗りつぶしてゆく。

 心の芯が温かい。水季にそのつもりがあるのなら、心置きなく尽くせる。私のすべてをあげられる。愛おしい気持ちがどんどん湧いてきて心を満たし、それでも止まらず、溢れ、口元が弛んでしまう。抱きつきたくてムズムズする。

 

「私、本当にお邪魔してもいいの……?」雫が愉快そうに訊ねた。

 

「いいよ」「いいに決まってんだろ」水季と私の声が重なる。

 

 私たちにきっかけをくれた大きな蝿の正体は、女神のように綺麗な女の子だった。

 

 秋の夕日が私たちを、空を、世界をオレンジ色に染めている。悪くないな、悪くない。心からそう思えた。

 

 

 

(了)




これで本当に完結です。なんだかよく分からない話でしたが、ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました!

いい点や悪い点を感想で教えていただけますと助かります。気が向いたら、お願いします。


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