邪神さまがみてる (原 太)
しおりを挟む

1 降臨

 

 

 ――ああ、奇跡よここに。泥の輝きよ、濁り寿ぎ広がり満ちろ。

 

 

 なんか野太く低いおっさんの声で目が覚めた。

 

 おかげで寝起きは最悪。すぐには眼を開けたくないと、少し開いたところで目蓋はさび付いた。

 

 どうせならもっとか細く透き通っていて、けれども確かな芯の強さがそこはかとなく感じられ、しかしある意味浮世離れした透明感ゆえに、童謡や民謡を歌えばなぜか怖くなってしまうような澄んだ声で起こされたかった。

 

 

 ――満ちろ。満たせ。見せよ。御世の背を。そうあれかしと、死を晒せ。

 

 

 さっきからうるさいな。なんだよこれポエムかよ。そういうのはこっそりやれよ。この至近距離かつ大声で叩き込んでくるとか、ちょっとメンタル強すぎて引くわ。お前スープバーのカップでドリンクバー並べるタイプだろ。あと、なんか微妙に韻を踏んでるのがいらっとするなこれ。

 

 

 ――我等が喉に、我等が舌に、我等が頬に! 満たせ満たせし闇と死を!

 

 

 おっさんの謎ポエムは加速していく。

 はじめはゆっくりと。そこから徐々に抑揚をつけ力強く。

 

 

 ――噛み付きませぬ。あなたが噛めというまでは。

 ――噛み砕きませぬ。あなたが砕けというまでは。

 ――口に含みませぬ。あなたが含めというまでは。

 ――呑み込みませぬ。あなたが呑めというまでは。

 

 

 あ、なんとなくわかる。ここからサビだ。にわかに上がるおっさんのボルテージを感じ取ったおれは、宇宙で一番どうでもいい確信を抱くと同時に……そろそろ、なにかがおかしいと気付き始めた。

 

 

 ――求めは示され、証は此処に。満願成就の夜は今! いと昏き星よ! 此処に墜ち給え!

 

 

 むせた。と同時に今まで息をしていなかったことに、ようやく気付いた。

 一度自覚してしまえば、もう抗うすべはない。内から外へと吸い込まれるようにして、すべての息が出て行くのを止められない。

 

 

 ――降臨せよ! 今此処に! 彼の再来は! 今此処に!

 

 

 がん、と叩きつけられるような衝撃。硬い感触。尻が痛――くはないがクッション性能は最悪。

 

 

「おはよう御座います。宵の昏星。温かい泥。お目にかかれて恐悦至極に――」

 

 

 さっきまでよりもさらに近くからおっさんの声が聞こえる。

 というか、そこにいる。

 なにやら大袈裟な言葉を並び立てて、会えてちょー嬉しいまじ最高! という意を伝えている。

 このまま寝たふりを続けるのは……まあ無理だろう。なんかそういう空気じゃないっぽいもんなこれ。

 とりあえず、おれは眼を開いた。

 斜め下2メートルほどの位置に、片膝をついた件のおっさんらしき奴がいた。

 

 が。

 

 なんか頭から角が生えてた。顔色が悪いを通り越して紫色だった。

 

 

「……んん?」

 

 

 左右2本のぶっとい巻き角が、それぞれにょっきりとこんにちわしている。きっと帽子は被れまい。ボリューム的にヘルメットも無理だ。中免どころか原付も取れないデメリットを超える益を、あのわがままホーンは与えてくれるのだろうか。

 

 いや、そうじゃない。いま考えなきゃいけないのは、そんなのじゃない。

 

 おっさんは真っ黒いローブに身を包んでいた。わずかに見える手足も紫色。考えるまでもなく人間の肌色ではない。というかそもそも、そんな格好とかV系バンドのPVでしかみたことねえよ。あれだよほら、崖っぷちで両手広げて天空を仰ぐタイプのやつ。

 

 ……うん、その、なんだ。ちょっとパンチが強すぎるな。うん、一旦保留。

 

 眼下のおっさん(仮称:ファナティックラクリマおじさん)から視線を外し、あたりを見回してみる。

 どうやら屋内らしく、石造りの壁面には等間隔でロウソクが立てかけてあり、さらにあちこちに燭台が設置されている。その数10が10のそれが10で――ざっと千を超えたあたりで数えるのをやめた。奥行きといい天井の高さといい、市民体育館10個分ぐらいはあるんじゃないだろうか。

 そんな大広間の中心部に、小型のピラミッド(とはいえ直系30メートルはあるぞこれ)のようなものを造り、その頂点部分を削り出し石の玉座に仕立てあげて、そこにあぐらをかいて座っているのがおれですはい。

 

 

 すう、と頭が冷えていく。

 

 

 理由は簡単。至極単純。ゆえに現実として重みがある。

 

 

 ぱっと見た感じ、これ、めちゃくちゃ金がかかってるのだ。

 

 

 この薄暗くてじめっとした感じ、まず間違いなく地下だと思う。

 地下にこれだけ広大な空間を用意して、そこを埋め尽くす数のロウソクと燭台。しかもよく見るとロウソクの一本一本に何やら小さすぎて読めない文字が大量に刻まれている。かたちの違いを見るに、一本たりとも同じ文言はないようだ。つまりオール手作業。

 燭台の方も量販店の画一規格による量産品ではなく、どっかのアートギャラリーでみたことのあるような、ハンドメイド特有の味があるものばかりだ。こちらもロウソク同様、すべてに異なる謎の文言が刻まれているっぽい。これまたオール手作業。

 

 さらに今おれが鎮座している直径30メートルのピラミッドもどき。

 なんというかこれ、恐ろしいことに、石の継ぎ目が見当たらないんだよね。

 こう、段と段の隙間がない。まったくない。完全にゼロ。埋めた形跡もなし。そして例の如く謎文字の羅列。ロウソクより距離が近い分よく見えるんだけど……だめだこれ読めねえわ。日本語でも英語でもない。見たことない文字。それがこう直径30メートルクラスの立方体にびっしりと。うん。引くわー。

 

 

「……うわあ」

 

 

 さらにこれ、どうやら見る角度によって模様というか絵になるみたい。

 わかりやすくいうならそうあれ、高速道路とかで走行中に見ると「スピードおとせ」とか文章になって見えるやつ。停止して正面から見ると、間延びした線の破片にしか見えない、目の錯覚を利用した一種の騙し絵。

 たぶんそれの亜種みたいな感じで、見る角度によって古代文明の壁画のような絵が切り替わっていくようだ。発生。授かり。宵の葉。発展。裏切り。破滅。終の葉。そして――いやいや何だよこの謎技術。さりげにストーリー仕立てにしてんじゃねえよ。そういうの怖ぇから。

 

 とまあ、それらすべて諸々含めて――場所代、設備代、材料費、職人の人件費、作業員の人件費×完成までの日数――どう低く見積もっても、億は下らないと思う。というか、この地下空間を確保する時点で足が出るだろう。

 もし奇跡的に、どこかマイナーな外国の土地を格安で押さえられたとしても、直系30メートルのピラミッドを削り出せるサイズの大石の確保にどれだけのコストが掛かるのか、正直想像もつかない。

 

 つまり、さっきから何がいいたいのかというと。

 

 

 

 

 

 本気、なのだ。

 

 

 

 

 

 ここまでのものを用意するには、馬鹿みたいな金と、気の狂ったような労力が必須なのだ。

 

 そんな本気の只中にいる、巻角を生やしローブを着て、紫色の肌をした中年男性。よく見ると異様に肩幅が広い。本気で鍛えた者特有の、一目でわかる逆三角形体型だ。

 

 そこでふと、これまで面を下げ口上を述べていた巻角男が顔を上げた。

 男とおれの視線が、はじめてぶつかる。

 

 

 ――あ。だめだこりゃ。

 

 

 ここでようやく、本当の意味で目が覚めた。どこか冗談めかして考えるのは止めにした。

 

 そうして冷え切った心地で、おれの位置からは死角になる物影を中心に視線を走らせた。

 すると予想通り、右に6人、左に5人の計11人が身を屈めるようにしてそこに居た。巻角男よりもさらに数段下の、ちょっとした踊り場のようなところで皆一様に(ひざまず)いている。なんで隠れているのか? と聞かれても、皆と同じようにしているだけ、と答えれば何もいえなくなるような絶妙な配置だった。

 

 なぜおれは死角を見ることができるのか、という当然の疑問は、言語化するより早く砕けて消えた。それどころじゃねーというか、ただただ純粋なインパクトにぶち抜かれた。

 

 隠れるように身を屈めている11人はその全員が武器を携帯していた。

 武器とはいっても、銃やナイフといった誰もが思いつくような物ではなく――馬鹿でかい剣や鎌だったり、刃の部分がゲーミングチェアぐらいある両刃斧だったりと、中々にパンチの効いたものばかりだった。

 が。

 そんなもの、すぐにどうでもよくなった。

 それらごつい武器を持っている連中が――首から上がトカゲのプレートアーマを着込んだマッチョだったり、なんか露出の多い下半身が蛇のお姉さんだったり、コウモリの羽根が生えた爺だったり、素肌にマント装着のライオンもどきだったり、それからそれから――そのほとんどが、言い訳の余地がないぐらい化け物だった。

 

 特殊メイク。機械工学。遺伝子操作。素人考えで3つ浮上。2秒で解。んなわけねーだろ、意味がない。わざわざおれに見せる意味がない。というか現状隠してる。ならば4つ目。そういう生き物。

 知らず右手を額に添えていた。

 そうしてとりあえず視界を切り、とにかく落ち着けと自分にいい聞かせようとして。

 

 

 その手のあまりの小ささに、目覚めてから一番の衝撃を受けた。

 

 

 いやいやいやいやいや! まてまてまてまて! これおかしいから! おれの手はもっと、

 

 

「……え?」

 

 

 もっと、何なのだろうか。

 ここから先が何も出てこない。

 たぶん大きかった気がするんだけど……どのぐらい?

 わからない。

 よし基本に立ち返ろう。まずは名前からいこう。おれの名前は?

 わからない。

 どこに住んでた?

 日本。これはいける。

 今は何年の何月何日?

 わからない。

 雷禅の昔の仲間で一番背が低い彼の種族は?

 メタル族。

 宇宙一格好いい命乞いの台詞は?

 明日ヒットスタジオに戸○純が出る。

 ここに来る前はなにをしていた?

 わからない。

 下卑た快感とは?

 キャベツ畑やコウノトリを信じている可愛い女のコに無修正のポルノを以下略。

 

 うん。肝心なことはダメだけど、どうでもいいことはやたら覚えてるな。

 

 

「――まずはご安心を。ここには貴方様の敵はおりませぬ」

 

 

 じっとこちらを見つめたまま、巻角男が語りかけてくる。

 

 

「…………」

 

 

 とりあえず無言。単なる時間稼ぎ。

 こんなのそう長くはもたない。どうする。なんかやばそう。どうしよう。どうしたい。

 

 

「私は貴方様の味方です。……いえ、味方などと畏れ多い。(しもべ)とご理解いただければ」

 

 

 はあ? 武装したやばそうな奴らこっそり潜ませといて味方とか僕とか、やっぱりこのおっさん頭沸いてんな。うん。思ったとおり、こいつ微塵も信用しちゃだめだわ。

 

 この時点で、パニックになるという選択肢はなくなった。

 そんなことをしている場合ではない。こいつに隙を見せてはならない。

 そう理解すると同時に、とにかく立ち上がろうとして、

 

 

「……んん?」

 

 

 がくっとつんのめった。

 椅子から立ち上がれない。押しても引いてもびくともしない。あぐらをかいた姿勢から肘掛に両手を添えて、ぐっと力んでみるが微動だにしない。え、なにこれ怖い。

 

 そんなおれの様子を巻角男はじっと見ていた。その表情は固定されたまま、慌てた様子はない。つまり奴にとってこれは慌てるようなことではない。予定通り。想定通り。

 

 ……ふーん。そっかそっか。

 理屈はさっぱりわからないが、こいつがなにかして、その結果おれは椅子に釘付けと。

 あーはいはいそういうわけね。わかったわかった。なるほどなるほど。完全に理解したわ。おっけーおっけー。

 

 

 ……ふざけんなよ、この野郎。

 

 

 ようやく状況が理解できた。

 気がついたらここにいたということは、普通に考えて、おれは拉致されたんだろう。

 んでいまこの豪華な玉座っぽい椅子に拘束中と。

 

 

 ……いや、まじでふざけんなよ、この野郎。

 

 

 恐怖はある。というか正直、恐怖しかない。

 だがいまこの状況で一度でも怯えてしまうと、もうそれしかできなくなるという確信があった。

 きっとおれはそう勇敢なやつじゃない。

 だから一歩先んじて、縮こまるよりはやく前に出るしかないのだ。

 小さく息を吸って、吐く。

 

 

「――で? 用件は何だ?」

 

 

 下手に出るのはやめた。

 意味がないからだ。

 こちらの出方次第で対応を変えるつもりなら、拉致って拘束などしない。

 

 ここまでするのだ。……いや、すでに()()のだ。普通に考えると、向こうの結論はもう決まってる。

 なら今ここは、それにおれが『どれだけ添うか』をはかる場でしかない。

 つまり、このままじゃやばい。1秒でも早く逃げなきゃ絶対ろくなことにならない。

 

 だからこっそりと全力で暴れている真っ最中だったりする。

 

 

「用件、などと仰って下さいますな。宿願にございます。貴方様の。我々の」

 

「答える気はないと」

 

 

 相変わらずぴくりとも動かないので、表面上は頬杖なんかついたりして余裕ぶってたりするんだけど……水面下ではそりゃもう全力でびったんびったん暴れてる真っ最中なんよ。

 

 

「これは失敬をば。抽象を語るは我が悪癖にて。何卒ご容赦を」

 

 

 水揚げされた瞬間のエビが「お前ちょっと落ち着けよ」と諌めてくるレベルでびったんび

ったんしているつもりなんだが……お、ちょっと動いた。これいけるんじゃね? あともうちょいでいけそう……か?

 

 

「ふうん。……それで?」

 

 

 口は動かしたまま、暴れる力はもっと強くもっと大きく、もっと真剣にもっと全身全霊をかけて。ここだ。ここでどうにかしなければもう、

 

 すぽん、と椅子から飛び落ちた。

 

 勢いのまま顔面から着地し、そのままがががと段差を滑り落ち、巻角野郎の隣でスライディング土下座のような姿勢で停止。

 痛みはない。普通に鼻ぐらい折れてもおかしくない勢いだったが、なぜかノーダメージ。無傷どころか痛みすらないとか、何だかおかしすぎるのだが今はとにかく。

 

 ……これ、どうしよう。

 

 あれだけきめっきめで「用件は何だ(キリッ)」とかかました後にこれはきつい。

 巻角野郎もリアクションに困っているのか跪き無言のまま。

 

 ――押し通る。

 

 心の中の若武者を解き放ち、何事もなかったかの様に立ち上がる。そしてできるだけゆっくりと向き直り、判決を告げる裁判長のように厳か、

 

 

「時が来たのです。幾星霜の夜を越えて。撤退を、失敗を、敗北を、その悉くを超えて! 今我々は此処に居る! そして貴方様がそこに居るッ!」

 

 

 巻角野郎が興奮した声をあげる。

 隣に滑り落ちてきたおれではなく、頂上の玉座に向かって声を上げる。

 つられて視線を上げるとそこには……玉座にあぐらをかいて座る10歳ぐらいの女の子がいた。

 

 見た目は普通の人間だ。羽根も鱗も鍵爪もない。長い黒髪と黒い瞳は見慣れた日本人のそれ。ただし微動だにせず完全に無表情のため、どこか人形めいて見えるのが不気味ではあった。なぜか全裸なのも余計にマネキン感を高めている。つうかこのおっさん、滑り落ちてきたおれに目もくれず全裸少女にかぶりつきとは……。

 

 いや、そんなわけねえだろ。

 

 さっき理解したばかりだろうが。こいつは本気だと。

 ここでこんな空気を呼んだボケみたいな真似をするはずがない。

 拘束したはずの相手が目の前で抜け出し、手を伸ばせば届く至近距離にやってきたというのに、ノーリアクションどころか一瞥さえしない。

 

 理屈はわからない。本当にさっぱりわからないが。

 

 きっと今こいつは、おれのことが見えていない。

 気付いていないとすれば、滑り落ちた時の音も聞こえていないと見るべきか。

 

 すると、あの玉座にいる全裸少女は、

 

 

「この奇跡に立ち会えた。まずはその僥倖に最大限の感謝を。そして心よりの敬服を」

 

 

 おれの隣に居る巻角男が、頭上の玉座に向けて恭しく頭を垂れる。

 

 そこで瞬きひとつ。

 

 すると巻角男と眼が合った。跪いたままこちらを見上げる薄気味悪い視線とぶつかった。相変わらず、どう理屈をこねようとも「だめだこりゃ」としかいいようのない、終わりきったドブとヘドロを凝縮したような眼。

 急な場面変換。切り替わったとしか思えない視点。つまり、つまり、とにかく喋れ。動揺を悟られるな。

 

 

「……で? こんな所に連れてきて、お前は何がしたいんだ?」

 

 

 視線を下げれば、細っこい子供の足。あ、やっぱ全裸なのね。うん。玉座にあぐらかいてるし、やっぱそうだよなあ。それしかないよなあ。足し算も引き算もないよなあ。普通に考えてそうだよなあ。つまり――。

 

 

 あの全裸少女が、おれなのか。

 

 

 正直、意味がわからん。

 だから時間がいる。

 稼ぐ。

 稼げ。

 はったり。当てずっぽう。口からでまかせ。それっぽい言葉。芝居がかった台詞。これまでの巻角男の口調に様子。態度。対応。スタンス。びびるな。照れるな。本気になれ。少なくとも向こうは本気だ。こちらも同等の熱量が要求されるのは当然だろうが。ここで本気になれないやつはきっと論外だ。武装したヤバそうな奴らは依然スタンバイ中。忘れるな。おれはいまどん詰まり一歩手前だという事実を。かみ締めて、吐き出す。

 

 

「……少し時間をやる。次の言葉はよく考えて選べ。おそらく、決定的なものとなる。取り返しは、絶対に、つかない」

 

 

 巻角男は眼をぎらつかせたままにい、と笑った。

 おれも同じように笑っておいた。

 

 状況はなにひとつ良くなっていない。だが好転の兆しはある。わからないならわかれ。御託はいい。いまそれはどうでもいい。だからまずは。

 

 

 もう一度、どしゃっと滑り落ちた。

 

 

 今度はちゃんと受身をとった。かつて嫌々やっていた柔道の時間は無駄ではなかった。勝手に開いた記憶の扉をそっと閉じ、さっそく動き出す。

 

 相変わらずこちらに気付かない巻角野郎は素通りし、隠れてスタンバっているやばげな皆さんの傍に立つ。よし、こいつらもこちらが見えていない。

 

 ふうむ。

 

 こうして間近で見ても、この鱗やら羽根やら爪やらのクオリティが損なわれることはない。

ちゃんと呼吸に合わせてわずかに伸縮したり、時たま何故かびくっとした際には連動して軽く浮き上がったりしてる。

 もちろん継ぎ目とか色がはげている場所などない。皮膚の質感、その延長だ。

 

 あまり近づきすぎると、獣くさかったり磯くさかったりもする。が、それもアロマのような香りの中、ほのかに感じる程度だ。どうやら彼ら(彼女か?)には、香りによる身だしなみという概念があるらしい。ちなみにトカゲっぽいリザードさん(仮)がすかっとくるハッカ系で、ライオンっぽいキングレオさん(仮)が甘い系だ。

 

 そしてそんなちょいモテ系の皆さんに共通なのが……異様にごつい身体だ。腕の太さが玉座少女の胴体より太い。もちろん安心のガチムチ仕様。しかも、しゃがんであのスケールなら、立ち上がれば2メートルを超えること間違いなし。……3メートルはないと信じたい。そんな奴らがでっかい剣とか斧で武装して、じっと何かを待ってます。なにこれ。まじで怖い。

 

 こいつらが特殊メイクだとか遺伝子操作だとか超高性能サイボーグだとか、そんな意味のない空っぽの理屈よりも、すげえガタイした奴らが武器をもってスタンバイしているという事実が、ただただ怖い。

 

 と、そんな中、普通の人間っぽい女の人がいた。

 いや、顔色は青白いを通り越して真っ白なんだけど、それ以外は至って普通。

 首元にボアがついた真っ赤なタイトドレスを着こなした美人さん――と思いきや、表情がよくない。限界まで両目を見開き、口は半開きで下顎がかくかくと小刻みに震えている。その隙間からかすれた声がもれる。

 

 

「……あ、ああ、あ」

 

 

 なんかやばそうなので足早に通り過ぎようとして、

 

 つい、と、その視線が追ってきた。

 

 あ、これ、まずい。

 直感と同時に実験。

 

 一歩戻ると視線も戻る。奥へ行くと奥へ。手前に行くと手前へ。

 

 ……間違いない。見られている。彼女にはおれが見えている。

 

 まだだ。慌てるにはまだ早い。まだ彼女は騒ぎ立ててはいない。

 だからこの『誰にもバレずに移動し状況を確認できる』というイニチアシブはまだ失われてはいない。

 失う気はない。

 失ってはだめだ。

 何もないおれに唯一ある利点を失っては、きっともう、どうしようもなくなってしまう。

 

 だから指を立てた。

 

 人差し指をぴんと立て、そのままゆっくりと唇の真ん中にもってくる。

 

 そう、お静かに。というジェスチャー。

 これは万国共通だろう。たぶん。

 

 それを見た彼女は、すっと手のひらをこちらに向けた。

 

 なんだ? ちょっと待ったってことか? いや、待つもなにも、こっちとしてはただ静かにしててくれればそれで、

 

 そこからの一連の流れは、ひどくゆっくりと、しかしなぜかとてもよく理解できた。

 

 上下左右。四方八方。この薄暗い地下空間のあちこちにわだかまる影が、どぷ、と絞り出されて黒い杭を形成。射出。ここまでの所要時間、瞬き半分。

 

 こちらに向けて飛んでくる黒い杭の速度はちょうどあれだ、バッティングセンターの一番速い200キロのやつぐらい。それがマウンドとは比べ物にならない至近距離で、ノーモーションからいきなりトップスピードで発射された。つまり見てから動いても間に合わない。

 

 さらにまったく同じタイミングで、おれの後方4ヶ所からも黒い杭が射出。

 そのすべてがおれという中心点に向かい一斉に殺到。

 もし奇跡的に避けられたとしても、集結点でぶつかった各々が反作用により爆発。

 余波で地下空間の6割を吹き飛ばしつつ、爆心地に近いやつなどは消し炭も残らずに消滅すると。

 

 だからといって、かわさずに受けても即死級の速度と質量が爆発のおまけつきで2本。残り3本は呪で出来ており、こめられた願いはそれぞれ「病」「傷」「死」。病みますように。傷つきますように。死にますように。

 切なる願いは硬い盾では防ぎようがなく、堅牢な防御ごしに、病んで傷つき死ぬ。

 

 

 ……うん、だめだこりゃ。

 

 

 なんでこんなこと細かにわかるのか、とか。

 これどう考えても魔法とかそういう類の埒外物理学だよなあ、とか。

 こんなのがアリなら、そこにいる半人半獣のやつらもきっと本物だよなあ、とか。

 

 いろいろと確信を得たりもしたが、もう正直どうしようもない。

 玉座上に戻ろうにも、黒い杭激突まで、瞬きひとつの猶予もない。

 なにか考える時間、

 

 どす。

 

 と黒い杭が刺さると同時に、ちゅるん、と吸い込まれた。

 残り4本もちゅるるんと、吸い込まれるようにして背に消えた。

 

 そこで瞬きひとつ。

 

 玉座上に戻った視界で慌てて先ほどまでいた段差の影を見ようとした時、それを遮るように巻角男が声を張り上げた。

 

 

「お望みとあらばお答えしましょうぞ、我が主よ! 我が目的。我が宿願。いいえ我等が宿願とは自明のそれ! すなわち! 人類の撃滅! 増長した家畜どもの間引き也!」

 

 

 キマった眼をした奴がキマった顔してキマったことを叫んだ。

 

 それに一瞬だけ驚きそうになったが……まあお前、見た目からしてそんな感じだよな。

 

 

「……具体的には?」

 

「各国首脳陣、王侯貴族、教会関係者は根切りに。他は現状の半数にします」

 

「それが、できると?」

 

「貴方様のご助力あらば」

 

 

 再度確認。こいつは()()だ。

 

 そんな本気の奴(イカれたクソ)の目的は人類の数を半分にすることらしい。

 なんでもおれを使えばできるんだとか。

 

 そこでおれはふと、某カルト系テロリスト集団を思い出した。

 できるできないはさて置いて、とにかく()()奴等は存在する。

 魔法があろうがなかろうが、角が生えていようがいまいが、そこらへんの事実は変わるまい。

 

 おれは三度、どしゃりと滑り落――今度は普通に両足で立ち上がった。三度目となればコツのひとつも掴める。

 そして玉座の頂上から、ゆっくり段差を降りていく。

 

 ここまでの会話と、物影に潜む武装した手勢。固定されて動けない身体。

 おそらく……というか確実に、巻角野郎のいう『間引き』への協力を拒否すれば、おれは殺される。

 かといって、そんなわけのわからない虐殺になんて、絶対に参加するつもりはない。なんで何の怨みもない奴を殺さなきゃならんのか。そんなのに喜んで参加とかどこのシリアルキラーだよ。お前バカだろバーカバーカ。

 

 ……などという本音を飲み込んで、静かに覚悟を決める。

 

 件の某カルト系テロリストが末端構成員を増やす際に用いた手口は有名だ。それはある種のテンプレで、遥か昔から延々とヤ○ザが使い潰してきたおなじみともいえる手管だ。

 最初は見張りや送迎等の軽い仕事からはじまり、一度共犯となったからには、裏切り者として始末されるかそのまま突っ走るしかなくなる。

 

 つまり最初の段階で『否』以外の返答をすると、もうどうしようもないのだ。かといって実際に『否』などといえば、その場で()()される公算が大だったりもする。

 暴力を背景にした交渉という名の脅迫は、無慈悲なまでに強力だ。基本、その場にいた時点でアウト。で、おれは気付けばその場にいました。拘束マシマシで。クソゲーすぎる。まじで打つ手がない。なさすぎる。

 

 

 だから。

 

 

 だからせめておれは信じることにした。

 

 

 巻角野郎の本気を。

 

 本気の奴の見立てを。

 

 小さいながら、いくつか根拠もある。

 いまこうして巻角野郎に気付かれず『影になって』行動できていること。

 さっきの赤ドレスさんの魔法っぽい何かが吸い込まれて消えたこと。

 死角に潜むやつらをするりと自然に確認できたこと。

 

 だからおれは信じることにした。

 

 本気の巻角野郎が、何の力もない奴を、わざわざ拉致ってはこないだろうと。

 

 それによくよく考えると、失敗した時と何もしなかった時の結果は同じだったりもする。

 うん、じゃあやろう。どうせなら、やろう。

 おれが意外にも()()()()であると信じて。

 

 歩き、考え、固める。

 

 なんで何の怨みもない奴を殺さなきゃならんのか。

 どうせやるなら、どう考えても。

 いきなり拉致した挙句、当然のように犯罪行為を強要してくる、お前の方だろうが。

 そんな当然の結論にすら至れないと、心底から馬鹿にしている、お前の方だろうが。

 

 くべる。薪をくべる。

 びびったら負け、などという勇ましいものではなく、怯えても同じ、という選択肢のなさから、とにかくがんがんくべて燃やす。冷たければ手足は動かない。だから燃やす。燃えろ。いくぞ。いける。

 

 よし。

 

 その巻角、へし折ってやらあ。

 

 




この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。





目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2 魔法

 

 

 やることは決まった。

 

 この巻角野郎(イカれたクソ)にぶちかます。やられる前に、とにかくやってやる。

 

 とはいえ、この細っこい腕で殴ったところで、まあノーダメージだろう。

 いや、それどころか、無駄に切り札を晒すだけというマイナスしかない死に手だ。

 

 気付かれずに、完全な死角から先制できる。

 

 これが今ある最強の手札だ。

 最大限活かすなら……わけのわからない内に仕掛けて、わけのわからない内に終わらせる。これしかない。

 

 しかし、腕力ではどうしようもなく、無手のおれにできることなど殆どない。さらに有効手ともなればほぼ皆無。それでもどうにか、なけなしの絞りカスを言葉にするならそう。

 

 ――魔法。

 

 まあ、そうなるよな。

 というか、現に今やってる『これ』も完全に魔法的なやつだよな。

 知ってる単語を当てはめるなら……使い捨ての影分身って感じか。

 玉座に居るのが親機(本体)でこっちが子機(使い捨て)。あ、他からは見えないからステルス子機か。さらに視覚、聴覚、嗅覚もばっちり感じる上に静音性も完備。謎の無線LAN接続で切り替えも一瞬。ラグはほぼなし。

 

 そんな芸当ができてる時点で、おれも『魔法としかいいようのない何か』が使()()()()

 できるできないじゃなくて、もうすでに()()()()

 

 そして、ついさっき、具体的な応用例も見せてもらった。

 なんか凄い速さで飛んでくる黒い杭ロケット弾を特等席で見たばかりだ。

 

 うーん。けどなあ。

 

 なんというか、あの顔色の悪い姉さんは『魔法』で攻撃したつもりなんだろうけどさあ。

 いや、何もないところからいきなりあんなの飛んでくるんだから、そりゃ『魔法』って呼ぶのに相応しい超常現象なんだけどさ。

 

 けどあれって、赤外線誘導のロケットランチャーとか何かそういうので、同じようなことできちゃうよな、たぶん。もっと簡単に5方向同時射撃がしたければ、ロケラン担いだゲリラ兵を5人用意すればいい話で。

 そりゃ金はかかるだろうけど、内戦やってる地域の反政府組織とかが持てるぐらいのお値打ち価格で大量生産されてる物だしなあ。

 国家が後ろ盾の軍隊とかになると、もっとトンデモな超兵器とかわんさかあるしなあ。

 

 ……なんというか、確かにあの魔法は凄かった。きっと、もっと凄いやつもあるのだろう。それこそ、BC兵器や大陸弾道ミサイル、核兵器みたいなやつもあるのかもしれない。

 凄いと思う。恐ろしいと思う。見る人が見れば、質量保存の何たらが――とか、何ちゃらの第何法則が――とか色々あるのだと思う。

 

 けどそれってさ、ぶっちゃけ()()()()()()でしかないよな。

 世界中の軍隊が大量生産して、実際に運用してた兵器群の、私的な小規模再現だよな。

 

 つまり、あの顔色の悪い姉さんが見せたのは。

 魔法という未知の超技術を使って再現した、武装したゲリラ兵5人分の働きというわけだ。

 

 いやいや。

 待て待て。

 そうじゃないだろ。

 なんでそんなもったいないことしてるんだよ。

 魔法とかいうトンデモな力を使って、なんでそんな、ワリと普通に再現できるようなことしてるんだよ。

 なんというかその、うまくいえないんだけど。

 

 魔法なんていうトンデモ超技術を使うなら、もっと滅茶苦茶でも、いいんじゃないのか?

 

 たとえばそう。

 足を止める。巻角野郎まで、あと一歩。

 

 思い出したのは、国民的人気を誇った某バトル漫画だ。

 敵戦力のインフレが煮詰まった終盤、敵役のふとっちょ魔人が使用した、超人バトルの中でも一際イカれた超性能を誇る一撃必殺の理不尽技。

 

 通称、飴になるビーム。

 

 それに当たると丸い飴になって地面に転がる。それで魔人に食われる。めちゃくちゃ理不尽な一撃必殺。誰もが思った。どうすんのこれ。実際Z戦士じゃなきゃ即死だった。そしてここにはZ戦士はいない。これだ。どうせやるならこのレベルだ。

 

 とはいえ、おれは元巻角野郎の飴玉なんて口にしたくない。もっと実用的なのがいい。現状を好転させる要素があれば尚いい。

 このわからないことだらけの状況を――。

 

 そこで悪魔的ひらめき。

 

 わからないなら、知ればいい。

 知るために必要なのは。

 

 本。本だ。本がいい。本なら知りたいことを知れる。読めば()()()。質問に答えるつもりのない巻角野郎から、こっちの知りたいことを全て知ることができる。

 

 

 ――『宵の葉』承認。あなたの行く先に温かい泥がありますよう。

 

 

 透き通っていて、けれども確かな芯の強さがそこはかとなく感じられ、しかしある意味浮世離れした透明感ゆえに、童謡や民謡を歌えばなぜか怖くなってしまうような澄んだ声が聞こえた。

 ピラミッドから。

 は?

 なんでピラミッドが喋るの?

 つうか今の声どっから出た?

 こめかみに違和感。痺れて浸み込む。

 待て、なんだこのカルマとか暗原子とかいうどっかで聞いたような謎単語は?

 いや、組み換えっていやお前、トウモロコシじゃないんだから。

 対象の規定値超過確認ってそれ何基準よ? え? カルマ?

 いける? うん、いけるのはいいんだけど――ああ、今それはどうでもいいか。ごめん、無様晒した。ちゃんと聞くよ。続き頼む。

 接触? 子機でもOK? 素肌じゃなくても? よしきた。

 最後に力ある言葉? 心震わす言の葉? じゃあ最高にイカした映画のタイトルで。たぶんおれを含めて、全世界全時代を合計すると軽く1000万人以上の心を震わせてるだろうから、とんでもないことになってる筈。

 

 ゆっくりと五指を折り畳み、開く。

 つるりとした小さな掌。やはりどう見ても違和感しかない。どう考えても自分のものとは思えない。

 握り潰す。

 

 疑問や不可解は山ほどある。が、今必要なのはそれじゃない。今必要なのは、即決実行。できるならやれ。こっちをただ従うだけの能無しと勘違いしてるサイコ野郎に、()()()

 ここでしなきゃ、後はもうされるだけだ。

 

 玉座を見上げる巻角野郎の無防備な背中を、どんと叩き、告げた。

 

 

 ――悪魔の弁護人(ディアボロス)

 

 

 どろり、と染み込み、組み込まれ、解けて溶けた。

 巻角野郎が弾かれたように振り向く。眼が合う。

 顔一面に広がる驚愕。やっと余裕のにやけ面を崩せた。うん満足。

 にこりと笑みを叩きつけ、瞬きひとつ。

 

 玉座から見下ろせば、巻角野郎の背後が吹き飛ぶ所だった。

 手を振るだけで黒い衝撃波飛ばすとか、烈○拳みたいで格好いいじゃないか。

 なるほど、黒いのを千切ってジェット噴射って感じね。つうかあれ()千切れるんだ。よしパクろう。

 

 空振りを悟った巻角野郎が玉座を仰ぎ、大きく腕を振りかぶったところで……停止する。

 ここで動きを止める理由なんてない。だから『止めた』のではなく『動けなくなった』のだろう。

 正直、見様見真似の烈○拳モドキで対抗できるか怪しかったので、内心ほっとした。

 

 

「……キ、キサマ、ナニをし」

 

 

 いい終わることなく、巻角野郎は背を折る。丸める、ではなく()()。折れた。折れて、折れて、3度繰り返し圧縮となる。

 

 

「……うわあ」

 

 

 正直、ドン引きだった。

 人間大の質量が嫌な音を立てながら、骨とか内臓とか削ぎ落としつつ圧縮されていく様は、控え目にいってドン引きの一言だった。かなりグロい。が、眼は逸らすまい。おれはやられるよりやるを選んだ。むしろ反撃を警戒すべきだろう。こちらが出来ることは向こうも出来ると考えるべきだ。こういった無茶苦茶は、きっと向こうにも()()

 

 

「キィエエエエエエエェェェグッ!」

 

 

 カン高い雄叫びをあげた巻角野郎がそのまま潰れた。

 頭部が折り畳みに巻き込まれ、職人が作るだし巻き卵みたいに一瞬でクルっといった。

 反撃を警戒すべきだろう(キリッ)などといっておいてなんだが……魔法がヤバ過ぎる。一撃入ったら、もう殆ど抵抗の余地がない。

 

 折り畳まれて四角くなった『それ』が、さらに圧縮され順次裁断されていく。

 ……きっとこれは製本作業だ。肉々しすぎて解体作業にしか見えないが、きっとそうだ。

 目の前の現象を、おれの知ってる単語で無理矢理説明するなら……即効性の強制遺伝子組み換え謎パワーにおまかせVerR18、とでもいうべきか。

 うん、何いってるのか意味わかんない。

 

 けどこれも、おれの居た日本から何百年後かの人間が見ると『即効性遺伝子変換とかワリと実現可能なことしてて折角の魔法が勿体ねー』とか思われるのかもしれないな。

 

 などとひとり納得している内に巻角BOOKは完成し、ばたんと地に落ちた。

 その後を追うようにして、表紙の上にぼちゃり、と脈打つ心臓が落ち、染み込むように沈んでいく。

 ……なんでそういちいちグロいかな。

 

 気を取り直し、とにかく手に取ろうと玉座から降り――るより早く、本の方からすっ飛んで来た。おれの目の前で急停止し、そのまま謎パワーでホバリング。

 突っ込んでもしょうがないので、うん便利、ぐらいで流しておく。

 

 そうしていよいよ巻角BOOKを開こうとして、一瞬だけ『これを素手で触るの?』と固まったが……押し切った。やるやらないじゃなく、やるしかないから、やる。ここで出来なきゃ、きっとおれに先はない。なにより今は情報が必要だ。行け。

 

 目次もない本を適当に開けば「具体的に」と書かれていた。

 少し考えてから「お前の名前は?」と本を開けば「ゲオルギウス・アルカテノオル・ダンタリオン也」と記されていた。

 本……というよりは辞書か。

 つうかお前『也』って。あの口調、普通に素だったのね。

 

 ともあれ、最低限のルールはわかった。

 じゃあ最初に知りたいのは。

 

 

 なぜおれをここに連れて来たのか?

 ――皇魔城の動力とする為。

 皇魔城とは何か?

 ――地の果てまでも一息で駆ける、高速機動要塞也。

 おれを動力とする具体的方法は?

 ――アルバコアへと物理接続し、無限に存在する闇を魔力へと変換させ続ける。

 それって絶対苦しいやつだよな?

 ――是。ありとあらゆる苦痛を百万年かけ味わうを百万回繰り返すが如く。

 

 

 はい予想以上にロクでもなかったー!

 

 いやまじで先手打ててよかった。

 もうちょっとグズグズしてたら、わけのわからん地獄拷問エンジン一直線だったとか、笑えないにもほどがある。

 ……この巻角BOOKは読み終わったら焼却だな。

 

 パラパラと流し見しつつそう密かに決めた時、視界の端に動くものがあった。

 

 反射的に見ると、下半身が四足獣の筋肉男が、でっかい斧を振りかぶりながら跳躍していた。もちろん、全体重を乗せて振り下ろす先はピラミッドの頂。つまりおれ。

 

 やばい、ボケてた。しくじった。

 

 考えれば当然だ。

 仲間がいきなりスプラッターなやられ方をしたなら、確かに一瞬、頭が真っ白になるだろう。そしてその後、報復に出る。当然だ。仇はすぐそこにいる。やらない筈がない。

 

 本当ならおれは、連中が呆気にとられている内に巻角BOOKを抱えてダッシュで逃げるべきだったのだ。のんきに読書なんぞしている暇は一秒たりともなかったのだ。

 

 斧が振り下ろされる。

 こいつも触れば本にできるか?

 いやダメだ。足りない。こいつはまともすぎる。きっとこいつは真っ当な戦士というやつだ。

 反射的に巻角BOOKを盾にする。

 全重量の乗ったドでかい斧に対し本で防御。あ、これ絶対ダメだわ。

 

 ざく、と本に刃先が食い込んだところで、

 

 

「ギィィエエエエエエエエエエエエエエエエエェェェ!」

 

 

 巻角BOOKが叫んだ。

 お前喋るんかい!

 などと突っ込む間もなく両断されるはずだったおれだが、なぜかまだ生きていた。

 しかも無傷。あの重量から生み出される運動エネルギーが、よくわからんが完全消滅。つうか斧と本がぶつかった瞬間のまま、筋肉ケンタウロスが空中で停止していた。これもう物理法則とか一回完璧に忘れた方がいいみたい。いちいち引っかかるだけ時間の無駄な気がしてきた。

 

 

「……たわけ。相手が違うぞ、ゲオル」

 

 

 いい終わるより早く、筋肉ケンタウロスが灰となり散っていく。

 同じように、盾にしていた巻角BOOKも灰となって消えていく。

 

 そこで気付く。

 

 おそらくこれは、巻角野郎が仕掛けた最後の一撃だ。

 自分を殺したやつを巻き添えにして灰になるという、呪いじみた不可避の自爆だ。

 きっとこれが、やつの用意していた無茶苦茶(まほう)のひとつだったのだろう。

 思ってたよりも数段、巻角野郎は危険で出来るやつだったと、今さらながらに肝が冷え――るよりも先に動け、ぼさっとするな、同じ失敗を2度続けるな、いいから動け!

 

 いいガタイをした筋肉ケンタウロスの全質量が灰となり飛散したので、ほんのひと時だけ白い煙幕が辺り一帯を包み込む。

 

 そのチャンスを逃さず、ずるり、と玉座から滑り落ちた。

 ただし今度は、子機を椅子に残して、おれ自身が滑り落ちた。

 ズレたVRゴーグルのように二重になる視界。最初から子機の目は閉じておいたので、すぐに親機(本体)視点のみになる。

 受け身を取り、立ち上がる。

 予想通り、巻角野郎の消滅を機に玉座への縛りは解けているらしい。

 

 ならまずは――どうにか子機のステルスを解除しようと試行錯誤した結果、手で触った部分に色がつくことが判明。白い霧のなか少女の全身をまさぐる事案が発生したが、まあ自分なのでセーフ。

 次に玉座に全裸であぐらという絵図がシュールすぎたので、烈○拳モドキで飛ばそうと考えていたやつ()を切り取り、マントのようにして纏わせておく。

 ついでにおれ自身も闇マントに包まり、さらに両目の穴を開けた袋状のやつを被って、雑だがないよりマシと信じたい暗黒保護色装備を身に付ける。

 そうして、残りの連中からは死角となるピラミッドの段差に伏せた。

 なんだか非常に情けない作業だが、まあ逃亡なんてそんなものだ。

 

 そう、今度は間違えない。

 ついさっき死にかけた授業料を無駄にはしない。

 魔法初心者のおれが、今日までこの魔法世界で生きてきた連中に太刀打ちできるなどと考えてはダメだ。

 最善手は逃げの一手。これしかない。

 

 ただ逃げるにしても、そう簡単にはいかないようだった。

 

 ざっと探ってみたところ、どういったワケかこの地下空間、出入り口の類が見当たらないのだ。

 連中がここに居る以上、何かしらの移動手段はあるはずなのだが……どうしても発見することができない。暗闇の中なら遠近法全無視かつ、闇に反射した暗がりを覗き込むという意味不明な視界をフル活用しても見つけることができない。

 貴重な1秒が過ぎていく。

 まずい。

 さらに貴重な1秒が過ぎていく。

 まずい拙い。

 ぐずぐずしていると、チャチな偽装はすぐにバレて、おれ自身も数の暴力によって圧殺される。つうかこの開けた空間で11人の眼をかいくぐって逃げるとか……。

 

 いや。

 違う。

 違うだろ。

 いま必要なのはそれ(泣き言)じゃないだろ。

 向こうの数が多いと嘆くなら、逆に向こうの数が多くてよかったことを探せ。

 

 冷たく縮こまりそうだった心に、空元気をふかす。

 

 行き詰ったなら足元を見ろ。それで何に躓いているかはわかる。

 そもそも連中はここに何をしに来た?

 皇魔城とやらのエンジンパーツを確保しに来た。まあぶっちゃけおれだな。

 

 いや、待て。違う。

 そもそもおれは、最初から確保されてた。気付いたら椅子に釘付けで身動きが取れなかった。

 ならあいつらは、すでに確保していたおれ相手になぜ11人もぞろぞろと連れ立ってやってきたのか。

 エンジンの材料を確保したなら、次にすることは何だ?

 ……決まってる。加工だ。

 実用に耐えるよう手を加えて、調整して、組み立てるのだ。

 

 ならば。

 

 光明が差す。

 どうすればいいのか見当もつかなかった現状が、頑張ればどうにかなるかもしれないノルマに変わりつつある。

 ゆっくりと芯が高揚していく。手足が熱を帯び始める。

 

 連中はここに、確保したエンジンの材料を『加工』しにきた。

 ならば。

 ここに来た11人の内、いくらかはエンジニアではないのか。

 

 さっきの筋肉ケンタウロスや巻角野郎のように戦える『戦士』ではなく、戦闘は専門外の技術屋が混じっていると考える方が自然ではないだろうか。

 

 ならば。

 そうだとするならば。

 

 もしこの場で、自分の身が危うくなるようなドンパチが始まってしまったのなら。

 護衛の戦士たちでも己の身を守りきれないような事態に陥ってしまったのなら。

 

 当然、この場から離脱するよな。

 技術屋が戦闘で命張るとか愚の骨頂だもんな。

 つうか普通に考えると、護衛が身体張って逃がすよな。どんな場所でも腕のいい技術屋は貴重だしさ。皇魔城とかいう凄そうなやつの心臓部任される技術者とか、どう考えてもトップクラスの腕利きだろ。もし万が一があったら、あまりにでかい損失だ。

 

 だから逃げる。逃がす。

 その際、当然、どこかにある出口が開く。

 

 これだ。

 これしかない。

 出口を確認次第、全力でおれも飛び込む。

 

 それにはまず。

 

 広大な地下空間。その殆どを埋め尽くす、無尽の闇を見渡す。

 巻角BOOKで知った内容と顔色の悪い姉さんが実演してくれた杭ロケット。

 一発あたりの消費量をざっと見積もり、どれだけ撃てるかを試算してみる。

 解。たくさん。

 一度にどれだけ撃てるか、試算してみる。

 解。たくさん。

 どこから撃てるか、試行してみる。

 解。暗闇ならどこからでも。

 本当に出来るのか、子機の上方に杭を形作り、実際に試し撃ちしてみる。

 残りわずかだった白い煙幕を完全に吹き飛ばすハメになってしまったが、どうにか出来た。

 予告の意味も込めて、連中のすぐそばに着弾させておく。

 もし不意打ち気味に決まってエンジニアが死亡しちゃうと、そもそも逃げる動きが発生しない恐れがあるので『これがいっぱい来るからちゃんと守れよ』という願いを込めた予告だ。

 

 実際こちらに手加減する余裕などない。

 事が始まると、連中はこぞって元凶である玉座上の子機へと殺到するだろう。

 そうなれば、純粋な物量に圧殺されてお終いだ。

 だから近づかせないよう、杭ロケットを死ぬ気で連射するしかない。断言できる。手加減する余裕なんて絶対にない。 

 

 子機をやられても死にはしないだろうが、ここまで各種感覚がリンクしているのだ、まったくのノーダメージとはいかないだろう。むしろ予感としては、ギリ命だけは保障されるレベルの深手を負う気がしてならない。

 

 だからといって、そう簡単に子機を消すわけにもいかない。

 いきなり玉座から消えたら、どんな馬鹿でも逃亡の可能性に行き当たる。ついでにいうなら、どんな間抜けでも、出口を塞ぐくらいの知恵は回る。

 

 なので、やることは4つ。

 脅して、逃がして、粘って、おれも逃げる。

 

 連中には『まだ玉座から動けませんよ』とアピールしつつ、エンジニアの身の安全を脅かす。こりゃいかんと非戦闘員を退避させようと開いた出口へ、こっそり回り込んだ本体が飛び込む。うん、きっとこれが一番芽がある。

 

 よし。

 

 一番大事なのは、先手を打つこと。

 最初にかまして、後は連射して釘付けというのが理想だが、そう上手くは……いかないだろうなあ。

 もし黒い杭ロケットが当たってもノーダメージでお構いなしだったら……うん、詰むな。そうならないよう、できるだけ硬く凝縮して最高出力で撃ち出そう。

 

 息を吸って、吐く。

 

 まずは杭を形作る。

 無数のロウソクのみが照らす広大で薄暗い地下空間。その中で闇と定義できる上空すべてに、できるだけ隙間なく埋め尽くすように徹底的に。ここでの手抜きは死に直結する。初動が全てだ。今だけは己の臆病さを遺憾なく発揮しろ。世界中に笑われてもここだけは譲るな。本気になれ。死力を尽くせ。連中の度肝を抜け。こいつら(技術者)だけでも逃がさねばと、即決させるだけのインパクトを与えろ!

 

 気が遠くなる一瞬の後、連中が動き出す予兆を見て取る。

 今だ。ここで撃てば、一歩踏み出した鼻先にぶちかませる。

 攻めに出た途端。防御や回避が念頭から消え去る好機。

 

 そこへ、ぶつかれ。

 

 一斉に。

 

 全弾、発射。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3 敗走

 

 

 つい勢いで全弾一斉発射してみたはいいものの、すぐさま後悔することになった。

 

 1、2、3、4。1、2、3、4。

 

 死ぬ気で頑張った甲斐あって、黒い杭の数はかなり大量に射出することができた。ここまではいい。一発撃ったら次を装填、発射。この1サイクルを2秒で実現できたのもいい。

 硬く凝縮したやつ。病の呪のやつ。傷の呪のやつ。死の呪のやつ。それぞれ4種類の杭を0.5秒毎に撃ち出すことで、途切れない連射を可能にできたのもいい。というか咄嗟にこれができた時は、我ながらファインプレーだと内心ガッツポーズを決めたりもした。感覚的には4つの玉でのジャグリングもどきといった感じか。

 

 いっちに、さんし。いっちに、さんし。はい以降いけるトコまで繰り返しッ!

 

 さらに弾丸数問題もどうにか解決できた。壁や地にぶつかり砕けた杭はまた闇に戻る。つまりリサイクル可。おれ自身がめっちゃ疲れるから無限ループとはいかないが、集中力が続く限りは延々と繰り返せる。つうかこの地下空間、異常なまでに濃密な闇に満ちていて、気持ち悪いぐらい気持ちよく動かせる。それもまたいい。

 

 といった風に、思いがけずいくつかの『いい』が重なった結果、当初考えていた最良の結果――最初にかまして後は連射で釘付け、を実践できてるのはいいんだけど……。

 

 今連中は、でっかいバリアっぽい何かを展開した一人の下に集合している。正確には、なんか白い手みたいなのが10本ぐらいにゅっと伸びて他のやつらを引きずり込んだ。

 ドーム状に展開されたバリア(仮)が亀の甲羅のような濃い緑色をしているので、中がどうなっているのかはわからない。

 

 ただ、かなりの本数の黒杭が叩き込まれているにもかかわらず、緑バリアはびくともしない。当たった端から砕け散るを繰り返して、本当に微塵も小揺るぎもしない。

 

 ……なんだか悔しかったので、今さっき見たばかりの『伸びる白い手』をパクって、闇で造った『伸びる黒い手』で叩いたりペチペチしてもびくともしない。

 ジャグリングの片手間に、黒い手を束ねて『黒い大きな手』にして殴ったり握り潰そうとしても、やはりびくともしない。

 ムキになりすぎて、危うくジャグリングが破綻しそうになったので、慌てて元のルーチンに戻る。

 

 ……予想できていたことだが、やはりこちらの魔法モドキでは本職には通用しないらしい。

 まあそれはいい。正直いうと全然よくないのだが、まあいいとしておく。それより問題なのは。

 

 こんなどしゃ降りの杭スコールの中、いったいどうやって非戦闘員を逃がすというのか。

 

 いやこれ、戦闘要員じゃない技術者とか、バリアから出た瞬間に蜂の巣だよ。そりゃ逃がすも何もないって。安全地帯でじっと終わるのを待つしかないよな。わかるわかる。ははは。

 

 ……うん。やりすぎ、というか上手くいきすぎた。

 

 出入り口まで案内させるなら、連中の背後側は空けておかなきゃダメだろう。

 ぐるっと黒い杭シャワーで囲んでしまえば、そりゃ身動き取れなくなるに決まってる。

 初めての魔法でテンションが上がりきっていたおれは、そんな当然のことに気付けなかったのだ。

 

 ……よく覚えてないけど、やっぱおれって大したことないやつだわ。アホすぎる。

 

 1、2、2、4。1、2、4、4。あやべ。っとリズムが同じなのでセーフ!

 

 かといって連射を止めると、その瞬間にバリアの中から一斉に飛び出してくるよなあ絶対。

 今のこの膠着状態って、連射が止んだ瞬間を狙ってのスタンバイ中だよなあきっと。

 

 1、2、、4。1、2、、3、、4。あこれまずい。

 

 もうそろそろ集中力が限界のおれに、超スピードで突進してくる近接戦闘用人外マッチョの群れ。

 うん無理。どう考えても対処できるわけがない。

 ひとりが咄嗟に張ったバリアでこの超強度。近接戦で飯を食ってきたやつらなら、きっと数発は耐える。最悪のケースとして、個人サイズに縮小したバリアを纏って突っ込んでくるケースもあり得るのが最高に笑えない。さらに向こうの遠距離攻撃もばかすか飛んで来るだろう。突撃組の補助もするだろう。チームワークを駆使するだろう。しない理由がない。

 

 やばい。

 

 考えられる限り最高に上手くいったのに、なぜか追い詰められてる。

 上手く行き過ぎて、なんか一週回ってダメになってる。

 

 つうかもう無理。連射が限界。これ以上は本当無理。

 あ、あ、まずっ、無理ムりむり!

 

 そこで不意に開く記憶の扉。

 

 新車を買って初めての遠出。

 気心の知れた友人たちとの楽しいひと時。

 帰りの高速で巻き込まれる渋滞。

 次のパーキングエリアまで5キロの標識。

 ずっと黙りこくっていた1人がいう。

 トイレに行きたい。

 10分経過。進んだ距離は5メートル。

 沈黙と緊張が支配する車内。

 せめてもの抵抗と冗談めかしておれは聞く。大か小か?

 やつはいう。ミディアムだと。

 ちょっと笑ってしまう。ふざけんな。ぶっ殺すぞ。

 30分が経過する。進んだ距離は20メートル。

 おれは懇願する。せめて外でと。

 やつはいう。もう動けないと。もう自分は走れないのだと。

 だから――すまん、と。

 おれにはわからない。なぜここで謝るのか。わかりたくない。

 やつはただいう。すまん、と。

 なに謝ってんだよ、新車だぞふざけんじゃねーぞおい。

 もう一度だけやつはいった。すまん、と。

 だから謝ってんじゃ、

 

 クッソどうでもいい記憶の扉をそっと閉める。

 何の役にも立たなかったが、記憶と同じくちょっとだけ笑うことができた。ふと肩の力が抜けた。

 

 だよな。

 ごりごりに強張って、一方向だけじっと凝視して、うまくいくワケないよな。

 駄目だとわかったなら、さっさと自分のマヌケを認めて次に行こう。

 他に選択肢などない、と断言して停止するなら、そのままそこでお終いになる。

 なら今回はどうか。

 

 綻びそうなジャグリングもどきをスパっと止め声を張り上げる。

 平均値よりも少し尊大に。巻角野郎を参考にやや時代がかった感じで。余裕をもって、ナメられないように。

 

 

「なあ、ここらで止めにせんか?」

 

 

 賭けだ。

 あのまま続けても、これに失敗しても結果は同じ。

 ならやらない理由がない。

 ビビるのはいい。仕方ない。だが縮こまるな。

 

 

「…………」

 

 

 誰も飛び出して来ないのを確認して、最大の難関を突破できたと安堵する。

 問答無用で来られたら終わってた。

 問答無用で来なかった事実から確信を得る。

 

「お前らが何をしようとしていたかは知っている。だが、それを考えたやつはもう消えた」

 

 これまで連中は、おれのことをエンジンの材料としか見ていなかった。

 それがこうして反撃に出て、少なくとも脅威たり得ると認識させた。してくれた。だから問答が挟まる余地ができた。

 

「なら、それでいい。付き添い連中までどうこうするつもりはない」

 

 10人もいれば、1人か2人は合わないやつがいる。

 それに利害が絡めば、すぐさま嫌いなやつにランクアップする。

 巻角野郎を嫌いなやつが、残りの中で主導的な立場だったら芽はある。

 

「もう一度いう。ここらで止めにしないか?」

 

 ……まあ、ダメならダメで、暗闇かくれんぼの開始だ。

 そこはもう開き直ろう。

 こっちを脅威と認識した今なら、きっとやりようはある。

 

 などと考えていると、不意に緑バリアの中から人影が出てきた。

 一見すると、まだ少年の面影を残した童顔の男だが、なんか思いっきり眼が3つあった。両目の真ん中ちょっと上、額に第三の眼がある。

 だが、なによりもおれの注意を惹いたのは、彼の所持していた武器だ。

 ここでそれが出てくるとは思わなかったので、ついついその腰元をガン見してしまった。

 そう。

 邪眼君(仮)の腰には大小二本が差されていた。

 見間違いかと思い慌てて二度見したが、それは間違いなく日本刀だった。

 

 ……こんな人外魔境にポン刀とか、めっちゃ浮いてね?

 

 

「ИΠΛΣΔÅ」

 

 

 不意に3つ眼男が何かをいったが、聞き取れない。いや、わからない。

 最初、邪眼君(仮)は違う言語圏出身なのかとも思ったが、おれと巻角野郎は会話ができていた。筋肉ケンタウロスの最後のつぶやきもちゃんと拾えた。同グループ内の見た目がまったく違う2人が同じ言語を使っていたのだ。きっとあれが共通言語だろう。

 

 

「язиёй」

 

 

 ならこれは違う。

 これは、おれの言葉に対する返答ではない。

 普通に考えるならこれは。

 

 

「――ΣΠ」

 

 

 魔法といえば当然のようについてくるあれ。

 呪文の詠唱。

 つまりは、攻撃の予備動作。

 

 そう思い至った時にはもう、変化の真っ最中だった。

 

 薄闇広がる地下空間。

 それがぽろぽろと()()()()()()いく。

 徐々にではなく全箇所同時進行で、一息に剥がれ落ちていく。

 落ちた裏から出てきたそれが、新たな表面と成り代わる。

 上は青空に。下は土に。横は広大な屋敷の縁側に。

 地下空間のすべてが、まったく別のものへと成り代わる。

 

 そうして瞬きを終える頃には。

 薄暗かった地下空間は、晴れた昼下がりの庭先になっていた。

 風が頬を撫で、鳥の囀りが耳朶をくすぐる。

 日差しが目を焼き、かすかな木の香りが鼻をつく。

 わけがわからず辺りを見渡す。

 そこにあるのは青い空。四方から押し寄せるようなただただ広大な快晴の蒼。

 

 そして眼下には瓦葺きの屋根が、それぞれちぐはぐな高さで交わりながら延々と広がっている。

 ……どう見ても、思いっきり日本家屋だ。

 それも普通の民家ではなく、どこか時代掛かった武家屋敷だ。

 ……うん、いつか京都で見たのとだいたい一致するな。つうかおれ、結構観光地とか行ってたのね。

 

 いや違う。そうじゃない。

 

 なぜおれがそれを見下ろしているかというと。

 辺りの景色は一変したが、ピラミッドだけはそのままなのだ。

 だから今、最上段付近で伏せているおれからは、周りの景色がよく見えるのだ。

 

 逆にいえば、それしか見えない。

 

 これまでのように、闇に反射した先が見えるなどという、ワケのわからん超視界がすべてなくなっていた。

 理由は考えるまでもない。

 こんな澄み渡る青空の下、いったい何処に闇があるというのか。

 ないものはない。どうしようもない。

 

 あ、これ、ダメなやつだ。

 

 血の気が引き、頭が冷え、どうしようもない理解が霜と降りる。

 バトル物と呼ばれるマンガ、アニメ、小説、ゲーム等々のフィクション作品において、おおよそ最終奥義的な位置づけにあるやつ。

 固○結界、ブリアー、領域○開。

 呼び方は色々あるけれど、そのどれもが、自分にとって有利なように世界を塗りつぶしたり造り替えたりといったトンデモ系最終奥義だ。

 

 ……たぶんこれって、それ系のやつだよなあ。

 

 魔法が実在する世界において、それをとことん煮詰めていったならば。

 やっぱりそういう方向に行きつくんだなと、妙に感心してしまった。

 

 元いた日本で、創作者たちがどうすれば強いか凄いかを考え抜いた結果生き残ったアイデアは、実際にそれをやる連中からしても、同じく正解として採用されるに至ったというわけだ。

 

 いや、想像力って、まじで凄いな。

 

 などとどうしてか嬉しい気持ちになっていると不意に、かつ、かつと足音が響いた。

 

 視界はなくても、へばりついているピラミッドに伝わる振動でわかる。

 これをやった邪眼君(仮)がおれ(子機)のいる頂に向かって歩を進めているのだ。

 

 まずい。と思うと同時にようやく気付く。

 そんなことすら気付けないほどに動転していたのだと、遅まきながらに気付く。

 憎らしいほどに明るい空とは対照的に、唯一にして最大の違和感たるピラミッドは墨汁をぶちまけたように真っ黒だった。

 まるでこれこそが闇の根源だといわんばかりに、遠目では段差がよくわからないレベルで真黒だった。

 

 出来る出来ないを考えるより先に動く。

 この真っ黒なピラミッドからなら、あの杭を出、

 

 

「――下ァにィィィ!!」

 

 

 三目男が馬鹿でかい声で叫んだ。

 瞬間、伏せていた姿勢から、頭だけが吸い込まれるように地に落ちた。

 足元の真っ黒いピラミッド石に頭突きをするが如くの勢いで、がんと落ちた。

 意味がわからず慌てて顔をあげようとするが、まるで溶接されたかのように動かない。

 咄嗟に踏ん張った両手も、まるで掌がくっついたようにびくともしない。

 折り曲げた膝を伸ばそうにも、伸ばし方がわからない。

 こんなことしてる場合じゃないと思うのだが、思うだけで何もできない。

 

 つまり、土下座の姿勢から、一切の身動きがとれないのだ。

 

 させられる。

 したくもない理解をさせられる。

 自分にとって有利なように世界を塗りつぶしたり造り替えたりするトンデモ系最終奥義。

 そんなもの、された時点でもう()()()なのだと。

 

 

「平伏せぬか」

 

 

 どうやら、玉座の子機はあぐらをかいたままらしい。

 ……実はばっちり土下ってるんだけど、わざわざ教えてやるもんかよ。

 

 

「ふむ。成程」

 

 

 しゃらん、と甲高く金属のこすれる音がする。

 三目男が抜刀したのだろう。

 

 

「しかし動けぬか」

 

 

 時間がない。

 だから今度は意図的にやった。

 クッソどうでもいい記憶をほじくり返して、とりあえずちょっと笑って肩の力を抜いた。

 1秒でも時間を稼ぐため、子機の口元と連動させ、笑みを見せ付けておく。

 そうして、無駄にじたばた足掻くというボツ案を破棄し、プラン自体を一新。

 

 とはいえ、おれにできることはそうない。

 ミニマム系土下座オブジェと化している今のおれにできることなど、もうホント悲しいぐらいに何もない。だから、最高に情けないとか最悪に格好悪いなどといった『ガワ』は完全に無視する。それどころじゃない。こっちは必死なんだ。ぎりぎりの瀬戸際なんだ。おれは何処かの誰かの失笑よりも自分の命を取る。言葉にすると当然のことのように思えるから不思議だ。

 ならよしいくぞ。できる限り強くでかい気持ちで。せーの、

 

 

 

 助けて、ピラミッド!

 

 

 

 ……別に気が狂ったわけではない。

 だってこれ(ピラミッド)、どう考えてもおかしいから。

 こんな風に辺り一面青空になっても、これ(ピラミッド)だけ真っ黒でそのまんま鎮座してるとか、明らかに三目男の最終奥義ぶち破ってるじゃん。

 

 しかもついさっき、おれ好みの透き通っていて、けれども確かな芯の強さがそこはかとなく感じられ、しかしある意味浮世離れした透明感ゆえに童謡や民謡を歌えばなぜか怖くなってしまうような澄んだ声で、製本魔法(物理)を授けてくれたりもした。

 

 あの時は本当にピラミッドが喋ったのか半信半疑だったが、こうなった今なら確信がある。

 

 このピラ――いや、彼女は、おれを助けてくれたのだと。

 だからすまん、もう一度助けて下さい。

 自分ひとりじゃ、本当に、どうしようもないんだ。

 なので助けて下さい。お願いします。

 そうして、とことん本気に心底から祈るように念じ続けると、

 

 三目男の足音が停まった。止める理由はない。だから()()()()

 わずかに吹いていた風も止んだ。

 どうにか視線だけで辺りを窺うと、景色は変わらず同じまま、色だけが全て黒一色に塗りつぶされていた。

 塗り固められ、停止していた。

 そして、

 

 

 ――対価を頂くことになります。

 

 

 相変わらず透き通っていて、けれども確かな芯の強さがそこはかとなく感じられ、しかしある意味浮世離れした透明感ゆえに童謡や民謡を歌えばなぜか怖くなってしまうような澄んだ声で、返事がきた。

 

 ――それでも求めますか?

 

 驚きはない。期待通りなのだから当然だ。

 だが。

 ……この状況で対価ときたか。絶体絶命のやつに、まずは有無を言わさず要求を呑ませる。冷静になる前に致命的な一撃をかまし趨勢を決める。

 たぶんこいつ、おれと同程度には邪悪だな。しかも厄介なことに、ちゃんと機微ってやつを読んでやがる。

 とはいえ、こちらは請う立場。嘘偽りはなしで答える。

 

「先に対価の内容を提示して下さい。出来ないことは、出来ません」

 

 ――あなたなら、きっと出来ます。

 

 ……あちゃー。聞きたくなかったなこれ。

 自分のことをちっとも覚えてないおれが、何ができて何ができないかを把握しているとか。

 しかもこんな、世界改変系奥義をものともしない超存在とか。

 もうこれ、ほぼ自白じゃねーか。 

 あーくそ、畜生。

 

「……そっか。おれを日本から拉致ってきたのは、貴女なんだな」

 

 主犯だと思っていた巻角野郎は、こいつがおれに教えた魔法で本になって消えた。

 どちらが上位かなど、考えるまでもない。

 

 つまり、唯一の味方かと思いきや、犯行グループの幹部だったと。

 ……うわあ。ちっとも笑えない。

 が、今はそんな感情を表に出す余裕はない。今必要なのはそれじゃない。

 はったりとやせ我慢を総動員して、走り抜ける。

 

「拉致って、わざわざエグい魔法まで教えて手下潰させて。そんな面倒なことをするんだ。何か目的があるんだろ。それって、今ここでおれが殺されるよう仕向けることだったのか?」

 

 ――いいえ。違います。どうやら誤解があるようです。

 

 そこで不意に、真っ黒い景色に青が混ざり始める。どうやら、そう長くはもたないらしい。

 

「なら誤解を解く時間を捻出しよう。このままじゃ後3秒ぐらいでおれは死ぬ」

 

 もしかすると、子機が斬られても死なないかもしれない。が、そこから先がない。晴天の空の下、隠れる場所も逃げ道もない。

 

 ――しかし過度な干渉は、

 

「ここまでの貴女の仕事がすべて無駄になる」

 

 一瞬の沈黙。もはや黒はほぼ青と化している。

 悲しいことに『貴女の仕事』に関しての否定はなかった。

 どうしてか、嫌な予測だけはよく当たる。

 

 ……ポジティブに考えよう。

 

 おかげで、方向性としては間違っていなかったと安堵することができた。

 拉致ってきた張本人(人じゃないけど)に『元の日本へ戻せ』などといっても無駄だろう。

 ならばこれしかない。向こうの目的を人質に、とにかくここを生き延びる。

 赤点だが零点ではない。そんな底値で満足することしか、今のおれには出来ないのだ。

 ……なんというか。やっぱりしょぼいなあ、おれは。

 などと密かに落ち込んでいると、

 

 ――やむを得ません。では二葉目の宵の葉を。界を崩す、力ある言の葉を。

 

 その声が途切れた瞬間、景色は一面の青空へと戻った。

 停まっていたものが動き出す。

 

 疑問や不平を並べる時間はない。抜刀した三目男が斬りかかるまで、はたしてあと何秒の猶予が残されているのか。

 だからやる。さっさとやれ。

 

 やつはいった。界を崩す、力ある言の葉を、と。

 界、世界。世界を崩す。壊す、壊された。どかんと、ぐるりと、ひっくり返す、映画。

 

 2度目だったので最初の方法を踏襲した。

 

 

 ――『宵の双葉』承認。泣き疲れた嬰児が、泥のように眠れますよう。

 

 

 きっとこれは全世界全時代を合計すれば、1億人以上の世界を崩したはずだ。各種メディアや配信の普及により、その人数は今もなお増え続けていることだろう。

 ラストまでの90分に積み上げてきたそれまでの世界を、そのあまりに有名なオチで完膚なきまでに崩しまくったその作品は、タイトルよりも、主演俳優によるその前説の方が有名かもしれない。

 億を超える世界を崩し壊した映画。その最も印象的な台詞。

 それは間違いなく、疑いようもない、力ある言の葉だ。

 

 そこにほんの少し乱暴な思いを込め、確実に砕け散るよう切に願う。

 こんな()()()()()()()()()などという、やられる側からしたらクソ以下の所業に。

 矛盾しないようそっと重ねて、歪ながらもどうにか形になったそれを。

 叩っ斬られる前に、叩きつける。

 

 

 ――まだ見てない人には決して話さないで下さい(つまんねーことすんな。ぶっ殺すぞ)

 

 

 ぼたり。

 一滴だけ落ちる。

 粘度の高い、大きく黒い雫が落ちる。

 最初の1が通ってしまえば、後はもう一瞬だ。

 

 青空が割れて濁り染まり滴り塗り替えられる。

 瓦は崩れ屋根が剥がれ柱がへし折れ腐り泥に沈む。

 濁流と化した泥が庭園を埋め尽くしそして。

 いつかのどこかの貴き箱庭は、薄暗い地下空間へと回帰した。

 

 そうして、吐き気を催すほどに濃密な闇が戻ってくる。

 

 ここだ。

 ここしかない。

 三目男が状況を正確に把握する前に。

 とにかくぶった斬るのが大正解だと気付くより早く。

 自分ごと巻き込むつもりで、出来得る限界を絞りつくし、全力全開のさらに無理筋を抉じ開け、ここで死んでたまるかと文字通り死力を尽くして、ありったけの黒い杭を撃ち下ろした。

 

 黒い帳が降りてくる刹那、復活した超視界で他の連中を探ると……驚いたことに、全員が土下座の真っ最中だった。

 どうやらさっきの『あれ』は、敵味方の区別なく無差別に襲い掛かる類のものだったらしい。

 

 もはやエンジニアがどうこうなどというつもりはなかった。

 

 こうやって黒い杭を撃ち出すことしかできない初心者のおれとは違い、連中はこの魔法世界で今日まで生きてきた先達だ。そのヤバさの一端は、つい先ほど味わったばかりだ。

 そんなやつらに交渉をもちかけ、返ってきたのは必殺の世界改変系最終奥義。つまり『黙れ死ね』が向こうの返答。

 

 甘かった。

 平和ぼけと揶揄される日本人の悪いところがもろに出た。

 

 すでに行動に出た犯罪者に対し交渉が通用するのは、絶対に勝ち目のない超暴力を誇示してからだ。

 立て篭もり犯と交渉する際は必ず、完全武装の機動隊が包囲していたというのに。

 

 銃を持った犯人と銃を向け合い1対1で対峙した時、向こうが考えるのは『どうやって交渉しよう』ではなく『どうやってこの邪魔者を撃ち殺そう』だという当然のことを、完全に失念していた。

 

 命があったのは、単に運が良かっただけ。

 もうピラミッドに足向けて寝れねーわ。そこだけはまじでありがとう。

 

 黒い杭の集合体が視界を埋め尽くす。

 子機も親機も等しく黒い雨に打たれるが、予想通り痛みも何もなかった。

 

 よかった。自滅などという笑えないオチだけは回避できた。

 

 と安堵すると同時に、尋常じゃない目眩と脱力感に襲われ意識が飛びそうになる。

 さすがに頑張り過ぎたらしく、吐き気を伴う悪寒が全身を駆け巡り、しばし呼吸もままならない状況が続くなか、不意にそれはあらわれた。

 

 数は2つ。

 

 ひとつは視界の端に小さくぽつりと開いた穴のような何か。

 慌てて視界の照準を合わせる。

 するとちょうど、最初に黒い杭の撃ち方を見せてくれた顔色の悪い姉さんが、ひらりとその中に飛び込むところだった。

 瞬時に理解する。これ、出口だ。

 

 もうひとつは子機の目の前に。

 黒い杭があちこちに刺さった、全身血塗れの腕が4本もある筋肉達磨が。

 3本の腕に握った剣で致命的な杭だけを弾きつつ、残り1本の腕で剣を振りかぶり。

 瞬時に理解する。これ、避けられない。

 

 子機の首が飛んだ。

 返す一閃で胴が分かれ、さらにもう一閃で欠片にされる。

 

 解体が行われている頂点玉座の背後、這いつくばっていたおれはそのままピラミッドから滑り落ちた。

 痛い、なんてもんじゃない。

 まさかのフィードバック率100パーセント。

 激痛で意識を失い、落ちた段差に頭をぶつけ覚醒し、また次の瞬間に激痛で落ちる。そうして一度ついた勢いは止まることなく、上から下へ当然のように落ちていく。

 

 途切れ途切れの意識のなか、4回までは数えていたが、そこから先はもうカウントすらできなくなった。

 気がつけばピラミッドすぐ脇の地べたに転がっていて、五体満足のままバラバラにされるという意味不明な激痛にのたうつことしかできなくなっていた。

 

 だが。

 だがそれでも。

 

 まだ死んではいない。

 まだ生きている。

 なら、めそめそ泣きながら蹲っているわけにはいかない。

 どうにかして行かなければ。

 歯を食いしばり顔を上げる。

 意思はある。

 

 だがそれだけ。

 

 本気の痛みは動きを止める。痛い痛い痛い。それ以外に何もできなくなる。

 立ち上がれず、歩くことはおろか、走るなど夢のまた夢だ。

 

 だから歩かず走らず出口に飛び込む必要がある。

 できるか。方法はあるか。おれの手持ちは、本、杭、手。……ある。

 ちゃんと考える理性も余裕も残ってはいない。

 だからすぐ実行する。

 良しも悪しも判断することなく、ノリとフィーリングで即実行してしまう。

 だがそれでいいと囁く。

 野蛮な根っこが、蹲る以外なら何でもいいと、とにかく動けとGOサインを出しやがる。

 よし。やろう。

 

 おれの身体は小さくて軽い。

 本当はもっと違った気もするが、もうこの際どうでもいい。

 いま重要なのは小さくて軽いというその一点のみ。

 こうも小さくて軽いなら。

 出口までぶん投げることができるはずだ。いいや、やる。

 

 落下の際、少しでも出口のそばにと足掻いたおかげか、出口らしき穴とは直線で10メートルほどの距離だ。

 こうしている間にも徐々に出口は小さく縮小し塞がり続けている。

 時間がない。まずは黒い手だ。でかいやつを。なるべく大きいやつを。

 

 ぐらぐら回る視界と激痛のなか、どうにか黒い大きな手モドキを造り、感覚だけで転がるおれ自身を掴む。

 集中力も何もあったもんじゃないので、掴むというより、吸盤のない無数のタコ足で巻き取るといった方が正解か。

 そうして大きく前後に2、3回振り、遠心力ともいえないような、これぐらいでいけるだろうという超絶適当なやけっぱちにも似た勢いをつけて。

 出口に向けて放り投げた。

 

 回る視界に流れる景色が合わさり、今自分がどこに居るかもわからない。

 当然、こんな状態で都合よく出口にすっぽり入れるとは思っていない。

 まあ普通に考えて外れるだろう。

 それどころか、ワリと洒落にならない勢いで地べたに叩きつけられることになるだろう。

 考えたくもないが、その勢いでこの細っそい首がへし折れてそのまま終わる可能性もある。

 だがそれでも、何もしないよりはマシなのだ。

 

 数瞬前の子機の最後を思い出す。

 肉薄されると、もう本当にどうしようもなかった。

 次はない。だからやるしかない。

 

 きっと必要なのは、運と覚悟と頑丈さ。

 このちっこい身体に頑丈さなど期待できない。

 運はどうなるかわからない。

 だったらせめて、最後のひとつぐらいはがっちがちに固める。

 絶対に意識は飛ばさない。おれは死なない。絶対に。

 

 このまま地面に激突し、10メートルを飛んできた衝撃を受けても尚まだおれが意識を保てていたならば、生きていたならば。

 次こそはきっといける。

 ゴルフでいうところのあれだ、パターでちょんと突くだけのやつだ。ミスりようがない。

 だから必要なのは――地面と激突しても意識を失うことがないよう、ただ腹を決めて我慢するだけなのだ。

 

 ふと思う。

 なんでおれは魔法世界で根性勝負をしているんだろう。

 しかも自分相手に。

 ……まあいいや。歯でも食いしばっとくか。

 

 

 ……。

 

 

 ……ん?

 

 

 ……んん?

 

 

 さあ来いと空元気全開で待ち構えていたが、なぜか衝撃がこない。

 定まらない視界を強引に固定すると、なんか空中で止まっていた。

 地面にぶつかる寸前で、逆さ向きのままぴたりと固まるように停止していた。

 

 ……つうかこれ、顔面から直撃コースじゃないの。

 どう考えても、勢いと自重で首ぼきり即死コースじゃん。

 

 だがそうはならず、空中で固定されたまま、すすすと横にスライド移動して、そのまま出口の穴にぽいっと放り込まれる。

 ご丁寧にも半回転のおまけ付きだったので、綺麗な受け身で背中から着地できた。

 ……なんつーか、嫌々やってた受身練習が魔法と並ぶくらいに役立ってるなおい。

 大の字に寝転がりどうにか一息つくと、

 

 

 

 ――まだ痛みはありますか?

 

 

 

 その声に驚きはなかった。

 今の状況であんなことができる存在は他になかったので、疑問に思う余地がなかったというべきか。

 

 ――もう動ける筈です。対の窓が閉まる前に、はやくお行きなさい。

 

 さすがに無視を続けるわけにもいかない。

 要点だけ聞く。

 

「……おれに何をさせたいんだ?」

 

 頭上の穴に向かって声をかける。

 たぶんあいつは、あそこから動けない。

 一息、間があってから。

 

 ――強制はしません。あなたが何もしなくとも、わたしが干渉することは一切ありません。

 

 だんだん穴が小さくなっていく。聞こえる声も掠れていく。

 

 ――だからこれはお願いです。

 

 ……やっぱりこいつ、やりやがる。

 あからさまに命を助けた後の『お願い』とか、普通に考えてまず無視できない。

 本気で無理なものは論外だが、それ以外は前向きに検討させる強制力を帯びる。

 

 ――わたしの願いは唯ひとつ。

 

 いっそ論外の邪悪なやつでもこないかなと期待していると。

 

 ――できることなら、助けてあげてください。

 

 なんか綺麗なのがきた。

 

「助けるって、誰を?」

 

 ――あなたが、

 

 そこでしゅぽんと穴が塞がった。あとは真っ黒な天井がただただそこにあるのみ。

 

「……」

 

 ……え? 前フリが長すぎて本題いえなかったの?

 もしかしてあいつって、おれが思うほど超存在じゃないっぽい?

 

 

 

 ――あなたが助けたいと思う、誰にも手を差し伸べられない彼や彼女に、

   せめてあなただけは、寄り添ってあげてください――

 

 

 

 いや、穴塞がっても声聞こえるんかい!

 などと冗談めかして思ってはみたものの、正直なんともいえない内容だった。

 

 もしや続きがあるのかなと10秒ほど待機してみたが何もなし。どうやらもう本当に『向こう側』とは途切れたらしい。

 真っ黒な沈黙のなか、意味不明な『お願い』の内容を繰り返してみる。

 

 おれが助けたいと思う、誰にも手を差し伸べられない彼や彼女を助けろ。

 

 具体性が何ひとつない、あやふやな物言いだ。

 だが妄言と斬って捨てるわけにはいかない。

 彼女には確かな知性があった。こちらが断りにくい状況を構築できる、極めて高い知性だ。

 なので頭がお花畑なやつのハッピーポエムだと決め付けるのではなく、なにか自分が知らない要素があると考えるべきだろう。

 

 ……うーん、何つうか、気持ち悪いな。

 相手の利益が見えない要求は気味が悪い。

 自己犠牲の殉教者でもない限り、絶対に存在するはずのそれを悟らせない相手の上手さがおっかない。

 

 そう。

 正直、不快感にも似た怖さがある。

 

 おれを拉致っておいて、急に聖者みたいなことをいいだす。

 

 拉致という犯罪行為で強制的に連行してきたやつに、まだ見ぬ誰かを助けろとご高説をたれる。

 そしてそれがまかり通ると、一定の説得力をもっておれに受け入れられると、ワリと心の底から信じているっぽいのが最高に薄気味悪い。

 

 ……いや、ふざけんなって。誰が拉致犯のいうことなんか聞くかよ。

 

 そんな当然を押し潰す脅しや暴力を、あいつは使わなかった。

 恩は売られたが、あくまでお願いという形を崩さなかった。

 どうにもちぐはぐだ。させたいのか、どうでもいいのか。

 

 あー、うん、わからん。

 まあ、喋るピラミッドの考えなんてわからんのが当然か。

 

 とりあえず立ち上がる。

 全身くまなく無茶苦茶痛いが、どうにか歩くぐらいは出来そうだ。

 たしか『対の窓が閉まる前に』とか何か不吉なことをいっていた。

 あまりゆっくりしている暇はなさそうだ。

 

 冗談みたいにガクガク笑う膝を笑い飛ばしながら歩を進める。

 つられて、止めたはずの考えも歩を進める。

 

 もし。

 

 もしあいつが極めて客観的な視点を持つ真っ当なやつだったとしたら。

 さっきの『お願い』は、そういったおれの当然の心情など、いくらでも()()()()()()()()という自信の表れに他ならない。

 お前がどう思おうが絶対にそうさせてやるという告知に、おれの意思など関係ない。

 

 ……止めよう。

 推測に推測を重ねてもしょうがない。

 

 そう愚にもつかない空想を振り切ったものの、粘つく泥のような不快感が消えることはなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4 おやすみ

 

 

 先が見えない真っ黒なトンネルを歩く。

 暗闇においては、ちょっとおかしいレベルの超視力&超視界があるはずのおれだが、なぜかこのトンネル内では闇を見通せなかった。

 

 一歩進むとそこにはブ厚い暗幕があり、それを押しのけ進むとまた次の暗幕があるといった具合で、誇張でも比喩でもなく実際に一歩先までしか見えない。

 そのくせ、自分の荒い息遣いだけはやたらと反響するものだから、そう広くないトンネル状の通路なのだとあたりをつけることはできるのだが……。

 

 まあ、どう考えても普通の場所じゃない。

 そもそもここは、空間にぽっかり空いた穴の中だ。

 おれの勝手なイメージでは、猫型ロボットの引き出しタイムマシン空間みたいなものだと思っている。

 だがそうなると。

 

 ――対の窓が閉まる前に、はやくお行きなさい。

 

 あいつのいう対の窓――まあ普通に考えると出口だろう――が閉まってしまうと、おれはここに取り残されることになる。

 そう思い至った瞬間、おれは今出せる全速力で駆け出した。

 

 が。

 

 その速度は、若手のカタツムリが『お先!』といいながら隙間のないチョキをこめかみに当てつつ追い抜ける程度のものでしかない。

 ……いや、動けているだけ、歩けているだけでもホントすげえ忍耐と努力と根性の織り成す奇跡なんだよ?

 生きたまま解体された激痛とか、そうそう簡単に引くもんじゃないって。

 

 おかげで今おれは、身体を引きずるようにしてじりじり進むのがやっとだ。

 

 ざっと全身を確認してみたところ、出血や損傷はなかった。

 だが指一本でも動かせば嫌でも理解した。

 激痛と吐き気とあちこち突っ張る違和感と魂の根っこがずたずたになっている恐怖が、これでもかというほど教えてくれた。

 無事なのは『ガワ』だけだと。

 それ以外は、もう本当にどうしようもない、お終いの一歩手前まできてしまっていると。

 

 だが、所詮は一歩手前。まだ終わってはいない。

 弱気を振り払うように、たったひとつの道しるべをただ辿る。

 

 その間隔の短さから見て、彼女もそう易々とは進めていないようだった。

 おれと同等か下手をすればそれ以下の遅遅とした歩みだ。

 なんでこんな暗黒空間に、こうもはっきりと足跡が残っているのかはわからない。

 けど今は、まあラッキーぐらいに思っておく。実際これしか進むあてもない。

 なのでとにかく進む進む進む。

 

 そうしてイマジナリーでんでん虫とのデッドヒートを繰り広げていたおれの足がふと止まる。

 何十枚目かのブ厚い暗幕を押しのけた先、そこにあるはずの足跡がなかったのだ。

 

 焦らず慌てず、一歩後に戻る。

 そうして右か左かどっちだと悩むまでもなく、右手側に窓があった。

 

 闇の中にあっても、ドス赤いフレームと真っ黒な漆塗りのような光沢が目につく、観音開きの小さな窓だ。

 イメージとしてはあれ、柱時計で鳩が飛び出す場所みたいなやつ。

 それがほんの少しだけ開いているようで、向こう側から一条の光が射している。

 サイズ的には……おれなら余裕で通れる。まあ、あの姉さんが通れたんだから当然か。

 

 ならばさっさとひうぃごーと実写映画が大コケした配管工ブラザーズのように飛び込みたいところだったが……少し考えて、まずは様子を見ることにした。

 

 よくよく考えるとあの姉さんは、何故かステルス子機を目視できていた上、問答無用で黒い杭ミサイルをぶっぱなしてきた武闘派だ。

 しかもそこから先はこっちも反撃しまくったし、なんだったらあの姉さんが無傷な保障もない。

 ここで迂闊に飛び込んで、おれ産の黒杭が突き刺さった姉さんと鉢合わせなんかしたら……その瞬間に死合開始となってもおかしくはない。ちなみに今のおれは何もしなくても死にそうなので、それだけは絶対にかんべんな。

 

 なので、少しだけ開いたままの観音開きの隙間を、そっと覗き込んでみた。

 

 向こう側は……眩しいなおい。んーなんだ、普通の部屋だな。

 いや、正確にいうなら、広くて居心地の悪そうな部屋だ。

 絨毯に暖炉と木製のテーブルに椅子。それ必要か? と聞きたくなるごっちゃりとした装飾の数々。白銀に金と水晶を用いたインテリア。いつでもどこでも一定の価値は保障されている貴金属類。趣味はともかく値打ちは高い。まあ、どう考えても金持ち宅って感じだな。

 

 それをこうして見下ろせるということは、この『窓』は部屋の上方、天井付近の壁にあるということか。

 

 視線で探すまでもなく、例の姉さんはすぐに発見できた。

 まだこの『窓』から出たばかりらしく、後ろ姿を見下ろすだけで顔は見えないが……あのボア付きの真っ赤なタイトドレスは間違いあるまい。

 

 その姉さんが迷うことのない確かな足取りで、右手奥のドアへと向かう。

 左側にもドアはあるのに、一瞬たりとも迷う素振りがないということは、この場所のことをよく知っているとみて間違いない。

 緊急避難でとにかく適当に飛び込んだ、ではなく、あらかじめ用意していた逃走経路だったということか。

 

 そこでいきなり、姉さんの行く先――右手奥にあるドアがばんと開いた。

 

「お、お嬢様! これは一体どういうことで……!」

 

 部屋に飛び込んで来たのは若い男だった。

 姉さんへの呼称とその服装で、彼がどういった位置にいるのかすぐにわかった。

 まあ、どう見ても執事ってやつだよなあ、あれ。

 

「……喚くな。家主の帰還に、出迎えひとつできんのか」

 

 あ、やっぱりここって姉さんの家なのね。

 

「しかし」

(さえず)るな」

 

 ぴしゃりと叩きつけられた執事が、おれのいる『窓』と姉さんを交互に見て「そんなまさか」と呟く。その間も姉さんの歩は止まらない。

 

「で、ですがお嬢様、屋敷内での術行使など、ローゼガルド様が何と仰るこ」

 

 いい終わることなく、姉さんの進路を遮るように立っていた男が吹っ飛んだ。

 ビンタのように見えたが、あの細い腕で男がカッ飛ぶのがよくわからない。

 

「邪魔だ。当主の前で、他の威を借りてふんぞり返るな、痴れ者が」

 

 背中から壁に叩きつけられた男が、鼻で笑う。

 

「……やりましたな、お嬢様。わたしに手を上げたこと、後悔なさ」

 

 どす、と黒杭が男の肩に刺さった。

 得意げなペラ回しは途切れ、呻きながら崩れ落ちる。それを一瞥もせずに、姉さんはドアから退室して行った。

 

 ……やっぱりあの姉さん、おっかねえな。

 第一印象ってやつは、実はかなり高性能なレーダーなのかもしれない。

 

 だが、ぶっちゃけ執事の方も論外だった。

 ぶん殴られたあげく杭まで刺され散々だが、やられた方が善人とはならない。

 つーかどう考えても、明らかに執事の方がイキっていた。

 

 どうやら当主らしい姉さんに対して執拗なまでの『お嬢様』呼び。

 これはつまり『おめーなんか当主って認めてねーし』という主張だろう。それを本人の前でこれ見よがしに連呼するのは、心の底からナメきっている証拠だ。

 さらに、どうやらイレギュラーな方法で帰還したらしい当主に対しての第一声が、出迎えや心配の声ではなく詰問だったのもそれを補強する。

 

 まあその結果が、ぶん殴られてからの黒杭プレゼントだったので、結局のところあいつ(執事)は何かしら勘違いをしていたのだろう。

 

 現実ってやつは身も蓋もない。

 殴れないやつは殴れないし、無視できないやつは無視できない。

 殴れるやつは殴られるし、無視できるやつは無視される。

 

 ここでおれが拾うべきなのは。

 

 あの男が勘違いした原因。

 あの男が教えてくれた、なんだか重要っぽい名前、ローゼガルド様。

 一番偉いはずの当主が、自分の家の中で『威』と認める存在。

 使用人が当主を軽んじ、その威光を背にマウントを取ろうとするネームバリューを持つローゼガルド様とやら。

 

 ……なんだかドロドロした人間関係の腐臭がする。どう考えても関わりたくない。

 けどおれ、今からここに降りるしかないんだよなあ。

 せめて無人になってからこっそり降りよう。

 などと考えている内に、さらに人が増えはじめる。

 

「おい、さっきの揺れは何だ、何があった!?」

 

 最初は同僚と思しき同じ執事っぽい服を着た男たち。

 壁に張り付けられるように黒杭がぶっ刺さっている同僚を見て、慌てて介抱をはじめた。

 

「ねえ、今ヒルデガルド様とすれ違ったんだけど、いつお戻りになられたの? 何かすっごい不機嫌で、もう寝るから絶対に誰も部屋に入れるなってめちゃくちゃ怒っててさ――あ」

 

 次いでメイド服を着た、その立場に疑問の余地のない女中たち。

 ちなみにガチな女中服だったので、妙にスカートが短かったりはしない。

 

「もしかして、この馬鹿が原因?」

「なにあの黒いの、怖い」

「嘘だろ、あれ、禁呪……?」

「つまりお前は、ヒルデガルド様に無礼を働いたと」

「お飾り相手に、頭の固い爺だなおい」

 

 そんな彼や彼女らが、わいわいがやがやしている内から、今の自分に必要そうな内容を抜き出し整理する。

 

 その1。

 姉さんの名前はヒルデガルド。

 老執事と2人のメイドだけが「ヒルデガルド様」呼びで、あとは「お飾り」とかネガティブなやつばかり。ここに使用人全員が居るわけではないだろうが、姉さん――ヒルデガルドの味方は少ないようだ。

 

 その2。

 今おれが居るこの『窓』は激ヤバな禁呪らしい。

 周りの制止を振り切った一人が「なら斬ってしまえばいいだろう」と闇を凝縮して造りあげたやたら格好いい剣を片手に近づくと、じゅううううと焼けた。

 ちょっとだけ笑いそうになったが、よく見ると深度Ⅲまでいってそうなガチな火傷だったので一瞬で素になった。

 

 その3。

 おれ的にはこれが一番の大発見。

 黒杭に貫かれたイキり執事と禁呪に近づき焼けた執事。

 この2名の怪我はワリとあっさり治った。

 メイドのひとりが患部に手をかざし、何か黒っぽいモヤを塗りたくると……なんと傷は消えていたのだ。

 ――やっぱりあった回復魔法!

 古来からのイメージ的に水や光だったので、まさか闇でも出来るとは盲点だった。

 ならば早速と自分自身に試そうとするも、よくよく考えるとおれに外傷はなかった。

 

 そんなこんなで、もうそろそろ新しい情報も尽きてきたかなと思い始めた頃。

 

 唐突に、部屋に居た全員が一斉に口をつぐみ、壁に張り付くように直立の姿勢で整列した。

 そしてそのまま1秒、2秒、3秒経った時、かちゃりと丁寧にドアを開けた執事に続き、そいつが現れた。

 

 

 

 ――あ、だめだこりゃ。

 

 

 

 どこかヒルデガルドに似た面持ちに、さら年齢を二周りほど追加したその女は。

 

 ここに来る前に見た巻角野郎――ゲオルギウスと同レベルで、どうしようもなかった。

 

 これまでの短い経験から、この『どうしようもない』感覚は、ピラミッドさんから教わった『カルマ値』の大小に連動する感覚だと当たりをつけている。

 おれのボキャブラリーではカルマ値とは――どれだけクソかの目安、という位置づけだ。

 

「……」

 

 整列する使用人一同を視線で一舐めしてから、女がいう。

 

「……で? 最初に着いたのは誰?」

「はっ! わたしですローゼガルド様!」

 

 まあわかっちゃいたけど、やっぱり()()がローゼガルド様か。

 この短時間に、こんなのが2人目とか、何なんだろうねここは。壺毒のグランドチャンピオン大会かな? 大銀河外道博覧会でも、もうちょい綺麗なやつがディスプレイされてるぞ絶対。

 

「話しなさい。全部」

「はっ」

 

 ちなみにこのカルマ値、おれの基準じゃ、松葉杖ついてる病人蹴飛ばしてゲラゲラ笑ってプラス1ポイントって感じだ。見てて胸が悪くなる行為ってやつは理屈抜きにクソ度を上げる。プラス2から先のアクションは言葉にするだけで気分が悪くなるので割愛するが、このローゼガルド様、ざっと見ただけで……数値化するなら、50万ポイントぐらいある。

 100とか200じゃない。500000だ。

 

 いやいやいや。普通に考えたら100の時点で現代日本なら絶対に檻の中だ。

 正義感だけじゃなく、こいつを野放しにしておくと自分や身内の安全が脅かされるという共通の防衛本能によって、絶対に野放しにはできないし、されない。

 100でそのレベル。

 で、このローゼガルド様500000。

 

 ……なにをどうすれば、こんな生き物が誕生するのかわからない。

 

 わかってはいたが、改めて再確認する。

 ここは日本ではない。

 ぶっちぎりで最強の武力を持った警察組織が、その威信にかけて一定の秩序を固守している現代日本では、こんな生き物は存在できない。

 逆説的に、今ここにこいつが存在しているという事実から、此処にはまともな法などないのだろう。いや、最悪の場合、こいつ自身が法という可能性すらある。

 

 つまり。

 

 こいつとは絶対に関わっちゃダメだ。

 そう確信したおれは、こいつら全員がどっか行くまで、いくらでも待つ決心を固めた。

 

「ふうん。これをあのコがねぇ。こんなの、いつの間に覚えたのかしら?」

「はっ。分かりかねます。我々には『これ』が何なのかも理解できておりません」

「……これは窓よ。あちらとこちらを繋ぐ道。距離を超えた原初の裏道。その入り口と出口」

 

 いってこちらをガン見してきたので、慌てて首を引っ込めた。

 

「あの、ローゼガルド様。その……窓、ですか? 少し開いてませんか?」

 

 勘のいい執事は嫌いだよ。

 

「あらほんと。あのコったら、きちんと閉めなかったのね。まだ残留してるのはきっとそういうことね」

 

 あ、この流れやばくね。

 

「ならあなた、あのコの杭で貫かれた、あなたが閉めなさい」

「……恐れながら、わたしでは途中で燃え尽きるかと」

「あのコは自力で『あの中身を』突破してきたのよ? まだあのコの魔力が体内に残留している今なら、きっとどうにかなるわ。ならなければ、閉じてから、燃え尽きて、死になさい」

「……御意。装備と強化のご裁可を」

「許可するわ」

 

 そうして今日は散々なイキり執事が準備を始める。

 メイドや執事が数人がかりで、おそらく補助魔法と思われるキラキラを振り撒き、さらにどこからか用意した黒いフルアーマーを数名の補助をかりて装着していく。

 

 おれはどうするか決めかねていた。

 いくら防具で身を固めても、近づくだけで大火傷を負う怪現象には無意味ではないのか。

 このままじっと見ているだけで、結局は失敗し、じゃあ自然に消えるまでここは立ち入り禁止な、と解散になるのではないか。

 

 そう思う一方で。

 

 もしあのフルアーマーイキり執事が根性の限りを尽くし、この『窓』をぐいと閉めてしまえば。

 おれは未来永劫、この暗黒空間に取り残されてしまうのではないか。

 ならば向こうがゴタついてる今の内に一気に飛び出し、適当に場を荒らして逃げる方が、まだ芽があるのではないか。

 いやいや、若手のカタツムリに負ける速度で、一体どうやって逃げるというのか。

 だがステルス子機を先に降ろせばあるいは。

 

 ……結局おれは、無難な方を選んだ。

 失敗してはい解散、になって欲しいと願い……様子見を選んだ。

 

 そうして、フルアーマー執事の特攻チャレンジが始まった。

 

「行きます! 崩れたら、追加の援護頼む!」

 

 がっしゃんがっしゃん金属音を響かせながら、おれの方――窓へと突進してくる。

 最初のダークセイバー執事が燃えた地点を過ぎても、その勢いは衰えない。

 鎧から煙が上がる。鎧の中から悲鳴のような雄叫びが上がる。それでも足は止まらない。

 

 ちらりと視線を後方へ向けると、ローゼガルド様(クソの塊)が愉しそうに笑っていた。

 ……今さらあいつのクソさ加減を目撃したところで何の驚きもない。

 がしかし、違和感はあった。

 

 はたして、この程度なのだろうか。

 

 問題の解決に際し部下に身体を張らせるのは……そう珍しいことじゃない。

 決して褒められたことじゃないが、悲しいかな、どこでも普通に行われている、ありふれたやり口ですらある。

 そんなありふれた行いをするだけのやつが、ああも吐き気を催すようなカルマ値を叩き出すだろうか。

 

 

 答えは、すぐに来た。

 

 

 残り5メートルの地点で鎧の足が止まった。

 気絶でもしたのか、五体からだらりと力が抜ける。

 そしてそのまま倒れようとしたところで。

 

 ローゼガルド様(期待を裏切らないクソ)が手を振った。あっちへ行けというジェスチャーのように、手首だけを下から上へ。

 

 たったそれだけの動きで発生した黒い波が、倒れようとしていた鎧の背を舐める。

 すると、フルアーマーを装着した成人男性が、冗談みたいに吹っ飛んだ。

 無論、天井付近にある『窓』に向かって。

 

 あー、なるほど。最初から砲弾のつもりだったわけね。重い方が威力増すもんね。それでフルアーマーの装着を許可したと。

 ……こいつ、本当に、どうしようもねえなマジで。

 

 この勢いと重量なら、ちょっとだけ開いた観音開きの小窓など、まず間違いなく閉まる。

 おれに選択肢などない。

 こうなればいいな、という願いに縋りつき思考を止めた。

 願いと現実に、さして因果関係はないと知っていたはずなのに。

 ローゼガルドが生粋のクソだと知っていたにもかかわらず、そこから先を考えずに。

 おびえて、縮こまった。

 

 まるで誰かが助けてくれると、期待でもしていたかのように。

 

 鍛え抜いた屈強な消防士が「もう大丈夫だ」と来てくれるとでも思ったか。

 柔道の有段者かつ最強武器の銃を持った警官が、令状片手に踏み込んで来てくれるとでも思ったのか。

 

 来るわけがない。日本どころか地球かすらも怪しいここに、そんな都合のいい話はない。

 わかってはいても、縮こまって、とぼけた。

 

 こちらから襲撃するという可能性を、なかったことにした。

 人間のかたちをしたものを、殺傷するのを嫌がった。

 

 露骨な化け物ではなく、中身はともかく『ガワ』は完全に人間と同じかたちをしたものに、黒杭をぶち込むのを怖がった。

 一番やばいのは人間だと、とっくの昔に知っていたはずなのに。

 超暴力の庇護がない、日本国憲法もない、まったくの別世界だというのに、中途半端に日本感覚のままで、自分が気持ちいいだけの選択をした。

 

 なので今から、そのツケを払う。

 

 砲弾と化した鎧が『窓』にぶつかる。叩きつけられるように、ばんと閉まる。

 他に選択肢がないおれは、一息はやく窓から飛び降りていた。

 着地を決める余力などなく、べちゃりと無様に墜落する。

 

 そうして、絶対に関わってはいけない外道とその配下達の前に、瀕死のおれはその姿を晒した。

 晒すしか、なくなってしまった。

 

 全身全霊を振り絞って、どうにか平静を装い立ち上がる。

 正直にいうと、落ちた時に打った右腿がめちゃくちゃ痛い。もうこれ、走るのとか絶対ムリだわ。……おかげでまたひとつ、ハードルが高くなった。

 

 余計な感情は捨てよう。

 できることをしよう。全部しよう。

 安全が確保されている時のみ愉しめる、綺麗な理屈を転がし気持ちよくなれる『贅沢な嗜好品』はここにはない。

 ぎりぎりになってようやく、そんな当然の事実が理解できた。

 ……自分の頭の悪さが嫌になる。

 

 きっとここが、一番苦しいところだ。

 下を向く心根を、強引に捻り上げるようにして前へと向ける。

 

 だから、ここさえ切り抜ければ、あとはもう上がるだけだ。きっと全部上手くいく。

 根拠なんかなくていい。満たせ。膨らませろ。縮こまるな。ついさっきの失敗を繰り返すな。

 

 広間にいる全員の視線が突き刺さる。

 ……どう考えても、一度は命を晒さなくてはならない。どんなに急いでも間に合わない。

 自分の勘違いが招いた窮地だ。死んだらおれのせいだ。……ならまあ、いいか。

 

 気が遠くなるような沈黙のあと、

 

「とらえ!」

 

 ローゼガルドが叫んだ。

 次の瞬間、執事2人に挟まれるようにして、おれの両腕は拘束されていた。

 成人男性との身長差から、黒服に捕まった宇宙人のように足がぷらぷら浮いている。

 両腕だけで体重を支えるかたちなので、腕の付け根が痛みはじめる。

 だが、それだけだ。

 

 ――よし! 切り抜けた!

 

 安堵のあまり、おれの口元がほころんだ。

 何せ死の瀬戸際からの()()だ。多少気が抜けるのもしょうがないって。

 

「……あらぁ、何か良い事でもあったの?」

 

 不審者確保の成功にローゼガルド様もにっこにこだ。

 

「それで貴女、どちらさまかしら?」

 

 答えは用意してある。最後のチャンスである1秒を浪費させるため、尊大に切り出し注意を引く。

 

「ヒルデガルドの連れだよ。ローゼガルド」

 

「……あのコに妙なコトを教えたのは貴女?」

 

 さっぱり意味がわからなかったので、笑っておいた。

 もういつでもいける。

 あとはタイミングだ。

 他の連中の虚を突く。動き出した鼻先に叩きつけるのが理想だ。

 

「何がおかしいのかしら。薄気味悪いコねえ」

 

 何がおかしいのか。強いていうなら。

 右足が痛くてじっと立っていられないステルス子機が、さっきからずっとお前にもたれ掛かっているというのに、ちっとも気付かないその様が――おかしくて、安心するんだよ、ローゼガルド。

 

「まあいいわ。ザイン、トール、それの両手両足を切断なさ」

 

 

 ――悪魔の弁護人(ディアボロス)

 

 

 ローゼガルドの言葉が止まり、震え、背が折れる。

 突然の異変に戸惑う左右それぞれの執事に向け、形成し滞空させておいた黒杭を引き寄せる。

 

 あの姉さん――ヒルデガルドが当然のように撃っていたので、この部屋に『闇』があるのは知っていた。

 ならおれにも『杭』は出せる。

 

 それぞれ執事を突き抜け、2本の黒杭がおれの両肩にぶつかり、しゅるんと吸い込まれる。

 拘束が解け、そのまま両足で着地。

 激痛が走る右足から崩れ落ちそうになるも、ここで弱みを見せるわけにはいかない。

 タネも仕掛けもないやせ我慢で踏ん張る。つい下を向きそうになる視線を強引に上げる。

 

 目の前のローゼガルドは、ちょうど3度折れて圧縮されるところだった。

 

 その様子に心から安堵する。

 超存在であるピラミッドさん由来の『製本』はどこでもできるはずだと決め付けた。

 できなきゃここで終わるので、できるを前提に進めて、進んだ。

 

 

「――全員、動くな! 動けば撃つ!」

 

 

 どこまで意味があるか不明だが、残りの使用人たちに釘を刺しておく。

 無論、いつでも撃てるよう、それぞれの頭上に黒杭をセットした上でだ。

 実行が伴って初めて、脅しは脅しになる。

 

 

「が、ご、おお、お前たち! 今すぐそぃ」

 

 

 そこでローゼガルドの頭部が折り畳みに巻き込まれ、熟練たこ焼き職人の御技が如く一瞬でクルっといった。

 そこから先のグロ展開を見届けることなく、すぐさま左右の執事を確認する。

 

 一撃当てたとはいえ、こいつらが死に物狂いで襲い掛かってくるのが一番まずい。

 なので追加の黒杭を盾のように向けつつ備えていたのだが……二人とも倒れたままピクリとも動かない。血の代わりに真っ黒い液体が池をつくっているのが気にかかるが、今はそれどころではなく。

 

 

「――おい」

 

 

 視界の端で動き出すそれ(老執事)の鼻先に、黒杭を撃ち出すのが最優先だった。

 一発だけなら脅しが弱いと思い、できるだけ沢山ぎりぎりに着弾させる。

 

 

「……勘違いするなよ。お前たちを皆殺しにしたいワケじゃない。四肢を切断しようとした奴と命令を下した奴がああなった。お前たちはまだ何もしていない。だからああはならない。わかるな?」

 

 

 本音だ。

 いくら日本国憲法がないからって、やればやり返されるのは基本中の基本だ。

 だからもう本当にどうしようもないローゼガルド以外はできる限りやりたくない。

 

 なので左右で拘束していた連中には、できるだけ小さくしたミニ黒杭を肩口にさくっと刺して痛みでびびらせる予定だったんだけど……。

 実際には貫通しておれにまで届いてしまった。

 子機(おれ)を解体した4本腕の筋肉レッサー阿修羅マン(仮)は、レギュラーサイズ濃縮版が数本刺さっても元気一杯だったというのに。

 

 倒れ伏しぴくりとも動かないふたりを見やる。

 肩口から入り脇腹を抜けて貫通。

 どう考えても主要臓器が損壊してる。

 まずい。これはまずい。

 

 自分たちを使い捨てとしか考えていないクソ暴君の死と同僚の死では、おれに対して積み上がるヘイトの量がケタ違いだ。

 手違いだった、などという言い訳は通用しない。

 へりくだる必要はないが、やって当然という傲慢さは身を滅ぼす予感しかしない。

 フィジカルくそ雑魚で脆すぎるおれとしては、こういう所が先の明暗を分けると思う。

 

「あ」

 

 そこで、ようやく思い出した。

 ――そういやあった回復魔法。

 しかもそこに、実際に使ってたメイドさんがいるじゃないか。

 

「そこの金髪と赤髪のふたり」

 

 そう声をかけるも、ローゼガルド様によるグロテスクショーに夢中らしくガン無視される。

 やむなく黒杭で肩をとんとん叩いて気付いてもらい「金髪はこっち、赤髪はこっち」とそれぞれ振り分け、治せそうですか? と問うと。

 

「む、むりです。ここまで崩れると、そ、その、足りません!」

 

 いわれて見ると確かに、メイドさんの手元に溜まる闇を塗り込むようにして被せるも、すぐになくなりドロリと零れ落ちていた。

 というか、空いた穴から見える体内の様子が、おれの知っている筋肉や内臓とは明らかに異なっている。

 かつて理科室にいた人体模型君が体を張って教えてくれたあれらとは、似ても似つかない何かがそこにある。

 そもそも全部が全部真っ黒で、血も黒いとかこれどう考えても。

 

「……人間ではない?」

「え? あ、は、はい。そうですが……」

「じゃあ何?」

「あ、えと、その、何といわれましても……。あ、分類的には闇精霊の一種に」

 

 闇精霊ときたか!

 まあいわれてみればそうか。

 ケンタウロスやレッサー阿修羅マンが跋扈する世界で、単なる人間では分が悪すぎる。

 肩を並べる仲間としては、頼りないを通り越して格落ち感すらある。

 だがヒルデガルドはあの場にいた。他の化け物たちと肩を並べてあそこにいた。

 それはつまり、やつらと同等の『何か』だということに他ならない。

 その『何か』の答えが――闇精霊。

 

 名前からして何となく、どんな存在か想像がつく。

 今さっきメイドさんは「足りません」といった。ならば。

 

 そこいらにわだかまっている闇をべりべりと剥がし、それぞれ瀕死の2人に被せる。

 

「これで足りるか?」

「……え、あ、はい。……はい?」

 

 ダメっぽいのでさらに3枚ずつ追加。

 そこでいきなり金髪メイドさんが嘔吐した。

 可愛らしい娘の突発ゲロとか、おれには徳が高すぎる。まだそのステージにない。

 つまりドン引きだ。

 

「げほっごほっ、や、やってみせます! できます! ですからもう十分ですので!」

 

 激しくむせながら、もう一人の赤髪メイドが叫ぶ。

 ふと過剰摂取(オーバードース)という言葉が浮かんだが、これ以上専門家の邪魔はしないでおこうと、さっさとその場を離れた。

 

 そうして向かう先に、ばさっと一冊の本が落ちる。

 くっそグロい製本過程を終えて、その表紙の上にぼちゃりと脈打つ心臓が落ちる。

 染み込むように沈み行き、ようやく出来上がる。

 

 ローゼガルドBOOKの完成だ。

 

 躊躇うことなく手に取り、まずは最重要事項を調べる。

 前回の失敗を忘れないよう、ページと使用人の顔をわかりやすく往復しながら確認する。見てるから余計なことすんなよと、しょぼい牽制をしつつ、部屋にいる全員の顔とフルネームを一致させた。

 なら次は。

 ページをめくる。

 

 

 この家に居る裏切り者の名は?

 ――ヒルデガルド。ハウザー。アメジスト。ヨランダ。プルメリア。ヴィンセント。ロイ。

 お前とヒルデガルドの関係は?

 ――叔母と姪よ。わたしの姉の娘がヒルデガルドね。

 なぜヒルデガルドはお前を裏切るのか?

 ――わたしが前当主だった姉を殺したからでしょうね。せっかく逆らわないよう丁寧に念入りに()()してあげたのに、嫌になっちゃうわほんと。

 なぜお前が当主にならなかったのか?

 ――どうしてわたしがそんな雑務をしなきゃいけないのかしら? 馬鹿じゃないの?

 

 

 そこで一旦本を閉じた。

 これは思いのほかきつそうだ。

 この疲れきった瀕死の体に、クソの内面を見せ付けられるのは堪える。

 さらに全方位を警戒しながらの読書が追加で精神を削る。

 

 なので、一歩踏み出してみることにした。

 いきなり本を読み始めるという隙を晒しても何もしてこなかったので、いけると踏んだ。

 踏んだなら、掴んで手繰り寄せろ。

 

「なあハウザー。そこの椅子とサイドテーブルを持ってきてくれないか?」

 

 ローゼガルドのいう裏切り者である老執事に声をかけた。

 

「……は?」

 

 返ってきたのは疑問と困惑。しかし激高しない時点で決まりだ。なら手繰り寄せろ。

 

「お前とわたしが敵対する必要はないだろう? 少なくともわたしはそう信じている。だから次はそちらの考えを示してくれないか? 最初にもいった通り、わたしはヒルデガルドの連れだよ、ハウザー」

 

 ヒルデガルドが連れてきたのは事実だ。まあ本人は知らないだろうが。

 ……うん、ギリセーフ。嘘ではない。それに今頃本人は自室で休んでいるだろうから、ここはいった者勝ちだ。

 

「………………ヒルデガルド様の客人とあらば」

 

 よし通った!

 おれVSおれ以外の全て、という図式が塗り変わった。味方とはいいきれないが、少なくとも敵ではなくなった。

 

 ハウザーがすっと重さを感じさせない滑らかな動きで、椅子とサイドテーブルを持ってきてくれる。かなりがっしりした、引越しセンターなら2人掛かりで運ぶ系のくっそ重そうなやつなのに、何気にすげーなこの爺さん。

 

「どうぞ」

 

 それを確認したおれは、この部屋にいる『ローゼガルドにとっての裏切り者』ハウザー、ヨランダ、プルメリアの頭上に形成していた黒杭を塵へと砕いた。

 実はそっと消すこともできるのだが、まあこういうお前らは敵じゃないアピールは大切だ。

 残る他への、お前らは動けばぶっ刺すぞアピールもまた同じぐらい大切だ。

 

「うん、ありがとう」

 

 鷹揚にいってぴょんと椅子に腰掛ける。

 座り心地はいまいちだが、馬鹿みたいに豪華な背もたれが、背後からくる不意打ちの盾となってくれること間違いなしの逸品だ。

 座った足が地に届かずプラプラするのはナメられ兼ねないと危惧し、胡坐をかくことにする。

 

 そうして、脇に置かれたサイドテーブルから一番の本命である目的の物――羽ペンを手に取った。

 

 少し悩んで最初のページに決める。注意書きは最初の方がいいだろう。

 意を決して、必要だと思う事柄を書き込んでゆく。

 

 ずっと気になっていたのだ。

 この製本魔法(物理)によって作られた『本』に、あとから何か書き込み継ぎ足せば、一体どうなるのか。

 聞けば答えてくれる素直な本に、何らかの要望や条件を書き足せば、はたしてそれは叶うのか。今こうして普通に字が書けている時点で、まったくの見当外れではないと思うのだが……。

 

 答え合わせの機会は不意に訪れた。

 

 最初の一文を書き終わった時、唐突に執事のひとりが消えた。

 ちょうど真正面のやつだったので常に視界内に捉えていたのだが、何の前触れもなくいきなり消えた。膝を曲げることも重心を前方に倒すこともなく、棒立ちのまま一瞬で居なくなった。

 次の瞬間、手が届く至近距離に、おれの眼に向けて闇剣を突き刺そうと右腕を引く執事がいた。

 

 ――やっぱりあった、やばい反則技(ドンデモ魔法)

 

 しかもこれは間違いなく、おれの天敵といえる最悪のやつだ。

 超スピードによる突進なら腕を引いて突き刺す動きはいらない。前方に剣を突き出しそのまま進めば勝手に突き刺さる。

 なのにそのワンアクションが必要だということは、ここまで一気に前進してきたクセに、すぐ目の前にある標的(おれ)を貫くための運動エネルギーが発生していないということだ。

 つまりは慣性ガン無視の超常現象。

 

 瞬間移動。テレポーテーション。

 

 近づかれたら終わりのおれを殺すためにあるような、最悪の反則技だ。

 

 執事が突き、

 おれの右眼に闇で出来た剣がぶっ刺さる。

 慌てず騒がず、持っていた『本』(ローゼガルド)を執事へとパスした。

 とっさに執事は、半ばまで刺さった闇剣を手放し、両手で本をキャッチした。

 

 おれが冒頭に書き足した条文は以下の通り。

 

 ――おれとヒルデガルド以外がこの本に触れることを禁ずる。

 

 本と接触した執事の両手が炎に包まれ、一瞬で全身が火達磨になった。

 禁ずるとしか書いていないのに、弾いたり消えたりするでなく、迷わず攻撃を選びしかも殺意100パーセントの大炎上。

 間違いない。

 本になってもローゼガルド(あのクソ)の性質は色濃く残ったままだ。

 

 炎上執事はごろごろ転がって火を消そうとするものだと思っていたが、横になるとそのまま動かなくなった。

 なんだかあんまりだったので、べりべりと闇を剥がして被せ鎮火しておく。

 ついでに本を取り返し、また椅子に腰掛けた。

 そうして読書を再開しようとページをめくったところで、右眼に闇剣が刺さったままだったのを思い出す。

 邪魔だったのでぐいっと押し込むと、そのままちゅるんと吸い込まれて消えた。

 

 まあ、闇で出来た黒杭がちゅるんと吸い込まれるんだから、闇で出来た剣もそうなるよな。

 

 ……なんて余裕ぶっこいてはいるものの、無事で済むという確信があったわけじゃない。

 素手でぶん殴られてたら、たぶんそのまま撲殺されてた。

 懐に短刀でも隠し持っていて、それで突かれていたらアウトだった。

 

 だから信じた。

 

 あの闇剣が武装していない(闇精霊の一種らしい)執事たちにとって標準的な武器だろうと。

 主であるローゼガルド様を(物理的に)本にするやべーやつ相手に素手で殴りかかるほど無謀な馬鹿ではないだろうと。

 黒い杭を武器に使う相手に、わざわざそれよりも短いナイフを使い、リーチによる利を捨てて接近戦を挑みはしないだろうと。

 それぐらいの当然のこと、考えた上で行動できる、最低限の知性があるはずだと。

 信じて、運よく、なんとかなった。

 と、ここで気を抜いては同じことの繰り返しになりかねない。

 なので意図的に冷たく強い言葉でいう。

 

「ハウザー、ヨランダ、プルメリア以外は壁際で整列してろ。これ以上無駄な作業をさせるな」

 

 さすがに今のでびびったのか、全員が素早く従った。

 

「ハウザーは治療の手伝いを。そこの墨屑も助けてやれ。無理なら無理で、まあ文句はないだろ」

「は。……これなら、どうにかなりそうです」

 

 減らそうヘイト。掴もう未来。

 

 そうして、実はまだ心臓がばっくばくなのをおくびにも出さず読書を再開する。

 なにせ知りたいこと、知らなくてはならないことは山積みなのだ。

 うず高いその山を、最短最速で崩す作業に没頭していると不意に、目眩にも似た強烈な眠気に襲われた。

 

 魔法でも一服盛られたわけでもない。ただ純粋に体力の限界だ。

 

 思えば、目覚めてからここまで色々なことがありすぎた。

 体力も精神力も、もはやすっからかん一歩手前だった。

 

 その一歩分の余裕がある内に畳み始めなければ手遅れになってしまう。

 ……ここまでだな。

 

「プルメリア」

 

 治療が終わったのか、立ち上がった金髪メイドに声をかける。

 大まかな方向性はもう決めた。ならある程度は開き直る。ダメなら駄目でその時だ。

 

「客間に案内してくれ。今日はもう休む」

「は、はい! かしこまりました!」

 

 よし通った! なら後は。

 

「ハウザー。この本はここに置いて行く。ヒルデガルドだけは触れるようにしてある」

「は」

「宿賃だと、伝えておいてくれ。知りたいことを知りたいだけ知ればいいと」

「一言一句相違なく」

「それと、殺そうとすると道連れにされる呪いがあるだろうから、やるなら気をつけろと」

「……格別のお心遣い、有難く」

 

 あまりくどくどいうと、遠足前の母みたいになりそうだったので、ここらで止めておく。

 そうしてメイドの案内に従い、馬鹿みたいに広い屋敷の中を延々と歩き続け、そろそろこれ何かの罠なんじゃと本気で心配になり始めた頃、ようやく客間に通された。

 

 起きたら呼ぶからそれまではそっとしといて、と退室するメイドに告げてドアを閉める。

 本当ならすぐさまベッドに飛び込みたいところだったが、さすがにそこまで豪気にはなれない。

 

 普通に考えたら、寝ている間に襲撃がある。絶対にある。おれならそうする。

 いきなりやって来た不審者が、実質上のトップをグロ魔法で本にして執事3名が重体。

 うん。生かしておく理由がないね。

 暴力でびびらせて少数派に恩を売ったところで……どうにかなる次元の話じゃないよなあ。

 最悪、恩の押し売りに怒ったヒルデガルドが自ら襲撃の指揮を執る可能性すらある。敵の敵はまた別の敵でしかないってやつだ。

 

 ……嫌で嫌でしょうがないが、可能性から目を逸らすのは止そう。

 それが面白くないものなら、なおさらに。

 

 ならまず必要なのは……探すまでもなく、目の前にある。

 無駄に重量感のあるカーテンを開け窓の外を眺めると、綺麗な月夜だった。

 3つあったりファンシーな生物が居たりはせず、おれの知っている通りの満月だった。

 窓を開け上下を確認する。高さは2階程度。闇をこねこねねじねじしたロープもどきがあれば脱出は可能。なのでさっそく作成開始。

 

 次いで窓の外にいくらでもある闇を、べりりと剥がして貼り付ける。当然一度では足りないので、何度も何度も切り貼り切り貼りを繰り返す。

 ドアやその隙間はもちろん、床に壁や天井、その四隅に至るまで徹底的に闇を敷き詰めるように塗り広げていく。

 

 さすがは闇精霊の居城。

 あの地下空間ほどではないにせよ、どろりとした濃密な良い闇が満ちていた。

 それをふんだんに用いて、この客室をできる限り補強する。

 絶対に外から進入できないように。

 どんな攻撃にも耐え抜けるように。

 最悪の場合、おれが逃げるまではもつように。

 

 もう本当にぶっ倒れる一歩手前まで補強作業に尽力したあと。

 おれは吸い込まれるようにベッドへと倒れ込んだ。

 

 あー、もうだめ。

 たぶんこれ、18時間爆睡コースだわ絶対。

 

 そうしておれの意識は途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――おやすみ。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間 猫の喇叭(ラッパ)

 

 

 猫が来る、という慣用句がある。

 

 最初にこれを聞いたのはまだ子供の時分で、もちろん意味なんてわからなかった。

 あのにゃーと鳴く小動物が寄って来るのに、一体何の意味があるというのか。

 その答えを知ったのは祖父が亡くなった時だった。

 葬儀が終わり墓場へと移動し、父が仕事をしている姿を初めて目の当たりにしたその時、確かにこれは猫だな、とひとり納得したのを今でもよく覚えている。

 

 それから幾星霜。家業を継いだからには当然、何十、何百、何千回と『猫が来る』のを見届けてきたのだが……今夜はどうにも様子が妙だった。

 

 

 猫が、嗤ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めるような満月の下。

 夜更けだというにも関わらず、郊外の墓地には大勢の人々が詰め掛けていた。

 

 衆目の向かう先には一人の僧侶。

 その傍らに片膝をつき控えている男が、ひとつ身じろぎをする。それを見咎めるように幾つもの視線が飛んでくる。彼は慌てて小さくなる。

 

 ――なぜだろう。今夜はどうにも落ち着かない。

 

 彼が家業を継いでからもう十年以上になる。今さら本番前に緊張するほど初心(うぶ)ではない。

 さらにこの坊主と仕事をするのも初めてではなく、その実力のほども十分に承知している。こいつは『出来る奴』だ。鍛錬を欠かさない真面目さがあるし、なにより咄嗟の事態にも対応できる頭の回転がある。

 一緒に仕事をする相棒としては上の上。間違いなく今夜の仕事は楽に終わるはずなのだが……。

 

 何が引っ掛かっているのかわからないまま、彼はとにかく仕事に集中しようと前を見た。

 

 出来る坊主が遺憾なくその実力を発揮し、着々と仕事を進めている。今はその第二節。音響魔法を駆使した大音声(だいおんじょう)で祝詞だか聖言だか念仏だかを唱えている。

 宗派や教義によってその呼称が変わるものを曖昧にしておくのは、この家業における大原則だ。

 自分たちは宗教者ではない。特定の宗教に肩入れなどしていない。

 その主張と事実が宗教戦争(本気の殺し合い)から己の身を守る唯一の術だと、全ての管区で一貫して徹底的に叩き込まれている。

 そしてそれを鉄の掟とし、全ての同業者が病的なまでに遵守してきたからこそ、彼らは今日まで生き延びることができたのだろう。

 

 坊主の大音声(だいおんじょう)が場に響き渡る。

 参列者たちは皆一様にそれを拝聴する。

 耳朶の奥を直接震わせるような独特の発声方法で叩き込まれる大音は、聞き始めてから一定の時間が経過すると……聴衆に対してある種の酩酊にも似た独特の感覚を植え付ける。

 それが『特別な体験』の下地となる。

 

 細い月明かりのなか、彼の視界にわずかな斑模様が入る。今夜は随分と早い。

 事前の打ち合わせで決めていた通り、坊主にしかわからない合図を送る。

 始まったぞ、と。

 

 すると坊主の音響が調子を変える。

 これまでの大声から一転、まるでゆっくりと説き伏せるような、幼子に語りかけるような、どこか優しいものへと。

 しかしそのくせ、音量自体は微塵も変わっていないというのだから、毎度のことながら凄まじい技術だと内心舌を巻く。

 

 よし。こちらも始めよう。仕事に関しては、彼にも一家言ある。

 一流の技術には同等以上のものを返さなくては釣り合いが取れない。

 

 薄闇のなか、おぼろげな輪郭が渦を巻き螺旋を描き始める。

 準備に抜かりはない。ゆっくりと丁寧に少しずつ、闇の密度を色濃く凝縮してゆく。

 

 

 

 

 

 

 広く一般的に知られる話では。

 生前の体重と死後の体重には僅かな誤差が認められるという。

 その誤差を魂の重量とする説は大昔からあったのだが、ならそれは何処へ消えたのか、いつ消えたのか、どうやって消えたのか、という論争に決着がつくことはなかった。

 観測できないものを幾ら論じた所で水掛け論にしかならないのは道理であり、また限界でもあった。

 

 しかし今から数百年前。

 かの邪神が巻き起こした大戦争の際、同族と袂を分かつという決断を下した闇精霊の一派がこちら側に流れてきたことで、それらの常識は打ち崩された。

 

 闇を起源とし、闇に対し高い親和性を持つ彼らには、死後に消える質量の一部始終が『目視できている』というのだ。

 ならば証明してみせろとなり、そして()()()と証明されてしまった。

 

 これに対し、当時の一大宗教と超大国が下した決断は。

 邪教の禁呪として滅ぼすでも、魂の尊厳を傷つける重罪として裁くでもなく。

 生かさず殺さず取り込む、だった。

 明確な上下は設定したがそれでも、表面上は新たな隣人として、その肩を抱いたのだ。

 

 とはいえ、決して仏心を出したわけではない。

 単純な足し算と引き算の結果である。

 つまり、邪神の軍勢によってもたらされた未曾有の大被害による人類社会崩壊の危機を乗り越えるため、わかり易い求心力が必要だったのだ。

 傷つけられた権威の完全復活を印象付ける、派手なパフォーマンスが欲しかったのだ。

 

 闇精霊の能力と権威の復権。

 この一見無関係に思える2つを結びつけた成果は、今や数百年の熟成を経てひとつの文化にまで昇華されていた。

 誰もが無縁ではいられない、冠婚葬祭の『葬』である。

 

 

 

 

 

 

 一流の技術には同等以上の返礼を。

 それが自分の、ひいては同胞同僚の価値を高めることに繋がると彼は確信している。

 現に先人たちがそうしてくれたお陰で、今や彼らのことを『奴隷未満の二等民』などという者は殆どいなくなった。

 ならば自分もそれに倣わなくては。

 さらに自分たちの価値を高めなければ。

 

 いざ集中を始めた彼の前では、多少の違和感など平伏し退散するのみ。

 彼のやる事としては単純だ。

 ことが起こっている範囲の闇を濃くする。

 闇夜の中での『日常』を人の眼にも映るよう、くっきりと際立たせてやるのだ。

 そうして一度でも可視範囲に入ってしまえば、後は向こうの眼とそれに付随する器官が勝手に調節を終えてくれる。ちょっとした()()()さえあれば、人の眼は闇夜に対しほんのひと時の覗き見を許されるのだ。

 

 とはいえ、すでに彼の中にある闇種の血は、数世代に渡り他種族と交わった結果薄まり、もはや独力で闇の操作など出来はしない。せいぜい観るのが関の山だ。

 

 だから当然、道具を使う。あらかじめ仕込む。その眼で確認しながら、季節やその日の天気や観客の()によって最も適した濃度を見極め、やり過ぎないよう薄すぎないよう宥めすかしながら夜空に溶かし込むのだ。

 

 するとどうだろう。

 

 未知の者からすれば泡沫の神秘が。

 既知の者からすれば単なる自然現象が。

 

 その全容を顕にする。

 

 地より湧き出たおぼろげな粒子の欠片が、次々とその数を、光量を増幅させてゆく。

 1、10、100を超えたあたりから、その場にいる全員が数えるのを諦めた。いや、より正確にいうなら、数えることの無意味さに気付いたというべきか。

 

 粒子たちはさして動きはしない。

 ただゆっくりと、漆黒の空へ、果ての天へと上昇して行く。 

 

 月夜の墓地に顕れる、空へと還る光の群。

 

 そこに音響魔法を駆使した坊主の、祝詞だか聖言だか念仏だかが合わさることで、掛け値なしに神聖な『死者との別れ』が成立するのだ。

 

 ……が、しかし実のところ。

 すでに学者たちの研究により、この粒子は魂そのものではないと結論が出ている。

 曰く、これは魂の屍骸だと。

 本体機能の消失により剥離した表層の一部が、大気中の魔力と融合し自然に還って行く様を可視化したものにすぎないと。

 

 さらに、天へと還って行く理由すらも彼らは()(ほぐ)す。

 

 地に生まれし者の魂は地に引き寄せられる性質を帯びるという。

 ならば当然の帰結として、その果ての姿である粒子にも同様の性質があり、この地よりもさらに大きな『空に浮かぶ地』である月に引き寄せられる――つまりは天に向かって落ちていくのは、ごくごく当然のことであり、自然の摂理ですらあるという。

 これは、この『告別式』が満月の晩にのみ行われる根拠でもある。

 

 とくに秘匿されているわけでもないこの学説があるにも関わらず、それでもなおこの告別式がさして神性を損なわずに今日まで続いているのには当然わけがある。

 

 ただ単純に荘厳で美しいから、という実利的な理由ともうひとつ。

 最も目を惹くその特徴に、まだ誰も納得のいく説明ができていないのだ。

 

 

 いくら重さがあってないような粒子だとしても、何の作用もなく空へ浮かんで行くことは不可能だ。

 先の学説に則り、月に引かれ落ちて行くと仮定しても、ならば今目の前にある『これ』はどいうことなのか。

 

 闇夜の中での『日常』を人の眼にも映す闇精霊の秘技は、その仔細を余さず照らし出す。

 

 

 大小様々な粒子の周りを、ゆっくりと飛び交う影がある。

 細長くしなやかなシルエットの四足獣だ。

 あるものは黒く、あるものは白い。それら二色が交じり合った灰色もいる。さらにはキジトラ、サバトラ、茶トラ、キャリコ等々、もうこの辺りまでくると目の錯覚で片付けるのが難しくなり始める。

 

 それらが何故か、天へと昇る粒子たちの周囲を、螺旋を描くようにして緩やかに飛び交っているのだ。

 ぐるぐるぐるぐる。緩やかに周回を続け、徐々に天へと昇って行く。

 

 当然ながら、本来その動物に飛行能力などない。

 いやそもそも翼すら持たず、ただその前足と後足をぴんと伸ばすだけで空中を旋回する生物など存在しない。

 

 だからこれは、ただ見た目が同じかたちをしているだけの、全く別の何か。

 

 現に今、参列者のひとりである幼子が好奇心から手を伸ばし……その小さな指先が『それ』に触れた途端、弾ける泡のように音もなく、

 

「……きえちゃった」

「照れ屋なのかな。構うと帰っちゃうんだよ。だからそっとしておこうね」

 

 正確には、濃縮した闇が霧散してしまい、人の可視範囲から外れてしまったのだ。

 そもそも、これに触れることが出来た例はまだない。

 一切の干渉が出来ないが、されることもない、いささかの魔力を帯びた幻影のような存在。

 

 そんな、どう考えても尋常ではないそれが、まるで粒子を護衛するかのように、或いは道案内でもするかのように、その周囲でゆっくりと旋回しつつ(はべ)っているのだ。

 

 

 遥か昔の闇精霊たちはこれを『連れて行く』と捉えた。

 このどこでも見かける動物に酷似した『何か』が、命の残骸を迎えに来たのだと。

 

 故に、猫が来る、という慣用句が生まれ特別な意味をもった。

 他ならぬ、死を意味する言葉である。

 

 

 ――やっぱり変だ。何かがおかしい。

 

 

 これまで何十、何百、何千回とこの光景を見てきた彼だったが、今夜に限ってどうにも引っかかる。なぜだか違和感が拭えない。

 手元を見る。目の前を見る。指差し確認を笑う奴は最低の無能だという先達の教えは、彼も大いに納得するところである。

 出力の調整具合は文句なし。星の光量も規定値内。月光による乱反射も確認出来ず。好奇心の塊である子供が突っ込むのも事前に阻止しておいた。抜かりはない。ならばきっとそれは己の技術についてではない。

 

 内ではなく外に原因を求めた彼の視線がふと止まる。

 

 ぐるぐると旋回する猫たちには様々な種類が存在する。

 基本的には細身の猫が多いのだが、中には太っちょな猫もそれなりにいる。

 そんな、でっぷりした存在が、限界まで伸びをしたような姿勢のままふよふよと中空を旋回している様は……率直にいって笑いを誘う類のものだ。厳粛な告別式にはそぐわないコメディ要素となりかねない。場の空気を緩ませ、儀式の意義を損ねかねない。

 いくら僧侶の有難い音声(おんじょう)が背景にあるとはいえ、ものには限度というものがある。

 

 だがそれでも、今日までそれが問題になったことはなかった。

 あれらを見て、少し太いからと笑うようなことができるはずもない。

 

 とてもこの世のものとは思えない存在を、どうして笑えようか。

 

 理屈としては引き算だ。

 通常あるはずのものがひとつ無くなるだけで、それは一目でわかる異常な存在――この場合は背景も合わさって超常の存在となる。

 そう。

 この猫たちには、ひとつだけ、あるはずのものがない。

 見慣れているからこそ、その欠落が見る者に冷や水をぶっかける。

 坊主の後ろ盾があるからこそ、化け物ではなく御使いとなれるその欠落とは。

 

 顔が、ない。

 

 頭部はある。すなわち輪郭もある。耳もある。びよんと伸びる髭もある。

 だが、目と鼻と口がない。

 本来それらがあるはずの場所には何もなく、ただつるりとしているのみなのだ。

 

 こんなの、誰が見ても一目でわかる。

 この世のものではないと。

 ちっとも笑えないと。

 

 

「あは」

 

 

 しかし、笑った。

 子供が笑った。

 顔のないどこか不気味な猫もどきの一体どこに笑える要素が、

 

 

「あのネコさんたち、わらってるよ!」

 

 

 違和感の正体。

 目には映っていたが、何十、何百、何千という積み重ねが、それの認識を許さなかった。

 そうに違いないという、確かな経験に裏打ちされた思い込みは、独力ではまず破れない。

 しかしいわれてしまえば、そうして認めてしまえば、あとはただ現実があるのみだった。

 

 つまり。

 

 今夜の猫たちには顔があった。全ての猫に、目と鼻と口があった。

 そしてそのどれもが、嬉しくて堪らないと言わんばかりに満面の笑みを浮かべていた。

 

 鳴き声こそ聞こえないものの、頻繁に口が開け閉めされている様子から、常に何かを叫び回っているようだった。いつもは規則正しく一定の調子で成される旋回が、今夜はまるで舞い踊るかのようだった。

 

 それらの様子から伝わる感情はただひとつ。

 

 歓喜。

 ただただ純粋で圧倒的なまでの歓喜。

 まるで千年の夢が叶ったかのような。

 まるで満願成就の夜が来たかのような。

 

 いつもはそれこそ文字通り()()()でどこか淡々と動くのみだった彼らが。

 遥か昔より、ただ静かに深い闇に息づくのみだった彼らが。

 こうも狂喜する理由が、彼にはさっぱり――いや、そもそも今夜は最初からどこか違和感があったのを思い出す。

 数世代に渡り他種族と交わった結果、闇種としての血が極限まで薄まってしまった彼ですら、どうしてか胸の奥底がざわついて仕方なかったのを思い出す。

 

 そしてそのざわめきは、決して不快なものではなかったと、ようやく理解する。

 

 

「あっ! ネコさんいっちゃう!」

 

 

 舞踊の輪が不意に途切れる。

 旋回を止め、粒子の欠片をひったくるようにして、そのまま西へと一目散に飛んで行く。

 誰も彼も、白も黒も灰もキジトラもサバトラも茶トラもキャリコも。

 吸い込まれるように、西の空へと飛んで行く。

 

 通常なら、彼が濃度を調整した範囲を抜ければ、猫たちは見えなくなる。

 最初から見えている彼はともかく、余人には見ることができなくなる。

 だが今この場にいる誰も彼もが、皆一様に驚愕を浮かべつつ同じ角度で西の空を眺めているのをみた彼は……たまらず子供に聞いた。

 

「……ねえ君、あの空が見えているのかい?」

「うん! すごくキレイ! 光の川みたい!」

 

 この場にいた猫たちの飛ぶ先に、別の場所――おそらくは隣の管区だろう――から飛んできたであろう猫たちが合流し、さらにその先でまた別の猫たちが合流する。

 そうして、天に還すはずだった輝く魔力片を抱えたままの猫たちが、数百、数千、数万と寄り集まり、夜空に流れる大河の一滴となる。

 

 夜空を埋め尽くさんばかりの大河は、西へ進むにつれ細く細くなっていく。どうやら、あれの終着点はたったひとつらしい。

 

 正直、彼にはわけがわからない。

 

 彼が闇を濃縮した範囲から出ても人々の目に映っているという事実から、()()()()()()()()()が、あり得ない次元の濃度で満たされているという事実が読み取れる。

 目に映る範囲全てを操作するなど、もはやそれは天候操作にも等しい絵空事の世界だ。

 魔力が多いとか少ないとか、そういった次元の話ではない。

 今まで駆けっこで勝負していたというのに、急に空を飛んで高度を競い始めたとでもいえばいいか。

 根っこから違う。別の何か。それが今目の前に。

 

 もはや彼には意味がわからない。

 急に顔を得て、どこかに馳せ参じたであろう猫たちも。

 夜空すべてなどという、ふざけた超範囲の闇が一斉に濃度を増したことも。

 

 そしてなにより。

 

 今こうして彼自身が、猫たちの向かう先――西の果てへ向け膝をつき、何かに祈るように両手を組み、さっぱりワケのわからない涙を流していることが心底不思議でならない。

 

 ただどうしてか、こうなっていたのだ。

 さも当然のように、していたのだ。

 体が動き出していた。根拠は不明だが彼自身の意思で。

 彼の中に微かに残る闇の因子が、わけもわからずただただ打ち震えていた。

 

 涙に濡れる視界のなか、どこかぼんやりとした頭で理解する。

 ここから遥か西に一体何があったか。

 考えるまでもない。

 彼の祖先たる闇精霊、その故郷。

 西の最果て魔の境地。

 魑魅魍魎蠢く魔大陸にして、先の大戦争が元凶の発生したる因縁の地。

 そこへ馳せ参じる死を意味する闇の使い。

 夜空全てに満ちる別次元の闇。

 そして己の内にすら灯る知らない激情。

 

 ひとつの答えが、輪郭を持ち始める。

 

 全ての闇に属するものにとって決して無視できないそれ。

 彼のような血の薄い者ですら、膝をつき祈りを捧げずにはいられないそれ。

 慣れ親しんだ世界の法則すらも捻じ曲げ得るその存在とは。

 

 仄暗き闇の(ねや)。温かい泥。暮れなずむ暁闇。黒い雪。最初にあったふたつの内がひとつ。

 

 すなわち。

 

 邪神。

 

 その再臨である。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 この夜。

 人も魔もそれ以外も、この世界に存在する全ての命が、夜空をかける大河を見た。

 

 これが何を意味するのかなど……誰にでもわかる。

 こんなの、どれほど鈍いやつだろうがすぐわかる。

 ここまで派手にやられると、わからないフリをするのは不可能だ。

 

 そう。

 数百年前の昔話が、一夜にして現実となった。

 そして。

 書物の中の物語が、次の朝からは同じ大地に足をつけるのだ。

 

 わからない。

 どうすればいいのか、わからない。

 何をするのが有効なのか、はっきりとしない。

 そんなごく当然の混乱に陥る者たちは、ある意味幸せといえたのかもしれない。

 

 

 しかし極一部のそうではない者たちは、事実を見て、繋げて、考えた。

 

 

 喜び勇んで駆け出す猫の群れを見た。

 何故か涙を流す隣人の姿を見た。

 特に闇精霊とは無関係だと思われていた人々まで『そう』なっている意味を理解できた極一部の聡い者たちは、ある最悪の未来を見た。

 

 自分の所属する集団内の何割が『そう』なっているかの概算を弾き出すと、まだ何も始まっていないというのに、すでにどん詰まりの一歩手前だという事実に辿り着いた。

 

 だが諦めるわけにはいかなかった。

 自分には責任がある義務がある、それらに付随する権利もある。なにより意地がある矜持がある、代々受け継いだ使命がある。

 かの邪神が伝承通りの存在なら、まだ打てる手はあるはず。

 たとえなくとも()()()()()

 

 幾つもの決意が夜空に瞬き、皮肉にも大河の一滴となる。

 溢れんばかりに満ち満ちたそれら全てを。

 

 彼女だけが見ていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

-1 全ては閣下の望むがままに

 

 

「反対だ。中止を提言する。ことが始まる前にすべてを終わらせるつもりか?」

 

 予想通りだった。

 この手の反発があるだろうとは踏んでいたが、案の定、口火を切ったのはこの小娘だった。

 

「降神? 皇魔城? 大いに結構。だが、そんなものに縋らねばならんほど状況は逼迫しているか?」

 

 実にそれらしく聞こえる、おそらくは最初から準備されていたであろう言葉。

 

「考えるまでもない。不要だ。必要ない。戦力に不備など見当たらない。これ以上は飽和するだけだ」

 

 今目の前で行われているのは操り人形による朗読劇でしかない。

 面倒だからと責を負わされた傀儡の通常業務。

 会議には出席せぬが要求だけは突きつける、いつも通りのやり口。

 つまりこれは、小娘の背後にいる魔女(ローゼガルド)からの伝言だ。

 

「その不要な飽和の為に神を降ろすなど、正気の沙汰ではない。もう一度訊く。まだ始まってもいないというのに、すべてを終わらせるつもりか?」

 

 小娘の視線を追うように、皆の眼が13番目の席へと集まる。

 漆黒で塗り固められた円卓。その呪わしき座に堂々と陣取る魔人――ゲオルギウスへと。

 

「……ふむ。だから自分たちに返せ、と?」

「言っただろう。不要だ。中止が決定次第、すべてを完全に消滅させる手筈となっている」

 

 小賢しい物言いだ。老人は内心ため息を吐く。

 消滅の手筈を整えているという貴様らの手に渡れば、あとはどうとでも出来ように。

 

「なぜそこまで忌避する? お前の復元した術式と触媒は私の眼から見ても完璧だ。確実に望む成果が得られるだろう」

「だから反対している。()()()()()()()()

 

 笑わせる。

 もし魔人(ゲオルギウス)が目敏く発見していなければ、貴様ら闇精霊は極秘で召喚を行っていただろうに。

 

「故に――喚ぶなと言っている」

 

 正に操り人形の三文芝居。

 しかしどれほど拙かろうが、観客が居る限り、舞台としての体裁は整ってしまう。

 終わらせるには幕を引く必要があるのだが――誰も小娘を止めないのは、消極的な同意と見るべきか。

 最低限の根回しはあったとはいえ、誰も具体的な方法までは知らされていなかったのだ。いささかの戸惑いもあろう。邪神という言葉の裏に潜む恐怖も垣間見えよう。

 だがまあそんなもの、この魔人(ゲオルギウス)にはどこ吹く風よ。

 

「否。喚ぶとも。否応なしに来てもらう。来たところで何もできぬ。させぬ。皇魔城の動力となる以外は、何ひとつ」

「その自信の根拠は何だ? 自惚れか? 慢心か?」

 

 小娘の威勢を見るに、魔女(ローゼガルド)からは厳命が下されているようだ。

 さしずめ「くれてやるには惜しい。何としてでも持ち帰れ」といった所か。

 

「笑止。我が心根に曇りなし。常のように行い、常が如く得るのみ」

 

 ゆっくりと一同を見回した魔人(ゲオルギウス)が再び小娘に向き直り、どろりとした毒虫に似た笑みを浮かべ、

 

「すなわち、合理と暴力也」

「素晴らしい」

 

 唐突に、これまで黙って成行きを見守っていた獣が口を挟んだ。

 

「が、しかし――その『常』はかつてこの世の半分を平らげた存在に通じるかね?」

 

 誰かの操り人形などではなく、己が武威の結果としてこの場に座す獣の言葉は重い。

 

「……ぬ? ああ、違う違う。そうではない。成程、思い違いをしているのか」

「どういう事かね?」

 

 獣の疑問に小娘が口を開こうとするが、魔人(ゲオルギウス)が機先を制する。

 

「そも、此度降ろすモノは、誰もが知るかの邪神とは別の存在なのだ。伝承に謳われる、武芸百般に通じ軍略を網羅し山野を蹂躙した『(つわもの)の邪神』ではない。強いて言うならそう、芸事の邪神、とでも呼ぶべきか」

「――ハッ! なんだそりゃ? 本気で言ってんのか?」

 

 蛇女王と煙草を回し呑みしていた邪眼王が吹き出した。

 

「無論、本気だとも。まだ仮定の段階だが……どうやら、喚ぶ対象の属性をある程度は指定できるようでな。陣に組み込めるのは一文字のみ。対応せぬ文字も山ほどある。確認できたのは『星』『首』『死』『毒』『芸』『飴』の6文字」

 

「――『飴』だ。『飴』がいい。『飴』にしよう」

 

 妙に良く響く蟲の声は黙殺された。こいつの発言は全て脊髄反射だ。ゆえに無視しても尾を引かない。すぐに忘れる。

 

「まあ、そん中なら『芸』が一番無難……なのか?」

 

 少し考えればそうなる。『星』『首』『死』『毒』は考えるまでもなく除外だ。字面だけで嫌な予感が溢れ出している。

 今回求めるのは絶対的な支配者ではなく皇魔城の動力だ。ならばそれを担うのに、溶けてなくなりそうな『飴』はどうなのか、と躊躇いが生じる。

 よって消去法で『芸』が残るのだが。

 

「3つ、質問がある」

「ふむ。何かね、キッドマン?」

 

 無法者の星(アウトロースター)の質問に魔人(ゲオルギウス)が向き直る。

 

「ヒルデガルドは『神』と呼び、アンタは『邪神』と言った。この認識の差はどこから?」

 

 相変わらず細かい男だ。

 なので老人はこの田舎者が嫌いではない。

 

「かの存在に対する知識の差」

「俺にもその手の神話知識なんてないぜ。ご存知の通り、育ちが悪いもんでな」

「神話というより風俗だ。かの邪神が元いた場所のな」

「御伽噺って、神話の類と何が違うんだい?」

 

 まあ聞け、とゲオルギウスが続ける。

 

「かの存在が元いた場所では、余りにも強力無比たる存在――それこそ、他と比べるのも馬鹿らしい程に隔絶した強者には『悪』や『邪』といった字を冠する慣わしがあったそうだ。どうやら『悪』や『邪』には『強力な』といった意味もあったらしい」

「あー、つまり『邪神』殿には褒め言葉だったと」

「そもそも『神』と呼ばれる事を嫌ったそうだ。己を『悪次郎』などと(うそぶ)いたとか。なのでせめてもの妥協案、といった所だろうな」

 

 無法者の星(アウトロースター)が、なるほど勉強になるねえ、とふざけたように零してから、

 

「じゃあ2つめ。そこの邪眼王は了承してんのかい? 亡き主様と同等の存在を動力にしますとか、下手したら戦争案件じゃね?」

 

 邪眼王とその一派は、かの邪神に直接仕えた者達の末裔だ。

 その信仰が今も生きているならば、此度の計画は冒涜となるのでは。

 

「ハッ、了承もクソもあるか阿呆が。御屋形様と同じ場所から来たってだけで同等とか、んなわけねェだろ」

 

 言外の問いは、他ならぬ当人によって一蹴された。

 

「いいか? そもそも御屋形様は、お上品に誰かに呼ばれて来たわけじゃねえ。『向こう』で戦って戦って――それこそ死ぬまで戦い続けて、いよいよ死んだかと思ったらここに居たそうだ。つまり、御身ひとつで何もかもブチ破って自力でご降臨なされた、まさしく兵の神とお呼びするに相応しい御方よ。喚ばれてホイホイやって来るような三下とはそもそもの格が違ェんだよ」

 

 当然ながら、かの邪神とその臣下達の認識は把握している。

 神だから強いのではない。強いから神なのだ。

 

「へえ。さすが直系だねえ。そんな細かい話も残ってるんだ。あ、もしかして凄いお宝とかも代々伝わってたりする?」

「ああ。直々に下賜された『庭』があるぜ」

「いいね。凄そう。見てみたい」

「……悪ィ事はいわねェ、やめとけ。見たら、死ぬ」

 

 本気の『何か』を感じたのか、無法者の星(アウトロースター)はそれ以上何も訊かなかった。

 それじゃ、と気を取り直したように机上に両肘を乗せ、指を3本立てた。

 

「最後の3つめ。それらの一切合切にかかる銭はドコの誰が出す? 割り勘とか、カンベンしてくれよ?」

 

 西側のほぼ全ての裏家業を取り仕切る頭領(アウトロースター)が、実にそれらしく銭金の話を切り出した。

 

「案ずるな。すべて私と翁が用意する」

「というより、もうほぼ出来ておるわい。後は仕上げのみ、といった所よ」

 

 ここに居るのは誰もが皆一勢力の頭。金銭の話を曖昧にするのは不和の種だ。

 なので老人もすぐさま魔人に追従する。

 

「オウケイ。なら安心だ」

「……ふむ。ならばもうひとつ安心できる材料がある」

「そいつはいい。是非聞かせてくれ」

 

 皆の視線が集まる中、たっぷりと間を取った魔人が穏やかに告げる。

 

「此度の邪神は、殺せばすぐ死ぬ。いや、正確に言うならば、死に易く――()()()()()()

 

 誰もが意味を理解できず、奇妙な沈黙が挟まる。

 

「先ほど邪眼王の話にもあったであろう。自力で降臨した先代とは違い、今回はこちらが喚ぶ。ここに来てくれ、ここに来いと。さあお出でなさいませと『器』を用意して」

「カカ」

 

 蛇の女王が笑った。

 

「相変わらず主は悪辣よのう。だがまあ確かに、勝手に自力で来たのではなく喚ぶのならまあ、そうよなあ。邪神の完全顕現など、たとえしたくとも出来得るものに非ず。器に降ろすのがまあ、関の山だろうて」

「左様。こちらでの器はこちらが決める。弱く、脆く、考える頭すら最小限となるよう」

 

 さすがにここまで来ると、周りもその意図を掴み始める。

 

「とすると……子供か。肉体的、魔術的に優れた点のない種の」

「いや、それだと器の魂と契約を結ばれる恐れがあるよ。悪魔に出来る事が神に出来ない訳がない。向こう次第では全てがひっくり返されてしまう」

「言っておくが、無機物に降ろすなど最も愚かな選択だからな。テトラブロックの虐殺を忘れた訳ではあるまい?」

「……で、魔人(ゲオルギウス)殿の結論は? 当然、是と云うのがあるのだろう?」

 

 埒が明かないと見切りをつけた獣が、一足飛びに答を問う。

 

「うむ。そこのヒルデガルドの叔母上の研究成果を使う」

「は?」

 

 明らかに何も知らない小娘の様子に、皆の視線は再び魔人(ゲオルギウス)へと戻る。

 

「正確にはその失敗作。研究の資金回収として、それらが販売されているのを知っている者も居ると思うが」

 

 知っているどころか、西側への商品配送に一枚噛んでいる無法者の星(アウトロースター)が「あの悪趣味か」と吐き捨てた。

 

「知っているのかキッドマン。なら端的に頼む」

 

 獣に頼まれては断れない。無法者の星(アウトロースター)が嫌そうに説明を始める。

 

「あー、ワリと有名な話だと思うが、ヒルデガルドの叔母上――魔女ローゼガルド殿には『完全な人造人間(ホムンクルス)』を製造するってライフワークがあるんだわ。なんでそんな事してんのかは知らねえ。気になるなら本人に聞いてくれ」

 

 本人に隠すつもりがないどころか、大っぴらに技術供与を求めていたりもするので、文字通りの有名な話である。

 ……その為に行われている人体実験のおぞましさも含めて。

 

「今の所それが上手くいったって話は無い。肉体はともかく、精神や魂とかまで完璧に……となりゃ、そら難しい通り越してほぼ不可能だからな。で、結果として失敗作が造られる。中身が空っぽの、どんなに手を尽くしても1、2ヶ月したら生命活動が停止する、物理的には生きてるが、ただそれだけの肉人形だ」

 

 まあ、ここまで聞けば後は想像がつく。

 が、利に合わない点もある。

 

「……解せんな。研究の資金回収というからには、その肉人形を悪趣味な資産家にでも売りつけるのだろうが……2月足らずで駄目になるモノなんぞ、買い手がつくのか?」

「やっぱ獣の旦那はまともだよ。俺もそう思う。つうか、相場の10倍以上も出してんなモン買うぐらいなら普通は娼館なり奴隷商の所にでも行くさ」

 

 だから今回の顧客となるのは、そうではない連中だ。

 

「リピーターの皆様(カス共)が言うには、()()が良いんだとさ。モノ言わぬ故に美しく愛しい存在との避けられぬ別れが最高に()()んだってよ。豊富な衣装や改造、肖像画を描く画家の派遣とか感動的な葬儀とか口にするのも嫌になるオプションの数々とか……魔女殿はあの手の(カス)の心を掴むのが上手すぎて、正直おっかねえってのが本音だわ」

 

 この程度の話で嫌悪感を露にし、精神的な隙を見せる可愛げなど、この場に居る者達には欠片もない。

 無法者の星(アウトロースター)の嫌そうな態度も、魔女との距離を遠く見せたいが為の演出だろう。

 まあ実際、老人の知る限り、双方が利用し合っているだけのようではあるが。

 

「長持ちせん脆弱な肉体に加え、契約する魂がそもそも無いというのは良いのだが――素体の魔術適性はどうなっている? 神と魔術戦など、余興にしては度が過ぎるぞ」

「そこも問題ない。先日、実際に所有しているクルーガー卿に実物を拝見させて頂いた。どうやら擬似的な魂の生成過程において素体の魔力が干渉しないよう、魔力の製造と循環を機能的に削除しているようだった」

 

 

 唐突に暴露されるクルーガー卿の性癖。

 だが、いささか特殊な趣味を持った気弱な金持ちでしかない卿にできることはないだろう。

 

 

「……それは重畳。しかしそれだけで万全となるお主ではあるまい。さらに罠のひとつやふたつ用意してあるのだろう?」

(しか)り」

「……それってさ、こっちが喚ぶ時に都合よく期限前の素体があるの? 金持ち向けの特注品って、製作ペースが年一(ねんいち)とかザラなんだけど」

 

 継ぎ接ぎだらけの歪な物体から女の声が飛んでくる。

 技術以外をすべて炉にくべた死職人(異常者)が仔細を問うたのだ。

 

「問題ない。卿と話し合った結果、既に納品日が確定している次回入荷分を譲って頂けることになった」

「そいつはご愁傷様。けど馬鹿力系の素体だったら、自力だけでも厄介かもよ?」

「それも杞憂だ。出荷される商品はすべて闇精霊をベースとした小児型で統一されているらしい。ああ確か黒髪なのは共通と仰っていたか」

「……お、おう。そうか」

 

 本人の与り知らぬ所でクルーガー卿の『凄み』が増した。

 

「他に何かある者は?」

「余は良いと思う。いや、むしろ面白い」

 

 予想通り外法(悪趣味)が賛成の声をあげた。

 

「変態御用達の性処理肉人形に神を降ろしてそのまま動力にしようなどと、そんなおまえ、控え目に言って最高じゃあないか。来るなと言われても余は見に行くぞ。必ずな」

「承知した。特等席を用意しよう」

 

 まあこういうのが大好きなこいつは、勝手にこちら側につくだろうとみていた。

 なら後は。

 

「……話が逸れているようなので、もう一度言う。不要な飽和の為に神を降ろすなど、無駄にリスクを抱えるだけの愚行だ」

「ヒルデガルド。お前は向こう(人間)を過小評価している。これは不要な飽和などではない。ここまでやって、ようやく勝利に手が掛かる。そう私は認識している」

 

 操り人形と事実上の魔王。

 どちらの言葉が、認識が、公の正解として扱われるかなど、考えるまでもなかった。

 

 

 その後、2、3の質問に魔王(ゲオルギウス)が滞りなく答えて。

 

 これといった問題もなく、実行日は決まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 唯一の出入り口である丸いドアは、最後尾にいた死職人(異常者)の入室を確認すると、音もなくその姿を消した。

 

「うおっ、なにこれなにこれ! え? 消えるの? なんで?」

 本日は戦闘用に組み換えた身体の死職人(異常者)が、消えたドア付近をぺたぺた触ると……音もなくドアが現れた。

「あ、見えなくなるだけなのね。いや、それでも十分凄いけど」

「はしゃぐでない。どうせこれから、何度も通ることになる」

 

 降神による皇魔城の起動実験当日。

 魔王(ゲオルギウス)と老人の案内で訪れた、闇が敷き詰められた広大な地下空間。

 通称、機関室。

 その入り口からすぐ先は光の届かぬ暗闇が続いており、遥か遠方に小さくぼんやりとした灯りが揺らめく以外、一切の光源はなかった。

 

「あの灯りに向かって進め。あれが目的地じゃ」

「声と足音の反響からして、ずいぶん広そうだけど……ダメだ。戦闘用に強化された暗視でも果てが見えない。ねえ爺様、ここってどれぐらいの広さなの?」

 

 放っておけばいつまでも喋り続けそうな死職人(異常者)へ、さらに燃料をくべるような真似はしたくなかったが……嘘は少ない方が良いかと、老人は開き直った。

 

「不明じゃ。わかっておらん。最初期に出した探索隊はいまだ未帰還。おそらくは『こちらで決める』のではないかと推測しておる」

「え? 意味わかんないんだけど」

「10回も来れば嫌でもわかる。今回はとにかく灯りに向かって進め。最低限の定義付けは魔王(ゲオルギウス)と済ませておる」

 

 案の定、矢継ぎ早に質問を繰り返してくる死職人(異常者)をいなしつつ、歩を進める。

 この真っ暗闇の中で、あれだけまぶしく照らし出しているのだ。迷いようもない。

 ……迷わなくなるまでに、どれだけの犠牲を払ったことか。

 

 

「ううむ。なんじゃこりゃあ? 禍々しいんだけはわかるが……」

 

 それを目の当たりにした当代の宿儺(すくな)が呻いた。

 

 魔術やそれ以外を十全に活用した、幾筋もの強烈な光線によって照らし出されたそれ。

 中心へ行くにつれ段々と面積が小さくなっていく多層型の立体構造物。

 俗にいうピラミッド。

 ただし全体が真っ黒で継ぎ目がなく、段によってサイズやスケールがまちまちで、さらには観測する度にその数値を変動させるという意味不明な代物だ。

 

「過去の文献に記されていた名はアルバコア。どこからどこまでが――ではなく、この漆黒の巨大四角錐全てを指してそう呼ぶそうだ」

 

 本日の主催者である魔王(ゲオルギウス)が得意げに答える。

 いかにもなローブを纏ったその姿は、魔王というより祭儀に臨む邪教の司祭か。

 

「たしか()()()()()()を繋ぐ心臓部やったか。そいつが在るいうこたぁ、地下に降りてきたつもりが、いつの間にやら皇魔城とやらの内に入っとったいうワケか?」

「然り。正確には、ここいら一帯の地下空間すべてが皇魔城の内部機構だ。起動した暁には周辺地理が大きく変わることだろう」

「そうなの? さっきこの部屋の全長は不明って」

「表に出た時点で確定する。ある程度の予測は出来ている」

 

 魔王(ゲオルギウス)の説明を聞きつつ各々がその後に続く。

 降神の場には13人全員が立ち会うことになった。

 結局の所、神を動力に利用するなどという前代未聞の企てに興味を惹かれぬ者など居なかったのだ。

 その場に居合わせる危険性についての言及もあったが「この面子が揃っている場所より安全な所がどこにある?」という当然の事実確認の前には、さして意味を成さなかった。

 

「観測次第で変動する、ねえ……。うん。凄いね、この空間。魔力とは似て非なる何かで満ちている。濃密で、どろりとしていて、けど決して不快じゃない何かで」

 

 死職人(異常者)が、ちらと小娘(ヒルデガルド)を見やる。

 

「……私たちの間ではただ単に『闇』と呼ばれている。貴方も聞いたことがあるでしょ。技術屋がいう所の『宵を覆うカーテン』『夜の猫』よ」

「そりゃ知ってるけどさあ。ここまで濃くなっちゃうと、これもう別物だよね。摘めそう。キミなら摘めたりする?」

 試すような、探るような声。

「……馬鹿言わないで。自然現象をどうやって摘めというのよ。魔力を濾過するフィルターとして使うのが精々よ」

 

 闇との親和性が極めて高い闇精霊。

 かつての王の血統。

 邪神の登場により他のレベルが劇的に引き上げられたことで、相対的にその価値を下げた一族。

 彼奴等が弱くなったのではない。

 他が強くなりすぎたのだ。

 

「そういったモンにはとんと疎いわしからすると、そいでも十分に凄ぉ思えるがなぁ」

「ハハ。技と力で空間斬れるスクナが言ってもなぁ。あ、そうだ、この黒いの、端っこでいいから斬ってみてよ。中身気にならない? あの斬撃重ねるヤツならいけそうじゃない?」

「魔王閣下にどやされるか、愛刀が駄目んなるか。……自分でせい」

「だよねー」

 

 逆にその価値を最も上げたのは多腕(アスラ)の彼奴等だ。

 邪神降臨前までは『四つ腕』と蔑称で呼ばれる蛮族であったが、かの邪神が『飛騨の宿儺』と呼び重用したことで飛躍的にその地位を押し上げた。

 

 しかしまあ、結果を知る今からすれば、必然ともいえる。

 

 身体が大きく四本の腕を自在に操る連中を鍛え上げ武具を持たせ用兵を仕込めば、それは強くなるに決まっている。

 知識と金と政治力以外は最初から全て持っていた連中だったのだ。

 その立身の逸話から、今でも一族を代表する英雄には『宿儺(すくな)』の名が最高の栄誉として与えられている。

 

 

「その棺の中に器がある。興味があるなら見てみるといい」

 

 

 魔王(ゲオルギウス)の言葉につられ、通り過ぎがてら中を見ると……黒髪の貧相な子供が横たわっていた。

 見た目は闇精霊の女児。つまり人間と同じ。

 血の気はあるが生気はない。呼吸はしているが、それだけ。なぜだかわかる。生きてはいないと。

 

「……これは」

 

 ただその顔は、どう見ても小娘(ヒルデガルド)に酷似していた。

 

 まったく同じという訳ではない。しかし他人というには類似点が多すぎる。とするとこれは――老人は瑣末な疑問を切り捨てる。

 魔女(ローゼガルド)が如何様な歪みを抱えていようが、心底どうでも良かったからだ。

 

「なんで裸なの? 何か着せなくていいの?」

「考えてみると良い。死職人(キミ)が見知らぬ場所で目覚めた時、衣服を着ている場合とそうでない場合、どちらがより平常心を保てぬかを」

「……あー、そういう地味なローキックをサボらない姿勢、見習いたいと思う」

「それだけではない。先に説明した通り、頂の玉座部に固定する方法に概念癒着を用いるからな。衣服は邪魔だ」

「……で、わけのわからんウチに、自動的にアルバコアへ接続完了してお終いと」

「最短で600秒。最長で1200秒前後とみている」

 

 そう。これこそ魔王(ゲオルギウス)が用意した最悪の罠。

 

 ピラミッドの頂上玉座それ自体が、アルバコアの燃料補給口なのである。

 誰が手を加えるでもなく、最初からこの形だった事から……設計思想からして、そのロクでもなさが窺える。

 生贄で動く超大型兵器。まさに皇魔城という名に相応しき禍々しさだ。

 

「これってさ、わざわざ閣下が対面する必要ある? どっか遠くから吸われるの見てたら?」

 

 降ろした時点で既に物理接続は完了している。正確には、接続した器に降ろす。

 つまり、始まった時点で罠は完成しているのだ。

 

「否。向こうにも切り札のひとつやふたつはあるだろう。それが肉体の性能に依存しなかった場合、少々厄介な事になる。だから残り少ない時間を浪費させる。何もさせん。たとえしたところで、手が届く距離に居る私が直々に叩き潰す」

「……怖いひと」

 

 器とアルバコアを繋ぐは魔王(ゲオルギウス)が繰る概念レベルの癒着という魔の絶技。

 破るには純粋な魔力の出力で押し切るしかない。

 しかし現状、魔王(ゲオルギウス)を上回る魔力量保有者など、魔術公の名を冠する老人ですら見た事がない。

 さらに用意した器は一切の魔力を扱えない特注品。

 故に破れない。破れる筋道がない。玉座から離れられず居座り続けるしかない。

 万が一に備え、最強の番人が至近に控えているおまけ付で。

 

 ならあとはアルバコアを起動させ『中身』が吸い取られるのを待つのみ。

 

 ちなみに、これまで3度行った起動実験では、およそ20~40秒後には対象は吸い尽くされ灰になった。

 老人から見ても中々の魔力保有量を誇る術士や魔獣だったが……起動はおろか、微かな反応すら引き出すことができなかった。つまりは、微塵の足しにもならなかったのだ。

 故にこうして降神などという理外の方法に行きついたのだが……。

 

 本番を間近に控え、にわかに湧き上がる不安を踏み潰そうと老人は各々に指示を出す。

 場所としてはピラミッドの中腹あたり。頂上玉座からは見えぬ箇所へ、歪な構造を活かすように死角へと配置して行く。

 お前はそこ、お主はここ、そして貴様は――。

 もしもの場合、すぐさま殺れるように、過不足無く配置して、

 

「おい、こんな真後ろでは背もたれしか見えぬではないか。余は見物に来たのだぞ。爺の顔を立てて隠れてはやる。だが見えぬのは絶対に駄目だ」

 背面に配置した外法(悪趣味)が正面側に回って来る。同じく他の背面側の面子も正面へと場所を移す。老人と彼奴等は対等だ。命令を下す権利も従う義務もない。口惜しいが、ここいらが限度だろう。

 

「なあこれ、隠れたり武装したりする必要あるか?」

 一族に伝わる宝剣を撫でながら、蜥蜴がぼやいた。

 

「相手は仮にも神とうたわれる存在。臆病ぐらいで丁度いい」

 幾多もの戦場を共に駆けた戦斧を背負う獣が諌める。

 

「ま、言わんとしとる事はわかるがの。この器、何度確認しても魔力を生成する機能が存在せん。出来る事といえば、この細っこい枯れ木のような腕で殴るのが精々じゃろうて」

 器をアルバコア頂上の玉座に固定しながら、女王にして呪術の大家である蛇が最終確認をしている。

 

「汝らは理解しておらんのか。此度の意義は、崇高とされる存在の陵辱にこそある事を」

 外法(悪趣味)は変わらず無手のまま。もっと見え難い位置に移動しろと立ち位置の調整をする。

 

「じゃ、俺は良い感じの場所で」

 無法者の星(アウトロースター)が何もない空間を駆け上がり、闇の中へとその姿を消す。おそらくは狙撃に最適なポイントへ移動したのだろう。

 

「おいキッドマン! 何度も言うが、好き勝手に撃ってくれるなよ。下に居る誰かが攻撃を『当てる』までは待機だ。脅しでわざと外す一撃を放つ事があるやも知れん。彼奴が動かなければ事は成るのだ。如何に殺し易いとはいえ、本当に殺しては計画が水泡と帰す。わかっておるな?」

「あー、はいはい。わかってますよ爺さま。俺はオーダー以外の仕事はしないよ。誰かが当てるまでは見てる。了解了解」

 

 これは魔王(ゲオルギウス)の術が破られた時の保険だ。

 彼奴が玉座から動き、逃亡しようとした際の足止め。あるいは仕留める事による強制中断。

 

 わかってはいる。理屈の上では絶対にそんなことにはならない。

 だが稀に、現実は理屈を飛び越える。

 それを知るからこそ老人は、これが無駄に終わるようにと望みながらも備えるのだ。

 

「どうだね女王? その玉座に、なにか気になる点でも?」

「いいや、無い。文句のつけようが無い」

「宜しい。ならば――始めようか」

 

 

 

 そうして、すべての準備が整った。

 

 

 

 今宵昔話は、兵器の燃料として使い捨てられる。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

1.1 よくやった

 

 

「降臨せよ! 今此処に! 彼の再来は! 今此処に!」

 

 

 魔王(ゲオルギウス)による詠唱が終わる。

 しびれるような大声の残響がゆっくりと消え行く。

 さあ何が起きるのか――いや、どんなものがやってくるのかと、場の期待がにわかに高まり、誰もが開幕を待ち望む。

 歪なピラミッドもどきの中腹あたりで、上から見えぬよう片膝立ちに隠れている為、直接玉座を見ることはできない。

 それがまた想像をかきたて、ある種の演出のような作用をもたらす。

 

 5秒。

 10秒。

 30秒。

 

 失伝した外法とされる召喚術など早々お目にかかれるものではない。

 なので、これがこうなれば良で、こうなら駄目、という判断基準がわからない。

 目の前の静寂がどういった意味を持つのか。良しなのか、悪しなのか。

 

「おいクラプトン。これはどういった状況か?」

 

 なので老人は、その答えを知っているであろう外法(専門家)に尋ねた。

 

「……わからん。ただ前回――テトラブロックの際は、もっとこう暴風が吹き荒れ、すべてが乱れた。魔力も、空気も、虫も、血も、糞尿も。何もかもが」

 

 予想外のまともな返答に思わず隣を振り向くと、外法(クラプトン)は身を低くしたまま『眼』を飛ばしていた。

 比喩ではない。

 己の右眼球を抉り、2分割したそれを上空へと浮かべていたのだ。……おそらくは即席の物見だろう。

 

「こちらにも見えるように出来るか?」

 

 こいつの行動に驚いていてはキリがない。老人はもうその域にはない。

 

「……爺。貴様のその厚かましさだけは、余も見習うべきか」

 

 いって外法(クラプトン)は目の前の黒壁に手印を切る。

 すると2つの窓が開き、それぞれが見た光景が映し出された。

 プライドの高い彼は『出来るか』と問われ『出来ぬ』と返すことはない。

 存外、扱い易い男なのだ。

 

「ふむ。これは……失敗、なのか? あの魔王(ゲオルギウス)が」

 周囲はもちろん、器にも動きはなし。虚ろに脱力したままだ。

「或いは、微塵の揺らぎも起きぬほど完璧に成功したか」

 こうして眼まで抉っているのだ。後者の確信があるに違いない。などと老人が考えている内に外法(クラプトン)の右目は再生していた。

 

「この術、毎回眼球を使い潰すのか?」

「いいや。本来は使い魔や水晶を使う。ただ今回は……(かゆ)かったのだ」

 

 会話はできても相互理解はできない。いつも通りの外法(クラプトン)だ。

 

 

 そこで唐突に、むせた。

 これまでただ玉座に設置されているだけだった器が、けほけほとむせた。見た目通りの、幼子特有のどこか音階の高い咳だ。

 そうしてひとしきり咳を出し切った後……ゆっくりとその目蓋が開かれようとする。

 魔王(ゲオルギウス)が片膝をつく。

 すでに罠は閉じている。何をしなくとも事は成る。

 つまりは、時間稼ぎの始まりだ。

 

 

「おはよう御座います。宵の昏星。温かい泥。お目にかかれて恐悦至極に――」

 

 

 長々とゆったりとした口上を述べている間に40秒が経過した。

 召喚の詠唱が終わると同時に魔王(ゲオルギウス)はアルバコアを起動させている。

 つまり、この時点で灰になっていないという事は、今玉座に座すあれは前回までの猛者(いけにえ)たちよりも強靭だという証左に他ならない。

 ならない筈、なのだが……。

 

 それにしては、あまりにも、何も感じない。

 

 如何に無力な器だろうと、そこへ押し込められる『中身』は力に満ちているというのが計画の大前提だ。 

 しかし、こうして実際に降ろした今、頂の玉座からは……全く、微塵も、何も感じられないのだ。

 失敗例のひとつとして、押し込んだ時点で器が耐えきれず自壊する可能性も危惧していた。

 だが現実には。

 溢れ出る膨大な魔力も。

 消え行く生贄の生命のゆらぎも。

 強大な理外の何かが降臨したという圧迫感も。

 異様な存在が必ず持つ、本能に訴えかける恐怖に似た危機感も。

 何ひとつないのだ。

 果たして……邪神と呼ばれる埒外の存在が、今本当に玉座(あそこ)に居るのだろうか。

 

 

「――まずはご安心を。ここには貴方様の敵はおりませぬ」

 

 

 最大の敵(ゲオルギウス)が喜劇のような台詞を吐く。隣の外法(クラプトン)が堪らず吹き出すことで窓の視界がぶれる。即席の分際で、不意の反射にすら連動する精度の高さ。これだからこいつは侮れない。

 

「…………」

 

 玉座から返答はなし。構わない。時間はこちらの味方だ。

 

「私は貴方様の味方です。……いえ、味方などと畏れ多い。(しもべ)とご理解いただければ」

 

 長い沈黙の後、不意に玉座の器が立ち上がろうとして――できなかった。

 

 魔王(ゲオルギウス)の拘束は有効。

 この事実に老人は安堵する。

 

 

「――で? 用件は何だ?」

 

 

 そこで初めて器が喋った。

 外見に違わず子供の声だ。

 しかし、気付けば裸で拘束されていたというのにも関わらず、慌てるでもなくこちらの目的を問うて来るその態度は――間違っても幼子のそれではなかった。

 老人は確信する。

 色々と腑に落ちない点はあるものの、器に『何か』を降ろすことには成功している、と。

 

「用件、などと仰って下さいますな。宿願にございます。貴方様の。我々の」

「答える気はないと」

 

 もう向こうは拘束されていることに気がついている。

 魔王(ゲオルギウス)の丁重な態度が上辺だけだと理解している。

 

「これは失敬をば。抽象を語るは我が悪癖にて。何卒ご容赦を」

「ふうん。……それで?」

 

 だというのに、暢気に話を続けているこいつは馬鹿なのだろうか。

 あるいは……そう思わせるが術中か。

 

 疑心に駆られた老人が些細な変化も見逃すまいと眼を細めたところで、

 

 足元が揺れた。

 横にではない。縦にだ。

 最初に大きくひとつ。続いて1秒に2回のペースで規則正しく正確に。微弱ながらも下から突き上げるような脈拍じみた振動が、継続的に足の裏を叩き続けている。

 

 これは……起動したアルバコアが次の状態に移行したと見るべきだろう。

 

「クラプトン。お主は玉座から、何らかの力を感じとれるか?」

「いいや。何も」

「ならば備えよ。次に動きがあらば」

「うろたえるな爺。予定通りではないか。あれは動力としての役割をきちんと果たしている。違うか?」

 

 違わない。その通りだ。現に動いている以上、何らかの動力が供給されているのは間違いあるまい。だから問題はそこではない。問題なのは、脅威と認識すべきなのは。

 

 その動力を、こちらが欠片も認識できていない事実だ。

 

 老人からして大したものだと認めざるを得ないほどの魔力量を誇った生贄どもが、その全てを捧げても反応ひとつ引き出せなかったアルバコアから、こうも露骨な反応を引き出す超出力の正体が全く不明だというのは――どう考えてもまずい。

 

 しかし他の連中の様子を見ても、誰も彼も危機感のない様子で、まるで見世物でも眺めるかのようにただ成り行きを見守っているのみなのだ。

 

 響き渡る魔王(ゲオルギウス)の無意味な演説。

 時計の砂は落ち続ける。誰に対しても平等に。

 

 最初老人は、時間は味方だと考えていた。

 しかし、今は少し違う。

 味方だとして、それは果たして、どちらの。

 万全の準備を整えていたこちらか。目覚めたばかりのあちらか。

 

 すべてを台無しにする覚悟と共に、老人が一歩踏み出そうとしたその時。

 

 

 異次元の魔力を感知した。

 量、極めて膨大。

 質、不明。

 

 

 生物としての本能が、なかば強制的に発生源へと注意を向ける。見ろ。眼を逸らすな。注視してすぐさま命を守る行動に移れと、危機感が首を引っ張る。

 

 その先にいたのは小娘(ヒルデガルド)

 アルバコアの中心にある、頂上玉座までの階段部に向けて掌をかざし――誰もいない無人のそこへ、老人ですらはっきりと判別できない『何らかの攻撃手段』を射出していた。

 

 飛翔する弾頭のような性質からして、おそらくは魔力と何かの混合物。

 集束点に殺到するように、何の前触れもなく5方向同時に射出されたことから、現状で瞬時に形成に使用できる要素――空間に満ちている『闇』と断定。

 ここで舌打ちひとつ。

 なにが『魔力を濾過するフィルターとして使うのが精々』だ。

 十全に使いこなしているではないか。

 

 思考と同速で身体が動く。

 

 おおよその魔力量と密度と長年のカンから『あれが成れば己の死すらもあり得る』と判断。

 直撃はせずとも着弾の余波だけで、十二分に致命傷となるだけの威力が認められた。

 

 おそらく基点周囲4名は助からぬ。

 

 瞬時に出た被害予測から、それらの障害物(被害者)を防護壁の一部と考え、あらかじめ仕込んでおいた『甲羅』の安全装置(セーフティ)を解除する。

 そうしていざ起動させようと――吐いた息が止まる。

 

 何の前触れもなく唐突に、全てが消失していた。

 

 

「…………は?」

 

 

 わけがわからない。

 死を覚悟するレベルの攻撃が、一切の余波や残響を残すことなく、瞬時に消失。

 現実的にあり得るとすれば、

 

「………幻術の類、だったのか?」

「いいや、違うとも。射線上にあった余の『眼』が全て轢き潰された。あれは現実に『在った』ことだとも」

 

 何がおかしいのか、半笑いの外法(クラプトン)の声が耳に障る。

 時計の砂は落ち続ける。

 

「お望みとあらばお答えしましょうぞ、我が主よ!」

 

 今の騒動を察知しているであろう魔王(ゲオルギウス)が、構わず演説を続けた。

 まあ妥当ではある。今の攻撃はヒルデガルドによるものであり、現状器は何もしていないし出来ていない。当初の予定は何ひとつ崩れてはいない。

 ただ、魔女(ローゼガルド)の人形でしかないと思っていた小娘(ヒルデガルド)が、実は己をも殺し得る力を隠していた事実が明らかになっただけだ。

 

「はてさて、ヒルデガルド嬢は一体『何』を狙ったのであろうな? 実は『闇』を攻撃に転用できるなどという極上の伏せ札を晒してまで、一体『何』を討とうとしたのであろうなぁ? そしてそれを完全に無効化せしめた『恐るべき何か』は、一体どこの誰なのだろうなあ!」

 

 げらげらと笑う外法(クラプトン)が、己が秘儀を開陳する。

 こいつはもうやる気だ。ただしたくなったからする。これはこういう生物だ。

 

「知れた事。玉座におるあやつよ」

 動機は違えどすることは同じ。

 なので老人は止めるでもなく、共に段差を飛び上がった。

 

 

 

 そこで、眼が合った。

 

 

 

 何故かこちらを振り返っていた魔王(ゲオルギウス)と、真正面から眼が合った。

 最初は『余計な事をするな』という無言の牽制かとも思ったが、すぐに違うと気付く。

 

 魔王(ゲオルギウス)の顔は驚愕に歪んでいた。

 この男がこんな顔をするのは見た事がなかった。よもや見る機会があろうとは考えもしなかった。

 

 そして驚愕を張り付けたままの魔王(ゲオルギウス)が、まとわりつく虫を払うような仕草で黒波の一撃を放つ。待てと思うがそんな暇はない。直進する老人と外法(クラプトン)を迎え撃ち呑みこまんとするそれを、

 

「ぬおおおおおお!」

 

 受け身も考えず身を投げ出し、とにかくかわす。何せ魔王の一撃だ。受ける事を考えてはいけない。

 

「あ、あああああ!」

 

 階段方面に飛んだ外法(クラプトン)が勢いのまま転がり落ちて行く。

 気にせず立ち上がった老人は、そこからしばらくの間、ただ突っ立つだけの木偶と化してしまう。

 何が起こっているのか、わからなかったのだ。

 ほんとうに、ほんとうにわからなかったのだ。

 だから何をしたらいいのか……ぽっかりと空白が生まれてしまったのだ。

 

 

 

「……キ、キサマ、ナニをし」

 

 魔王(ゲオルギウス)の体が折り畳まれる。

 武の極地にある獣と真正面から打ち合い、あまつさえ勝利せしめるその破格の肉体が。

 何も異常など見当たらないというのに、勝手に、自動的に折れ曲がりへし折れ飛び出し。

 そんな風には出来ていないのだから、当然あちこち台無しにしつつ。

 小さく、小さく、圧縮されていく。

 

「キィエエエエエエエェェェグッ!」

 

 そうしてついにその頭部が。

 おおよそ全ての魔術に最上の適性をみせ、魔術公の名を冠する老人をも凌駕する魔力量と才覚を有し、さらには他を統べるに必要な知識と経験を過不足なく備えたその根源が。

 そのまま巻き込まれ、潰れた。

 

 折り畳まれて四角くなった『それ』が、さらに薄く切り分けられていく。

 切断はしない。根元で繋がったまま、ただただ薄く切り分けられていく。

 

 死ぬのはわかる。

 いつか死ぬ。いつか絶対に死ぬ。

 だがこれはわからない。

 こうはならない。なるまい。なってたまるか。

 

 一連の過程で削ぎ落とされた臓物の海に『それ』が落ちる。

 まるでもがき苦しむかのように血の海を這い回ると、いつしか『それ』はどす黒い赤色に染まっていた。

 

 そこでようやく老人は『それ』が何の形を模しているのかに気付いた。

 生物の肉で『それ』をつくる発想の気色悪さに、純粋な嫌悪を覚える。

 理解不能の海に、一粒だけ見慣れたモノを混ぜる手法に吐き気がする。

 

 表紙の上にぼちゃり、と脈打つ心臓が落ち、染み込むように沈んでいく。

 その様から、あれはまだ生きているのかもしれないという、最上級におぞましい事実が読み取れてしまった。

 

 本。

 本だ。

 魔王(ゲオルギウス)が本にされた。

 それでもまだ、きっと、生きている。

 いや、生かされている。

 

 かつて行われた獣との一騎討ちの際、心臓を貫かれても大笑していたあの魔王(ゲオルギウス)が。

 どうやったら殺せるのか、いまだ誰も答えを出せていないあの不死身の魔王(ゲオルギウス)が。

 

 

 あの様で、生かされて、いるのだ。

 

 

 本が、飛ぶ。

 玉座へ向かい飛んで行き、まるで当然のように手に収まる。

 そうしてぱらりと表紙が捲くられ読書が始まる。

 痛くなるような沈黙の中、頁を捲くる音だけが響く。

 

 何をしている? 何が起こっている?

 息を吸っているのに苦しい。

 息を吐いているはずなのに下腹が膨らむ。

 そこでようやく老人は、自分が満足に呼吸すら出来ていないことに気付いた。

 嫌でも自覚する。

 鼻の先までどっぷりと恐怖に呑まれていた。

 

 しかし、そうして余人が恐怖にすくむ傍らで、何よりも早く行動に移る者がいた。

 

 俊英。英傑。勇者。

 誰よりもその称号に相応しき最高の戦士たる『獣』である。

 

 ばん。

 

 と力強く地を蹴る音に全ての木偶の眼が引き寄せられる。

 獣がいた中腹から一気に頂上玉座より高くまで飛び上がる図抜けた跳躍。

 躍動する全身を完璧に制御し、全質量を十全に乗せ振り下ろす戦斧へと込める技量。

 

 その美しさすら感じさせる一連の光景に、恐れを知らぬ覇気に満ちた精神に、こいつには敵わない、と心底から納得させられてしまう。

 魔王(ゲオルギウス)にこそ一歩譲れど、やはり獣は別格である。ものが違う。

 

 それは、この場に居る全員の総意であり、混乱と動揺が支配する今となっては、ある種のよすがですらあった。

 

 器が本から顔を上げる。

 遅い。今さらもう何をしても間に合うものか。

 

 獣の戦斧が玉座ごと器を打ち砕かんと、

 す、と読んでいた本が差し出される。

 振り下ろされる戦斧と、小さな子供の頭部との間に、本が挟まれる。

 馬鹿げている。防御と呼ぶことすらおこがましい。

 そんな、ただ怯えて咄嗟に手を突き出しただけにしか見えない動きだというのに。

 

 本を斬り裂く半ばで、獣の全てが停止した。

 

 

「ギィィエエエエエエエエエエエエエエエエエェェェ!」

 

 

 聞き慣れない、というより初めて聞く魔王(ゲオルギウス)の絶叫が響き渡る。

 吐き気を催す、実にあ奴らしい、ドブのような魔力が爆散する。

 反撃だ。あれはきっと魔王(ゲオルギウス)の最後の一撃だ。

 ただその向かう先は。

 

 

「……たわけ。相手が違うぞ、ゲオル」

 

 

 静かで落ち着いた獣の声はそこで途切れた。

 当然だ。

 灰になった頭部が崩れ落ちてしまえば、続きなど言えよう筈もない。

 同じように、赤黒い本もまた、白い灰となり散って行く。

 そこから先は一瞬だった。

 残された獣の巨体が全て灰となり飛散する。

 おかげで辺り一面は白くけぶり、ろくに見えやしない。

 

 がしかし、知っている。老人は知っている。見覚えがある。

 この白い灰となって散る様を知っているし見た事がある。

 かつて行われた3度のアルバコア起動実験。

 その被験者の末路と、寸分違わず同じなのである。

 

 つまりあの2人は、魔王(ゲオルギウス)とそれに次ぐ獣は、余すことなくその全てをアルバコアに吸い尽くされたということになる。

 

 だが何故。

 

 当然ながら、あの2人は頂上玉座に接続などしていない。

 度重なる検証の結果、雑に命を奪ったところで無意味であり、所定の場所に接続しなければ『補充』には至らないと結論は出ている。

 

 なのにどうして今2人は生贄たちと同じ末路を迎えたのか。

 前3回と此度の違いは何か。

 

 答えはすぐ出る。

 アルバコアの完全起動による機能の強化。

 図らずも検証は済んでしまった。

 今ここで死ねば、動力として根こそぎ吸われる。

 

 

「おい爺。何を呆けておるか。煙幕が晴れる前にやるぞ」

 外法(クラプトン)の一言で現実に引き戻される。

 いつの間に戻って来たのか、という言葉を呑み込み、要るものだけを返す。

「あいわかった。背後は任せよ」

 お前が盾になれ。

「余の防御の薄さを知っての狼藉か。貴様の『盾』は破れまい」

 いやお前がなれ。

「破れたともさ。魔王(ゲオルギウス)には」

「それはさぞ腕が鳴ろう。しかと見届けようぞ」

 などと言外に押し付けあっていると、老人のすぐ手前に着弾した。

 

 小刀ほどの大きさの何かが、僅かな風切り音と共に突き刺さった。

 

 予備動作、魔力反応ともに一切なし。

 残留物からその正体を探ろうにも、着弾したと同時に霧散。

 だがちらりと目に映った黒い何かは、つい先ほど小娘(ヒルデガルド)が見せたものに酷似していた。

 

「盾で防げ。余が撃ち抜く」

 

 無駄口を叩く暇が惜しい。一歩前へ出た老人が既に励起状態だった『甲羅』を展開する。

 

「違う。皆を回収だ。数の利をくれてやるな!」

 

 つい先ほど小娘(ヒルデガルド)が見せたものに酷似している時点で、十中八九『闇』を用いた攻撃だ。しかし今回は魔力反応なし。つまりは混ぜ物が一切なしのそれが、今も其処彼処に溢れ返っているあれら全てが、そのまま攻撃手段足り得るのだ。……足り得てしまうのだ。

 

 それを理解した老人は、視界の上方が()()()時点で攻撃を諦めた。

 

 一息遅れて理解した外法(クラプトン)が各人に手を伸ばす。

 果ての見えない天井から、病的な数の黒い何かが降り注ぐ。

 

 仕掛けようとした鼻先。心と身体の重心が前方へとつんのめった刹那。

 回避が出来ないのではなく、しようと思っていないから、起こらない。

 

 高速で伸びる『無数の白い手』の意図に気付いた何名かは自らそれを掴み、気付きつつも他の助けを恥と断じた幾名かは振り払った。

 

 引き寄せられる。

 

 手を取った者たちが範囲内に入ったのを確認した老人は、全てを遮断すべく『甲羅』を閉じた。わだかまる恐怖が後押しとなり、此処に理想的な断絶を成し遂げる。

 回収したのは5名。外に残るを選んだのは3名。

 

「あっぶなー。前フリとか一切なしであれかよー。あ、これブツね」

 どさくさに紛れくすねたのか、死職人(異常者)がぽいと黒い杭を投げ捨てる。地に溶けるようにして消滅。次いで、杭を掴んでいた腕と思しき部位を切断、地に落ちたそれをじっと観察する。 

「腐食加工ごと掴んだ部分の肉が根こそぎダメになってる。女王、これって呪?」

「そうさな。つい先ほどヒルデガルドが見せてくれた『アレ』と酷似した呪じゃな」

「……混ぜ物がない分、こっちの方が高純度よ。それをこうも軽々しく連発されると、嫌になるわ本当」

「……貴様は無関係だと?」

「あのね邪眼王。先週、うちの城下で刀を使った殺人事件があったの。犯人はアナタの関係者かしら? 無意味な問いで時間を浪費する前に、生き延びる方法を出しなさい」

「よく言った。吐いた唾は飲めぬぞ」

「順番じゃ。まずはアレ。後ぁ好きに殺り合え」

 宿儺(すくな)の正論が場を戻す。

「キッドマンの狙撃は期待できるかしら?」

「ダメだろうねー。引っ張られてる間に暗視倍率最大でぐるっと見渡したんだけどさ、視認できる範囲全部に『黒い杭』が降ってた。射程圏内に居ただろうから、どうしようもないさ」

 

 外法(クラプトン)の手を払った3人については誰も触れなかった。

 死職人(異常者)の戦闘用躯体が物理的にも魔術的にも最高峰の耐久度を誇っているのは周知の事実だ。

 それが触れただけで駄目になるものが雨と降り注いでいるのだから、もはや論じるまでもなかった。

 

「――ふは」

 

 そこで周囲の景色に変化があった。

 甲羅の内側からは外の様子が良く見える。

 これまで、土砂降りの雨のような黒杭がぶつかり砕けるのみだった所に、大きな黒い何かが叩きつけられる、という攻撃が追加されたのだ。

 

「ふはは! なるほど! 次は余というわけか! 己の手の内を見せる必要などなく、こちらの物真似だけで十分だと!」

 

 それは先ほど外法(クラプトン)が皆を引き寄せた『手』だった。

 色こそ白から黒へと変わっているが、それが甲羅を取り囲み、張り手やら拳打やらで絶え間なく叩き続けているのだ。

 

「気に入らねェな」

 邪眼王のつぶやきに、老人は危うさを覚える。

「あの野郎『脅し』に入ってやがる。破れねえってわかってんだろうに、わかりやすくぶん殴ってこっちをビビらせにきてやがる。気に入らねェ。腹の底から気に入らねェ……!」

 老人としては逆だった。歓迎すべき余分だった。

 脅しをかける、などという迂遠な回り道は、もはや理屈抜きで殺りに行くつもりの老人からすれば隙でしかない。

 それを素直に喜べない邪眼王に、ひとつ苦言でも呈そうとしたところで。

 

 唐突に、全ての攻撃が止んだ。

 そして。

 

 

「なあ、ここらで止めにせんか?」

 

 

 落ち着いた子供の声が、静まり返った闇に溶けた。

 その内容は咀嚼するまでもない。

 

「……ね、爺様。これってアリかな?」

「このまま続けるよりかは、余程」

 

 当たり前の話だが、老人は戦士と呼ばれる類の人種ではない。

 研究者。或いは統治者あたりが適切だろうか。

 つまり、目的を果たす為なら、大抵の毒は笑って飲み干せるのだ。

 

 

「お前らが何をしようとしていたかは知っている。だが、それを考えたやつはもう消えた」

 

 

 消した、ではなく『消えた』という。

 角を取る言葉選び。確かに交渉の意思が感じ取れる。

 

「私は魔術公に一任するわ」

「当初の目的は、もう破綻しちゃってるしねー」

「どうでもええ。なんぞ捏ねた所で、生くるか死ぬるか、どっちかじゃ」

「……」

 明確な反対や徹底抗戦の声はない。

 

 

「なら、それでいい。付き添い連中までどうこうするつもりはない」

 

 

 何より切実な事情として『甲羅』の展開時間には制限があった。

 だが老人には、秘奥が一つの弱点を喧伝するつもりなどない。

 

 

「もう一度いう。ここらで止めにしないか?」

 

 

 老人の心は決まった。

 なら後はどう事を運ぶか――と考えるよりも早く『甲羅』の外へと進む背が目に入った。

 

「開けろ、爺。俺が行く」

「待て邪眼王。お主は交渉事には向いておらん」

 

 返事は刀による一閃だった。

 音もなく『甲羅』が消え去る。

 ほぼ無敵と自負している『甲羅』のもう一つの弱点『内からはひどく脆い』が暴露されてしまった。

「貴様! 勝手な真似を」

「――――」

 制止しようとした老人の声に被せるようにして、邪眼王が何かをいった。

 老人には聞き取れない、しかし力に満ちた言葉だった。

 

「――――」

 素早く流れるような所作で納刀した邪眼王が、どこか妙な歩幅と足踏みを交えつつ、ゆったりと歩を進めながら続きを紡ぐ。

 音は聞こえるが意味は入って来ない言葉の羅列。

 だが魔術公と評される老人には見当がついていた。

 これは何らかの詠唱であり、しかし魔導百般に通じた己ですら未知のもの――おそらくは、彼の一族が秘奥にあたる何か。

 

 

「――――」

 

 

 それが今、開かれた。

 

 闇が敷き詰められた広大な地下空間。

 それがぽろぽろと()()()()()()いく。

 徐々にではなく全箇所同時進行で、一息に剥がれ落ちていく。

 落ちた裏から出てきたそれが、新たな表面と成り代わる。

 上は青空に。下は土に。横は広大な屋敷の縁側に。

 地下空間のすべてが、まったく別のものへと成り代わる。

 

 そうして瞬きを終える頃には。

 暗闇に満ちていた地下空間は、晴れた昼下がりの庭先になっていた。

 風が頬を撫で、鳥の囀りが耳朶をくすぐる。

 日差しが目を焼き、かすかな木の香りが鼻をつく。

 慌てて老人は辺りを見渡す。

 そこにあるのは青い空。四方から押し寄せるようなただただ広大な快晴の蒼。

 どこにも闇などありはしない。

 

「ほほう」

 

 この現象自体に、さほど驚きはない。

 規模こそ大きいが、先程まで老人が展開していた『甲羅』と原理は同じだ。

 界の遮断による(のり)の占有。

 自身の魔力か、外付けの何かを用いるか。その差が最たるものか。

 この景色を見るに、以前いった『下賜された庭』というのはこれの事なのだろう。

 概念の継承による魔力と手順の大幅カット。邪眼の一族がかの邪神より賜った無形の黄金。

 

 邪眼王(クソガキ)め、存外やりおる。

 老人は率直に賛辞を送る。

 躊躇う事なく鬼札を切ったことで。

 魔力はなく、ただ闇のみを武器としていた『あれ』から、唯一の武器を取り上げることに成功したのだ。

 

 もはや『あれ』に出来ることなどない。

 とは思いつつも、念には念をと老人も動き出そうとした所に、

 

 

「――下ァにィィィ!!」

 

 

 邪眼王の大音声が響き渡った。

 

 瞬間、踏み出そうと上げた足よりも早く老人の額が地に叩きつけられた。

 全体重をかけた頭部への衝撃は、鈍器で殴られると同等のダメージを老人に与える。

 激痛と脳震盪で使い物にならない『第一』を閉じ、主幹機能を『第二』へと移行させる。

 そうしてすぐさま起き上がろうとした所で、一切の身動きが取れない事を悟る。

 身体の機能は生きている。

 脳髄とのラインも健在。

 しかし魔術行使は不可。

 やり方はわかるのだが『どうしたら良いのか』がわからない。

 膝を折り畳み、両手と額を地につけた体勢からの動き方がわからない。

 出来ない。許されない。

 平伏する以外の一切を許さない。

 

 おそらくはこれが、彼奴の敷く(のり)

 絶対者の侍従だった頃に刻まれた、代々継承される魂の轍。

 かつての栄華の、限定的な再現。

 それを、こうも惜しげもなく披露したのは……もしかしたら、先程の小娘(ヒルデガルド)に対する意趣返しもあったのかも知れない。

 

「平伏せぬか」

 

 垂れた頭に邪眼王の声が降り注ぐ。

 いささか屈辱的ではあったが、この程度、老人からすれば毒とも呼べぬ些事だ。

 

「ふむ。成程」

 

 こつこつと、ピラミッドの階段を上る足音が続く。

 それ以外の物音が一切ないことから、他の皆も同じ状態にあるらしい。

 いや邪眼王の言葉によると、玉座の『あれ』は例外のようだが。

 

「しかし動けぬか」

 

 なら悠長に歩かずさっさと走り寄って斬れ。

 そう叫ぼうとしたが声にはならない。相変わらず、平伏する以外は許されない。則に反することはできない。我も彼も彼女も。……ともすると、彼奴自身も。

 

 もしこれが『かつての栄華の再現』なのだとしたら、絶対者側の行動には王者の余裕が求められる。それが足枷となっている可能性も……あり得る。

 

 そして大方において足枷とは、付け入る隙となるのだ。

 

 例えば今このように。

 

 ゆったりと王者の余裕をもって進められるその歩み。何かをするには十分な時間を生み出すその行程が終わるよりも先に。

 

 ぼたり。

 一滴だけ落ちる。

 粘度の高い、大きく黒い雫が落ちる。

 どうしてか、その様が老人にもはっきりと見えた。

 最初の1が通ってしまえば、後はもう一瞬だった。

 

 青空が割れて濁り染まり滴り塗り替えられる。

 瓦は崩れ屋根が剥がれ柱がへし折れ腐り泥に沈む。

 濁流と化した泥が庭園を埋め尽くしそして。

 いつかのどこかの貴き箱庭は、薄暗い地下空間へと回帰した。

 

 そうして、吐き気を催すほどに濃密な闇が戻ってくる。

 仔細は不明だが、邪眼王が術比べに敗北したことだけは明らかだった。

 

 ――ふざけるな。

 

 ただ敗北するだけなら良かった。

 邪眼王の秘奥が『あれ』に敗北を喫したところで老人には痛くも痒くもない。

 しかし敗北の余波たる最悪の置き土産は、その後のすべてを決定付けてしまった。

 

 ――こんなところで。

 

 かの『庭』が消滅し場が元に戻ったとはいえ、異なる則の下にあった身体が全てを取り戻すには、いくらかの時を要するのだ。

 何もできなかったこちらと自ら打ち破ったあちら。

 当然、先に動けるようになるのは――。 

 

 

「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 

 カン高く濁った、全身全霊を絞り出すような『あれ』の絶叫が響き渡る。

 背筋が凍る。

 老人はまだ動けない。

 

 しかし辛うじて取り戻した首より上だけの自由を駆使して、どうにか状況を確認しようとしたその先で。

 

 どうしてか既に立ち上がり、真っ黒な日傘を差した小娘(ヒルデガルド)と眼が合った。

 にこりと微笑まれる。

 あの魔女(ローゼガルド)にそっくりだった。

 

 

「お、ち、ろおおおおおおおおおおおおおおおおおおあああああああああ!!!!」

 

 

 天井付近はおろか、空間全体の闇がざわめく。皮膚の内側がひりつくのは錯覚だと思いたい。どうやら『あれ』は本気で全てを振り絞り、次で確実に終わらせるつもりらしい。

 

 だというのに、老人は、動けない。

 

 小娘(ヒルデガルド)が片手で日傘を持ったまま、もう片方の空いた手を中空へ突き入れ、裂く。そうして中から取り出した何かを塗布し固定し組み立て――何をしようとしているのか察しはついたが、実際にそんな真似が可能だとは、この目で見た今でも信じ難かった。

 独力による――しかも素手による『空間を越えた道』の開通と固定。

 あの魔王(ゲオルギウス)ですら『現実的ではない』と高価な魔導具を使い潰す方へと研究をシフトさせた絵空事。

 それを今目の前で。

 

 老人は小娘――いや、ヒルデガルドという、全く未知の何かをここで初めて認識した。

 

 降り注ぐ。

 病的な数が密集することで質量を得た、まるで天井が落ちて来るかのような、夜空の全てが落ちて来るかのような杭の群れが降り注ぐ。

 

 ここでようやく老人は自由を取り戻す。

 仕込みは邪眼王によって破壊された。もはや『甲羅』を展開する暇はない。

 肉体的にはひ弱な部類に入る老人には、もう生き残る目はない。

 

 どこからだ。

 一体どこからが、闇精霊(やつら)の――いいや、魔女(ローゼガルド)の筋書きだったのか。

 もはや知る由もないが、少なくとも此度の結果として闇精霊(やつら)以外の勢力はそろって頭を失い迷走、弱体化することだろう。

 結果として、メリットがないと消極的だった侵攻作戦も自然消滅するはずだ。

 

 少し考えただけでも2つ。

 

 国力の保持とかつての権威復興の足掛かり、といったところか。

 実に魔女(ローゼガルド)らしい、視野の狭さと卑しさだ。

 

 

 ――すべてが思いのままでは、癪よな。

 

 

 すべきことを定めた老人は、何よりも優先して平伏す宿儺(すくな)の身を自由にすべく行動した。

 彼に(くすぶ)る魔力淀みを吹き飛ばし、防護の秘術を重ねがけし、命を燃やし限界を超える禁呪すら付与してやる。

 そこで時間は尽きた。

 

 進んで痛みを味わう趣味はなかったので、痛覚はカットした。

 視界が回り、身体が踊り、呼吸が止まる。全身が痙攣する。

 そうしてもう出来ることがなくなってしまえば、あとは益体もない考えが浮かんでは消えるのみだった。

 幼年期から青年期。磨き上げた魔導の天稟。たった一度だけ振り向いてくれたあの娘。だがそれら全てを押し退けて、

 

 

 ――そういえば父上には、終ぞお褒めの言葉は頂けなんだ。

 

 

 遥か昔に見送ったというのに、何故か今さらそんなことを思った。

 厳格を絵に描いたような、低くしわがれた叱責の声は今も耳朶にへばり付いている。

 ああ本当に益体もないことを。

 

 そう自嘲する老人の視界にそれは飛び込んで来た。

 

 死んだように脱力したまま宙を飛ぶ子供。

 いや、あれは飛ぶというより『放り投げられた半死体』といった方が的確か。

 どうやら宿儺(すくな)の奴は仕留め損なったらしい。

 だがまあ、あのまま頭から落ちれば、あの細っこい首はへし折れ事は成ろう。

 

 その様を見届けようと、着地点付近に眼をやり――閃いた。

 なぜ『あれ』が宙を飛んでいるのか、どこを目指したのか、その答え。

 

 制御不能な存在が内にいる場合の帰結として訪れる破滅。

 そこに至るまでの苦悩。

 

 それら全てをくれてやろうと、最後の残りカスを余さず使い潰す。

 止めて、捻って、放り込んだ。

 使い潰したのだから当然、終わった。

 一切の余韻なく、ばきりと速やかに終わった。

 

 ただ最後に。

 

 

 

 ――よくやった。

 

 

 

 記憶通りの、厳格を絵に描いたような、低くしわがれた声で、誰かが褒めてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

「おうい! 誰ぞ生きとる者はおるか!?」

 

 アルバコアの頂上玉座。

 その脇に座り込んだ宿儺(すくな)の呼びかけが闇に木霊し消えて行く。

 そこら中に飛散している白い灰のせいで視界は最悪だ。

 

「首級は獲ったぞ! もう大丈夫じゃ! 誰ぞ、生きとるか!?」

 

 これまでの経緯から、ここで死ねば灰になる、という事実を宿儺(すくな)は知っている。

 ならばこの量の灰を生み出すには――生き残りが居るかは微妙なところか。

 

「余は健在ぞ」

 

 白い煙の中から外法(クラプトン)が現れる。しかし階段を上る足取りはいささか怪しく、無傷というわけではなさそうだった。

 

「おう、無事やったか。他には?」

「おらん。が、死体の確認が出来ぬから、死んだのか逃げおおせたかは不明だ」

「まあ、無理じゃろなあ」

「うむ、無理だろうなあ」

 

 当たると駄目なら当たらなければ良い。

 それさえはっきりしていたなら、この場に居た面子ならいくらでもやりようはあったのだが……。

 邪眼王の置き土産が、余りにも最悪最低過ぎた。

 

「まったくあんの若造、今日一番の働きを、向こう側でやりおってからに」

「ふは、大戦果よな。己も含め5天墜しとは、真に天晴れよ」

 

 ふたりして少し笑った。笑うしかなかった。

 

「……なんにせよ、やれ華の13天なんぞ言われとっても、結局残ったんはお前さん1人だけか。締まらんオチやのぉ」

「……? 何を言っておる? 余は正直限界ぞ? 今はこれ、滅茶苦茶やせ我慢してるだけで、あと10分ぐらいで死ぬぞ?」

「なんじゃ、そっちもかい」

 宿儺(すくな)の方とて致命傷こそ避けたが、それでも、貰ってはいけないものを貰い過ぎていた。

 

「……それならお主もやるか?」

 いって外法(クラプトン)は懐から盃を取り出した。

「おお、酒でも持っとるんか?」

「余は下戸だ。それに今は酒に逃げるより、生きる方へと前進する局面だろうに」

 

 思いの他まともな事をいいながら、外法(クラプトン)が玉座にわだかまる()()を掬い取る。

 

「……()()が何か、わかっとるんか?」

「邪神の残骸。今余達を蝕み殺そうとしている呪の根源。毒の原液」

 解体した邪神の肉体は、しばらくすると黒い泥のようなおぞましい『何か』に変質していた。

「いや、なんでそれを盃で掬って口に入れるいう話になるんじゃ」

 なみなみと『何か』で満たされた盃を掲げ、外法(クラプトン)は謳う。

「理屈で言うなら『へぐい』の一種になるか。口にすることで同じものになり、蛇は己の毒では死なぬ」

 

 一本筋が通っているようにも聞こえるが、やはりこいつは頭がおかしい。

 しかし。

 

「それに何より、残りの時間を何もせず惨めったらしい諦めの果てに浪費するなど絶対にあってはならぬ惰弱。心が死んだらお終いよ。肉体はそれに追従する。故に余は踏破したぞ、最初の諦めを。なら後は続くのみよ、この我が身が! 敗者の置き土産など、さらなる飛躍の糧としてくれるわ! 我は外法! 理外の泥なぞ、なにするものぞ!」

 

 衝撃があった。

 すっかり諦めていた己と。

 微塵も諦めていなかった外法(クラプトン)

 

 どちらが強で。どちらが弱か。……考えるまでもない。

 

 宿儺(すくな)は己の不明を恥じた。

 そして、このぎりぎりの局面で新たな強さを誇示してみせた勇士には、相応の礼をもって応じるべきだった。

 

五分(ごぶ)じゃ」

「んん?」

「五分の盃じゃ。異存あるか」

「……くれると言うなら貰っておくが」

「よし。ではこの後、わしらは義兄弟じゃ」

「……んん? いやまあ、血が多い分には、構わんか」

 

 そうして盃に盛られた黒い泥のような『何か』を回し飲みする。

 まさに毒の原液といった不味さと激痛が喉を抉り、腹の底で大暴れを始める。

 

「ぐ、グぐグ……で、この後、どうする?」

 泣き言を吐き出す無様はもう晒さない。するなら先の話だ。

「そうさな、余としては続けたいと思う」

「つ、続けるて、此度の大侵攻をか?」

「うむ。頭を失った軍勢は全て無傷で残っておる。さらに、これより我らは人知を超えた魔人の頂へと至る。やってやれん事はなかろうて」

 

 魔人の頂とやらに至るか、はたまた死か。

 その言葉が決して()()()の類ではないと、今宿儺(すくな)の全身を駆け巡っているおぞましく暴力的な何かが、聞いてもいない答えを叩きつけてくる。

 

 ――上等じゃ。

 

「そう、じゃの。やってやれん事は、なか」

 

 ――死んでたまるか。やったらあ。

 

 腹を決め、前進を始めた宿儺(すくな)を止められるものなどない。

 だが今はそれよりも。

 

「な、なんでおま、そ、そない平気なんじゃ」

「ん? お主も飲むか? 痛み止め」

「……それ、ありか?」

 外法(クラプトン)は両手を天高く掲げ、

 

「聖痕だ! いと有難し! この痛みは聖なる試練であるぞ! ……本当に、そう思うか?」

 

 首だけでこちらを振り向いた。

 

「……阿呆ぬかせ。その手の病気は嫌いじゃ」

 諧謔(かいぎゃく)と怒り。

 根っこの一端が垣間見えた。

 なかなかどうして、悪くなかった。

 

「うむ。なら選べ兄弟。苺味か、葡萄味か」

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜。

 幾多の王が墜ち。

 2柱の使徒が生まれた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4.1 夜のしじまに暴力を

 

 

 あなたは、弱いほうが、いいのかもしれないわね。

 

 

 

 

 

 朝日が昇る少し前、いつも通りに6号は目が覚めた。

 

 明日も目覚める保障はない。耐久年数はとうの昔に過ぎている。

 そういわれ続けてはや数十年、性懲りもなく今日も目覚める己に、もはや笑いすら起きない。

 

 最低限の身支度を整え中庭へ向かう。

 身体の運用に不備はなし。違和感の兆候すらも皆無。相変わらず頑丈さだけは最高峰。役立たずは今日も絶好調だ。

 

 大きく息を吐き、背筋を伸ばしたまま重心を落とす。尻の穴から地に根を張る感覚で芯を固定し、特に開始を意識することなくぬるりと滑るように、徒手による『是空』を1番から8番まで可能な限りゆっくりと行う。そこに敵の一手を描き、いなし、打つ。逸らし、打つ。受ければ――即死なら僥倖(ぎょうこう)。通常はなぶり殺し。1対多が基準となる4番からはほぼ全てが死に手と堕す。だがそれでもどうにか、伝えられた技術と術理を駆使し、相手だけが一方的に斃れる動きをなぞり研鑽、追求し続け――。

 今となっては完全に惰性でしかないルーチンを消化し、そしていつもの正論に囚われる。

 

 

 こんなことを続けて、一体何になるのか。

 

 

 かつては息も絶え絶えで、最後には立っていることすらままならかったこの日課も、いつしか汗ひとつかかず終わるようになった。

 

 きっと、(ずる)くなったのだろう。

 

 可能な限り力を抜き、まるで十全にこなせているかのように振舞う。

 熟達したとも取れるが、結果が伴わない現状では、やはり『狡』の方がしっくりくる。

 

「おはようございます。ハウザーさん」

 

 残心を終えると同時に声がかけられる。

 

「おはよう。プルメリア」

 

 親と子ほど歳が離れた後輩。

 運以外のほぼ全てを持って生まれた442号。

 この館において数少ない、魔女(ローゼガルド)に翻意を抱く変わり者。

 

「いつ見ても綺麗ですよね、それ」

「男衆からは『ゆっくり過ぎてダサい』と不評だよ」

「教官殿の真似ができないからって、言い訳してるだけですよ」

 

 要点さえ掴めば、わざわざ侵蝕深度(フェーズ)2の――弱者の真似事などする必要はない。

 その正論の前には、形稽古の意義など無に帰してしまう。

 

「お体の具合はいかがですか? 施術自体は綺麗にできたと思うのですが」

「ああ、問題ない」

 

 つまらない泣き言を口走る前に必要なことを聞く。

 

「……ヨランダの様子は?」

「一晩眠って、頭は冷えたみたいです」

「もう大丈夫か?」

「いいえ。冷静にどうやって殺るかを考える段階に入っただけかと。精神状態の上下はあっても、すること自体はブレない。いつも通りのヨランダちゃんです」

 

 爆弾の導火線に火は点いたままであると。

 

「あの、やっぱり、ローゼガルド様にご報告しませんか? 悪いのは向こうなんですから、こっちが黙ってる必要なんてないですって」

 

 道理ではある。

 統制を重んじる魔女(ローゼガルド)が、己の留守中に強姦未遂事件があったなどと知れば、きっと激怒し、苛烈な沙汰を下すに違いない。

 ただ問題なのは。

 

「最悪、両方とも処分される。たとえ首尾よく向こうだけが処分されたとしても、残った連中から恨みを買い、次はお前も標的になる。ただ状況が悪化するだけだ」

 

 ヨランダの命をチップにした賭けに勝って尚それでは、話にならない。

 

「まずはヒルデガルド様がお戻りになるまで待とう。今日か明日には戻られるはずだ。それまで迂闊な行動は控えろ。いいな?」

「……はい」

「よろしい。今日からは常にヨランダと一緒に行動するように。昨夜の内に2日先までの担当を変更しておいた。誰に何を言われても、私の指示で押し通せる」

「わかりました。一人にさせませんし、なりません。……で、いいんですよね?」

「ああ、頼む」

 

 そうして大まかながらも今後の方針を決定したところで、

 

「おはようございます、ハウさん。あたしに隠れて内緒話かい?」

「おはよう、ヨランダ。次はお前と内緒話だ」

「よしきた。ほら聞いたろプルメリア、さっさと行っちまえ」

「はーい」

 

 あっさり本館へと向かったプルメリアの背を2人して見送る。

 揺れる金髪が完全にドアの向こうへ消えたのを確認してから口を開く。

 

「少しは落ち着いたか?」

「うん。……その、ハウさん、昨日は助かった。ありがとな。正直、もうちょい勝負になると思ってた」

 

 一重目蓋の赤毛が眼を伏せる。常に睨み上げてくる彼女にしては珍しい気弱な仕草。どうやら、見た目ほど平気ではないようだ。

 

 ヨランダ。衛生兵型(メディック)の481号。侵蝕深度(フェーズ)4。

 

親衛隊(お気に入り)たちは最低でも侵蝕深度(フェーズ)6が必須条件だ。位階が1違えば、普通にやればまず勝てない」

 

 その差が2や3にもなると、勝ち負け云々ではなく、もはや勝負の土俵にすら立てない。

 

 昨日、件の現場に割り込んだ際、狼藉者(ゲス)の頭蓋を砕くつもりで放った掌打は「痛いですね」という言葉を引き出すのみだった。

 逆に、向こうが放った『腕振り』としか呼べないような拳打もどきは、防御に挟んだ6号の膝と腕ごと顎を砕いた。その拍子に裂傷を負った舌からの出血で、危うく溺死するところだった。

 

「知識じゃあ知ってたんだけどな。押さえ込まれたら、何もできなかったよ」

 

 こっちは押さえ込まれなくても、何もできなかったよ。

 

 6号の顔が余りにも辛気臭かったのか、ヨランダが空気を変えようと笑ってみせる。

 

「……やっぱあれだよな、あたしが可愛すぎるのが一番の問題なんだよなー。キュート全振りだからなーあたしは」

 

 今連中がヨランダを襲う理由はない。己が秩序を尊ぶ魔女(ローゼガルド)の逆鱗に触れるだけの愚行だ。あるいは、お気に入りの自分たちなら許されると踏んでいたのかもしれないが。

 つまり、本当に、理由としては()()()()なのだろう。

 

 ……舐めてくれる。

 

「その調子だ。(はらわた)が煮えくり返っていることを悟らせるな」

「……やっぱわかる?」

「プルメリアも気付いていたよ。お前のことを、とても、心配していた」

 

 ヨランダから笑みが消える。

 

親衛隊(クソ共)の性根が腐ってやがるのは昔からずっとそうだ。今に始まった事じゃない。けど連中にはプライドがあった。自分達はエリートだっていう、クソみたいに高いおプライド様だ。だから、つまらない嫌がらせはしても、女ひとりを力ずくで襲うような真似はしなかった。最低にだせえからな。そんなのプライドが許さない。けど昨日はああなった。これがどういうことかわかるか? ハウさん」

 

 わかる。

 だから6号は昨夜の内に可能な限りの準備を整えた。

 

「一線を超えた。高くなりすぎたプライドが豚みたいに肥え太り『お飾り』の専属連中ぐらいどう扱っても許されると、おつむの芯から腐りきっちまった!」

「落ち着け、ヨランダ」

 

 だからといって、馬鹿正直にやり合っても勝ち目などないのだ。

 質も数も、向こう(ローゼガルド)側が圧倒的であり、勝負にすらならないのが現実である。

 今は、まだ。

 

「いいか、よく聞け。衛生兵型(メディック)の成功例は極端に少ない。その中でも新人の教導が可能なレベルのお前やプルメリアはさらに貴重だ」

「今はそんな話」

「いいから聞け。そんなおまえたちの身の安全が脅かされるとなれば、それは大きな損失につながりかねない重大な懸案事項だ。財産を守る義務を負う家令のひとりとして、到底看過できない。よって、ヨランダ、プルメリアの両名を本国勤務とする辞令を作成した。あとはヒルデガルド様のサインがあれば正式な命令として効力を発揮する」

 

 小賢しい。

 

 身体を鍛え。技を磨き。拳を厚くして。

 することが、これか。

 

「だから今お前がすべきなのは、自爆覚悟の特攻計画を練ることではなく」

 

 当然の怒りを、まるで詐欺師のように丸め込み。

 

「ヒルデガルド様がお戻りになるまで、プルメリアと一緒に、盛りのついた馬鹿どもに会わないよう、できるだけ距離を取ることだ」

 

 何も悪くない娘たちに、罪人のように逃げ隠れしろと吹き込み。

 

「……わかったよ。あたしだって死にたいわけじゃない。ハウさんに従うよ」

 

 何の解決にもなっていない時間稼ぎに終始する。

 

「すまない。迷惑をかける」

「……ハウさんが謝ることじゃない。こっちこそありがとな。色々と手配してくれて」

 

 あまつさえ、こちらを気遣う言葉すらかけられる始末。

 

 6号の口から、掠れたような息がもれる。

 つられて、最も奥底に仕舞われた本音が、ほんのひとかけらだけこぼれる。

 

 

 ああ。

 

 

 本当に。

 

 

 ただただ。

 

 

 弱い。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 数が少ない。

 それは単純にして絶対的な弱みだ。

 

 どれだけ重大な懸案事項があろうとも、あらかじめ予定されていた仕事に穴をあけるわけにはいかない。

 館内の業務ならある程度融通を利かせることも可能なのだが、それが対外的な案件の場合『今内輪で揉めているので行けません』は通らない。

 

 もしそんなことを強行しようものなら、ただでさえ旗色の悪い6号達はさらなる苦境へと追い込まれるだろう。

 自分達(ヒルデガルド派)以外は全て魔女(ローゼガルド)の僕という館の現状から見て、交代要員も期待できない。

 

 つまり、この不安定な状況下で、ただでさえ少ない人員をさらに分散しなければならなかった。

 

 アメジスト。ヴィンセント。ロイ。

 もし荒事になった際、間違いなく活躍するであろう侵蝕深度(フェーズ)5の3人は、本日の昼過ぎから2日間程の対外業務(泊まりの仕事)が入っている。

 

 盛りのついた馬鹿どもが、このタイミングを狙ってことを起こしたのなら最悪だった。

 

 しかも今日は6号も半日がかりの対外業務(初回教練)に出る必要があり、館には非戦闘員の2人だけになる時間が発生してしまう。

 

 早く終わらせて、早く帰って来るしかない。

 

 そう結論を出した6号は、残る彼女達に『緊急時の避難場所』と『脱出手段』を伝え、くれぐれも用心しろと言い残し、朝一番の舟に乗って館のある離島から本島へと渡った。

 

 そこから『6号の足で』1時間程の距離にある、海沿いの僻地にひっそりと佇む無機質なレンガ造りの大規模建築物が本日の仕事場だ。

 

 

 旧王立特異開発第7施術訓練院。

 通称、第7。

 

 

 ここにいるのは、初期施術を生き延びた侵蝕深度(フェーズ)2から3の子供たち。

 特殊な出自でもない限り、暴力の訓練など受けたことのない雛鳥たちに、安全に暴力の経験を積ませるのが本日の主な業務内容。

 

 書類上の分類は汎用近接格闘術教練1。

 

 いつの頃からだったか。

 一族が磨き上げてきた技を『汎用近接格闘術』などと呼称されても、何も感じなくなったのは。

 

 初めて教え子に打ちのめされたあの時か。

 それとも、守るべき御方に迫る危機を打った拳が、何の意味も成さなかったあの時か。

 

「また、この季節が来ましたね」

 院長の声に、物思いから引き戻される。

「ええ。早いものです」

「おかげさまで、前期は全員が軍学校へと上がれました。今期もよろしくお願いします」

「微力を尽くします」

 

 なかば定型文と化した挨拶を終え、野外第1演習場へと向かう。

 

 資料によると今期の『第7生』は52名。

 侵蝕深度(フェーズ)2が50名。侵蝕深度(フェーズ)3が2名。

 初期施術による脱落者はなし。

 この技術の進歩だけは手放しで褒められる。

 3割残れば上出来といわれていた自分たちの頃からすれば、まるで夢のような数字だ。……悪夢の類ではあるが。

 

 整列する――というより、まだまださせられている感が滲み出る生徒たちの前に立つ。

 

「本日よりお前たちの教練を担当する6号だ」

 

 いきなり出てきた準礼服を着た(じじい)が真顔で6号と名乗り、さらに教官だという。

 一同を見渡す。

 場はしん、と静まり返り、罵声を飛ばす者はもちろん、指笛で屁の音を出す者もいなければ、クスクス笑いをもらす者もいない。投石等の飛来物もなし。全員、服も顔も綺麗なまま。ケンカがあった形跡もなし。境遇を考慮すると、何もなさすぎる。

 

 優等生。消極的。諦め。

 

 なら少し煽る方向で行くか。

 

「最初に言っておく。お前たちに――」

 

 そうして6号は業務を開始した。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 初回教練を恙無(つつがな)く終えた6号は急いで帰路についた。

 1時間の道程を40分で走破し、ちょうど暇していた渡し守の尻を蹴るようにして舟に飛び乗る。

 

「おいこらハウザー手前、なんだってんだ一体」

 

 渡し守の一族で最年長の昔馴染みが、舳先(へさき)から振り返った。

 

「すぐに出してくれ」

「あん? この時期はたしか……お子様どものお守りだったか。なんだ、トラブルか?」

「そういうわけではない。が、急いでいる」

「ふうん、了解だ。なるたけ飛ばそう」

 

 そうして、ゆっくりと舟が発進する。

 どうにも焦れるが「もっと急げ」などとはいえない。

 舟上は彼らの領域であり、館のある離島へと辿り付けるのは、彼ら一族の漕ぐ舟だけなのだ。

 

「で? どうだった? 今期の後輩どもは?」

 

 世間話をしている場合ではない、とは思いつつも、

 

「全体的な質は上がっている。今日の第7だけで『3』が2人もいた。一昔(ひとむかし)前なら神童扱いだったろうな」

「で、その神童さまの鼻っ柱をヘシ折ってきたと」

 揶揄(からか)うような物言いに、なにを馬鹿な、と呆れる。

「身長2メートル超、体重120キロの鍛え抜いた四つ腕の戦士を相手に、まともに打ち合えると思うか?」

 

 将来的に相対する『最低ラインの敵の性能』がこれだ。

 平地で、近接武器で、正面からぶつかってくれるだけまだ易しいなどという、冗談のような現実の前に吐き気すら(もよお)す。

 

「……最低でも『5』は欲しいわな」

「そういうことだ。今天狗になられては、どうにもならん」

「んなこと言ってると、また恨まれるぜ。ちったあ学べよ」

「学んでいるとも。目立った怪我は向こうが勝手に転んだ際の捻挫ぐらいだ。それも治しておいた」

「さすが元祖万能様。器用なもんだ」

侵蝕深度(フェーズ)2では器用貧乏でしかないがな」

 

 などといっている内に、離島の影が見え始めた。

 こうして急いで帰って来たものの、ふと冷静になると、恐ろしく寒々しい事実が背筋を這い上がり、熱を芯から冷ましてゆく。

 はたして、自分が戻った所で。

 一体、何ができるというのか。

 場違いな弱者がちょろちょろと、

 

「顔に、出ちまってるぜ。6号」

 

 館のある離島への舟中。渡し守の一族で最年長の昔馴染み(55号)が、舳先(へさき)からいった。

 

「適当な事を。ずっと前しか見てないだろうに」

「オレだってわざわざ言いたかねえさ。けど、ダリアガルデ様との約束だからな」

 

 

 

 ねえ55号(船頭さん)。もしこの6号(おばか)が深刻な顔して自分に酔ってたら教えてあげてね。

 そんなのじゃ、なにもうまくいかないって。

 

 

 

「……そんな昔の話を」

「なんだ? ご本人がお隠れになりゃ全部チャラってか? オレは嫌だぜ、そんなの」

 

 あの御方と護衛の自分と渡し守のこいつ。館から本土へ向かう度に顔を合わせていれば、多少の気心が知れるのに、さほど時間はかからなかった。

 

「なにがいいたい?」

 

 とはいえ彼は代々王家に仕えてきた水際の番人(渡し守の一族)だ。

 あの御方に対しては十全の礼節を固持していたが、6号に対してはすぐにこうなった。

 

「お前がそんな面してんだ。今あの(クソ溜)で、なにか面倒事が起きようとしてるんだろ?」

「ああ。だから今夜から3日間は離島の宿舎には泊まるな。面倒だろうが本島まで帰って、朝には間に合うようまた来い」

 

 しばらく返事はなかった。

 

「だったら6号。お前もそうしろ。急病だか何だかいって、3日ぐらいウチに居ればいい」

「何を馬鹿なことを」

「そうだ。馬鹿なことだよ、6号。頼みの綱だった肉体性能も下り坂の侵蝕深度(フェーズ)2の爺が『5』とか『6』の親衛隊がうようよ居る処刑場に出頭するのは、どう考えても、馬鹿なことでしかねえんだよ、6号」

 

 おかしなものだった。

 つい先程、自分が考えていたそのままを、あらためて他人の口から指摘されると。

 どうしてか、何の澱みもなく、言葉が出てきた。

 

「いまさら自分だけ、逃げるわけにもいかんさ。後輩もできた。数少ない魔女(ローゼガルド)に反する仲間だ。それになにより」

「ヒルデガルド様がいらっしゃる、か? 確かに、ヒルデガルド様はダリアガルデ様の御息女であらせられるが、決して御本人ではない。よく考えてみろ。お前は何か大切なことを、決して間違ってはならぬものを、見誤ってはおらぬか? 代替など、すべてに唾吐く不敬ぞ。我らが君の御言葉は、まだお前の内にありきや?」

 

 有無の話ではない。

 

「それだけが、(はげ)みだ」

 

 そしてその夜6号は。

 

 ()()と再会した。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

「プルメリア」

 

 黒くぼやける布状の何かを纏っただけの、ともすれば乞食にすら見えかねない格好をした黒髪の子供。

 

「客間に案内してくれ。今日はもう休む」

 

 しかしその長い黒髪やわずかに見える手足はつるりと綺麗なもので、見る者の印象はどうにも不安定になる。

 みすぼらしいのか、美しいのか。

 

「は、はい! かしこまりました!」

 

 名指しで命じられたプルメリアが、飛び上がるようにして、壁に掛けられている鍵束をひっつかむ。

 

「ハウザー。この本はここに置いて行く。ヒルデガルドだけは触れるようにしてある」

 

 現実感がなかった。どこか夢を見ているかのようで、しかし染み付いた習慣はひとりでに6号の口を動かし、それらしい言葉を返す。

 

「宿賃だと、伝えておいてくれ。知りたいことを知りたいだけ知ればいいと」

 

 見慣れたものは所詮、見慣れたものでしかない。

 スケールの大小こそあれど、暴力が何かを損壊するのは、もはや見慣れた光景である。

 

 だから今6号の精神を揺さぶり、さらにその根っこへ亀裂を入れているものは。

 

 

「それと」

 

 

 同じ声。

 長じてからは多少低くなられたが、あの年頃当時を思い出すと、やはりどう聞いても完全に同じ声。

 

 

「殺そうとすると道連れにされる呪いがあるだろうから、やるなら気をつけろと」

 

 

 同じ顔。

 当然ながらヒルデガルド様に似た(かんばせ)ではあるものの、これもまたやはり、あの年頃当時を思い出すと、どう見ても完全に同じ顔。

 

「ど、どうぞこちらに!」

 

 ガチガチになったプルメリアが必死に声を絞り出す。

 無理もない。

 基本的に戦闘要員ではないあの娘には刺激の強い場面が連続しすぎた。

 侵蝕深度(フェーズ)5の使用人2人が瞬く間に沈められ、火達磨になったアンジェロに至っては親衛隊所属の侵蝕深度(フェーズ)6だった。

 さらにそれらを束ねる最悪の魔女(ローゼガルド)は、何故かぐちゃぐちゃに潰れそして――実際に一部始終を目の当たりにしても尚、悪夢の中の冗談としか思えない絵空事と化した。

 

 しかし、そんな大小異なる暴力たちよりも6号の心を捕らえて離さなかったのは、たったひとつの夢を超えた(うつつ)だった。

 

 

 ――なぜ、ダリアガルデ様が。

 

 

 享年よりもずっと幼い姿で、娘であるヒルデガルド様の連れだと名乗り、魔女(ローゼガルド)を潰した。

 しかしダリアガルデ様には『あんな真似』はできなかった。できるなら()()はならなかった。

 さらによくよく見ると、所作のひとつひとつがまるで違う。あのような猫背ではなかったし、明らかに右足を引きずる様はどこか負傷しているようで――。

 

 などと6号が足踏みしている間に、『それ』はプルメリアに続き退室して行った。

 

 

 部屋が静寂で満たされる。

 6号はしばらくの間、ただ阿呆のように突っ立っていたが……やがて近場にあった椅子へと乱雑に腰掛けた。

 

 自ら移動させた、先程まで『あれ』が読書をしていた椅子である。

 

 反射的に『主の椅子に座するとはなんたる不敬か』と飛び上がりそうになるものの、『あれ』はダリアガルデ様ではないと思い直しまた腰を下ろす。しかしどうにも心地が悪く、やはりまた立ち上がる。

 

 どうしようもない程に、動転していた。

 

 自覚することで少しだけ落ち着きを取り戻した6号は、ここでようやく周りに眼を向けた。

 

 すると、なぜか使用人達は、そろって壁に背をくっつけたまま微動だにせず固まっていた。

 

 一瞬だけ不思議に思った6号だったが、それぞれの頭上で固定された黒杭を見て「動けば撃つ」「ハウザー、ヨランダ、プルメリア以外は壁際で整列してろ」といった『あれ』の言葉を思い出した。

 

 なるほど『いつまで』と明確な期限はきられていなかったな、とその光景を眺めていた6号の視界の隅にヨランダが映る。

 

 ヨランダが部屋の隅に飾り付けられている、やたらと大きくて重い花瓶から花だけを抜き取り捨てる。

 手元には植物の球根のような形をした、無駄に重量感あふれる最高級の花瓶だけが残る。活けられていた花以外はそのままなので、球根部の内部には水が蓄えられたままだ。

 

 それを両手で握り締め、球根部を下にしたままヨランダが駆け出す。

 

 向かう先に居るのはカルロ――侵蝕深度(フェーズ)6の親衛隊メンバーであり、昨日ヨランダを襲った2人の内の1人だ。

 

 壁に張り付き身動きが取れないカルロは状況を理解できていない。うっきうきの笑顔を隠そうともしないヨランダが対象の2メートルほど手前で半回転。球根部の位置が下から横へと持ち上げられ、走り込んだ勢いにのった重量が遠心力と手を組み、対象(カルロ)の頭蓋を粉砕せんと横殴りに襲いかかる。

 

 間合い。踏み込みのタイミングと歩幅。獲物のリーチ。

 全てが理想的にかみ合った、文句なしの一撃が標的(カルロ)のこめかみに直撃する。

 

 インパクトと同時に花瓶の球根部が破砕。飛び散る大量の水。あの手の花瓶に入れるにしては多すぎる水量。

 部屋に4つある同型の中から迷わず手に取ったことから、あれは『あらかじめ準備していた鈍器』であると6号は結論付ける。

 水量は重量となり、重量は破壊力に直結する。理にかなっている。

 

 だが相手は侵蝕深度(フェーズ)6。

 常人なら重傷間違いなしの一撃だろうが、来るとわかっているなら耐え切ってしまう。

 完全な不意打ち以外、連中の耐久力を尋常のそれと考えてはならない。

 

 そんなことぐらい当然ヨランダも理解している。

 だから今手元に残った花瓶の細長い残骸、尖った破損部が即席の槍先のようになったそれを、そのままカルロの腹部に突き刺し――しかし刺さることなくばりんと砕け散った。

 

 まあ、そうなる。

 破損後の不安定な形状の残骸では、生地のしっかりとしたジャケットは貫けない。

 

 やるなら多重の布で覆われた腹ではなく、むき出しの喉を突くべきだった。

 

 暴力に慣れてはいるが、戦闘要員としての教育は受けていないヨランダの脆さが露呈したかたちだ。

 

 知らず6号は嘆息してしまう。

 やはりヨランダにも基礎ぐらいは教えておくべきだったか。

 魔女(ローゼガルド)という統率者を失った連中が暴発する前に、どれだけ数を減らせるかが先の明暗を分けるに、

 

 ここでようやく、思考に意識が追いついた。

 

 そうだ。もう火蓋は切られた後だ。

 一体自分は何を呆けていたのか。

 

 6号は我を取り戻すと同時に、ヨランダの意図を理解した。

 

 手元の残骸が砕けてからは追撃もせず、その場に立ち尽くしているヨランダ。

 

 今だ、とでもいわんばかりに。

 止めに入るなら今だぞと、わかりやすく場を整えてやったとでもいわんばかりに。

 

 動けば撃つ、といわれ頭上に黒杭をセットされた連中に、さあ動いて貫かれろ、と誘いをかけているわけだ。

 

 

 まずい。

 

 

 6号は椅子とサイドテーブルを手に取り駆ける。

 机上にあった『本』がばさりと床に落ちるが、そんな呪物よりも今はまずこっちだ。

 

 

 ヨランダの行動は『動けば頭上の黒杭に貫かれる』という仮定をもとに組み立てられている。

 最初から『あれ』のブラフである場合や、実は本人の手動操作だといった可能性を考慮していない。

 

 もし実際に動いたとして、頭上の黒杭が落ちて来なかったら。

 

 侵蝕深度(フェーズ)5や6に囲まれた自分達が生き残る目はない。

 

 だからこれは、はっきりさせてはいけない。

 

 わからないから、取りあえずじっとしていよう。

 

 1秒でも長くそう思わせ、一切の元手なしでこちらの動く時間を騙し取るが最善。

 

 

 ヨランダの攻撃でふらつき、前のめりに倒れようとしたカルロにサイドテーブルをぶつけ再び壁に押し付ける。勢い余って押し潰すかたちになったがどうでもいい。

 椅子の足を床板にめり込ませ、即席のつっかえ棒とする。

 

「遊んでいる暇はない。行くぞ」

「は、はい。すんません」

 

 それっぽい言葉を口にして、プルメリアが出て行ったのとは逆の扉――ヒルデガルド様の自室がある南館へと続く扉から退室する。

 

 薄暗い廊下を2人して早足で進む。

 

「ありがと、ハウさん。助かった。……まさかブラフだとは思わなかった」

 サイドテーブルで押し返す直前、ほんの一瞬だが確かに、カルロの全身は壁から離れていた。

 しかし黒杭は微動だにせず。

 つまり、ただの悪趣味なインテリアでしかなかったわけだ。

「気にするな」

「つってもなー、心の底から『死ねやカス共(親衛隊)』って思いながら本気でぶん殴ったんだけどなー。もっとビビると思ったのに、誰もつられないし。やっぱ育ちが悪いだけのチンピラじゃ、いざって時にうまくできないな」

「いや。呆けて何もできなかった間抜けよりかはましだ。おかげで目が覚めた」

 そうだ。

 もう始まってしまったのだ。

 最大の難敵だった魔女(ローゼガルド)が真っ先に潰れ、主導者たるヒルデガルド様が不在のなか、どうしようもないレベルで事態は進んでしまったのだ。

 

 なら、動け。

 

「まずはヒルデガルド様にご報告。次いでこの島からの脱出になる」

あのクソ(ローゼガルド)がぶっ潰れたんだし、残りのザコども当主に従え、はムリかな?」

「これまでがこれまでだ。本国の連中ならまだしも、この館内では誰ひとりとして『いまさら許される』などとは思えまい」

「ヒルデ様なら『使えるモンは使う』とかいって気にせず使いそうだけどな」

「捨て駒にまで評価が落ちるのを許容できる者は、この館にはいないだろう」

「わかりやすくていいな。このゴミ箱」

 

 扉を開け、吹き抜けの大ホールに出る。

 

 2階西側の通路を南館へと急ぎながら下の様子を窺うが……時間が時間(深夜帯)なので、誰の姿も見えない。

 

「予想される展開としては、親衛隊を中心とした人海戦術でヒルデガルド様を拘束ないしは殺害後、元老を担ぎ上げて自分達の地位の保持に努める、といったところか」

「元老? あー、あのクソ(ローゼガルド)の腰巾着」

 

 野心あふれる老害について、今語ることはとくにない。

 今語るべきなのは。

 

「プルメリアが『あれ』をどこの客間に案内したか、わかるか?」

「なんだハウさん、見てなかったのかよ。アイツわざわざ『壁に掛けられた鍵束』を取って行ったろ。客間の鍵なんて、全部自前のを持ってるくせにさ」

 

 パニック真っ只中(ただなか)だった6号には、そんな仔細の記憶はない。

 

「だからさ、持って行った鍵束に意味はないんだ。持って行かずに残した鍵が正解。そこに連れて行きますってあたしたちに伝えてたんだよ」

「どこだ?」

(とばり)の間。一番すみっこの、朝にハウさんが『緊急時の避難場所』としてあたしらにいってたあそこだよ」

 

 かつてのダリアガルデ様の私室。

 そこに、あれが。

 

「なあハウさん」

 

 大ホールから南館へと続く扉に手を掛けた所で、ヨランダが振り向いた。

 

「……あれって、なに?」

 

 それを一番知りたいのは、間違いなく自分だ。

 

 そう答えるより先に、ヨランダが一歩こちらに下がった。

 

 自分で引く前に、扉がこちらに向かって開かれたからだ。

 

 その先に居たのは。

 

 6号よりも頭ひとつ背の高い、同じ準礼服を身に纏った男。

 魔女(ローゼガルド)親衛隊の1人にして、侵蝕深度(フェーズ)6の戦闘要員、ダニロ。

 

 昨日ヨランダを襲った2人の内の1人。

 割って入った6号の膝と腕と顎を砕いた張本人。

 先程の連中とは違い、最初からこちらに対し『やる気』の敵。

 それが、手を伸ばせば届くすぐそこに。

 

 

 6号は、諦めた。

 

 

 たったひとつを諦めなければ状況は打破できないと判断し、諦めた。

 

 初手は奪える。

 これまで相手の呼吸など読む必要のなかったこいつ(ダニロ)から、最初の一息を盗むことなど容易い。

 

 ダニロの胸倉を掴むように組み付き、そのまま全体重を預けるようにして。

 

 諸共、中央の吹き抜け部へと飛び降りた。

 

 首だけでヨランダを振り向き、行け、と顎先で示す。

 

 

 そう6号は諦めた。

 

 

 自分の生涯は今日ここまでだと諦めることで、品がなく暴力的で少し頭のおかしい後輩を、先に行かせることにした。

 

 上を取ったまま相手の首元に右腕を添え、落下の衝撃に体重を乗せることで頚部(けいぶ)の破壊を試みるが、上半身のバネのみで体勢を崩される。

 

 結果2人とも、ただ1階へ落下しただけとなり、当然侵蝕深度(フェーズ)6は大したダメージもなくすぐさま立ち上がる。

 

 完璧なかたちで受け身をとっていた6号は起き上がる動作のまま跳躍。敵が身構えるより先に初動を制し、相手の首へ取り付くことに成功。反撃の届きにくい背後に回りつつ極め、そのままへし折ろうと力を込めたところで背に衝撃を受けた。

 

 敵もさるもの、魔女親衛隊。

 魔女(ローゼガルド)による病的な()()()を生き延びた、命としての強度は破格の一言に尽きる人造の魔人。

 

 どうすれば相手が死に、己は生きるか。

 その答えを出すのに瞬きひとつ以上の時間を要する愚図ならば、今彼はここにはいないだろう。

 

 2度目の衝撃。背骨が砕けていない奇跡で6号の運が底をつく。

 3度目の衝撃。真っ白になる。

 

 自壊覚悟で6号ごと壁への衝突を繰り返し、技量ではなく耐久性能の優劣を競う場へと引きずり込んだのだ。

 

 すると当然、離れる。

 

 きっと最後であろう好機と共に、敵の首から6号の手が離れてしまう。

 

 離れた手をつかまれ、放り投げられる。

 冗談じみた距離を滑空した後、受け身もなにもなく地に叩きつけられた。

 

 

 こうして6号の勝ち筋は、消えた。

 

 

 反射的に立ち上がるも、ただそれだけ。

 こうなっては昨日の再現だ。

 親衛隊(ダニロ)が体勢を整え、正面から相対してしまう。

 どこで裂けたのか、頭部からの出血が止まらない。

 6号にできることはもう。

 

「……なぜだ?」

「は?」

「なぜ今になって、ヨランダを襲う? 貴様らのプライドはどうした? 魔女(ローゼガルド)の罰が怖くはないのか?」

 

 もう6号にできるのは、相手の優越感に付け込んだ、時間稼ぎくらいしかなかった。

 

「罰だと? なにを勘違いしているのか。哀れな爺だ」

 

 ダニロの顔に嘲りが浮かぶ。どうしてこの手の奴らはいちいち(わら)うのだろうか。

 

「あのね、カルロの奴がね、チェスで勝ったんですよ、ローゼガルド様に」

 

 乗ってきた。こいつが一言放つ間に、ヨランダと目的地の距離は一歩縮まる。

 

「コマ落ちのお遊びでしたが、まあ勝ちは勝ちだということで。有り体に言えばご褒美です」

 

 ああ、潰れてよかった。本当に。

 余計なことはいわず、高いプライドを刺激することに終始する。

 

「馬鹿な。衛生兵型(メディック)の希少性が理解できないのか?」

「ははっ。だからきちんと手懐けろって話でしょう? 実際、ご褒美ではなく試験だという声の方が多いかな」

「親衛隊ぐるみでか。恥知らずどもめ」

「あのねぇ。命令じゃなければ、誰があんなスラム出身の売女なんか」

 その言葉を使う奴は、きっとこれを無視できない。 

(ママ)を思い出すか?」

「……あ? 何いってんのお前。……楽に死ねると思うなよ。糞爺」

 

 

 ああ。

 

 

 小賢しい。

 

 

 防御に徹する。

 1、2、3、受ける貰う転がる。

 どうにか命を拾う。

 外れた骨は強引に入れておく。

 

 

 身体を鍛え。技を磨き。拳を厚くして。

 することが、これか。

 

 

 払いに徹する。

 1、2、崩れる貰う吹き飛ぶ。

 からくも命を拾う。

 逆に曲がった指を反対方向へ曲げ直しておく。

 

「ナメた口きいてんじゃねえぞクソが! たかが侵蝕深度(フェーズ)2の分際で!」

 

 逃げに徹する。

 左、下、潜り。

 かろうじて命を拾う。

 が足首を掴まれてしまい、冗談のような力で壁へと叩きつけられる。

 

 垂直受け身を敢行し、効果の有無は不明だったが、とにかく命を拾う。

 

 いやまだだ。彼我の距離が近い。

 急ぎ立ち上がる途中で髪をつかまれ、固定される。

 右の、振り下ろし。

 腰の入っていない手打ちの拳打でこの威力なら、まともな一撃ではどうなるか、考えたくもない。

 1、2、3発目で視界が回り、倒れ込むままに組み付く。

 しかし近接での絞め技を警戒されたのか、組み付いた腕ごと全身を振り回され、そのまま力任せに放り投げられた。

 

 ありえない距離を飛ばされる。

 地力が違いすぎる。

 真正面からやり合うと、やはり勝負にならない。

 泣き言と共に、地に叩きつけられる。

 

 反射的に立ち上がりそして、どちらが上でどちらが下か、もう6号にはわからなくなる。頭部へのダメージが抜けない。なにもかもが霞んで歪む。

 

「ちょろちょろ逃げ回ってんじゃねえぞ雑魚が! ご自慢の汎用近接格闘術をみせてみろよオイ!」

 

 ぼやける頭に響く声。

 

 汎用近接格闘術。

 

 違う。

 そんなものではない。

 我が一族が代々磨き上げてきたものは。

 

 

 

 

 開祖である初代が破格の強さをもってその名を上げ始めた頃。

 まともにやっては勝ち目がないとみた有象無象は徒党を組んで取り囲み。

 さらには投網で動きを封じた上で袋叩きにしようと画策したがしかし。

 開祖は中空へ投じられた網の上を走り抜け、そのまま全てをのしたという。

 

 その空中の網の上を走るという図抜けた身軽さを伝える逸話と。

 ()()()()()()()()()()がいつまでも一番であってくれるなという願いを込めて。

 我が一族に代々伝えられてきたその技は。

 

 

 

 上網走改伝流兵法(かみあみばしりかいでんりゅうひょうほう)

 

 

 

 かつての王国時代に唯一存在した御留流。

 

 闇を用いた強化処置が普及してからは、極限までその存在を貶められた、亡国の残骸。

 

 あの御方の危機に際し、何の役にも立たなかった無用の長物。

 

 しかしそれでも、最後の最後に6号が頼りにするのは結局それ以外には考えられない。

 

 どうしようもないよすが(暴力)

 

 縋りつく。

 

 

 

 

 敵が迫る。

 もう終わらせるつもりなのだろう。手には先程まではなかった闇剣が握られている。

 あれは防げない。

 上下がはっきりしない。回避も望めない。

 

 

 もう他にできることもないので、6号はそうした。

 

 大きく息を吐き、背筋を伸ばしたまま重心を落とす。尻の穴から地に根を張る感覚で芯を固定する。

 毎日毎日飽きもせずやっていたので、これぐらいはできた。

 

 すり足と足の親指の力を用いて前に出る。間合いを殺す。

 網の上を走るが祖の兵法だ。これぐらいはできる。

 

 大きく踏み込んだ足を軸に全身を押し出し、ただ前へと滑る跳躍を成し遂げる。

 他のなにが見えなくとも、敵だけは見える。ならばやれ。

 

 そうして、この至近まで肉薄してしまえば、剣より拳の方が先に届く。

 

 が、ここまで。

 

 先祖代々の技はここまで6号を運んでくれたが、ここから先は侵蝕深度(フェーズ)2と侵蝕深度(フェーズ)6のぶつかり合いだ。

 

 それはもう昨日やった。

 こちらの本気は、ただ「痛いですね」という言葉を引き出すだけ。

 そのくせ向こうは一撃必殺。

 どこで笑えばいいのか、墓場か、地獄か。

 

 つまり、如何に凄い技術があろうとも。

 

 ただただ単純に。

 

 軽い。

 

 脆い。

 

 弱い。

 

 ああ。

 

 弱いのは。

 

 嫌だなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

「――よしっ、いけた! やっぱり動かないぞこれ」

 

 魔女(ローゼガルド)が変貌し元凶が去った広間。

 残された使用人たちは、動くに動けない現状を打破しようと賭けに出て、勝利していた。

 

「まじかよ、これ、ハッタリかよ」

 

 勇気ある1人が安全を証明したのを皮切りに、次々と壁から離れる。

 頭上にあった黒杭はぴくりとも動かずその場に留まり続けていた。

 

「無駄な時間使わせやがって」

 

 1人が闇剣を形成し黒杭に向け投擲するも、衝突した瞬間、ちゅるんと吸い込まれるように闇剣は飲み込まれ消えた。

 

 誰もが見て見ぬフリをすることにした。

 

「……これから どうする?」

 返事の代わりに、皆の視線が一箇所に集まる。

 床の上に転がる、血のような禍々しい赤に染まった一冊の本。

 なんとなく放置してはいけないような気もするのだが、

 

「……触りたくない、よなあ」

 

 あの本を手に取ったアンジェロが火達磨になったのは全員が見ている。

 今もすぐそこで意識不明のまま転がっている彼の姿が、皆に二の足を踏ませる。

 せめて机の上に乗っていれば、机ごと運ぶこともできたのだが。

 

 ふとその机の現在地を見ると、

 

「なあ、なんでまだカルロの奴、あんなとこ居るの?」

「ははっ、そういやアイツ、あの貧相な売女に花瓶で殴られてたよな」

侵蝕深度(フェーズ)6があの程度でどうにかなるかよ。しかも結局、杭もブラフだったし。馬鹿のやることは見ててキツイわマジで」

 

 などといいつつも、いつまで経っても反応のないカルロに違和感が生じ始める。

 

「おいカルロ。お前もしかして寝てんのか? この状況で」

 

 親衛隊の1人ディーノが、カルロを押し付けるように固定されている椅子とサイドテーブルをどけた。

 

 するとカルロはそのまま前のめりに、どか、と倒れ込んだ。

 受け身も何もなく、顔面から、一切の減速なしで。

 

 慌ててディーノが抱き起こすも、

 

 

「…………死んでる」

 

 

「は? なにいってんの?」

「……いや、だから、死んでる」

「いやいや、侵蝕深度(フェーズ)6が、あんなガリ女の1発ぐらいで死ぬワケねえだろうが。お前ディーノ、そういうのは状況考えてやれって」

「だから! 本当に、し」

 

 いい終わる前に、ディーノも倒れた。

 こちらも一切の受け身や減速はなしで、仰向けに後頭部から、どか、と倒れた。

 

「ディーノ!」

「あ、バカお前、近づくなって!」

 

 ディーノと同郷の料理人(コック)、ジェラルドが駆け寄る。

 誰もが、おそらくはこいつも倒れるのでは、と予想したが、

 

「呼びかけに反応は……なし。脈は微弱だがまだある。ガーベラ! 治療を頼む! まだ間に合うかも知れない!」

「イヤよ。それどう見ても近寄ったヤツもやられるパターンじゃない」

「命がかかってるんだぞ!」

「それ、わたしの命はどうでもいいって、そう言ってるの、わかってる? 大声と勢いで従わせようとするのって、ちゃんと理解してる側からすると『殺していいよ』のサインだって、わかってる?」

 

 親衛隊の衛生兵型(メディック)ガーベラは、希少な己の価値を正しく理解している。

「ガーベラ、下がっていろ」

「いわれなくても」

 荒事もこなす親衛隊と友人思いの料理人。両者の認識の差が埋まることはない。

 

 そうこうしている内に、ディーノが倒れるまでにかかったのと同程度の時間が経過していた。

 

「おい、大丈夫なのかよ? 何か変わった事は?」

「とくにな……あ、これ、水か? なんか水が黒い」

 カルロの全身、ディーノの両手は黒い水で濡れていた。黒を基調とした準礼服の保護色となり、至近で見ないと気付けなかったのだ。

「どう考えてもヤバイやつじゃねーか!」

「けど何ともないんだって、俺は!」

 

 そうして大声で騒ぐ面々とは別に、親衛隊達は互いに視線を交わし、状況の打破に最適な方法を決定しようとしていた。

 ガーベラがそっと闇矢を準備した。無言の提案。こっちまで巻き込まれる前に済まそう。

 待て、のサインを送り立ち上がる人影。

「最後の手段は最後までとっておけ。まだできることはある」

「やめてコルラード。あそこで騒いでるバカを黙らせれば、それでお終いよ。これ以上ワケのわからない犠牲者は出ない」

「そういうわけにもいかんさ」

 そういって、親衛隊内でも数少ない、衛生兵型(メディック)の真似事レベルだが治療のできるコルラードが行った。

 

 そうしてしばらく、 料理人(コック)と2人であれこれと動き回っていたが、件の『黒い水』を調べ始めてから数秒後……コルラードは倒れた。

 料理人(コック)のジェラルドが慌てて呼びかけるが返事はない。

 

 ガーベラが闇矢を放つ。狙われたジェラルドが倒れた親衛隊(コルラード)を盾にする。

 それを見た親衛隊の心がひとつになる。

 料理人(ジェラルド)が蜂の巣になった。

 友人の死を目の当たりにした使用人たちが、激情のままに応戦した。

 無意味な殺し合いが始まった。

 

「くそ、なにやってんだバカが! 親衛隊相手に勝てるわけないだろうが!」

 性能と経験の差から、結果は明白だった。

 それをどうにかしようと、何か使えるものはないかと、周囲に視線を巡らせた使用人の1人が、ことの始まりである『それ』――黒い水を見て、考えて、繋げた。

 

「これに触れば、親衛隊だけが、死ぬ……?」

 

 そうして彼は、空の水差しを手に取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 理想的な一撃だった。

 踏み込み、腰の捻り、力の伝達、そこに至るまでの脱力。

 きっと向こうは、技の起点すら認識できてはいまい。

 

 顎先に入る。

 

 考えるより先に放った2撃目が空を切る。

 かわされた。

 この隙を見逃す相手ではない。

 だがせめて目は逸らすまいと、6号はダニロ(死神)の姿を探し、

 

 仰向けに倒れ、血を噴き出し痙攣するダニロ(死体)を見つけた。

 

「……は?」

 

 ダニロ(死体)の顎から喉にかけてが壊滅的に損壊していた。

 喉の奥、首の骨までが一目でわかる次元で破壊されつくしており、検分するまでもなく即死していた。

 

「…………なんだ、これは」

 

 違う。

 これは違う。

 これは鍛錬の果てに得られたものではない。

 いくら鍛えようとも侵蝕深度(フェーズ)2では侵蝕深度(フェーズ)6を相手にこの成果は出せない。

 思えば成るというのなら、あの御方がお隠れになることはなかった。

 だからこれは、決して己の一念が鬼神に通じたわけではなく、何らかの『水増し』があっての結果だろうと6号は考えたが、

 

 ――敵が死ぬなら、まあいいか。

 

 再現性の有無に疑問は残るが、感覚としてはいけると踏んだ。

 根拠なく与えられたものは、理由なく奪われると相場が決まっているが、これはもう自分の一部だという実感があった。

 

 別に6号は鍛錬がしたかった訳ではない。

 望む結果を得るためにそれ(鍛錬)が必要だったのだ。

 非才の身では、他にできることがなかっただけ。

 

 だからこの、今まで一方的に傾いていた天秤を、水平を通り越してこちらに叩きつけるかのような所業に対する思いは。

 

 ただただ『快』のみだった。

 

 

 

 

 

 あなたは、弱いほうが、いいのかもしれないわね。

 

 

 

 

 

 6号は向き直る。

 これまで、まるで見世物でも見物するように、大ホールのあちこちからこちらを窺っていた使用人たちの1人へと眼を向ける。

 ああも騒ぎ立てていたのだ。気付くなという方が無理がある。

 ただ6号以外の男性使用人は最低でも侵蝕深度(フェーズ)5だ。

 ことが『始まってしまった』今、親衛隊の腰巾着どもは少なければ少ないほどいい。

 

 6号と眼があった使用人は唖然としている。

 親衛隊(ダニロ)の末路に衝撃でも受けているのか。

 なんにせよ、ありがたい。

 6号の限界も近い。身体のダメージは後送の一歩手前といったところか。

 木偶と化している間に、どれだけ数を減らせるかが勝負の分かれ目だと理解した6号が一歩踏み込む先に、それは現れた。

 

 最初は線。

 

 基本的に薄暗い照明で統一されている館内だが、その上下に渡る空間の広さから特に光量が乏しい大広間。

 実のところ侵蝕深度(フェーズ)2からは夜目が利くようになるので、この薄闇だろうが充分に視界は確保できるのだが……その薄闇の中に浮かぶ黒い線は、どの角度、距離から見てもただの『黒い線』以上の認識はできなかった。

 

 その線が瞬きの度に数を増す。1、2、3、4本目で全てが繋がり『扉』となった。

 観音開きの、成人なら腰を屈めないと出入りできないような微妙な大きさだ。

 その閉じられている中心部から、白く細い指先がにゅうとあらわれ、向こう側から扉が開かれて行く。

 

 冷気でも熱波でもない、しかしきっと人体に悪影響を与えるであろう何かが溢れ出すのを感じた6号は、反射的に両腕を十字に組み目を覆った。無防備な眼球があれに耐えられるとは思えなかったからだ。

 

 そうして目を庇いつつも、内ポケットから取り出した小鏡(先の戦闘で破損済)を用いて直視せずに確認する。

 

 身を屈め扉から出てきたのは黒い傘をさした女。

 顔全体を帽子から垂れる黒いヴェールで覆い、

 

 そこまで確認した6号は、鏡を仕舞い姿勢を整え、一礼と共にいった。

 

「おかえりなさいませ、ヒルデガルド様。お部屋でお休みだとばかり」

「ん? ハウザーか? 待て、顔を上げるな、目を閉じていろ。今閉めるから」

 

 といわれたものの、名を呼ばれた時点でつい反射的に視線を向けてしまっていた6号の前で、帽子と黒い傘がまとめて『向こう』へと放り込まれ、そのままわりと乱暴にばんと扉が閉められた。

 

「お前、この距離で見て、目は無事なのか」

 音もなく消える扉を背に、主が問う。

「そのようです。最初の一波は耐えられなかったでしょうが」

 少し間があってから、

「おい、なぜこの時間のこの場所に、こうも使用人がいる? どいつもこいつも目が潰れて、わざわざ人気のない場所を選んだというのに、台無しではないか」

 自分の処刑を野次馬しに来ていたからです、と事実を伝えても混乱するばかりだろう。

「それにこいつは……ふむ。ダニロ、一撃か。お前がやったのか?」

「はい」

「どうやって?」

「殴ったら死にました」

「……目の潰れた使用人たちの治療に衛生兵型(メディック)の2人を呼ぶ必要はあるか?」

「要りません。止めを刺すことを提言致します」

「2人はどこに?」

「ヨランダはヒルデガルド様の私室へ。プルメリアは……ここでは申せません」

 使用人どもの目は潰れたが、他の機能はまだ生きている。

「南館に用は?」

「もはやありません」

「ふむ。ではヨランダには……全速力でここへ来るよう伝えた」

 

 さっきの『扉』といい、なぜそんなことができるのか。

 ヒルデガルド様は、一体いつの間にこのような技を身につけたというのか。

 

「……お前、よく見るとあちこちボロボロではないか。屈め。時間が惜しい。動作に支障ない程度には繋げておく」

 

 そうして手ずから6号に治療を施す。

 古き血統ゆえに万能である主だが、衛生兵型(メディック)としての技量は他の追随を許さない。

 

「ん? ハウザーお前、これ『足されている』ではないか」

 

 何か思案する顔になり、

 

「はいかいいえで答えろ。……私のあとに、来客があったか?」

「はい」

「入れ違いか。間の悪い」

 

 どういう意味か、問いたいのをぐっと堪える。

 思うがままに喚いては、何も進まない。

 

「叔母上はどこだ」

「最初にヒルデガルド様が『お戻り』になられた部屋に」

「来客は?」

「道すがら、お伝えします」

「わかった。ヨランダが合流次第『おかえりなさいヒルデ様! マジで待ってました! ほんとクソやべえことばっか連発』――よし行くぞ」

「は」

 変わり果てたダニロを見て大喜びするヨランダを引き連れ、来た道を引き返す。

 

 魔女(ローゼガルド)が『ある』部屋までの道中、これまであったことを一通り説明したのだが、

 

「目撃者がいるのが痛いな。いまさらどうにかした所で衝突は避けられん。……まだ第3軍の掌握が済んでいないというのに」

「え、ヒルデ様、そこなんですか? くそばばあ(ローゼガルド)が本になったとか、するっと信じられる話じゃないと思うんですけど」

「2冊目にもなれば、多少は慣れる」

「あれを、ご存知なのですか?」

「ああ。知っているよ」

「なら!」

 

 つい大声を出してしまった6号は、失礼しました、と声を落とす。

 

「なぜあれは、ダリアガルデ様と同じ姿をしているのですか?」

「あれは、そんなにも母上に似ているのか? 当然のことだが、私が生まれた時には、すでに母上は成人した大人だったからな。幼少期の姿など、それこそお前世代でもなければ知らんよ」

 

 いわれてみると、その通りだった。

 姿絵の類は全て魔女(ローゼガルド)が処分していた。

 

「あれの『かたち』を造ったのは叔母上だ」

「……だと思いました。今さらこんなことをするのは、あの魔女(外道)ぐらいかと」

「中身は魔王(ゲオルギウス)たちが降ろした新たな邪神だ。あの器が使われたのは偶然でしかない。叔母上もさぞ驚いたことだろうよ」

 

 邪神。かつての王家が距離を置き、結果として取り残される原因となった、凋落のはじまり。

 

「邪神かあ。でもそれにしちゃー殺意低かったですよ。歩く糞(ローゼガルド)以外は、自分でやっておきながら『これで治せ』とかいって、命の()こごりみたいな……なんかよくわかんないエグいもん渡してきましたし」

 

 それを聞いたヒルデガルド様が足を止めた。

 

「ヨランダお前、その『命の()こごり』とやらに触れたのか?」

「ええはい。かなりがっつり。治せっていわれて、無視するのも怖かったですし」

「他に、それに触れた者は?」

「あとはプルメリアとハウさんが、同じように治せって渡されてました。あ、プルメリアはゲロ吐いてました」

 最後の情報は必要か? と思いつつも、主の視線に6号は首肯で返す。

「ふむ」

 再び早足で歩き始めた主の後を追う。

「なぜ狙ったかのようにお前たちだけに……ああそうか。叔母上を『読んだ』のか。敵の敵を抱き込みにきたのか」

「えっと、侵蝕深度(フェーズ)6の親衛隊(ダニロ)が、侵蝕深度(フェーズ)2のハウさんの一撃で即死した理由がそれってことですか?」

「他に考えられるか?」

「……じゃあ、あたしとプルメリアも?」

「ちょうどいい機会だ。いろいろ試してみよう」

 

 ヒルデガルド様が目的地の扉を指す。

 どう楽観的に考えても、中にいるであろう連中とは殺し合いになる。

 

「いいか。目的は『本』を入手し『帳の間』へ向かうことだ。無理に殺す必要はない。だが、無理してまで生かす必要もない。よしわかったら行けハウザー」

 

 扉を蹴破り室内へと踏み込む。

 6号に躊躇いはなかった。

 殴ればちゃんと死ぬという破格の条件に加え、ヒルデガルド様とヨランダの支援もある。

 それに正直いうと、主の言葉通り、いろいろと試してみたかったのだ。

 

 が。

 

 いざ突入してみると、室内の様子は荒れ果てていた。

 壁や床があちこち抉れ、原型を留めていない家具や照明が所かまわず散乱し、その合間を縫うようにして、刺さったり欠けたり潰れたりした血みどろの使用人たちが転がっていた。

 

 そんな室内で立っていたのは2人だけだった。親衛隊のパルミロとサンドリーノ。

 しかしそれぞれが満身創痍であり、もう何もしなくとも勝手に倒れそうな有様である。

 当然、突入して来た6号に反応などできよう筈もなく、ならばこれ幸いと、右で1人、左で1人の一撃二殺を成し遂げ、

 

「待て」

 

 主の声に従い、全てを止める。

 

「口以外を動かせば、その瞬間に終わらせる。よく考えて行動しろ」

 

 黙って硬直した2人を一瞥し、ヒルデガルド様が「宜しい」と頷く。6号は一撃圏内ぎりぎりまで下がり、足音を響かせながら室内を検分する主の言葉(殺れ)を待つ。

 

「親衛隊だけ、死体が綺麗だ。おまえたち2人にも目立った外傷はない。にも関わらず、その瀕死の有様」

 

 そこで主は立ち尽くす親衛隊2人に向けて、右手で狐のような形をつくり、中指を弾いた。

 すると、ちょうどその真下にあった『黒い水溜り』が弾け飛び、2人へと向け殺到する。

 瞬間、2人は『一滴でも触れたら死ぬ』とでもいわんばかりの大袈裟な回避を行い、その勢いのままヨランダへと駆け出した。

 直近の危機である6号でも、最高権力者のヒルデガルド様でも、ましてや出入り口でもなく、2人から最も遠距離にいるヨランダを標的としたのだ。

 

 この程度の速度、6号なら造作もなく追いつけたが、上空から飛来する『それ』が視界の端をかすめたので――残るひとつの脅威へ注力することにした。

 

 駆け出した2人が、最初から上方にあった『黒い杭』に貫かれ、転がるように倒れる。

 今ならわかる。吐き気を催すような、抱きしめたくなるような破格の塊。あれを受けたなら、もう起き上がることはあるまい。

 

「え? ヒルデ様、この黒い杭、操れるんですか? これってあいつのじゃ」

「原理は同じだ。質はこちらの方が良いがな」

 6号は注意を逸らさない。

「あとでお前にもやろう。2本ぐらいなら、まあなんとかいけるだろ」

「え? 頂いても、どうせすぐ消えちゃいますよね。こういうのって」

「触った感触からして、最低10年は現存するな、これは。純度が高すぎて甘ったるい」

「……いりませんよそんなの。なんか身体に悪そうですし」

「お前は攻撃手段が乏しい。ここから先、生き残りたくば持っておけ。あと身体には良い。ただ子供には触らせるな。最悪、即死する」

「即死するようなモンが身体に良いとか、ちょっとなにいってるのかわからないです」

「その程度で死ねる段階はとうに過ぎているということだよ。お前も、私も」

 

 薄く笑ったヒルデガルド様が無造作に、地に落ちていた『赤い本』を拾う。

 一瞬、6号とヨランダの間にびくっと緊張が走るが、当の本人はそのままページをめくり始めた。

 

「たしか、知りたいことを知りたいだけ知ればいい、だったか、ハウザー」

「はい。一言一句、相違なく」

「よし。では5分経ったら報せろ。あとヨランダ。お前が『新しくできるようになったこと』を3分後にまとめて報告しろ。ヒント――というかもう殆ど答えだが、この部屋にある『黒い水』には呪が溶け込んでいて、そこからは強烈にお前のにおいがする。よし始め」

 

 いってヒルデガルド様は『あれ』が座っていた椅子に腰掛け、さらには『あれ』が読んでいたものと同じ本を同じように読み始めた。

 思わず目眩がしそうになった6号だったが、余計な雑念は捨て、きっと誰もが気付いているだろうが、それでも無視し続けている『この部屋唯一の脅威』の警戒に戻った。

 主の「待て」はまだ取り消されていない。対象が動きをみせる様子はない。

 

「え? あたしって、こんな海産物みたいなにおいするの?」

「それは混ざった血と臓物の臭いだろう。比喩を真に受けるな」

 

 

 2分経過。対象は沈黙したまま。

 

 

「ええと、ぶん殴った時の『死ねやカス共(親衛隊)』って願いが、花瓶の水に染み込んで『親衛隊だけが死ぬ水』ができた。そのタネは呪? 儀式も何もなしで、ノータイムで液体に思い描く呪の性質を完全再現? 侵蝕深度(フェーズ)6がすぐ死ぬ超強力なヤツを? ヒルデ様、自分でいってて頭がおかしいとしか思えないです」

 

「実際はもっと酷いぞ。本来、呪に対象の選別などできない。一度放てば触れるもの全てを(むしば)むのろいを呪と呼ぶ。だがこの黒い水は選別した。お前は良し。お前は駄目。知っていなければ判断しようのない『親衛隊所属か否か』などという基準で、それでも完璧に仕分けてみせた」

 

 椅子の背もたれに身を預け、ページをめくりながらヒルデガルド様が続ける。

 

「知識と判断力を備えた呪。さしずめ『悪霊(あくりょう)』とでもいったところか。これはもう、誰も手にしたことのない未知の何かだよ。ヨランダ」

「これ、ヒルデ様にあげるとか無理ですか?」

「いらんしできぬよ。お前の呪はお前だけのものだ」

「うわあ」

 

 ならば自分は何だろうか、と6号は考えた。

 きっと望んだのは『重く、堅く、強く』あたりか。

 ずいぶんと幼稚なワガママだ。自分にはお似合いだと思った。

 

「ヒルデガルド様。5分が経過致しました」

「よし。丁度いい頃合だ」

 本を閉じたヒルデガルド様がヨランダへと向き直り、

「両手を前へ」

「あ、はい」

 椅子に座るヒルデガルド様に合わせる為、片膝をついたヨランダの両掌の上に、帯空していた2本の黒杭が降りてくる。

「私からの下賜だ。誰が何と言おうが、もうこれはお前の物だ。そう思い込め。根拠は今ここにある。いいな」

「はい。拝領いたしました。……あの、このやり取り、なんか凄く不安になるんですけど。つうかあたし、今夜だけでクソやべえもん抱えすぎじゃないですか」

「なに、2つぐらいは誤差だ。10を超える頃には、どうでもよくなってくる」

 

 この御方にそういわれては、何もいえなくなる。

 

「よし。では行くぞ」

 

 そういって立ち上がるヒルデガルド様へ、6号とヨランダは『よろしいのですか』と視線だけで問う。

 

「何をしている。ここからは時間との勝負だ。急げ」

 

 そう仰るのならば、是非もない。

 6号を先頭に3人は部屋を出た。向かうは北の離れ、帳の間。

 薄暗い廊下を進み、最初の角を曲がる。

 

「ヒルデ様。ガーベラの奴が死んだフリしてたの、わかっててスルーしたんですよね?」

 

 無論そうだろう。向こうも時間がなかったのか、どうにもちぐはぐな擬装だった。

 頭部からの出血と思しき血溜まりに沈んではいたものの、その金髪は綺麗なまま。一度疑問に思えば、呼吸がないのに鼓動はあるという異常が浮き彫りになる。

 

「あいつだけは、やっといた方がよかったんじゃ」

 

 親衛隊の衛生兵型(メディック)ガーベラ。彼女がいるだけで親衛隊の生存率が格段に跳ね上がる、最も厄介な存在。己の体内を操作することで、呼吸ぐらいは容易く誤魔化せるだろう曲者。

 あの2人――パルミロとサンドリーノが囮となってまで残そうとした隊の要。

 

「ヨランダ。口よりも手を動かせ。最悪でも同時だ」

 

 いって、どこからか取り出した黒い(かめ)をヨランダに持たせる。

 

「なんですかこれ、めちゃくちゃ重いんですけど」

「できるだけ派手に中身を撒きながら歩け。ハウザー、廊下の灯りを全て破壊しながら進め」

「なんですかこれ、いくらぶちまけても、ぜんぜん、軽くならないんですけど」

 

 命令通り廊下の照明を破壊しつつヨランダを見ると、黒い(かめ)から零れる出る黒い水は、とうにその容量の10倍以上の水量を吐き出していた。

 

「こういう、重いやつは、ハウさんの担当、じゃないですかね」

「親衛隊どもは探知も一級品ぞろいだからな。お前のにおいがしないと、はったりにすらならん」

 

 ヨランダの歩みに合わせ、ヒルデガルド様も作業をしながら進んでいる。

 最初から糸がついた2対の杭を雑に射出し、天井や床に糸を張り巡らせて行く。

 特殊な黒杭と弾性を帯びた黒糸と逆噴射する使い捨ての射出機構を組み合わせた、引っかかれば杭が飛んで来る罠だ。

 

「やっぱりこれ、無限に出てくるのが怖いけど、ただの黒い水ですよね。毒でも何でもない、ほんとうにただの水。あとヒルデ様、さっきからその罠、半分以上、機能してないですよ。ただ糸張ってるだけっていうか」

 

「所詮は時間稼ぎの嫌がらせでしかないからな。3割も本物があれば充分だ。あ、こら、水で廊下を埋めるな。一箇所は通り道を開けておけ。来てくれなければ、それはそれで困る」

 

 来なければ困る。わざと呼ぶ。しかし時間は稼ぐ。主の意図が読めない。

 

「よくわかんないですけどヒルデ様、たぶんすっごく悪いこと考えてますよね。あたし、そういうの大好きです。わざとガーベラに教えて伝言させて、ほどほどに苦労させて焦らして、最後にあいつらはどうなるんです?」

「きっとお前は気に入るよ。とても、とても乱暴な結末だ」

 

 照明を破壊する傍ら、糸のセッティングを補助しつつ6号は口を開いた。

 

「ヒルデガルド様。これに使う時間を、プルメリアと合流し隠し入り江に向かう時間に回した方が良いのでは」

「ハウザー。相手を過小評価するな。そんなもの、とうの昔に露見していると思え。魔術的な隠蔽など、叔母上の薫陶を受けた連中には無意味だ」

 

 ならばどうやってこの離島から脱出するつもりなのか。

 ……まさか。

 

「今のお前たちなら大丈夫。細工も怠らぬ。案ずるな」

「え? なんかあのやべえ扉に突っ込むみたいな流れを感じたんですけど、んなワケないですよね? ノリと勢いじゃどうにもならないことってありますよね?」

 

 ならばこの、今行っている時間稼ぎは、一体何をする時間をつくる為にやっているのか。

 プルメリアと合流し『脱出』するだけなら、こんな作業は必要ない。

 ……まさか。

 

「ヒルデガルド様! ヨランダちゃんにハウザーさんも、無事でよかった……!」

 

 帳の間へと続く一本道に差し掛かると、向こうからプルメリアが駆け寄って来た。

 

「お前こそ大事ないか? 嘔吐したと聞いたが」

「もう大丈夫です。気持ち悪いのも落ち着きました」

「そうか。上手く馴染んだようでなによりだ」

「……あれは、危険なものですか?」

「武器とは、得てしてそういうものだ。使い方を覚えろ。きっとそれはプルメリアを守ってくれる」

「…………はい」

「ヘイ可愛いコちゃん、こっち手伝えよ。この(かめ)野郎、お前ぇのケツみたいにデカくて重くてたまんねぇんだ」

「喋る棒切れのくせして可愛いお口ですねえ」

 

 そうして罠の設置は完了した。

 

 目の前には(とばり)の間。

 もとが貴人の私室だったこともあり、その扉は堅牢かつ重厚なつくりとなっている。

 

「お前たちは一言も喋るな。何か言われても黙って眼を伏せていろ」

 一同、静かに頷いた。

「それじゃあ、開けますね」

 プルメリアがハンドルに手をかける。

 が、扉は開かない。

 まるで固定されたかのようにびくともしない。

 押しても引いても動かない。ならば自分がと6号が代わっても結果は同じ。

 堅いのではない。感触がない。だから動かず不変。何かがずれている。

 

「全員、耳を両手で塞ぎ目を閉じろ。私が肩を叩くまでずっとだ。いいな?」 

 

 しばらく扉を検分したヒルデガルド様が有無をいわさぬ声で告げる。

 誰もが素早く従いそして、ずん、と身体の芯に衝撃を受け意識が飛びそうになる。

 肩を叩かれ目を開けると、扉の周辺が黒い泥でべちゃべちゃに汚れていた。

 

「良いぞ。この至近距離で誰も気絶しないのは上出来だ」

 

 どこか嬉しそうなヒルデガルド様が自ら扉を開け中に入る。

 何の前振りも躊躇もない行動に、思わず出遅れてしまう。

 

 慌てて後を追い、6号も部屋へと踏み入る。

 

 

 

 黒。

 

 

 黒一色だった。

 

 淡い色調で統一されていた壁や絨毯は、なぜかその全てが真っ黒に染め上げられていた。

 唯一そのままの純白を保っていた天蓋付のベッドが、注視せずとも視界に飛び込んでくる。

 

 そこに居た。

 

 小さなひとつと、もっと小さな数十、あるいは数百が、蠢くようにしてそこに横たわっていた。

 夜目が利く6号でも、最初それが何なのか、どうしてか上手く判別できなかった。

 そこにいる筈のないものを、全く想定の内になかった存在を、とっさに頭がそれと認識できなかったのだろう。

 

 猫だ。

 

 黒い猫。

 

 それが数十、数百と押し合うようにして、ベッドの上で溢れ返っている。

 

 その中心で死んだように眠っている『あれ』の姿を見つけた。

 

 どうしてか涙が出そうになった6号は、一抹の気まずさを誤魔化すように、群れる猫たちへと眼を向けた。

 今も増え続けている猫たちが一体どこから来ているのか、その行列の大元を辿ると……部屋の隅にある、開け放たれたままの窓へと行き着いた。

 そこから何かを伝いよじ登り、入室し、列に並ぶ。

 まるで『招かれた入場門』であるかの如く、皆一様にそこから入り、規則正しく一列で弾むように前進するその様は……どこか厳粛でしかし喜びに満ちた陽気な行進(パレード)を思わせた。

 

 そこでふと疑問が浮かぶ。

 

 増え続ける猫に対してベッドの面積は一定だ。

 しかしベッドから零れ落ちる猫は一匹たりともいない。

 ならば猫たちの終着点は。

 

 余りにも自然だった為、これまで意識の片隅にすら入らなかった。

 しばらく注視して、ようやく6号は理解した。

 

 ベッドの中心へと辿り着いた猫が『あれ』に身体をこすりつける。

 鳴き声こそ聞こえないが、その顔が喜色で満ちているのだけはわかる。

 そうして、消える。

 次が来て、また喜びのままに、触れて、消える。さらに次が来て、歓喜の内にじゃれつき消える。そうしてまた次が来て――。

 

 最初6号には『あれ』が捕食でもしているかのように見えた。

 しかしすぐに思い直す。

 違う、そうではない。たとえ結果は同じだとしても、そこにある願いを無視してはならない。

 

 この行為を端的にあらわすならそう。

 

 献上。

 

 だろうか。

 

 触れる、消える。どうぞ、どうか。

 

 最初からそうだとは思ってはいたが、やはりあれは小動物の猫ではなく、慣用句につかわれる、死者を迎えに来る『自然現象の方の猫(魔力を帯びた幻影)』なのだろう。

 

 なるほど確かに、そのひとつひとつはおぼろげな影のように頼りない。

 しかしその目的はただひとつ。

 吹けば消えるまやかしを寄り集めた、そうなりますようにという、か細く小さなお願い。

 百を超え千を超え万を超え、ようやく毛先ほどに至ろうかという、取るに足らない我侭(わがまま)

 

 数え切れない献上の果てにある願いが、無音の大音声となり木霊する。

 億を兆を超えた祈りの果てが、夜のしじまの裏側に響き渡る。

 

 

 

 

 

 どうか。

 

 どうか、御壮健で、あられますよう。

 

 切に。

 

 切にお祈り申し上げます。

 

 

 

 

 

 その合唱を聞いた瞬間、6号の意識は途切れた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5 チャオ ソレッラ!

 

 

 どんどん、ばんばん、がんがん。

 うるさかった。やかましかった。耳障りだった。

 

 最初はどうにか無視して眠り続けようとしたが、こんなことを考えている時点でもう起きてるんだよなあと諦めた。

 

 ぱちりと開いた目に映るは星座の標本。季節を無視して集められたオールスター。

 ベッドの天蓋の裏側に施された、星と光と闇、遊び心と贅沢が混在した意匠。

 誰の趣味かは知らないが、率直に素敵だと思った。

 

 ふと耳に何かが触れる感触。首だけで左右を確認すると、両サイドに黒っぽい何かがいた。

 毛並みと質感から、たぶん猫かなと思いつつ上半身だけで起き上がると――ちょっと引くレベルの数がそこら中にいた。

 短毛だったり長毛だったり、シャープだったりふくよかだったり、その種類は様々だが、ベッドの上を全てを埋め尽くす勢いで、黒猫たちがひしめきあっていた。

 

 

 ――これ、大丈夫か? 雑菌とか感染症とかエキノコックスとか。

 

 

 最初によぎったのはその心配だった。

 

 そりゃそうだ。飼い猫にしては多すぎる。首輪もない。となれば野良だ。それはまずい。

 野生動物は人間に有害な雑菌まみれだ。奴らのタフネスは人の埒外にある。たとえ病気になろうとも、死ななきゃ安いで今日まで突っ走って来た猛き生命を野生と呼ぶのだ。

 

 経口感染を恐れたおれは、口呼吸を封じることにした。

 

 なんでこのベッドで集会してるのかはさっぱりだが、

 

 

「ようやく起きたか」

 

 

 不意にかけられた声に、死ぬほどびっくりしながら振り向く。

 意識して口を閉じていなければ「うひゃあ」とか情けない声が出るところだった。

 

「ふむ。その猫たち『には』驚かないのだな」

 いわれてみれば確かに。

「たぶん、猫を飼ってたんだと思う。起きたら顔の横にいるって、何回もあった気がする」

「たぶん? おまえ、はっきりと覚えていないのか?」

 しまった、口が滑った。寝起きの頭はゆるい。つい思ったままを口走ってしまう。気をつけ――うん?

 

 記憶に新しい、黒いボア付きの真っ赤なタイトドレスが、こちらに背を向けたまま何かの作業をしていた。

 少し屈むような体勢で、ドアの真ん中あたりに部屋の四隅から伸びた黒い紐をくくり付けたり引っ掛けたり、まるでなにかをそこに『固定』しているかのような。

 

 どんどん、ばんばん、がんがん。

 

「まったく喧しい。あれの邪魔をすれば何が起こるか予想できなかったからな。目覚めるまで待ってみれば、ほら、聞こえるだろう? 連中が来てしまったぞ」

 

 あれ?

 これなんか変じゃね?

 つうか、さっきから普通に喋ってるけど。

 

「私が誰かわかるか? それとも自己紹介が必要か?」

 

 いって彼女はこちらを振り向いた。

 どこかの地下で見た時とは違い、すっかり良くなった顔色に浮かぶ微笑と笑わない目が、なんかやべえ女感を醸し出している迫力ある系美人さん。

 一瞬で眠気が吹き飛んだ。

 ほとんど反射だけで返事をする。

 

「……ヒルデガルド」

「いかにも。正式にはもっと長い名があるが、己の墓標以外で使う機会はない。王族にはミドルネームもファミリーネームもなく、書類上の表記では、名のあとに国号が入る」

 

 やばい。

 これはまずい。本気でダメなやつだ。

 何の準備も覚悟もない内に、すでに始まってやがる。

 がっちがちに固めた筈の『補強』はとっくの昔に破られていて、普通に室内に侵入されている所からスタート。

 なんていえばいいのか、この生殺与奪を一度ぎゅっとされてから、狭いビニールプールに放流された感じ。

 

 いや。ポジティブに考えろ。殺されはしなかったと。

 

 

「次はそちらの番だ。――おまえは、誰だ? 名乗れ」

 

 

 めちゃくちゃ答え難いのがきた。

 

 当たり前の大前提として。

 真面目な状況において、名乗りに、嘘は厳禁だ。

 それをやってしまえば、お前とまともに付き合う気はないです。適当に利用して使い捨てます。私は詐欺師です。と宣言するも同義だからだ。

 

 殺るチャンスは幾らでもあったのに、今彼女はおれとの対話を試みている。

 そんなヒルデガルドの顔に唾を吐きかけるような真似だけはしてはいけない。

 

 かといって馬鹿正直に「実は何も覚えてませーん。めんごめんご。ノリとフィーリングだけでお前ン家の叔母さん本にして3人ほど殺人未遂ぶっこいちゃった、てへ」はない……よなあ。うん、いい方って大切。

 

 閉じるのは悪手だが全開もダメ。

 なら間を取るしかない。

 嘘はなく、軽さもなく、はぐらかすでもなく。

 

「わからない。なくしたか、最初からなかったか、そのどちらかだと思ってる」

 

 ただ事実を羅列しただけだが、なんかそれっぽく聞こえる不思議。

 まああれだ、すぐばれる嘘ついて自滅、だけは避けるべきだ。

 

「……なにも覚えていないのか?」

「あの玉座から先のことは、覚えているよ」

「それにしては、受け答えがしっかりしている。あそこから意識が始まった、何の教育を受けたこともない者の物言いではない」

 

 まあ、そうなるか。

 うーん、どこまで話すのが丁度いいだろうか。

 

玉座(あそこ)に喚ばれる前は、もっと別の、まるで違う場所にいた。そこでの記憶はあったりなかったり、いろいろと曖昧だ。貴女のいう教育云々はそこからきてる」

「気付けば玉座に拘束されていたら、まずは皆殺しにしろという教育か。どこだかは知らぬが、地獄だな、そこは」

 

 いやいやいや。

 日本でも普通に過剰防衛で実刑くらうから。

 

 けどそう考えると、正しい現代日本人としては、あのまま何もせず助けが来るのを待って、そのまま地獄拷問エンジンの燃料になるのが正解になっちゃうな。

 もしくは、相手に深刻なダメージを与えない、きっと反撃で殺される抵抗をして、その通りに殺られるか。

 そうやって真面目に、ちゃんと真剣に考えるなら。

 

「いや、あれはわたしの趣味だよ」

 

 誰にも推奨されない『殺りに来るお前がくたばれや』の精神。

 実はそんなに特別でもない、ありふれた凡庸な考え。

 

「ふむ、趣味か。随分と素直に答えるのだな」

 

 そりゃ素直にもなるよ。

 

玉座(あそこ)で目覚めてからここまで、わけのわからん兵器の燃料にしようとしたり、四肢を切断しようとしたり、そんな奴らばかりだった。こうして、まともに会話するのは、これが初めてなんだ」

 

 なので正直、少し嬉しい。

 自分に対しひとりの個人として向き合ってくれているこの状況を、どこか嬉しく感じてしまっている。

 

 ああーこれ、ストックホルムがシンドロームしてるぽいなー。いや吊橋だったか? まあなんかその辺のやつが発動してるっぽいな。DV男がたまにみせる優しさに惹かれる的なやつ。

 

「だからまずはありがとう。こうして話す機会をつくってくれて。いきなり殺すとか死ぬとかじゃなく、まずは話してみて、それでダメならそうしよう」

 

 こうして端々にちょい刺し要素を混ぜて『なめてたらやっちまうぞ』みたいな牽制をオートでやる辺り、おれという奴のしょぼさが垣間見える。

 

「貴女が『向こう側』に居たことは気にしていないから、そちらもそう思ってくれると嬉しい」

 

 けど、必要なんだよなあ、こういうのって。

 イ○スやガ○ジーが教科書に載っているのは、あんな聖人はまずいないからだ。

 

「いいだろう。ならまずは……おまえは現状をどこまで理解している?」

 どんどん、ばんばん、がんがん。

「さっきから喧しい『これ』が何なのか、把握しているか?」

「いや。さっぱり」

 寝起きでいきなりそんなの把握してたら、むしろ怖くね?

「今扉の向こうには、完全武装した親衛隊や使用人どもが押し寄せている。目的は私の捕縛、もしくは殺害。なぜこんなことになったかというと、連中の頭である叔母上(ローゼガルド)が再起不能になったことで、これまで横暴を極めていた自分たちが処断される恐怖に耐え切れなくなったからだ」

 

 あ、つまりおれのせいって、いいたいのね。

 それはまじでごめん。

 うん、事実は事実として認めよう。ちゃんとカウントしよう。

 お互いに。

 

「それって、あの化け物としか言い様のなかったローゼガルドが『なにもせずとも勝手に潰れた』っていう事実と『絶対に死んでも話さなかった事を、好きなだけ知れた』っていう事実を差し引いたら、どれぐらいのマイナスになる?」

 

 月給制のサラリーマンなら『申し訳ございません』の一本だろう。

 だが今やおれは自分の命をチップにしたフリーランスみたいなものだ。

 強引にでもこちらの分を主張しなきゃ、毟られて死ぬだけなんよ。

 

「……そうさな。最悪の魔女自身とその秘密。暴発した有象無象ども。計算する意味などない程に、桁が違うな」

 

 あ、凄い。認めた。素直に感心する。

 記憶の扉の向こうをそっと覗く。

 おれの知ってる、顔も覚えていない課長や部長なら、死ぬ気ではぐらかして絶対に認めなかった。もしくはよくわからん威圧でごり押しだった。

 

 ……ま、いうべきはいっておこう。

 

「だとしても、そちらの予定を大幅に狂わせてしまったのは事実だ。そこに関しては申し訳ない。そちらに害を与えようという意図はなかった」

 

 向こうからしたら『そんなの知らねぇよ』だろうな。

 

 けどまあ、区切りとしては丁度いいだろう。

 そろそろ、当初の予定通りに。

 

 と、そこでふと気付いた。

 真面目な話をしている間、どうにも手元が落ち着かなかったので、無意識に腰あたりにいた猫を撫でていた。

 すると他の場所にいた猫たちも手の方へと寄ってきて、両手の周辺が猫で埋もれて見えなくなっていた。

 たしかエキノコックスは狐と犬だったか? などとかすかに思い出しつつも、他にもやべー雑菌はいくらでもいるので、するりと手を抜き、素早くベッドから降りた。

 

「あまり無下にしてやるな。そやつらの献身はなかなかのものだった」

 

 ヒルデガルドが屈み、足元にいた猫を抱き上げようとするが――その手は猫の身体をすり抜け空を切った。

 

 え? なんで? ヨガでもやってんのかこの猫?

 

「こやつらに触れるのはおまえだけだろうよ」

 

 小動物の猫と『そうじゃない方の猫』について説明を受ける。

 ついで、ヒルデガルドがこの部屋に入った際に見た一部始終も。

 

「……そんな生贄みたいな真似されても」

 

 猫の列を辿り、ゆっくりと窓際へ進む。

 

「いったであろう。生物ではない。自然現象だ。その意味がわからぬおまえではあるまい」

 

 自然現象を味方につける超存在。

 まあ、どう考えてもピラミッドさんだよな。

 

「わたしは、そちらに、どう認識されている?」

「新たな邪神」

 

 うん、それ、どう考えてもピラミッドさんだよな。

 おれの立場はたぶん、下請けみたいなものだ。

 動けないから、お前がやれ。

 オーダー内容は要領を得なかったが、アフターケアは万全。死にそうになっても傘下のファントムキャッツがリカバーします。保障期間内は大丈夫。ただし期限は未公開。請求料金は弊ピラミッドの気分で決定されます。……なにそれ、まじで怖いんだけど。

 

「そんな大層なものじゃないよ。もっと小さく、しょぼいやつだよ、わたしは」

 ピラミッドさんについては秘密にしておく。

 きっとあれは、おれの切り札だ。

 

「あ! そっちか! ……ちょっと待て。今手が離せない。ああもう次から次へと有象無象どもめが」

 なんかいきなりぼろっと落ちたドアの一部を押さえ込み、ヒルデガルドが作業に戻る。

 

 それを横目に、開け放ったままの窓へと辿りつく。

 どうやら猫たちは、逃走用にセットしておいた、闇をこねこねねじねじしたロープもどきを伝って入室しているようだ。

 さらに窓から下を見ると、猫たちから10メートルほどの距離で数名の男たちが倒れていた。

 

 どうしてこちら側からは押し入って来ないのか不思議だったが、室内の床で寝てる、ハウザー、ヨランダ、プルメリアの3人と合わせて考えるに……理屈は不明だが、どうやらこの猫に近づくと『こう』なってしまうようだった。

 

 ちゃんとヒルデガルドの部下をしている筈の3人が、主だけを働かせてぐーすか寝ているのはありえない。

 なんか雑に転がってるし、寝るというよりは気絶だろうか。

 

 うん。やっぱり、当初の予定通りに行こう。

 

 わかってはいたが、やはり際立っている。

 

 今も扉前で何かの作業にかかりきりの、このヒルデガルドという存在の『やべえやつ度』は群を抜いている。

 

 意味不明だが超強力な猫スタンを無効化し、おれ渾身の『補強』をあっさりぶち破る、その実力(暴力)

 

 ここまではまだいい。

 いや、実はぜんぜんよくないんだけど、それでもまだなんとかなる範囲だと、希望を持つことはできる。

 

 

 けど、ここからが、まじで、どうしようもない。

 ことが実力(暴力)以外の話になると、もう本当に、どうしようもなくなってしまう。

 

 

 ローゼガルドを『読んで』知った、王国が崩壊してもなお生き残り、しかしいまだにある程度の影響力を保持し続けているという、ガチな王族の一員だという事実。

 

 崩壊を生き延びて、しかも一定の権勢を保ち続ける王族なんて、どう考えても対人関係スキルがカンストしてるモンスターたちだ。

 普通なら終わってるのに、なぜか終わっていない。

 暴力や権力での優位がひっくり返った筈なのに、なぜか滅びずに今日まで続いている。

 

 つまりそれは。

 下準備。立ち回り。交渉。

 この3つにおいて、他の追随を許さない、国内最強だったという証左に他ならない。

 

 で、問題のヒルデガルドさん。

 そんなガチ勢の現当主。

 ローゼガルドが面倒事を押し付けた、という側面も多分にあるだろうが、あのプライドの塊みたいなやつが、自分たち王族の価値を貶めるような差配を許すわけがない。

 実際に『ダメなら殺す』とか本気で考えていた。

 しかしそれら全部をクリアして今の地位にいるのがヒルデガルドさん。

 

 いや、無理だろ。

 

 中小企業の課長や部長相手に冷や汗かいてるおれが、どう逆立ちしたって、太刀打ちできる相手じゃない。

 

 やれ交渉だ取引だのいって席に着いた時点で、もう、どうやって負けるかの選択肢しかない次元だと考えて間違いない。

 

 だから当初の予定通りに行く。

 

 そう。

 

 逃げる。

 

 窓から逃げる。

 

 やべーやつらに関わってやべーことになる前に、とんずらかますのだ。

 

 さっきちょっとマイナスだ何だといって恩を着せたが、それも結局は『だから見逃して下さい』というアピールに過ぎない。

 最低限の手ごたえはあった。

 あとは「話せてよかったよ」とかそれっぽいことをいって素早く行こう。

 

 窓際の猫たちには「ありがとう、助かった。病気とか雑菌とかの心配がないなら、今度はサービスするぜ」とお帰り願い、逃走経路をクリアにする。

 すると、なぜかベッド上の猫達までもが全部一気に帰ったので、逃げる気満々なのが筒抜けになったと感じたおれは素早く別れの挨拶を繰り出した。

 

「話せて『ではふたつ目だ。おまえはその身体の危険性を、どこまで理解している?』――え?」

 

 やべ、めっちゃかぶった。

 どうする、このまま無視して行くか?

 けどなんか気になるワードが飛び出したんだよなあ。

 

「……期限が2月程度だということなら、もう解決してる」

 

 巻角野郎(ゲオルギウス)を『読んで』その辺りは知っている。

 この身が、金持ち向けの生体現実人形(わりぃ、やっぱつれえわ)だということも、色々と思うところはあるが――まあ新品だから良し! で押し通す覚悟はできた。でろでろクリーチャーとかじゃないだけ上等上等。

 

「ほう。それはおめでとう。前座は既に片付いていたのだな」

 

 ファントムキャッツのおかげでな。

 ガワ以外は終わる一歩手前だったのが、今やすっかり元気一杯だ。この感じなら長寿記録に手が届く予感すらある。

 なので『前座』とかいう不吉な言葉は無視して、

 

「うん。ありがとう。では、こ」

「その身が、私の母上の複製だということは?」

 あ、そうなの?

「製作者が叔母上だということは?」

 うん?

「当時を知る者がいうには、生き写しだと。母娘だからな、当然、私とも似ている。そこの鏡で確認してみろ、どう贔屓目に見ても、他人では通らん程には同系統だ」

 

 え、じゃあローゼガルドは、自分でぶっ殺した姉貴のロリクローンを、せっせと造っては売りさばいてたの? どう考えてもロクなことには使わない、アレなやつらに?

 ……なんつーか、ヘドロみたいな感情が渦巻き過ぎてて、心底関わりたくない。

 

「おまえは叔母上――魔女ローゼガルドは、人々からどういった感情を向けられる存在だと思う? まあ予想はつくだろうが、それをさらに酷くして煮詰めたモノに100を掛けろ。それでようやく最小値だ」

 

「なにを、いってるんだ?」

 嫌な予感が背筋を這い上がる。

 きっと良くないことだ。それだけはわかる。

 

「端的にいうと、とんでもなく怨みをかっているということだ。粛清、処刑、謀殺をはじめ、思いつく限りのことは大体やっている。少数民族も2つほど消した。それでも今日まで叔母上は健在で思いのままに振舞って来られた。なぜだかわかるか?」

 

 いつの間にか作業を止め、こちらを見据えていたヒルデガルドが一歩踏み出す。

 あ、これはあれだな。

 

「怖かったからだ。地獄の底から来た怪物としか思えぬような非道や残虐を何の躊躇いもなくやってのけ、そうしてぶちまけた血や臓物を余さず己が利として掠め取る、まるで(うじ)がたかるかのようなその手管が、ただただおぞましかったからだ」

 

 さらに一歩進む。

 これはあれだ、ちんぴらの標準装備。物理的な距離を詰めることで、圧迫感を与える系のやつ。

 揺れていた内心が落ち着きを取り戻し始める。

 

「そしてなにより、強かったからだ。悪辣極まる謀略を息を吐くように容易く生み出すその悪知恵が。古き血統でありながらも進んで受けた強化措置の結果、侵蝕深度(フェーズ)の果てすら超越し、理解不能な次元にまで達した闇の暴力が。それらすべてを駆使し組み上げた、外道どもが連なる闇の人脈が、手下どもが、どうしようもない程に強かったのだ」

 

 いって、また一歩進む。

 ふむ。

 どうやらおれは、こういう詰める系のパワハラを随分とくらってきたらしい。

 それでびびったりムキになったりと、さんざん踊らされてきたっぽいな、これ。

 

「だが憎いものは憎い。いくら怖くとも、どれだけ強くとも、胸の内にくすぶる怨みには関係がない。表には出せないが、あるものはある。果たされるまでずっと、ずっとな」

 

 だから落ち着いてしまう。

 未知のやべーやつだったヒルデガルドが、しょーもない課長や部長やちんぴらと同じ行動を取ったことで、超絶スケールダウンしたように感じられてしまうのだ。

 

 ……もしかしてこの人、交渉担当じゃないのかも。

 

「おまえのその身は、我が母ダリアガルデの幼少のみぎりそのままだ。母とローゼガルドは同じ父母から生まれた実の姉妹だ。この意味がわかるな?」

「……つまりローゼガルドともそっくりで、見るやつが見れば、一発で縁者だとばれる。そうなると、まあ無事ではいられない」

「叔母上の身に不幸があったという事実もそれに拍車をかける。あの目立ちたがりが1月も公の場に姿を見せなければ、誰でもそうだと気付く。ならばもう魔女に怯える必要もない。躊躇う理由など、きっとどこにもありはしない」

 

 たとえ内心が落ち着きを取り戻しても、会話の内容はわりとどうしようもなかった。

 

「長きにわたり、魔女(外道)は蠢き続けてきた。怨みは全土にばらまかれている。復讐の鬼はそこかしこにいる。子供の身だからと、手心は期待しない方がいい。そんな次元は()()の昔に過ぎている。むしろ『今ならまだ容易(たやす)い』と、こぞっていきり立つ悪鬼どもだろうよ」

 

 つまりこれ、国内はもちろん、下手したら外国でも『この姿』で出歩くのは危険ってことになるよな。

 それこそ、即死できればラッキーってレベルのやばさで。

 

 

「ゆえにおまえがその身の安全を確保するには」

 

 そこで一度区切る。

 

「我々の庇護下に入るほか道はない」

 

 

 まあ、それが一番簡単確実だ。

 

 ……けどこれ、わりと露骨に視野を狭めにきてるよな。

 

 まだこっちに来たばかりで『ほか』を知らないおれに対し『我々の庇護下に入るほか道はない』とか断言しちゃってるもんな。

 うーん、なんだかなあ。

 

 

「だから降れ。私のもとに。なに、悪いようにはせん」

 

 

 まさに絶体絶命のどん詰まり。そんな時に差し出される、死ぬほど都合の良い救いの手!

 

 

 ……まあ普通に考えたら、そんなもん手に取っちゃうと、死ぬよりひでぇことになるよな。

 

 資金繰りで首が回らなくなった町工場に現れるサラ金業者とか、死神よりもえげつないネクロマンサーだよ。死体も余さず使います、みたいな。

 

 で、今回の場合予想できるのは。

 向こうが把握している要素――杭が飛ばせて人を本にできるぐらいしか取り得のないおれの使い道とは。

 

 殺し屋。脅し屋。指定された奴を本にして情報がっぽがぽ屋。

 降り庇護下に入ったおれに拒否権などあるはずもなく。

 嫌な奴から良い奴まで、子供から大人まで、満遍なく区別なく、いわれた所へゴー。

 この契約に期限はありません。行けるところまで行ってもらいます。

 

 うん、死ぬよりひでぇな、こりゃ。

 

 論外だ。

 当初のプランに戻ろう。目指すはできるだけ遠くの国。

 まあ普通に考えて、外国の王族の顔なんて、知ってるやつの方が少ないだろ。

 ならまずは、できるだけ穏便にここから離脱だ。

 

「ありがとう」

 

 なるべく刺激しないよう、柔らかく、やわらかく。

 

「手を差し伸べてくれたこと、嬉しく思うよ」

 

 最悪、この場で殺されるか。

 

「じゃあ、もう行くよ」

 

 構うものか。見せてやる。おれの、本気の逃げ足を。

 

 などと息巻いたものの、思っていたよりもずっと足が短く――というより、身体全体が小さく、窓枠に足をかけるのに、めちゃくちゃモタついてしまう。

 

「……なにが不満か?」

 あ、やっぱ黙って見逃してはくれないのね。

「殺し屋に、なりたいやつが、いるか?」

「そんなことはさせん」

「降って庇護下に入ったら、どうとでもなる。状況は変わるものだ、よ」

 硬っ! 身体硬っ! 柔軟性ゼロだこれ!

「ふむ。そうなるか。なるほど、思ったより厄介だな」

 もうこうなったら『黒い手』で自分を掴んでUFOにキャッチャーされる感じで運んだ方がいいかもしれない。

 

「ならこうしよう。おまえは魔女(ローゼガルド)が造りだした、我が母ダリアガルデの複製だ。その非道な扱いに堪えかね、血縁である私と共謀し見事魔女(ローゼガルド)を仕留めることに成功した。生まれはどうあれ、私はおまえを妹と認め、王族としての権利こそ与えられぬがさしたる義務もない身として、引き取ることと相成った」

 

 動きが止まる。

 ナニいってんだこいつ。

 いきなり胡散臭すぎる。

 それになにより、

 

「そんなことをして、そちらにどんな得がある?」

「表向きにはない。周囲には肉親の情、とでもいっておくさ」

「裏側は?」

 

 いつの間にか、問い返していた。

 背を向けて逃げ出す筈が、自然と相対していた。

 

「私の宿願を、手伝って欲しい」

「……本にしろとか殺せとか、その手のやつに、従う気はない」

「むしろ殺されては困る。というよりも、絶対に殺すな。私の目的は救うことだ」

 

 なんかどこかで聞いたような言葉が飛んできた。

 

「誰を?」

「友人を」

「どうやって?」

「まだそこまでは話せない」

「それは危険か?」

「上手くいっても失敗しても、どちらにせよ私自身は死ぬ。お世辞にも安全だとはいえぬな」

 

 表情、声の調子、共に大真面目。

 どうにも本気っぽい。

 

「どうして、そこまでする?」

「その為に私は生きているからだ。国も、血も、すべてはその為の手段に過ぎない。だが、たとえこのまますべてが予定通り順調に進んだとしても、おそらく、あと一歩届かぬ。最後の一押しが足りぬ。もしかしたらおまえは、その最後の一押しになるやも知れん。だから」

 

 私の宿願を、手伝って欲しい。

 

 そうヒルデガルドは繰り返した。

 

 それに対しおれは。

 

 

 ――ありか? これ、ありか?

 

 ばくばく餌に喰いついていた。

 

 上手くいっても失敗しても、どちらにせよヒルデガルドは死ぬとか、考えるまでもなく超危険な案件だ。

 だがここは、未知の危険で満ち溢れる人外魔境。

 さらにこの身は、自動的に致死量のヘイトを集める叔母上の愛の結晶(わりぃ、やっぱつれえわ)だ。

 どう上手くやったとしても、1度や2度は命の危機が訪れてしまうだろう。ノーミスで行ける気なんて微塵もしない。つうか1、2度どころか3、4、いや、5、6度ぐらいはありそうな嫌な予感が、おれの背筋をサンドバッグと勘違いしてるレベルでぶっ叩いてやがる。冷凍肉を殴るロッキーでももうちょい遠慮してた。それぐらい切実な予感がある。

 

 が、しかし。

 

 もしそれを、ひとつに絞れるとすれば、どうだろうか?

 

 いつどこでいくつ襲いかかってくるのか不明なものと、その時その場所で、初めから決まっていたひとつと相対するのでは、果たしてどちらが(くみ)(やす)いだろうか。

 

 その時が来るまでは、今も一定の力を保持し続けている権力者(王族)が身内扱いで面倒をみてくれるという。きっと権力という名の無敵バリアや最高レベルのセキュリティが、本番までおれの身を護ってくれるに違いない。結果として、注力点はひとつに絞られる。

 

 魅力的だ。

 当座の安全と危機が訪れるタイミングの把握。 

 自活の筋道をつけるまでのつなぎとしては、大いにありだ。

 

 さっき確認した。

 ヒルデガルドは本気だ。

 たぶん、つまらない嘘はないと思う。

 いや、もしあっても、当初の海外ルートに戻るだけか。

 

 決まりだ。

 行け。

 

 

「……王族の義務だとかいわれても、こたえられないよ?」

 中小企業の課長や部長相手に冷や汗かいてるおれが以下略だ。

「いわんよ。その手の人員は間に合っている。私がおまえに望むはだたひとつ」

 そこで小さく息を吸って、

 

「あの馬鹿を助ける際、全霊をもって私に協力せよ」

 

「わかった。そちらが裏切らない限り、約束する」

 チキンセーフティーがうなりを上げるも、ヒルデガルドは特に気にした風もなく「お互いにな」と笑い飛ばした。

 

「なら、これから貴女のことはどう呼べばいい?」

 ヒルデガルドやあなたでは違和感がある。

「まあ、下の姉妹なら『姉さま』『お姉さま』あたりか」

 

 ふむ。姉さま、は違和感なくいけるな。

 お姉さま、はタイが曲がりそうだからパスだ。

 

「では姉さま、これからよろしくお願いします」

「う、うむ。おまえ、微塵も躊躇いがないのだな」

 

 そりゃね。

 アレな上司相手の尊敬ロールプレイに比べれば、難易度が低すぎるぐらいだ。

 

「ならば……おまえに丁度いい名がある」

「な? ああ、名前ね」

 たしかに、いつまでも名なしの邪神(下請け)のままってわけにもいかんよね。

「そうだ。やはりこれしかあるまい」

 

 どうしてかその言葉には、ここまで一切なかった馴れ馴れしさ――いや、親しみが感じられた。

 

「アマリリス」

 たしか、なんか花の名前だったか。

「どんな由来が?」

「生まれて来ることができなかった、母の第2子。私の妹となる筈だった命の名だ」

 重っ!

 いや、重すぎるって!

「いや、それ、使っちゃダメじゃないか?」

「だから良いのだ。皆がそう考えるゆえに、容易く触れられん。幼き母と同じ姿でその名。まともな神経をしていれば、まず関わろうとは思わん」

 怖っ!

 このひと怖っ!

 使えるものは使うタイプだ。

「不服か?」

「ありがたく、頂戴するよ」

 ……おれと同じだな。

 

「それにな、その名を持つ者が叔母上(ローゼガルド)に引導を渡すのは、これ以上ない供養になる気がしてな。やはり、やられっぱなしでは口惜しかろう。せめて名だけでも、ここに並ばせてやりたいと思うのは、まあ私の感傷でしかないがな」

 次々と明かされる、これからおれが参入する一族の闇!

 しらんふりもあれなので、なかば義務で訊く。

「原因はローゼガルドだったの?」

「毒を盛ったと。母上を弱らせる策謀の一環だったそうだ。さっき『読んで』知った」

 

 うーんこれ、本にできるやつは片っ端からやっちゃっていいっぽいな。

 やって後悔することは、まずなさそう。

 

「そんな顔をするな。報いはもう、すぐそこまで来ている」

「それって、あれのこと?」

 さっきからずっと気にはなっていたぐるぐる巻きドアに眼をやる。なんつーか、めっちゃ禍々しい。

「そうだ。来いアマリリス、これを見よ」

 

 おそるおそる近づくおれに対し、じゃじゃーん、と効果音がつきそうなノリで提示されたのは、部屋の四方から伸びる黒い糸束でぐるぐる巻きにされ、ドアの半ばに固定されたドス赤い本。……うん、結構前からわかってたけど、ローゼガルドブックだよね、これ。

 

「仕掛けとしては単純だ。この扉が破壊されると同時に、これまで加えられた衝撃の全てが、まとめて一気に4本のワイヤーを引っ張る。ワイヤーの深度は8。鉄でも紙のように裂ける。さて、この悪趣味な本はどうなると思う?」

 

 4本の黒いワイヤーから分岐した線が、まるでメロンの網目のように本全体を万遍なく覆っている。

 鉄でも裂けるという鋭さに加え、四方から強力な力で引っ張られるとするなら。

 

「ばらばらになる。本が無数のサイコロ状に裁断される」

「そうだ。ならあとは再現だ。あの地下でおまえがやったことと同じ、しかしその規模はケタ違いの、どうしようもなくはた迷惑な悪あがきの」

 

 ローゼガルドの性格上、黙って死ぬなんてことは絶対にありえない。

 

魔王(ゲオルギウス)の時とは違い、下準備の時間は山ほどあった。如何な状況にあろうとも、あの叔母上が、誰かの足を引っ張る努力を怠ることは絶対にない」

 

 すげー嫌な信頼だな。納得しかない。

 

「どれぐらいの規模かな?」

「この館が丸ごと、跡形もなく吹き飛ぶだろうな」

 

 こいつならそれぐらいやるよなあ、とローゼガルドブックに眼をやり、そこでようやく気付いた。

 注意深く細部まで見ると、おれが切り貼りを繰り返し『補強』したドア(闇)に、さらに手が加えられていた。

 ドア(闇)の全体に渡り、植物の根のように、あるいは血管のように細い黒糸が隅々まで張り巡らされている。

 

「これ、本の固定だけじゃなくて、ドアが壊れないように調節もしてたんだ。崩れそうになったら、その糸を伝って補充して」

 

 糸の1本は窓から外へ出ている。夜空の補給路、闇に満ちた只中へ。

 糸というよりかは、実質ポンプか。吸い上げ続ける限り、このドアを維持する闇の補充リソースは供給され続ける。

 だからどれだけ頑張ってもこのドアは破れない。崩れる端から延々と修復され、果てはない。夜が明ける、その時までは。

 

 かといって壁をぶち破ろうにも、そこはおれ謹製の黒塗り補強でがっちがちだ。

 まだドアの方が手ごたえがある分『よしここを集中攻撃だ』となり、勝ち目のない根比べ――実際はただ無限の闇を殴り続ける荒行――に挑み続けるわけか。

 

 で、あとは好きなタイミングで糸を切るなりして補充を止めれば、ドアは破壊され本はばらばらになり、ローゼガルドボムが起爆すると。

 

 イレギュラーのおれに、予想外のローゼガルドブック。

 だからどうした。使えるものは全部使う。

 そんな思想が垣間見える、くっそエグい仕掛けだった。

 

「この『闇』関連の技術って、便利すぎない? そこら中が即死の罠だらけになりそう」

 

「ならんよ。闇を無制限で使用できるのは、もはやおまえと私ぐらいだ。おまえの力をどう使おうがおまえの勝手だが、私にもそれができるという事実は決して他に洩らすな。そこで寝ている3人にもだ」

「あんまり信用できないやつらなの?」

「たわけ。知っていれば『吐かせる』という価値が生じてしまう。もとより、貧乏くじを引かされた不運な者たちだ。これ以上、さらに背負わせるつもりはない。わかったか?」

 

 お、部下からの好感度は高そうだな。

 

「わかった。いわないよ。……もしこれが他に知られたらどうなる?」

「通常なら、便利な存在として方々でこき使われたあげく実験動物だろうが、王家所縁となれば『箔』にもなろう。せいぜいうまく使え」

 

 あー、つまり、王家に縁者として匿われている内は『すげー、流石っす!』だけど、野良になった途端『貴重な実験動物だ! 逃がすな捕らえろ!』になっちゃうと。

 

 はーい、逃走防止用の首輪入りましたー。

 

「ん? あれ? 王家の者って、まだそこそこ数がいるよな? それなのに『闇』を無制限で使えるのは2人だけって、なんで?」

「元々『古き血統』に連なる身であるが故だな。その血の濃さが災いして、強化措置など施そうものなら、おおよそ半分以上は死に目となる。進んでそんな自殺じみた真似をする狂人など、そうはおらんよ」

 

 いるんだよなあ、今おれの目の前に。

 

 

 ――国も、血も、すべてはその為の手段に過ぎない。

 

 

 わかっちゃいたけど、やっぱこのひと、ガチ勢なんだよな。

 

 つい黙り込んでしまう。

 そういえばいつの間にか、どんどん、ばんばん、がんがん、とうるさい騒音は消えていた。

 しかしよく観察してみると、ドアの向こうから微かな振動が伝わってくる。たぶん、まだ連中は頑張っている真っ最中なのだろう。

 けど現状はほぼ無音。最初おれは、あの騒音で目が覚めたというのに。

 

「これって、音も遮断できるの?」

「ああもうるさい中では、ろくに話もできまい」

 

 ミュートのオンオフは自由自在と。

 最初のあれは、おれを起こすアラームだったのか。

 

 思い出す。

 

 目が覚めれば、もうすでに始まっていた。

 おれはとっくに、着席していた。

 

 やれ交渉だ取引だのいって席に着いた時点で、もう、どうやって負けるかの選択肢しかない次元だと思しき相手の用意した椅子に。

 

 なかば固定された状態で、それに気付かず目覚めていた。

 

 いやこれ、地下ピラミッド玉座の時と何も変わってないんじゃ。

 

「この手の小技は、また改めて教えてやる。今はまず3人を起こすぞ。あまりねばり過ぎて、連中に諦められても困る」

 

 ……いまさらびびってもしょうがない。

 

 我がお姉さまは頼りになるなあ、ぐらいの気持ちで行こう。

 

 いや、もっとポジティブに、ヘイヘイ、そんな小細工してまでおれが欲しかったのかい、この欲しがりさんめ。ぐらいの気持ちで行こう。

 

 ただ。

 

 いつでも1人で気軽に海外旅行に行けるコネとルートは、早急に確保しておこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

「紹介しよう。こやつはアマリリス。我が妹だ」

「おはようみんな。アマリリスです。縁あって姉さまの姉妹(きょうだい)になったので、これからよろしく」

 

 寝起きの3人のリアクションは共通して『あ、はい』だった。

 

 ただ無言の内に、いやねーよ、なんでそうなるんだよ、みたいな意をびんびんに感じたが、ここはおれがとやかくいうより、責任者であるヒルデガルドに任せるべきだろう。

 

「まあそうなった。以降、よしなに」

 ひゅー、上意下達ぅ! 

 3人のリアクションは共通して『はい』だった。

 

 余計な手間がゼロって、やっぱ魅力的だよな。

 やられる方は堪ったもんじゃないだろうけど。

 などと思っていると、こちらを見つめるヨランダと、ばちっと眼が合った。

 

「……なあ、その、あんたはそれで、いいのか?」

 

 良いか、悪いか。

 

「もちろん良いさ、ヨランダ。今のこれがわたしという己だからね」

 

 本音だ。

 目覚めたらこの身体だった。

 中身だけ、魂だけが移動云々の話をするなら、たぶん元の身体はもう死んでる。

 もし本当に魂なんてものが存在するなら、抜け殻になった時点でアウトだろう。

 

「まだ少し違和感があるが、だんだん慣れてもきた」

 

 だからといって、おれまで死んでやるつもりはない。

 顔も名前も覚えていない誰かに付き添い、生きることを諦めてやるつもりなんて微塵もない。そもそもおれは、心中なんて無意味だと吐き捨てるタイプだ。名無しの誰かも、道連れなんて望みはしない。それだけは絶対だ。おれがいうんだから間違いない。

 

「だったら意地でも、生まれたからには生きてやる。本当に嫌なこと以外なら、大抵のことはやるんじゃないかな、わたしは」

「そっか。なら、あたしと同じだな」

 

 お、そうくるか。

 

「うん。じゃあよろしくな、アマリリス様。あたしは育ちが悪いから、生まれとか経歴とか、そのへん、わりと雑にいけるんだ」

 

 いいね。

 自分たちの中におれが入ることの、プラスのみを即受け取れる頭の速さ。

 きっと彼女は好きになれる。

 

「…………」

 

 だが、それとは対照的に。

 

「なあ、あの執事の爺さん、なんかすごい微妙な顔してない?」

 

 作業の手は止めず、こそっとヒルデガルドに耳打ちすると、

 

「……執事? 執事(バトラー)はアルベルトという禿頭の巨漢だ。そこのハウザーではないぞ?」

「……? あの手の服着てる男って、執事って呼ぶんじゃないの?」

「男でも女でも、とりあえずは使用人と呼んでおけ」

 

 まじでか。そんなん知らんぞ。

 

「おまえは境遇がロクでもないという設定だ。まともな教育を受けていないわりには聡明だ、程度を保てればそれでいいが、改善できる箇所は直していけ」

 だがまずはそれよりも、と手は動かし続けたまま器用におれを指す。

「とりあえず、その格好をどうにかしろ。プルメリア、ヨランダ、どこかに古着のひとつやふたつはある筈だ。何でもいいから、探して着せろ」

 

 いや、そんな都合よく子供服とかないでしょ、とか思っていたのだが、どうやらこの部屋には『できる限り当時のままにしておけ』という厳命があったらしく、意外にも2つほどそれっぽいものが出てきた。

 

「ほう、懐かしいな。母上はこれを取っておいたのか」

「時の経過を極限まで鈍化させるお(まじな)いが施してありました。これはヒルデガルド様のお召し物ですか?」

 プルメリアが両手で広げたそれを見て、

「ああ。もはや随分と昔になってしまったがな」

 それは黒い細身のドレスで、着用するとたぶん、真っ黒なタコさんウインナーみたいなシルエットになるタイプのやつだった。

 いや、どこのちびっこディーヴァだよ。王族のセンスすげーな。

 

「ヒルデ様。これってミゲル様の所のやつですよね?」

 そういってヨランダが広げたのは、細い縞模様のパンツスーツっぽい上下と黒シャツのセットだった。

「ああ。確か頼んでもいないのに送って来たやつだったな。結局袖を通すことはなかったが」

 こっちだ。リトルディーヴァよりは断然アリだ。

 けどその前に。

「ミゲル様って?」

「あー、なんていいますか」

 

 そこで一度ヨランダはヒルデガルドに眼をやり、頷くの(許可)を確認してから続けた。

 

「ヒルデ様の親戚で、わかりやすくいうと、ヤクザの親分の息子です。この独特の紋入り縞模様の着用を許されるのは、直系か認められたごく一部の者だけです」

 なんか面倒そうないわくがついてるな。

 これなら、のど自慢ちびっこ歌姫路線の方が安全か? などと一瞬思ったが、そういえば、この姿の時点で安全なんてどこにもなかったわ。

「じゃ、こっちで」

 ヨランダの方へ行く。

「……これ、下手したら面倒な連中に絡まれますよ」

「いや、構わん。こんな状況だ。遅かれ早かれミゲルの一派とは協調する必要がある。いくつか手順を省けるやもしれん」

「またヒルデ様は、そうやってすぐ悪いことを考える」

 

 なんかハチミツ塗りたくって蜂の巣駆除に行かされる的なニュアンスを感じた気がするが、まあビッグボスが良しというのなら大丈夫だろう。

 

「けどさすがに下着類はないですね」

「……今よりかはましだろう。構わん。着せろ」

 

 一時おれの作業を中断し、されるがままに着替える。

 シャツの首元はネクタイではなく、金属紐のループタイだった。留め具部分には黒い宝石がはめ込まれており、どんなものかヒルデガルドに聞いてみたが『市場価値はさほどない』とのこと。

 

「靴は?」

「すんません、ないです」

 

 え? 邪神(下請け)なのに? 裸足なのは女神だぜ?

 などと場を和ませるジョークが飛び出しそうになったが、ヨランダが○'zを知っているわけもないので、ぐっと堪えた。

 

 そうして衣替えも終わり、そういやプルメリアはあんまり喋ってくれないなとか、ハウザーに至っては壁の置物に徹してるよな、とか考えている内に、全ての作業が完了した。

 

「よし、完成。じゃ、3人共これ被って」

 

 おれがコツコツと作り上げた、防護服という名のちゃちな布切れを渡す。

 

 脱出には例の『窓』を使う。

 それを通ってここまで来たおれやヒルデガルドは問題なく行けるが、ヨランダ、プルメリア、ハウザーの3人にとってあの窓は近づくだけで炎上必至。さらにその中に入って目的地まで歩くなど、ほぼ自殺行為に等しい拷問だろう。

 

 それをどうにかすべく、我が姉さまがずっと温めていた、たったひとつの冴えたやり方とは――防具で身を固めてごり押しすればいいじゃない、だった。

 

 イキりフルアーマー使用人(修正済)がダメだった実例を見ていたおれは、やんわりとその旨を伝えたが「あの程度の輩と一緒にしてやるな」と一蹴された。

 

 なんでも、ちゃんと準備さえすれば、今の3人なら『ちょっと熱い』ぐらいで行けるそうだ。

 だからさっさと用意するぞ、となり、闇を切り貼りするしかできないおれの技量が許す限りの最大限を駆使した結果、真っ黒いオ○Qのコスプレが完成したというわけだ。

 

 正直なところ、両目の穴を開けただけの、ぺらい布にしか見えない。

 が、実は幾重にも切り貼りを繰り返すことで高密度に闇を圧縮した、それなりに頑丈な布っぽい何かだったりする。

 

 それをひとりひとり被せ、足元を引きずらないギリギリでカット。多少のあそびはあるが、腕を外に出すのは危険なので止めましょう、と注意事項を伝える。

 その上からヒルデガルド謹製、養蜂場の職員さんが被ってる系の、首と顔を保護する垂れ網つきのハット(闇)を被せ、ずり落ちないよう固定。顎紐(あごひも)をしっかりと締め、動き回っても大丈夫だと確認が取れたなら出来上がり。

 

 どこに出しても恥ずかしくない、イカれたカルト系邪教徒の誕生だ。

 

「……見た目はあれだが、性能は本物だ。どこか不備はあるか?」

「いいえ。ありません。その、なぜかとても快適です。息がしやすいです」

「視界もめちゃくちゃ良いです。なんか後ろの方まで見えて気持ち悪いです」

「傷の痛みが、嘘のように消えました」

 

 週刊誌の最後らへんで通販してるパワーストーンのレビューみたいな感想が相次ぐ。

 こうも雑な仕上げでこの高評価。闇技術は可能性の塊だ。

 

「問題はなさそうだな。では始めるぞ」

 

 黒いヴェール付きの帽子を頭に乗せ、さらに黒い日傘を差し、自身も装備を固めたヒルデガルドが観音開きの『窓』を開く。

 いや、あれは窓を開くというより、べろりと切開した傷跡に闇を塗り固めて『治りを遅らせている』といった感じか。

 もっと機械的なものを想像していたが、思いのほか生物的な生々しさがある。

 

「あ、本当に、何も感じない。凄い」

 プルメリアと思しき邪教徒が歓声をあげる。身長と体型だけでもでわかるもんだな。

 

「むしろ心地良いって感じるのが、心底こわい」

 ヨランダとしか思えない邪教徒が賞賛の声をあげる。過ぎた快適さに(おのの)くとは、つまりは最高評価だな。

 

 まあ何にせよ、ちゃんと機能しているようで一安心だ。

 

 

「総員傾注。最終確認だ。行き先は本国――ネグロニア」

 

 

 最初に『読んだ』時にも思ったけど、なんというか、悪そうな名前だよなあ。

 

「到着場所は旧離宮の中庭を想定している。こんな時間に誰もいないだろうが、万が一の場合は素早く治せ。手遅れなら『窓』の中に放り込んで、知らぬ存ぜぬで通せ。深夜の人気のない私有地に入り込んでいる時点で後ろ暗い所のある輩だ。問題にはなるまい」

 

 なんか悪いこといってるなあ。

 さすがはネグロニア王族。

 

「中は視界が悪く狭い。入って少し進めば、少しだけましな通路に出る。そこで一度、私のもとへ集まれ」

 

 ぷつ。

 ドアへ闇を供給していた糸をあっさり切ったヒルデガルドが、一瞬の躊躇いもなく中へ飛び込む。

 次いでハウザー、プルメリア、ヨランダの順で入り、最後におれ。

 

 これが事前に決めた順番。

 

 先導はヒルデガルドにしかできない。だとすると最後に『窓』を閉めるのはおれになる。

 

 微妙に狭い観音開きをくぐり振り返る。

 視界の先、今までいた部屋のドアにひびが入る。瞬間ごとに亀裂は増えていく。その行く末を見届けることなく、おれはそっと『窓』を閉じた。

 

 

 中は相変わらず、先が見えない真っ黒な空間だった。

 足元を見ると、いくつかの足跡が残っている。

 それらが3歩先で不意に途切れていたので、急な段差に足を取られることなく、えいやっと着地を決めることができた。

 

 出た先は少し開けた空間。

 2回目で多少は慣れたのか、前よりは視界が確保できている。

 ここは……来る時に延々と歩いた、そう広くないトンネル状の不思議空間だな。

 

「来たか。なにか問題は?」

「ない。最後まできちんと閉めた。けどあれ、閉めても『窓』は消えなかったけど、そういうもんなの?」

「消滅までの時間にはバラつきがある。最長で30分。最短で5秒。原因はまだ不明。これからの研究次第だ」

 なるほど。ヒルデガルドにとっても、この謎空間移動はまだ未知の領域が多いのか。

「窓が存在しても、あれを開けられる者が向こうにはいない。問題はあるまい」

「わかった。じゃ予定通り、一番後ろで皆を見てるよ」

 大人しく一列で待機している3邪教徒――並びはさっきと同じでハウザー、プルメリア、ヨランダの順だ――の後ろにつく。

 準備完了。いつでもおっけー。ピットクルー的なハンドサインを送ってみる。

 おれが来た瞬間に声をかけてきたってことは、きっとヒルデガルドには見えている筈だ。

 

「よし。では行くぞ。何かトラブルが起きれば、すぐ私に報せろ」

 

 そうして一列になったままゆっくりと進む。全方位が濃密な闇で埋め尽くされ視界はほぼゼロ。足を踏み出してはいるが、進んでいる実感は乏しい。

 しかし、半歩踏み出すタイミングが遅れるだけで前の人影を見失ってしまうので、動きがあるという事実だけは確認できる。

 

 いや待てよ。多少慣れてるおれですら()()なんだから、初めての3人は10センチ先すらも見えていないのでは。

 

「なあヨランダ。前の人って見えてる?」

 え? と振り向こうとしたので、前を向いたままで、と軽く押し出す。

「いえ、見えないです」

「じゃあどうやって前に続いてるの?」

「黒縄でつくった大きな細長い輪っかの中にいるんです。あたしが最後でヒルデ様が先頭の」

 電車ごっこかよ! とはいわないでおいた。

 視界10センチの状況下で、はぐれず集団で目的地に向かうには、これより良い手は思いつかない。

「アマリリス様も入りますか?」

「……ありがとね。わたしは見えてるからいいよ」

 

 前とは違い、一歩進むごとにブ厚い暗幕を押しのける作業は必要ない。

 それらは全て先頭のヒルデガルドがやってくれているので、ただ普通に歩くだけ。

 楽とか快適を通り越してヒマですらある。

 

「あのさヨランダ」

「はい?」

 いやだから振り向かなくていいってば。

「なにも異常ない?」

「ないです。なんなら手を外に出しても平気みたいです」

 オ○Qスーツの下からにゅっと手を出してひらひらさせる。

「うーん。やっぱりもう一重ぐらい巻いとく?」

 こうして見ていると、どうにも炎上した使用人たちを思い出してしまう。

 連中は『窓』に接近するだけでダメだった。

 で、今ここはその中。

 本当にこんなコスプレもどきで最後まで耐えられるのか、なんだか不安になってくる。

 目の前で急に「ぎゃー」とかいって焼死なんかされたらトラウマ待ったなしだ。

 

「いえ、遠慮しときます。ヒルデ様がいうには、どういう基準で『足されて』いるのか、はっきりしないらしくて」

 お、なんか謎ワードが。

「その『足されて』いるってのは?」

「……えー、ざっくりいうと、あたしとハウさんとプルメリアがなんかめっちゃパワーアップしているらしいです。で、その理由がアマリリス様があたしたちに何かを『足した』からだと聞いてます」

「え、なにそれ。そんなの知らないんだけど」

 

 まじですか、ともらすヨランダに、続けてと先を促す。

 

「最初は『これで治せ』って渡された、あの命の()こごりが原因って思ってたんですけど……ヒルデ様があの部屋に転がってた『治された3人』を確認したところ、特に変化はなかったそうなんです」

 もし本当におれがなにかをプラスしたとするなら。

「そりゃ、あいつらは味方じゃないんだから、いくら無意識の内にだろうと――いや、だからこそ余計に、パワーアップとか、させるわけないよ」

「まあ、そうですね」

 思い当たるフシは……ないな。わからん。

「じゃあヨランダたち3人は、そのパワーアップがあったから、そんなちゃち――ンン゛ッ! 即席の防護服でも大丈夫だってこと?」

「ぽいですね。きっと侵蝕深度4()のままだったら、こんな()()()な布切れじゃ耐え切れなくてぶっ倒れてたと思います」

 お。かましてきやがる。

 思えばこんな軽口、ここにきてから初めてだ。なんだか嬉しくなってしまい、ついつい勝手に口が回りだす。

「もっと豪華なドレスの方がよかった?」

「そうですね。高値がつく方が嬉しいです」

「あは」

 売るんかい。

 つい笑いがこぼれてしまう。

 なんだよ君、そんな返しされたら好きになっちゃうじゃないか。

 

「ヨランダ」

「す、すみません」

 最前列からヒルデガルドの声が飛んで来る。

 そりゃまあ聞こえてるよな。

「確かに布切れはちゃちだが、帽子の方は手間暇をかけている。一緒にしてくれるな」

「はい。最初からわかってます」

「ならばよし」

 

 思ったよりヒルデガルドと部下の距離は近いのかもしれない。

 いや、信頼関係の構築に成功しているとたたえるべきか。

 ま、それはそれとして、なにもなかったかのように続ける。

 

「けどさ、べつに『足される』分には良くない? パワーアップして困ることはないんじゃ?」

「いつあたしが破裂するかが、わからないんですよ。もっともっといけるかもしれませんし、次で『ボン!』かもしれません」

「うーん、そんなことにはならないと思うけどなあ」

 もし本当に、おれが『足して』いるのだとしたら、味方に被害を与えるなんて絶対にあり得ない。

 情や思いやりだけではなく、結局はまわりまわって自分も損をするという当然の帰結を理解しているからだ。

 無意識に損を求めるような、遠回りな破滅願望などおれにはない。

 だから気にせず行けることまでガンガン試してみよーぜ。

 が通るほどの信頼関係は築けていないよな、と静かに口を噤んだ。

 

 しばらく無言で後ろから、電車ごっこ(本気)を見守る。

 ん? なんか微妙に電車のかたちが歪んでいるような。

 

「ヨランダ」

 ヒルデガルドの呼びかけに、はいとヨランダがこたえる。

「可能な限りはやく、ミゲルと会談の場を設けたい」

「わかりました。下準備は必要ですか?」

「不要だ。妙なことは考えるな。平和的に業務委託について話し合うだけだ」

「ミゲル様がごねたら、どうしますか?」

「恩は売っておいた。否とはいうまい」

「了解です」

 

 そんなやりとりを聞いている間にも、やはり電車の歪みは大きくなっている気がする。

 ヨランダから先はぼんやりとしか見えないので、何がどうという具体性はないのだが。

 

「プルメリア」

 ヒルデガルドの呼びかけに、返事はなかった。

 最後尾のおれにまで届いている声が、プルメリアに聞こえていない筈がない。

 彼女が主の声を無視することもあり得ない。

 なら残るは。

 歪みの端が揺れた。

 

「ハウザー! プルメリアが倒れる、受けろ!」

「は!」

 

 キャッチに成功したかを確認すべく駆け寄ると、どうやら無事に上手くいったようだった。

 

 ゆっくり下ろせ、とヒルデガルドに指示されたハウザーがそっと横たえる。

 

「プルメリア。私の声が聞こえるか? 返事が無理なら瞬きを3回しろ」

 だらりと脱力したプルメリアの防護服の中に手を突っ込み、ヒルデガルドは何やらごそごそしている。

 今どうなってるんですか? とヨランダが聞くので、せめて見えるようにと、周囲の『暗幕』は全て取り払っておいた。

 

「申し訳、ございません、ヒルデガルド様」

「無理に喋るな。所詮、応急処置でしかない」

「いえ、随分と楽に」

 いやいや、素人目にも瀕死だぞおい。

「この異常な衰弱……プルメリアおまえ、なんだこれは? なにも『足されて』いないではないか。一体どういうことだ?」

「……これ以上、ばけものになるのは嫌だと思ったら、吐き出しちゃってました」

 

 え? おれ印のパワーアップ(条件不明強制オート)って、そんな、いらないからぺっします、とかできるもんなの?

 

「なぜ黙っていた」

「この方法が、最も確実に脱出できるからです。この身なら、あるいはこのままでも行けるかとも思いましたが、やっぱりそう上手くは、いきませごぼっ!」

「ああもう、だから無理に喋るなと」

 

 

「この身ならって、プルメリアには何かあるの?」

 落ち着きなくそわそわしているヨランダに聞いてみる。

「……あいつは最初から、初期施術が終わった瞬間から侵蝕深度(フェーズ)8だったんです」

「それって凄いの?」

「単なる友達(ダチ)ですよ」

 

 文脈はめちゃくちゃで何の繋がりもない返事だったが、いわんとすることは伝わった。

 

 

「ごほっ、捨て置いて、ください。そのつもりで、来ました。ヨランダちゃん。今ま」

 ヒルデガルドが額に指を当てると、即座にプルメリアは落ちた。

「寝てろ。着いたら起こしてやる」

 

 なんだかよくわからなかったが、大人しそうなプルメリアが実はガン決まり勢だったことだけはわかった。

 

「アマリリス、手を貸せ。まだ距離はあるが、多少強引にでも『開く』ぞ」

「わかった。なにをすれば?」

「まずはこれを手に取れ」

 

 いわれるままに、闇空間のささくれっぽいものを握らされる。

 空中に横向きでにゅっと生えた、カラオケのマイクぐらいある、まだ繋がったままのでっかいささくれじみた何か。

 うん、きしょいなこれ。

 

「全力で引いて裂け。裂け目が大きければ大きいほど、こちらの作業はやり易くなる」

「よしやってみる。せーの」

 堅っ! これめっちゃ堅っ! 南瓜(かぼちゃ)の皮を素手でむく感じだこれ!

「ヨランダ! ちょっと向こうから押して! これかったいわ!」

 プルメリアを運ぶのでハウザーは手一杯だ。意識のない人間ってガチで重いからな。

「はい! それじゃいっせーの、で行きますよ!」

 

 せーの、せっ! ておい待て『の』で力んじゃだめだろ! え? この地域じゃそうなの?

 

 などとやりながらも、どうにか3メートルほどまで引き裂けた。

 手を離すと勝手に塞がって行くので、ぐっと押さえたままキープする。

 

「……思ったより重いな。ハウザー、ヨランダ、備えだけはしておけ。最悪、旧市街に出るやもしれん」

 裂け目に上半身をまるごと突っ込んだヒルデガルドから、声だけが届く。

「旧市街? なにか問題が?」

叔母上(ローゼガルド)の息がかかったやくざ者どもの巣窟だ」

 うん、行きたくないな、そんな所。

「けど、そいつらはまだ、ローゼガルドがどうなったかは知らないはず」

 なら適当に「お使いです」とかいえば「お疲れさん」で素通りできそう。

「だといいがな」

 

 

 

 そこで不意に爆ぜた。

 

 

 

 どこか遠くでなにかが破裂するような振動が空間全域を震わせた。

 

 心当たりはひとつしかない。

 とうとうローゼガルドボムが爆発したのだ。

 

 そう理解した次の瞬間。

 

 馬鹿げた出力によって生み出された衝撃の波が、狭いトンネル状の通路全体を押し出すように迫り来るのがわかった。理屈抜きで解のみを得る。接触まであと2秒。

 

 まさか『窓』の向こうにあるこの謎空間にまで影響を及ぼすような自爆ができるとは、微塵も考えていなかった。

 なかったから、貴重な1秒をただ固まることに浪費してしまう。

 

 最初に動いたのはハウザー。

 即座にプルメリアを置き、迷うことなく全員の盾となる位置で防御姿勢を取る。全衝撃の8割をその身で受け、当然の結果としてゴムボールみたいにぶっ飛ばされた。余波で浮かび上がったプルメリアに抱きつくヨランダを横目に、ここでようやくおれは動き始める。

 

 ほぼ視界がゼロな闇の只中。

 ここで見失うのはまずい。最悪、終わる。

 

 その事実に背を押されたおれは、反射的に『黒い手』でハウザーを掴み、ヒルデガルドが落ちていった裂け目に放り込んだ。

 

 そこで気付く。

 知りたくもない事実を把握してしまう。

 やはりこと闇に関しては、ピラミッドさんのおかげか、異常なまでに見通せる。

 

 今のはローゼガルドの自爆ではない。

 正確にはその下準備。

 効果的なポイントを探るソナーのような、ボクシングでいうジャブのような、本命を打ち込む為に対象の位置を測る、前フリでしかない。

 

 その本命が、遠くの窓から溢れ出した。

 

 腐った泥のような呪のような怨みのような殺意のような、おぞましい何かの濁流。

 一瞬で狭いトンネル内を満たし、飽和し、何もかもを台無しにする為だけに荒れ狂う最悪最低の悪あがき。

 

 ダメだ。

 あれはダメだ。

 どう足掻いてもダメだ、としかいいようがない。

 あれにのまれて助かる未来が想像できない。

 

 ふと。

 

 おれの目の前を、プルメリアが通り過ぎる。

 依然彼女は意識を失ったままだ。

 だからそれは、自発的な避難ではなく、ヨランダが放り投げた結果だ。

 

 ジャイアントスイングのように遠心力を駆使し、全身全霊を振り絞り、ヒルデガルドたちが落ちていった裂け目へと放り投げた結果だ。

 

 その反動でヨランダは派手にすっ転ぶ。

 受け身もなにもなく、べちゃりと痛そうな角度で地を舐める。

 

 小間物(こまもの)が綺麗にすら思えてくる、終わりの底としかいいようのない腐った泥の波が、瞬間移動じみた速度で迫る。

 

 どれだけ『黒い手』を伸ばそうとしても、出した端から泥の方へと吸い込まれてしまう。杭も同様で、いうなれば闇を吸う泥。おれ対策は万全だ。その命を賭した嫌がらせに、太刀打ちする術がない。手も足も出せば即のまれる。

 

 死臭が鼻をつく。

 

 あれ()との距離が縮まる。

 その事実だけで胃液が逆流し膝が笑う。

 生きることを諦めない全てが『1ミリでもいいからあれ()から離れろ』と全会一致で合唱する。

 

 わかってる。

 おれだけなら、まだ裂け目に飛び込める。

 けどヨランダを引っ張り上げて、走って、飛び込む時間はない。

 

 眼が合う。

 ヨランダの手が動く。

 ぶるぶる冗談みたいにブレる腕を、強引に、誤魔化すように、ぱぱっと外へ向け何度も払う。

 いやいやそんな、一目でわかるレベルでがくがく震えてるのに、なにやってんの。

 間違いようのないハンドサイン。

 さっさと行け。

 

 

 

「あは」

 

 

 

 つい笑みがこぼれてしまう。

 あのなあ君、そんなことされたら好きになっちゃうじゃないか。

 

 

 無駄は省こう。

 

 これはヨランダを味方につけるチャンスだとか、命の危機程度では揺らがない彼女の懐深くに入り込む(また)とない好機だ、などという、誰にしているのかわからない糞以下の言い訳じみた無駄は全部カットして、根っこの本音だけを採用しよう。

 

 

 助ける。

 

 

 まだこの手には空間のささくれが握られたままだ。

 腕一本潰す覚悟があれば、南瓜(かぼちゃ)の皮ぐらいどうにかなる。なる筈。なれ。やれ。いけ。行くぞ。

 

 ささくれを左手で握ったまま、押し出すように全力でダッシュ。

 予想通り腕全体がむちゃくちゃ痛いけど進めているから良し!

 がっと何かに詰まる感触に、水平方向は諦め垂直――下方向へとささくれを押し込む。

 するり、と何の手ごたえもなく裂け目が進む。

 横は重いが縦は軽い。

 そんな仕組み知るわけねーだろ!

 叫ぶ息を言葉に変える。

「ヨランダ!」

 勢い余って半回転したまま右手を差し出す。

 タイムラグなしで掴み返される。頭がはやくて良し!

 おれが腕を引いて、ヨランダが足で蹴って、だけどここで時間切れ。

 

 津波のような泥の第一波が、こちらの背に手をかける。

 

 たぶん、あれに触れるとヨランダは即死する。

 おれなら、即死さえしなけりゃ、たぶんファントムキャッツがどうにかしてくれる。……よな? 大丈夫だよな? 保障期間まだ切れてないよな? ヘイピラミッド! お望み通り助けてんぞ! だから手ぇ抜かないでね! ほんとお願いね!

 

 覆い被さるようにして、ヨランダを裂け目に押し込む。

 熱っ!

 なんか背中熱っ!

 

 そんな、懐かしのやくざ映画の刺されたやつみたいなことを思いながら、おれは裂け目にすぽんと落ちた。

 落下の感覚はないが、徐々に闇が明るくなり、夜空と同色にまでその明度を上げたところで、どちゃっと落ちた。

 

「う゛っ」

 

 痛――くはない。

 今の声はヨランダだ。ごめん。そしてナイスクッション。――あ。

 

 すぐさまその可能性に思い当たり、弾かれるように起き上がる。

 場所は夜の屋外。人気はなく、無人と思しき建物が延々と並んでいる一画。どう見ても人工の建築物なので、無人の野というわけではなさそうだが。

 

 とにかく今は頭上にある裂け目にかかる。

 塞ぐ。切り貼り切り貼りを繰り返し、とにかく大急ぎで塞ぐ。

 あの泥が流れ落ちてくるより早く、跡形もなくなるまで、夜空と完全に一体化するまで、とにかく塞いで塞ぎまくる。

 

 必死の努力の甲斐あって、頭上の星空を遮るものはなくなった。

 

 だがそうして一息ついてしまうと、急に背中の痛みが暴れ始める。

 おそるおそる手を伸ばしてみるも、なぜか服は溶けも破れもせずにそのまま。

 シャツの下に手を入れてみても、火傷やただれや出血はなし。

 

 疑問の前に答えがきた。

 

 足から力が抜け、膝から崩れ落ちる。うつ伏せに倒れる以外、何もできなくなる。

 なるほど、よくわかった。やっぱローゼガルドって糞だわ。

 

 傷が、外傷が、損傷箇所がないから『治しよう』がない。

 そもそも、痛んでいないものは癒せない。だから絶対に治ることなく死ね。

 きっとこれは、そういった殺害方法なのだろう。

 

 いや、その理屈はおかしい。

 どうしろってんだよこんなの。

 おれ以外だったら、絶対に死んでたぞまじで。

 

 目蓋が落ちる前に、降りてくる。

 なにも遮るものがなくなった星空から、星の数ほど降りてくる。

 

 頬を舐める黒猫のひげがくすぐったいな。

 そう思うと、すっと角度を変える謎のキャットマナーに感心しつつ、おれの意識は落ちた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5.1 光り輝く(いわし)の頭

 

 

 足を洗う、という。

 

 主に後ろ暗いところのある稼業から身を引く際に用いられる言葉だが、ならば逆に、そういった仕事を始める時はなんというのだろうか。

 

 いくら考えたところで彼女には見当もつかず、しかしそれでもどうにか無理くりにこじつけ、結局は新しい靴を買うことにした。

 

 足を洗うの逆、足に何かをつける。靴を履く。

 そこで閃きひとつ。

 こうして最初の日に新調した靴を――いつか『足を洗う』その時に、派手に燃やしてしまうのはどうだろうか。

 始まりの日に履いた靴を、お終いの日に燃やす。

 足を『洗う』を通り越し、一切合切を炎で浄化するというその発想は、なかなかの妙案に思えた。

 

 とはいえ、浮浪者も同然だった彼女の手持ちでは、ちゃんとした靴など買えよう筈もなく……どうにか用意できたのは、粗末で安価なサンダルもどきだった。

 

 約束の場所に現れた彼女を見た女衒(ぜげん)が「あのだせえブーツはどうした?」とからかったが「捨てた」とだけいった。

 

 ここから先、私物の類は全て没収されると踏んだ彼女は、いくつかの貴重品と大切な思い出が詰まったお気に入りの長靴を、余人では絶対に発見できないであろう場所にまとめて隠した。

 

 部族の宝を奪われるわけにはいかない。

 そんな当然の理由とは別にもうひとつ。

 守るものがあれば片手が塞がる。

 それではいざという時に、きちんと殺れない。

 

「まあそうカタくならず、ね? べつにお前さんだけじゃない。みんなやってる。よくある話なんよ、ここじゃーさ」

 

 そう、よくある話だ。

 

 行き場も寄る辺もなくした年頃の女が辿りつく終点。

 どこにでもある、色町に新たな住人が増えるというだけの、よくある話。

 

 安っぽいサンダルを引きずりながら「でいくつだっけ? そうトシ年。え、まじで。全然見えねーいやホント。オーナーには10コ下でいっときな。普通に通用するしその方がオレも有利に」ぺらぺらとよく喋る女衒の言葉を聞き流しつつも、彼女の内心は冷たく鋭く研ぎ澄まされてゆく。

 

 

 ――いつの日か必ず、皆の仇を。

 

 

 彼女以外は全員死んだ。

 先に逃げた筈の長老衆も預言者様も、結局は無残な骸を晒した。

 しかしどうしてか、彼女だけは生き残った。

 

 ならば仇討ちは、そんな己に課せられた使命だと、彼女は密かに宣言する。

 

 

 ――虐殺者よ。卑しき軍人どもよ。首を洗って待っていろ。このアカシャ最後の巫女が、貴様等をひとり残らず地獄の底へと叩き落してくれようぞ。

 

 

 娼館のオーナーと引き合わされ、女衒のアドバイス通りに10サバを読んだ自己紹介を終えた彼女は、これからに思いを馳せる。

 

 

 ――まずは情報を集める。標的を探し出し、調べ上げ、必ずや。

 

 

 そんな悲愴な決意はしかし、色町に来て半年が過ぎる頃には「うーん、まあ、正直どっちでもいいか」ぐらいまで下火になっていた。

 

 べつに挫けたわけでも、過酷な現実を前に諦めたわけでもない。

 単に、(もう)(ひら)かれたのだ。

 ものを知らない世間知らず――いや、彼女の場合は意図してそうつくられていたのだから、尚のこと始末に負えない。

 

 

 たとえばこれ。

 

 

 部族の巫女たる彼女には、いくつか特別な教育が施されていた。

 その中のひとつに、神に侍る女の作法として(ねや)の教育があった。

 

「いやそれ、単に偉い爺たちが若い娘とやりたいだけじゃん。どうせ役割ごとに『教官』は何人もいるってパターンでしょ? あ、やっぱり? あー、ここにいるとロクでもない話はいくらでも聞くけどね、アンタの田舎、それかなりひどい方だよ。ンな所、さっさと出てきて正解だって」

 

 細部をぼかした話を聞いた姐さんのひとりが、アンタも苦労したんだねえ、と親身になってくれた。

 

 まあ正直彼女とて、うっすらとそんな気はしていた。

 教育期間が終わった後も『教えを忘れない為に』との名目で定期的に復習会のようなものがあったのも、まあ露骨といえば露骨だ。

 ただ当時は『歴代の巫女は皆こうしてきた』といわれれば、なるほどそうなのかと、微かな違和感などすぐに霧散していたのだが。

 

 

「では発表しよう。特別ボーナス上乗せ5倍! 今月の栄えある第1位は――」

 

 

 また、彼女がこの『新たな職場』で大成功を収めたのも、そういったもやもやに拍車をかけた。

 彼女が入った娼館は、互いに競わせることで怠惰を排除するという名目のもと、月毎に売れっ子トップ10を大々的に発表するという、殺し合い前提の殺伐としたシステムを採用する地獄の一丁目だった。

 

 その地獄のバトルロイヤルに放り込まれた彼女は、なぜか3ヶ月目には1位となっていた。

 神に対するを前提とした奉仕とは即ち、最上級の娼婦をも上回る物凄い何かだったのだ。

 

「あっはっは! いやお前、神さまって! そんなこと考えてエロ技磨いてきたとか、もうそれ、頭おかしい通り越して笑い話ぶぼっ!」

 

 大爆笑する姐さんのひとりに酒瓶をねじ込み、その夜は彼女も潰れるまで飲んだ。

 部族が全滅した時点で『それ』が単なるお題目でしかなかったことは明白だ。

 もし本当にそんなものが存在するのなら、誰も彼もが無残に殺されることはなかっただろう。

 

 

 ――そうだ。ちょっとあれな所のある部族だったが……実のところ、女衆にはやれ売女だのなんだのと陰口を叩かれて内心かなりきつかったが、それでも皆殺しにされるような咎はなかった筈だ。うん、ならばやはり、仇ぐらいは討ってもいいんじゃないんだろうか。

 

 

 そんな風に随分とふわふわしてきた頃、とどめとなる決定的な再会があった。

 

 

「あ、やべっ」

 

 

 部族内での経験から女衆に嫌われるのは致命的だと知っていた彼女は、1位に与えられるボーナスの殆どを同僚たちにばら撒いていた。

 形が残るものは不和の種。

 ならば無形のもので――つまりは飯を奢る酒を奢るといった方法で、さあ今夜も好きなだけ飲んで食えと繰り出した酒場で懐かしい顔を見た。

 

 月に1度は部族のもとに来ていた行商人の男。たしか名はロロイ。

 

 そのロロイが、彼女の顔を見た途端、猛ダッシュで酒場から逃げ出したのだ。

 

 反射的に彼女は追った。

 さっきの反応。奴は何かを知っている。絶対に逃がすものか。

 

 本気になった『巫女』の身体能力に、単なる行商人風情が太刀打ちできる筈もない。

 幼い頃から定期的に服用を義務付けられていた『神へ近づく秘薬』の効用か、これまで彼女は闘争や殺し合いで後れを取ったことはない。

 正式な訓練を受けたわけでもないのに、戦士より強く、獣よりも速い。

 まるで、特別な強化でも施されたかのようなその様は『神の恩寵』として彼女が巫女たる所以(ゆえん)となっていた。

 

 路地裏で追いつき、掴み、引き倒し、制圧する。

 相手の背中に膝を当て、片手で両手首を固定した。

 

「よ、よう。い、生きてたんだな。また会えて嬉し――がっ」

「知っていることを全て話せ。真実の手形として耳を千切って欲しくば言い訳をしろ。2つまでならすぐさまくれてやる」

 部族に伝わる尋問方法だ。

 耳が千切れた程度なら、人は問題なく話せる。

 

「わ、わかった。し、知っていることは全部話す! なにを言えばいい!?」

「なぜ逃げた?」

「お、お前と……お前の部族と繋がりがあったことを知られると、オレは破滅だ!」

「どうして?」

「どうしてってお前、(ヤク)の販売ルートがオレ経由だとばれるだろうが! こっちまで始末されちまうのはまっぴらゴメンだ!」

「……その(ヤク)とはなんだ?」

「は? お前なにいって」

 片方を千切った。

 巫女たる身ではこんなもの、薄紙を引き裂くも同然だ。

「叫び声は最低の言い訳だと知れ。手形の次は『通貨』になる。現世と神界()をつなぐ両の目。橋渡しの駄賃。差し押さえるには丁度いい」

 

 耳の次は目だ。考えて口を開け。

 男はがくがくと頷いた。

 

「……で、その薬とは?」

「お、お前がせっせと作ってた『神へ近づく秘薬』だよ。なんだよ、本当に知らないってのか?」

 先代が引退してからは、調薬も巫女たる彼女の仕事だった。

「でたらめを。私もあれを服用していたが、妙な効果などなかった」

「そりゃ濃度が1割未満なら単なる避妊薬だからな。けど3割を超えた時点からはまじで即ぶっとんで、もうホント凄ぇんだぜ? しかも副作用は一切なしの超ヘルシー仕様。そりゃ健康が気になるお金持ちの皆様にバカ売れするって」

 

 もう片方も千切った。

 ナメた口を利いた時点で行動しなければ、延々とナメられ続ける破目になる。

 

「ならば私のこの力はどう説明する? 少しでも御許へ近づけた証。神の恩寵という他あるまい」

「あ、ひ、し、知らない。それは本当にわからない。腐るほどいた愛好者の中から、急にすげえ力に目覚めた奴なんて聞いたことがない。た、たぶん、あんたが元々強かっただけじゃないのか」

 

 そこで彼女は大きく深呼吸をして、とにかく落ち着けと自身にいい聞かせた。

 こいつの話のおかしな所を追求しろ。

 嘘は必ずボロが出る。

 

「……もし貴様のいうことが事実だとしたら、長老衆は莫大な利益を得ていた筈だ。しかし部族の暮らしは必要最低限の質素なものだった。ならば一体、その稼ぎはどこへ消えていた?」

 男はしばらく言葉を選ぶように視線を彷徨わせてから、

「……あんたは今、あの部族の暮らしを『必要最低限の質素なもの』といったが、オレには、とてもそうとは思えなかったよ」

 

 言い逃れの罰として『通貨』を差し押さえようかとも思ったが、どうしてかもう、彼女の手は動かなかった。

 

「普通はよ、山間部や平原をうろうろしてる定住地なんてない部族連中の所には、便利で高価な魔導具なんてねえんだよ。夏は水汲みだけで1日の半分が潰れるとかはザラで、冬は暖を取る薪を集める為に凍えるとかいう、わけのわかんねえことばっかしてんのが普通なんだよ。けどあんたの居たあそこで、そんな苦労したことはねえだろ?」

「いや、私は修行の一環だとかいわれて、普通に毎年やっていたが」

 

 男はあちゃー、といった風にしばらく視線を彷徨わせてから、

 

「あー、まあ、あれだ、あんた以外の全員は、そんな普通の苦労とは無縁の、あの環境にしては破格の暮らしをしてたってワケだ」

 

 その身に恩寵を宿せし巫女たるお前は、他よりも優れた存在である。

 ゆえに脆弱な余人の身では到底かなわぬ、神の一部とされる山野に赴けるは至上の誉れと知れ。

 

 かつて長老のひとりが厳かに告げた巫女の特権が、滑稽な喜劇の一幕になりつつある。

 

 なのにどうしてか、いや、演目の趣旨に沿ってはいるのでべつにおかしくはないのか――つい彼女は笑ってしまった。

 

「他には? まだあるだろう?」

「あとオレが知ってんのは、神託院の建設計画ぐらいだ」

「聞かせろ」

「痛っ、う、動かさないでくれ、ちゃんと話すから! つまりは、あんたの後釜を育てようって話だ。一度は次代の巫女として指名した娘っ子がいたらしいが、次の日には家族ごと夜逃げしていたそうだ」

 

 彼女の家族は、まだ幼い頃に全員が病死していた。

 ひとりぼっちになった彼女に巫女の神託が降りてきたのは、まあそういうことか。 

 

「あの爺さん達はやりすぎちまったんだな。誰が見ても夜逃げした方がマシって思えるぐらいに、あんたに対し、やりすぎちまったんだ」

 

 周りから見ると、そうだったのか。

 少し考えてみる。今の彼女なら容易く客観視できる。

 

 便利な、性的にも使える奴隷。

 そんなもの、誰もなりたくない。

 

「ま、まあそんなワケで部族内じゃ巫女の後継者なんて絶対に出てこない状況をどうにかしようと知恵を絞った結果が『神託院』だ。平たくいっちまえば、各地から捨て子とか孤児を集めてきて、次代の巫女として育てましょうって計画だ」

「糞のような寝言だな」

「まあな。けど結局はここからケチがついた。(ヤク)の稼ぎで悪目立ちし始めていた所に、このあからさまな人と金の流れ。ばれちゃいけない連中にあっさりばれて、あえなくあのザマだ」

 

 もうこれ以上訊くこともないな。

 そう思った彼女は立ち上がろうとして、慌てて腰を下ろした。図らずも背骨に膝が入った男がぐえと呻く。

 すっかり忘れていた。もうどうでもよくなっていた。けどまあ、折角の機会だしと、完全に惰性で訊いた。

 

「やったのは誰だ? ばれちゃいけない連中とは、どこのどいつだ?」

「……あんただって見たんだろ? 部族の連中を襲ったのは山賊だったか? シマを荒らされたヤクザどもだったか?」

 違う。

 全てが寝静まったあの夜。部族を襲撃してきたのは、完全武装の軍隊だった。

 しかも巫女たる彼女が1対1でも押し切れぬという、まるで向こうにも神の恩寵があるかのような、破格の兵たちだった。

「そうさ。軍を動かせるのはお国だけ――といいたい所だが、たったひとつだけ例外があるのを、あんたは知っているか?」

 

 いくら世間知らずな彼女とはいえ、さすがにそれぐらいはわかる。

 

 旧王家。

 

 すでに王国は滅びた筈なのに、どうしてか中枢に居座り続けている、得体の知れない亡霊ども。

 

「なんでも今回の一件は、とあるお姫様の暴走らしい」

「……姫? いたか? そんなの」

「まだお披露目も済んでいない子供(ガキ)だよ。そんなお子様が、独自に調査した結果、独自の手勢を率いて独自の判断で襲撃をかけたのが今回の全貌らしいぜ」

「なにを馬鹿な。そんな子供がいてたまるか」

「オレもそう思う。けど知ってるヤツはみんな知ってる。『恐ろしいローズさま』のな」

 

 彼女が膝を乗せる男の背骨の先。

 首から後頭部へと続くその一帯が、音もなく消えた。

 

 ……は?

 

 彼女の意識が追いつくよりも早く、断面から血が噴き出す。

 頭部という本来の行き先を失った血流が、ただ虚しく薄汚い路地裏へとぶちまけられてゆく。

 

 

「愛称で呼ぶのを許可した覚えはないわ」

 

 

 ずるずると伸びて行く血の絨毯の先に、それはいた。

 

 子供だ。

 薄汚い路地裏には場違い極まる、ふんだんにフリルをあしらった真っ黒いドレスを身に纏った、長い黒髪の、人形のような顔をした女児。

 

 

「けどまあ許してあげる。わたしが来るまで、ちゃんと足止めできたご褒美よ」

 

 

 恩寵を受けた彼女にはわかる。残滓がにおう。

 やったのは『これ』だ。

 

 ゆっくりと視線は逸らさないまま、彼女は立ち上がる。

 圧迫による塞き止めが消えた血流の勢いが、どぷ、と一瞬だけ激しくなる。

 

 許すといいながらも、男の首から上はなくなった。

 恩寵を受けていようがいまいが誰にでもわかる。

 殺して。許した。ご褒美よ。

 駄目だ。理屈が通じない。狂っている。とても正気ではないと。まともではないと。どんなに世間知らずだろうと、一瞬でわかる。

 今すぐに、ここから逃げなければ、

 

「そんなに怯えなくても大丈夫よ、アカシャの巫女。あなたを殺したりなんかしないわ。むしろできる限り長生きして欲しいと思ってるの。本当よ?」

 

 甘く優しく粘つくような声。

 

「ずっとあなたに会いたいと思っていたの。カビの生えた老人たちの玩具にして唯一の成功例。わたしたちとは違ったアプローチで同じゴールを目指したその成果物」

 

 彼女にはわかる。

 恩寵を受けたとか受けていない、などといった次元ではない。

 

 人の鋳型に押し込められた恩寵が、悪意をもって蠢いている。

 闇と呪を燃料に稼動する人型の化生。真っ白な肌の下に流れるおぞましい薄闇。どう見ても猛毒でしかないのに、それでもつい近づきたくなる酸の蜜。

 そんな、わけがわからない何か。

 

「いい子にしていれば、なにも怖いことなんてないわ。少しお話ししましょう。そしてお友達になりましょう。可愛そうな巫女さま」

 

 彼女は戦意を喪失する。

 戦わなくてもいいと、話すだけでいいと『これ』に提案され、断る蛮勇は彼女にはない。

 

「ねえ巫女さま。あなたはあの薬を、いつからどれぐらいのペースで飲み続けてきたの?」

「水と原液の割合は?」

「病気をしたことは?」

「出産の経験は?」

 矢継ぎ早に繰り出される質問に、死に物狂いで答えてゆく。

 嘘と死が一塊になっているとの実感が彼女を世界で一番誠実にする。

 

「じっとしてて。動いてはダメよ」

 

 そういって腹や背をぺたぺたと触られたが、彼女は抵抗しなかった。できなかった。

 

 やがて『それ』は残念そうな溜息を吐き、

 

「やっぱり経口摂取じゃお話にならないわね。20年以上続けても『3』止まりなんて、浸透が遅すぎて使い物にならない。素体へのダメージが軽微なのも、いずれ技術的に解決できる問題でしかない」

 

 早口で何かを呟いたが、彼女には聞き取れなかった。

 1秒でも早くここを去りたい彼女は、聞き返すような愚は犯さない。

 

「……ダメね。論外。ゴミ。けど一応――」

 

 しばらく何かを考えた後、もういいわ、と『それ』はくるりと背を向け去って行く。

 

「ねえ巫女さま。その薬、お仕事で使う分には見逃してあげる。濃度は8分から1割の間を遵守なさい。あの老いぼれたちと同じ失敗を繰り返えしちゃダメよ。こっちだって――」

 

 首だけで振り返り、もう彼女に興味がないのを隠そうともしない、ぞんざいな言葉を投げ捨てる。

 

「いちいち害虫駆除とかしているヒマはないの。わたしに余計な手間をかけさせないでね」

 

 彼女は黙って頷いた。

 

「いい子ね。……ハウザー。一応レシピだけは回収しておきなさい」

「は」

 

 不意に隣から聞こえた声に振り向くと、シックな準礼服を着込んだ青年がいた。

「余計なお喋りはナシよ。わかるわね?」

「は」

 いつの間に、と驚きつつも視線を戻すと、もうそこには『あれ』の姿はなかった。

 

「今、手元にありますか?」

 青年が問う。

 何が? 決まってる。

 神へ近づく秘薬のレシピ。

 つまり部族の宝は、お気に入りの長靴と共に余人では絶対に発見できないであろう場所にまとめて隠した。

 

「素直に渡しておきなさい。あの御方がこうも譲歩されることは、そうそうない。自覚はないだろうが貴女はいま、望外の幸運の只中にいる」

 

 とくに迷うことなく彼女は、青年に宝――と思い込んでいた単なる古ぼけたメモを渡した。

 そもそも内容などとうの昔に暗記済みなので、この紙切れには本当に何の価値もないなと、ひどく醒めた心地のまま彼女は青年と別れ帰路に就いた。

 

 そうしてそのままぼんやりと娼館の管理する宿舎へと帰り、ぼんやりと風呂に入りぼんやりと飯を食って、ぼんやりと私室の窓から外を眺めた。

 

 

 ――わたしたちとは違ったアプローチで同じゴールを目指したその成果物。

 

 

 ふと『あれ』の言葉が脳裏をよぎった。

 

 あのくそったれな部族がつくり出したのが彼女だとするなら。

 きっと『あれ』をつくり出したのは――旧王家。

 

 怖気が走る。

 かかわるべきではない。禍々しいなどといった次元ではない。まるで終わりの坩堝だ。

 だがまあ、レシピは渡したし、興味もなくしたようだったし、もう向こうも用などないだろう。

 

 そこでようやく危機が去ったと実感できた彼女は、ばふ、とベッドに飛び込んだ。

 あー怖かった。まさか生きて帰れるとは思わなかったラッキーついてる。よし酒飲んで寝よ。

 

 こうして、新たな生活を始め1年が過ぎる頃には、一族の仇などという、もはや意味不明の戯言でしかない雑音は、彼女の脳裏から消え去っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 使命と思い込んでいた勘違いから開放された彼女は、しかし結局はそのまま娼館に残った。

 

 行くあてがなかったというのもそうだが、なにより、女衒(ぜげん)に連れて来られた際の契約において、がっつりと騙されていた。

 細かな文字と素人には解読不可能な書類のマジックによって、いくら稼ごうが借金が増え続けるという無限パターンにはめ込まれていたのだ。

 

 それを知った彼女は猛抗議し、当然のように無視され、しまいには「あのうるさい馬鹿女を黙らせろ」とオーナーから用心棒をけしかけられる始末。

 

 しかし巫女たる彼女が単なる乱暴者風情に遅れを取る筈もなく、全員のアゴと手足を砕いたところでオーナーは逃走。娼館の背後に君臨する非合法組織に彼女の殺害を依頼し、気がつけば彼女は追われる身となっていた。

 

 一口に『追われる』といっても、なにも怖くて逃げたわけではない。

 ただ同僚たちに迷惑がかかるのを避けただけだ。

 

 そうして己の身ひとつとなり、一息ついた所で。

 

 彼女は決めた。

 どうせもう使命も目的もない人生だ。

 ならばせめて、自身や同僚たちを食い物にする害獣を駆除して、さぱっと死のう。

 

 例の一件以来、どうにも惰性でだらだらと生きていた彼女にとって、その決断はひどく腑に落ちた。

 

 ハナからどこか違和感があった前回(部族の件)とは違い、今回の筋道には一切の曇りがない。淀みがない。遮るものが何もない。なら実力以外では決して止められない。過酷な山野で培われた冷酷な命の倫理は口先の屁理屈などではびくともしない。

 

 つまりはこの女、やると決めたらやる。

 

 かつて彼女は『あれ』を、理屈が通じない狂人と評した。

 ならば彼女は、理屈さえ通ってしまえばどこまでも行けてしまう彼女は、果たして何と評されるべきなのだろうか。

 

 

 そうして『あれ』が『3』と評した元アカシャの巫女は、人生最後の置き土産として、薄汚い人型の獣を駆除せんと全身全霊を尽くし闇夜を駆けた。

 

 

 

 結果。

 

 

 

 旧市街を牛耳る犯罪組織は壊滅した。

 

 死者、行方不明者158名。

 重軽傷者344名。

 

 その被害者の全てが犯罪組織の構成員および協力者であり、その他の一般市民や貧民、流民といった『彼女に敵対しなかった者』に直接的な被害はなし。

 つまりは、殺し合いの場において相手を選ぶという、ある種の『枷』をつけた状態でこの戦果。

 

 その事実はすぐさま国家の意思決定機関の知る所となり、事前に告げられていた「わたしのお友達の巫女さまは侵蝕深度(フェーズ)3なのよ」という情報と合わせて、強化措置の絶大な効果を明確な数値として証明した、初の実例となった。

 

 500対1で、1が勝つ。そんな馬鹿げた、輝かしい夢物語。

 果たしてどれだけの有力者が権力者が愛国者が、その光に目を焼かれずに済むだろうか。

 

 ただ当然ながら、彼女の方も無傷とはいかなかった。

 

 全身14箇所の骨折。

 大小12の切創。

 刺創6。

 咬傷2。

 打撲創、内臓破裂多数。

 

 通常ならもうとっくに死んでいてもおかしくないズタボロな姿で昏倒し続ける彼女の病室へ、女中服を着た女を先頭に数名の紳士たちが入室した。

 

「本日はお忙しいなかご足労いただき誠にありがとうございます。皆様方におかれましては――」

 長ったるい挨拶と社交辞令をたっぷりと済ませた後、ようやく女中は本題に入る。

 

「本日皆様に御覧いただきたいのは、強化措置における最大の利点。本案件に携わる誰もが口を揃えて『一線を画す』と太鼓判を押す最大の長所。つまりは、故障した際の整備性。即死せず身体の欠損さえなければ、極短期間で一切の後遺症なく戦線復帰が可能な『強くてタフな超兵』という当初のコンセプトを忠実に――」

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぱちりと目が覚めた。

 場所は私室のベッドの上。

 染みや色褪せの位置が記憶通りの天井から、自分が今どこに居るのかを察した彼女はむくりと上体を起こした。

 どうやらつきっきりで看病をしてくれていたらしい同僚の歓声と「すぐ人を呼んで来るからじっとしてるんだよ!」という言葉に押され、ならもう一度眠ろうとかなと、最高の贅沢である2度寝をかまそうとしたところで、そのあり得ない異常事態に気がついた。

 

 ――いやいや。なぜ、生きているのか。しかもこれは。

 

 そんな馬鹿なと慌てて全身を確認するも、やはり間違いようもなく、どこにもなかった。

 

 傷が、ない。

 身体のどこにも、傷一つない。

 

 腱ごと抉られた左手も自在に動くし、全身満遍なくざくざく斬られたり刺されたりした痕跡が――いやよく見ると、薄っすらと、本当に薄っすらとだがある。

 まるで10年前の古傷のような、極限まで薄くなった微細な肌の違和感。

 あれは決して夢ではなかったと証明する痕跡たち。

 しかし彼女には、とても(うつつ)とは思えない。

 

 試しにとベッドから立ち上がり軽く突きや蹴りを放ってみるも、とくに異常はなし。

 

 こりゃ死んだわ、とそこそこの満足と共に意識を手放した筈なのに、目覚めたら全回復。

 いくら恩寵といえども、ここまでの奇跡は起こせない。

 けど実際に起きた。起きている。何かが()()()()

 条理を吹き飛ばせる埒外の力を持った何か。

 思い当たるフシなど……ひとつしかない。

 

「あまり動かない方がいい。今は何も感じないだろうが、しばらくするとこれまでのしわ寄せが一気にやって来る。我々は『初期反動』と呼んでいる」

 

 声の元を見れば、以前『あれ』に遭った際に古ぼけたゴミ(一族の宝)を渡した青年――たしかハウザーだったか――がいた。

 以前と同じ黒づくめの準礼服に身を包み、構えるでもなくだらけるでもなく、ただ自然体のまま彼女に相対している。

 

「ショキはん? それ、大丈夫なのか?」

「9割方はな」

「残りの1割は?」

「苦しみは、しなかった」

「あんた達も、ロクな扱いは受けてないみたいだねぇ」

 

 まあ『あれ』の下についている時点でお察しだろう。

 

「私を助けたのは『あれ』――あのお姫様かい?」

「そうだ」

「どうしてこんな罪人に、そこまでの手間を?」

 

 やくざ者ならいくら殺してもいいとはなるまい。

 原則、どんな集団においても殺しは御法度だ。

 

「罪人? 誰がだ?」

「私が。殺しの咎で」

「やり過ぎた反社会分子の粛清を兼ねた評価試験だったと聞いている」

「いや、そんなん知らんぞ。私がやりたいから、私がやった。それだけだ」

「だとしても、そうなった」

「……いや、さすがに通らんだろう、それは」

 城下の外れとはいえ、目を凝らせば旧王城が見えるぐらいにはお膝元なのだ。

 そこを用いて殺し合いで試験を行うとか、どう考えても頭がおかしい。

「……おそらくは貴女の言い分の方が正しいのだろうが、すでに()()()()()。自分や貴女の()()は何ら事実に影響を及ぼさない」

 

 彼女は思い出す。

 そういや『あれ』頭おかしかったわ、と。

 

「だとしても解せない。私を助ける義理はなかったはず。邪魔者が消えたなら、思惑が成ったなら、そこで終いとなるだろうに」

 

 ――いちいち害虫駆除とかしているヒマはないの。わたしに余計な手間をかけさせないでね。

 

 彼女の脳裏に『あれ』の言葉が木霊する。

 瀕死の彼女を治すのは余計な手間ではないというのか。

 

「邪魔者が消えた穴は、上の方はこちらで埋める。下の方――現場の方は貴女が埋めろと仰せだ」

 

 一瞬、意味がわからなかった。

 現場の穴。文字通り潰した、ここいらを仕切るヤクザ者ども。

 代わりにおまえが埋めろと『あれ』がいった。

 

「……一介の娼婦に、なにいってんのさ」

「どうせ後釜に座る誰かも、娼館に対してのやり方に大差はない。同じようなことが延々と繰り返される。出口のない搾取。それを許容できる貴女か?」

 彼女は言葉に詰まる。

 できなかったから、こうなった。

「ならば貴女がやる他ない。そうあの御方は仰せだ。やるなら助力は惜しまないとも」

「いやまて。私ゃ集団の舵取りなんぞ、やったことはないぞ」

「無論、補佐はつける。数字と経営に強い専門家を」

「そういうことじゃない。つい昨日まで娼婦だった奴に、誰が従う?」

 

「単身で150名を殺害し、350名をぶちのめし『個』で『組織』を潰した。最後は瀕死だった筈なのに、3日後にはぴんぴんしてた。そんな奴に、一体誰が逆らえる?」

 

 彼女は言葉に詰まる。

 もしそんな奴がいたなら、逆らうとか従うではなく、絶対にかかわりたくない。

 

「今や貴女は力と恐怖の象徴だ」

 

 それはまるで『あれ』のような。

 

「……もし断ったら、どうなる?」

「我々は手を引く。後釜は勝手に湧き出て来るだろう。その後どうなるかは貴女次第だ」

 

 色々と可能性を考えることはできるが、そのどれもが、彼女とかかわりの深い娼館の皆にとって明るいものではなさそうだった。

 

「引き受けたら、どうなる?」

「組織の残党は4つの小集団にわかれている。それぞれに我々の方から『そこそこできる奴』を送り込み掌握させる。その後、全てのグループは貴女の傘下に入り、一定の秩序が完成する」

「……そんなことまでやってんのかい。旧王家ってやつは」

 青年は答えなかった。

 否定も肯定もしない。

 最悪『姫』の独断で済ませる手筈なのだろうか。

 本来、こういった(はかりごと)には疎い彼女にはわからない。

 だからもう、なんだか面倒だったので――というか、実際のところ選択肢なんてないも同然だったので、さぱっといった。

 

「わかった。あんたらの言う通りにしよう。ただ、私は娼館を第一に考え動くよ。もうあそこの皆は仲間だからね」

「旧市街は好きにしろ、とのことだ」

「いいのかい? 利益だとかそんな話は?」

「さっきもいっただろう。数字と経営に強い専門家をつけると。そういった話は、そいつとしてくれ」

「いやまて、私は頭に来ればきっとそいつを殺すぞ。とても正しい理屈で1から10まで埋められてしまえば、もうあとはそれしかないだろう? だから今こうなってる。たかが正しいぐらいでどうにかなると思うな。もしあんたらがそういったやり口で事を進めようとしているなら、やっぱり私は止めといた方がいい。お門違いだ」

 

 そんなことをすれば、今度こそ『あれ』に殺されるかもしれない。

 しかし、所詮この身は一代限りの巫女。

 死ぬ時は死ぬし、その時は自分で決める。

 

「……これは私見だが、きっとあの御方は旧市街(ここ)には何も期待していない」

「さっきあんたがいってたじゃないか。()()に意味はないって。だから一度聞いてきてよ。気に入らなきゃ殺しますが、それでもよござんすかって」

「わかった。明日、また来る」

 

 彼女の予想に反して、青年はあっさりと了承し踵を返す。

 一瞬だけ迷ったものの、元来腹に溜め込む性分ではない彼女は構わず訊いた。

 

「ねぇハウザー。なにを考えているんだい? こうやって私がゴネた時の為に、あんたみたいな『どうにかできる奴』が遣わされたんじゃないのかい?」

 

 恩寵の賜物か巫女としての勘か、あるいは経験からの予測か、嫌にはっきりとわかる。

 無手でこの間合いにおいて、こいつには絶対に勝てないと。

 

「そういった命は受けていない」

 そこで一度、背中が止まり。

「……ただオレは本来、あの御方の僕ではない。我が主に『忙しそうだから手伝ってやれ』と命じられただけに過ぎない。だから、言われてもいないことまで実行するつもりはない」

 

 あ、こいつ(ハウザー)も『あれ』のことは好きじゃないのか。

 

「あんたも大変だねえ」

「……次からはお前の役目になる。心から同情する」

 

 そうして彼女の要望は認められ、生殺与奪の権利まで与えられることとなった。

 しかし、この時の彼女は知らなかった。

 大きな権利には、もっと馬鹿でかい義務が付随することを。

 

 そうして絶妙にがんじがらめになったり、血みどろになったりしている内に月日は流れ、成長した『あれ』が『魔女』と呼ばれるようになる頃には。

 

 かつてのアカシャの巫女は、魔女の巫女と、そう呼ばれるようになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 旧市街の娼婦たちには、とある独特な風習がある。

 所属する組織や派閥は数あれど、そういった垣根を越えて、誰もが最初にそれをする。

 

 分類としては『模倣型』――過去の偉人や成功者の行動をなぞることで、自身にも同様の成果がもたらされんと望む一種の願掛け。それにひと匙の希望を組み込んだ、きっと明日は晴れるといった類のお(まじな)い。

 

 やり方は簡単。

 同じ時に同じものを用意する。それだけで成立するというお手軽さも全体に普及した要因のひとつだろう。

 

 時とはいつか。

 最初に仕事を始める時。あるいは最初に娼館へと赴く時。

 

 用意するものとは何か。

 新しいサンダル。それを履く。

 

 それをどうするのか。

 保存しておき、この稼業から足を洗う時に燃やす。

 

 つまりはどういうことか。

 仕事始めに新調したサンダルに『全ての厄』を請け負って貰い、最後の最後で燃やすことで、なにもかも一切合切を清算するセレモニーとする。

 いわば、かつての邪神がもたらした異郷の文化のひとつ『厄除け人形』の廉価版だ。

 

 しかし侮ることなかれ。これはとても前向きで重要な、区切りの儀式の下準備でもある。

 

 最初に『あがり』を、明確な終わりを意識させることで、自暴自棄の防止や自殺率の低下に繋がる有効策だったりもするので、昨今では娼館の方から支給するケースもある。

 

 ただ現場の実情としては『仲間になる儀式』としての側面が強い。

 ここに来た。新しいサンダルを貰った。わたしの時と同じ。ならあなたも今日から仲間ね。

 

 ことの由来とか経営者側の都合など知ったこっちゃないというのは、べつにこの業界に限った話ではないだろう。

 

 ただ。

 

 今や経営者側に回った彼女からすれば、自分が若い頃にやった、バチバチに気取ったあれな行動を見せつけられるのは全身が痒くなる思いだったが……数十年も経つ頃には、もうどうでもよくなっていた。

 

 というか現場の娘たちには、もはやいつもの『新しい仲間を迎える儀式』でしかなく、わざわざその元となった話を知っている者など、

 

「ねーばあちゃん。あの始めに新品のサンダル用意するのって、ばあちゃんが最初って聞いたんだけど、それ本当?」

 

 まあ、たまにしかいない。

 

「……ああ本当だ。凄いだろう」

「いやダメじゃん。ばあちゃん、まだこんな所にいるじゃん。ぜんぜん燃やせてないじゃん」

「アホ抜かせ。とっくに燃やして現役引退しとるに決まっとろうが。あと手が止まっとる。喋りたきゃ動かせ」

 ごりごりすり鉢をこねる。

「あのねばあちゃん。これって単なる雑用だよね? アタシの仕事じゃないよね?」

「この娼館にかかわる全部がおまえの仕事だよ。クソな客ぶん殴るだけの楽な仕事なんて、ここにゃないよ」

 ごりごり、ごりごり。

「あのさ、もしかしてだけど、今アタシが作ってるのって、いつも姐さんたちが飲んでるあの薬じゃないよね?」

「そうだよ。いつも店の娘たちが飲んでる、副作用も身体の機能を損ねることも一切ない、うち秘伝の避妊薬だ。じわじわと人伝で評判が広がり、今や娼館の売り上げの半分に迫ろうかという特産品さ。おまえの給金の幾分かはこいつでできてる。心してつくりな」

「いやダメじゃん。ちょっと前にこれの利権で死ぬほどモメたヤツじゃん。そんなモンの作り方とか、アタシ知りたくないんだけど」

「心配ないさ。たしかに死ぬほどモメはしたが、いちゃもんつけてきた奴等は皆死んだ。次に湧いて来るまでは、まあいつもの周期なら10年ぐらいはある。それまでにおまえが、ナメたこと抜かすアホ共を潰せるぐらいになってりゃ問題ない。むしろ、努力の成果を披露する発表会みたいなもんさ」

「ばあちゃんってさ、いい歳こいてんのに、殺意高すぎるよね」

 

 さっきから『ばあちゃん』と呼ばれてはいるものの、べつにこの娘は彼女の孫というわけではない。

 

「あ、ばあちゃん、それ違う。7対3じゃなくて6対4になってる。……さっきからどうしたん? なんかやたらこぼすし配分とか間違うし。急にもーろくしたんか?」

「うるさいね。好きでやってるわけじゃないよ。そういうおまえこそ、今夜はよく喋るじゃないか。いつもは半日むっつり黙ってるとかザラなくせに」

 

 そう。どうしてか今夜は妙に落ち着かなかった。

 これまで何千回とやって来た作業にもかかわらず彼女は些細なミスを連発し、いつもは無口なこの娘がやたらと饒舌になっている。

 

 浮き足立つ。何かがざわめく。

 

 長年に渡る勘と経験から、危機や凶事のにおいはしない。

 ……のだが、かといって慶事かと問われると、なぜか素直に頷けない微妙な引っかかりが、

 そこでドアがノックされる。

「失礼します。支配人(オーナー)、少しよろしいでしょうか」

「おい。調薬中だと伝えたと思うが。それを踏まえた上でいってんだろうね?」

「はい。緊急事態と判断しました。外の様子を御覧いただきたく」

 

 この調薬室は機密保持の都合上、娼館の地下にある。

 なので当然、この部屋に窓なんてない。外の様子などわかるわけがない。

 

 作業を中断した彼女は、目の前の娘に「まずは店の皆を守るのが最優先だ。いいね?」と念押しすると、早足で地下室を後にした。

 緊急事態などという言葉が飛び出す時はいつも、ロクでもないことが起きる。

 だから『起きている』を前提で行動する。

 

 薄暗い階段を上り、とくに襲撃や事故もなく地上へ出て、べつに刺客が待ち構えているわけでもない正面大ホールを抜け、馬鹿みたいに豪華な見栄と威圧が同居する大扉の外へ。

 

 

 そこで見た。

 いつもと違う夜を見た。

 夜空をかける大河を見た。

 闇夜にかかる馬鹿げた規模の光の河を見せつけられた。

 

 先に出ていた店の娘たちが「すごい」だとか「きれい」だなどと騒ぎ立てていたが、いつしか潮が引くかのように、すうっと静かになっていった。

 最初は花火でも見ているつもりだったのだろう。

 だが、いつまでも終わらない天の河(異常)を見続けることで、これが現実に起きている、とても手に負えない『何か』だと理解してしまい、すっかり怖気づいてしまっていた。

 

 そこで彼女は妙なことに気付く。

 

 いくら深夜とはいえ、ここいら一帯は夜の店ばかりだ。

 当然どいつもこいつも宵っ張りであり、ならばこれ程の異常事態ともなれば、すぐさま万人の知るところとなる。

 彼女たちが外へ出て来た時には、すでに表通りは夜空を見上げる見物客で一杯になっていた。

 娼館の隣にある微妙な飯屋の店主。数少ない彼女より年長の煙草屋の主人。その他もろもろ、知っている顔は大体勢ぞろいしている。

 ただ。

 そのほとんどが、なぜか鼻をすすり涙を拭っていた。

 中には膝立ちになり、隠すことなく滂沱の涙を流している者さえいた。

 

 だが彼女を含めた娼館付きの娘たちは、誰ひとりとして『そう』はなっていない。

 ただ同じ娼館付きでも、用心棒や始末屋の男たちは皆こぞって落涙している。

 人相の悪いむくつけき男たちの本気泣きを、最初はどこか喜劇のようにはやし立てていた娘たちも――次第にこの場でいつも通りなのは自分たちだけだと気付き始め、戸惑うように彼女へと視線を向けた。

 

 すぐさま彼女は、娘たちに『嘘泣き』を指示した。

 自分たちが、異常の影響を受けない『異常』だと周囲へ知られることに、本能的な危機感を覚えたからだ。

 

 ここで疑問を挟むような愚図は最初にふるい落としている。

 (すみ)やかに完璧な涙を落とし始める娘たちを横目に、彼女はうんざりとした気持ちのまま、夜空の河をにらみつけた。

 

 

 ――今さら『こんなもん』に来られても、迷惑だよ。

 

 

 これが何を意味するのかなど、誰にでもわかる。

 こんなの、どれほど鈍いやつだろうがすぐわかる。

 ここまで派手にやられると、わからないフリをするのは不可能だ。

 

 かつて部族の支配者どもが彼女をなぶる言い訳に使ったそれが、彼女にとって全ての規範となっていたそれが、実際にこの地に足をつけるなんて――正直どうすればいいのか、わからない。

 

 お前のせいであの時私は、と怒ればいいのか。

 よくぞ御出で下さいました、と歓迎すればいいのか。

 

 

「ねえばあちゃん。キレイだけど鳥肌が立つね。眩しいけど冷えるね。これは敵? それとも味方?」

 

 

 彼女は答えなかった。

 いくつかの知識はある。

 何もそういった教育の全てが性的なものだったわけではない。

 一見まともに思える記憶もいくつかはある。

 しかし族長連中の思惑を知った今となっては、そんなもの、どこまで信用できるかわかったものではない。

 むしろ、1から10まで出任せだったと考える方が自然だろう。

 

 そう思っていた。

 ついさっきまでは。

 

 そこで不意に、夜空の大河はある地点へ集束するように消えていった。

 

 その方角と大まかな距離を、脳裏に浮かべた地図上に当てはめると……該当するのは東の果ての離島群。思い当たるのは旧王家の直轄地。今も『あれ』が居を構える、魔女の館と呼ばれる拠点兼研究施設。この世で一番近づいてはいけない場所。言うこと聞かない悪い子は魔女の館に放り込むぞ、といえば大体の子供が大人しくなる、そんな次元の厄所。

 

 おそらくそこに降臨した。

 この世で一番やばい奴の所に、ここではないどこかから来た凄ぇやばい奴が降り立った。

 

 ――こりゃあ、かかわらないのが、上策だ。

 

「おまえたち。今夜はもう店仕舞いだ。まだ中にいる客にはお帰り願え。料金は全額返金し――いや、詫びの酒代として1割り増しで渡しておけ。それでもぐだぐだ抜かすなら叩き出せ」

 

 できれば共倒れになってくれないかなあと思いながら、彼女は最上階にある自室へと戻って「もう今日は休むから邪魔するな」と言いつけた。

 どいつもこいつも、なんだかごちゃごちゃいっていたが「神様相手に何ができる」と一喝すれば静かになった。

 

 そうして部屋でひとりになり、どうせ明日から色々と立て込むに決まっているのだから今夜ぐらいはゆっくり休むぞ、と思ったものの、当然ながら寝付けない。

 

 寝巻きに着替えていないのも、その理由のひとつだ。

 有事の際には、いつでも動ける格好でいること。

 そんな当たり前の心構えが、かかわらない、迷惑だと断じておきながら、まるで渦中にいると暗に自覚しているかのようで面白くない。

 だから、半ば意地で無理矢理にでも眠ってやろうとベッドの上でごろごろし、無駄に長い時間が過ぎた頃、不意に窓から光が差した。

 

 暗色のカーテンを突き抜け、ちらちらと彼女の目をからかう光の線。

 もう夜明けか、と思った彼女が、そんな馬鹿なと飛び起きる。

 眩しい朝日に目を焼かれるのを嫌う彼女は、沈む夕日が見える方位に窓をつくった。

 なのでこの窓から朝日が差し込むなど、絶対にあり得ない。

 ならこれは一体何なのかと、慌てて窓を開けるとそこには、

 

 

 光の河が降りていた。

 

 

 先程は確かに『魔女の館』へ降り立っていた筈のそれが、狂ったように踊る光の粒子たちが、この薄汚い旧市街の外れに舞い降りていた。

 

 一切の風を感じない猛吹雪の只中、とでもいえばいいのか。

 逆巻くは雪の結晶ではなく光の粉雪。

 距離が近いせいか、どうしてか、無数の猫の姿が見える。

 どいつもこいつも目を細め歯をむき出し大笑しながら飛び回っている。

 そのどうしようもない違和感で彼女は悟る。

 あっち(自然現象)の方の猫には顔がない。

 小動物の猫は空を駆けない。

 すでに条理が崩れている。

 見知った旧市街(ここ)が、未知のどこかになりつつある。

 

 窓から身を乗り出し呆ける彼女の目の前を一匹の黒猫が通り過ぎる。つい反射的に手を伸ばすも、するりと突き抜けてゆく。やはり触れない。この世のものではない。それがこの数。尋常ではない。

 

「ばあちゃん!」

 

 ばんとドアを蹴破らんばかりの勢いで、予想通りの娘がやって来る。

 

「アタシも見たい! 端によって!」

 

 ぐいぐい押されて、半分ほどスペースを奪われる。無駄な注意で時間を浪費するのを彼女は省いた。

 

「何が見える?」

 線引きは間違えない。分は弁える。大雑把に全体像を把握する程度なら許容範囲だが、細部をまじまじと観察することなどできやしない。

「うーん、……遠くのほうにいる猫は色んな種類がいるんだけどさ、あの降りて来る場所の真上まで来たら、なんかみんな黒猫になっちゃうみたい。毛の長さとかくせっ毛とかはそのままで、色だけがしゅって黒くなる。猫の世界にも正装ってあるのかな? 全身まっくろなのが礼儀正しいです、とか?」

「んな馬鹿な話が」

「ばあちゃんに会いに来るおじさんたちと一緒じゃん。いつもはどぎつい趣味の悪ーい服着てるのに、ばあちゃんに用事がある時だけ全身まっくろ。ほら、そこの猫たちも一緒」

 

 いわれてみればそんな気もしてくるが……今ここで答えは出せないだろう。

 

「あ、なんかあちこちからガラの悪そうな奴らが集まって来てる。おお、すごいすごい! 砂糖にたかるアリみたい!」

 

 愚か。

 あれが宝にでも見えるのか。手に入れることなどできるものか。

 馬鹿どもの自殺を最後まで見届ける必要もあるまい。

 

「リリカ。今カルミネの坊やはどこにいる?」

 

 娼館の経営母体組織トップの男――要は『魔女』から派遣された見張り兼報告係だ――と話をつけてから動かなければ、いらぬ隙を晒すと考えた彼女がその所在を問うと、

 

「あ、それそれ。それ言いにきたんだよばあちゃん! ついさっき、なんかカルミー死んじゃったんだ! こういきなりぐえーって血ぶしゅーてなって、ぼんって即死! 周りにいっぱい飛び散って、もうすっげえ最低なの!」

 

 この娘(リリカ)が彼女に虚偽を報告することはあり得ない。もしそんなまともな情緒があるのなら、とっくの昔に放り出している。

 つまりは最悪の状況。

 異変が起きた途端に繋ぎ役が変死するとか、まるで謀反の狼煙ではないか。

 

「……誰がやったか、見当はつくか?」

「うん。魔女のおばさんだね。あれだけぷんぷん臭えば、アタシじゃなくたってわかるよ」

 この娘(リリカ)が彼女に虚偽を報告することはあり得ない。

「……現場に案内しな」

「こっち、ついて来て。場所は2階の――」

 

 なぜ魔女が自分でつけた見張りを己の手で殺すのか。

 そんな当然の疑問を抱きつつも彼女は、ほぼ原型を留めていなかったカルミネの残骸を調べた。

 

 カルミネは頭と胸の2箇所が『内側から』破裂していた。

 残骸や周囲にこびり付く、ドブのような恩寵の悪臭は間違いなく魔女のものだ。余人に偽装できるような『濃さ』ではないので、これは彼奴の仕業と考えて間違いあるまい。

 

 複数の目撃証言から、何の前触れもなくいきなり苦しみ出してそのままどん、だったらしい。

 素直に考えるなら、カルミネは魔女によって始末された、とみるべきだろう。

 

 しかし彼女が知る限り、カルミネに裏切りや火遊びの兆候はなかった。仮にもし奴が小細工の天才だったとしても、なぜこのタイミングで? という不自然さは拭えない。

 

 そう、きっと今向こう――魔女の館は、かつてないほどに立て込んでいる筈だ。

 最悪の客が訪れて、これまでの最悪が毎秒ごとに更新され続けているであろう真っ最中に、どうしてわざわざ、遠方の部下を爆死させる必要が、

 

「あ」

 

 その可能性に思い当たった彼女が「他に同じような死に方をしている奴がいないか確認してこい」と街中に男衆を走らせる。

 それから、そっとリリカに耳打ちし、その後を追わせた。

 

「ねえオーナー、結局これってさ、どういうことなの?」

 

 残った後片付け班のひとり、娼館の中でも古株の、それなりに修羅場を潜ってきたジルベルタが作業の片手間に訊いてくる。

 事態が急変しているのはわかるが、何がどうなっているのかは理解できない。

 そんな状況のまま放っておくと、余計な事故が起きかねないと危惧した彼女は、手早く共有しておくことにした。

 カルミネの側近どもは残らず外へ走らせた後だ。今ここには身内しかいない。言葉を選ぶ必要もない。

 

「カルミネの坊やと魔女の間に、信頼関係はあったと思うか?」

「え? なんだい突然。そんなもん、ないでしょうよ」

「信用ならない相手が裏切った時、すぐさま対応できる仕組みとは何か、わかるか?」

 

 飛び散ったあれやこれやを箒とちり取りで拾い集めているジルベルタが、うんざりしたようにいった。

 

「このザマを見るに、魔女おばさんは爆弾でも仕掛けてたとか?」

「たぶんね。どんな仕組みかは知らないが、裏切ったら即どん、って始末できるように整えていたんだろうさ」

「……自分でいっといて何だけど、できるの? そんなこと」

「アイツならできるしやるよ。魔法だか闇だかをこねくり回して、大抵なんでもやってのける。万能の毒婦、魔女の名は伊達じゃないさ」

「じゃあカルミー、内職でもしてたの?」

「声だけ大きな小心者に魔女を裏切るなんて大それた真似、できやしないよ。だからこれは、単なるとばっちりだろうね」

 

「あのさー、オーナーとジル姐さん、なんか難しい話するつもりでしょ。そういうのよくわかんないからさ、ずぱっと結論いってくんない? カルミー死んじゃってさ、どう考えてもやばいじゃん。うちらは何をどうすればいいわけ?」

 残った後片付け班内の、勢いだけで生きている派の数名が早々に見切りをつけた。

 これもある意味合理性だと彼女は認める。なのでずぱっと要点だけいった。

 

「どうにも、急に降って来た神様が魔女をぶち殺したみたいだ。もうダメだって自棄になった魔女の自爆にカルミネは巻き込まれた。で、糞だったが強大でもあった魔女という後ろ盾を失った私達はきっとこれから苦労するだろうから覚悟決めとけって話さ」

 

「おっけー。やるじゃん神さま」

「あのさオーナー。倉庫街の方がめっちゃ光ってるのって、今ここに来てるってことだよね、その神さま。行ったら会えるんじゃない? 行ってみたくない?」

「絶対にやめとけ。たぶん今頃、そこらのロクデナシどもがこぞって奪いあったり殺しあったりしてる真っ最中だ。……あれは、いたずらに手を伸ばすもんじゃない」

 

 巫女たる彼女は知っている。

 決してそれは便利な道具などではないということを。

 

「ふーん。まあその方がいっか。神さまとか潔癖っぽいし、なんか説教とかされそう」

「勝手に決めつけるのも止めとけ。それは人が、なにかを都合よく使おうとする第一歩だ。使おうなどと思うな。思ったと、相手に勘違いさせるな」

 

 うんはいわかった。口々に返事する。

 真剣な声音に異を挟まれない程度の関係値は築けている。

 

「あ、そうだオーナー、ずっと聞きたかったんだけどさ、あのキラキラ星見てた時、なんでみんな泣いてたの? つうか、あたしら以外全泣きだったよね? あれなに?」

 

 一瞬、彼女は言葉に詰まる。

 仮説――いや、益体もない妄想といった方がいいか――があるにはある。

 

 

 笑い話の類だとは思う。

 妄言の類だとも思う。

 それは、

 

 かつて『神へ近づく秘薬』と呼ばれていた滅びた部族(アカシャ)の宝。

 今や高性能な避妊薬として金や安全を生み出しているそれは、実のところ、()()()()の代物だったのではないか。

 

 いちいち近づくだけで泣き崩れていては、御許に(はべ)るなどできやしない。巫女としての務めを果たせない。

 それを成す為の、文字通り、神へ近づく為の秘薬。

 

 ――なにを馬鹿な戯言を。阿呆らしい。

 

 そんな妄想を彼女は一笑に付す。

 もしそうならば、この娼館の娘たちは、その全員が天翔(あまかけ)る大河の巫女となってしまう。

 やはり笑い話の域を出ない。

 

 

「さあね。私だって全部を知っているワケじゃない。ただ私達だけが『何もなかった』ってのは絶対に黙っておきな。他とは違うってのは、場合によっちゃリンチの理由になる。今みたいに、誰も彼もが不安になってる時なんかはとくに危ない」

「う、うん。わかった。絶対にいわない」

 少し脅かし過ぎたかもしれない。

 目に見えて萎れた娘たちを見て、彼女は軌道修正を試みる。

 

「なに、そう怯えることもない。私が昔、クソみたいな少数民族の巫女をやってたって話は覚えているかい?」

「いや、オーナーさ、酔う度に同じ話するから、たぶんもう本人よりみんなの方が詳しいよ」

「だったら話は早い。巫女たる私は、神様の扱いなんてお手の物さ。その下についてるおまえたちは、いってみりゃ巫女の助勤。ちょいと妖しいところもあるが、きっと今回のは邪神の類だ。存外、上手くやれるかもしれないよ」

「おおー。凄い説得力」

 

 そうこうしている内に、ひと通りの後片付けは終わり、もういい時間なので朝食にするかと提案した彼女だったが「これやった直後に食事とか、オーナー基準で考えないで」などといわれてしまい「そんな繊細なおまえたちには巫女修行のなかでもとくに過酷だった屍骸の」あたりで待ち人が帰ってきた。

 

「ただいま、ばあちゃん。言われた通りに見てきたよ」

 ナイスタイミングと大歓迎を受けたのは、外に走らせたリリカと男衆だ。

「おかえり、リリカ。戻って来たのはおまえたちだけか?」

「うん。やっぱカルミーの側近さんたち、そのままどっか行っちゃった」

「まあ、居座られても邪魔だし、お互いにその方がいいさ。で、どうだった?」

 

 そうして各自の報告をまとめると、旧市街にある4つの主要な組織の頭が全員、カルミネと同様の死に方をしていた。

 彼ら4人は魔女が派遣した直属の配下だ。幾度か代替わりこそしているものの、数十年前に彼女が『向こう』の提案を呑んだ時から、旧市街の支配体制はとくに変わることなく今日まで続いていた。

 ……つい、さっきまでは。

 

「――てなわけだ。どうやら他の4人にも、カルミネと同様の仕込みがあったみたいだね」

「ほんとスゲーな魔女さま。ガチでかかわりたくねえ」

「おまえが生まれる前から、皆そういってるよ」

 

 今や一番の腹心などといわれる彼女からすれば、ちっとも笑えない実話だ。

 

「いやアタシとしてはさ、そんな仕掛けがあるなら、なんでばあちゃんが弾け飛んでないのかすっごい不思議なんだけど」

「そりゃおまえ、私は魔女に何か振舞われる度に、帰ってから全部根こそぎ吐き出してたからね。あの性悪がにこにこと勧めてくるとか、何か妙なモンが入っているに決まってるだろうが」

「ええー。そんな魔法とか闇とかいうやつに、いらないからぺっします、が通用するの?」

「しなきゃ死ぬだろうから、死ぬ気で吐いたさ。念には念をと特性の下し薬も」

「あーもう詳細はいいから」

 

 状況は良くない。

 いや、率直にいって悪い。

 これまで旧市街を支配してきた魔女とその走狗が、図らずも一掃されてしまった。

 残るは『魔女の巫女』たる彼女のみ。

 

 当たり前の大前提として、魔女は好かれるタイプの統治者ではなかった。

 稀に、各組織に私兵の真似事のような仕事が割り振られることがあったが、その生還率は平均して3割ちょいだったと記憶している。つまりはほぼ捨て駒。まあ当然恨まれる。

 

 一応は魔女の方も、一致団結しての反乱を防ぐ為、各組織間で憎み合うよう不安定化工作を行ってはいたようだが……その大元たる魔女が没した今、過去の恨みつらみは一旦忘れて残りの老いぼれ潰そうぜ、となりそうな嫌な予感が彼女を捕らえて離さない。

 

「……ねえばあちゃん。倉庫街、行ってみない?」

「行ってどうする? 魔女を喰らう邪神を便利な道具だと勘違いしている阿呆どもの、馬鹿げた争奪戦に参加したいか?」

「あ、それは大丈夫。なんかみんなぶっ倒れてたよ」

 どうやらリリカは、勝手にそちらの様子も見てきたらしい。

「おまえ、自分がどれだけ危険なことをしたか、わかってるのかい? 一歩間違えば、おまえもそいつらみたいにおっ死んで」

「誰も死んでなかったよ。みんな寝てるだけっぽかった。あんなごつごつの地面でさ、あれ起きたら背中痛いやつだよ絶対」

「……どうしておまえは帰って来れた? なぜ邪神はおまえを見逃した?」

「たぶん、ちらっと見てすぐ逃げたからだと思う。なんか声が聞こえそうになってさ『あ、これやばい』ってなって即逃げした」

「見たのか。御姿を」

「本当にちらっとだけね。なんか寝てたっぽい。こう、黒猫がめっちゃ集まってベッドみたいになってる所の中心にさ、小柄な女の子っぽいのと、変な布みたいなの被ったよくわかんないのが寝てた。あれが神さまだったのかな?」

「寝てた? 地べたにか? あの小汚い倉庫街の?」

「うん。わざわざあんな汚い場所で。だからこれってさ『寝てた』んじゃなくて『ぶっ倒れてた』んじゃないかって思うんだけど、どうかな?」

 

 その可能性は考えていなかった。

 命を賭した魔女の自爆。自身はおろか、周囲や他者の全てを巻き込んででも殺ってやるという全身全霊の悪あがき。

 よもやそれが、功を奏しているなどとは。

 

「……それ、魔女おばさんの自爆がばっちり決まって、神さまにダメージ入ってるってことじゃないの」

「やっぱジル姐もそう思う? だからアタシはこれ、チャンスだと思うの! 今なら傷ついた神さま助けて恩売って、いい感じにうまいこと転がせば、魔女さんの代わりにバックについて貰えると思うんだ!」

 

 この馬鹿娘は何をいっているのか。

 彼女は深く溜息を吐いた。

 

「あのねリリカ。なんでそんな危険な橋を渡る必要があるんだい。あの魔女が自爆するしかなかったような相手だよ。かかわらないのが一番さ」

「けどこのままじゃ、みんな死んじゃう」

 

 稀にこの娘(リリカ)は正鵠を射る。

 とくに身内の命が脅かされる際には、抜群の冴えを見せる。

 

「……死ぬのは私だけさ。まさか連中も、金になる娼館(最大手)を丸ごと皆殺しにはしないよ」

「だとしても、遅いか早いか、の話でしかないよ。きっとみんな『今までさんざん良い思いしてきやがって』とかいわれて、まともな扱いはされないと思う。たぶん、そう長くはもたないんじゃないかな」

 

 いわれてみると、それ以外の未来はないように思えた。

 

「……ならあれだ、私が最後に、できるだけアレな奴らを道連れに」

 

 自分でいって、思わず笑いそうになってしまう。

 この発想、いつの間にやら『魔女の巫女』が板についている。

 

「アタシとばあちゃんの2人がかりでも、全部はムリだよ。ばあちゃんが若かった時とは違って、今は『強化』された奴も結構いるんだよ? ていうか、ちょっとは自分の歳考えなよ。幾つだと思ってんの」

「いや、まだおまえに教えていない毒がた」

「ねえばあちゃん。お願い。手伝って。みんなを助けるの。神さまに詳しいばあちゃんがいなきゃ、きっとうまく行かない」

「わたしからもお願いするよ、オーナー。すり潰されて死ぬなんて、まっぴらごめんだ」

「オーナーお願い」

「オーナーならできるって」

「わたしたちも一緒に行くから」

「わたくしの力が必要でしたら如何様にも」

「やったりましょう」

 

 こうなってはもう、どうしようもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 倉庫街。

 

 ここは旧王国時代の末期に破棄された一区画であり、誰も住む者が居なくなった民家を勝手に占有、改造したやくざ者たちが、これまた勝手に大規模な物資保管所として使うようになったことから、いつしかそう呼ばれるようになった『立ち入り禁止区画』だ。

 

 通常なら、土地の所有者である国家が何らかの対策を講じて不法占拠者たちの排除に乗り出すところなのだが、なぜかこれまで一度もそういった動きが見られないことから、何らかの政治的問題を孕んだ『とてもデリケート』な場所であると、したり顔の識者からは推測されている。

 

 まあ実際のところは、そのやくざ者たちのトップのさらに上に『とある筋』の存在があるが故の不可侵なのだが、余計なことを知ろうとした者はもれなく行方不明になるので、いつしか知ろうとする者はいなくなった。

 というより『魔女の巫女』の名を知る者からすれば、どこの誰がかかわっているかなどいちいち探るまでもないので、ただ秩序が完成しただけともいえる。

 

 つまり彼女からすれば倉庫街(ここ)は、勝手知ったる『魔女のがらくた置き場』でしかない。

 

「あの魔女は妙に用心深いところのあるヤツだからね。本当にやばい物はちゃんとバレない場所に隠してる。ここにあるのは基本どうでもいい物ばかりさ」

 

 徐々に夜が溶けつつある、明け方の薄闇の中。

 いつもなら、灯りがなければ常人には歩くことすらままならない筈の他人行儀な闇が、今ここでだけはなりを潜め一歩下がる。

 

 夜空から降りてきた大河が、まるで巨大な篝火のように周囲を照らし出していた。

 その終点へと向かうにつれ、当然ながら光量は増してゆく。

 

「ねえばあちゃん。とどめ刺しとく?」

「おまえがそうしたいなら、好きにしな」

「……めんどいから、いいや」

 

 きっと大規模な争いがあったのだろう。

 血みどろで倒れて動かない不審者の数もまた増してゆく。

 

 今も光が降り続ける倉庫街の東端、5番区画への道すがら、彼女は最後の確認をする。

 

「私たちが『お迎え』に参る。おまえたちは邪魔してくるであろう馬鹿どもを潰す。なにか質問は?」

 

 周囲を漂う猫の一匹が、すう、と彼女の肩に乗る。

 試しに指先で喉をくすぐるも、手応えはない。やはり幻影の類だ。

 

「オーナー。殺しはアリ? ナシ?」

「どっちでもいい。ただし死ぬのは許さない」

 

 ここへ連れて来たのは、元兵士、狩人、暗殺者などの最低限は動ける娘たちと、いつも荒事をこなしている男衆だけだ。

 全員が同行を申し出たが、どんなに上手く行っても一度は殺し合いが発生するであろうこの場に、非戦闘員を連れて来るわけにはいかなかった。

 

「よし。箱の配置は以前のまま。変更はなしだ。ほら行きな」

 

 うず高く積み上げられた木箱の群れを目印に、各々が散開を始める。

 事前に行った地図を用いた作戦会議で、各員の持ち場は決めていた。

 

 正面から行くのは、彼女とリリカと元暗殺者のマリエッタの3人。

 囮と本命を兼任できるのは、やはりこの3人になる。

 

「重っ。この木箱、中身は何です?」

 

 馬鹿でかい木箱がいくつも乱雑に積み重ねられ、ちょっとした迷路と化している一帯を進む。

 

「黒い粘土がみっしり詰まってる。たしか呪の廃棄物だったか」

「倉庫街ってか魔女のゴミ捨て場じゃん」

「基本そうだが、こいつはゴミじゃなくて壁だよ。中の黒土を動かすことで木箱を操り道順を組み替える、可動式の壁さ」

「じゃあ動かして1本道にしたら、こんな回り道しなくていいんじゃないの?」

「私はそういう、闇の操作だの何だのいうのは不得手なんだよ。それにここで急に視界が開けてみろ、下手すりゃ一瞬で終わっちまう」

 

 リリカの証言から、直接対象を見るのは危険だと知れている。

 光の終点との距離はもうほとんどない。

 さて何か試しに使えそうな物はと視線を巡らせた先に、

 

「おや、いいモンが落ちてるじゃないか」

 

 木箱迷路のカーブを曲がる途中で、男が倒れていた。

 さっきまでとは違い衣服も身体も綺麗で出血もない。

 おそらくこれは、木箱の角に身を隠し、まずはちらりと様子を窺って、そのまま倒れ込んだのだろう。

 

 つまりは、この角を少しでも曲がればもう危険範囲内ということだ。

 

 ならまずは。

 

 彼女は倒れる男の足首を掴み、ずるずると引き寄せひっくり返した。

 

「知っている顔かい?」

 

 ふたりそろって首を振る。ならば最悪、殺してもいいか。

 彼女は寝ている男の胸倉を掴み上げ、起きるよう頬を張る。

 

「……なんで意識のない成人男性が、軽く片手で持ち上がるの? どう見てもオーナーより大きいわよあれ」

「ばあちゃん、侵蝕深度(フェーズ)5に腕相撲で勝つから、気にしちゃダメだよ」

 

 そうして彼女は目を覚ました男に、命と情報の取引を持ちかける。ふたつ返事で快諾してくれる。見た目によらずいい男だ。

 

「な、なんか黒いの被った奴が寝てて、耳のすぐ横で声が聞こえたんだ。たしか『ケンショー』とか「ツニ」とかよくわかんねえこと言ってた。そんで気付いたら今で、オレより先に行ったやつらも、みんなすぐそこでぶっ倒れてて」

 

 これ以上は何も出て来ないと判断した彼女は、角の向こうへ男を放り投げた。

 どす、と男が背中から落ちる音。慌てて立ち上がり1秒の沈黙。おそらくは振り向いて『対象』を見た。ざりと地を踏みしめる音。どしゃ、と崩れ落ちる音。

 一連の所要時間はおよそ5秒。

 直視してこれなら、思ったより『利く』までが長い。

 

「ばあちゃん的には、命が無事だから約束は守られているんだよマリエッタ」

「わたしは何もいってませんわ」

「人食い鬼を見た顔してた」

 

 鼻で笑った彼女は、ふたりに持たせていた長いロープを(ほど)くよう言いつける。

 その間に懐から鉤縄を取り出し、自分の腰にひと巻きし、端をロープの先端に結び付けた。

 

「なにそれ? ゴリ押し作戦?」

「下手を打っても死にゃしないってわかったんだ。ならとりあえずやってみるに限るさ」

「だったらアタシが」

「やめとけ。たぶんおまえじゃ、連中と同じオチがつく」

 反論の隙を与えず続ける。こういうのは、歳が上から順にやるのが道理だ。

「前進が3分停止したなら、きっと落ちているだろうから全力で引け。いいね?」

 

 そういって彼女は、とくに気負うことなく角を曲がった。

 こういうのはうだうだと引き延ばしたところで時間のムダにしかならない。

 

 光源へと身体を向けた彼女は視線を下げ、頭を下げ、姿勢を下げ、平に伏した。

 意識しての動きではない。

 骨髄に刻まれた、アカシャの巫女としての『流れ』が、状況に反応したというべきか。

 

 件の『声』とやらは聞こえない。

 何が正解で何が不正解なのか、ちっともわからない。

 そもそも『正解』など存在するのかも不明。

 ならばせめて、でき得る限りの礼をもって当たるほかなかった。

 

 伏した身体を僅かに起こす。当然目は伏せたまま。 

 リリカや男の話を聞くまでもなく、当たり前の大前提として。

 

 貴人――いや、それ以上の相手に対して、ぶしつけな視線をぶつけるなどといった無礼は厳禁だ。

 眼を合わせるということは、たとえ一時であろうとも、同じ位置に立つという意味を持つ。

 

 ここへ足を踏み入れた者どもは、目指す標的はどこかと、真っ先に探し見つけぶつけた筈。

 微塵の遠慮も躊躇いもなく、その目にとらえようと、きっと意味もわからず視線をぶつけた。

 巫女たる彼女からすれば、その時点でもうそいつは、己もまた神であると喧伝しているも同義だ。

 不遜を通り越して、狂的ですらある。

 

 さすがの彼女も、そこまで恥知らずにはなれない。

 

 そんなことを思いつつ、姿勢を低くしたままじりじりと10歩ほど進んだ時だ。

 不意に、ここまで引きずって来た、腰に巻いたロープの重さが増した。まるで重石でも乗せたかのように、急にずしりと来た。

 首のひねりと視線だけで後ろを確認すると……地を這うロープの上に猫が乗っていた。

 彼女と眼が合った黒猫が、やおら前足を引く。ぷつりとロープは切れた。

 

 ――どうして重さを感じる? なぜ切れる? 幻影の類ではなかったのか?

 

 そんな驚きと交代で湧き上がって来たのは……羞恥、だった。

 

 他人を恥知らずと嘲笑った後だけに、なおさら際立った。

 まるで『(ずる)』を咎められたかのような。

 そういうお前のこれは何だと、指摘されたかのような。

 その様で何を抜かすと横面を(はた)かれたような。

 

 冷える。

 

 まるで冷や水をぶっかけられたように、彼女の頭は急激に冷えた。

 やはりどこかのぼせていたのだろう。あり得ない降臨を目の当たりにし、陰ながらに浮ついていたのだろう。

 視線は切れたロープを伝い腰元へ。今の己の姿を改めて見直せば、何だこれはと恥じずにはいられなかった。

 

 腰に縄をつけ、まるで罪人だ。

 

 自分はこんな姿で、やれ礼や無礼などと吐き出していたのか。

 これでは、できの悪い寓話の道化ではないか。

 言い逃れの余地もない、無様。

 

 この感覚には覚えがあった。

 

 かつて若かりし頃、過酷な山野にて行に耽る度に味わっていた、あの感覚。

 何か大きなものと向き合っていた筈なのに、いつの間にか己と対話し羞恥に焦がされていた、あの感覚だ。

 

 

 ――どうか。

 

 

 声が聞こえた。

 彼女は理解する。

 失敗したのだと。

 ダメだったのだと。

 

 このまま自分は意識を失い、助けに来た2人も同じ憂き目に遭い、魔女の巫女は討たれ、その手中にあった娼館は見せしめじみた蹂躙を受けるのだと、これから起きる現実を理解――なんてできるわけがなかった。

 

 ここで意識を失うわけにはいかない。

 せめて続く2人の通る道ぐらいは拓かなければ。

 

 彼女は一度たりとも視線を上げてはいない。その御姿を見てはいない。

 にもかかわらず、こうもはっきりと聞こえてくるのだから、目を閉じ耳を塞いだところでどうにかなる現象ではないのだろう。

 

 ならば。

 

 

 周囲の、自身の中の、全ての音を消しつつ、近くに寄るほか道はない。

 

 

 近しい経験はある。彼女はそれを知っている。

 かしこみ、奉りつつも、一切を省みない極限の只中。

 

 荒行の果てに幾度か陥ったことのある、酩酊を煮詰めたようなただ1本の細い線。

 長老衆が『かみががり』などとご大層に飾りつけていた、単なる忘我。

 

 つまりは極度の集中状態。

 

 本当に、もう本当に、前へ進む以外の全てを削ぎ落とし、前進全霊をかけてそれのみに注力すれば――声の聞こえる余地などありはしない筈。

 

 

 

 ――どうかご、

 ――かけまくもかしこき大神在りし御山に、

 

 

 

 どうしてか、かつて何千何万と諳んじた祝詞(のりと)が、自然と彼女の口からもれ出していた。

 しかし、もう彼女は知っている。

 きっとこの言葉の羅列に、大した意味などないと。

 

 

 ――幸えなればいともかしこし、

 

 

 これは下卑た老人たちが好き勝手に振舞う為に用いた道具でしかない。

 その事実はもうとっくの昔に認めている。

 

 

 ――かむながら、守り給いて、

 

 

 ならばなぜ、この局面でこんな無意味な言葉を放つのか。

 どうしてここで、こんなものに縋りつくのか。

 

 

 ――とおかみえみため、

 

 

 余計なことを考えるな。

 巫女の教えとは、結局はその一言に集約される。

 畏みもうせ、奉れ。

 あの醜悪な老人たちにとって、それはさぞ都合の良い文言だったろう。

 だが。

 

 

 ――――。

 

 

 聞こえない。

 それでも祝詞は止めない。

 聞こえるとか聞こえないといった些事にはかかわらず、ただ続ける。余計なことは考えずに、ただただ続ける。

 

 無意味な教えに無意味な言葉。

 それはもう知っている。百も承知だ。

 

 だが。

 だが夜空の大河(あんなもの)を見せられてしまえば。

 ああも派手にやられてしまえば、見てみぬフリをするのは不可能だった。

 とっくの昔に消えたと思っていたものが、実はまだそこにあったと自覚するのは時間の問題だった。

 

 つまるところ彼女は。

 

 きっとまだ、心のどこかで、信じていたのだ。

 

 数々の逸話が全て長老衆の創作だったとは思えない。

 きっと何か、元になったものがあった筈だ。

 連中が下種だったからといって、勝手に使われたであろう大元まで同類だと断ずることはできなかった。

 もうすっかり彼女の中に根付いていたそれが、実は1から10まであまねく全てゴミだとはどうしても思えなかった。

 

 だから彼女の中にほんのひと欠片だけでも、それは残った。

 そして今。

 

 

 こん。

 

 

 彼女の足先に、何かがぶつかる。

 少しだけ視線を上げると、何十とひしめき合う黒猫たち、その全てと眼が合った。

 それをじっと見たまま、彼女は告げる。

 

「お迎えに、参りました」

 

 滲む。

 猫たちの輪郭が滲んで掠れる。

 

 小汚い倉庫街に朝日が差し込む。夜が明ける。

 

 するとそこには、妙な格好をした男か女かもわからない小柄な誰かと、幼い頃の魔女によく似た少女が、寄り添うようにして眠っていた。

 胸は上下している。呼吸はある。生きている。ここに居る。

 

 

 

 嘘が、本当になった。

 

 

 

「おーいばあちゃん無事? ケガとかしてない? ってなんで泣いてんの!?」

「……騙された馬鹿女に、意味が生まれたんだよ」

「ふーん、オメデトウ! で、どっちが神さまなの?」

「え?」

 

 

 …………どっちだ?

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5.2 藍色のシャツを着た色男Ⅰ

 

 

 こんなもん動かしたらどうなるか、本当にわかってんのかねえ。

 

 

 闇が敷き詰められた広大な地下空間。

 その機関室と呼ぶには余りにも広すぎる真っ暗闇を歩きながら、彼はどうにも残念な気持ちになった。

 

「あの灯りに向かって進め。あれが目的地じゃ」

 

 この爺さま――魔術公はきっと彼なんかよりもずっと頭の良い男だ。

 こんな超大規模の古代遺物(ロストロギア)を実用レベルにまで復旧するなど、彼はもちろん、彼のコネクションをフル活用しても絶対に不可能だ。

 それを魔王(ゲオルギウス)と共同とはいえ成し遂げたのだ。その優秀さは疑う余地がない。なのに、

 

 

 ――本気で絶滅戦争とか始めちゃったら、こっちも向こうも、損しかしないじゃん。

 

 

 優秀なのに、性能は凄く良いのに、頭の根っこにこびりついた妄執(クソ)によって全てが決まるその様が、彼には残念でならなかった。

 

「ね、キッドマン。キミならこの闇を見通せるんじゃない? どう? 端っこがどうなってるか見える?」

 

 彼の前を行く、人型を模した金属と生肉の塊が、声を弾ませ振り返る。

 死職人(異常者)。記録に残る最初の名はマニファクチュア。技術以外をすべて炉にくべることで自己を最適化した、最高に合理的な気狂い。倫理という犬の餌を皿に盛ることを止めた、最先端技術者(くされ外道)たちのカリスマ。

 

「あーなんというか、ある一定のポイントから先がぼやけてるな。まるで波だ」

「波かー。空間で波が起きちゃうかー。やっぱ闇が質量もってるっぽいよね。ここだけかな? それとも見えないだけでどこでもかな? 旧王家なら知ってるかなぁ」

 

 なまじ人に近い形をしている分、尚更に嫌悪感が増すその造型。顔に該当する部分が鉄面で覆われているのがせめてもの救いか。

 

「けどそっか、キミには見えるんだ。やっぱまだ暗視の性能じゃ追いつけないかぁ」

 

 そんなグロテスクな見た目のくせして、声だけはめちゃくちゃ可愛い。

 ちなみに、本人曰く地声らしい。

 

「前に買った商品(死体)は、参考にならなかったかい?」

「なるにはなったけどさー。なんか低クオリティっていうか」

 

 そりゃ侵蝕深度(フェーズ)2の死体だからな。性能としては底値だよ。

 

 不要な言葉は飲み込む。吐き出すならこっちだ。

 

「また入荷したら、いるかい?」

「うーん、あのクオリティならもういいかな。もっと質の良いヤツ、それこそ元貴族だとか軍の上の方とか、そういうのが入ったら教えて」

「そこら辺は『お国』ががっちり管理してるからなあ。ま、あんま期待はしないでくれよ。出ればラッキー、ぐらいで」

 

 流石に彼とて、本格的にネグロニア(お国)を敵に回すつもりはない。

 だからまあ、この話はここまでだろう。

 

 

「過去の文献に記されていた名はアルバコア。どこからどこまでが――ではなく、この漆黒の巨大四角錐全てを指してそう呼ぶそうだ」

 

 闇の果てから徐々に近づいて来るピラミッドもどきを指し、魔王(ゲオルギウス)がペラ回しを始める。

 

 なんでも、起動した暁には周辺地理が大きく変わるとか。

 そんな馬鹿でかい規模の自走する要塞とか、いやはや、凄いねホント。ただ走るだけで千単位を殺せる? うん、マジでやべえな。邪神を動力にした後の運用方法? 夜に充填して昼に放出? オッケイよくできてる、継戦能力もばっちりだ。……は? 英霊鎮魂悲願の成就? スペックの説明中だろ? 急にエモーショナルな演説に切り替えんなよ、シラけるだろうが。

 

 こうして彼はまた、残念な気持ちになってしまう。

 何をやらせても1番を取れる、破格の天稟を備えたこの魔王(ゲオルギウス)でさえも、頭の根っこに植え付けられた妄執(クソ)には逆らえないのだ。

 

「あ、そうだ、この黒いの、端っこでいいから斬ってみてよ。中身気にならない? あの斬撃重ねるヤツならいけそうじゃない?」

「魔王閣下にどやされるか、愛刀が駄目んなるか。……自分でせい」

「だよねー」

 この場でそういった妄執(クソ)と無縁そうなのは、もっと悪質なモノで頭が一杯の死職人(こいつ)と……魔女(ローゼガルド)の影響下にあるヒルダぐらいだろうか。

 

 

「その棺の中に器がある。興味があるなら見てみるといい」

 

 

 見るも何も『これ』の販売に彼は一枚噛んでいる。

 なので当然、商品がどんなものかは把握しているし、そもそも魔女(ローゼガルド)が一体『誰』をつくろうとしているのかも知っている。

 

 

 ――ダリアガルデ様、ねえ。親父がいうには、なかなかに大したタマだったらしいが。

 

 

 そのまま素通りしようとした彼の足が一瞬だけ止まる。

 器が眠る棺の前で棒立ちになったヒルデガルド(ヒルダ)が、愕然とした表情で固まっていたからだ。

 

 そりゃ自分のお袋が複製されてこれモンじゃなあ、と素知らぬ顔で通り過ぎようとした彼に「待て」と声がかかる。

 当然、呼び止めたのはヒルデガルド(ヒルダ)で、かけられる言葉は「てめえナニ考えてんだコラふざけんなマジでぶっ殺すぞこのゴミクズ」といった内容を上品な言葉づかいで丁寧に表現したものだった。

 

 傍から見ると、この『商品』を取り扱う彼が関係者からクレームを受けている、という図でしかない。

 

 だが、たったひとつ『とある要素』が挟まるだけで、その意味はがらりと変わる。

 

 誰も知らない、知りようのない、取るに足らない昔話。

 まだ彼が小さな子供だった頃、事情があってしばらく預かることになったと親父が連れて来た親戚の子供。互いに自分が1番だと確信している2匹のくそがき。どちらが馬鹿かを決める暗号ゲーム。指差す部位と同時にいう言葉による区分わけ。紐付けするシチュエーション。省く文字。バカバカしいものほど何故かよく覚えているという不思議。

 

 それを、いい歳した大人がこんな場所で本気でやっていることに、思わず笑いのひとつでもこぼしそうになってしまったが……内容が内容だったので彼は真顔でいることができた。

 

 

 これから、ここ、殺す、全部。

 

 

 そうして最後に、たった今ぶつけられた「私の視界から消えろ」を組み合わせると。

 

 

「やーい、怒られてやんのー」

「いやいや、俺にいわれてもねぇ。こういのは直接魔女殿にって、次からは箱に書いとくよ」

 

 だる絡みをしてくる死職人(異常者)をいなしつつ、彼は取るべき行動を決める。

 

 普通に考えるならヒルダの行動は魔女(ローゼガルド)の命によるものだ。

 つまり、あのくそやべえおばさんが、選りすぐりの化物どもが一堂に会するこの場で『こと』を起こすというのだ。

 当然、勝算があるのだろう。彼には想像もつかない、悪魔がゲロを吐くような手管の数々が、獲物に向け解き放たれる瞬間を今か今かと待ち構えているに違いない。

 

 だが、それでも。

 

 ――いや、流石に、ムリじゃね?

 

 他の連中はともかく、獣の旦那と魔王(ゲオルギウス)が本当にどうしようもない。

 半身や心臓が吹き飛んでも、大笑しながら殺し合う異次元の怪物たちをどうすれば仕留められるというのか。

 

 かといって。

 

 あの魔女(ローゼガルド)が、こんな大一番で下手を打つとも思えないのだ。

 実は誰よりも計算高い魔女は、できないことはしない。

 する以上はできる。少なくとも、かの魔女はそう判断した。

 

 仔細は不明だが、これからヒルダは何かをする。それはきっと、とても残酷で暴力的な『何か』だ。

 そんなものに巻き込まれるのはまっぴらごめんな彼に告げられた「逃げろ」というメッセージ。

 つまり、今ならまだ間に合う。

 

 ――けどなあ。あの2大巨頭以外も、どいつもこいつもガチな化物ぞろいだしなあ。 

 

 だがもしヒルダがその『何か』に失敗した場合、急に消えた彼にも疑惑の眼が向く。最悪共犯にされ、馬鹿でかいマイナスを背負うことになる。

 

 ……たぶんこれは、大きな分かれ目だ。

 

「なあ死職人(マニィ)。何か硬い物を用意できるか? できれば小型のハンマーみたいな、俺でも楽々使えそうなヤツがいい」

 

 彼はこれ以上、悩むのを止めた。

 悩む時点で決め手はなく、ならばここからは単なる浪費でしかない。

 

「……なんでそんな懐かしい呼び名を知ってるのさ」

「べつに極秘情報ってワケじゃないだろ? で、ないのか? 金槌」

「あるけど、何に使うのさ?」

 

 ついさっき、なんとなく耳に入ったどうでもいいやり取り。

 だからこそ、ただただ結果のみを受け取れる、いわば(さい)の目。

 

「賭け――ってほど大袈裟なもんじゃないな。占い? 願掛け?」

「なにそれ?」

「この黒いピラミッドの端っこらへんを殴って、割れたり欠けたりしたら勝ち。オッケイ。レッツゴー。割れも欠けもせず無傷なら駄目。残念、()()()()()()

 

 普通に考えると、この場にひしめく化け物どもを相手に何をしたところで、即座に返り討ちだろう。順当な結果であり、まあそうなるよね、と誰もが頷く当然の帰結だ。

 

「ふうん。もし砕けたら、その欠片はボクのポケットに入るよ? きっとなんか凄い偶然が起きて絶対にそうなる」

「勿論だとも。大きな欠片はそっちに転がり、小さな破片は俺のポッケにダイブする。凄い偶然だよな。解析班におみやげまでできちまう」

 

 普通に考えると、こんなくそやべえ古代遺物(ロストロギア)最重要機構(心臓部)が、彼ごときの力で叩いたところでどうにかなるワケがない。

 だから少しだけ下駄を履かせて、1番良い道具を持っているであろう奴に借りることにした。

 まあバランス的にはこんなものだろう。

 

「ほい。ちゃんと返してよ」

 

 死職人(マニィ)から片手用の金槌を受け取った彼は「お前はそこ、お主はここ、そして貴様は――」とピラミッドの死角に人員を配置している魔術公からは見えない背面へとまわり、最下段の角へ向けて躊躇うことなく金槌を振り下ろした。

 

 

 これといった音はなく。

 直撃した箇所から網目状にひび割れが飛び散り、瞬間、辺り一面が粉々になった。

 結果はまさかの大勝利。超オッケイ。さっさとトンズラかまして風呂入って寝ろ。

 

 

「ちょっと! やりすぎだって! ていうかキミ、そんなパワータイプだった!?」

「いやいや! 軽く叩いただけでこの威力、おかしいだろ! てめえ死職人(マニィ)、なんてもん渡しやがんだ!」

 

 アルバコア右後の一角が、完全に崩壊していた。

 

「それ何の付与もない、ただ頑丈なだけの金槌だから! こんな超破壊力とか秘めてないから!」

「俺にこんな超パワーとかあるワケねえだろ! こちとら狙撃屋、後方支援だぞ!?」

「けど現にぶっ壊れてるじゃない!」

「おまえのくれたスーパーハンマーのおかげだよ! すげぇよ死職人(マニィ)見直した!」

「いいや違うね! 無法者の星(アウトロースター)の奥の手さ! 流石としかいいようがないよ!」

 

 双方必死のなすり付け合いは「なんじゃ、どうかしたのか?」という最上段にいる蛇女王からの問いかけにより「いや楽しみだなってついテンション上がっちまってさ!」速やかに集束した。

 

「おいマズいぞどうすんだよ。これじゃあ儀式の妨害をしに来た破壊工作員だ」

「え? そうだったのキッドマン? ちっとも気付かなかった!」

「ヘイ死職人(マニィ)、俺はたとえ首だけになってもお前との友情を叫び続けるぜ。証拠はないが事実と演技力と根性は腐るほどある。その路線は駄目だ。誰も得をしねぇ。どうせやるならみんなハッピーだ。違うか?」

「……これだから、ムダに地力が高い奴は」

 

 うんざりしたように吐き出した死職人(マニィ)が、腕と思しき部位を上方へと向ける。

 つい釣られて視線を向けた彼が見たのは、頂上玉座で何か作業をしている蛇女王だった。

 でかい蛇の下半身をローアングルから眺めたところで何も感じない。

 あれにエロスを嗅ぎ取れる位階に、まだ彼はない。

 自分は今、何を試されたのだろうか。

 そう思いつつも視線を戻すと、砕け散った筈の一角が、完全に元通りになっていた。

 

「触らないで。ガワを取り繕っただけ。中身はなにも直ってないから」

「それやばくね? 本番が始まるとボロが出るんじゃ」

「元々、つぎはぎだらけの中古品だよ。そんなオンボロで、神と呼ばれるレベルの超高負荷に、耐えられる筈ないよね」

 

 嘲るような半笑いの声。

 彼は気付く。

 こいつ、ハナからこうするつもりだったな、これ。

 

「それにキミだって、こんなもの、動かない方がいいだろう?」

 

 彼は笑う。

 こいつ、この場にいる誰よりも、ちゃんと理解してやがる。

 

「なんだよ死職人(マニィ)、思ったよりずっと話せるじゃねえの。ほれ、あるんだろ? 俺の取り分」

 

 そういって差し出した彼の掌の上に、ぽん、と黒い石が置かれた。

 

「サービスでそれっぽくカットしておいた。共犯の証拠だ。ブローチにでもするといい」

 

 目の前のピラミッドそのままの質感。光沢がないと思いきや、不意に輝く意味不明な黒石。

 

「ちなみにさ、そっちはどんな形にしたんだ?」

「全身の2割と置き換えた。内側だから、誰も気付きやしないさ」

「……まじで合理的だな、それ」

「残念だけど、予約は10年先まで埋まってるよ」

「え? そんなシノギもやってんの?」

「適合率は5%だけどねー」

「有料の自殺じゃん」

「だろ? おかしいよね」

 

 などと話ながら、ごく自然に皆の中へと戻り、さもくそ真面目な顔をしてうんうん頷く作業をこなす。

 そうして全ての準備が整うあたりで、

 

「じゃ、俺は良い感じの場所で」

 

 彼は全員の視界から消えた。

 場にわだかまる極上の闇は、いつもより容易く強固な足場を形成してくれる。

 それを駆け上がり、そのまま出入り口へと向かう彼の背に、

 

「おいキッドマン! 何度も言うが、好き勝手に撃ってくれるなよ。下に居る誰かが攻撃を『当てる』までは待機だ。脅しでわざと外す一撃を放つ事があるやも知れん。彼奴が動かなければ事は成るのだ。如何に殺し易いとはいえ、本当に殺しては計画が水泡と帰す。わかっておるな?」

 

 水泡と帰す方がいいよな。

 どっちが勝っても負けても、バカでかいマイナスしか生まない、消極的な集団自殺なんぞ。

 

「あー、はいはい。わかってますよ爺さま。俺はオーダー以外の仕事はしないよ。誰かが当てるまでは見てる。了解了解」

 

 そういつも通りの返事を残して、彼は唯一の出入り口へと駆けて行った。

 その途中で、

 

 ――あ、死職人(マニィ)に金槌返すの、忘れてた。

 

 ただ、死ぬ方に賭けた彼としては「もう会うこともないだろうしまあいっか」で全てが片付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 A&J大陸総合商社 中部第7支店管理事務所。

 

 創業者(両親)の頭文字を冠した看板が掛けられたドアを、彼はノックもなしに開け放つ。

 通常ならこんな深夜には誰も詰めていないが、今夜に限っては例外だ。

 

「あら、おかえりなさい若。ずいぶんと早かったのね」

 

 今夜の一大イベント(降神)の結果如何によっては大勢が変わる可能性もある。

 なので『本社』から、現場から最寄のここへ、信頼と実績を兼ね備えたできる奴が派遣されていた。

 

「ただいま、おばちゃん。まあいろいろあってなあ」

 

 それがこのおばちゃんだ。

 見た目は普通の中年女性。印象に残らない顔立ち。平凡な雰囲気。やや太めの中肉中背。服装と髪形を変えるだけで、きっと世界中のどこにでも埋没できる角のなさ。

 そんな(なり)をしているくせに、仕事は滅茶苦茶できる。

 書類関係はもちろん、血は嫌いだが厭わない肝の太さ。誰とでも上手くやれる人柄。立ち上げの最初期からいたメンバーのひとり。

 

 基本的に一族経営である『A&J大陸総合商社』において、一切の血縁がないにもかかわらず、一族の者と肩を並べる地位と権限を有するガチの大幹部だ。

 

「コールはどうしたの? あの子が仕事中に、若の側を離れるなんて」

「現場近くの待機所に置いてきた。あそこには他ン所の連中もいたからな。俺だけイチ抜けしたってバレたら、きっと面倒なことになる」

 

 おかげで、深夜の湖上をひとりでマラソンする破目になった。

 今度から、常に『足』は2つ用意しておこうと、彼は新たな学びを得ていた。

 

「色々とクソみたいな話があるんだが、その前に――そっちの彼女は、一体どちらさんだい?」

 

 基本、この管理事務所に部外者は入れない。

 僻地の小規模な町にあるとはいえ、それでもここは『A&J大陸総合商社』の関連施設なのだ。

 管理事務所(ここ)までには2つほどの『私有地と財産を守る検問所』があり、許可なく踏み込んだ不審者は皆こぞってどこかに消える。

 なので、ここにいる時点で身内のはずなのだが……どれだけ記憶をほじくり返しても、目の前の来客用ソファに浅く座る彼女には見覚えがない。

 

 管理事務所とは、重要度こそ低いものの、機密書類の保管場所でもある。

 そこへの入室を許可されるのは、組織を管理する側か、それと同等の重要人物かのどちらかなのだが……。

 

「マナナ、自己紹介なさい」

 おばちゃんに促され、ほどよく日に焼けた肌が活発そうな印象を与える彼女が立ち上がった。

「はじめまして。マナナ・サンチャゴっす。本社の――副社長の命でやって来ました」

 

 目の前の若く健康的な娘さんが、一瞬で死神になった。

 

「……よろしくマナナ。ミゲル・ベインだ。A&Jでの役職は代表兼警備部長(暴力装置)。キッドマンとか無法者の星(アウトロースター)とか、まあ色々と名前はあるが、身内は大体ミゲルで統一してる。キミもそう呼んでくれたら嬉しい」

「よろしくお願いします。ミゲル様」

 

 がしっと握手する。

 柔らかそうな見た目に反した岩のようなごつごつした手。無数の深い切り傷の跡。

 彼はなんともいえない気持ちになる。

 予想はしていたが堅気の手ではない。戦士の手だ。

 

A&J(うち)に入ったのは最近だよな? 誰のスカウトだい?」

 彼と面識がなく、しかしこの場に居ることができる。条件を満たすのはそれぐらいだ。

「2週間前、アルフレド様に」

「ああ、うん、あいつかあ」

 

 ごみ漁り(スカベンジャー)と揶揄される2番目の兄貴。

 拾ってきたごみを黄金に変える、性根の腐った錬金術師。

 

 進んで話題にしたい奴ではない。彼は無言のまま、テーブルを挟んだマナナの向かいのソファへ、どかっと身を沈めた。

 

 そうして、少しだけ目を凝らす。

 すると目の前のマナナから、ちらりと嫌なものが滲んだ。

 案の定、仕込みは済んでいる。

 最悪だ。

 

「よし、自己紹介は済んだわね。それじゃあ若、さっそくだけど聞かせて。あの時代遅れの怪物どもはどうなった?」

「あー、その、彼女、いいのかい?」

 一応確認をしてみるものの、

「アルフレドの所から来たのだし、良いんじゃないかしら。私は必要なことだと考えるわ。このタイミングであの子が寄越したのだから、無関係だとは思えないし」

「……そうだな。わかった」

 

 そうして彼は全ての主観を削ぎ落とし、ただ事実だけを報告した。

 

 聞き終わったおばちゃんは「5分待って」と長考に入る。

 正直、気は進まない。

 だが必要なことだと割りきった彼は、マナナに「何か質問はあるかい?」と努めて軽く振った。

 

「……A&Jと魔女(ローゼガルド)様はグルなんすか?」

「いいや。取引はあるが、まだそこまでの関係は築けちゃいない。東側の販路開拓の鍵だから、食い殺されない程度に入り込むのが現在の目標だ」

 

 

 飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を続けるA&J大陸総合商社。

 

 もとはチンケな一地方のやくざから始まり、今や西側のほぼ全ての裏家業を取り仕切るまでに成り上がった、口さがない連中がいうところの『最も成功したチンピラ』たち。

 

 しかし、西側の主要部に根を張ることができたとはいえ、所詮は闇精霊という一種族内での話でしかない。

 総数が桁違いの為、さも順調に支配地域を拡大しているように見えるが、実際は砂上の楼閣に過ぎないというのは全ての幹部に共通の認識である。

 

 がつんと1発ぶん殴られると、跡形もなく吹き飛ぶ。

 経済的な意味ではなく、物理的な意味で。

 

 他種族との個体性能差。

 それは如何ともし難い現実として、圧倒的な不利を押し付けてくる。

 

 率直にいって、喧嘩で勝てない。

 1対1なら勝負にならず完敗。3対1の袋叩きでようやく、といったところか。

 

 まあこれは、強化措置が施されていない『素』の場合の話だが。

 

 

「知っての通り、周りは化物ばっかだからな。近しい所から地道にこつこつやっていくしかないのさ」

 

 彼が『近しい所』といった瞬間、わずかにマナナが反応した。

 そこが知りたいならもっと素直に聞けばいいのに、とはいわないでおく。

 

「それだけかい? まだまだあるんじゃないか?」

 

「……じゃあ、コーシンの場で、どうして向こうは、わざわざミゲル様に逃げるよう伝えてきたんでしょうか? いつもの魔女(ローゼガルド)様なら、誰が居ようと構わずにやると思うんすけど」

 

 マナナの魔女(ローゼガルド)に対する理解がやけに深い。

 実によくない傾向だ。

 

「新しく用意するのが面倒だったんじゃないか? 向こうからしても、こっちは西側に食い込むフックだからな。あとやっぱ血縁ってのも無視できない要素か。魔女殿は血統主義のきらいがあるからなあ」

「え? 血縁なんすか?」

「細かい家系図は忘れたが……うん、まあ親戚だ」

「入り込むもなにも、ずぶずぶじゃないっすか」

「親父の代で1度完全に縁は切れた。けど、たまたま商売が上手くいったから、またぼちぼち復縁してる真っ最中ってところさ。だから、ずぶずぶになるのはこれからだ」

 

 まあたぶん、どこかのポイントで必ず破綻するだろうが。

 

「その、さっきから、いいんすか? そんなことわたしに話して」

「ま、アルフレドの所から来た時点で最低限の信用は保証されてるからな。あ、当然だけど、血縁云々の話は、親兄弟にも絶対に内緒だぜ?」

「はい」

 

 彼は意図して軽くいったが、それは心底からの言葉だった。

 彼女を拾ったアルフレド(2番目の兄貴)の『仕込み』は芸術的ですらある。

 一体どういう仕組みなのか、見当もつかないし知りたくもない。

 ただ、人間が内側から破裂するのは、何度見ても嫌なものだった。

 

「じゃあマナナ、今度はこっちから質問しても?」

「あ、はい、どぞ」

 

 正直、知らんフリしたままでいたかったが、副社長――姉貴案件だ。そうもいってはいられない。

 

「マナナはA&J(うち)に来る前、どこに居たんだい? 荒事関係なのはもうわかってるから、具体的な所属先を知りたい」

 

 最初の質問で魔女(ローゼガルド)の名を出して、自然と『様』づけをして、戦士の手をしていて、やけに魔女とA&Jの関係を気にする。

 嫌なピースが連続しているが、まだ決まったわけではない。

 今も彼の問い掛けにめちゃくちゃ答え難そうに視線を彷徨わせているが、だからといって決めつけるのは良くない。

 彼はじっと返事を待つ。

 

「えっと、その……特別行動隊、っす」

 

 特別行動隊。

 表向きには存在しない、魔女の私設部隊。

 存在しないのだから、どんなことをしても記録に残らない。

 存在しないのだから、目撃者なんてひとりもいない。

 存在しないのだから、隊員の死体は身元不明の誰かにしかならない。

 

 そんな理屈で、ただただ死体を量産し続ける、自壊しながら前進する魔女の悪意。

 それを、特別行動隊という。

 

 当然、辞表を出して退職できるようなところではない。

 それこそ、物言わぬ名無しのひとつになる以外、抜ける道などないだろう。

 

 だが今、彼の目の前にいる。

 そこの元隊員が、ワリと元気そうな感じで。

 なんかスカウトを機に転職して、A&Jの新入社員として事務所にいやがる。

 

「……そっかあ。特別行動隊かあ。親衛隊かな、とは思ってたんだが、そう来たかあ」

 

 考え得る限り、最悪の厄ネタだった。

 

「今向こうでのマナナの扱いは?」

「作戦行動中の行方不明、からの10日間経過による死亡判定って感じかと」

 

 このマナナ、魔女からすれば、血みどろ非合法活動の生き証人だ。

 それをこっそり確保している時点で、同盟とか友好とか協調などという路線はもう半分以上死んでいる。

 あの魔女相手に、生温い言い訳など絶対に通用しない。むしろ、こちらを潰して飲み込む口実ができたと喜び勇むのがあのおばさんだ。

 

 つまり。

 

 彼女を確保しているという事実が露見した瞬間、A&Jと魔女の殺し合いのゴングが鳴る。

 

「……おばちゃんは、いつから知っていたんだ?」

「4時間前。マナナがここに来た時ね」

 

 徹底している。

 この極秘裏に準備された急な方向転換。間違いなく『副社長案件』が進行している。

 しかも最重要人物(マナナ)を動かすとか、どうやらすでに、事態は最終局面へと突入しているようだった。

 

 いやいやなんで代表()だけが最後まで何も知らねえんだよ、と声に出すのは我慢した。

 新入りの前で、そうネガティブな言葉を吐き出すもんじゃない。

 彼は決して、そんなこともわからない間抜けではない。

 

 そもそも『副社長案件』である時点で、それは他の何よりも優先される。当然、彼とて例外ではない。

 

 だから不要な言葉は飲み込む。吐き出すならこっちだ。

 

「いいかマナナ、よく聞け。過去の経歴で待遇に差をつけないのがウチの方針だ。王様でも乞食でもスタートラインは同じ。前なんざ知ったこっちゃない。だからマナナ」

 

 そこで一度区切って、方々から『むかつく』と評判のスマイルを貼り付ける。

 

「俺はキミを歓迎するよ。これは個人的なカンなんだが……荒事が多い我が社において、きっとキミはなくてはならない奴になる。そんな気がする」

「ミゲル様のカンって、当たるんすか?」

 初めてマナナの表情が柔らかくなった。

「当たるとも。ここまで100%だ。きっとこれからもな」

「それってもう『予言』っすよね?」

「……いいね。会社をクビになったら、そっちでやって行くのもアリだな」

 

 余計なことをいったと悟った彼は、笑い飛ばすことでこの話題を終わらせた。

 

 それに合わせるように――実際に合わせたのだろうが――おばちゃんが口を開く。

 

「若。今すぐ出発の準備を」

「構わないが、これまた急だな」

「お待ちかねの、副社長案件よ」

「ようやくか。随分と溜めたな、おばちゃん」

「ええ。最後の判断は私に委ねられていたの。どれだけ急ぐか、その判断を」

「へえ。それで、今すぐ出発にしたのかい?」

「ダブルダッシュよ。ふたりとも若いのだから、平気でしょう?」

 

 ダブルダッシュ。

 採算度外視の全速力。

 A&Jが保有するありとあらゆるものを使い、1秒でも早く現場に送り込むことのみを追求した『半』自殺行為。

 前回実行時には、その年の上半期の予算が全て一瞬で吹き飛んだ、悪夢のような最終手段だ。

 

「オウケイ。おばちゃんがそう決めたんだ。異論なんてないさ。ただ、どこで何をしろって話なんだい? オーダーの内容は?」

 

 副社長案件――つまり姉貴の指示は、いつもそう複雑なものではない。

「具体的な指示はたった2つよ」

 ただシンプルだからといって、容易(たやす)かったことなど1度もなかったが。

 

 

「マナナとネグロニアの旧市街へ行け。そこで最低限の権益を確保しろ」

 

 

 いつもながらアバウトで、いつもながら何回かは死にそうな内容だった。

 ネグロニア旧市街――現役稼動を続ける旧世代の最高傑作、魔女の巫女の縄張り(テリトリー)だ。

 

 さらに、存在そのものが火種であるマナナを連れて行くリスクも無視できない。

 権益の確保といいつつ、トラブルの原因を同行させろともという不条理。

 

 しかし彼は知っている。これまでの経験から、嫌というほど理解している。

 きっとこれが、今回A&J(自分たち)が勝利する為の『必須条件』なのだ。

 

「なんか同行者になってるけど、マナナはいいのかい? 最悪、死ぬ可能性もあるが」

「はい。大丈夫っす。むしろ思ってたよりずっと早く約束を果たしてくれて、正直、安心してます」

「……約束?」

「はい。アルフレド様のスカウトを受ける条件に『隊の仲間をあと2人、A&Jで雇ってくれる』ってのがあって、それのことっす」

 

 彼は目線だけでおばちゃんに確認する。

 

「ええ、聞いているわ。ただし、若が見て『これは絶対に駄目だ』と判断したなら、その限りではない、という条件付きよ」

「土壇場でモメるのはごめんだ。マナナはそれで納得できるか? 俺は本気でイカれてる奴とかは、仲間にしないよ」

「はい。それでいいっす。いい方は悪いっすけど、あの2人は『使いやすい』タイプですから、問題にはならないかと」

 

 おばちゃんが何もいわないことから、その2人は『権益を確保』の内に入っているのだろう。

 彼としても、人手が増えるのは悪くない。

 ただ。

 

「その2人は、ネグロニアの旧市街に居るのか?」

「はい。というより、特別行動隊の拠点が旧市街にあります」

 

 それもそうか、と彼は納得する。

 いくら表向きには存在しない部隊とはいっても、実際には人がいて、生きるに必要な営みがあるのだ。

 その活動拠点の所在として、旧市街ほど適した場所もないだろう。

 

「表向きは、レストラン『エルダーエルダ』を経営してます。仕入れから調理、接客、季節の新メニュー考案や採算の調整まで、ぜんぶ隊員内で回してる感じっすね」

 

 エルダーエルダ。その名前には聞き覚えがあった。

 

「確かあれだ、旧市街を取り仕切る4つの組織のひとつ『エルダ商会』の直営店」

 

「はい『エルダ商会』は特別行動隊の隠れ蓑として魔女(ローゼガルド)様が用意したダミーカンパニーです。従業員は全て侵蝕深度(フェーズ)7以上の隊員たちで構成されてます。基本、どいつもこいつもロクデナシばっかなので、迎えに行く2人以外は皆殺しにしても大丈夫っす、はい!」

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 月明かりが照らす夜道を馬車が行く。

 御者は侵蝕深度(フェーズ)3なので夜目が利く。

 2頭立ての馬は最初から夜目が利く。

 なので、これといって問題など起きる筈もなく、ただただ順調に進んで行く。

 

 A&J(会社)の支店をつくる際に、周囲の『掃除』は完了している。流れ者の散発的な犯行以外は途絶えて久しい安全な道。

 街道の整備状況もまずまず。

 乗り心地もまあ及第点。

 なにより、ただ座っているだけで目的地に着くのはやはり素晴らしい。

 

 ただ、あるひとつの要素が、それら全てを台無しにしていた。

 

「……あの、ミゲル様。なんでわたし、目隠しされてるんすかね?」

「安心しろ。俺もばっちりされてるよ。まあ、こればっかりは決まりだからなあ」

 

 車内にいる3人の内、彼とマナナには黒い目隠しがつけられていた。

 

「えっと、今わたしたちは、ネグロニアに向かってるんすよね?」

「そうだよ。だからわざわざ、正装に着替えたんじゃないか」

 

 目的はA&Jの権益の確保。

 ならばまずは、こちらの所属を明らかにしなくては話にならない。

 よって彼は、滅多に袖を通さない正装に着替えていた。

 

「え? あのガラの悪そうな縞々ジャケットって正装なんすか?」

「いかにもって感じだろ? A&Jの母体となった(実家)の直系しか着用を許されない、いわくつきの正装なんだぜ」

「目立っちゃうと、狙われませんか?」

「ああ。的にされるよ。だから死亡率が高すぎて、普段使いはされなくなった」

 

 そこで一笑い起きた。

 これで笑えるんだから、やっぱこの娘は特別行動隊なんだなあ、と彼は実感した。

 

「ふたりとも、そろそろ目隠しを外してもいいわよ」

 

 おばちゃんから許可が出たので目隠しを外す。

 べつに彼もマナナも、手足を拘束されていたりはしない。

 ただ、町のどの出口から出てどの方角に行ったのか、それを知らせたくなかっただけだ。

 

「いつも思うんだけど、これって、星の位置を見れば方位とかバレねえ?」

「だから途中で目隠しを外せるのは、星のない夜だけよ」

「なんかロマンチックっすね」

「そうかあ?」

 

 いわれて窓の外を眺めると、確かに、夜空に星はなかった。

 

「目的地付近まで来たら、また目隠しをつけて貰うわ」

「はい。それは全然いいんすけど、ここからだとネグロニアまで、どんなに急いでも2週間ぐらいはかかりますよね?」

 

 あれを知らないマナナからすれば、目隠しの意味はわからないだろう。

 だから彼は少しだけ、潤滑油を流し込む。

 

「実はなマナナ、これから俺たちはちょっとした『ズル』をするんだよ。A&J(ウチ)の保有する機密のひとつを用いた、馬鹿みたいに金を喰う、普段は絶対に使わないし使えない、大損必至のやつなんだけどな」

「……機密っすか。なら新入りのわたしはわかるんすけど、なんでミゲル様まで目隠しを?」

 

 誰よりもそれを扱うのが上手なおばちゃんが、優しく諭すように新人教育を行う。

 

「機密――秘密なんて、実はどこにも存在しないの。あるのは、特定の者だけが知ることのできる情報だけなのよ」

「俺の意思とかお構いナシに情報を抜く手段なんて、腐るほどあるからなあ」

 

 知らなきゃバレない。バレようがない。

 なら、知らなくてもいける奴は知らない方がいい。

 

「ま、何が待ってるかはすぐわかる。なに、俺も一緒なんだから、そうまずいことにはならないさ」

 

 そういうのは、現地に到着してからが本番だ。

 

「まずいこと、っすか。……あの、ミゲル様。わたしを連れて旧市街に行くと、絶対にどっかで1回は殺し合いになりますよ。特別行動隊の拠点周辺には厳重な警戒網が敷かれてます。補足されないのは、まずムリかと」

「行方不明の仲間が生きてたやったーおかえり、ってならねぇ?」

「生きて動けるくせに10日以内に帰還しない。その時点で『裏切り者として処分』ってなっちゃいます」

「だよなあ」

 

 ――迎えに行く予定の2人も『そう』なってなきゃいいんだけどな。

 

 余計な言葉は飲み込む。吐き出すならこっちだ。

 

「なら、いざって時の為に、事前のすり合わせをしておこう。確かマナナは侵蝕深度(フェーズ)7以上なんだよな?」

「あ、はい」

「じゃあ何か得物はつくれるよな? どんなのだ?」

 

 侵蝕深度(フェーズ)5からは、闇を特定の形に固定し、手に取れるようになる。

 その際、どんな形に固定するかは、いってみれば個人の趣味だ。

 ただ最初についた手癖は、ほぼ矯正は不可能とされている。

 趣味とは性根に紐付いたものであり、後からああしろこうしろといわれたところで、そうそう変わるものではないからだ。

 

「ちなみに俺はクロスボウだ。色々と面白いギミックが満載だが、そいつは見てのお楽しみってやつさ」

「……え、それ、めちゃ強じゃないすか。ズルくないすか? 剣持ってる人らとか単なる的じゃないっすか」

 

 実はこの得物、男の9割は剣になる。

 国民的人気を誇る英雄譚。その主人公が闇の剣を片手に無双し頂点にまで駆け上がるサクセスストーリーは、知らない男児を探す方が難しいレベルで普及している。

 

「なんだ? マナナは剣なのか?」

「違うっすよ。はい、どうぞ」

 

 彼の手に、ぽんと黒い筒が乗せられる。

 掌3つ分ぐらいの、長くも短くもない黒筒だ。

 

「……触っても?」

「右端をつまむ感じで引くと伸びます」

 

 いわれた通りに右端を引く。じゃこんじゃこん、と3段階に伸びた。

 なにこのギミック、くっそ格好良い。彼の琴線がばるんばるんになる。

 

「これ、望遠鏡か」

「はい。父が職人だったんで、小さい頃からよく見てたんです」

 

 試しに覗いてみると、窓の外の遥か向こうにある木の葉っぱの模様が見えた。

 本物同様に機能している。

 

「これ、めちゃくちゃ凄くね? 内部の機構まで完全再現とか、初めて見たんだけど。つうかどうなってんだ? 闇でレンズ再現しても、こうはなんねーだろ」

「専門家がいうには、概念の再現ではないか、とかなんとか」

「あら本当に凄い。最近ウチで輸入した品より、倍率も精度も上だわ」

 

 おばちゃんの方を見ると、全く同じものを覗き込んでいた。

 

「個数制限なし?」

「最大同時に10ってところっすね。それ以上はクオリティがガタ落ちに」

「マナナから離れても、形を維持できる?」

「10000秒が目処っすね。月明かりが一切ない夜なら、その倍は」

 

 最大限に伸ばしたそれを、爪先で叩いてみる。

 硬い。それなりに重量もある。

 

「もしかしてこれ、武器としても使える?」

「刃物なら、ぶつかった瞬間に向こうがへし折れます。鉄の兜も、ちょっと厳しかったけどいけました」

「曲がったり歪んだりしたら?」

「それはポイして、また新しいのを出せば新品に」

 

 あれ、これガチで凄くね? と彼が内心そわそわしていると、さらにおばちゃんが追い討ちをかけた。

 

「もしかしてこれって、強化措置を受けていない人でも、暗闇の中が見えるようになるんじゃないかしら?」

「……凄いっすね。1発でそこに気付く人、初めてです」

「本来望遠鏡って、見えないものを見る為のものだから、もしかしたらと思って」

 

 夜間において何の役にも立たない筈の一般人が、超視力を有する見張りへと早代わりする。

 広範囲は無理だろうが、特定ポイントの監視なら十分実用に耐えるだろう。

 

 もし敵方にマナナがいたのなら。

 ただ『見る』だけで、一体どれだけの選択肢が潰されることか。

 たぶんこいつ(マナナ)は、真っ先に潰さなければ、まともに勝負のフィールドにすら立てない類の奴だ。

 

「……マナナって特別行動隊の要だった?」

「いや、流石にそれはないっすよ。いれば便利、ぐらいでしたね。隊には元狩人の子がいて、その子は闇で鷹をつくれたんです。偵察から報告まで全部やってくれる凄いやつで、わたしはそのサブって感じっすね」

 

 おいおい特別行動隊が想定の10倍はやばいぞおい、などという内心をおくびにも出さず、彼は笑ってみせた。

 

「そいつはいい。昔から鷹は、矢に撃ち落とされるモンだって相場が決まってる。こっちは商人で矢も放てる。相性はばっちりだ」

「いや、撃ち落としちゃダメっすよ。その子、迎えに行く2人の内の1人なんすから」

「……そっか、気をつける」

 

 それからしばらく、おばちゃんと2人して窓から望遠鏡を突き出し、あーだこーだと性能チェックという名の楽しい遊びに興じていたところへ、不意に、それは降り注いだ。

 

 端的にいうと、急に夜道が明るくなった。

 

 なんだこりゃと疑問に思った彼は、1方向しか見れない望遠鏡から目を離し、光源を――夜空を見上げる。

 

 

 光の河が、蠢いていた。

 

 

 さっきまで星ひとつなかった真っ暗闇。

 それを大きく抉りながら進行する、蠢く光を束ねた『河』としかいいようのない馬鹿げた規模の何か。

 それがゆっくりと――いや、あの高度を考えると超スピードで、どこかへ向かいまっしぐらに突き進んでゆく。

 

 ――ダメだ。見えねぇ。

 

 河が途切れることはない。その総量も終わりも、ちっとも見えてこない。

 ワケがわからない。

 こんな自然現象、見たことはもちろん聞いたことすらなかった。

 

 だが、何が起きているのかはわかる。

 

 これが何を意味するのかなど……誰にでもわかる。

 

 こんなの、どれほど鈍いやつだろうがすぐわかる。

 

 ここまで派手にやられると、わからないフリをするのは不可能だった。

 

「……いやいや、なんかがあるだろうとは思っちゃいたが、こうなるかあ」

 

 思い当たるフシはひとつしかなかった。

 彼が途中でばっくれた降神の儀。

 あの場に勢ぞろいしていた化物たちをどうやって皆殺しにするのか、その答え。

 

「なあおばちゃん。もしかしてあれの向かってる先って、ネグロニア方面だったりしない?」

「ええ。その通りよ」

 

 彼の一番深いところが、ほんの一瞬だけ、怯みそうになる。

 自覚するより早く、握り潰す。

 

 伝承に語られる邪神は、戦で『討たれて』終わりを迎えた。

 つまり、殺せる。

 お空の彼方におわす分には手出しもできないが、同じ地に足をつけるのならば、殺せる。

 その事実は、ひどく彼を安心させた。

 

 

「なあに若、神殺しの英雄にでもなりたいの?」

 

 

 率直に凄いと思った。

 表層から彼の内心を読み取るのはもちろん、軌道修正まで一息の内に済ませるその早さ。

 これだから、このおばちゃんには頭が上がらない。

 

「まさか。いくら儲かるかって考えてたのさ」

「こんなもの相手に、逞しいこと」

「いうほどエグい化物ってわけでもない。まだ『入る』前の器は、ガキの頃のヒルダによく似た、可愛らしい娘さんだったよ」

「……なら、長じれば手に負えなくなるわね。中身も子供だといいのだけど」

「いやいや、きっと気さくな良い奴さ。その方が都合がいいからな。そうに決まってる」

 

 そこでふと、さっきから妙にマナナが静かだなと気付いた彼が眼をやると、

 

 窓から大きく身を乗り出し、おそらくは望遠鏡で光の河を観察しているのであろう彼女から――全ての力が抜け落ち、車外へと滑り落ちるまさにその瞬間だった。

 

「若っ!」

 

 おばちゃんと2人して、まだかろうじて見えるマナナの足に取り付く。望遠鏡が、からん、と外を転がる音が響く。だが、そこまで。

 ぎりぎりで間に合い、どうにか車内へと引き戻す。

 現着の前にひとり脱落など、笑い話にもならない。

 

「必要なものは?」

 

 目を閉じ動かないマナナの状態を確認しているおばちゃんへ問いかける。

 これはA&Jの社用車だ。なので当然、応急処置セットぐらいは標準装備してある。

 

「特に何も。外傷なし。脈拍、呼吸も正常。ただ寝てるだけにしか見えないわ」

「俺もおばちゃんも同じものを見た。だが、マナナだけがこうなった」

「きっと習慣の差ね。私と若はあれを見て真っ先に、どう活かすかを考えた。彼女はいつも通りつぶさに観察した」

「……これかあ」

 

 脇に置いていた黒い望遠鏡を手に取る。

 

「距離、いや、俺もマナナも位置は同じ。ならアップで『見る』のがダメなのか?」

「意識が戻るわ。詳しく聞いてみましょう」

 

 いやそんだけ容赦なくばちばち叩いたらそりゃ起きるだろ、とはいわないでおいた。

 そうして、とくに後遺症もなく意識を取り戻したマナナがいうには、

 

「なにかと目が合って、声が聞こえました。なんて言ってたのかはちょっと覚えてないんすけど、とにかくそれが聞こえた瞬間から、記憶が途切れてます」

 

 まとめるとこうだ。

 あの光の河は何かの集合体で、それと目が合えば、声が聞こえて意識を失う。

 

 さっぱり意味がわからない。

 ただ手に負えないことだけはわかる。

 見るだけで意識を失うとか、一体どうしろというのか。

 

「色々と試してみますか?」

「いや、止めとこう。次も無事な保証はないし、目が合うってことは、最悪向こうにも『見られている』可能性がある。顔を覚えられたりしたら、怖すぎるだろ」

 

 そこで前方の御者台から、ちりんちりん、とベルの音が聞こえた。

 

「ちょうどお時間だ。ほらマナナ、また目隠しの時間だ」

「あ、はい。つーか御者のおっちゃん、凄いっすね。夜空がびかびかなのに、ちっともびびってない」

「やばい時に足を止めたら死ぬだろ? だから死んでも止めない根性がある奴しか、あそこには座れないんだよ」

 

 そうして再び、彼とマナナは黒い目隠しで視界を塞いだ。

 

「じゃあマナナ、これからの手順を説明するからよく聞いてくれ」

「は、え? 手順っすか?」

 

 どこか上の空な返事に、どうせ外は見えないだろと笑いかける。

 

「どうにも夜空がやんちゃしてやがるが、俺たちにできることは何もない。だから、そっちは一旦スルーだ。いいな?」

「……はい。夜空さん、思ってたより若かったっすね」

「きっと10年後に今夜を思い出して悶えるぜ」

「若。時間が押してるから早く」

 

 怒られた。

 

「改めて確認するが、マナナは侵蝕深度(フェーズ)7以上で間違いないな?」

「はい。半年前の検査で、7でした」

 

 数値の上では問題なし。

 だが彼はきちんと説明を続ける。

 

「目的地に着いたら、おばちゃんが手を引いて先導してくれるからそれに続け。絶対に目隠しは取るな。もしズレたりしたら、ちゃんとおばちゃんに言って直してもらえ。これは本当に大事なことだから徹底しろ」

「はい。わかりました」

 

 かつて、これを怠り失明した者がいる。

 目隠しには、情報の隠匿のほかに『眼球の保護』という大事な役割がある。

 目を閉じろといわれても、咄嗟の反射まではどうしようもない。なので目隠しは必須だ。

 

「それである程度進んだら、おばちゃんが『ここから』って合図するから、そこから先は絶対に喋るな。口を閉じろ。口で息をするな。口呼吸禁止。どんなに小さくとも、絶対に口を開けるな」

「了解っす」

 

 かつて、これを怠り喉を焼かれた者がいた。

 この被害を防ぐ為、専用のマスクをつくろうかという案もあったが、この程度の指示も守れない奴は『ここで間引こう』となり、ふるいとして捨て置かれることになった。

 目とは違って完治するからべつにいいだろ、とは彼の弁だ。

 

「で、そのまま進んだら『絶対に』バランスを崩すだろうから、無理に体勢を維持しようとするな。倒れ込む感じで受け身を取れ。そうしたら終了。お疲れ様でしたで完了だ」

「え? それ、ただどっかで転ぶだけっすよね?」

「俺も具体的な絵図は知らない。目隠しで見えないんだから当然だよな。ただ毎回()()()って経験がある。だから今回もきっと()()()。……だよな? おばちゃん」

「ええ。何も問題ないわ」

「……了解しました。指示に従います」

 

 元軍関係者はこういうところがスムーズだ。

 そして1度了解といったからには、きちんと指示は守るしこなす。

 

 そうして、停車した馬車からおばちゃんの手を取って降車し、引かれるままに何処かの建物に入る。いくつものドアをくぐり、わずかな金音から恐らくは武装しているであろう複数の視線を感じつつもさらに奥へと進む。階段を上って降りて、右折して左折してを繰り返し、その要所要所で誰かの視線に背を押されながら、さらに歩くこと体感で10分。重い鉄の塊がぎぎぎとこすれる音を最後に、ようやく足が止まった。

 

「ここからよ」

 

 到着だ。

 おばちゃんの声が、彼の横へと移動する。

 ここから先へ行くのは、彼とマナナだけだ。

 

「若、マナナ、限界だと思ったら迷わず撤退なさい。無理をして、死んじゃ駄目よ」

「もちろんだとも。俺を失う以上の損失はないし、いきなり新入りをダメにするような大損、俺が許すワケないだろ?」

「そうね。私たち(A&J)に、損はさせないで頂戴ね」

「ああ。行ってくる」

「いってらっしゃい。マナナも、気をつけるのよ」

「え? あ、はい!」

 

 いまいちよくわかっていないマナナへ「説明通りに、落ち着いて、ゆっくり進むんだ」と促す。

 

 1歩。

 2歩。

 3歩。

 

 4の接地と同時に、身体が横向きになる。

 次いで吸い込まれるような、落下するかのような浮遊感。

 

 ただじっと我慢すれば長く感じるこの時間。

 少し考え事でもすればあっという間の時間。

 

 彼の脳裏に浮かんだのは、今回の副社長案件、その備考。

 

 事務所を出る際、荷物を取りに行ったマナナを待つ間に告げられた、今回の特別指定人員。

 

 

 

 特別指定人員(ついてないやつ)

 副社長案件の際、必ずセットで添えられる特定の誰かの名前。

 最初の内は誰にも意味がわからなかった。見覚えのない名前ばかりだった。当の姉貴すら「わからない」の一点張りだった。

 だがある時、副社長案件の報告書を作成していた事務方のひとりが気付いた。

 

 その時の騒動に巻き込まれ、不運にも死亡していた大工の名が、特別指定人員のそれと同じだった。珍しい名だった為、奇跡的に埋没を免れた。

 それから過去の記録を辿り、当時の副社長案件と『それに何らかの影響を受け死亡した人物』の調査を開始すると、あっけなく答え合わせは済んだ。

 

 特別指定人員(はずれくじ)

 そこに名がある者は、副社長案件にかかわる何かで、必ず死亡する。

 

 

 

 今回の()()を聞いた彼は、信じられないと思う反面、そういうことかと納得もした。

 あの魔女を心底警戒していた親父や経営陣が、なぜ今回はこうも大胆な方針へと舵を切ったのか。

 まともにやり合うと勝ち目がないから、かつて東側から撤退したのではなかったのか。

 まともにやり合うのを避ける為に、こつこつと恩を売っていたのではなかったのか。

 

 マナナを待つ間、そっとおばちゃんに告げられた今回の特別指定人員。

 

 その名は。

 

 

 ローゼガルド。

 

 

 夜空をぶち抜く光の河。

 化物どもを皆殺しにできる、最高におっかねえ何か。

 手綱がするりと手を離れたら。

 

 

 きっと今夜、魔女は死ぬ。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 どちゃ、と横向きに着地する。

 

 ちくちくした感触と草のにおい。

 どうやら無事に『到着』できたようなので、彼は目隠しを外し立ち上がった。

 

 一面に広がる草原。

 夜なのに、妙に明るく、夜風に波打つだだっ広い草の海。

 見上げると、ここでも『あれ』が夜空を貫いていた。

 

 蠢く光を束ねた、馬鹿げた規模を誇る天の河。

 目が合うだけで気絶する『何か』の集合体。

 

 

 ――姉貴のいう権益に、こいつが無関係なワケねぇよな。

 

 

 最悪『これ』自体を指している可能性すらある。

 そもそも、こんなモンと喧嘩して、良いことなんてひとつもない。

 だが困ったことに、向こうがこっちと仲良くする理由がない。

 

 ないなら探すか。なけりゃつくるか。

 

 ゴッドスレイヤー伝説はどこかの英雄に任せようと決めた彼の耳に、ざり、と何かを踏みしめる音が入る。

 視線だけで追う。

 近場にあった背の高い草むらへ飛び込む影。

 思ったより元気そうだ。

 彼は草むらへ声をかける。

 

「大丈夫だマナナ。周囲に敵はいない。どういう理屈かは知らないが、人目(ひとめ)があるところには出られない。そういう風にできてるそうだ」

「え? あっ! ミゲル様っすか!?」

 がさがさと草むらからマナナが出て来る。

 手には黒い打突武器――鉄兜ごと頭を割れる望遠鏡。

 

 それを見た彼は、怖いなあと思う。

 現状を把握するより先に身体が動き、安全の確保と同時に迎撃の用意。

 とっさの反射で一息に、殺す準備までを完了させる。

 特別行動隊の質の高さを窺わせる、実に素晴らしい錬度だ。

 

「え? 外? 草原? わたしたち、あの音の反響、室内にいましたよね? なんすかここ?」

「俺も正確な場所や名前はわからない。ただまあ、ネグロニアの近くだろうなとは思う。たぶん、あの光の河を辿って行けば着くんじゃねえかな」

「…………まじすか?」

「まじまじ大まじ。とりあえず歩こう。でっかい矢印の方へ行けば、その内なんか見えてくるだろ」

 

 きょろきょろと辺りを見渡しながら進むマナナに合わせしばらく進むと、なだらかな下り坂の向こうに、バカでかい湖が見えてきた。

 

「……山の位置と形。支流の本数。信じられないんすけど、これ、たぶんパスカル湖っすよ」

「よくわかるな。さすが地元民。で、それって旧市街からどれぐらいの場所なんだ?」

「ふつーに徒歩圏内っす。駆け足なら、夜明け前には旧市街に入れるかと」

 

 夜空を貫く光の河を見る。

 バカでかいパスカル湖のど真ん中、その上空を真っ直ぐに突き進んでいる。

 丁度いい。共有がてらやるか、ショートカット。

 

「あの、ミゲル様。これ、軍事の常識がひっくり返りますよ。いや、まじで何なんすかこれ。死ぬほど急いで2週間の道のりが10秒って、意味わかんないっすよ」

 

「そこまで都合の良いもんでもないさ。たぶん人数は2人あたりが限界で、最低でも侵蝕深度(フェーズ)7は必須。6以下じゃ死体も残らず燃え尽きちまう」

 

 昔は処刑道具だったらしいぜ、とはいわないでおいた。

 

「なにより、さっきもいったが馬鹿みたいに金がかかる。今回のこれ1発で、今年の上半期の予算は全部ふっ飛んだと考えていい。正直、やった時点で負けみたいな1発芸的なところがある」

 

 

 距離を無視した移動。

 こんな反則じみた真似、どう考えても現代の技術では不可能だ。

 なので自ずと、何らかの古代遺物(ロストロギア)の再利用、という結論が出てくる。

 

 つまり、詳しい奴がいうところの『つぎはぎだらけの中古品』頼り、というわけだ。

 いつ壊れるかわかったもんじゃないし、修理ができるかは不明。

 

 普通に考えると、使い物にならない。

 

 次も同じことができるかは不透明。送り込める人員は選ばれたごく少数で、さらに無事な保証もない。おそらく必要な魔導具関連に莫大な金がかかる。維持費も安いワケがない。

 以上の理由から、表だろうが裏だろうが、組織というものを運営するにあたり絶対に無視できない()()が『使い物にならない』という結論を叩きつけてくる。

 

 採算が取れない。

 

 それこそ、姉貴のような存在でも抱えていない限り、破産必至の1発芸の域を出ない。

 

 これが秘匿されているのは、姉貴と紐付けて運用されているからだ。

 彼もA&J(会社)も、これ自体には大した価値を見出していない。

 

 なにせ、儲からない。

 

 

「マナナなら、そんな『これ』をどう使う?」

「えっと、そうですね……ぱっと思いつくのは、指導者とかリーダー的な人を逃がす用とか、1撃必殺首狩り作戦とか――あ、本当っすね、先のない1発芸になっちゃいますね」

「他にも、超激レア情報の伝達用とかもあったけど、1発でウチの半期予算を超える収益の見込める情報とか、ここまでひとつもなかったよ」

 

 だがそれでも万が一、まだ未知の可能性が、仕組みの解析が進めば。

 そういった浪漫派の資金と発言力をがりがりと削りながら今日まで維持されてきたが、結局は『副社長案件』専用となっているのが現状だ。

 

「だがまあそれでも、一応はトップシークレットだ。他言無用。誰かに自慢したりしちゃダメだぜ?」

「それは勿論、はい。というか、こんな話しても頭がおかしくなったとしか思われないっすよ」

 

 そんなことを話している内に、徐々にバカでかいパスカル湖が近づいて来た。

 こうして改めて近くで見ると……果てが見えない。海といわれても納得できるサイズ感だ。

 

「これをぐるっと左周りに迂回するのが最短ルートっすね」

「真ん中を突っ切れば、もっと早かったりしないか?」

「泳いで渡れる距離じゃないっすよ」

「歩きなら?」

 

 いって彼は、階段状に足場をつくり、ゆっくりと上って行く。

 

「……まじすか?」

「まじまじ大まじ。俺の後ろを付いて来てみな」

「その、何も見えない透明な足場とか、めっちゃ怖いんすけど」

 

 これじゃ見えないのか。

 ならばと彼は、少し純度を下げてみる。

 

「これでどうだ?」

「……うっすら半透明ぐらいには。幅的には80センチぐらいあるんすね」

 

 おそるおそる、といった感じでマナナが彼の後に続く。

 

「やってることはマナナの望遠鏡と同じだ。複雑な機構がない分、こっちの方が簡単かもな」

 

 10段ほど上ったら、そこからは真っ直ぐに切り替える。

 

「わたしの望遠鏡は空中で固定したりできませんよ。しかも人の重さを支える強度で量は無制限とか」

「そこまでできるほど『本筋』じゃないさ。ちゃんと不要になったやつから消してリサイクルしてる。だから急にバックとかするなよ? 普通に落ちちゃうから」

 

 それこそ、本当に無制限なのはヒルダや魔女(ローゼガルド)ぐらいなものだろう。

 

「そういえば、親戚ってことなら、ミゲル様も『王の血統』なんすよね」

「俺への悪口のひとつに『チンピラプリンス』ってのがあるから、それいってるやつ見つけたらとりあえず殴っといて」

「あの、笑わせようとするの止めてください。落ちたらどうするんすか」

 

 手すりも何もない足場だけの道を渡るのは中々に難しい。

 風、平衡感覚、恐怖、歩法。クリアすべき課題は多岐に渡る。

 

「だからここで練習しとこうって話だ。ここなら落ちても死にはしない。これを使う時は基本ダッシュだからな。のんびり歩くなんてまずない。あと向こうの飛び道具を避けたりで、ジグザグ走行とか上下運動もある」

「なんかそれ、面白そうっすね」

 

 そうしてしばらく、真っ黒な湖上で、光の河が向かう方へダッシュしたり急カーブしたりといった練習兼行進を続けた。

 彼の予想通りマナナの身体能力は素晴らしいの一言で、バカでかいパスカル湖の半分を縦断する頃には、先行するマナナの前に彼が道をつくりながら続くという意味不明なフォーメーションが生み出されるまでになっていた。

 

「これ本当に凄いっすけど、目立っちゃうのが唯一の欠点ですよねー」

 

 できるだけ『実戦と同じ条件で』ということで、今彼とマナナは黒い薄手のフード付きロングコートを着用している。

 このフード部分にはひと工夫あり、目元から下に蓋を閉めるようにして固定する布地をつけることで、極限まで肌の露出を抑えている。

 これは彼のやり方を知っているおばちゃんが用意したもので、たしかに暗闇では保護色となり、極限まで目視し難くなるのだが……それでも、中空で蠢く成人男性サイズの違和感というものは非常に目に付く。

 

 それこそ、昼間と同じレベルで夜目が利く侵蝕深度(フェーズ)2以上の相手からは、普通に発見されてしまうだろう。

 

「だから、こんなのもある」

 

 最初にマナナが『何も見えない』といった純度で、コートの外側を覆ってみる。

 これなら、闇の中で闇が動くだけになるので、そもそも認識できなくなる。

 

「……ズルくないっすか、王の血統。なんでもありじゃないっすか」

「目と足の動きだけは完全に消せないから、バレる奴にはバレる。所詮は小細工。ガチな連中には通じないから、あんま過信しちゃダメだ。やばいと思ったら迷わず逃げろ」

 

 彼の最大の強みは、何度でも仕切り直せる――いくらでも逃げられるところにある。

 

「……そりゃ、誰も無法者の星(アウトロースター)には喧嘩売らないワケです。こんなの、どうしろっていうんすか」

「ただ隠れて遠くから撃って、ダメなら逃げるってだけの卑怯者さ。そんな大したもんじゃない」

「それ、一方的に相手を狩る理想像じゃないっすか」

「だよな。俺もそう思う」

 

 そこで不意に、夜の眩しさが落ち着いた。

 ほんの一段、闇が前進し光が退いた。

 つまりこれは、

 

「ミゲル様あれ、空が」

 

 光の河が、ある地点へ集束するようにして消えていった。

 

 それはネグロニアを越え、そのさらに向こう、さらに東へ。

 思い当たるのは東の果ての離島群――すなわち旧王家の直轄地。

 かの悪名高き魔女の館の所在地だ。

 

「あー、そうなんのか」

 

 こりゃカチ合ったな、たぶん。

 

 あの魔女ならもしかして、という気持ちもあったが、やはり『特別指定人員』はそうそう覆るようなものではないらしい。

 

「あの、ミゲル様。よくわかんないんすけど、神さま的なやつって、海にどぼん、ですか?」

 

 彼は少し考えて「たぶん魔女の館に直行した」と正直に伝えた。

 

「魔女様が心配かい?」

「まさか。ミゲル様には悪いっすけど、ぶっ殺されたらいいのにって思ってます」

「それは特別行動隊の中じゃ珍しい考え方か?」

「表には出せませんけど、半分ぐらいはこうだと思います。当然、迎えに行く2人も」

「残りの半分は?」

「魔女様を神とする信者、っすね」

「うわ」

「性能はトップクラスの連中ばっかで、最強の隊長がその筆頭っす」

「うわきつっ」

 

 それから、迎えに行く2人の名前――ノエミ、バンビ――と特徴を聞いたところでパスカル湖の『踏破』は完了し、縦断訓練は終わった。

 

 久々に陸地へと足をつける。

 マナナがいうには、このショートカットで目的地までの所要時間を半分にできたらしい。

 

「じゃあ、ここからはちょいと急ごう」

 

 夜の暗闇の中の方が、彼の持ち味は活かせる。

 朝日が昇る前に、最も不安定となる最初期の準備は終えておきたい。

 

 だからさっさと旧市街に入って、まずは潜り込ませてるスパイに話聞こうぜ、と駆け足を始めた彼にマナナが続く。

 

「……あの、ミゲル様」

「うん? なんだ?」

「ひとつ、ずっと気になっていたことが」

「旧市街に入ったら話すヒマもないかもしれない。聞くなら今だぜ?」

 

 むしろ彼としては、もっと早い段階で聞かれると思っていた。

 

「正直、触れるつもりはなかったんです。知らない方がいいことって沢山ありますし、きっとこれも、そんなやつのひとつだろうって、スルーするつもりだったんっすよ、本当は」

 

 薄々感じてはいたが、マナナの頭の良さはかなりガチだ。

 

「けど状況的に、わたしと迎えに行く2人、全員が生き残る確率ってワリと低いって気付いちゃったんです。だから、できることは全部やろうって。上の人に睨まれたりハブられたりしても、できることをしないで後悔するのは嫌だって、そう思ったんです」

「そうだな。できることはやるべきだ」

 

 たったったった、と駆け足の音だけが響く。

 

 

「副社長案件って、何ですか?」

 

 

 正直、ダミーの答えは用意してある。

 各地に潜り込ませたスパイ。情報を集積、分析する専門部署。

 それらが弾き出す、特定の利益が重なる場所への重役派遣。

 それっぽい理屈と裏付けは、それこそ山と準備してある。

 

「あ、いや、違います。正直、副社長案件が『何か』なんて、わたしにはどうだっていいんです。秘密なんて知りたくないんす。わたしが知りたいのは、ええと、その」

 

 たったったった、たったったった。

 彼は急かさない。これは、彼が考える時間でもあるからだ。

 

 

「副社長案件に、わたしや2人の生死に関する言及はありましたか?」

 

 

 いやいや知りたくないとかいいつつほぼ完璧に理解してるじゃねーか! 

 

 不要な言葉は飲み込む。吐き出すならこっちだ。

 

「なかったよ」

 

 実際のところ、マナナから秘密が漏れる可能性はゼロだ。

 彼女をスカウトしたアルフレド(2番目の兄貴)の『仕込み』がある限り、話そうとすれば物理的に()()()()()()

 何がアウトで何がセーフかの線引きは、最初に散々話し合った。そこに齟齬はない。ブレも紛れもない。

 

 なので『話せる内容』を与えてしまうということは、マナナに爆弾を植え付けるも同義だ。

 洩らせば、話せば、どかん。

 だからそんな真似ができるアルフレド(2番目の兄貴)は皆の嫌われ者で、組織(A&J)にとって欠かせない大切な兄弟なのだ。

 

「なら、よかったです」

 

 最初のひとつは彼がおばちゃん(証人)の前でつけた。旧王家との血縁。

 いつもアルフレド(2番目の兄貴)は、骨組みや仕組みはつくるが、それ以上はしない。

 

 

『相手を縛り上げて、ナイフを用意して、毒を塗って、手に握らせるまでは僕がしよう。ただ、それを首筋に押し当てるのはお前たちがやれ。全部こっちにおっ被せるな。ちゃんとお前らも地獄に堕ちろよ兄弟』

 

 

 クソのような物言いだが反論はできない。

 だからこれで爆弾1つ。

 

 2週間の距離を10秒で移動できる『あれ』の存在。

 これで2つ。

 

 予定ではここまでだった。

 3つからは、危険域に突入してしまう。

 

 アルフレドがいうには『安全装置』だそうだ。

 裏切りを警戒しなければならないような奴のところに秘密が集中する。

 その時点でもうすでに、組織としては終わりかけている可能性があると。

 

 

『――だから、個人差はあるが、4か5になったら自動的に爆発するようにしておいた。きっとそれが一番マイナスが少なくて済む。1歩進んで、意図的にこれ使うことで、好きなタイミングで始末することも可能だ。ただし地――おい、エモーショナルポエムタイムは他所でやれ。そこまで僕はヒマじゃない』

 

 

 おばちゃんにも伝えたが、いきなり新入りをダメにするような大損、彼が許すワケがない。

 ……のだが、予想外に良かったマナナの頭が、セルフで腹に発破を巻いた。

 

「一応、お約束だからいっておくぜマナナ。このことは――」

 

「わかってます。絶対に親兄弟にも言いません」

 

 きっと彼女はわかっていない。

 この口約束が、物理的な結果に直結しているなど、理解していよう筈もない。

 

 実のところ、理解されても困る。

 

 これまで、この仕組みを理解した奴とは100%殺し合いになった。

 

「ならオッケイだ。ま、そう(りき)まなくてもいいさ。肩の力を抜いて気楽に行こう。どうせなら楽しい方がいい。そうだろ?」

 

 笑い飛ばす。

 

 彼は無法者の星(アウトロースター)

 

 つまるところ、外道の類である。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5.3 藍色のシャツを着た色男Ⅱ

 

 

「けどあれっすよねー。なんか思わせぶりな副社長アンケンの真っ最中に光の河とか出てきて、もしかしてアレとぶつかるのかなって、実は結構ひやひやだったんすよー」

 

 いくら所要時間を半分にカットできたといっても、ダッシュ1本で着けるような距離でもない。

 到着しても疲労困憊では話にならないので、定期的に休憩を挟む。

 

「いやいや、まだ安心するには早ぇかもよ? 神様なんてロクでもない奴に決まってんだから、なんかの拍子にふらっと、賭場とか酒場とか娼館とかが並んでる旧市街をからかいに来やがるって線もあり得る。俺ならそうする」

「そんなのだったら、案外仲良くなれるかもしれないっすねぇ」

 

 などという軽口は、徐々に萎んで消えていった。

 

「……あの、ミゲル様。なんかめっちゃ光の河、降りてませんか?」

「あーうん。なんかこう、ほとんど豆粒ぐらいしか見えねえが、街っぽい所に降りてやがるな。あ、望遠鏡では見るなよ。ここで寝られちゃ俺が困る」

 

 いつの間にやら、今度は東の果てからこちらに向かうようにして、光の河が逆走して来ていた。

 

「使わなくてもわかりますよ。あれが旧王城だから、そこから1、2、3は外れて……ええ、位置的には、ばっちり旧市街っすね」

「まじでかあ。……器は子供の女の子だったから、目的は酒か博打かな?」

「そういえば見てるんでしたっけ。服装とか髪型はどんなのっすか?」

「長い黒髪の全裸」

「自信がなきゃできないスタイルっすね」

 

 もどかしいが、まだまだ距離はある。

 なので意図してゆっくりと、それでも平均よりは早いペースになってしまっているのを自覚しつつも、とにかく足を動かす。

 体力を考えると黙って走るのが1番だが、ついつい欲張って口を開いてしまう。

 

「マナナは普通に旧市街で暮らしてたんだよな? 表向きはレストラン『エルダーエルダ』の店員として?」

「はい。わたしは『表班』でしたから、ふつーに顔見知りもいますし、名前もそのまんまです」

「じゃあ、旧市街のボス――魔女の巫女と面識はあるのか?」

 

 魔女の巫女。名はターナ。姓は不明。年齢も不明。魔女が幼少期に滅ぼした少数民族アカシャの生き残り。およそ半世紀に渡り活動を続ける、殺害人数(キルスコア)がこの世で2番目と目される、魔女(1番)の右腕。

 

「顔は知っていますが、面と向かって会ったことはないっすね。直接の接触は厳禁でした」

「なんで? 同じ魔女傘下なのに」

「特別行動隊が旧市街に拠点を構えている理由のひとつが、魔女の巫女――あの婆さんが妙な動きをみせた際、速やかに始末する為っすからね。あの婆さん、実は魔女様のことめちゃくちゃ嫌ってるんすよ」

 

 やべえ奴がもっとやべえ奴を煙たがる。

 どこにでもある、実にありふれた構図だ。

 

「なら『仮想敵』の情報はきっちり押さえてあるよな」

「ええ、一応は」

 

 きっと人づての彼よりも、マナナの方が確度は上だろう。

 

「今回俺たちは、あの婆さんと仲良くやれるかな?」

「……不明っすね。あの婆さんって、なんか妙な『信仰』っぽいの持ってるみたいで……ええと何だったかな、たしかアカシャだったっけ、なんかそんなローカルな自然信仰みたいなのっす。とにかくそれが価値観の根っこにあるみたいで、ふつーの損得や常識が通用しない相手っすね」

 

 そう聞くと狂人の類としか思えないが、それでも、使えそうなネタはある。

 

「自分の娼館()とスタッフは大切にしてるって聞いたけど、それを取っ掛かりにできないかな?」

「それ最低の悪手っすよ。あの婆さん、自分の店とそこの女の子に手を出す奴は、どんな手を使ってでも絶対に殺します。今のところ生存者はゼロっす。昔1度、親衛隊の数名が調子にのって店の娘相手に傷害事件を起こして、そいつらとその上司とそいつらに金を貸してた奴が皆殺しにされました」

「……魔女、キレなかったの?」

「報告書には『殺したかったので殺しました』とだけ書かれてて、それを見た魔女様も『そう』っていっただけでした」

 

 うーん、あったかい職場。

 

「親衛隊って、最低でも侵蝕深度(フェーズ)6以上の訓練を受けた戦闘員だよな。それを複数相手に、最初期の粗悪な処置しか受けてない婆さんが勝てるもんなのか?」

「次の日にはいつも通り会合に出てましたから、ほぼ無傷で虐殺できたみたいっすね。被害者の遺体に目立った外傷はなし。ただ内臓は軒並み全損。目撃者、生存者がいないので具体的な手段は一切不明。一応、未知の毒物ぐらいしかこんなの無理じゃね? ってなってますが証拠はありません」

 

 怪談じゃねえか。

 

「あとあの婆さん、なんか強化措置を受けてないみたいなんすよね。過去の施術名簿のどこにも名前がないって情報系の子が不思議がってました」

 

 普通に考えてそれはあり得ない。

 強化措置とその被験者は、国ぐるみで病的なまでに徹底管理されている。

 魔女自身がその最たる旗手となっているのだから、いくら己の右腕だからといって例外などは認めないだろう。

 あのおばさんは、自分以外が法を破ることは絶対に許さない、実に素晴らしい順法精神の持ち主だ。

 

「じゃあなんだ、ただ普通に強い婆さんだって、そういうことか?」

「隊の中では、万人向けに調整される前の、もっと尖ってた頃のほぼ処刑だった強化措置を生き延びた試作型、プロトタイプとかいわれてますね。ま、半分ネタみたいなもんっすけど」

 

 そんな本当にあった怖い話を聞きながらも足は進み、ようやく旧市街に入った。

 

 

 旧市街。

 

 一言に旧市街とはいっても、その東西で言葉の持つ意味合いは大きく変わる。

 

 西側は比較的治安も良く、町並みも整然としている区画が多い。

 昔ながらの隠れた名店や良店も数多くあることから、古き良きネグロニアのかたちを色濃く残す一角として、新市街を含めた外からも、それなりに受け入れられている場所である。

 

 対して。

 

 東側は文句なしに治安が悪く、町並みもごちゃごちゃとしていて、ワリと簡単に人が死ぬ危険地帯だ。

 賭場、酒場、娼館をミックスした治安悪化のフルコースをはじめ、軍人崩れ、魔術師もどきにくそカルト、どこかの工作員などなど暴力的な危険性もばっちり完備。それらに群がるろくでなし、管理するヤクザ者、手負いの負け犬、ここにしか住めないワケありども。

 住人の8割がそういった輩で、残り2割はその子供たち。

 つまるところ、掃き溜めだ。

 

 通常旧市街といえば東側(こちら)を指し、西側は『西区』や『西旧市街』と呼ばれる。

 

 

 当然『どこかの工作員』に分類される彼とマナナが向かったのは東側(こっち)だ。

 

 増改築を繰り返し、いびつなオブジェのようになった石造りレンガ造り木造りの建物が不規則に入り乱れ密集する品のない迷路。

 どう考えても耐久度的に無茶でしかないだろうに、それでもなぜか2階建て3階建てが多いのは、住人が天使の末裔だから少しでも故郷の近くへ行きたがる、というのが鉄板のジョークだ。

 

 実際は隣の建物と粗雑な板で繋がっていたり、あるいは向かいの建物と小さな橋で連結していたりするので、補強したりバランスをとったり辻褄を合わせたりを繰り返した結果なのだろう。

 

 そんな絶妙に視界の悪いごった煮の中ですら、それは彼の視界を一瞬で独占した。

 

 がくりと天から折れて滝のようになっている光の河。

 

 旧市街の外れにそびえ立つそれは、どれだけ距離があろうとも、いくら建物が邪魔をしようとも、無理矢理にでも目の中に飛び込んでくる厚かましさがあった。

 

 あと、やはり遠くからではわからない、近づいて初めてわかることもあった。

 

「……えっと、猫、っすね」

「葬式の時の『モドキ様』じゃない。皆笑ってる。けどどうしてか飛んでやがる」

 

 狭い空にぽつぽつと見える、謎の旋回をしている内の1匹が、彼の目の前をすいと通る。

 反射的に手を伸ばすも、すり抜ける。

 性質としては『モドキ様』寄りだ。

 だがどいつもこいつもちゃんと顔があって、しかもなぜかにっこにこだ。

 

「あ、やばっ、これ眼が合っちゃダメなやつです! たぶん最初に望遠鏡で見たのって、こんな感じの猫だった気がします!」

「いや遅い遅い。もうとっくに何度も眼が合ってるよ」

 

 だが『声』とやらも聞こえなければ気絶するでもなし。

 マナナの思い違いか、あるいは何か特別な条件でもあるのか。

 

 ともかく、こうして立ち尽くしていても始まらないので、大きな通りへと出てみる。

 意外としっかりとしたつくりの屋台や露店、住居の1階部分を改装した店舗などが軒を連ねている表通り。

 いつもは深夜だろうが、いや深夜だからこその賑わいを見せる場所だったが、今はその殆どが閉店状態で辺りは閑散としていた。

 

「なあ爺さん。あんな凄え見世物があるのに、なんで皆、家に引きこもってるんだい?」

 

 そこそこの値の煙草を手に取り、少し多めの料金を握らせる。

 

 ほぼ無人の表通りで数少ない、営業中と思しき煙草屋。

 そこの老店主は、じっと光の滝を眺めたまま、1度だけ手元の金額を確認してから口を開いた。

 

「ありゃたしかに、お空に浮かぶ分にゃいい見世物だ。けどよ、こっちの暮らしの中に来ちまうと、そりゃもうおまえ、おっかねえさ。それにさっきからごろつき共が騒がしい。面倒に巻き込まれるような愚図はここじゃ生きていけねェよ」

「なら、あんたはここで何をしてるんだ? 死にたがりってワケでもないだろ?」

 

 変わらず老店主の視線は光の滝へと固定されたままで、

 

「あれを見ている。ずっと見たかった。よもやお目にかかれるとは思わなんだ。オレぐらいの歳の連中は、みんなそうさ」

 

 いわれて周囲を確認すると……屋台も露店も店舗も、現在営業中のその全ての店主は、皆老齢だった。

 そしてその誰もが、酒や煙草をやりながら、あるいはただ呆然としたまま、じっと同じ方向を見つめていた。

 

 危機感のない馬鹿は旧市街(ここ)ではあの歳までは生き残れない。

 自分だけは大丈夫だとタカをくくっているワケではない。

 こんな閑散とした有様で、商売熱心というワケでもない。

 

 ならばきっと、彼や彼女らは。

 

 本気で、死んでもいいと思っているのだ。

 

 あれを1秒でも長く見続けることと己の命。

 そのふたつを天秤にかけ、見続ける方を選んだ。

 

 彼には理解できない。

 だからこれ以上、かけられる言葉もない。

 ただ、邪魔だけはしてはいけないと、マナナを引き連れ、静かに大通りを後にした。

 

「なあマナナ、旧市街ってあんなガン決まり老人ばっかなのか?」

「いえ、あの年代は湿地防衛戦の生き残り世代っすから、だいたいどっかイカれちゃってるんすよ。めっちゃ頑張ったヒトらだから皆優しくしよーね、みたいな風潮はあります。苦しむ腹じゃなくて頭狙って即死させてあげよう、ってレベルっすけど」

 

 旧市街クオリティに思わず笑いがこぼれそうになる彼の耳に、重く慌しい複数の足音が入る。向きはこちらへ、真っ直ぐと。

 

 彼は無言で上を指差し、使い捨ての足場を駆け上がる。

 訓練の甲斐あって、完璧に彼の動きをトレースしたマナナと共に3階の屋根上へと身を潜める。

 

「やっぱズルいっすよこれ。便利すぎます」

 

 小声で何かをいってくるマナナへ、最高にむかつくと評判の顔を返しておく。

 

 2人の眼下――さっきまで自分たちがいた脇道に、3人の男たちが現れる。

 その顔を確認した彼は、なんだお前らかよ、と警戒を解いた。

 

 彼らは協力関係にあるこちらのスパイ――カルミネの側近たちだ。

 

 向こうから来てくれるとは、探す手間が省けた。

 なら早速現状の報告でも聞かせてもらおうかと、屋根から身を起こそうとした彼が、慌ててまた伏せる。

 

 3人の背を追う影があった。

 

 大柄な3人にも引けを取らないどころか、頭半個分は背の高い、しかし3人よりは細身のシルエット。

 髪も肌も病的に白い、どこかまだ幼さが残る顔立ち。

 この特徴的な外見では見間違いようもない。

 魔女の巫女ターナが側に置き、直々に手管を仕込む唯一の存在。

 魔女の巫女の後継と目される、デカくて白くて細い女――白蛇だ。

 

「ねえ、なにしてるの?」

 

 おそらくは、急に消えた彼を探しているのだろう。

 きょろきょろと辺りを見渡している3人の背へ白蛇が声をかけた。

 

「リ、リリカ! なんでここに!?」

「あ、ごめん、驚かせちゃった?」

 

 飛び上がらんばかりの3人に、どこまでも明るい声色の白蛇。

 

 報告によればこの白蛇、殺しをする時と赤ん坊をあやす時のテンションが全く同じだという。

 努力による作り物ではなく、心底からの素でそうだという欠落が、魔女の巫女ターナの琴線に触れたのではないかと報告書は結ばれていた。

 

 

「いやさ、ばあちゃんから、側近さんたちのあとを追いかけろっていわれちゃってさ」

 

 

 あ、こいつら死んだかも。

 

「お、おれたちを、始末しろと言われたのか?」

「なあにいってんの、そんなわけないじゃん。あ、報告はいいよ。アタシもついでに『エルダ商会』の検分は済ませたからさ。ばあちゃんには、こっちからいっとくよ」

「い、いや、仕事を任されたのは、おれたちだから、報告もおれたちが」

「ここって娼館への帰り道とは逆じゃん。もう戻るつもりなんて、なかったんでしょ?」

「あ、いや、その、ちょっと知り合いに似た奴を見かけたっていうか、その」

「ばあちゃんは最初からわかってたみたいだよ。だからアタシがここに来たんだ」

 

 こりゃ、とっくにバレてたっぽいな。

 助けるつもりなど微塵もない彼は、そっと3人の冥福を祈った。

 

「いやね、アタシもばあちゃんもさ、べつに引き止めるつもりとかないんだ。ただ――」

 

 両手を後ろで組んだまま、白蛇が1歩進む。

 長身による歩幅の大きさ、奇妙な歩法、それプラスもうひとつ何か。

 その3つの複合効果により、白蛇と3人の距離は一息でゼロになった。

 

 上から客観視してこれなら、相対していた3人からは瞬間移動にしか見えなかっただろう。

 棒立ちの3人の頭上へ、

 

「ばあちゃんが、これ持たせてやれって」

 

 ぽぽぽんと、子袋のような物が置かれた。

 

「……あ? え? これ、……なに?」

「カルミーのへそくり。絶対に表には出せないけど、かなりの高値はつく宝石類。もうここからいなくなる側近さんたちなら、最後にうまいこと換金できるでしょ?」

「え? いや、そもそも、カルミネさんの物をおれたちが」

「魔女おばさんもカルミーも死んじゃって、ばあちゃんが良いっていうんだから、誰も文句なんかいわないよ。ばあちゃんは『退職金だ』っていってた。もらっとけもらっとけ」

 

 それだけいうと白蛇は「もう会うことはないだろうけど元気でねー」と、本当にそのまま去って行った。

 

 残された3人は――ただ黙って、その背に向け、頭を下げ続けていた。

 

 

 ――あ、やべえなこりゃ。

 

 

 今の一連の流れが、彼にとってどう作用するかを理解する。

 放置はできない。確認して、何らかのオチはつけなければ。

 

「なあマナナ。実はあの3人、こっちの協力者のカルミネっておっさんの部下なんだ。これから話聞こうかと思うんだけど、俺とあいつらは、まだ友達かな?」

「会話に出てきた『カルミー』がそのカルミネのことだとしたら、五分五分ってとこじゃないっすかね。あ、念の為おひとつどうぞ」

 

 いって望遠鏡を渡される。

 ありがたく頂戴し腰元に差しておく。

 そっと飛び降り着地、いつも通りに声をかける。

 

「ようお前ら! まさかあんなオチになるとは思わなかったぜ、結構まじでびっくりした」

「ミゲルさん! やっぱりいたんですね、てっきり見間違いかと思いましたよ!」

 

 反応は上々。

 そのまま旧市街の現状を尋ねると、魔女の死やカルミネの爆散、他の4つの組織の首領も同様の可能性、光の滝争奪戦、そして『エルダ商会』の惨状と、有用な情報の数々を惜しみなく提供してくれた。

 新鮮な情報を得た彼は笑顔。命を拾った3人も笑顔。誰もが皆にっこにこ。

 

 そうしてこのまま旧市街を去るという3人と別れの挨拶を交わし、彼は表通りへ、3人は路地裏へとそれぞれ背中合わせに1歩を踏み出す。

 

 

 ――これで終われば、本当に、よかったんだけどなあ。

 

 

 どうやら、ダメだったらしい。

 

 今回ばかりは、向こうが上手だったと認めざるを得ない。

 

 あのまま普通に白蛇が3人を始末したなら、マイナス3。

 見逃してさらに退職金まで握らせることで、プラス3へ。

 

 恩義。これ以上バラされない為の口封じ。なんかよくわかんねーふわっとしたお返しの気持ち。

 

 その一方的な算数は、される方からすれば堪ったもんじゃない。

 

 風切り音からして横なぎ。彼の右側頭部への軌道上に足場を固定。

 がぎ、と硬質なものがぶつかる音。振り向いて、ボルトのセットを終えた小型のクロスボウを相手の心臓へ向けたところで、降って来たマナナが頭部を砕いた。

 

 残り2人。マナナは左へ。だから彼は右へ。

 マナナへは反撃。彼へは防御。

 

 チンピラ崩れが特殊部隊員に正面から挑み、打ち勝てるだろうか。

 略式とはいえ王の血統の一撃を、何の工夫もなく凌げるだろうか。

 

 無理だ。

 

 砕いて、ぶち抜いて、残りゼロ。

 予想してた白蛇の襲撃はなし。

 どうやら向こうからしても、期待値の低い、かかればラッキー程度の一手だったのだろう。

 

「そのまま行ってくれたらよかったんすけどねー。案外、義理堅いタイプでした?」

「いいや。雰囲気で寝返る、あんまりモノを考えないタイプの連中だったよ」

「あー、だからさっきの寸劇でその気になっちゃうんすね」

「それと口封じも兼ねてただろうな」

「まだ他にネタあったんすか?」

「叩けば叩くだけってやつだ」

 

 1度は許されたが次はない。なら次の可能性を潰さねば。

 結局は向こうの働きかけの結果だ。

 

「この手のやつらも無駄にしない魔女の巫女、怖いっすねぇ」

 

 だからこそ、衝突の種は残したくない。

 

「俺の感覚じゃ目撃者はいないと思うんだが、そっちはどうだ?」

「いないっすね。この状況でこんな表の近くとか、死にたいやつ以外はいませんよ。煙草屋の爺ちゃんもいってましたけど、面倒に巻き込まれるような愚図はここじゃ生きていけませんから、あんま気にしなくてもいいかと」

「じゃ、さっさと行こう」

 

 とりあえず場所を移す。

 

「迎えに行く2人の居所はわかるか?」

「いつもなら商会本館の自室で寝てる頃っすけど」

 

 先ほど聞いた『エルダ商会の惨状』とやらの現場だ。

 

「行ってみよう」

「はい。最短ルートで行くのでついて来てください」

 

 マナナ先導のもと、ぐっちゃぐちゃの迷路じみた、絶対に地元民しか知らないであろうルートを急ぐ。

 

 道中、2回ほどよくわからん奴が襲いかかってきたが――マナナは一切速度を落とすことなく頭部にフルスイングを叩き込み走り抜けた。

 表には出さないが、どうやら内心ではめちゃくちゃ焦っているのが1発でわかる、殺意ましましかつ微塵の手加減もない見事な殴打だった。

 正直なところ彼は『今さら行っても手遅れだろうな』などと内心思ったりもしていたが、頬を撫でるスイングの余波をうけ、余計なことをいおうとしていた口をす、と閉じた。

 

 そうして到着したエルダ商会本館前。

 あの3人や白蛇が『館内の様子を確認して無事に出てこれた』時点で危険はないと思われるが……。

 無言のまま裏手へまわったマナナが「ミゲル様、足場お願いします」3階の窓を指差す。

 ルートは想定済み。用心深いのはいいことだ。

 

 窓を割り侵入し、室内に人気がないのを確認してから廊下へ。

 館内は完全に無音。痛いくらいに静まり返っている。彼の耳でも何も聞こえないので、少なくともこの館の廊下に音を出す存在はない。

 いくつか並ぶドアを無視して、マナナは『オーナールーム』のプレートがかけられたドアへと直行する。

 

「隊長室です。3階で使ってるのはここだけっす」

 

 聞いた話から、中がどうなっているのか予想はつく。どうにも気は進まないが、せーので踏み込んだ。

 

 想像よりずっと酷かった。

 ベッドの上に、男女の下半身だけがあった。

 両者共にすっぽんぽんなのは、まあそういうことだろう。

 

「……おいおい、まじかよ」

 

 腰から上はまるで爆散したかのような有様だった。

 ベッドの周辺はおろか、窓際まで()()()が派手に飛び散っている。

 いまだ滴る血が、さほど時間は経過していないと教えてくれた。

 

「この悪趣味な下着はアデーレっすね。彼女は隊長とデキてました」

 マナナがベッドサイドに几帳面に畳まれていた衣類を摘む。

「で、男の方は隊長で間違いなさそうっすね。右ひざの傷、船着場の時のやつです。古さ具合から見ても、間違いはないかと」

 

 マナナの言葉に「やっぱそっか」と返事だけはしつつも、彼の頭の中は全く別の驚きでいっぱいだった。

 

 知っていた。見覚えがあった。規模こそ違えど同じ手管としか思えなかった。

 

 

 ――いやいやこれ、アルフレド(2番目の兄貴)お得意の爆弾じゃねぇか!

 

 

 相手の体内にそっと仕込む、見えないし触れない破裂する闇。通称、爆弾。

 

 ただアルフレド(2番目の兄貴)のやつはもっと威力が控え目で、ここまで派手に爆散する火力はない。腹から胸にかけて致命傷をどちゃり、といった感じである。

 

 だがそれでも、同系統の仕組みによる結果だということは疑う余地がない。

 

 この誤魔化しようのない、内から外へと蠢きながら這い出すように加工された怖気を誘う闇の汚泥は、やはりアルフレドのつくり出すそれとほぼ完全に一致している。

 

 たしかに理屈の上では、傍流のアルフレドにできることが本筋直系ど真ん中の魔女にできないワケがない。いわば完全上位互換だ。

 

 ――魔女がパクった? いやいや。一々傍流の枝葉まで監視するほどヒマじゃあねえだろ流石に。

 

 性根が腐り続けていった先の結論とは、似たり寄ったりになるとでもいうのだろうか。

 

 とりあえず彼は、違和感がない程度にはちゃんとやることにした。 

 

 

「……なあマナナ。この2人ってさ、隊内でめっちゃ嫌われてたりする?」

「魔女様崇拝派なんで、だいたい半分にはこっそり嫌われてますけど……どうしてっすか?」

「いや普通さ、いくら嫌いな奴らでも、隊の仲間がこんな様になってたら……上にシーツ被せてやるぐらいはするだろ? なんかそのまま丸出しにしておくのって抵抗感ない?」

 

 なにせベッドの上だ。遺体の上にかけてやるものなんてすぐそこにある。

 

「少なくとも、あの3人と白蛇はここで確認した筈なんで、ばってめくってそのまま帰ったとかじゃ」

「いや、シーツとか遺体の上にかけられそうなものには、血がついてないんだよ。こんな断面むき出しのところに被せたら絶対にじわっと染み込んじゃうだろ、血」

 

 あの3人と白蛇は確認に来ただけだ。

 基本、できるだけ現場のものには触らないだろう。

 

「……誰もシーツをかけてない。隊の誰も、ここには来ていない?」

「確認してみよう」

 

 彼の予想通り、2階の自室にいた5名の隊員たちは、その全員が同様の最後を迎えていた。

 上半身が跡形もなく吹き飛び即死。

 それが各部屋で連続して起きている。

 まさに惨状というほかない。

 

「そ、その! おかしくないっすか!? カルミネさんの所じゃ部下の3人は無事だったのに、なんで特別行動隊(うち)は隊長だけじゃなくて普通の隊員まで」

「魔女からすれば特別行動隊の隊員は、これまで自分がやってきたやばい非合法活動の生き証人だからじゃないか?」

 

 あの魔女のことだ。いつでも始末できるよう全員に『爆弾』をセットぐらいは平気でするだろう。

 今回の件をみるに、アルフレドの上位互換である魔女は、いつでも好きな時に、何の制限もなく起爆できたフシすらある。

 

 

 ――作戦行動中の行方不明、からの10日間経過による死亡判定って感じかと。

 

 

 そう考えると、行方不明から10日が経過した時点で、魔女が手動で『起爆』している可能性が非常に高い。

 

 今回マナナが弾け飛ばなかったのは、きっと彼女を拾ったのが、あのアルフレド(クソヤロウ)だったからだ。

 偶然にも――というより外道の必然か――同じような方法で、とてもよく似た仕組みの、見えないし触れない破裂する闇を『上書き』できるあいつ以外では、行方不明から10日が経過した時点できっとマナナは終わってた。

 

 この流れ。

 

 おそらくはアルフレドがマナナを拾いに行くところから既に、今回の『副社長案件』は始まっていた。

 

「……あー、たしかに、そっすね。あの魔女様ならしますね、そういうこと」

「ここまでの中に、迎えに行く予定の2人はいなかったよな?」

 

 なにせアデーレ以外は全員男だった。

 

「はい。隊長の部屋にいたアデーレも自室は1階で、1階は全員女で7人――あ、いえ、わたしを抜いて6人っすね」

「わかった。まずは確認しよう。話はそれからだ」

 

 もし本当に魔女とアルフレドが、レベルの違いこそあれど同質のことをしているのなら。

 

 きっと1階にいる者は、爆散していない筈だ。

 

「あ、……ダフネ」

 

 1階へと下りる階段の踊り場。血とよくわからないもので酷いことになっているそこに、女性と思しき腰から下だけが転がっていた。

 

「なぜ彼女の名前が?」

「ここまでムキムキに鍛えてるの、他にいませんから」

 

 たしかに、まるで彫像のような見事な筋肉に覆われた足だった。

 

 1階の床から階段踊り場までの高さまで。

 きっとこれが限界だ。

 

 ダフネを足蹴にしないよう細心の注意を払いつつ階段を下り、1階へと辿り着く。

 そこで初めてマナナが動揺を見せた。

 だが反射的に踏み出そうとした足を一瞬で止め、彼と2人がかりで罠や待ち伏せがないのを念入りに確認してから、ようやくその人影の下へと駆け出した。

 

 1階の廊下、その中央辺りで倒れ込んでいる人影。

 

 それは、マナナよりほんの少し年下に見える少女だった。

 これまでとは違いちゃんと五体満足ではあるものの、首と胸部から大量に出血しており、もう既に事切れていた。

 

「……彼女は?」

「バンビです」

 

 迎えに行く2人の内の1人だ。

 

「俺は他の部屋を見てくるよ」

 

 そういって彼は使われている形跡のある部屋をひとつひとつ確認して行く。

 そのどれもが綺麗なもので、飛び散った何かやスプラッターな何かが転がっているようなことはなかった。

 

 やはり1階にいた隊員たちは、誰も爆散していない。

 

 たしかアルフレドのいっていた理屈は――大地を巡るなんちゃらと破裂する性質を帯びた闇との相性が絶妙に良くて、ことを起こす火種が延々と地に吸収され続けてしまう――とかなんとかだったか。

 もう少しちゃんと聞いておけばよかったと思う反面、地面から近ければ『爆破』はできないという事実だけわかっていればいいかとも思う。

 

「やっぱり、1階にいた皆は『ああ』はなってないみたいっすね」

 

 追いついて来たマナナが、見たままの結論をまとめた。

 

 もういいのかい? 大丈夫かい?

 もういいから来た。大丈夫じゃなくてもまだもう1人は生きている可能性があるので、やるしかない。

 クソみたいな言葉を吐いて、相手をイラつかせるのは彼の趣味ではない。

 

「1階で何が起きたんだろうな? 俺はここや彼女たちのことを知らない。だから残りの3人が何を考えて何所へ行ったのか見当もつかない。けどマナナはそうじゃないだろ? だったら、ちゃんと考えれば、少なくとも俺よりかはわかるんじゃないか?」

 

 まずはマナナが落ち着く為の時間を取ることにした。

 正直、1階で何が起きたかなんて見ればわかる。仲間割れで1人死んだ。それ以上でも以下でもないだろう。

 だからこれは、マナナが頭を冷やす為の儀式みたいなものだ。

 

 思えば、到着からここまでノンストップだった。ここらで少し休憩するのも悪くない。

 

 マナナはすぐには答えず、黙って考え込んだまま部屋の片隅に置かれてるベッドに腰掛けた。

 邪魔をしないよう彼も、黙って側にあった椅子へと座る。

 

「あ、ちなみにここって、やっぱり?」

 

 沈黙に対する耐性が極度に低いのは、彼の短所だ。

 

「ええ、元わたしの部屋っすよ」

 

 まあそうだよな、と彼は部屋を見渡す。

 椅子とベッド以外は何もない、遺品整理の済んだ戦死者の部屋。

 ただし誰かが出入りしている形跡はあり、清掃も完璧に行き届いている。

 

「脱落者が出ると、部屋に物が増えるんです。どうせ捨てるならって、使える物があったら好きに持って行っていいって決まりがありまして。わたしのお気に入りも、あちこちに散らばってました。バンビの部屋に、いつも『趣味が悪い理解できない』とか散々文句いってたチェストがきっちり置いてあって……なんなんでしょうね、あいつ」

 

 彼は何もいわなかった。

 これ以上藪をつつくのは止そうと静観を決める。

 それからすぐにマナナの考えは纏まったらしく、たぶん流れとしてはこんな感じじゃないっすかねーと話し始めた。

 

「まず夜空に光の河が現れて大騒ぎ。いくら深夜だっていっても各部屋に窓はありますし、あの眩しさっすから、まあ当然気付きますよね」

 

 彼らだってすぐに気付いた。きっとあれは、夜空が見えるなら見逃すことはあるまい。

 

「で、隊長が旧市街の各地に隊員を送り込んだりイロイロやったと思うんすけど、まあそこはどうでもいいんで省きます。しばらくすると光の河はどこかへ消え事態は集束。数名の見張りを残して、他の隊員は自室待機――いつでも100%で動けるようにちゃんと寝て体力回復してろってパターンだと思います」

 

 まあ確かに『あれ』の後に何かが起きるかもと警戒するのは当然だ。

 

「数名の見張りってのは?」

「旧市街の場合は2名をウォッチポイント――高くて見晴らしのいい絶景スポットに配置って感じっすね。今夜みたいな特にやばそうな時は、鷹が便利なノエミと、目がよくて足の速いダフネ以外の選択肢はないかと」

 

 そうして最初の光の河が消えてから少し経った頃。

 

「今度は『あれ』がこの旧市街の外れ――場所的には倉庫街あたりに降りてきた。それを確認した見張りの2人はそれぞれの場所から全力ダッシュで本館へ。まずは隊長に報告っすね」

「2人とも戻るのか? 1人ぐらいは残しといた方がいいんじゃ?」

「特別行動隊の任務って、だいたい緊急時に1人になった奴から死んでいくんすよ。特に今回の光の河レベルのやばさだったら、単独なら即死ぐらいの意識で動きます。ムダに各個撃破されるとか隊長ぶち切れ案件っすからね」

 

 彼の予想では、もっと捨て駒のような扱いを想像していたが……そうでもないのだろうか。

 

「スタートのタイミングに多少の誤差があったとしても、圧倒的に足の速いダフネの方が必ず先に本館へと戻ってきます。……で、本館に飛び込んだダフネはそのまま隊長の部屋に報告へ向かおうと階段を上ってそこで」

 

 踊り場で、弾け飛んだ。

 

「これは魔女様が最初から仕掛けていた爆弾で、神さまにぶっ殺された魔女様が最後のやけくそで全部爆発させた。わたしはそう理解してますが、ここまでに間違いはありますか?」

「……俺もそう理解しているよ」

「で、この爆弾、なんか理屈は不明なんすけど、地面に近ければ爆発はしないんだと思います」

 

 あ、やべ。

 彼は内心で焦り始める。

 仄かにかおりはじめた破綻のにおいが、徐々に濃くなっていく予感がしたからだ。

 

「たぶん1階から2階への階段の踊り場がセーフな高さの限界で、そこから上は問答無用でどかん、だったんじゃないかと」

 

 まずい。

 このまま進むと、まずい。

 アルフレド製と魔女製の違いがまだはっきりとしない。そもそも、術者が死亡した場合どうなるのか、その前例が全くない。きっとそう遠くない内に、下手したらもう既に、どうしようもない矛盾が浮き彫りになる気がしてならない。

 だから彼は話を戻す。

 

「たしかにそれっぽいな。ただ、残った4人はそれに気付けたのかな? 俺たちは3階から『色々と見つつ』下りて来たからすぐにそうだってわかったが」

「……確実に気付いて、理解したと思います」

 

 よし通った! 彼は飛び上がる内心を悟られぬよう、真面目くさった顔をつくる。

 

「ここにいるのは皆特別行動隊の隊員っすから、いきなり部隊員が変死したなら、無防備に駆け寄ったりは絶対にしません。基本、二の舞になると考えます。倉庫街に降りてきた光の河もあって、警戒レベルはさらに上がっていたかと」

 

 実際、ダフネ以外の1階メンバーは誰も弾け飛んでいないので、その通りだったのだろう。

 

「そんなところに、ダフネよりも遅れてノエミが帰って来ます。なら後はノエミの『鷹』を飛ばして上階の様子を把握することで、わたしと同じ答えに辿りつきます」

 

 いやまじで便利だなその鷹。

 つーか生物を再現できてる時点で、もうやってることの次元がひとつ上がってない?

 折角のいい流れを断ち切ってはならないと、彼は口を開くのを必死に我慢した。

 

「残った4人の内の2人、グリゼルダとマリアンジェラは魔女様崇拝派です」

「あー、じゃあ、2対2の構図になったワケか」

 

 マナナが迎えにきた2人――ノエミとバンビは『魔女うぜえくたばれや』派だった筈だ。

 

「いえ、正確には、2対1対1、になったと思われます」

「え、まじで? この状況で分裂すんの? 崇拝派」

「はい。マリアンジェラは『自分のプラスになるから崇めてる』感が透けて見える、ある意味理解できる奴です。けどグリゼルダの方はダメっす。根っこの底から、徹底的にイカれてます」

「それって、どんな感じに?」

「グリゼルダはこの惨状を理解しても『最後に魔女様が死ねと望まれたならその通りに死ぬべきだ。むしろ御一人にさせるなど言語道断。我らはすぐさま追従すべき』とかいって、即実行するような奴です。たぶんバンビは位置が悪かったんだと思います。皆がそれを理解した瞬間、不運にもグリゼルダの1番近くにいたのがバンビだったんだと思います」

 

 うーん、強烈。

 ある意味、彼が思い描いていた『特別行動隊』のイメージ通りの奴、というワケだ。

 

「他の2人が即逃げしたってことは、そのグリセルダ、2対1でもどうしようもない奴なのか?」

 

 廊下のどこにも損傷や血痕等の争った形跡がないことから、逃げの一手が窺える。

 

「殺しの腕だけでいえば、隊長よりも性能は上です。ノエミじゃまず勝てませんし、特にこんな廊下みたな狭い場所じゃほぼ無敵っすね。正直、わたしがその場にいても即逃げ以外なかったと思います」

「そんな奴が、色んなモンでごちゃごちゃの旧市街をうろついてんのか。嫌すぎるなそれ」

「たぶんグリゼルダは魔女様最後の『御意思』を完遂しようと、残りの特別行動隊メンバーを探し回っていると思います。厄介なことに、根は死ぬほどクソ真面目なんです、あの狂人」

 

 この話で最も重要なポイントは。

 

「マナナなら、そのグリゼルダ、いけるか?」

「はい。いけます。方法はいくらでも」

 

 そこまで聞き終えた彼は、するりと取捨選択を終えた。

 とりあえずこの話は、A&Jの利益には()()()()

 だがマナナは、きっとこの件を無視できないだろう。

 ポジティブに考えれば、グリゼルダとかいう捨て身の危険人物(不確定要素)を、進んでマナナが受け持ってくれると取ることもできる。

 

 マナナは邪魔者を排除しつつ戦力を確保する。つうか鷹、凄い便利そう。

 彼はダイレクトに本命へと赴き、今回の勝ち筋をみつける。

 あとついでに、魔女の爆弾などという意味不明の後だしジャンケンについてもこっそり調べる。ここにはサンプルが山とある。大まかな特性ぐらいは掴める筈だ。

 

 悪くない。決まりだ。

 

「よしマナナ、ここからは別行動だ。俺は光の滝の方へ。マナナは友達(ダチ)の方へ」

 

 副社長案件――姉貴のオーダーは『マナナとネグロニアの旧市街へ行け。そこで最低限の権益を確保しろ』だ。

 別にずっと一緒に動けとは一言もない。

 なんなら、もう既に前半部分は達成済みですらある。

 副社長案件(これ)は多少のアドリブで崩れるようなヤワなもんじゃない。

 それはこれまでで、十分に実証済みだ。

 

「え、ミゲル様、争奪戦に参加するんすか?」

「しないよ。あんなもん貰ってどうする? 光がうるさすぎて、夜に眠れなくなっちまうだけだろ?」

「じゃあ、野次馬っすか?」

「そうだ。たぶん、あれを押さえたヤツが主導権を握る。俺は、A&Jは勝ち馬に乗る。そのタイミングを逃すワケにはいかねえからな」

 

 きっとぐちゃぐちゃの大混戦となるに――いや、もう既になっているに違いない。

 いくらでも紛れる余地はある。

 仕上げのちょい前にプスっと一刺し手助けでもして、新しい兄弟と笑顔で握手だ。

 

「なら、わたしも一緒に行きます」

「え? なんで? ノエミ殺られたらダメじゃね?」

 

 マナナが一緒にいたら、魔女爆弾の解析に手が出せなくなってしまう。

 

「まず大前提として、ノエミはわたしが生きてることを知りません。さらにバンビも目の前で殺されて、勝ち目のないグリゼルダからは殺す気で追われて、既にあいつのメンタルはずたぼろです。マリアンジェラとは協力なんてできるワケないし、街の外へ逃げようにも行くアテなんてどこにもない。ないない尽くしのあいつが首をくくる前に行くとしたら、どこだと思いますか?」

「……まさか『神頼み』とかいわないよな?」

「いっちゃいます。1度ローに入ったあいつは、死ぬほど愚かな選択を最低のタイミングでします」

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 思っていたよりもずっと地味な展開が続いていた。

 

 彼の予想では、魔術結社『闇の薔薇』や退役軍人の扶助組織『護国の盾修友会』あたりが目の色を変えて殺到すると踏んでいたのだが……実際は統率もくそもない有象無象のちんぴらもどきが、わちゃわちゃと地味に殺し合うだけでちっとも核心には届かない退屈な展開がだらだらと続いていた。

 

「やっぱズルいっすよこれ。便利すぎますって。つーかこれ、弱点とかあるんすか?」

 マナナが腰掛けている不可視のそれを軽く叩く。

「山ほどあるさ。基本、夜しか使えない」

 

 まだ夜は明けていないというのに妙にまぶしく、無風の中を光の粉雪が散乱する倉庫街の東端、5番区画。

 今も光の滝が降り注ぐその一帯を一望できる、地上約20メートルほどの上空に彼とマナナはいた。

 

「あのミゲル様、もしかして『これ』って夜明けと共に消えたりしませんよね? この高さ、痛いじゃ済まないっすよ」

「出力は下がるが消えやしないよ。それよりも、こっちの姿が丸見えになる方が問題だ。ここまで楽ができんのは夜間だけの贅沢で、そっから先はちょいと便利な2段ジャンプくらいに思っとけ」

 

 延々と落ち続ける光の滝。

 地表がまばゆいほどに、対となる空の暗さは際立つ。

 今はまだ闇コーティング済みコートをしっかり着込んだ彼らが見付かる心配はないだろうが、移動のタイミングは見極めなければならない。

 

 などと考えている内にまたひとり、どさりと地面に転がっていた。

 

「あ、やべ見逃した。マナナ、今のヤツ知ってる?」

「たしかリベルトかリベリオかそんな名前の軍人崩れで侵蝕深度(フェーズ)3だったかと」

 

 ちょこちょこと強化済みの連中が混じり始めたが、それでもなお瞬殺の繰り返しだ。

 

「なあマナナ、もしかしてこれ『闇』とか『盾』とかの有名所が来ないとか、あり得るかな?」

「そっすねー、特別行動隊(うち)やお財布番のカルミネだけってことはないでしょうから、たぶん『闇』も『盾』もトップは弾け飛んでるでしょうね」

「それでもあいつらなら来るだろ? 好きそうじゃん、神さまとか」

「えーと、実はですね『闇』と『盾』に対しては、かなり昔から特別行動隊(うち)がこつこつと不安定化工作とか仕掛けてまして。今あいつらは、それぞれ身内同士や組織同士で、互いが互いを殺そうとしている蹴落とそうとしていると、なぜか強く確信してます。必死にそれを押し留めていたリーダーが両方そろって弾け飛んだなら、もう今頃、組織の体は成してないかと」

あのおばさん(ローゼガルド)のそういうムダに有能なところ、苦手だなあ」

 

 そうなると、いよいよ選択肢はなくなってくる。

 

 おそらく、有象無象のちんぴらもどきがいくら突っ込もうと成果はないだろう。

 光の滝(あれ)相手に数で攻めるのは無意味だ。

 ある一定の距離まで詰めると、そこで一気に落ちる。

 

「あ、またチャレンジャーが来ましたよ! 今度は知らんヤツ! 7時!」

「毎回それ大変だろ? ちゃんと見とくからいいよいいよ」

 

 今彼らは光の滝を直視しても大丈夫なぎりぎりの距離に陣取っている。

 その見極めには、このようなチャレンジャーが大いに役立ってくれた。

 

 うず高く積み上げられた木箱や謎の積荷の合間にぽっかりと空いた、ばかでかい広場のようなスペース。

 その丁度真ん中あたりに叩きつけられている光の滝、その根元へ向かいマナナがいった方向から人影が飛び出す。遮蔽物から出て3歩ほど進んだところで、何かが走る。

 波紋と呼ぶのが最も適切だろうか。水面に石を投げた際に起きる波のような何かが、ほんのりと薄く空間をたわませる。

 それに触れたチャレンジャーの全身から一気に力が抜ける。そのまま前のめりに倒れ込み惰性のままにスライド。あのスピードに自重、鼻ぐらいはへし折れていることだろう。

 

「あーやっぱダメっすねー。そもそも防御も回避もしないってことは、たぶんあの波っぽいの、本人にはちっとも見えてないんでしょうね」

 

 1度あれを受けたマナナの証言によるなら、

 

「あいつらにも『声』ってのが聞こえてんのかな。ならあれは、音が見えてるとか?」

「試してみます? ここから望遠鏡で覗けば、たぶん何らかの結果は得られますよ?」

「……いや、それは最後の最後、ぎりぎりまで止めておこう」

「やっぱ、時間制限ありっすか?」

 

 いってマナナが光の滝の終点へと目をやる。

 

「ああ。マナナにも見えるか?」

「かなりぼんやりしてますけど、こう、光の根元の黒い猫っぽいのが密集してるところに……なんか、誰かが寝てるような?」

「寝てるというより、あんな小汚ねぇ地べたなんだから『ぶっ倒れてる』っていった方が正しいだろうな」

「ずっと不思議だったんすよね。降りてきたのに、なんでそこでじっとしているのか。やっぱあれって、休憩中とか回復中とかそんな感じっすよね、どう考えても」

 

 こんな小汚い場所でぶっ倒れて、治療っぽいことをしている理由を考えると、

 

「凄ぇよな魔女さま。ちゃんと相打ちにまで持って行ってやがる。……いやまじでなんなんだよあのおばさん、ゴッドスレイヤーまであと1歩だったとか、なんかもうただただ怖ぇーよ」

「そんなん今さらっすよ。けどそれなら、あの光の河って、全部神さまのごはん? 栄養? みたいなやつってことですよね?」

 

 つまりあれが夜空にある限り、延々と補充され続ける。絶対に死なない。殺せない。

 

「だから、腹一杯になる前に、どうにかしたいよな」

「弱ってるところに優しくするのが1番ってやつっすね?」

 

 言葉の響きは最低だが、まさにその通りだ。

 

「けど俺たち(A&J)はここじゃ余所者だ。そんなヤツが他を出し抜くかたちで神さまと1番のお友達になんかなってみろ、地元の連中からすると横取りしたクソ野郎かつ侵略者だ。四方八方からマイナスまみれの袋叩きで、いつか必ずひっくり返される。利益どころの話じゃない」

 

 だから地元の有名所に『あれ』をかっさらって貰い、全力でそこへ擦り寄る構えでいたのだが……その最有力候補が2つとも、ゴッドスレイヤー未遂おばさん渾身のきれっきれな謀略により、勝負の場に立つことすらできなかった。

 4つの主要組織、その残るひとつは、絶対にこの場には来ない。

 ならば今あるもので、どうにかするしかない。

 

「……最悪の場合、マナナには『エルダ商会代表』になって貰う。かなり苦しいが、嘘はひとつもない。うん。たぶんいけるいける」

 副社長案件がわざわざマナナを指定した理由を考えると、あながち的外れな考えではないのかもしれない。

「いやいや、どんな阿呆でも一瞬でわかる傀儡じゃないっすか。それじゃ結局、ちょっとマイルドな侵略者ですって」

 ちょっとマイルドな侵略ぐらいなら、A&Jの通常業務の範疇だ。ここまで積み上げた実績がある。ノウハウがある。不可能が難しいぐらいにはなる。あれ、これ本当に行けんじゃね?

「ならこうしよう。あと5分様子を見て動きがなければ、マナナ会長の最初のお仕事『あれを突破して神さまとお友達になろう』が始まる」

 

「あ! 来ましたよミゲル様! 魔女の巫女っす! よしやったあ!」

 

 めちゃくちゃ嬉しそうなマナナのいう通り、魔女の巫女ターナとその一派が、今まさに5番区画へと足を踏み入れるところだった。

 

「あの婆さんは来ないもんだと思ってた」

 魔女の命令以外であの婆さんが能動的に行動するのは娼館()が絡む時だけだ。

 なので今回は、騒ぎが収まるまではとりあえず守りに徹するものだとばかり考えていた。

「わたしも、自分の店にしか興味はないと思ってたんすけど、いやあ嬉しい誤算っすね!」

 

 そんなに嫌なのか、マナナ会長。

 だがまあ、勝ち馬としては申し分ない。

 店が大事だというのなら、そこを手厚くしてやれば十二分に上手くやっていける相手だ。

 

「お、バラけたな。正面から行くのは婆さんと白蛇と……あれ誰?」

「マリエッタっすね。辺境の暗殺教団『人寄形(ひとよりかた)』出身の元ドールナンバー7」

「なにそれ、凄そう」

「実際凄いっすよ。12歳以上平均生存率5%の壁を潜り抜けた、上澄み中の上澄みっすから」

「……なんでそんなんが娼婦やってんの?」

「あの婆さんが採用するのって、そんなんばっかっすよ。普通に生きてれば絶対にかかわれないしかかわらない方がいい美人ばっかの店、ってのがネグロニア男子の心を掴んで離さないんすよ」

 実はこっそり店に行ったことがあるのでその辺は完璧に理解しているよ、とはいわないでおいた。

 

 散開した2人1組からなる無数の小集団は回り込むように素早く、正面から行く3人はゆっくりと包囲が完成するのに合わせて展開して行く。

 

 どう考えても娼館の私兵ごときにできる動きではないが、一々突っ込んでいてはキリがないと思った彼はただ黙って成り行きを見守った。 

 

「あの、ミゲル様」

「ん? どうした?」

 眼下では魔女の巫女が、倒れていた男を放り投げて何らかの実験をしている。

「ここまでがっちりされちゃうと、わたしたちが介入する余地、なくないすか?」

 

 正直、現状ない。

 

「慌てるなマナナ。こうして様子を窺ってるのは俺たちだけじゃない。ノエミはもちろん、それ以外にだって横からかっさらおうと企んでる奴らは絶対にいる。俺たちの出番は、そいつらが我慢の限界を超えて飛び出してきてからだ」

「そいつら蹴散らして、魔女の巫女の婆さんに取らせるんすよね?」

「マナナ会長が嫌なら、そうなる」

「了解っす。全力で頑張ります」

 

 そうして彼とマナナの視線は、自然と一ヶ所に引き寄せられた。

 うず高く積み上げられた木箱や謎の積荷の合間にぽっかりと空いた、ばかでかい広場のようなスペース。その丁度真ん中あたりに叩きつけられている光の滝。

 そこへ向け、魔女の巫女ターナがとくに足を緩めるでもなくぬるりと、その一歩を踏み出した。

 

 彼の予想としては、少し前に白蛇が見せた謎の超加速を用いて一気に距離を詰める、あたりが本命だった。

 教え子にできることがあの婆さんにできないワケがない。

 体力的には劣ろうとも、そもそも熟練度の桁が違う。結果として、速度でも劣るとはどうしても思えなかった。

 もしかしたら一瞬で決まる、なんてこともあるかもしれない。

 

 そんなことを思う彼の眼下で、老婆は躊躇うことなく地に伏した。

 両膝を折り畳み手をついて、額を地へとはり付けた。

 

 速度がどうとかではなく、そもそも移動すらしなかった。

 

「……あれ、何してんの?」

「うーん、前にもいったと思うんすけど、なんかローカルな自然信仰みたいなのが価値観の根っこにあるみたいで、普通の損得や常識が通用しない相手っすからねぇ」

 

 たしかにその通りだ。

 あれはたぶん、損得とか常識とかの外にいやがる。

 

「あ、なんか凄くゆっくり動き出しましたね。なんすかねあれ、武術のすり足的なやつ?」

 魔女の巫女は極限まで姿勢を低く落とし、まるで地を這うように、2本の足でのたうつ蛇のような独特のすり足でじわりじわりと距離を殺している。

 

「今までのチャレンジャーの中での最高記録ってどれだっけ?」

「えーとたしか、目隠しして大きな盾で顔を隠したヤツの5歩だったと思います」

 

 今魔女の巫女の歩みは、成人男性換算で8歩目を越えようかというところだ。

 

「頭部をできるだけ下げて、体勢を低く保ち、超スローペースで進むのが『正解』だってのか?」

「いやいや、なんであの婆さん、そんなこと知ってるんすか。つうか、神さまへの接近方法とか、どこで習うんすかそんなの」

 

 まだ彼女が魔女の巫女と呼ばれる前。

 アカシャとかいう少数民族の巫女だった頃。

 歴史にも記録にも残らない、虚神の従僕が末を自称していた異端どもの(かんなぎ)

 

 単なる僻地の民族カルトではなく、まさか、本物だったとでもいうのだろうか。

 

「あ、ダメ。ゆらゆら波、きちゃいました」

 

 マナナのいう通り、ほんのりと薄く空間がたわむ。

 それが波紋のように広がり、地を這う老婆へと触れる。

 がくっと、その全身から一気に力が抜けた。

 前のめりに倒れ込む寸前、1歩、足が前に出る。

 たたらを踏むように、2、3と進む。

 次の波が老婆に触れる。

 がくっと、その全身から一気に力が抜けた。

 前のめりに倒れ込む寸前、また1歩、足が前に出る。

 今度はたたらを踏むより先に、再度無色の波紋が老婆を貫いた。

 がくっと、その全身から一気に力が抜ける。

 右手側に崩れ落ちる寸前、握り締めた拳が地に叩きつけられた。

 それを支えに左手が前に出される。

 その隙間に膝を差し込むより速く、波が老婆を撫でる。

 がくっと、その全身から一気に力が抜ける。

 頭から倒れ込むより先に、地へと頭突きをかます。

 両の拳を地につき立て、足を1歩、前へと出す。

 二重となった波紋が連続して老婆を――。

 

 

 彼もマナナも、何もいわず、ただ無言だった。

 今も視線の先では、ゆっくりと、しかし確実に老婆が歩を――いや、あらゆる全てを使い、ただただ前進を繰り返している。

 

 なぜ、あんなことができるのか、わからない。

 気合や根性でどうにかなる次元ではないと、ここまでのチャレンジャーを見続けてきた彼は知っている。

 度胸や根性という意味では、光の滝へと突っ込んで行けるならず者たちも、まあ一角のものといえるだろう。

 

 だが、そんなものは『あれ』の前では無意味なのだ。

 そんな気持ちやら勢いは、全てなぎ倒されてきた。

 思いだけでどうにかなる次元のものではない。

 その実例は山と見てきた。

 

 だから、わからない。

 今目の前で起きていることが、よくわからない。

 

 魔女の巫女。

 

 あのローゼガルドが、およそ半世紀に渡り重用してきた理解不能な『何か』が今、光の根元へと辿り着き、その全てを蹴散らした。

 

 小汚い倉庫街に朝日が差し込む。夜が明ける。

 

 するとそこには、妙な格好をした男か女かもわからない小柄な誰かと、見覚えのある縞模様の上下を着たどこかの地下で棺に入っていたのを見た少女――ておいあれウチの『正装』じゃねーか!

 

 一瞬で正気を取り戻した彼が、ずっと腰に差したままだったマナナの望遠鏡を取り出しその細部を確認する。

 やはりどう見ても、(実家)の直系しか着用を許されない、今彼が着用しているものとサイズ以外は全く同じ正装だった。

 だがあんなお子様サイズなど――そういや昔、親父が恩着せがましくヒルダに送ってたな。

 

 そこでふと、繋がった。

 彼を逃がしたヒルダ。きっと酷いことになった降神の場。死んだローゼガルド。

 あの器――いや、降りた『何か』があれを着ている意味。

 

 

 ――あれ? もしかしてこれ、ヒルダが全取りしてね?

 

 

「ミゲル様、あの服って結構出回ってたりするんすか?」

「いや、完全オーダーメイドで、あのサイズは昔、親戚のヒルデガルドちゃんに送った1着だけだ」

「そのヒルデガルドちゃんが生きてるか死んでるかで、がらっと意味が変わってきますね」

 

 貰ったか、奪ったか。

 

「どちらにせよ、俺たちが次に取る行動はひとつだ」

「なにをするつもりっすか?」

「そう難しいことじゃない。魔女の巫女さんの所へ正面から堂々とお礼をいいに行こうって話さ」

「お礼? なにいってんすか急に?」

「いいか、俺たちはこういうんだ『()()()()をごろつきどもの手から守ってくれてありがとう』って」

 

 どういう経緯にせよ、あの格好をしているならA&Jの関係者だ。

 少なくとも、そう主張することはできる。

 最初の1歩が用意されているのなら、あとは彼の仕事だ。

 

「ほどんど出たとこ勝負じゃないっすか」

「いいやマナナ、こいつはデカい。最初の接触が脅しや暴力じゃなく対話で、しかもこっちにはちゃんとそうする理由がある。あと俺はアドリブがめちゃくちゃ強い。しかもヒルデガルドちゃんが生きてるパターンだったら、もうほとんど勝ちは決定だ。これをしないのは、慎重じゃなくて単なる腰抜けだ」

 

 彼のカンでは、たぶんこれで決まる。

 

「そんなに都合よく……あやばっ! まずいっすよミゲル様! 完全に忘れてましたけど、もう夜が明けちゃってます! ふつーに朝日昇ってますよこれ!」 

「あ」

 

 光差す明け方の空に、ぽつんと浮かぶ闇2つ。

 不自然だ。おかしい。違和感どころの話ではない。

 

「……慌てるなマナナ。ルート1、最寄の木箱からダッシュのコースだ。道はその都度つくる。階段を横歩きする感じでゆっくりと動け。大丈夫だ。光の滝とかいうとびきりの異常があったばっかだ。ちょっとした黒いもやもやぐらい、誰も気にしないし気付かない」

 

 そうしてゆっくりじりじりと横移動をしつつも、魔女の巫女たちの動向を窺う。

 幸い、まだ誰もこちらには気付いていない。散開していたメンバーが再集結し、今度は中心を守るように陣取っている。

 

「めっちゃ警戒してますね。襲撃があるのを前提に動いてますよあれ。しかも3人、弓持ちがいます」

 

 怪しく浮かぶ2つの闇が発見されると、即座に矢が飛んでくるだろう。

 急に動けば嫌でも目に付く。なのでゆっくりと落ち着いて。おちついて。

 と、そこで彼はふと気付いた。

 

「見ろよマナナ。あれだけいた猫が全部いなくなってる。たぶんあいつらは日光の下には居られないんだ。ならそれの集合体である『光の河』も同じだろう。ってことはだ」

 

 日中ならばあの神さまは、普通に死ぬのではないだろうか。

 

「あの婆さんが辿り着いたからじゃなく、夜が明けたから『光の滝』は消えたのかもしれないっすね。あんな頑張ったのに実は単なる時間切れでしたとか、なんかイロイロと台無しっすよねぇ」

 

 そんな微妙に噛み合わない話をよそに、眼下の魔女の巫女一行が動き出した。

 まずは白蛇が、黒い被り物をした顔も性別もわからない誰かを抱えて、先頭集団と共に来た道を引き返して行く。

 次いで魔女の巫女ターナは手ぶらのまま、その少し後を追う。

 そして最後の後方集団では、元暗殺者のマリエッタが『A&J期待の新人(仮)』を抱えて移動を開始した。

 

 前後に餌を振り分けて、少しでも同時に相手する数を減らす算段なのだろう。

 どちらかに現れた襲撃者が、ほんの少しでもまごつくと……正面から『光の滝』を突破する理解不能の怪物が、殺る気全開ですっ飛んで来るというワケだ。

 なんというかもうそれだけで、絶対に手を出したくない布陣だ。

 少なくとも彼が襲撃者側なら諦める。

 

「そのまま行ってくれるみたいっすね。正直ほっとしてます」

「あんなもん見せられたあとに、あの婆さんとやり合いたいと思うヤツなんていないだろ」

 

 そうして2人が安堵し、後方集団が木箱が連なる一帯に入ろうとしたところで――『A&J期待の新人(仮)』が地を転がった。彼女を抱えていたマリエッタが倒れたのだ。

 素早く駆け寄る男たち。

 ぐったりとしたマリエッタを2人がかりで持ち上げ、2、3回振り子のように勢いをつけるとそのまま木箱地帯へと放り投げた。

 

 瞬間、全ての木箱がまるで意志でも芽生えたかのように動き出し、並び、積みあがり、さらにうず高く積み重なり、光の滝が降りていた広場と外とを区切る、高く大きな壁となった。

 広場側に残ったのは3人の男と、眠ったままの『A&J期待の新人(仮)』のみ。

 分断のタイミングとしては完璧。何らかの不意打ちで実力者のマリエッタを無力化した手管も鮮やか。咄嗟の思いつきではない。これは然るべき準備の果てに訪れた、順当な結果に違いない。

 男の1人が『A&J期待の新人(仮)』を抱え直し、そのまま反対方向へと駆け出す。残る2人はその護衛。

 

 ――おいおいまて待て! 襲撃者っていうか、思いっきり身内が裏切ってんじゃねーか!

 

「ミゲル様! よりによって新人の方がさらわれちゃいますよ!」

「ああくそっ、わかってる! やるぞマナナ! 走れ!」

「はいっ!」

 

 もはや形振り構っていられる場合ではない。

 あの『A&J期待の新人(仮)』が行方不明になどなってしまえば、全てが瓦解する。

 しかも彼の予想が正しければ、日中のあれは普通に死ぬ。

 あの魔女の巫女を正面から裏切るような連中だ、とても正気とは思えない。

 最悪の事態は容易に起こり得る。

 

 存在の露見。多少の手の内。

 構わない。ボルトを装填する。

 矢種は1番。何も特別な効果はないが、彼が健在な限りいくらでも撃てる。

 

 射程圏内をあの程度のスピードで動く的など、外しようがない。

 彼は特に気負うことなく撃つ。

 走る男の腿を撃ち抜く。倒れ込む男の腕から『期待の新人』をかっさらう黒ずくめの誰か。今まで姿を見せなかった4人目。黒頭巾で顔を隠しているそいつの足に向け、さらに撃つ。

 

 両手で『期待の新人』を抱えている為、基本そいつにできるのは回避だけ。

 とはいえ、いくら子供サイズだとしても、それだけの重石を抱えた身では飛んだり跳ねたりはできない。

 なので狙いさえ外さなければまず当たる。

 当然、彼がこの距離で外すことなどあり得ないので、走る足の膝下へ吸い寄せられるように矢は向かいそして――そ、と矢の側面に足の裏が添えられ、そのまま軌道を逸らされた。

 

 両手でひとりを抱えたまま全力疾走をしつつ、ろくに見向きもせずにこの芸当。

 そこらのちんぴらとは格が違う。

 このタイミングで介入してくる別格の相手。

 

 ――特別行動隊の生き残りかよ!

 

 瞬く間に黒頭巾は積荷の陰に消える。

 急いで彼はマナナの後を追う。

 闇色の道を駆け抜け、積み上げられた木箱に飛び下り、黒頭巾とマナナが走り去ったと思しき方向へとにかく走る。

 律儀に障害物に付き合ってやる義理もないので、全てを無視して低空を駆ける。

 そうして倉庫街を抜け旧市街の端に出た彼の視界には。

 

 黒頭巾もマナナも魔女の巫女を裏切った男たちも、誰もいなかった。

 

「……やっべ」

 

 完全に、見失った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6 私の鷹はパイロット

 

 

 誰かがケンカをしていた。

 取っ組み合いや殴り合いではない。

 大きな声で攻撃的に。そこに和解や相互理解の意思は一切なく、ただただ向こうを踏みつけたいだけの、聞くに堪えない雑音。

 そういった類のやつだ。

 

「だから! なんでお前がここにいるんだって聞いてるんすよ、マリアンジェラ先輩!?」

「何度も同じことを言わせないで。バカなのお前?」

 

 それ。それだよ。

 そこで『バカ』とかいっちゃうのが、もう最高にあれ。

 

「そうやってバカにするなら、ちゃんと賢くやってくださいよ先輩。バレバレじゃないすか、お前がノエミを使い捨てにする気満々だって」

「あら。どうしてお前にそんなことがわかるの? 思い込みが激しいタイプのバカなのね」

「やっぱお前脳みそ腐ってんのな。普段あんだけ好き勝手いっといて、ピンチになったら都合よくお友達とか、バカはお前だクソバカ」

 

 いやいや、ピンチになっても団結できないどっかの霊長類に比べたら、随分とマシじゃないかな。

 

「お互い様でしょ、そんなの。ノエミだって同じようなものでしょうに」

「あ、なあんだ。ちゃんと理解はしてるんすねマリアンジェラ大先輩。こっち2人。お前1人。だからお前は今からここで頭割られるって」

「ね、マナナ。こんなこといっててもしょうがないよ。殺すならさ、さっさと殺そ? 殺らないなら、いい加減、話進めよ?」

 

 うーん。1番大人しそうな感じの『ノエミ』がこの発言。

 やっぱこいつら、まともな奴らじゃないよなあ。

 

「その通りよクソバカ。こうしてぐだぐだ話している時点で、お前だってわかっているはずよ。ここでわたくしをどうにかしたところで、何もプラスなんてないわ。生き死にの話をするなら、そもそもお前、どうして生きているのよ? バカじゃないの?」

 これがマリアンジェラ大先輩。

 きっと彼女は、煽らなければ死んでしまう病に侵されている。たぶん末期のどうしようもないやつ。

 

「は? お前の頭カチ割る為だよ、大先輩」

 このろくでなしがブルースしてるのがマナナ。

 きっと彼女は、マリアンジェラ大先輩をガチで嫌っている。信用も信頼もゼロ。どうにも敵と認識しているっぽい。

 

 この2人が何やらいがみ合う声でおれは目が覚めた。

 

 ……が、咄嗟の判断で、目蓋は閉じたままをキープした。

 もしおれが起きたとバレたら、興奮状態にある2人の関心が一気におれへと集中する。

 そんなの、絶対にロクなことにはならない。

 だったら寝たふりをしたままクールダウンを待ちつつ情報収集。これ一択だ。

 

「あのね2人とも。それキリがないから、話進めるね? マナナは今までどうしてたの? 本当に死んじゃったと思ってた。だから最初にみつけた時、幽霊だって思ったんだよ?」

 

 場が鎮まり、進む。

 

「スカウトされたんだよ、A&Jに。今の暮らしから抜け出したくないか、って。それを受ける条件に、ノエミとバンビもA&Jで雇ってもらえる様に話つけて、迎えに来た」

「……あのねマナナ、バンビは」

「会ったよ。お別れをいって、とりあえずベッドに寝かせといた。やったのはグリゼルダ?」

「……うん。なんか『ボクがママがイシ邪魔するなー』とかわけわかんないこといって」

 

 4人目。グリゼルダ。だぶん2人の仲間のバンビって娘を殺害。

 

「遺志もなにも、魔女(ローゼガルド)様が死んだことによる、ただの連鎖反応に過ぎないというのにねえ。神格化の弊害って、根っこが消えても残り続けるのが嫌ね」

「マリアンジェラお前、そんなこというヤツだった?」

「死んだ上役のご機嫌取りなど、ムダではなくって? わたくしたち特別行動隊が忠誠を誓っていたのは、あの御方が誰よりも強かったから。死んでしまえば、その大前提は崩れ去るの。それでも死肉に頭を垂れる狂人は、グリゼルダぐらいじゃないかしら」

 

 ……これ、くっそやばくね?

 ローゼガルドに忠誠を誓っていたらしい『特別行動隊』の皆さん。

 たぶんこの3人はそのメンバーで、なぜかボスの死を知っている。

 やったのは誰だ!

 おれだ!

 成敗!

 

 ……とりあえず、落ち着こう。

 

「じゃあ、なんでお前は『ウチの新人』をかっさらった? なにがしたい?」

 ……ん?

「当然、生き残る為ですわ。わたくしと、チームメイトのノエミが」

「具体的には?」

「欲張りすぎよ。そっちも答えなさい。どうしてお前は生きているの?」

「……お前なぁ、死んでりゃよかったって、まだそんな」

「話を逸らさないで。どうしてお前は、行方不明から10日以上経っているのに『弾け飛んで』いないの? 見たのでしょう? 本館で、弾け飛んでいた皆の死体を。魔女(ローゼガルド)様が全隊員に仕掛けていた、あの恐ろしい仕込みを」

 

 弾け飛んだ死体。恐ろしい仕込み。部下全員に。

 ……首輪爆弾的なやつか。

 

「例外などありえない。マナナ、当然お前にも『あれ』は仕掛けられているわ。魔女(ローゼガルド)様の御機嫌ひとつで腰から上が爆散する、あの隊長でさえ一切の抵抗ができなかった、即死の爆弾が」

「ま、それは私もマリアンジェラも一緒なんだけどね」

「ノエミ。話の腰を折らないでくださる?」

「はあい。あっち行ってるね」

 

 そう返事して、軽い足音がこちらへと近づいて来る。

 

 いやこっち来んなよ、もっと白熱してじゃんじゃん情報吐き出せよ、というおれの願いも虚しく、ノエミはおれのすぐ側に腰を下ろした。

 

「あの魔女(ローゼガルド)様が、行方不明から10日経ったお前を爆破しない理由があると思う? 断言してあげる。ないわ。逃亡なら始末をつける必要があって、戦死なら身元の確認を不可能にする。やらない理由がないの。けどお前は弾け飛んでいない。いい? これはわたくし『たち』にとってとても重要なことなの。だから心して答えなさい。どうしてお前は死んで――いいえ、弾け飛んでいないの?」

 

 よし、良い感じに盛り上がってきた。なんならおれも先が気になる。

 つまり今なら、誰もおれなんかに注目していない。

 チャンスだ。

 横向きに寝転がったままおれは、そっと薄目を開けた。

 

 

 鼻と鼻がくっつきそうな至近距離に、誰かの顔があった。

 

 

 心底びびったおれの目は反射で全開になり、ばちっと眼が合う。目の下の深いクマが不健康かつ病的な印象を与える、なんかメンタルに問題を抱えていそうな高校生ぐらいの女の子。

 向こうも同じく横向きに寝転がっており、ただただじいっとこちらを見つめていた。

 

 おそらく、彼女が『ノエミ』だ。

 

 とりあえずおれは、指を立てた。

 人差し指をぴんと立て、そのままゆっくりと唇の真ん中にもってくる。

 お静かに。というジェスチャー。

 前にこれをやったヒルデガルドには、なぜか黒杭をぶち込まれたが……きっとあれは例外だ。

 たとえ初見でも、なんとなく意味は伝わる筈。

 

 1秒。2秒。3秒が過ぎて、ノエミはにっこりと笑った。

 

 どこか病的な目元さえどうにかすれば、きっと可愛いと形容される笑顔だったに違いない。

 

 

「……さっき本館で皆の遺体を見るまで、わたしは『爆弾』の存在なんて知らなかった。だからわたしには、対処のしようなんてなかった」

「ふうん。ならお前をスカウトしたA&Jになるわね。けどそうなると、なぜ連中に魔女(ローゼガルド)様の術をどうにかできる程の力があるのか、とても不思議ね」

 

 視線だけで周囲を探る。ヨランダは見当たらない。同じ落下地点にはいたので、おれだけが連れて来られたとみるべきか。

 

「A&Jって組織は決して無能の集まりじゃない。現場の細かい所までは知らないけど、管理側は頭の良いヤツばかりだった。意味もなくリスクを撒き散らすような真似は絶対にしないと断言できる程度には、まともで合理的な集団だった」

 

 突然頭上から、はいちょっと失礼しますねーとノエミの囁きが降ってくる。

 返事するより早くおれの頭の下に両手を差し込み、ゆっくりゆっくりと持ち上げていく。

 え、なに? シャンプーでもされるの?

 一瞬、死ぬ気で抵抗しようか迷ったが……とりあえずのってみることにした。

 

「そんな組織が、おそらくは最高機密であろう極秘の存在や事柄を、この半日だけで3つもわたしに教えた。入って2週間の、元特別行動隊(魔女の犬)の、信頼も信用も何もないこのわたしに。ちょっと口頭で口止めする以外は何もせず、最高幹部2人の同意の下で」

「ふうん。試しにどんな機密なのか、話してみなさいよ」

「だったらマリアンジェラも、そこのはしご上って2階に行ってみてよ」

 

 2人は黙った。

 頭の下にノエミの足が挟み込まれ、おれは膝枕された。

 

 正直ノエミの行動は意味不明だったが、ここだと思った。

 頭の位置を微調整するフリをしてそのまま、ずるり、と横へ滑り落ちようとして――できなかった。ステルス子機(影分身)が出ない。

 あれっ? と思い反射的に周囲を見渡すも、闇に反射した先が見えるといった超視界も機能せず、ごく普通に見える範囲が見えるだけだった。

 

 隙間だらけのくせして無駄に広く天井の高い掘っ立て小屋。差し込む日の光。ロフトと呼ぶには余りにもお粗末な2階部分。対峙する2人。

 ひとりは全身黒ずくめの忍者か黒子みたいな格好をした20代後半ぐらいの女。

 もうひとりは黒いパンツに白シャツの、サーファーギャルが起業して社長になった感のあるギリ10代っぽい気の強そうな女の子。

 

「わたしが本館に行った時は、3階の物置部屋の窓を割って館内に入った。まだ『爆弾』のことなんか知らなかったから」

 

 やっぱりこっちの若社長がマナナだ。

 

「いや、ぐだぐだいうより、見せたほうが早いか」

 

 いってマナナは粗末なはしごに飛びつき「駄目マナナ止めて!」ノエミの制止の声には構わず、さっと2階部分へ上った。

 急に頭上で大声を出されたおれは、人知れずびくっとしていた。

 

「どう? マリアンジェラ。2階部分(ここ)の高さは、ダフネが弾け飛んでた階段の踊り場よりは高いでしょ。それでもわたしは弾け飛んでいない」

「ええ、そうね」

「確認するけど、お前とノエミは今でも『あの階段の踊り場』よりも上へあがると弾け飛ぶ。実際にはわからないけど、少なくとも、そう仮定して行動してる」

「あら、どうしてそう思うの?」

「あの魔女(ローゼガルド)様最後の一手だぞ? 絶対に諦めずどこまでも追ってくるに決まってる。タイミングがずれたからセーフ、なんてぬるいオチで済むワケがない。おそらくは最強の呪詛だ。100年は残り続けるとみていい」

 

 へえ。じゃあ最悪の場合、上の方へ逃げれば2人は追って来れないのか。

 

「……そういった『呪』の類ではなく、もっとシンプルな仕組みよ」

「聞かせろ。お前はともかく、ノエミを死なせるワケにはいかない」

「随分と偉そうね? 直に現場を検分しておきながら、この程度もわからない分際で」

「随分と偉そうだな? 2階にすら上がれない、3歳児未満の分際で」

 

 2階部分から飛び降りたマナナが、マリアンジェラのすぐそばに着地する。やんのかこらやったんぞ、みたいな空気が充満する。なんか普通に殴り合いが始まりそう。つうかお前ら、無限ループ入ってね?

 

「はいはいそーいうのはもういいから! 私とマリアンジェラはどうにかグリゼルダから逃げ切りました! で、それからどうしたのかな?」

 

 ノエミが強引に話を進める。

 たぶん、おれに聞かせる為に。

 

「……グリゼルダを撒いたあと、あらためてノエミの鷹にいくつかサンプルを回収させた結果、わたくしたちに仕掛けられた『これ』の大まかな特性は把握できたわ」

 

 何気に凄いなマリアンジェラ先輩。

 

「マリアンジェラはね、研究室にも出入りできるしナントカ流って拳法もできる、性格以外は駄目なところがないデキる女なんだよ」

 そう小声で吹き込んでくるノエミも、あまりマリアンジェラ大先輩のことは好きではないようだった。

 

「基本的に『これ』は、相手を内部から破壊する一攻撃手段でしかなかったの。問答無用で一撃必殺な代わりに、色々と条件が厳しいタイプのやつね。それを魔女(ローゼガルド)様からの『供給』で強引にせき止めていた、というのが爆弾の正体よ」

「……供給って、なにそれ?」

「詳細は不明。一切探知できず、距離の概念を飛び越える性質をもった『なにか』としかいいようがないわ」

 

 たぶんそれ『闇』関連の何かだな。

 ヒルデガルドの口ぶりから、ローゼガルドも無制限に使えてたっぽいし。

 つーか、そんなこともできるのか闇技術。

 いや、できてしまうというべきか。

 

「重要なのは供給を止めれば本来の機能を取り戻す、という点よ。任意の爆破はこれね。当然、魔女(ローゼガルド)様が死んでも供給は止まり、これまた同じく本来の機能が発揮される」

「本来の機能――ある一定の高さ以上になればドカンと爆発。仕掛けられた者は即死」

「まさに王の血統にのみ許された暴虐。腹が立つ程に強力だわ」

 

 良い感じに一段落ついた。

 いがみ合っていた2人は少しだけ冷静になり、おれと話をする余裕が生ま、

 

「ところでマナナ。わたくし、お前がA&Jから教えられたという最高機密の1つがわかったのだけど、何か体調に変化は? 喉や腹部に圧迫感や膨張感は? それとも、この程度ではセーフなのかしら?」

「は?」

「だって可能性はひとつしかないじゃない。王の血統の暴虐を捻じ曲げる、あるいは上書きするなんて真似ができるのは、同種の存在以外にはあり得ない。つまりA&Jの創始者一族は王の血統、となるわよね。これが、お前が教えられた機密の1つではなくて?」

 

 

 ――まじか、こいつ。

 

 

 正直、どこかでナメてた。

 なんだかんだいいつつも、同じチームのメンバーなんだろ、みたいな意識がおれにはあった。

 

 ここまでの流れからすると、機密情報を洩らしたマナナはどうなるか。

 闇技術でつくられた爆弾とやらが、なにやら捻じ曲げられたり上書きされているらしいマナナは、果たしてどうなるのか。

 

「――うぐ」

 胸元を押さえ、マナナがうずくまる。

「なるほど。本人の自覚がトリガーになるのね。随分と穴だらけな仕様だこと。王の血統とはいえ、やはり所詮は在野に流れた傍流の手遊(てすさ)び、といったところかしら」

 

「てめえなにやってんだマリアンジェラッ!」

 

 激怒したノエミがマリアンジェラへと駆け出す。

 膝枕から放り出されたおれは、そのまま床を転がる。

 

 うずくまるマナナ。一瞬おれと目が合い固まるマリアンジェラ。影がぐにゃりと歪み、おそらくは『鷹』と一緒に突っ込もうとしているノエミ。

 

 おれからすればこの現状は『ローゼガルドの部下だった特別行動隊とかいう連中が勝手に殺し合いを始めました』でしかない。

 

 普通に考えるなら『お好きにどうぞ』でお終いだ。

 

 けど。

 けど何か。

 何かが、引っかかる。

 見落としちゃいけないものをスルーしているような。

 どこかで違和感があったような。

 

 

 ――じゃあ、なんでお前は『ウチの新人』をかっさらった?

 

 

 これだ。

 マナナがおれのことを『ウチの新人』と呼んだ。

 名乗ってもいない初対面のおれの『どこを見て』そう判断したのか。

 

 服、しかない。

 

 ヒルデガルドの親戚で、ヤクザの親分の息子の『ミゲル様』一家の直系か認められたごく一部の者だけしか着用を許されない、このガラ悪縞々ちびっこギャングスーツだ。

 

 A&J。王の血統。ウチの新人。ミゲルの一派とは協調する必要がある。

 足して引いて、答えがどん。

 A&J=ミゲル様の所。

 

 

 ――なんでヤクザがそんなベンチャー企業みたいな名前使ってんだよ! いやよくある手口だけどさあ!

 

 

 走る。

 うずくまるマナナに向かって、とにかく全力で走る。

 彼女が弾け飛ぶと同時に、きっとおれの安全な未来も一緒に弾け飛ぶ。

 

 2人とマリアンジェラは完全に決別した。

 理屈はさっぱりわからないが、とにかくあいつはやりやがった。ごめんで済むレベルは超えた。

 なら残るのはどちらか一方だけ。

 あっさりとあんな真似(ふわっと即殺)ができるマリアンジェラと2人きりなんて、絶対にごめんだ。

 そもそもヒルデガルド(姉さま)はすでにミゲル一派(A&J)との協調路線を決めている。

 ならばマナナは未来の仲間であり、向こうの都合としても、おれとは仲良くする必要がある。

 

 つまりは、こんな状況でやっとみつけた味方だ。

 失うわけにはいかない。

 

 しかし今は日中。もうすでに日は昇っている。闇はどこかに消えた後。

 当然のように、ステルス子機(影分身)は出なかった。超視界も機能せず。たぶん『杭』も無理。闇由来のものは全て使えないとみて間違いないだろう。

 

 なら残る手札は、超存在であるピラミッドさん由来のやつのみ。

 

 本にしてもしょうがない。そもそもこの場にいる3人は規定値に達していない。

 なら使うべきは。

 飛びつくようにして、うずくまるマナナの背中を叩く。

 

 

 ――つまんねーことすんな。ぶっ殺すぞ(まだ見てない人には決して話さないで下さい)

 

 

 どこかの誰かが組み上げた、おれにとって気に入らない界を崩す、ピラミッドさんのいう『宵の双葉』とやら。

 

 走れ、崩せ。

 

 そこで突然のめまい。

 頭の芯が回って、あちこちから力が抜けて、どうにも上手くいったかどうかがはっきりしない。

 やっぱり日中は、全てのスペックがだだ下がりしているのを実感する。

 かといって「ごめん無理でした」が通用する状況でもないので、とにかくマナナの背中をばしばし叩きまくる。

 いいから! とにかく! やれ!

 そんな、荒いタイプの田舎のおばちゃんみたいな動きを繰り返していると、めまいと脱力感はどんどん悪化していき、さらには寒気と目のかすみも追加。そろそろ本気でやべえぞこれ、と思ったところでマナナが吐いた。

 かなり派手に、そりゃもうなんだかエラい勢いで大変なことになっているが、とにかく上半身が弾け飛んではいないのだ。たぶん上手くいった。いってろ。いってたら嬉しいな。

 

 マーライオンが「おい、その勢いは危険だぞ」と苦言を呈してきそうなマナナの背中をさすっていると、なんか鈍い音が響き渡った。

 

 どすっ、とか、ごすっ、とかいう不吉な音の出所を辿ると――ノエミと鷹がマリアンジェラにボコられていた。

 

 なんというか、勝負になっていなかった。

 

 ガチの格闘家、対、()物係(ものがかり)の女子高生とでもいえばいいのか。

 一目でわかるレベルで、錬度の桁が違う。

 本気でぶち切れて殺しに行くノエミと同時に上空から襲いかかる鷹。

 実質2対1……ではあるのだが。

 ノエミが逆手に持ったナイフで斬りかかるも、流され、極められ、どすっ。ナイフがからんと落下しつつ『く』の字に折れ曲がったところを両手で掴まれ――俗にいう首相撲だ――膝で顔面をごすっ。

 ムエタイと合気道のいいとこ取りみたいな謎格闘技が、圧倒的暴力の一方通行を実現する。

 鷹も必死に飛び回ったり引っ掻いたり頑張ってはいたのだが、ノエミと同時にいなされ、かわされ、3回目の急降下に合わせて放たれたマリアンジェラの肘で頭部が吹っ飛び、続く裏拳で地に叩きつけられた。

 一瞬ゆるんだ拘束から逃れようとしたノエミはなぜか逆に振り回され、空いたスペースに差し込まれた膝が腹に刺さりどすっ。

 そうしてまた首相撲が始まり、顔面に膝、膝、膝。

 

 なんというか、マリアンジェラが強過ぎた。

 性悪インテリみたなムーブをかましておいて、さらに殴り合いもいけるとか……まじであの先輩、性格以外はダメなところないんじゃねと思わせるハイスペックっぷりだ。

 

 しかもあいつ、まだ余裕がある。たぶんノエミに対しては手加減をしている。

 鷹の頭を吹き飛ばした強さで膝や肘をぶちかませば、きっとノエミは即死する。

 けどそれをしないのは決して情や優しさではなく、今後の使い道を考えてのことだろう。

 

 だとしたらあれは、未来のおれの姿なのかもしれない。

 使い道のある道具という意味では、おれとノエミに大差はない。

 

 こりゃバテてる場合じゃないと1歩踏み出した足が――マナナのマーライオンで盛大に滑った。そういやおれ裸足だった! ダイレクトかよきっつ! 

 全霊を振り絞り、綺麗な方の床へと倒れる。

 すぐさま気を取り直し起き上がろうとしたが……足腰に力が入らない。立ち上がれない。

 想像の10倍ぐらい、限界かつふらふらだった。

 

 首相撲で転がされたノエミがそのままマウントを取られる。マリアンジェラが振りかぶって、打ち下ろす。1発、2発、3、4、5――。

 時間がない。おれは起き上がることすらできない。

 なら、この状態でもできることをするしかない。

 確かヨランダがいうには……足す、だったか。

 照れてる余裕もヒマもない。

 ここでやらなきゃ、もうどうしようもなくなる。

 本気でやれ。死力を尽くせ。

 

 よし。せーの、

 

 ノエミ頑張れ超頑張れまじで応援してる。おれの未来はノエミにかかってる。なんかおれの方から『足せる』なら全部つっこむから要るだけ持ってけ大丈夫破裂とかしないしさせないからとにかくノエミに全乗せするわ!

 

 一瞬だけ落ちた。

 額を床にぶつけた痛みで飛び起きる。

 

 ノエミに乗っかるマリアンジェラの肩に、頭部のない黒い鷹が停まっていた。

 いや、違う。

 あれは停まっているのではない。

 掴んでいるのだ。

 叫ぶ。

 

「そのまま持ち上げろ! ノエミッ!」

 

 首なし鷹が羽ばたく。

 マリアンジェラが鷹の足を殴ろうと振り上げた腕にノエミが組みつく。

 一瞬の空白。

 首なし鷹が、かっ飛ぶ。

 ノエミが手を離す。

 成人の重量が、何の抵抗もなく超スピードで天井へと吸い込まれた。

 

 ば、と飛び散る。

 特にこれといって派手な音はしないのが、妙に生々しかった。

 

 黒ずくめの腰から下だけが、どちゃっと落ちて来る。

 続いて上から降ってくる『雨』とか絶対に浴びたくないと慌てたおれの手に、ちょうど良い感じの布っぽい何かが触れた。

 さっと掴み、全身をすっぽり覆うかたちでカバー。

 熱帯地方のスコールみたくばたばた布地を叩いてくる大粒の何かは意識からシャットアウトする。

 そうして何も降ってくるものがなくなって、ようやくおれは顔を覗かせた。

 

 室内の惨状はもう笑うしかないレベルの地獄絵図。

 血やら何やらでどろどろのマナナとノエミが、ふらつきながらも上体を起こし、こちらを見た。

 

 何かいってくるかな、と思ったが2人ともに無言。

 

 こっちとしては、イエイとハイタッチでもしたい気分なのだが……向こうからすれば『いや結局おまえ何なんだよ?』といった感じか。

 よし。

 実はひっそりと温めていた自己紹介(やつ)がある。

 前に聞いて、これなんかハッタリがきいてていいなパクろう、と密かにストックしていたやつだ。

 それをひとつ、ここでかまそう。

 こういうのは案外、馬鹿にできない。

 

 相変わらず限界ふらふらで立ち上がれないのはどうにも格好がつかないが、そこはまあお互い様だ。

 せめてもの見栄でゆっくりと余裕たっぷりに。

 なんなら薄笑いを浮かべる勢いで。

 

「初めまして2人とも。わたしはアマリリス。旧王家現当主ヒルデガルドの妹だ。正式にはもっと長い名があるらしいが、墓標以外で使う機会はないので気にしなくていい。わたしにはミドルネームもファミリーネームもなく、書類上の表記では、名のあとに国号が入る。ただ表に出ることはないだろうから、わたしのことはただ『アマリリス』と、そう呼べばいい」

 

 うん、いいんじゃないか?

 旧王族の一員(仮)だという七光りをびかびかさせる。

 あるものは使う。そこに抵抗はない。

 さあ、国内最強のバックに慄け!

 

「はいアマリリスさま! ノエミっていいますよろしくお願いします! 質問です! 魔女(ローゼガルド)様ぶっ殺したのってアマリリスさまですか?」

 

 あれ? 普通に会話続いちゃったよ。

 

「トドメを刺したのは親衛隊か使用人の誰かじゃないかな。わたしはほんのちょっと、切欠をつくっただけだよ」

 

「すごい凄い! それなら呪詛対策もかんぺきだ! ホントなんだ! 本当にあれをやったんだ! すごい! 凄ーい! あは、あははっ! 痛っ、いだだだだ!」

 

 ノエミのテンションがぶち上がったかと思えば、急に苦しみだした。

 え、なにこの娘こわい。

 おれは慄いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 この掘っ立て小屋は特別行動隊のセーフハウスのひとつらしく、予備の装備に水や食料など必要なものは最低限常備してあった。

 

「いやーホントあのまま殴り殺されるかとおもったよー」

 顔面青あざだらけの、彼氏にDV受けてる系メンヘラっぽいビジュアルになったノエミが、貯蔵用の飲料水でざぶざぶ顔を洗う。

「あのねノエミ、そもそもマリアンジェラ相手に正面から殴りにいって勝てるわけないだろ? キレるのはいいけど、考えなしはダメだ」

 

 マナナとの話はあっさりついた。

 ボスであるミゲルもここに来ているのですぐに引き合わせると。

 ただ、色々と酷いことになっている2人には少々時間が必要だった。

 

「考えはあったよ。タッカーと死ぬ気でやれば、片目ぐらいなら潰せるかなって」

「それ考えっていわないから」

 

 鷹のタッカー君。

 思ったより愛情のない名前に、ドライな本質をみた。

 

「なあノエミ、タッカー君、ちゃんとパワーアップした?」

 今おれの目の前にいる、首なし鷹を撫でてみる。

 つやつやふぁっさあ。

 なにこれ凄い。

 

「したした。ふつーなら、成人の質量を持ち上げるとか絶対にムリだよ。やれっていわれたからノリでやってみたけど、たぶん私が一番びっくりしたんじゃないかな」

 いいね。ちゃんと足せてる。

「他になにか変わったところは?」

「どうやってもタッカーの首が戻らないのと、あとは……え、なにこれ? ちょっとまってね、こうしてそうして……おらっ!」

 首なしタッカー君の影から、ずるりと、同種の黒鷹が出てきた。こっちはちゃんと頭がある。サイズもほぼ同じ。

「うわあ、もう一本(ひともと)出てきたよ。ちょっとひく」

「ただでもう1つ。お得じゃないか」

「そだね、これはこれでお得だよね。よーしタッカー、新入りに実力をみせてやれ!」

 そうして特に理由のない、タッカー君対新入りのFF(ファルコンファイト)が始まろうとしたが、マナナの「じっとしてろ」という一声で終息した。

 

「なあマナナ。もしかして傷を治せるやつって珍しいのか?」

 

 血や泥を落としたノエミの顔に、なにやら薬っぽいものを塗っているのを見たおれは、わざわざそんなことをする理由を聞いてみた。

 

「はい。衛生兵型(メディック)は全体の3%ぐらいしかいませんね。基準未満の真似事レベルを合わせても5%とかその辺っすね」

特別行動隊(うち)にも1人いたけど、弾け飛んじゃったからねー。もったいない」

 

 ヨランダ、何気にエリートだった。

 ハウザーもプルメリアもさらっとできてたから、ワリと誰でも普通にできるものかと。

 ってそうだ、ヨランダ!

 

「わたしと同じ場所にもう1人居た筈なんだが、どうなったかわかるか?」

「……おそらく、魔女の巫女の所にいるかと」

 

 マナナにこれまでの経緯を聞く。

 とりあえずキャッツの皆には、もし次があったならエレクトリカルなパレードは勘弁してねと、できるだけ早く伝えようと思う。

 わざわざ『ここだ! 瀕死だぞ!』とド派手にアピールするのは、余りにもリスキーだ。

 助けてもらっておいて何だが、いうべきはいわねば。

 

「その魔女の巫女を裏切った3人の男たちはどうした? ここにはいないみたいだけど」

 これには、マリアンジェラと行動を共にしていたノエミが、

「なんかマリアンジェラがさくっと殺っちゃった。箱の操作はマリアンジェラ、実働は向こうって連携はしてたけど、捨て駒だったみたい」

 

 他人事じゃない。1歩間違えれば、おれも彼らと同じ末路を辿ったかもしれない。

 

「なんでその3人は裏切って、しかもマリアンジェラとつるんでたんだ?」

「わかんない。爆弾の解析が終わったあと、なんとなくマリアンジェラと一緒に行動してたらあの3人がいてさ、そしたらマリアンジェラが『盟主からの勅令よ』とかいって話しかけて、そっからはこしょこしょ話。教えてくんないの」

「盟主?」

「この旧市街で『盟主』なんて呼ばれるのは『闇の薔薇』って魔術結社のリーダーだけっすから、まずそいつのことかと」

 

 ああ、スパイとかそういう話か。

 なんつーか、闇精霊とかいっても、やってることはおれの知ってる人間と変わらないよな。

 理解できると喜ぶべきか。

 またそれかと嘲るべきか。

 

「それで、私たちの爆弾をどうにかするには『あれ』――じゃなくてアマリリスさまが必要だから奪うぞ、っていわれた」

「爆弾を? 具体的には?」

「聞いてない。あの時はもうバンビも死んじゃって、全部どうでもよくなってたから」

 

 やっぱこいつ、いい感じにメンタルがヘラってやがる。

 このまま下手に刺激しない方向をキープしようとおれは決める。

 

「……そういえばたしか、共食い工作でマリアンジェラの担当って」

「魔術結社『闇の薔薇』だねー。3人とはその時に知り合ったとかいってたけど、たぶんなんか悪巧みしてたよあれ。というか3人の態度が、完全に上位者に対する部下って感じだったから、あいつ向こうでも地位持ってたっぽいね」

 

 裏切りと陰謀が渦巻き過ぎててむせる。

 

 とはいえ、もう本人は弾け飛んだ後だ。

 ならするべきは、これからの話だろう。

 こっちにも、無視できない問題がある。

 

「えー、式典用の軍服しかないの? こんなの街中で着てたらおかしいじゃん」

「ジャケットは着なきゃいいだろ。あと動くな。固定が緩む」

 

 今2人は血みどろな服を着替えている。

 特別行動隊とかいう軍隊より過酷そうな所属の彼女らは、おれの10倍はタフだった。

 破裂しかけたり、ガチでボコられたりしたが、もう動ける程度には回復している。

 ちなみにおれは、木箱の上でべちゃっと寝てる。まだ起き上がれそうにない。

 

「なあマナナ。ひとつ、確認しておきたい」

「はい」

「いいのか? このままA&Jと合流して」

 

 おれが彼女なら、このまま逃げる。

 謎の王族パワーで秘密を洩らせば破裂する爆弾を仕込んでくるような連中とは、とてもじゃないがやっていけない。

 

「当然、知らされてなかったんだろ? 機密を洩らせば弾け飛びます、とか」

「それはまあ、はい」

「そういえば私もA&Jに入るんだっけ? せっかく魔女(ローゼガルド)様がいなくなったのに、またあんな感じになっちゃうの嫌だなー」

「たぶんノエミは大丈夫だと思う。わたしの場合はとにかく大急ぎって感じだったから」

「急いでるからってこっそり爆弾仕込んでくるヤツらとか、信用できない」

「それでも確実に魔女(ローゼガルド)様やマリアンジェラよりかはマシだよ。実際に見て聞いた。それは間違いない」

「そんなこといって『ミゲルさま』とかいうボス、わざと撒いたくせに。手がかりとか行き先とか、いくらでも知らせる方法はあったのにさ」

 

 あ、やっぱマナナも不信感あって、すでに行動してたのね。

 

「……ノエミには先に話しておきたかったんだよ。A&Jって組織は魔女(ローゼガルド)様と同種のクソだけど、それでもほんのちょっとだけマシで、比べ物にならないぐらい給料は良くて、あてのないわたしたちが生きるには金が必要だって」

 

 うん、薄々感じてはいたけど、やっぱマナナはまともだな。

 今からみると、最初のおらおらっぷりは敵に対する牽制だとわかる。

 まともで賢くて、()()がない。

 だからきっと彼女は、己の生活基盤と定めたA&Jの命令ならば、割り切っておれと敵対できるタイプだ。

 

 勘違いしてはいけない。

 今マナナが友好的なのは、A&J()がそういう方針だからだ。

 私的な情は、お互いに皆無だ。

 

 だからおれは、特にそれには触れずに取っておく。

 最悪の場合、マナナに対して切れる鬼札。

 

 

 今もノエミの中にある爆弾を、崩してあげるよ。

 

 

「まーそれはそうなんだけど、ものごとには限度ってのがあるからね? 即死爆弾とかふつーにアウトだからね? もし会っていきなり爆弾どーんとかされたら逃げるからね? もちろんマナナも一緒にだよ?」

 

 そこでノエミはおれを見て、

 

「もし逃げるってなったら、アマリリスさま、見逃してくれる?」

「いいよ。こっちはヨランダと合流さえできれば、あとはどうとでもなる。1人や2人どこかに行ったところで、気にしないよ」

 

 だからヨランダと合流するまでは一緒にいてね、助けてね。

 クソみたいな本音はがっちりガード。なんか良い人っぽいオブラートでぐるぐる巻きだ。

 

「すみませんアマリリスさま、気にしないでください。こいつ勢いだけで喋るんで、話は半分ぐらいで聞いてもらえれば」

「ええー、私は全部本気だよ」

 いかにも軍服です、みたいな格好に着替えた2人がこちらへやって来る。

「ジャケット着ないんじゃなかった? 悪目立ちしないか、それ」

 なぜか軍帽まで被ってフルセットになっている。

「実はねアマリリスさま。私もマナナもけっこう内側が傷んじゃってて、もうガチな戦闘とかムリなんだよね」

 

 マリアンジェラにボコられたノエミは数本の肋骨を骨折。

 破裂しかけたマナナは内臓に重大なダメージ。

 そんなワケで2人とも、激しく動くのはきついらしい。

 何ならおれが1番健康まである。

 

「だからもういっそ、見かけで威圧してはったりバシバシでいくのが1番じゃないかなって」

「今のコンディションでも、ちんぴらの5、6人ぐらいなら問題ありません」

「ならこっそり行った方が良くない?」

 わざわざ目立ってカチ合わんでも。

「それじゃ最悪、ミゲル様も気付かず合流できない可能性があるんすよ。わたしたちだけで魔女の巫女の所に行って上手いこと交渉するとか、ちょっと自信ないっすね」

「あ、けどアマリリスさまならいけるかもだね」

「よし。なるべく派手に目立ちながら行こう」

 

 魔女の巫女とかいう、どう考えてもかかわっちゃダメなヤツとの絡みは最低限にしたい。

 聞く分にはローゼガルドとは不仲だったらしいが、敵の敵が味方とは限らない。

 

「ここいらを軍服でうろつくのは第1軍の警邏だけっすから、手を出されることはまずないかと。どんな阿呆でも、ケンカを売ったら終わる相手ぐらいは知ってますから」

 

 ……まあ、専門家がいけると踏んだのならいけるのだろう。

 おれはべちゃっと寝そべっていた木箱から起き上がり、そこで額に乗せていた冷たく絞ったハンカチがぽろっと落ちた。

 マナナが用意してくれたそれの存在を、すっかり忘れていた。

 つい反射で、落ちようとするハンカチに手を伸ばす。

 反射神経が息をしてないおれの手は空を切る。いや、ちょっとだけかすった。

 腕は2本ある。つまりもう片方の手で、次でばしっと掴む!

 べしっと弾いた。

 ぴょーんとハンカチは飛んで行く。

 

「え」

 

 何ともいえないやっちまった感と共に、見当外れの方向へ放物線を描くハンカチを眼で追っていると……不意に、そいつの姿が浮かび上がった。

 おれが寝そべっていた木箱のすぐ隣。

 デザインとしては画一品の、ほぼ同じ大きさと形の木箱が、くっつけるようにして並べられているその上に。

 

 くすんだ金髪のくせっ毛ショートヘア。

 歳はノエミよりもさらに若い。日本感覚で中3から高1ぐらい。

 ガチな美少女といった感のある、ぱっちりお目々がおれに向かい見開かれている。

 さっきの声はおれじゃない。

 マナナでもノエミでもない。

 彼女だ。

 

 片膝を抱えるようにして、ずっとそこに座っていたのだろう。

 マリアンジェラと同じ、全身黒ずくめの忍者か黒子みたいな格好。

 

 同じ服装ということは、同じ集団に属していると考えられる。

 特別行動隊。

 確かもうひとり名前があがっていた。

 マナナとノエミの仲間だった、バンビという娘を殺害した4人目。

 

 冷え切ったマナナの声が、その答えを教えてくれる。

 

 

「――グリゼルダ」

 

 

 彼女は、おれのすぐ隣にいた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6.1 君に会いにゆこう

 

 

 旧市街の地下深く。

 アリの巣状に張り巡らされた無数の通路とそれらを連結する幾つもの大広間。

 地上の街区と連動して、階層()を示すA~Dと区画()を切り分けた1~10までの組み合わせで記される地下空間。

 そこは王家専用の緊急避難経路であり、秘匿すべき術理の訓練場であり、絶対に表には出せない輩の幽閉場所でもあった。

 

 故に、この王国時代の遺構は、その崩壊と共に徹底的に破壊され尽くした。

 

 王城の遥かな高みから見下ろすだけでなく、自分たちの足下すらもあまねく全て王家の所有物だったという物証は、新たな体制を立ち上げようとする者たちには、到底看過できない『打破すべき象徴』でしかなかった。

 故に壊せ。壊した。壊し尽くした。

 

 そうして幾星霜(いくせいそう)の歳月を経て。

 

 しぶとくもいまだ健在な旧王家に生を受けた麒麟児が過去の文献を紐解いたことで、この『まだ半分ぐらいなら使える空き地』は再び日の目を見た。

 

 

「ちょうどいいじゃない。どうせ魔術師なんて連中は、薄暗い穴倉とか大好きでしょう? 誰にも内緒で好きなだけ後ろ暗いことができるとっておきの場所。理想の本拠地ではなくて?」

 

 

 およそ半世紀前、旧市街を支配していた巨大非合法組織が壊滅した。

 その残党の一派、ことさら魔術に傾倒していた人でなしどもがつくりあげた秘密結社――闇の薔薇。

 

 埒外の暴力による蹂躙を経験した彼らは、2度と同じ轍は踏むまいと、組織の基幹部を徹底的に隠匿する方針を取った。

 

 どうしようもない時は、もう本当にどうしようもない。

 理外の化生は存在する。もうそれはどうしようもない。

 ならばそれを前提に組織をつくろう。

 広く、薄く、大きく。しかし根は深く、誰にも見付からぬよう、深く、深く。

 

 そうして築かれた、旧市街のはるか下方に広がる『闇の根』と呼ばれる本拠地。

 その中心部にして大規模な祭儀場でもある地下大聖堂で今、最後の頭蓋が砕け散った。

 

「やはりお強い。うむ、良き術比べでした、副首領閣下」

 

 首から上が破砕した敵手より、心からの賛辞が送られる。

 驚くには値しない。

 彼奴の声は、喉より発せられるものではない。直接頭の中に聞こえるのだ。

 対象を1人へと限定する代わりに全ての制限を『踏み倒した』荒業。

 音声に依らない呪文の詠唱を可能とした、驚嘆すべき術師最後の言葉は、掛け値なしの祝辞だった。

 

 返礼として、残る首から下は一息に砕いた。

 続いて、真っ白な灰となり散って行く。

 これにて反逆者の根絶は完了。

 だが、しかし。

 

「どれだけ残った?」

 

 聖堂内で立っていると思しき、ぼんやりとした人影へ彼は問う。

 予期せぬ反動で潰され、完全に視力の喪失した両目が再生するには、今しばらくの時が必要だった。

 

「自分を含めて4人ですね。もれなく祭壇に『回収』されたので、擬死はありません」

「そうか」

 

 そこまで数が減ってしまえば、もはや組織としての体裁は保てまい。

 本拠地(ここ)へ足を踏み入れることができるのは、各教区の責任者のみだ。

 それがたった数名しか残っていないとなれば、全体の統制など取れよう筈もない。

 つまり、組織としての破綻は、もう避けられない。

 

「最後は仲間割れで終わるとは、なんともまあ締まらない話ですね」

「最後などとキサマ、何をいうか! まだ盟主さまがご健在ならあるいは」

「そ、そうだ! 盟主さまなら、あの御方なら!」

 

 今宵『闇の薔薇』の盟主は不在だった。

 数週間前から、とある『特級の大儀式』に参加する為に、はるか遠方へと長旅に出ていたのだ。

 

「いや。あの魔女が盟主(外法)だけを見逃すとは考え難い。おそらくは彼の地で果てていることだろう。そこはもう、認めるしかあるまいよ」

 

 悪目立ちを避ける為、息のかかった者どもを使い『盟主は他の代表と同じく弾け飛んだ』と虚報を流したが……実際のところ、ただの先行発表でしかなかった。

 

「な、ならば副首領閣下、我々はこれからどうなるので?」

「そうさな。今宵の動乱を制した勢力によって『闇の根(ここ)』は攻め込まれ、我らは逃げ落ちるのみだろうな」

「わ、我々が、頭が落ちてしまえば、残る手足は」

「うむ。統制を欠いた大陸各地の支部はそれぞれ独自の名を掲げ好き勝手に動き出し、そうして現地の有力者に討たれ、緩やかに消滅してゆく。実につまらぬ閉幕よ」

 

 内容とは反比例して、語る彼はどこか楽しげだ。

 それを見たひとりが、薄笑いを浮かべながら問う。

 

「座して終わりを迎えるつもりなど、欠片もありはしないのでしょう? 副首領閣下?」

「無論。でなければ、これの炉に火など入れぬよ」

 

 いって彼は『祭壇』を見上げた。

 

 中心へ行くにつれ段々と面積が小さくなっていく多層型の立体構造物。

 俗にいうピラミッド。

 ただし全体が真っ黒で継ぎ目がなく、段によってサイズやスケールがまちまちで、さらには観測する度にその数値を変動させるという意味不明な代物だ。

 

盟主(クラプトン)の『眼』が破壊されるまでに得た情報によると、これの名は『アルバコア』というらしい。彼の魔王(ゲオルギウス)が用意したそれに比べれば、大きさは5分の1といったところだが……その性質に変わりはあるまい」

 

 最初期に発掘され、その余りの禍々しさから結社のシンボルとして扱われてきた未知の遺物。

 おそらくは何らかの古代遺物(ロストロギア)だと思われるが、いくら調べようとも詳細は一切不明。

 炉と思しき箇所に魔力で火を入れると、ごく短時間だけ起動状態に移行する以外に判明したことはひとつもなかったのだが……ほんの数時間前、唐突にその正体が判明した。

 

 急な『接続』による過負荷で目と耳から血を垂らしながらも、盟主(クラプトン)との視聴覚共有で得られた情報の数々。

 その場のノリで物見として浮かべられ、何らかのトラブルで破壊された『眼』のダメージで強制遮断されるまでには、これの仕様は大方判明していた。

 

 だから彼は、反逆者どもとの衝突が避けられないとなったその時、そっと『これ』の炉に火を入れたのだ。

 

 どうせ無為に散らすのならば、せめて贄になれよと。

 

「諸君らも見ただろうが『これ』の有効範囲内で死した者は灰となり、糧となる」

「それは一体『何』の糧なのでしょうか?」

「これの5倍の大きさなら『皇魔城』という、人類との決戦兵器の動力部となったそうだ。少なくとも、あの魔王(ゲオルギウス)が必勝の鍵と確信するほどの代物だ」

 

 ひとつの世界を相手に必勝を確信する物の5分の1。

 スケールが大きすぎてピンとこないが、それでもとんでもない代物が控えていることだけは間違いない。

 

「なれば旧市街など、一息に吹き飛びましょうね」

「旧市街どころか、下手をすればネグロニアそれ自体も」

「我らが結社のシンボルが、終にその真価を発揮すると」

「そ、それは、それはあまりにも」

 

 皆の視線が彼に集まる。

 どいつもこいつも、溢れ出る好奇心を隠そうともしない。

 ああ、素晴らしき同志たち。

 彼は嗤い、煽る。

 

「面白そうであろう? このまま先細り終わって行くよりも、ずっとずっと、もっともっと、心躍るとは思わぬか?」

「然り!」

「然り!!」

「然り!!!」

 

 意志の統一は成された。

 いや、もとより外法の下に集いし左道の群れ。

 今一度確認した、といった方が適切か。

 

「しかし副首領閣下。我らが精鋭たる『位階持ち』の大半を喰わせてなお、いまだ不足しておるように見受けられますが」

 

 不気味に脈動する『祭壇』を見やる。

 確かに、これまでにない反応を見せてはいるものの、まだ決定的な閾値は超えていない。

 まだ、足りない。

 

「ふむ。ならまずは確認だ。死ねば喰われる『有効範囲』の(きわ)を確認した者はおるか?」

 

 大規模な反乱だったので、階層区画を問わず、あちこちで殺し合いが発生していた。

 彼自身は大将としてこの大聖堂での迎撃に終始していたが、他4人は遊撃として各地を飛び回っていた。なので知るべきは過不足なく知れた。

 

 各々の証言をもとに仮定し、祭儀用の家畜を用いて実験を繰り返した結果……この地下本拠地の全てが『有効範囲』だと判明した。

 

「つまりだ諸君。最も上のA層にでも引き込めば、あとは殺るだけで事足りるというわけだ」

 

 では何を狙うべきか。

 何をさらい、何を捧げれば、かの遺物は目覚めるのか。

 思い当たるフシは、ひとつしかなかった。

 答えは既に、かの魔王(ゲオルギウス)たちが示した後だった。

 

「彼奴等は失敗した。我らは、どうであろうな?」

 

 外法の徒たる彼らにとってその甘美なる響きには、抗い難い、どうしようもない(つや)があった。

 

 

 ――神殺し。

 

 

「し、しかし、居所がわかりません。もう夜は明けた。決着はついたとみるべきでしょう。我らは出遅れた。いや、参戦すらできなかった」

「案ずるな。夜明けの少し前、魔女の巫女へ植えた『草』から連絡があった。同志マリアンジェラと共に確保に移ると。回収地点は『青の6』で発信するので迎えに来てくれとも」

 

 探知に長けたひとりがすぐさま『青の6』の所在地を探るが、先んじて彼が告げる。

 

「発信があったのはついさっきだ。なぜか一箇所でじっとしている。当然追撃はあるだろうに移動する様子がない。何かトラブルでもあったのか、はたまた篭城でもしているのか」

 

 千載一遇。

 しかし目標は死地の只中。

 この場にいる全員がその理解に至ったのを見た彼は、よく通る声で号令をかけた。

 

「行くぞ諸君。ただし慌てるな。準備は万端に、出し惜しみはなしだ。あるだけ使え。持ち主のいなくなった秘法はごまんとある。湯水のように使い捨て、そして我らは成し遂げる。さあ動け。持てるだけ持て。掴めるだけ掴め。両手一杯に切札抱えて突撃するぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

「あー、こりゃ見事にやられちまってるね」

 

 旧市街の中でもさらに奥まった住宅密集地。

 無駄に背の高い掘っ立て小屋もどきが軒を連ね、連結され、どうしてそうなったのか上方では無数の橋が行き交ったりしている為、狭い空はさらに切り分けられ、昼間でも妙に薄暗いどこにでもある陰気な路地裏。

 そこに転がる、首が異常なまでに捻れた裏切り者の死体。

 

 ひとつは彼女、もうひとつはリリカと馬鹿で調べる。

 

「ノドもとにある痕からして、細いヒモ……いや、頑丈な糸ってところか」

「なんというか、一切ためらいがないよねーこれ。最初からこうするつもりでしたってのがみえみえ。こいつら、仲間じゃなくて捨て駒だったんだね」

 

 ならばずっと娼館(ウチ)に居た方が、まだマシな人生を送れただろうに。

 ついそんなことを考えてしまう彼女の視線は、自然と馬鹿へと向いてしまう。

 

「なんだよお(ばあ)。いくらあたしでも、死んじまったヤツは治せないって」

 

 そう、死ねばお終い。もうそれまで。

 だというのにこの馬鹿は、彼女や周りの制止を一切聞かず、毒の釜の底へと飛び込んだ。

 

「違うよヨランダ。ばあちゃんはね、おまえが死体からサイフをくすねないか警戒してるんだよ」

「するかアホ。ガキの頃の話をいつまで引きずってんだよ。つうかこいつらロクなもん持ってないし」

「いやもうすでに手に取ってるじゃん。早業すぎて正直ひくわー」

「は? 裏切り者の情報集める為に持ち物チェックすんのは普通だろ。あたしがいつポッケにインした? ええ? リリ、いってみろよおい」

「ねえばあちゃん、このメイド服着たちんぴら何? さっきから妙になれなれしいんだけど、知ってる子?」

「……さあね。昔ウチを飛び出した馬鹿によく似ちゃあいるが、身の程を知らないあの馬鹿は魔女の館で怖い魔女に嬲り殺されただろうからねえ。成仏できない悪霊とか、そのへんじゃあないかね」

「なんだお婆、ボケてんのか? おっ死んだのはあたしじゃなくて糞の塊(ローゼガルド)の方だ。こっちじゃまだ知られてないのか?」

 

 そういった情報共有をすっ飛ばして『とにかく追え!』と尻を叩いたのはこの馬鹿だ。

 

 足を負傷した裏切り者はあっさりと自害した。

 手がかりは途切れ、時間はこちらの敵。経てば経つほど向こうは遠ざかる。

 ならば1秒でも早く動き出せと、ぐうの音も出ない正論に押し切られた。

 なんとか道すがら聞けたのは、あの御方の名前と可愛そうなお飾り(ヒルデガルド)の姉妹という立場を手に入れたらしい、ということぐらいだ。

 

 そう。1番大事な『これ』の確認が、まだだった。

 

「……本当にあの魔女は、死んだのか? おまえはその目で(しか)と見たのかい?」

「死ぬより酷い目に遭うのは見た。そんで無防備になったところを、最後は親衛隊か使用人の誰かに『そうとは知らずに』トドメを刺されて終わったよ」

「あの化物を相手に、どうやって?」

「……いえない。アマリリス様の手札を勝手にさらすような真似は、しない。たとえお婆が相手でもだ」

 

 内心彼女は破顔する。

 劣悪な環境に居たからといって、根腐れを起こしてはいないらしい。

 

「随分と入れ込んでるじゃないか」

「……助けられたんだ」

 

 気まずそうに、だが黙っているという選択肢は決して取らないこの馬鹿の心根が、昔から彼女は嫌いではない。

 

「へーそうなんだ? どんな風に?」

最低の糞(ローゼガルド)がおっ死ぬ瞬間、特大の悪あがきをしやがったんだ。全部なにもかも台無しにして、ありったけを道連れにしようとする最低にはた迷惑な自爆。あたしはヘマをやらかして逃げ遅れた。どう考えても死んでた。今夜初めて会ったヤツなんか助ける理由はなかった。そのまま行ってれば無傷でさっと逃げ切れてた。けど助けられた。あたしを庇ってアマリリス様はあのくそやべえ泥をじゃぶじゃぶ浴びちまって、なんで死んでないのか不思議なくらいで、だからあ」

「長いってもう。よーするにさ、今かみさ――アマリリスさまが『ああなってる』のは、ヨランダのせいってことだよね?」

「そうだ。だからあたしは先頭で走って、最初に突っ込む死番をやってんだよ」

 

 いい終わる前にヨランダは次の予想ポイントへ駆け出し、彼女が指示するまでもなくリリカが後を追った。

 

「オーナー。わたしたちは追わなくても?」

 ヨランダに『治された』マリエッタが彼女を見る。

「必要ない。ああもやる気なら、むしろ数が武器ではなく枷になりかねない。こっちは反対側に回るよ」

 

 逃走した方向。子供サイズとはいえ1人を抱えての移動。馬車や車が通れる道幅はない。徒歩(かち)である以上、重りを担いで動ける距離には限度がある。目撃者という致命傷を避けるルート選択。潜伏や休憩の条件。

 それらを考慮すれば、当たるべき場所の目星はついた。

 

 ただこの旧市街、かつて栄華を極めた旧王国時代の置き土産だけあって、その総面積は広大の一言に尽きた。

 それが平面なら――1階層だけならまだしも、後の勝手な増改築により2層3層、所によっては4階層まであったりするものだから、いくら範囲が絞られていても結局は総当りの虱潰しとなってしまう。

 

 上って覗いてハズレ。飛び越え開いてハズレ。

 たまに襲いかかってくる阿呆をぶちのめし、命の代価に情報を吐き出させ、さらに範囲を絞る。

 

「オーナー。ずっと聞きそびれていたのですが、あの黒い被り物の中から出てきた彼女は、どこの誰なんです? いえ、会話からオーナーの身内だと察しはつくのですが」

 

 6つ目のドアとも呼べない木の板を蹴り破ったところで、マリエッタが訊いた。

 

「そういや、おまえが来た頃にはもうあの馬鹿は居なかったね。ちょうど入れ違いの時期だったか」

「ええ。わたしは知りませんわ。ただ、あの裏切り者に打たれた薬物による麻痺を一瞬で治せて、さらにはあの給仕服。おそらく彼女は『魔女の館』に詰めるエリートですよね?」

「……そんな大したもんじゃないよ。ただ適正値が高かっただけのじゃじゃ馬さ」

「もしかして、オーナーのお孫さん?」

「まさか。まだあれが幼い頃に、縁のあった旧知から頼まれたのさ。今際(いまわ)(きわ)の頼みとあっちゃ、どうしても断りきれなくてね」

 

 あれの祖母を名乗れるのはこの世でただひとり。

 彼女と良く似た星の下に生まれ、しかし全く違う道を歩んだ、幸薄き隣人。

 

「そんな彼女が魔女の館へ行ったということは……間諜ですか?」

「生きて帰る見込みがないのはスパイじゃなくて生贄だよ」

「ああ、勝手に行ったのですね」

「そうさ。勝手に志願書出して、勝手に適正検査受けて、勝手に殺されに行ったんだよ」

 

 たぶん本人はよかれと思って。

 彼女やその身内のプラスになると信じて。

 あの魔女相手に、あり得ない楽観にまみれて。

 

「ですがいま彼女――ヨランダさんが築き上げた人脈が、オーナーの力になろうとしていますわ」

「順当に行けば嬲り殺されてたさ。それこそ、神様でも降ってこない限りはね」

 

 どうしてまだ何もしていないのに、言葉すら交わしていないのに、恩だけが積み重なってゆくのか。

 

「わたし、右」

 

 何の前触れもなく唐突に、マリエッタが短く言葉を切った。

 

 同時に彼女は、左側の対応を終えていた。

 短刀を突き出そうとする手首の腱に一突き。

 がら空きの胴にもう一突き。

 最小限の動きで済ませる。

 いくつかある主要臓器のひとつでも不全にすれば、生き物は死ぬ。

 派手に吹き飛ばしたり、ぶった切ったり、カチ割ったりといった伊達は、もう彼女には必要ない。

 彼女は、かつての失敗から何も学べない間抜けでは、断じてない。

 

「あー、こいつら、どっかで見た気がするんだが……マリ、わかるか?」

 こちらも問題なく済ませたマリエッタが、得物の血を振り払いながら、

「少し前に例の『秘薬』の利権に手を伸ばした連中の下っ端、ですね」

「ああ、それでいきなり殺しに来たのか。こんな時に、紛らわしい奴らだねえ」

 

 追い詰められた犯人が飛び掛って来たのかと期待したが、どうやらハズレだったようだ。

 

「……相変わらず、美しいわ。血の一滴も出ず、これといった外傷もなし。わたしにもオーナーのそれ、できるかしら?」

「もうおまえは殺し屋じゃあないんだ。百を前提にした技なんぞ、学んでどうする?」

「うーん、いりませんわねぇ」

「いらないよ。んなもん習うヒマがあるなら、銭勘定でも覚えて私に楽させな」

 

 そうしてひとつひとつ虱を潰しつつしばらく進むと、別班の4人組みと鉢合わせた。

 向こうがいうには、ここまでに異常はなしと。つまりこちら側に『当たり』はなかった。

 ならば残る可能性は。

 

「リリカは問題ないとして、あのヨランダさんは大丈夫なのでしょうか?」

「一応はエリート様らしいから、まあそこいらのちんぴらにやられはしないさ」

 

 実のところ、さほど心配はしていない。

 こっそりと入手した資料には侵蝕深度(フェーズ)4と記載されていたが、久しぶりに再会したヨランダはそれどころではなかった。

 彼女とリリカが、被り物を取って顔を見るまでわからなかった。

 彼女とリリカが、こっちが神様だと確信する次元の『濃さ』だった。

 むせ返るような、無限に湧き出すかのような、異質な密度の塊。

 手触りは良いが、あまりにも膨大すぎて吐き気すら催す破格の命。

 

「ただあの馬鹿は、勢いはあるけどケンカ自体はあまり強くないのがねぇ。まあそれでも『特別行動隊』や『闇の薔薇』みたいな、その道の専門家や本気の外道とカチ合わない限り、なんとでもなるさ」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7 故に貴方はこう呼ばれる

区切りのいい所まで、と思ってたらかなり長くなりました。
適度に休憩を挟むか、まとまった時間があるときにどうぞ。


 

 

 どうしよう、と困った時にはまずどうするべきか。

 どこかの偉い誰かがいってた。ひとまず周りを見渡してみろと。

 

 もしかしたら助けてくれる誰かが居るかもしれないし、なにか使える物があるかもしれない。

 

 なので視線を巡らせる。

 

 相変わらず、あちこち風化してずたぼろなあばら家。

 民家にしては広すぎる気もするが、内装やインテリアの類は軒並み朽ち果てているので、もはやその在りし日の姿を想像するのは難しい。

 ただよく見るとひとつだけ、かろうじて原形を留めている『それ』が最奥の上方――全てを見下ろす高みに、ででんと掲げれらていた。

 どこかで見たことのある、なんだか宗教色が強そうなシンボルだ。

 

 なるほど、無駄に広く高い天井に、このいかにもなシンボル。もしかしたらこの建物は、かつては何らかの宗教施設だったのかもしれない。

 今はごみやガラクタや肉々しいなにかが散乱しているが、実はそれなりの人数を収容できそうなゆったりスペースは集会場も兼ねていた頃の名残か。一段上がった最奥には演説台などが置かれていても不思議ではない。

 

 そう考えると、そこかしこにある穴や隙間から差し込む朝日が幾重にも交わるこの光景も、どこか神聖な雰囲気を醸し――はちょっとムリがあるか。やっぱボロボロの掘っ立て小屋って印象しかないわ。つうか床に『元』マリアンジェラが散らばってる時点で神聖とかいう単語は息をしてない。ただただ血生臭い。

 

 そんな殺伐とした空間に相応しい、今にも殺し合いを始めそうなガチ切れ勢が、す、と身体の向きを変えた。

 敵に対し頑丈な肩を向けつつ『当たる面積』を減らし、なおかつ急所を隠す半身の姿勢。

 うん、殺る気満々って感じ。

 

 新たに現れた4人目に対し、もう言葉を発するつもりのない即殺ガチ切れ勢――マナナだ。

 

 その隣に居るノエミは無表情。一目で怒っているのがわかるマナナとは違い、何の感情も浮かべてはいない。

 

 そしておれのすぐ隣に腰掛けている、くすんだ金髪のくせっ毛ショートヘアが素敵な彼女がグリゼルダ。

 マナナとノエミの仲間を殺害したらしい危険人物。

 

 そんなクソやべえ彼女は、ついさっき突然、なにもない場所にぽんと現れたように見えたが……実はさっきのあれ、おれには見覚えがあった。

 いや、見覚えというか手触りというか空気感というかにおいというか、そんな曖昧な感覚としかいいようがないのだが、こうも間近でやられると嫌でもわかった。

 

 念の為もう1度、まじまじと『これ』を確認する。

 

 この独特のすかすか感。

 

 うん、間違いない。やっぱ今おれの隣にいるこれ、影分身(子機)だわ。

 おれが(夜限定で)使える魔法っぽいあれと、たぶん同じやつ。

 さっきまでステルス状態だったそれが急に解除されて露見しちゃった、というのが現状だと思う。

 

 これってワリとメジャーな技術なの? なんで急にステルスがオフになったの? とか色々と疑問はあるが今問題なのは……見えない複数攻撃(ステルス影分身)を駆使できる相手に、手負いの2人じゃ勝ち目なんてないよなあという現実だ。当然おれは戦力外な。

 

 そもそもこの影分身、ワリとはちゃめちゃな性能だったりする。

 おれが把握しているだけでも、本人と五感共有な同スペックの子機を出せて、しかも出した子機は完全ステルスな上に消音性もばっちり。ちゃんと相手にも触れるから攻撃も可。おれの場合は製本魔法(物理)もいけた。さらに任意のタイミングで消せて、出し入れにデメリットはなし。ガチな戦闘員が使えば本体と同時攻撃とか自傷覚悟の特攻戦法とかもできそうで、その可能性はまさに無限大。なんなら3、4と数を増やせるパターンすらあり得る。

 

 いやいや、元気一杯でそんなもんフル活用してくる相手に勝てるわけないだろ。

 こっちは激しい運動がムリな怪我人2人に、お荷物1個の(おれという)おまけ(ハンデ)付だぞ?

 

 どう考えても、やりあうわけにはいかない。やりあったら負けだ。

 

 幸いにも、芽はある。

 

 よし、ならまずは先手を打つ。

 なにかいう前に『とりあえずやっちまえ』をされると、そこで終わる。

 だからこれは必須。

 

 あの地下で、ヒルデガルドには影分身(おれ)が見えてた。じゃあ同じく闇を十全に使えるらしいおれにもきっと見える筈。

 

 意識を凝らして眼を凝らして、すぐ隣にいるグリゼルダの影分身(子機)から流れを辿れば――ほらいたはいそこ!

 

 少し離れた場所にある廃材の小山。それを盾にするようにして、隙間からこちらを窺うグリゼルダ本人へ。

 

 ばっちり眼を合わせて、朗らかに声をかける。

 

 

「初めましてグリゼルダ。こっちの自己紹介は――まあ聞いてただろうから、必要ないよな」

 

 

 グリゼルダ本人がびくっと飛び上がると同時に、おれの隣にいた影分身(子機)が消えた。

 動揺すれば維持できなくなるのか、あるいは武器は収めたぞというアピールか。

 まあなんにせよ、 

 

「なにか話があるんだろ? 聞くよ」

 

 そう、グリゼルダには、こちらを殺す以外の目的がある筈だった。

 じゃなきゃ、さくっと不意打ちからの皆殺しでとっくに終わってる。

 誰も気づいてなかった。なんならマリアンジェラとドタバタしてる間なんか絶好の仕掛け時だった。

 けどそれをしなかった時点で、グリゼルダとは対話の余地がある。

 ……あったらいいな。

 ガチなサイコとかじゃなければいいな。

 

 皆の視線が集まるなか、グリゼルダが口を開く。

 

 

「あ、え、とその……マリアンジェラが死んだのなら、もう用事はない、です」

 

 

 あ、やべこれ。用があったのはマリアンジェラだったパターンだ。

 

「……ホントに?」

「は、はい。だから、このままみんながどこかに行くまで、じっとしていようと」

 

 あ、やべこれ。

 おれが変に発見しなきゃ、そのまま何事もなく行けてたパターンだ。

 ――押し通れ!

 

「そっか。じゃ、わたしたちは行くよ。邪魔して悪かったね」

 

 それだけいって、颯爽と去って行く。

 マナナとノエミに『行こう』とハンドサインを送る。

 伝われ、この思い。

 やりあったら負けな現状は、おれよりも2人の方がわかっている筈。

 だからきっと、このまますっと、

 

 

「グリゼルダ。どうして、バンビを殺した?」

 

 

 行けないかー!

 やっぱそうなるかー!

 

 マナナがグリゼルダを問い詰めていた。

 

「あ、謝らないよ。ボクには、ぜ絶対に、必要なことだった」

「はっきり言えよ。お前そんなボソボソ喋る奴じゃなかっただろうが」

「これが、そのままの、ボクだよ」

「……『ママ』が死んだから、もうテキトーでいいやってか?」

「ボクのママは魔女(ローゼガルド)さまじゃなくて、小太りでパンを焼くのが上手な、普通の、どこにでもいる、優しいひとだったんだよ」

「は? なにいってんのおまえ?」

 

 いやマナナさ、なんでそんな強気なんだよ。もしかして、影分身のやばさを知らないのか?

 

 そっとノエミを見る。

 グリゼルダが現れてからこっち、ずっと無表情だった彼女は……なんともいえない顔をしていた。

 こちらに気付いたノエミが、折れた肋骨を押さえて、そっと首を横に振る。

 

 ダメ。

 勝てない。

 殺し合いになったら、こっちが全滅する。

 

 やっぱりちゃんと理解している。

 同じ特別行動隊のメンバーである2人は、正しくグリゼルダのやばさを知っている。

 

 だったらたぶん今のマナナは……ただただ頭に血が上っているだけ。

 本当にそれだけで、他にはなにもないのだ。

 

 

「ワケわかんないこと言ってんなよ、ふざけてんのかおまえ」

「ふ、ふざけてなんかない! とっても、とっても大切なことだったんだ!」

 

 

 強い言葉でがしがし行くマナナ。徐々にヒートアップしていくグリゼルダ。

 まずい。この展開はまずい。

 慌てておれは口を挟む。

 

「落ち着いてマナナ。順番を間違っちゃダメだ」

「グリゼルダ。バンビは最後、どんな顔してた?」

 

 聞く耳持たず。無視。

 

 いやマナナお前、ダメだろ、それ。

 危険なヤツに後先考えずに突っ掛かって行くのはもちろんダメだが、それよりもっと引っかかるのは、

 

 なんつーか、勝手におれの命まで、賭け皿に載せるなよ。しかも負け確のやつに。

 

 向こうは行って良いといってる。

 罠はないだろう。

 今さらそんなことをする理由がない。ここまでに殺るタイミングはいくらでもあった。

 だからこれは、本当に言葉通りそのまま行けるやつだ。

 

 なのに、なんでそれを勝手に、お前の一存で、全滅ルートに舵切ってんだよ。

 

 正直、ちょっと頭にきた。

 

 未来の仕事仲間ではあるが、まだ私的な情はないのだ。

 それを『良し』とできるだけの関係値は、まだ皆無なのだ。

 

 

「なあグリゼルダ。バンビって娘は、君に何か酷い事でもしたのか?」

 

 

 だからこっちも、マナナに対する配慮は止めた。

 仲間を殺した相手だから譲ってやろうとか、1歩引いて任せてみようとか、そういった類の気遣い。

 それに自分の命を賭けてまで――いや、勝手に『使われる』のを許容してまで付き合ってやるつもりはない。

 

 舐めるな。

 おれの命は、おれのものだ。

 勝手に使われて、堪るかよ。

 

「……あ、えと、その。は、はい」

「慌てなくていい。どんな話でどんな内容でも、わたしはちゃんと聞くよ。決め付けたり最初から否定したりはしない。だからゆっくりと、うまくいえなくてもいいから、君の言葉で聞かせてくれ」

「アマリリスさま、なにいってんすか? こいつはバン」

「マナナ。君とは、A&Jとは上手くやっていきたいと思ってる。これは本心だ。けどなマナナ、わたしの命は、わたしのものだ。これを勝手に使おうとする者を、わたしは、決して、許さない。1人目は魔王(ゲオルギウス)。2人目は魔女(ローゼガルド)。マナナ、君は3人目ではないと、わたしは信じている」

 

 できるだけ強い言葉でこれ以上侮られないよう、かつこちらの意思を、怒りを不快感を過不足なく伝える。

 ここは外国――どころじゃない、ガチの別世界だ。

 抑えて溜め込んで、ちょっとすれば向こうも冷静になって、なんやかんやで上手いこといく古流日本式は単なる餌でしかないだろう。

 

 ちょっとだけ開いた記憶の扉の向こうでも、国外のやつに『簡単に言うこと聞くちょろい腰抜け』と侮られたリカバーに苦心していた誰かの思い出があった。

 

 ここまででわかった。

 闇精霊は人間とほぼ同じ。

 人間は最高に格好をつけた『動物』の一種。

 その事実を忘れてはいけない。

 

 なので、ここでマナナがぶち切れて、勢いのままおれをぶん殴る可能性も普通にある。そうなるとたぶん死ぬ。どう考えてもこの細い首は戦闘要員のガチな一撃には耐えられない。

 

 ちらりと、この場で唯一助けてくれそうなノエミの様子を窺うが……一目でわかるレベルで狼狽えていた。うん、期待はできない。

 

 できるだけゆっくりと呼吸をして、マナナの反応を待つ。

 

 無言。

 

 よし。

 反論や攻撃が来ない時点で、とりあえずは通った。

 

 なら押せ。

 目的地まで、押し通せ。

 

「グリゼルダ。君がバンビを殺した理由を教えてくれ。わたしはそれが、とても気になっているんだ」

 

 本音をいえば、どうでもいい。

 正直なところ、このままダッシュで外へ出てそのまま逃げたい。

 だがきっとおれひとりでは、そんなことをしても消極的な自殺にしかならない。いやなんだよ争奪戦て。

 

 つまり護衛が必須のおれは、誰かと一緒でなければここから出られないのだ。

 

「あ、うん。……じゃなくてはい。けどその、こんな話、しんじられないと」

「それはわたしが決めるよ。グリゼルダはただ、事実を正直に話してくれればそれでいい」

「は、はい。えっとバンビは、魔女(ローゼガルド)さまの実験に協力してて、されるのはボクで、もう何年も前から、ボクが隊に入るちょっと前からそれは続いてて」

 

 グリゼルダの語る言葉はたどたどしい。

 なので程々に合いの手を挟んでテンポアップ。

 

「それはどんな実験?」

「べつの自分をつくる実験、です。余計なことはいわなくて、なんでもいうこと聞く、そんなの、です」

 

 このやり取りの目的は2つ。

 マナナのクールダウンと、グリゼルダとの手打ち。

 

 勝算は十二分にある。

 

 絶対に勝てるマナナにケンカ腰で突っ掛かられても手を出さなかったグリゼルダ。

 きっと『ムカついたから殺しました』が、するりと()()()()()()この場においてもそれをしなかったグリゼルダ。

 最初の言葉が「謝らないよ」だったグリゼルダ。

 

 

 いやこいつ、ちゃんと話せば、なんとかなるやつだろ。

 

 

「べつの自分か。具体的には、どんな?」

「えっと、いつも『処置』が済むと、頭がぼんやり温かくて陽気になって、ママがママじゃなくて魔女(ローゼガルド)さまになってて、気がついたら1ヶ月とか経ってて、けどよくわからない記憶みたいなのがあって」

 

 怖っ。

 それ、ブレインがウォッシュされてね?

 いや、ローゼガルド主導なら闇技術によるなんかやべえ操作か?

 

「それにバンビがどうかかわってた?」

「いつも『処置』をするのはマリアンジェラの研究室で、バンビも一緒で、現場での命令権をもってたのが、バンビとマリアンジェラ、です」

 

 あ、この流れからして、ことの発端って。

 

「もしかして、昨夜ローゼガルドが死んだのを境に、急に意識がはっきりしたとか?」

「は、はい。それで、逃げるなら今しかないって、けどバンビに『待て』っていわれたら、身体がちっとも動かなくなって、けど『殺すな』っていわれなかったから、がんばってやって」

 

 あ、そこはばっちり殺るのね。

 まあローゼガルド傘下の特別行動隊で今日までやって来たガチ勢だもんな。

 そりゃ、そうなるか。

 

「それで、命令権を持つもうひとり――マリアンジェラを殺して自由になる為に、ここへ来たと」

「そ、そそうです。えっと……こんな話、信じて、くれるんですか?」

「嘘なの?」

「本当です。う、嘘じゃないです」

「待てよグリゼルダ。そんな話、聞いたことない。あのバンビがそんなこと、するわけないだろ」

「ノエミは? さっきから黙ってるけど、どうした?」

 

 望むオチへと持っていく為、ノエミを引き込む。

 マナナを害したマリアンジェラには真っ先に突っ込んで行ったノエミが、この件では妙に大人しい。

 マナナとバンビには大きな差があるのか、あるいは足が動かない理由でもあるのか。

 

「……あのね、たぶん、グリゼルダのいってることは本当だと思う。夜の見張りで一緒になった時に何回か、今みたいにどもってぼそぼそ喋るグリゼルダを見たことがあるの。そりゃーいつもあんな舞台役者みたいなハイテンションじゃおかしいからローな時もあるよね、って流そうとしてたけど……うん、やっぱ変。だからたぶん、今のは本当」

「ノエミだって知ってるだろ、バンビはそんなことするやつじゃないって」

「副隊長の仕事だって魔女(ローゼガルド)様に言われたら、どうしようもないんじゃないかな」

 

 ……ん? 副隊長?

 

「バンビって2人より結構年上だったの?」

 

 年功序列にこだわるのはナンセンスだが、まとめる役職は年長者の方がスムーズに事が運ぶ場面が多い。

 マリアンジェラみたいなタイプのやつがいるチームでは特にそうだ。

 

「ん? バンビは私と同じ年だよ?」

「じゃあ何か、凄い特技があったとか?」

「あったよ。バンビはね、他人の記憶を消せたんだよ」

 

 真っ黒じゃねーか!

 そんな特技持ってるやつが1枚噛んでる実験とか、絶対人格消去されてるだろ!

 

「いやそれ、やってるだろ、どう考えても」

「やってるよねえ。どう考えても」

 

 内容と口調と表情から確信する。

 ノエミはおれの案に乗ってきた。

 感情より、生きる方を取った。

 

 色々と思うところはあるだろうに……譲歩してくれた。

 

「だからって、殺していいとはならないだろ!」

「わたしなら殺すよ。頭の中を塗り変えられるのは、もうそれ、殺されるのと同義だ。しかも命令権まで向こうにあって逆らえないんだろ? ならやるよ。できるなら、やるよ」

 

 ノエミにだけ譲歩させる――諦めさせるのは一方的すぎるので、こちらもひとつ諦めることにした。

 マナナに好かれるのを、諦めた。

 誰かに嫌われるのは心苦しいが、自分の命とは比べ物にならない。

 

「自分がやることをグリゼルダには『するな』とは、とてもじゃないが、いえないよ」

 

 当のグリゼルダは、困惑したように各々の顔を見回すだけでなにもいわない。

 

 たぶんこいつは、暴力が好きではない。

 絶対に勝てる状況で誰にも咎められないのに、それでも手を出さない理由なんてそれぐらいしか思いつかない。

 

「なあ、グリゼルダ」

 

 だからたぶん、行ける。

 マナナを押し留める『対価』もある。

 

「君の」

 

 ぎい、と。

 ドアが開いた。

 

 誰もが目の前の問題に集中していた。

 誰も入り口に注意なんて払ってなかった。

 

 だからドアが開き、そいつが2歩3歩と入ってくるまで反応できなかった。

 

 もし仮に勢い良く飛び込んで来たのなら、咄嗟に身体が動いただろう。

 素早く動くものには、つい本能的に反射が出てしまう。

 だからそいつがドアを開き、ゆっくりと急ぐでもなく、ただ無造作に歩いて入って来たのには……どうしてか奇妙な間が生まれた。

 

 初めて見る男だった。

 

 少し身を屈めるようにしてドアを潜る長身で、しかし痩せているワケでもない。肩幅が相応にあり、ジャケットから覗く首はがっしりとしている。一目でわかるタフガイだ。

 黒い長髪から覗く、男性ホルモンの蛇口がぶっ壊れているとしか思えない濃い顔は、好きな層からは超セクシーともてはやされること間違いなしのワールドワイド系な色男。

 

 もちろんおれは、こんなやつ知らない。

 だが、彼が誰なのかは一瞬でわかった。

 

 顔を知らないのであれば、判断材料となるのは後ひとつ。

 

 服だ。

 

 ヒルデガルドの親戚で、とあるヤクザ一家の直系か認められたごく一部の者だけしか着用を許されないという、ガラの悪い縞々の、今おれが着ているのとサイズ以外は全く同じやつ。

 

 それを着ている成人男性で、このタイミングで来る可能性があるのは。

 

 マナナが答えを叫ぶ。

 

「ミゲル様! そいつグリゼルダっ!」

 

 その男――ミゲルは無手だった。

 もしこれが武装でもしていたなら、反射的にグリゼルダは『敵』に対して攻撃を加えていたかもしれない。

 

 だが丸腰の『ただ怪しいだけの男』に対し、ほんの一瞬だけ挟まった空白にマナナの声が割り込んだ。

 

 それを聞いたミゲルは、場に居る一人ひとりの顔を順に確認し、最後にその視線をグリゼルダで止めてから、ゆっくりと後ろへ流すように自身の黒髪をかきあげた。

 

 そうして(うなじ)を通った手が肘を支点に半円を描きグリゼルダへと向けられるとそこには、ボルトがセットされたクロスボウが握られていた。

 

 

「会いたくなかったぜ、グリゼルダ。動くんじゃねえぞ」

 

 

 どんな手品かはわからない。

 だがそれでも、場は完全に制圧された。

 入り口方面――ミゲルの位置からは、廃材の小山に隠れるグリゼルダは丸見えだ。射線を遮る物は何もない。撃てば当たる。

 

 が、しかし。

 

 そこでグリゼルダは、廃材の小山を肘で小突いた。

 慌てて振り向いたから間違って当たってしまったようにも、意図して崩したようにも見えるなんともいえない動きだったが、とにかくグリゼルダが隠れていた廃材の小山はがらがらと崩れ落ちた。

 

 遮蔽物が減る分には構わないと思ったのかミゲルは撃たず、なにやらマナナに眼で合図を送っている。

 

 そうして何も遮る物がなくなり、改めてその全身を晒したグリゼルダの姿に……おれはどうしようもない違和感を覚えた。

 

 

 あ、やべこれ。

 

 

 気づくと同時に焦る。

 

 ついさっきまでそこに居たのは本人だった筈なのに、いつの間にか影分身(子機)がそこに立っていた。

 

 一見グリゼルダ本人にしか見えないが、この独特なすかすか感は誤魔化しようがない。

 ステルス影分身(子機)に色をつけるのは初心者のおれにもできた。

 なら当然、この道の先達であるグリゼルダにもできる。きっとおれよりも高いクオリティで。

 

 つまり、なんのラグもなしに、ほぼノータイムで本人と影分身(子機)が入れ代わっていた。

 

 

「よしいい子だグリゼルダ。そのまま両手を上げろ」

 

 

 たぶん、さっき廃材の小山を崩したのは目くらましだ。

 一瞬あるかないかの注意の隙間に差し込まれた本体と影分身(子機)のスイッチ。

 この距離で見ててちっとも気づけない、ガチで訓練したマジシャンレベルの超技術。

 

 とはいえ、おれと同じ仕様と仮定するなら、本体はステルス状態にはなれない筈。

 だからこうして意識を凝らして眼を凝らせば……やっぱり、グリゼルダ本人は崩れた廃材の中に埋もれるようにして隠れている真っ最中だった。

 

 ……意外と情けないイリュージョンだなおい。

 

 

「3度目はない。これがラストだグリゼルダ。両手を、上げるんだ」

 

 

 グリゼルダの色つき影分身(子機)が大人しく両手を上げる――と見せかけて、右手に隠し持っていた石をひゅっと投げた。

 あっち行けの手振りのように、手首のスナップだけで放り投げられた石は、色つき影分身(子機)の手を離れた瞬間に砕かれた。そのまま矢じりが指と指の隙間を通り背後へ消える。どご、っと壁に刺さる重い音。

 

 撃ったばかりなのに、なぜか既に次のボルトが装填されているクロスボウを軽く持ち上げミゲルが笑う。

 

「悪い。中指を撃ち抜くつもりだったのに狙いが逸れた。大丈夫、もうサイズは掴んだ。次はちゃんと当たる」

 

 格好いい。

 が、そのグリゼルダは影分身(にせもの)だ。

 身代わりに使うからには、おれとは違いダメージフィードバック率も調整できるのだろう。

 攻撃だけじゃなく防御にも使える。

 その方法論を既に確立しており、実戦で使用可能なレベルに鍛えてる。

 

 やっぱグリゼルダ(こいつ)やべえな。

 おれがいなきゃ、やりたい放題だったぞこれ。

 

 まあ『見える』おれがこの場にいたのが運の尽きだったな! と口を開こうとして……余計なことに気づく。

 それは本当に、本当に余計なことだった。

 

 思わず固まってしまったおれの目の前で、事態は進む。

 

 ミゲルに矢を向けられ棒立ちになっている色つき影分身(子機)から、ずるりと滑り落ちるようにまた新たな影分身(子機)が出てくる。

 

 

 2。

 

 

 そうしてまたそれぞれから、ずるりと滑り落ちるように新たな影分身(子機)が出てくる。

 

 

 4。

 

 

 え? 倍々で増えるの? 正直、その光景にびびってしまい、とくになにもできない内にまた繰り返される。

 

 

 8。

 

 

 最低に笑えないのは、これを、この危機的状況を、おれ以外の誰も認識できていないという事実だ。

 あのローゼガルドでもおれの影分身(子機)は認識できていなかった。

 だからたぶん、王の血統とかいうミゲルにもムリだろう。

 いや、そもそも、なぜか見えてたヒルデガルド(姉さま)が特別おかしいと思うべきか。

 などと考えている内に、また繰り返される。ずるりと、ずるずるりと。ずるずるずるりと。

 

 

 16。

 

 

 この数に一斉に殴られると――ひとりに対しては1度に4、5人が限度だろうが――それだけで、もう勝負はついてしまう。

 いいや、そこまでする必要もない。せーので頭部に前後から同時に衝撃を加えるだけでどんな惨状になるか、ちょっと考えるだけでも嫌になる。それを支える細く脆い首とか、もっと簡単に嫌で嫌でしょうがないことになってしまう。

 

 さらに笑えないことに、数名の影分身(子機)はその手に闇製の短刀を握り締めていた。

 皆の視線は、宙に浮く武器を捉えてはいない。

 どうやら、あの武器まで含めて影分身(子機)という扱いらしい。

 

 いやいや。

 だめだろこいつ。

 武装も可能とか、まじでどうしろってんだよ。

 

 

 そこで不意に、グリゼルダの色つき影分身(子機)が両手を上げた。

 

 

「よし上出来だグリゼルダ。いいチョイスだ。そうすりゃお前さんは撃たれないし俺も撃たずに済む。みんなハッピーでいいことずくめだ。そうだろ?」

 

 むかつくスマイルを浮かべたミゲルが状況のコントロールを始める。

 同時にステルス影分身(子機)たちがミゲルを取り囲むよう位置取りを始める。

 

 攻撃を受けたグリゼルダが、ここで初めて『敵』に対する対応を開始した。

 それは実力行使(暴力)だけではなく、

 

 

「うーん、そうかなあ? 本当にそうかなあ?」

 

 

 影分身(子機)が喋った。

 かなり本気でびっくりした。

 おれにはない発想で、おれの遥か上を行く、未知の技術。

 あれで喋るとか、顔の筋肉口の動き声の問題、クリアすべき課題が多すぎる。

 

 

「ねえミゲル、みんなハッピーでいいことずくめはちょっとムリじゃないかな? だってさあ!」

 

 

 影分身(子機)で喋り出してからは、口調ははっきりと、表情は舞台役者のように大仰になった。 

 

 タネを知っている身からすれば、影分身(子機)では小声や細やかな表情などを再現するのは難しいのだろうな、という技術的要素が垣間見えた。

 

 大袈裟な表情と大声しか表現できない技術の限界を、劇場型のハイテンションな奴という『キャラ』を混ぜることによって誤認させる、足し算と引き算の結晶。

 

 なにも知らない者からすれば、まるで急に人が変わったかのような違和感となる、クオリティの限界を誤魔化す『おかしさ』のすりかえ。

 

 そんな小技にさらなる小技を寄り合わせた、暴力以外の攻撃が振り下ろされる。

 

 

「もうとっくにマナナにはバレちゃってるよ。A&Jが、おまえが、秘密を洩らせば弾け飛ぶ爆弾をこっそり仕込んでたって! けどそれさ、ついさっき解除されちゃったんだ。だからもうマナナは何にも縛られていない! だから聞いたよ凄いね驚いた! 王族の血縁なんだって?」

 

 

 よく通る大声で煽るように、決して無視できない内容を。

 

 反射的に口を開こうとしたマナナの肩に、音もなく黒い鷹が停まる。

 視線を受けたノエミは、唇の前にぴんと立てた人差し指を添えた。

 黙ってろ。

 

「都合が悪くなりゃぶっ殺します! こっそりと内緒でね!? 同じことをしてくたばった魔女さまの次は、誰かな? きみかな? おまえかな? ミゲルかな? おい、もう片方の手をマナナに向けなよ色男。どうせもう一個出せるんだろそれ。今マナナは、心底ナメた真似をしてくれたおまえをぶっ殺したくてウズウズしてるんだよ? だってそうだろ? 黙ってこっそり殺そうとしたヤツを、わざわざ生かしておくような間抜けが特別行動隊にいると思うか? 教えてやる。いないよ!」

 

 テンションは爆発しているが、語る内容は的確。

 影分身の制限(タネ)を知っている身からすると、よくできた台詞回しだった。

 

「だからねミゲル。今ボクに向けてるその矢も、もうちょっと右に狙いをつけるべきだ。そう、もうちょっとだけ右手の、ノエミとボクの中間あたりだ。どっちもすぐさま撃てるようにしなきゃ危険だ。おまえ知らないだろ? ノエミはね、マナナを傷つけるヤツを絶対に許さないんだ。黙って爆弾植え付けて仲間面するヤツとか、きっとマリアンジェラコースだよ。あ、紹介が遅れたね。そこらに散らばってるのが、さっきマナナを殺ろうとしてノエミにぶっ殺されたマリアンジェラだよ」

 

 実物も絡めて説得力アップ。

 小技のおかわり。手は緩めない。

 

 ただ、まだ成果はなかった。

 全部事実で嘘はひとつもないのだが、それでもまだ、決定的に『割れて』はいなかった。

 

 なぜなら、ミゲルが動いていないから。

 微塵も動揺したような素振りはなく、ただじっとグリゼルダに狙いを定めたままだった。

 

「なるほど、ずっと気になってたんだ。そこで寝てる美人は誰なんだろうって」

 いやもうマリアンジェラ、腰から下しかないだろ。

「そんな顔するなよグリゼルダ。美人は尻まで美人なんだぜ? 嘘じゃない、本当さ」

 

 こいつ凄いな。

 結構ガチで追い詰められているのに、ちっともびびってない。

 

 マナナとノエミ。

 こいつの振る舞い次第で2人は敵になる。

 

 グリゼルダの演説中に『ちょっとムカついたけど金の為にA&Jでやって行くことに決めました』と割り込もうとしたマナナをノエミは止めた。

 事前に相談し出していた結論を、ミゲルに伝えなかった。

 

 たぶん、見たかったからだ。

 

 爆弾の件がバレていると知ったミゲルが、どういった反応をするのか。

 最悪の場合グリゼルダが勝手に殺ってくれる……なんなら加勢して『3対1』にもなれる、この圧倒的に優位な状況で。

 いまいち信用ならない新たなボスの地金を、見ておきたかったのだ。

 

 ――もし逃げるってなったら、アマリリスさま、見逃してくれる?

 ――いいよ。

 

 おれが味方だという確認はもう済んでる。

 邪魔が入る心配はない。

 

 

 つまりはこのフェロモン系の色男、めっちゃ格好良く出てきたけど、登場から5分ぐらいでいきなり死にそうになってる。

 

 

「それで? なんかマナナたちに弁明とかないの? このままじゃおまえ、袋叩きで死んじゃうよ?」

 

 小馬鹿にしたようにグルゼルダが煽る。

 ステルス影分身(子機)たちは、すでにミゲルの包囲を完了していた。

 

 ひとつのことで派手に注意をひいて、本命はこっそりひっそり裏で進める。

 なんというか、こいつ(グリゼルダ)の手法って、基本マジシャンの手口だよな。

 

 

「……あのなあグリゼルダ」

 

 

 そこでようやくミゲルが、溜息混じりに口を開いた。

 

「そもそもお前さ、特別行動隊――魔女の犬が、どれだけ周りからビビられてんのか知ってるか? 一部のおっさん連中とか、名前聞いただけで拒絶反応全開でわめき散らして話しにならねーんだぜ?」

 

「だからこっそり爆弾仕込むぐらい当然だって?」

「順序が逆だよグリゼルダ。お前さんたち特別行動隊には最初から爆弾が『仕込まれて』いた。たしか行方不明から10日だったか? こっちはそんな規則知らなかったからな。いつ爆発するかわからないやべえ爆弾に気づいたうちの腕利き(クソ野郎)は、解除が不可能と悟ると、一か八か、いつものお試し期間(トライアル)用のやつで上書きを試みた。本人の自覚がトリガーってパターンはよく知ってるからな。当然、こっそり内緒でだ。そうしたら上手くいった。笑えるだろ? とくに根拠のなかった思い付きが、たまたま上手くいったんだぜ?」

 

「助けてやった、とかいいたいワケ?」

「まさか。そこまで面の皮は厚くないさ。ただそうしなきゃ、10日後にはマナナは弾け飛んでた。実際こっちに選択肢はなかったってのはちゃんといっておきたい」

 

「上書きできたなら、当然解除もできただろ? 結局そのまま使ってるじゃないか。何も変わらないよ」

「だから最初に聞いたんだ。グリゼルダお前さ、特別行動隊がどれだけ周りからビビられてるのか知らないだろ? ウチの経営陣が全会一致で解除を反対するぐらいには、心底怯えられてるんだぜ? ただこれは時間がなかったってのもある。もしちゃんと面通しする時間さえあれば、たぶん普通に解除されてた。ここまでマナナと一緒にやって来た俺がいうんだ、間違いない」

 

 いってミゲルはマナナに向けばちこん! と音が出そうなウインクをかました。

 ……なんか一周回って、ちょっとこいつのことが好きになってきた。

 

「じゃあミゲル様、最初に事務所で会った時にはもう知ってたんすか?」

「おばちゃんは本当に何も知らなかったさ」

 

 マナナの口調に棘はない。

 ……なんでやくざの事務所におばちゃんが?

 

「あのさミゲル。どんなにキレイな理屈こねてもさ、黙ってこっそりぶっ殺そうとした事実は変わらないよね? その一点だけで、信頼とか信用とか全部台無しだとは思わない?」

 

「そりゃ言いすぎだぜグリゼルダ。秘密を洩らさなきゃ、死んだりはしない。これは裏切りに対する返礼だ。それも入社の時に『裏切り者には死を』の掟の説明とかがあった筈だが……たぶん、そういうことを言ってるんじゃないよな。A&J(ウチ)はぶっちゃけやくざ組織だから、口だけじゃなくてそりゃ本当にするだろ……って話でもないのか。まいったな、思ってたよりずっとピュアなやつが来やがったな」

 

 そこで初めてミゲルは困ったような顔をつくり、

 

「うーん。そこに関しちゃ、もうA&J(ウチ)はそういう組織だと思ってもらうしかないな。やると決めたらやる。善意や幸運を前提には動かない。実際、俺にだって『爆弾』は仕込まれてるしな」

 

 え? まじで?

 

「……そんなわけないだろ? 見え透いた嘘を」

「いやいやグリゼルダ。俺が組織にとってクリティカルな情報を幾つ抱えてると思ってるんだ? 経営陣――運営の幹部どもが、黙って好き勝手させるわけないだろ?」

 

 ぐるりと一同を見渡して、

 

「そんな顔するなよ。べつにそう深刻な話じゃないさ。A&Jはウチの実家みたいなもんだからな。裏切るつもりがなけりゃ、まじで無意味な、疑り深いじじばばどもを安心させる形だけの儀式みたいなもんだよ。でかい焚き火を囲んで情熱的なダンスを踊るのと一緒さ。こっちからすりゃ、単なる笑い話だ」

 

 うわこいつ、真顔でこんなこといっちゃってるよ。

 やっぱ異世界でも、この手のやつらとは基本ノータッチでいたいよなあ。

 けどもう、付き合いがあるのはほぼ確定だよなあ。

 

 ……これ、おれも爆弾対策いるんじゃね?

 そう思い、試しに意識を凝らして眼を凝らして、とりあえず1番近くに居るノエミを見てみる。

 ……お、あれか? なんか胸の真ん中少し下、腹のちょい上あたりに、黒いもやもやがわだかまっている。

 あれがたぶん『爆弾』と呼ばれている即死の闇だ。

 

 同じ要領でマナナを見ても、黒いもやもやは見えない。本当にちゃんと『崩せて』いたようでなにより。

 グリゼルダ本人は、崩れた廃材の下に埋もれるようにして隠れている真っ最中なので確認はできない。

 

 そうして最後にミゲルを確認してみると……どこにも、黒いもやもやは見えない。

 

 もう1度ノエミを見る。もやもやあり。

 再度ミゲルを見る。もやもやなし。

 

 いやいや。

 いやいやいやいや。

 ミゲルお前、爆弾ないじゃん。

 嘘じゃん。

 この局面で、そんなくっそ得意げな顔して。

 

 てことは。

 そこがでっちあげってことは。

 もしかして全部、でたらめなのか?

 実はお前、今めちゃくちゃ必死に言い訳をしている真っ最中だったりするのか?

 

 

 ――あはっ。

 

 

 笑いが漏れそうになるのを、必死に堪えた。

 

 

「けど思い違いはしないでくれ。普通は新人にお試し期間(トライアル)を使うなんて事はまずない。そりゃ入ったばっかの新人じゃ、大した情報なんて持ってないからな。通常このお試し期間(トライアル)を使うのは、なりたての幹部やその候補生だ。いってみれば、機密に深く食い込む奴への最後の『ふるい』だな」

 

「単に信用ならないヤツに対する首輪としても使えるよね? いくらでも応用が利きそうだ。そんな寝言で2人が納得するとでも?」

「それを決めるのはグリゼルダ、お前じゃない。もちろん俺でもない」

 

 グリゼルダを狙う矢は微塵も揺らがないまま、ミゲルがちらりと2人を見やる。

 

「もしダメだってんなら、もうこんな組織じゃやっていけないって思ったなら、遠慮せずにいってくれ」

 

 直訳すると――元特別行動隊のメンバーとかいうくそやべえリスクの塊を、何の根拠もなしに最初から完璧に信頼する頭お花畑な組織じゃなきゃ嫌だとか、真顔でいっちゃえる阿呆なんてこっちから願い下げだ――といったところか。

 

「その時は、こっちも諦めて帰るよ。ムリに引き止めたりはしない。その認識のミスマッチはもうどうしようもない。ただ最後に、A&Jの代表としてじゃなく、ミゲルという俺個人として、これだけはいっておくよ」

 

 そこで言葉を区切ったミゲルが真っ直ぐにマナナを見た。

 

「――すまなかった。会ったこともない元特別行動隊の隊員にびびって、お試し期間(トライアル)の継続使用を可決したのは『俺も含めた』全会一致だ。この臆病さに嫌気がさしたっていわれちまうと、もう本当に返す言葉がない。だからマナナ。たとえどんな決断をしてどう行動しようとも、俺がキミを攻撃することだけは絶対にしないって約束するよ」

 

 これが全部、でたらめに衣をつけた努力の結晶だって考えると……凄ぇアドリブ力だなこいつ。

 

 とはいえおれの心情としては、ミゲルの肩を持ちたくなってる。

 キレたマナナの暴走で無理心中未遂をくらった身としては、その対抗策を頭ごなしに否定はできない。

 まあ、黙ってこっそりやったのは、まずかったとは思うが。

 

「へえー、すっごい優しいね。機密を洩らしたマナナに罰はないの? たしか『裏切り者には死を』だっけ?」

「魔女殿との縁故なんて、弾け飛んでないマナナを見られたら、そりゃ関係者にはバレるさ。他に可能性はないからな。ついでにいうなら、とびきりの血統主義である魔女殿と取引が成立している時点で、気付いてる奴は気付いてる。公然の秘密ってやつだ」

 

 それに――とさらにミゲルが続ける。

 

「新人研修で『秘密』についてのA&J(ウチ)のスタンスはもう伝えてる。そりゃべらべら喋られるのは問題だが、他についてお前さんが言及しないのを見るに、どうやら大丈夫みたいだ。なら俺はそれをもって『裏切りはなかった』と判断する。だからなグリゼルダ、あとはもう感情の話なんだ。許容できるか否か。まいっか、か、嫌ダメ無理か。つまりな、ここから先はもう、俺やお前の介入する余地はないんだよ、グリゼルダ」

 

 いやあるだろ。

 と、つい突っ込みたくなるが……今回の場合、これからの生活基盤という特大の重石が天秤に載るので、実質出来レースじみたところがある。

 

 ミゲルが暴力や圧力に頼らず、言い訳――じゃなくて懐柔に舵を切った時点で、まあこうなる可能性は高かった。

 

 

 やっぱ、金持ってるやつって、強いんだよなあ。

 

 

「ノエミ」

 そこでマナナが名前を呼んだ。

 振り向いたノエミに眼を合わせ、

「任せる」

「うん」

 返事をしたノエミが続けて、

「ミゲルさま、後ろに飛んで。囲まれてるよ、凄い数。マナナもこっちへ」

 

 一瞬の空白の後、全てが動き出した。

 ミゲルが後ろに飛んで、マナナがノエミへと駆けて、とくに指示のなかったおれは余裕の棒立ちを披露した。

 

 え? ノエミ影分身(これ)見えてるの? 王族でもムリなのに?

 どういうことだと考えるより早く、なにかが落ちて来た。

 穴だらけの高い天井、その隙間からどすんと、おれの目の前になにかが落ちて来た。

 着地の衝撃で身を沈めている場違いな女中服の背中にかかる赤毛。

 前方――グリゼルダの方を向いたまま、声だけが飛んで来る。

 

「アマリリス様! ケガはないですか!?」

「ヨランダ! こっちは無傷。そっちこそ、足大丈夫なの?」

 

 あのくっそ高い天井から自由落下とか、普通に両足骨折コースだろこれ。

 

「このぐらいの高さならぜんぜん――って天井高っ! え? なにこの高さ? いや、もっと低かったはずなんだけど、アマリリス様なにかしました?」

 

 してねーよ!

 

 と返すより先に、もうひとつ落ちて来る。

 今度は目の前に着地するのではなく、ちょうどその真上へ。

 

 後ろへ飛んだミゲルを追う為に1歩踏み出したグリゼルダ――の色つき影分身(子機)

 その頭頂部に足の裏を乗せるように、踏みつけるようにして、もうひとり落ちて来た。

 

 ばき。

 

 衝撃に耐え切れず、グリゼルダの影分身(子機)はへし折れ、ばしゃりと闇の残滓が飛び散る。

 

「……泥? なにこれ?」

 

 着地の衝撃で折り畳んでいた膝を伸ばし、そいつが立ち上がった。

 ……でかい。

 ミゲルよりもさらに頭ひとつ分は大きく、ひょろりと細長いその女は、全てが白かった。

 

 その身に纏う、占い師とカンフー道着を足して2で割ったような服は白一色。

 短く揃えた髪も真っ白。眉もまつげも白いのを見るに、どうやら染めているわけではないらしい。

 

「あのさ、いまさら魔女の巫女」

 

 新たに『着色』されたグリゼルダの影分身(子機)が、最後まで喋りきることなく吹き飛んだ。

 胴体だけを残し、首から上だけが後方へ吹っ飛んだ。

 

「げ。また泥」

 

 ぽっかりと空いた、本来なら頭部があったスペースに添えられた、白い女の握り拳。

 空手の正拳突きを打った後のような姿勢。

 

 あ、今こいつ、影分身(子機)の顔面を殴ったんだ。

 全てが終わってから理解が追いつく、異次元の速度。

 

 意味がわからず、つい2度見する。

 うん、何度見ても、わからないものはわからない。

 

 ……が、こいつが誰なのかはグリゼルダの色つき影分身(子機)2号が最後に教えてくれた。

 

 ――魔女の巫女。

 

 うわあ。

 向こうから来ちゃったよ。

 しかもこいつ、おれと相性最悪の物理で殴る系のやつだよ。

 どうすんだよこれ。

 

「待ってノエミ! 今グリゼルダは手一杯で」

「いいから走って!」

 

 もう、ことは始まってしまった。

 対話やら説得とかいう段階はすっとばされ、なし崩しに殺し合いが始まってしまった。

 ならもうしょうがない。こっちも基本に立ち返るしかない。

 

「ヨランダ。出口までダッシュ、行ける?」

「はい。あたしが先行するんで、ついて来てください」

 

 ヨランダとこそこそ話をするおれの視界の端で、グリゼルダの影分身(子機)からまた、ずるりと滑り落ちた。ずるりと。ずるずるりと。ずるずるずるりとまじかよこいつまだ増やせるのかよおい。

 

 2体やられて残り14。

 それぞれから滑り落ちて――28。

 しかも追加分は全員短刀持ちで、殺意ましまし。

 

「……あの数は抜けませんね。絶対にどっかで捕まっちゃいます。あれって、どこまで増えるんですか?」

「ヨランダ、見えてるの?」

「ぼんやりとですけど。やっぱあれ、他の連中には見えてない感じですか」

「ノエミ――髪の長い軍服の娘にも見えてる。他は認識すらできてない」

「あのエンブレム、特別行動隊ですよ。敵ですか?」

「違うよ。A&Jの新入社員だ」

 

 ヨランダにノエミ。

 なんでこの2人にだけ見えるのか。なにか共通点はあっただろうか。

 

 ……あ、おれが『足した』2人か。

 

「あの、アマリリス様。なんかあたしたちの周りにだけぜんぜん来ないんですけど、心当たり、あります?」

 

 確かにグリゼルダの影分身(子機)たちは、なぜかこちら側には来ていない。

 包囲もしない。遠巻きに眺めることすらしない。注意も払わず、一定距離からは決して近寄らず、ただただ完全スルー。

 不自然なんてレベルじゃない。

 

「……なんでだろ?」

「もしかして、アマリリス様にびびってるとか」

 

 いわれてみると確かに、ここまで1度もグリゼルダはおれに矛先を向けなかった。

 言葉でも暴力でも、徹底的にノータッチだった。

 最初の隣に座っていた影分身(子機)も、本人に声をかけるとすぐ引っ込めた。

 

 ん?

 んん?

 

 ……もしかしてこれ、可能性、あるんじゃね?

 

 もう殺し合いが始まっちゃったからどうしようもないよなあ、なんて思ってたけど……よく見ればこれ、やり合ってるの魔女の巫女だけじゃん。

 べつにおれはグリゼルダと殺し合いなんかしてないし、向こうもあからさまにこっちだけは避けてる。

 

 それに、正直なところ。

 あそこで声を詰まらせた時点で、もうおれは。

 

「なあヨランダ。わたしが『こいつ雇いたい』ってヒルデガルド(姉さま)のところへ勝手に新人連れて行ったら、怒られるかな?」

「え? いや、使えるものは全部使うのがヒルデ様のやり方だから、怒りはしないと思いますけど……え? まじでいってます?」

 

 とはいえ、もしダメだったらその時はさくっと死にそうな予感もある。

 だからもう1個ぐらい、言い訳の余地のない大きな利点が欲しい。

 

「なあヨランダ。ここでミゲル死んじゃうと、まずい?」

 

 3人でひと塊になっているミゲル一派を徐々に包囲するグリゼルダの影分身(子機)たち。

 見えていない筈の白い女は、なぜか影分身(子機)の手薄な方へと移動し続け、包囲の完成を凌ぎ続けている。いや、見えないものに対処するとか、普通に引くんだけどなにそれ。

 

「ええ、まずいですね。そうなるとたぶんA&Jは旧市街から手を引いて、結果ヒルデ様が最低の糞(ローゼガルド)の真似事をする破目になります」

 

 てことは『業務委託』とやらの内容は治安維持あたりか。

 それを任せようとしていたやくざ組織(暴力装置)が撤退すれば、結局そのしわ寄せはヒルデガルド(姉さま)へと来てしまう。

 となると。

 その姉妹の地位を手に入れたおれにとっても、血とバイオレンスに満ちた日々の幕開けとなっちゃうわけか。

 

 やっべミゲル、超重要人物じゃん。

 

 だったらしょうがない。

 おれの為にやらなきゃいけないから、おれがやる。

 だったらそれはもう、しょうがない。

 

「ヨランダ見える? あそこ、廃材が積み重なって小山になってる所。あそこまでゆっくり歩いて行こうと思うんだけどさ」

 

 あまり猶予もないので、いいながらも歩き始める。

 

「もし途中でわたしが攻撃されても、重傷とか致命傷じゃない限り、黙って様子を見てて欲しいんだ」

「場所がわかってるなら飛び道具、ありますけど」

 

 いってヨランダが自身の長いスカートを太腿あたりまですすすと捲る。

 本当にあったメイド服の下の謎ガーターに固定されている2本の黒杭。

 あ、それ、おれ産の黒杭じゃん。この微妙なちっこさは、館で使用人たちの頭上にセットしたやつか。

 

「いらないよ。間違っても武器とか手にしちゃダメだ。そういった意思を表示しちゃうと絶対に失敗する」

「うまくいく見込み、あるんですか?」

 

 そんなことをいいつつも、おれの少し後ろについて来てくれるヨランダ。

 

「なけりゃしないさ。けど、ダメな時はダメだと思うから、わたしが昏倒したり動けなくなったら迷わず抱えて逃げて欲しい。その時はもうしょうがない、諦めよう。もし追撃してくるようなら、廃材の小山に2本とも黒杭を撃ち込め。2本をぶつけるようにすれば爆発が起きるから、それで何とかなる」

「もしアマリリス様が即死したら?」

 お? 相変わらずかましてくるなヨランダ。

「ひとしきり笑ってから、黒杭発射コースだ」

「了解。けどうまく笑えるかな?」

「外道おばさん解体ショーを思い出すんだ」

「そんなニチャっとした笑い、嫌ですよ」

 

 この会話はわざと聞かせている。

 きっと聞き耳を立てているであろうグリゼルダ本人に『いやまじで誰も得しないから早まった真似だけはすんなよ?』としょぼい牽制をかましつつ歩を進めている。

 

 その甲斐あってか、とくにこれといった妨害もなく、廃材の小山の前まで来れた。

 

「グリゼルダ。もうわかってると思うけど、わたしに、攻撃の意思はないよ」

 

 しゃがんで、同じ高さと思しき位置で続ける。

 

「本当はもっとはやくこうして話したかったんだけど、ほら、次から次に新しく入って来てさ、なんかどんどんあれこれ始めちゃって」

 

 できるだけ軽い調子でいいながら、ひとつひとつ廃材の小山を崩してゆく。

 へし折れたでかい木片を両手で掴んで、ぽい。

 割れたレンガっぽい物を両手で掴んで、ぽい。

 

「見てたけどさ、グリゼルダのやり方って、基本的にマジシャンの方法論だよな。あ、マジシャンってわかる? 奇術師とか手品師とか、そういう言葉ってこっちにあるかな」

 

 なんか廃材の中に、露骨に(かわら)っぽい物があった。

 三つ目男が持ってたポン刀といい、このちょいちょい挟まる日本要素は……って今は関係ないか。

 

「あの急に入れ代わったやつ、あれ凄かった。近くで見ててもどのタイミングで『やった』のか、全然わからなかった」

 

 掴んでぽい。

 掴ん――痛った! なんだこれめっちゃ尖ってる! あああこれ地味に痛いやつ! なんでこんなんで流血してんだよおれは!

 いい感じに語りかけている最中なので叫ぶわけにもいかず、無言でのたうつ。

 やせ我慢を総動員し、せめて声だけは平静を装う。

 

「もしかしてグリゼルダは昔、そういったところにいた?」

 

 よく見るとこの廃材、あちこち尖ったり鋭かったりして素手で触るのは危険だ。最低でも厚手の軍手は欲しい。

 などと思っていると、背後からにゅっとヨランダの手が伸びてきて、素早くおれの両手に包帯のようなものを巻いた。

 止血と同時にやわい手の平もガード。

 ヨランダ、最高かよ。

 

「あー、そういったところっていうのは……観客集めてショーをしたりサーカスだったり雑技団だったりアーティストだったり、呼び名は色々あるけど、そういった場所や集団のことで」

 

「――ス」

 

 そこで初めてグリゼルダが答えた。

 まだ本人が潜んでいる箇所まで崩せていないので、ガラクタの山が喋るかたちだ。

 

「ん? なんて? もうちょい大きな声で」

「か、カルミオーネ大サーカス、です」

「それがグリゼルダの?」

「はい。ボクが育った場所、です」

 

 おお、まじであるのか大サーカス。

 

「ああいった技術は、そこで習ったの?」

「……わかりません。覚えてないです。名前しか。け、けどなぜかできます。知ってます」

 

 うーん、記憶が消されてるとかそういうやつか。

 

「なら問題ない。覚えてなくてもできるなら、全く問題ない。今わたしは『これから』の話をする為に、ここにいるからな」

 

 ずっと手だけは動かし続けた甲斐あって、グリゼルダの声はもうすぐそこだ。

 ……怯むな。行け。

 

 ごとん。

 

 大きな木の板を除けるとそこには、ぽっかりと空洞のようになったスペースで小さくうつ伏せになっているグリゼルダ本人が居た。

 

「……あ、えと、その」

「まずは座ろう、グリゼルダ」

「は、はい」

 

 座り直そうとついた手が、びちゃりと血溜まりを弾く。

 

 

 グリゼルダは血まみれだった。

 

 

 そりゃそうだ。

 両手で落ち着いてゆっくり作業してもつい手を切ってしまうような尖ったり鋭かったりする廃材の中に、頭から全力で後先考えずに突っ込めば――まあそうなる。

 

 当然グリゼルダも、目やノドなどの急所は庇いつつ行動したのだろうが……それでも首の根元あたりを切ってしまったようで、今もそこからじわじわと血を流し続けていた。

 さらに両腕からも赤い雫がぽたぽたと滴るのを見るに、どこか太い血管でも切ってしまったのかもしれない。目と耳と鼻からの出血に至っては、正直意味がわからない。

 

 座る足下には、今も広がり続ける血溜まりが揺らめく。

 よく聞けば呼吸も荒い。

 

 つまり。

 

 こいつも、ぎりぎりだったのだ。

 

 素人目に見ても危険域に突入しそうな出血量。

 勝手に増え続ける敵。

 あれだけの数の影分身(子機)の制御にかかるであろう負荷。

 きっとゼロにはできない、影分身(子機)がやられた際のダメージフィードバック率。

 

 ぱっと思いつくだけでも問題は山積みで、時間が経てば経つほど状況は悪くなるばかりで改善の兆しはなし。

 

 ……危ないところだった。

 これは、本気でやばかった。

 やはりこの判断で正解だったと確信した。

 

「……赤いんだな、血。館で見た使用人は全部黒かったから、てっきりみんなそうなんだと思ってた」

「そんなの、はじめて聞いた。普通は赤いです、みんな」

「そうなの?」

「た、たぶん、なにかの実験だったんじゃ」

 

 なるほど、あれは外道おばさんの特注カスタムだったのか。体内を闇で満たすとかそういう系のやべえやつ。

 

「……あいつ本当やりたい放題だな。けどもうローゼガルドはいない。知ってるよな?」

「は、はい」

 

 グリゼルダ(こいつ)はなぜかおれに対して腰が引けてる。

 ならそこにつけ込む。

 ずうずうしいぐらいで行く。

 

「グリゼルダはこの先、どうするんだ? 何か伝手(つて)とかあるの?」

「あ、いえ、その、とくには」

 

 よし。……といっていいのかは微妙だがとにかくよし。

 行くあてがないのが、最もスムーズなパターンだ。

 

「じゃあさ、わたしのところに来ないか? 知ってるかもしれないが、まだこっちに来たばかりでさ。ろくに話し相手もいないんだ」

 

 今さらいうまでもないが、グリゼルダ(こいつ)は『できるやつ』だ。

 

 まず影分身(子機)の性能がやばすぎる。なんだよステルスとかずるいだろ。しかもそれが30体とかやりすぎだろ加減しろバカ。

 

 普通に考えて、そんな『できるやつ』を追い詰めすぎるのは良くない。

 なぜなら『できるやつ』の全力死に物狂いとか、まじで甚大な被害をもたらすからだ。

 

 さらにこいつの場合、その性質がとくにまずい。

 

 客観的にはくっそ情けない上に自傷確定の『切れる棘山に飛び込み隠れる』を何の躊躇もなく実行し、さらにその上でやることが、投石と拾ったばかりの情報をこねくり回した仲間割れの誘発。

 

 微塵も手段を選ばない。

 できることは全部やる。 

 

 そんなやつがぎりぎりまで追い詰められて死に物狂いになったりしたら……絶対にする。

 

 それを前提に現状を見ると、そこかしこにわんさか居る影分身(子機)の性質が『黒杭』に近しいものであることに気がついた。

 黒杭は複数をぶつけることで謎の大爆発が起きる。

 ならそれに近しい影分身では、一体どうなるだろうか。

 質量でいえば黒杭の30倍はある影分身が28体。

 もしそれら全てが予想通りの作用をもたらすのならば、その規模は一体どれほどのものになるだろうか。

 

 

 ――あっぶねえええ! こいつもう準備整えてたじゃねーか! 

 

 

 予想よりずっとやばかった。

 想定よりはるかぎりぎりの崖っぷちだった。

 こいつの手法がマジシャンのそれだと理解していたのに見落としていた。

 

 いや、まだだ。

 

 まだ間に合う。

 とにかく丸め込め。

 向こうが答えあぐねている内に外堀を埋めろ!

 まずは、

 

 

「初めましてミゲル! 挨拶が遅れたけど、ヒルデガルドの妹のアマリリスです! ちょっと確認したいんだけどいいいかな!?」

 

 

 謎の空中2段ジャンプでぴょーんと2階部分へ移動中の色男へ呼びかける。

 

「もちろんいいとも再従弟妹(はとこ)殿! なにかな!?」

 

 やっぱミゲルこいつ、アドリブ力のモンスターだわ。話が早すぎる。

 

「A&Jにとって、グリゼルダの死は必須か?」

「いらないよそんなの。ウチは殺し屋じゃないんだ。みんな仲良くがモットーな町の雑貨屋さんだぜ?」

 

 100点満点の返事だ。

 なら次!

 

「マナナ! グリゼルダを許せとはいわない。ただ、殺さないで放置することは可能か!?」

 

 ミゲルに続いて謎の空中2段ジャンプでぴょーんと2階部分へ移動中のマナナへ呼びかける。

 

「タダで我慢しろとはいわない。ノエミの爆弾と引き換えだ。これをのんでくれるなら、ノエミの爆弾を消すよ。内臓にダメージを与えないやり方も、たぶんそこのヨランダがいれば可能だ。もちろん今後グリゼルダに手出しはさせない。君はただ無視するだけでいい。それ以外は何も望まない」

 

 2階部分に着地したマナナの表情は、手すりが邪魔をしてよく見えない。

 ただ無言。

 この無言はまずい。

 グリゼルダの『もうダメだやっちまえゲージ』がもりもり上がる音が聞こえる。……気がする。

 

 そこで、2階にあがるわけにはいかないので唯一その場に残ったノエミが、こちらへ向け謎の手振りを披露してきた。

 

 指を1本ぴんと立ててから、両手の平を水平にして上に向け、くいくい。

 1本。くいくい。

 1本。こいこい。

 もう1個。カムカム。

 もう1押し。しろしろ。

 

 いや、もう1押しっていわれても、手持ちとかゼロだよおれ。

 

 ……しかし道理ではある。足りないなら追加しろ。

 そもそもこれは、グリゼルダの外堀を埋めるアピールだ。インパクト重視だ。

 これ以上、もたつくわけにはいかない。

 

「ならもうひとつ! わたしからマナナへの『貸し』をひとつ付ける! 本当に嫌だったり無理なことじゃない限り、最大限考慮する『貸し』だ! これでどうだ?」

 

 まあ無い袖は振れないので、ぺらっぺらの口約束をするしかないのだが。

 

 ひと息間があってから、

 

「そこまでいうなら、はい、わかりました」

 

 よし通った!

 これで外堀はぎっちぎちだ!

 

「聞いての通りだグリゼルダ。あとは君の気持ちだけだ。わたしには頼れる味方が必要だ」

 

 あ、そういや魔女の巫女忘れてた、と思い出し視線を巡らせると……いつの間にかヨランダが魔女の巫女を止めていた。なにやら軽く言い合いをしているようだが、とにかく文句なしのファインプレーだった。

 ヨランダ、まじ最高かよ。

 

「……なんで」

「ん?」

「なんで、ボクなんですか?」

 

 そりゃお前放っておいたら5秒後ぐらいに自爆しておれも死んじゃうからだよ。

 

 理屈としてはこれだ。いや、理屈というか事実だな。実際このままだとそうなるだろうし。

 ただこれをそのまんま口に出すわけにもいかない。 

 だからオブラートに包んでアレンジして、みんな生きてオールハッピーみたいな感じでまとめれば一件落着。

 

 なのにどうしてか――勝手に言葉が口をついて出た。

 

 

「誰もお前に生きてて欲しいと思っていないからだよ。気づいてるだろ? ここでお前が死ぬのが、一番丸く収まるんだ。全部キレイに解決するんだ。誰もが気持ちよく前向きに、明日を迎えることができるんだ」

 

 

 おれはたぶん今、余計なことをいっている。

 

「最高のゴールのかたちとして、お前の死が、共通の絶対条件だった」

 

 どうしてか、余計な言葉に限って、すらすらと無限に出てくる。

 

「お前が本当にどうしようもないやつだったなら、わたしも死ねといってた。けどお前のいうことがもし本当なら、きっとわたしでも同じことをしてた。実際に昨夜似たようなことをしたばかりだ。ならもうダメだ。石を投げる気にはなれない。手が止まる」

 

 おれはたぶん、それでも石を投げたことがある。

 ちっとも覚えていないが、きっとある。

 じゃなければ、こんな嫌悪感は湧いてこないだろう。

 じゃなければ、ここまでの忌避感はあり得ないだろう。

 

「わたしはお前に同意してしまった。誰にも助けられず、誰にも手を差し伸べられないお前に、満場一致で死を望まれるお前に対して、心の底から同意してしまった。もしそうなれば、そりゃそうするよなと」

 

 ここまででわかった。

 

 闇精霊と人間はほぼ同じ。

 理解できると喜ぶべきか。

 またそれかと嘲るべきか。

 

 もう一度、犬の鳴き真似をするべきか。

 

「もしお前が嘘をついているのなら、未来永劫その嘘をつき続けろ。(つくろ)い続けろ。わたしに嘘だと悟らせるな。たとえ死んでもだ。いいな?」

 

「う、嘘じゃない、です。ぜんぶ、本当です」

「ならよろしい。お前の質問に答えるよ。たしか――『なんで、ボクなんですか?』だったね」

 

 なんでと問われると、答えはひとつしかない。

 

「わたしの、趣味だよ」

 

 それ以外にいいようがない。

 本当ならすぐさま全員に『廃材の小山に集中攻撃だ!』と叫ぶべきだった。

 みんなでグリゼルダをぶっ殺して、一致団結すべきだった。

 するとマナナとの確執なんてキレイさっぱりなくなり、きっと仲良しにもなれた。

 殺されるほど悪いことしたかこいつ? などとかすかに思いつつも、切断した頭部でみんなと一緒にサッカーに興じるべきだった。なんてことはない。どこにでもある、絆を深める儀式だ。すぐ慣れる。愛想笑いぐらい余裕だ。

 

 心底から思う。

 よかった。

 そんなことしなくて。

 

 ひとつ大きく息を吸ってから、

 

「グリゼルダ。わたしと一緒に来て欲しい。さっきもいったが、わたしには頼れる仲間が必要なんだ」

 

 あとこいつめっちゃ強い。

 こいつが本気でおれを守れば、死ぬ確率がぐっと下がること間違いなしだ。

 

 

 じっとグリゼルダの目を見る。

 

 

 逸らされる。

 

 あ、もしかしてダメな感じ?

 ノリとフィーリングで、しょうもないこと喋り過ぎた?

 まずい。本音の使いどころ間違えたかこれ。

 

 

 

「成程成程。そうして貴方は貴方の気に入るもののみを、すくい上げるのですね」

 

 

 

 初めて聞く野太い男の声が響き渡った。

 

 今日だけでもうこのパターンは3回目だったので、構うことなくグリゼルダへ声をかける。

 

「返事を聞かせて、グリゼルダ。ほら、またなんか新しいのが来ちゃったから、もう時間がない」

 

 さりげなく追い込む。きっとこいつは押しに弱い。

 

「……あ、えっと、…………はい。よろしく、おねがいします」

 

 よっし行けた! 諦めずに押してみるもんだな!

 思わず拳を天に掲げそうになるのを堪え、三角座りをしているグリゼルダへ向け、開いてから差し出す。

 

「こっちこそよろしくね。外道おばさんよりは良い待遇を約束するよ」

 

 ブレインをウォッシュ(闇)しないだけで達成できるとか、ハードル低すぎだけどな。

 

 おずおずとおれの手を掴んだグリゼルダを引き上げようとして――普通におれの方がちっこくて軽いのでムリでした――とにかく廃材の中からグリゼルダが出てきたところで、

 

「ヨランダ。グリゼルダに治療を――」

 

 ようやく、周囲の異常を理解した。

 突然野太い声を響かせた新たな闖入者に、なぜ誰も何もいわないのか、その理由を遅まきながらに理解した。

 

 

 

「世の道理や他の都合など関係なく、ただ貴方がどう思うか。その一点のみが肝要と」

 

 

 

 横に長い木製の椅子がずらりと並んでいた。一段高くなった最奥にででんと掲げられたいかにもなシンボルの下に立派な演説台が現れていた。そこへ至るまでの一本道に、なんかレッドカーペットみたいなものが敷かれていた。

 

 そうして増えたものがあれば、減ったものもあった。

 

 あちこちに転がっていたごみやがらくたの類が、いつの間にやら随分とすっきりしていた。

 今グリゼルダが出てきたばかりの廃材の小山が、おれの目の前でゆっくりと(しぼ)み続け、手の平サイズまで小さくなり、消えた。

 

 そうして辺りを見渡す頃には。

 

 おれはぼろぼろの教会に居た。

 さっきまでここは確かに、廃墟じみたあばら家だった。

 ぼろぼろに朽ちているという点では同じなのだが、決して教会などではなかった。

 なかったものが現れ、あったものが消え――つくり変えられた。

 

 

 

「国家をはじめとする既存の権益からすれば、堪ったものではありますまい」

 

 

 

 この現象には見覚えがあった。

 最初に目覚めた地下空間で三つ目男がやってみせたあれ。

 現実改変系の最終奥義的なやつ。

 

 ――なんで2日連続でこんなん来ちゃうかなあ。

 

 ただ変化の速度は、比べ物にならないぐらい遅かった。

 瞬く間に全てがつくり変えられた三つ目男とは違い、ゆっくりじわじわ、といった感じである。

 いや、たぶんこれは、

 

「グリゼルダ。演説台にいる仮面の男、見える?」

 いかにも『邪教徒です』みたいな禍々しい面を被った男がいた。

 演説台の出現と同時に現れた時点で、どう考えても真っ黒ではあるのだが。

「……え? いえ、見えません。声だけ響いて、どうやってるのかなって」

 あんなに怪しいのに誰も攻撃しない時点でそんな気はしていたが……ステルスを標準装備とか、まじで止めてくれないかな。

 

 

 

「支配者たる己以外に、よもや好き勝手に(のり)()かれようとなどとは、堪ったものではありますまい」

 

 

 

 男の声が響くと同時に、新しいものが現れて元あったものが消えるスピードがさらにもう一段階、目に見えて速くなった。

 さっきから視界の隅でちらちらしていたのは、どうやら気のせいではなかったらしい。

 

「凄いな。あいつが喋る度に、ここが教会になっていくスピードが上がるみたい」

「て、敵?」

 

 おれは既に知っている。

 この手の現実改変系最終奥義的なやつは、された時点でもうお終いなのだと。

 問答無用でいきなりそんなことをしてくるやつを、なんと呼ぶのか。

 

「敵だ。今わたしたちは攻撃されてる。この教会が完成すれば、たぶん死ぬ」

 普通に考えれば意味不明だろう。

 廃墟を教会につくり変えるとか、そもそもわけがわからない。

 なぜそれが攻撃になるのかも、ちっとも繋がらない。

 さらに完成すれば死ぬとか、あなたきっと疲れてるのよ、としかいいようがない。

 

 この現実改変系の最終奥義的なやつの最も厄介なところは、知っていなければ『攻撃』ではなく『意味不明な怪奇現象』としか認識できない点だ。

 反撃できないのではない。

 反撃するという発想が、そもそも湧いて来ない。

 姿はなく声だけなら、なおさらに。

 

「敵の、数と、身体的特徴を」

「1人だけ。背の高さはミゲルと同じぐらい。体格はずっと細い痩せ型。顔全体を覆う仮面で顔面は守られてる。角や尻尾はない」

「……ひとり? 罠ですか?」

 あ、いわれてみれば。

 いくらステルスってるとはいえ、あんな目立つ演説台にひとり立つとか『さあ殺してください』といわんばかりだ。

 やくざに魔女の巫女に特別行動隊がそろい踏みなこの場でそれは、余りに露骨だ。

 

 

 

「故に。故に貴方はこう呼ばれる。――邪神と。成程成程。むべなるかな」

 

 

 

 ぎゅぎゅぎゅんと変化のスピードが3段階ぐらい一気に上がる。

 謎ライムによる謎ボーナスとかやめろよまじで。ルールがみえねーよ!

 これ以上の放置はダメだ。

 1番早いのは。

 

「とりあえず、殺さず痛めつける感じでいける?」

 

 いうと同時に、最も近くの影分身(子機)2体がそれぞれ演説台の左右へと走り、両手を天に向かって掲げている仮面男の腕を取った。

 右腕に1体。左腕に1体。

 それぞれが体重をかけ、仮面男を演説台に押しつける。

 そうして胴体を固定してから、可動域の限界を超えるまでひと息に捻って――ごりっ。

 

「があああああああっ!」

 

 顎を上げ、必死の抵抗を試みようとする仮面男の頭部を、3体目の影分身(子機)が両手で掴み、全力で演説台へと叩きつけた。

 

「――ぶっ!」

 

 全力で叫んでいる真っ最中にそんなことをされたので、当然舌を噛む。

 打ちつけられた拍子に仮面が外れ、からんと音を立てて転がった。

 

「あ、……み、見えました! タネは、あの仮面かな」

 

 ……グリゼルダが、ガチで反則的に強い。

 ステルス対策のない相手なら、大体このパターンで終わる気がする。

 つーか仮面男お前、自分でステルス使っときながら対策はなしとか、ちょっとサボりすぎだろ。

 

 

 

「やはり見えるか。同志キリアン。きみの危惧は正鵠を得ていた。きみの慧眼に賞賛を。きみの献身に感謝を。きみの犠牲に約束を。さようなら、同志キリアン。我らが兄弟。また地獄の底で」

 

 

 

 舌を噛んで喋れない筈なのに、変わらぬ調子で続ける声。

 やっぱあいつ囮だったか。

 と思うと同時に、大質量のなにかが叩きつけられた。突然上から落ちてきたそれは、最初からトップスピードでそのまま地にめり込んだ。一瞬遅れてドンと爆音が鳴る。

 それは演説台ごと――仮面男ごとグリゼルダの影分身(子機)を押し潰した。

 

 グリゼルダは無言だったが、めっちゃ痛そうな顔をしている。

 やっぱあれ、ダメージフィードバック率はゼロにできない感じなのね。

「あ、ちょっとじっとしてて」

 どろりと垂れた血が目に入りそうだったので、軽く手の包帯で拭ってから、 

「大丈夫? まだ走れる? ごめん、順番を間違った。とりあえずヨランダと合流して、出血だけでもどうにかしよう」

「……え? ええ、はい」

 

 とりあえず異変の進行は止まった。

 見える範囲に敵はいない。

 

 ……が、異様な『それ』は残り続けた。

 

 見慣れたものの色を変え、サイズを変更するだけでここまで気色悪くなるとは知らなかった。 

 走る足は止めず、視線だけを向ける。

 

 演説台があった位置には今、馬鹿でかい握り拳が鎮座していた。

 どこかで見た『伸びる白い手』に酷似したそれをさらに特大にし、五指を握り締め叩きつけた大質量によるシンプルな暴力。

 

「仮面男は?」

「そ、即死だと思います」

 

 仲間の命がくっそ軽い。

 ならこっちの命はもっと軽いに違いない。

 話し合いでどうにかなる相手じゃないなこりゃ。

 

「なあ再従弟妹(はとこ)殿。あれは、やっちまってもいいのかい?」

「たぶん暴れるから近づかない方がいい。(まと)にするのがおすすめ」

 影分身の法則から、あれにもダメージフィードバックがあるかもしれない。

「いいね。得意だよ、そういうの」

 

 そういって2階から、ミゲルとマナナがクロスボウでの射撃を開始した。

 矢が刺さる度に特大の白い手から血が噴き出す恐怖映像からそっと目を逸らし、さっさとヨランダと合流……がなぜかできない。

 

 1メートル進む前に2メートル遠ざかる。

 音もなく、これといった合図もなく、さっきまでとは比べ物にならない超スピードで場の変化が再開していた。

 

 全体の面積が爆発的に広がり続けるのと同時に、一段上がった最奥がさらに盛り上り、ちょっとした階段が生えてきた。その脇にはドス黒い薔薇が大量に飾られ、燭台には黒い炎が灯る。ぼろぼろの木目だった壁面や床が黒一色に塗り潰され、中学の時に遊びに行った先輩の部屋みたいになる。おい記憶の扉空気読め今そのエピソードはいらねーだろ。

 

「アマリリスさま、足、遅っ」

 しまった、という顔でグリゼルダが口を噤む。

 いや、まずいと思うならなんでいった? 

「……運べる?」

 すすっとグリゼルダの影分身(子機)が3体やって来て騎馬戦の馬をつくる。ぴょんと乗ってゴー。移動速度が3倍になった。

 

 とっくに駆けるおれたちに気づいていたヨランダも、こっちに向かって走っている。

 

 よし、ようやく合流できたと思った矢先、演説台を握り潰すように鎮座していた『白い手』の指がゆっくりと1本1本順番に開かれた。

 

 出て来たのは、傷ひとつない演説台に立つさっきとは違う男。

 真っ黒い超豪華な紋様付きローブを重ね着したような格好はなんか凄い偉そうである。

 しゅるりと『白い手』が男に吸い込まれたのを見るに、仮面男をやったのはこいつだ。

 

 男がなにかの宣誓のように右手を掲げる。きらりと指輪が光る。

 目の奥が鈍く痛む。視界が2重にずれたような違和感。片方が破棄され、片方がしゃしゃり出る。これにてすり替えは完了し、舞台の幕が上がる。なんだこれ?

 

 

「まもなく黒い薔薇によるミサを始める。冒涜の皮切りまで、悔恨のうちにてお待ちを」

 

 

 さっきからずっと聞こえていた野太い声が告げた。

 

 すると、ごちゃごちゃいう前に今度こそやっちまおうとしていたグリゼルダの影分身(子機)たちの足は止まり、狙いをつけていたミゲルとマナナのクロスボウは静かに下ろされ、上方を旋回していたノエミの鷹は主の肩へと戻った。

 

 あ、やべこれ。

 

 いつの間にか場は、まさに大聖堂と呼ぶに相応しい圧倒的な広さと、どこまでも抜けるように高い天井と、一面に広がる荘厳な壁画と各種装飾品をしつらえることによって、完璧に整えられていた。

 

 

「うむ、よろしい。ではただいまより、黒い薔薇によるミサを開始する。どうぞ、絶望に立ち竦んでいただきたい」

 

 

 次いでどこからともなく、野太い男たちの合唱が響き始める。

 なにをいっているのかさっぱりわからない歌だったが、ネガティブな内容だということだけはわかった。

 

 やべえ。

 なんか始まっちゃった。

 

 三つ目男の時は、やつが「下へ!」と叫べばその通りになった。

 あれはたぶん、殿様などの貴人が登場した際の『再現』だったのだと思う。

 何回もテレビや映画で見た場面だ。

 一喝と同時に波が広がるように次々と土下座していく印象的なシーンだ。

 

 ならこれは?

 よくわからん謎儀式が始まり、待てといわれたら全員が攻撃を止めた。

 たぶんなにかの『再現』はもう始まってる。

 させるな。

 させたら終わりだ。

 崩せ。

 

 そこで、視界が回った。

 

 次の瞬間、おれはなぜか屋根の上にいた。

 広大な大聖堂の屋根ではない。

 半分腐ったようなあばら家の、死にかけたあみだくじみたいなすかすかの屋根上だ。

 

 不意に、がしっと。

 

 馬鹿でかい白い手がおれを掴む。

 ぺいっと、(たたみ)(じょう)ほどのスペースへと放り投げられる。

 ここまで魔法とタメを張るレベルでおれの身を守ってきた最強の絶技、受け身が炸裂し事なきを得る。

 おれが放り投げられたのは、屋根のさらに上で浮いている、物理法則ガン無視の意味不明な『板』の上だった。おれ程度の重量が追加されたところでびくともしない抜群の安定感。視界の隅に映る黒い鎖。板の端っこに溶接されたように繋がるその出所を辿ると……さっきまで大聖堂にいた筈の、偉そうなゴージャスブラックローブ重ね着男がいた。手にはぐるぐる巻きにした鎖の終端。

 とっさに、

 

 ――ダメだ。こいつは本にできない。

 

 当然のように空中に浮いてる男が無言で出発する。

 スーパーヒーロー的な飛び方で男がかっ飛び、おれは板ごと引っ張られる。

 当然、抵抗の余地などない。

 むしろ落ちないようにしがみつくかたちだ。

 この高さから落ちれば、まず無事では済まない。

 

 つまりおれは……身動きを封じられ、拉致られた。

 他の皆とは現実改変系の最終奥義的なやつで分断されて、そんなの当然、助けに来れる筈なんてなくて、

 

 ――やば、これ、死、

 

「初めましてだな。わたしはアマリリス。君は?」

 

 怯える前に、とにかく口を開いた。

 声が震えなかったのは、ここ最近で1番のファインプレーだった。

 確信があった。

 きっとここで1度でもそれをして(怯えて)しまえば、もうあとはそれしかできなくなる。

 ちゃんと理解している。

 おれはそんなに、勇敢なやつじゃない。

 だからなんでもいい(すく)む前に黙るな喋れ!

 

「…………」

 

 しかし、続きが、出てこない。

 単純な疲労。味方ができた故の温度差による凍傷。純粋に高い所が怖い。どれでもいい。どうでもいい。今必要なのはそれじゃない。

 

 もしおれにはできないというのなら。

 できるやつの真似をしろ。

 ハイなグリゼルダと口の回るミゲル。

 おちょくる感じで、軽く、余裕を。

 

「――だんまりか。まあいい。それよりも君、さっき面白いことをしていたね? あの現実を塗り替えるやつ」

 

 ばたばたと風を受けた男のローブがはためく。背を向け、ただただおれの乗る板と繋がった鎖を手に飛び続ける男はこちらを一瞥すらしない。

 止まれといっても無意味だろう。

 下ろせといっても無意味だろう。

 なにをいったところで、こいつは自分のすることを変えないだろう。

 構わずおれは男の背に向かって口を開く。

 

「あれ、本物に比べたら、随分とお粗末だったよな?」

 じゃあおれはなぜ喋る?

 

「つぎはぎだらけというか、妙な間が空いたり、下準備の時間が長すぎたり」

 恐怖を誤魔化す為、だけではない。

 

「塗り替えるスピードも遅かった。途中何回か止まりすらした」

 そうか。なるほど。

 

「本来なら一瞬で済ませるものを、まるで亀みたいにのろのろと!」

 おれは、なにもできず、ただ黙って死ぬのが。

 

 ……悔しいのだ。

 

「――存外、よ」

「まずは名乗れよ。名乗りは大切だ。それはどこでも同じだろう?」

 

 しょぼい。

 しょぼすぎる。

 手も足も出なくて、それでも悔しくて、せめて悪口ぐらいはいってやろうだなんて。

 我ながらあっぱれなしょぼさだ。

 

 

「……ふむ。よかろう」

 

 

 ただこいつは、おれをどこかへ連れて行こうとしている。

 さっきの謎儀式を見るに、生贄の祭壇とかそんなのか?

 

 ならそこへ着くまで、おれは殺されない……筈だ。

 ならそこへ着くまでは、静かにめそめそ泣いてるのも、死ぬほど煽りまくってぶん殴られるのも、おれの勝手というわけだ。

 

 なら、やるか。

 

 しょぼくれて下を向いてぐずぐず鼻をすするよりは、そっちの方がおれ好みだ。

 

 それに。正直。

 おれを殺すやつがすっきり気分爽快! ってのが死ぬほど気に入らねえ。

 

「――魔術結社闇の薔薇、盟主代行副首領、イグナシオ。貴方を殺す男の名だ」

「そうか、短い間だろうがよろしくなイグナシオ」

 

 なんなら握手でもしてやろうと手を伸ばすも、がん、と透明の壁に当たる。

 なるほど、そりゃ飛び下り自殺でもされたら台無しだもんな。囲いぐらいはつけるか。

 

 落下の心配はないようなので、ゆったりと胡坐をかいてリラックス――してるフリを全力でする。

 ポーズってやつはバカにできない。

 中身は結構、外側に引っ張られる。

 

 お、実際なんだか息がし易くなってきた。

 ……おれは今まで、呼吸も満足にできてなかったのか。

 吸って、吐く。

 もう息はできる。

 

「そもそもイグナシオ。君たちはいつからあそこに居たんだ? ちっとも気づかなかった。悔しいが君たちは、コソ泥の天才だ」

「……貴方が眼を覚ます前には、既に罠は閉じていた」

 罠。設置するもの。きらりと光った指輪。透明になる仮面。

「道具か。それも飛び切りスロースタートなやつ。そういえば、マリアンジェラが弾け飛ぶ前までは、あんな目立つシンボルなんてなかったな。あれば嫌でも目に入る。少しずつゆっくりじっくり、つくりかえていたわけか」

 

 あ、そういやたしかマリアンジェラも裏じゃ『闇の薔薇』とやらの一員だったか。

 ……あいつ、見捨てられたっぽいな。

 

「マリアンジェラは残念だった。君たちが腰抜けじゃなければ、1歩踏み出す勇気さえあれば、彼女は弾け飛ばずに済んだかもしれなかった。……そんなに特別行動隊が怖かったか?」

「貴方がサンチャゴを封じてからは、随分と皆の腰が軽くなった。最大の懸念材料を手負いにしてくれた功績は率直に称えよう」

 

 いや誰だよサンチャゴて。

 つーかこいつ、結構普通に会話に乗ってくるな。

 

 まあ、それもそうか。

 もうこいつからすれば、今のこの空中散歩はウイニングランみたいなもんか。

 手も足も出ない檻の中の生贄がさえずったところで、笑い話でしかないわけか。

 

「それと思い違いをしているようだが、同志マリアンジェラは立派に役目を果たしてくれた。彼女の死によって、一気に半分まで充填ができた。かかる時間は大幅に短縮された。とある『遺物』を参考に即席で組み上げた陣だったが、我ながら会心の出来だった」

「……どういうこと?」

「死なば飛散する幾分かを掻き集め再利用する陣だ。効率は本元の3割程度――死体をはじめ諸々の残留物を取りこぼす未完成品だが、それでも秘蹟の一端に手は掛かったと自負している」

「仲間の命を使って喜ぶなよ下種が。だから君たちは嫌われるんだ」

「貴方の命も使ってみせよう邪神よ。そして私たちは暁に笑うのだ」

 

 命を潰して再利用とか、もし本当ならこいつ、かなり凄いやつなんじゃね? こそこそ隠れてたくせにガチ勢すぎない?

 

 ……あ、そっかこいつら、こっちがもめてるのを見て、誰かが死ぬまでじっと待ってたのか。タダでリサイクルする為に。

 

「笑えないよイグナシオ。いくら会心の出来だからって、その為に仲間を潰してたら本末転倒だ。道具に振り回されてる。手段に使われてる。それは君たちの手には余る玩具だ」

「これは耳が痛い。やはり勝利には痛みが伴うな。しかして我らは左道の群れ。誰もが端から織り込み済みよ。その成果として今の貴方のその様があるのならば、同志キリアンも今頃、呵呵大笑していようとも」

「いや普通にキレてるんじゃないかな。同志キリアン、ステルス全開でこそこそ隠れて生き延びる気満々だったじゃないか。最初から死ぬつもりなら、どどんと派手に登場するだろ普通」

 

 するとイグナシオは、演説台に立って言霊を紡ぐことで加速する仕組み云々とか、ステルスが通用するかの実証だったとか、そもそも我らは決死隊だった等など、なんだかんだあれこれと説明を始めた。

 ようやくこいつの注意が完全に会話内容へと向いたのを確信したおれは、板の(すみ)からそっと下の様子を覗き見た。

 

 喋っている内に気がついた。もし逃げ道があるとするなら、こっちしかないと。

 

 風。

 小さな地面。

 寒気。

 高い。わかってはいたが、めっちゃ高い。

 地表までの距離は、マンションの7、8階分ぐらいは余裕であるか。

 

 つまり、落ちれば死ぬ。

 

 ただ下に見える範囲には延々と民家――でいいのかあれ? なんか粗末な屋根がぐっちゃぐちゃに交わりまくってて意味不明なことになってる、東南アジアらへんの観光客が絶対に行っちゃダメなゾーンを思い出す感じの猥雑さに満ちた個性的な家屋? が溢れんばかりにひしめき合っていた。

 また無視できない特色として、なぜかそのどれもこれもが妙に背が高かった。物理法則にケンカを売るような違法建築のオンパレードだが、3階建てぐらいなら珍しくもない。中には4、5階相当の高さの、よくわからんでかい建物もある。地面が湿気ってて低いと不快だとかそんな土地柄か? それともただ単にそういう文化か?

 

 いや、理由なんてどうでもいい。

 今おれが見るべきなのは。

 

 

 これ、もしかして、行けるんじゃね?

 

 

 できる限り高い建物に落ちて、そっからうまい具合に家屋をクッションにばきばきばきって感じで落下して行けば――死にはしないんじゃね?

 

 楽観できる高さではない。

 普通に死ぬ確率の方が高いとは思う。

 

 ただおれは、夜まで生き延びれば、持ち直せる。

 実はもうサービスキャッツタイムは終了してて、そのまま普通に死ぬ可能性もある。

 

 だとしても。

 

 このまま進んで目的地に到着しちゃうと、おれは100パーセント殺される。

 本人も「貴方の命も使ってみせよう邪神よ」とかいってたしな。そこは間違いない。

 

 ……まいった。

 こんな高さとか、くっそ怖いのに。

 絶対に痛い思いをするのが確定しているのに。

 

 やらない理由が、ない。

 

 本にできない以上、おれの手持ちはひとつだけ。

 

 たぶん、この囲いは、崩せる。

 

 

「わかった、わかったよイグナシオ。君にとって仲間を潰したという事実は、とても大きな負い目で、内心むちゃくちゃ気にしてて、ちょっと触られるだけで100倍の言い訳(説明)が返ってくるのはよくわかったから、話を戻しても構わないかな?」

 

 狙い目は、この先にある白い塔みたいな謎の建築物。ここいらじゃ1番高く見えるのはあれだ。あそこのてっぺんに落ちる。

 

「わたしが最初にいってたやつだ。現実を塗り替えるその切欠。あそこで印象的にきらりと光った指輪。思うにあれが『タネ』なんじゃないか? 本当なら手が届く筈のない大それた改変を『させてくれた』大切な大切な宝物なんじゃないか?」

 

 その為に、イグナシオ(こいつ)が嫌がるであろう話題を振る。それで注意をひく。本命を隠す。手法としてはグリゼルダのパク――リスペクト!

 

 最も困るのは、冷静に対処されること。

 だからちょっとでも、冷静じゃなくなって貰うよう努力する。

 

 つはりは――そう。死ぬ気で、全身全霊をかけて、煽る。

 

「べつに当てずっぽうでいってるわけじゃない。それなりに根拠はある。だって考えてもみろよ、開会の宣言なんか毎日どこかで何百何千とされてる。けどその度に現実がつくりかえられたりはしないだろ? だからなにか特別があった筈だ。一体どれかなと考えた時、思い当たるのはあの指輪だ。あれだけが、違った」

 

 無言。返事なし。ばたばたとローブの裾が風になびく音のみが響く。

 ここまでの口振りからわかる。イグナシオ(こいつ)は己の魔法に自信を、誇りを持っているタイプだ。

 

「たぶん他の全ては、あの指輪に動力(エネルギー)を送る手段でしかなかったんじゃないか? ゆっくりゆっくりとしか立ち上がらない、呆れるほど燃費の悪いあれを完全に稼動させる。その一点のみに君たちの全行動は費やされていた。そう考えるのが、最も辻褄が合う」

「……全てが終わってから気づくのは、誰にでもできる。なにがいいたい?」

 

 よし今だ。おれの中のミゲルを解き放つ。陽気な感じで、札束の風呂で裸の女の肩に手を回している感じで!

 

「そう、誰にでもできるんだよ、あの指輪さえあれば! イグナシオ(きみ)にも、わたしにも、マナナにもノエミにも! 稼動するまでの時間稼ぎや充填の大半は勝手にこっちでやった。あとはいいタイミングで出てきて、残りの不足分を仲間潰して補填すればもうお終い! あっという間に現実改変の最終奥義発動ってな! いいな! 実に簡単だ! 惚れ惚れする!」

 

「――馬鹿に、しているのか?」

 

 あのなあ。

 なにをいっても、やっても、絶対に殺しに来るってわかってるやつが凄んだところで、今さらビビるわけがないだろうが。

 

「――見下しているんだよ、イグナシオ。あの場は君たちにとっても死地だった筈だ。とんでもなく危険な連中が闊歩する中、わたしを拉致しようと手勢を率いて乗り込んで来たんだろう? いいじゃないか。その意気や良し。君たちにとっても、不退転の一戦だった筈だ。まさに決戦というやつだ。――なのに」

 

 実際に『やる』瞬間まで、視線でポイントの確認などはしない。

 不意に振り返ったイグナシオに狙いがバレる可能性なんてつくらない。

 確認するのは秒数だけ。

 

「なのに、そこで頼りにするのが、道具かよ。自分の魔法の腕じゃなく、知識じゃなく、経験でもなく、そこで玩具にすがるのかよ。なあイグナシオ。君はこれからの生涯、2度と魔法に誇りを持ってはいけないよ。土壇場でそっぽを向いたやつに、都合の良い時だけ擦り寄るような恥知らずな真似をしちゃあ、いけないよ」

 

 大体の速度から何秒後に『やれば』いいのか、目処はつけた。

 

「ああそうだイグナシオ。もしよければその指輪、是非わたしに譲ってくれないか。1度やってみたいんだ。お手軽にぽんと現実改変系の最終奥義ってやつを。君がどんな下らない誘惑に負けてその誇り(プライド)を糞溜めに沈めたのか、なんだか興味が出てきてさ。玩具で遊ぶ年齢でもないんだが、あんなに楽しそうにはしゃぐ君たちを見せられると、ついね」

 

 もうちょいだ。あとひと息。

 抜かりなく煽れ。口を回せ。ミゲルやグリゼルダ(お手本)のように!

 

「けどよく考えると、そんな恥ずかしい玩具をタダで引き取ってやるのも割に合わないな。よしこうしよう。臆病風に吹かれて大切なものを見失ったどこかの盟主代行副首領の矜持1コで手を打ってやるよ。安くてお得だろう? もうなんの価値もないゴミとか、捨て値どころの話じゃないからな!」

「――いいだろう。その言葉、後悔」

 

 ――よし、今っ!

 

 最高にビキビキしているであろうイグナシオの返事を聞くことなくおれは『囲い』に触れようと身を乗り出して――さっきと同じ位置にある白い塔を見た。

 

 ――え? なんでまだそんな遠くにあるの?

 

 おれはいそいそと空飛ぶ板の中央へ戻り、そっとあぐらをかいた。

 

「なあイグナシオ。これなんで、前に進んでないんだ?」

 なんかぶつぶついいつつも、止まることなくスーパーヒーロー飛びをしているイグナシオの黒いローブの端は風を受けばたばたしている。つまり、風の抵抗は受けている。前に進む力は作用している。

 

「……ぬ? なに? これは」

 

 しかし、進行方向の下方にそびえ立つ白い塔との距離は縮まらない。

 物理法則が死んでる。

 さっきまでは普通に進んでた。

 いや、よくよく思い返せば、このごちゃごちゃなスラム街の上空が『長すぎた』ようにも思える。

 

「――『鳥殺し』か! しかし基石(きせき)は全て破壊した筈。ならばこんな真似ができるのは」

 

 まあ普通に考えると、こんなことができる存在はそうそういないだろう。

 おれが知る限りだと、ひとりぐらいしか。

 

「ただ独力のみで再展開せしめる存在――旧王家の正統か!」

 

 まあ、ヒルデガルド(姉さま)ぐらいだよな。こんなことできるのって。

 

 おれもヨランダも暗黙の了解として、ヒルデガルド(姉さま)の所在については欠片も口にしなかった。

 どう考えても最重要人物であるヒルデガルド(姉さま)が、ここいらのどっか近くに『落ちて来ている』なんて情報は、絶対に広めない方がいいに決まってる。

 どっかの間抜けはエレクトリカルキャッツパレードで大々的にアピールして、今もそのツケを払い続けているらしいが……いやいや、そんな馬鹿いるわけないじゃないか、ハハッ!

 

 まあとにかく、無事だろうとは思っていたけど、なんか空中の法則変えるぐらい元気みたいでなによりだ。

 

 

 

 

 5秒。

 

 

 

 

 昼間の、日が昇っている間のおれには、死角まで見通せるような超視界はない。

 

 

 

 4秒。

 

 

 

 ピラミッドさんのおかげか、こと闇に関しては異常なまでに見通せる超感覚も、日が昇っている内はどうにも鈍い。

 

 

 3秒。

 

 

 そんな、普通の視界と感覚しかないと思っていた昼間のおれにも、たったひとつだけ例外があったのを今知った。

 

 2秒。

 

 それは、おれが手ずからつくったもの。

 具体的には、ヨランダのメイド服の下に本当にあった謎ガーターに固定されていた、おれ産の黒杭。

 1秒。

 それが下から一直線におれへと飛来し、あと何秒でどういった軌道でおれへと接触するか。

 それら全てが、気持ち悪いぐらいはっきりと把握できた。

 

 

 ――あはっ。

 

 

 ヨランダが最高すぎる。

 手も足も出なかったおれに、こうして武器を届けてくれるとか、もう最高すぎて大好きになっちゃうだろこんなの!

 

 消極的な自殺しかできない状況から一気に『ぶちかませる』となったおれのテンションは、アホみたいにガン上がりした。

 

 だが。

 おれはすっかり忘れていた。

 

 たとえヨランダが最高だったとしても、それを受け取るおれはど素人だという事実を。

 

 下方から超スピードで飛来するおれ産の黒杭をキャッチしようと立ち上がり、予想ポイントに手を添えて、

 

 ゼロ。

 

 ばぎんと。

 おれが乗せられていた『浮かぶ板』を貫通し、把握していた予定通りのポイントへ黒杭は到達した。

 

 だがそこにおれの手はない。

 ちょっと考えてみれば、まあそうなるよな、としかいいようがなかった。

 

 下方から飛来するのは『足場』をぶち抜く威力を秘めた、おれの腕半分ぐらいの大きさはある黒杭ロケット弾だ。

 そんなものが下から直撃した瞬間に、重心を低くくして踏ん張るでもなく、板の端にしがみつくでもなく、さあやってやるぞとうっきうきで棒立ちになっている子供サイズの軽量ボディなど、果たしてどうなるだろうか。

 

 バランスを取る、衝撃に備える、などといった思考は欠片も存在しない。

 下から来るのだから当然、まずは今いる足場にがつんと来るよな、という当たり前の順序がまるで頭にない。

 

 つまるところ、間抜け。

 そんなやつ、いとも簡単に、空中へ放り出される。

 

 本来なら、そういった落下事故を防ぐ目的で張られていた『囲い』も、回収予定ポイントを素通りしてさらに空高くへとかっ飛んで行った黒杭がぶち破った。

 

 どうやら板を中心にドーム状に張られていたらしい『囲い』が、埒外の一撃により瞬時に四散、おれが自由落下を始める頃にはもう影も形もなくなっていた。

 

 落ちる。

 背中から落下する。

 寒気。

 ダメだ、これは。

 

 ――死ぬ。

 

 間違いない。

 ヨランダは、最高だった。

 

 ただおれが、間抜けすぎた。

 だが間違いなく、ヨランダは最高だった。

 

 だからせめて、ヨランダまで間抜けにならないように。

 余計なことをしておれを殺した間抜けだと、後ろ指をさされない為に。

 彼女のおかげで、最後にせめて一矢報いたと、正しく事実を伝える為に。

 こんなおれにも、ごく普通に接してくれたあなたが、無意味に責められたりしない為に。

 

 

 

 ――イグナシオ。お前はここで、おれと一緒に死ね。

 

 

 

 驚愕を顔一杯に張りつけおれを見下ろすイグナシオ。

 その背後のさらに上方、天へとかっ飛んでゆく黒杭が、(イグナシオ)を挟んで、おれと一直線で結ばれた。

 

 おれ産の黒杭。

 おれの一部。

 来い。……来い! いいから! こっちに! そいつぶち抜いて! 飛んで来いっ! 

 

 全力で引く。意味があるかはわからない。ただなにがなんでも絶対にこっちに飛んで来いと、心底からありったけを引き絞った。

 

 耳のすぐ横を黒杭が通過した。

 ひゅ、と風切り音。

 

 イグナシオが弾かれ、きりもみ回転しながら落ちて行く。

 

 ……外した。

 当たったのは肩だった。

 

 野郎、ぎりぎりで避けやがった。

 

 空を飛べるあいつは、あれで死ぬことはない。

 空を飛べないおれは、これで死ぬ以外はない。

 

 ……泣き言は、やめよう。

 そんなのは趣味じゃない。

 どうせならボジティブだ。

 たとえばそう。

 あんなにも最高にできるヨランダは、きっとこういうケースも考えてた。

 最悪、おれが撃ち落されても大丈夫だという確信があったから、おれに向け黒杭ロケットをぶっ放した。

 

 こっちの方向には、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、まあ死にはしないだろうと、そう確信したからヨランダは行動に出た。

 

 なんて、そんなこ――衝撃。

 下ではなく横へ。なにかがぶつかった。不思議と痛みはない。

 身体の動きに首が、視界がついていけず、さらに衝撃。なにかが砕ける音とへし折れる音と「オーナーちぎれる!」という若い女の叫び声を最後に、意味不明の破砕音しか聞こえなくなる。反射的に目を守ろうときつく目蓋を閉じる。両手は顔の前で交差。

 

 叩きつけられてぶん殴られてを全身で味わう最低なツアーを2週ほどしたところで、ようやく全てが止まった。

 

 ……最初に気がついたのは、息ができない、という異常事態。

 

 わけがわからずパニックになりかけるが、この感覚には覚えがあった。

 これはあれだ、ガチの黒帯のやつに加減を間違われて、思いがけず最高の背負い投げを喰らってしまった時と同じやつだ。だからおれいったよなあ柔道部はトーナメントから省こうって勝負になるわけねーじゃん体育の授業だぞバカ!

 

 記憶の扉がそっと閉まると同時に、激しくむせる。

 吸い込む空気に混じる、独特のにおい。

 おれが知っているものよりずっと濃くて、なんだか薬草っぽくて、けれども間違いないと断言できる煙草のにおい。より正確にいえば、煙草の葉のにおい。

 

 自分の血で張り付いた目蓋を拭いつつ、ゆっくりと目を開ける。

 

 そこは荒れ果てた室内だった。

 

 家具や調度品の類は軒並みばきばきに破損し、今もそこらに細かい木屑を撒き散らしている。それに混じって、さっき感じたにおいの元であろう煙草の葉らしきものが、ふわふわと大量に宙を漂っていた。

 

 この量と種類からして、個人の嗜好品というわけではないだろう。

 どことなく店構えのようにも見える一角もあることから、きっとここは煙草屋だ。

 工場の大量生産品を仕入れて売るのではなく、職人が1本1本手巻きするハンドメイドの煙草屋。

 たぶん、おれが突っ込んで来たからぐっちゃぐっちゃになってしまった、地元の店。

 

 その奥で倒れている爺さんの姿を見つけたおれは、思わず駆け寄ろうとして……危うく、足下で寝転がっているもうひとりを踏んでしまいそうになった。

 

 こっちは婆さんだった。意識はないようで、静かに目を閉じている。

 さっきちらっと見た『魔女の巫女』が着ていたような、占い師とカンフー道着を足して2で割ったような服の重ね着派手派手バージョンみたいな格好をしている。

 たぶんこれが、この地方の女性が着る一般的なデザインの服なのだろう。

 方向性としては、アオザイとかあっちの方か?

 

 などと考えつつも、とりあえず起こそうと側にしゃがみ込み……その足を見てしまった。

 

 派手な格好をした婆さんの右足、靴が脱げて裾が破れた(すね)から、折れた骨が飛び出していた。

 ……本気の重傷だ。

 

 やってしまった。

 これはダメだ。

 本気でダメだ。

 

 全然関係のない爺さんと婆さんを、巻き込んでしまった。

 

 きっとイグナシオは、すぐにまた来る。

 手負いとなり死に物狂いのあいつが、

 

 目眩。

 膝をつき、立ち上がれなくなる。

 吐き気と同時にばたばたっと、大粒の雨みたいな血が落ちる。

 

 あ、やべこれ。

 

 おれも、本気の重傷っぽい。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7.1 湿地帰りの蜚蠊(ごきぶり)

 

 

 半世紀ほど昔の話だ。

 

 まだ彼が若かりし青年だった頃。

 まだ魔王(ゲオルギウス)による(くさび)が各地に打ち込まれるずっと前。

 まだ蜥蜴(とかげ)と呼ばれる異種族(隣人)が、領土拡大の野心に燃え滾っていた時分。

 

 

 地方商家の5男として生を受けた彼は、成人と同時に軍へと入隊した。

 不安定な情勢の煽りを受けた業績の悪化に伴う事業の縮小。従業員と一緒にカットされる、跡取りのスペアのスペアのさらに予備。ちなみに4男は漁師見習いとなり海へ行った。泳げなかった彼は陸を選んだ。

 

 有り体にいうところの口減らし。

 

 上等だ馬鹿野郎。2度と帰るかあんな家。

 そう吐き捨てた彼の言葉は、およそ半年後には現実となった。

 

 攻め寄せた蜥蜴の軍勢により故郷は壊滅。蜥蜴は捕虜をとらないという事実のみを残し他は全て消えた。

 

 行くあても帰る場所もない彼は惰性で軍に残り続けた。

 

 国境の番人などと呼ばれていた防衛拠点は既に陥落した。

 もうとっくの昔に『魔法』は解けていたのだと証明された。

 偽りとはったりをぐるぐる巻きにした涙ぐましい虚仮威(こけおど)しは、もはや通用しない。

 

 これは、顔も知らない祖父のさらに祖父あたりの尻拭い。

 

 やれ革命だなんだのと囀り、景気良くあれこれぶっ壊したそのツケだ。

 数えて3世代目には綺麗さっぱり消えていた『選ばれし力』とやら。

 ぽんと与えられた『それ』を前提につくられた国防計画の静かな破綻。

 もう守ってくれる『精霊さま』はいない。君たちの父祖が根絶やしにした。

 かつては貴族のお歴々がその命をもって御願い奉り(起動し)、瞬く間に侵略者を皆殺しにしてくれた『広域殲滅兵器(精霊さま)』はもう存在しない。

 なぜか?

 忌まわしき権威と残虐の象徴と声高に叫んだ君たちの父祖が、全て殺し尽くしたからだ。

 だからもう、君たち自身がやるしかないのだよ。

 

 そう告げる旧王家の紋をつける将官の言葉に「自分たちには関係のない昔話だ!」と反駁する声はなかった。

 理屈を戦わせる段階は、とうにすぎていた。

 誰かのせいにして事実から眼を逸らす余裕は既に踏み潰された。

 なにもしなければただ殺されるのみだという現実は、もう嫌というほど味わった。

 家族や知人の数が半分になったところで、いくら温厚な者でも必然的にそうなった。

 

 湿地方面防衛軍。

 

 大仰な名こそついているがその実、大半が故郷を失った難民の寄せ集めである。

 正規の軍隊が敗北した相手に、果たしてそんな烏合の衆でなにができるというのか。

 

 旧王家の紋をつけた将官は語る。

 

 

 軍部の首脳陣はこの辺境――南部一帯を見捨てる腹積もりだ。

 蜥蜴どもの性質と総数からして、占領されるであろう土地面積は許容範囲内だそうだ。

 そんなことより今は、東から押し寄せる四つ腕どもに注力すべきなのだと。

 高官の別荘や保養地が無数にある、富裕層の集中する東部一帯を守るのは自明の理だと。

 ……まあ、そんなものよ。

 所詮彼奴等は金や地位の犬。儲かるから、偉そうにふんぞり返って居られるからその椅子に座するだけの雇人。

 だが、我は違う。

 我は、我々は、この地に対し責を負う一族。

 刮目せよ、捨てられし哀れな民たちよ。

 この旧王家第5王子フィリップが、諸君らと共に、屍を晒しに来てやったぞ。

 せめて、女子供を逃がす時間ぐらい、稼いでみせようじゃあないか。

 

 

 通常なら、こんな身も蓋もない内容を大声でいってしまえば、烏合の衆は瓦解する。見捨てられて他方面からも攻められて絶対絶命。

 死ぬのは嫌だ、やってられるか、お前だけでやれ、などと銘銘(めいめい)にわめきながら一気に四散し収拾がつかなくなる。

 いくら女子供を逃がすという大義名分があったとしても『だから死兵になれ』といわれて『はいわかりました』とはならない。

 百歩譲って軍人ならまだしも、湿地方面防衛軍の大半は民兵もどきだ。

 状況やできることを勘案すればそうなるからといって、本当にそれが実行できる鉄の精神など持ち合わせてはいない。

 

 だというのに。

 どうしてか、これが通った。

 するり、と各人の胸の内に染み渡り、誇り高き決意の火種となった。

 

 

 もう守るべき誰かなど存在すらしない彼まで()()()()()のだから、きっとここで第5王子は()()()()()()

 常人にはまずできないそれを、進んで(みずか)らの手で選び()()()()

 それは。

 いうなれば、()(せん)も等しく誇り高くさせる、英雄譚への片道切符。

 受け取った覚えがなくとも、知らずに血肉となっている、下々の是非など歯牙にもかけない王権よりの下賜。

 なるほど、頑なに『志願兵』という形式を固持したのはせめてもの情けだったか。

 

 

 周囲の士気が天井知らずに上昇してゆく中、彼の内で膨れ上がる違和感。

 その家業から誰かを『使う』立場だった彼には、この気高く尊い決意があまりにも綺麗すぎて、どうにも薄気味悪かった。

 10名もいれば2、3はどうしようもない奴が紛れているのが常なのに、軽く千を超えるこの場の全てが『気高く美しい』という現実に、全拠点を合計すれば万に届こうかというその全員がきっと『こうなる』であろう確信めいた予感に、なぜか背筋が寒くなった。

 

 ただ第5王子の言は正論でもある。

 亀のような歩みで逃げることしかできない、膨大な数の非戦闘員を安全圏まで逃がすには、誰かが時間を稼ぐ他ない。

 なりゆきで入った軍とはいえ、ここで立たねば、とんだ恥さらしなのでは? ここで奮起できぬような軟弱者では……あまり好きではなかったが、それでも成人までは育ててくれた亡き両親に対し、とてもじゃないが顔向けなどできぬのでは?

 

 例に漏れず、すぐに彼も気高くなった。 

 

 

 そうして即席の死兵と蜥蜴(怪物)の軍勢との、お世辞にも戦いなどとは呼べはしない、しかし恐るべき速さで命が消費されてゆく、歪な絡み合いが始まった。

 

 

 そもそもの大前提として。

 まず、勝てない。

 

 しっかりと鍛錬を積んだ国境守備隊の正規兵を正面から蹴散らす蜥蜴の戦士を相手に、槍が弾かれたと敵に背を向け拾いに行くレベルの素人が太刀打ちできるわけがない。

 

 練度だけではない。生き物としての基本性能にも隔たりがあった。

 

 身体の大きさは同程度だが力はずっと向こうの方が強い。鎧の下にはさらに鱗があり多少の攻撃ではびくともしない。一息で2、3人は跳び越える頭抜けた跳躍を軸とした別次元の集団戦法の前には為す術もない。

 

 だから根本から見直した。

 

 ろくに使えもしない武器に固執し振り回され、なにもできないまま串刺しにされるぐらいならいっそ無手で組み付いた方が有効だという、実利以外の全てを削ぎ落とした、まるで冗談のような結論が採用されるに至った。

 

 湧きあがる恐怖は、溢れ出す勇気が押し流す。

 そうして動きを封じたのなら次は。

 

 幾度かの試行錯誤を経て考案された『仕手(して)』と『討手(うって)』という役割分担。

 難しいことなどできやしないので、誰でも簡単に理解できる単純明快な仕組み。

 

 盾を構えた『仕手(して)』が先陣を切り肉迫し組み付く。

 さすがの蜥蜴も腰に1人ぶらさげた状態ではろくに身動きが取れない。

 

 そこを『討手(うって)』が仕留める。

 鎧の隙間に槍の穂先をねじ込む技術などないので、どでかい棍棒を大上段に構え突撃し、身動きできない対象の頭部をひたすらに叩き続ける。これなら技術など関係ない。いくら鎧や鱗が厚かろうとお構いなしに潰せる。

 

 これなら倒せる。殺せる。勝てる。

 

 そんな、笑い話にもならない絵空事を、数え切れない程の死兵が本気でやった。

 

 活動圏内に森があったのがいけなかった。

 避難民の中に大勢の木こりが居たのも運がなかった。

 盾や棍棒を量産できる職人がそれなりに居たのもよくなかった。

 第5王子の下、統制だけはほぼ完璧にとれていたのが最もダメだった。

 こちらは守る側なので、蜥蜴の投槍や矢などの飛び道具は陣地に篭ってやり過ごし、しかる後に来る突撃にのみ当たればいいという、一応のかたちとして成立してしまったのも本当にどうしようもなかった。

 

 討手を担えるほど――大振りな鈍器を振り回せるほど体格に恵まれていなかった彼は、仕手として参加した最初の防衛戦でいくつかの学びを得た。

 

 べつに彼が特別(さと)かったわけではない。

 隣を走っていた戦友たちが、その命をもって教えてくれたのだ。

 

 

 ひとつ。

 槍で1、2回突き刺されたぐらいでは、そうそう即死などしない。

 

 ひとつ。

 たとえ致命傷を受けても、本当に動けなくなるまで、平均しておよそ100秒ほどの猶予がある。

 

 ひとつ。

 最初から『そのつもり』でことに臨んだならば、よほど不運でない限り組み付くぐらいはできる。死に際の馬鹿力は2つほど道理を超える。

 

 ひとつ。

 最初の1撃を基本通りに盾で逸らせば、長槍の内側には無傷で入れる。

 

 ひとつ。

 蜥蜴の尻尾には気をつけろ。

 

 ひとつ。

 女神は、実在した。

 

 

 ほぼ新兵も同然だった彼だが、それでも他の民兵もどきとは違い、一通りの基礎訓練は済んでいた。

 それが功を奏したのか、教えられた基本通りに盾を使い、そのまま無傷で蜥蜴の腰にかぶりつくことに成功した。蜥蜴の纏うざらついた皮鎧の感触が汗でぬめる手に吸い付いた。

 

 そこでどうしてか、不意に彼は幼い頃兄たちと取った相撲(すもう)を思い出した。

 年少で力に劣る彼が兄たちに勝つには……。

 

 蜥蜴の腰に手を回したまま、すすすと背後へまわる。

 その途中、ぐにゃりとなにかを踏んだ。

 足首が捻れバランスを崩し、近づく地面にあったそれは――尻尾だった。

 個体差はあれど蜥蜴の尻には必ずついているあれ。

 どうやらこいつは長いタイプだったらしく、地につく程の長さだったそれに足を取られた彼は、蜥蜴諸共派手にすっ転んだ。

 

 一瞬の空白の後、まるで子供のケンカのような揉み合いが始まる。

 微笑ましさなど欠片もない。

 命懸けの、本気の組み合いだ。

 腰の短刀を抜こうとする蜥蜴と必死にそれを押さえつけ阻止する彼。

 当然、腕力では敵わない。この拮抗は長くはもたない。

 彼が死ぬまで後ほんの、

 

 そこで彼は見た。

 

 女神を、見た。

 

 彼に圧し掛かる蜥蜴の首が、ぼとりと落ちたその向こう。

 

 得物に付いた血を払い、すぐさま次へと駆け出す、その美しい姿を見た。

 

 一刀で蜥蜴の首を飛ばし、打ち合っては押し切り、仕手が手間取っている箇所を的確に処理して行くその圧倒的な勇姿を見た彼の脳裏に浮かぶ酒の席での与太話。

 

 

 ――神兵部隊。

 

 

 まことしやかに囁かれていた、異種族を『単独で正面から打倒』するなどという、まるで現実味のない絵空事。あったらいいなの寄せ集め。彼我の差を知る誰もが一度は口にする、愚痴の中に潜ませた切なる願い。

 

 もしそんなものが現実に降り立ったのなら。

 そしてそれが美しい女の姿をしていたのなら。

 

 呆けていた彼の足下に蜥蜴の長槍が放り投げられる。女神からの神託が下される。

 

 ――さぼってんじゃないよ。まだ息のあるトカゲを突いてまわりな。

 

 女神の凄みに尻を蹴られた彼は飛び上がるように駆け出した。

 

 

 

 

 あれは軍属ではなく、第5王子の身を案じた旧王家からの私的な増援。

 どうやら各戦域に2、3名ずつ『同様の存在(英雄)』が配置されていたらしい。

 勇気あるひとりが「貴方は一体?」と直に聞いた答えは「主命によりお答えできません。しかし蜥蜴を狩れと命を受けここへ来ました。つまりは味方です」とのこと。

 

 どうにか生き延び陣地へと帰った彼が耳にしたのは、そんな熱を帯びた噂話の数々だった。

 

 誰かと誰かが話し合えば、もれなく与太話が生まれると知っていた彼は話半分に聞き流し、まあ3割ほど減った仲間の数に消沈するよりはましかと、野暮はいわないでおいた。

 

 彼は疲れ果てていた。

 おそらくはこの数時間だけで一生分の蜥蜴を突き殺した。もはや立っているのも億劫だ。

 だが飯を食わねば疲れは取れない。

 なので彼は美味くも不味くもない配給食を素早く受け取り、そこらで適当にささっと流し込もうとしたところで、

 

 粗末なテーブルの上で、普通に飯を食っている女神と再会した。

 

 女神はひとりではなく、場違いな連れと一緒だった。

 どう見ても(とお)にも満たないであろう、軍服を着た子供。

 ほんの一瞬だけ躊躇した彼だったが、すぐさま相席しても良いかと聞く。

 他を『使う』立場だった経験から、萎縮するより先に訊ねる程度の経験値はあった。

 

 ――ターナさま。悪い虫に構うことはないかと。

 

 軍服の女児には嫌われたようだったが、本人から「いいよ」とのお許しが出たので席につく。

 そうして彼は、彼女と色々なことを話した。疲れなど一瞬で吹き飛んでいた。

 

 彼女の名はターナといい、なんでも旧王家の中でもぶっちぎりでやばい奴の下についてしまい、そのせいでここに来る破目になったと。

 

 また彼女は他の『英雄さま』たちとは立場が違い、これといって特に偉かったりはしないらしい。

 なのでそんなお偉い方々と同じ空間に居ると苛められるので、こうして一般区画に避難して来ているのだと。

 

 ――いやターナさま、ウルバーノさまのアゴ割りましたよね? 泣き入っても止めませんでしたよね? 私が止めなきゃ、眼球えぐってましたよね?

 

 この女児は彼女専用の医者のようなものであり、まあ他の者に対しては特にできることもないので気にしなくていいと。

 

 ――私がウルバーノさまの怪我をどうにかしなきゃ、たぶん王子通り越して姫様まで話いってましたよ。ええ、あのプライドの高いウルバーノさま(くそばか)が自分でいうことはないでしょうから大丈夫だとは思いますが。

 

 見ての通りこの女児――ヴィクトリアちゃんは最高に可愛くて頭が良い世界の至宝なので、もし困っているのを見かけたら助けてやってくれと。

 

 ――そんな露骨に擦り寄られてもそう長くは隠し切れませんよ。え? 姫様は問題ない? 生殺与奪の自由? あの、そういう本気で頭おかしいの反応に困るんでやめてください。

 

 思いのほか彼女は気安かった。肩の力を抜いてごく自然に喋るその様につられて、つい彼は余計なことをいってしまった。

 

 覚えていないかもしれないが、今日は助けてくれてありがとう。まるで女神のようだった。

 

 彼女は噴き出した。それが顔に直撃したヴィクトリアちゃんは心底嫌そうにハンカチを取り出した。彼女はいった。

 

 畏れ多いことをいうな。そういうのはもう沢山だ。それにあそこまで生き延びたのは間違いなくお前の実力だ。まずはそれを誇れ。あの蜥蜴にへばりつき素早くかさかさと背後にまわる、まるで蜚蠊(ごきぶり)のような素早い動きは中々のものだった。

 

 ――それ悪口ですからね? ターナさまって、そうやって自然に相手を見下すところがありますから、本当に気をつけた方がいいと思います。

 

 そのやり取りを聞いていた数名の戦友の悪乗りと嫉妬から、彼のあだ名は蜚蠊(ごきぶり)になった。

 

 どう考えても悪口の類なのだが、女神につけられた名だと思えば拒絶する気にもなれなかった。

 

 

 

 

 蜥蜴の軍勢の第2波が撤退した時点で味方の数は半分以下になったが、それでも彼は生き延びた。

 理由はただひとつ。

 運よく女神の近くに配置されたからだ。

 どうやら女神は、怪物ぞろいの『英雄さま』たちの中でもさらに一線を画す別格の存在であるらしいと、その働きを見た誰もが理解し始めた。

 

 女神がいる戦域では死亡率が目に見えて下がる。

 その事実は、どんな説法よりも有り難く神々しい。

 

 すぐに女神は『皆の女神』となった。

 どんなへそ曲がりも、一度戦場でその姿を見れば必ずぞっこんになった。

 

 きっと女神はこちらを向いてなどいない。あれは別の理で生きてる。それぐらいわかってる。

 だが同じ戦場に居る限り視界には入る。ならば。

 情けない姿を見せたくない。腰抜けだと思われたくない。タフでありたい。最後まで。

 そんなどこにでもある当然の見栄が幾重にも重なり、地獄を回す歯車の潤滑油となる。

 自壊前提の機構が最大効率を叩き出すことで、ほんの一瞬だけ、終わりまでの時間を引き延ばす。

 どこかの誰かが1歩でも蜥蜴どもから遠ざかる為の、黄金にも勝る価値を持つ一瞬だ。

 

 少なくとも彼はそう信じた。

 

 ちょっとした小康状態の間に『志願兵』の補充があり、数だけは最大時の8割ほどに戻った湿地方面防衛軍だったが……蜥蜴どもの第3波が撤退した後には、補充前よりさらに少なくなっていた。

 そもそもが死兵の群れなので、もはや数字の大小にはさほど動じないという振り切れた有様だったのだが、それでも今回の損失には少なからず衝撃が走った。

 ここで初めて『英雄さま』から死者が出たのだ。

 

 支柱たる存在に陰りが見え始めたが、しかし全体の統制だけは揺るがない。

 女神と英雄と王子。それぞれが奇跡的に噛み合い、湿地方面防衛軍の瓦解を阻止し続けていた。一度閉じた地獄の蓋は、そうそう簡単には開かない。

 

 だがそれでも、第4波を半ば共倒れのように潰した頃にはもう、たぶん次で自分たちは全員死ぬのだろうなと、皆誰もが理解していた。

 

 第4波防衛の際、王子は戦死した。

 先にゆく。ついて来るでないぞ。

 

 笑いながらそう残した旧王家第5王子は、最初の宣言通りに、半壊した屍を晒した。

 彼の言葉は全て事実であり嘘はひとつもなかった。

 

 この地に縁もゆかりもなかった第5王子は、本当にただ女子供を逃がす為だけに、死にに来たのだ。

 

 そこまで()()()おいて、今さら元々の住人であった彼らだけが逃げ出す気には、どうしてもなれなかった。

 借り物だった気高さは、王子の死をもって自身の一部と成り果てた。

 

 まだ非戦闘員の避難は完了していない。その半数は手が届いてしまう距離にある。

 なら、しょうがないか。

 できる限り、やるしかないか。

 

 そんな諦めにも似たなにかが充満するのを見かねたのか、もはや唯一の希望となった女神がぽつぽつと語り始めた。

 

 これはしょぼくれたお前たちを騙すうそっぱちだ。安い気休めだ。

 

 そんな前置きから始まった、かつてどこかの馬鹿女が信じたという神様のお話。

 

 タチの悪い連中の詐欺だなどといいつつも、誰から見ても、今でも信じているのが一目でわかる、決して優しくはない、しかし救いに満ちたおとぎ話。

 

 他の誰でもない『女神』が語るのも大きかっただろう。

 

 お前も信じろ、などとは一言もいわれなかった。

 信じたいと、誰もが請い焦がれた。

 自分達は必ず報われるのだという約束に、唾を吐ける者などいなかった。

 

 彼らはその人生で初めて、心からなにかに祈りを捧げた。

 

 そこで、ぽう、と。

 

 まるでそれに応えるかのように、真っ暗な平原のあちこちが、仄暗い光に満たされた。

 彼は思い出す。そういえば今夜は満月だった。

 回収できてない遺体は優に千を超える。

 同じ数の仄暗い光が天へと帰ってゆく。

 ひとつひとつは小さくとも、数が数だ。

 それはまるで、地より立ち昇る光の滝。

 

 わかっている。

 これは単なる自然現象。ただいつものように『猫が来た』だけ。

 

 しかしつい彼は女神へ問うた。

 自分たちも、こうして御許へ行けるのだろうか。

 

 女神は答えた。

 行くだけなら誰でもできる。褒められるかはお前たち次第だ。

 

 それが結果にどう作用したのかなんて、誰にもわからない。

 

 ただ総員の9割が戦死し、湿地方面防衛戦は勝利の報を響かせた。

 

 昔の話だ。

 もうほとんど思い出すことさえなくなった、遠い昔の話だった。

 

 不意に訪れた、夜空の大河を見るまでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 空から女神が降ってくるのはまあいい。

 詩的な比喩ではなく、彼女ならそれぐらいの無茶は当然のようにやってのける。今さら驚くようなことではない。

 

 店が半壊したのも旧市街(ここ)では些事の類だ。どこかの馬鹿が暴れる度に、いちいち気にしていてはキリがない。だからそれも、まあどうでもいい。

 

 そう最短で気を持ち直した彼は、まずは自身の確認をした。

 咄嗟に伏せたおかげで目立った損傷はない。問題なく動ける。

 

 ゆっくりと具合を確かめながら立ち上がった彼は、荒れ果てた室内を見渡し――やはり居た。見間違いではなかった。片足を負傷した女神が倒れていた。

 

 彼女が怪我を負う時点で特大の異常事態。

 

 おそらくはその原因と思しき、四つん這いになって激しくむせている子供。

 長い黒髪からしておそらくは女児か。しかしその服装はとても女児が着るようなものではなく、どちらかといえばヤクザ者が好みそうな上下一式。……まともな趣味ではない。

 

 眺めていても埒が明かないと、彼は声をかけてみる。

 

「おい嬢ちゃん、大丈夫か?」

 

 こちらを見た女児の顔は――魔女(ローゼガルド)に瓜二つだった。

 あえて言葉にするならそう、反吐が出るほど綺麗で冷たい。

 どんな馬鹿でも一瞬でわかる。

 これは最悪の厄ネタだと。

 

 返事をしようとした女児が吐いた。吐瀉物に血が混じっている。どう考えても大丈夫ではない。

 それによく見ると、ばたばたと大粒の血を落としている。

 あの出血量。頭でも切ったか。

 彼は一瞬だけ考えてから、なにか血止めに使えそうなものはないかと、ひっくり返っている室内をさらにかき回すと……懐かしい物が出てきた。

 

 それは一振りの歪な短刀。

 刃の一部を加工し『かえし』をつくることで、一度刺さればそう簡単には抜けないよう調整された特別製。

 仲間内では『留め金』と呼ばれた、遠い昔の記念品。

 

 これといった理由があったわけではない。

 しかし彼はそれを、そっと懐に忍ばせた。

 

「あの」

 細く高い子供の声に振り向く。

 魔女と同じ顔をしたそれは、口元を袖で拭いながら息も絶え絶えに続けた。

 

「すぐに、ヘンなローブを重ね着した、偉そうなヤツが来るだろうから」

 

 むせて、吐いて、構わず続ける。

 

「わたしは外へ逃げたと、正直にいえば、たぶんあなたは大丈夫だから、それで」

 

 そこで一度、大きく深呼吸して。

 

「損害の補填は、現当主のヒルデガルドへ、そのままを伝えて」

 

 途切れ途切れにいいながら立ち上がり、覚束ない足取りで外へ向かう。

 

 彼は小さく「おう」としかいえなかった。

 てっきり『手を貸せ』や『助けろ』といった要求が飛んで来るものだとばかり思っていた。

 しかし実際には、どう見ても窮地なのに、欠片もそんな素振りを見せない。

 それどころか、彼が『無事に済む』であろう手順と損害の補填を伝えてくる始末。

 

 底抜けのお人よしか、あるいは、こちらに対してなにひとつ期待していないか。

 

 反射的に声をかけようとした彼だったが――いつの間にか目覚めていた女神の『黙ってろ』のサインに従った。

 

 小さな背が戸口に吸い込まれ、視界から消える。

 

「……あの(なり)で殊勝なこといわれると、ケツがむず痒くなりやがるなァ」

「まあね。だが()れ物としちゃあ、特上品だろうさ」

 

 むくりと上体を起こした女神が一目見て、こりゃどうしようもないねと、自身の片足を諦めた。

 

「ハハ、歳食ったなあ女神さま。高い所から落ちたぐらいでそのザマたァ」

「うるさいね。無駄口はいいからさっさと備えな。あとその呼び方はやめろって何回いわせるんだい」

 

 ()れ物。備えろ。嫌な言葉が積み重なる。

 こういう時はひとつずつ。

 

「備えろって……何に?」

「闇の薔薇の副首領。ちらっと見ただけだが、たぶん単騎で手負いだ。やってやれないことはないさ」

 

 羽織を一枚脱ぎ、飛び出た骨を押し込むようにぐるぐる巻きにする。

 その言動を見るに、

 

「その足で、やろうってのか?」

「おまえもやるんだよ」

 

 闇の薔薇の副首領。たしか名はイグナシオ。狂人たちのまとめ役。名の知れた本物の外道。やくざ者が避けて通る、殺しに特化した魔術の使い手。

 老いた凡人でしかない彼が、どう逆立ちしても敵う道理のない相手。

 その道理を飛び越えるには。

 

「……こんな老いぼれに、また『あれ』をやれってか?」

「誰を守る戦いだと思ってるんだい? きっとどいつもこいつも、こぞって代わりたがる。けどもうおまえぐらいしかいないからね。猛れよ。使いどころさ」

 

 外見と振る舞いとの違和感。女神が躊躇なく命を張る相手。

 とうとう彼は、それに触れた。

 

「さっきのありゃ、誰だ?」

「昨夜来た私の恩人さ。おまえも見ただろ、光の河を」

 

 この世で唯一、この女神だけは絶対に、その手の嘘はいわない。

 だからきっと、これは事実だ。

 

 ……余りにもことが大きすぎてどう取ればいいのか、彼にはさっぱりわからなかった。

 だからとりあえず、現実的な話にいった。

 

「歳を考えやがれ。もう動くモンもろくに動きやしねェ。今さらあんな真似、できるかってんだよ」

「できるさ、おまえなら。腹くくりな。おまえは今日ここで、私と死ぬんだよ」

 

 そうまでいわれちゃあ、しょうがないか。

 

「それにおまえ、考えてもみな。ここまで老いぼれても、かの副首領と相討ちまでやってのけるんだ。もうナメたこという奴なんざ、後にも先にも出てきやしないよ」

 

 まいった。この女神、歳を重ねてからは理屈を繰る術まで身につけたものだから始末に負えない。

 

 

 

 

 

 それは、あの湿地防衛戦から10年ほどが経った頃。

 なにをいったところで「けどお前らは自国民を見捨てたよな?」で全てが叩き落され、信用も発言力も底をついた前権力残党の放った最後の苦し紛れ。

 

 あの湿地の悪夢、さも美談かのように語られる夥しい数の戦死者は、実は旧王家の謀略によって強制的に()()()()()()()哀れな犠牲者たちであると。

 英雄とされている第5王子フィリップによる怪しげな力で操られた、同情すべき生贄たちであり、権力層の刷新を企てた旧王家の薄汚い陰謀の被害者であると。

 もはや風前の灯となった前権力層の残党たちは、最後の力を振り絞り全力で吹聴した。

 証拠なんてひとつもない。ただそうだと声を荒げるだけの、酷く醜い悪あがき。

 本当にそんな力があるのなら、とっくにお前たちは蜥蜴の領土へ突撃してる。

 相手を責めたところで自分たちが見捨てた事実は変わらない。

 命を賭して女子供を逃がした英雄たちを貶める最低のやり口。

 こんなやり方で事態が好転するわけがないだろうと冷めた視線が集まる中、当の『生き残り組』だけは、皆一様にこう思った。

 

 ――おそらくこれは、事実だ。

 

 さすがに10年も経てば、当時の熱狂の不自然さに気づくことぐらいはできる。

 きっとこれを広めた連中の中には『生き残り組』の誰かがいる。

 

 どんな荒唐無稽に聞こえる内容だろうと、事実というやつは一定の説得力を持つ。 

 

 もし……もしこれが事実だと、万人の認めるところとなってしまえば。

 妻を家族を子供を逃がす為にと死んだ戦友(英雄)たちは、哀れな操り人形(被害者)へと成り下がるだろう。

 連中が見捨てたせいで、実際にあれより良い方法など誰にも提示できなかったというのに。

 あそこまでやっても、避難した非戦闘員の3割は行方不明となってしまった事実から、やらなければ確実に全滅していたと断言できるというのに。

 諸悪の根源かのように語られる第5王子も、結局は死んでも逃げなかった、誰もが認める湿地方面防衛軍の司令官だったというのに。

 彼が来てくれなければ、なにもできず、ただそのまま終わっていた。

 思うところがないといえば嘘になるが、それでも、その事実だけはしかと刻まれている。

 

 対して。

 

 自分たちを見捨てた連中が再び権力を握る為だけに、戦友たちの名誉を貶めている。

 英雄を被害者として再利用しようとしている。

 そんなことをしても『許される』と、心の底から、舐め腐っている。

 それを良しとできる者など、いる筈がなかった。

 全員の(はらわた)が煮えくり返った。

 

 ただ、それだけではなく。

 誰も口にしない、奥底に蠢く(おり)も確かにあった。

 どこへ行っても英雄として敬われる自分たちが、一転して哀れな被害者となる危機感。

 明確な『攻撃』に対する過剰なまでの『反撃』の意図。

 

 それらを全てをごちゃ混ぜにした、生き残った彼らによる、亡き戦友たちの『名誉を守る』活動が始まった。

 

 まずは……ふざけたことを抜かす阿呆には相応の報いを。

 とはいえ、向こうは腐っても権力者。返り討ちに遭うケースも多々あったが、彼らはあの『湿地方面防衛軍』の生き残りだ。命知らずの代名詞ともいえる存在だ。

 ならば、()()()振舞わなくてはならない。具体的にはそう、多少死んだところで構うものか。蜥蜴の軍勢に比べれば温い温い。笑い飛ばして、舐めたこと抜かす阿呆の首を飛ばして、彼らはしかと示す必要があった。誇り高く、荒っぽく、勇敢に、容赦なく、疑問の余地など挟まる隙間がないよう徹底的に。時にはこっそりと女神の手も借りて。

 

 

 

 

 

 そうして生き残った彼らの、嘘を本当にする努力は実りつつあった。

 

 湿地帰りはイカれてる。あいつらならきっと本当にやる。

 

 もう十分にも思えるが、なるほど確かに、最後の仕上げというのは大切だ。

 そう考えるとこれは、ただ古株というだけで顔役を張っている彼には勿体ないほどの(ひのき)舞台。

 同時に女神の(とも)までできるとなれば、もはや破格ですらある。

 決まりだ。

 ならどこでどう待ち伏せるかと、

 

 突然、室内に見知らぬ男が現れた。

 

 押し入って来た、飛び込んで来た、というわけではない。

 なんの前触れもなくぽんと、店番用の椅子が転がっていたその場に男は出現した。

 

 黒地に金の刺繍入りの派手なローブを幾重にも纏った男。

 おそらくこいつがイグナシオ。なるほど、右肩付近の布地が破れ、抉れた肉から血を滴らせている。確かに手負いだ。これは危うい。遊びがない。

 彼我の距離は、彼の足でおよそ4歩。

 

 陽が差し込む。

 

 穴の開いた天井、女神と『あの御方』がぶち破った、ついさっきできたばかりの新たな入り口。

 すっかり風通しのよくなったそこから、どうしてか、店番用の椅子が落ちて来た。

 がん、とイグナシオの後方で音を立てて、それが合図となる。

 

 きっとこれは、速さの勝負。

 

 片足が潰れ立ち上がることすらできない女神とこいつの、どちらが先に一撃を入れるかといった勝負。

 

 普通に考えて、女神に勝ち目なんて微塵もない、不意を突かれた時点でもう決まったような勝負。

 

 女神が飛んで、馬鹿でかい白い拳が振り抜かれて、ごすっ。

 鈍い音と同時に女神は吹き飛ばされ、安い壁をぶち抜きその向こうへ。

 

 ここでようやく彼は動き出せた。

 

 元々大した才などない凡人の身だ。

 年齢を加味すれば、これでも上出来なぐらいだろう。

 

 まさか向かって来るとは思わなかったのか、反応としては下の下。

 イグナシオは振り抜いたままだった馬鹿でかい白い拳を、そのまま裏拳のように振り払った。

 

 きっと奴は知らない。

 

 彼が似たような状況を、乱戦となり振り払われた蜥蜴の長槍を、どれだけの数、掻い潜ってきたのかを。

 できなきゃ死ぬを積み重ねた経験が、今の彼に可能な範囲で妥協しつつも駆動する。

 

 地を這う四足獣のように、一瞬だけ両手両足で床を掴み、頭上すれすれを白い塊が薙ぎ払う。

 

 そこで彼の腹が貫かれた。

 

 床に落ちた影から伸びた『白い棘』が、下から彼のどてっぱらをぶち抜いた。

 

 貫通しても棘は伸び続け、2メートルほどでようやく止まる。

 縫い付けられた彼の動きもびきりと止まる。

 棘の太さはおよそ指3本分といったところ。

 幸い正中線は外れた。まだ動ける。

 致命傷ではあるが、まだ死んではいない。

 

 きっと奴は知らない。

 

 この状況からでも、後100秒は彼が動くことを。

 ここからの死に物狂いは、2つほど道理を飛び越えることを。

 

 

「――いやいや! なにやってんの爺さん!」

 

 

 カン高い大声に眼を向けると、出て行った筈の『あの御方』が戸口にいた。

 

 どうして、戻ってきたのか。

 

「いや、なんで!? 外へ逃げたって正直にいえって、いったよな!?」

 

 イグナシオの眼が、もう『殺した』彼から戸口へと向いた。

 白い棘が消える。彼の身体が自由になる。

 馬鹿め。

 殺したぐらいで、止まると思うてか。

 

「――ああもう! なあ爺さん! 外で婆さんから、あなたの名は蜚蠊(ごきぶり)だって聞いたけど、それ本当!?」

 

 なぜ今そんなことを訊くのか彼にはわからない。

 

 ただ、本当かと問われれば。

 防衛戦から数年後、海へ出た兄である4男が海賊として手配され、彼はお尋ね者の身内となった。

 追われるように軍を辞してからは、そのまま本名を名乗るわけにもいかず、女神から貰った『これ』で通すようになった。

 もはや彼の人生では蜚蠊(ごきぶり)と名乗り生きた時間の方が長い。

 なのでそれが本当かと問われれば。

 

(まこと)にごぜえやす。一度聞いたら忘れない、洒落た名でしょうや」

 

 踏み出す。詰める。

 手が届くまで、あと2歩。

 

 

「だから! なんで突っ込む!?」

 

 

 ばきっ。

 となにかが安い木壁をぶち抜く音。

 続く風切り音。

 黒く細長い杭のようななにかが壁を突き破り飛来。そのままイグナシオのこめかみに激突――した筈なのに、どうしてか奴は一瞬だけ消えて、さらに後ろへぽんと現れた。

 

 空振りする黒い杭。その下で転がる店番用の椅子。

 せっかくあと2歩まで詰めた距離が、また4歩まで遠ざかる。

 

 だが奴までは一直線。

 彼は迷わず続行する。

 

 仔細は不明だがおそらくは魔術の類。奴は『跳び』やがる。

 蜥蜴(とかげ)は腰に1人ぶらさげた状態ではろくに身動きが取れなくなった。飛べなくなった。

 果たして奴は、どうだろうか。

 

 空を切った黒い杭がぐにゃりと軌道を曲げ、再度イグナシオへと向かう。

 

 走る彼と黒い杭。同時に迫る2つ。

 

 イグナシオは杭の方へ白い手をぶつけた。2つ3つ4つと次々と白い手を重ねて、押し潰すようにして杭を押さえ込んだ。

 

 だからといって、彼の方がガラ空きになるわけがない。

 踏みしめる次の1歩の先に飛び出す白い棘。

 来るとわかっているなら避けられる。

 無様に転がりはするものの、減速はほぼなし。

 よしかわしたと思った彼の背後から伸びる2本目。

 

 この性悪め。影からじゃなくても出せるなら、先にいっとけ。

 

 背後から首を突かれ、ノドから飛び出す白い棘。

 さあ目的を果たすぞと、防御も回避も頭から抜け落ちるその瞬間、背後より迫る不可避の一刺し。

 これは流石に、

 

 ――おまえは今日ここで、私と死ぬんだよ。

 

 まだだ。幸いにも背後から刺されたかたちだ。前に進めば勝手に抜ける。行け。進め。

 

 しかし身体は動かない。

 ひと足先に、もう機能が死んで、

 

 

「死ぬなッ! 走れェッ! 蜚蠊(ごきぶり)ィッ!!」

 

 

 なにかが満ちて、爆ぜた。

 

 全盛期を軽く超える、力と速度に満ちた、跳躍じみた1歩。

 2歩で組み付き、(くわ)えた鞘から『留め金』を引き抜く。

 

 

 湿地方面防衛軍仕手方(してがた)配給装備、特殊短刀2型。通称留め金。

 それは一振りの歪な短刀。

 刃の一部を加工し『かえし』をつくることで、一度刺さればそう簡単には抜けないよう調整された特別製。

 

 相手の身体に、自分の死体を縫い付ける為に用意された、本当にあった悪い冗談。

 組み付いた手の平ごと相手の身体に突き刺し、死ぬまでかぶりつき、死んだ後も固定し続けるを目的とした、他の全てを振り切った狂気の沙汰。

 

 

 蜥蜴(とかげ)はその身体的構造上、尻尾の付け根周辺には鎧を纏えなかった。そこが狙い目だった。

 それに比べるとこいつは、どこにでも刺さる。刺せる。刺した。

 見えずとも感覚でいける。己の左手、骨と骨の隙間を通す。最後の仕上げに少しだけ捻り、

 固定、完了。

 ここから先は、速さの勝負だ。

 彼が負けたことは、まだない。

 なぜなら。

 

 イグナシオが彼の首を落とそうと、手刀を振りかぶる。

 さっきのように『跳んで』逃げず、まず排除にかかる。

 やはり彼がいては『跳べない』らしい。

 確信する。ならばお前は間に合わない。

 

 きっとこいつは知らない。

 女神がいる戦域で、仕手(して)たる彼が死んだことは、まだ1度もないのだ。

 

 手刀より速く落ちて来る。

 覚悟を決めた重石により身動きがとれない、イグナシオ(標的)目掛けて落ちて来る。

 頭上に空いた、さっき彼女自身がぶち破った天井の大穴から。

 いつも通り、最強の女神(討手)が落ちて来た。

 

 気づいたイグナシオが、上を向き頬をへこませる。

 暗器か目潰しか、なにかを吐き出す予備動作。こいつもまた諦めない。

 彼は迷わず手を伸ばす。大雑把に口を塞ぐ。手の平に激痛。しかし力は緩めない。押さえ続けるあと少し。次いで脇腹に衝撃。逆手の手刀をねじ込まれた。力が緩む。しかしこういう時こそ固定が生きる。踏ん張るだけで現状は維持される。イグナシオが椅子を蹴る。暴れるなと踵で踏みつける。この手の揉み合いに才能は関係ない。どこまで無様に足掻けるか。喰らい付けるか。彼は叫ぶ。声にはならぬが張り上げる。お前が死ぬまでだ。

 

 逆向きのまま、女神の得物がきらりと瞬く。

 それは、試行錯誤の末に辿り着いたひとつの答え。

 基本性能で押し切れた若かりし頃には想像もつかなかった圧倒的効率。

 

 毛先ほどの傷さえつければ。そうして血中に流し込みさえすれば。

 

 1つ、2つ、3つ。

 

 細い針で突かれただけの、傷とも呼べない極小の損壊。

 

 彼女が望んだ、最も効率良く、100を相手にやり抜く手管。

 

 

 毒。

 

 

 すぐさまイグナシオの全身から力が抜ける。

 彼は知っている。

 あれを3つも喰らえば、まず即死だと。

 

 受け身もなにもなく、落下した女神が床に叩きつけられる。

 ただ頭からではなく肩から接地したので、まあ命に別状はあるまい。

 

 彼はひとつ息を吐く。

 やった。成し遂げた。

 

 ぐらりと倒れるイグナシオの身体に、彼はなす術もなく引っ張られる。

 もはや踏ん張る力も底をついた。

 どてっぱらを貫かれてから何秒経ったかなど、もうわからない。

 たしか平均は……およそ100秒だったか。

 

 そう。

 

 彼だけは知っていた筈だった。

 たとえ致命傷を受けても、心底から本気の奴ならば、平均して100秒は動きやがると。

 

 がし、と倒れる身体が踏み止まる。

 歯を食いしばったイグナシオが両手で『留め金』の柄を握る。

 脇腹の肉ごと引き抜き、投げ捨てる。

 その馬鹿力に振り回され、手の平に刺さったままの『留め金』ごと彼は振り払われた。

 

 回る視界の中、彼の目に映ったのは、ころころと転がる店番用の椅子が『あの御方』の足にこつんと当たり――ぽんといきなりそこへ現れるイグナシオの姿。

 

 そうか、あいつは椅子の場所へ『跳び』やがるのか。

 

 横たわる彼の目の前を、店番用の椅子がころころ転がる。正しくは位置の入れ替えか。

 しかし今さら気づいたところでもう遅い。

 奴が手を伸ばせば届く距離に『あの御方』はいる。

 道連れにでも、するつもりか。

 

 半死のイグナシオが『あの御方』の手を取った。

 

 

「受け取るがいい。ただし、貴方の命の代価として、我が矜持だけは返して貰おう」

 

 

 手の平に乗せられたなにかを受け取った『あの御方』が、一瞬の空白の後、あはと笑った。

 

「わかった。返すよ、イグナシオ。お前、道具なしでも、ちゃんと強いじゃないか」

 

「……ははっ、ふは、はは、ハハハハハハ――」

 

 途切れ途切れに笑いながら崩れ落ちた。

 もう起き上がることはあるまい。

 

 やり取りの意味は、彼にはわからない。

 ただあいつは最後に一矢報いたのだろうなと、そう思った。

 

 そこで彼の目蓋が落ちる。

 きっともう目覚めることはないだろうが、確かな満足があった。

 

「あ、ヨランダ! こっちこっち! お? ハウザーと姉さまも!」

「アマリリス様! ご無事ですか!?」

「むちゃくちゃ痛い。また吐きそう。けどこの爺さんと婆さんの方が――」

 

 大勢の足音。

 雑多に交わされる会話。

 流石は女神。もう大声を出せるとは呆れた頑丈さだ。そうでなくては。

 

 彼はやり遂げたという達成感に包まれつつ、意識を手放した。

 

「いえ、お婆はあれだけ喋れるなら最後でも大丈夫です。ヒルデ様はまずはアマリリス様を。あたしはこっちの爺ちゃんを」

 

 ただ。

 誰もが知る、単純な事実として。

 

「……うわあ。なにこの傷怖っ」

「実際はもっと怖いよ。串刺しにされても、足だけはがしがし動いてた」

「あー、……うん、なんというか」

 

 蜚蠊(ごきぶり)は、めちゃくちゃしぶとい。

 ちょっとやそっとで、死にはしない。

 

 

「やっぱ湿地帰りは、イカれてるなあ」

 

 

 







TIPS:護国の盾修友会

湿地防衛戦を生き残った傷痍軍人へ、終身の生活扶助を与える特例法は反対多数により否決(そもそも過半数が湿地防衛軍という軍組織は存在しないという見解)。
同年、匿名(旧王家)の有志(のポケットマネー)による、傷痍軍人への扶助組織『護国の盾修友会』設立。

当初は文字通り傷痍軍人への扶助組織だったが、一部の軍人や志願者に対し『強化措置』が行われるようになってからは、施術の失敗や副作用に苦しむ者たちの受け皿にもなった。

湿地防衛から10年後に再燃した『国辱』騒動の際、かの国賊たちが当初「勝算」としていた「事実の生き証人たち」とやらは、事態が加熱しきった頃には忽然とその姿を消していた。



TIPS:蜚蠊(ごきぶり)

女神と気安く話せるという希少性から、湿地方面防衛軍内でも抜群の知名度を誇った男。

名を捨てたといいながらも、本名よりも蜚蠊(ごきぶり)の呼び名の方が知れ渡っていた為、旧市街に流れて来た際、秒で身元がバレた。
お前ならいけると、怖い旧王家の連中との折衝役を押しつけられた、元『護国の盾修友会』相談役。という名の、怖いおばさんに頭を下げる係。

もう暴力しか頼るもののなくなった失敗作たちは、極限のそこから生還した彼に対する敬意だけは固持し続けた。
壊れて兵隊になれなかった彼や彼女たちにとって、彼は本物の英雄だった。

そんな英雄の語る、決して優しくはない、しかし救いに満ちたおとぎ話。
自分達は必ず報われるのだという約束に、唾を吐ける者などいなかった。




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8 戯劇の邪神(仮)Ⅰ

 

 

 最初にそれを見た感想は「なんか昔の日本っぽいな」だった。

 あえて言葉にするなら木造平屋建て、だろうか。

 全体の8割ほどが居住スペースになっていて、通りに面する残り2割が売り場となっている住居兼個人商店。

 昔の八百屋スタイルで軒先にずらっと商品をディスプレイしつつ、手に取ったからにはおまえ買えよこの野郎という無言の圧力でソールドアウト目指して邁進する由緒正しきストロングスタイルの店構え。

 陳列されている商品は煙草をはじめとした各種雑貨類。

 メインの煙草類が占める面積はおよそ半分ぐらいで、あとはナベやフライパンなどの金物から、吊るされた謎のポン刀もどきや鎖分胴のついた湾曲した刃――突然の鎖鎌(くさりがま)は万人のテンションをガン上げすると初めて知った――まで、絶対に買わないのについつい見入ってしまうこと間違いなしのラインナップがこちらの少年心(ボーイズハート)をくすぐり財布の中身を狙い()ましやがる、きっと本当は売っちゃダメな物も普通に並んでそうな、スラムっぽいところにある怪しげな店。

 

 その奥にある居住スペースは、今やぐちゃぐちゃだった。

 

 屋根をぶち抜き空いた大穴の下には血まみれ老婆が倒れているし、どっかの誰かがノリとフィーリングで突っ込ませた黒杭がぶち破った壁はずたぼろに崩れているし、倒れたままぴくりとも動かない腹とノドに穴が開いてる爺さんもまた血まみれだ。さらにおれの吐いた血反吐もそのまま床にべしょっと残ったままで、どう考えても敷金は返ってこないレベルの大惨事。

 

 

 この惨状をつくった元凶は――おれと、もうひとり。

 

 

 そのもうひとりがたぶん、今死んだ。

 

 

 黒いローブの端がはためき落ちる。

 かすれた笑い声の途切れたイグナシオが崩れ落ちる。

 きっと、もう起き上がることはないだろう。

 なんか顔中の穴という穴から血が噴き出てたし、これで生きてたらもうガチのホラーだ。

 

 

 ――我が矜持だけは返して貰おう。

 

 

 手の平に乗せられた銀の指輪を見る。時間稼ぎの煽りで引き合いに出した、あの指輪だ。

 

 どうやら、おれが思うよりもずっと、この世界では誇りといったものに大きな価値があるようだった。

 

 ふと記憶の扉の向こうを覗けば、それにこだわるやつほどさっさと会社からいなくなってしまったしょっぱい現実が垣間見えたので、そっと閉じておいた。

 

 そこでひゅんと、視界の端から黒杭が飛び出した。

 

 押さえ込まれていた原因、幾重にも被せられていた馬鹿でかい『白い手』が一斉に消えたので、再び前進を開始したのだ。

 

 これ以上民家を破壊する前に慌ててストップをかける。びたっと静止する。なにか手はないかと即席でやった黒杭操作だったが、それこそ手足のように動かせた。まあおれの一部みたいなもんだし、これぐらいはね。

 

 などと油断していると、なぜか勝手にすいーっと戸口へ流れて行く黒杭。

 おれはなにも操作をしていない。

 ならこれをしているのはおれ以外の誰か。

 思い当たる候補は2人。

 どちらも『治療』ができる2人。

 黒杭の後を追い外へと飛び出す。

 

 ごちゃっとした露店と屋台と軒先店舗がひしめく大通り。なぜか人気(ひとけ)は一切ない。しかし屋台の鉄板や鍋からは湯気が立ち昇っている。ついさっきまで誰かがそこにいた証。慌てて逃げた残りもの。判断と行動の早さが尋常じゃない。いきなり落ちて来たなにかが『己の命を脅かす危険』だと即座に理解し退避する身軽さはここいらの住人にとって標準装備なのだろう。逃げ遅れはひとりもいない。たぶんもう淘汰は済んだ後。治安の悪さが透けて見える、あまり長居したくない場所だ。

 

 そんな無人のゴーストタウンじみた向こうから、見覚えのある人影が走って来る。

 

「あ、ヨランダ! こっちこっち! お? ハウザーと姉さまも!」

 

 おおハウザーが速い。ダッシュ力がえぐい。ヨランダがぐんぐん離されて行く。ガチで脚力の次元が違う。……こっちの老人って、こんなんばっかなのかな。

 

「アマリリス様! ご無事ですか!?」

 

 そういうことを聞かれた瞬間、急に痛み出す不思議。

 

「むちゃくちゃ痛い。また吐きそう。けどこの爺さんと婆さんの方を先に頼む。身体を張ってわたしを助けてくれた恩人たちだ。特に爺さんがまずい。早く治療を」

 

 さすがにここで「なんか知らねーけどいきなり命捨てて特攻し始めたやべーやつら」などといっちゃえるほどアレではない。

 わからないことだらけだが、それでもこれだけははっきりとわかる。

 

 この2人は命をかけて、おれを助けてくれた。

 

「この男は何者ですか?」

 崩れ落ちたイグナシオへ向け、いつでもぶん殴れる姿勢を維持したままハウザーが訊いてくる。

「わたしの命を狙った敵。あの2人がやってくれた」

「了解しました」

 いうと同時に、どごっとイグナシオに一撃を振り下ろす。

 反応と反撃がないのを確認したハウザーが、爺さんの方へと駆け寄った。

 

「……相変わらず、遊びのない奴だねえ」

 倒れていた婆さんがむくりと上体を起こす。

 いやいや、ぱっと見でも血がだくだくの重傷なのに、なんでそんな普通な感じなの? つーか知り合いなの?

 

「貴女に手傷を負わせるほどの相手だ。本当なら首を切断したいところだが、そんな時間はないと判断した」

「……そいつは、助かりそうかい?」

「本職なら、あるいは」

 

 たしかマナナがいってたな。

 治療のできる衛生兵型(メディック)は全体の3%ぐらいしかいなくて、基準未満の真似事レベルを合わせても5%とかその辺だと。

 ならハウザーの治療はマナナのいってた『基準未満の真似事』なわけか。

 けど本職ならすぐに――とそこで、だだだだと足音が近づき、ヨランダが到着した。

 

「まってハウさん速すぎ――ってお婆! ええっ!? うそ、そんな、足、血、だ、大丈夫、すぐつなぐから」

「情けない声出すんじゃないよ。こんなもん、怪我のウチに入りゃしないよ」

 

 お婆という呼称。砕けた口調。初めて見る泣きそうな顔。きっとこの老婆はヨランダにとって、家族かそれに相当する存在だ。

 

「おまえそれ、浮いてる黒いの、さっき青空を裂いた大元かい?」

 ヨランダの肩らへんで謎ホバリングしている黒杭を老婆が指す。

「え? うん。そうだけど、そんなことより早く治」

「――こんの大馬鹿者がっ! 考えなしにあんなもんぶっ放して! 危うく落下死するところだったろうがっ!」

 え? おれのことで怒るの?

「お、お婆ならどうにかしてくれるって思ったんだよ」

「誰の命を勝手に使ったと思っている!?」

 

 あ、おれこの婆さんとは仲良くできそう。

 ただ今回の場合、なにをどうこねくり回しても、ヨランダは間違いなく最高だった――とかおれが余計なくちばし挟んじゃうと、もっとこじれるやつだよなこれ。

 

「いやそれは違うだろお婆! あのままじゃなにもできずにやられてた!」

「おまえ以外にも動いてる者はいた。勝手に決めつけるな。だからおまえは考えなしだってんだよ!」

「考えならあった! お婆なら絶対にアマリリス様を助けてくれるって!」

「おまえはいつまでだってんすっとろぎゃァ!」

 やべ婆さんが意味わかんない方言でキレてる――じゃなくて!

「いや爺さん! そろそろ爺さんが死んじゃうから、先そっちどうにかしよう、な!?」

 

 はっとしたヨランダが慌てて爺さんへと向かう。

 はっとした老婆が「見苦しいところをお見せしてしまい」と恐縮する。

 

 そこでかつ、と。

 

 硬質な足音が響く。

 自然と音の発生源に視線が吸い寄せられる。

 

「久しいな、ターナ殿。湖畔の茶会以来になるか」

 

 そこには予想通り姉さま(ヒルデガルド)がいた。

 

「……そうだね。今は足がこれもんだから、座ったままで失礼するよ」

「ふむ。話の前にまずは治療だな。ヨランダ、代わろう」

「いえ、お婆はあれだけ喋れるなら最後でも大丈夫です。ヒルデ様はまずはアマリリス様を。あたしはこっちの爺ちゃんを」

 

 おいなんだよそのイケメントリアージ、好きになっちゃうだろ。

 

「……うわあ。なにこの傷怖っ」

 爺さんの傷口を見たヨランダがドン引きしている。

「実際はもっと怖いよ。串刺しにされても、足だけはがしがし動いてた」

「あー、……うん、なんというか、やっぱ湿地帰りは、イカれてるなあ」

 

 やっぱこの爺さん、平均値じゃなくて、振り切った極点だったのね。

 

「あ、そうだ。グリゼルダ、もういいから出て来な。とりあえず皆に顔見せとけ」

 爺さんの腹部の血をハウザーと2人で拭いつつ、ヨランダが声だけで呼びかける。

 すると、崩れた壁の向こうからぬるっとグリゼルダが現れた。

 一瞬で老婆が振り向きハウザーが身構え、

 

「待て待て違う違う! 彼女はグリゼルダ。わたしの仲間で、最高にキュートなできるヤツだ。――ほら、自己紹介」

「……は、はい。グリゼルダです。最高にキュートな、できるヤツです……」

 

 いや照れるならいうなよ。おれが無理矢理いわせたみたいになっちゃうだろ。

 ほらハウザーも婆さんも「あ、うん」みたいになってる。

 

「最高にキュートかは置いといて、できるってのは本当ですよ。あの『黒杭』を引き寄せればアマリリス様の居場所がわかるんじゃないかってのは、グリゼルダの案です。……あハウさんそこ、2番4刺し半折りで」

 

 そっかグリゼルダ、おれを助けようと、行動してくれたのか。

 

 正直、このどさくさに紛れてどっかへ行っちゃう可能性も普通にあるなと思っていただけに……なんというか、嬉しかった。

 おれを助けに来てくれたことが、その為に怪我を押して動いてくれたことが、思いのほか嬉しかった。

 

 だから、がしっと掴む。

 

「姉さま。このグリゼルダをわたしの護衛か付き人のようなかたちで正式に雇うことって、できるかな? 給与等級とかちゃんとしてるのが理想なんだけど」

 

 そう、こんな優良物件、一刻も早くがしっと既成事実(ちゃんとした契約)で囲っちまう必要があった。

 当然だ。

 今日会ったばかりのやつとの間に心通じ合う絆とかあるわけがない。

 だから、今後も一緒にいる枠組み作りは必須だ。

 昔の偉い人もいってた。

 無償のボランティアは長続きしないと。

 

「私の妹ならば侍従の1人や2人つけることは可能だが……本当に()()は、使えるのか?」

「ここまで見た中では飛び抜けてる」

「具体的には?」

「元特別行動隊」

「そんなことぐらい、一目見ればわかる。次」

 

 ふむ『次』ときたか。

 パワハラレベル2。雑魚だな。

 残念だったな姉さま。おれは知っているよ。

 

 こういう時、倍のテンポで押し返せば、だいたい相手はぐだると。

 

「顔が可愛い」

「ほう」

「性格もわたし好み」

「ふむ」

「反則級に強い」

「いうではないか」

「全部本当だしね。あと手先が器用で視線と思考の誘」

「いいだろう。後日、正式な書面を用意しよう」

 

 やるな姉さま。ぐだる前にぶった切ったか。

 余計なことはいわず、黙って頷いておく。

 

 そもそもこの話、実際のところおれに主導権は一切ない。金を払うのはおれじゃない。グリゼルダのギャラは向こうが出す。なにをどうこねくり回してもその事実は変わらない。

 

 おれはスポンサーのゴーサインに意味不明な横槍を入れる変人ではない。

 あとスポンサーというやつは、利益の出ない投資は絶対にしない。

 妙な勘違いはせず、傲慢にもならず、この話はただ円満に解決した。それだけだ。

 

「聞いての通りだグリゼルダ。あらためて、これからよろしくね。旧王家の面子もあるだろうから、そこそこの待遇は期待していいと思う。もし給料がピンハネされたりワケわかんない理屈で減額されたりしたら絶対にわたしへ報告するように。いいね?」

「は、はい、よろしくおねがいします。そのええと、なんていったらいいのか、まさか給金が出るとは思わなくて、へへ」

 

 なんかめっちゃ嬉しそう。

 どうやら特別行動隊、無給だったっぽいな。クソすぎるだろ。

 

「アマリリス。私がそんな真似を許すとでも?」

「残ったローゼガルドの部下とかお友達の皆さん、たぶん許可とか求めないよね?」

「すぐにいなくなる連中だ。余計なことは考えなくて良い」

 

 怖っ。

 触るな触るなスルースルー。

 

「それでグリゼルダ、あれから皆はどうなった? マナナとノエミは? まさかミゲル死んでないよな? あの『大聖堂』は残ったままだったし、イグナシオの仲間もまだ何人かいたは、ず」

 

 ぐらりと回った。

 頭の中と視界がぐにゃりと渦巻いた。

 テンションで誤魔化してた痛みと吐き気が一気にきて、足元がふにゃふにゃになる。

 すっかり忘れてた。出血、まだ止まってなかった。地味にじわじわと出続けたままだった。

 

 すてんと滑ったが、床より速くグリゼルダが受け止めてくれた。

 

「なぜ今さら倒れる? 損傷を意に介さず話すものだから、てっきり不死身の類かと思っていたのだが……まさか、違うのか?」

「ぼ、ボクもそう思ってましたけど、違うみたいです。呼吸と脈拍が弱くて早くて、その、危険な状態か、と」

「なにっ? そういうことは早く言え! ああそうか、昼に『猫』はいないのか。グリゼルダ、ここへ寝かせろ。あとなにか目隠しになるものを――」

「そ、それでグリゼルダ、あれからどうなった? 凄い気になるんだけど」

「無理に喋るな」

「そういえばプルメリアも」

「あいつはまだ動かせぬが命に別状はない。いいから黙って目を閉じていろ」

 

 横になると、幾分か楽になった。

 閉じた目蓋の上に布っぽいなにかが乗せられ、視界が真っ暗になる。

 これはあれだ。病院とか歯医者とかでなにかしらされる時と同じやつだ。

 まあ、治療してくれるというのなら大人しく従おう。

 

「あ、姉さまもうひとつだけ。ローゼガルドの仕掛けた闇爆弾を無傷で綺麗に消せる方法とか知ってる? わたしがやると内臓にダメージを与えちゃうみたいでさ」

「なぜヨランダが弾け飛んでいないと思う? あの叔母上(ローゼガルド)が、己が館に巣食う反乱分子に何の対策も講じないと?」

 

 いわれてみればその通りだ。

 つまり、もうばっちり除去方法は確立していると。

 

「グリゼルダとA&Jの新入社員のノエミって娘の2人にはまだ仕掛けられたままで」

「わかったからもう寝ていろ。下手に動かれると手元が狂う」

 

 ばつんと。

 問答無用で落とされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 超マジカルな細胞活性によるなんか凄ぇテロメアオーバーフロー自己修復。

 おれの『回復魔法』に対するイメージはそんな感じだった。

 

 だが実際にされてみれば、これは全然違うぞとすぐに気づいた。

 闇関連の技術かつ己の体内でのことなので、知りたくもないのに十全に理解できてしまった。

 

 おれの知っている言葉で表現するならこれは、闇製の多機能ロボットアームを用いたマジカル心霊手術だ。

 

 痛みはない。感触もない。

 ただ『されている』という事実だけがある。

 

 たとえば今ごそごそしているこれ。

 

 臓器の破れた箇所に闇パッチを貼り付け、飛び出したり入り込んだりした血や内容物をずごごごと吸う。あ、それ歯医者で見たことあるやつだ。

 ものによっては損壊した箇所で闇をこねこねし『代用品』を作ってはめ込んでから闇パッチをぺたり。

 あ、あ、あ! 血管とか神経の繋ぎ方が雑! そんなまとめてごっそりって感じで大丈夫なの? いくらすり抜けピンポイントだからってそんなアバウトに……。

 内部で砕け散った骨の欠片を吸い集め、最後にねっとりした闇で塗り固め元の位置へ戻してはいフィニッシュ。

 

 1から10までインチキまみれの、本当にあったマジカル心霊手術、完了!

 

 うん、魔法だわこれ。

 

 謎の闇物質が奇跡のバーゲンセールを連発しすぎて、他にいいようがない。

 内臓も血管も神経も、たぶん雑菌とか感染症とかも全部あれでどうにかなるっぽい。IPS細胞はキレていい。さらには患部の状態を把握する謎スキャンに――とかいい出したらキリがない。こんなのガチで魔法としかいいようがない。

 

 ……んだけどさあ。

 

 なんで、こんな中途半端に外科手術っぽいのかなあ。

 ここまでめちゃくちゃできるならいっそ、ぴかっと光ってめきめき超再生! とかまで行ってもよくね?

 

 

 ――あの、そろそろ、わたしが話しても良いでしょうか?

 

 

 ん? このか細く透き通っていて、けれども確かな芯の強さがそこはかとなく感じられ、しかしある意味浮世離れした透明感ゆえに、童謡や民謡を歌えばなぜか怖くなってしまうような澄んだ声、

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 ばちっと目が覚めた。

 なにかびっくりするようなことがあった気がするのだが……どうにも記憶がはっきりとしない。

 目に映る天井はさっきまでの大穴が開いた民家ではなく、3つほどグレードが上がった高級ホテルじみたものになっていた。

 なんだあれ? ランプ連結シャンデリア? コスパ悪そう。

 

 寝かされていたベッドから身を起こす。

 

「おはようございます、アマリリス様。どこか痛いところ、ありますか?」

 

 ここがどこだかは知らないが、まあヨランダがいる時点で安全な場所なのだろう。

 高級感溢れる室内はどこかそわそわするが、この2人がいるという事実が一瞬でおれを落ち着かせた。

 

「痛みはないけど、こう、胸と腹がずーんって重く苦しい。吐きそうだけどなにも出てこない感じ。……なにこれ?」

「肺と胃と数箇所の骨折だったらしいので、まあそんなもんです。ヒルデ様、ちょっと雑ですけど文句なしに上手くて速いから、それでもマシな方ですよ」

 

 当然のように出てくる肺や胃といった単語。

 ヨランダも治療――マジカル心霊手術ができるんだから、そりゃ当然知識はあるか。

 十全に健康な状態を知らなければ、いくらマジカルなサポートがあったとしても『どこかどう壊れているのか』がわからない。わからなければ治しようがない。

 

 なんかこの世界、おれの知ってる常識と謎の心霊医療がごちゃ混ぜになってそう。

 

「顔色は大丈夫みたいですね。失血量が多かったので、ちょっとひやひやしました」

「……失った血は、どうやってカバーしたの?」

 

 実際に()()()のでよくわかる。あの『闇』は決して『血』にはならない。

 どこにでもある闇は、その者にしかない血の代替には、決してなれやしない。

 

「基本通り『増血』で対処しましたけど、もしかして、まずかったですか?」

「なにそれ凄い。血が増えるの?」

 

 おれの反応から知らないと察したヨランダが、なぜか声を潜めるようにして答えた。

 

「はい。その名の通りただ血を増やすだけの、誰でも簡単にできる『原初の魔法』とも呼ばれる初歩の初歩です。けど、気をつけてください。それを口にすることは禁忌(タブー)とされています。べつにいったところで、捕まったり罰を受けたりはしませんが、それを口にする者は『頭の弱い奴』『常識のない奴』『最低限のスタートラインにすら立てない奴』として明確に下に見られます。だから基本、その言葉は使わない方がいいです」

 

「……なんで禁忌(タブー)になってるの? 理由は?」

「国や地域によってバラバラですね。悪魔が云々だったり最初の殺しがどうたらだったり。けど『口にするな』っていうのはどこでも共通です。闇精霊だけじゃなくて、トカゲも四つ腕も角付きも、どこもかしこもこれだけは共通してます」

 

 なんだそれ?

 

「けどさ、マジカル心――ンン゛ッ! 治療の時には普通に使ってるんだよね?」

「そこはグレーゾーンってやつですね。どんな堅物でも『わかってるから口には出すなよ』でスルーするのが暗黙の了解になってます」

 

 理由ははっきりしないが、なんか文化的な背景があって『増血魔法』については口にしない方がいいらしい。

 

「わかった気をつけるよ。ありがとねヨランダ。結構本気でタメになった」

 

 そうして一段落ついてしまえば、もう触るしかなくなってしまう。

 ずっと視界には入っていたが、どう触れたもんかと躊躇していたそれに、とうとう言及せざるを得なくなってしまう。

 

 ……よし、まずは軽いジャブから。

 

「グリゼルダ。黒いもやもや――闇爆弾がなくなってるけど、姉さまがやってくれたの?」

「は、はい。ここ4階なんで、本当にもう大丈夫みたいです」

 

 さすが姉さま、仕事が速い。

 ならおれも、あまりうだうだせずにさっさと取り掛かるべきだろう。

 

 もし「そうですよ素敵でしょう?」と返ってきた時に備えて、いくつもの逃げ道を用意した言葉選びを心掛ける。

 

「あのさグリゼルダ。それって、私服?」

「えっ?」

 

 あらためてグリゼルダを見る。

 

 えっ? ていいたいのはこっちだよ。

 なんでそんなどすけべびっちサンドロスⅡ世みたいな格好してるの? 上に一枚羽織ったぐらいじゃちっとも隠せてないよ? なんだよそれ? 熱いの? 寒いの? どっちなの?

 おれの感覚では2回ぐらい限界突破したコールガールじゃないと着こなせない超上級装備だ。目的以外の全てを削ぎ落とした抜き身のすけべだ。

 そういう文化なら受け入れよう。

 正直、嫌いじゃない。

 ただ、もし新入りのグリゼルダがなんらかのハラスメントを受けているというのなら、これは無視できない。

 いやだって、ヨランダのメイド服とかクラシカルで露出なしの普通なやつじゃん。

 たぶんその辺の感覚に大差はないと思うんだけどな。

 

「あ、これ借り物です。ボクの着てた夜戦着、血でびしょびしょだったんで、代わりがくるまでここの、店のお姉さんが貸してくれて」

 あれを着ている店のお姉さん。

「なるほど。その手の店なのか、ここは」

 一発でそう断言できる、きめっきめの性装だった。

 

「アマリリス様。そういった娼館()って、どう思いますか?」

 どうしてか、ヨランダの声色は真剣そのものだった。なのでこちらも真剣に答える。

「そうだな……最強に太い商売だと思う。絶対に需要があるし絶対に儲かる。ただし絶対にやくざ者が絡んでくるし、あと病気とか諸々あって、危険だし難しいとも思う。ハイリスクハイリターンの代表かな」

「そういうのじゃなくて、……いえ、やっぱりいいです」

 

 そういうのじゃないってことは。

 わざわざそんなことを聞く理由は。

 

「べつに忌避感とかはないよ。あんまり大きな声じゃいえないけど、そういう店、結構好き」

 

 なにいってるんですかと、ちょっとだけヨランダは笑った。

 

「ここ、お婆がオーナーやってる店であたしが育った場所だから、つい気になって」

 

 思ったより直球だった。

 そうかあの婆さん、経営者だったのか。……にしては戦闘力高すぎない?

 

「彼女はヨランダの?」

「はい。家族です」

 顔立ちや髪色が全然違うが、それに触れるのは野暮だろう。

 

「お?」

 

 などと考えていると、手にもさっとした感触。

 いつの間にか猫がいた。

 雪靴(白い靴)をはいた短毛の黒猫。

 黒一色じゃないのは初めてだな。

 

 窓のカーテンを開けてもらうと、茜色の入り日が眩しかった。

 まだ日は沈みきっていないが、猫ジャッジ的にはもう夜らしい。

 再びベッドに視線を戻すと、当然のように猫が5匹に増えていた。

 

「その猫って、べつに悪いものじゃなんですよね?」

「少なくとも、わたしのケガは治してくれるね」

 

 いつの間にか胸や腹の苦しさは消え、おれの体調は万全になっていた。

 今回は派手に光ったりせず、そっと静かにやってくれた。

 悪目立ちしないのはとても嬉しいのだが……。

 

 どこか得意げな雪靴を見る。

 

 なんでこのキャッツ、おれが『そうして欲しい』と知っているのだろうか? 直接伝えるのはもちろん、なんなら声にすら出していないのだが。

 ……んん?

 声に、出さなくても?

 

「ヨランダ、グリゼルダ。ちょっとこの()撫でてみて」

 

 雪靴(白い靴)をはいた猫に伸ばした2人の手が、すっ、と素通りする。

 やっぱそうなるよな。じゃあ次は。

 

 

 ――白い靴が素敵なあなた。ちょっとこの2人に、ひと撫でさせてやってくれないか?

 

 

「2人とも、もう一度やってみて。優しく丁寧に、そっとね」

 

 すると案の定、2人とも普通に触れた。

 

「なにこれ凄い。ふわっふわ」

「や、やわらかいけど鼓動はなくて、でも体温はちゃんとあって、なのににおいはしない。なんだろこれ?」

 

 信じ難いがこのキャッツ、声に出さなくても、だた『そうしてくれ』と思うだけで、おれのリクエストを実行してくれるらしい。

 

 ……いやこれ、やばくね?

 

 なんとなくだけど、壊せとか殺せとかいう物騒なことはできないと思う。きっとこの()たちは、そういった用途に向けてつくられてはいない。

 だが、それだけだ。

 他にはなにも、規定や制限などといったものがない。

 ピラミッドさんが貸してくれたこの若い衆、リミッターの類が存在しない。

 

 少なくともおれは2度、死にかけの状態から完全回復した。

 

 そのレベルの荒業が、夜間限定とはいえ無制限。

 

 ……いや、違うな。

 ピラミッドさんが『許可』する限りは無制限、だな。

 

 これってあれだよな、ばら撒かれた見せ金で有頂天になって、生活の水準が『それありき』になったところで供給を断つぞと脅されて傀儡になっちゃうパターンだよな。

 

 うん、あんま頼りたくはないな。

 

「あの、アマリリス様。なんかどんどん猫が増えてるんですけど、このままじゃ足の踏み場がなくなりませんか?」

 ヨランダの声で周りを見ると、ベッドに乗り切れなかった猫たちがカーペットの上で丸くなり始めていた。

「確かに。踏んじゃうと危ないよな」

 ならばと、にわかに漂い始めた闇をこねこねして、棒と板を組み合わせたキャットタワーもどきを立てる。

「はい注目。ここに乗りきらない()は、また今度ね」

 しゅばばっと猫まっしぐら!

 

 こういった闇の操作はこの身体に備わった基本スペックだ。きっと手出しはできない。

 だが『製本』『崩界』『猫』はピラミッドさん由来の、いわば借り物だ。残念ながら契約書はない。取り上げるのに理由も手間もいらない。使うのはいいが『依存』になればお終いだ。

 

 なので、これ以上はなし。

 情けない話だが、もう夜間超回復(サンキューキャッツ)は手放せないだろう。

 おれは既に、ピラミッドさんから借りた防弾チョッキを脱げなくなっている。

 貸し出し期間も賃料も不明。向こうがパチンと指を鳴らせばそれで消えるマジカルな一品。

 

 これ以上、その手のものを命綱にするのはダメだ。

 これ以上、キャッツに『勝手に新しいこと』をしないよう釘を刺す必要がある。

 

 きっと猫たちに悪意はない。だがこれは、間違いなくおれの為にならない。

 善意でつくられた奴隷契約書に、これ以上文字を書くつもりはない。

 

 だから、ここまで。

 

 オートでおれの『お願い』を読んで実行してくる相手にストップをかける方法。

 意図せぬ暴発の可能性をゼロにする方法。

 合言葉、枕詞(まくらことば)、いやもういっそパスワードでも設定してみるか。

 

 2本目のキャットタワーもどきをつくりながら、声には出さず語りかける。

 

 

 ――まずは皆、ありがとう。色々と助けてくれて、とても感謝している。けどここからは『3.14159265』のあとに続くやつ以外、おれのリクエストは無視して欲しい。これはおれにとって、とても大切なことなんだ。絶対に守って。本当に、心底からお願い。

 

 

 そうしてタワーの頂上にいる()をひょいと抱きかかえて、

 

 

 ――今おれの手の中にいる黒くて素敵なあなた。どうかこの2人に、その毛並みを撫でさせてやってはくれないか?

 

 

「2人とも、今度はこの()を撫でてみて」

 すかすかっと空振りする。

 

 

 ――3.14159265。手の中のあなた。目の前の2人に、あなたに触れる栄誉をひとつ。

 

 

「もう一回やってみて」

 今度はわしゃわしゃと撫でまくれた。

 よし完璧だ。

 

「これ、なんの実験なんですか?」

安全装置(セーフティ)かな。結果は大成功。もう暴発は起きない」

「あ、あの、やっぱりこれって『精霊さま』なんですか?」

「どうなんだろうね。実はわたしにもよくわからないんだ」

 

 ピュアな本音を話すだけで誤魔化す感じになる不思議。

 もっと突っ込んだ質問がくるかと身構えたが、2人はそれ以上なにも聞かなかった。

 ヒルデガルド(姉さま)ローゼガルド(魔女)で鍛えられたに違いない、2人の『なんかやばそうな話題には深入りせんとこ』スキルは熟練のそれだった。

 

 

「そうだヨランダ、プルメリアは大丈夫だった?」

「はい。意識も受け答えもはっきりしてました。けどまだ動かせないんで、今はハウさんがついてます」 

「他の皆――姉さまやミゲルは今どうしてる? ってそうだ! ミゲル死んでないよな?」

「ええ生きてますよ。今はヒルデ様とお婆の部屋で今後の打ち合わせをしてます」

「マナナとノエミは?」

「捕らえた『闇の薔薇』の2人がぶち込まれてる地下牢の見張りをしてます」

「なんでえっちな店に地下牢が?」

「行く所まで行っちまった超上級者でも満足できる、ガチで本格仕様のやつです」

 しまったつい余計な情報を。

「……結局あれから、どうなったの?」

 

 そう、ずっと気になっていた、おれがイグナシオに拉致された後の話。あれからあの場がどうなったか、その顛末。

 

 2人とも「なにが起きたのか完璧に把握しているわけではない」らしいのだが、主観でいいから聞かせて欲しいとお願いし、まずはヨランダから。

 

「割れたんですよ、いきなり。あの『大聖堂』ごと全部ぱりーんて。そしたら動けるようになったんで、とりあえずアマリリス様の黒杭ならいけると思って、全力で投げました。……やっぱあれ、マズかったですか?」

「いいや、最高だった。そこは気にしなくていい。けどなんで『大聖堂』は割れたんだ? 原因は?」

 

 グリゼルダが「たぶんですけど」と前置きしてから、

 

「マナナだと思います。彼女が基点か術者を、燃やしたんだと思います」

「あー、そういえば飛び出して来た連中、半分ぐらい燃えてたな」

「マナナの奥の手、です。なんて説明したらいいのか、あまりそっちのほうは詳しくなくて、ええと……そうだ、研究所にいた頃のマナナの識別名(コード)が端的に説明してるらしくて」

 

 連発される、研究所とか識別名(コード)とかいう不穏な単語たち。

 正直、触らずにそっとしておきたい。

 けど、聞かないわけにはいかないよなあ。

 

「そのマナナの識別名(コード)? なんていうの?」

 

「概念式集光レンズ2型、です」

 

 わーお、完全に部品扱い。劣悪な環境が透けて見える。というか隠す気がない。

 

 ただ、本当にそんなことが可能だというのならば。

 もし、その言葉通りの機能があるというのならば。

 その研究とやらのコンセプトは一発でわかる。

 

 それは。

 闇に属するものを問答無用で焼き払う。

 同族殺しの、光の剣。

 

「聞いた感じ、任意の箇所に光を集めて超高温にできるとか? あ、レンズだから視界に映るものとか?」

「ボクもそう思ってました。けどあの『大聖堂』には、見える範囲に術者とか基点とかはなかったです。なのにマナナは、見えていないのに燃やしました。燃やせました。2人は瞬時に炭化して、のこり2人はミゲルさまの指示で捕らえました」

 

 マナナには、誰にとっても予想外の奥の手があったと。

 それが、突破口になったと。

 

 つまりこれは。

 された時点でもうどうしようもないと思っていた『現実改変系最終奥義的なやつ』だが、実はなんらかの『想定外』さえ用意できれば、普通に破れるということか?

 

 1回目の地下空間。ほぼ全滅。

 2回目の大聖堂。半数焼死。半数捕縛。

 

 ……結果から逆算するに、即死級の想定外じゃなきゃダメっぽいけどな。

 

 しかし、この事実は頭の中に入れておくべきだろう。

 なにせ、次からは、

 

 と、そこでここここんと、超速でドアがノックされると同時に開かれた。

 4回ってことは世界基準マナーなんだ。けど同時に開けちゃ意味ねーだろ。

 そんなおれのつっこみは、ノドの奥へひゅっと引っ込んだ。

 

 白くてでかい女――魔女の巫女が、なにやら両手に荷物を持ってそこに立っていた。

 

「おいリリ。同時に開けるならノックの意味ないからな。あたしだけじゃないんだ。ちゃんとしろ。そういうのは、最終的にお婆の恥になる」

「ごめーん。両手塞がっててさー。どっちでもいいからヨランダ持ってー」

「……すみません、アマリリス様。あれは決して馬鹿にしてるとか軽んじているわけじゃなくて、ただ頭のネジがゆるんだり飛んで無くなってるだけなんです。そういう生き物だと思って、軽く流してもらえれば」

 

 んん? この気安く親密な感じは。

 

「以前から彼女と面識が?」

 魔女の巫女という単語は使わないでおく。

 不仲だったらしいローゼガルドの傘下を意味するその言葉は、きっと侮辱の類だろう。

 

「こいつも家族の一員です。ほらリリ、挨拶!」

「はーい。リリカ・アカシャです! 上網走改伝流兵法(かみあみばしりかいでんりゅうひょうほう)中目録ですっ! よろしくねアマリリスさま!」

「お、おう。よろしくね」

 

 でかいやつにぐいぐい来られると圧が凄い。

 

「お前それ『アカシャ』って、お婆にやめろって、散々いわれただろ」

「最初に好きに名乗れっていったのはばあちゃんだよ。あと出しとか、しらないよー」

 

 家族であるらしいヨランダはいった。

 頭のネジがゆるんだり、飛んで無くなっているやつだと。

 

 ま、明るくポジティブな分にはいいか。

 

「ほーらグリちゃん着替えだよー。ヨランダと同じタイプのやつと、ちょっと攻めたタイプの2種類用意したけど、どっちがいい?」

「え? ええと、じゃあ、普……攻めた方で」

「グリゼルダ。いちいち付き合ってやらなくていいから。あんま甘やかすとドンドン調子にのるぞこいつ」

 

 通常タイプを手に取ったグリゼルダが隣室へ。

 

 おれはそっと、残されたちょっと攻めたタイプを広げてみた。

 ああなるほど、スカートが激短いのね。

 

「あ、そうだアマリリスさま、なんか来いって呼ばれてたよ」

「……誰に? どこに?」

「ヒルデガルドさまに。みんなで難しい話してる真っ最中のばあちゃんの部屋に来いってさ」

「え、なんで目が覚めたこと知ってるの? 怖いんだけど」

「そりゃー急に館中に猫が生えてきたらわかるよ。おもしろいね、気づいたらあちこちにいるんだもの。営業中ならもっとおもしろかったのに」

 

 居場所と意識の有無。

 大々的にばら撒いていい情報じゃないな。

 

 ――3.14159265。夜になったら基本的に『居て』欲しい。ただおれの周囲だけに固まらず、満遍なく散った感じで。あとプレイルーム的な場所は立ち入り禁止ね。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヨランダの開けてくれたドアから室内へと入る。

 

「おはよう再従弟妹(はとこ)殿。なんだ、ウチの正装、着替えちまったのか?」

「おはようミゲル。さすがに白地は汚れが目立ちすぎた。気に入ってたんだけどね」

 

 呼び出されたオーナールーム内には聞いていた通りの3人がいた。ミゲルとヒルデガルド(姉さま)と、

「お加減はいかがですか?」

 ヨランダの婆ちゃんでありこの娼館()のオーナーでもあるターナさんだ。

「この()たちのおかげで、もうすっかり良くなったよ」

「それはなによりで」

 

 事前にヨランダから「助けてくれてほんまおおきにな(サンキューベリーマッチ)!」等の礼の言葉は口にするなと釘を刺されていた。

 なんでも姉さまがいる場でおれがそれをいっちゃうと、誰にとってもプラスがないらしい。

 そんな助言から、さぞ殺伐とした空間なのだろうと内心ビビッていたのだが……思ったより室内の雰囲気は悪くない。いつかのどこかの役員会議のように皆が険しい顔をしているわけでもなく、むしろ穏やかといってもいい様相だ。

 

 狭くも広くもない部屋の中央、長い机を挟むようにして置かれているソファにそれぞれが腰かけており、おれは姉さまの隣に座ることにした。おれの正面にはミゲル。姉さまの正面にはターナさんという配置だ。

 

「……その恰好は? グリゼルダの着替えと一緒におまえの分も手配した筈だが?」

 ヘイヘイ姉さま、切れ長の横目が怖い怖い。

 確かに、いかにも『姫』って感じのドレスがリリカの荷物の中にあったけど、あれはハードルが高すぎた。

「趣味じゃなかったから、店の女の子に見繕ってもらった。こういう路線の方がいい」

 まあ普通にパンツとシャツだ。……なぜ娼館に子供サイズの服があるのかは、怖かったり悲しかったりするエピソードが飛び出て来そうなので触れないでおいた。

 

 ただこういった『オフショット見せてますよ』『そんな姿さらすのは信頼してるからですよ』といったアピールは存外馬鹿にできない。

 胡散臭い邪神もどきにとって、その手のイメージ戦略はガチで命綱じゃないかと思ってる。

 

「ならA&J(ウチ)がイカしたやつを1着――いや10着ほど届けようか? きっと再従弟妹(はとこ)殿も満足すること間違いなしだ。ちなみにあの正装は10点満点中何点だった?」

「8点」

「オウケイ。方向性は理解した。その足下がサンダルなのは、なにかこだわりが?」

「いや特には。けどこれ、新しく仲間になる儀式なんだって。味方は多ければ多いほど良いから、ありがたくもらっておいた。役職は猫総合管理だってさ」

「そいつはいい。俺も貰えるかな?」

「内に入っちゃうと、客として来れなくなるよ?」

「残念。縁がなかったみたいだ」

「おまえたち、そういった雑談は終わってからやれ」

 

 怒られた。そして「挨拶もまだだろう」といわれ、慌ててターナさんと自己紹介合戦をし、おめーんトコのヨランダまじ最高だぜ! とベタ褒めしておいた。

 なんか黒杭投げた件で怒られてたし、これぐらいのフォローはね。

 

 あとこれはあらかじめ決めていたことなのだが、姉さまとミゲルには呼び捨てタメ語なのでターナさんにもそれで通すことにした。

 ここで差異をつければ2人が下になってしまう。きっとこの場で最も偉いのは姉さまだ。

 

 なんで別世界に来てまで社内と同じようなことに気をつかってるんだよ、なんて思ったりもしたが……よくよく考えると、どこでも通用する基礎ができているとポジティブに取ることも可能だったので、そうした。

 

「なあ再従弟妹(はとこ)殿、本題に入る前にいっこ確認したいんだが、いいかい?」

「なに?」

()()()()は、お前さんの友達ってことで、いいのかな?」

 テーブルの上に乗っている黒猫を撫でようとして、す、と素通りするミゲルの手。

 

 ふーむ、姉さまとターナさんはともかく、この手のタイプと気安くしすぎてもナメられちゃうし、ちょっとかましておくか。

 

「友人と呼べるほど気安い関係じゃない。が、間違いなく味方ではある。だけど――」

 

 ミゲルの肩に乗っている猫にお願いして『触れる』ようにする。

 急に感じた肩の重みにびくっとするミゲル。

 よし今!

 ミゲルの肩から猫ジャンプでぴょーんと大きく跳躍してもらう。

 皆の視線がそちらへ吸い寄せられている間に館中の猫を総動員して、おれと姉さまのソファ周辺にスタンバイさせておく。

 着地する手前で、ふ、と消えるジャンピング猫。

 ミゲルが正面のおれへと視線を戻す。なぜか異様に増えてる猫に気づき、またびくっとする。

 スタンバイ中の皆さん(キャッツ)には両目を閉じてもらっている。とくに意味はない。単なる演出だ。

 それを今オープン!

 一斉に全ての猫が目を開きミゲルを見る。その数44。計88個の目。どうだ? 怖かろう?

 

「この()たちはとても気位が高い。わたしはいつも可能な限り慎重に接している。気安く()()()()などといってくれるなよミゲル。へりくだる必要はないが、頭の上に足の裏を乗せるのはダメだ」

「……わかった。ウチの者にもそう伝えとくよ」

「大丈夫。まだどうとでもなるから」

「いつまで遊んでいる。いい加減、本題に入るぞ」

 しょうもない遊びを咎められたおれは、すみやかにキャッツを解散した。

 

 そうして聞かされた本題とやらの内容はこうだ。

 

 この旧市街を取り仕切っていた4つのでかい勢力が、ローゼガルドの死と連動した道連れボム大爆発で崩壊した。

 その残党や無傷の中小勢力が、今夜秘密の会合を開いて一致団結しようとしているらしい。

 彼らの目的は、これを機にこの旧市街に自分たちが新たな秩序をつくること。

 その為に排除すべき障害は、残る旧支配の象徴『魔女の巫女』および『魔女の縁者』となる。

 いやさせねーよ? その現場にカチ込んで皆殺しだ! けどそれやっちゃうと頭を失った大量の下っ端が統率をなくして暴走するよね? それは困るよね? というのがここまでのあらすじだ。

 

 

 うん、内容が物騒すぎてむせる。

 わかっちゃいたけど旧王家、やくざよりやくざしてる。

 

 

「時間を稼ぐ必要がある。A&Jや私の伝手から人員を集めて派遣し、安全確実に掌握するまでの時間を。およそ2週間ほどあればどうにか、といったところか」

 

 ぶっ殺してはい解決! とはならないか。一応、統治側だもんな。

 

「じゃあ、今夜の会合に参加するリーダー連中を叩いて大人しくさせるとか、そういうの?」

「方向性としてはそうだ。だが連中とて最低限の知能はあろう。暴力で制圧されたのに命がある時点でこちらの狙いに気付く。自分が『殺されない』という確信は、きっと際限なく馬鹿を増長させる。勝てぬのなら、勝てる相手に標的を移す。そうなるぐらいならいっそ、最初から皆殺しにした方がまだましだ」

 

 そこで言葉を切って、じっとおれを見る姉さま。

 え? おれが返さなきゃいけないの?

 

「見張りとか定期的にお宅訪問とかできるような数じゃないんだよね?」

「それが可能な状態を『掌握できている』という」

「めちゃくちゃエグい見せしめとかして、歯向かう気が起きないぐらい震え上がらせるとか」

「それはもう叔母上がやり尽くした後だ。なにをしても二番煎じ。さほど効果はあるまい」

 

 凄ぇな叔母上、負の遺産が徳○埋蔵金レベルだ。

 

「……がんばれハウザー?」

「それは最後の手段だ。まずは叔母上の手法を使い回す。長く使えるような手ではないが、2、3週間程度なら問題なかろう」

 そういわれて思い当たるのは……。

「もしかして、できるの? ローゼガルドの闇爆弾」

「いいや。私には無理だな。だがヨランダなら可能だ。しかも叔母上をも上回る、自己判断力すら備えた前人未到の高次元でな」

 

 えっ? と驚く声に振り向くと、ヨランダが壁際で立っていた。

 あ、そのまま部屋の中にいたのね。

 

「連中の目的は『旧支配層の排除』だ。魔女の巫女と密接な関係にあると周知されているこの娼館も当然標的となろう」

 

 中でも狙い目は戦闘力のない女だ、とさらに姉さまは続ける。

 

「全てが終わるまで非戦闘員を一歩も外に出さないという手もある。安全が確保されるまで営業を停止するのもいいだろう。だがそうなると、店の女を狙うのは有効だ。痛手を与えた。向こうは怯えて縮こまるしかできない。などという『成功体験』を下種どもに与えることとなってしまう。なら後は繰り返しだ。なにかある度に、同じ事が繰り返される」

 

 いい加減気づき始める。

 姉さまは『絶対にこの娼館に被害が出ない』のを最優先にしている。

 たぶんいつもなら「多少の犠牲は必要経費」とかいいそうなのに、なぜかこの娼館を優遇し、通常ならあり得ない手間をかけようとしている。

 

 きっとこの人は、必要のないことはしないタイプだ。

 だからこの『娼館に被害を出さない』は必須なのだ。

 

 なんの為に?

 決まってる。

 今回の一件を、理想的なかたちで収める為に。

 

「ヨランダ、守りたくば手段など問うな。おまえは今、大切な場所に砂をかけられようとしている。もっと怒り狂え」

「当主殿、この馬鹿は仕掛けて来る相手に遠慮するような腑抜けじゃあないよ。そんなヤワにゃ育ててない。きっとありゃ『自分にそんなことができるのか』っていう戸惑いさね」

「断言しよう。出来る。ヨランダ、試しに『手に取って』みよ」

 

 いわれるままに両手を構えたヨランダが、いわれるままになにかを引く。

 ずるりと、どこからか黒い(かめ)が滑り出てきてその両手を塞いだ。

 

「うわっ! これあの時の重っ!」

「これから先必要になると思い、ついでにそれも渡しておいた。一晩を経てそれはもうおまえの物となった。ならば当然、持ち主に適した形となる。受け取るは枠組みではない。それそのもの――概念だと心得よ」

 

 姉さまの言葉が終わる頃にはもう、両手で抱えるほどの大きさだった(かめ)は、片手で楽々持てるサイズの取っ手つきティーポットになっていた。

 

「あ、あのヒルデ様! もしかしてこれ、あたしの得物、ティーポットになったとかいいませんよね? ずっと昔から温めていた4種類の切り替えが可能な最高に格好良い剣のアイデアがあって」

「最初についた手癖の矯正はほぼ不可能だ。なに案ずるな。剣などより万倍役に立つ。そもそも、おまえが剣で近接戦を行う時点でもう負け戦だ。無駄な死蔵品にせず済んだと喜ぶべきところだぞ、ここは」

「……あ、はい。……あざす」

 

 誰かのテンションがここまで露骨に下がるのを初めて見た。

 詳しくはわからないが、ヨランダが望まぬものを押しつけられたのだけはわかった。

 

「ミゲル。地下牢の『闇の薔薇』の2人に使い道はあるか?」

「ないな。ちょっと話したが、ありゃダメだ。悪い意味で固まりすぎてる。あいつらはもう、やり方を変えられない。そんな自分が大好きな、気色悪ィ死にたがりだ」

「……かつての名門の面影は、もうないか」

「どんだけ昔の話だよ。さすがに夢見すぎだぜ、ヒルダ」

「ならやるか。なにをどこまで出来るのか、実際に試してみる必要がある」

 

 そろそろじれったくなってきたので、率直に聞いてみる。

 

「あのさ、わたし、なんで呼ばれたのかな?」

 情報共有してくれるのはありがたいが、わくわく拷問プランとか聞かされても正直その、困る。

 

「おまえがやらねばならんことが、あるからだ」

 

 ええー? このカチ込みプランにおれが必要な要素ある?

 

「今連中の目におまえは、どう映っていると思う?」

「派手に光る怪しいやつ?」

「違う。手にした者に主導権を与える、便利な道具だ」

「……頭にくるね、それ」

「実際はもっと野卑(やひ)な言葉で語られていると思え。この件がどう決着しようが、その勘違いがまかり通っている限り、おまえにちょっかいを出してくる馬鹿が絶えることはない。だからおまえは示す必要がある。貴様等のような輩などいつでも皆殺しにできるのだぞと。軽く見て良い存在ではないと、その身をもって実感させてやる必要がある。ここまでに、異存はあるか?」

「……ない」

 

 ぐうの音も出ない正論だった。

 事情を知らない街のちんぴらからすればおれの現状は、ターナさんのところに『拾われた』としか映らない。

 そう、客観的にはまだ『景品』でしかない。

 

「先ほど話したヨランダ製の闇爆弾だがな、実はあのティーポットから出る水を対象の体内に入れるのが必須条件となっている。経口摂取が最も簡単だろうが、こちらを殺しに来る複数の相手に得体の知れぬ黒い水を飲ませるのは、ただ殺すよりも圧倒的に難易度が高い」

 

 水、黒いのかあ。

 そんなもん、敵じゃなくても飲んでくれないよな普通。

 

「私やミゲルにも幾つか手段はあるが、ここは丁度良い見せ場だ。拘束され身動きが取れぬという状況は、相手に無力感を植え付ける。それがおまえの手によるものとなれば、最低限の要項は満たせる」

 

 確かに、拘束され漏斗(じょうご)のようなものを口にぶち込まれざぶざぶ黒い水を流し込まれるとか、かなりガチな恐怖体験だ。そういや昔の拷問であったなそういうの。

 

「それを、できるか? アマリリス」

 

 指輪の感触を確かめる。

 他の指では大きすぎて、かろうじて親指にはめている銀の指輪。

 イグナシオの置き土産。

 誰でも簡単に『現実改変系最終奥義的なやつ』ができる超アイテム。

 きっと夜間のおれなら、いくらでもある闇をじゃんじゃか注ぎ込めば問題なく『起動』できるであろう、新しい玩具。

 

 問題なのは、なにを『再現』するか。

 サンプルは、候補は、それこそ山のようにある。

 

「なにをどこまでできるか、実際に試してみたいんだけど、手伝ってもらっていいかな?」

 

 色々と失敗し、何度もリトライすることになったが、したいことは大体できた。

 外にまで影響が及ぶとまずいと思ったので、姉さまに「なんか結界的なやつで囲ったりできる?」と聞いてみると本当に部屋全体を結界的なやつで囲われてちょっと引いた。

 

 そうして次の実験――ヨランダがノーリスクノータイムでつくり出せる自己判断能力を備えた液状の呪、仮称『悪霊ちゃん』のできること実証の為、本格玄人仕様の地下牢へと向かった。

 

 結果、ヨランダの『悪霊ちゃん(仮)』がばちくそ超クオリティなのがわかった。というか判断能力が術者であるヨランダとほぼ同等だった。しかもこいつ、状況はもちろん言葉すらもちゃんと理解するという「もう新たな生命が誕生してるんじゃ?」レベルのなにかだった。

 

 おれの知っている言葉で表現するならこれは、ほぼノーコストかつ秒で生成可能な自己判断AI搭載の謎センサーと音声入力機能つきナノサイズ即死爆弾――闇物質なので生理機能で体外に排出されることはないよ――といったところか。

 やだなにこれ意味わかんない超テクノロジーの集合体じゃん。

 

 だがこれはそうそう『つくれる』ものではないと判明もしていた。

 今回の娼館絡みは、そのピンポイントな『悪霊ちゃん作成条件』をばっちり満たしていた稀有なケースだったというわけだ。

 

 なので、ありがたくじゃぶじゃぶ使う。使えるものは遠慮なく使う。

 そりゃおれも店のお姉さんたちが酷い目に遭うのとか嫌だし、よくよく考えればちっとも他人事じゃない。

 

「2度はいわぬ。よく聞け」

 

 実験の最後、姉さまは損傷を治療した闇の薔薇の2人を解き放った。

 

「手向かえば殺す。まっすぐに街を出るなら、追わぬ」

 

 きっと本音だったと思う。どうしてか姉さまは『闇の薔薇』に対して妙に甘いところがあった。

 理由はわからない。聞いてもしょうがないので、聞いていない。

 

 タイムラグゼロでおれに向かって来た2人が飛び上がり、両手に炎を纏ったところで墜落し動かなくなった。

 ひとりは短い矢――ボルトが、もうひとりはおれが真似をした大元たる4種の黒杭の内の1つ――『死』の黒杭が、それぞれ突き刺さっていた。

 

 野良犬が吠え、鴉が飛び去る。

 日が沈み、月が昇る。

 

 ちっとも話し合いなんてする気のない、会合とは名ばかりの発表会が、始まる。

 

 

 







TIPS:魔術結社闇の薔薇

革命末期、当時の王家より下された本島への退避命令を無視し、意地の一念で残り続けることを選んだ貴族たちの末裔。
元来、特別な素養と高度な教育が必要とされる魔術はネグロニア貴族の嗜みだった。

権威と横暴の象徴として苛烈な迫害を受けた残留貴族のほとんどは死亡したが、わずかな生き残りは地下へと潜伏した。
魑魅魍魎蠢く貴族社会で培ったコミュニケーション能力や社交術を駆使し、同じく迫害されし者やまつろわぬ民たちを吸収することで1勢力をつくり上げるに至った不屈の狂人たち、その系譜。

全てを奪われ、野良犬にも劣る身となった彼らはそれでも、魔術だけは手放さなかった。
安全保障を騙る拷問により機能を破壊された彼らにはもう魔術は行使できない。
だが知識の継承はできる。次代に伝えることはできる。
ああ我が子よ。どうか、どうか。

そうして老いた父を荼毘に付した次代たる彼や彼女たちは。
敬愛する父の教え通り、地上に溢れる実験動物を用いた魔術の研鑽を開始した。




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9 戯劇の邪神(仮)Ⅱ

 

 

「そうだな、基本ペラ回すのは俺だから、あんま喋らなくてもいけるっちゃいけるな」

 

 目的地までの道すがら、打ち合わせとも呼べないような雑談を交わす。

 

「けど黙ってたら黙ってたで逆にナメられないっすか? アマリリスさま、見た目は可愛い感じだし」

「そうやって気を抜いてるところに凄いやつをどーん!」

「ノエミ、急に大声出さない。びっくりするから」

「そ、びっくりしたまま何もできずに終わるの。それもアリだよね」

 

 A&J組の3人は平常通りだ。緊張や気負いとは無縁なようで、なんなら楽しそうですらある。

 

「けど中に入ったらあたし(お付)たちがペラペラ喋っちゃダメだろ? それじゃ喋るのがミゲル様だけにならない? 大体お婆はそういう場じゃ黙ってるし」

「おまえも、黙ってても絵になる女を目指しな。雄弁は銀までだよ」

「わあ、じゃミゲルさまって純銀製だー。メタリックでカッコイイー」

「だろう? 魔性の類は一発だぜ?」

 

 あれこれ話し合った結果、野心溢れる皆さんが会合の真っ最中らしい現場に踏み込むのはこの6人になった。

 ミゲル、マナナ、ノエミのA&J組3人と、ヨランダ、ターナさんの娼館組2人。……とおまけのおれ。

 

 それが今一団になって、徒歩圏内の会場――地下につくられた個人所有の隠れ家らしい――へと向かっている真っ最中だ。

 

「アマリリスさま、声は低めっすけど、馬鹿なちんぴらは女声ってだけでナメてきますからね」

「ぱっと見でA&J(ウチ)の関係者だってわかるし、最初に名乗りさえすれば後は勝手に向こうが理解するだろ」

「ミゲル様それ、旧王家の名前出すならこっちから名乗っちゃダメですよ。地に伏して願い奉られてようやく考えるぐらい値打ちこけってヒルデ様から厳命受けてます」

 

 今おれは再びA&Jの『正装』に袖を通している。

 さすがに店のお姉さんが見立ててくれた子供服のままではダメだろとなり、驚異のマジカルクリーニングで新品同様まで持ち直した『正装』に、もう一頑張りしてもらうことにしたのだ。

 

「うーん、ならわたしは基本黙ってるよ。やるタイミングはミゲルに任せる」

 

 足下のサンダルを引きずりつつ、ぼんやりと記憶の扉の向こうを覗いても……やくざ者を脅した経験なんてある筈もない。

 ここは大人しく専門家に丸投げだ。

 

「よし任された。ならあとは……オーナー殿、降伏は受け入れるかい?」

「必要ない。あの場に集った時点で、全員『屍骸』だ。妙な気は回さなくていい」

「オウケイ。なら最初に屍骸を2つのグループに()り分ける。こっちに協力的な屍骸とそうじゃない屍骸だ。実際はどちらも同じだが、なぜか向こうはカン違いをする」

「あんた、ロクな死に方できやしないよ」

「やめとくかい? 内部でギスギスしてくれた方が、時間稼ぎの効率は上がるんだが」

「……四の五のいってる場合じゃないか。どうせやるなら、とことんやりな」

「いいね、だんだん固まってきた。オーナー殿が締め担当で俺が回し担当。なら残りはこれだな」

 いってミゲルが、握り拳の親指と小指だけをピンと伸ばした『アロハー』な感じのハンドサインを掲げた。

 

再従弟妹(はとこ)殿、これ、知ってるかい?」

 

「……陽気な挨拶?」

「違う違う。A&J(ウチ)じゃこれは『想定外が発生。収拾不可能』ってサインだ。実際の現場じゃまれによくある」

「そんなの、わざわざ合図出さなくてもわかるんじゃ?」

「本気のピンチなのか馬鹿を釣る為のフリなのか、慣れてる奴じゃないとわからない時があるんだよ。今回みたいに初めて組む面子じゃ特にそうだ」

 

 要するに『これなんかやばくね?』と思ってもアロハーなサインが出てない限り心配ないよってことか。

 

「もしその合図が出たら、具体的にはどうするの?」

「余裕とか余分とか一切なしの、皆殺しを前提にした実力行使かな。もうそれぐらいしか方法がないってレベルで破綻した時しか使わないギリギリのやつだ。使わないのを、いつも心底願ってる」

「それ、最後に使ったのは?」

「3日前だ。笑えるだろ?」

 ちっとも笑えねーよ。

 

 Q:こういう時の理想的な返しは?

 A:もっと笑えないやつでお返し。

 

「わたしはつい昨日だ。あと2日は空けたいな」

「はははっ! そういやそうだったな!」

 ここで笑えるミゲルはやっぱ悪党だよなー。

「ま、今回一番大事なのは余裕の(ツラ)を崩さないことだ。きっと連中は常にこっちの顔色を見てるだろうからな。ビビるのは向こうの仕事で、こっちはビビらせる側。それを忘れちゃいけない」

「じゃあできるだけ派手に殺った方がいいんすかね?」

「連中はもう『屍骸』だが、あと2、3週間は働いてもらう予定だ。リーダー格と側近以外はなるべく生かす方向で――」

 

 なるほど、これは今まで『特別行動隊』とかいう物騒な殺し屋じみた集団にいたマナナとノエミに対するオリエンテーションでもあるのか――などと思いながらずるずる歩いていると、こちらを見るノエミの視線に気づいたので、

「どうかした?」

「うん。アマリリスさま、こういうやり方に抵抗とかないんだなーって」

「そりゃ、わたしもがっつり『こっち側』だからね。最悪の場合酷い目に遭うのは店のお姉さんたちだけじゃない。当然、そこにはわたしも含まれてる」

 

 それが理解できたなら、寝ぼけた言葉は全て消える。

 絶対にそうなるのは嫌だから、できることは全部やる。

 

「そっか、アマリリスさまは、都合のいい夢とかみないんだね。教えてくれてありがと。お礼にいっこだけ何でも答えるから、好きなこと聞いていいよー?」

 

 え? とくにないから別にいいよ。

 きっとティーンの頃のおれなら、ノエミのようなメンヘラタイプとはあまり距離を詰めたくない一心でついそんな返事をしてた。

 しかしアレな上司との会話を幾度となく潜り抜けた今のおれならば、玉虫色に輝くニュートラルな返しが即できる。

「じゃあずっと気になってたんだけどさ、結局姉さまはどうやって『爆弾』を除去したの?」

 

 ――おまえから聞いた2人は処置しておいた。

 

 そう簡潔に告げられただけで、詳細は聞いていない。

 まあ無事に除去されたのなら、正直どうでもいいっちゃどうでもいいのだが、そもそもこれはどうでもいい話題でお茶を濁す下等テクニックだ。

 

「これを飲めって黒い水を次々渡されて、限界まで飲んで、それだけ。なんか強弱は関係なくて、ただ上書きしたら塗り潰せるんだって」

「なにそれ地味にきつそう」

「心配してくれるんだ嬉しー」

 わざとらしくそういって、後ろから大げさに抱き着いてくる。

 そしておれにだけ聞こえるような小声で囁いた。

「飲み終わったあとにお腹見たら、ちゃんと消えてたよ。新しいのもナシ。アマリリスさまから見てどう? まだある?」

「……ないよ」

 同じく囁き返すとノエミは、ノーリアクションきつーい、とかいいつつ離れた。

 

 そういやノエミはおれが『足した』影響で見えてるんだったな。

 ……ならこいつ、ミゲルの嘘もおれと同じルートで気づいてた筈だよな。

 こうして小声で内緒話ってことは、闇爆弾が見えてるのは秘密なのか。

 

 薄々感じてはいたがこのノエミ、メンタルはヘラり気味だが、ちゃんと物事を考えるタイプでもあるようだった。

 

 正直、ちょっと見直した。

 考えるのを止めないやつには、好感が持てる。

 だからついついサービスしてしまう。

 

「リアクションていわれても。ノエミはわたしに『どんなもの』を望んでるの?」

 ちょうどヨランダとターナさん、ミゲルとマナナがそれぞれ話している為、誰もおれたちの会話なんて聞いてない。

「表面上はそっけなくしてても、内心じゃ大好きでいつでも味方だぜ、とかかなー」

「表現力のハードル高すぎない? ちゃんとギャラは出るんだろうね?」

「同じ気持ちをプレゼント! やったね、両思いになれるよ!」

 

 それぞれ立場は違うけど、こっそりと味方でいましょうね。

 

 言葉にすればそれだけの、なんの強制力もない、子供の口約束じみたそれ。

 捉え方によっては「スパイになります」とも聞こえるそれ。

 まあ確かにA&Jが胡散臭いのは本当だし、味方が多い分にはいいか。

 

「よしわかった。ならわたしの」

「アマリリス様。ここからはお静かに。もうすぐそこなんで」

 

 ヨランダの声に「あ、はい」と黙る。

 ばちこん! と音が出そうな目配せを送るノエミは、上司と同じ行動を取ることで集団に溶け込む策士なのだろう。

 

「あれが入り口です。もう制圧は済んでるみたいですね」

 

 いわれて見ると、先行していた2人――リリカとグリゼルダ――とその補佐の娼館スタッフたちが、地べたに転がるガラの悪そうな連中を拘束したり猿ぐつわを噛ませたりしている真っ最中だった。

 まあ、あの2人が本気で不意打ちを仕掛けると、そりゃこうなるよな。

 ただ暴力で蹂躙するだけなら簡単だというのは、どうやら本当のようだった。

 

「よーうおつかれさん。なにか問題は?」

「ないよー。ちゃんと誰も殺してないし」

「新情報は?」

「な、ないです。聞いてたとおり、それぞれに1人だけ護衛の同行が許可されていると」

「数は?」

「20。少なくとも半分は戦える護衛だから気をつけてねー」

「上出来だ」

「あとはい、おたのしみ袋」

 必要な道具セットを受け取ったヨランダが、ざっと内容を確認する。

「傘は2本だけ? こっちは6人いるんだぞ?」

「そりゃ『ダメになってもいい傘』とかそうそうないって。こう、縦に並ぶとかしてがんばって」

「……まあ死にはしないけどさあ」

 

 このまま2人には、地下への入り口の番人になってもらう予定だ。

 やはり退路は大事。

 最悪、大人数相手でもどうにかなるこの2人がベストだろうとなった。

 

「あのさグリゼルダ。リリカと一緒だけど本当に大丈夫?」

 こそっとグリゼルダに耳打ちする。

「え? な、なにがですか?」

「いやほら、あの大聖堂のことろで2体ほど影分身(アレ)がぐちゃっと潰されてたから」

 いってみればグリゼルダ、1発殴られたままなんだよな。

「……ああ、それ、大丈夫です。死なないかぎり、ボクたちは無限なんで」

 

 なにをいってるかはさっぱりだったが、怨みとか我慢とかはないようなので良しとした。

 

「ようし、じゃあ行こうか。ここからはムダ口はなしだ」

 薄笑いを引っ込めたミゲルを先頭に地下への階段を下りる。

 

 隠れ家というだけあって、その入り口は結構ガチで隠された場所にある。

 旧市街の大通りから外れた裏道の片隅にある、看板もなにもない単なる空き店舗と思しきボロ屋の扉を開けると、いきなりどどんと地下へ続く階段が口を開けている。

 こんなの、知ってなきゃ見つけようがない。

 じゃあなぜ知っているかというと、情報提供――密告があったからだ。

 

 新しかろうが古かろうが、己にとって利となる方を選ぶのは当然だ。

 なので、旧王家(姉さま)業界最大手(A&J)の参入によって、ちらほらとこちらにつくやつも出て来たそうで、そこからの情報提供が今回のカチ込みに繋がったらしい。

 

 ちなみに、この隠れ家の所有者は会合の主催者でもあるらしいので、めちゃくちゃにぶっ壊しても問題ないというかむしろやれ的な説明をあらかじめ受けていた。

 

 早速ミゲルがそれを実践する。

 

 階段の終点、室内へと続く扉を派手に蹴破った。

 いくら上背があり体格もいいミゲルとはいえ、ただ無造作に押し込むだけのやくざキックひとつでがっしりとした木製の扉が吹き飛ぶのはおかしい。

 なので、きっとなにかを『やって』いる。

 そう思い眼を凝らすと、わずかだがミゲルの蹴り足にわだかまる闇の残滓が見えた。

「行きましょう、アマリリス様」

 ヨランダに促され、室内へと踏み込んだ。

 

 そこそこの広さの部屋に並べられた、2つの大きな丸テーブルを囲むようにして着席しているガラの悪そうなおっさんや兄ちゃんたち。その数ちょうど10。それぞれ背後の壁際にガタイの良い護衛っぽい連中が立っていて、それもきっちり10。聞いていた通り合計で20ジャストだ。

 

 最も入り口近くの席に座っていた兄ちゃんが慌てて立ち上がったところでミゲルに腹を蹴られた。さっきの扉と同じく、成人男性があり得ない勢いで吹き飛ぶ。2、3メートルほど滑空してから受け身もなにもなく墜落、それでも勢いは死なずにごろごろ転がり続け、壁にドンとぶつかりようやく止まった。

 壁際の護衛は近場の3名が、マナナとノエミが持つ鉄の棒? のような物で素早く殴打され動かなくなっていた。

 仕事が速い。前職のキャリアが遺憾なく発揮されている。

 

 そうして空いた椅子へミゲルがどかっと腰かけて、

 

 

「悪い、遅くなった」

 

 

 無音。場に居る誰もが無言かつ不動。喋れないし動けない。

 やっぱりミゲル、こういった場の雰囲気を呑む立ち振る舞いが抜群に上手い。

 

「……あ、ああ!? 手前ェなに吹いて」

 椅子を蹴飛ばし立ち上がった右隣のいかついおっさんに向けて、ミゲルが人差し指を向ける。

 そうして、伸ばしたままだった指をくいと曲げ、

 

「ドン」

 

 いうと同時に、おっさんの頬から矢じりが生えた。

 クロスボウのボルト――短い矢が、おっさんの頬を左から右へ貫通していた。

 声にならない悲鳴をあげる男の首根っこをターナさんが引っつかみ、ヨランダの方へと蹴り飛ばす。

 そうして空いた席にどかっと着席した。

 

「――ッ!」

 

 その姿を見た幾人かが、ひゅっと息を呑んだ。

 シュートされたおっさんには無反応だったのに、この露骨な反応。

 ……どうやらターナさん、中々の有名人なようだ。

 

「おい左のお前。邪魔だ、どけ」

 す、とミゲルが人差し指を向ければ、左隣のスキンヘッド男は慌てて席を立ち、そのままおれの方――つまりはその背後にある出口へと向け駆け出した。

 が、ノエミに足を払われ、倒れ込んだ頭部に向けて振りぬかれたマナナのサッカーボールキックにぐちゃっとされ動かなくなった。

 

「帰れとはいってねえだろアホタレ」

 

 ずるずると雑にスキンヘッド男を引きずり片付けるノエミが、ちょいちょいと空いた椅子を示す。

 

 ……やっぱり、おれも座らなきゃダメなの?

 

 ここでぐだってもしょうがないと思い、一息にえいやっと座る。

 テーブルクロスで見えないとはいえ、微妙に爪先立ちなのは格好がつかないので、どかっと胡坐をかく。

 

 それを確認したミゲルが、大げさな手振りを交えながらペラ回しを始めた。

 

「まあ見ての通りだ。お前らは失敗した。情報は筒抜けで、始まる前から裏切り者のひとり勝ち。あんまりだよな。だから今こうして話してる。当然だよな、お前らが大人しく席に着いてる内は会話ができる。そんなに難しい話じゃない、思い出せ、ここはそういう場なんだろ? なあマルカントニオ?」

 

 ミゲルに話しかけられた、おそらくはこの場の代表であろうインテリ風ガラ悪おじさんはすぐには答えず、たっぷりと3秒ほど間を、

 

「ドン」

 

 インテリ風ガラ悪おじさん――マルカントニオの左耳が弾け飛んだ。

 後の壁にどごっと突き刺さるボルト。

 あれどうやってるんだ? と思い眼を凝らすと、ミゲルの手から透明のクロスボウが消えるところだった。

 

「聞こえてねえならいらないよな? お、まだもう一個ついてるな? 邪魔だなその飾り。タイミングは同じだ、下手に動くなよ? 3、2、1」

「そうだ。その通りだ。ここは、会話をする場、だ」

「ならまずは自己紹介だな。何人かは知ってるだろうが初めまして。A&J大陸総合商社代表兼警備部長のミゲル・ベインだ」

 

 一度そこで切って、言葉を挟める隙間をわざと空ける。

 しかし誰も遮る者はなかった。

 満足そうにひとつ頷き、ミゲルが続ける。

 

「不幸な事故により急逝したローゼガルド殿の後任より、こちらのターナ殿と共に、この旧市街の治安維持業務を委託された。いってみればお前たちの新しい上司だ。初顔合わせがこんなかたちになって、とても残念だ。心からそう思う」

 

 そうして、ひとつ息を吸ってから吐き出された言葉は、静かで、冷たかった。

 

「最後のチャンスだ。これ以上やる気がねえなら、今すぐ椅子から下りて地べたに座れ。3、2、1、そこまで」

 

 3人、椅子から下りた。

 身の安全を保障するなんて一言もいってないのに、勢いに圧されて勝手に下りた。

 うん、こりゃ悪党の手口だわ。

 

 

 とそこで、もぞりと蠢いた。

 

 

 実際に誰かが動いたわけではない。

 ただここまで案山子のように壁際で突っ立っていた護衛の皆さんが、周囲の闇を寄り集め、なんらかの下準備を開始したのがわかった。

 

 きっと、そろそろだ。

 

 通常なら、マナナとノエミにこっそり渡しておいた透明クロスボウで動く端から撃ち抜いていくんだろうけど……今回はおれの発表会だと最初から決まっている。

 

 だから、そろそろだ。

 

 指輪の感触を確かめる。

 他の指では大きすぎて、かろうじて親指にはめている銀の指輪。

 イグナシオの置き土産。

 誰でも簡単に『現実改変系最終奥義的なやつ』ができる超アイテム。

 

 予想通り、夜間のおれなら闇をじゃんじゃか注ぎ込んで問題なく『起動』できた反則級の玩具。

 

 何時(いつ)かの何所(どこ)かの何かを『再現』することで現実を塗り替え、そこで起きる現象を問答無用で強制するという、まさにやった者勝ちのクソみたいな所業。

 

 その開始の切欠はミゲルに任せた。

 元ネタ的にも現実的にも、それが一番ムダがなくスムーズだったからだ。

 

 すうと。

 音もなく。

 壁際の護衛たちの前に、半透明の板――いやあれは盾か――が現れた。

 きっと飛来するボルトを弾くであろう、真っ当な対抗策。

 そうした上で数で押せばまず勝てるであろう、ちゃんとした打開策。

 

()

 

 護衛のひとりが叫ぶより速く。

 ミゲルが椅子の上で立ち上がった。

 右手に構えたもう隠すつもりのない武器(クロスボウ)を全員へと向けつつ。

 叫ぶ。

 

 

 

 

 

 問題なのは、なにを『再現』するのか。

 これといって明確な記憶のないおれは、とくに悩むことなく、これまでのやり方を踏襲することにした。

 

 映画だ。

 

 どうしてか、こういったおれのパーソナルに無関係っぽい記憶だけは妙に鮮明だった。

 さらに、かつてピラミッドさんがいった「心震わす言の葉」「力ある言の葉」というワードの条件はなるべく満たした方が上手く行くのでは? と思い、ならばこれしかないだろうとなった。

 

 サンプルは、候補は、それこそ山のようにある。

 だが実際にやろうとした際、大きな問題が立ち塞がった。

 

 そもそもの前提として、かつてのおれは日本語しか話せなかった。なんか今は普通にこっちの言葉で会話できてるけど、それはこの件には関係ないので置いておく。

 とにかくおれは、英語がネイティブでもなんでもなかった。学校教育ですら平均ちょい下の成績だったと思う。

 

 だから基本、翻訳される前の外画の台詞なんて覚えてないし、当然、覚えていないものは再現なんてできやしない。

 

 一応、地上波で何度も観た日本語吹き替え版の超名作でトライなどもしてみたがダメだった。

 どうやらおれは字幕版で見るのが基本だったようで、再現というからには『そう』じゃないとダメだろうという謎バイアスがかかっているらしかった。

 

 じゃあ邦画ならいやけど大体人が死んでるシーンか家族団らんばっかじゃんどうすんだよこれ都合よく拘束とか緊縛系Vシネかいやそれ違うだろ。

 

 

 そうして進退窮まりそうになったおれの活路は、思わぬ方向にあった。

 サントラだ。

 

 

 とある映画を観たかつてのおれは、そのオープニングテーマのあまりの格好良さに衝撃を受け、ほぼ衝動的にサントラ――サウンドトラックCDを購入した。

 

 その1曲目、くっそ格好良いオープニングテーマ。往年の名曲。それ以降もあちこちでさんざん使われまくったイントロが特徴的なナンバーの冒頭は、劇中の登場人物たちの台詞から始まる。

 

 再生ボタンを押すと、かすかに聞こえる周囲の雑踏の中、男女が互いにアイラブユーと囁き合うシーンが開始される。

 

 劇中の音源でオープニングテーマまでの10秒ちょいがそのまま収録されていて、本編と同じ台詞の切り方、曲の入り方でオープニングテーマが始まるのだ。

 

 最低でも、1000回以上は聞いたと思う。

 さすがに、1000回以上も聞けば嫌でも覚える。

 10秒ちょいのやり取りぐらい、いくらおれでもそのまま丸暗記できる。できていた。

 

 冒頭、男女の2人組みが、日本でいうファミレス的な安いレストランで強盗をするシーン。

 脅された客たちは、無抵抗のまま()()()()()()場面。

 

 それは、男の方が周囲に武器を向けながら椅子の上で立ち上がり、叫ぶところから始まる。

 

 

 

 

 

 ミゲルが椅子の上で立ち上がる。

 指輪を起動(ドライブ)へと入れる。

 ぴし、と空間に亀裂が走る。

 ミゲルが周囲へ武器を向けたまま叫ぶ。本気でやらなければ『成立』しないともうわかっているので、妙な照れや遊びはない。意味はわからないだろうが呪文の一種だと説明し、大まかな意図を理解してもらった上で、きちんと教えた通りのイントネーションで音を再現してもらう。

 

 ――始まる。

 

エビヴァディビコールズアロッブリィ!(everybody be cool, this is a robbery!)

 

 元ネタと声もタイプも全然違うが、それでも『再現』は開始される。

 きっと参照されているのは、おれの頭の中。

 周囲の空間にヒビが入り、無機質な地下室とはなにもかもが違う、なんだか微妙に硬そうなソファ席――薄桃色したボックス席がいくつも連なるどこかの店内が、ちらりとその顔を覗かせる。

 

 よし。

 行け。

 照れるな。ビビるな。全力でやれ。死力を尽くせ。見せつけろ。こいつに刃向かってはダメだと一発でわからせろ! なんでそんなキレてるの? って引かれるレベルで喚き散らせ!

 

 上背のないおれは目立つ為にテーブルの上へと上がる。

 途中でノエミに渡された武器(クロスボウ)を片手に威嚇しながら、死ぬ気で声を張り上げる。

 

 

Any of you(エニ゛ィオブディユウ) fucking pricks move(ファッキンピッチム゛ゥブ)!」

 

 

 割れて崩れて落ちて塗り代わる。

 嘘が本当を殴り倒し馬乗りになって、そのまま当然みたいな顔して居座り始める。

 時代も場所もお構いなしに、どこかで見たアメリカンなダイナーが地下室いっぱいに広がり満ちて、元よりあった地下室(現実)を押し込め縮め塗り込み潰す。

 

 

and I'll execute every(アナ゛ーラクシャキュヴリィェヴマザァ) motherfucking last one of ya!(ファッキンラ゛ストワナビヤッ)

 

 

 本来なら『ドゥン』とギターが入りオープニングテーマが始まるところで固まった。

 完全に塗り潰しが終わり、ここはもう『そう』なっていた。

 

 夜の地下室だった筈のそこは、さも当然のように日の光に照らされていた。

 通りに面する側が一面ガラス張りとなっている、どこか日本のファミレスっぽい雰囲気の、なぜか安っぽさに妙な味があるアメリカンなレストラン。全体的に明るめの配色。薄桃色のソファ席に黒のテーブル。まだ日は高くないのでガラスのブラインドは全て開けられており、側の道路を走る車や背の高い街路樹がよく見える。なんなら向こうにガソリンスタンドらしき建物すらある。つまり外には、普通に現代の町並みが広がっているのである。

 

 こんなの、おれ以外の者からすれば意味不明の光景だろう。

 しかし、驚きや戸惑いの声はない。

 なぜなら、おれとミゲル以外は全員、薄桃色のソファ席に着席して黒いテーブルに伏せているからだ。店内にずらりと並ぶ各ボックス席にそれぞれ4人ずつ押し込められた彼らは皆一様に伏せるばかりで動かない。動けない。

 

 これは再現だ。

 このシーンにおいて、男女2人の強盗に制圧されたこの場で動ける者はいない。声を出すような命知らずもいない。動けないし喋れない。

 そういう場面だから、もうどうしようもなく、だただた『そうなるのみ』なのだ。

 

 ……自分でやっておいてなんだが、本当これ、される側からすればクソの一言に尽きる。

 

「ほら、始めるよ」

 

 最も近くのボックス席で向かい合って『動けなく』なっていた4人――ヨランダ、ノエミ、マナナ、ターナさんの肩を軽く叩く。

 おれ()()が許可して触れた者はこの空間内で動けるようになる。

 事前の実験で判明している『これ』の仕様のひとつだ。

 

「ヨランダ、準備を」

「はい」

 

 すでに何回か『これ』を体験しているターナさんとヨランダは落ち着いたものだが、初体験であるノエミとマナナはめちゃくちゃ挙動不審になっていた。

 

 それでも決して声に出さないのは、あらかじめそう言い聞かせておいたからだ。

 

 本来のターゲットであるやくざ者の皆さんやその護衛たちは今、身動きこそ取れないものの、ちゃんと目は見えているし耳も聞こえている。テーブルに両手をついて伏せている状態なので視界の方はないも同然だが、その分、死ぬ気で耳を澄ませていることだろう。

 

 だからそこに余計な情報は入れない。

 なぜかこっちの身内までびっくりしているような間抜けは晒さない。

 

 

「――残念だ。本当に、残念だ」

 

 

 椅子から下りたミゲルが溜息混じりに語りながら、各ボックス席の前をゆっくりと歩く。

 

「もしかしたら友達(ダチ)になれるんじゃないかって、心のどっかで、ほんのちょびっとだけ思ってた。だからわざわざ席についた。ナメ腐った態度のマルカントニオの脳天をぶち抜くのも我慢した。その結果が、護衛どもの突撃だ。ちっとも笑えやしねえ。ただただ残念だ」

 

 いやお前ハナからやる気満々でここに来てたじゃん。

 

「だからこれはお前らの選択(チョイス)だ。どこにでもある、ムカつく上司と部下って関係を拒絶したお前らの望んだ、クソみてえなオチだ」

 

 そういいながらもミゲルが「寝てんじゃねえよ」と3人のやくざ者の肩を叩いた。

 椅子から下りて地べたに座った、あの3人だ。

 弾かれるように起き上がった3人は慌てて辺りを見渡し、それはもう取り乱した。

 そう、場を制圧した内のひとりであるミゲルにも、おれと同じことができるのだ。

 

「喚くんじゃねえ。これ以上俺をイラつかせるな。いいから、今からあいつらがすることをよく見てろ」

 

 マナナがテーブルに伏せている護衛の髪を掴み、強引に引き起こす。

 いきなり飛び込んで来た意味不明の光景に目を白黒させる護衛の髪を更に引き、ノドと口が垂直になるよう固定する。

 そこにノエミが漏斗(じょうご)を差し込む。なぜか娼館に常備されていた漏斗(じょうご)を開かれた口へと雑に突っ込み、そこへヨランダがティーポットを傾け黒い水をじゃぶじゃぶ流し込む。抵抗などできる筈もなく全てそのまま胃へと直行する黒い水。

 目だけを彷徨わせた護衛がこちらを見たので、にっこりと笑っておいた。

 

 そうして1人分の作業は終了。

 

 ノエミが漏斗(じょうご)を引っこ抜きマナナが手を離す。バン! とゴム仕掛けの玩具みたいな勢いで再びテーブルへと張り付く護衛。

 

 暴れたり叫んだりといった抵抗は一切できない。

 

 なぜなら、そんなことをした客は『いなかった』から。

 再現の元となった劇中では、この場に居合わせた客はただの被害者だ。

 これは、そんな彼らが勇気を振り絞って強盗を退治するような作品ではない。

 だから決して、なにかが起きるようなことはない。

 

「見ての通りだ。同じ物がもうワンセットある。それを使って今やったのと同じようにして、そこで寝てるアホどもにティーポットの中身を飲ませてやるんだ」

「え? あ、いや、でも」

「腹くくれよ。あの時椅子から下りた時点でもう、連中からすればお前ら3人は裏切り者だ。なにをどう繕ったところで言い訳にもなりゃしねえ。違うか?」

「……そうだな。わかった」

「物分りが良いやつは嫌いじゃないぜ。お前らは手前側から順番に。残りはこっちでやる」

 

 うーん、見事なまでにやくざしてる。

 ちゃんとマナナたちには護衛だけをやらせて、この3人には椅子に座っていた他の面子をやらせるのが最高にタチが悪い。

 

「あの、こいつ、蹴られて気絶したままなんだが」

「作業の手は止めるな。寝てても起きてても結局は動けねえんだ。どっちでも一緒だ。構わず流し込め」

 

 うっすらと日が差し込む明るい店内で、まるで流れ作業のように次々と、人相の悪いおっさんや兄ちゃんが雑に漏斗(じょうご)を突っ込まれ流し込まれびたーんとテーブルに叩きつけられるのを繰り返す。

 流し込まれている真っ最中のどこか怯えたような瞳をひとつひとつ確認しながら、ミゲルは最高にむかつくスマイルと共に語りかける。

 

「今お前らが飲まされてる黒いソレ、気になるか? けど実はお前たちはそれが『どういった働きをする』のか、既に知っている筈なんだぜ? 頭の中で繋がってないだけなんだ。知らないワケがねえんだよ。旧市街(ここ)を支配してた4大組織の頭がどうなったか、知ってるからお前らは今夜ここに集まった。そうだよな、マルカントニオ?」

 

 今まさに椅子から下りた3人組み(裏切り者)の手によってざぶざぶ流し込まれている真っ最中のマルカントニオが、殺意を込めた眼差しをミゲルへと向ける。

 期待通りの反応だったのか、満足気にへらへら笑うミゲルがマルカントニオに差し込まれている漏斗(じょうご)――正確にはそこを流れる黒い水を指差した。

 

「もう気づいたよな? そう、それが原因なんだ。4大組織の頭がぼんって弾け飛んだのは、今お前らが飲んでる『それ』と同じもんをローゼガルド殿に飲まされたからなんだとさ。意味わかんねえよな? 大丈夫、すぐわかる」

 

 この説明は重要だ。

 自分たちがなにを飲まされどうなっているのか理解して初めて行動を縛れる。

 

「どうした? そんな嫌そうな顔すんなよ。俺の奢りだちゃんと味わえ。数量限定ローゼガルド殿の置き土産ってやつだ。あのおばさんのイカれた研究成果のひとつだ。結構まじで凄ぇ代物なんだぜそれ」

 

 馬鹿正直にヨランダの名前を出す必要もないので、叔母上の負の遺産に積み立てることにした。

 

「そうだな。お前らには難しい話なんて理解できねえだろうから、まあ簡単にいっちまうと……その黒い水の中には、目に見えないぐらいちっこいローゼガルド殿がいると思え。そいつは常にお前らを見張ってて『条件』に違反したのを確認するとぼんっ! て弾け飛ぶ。すると当然お前らは即死する。昨夜(ゆうべ)の4人みたいにな」

 

 そこでミゲルが『もう流し込み終わった』やつの肩を叩き、

「1コだけ質問を許す。いってみろ」

 動くことは許可されなかったのか、顔はテーブルに伏せたまま声だけで、

「……条件って、何だ? オレは、死ぬのか?」

 

 あ、こいつさらっと2つ聞いた。

 

「よし、まずはどうでもいい方から答えよう。2コ聞いてくる図々しい阿呆の生き死になんざ、たった今どうでもよくなった。条件の方は――俺とターナ殿からそれぞれひとつずつ、決めておいた」

 

 たっぷり5秒ほど間を空けてからターナさんが、

 

「こっちはいつも通りだ。私の店に手を出す奴は、絶対に許さない」

 

 ミゲルは最初だけおどけたような軽い調子で、

 

「俺の方は秘密。だってお前ら、教えたらどうにか回避しようと必死になるだろ? なに、まじめにちゃんとやってる分には大丈夫さ。ローゼガルド殿ほど無茶をいうつもりもない。ただし、これ以上ナメ腐った真似するならそん時ァ弾けて死ね」

 

 しかし最後はただただ真顔で淡々と。

 

 うーん、こんなやり方じゃ、いつか絶対に反乱が起きるよな。

 やっぱこれって、2、3週間程度の時間を稼ぐだけにしか使えない、微妙なやり方だよなあ。

 

「ミゲルさま。全員終わりました」

 マナナの報告を受け、ちらりとおれの方を見るミゲル。

 おっけーおっけーわかってる。

 

「よし、ならあとは実践だ。お前ら起きていいぞ。ただしケツはシートの上、お行儀良く座ったままだ」

 

 ミゲルの合図にキンと指輪を鳴らす。

 これは持ち主のおれにしかできない『一斉許可』だ。

 

 そうして上半身だけ自由を取り戻した皆さんは、まあ大体テンプレなリアクションを一通りやってからちらちらとおれを見た。

 ミゲルによる第2幕の間、とくにやることのなかったおれは、ボックス席を一望できるカウンター席で胡坐をかき、ソファと同色の安っぽいテカテカ薄ピンクの背もたれに身を預け「あ、この椅子360度回転するんだ」と原作では映らなかった細部の補完具合にちょっとテンションが上がったりしてた。

 

 そんなおれにめっちゃ注目が集まる。

 だがここで言葉を発するつもりはない。

 どうも、この3人の中で『未知の恐怖』担当のアマリリスです。

 とかいっちゃうと台無しだもんな。

 隣で片膝立てて貫禄たっぷりに座ってるターナさんを見習って、気持ちふんぞり返っておく。

 

「よしお前はこっちだ! オラさっさと動け! そうだその椅子に座れ!」

 

 ミゲルが目的の男をボックス席から引きずり出し、強引にカウンター席へ座らせる。

 ちなみにこれも『再現』の範疇だ。

 元ネタでは厨房のコックや端の席にいた客たちが強盗2人に脅され、見える場所へと移動させられるシーンがある。

 その際、逆らったり反撃したりといった展開はない。

 なので()()()()

 どれだけやる気と能力があっても、ただただ()()()()

 

「ヘイお前ら! こっちに注目だ! これから実際にやるからよく見とけ」

 

 1番端におれ、その隣にターナさん、そこから5つ空いたカウンター席に座らされた男の椅子がくるりと回され、各ボックス席からその顔がよく見えるよう場が整えられる。

 

「つーワケでだマルカントニオ。お前には答えを出してもらう。大丈夫、お前みたいな馬鹿でもすぐわかる極々シンプルな2択だ」

 

 いってミゲルが、マルカントニオの隣のカウンター席をぐるんと回し腰かける。

 

「まずはひとつ。さっき飲まされた黒い水がどうたらなんて話は全部嘘っぱちのデタラメだって『つっぱる』選択(チョイス)。リーダーとしての意地を見せるならこっちだな」

 

 そこでミゲルはがしっと馴れ馴れしくその肩を抱き、

 

「そしてもうひとつ。大人しく『ごめんなさい』して命乞いする選択(チョイス)。まあ無理だろうが、ここでこいつを選べるなら俺はお前を見直す。……よし喋っていいぞ。選んで答えろリーダー。皆が見てるぜ」

 

 そうしてミゲルが席を立ち1歩下がった。しかしそのまま10秒が経過しても、発言を許可されたマルカントニオは黙ったままなにもいわなかった。

 

 これはおれでもわかる。

 考え得る限り、最悪の選択(チョイス)だ。

 

「おいおいおいおいヘイヘイヘイヘイ! なんだよそれお前がビビっちゃダメだろ!? お前はもう行動したんだ。やった後なんだ。やる前に呆気なく失敗した間抜けだけど、それでも、もう時間は戻らねえんだ。後戻りなんて出来やしねえんだ。だからお前はせめてこう言うんだ『は? 馬鹿じゃねえの? ちっこいローゼガルド入りの黒い水爆弾だ? ナメてんじゃねえぞ、そんな見え透いたハッタリで俺様が芋引くワケねえだろ!』ってな」

 

 まあ正直なところ、このままダンマリでも構わないのだとは思う。

 先頭に立って音頭を取った旗手たる彼が黙って下を向いた時点でもうお終いだ。

 きっと、そんな腰抜けには誰もついて来ない。

 

「具体的な啖呵の内容としてはそうだな、ターナ殿の店に被害を出してやるって宣言なんか言い訳の余地がなくていいんじゃねえかな?」

 

 沈黙。

 

「おいおいなんて顔してんだよマルカントニオ。言動や状況を把握して手前ェでアウトかセーフを判断する極小の爆弾とか、んなもんあるワケねえだろうが? いくら魔女殿だからって、できることとできないことがある。常識的に考えろ、わかるだろ? なあマルカントニオ!?」

 

 沈黙。

 

「オウケイわかった。お前は俺が思うよりずっとお利口さんだった。そうだよなマルコ坊や。怖いよな。なんでお前みたいな腰抜けがこんな大それた事をおっ始めようとしたのか、ようやくわかったよ。場のノリってあるもんな? ついつい自分は大したやつだってカン違いしちゃう瞬間ってあるもんな? お前はそれがたまたま今夜だった。もういいよマルコ坊や。小便は漏らさなくていい。泣きながら腹を見せる犬を殴るほど俺は悪趣味じゃねえ。お前にはお前にできる範囲の仕事を割り振るよ。ほどほどによろし」

 

「――ごちゃごちゃうるせえ! ナメてんじゃねえぞ糞ったれがァ!」

 

 そこでマルカントニオが吠えた。

 まさにやくざ者といわんばかりのドスのきいた大声だったが、

「いやもういいよマルコ。即答できなかった時点でもう終わってる。やくざ者としてのお前はもうダメだ。だからもういい。なにも本当に死ぬこたァねえ」

 対するミゲルの声は冷め切っていた。

「死ぬのは手前ェだミゲル! いいか! どんな手を使ってでも絶対に殺る! ここまでオレをキレさせて」

「本当にキレた奴は言葉なんざ選ばねえんだよマルコ。ちゃんと娼館には触れず俺に的を絞る時点でお前は冷静だ。しっかり生き延びようとしてる。下手くそだけどな」

「上等だ。そんなに言って欲しけりゃ言ってやる」

「だから遅せぇよ馬鹿。無駄なことすんなって。負け方も知らねえのな、お前は」

「ごちゃごちゃうるせえっつってんだろミゲル! 手前とA&Jは一人残らず徹底的にぶっ殺す! そしたら次は娼館とそこの萎びた売女だ! カビの生えた古臭い支配の象徴――」

 

 ばっと、ヨランダが割り込んだ。

 ターナさんごしにチラ見えするマルカントニオを遮るように、素早くヨランダが視界を切った。そうして、どこか見覚えのある骨組みに張り付いた黒い布地が展開された。

 一瞬遅れて理解する。

 

 あこれ、開いた傘の内側だ。

 

 ヨランダではカバーし切れない隙間を埋めるノエミも、同じく開いた傘を手にしている。

 そうして2人は傘を開き盾のようにして防いでくれた。

 

 なにを?

 

 派手に飛び散るあれやこれやを。

 水っぽい破裂音と共に飛び散ったであろう決して浴びたくはないそれらを、2人がばっちりと防いでくれていた。

 

 す、と傘が上げられ視界が通る。

 

 カウンターテーブルの上は、それはもう酷いことになっていた。

 爆心地から放射線状に飛び散った『あれやこれや』は少し離れたボックス席にまで届いており、そこに座る皆さんの顔や服にへばりついたり染みをつくったり、それはもうとてもとても酷いことになっていた。

 

 腰から下だけになったマルカントニオがどちゃりと椅子から滑り落ちる。

 

 ミゲルとマナナは自力でカウンターの角へ退避し難を逃れていた。

 ……あの距離を一瞬でとか、君ら中々のフィジカルお化けね。

 

 

「――アマリリスさま。護衛が1人消えた。動けないから逃げたんじゃない。あのおっさんが弾け飛んだら、消えた」

 

 

 普段とは違う鋭く尖ったノエミの声が、ただ事実だけを伝えた。

 おかげでおれも余計なことは考えず、ただそれのみに取りかかれた。

 

「どこにいたどんなやつが消えたの?」

「1番奥の右端、何の抵抗もせず大人しかった眼鏡の中年」

 

 まず思い浮かんだのは、術者が死ねば術も消えるよねという当然の話。

 そしておれは知っている。グリゼルダという無数の影分身を出せる存在を。

 

 嫌な予感が線となり、そんなことしなくていいのに、勝手に繋がり始める。

 

 おれができて、グリゼルダにもできた。だからたぶん影分身(これ)は、この世界においてオンリーワンな技能ではない。もしかしたらワリとメジャーな可能性すらある。

 

「分身って、結構できるやついたりする?」

「うーん、なくはないかも?」

 

 だから。

 だからもし仮に、マルカントニオが『分身を出せた』のだとしたら。

 おれのようにステルスでもなく、グリゼルダのように無数でもないが、それでも自分と同じようなものを出せたとするなら。

 

 没個性とも取れるガラ悪黒ずくめファッションのせいで、護衛もその対象も遠目には服装に違いなんてさほどない。もし顔が同じだったとしても、髪型を崩して眼鏡でもかければ、きっと初見のおっさんの顔なんてわからない。

 

「ね、アマリリスさま。もしかして、もう1人いる?」

 

 事前に聞いていた室内の人数は護衛10人、参加者10人の計20人。

 おれたちが室内に踏み込んだ時点でマルカントニオの『分身』込みでジャスト20だったとするなら……残りの1はどこへ行ったのか?

 

 連中はおれたちが踏み込んで来ることなんて知らなかった。

 だからこれは、事前に隠し玉を用意しておいたとかそういった話ではない。

 おそらくは、ただ中座していただけ。

 それならしょうがない、さっさと行ってこいと、ただそれだけの話。

 

 だからこそ、どうしようもないぐらいにまずい。

 

「だとしても、もう機会逃しちゃってますよ。何かするならリーダーのおっさんが弾け飛ぶ前にやらなきゃ遅いし。それにたしか『これ』が始まった時に部屋にいなかったヤツって、後から入って来れないんですよね?」

 

 そう、普通に考えるならヨランダのいう通りだ。

 事前に行った実験では『再現』の最中は内外の出入りは不可能だった。

 

 

 ただ、この『再現』には元ネタがある。

 

 

 護衛の1人が、これからの趨勢を決めるであろう重要な場で一時退出する理由なんて、きっと『あれ』しかないと思う。

 マルカントニオは咄嗟に自分の特技で穴を埋めて、たまたま席を外していた護衛を『死角からの一撃』に仕立て上げようとした。

 だからその『死角からの一撃』が戻って来るまでどうにか時間を稼ごうとしたが……我慢できずにああなった。

 肝心の『死角からの一撃』はきっといまだかつてないほどに大苦戦していたのだろう。とんでもない長丁場だ、その苦労は察するに余りある。だがそれもいつか必ず終わる。そうなると当然、

 

 

「あ、あああああっ!! ボ、ボスがっ! ボスがハジけて、し、し死、嘘だ畜生くそくそくそ手前ぇら! テメーらああああ!!!!」

 

 

 こうして戻って来る。

 

 通常なら外からは入れない筈のこの場に『元ネタのストーリー通り』だからという理由で普通に入室できたであろうこいつが。

 

 きっと急な腹痛かなにかで『トイレに篭っていたやくざの荒事担当』が。

 この場に現れてしまう。

 

「あー、おたく、どちらさん?」

「そこでおっ死んでるマルカントニオの子分だよう! こ、ここれからてめーらをぶっ殺すこのアルミロの名前を、刻んで、しし死」

「いや、あの下半身だけ見てなんでマルカントニオだってわかるんだよ? 別のやつかもしれねーだろ?」

「オレがボスの下半身を見間違えるワケねえだろうがっっ!! ナメてんのか手前ェ!?」

 

 まずい。これ、本気でまずい気がする。

 

 この『再現』には元ネタがある。

 

 それは場面ごとに主人公が変わるオムニバス構成の作品で、冒頭で()()()男女の強盗カップル以外にも幾人かの主要人物が登場する。

 その中でも主役級といっても過言ではない『こと(強盗)が起きた時、たまたまトイレでクソをしていたやくざの荒事担当』と()()()()()()の男がこの場に登場してしまうと……これ、どうなるんだ? 少なくとも今あいつは自由に動けている。被害者である一般客以外がこの存在している。

 

 状況が、場面(シーン)が動いてしまっている。

 

 そもそもおれは、一場面だけを切り取って『再現』することしか考えてなかった。

 場面(シーン)を進めるつもりなんて微塵もなかった。だから間違っても、原作で強盗たちがやった次の行動――連中から財布を、なにか持ち物を没収するような真似は決してしないようあらかじめ全員に厳命しておいた。

 

 注意やお願いではなく、絶対にしないように、厳命しておいた。

 

 なぜなら、元ネタにおいて、男女2人組みによるレストラン強盗は失敗するからだ。

 最終的に命は助かり金もゲットできるのだが、強盗計画そのものはワリとあっさり逆転されて破綻する。

 

 そう、()()()()()()のだ。

 

 2人の衝動的な強盗は、偶然客として遅めの朝飯を食いに来ていた『やくざの荒事担当』コンビによって台無しにされる。

 ひとりはアフロヘアのナイスガイ。

 そしてもうひとりは『強盗が起きた時、トイレでクソをしていた』その相棒。

 

 幸いこの場にアフロヘアの男はいない。

 だがこれが『再現』だというのなら。

 おれの意図など関係なく、ただ条件を満たす存在さえいれば『成立』してしまうという、全く嬉しくない柔軟性を備えた場だというのなら。

 

 物語的に『勝利が約束されている側』が登場してしまえば、果たしてどうなるのか。

 

「ヘイ、アルミロ、落ち着いて周りを見てみろ。何か変だと気づかないか?」

「あ? 変わってるけどイカした店だな――じゃねえっ!! ンなことァどうでもいいんだよ! ボスをやったのは手前ェか!? ああ!?」

 

 いつの間にかアルミロの両手には大振りなナタのような刃物が握られていた。

 

「いや。どっちかっていうと自殺だなありゃ」

「なんでボスが! 今夜ここで! 自殺するんだよ!? おかしいだろデタラメいってんじゃねェ!」

「ならそこで座ってるお友達に」

「うるせえクソったれが死にやがれえええええ!!!」

 

 殺意むき出しで突っ込んでくるアルミロに向けて、ミゲルはただ静かにすいと指を引いた。

 額のど真ん中。同時に両膝。1、2、3ではなく、1で同時に全箇所をボルトが射抜いた。

 どう考えても即死で、さらに膝に矢を受けた衝撃ですっ転んで、それでお終い。

 誰が見てもそれ以外の結末なんてあり得ない、理解不能の一射三矢が決まった。

 なのにアルミロは止まらない。

 額と両膝、3箇所からボルトの羽を生やし「ぶった斬れろやあああああああ!!!」と叫びながら両手のナタをミゲルへと叩きつける。

 びいん、と弦が弾け飛ぶ。クロスボウを盾にナタを受けたミゲルが押し込まれる。片手と両手。競り合いすら発生しない。ただ押されるのみ。だが空いた片手には新たなボルトが握られており、押されつつもその先端をアルミロのノドに突き刺した。

 なのにアルミロは止まらない。

 そのまま押し倒され背中から床に叩きつけられる。マウントポジションを取られたミゲルの首筋にナタの刃が入ろうかというその時、アルミロのノドに刺さったままだったボルトが『射出』された。ボルトの矢じりがアルミロのうなじから飛び出し突き抜け天井にどこっと刺さる。……どう考えても致命傷だ。

 なのにアルミロは止まらない。

 一瞬だけ脱力したようにも見えたが、またすぐやる気満々になって――。

 

 いやこれ、さすがにおかしいだろ。

 なんで生きてるんだよ。どうして死なないんだよ。

 あ、とそこで訪れる気づき。

 

 もしかして、()()じゃ死なないからか。

 

 元ネタにおいて、今アルミロがその『役割』を担っているであろうトイレから帰ってきた相棒は、この次の仕事で死ぬ。八百長を拒否したボクサーの手によって呆気なく射殺される。

 

 つまり、ここでは死なない。

 先で死ぬのが明確に描かれているから、()()()()()()()()()()()

 そんな意味不明の理屈が、この場では現実としてまかり通っている……のか? いや通っちゃダメだろそんなの。

 というかこれじゃ別作品だろ、永遠に美しくなりそうだなおい。

 

 

「アマリリスさま、これ、なんかヘンだよ。もう止めた方がよくない?」

 

 

 ノエミの言葉で我に返る。

 そうだ、さっさと『解除』すればいいんだ。

 

 指輪にはちびちびと少しずつ『闇』を供給し続けている。

 そうすることで現状を維持し続けている。

 

 ならはいさっさとカットカット!

 

 よしこれでもう動力(エネルギー)の追加はなし。現状の維持はできなくなる。

 たぶん今すぐにでもこのアメリカンなダイナーは風景ごとぼろぼろと崩れ落ちて元の地下室へと戻――らなかった。

 

 供給は断った筈なのに、なんか指輪が力に満ちてた。

 霜降りステーキを満腹まで食べた後のようなギトギトした活力に満ちていた。

 

 なんでどうしてと焦る視線の先に転がるマルカントニオの下半分。

 あ。

 もしかして。

 

 元の持ち主だったイグナシオは仲間の命をエネルギーへと変換してた。

 なんか即席で組み上げた陣がどうとかいってた。

 指輪を起動した範囲内で弾け飛んだマルカントニオ。

 なぜか脂っこいものを満腹まで食べた後のようなギトギトした活力に満ちている指輪。

 

 足して引いて、答えがどん。

 

 

 ――これ、死んだ命をオートで喰らう最悪の呪物じゃねーか! いらん機能つけるなよ! 禍々しすぎるだろ!

 

 

 衝動的に拳を叩きつけ破壊しかけたが、寸前で思い止まる。

 確信に近い予感があった。

 たぶんこれ、強引に破壊とかしちゃうと、もっと酷いことになる。

 

 視線の先では、じゃこんじゃこんと3段階に伸びる特殊警棒っぽいなにかを手にしたマナナがフルスイングを決めていた。

 ミゲルに馬乗りになっているアルミロの頭部が、もうどうしようもないぐらいにひしゃげて吹き飛ぶ。つられて身体も引っ張られるように転がる。

 しかしすぐに「痛ェだろうがクソアマがよお」と当然のように立ち上がった。

 いつの間にか、両手に握り締めていたナタのような武器が1つ消えている。

 それはマナナ右腕に、深く食い込んだままぶら下がっていた。

 

 ダメだ。たぶんこのままじゃ、どうしようもなくなる。

 

 あのアルミロという男、ちっとも死なない自分に微塵の疑問も抱かず、ただボスの仇を殺すことのみに全力だ。それ以外を見ていない。見るつもりがない。

 きっと、元々まともなやつではないのだろう。

 だが決して馬鹿ではないらしく、段々と自分の不死身を生かした『相討ち戦法』を取りつつある。

 

「マナナッ!」

 叫ぶと同時にノエミが駆け出す。

 じゃこんじゃこんと3段階に伸びるマナナと同じ武器を手にしたノエミは、躊躇うことなくそれをぶん投げる。首だけで振り向いたアルミロの膝横にぐしゃっと当たる。

「だから痛ェんだって! いってんだろおおおおお!」

 叫んだアルミロの背後から、同じくマナナが投げた特殊警棒もどきが飛来するが、これは首の動きだけでかわされる。アルミロを素通りしたそれをノエミがキャッチして、そのまま振りかぶり殴りかかる――フリをしてもう一度ぶん投げる。さっきと同じ膝横にぐしゃっと当たり、堪らずアルミロは片膝をついた。

「マナナ! やるならわかりやすく! よく見えて痛そうなやつ!」

 

 一見、()()()()()ように見えなくもない。

 だが。

 指輪に満ちる力に果ては見えない。これがいつまで続くのか見当もつかない。

 

 ノエミが押さえ込み、マナナが手にしたナタでアルミロの腕を切断しようと試みるが――なぜかちっとも切れない。よくよく見れば血も出ていない。

 ようやく起き上がったミゲルは鼻や口から血を垂らしている。押し倒された際の揉み合いで武器の一部や頭突き等が当たっていたのだろう。つまりこっちは普通に負傷する。マナナも右腕から血を滴らせている。しかし、4本のボルトが刺さり今なお刃物で斬られている真っ最中のアルミロは血の一滴も流さない。

 

 そもそも、勝負になっていない。

 

 そう遠くない内に、確実に、こちらは息切れする。

 疲労も負傷も積み重なり続ける。だが向こうはそうじゃない。

 

 文字通りアルミロだけが別の舞台にいる。

 現実に起こり得る展開として、こちらの皆殺しが脳裏をよぎった。

 

 事前に行った実験では『再現』の最中は内外の出入りは不可能だった。

 続く限りは、入れないし、出られない。

 

 こりゃ出し惜しみしてる場合じゃないと、禁じ手にしたピラミッドさん由来の『崩し』を用いようとして……思わず固まってしまう。

 

 おれが自身で組み上げた界は、おれにとって気に入らない界とはなり得ない。前提条件が食い合う。これでは『宵の双葉』は発芽できない。

 自分でも半分以上意味不明だったが、それでもできないという事実だけはわかった。

 

 ならもうおれにできることはひとつしかない。

 事前にミゲルから受けていたアドバイスに従い、表情だけは余裕たっぷりに。

 ゆっくりと肩まで右手を上げ、躊躇いなど一切なく全力で。

 

 

 おれは『アロハー』なハンドサインを掲げた。

 

 

 え? お前がやるのそれ? つうかこれどうすんの?

 目蓋と鼻と唇から血を流しているミゲルが、そんな表情でこちらを見た。言葉がなくともひしひしと伝わるその思い。めっちゃいたたまれない。

 いやけどさ、致命的なミスが発覚したのに黙ってるのは最悪中の最悪、

 

 

「つまりは、アレを手前共だけでどうにかしてみせろと。そう仰るか」

 

 

 よく通るターナさんの声が響き渡った。

 いやそんな偉そうな話じゃなくて――とつい返しそうになるが寸前で踏み止まる。

 

 わざわざ響き渡るような声量を出す理由。

 きっとこれは、周りに聞かせる為の台詞。

 つまりターナさんはまだ続けるつもりなのだ。

 おれが『状況は破綻した』と判断したのは百も承知で、それもでまだ続けるつもりなのだ。

 

 

「……だとしたら、どうする?」

 

 

 よくよく考えるとその方が『お得』だと気づいた。

 どの道やるしかないんだから、もし上手くいった時に『計算通りですけどなにか?』みたいな顔ができる余白を残しておく方が断然『お得』なのだ。

 

 

「――やらいでか。魔女の巫女の手管、御覧に入れましょうぞ」

「期待してる」

 

 

 んん?

 勢いで乗り切ったが、なんでいきなり魔女の巫女?

 リリカじゃなくてターナさんが?

 

「け、けどお婆、やるったってどうするんだよ。アレ、毒でいけるか?」

「私がどれだけ『魔女の巫女』やって来たと思ってるんだい。この手の座興に巻き込まれるのは初めてじゃあない」

 

 やっぱこれターナさんが魔女の巫女って呼ばれるローゼガルドの右腕……なのか?

 

「え? じゃああの糞(ローゼガルド)も『これ』できたの?」

「あの性悪は間違いなく天魔の類だった。できないことの方が少なかったさ」

 

 それじゃあこれまで喋ってきたあれやこれやの意味が色々と変わ――たりはしないかべつに。

 ターナさんはヨランダの家族で婆ちゃんで、姉さまとミゲルと手を組んで娼館を守る決断をして、その仕上げをする為にここへ来た。

 

 うん、これといってなんも変わらないな。

 

「ヨランダ。ことの成否はおまえにかかってる。当時15かそこらだったヴィクトリアちゃんにだってできたんだ。おまえなら必ずできる」

「あたしがなにをするんだよ? ヴィクトリアちゃんって誰?」

 

 いやむしろこれ、凄くいいんじゃないか?

 あのガチな破綻者(ローゼガルド)の無茶振りを長年生き残ってきた実力者なら、もしかしたら本当にこの状況をどうにかできるかもしれない。

 

「おまえは自分にできることをすればいい。そしたらもう後は勝ったも同然さ。はしゃぐ坊やの1匹ぐらい、どうとでもなる」

 

 本人もなんかそれっぽいこといってるし……うん、いける気がしてきた。

 いや、絶対にいける!

 なにせ魔女の巫女だ! いけるわこれ!

 

「これがなにか、わかるね?」

 ターナさんが手を開くとそこには、黒く長い竹串のようなサイズの針があった。

 一目見ただけで眼にしみる、圧倒的なまでに濃厚な『良くないなにか』が凝縮された、おそらくは殺しの為だけに用いられる呪の塊。

「……黒串。お婆の持つ、最も致死性の高い即死の呪毒」

「今のおまえなら、こいつをどうにかできるな?」

「……わからない」

「即座に否定しないなら、まあ大丈夫さ」

 

 いってターナさんは無造作に。

 その黒串を自分の首へと突き刺した。

 

「――は?」

 

 目と耳と鼻と口からどろりと血が溢れ、糸が切れた操り人形のようにカウンターへと倒れ込んだ。

 そうして血の涙を流した目を開けたまま、ぴくりとも動かなくなる。

 

 なにが起きているのか、なにをしているのかさっぱりわからなかったが、ド素人のおれでもこれだけははっきりとわかった。

 今ターナさんの全機能が、停止した。

 

 

 即死だ。

 

 

「あ、あおば、う、ああ゛ああああああああああああああああ!!!」

 

 意味不明な叫び声を上げながら、ヨランダがティーポットをカウンターへと叩きつける。

 

「な゛に、なにやってんだよばかあああああああああああああ!!!」

 

 がちゃんと割れたティーポットをさらにぶん殴り破壊すると、一瞬で濁流じみた圧倒的な水量が溢れ出した。

 

 視界一杯に広がる黒い水。

 

 動かなくなったターナさんが濁流にのまれ、そのまま隣に座っていたおれも流される――と思い反射的に目を瞑るも、押し出す衝撃も水の冷たさも、なにも感じない。

 

 そのまま10秒ほど経ち、おそるおそる目を開けると……全身びしょびしょの筈のおれは、なぜかちっとも濡れていなかった。

 変わらず安っぽいカウンター席の上で胡坐をかいたままだった。

 

 ぬるりと残滓が頬を滑る。

 

 疑問は一瞬で理解となる。触れたのでわかる。さっきのあれは闇に属する一群だ。なのでするりと把握できた。

 

 きっとあれは、単一の機能のみを持たされたものだ。

 水という性質すら余分だと断じられ、ただ特定の呪毒のみを分解する為だけに生み出された、心底からの全霊を振り絞った切なる血反吐。

 

 どうか、お願い、絶対に。

 

 どこまでも切実なその思いに、ついつい涙が出そうになったおれは、それ以上の覗き見を止めた。

 

 そうして周囲を見渡すと、10センチほど浸水した床の上で仰向けに寝かされたターナさんに心臓マッサージっぽいことをしているヨランダの姿があった。

 

 たしか30と2サイクルだっけ? などと薄ぼんやりした記憶を辿っていると、ぴしと周囲の景色にひびが入った。

 

 がふ。

 

 ターナさんの口から黒い水が吐き出されると、ひびは亀裂となり、部屋全体を走り回った。

 

 なにが起きてると見渡す視界の端に、アルミロとゼロ距離で殴り合いをしているミゲルがいた。

 当然アルミロは傷つかないのでミゲルだけがばちばちにされているのかと思いきや、親指を目に入れるようにして殴り抜けたり、膝蹴りのついでに掴んだ耳を引き裂いたり、当然のように玉をシュートしたりといった残虐ファイトで辛うじて拮抗していた。

 そういやアルミロ、痛みは感じるっぽかったもんな。

 だがそれでも3発に1発はやり返されて、徐々にばちばちになっていくミゲルの限界は近い。

 

 そんなボスのピンチにマナナとノエミは一体どこでなにを――いた。2人はそれぞれ部屋の両端で、綱引きのように大振りのナタを引っ張っていた。

 なんらかの謎力でアルミロの手へと戻ろうとするナタ。

 それを床から30°ぐらい斜めになって引っ張り阻止する2人。

 なるほど確かに、いくら不死身でも素手になってしまえば、与えられる損傷の規模もペースもがくっと落ちる。最悪の事態に至るまでの時間は引き伸ばされる。

 

 凄いなプロフェッショナル。最短で最高効率に辿り着いてる。

 数秒ごとにボスがばちばちになっていく事実にさえ目を瞑れば、文句なしの冴えたやり方だ。

 

 ……いや、違うか。

 ここで矢面に立てるやつだからこそ、ボスたり得るのか。

 

 そこで亀裂が一斉に弾け、ぼろぼろと崩れ始めた。

 日の差し込む派手な配色のレストランがぼやけてくすみ、経年劣化した安い塗装みたくぼろぼろと剥がれたその裏側から薄暗い地下室が顔を覗かせる。

 

「お婆! まだ動いちゃ」

「……こりゃ凄いね。ほぼ完璧に無効化されてる」

「どんだけ各部にダメージが」

「許容範囲さ。おまえはよくやった。ならあとは私の仕事だ」

 

 何事もなかったかのように立ち上がったターナさんが、()()()()()()()()アルミロの側まで歩を進めた。

 

 言葉を発したわけでも、派手な動きをしたわけでもない。

 だが当然のように殴り合いは中断され、ミゲルはくるりとアルミロに背を向けた。

 

「2人とも、よくやった。もう離していいぞ」

 

 マナナとノエミが同時に、ぱっとナタから手を離す。

 アルミロの手へと吸い込まれるように1対のナタが飛んでゆく。

 

 あるいは。

 

 もしここでアルミロが、武器に(こだわ)らず素手のままターナさんに殴りかかっていれば、もしかしたら、万が一があったかもしれない。

 

 なんだかんだいってもその身はつい先ほど蘇生したばかりだ。間違いなく衰弱しているだろうし、そもそもが老齢であり、単純な体力や筋力には恵まれていない。

 なので、きっとまだ半分ぐらいは不死身の成人男性(アルミロ)に素手で掴みかかられたなら、もしかしたら、万が一があったかもしれない。

 

 だが。

 そうはならない。

 たとえどんな馬鹿だろうと。

 いや、理屈ではなく本能や直感で行動するタイプならなおさらに。

 ()()に素手で挑みかかるのは、まず無理だ。

 

 なにせ、怖い。

 

 他に手がなければやけくそでそうするしかないが、武器が来るなら絶対にそれを手にする。

 おれだってそうするし、アルミロもそうした。

 

 キャッチして、武器を振って、相手に当てて、ぶった斬る。

 

 間に合わない。

 そんなの当然、間に合う筈がない。

 

 目の前から最短距離で突き出される、重さすらほとんどない針の一突きに、どう考えても間に合うわけがない。

 

 アルミロが両手同時にキャッチして、そのまま挟み込むようにナタを、

 

 とん、とん、ど。

 

 2突き目の針が抜ける瞬間にはもうアルミロの全身はぐにゃりと脱力し、3突き目は逆手に持ち替え脳天へ振り下ろすように。

 

 

 そこでちらりと垣間見えた術理の一端。

 薫る残滓にのった、むせ返るような闇の残り香。

 知ろうとせずとも叩き込まれる、常軌を逸した願いのかたち。

 きっとこれも『なにか』の押し付けだ。

 

 三つ目男なら『殿の御成りだ平伏せよ』と。

 イグナシオは『祭儀の最中に暴れるな』と。

 

 先達から引き継いだであろうそれらとは違い、一代独力でのみ成し遂げたからこそ可能な、より攻撃的で破滅的な血みどろの涅槃。

 

 ターナさんの『これ』を言葉にするならそう、

 

 ――私が死ぬのだから、おまえも死ねよ。

 

 といったところか。

 

 いやけど実際ターナさん死んでないじゃんとか、ひび割れたタイミング的に蘇生前提っぽくね? 矛盾してね? とか色々と腑に落ちない点もあるのだが……少なくともこれだけははっきりしてる。

 

 こんなものを、さも当然のように行使できるターナという『魔女の巫女』は、間違いなくイカれてる。

 そりゃ普通に考えると、あのローゼガルドの下で長年生き残れる時点でまともなわけがないんだよなあ。

 

 ただ、なぜかおれに対しては妙に友好的なのがせめてもの救いか。

 

 とりあえず、この婆さんとは仲良くしよう。ヨランダの家族だし。あと娼館のお姉さんたちともマブダチ路線でいこう。

 

 

 最後の一撃と連動するように、なにかに引っかかっていたぼろぼろの塗装、その終端が、ぱりんと一気に消滅した。

 

 そうして。

 

 かつてのおれがいつか観た、陽光差し込むアメリカンなダイナーは、無骨な地下室へと回帰した。

 

 そこそこの広さの部屋に並べられた、2つの大きな丸テーブルを囲むようにして着席しているガラの悪そうなおっさんや兄ちゃんたち。

 その数9。

 マルカントニオの椅子が空席に見えるが、きっと腰から下はまだそこに座したままなのだろう。背後の壁際ではアルミロが横たわっている。

 

 そういや入室直後に頬を射抜かれた、あのいかついおっさんはどうなったのかと席を見れば……なんか雑に闇パッチみたいなのを頬に貼られて普通に座ってた。まあ、ボルトが刺さったままじゃ流し込めないもんな。

 

 

「――で? さっきのありゃ、一体どういうつもりだ?」

 

 

 ミゲルの鋭い声が部屋の隅にまで響き渡った。

 それがおれに向けた言葉だと理解するのに、2秒ほど時間がかかった。

 

 おれのハンドサインを見たミゲルは、ある程度の事態は把握している筈。

 つもりもなにも、ガチの想定外だとわかっていてこの問答。

 それをわざわざこの場にいる全員に聞かせる理由。

 あ、と思い出す。

 そうだ、まだ本来の目的は完了していない。

 娼館への被害の防止。おれが単なる『景品』ではないという周知。

 どちらにも共通する必須要素は、手を出してはダメだと『理解させる(ビビらせる)』こと。

 それは今、なんか途中でぐちゃっとしたまま宙ぶらりんになっている。

 

 ばちこんばちこんとミゲルから送られ続ける奇怪な目配せの意図を汲み取るならば。

 

 

 ――お前がどうにかして辻褄合わせろ。んでもって良い感じにオチまで繋げ!

 

 

 急に試されるおれのアドリブ(ぢから)

 

 味方の筈のおれがなぜか急に敵へ不死身パワーを与えて「お前らだけでどうにかしてみせろ」とかいい出す理由。その必然性。

 

 いや、んなもんあるわけねーだろ。

 まともな理屈なんて、どう考えてもない。

 

 

「最前列で見てそれか? アルミロ、凄くなかった? ちゃんと痛みはあるのにちっとも挫けなくて。死んでも死んでもメンタルだけは前のめりなままで。濁った輝きがぎらぎらと(またた)いて。……まあ、彼が勝てる見込みはなかったから、冗談の域は出なかっただろ?」

 

 

 結果おれは、邪悪なくそがきと化した。

 よくあるパターンだが、この世界においては結構新鮮だったりするのでは?

 

「……あんた、なにをいってるんだ?」

「考えてもみなよ。彼らだって、こうも一方的にやられっぱなしじゃあ納得できないだろ? ()()()即死の爆弾を仕込まれて、起爆条件のひとつは秘密のままで、ずっとそれにビクビクしながら生きていけっていうのは……あまりにも可愛そうじゃないか。ちょっとぐらいは『憂さ』を晴らしてにっこりしなきゃ」

「けどまともにやったら勝ち目なんてねえ。だから死んでも死なない『化け物』にしてあげました。さあいくらでも死ねるから気が済むまで頑張って()せろってか? ……ちっとも笑えねえよ」

 

 いや待て、その表現じゃおれが悪者になりすぎる。せめて半分ぐらいはお前も被れ。

 

「刃向かうやつは殺していいって、ミゲルがいったんじゃないか」

「……オウケイわかった。確かに『回数』を指定しなかったのはこちらの落ち度だ。何度も殺せるって発想は俺にはなかった。それについては言葉足らずだったと認めるよ。……だがな、こういうのはこれっきりにしてくれ。命を玩具にするのは、俺たちにはちと刺激が強すぎる」

 

 あ、ミゲルこいつ、せっかく被せたのにまた返してきやがった。

 ……違う違う。落ち着け。目的はそこじゃない。

 

「じゃあ、ここにいる残りの18人には?」

「ダメだ。もうこいつらは俺の下についた」

「今度のは凄いよ。もっと派手で、きっとびっくりする」

「これからの働きで、ちゃんとびっくりさせてくれるさ」

「いや裏切るでしょ、絶対」

「まだ、なにもしていない」

 

 あ、ミゲルこいつ『良い警官』になりやがった。

 なら次に『悪い警官』が突っ込んどくべき穴は。

 

「じゃあ、あの3人は? 裏切ったフリして、アルミロが席を外してたのを黙ってた」

「それは俺も残念に思ってた。だからお前ら」

 

 ミゲルは備え付けのカップボードから高級そうな杯を3つ取り、それぞれの前に置いた。

 そうして放置されたままだった予備のティーポットから黒い水を注いで、

 

「飲め。少なくとも俺は、ちゃんと1度で死なせてやる」

 

 ぐびぐび飲んだ。

 

「これで一件落着、第二幕はなしだ」

「ふうん。ならいいけど。ターナからは、なにかある?」

「ございません。全てあなたさまの、御心のままに」

 

 ひゅー、演技派ァ!

 やるねえターナさん。まるでおれが魔女の巫女の新たな主みたいで、ローゼガルドぶっ殺してその座をぶんどった『邪悪ななにか』っぽい感じが出てる出てるー。

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 残る細々としたあれやこれやを済ませたおれたちは、ぞろぞろと連れ立って地上へと出た。

 結局襲撃はなかったらしく、なんだか暇そうにしていたグリゼルダと合流し娼館への帰路につく。

 リリカと娼館スタッフたちはそのままマルカントニオの本拠地へ向かった。なんでも、ターナさんの手勢だけで行くことに意味があるのだとか。

 いやそんな5、6人ぐらいで行って大丈夫なの? とか思ったりもしたが……誰もなにもいわないので問題はないのだろうと、余計なことはいわないでおいた。

 

 そうして黙々と歩くこと3分ほど。

 周囲の目がなくなり、ようやくほっと一息つけたところでヨランダが、

 

「いやいやアマリリス様、邪悪すぎるって! あんなの、全種族が手を取り合って子や孫の世代の為に命捨てて最終決戦とか挑んじゃうやつですよ!」

 

 唯一現場にいなかったグリゼルダだけが「?」みたいな顔でおれを見る。

 

「いやそれはさすがに大げさじゃ? ワリとよくあるだろ、あの手のやつって」

「ないですよ。どこの地獄ですかそれ」

 

 やっぱエンタメ産業が論外レベルで貧弱っぽいこの世界じゃ、ああいう『いかにも』なやつはまだ新鮮なのね。

 

「えーとさ、アマリリスさま、あれって演技なんだよね? 本当に死なない化物にして『頑張るの観賞』が大好きとか、ないよね?」

 あ、まずい。ノエミの疑惑がガチな感じだ。

「ないない。どんな趣味だよそれ。ああなったのは本当に事故。イグナシオのやつが、指輪の効果範囲内で死んだ命を勝手に吸収する悪趣味な改造をしてたみたいで――」

 

 一通り説明する。

 アルミロが不死身になった理由については少しだけ迷ったが……今はそれどころじゃないと、構わず続けようとしたところで、

 

「ストップだ再従弟妹(はとこ)殿。正直凄ぇ興味深い話だが、自分から『その手の話』をペラペラ喋っちまうのはちょっと待った方がいい」

「なにかまずかった?」

「やっぱ知らないよな。やくざ者や日陰者にとって、自分から手の内を話すのは『そちらの下につきます』って意味を持つんだよ」

 

 おお、まさに異文化だ。

 けどまあ、極論じみてはいるが、いわんとしてることはなんとなくわかる。

 

「軍部じゃ上官への技能報告は義務っすけどね」

「旧王宮作法じゃ主君や同胞への信頼の証ですね」

「おおー。ヨラだんからハイソなにおいがする」

「いやあ、これでもあたし、現当主の専属だし。……なんで後ろ2文字入れ替えた?」

 

 1度間を挟んだことで、少しだけ頭が冷えた。

 そうだな、なにも底値で叩き売りすることもないよな。

 よし。基本に忠実に、恩着せがまし――ンン゛ッ! 価値を上げていこう。

 

「下につくとかそんなつもりはないけど、気にならない? 実際に危ない目にあったんだしさ」

「気になる気になるー。あの店とか景色とか、基本から全部違う感じだったよね?」

 

 おれはもう場面(シーン)を切り取った『再現』を使うつもりはなかった。

 偶然だろうと誰でもいいから役割さえ満たせばおかしなことが起きるとか、単純に危険すぎる。

 もし今回用いたのが北○作品や深○作品だったなら絶対に全滅してた。

 そしておれの記憶している邦画ストック――残りの使えそうな元ネタはそんなのばかり。

 調子にのっていつかギラギラしたらきっとおれは死ぬ。

 つまりこれはもう、封印予定の廃棄物でしかないのだ。

 

「なあミゲル、A&J経営陣――運営の幹部だっけ? そいつらに報告する内容は充実してた方がいいだろ? その方が今後色々と有利になったりお得になったりするんじゃないか?」

 

 どこだろうとその手の連中はうるさい筈だ。

 黙らせる材料を探すのは、決して馬鹿にできない主要業務のひとつだろう。

 

「だから危険に晒したお詫びとして、ひとつ受け取ってくれないか? たとえ使い物にならなくても、酒の席の小話ぐらいにはなるだろうしさ」

「まあ、くれるってんならありがたく貰っとくが」

 

 実のところ、こんな理屈はほぼ建前だ。後付けで思いついたプラスワンのおまけでしかない。

 おれがわざわざそうまでして話したがる理由はただひとつ。

 

 さっきのノエミの反応。あれはまずい。

 

 ああいった感情を『こちら側』で溜めすぎるのは本気でまずい。

 どこだろうと、やりすぎたやつは背中から刺されるのが常だ。

 本当にそうなのかは二の次で、そう『信じられた』時点でもうアウトなのだ。 

 

 だからおれは速やかに情報を開示して『そんなことはないんだよー。おれはそんなんじゃないよー。むしろお間抜けさんだよー』と全力でアピールする必要がある。

 支払うのはイグナシオからぶんどったもう使う予定のない廃棄物のスペックと名作映画のストーリー概要、プラスおれの見栄のみ。こちらの懐は微塵も痛まない。

 

 ならやろう。すぐやろう。

 

「――で、なんかアルミロが不死身になったみたいなんだよ」

「……なんでそんな物騒な物語が全世界規模で有名になるんすか? ちょっと色々狂いすぎてて消化しきれないんすけど」

「そっかそっかー、ゼッドが出てこなくてよかったねミゲルさま!」

「おいなんでわざわざそこを拾う? なんで俺の名前を出す?」

「八百長を拒否した男と運転手の女のくだり、要りましたか?」

 なんか君ら、全然目論見とは違うところばっか注目してね?

「じゃ、じゃあもう、その指輪は」

「壊したりその辺に捨てたりするのも怖いから、姉さまに押し付――ンン゛ッ! 預けるよ」

 こうしておれの手から危険な玩具は離れ、なんかやばそうな火種は1つ消えるのでした。

 めでたしめでたし。

 

「アマリリス様」

 

 それまで聞き役に徹していたターナさんが、丁度いい頃合を見計らったように、

「ひとつお願いがあるのですが、よろしいでしょうか?」

「わかった。その通りにするよ」

 ターナさんの問い掛けに、ノータイムで答える。

 ちょっと過剰演出な気もするが、おれの尻拭いで1度仮死状態までいってるターナさんの提案を断るのは困難だ。それにきっとこの人は、おれに対して論外な提案などしないだろう。

 なら最初から前のめりでいった方が皆いい気分になれる。

 決して擦り寄ってポイントを稼ごうとしているわけでは、

 

 

 ――すぽっ、と。

 

 

 落ちた。

 

 踏み出した次の足がそのまま落ちた。

 踏みしめる筈の地はどこにもなく、ただただ吸い込まれるように落ちた。

 

 反射的におれは身体を捻り横に倒れようとしたが……なぜだかちっとも動けない。

 そこでようやく気づいた。

 闇夜にまぎれ非常にわかりにくかったが、いつの間にか辺り一面が黒一色に塗りつぶされていた。

 塗り固められ、停止していた。

 

 おれは知っている。

 これを知っている。

 これができるのは。

 

 

 ――お待たせしました。ようやく準備が整いました。

 

 

 いつ聞いても惚れ惚れするような、透き通っていて、けれども確かな芯の強さがそこはかとなく感じられ、しかしある意味浮世離れした透明感ゆえに童謡や民謡を歌えばなぜか怖くなってしまうような澄んだ声が聞こえた。

 

 すぐ前を歩くミゲルのケツから。

 いや、ミゲルのズボンの尻ポケットから。

 

 は? なんでそんなところに?

 いやいやそもそも「お待たせしました」とかなにそれ? 聞いてないんだけど?

 

 ――伝えましたよ? 半覚醒状態でしたが認識はできていたはず。

 

 いやいや半分寝てたら記憶とかできるわけないから! なんで睡眠学習が流行らなかったと思う!? 起きたら忘れてるからだよ!

 

 ――そうでしたか。ですが案ずることはありません。此度に危険はさほどありません。

 

 うわあ、突っ込みどころが多すぎる。

 報連相(ほうれんそう)が微塵もできてないことに対する反省が皆無だとか此度とかさほどとか、とにかくいうべきことが多すぎて、

 

 ――疑問があるなら可能な限りお答えしましょう。ですが『これ』はそう長くはもちません。

 

 ええと聞きたいことは山ほどあるがまずは……この穴なに?

 

 ――門です。

 

 おれをどこへ、いや、なにをさせるつもりなんだ?

 

 ――彼を助けてあげてください。

 

 彼とは誰だ? どうやって?

 

 ――ヨハンを、彼が望むかたちで。

 

 ちょっとお腹の調子が悪いんで、1回戻してもらっていいかな?

 

 ――1度繋いでしまえば、もう不可逆です。

 

 やっべしょうもないことで時間を無駄にした!

 そうこうしている内に、黒の中に夜の色が混ざり始める。

 

 考えろ。

 目の前のことばかりを聞いてもダメだ。

 もっとこう全体を……なんて大きなことを考えようとした時ほどなぜか、くっそしょうもないことが浮かんでくる不思議。

 そういやミゲルはよくオウケイとか選択(チョイス)とかいうクセに、英語の台詞の意味はちっとも理解してなかったな。あれはどういう、

 

 ――実際に用いられている言語は、あなたのいう英語と一部類似点こそあるものの、まったく別の言語です。対話なくして生存は不可能と判断し、あなたの脳の一部を加工しておきました。意味やニュアンスなどを踏まえ、あなたの知識をベースとした最も近しい言葉で理解できる筈です。会話と読み書きに困ることはないでしょう。

 

 いやこれ拾わなくていいやつ! ああこんなしょうもない質問に結構な尺を――って、え? 脳の一部を自動翻訳機に改造しましたとか怖くね?

 というか貴女って、脳を加工とかそういう科学的な存在なの?

 

 ――怖いか否かの基準を論じるならば、あなたの知識でいう人工ペースメーカーも負けず劣らずで、

 

 あ、あ、だからそれ拾わないでもっと、 

 

 そこで完全に、黒は夜の色に塗りつぶされた。

 全てが動き出す。

 

 すぽっと落ちる途中で止まっていたおれは、当然そのまますぽっと落ちた。

 

 目の前にあったミゲルのケツが上へとかっ飛ぶ。

 そう錯覚するほど、おれはひとり下へ下へと落ちていた。

 

 落下の感覚はないが目に映る全ては闇色で、いくら眼を凝らそうともちっとも見通せない。

 ここってあれだよな、ローゼガルドの自爆泥ウェーブでぐちゃみそになった謎ワープトンネルと同じやつだよな。

 ……やっぱこれ、おれひとりでなにかやらされる感じ?

 

 ――大丈夫。きっとあなたなら、

 

 待て待て綺麗に締めようとすんな! ええとそう助っ人! せめて誰か助っ人的なやつ! おれひとりじゃできることが少なすぎる! おれの単体性能の低さ知ってるだろ!?

 

 ――で、ょう。うど、たの近く、規、値、いたよう、ので彼女を――

 

 途切れ途切れの声と入れ代わるように、闇の中へと混じり始める光。

 

 背中から粘度の高いプールに着水したような沈み込む感覚。

 

 眩しさに痛む目を瞑る。ごんと背に当たる硬い地の感触。畳でもフローリングでもない、もっと無骨な石の硬さ。

 

 

 ――う、――、ん、、――、――、こ――。

 

 

 たぶんなんかキメ台詞的なことをいってたんだろうけど、ほとんど聞こえなかったせいで小学生の下ネタみたいな感じになったまま、声は完全に途切れた。

 

 目蓋の裏で瞬く星が消えたのを確認してから、おれはおそるおそる目を開けた。

 

 そこは石造りの微妙にくすんだ白い部屋だった。

 印象としては病室か、あるいはモルモットの収容場所のような。

 

 考えるまでもなく、さっきまでいた娼館への帰り道とは全く別の場所だ。

 これ、闇ワープ的なやつで、どっか別の所へ飛ばされたってことだよな?

 

「……まじか。まじで、本物なのかよ」

 

 呟く声の出所を辿ると、おれのすぐ側に膝をついた20代ぐらいのチャラそうな兄ちゃんがいた。

 背中の冷たい感触とアングルからして、どうやらおれは床で寝ているらしい。

 

「まじかよっ! 凄え! 最高だ! ありがとう婆ちゃん! まじで愛してる!」

 

 祖母への愛を叫ぶハイテンションな兄ちゃんは、上下共に灰色の病衣っぽいものを着ている。

 

 とにかく起き上がろうと床についた手に、べちょりとした感触が。

 

「……塗料?」

 

 濃い赤、あるいはワインレッドの絵の具のようなものが、辺り一面に散乱していた。

 いや良く見ると、それは無秩序に飛び散っているのではなく、寝ているおれを中心に、円や三角形や四角形を幾重にも組み合わせ、なにかしらの紋様を描いているようだった。

 これってたぶんあれだよな、魔方陣的なやつ。

 それぞれの終端に刻まれている、なんか達筆っぽいけど意味不明な文字列が5つ。

 どう見ても日本語でも英語でもない未知の言語で書かれているそれを、じっと眼を凝らして見れば……ピラミッドさんのいう通り、どれもつぶさに理解できた。

 

 

『どうか』『我が愛を』『救い給え』『温かい泥』『御達者で』

 

 

 なぜだか、涙がこぼれた。

 込められた熱量が尋常ではなかった。

 これに向き合っては危険だと思い、すぐに視線を切った。

 

 そうして逸らした眼の先に。

 

「え? え? なに、ここ、どこ?」

 

 どうしてか、おれと同じく床に寝転んだノエミがいた。

 

 

 







TIPS:悪霊ちゃん

ヨランダの行使する自己判断能力を備えた『呪』の仮称。

極めて強力ではあるが、実家たる娼館、あるいは家族や友人を『守る為』でなければ駆動しない欠陥品でもある。
プルメリアでは駆動するが、ヒルデガルドやハウザーでは駆動しないといった、意外とシビアな判断基準が設けられている。
それはひとえに、術者たる彼女に備わった、優しさや良識といった美点から発生した安全装置(セーフティ)でもあるのだろう。

ただ客観的な事実として。
この大陸に住まう意思疎通が可能な生物のおよそ半数は、魔女の巫女を不倶戴天の敵と定めている。

彼女の身内への愛は、理論上、総数から半分を間引き得る。




目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。