ダモクレス (柳川裕一)
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最果て(1)

 開け放した窓から、死臭が流れ込んでくる。

 生暖かい風が運ぶそれは、幾千幾万もの微小な、あるいな巨大な生き物が腐敗し分解される臭いだ。これを潮の香りなどと有り難がる観光客たちの気持ちが、穂希には理解できなかった。

「臭うね」

 鈍色の海から教室に視線を戻せば、声の主が隣の机に腰掛けている。

 友人の朝香はいつも通りに滑らかな美脚をモデルのように組み、いつも通りにパックのいちごミルクに刺さったストローを弄びながら続けた。

「また打ち上げられたらしいよ。日折浜のほう」

「またイワシ?」

「兄貴がいうには、ゴンドウだって」

「ゴンドウって?」

「イルカ。臭い、する?」

 ふうん、イルカか。穂希は頬杖をついて再び窓の外に目をやった。幼いころから刻々と色あせていくばかりの町の向こうに広がる、のっぺりとした水平線。梅雨空の下ではさざめく波頭も息をひそめ、時が止まったかのような感覚がして、そんな妄想をへらへらと自嘲する。イルカの臭い、わかんないや。いつも通り生臭いだけ。

「じゃあ、閉めていい?エアコン無駄だし」

 朝香はそう言うと、返事を待たずに白魚のような腕を伸ばし、ぱたりと窓を閉めた。

 途端に、昼休みの教室の雑踏がどっと穂希の耳に流れ込む。そのほとんどは意味をなさない喧騒だ、なんて言い切れてしまえばいいのだろうけど、同じ共同体の人間が発する声というのは、否応なしに耳にこびりつくものだ。曰く、3年の花澤はクラスメイトの佐伯と付き合っている。曰く、今年は本土からの観光客が多い。曰く、今期のアニメは豊作だ。

「うう。まだ閉めていいって言ってないのに…」

 とりわけ興味のある話題もなく、穂希は恨みがましく朝香を睨みつけた。朝香は塩顔のまま、完璧な眉のラインは微動だにしない。ほら、そういうとこだよ、氷の女王とか呼ばれるんだから。悪態の一つでもつこうかと思うが、一拍遅れて薄い唇が開く。

「別にいいよ、って言うじゃん。いつも」

「そういうことじゃないんだよ、伊藤クン」

 穂希がおどけて指を向けると、朝香は色っぽい笑みを浮かべて机から飛び降りた。それから空になった紙パックを器用に折り畳み、

「辛気臭い面してないで、ほら、次あれでしょ。ーーおら、そこどけ、どけ!」

 そうたむろしていた男子たちを一喝すると、見事なサイドスローで紙パックを「燃えるゴミ」箱にシュートインした。

「あれって?」

「避難訓練」

 午後は避難訓練ののち、一斉下校。ホームルームで担任が言っていた話を思い出し、穂希は「ああ」と呟いた。何故だかひどく遠い昔のような気がして、我ながら薄気味が悪くなる。

「あんた、ホント大丈夫?最近ボーッとしてるけど」

 なるほど、さっきの朝香の能面のような表情は、自分を心配してくれていたのか。そう思うと申し訳ないやら、有難いやらで、穂希は精一杯の笑みを浮かべて立ち上がった。

「大丈夫、大丈夫」

「そ。なら、原セン戻ってくる前に便所行きますか」

「お花を摘みに、だろ伊藤クン」

 けたけたと笑いあいながら教室を出たところで、予鈴が鳴った。5限目、というか避難訓練まで、あと5分。穂希と朝香は急いで用を足すと、いちおう髪型なんかを気にして見せてから、教室に引き返す。

「そういえば」

 ふと便座に座っている特に思い出したことがあり、穂希は朝香を見上げた。

「避難訓練、これが最後みたいなこと言ってなかったっけ?原セン」

「言ってた。もう意味無いから、みたいなね」

「やっぱり。つか意味無い、って…」

 教師が言ってはいけないワードランキング、トップファイブでしょ。言った矢先に廊下の向こうから歩いてくる原センと目が合って、ちょっと気まずい思いをする。早く教室入れよ。すいませーん、連れションしてましたー。そんな原センと朝香の会話を聞き流しながら、穂希はそらした目線を廊下の窓の外に向ける。いつの間にか、風が吹き始めている。

「まあ、意味ないよね、実際」

 教室に戻って席に着くと、朝香がそうこぼすのが聞こえた。

「だってもう40年以上出てきて無いわけじゃん、怪獣」

 40年。17歳の自分たちには、その年月を実感するのは難しい。けれど40年前、日本が確かに怪獣という脅威にさらされていた。その矛盾が穂希にはどうしても受け入れられない。そう、70年前の日本が、アメリカや中国と戦争をしていた、という事実と同じように。

「怪獣、観たかったなあ」

 そんなことを呟きながらガラス越しにみた海は、やはり時間が止まっているようだった。



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最果て(2)

「――このように、えー、皆さんも本日の訓練を教訓として、災害の発生時に適切な対応をとれるよう、心がけてください。以上です」

 体育館に満ちる雨音にマイクの残響が折り重なり、それを合図に生徒たちがどっと弛緩するのが分かった。校長と入れ替わるように教頭が壇上に登り、避難訓練の終了を告げる。

 校長が自分で締めればいいのに、と、穂希の隣に立つ中等部の生徒が囁くのが聞こえた。そのまま、中等部全体にさざ波のような囁きが広がっていく。

 各学年1クラスの高等部に比べ、学年によって2クラスを数える中等部は、普段こそ行き来は無いものの、こうしたイベントごとで顔を合わせるたびにその無邪気さと横柄さで穂希を(そして、おそらくはその他のクラスメイトたちを)圧倒する。たかが2,3年なれど、彼らとの間に隔たる年月は「島に残るか否か」という判断が人生におけるいかに大きな分かれ道であるかを認識するのに十分だった。

 さらに教頭からバトンタッチされた学年主任の指示に従って、生徒たちは教室への帰路につく。穂希はゆるゆると人並みを抜け、列の最後尾にいた朝香の横に並んだ。

「最後、って言わなかったね」

「そりゃ言わないよ。訓練なんだから」

「来年からは、地震とか、津波とか、そういう訓練になるのかも」

「かもね」

 中高生が入り混じって渡り廊下を抜けていく。かしましいのはやはり中等部たちの生徒たちで、その中でもひときわ賑やかな男子たちの一団が、つと穂希の方を向くのが分かった。否、正確にはその視線は明らかに朝香の方を向いている。

「あら、伊藤さん。少年たちがお話があるみたいですわよ」

「っぽいね。めんどくさい」

 穂希がニヤつくと、朝霞は盛大に顔を顰めた。

「先行ってて」

「え、待つよ。そんなにかからないしょ」

「原センに呼ばれてんの。委員の仕事」

 えー。穂希は唇を尖らせつつも頷いた。

「あと、おかみさんが今日は団体客がいるから早めに来て、って」

「それを早くいえ」

 この狭い社会では、高校生のアルバイトを受け入れてくれる雇用主は数少ない。その数少ない雇用主が早く来いというのだから、是も否もなかった。穂希は足早に朝香と別れて階段へ向かった。踊り場で一度だけ振り向くと、仁王立の朝香の前でツンツンと髪を立てた男子がしゃべっているのが見えた。遠目にわかるほど上気した顔。後ろでは、友人らしき数名が顔に好奇心剥き出しの笑みを貼り付けている。

 先生に叱られる生徒みたい、という言葉を飲み込んで、穂希は教室へと戻った。だらだらと喋る同級生たちにおざなりに挨拶し、そそくさと荷物をまとめる。昇降口で靴を履いたところで、合羽を忘れたことに気が付いた。

「まじか」

 しゃあしゃあ、と校門脇のシイの巨木が雨に打たれて音を鳴らす。下足箱の脇に目をやれば、誰が置いていったかもわからない置き傘の山。ここから失敬する分には問題ない。過去にも何度かお借りしたことがある。しかし。

「傘さしで原付はマズいよなあ」

 ひときわ大きな笑い声が昇降口に近づいてくるのが聞こえて、穂希は置き傘の中からひときわ小汚い一本を引き抜いた。しかたない、歩こう。

 正門を出ることはせず、人目を避けて裏門側の道路から坂道を下り、笹藪や虎杖の茂みを避けて、アスファルトのひび割れに溜まった水溜りを躱す。バイト先の中町までは正門側の坂を下るのが早いが、穂希の普段の帰路は逆方向の角崎方向だ。校則ではアルバイトは禁止ということになっているから、怪しまれないためにも、いつも少々遠回りをする。

 道路脇に飛び出した道祖神の祠が立つエンジュの木をぐるりと遠回りして、おそらく農業用の私道を下る。ぽたり、と肩に水滴が当たり、傘に雨漏りがあることに気が付く。流石にぼろを選びすぎたかな、一抹の不安を覆えた瞬間にはもう手遅れということはよくあるもので、ごうと強い風が吹き上げた次の瞬間には傘は見るも無残に裏返っていた。

 まずい。途端に雨が安物の制服と通学鞄を濡らす。傘は骨が折れてしまい、治りそうにもない。しとやかに、しかし確実に吹き付ける雨を呪いながら、穂希は周囲を見回した。農道を下れば住宅街に入る。雨宿りできる場所があるかもしれない。

 舗装された道路に出ると、すぐ傍らにプレハブ小屋があるのに気がついた。普段は野菜の直売所に利用されていたはずだ。周囲を見回して人がいないことを確認してから、穂希は小屋の中に飛び込んだ。トタン屋根は雨に叩かれてバタバタと騒ぐが、雨漏りなどは無さそうだった。しばし屋根を借りることとし、小さなハンカチで鞄と制服をぬぐう。ぽたぽたと髪からも雨が滴っているのに気づき、ひとつため息をついた。

 折れ曲がった傘を何とか畳みながら、いったい何をやっているのか、情けなさに身が縮んだ。時給に目がくらんだ罰だとでもいうのだろうか。そんな殺生な。風が吹きこむと濡れた体から熱を奪い、もう6月だというのにぶるりと体が震える。

 小屋の奥から声が聞こえたのは、そんな時だった。

「大丈夫ですか?」

 穂希は、人は本当に驚いた時、体が動かなくなるものなのだと知った。たっぷり10秒ほど時間をかけてから、ブリキ人形のように首を巡らせて小屋の奥を見る。常であれば直売所の商品が並ぶ棚の裏側に、数脚のパイプ椅子がある。普段は商品の下処理でもするのであろうその椅子に、誰かが座っているのがわかった。タイムラグを経て、バクバクと心臓が鳴り始める。

「すみません、雨宿りをしていたんですが……」

 声で、それが若い男だと分かった。男は立ち上がると、小屋の表に姿を見せた。 

 30前後の、こざっぱりとしたワイシャツ姿の男。穂希より頭一つ背が高い。朝香と同じくらいだから、175センチ前後だろうか。手にはサラリーマンのような革鞄とスーツのジャケット。

「あの、本当にすみません。驚かせるつもりはなくて」

 男は不自然なぐらい距離を開けて、軽く頭を下げた。目元にかかるくらいの髪の間から、愛嬌のある眼差しが覗く。まなじりが下がった、困ったような表情は意外にも愛嬌があり、学生時代は人気があったのではないかと思わせた。少なくとも、変質者の類ではなさそうだ。

「あ、いえ。すみません」

 穂希が頭を下げると、男の表情が柔らいだ。そのまま、視線が制服に移る。おい、エロいこと考えないだろうな。再び身を硬くしようとしたところで、男は思いがけない正体を明かした。

「高校生、だよね?大戸高校の」

「え、あ、はい」

「良かった。あの、ぼく教師です。新任の」

「へ?」

 穂希の理解が追いつく前にスマホのバイブ音が響き、尾崎と名乗る男は目礼してから電話に出た。新任の教師。やばい、バイトがバレる。いやいや落ち着け大丈夫。新任ということは、わたしの家も知らないはずだ。何か聞かれたら、白を切ればいいではないか。

 「学校に戻らなくちゃいけないらしい。大変だよね、先生って」

 電話を切った尾崎は、ふたたび警戒感を露わにした穂希の視線に気づくと、言い訳のように笑いかけた。笑うと、その顔はますます幼くみえる。いかんいかん、油断するな。

「ところで」

 と、尾崎が真剣な表情になり、穂希は慌てて身構えた。

「君は下校中?さっき、畑の方から出てきたように見えたけど」

「はい。近道、なので」

 そんなところから見られていたのか、まずい。消すしかないか…?

 しかし、続く尾崎の問いかけは意外なものだった。

「近道。それはありがたい。良ければ、教えてもらえないかな」

「へ」

 拍子抜けしつつ、穂希は道案内を教えた。この道が使えなくなるのは惜しいが、どうせ普段は原付なのだ。尾崎はうんうんと頷きながら、見えるはずのない農道を目で追うような仕草をする。それから礼を言うと、ジャケットを小脇に挟み、穂希と同じように鞄を傘がわりにした。傘無いんですか、と言いかけて、あまりに馬鹿馬鹿しい言葉だなと思い直す。

「雨、弱くなってきたね」

「でも海風は強いので、気をつけてください」

 言ってから、穂希は自分からそんな言葉が出てきたことに驚く、尾崎を見ていると、なんとはなし後輩の男子を見ているような気分になるからだろうか。尾崎はありがとう、と再び頭を下げて、あの笑顔を見せた。

「木島さんも気を付けて」

 尾崎は颯爽と雨の中に駆け出していき、農道の手前でもう一度頭を下げた。身軽にガードレールを飛び越える姿からして、運動神経も高いらしい。おどおどとした表情の時には気が付かなったが、存外に整った顔立ちもしている。新たなアイドル誕生かしら。ちょっと変わってはいるけれど。下世話なことを考える穂希をよそに、尾崎の姿が農道に消えた。

「やば、バイト」

 気が付いて小屋を出たところで、ふと、肌が粟立った。

 あの先生、何で、私の名前を知っていたんだろう。

 



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最果て(3)

 中町は島で最も大きい集落であり、内地からの観光フェリーが発着する港や、役場や警察などの行政機関、ホテルや土産物店といった観光客向けの施設が集中している、島の中心だった。

 レンタルビデオ店や携帯ショップなどここにしかない専門店も多くあるため、島の学生たちも週に一度は何らかの形で中町を訪れるのだが、物欲も、内地への憧れも薄い穂希にとっては、そこは純粋にアルバイトのための町、という印象だった。

 バイト先にたどり着いた時にはすでに雨は上がり、雲の切れ目からはところどころから青空も覗いていた。運悪くというべきか案の定というべきか、裏手の駐車場にはすでに見慣れた朝香の原付が止まっていて、穂希はしっとりと濡れた鞄を持ち変えながらため息をつくと、民宿・朝顔荘の勝手口をくぐった。

「おい、間抜け」

 から始まった朝香の面罵は、穂希が更衣室のドアを開けた瞬間から、湯船の清掃、ゴミ出し、リネンの洗濯乾燥、そして一七時と一八時の二回の夕食の配膳が終わった後の賄いの時間に至るまで、コンスタントに続いた。

「朝ちゃん、そういうこと言わないの。穂希ちゃん、今日はあったかくして寝るのよ」

 賄いの海鮮丼を前にくどくどと説教を食らう穂希を見かねたように、壮年の女性が姿を現した。朝顔荘を仕切る、女将の芳子である。穂希はわが意を得たとばかりに大きくうなずくと、「いただきます」と説教を中断して賄いに食らいついた。

「大丈夫ですよ。ほら、馬鹿は風邪ひかないっていうし」

 朝香はほとんど表情を変えずそうこぼしながらも、さりとて今日という今日は空腹に耐えかねたのか、しぶしぶ箸を取った。

団体客が二組に、家族づれが三組。カップル二組に、個人の素泊まりが一組。ほとんど満室に近いこの日の夕食の配膳は、まさに戦場の有様だった。配膳の指示と調理の指示が飛び交い、次から次へとビール瓶が消えていく。家族連れや個人客が使う食堂へ向かう導線と、団体客用の広間への向かうそれ、二本の導線が絡み合い、穂希は何度となく朝香と衝突事故を起こしかけたほどだ。

 会社のグループらしい団体客は酔った勢いで襖を倒し、朝香が外国人のカップル客に質問攻めにあっている間に、穂希は例のごとく食器を割った。もう一人のパートで、普段はミスなどしない大先輩の赤塚が配膳を間違えるトラブルも重なり、ついに普段は事務仕事をしている芳子までが助っ人に入り、なんとか乗り切ったのがつい数十分前の事である。

「雨だし、車でも出してあげればよかったねえ」

「いやいや芳子さん、私はほら、ただのバイトですから」

「何言ってんの、身内のお友達だもの、バイトだって身内みたいなものでしょ」

「いいや、穂希も私も、働いてる時間はただのバイト」

「かーっ、相変わらず堅いね、朝ちゃんは」

 ひとしきりしゃべった後で、芳子はふと思い出したように「そういえば」と呟いた。

「今日、お給料渡そうと思ってたの、持ってくるから待ってて」

 嵐のように表情をころころと変える芳子が朝香の伯母に当たることを知った時、穂希は朝香の複雑な家庭環境を疑ったものだった。しかし確かに芳子は朝香の母親の姉であり、むしろだからこそ、こうして密かにバイトを許してくれている。

「百歩譲って遅刻は良いとしても、あれは何」

朝香は表情が変わらず分かりにくいが、その実密かにイライラを募らせる厄介な性格であることを誰よりも知っているのは穂希である。しかも疲れた時にはそれが顕著であり、つまるところバイトが終わった後の賄いの時間は、朝香の説教タイムとなりがちなのだ。

「あれって?」

「怪獣盛りの時のやつ」

 香り高いアオサの味噌汁に口を付けたところで言わんとすることに気づき、穂希はああ、とうなずいた。

怪獣盛りとは、島の数少ない観光資源である魚介と怪獣を融合させた、朝顔荘の名物料理である。というのは芳子の弁で、季節の魚を使った船盛りの上に、サザエやアワビ、カメノテなどの貝殻を組み合わせてごつごつとした怪獣を象った、船盛のオプションサービスである。

すっかり怪獣が過去の遺物となった今日でも、島にやってくる観光客の三~四割はいわゆる怪獣目当てで、とりわけ怪獣映画や怪獣アニメが流行っていた時期に幼少期を過ごした少年少女が大人になり婚期・出産期を迎えてからというもの、親子連れにその傾向が現れていた。当然、島からすればありがたい限りで、中町の商店街を歩けば「怪獣」と名のつくグッズは数知れず、朝顔荘の「怪獣盛り」もそれを当て込んで芳子が開発した新メニューであった。

今日の客もそうした家族連れで、穂希がその重さに腕を振るわせながら船盛を食卓に並べると、途端に父親から声が上がり、待ってましたとばかりに母親がスマホで激写しはじめた。問題だったのはこの後で、興奮する両親に反応してきゃあきゃあと目を輝かせる子ども二人のうち、まだ四歳ほどの次男らしき少年がふと、穂希を見上げてこう尋ねたのだ。

「かいじゅう、どこにいるの?」

 補足すればそれは「この島のどこに怪獣がいるのか」ということであり、夢溢れる少年は町中に張り付けられた怪獣のポスターのせいで、島に怪獣がいるものと誤解していたようだった。しかし穂希は、ほとんど無意識にこう返していた。

「怪獣は、もういません」

 穂希の態度を釈明するならば、濡れた体に鞭を売ってこの大所帯をさばき切った時点ですでに疲労はピークに達していた。そこに鞭打つように、慎重に運ばなければ崩れてしまう怪獣盛りという厄介な仕事を任されたせいで、そのピークが振り切れてしまった可能性は否めない。

さらに言うならば、実際のところ芳子も板長も七十余年前に世界で最初にこの島に現れたという怪獣を直で見てはいない。だから「怪獣盛り」の怪獣も、中町にあふれる怪獣のイメージもすべて根拠のない観光資源にすぎず、それをありがたがる島民も観光客も、穂希にとっては何となく胡散臭い存在だった。

「だからって、子ども泣かすってあんた。しかもお客を」

 賄いを食べ終え、食器を洗い、芳子の持ってきたお給料を受け取って帰路についてようやく思いの丈を伝え切った穂希だったが、戻ってきたのはごくごくまっとうな正論で、それに関してはもはや、うなだれる以外の選択肢はなかった。

 結局、息子氏は眼前で夢を打ち砕かれてべそをかき始め、クレームを唱える母親をなだめたのは芳子だった。その上今日は、ほかにもいろいろとバイト先の善意に甘えている。いま手元にある古びた原付も、芳子の夫である板長から貸してもらったものだ。

「ごめん、芳子さんに迷惑かけちゃったよね」

「――それは、まあいいんだけどさ」

 二十時を前に真っ暗な商店街を抜けながら、穂希は尋ねる。

「今日もおばさんの所、寄ってくの?」

 朝香はうなずく。

「そっか、気を付けてね」

「うん」

 何となく、言葉に詰まり、穂希は思わずおどけた声を出す。

「でもこれで、三十万円は貯まったよ、わたし」

「少なくない? 月三から四万、もう一年以上バイトしてるんだから、五十万くらい貯まってるべきでしょ」

「そういう伊藤さんはいくらなんですか」

「貯金? 八十万くらいかな。お年玉も溜めてるし」

 なんて理不尽だ! 穂希は自分のお年玉は父親の懐に入っているのでは、と邪推したが、そもそも内地に住む祖父母とはこれまでにも片手で数えられる程度しか会っていなかった。

「でも、あと二十万か」

「あんたは七十万だけど」

「せちがらっ」

 百万円溜まったら内地に行こう。そんな約束をしたのがいつだったか、もはや穂希は覚えていない。何の具体もない、島で暮らす子どもならだれもが抱く感傷に満ちた夢。しかしそれだけが、この単調な日々がわずかにでも進んでいることを示す唯一の方便のような気がして、口にするたび安心するのだった。

「じゃあ、あたしこっちだから」

 朝香が十字路で指をさす。その先には、赤十字がぼんやりと赤く灯り、宙に浮かんでいるように見える。影になった本丸は、朝香の母親が入院する島唯一の総合病院だ。

「じゃ、また明日学校で」

 そう言って穂希は原付にまたがると、アクセルを回転させる。すぐに背後からもエンジン音がして、道はあっという間に山際の上り坂になる。

 朝香はバイト中、決して芳子さんのことを名前で呼ばない。

 朝香は百万円が貯まった後、入院している母親をどうするつもりか口にしない。

 街灯もない山道を、原付のライトだけが照らす。

 



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最果て(4)

 忙しさというのは心を亡くすと書くが、「心」には多分に「記憶」も含まれていると思って良い。だから翌日登校した時点での穂希の頭からは、すでに昨日の放課後に遭遇した怪しい男の記憶は薄れかけていた。

「きょう、新任の教師が来るらしいよ」

 朝香からあいさつ代わりにそう声をかけられ、穂希は真っ先に「機嫌が直っていてよかった」と胸をなでおろした。昨日の朝香は明らかに遅刻以上に別の何かに苛立っており、氷の女王は一度機嫌を損ねると尾を引くのが通例なのだ。

「おい、聞いてる?」

 肩をつつかれ我に返った穂希は、プレハブ小屋で出会った男のことを思い出した。

「無人直売所の男」

「男がいるなら、無人じゃないじゃん?」

 かみ合わないやり取りをするうち予鈴が鳴り、担任の原が一人の男を伴って教室に現れる。原はざわつく教室をいつも通りのだみ声で静かにさせると、若い男が新任の理科教諭であり、このクラスの副担任を務める、というようなことを紹介した。

「尾崎秋朗です。東京から来ました。物理学が専門です」

 身なりを整えた尾崎はやはり端正な、というよりも可愛らしい顔立ちで、ニキビ跡が残るクラスの男子たちよりも幼くさえ見えた。女子が黄色い声援で歓迎を意を示す中、穂希は不自然ではない程度に目線をそらす。「あ、昨日の」などと言われた日には、原から不審な目を向けられるのは間違いがなく、あるいは何かにつけ嫉妬の対象を探している同級生たちに根も葉もない噂を立てられかねない。

 尾崎は三十三という年齢を告げ、くだけた口調でひとしきり童顔をネタにしてから、

「自然が好きなので、島での生活が楽しみです。楽しみなんですが、虫だけは苦手で……」

 と切り出して、アパートに巨大なカメムシが出た小咄で笑いを取った。そうして穏やかにクラスを見回しながら、お手本のような挨拶をこう締めくくった。

「早く皆さんの顔と名前を覚えられるよう頑張りますので、ぜひ仲良くしてください」

 尾崎の視線が近づいてくるのを感じ、穂希は我知らず緊張を感じた。果たしてそのやわらかな笑みは穂希の上を通過していき、ひとしきりクラスの興奮が収まった後で、原はホームルームの終わりを告げた。

 一限の準備でクラスがざわめく中、穂希は拍子抜け半分、胸をなでおろした。あの薄暗さでは、もしかすると尾崎も穂希のことを覚えていなかったのかもしれない。それならバイトの件も安心だ。それにしても生徒に「仲良くしてください」といってしまうあたり、あのイケメンはやはりちょっと変わっている。

 昼休みになっても、クラスの話題はやはり尾崎のことに集中した。

「アッキー、ほんとイケメン」

「ちょっと童顔過ぎじゃない?」

「それにしても、何で副担? 誰か問題起こした?」

「お前だろ。昨日警察に怒られてたじゃん」

「彼女、いるのかなあ。遠距離かなあ」

「警察? なんで?」

「日折浜で。イルカに近づこうとして」

「彼氏ほしいなあ」

 学校というのは不思議な場所で、声の大きい人間の意見が我知らずクラスの総意として刷り込まれる傾向がある。それが何となく気に食わず、いや、そんな高尚な理由ではなく単なる野次馬精神から、穂希は昨日の出来事を改めて説明した。

「昨日はそんなこと言ってなかったのに」

 朝香は釈然としない様子でサンドイッチを口に運ぶ。

「忘れてた。とにかく焦ってたから」

「ふつう忘れるか?」

 正直なことを言えば、朝顔荘に遅刻した時点では、穂希の頭の中はあの奇妙な時間のことでいっぱいだった。バイトの多忙さと朝香の不機嫌で記憶が薄れていたのは本当にせよ、その時その場で朝香に告げなかったのは、何か引っかかるものを感じていたからだった。

 それは尾崎が自分の名前を知っていたことでもあるし、あるいはもっと根本的な、不信感、のようなものだったかもしれない。

「下手したら拉致されてたかもしれないのに」

 朝香はさらりと怖いことを呟きながら、

「まあ、ちょっと面白いけど」と面白くもなさそうな声で付け足した。

「私も昨日会ったよ。尾崎センセ」

「へ? 直売所で?」

「なんでそうなる」

 クラス委員の仕事してたら、職員室で原センと話してたんだよね。それを聞いた穂希は、なるほどと心中で頷いた。それであれば穂希の名前を知っていたことにも納得がいく。しかしそれを聞いた朝霞は、いまいち納得がいかないように首を傾げた。

「さっきの挨拶じゃ、皆さんの顔と名前はこれから覚える、みたいだったけど」

「うーん、じゃあ、知らないうちに会ってたのかも。昨日とか」

 そう言葉にすると、穂希の中にわだかまっていた違和感がストンと音を立てて腹に落ちた。そうなのだ、確かに尾崎の顔には見覚えがある。それも昨日というよりはもっとずっと昔のような。

「あの先生、島出身じゃないよね」

「うーん、そうだったら自己紹介で言うでしょ」

 眉間にこれでもかと皺を寄せる穂希を見ていた朝香は、ふと蠱惑的な笑みを浮かべた。それだけでも周囲に艶気が漂うのだから美人というのは恐ろしい。恐ろしいついでに、朝香がこの表情をする時は、大体がろくでもないことを考えているときだ。

「あるいは」

「あるいは?」

「尾崎センセ、穂希に気があるのかも」

 すぐには朝香が何を言っているか分からず、それから冗談とわかりつつも、穂希は不覚にも赤面するのを自覚した。何を言ってるのやら。何を言っているのやらこの小娘は。

 朝香はそんな様子を面白がって眺めながら、いずれにせよ、と弁当箱をしまう。

「次、何かわかるかもね」

「何かって」

「さっそく、尾崎センセの授業でしょ」

 なるほど時間割には、「物理」の2字が躍っている。

「ふん、興味ないね」

 朝香のまねをしてクールを気取るが、似合わない自分に嫌気がさすだけだった。

 

 強がってはみるものの確かに気になるのは本当のところで、違和感の正体が何かわかるかも、と穂希はいつになく授業を真剣に聞いていた。しかし尾崎は新任らしからぬスムーズさで授業を進めるばかりで、穂希にわかったのはクラスメイトの何人かがすでに熱狂的なファンになりかけている、という一点だった。

 やりかけになっていた単元を手早く終えると、尾崎は授業を早々に切り上げ、新任の教師にありがちなお喋りタイムに突入した。

「先生は恋人いるんですか――それか、結婚とか?」

 鼻息荒く問いかけたのは、いつもインスタを見て騒いでいる鳩原だ。

「プライベートなことは答えられないな」

 ゆったりと教卓に腰をもたせかけた尾崎は、フランクな口調になって笑った。

「でも結婚はしてないですよ。結婚したら、指輪は付けていたいタイプです」

 いかにも答え慣れたという態度に、穂希はひとりで鼻白む。三十前半となればすでに教師生活も中堅というわけで、この手のやり取りも慣れたもの、ということなのだろう。気になっている自分がバカバカしい、そんなことを思いかけた時、クラスの隅から思いがけない声が上がった。

「先生、昨日日折浜にいましたよね?」

 穂希は思わず声の主を見る。クラスメイト達も同じような心境らしく、どの顔にも「意外」の2文字が浮かんでいた。相変わらず能面なのは朝香だけで、ひとり静かに爪を気にしている。

「先生は何で島に来たんですか?」

 繰返しそう問いかけたのは、遠村という生徒だった。教師に指されたとき以外に授業中に喋っているのを見たことが無い。というより、少なくとも穂希は、遠村が三言以上喋っている姿が想像できなかった。普段は読書か昼寝か、クラスに一人はいるタイプの無気力な少年である。

 尾崎は一瞬驚いたように目を見開いてから、ええ、はい、と頷いた。

「先週、島に来たばかりだったから、あちこち見て回ってたんだ。ほら、イルカが打ち上げられた、なんていうニュースもあったから」

 それから二つ目の質問を考える。「何で、と言われると難しいな」と呟きつつ、

「ひとつは、さっきも言ったけれど自然が好きだから」と遠村に笑いかけた。

「高校大学と登山部だったんです。だから、山歩きなんかは好きかな。ふたつ目は、ちょっと難しいかもしれないけれど、小規模教育の現場に興味があったからなんです」

 少子高齢化、へき地教育の難しさ、しかしそれは逆に、今後の世界の教育現場を先取りできることでもある。廃校寸前の学校であればしばしば耳にする威勢のいいお題目は、当事者である高校生からすれば「勉強しろ」という大人の理屈を正当化する有象無象の理由の一つに過ぎなかったが、尾崎が語る言葉には、校長や教頭、島出身の教師が語るそれよりも信念が宿っているように思えた。

「島の学校だからこそ、他では見えない未来が見えるんじゃないか、それを見せてあげられるんじゃないか、と思ってます。ちょうど、隅からのほうが教室全体を見回せるように」

尾崎は、まさに遠村の席を指し示すように言った。それから反対側の隅、穂希の2つ後ろの座席を見遣る。ふと視線がぶつかり、尾崎が小さく頷くのがわかった。

「なんて難しいことを言ってみたけれど、まずか楽しくやるのが一番だと思ってますけどね。これでいいかな、遠村くん」

 その答えを待っていたかのようにチャイムが鳴った。遠村は名前を呼ばれたことに驚いた様子だったが、クラスの空気を察して渋々首肯する。

 次回からはちゃんとやりますから、宿題忘れないよう。そう尾崎がおどけると、お調子者の生徒たちがうめき声をあげた。日直の号令と共に数名の女生徒が教卓に駆け寄り、先生、もう名前覚えたの?自分のクラスくらいはね。え、じゃあ、わたしは?そんなやりとりを教室中に宣伝する。

 穂希がふと横を見ると、爪を整え終えた朝香が気の毒そうな表情を浮かべていた。

「失恋?」

「なんでやねん!」

 結局のところ尾崎センセは「良い先生」で、わたしのざわざわも何かの思い過ごしか、あるいは記憶違いだったんだろう。穂希はむしろスッキリした思いで席を立った。

「どこいくの」

「トイレ。言わせるでないよ」

 廊下へ出ると、掲示板の夏期講習のチラシが目に止まり、さっきの尾崎の言葉が頭に浮かぶ。教室の隅から見た未来、世界の端からみた未来。

 学校に行って、バイトして、貯金して。高校を卒業したら内地へ行って、事務職でもして。それでたまに朝香と会ってお酒を飲む。そんな未来しか想像できず、尾崎の理想には貢献できそうにない、と自嘲する。

「あ、ごめん!」

 トイレを出たところで誰かとぶつかりそうになり、穂希は反射的に謝った。見上げれば、天然パーマに丸眼鏡の遠村が立っている。

 そのまますれ違いそうになったところで、

「あ、ねえ」と声をかけていた。

「さっき、なんか言いかけてたよね。先生が答えた時」

 さっきの遠村は、もう少し時間があれば話したい、そんな様子だった。何かを期待していたわけではない。ただ、いつもはむっつりと押し黙っている遠村が、わざわざクラスの面前で話そうとしていたことが気になったのだ。

「あれ、何だったの?」

 遠村はほとんど縁もゆかりもない女子生徒からの問いかけにたじろいだ様子だったが、別に、と何やらもごもごと呟いてから言った。

「あいつ、怪獣好きなのかと思って」

「怪獣?」

「そう。日折浜って、最初に怪獣が出てきたとこだろ?」

 だろ、と言われても困る。穂希は怪獣になど興味はないし、そもそも島で10年近く過ごしてきて、そんな言われは聞いたことがない。

「そうなの? でもほら、先生はあれでしょ。イルカ」

 なるほど、遠村は怪獣マニアなのか。これは見当違いのことを聞いてしまったかな、穂希はそう思い始めていたが、遠村は首を振った。

「ちがうよ。あいつ、イルカとか、ほかの島のひとには興味ないって感じで、浜の奥の方を見てたし、それに、誰かと電話しながら言ってたんだ。たぶん、聞き間違いじゃない。おれ、あいつからは見えないけど、すぐ近く居たんだ。岩の裏っかわに」

「何て?」勿体つけるな!と言いたいのを堪え、穂希は待った。遠村はちょっと声を潜めるようにして、言った。

「ゴジラ」

 途端に何かで後頭部を殴られたような衝撃を感じ、穂希は思わず壁に手をついた。耳鳴り、遠村の慌てたような声。ゴジラ。聞き覚えがある。確か。

「ゴジラって…」

「最初の怪獣の名前。非公式だけど、70年前はマスコミも使ってた。おい、大丈夫か?保健室いくか?」

 そうだ、何で私、知ってるんだろう? いや、怪獣を売りにした観光地なんだから、おかしくはないだろう。バイト先か何かで耳にしただけだ。

 次第に耳鳴りが収まり、しかし入れ替わるように頭痛が走る。もう一つ気になることが浮かび、穂希は先生を呼びに行こうとする遠村の手を取った。

「あのさ、それ、何時ごろだった?」

 怪訝そうな遠村は、記憶を呼び起こすように額を指でこすると、たぶん、と切り出す。

「16時、30分、とかかな。おれが学校出てすぐ浜に行って、それからちょっと経ってたから」

「そう、ありがとう」

 言ったところで、教室から出てくる朝香が見えた。

「穂希?どうした?」

 何となく安心したのか、穂希は腰が抜けたようにその場に座り込んだ。へなへなと目の前が暗転していく中で、プレハブ小屋の情景が蘇る。尾崎が小屋を出て行ったのは、たぶん16時15分過ぎ。原付か、自転車でも、16時30分には日折浜に着く。

 あの時尾崎は電話を受けて、学校へ戻る、そう言っていた。



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最果て(5)

「ふわぁ、なるほどねえ」

 放課後の保健室。簡易ベッドに腰かけてスポーツドリンクのボトルを弄びながら、朝香はあくびまじりにそう言った。

「あくび、あくび」

「ごめん、でもほら、放課後って眠くなる時間じゃん。穂希は寝てたからいいけどさ」

「あんたもずっと寝転がってたやん」

「わたしだめなのよ、保健室のベッドって」

 廊下で意識を失った穂希はすぐに目を覚ましたが、大事を取ったほうがいい、という朝香の言葉に従って保健室に担ぎ込まれた。結局、朝香は付き添いと称してベッド一つを占領し最後の授業をさぼっていたわけなので、今思えばそれが目的だったのではと疑いたくなるが、助けられたのは事実なので強くも言えない。

「でも、正直それが何?ってカンジだけどね」

 朝香はペットボトルのラベルをきれいな桃色の爪ではがしながら言った。

「尾崎センセが怪獣マニアだったから倒れるって、どんだけ怪獣嫌いなのよ。いや、むしろどんだけ尾崎センセ好きなのよ」

「だーかーら、そうじゃないって」

 朝香の勧め通りひと眠りすることにして横たわった穂希は、結局授業が終わるまでぐっすりと眠り、目を覚ますや暇を持て余した朝香からことの顛末を根掘り葉掘り聞かれたところだった。穂希としてはあくまで起きたことを順繰りに話しただけなのだが、どうやら朝香のフィルターを通すと、「片想いする尾崎先生が怪獣好きだと聞いたせいで、ショックで倒れた」ということになっているらしい。

「倒れたのは、たぶん貧血」

「あんた貧血もちだっけ? 別に生理ってわけでもないのに」

 ばさり、と何かが落ちる音がして、二人はカーテンで仕切られた保健室の入口側を見た。職員会議だといっていた養護教諭が戻ってきたとばかり思っていた穂希だったが、カーテンの向こうからかけられた声は意外なものだった。

「あの、遠村だけど、大丈夫?」

 朝香がカーテンを開けると、遠村が所在なさげに佇んでいた。手には先ほど拾い集めたらしい課題のプリントがばらばらと握られている。

「うん、大丈夫。ありがとう」

 穂希はなけなしの社交精神をかき集め、精一杯の笑顔でそう答えた。

遠村からしてみれば目の前でよく知りもしない女子に倒れられてしまったわけで、男子としては非常に気まずい思いをしているだろうし、だからこそプリントを渡すという体で見舞いに来てくれたのだということは流石の穂希にもわかった。そう思ったゆえのフォローだったが、朝香はわざとやっているかのように冷淡な声音でその気遣いをぶち壊す。

「遠村―。やっぱあんたが変なこと言ったんじゃないの?」

「ち、ちちがうよ。そんな、何も」

「うん違う、大丈夫だよ。朝香、もうやめなさいて」

 不服げな氷の女王の視線から逃れるように、遠村は視線を落とすと手元のプリントを整えて穂希に渡した。「おい、それ落としたやつだろ」「やめろって」などと朝香をいさめつつ、ありがたくプリントを受け取る。荷物はすでに朝香が持ってきてくれたし、いずれにせよ教室に戻るのは気恥ずかしいところがあったから、素直にありがたい。

「ありがとう」

「いや、でもほんと、ごめん」

 反射的に謝る遠村に、「やっぱりあんたか」などと朝香がつっかかる。過保護にもほどがあるのだが、朝香がこうなるのは久々で、それはむず痒くも、どこか温かいものが湧き上がるのを感じた。

「遠村くんは、怪獣好きなんだね。えっと、ゴジラ、だっけ」

 場を和ませるためにそう言ってから、また倒れたらどうしよう、などと頭をよぎったが、そんなことはなく遠村は遠慮がちにうなずいた。

「まあ、ね。でもゴジラくらいは、結構知ってる人いるよ。映画とかにもなってたし」

「知らないよ。それいつの話?」朝香は相変わらず喧嘩腰だ。

「一九八〇年代とかだから、三〇年位前かな」

「生まれてねーじゃん。それじゃ尾崎センセだってリアルタイムじゃ見てないでしょ」

「そう、だから不思議なんだよ。しかも、マニアでも日折浜のことを知っている人はほとんどいない。図鑑やノンフィクションにも書かれてないし、おれも爺ちゃんからきいただけで嘘か本当かも知らなかったから。――少なくとも、尾崎センセの話を聞くまで」

 次第に遠村の言葉に熱がこもっていくのが分かり、穂希は内心苦笑した。

 遠村は朝香と同じ島生まれで、島生まれの子どもは基本的に同じ小中で学校生活を送り、高校で島外に出ない限りはさらに三年間、計十二年間を同じ学校で過ごす。いわば全員が幼馴染なのだが、小中まではクラスも複数あり、また住む地域も違うため必ずしも顔見知りばかり、というわけでもない。

 一方で、穂希は七歳のころに島にやってきた移住者だが、それゆえ早く馴染めるように同級生のことはなるべく観察をしており、場合によっては島生まれの子どもたちより、同級生の事は知っている自信があった。だが、まさか遠村にこんな趣味があるとは。いや、趣味というよりも。

「図鑑とノンフィクション読破してんなら、十分オタクだけどね」

 穂希の思いを代弁するように朝香がつっこみ、穂希も思わずうなずいた。朝香の言葉にも先ほどまでの棘はなく、どこか面白がっているような含みがある。

遠村は頬を染めながら目を背けると、「とにかく」と早口に言った。

「あの先生、どっか変なんだよ。だから、気を付けろよって、それだけ」

「何であんたに心配されにゃならんのだ」

 そうおちょくる朝香の言葉には答えず、遠村は踵を返してドアを開けた。それから、思い出したように体をひねると、「忘れてた」とぼそぼそとした声で付け足した。

「木島のお父さん来てたぞ。麻倉先生と話してたから、もうすぐ来るかも」

 

 養護教諭である麻倉に連れられて保健室を訪れた穂希の父の春人は、柔和な笑みを浮かべたまま「大丈夫か」とだけ声をかけると、ベッド脇に置かれた穂希の鞄を手に取った。

「朝香も一緒でいいでしょ」

春人がやってくるのと入れ違いに、遠慮した朝香が部屋を出ようとする。それを引き留めるように、穂希は第一声でそう尋ねた。春人はさも当然というように頷いてみせる。

「もちろん。穂希の命の恩人だ」

「命って」と言葉に詰まった朝香は、しかし春人の駘蕩とした様子に根負けしたように、小さくうなずいた。「じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとうございます」

 担任には私から伝えておきますので、という麻倉先生の言葉に甘え、三人は人気のない廊下に出る。グラウンドの声を遠くに聞きながら裏手の駐車場へ向かう道すがら、春人はのんびりと事情を説明した。

「今日はツイてたなあ。ちょうど役所を出たところで母さんから電話をもらってね」

「仕事、ダイジョブなの」

「昨日、遅くまで付き合わされたからなあ。今日はゆっくりさせてもらうよ」

 大げさに肩をぐるぐると回しながら、春人はふうとため息をついた。高校生の娘を持つ四十を幾ばくか過ぎたばかりの父親、というのは標準的かむしろ若い部類に入る父親のはずだが、春人は白髪が多い体質もあってか、こうしたジジ臭い気質がある。

「昨日って、やっぱりイルカの事ですか」

 ふと、黙っていた朝香がそう尋ねたことに驚き穂希は思わず友人の方を見た。遠慮しいの朝香が自分から春人に話しかけるのは珍しい。しかし春人の方はといえば、そんなことを意外だとも思わないようにうなずいて、駐車場側の裏口の取っ手を引いた。

「そう、日折浜でね。結局、最後まで清掃を任されてしまって。二人も行ってみた?」

「昨日はバイトだったでしょ」

「ああ、そうだった。芳子さんによろしく言っておいてくれ」

 昨夜、父が家に帰ったのは確かに十時も過ぎたころで、二言三言言葉を交わしただけで部屋にこもってしまった穂希との間に会話らしい会話はなかったのだが、さすがに一年以上続けているバイトの曜日くらいは覚えておいてほしい。

 とはいうものの、そこまで思い至って穂希はしまった、と内心で舌打ちを打った。芳子さんに借りた原付を返すのを忘れていた。そんな穂希を放って、朝香は春人に重ねて質問をした。

「やっぱり人、多かったですか」

「そうだねえ。生徒さんたちも結構来ていたし。普段は人気がないだけに新鮮ではあったけど」駐車場に止まっていたシルバーのフィットにキーを向けながら、春人はうなずいた。ガジャっと音を立てて車のライトが明滅し、三人は車に乗り込む。

「観光のお客さんも結構いたかな。外国人のカップルさんもいたし」

「ちなみに、三十代くらいの眼鏡の男の人って」

「いやあ、さすがにそこまでは分からないなあ」

 エンジンをかけながら、春人は苦笑いする。それはそうだろう。いくらなんでも、十人や二十人という人数ではないのだから、いちいち顔を覚えているはずがない。すでに朝香の魂胆に気が付いた穂希は、そうはさせるか、と言葉を引き継いだ。

「それで、浜はきれいになったの?」

「なんとかね。それじゃ、出発―」

 車が動き始めるとともに社内にはラジオが流れはじめ、後部座席に座った朝香も流石に諦めたように口を閉ざした。

春人がイルカの大量死事件で駆り出されたのは、ひとえに彼が島の役所勤め・しかも観光課という特殊な部署に勤めているがゆえであった。観光が主要な産業である島にとっては、観光課とは総務課であり住民課であり、文化振興課であり防災課でもある。つまるところ島のありとあらゆる事件のしりぬぐいに駆り出される便利屋さんであり。春人はその人の好さもあってか、常に島中の厄介ごとを押し付けられているのだった。

イルカの大量死、というと見出しは確かにセンセーショナルだが、イルカ自体はこの島ではさほど珍しいものではない。捕鯨も行われてる島では唯一のスーパーマーケットにイルカの肉が並ぶほどで、むしろ漁業を生業とする以外の住人にとっては、パック詰めされた赤身肉の方が馴染みがある。穂希もその一人だった。

そして、「大量死」という部分についても。島ではこの半年ほどの間に、すでに幾度か魚の大量死が確認されていた。初めは島で一番大きな中町の漁港、次は海水浴場にもなっている扇ヶ浜、そして大磯海岸。当初は漁港や役所を中心にちょっとした騒ぎになったものの、

「漁協にとってはありがたくないことに、こういうのは同じシーズンに何度か起こるみたいなんだ。海水温や海流の影響の可能性が高いそうだから」

二度目の大量死が確認された折、穂希は春人がそう説明したのを覚えていた。漁協の古老たちも、春人が内地の専門家から聞き及んだその説明には体感として納得しているようであり、いつしか人々は「静観」という最も穏当な対応を選ぶようになっていた。

かくいう穂希も扇ヶ浜の事件では朝香と自転車をこいで見物に出かけたものだったが、白い浜辺にべっとりと流れ着いたアジの腐臭にやられ、すぐに引き返してきてしまった苦い記憶があり、それ以来「大量死」と聞いても静観を決め込むことにしていた。

 だというのに、今回もやはり野次馬が多いというのは、よほどみなイルカが好きなのだろうか。あるいは、とそこまで考えて、ふと穂希は遠村の話していた逸話を思い出した。そうだ、父はこの話を知っているのだろうか。気が付くと穂希は、ねえ、と運転席に声をかけていた。

「お父さん、ゴジラって知ってる」

「もちろん。怪獣だろ? この島で最初に発見された」

「じゃあさ――」

 それが日折浜だったって、本当かな。そう言いかけた穂希の言葉は、ラジオから流れてきた単語に遮られた。

〈――さて、本日はゲストとして、美浜将暉町長にお越しいただいております――〉

 すっと車内の体温が下がり、気が付いた時にはラジオのスイッチをオフにしていた。春人が怪訝そうな顔をしたのが分かり、慌ててスマホをいじると、プレイリストの音楽を鳴らし始める。

「ラジオつまんないから、音楽かけるね」

 誰にともなく呟きながら、いやな汗が生え際に滲むのが分かった。春人はさして気にする様子もなく、良く知りもしないjポップに合わせて鼻歌を歌いはじめた。

 奇妙な沈黙。その間にフィットは短いトンネルを何本か抜け、海沿いの道を走るようになる。曇った窓の向こうには、吹き付ける雨の軌跡と、ざばざばと泡を吹く海だけが見える。いやに潮騒が近くに聞こえ、穂希は音楽のボリュームを上げる。

 そっ、とミラーで後部座席を確認すると、朝香は礼儀正しく足をそろえ、窓側を見つめたままの姿勢で座っていた。その眼には取り立てて感情は読み取れず、穂希は細く息を吐いて、目の前を通り過ぎていく道路標識を見送った。

 

 角崎は島に四つある集落のうち最も小さな漁村で、高校の生徒は穂希と朝香だけ、小中学生もせいぜい両手に収まる程度という、限界集落中の限界集落だった。ビーチも観光地もないこの集落には、最近増えているという内地からの移住者も寄り付かなず、角崎という地名からもわかるように島の突端に位置する集落は、まさに島のコミュニティの周辺でもあった。

 名ばかりのわびしい商店街を抜けると、真新しい公民館の前で春人は車を止めた。朝香は丁寧に礼を告げ車を降りると、今にも振り出しそうな曇天に一度目をやった。

「朝ちゃん、おじいさんとおばあさんにもよろしく伝えて。今度お店に行くから」

「ありがとうございます」

 春人がそう暢気な声をかけ、朝香が愛想よく頭を下げた。母親が入院中の朝香は、祖父母との三人暮らしだ。祖父は漁師を引退した後に食堂を開き、角崎の数少ない社交の場となっている。

「じゃ、また来週学校で」

「うん。日曜バイト、忘れずに」

 穂希は原付の事を思い出しながらうなずいた。朝顔荘のアルバイトは、木・日・月の週三日だ。木曜と月曜が内地からのフェリーの到着日、日曜日が父島からのフェリーの到着日で、お客が入れ替わることが多いため人手が足りなくなりがち、というのがシフトの理由だ。「それと」と、朝香は例の艶っぽい笑みを浮かべると、窓越しに穂希の耳元に口を寄せた。息遣いが耳たぶにふれ、ぞくっと鳥肌が立つ。

「尾崎センセのために、しっかり怪獣のこと勉強しないとね」

「何でそうなる」

「だって」一瞬、朝香の顔が真面目になり穂希は緊張する。それから再びいたずらっ子のような笑みを浮かべると、「わたしが島を出たら、穂希さびしいでしょ」

「出るって」

「百万円、貯まっちゃうぞ」

昨日の帰り道を思い出して憮然とした表情を浮かべた穂希を残し、朝香は港の方向へ去っていく。ちょうど古びた街灯が一斉に点灯し、頭上の一基からジジ、と虫の羽音が響いた。

フィットは山側に向かって、滑るように走り出す。

「あした、一応病院いっておこうか。そのまま母さんを迎えに行けるし」

 八幡社の隣に立つ、住宅展示場からそのまま運んできたような鉄筋の我が家に帰ると、車庫に車を収めながら春人はそう提案した。穂希はほとんど上の空で、「うん」とも「ううん」とも聞こえる返事を返す。

頭の中にあるのは、やはりゴジラという言葉の意味で、気を逸した今となってはなぜか父に聞く気にもならず、自宅に帰るや穂希はリビングのソファに飛び込んだ。病院で看護師として働く母は夜勤のため、部屋は真っ暗だ。どっと疲労が押し寄せ、すぐに睡魔が忍び寄る。

父の足音が聞こえ、部屋の電気が点く。

「寝るなら部屋で寝なさい。夕飯には起こすから」

 うるさいなあ、穂希はそうは思いつつも声には出さず、のそりと起き上がると部屋へ向かう。わが父ながら相変わらず間が悪い。さっきだって。

「あのさ、お父さん――」

 そう言いかけてから口をつぐむ。システムキッチンで手を洗う姿勢のままきょとんとした春人をおいて、穂希は慌てて二階へ上がった。ベッドへ寝転がると、一度は距離を置いた睡魔が再び歩み寄ってくる。気が緩んでいるのは、この疲れのせいだと思いたかった。

 朝香の父が現・町長の男であることは、二人だけが知る秘密なのだから。

 



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最果て(6)

 木島穂希が初めて伊藤朝香と出会ったのは、忘れもしない小学二年生の夏だった。

 概して物覚えがよくない穂希がその時の情景を色濃く覚えているのは何故なのか。適当な理由を何度探しても、出てくるのは「痛かったから」というひどく安直な答えだけだった。穂希は中学に入る以前の記憶が軒並みあいまいという鳥頭を自認していただけに、その時の痛みというのがどれほどのものだったか想像する助けになるだろう。

 穂希は、その日が島に来て数日という時期だったことも覚えている(離島に引っ越す、という一大イベントの日付すら曖昧なのだから先が思いやられるが)。陽炎が島全体を溶かしてしまうような日差しの強い夏の日で、まだ引っ越して早々だったせいか学校にも入っていなかった幼い穂希は、ぶらぶらと町中を当てもなく歩いていた。

 桟敷川の橋を渡ろうとしたところで、穂希はふと、橋の欄干で遊ぶ子供たちの姿に気づく。それは自分よりも年上の、おそらく小学校五年六年、かかあるいは中学生くらいの少年たちであり、幼い少女にとっては何よりも出会いたくない生き物のひとつだった(この少年たちが学校をさぼっていたのか、あるいはすでに夏休みに入っていたのか、はたまた祝日だったのかはわからない)。

「おい、お前どっから来た」

 そんな意味のない問いかけで自分の優位性を示そうとする少年たちに対し、穂希はもじもじと下を向くのが精いっぱいで、その様子を見た少年たちはますます興奮したように喚きながら、穂希を小突き回した。

「おまえ、ヨソモンだな」

 少年たちはそう叫んで少女の背を押すと、そのまま小さな体を欄干に押し上げた。

「いいか、この島の人間になりたければここから飛び降りるんだぞ」

 中でもリーダー格の少年がそう胸を張った。恐る恐る下をのぞき込んだ穂希の視界ははるか下を流れる川面にくぎ付けとなり、途端にぶるぶると体が震えだした。

「何やってんだ、はやく飛び込め!」

 少年たちは口々にそういって穂希を押しやったが、穂希は頑として欄干を離そうとしなかった。離したらお落ちちゃう、離したら落ちちゃう。穂希は今でも緊張した時にその時の恐怖心を思い出す。へそを体の内側にぎゅうと押されるような、胃袋をそのまま押し上げられたような圧迫感。

「おい、何やってんだ!」

 その時、橋の向こうから一人の少年がやってきた。少年たちよりも頭一つ高い身長と、しなやかな体に整った顔立ち。それはまるで白馬に乗った王子様そのままで、穂希はそのまま何事もなければ、その少年に一目ぼれしていただろう。

 しかし、現実はそう甘くない。

「何やってんだ!」

 こちらに駆け寄ってきた少年は、走ってきた勢いのまま穂希の体を抱き上げた。助かった…。そう思ったのもつかの間、穂希の体はなぜか宙へと投げ出され、気が付いた次の瞬間には全身を一度に叩かれたような痛みが走り、どおと冷たい水が体を包み込んだ。

 川に落とされたのだ、気づいた瞬間に穂希はパニックになった。いったいなぜ。あの少年がやったのか? 視界を覆う泡と、青緑色に濁った水の流れ。時折手足の指が砂利に触れるのが分かったけれど、どちらが上なのかもわからず、穂希は無茶苦茶にもがいた。それからすぐに強い力で引っ張り上げられる感覚がして、再び青い空が見えた。

「ほら、サイコーだろ?」

 目の前では、穂希を抱きかかえた姿勢の少年が屈託のない笑顔で笑っていた。

「背伸びしてみ。足、つくから」

言われてみれば、頭一つ水面から出した姿勢でも足の指先が砂利を触るのが分かった。騒がしさに視線をあげれば、橋の上の少年たちがもろ手を挙げて快哉を叫んでいる。

「内地から来たんでしょ? わたし朝香。よろしく」

 そこではじめて穂希は、目の前にいるのが少年ではなく少女だということに気づいた。短く刈った髪とすらりと伸びた背丈のせいで、少年のように見えただけだったのだ。栗色の瞳の奥には、好奇心がぎらぎらと輝いていて、穂希はまぶしさに目を伏せた。外見にもまして、少女が自分と同じ二年生ということにも驚いた。だから、穂希が思わず口走った「なんで?」という言葉には、いくつものなぜが含まれていたのだけれども、その中で最も大きかったのは、言わずもがな、

「なんでわたし、落とされたの?」

 という問いだった。現代なら、いや十年前でも、状況次第では酷いいじめともとれる行為だ、と穂希は今でもそのことを苦々しく思い出す。しかし朝香にとってそこは川面までわずか三メートルばかりの背の低い橋にすぎず、少年たちは毎日のように飛び込み遊びをして遊ぶお決まりのスポットで、実際に一種の通過儀礼的な飛び込みは毎年の風物詩だった。だから、少女の視線に込められた怒りや困惑は、遂に幼い日の朝香には届くことはなかった。

「サイコーだろ? ホントは海の方が気持ちいいんだけど、今日は風が強いから」

 当時の朝香がどんな思惑だったかはわからないが、十年たって当時のことを述懐する時、朝香はきまってこう言う。結局プラスだったでしょ、あたしと友達になれたんだし。少なくとも、本当の意味でのいじめに出会うことは無くなったんだから。

 しかし穂希は今に至るまでその意見には賛同できない。飛び込んだ時に水が入ったせいか鼻の奥からは灰の臭いがしたし、体はじんじん痛むし、服は濡れて体が重い。耳の中にも水が入っている。幼い穂希は朝香の腕を振り切ると、人生で初めて覚えた軽蔑という感情を最大限に込めてこう呟いた。

「サイテーだよ」

 これが穂希と朝香の最初の出会いだった。穂希と朝香の「事件」に対する認識は今でも平行線のままで、決して交わることはない。穂希からすればもっと穏健な出会いもあったろうに、と思うし、これからもずっと、そう言い続ける自信があった。

 

 当時の穂希にとっては疎ましいことに二人の少女はともに角崎住まいで(引っ越したばかりのころ、穂希は両親と中町にある公務員用の仮住まいにいたので、二人が出会ったのは中町だった)、海という抜け道のない壁に囲まれた世界で、二人は必然ともに多くの時間を過ごすことになった。

ひとりでぼうっとしていることの多い穂希と、快活で容姿端麗、時ならず教師たちを翻弄する朝香は、はた目からは対照的ですらあり、穂希の母の葉子は一度ならずも穂希がいじめられているのではと疑うほどだった。小学五年生の時、学校の二階から穂希が落ちかけた際には葉子は朝香の家に押し掛けたほどだったが、帰ってきた葉子の第一声は

「朝香ちゃんのこと、助けてあげるんだよ」

 というものだった。今となっては、朝香の祖父母から家庭の事情を――シングルマザーが長患いで入院中であることを聞かされたのだとわかるが、べそべそと涙をふきながら帰ってきた母の姿に、穂希は朝香という人間の底知れぬ影響力を感じ取り戦慄した。その眼には朝香はトラブルメイカーでもあったが、同時に(少なくとも穂希の知る範囲での)島の人々、みなから愛される奇怪な存在に映った。

穂希はますます朝香から距離を取ろうとしたものの、二階から落ちた時の真相は、手すりで遊んでいて落ちかけた朝香を穂希が助けようとした、というもので、それ以来朝香はますます穂希に近づくようになった。

「あたし、彼氏できたわ」

 必然、距離が近ければ話す内容も踏み込んだものとなり、中学生になった朝香は通学に使っていたバスの待合室でそう穂希に打ち明けた。穂希は「で?」と返したいのを必死にこらえ、せいぜい興味があるふうを装ったが、そんな内心は読んでいる、とばかりに朝香はくすくすと笑うのだった。

「穂希、本当に男子とか興味ないよね」

「興味はあるよ。なぜああもやつらはバカなのか、とか」

 中学校に上がった穂希は少しばかりの社交性を手にし、一方の朝香は思春期を過ぎたころから一気に大人の魅力を身に着けていった。それは主に外見的なことだったけれども、驚く周囲の反応に反して、穂希はさもありなんと思うばかりだった。初対面の数十秒は、確かに朝香は白馬に乗った王子様だったのだから。

初めての彼氏と手ひどい別れ方をしてからというもの、朝香は徐々に口数が減っていったし、それに反比例するように穂希は思いついたことを何でも口にするようになっていったけれど、いつでも肝心なことを打ち明けるのは朝香の方で、穂希は往々にしてそれを静かに受け入れるのだった。

「父親、見つかった」

「父親って、朝香の?」

 それ以外に何があんだよ、と朝香がくすくすと笑う。それは中学三年の秋、角崎のバス停でのことで、夕陽に照らされた朝香の顔が酷くきれいだったことを覚えている。

「それは、おめでとう、でいいのかな」

「どうなんだろ」

 本気でそれを考えこむように、しばし遠くを見てから、朝香は言った。

「美浜将暉」

 ミハママサキ、という言葉が穂希の頭の中で正しく変換され、それがさらに海馬(あるいは大脳皮質)に伝達されるまでにしばらく時間を要した。美浜将暉、町長。ぐるぐると頭の中をニュース映像が駆け巡るのが分かった。島の旧家出身。東大卒。もと与党政治家の秘書。父の跡を継いで、離島の首長となった孝行息子。世襲政治家の鏡。そして妻は東京で出会った元アナウンサー。そこまで思い出して、

「どうりで、朝香もイケメンなわけだ」

 と穂希は思わず口走った。自分でも何を言っているのか、と自嘲したくなる。確かに、自治体の広報誌で見る美浜はこんがりと日焼けをした伊達な中年男というイメージで、おばさま方からの評判も上々だった。思い返してみれば、幼き日の朝香のボーイッシュな魅力にも通じるものがあったかも、そこまで考えてようやく、穂希は何の疑いもなくその告白を受け入れている自分に気づいた。

「そうか、やっぱ似てるのかあ」

「いや、今は全然」

「どっちだよ」

 くすくすとわざとらしく笑う朝香の姿が痛々しくて、穂希はほとんど薄闇に沈む町を見つめたまま、尋ねた。

「どこで?」

「高校行く準備でさ、役所とか行くじゃん。そしたらそこで」

「そっか」

「けっこう、ビビった」

「町長だもんね」

「どうせなら、総理大臣がよかった」

「確かに、町長だもんね」

 美浜町長は就任当初こそ「イケメン過ぎる町長」やら「地方知事の未来を憂う若きリーダー」といった(穂希からすれば)ナナメ上の注目を集めたものの、あくまで離島の首長にすぎず、そもそも美浜家が代々影響力を持つ島においては対立候補すらなかったから、その政治力も多分に先行き怪しいものだった。

それでも島においては「美浜家」の名が持つ力というのは偉大で、例えば不動産、医療、漁業といったあらゆる分野でそのトップが美浜家の血縁であることもまた事実であり、実際、穂希たちの学校で美浜家の分家筋の娘が教育実習に来た際の教師たちの遠慮の仕方と言ったら、およそ滑稽なほどだったのだ。

「あーあ。何か失敗したかな」

 朝香がそう言って立ち上がったのを見て、穂希はわれながら驚くほど狼狽した。失敗、というのが島に残ること、を意味するのが、なぜか反射的にわかった。

「でも、あれ、美浜さんが島に帰ってきたのって最近じゃない?」

 なぜか一度受け入れてしまった事実を否定したくてそんなことを呟いてみたけれど、それが無駄なことは火を見るより明らかだった。

「わたし、生まれたのは東京だもん。あの人は東京で母さんと出会って、きっと同郷だからとかいう理由でヤッちゃって、そんで私が生まれて。母さんはまさかあの人が戻ってくるなんて思わなかったから出戻ってきて。そんなとこなんじゃない」

 まるで暗記した教科書みたいにそうすらすらと想像のエピソードを語る朝香の姿が痛々しくて、穂希は思わず目を伏せた。そして、そのエピソードがおそらくほとんど真実であることが恨めしくて、穂希は思わず「なんだよ、それ」と呟いた。

「島、狭いなあ」

 すでにバス停を出て帰路を歩きはじめた朝香を追って夕陽の中に踏み出しながら、数日前の三者面談の事を思い出した。多くの同級生が島外の学校へ進学する中、穂希が島に残ることを決めたのはつい先日のことだった。決めた、と言っても何かを決断したわけではなく、穂希はほとんど何の迷いもなくそれを選んでいた。同級生たちが語る都会のイメージには何ら憧れるものがなく、かといって目指すべき将来の姿も曖昧模糊として、それなら現状維持で構わない。そう、思っていた。誤解していた。

穂希は自分が島に残ることを選んだ理由をその時になって悟ったのだった。朝香がいたからだ。それ以上でも、以下でもない。

「高校卒業したらさ、一緒に内地いこう」

 せめてこの惨めな自分を慰めてやりたくて、気づけば穂希はそう言っていた。

「一緒に東京行って、シェハウス借りて、アップルストアで働く」

「いいね」

 朝香の瞳に、あの蠱惑的な光が戻ったような気がした。茜色に染まった寂れた商店街を、二つの影が伸びていく。

「いくらかかるんだろ。東京で暮らすのって」

「んー、百万くらいじゃない」

「てきとうだな」

「なんかで読んだ。いや、映画かな。そういうお話があるんだよ。百万円貯めて、貯まったら次の町へ」

「いいじゃん。やろう、やろう」

 ああ、そうだ、約束したのはこの時だった。原付で通学するようになって以来、めっきり通ることが少なくなった商店街を、それでも何かの用事で通るたび、穂希はこの時の情景を思い出す。そしてそのたびに、またいつか朝香と一緒に歩きたいな、と考える。

 それは高校二年生の夏を迎えようとする今のところ、叶ってはいないのだけれど。

 



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