敵の敵は味方になるらしい (マカベ)
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第一章
世界に一つ、必要なモノ その1


 ☆

 

 

 ボーダー本部、食堂スペース。

 多くの隊員たちで賑わうこの空間では、様々な会話が行き交う。やれ、「きな粉を溢しまくって基地内できな粉餅が禁止にされた人がいる」とか、「炒飯で人を殺すA級がいる」みたいな、信憑性の欠片もないようなものばかりだが、これが存外盛り上がるのだ。隊員はほとんどが学生であり、その手のうわさ話に興味を示しがちな年頃。聞く人間の食いつきがいいから話す側も調子に乗って、噂は背びれ尾ひれをつけてあれよあれよという間に広がっていく。

 とまあ、それくらいであればランチの箸休めにちょうどいいかもしれない。問題なのは、しばしば行き過ぎたものが出回ってしまうことだ。サイドエフェクトを持つ隊員への中傷が広まったこともある。悲しいかな、年頃の学生たちにはそういったものも大好物だ。

 

「相変わらず賑わってはるなぁ」

 

 左手のハンバーガーを一口、男がかじった。

 特徴的なイントネーションで話す男を前に、菊地原はうんざりしてストローを吸う。

 

「勝手に座らないで欲しいんだけど」

 

 菊地原は態度を隠さずにため息をついた。

 男はけらけらと笑うと、「こっちも相変わらずやわぁ」と、今度はトレーに置いておいた菊地原のコーラへ手を伸ばした。

 出来うる限り最大限に嫌そうな顔をして、菊地原は男──琴吹伊織を睨みつける。

 髪は金色がかったショートヘア。真ん中あたりで綺麗に分けられたそれは、彼の親戚の影が見え隠れする。泣き黒子の無いのが相違点ではあるが、それ以上にどこか似非っぽさを漂わせる関西弁が鼻につく。間違いなく出身ではないはずだが、性格も相まってか不思議とそこまで違和感がない。

 

「二人が来るまでにしてよね」

「おおきに」

 

 構わずジャンクフードを貪る様子に観念したのか、菊地原は肩を大きく落とした。

 とはいえ、手持ち無沙汰なところをこの男と会話して潰すのはどうにも勘弁したいところであったから、仕方なく菊地原は周囲の騒音に耳を傾ける。

 他人より幾分か耳のいい彼は、BGMと大差ない喧騒でも一つ一つの会話を聴き取ることが可能だ。あまり行儀の良い行為ではないが──と、一応の建前を心の内で唱え、さっきから止まらない噂話に注意を向ける。

 サイドエフェクトを持つ隊員への暴言が多かったのは今は昔、最近はある話題で持ちきりだ。

 曰く。変な関西弁の隊員は血も涙もない最低の人間だから、絶対に近づいてはいけない、とか。

 ここまで広がると、菊地原でなくとも自然と耳に入ってしまうだろう。

 

「言われてるよ」

 

「そやなあ」

 

 人間なん、それ?と戯けた様子でストローを吸った。中身のなくなった紙コップからは、空気と氷が擦れる音だけが鳴っている。

 じいっと、菊地原は彼を見つめた。

 無言ながらも、その様子から察するに「何かしなくていいのか」と訴えかけているらしい。

 

「士郎くんみたいに髪でも伸ばしたらええの?」

 

 菊地原の視線が一気に鋭くなる。

 菊地原の後ろ髪は肩にかかるほどの長さで、男子にしてはかなり長い方だ。それは単純な嗜好というより、一種の願掛けである。サイドエフェクト持ちという触れ込みで鳴り物入りで入隊した菊地原だったが、蓋を開けてみればそれは『強化聴覚』という、側からみれば何とも拍子抜けのものであった。「騒がれてたくせにそんな程度かよ」「全然大したことねえじゃねーか」嫌でも拾ってしまうそんな雑音を遮断できるような気がして、彼は耳にかかるまで髪を伸ばしていた。

 そんな、菊地原の誰もに隠したい心の内を嫌味たらしく仄めかされて、顔が思わず歪む。

 冗談やて、本気にせんでやと、また伊織はけらけらと笑った。

 

「そこ、邪魔なんだけど」

 

「怒らんといてや。冗談や言うたやないの」

 

「二人が来るまででしょ。相席」

 

 菊地原が指をさすのに倣って伊織も振り返ると、風間隊の二人が談笑しているのが見えた。先ほどに二人がこちらへ向かう様子は聞こえていたから、菊地原にとっては予想していた通りだ。

 

「えらい薄情やわぁ…」

 

 別にボク一緒でもええやないか、とか泣くふりをする伊織を菊地原は無視した。しばらく経っても返事がないからか、伊織は口を曲げたまま席を立つ。

 

「ま、ボクも用事あったとこやし?」

 

 包み紙を綺麗に折り畳んで挨拶もなしに何処かへ向かう伊織を見て、菊地原は舌打ちをした。

 

 

 

 

 休日ということもあってか、食堂近くの座席は全て埋まっている。

 ええと、と伊織は辺りを見渡した。

 菊地原には用事があると伝えたが、なんてことはない。彼に言われて振り返った時に、()()()()()()()のだ。

 

「うーん、あっこでええか」

 

 伊織の右寄り、壁際の席。

 C級の制服を着た隊員四人が談笑している。別段大声という訳ではないが、話題が話題なだけに嫌でも脳が会話を聴き分けてしまう。

 

「おまえ、最近ボーダー入ったんだって? 琴吹伊織って知ってるか?」

「誰?」

「A級のソロ隊員。ボーダーで知らないやつは居ないよ」

「あれには絶対近づかない方がいいぞ。今までC級が何人も潰されてきたからな」

「あと、他人と揉め事もダメだ。あいつを呼び寄せるエサになる」

「エ、エサ…? 言ってる意味がわからないけど…」

「人を嫌な気持ちにさせるのが趣味なんだよ。知ってるか?あいつの好きなもの。揉め事とあと──」

 

「他人の困った顔とかも好きやなあ」

 

 四人はぎょっとした。

 噂話の張本人がいきなり目の前に現れたのだから当然である。他人の悪い噂話をしているという、良心の呵責が曲がりなりにも彼らにはあるようで、四人とも押し黙ってしまった。

 

「ああ、そう!ちょうどそんな感じのやつや!」

 

 伊織はけらけらと笑う。

 ひとしきり笑い終えたころには、四人はどこかに消えてしまった。

 ちゃんとトレイを持って逃げるあたり、それなりの常識はあるらしい。興冷めした様子の伊織は、菊地原に釣られて振り返ったときに見えた人影を気にすることなく、その場を立ち去った。

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 翌日のことだ。

 B級部隊那須隊の隊長、那須玲はいつも通り、何をする訳でもないが自らの作戦室へ向かった。誰かしらは居るだろうからちょうどいい暇つぶしだ。というのも、故あって玲は基地外でもトリオン体でいることが例外的に許されているのだが、何だかズルをしているような気がして、外を出歩くのがどことなく申し訳なかったからだ。

 案の定、作戦室にはチームメイトの熊谷友子が一人でくつろいでいた。パックのいちご牛乳をするすると吸いながら、こちらへ手を振っている。

 

 挨拶は一拍置いてから返ってきた。

 

 他の二人は出かけるやら家でダラダラするやらで忙しいらしい。まあ休日だからねー、と熊谷は自嘲気味に笑った。

 

「休日なのに私ってば、何やってんだろ…」

 

 花の女子高生なのに、と今度は下を向いてしまった。

 玲にとっては休日に外出できるというだけで結構テンションの上がる出来事だから、何故なのかはあまりよくわからない。

 

「一度でいいから『明日デートだからごめん!』とか言ってみたいわ…」

 

 ソファでだらしなくいちご牛乳を飲んでいる内は縁がないだろうが…休日でも相も変わらず感情の発露が彼女らしくて、玲は笑った。

 玲にはあまり共感できることではないが、色恋沙汰には敏感な年頃なのは理解できる。しかし性格はもちろん、容姿も割と上位に位置する熊谷ならそういったことには困らなそうなものだが。

 

「玲に言われると結構ダメージ来るわね…」

 

 嫌味を込めて言ったつもりは全くなかったが、と一言謝ると、熊谷にかえって謝られてしまった。

 若干気まずくなった空気を払うかのように、熊谷はこほん、と一つ咳払いをする。

 

「玲はないの? なんか素敵な出会いみたいな」

 

 素敵な出会いと言われて思い当たる記憶はない。チームメイトにセクハラする自称実力派エリート、DANGERの読めない大学生、女子高生に尻に敷かれる成人男性。走馬灯のように脳裏を駆け巡るのは、どれも残念な大人たちばかりだ。

 

 そうしてしばらく古い記憶から辿っていくとふと、昨日の出来事を思い出した。

 

 食堂で昼食を取ろうとしていた時のこと。

 

 まあ、一つぐらい空いているだろうと、横着して事前に席を確保せずに注文をしてしまったが、そういった時に限って満席だ。

 しばらく待っていても、一向に空く気配はない。みな、食べ終えても雑談に興じているから、なかなか席を後にしないのだ。

 

 そんな中、一人の男性と目が合った。

 

 同じように辺りを見回して、空いている席を探しているようだ。しかし玲が何度も探しても見つからなかったのだ、恐らくはあの男性も立ち往生だろう。少しすると、男性は何かに気がついた様子で壁側の席へと向かっていった。

 四人席に座る隊員たちは食事を終えて、何やら話し込んでいる。

 男性はその隊員たちの下へ行き、一言二言交わすと、隊員たちはそそくさと席を立った。自分もやはりどこかへ譲ってもらうよう声をかけなくてはいけないか、と決心しかけたのだが、しかしその男性はそこへ座ることもなく、そのまま立ち去ってしまった。

 

「えっ、席を譲ってくれたってこと?」

「うん、多分そうだと思う」

 

 他人の、それも昨日の事にも関わらず熊谷は嬉しそうに声を上げた。そういうのを待ってたのよ、とか勝手に盛り上がる熊谷に水を刺すのもなんだか申し訳ないから、もっと詳しく、とのチームメイトからの要求に応えることにする。

 

「えっと、背は高めで…」

 

 いいわね、高身長!と熊谷。

 

「顔は!?かっこよかった!?」

「か、かっこいいかはわからないけど…。あ、髪は金髪というか、クリーム色っぽかったわ」

 

 ええと…と何故か少し戸惑った声が聞こえた。

 

「あと、口調が特徴的だったの。京都弁かしら」

 

 ああ、やっぱり…と残念そうに熊谷は呟く。

 ついさっきまで目を輝かせて詳細を聞いていたというのに、萎んだアサガオのようにすっかりげんなりしている。解散、とでも言いたげだ。

 

「それ、琴吹だわ…」

「琴吹?」

 

 琴吹伊織。玲や熊谷と同い年の隊員らしい。見覚えや聞き覚えがないが、どうやらソロ隊員のようだ。

 

「玲って変なとこ能天気よね…」

「そ、そうかしら?」

 

 ボーダーで琴吹を知らない人間なんてほとんど居ないらしい。確かにボーダーでのコミュニティは熊谷や日浦と比べたら狭い方だが、能天気とまで言われるとは些か不本意というか、驚きである。

 

「有名人なのね、琴吹くん」 

「悪い方面でね」

 

 いちご牛乳を飲む熊谷の顔が渋くなる。熊谷も玲も、人の悪い噂に花を咲かせるつもりはなかったからか、この話題は終いになった。

 

「でも、あんまり悪そうな人には見えなかったけど…」

 

 この一言を最後にして。

 

 

 

 

 消化不良だと言って個人ランク戦ブースへ足を伸ばした熊谷を追うようにして玲もそこへ向かうと、ちょうど噂のソロ隊員の姿があった。

 運命、とまで思考は飛躍しないが、何かの縁は感じずにはいられない。誰かを待っている様子はないし、思い切って声をかけることにした。

 

「琴吹くん。昨日はありがとう」

 

「ええと、どちらさん?」

 

 どうやら昨日のことは覚えていないらしい。施された側の玲ですら、記憶を辿ってやっと思い出したのだから無理もない。あるいは、目が合ったのは気のせいで、単純にあの四人に何か用があっただけだったのかもしれない。

 だんだんと耳が紅潮するのが感じられた。なんだか、自分だけが舞い上がってしまったようで恥ずかしい。

 

「あ…いや、なんでもないの。ごめんなさい。え、えっと、那須隊の隊長、那須玲です。よ、よろしく」

 

「ご丁寧にどうも。ボクは琴吹伊織いいます。まあ、そっちはボクのこと知ってるみたいやけど」

 

 側から見ればいきなりありがとうから入って、それきり触れずに自己紹介をするのはかなり怪しい登場なのだが、伊織は気にせず礼をした。熊谷は玲のことを「能天気だ」と言ったが、伊織の方がよっぽどなのでは…と、内心玲は呟く。

 

「琴吹くんは今日は何を?」

 

「別に、なあんにも。玲ちゃんかて、そうやろ?」

 

 少し気を許したところに名前で呼ばれると、なんだか仲良くなれたような気がする。

 伊織はぱっと顔を綻ばせて

 

「おもろい事でも起こらんかな思うて、その辺ふらついてんね」

 

 と言った。

 休日の昼下がり、個人ランク戦は学生が暇を潰すには丁度いい催しなのかもしれない。ここならばトリオン体で居るのに違和感はないし、誰に対してなのかもぼんやりとした申し訳なさは感じない。冬の乾いた空気に溶け込むような、さっぱりとした感情を玲は抱いた。

 

「琴吹くんは出身は関西の方なのかしら?」

 

「どうやろなあ?三門かもしれへんよ」

 

 何故か他人事のような物言いに、ふふ、と自然に笑みが溢れた。

 どこかで見たような制服を伊織は着ているあたり、近くの高校に通っていることはわかる。どことなく間の抜けたイントネーションが弛緩した雰囲気をより柔らかくした。

 一通り玲がリアクションを終えると、今度は伊織が声を潜めて

 

「ボクに話しかけるんはけったいな人やと思われるさかい、あんま近づかんといた方がええよ」

 

 と言った。

 自身の噂を鑑みてのことだろう。

 けれども、ここまで話した感じ、玲は伊織が噂で聞いたような人物だとは全く思わなかった。

 確かに、彼の言う通り、あまり気軽に伊織と話していたら玲も何か巻き添えを食らうかもしれないが、今日まで玲はそんな話を聞いたことはない。それはつまり、普段関わるボーダーの人間にそんな信憑性の欠片もない噂を吹聴する者は居ないということだ。ならば、極論を言ってしまえば玲の生活に何か悪影響があるということはない。

 

「ふふ、琴吹くんは優しいのね。私は気にしないわ」

 

「あ、そ。そやったら好きにしたらええわ」

 

 しかし、伊織の返事はあまりにもそっけなかった。

 途端に興味を失ったような薄っぺらい表情になると、付いてもいない埃を払うようにして立ち上がる。

 

「あの、一体どこへ…?」

 

 少し驚いた様子で玲は言った。

 

「昼のおばんざい買うたろ思うて、あっこのスーパーや」

 

「一人暮らしなの?」

 

「従姉妹に頼まれてんね。適当に買うて炒飯でも作られてもうたら敵わんからなあ」

 

 炒飯という単語に一瞬だけ伊織の顔が強張ったが、それ以外は変わらず平坦だ。少し前とは対照的に無機質な印象を受ける。

 なんだか訳が分からないが、ともかく玲も伊織と一緒に基地の出口へとつま先を向けた時だ。

 

「それにしても、玲ちゃんも難儀してはるなあ」

 

 伊織が、笑った。

 

 すでに頭を支配していたクエスチョンマークが脳の容量を超えて、思考が追いついていない。

 脈絡のない伊織の言葉に、玲は辛うじて疑問を投げかけた。

 

()()()()()()()()()…やったっけ?」

 

 まるで親に隠していたひどい点数のテストが見つかってしまった時のように、ぎくりと玲の肩が上がる。

 別に隠していたわけでもなく、そして隠していたから何ということもないはずなのだが、何故だかいけないことをしているような気分になった。

 

「なんでそれを…」

 

 故に、口をつくのは言い訳のような言葉。

 

「メディア出といてそらあらへんやろ。キミ、結構有名人やで?」

 

 と、伊織がここまで言ってようやく、状況が飲み込めてきたのだった。

 

「じ、じゃあ最初のは嘘…?」

 

 この口ぶり、伊織が玲のことを知らなかったのというのは演技なのだろう。

 演技。

 その言葉が頭に浮かぶと、途端にわからなくなる。最初の人当たりが良さそうな伊織と、今の薄っぺらい表情の伊織のどちらが──

 

「どうやろなあ?」

 

 伊織は笑う。

 玲が『最初の』に含めた意味も汲みとってなのか、単純に額面に対しての返事なのかはわからない。けれど、はじめと今でのこの言葉の湿度は正反対だった。

 

「えらい出来過ぎてると思わへん? 親切にされた次の日に偶然ばったり出くわすなんて」

 

「え…?」

 

 そうして再び思考よりも目の前の会話が先行していく中、伊織が次に発したのは全くもって予想だにしない内容。

 玲を前から知っていたのは一歩遅れて理解した。しかしそれだけでなく、昨日の出来事も覚えていて、しかもそれが伊織の自作自演だと言いたいらしい。

 

「考えてみれば、あの手際の良さも怪しさマックスちゃう?」

 

 確かにそう言われると、やけに四人の引き際はあっさりしていたような気がする。

 つまりは伊織は、メディアに特集され密かに人気の玲に下心から恩を売ったと言いたいのだろう。

 しかし仮にそうだとして、あえて玲にそれを告げる必要性が理解できない。事実、はじめは伊織に対して好印象を抱いていたというのに、それを意図的に伊織は崩すようなことをしたのだ。

 何か得体の知れない気持ち悪さがじんわりと玲の中に入ってくる。

 

「あはは!冗談やて、本気にせんでや!」

 

 玲が顔を歪めたところで、伊織はけらけらと笑った。

 もはや何が冗談だったのかも玲にはわからなくなっていた。

 

「ほんなら玲ちゃん!折角やし一緒に行こか!」

 

 そうして一巡回ったかのように、伊織はもとのさっぱりした笑顔に戻ると、止めた足を再び進める。

 全く後ろを振り返らずに出口へ向かう伊織よりも先に、玲は気がつくと自らの作戦室へ逃げるように走っていた。

 

 

 

 



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世界に一つ、必要なモノ その2

 記憶というのは曖昧なようでいて、それは人間にとっては必要な塩梅だったりする。

 昨日の情報番組の食レポを子細覚えていたところで何の意味もない。忘れてしまった方がいいこともある。忘れていくからこそ、本当に必要なものを取捨選択することが可能だ。

 人は強い痛みやショックを受けても、一種の防衛本能からかすっぽりと記憶から抜け落とすことがあるという。けれど、伊織はそうではなかった。

 

 完全記憶能力。

 伊織の持つ特異性である。便宜上、伊織はそれをサイドエフェクトと呼んでいるが、ボーダーでそれを知るのは彼の従姉妹である加古望だけだから、果たしてそれが本当にサイドエフェクト──トリオンの影響なのかはわからない。どうやら広い世間では伊織と同じ特異性を持つ人間が居るようだから、単純に産まれ持った個性だという線も否定できないからだ。

 一ヶ月前の天気予報から先週着ていた服、果ては今日学校の教師が瞬きした回数まで伊織は記憶している。昨日の食レポを一字一句文字に起こすなんて朝飯前だ。

 しかしそれ故に、伊織は忘れるということを知らない。それが忘れるべきものかどうかもわからない。何かの折に、昔の苦い記憶がフラッシュバックするという経験は、誰しも一度はあるだろう。もちろん、伊織も例外ではない。例外なのは、全て覚えているが故にフラッシュバックが止めどないことと、忘れないが故に最終的に行き着く先がいつも同じということだ。

 何かに取り組む際、「今までの積み重ね」と人は言う。しかし、完全記憶能力を持つ伊織にとって、その積み重ねた量はあまりに膨大だ。

 これは伊織がまだ積み重ねて間もない頃、そして積み違えてしまった頃の話である。

 

 伊織は三門市内の小さな家庭で生まれた。

 両親が共働きでようやくの暮らしをしていたことを除けば、何の変哲もない、いたって普通の家庭だった。

 いつ変わったのかは当然はっきりと覚えている。伊織が言葉を発するようになってから、一ヶ月が経った時のことだ。まだ保育園にも通わない年だというのに、妙に物覚えがいい。危ないから近づくなと言われた台所には決して近づかず、年に一度しか会わない親戚をしっかり認識し、テレビのリモコン操作も両親を見て勝手に覚えた。

 それを毎日間近で目の当たりにして、伊織の両親は彼が天才であることを確信した。その日から、伊織の教育方針を巡って対立が見られるようになった。

 家計は依然苦しい。けれども、それはどうにか都合をつけて、息子の能力を更に伸ばせる環境を作るべきだ。私立の幼稚園へ通わせようと言う母親。

 私立校へ通わせることはなんとかすれば出来るかもしれないが、それでは伊織の欲しいものを与えてあげる余裕はなくなってしまう。そして、物覚えはよくとも判断力はまだ年相応な息子に、早くからレールを敷いてしまっていいのだろうか。せめて中学校までは、家の身の丈に合った学校へ通わせるべきだと主張する父親。

 入園というタイムリミットが迫るにつれて、言い争いの頻度は高くなっていった。物心がついて間もない赤ん坊にとって、両親が喧嘩をする光景はとてつもない不安と恐怖を与えただろう。けれど、伊織の脳は忘れるという防衛本能を発揮しなかった。十七歳となった今でも、それは彼にとって積み重ねた記憶の一つである。

 度重なる言い争いに疲弊して、結局両親は離婚した。話し合いの結果伊織の面倒は父親が見ることになったが、共働きでようやくの生活をしていた琴吹家がどうなったのかは想像に難くない。そして、段々と増えていく労働と家事の二足の草鞋を履くには、些か伊織の父は優しすぎた。どれだけストレスが溜まっていようとも、父は決して息子にはあたらない。別の場所で発散しようにも、平日は早朝から深夜まで働き、休日は伊織の世話で一日が終わる。徐々に限界は近づいていき、伊織が小学校に入る頃、とうとう父は壊れてしまった。

 

「父さんも母さんも、誰も間違ったことはしてなかったのに…。何で、こうなっちゃったんだろうな…」

 

 実家で最後に聞いた父親の言葉である。

 離婚する前と比べて格段に増えた皺からは疲弊の様子が見てとれるのに、かたかたと歯を震わせても笑顔は決して崩さない。その表情が、伊織の記憶の中核を占めている。

 父はその後、体調を崩して入院し、最終的には精神病院へ送られた。

 入院費のために賃貸契約は解除され、小学生の伊織は市内に住む従姉妹の家に預けられることとなった。

 

 父と母、どちらも伊織のためを思っていたことは彼自身がよく理解していた。父親と居る時間の方が結果的には長かったが、母親が伊織にしてくれたこともちゃんと覚えている。幼稚園のことだってどちらの意見も正しくて、どちらかに決められても不満を言うことはなかっただろう。

 けれど、どちらも正しくとも衝突は防げないと、六歳にして伊織は悟った。

 しかし、世の中がそういうものだと割り切るには、絶対に忘れることのない、あの時の父親の顔が邪魔をする。いい人が悲しい顔をするのはもう見たくない。

 

 争いは防げない。でも、みんなの悲しい顔は見たくない。

 

 その矛盾を下敷きに、伊織は日々を積み重ねていく。

 

 ある時は学校の授業参観。そしてまたある時は道端を仲睦まじく歩く親子。伊織の日常には、父親の顔を思い出す引き金で溢れていた。そして思い出してしまったという経験も積み重なり、またそれが新たな引き金となる。

 伊織の限界もまた、一歩ずつ、確実に近づいていた。

 

 しかし転機は、突如として訪れる。

 

 従姉妹が忘れていった教科書を届けに、彼女のクラスへ向かった時のことだ。

 教室のロッカーの上にある、透明な水槽。そこに二匹、金魚がいた。一方は赤く、もう一方は黒い。どちらもやや痩せているようだったが、綺麗な水槽から判断するに手入れを怠った様子は感じられない。

 伊織のクラスでもカメが一匹飼われていたから、それ自体は何ら珍しいことではない。

 ただ、赤い方の金魚の背びれが、ぼろぼろに破けていた。

 従姉妹にそれを尋ねると、飼育係が餌やりをしばらく忘れていたから、共食いをしてしまったらしい、と返ってきた。

 人工的に整備された透明な水槽の中には、生きるか死ぬかという、剥き出しの野生がそこにはあった。その矛盾にも似た違和感が、伊織を捉えて、離さない。

 

 餌が無いから仲間同士で食い合う。なら、餌を絶やさなければいい。

 

 なんと単純な答えだったのだろう。

 

 正しい人間しか居なかったから駄目だったのだ。彼らが互いに食い合わないための餌──間違った悪い人間が、そこに居ればいい。

 

 今にして思えば、伊織の限界はとうに訪れていたのかもしれない。

 無理もない話だ。幼少期の両親の喧嘩、父親が精神を壊してしまった瞬間。それらを鮮明に覚えているだけでなく、嫌でも勝手に思い出してしまう。精神は年相応だった伊織に、耐えろと言うのも酷だろう。

 

 口調は胡散臭い関西弁に、そして性格は他人が嫌なことを率先してやるように。

 矛盾した願いに出した結論は、矛盾した答えだった。

 

 

 

 ☆

 

 

 

「琴吹」

 

 いつも通り伊織がランク戦ブースで一人モニターを眺めていると、正面から女性が近づいてきた。

 声も態度も、怒りを隠そうとしていない。

 

「あれ、今度は友子ちゃんが来てくれはるの」

 

 嬉しいわあ、と諸手を挙げて伊織は喜んだ。

 昨日の出来事も、そして目の前の熊谷の表情もまるで目に入っていないようで、ますます彼女の眉間が険しくなる。

 

「あんた、玲に何したのよ」

 

 気がつくと熊谷は、伊織の胸ぐらを掴んでいた。

 シャツの裾を強引に持ち上げられ、伊織の体がよろける。手を払わずにそのまま、熊谷を見下ろすかのように伊織は視線を下ろした。

 

「人聞き悪いこと言わへんでや。困ってたから席譲ってあげただけやないの」

 

 どうやら熊谷は、昨日の出来事を事細かには把握していないようだ。どんな様子で玲が作戦室へ戻ったのかは想像のしようがないが、友人の傷を抉るようなことはしたくなかったのだろう、と伊織は思った。

 

「人の困った顔見るのが趣味のあんたが?」

 

「困った人居ったら助けるんが人情やで?」

 

「どの口が…!」

 

 シャツを握る力が強くなった。もしも彼女がトリオン体であったなら、生身の伊織を孤月で躊躇なく突き刺してしまいそうなほど、目には怒りがこもっている。

 

「あはは!冗談やて、本気にせんでや!」

 

 視線を熊谷へ下ろしたまま、伊織はけらけらと笑った。

 

「ちゃんと忠告もしたで?ボクにあんまり近づかん方がええって。そやけど玲ちゃん関係ない言うから、楽しなって少し遊んでもうたわ」

 

「あんたね…!!」

 

 熊谷の感情は頂点に達した。

 それを煽るような涼しい伊織の表情を見て、思わずシャツを上に持ち上げる。放っておいたら延々と喋り続けそうな伊織の口が、シャツを持ち上げられた勢いで閉じられた。

 

 伊織は一度目を閉じてから、再び熊谷を見下ろす。

 

 変わらない伊織の表情に、喉元へ熊谷の指が伸びかけたが、ざわつきはじめた周りの声にはっと我にかえった。

 

「次、玲に何かしたら許さないから」

 

 けほっ、と伊織が一度咳をする。

 もう一度そのへらへらとした面を見てしまったら抑えが効かなそうだ。熊谷は、一度伊織に背を向ける。

 いくらなんでもやり過ぎた、と少しだけ反省した時だった。

 

「どうやろなあ…。未来は無限に広がってるんやない?」

 

 握った右手を、伊織目掛けて思い切り振りかぶっていた。

 まさに伊織の頬を吹き飛ばそうとする寸でのところで、右手は止まる。理性が遅れて、何とか働いた。

 

「二度目はないわよ」

 

 友人の事を傷つけられて、ここまで怒れる人はそう居ない。

 それは災難だった、で慰めるのが関の山だろう。

 恐らく熊谷も玲にはそう声をかけたはずだ。しかしそれだけでなく、玲には内密で伊織に詰め寄り、二度とするなと迫る行動力を他人のために行使できるのは、誇れることだと伊織は思う。彼女は間違いなくいい人だ。

 もしもまた玲に何かあったら、熊谷は真っ先に伊織を疑うだろう。

 

 それでいい。

 

 入ってから一年ほどが経つが、ボーダーには驚くほど悪い人が居ないのだ。例え何かあっても、それは一時のすれ違いに過ぎないはずだ。不要な軋轢は、自分とのだけでいい。

 どこかへ歩いていく彼女の背を見て、伊織は小さく息をついた。

 

「…ボク、間違った悪い人間やから」

 

 そうして漏れる一言を拾う人間は、周囲に誰も居ない。

 



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世界に一つ、必要なモノ その3

 大規模侵攻で突如として現れたボーダー組織だが、四年が経つ現在ではそれなりに大きなものとなっていた。特に隊員に対するホスピタリティは、国内様々な大企業の社員に対するそれと比較しても遜色がないように思う。各部隊には専用の作戦室が与えられ、トリガーに関することならいつでも好きに試すことが出来る。定期的に食堂のメニューは一新され、隊員たちがくつろげるスペースも十分に確保がされていた。

 A級部隊嵐山隊の隊員である木虎藍は、フリースペースで一人考え事をしていた。

 広報部隊とはなんたるかを常に実践する彼女が、側から見れば一人ぼんやりと辺りを眺めている様子はらしくないように映るかもしれないが、それも無理はない。

 

 日中に出会った三雲修とかいう中学生に、久しぶりにはっとさせられた。

 C級にも関わらず規則を破ってトリガーを使ったとか、中学校を襲った近界民から学生を救ったヒーローとなったとか、現象に対する感情ではない。

 彼は徹頭徹尾、誰かを救けることを考えていた。周りからちやほやされて承認欲求を満たしたい様子も、手柄を横取りしてそれをひけらかす素振りも全くない。白髪の少年が言っていたように、その辺の人間とは見ているものが違って、無意識のうちに彼を見直してしまった。

 けれど、プライドの高い木虎にはそれを素直に認めることは彼に負けたような気がして、この感情を思った通りに呑み込むことが出来ずにいた。

 ため息をひとつ、木虎はつく。

 

「藍ちゃん、何してはるの?」

 

 ため息に合わせるかのように、後ろから声がかかった。

 抑揚のついた特徴的な口調、一見無害そうな優しい声。木虎が今、一番会いたくない人間のそれだ。

 

「…っ! いきなり現れないでください」

 

 びくりと、木虎は肩を一瞬震わせる。

 振り返ると案の定、琴吹伊織の姿があった。

 

「そんなひどいこと言わへんで欲しいわあ。ボク、ずうっと藍ちゃんの後ろ居ったんやけど?」

 

 けらけらと、本当なのか嘘なのかわからない表情で伊織は笑う。

 仮にも年頃、ましてや異性。タイミングの悪さも相まって嫌悪感しか湧いてこない。

 

(なんでこんなのに双葉ちゃんは懐いてるのかしら…)

 

 木虎は後輩の少女を慮った。

 A級で唯一の女子の後輩であり、もともと年下には慕われたい願望が多いにあった木虎にとっては可愛がりたい存在だったが、何故か木虎は嫌われ、そして本当に信じられないことだが伊織は慕われている。

 正直なところ、木虎が伊織を嫌いな理由の三割程度はこれが理由だったりする。

 そんな木虎の脳内を知ってか知らずか、伊織は意地の悪そうに笑った。

 

「藍ちゃんも大変やったなあ。たしか、市内の中学校にイレギュラー門開いたんやっけ? その後の大型も藍ちゃん倒したんやろ?」

 

 木虎の目が、少しだけ暗くなった。

 嫌われ者の登場で、木虎を囲んでいた感情からある意味で気分転換になっていたというのに、その嫌われ者に再び引き戻されたからだ。

 

「どちらも後処理をしただけです。私は何も…」

 

 恐らく木虎がここまでナーバスになっているのは、C級が出来る役目を果たしたというのに、A級の自分が何も出来なかったことに悔しさを感じているからだろう。ぽろりと本音が零れ落ちた。

 

「後処理?」

 

 対する伊織は木虎の言葉にぴくりと眉を動かした。

 聞いた話では、イレギュラー門は嵐山隊が処理したとあったはずだが、後処理という何とも引っかかる物言いだからである。

 

「ええ。ルールを破ってトリガーを使ったヒーロー気取りが一人、居ましたので」

 

 やや低くなったトーンで伊織に聞き返され、木虎ははっとしていつもの調子で答えた。後処理──忍田にイレギュラー門事件の解決は三雲の功績が大きかったと報告したが、彼がヒーロー気取りだなんて、微塵にもそんなつもりはないのは木虎にもわかっていたことだった。けれど、心にかかった靄をやり過ごすには、こんな言い方しか出来なかった。

 

「へえ…。なんや、おもろそうなことやってるやないの」

 

 木虎にしてみれば、機嫌が悪そうに言う様子から察してスルーしてほしいと思うところだが、そうなると余計にその貼り付いた笑顔を意地悪くさせるのが伊織である。

 

「あなたには関係ないでしょう?」

 

「そやなあ。ほんなら、関係あるのは…上層部とか?」

 

「さあ?」

 

 誰が相手であろうとこんな人間、自分がきっかけで関わらせることになっては夢見が悪い。木虎は伊織の追及にとぼけた。

 

 しかし伊織は、けらけらと笑う。

 

「藍ちゃんは嘘が下手やなあ」

 

 ぞくり、と木虎の背筋を冷たい感覚が襲った。

 

「ルール破っといて上と関係あらへんわけないやろ。それでもとぼけるいうことは、ボクに何か隠したいことがあるのか、隠すように言われたか」

 

「……」

 

「あはは! 誤魔化すのはもっと下手やなあ!」

 

 けらけらと笑ったまま、藍ちゃんは悪ないで?と伊織は続ける。

 確かに、木虎は一つも失言はしていない。けれど、意地の悪そうにそう言われては、言外の意味が嫌でも読み取れて、思わず顔を歪めてしまう。

 

「だって藍ちゃん、()()()()()()もの!」

 

 

 琴吹伊織。やはり木虎はこの男が、嫌いだ。

 

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 顔を歪めて木虎はどこかへ行ってしまった。

 ちょうど誰もいなくなったフリースペースの座席に腰かけて、伊織は徐に鞄からタブレット端末を取り出す。

 

「お疲れさまです、伊織先輩」

 

 ボーダー専用のサーバーで隊員の情報を開こうとしたところで、伊織の正面から少女がひょこりと顔を出した。

 A級部隊加古隊の隊員、黒江双葉だ。

 伊織の従姉妹が隊長を務めているだけあって、ボーダー内で双葉との関わりは多い。最初の頃は木虎と同じように嫌われていたはずだったが、とある日を境に双葉は伊織に懐くようになっていた。

 

「ボクに何か用かいな?」

 

 一瞬だけ目線を双葉へやったが、再びタブレットに戻す。

 気安く話しかけるなと雰囲気で伊織は伝えたが、双葉はどこ吹く風だ。

 

「用事がないと先輩に話しかけちゃいけないんですか?」

 

「はあ。別にええけど…」

 

 伊織は堪忍して、一度タブレットから手を離した。

 顔を向けると、にこりと双葉は笑う。それがあまり良くない笑顔だということは、伊織には十分すぎるほどわかっていた。

 

「あの人と何か話してましたよね」

 

「あの人? 誰のことかわからへんなあ」

 

 伊織も笑った。

 双葉が名前を呼ばない──いや、呼びたくない隊員は、伊織の記憶では数人しか居ない。随分と性格の悪い受け答えだが、それが琴吹伊織だ。

 

「…木虎先輩です」

 

 渋々といった表情で双葉は言う。

 笑顔で詰め寄ったり、双葉は見た目から受ける印象にしては意外と表情が豊かだ。一応敬称を付ける辺りは偉大な従姉妹さまの教育の賜物ということにしておく。

 先日の熊谷然り、誰かと話したからという理由で伊織を責める人間は多いが、双葉のそれはまた意味合いが違うように伊織は思える。けれど、それがどんな意味合いを持つのかは、あまり考えないようにしていた。

 

「ああ、藍ちゃん。他愛のない世間話やったで?」

 

「嫌われ者の先輩が?」

 

「ボクかて、友達の一人や二人居るけど」

 

「…友達………?」

 

 怪訝そうな様子で双葉は呟いた。

 自分でも笑ってしまいそうなくらい、陳腐な嘘だ。普段であればそんなこともないが、ある程度近しい間柄の双葉に対してそんな嘘を口走ってしまったことに、後から少し恥ずかしさがやってくる。

 

「いや冗談やて、本気にせんでや」

 

 お決まりの台詞も、なんだかキレが無かった。

 

「……伊織先輩の、女友達…?」

 

 しかしそんな伊織を置いて、双葉は自分の世界に入ってしまった。

 段々と双葉の目からハイライトが失われていく。

 

「…もしもーし。双葉サーン?」

 

 伊織が垂らした糸も虚しく、双葉は戻ってこない。

 このまま放置して情報収集に戻ろうか、と伊織は思ったが、そんなことをすれば彼の『女友達』にどやされて、余計に双葉と彼女の関係が拗れるのは明らかだった。

 

「はあ。おもろそうなことしてはったから、ちょっかい出しただけやって」

 

「面白そう、ですか」

 

 やっと伊織が白状すると、双葉は何事もなかったかのように戻った。

 そういえば、双葉はそれを聞きにきたのだったか。

 茶番を挟んでするりと引き出す術は、一体どこの誰から学んだのか。

 

「イレギュラー門から中学校を救った訓練生やと。えらいおもろそうやない?」

 

 ちょうどいいタイミングだったから、伊織は再びタブレットのページをめくった。木虎の「ルールを破った」という言葉から判断するに、イレギュラー門を解決したのは訓練生で、収束の迅速さからその中学に通う学生のはずだ。しかも、その中学校に正隊員はまだ居ないだろう。居たら訓練生が出張ることはない。正隊員が通う学校は全て記憶している。それら以外の中学校に通う訓練生であれば、絞るのにそう時間はかからないはずだ。

 

「どうして伊織先輩はいつもそうなんですか?」

 

 貼り付いた笑みで端末を操作する伊織を見て、双葉は思わずそう口にした。

 どうして。いつも。そう。

 恐らく一番近くで伊織の趣味を見てきた双葉にとっても、彼の行動は理解しがたいものだ。いや、一番近くで見てきたからこそ、余計に疑問に思ったのかもしれない。

 

「…双葉は、世の中に必要なもんって何やと思う?」

 

 伊織から返ってきたのは、何とも抽象的な問いだった。

 けれど、貼り付いた笑みはそこにはない。

 双葉はあまり自信のない自らの頭を総動員して必死にその答えを探した。

 

「……お金とかですか?」

 

「わーお。えらい生々しいなあ」

 

 予想外の答えに吹き出しそうになるのを抑えて、伊織は言う。

 やけに真面目に考えた結果出てきたのがそれとは、本人に言ったら怒られそうだが微笑ましい。

 

「ボクはな、世界に一つ、必要なものがあると思うんね」

 

「世界に一つ…?」

 

 相変わらず抽象的だが、伊織の言葉には重みがあった。けれど、重すぎるが故に、少しでも重心を誤ればすぐに崩れてしまいそう。そんな危うさを伴った不安定な重みである。

 

 すうっと、一定の間隔でスクロールする伊織の手が、少しして止まった。

 

「まあ、教えへんけど」

 

 三雲修。

 伊織が指さした先に、その名前はあった。



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第二章
つまらない嘘 その1


 三門市内、中学校。

 夜も更け、学校近くを歩く人はまばらだ。日中の事件のせいで野次馬も多かった付近だったが、ボーダーによる人払いと仰々しい立ち入り禁止の立札の甲斐あってか、とても静かな夜となっている。

 そんな中に一人、少年の姿があった。

 周囲に散らばる瓦礫に紛れ、真っ白の髪が揺れている。腰を屈めた姿勢からは断言は出来ないが、背は恐らく小さめ。辺りの静けさや、夜の闇と真っ白な髪のコントラストが、どこか神秘的でいて、どこか孤独なように感じられた。

 伊織は足音を忍んで近づくと

 

「中学生は元気で羨ましなあ」

 

 と声をかけた。

 少年がそれに反応して振り返る。

 

「ふむ?」

 

 遠回しに邪魔だと伝えたが、あまり理解していないようだ。

 

「こんなところまでかくれんぼしても誰も来へんよ?」

 

「おかまいなく」

 

 察して帰れと、少し呆れた表情で続けるが通じない。

 呑気に石片をひっくり返しているこの少年、どうやらこの学校の生徒のようだ。彼が着ている制服がこの中学校のものかはわからないが、少し考える脳があれば、他校の生徒が制服を着て学校が閉まった時間に忍び込むなんて馬鹿な真似はしないだろう。

 となれば、彼が今ここに居る理由はおおよそ予想がつく。

 

「…はあ。ここな、昼間近界民出てんの。危ないから帰りや」

 

 周囲が瓦礫まみれなのも、仰々しい立札があるのも全部、日中にこの中学校で近界民の襲撃があったからだ。普段であれば間違ってもそんなことは起こるはずがないが、ここ最近市街地で近界民が出現するという事例が多数発生している。ボーダーが躍起になって原因を探しているが、芳しい報告があがっていないのが現状だ。

 予想するに、この少年は誰もいない時間を見計らって、興味本位で現場を見にきたといったところだろう。

 

「あんたはいいの?」

 

「ボクはボーダーやからええの」

 

 故に伊織は、ボーダーの名前を出して強引に引き下がらせることにした。夜にこそこそ忍び込むような人間なら、大抵はボーダーという名前にビビってそそくさと去っていくだろう。

 と、思ったが。

 

「…ボーダー」

 

 少年の反応は伊織の予想外であった。

 驚いて荷物をまとめるわけでもなく、だからなんだと反抗的な態度を見せるわけでもない。ただ一言ボーダーと呟いて、こちらを見ているだけだ。

 体格に反して落ち着きを払った振る舞いからは、こちらを警戒しているようにさえ見える。

 伊織は一つ、鎌をかけることにした。

 

()()()()()()()。よろしゅう」

 

「…!」

 

 目に見えるほど様子に変化はないが、一瞬驚きの感情が見られた。

 どうやら、当たりらしい。

 三雲修。もちろん偽名であり、件の襲撃事件を鎮めた訓練生の名前だ。訓練生にしては鮮やかすぎる太刀筋であったり、そもそもが訓練生は基地外でのトリガー使用を禁じられているというのに構わずに戦ったりと、色々と謎の多い隊員だ。伊織がここまでやってきたのも、その三雲とかいう訓練生の情報を得るために他ならない。

 

「で、そのミクモ先輩は何しに来たの?」

 

 反応を見るに、この少年が三雲と何かしらの関係があることは明白だ。

 しかし、それでもこうして知らないふりをするのは一体何故。

 

「最近市街地で奴さんよう出るやろ?偉い人に調査頼まれてなあ」

 

「…ふーん」

 

 少年は何か言いたげだったが、追及はしてこない。

 

「おかあさんが心配するからな。帰るとするか…」

 

 制服の汚れを払うと、少年は気持ち早足で学校を後にした。

 なんだか『おもろそう』な予感がして、伊織は笑った。

 

 

 

 

 

 それから程なくして、近界民が市街地に出現する『イレギュラー門事件』は終息した。どうやら門を開くだけの小型トリオン兵が居たらしく、それを発見したのも例の訓練生らしい。

 それまでに伊織は何度も三雲か白髪の少年のどちらかに接近しようと試みたが、全て空振りに終わった。何か作為的なもの──具体的にはサングラスの自称実力派エリートからのだが──を感じるが、ここにきてようやく二人の姿を捉えることに成功した。

 警戒区域内、旧弓手町駅。白髪の少年とメガネの少年、そして背の小さな少女の三人がベンチに座って何かやりとりをしている。メガネの少年が、三雲修だ。

 

(わざわざカメレオン仕込んどいて正解だったな…)

 

 警戒区域内ならトリガーを使うのに問題はない。彼らに近づいたことがバレたとしても、無関係の人間を警戒区域に入れたことを追及すれば誤魔化すことは出来るだろう。伊織はトリガーを起動すると、カメレオンで姿を消してゆっくりと三人へ近づいていった。

 

「近界民に狙われる理由なんて、トリオンくらいしか思い浮かばんなー」

 

 白髪の少年が二人に向かって何か話している。

 彼の言う通り、近界民はこちらの世界へやってきて、人を攫って自分たちの世界へと戻っていく。向こうの世界ではトリオンは電気に等しいエネルギー源で、何から何までトリオンで動かすらしい。しかし能動的にトリオンを生み出すことは難しいから、こうしてこちらの世界から人を攫って、トリオンだけを抜きとって利用するのだ。

 三雲がそれを残る二人に説明するのならわかる。しかし、どうして白髪の少年が、それもかなり詳しい様子で流暢に説明できているのかが解せない。

 しばらく話を聞いていると突然、彼の指輪から声がした。

 

『はじめまして、チカ。私はレプリカ。ユーマのお目付役だ』

 

(な…!?)

 

 思わず声が出そうになるのを必死に抑えて、伊織は目を見開く。

 中学校を救った訓練生なんて誰もが打ちたくなるような杭、揉め事になる前に自分が揉め事にしておかねば、なんて考えで調査を始めたものの──蓋を開ければ人型近界民が出てくるなんて、思ってもみなかった。

 少年の指輪からにゅるりと姿を見せたレプリカとかいう物体、明らかにトリオン兵だ。逆説的に、それを使役する白髪の少年は近界民ということになる。

 と、すれば。

 鮮やかすぎる太刀筋、規則破りのトリガー使用。そして、誰も居ない学校で瓦礫を漁る姿。

 全てが繋がるようだ。

 

「そんでオサムは、チカを助けたくてボーダーに入ったわけだ」

 

(………)

 

 話は大方把握した。何かがきっかけで三雲は近界民と出会い、そして中学校の襲撃では、近界民に自らのトリガーを使わせて助けてもらった。三雲の身近には、チカと呼ばれるトリオン量が莫大な少女が居て近界民に狙われているから、少年相手に何か案はないかと相談している、ということらしい。

 

(女の子を守るためにボーダーに入った、ねえ…)

 

 その女子も女子で、他人に迷惑をかけたくないから一人で十分だと言う。

 

 迅や那須隊の熊谷のように、彼らもまた──

 

 伊織は一度、彼らから視線を逸らした。

 

(…時間もないし、腹括るっきゃない、か)

 

 線路の方へと、伊織は体を向ける。

 二人が徐々にこちらへ近づいてくる。一人は黒い制服に、長めのマフラー。もう一人はカチューシャ頭。近界民排除を掲げる城戸派の部隊がここへやってきた理由は察しがつく。開戦は避けられないだろう。

 

「近界民との接触を確認した。これより処理を開始する」

 

「なっ…!待ってください!空閑は敵対するつもりは!」

 

三雲の制止を振り切り、二人はトリオン体に換装する。それを見て、近界民の少年もトリガーを起動した。

 

「関係ない。近界民はすべて敵だ」

 

 マフラーの方──三輪が射撃を三発放った。

 不意打ちに反応して少年は盾を構えるが、意味はない。

 三輪の放つ鉛弾(レッドバレット)は、攻撃力を持たないかわりに盾をすり抜け、重りを相手に付与するトリガーだ。少年は三つの重りにバランスを崩して膝をついた。

 

 …介入するなら、今しかない。

 

「あかんなあ…。ちびっ子一人に四人がかりなんて、大人げがないわあ」

 

 駅のホームの縁に腰掛けたまま、伊織はカメレオンを解除した。

 

「何…!?」

「げ、いつの間に…」

 

「このまえの…?」

 

 その場の全員にとって予想外の出来事に、一瞬時間が止まる。

 

 伊織が少年の側に立ったことから、辛うじて邪魔をするつもりだということに気がついた三輪は、銃口を伊織へ向けた。

 

「琴吹、そこをどけ。こいつは」

「近界民やろ?」

 

「なっ…!?」

 

 すぐ近くで話を聞いていたのだから、当然事情は把握している。

 全員が思い通りのリアクションを見せる様子を見て、伊織は笑った。

 途端に不機嫌そうになって銃口を突きつける三輪と、手を頭の後ろにやって興ざめだと口笛を吹く米屋。それも二人らしくて、予想通りだ。

 二人と話している間に施しておいた伊織の仕掛けに気づく様子もない。

 

「これは…!?」

「うおっ!?」

 

 二人の足下を、無数の弾丸が迫る。

 流石の精鋭二人、一瞬反応が遅れたが回避のために散開する──が、それを追うかのように弾の軌道は変化し、両足を捉えた。

 空中で両足を失い、受け身を取れずに地面に打ち付けられる二人。

 ボーダーでは、模擬戦を除いて隊員同士で戦闘をすることを禁じられている。今にも引き金を引いてしまいそうだった三輪でさえ、そのために最後の一線は踏み止まっていられた。だからこそ二人も、まさか戦闘になるとは露とも思っていなかったのだろう。

 ならばと三輪が右手の拳銃を握ったところで、右手ごと伊織が破壊した。

 

「…がっかりやなぁ」

 

 伊織は笑う。

 

「姉さんの仇や意気込んでた割に、とんだ拍子抜けやわ」

 

「貴様…!!」

 

 三輪が奥歯を食いしばって伊織を睨みつける。

 四年前に近界民に殺された姉の仇を討つためだけに、今日までボーダーで三輪は研鑽を積んできた。それを、降って現れただけの伊織に邪魔されてなるものか。

 すぐそこに居る姉の仇かもしれない相手に手を出せないもどかしさと、自らの生きる目的を否定された憤りが混ざって、食いしばる力が強くなる。

 

 その感情のまま弧月を握ったところで、秀次、と一言。米屋から声がかかった。

 

「陽介くんも普段ランク戦がどうのほざいてるくせに本番でこれかいな」

 

 鬱陶しそうな顔で伊織が米屋へ吐き捨てる。

 

「はは、何も言い返せねー…」

 

 米屋の返答を聞いて、伊織は面白くなさそうに舌打ちをした。

 

 ふうっと一息、三輪はつく。

 

 客観的に見て、ここから三輪隊が近界民と戦うことは難しい。間違いなく一度立て直す必要がある。ここで伊織を攻撃しては、三輪も規定違反で共倒れだ。伊織の煽る口は全く減らないが、ここは耐えるしかない。

 米屋が声をかけてくれたおかげで、そう考える余裕が生まれたのだろう。

 

「近界民は敵だ…!軽く見ていると痛い目を見るぞ!」

 

 大規模侵攻から四年が経ったいま、あの時の惨劇を知らない隊員は多くなった。ボーダーに色々な考えがあるのは知っている。米屋のように戦うことそれ自体が目的の人も居ていい。けれど、目の前で姉を失った三輪にとっては、近界民は絶対の敵としか思えない。

 雨の降りしきる日の光景が目に浮かんで、近界民の少年を睨みつけた。

 

 視線が横を通り過ぎる。

 伊織は

 

「近界民()敵…?」

 

 拍子抜けしてしまいそうなくらい、素っ頓狂な声だ。

 しばらく目をぱちくりさせていたが、ようやく三輪の言っていることを理解すると

 

「はは! あはははは!!!」

 

 笑った。

 人気のない警戒区域、戦闘の真っ只中、乾いた空。伊織の笑い声はその状況にはあまりに場違いなもので、三雲やチカと呼ばれる少女が思わず唖然としてしまうほどだった。

 

「何寝ぼけたこと言うてんの!」

 

 笑い声の余韻を残したまま伊織は屈んで、地面に這いつくばる三輪へ顔を近づけた。

 

「今こうして無様に倒れてんの、誰の仕業や?」

 

 伊織はまた、笑った。

 三輪と米屋が足を貫かれて地面に伏しているのも、近界民に何も出来ずに緊急脱出を待つばかりなのも全部、けらけらと笑う伊織がやったことだ。

 少年に意識が行きかけたところで、嫌でも伊織に視線が向く。

 伊織は三輪の髪を強引に引っ張ると、顔の高さまで引き寄せた。

 

「敵なら今。()()()()()()()()()()()

 

 瞳には、伊織しか映らない。

 

 

 

 

 

 

「そやけど、ボクかて一応ボーダーやからなあ…」

 

 しばらくすると、伊織は少年の方へ振り返った。

 乱雑に三輪から手を放す。砂利の鈍い音と、呻き声が聞こえた。

 

「ふむ…?」

 

 ずっと蚊帳の外だったところに、いきなり矛先を向けられて少年は首を傾げた。

 いつの間にか身体の鉛弾は外されている。彼のトリガーによるものだろう。

 

「秀次くんたちしばいて、今えらい気持ちええのよ。ボク」

 

 ふうっと一息、熱くなった体温を冷やすように深い息を吐く。

 

「今度はキミの番や」

 

 伊織の傍らにキューブが展開された。

 いきなり現れては勝手に仲間割れを始めて、少年にとっては訳の分からないことだらけだったが、どうやらこちらともやる気らしい。

 真意は測りかねるが、向かってくる相手にそんなことを考えるのは全くの無駄だ。

 キューブがそのまま、弾となって伊織の手元から離れる。

 

「──なーんて、嘘やけど」

 

 しかし向かう先は、少年ではなかった。

 不意を突かれた少年は慌てて走り出す。

 伊織の放った射撃の向かう先は、三雲と少女が立ち尽くす駅のホームだ。

 

 速い。

 少年の地面を蹴る力強さを見て伊織は思った。

 しかし、速ければ速いほど切り返しは難しくなる。

 伊織の射撃は真っ直ぐ二人を捉え──少年の進む方向へ、突然弧を描く。

 はじめから二人を狙うつもりはない。二人を攻撃する素振りを見せればこの少年は守りに動くことは、少し前の会話を盗み聞きするなかで確信していた。向こうはまさか射撃が急に曲がってくるとは思ってもいないだろう。あの速さなら避けるのは難しいはずだ。

 当たった感触はあった。急所を狙ったが、敵も近界民だ。四肢のどれかを削れていれば及第点といったところだろう。

 

 しかし伊織は、この後驚愕することになる。

 

 爆風が晴れた先で、少年は無傷で佇んでいたのだから。

 

「……おまえ、()()()()()()()()()

 

 盾から煙が上っている。

 確かに三輪の鉛弾と違い、伊織のそれは盾で防御することは可能だ。しかしあれを見せられた手前、何の躊躇もなく盾を展開することが出来るだろうか。しかも仲間を狙われ、切り返しの出来ない速さの中、不意を突かれた状況で。

 ──いや。

 まさかこの少年、二人を狙うつもりがなかったことを読んでいた?

 射線上へ向かう最中、盾を使うべきか否かだけを思考していたとしたら?

 

「そこまでだ」

 

 伊織の思考の加速はサングラスの隊員に止められた。

 迅悠一。

 近界民友好派、玉狛支部筆頭の隊員だ。

 見計ったかのような登場に、伊織は一息つく。

 

「もう十分だろ、伊織」

 

「何の話かわからへんなあ…」

 

 これ以上はお前のためにもならない、と迅は言った。

 

遊真(黒トリガー)相手じゃおまえでも勝てないよ」

 

 ダメ押しに、もう一言。

 S級の加勢に、黒トリガーの明示。退く材料としては完璧に近い。

 しかし未来予知のサイドエフェクトを持つ迅に、はいどうぞと言わんばかりに差し出されるのは癪に障るのだろうか。伊織は迅たちに背を向けた。

 

「はあ…。帰って茶するなり、好きにしてぇな」

 

「悪いけどそうさせてもらうよ」

 

「はいはい。ボクもお暇しますわ」

 

 振り返らずに伊織は基地へ歩み出した。

 

 



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つまらない嘘 その2

「またとんでもないことをしおって!!」

 

 会議室に大きな声が反響する。マイクに向かって叫んだ時のように、甲高い金属音がした。

 

「そんな声張らんでも聞こえるて…」

 

「自分が何をしたのかわかっているのかね!?」

 

 鬼怒田に加え、根付までもが詰め寄るのは珍しい。

 それほど重大なことをしでかしたのだなと、伊織は他人事のように頷いた。

 一言で言ってしまえば重大な隊務規定違反。任務中の三輪隊へ攻撃を行った、俗に言う仲間割れというやつである。こうしてお偉いさん方に呼ばれて叱られるのは何度もあったが、はっきりと明文化された規則を破ったのはこれが初めてのことだ。

 

「規定違反どころか近界民まで取り逃がしてしまったのだぞ!?」

 

「ボク一人でいける思うたんやけどなあ」

 

 近界民を野放しにしておくなんてありえない、と根付は声を荒げた。

 問題は、伊織が三輪隊に牙を剥いただけではない。

 近界民の少年の存在自体はイレギュラー門の時からうっすらと彼らは把握していた。迅の妨害がありながらもようやく接触にこじつけ、処理に移ろうとしたところでの伊織である。ボーダーが襲撃したと知れれば、次はより困難を極めるはずだ。少年の敵愾心を煽ってしまったせいで、向こうから仕掛けてくることすら考えられる。

 

「静粛にしていただきたい」

 

 鬼怒田と根付を上回る重さで忍田が一蹴した。

 彼もまた、顔が険しい。

 

「この騒動の是非はともかく、一般市民を狙うとはどういうつもりだ」

 

 彼は、伊織が背の小さな少女を狙おうとしたことを問題視した。

 

 近界民から市民を守るボーダーと一口に言っても、完全な一枚岩の組織ではない。

 

 大きく分けて、ボーダー内の思想は三つに分かれる。

 

 一つは旧弓手町で少年を襲撃した三輪隊が所属する城戸陣営。近界民は全て敵とみなし、問答無用で排除することを目的とする。

 一つは忍田本部長の陣営。三門市を守ることを第一とし、近界民への対応はその都度での道理で判断する。

 もう一つが、最後に介入してきた迅に代表される玉狛支部陣営。出来うる限り近界民と友好的な関係を築くことを目的とし、向こうが敵対する場合のみ戦闘へと踏み切る。

 城戸派と玉狛は思想の違いから衝突することが多い。近界民となると過激な行動をすることもある城戸派を諫めるような形で、本部忍田派が玉狛へ加勢することもままあったが、今回は勝手が違うようだ。

 

「処分を言い渡す」

 

 感情がせめぎ合った会議室でも、城戸の声はよく通る。決して声質が特徴的という訳ではないが、忍田とはまた違った威圧感がそうさせていた。

 

「二週間のトリガー没収、ポイントの剥奪及びB級への降格だ」

 

 ボーダーで最も重大とされる違反は機密情報の漏えいと、トリガーの横流しである。隊員同士の戦闘はその次に重いとされている。

 トリガー没収とはそれすなわち二週間の自宅謹慎であり、降格はもちろんのこと、ポイントの剥奪も隊員の序列降格に等しい。

 

「そりゃちょっと重すぎるんじゃない?」

 

 しかし、沈黙を保っていた玉狛支部の林藤が、ここに来て口を開いた。

 

 伊織が違反を犯す云々以前に、この騒動自体が起こるべきではなかったと林藤は主張する。

 本人たちの報告はまだだから断言は出来ないが、伊織曰く、市内の中学で発生したイレギュラー門は、三雲のトリガーを使ってその近界民が処理した可能性が高いという。加えて、その発生源であるトリオン兵『ラッド』に関しても、何らかの助言を行ったやもしれないとも。

 確かに伊織の意見に筋は通っている。警戒区域内で伊織に反撃を一切しなかったことからも、敵対する意思はないと捉えることもできる。

 で、あれば。少なくとも、最初に三輪隊が彼へ向けて鉛弾を放つべきではなかった。話し合いで解決できたかもしれないことをフイにしてしまったのだ。

 

「それを言うなら琴吹隊員だって近界民に攻撃したのではないのかね!」

 

「最初は三輪隊を止めてるように見えたけどな〜」

 

 伊織は小さく舌打ちをした。

 

「しかし林藤支部長。市民を狙ったことについてはどう説明する?」

 

 城戸派が近界民を襲った、という点に関しては忍田も憤りを感じている。向こうから攻撃してきたわけでもなく、これでは異国にやってきた人間を追い剥ぐ強盗に変わりないからだ。

 それもあってか、伊織に詰め寄るときよりは幾分か声色が柔らかい。

 

「あれ、最初から狙う気なかったんじゃない? なあ、伊織?」

 

「どうやろなあ…忘れてしもうたわ」

 

 伊織はわざとらしく首を傾げた。

 

「もしあのちびっ子が来なかったなら、そのまま当たってたんやない?」

 

 煽るような口調に、忍田の顔が再び険しくなる。

 やはり伊織には重い処分を下さなくてはならない、と意見が傾きかけたときだった。

 

「仮定の話をしたところで水掛け論になるだけでしょう。事実として、市民へ当たることなく彼の攻撃は弧を描いたことだけが確かだ」

 

 林藤へ助け舟を出したのは、城戸司令の側近。唐沢営業部長だ。

 これには伊織や忍田どころか、同じ派閥であるはずの鬼怒田と根付も驚いた表情を見せる。あのまま黙っていれば、彼らの長である城戸の言い渡した処分が下されるというのに。

 

「私も琴吹隊員の処分は減刑すべきだと考えます」

 

「…意見を聞こう」

 

 何よりも近界民の排除とボーダーの秩序を重んじる城戸が、それを曲げてまで唐沢に靡いた。

 それだけ唐沢への信頼が厚いのか、あるいは──

 

「ポイントの剥奪は致し方ないかと。しかし降格と二週間という長い期間の謹慎は、我々にとってもリスクがあるということです」 

 

 ふむ、と沈黙。

 

(確かに素行は置いておいて、肝心なときに琴吹が居ないとなれば困ることもあるじゃろう…)

 

 それよりも前のイレギュラー門事件も考慮しなくてはならない。伊織の話が本当なのであれば、イレギュラー門はその近界民ではなく別の国が仕掛けてきたということだ。それは大規模な侵攻の前触れとも取ることが出来る。そんな時に伊織が謹慎で出撃できない、となれば戦力ダウンは確実だ。戦力で言えば、A級だけが持つトリガー改造の権利を奪ってしまうのもまた然りである。

 

(あまりに重い罰を与えてこの件が明るみに出るのも、ボーダーとしては避けたいですねぇ…)

 

 近界民が今現在三門市内に潜伏しているという事実は、ボーダーですらごく一部の隊員しか知らないトップシークレットだ。もしも市内にそれが広がるようなら、イレギュラー門と合わせて大きな騒ぎになることは想像に難くない。隠ぺいしていたボーダーの信用問題にも繋がってくる。

 主に悪い方面で、ボーダー隊員たちの伊織に対する注目度は高い。軽い罰なら「ああ、また琴吹が何かやらかしたのか」で済むが、二週間も基地に居ないとなるとどんな憶測が出るかわからないし、B級降格となればかなりの噂となるだろう。今はタイミングが悪すぎる。

 

「ランクはそのまま、謹慎は三日ということでどうでしょう。もちろん謹慎中に問題を起こすようなら、先ほど城戸司令が仰った処分を下していただければと」

 

 ボーダーとしての威厳や他の隊員への示しとの天秤は、どちらが重いか。

 …異論は、上がらない。

 

「よかろう。忍田本部長も異論はないな?」

 

「…少し、私も熱くなっていたようだ。処分に同意します」

 

 

 

 

 

 

 それから伊織は、近くの自動販売機に向かった。

 この後にチームランク戦があるようだから、冷やかしに行くまでの時間潰しである。

 周囲には誰も居ない。

 それも当たり前だ。

 琴吹伊織に近づくなんてよっぽどの馬鹿か、よっぽどの無知かのどちらかしかいない。

 

「とても謹慎を食らった顔には見えないな」

 

 呑気にサイダーを飲んでいると、横から声がかかった。

 …どうやら、伊織の見立ては間違っていたらしい。

 そのどちらでもない人間がやってきたのだから。

 

「こんなしょぼくれた顔してんけど?」

 

 わざとらしく伊織は苦笑いをした。

 唐沢は胸ポケットから煙草を取り出そうとして──ここじゃあかんやろ、と声がかかる。

 手はポケットの真上で止まった。

 

「で、迅さん何て言うてはったんです?」

 

「概ね、君の予想通りだったよ」

 

 中途半端に浮かせた右手を誤魔化すように、唐沢は自動販売機のボタンを押した。

 少年──空閑遊真には敵意はない。イレギュラー門のことについては言及していなかったようだが、中学校でモールモッドを倒したことは三雲づてに認めたようだ。

 伊織は一つ、息をつく。

 

「ここまで狙い通りなんだろう?」

 

「そやなあ。秀次くんの困った顔見られて満足やわ」

 

 伊織は再び、わざとらしく肩を竦めた。

 ふっと一言、唐沢は笑う。

 

「相手は黒トリガーだ。恐らく三輪隊では返り討ちにあっていただろう。しかし君の予想外の介入で、三輪隊が失敗を責められることはなかった」

 

 煙草の代わりに缶コーヒーを一口、口に含む。

 

「玉狛も然りだ。例の近界民が悪さもせず、迅くんが存在感を見せることもない。この件で悪者となったのはただ一人、君だけだ」

 

 少しだけ、伊織の表情が歪んだ。

 

「想像力豊かやなぁ。営業やのうて、小説家にでもなったらええんやないです?」

 

 顔を歪めて言い放つそれは、伊織の自白に等しい。

 

「あいにく、この仕事が気に入ってるんでね」

 

「あ、そ。そやけど、狙い通りなん、そっちとちゃいますか?」

 

 しかし唐沢が伊織の腹の内を把握していたとすれば、伊織が感じた違和感の裏付けになる。

 ほう、と唐沢は息を巻いた。

 

「あんな茶番、誰だってわかるやろ」

 

 意見の対立する林藤にあえて寄り添うことで、厳罰が決まりかけていた場の空気が変化した。

 鬼怒田や根付がどうかはわからないが、近界民に対しては厳しいスタンスを崩さない城戸が意見を変えたということは、少なくとも二人がかりの仕込みであることは確かだ。

 

「君はつくづく周りがよく見えている」

 

 唐沢は両手を上げてため息をついた。

 伊織と違って素直に認めるらしい。

 それすらも彼の手の上で転がされているような気がして、伊織は口を尖らせた。

 

「それにしても三日て、ボクにえらい気ぃ遣うてくれはりますね」

 

「それは処分に不満がある、と取っていいのかな?」

 

 伊織はサイダーを飲み干してペットボトルをゴミ箱に投げ捨てると、一拍置いて続けた。

 

予想外(ボク)の邪魔入ったいうても、向こうに玉狛がいることはわかった。このまま指くわえてちびっ子見逃すわけない」

 

 ふむ、と唐沢。

 

「戦力整うてから攻め込むんが定石やけど、その頃にはボクの処分も解けてる」

 

 戦力が整うとは、近界への遠征で不在の精鋭たちが帰還することを指す。ボーダーでも割と少数の人間しか知らない遠征部隊の帰還日時を何故知っているのか、と唐沢は苦笑いをした。

 

 唐沢と城戸があそこで流れを変えたとして。

 

 それはつまり、最初から着地点を決めていたということだ。

 では一体何故?

 まさか、本当に大規模侵攻や市民への印象を考えたわけではなかろう。戦力的に伊織の代わりとなる隊員ならいくらでも居るし、今日までにボーダーの市民権を確固たるものにしてきた根付にかかれば、印象操作も苦ではないだろう。

 だとすれば、二週間伊織が居ないことで彼らにとって不都合となる点は──ひとつしかない。

 

「まるで、()()()()()()()()()()()とでも言いたげやなあ」

 

「…どうやら、君の方が小説家に向いているようだ」

 

 伊織と同じセリフを吐いて、唐沢は大きく息をついた。

 唐沢のそれは、果たして──

 

 

 

 

 

 



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つまらない嘘 その3

「米屋先輩、調子どうですか?」

 

 ある昼下がり、三輪隊の米屋と古寺は二人、建物の屋上で双眼鏡を覗いていた。アパートと呼ぶには少し規模が大きく、マンションと呼ぶには些か物寂しい。そんな中途半端な住宅が付近には並んでいる。

 川のせせらぎが心地いい。

 古寺からの質問に米屋は双眼鏡を外すと

 

「全然出てこねー」

 

 ため息をついた。

 もう少し気温も上がってくれば気持ちのいい行楽にもなったかもしれないが、あいにくの寒空だ。トリオン体にでもなれば解決するだろうが、許可はまだしも敵の根城近くでそんなことをする訳にはいかない。

 二人の退屈な心を嘲笑うかのように、スズメの鳴き声が響いた。

 

「飛んでる鳥眺めてた方がよっぽど有意義だぜ」

 

 米屋は鳴き声のした方へ、再び双眼鏡を向ける。もう二匹が合流して、建物の屋上の室外機へ羽を休めた。

 見覚えのある室外機から、双眼鏡を下に下ろす。例の白い少年は今ごろ、小南のカレーでも食べているのだろうか。

 

 米屋と古寺に課された任務はただ一つ。

 玉狛に匿われた近界民の監視だ。

 伊織が会議室を後にしてから、迅や三雲と上層部との間で話し合いが行われ、そこで彼の身柄は玉狛で預かることが決められた。しかし、近界民友好派の玉狛支部が城戸司令の思うように動くとは考えにくい。他の派閥との協議はせずに、彼らは強硬手段へ踏み切ることにした。

 決行の作戦は遠征部隊が帰還してから詰めるとして、それまでの少年の動向を二人は把握しておく役割を与えられたというわけだ。

 

 とはいえ、当然ながらその少年が不用意に外を出歩くことはない。

 退屈なバイトだ、と米屋は一度双眼鏡を下ろした。

 

「──ん?」

 

 一度自分たちも昼休憩でも取ろうかと、鞄に手を伸ばしたときである。

 

「ど、どうかしましたか?」

 

「…見つかった」

 

 地上から一人、こちらに向かって手を振る姿があった。

 

 

 

 

 

 

「えらいのどかやなあ、二人とも」

 

 白い息を辺りに舞わせて、伊織は言った。

 手が悴んでいるらしく、赤い両手を擦らせてぶるぶると震えている。

 

「あの白チビ、外出てくる気配全くねえんだよ。暇で暇で仕方ねー」

 

 少年のことも把握しているし、ここまでやってきたということは二人の任務も大方察しているだろうから、米屋は隠さずに白状した。

 先日の駅での一件といい、伊織のこういったことへの嗅覚は呆れを通り越して感心さえ覚える。

 

「二人仲良くピクニックかいな?」

 

 お偉いさんは今ごろ忙しゅうしてるやろうに、と伊織。

 確かに暇していたのは事実だが、曲がりなりにも司令直々の命令に手を抜いていたわけではない。古寺が少しムッとした顔をする。

 

「時期外れもいいとこだけどなー」

 

 それを知ってか知らずか、米屋は涼しい顔で口笛を吹いた。

 伊織がつまらなそうに相槌を打つ。

 

「で、何の用だ?」

 

「ボクだけ仲間はずれなんて、寂しゅうて仕方ないわあ」

 

 かれこれ伊織とは一年近くの付き合いになる。

 ずけずけと嫌なことを平然としゃべる伊織と、色々と気難しい隊長とは犬猿の仲のはずだが、そうなるとかえって絡んでくるのがこの琴吹伊織だ。

 こういった遠回しな表現も、おおよその文脈を読みとれるようになるくらいには米屋は慣れてしまった。

 つまりは伊織は、黒トリガー奪取に向かう城戸の部隊に自分も入れろと言いたいのだろう。先日の旧弓手町では三輪隊二人を攻撃した伊織だったが、その後の行動を見ると、どうやら近界民を打倒するという目的は一致しているらしい。

 

「わかったわかった、司令に伝えとくよ。俺たち監視で忙しいんだ」

 

 まるで疫病神を払うかのように米屋は手を振る。

 

「あれ、さっき暇や言うてなかった?」

 

「下っ端がピクニックしてたら、上に悪いんだろ?」

 

 米屋は肩を竦めた。

 しばらく視線が二人を行ったり来たりしていた伊織だったが

 

「あ、そ。まあええわ」

 

 素直に引き下がった。

 寒いのは苦手やなあ、とかぶつぶつ言いながら、白い息を吐いて階段を降っていく。

 

「い、一体どこに…」

 

 やけにあっさりした幕切れに、思わず古寺は呼び止めた。

 連絡手段ならいくらでもあるというのに、これだけのためにわざわざ苦手な寒さの中やってくるとは、真意は如何に。

 

「迅さんにもお願いせえへんと、仲間外れやないの」

 

「どうしてそんなことを…?」

 

 古寺は困惑した。

 近界民を倒すという目的が一致しているから、伊織は協力を申し出たはずだ。それなのに、どうして。

 伊織はぱっと振り返って古寺の表情を見ると

 

「あはは! その顔見るために決まってるやないか!」

 

 笑った。

 

 

 

 

 

 

 米屋たちが居た建物から少し歩いたところ、川のすぐそばに玉狛支部はある。川の水質調査をする施設をそのまま流用したとかで、支部の壁には苔が生え、周囲は自然に溢れている。佇まいから玉狛支部という雰囲気が読み取れるようで、伊織は顔を顰めた。

 

「どうもー、お客やでー」

 

 インターホンを押すと、出迎えたのは玉狛のオペレーター、宇佐美栞だった。

 

「あ、伊織くん!久しぶり〜!」

 

「おー、栞ちゃんは元気いっぱいやなあ」

 

 別にインターホン押さなくても、伊織くんだったらトリガー認証で入れるのに、と間延びした声で宇佐美は言う。

 もう半年以上も経つというのに律儀なことだ。

 何かいたずらしてやりたくなった伊織は、トリガーを没収されたことを伝えると、宇佐美はぎょっとした。

 

 宇佐美の後ろについていった先に到着したのは、一階のリビングである。米屋たちがああして屋上に居たということは、少年の姿があることは予想していたが、しかし。

 三人とも勢揃いだ。

 

「な…」

 

 三雲が冷や汗をかいた。

 想定外の来客に、旧弓手町に居た三人の間に緊張が走る。

 値踏みするかのようにゆっくりと伊織は一人一人を眺めて

 

「三人とも元気そうでよかったわあ」

 

 と言った。

 特にキミなんか、悪いことしてしもうたなあ、と近界民の少年へ手を伸ばす。

 

「遊真に手出すんじゃないわよ」

 

 伸ばした手は、女性隊員──小南によって振り払われた。

 ふわりと、カレーの残り香が鼻をくすぐる。途端に伊織は薄っぺらい表情を浮かべて

 

「……へえ。名前、遊真くんていうんや」

 

 呟いた。

 小南がこちらを睨みつける。

 取っ組み合いでも始まりそうだ。

 

「よう、待ってたよ」

 

 険悪なリビングだったが、迅の一言で待ったがかけられた。

 伊織は取り直すように咳払いをすると、小南や遊真たちに背を向ける。

 

「おはようさん。話あって来ました」

 

 まるで興味を失ったかのように、伊織の顔がもとの軽そうな笑顔に戻った。

 後ろの方で、小南が舌打ちするのが聞こえる。

 

「いいよ。でもその前に、こいつらの稽古つけてくれない? 京介もレイジさんも居なくてさ、人手足りないんだ」

 

 この実力派エリートも、普通なら思いさえしないようなことを平然と言う。

 琴吹伊織は、警戒区域内で二人を狙い、そして遊真を攻撃した張本人だ。普通なら、そんな危ないやつをかわいい後輩に関わらせたりしない。

 

「ええ…。気ぃ乗らへんわあ」

 

 伊織は首を横に振る。

 先ほどはパフォーマンスで遊真に握手を求めたが、本気で仲良くなろうなんてつもりは全くないし、その資格もないと思っているからだ。

 

「おれは別にいいけど」

 

 しかし、遊真は予想に反して肯定的だ。

 

「あんたも勝手なこと言うんじゃないの!そいつ、人の困った顔見るのが趣味なんだから!」

 

 小南はぎょっとして、一歩前に出た遊真を下がらせる。

 どうやら、三人との関係は良好らしい。

 

「………」

 

 伊織から守るかのように遊真の前に立つ小南を見て、伊織の頭には思い出したくもない記憶がフラッシュバックした。そういえばあの時も、「チームメイトを大切に思わないやつが居るわけないじゃない」と、伊織を背に言ったのだったか。

 記憶の逆流を止めるようにして、繕って伊織はまた薄っぺらい表情を浮かべる。

 

「…確かに、人手足りへんいうのもほんまやろなあ。()()()()()()の桐絵ちゃんが師匠やってるんやから」

 

「ちょ!?」

 

 小南がボーダーではオペレーターをやっていると学校で嘘をついているのは有名な話だ。お嬢様校で猫を被っているという噂もあるが、果たして被りきれているのかどうかは結構微妙なところである。

 後輩にそんな恥ずかしいことを知られて、小南はわたわたと慌てている。

 

「あはは、桐絵ちゃんええ顔やなあ」

 

 頭の中が少し落ち着いたのを確認して、伊織は再び迅へ向き直った。

 

「そやけど、稽古は遠慮させてもらいます。ボクに何の得もあらへん」

 

「そうか…。それなら話は聞けないな」

 

 迅は肩を落とした。残念だよ、とわざとらしく呟く。

 

「この場でベラベラしゃべってもボクはええけど?」

 

 伊織もわざとらしく、明後日の方向を見て言った。

 

「……」

 

「……」

 

 しばらく沈黙が続く。

 折れたのは迅の方だ。

 

「……わかったよ。向こうでいいか?」

 

「さすが実力派エリートさんやわあ」

 

 お互い素に戻って、階段へ向かった。

 迅が先に歩いていく。

 伊織もそれに続こうとしたところで、呼び止められた。

 

「ことぶき先輩」

 

 遊真だった。

 三雲修とあの時は偽名を教えたはずだが、あれだけ印象に残る接触をしたのだから迅あたりにでも本名を聞いたのだろう。

 ちゃんと会話をするのは夜の中学校以来だ。

 あの時とは、二人の関係も違う。

 

「ことぶき先輩は何が目的だったの?」

 

 それは、伊織が今まで幾度となく投げかけられてきた言葉だった。

 何のために?どうして?

 そういう時はいつも決まって伊織は煙に巻くが、遊真の目は嘘を吸い込んでしまいそうなくらい、黒くて深い。

 

「目的なら、さっき桐絵ちゃんが言うてたやろ」

 

 伊織は吐き捨てた。

 

「ボク、間違った悪い人間やから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 進んでいった迅を急いで追った先、支部の屋上で二人は足を止めた。

 折角暖かい室内に居たというのに、わざわざ寒空の下へ繰り出す根性は伊織には理解できなかったが、絡まった頭を文字通り冷やすにはちょうど良かったのかもしれない。

 迅は気温なんて全く気にする素振りをせずに、この前のことだろ?と言った。

 

「話早くて助かるわあ。単刀直入に、ボクもそっちの仲間に入れてくれへん?」

 

 未来予知のサイドエフェクトを持つ迅に前置きは不要だろう。

 城戸が遊真の黒トリガーを奪取するために部隊を動かすことは間違いなく内密の話だろうが、それも予知しているはずだ。

 迅は伊織の申し出になぜとも聞かずに、ただ首を横に振る。

 

「冷たいこと言わへんで欲しいわあ。嵐山さんとこより役立つ思うけど?」

 

 苦笑いが返ってきた。何で知ってるんだ、とでも言いたげだ。

 

「そんなんあっこしかあらへんやろ」

 

 あの場での話し合いを嫌ったあたり、迅が玉狛の隊員を巻き込みたくないのは明らかだ。なら、残る相手は忍田派しか居ない。後々の事を考えると、広報部隊の嵐山隊には処分をしづらいのも迅からしたらありがたいはずだ。

 …つまり、この戦いはボーダー三大派閥全てが絡んだ重大なものとなる。

 返事に淀む迅を置いて、伊織はもう一つお願いや、と指を差した。

 

「風刃、ボクにくれへん?」

 

 迅の顔が少しだけ神妙になる。

 血筋なのか、はたまた単なる偶然なのか、加古と同じく伊織も風刃の適性がある。攻撃手のトリガーは使ったことがないが、そんなことはあまり問題ではない。

 

「黒トリガーのバランス悪なるから喧嘩してるんやろ? そやったら、どっちかボクが持ってれば解決や」

 

 感情を全くの度外視すると、遊真が玉狛に所属することの問題点は戦力のバランスにある。城戸と玉狛で黒トリガーは一つずつ分けあっていたが、遊真が入った途端にその天秤が崩れるからだ。

 そうなれば、戦力的な差は逆転し、二つの派閥の力関係は一変する。それが客観的な火種となっていた。

 しかし仮に今、この場で風刃を伊織に渡したとして、それでは解決には至らない。玉狛の戦力が削がれたと、意気揚々に城戸派は遊真を襲うだろう。相手は近界民だという彼らの思想の免罪符があるから、何だってしてくるはずだ。

 だから、風刃を伊織に託すのなら一度彼らを黙らせておく必要があった。それゆえの協力の申し出である。

 

 しかし、迅はわかりやすく難色を示した。

 あまりに伊織に虫が良すぎるからだ。そもそもが嵐山隊の加勢が確定しているなか、あえて伊織を取り込むメリットが迅には全くない。

 

「そやからボク、お願いや言うてるんですよ?」

 

 伊織はけらけらと笑った。

 最初から交渉のつもりはない。

 

「けど、迅さんも悠長にしてられへんと思うけどなあ…」

 

 笑ったまま、伊織は言う。

 これは交渉ではない。けれど、額面通りお願いでもない。

 

「別にボク、揉め事に首突っ込めれば何でもかまへんね。迅さんあかん言うなら城戸さんとこ行くだけやし」

 

 敵側に回るにしては、迅は伊織に情報を与えすぎた。

 それを手土産にすれば十分向こうと取引ができるだろう。

 つまりこれは、伊織から迅への脅迫に近い。

 

 しかし迅は、頑なに首を縦に振らない。

 

「あ、そ。ほんなら、話はそれだけです」

 

 伊織の背が遠くなっていく。

 …一体どこで読み逃してしまったのだろう、と迅は奥歯を噛んだ。

 なるべく伊織が遊真たちに接触しないように手を施し、警戒区域の一件での謹慎中に事を済ませる算段だったはずなのに。

 

 伊織が階段の手すりに手をかけたところで、迅はようやく口を開いた。

 

「…風刃は悪いけどあげられない。城戸司令との交渉で差し出す予定だから」

 

 伊織の足が止まる。

 彼は今、黒トリガーを交渉の材料に使うと言った。

 確か風刃は、迅にとっては師匠の形見のはずだ。風刃の所有権を巡っての選抜では、他を圧倒して勝ちとったとも聞いている。

 

「こっちにつきたいって言うなら、おれからの条件を受け入れてくれるなら構わないよ」

 

 迅の中でどんな逡巡があったのかはわからない。

 損得だけの交渉にはならなそうな言い草に、伊織は少し息をついた。

 

「遊真がなんでこっちに来たか、知ってるか?」

 

 



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つまらない嘘 その4

 三門市、警戒区域内。

 月夜の中、風雲急を告げる──

 

 玉狛の近界民の抹殺、そして黒トリガーの回収。遠征から帰還した三部隊に与えられた任務はお世辞にも表立って言える内容ではない。

 しかしそれでも城戸は躊躇なく、そして濁さず言い放った。

 一度保護する運びとなった彼の寝首を掻いてでも近界民の排除は譲れない。もはや理屈だとか、損得の話ではないのだ。

 その部隊の一員である三輪も同じ感情で市街地を駆ける。

 自然と両足に力が入った。

 

「そんな急がないでくれよ。疲れちゃうぜ」

 

 近界民憎しの感情が支配的になる中、太刀川はどこ吹く風だ。

 昂った気持ちに水を差されたようで三輪は顔を顰める。

 

「…時間は早い方がいいって言ったのはあんただ、太刀川さん」

 

「ああ、そういやそうだった」

 

 飄々とした受け答えがさらに三輪の神経を逆撫でした。

 黒いコートを風に靡かせるこの太刀川という男、どうにもやり口や言い回しが玉狛の迅に重なって見えるから、三輪にとっては同じ派閥といえど苦手な一人であった。

 しかし、仮にもこの襲撃作戦の隊長に無用な波風を立てるのは好ましくない。

 

「嵐山隊のこともある。時を急ぐのが得策だ」

 

 風間は確かに嵐山隊、と言った。

 襲撃に向かうのは玉狛支部で、本部所属の忍田派筆頭の嵐山隊には関係のないことと思われるが、しかし。

 三輪の隣で、けらけらと笑う声が聞こえる。

 

「まさか、ブッキーからタレコミあるとは思わなかったけどな〜」

 

「何言うてるんです!ボクかて、偶にはええこともしますよ?」

 

 隣の伊織は冗談を言うときのように戯けた。

 太刀川の態度もそうだが、それ以上にこの男が仲間面をして共に走る光景が三輪には受け入れ難い。

 

「陽介たちからの報告によると、玉狛にも出入りしていたようです」

 

 上司に告げ口をするかのように三輪は吐き捨てた。

 それを聞くや否や、当真と伊織は吹き出す。

 

「はは!迅さんにフラれたからこっち来たってことかよ!」

 

「それ言わへんでや〜!ボクに人望があらへんみたいやないの〜」

 

 米屋づての話だと、伊織はまずこちらの陣営に加えるように要求してきたらしい。その後はどういうわけか、玉狛へ足を運んだのを米屋は観測している。まさか宣戦布告にでも行ったわけはなし、「仲間外れはあかん」なんて言っていたようだから十中八九、玉狛にも同じことを要求していたのだろう。

 そんな訳の分からない行動の末、伊織は今隣に居るのだから、三輪が苛立つのも無理はなかった。

 

 玉狛の近界民への黒い感情が伊織へリソースを割き始めた頃合い、風間の顔が一変する。

 

「止まれ!」

 

 合図に従って、全員の足が止まった。

 迅悠一。

 やはり、この男が立ちはだかる。

 

「みなさんおそろいでどちらまで?」

 

「ちょっと玉狛まで用だ」

 

 二人とも呑気な口調だが、されど不穏な空気が確かにあった。

 

「遊真はもう立派なボーダーの隊員だよ。太刀川さんたちに手出しはできない」

 

 模擬戦以外での隊員同士の戦闘を禁じる。

 いくら近界民だろうが、ボーダーに入ってしまえばその規則は適用の範疇だ。規律を重んじる城戸派なら尚更、破れば処分せざるを得ない。

 ──が、しかし。伊織は意地の悪そうに笑った。

 

「んー、嵐山さんの仕事はもう少し先や思うけどなあ?」

 

 迅はぼそりと、やっぱりそっちに居るんだなと呟いた。

 

 嵐山隊は慣習的に入隊日のレクリエーションと初回訓練の進行を行なっている。広報部隊が顔を出せば、新入隊員たちのテンションが結構上がるからだ。

 しかし、その出番はまだやってきていない。

 

「てことは、まだそいつはただの野良近界民だ。何の問題もないな」

 

 太刀川も伊織に倣って口角を上げた。

 つまりは遊真が正式に入隊を認められるまで、まだ少し期間はある。その間であればボーダーの規則は適用されない。

 彼らの言い分は言いがかりに近いかもしれないが、そんな僅かな綻びさえあれば処分なんてどうとでも出来る。それが一番勢力の強い派閥の力だ。

 迅は苦笑いを浮かべた。

 

「…太刀川さんたちにとってはただの黒トリガーかもしれないけど、本人にとっては命より大切なものだ」

 

 情に訴えかけたところで太刀川たちに意味がないのは迅もよくわかっている。だからこれは、迅が話し合いでの解決に白旗をあげたに等しい。

 と、風間や太刀川は思っていたが。

 明らかに迅の視線はこの中の誰かへ向けられている。

 それは物凄い形相で睨みつける三輪へ──否。その横の、伊織だ。

 

 

 

 

 

 

 

「遊真がなんでこっちに来たか知ってるか?」

 

 帰る、とばかりに階段へと向かっていった伊織の足は止まっていた。

 迅が描くこの騒動の妥協点と伊織の加勢を認めるように仄めかしたからであるが、伊織が決断するよりも早く迅は言った。

 

 二人の頭上を風が通り過ぎる。

 

「知らへんよ、そんなん。…知りたない」

 

 旧弓手町駅ではカメレオンを使ってまでして三人の話を盗み聞いていたというのに、今度は伊織は聞きたくないと言う。

 

「あの黒トリガー、親父さんの形見らしいんだ」

 

「迅さん」

 

 いつもけらけらと笑って肩の力が抜けている伊織が、必死に語気を強めた。

 

 迅は少しだけ微笑むと、遊真の生い立ちを伊織に語った。

 遊真の黒トリガーは父親の形見と言ったが、正確には父親そのものだ。向こうの世界でヘマをして死にかけた遊真を助けるために、彼の父は自らを黒トリガーに変えて、死にゆく遊真の身体をトリオン体で置き換えた。今の遊真は父親の命と引き換えに、一生解除することのないトリオン体、つまりは一生成長することのない体で日々を暮らしている。

 遊真はもう、自分のことなんてどうでもよかった。笑って自分の命を差し出した父親にその理由を聞きたかったが、それも別段やりたいことでもない。ただ、黒トリガーになってしまった父親を戻せれば、それでよかった。

 そのために父親の出身だというこちらの世界へやってきたのである。

 

 遊真の根幹に関わるような話を、それも他人が気軽に伝えられるものではないことは迅も十分わかっているだろう。信用の置ける人物でなければ、話題にすら出さない。

 

 逆説的に、迅にとって自分は──

 

 迅は続ける。

 

「遊真には生きる目的がなかったみたいだ。けど、ここに残って、メガネくんたちとチームを組むことにした」

 

 正に灰色の人生だったのだろう。

 虚しさと後悔が遊真の中の多くを占めているのは想像に難くない。

 それでも遊真は一歩踏み出した。

 黒トリガーから父親を復元するという目的は果たされなかったが、今度は修たちと遠征部隊を目指すという新しい生きる目的が出来たらしい。

 

 伊織は深いため息をついた。

 協力を認める代わりに、迅が何を要求したいのかわかったからだ。

 

「オペレーターには宇佐美がつくけど、おれもいつも見てあげられるわけじゃない。…率直に言って、部隊にもう一人、安心してメガネくんたちを任せられるやつが欲しい」

 

 琴吹伊織はボーダー随一の嫌われ者である。

 しかし迅ははっきりと、伊織なら安心して任せられると言った。

 

「戻ってこいよ、伊織。あいつらと一緒なら、きっと楽しいよ」

 

 

 

 

 

 

「玉狛に行くって言うなら、悪いけどここを通すわけにはいかない」

 

 迅が腰の風刃を抜いた。

 いの一番に破った伊織が思うのもおかしな話かもしれないが、規則については特に剣を振るう障害にはならないらしい。

 太刀川たちもそれに続いてトリガーを呼び起こす。

 どちらが仕掛けるか睨み合いが続いたが、風間は不機嫌そうに呟いた。

 

「お前一人とは舐められたものだな」

 

「いやー、まんまとしてやられたよ」

 

 迅が恨めしそうにこちらを見ている。

 伊織はいつものように笑った。

 

 迅にも話を持ちかけていたことは米屋と古寺に知られている。その点では信用が全くなかった伊織が、城戸派の部隊に加わることが出来たのは理由がある。

 嵐山隊──本部忍田派が、玉狛に手を貸す動きを水面下で行なっている。

 伊織はそのことを城戸らに伝える代わりに、こうして迅の前に立つことを許された。

 今ごろ嵐山隊は根付から急に渡された書類に追われて、戦いどころではないだろう。

 

「でもこの勝負、()()()が勝つよ。おれのサイドエフェクトがそう言ってる」

 

 一人で精鋭たちに対峙するなか、太刀川たちにそれは虚しく映っただろう。

 けれど伊織は、迅が本心で言っていることを知っている。

 彼のサイドエフェクトには、これが見えていたのだろうから。

 

 太刀川が弧月を構える。

 第一刃には、彼の旋空が相応しい。

 

「面白い。その予知、覆したく──」

 

 七分まで振りかぶったところであった。

 何か嫌な予感が、背後に漂っている。

 

「太刀川!後ろだ!!」

 

 風間の声とほぼ同時に太刀川はその場を跳び退いた。

 目視する時間はなかった。何が起きたのかはわからない。ただ、あのまま弧月を振り切っていたら、太刀川は胸を貫かれて緊急脱出していたことだけはわかる。

 

 一歩遅れて、背後を確認する。

 状況を呑み込むより先に、二つの光が基地へ向かって軌跡を描いた。

 

「…え、掠りもせんの?」

 

 そしていつの間にか、後ろに居たはずの伊織は目の前。迅の横に居る。

 

「これ無理ちゃう?」

 

「大丈夫だって。こっちには予知がついてる」

 

 こっちとは、玉狛全体のことを指すものだと思っていたが。

 なるほど確かに、二人なら『こっち』と形容するはずだ。

 

 端的に言って、伊織は城戸派を裏切った。

 ベラベラとどうでもいい話を迅としている間、頃合いを見計らって太刀川たちにバイパーで攻撃に移ったのだ。ご丁寧にも全員がトリガーを起動してくれたから、伊織がキューブを展開するのも不自然でなくなったのは幸運──いや、迅のアシストと言うべきか。

 

「琴吹…!」

 

 三輪は伊織を睨みつける。

 最後まで信用できなかったからか、はたまたこれが二回目だからか、三輪の反応は誰よりも速かった。

 

「一体どういうつもりだ!」

 

「はあ。またそれかいな…」

 

 嘲るように伊織は呟く。

 

 客観的に考えて、伊織が城戸派を裏切る理由は全くない。それなら嵐山隊のことを知らせて、迅側の戦力を削ぐ必要がないからだ。確かに不意打ちで先手は取れたが、それよりも嵐山隊四人と連携できる方がメリットは大きい。

 ちゃんと考えれば、それが正しいのは誰にだってわかる。

 

 しかし、彼──間違った悪い人間に、それは通用しない。

 

 

 

『被害はどうだ?』

 

 不測の事態に足が止まる中、風間は変わらず冷静だ。

 居ないのは当真と奈良坂の狙撃手二人、歌川も戦闘の続行は絶望的。

 先頭を切っていた太刀川、風間は避けるのに一瞬の猶予があったからか傷は負っておらず、菊地原はサイドエフェクトで回避。出水もシールドが間に合った。

 さて、どうしたものか。

 

『うちの菊地原をつける。三輪隊は琴吹に対処しろ』

 

 太刀川たちが取ったのは分断作戦だ。

 弱い相手から先に倒して、数で有利な状況を作り出す。セオリー通り、彼らはまず伊織を落とすことから始める。

 もう少しすれば監視で離れていた米屋と古寺が合流するし、伊織についていた国近のオペレーションも切り離される。伊織との対戦経験はほとんどないが、ここまで手を施せば()()()()()()だろう。

 

『太刀川さん、俺はどうします?』

 

『向こう行きたいだろうが、おまえはこっちだ。俺と風間さん二人じゃ決め手に欠ける』

 

『……』

 

『おっと。気分悪くしないでくれよ、風間さん』

 

 何を馬鹿なことを、と風間は笑った。

 予想外の展開だが、対策は十分。迅の予知を上回る自信はある。

 

 

 

 

 

 

 分断作戦は思いの外すんなりと進んだ。

 さすがA級。遠征部隊といったところだろうか。

 

「琴吹…!お前はまた!」

 

 十分に迅たちから距離を取れたことを確認すると、三輪は弧月を伊織へ向けて振った。

 最初の一撃、シールドで防がれる。

 

「秀次くんは感受性豊かやなあ」

 

 呆れるような表情をした伊織が反撃に出る。

 何てことのない九分割の射撃。シールドを展開して攻勢を緩めるまでもない。

 体を翻して避ける片手間、鉛弾で牽制をした。通常の射撃と違い、鉛弾は回避を強制させることが出来る。絶対に避けきれない場面での詰めと、相手を動かすための起点の両方で輝くトリガーだ。

 思惑通り、伊織が鉛弾の飛ばない方向へステップする。

 

「馬鹿め!」

 

 三輪はその方向を読んで、剣を置いておけばいい。

 銃手(ガンナー)と違い、トリオンキューブを直接発射する射手(シューター)は引き鉄を引く必要がない。つまり、両手はあってもなくても戦闘に支障はないということだ。

 だから、狙うのは右足。

 これでさっきの借りは返せる。

 

 と、思い描いたビジョンとは裏腹に、伊織はうっすらと笑みを浮かべている。

 瞬間、三輪の背中あたりで激しい衝突音が聞こえた。

 伊織の射撃と、菊地原が展開してくれたシールドがぶつかる音だった。

 

 三輪は驚くようにして一度伊織から距離をとる。

 …間一髪だった。

 さっきの取るに足らないと思っていた伊織の射撃が、背後から弧を描いて三輪を襲ったのだ。

 

(この射撃…変化弾(バイパー)か!それも、リアルタイムで弾道を…!)

 

 旧弓手町駅での一件や、当真たちを落とした攻撃も、弾道を自在に操ることで一人一人に正確な射撃を放つことが出来たのだろう。

 しかし、普通変化弾は事前に設定した弾道を状況によって使い分けることがほとんどで、その場その場で軌跡をイメージして制御するなんて芸当、ボーダー全体を見ても数人にしか不可能だ。

 

「あんたが誰かの味方するなんて珍しいじゃん」

 

 一度落ち着いた応酬は再び睨み合いとなる。

 菊地原はどうでもよさそうに、けれども時間を稼ぐために伊織へ投げかけた。

 

「遊真くんの話聞いてな、ボクえらい感動してんね」

「はいウソ」

 

 ボクに言わせてや、と伊織は残念そうに口を曲げる。

 その姿があまりにも呑気に映って、三輪は苛立った。

 

「お前は近界民の本当の怖さを知らないからそんな事が言えるんだ!」

 

 はっきり言って、三輪は迅と伊織が嫌いだ。

 太刀川と違って苦手なんてものではない。嫌いだ。

 二人とも、何も知らずに呑気こいて近界民を守ろうとしているから。

 

 ただ一言、伊織はそやなあ、と肯定する。

 

「ボクの周り、死んだの一人も居らへんもん」

 

 秀次くんと違うて運がええわ、と余計な言葉を付け足した。

 何かが切れたように三輪は左足を踏み出す。

 

 …こいつだけは許しておけない。

 

 右手の弧月は防がれたが、それは想定内。

 変化弾は警戒しなくてはいけないトリガーだが、それすら放つ隙を与えなければいいだけのこと。

 弧月を受け止めるために展開されたシールドへ、あえて鉛弾を放つ。

 盾をすり抜けた弾は伊織に避けられた。

 そして回避した先へ弧月の突き。シールドは間に合わず、再び避ける。

 避けた先には菊地原だ。

 カメレオンで姿を消したまま、奇襲を仕掛ける。

 すんでのところでスコーピオンは地面を切り裂いた。

 

「消えろ!」

 

 意識が菊地原へほんの少し向いた隙を弧月で突く。

 伊織の反応は間に合わない。シールドで防ぐ。

 再び背後から菊地原の攻撃。これもシールドで防ぐ。

 そして忘れた頃に三輪から鉛弾が飛んだ。

 回避しようにも前後を挟まれ、左右は塀。逃げ場はない──かのように思えた。

 間一髪のところで、伊織は足下の瓦礫を蹴り上げて鉛弾を相殺した。

 

「友達少ない割に、二人とも息ぴったりやないの!」

 

 伊織の返しに少しだけ驚いた二人。

 反撃の隙を作ってしまった。

 変化弾が前後に飛来する。まるで追尾弾のようにしつこく二人を追い回すうちに、詰め寄った距離が再び開いてしまった。

 

「秀次くん、ボク相手でよかったなあ。今みたいになあんにも気にせず剣を持てるんやから」

 

 今のは結構危なかったわあ、と伊織。

 しかしその言葉にピタリと三輪の動きが止まる。

 

「…どういう意味だ」

 

 伊織相手でよかった、とは裏を返せば迅は駄目だということだ。

 訳の分からないことを伊織が話すのはいつも通りだが、後の言葉がどうにも引っかかる。

 

「ボーダー出来る前から組織居る人が、仲間の一人や二人失ってへんはずあらへんやないの」

 

「なに…?」

 

 迅も伊織と同じように失う痛みを知らないから、あんな行動をとれるのだと三輪は思っていた。

 けれど、そうではないとしたら。

 迅がそれでも近界民を守るのは一体。

 

『右だよ』

 

 深く思考が沈みかけたところ、菊地原の声が呼び戻した。

 間一髪で伊織の変化弾はシールドに吸い込まれる。

 

「うーん、士郎くん居るとやりにくいなあ…」

 

 伊織は肩を竦めた。

 …危なかった。

 菊地原の通信がなければ今ごろ基地のベッドの上かと思うと、後になって冷や汗が沸いてくる。

 

『で、どうすんの?あんたの指示に従うよう言われてるんだけど』

 

『…悪かった』

 

 三輪は大きく深呼吸をして、熱くなった酸素を入れ換える。

 迅のことがどうであれ、敵なのに変わりはない。そしてそんなことよりもまず、伊織に倒されては元も子もない。

 一度、冷静になった。

 

『中距離戦は不利だ。近距離に持ち込みつつ、陽介と章平の合流を待つ』

 

『ま、それが一番でしょ』

 

 数を揃えて有利を取る。

 冷静に考えれば、それが()()()はずだ。

 

 

 

 

 

 

 一方、迅たちの戦場。

 伊織のように無駄な口を叩く訳でもなく、三輪のように感情を露わにする訳でもない。目の前の相手との駆け引きに思考を割くので精一杯。

 油断すればどちらも一瞬で勝負が決まるということは、お互いが理解していた。

 

「おっと!」

 

 一息もつけぬ応酬の中、迅が後ろへ跳び退く。コンマ数秒経って、迅が着いていた足へスコーピオンが地面から襲った。

 

「出水!」

 

 浮いた迅を即座に射撃が包囲する。

 出水もまた、バイパーの弾道をリアルタイムで制御できる人物の一人だ。

 前後左右、上下さえ行手は阻まれている。風刃にシールドの機能はない。全てを凌ぐのは不可能に見えた。

 しかしそこへ、どこからか突如として斬撃が飛来する。迅の前方から右へ、それはバイパーを消し去っていった。

 

 迅の持つ黒トリガー、風刃。

 

 その能力は大きく分けて二つある。

 一つは斬撃を壁や地面などの平面に仕込んでおけること。仕込んだ斬撃は任意のタイミングで発射が出来る。しかもそれには迅の状態は関係ない。剣を振るっていようが、吹っ飛ばされていようがお構いなしだ。

 そしてもう一つ、斬撃は目の見える範囲ならどこにでも仕込めること。つまりは風刃自体に射程限界は存在しない。

 この包囲射撃が来ることを予知していた迅は、事前に風刃を一発仕込んでおいてケアをしたというわけだ。

 

「悪いけど、三人じゃおれには勝てないよ」

 

 迅はいつもの「おれのサイドエフェクトがそう言ってる」とは言わなかった。

 

「へえ、言うようになったな。しばらく見ない間に、俺との戦績は忘れたか?」

 

 それが馬鹿にされているような気がして、太刀川は口を尖らせる。

 迅が風刃を手にして、ランク戦から一戦を退く前からこの二人はライバルだ。戦績はスコーピオンが開発される前は太刀川優勢、その後は互角。太刀川にとって迅は、決して格上の相手ではない。

 

「前とは違って、今のおれにはこいつがある」

 

 太刀川の弧月を正面から受けて立つ。

 迅が剣を振るう途中、風刃を揺蕩う影が一つ消えた。

 それを見るや、太刀川は一度距離を取る。

 

(琴吹に狙撃手組を軒並みやられたのが響いているな…)

 

 風刃がどこかに仕掛けてある以上、迂闊には踏み込めない。

 こんな膠着した時こそ、遠距離から一方的に攻撃ができる狙撃手が欲しくなるが、現実はそうはいかなかった。

 

「琴吹もお前の差し金か?」

 

「まさか。それなら今ごろは嵐山たちが横に居るはずだよ」

 

 恨めしそうに吐き捨てる風間だったが、迅もどこか複雑な表情だ。

 加勢してくれるのなら、奇をてらわずに最初からそうしてくれればよかった、というのが本音だろう。

 

「いつになってもあいつのやることはわかんねーな…」

 

 迅はため息をついた。

 それは決して、出水の言葉に同情したからではない。

 

 ここまでずっと太刀川たちの攻撃に受けに回っていた迅が、初めて一歩踏み込む。中距離から仕事ができる出水へ向かったが、やはり太刀川が立ちはだかった。

 

「珍しくやる気だな、迅!」

 

 迅だって、伊織に思うことがない訳ではない。

 なるべく手を出さずに、トリオン切れで帰ってもらった方が穏便に済みそうとか、戦うにしても風刃で派手に倒して、風刃の価値を高めた方がその後の取引がスムーズにいきそうとか、色々考えていたプランが全部台無しだ。

 けれど、全員の憎まれ役を買ってでるなんて本来なら未来の見える迅がやるべきことのはずであり、少なくともボーダーに何のしがらみもない伊織がやる必要は全くない。誰にも理解されずに、見返りを求めることなくそれを背負う伊織を見て、一体誰が彼を非難できるというのだ。

 

「城戸さんか唐沢さんかはわからないけど、不必要に煽ったせいで伊織は今この場に居る」

 

 とはいえ所詮は高校生のやる事、相手が同年代ばかりだから通じているものの、大人たちには見え透いているはず。

 見透かしても尚、それをいいように利用しようとするなんて、それは──

 

「その点に関しては結構怒ってるんだ、おれは」

 

 太刀川の二刀が真っ向から風刃と衝突する。

 刃先の競り合い、どちらも引かない。

 

「怒っている…だと?」

 

 刃先が鈍く擦れる音と共に、太刀川が呟いた。

 表情はフラットから険しさをどんどん増していく。

 

「そんなもの、戦場(ここ)に持ってくるな!!」

 

 五分の競り合い、制したのは太刀川だった。

 弾かれた体勢を突くように即座に二発、旋空を見舞う。

 

「俺との戦いだけに集中しろ。じゃなきゃ倒しても意味がない」

 

 恐らくは迅もこれを予知しているだろう。この程度で終わるはずが──いや、終わって欲しくない。

 けれど実際にこうして力負けした光景を目の当たりにして、いい気付けになるはずだ、と太刀川は思った。

 

 しかし、迅は相変わらず挑発的な涼しい顔をしている。

 なら、再び駆け引きだけに思考を割かざるを得ないように追い込むまで。

 距離の開いた迅へ、今度は太刀川が向かっていった時だった。

 

「くっ…!」

 

 力が入った一歩目、つま先。風の刃が地面から通過する。

 もう半歩大きかったら、右足全てを持っていかれるところだった。

 

()()()()()…か」

 

 迅は小さく呟く。

 

「三人じゃおれに勝てないって、言ったでしょ?」

 

 迅は最後まで、口癖を言わなかった。

 



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つまらない嘘 その5

 変わらず、迅たちの戦場。

 互いに決定打となるようなダメージは与えられていない。強いて言えば太刀川の右つま先がそれに当たるかもしれないが、彼自身戦いに影響を感じてはいなかった。

 

 再び、両者は睨み合う。

 

 達人同士の手合いは時として全くの静寂が訪れることがあるという。勝負手に至るまでの駆け引きを互いにイメージしているからこそ、迂闊に一歩踏み出すことが出来ないのだ。

 彼らをその達人と準えるのなら、この静寂は何重にも及んだ読み合いの末の結果といえるだろう。

 風刃の残弾はあと四つ。リロードにはしばらくの時間がかかる。その間は風刃は何の能力もないブレードと変わらないから、太刀川たちは何とかしてそれを使い切らせたい。けれど、未来予知を持つ迅にはまさにという使い所が手に取るように把握出来ているから、生半可な陽動では通じない。かといって、リスクを負って迅に迫っては本末転倒だ。

 

「出水もあっちの方がよかったんじゃない?」

 

 いつからか、迅は風刃を下ろしてしまった。

 恐らく、油断という表現は適切ではないだろう。迅が向かってくるはずがないと判断したのなら、それは紛れもなく向かってくるはずがないからだ。

 誘っている、は半分正解だが、全てではない。

 このまま待っていれば、向こうの勝負は決着がつく。

 迅は伊織が勝つことを確信していた。サイドエフェクトは旗色が悪いと頻りに伝えている。けれど、いつも決まって予測の斜め上を行く伊織を、サイドエフェクト以上に彼は信頼していた。

 

「俺や太刀川が琴吹を侮るとでも?」

 

 迅の言葉に、風間は不機嫌そうな表情をした。

 こうして機を窺って膠着するくらいなら、向こうを早く終わらせて全員でかかった方がいいかもしれない。

 だがそれは二流の考えることだ、と風間は思う。

 この人数だからこそ今の状況になっている訳であって、出水の中距離の牽制がなければ迅の行動を物理的に制限することは出来なかっただろう。

 そして癪に障るのは、こちらが伊織を過小評価していると迅が思っていることだ。他の隊員がどうかは分からないが、少なくとも風間と太刀川は伊織の実力を身をもって知っている。

 だからこそ、だ。

 

「だから一番信頼の置ける部下を向かわせたに決まっているだろう」

 

 風間もまた、菊地原たちが勝つことを確信していた。

 

 

 

 

 

『右二発、左三発。一発遅れて後ろ』

 

 三輪の脳内に菊地原の声が反芻する。

 二発は菊地原が防ぐだろうから、盾を構えるべきは左の三発。後ろの一発は避けるなりすれば問題はない。

 

「あれ、全然当たらへんやないの」

 

 簡単に対処された変化弾を見て、伊織は難しそうに首を捻った。

 左右に気を取られたり、あるいは反撃に前へ出てきた時の隙を突くために一発、死角を通して背後に変化弾を向かわせていたが。

 少し前とは比べものにならないくらい三輪が冷静だった。

 

「そやったらこれやなあ」

 

 伊織は両手から再び弾丸を放つ。二人へ真っ直ぐ軌跡を描く道中、右の群れから一つだけ左へ分岐した。

 今まで何度も見せてきた変化弾特有の包囲網──ではない。群れから離れた一つの射撃は、そのまま左の群れを横切るようにカーブして、衝突する。

 次の瞬間、激しい爆発が起こった。

 射撃トリガー、メテオラは着弾と同時に爆発を起こす。それを変化弾で能動的に引き起こしたというわけだ。

 この爆発の中でなら、菊地原のサイドエフェクトを無効化できるという算段だろう。

 

「発想が小学生以下」

 

 菊地原は嘲るようにため息をつく。

 彼のサイドエフェクト『強化聴覚』の真骨頂は、聴き分けにある。微小な音の大きさや周波数の違いを、極めて高い精度で聴き分けることが彼には可能だ。

 ゆえに、メテオラの爆発音は全くもって、菊地原の耳の障害にはなりえない。

 それどころか、菊地原と三輪の二人は爆風を目隠しにして、伊織へ急襲した。

 左から菊地原が迫る。一撃目はシールドで防いだが、スコーピオンの足回りは伊織の想像するよりもずっと軽い。盾の間隙を縫って、二撃目、三撃目がやってくる。

 

「くっ…」

 

 遂にそれは伊織の肩を掠めた。左肩から立ち込めるトリオンを気にしている隙はない。ここから更に、右からもう一人がやってくる。

 今までとは一転して、三輪は突きを主体に攻撃を仕掛ける。

 剣を振り下ろすより、何段もそれは素早い。ピンポイントで急所を狙ってくるから、盾の読みを外したり、展開が遅れれば即、致命傷だ。

 心臓を狙った突き。盾の読みが当たる。

 首を鋭く突く。反応で避け、カウンターにアステロイドを三発。

 右足へ一発掠める。バイパーを展開。

 発射と同時に、左からカメレオンで姿を隠した菊地原の攻撃が迫る。読んでいた伊織は、バイパーを左へ曲げて牽制。

 

「もっと秀次くんとお話ししたいのに、ボク寂しいなあ…」

 

 ふうっと、伊織は息を吐く。言葉とは裏腹に集中した表情を崩さない様子が、緊迫した戦いだということを物語っていた。

 対する三輪も、目の前の戦いに集中した様子で、伊織の軽口に掻き乱される様子はない。

 

(お前)と話すことなどない」

 

 どこか憑き物が落ちたような、すっきりとした表情で彼は言った。

 

「…ええ顔や」

 

 ほんの僅か、伊織は微笑む。そこには貼り付けた笑みも、薄っぺらい表情もなかった。

 

 伊織は両手にキューブを展開すると、二人へそれぞれ放つ。

 二人の意識に変化弾は十分刷り込めた。恐らく最小限の防御で、最大限の速さでカウンターを狙ってくるだろう。変化弾の威力に合わせた盾で防御するはずだ。そこへ、それよりも威力の高い通常弾の攻撃。ダメージを与えられれば儲けもの、盾を崩して有利な駆け引きに持ち込むのが最低ライン。

 直線的に軌跡を描いた射撃は、案の定二人のシールドを破った。

 それを確認するや、伊織は間を置かずに再びキューブを展開。今度は変化弾。急いで盾を再び展開するだろうから、その隙間を縫うのが狙いだ。

 

 しかし、二人の行動は伊織の予想を超えていた。

 

 菊地原が、突如として姿を消したのだ。彼がカメレオンを用いた攻撃を得意とするということは十分知っているから、突如というのは姿を消したこと自体に抱いた感情ではない。

 なぜ、このタイミング──不意を突かれ、防御と攻撃どちらに重きを置くかなんて明らかなこの場面で、カメレオンという選択をとったのか、だ。

 

 伊織の驚愕はまた一層大きくなる。

 

 三輪は自分の方に放たれた変化弾を無視するかのようにそのまま腕で受けて、菊地原の方へと向かう弾を盾で防いだのだ。

 攻防一体、とはよく言うが、まさか攻防分担とは。急造のペアにしては、息が合いすぎている。

 姿を隠した菊地原はレーダーで大まかな位置は確認できるが、オペレーターの居ない伊織には自分で確認するしかない、という大きな足枷がある。そんなことをしている猶予はない。

 彼が狙うであろう部位。

 首──除外。当たれば致命傷だが、逆に最も警戒されるポイントだ。三輪がリスクを負って被弾した手前、何の成果も…となることだけは避けたいはず。同じ理由で心臓も除外。

 両腕──除外。シューターである伊織にとって、それはトリオン切れ以外気にする点にはならない。

 

 であれば、狙うのは──足か。

 

「残念」

 

 菊地原がいた方、右足へシールドを展開する…が。伊織の予測の裏をかいて、彼のスコーピオンは右腕を斬り飛ばした。

 

「迅さんみたいに上手くはいかへんなあ…」

 

 伊織は吐き捨てる。

 迅という強敵に意識が向いて、彼らは伊織を出来るだけ早く仕留めたいと思うはずで、その焦る気持ちを利用すれば…と伊織は考えていたが。

 思えば、三輪はいいとしても菊地原までもが伊織の煽りに素直に付き合うところから、違和感を覚えるべきだったのかもしれない。

 彼らもまた、時間稼ぎを良しとしていた。だから、戦況に直結する首や足は狙わなかったのだろう。

 現段階で伊織を倒すつもりはない。待っていれば増援がやってくる。三輪が受けたダメージによるトリオン切れも、今の伊織に比べればどちらが早く限界を迎えるかは明白だった。

 

「迅が片付けるのを待っていたのだろうが、当てが外れたな」

 

 三輪が口を開く。相変わらず余計な感情は削ぎ落とされ、目の前の『敵』をただ見据えていた。

 

「…言うやないか」

 

 調子は崩さず、伊織は思考する。待ちの展開は潰され、こちらから攻めなくてはならない。が、攻勢に出るにも消費の大きいシュータートリガーでは結局トリオン切れとの戦いになる。

 未だ結論を出せずにいる中、伊織の斜め上から突如、斬撃が飛んできた。

 

「っ!」

 

 四発放たれたそれは、伊織の居たアスファルトを切り裂いて消える。右手失っている分、ケアすべき箇所が減ったというのは笑えない副産物だ。

 

「時間切れだよ」

 

 そう言ってスコーピオンを構える菊地原の後ろに、米屋は着地した。

 予想よりも早い。迅に彼らが到着する時刻を聞いておけばよかった、と伊織は思ったが、それでこの状況を免れることができるのなら、迅の方から伝えていただろう。つまりこれは、避けようのない未来だった、ということになる。

 

「盤面は揃った。お前の負けだ、琴吹」

 

「…どうやろなあ?」

 

「普通に考えて無理でしょ」

 

 何とか絞り出したその言葉に、菊地原は嘲るように笑う。

 

「…普通に、ねえ」

 

 だが、伊織の目にはまだ、戦意は消えていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「こちら古寺。狙撃ポイントに着きました!」

 

 米屋が伊織に旋空を放つ少し前。伊織たちが見渡せる高台に古寺は居た。

 

『オーケー。俺ももうすぐそっち着くぜ』

 

 遠征部隊が帰還したのち玉狛への襲撃作戦を練ることは知っていた。しかし、それを率いる太刀川が「今夜にしよう」と言うのは流石に予想外で、監視をしていた二人が遅れての参戦になってしまうのは仕方がない。

 米屋は三輪たちが戦う場所へ。古寺はそこを狙い撃てる高台へ。警戒区域へ入ってから、二人はそれぞれ目標へ向かった。

 

『了解した。迅と違って琴吹に狙撃は効く。だが、何をしでかすかわからないのは奴も同じだ。時間をかけて隙を与えるわけにはいかない。最初の一撃に勝負をかける』

 

 伊織を相手にするのは、彼らにとっては初めてのことだった。それは好んで個人ランク戦をする趣味はない三輪や、ソロ隊員とはどうやってもその機会がない古寺だけでなく、ランク戦ブースに足繁く通う米屋も例外ではない。

 だが、ここまでの戦闘を見て、ある程度伊織のスタイルや実力は把握していた。

 変化弾を巧みに操り、敵の攻撃を一捻り加えた手で受け流す。それに驚いて生じた相手の隙をまた変化弾で突く。そんなところであろうか。

 だから、有無を言わせず一撃で仕留めるという彼の隊長の作戦に異論はない。

 

(残った狙撃手はおれ一人だけ…。ここで琴吹先輩を倒した後、迅さんに圧力をかけるのも自分の仕事だ)

 

 スコープを覗きながら、古寺は全体の戦況を整理した。

 開幕の伊織の裏切りで、古寺以外の狙撃手──当真と奈良坂は離脱した。

 迅が未来予知のサイドエフェクトを持つことは今さら説明するまでもない。狙撃は恐らく通用しないが、物理的に迅の行動を制限することはできる。狙撃手2トップの代わりとして、予知しても回避できないような状況を生み出すことが、この後の古寺には求められるだろう。左手で狙撃銃を支える力が、強くなる。

 

(三人なら、きっと琴吹先輩を崩してくれる。あとは、おれが決めるだけ…)

 

 三輪は、最初の一撃で仕留める、と言った。失敗は許されない…が、A級である古寺にとってそれは──重圧こそ多少なりとも感じることはあっても──幾度となく経験してきたことだ。

 

『二人仲良くピクニックかいな?』

『あはは! その顔見るために決まってるやないか!』

 

 サイトの十字が伊織を捉える。

 彼とは監視任務中に一度会った。今まではほとんど彼の感情は三輪へと向けられていたが、こうして自分にとなると、思うことがないわけではない。

 

(集中しろ…。この一発で勝負を決める…!)

 

 一度、すうっと息を吐いた。

 敵を前にして、この感情は不要。ただ、引き金を引くタイミングを探る事だけに思考を割けばいい。

 

(………)

 

 近距離から孤月と鉛弾で攻撃する三輪と、カメレオンで不意を突く機会を窺う菊地原。そして、長いリーチを活かして二人とはやや下がった位置から畳み掛ける米屋。

 伊織は防戦一方だ。むしろ、ここまでよく持った方と言っていい。

 菊地原が姿を消して伊織に迫る。伊織は盾で防いだ。

 息をつかせずに、三輪が弧月を振り下ろす。これも盾で防ぐが、その後は鉛弾だ。盾で防ぎようがないから、伊織は身体を翻す。

 半身になったところへ、米屋が槍型に改造した弧月で突きを放つ。

 盾は間に合わず、伊織は────飛んだ。

 

「…ここだ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あーあ。これ、詰んでもうてるやないの」

 

 米屋の突きを飛んで回避した伊織だったが、この後の展開は例えそのサイドエフェクトがなくとも、十分予測できていた。

 飛ばされたのだ、伊織は。

 監視任務に就いていた米屋がやってきたということは、もう一人も狙撃ポイントに到着したに違いない。無防備に空中へ姿を晒した伊織は格好の的だろう。

 最後の足掻きとばかりに、伊織は飛来する狙撃にタイミングを合わせて、姿を消す。

 一定距離瞬間移動の出来るトリガー、テレポーターで三輪の背後へ飛んだ。

 これは三輪たちの想定内だ。伊織がテレポーターを使うことは、開戦時に迅の隣に突如移動したところから把握している。テレポーターの移動先は、視線の向く方、数メートル。連続使用はできない。だからそれは、古寺の狙撃を避けたというだけで、状況は相変わらず。ただの延命手段に過ぎない。伊織の言う通り、詰みだ。

 と、思ったが。

 

「──キミらが、やけど」

 

 三輪も米屋も菊地原も、誰一人として伊織が飛んだ方へ視線を向けなかった。

 それは何故か?

 理由は簡単だ。伊織よりも目を向けるべきものが、彼らの前にはあったから。

 彼らの視線の先──伊織がもと居た場所にあったのは、大きなトリオンキューブ。大きさで言えば、出水がトリオンキューブを分割しないで展開したくらい、成人男性が膝を抱えて丸くなった程の大きさ。

 それからコンマ数秒。古寺の狙撃が糸を引き、キューブを貫く。

 瞬間、辺り全てを消しとばしてしまう程の爆発が起こった。

 

「分断してボク一人にさせる? 間違ってへんなあ。時間稼いで、人数の有利を増やす? 正しいと思うで」

 

 伊織はテレポーターで狙撃を回避すると同時に、分割なしの最大火力のメテオラをその場に設置したというわけだ。

 これ程の爆発、しかも狙撃が飛来するまでのコンマ数秒、凌ぐことは不可能だろう。

 

「けど、間違った悪い(ボクみたいな)人間には通用せえへんよ」

 

 人の数だけ、各々が嫌がる事は増える。一つでもそこを突くことが出来れば、あとは数珠つなぎのようにズレと綻びが生じる。

 古寺が今回はそうだ。

 自分以外の狙撃手が落とされ、いざこざのあった伊織が相手。重圧と逸る気持ちはあっただろう。

 もちろん、A級隊員の古寺がそれに思考を支配された訳ではない。一瞬頭にちらついた程度で、それからはいつものように、ただ標的を貫く事だけを考えて引き金を引いたはずだ。しかし、精鋭同士の戦いではその一瞬が勝敗を分けることも時としてある。その一瞬の盲目さが、メテオラを射抜くという綻びを生じさせた。

 

 ソロ隊員でいる期間がほとんどだった伊織には、シューター本来の役割である「相手を動かして、それを味方に取らせる」といったサポートが苦手だ。彼がチームに短期間だが所属していた時ですら、気の利く二人にそういったことは任せ、もう一人と好き勝手暴れていたのだから不得手を克服する気もなかったのだが。

 さておき、伊織は一対一は苦手ではないが、別段得意ではない。彼の真骨頂は、一人で敵に囲まれた時、存分に発揮される。

 

 メテオラの爆発で虫の息だった三人を変化弾で貫くと、爆発で巻き起こった辺りの煙を晴らすかのように三つ、緊急脱出の光が基地へと向かっていった。

 

 伊織の、勝ちだ。

 

「柚宇さーん。そっちどないなってますー?」

 

 伊織に居たはずのオペレーターに話しかけるが、返事はない。

 

「あ、やっぱええわ」

 

 別の場所から、基地へ向かって光が二つ、軌跡を描く。

 特に表情も変えず、伊織は平坦に言い放った。

 

「この戦い、()()()の勝ちや」

 

 激しい戦いを終え、一人夜の中佇む自分は、その勘定には居ない。

 

 



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つまらない嘘 その6

 ボーダー本部、加古隊作戦室。

 ソロ隊員の伊織には専用の作戦室はない。ソロ隊員用の緊急脱出先は用意されているが、オペレーターの杏に頼んで(半ば強引に)伊織は加古隊を転送先としていた。

 目を開けて体を起こすが、周囲は真っ暗だ。

 四人が県外スカウトで居ないのは都合が良かった。

 

 一度、大きく伸びをする。

 迅はこの後風刃を取引に使うと言っていた。尽くせる手はほとんど打っておいたし、迅のことだから心配するまでもないだろう。

 ここで伊織のお役は御免だ。

 

(姉貴たちも居ないし、しばらくここに居てもいいか…)

 

 伊織はもう一度ベッドに仰向けになった。

 ここまでの出来事が頭の中を反芻する。一人の少女を守りたいと言った少年、他人を危険な目に遭わせることはできないと一人で抱え込もうとする少女、父親に貰った命を他人のために使うことを決めた少年。…そして、姉の仇への復讐心が大きすぎるがゆえに、その扱い方を間違えている青年。伊織の行動は、彼らのためになったのだろうか。

 

「お疲れ、伊織」

 

 目を瞑りかけたところで、作戦室の戸が開く。

 廊下から照明が差し込んで、伊織は眩しそうに顔をしかめた。

 

「トリオン体じゃ疲れへんよ」

 

 迅が電気のスイッチを押す前に、伊織は身体を起こして息を整えた。

 パッと部屋全体が明るくなる。

 

「伊織のおかげでかなり楽になったよ」

 

「別にボク、迅さんの味方した覚えはあらへんけど?」

 

 伊織は意地の悪そうに笑った。嵐山隊を排除するという、あんな回りくどいやり方をした理由の一つがそれとは、思わず迅の顔が苦くなる。

 

「そやから、戻るとかなんとか言う話はナシや」

 

 この光景も、迅はサイドエフェクトで見えていただろう。けれど、実際に目の前でそう言われるのとでは、やはり感じ方は違う。

 迅も笑ってこの場を済ませたいと来る前は考えていたが、伊織の答えと彼が水面下で行っていたであろうことを思うと、とてもそんな気にはなれない。

 

「…辛い役回りをさせちゃったな」

 

「ええと、何の話?」

 

 やけに含みを感じる迅の物言いだが、伊織は変わらず煙に巻く。

 

「おまえ、そういうとこ全然変わってないなー…」

 

 はあ、と大きなため息が迅から漏れる。

 それ以上迅は踏み込んでこなかった。

 

「ま、ともあれ助かったよ。久しぶりに伊織と組めて楽しかった」

 

 ベッドに腰掛ける伊織へ、迅は手を伸ばす。

 どうやら、伊織の退場はまだ先らしい。

 

「それは意外やなあ。ボク以外で揉め事楽しゅう思える人居るとは思わへんかったもの」

 

「おっと、こいつは手厳しい」

 

 

 

 

 

 

 上層部全員が集まった会議室。いつかと同じように様々な感情が入り乱れて紛糾する、といったことはなかった。

 

「ええい!どうなっておる!」

 

 鬼怒田が吐き捨てる。

 どうなっている、とはこの場の人間ほとんどが抱いた感情である。近界民や黒トリガーを巡って城戸派と玉狛の争いとなるはずだったこの騒動、蓋を開けてみれば一人の隊員によって如何とも言い難い結果に終わったからだ。

 

「珍しくしおらしいと思ったらこの有様じゃ!!」

 

 その隊員の名は琴吹伊織。

 思えば警戒区域内での出来事からそうだ。城戸派を邪魔したと思えば、今度は近界民に牙を剥き。あろうことか、市民すら手にかけようとした。

 そして今回の戦闘である。

 両陣営に近づいたものの、結局は遠征部隊とともに黒トリガー強奪を目指すと思われたが。開戦になると、今度はその遠征部隊を攻撃して、玉狛に協力したのだ。

 上層部たちの口数が少ないのは、派閥の争いから始まった騒動を伊織によって滅茶苦茶にされて、どう折り合いをつけたらよいか言い淀んでいるからだ。

 

(最終的にこちら側へ来てくれたのは歓迎すべき事なのかもしれないが…ならば何故嵐山隊(我々)の邪魔をした?)

 

 忍田もまた、伊織の行動に困惑している内の一人である。

 迅の下へA級部隊の嵐山隊を増援として送るつもりだった忍田であったが、突然広報任務が舞い込んだせいで戦いに参加することすら叶わなかった。

 当然、城戸派にその素振りを悟られないよう細心の注意は払った。情報が漏れたとすれば、迅とやり取りをしていたという伊織以外には考えられない。

 伊織がそうした理由が忍田には理解できなかった。

 

「あれ、思ったより静かですね」

 

 そこへ、今まさに戦いを終えた迅が姿を見せた。

 しんとした会議室に少し面食らった様子だ。

 

「迅…!貴様も舐めた真似をしおって!」

 

 まあまあ、と諌める迅の声がどこか安心感を帯びているのは気のせいだろうか。

 血圧上がっちゃうよ、なんて割と本気な心配に口ごもる鬼怒田だったが

 

「一番舐めた奴が来たでー」

 

「琴吹ぃ…!!」

 

 遅れて顔を見せた伊織のおかげで、迅の助言はどこかへ消え去ってしまった。

 元凶の登場で、会議室全体の空気が一気に上昇する。

 加熱していく鬼怒田や根付を横目に、忍田は黙って伊織を見ていた。

 

「引っ掻くだけ引っ掻き回して、どう落とし前つけるつもりかね!!」

 

 上がった熱は机を乱雑に叩くエネルギーとなる。

 少し横柄なのは咎めるべきだが、伊織にそう問い詰めたくなる気持ちもわからないことはない。

 

「あはは!根付さんもおもろいこと言うなあ!」

 

 しかし伊織は、そんな感情を逆撫でするかのようにけらけらと笑う。

 

「いつから『落とし前』いう言葉は負けた方が使うようになったんや?」

 

 結果だけを見れば。

 太刀川率いる黒トリガー奪取部隊は敗れ、近界民擁護派の迅たちが勝利を収めた。追い詰められているのは城戸派であり、机を叩くべきは玉狛ということだろう。

 

「なんじゃと!!」

 

 それを聞くや否や、鬼怒田はデスクから身を乗り出して声を荒げた。

 伊織の言い分も筋は通っているが、二人の雰囲気を見たうえで取るべき行動ではない──と忍田は内心呟いた。

 

「まあまあ。落ち着いてください、鬼怒田室長。迅くんたちだって別に油を注ぎに来た訳ではないのだろう?」

 

 宥めたのは唐沢である。

 彼も机を叩く側の派閥ではあるが、城戸と同じく冷静だった。わざわざ声を荒げて止める必要がなくなり、少し安堵する。

 代わりに忍田は、「ボクはそのつもりで来たけどなあ」とか言ってる伊織をじっと睨みつけた。

 

「一つ、交渉に来ました」

 

 ようやく本題。

 迅は一歩前に出て城戸に言った。

 

「うちの遊真の入隊を認めてもらいたい」

 

 結局のところ、争点はここに帰着する。

 近界民である空閑の処遇をどうするのか。黒トリガーは誰が持つのか。

 涼しい顔をしている迅も、伊織と同じことを思っているのだろうか。

 

「駄目だと言ったら?」

 

 城戸の言葉に、忍田は何かぼんやりとした違和感を覚えた。

 近界民に対しては絶対にノーを提示する彼が、こんな及び腰で答えることなんてあっただろうか。

 遠征部隊が壊滅したことも少なからず影響があるとは思うが、これではまるで──

 

「こっちは風刃を出す」

 

「なんだって!?」

 

 しかし忍田の思考は、迅の言葉で一度隅へ追いやられてしまう。

 あの迅が、師匠の形見の風刃を手放すと言ったからだ。

 S級という肩書き以上に、彼にとってそれは重く大切なもののはず。反対勢力であるはずの鬼怒田でさえ、動揺を隠せない様子だ。

 

「…私は十分見返りのある取引だとは思いますが」

 

 近界民が組織に居る、という感情的なものを抜きにすれば、それはこの問題を解決する最善の手かもしれない。風刃は適合者が多く、またその性能も十分にボーダーが把握している。どんなものかもわからない空閑のトリガーを手に、居るかどうかもわからない適合者を一から探す必要はない。そして忍田には考えたくないことだが、風刃ともう一つ城戸派が持つ黒トリガーを使えば空閑を始末することだって可能だ。

 鬼怒田や根付も、唐沢の意見に同調するような面持ちに変わった。

 

「いいだろう。空閑遊真の入隊を認める」

 

 そして城戸は表情を変えずに決断する。

 そういえば、迅の後ろに居る伊織も、貼り付けた笑みはずっと崩していない。

 それを見て、隅へ追いやっていた思考を再び忍田は机の上に戻した。

 感情的なものを考えれば、送った部隊を返り討ちにされ、その上返り討ちにした張本人に情けをかけられ、忌み嫌う近界民を受け入れるなんて屈辱以外の何物でもない。

 しかし城戸は表情を変えず、考える時間も多く取らずに受け入れた。

 

 …いや、実際には屈辱に顔を歪め、主観と客観を天秤にかけて熟考したのかもしれない。

 

 あの口ぶりはまるで、迅が何か譲歩をするのを確信しているようだった。

 

 城戸が、迅が風刃を差し出すことを事前に知っていたとしたら。

 

 屈辱を呑み込むだけの時間と、その後の対応を考える猶予は十分にあったはずだ。

 迅の取引は、城戸派にはメリットの方が遥かに大きい。マクロな目でもミクロな目でも、あるいは彼らが勝利し遊真を処理できた時よりもいい結果にすら思える。さらに加えると、あの未来予知のサイドエフェクトを持つ迅が戦いに応じたという、極めて高い勝算が向こうにはあったのであろうという事実。ともすれば城戸は、その時間的猶予を活用した結果、迅の譲歩を引き出すためにあえて負けることを選んだとまで考えられるかもしれない。

 もちろん、現場の太刀川や風間たちはそうではないだろう。迅だって、まさか城戸に風刃を渡すと事前に伝えたはずがない。でなければ、初めから風刃を渡して騒動は終結したはずだ。

 城戸だけがこの結末を思い描き、その手のひらの上で他の当事者たちは踊らされている。そして不確定要素であった第三勢力──忍田派は、関与することすら許されなかった。

 

 結果、城戸派は風刃を手に入れ、黒トリガーのパワーバランスは保つどころか上回り。問題の近界民も、組織内に取り込むということはつまり、やろうと思えば難癖をつけて処分が出来るということだ。

 何よりも、現場の隊員に何も知らせずに出来レースを行わせたのが後味の悪い。一体何のために太刀川や迅たちは戦ったというのだ。

 

 だが、偶然城戸がそのことを知ってしまったとは考えにくい。嵐山隊のことと同様に、『彼』が意図的に漏らしたか、伝えにいったかのどちらかだろう。

 そして、処分自体に異論はないものの、思い返せば、彼の処分が謹慎三日のみだったというのも裏がある気がしてならない。まるで示し合わせたかのように彼の謹慎が明けた後遠征部隊は帰還し、それから襲撃作戦は決行された。十中八九、城戸は彼を泳がせておいた。それに加えて、彼の裏切り行為は紛れもない敗因であり、責められるべき戦犯でもある。城戸が負けることを望んでいたという事実へのスケープゴートとしては、申し分ない。

 

(……趣味の悪い茶番だ)

 

 忍田は一度、深く息をついた。

 

 

 

 

「…最後に一つ聞きたい」

 

 忍田の心の内とは裏腹に、騒動の終着が見え、半ば穏やかな空気に包まれた会議室。

 城戸の一言は、唯一見せた本心のようだった。

 

「お前の目的はなんだ?この提案は我々にとって有利すぎる」

 

「ボーダーに黒トリガーが一本増えて、強い仲間が加わった。誰も不利になんてなってないでしょ?」

 

 実に迅らしく、玉狛らしい答えだ。

 自然と顔が綻ぶのが感じられる。

 

「それに、遊真は城戸司令の役にも立つと思いますよ。()()()()みたいにね」

 

 しかし、迅は皮肉めいた言葉を続けた。それはまた、彼が唯一見せた怒りの表情のように思える。

 

「その件は申し訳ないと思っている」

 

「…遊真がここに居たら何て言うでしょうね」

 

 そう残して、迅は会議室を後にした。

 いつ消えたのか、伊織の姿は見えない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの時、なんで琴吹先輩を呼び止めたんだ?」

 

 遊真がいつもの十本勝負を終えてリビングへ戻ると、修から声がかかった。

 確かに呼び止めるにしては間の悪いタイミングだったとは思う。けれど、こうしてなぜと聞かれても、遊真自身にもよくわからなかった。

 ただ遊真は、迅を追って階段へと向かう伊織の背中を見て、声をかけずにはいられなかったのだ。

 

「…あの人がどうして乱入してきたのかがわからなかった」

 

「たしかに…」

 

 ゆっくりと、確認するように遊真は呟く。

 重しのトリガーを使う隊員のように、近界民に対して強い感情を抱いているようには見えなかったし、上からの任務で来たとしても、仲間同士で戦闘をする意味がわからない。

 けれど、そんな論理的な理由で呼び止めたのではなかったように思う。

 

「いや。聞きたかったのはなんで嘘をついたのか、だな」

 

 中学校と、警戒区域。それまでで会ったのは二回だけだが、そのいずれも伊織は嘘をついていた。ほとんどと言っても差し支えない。

 嘘を見抜くというサイドエフェクトを得てから今まで、そんな人を遊真は山ほど見てきた。

 けれど遊真は何故だか、伊織がどんな理由で、そしてどんな感情で嘘をついたのか、それが気になった──のだと、思う。

 どうしてなのかは、遊真自身にもぼんやりとしていて、はっきりと言葉には出来なかった。

 

「けど、()()もそうだったな」

 

 目的は、他人の困った顔を見るため。

 それもまた嘘だった。

 つまり、だ。伊織には何か別の理由があって、そのために嘘をつき、仲間を攻撃し、千佳たちを狙おうとした。

 

『ボク、間違った悪い人間やから』

 

 吐き捨てたその言葉が遊真の頭をぐるりと廻る。

 国同士が上手くやるのに手を取り合う必要はない。共通の大きな敵が居ればそれで十分だと、昔父親が言っていた。

 仮に遊真の考えていることが正しいとして、こうして遊真が玉狛で楽しく過ごせているのが彼のおかげなのだとしたら。

 だとしたら、それは。

 

「本当に、つまんないウソだ」

 



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EX
覗く


「…こんなところか」

 

 最後の書類をまとめ上げ、ようやく忍田は一息ついた。

 ここ最近、あまりにも事件や出来事が一度に起きすぎている。上層部の面々はその対策なり指揮なり後処理なりで大忙しだ。時折、鬼怒田に対して不摂生を改めるよう小言を言うこともあったが、これほどの激務を毎日こなしているのだと考えると、無理もないのかもしれない。

 イレギュラー門、近界民、そして黒トリガー争奪戦。当時は色々と肝を冷やしたが、全てが終わった今となっては、ゆっくりと振り返る時間もある。

 

 一度、忍田は冷えてしまったコーヒーを口に運んだ。

 

 これら一連の出来事の中心にいたのは、三雲修と空閑遊真の二人だろう。彼らがイレギュラー門事件の解決に奔走したおかげで現在の平穏な暮らしがあるといっても過言ではない。だからこそ、あんな茶番を行わずとも最初から遊真を歓迎していればよかった、と今でも忍田は思う。

 出来事の中心にいたのが彼らだとすれば、裏にいたのは城戸司令だろう。近界民の遊真を巡って他の派閥と対立し、琴吹伊織という搦め手まで利用して派閥の拡大に成功した。食えないのは、城戸派だけが利益を得ただけでなく、遊真や彼の黒トリガーが加わったことでボーダー全体で見ても戦力が上がったということだろう。落とし所としては完璧なものだ。

 

 琴吹伊織という、一人の隊員を好きに利用した点を除いては。

 

 その裏にどんな感情や決意があるのかはわからないが、伊織がやらんとしていることは忍田も認識している。それが机上の空論であり、伊織一人では間違っても達成できないということも。

 だが、彼もまだ高校生だ。失敗を重ねて大人になっていく年齢だ。行き過ぎた行為は叱ってやる必要があるが、大人が正しい方向へ導いてやらないでどうする。それを城戸は、ただ己の目的のためだけに利用し、挙げ句の果てには真意を隠すためのスケープゴートにした。珍しく迅が怒りを露わにしたのも、そうした城戸の行動に憤りを感じたのだろう。

 

「…琴吹伊織、か」

 

 忍田は、デスクの片隅に置かれた書類へ目をやった。

 A級個人隊員琴吹伊織に関する調査書、とそこには銘打たれている。冷え切ったコーヒーを飲む片手間、忍田はそれを手に取った。

 

 

 

 琴吹伊織。

 本部所属、A級個人隊員。

 ボーダーには、従姉妹である加古望(注釈1を参考されたし)のスカウトで入隊。隊員としての適性は高く、特にトリオン量に関してはサイドエフェクトを発現してもおかしくないレベル。しかし、適性検査の段階から素行に関しては問題がみられ、入隊の可否は上層部へ判断を仰いだうえでの結論となる。

 以下に調査書執筆時点での琴吹隊員の各種データをを示す。

 

ポジション:シューター

ポイント:7092(バイパー)、5438(アステロイド)

主トリガー:バイパー(改)、アステロイド、テレポーター(試作)、シールド

副トリガー:バイパー(改)、メテオラ、シールド、Free

 

トリオン:10

攻撃:10

防御・援護:5

機動:5

技術:13

射程:6

指揮:3

特殊戦術:2

トータル:53

 

 シューターには珍しく、サポートよりも自らが勝負を決める方が得意と思われる。バイパーの弾道制御に代表されるようにトリガーを扱う技術に関してはボーダートップクラスの技量を見せており、素行の問題さえクリアすれば今すぐにでも開発室は彼の能力を調査したい、という旨の発言を鬼怒田室長はしている。

 特に、琴吹隊員がかつて扱っていた玉狛支部のワンオフトリガーに関しては、ボーダーのトリガーの性質上、実戦では観測不可能な結果を示すことが可能であり────

 

 

 

 

「……」

 

 忍田は興味深そうに息を巻いた。

 あれだけ伊織に対して声を荒げていた鬼怒田が、存外彼のことを評価していたからだ。もちろん、素行という一番の問題点を度外視したのであれば、という条件がつくのだろうが。

 その後、調査書には伊織の起こした問題の列挙が延々と続くが、それはそこそこに、更にページを捲る。

 

 

 

 

 玉狛第一(木崎隊)脱退後の琴吹隊員の処遇について、一般的には部隊が解散となった場合のみA級個人隊員という肩書きを与えることとなっているが(界境防衛機関隊務規定第七章を参照されたし)、彼の組織内での立場を鑑みた上で、A級個人隊員という、ある種例外的な肩書きを持つ方が彼に箔が付き振る舞いやすいだろうという点、A級の権限である既存トリガーの改造を施したバイパーの活用に目を見張るものがあるという点から、特例でA級隊員であることを認めるという結論が上層部の判断で決められた。しかしながら、彼の行動を予測することは迅隊員のサイドエフェクトをもってしても難しいため、玉狛へ所属している間外されていた監視は戻すものとする。

 

 

 

 

「…監視」

 

 忍田が思うに、ボーダー隊員が伊織に対して抱く感情は三種類に分かれる。

 一つは嫌悪。大多数はこれだろう。自分に対して振り撒かれた悪感情を好意的に捉える人間は居ない。

 一つは無視。嫌なものは寄せ付けない。それもまた、人生を歩む上で必要なことのひとつだ。

 そして残る一つは、親愛。数は圧倒的に少ないが、伊織を大切に思う人間も存在する。忍田の認識するところでは、林藤支部長、迅、加古隊の隊員たちであろうか。

 しかし、城戸だけは例外だった。黒トリガー争奪戦でのことも然り、伊織のことを徹頭徹尾利用することだけを考えている。それは、例外的に彼をA級個人隊員と認めた点や、あれだけの問題行動を起こしても彼を黙認している点からもそう言えるだろう。監視という行為も、利用するためには城戸の管理下に彼を置く必要がある、という思惑の表れだ。

 

 だが、伊織自身あえて利用されている節もあった。

 みんなが傷つかないことと、これ以上仲間を失わないこと。背景は違えど、彼と城戸の果たさんとすることは共通している。恐らく二人の間で具体的な取引は交わされていないだろうが、暗黙の了解として彼らはこの歪な関係を続けているのだろう。

 

「しかし、迅もまた妙なことを言う…」

 

 ため息を一つ、忍田はついた。

 迅や伊織がやってきて、風刃と引き換えに遊真の入隊を認めさせた後のこと。迅は忍田に対して、二つ頼み事をした。

 彼の防衛任務を極力減らすこと。そして、遊真や修たち玉狛の新メンバーになるべく関わらせること。

 それがひいては、今後予想される近界民の大規模侵攻でのより良い未来へ繋がるという。なぜそうなるのかは彼の口から語られることはなかったが、迅がそう言うのならそうなのだろう。彼を信頼するだけの結果は今までで十分すぎるほど受け取っている。

 だが、あまりに突拍子もないことだったから忍田は少なからず困惑した。防衛任務を減らせば伊織の実戦感覚を鈍らせるだろうし、遊真たちと関わらせて小南が黙っているはずもなく、ただ状況が混沌とするだけのような気がするが。

 

「…いや、しかし」

 

 存外長い間報告書を読んでいたようで、PCはスリープモードに入っていた。マウスを適当に動かして再起動させると、忍田はファイルを二つ開く。

 一つは、遊真たちも参加する入隊式のプログラム。もう一つは、その裏で行われるチームランク戦の対戦表。普段であれば、一月はオフシーズンでありランク戦は終了しているが、今回は事情が違う。迅からの助言で、最終戦をこの日に振り替えるよう決めていたからだ。

 忍田は、そのランク戦の解説に伊織を据えるつもりでいる。

 迅にああ言われた手前、申し訳ないような気もするが、忍田が責任を持って預かるのは遊真たちだけではない。期待とやる気を持って新たな門出を迎える訓練生たちに、初日から『琴吹伊織』を経験させるのはあまりにも酷というものだろう。

 これだけは、迅の頼みを聞くわけにはいかなかった。

 

「忍田本部長、お時間です」

 

 眉間に皺を寄せて思い悩むところに、扉越しから沢村本部長補佐の声がかかった。

 壁の時計へ目をやる。もうこんな時間か、と忍田は呟いた。

 

「定例会議だったな。今向かう」

 

 PCの電源を切り、忍田は席を立った。

 机に置いた報告書を引き出しにしまい、部屋を後にする。

 

 この時はまだ、忍田は知らなかった。

 迅の言う『より良い未来』とは、無数にある最悪の未来と比べた相対的なものであるということ。どうあがいても伊織本人には、悲しい結末しか待ち受けていないということ。

 

 暖かな夕暮れが、誰も居ない本部長室を照らす。伊織の報告書は、一人暗い四角の中だ。

 

 

 




短めの話、短めの区切りですみません。
伊織の設定集、とでも捉えていただければと思います。


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『普段通り』の日々へ その1

切りどころがわからずに長くなってしまいました…。




「皆さんお待たせしました!B級ランク戦最終戦、実況は三上、解説は琴吹隊員と加古隊員のお二方で行ってまいります!」

 

 昼休みを少しすぎた辺りの時間帯、ボーダー恒例行事となっているランク戦実況の催しだ。ぱたぱたと手で顔を扇ぐ様子から、三上は別の仕事から急いでやってきた様子が見てとれる。

 

「歌歩ちゃんは働き者やなあ」

 

 その別の仕事とは何を隠そう、新人の入隊式だ。

 本来ならランク戦はすでに終了しているはずだ。入隊式を迎えるこの日はオフシーズンとなり、それぞれが次のシーズンへ向けて準備なり、新たに仲間を迎えるなり、新しいチームを作るなりに励む期間となっているはずだったが、最終戦のこのカードだけは日程を振り替えられることが決められていた。理由は諸事情とだけ伝えられ、真意のほどはわからない。普段ならB級以上の隊員で埋まる観覧席も人はまばらで、そのほとんどがC級隊員である。

 

「入隊日に解説て、ボクもしかして上に目付けられてへん?」

 

 三上は苦笑した。新人の入隊式とその後の訓練は、担当の隊員だけでなくともふらっと覗きにいけるくらいのオープンなものではあるが、流石に初日から伊織とエンカウントさせるのは避けたいという上層部の判断だろう。先日の一件で伊織に対する警戒度がまた一つ上がったことからも、当然といえば当然である。

 

「あら、それなら私もそうなのかしら」

 

 揶揄うかのような笑顔で望も伊織に続く。

 こうして二人並ぶところを改めて見ると、髪の色以外にも血の繋がりは感じられる…かもしれない。

 

「あ、いや…お二人ともそんなことないと思いますよ…?」

 

 伊織に対してはこの場の全員が「当たり前だろ」と思ったが、きちんと言い淀んだ三上はさすが、入隊式で役割を任されるだけはあるといったところだろうか。余談だが、ランク戦の解説をすること自体が珍しい伊織の話っぷりを聞くべく足を運んだ武富や、入隊式には目もくれず伊織や望を見にきた双葉も流石といえば流石である。

 こほん、と一つ三上が咳払いをする。

 

「今回の対戦カード、加古さんはどうご覧になっていますか?」

 

 ランク戦の括りとしては、B級中位の一戦となっている。

 不運が重なり順位を落とすこととなった生駒隊、徐々に順位を上げてきた那須隊、順位の安定しない香取隊の三つ巴だ。より詳細に分類するのであれば、中位と上位の中間くらいの組み合わせであろうか。

 

「そうね、生駒隊が勝つんじゃないかしら」

 

「やはり本命は生駒隊ということですね。ですが、那須隊も最終戦を前にして調子を上げてきているように感じます」

 

「彼女たちには頑張ってほしいわ」

 

 だってガールズチームだもの、と望。同じ境遇に親近感が湧いているのか、声は少し弾んでいる。

 伊織は小さく、されどマイクが拾えるくらいの大きさで「あほらし」と呟いた。

 

「香取隊についてはいかがですか?」

 

「葉子ちゃんがハマればもしかしたら、ってところかしら」

 

 一転して、どこか険しそうな口調だ。

 香取隊の課題は側から見ても明白だ。隊長の香取に得点を著しく依存しているという点、それをカバーできるような連携はできていない点の二つ。そしてここまで、それらの課題を克服するどころか改善しようとする意思すら見えていないのが現状である。あるいは彼女の言葉には、つまらなそうな感情を背後に感じられる気がした。

 

「琴吹くんから見てこの三チームはいかがでしょう?」

 

「興味あらへんなあ。イコさんとこが勝って終わりちゃう?」

 

 こんなのより遊真くんたち見にいきたかったわ、と伊織は口を曲げる。

 その裏で片やバムスター討伐タイムで歴代最速を記録し、片やアイビスで基地の壁をぶち抜いている訳だが、もし伊織がその場に居たとしたらどうなっていたのかは想像したくない。

 三上は口調を変えずに続ける。

 

「間もなく開戦です。那須隊の選んだマップは…」

 

 

 

 

 

「今日の解説なんなの?」

 

 作戦室に不機嫌な声が響く。壁に背をもたれ、腕を組んで指先をトントントントンと小刻みに叩く様子からは、苛立ちが明らかに見てとれた。

 

「A級の琴吹だよ。知らないのか?」

 

 解説…と言われて、葉子がどちらを指しているのかは、言われずとも麓郎にはわかっていた。

 諸事情とかいうよくわからない理由で日程を繰り下げられ、その上自分のチームを興味ないと切り捨てられたせいで、麓郎の隊長は苛立ちを隠せずにいる。

 

「キョーミないわね」

 

 彼が聞いているはずもないが、葉子は意趣返しのように悪態をつく。

 雰囲気は最悪だ。雄太はか細い声で葉子を心配したが、ランク戦を前に余計なことを考える隊長を引き戻すには全くの力不足だ。

 

「作戦。どうするの?」

 

 ぱん、とオペレーターの華が手を叩く。両手に手袋をしたまま叩く音は注目を集めるには少し拍子抜けするものだったが、葉子に対しては効果的だったらしい。

 

「別にいつもと変わんないわよ。あたしが倒すから、あんたたちは好きにしてれば?」

 

 だが、葉子に完全な冷静さを取り戻させるにはまだ少し足りない。苛立ちは消さずに彼女は吐き捨てた。

 

「…相手はあの生駒隊だぞ?」

 

「文句あるなら案出しなさいよ。ろくに点取ったことないくせに」

 

「ぐ、それは……」

 

 それは想定内の反論だったはずだが、少し語気を強めた葉子を前に麓郎は簡単に窮してしまった。

 ぱん、と二度目の音が鳴る。

 

「時間よ。行きましょう」

 

 

 

 ☆

 

 

 

 戦場。周囲は開発地区かのようにパイプが張り巡らされた建物が無数にある。

 辺りを葉子は見渡した。目視できる範囲に敵も味方も居ない。バッグワームを身につけて建物裏を駆けようとしたところで、オペレーターからレーダーを確認するよう通信が入った。

 レーダーを見る。麓郎と雄太はそれ程遠くない距離に転送されたようだ。オペレーター曰く、位置はいいらしい。麓郎からもまずは合流するよう求められる。

 

(どいつもこいつも…!)

 

 まずは合流。そして協力。言いたいことはわかる。けれど、碌に作戦も立てず雰囲気も最悪なまま臨んだこの戦いで、一体何を協力しろというのだろう。

 こうなった原因が自分にあるのはわかっている。しかし、感情というものは──現在もそうだが──自分でコントロールするのは中々難しい。平手打ちの一つでもあそこでしてくれればよかったのに、と彼らの行動にどこか寂しさを感じるような気がして、余計に腹が立った。

 

『よ、葉子待て! 合流が先だ!』

 

「うっさい! 狙撃手削んないとジリ貧でしょ!?」

 

 な…!と、意味を持たない言葉だけが返ってきて、誰も彼女を止めはしない。

 ほら、と葉子は心の内で呟く。

 ちらりと視界に写った敵の狙撃手へ向かって走り出した。

 

 

 

 

 

「ここで香取隊長が動く!」

 

 二人を待たずして戦場を駆ける葉子に、三上は驚いたような声をあげた。

 チームランク戦も千秋楽。これまででも何シーズンも重ねてきた中で、合流は早くから築かれたセオリーだ。

 当然である。一人よりも複数人居た方が強い。例外なのは、三上の隣に座る嫌われ者くらいだろう。

 

「まあそら雑魚(茜ちゃん)のとこ行くよなあ」

 

 その例外は葉子の行動に頷いた。彼からすれば、そちらの方がセオリーなのかもしれない。

 しかし、二人の決定的な違いは、伊織が玉狛でそんなことをしていた時には気の利く二人からのフォローが必ずあった、ということなのだが。

 

「は、速い!」

 

 グラスホッパーを活用して、みるみる内に葉子と日浦の距離は縮まっていく。ともすれば彼女の戦う姿を初めて見るかもしれないC級隊員たちからは、驚きの感情を持ったざわつきが発せられた。

 

 

 

 

 

 再び、戦場。

 玲はオペレーターから送られた予測ルートをもとに、建物の間を縫って走っていた。

 

『那須先輩! 予定通り釣れました!』

 

 ちょうど角を曲がったところで日浦から通信が入る。

 こうしている間にも葉子が猛追してくるはずだというのに、日浦の声に緊迫さはなく、予定通りとまで言い放った。

 一人、玲は頷く。この通りを抜ければ目的地。熊谷ももうじきポイントに到着するだろう。

 

(葉子ちゃんをサポートに行くのなら、このルートを通るはず…。けど、生駒隊の可能性もある…)

 

 息を呑む。もう一つのプランは当然用意してあるが、一番手の予定を進められるのに越したことはない。

 

「な…!?」

 

 出会った。

 小さく玲は息をつく。どうやら、ツキは自分たちにあるらしい。

 

『こっちも予定通り、香取隊の二人に接触したわ』

 

 トリオンキューブを両手に展開して、二人を見据える。

 初動は満点。けれど、ここから先も全員が満点を取り続けなければ、上位陣相手には勝てないだろう。少しだけ、肩に力が入った。

 

 

 

 

 

 

 

「ここでまさかの遭遇です!」

 

 葉子の行動を皮切りに状況は動き出した。

 日浦を追う葉子、それを追う麓郎と雄太。そして、襲われる日浦の救援に向かった玲。三様の逃避行は、香取隊の二人と玲の邂逅で一先ず中断と相成る。

 

「香取隊の二人も玲ちゃんも、どっちもチームメイトを助けに向かっていたのでしょうけど…。運がないわね」

 

 モニターから戦況を見るに、どちらも目的地への道中に偶然出くわしてしまった、という見方が正しそうだ。そして、敵チームのエースに追われる日浦を助けたい玲にとっては最悪の展開ともいえる。

 

 展開したキューブを、玲は二人へ射出した。ギリギリのところで二人は右へと回避する。さらに玲はアステロイドを畳み掛ける。これも二人は右へ飛び退けて回避した。

 

「へえ…なかなかおもろいことするやないの」

 

 その様子をモニター越しに見て、伊織は舌を巻いた。

 その間にも玲は──時折急所を狙った攻撃を見せるものの──香取隊の二人が寸でのところで避けられるような攻撃を繰り返している。

 

「おもしろいこと、ですか?」

 

 抽象的な独り言を発したきり黙って、モニターを興味深そうに眺める伊織に痺れを切らしたのか、三上は彼に問いかけた。彼の言葉に、観衆も純粋に気になっている様子だ。

 ため息をひとつ、伊織はつく。

 

「早う茜ちゃん助けいきたいなら、もっと勝負急ぐやろ」

 

「なるほど…確かにそうですね。ここまで彼女の代名詞であるバイパーの包囲網は見せていません。……ですが、なぜそんなことを?」

 

 言わなくてもわかってるだろ、と内心伊織は三上に吐き捨てたが、ランク戦の実況とはそういうものなのだろう。だが、いちいち説明するのは単純に面倒くさい。

 代わりに伊織は、何やら期待の視線を送ってきている隣の従姉妹さまに丸投げすることにした。

 

「さあ? もう一人の解説さんならわかるんちゃう?」

 

「あら、私は迅くんじゃないわよ?」

 

 にやり、と望は笑う。

 伊織が懇切丁寧に解説する姿を期待していた彼女を裏切ることで、生暖かい視線へのやり返しになるかと思ったが。彼女も伊達に伊織と一緒には過ごしていないらしい。

 

 

 

 

 

『麓郎くんたちが那須さんに捕まったわ』

 

『那須連れてこられるよりよっぽどいいわ。狙撃手一人くらいアタシで十分よ』

 

 オペレーターからの通信は二言、簡単に返して意識を戦場に戻す。

 ハンドガンで何発か射撃を放つが、日浦は建物を使って器用に射線を切った。

 マップ選択権を持っていただけあって、準備だけは出来ていたらしい。

 

「まどろっこしい…!」

 

 痺れを切らした葉子は、日浦が位置取る屋上へ向けてグラスホッパーを展開した。二、三度跳躍すれば簡単にスコーピオンの圏内に接近できるだろう。

 一度目、跳躍。日浦がついに来たか、というような面持ちに変わる。

 二度目、跳躍。日浦の全身を視界が捉えた。

 三度目のグラスホッパーを展開したところで──日浦は意を決したように、屋上の縁から身を投げ出す。

 

「読めてんのよ、それくらい!」

 

 上昇してくる葉子の逆を突く意図で、日浦は高台から落下した…のだが、予想はついていた。葉子は足下のグラスホッパーを消去し、頭上に新たに展開する。手を上に伸ばして触れれば、日浦の動きに対応可能だ。それも、屋上から自由落下する日浦よりグラスホッパーで勢いをつけた葉子の方が速い。

 

 だが。日浦はそれを見てにやり、と笑った。

 

 くるりと空中で身体を翻して、アイビスを召喚させる。大まかな狙いをつけて、葉子へ射撃を放った。

 

 

 

 

 

 

「日浦隊員のカウンターが炸裂しました!」

 

「直接は当たらなかったけれど、ダメージは確実に入ったでしょうね」

 

 日浦が放った射撃は、葉子を外れて建物を直撃した。爆風が大きいから解説席からは詳細なことはわからなかったが、アイビスで建物をぶち抜いたのだ、致命傷といかずともそれなりの負傷は負わせられただろう。

 

「………」

 

 また三上に話を振られそうだったから、今度は黙って伊織はモニターを眺めていた。

 実際のところどれほどの難易度なのかはわからないが、空中で的を狙うというのはかなり難しいはずだ。落下中では否応なく対象の位置がぶれる。葉子がグラスホッパーで移動する素振りを見せていたから、スコープを覗いて狙いをつける時間もなかったはずだ。

 しかし。だとしてもあれは、最初から葉子ではなく建物を狙ったような気がしてならない。

 そうであるとするのなら…。

 那須隊は、この試合に相当な準備を重ねてきたのだろう。

 

「日浦隊員は再び走り出します!」

 

「そうね、それが正解だわ。緊急脱出の光は見えなかったから、葉子ちゃんがまだ生きていることは確実だもの」

 

「どうやろなあ…。もう葉子ちゃんは眼中にあらへんかもしれへんで?」

 

 

 

 

 

 

 

「おお、えらい大きいなあ」

 

 葉子たちとは少し離れた建物の屋上、隠岐は呑気に感嘆の声を漏らしながら爆発のあった方を見た。

 生駒隊の狙撃手である彼に課されたのは、もう一人の狙撃手である日浦を抑えること。日浦と葉子と思しき反応を追ってここまでやってきたところで、この爆発である。間違いなく彼女のアイビスによるものだろう。

 

『イコさん、茜ちゃんたち見つけました』

 

 念のため、隠岐は隊長へと通信を送った。

 

『デカい爆発あったとこやろ? こっちからも見えてるで』

 

 念のためというのは、あれだけ大きな爆発であれば、目の前の隠岐でなくとも見えたであろうからだ。

 そしてまた、彼の通信は「これからどうすべきか」と指示を仰ぐためのものでもある。

 

『イコさんも向かった方がええんとちゃいます? 近いでしょ?』

 

 それを聞いて、水上がすぐさま答える。

 生駒隊のブレーンと言っても過言ではない彼が提案したのは、隠岐に加えて隊長の生駒も向かわせるというものだった。

 

『くまはどうする?』

 

 しかし、懸念すべきは未だ姿の見えない熊谷のことである。どこかに潜伏しているのか、あるいはバッグワームで姿を隠したまま玲か日浦と共に戦っているのか。いずれにせよ、彼女を考慮したうえで作戦を決めるべきだろう。

 

『オレが倒すっす!』

 

『アホ、まだ姿も見えてへんのにどうやって倒すねん』

 

 熊谷がどう動き、それにどう対処をするのかが論点になっていたはずだが…。南沢の過程をすっ飛ばしたなんとも言えない返事に、オペレーターの細井はため息まじりにツッコんだ。

 しかし。ブレーンのはずの水上は、彼の発言に同意する。

 

『いや。それでええ。くまは俺と海で相手する』

 

 まるで、熊谷がこちらへ向かってくることを確信しているかのような口ぶりだ。

 

 

 

 

 

 

 爆風が晴れた中、葉子はよろめきながら立ち上がった。

 直撃は免れた。ところどころトリオンが漏れているが、思ったほどダメージは大きくない。

 ちらり、とレーダーを見やるが、日浦の反応はない。バッグワームを起動してどこかへ隠れたのだろう。

 すぐさま、華から日浦の逃げたであろう予測ルートが送られてくる。建物で入り組んだ地形だが、最短で逃げるとなればある程度の予測は可能だ。

 グラスホッパーで何回か跳ぶと、すぐに日浦の姿は見つかった。葉子が体勢を立て直すのにそれほど時間がかからなかったのが幸いしたのだろう。

 

「いい加減…!」

 

 ハンドガンを三発ほど放つ。両足を掠めるが、直撃はしない。

 そのままグラスホッパーを展開して日浦に迫ろうとしたところで──また彼女が、くるりと身を翻した。

 

「…!」

 

 脳裏に先程の光景が舞い戻る。

 地対地であり、葉子の射撃が通る距離。間違いなく狙撃手の間合いではない。冷静に考えればそんなことあり得るはずもないが、追う側が手こずっているという、焦りにも似た状況が一瞬の隙を産んだ。

 

「な…!」

 

 こちらを向いた日浦は、その姿勢のままに足下へグラスホッパーを展開する。後ろへ跳躍した日浦は、あっさりとまた建物の角へと消えてしまった。

 

(ムカつく…!)

 

 あまりに予想外の光景に、一瞬呆気にとられた。とられてしまった。

 苛立ちと共にチェイスを再開しようと彼女もグラスホッパーを展開する…が。

 その一瞬一瞬の積み重ねが、致命的だ。

 

「旋空弧月」

 

 辺り一体の建築物が、男の声とともに瓦礫となって、周囲に散らばる。

 葉子にとって、今一番この場に来てほしくない相手。一番邪魔になる相手が、到着してしまった。

 

「っ!」

 

 ちらりと、瓦解した建物角の方を見やるが、日浦の姿はない。

 逃した獲物への未練はまだ大いに残っているが、すぐに葉子は振り払った。生半可な意識で倒せるほど、この相手は易くない。

 

 

 

 

 

 

「ここで生駒隊長だ!」

 

 一方、観覧席は彼の代名詞とも言える旋空に沸いている様子だ。煽るかのような三上の口調が、さらにそれに拍車をかけている。

 

「旋空は…両名なんとか回避! そして、混乱に乗じて姿を隠した日浦隊員は隠岐隊員が追います!」

 

 グラスホッパーで隠れたはずの建物角は生駒旋空で見る影もないが、そこには日浦の姿はなかった。

 それを見て、望はにやりと笑う。

 

「那須隊はこれを狙ってたわね」

 

「なるほど…。香取隊長と生駒隊長の両エースを引き合わせるために、日浦隊員は彼女を誘導していたということですね」

 

 日浦が葉子に追われることから、彼女たちにとっては思い描いた通りだったのだろう。生駒隊の方へと逃げて、彼らと葉子をぶつけるように仕向けたというわけだ。思い返せば、寄られれば終わりの狙撃手があろうことか敵エースに姿を晒すなんて失態、この順位に位置するチームがするとも考えられない。

 と、すれば。玲は日浦を助けにいったのではなく、葉子のサポートに向かう麓郎たちの足止めが目的だったのだろう。レーダーの反応が麓郎たちのものかはわからないが、サポートに向かうのであれば通るべきルートというのはいくつか絞れる。そこへ、玲と熊谷が手分けして向かえばどちらかは当たるはずだ。

 

「あんだけ派手な花火あげたら、そらイコさんも寄ってきはるよなあ」

 

 バカは派手なものが好きやから、と伊織。

 日浦のアイビスに対して伊織が抱いた感情も、どうやら当たりのようだ。それは葉子を倒すために放たれたものではない。建物を派手に破壊して居場所を晒すことで、生駒隊の注意を引きつけるため、ということだろう。

 

「となると、残ったエースが暴れられる環境は整ったわけだけど」

 

 望は言う。

 葉子と生駒を引き合わせた目的は玲をフリーにするため。それも那須隊のプラン通りだ。

 

「ですが、那須隊長が一対二という状況は変わりませんよ?」

 

 しかし、三上が言うように玲は完全なフリーというわけではない。彼女の前には香取隊の二人が健在であり、暴れるには彼らを倒す必要はある。

 それを聞くや、望は得意そうに笑った。彼女曰く、彼らは玲を阻む障壁にはなり得ないらしい。

 

「バイパーをリアルタイムで動かせる人間、そうは居ないもの。ねえ、伊織?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は少し遡り、玲たちの戦場。

 開戦から繰り広げられた牽制合戦は未だ続いていた。

 

(くそ…なんで那須は仕掛けてこない!? 罠でも張ってるのか!?)

 

 目の前の相手の真意がわからず、麓郎は内心焦っていた。

 偶然の遭遇はこちらの有利に働くものだと、はじめは余裕を持っていたせいで、エースが攻めあぐねているという予想外の出来事にひどく動揺しているようだ。

 ならば、麓郎側がこの均衡を破ればいい…のだが。

 一対一で勝ち目がないのは明らか。だから、雄太と二人で協力する必要がある。しかし、その協力を如何様にすればいいのか、麓郎も雄太も全くイメージがついていなかった。

 そうこうしている内に、大きな崩壊音が聞こえてくる。少し前にあった爆発音とはまた違う、鈍い音だった。

 

「…茜ちゃんは上手くやったみたいね」

 

 その音がした方を玲は見やる。

 戦闘中にも関わらず、敵の目の前で隙を晒す様を麓郎たちはただ見ていることしかできない。

 やっとの思いで決心をつけ、銃の狙いをつけた時にはもう、玲は戦闘態勢に入っていた。

 彼女を中心に、小さなトリオンキューブが無数に取り囲む。さながらそれは、彼女という惑星を軸に廻る衛星のよう。恐怖でも脅威でもなく、神秘的。儚げな玲と相まって、一種の芸術作品のような印象を受ける。

 

「今度は私の番。悪いけど、一瞬で終わらせるわ」

 

 彼女の周りの衛星が次々と二人を襲う。

 今までと同じ要領で二人は一度、飛び退いたが、衛星はそれでは止まらない。二人は別々の方向に避けた筈だというのに、それは二又に分かれて彼らを追う。何度か回避して、ようやく玲の射撃は明後日の方向へ飛んでいった。

 苦し紛れに麓郎は射撃を放つ。それに一歩遅れて、雄太も旋空を放った。

 しかし、玲の不敵な笑みは崩せない。

 

「…予想通りね」

 

 二人の実力は葉子に比べると明らかに劣る。サポートに長けている様子もない。どこかで耳にした自分たちへの評価が脳裏をよぎるようで、麓郎は奥歯を噛んだ。

 

「くそ…!」

 

 思わず漏れた声に、玲は少しだけ申し訳なさそうな顔をした。

 直後、麓郎の体に鋭い衝撃が走る。はっと思い立って横を見ると、雄太もまた同じようにバイパーで心臓を貫かれていた。

 何てことはない。明後日の方へ飛んでいった玲の射撃が着弾するのを確認していなかったという、ケアレスにも程があるミスをしたまでだ。それが建物の隙間を縫って、二人の背後まで軌跡を描いただけのこと。

 反撃をしたところまではいい。その後の玲の意味ありげな言葉に、あろうことか気を取られてしまったことが分岐点だったのだろう。

 

(何度も覚悟を決めたとはいえ…。ひどいことを言ってしまって、ごめんなさい)

 

 玲は二筋の光を見据える。

 どこか儚げでふわふわとした佇まいの中に、逞しさに似た確かさがそこにはあった。

 

『くまちゃん、こっちは片付いたわ。今からそっちへ向かうわね』

 

『オッケー! あともう少し、頑張りましょう!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(…状況は思い描いていた通り。少し上手くいきすぎてる感はあるけど、茜の頑張りのおかげね)

 

 ここまで誰とも刃を交えていなかった熊谷だったが、ついに生駒隊の二人と対峙した。生駒はすでに葉子と交戦中、隠岐の姿は見えない。何度も何度も繰り返したミーティングで、理想とした展開だった。

 

『ほら!やっぱりくま先輩来た!』

 

『あー、はいはい。海はようやってるわー』

 

 対する南沢らにも、焦りや押されているというような感情はない。あるいは、望んで熊谷と対峙しているような感触さえ感じられる。

 

(やっぱり、予定通りって顔やな)

 

 水上は心の内で吐き捨てた。

 那須隊が何をやらんとしているのか、生駒隊のブレーンにはわかっている。わかっているからこそ、彼女たちへ苛立ちに似た対抗心が心の下の方に淀んでいた。

 

(大抵の人間は、上手くいってるときほど現状を疑問に思わない)

 

 決意を込め、表情を引き締めて前を見る様子からは、熊谷の──そして那須隊の充実っぷりが見てとれる。

 だが、水上はそれが気に入らなかった。

 

(…イコさんを舐めすぎや)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トリガーやその構成の多様化が進み、独自のスタイルを確立する隊員も多くなった昨今において、生駒のそれはクラシックなものだ。

 攻撃用のトリガーは弧月一本のみ。代名詞の生駒旋空という切り札が軸とはいえ、立ち回りに幅を広げるグラスホッパーのようなトリガーは一切持たない。

 だが、彼にとってはそれがベストだというのは、個人ランク六位という肩書きを見れば明らかだ。頭を使うのは水上に任せている。ここまでお膳立てをしてくれたのなら、あとは自分が勝てばいいだけ。そうして今まで戦ってきた。

 

(にしても…)

 

 心の内で何かを言いかけて、生駒は止めた。

 弧月を構えて、両手に力を入れる。そこへ吸い込まれるように、葉子のスコーピオンがぶつかった。

 がっぷり四つの衝突では耐久性の面でスコーピオンは劣る。ならばと、軽さを活かして葉子は手数を増やした。

 

 一撃目、届かない。

 二撃目、防ぐ。

 三撃目、弾いた。

 

 第一波を凌がれ、正面からの攻撃では埒があかないと考えたのか、葉子はグラスホッパーを展開する。

 上空、正面、それから背後。空間を最大限に活用して何とか活路を見出そうとするが、それでも生駒には届かない。

 

 力量差にたじろぐかのように、葉子は一歩下がって仕切り直そうとした。

 

 が。

 

 そこは、生駒の距離だ。

 

「旋空弧月」

 

 彼の旋空は、起動時間を犠牲にした代わりに脅威の射程を誇る。だが、それも裏を返せば、0.3秒という一瞬の隙さえあれば勝負を決められるという彼の実力の証明でもあった。

 一瞬を突かれたとはいえ、流石の葉子も生駒旋空への警戒は強かったらしい。胴体を真っ二つにするよう放たれたそれを、グラスホッパーで跳び上がって回避した。完全に避けることは叶わず、左足を持っていかれたが、反応や意識は悪くない。

 

 距離を取ってはいけない。改めてそう認識した葉子は、着地もせずに再びグラスホッパーで生駒へ接近する。

 

 今度は拳銃から放った追尾弾と共に葉子は攻め立てた。

 追尾弾とスコーピオンの擬似的な数的有利を活かすべく、先程と同じように生駒の上空へ位置取る。意識を至るところへ振って、隙を作る算段だ。

 そして上空から、スコーピオンを投擲。防がれたが、構わずグラスホッパーで接近。スコーピオンで攻撃。避けた先には追尾弾。当たる、と思った。

 しかし、当の生駒は追尾弾は全く意に解さずにスコーピオンを弧月で受けると、葉子の裾口を掴んで追尾弾のある方へ彼女を投げた。

 

「な…!」

 

 シールドで何とか自殺は免れたが、一瞬、攻撃の手が緩んでしまった。そして、その一瞬があれば、彼には十分だ。

 

「旋空──」

 

 生駒旋空がやってくる。上空への回避はさっき見せてしまった。後ろも横も、0.3秒の間に射程外へ逃げることは不可能。

 

 …ならば、活路は一つしかない。

 

 少し前と同じように、葉子は足下へグラスホッパーを展開する。それを見た生駒は、弧月の刃先を上空へ傾けた。

 

(ここ…!)

 

 展開したグラスホッパーを踏む。待ってましたと言わんばかりに生駒は、跳び上がった先を予測して弧月を振るった。

 しかし。

 一瞬だけ跳んだ葉子は、背後に隠して展開しておいたグラスホッパーを、右手で触る。斜め下を向いて置かれてあったそれは、上昇する葉子の慣性を上書きして、低く速く生駒の懐へと向かわせる。

 旋空は誰もいない空間と建物を切り裂いて、消えた。

 

(殺った!)

 

 一瞬の隙を突かれた葉子だったが、一瞬の機転で逆に生駒を釣ることが出来た。

 アステロイドでもスコーピオンでも、どちらでもいい。相手の動きを見てからでも間に合う。堅実に、確信を持ってやらねば次はない。だが、通れば勝ちだ。

 と、思った。

 

「一歩遅い」

 

 だが。

 生駒は振り切った右手を翻す。

 

「旋空弧月」

 

 刃先を再び葉子の方へと翻すと、そのまま旋空を振りかざした。

 生駒の方へと向かう葉子と、それを迎え撃つ旋空。猶予は0.3秒にも満たない。

 

「くそ…こんなのに……!」

 

 トリオン体を真っ二つにされ、葉子は脱落した。

 あと少しのところだった。しかしそのもう少しで、一瞬の逡巡が生まれ、そしてその逡巡が勝敗を分けてしまった。

 

「にしても…。盛ってる香取ちゃんも、カワイイな」

 

 残心は怠らず、心の内で言いかけた言葉を一言。ついでにカメラ目線も忘れずに。

 彼にとってそれは、朝起きて顔を洗うことと同義。いつも通りの勝利だった。

 

 

 

 

 

 

 

「生駒旋空が炸裂!」

 

 緊急脱出の光を確認して、三上は声をあげる。

 日浦とのダメージも少なからず影響はあっただろう。そんな中、攻撃手ランク六位の猛者相手に健闘したと言っていい。実際、モニターから戦況を見つめる三上にもこれは、と思えるような切り返しもあった。

 だが、しかし。結果というのは残酷だ。彼女たちのチームは全滅。得たポイントは皆無。そして、この戦いで露呈した問題点も今までと同じ。

 

「あーあ。あっけなさすぎるやろ」

 

 おもろないなあと、伊織はため息をついた。

 端から期待はしていないと言ってはいたが、予想通りの展開に失望したかのような口ぶりだ。

 

「早くも試合は那須隊と生駒隊の一騎討ちとなります!」

 

 そしてランク戦は残る二チームの対決となる。さらに加えるのであれば、両チームとも目立ったダメージはない。ここからはチームの連携、各々の力量といった総合力が勝敗を分けるだろう。

 

「…勝負あったわね」

 

 望は小さく呟いた。

 

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 

「最終戦、終了です! 結果は生駒隊が六点、那須隊四点、香取隊が零点となりました。最終戦を終え、各チームの順位が確定します!」

 

 結果、那須隊と生駒隊の対決は生駒隊の勝利で終わった。

 最終順位。生駒隊、四位。那須隊、八位。香取隊、十位。

 那須隊は初の上位入りであり、躍進を遂げたと言えるだろう。

 

「この試合のMVPは間違いなく茜ちゃんね」

 

 望の言葉に、三上だけでなく観覧席の多くが頷いた。

 

「あそこですぐやられていたらこんな展開にはならなかったもの。地形を生かした逃げや咄嗟の機転もよかったわ」

 

 間違いなく、この戦いのターニングポイントは最初に訪れたと言っていいだろう。那須隊の作戦は一見賭けに近いほど綱渡りだったかもしれないが、渡る綱を大きくする努力は十分に感じられた。この日のためにセットしておいた日浦のグラスホッパーがその最たる例だろう。

 

「オペレーターとの息の合った逃げでしたね。加えて、若村隊員たちを圧倒した那須隊長も目を見張る活躍でした」

 

「そうね。…けど、あんなに戦いに緩急をつけられる子だったかしら?」

 

 県外スカウトに行くことの多い望にとって、玲がこうしてランク戦を戦う姿を見るのは久しぶりのことだった。

 今までの玲への印象は、バイパーの扱いに代表されるよう、シューターの中でも数少ない自らがエースとなって戦況を動かせる隊員には間違いないが、トップランカーと比べるともう一つ殻を破る必要がある、といったものだった。

 それが、今回の戦いを見るとどうだ。麓郎たちの足止めで全体の戦況をコントロールし、ギアを上げるべきところではしっかり成果をあげる。正々堂々だけでは中々勝てない上位とのランク戦で、望の知らない嫌らしい戦い方を玲は見せていた。

 

「はい。ここ最近、那須隊長のスタイルが変わったように感じられます」

 

 最近変わった、と三上は言う。指揮官とエースという、玲の二足の草鞋を軽減できるほどのブレーンに誰かが成長したのか、あるいは玲本人の中で何か大きな出来事があって、スタイルが変わるほどに心境が変化したのか。

 ともかく、今の玲を望は好意的に受け止めていた。

 

「容赦がない感じでよかったわ」

 

 満足そうに、何だか物騒な物言いで望は笑う。

 三上は苦笑をしつつも、総評を終えたらしい彼女に一言礼を告げた。

 

「では、琴吹くんからも総評をいただいてもいいですか?」

 

「イコさんのカメラ目線、キマってたなあ」

 

 一言で終わった。

 彼女が彼女なら、その従兄弟も従兄弟である。

 もう少しちゃんと纏めろと、「はい」にメッセージを込めて相槌を打つと、伊織は気の抜けた返事をした。

 

「うーん、特にあらへんなあ。エース(笑)さんがイコさんに一瞬でやられた時点でもう終わりや」

 

 再び、三上は苦笑する。

 最後まで伊織の口から出る毒は止まらないらしく、流石の三上も返事に澱んでいた。そんな彼女を見て、伊織はけらけらと笑う。

 

「そういえば、一つ疑問に思っていたのだけど」

 

 困り顔の三上に助け舟を出したのは望だった。

 

「どうして生駒くんと隠岐くんだけを向かわせたのかしら? 生駒隊全員で葉子ちゃんたちのところへ行っていれば、くまちゃんを浮かせることも出来たはずよ」

 

 そう。那須隊の作戦はあまりにも上手くいきすぎていた。元A級の二チームの次点に位置するような生駒隊が、それに対して明確な対抗策を講じなかったというのは少し疑問が残る。

 

「あえてやろ。向こうのプランに乗らされてるフリしとけば、予想外の展開は起こりにくいやろから」

 

 伊織の見解は、それを見透かしても尚彼女たちの思惑通りに動いた、というものだ。

 確かに、上手く進んでいるのであれば那須隊が作戦を変える必要は全くない。しかしそれは、彼女たちが有利なように戦況が運ばれるということでもある。

 それを承知の上で真正面から受けてたったというのは、マイペースなチームカラーというよりも、自分たち──ひいては、隊長の生駒の実力に絶対の自信を持っていたということだろう。

 

「逆に予想外だったのは玲ちゃんたちやろなあ」

 

「と、言いますと?」

 

「麓郎くんたち倒したあと、友子ちゃんと合流して海くんたち倒す。そっから葉子ちゃんとの戦いで消耗したイコさん倒して勝ち…って感じやったんやろけど、実際はあのザマやったからなあ」

 

 実際、彼女たちの思い描いていた青写真は伊織の言う通りだ。

 今の実力では万全の生駒を倒す術は持っていない。ならば、生駒を万全でなくすればいい。彼女たちの作戦のもう一つの狙いはそこにあったのだが…。現実は見ての通りである。

 あと一つ彼女たちが見落としていたのは、生駒だけにフォーカスしすぎていて、水上らに対しての詰めが甘かったことでもあるが。

 

「なるほど…。では、香取隊は具体的にはどのような点が敗因だったのでしょうか?」

 

 正直に言って、この話題を振ることは避けたかった、と三上は思っていた。けれど、ランク戦の実況という、公平さを求められる立場であることや、課題を彼女たちに認識させて成長につなげるという、ランク戦そのものの意義を汲み取って、表情を変えずとも心の内では泣く泣く彼女は言う。

 

「全部やろ。イコさんみたいに一人でなんとか出来る実力もあらへん、かといって玲ちゃんとこみたいにちゃんと準備してきたわけでもあらへん。最初っから最後までおもろなかったなあ」

 

 案の定、返ってきたのは酷評である。

 

「これは中々厳しい指摘ですが…その分、香取隊に期待をしているということの現れですね」

 

「いや? おもろないもの見せられた腹いせやで?」

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

「………」

 

 作戦室。隊員たちの会話はなく、解説たちの会話だけが反響している。

 

「…よ、葉子(ヨーコ)ちゃん……」

 

 返事はない。会話を拒否する態度がありありと見られる様子から、葉子の機嫌はどん底だとわかる。

 

「俺だってあの言い方に腹は立つ。…けど、言ってることは間違ってない」

 

 ぴくり、と葉子の眉が動いた。

 

「…何よ、あんたもアタシのせいで負けたって言いたいの?」

 

「そうじゃない! チームの責任だって言いたいんだ。俺たちだって()()すれば那須隊みたいに…」

 

 またそれだ。

 いいようにやられて苛立つ感情は多分にあるが、それでも彼女たちの準備は見事だったと認めざるを得ない、と葉子も思っている。思っているからこそ、麓郎の言うその二文字はあまりに軽いように感じられた。

 実際、あれほどの連携を物にするまでにどれほどの時間と労力を費やさなくてはならないのかは──それが一番の問題なのだが──わからないし、やりたくもない。

 

「那須一人にやられたあんたらと協力? …馬鹿言わないでよ」

 

 苛立ちが思わず口をついた。

 ともすれば批判されるべき身内への苦言だが、チームメイトはそれを窘めない。

 

「なっ!? お、おい葉子!!」

 

 一体どこへ。普段よりも少し足早に出口へと向かう葉子へ、やっと呼び止める声がかかった。

 

「腹いせよ。あんだけ好き勝手言われて、一発お返しでもしなきゃ気がすまないわ」

 

 この言い様のないもやもやは、嫌われ者にぶつければ発散させることは出来るのだろうか。

 かつかつと、力を入れて地面を踏む足音が、廊下の先まで響いていた。

 



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『普段通り』の日々へ その2



年内には大規模侵攻に入りたいです………




 観覧席の出口付近に彼は居た。

 右肩を壁にもたれかけ、葉子からは背中しか見えない。少しずつ近づいていくと、断片的に誰かと話す声が聞こえてきた。

 解説はいつぶりだの。見ない間に少し痩せただの。またドライブに行きましょうだの。耳に入ってくるのは伊織の向こうに居るであろう、聞き覚えのある女性の声ばかりで、伊織は「ああ」だとか、「はいはい」だとかぞんざいな返事しかしていない。

 解説席で周囲に毒を撒き散らす姿とはあまりにかけ離れた、まるで身内相手に気を許したような様子の伊織を見て、余計に葉子は苛立った。

 

「へえ。嫌われ者って聞いてたけど、話し相手くらいは居るのね」

 

 伊織がぎょろりと振り返る。あまりの勢いに、葉子はぎょっとした。

 

「おやおやおや。これはこれはイニシャルKやのに未だ加古隊に勧誘されてへん葉子ちゃんやないの」

 

 振り返った伊織は、作戦室から見たものと同じような表情をしていた。

 

「…あんた、よっぽど叩き潰されたいらしいわね」

 

 出来る限り最大限に底冷えする声で、眉間に力を入れて睨みつける。

 だが、それを向けられた嫌われ者は、腹が立つような貼りついた笑みを余計に大きくした。

 

「叩き潰す…? あはは!おもろい冗談言うなあ!」

 

 笑い声が乾いた廊下に響く。

 

「B級相手ですら一人も落とせへんかった葉子ちゃんが、誰に何をするって?」

 

「こいつ…!!」

 

 葉子の顔が更に険しくなる。

 お互い、言い合わせてもいないのにほとんど同時に、個人ランク戦ブースへ向かおうとした時だった。

 

「伊織」

 

 望が伊織を呼び止めた。

 

「何や、今いいところやってのに」

 

 無表情で、振り返らずに伊織は言う。

 その顔も──彼女は今日の伊織しか知らないが──葉子には、見たことのないものだった。

 

「先に戻ってるわ。…週末、予定を空けておいてちょうだい」

 

 それだけ言って、望は伊織の返事も聞かずにどこかへ歩いていく。

 堪忍したかのように、伊織は「はいはい、わかったわかった」と首を縦に振った。

 

「…()()()()()()()()、の話やけど」

 

 望は頷いて、それから笑った。

 伊織のそれがどんな意味を持つのか、葉子にはわからない。だが、二人のやりとりを目の当たりにして、作戦室で感じたもやもやが腹の奥でちりちりと熱くなるようだった。

 

 

 

 個人ランク戦ブース。葉子は個室に入るなり、驚きとともに嘲りの感情を抱いた。

 

『ぶっ…! あんた、マスタークラスにすらいってないじゃない!』

 

 ブース番号133。使用トリガーはバイパーで、ポイントは7000台。葉子よりも下だ。

 ボーダーでは8000を越えた隊員はマスタークラスと呼ばれ、一種の実力の指標とされている。葉子もマスタークラスだ。

 あれだけ葉子たちをこき下ろしたくせに、当の本人はその程度。玲を相手に束になっても圧倒された、チームメイト二人と同じレベル。もやもやした感情のサンドバックにするには、お誂え向きかもしれない。

 

『どこのチームかは知らないけど、こんな弱いやつ居たんじゃ解散して正解ね!』

 

 通信機越しから伊織の吠え面でも感じられることを期待して葉子は畳み掛けた、が。

 

『たしかに、あっこはボクには合わへんかったわ。もっと手頃な──そやなあ、イコさんに手も足も出えへんようなやつが隊長やってるくらいのチームがええかもなあ』

 

 終わってから一時間も経たないチーム戦の記憶を無理やり、それも嫌な部分だけこじ開けられ、葉子の顔が歪む。彼に見られなくてよかった、と少しだけ思った。

 

『…潰す』

 

『あはは! 冗談やて、本気にせんでや!』

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 転送先。住宅が並ぶオーソドックスな戦いの場だった。

 開戦の華からの通信を思い出す。聞き慣れた声が無いだけで、少し寂しい気がした。

 

(ナメた真似…!)

 

 レーダーを見ると、東の方に一つ、まるで自己主張を存分にするかのように反応があった。

 それは伊織がバッグワームを起動していないということであり、それが意味するのは、正々堂々正面から戦いたい…のではなく、葉子相手なら姿を隠す必要もない、ということだろう。少なくとも、葉子はそう受け取った。

 対抗するかのように、葉子は一度羽織ったバッグワームを解除する。

 どうやら、実力を勘違いして調子に乗る雑魚相手に、力の差というものを見せつけなくてはいけないらしい。

 

 

 

「あれ、正面から来るんや」

 

 微動だにしないレーダー反応の所まで行くと、迎えたのは不思議そうな表情だった。

 みょうがわるいなあ、と首を傾げたまま一言、伊織はこちらに聞こえるように呟く。

 

「あんたくらい、小細工なんて使わなくても余裕よ」

 

 だが、葉子はあまり意に介さなかった。

 言わせておけばいい。今までチームの得点のほとんどを獲得してきた自信がある。ポイント7000そこらの相手、軽く捻り潰せる。

 確か、彼がメインに使うトリガーはバイパーだったはずだ。グラスホッパーで近距離まで近づいて、スコーピオンで切り裂いて終わり。

 そうイメージをつけて、右足で反射板を踏んだ。

 

「あ、そ。なんでもええけど」

 

 勢いのままスコーピオンを一閃するが、手応えはない。

 振り返ると、近くの塀を背にして、彼は相変わらず貼りついた笑みで佇んでいた。

 別段躊躇もせず、伊織へ接近する。今度は相手の距離まで下がるつもりはない。

 息をつかせぬように、両手のスコーピオンを葉子は振る。生駒と違い、受け太刀からのカウンターに怯える必要はない。反撃もシューター相手ならワンテンポ遅れてやってくる。安易にこの距離まで近寄らせた伊織の驕りだ。

 少しずつ、少しずつ。伊織と塀の距離が縮まっていく。

 

(所詮この程度よ)

 

 伊織の回避を、葉子のスコーピオンが上回ってきた。どうやら向こうの盾の展開が追いつかないらしく、盾で防ぐのは時折だけで、何とかステップで避けているといった状態だ。

 右手で振るったスコーピオンを辛くも避けた先。伊織の左踵が、塀に付いた。

 

「これで終わりね!」

 

 左のスコーピオンで、伊織の左半身を攻撃する。もう退がる事は出来ない。盾で凌がれても両手の手数で押し切れる。反撃にトリオンキューブを展開する様子もない。

 なら、伊織が次に打つ手は一つ。

 スコーピオンが伊織の左脇腹を捉え、突き刺す──前に、予想通り、伊織は姿を消した。

 視線の向く方、数メートル先。どこへ姿を消したのかはわかっている。葉子は塀を突き刺したスコーピオンを確認することなく、そちらへ身体を向けようとした。

 だが。

 

(な……)

 

 葉子の目に映ったのは、吠え面をかいて焦る彼の姿ではない。しばらく煙が視界を占拠し、それから見えたのは呆れるくらいに真っ青な空だった。

 何が起こったのか、わからない。

 

「おーい。こっちやでー」

 

 声がする。葉子の背後に居るはずの彼の声は、いつの間にか正面から聞こえてきた。

 辺りを見る。どうやら尻もちをついていたらしい。葉子がスコーピオンを突き刺して瓦解したはずの住宅の塀は、跡形もなく消えていた。そして、葉子の身体からは所々トリオンが漏れている。…このダメージの具合、一時間と経たないほど前に葉子は味わっていた。

 

「うーん、()()()()()()()()()ってくらいやろか」

 

「…っ!!!」

 

 歯を折ってしまいそうなくらい、顎の力が強くなる。

 跡形もなく消えた瓦礫に、破片でも食らったかのように漏れ出すトリオン。ランク戦で日浦にやられたのと同じ、爆風によるものだ。

 

(こいつ…! 壁の裏にメテオラを…!)

 

 塀まで追いつめたと葉子は思っていたが、実際は逆だ。彼女が来る前に仕掛けておいたメテオラのところまで伊織は瞬間移動をし、避ける素振りでそこまで誘導した。あとは、葉子のスコーピオンなり射撃なりが塀を打ち壊して、その瓦礫がメテオラを爆破させるのを誘えばいい。

 だが、伊織が自分で言った通り爆発は小規模だった。もっと火力の大きなメテオラだったら一発で仕留められただろう。…つまり、ただ煽るためだけにあんなことをした、ということになる。

 

「…っざけんな!!」

 

 伊織の行動と──まんまとやられた自分への苛立ちを隠さず、葉子は迫る。

 小細工がどうとか、深く考えるのはやめた。全力で、最速で終わらせる。

 アステロイドでの牽制を四発ほど見舞い、スコーピオンを振るう。射撃は盾で、スコーピオンはステップで避けられた。

 だが、それでいい。

 伊織がステップした先にはグラスホッパーがある。右足が地面に触れるよりも先にそれを踏んで、伊織は再び葉子の目の前に戻された。

 少し驚いたような様子を見せる伊織から、射撃が数発飛んでくる。

 

(こんな射撃…!)

 

 至近距離から真っ直ぐ葉子の懐へ向かってくるが、あの時の旋空より数段も遅い。

 葉子はそれを難なく避けると、今度は両手のスコーピオンで畳みかけた。空中で移動の出来ない伊織は盾で受けることしかできない。それも、両側からとなると反撃にトリガーを使う隙もなさそうだ。

 右のスコーピオンで薙ぎ払う。伊織は盾で防御した。

 次は左。これも盾で防がれる。続けて左。当たる寸前で、また防がれた。

 だが、葉子はそれを好機と捉える。盾と伊織との間隔が段々と狭まってくれば、伊織本体へ当たる確率も上がるからだ。

 そして、盾を縫って攻撃を当てる技術と発想に関しては、葉子はボーダー有数だ。

 防がれた左手が弾かれる反動のまま、葉子はスコーピオンを手放す。その慣性で飛んでいったスコーピオンは、その先のグラスホッパーで反射し、伊織の背後へと弾かれていった。そしてまた、背後のグラスホッパーがスコーピオンを反射させる。ブーメランのように回転しながら伊織の側を動き回るスコーピオンは、さながら鎌鼬のように刹那の攻防を描く。

 伊織へブーメランが接近する中、葉子は右手でスコーピオンを振るって、彼に選択を迫る。

 飛び回る方を撃ち落とすのか、あるいは防ぐのか。それともある程度のダメージは割り切って、目の前の葉子を警戒するのか。だが、彼がどうするのかは明白だ。

 伊織は葉子の右手の方と、右後方から飛来してくる方、どちらも盾で受けた。

 それが最も安全であり、最も()()()手である。意表を突いた攻撃だったが、対処を誤らなければ問題はない。仕切り直しだ。…そう、思われた。

 伊織の盾に衝突し、ブーメランは弾かれる。

 今よりも上空へ弾き返されたそれを横目に、葉子は再び右手を振るった。

 まだ畳みかけるつもりか。伊織は身構えて、スコーピオンの軌道上に盾を置くが、葉子のスコーピオンは明後日の方へ伸びていく。

 伸びたその先で────スコーピオンは、弾かれたブーメランと接触し、一体となった。

 

「…!」

 

 一体となった二つのスコーピオンは、普段のリーチを遥かに超え、直角を為して伊織の右肩へ突き刺さる。

 

 元A級隊員、影浦の得意技『マンティス』。

 二本のスコーピオンを連結し、通常よりも遥かに長い射程で相手を攻撃する彼の得意技だ。

 現在B級二位部隊を率いる彼との対戦経験はほとんどなく、またログを見て研究するなんて面倒な真似は全くしない葉子にとっては、彼の技を借りたという自覚はない。ただのその場での思いつきだ。

 だが、空中でスコーピオンを連結して攻撃するなんてマンティスの応用とも言える芸当、ぶっつけでやってのけた葉子の胆力と実力は特筆すべきである。

 

「あはは! いい顔よ、あんた!」

 

 言葉とは裏腹に葉子はすぐさま伊織へ接近した。

 最速で終わらせるとすでに決めている。伊織の吠え面なら、あとで拝めばいい。

 右手を振り下ろす先、伊織は盾を構える。

 彼の展開した盾はいつもより範囲の広いものだったが、葉子は気に留めなかった。

 油断ではない。彼女にとって、それはただのけん制だった。防がれることは織り込み済み。この先でどう伊織を崩していくのか、そちらへ思考を割いていた。だから、些細な違和感を無意識に切り捨てた。

 

 スコーピオンを振り抜く途中、何かをさくりと切る感触がした。

 それが盾ではないと感じると同時に、辺りに小さな爆発が起こる。

 視界を再び、爆風が占拠した。

 

(小癪…!)

 

 その正体は小さなメテオラである。

 伊織は葉子の攻撃が当たる前、展開しておいたメテオラを一発、スコーピオンの軌道へと向かわせた。

 やや広く延ばした盾は爆風を防ぐためのものだったらしいが、葉子にもダメージはほとんどない。

 迫り来る葉子から時間を稼ぐだけ稼いで、考える時間を作ろうとしたのだろうが、こんな虚仮威しに日和る葉子ではなかった。

 足下へグラスホッパーを展開する。爆風で見えないのは向こうも同じ。なら、いきなり目の前に葉子が現れて面食らうはずだ。

 

「全部後手で、()()()()のよ!」

 

 爆風を突っ切る。その中に伊織の姿は見えない。流石に一歩退がったか、と少しだけ用心して、そのまま白煙を抜ける。

 

「ちゃうなあ。キミが一歩、早いんね」

 

 前傾姿勢で駆け抜けたその先、伊織は葉子を見下ろしていた。

 

 葉子の目が見開く。

 伊織にではない。葉子の視線はその傍らにある、無数のトリオンキューブに注がれていた。

 一体いくつに分割したのだろう。大まかな数すら見当がつかないほどに、それは伊織の背後を真白く照らしている。

 

(釣られた…!?)

 

 メテオラでお互いの姿が見えなくなった時点で、一つの読み合いがあった。

 仕切り直すか、畳みかけるか。

 伊織は前者、葉子は後者をそれまでで見せていた。そしてその結果、葉子が優勢に立ってもいた。大抵の人間は上手くいっているときほど疑問に思わない。パーしか出せない人間が──そもそもそう思わされている時点で葉子の負けなのだが──突然グーを出してくるとは、思いもしなかった。

 

「イコさんにもボクにもボコられて、人生世知辛いなあ」

 

 伊織のもとを離れたトリオンキューブたちは、まるで小魚が集まって泳ぐかのように群れを成し、三日月を形成する。

 さながら、それは────

 

「旋空弧月、なーんて」

 

(は、速い!?)

 

 先程のアステロイドのスピードを想定していた葉子は驚愕する。シューターの特徴にして特権。威力や速度といったパラメータを自在に操ることのできるメリットが遺憾なく発揮された。

 そしてそれは、刀で切断するかのように、葉子の右半身を抉り取る。

 

「…カメラ目線できへんかったわ」

 

 脱出光がひとつ、伊織の頭の上を通り過ぎていった。

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

『うーん。大した威勢の割に、やっぱおもろないなあ』

 

 結果。五本勝負のうち、負けは四つ。振り返れば、完敗だった。

 

『どうしてアタシがこんなやつに…!』

 

 認めたくない。自分よりポイントが下のやつに、自分をあんなにバカにしたやつに、完敗しただなんて。しかも、葉子がランク戦で負ったものと同じような食らい方を許すなんて、屈辱もいいところだ。

 

『あはは! 準備も実力も足りへんって、解説のとき言うたやないか!』

 

 ズタズタにされたプライドに追い討ちをかけるように、伊織は同じ言葉を重ねる。

 言い返すこともせずにただ通信機を睨みつけていると、伊織は「けどな」と続けた。その声色が、自分よりも下の者へ向けられるような嘲笑の類だと感じて、苛立ちは最高潮まで跳ね上がる。

 

『ボクかて少ーし言いすぎたって反省してんね。ちょっとだけアドバイスしたるわ』

 

 いらない、と通信機に向かって吐き捨てるが、聞こえてくる声は全く聞く耳を持たない。

 

『負けるのが嫌なんやろ? そやったら簡単や。勝負なんてせえへんで逃げたらええ』

 

 確かに、今まで葉子は壁に当たったときは、乗り越えようとせずに逃げてきた。オールラウンダーの称号も、裏を返せば中途半端に投げ出してきた結果だ。

 だが、プライドの高さだけはボーダーで留まることを知らない葉子がそう言われて、素直に従うはずがない。絶対にこいつを見返してやるとさえ思った。

 戻ったら、特訓だ。そう決めたときに葉子の頭に浮かんだ戻る先には、見慣れた三人の姿があった。文句を言いながらも手伝ってくれそうなのと、それを宥めてくれるのと、何も言わずに手を貸してしてくれるのと。

 

 

 そんな時、だった。

 

 

 通信機から、声が聞こえてくる。

 

 

『チームなんて組んでるから試合せなあかんのや。ちょうどシーズン終わってキリもええし、()()()()()()()()()()()()()()────』

 

『お前、名前は?』

 

 気がついたら、口をついていた。自分が思っているよりもずっと低い声で、大きな声で。

 なぜランク戦が終わってから、あんなにもやもやしたのか。ぼんやりとだが外型がわかりかけてきた気がする。手を伸ばせば届きそうだが、その前に嫌われ者への感情が邪魔をした。

 

『琴吹伊織。ボーダーで知らへんやつの方が少ないで?』

 

『琴吹伊織…しっかり覚えたわ。お前は絶対に許さない』

 

 どうしてここまで感情的になったのか、まだはっきりとはわからない。伊織の言葉への反抗心とはまた違う。ただ一つ言えるのは、それは到底看過できるものではない、ということだ。

 

『あんたはアタシがぶっ潰す』

 

 



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『普段通り』の日々へ その3


あけましておめでとうございます。

生きてます。




 ボーダー本部、フリースペースにて。

 なんだか落ち着かない様子で、修は右手で襟を直した。首元へ視線をやっても、後ろの方に手をやっても、別段乱れている感じはしない。けれどもさっきよりは良くなっただろうと一人納得すると、今度は腰のあたりを手ではたく。そもそも換装体に汚れは付くのかは疑問だが、埃か何かが付着することはあり得るだろう。一通り終えると、修はため息をついた。

 

(…………)

 

 さっきから誰かに視線を向けられている…ような気がする。誰かというのは不特定多数の人であり、後をつけられているとかそんなわけではない。身だしなみに何か変なところでもあったのかと思っていろいろ調べてみたが、そうでもなさそうだ。周りにはC級が多いから、右肩にある玉狛のシンボルが珍しいのだろうか。宇佐美の熱量に負けて、隊服も少し派手に拵えてしまったかもしれない。

 普段から割と周囲の目には疎い修がそう感じたのだから、それは相当なものなのだろう。しかし、修自身にはこれという明確な心当たりはなかった。

 

(だ、誰か……)

 

 注目されることは慣れていないし、好きでもない。心当たりがないから深刻な問題だとも思わないが、居心地が悪いのは紛れもない事実だ。

 こんな時、知り合いが話しかけてきてくれれば気も紛れるのだが…。

 

「久しぶりやなあ、メガネくん」

 

 そうして椅子に座って一人背筋を正していると、男性から声がかかった。

 間の抜けたイントネーション、特徴的な口調。数回しか会ったことはないが、修の記憶にそれは強烈に残っていた。

 

「あ、琴吹先輩。お疲れ様です」

 

 その声の主は琴吹伊織。警戒区域内でも玉狛支部でも、一悶着あった先輩だ。

 さっきから肌をざらりと撫でる周囲の視線の中から、うわあ、と声が聞こえたような気がした。

 

「メガネくんは半熟と中身火ぃ通ってんのどっちがええ?」

 

 伊織は修から許可も得ずに勝手に正面に座ると、皿の上に乗った目玉焼き二つを指差して、笑みを浮かべている。

 やっぱり変な先輩だ、と修は思った。

 とはいえ、修の思う『変』は迅とか小南とかが属するくくりであり、世間一般が抱く琴吹伊織への印象とはまた違うものなのだが。

 

「じ、じゃあ半熟で…」

 

 恐る恐る、修は左の方を指さした。

 それを見て伊織は薄っぺらく笑うと、修の言った方へフォークを突き刺す。じんわりと、穴の空いたところから黄身が漏れ出した。

 

「ま、聞いただけやけど」

 

 醤油を少し垂らして、伊織はそのまま自らの口へ運んでしまった。

 

「な…」

 

 これには修も困惑する。

 一体何がしたいのかわからない。そもそも気軽に話しかけられるほど深い関係ではないし、笑ったまま目玉焼きを咀嚼する様子からは特に用事もなさそうだ。

 

「………」

 

 しばし、沈黙が訪れる。目の前の伊織は顔に笑みを貼り付かせたまま、一向に口を開かない。周囲の目は気にならなくなったが、今度は先輩と二人きりだというのに何も話さない状況が居づらくなってきた。

 

「こ、琴吹先輩は!」

 

 とうとう居た堪れなくなったのか、声が上擦りながらも修は思い切って伊織に切り出した。

 不思議そうな視線は見ないようにして、修は続ける。

 

「琴吹先輩は何の用でぼくに…?」

 

「キミみたいな可愛い後輩が出来て、ボク嬉しいんね」

 

 やけに演技くさい口調で伊織は答えた。これでは遊真でなくとも嘘だとわかる。

 質問の答えとも思えないような言葉に、修は返事に窮した。

 

「…あれ、桐絵ちゃん辺りからボクのこと何も聞いてへんの?」

 

 しかし、予想外なのは向こうも同じだったらしい。何かのスイッチが入ったような様子だった伊織が、一旦フラットな面持ちに変わった。

 

「い、いえ。特に何も…」

 

 修も、恐らく遊真や千佳も、伊織云々の話は誰からも聞いていない。というのも、玉狛支部の一件で小南と伊織の仲が悪そうだというのは察していたから、彼について何か聞くのは御法度だろうと思っていたからだ。そしてそれは多分、ほかの先輩たちにとってもそうなのではないだろうか、と修は思っている。

 

「……へえ」

 

 伊織は修から視線を外した。

 ここではないどこかへ焦点を合わせているかのように、彼の瞳は虚ろにぼやけている…ように感じる。

 少しして伊織の視線が修を捉え直すと、ぱん、と手を叩いた。

 

「ま、ともかく仲良くしよや! 右も左も分からへんキミに、ボクが手取り足取り教えたるわ!」

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

「あの…一体これは…?」

 

 仮想空間内、市街地ステージ。

 しばらくその場で空を眺めていると、困惑して冷や汗をかいた修がやってきた。

 

「ん? 個人ランク戦やで?」

 

 仲良くしよう、なんて触れ込みで後輩を連れ込んだ先はランク戦ブースだ。しかし、彼らが今立つ場所は転送先の仮想空間。そこへはブースに入って対戦相手を選ぶ必要がある。修にだって、ここがどこかなんてわかりきっているだろう。後輩からの問いかけはそんな答えを求めたものではないことは知っている。

 

「ど、どうしてぼくが…」

 

「さっき言うたやないか。右も左も分からへんキミに、ボクが教えたるって」

 

 基地内と同じようにわざとらしく、伊織は両手を広げた。

 ここへ来る前に大袈裟に手を鳴らしてきたから、一度離散した修への好奇の視線はある程度戻っただろう。伊織が何をしたいのか、言わずとも普通は態度でわかるはず…なのだが。

 

「は、はあ」

 

 修の生返事に、今度も基地内と同じように伊織は首を傾げた。

 揚げ足をとるかのようなやり取りに始まり、裏の見えすいた親切を見せたつもりだったが、当の本人とはずっと噛み合っていない。一体どんな意図で伊織は修に声をかけて、どうするつもりでランク戦へ連れ込んだのか、まったくわかっていないようだ。

 

「はあ。メガネくんはもう少し聡い子や思うてたんやけどなあ」

 

 ため息を一つ、伊織はついた。

 

「攻撃手ランク二位の風間さんと引き分けたB級隊員。それが白昼堂々A級隊員とランク戦なんて、いい見せ物以外の何物でもあらへんやろ」

 

「…そういうものなんですか? そもそも、あれだって…」

 

 あれだって。修の言いたいことはわかる。風間に引き分けたことだけがクローズアップされて、それまでに24回も負けたなんて話は全く出回っていない。

 だが、単純な数で言えばC級やマスタークラス以下のB級が圧倒的に多い中、24敗だろうが彼と同じことをやってのける隊員は一体どれくらいの割合だろうか。

 

「みーんな、キミに興味深々やで?」

 

 ボクのおかげで、今ごろモニター前に大集合やろなあ。そう伊織が言うと、修は目を見開いた。何だか肩透かしを食らったような気分だ。

 両手にトリオンキューブを展開すると、慣れない手つきで修は戦闘態勢に入った。

 愚直に展開された盾はしかし、変化弾が嘲笑った。

 

「それがこうして手も出ず」

 

 手首を貫いて、両の手が零れ落ちる。

 

「足も出ず」

 

 足首も貫いて、バランスを崩す。

 

「ただやられるとこ見て、がっかりやろなあ」

 

 修は驚愕の表情を浮かべて、こちらをただ見つめていた。

 恐らくその驚愕は伊織の変化弾の軌道に対してのものであり、大衆の前で痛めつけられるという屈辱に対しての憤りではないだろう。ここまでのやり取りを経て、伊織はそう思った。

 

「あはは! ほんまに()()()()()()できるとは思わへんかったわ!」

 

 伊織は笑う。

 しかし、それでも修の顔は驚いたままで、敵意というものはあまり感じない。

 

「……はあ。噂の玉狛の新人、おもろそうやと思ったんやけどなあ」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 呟いて、アステロイドを展開した。勝敗はとうに決している。だが、そのまま終わらせるつもりはない。彼が次に放つであろう言葉を、伊織は待っていた。

 

「…もう一戦、お願いします」

 

 目には何かの決意。伊織が普段向けられるようなものとはまた少し違う、ドライな敵意。しかし、さっきまでとは明らかに彼が変わった。

 

 人が怒りを示すときに、堪忍袋の緒が切れた、と言う。

 だが、堪忍袋の緒は人によって様々だ。

 マスクのギザギザ歯の先輩みたいにほんの少し引っ張っただけで切れるような人間も居れば、どれだけ引っ張ってもびくともしないどこかの支部の菩薩みたいな人間も居る。

 けれども、伊織が思うに、ボーダーの人間にはほとんどに共通した緒の切り方があって、それは自分の思い通りにいかないとすぐ癇癪を起こすプライドの高い彼女にも、自分のことにはてんで疎いメガネの彼にも当てはまることだ。

 

 彼らの仲間や友達を傷つけること。

 

 それだけでいい。フォークで目玉焼きの黄身を潰すより簡単だ。

 そして。だからこそ、伊織が普段通りの伊織(嫌われ者)でなくてはならない、とも思う。

 

「へえ。…前言撤回や」

 

 伊織はいつものように、笑った。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 ランク戦ブース、モニター前。

 近くの自販機で『重くなる弾の人』と一悶着あったあと、そのチームメイトの米屋とかいう先輩に誘われて遊真はここまでやってきた。風間には訓練生だからという理由で断られてしまったが、手合わせ自体はどの隊員でもできるらしく、「おもしろければ何でもいい」と米屋には歓迎された。

 以前に来たときと同じく、ブースは賑わいを見せている。特にモニター前には人が集まっているようで、その中に見知った顔を見つけたらしい米屋が声をかけた。

 

「よー、緑川。ブッキーの試合見るなんて珍しいな」

 

 緑川と呼ばれた少年が振り返る。背丈で言えば遊真と同じくらいだ。訳あって遊真の体の成長は止まっているから、背丈が同じということは遊真よりも歳下なのかもしれない。

 小さな背丈と大きな瞳からは快活そうな印象を受けるが、振り返った彼の顔はしかし、どこか複雑そうな表情をしていた。

 

「まあ、ちょっと。相手が気になってたから」

 

 そう言われて、遊真もモニターへ目をやる。

 九勝零敗とモニターの隅には勝敗がカウントされていた。けれど、圧倒的だと片方の実力に舌を巻くというより、モニターの惨劇に意識が向いてしまう。

 モニターには、もう片方の四肢が捥がれ、地面に這いつくばる姿が大きく映し出されていた。片方がそれを見下ろして、何か身振り手振りを交えて話しかけている。四肢の切断面には、止血でもするかのように四つ、シールドがトリオン漏れを防いでいた。

 あまりに惨い。恐らく、トリオン切れで緊急脱出することを許さない片方が、敵だというのにわざわざシールドを展開したのだろう。誰がどう見てもどちらが勝ちか明らかな状況で、負けている側が延命のためだけにそんなことをするとは考えにくい。一対一だから助けを待っているはずもない。

 しゃがんで顔を覗き込んだり、顔を足で踏みつけたり、もはやそれは模擬戦ではなかった。一方的な蹂躙。遊真が向こうの世界で見てきた、強者が弱者を痛ぶることを愉しむかのような光景だった。

 

「……」

 

 多くの怒りと、少しの困惑が遊真の頭の中を占拠する。

 それは、地面に這いつくばるのが彼の隊長だから。

 そしてそれは、痛めつけているのが変な口調の見知った青年だから。

 

「つまんないことするね、あの人」

 

 氷柱のように冷たく鋭く、遊真は言った。

 それは彼への憤りなのか、同情なのか、あるいはそのどちらもなのか。

 

 遊真はそのまま、彼の居るブースの出口に向かった。

 少しすると、十本勝負を終えた彼が姿を見せる。

 

「ことぶき先輩」

 

 遊真のそれに、血は通っていなかった。

 それを見た伊織は、一度目を閉じる。

 

「あれ、遊真くんやないの。久しぶりやなあ」

 

 もう一度開くと、普段通り間の抜けたイントネーションで軽薄そうに答えた。

 

「おれとも勝負しようよ」

 

 伊織は笑う。

 どないしよかなあ、なんて大袈裟に考えるふりをしているが、遊真の目にそれはあまり映らなかった。

 

「負けたらおれのポイント全部やる。…けど、勝ったらオサムに謝れ」

 

 未だ遊真は訓練生の身で、対する相手はA級。階級だけで言うなら、遊真が十本勝負でどうあがいても勝ち越せない小南と同じ。黒トリガーならまだしも、慣れないボーダーのトリガーでは難しい勝負だろう。

 しかし、そんなこと遊真には関係なかった。

 生きる目的のなかった遊真に久しぶりに楽しいという感情を感じさせてくれて、その上当面の目指すところも与えてくれた修を、大衆の前であんな目に遭わせたことを看過できるほど穏やかではないし、そうなりたくもない。

 

「あはは! 今日はポイント大稼ぎや!」

 

「…………」

 

 

 

 ☆

 

 

 

 ロビーへ戻ると、米屋に呼び止められた。名前を聞くのも会話をするのも初めてのことだったが、修はどこか上の空だった。

 強い。底が見えないどころか、氷山の一角ですら捉えきれていないようだった。結局のところ、十戦全てで四肢を刈り取られ、同じように撃破されて終わってしまった。

 頭には、伊織との戦いが大きく居座っている。風間との戦いで天狗になったつもりはないが、やりよう次第でワンチャンスは作れると手応えを感じた矢先にこれは、頭を殴られたような衝撃だ。

 

「メガネ先輩」

 

 馴染みのない声が聞こえてきた。『メガネ先輩』が自分のことだろうというのは今までの経験で十分に理解している。

 

「えっと…」

 

 まだ伊織の衝撃に意識が戻ってきていないからか、返事も宙に浮いてるかのようだ。

 

「緑川駿」

 

 それを自己紹介の催促ととったのか、背の小さな少年は名乗った。そこまでされてようやく我にかえると、修も自分の名を告げる。

 

「オレ、三雲先輩に嫉妬してた。ごめんなさい」

 

 彼──緑川は、もう『メガネ先輩』とは呼ばなかった。同情にも似たような、どこか影を落とした目でこちらを見ながら、突然頭を下げる。

 

「…え?」

 

 突拍子がなさすぎて、思わず声が出てしまった。上の空で考え事をしていた時に何かあったのかと思ったが、横の米屋も驚いた表情をしているからそうではないらしい。

 嫉妬も何も、こうして話すのはこれが初めてなのだが…。

 

「多分、琴吹先輩が行ってなかったらオレが三雲先輩と戦ってたと思うから」

 

「おー、素直だな」

 

 隣の米屋が感心したように呟く。

 曰く、迅の熱狂的なファンだとかいう緑川は、「玉狛のメガネくんは迅さんが直々にスカウトして転属したらしいで」とかいう独特のイントネーションで語られた噂を聞き、羨ましいと嫉妬したらしい。

 

「そりゃ最初はいい気味だ、とか思ってたよ」

 

 緑川は視線を足下へ落とした。

 

「…けど、あそこまで……」

 

 それ以上は緑川は言わなかったが、同情や哀れみといった表情が何よりも物語っている。米屋も「あー…」と珍しく返事に淀んでいた。

 けれど、当の本人である修には何のことかあまり理解していなかった。ランク戦という制度に則って二人は戦い、伊織が勝った。そこに不正はないし、修が負けたのは単純な実力不足。()()()()()()思っていることはただそれだけである。

 

「あの白い子もそうならないといいけど」

 

 ぽつりと呟いて、緑川はモニターへ目をやった。

 それを何となしに見ていた修だったが、彼の言葉に頷いた米屋を見て不意を食らった。

 

「そ、そんなに琴吹先輩は強いんですか…?」

 

 緑川から見れば、遊真はA級に無謀にも挑む訓練生と映る。だからあの言葉も理解できる。けれど、遊真がどんな境遇で、どれほどの実力を持っているか知っているはずの米屋が同意したのは意外だった。遊真が黒トリガーではなく慣れないボーダーのトリガーを使うということを考慮しても、修の時ほど一方的な展開は少なくとも起こりえないはずだし、あるいは遊真なら…とすら思っていたから、余計にだ。

 

「あれ、玉狛なのに知らねーの?」

 

 まるで鏡写しにでもしたかのように、米屋も意外そうな顔だ。

 修が玉狛支部所属だということと伊織に一体何の関係があるのだろう。

 

「ボーダー最強ペアの一角だって、ちょっと前まで有名だったぜ?」

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

「ことぶき先輩。あんた、つまんない嘘つくね」

 

 ランク戦ブース、個室内。遊真は入るなり、伊織の居る部屋へ通信を送った。

 少し前とは違い、声には落ち着きが見られる。こうして改めて彼と対峙すると、やはりあの時のことが頭をよぎった。

 

『ええと、何の話?』

 

「おれのポイント、貰う気ないでしょ?」

 

 負けたら遊真の持つ個人ポイントを全て渡す。この戦いでの取引であり、伊織もそれを了承した。

 だが、遊真の目にはそう映ってはいなかった。口では了承していても、本心ではそんなつもりはない。サイドエフェクトがそう告げていた。

 そして、それはわざわざモニター前に人を集めて修を痛ぶったような人間とはあまりに印象がかけ離れている心理だ。

 

『あはは、遊真くんはおもろいこと言うなあ。そんなんわかるわけあらへんやろ?』

 

「わかるよ。あの時、ことぶき先輩が嘘をついてたってのも」

 

 遊真の頭には、玉狛支部での出来事が今でも残っている。

 伊織が嘘をつく理由は他人の困った顔を見るためと言っていたが、それもまた嘘。

 邪推するのであれば、彼はおそらく────

 

「だから、()()()()オサムにあんなつまんないことしたのかがわからない」

 

 遊真がその感情を抱いたのは、こちらの世界へやってきてから二度目のことだった。

 一度目は修で、二度目は伊織。

 修に恥をかかせたことへの怒りはもちろんある。けれど、一度頭を冷やしてこうして伊織と二人で話していると、それを知りたいという気持ちがあるのもまた嘘ではない。

 

『はあ…。どうでもええやろ、そんなこと』

 

 だが、伊織は切り捨てた。

 突き放すように彼は続ける。

 

『ボクはキミんとこの隊長虐めて、それで遊真くんは怒ってる。わかるのはそれだけでええ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 程なくして開戦した様子をモニターから眺めて、修は驚愕した。

 修との戦いほどではないにせよ、米屋や緑川の言うとおりの展開だったからだ。遊真が相手とあって、伊織もトリガーは一つしか使っていない。けれど、だからこそ余計に彼のシュータートリガーの練度の高さが窺える。

 

「よっ、メガネくん。派手にやられたなー」

 

 唖然としていたところ、後ろから右肩に手をやられ、思わずびくりと肩が動いた。

 

「まったく歯が立ちませんでした…」

 

「はは、そりゃそうだ。変化弾をあそこまで使いこなせるやつはそう居ないからな」

 

 彼の言葉はどこか得意げだ。

 緑川たちと違って、迅が修を見る目はいつもと変わらない。けれどそれは修を蔑ろにしているというよりも、信頼しているといった方がしっくりくる目だった。

 

「伊織と戦って…いや。話してみて、どうだった?」

 

「琴吹先輩はいつも嘘をついている、と空閑が言っていました。ぼくに対してもそうだったなら、やっぱり変な人です」

 

 迅は頷く。

 伊織への第一印象が『嫌なやつ』以外なのは珍しいな、と笑いながら。

 

「どうして嘘をついているのか、ぼくにはわかりません」

 

 どうして。その言葉に、迅は微笑んだ。

 修が伊織との戦いで抱いた印象はやはり、自分の実力不足を痛感したということしかない。

 だが。彼と話してみてどうだったか、と聞かれれば、修には確固とした答えがあった。

 

「理由がどうであれ、それが空閑や千佳を傷つけるものなら。ぼくは、琴吹先輩を許しません」

 

 これじゃあ残りの二人も拍子抜けやろか。

 その言葉への回答は、これからも変わらないだろう。

 

「そうか。…メガネくんらしい答えだ」

 

 



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揺れるな

 あれから少しの日が経った。いつの間にか修を取り巻く噂は消え、むしろ周りが心なしか優しくなったような気もする。

 さておき、今日も今日とて、修は玉狛支部で烏丸と共に訓練を行っていた。

 

「聞いたよ。伊織先輩にやられたんだってな」

 

「…はい。手も足も出ませんでした」

 

 伊織との一件から、修の中で何かが変わったということはない。もっと強くならなくてはという意識が強まっただけで、周囲から同情されるほど落ち込んではいなかった。

 ただ、玉狛では伊織の話は御法度だと思っていたから、烏丸からこの話が出たのは意外だ。

 

「あの人の新人いびりは恒例行事だから、気にするな」

 

 それでも、あそこまでやったなんてのは初めて聞くが。そう言って、烏丸は息をつく。

 

「どうしてそんなことを…?」

 

 そういう性格だから、と言われたら呑み込むしかないが、ああして迅が気にかけている様子や遊真の話からは、そんな人だとはどこか思えずにいた。

 烏丸は修の言葉を聞くと、目を伏せた。

 

「…わからない。もう少しで、わかりそうだったのに」

 

 普段からポーカーフェイスを崩さない彼にしては珍しく、後悔が色濃く出た表情だった。

 

「……?」

 

「…少し、休憩だ」

 

 

 

 ☆

 

 

 

「ふむ…。ことぶき先輩も玉狛だったのか」

 

 一方、玉狛支部内のリビング。遊真はいつの間にか補充されていた来客用兼お子さまのご機嫌取り用の茶菓子を片手にくつろいでいた。

 師匠の小南は学校の行事やら防衛任務やらで今日はここへ来るか怪しいらしい。ちょうどいいタイミングだから、ここ最近心の中に幾分か居座っていた疑問を宇佐美に投げかけてみた。

 

「うん。半年以上も前かな?東さんと加古さんの紹介で転属してきたの」

 

「ほう、転属…」

 

 オサムみたいなかんじか…と遊真は頷く。

 

「ちょうどレイジさんのチームが一人分空いてたから、いきなりA級部隊にランクアップ!って感じだね」

 

 宇佐美の口調は、いつものように優しく弾んだものだった。

 修と同じく、伊織の話を出すのはまずいのではないかと遊真なりに気を遣っていた──レプリカに止められたというのももちろんある──が、思いの外ポジティブな返事だ。

 

「でも、その割にこなみ先輩と仲悪そうだったけど?」

 

 ならば、と核心に迫ると、宇佐美はばつの悪そうな顔をした。

 

「うーん、ちょっと色々あって」

 

 けど、その色々をわたしたちは知らないんだけどね。珍しく、彼女は自嘲気味に笑った。

 

「ふむ?」

 

「突然辞めてっちゃったんだ、伊織くん。わたしたちには何も言わず、支部長(ボス)と迅さんにも理由は話さなかったみたい」

 

 紹介で転属して、何も言わずに本部へ戻る。突拍子のなさは、あるいは伊織らしいと遊真は思ったが、宇佐美にとっては違うらしい。遊真の来る前に、決定的な何かがあったような、そんな認識の差が感じられる。

 

「だから、小南は裏切られたと思ってるんじゃないかな。伊織くんと一番仲良かったの、小南だったから」

 

 

 

 ☆

 

 

 

「あの二人の仲が良かった…?」

 

 正直なところ、そう言われても信じられないくらいには小南は伊織に攻撃的だった。烏丸の表情といい、修の思っている以上に伊織と玉狛は複雑に絡み合っていて根深いのかもしれないし、彼らがこれまで進んで話してこなかったのもわかるような気がする。

 

「ああ。うちでは伊織先輩と小南先輩二人が前衛だったってのもあって、自然と関わる機会は多かった。気も合うみたいだったしな」

 

「けど、琴吹先輩ってぼくと同じシューターじゃ…」

 

 修の言葉に、烏丸は少しだけ笑う。ちょうど数分前に、射手の基本は味方の支援と教えたからだ。

 それから、「あの人は特別だ」と付け加えた。

 

「小南先輩と伊織先輩。個人の強さは太刀川さんや二宮さんが上かもしれないが、二人が組んだときはボーダーで右に出る者は居ない。そんな話が出回るくらい、二人の息はピッタリだった」

 

「そういえば米屋先輩もあの時…」

 

 米屋のあの言葉は伊織と小南を指すものだったらしい。だから「玉狛なのに」と米屋は言ったのだろう。

 しかし、それでもまだ信じがたい。なぜ迅ではなく小南となのか。そして、それほどの仲だったのにどうして今のようになってしまったのか。

 

「けど、その話はすぐになくなった。……出回ってすぐに、伊織先輩は玉狛を抜けていったから」

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 おおよそ同じ時刻、ボーダー本部。上層部が集まるような会議室のある、人気の少ない廊下で、伊織は天井を見上げた。

 天井には、トリオンをエネルギーとして灯る蛍光灯がいくつも並んでいる。しばらくそれをぼんやりと眺めていると、誰かの足音が聞こえてきた。

 

「はあ。やっとボクんとこ来はりましたね」

 

 顔を上へ向けたまま伊織は言い放つ。

 この時間に会議が行われないのは調査済み、伊織にしては珍しく人通りの少ないところへやってきたのは、ある人物を待っていたからだ。

 

「なんだ、気づいてたのか?」

 

「他人に見られるのは慣れてるからなあ」

 

「で。やっとこさボクんとこ来てまさか、しょうもない話ちゃいますよね?迅さん」

 

 視線を下ろす。そこには、やはり迅の姿があった。

 葉子とのことも、修や遊真とのことも、迅に『見られていた』のは確実だろう。皮肉はいつも通り間の抜けた笑いで流された。

 

「メガネくんたちはどうだった?」

 

 修が風間と引き分けたという噂は、彼が伊織に完敗したことで沈静化した。代わりに、『有望なルーキーをまた琴吹が潰した』という尾ひれのついたトピックが出回っている。玉狛支部所属の修が本部までわざわざやってくることは稀だから、彼らには伊織のせいで修がボーダーから姿を消したと映っているのだろう。

 

「メガネくんは弱くて、遊真くんはそこそこって感じやったなあ」

 

 薄っぺらい表情で伊織は吐き捨てた。

 こうして迅が当たり障りのない話題から入るときというのは、大抵の場合重要な話が後に控えている。早く本題に入れと、口調に乗せた。

 

「それだけじゃないだろ?」

 

 涼しい顔で続ける迅に、伊織は少し苛立った。

 しばらく無視したが、それきり迅は話を進めようとしないから、伊織は仕方なく口を開く。

 

「…二人とも、ちゃんとボーダーで、ちゃんと玉狛の隊員やった」

 

「…そうか。お前がそう思うんなら、きっとそうだろうな」

 

 だって、伊織も紛れもなく玉狛の一員だったんだから。

 触れたら絆されてしまいそうなその言葉を、伊織は無視した。

 仕切り直し、とばかりに迅は息を吐く。

 

「もう少ししたら、近界民が攻めてくる。それも、四年前より多分大きい」

 

 恐らくこれが本題。伊織の顔が神妙なものに変わった。

 さすがの伊織といえど、そこまでの機密情報は得ていない。迅が関わっているのなら、伊織が知る可能性を徹底的に潰したのだろうから尚更だ。

 

「へえ。…それで?」

 

「メガネくんが死ぬ未来が見えてる。だから、助けてやってほしい」

 

 たしか、可愛い後輩なんだろ?と迅。伊織はため息をついた。そのために修たちの印象を話させたのだろう。

 伊織が修たちに抱いた感情を言語化したのはこれが初めてだ。そしてそれは、消えない記憶となって、伊織に積み重ねられたということでもある。もちろん、迅にサイドエフェクトのことを話したことはない。けれど、事情は知らずともそう言われて伊織が何をするのか見えているはずだ。

 

「ボーダー最強部隊とかいうご自慢のお仲間に頼めばええやろ」

 

 玉狛が独自に開発したトリガーを使う木崎隊は、その実力やトリガーの特異性から『ボーダー最強部隊』と呼ばれている。

 そして、かつてその一員であり、小南とともにつけられた称号を捨てた伊織がそれを言うのは、強烈な皮肉だ。

 

「もちろん、レイジさんたちにも頼むよ。でも、手数は多い方がいい」

 

「あはは!それで頼むのが嫌われ者(ボク)って、もしかして迅さんも友達少ないんちゃう?」

 

 いくら嫌味たらしく言っても、迅の表情は全く変わらない。

 迅はいつだってそうだ。飄々として胡散臭そうな佇まいなのに、『未来』のこととなると頑なになる。

 

「そうだな……じゃあ、言い方を変える」

 

 それは、伊織が玉狛を抜けると伝えたときの林藤の雰囲気とよく似たような、ともかく、伊織の心をざわざわと揺らすものだった。

 どうして今、そんなことを思い出したのだろう。それは、伊織にもわからない。

 

「ボーダーは近界民から市民を守る組織だ。四年前の惨劇を繰り返さないために、ってね」

 

 一音一音を聞き取らせるかのように、ゆっくりと迅は言う。

 それが引き金となって、伊織の脳内にある映像を溢れさせる。転属初日に小南に完敗した記憶。レイジと一緒に夕飯を作った記憶。宇佐美の実験台にされた記憶。烏丸といたずらを画策した記憶。

 どうしてそれを思い出したのか、もう伊織にはわかっていた。

 

「そこへ突然やってくる侵略者。敵が誰かなんてわかりきってるだろ?」

 

 メトロノームのように、心が揺れる。次の言葉を聞きたくない。

 

「今回だけは、()()()()()()()()()

 

 水面に石を投げ込んだように、心が波打つ。

 

「だったら一度、正義の味方でもやってみないか?」

 

 

 






次回、大規模侵攻編です


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第三章
曇り空のフラクタル その1


 知らないということはそれだけで罪なのだと、大昔の偉い哲学者は言ったそうだ。たしかに、フグが毒を持つとも知らずにそのまま食べれば目も当てられないことになるし、相手の事情を知らないがゆえにふとした言動が傷つけてしまうことだってある。

 けれど、自分にとっては全くの逆だ、と迅は思っている。

 彼のサイドエフェクト、未来予知のことだ。

 未来がわかるというのは誰しもが一度は夢見た能力であるが、同時に大きな責任と心労を伴う。

 例えば、近界民に姉を殺されるかもしれない少年が居たとして。

 道は二つある。

 一つは、近界民から彼らを守ること。もちろん、彼らから感謝はされるだろう。人命を救った人物として、市民から賞賛されるかもしれない。

 一方で、その未来を呑んで、他の人間を助けに向かったとしたら。

 姉を失った少年は、近界民に復讐をするべく立ち上がり、後にはボーダー有数の実力者として成長する。

 迅は悩んだ結果、後者を選択した。

 今、目の前の一人の人間を救うことよりも、今後死ぬかもしれない多数の命を守ることを選んだ。

 未来を知ることは、罪を背負うこと。

 彼は、大多数の命を選んだ代わりに、一人の命を見捨てるという、一生消えない罪を償い続けることとなった。

 

 

 

 

「さて、敵さんはどう動くか…」

 

 警戒区域、西地区。

 迫り来る大量のトリオン兵を前にして、迅はひとり呟いた。以前から迅に見えていた近界からの大規模侵攻。それが今日、三門市を襲う現実となっている。迅が受け持つ西地区と、もう一人のS級隊員、天羽が受け持つ北西地区。この二つは問題ないと彼のサイドエフェクトが告げている。故に、迅が見据えているのは目の前の大群ではなく、もっと大きなものであった。

 今回、彼の掲げる目標は二つ。

 一つ、被害を最小限に抑えること。それはボーダー関係者しかり、一般市民しかりである。どちらかと言えば、全体目標とも言えるだろう。

 そしてもう一つ。雨取千佳を拐わせないこと。彼女のその異常なまでのトリオン量の多さから、展開次第ではこの侵攻のキーマンになる。千佳が狙われれば、チームメイトの修や遊真は文字通り死力を尽くして守ろうとするだろう。まだ可能性は低い未来だが、それによって修と遊真の命の危険さえ見えている。だから、千佳を守ることが迅にとって目先の目標ということになる。

 

「………」

 

 迅は一度、基地がある方へ振り返った。

 思い出す。

 一度目の大規模侵攻で迅が選択した未来を。今も背負っている、消えない罪を。

 そして、今回の大規模侵攻でまた一つ、それが増えることを。

 市民を守るために、遊真たちを守るために、迅は一人の人間の未来を切り捨てた。

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

『だったら一度、正義の味方でもやってみないか?』

 

 あの時の迅の言葉が頭を過ぎる。

 正義の味方。なんと甘美な響きだろう。なんと正しい行いで、良い行動だろう。

 心が揺れる。

 

(………わかってるよ、父さん。あの時みたいなことは、二度としない)

 

 迅の言葉が頭の深くに染み込んで、引き金となる。父親の顔と、ボーダーでのある出来事が伊織の脳裏に舞い戻った。

 

『伊織くん。そっち付近にはトリオン兵が五体。隊長たちは今本部に居るから、合流は難しいかも』

 

 加古隊のオペレーター、小早川杏から通信が入る。今回は全くの偶然だろうが、毎度丁度いいタイミングだ。

 

『了解。端から姉貴たちと合流するつもりはあらへんよ』

 

 そっか、とだけ返ってくる。

 隊長が『あれ』なだけあって、加古隊の隊員はボーダーの中でも個性的なトリガーをよく使う。その分、オペレーターへの負担も大きいはずで、そこへ伊織も加わるとなると相当な仕事のはずだ。全体への指示は忍田から全員へ通信が入るだろうし、何かあれば迅からも来るだろう。事前に断ったというのに、杏は頑なに辞めなかった。

 

『ま、特に気にせえへんでええよ。ボク、強いから』

 

 それだけ言って、伊織は周囲のトリオン兵へ意識を向けた。

 杏の言った五体は伊織からも目視できる。いずれもバムスター。難しい相手ではない。

 両手から放たれる変化弾がトリオン兵たちの弱点を貫くのに、そう時間はかからなかった。

 ふう、と一息つく。

 敵なら今、キミの目の前に居るやろ。以前三輪に向けて、伊織が言ったことだ。

 いずれにせよ、周りの人間を守ることに変わりはない。まずは目の前の敵に集中するべきだ。

 

「ふむ、もう終わってたか」

 

 そうして一つ、息をついたところへ、見知った二人がやってくる。

 伊織の顔が歪んだ。

 

「あれ、メガネくんに遊真くんやないの。奇遇やなあ」

 

 繕って、伊織はいつもの薄っぺらい顔を浮かべると、演技臭く右手を上げる。

 あれだけのことをしたというのに、遊真も修も伊織に対する態度はあまり変わらない。

 揺れるな。揺れるな。そう言い聞かせて、遊真に向かって切り出した。

 

「遊真くん、ボクのトリガー使う?ちょうど一つ余ってるんやけど」

 

「おかまいなく。…やばくなったらこいつがあるから」

 

 右手を見ながら遊真は言う。

 結局のところ、彼の黒トリガーが一体どんな能力を持つのか分からず終いだったが、静かにそれを見つめる様子は自信に満ちあふれているようだ。

 

「あ、そ。そないなら、二人で頑張りや──」

 

 二人を置いて、足早に次のポイントへ向かおうとした。

 しかし。

 突然の杏からの通信で、倒したはずのバムスターの方へ振り返る。

 

「はあ。空気読めへんなあ…」

 

 バムスターの中から、一体のトリオン兵が姿を見せた。

 口の中から悠然と歩くその様子は、まるで列車が駅に着いて、ドアから下車するかのようにゆったりと、最初からそのつもりだったかのような振る舞いだ。

 今までのトリオン兵とは訳が違う。

 それは、B級上がりたての修にすら感じられたようで、彼は冷や汗をかきながら伊織を心配する声をかけた。

 

「ああ、ええて。ボク一人で十分や」

 

 調子は変えず、伊織は答える。

 

『ユーマ、あれは……』

 

「わかってる」

 

 何やら遊真はレプリカと話し込んでいるようだが、気にせず伊織はトリオンキューブを展開した。

 バイパーを射出。やはり反応はバムスターよりも早い。

 初手は右腕の装甲で防がれた。

 今度は両手にアステロイドを展開。二宮ほどとはいかないまでも、生半可な装甲なら押し切る自信がある。

 先程と違い、愚直に弱点の口元を目掛けて真っ直ぐそれは飛ぶ。

 間違いなく防がれるだろう。バムスターよりも何段も格が上のトリオン兵に対して、軌道が真っ直ぐすぎる。

 だが、それでいい。

 トリオン兵相手に小細工なんてするまでもない。防ごうとして向けた腕の装甲をアステロイドで破壊して、そのまま押し切る。そう思った。

 伊織の予想通り、トリオン兵は難なくアステロイドに反応し、何の躊躇もなく腕で防ごうとした。

 

「え、全然攻撃通らへんやないの」

 

 だが、トリオン兵の腕に傷はほとんど付かなかった。

 ぎょろり、と向こうの眼が伊織を見据える。ゆったりと腕を下ろす様子は、この程度か、と言っているように感じた。

 

「うーん。その顔、気に障るなあ…」

 

 薄っぺらく伊織は笑うと、再び両手にトリオンキューブを展開する。

 両脇に控えるのは同じくアステロイド。

 そのまま放ったところで、結果は目に見えている。トリオン兵もどこか余裕そうな佇まいをしていた。

 だが。ここで終わる伊織ではない。

 

「アステロイド+アステロイド」

 

 伊織の両手がクロスすると、手のひらの真下にあったキューブもその動きに従ってクロスする。途中で衝突したその二つは、混ざり合って一つの大きな塊となる。

 合成弾。射撃トリガー二つを組み合わせて、性能を上げた一つの弾とする、シューターの特権の一つだ。

 今回組み合わせたのはアステロイド二つ。純粋な弾の威力強化だ。消費は激しいが、伊織ほどのトリオン量ともなれば、その威力は計り知れない。

 再び、射撃は弱点目掛けて真っ直ぐ飛ぶ。あのトリオン兵に感情というものがあるのかどうかは知らないが、動きの傾向は把握した。

 トリオン兵は同じように右手を射撃の軌道上に置く。こちらを見下したように、必要最低限の防御だ。しかし、それは予想通りでもある。

 一撃目は防がれた。やはりとてつもなく硬い。だが、硬いものは同時に脆いと相場は決まっている。

 遅れて続く二撃目が、一撃目の着弾した部分に寸分の狂いもなく着弾する。表面に綻びが生じた。

 そして三つ目以降が、同じように敵へ襲いかかる。七つ目にして、トリオン兵の右腕は粉々となった。

 

『見事だ』

「…やるね」

 

「ま、キミらが手も足も出えへんくらいには強いで、ボク」

 

 賞賛には皮肉で答え、伊織は笑う。

 だが、まだ終わりではない。右腕を破壊したとはいえ、向こうの攻撃がやってくる。

 右足を踏み込んで接近。伊織が思っていたよりもスピードがある。

 左腕の薙ぎ払いにはテレポーターは使わず、盾で受けた。

 

(この破壊力…!)

 

 やや広め、脇腹の辺りを守るように展開した盾がひび割れて、崩壊する。守りも攻めも、一筋縄ではいかなそうだ。

 だが、一筋縄ではいかないのはこの嫌われ者も同じである。

 遊真たちに軽口を言う傍ら、バイパーを相手の背後に向かわせておいた。いくら反応が早いといっても、視角外からの攻撃は避けられないはずだ。

 と、思ったが。

 

「…それ避けるんかいな」

 

 完全に死角だったはずだ。背中の装甲が割れるとは思っていなかったが、体勢くらいは崩せる。少しでも崩すことができれば、そこから詰め将棋のように少しずつ勝負を決めに行ける。そうプランを立てていたが。

 新型は、背後からやってくる伊織の射撃を振り返ることなく回避した。

 

(目だけじゃなくて、レーダーみたいなのもあるってことか…)

 

 三度目、両者は見合う。この新型、伊織が戦ってきた中で間違いなく一番手強い。

 

()()で仕留めるか…?いや、この後を考えるとそれは避けたい…)

 

 新型を倒すことだけを考えれば、いくらでもやりようはある。

 右腕を破壊したときのように、合成弾を使えば恐らく危なげなく倒せるだろう。

 だが、そうするわけにはいかない。

 敵の戦力を考えれば、この新型を一体倒したところで侵攻は終わらないだろう。新型ももっと居るだろうし、何より人型が出てくる可能性がある。迅の言っていた通りの展開になるのであれば、その時までトリオンを温存しておく必要があった。

 

(………)

 

 そうしている間に、新型がやってくる。

 仕掛けは先ほどと全く同じ。伊織の盾が簡単に破壊されたのを見て、戦法を変える必要はないと踏んだのだろう。

 伊織も同じように盾を展開する。違う点とすれば、先ほどよりも盾を薄く、広く展開したことだろうか。

 

(香取の時よりも火力は強く…!)

 

 そして、新型の左腕が盾に衝突する……前に、メテオラが緩衝材となった。あの巨体に、あの固さ。いつかに見せた葉子の攻撃を防いだときよりも、メテオラの威力は強くした。そのために展開しておいた盾を貫通して、伊織自身も体が爆風で吹き飛ぶ。

 だが、新型の体勢は崩した。

 

「アス────」

 

 四の五の言ってはいられない。今が好機だ。

 唯一、新型の守りを破った合成弾を、伊織は放とうとしたが。

 

『伊織くん!』

 

 トリオンキューブが伊織の側に現れた瞬間、脳内に杏の声が反響する。

 

「…はあ。()()()のがよっぽど空気読めへんわ」

 

 伊織の周りからトリオンキューブが消えた。

 合成したわけではない。そのまま放ったわけでもない。攻撃をする必要がないから、キューブを消したのだ。レーダーをちらりと見て、こちらへ向かってくる三つの点を確認すると、伊織は大きくため息をついた。

 直後、体勢を崩した新型の弱点目掛けて、狙撃が二つ飛来する。

 それには反応して、左腕で防いだ新型だったが、その分胴体ががら空きだ。

 間髪入れず、別の方角から無数の弾丸ががら空きの胴体を貫く。

 

 狙撃が二発に、射撃が複数。顔を見なくとも、誰がやってきたのかは明白。

 

「嵐山隊、合流した!」

 

 やはり、応援に駆けつけたのは嵐山隊だ。

 嵐山は新型が沈黙したことを確認すると、伊織に向かって「よくここまで削ってくれたな」と明るい笑みで労う。

 

「遅れてくるところは一丁前に正義の味方(ヒーロー)やなあ」

 

 対する伊織は、薄っぺらい笑みで皮肉を返した。

 ボーダー広報部隊にして、A級五位。市民からの人気も厚い正真正銘の『正義の味方』なのが彼ら嵐山隊だ。

 

「忍田さーん。なんか中からけったいなの出てきはったんやけどー」

 

 鋭い目で睨みつけてくる木虎を尻目に、恐らく嵐山隊に援護を求める通信を送ったであろう杏には「いらんことせんといてや」と釘を刺しつつ、伊織は忍田へ通信を送る。

 

『各所から報告があがっている。どうやら隊員を捕らえるような動きを見せているようだ』

 

『シノダ本部長、それは恐らく『ラービット』というトリオン兵だ。バムスターと違い、トリガー使いを捕らえることを目的として作られている。A級といえど油断すればやられるぞ』

 

 道理であそこまで強い訳だ。

 遊真の周りを浮遊するレプリカの言葉に、内心伊織は頷いた。伊織でこれでは、恐らく並のB級単体では全く歯が立たないだろう。

 そして、敵がこの初動でラービットを全て投入するとは考えにくい。的確なタイミングでそのカードを切られれば、あるいは隣のメガネの少年は……。

 心がまた、揺れ始める。

 

『…そのようだ。今しがた、B級が捕獲された報告が入った』

 

 息を呑む。恐れていたことの足音が、少しずつ聞こえてくるようだ。

 

『全隊員に通達!新型はこちらを捕らえようとする動きを見せている。少人数での相手は分が悪い。よって、B級部隊は東と南の二つに集結せよ!繰り返す!B級部隊は二方角に固まって迎撃せよ!』

 

『し、しかしそれでは他の地域の避難が疎かに…』

 

『A級およびそれに相当する部隊は遊撃、B級の指揮の二つに分ける。遊撃部隊がそれを担えば問題はない。…城戸司令も異論はありませんね?』

 

『よかろう』

 

 揺れる伊織を尻目に、話はとんとん拍子で進む。それほどの早さでなくては、刻一刻と変わる戦況に対応できないということだろう。

 はっと我に返って、伊織も状況を整理した。A級の、それもソロ隊員である伊織が担当するのは、十中八九遊撃。そもそも部隊の指揮なんて『ボーダーの琴吹伊織』には不可能だ。

 

「忍田本部長!ぼくと空閑にC級を援護させてください!」

 

 C級に居る雨取千佳は玉狛の隊員であり、彼らのチームメイト。入隊日にアイビスで基地の壁をぶち抜いた通称トリオンモンスター。

 C級である彼女には、市民の避難誘導という任務が与えられていた。もちろん、訓練用のトリガーしか持たない彼女たちに戦闘は禁じられているが、これほどまでの規模の侵攻に対しては貴重な人手なのだろう。

 しかし、ラービットの実力を目の当たりにした修からすれば、緊急脱出のできない千佳が心配になるのは当然のことだ。

 

『確か、雨取隊員は君たちのチームメイトだったな。よし、なら二人はC級の援護に……』

 

『待て』

 

 修の申し出を快諾しかけた忍田だったが、ボーダーのトップが待ったをかけた。

 

『向かうのは三雲隊員だけだ。空閑隊員は嵐山隊と共に新型の遊撃に当たってもらう』

 

「なっ!?」

 

 修は城戸の言葉に驚きを隠せずにいるが、当然の考えだと伊織は思う。

 迅は「ボーダーは近界民から市民を守る組織だ」と言った。なら、黒トリガーという強力な武器を持つ遊真を、新型の撃破に向かわせるのは自然な流れだ。

 しかし、修の主張も理解できる。あるいは、どちらも正しい言い分かもしれない。

 

「おれ、一応C級なんだけど」

 

 一応C級である遊真は、他と同じく市民の避難誘導へ向かう任務を受けてはいる。しかし、それを無視してここまでやってきたという事実が、遊真の言葉が詭弁であることを示していた。

 

『右手の指輪は飾りではないだろう』

 

「使っていいの?」

 

『許可する。ただし、警戒区域内でなら、だが』

 

「使わなきゃチカのところ行っていいの?」

 

 両者ともに引かない。だが、これ以上正しい者同士が衝突するのは伊織には見過ごせない。

 …ここらが潮時だ。

 

「それでチカちゃん守れるんならええんちゃう?」

 

 遊真の言葉が止まった。いくら使い手が強くとも、道具には限界というものがある。彼自身にも訓練用のトリガーではラービット相手には勝てないことはわかっていただろう。

 

「………」

 

 そしてそれは、修にもわかっていたはずだ。沈黙が何よりの証拠である。

 

「思い悩む必要はないぞ、三雲くん」

 

「え…?」

 

 見かねた嵐山が、黙って俯いてしまった修へ声をかけた。

 彼もまた正しくて良い人間だ。暑苦しい発破をかけて、修がまた正しい道へ戻るよう導いてくれるのだろう、と遠巻きに彼らを眺めていた伊織だったが。

 

「たしかに遊真が居ないのは痛手かもしれない。けれど、心強い仲間がここに居るじゃないか」

 

 そう言って嵐山は伊織を見つめる。それに倣って修が振り返り、遊真が頷き、木虎と時枝も伊織へ顔を向けた。

 嵐山の提案はつまり、伊織がC級の援護に向かえば問題ない、というものだった。

 

「ふむ、それならおれも安心して任せられる」

 

「いやいやいや。ボクほど遊撃に向いてるやつ居らへんやろ」

 

 実力だけ見れば、伊織はボーダーにとって優秀な駒であることは自分でも理解している。大規模侵攻を前に、素行には目をつむるくらいのドライさを上層部──特に城戸司令だ──は持ち合わせているだろうから、伊織に都合の良いことを言ってくれるに違いない、と期待していたが。

 

『C級のもとに新型が出現しないとも言い切れない。…それに、君を自由にしておくリスクは重々承知している』

 

 肝心の城戸は伊織に助け船を出すどころか、嵐山の提案に同意してしまった。

 伊織は顔を歪める。城戸がそう決断した理由に、遊真を巡っての一件が間違いなく影響しているはずだ。近界民の侵攻に加えて、隣には命を落とすかもしれない少年。前々から少しずつ外堀が埋められていたことに、今になって気がついた。

 

「遊真くん連れて早よ行ってくれはります?暑苦しゅうてしゃあないわ」

 

 珍しく、苛立った口調で伊織は言った。

 

「言われなくてもそうします」

 

「さすが、広報部隊さんは頼もしなあ」

 

「じゃあ、あとは任せたよ」

 

 また突っかかってきそうな木虎を連れて、時枝は嵐山たちと共に新型のいる方へ向かっていった。

 

 修と伊織だけが残され、一気にしんとした戦場。向こうも戦闘に入ったのか、杏から通信もない。

 

 迅の言葉や、修の未来。両親との記憶や『ボーダーの琴吹伊織』。相反するものたちが絡まり合って、伊織の心を埋め尽くしている。

 伊織の中ではもう、修は正しくて良い人間として存在していた。それだけで、修を守るには十分な理由だ。けれど、近界民に命を脅かされているという分かりやすい危機から救うには、伊織が正義の味方にならざるを得ない。だが、世界に一人必要な間違った悪い奴は、伊織でなくてはならない。

 

 そも、一年前にボーダーに入った伊織にとって、近界民がこちらへ攻め込んでくるという状況も、仲間が死ぬかもしれないという事態も初めてのことだ。自分から手放すことはあっても、自分の手から零れ落ちることは両親のとき以来経験していない。迅の一言が引き金だったとはいえ、伊織の心がここまで揺れるのも当然の出来事だったのかもしれない。

 

「……あの」

 

 思考に沈んでいたところ、修からの声で静まり返った警戒区域内へ意識が戻る。

 

「琴吹先輩って、少し前まで玉狛に居たんですよね?」

 

 誰から聞いたのかはわからないが、今さらすぎる問いかけと、事情を知ってなお本人に直球で聞くという馬鹿正直さに伊織はため息をついた。

 何だか、修という人間が少しずつわかってきたような気がする。

 

「どうして玉狛を抜けたんですか?」

 

「知ったところでキミに何かあるわけとちゃうやろ」

 

 どうして。なぜ。そう聞かれたとき、伊織は決まって煙に巻く。

 けれど、今回の伊織のそれは、明確な拒絶だった。

 

「それは…そうなんですが……」

 

 修は冷や汗こそかいているものの、伊織に食い下がる。

 伊織が言うまで引くつもりはないらしい。冷や汗をかいた表情とは真逆な態度の修に、伊織は再び大きくため息をついて、ついぞ口を開いた。

 

「…楽しかったから、だよ」



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曇り空のフラクタル その2

一部、トリガーの独自解釈を含みます。




 人の性格がいきなりがらりと変わるということはほとんどない。

 色々な出来事を目にして、感じて、積み重ねて、少しずつ人間は形成されていく。その過程で記憶から薄れていくこともあるだろう。よほど心に突き刺さる出来事でなければ、急に関西弁を話しだしたり、他人に積極的に嫌われようとするようになるなんてことはありえないはずだ。

 とどのつまり、あの日を境に彼女──香取葉子も、劇的に性格が変わったわけではない。変化は些細なものに過ぎない。今まで適当にやってきた個人ランク戦に、本腰を入れて取り組むようになっただけのこと。

 今まで通り、面倒なことはやりたくないし、家に帰ればゲームもする。そして何よりも、チームの欠点として散々指摘されてきたチームワークを改善しようと彼女から歩み寄ったことはなかった。

 

 

 

『全隊員に通達!新型はこちらを捕らえようとする動きを見せている。少数では分が悪い。B級隊員は東と南の二方角に集結せよ!』

 

 警戒区域内、南東地区。

 他の多くのボーダー隊員と同じように、香取隊の三人もトリオン兵の討伐に当たっていた。

 そんな折、入ってきたのは忍田本部長からの通信である。

 

「葉子!東と南のどっちに向かうんだ!?」

 

 隣の麓郎がひっ迫した声で問いかけてくる。

 葉子たちが位置する場所は南東。忍田の指示した場所のちょうど中間だ。厳密に言えば南の方が近いが、東へ向かうにしても特に問題はない距離感。決断は隊長である葉子に委ねるということだろう。

 しかし。麓郎の声が一刻を争うかのように切羽詰まったものなのには理由があった。

 

「はあ?何バカなこと言ってんのよ。()()()()()()()に決まってるでしょ」

 

 その理由は明確。忍田の言う新型が、香取隊の目の前に居るからだ。

 

「お前だってあの映像見ただろ!?俺たちじゃ勝てっこない!!」

 

 忍田はまた、少数では分が悪いとも言った。同時に共有された新型と隊員が戦う映像を見ても、三人では到底敵わないと麓郎は感じていた。

 

「…見たわよ。だから余計に倒さなきゃいけないんじゃない」

 

 葉子の考えは麓郎とは真逆だ。

 いや、心の奥底では麓郎と同じ意見なのかもしれない。確かに、あの固さと攻撃の威力、そして反応の良さは今までのトリオン兵とは訳が違う。難しい相手なのは葉子にも感じられていた。

 だが。それでも。葉子にとって、ラービットを前に尻尾を巻いて逃げるという選択はありえない。

 なぜならそれは、共有された映像でラービットと戦っていたのは、他でもない伊織であったから。

 伊織が渡り合える相手なら、葉子だって戦えなくてはならない。そうでなければ、彼を叩き潰すなんて夢のまた夢だから。

 

「あんたたちは南にでも行けば?こんなやつ、アタシ一人で十分よ」

 

 そして。映像では、最終的に助けにやってきた嵐山隊がラービットを撃破した。葉子が一人でラービットを倒せたのなら、それは間接的に伊織の上を行ったことを意味する。だから、今の葉子にとってチームメイトは二の次だった。

 

 麓郎や雄太の返事は聞かず、葉子はラービットへ迫る。

 

「クソっ…!どうすれば…!」

 

 その光景を前に、麓郎はただ立ちすくんで眺めることしか出来なかった。

 従うべき隊長からは南に向かえと言われた。しかし、どう考えてもラービットは葉子一人では荷が重い。だが、麓郎が助けに向かったとして、一体何が出来るのだろうか。

 裏と表が何度もひっくり返って、決断が下せない。

 こんな時頼りになるのは…。

 

「は、華さん!」

 

 こんな時頼りになるのは、オペレーターの華以外に考えられない。

 きっと彼女なら、麓郎が取るべき行動を示してくれるはず。そう、思った。

 しかし。

 

『葉……なら…へ……』

 

 いつも淡々と麓郎たちに道を示してくれる声は途切れ途切れで聞き取れない。

 思わず麓郎は本部の方へ振り返る。ここからでは距離が遠すぎて、何があったのか詳しくはわからない。だが、基地へ何か大きなトリオン兵が向かっていく姿と、すでに衝突した後らしき爆風は確認できる。

 横に居る雄太の顔がどんどん青ざめていくのが感じられた。

 

(本部で何かあったのか!?いや、それよりも俺たちはどうしたら…!)

 

 状況は振り出しだ。

 行くべきか、退くべきか。迷いは晴れない。

 先に決断したのは、麓郎ではなく隣の雄太だった。

 

「葉子ちゃんを助けないと…!」

 

 青ざめた顔のまま、冷や汗をかいて雄太は呟く。

 それが冷静な判断とはとても思えないが、隊長には部下が眼中に居らず、オペレーターとは連絡がつかないというチームの状況を考えれば、彼には酷だったのかもしれない。

 

「クソ…!やってやる…!」

 

 そして。麓郎もまた、冷静な判断が出来ていなかった。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 警戒区域内、東地区。

 本部で起きたトリオン兵特攻の影響はここにも及んでいた。

 

「あら?杏と通信が繋がらないわ」

 

「真衣さんとは繋がるみたいですね」

 

 南東や伊織の居た地区とは違い、加古隊の周囲にラービットは居ない。バムスターたちを倒す片手間で話し合うくらいには、少し余裕のある状況だ。

 

『本部にイルガーが突っ込んだ』

 

 望や双葉とは別行動の真衣から連絡が入る。

 彼女が言うには、爆撃型のトリオン兵が一体、基地目掛けて自爆していったらしい。

 

「だから本部にいる杏とは通信できないのね」

 

 衝突の影響で一時的に本部と通信が取れないのだろう。

 だが、香取隊とは違って彼女たちは落ち着きを払っていた。

 ランク戦とは違い、実際の戦場では不測の事態は付き物。そして、自らが所属する組織の力量も十分に把握している。

 望と双葉は二人して基地の方を眺めていると、新たにイルガーが二体姿を現した。

 

「本部に居るのは…当真くんと太刀川くんだったかしら?」

 

「そうですね」

 

 なら心配いらないわね、と望。

 そもそも、ここで望たちが焦ろうが間に合うはずもなく、まして控えるのが攻撃手と狙撃手の頂点に立つ二人ならあれこれ案じるだけ無駄だ。

 それから間もなく。爆撃型の片方は基地の迎撃武装が粉々に、もう片方は何者かが真っ二つに切り裂いた。

 

『バカは派手なものが好きやから』

 

 二枚におろされたイルガーが落下していく光景は見るも鮮やかだ。

 ふと、望の頭には以前解説をした時の伊織の言葉が浮かぶ。

 

「太刀川くんも派手なものが好きみたいね」

 

「そうですね」

 

 ランク戦での伊織の言葉を借りたそれは、暗に太刀川が馬鹿だと言っているようなものだが、それを否定する者はいなかった。理由は単純。太刀川慶は、間違いなく馬鹿だから。

 

『すみません!通信が乱れてしまいました!』

 

「本部がやられたんだもの、仕方がないわ。それで、私たちは遊撃担当だったわよね」

 

『はい。東地区の指揮は風間隊が担当するようです。伊織くんは南西の警戒区域外に居ますが…』

 

 加古隊の役割は遊撃。東と南に固めたB級部隊ではカバーしきれない範囲を担当するもよし、そこへ合流してもよし。A級に振られたタスクなだけあって、自由度は高い。

 しかし。いくら行動する範囲に融通が効くとはいっても、警戒区域の外へ出ることは許されていなかった。ということは、C級の援護に向かった伊織とは合流できないということを意味する。

 

「そうね…。(ここ)はほかのA級に任せて、南へ行きましょう」

 

 隊長の決断は早い。まるで、伊織と合流するつもりは最初からなかったかのようだ。

 

『南東を通るルートですね』

 

 東から南へ。そこがひと段落ついたら、西へ。時計回りに警戒区域内を巡回する予定らしい。

 これといった異論はなく、望のプランが決まった頃合い、そういえばと杏が口をつく。

 

『伊織くんが誰かを守るなんて、明日は雪でも降るかもしれませんね』

 

 防衛戦という特性上そうなってしまうのは致し方がないことではあるが。伊織の行動を普段から近くで見ている杏にとって、『らしくない』彼の振る舞いを見るのは少しだけ微笑ましい出来事だ。

 

「違うよ、杏さん。伊織先輩はいつもみんなを守ってくれてるよ」

 

『ふふ、そうだったね』

 

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 

「ほう、曲がる弾か」

 

 黒の外套に身を包んだ偉丈夫が呟く。外套と対照的に彼の頭部には二つ、白の角が存在感を放っていた。

 近界の惑星国家、アフトクラトル。通称『神の国』。所持する黒トリガーは二桁を超え、トリガー能力を向上させるために『角』を開発した、正真正銘の軍事国家。

 遠征艇と思しき空間の中央には黒のテーブル、そしてそこには玄界の兵士がラービットと対峙する様子が映し出されていた。

 

「俺の雷の羽(ケリードーン)といえど、あそこまでの弾道制御は難しい。ヴィザ翁の言葉も頷けるな」

 

 偉丈夫が視線をやった先、老いた紳士が笑みを溢した。

 紳士曰く、玄界の進歩は目覚ましい。トリオンの扱いは近界と比べ遅れていたのは過去の話、現在は決して侮れる相手ではない、とのことだ。

 それを今まさに目の当たりにして、偉丈夫は思わず顔を綻ばせる。

 

「所詮猿のままごとだろうが」

 

 オレなら一瞬で捻り潰せる、ともう一人の男は吐き捨てる。偉丈夫と違い、角は黒色。片方の瞳までもが黒く染まっている。

 早くオレに蹂躙させてくれ、と隊長らしき男へ言ったところ。

 

「我々の目的を忘れたか、エネドラ」

 

 青年が一言、男を諌めた。

 男は途端に不機嫌そうになって、青年を睨みつける。

 

「あ?坊っちゃんが一丁前に指図してんじゃねえ。殺されてえか?」

 

 青年もこれに目元をぴくりとさせる。

 一触即発の不穏な雰囲気が遠征艇内に漂ったが。

 

「お二人ともお若くて羨ましい。ですが、その若さをぶつける相手を間違えてはいけませんな」

 

 笑顔は崩さず、老人が一言。

 二人の動きがぴしゃりと止まった。

 ひと段落ついたことを確認すると、隊長らしき男が口を開く。

 

「雛鳥の確保が最優先事項だ。群れを確認するまでお前たちに出番はない」

 

 

 

 

 

 

 

先生(センセ)、敵さんの目的なんや思います?」

 

 C級の居る地点へ向かう傍ら、伊織は横のレプリカに声をかけた。

 敵の目的はおそらく二択。こちらの人間を攫ってトリオンを確保すること、あるいは本拠地を落として属国とすること。

 

『ラービットの投入を見るに、トリガー使いの確保と考えるのが自然だが…』

 

「そやけど、こっち緊急脱出あるからなあ。捕まりそうやったら逃げればええだけの話なんやけど」

 

 あ、諏訪さんくらい鈍臭いとできへんかもなあ。

 すでに確保されてしまった味方への不謹慎な発言に、修は苦笑いをした。

 

『緊急脱出はボーダー独自の機能だ。アフトクラトルが把握していなかったという可能性も十分ありうる』

 

「うーん、どうやろなあ。何も調査せえへんでこっち乗り込んできたとは考えにくいけど」

 

 伊織は敵と対峙するとき、真っ先に相手が何を嫌がるかを考える。

 だが、逆に今はどうだ。

 確かにラービットは強敵だ。数も多い。しかし、B級は固まって対処するという忍田の策で対応しつつある。伊織たちが嫌だと感じるような手は今のところ打たれていない。黒トリガーがどうとかトリガー角がどうとかいう触れ込みだった軍事国家がその程度の攻勢しか見せていない状況が、伊織にとっては不気味で気持ち悪く感じた。

 

『いずれにせよ、ここまで戦力を注ぎ込んできた割に、あまりにも動きに変化がなさすぎる。何か裏に別の目的があるかもしれないが………』

 

 レプリカも伊織の抱いた感覚に近いものを持っているらしい。

 どこかで何かが引っかかるような違和感。

 迅の言葉で揺れる感情の行く先はそこにあるような、そんな気がする。

 

「し、新型だ!新型が出たぞ!!」

 

「はあ。相変わらず空気読めへんなあ」

 

 とうとう、警戒区域外にまでラービットが現れた。

 ふう、と一息。

 防衛ラインを東と南に絞ったためいくらか漏れはあると思ったが、思いの外早い。

 

「正隊員が助けに来たぞ!」

 

「お、おい…でもあれって……」

 

 あれって琴吹だよな?

 大丈夫なのか?

 いや、流石に俺たちを守ってくれるよな…?

 

 ざわざわと話すC級を見て、伊織は目を伏せた。

 揺れるな。揺れるな。

 正義の味方でなくとも、守ることはできる。

 伊織は両手にトリオンキューブを展開する。片方はそのままラービットへ。そして、もう片方は見当違いの方向へ進んでいった。

 

「こ、琴吹先輩…?」

 

 修がありえないものを見たような顔で、伊織に目を向ける。

 明後日の方へ進んだ射撃は、ざわつくC級の髪を掠めて、地面へ着弾した。

 

「ひっ!?」

 

「あー、ミスってしもたなあ。危ない危ない」

 

 C級たちの悲鳴が聞こえる。

 もしかしたら、のほんの僅かな彼らの期待を裏切る行為をして、伊織はいつも通り張り付いた笑みを浮かべた。

 

「危うく目障りな障害物(C級)壊してしまうとこやったわ」

 

「に、逃げろ!!」

 

 まるで牧羊犬に追われる羊のように、C級たちは一目散に基地へ向かって走り出す。

 付近の市民の誘導は終わっていることは確認済み。

 あとは、自分がラービットを倒せばいいだけ。

 

『杏。今度はいらんことせんといてな』

 

『ふふ。警戒区域外じゃそんなこと出来ないの、わかってて言ってるでしょ?』

 

 脳内に届く音声は、思ったよりも弾んでいる。

 伊織のC級への振る舞いを咎めようなんて雰囲気は全くない。

 

『…オペレーターは気楽そうでええなあ。こっちも元気になるわあ』

 

 言うまでもなく皮肉だ。

 

『気楽だよ。伊織くんなら大丈夫ってわかってるから』

 

 皮肉に気分を悪くした様子もない。

 だが、伊織はそれに対して特に何も思わなかった。彼女──いや、加古隊の面々がそうなのはいつも通りだから。

 

 二度目、ラービットを見据える。

 伊織はもう一度両手にトリオンキューブを展開する。そしてそのまま、二つのキューブを一つに合成した。

 嵐山隊のような援軍は見込めない。なら、中途半端に射撃を撃つよりも最初から決めにかかった方が、結果的にトリオンの消費は抑えられる。新型がそう何度も防衛ラインを掻い潜ってここまで来ることもないはずだ。

 伊織の手から離れた合成弾は真っ直ぐ軌跡を描く。前回と同じ、アステロイド二つの威力強化。片腕なら持っていけるのは実証済み。

 

「へえ。今度はお利口さんな子やなあ」

 

 ラービットはそれを見て、両手で防御した。

 右腕に合成弾が衝突する。両手で防いだ分、当たった衝撃は前回よりも少ない。だが、両手を防御に回しては攻撃には移れない。

 間髪入れずに伊織はキューブを展開する。

 

「バイパー」

 

 右手から変化弾が、ラービットの隙間を縫って弱点へと向かう。

 腕は塞いだ。装甲の硬そうな部分は、ラービットの前側にはそれほどない。

 しかし、バイパーが当たる前にラービットは口を閉じて弱点を塞いだ。

 

「そういうんもあるんやなあ」

 

 呑気な口調とは裏腹に、伊織の攻勢は止まない。

 あのレベルの相手が、弱点を剥き出しにしたまま戦うとは思っていなかったからだ。

 

「メテオラ」

 

 左手のキューブから、射撃が複数ラービットへ向かう。

 メテオラは着弾すると、爆発して周囲にダメージを与える。爆風で弱点を覆った口の装甲を剥がすため…ではない。向かう先はその下。如何にも柔らかそうな腹だ。

 合成弾は威力を抑えた代わりに弾数を増やした。まだラービットは身動きが取れない。

 そのまま、メテオラはラービットに直撃する。何度も何度も、執拗に。伊織の手からキューブが消える頃には、爆風がラービットの脇腹を食い破った。

 

「うーん、案外新型も歯応えないなあ」

 

 止めに再びアステロイド。弾数を抑え、威力とスピードを最大限に。

 合成弾の猛攻が終わりフリーになった両手を使い、ラービットはこれを防御しようとするが、伊織の弾は嘲笑う。

 腹のど真ん中に風穴を開け、新型は沈黙した。

 

『目標沈黙。ひとまずお疲れさま、伊織くん』

 

『はいはい、どうも。それより、ボクのトリオンあとどれくらい残っとる?』

 

『え?うーん、まだ九割はあると思うけど…』

 

 でも、何でそんなことを?と杏から通信が来るが、伊織は適当にはぐらかした。

 残り九割。これなら、奥の手もまだ使える。

 敵が消え、穏やかになった戦場で伊織は一息ついた。

 

(ここからどうするか…。修をC級のところに向かわせて、その一歩前で俺が防衛ラインを敷くのが一番安定択ではありそうだけど)

 

 そう何体もラービットがここまでやってくるということはないはず。

 迅の言っていた場面はまだ先だろう、と一度兜の緒を緩めた時だ。

 伊織の目の前に、突如として門が開く。

 

「し、新型が三体も…!?」

 

 門から現れるラービットを見て、伊織は初めて敵に対して顔を歪めた。

 このタイミングで、このカード。

 今、伊織がされて一番嫌なことだ。

 

「……言うてたそばから目的わかってしもたなあ」

 

「敵の狙いはC級…!」

 

 ラービットによるB級への攻撃。そしてこれ見よがしなイルガーの本部への特攻。それらは全て、C級を狙うための布石だったのだろう。

 事実、ラービットを恐れてB級は二箇所に固まり、自由に動けるのはA級数部隊のみ。今彼らを守れるのは、伊織しか居ない。何よりも、C級に緊急脱出の機能はない。捕まりそうになったら逃げる、が出来ないのだ。やはり、伊織の思っていた通り、アフトクラトルは入念にこちらのトリガーを調べてきている。

 そして、だ。

 迅の言っていた、修の命が危ういという言葉。

 ここまで来れば、何故危うくなるのか予想がつく。

 

「メガネくんはC級のとこ早よ行き」

 

 一先ず、目の前のラービットたちは伊織で見るしかない。

 C級が狙いだとわかった以上、A級たちにも警戒区域外へ出る許可はいずれ下りるだろう。それまでの時間稼ぎは最低限しなくてはならない。

 

「チカちゃんにトリガー使わせたらあかんよ」

 

 伊織の言葉に修は頷いた。

 彼のチームメイトの千佳は桁違いのトリオンを持っている。トリオンだけ抜き取るにしても、持ち帰って兵士として利用するにも、喉から手が出るほど欲しくなる存在だ。しかも、訓練用のトリガーで緊急脱出できないなんていう、ボーナスステージも甚だしい始末。

 敵にそれを悟られるわけにはいかない。千佳が狙われれば、修は命をかけて守ろうとするだろう。

 伊織の言葉は気休めに過ぎないかもしれない。だが、今できる手は尽くした。

 だというのに。伊織の中にある、何かが引っかかるような違和感は晴れない。

 

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 

「おっっっそい!!!」

 

 三門市内の高校近く。市内では名門とされる、いわばお嬢様校の制服を見に纏った小南は、迎えが来るや否や制服に見合わず声を張り上げた。

 

「これでも全速力だ」

 

 ため息混じりにレイジは答える。

 警戒区域から離れたここまでわざわざ迎えに来てやったというのに、やけに小南は偉そうだ。

 

「で、状況は?」

 

 警戒区域から離れているとはいえ、今三門市で何が起きているのかは小南も把握している。小南の学校の生徒たちは皆避難を済ませ、同級生の玲も少し前に戦場へと向かった。

 

「どうやら、敵の狙いはC級らしい。修から連絡があった」

 

 そう、と小南。

 真っ先に小南の頭に浮かんだのは千佳。トリオン量のこともそうだが、自己犠牲を積極的にするきらいのある彼女は危なっかしい、と小南は思っている。

 

「遊真は?」

 

「嵐山隊と一緒に新型狩りだ」

 

「なっ…!修一人で新型相手に出来るわけないじゃない!」

 

 客観的に見て、修はかなり弱い。それも、B級の中でも下から数えた方が遥かに早いくらいには。

 新型がどれほど手強いのかはわからないが、モールモッドにすら手こずる修に、C級を守るなんて到底できるとは考えられなかった。

 だが、一人で焦る小南をよそに、レイジや烏丸は落ち着いている。

 

「大丈夫でしょ。俺たちが着くまで()()()が持たせてくれますよ」

 

「あの人?」

 

 烏丸へ向かって、レイジが目配せをした。

 それ以上は喋るな、とでも言いたげだ。

 

「時間が惜しい。さっさと向かうぞ」

 

「待ってなさいよ新型!あたしがズタボロにしてやる!」

 

 

 

 




各隊員の状況

伊織、修:南西警戒区域外にてC級の護衛
迅:西部の守備
遊真、嵐山隊:警戒区域内でラービット討伐
香取隊:南東でラービットと交戦中
加古隊:東から南東を通って南へ移動
木崎隊:警戒区域外で小南を回収。C級の護衛へ


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曇り空のフラクタル その3

(未来が動いた。これは…伊織のおかげだな)

 

 警戒区域内、西。

 大量のトリオン兵の亡骸を背に、迅は空を見上げた。最悪の未来とそうでない未来の狭間で行き来していた修が、少しだけ良い方向に進んだとサイドエフェクトが告げている。

 間違いなく、修の近くにいる伊織のおかげだろう。何かの発言か、あるいは行動か。いずれにせよ、修の死を回避する方向に今は未来の舵を切っている。

 

(…………)

 

 見上げた空は、門の影響で禍々しく黒ずんでいる。

 未来の見える自分は、彼にとって天使か悪魔か。空がその答えを示しているようだ。

 

(……おれが迷ってどうする。今さら尻込みしたって、あいつの未来はもう確定してるだろ)

 

 力強く瞼を閉じて、迅は視界をシャットアウトした。

 この十字架も一生をかけて背負わなくてはならないものだと覚悟を決めたはずだ。今さら迷ったところで、それは甘えに過ぎない。

 

『よっ、杏ちゃん。元気してる?』

 

 通信を送った先は加古隊のオペレーター。そして、彼のサポートも担当している、小早川杏だ。

 

『迅さん。何かご用ですか?』

 

 軽口は当然のように無視され、礼儀正しく返事が来る。

 変わり者揃いの加古隊の中で、掃除雑用その他諸々を一手に引き受ける縁の下の力持ちは相変わらず、よく出来た人間だ。

 彼に対しては冗談も言ったりするようだが……と、滲み出る迷いに蓋をして、迅は続ける。

 

『そそ。ちょっとだけ頼みがあるんだけど』

 

 

 

 

 

 

(考えろ。俺が今、一番されて嫌なことは何だ?)

 

 ラービットの猛攻を凌ぎつつ、伊織は思考する。

 伊織にとっての敗北条件は、修が死ぬこと。だが、修には緊急脱出がある。彼にとって相当なことがなければ、生身で戦うなんて状況はありえないはずだ。

 その相当なこととはやはり、千佳が危険に晒されることだろう。

 修とまともに会話した機会は少ない。……が、その中でも修は仲間思いなことと、病的なまでに自分を蔑ろにする危うさは感じてとれた。修が命を投げ出して千佳を守ろうとしても不思議ではない。

 何故そこまで気がついたのか。伊織は自覚していないが単純な話だ。その点において、伊織と修は似ているから。

 

(まだ新型は居るはず。これも本命じゃない)

 

 アフトクラトルの底は見えない。

 ラービットは当然まだ居るだろうし、伊織の知らないトリオン兵が控えている可能性も否定できない。そして何よりも、レプリカの言っていた、角によって強化された人型近界民。向こうが本気を見せたとは考えられない。

 

(こいつらを倒す…のは、一番ないな)

 

 流石の伊織といえど、ラービット三体相手では先程のように簡単にはいかない。もちろん、トリオンの消費を無視して倒すことだけを考えればそうではないが、仮に倒したとして、新たなラービットが投入されるだけだ。そうなれば、どちらが先に限界を迎えるかは明白。人型の参戦も考えれば勝負所はここではない。

 

(だとすれば、俺がこの三体に足止めされて、修の所に敵を送り込まれるのが最悪な展開か)

 

 意見が固まった。

 今、伊織が一番嫌なことは、修一人でC級を守らなくてはいけない展開にされること。

 誰かがこちらへ向かっているという通信は杏から来ていない。

 もうしばらく時間を稼ぐ必要がありそうだ。

 次に考えるべきは、伊織が取るべき行動。

 

(……あえて向こうの策に乗るのも手か?)

 

 地の利はこちらにある。向こうの底は見えないとはいえ、底は確実に存在する。

 なら。余剰な戦力を投入することはしたくないはずだ。

 

(……新型に手こずるフリがベストな択だな)

 

 そして伊織は決断する。

 ラービットに完全に足止めされることは避けなくてはならない。だが、もう少しで押し切れると向こうが判断したら。そうなれば、伊織の想定では向こうは様子を見るはずだ。

 修たちに被害を及ぼさないくらいの距離感で、ラービット相手に苦戦する。敵が様子を見ている間に、他の隊員が修たちと合流する。

 伊織の中では完璧に近い回答だと考えている。だが、難易度は高い。相手に悟られたら終わり。修の所へ敵を送られて、伊織の一番嫌な状況が出来上がる。かといって、苦戦の演出が行き過ぎてしまって、例えば大きなダメージを伊織が負うようなことになってしまっても駄目だ。そもそもトリオンを温存するためにこんなことをしているのに、それでは本末転倒どころか、かえって不利になってしまう。

 

「まあ、ボクならいけるやろ」

 

 難しい局面に緊張する心を繕って、伊織は薄っぺらい笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 警戒区域内、南東。遡ること少し前。

 葉子は新型を相手に戦っていた。葉子より二回りも大きなトリオン兵は、徹甲弾(ギムレット)を防ぐほどの装甲を両腕に有しているらしい。真正直にぶつかっても、葉子のトリガーでこじ開けることはまず無理だろう。

 故に、葉子は地を這って接近する。

 姿勢を低くした葉子へ、ラービットの右腕が迫る。速いが、反応できないほどではない。

 避けた先には、今度は左腕だ。これも小柄な体格を活かして葉子は難なく回避した。

 まずは通常弾で様子見。柔らかそうな腹を狙ったが、ラービットは飛び上がって回避した。

 

(アタシの弾は受け止めなかったあたり、腹は弱点……)

 

 映像では、ラービットはアステロイドを避けようともせずに腕で受け止めた。それに比べ、腹に向けて放たれた今回は素直に回避している。やはり、葉子の見立て通り懐に潜り込めばチャンスはありそうだ。

 

琴吹(アイツ)にできて、アタシにできないはずがない……)

 

 ここ数日、葉子の中に渦巻く男の名前を心の内で吐き捨てて、再び葉子はラービットへ向かう。

 ある程度の手応えは感じた。攻め手を変える必要は、今はない。

 姿勢を低くして、ラービットの懐へ。

 同じように敵の攻撃を避けて、通常弾を放つ。ラービットが跳んだ。

 

(来たわね…!)

 

 跳んだ先へ視線を移して、足元にグラスホッパーを展開する。

 空中なら、また跳ばれる心配はない。葉子の攻撃を防げるのは両腕のみ。

 パネルを踏んで宙へ舞うと、再び通常弾を葉子は放った。ラービットはこれを左腕で防ぐ。

 

(こいつを倒して、アタシは琴吹の上を行く……!)

 

 片腕を使わせた。これで、今自由なのは右腕のみ。左腕での防御はワンテンポ遅れる。右腕だけなら、グラスホッパーで掻い潜る自信はある。

 即座に葉子はスコーピオンを呼び出すと、パネルを一つ展開する。

 空中でもう一度、葉子は跳んだ。狙いは変わらず腹部。警戒すべきは右腕の妨害。

 

(攻撃してこない…?)

 

 だが、葉子の予想に反してラービットからの攻撃はない。

 腹部がガラ空きだ。

 

(何か企んでる?……いや)

 

 迷いは生じる。しかし、深読みしてこの状況を手放すのは惜しい。

 迎撃を警戒する意識は片隅に置きつつ、葉子はそのままラービットへ向かった。

 

 構わず突進してくる葉子を前に、ラービットは慌てたように右腕を振りかぶる。

 

「今さら!!」

 

 攻めるか退くかの読み合いは、どうやら葉子が勝ったらしい。

 右腕が葉子を抑えるよりも早く、葉子のスコーピオンがラービットを捉える、はず。

 

 だが。

 

「なっ…!」

 

 結果として。葉子のスコーピオンはラービットの胸のあたりを突き刺した。

 だが、ラービットはそれを待っていたかのように受けいれると、遅れて動かした右腕で葉子を掴む。一撃離脱を考えていた葉子の退路が断たれた。

 これまでの応酬で、ラービットに致命傷を与えられるトリガーを葉子は持ち合わせていないことを読まれていた。

 スコーピオンによってダメージは与えられたが、それは今後の戦いを有利に運ぶためのものであって、今この場で戦況が大きく変わるものではない。

 掴まれたまま、落下とともに葉子は地面に叩きつけられる。

 

「こいつ……!」

 

 ラービットは右腕で葉子を掴んだまま、宙へ持ち上げる。

 身動きが取れない。

 顔を歪める葉子の様子を楽しむかのようにしばらくラービットはその様子を眺めると、徐に腹部から触手のようなものを出した。

 

 嫌な予感がする。あの触手に触れたら取り返しのつかないような、そんな悪寒。

 そして何よりも、認めたくない現実が徐々に近づいてくるような。

 

 だが、触手が葉子を捕らえるよりも先に、斬撃が二人に水を差した。

 

「葉子ちゃん!」

 

 斬撃から逃れるようにして、ラービットは葉子を手放す。

 体勢を整えるより先に葉子は声のした方を睨んだ。

 

「ちょっと!アタシ一人でいいって言ったでしょ!?」

 

「華さんと通信が繋がらない!今はこうするしかないだろ!」

 

「余計なマネ…!」

 

 両脇に並んだチームメイトに悪態をつく。

 一人でラービットを倒すという、目の前の目標を消されたことへの苛立ちだけが葉子の中にあった。

 

「葉子ちゃん!右!」

 

「うっさい!わかってる!」

 

 雄太の声にも吐き捨てて、葉子は新型の攻撃を回避した。

 攻勢に移ろうとしたところで、またしても葉子の下へ声が聞こえてくる。

 

『ごめんなさい。通信が乱れたわ』

 

『華さん!そっちは大丈夫なのか!?』

 

『問題ないわ。それよりも目の前の敵が先』

 

 ようやく集結したチームメイト。

 

『………』

 

 だが、葉子にはそれが届かない。

 

『南へ下がりつつ、新型の相手をしましょう』

 

 途切れ途切れだった通信で華が伝えたかったことだ。

 隊長を置いてはおけない二人と、どうしても新型を相手にしたい隊長。隊長の思惑まではわからないが、両方の間を取り持った策だ。

 

『それなら葉子も文句ない?』

 

『……アタシの足引っ張ったらタダじゃおかないから』

 

 ため息をついて、渋々葉子は了承した。

 

 前へ出る葉子に麓郎と雄太が続く。

 基本的なプランに変更はない。腹部を削りつつ、隙を見て弱点らしき目を狙う。

 初手、麓郎の通常弾がラービットを襲う。ラービットは全くものともしない。

 続いて、雄太が弧月で接近。力を入れて振り下ろしたそれはしかし、簡単に防がれた。

 

「こ、攻撃が効かない!?」

 

 映像で見た耐久力を目の当たりにして、麓郎は驚愕する。

 そんなチームメイトを尻目に、葉子は愚直に新型の懐へ潜り込む。

 先ほどの攻撃ではカウンターを見事に決められた。近づけばダメージは与えられるかもしれないが、同時にリスクも伴うことは承知の上。

 雄太の攻撃で生じた隙に乗じて、葉子はアステロイドを放った。今度はラービットは跳ばない。右腕で受け止めた弧月を振り払って、その方向にステップする。その勢いで雄太は吹き飛ばされた。

 これも気に留めず、足元にグラスホッパーを展開。右手にはスコーピオン。仕掛けた葉子がやや有利だが、状況はほぼ五分。

 だが、ここからでも一人でこじ開ける自信は、ある。

 

「葉子!!」

 

 葉子の仕掛けに呼応するかのように、麓郎から射撃が飛んでくる。

 一瞬、隙が出来た。

 

(余計なことを……!)

 

 味方からの援護に心の内で舌打ちをしつつ、僅かに空いた隙き間へ向かってスコーピオンを投擲する。

 至近距離でリスクがあるなら、そこまで近づかなければいい。スコーピオンは攻撃手用のトリガーだと新型が認識していれば、その裏を突ける。

 

 だが。それでも、ラービットには届かない。

 

 ラービットは投擲されたスコーピオンを前に、ステップも退がることもしなかった。

 避けたことに変わりはない。ただ、葉子に向かって、前に跳んだ。

 

「カウンター!?」

 

 速い。ただでさえグラスホッパーで勢いをつけて接近しているというのに、このスピード。新たにパネルを展開して回避することは間に合わない。

 右腕での薙ぎ払いが葉子に直撃した。

 吹き飛ばされ、壁に衝突する。体勢を整えて一旦後退する……よりも先に、ラービットは葉子のすぐ目の前まで接近した。

 ぞくり、と背筋に悪寒が走る。一度目を背けた現実が、再び目の前まで近づいてくるようだ。

 ラービットの腕が、葉子へ迫る。

 

「葉子ちゃん!」

 

「……え?」

 

 だが、ラービットの腕は葉子を捕らえなかった。

 突然の出来事に、思わず声が漏れる。

 手荒く雄太に突き飛ばされたが、驚いたのはそんなことではない。

 葉子をかばって、雄太が身代わりになったのだ。

 

「ゆ、雄太!!」

 

 がちりと捕まれて雄太は動けない。右手で弧月を振ろうとじたばたさせたが、その右手はラービットに引きちぎられてしまった。

 

「べ、緊急脱────」

 

 雄太の下へ、先ほど葉子へ迫った触手が伸びる。

 雄太が逃げることも、二人が助けることも、叶わない。

 

「そ、そんな…」

 

 体から血の気が引いていく。トリオン体では寒さはあまり感じないはずだというのに、ガクガクと体が震える。

 いつも穏やかで、チームの仲を取り持つバランサー。ついさっきまで隣で一緒に戦っていた彼の身体は、無機質な四角となって、ラービットの体内へ消えていった。

 

「そんなつもりじゃ……」

 

 足を引っ張ったらタダじゃおかない。苛立ちと共に発した言葉に、大した意味はなかった。本気でそんなことを言ったつもりではなかった。終わってからいろいろ文句を言って、またいつものやりとりを楽しむつもりだった。

 それが、葉子を庇って雄太が敵に捕らえられるなんて結果になってしまうなんて。

 今さら謝ったって、後悔したってもう元には戻らない。

 自分ではラービットは倒せないことは薄々感じていた。伊織に見せつけられた明確な差が、数日程度の努力では埋まらないこともわかっていた。だから、余計に葉子は取り返しのつかないことをしてしまったと後悔する。

 

(……雄太)

 

 そして。

 雄太を犠牲にしたという、目の覚めるくらい背筋の凍る出来事を前にしてやっと、葉子を呪いのように縛っていた伊織への執着がさっぱりと消えた。

 

(……なんだ、簡単なことだったじゃない)

 

 そうして冷静になった今、葉子にはなぜ伊織にあそこまで怒りが湧いたのかが、ようやくわかった。

 チームのみんなが大好きだ。もっともっと、香取隊で上を目指したい。

 ランク戦で那須隊を見て苛立ったのも、伊織が望と話す姿を見て腹の奥がちりちりとしたのも。そして、伊織の言葉が看過できなかったのも。

 全部、チームメイトを大切に思っていたから。心の奥底では、自分たちも那須隊のようになりたいと、羨ましく思ったから。チームメイトを悪く言われて、腹が立ったから。

 

「麓郎、華」

 

 チームを組んで、ランク戦をやって。ある程度まで進んだら、大きな壁が立ちはだかって。大きな壁は頑張らないと越えられないけれど、頑張るのは嫌で。心の中には、苛立ちばかりが積み重なって。

 そうしている間に、華を誘ったあの時の、期待に満ちた晴れやかな心をいつしか忘れてしまっていた。

 

「雄太を助けたい。だから、()()()()()

 

 大切なものを失いかけて、ようやく気がついた。

 もうこれより下はない。

 ここから、再スタートだ。

 

 

 



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やがて、君は空の広さを知る その1



お待たせしました。

……お待たせしすぎました。





「アタシ一人じゃ新型は倒せない。だから手を貸して」

 

 大規模侵攻の真っ只中、葉子は麓郎と華の二人に向けて言った。

 真っ直ぐな視線が麓郎を捉える。これほど真剣な表情、今まで見たことがない。まるで中身ががらりと変わってしまったかのようにすら思えるほどの様子に、麓郎は思わずたじろいだ。

 

(手を貸すっても……)

 

 ラービットはぎろりとこちらを睨みつけたまま、機を窺っている。雄太一人を連れ去ってどこかへ去る様子ではないのは不幸中の幸いだ。

 とはいえ、元より三人でも歯が立たなかった相手に、一人減った今、麓郎が一体何が出来るのかわからない。

 雰囲気の変わった葉子の頼みに応えられそうにない現状に、情けなさが募る。

 

『一つ、案があるわ』

 

 そんな中、切り出したのは麓郎ではなくオペレーターの華だ。

 変化の一端を見せる葉子と違い、この構図は今までと変わらない。

 

『……葉子には、辛いかもしれないけれど』

 

 華の一言で、麓郎の脳裏には過去の葉子がよぎる。

 これから伝えられるのは恐らく、ムキになって新型へ戦いを挑んでいった葉子の心情を全く無視した作戦だろう。

 癇癪をおこして嫌がる葉子が浮かんだが。

 

「アタシのことは関係ない。教えて」

 

「……!」

 

 意外、という感想が真っ先に出た。

 確かに切羽詰まった状況ではある。だが、ここまで彼女が冷静に、しかもチームメイトの言葉に耳を傾けているとは……。

 

『……作戦を伝えるわ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして。一人少ない香取隊はラービットに対峙する。

 麓郎の射撃を皮切りに、葉子がラービットの懐へ。愚直に攻めて、作戦を悟られないように。

 

(葉子のやつ、いきなりどうしたんだ……?)

 

 新型とやりあう隊長の背を前にして、麓郎は心に大きく残る驚きを今一度取り出した。

 言っていた通り、華の作戦は普段の葉子なら絶対にとらないような作戦だった。それが文句の一つも言わず、わかったの一言で受け入れられての現在である。思い返せば、チームランク戦の最終戦から葉子の様子がおかしかったような気がするが、それが今回に繋がっているのだろうか。

 

(……いや。葉子のことを考えてる場合じゃない。雄太を助けたいのは俺も同じだ)

 

 引き鉄を引く間隔がだんだんと大きくなってきた頃合い、麓郎は我に返る。今、考えるべきは葉子が変わった理由ではない。新型の体内に取り込まれたチームメイトを取り返すこと、つまりは華の作戦に集中することが最優先。

 葉子と接近戦を繰り広げるラービットへ突撃銃の照準を合わせる。射程ギリギリの遠さから、致命傷を狙わない嫌がらせの弾がラービットの右腕に着弾した。

 何事もなかったかのように、敵は意に介さない。新型はスコーピオンを構えて懐へ迫る葉子を視界に捉え、腕を薙ぎ払った。

 

(くそ……!何でもいいからこっちに気を……!)

 

 葉子では新型相手は荷が重そうだ。

 苦戦する隊長を手助け出来ず、次第に戦場から存在感が消えていく己の現状に、麓郎は焦りを感じた。

 無意識のうちに、麓郎の足は少しずつ前へ。狙いも腕や足から、段々と弱点へ。通常弾が一発、新型の目を掠めたところで、相手の足が一瞬止まった。

 

(よし、いいぞ……!そのまま……)

 

 当然、葉子はその隙を見逃さない。新型の懐へ潜り込むと、スコーピオンを振るって胸部を攻撃する。ダメージを確認せず、もう一度。そしてまたもう一度。少しずつだが、葉子が相手を押し始めてきた。

 たまらず新型は強引に葉子を薙ぎ払って仕切り直しにかかる。それには吹き飛ばされてしまった葉子だったが、着地点にグラスホッパーを展開。再び距離を詰めようとする、が。

 だが、新型の視線は葉子から別のところへ移っていた。

 

「なっ!?」

 

 視線の先は麓郎だ。嫌がらせ程度の攻撃が無意識のうちに敵を倒すためのものになってしまったところ、新型に目をつけられた。

 新型が飛んでこちらへ迫る。

 

(シールドか!?いや、俺のトリオンじゃあんな攻撃……。ならカメレオンで姿を……?)

 

 予想だにしていなかった事態に冷や汗が滴る。

 敵の攻撃を受ける手段はいくつか思い浮かぶが、そのどれもに受け切れるビジョンが浮かばない。断片的に浮かんでは消えを繰り返す思考がまとめきれない。

 側から見れば何もせずただやられるのを待っている状況、打開したのは彼の隊長だった。

 

「麓郎!」

 

 呼ばれて葉子の方を見る。こちらの足元を指さしている。

 見ると、そこにはパネルが一枚。それを踏んで、麓郎は不格好ながらも何とか距離を取った。

 

「わ、悪い。助かった」

 

「何やってんの、もう少し頑張んなさいよ」

 

 葉子の手を取る。これまでのランク戦では感じなかった、不思議な感覚だ。

 麓郎が体勢を立て直すのを確認して、葉子は再びラービットへ接近していく。

 麓郎もはじめと同じように、ラービットへ射撃を再開した。今度は間違えないように、足元や腕を狙って。

 葉子のスコーピオンがラービットの右脇腹へ向かって振り下ろされる。相手はこれを右腕で防御。左腕を振り上げる。麓郎の射撃で少しだけバランスを崩す。一瞥もせず、ラービットはそのまま振り下ろした。葉子はこれを回避。左腕は地面に突き刺さり、辺りに瓦礫が散らばる。

 やはりフロントが葉子一人では厳しそうだ。射撃が時折葉子への攻撃を咎めはしているものの、何かの拍子で均衡は崩れてしまいそう。だが、麓郎は焦らない。隊長を信じろ、とあの時葉子が言っていたような気がしたから。

 ラービットの攻勢は止まない。左腕を地面から引き抜くと、回避した葉子へ向かって踏み込んだ。

 右腕を振り上げる。葉子は動かない。

 目の先までそれが迫ったところで、パネルが一枚、両者を隔てた。

 勢いのまま右腕でグラスホッパーを目一杯叩きつけたラービットは、反射板によって腕を思い切り弾かれる。

 

 隙が出来た。

 

 この時のために追撃の態勢をとっていた葉子は間髪入れずにラービットの下へ。二度目の失敗は、絶対しない。

 

「なっ……!?」

 

 だが、これで二度目なのは向こうも同じだった。

 ラービットは左手で瓦礫を葉子目掛けて投げつける。少し前の応酬で備えていたのだろう。

 突然の出来事を前に、葉子は回避もできず瓦礫が腹へ直撃する。柔らかい急所へのダメージに、顔を歪めてその場に倒れ込んだ。

 

 状況は最悪。ここからの回避は間に合わない。グラスホッパーでの反射も、二度目は通じないだろう。

 

 だが。

 

「やった……!」

 

 麓郎の顔には、作戦を無事やりとげた達成感がありありと出ていた。

 直後。麓郎の背後から弾丸が四発、ラービットへ飛んでいく。

 

「お待たせしちゃったかしら?」

 

「加……古さ……」

 

 酸素を途切れ途切れに、葉子のか細い声が聞こえる。

 自らの背後に葉子を隠すと、望の周りを球体を形作ったトリオンキューブが九つ取り囲む。

 

「ハウンド」

 

 号令と共に発射されたそれは、回避しようと逃げ回るラービットをどこまでも追いかける。その様にどこか既視感を感じた葉子だったが、構わずハウンドは進む。

 少しして、観念したのかラービットは着地して両腕を防御のために固めた。全ての弾を受け切ったラービットだったが、守りのために着地した先に一つ。小さな人影がある。

 

「韋駄天」

 

 サイドテールを揺らしながら、その人影────双葉は弧月を構えた。

 攻撃が来る。そう考え、ラービットがそれに備えるよりも前に、双葉の残像が弱点の目を切り裂いて、通り過ぎていった。

 目に宿っていた光が消え、ラービットは倒れていく。何ともあっけない。葉子たちがダメージを与えたからこその結果とはいえ、今までの苦戦が嘘だったかのようだ。

 

「華ちゃんから話は聞いているわ。あのキューブが雄太くんね?」

 

 弱点を一閃され、機能を停止したラービットを前に望は言った。強敵を倒した余韻に浸る間もなく、双葉はラービットの体内を漁っている。

 これがA級。精鋭部隊か。実力もさることながら、現場慣れの度合いに麓郎は唖然とした。

 

「加古さん、ありがとう」

 

 呼吸を整え、立ち上がりながら葉子は望へ軽くお辞儀をした。

 これにも麓郎は唖然とする。普段なら強がりの一つや二つ言うものだが……。

 さておき、華が提示した作戦は単純なものだ。葉子と麓郎の二人では新型は倒せない。だから、時間を稼ぎつつ少しでもダメージを与え、近くのA級に助けを求めたというわけだ。

 

「……」

 

 お辞儀をした葉子を、望はまじまじと眺めている。

 それに満足すると、小さく息を吐いて、それから少しだけ笑った。

 

「これはあなたが持っていなさい。大切なものでしょう?」

 

 そう言って望は雄太のトリオンキューブを手渡し、何やら通信を始めた。恐らくオペレーターとだろう。彼女たちは遊撃を任されているようだから、次のプランでも練っているのだろうか。

 

「麓郎くんたちは南に合流するんだったわね」

 

「は、はい」

 

「そう。それじゃあ、ここでお別れね。東さんによろしく」

 

 未だ侵攻が止まない中、感想戦は不要だろう。

 葉子たちに別れを告げ、加古隊が南へ向かおうとした、その時。

 

『……!付近にトリオン反応!この出力……!』

 

 周囲に、稲妻にも似た黒い光が走る。

 トリオン兵なんて、生半可なものではない。この出力。そして、この重圧。

 ……とうとう、お出ましだ。

 

「このひりついた空気に、乾いた匂い。ようやくだ」

 

 外套を身に纏った偉丈夫。頭には、白い角が二つ。

 軍事国家アフトクラトルの、人型近界民が現れた。

 

「ひとり、ふたり……」

 

 偉丈夫は葉子たちの前に降り立つと、攻撃を開始するでもなく顎に手を当て、こちらを値踏みするかのように人数を数え始めた。

 

「ふむ、四人か。()()()()()

 

 そうして数え終えると、ため息をついて肩を回す。

 明らかな挑発だ。

 だが、こんな見え透いた挑発でも乗ってしまいそうなのが一人……。

 

「……はは。あはははは!!」

 

「よ、葉子!?」

 

 心配して横を向くと、なぜか葉子は笑っていた。それも大きな声で、涙でも流してしまいそうな勢いで。

 

「おかしなことを言ったつもりはなかったが?」

 

 偉丈夫は眉を顰める。

 無理もない。この中で一番葉子を知っているであろう麓郎ですら、冷や汗を流して驚いたのだ。

 

「こっちの話よ。こうして聞き返してみれば、あんなエセ関西弁を本気にしてた自分がバカみたいじゃない?」

 

 エセ関西弁……。生駒隊は南沢を除いて生粋の関西人だから、葉子が言っているのは伊織のことだろうか……。とにかく、こっちの話と言われても麓郎には何の事かさっぱりだ。

 

「……あんなエセ関西弁?」

 

(め、めちゃくちゃ睨んでる……)

 

 見た目に似合わない低い声で呟く双葉に、麓郎はぎょっとした。

 何だか仲間内で喧嘩でも始まりそうな雰囲気だったが、望の「双葉」の二文字で渋々双葉は表情を収めた。

 そんなやりとりには気付かず、葉子はスコーピオンを両手に構える。

 どうやら、麓郎の隊長はやるつもりらしい。

 

「敵は角でトリガーが強化されているけれど、やれる自信はあるのかしら」

 

 望らしい上品な笑顔のまま、少し煽るように調子を上げて葉子に問いかける。どんな返事が来るのか、わかりきっているかのようだ。

 

「当然!だって、アタシのチームは最強だから!」

 

 にやり、と葉子はそれに応えた。

 新型が現れたのが一つ目だとすれば、葉子たちにとってこれは二つ目大きな山場。

 一つ目とは全く違う表情で、葉子は相手を見据える。

 

 

 






投稿を始めて早一年……。二年目も頑張ります。


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やがて、君は空の広さを知る その2

『隊長、敵の狙いがわかりました』

 

 ラービットを倒し、雄太のキューブを取り返したときのこと。

 次なる戦場へ向かおうと思考を巡らせている最中に、オペレーターの杏から通信があった。

 

『敵の狙いはC級のようです』

 

 C級。かなり痛いところを突いてきた、と望は思う。

 C級に緊急脱出の機能はない。実力だって、まだまだ訓練生のひよっこだ。

 しかし、彼らが市民を誘導してくれているおかげでB級以上の隊員は敵に集中ができているわけで、上層部が彼らを駆り出した選択は責められない。

 そして何よりも。C級が狙われるということはつまり……。

 

『はい。伊織くんのところが戦闘の中心になります』

 

 そこに至るまでの経緯は大まかに把握している。

 というよりも、事前に知らされていた。

 

『……いかがいたしましょう?』

 

 杏からのそれは、今一人でC級を守っている伊織を助太刀に行かなくていいのか、という確認であり、彼女にしては珍しくそうして欲しいという思いが込められたものでもあった。

 

『伊織のところへは行かないわ。予定通り、南へ向かいましょう』

 

『……』

『……っ』

『了解しました』

 

 隊員たちの心情は痛いほどわかる。

 だが、望がそうせざるを得ないのには理由があった。

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

「あ、加古さん。ちょっといい?」

 

 大規模侵攻の少し前。作戦室で一人くつろいでいた望のところへ来客があった。

 迅が作戦室までやってくるのは珍しい。というのも、望と伊織が一緒にいるときは、彼は全くと言っていいほど近づいてこない。彼女の作戦室に伊織が居ることは多いから、迅がここへやってくることがないのだ。そこにどんな配慮があるのかはわからないが、ともかくそれは望の記憶する限りでは片手で数えるくらいしかなかった。

 

「何か用かしら」

 

「うん。結構大事な話」

 

 望のソファへの案内に軽く礼をして、迅はにへらと笑いながら言った。

 そう、と一言返事をする。表情とは裏腹に、穏やかではない切り出しだ。

 

「もうすぐ大規模侵攻があるって忍田さんから聞いたでしょ?」

 

 頷く。近々、近界民の大規模な攻撃があると一部の隊員には本部長から通達があり、県外スカウトに向かったA級も何隊か三門市に呼び戻されていた。

 加古隊もそのうちの一つであり、何だか胸騒ぎがしたからここ数日間望は一人作戦室で待機をしていた訳である。

 とはいえ、胸騒ぎが的中することもなく、時折訪れる従兄弟を相手に『新作』を振る舞っていたのだが。

 

「…伊織も大変だな………」

 

「何か言ったかしら?」

 

「ああいや、何でもない。それで大事な話ってのは一つ、頼みがあるんだ」

 

 迅への視線が少し神妙なものになる。

 胸騒ぎの正体はこれだろうか。

 

「大規模侵攻の間、伊織を貸してほしい」

 

 だが、迅の口から出たのは何とも拍子抜けする頼みだった。

 伊織は個人隊員だ。加古隊の作戦室がほとんど家のようになっているが、その事実に間違いはない。いちいち望の許可なんて必要ないし、そして何よりも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「別に構わないわ。そもそも、伊織は私たちと一緒に行動しないもの」

 

「けど、伊織が大変そうだったら助けにいくでしょ?それもこっちに任せてほしいんだ」

 

 そう言われて双葉のツインテールがしょんぼり垂れ下がる様子が目に浮かぶ。可哀想だが、可愛らしい光景だ。

 

「加古隊のみんなは、大規模侵攻での伊織の未来をどうこうできる立場にいない。途中で強敵と戦うことになって、そのせいで合流できなさそうなんだ」

 

 望は迅の言葉に眉を顰めた。

 強敵と戦うことになる、という言葉に対してではない。近界民が攻めてくるのであれば、A級部隊の加古隊がそのような場面に直面することは十分あり得るだろう。

 だが。『伊織の未来をどうこうできない』とはやけに大袈裟な言い草だ。まるで、伊織には悪い未来が待ち受けていて、それを阻止するために迅が動いているかのようではないか。

 

「でも、退屈はしないんじゃないかな。むしろ楽しいことが待ってる。それはおれのサイドエフェクトが保証するよ」

 

「そう。わかったわ。……それで、本題は?」

 

 再び笑った迅への反応はそこそこに、望は続きを促す。

 迅がこんな軽い調子で話すときというのは、大抵が後に重要な話題が控えている。

 

「やっぱり従姉弟って似るもんだな〜」

 

 ため息ともとれない、自嘲のような息を迅は吐いた。

 胸騒ぎが強くなる。

 

「伊織の未来について。加古さんにだけは話しておかないといけない」

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 警戒区域、南東地区。

 迅の予知通りの展開に、望は彼の言っていた未来を思い出した。

 伊織に良くないことが起こるかもしれないから、それを防ぐために迅はああして暗躍をしていたのだと思っていたが。聞かされたそれは、あまりにも悲しい結末だった。

 

(伊織の未来をどうこうできる立場にいない、ね……)

 

 迅はまた、ボーダー内で伊織のことを一番よく知っているのは望だから、とも言っていた。

 間違いではない。だが、それはただの客観的な事実であるだけだ。

 

(そんな資格、もともと持ち合わせていないわ。……だって、あの日私は────)

 

 

 

 思考を戦場に戻す。

 相手は軍事国家、アフトクラトルの人型近界民。トリガーを強化する角は黒トリガーのそれではないが、それでも強敵であることに変わりはない。

 

『さて。あれだけ大見得を切ったところ悪いけれど、葉子ちゃんたちは私の指示で動いてもらうわ』

 

『は、はい!』

『わかった』

 

『まずは相手を知るところから始めましょう。二人はとにかく敵の攻撃を喰らわないようにしてちょうだい』

 

『真衣は今から伝えるポイントへ向かって』

 

了解(ラジャ)

 

 その指示に三人が散開する。フロントは望と双葉。後ろに葉子と麓郎。

 ガンナーの二人が人型へ向けて射撃を放った。

 麓郎はもとより、望も弾数重視の面攻撃。

 

(まずは様子見か。あの双剣使いが突撃してくるものだと思っていたが、存外冷静だな)

 

 外套の偉丈夫──ランバネインは、牽制の射撃をシールドで受け止める。その傍らでちら、と葉子の方を見やるが、追撃に迫る様子はない。

 

「ならばこちらから!」

 

 全てを防ぎ切ると、ランバネインは攻撃用のトリガーを召喚した。彼の左腕とライフル銃のような形をしたものが一体となる。弾倉は機関銃の如く何十ものトリオンが繋がれ、右手でそれらを支えて狙いをつけた。

 

(射撃のトリガー……!)

 

 一目でそれが射撃に特化したものだとわかる。数発放たれた射撃は、乱雑に四人の居る位置へと向かっていった。

 望は盾を展開し防御。双葉は小回りを効かせて回避。後ろの二人は建物を盾に。

 

「ほう、凌ぐか」

 

 射撃によって破壊された建物の跡形の無さが、破壊力を物語っている。

 初動でこれとは、アフトクラトルの軍事力が垣間見えるようだ。

 

「ハウンド」

 

 未だ様子見の段階だとはいえ、あの攻撃力の相手に受けに回るのはまずい。そう考えた望は、ハウンドで先手を打つ。

 しかし、望のそんな思惑を読み取ったのか、ランバネインは盾を展開せずに最小限の動きで回避にかかった。左方向にステップし、再び銃を構える。

 だが、望の射撃はステップしたランバネインを追尾して、そちらへ向かって曲がった。

 

(この軌道…!こいつも曲がる弾の使い手か!)

 

 一度、攻撃を取りやめてランバネインは追尾弾に集中する。

 敵の攻撃を牽制したい望と、一気に攻め立てたいランバネイン。何重もの読み合いが詰まった攻防は、一先ず望の思う通りに進んだ……と、思ったが。

 攻撃を躊躇し防御を行うかと思われたランバネインだったが、盾は起動しなかった。それどころか再び左腕の狙いをつけると、もう一度射撃体勢に入る。

 

「パワー勝負といこうじゃないか!」

 

 その体勢のまま、後ろへ大きくステップする。

 ハウンドはそれを追って、ランバネインの正面から彼の身体へと向かっていった。

 左腕から射撃が放たれる。数は望の放ったハウンドと同数。それらはランバネインへと向かってくるハウンドを寸分の狂いもなく撃ち抜いて、そのまま望の下へと向かっていった。

 これに望は盾を構える。間一髪のところで防いだが、衝撃を抑えきれずに後退りした。

 当然、その隙をランバネインが見逃すはずもない。距離を詰めながら一発、二発。三発目を撃とうとしたところで、双葉が間に入る。

 双葉の弧月は、振り返ることなく左腕のライフルで受け止めた。弧月を振り払い、双葉を見る。彼女の華奢な身体はランバネインに力負けし、後方へ飛ばされていった。

 

「ぬるい!ぬるいぞ玄界の戦士よ!その程度で様子見などと!」

 

 立ち上がり、両手で弧月を構えて双葉はランバネインを睨みつける。

 

「韋駄天」

 

 雷のようなトリオンを纏わせた双葉の身体が、そのかけ声とともに消えた。

 否。消えたのではない。目で追えないほどのスピードで、ランバネインへと向かっていく。

 驚いた様子のランバネイン。高速移動の斬撃は、盾で何とか防ぐことに成功した。

 

「ははは!そうだ!まだ終わってくれるなよ!」

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 警戒区域、南西地区。忍田がB級に集まるよう指示した地区は東と南の二つであり、この付近にボーダー隊員は少ない。居るとすれば、遊撃を任されたA級相当の部隊か、あるいは警戒区域外で市民を避難させているC級くらいだろう。

 前者──遊撃を任された影浦隊は、位置が近かったからという、ただそれだけの理由で誰もいない南西地区の守備についていた。

 

『敵の狙いはC級だとよー』

 

 そんな中、オペレーターの仁礼から伝えられたのは敵の目的だ。

 それは防衛戦において何よりも重要な事実だというのに、仁礼の口調は呑気で間の抜けているものだ。

 

『どうすんだ?警戒区域出りゃすぐそこだぞ?』

 

新型(こいつら)放って行くわけにもいかないでしょ』

 

 どこかの高台からこちらを見ているであろう絵馬からの尤もな意見だ。

 しかしながら、新型に散々狙撃銃の攻撃を受け止められたことがあってか、口調はどこか不貞腐れている。

 

『うーん、たしかに』

 

 けど、さすがに助けにいかないと全滅しちゃうよ?と北添。

 それを聞いて、仁礼は何やらカタカタとキーボードを叩き始めたようだ。

 

『あー、玉狛が向かってるみてーだな。あとは……ハア!?』

 

『うるせェ!いきなり大声出すな!』

 

 隊員たちのやり取りを適当に聞き流していた隊長の影浦だったが、仁礼のいきなりの大声にびくりと体を震わせる。戦場での不意打ちは通用しない彼の、珍しい光景だ。

 緊迫した戦場でのいつも通りのやりとりはしかし、仁礼の言葉で一変する。

 

『こ、琴吹のヤローがもういる……』

 

 南西の警戒区域外には、すでに伊織がC級の護衛についていた。

 好きなものは揉め事と他人の困った顔だと普段から周囲に言っている彼からは全くもって想像つかないどころか、何か裏があるのではと勘繰ってしまうほどだ。

 

『え……』

 

『ま、まあ非常事態だしありえる……よね?』

 

 絵馬や北添も同じく困惑している。あるいはそれは、C級のもとへ行くことを躊躇させているかのようだ。

 三人の様子を感じとって、影浦は思わず舌打ちをする。

 

『おっ、何だぁ〜?カゲはあの野郎が気になるのか〜?』

 

『ぶん殴んぞ、テメェ』

 

 いつもの調子で揶揄ってくるオペレーターに釘を刺す。

 長いこと同じチームとして一緒にやっているだけあって、影浦が伊織のことを嫌っているのは知っているはずだ。だからこそのいじりでもある。

 

『特にカゲなんか、琴吹くん相手だといろいろしんどそうだよね』

 

 北添から見ればそう写るだろう。感情受信体質のサイドエフェクトを持つ影浦にとって、周囲に悪意を振り撒く伊織は気分を害する天敵に近い、と普通なら考えるはずだ。

 だが。影浦が伊織のことを嫌う理由は、そうではない。

 

『C級もあのサイコ野郎もどうでもいい。敵居んなら倒しゃいいだけだろ』

 

 三人からの肯定が返ってくる。

 そう。事情があろうと、状況が想定外であろうと、影浦たちには敵を倒すというシンプルな目的があるのみ。結果的にC級を助け、伊織を手伝う形になろうが、そんなもの知ったことではない。

 そうしてラービットに対峙した彼らの前に。大きな門がひとつ、現れる。

 

「あぁ!?クソ猿二匹だけかよ!?」

 

 門から出てきた人型は、影浦と北添を見るや大声で悪態を吐いてこちらを見下ろした。言葉も態度も、そして肌にちくりと刺す感情も。それら全て、純度百パーセントの悪意だ。

 

「……いいぜ、お前。お前みてえなのを待ってたんだ」

 

「あ?こいつ、頭でもイっちまってんのか?」

 

 人型の嘲りが影浦の肌を撫でる。

 そうだ、これだ。余計なことを考えさせずに立ちはだかる相手が、どんなにやりやすいことか。

 

「敵ってのはそうでねえとな!!」

 

 もう一つの大一番が、開戦する。

 

 

 

 

 

 

 時間は少しだけ遡り、同じく南西地区、警戒区域。

 影浦隊が新型を相手に戦っている間、その近くに一人の隊員の姿があった。

 

『警戒区域に到着したわ。くまちゃんたちは今どこに?』

 

 開戦の知らせを聞いて大急ぎで学校から戦場へ向かっていた玲だったが、その最中で避難が遅れた市民の誘導を行ったりしたために到着が遅れ、またチームメイトたちとは離れた場所になってしまった。

 

『南地区で他の部隊と合流したところ。玲のところからだと…小夜子、ルートをお願いできる?』

 

 B級の彼女たちに言い渡されたのは合流。強力な新型にやられないように、B級は協力して戦えという意図だろう。

 少し遠くに来てしまった、と玲は思った。近くに誰かが居るおかげか、運良くここまで新型に出くわしてはいない。だが、警戒区域内に入ってしまうとそうもいかないだろう。一人で戦うには難しい相手だと聞いている。

 

『……小夜子ちゃん?』

 

 状況を整理し、志岐からルートが送られてくるのを待っていたが。

 送られてこないどころか、返事すら来ていない。何か不穏な気配が感じられる。

 

『ほ、報告です!人型近界民が出現!場所は南東と……南西!那須先輩のすぐ近くです!!』

 

 そうして彼女から来たのは、ルートではなくやはり緊急を要する事態の報告だった。

 レーダーを見る。言われた通り、玲のすぐ側だ。

 

『ごめんなさい、合流はもう少し待っていて』

 

『な、那須先輩!?無理しなくても……』

 

 日浦の言う通りだ。敵国の情報は聞いている。B級には、強化されたトリガーを持つアフトクラトルの人型相手は厳しいかもしれない。

 

『ふふ。ありがとう、茜ちゃん。だけど。無茶かもしれないけれど、準備はしてきたつもりよ』

 

 そうだとしても。玲が立ち向かわなくては、すぐ近くで避難誘導をしているC級が危うい。

 で、あれば。玲が次に取るべき行動は、決まっている。

 

『今日みたいな日のために、私は戦うって決めたから』



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やがて、君は空の広さを知る その3

 結論として、玲は伊織が苦手だ。好きか嫌いかで言えば確実に嫌いでもある。あれだけ気味の悪いことをされれば当然だ。

 だが。それはそれとして、玲は伊織に感謝していた。

 ボーダーに入ってから、いや、今まで生きてきた中で、あからさまな剥き出しの悪意に触れた経験は一度もない。病弱な身体に生まれても家族は嫌な顔一つせず玲のケアをしてくれているし、学校で何か嫌なことをされたこともない。あるいはもしかしたら陰口の一つや二つ言われているかもしれないと思ったことはないでもないが、それも架空の生物に思いを馳せるかのようにどこか遠い出来事だと楽観していた。

 けれど。あの日、玲の目の前にはその架空の生物が居た。実際それに触れた時は酷く傷ついてその日は一日落ち込んだが、それと同時に大事なことに気がついたのだ。

 世の中には周囲に悪感情を振りまく人間は存在する。それは玲の届かない遠くに居るのではなくて、実はすごく身近に同じ時を過ごしている。

 今までそれを玲に感じさせなかった家族や友人たちはかけがえのない存在だということに、皮肉ながら彼らが遠ざけていた人間に触れたことで気がついた。

 そのためにどれだけの辛いことがあったのだろう。玲に隠れて、大変な思いもきっとしていただろう。

 今まで、かけがえのない人たちが作った囲いの中で暮らしていた玲には、それがどれほどのことかはわからない。外へ出れば、またあの日と同じような出来事に出くわすかもしれない。

 けれども。いや、だからこそ。

 守られてばかりだった今までとは、お別れの時間だ。

 今度は自分の番。大切な人たちを守ってあげたい。……否。守らなくてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あー、こりゃ外れくじ引いたか?猿は猿でも頭イカれちまったやつ相手とはなあ?」

 

 首のあたりを掻いてアフトクラトルの人型──エネドラは言った。影浦の肌には嘲笑が舐めるように撫でるが、にたにたと口角を上げて煽るような口調を前には、サイドエフェクトなんて当てにしなくてもそれは十分に伝わってくる。

 

『おいカゲ!あんなパッツンとっととやっちまえ!』

 

 画面越しに憤慨しているだろうオペレーターからの雑音もとい鼓舞は意識の隅へ追いやって、影浦は人型へ感覚を研ぎ澄ました。

 

(この感覚……。来る……!)

 

 針で刺すような感覚。先ほどまでとはまるで違う。

 ランク戦のそれとは異なる、本気の殺意。

 思考するよりも先に影浦は一歩、大きく飛び退いた。

 

(避けやがっただと……?)

 

 一瞬遅れて、飛び退くまでの位置に地面から貫くように刃が複数伸びる。

 まさか、とエネドラは驚愕の表情を浮かべた。

 言葉で相手を煽り、思考を固定させたところに死角からの攻撃。サイドエフェクトがなければ避けることは不可能だったろう。

 

「ひょえ〜!ゾエさんこんなの避けらんないよ!?」

 

「下がってろ。タネはわかんねーが、あいつが人間ならオレには当たんねえ」

 

 だが。真正面からのパワー勝負ではなく、搦め手で攻めるタイプなら影浦との相性はいい。この手の相手はトリッキーな立ち回りで不意を突いてこそ真価を発揮する傾向が強く、サイドエフェクトで相手の敵意を読み取れる影浦には通じないからだ。

 

「クソ猿が……!」

 

 必中の先制攻撃と信じて疑わなかったものを涼しい顔で回避され、エネドラは苛立ちを露わにする。代わりに、側に控えていたラービットが影浦へ向かっていった。

 

(当たんねえのは当たんねえが、迂闊に近寄れねえのもそうだ……)

 

 ラービットの攻撃を往なす傍ら、影浦は思考する。

 彼にとってエネドラは相性のいい相手だ。だが、それは攻撃を避けることに関してである。こちらから踏み込んで攻撃を仕掛けるとなれば、また話は別だ。いくら攻撃の予兆がわかるといっても、反応が追いつかなければ意味がない。初手を見た感じ、敵の攻撃方法は地中にスコーピオンを潜らせて死角を突くもぐら爪(モールクロー)に近い。近づけば近づくほど、単純な距離の近さであのブレードが影浦の懐までやってくるのは早くなるだろう。不用意に近づくのはリスクが高そうだ。

 と、思考の最中に再び刺すような敵意が伝わる。一度、ラービットの攻撃をスコーピオンで牽制し、影浦は距離を取った。

 ぼこり、と水滴のようなものが地面から湧き出し、あのブレードとなって伸びる。二度目もそれは空を切った。

 

(液体になるブレードってところか。死角からの攻撃がメインで、真正面からは来ない)

 

 徐々に敵のトリガーの外形が掴めてきた。今のところ、あの黒トリガーはブレードを液体に変えられる能力と予想できる。そしてそれを活用するには、二回ともそうであったように、地面に液体を伝わせて足下からブレードで切りつける使い方が主になるだろう。

 それらを鑑みれば、必然と攻め方も決まってくる。

 

「ゾエ!」

 

「はいよ〜!」

 

 影浦の号令に従って、北添がグレネード型の銃を放つ。

 影浦が前線でヘイトを稼ぎ、後方から北添が相手を削る。トドメはマンティスなり絵馬の狙撃なりを決めればいい。

 

「カスが!そんな射撃効かねえんだよ!」

 

 だが。人型は北添の射撃を避けるでも防ぐでもなく、ただ身体で受けた。

 身体に当たると同時にばしゃり、と水面を強く打ち付けたような音が鳴り、通常弾はエネドラの肩のあたりを通り抜けて後方の壁へ着弾する。

 

(身体も液体に…!)

 

 風穴が空いた肩口に、水が浸食するかのように行き渡る。数秒も経たないうちに、エネドラの身体は何事もなかったかのように元へ戻っていた。

 

『オイ!どうなってんだアレ!』

 

 思わず影浦は悪態を吐いた。

 人型の額で主張する黒い二本の角からは相手が黒トリガーであることが伝わってくるが、それにしてもだ。

 身体を液体に変えられるのなら、一体どうやってダメージを与えればいいというのだ。

 

『知るか!アタシに頭使わせんな!』

 

『いやいや、オペレーターがそれ言う?』

 

 しかし、オペレーターから返ってきたのはあまりにも残念な内容だった。

 自らも別段頭が良い方ではないが、これだから馬鹿は……と仁礼に呆れるのも束の間、エネドラからの攻撃がやってくる。

 

(あのパッツン野郎は俺が見るしかねえ。けど、ゾエ一人で新型の相手は……)

 

 もちろん、北添の実力に疑いはない。だが、個人ランクに名を連ねるような一部の変態は例外として、ガンナーとは元来個で打開するようなポジションではない。周囲との連携でこそ活きる隊員がほとんどで、北添もその一人だ。

 率直に言って、味方の人数が足りない。あと一人、腕の立つ隊員が居れば。そしてあわよくば、エネドラに中距離から攻撃できる人間で、比較的正攻法で攻める影浦隊には出来ないような搦め手が得意なタイプであれば。

 

(……クソ。集中できてねえ)

 

 脳裏に浮かんだ一人の人間を振り払う。

 誰かが揶揄ってきたせいで余計なことを考えてしまった、と再びオペレーターを恨みつつ、悪意の塊へ意識を向ける。

 冷静に考えて、弱点がない相手は居ない。特にトリオン体ならば供給器官と伝達脳は必ず存在する。身体を液体に出来るのなら、恐らくはそれを利用して弱点をどこか別の場所に移動させているのだろう。だからこそ、ラッキーパンチを避けるために敵は標的を北添に変えた。

 つまりは戦い方は間違えていない。ないものをねだるよりも、これからの詰め方を考える方が得策だ。

 と、改めて思考の焦点を正した影浦だったが。現実は非情にも追い打ちをかける。

 

「……クソが」

 

 黒く禍々しい空気が周囲に散らばる。その空気はやがて大きな円となって、にたにたと不快な笑みを浮かべるエネドラのすぐ横にラービットをもう一体召喚した。

 

「ちょま、ゾエさん大ピンチなんだけど!?」

 

 その一体は、すでに居るもう一体と共に北添へ迫る。退きながら北添は射撃を放つが、両腕の装甲で難なく防がれてしまった。一体が腕を振るう。それは回避した北添だったが、タイミングを見計らっていたもう一体からの攻撃が来る。盾の展開が遅れ、もろとも吹き飛ばされた。

 まずい状況だ。

 弱点を炙り出すには、北添の面攻撃が不可欠。今、彼を失っては攻め手がなくなることと同義。すぐさま影浦は救援に向かおうとするが、それを咎める液体ブレードが殺気立てて足元から急襲する。

 

(チッ、攻め手ねえのがバレてやがる)

 

 液体ブレードの使い手と、今までで類を見ない強さの新型トリオン兵。ラービットだけなら全く問題ない相手だが、連携してくるとこうも厄介になるとは。

 絵馬の狙撃もラービットの装甲は貫けない。それならばここぞの場面まで狙撃手が居ることは隠しておいた方が後々の展開でプラスになるはずだ。

 ラービット二体は影浦に目もくれずに吹き飛んだ北添へ向かっていく。苦し紛れの射撃も通じない。最悪の展開を覚悟した影浦たちだったが。

 飛び跳ねたラービットの下方、地面。まるで星のような粒子が、流星のように尾を引きながら這っている。

 

変化炸裂弾(トマホーク)

 

 どこからか聞こえた声とともに、その流星は直角を描いて空中のラービットたちへと曲がった。

 既の所でそれを察知した二体は攻撃態勢を止め、両腕で腹を遮る。曲がった射撃は両腕に着弾すると激しい爆風を巻き上げ、装甲の表面を剥がして二体を墜落させた。

 

「那須、合流しました!」

 

 声のする方を向く。そこには玲の姿があった。

 真白く光るトリオンキューブが衛星のように囲んでいる。落ち着いた表情でそれを従える様子はどこか浮世離れしていて儚げな印象を受けるが、二本の足で地面を踏み締めて、彼女は確かにそこに立っている。

 

「な、なんとか助かった……」

 

 冷や汗を拭い、北添が起き上がる。

 変化炸裂弾の破壊力を前に尻込みしたのか、ラービットたちは一度エネドラの方へ退避していった。

 玲の真っ直ぐな視線がエネドラを捉える。それを真正面から受け止めると、エネドラはやはり声をあげて笑った。

 

「ははは!こりゃ傑作だな!猿が仲間呼んだと思ったらとびきりひょろいのが出てきやがった!!」

 

 それは影浦に向けられたものではないため、サイドエフェクトは反応しない。だが、そんなものを使わなくともあれが完全な嘲りだということは、不快な笑い声から十分に伝わる。

 ちら、と玲を見る。影浦の中で、彼女はかなりの箱入り娘だと認識している。彼女の境遇を考えればそうなるのも致し方ないことではあるが、ともあれそんな玲にあの手の相手は刺激が強すぎる、と思った。

 

「……言わせとけ」

 

「お気遣いありがとうございます。……けど、大丈夫です」

 

 ぶっきらぼうながらも影浦なりのフォローをしたつもりだったが。当事者は存外けろっとしていた。それどころか、少し煽るような流し目でエネドラを見て続ける。

 

「あの時と比べれば、これくらいなんて事ないですから」

 

 そうかよ、と一言だけ返す。

『あの時』がどれを指すのか、心当たりを隅に追いやって戦いへ意識を戻した。

 

「バイパー」

 

 玲を取り囲んだ無数のキューブが放たれる。ラービットではなく、エネドラへ向けて。

 

「バカが!効かねえって学ばねえのか!」

 

 迎撃も防御もせずにエネドラは吠えた。

 射撃は真っ直ぐ彼の腹を食い破り、突き抜ける。まるでリプレイでも見るかのように、ばしゃりと音を立てて穴が空いた後、周囲の液体がその穴を満たしていった。

 やはり、弱点でなければダメージは与えられない。エネドラはにたにたと笑みを浮かべた。

 

 ……だが。

 

「そうかしら?」

 

 エネドラを貫いてどこかへ消えたはずの射撃が、突如として弧を描いてUターンした。そのまま背後から再びエネドラの腹を食い破ると、今度は無数の弾それぞれが直角に曲がり、エネドラの内部を駆け巡る。

 バイパーが身体をドロドロに破壊する中、そのうちの一つが何か固いものに掠って、音を立てた。

 紛れもなく、影浦たちが探していたそれだ。

 

『ナーイス那須!当たりだ!』

 

『弱点を視覚化します!』

 

 二人のオペレーターの報告の後、バイパーが見つけ出した敵の弱点が明確なビジョンとなって現れる。浮かび上がった八面体は、十中八九エネドラの弱点を守っているのだろう。

 エネドラから、表情が消えた。

 

「おーおー、さっきまでの威勢はどうした?」

 

 その様子を見て、影浦の溜飲が下がる。

 ここぞとばかりに口調を煽らせると、エネドラは険しい顔をして下を向いた。

 今が好機。

 そう影浦が思うのとほぼ同時に、遠距離からの狙撃が弱点を守るカバーへ向かって尾を引く。

 絵馬の狙撃は、カバーを貫いて粉々に破壊した。

 

「ハッ、こんなもんかよ!黒トリガーさんよお!」

 

 わかってしまえば何ともあっけない。

 アフトクラトルの黒トリガーとはこんなにも楽な相手だったとは。

 と、純度百パーセントの悪意を破壊した達成感に浸りかけていた影浦だったが。

 

 待てど暮らせど、人型のトリオン体は崩壊しない。

 

「くく……!はははは!!マジで最高だなぁオイ!」

 

 今までで一番の高笑いをエネドラはすると、ドロドロに破壊された身体は先ほどのようにみるみるうちに元の姿を形作った。

 

「これで弱点はわかった。もうお前を倒せるってか?バカが!」

 

 種明かし、とばかりにエネドラの身体にカバーが複数浮かび上がる。

 簡単な話だ。玲のバイパーで弱点が露呈した直後。追撃が来ることを読んでいたエネドラは、カバーに小さな穴を開けて弱点だけを別の場所に移動させた。つまり、絵馬の狙撃は中身が空のカバーだけを破壊したというわけだ。

 そうして現在、コップに玉を入れてシャッフルした状態のように、エネドラは複数あるカバーのどれか一つに弱点を隠している。

 

「頑張ったんだけどなあ。もう少しだったのになあ。けど残念。オレは黒トリガーなんでな」

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

「くっ……」

 

 警戒区域、南東。こちらで繰り広げられる人型との戦いは、依然として苦戦した状況が続いていた。

 

「さあ、狩りの時間だ!存分に逃げろよ!」

 

 逃げる望と、追うランバネイン。狩られるウサギと狩る人間によく似た構図のまま、ランバネインは射撃を撃ち続ける。

 射撃は間一髪、前転して回避した望。しかし、がばっと顔を上げると、目の前は行き止まりだ。

 逃げ場がないことを確認して、ランバネインはゆっくりと照準を望に合わせる。あとは引き金を引くだけ。そう思い、指をかけた時だ。

 

「韋駄天」

 

 視角外から双葉の高速斬撃がやってくる。

 

「歯向かうか!其れも良し!」

 

 やはり、と双葉の方へ振り返ると、ランバネインは左手の銃で双葉の剣を受け止めた。

 それを皮切りに、二人の接近戦が開始する。

 

(防戦一方……。このままでいいのか……?)

 

 その様子を一歩後ろから見ていた麓郎は、内心焦っていた。

 指示通り、彼と葉子は攻撃を喰らわないために近くの建物に身を隠し、息を潜めている。だが、それでいいのだろうか。このままでは望たちがやられるのも時間の問題のように見えた。

 

『麓郎。前に出すぎよ。退がりなさい』

 

『け、けどこのままじゃ……』

 

『ふん。アタシたち指揮るだかなんだか知らないけど、だったら実力ってのを見せてもらおうじゃない』

 

 不本意ながらも、葉子の言う通り指示に従うしかない。

 麓郎は葉子に向けていた視線をフロントの二人へ直した。

 双葉の弧月を受け、ランバネインは後退する。そうして一瞬距離が生まれると、それを見逃さずにランバネインは射撃を放った。

 着弾の衝撃で、爆風が舞い上がる。命中したのか否か。視界にそれが現れるよりも前に、爆風は真っ二つに切り裂かれた。

 

「韋駄天」

 

 白煙に出来た狭間を稲妻が駆け巡る。ランバネインの首元へ向かって真っ直ぐと。

 少しだけ虚を突かれたような顔を窺わせたランバネインだったが、すぐに防御態勢に入る。双葉の弧月は、盾を展開して防がれた。

 

「なるほど。仕組みがわかったぞ」

 

 そう呟き、ランバネインは射撃を放つ。ヒットアンドアウェイの原則に忠実に、双葉はその予備動作を察知すると大きく後退した。

 二発、三発と双葉を狙う攻撃を掻い潜り、敵へと迫る。道中に望からの援護射撃も貰い、韋駄天の射程距離まで近づけた。

 

「韋駄天」

 

 もう何度目かのトリガーを発動する。軌道は胴体に向けて設定。

 この辺りで一撃加えられれば、この先に大きなアドバンテージを残せる。様子見がメインとはいえ、ヒットのターンは全力で。

 空気を置き去りにして向かった先、双葉は弧月を振った。

 

 しかし。

 

「やはりそうか。高速移動の軌道は途中で変えられないらしい」

 

 ランバネインは双葉の攻撃を最小限の動きで避けると、韋駄天の軌道上に拳を置いておいた。

 ブレーキをかけられず、双葉の腹に直撃する。スピードのせいで、思わず腹を押さえてしまうほどの衝撃が伝わった。

 銃口が双葉を捉える。

 

「アステロイド」

 

 手遅れになってはまずい。速度上限までパラメーターを振ったアステロイドを望は放った。ランバネイン本体ではなく銃へ向かって放たれたそれは、銃口に直撃して照準をずらさせる。間一髪、ランバネインの攻撃は双葉の耳の横を掠めて外れていった。

 休む間もなく、後続のアステロイドがランバネインの足元へ飛来する。それは地面を抉り破片を巻き上げ、一瞬だけ敵の視界を曇らせることに成功した。

 

「姿を隠した、か。決定打がないからなのだろうが、こちらも大歓迎だ」

 

 こきり、とランバネインは首を鳴らす。

 晴れた視界の先には望と双葉の姿は見えない。高速移動を軸にした戦法を破られ、立て直しを図ったのだろう。

 だが。それならそれで、ランバネインにとっては好都合だ。

 

「中遠距離戦は雷の羽(ケリードーン)の得意分野だからな」

 

 両方の肩から、新たにトリガーが現れる。ミサイルポッドのように何発もの弾倉を拵え、狙いを定める姿は人というよりも兵器そのものだ。

 肩から発射した射撃は、視界に写る建物という建物を全て捉えて、粉々に砕く。辺り一面が更地になる中、東の方の建物跡に一人、身を隠していた望の姿が見えた。

 

「まずは一人!」

 

 肩から射撃を放ち、左手で狙いをつけながら望へと接近する。三次元の包囲射撃で確実に一人、葬り去る算段だ。

 逃げ回る兎を狩るのも偶には悪くない。そう思いながら引き金に手をかける。

 だが。

 照準を合わせられた望の顔は、追われて逃げ回る兎のそれとはあまりにもかけ離れていた。

 

「さっき、決定打がどうとか言っていたけれど」

 

 球体のトリオンキューブが望の背後に現れる。

 この期に及んで、最期の悪あがきか。しかし、逃げないのなら撃ち抜くまでのこと。そう思った。

 

「あるに決まってるじゃない。そんなもの」

 

 だが。ランバネインの射撃は望には当たらなかった。

 避けられたのではない。防がれたのでもない。そこに居たはずの望の姿が、一瞬にして消え去ったのだ。

 ほとんど野生の勘に近い速度で盾を展開すると、コンマ数秒経ってそこへ望の射撃が吸い込まれた。

 攻撃のあった方へ振り返りながら、ランバネインは左手の銃を放つ。一瞬視界に写った望の姿は、再びどこかへ消えていった。

 

「……誘い込まれたという訳か」

 

 一歩退がり、ランバネインは呟く。

 高速移動の次は瞬間移動ときたか。だが、瞬間移動の方は何かパネルのようなもので起動すると思われ、彼はまんまとそれが張り巡らされたエリアに誘われたらしい。

 

『葉子ちゃん。麓郎くん。次のステップへ進むわよ』

 

『つ、次のステップ……』

 

 息のつく暇のない攻防を見守っていた麓郎の下に、望のからの通信だ。あまりに早い展開と急な通信に、返事がしどろもどろになった。

 確か、望の指示は相手を知ることから始める、だったか。

 

『そう。相手を知る段階はもう終わり。次に何をするかはわかってるわね?』

 

 あれだけ派手な射撃を乱発していれば、麓郎にもある程度敵のトリガーは把握できていた。メインは左手の射撃トリガー。威力、射程ともにボーダーのそれを凌駕し、連射もできる。また、両肩のミサイルポッドのようなトリガーからの攻撃も可能のようだ。しかし反面、双葉との応酬からわかるように接近戦では明確な攻撃手段はない。

 

『今度はこっちが攻める番……!』

 

 そうして現在、人型は真衣のスイッチボックスが張り巡らされたエリアに居る。攻勢に移るのなら、この上ない状況だ。

 思わず麓郎は息を呑んだ。

 確かに、相手の強みと弱みを知ることはできた。だが、それを踏まえて今度は相手を攻めるとなると、自分に果たしてそれが出来るのかどうか不安でもある。

 

(……いや。やるしかない。雄太を置いて逃げるなんてダメだ)

 

 己を奮い立たせるように言い聞かせ、よし、と覚悟を決めたときのことだ。

 攻める番だ、と伝えた通信には、何とも拍子抜けのする言葉が双葉から返ってきた。

 

『先輩、少し違います』

 

 えっ、と麓郎から声が漏れた。

 相手を分析して、それを基に攻めて……。何かおかしなことを言ってしまっただろうか、と一人思考を巡らせる最中。

 少女のような無邪気さと、見た目に似合った優雅さを多めに。そして、どこか聞き覚えのある意地の悪さを少しだけ孕んで、望は言う。

 

『随分と舐められた態度を取られて、お返しがそんな中途半端じゃおもしろくないでしょう?』

 

 にやり。そんな顔をして、いたずらっぽく笑った。

 

『今度は私たちが相手を叩き潰す番よ』

 

 

 

 

 



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やがて、君は空の広さを知る その4

 

 警戒区域内、南。

 

「よし、大方片付いたな。次のポイントへ向かおう」

 

 倒れゆくラービットを確認して、嵐山は突撃銃を下ろした。

 これで四体目。段々と新型の動きに慣れてきたこともあるが、何よりも黒トリガーを操る遊真の存在が大きい。

 南の新型はおおよそ倒した、と綾辻は言っていた。後は固まったB級たちに任せても問題ないかもしれない、と少し余裕が生まれた頃合いのことだ。

 

「おお、さすが嵐山隊だ」

 

「迅」

 

 彼らの様子を見計らったかのように迅は現れる。

 友人である迅との再会に喜びつつも、彼がこのタイミングで現れることの意味を理解している嵐山は、含みのある微笑を浮かべた。

 

「西地区はいいのか?」

 

「天羽に任せてあるから大丈夫。むしろ、あの辺が真っさらになっちゃうのが心配なくらい」

 

 相変わらず口は軽やかだ。

 その調子のまま、迅は「遊真借りてっていい?」と続ける。

 

「俺たちは構わないが……」

 

 それを判断できるのは自分たちではない……が。今さらそんなこと、ましてや未来予知のサイドエフェクトを持つ彼には愚問だ。

 

「忍田さんの許可なら取ってあるよ。警戒区域内ならいいってさ」

 

 だからこれは、YESが前提の問答。言うなれば、隣の席のクラスメイトに消しゴム借りていい?と聞かれるのと同じようなものであり、迅が軽い口調なのにも納得できる。

 

「また未来が動いたのか?」

 

 故に、大事なのはその背景。遊真を借りれるかどうかではなく、なぜそうしなくてはならないのかということが問題だ。

 迅の口調が、少し真面目なものへと変わる。

 

「ちょっと悪い方にね。C級が狙われてるって聞いたでしょ?」

 

 それは他ならぬ修からの報告だった。けれども修やC級の所には伊織が居るから(何をしでかすかはわからないが実力的には)大丈夫だろうと見守っていた訳だが、どうやら旗色が変わりつつあるらしい。

 そして、ここまでぼんやりと二人のやりとりを眺めていた遊真も、迅が来たことの意味をようやく理解したようだ。

 

「警戒区域内じゃオサムのところに行けないんじゃないの?」

 

 それはまさしく、C級を助けるための申し出と取れる。だが、遊真が警戒区域を出られないのであれば、目に見えるような手助けは出来なさそうだが。

 

「南西に出た人型のせいで、ほかの隊員がC級のところへ向かえずにいる。そこを助けてあげれば、メガネくんたちも楽になるはずだ」

 

 迅は言う。目に見えない形でも貢献は出来ると。

 少し前に出現した人型のうち、南西の方は黒トリガーで、なおかつ新型と連携してくる相手らしく、対峙する影浦隊と玲は苦戦しているそうだ。

 なるほど、と遊真は頷く。こうした陰でのサポートで味方が楽になる経験は向こうでも多くあった。

 だが。肝心の迅本人は、それよりも先のどこかを見ているような表情をして、こう呟く。

 

「多分、城戸司令も警戒区域内じゃないとだなんて言ってられなくなるだろうけど」

 

 

 

 ☆

 

 

 

「ランバネイン、エネドラ共に交戦中です」

 

 アフトクラトルの遠征艇にて。広間の中央には二人の戦場が映し出されていた。

 二つの戦いの状況は対照的だ。エネドラは相手の反撃を全く苦にせず、見破られた弱点も機転を利かせて的を絞らせないようにした。必要とあれば、まだラービットを投入する準備も整っている。対してランバネイン。こちらに新型の増援を送るつもりはない。勝敗というよりも、一人でいかにしてあの場を荒らせるかが彼の役割だった。

 

「そうか。ここまで手筈通りだ」

 

 予定通り、と隊長らしき男は言う。

 映像を見ていた老人と青年もそれに頷いた。

 

「兵士の中間に一人、群れへの入り口に一人……。これで雛鳥たちを孤立させることに成功しました」

 

 男の側に控える女性が確認するかのように発言する。

 彼らの大きな目的はただ一つ。雛鳥──C級隊員を可能な限り捕獲することだ。

 新型を送り込み、イルガーを巣へ特攻させた序盤を経て、ようやく見つけた雛鳥の群れ。戦場へ赴いた二人の役目は、雛鳥を隔離して確実に捕えるための補助だ。

 まずはランバネイン。二箇所に固まった兵士の間に降り立ち、自身に目を向けさせる。可能な限りの相手を引き付けて、南西へ向かう余裕を奪うことが目的だ。

 そしてエネドラ。雛鳥の居る南西の近くで暴れ、付近の兵士が雛鳥の下へ向かわないように蓋をする。そのために、彼だけでなくラービットを投入して戦力の厚みも持たせた。

 

「残すは曲がる弾を操る彼のみ、ということですな?」

 

 そうして残ったのは、唯一C級を護衛していた曲がる弾の使い手。彼はラービットを単体で撃破する腕の持ち主であり、目下で一番の障壁となりうる存在だ。

 老人の言葉は全くもってその通りではある。しかしながら、彼の言葉尻は出番はまだか、と期待のこもったものであった。

 

「……ヴィザの出番はもう少し後だ。取りこぼしが数匹居る」

 

 その言葉と同時に、もう一つ映像が彼らの前に浮かび上がる。

 一人は落ち着いた大柄な男。もう一人は癖っ毛で無表情の男。そして最後は、赤い服を来た騒がしい女。何かの移動手段に乗り、基地の外側から雛鳥へと向かう三人の姿がそこには映っていた。

 

「ええ、心得ております。()()の足止めが私の役目だということは」

 

 すっと、先ほどまでの言葉尻を収めて老人は言った。

 老人に与えられた役割は詰めの一手。目障りな彼らを雛鳥から引き剥がすこと。

 

「しかし、彼もなかなか興味深い。よもや我々に心理戦を仕掛けてくるとは」

 

 改めて役目を確認した老人は、まるで近所の知り合いと会話をするかのように、何でもない様子で話を切り出した。

 三体送ったラービットは曲がる弾の使い手を足止めすることが目的だったが、彼が出た行動は予想外のものだった。

 三体のラービットを前に、苦戦しているのだ。

 それが本当のことなのか、それとも演技でそうしているのか、遠征艇から見守る彼らには判断がつかない。エネドラ用のものと、他の地区で使う用と、ラービットの数は多いようでいて、無理はできない。苦戦が本物であれば無駄なリソースを割くのは避けたいところで、それを見極めるまでの時間分、増援を待つことができると彼は考えていたのだろう。

 

「いずれにせよ好都合だ。奴に戦う気がないというのなら、こちらもそれに合わせるまで」

 

 ただ、それには致命的な取りこぼしがあった。

 雛鳥の救援に向かう三つの反応はこちらも把握している。だからこそ、雛鳥のところへ新たにラービットを投入していない。

 となれば、三人は彼と一旦合流するはずだ。守るべき雛鳥のところに敵は居らず、目の前では苦戦する味方が居る。どちらへ先に向かうかは明白だ。

 まさか、一人で戦う彼を無視して雛鳥と行動を共にするなんてことは間違った悪手だろう。何か、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()はそんなことありえないはずだ。

 

(しかし、『裏に居る我々』と読み合いを仕掛けてくるほどの切れ者が、そんな初歩的なことを一体どうして取り違えるのでしょうか。ここまで一貫してトリオンを温存していることといい、彼が見ているものとは一体……)

 

「ヴィザ翁?」

 

「おや、これは失礼いたしました。年寄りは上の空になることが多くていけない」

 

 

 

 ☆

 

 

 

『戦いにおいて、重要なのは情報よ』

 

 従兄弟がそう言っていた、と望は付け足した。

 

『相手を知れば対策が立てられる。反対に、相手に知られなければ虚をつける』

 

 その通りだ。特に、事前に相手の情報を掴むことが難しい防衛戦では、その価値は通常の何倍とある。相手のトリガー、目的、性格。それらを知ることができれば、どう動けば良いかが自ずと定まってくる。

 

『その点、今回は上手くいったわ。相手のトリガーが想像以上だったこともあって、受けに回るのが不自然にならなかった』

 

 ケガの功名、とでも言うべきだろうか。角付きの攻撃は、トリガーだけで見れば射手の頂点に立つ二宮をも超える苛烈さだった。意図していようがいまいが、防戦に回っていただろう。しかし、そのおかげで相手のトリガーを知り、真っ向から仕掛けてくる性格も把握できた。

 そして。望が思い描く勝ちへの道筋のために温めていたことも、知られずに済んだ。

 

『作戦を伝えるわ』

 

 

 

 

 

 

『そ、それって……』

 

 作戦を伝えられ、麓郎は驚きのあまり聞き返してしまった。

 それが異議を唱えたものだと捉えたらしく、望は遊びを邪魔された子どものような表情で突っかかる。

 

『不服?そのために温存しておいたのだけど』

 

『知られないって、そういうことですか!?』

 

 知られなければ敵の虚をつける。望が重視したのはそちらの方だというのは口調から読み取れてはいたが、隠すにしても、たとえば望がまだ見せていないトリガーだとかこちらへ向かいつつある仲間たちだとか、そういったことだと思ったが。

 何でそんなことを、と麓郎の困惑は止まらない。

 

『何でって、感覚に決まってるじゃない』

 

『か、感覚!?』

 

 A級の言うことだから、あまりに予想外のこととはいえ何か根拠があるのだろう。と、驚く心の底では何となく高を括っていたが。

 理論でも何でもなく、ただの感覚とは……。

 

『言ってなかった?私、感覚派なの』

 

『そ、そんな無責任な……』

 

 人型近界民、それも角付きの規格外のトリガー使いを相手に、感覚で決めた作戦が通用するとは到底思えない。もっと思慮深く綿密に練られた作戦を立てなければダメだ、と頭を抱える麓郎だったが、そんな彼を置いて加古隊の面々から『了解』と通信が聞こえてくる。

 

『わかった』

 

『よ、葉子まで!?』

 

 こちら側だと思っていた葉子ですら望の作戦を受け入れてしまった。

 

『別におかしなとこはなかったでしょ』

 

 葉子の言う通りではある。ただ、突拍子のなさの裏付けが感覚ということだけが問題なのだが……。このまま一人で反対していても仕方ない、のかもしれない。

 

『できるわよ、それくらい。アタシを誰だと思ってんの?』

 

『そ、そこまで言うなら……』

 

 

 

 

 

 

 

「ハウンド」

 

 場面は戦場へ。真衣のスイッチボックスが張り巡らされた区間で、望たちはランバネインへ反撃する。

 無数に放たれたハウンドは、飛び退いたランバネインを追うようにして迫る。一度障害物で射線を切り、望の攻撃はやり過ごした。

 

(瞬間移動は使ってこない……。少しあからさまだったか?)

 

 着地までの数秒間、ランバネインは思考する。空中へ逃げ場を求めた状況は攻め立てるならこの上ないものではあるが、彼らが形勢逆転の一手として用意していた瞬間移動のトリガーは使われなかった。あえてその隙を晒し、カウンターに一発見舞おうと考えていたが、敵も手練のようだ。

 そうして着地した市街地の先。ランバネインを追って、一人の兵士が姿を見せる。

 

(さっきの双剣使い…!)

 

 その兵士とは、ラービットに苦戦していた女の双剣使い。ここに誘い込まれるまでは戦場から消していたが、優勢と見るや勝負に勇んできたのだろう。

 その相手は、こちらへ向かう素振りを見せつつも道中、例のトリガーを起動した。

 

「それはわかっている!」

 

 だが、所詮はその程度。ラービットですら増援がなければ倒せなかったような相手だ。ワープ先も想定内。ランバネインはくるりと身を反転させて、姿を現した葉子を正面に捉えた。

 葉子がスコーピオンを構える。ランバネインのトリガーは接近戦は得意ではないが、それは中遠距離と比べた場合での話だ。これくらいなら圧倒する自信はある。

 と、思ったが。

 

「何言ってんの。全然わかってないわよ」

 

 ワープ先を読んで、迎撃の準備は万端。だというのに、葉子の表情は全く変わらない。読まれることは織り込み済み、とでも思っているようだ。

 直後。ランバネインの背後に殺気が突き刺さる。

 

「韋駄天」

 

 寸でのところで盾が間に合った。

 相手の秘策と見られるワープのトリガーを今度は囮に使って、本命は高速移動から繰り出される斬撃。まんまとやられるところだった。

 そして。優勢と見るや、葉子は死角からスコーピオンを振るいに接近する。

 

「ちぃ……!!」

 

 堪らずランバネインは後退した。

 ワープのトリガーを軸に、エースであろう高速の剣士が詰めてくる。そして彼女たちを活かすように女の射手が的確に盤面を動かす。

 ……よくできたチームだ。

 

「正直、心の底では本気にしていなかったよ。だが、今ようやくヴィザ翁の言葉が理解できた」

 

 玄界の進歩は目覚ましい。そうヴィザは言っていた。

 もとよりランバネインは敵を見下して戦いに臨むような傲慢な人間ではない。ヴィザの言葉は忠告として咀嚼したつもりではいた。しかし。長年染みついたイメージというものを簡単に覆すことは難しい。無意識のうちにこの程度の相手だろうと、高を括っていたことを認めざるを得ない。

 だが、それも今この時をもって終わりだ。

 

「俺の全力で相手をするとしよう」

 

 迫る二人の相手に射撃を見舞い、ランバネインは跳躍する。

 

「な……!」

 

 跳躍した先の空で、ランバネインの背中にブースターのようなユニットが形成された。ブースターから噴射されるトリオンによって、ランバネインは宙を自在に飛行する。

 

「これで瞬間移動の類は使えないな」

 

 ここまでの戦闘で、ワープのトリガーの性質がある程度理解できた。ワープをするには、目に見えない専用のパネルのようなものを踏む必要があること。そしてワープはそのパネル間で行われ、どこへでも移動できるわけではないこと。

 すなわち、空中に居れば、相手の奇襲を警戒する必要はない。

 

「ハウンド」

 

 それを見るや、すぐさま望は射撃を放つ。

 その反応こそ、ランバネインの見立てが正しい証拠だ。

 

「真正面からなど!」

 

 だが、奇襲を警戒しなくていい以上、このやり合いはランバネインが圧倒していた先ほどまでのものと同じ。盾で防いで、圧倒的な弾幕で制圧するだけ。

 

「まずは射手からだ!」

 

 ランバネインは狙いを望につける。振る舞いや立ち位置から、恐らくは彼女が指揮官だろう。前線で攻めを担う双葉がそれをするには負担が大きすぎる。

 銃を構える。通るのならそれでいい。防がれたとしても、ブースターで翻弄すれば押し切れる。それは、ここまでの戦闘で感じられた客観的な実力差だ。

 プランを反芻して、ランバネインは引き金を引いた。

 いや。

 引こうとした。

 寸前に背中のブースターに強い衝撃が加わったせいで、引き金が引けなかった。

 

「ぐ……!」

 

「流石ね、東さん」

 

 左のブースターが半壊し、ランバネインは墜落する。

 瞬間移動を嫌い、空中に場所を求めたところを狙撃手に狙われたのだ。

 

「また飛んでみたらどうかしら?」

 

「貴様……!」

 

 望の言葉に、初めてランバネインは表情を険しくする。

 煽るような口調に一瞬、意識が望へと狭まったときだ。

 

「チャンスだ、撃て!」

 

 号令を皮切りに、四方から射撃がやってくる。

 左には柿崎隊。右には茶野隊と間宮隊。望たちが稼いだ時間のおかげで合流できた増援だ。

 

「雑兵がわらわらと!」

 

 ランバネインはブースターを消して両肩に砲口を呼び出すと、左右の増援に向けてありったけの弾丸を打ち込んだ。打ち込んですぐに彼らの射撃は静かになる。手応えから判断するに、半分は倒せたはずだ。

 しかし、今意識を割くべきはそちらではない。

 

「韋駄天」

 

 やはり。本命はあの高速移動。確かに、向こうの戦術は認めざるを得ない。だが、詰めは必ず彼女が仕掛けてくるのは今までと変わらないはずだ。

 あの高速移動の対処法は心得ている。移動の軌道上に攻撃を置いておけばいい。例え途中で勘づかれたとしても、避けようがないのが弱点だ。

 スピード、そして軌道の先。自身から見て二時の方向に射撃を放つ。

 像を残して、敵は接近してくる。読み通り、直撃だ。

 しかし、ランバネインが放ったそれが命中するよりも前に。

 彼女の姿が、消えた。

 

「……!」

 

 高速移動に対する比喩ではない。移動の最中で、ワープのトリガーを使ったのだろう。まさかとは思っていたが、こんな使い方をしてくるとは。あの速さでそうされては、反応なんてできるはずがない。

 

「そう来ると思っていた」

 

 読んでいなければ、の話だが。

 少し前、相手はワープを餌に高速移動を仕掛けてきた。なら、逆もまたあり得ることだろう。

 そして。目に見えないとはいえ、トリオン反応で次にどこへ姿を現すのかはお見通しだ。

 ランバネインはワープ先へ銃口を向けると、姿を確認するよりも先に弾丸を放った。

 驚いた表情を見せた双葉。間一髪、盾が間に合ったが。

 

「いい反応だ。だが!」

 

 衝撃を防ぐので手一杯。次の行動へ移ろうとしたときにはもう、ランバネインの銃口が背中を捉えていた。

 射撃が双葉を貫く。無慈悲な脱出光が一筋、基地へ向かって飛んでいった。

 

「嘘、だろ……」

 

 怒涛の展開をただ眺めているしか出来なかった麓郎は、目の前の光景に目を疑った。

 スイッチボックスを使って形勢を逆転させ、空へ逃げるという選択も読んで対策し、韋駄天を絡めたトリッキーな手も使ったというのに。結果として残ったのは、双葉が緊急脱出したことのみ。ダメージは与えられたが、敵の人型は倒せていない。今までずっと想像以上だったアフトクラトルの人型が、ここにきても尚想定を上回ってくるなんて。

 だが。

 それ以上に麓郎は、自身の予想を大きく超えた身内に驚いていた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()……!」

 

 鋭い攻めを見せた双葉に、盤面を動かす望。恐らく相手には二人が強く印象づいているだろう。

 故に。彼女からランバネインまでの道筋が、ガラ空きだ。

 今の今まで知られずに隠しておいた秘策が、まさにこのタイミングで、姿を現す。

 

「お膳立ては完璧ね。期待しているわよ?」

 

 

 

 

『敵は恐らく、スイッチボックスがこっちの秘策だと思っているはずよ』

 

 遡り、戦闘の作戦会議中。

 知られなければ虚をつける、と言っていた望が満を持して繰り出したのは、ワープのトリガー、スイッチボックスだった。もちろん、スイッチボックスに出来ることはワープだけではないが、普段そのトリガーを使わない香取隊からすれば、ワープに絞って活用した方が都合がいいと望や真衣は判断したのだろう。

 実際、その効果は目に見えて出た。敵の射撃は破壊力こそ規格外だが、望のように相手を追尾する弾はない。それに対してワープの効果は絶大だ。

 だから、麓郎はスイッチボックスこそが流れを転じる一手だと思っていたが。

 

『ち、違うんですか……?』

 

『あれじゃあ地味すぎるじゃない。もっと派手なものを隠しておいたでしょう?』

 

 当の本人は簡単にそう言い切った。

 もっと派手なもの、とはいかにも望らしいと麓郎は半ば呆れながら聞いていたが、待てど暮らせど、その正体を彼女は続けない。

 困惑していた麓郎だったが、少しすると、望が一人のことを見つめているのに気がついた。

 まさか。いや、そんなはずは。頭の中で何度も否定するが、何度見ても望の視線は『彼女』に向いている。

 

『私と双葉で場面は整えるわ。だから、葉子ちゃん。トドメはあなたに任せた』

 

 

 

 

 身体が軽い。

 こんな感覚、初めてのことだ。

 多対一だから?

 違う。

 A級が仲間だから?

 それも違う。

 自分にとってチームメイトがどんな存在なのか、その気の持ち様が変わっただけで、こんなにも身が軽くなるだなんて。

 変な意地を張って、不必要なプライドを高くして。そこから見える空は、退屈なほどに窮屈だった。

 けれど、今は違う。

 

(────空って、こんなにも広かったのね)

 

 門の発生からだいぶ時間が経ったらしく、当初の禍々しい空は中途半端な曇天に変わっている。視界を遮るような高いマンションの類はなく、周囲の建物も激しい戦闘で見る影はない。一面に広がる空に一匹、地上の惨劇を知らない鳥が呑気に飛んでいた。それだけ見れば、何の変哲もない、いつもの三門市の空だ。

 だけど。今日見たこの空を、多分葉子は一生忘れないだろう。

 

 がら空きの胴へ、グラスホッパーで接近する。

 反応が遅れたものの、ランバネインはこちらへ盾を展開した。

 あの盾の耐久性からいって、スコーピオンで破るのは不可能だろう。なら、正面から攻撃しなければいいだけの話だ。

 葉子はスコーピオンを左前方へ投げる。一瞬、ランバネインは眉をひそめたが対応に変わりはない。それを確認して、葉子は左前方へ投げたスコーピオンに向かって、もう片手のスコーピオンを振るう。ぎりぎり、投げたスコーピオンを掠め、二つの剣は一体となって盾の範囲外からランバネインの胸を突き刺した。

 二本のスコーピオンを連結させリーチを伸ばし、敵の防御の外から刃を伸ばす。伊織との戦いで見せた、マンティスの応用だ。

 予想外の攻撃に怯んでいる隙をすかさず、葉子は駆ける。グラスホッパーで死角へ回り、今度は首を一閃。

 スコーピオンを振り終え、様子を確認すると同時に。ランバネインの身体が、換装体からもとの生身へ戻っていく。

 

(葉子のやつ、本当にやりやがった……!)

 

 葉子は今回の作戦をできる、と言っていた。麓郎はそれをいつもの見栄だと半分思っていたが、実際にやってのけるとは。最後にまた、麓郎の想像を超える出来事が起きた。

 

(…………)

 

 ようやく、ここまで手を施してやっと人型を倒すことができた。予想を超えた相手に、加古隊もまた予想を超えた実力で上をいった。自身の貢献は少ないが、それでも達成感はある。

 だが。それよりも。麓郎の思っているところよりも上で戦っていた人型と加古隊のステージに、自分の隊長も足を踏み入れたことが。予想を上回るのは彼らだけのはずだったのに、最後の最後で葉子もそうなったことが、麓郎にとっては……。

 

 

 

 

 

「ふははは!完敗だ、玄界の兵士よ!」

 

 トリオン体が崩壊し、ただの人間の体へと戻ったランバネインだったが、自分の負けを認めると地面に寝転がって大笑いを始めてしまった。

 

「何、こいつ。自分の状況わかってるわけ?」

 

 面白くないものを見るような表情で葉子は言った。

 敗北し、敵のど真ん中で生身を晒したその状況、次に待っているのは言うまでもないことのはずだが。呑気に写るその姿は、微塵にもそんなことを思ってもみないようだ。

 

「まんまとやられたよ。だが、次は勝つ」

 

 寝転がったまま、ランバネインは葉子を真っ直ぐ見る。

 直後、周囲の空間が捻じ曲がって、中から女が突如として現れた。

 

「回収に来たわ」

 

 捻じ曲がった空間の先には艇と思しき光景が見える。そして、女に二つある黒い角。アフトクラトルの、新たな人型だ。

 

「無様にやられたわね。けど、成果は上出来よ」

 

「オレもいい勉強になった。まあ、あとはヴィザ翁の戦いでも見ることにするさ」

 

 周囲は望たちで包囲されているというのに、まるで何も居ないかのように二人は会話を続けている。それに腹が立ったのか、葉子は拳銃を手に取ろうとしたが、望に止められて渋々戻した。

 空間の先へ、ランバネインは歩を進めていく。捻じ曲がった空間は、ランバネインを呑み込むかのように閉じて、跡形もなく消えていった。

 

『トリオン反応消失。撤退したみたい』

 

 女の言っていたことを鵜呑みにするなら、ランバネインは彼らの艇へと回収された。とどのつまり、撤退である。

 ふうっと、大きな息をついて、葉子は伸びをした。

 

「うっし!!ざまあみろってのよ!」

 

 両手を握って、喜びを隠さずに葉子は叫んだ。

 

「新型は倒せなかったけど、人型は倒せた。あのエセ関西弁の吠え面が楽しみだわ!!」

 

 まだ言ってたのか、と麓郎は思った。だが、葉子の顔に先ほどまでの思いつめた暗い表情はない。どこかさっぱりと、スポーツでもし終えたかのような爽やかな顔だ。

 

「それ、いいわね。私も見てみたいわ」

 

 いたずらっぽい笑みの望。やっぱり、どこかで見覚えのある笑みだ。

 と、思ったのも束の間。

 

「さて、遊撃に戻りましょう。杏、オペレートお願い」

 

『了解しました』

 

 双葉を失ったはずの加古隊だが、やることは変えないらしい。

 南のB級合同と合流する予定の香取隊とは、ここでお別れだ。

 東さんによろしくね、と別れの挨拶を済ませた望だったが。

 

「ああ、そうだわ。葉子ちゃん」

 

「?」

 

 くるりと、葉子へと向き直った。

 きらり、と目を光らせて笑うその顔は、噂に聞いた例のあの誘いを言うときのそれだ。

 

「あなた、私のチームに入らない?」

 

 加古隊はイニシャルがKの隊員で構成されている。それを満たす才能のある隊員を、チームに所属していてもお構いなしに望は勧誘しているらしい。

 今まで、そんな素振りどころか見向きすらされなかった葉子が、こうして望に迫られている。

 

「はあ?何馬鹿なこと言ってんの?」

 

 言葉通りの表情で、葉子は言った。誰々が勧誘されたとか、以前はそんなことでムカついたりもしていたが、今は全く気にならない。だって、このチームがいいのだから。

 

「いい顔ね」

 

 優しく、望は笑った。

 何物も塞がない大きな広い空を、心地の良い風が通り過ぎていく。

 

「今のあなた、すごくおもろしろいわ」

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 時間は遡り、警戒区域外、南西。

 未だ、ラービットたちとの偽の苦戦を演出していた伊織だったが、内心には大きな違和感が居座っていた。

 

(何かがおかしい……。あまりにも圧がなさすぎる……)

 

 そう。ここへ来て、ラービットたちの攻撃がぱったりと止んだのだ。

 意図が全くわからない。レーダーの目視で、伊織はここへ向かう三つの反応を確認した。加古隊は人型との戦闘で忙しいらしく、杏から詳細は聞けていないが、誰が来ようとも変わらない。孤立する嫌われ者の琴吹伊織は捨て置いて、修たちと合流するに決まっている。

 だから、敵としては勝負を急ぐはずで、こちらへの増援や修のところへの攻撃、どちらにも対応できるように準備をしていたのだが。

 蓋を開けてみれば、相手の音沙汰は全くない。それが、伊織にとっては理解できなかった。

 

(いや。それだけじゃない。俺の知らないところで何かが進められているような、そんな──)

 

 伊織の戦場の静けさも相まって、何か不気味な感じがする。敵の戦術だとかそんなことではなく、もっと大きな、今までで見落としてしまっていたような何か。

 そしてその違和感は、目の前に開いた巨大な門によってより一層大きくなる。

 

「さて、答え合わせといきましょう」

 

 漆黒の門の奥から現れ出でたのは、一人の老人だった。

 アフトクラトル固有の角は、彼にはない。物腰柔らかで穏やかな笑顔は、ともすれば快く頼み事を聞いてしまいそうな、どこにでも居るような老人だ。

 だというのに。心臓が握られているかのようなこの緊迫感が、伊織を掴んで離さない。

 

「玄界の曲芸師よ。この戦場であなたは何を見ているのです?」

 

「うーん、とりあえず今は老人が徘徊してる姿ってとこやなあ」

 

 老人の口調はやはり穏やかだ。

 だが。それに応えてしまえば知らず知らずのうちに首を刎ねられてしまいそうな、取り返しのつかない事態になってしまいそうな、そんな恐ろしさが奥底に隠れている。

 この老人、間違いなく強い。相手に与えるプレッシャーという意味では、あるいはボーダーの誰よりも……。

 

(一体どういうことだ?なんで修じゃなくて俺のところに?)

 

 ラービットの様子と、あの人型の襲来。伊織の困惑は底なし沼のように広がっていく。

 恐らくはあの老人、敵の人型の中で一番の実力だろう。それがなぜ、このタイミングで伊織と対峙している?

 そのつもりであったなら最初からそうしているはずで、三体のラービットは無駄な一手でしかない。

 

(何かを待っていた……?)

 

 そう考えれば、一応の合点はいく。しかし、南東と南西の人型はまだ交戦中で、戦況が動いたという知らせは来ていない。

 あの老人──いや、アフトクラトルは一体何を……。

 

「ほら、見てみなさい。この状況ですら、別のことに気を取られている」

 

 ぞくり、と心臓を指でなぞられたような悪寒が伊織を襲う。

 それを感じとり、老人へ視線を向けたときにはすでに。剣の残像が、視界に入って首元へ迫っていた。

 

(しまっ……!)

 

 思考を巡らせる。

 盾。間に合わない。アステロイド。間に合わない。テレポーター。間に合わない。

 この状況を切り抜ける術は、ないように思えた。

 しかし。

 

「おまえにしては随分と控えめな戦いっぷりだな」

 

 視界の外、背後から。剣と伊織の間に割って立つように一人、男が現れる。

 盾モードのレイガスト。半袖のシャツにミリタリーのベスト。自分よりも背の高い彼の姿を見て、こびりついた違和感が全てすっきり落ちたかのように伊織はため息を吐いた。

 

「……はあ。全部台無しや」

 

 老人に遅れて仕掛けてくるラービットに、またしても背後から射撃が降り注ぐ。

 

「遅くなってすいません。伊織先輩」

 

 もさもさとしたくせっ毛。整った顔と仏頂面。

 かつての仲間が、もう一人。

 そして。

 今度は伊織の正面から、ラービットの背後を突くような一撃。巨大な斧を振り下ろした女子の姿が写る。

 

「レイジさん」

 

 その女子──小南は、沈黙した新型から斧を引き抜くと、チームメイトであるはずのレイジを鋭く睨みつけた。

 彼女が普段全く見せないような表情は何でもないように受け流して、レイジは「聞かれなかったからな」と答える。

 その様子を見て幾分か安堵した伊織は、普段通りの繕った笑顔を浮かべた。

 

「感動の再会やいうのに、つれない態度やなあ。ボクは桐絵ちゃんに会いたかったで?」

 

「お前の冗談にはもう騙されないから」

 

 もう、と小南は言った。その言葉の意味をレイジも京介も知らない。けれども二人の間で、決定的な溝を生じさせた何かがあることは十分に伝わった。

 

「こいつなんて放っておいて、修のとこ行くわよ」

 

 老人と残るラービット二体への警戒は解かず、小南は言う。

 宇佐美からは、修たちが危ないという連絡は来ていない。そして何よりも、あの老人の威圧感。遅れて戦場にやってきたレイジたちにも、それは強く感じられていた。

 

「……お前もわかってるはずだ。全員でかからないとあの相手は倒せない」

 

「嫌」

 

 だが、小南は頑なに首を縦に振らない。

 

『修のところはまだ平気だ。心配するな』

 

『そういうことじゃなくて!』

 

 通信に切り替え、もう一押しを加えても小南は一歩も譲らなかった。

 はあ、とレイジはため息をつく。小南の事情は知らない。あれほど仲が良かった二人がこうなってしまうとは、よほどの事があったのだろうとは思う。

 けれど、レイジにも譲れない理由があった。

 

『迅が言うには、ここでこいつを足止めしないと修が死ぬかもしれないらしい』

 

『な……!』

 

 小南の顔が驚愕で染まる。敵に知られたらどうするんだ、と内心呆れたが、同じ支部のかわいい後輩が死ぬかもしれないと知らされれば、そうなってしまう気持ちはわかる。

 迅はまた、その可能性はまだ低いとも言っていた。だが、目の前に立つあの老人を見れば、迅の言っていた事態が可能性の一つだと切り捨てることは到底できない。

 そしてそれは小南にとってもそのようで、唇を強く噛んで伊織への感情を彼女にできる最大限の努力で押し殺し、それきり何も言わなくなった。

 

『おー、ほんま感動的やなあ。お仲間のために身体張って、これならメガネくんもきっと浮かばれるんちゃう?』

 

 まるで修の最悪の未来が訪れてしまったかのように。レイジたちの努力は無駄だと言うかのように。伊織は口調を煽らせる。

 それを聞いて、小南は再び伊織を強く睨みつけた。

 

『まだ未来は決まったわけじゃない。だからお前も今、ここに居るんだろう?』

 

『…………』

 

 心に波風を立てず、レイジは普段通り淡々と言った。

 伊織から返事はない。表情も見えない。

 だが。

 どうやら、二人とも現状を受け入れるしかないようだ。

 

「久しぶりすね。四人揃うの」

 

 二人への説得が終わるのを待っていたかのように、京介はしばらくぶりに口を開いた。

 険悪な伊織と小南とは違い、どこか嬉しそうな口調だ。

 

「作戦はいつも通りだ。伊織もいけるな?」

 

 小南と伊織が好きに暴れて、フォローは京介とレイジでする。

 伊織が玉狛に居る間一度も変えたことのない、玉狛第一の戦闘スタイルだ。

 レイジと京介が戦闘態勢に入る。少し遅れて、小南も斧を持ち直した。

 その様子を見て、伊織はひとつ息をつく。

 小南がそうだったように、修の未来の分岐点を伝えられて一緒に戦う気になったのだろうか。

 

「……はあ。ボーダー最強部隊さんの足引っ張っても知らへんよ?」

 

「安心しろ。おまえもまだその一員だ」

 

 

 

 





次回サブタイ、『ただ、楽しかったんだ その1』です。お楽しみに。


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ただ、楽しかったんだ その1

 ────違うんだ、父さん。

 あの日決めたことを忘れたわけじゃない。過去に葬り去ったわけでもない。全てを完璧に記憶できる俺にとって、あの日のことは色褪せずに思い出すことができる。つまりはそれは、俺にとって紛れもなく今のことなんだ。

 

 ああ、わかってるよ。父さんには申し訳ないと思ってる。

 だけど。言い訳にしかならないけど、それでも一つ言えるとするのなら、あの時だけは。

 

 ……ただ、楽しかったんだ。

 

 

 

 

 

 歪んだ理想を下敷きに日々を積み違えていた伊織だったが、それは高校に入っても変わらなかった。毎日のように問題を起こし、時には保護者である望の両親が呼び出されもした。

 だが。望は当時では唯一の伊織の理解者であった。何故人に嫌がらせをするのかも知っていたから、望から伊織を叱ったことは一度もない。しかし、事情を知っているが故に、望が伊織を思う気持ちは日に日に重たいものとなっていた。例えば、学校の不良に喧嘩をふっかけた時。例えば、クラスの女子を泣かせた時。望にしかわからないだろうが、それらを受け止める伊織の顔は恐怖と申し訳なさが同居した感情が、ほんの少しだけ入り混じっている。そしてその時の出来事は、その時の感情とセットになって伊織に不動の記憶として積み重なる。夜中、夢でうなされる伊織を見るのは、もはや毎日のこととなっていた。それでも伊織は毎日変わらず、嫌われ者を演じ続ける。自分が傷ついてもお構いなしに。もはや狂気ともいえるそんな行動を見て、望の方が先に根を上げてしまったのだ。

 そんなとき、望に天啓が降りる。二つの目的のために、望は伊織をボーダーへ誘うことにした。幸い、彼の能力は突出していたらしく、素行には目をつぶって採用される運びになったわけである。

 そうして伊織がボーダーに入ってから少し経ったときのこと。ボーダーで片方の目的を果たせなかった望は、もう一つの目的を果たすべく、伊織の師匠でもある東と玉狛支部の迅の協力で彼を玉狛支部に転属させた。

 伊織が安心して眠れるように。他人に嫌われる記憶よりも、仲間との楽しい思い出がいっぱいになるように。そう、願って。

 

 

 

 

「はあ!?こいつをうちのチームに入れる!?」

 

 いつかの玉狛支部。従姉妹に強引に推し進められ、師匠にそれっぽい理由で言いくるめられ、伊織はここへ転属することになった。今日がその初日である。

 迅とかいう、軽薄そうな顔に変なサングラスをつけたいかにも胡散臭い男に連れられ、支部のメンバーに紹介されての現在だ。

 まさか、ボーダー最強部隊にいきなり組み込まれるとは伊織も思ってもみなかったが、驚く心をかき消して冷静にしてしまうくらいの大声で、長い髪に羽根を生やした女子──小南はありえない、といったリアクションを見せた。

 

「ああ。支部長(ボス)からの命令だ。面倒見てやってくれ」

 

「琴吹伊織や。よろしゅうな〜」

 

 繕った薄っぺらい笑顔で伊織は言う。

 それを見ると、今度は小南は怪訝そうな顔をした。

 

「……なんかあやしいんだけど、こいつ」

 

 驚いたり怪しんだり、よくもまあころころと表情が変わるな、と思う。

 だが、この手の人間が一番伊織にとってはやりやすい。

 

「初対面の人間にえらいこと言いはるなあ、()()()()()()()桐絵ちゃんは」

 

「なっ!?ど、どこでそれを……!?ってか、名前!なんで知ってんのよ!」

 

 あたふたと、忙しなく一人で慌てた様子を小南は見せる。

 初動は上出来だ、と伊織は口角を上げた。

 

「そやなあ。例えば、密かに桐絵ちゃんの後をつけていろいろ調べた、とか」

 

「…………」

 

 気色の悪いものを見るような目で、小南は伊織を見る。

 

「あはは!冗談やて、本気にせんでや!」

 

 ぱっと、普段通りの張り付いたような笑みを浮かべて伊織は笑った。

 実際のところ、伊織のそれは半分本当で半分嘘だ。ストーキングこそしてはいないものの、玉狛に転属するとなってから、伊織は徹底的に支部の隊員たちを調べ上げたのである。

 

 小南桐絵。攻撃手ランク3位。何でも一度は信じてしまう弄りがいのある人物で、なぜか学校ではオペレーターをやっていることにして猫を被っているらしい。

 烏丸京介。太刀川隊の元メンバー。転属理由まではわからなかったが、家計が苦しくボーダー以外でもバイトをしているらしい。

 宇佐美栞。風間隊の元オペレーター。メガネ狂い。彼女を知る人はみな口を揃えて性格の良さを褒め称える人格者。

 木崎レイジ。ボーダー唯一のパーフェクトオールラウンダーにして、ボーダー創設メンバーの一人。彼の弱みは調べた限りでは掴めなかった。

 迅悠一。風刃を所持するS級隊員。未来予知のサイドエフェクトを持つ。趣味は暗躍だとふざけてはいるものの、サイドエフェクトからいって伊織の一番の障害となり得る存在。

 裏方のメンバーはスカウトに向かうことが多く、あまり情報は得られなかったが、伊織が抱いた玉狛への印象はただ一つ。ボーダー屈指のエリート集団だということだ。それを聴いた従姉妹は意味ありげに笑っていたが、ともかく、ここでも自分の役割は変わらない。

 

「こいつはまた強烈なのが来たな」

 

 レイジが苦笑いをする。

 

「本当にこいつ入れるの?あたし嫌なんだけど」

 

 そう言って、小南はこちらを睨みつけた。

 まずは、誰か一人でいい。一人を標的にすれば、他の人間だって少なくとも伊織に対していい感情は抱かないだろう。その先入観を抱かせれば、あとは些細なことの繰り返しで簡単に好感度は下げられる。

 伊織が集団と関わるときの、よく取る立ち回り方だ。

 

「んー、そやったら別にええんちゃう?オペレーターなら栞ちゃんも居てはるわけやし」

 

「……わかった。ちょっとこっち来なさい」

 

 伊織は再び、笑った。

 

 

 

 

 

 

「うーん。初日から校舎裏呼び出すなんて、ええ性格してはるなあ」

 

 玉狛支部のトリオン空間。加古隊の作戦室にも訓練用の仮想空間が用意されていたが、それの玉狛支部版といったところだろう。

 だだっ広い真っ白な空間の中央に、小南と伊織の二人だけが居る。さながらそれは、不良高校生が気に入らない生徒を校舎裏に呼び出した光景に近しいものを感じる。

 

「校舎裏?何の話よ?」

 

 一方の小南は、伊織の言葉に首を傾げた。

 

「あれ、お嬢さま校って頭ええんとちゃうの?……ああ。ボーダーやから、そういう……」

 

「なんかバカにされてるのはわかるわ……」

 

 はあ、と両者ため息をついた。

 

「ともかく!あたしのチームに弱いやつはいらないの。あんたの実力、見せてみなさい」

 

 小南は懐からトリガーを取り出してみせる。「あんたも出しなさい」とでも言いたげな目線だ。

 

「ええと、桐絵ちゃんって太刀川さんタイプ?頭足りなさそうなとことかそっくりや」

 

 何かにつけて戦闘で解決しようという魂胆は、個人総合一位を筆頭に本部に数多く居る戦闘狂の発想だ。

 だが、小南がその手の人間であることは事前に織り込み済み。性格の悪い新参者と、古株の一人が対立する。この構図を作りたくて、伊織は『一人目』を小南にしたのだから。

 

「……そうね。あたしが勝ったら、まずはその『桐絵ちゃん』ってのやめさせるから。なんか背筋がゾワっとするし」

 

 煽るような口調で、小南は伊織を見下ろす。

 そのまま、「あんたは?」と続けた。片方だけの要求ではフェアではない、と思ったのだろうが、その目は微塵にも自分が負けるとは思っていなさそうだ。

 

「別に。子どもと遊ぶのにいちいち賭けなんてせえへんやろ。大人げない」

 

 口元を吊り上げて笑う。ぴくり、と小南の目が引きつった。

 

「その減らず口も叩き直してあげるわ……!」

 

 

 

 

 

 

「まあ、そりゃそうすよね」

 

 玉狛支部、居間。

 小南と伊織の勝負を見て、京介は当然の結果だ、と頷いた。

 結果として、十本中、伊織が勝った試合はゼロ。完膚なきまでの敗北だ。

 それ自体は想定通りではある。流石の伊織も、攻撃手ランク三位の小南相手に勝てるとは思っていない。伊織と小南が対立するという、それそのものが重要なのであって、結果は正直どうでもよかった。

 だが。想定外だったのは、試合を終えて居間に戻った伊織に対して京介がかけた言葉に、嘲りの感情が一切なかったことだ。

 

「で、どうだったんだこいつは?」

 

 レイジが小南に問いかける。ついさっきまで、伊織の性格に対して苦笑いをしていたというのに、まるでランク戦を終えたあとの振り返りを行うかのようにその声に偏りはなく、フラットなものだった。

 

「……あんた、B級入りたてよね?」

 

 そして、当事者の小南も。

 先ほどまで顔に立っていた青筋は全くなく、むしろ伊織に対して感心でもしているかのようだ。

 

「筋が良いわ。物覚えが早い。鋼さん相手にしてるみたいだった」

 

 小南が続けた言葉に、伊織は目を丸くした。

 結果で見ても小南の心象を察しても、罵倒こそすれ、褒められるとは思ってすらいなかったからだ。

 

「つまり、A級レベルになるのも時間の問題ってことだな」

 

「ぐ……認めたくはないけど……」

 

 ちょっと待ってほしい。

 琴吹伊織は、初対面にも関わらず他人が気にしていることをずけずけと馬鹿にして、戦闘の前にはこれでもかと煽りちらかした人間である。

 だというのに、なぜ。

 なぜ小南は伊織を罵倒しない?

 なぜ京介は伊織を笑わない?

 なぜレイジは伊織を嫌わない?

 

 ……どうして玉狛の人間たちは、伊織を受け入れはじめている?

 

「加古さんの従兄弟すからね。センスあってもおかしくないでしょ」

 

 伊織はぎょっとした。別に隠していたわけではないが、望も伊織も周囲に言いふらしてはいない。これまでで一度も話したことがない京介が知っているはずはなかった。

 

「えっ、そうなの!?」

 

 小南が驚いた様子で伊織を見る。

 その視線を受けつつも、横目で京介を確認すると、仏頂面が心なしかにやついていた。

 ……察した。

 恐らく、京介は小南を騙して遊ぶために適当なことを言ったのだろう。それがたまたま当たっていたというわけだ。

 

「いやいや。あたしを騙そうたってさすがにないでしょ。顔だってほら……」

 

 脳内の望と比べるかのように、じっくり小南は伊織の顔を見つめる。

 客観的に見て、伊織と望は似ている。それは髪色然り、目の形然り、マイウェイを行くような笑い方然りである。

 

「……結構似てるわね」

 

 当然だ。本当のことなのだから。

 

「あはは、仲良くなれそうでよかったよ。ああ、そうだ。ちょうどいいから小南が鍛えてやってくれ」

 

「……はい?」

「は?」

 

 伊織が初日で抱いた印象は、事前に調べたものとはまるで違うものだった。

 あれだけ嫌な言葉をかけられたにも関わらず、本人を嫌うどころか、受け入れるような人間たち。……それは、伊織が今の性格になってから、初めて出会った人間だった。

 そして。

 伊織の印象は、次の日の出来事を境にして劇的に変化することとなる。

 

 

 

 ☆

 

 

 

『このサイコ野郎が……!』

 

 よかった。先輩が嫌ってくれて。

 ……はは。すごい目つきだ。それを向けられるのが俺でよかったよ。

 

『近寄らないでください。私はあなたが嫌いなんです』

 

 わかってる。だから近づいたんだ。

 ……ああ。他人に負の感情をぶつけられるのって、何度やっても慣れないな。けど、だったらなおさら俺が受け止めなきゃ。

 

『……どうしてこんなひどいこと……』

 

 その悲しみが、取り返しのつかないところで生まれないために、かな。

 ……大丈夫。俺は絶対忘れないから。全部、背負うから。

 

『伊織』

 

 ごめん。ごめんよ、父さん。俺のせいで、父さんと母さんは……。

 だから、もうこれ以上二人みたいな人を増やさないために。辛くても、大変でも、俺はやるよ。

 

 

 

「…………」

 

 目を開ける。いつもと変わらない、最悪の朝だ。

 夢は脳の記憶を整理するために見るのだと、いつかに見た本に書いてあった。だとすれば、記憶が完全な伊織はどうして夢を見るのだろう。それも毎回、同じような夢を。

 伸びをして、伊織は身体を起こした。慣れない天井と、初めての布団の感触。

 

(にしても、まさか俺の荷物全部こっち送ってくるなんて……。姉貴絶対今笑ってるだろ……)

 

 部屋の壁越しに、川の流れる音と雀の鳴き声がうっすらと聞こえてきた。

 玉狛支部で住み込みとなってから、初めての朝だ。

 

 転属初日を終え、帰路につこうとした伊織だったが、なにやら訳知り顔の迅に呼び止められた。

 曰く。従姉妹から、私服や制服、その他諸々生活に必要なものが送られてきたとか。

 曰く。もし帰ってきたとしても、家族全員受け入れるつもりはない、とか。

 

(そういえば今日、昼当番だったっけ)

 

 部屋着から着替えながら、伊織は思考する。

 玉狛支部では家事全般は隊員たちの分担で行っているようで、伊織には今日の昼当番が割り当てられていた。普通、入りたての人間にそんなことさせるか?とか不満はふつふつと出てくるが、伊織はそれを言ったりはしなかった。

 昼当番をサボるつもりだからだ。

 初日に面を食らったものの、素直に彼らの言うことを聞くつもりはない。むしろ、そうして色々と仕事を割り振ってくれた方が伊織としてもやりやすかった。

 

「…………」

 

 引き出しを開く。これから本部に行って、日課の嫌がらせにでも勤しむことにするつもり、だったが。

 

(……ない。昨日そこの引き出しに入れたはずだ)

 

 昨日、寝る前にしまっておいたトリガーがない。

 本部へ入るには、トリガーが必要だ。そして玉狛へ入るにも同じである。それはつまり、玉狛支部を一度出てしまうと、伊織はどこにも行けなくなってしまうということだ。まさか、昨日の今日であの従姉妹さまが家を開けてくれるとは思えないし、事情を話したところで玉狛へ再送検されて終わりだろう。

 

「おっ、早いな。もしかして慣れた布団じゃないとぐっすりできないタイプ?」

 

 と、伊織が人知れず冷や汗をかいていたところへ、迅が部屋までやってきた。見計らったかのようなタイミングは、自分が犯人だと自白しているようなものだ。

 

「はあ。迅さんも性格悪いなあ。ボクのトリガー、どこに隠しはったん?」

 

「……何の話?」

 

 しかし、迅は不意を突かれたようにきょとんと首を傾げる。

 今まで数多くの人間の感情や表情を見て記憶してきた伊織には、それが本当に素の反応であることはわかっていた。

 

「だから、そこの引き出しに入れといたボクのトリガー盗ったやろ?」

 

「いや、知らないけど」

 

 けれど、その事実が信じられない、とばかりに伊織の口は迅を追及する。

 

「その辺探せばあるんじゃないか?置いたと思ったら記憶違いだった、なんてよくある話だろ?」

 

 確かによくある話だ。……だがそれは、普通の人間であれば、だが。

 完全記憶能力を持つ伊織にとって、記憶は絶対だ。昨晩引き出しにしまって、そのまま就寝したことは確定事項なのである。だからこそ、伊織は目の前の迅が犯人ではないという事実が信じられなかった。

 

「なによ、朝から騒がしいわね」

 

 騒ぎというほど騒いでいるつもりはないが、ともかく小南も伊織の部屋へとやってきた。

 

「伊織のトリガーがなくなったみたいなんだ。小南知らない?」

 

 知っているはずがない。一応、形式的に迅は尋ねたが、何か有用な返事がくるわけがなかった。

 そんなことをしそうなのは本命が迅、大穴で京介くらいだと伊織は思っている。そもそも、出会って初日の異性の部屋に勝手に入るなんて真似、嫌われ者の伊織ですらしようとは思わない。

 

「ああ、それならあたしが持ってるわよ」

 

「は?」

「え?」

 

 ────だが。小南の口から出たのは、耳を疑うような言葉だった。

 

 

 

 

 

「どうせ本部に悪さでもしに行くつもりだったんでしょ?」

 

 玉狛支部、仮想空間。

 昨日、小南と戦ってから24時間と経たずに再びだ。

 伊織のトリガーを親指と人差し指でぶら下げた小南が、「あたしに勝ったら返してあげる」と言っての現在である。

 

「噂程度には聞いていたけど、昨日ので確信したわ。本部で暴れてるって隊員、あんただったのね」

 

 小南の目には、幾分かの正義感とやり返しへの湿度がある。

 想定外の出来事だったが、予定通りの展開に持ち込むことができた、と伊織は内心安堵した。

 

「桐絵ちゃんも案外えぐいことするなあ。もしかしたら知らへんかもやけど、それ窃盗っていうんやで?」

 

「だ・か・ら!!『桐絵ちゃん』はやめろって言ったでしょ!?」

 

「昨日のあれ、ボクは条件言うてなかったやろ。そやったら勝負は成り立たへんよ?」

 

「えっ、そうなの!?し、知らなかった……」

 

 ちょろい。

 まあ、それで納得しなかったとしてもその理論を押し通すつもりではあったが。

 

「そやから、これが正真正銘の勝負や。ボクが勝ったら、それ返してもらうで」

 

「ふうん。昨日の今日で、本気で勝つつもりなのね」

 

 小南がトリオン体へと換装する。

 それと同時に、伊織の手元へ戦闘用のトリガーが投げられた。伊織のIDと紐付けられていない玉狛備え付けのものだから、これだけでは本部へ行くことはできないだろう。やはり、戦うしかない。

 

「三つでいいわ。十本中、三つ取れたら負けを認めてあげる」

 

 両手に、斧のようなトリガーが呼び起こされる。

 昨日、小南が使ったものとはまるで違う、今まで見たことのないトリガーだ。

 

「そのかわり、本気でいくから」

 

 伊織には譲れない戦いが、始まる。

 

 

 

 

(くそ……。強い……!)

 

 十本終了。伊織の勝利数、ゼロ。

 

「こんなんじゃ一生あたしは倒せないわよ?」

 

 本気の言葉通り、昨日とは比べものにならないくらい小南は強かった。恐らく、あの斧のトリガーが小南本来の得物なのだろう。

 

「まだ十本終わっただけや。次いくで」

 

 

 

 

 

 

「はい、三十本。諦めるなら今のうちだけど?」

 

 三十本。十本中三本取るどころか、トータルしても一度も勝てていない。

 これまでの戦いで、小南の戦い方の特徴は覚えた。だが、村上と違って伊織は記憶力が完璧なだけで、それを瞬時に戦闘で活かす能力は人並みだ。

 ……いや、例えそのサイドエフェクトがあったとしても。この相手を凌駕するには、圧倒的に実力が足りない。

 

「……いいや。まだ終わってへん」

 

 だが。伊織に諦めるつもりは全くなかった。

 

 

 

 

 

「まだやるつもり?」

 

 五十戦が終了した。未だ、伊織は一度も勝ちを収めていない。

 流石の小南にも顔には疲労が見てとれる。だが、それ以上に伊織は消耗していた。肉体的にではない。トリオン体でそれは感じられないからだ。一戦一戦、本気で勝ちを目指す両者にとって、一挙手一投足を考えることが脳への疲労となって積み重なっていた。

 

「……もう一回や」

 

 息をつく。ここで諦めるわけにはいかない。それは両親への裏切りであり、そしてここまで伊織が傷つけてきた他者への裏切りでもあるからだ。

 

「あんた、どうしてそこまで……」

 

 伊織の気迫に、小南はたじろいだ。それは、始めに宿していた正義感だとか悪意とはかけ離れた、小南の本心からの言葉だった。

 

「桐絵ちゃんには関係あらへんやろ」

 

「…………」

 

 押し黙る。視線はまっすぐ、伊織を見つめていた。

 

 

 

 

 

「今日はこれで終わりよ。あんた、昼当番でしょ?」

 

 七十戦が終わったところで、小南は換装を解いてしまった。周囲は白い壁に囲まれ、時計もないが、かなりの時間が経ったであろうことはわかる。

 

「迅さんあたりに適当に作らせればええ」

 

 だが、それでも伊織はやる気だった。もとより昼当番なんてやるつもりはない。

 

「はあ。これ以上やっても無駄だって言ってんの」

 

「……」

 

 返す言葉がない。小南の言葉通りだということは、正直言って三十本を終えたあたりからわかってはいた。

 

「作戦なり何なり、考えてからまた来なさい。何度でも受けてあげるから」

 

 何度でも。そう小南は言った。

 昨日の鬱憤を晴らすには十分すぎるほど伊織を圧倒したはずだが、まだそんなつもりがあったとは……と、小南を見る。

 だが。そのような雰囲気は、とうに小南から消えていた。

 

「……そうまでしてボクのこと止めて、大層な正義感やな」

 

 苦し紛れに皮肉をこぼす。

 何度でも、の裏に隠れた感情を読み取れないほど、伊織は鈍感ではなかった。

 

「最初はその腐った性根を叩き直してやる、と思ってた。……だけど。そこまで食い下がるだけの理由があるって、わかった」

 

 分岐点は五十戦を終えた後の伊織との会話。

 ただ己の快楽のために嫌がらせをしている人間に、あの気迫は出せない。

 

「そりゃあ本部の隊員に嫌な思いさせたくはないけど、顔も知らないやつのためだけにここまで付き合えるほど人間できてないわよ」

 

 なら、どうして。

 伊織がそれを口にするよりも先に、小南が言葉を紡ぐ。

 

「あんたを突き動かす何かがあるのは十分わかった。けど、チームメイトに他人を傷つけるようなことはしてほしくない」

 

「……どうして、そこまで」

 

 先ほどとは話す側が真逆の言葉。

 小南は自慢をするような素振りは全く見せず、当然のことであるかのようにさらりと、続ける。

 

「認めるのは癪だったけど、昨日からあんたは紛れもなくうちの一員よ。だったら、チームメイトになったあんたを大切に思わないわけないじゃない」

 

「…………」

 

「さっき言ったでしょ?何度でも受けてやるって。そんなくだらないことやる気がなくなるまで付き合ってあげる」

 

 そういえば、迅に鍛えてやるよう言われたし。照れ隠しで出たその言葉が、伊織の耳へと届いて、ゆっくり消えていく。

 

「チームメイトで、大切な仲間なのは変わりないわ。だけど、それと同時に、こうやって戦っている間だけは。その気を改めるつもりがない間だけは。あんたは、あたしの敵」

 

「……敵」

 

 今にして思い返せば、伊織にとってその言葉はたった一つの最適解だったように感じる。

 味方であり、敵でもある。普段は隣に立って共に歩くが、違うと思えば躊躇せず目の前に立ち塞がる。それまで積み違えていた伊織の記憶が、綺麗に正しい方向へと揃えられていくような、そんな未来が見えたような気がした。

 

「ちょ、どこ行くのよ!?」

 

 両手の下にあったキューブが消え、伊織の身体が元に戻っていく。

 小南の方へと振り返ることなく、その足は出口へと向かっていた。

 

「昼作れ言うたのは()()の方やろ」

 

 振り返らず、けれど足を止めて伊織は言った。それはまた、伊織なりの照れ隠しだったのかもしれない。

 

「ったく、素直じゃないんだから」

 

 ため息をついて、小南はそれから笑った。

 そこには伊織への負の感情は一切ない。チームメイトへの親愛のそれだった。

 

「ていうかあんた、料理できるの?」

 

 足を止めた伊織の隣へ、小南は急ぐ。軽口を言いながら、出口へ共に歩き出した。

 

「あんまりせえへんけど、まあ人並みちゃう?……そやなあ、無難に炒飯とかは?身体動かしたら()()()()()()()()()()()

 

 へえ、と小南。意外と家庭的なものを作れるんだな、とぼんやり思いながら、横の伊織へ視線をやった。

 

「炒飯か……まあまあってところ……ね……?」

 

 クリーム色の髪。綺麗な二重。我が道を征く性格。

 何度もしつこく小南を勧誘してくる隊員と、伊織の見た目が重なる。

 

 ……そういえば、加古さんの従兄弟なんだっけ。

 

 そう思い出した途端、本能が冷や汗という警告をひっきりなしに鳴らした。

 加古の従兄弟に、炒飯。限りなくマズい組み合わせだ。

 

「ちょ、え……はあ!?」

 

 急に焦り出す小南を横に、伊織はにっこりと笑った。

 

 

 





当初はここで区切る予定ではなかったのですが、12月がとても忙しくて年内に仕上げられなさそうだったので、ここまでで一度上げることにしました。
恐らく年内最後の更新だと思います。
いつも読んでくださる方、今日初めて読んでいただいた方。評価や感想をいただける方。全ての皆さまに、感謝いたします。2022年、ありがとうございました。


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ただ、楽しかったんだ その2



お久しぶりです。生きてます(二回目)





「おっと、そう来るか……」

 

 警戒区域内、南西。影浦隊や玲が人型と戦っているポイントまで目前といった頃合いであった。

 迅の眉がピクリと動く。彼の感覚──すなわちサイドエフェクトが、状況の変化を知らせていた。可能性が、また一つ消えていく。それは、幾重にも枝分かれした未来の分岐がぽきりぽきりと一つずつ折れていって、一つの大きな幹だけが残っていくかのようであった。

 

「どっかやばいの?」

 

 遊真からの問いかけ。彼にはすでに、修が死ぬかもしれないという未来は伝えてある。故に、遊真のそれは修を守るための障害が増えたのではないか、と心配する声だった。

 

「伊織のところがちょっとね。向こうもやり手みたいだ」

 

 迅は包み隠さず、簡潔に遊真の質問に答えた。

 

「でも、こなみ先輩たちも居るんでしょ?そう簡単に負けないと思うけど」

 

 確かに遊真の言う通りだ。玉狛第一のメンバーは全員、通常のそれとは全く異なる一点物のトリガーを持っている。単純な戦闘能力を考えれば、いくら相手がアフトクラトルといえど、ボーダー最強とも言われる彼らがあっさり負ける未来は考えにくい。

 

「ちゃんと戦えれば、そうかもしれないな」

 

 そう。単純な戦闘能力だけを考えるのであれば、だが。

 様々な思惑が重なった結果として伊織と小南たちは共闘しているのであり、かつてのような連携は見せられないだろう。

 含みのある迅のいい草に、遊真は少しだけ考えるような素振りを見せて、それから口を開いた。

 

「ねえ、迅さん。ことぶき先輩ってなんでやめたの?」

 

 彼らの関係が壊れてしまっていることは遊真にもわかっているらしいが、こうして遊真が伊織のことを聞いてくるのは初めてのことだった。

 

「おれにもよくわからないんだ。あいつ、急にやめるって支部長に言ってそれきりだったから」

 

「ふーん。迅さん、つまんないウソつくね」

 

「はは、遊真にはお見通しなんだったな」

 

 軽薄な笑い声を迅は上げる。

 別に、隠すつもりはない。むしろ遊真たちには知っていてもらいたいとも思う。けれど、戦場に向かう片手間にするほど、迅の中で軽いことでもなかった。

 

「全部話すには、いろいろありすぎたんだ。……おれたちも、伊織も」

 

 そう言って会話を切り上げる。遊真も踏み込んでは来なかった。

 そうこうしている間に、目的地に到着したからだ。

 挨拶がてら新型の急所をスコーピオンで一刺しして、迅と遊真は影浦たちの側に立つ。

 

「揃って険しい顔してるね。ぼんち揚でも食べる?」

 

 あ、今は持ってないんだった。そのセットまで言い切って、迅はまたいつものように胡散臭い笑みを浮かべた。

 

「ここは一つ、実力派エリートが手を貸してやろう」

 

 仁礼から『おせーよ!』なんて呑気な言葉が返ってくる。何とも気の抜ける登場の仕方に影浦や北添は呆れ顔、玲だけが唖然としていた。

 

「おれは?」

 

「遊真も十分実力派だぞ?」

 

「ふむ、そうか」

 

 遊真も加わって、戦場に似つかわしくないゆるい空気に拍車がかかる。

 青白い顔で慌てふためく様子を期待していたエネドラは、それを見て苛立ちの顔を浮かべた。

 

「群れ大集結ってか?勝てねえってのに身体張って同情するなあ、オイ」

 

 そう言われて、迅はエネドラを見る。脳内をサイドエフェクトが駆け巡って、エネドラの確定した未来のイメージが伝わってきた。

 

「へえ。なるほどね」

 

 やはり、アフトクラトル側にも何か事情がある。こうして相対するのが伊織でなく自分たちでよかった、と迅は思った。

 

「あ?」

 

「おまえ、一人でここ任されるくらいには強いんでしょ?しかもその角を見るに黒トリガーときた。なのに遠征先で処分だなんて、同情するね」

 

 何かがやってきて、目の前のエネドラは死ぬ。理由も過程も全くもって見当がつかないが、それは確実だ。口では同情するなんて言ってみせたが、そんな気はそれほどなかった。

 ぴくり、とエネドラの体が反応する。どうやら、思い当たる節があるらしい。

 

「真っ先にテメエを殺す!」

 

「無理だね。おれのサイドエフェクトがそう言ってる」

 

 激昂したエネドラを涼しい顔で受け流して、迅は身を翻す。足下からは液体化したブレードが明確な殺意を持ってこちらへ向かってきた。

 

「死ね!!」

 

 次々とエネドラの攻撃が迅を襲う。だが、当の本人は軽い身のこなしで難なく全てを回避した。

 

『敵の情報は宇佐美から聞いてる。ゾエと玲ちゃんは援護を頼むよ』

 

 本当に厄介なのは敵の攻撃を避けることよりも、敵にダメージを与えることだという影浦の見解は迅も同じだ。風刃があるならまだしも、今の迅ではそれは骨が折れる作業になる。

 

『そうしたいのは山々なんですけど……あいにくゾエさん、そんな余裕ありませんよ?』

 

 迅の要請に対して、北添の言葉はもっともだ。

 新型が北添や玲といったガンナーを抑えているから、影浦も攻めあぐねていたのである。とはいえ、それは迅も十分承知していた。

 

『平気平気。新型は遊真が倒してくれるから』

 

 言われて、遊真が得意げな表情をする。

 

『この白髪チビがか?』

 

 怪訝そうな仁礼の声は物ともせず、遊真は新型へ向けて跳躍する。

 『弾』印(バウンド)で空中から射撃を見舞う。ラービットは腕を盾にして防御。

 上がったガードを見て、遊真は『強』印(ブースト)で腹を攻撃。空中へ逃げようとしたラービットだったが、それを読んでいた遊真は『鎖』印(チェイン)で封じる。

 ラービットの腹へ、『強』印で強化されたパンチが直撃する。衝撃でよろめいたところをすかさず、『強』印で蹴りを弱点めがけて繰り出す。三重に重ねられたその印は、ラービットの装甲もろとも破壊した。

 

『ね?』

 

 沈黙したラービットを見て、今度は迅が得意げな顔をする。見たこともないトリガーで新型を圧倒した遊真を前に、影浦たちは呆気にとられた。

 

『ジツリョクハなので』

 

『ははは!おめー、おもしれーな!』

 

 影浦は笑う。裏のない言葉からは、気持ちのいい印象を受けた。

 一先ず、北添たち射手の障害は消え去ったが、憂いは一つ。

 

『けど、倒してもまた別の新型が……』

 

 そう。新型の増援だ。玲が倒した際には、間髪入れずに新たなラービットが送り込まれてきた。今回も同じことの繰り返しになってしまう可能性は高い、と思ったが。

 

『……来ない?』

 

 少ししても、増援のラービットは出現しない。敵の戦力が尽きたのか、あるいは何か理由があるのか。迅は何も言わなかった。

 

『なんか知らねーがチャンスだ!やろうども行け!』

 

 ともかく、仁礼の言う通り好機だ。

 迅と影浦がエネドラに接近戦を仕掛け、遊真を加えた射手チームが弱点をしらみ潰しに攻撃する。

 

(クソが……!あのサングラス野郎にも攻撃が当たんねえ!)

 

 影浦だけでなく、迅もサイドエフェクトのおかげでエネドラの奇襲は当たらない。

 ならばとエネドラは射手に狙いをつけるが、どういうわけかこれも回避されてしまった。

 

(どうなってやがる!?急に全員に当たらなくなっただと!?)

 

 種としては単純だ。射手たちへの攻撃も迅が予知して、回避するよう指示を出しているだけのこと。もちろん、そんな事をエネドラは知る由もなく、ただイライラだけが募る。

 

「チッ……。これ使って倒してもスッキリしねえんだけどよお」

 

 頭を掻きむしって苛立ちを発露させていたエネドラだったが、突然口調が落ち着いた。はあ、とため息をついて面白くないものを見るような目で呟く。

 迅の眉がぴくり、と動いた。

 

『みんな!!』

 

 迅の合図と共に、後ろの三人が射撃を放つ。エネドラへ向けてではなく、迅や影浦と、エネドラの間の地面へ割り込むようにそれらは向かっていった。

 射撃が地面に着弾する。大きな衝撃とともに、瓦礫を吹き上げて爆風が巻き起こった。

 

「何だと!?」

 

 エネドラが渋い顔をする。まるで、自分の奥の手が完璧に防がれてしまったかのよう。

 爆風の隙間から、迅はエネドラを見据えた。

 

「液体だけじゃなくて、気体にも変えられるブレードか。なかなかいいトリガーだ」

 

 迅の予知では。

 数秒後に迅と影浦は、体内からトリオン体をズタズタに引き裂かれて緊急脱出している。

 ブレードを液体に変えて地面を這わせたこれまでのエネドラのトリガーの使い方から予想するに、今度は気体に変えて体内に侵入させたところでブレードに変形させた、といったところだろう。

 

「『弾』印」

「バイパー!」

「アステロイド」

 

 エネドラが見せた隙をすかさず、後ろの三人が射撃で突く。

 仁礼と志岐がマーキングしたカバーに直撃したが、ばしゃりと水面を打つような音がしただけで、エネドラはけろっとしていた。

 

「ハッ!それじゃこのオレは倒せねえ!」

 

「カバーを増やせば、弱点への的を絞れなくなる。うん、それもいい性能だ」

 

 見たことか、と煽るエネドラの背後から、迅は言った。

 固体、液体、気体と物質の三態へ自由に変えられるブレードに、自在に移動できる弱点。黒トリガーなのも頷ける、非常に強力なトリガーだ。

 

「けど、おれのサイドエフェクトとは相性が悪かったな」

 

 迅が相手でなければ、の話だが。

 

「未来の分岐点までそろそろ大詰めだ。悪いけど、終わらせてもらう」

 

 エネドラの右手首へ向けて、迅はスコーピオンを振るう。相変わらずの水を切るような感触の途中、何かを砕くような音が鳴った。

 

「な……!?」

 

 エネドラが驚愕の顔で振り返る。

 エネドラの攻撃も防御も、迅のサイドエフェクトを前には無力。種がわかれば対処できる彼のトリガーとは、相性が最悪だ。

 

「クソったれ……が……!」

 

 エネドラのトリオン体が消えて、生身へと戻っていく。

 未来の分岐点まで、あと少し。

 

 

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 

「伊織くーん。ちょいちょい」

 

 時は遡り、ある日の玉狛支部。伊織が玉狛へと転属になってから、一週間あまりが経過した日のことだ。

 未だ、伊織のトリガーは小南に没収されたままだ。防衛任務や訓練の時には、他の隊員からの許可を得て使うことになっている。

 住み込みの伊織なら、本気で取り返そうと思えば深夜に隠し場所を探すなりして、いくらでもやりようがあるというのに、大人しく従う様に玉狛の隊員たちは驚きを受けた。そしてそれと同時に、「あれ?もしかしてこいつ押しに弱いタイプ?」なんて生暖かい感情を伊織は向けられるようになっていたし、明らかに押しが強いであろう伊織の従姉妹さまの尻に敷かれているんだろうな、と同情すらされていたが、さておき。

 

「ここに、やしゃまるの試作型があります」

 

 宇佐美がそう言う先には、なぜか虹色に光るトリオン兵の姿がモニターに映っていた。通称ゲーミングやしゃまるらしいが、そのセンスはよくわからない。

 

「ちょっと戦闘データが欲しいの!……手伝ってくれる、かな?」

 

「嫌やけど」

 

 即答した。

 玉狛に転属したのも小南にトリガーを没収されたのも百歩譲って受け入れたが、善人ぶるつもりは全くない。

 というか、単純に面倒だった。あの宇佐美とかいうオペレーター、トリガー関連とメガネのこととなると熱量がすごいのだ。ほいほいと従ったが最後、ついでにとか言われて他のトリオン兵の調整にまで付き合わされるのはわかりきっている。

 

「そこを何とか!伊織くんにしか頼めないの〜!」

 

 両手の指を組んで懇願する様は、何だか断るのも申し訳なくなってしまいそうだが。伊織はその普通の範疇には居ない……と、自分では思っている。

 

「……ああ、そういう。小南とか京介くんやと相手が強すぎてデータにならへんから、程よく弱いボクにしか頼めないって訳」

 

 だから、明らかな嫌味を吐き捨てた。

 恐らくは隊員たちが心のどこかで思っているであろうことを言われ、普通なら意地の悪さに顔を歪めるはずだが。

 

「ううん。今度のはね、相手の攻撃に対する反射のプログラムを改善させたものなんだ。回避特化型のやしゃまるってこと!」

 

 宇佐美の顔色は全く変わらなかった。

 

「だからね、バイパーを自由に動かせて、手数の多い伊織くんがうってつけなの」

 

 それに加え、彼女の言葉に理屈は通っている。

 トリオン兵の回避性能を調べたいのだから、バイパーで弾道が制御できる、すなわちどこまででも相手を追い続けることができることと、単純なシュータートリガーの手数の多さからいって伊織に白羽の矢が立つのは、十分理解できる。

 

「へえ。咄嗟に思いついたにしては中々の誤魔化しかたやなあ」

 

 心のどこかではわかっていた。

 けれど、伊織は意地の悪い言い草でそれに蓋をする。それに気がついたら、この心地よいやりとりも、安心できる温もりも消えてしまいそうだから。

 

「本当だよ。小南としか戦わないから気づいてないと思うけど、伊織くん、前と比べものにならないくらい強くなってるもん」

 

 ここ最近、伊織の相手はトリオン兵か小南かの二択だった。B級へ上がる頃にはすでにトリオン兵に遅れをとることはなく、そして今日まで小南相手に勝ち越しどころか三本も取れていない。自分の成長を実感するには、周りの環境が悪いのは事実だ。

 それにね、と。宇佐美は優しい声で続ける。

 

「例え他と比べて実力が劣っていたとしても、弱いなんて思ったりはしないよ。だって、大切なチームメイトだから」

 

「……あ、そ。どうでもええけど」

 

 ため息をつく。玉狛のメンバーというのは、どうにも伊織の調子を狂わせる。ただのチームメイトというだけで、どうしてここまで伊織に優しい言葉を投げかけられるのだ。

 

 しばしの沈黙。再び、伊織はため息をついた。

 

「で。普通に戦ってええの?」

 

「ありがとう〜!」

 

 ぱあっと、宇佐美の顔が明るくなる。やはり彼女のトリガーに対する熱意は本物なのだと、胸に湧き出るあたたかい感情を、もっともらしい意見へ伊織はすり替えた。

 

「……あと、もう一つお願いがあるんだけど……ね?」

 

「はあ。この際一個や二個変わらへんわ。何したらええの」

 

「換装体でメガネを……」

 

「却下」

 

 

 

 ☆

 

 

 

(こんな時に思い出すな……!)

 

 三門市内。警戒区域外、南西。

 ヴィザの攻撃が迫る。何でもない、剣によるただの薙ぎ払いだ。小南と伊織はそれぞれ左右へ飛び、難なく回避した。

 ヴィザを見据える。それと同時に、脳内にフラッシュバックした過去の記憶も振り払った。

 小南が左からヴィザへと向かったのを確認して、伊織はバイパーを展開する。

 ヴィザの利き手方向を中心に繰り出される攻撃は、段々と速さを増していっても余裕を持って受け流されていた。

 これ見よがしな左偏重の攻勢。右から弾幕を張って、サポートしろとでも言っているようだ。

 

()()()()……か)

 

 伊織の手元から、バイパーが放たれる。不自然なほどに空いた右ではなく、小南が双月で攻防を繰り広げる、左へ。

 そして。伊織が射撃を撃つのと同時に、小南が右へと突然切り返した。当然、ヴィザも切り返しに反応する。不自然に控えていた右への攻撃はこの切り返しのためだったのか、と。

 そして、ヴィザの意識が右へ傾いた瞬間。小南の背後から、伊織のバイパーが突如として現れる。右への切り返しを見せつつも、本命は左のバイパー。相手の重心はずらせた。小南を受ければ伊織が通り、伊織を受けようとすればもう一度体勢を変えなくてならず、小南の切り返しが通る。

 

「よい連携です」

 

 涼しい顔を崩さず、ヴィザは言う。

 伊織個人の特徴として、複数人での連携は苦手な傾向にある。玉狛第一として対人戦に臨んだことはなく、トリオン兵相手には個々の力量のみで圧倒できたから、単純な経験不足だ。

 だが。こと小南との連携となれば、話が違う。

 何十戦、何百戦と伊織は小南と戦いを行ってきた。そして伊織は、それら全てを寸分狂わずに記憶している。期間は短かったが、密度で言えばそれは恐らく数年戦場を共にしてきたのとそう変わりはないだろう。彼女が次に何をしたいのか、手に取るように伊織にはわかっていた。

 

 ヴィザはつま先を正面に揃えると、膝をくっと曲げて飛んだ。

 左右からの攻撃は、上下で避ける。最適解だ。伊織の射撃が自在に曲がることは恐らく向こうにもわかっているだろうが、飛ぶことで警戒すべきはそれを追う伊織のバイパーのみになる。

 …もっとも、それは対峙するのが伊織と小南だけであったらの話だが。

 

「!」

 

 ヴィザが飛ぶのを読んでいたかのように、伊織の後方からアステロイドが飛来する。京介からのものだ。これで、状況は先ほどと同じ。伊織のを防ぐか、京介のを防ぐか。

 

(相変わらず、よく気が回る……)

 

 伊織とは違い、京介のそれは後方支援の練度と、ずば抜けた観察眼の為せる技だろう。

 ……と、京介の思慮深さを思ったところで。

 再び、伊織の脳内を過去の記憶が駆け巡る。

 

 

 

 ☆

 

 

 

「……」

 

 また、ある日の玉狛支部。キッチンで伊織はきょろきょろと辺りを見まわしていた。

 

「そこの引き出しですよ」

 

 そんな先、背後から声がかかった。京介からだ。

 言われた場所に手をやると、探していた調味料がそこには置かれていた。

 

「はあ。勝手に位置変えたの、どうせ小南やろ?」

 

「多分そうすね」

 

 特に礼も言わず、伊織は京介を背に野菜を切り始める。

 とんとんとん、と包丁とまな板の音が響く。しばらく経っても、京介の気配は消えなかった。

 

「……で、何の用?」

 

 顔は向けず、ぶっきらぼうに言い放つ。口調には邪魔だからあっちへ行ってろ、と乗せたが、京介がどこかへ行く素振りは感じられない。

 

「伊織先輩こそ。昼ならさっきレイジさんが作ってたじゃないすか」

 

 時計の針が正午を過ぎてからしばらく経つ。もう少ししたら、防衛任務の午後のシフトが始まりそうな時間帯だ。

 

「ボク、料理趣味やんね。好きにさせてや」

 

 そうすか、と一言。ただの相槌だけが返ってくる。これ以上言っても無駄だと半ば諦め、伊織は料理を続けた。

 包丁とまな板の音は肉を切り終えたところで止み、今度はフライパンが食材を炒める音が鳴り始めた。

 醤油を少し。コショウは気持ち多め。姉貴の作る野菜炒めはそんな味付けだったな、と記憶を辿りながら。

 

「もう少し濃いめの方がいいですよ」

 

「はい?」

 

 と。フライパンと醤油が織りなす音に心地よさを覚えていたところへ、京介からの物言い。

 よもや味付けにけちをつけられるとは、全くの予想外だ。

 

「肉ももっと入れないとダメすね」

 

「何言うてんの?」

 

 伊織の疑問は答えられることなく、どんどん京介の物言いは増えていく。

 肉を入れろだの、もっと肉を足せだの、まだ肉は加えられるだの。

 出来上がった野菜炒めは、明らかに肉の量が普通のそれとは異なる、肉肉肉野菜炒めとでも言った方がしっくりくる見た目だった。

 

「なんかレイジさんが作ったみたいになっちゃいましたね」

 

 ちらり、と京介は右手のスマートフォンに目をやる。

 午後の防衛任務を担当する隊員に、小南の名があった。学校から一度ここへ寄って、それから任務に向かうということも事前に聞き及んでいた。

 そして。伊織が小南のために防衛任務前の昼食を用意し、特に何も言わずに机の上に置いて部屋に戻るであろうことも、何となく予想がついていた。

 

「そやなあ。脳筋ゴリラの料理って感じや」

 

()()()()()()にしておけばいいんじゃないすか?あの人騙すのなんて簡単だし」

 

 何も言わずにあの野菜炒めが置かれていたら、小南が誰の料理だと思うのかは聞くまでもない。昼当番がレイジだったのだからなおさらだ。何より、肉の多さが物語っている。

 

「……あ、そ。別になんでもええけど」

 

 見えすぎているとすら思えてしまうほどの気配りと、お礼を求めるどころかやった事すら勘付かせない偏屈さは、何とも伊織らしい気づかいだ。

 伊織の思惑を追及する不粋さは胸にしまって、京介は優しく笑った。

 

 なぜ玉狛のメンバーは自分に優しくするのかわからない、と伊織は思っていたが、簡単だ。こうして誰かを思いやった行動を、人知れず、見返りを求めず行う伊織の姿を、彼らはしっかりと見ていたから。ただそれだけのことである。

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 戻って、戦場。伊織と京介の弾丸がヴィザを挟み込むように迫る。

 ヴィザは空中。後ろの退路へは、そう簡単には向かえない。

 だが。ヴィザの表情は、変わらなかった。

 

「あからさまな誘導に意識を向かせ、波状攻撃のように次々と畳み掛ける。何より、詰めまでのビジョンが共有されているから連携に矛盾がない。いいチームです」

 

(よし……!剣に手をかけた!)

 

 ヴィザの持つ杖から鞘が抜かれ、仕込み刀が露わになる。恐らくは射撃を薙ぎ払って防ぐため。あの老人の力量を察するに、二人の射撃は全て防がれてしまうだろう。

 だが。それも想定内。一歩ずつ詰めに追い込んでいた伊織たちの、最後の一手だ。

 伊織の視界にはレイジがヴィザの背後へ迫る姿が写っている。正面からの射撃に気を取られているところへ、背後からの奇襲。レイガストを特異に活用したパンチは並大抵の破壊力ではない。それが詰めのビジョンである。

 ダメージを与えられるなら良し。防がれたとしても、恐らく伊織の目的は果たせるはず。

 

「ですが、それではまだ届かない」

 

 そう、思ったが。

 右手で射撃を払ったヴィザは、左手に持つ刀の鞘を突如として後ろへ放り投げた。いや、放られたというよりも、明確な意図を持って、それは投げつけられた。鞘は回転しながらヴィザの背後へ飛び────レイジの額へ向かう。予想外の手段で、そして至近距離という反応の及ばない時間での出来事。鞘が直撃したレイジはその衝撃で仰け反った。

 視界には空。取り直して再びヴィザを捉える頃にはもう、老人は着地して距離を離している。……完全に、防がれた。

 

「私に、この星の杖(オルガノン)を使わせることが目的だったのでしょう」

 

 仕込み刀を鞘に戻し、ヴィザは言う。

 伊織の目的。それは、小南たちがいる間にヴィザにトリガー能力を使わせることだった。まさか、あの老人のトリガーがただの仕込み刀なはずがないだろう。彼の放つ威圧感に見合った、強力なもののはずだ。いずれ使うであろう伊織の奥の手の前に、情報のアドバンテージは可能な限り少しでも得たいというのが本音である。

 だが。幾重にも揺さぶりをかけた攻撃はいとも簡単に防がれてしまった。

 

「なるほど、狙いとしては全くもって正しい。……しかし、それはあまりに傲慢だ」

 

 傲慢、とヴィザは言い切った。

 ざらりと撫でられているような感触の心臓が、軽く握られたような圧迫感に襲われる。

 依然としてヴィザは涼しい顔だ。しかし、段々と口調だけが強くなっていく。

 

()()()()()()()()()など。あまり、見くびられては困ります」

 

 伊織の眉がぴくりと動く。

 こちらの意図も、隠している奥の手でさえも。全て見透かされているかのような恐ろしさと、語気から漏れる威圧感が伊織の背筋を冷たくする。

 

 そして。その最中。

 

『ひ、人型がオサムくんのところに出現!!』

 

(な……!?)

 

 龍の逆鱗に触れてしまったことに気づいたかのように、焦りがあとから吹き出してくる。

 確かに、伊織たちは今あの老人に足止めをされている。だが、その傍らで恐らくは四人全員が修たちに危機が及んだ時のことを考えていた。だから、並大抵のことなら修に何かあっても冷静に対処できていただろう。

 だが。宇佐美からの報告は、その並大抵からかけ離れていた。

 

(人型だって……!?そんなはずが……!)

 

 狙いがC級なのはわかる。だとしても、新型一体で事足りるはずで、人型なんて過剰な戦力にも程があった。

 ヴィザの圧力に速くなっていた鼓動が、焦燥感へと変わっていく。修が死ぬという最悪の未来が駆け足で近づいてきたような焦燥感。

 

(いや、落ち着け……。新型だろうが人型だろうが、動くのは俺じゃない)

 

 一度、息を吐いた。修たちの場所に出た敵は想定外だが、敵が出ることは想定内。そうなった時は、一番臨機応変に対処できる彼が離脱するということはすでにレイジから伝えられていた。

 

『京介!!』

『了解!』

 

 合図とほぼ同時に京介が戦線を離脱する。

 そう。緊急の事態には彼が修たちの救援に向かうことは事前に決まっていたし、だからこそ京介は絶対に近距離には踏み込まなかった。

 あの老人相手には、これ以上人員は減らせない。付近のA級も修のところへ向かっているだろう。だから、修の心配をするのはこれで終わりだ。

 そう割り切って、ヴィザを見る。

 

「玄界の曲芸師よ。心理戦とは、こういうことを言うのですよ」

 

 意味ありげな呟きだったが、言っている意味が伊織にはわからなかった。だから、適当に聞き流した。そんな時、だ。

 

『────全員伏せろ!!』

 

 ほとんど叫び声に近い通信だった。

 レイジの声にされるがまま、伊織と小南はその場で伏せた瞬間。頭の上を、何かが切り裂く音がした。

 

『トリオン供給器官損傷。緊急脱出』

 

 聞き慣れた機械音声に嫌な予感がして見上げると、下腹部で半分にされたレイジの姿がそこにはあった。

 目視することすら叶わなかった。あまりにも刹那の、あまりにもあっけない出来事。これが、ヴィザをアフトクラトル最強たらしめたる所以。

 

「おや。貴方がたの望みでしょう?それにしては顔が優れませんが」

 

「……クソ」

 

 

 

 

 

 



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ただ、楽しかったんだ その3

「迅。少しいいか」

 

 ある日の玉狛支部。ベットに寝転んだ迅へ、レイジが声をかけた。

 開いた扉を一応ノックして、迅が立ち上がるのを待つ。

 

「んー、どうしたのレイジさん。任務明けで眠いんだけど……」

 

 あくびと伸びをセットに、迅はレイジへ体を向けた。

 

「伊織をいつまであのまま放っておく気だ?」

 

 対照的に、真面目な口調でレイジは言う。

 レイジも伊織の事情は望から聞いている。なぜああなってしまったのかも、何のために玉狛へ送り込まれたのかもだ。

 レイジも彼なりに伊織を案じていたし、チームメイトへ与える影響も悩みの種でもあったが、迅が連れてきたということは彼に一任して問題ないだろう、と特に行動を起こしてはいなかった……のだが。

 伊織が転属してしばらく経っても、迅が何かをする気配は全く感じられない。初日と一悶着あった小南とは毎日のように言い争っている。痺れを切らしたレイジは、本人を直撃することにした。

 

「うーん、未来は無限に広がってるかなー」

 

 だが、当の本人にはいつもの言葉でするりと受け流されてしまった。

 本気で伊織のことを思って迅を尋ねたというのにこの答えでは、と少しむっとした表情を見せたレイジだったが。

 

「大丈夫。おれたちが思っているよりずっと、伊織はしっかりしてるよ」

 

 胸の内を透かしたような迅の言葉に面を食らった。

 ちょうどいい頃合いだし、一緒に様子見にいく?と迅に言われるがまま、レイジはリビングへ足を向けた。

 

 

 

 

「あーもう!面倒くさいったらありゃしないわ!」

 

 リビングへ着くなり、レイジの耳を小南の大声がつんざいた。

 机にはプリントと教科書が並べてある。任務で休んだ分の学校の課題だろう。かなり溜め込んでいるようで、その数は相当だ。

 

「相変わらず賑やかやなあ。小南のおかげで気持ちよく目覚められたわあ」

 

 小南の騒がしい声に目が覚めたのだろう。あくびと伸び、それから嫌味までセットに、伊織が階段を下ってリビングへとやってきた。

 

「いいところに来たじゃない!」

 

 小南は嫌味を気にすることなく──嫌味だと気づいていないと言った方が正しいが──伊織を見るなり、喜びの声を上げた。

 はい?と思わず伊織は素っ頓狂な声を漏らす。

 

「世界史の課題手伝って!あんた、記憶力いいでしょ!?」

 

 伊織とレイジのため息が重なった。

 

「しょうもな。二度寝してきてええ?」

 

 心底面倒そうな顔で、伊織は再びあくびをした。

 ぐぬぬ、と呻き声を出す小南。どうやら伊織の返事がお気に召さなかったらしい。

 

「そこを何とか!チームメイトでしょ!?」

 

 ぱん、と両手を合わせて「お願い!」と念を押す。

 その様子を見て、伊織は意地の悪そうな笑みを浮かべた。

 まずい、とレイジは思った。

 他人に課題をやらせることの無意味さは今さら言うまでもない。だが、相手は他人を困らせることに喜びを感じる嫌われ者。ましてや、伊織は押しに弱いというおまけ付き。

 恐らく喜んで手伝うであろう伊織や面倒ごとを楽して片付けて喜ぶ小南を、大人として咎めなければ。そう思い、口を開いたが。

 

「こな────」

 

「チームメイトやてダメなもんはダメやろ」

 

 耳を疑った。

 好きなことは揉め事と他人の困った顔(と、表面上は繕っている)の伊織が、こうも直球に相手を気遣った発言をするとは。

 先ほどに見せた意地の悪い笑顔はそのままに、伊織は続ける。

 

「そやけど、小南の気持ちもわかるなあ」

 

「でしょ!?なら────」

 

 小南が期待の眼差しを向けたが。

 

「二刀流の時点で前々から思うてたけど、やっぱり太刀川さん(あのバカ)に憧れてはったんやなあ、小南は」

 

「は?」

 

 一瞬で消え去った。

 

「ボクも日頃の積み重ねが大事や思うんね。こうやってコツコツ積み重ねていくことで、DANGERすら読めないアホ大学生の脳みそが作られていくいうわけや」

 

 うんうん、と芝居がかった仕草で伊織は頷く。さっきから伊織のニヤニヤが止まらない。

 

「そやなあ、やっぱり課題手伝うたるわ!ボクも小南の努力を応援せなあかん!」

 

「いや。やっぱりいい。てか触んないで」

 

 下を向いて、わなわなと震えながら小南は呟いた。

 

「そんな寂しゅう言い方せんでや〜!チームメイトの助けになりたいんや!」

 

「ちょっとでもこのプリントに触ってみなさい。この前あんたが陽太郎に付き合わされて戦隊ごっこしてた動画、加古さんに送りつけるから」

 

「別に、ボクも今の様子小南のクラスメイトに全部言ってもええけど?」

 

「なっ……!?だったらこっちはこの前犬に吠えられてビビってたって言いつけるわよ!」

 

 いつものごとく、二人で言い合いが始まった。もはや課題はそっちのけ。結局やらないのかよ、とレイジは思った。

 そんな伊織と小南、そしてため息をついたレイジの様子を見てか、隣の迅からふっ、と笑い声が漏れる。

 

「……なに笑ってんのよ」

 

「いいや、何でもない。ただ、こうして見てると二人とも仲良いなって」

 

「は?」

「はい?」

 

 息もぴったりだ、と迅がこちらを見て言う。

 

「……はあ。課題やろ……」

 

 ひとしきり騒いで疲れたのか、静かになった小南はようやく机に向き合いはじめたようだ。何だかんだと言っていた伊織も後ろで見守り、行き詰まったところでヒントをあげるつもりらしい。

 

「ね?おれたちが何かやる必要なんてなかったでしょ?」

 

 全ての人間の敵であり続けること。望が言っていた、伊織の生き方だ。

 だが、何も嫌われるだけが敵になる唯一の手段ではない。味方であることと、敵であることは両立する。玉狛へ来て変わった伊織の在り方に、レイジは迅の言葉を思い出した。

 

「……ああ。そうだな」

 

 優しい声で頷いた。

 

 

 

 ☆

 

 

 

『多分、レイジさんたちは向こうの一番強い相手と戦うことになる』

 

 大規模侵攻の少し前だったか。迅と二人で食事に出かけた際に伝えられたことだ。

 

『正直なところ、勝てるかは分が悪い』

 

 申し訳なさそうに迅は言う。だが、それを聞かされても特段何かの感情は湧いてこない。今回は勝つためではなく、守るために戦うのだ。例え自分が離脱したとしても、相手にダメージを与えられれば戦況は幾分か楽になる。

 

『うん、そうだね。五人で協力してもらえると助かるよ』

 

 五人。確かに迅はそう言った。宇佐美を入れても四人だ。遊真か修か、それとも別の部隊の誰かが、一緒に戦うのだろう。

 

『そう。久しぶりに、()()()()()()()()ってわけ』

 

 レイジさん的にも嬉しいでしょ?と迅は笑う。その言葉で、あと一人が誰なのかは十分に伝わった。

 箸の進むペースが上がる。悟られないように、「戦術的な判断に私情を乗せたことはない」とだけ答えた。

 

『まったく、素直じゃないな〜』

 

 迅は笑う。こちらの様子を見て、嬉しそうだ。

 だが、そんな笑顔も束の間。一気に真面目なトーンに迅が変わった。

 

『で。おれの見た未来では、レイジさんが真っ先にやられる』

 

 そうか、と相槌を打つ。

 

『だからさ。後悔がないようにしてほしいんだ。……伊織と一緒に戦えるの、これが多分最後だから』

 

 

 

 

 

 

 

『全員伏せろ!!』

 

 戦場。ヴィザが攻撃を繰り出すほんの数秒前に、レイジは出来うる限り最大限伊織と小南へ警告した。

 少し前の応酬でヴィザの鞘が直撃した際。衝撃で顔が上へ仰け反った瞬間に、空中へと伸びていく円のようなものがレイジの視界に入ったのだ。

 完全に受けに回っているように見せかけて、返しの一撃を密かに仕込んでいる。人型が修のところへ出現したという予想外の出来事に伊織たちの思考が揺さぶられた瞬間。相手が突くならここしかない、と思った。

 だが。更に予想外だったのは、攻撃の軌道に自分も入っていたということだ。相手の方が一枚上手。切り裂かれた下半身を確認して、そう悟った。

 

(後悔、か)

 

 崩壊していくトリオン体の中、迅の言葉が過ぎる。

 

(こんな序盤にやられて、後悔がない方がおかしな話だ)

 

 知らず知らずのうちに、レイジの思考は伊織と小南のことへと傾いていたのだろう。『自分が真っ先にやられる』という未来がこんなにも早く訪れるとは予想だにしていなかった。

 

(これまでだって後悔したことは山ほどある。だが、それの何が悪い?)

 

 例えば、ただ見守るだけでよかったのだろうか、とか。

 例えば、もっと彼を理解できたのではなかっただろうか、とか。

 そして例えば、あの時二人を送り出すことの意味を、もっとよく考えればよかった、とか。

 

(後悔があるなら、後で済ませればいいだけのことだ)

 

 これで最後にしなければいい。いや、絶対にそうさせない。

 

(だから。あとは頼んだぞ、二人とも)

 

 レイガストをブレード形態にして、スラスターを起動させる。ヴィザの脇下を通って、二人の下へ。

 

「伊織!」

 

 レイジに残された時間は僅か。だが、名前を呼ぶだけで意図は伝わる。

 本人は否定したいようだが、玉狛で一番周りがよく見えているのは間違いなく彼なのだから。

 

 レイガストの軌道へ、伊織のメテオラが向かっていく。そのままレイガストに貫かれ、目隠しの爆風が広がった。

 

(仕切り直し、ですか……)

 

 それは一度距離を取るための煙幕……のように見える。少し落胆した心持ちでヴィザは次なる攻撃の準備へ移った。

 だが。

 

(これは……!)

 

 爆風の中から、小南が双月を手にヴィザへと迫る。

 伊織と小南は好き勝手に暴れ回る。レイジからの指示は変わっていない。

 一度逃げるためではない。攻撃を隠すために伊織はメテオラを放ったのだ。

 

(あのまま退がっていたら全てが終わっていた。状況をよく理解できている)

 

 ヴィザのトリガー、星の杖(オルガノン)は軌道上をブレードが移動して攻撃を行う。それは剣を振るうような正面からの攻撃ではなく、横から切り裂く一撃だ。一般的な剣の攻撃範囲を想定していては、まず防げない。

 つまり、伊織たちは攻勢に回るしかないのだ。中距離に下がったとして、小南の攻撃が通らなくなるだけ。ヴィザに主導権を握らせた時点で終わりだ。

 ヴィザは小南の双月は仕込み刀で受け止めた。まだ、爆風は完全に晴れない。

 そこへ、足元を這うように伊織のバイパーが飛来する。

 

「さあ、次はどのような手で私を追いつめていただけるのでしょう?」

 

 受け止めた双月をぐぐっと押し込み、その反動でヴィザは後方へ回避する。その衝撃を受けて、小南の右手の双月が弾かれ宙へ飛んだ。

 これで一瞬の隙が小南に生まれるはず。片方の斧をどうすべきかの逡巡が。

 そして。その一瞬が、横からやってくるヴィザのブレードを見落とさせる。そう、思い描いた。

 だが。

 

(真っ直ぐ向かってきますか)

 

 一瞬の迷いも見せず、小南は距離を取らせまいとヴィザへ詰め寄る。

 ヴィザのブレードは小南の背後を通り抜けていった。

 

(ですが、左手の斧のみで何が……)

 

 一つ目の関門は突破された。だが、今度は別の問題がある。片方の、それも利き腕でない方の斧だけでヴィザと渡り合うなんてまず不可能だ。星の杖の能力を使うまでもなく、ヴィザが圧倒できる。

 ちら、とヴィザは伊織の方へと目をやった。二人にもそれは承知のはず。だから、絶対に伊織からのフォローが飛んでくる、と思ったが。

 

「……!」

 

 ヴィザは目を疑った。

 伊織はトリオンキューブを展開しているだけで、弾を撃ってこない。だが、ヴィザが驚いたのはそこではなかった。

 小南の右手に、双月があるのだ。ヴィザがそれを弾き飛ばしたのも、小南が手元に再召喚していないことも確認している。だというのになぜ。

 

(まさか、あの射撃は……!)

 

 足元を這って迫った伊織の射撃。それは、攻撃のためではなかった。ヴィザが伊織を警戒するよりも前に、すでにフォローの弾は飛んでいたのだ。

 小南の斧が弾かれた瞬間。伊織のバイパーが双月を撃ち落として軌道を制御し、再び小南の手元へ戻していたのだ。

 

接続器(コネクター)ON』

 

 機械音声とともに、小南の双月が一体となって、巨大な斧となる。

 手元に双月が戻ってくることを確信していたのか、振りかぶる小南の動きは淀みがない。

 

(仕込み刀では受け切れない……。だが!)

 

 念のためにもう一段、星の杖の軌道をヴィザの周囲に展開しておいた。あの見た目からして、得物の重さは相当のはず。こちらの攻撃の方が速い。一歩踏み込んで射程に入れば、彼女は真っ二つ。紙一重、こちらが上だ。そう思ったが。

 

「なに……!?」

 

 斧を振りかぶった頂点で、小南が止まった。

 止まったどころではない。あろうことか小南は、()()()()()()退()()()()

 そして。一歩退がった小南を追い越すかのように、無数の弾丸が姿を現す。

 

(最後の最後で、彼女が囮……!?この二人、一体どれほどの……!)

 

 布石はメテオラで目隠しをした場面に遡る。伊織のバイパーが小南の双月を弾いた状況から、ヴィザは二人の関係性を把握した。攻めは小南に任せて、彼女の攻撃力を最大限発揮できるよう、伊織がサポートを行う、と。だから、小南が接続器を起動させて巨大な斧を召喚させた時、彼女がフィニッシャーだと信じて疑わなかった。

 しかし。小南と伊織の連携は、それが全てではない。

 わかりやすい破壊力を持つ小南が暴れれば、伊織はサポートに徹し。搦め手が得意な伊織が詰めにいけば、小南は一歩退き。

 どちらもフィニッシャーになり、どちらもサポーターになる。そしてそのシフトチェンジは自由自在。それが、彼らが最強と呼ばれる所以である。

 

 バイパーにアステロイドを合成し、威力を強化した弾丸がヴィザを襲う。

 直撃した衝撃で、辺りに爆風が広がった。

 

(やったか……?いや……)

 

 当たった感触は、トリオン体を貫いたそれではない。そうであったなら、ここまで爆風が広がらないはずだ。

 

「……まさか、正面からの攻撃にこれを使うとは思いませんでした」

 

 ヴィザの前には、ブレードが何層にも重なって形成された盾が広がっている。それで伊織の射撃は防いだのだろう。

 

「焦ったフリが下手やなあ。まだ本気出してへんって余裕が隠しきれてへんよ?」

 

 汗を一つ。ここまでやって、まだ傷一つつけられない。

 伊織たちがボーダー最強なら、向こうもまた最強の相手だ。

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

(なんでこんな時に思い出すのよ……!)

 

 尚も続くヴィザとの応酬の中。小南の脳裏には、ある日の残像が過っては消えていった。

 

『小南の気持ちもわかるよ。けど、伊織くんにも何か事情があったんじゃないかな』

 

 それは、伊織が玉狛を去ってから少しした日の宇佐美との会話。今までと一転して伊織を嫌うようになった小南を心配して声をかけてきたのだろう。

 

『……宇佐美にわかるわけないじゃない』

 

 小南が伊織を嫌うようになった理由は彼女自身しか知らない。この悲しみを、他のみんなに味わせたくなかったから。

 

『伊織くんは誰かのために行動できる人だよ』

 

『違う。あいつはそんないい奴じゃない』

 

 そっか、と宇佐美は否定も肯定もせずに、小南の言葉をただ受け止めた。

 

『それなら、なおさら伊織くんと話すべきだよ。小南の中では深い溝かもしれないけど、一緒に話して一緒に戦ったりしたらさ。伊織くんとの楽しかった出来事を思い出して、案外許せちゃったりすると思うよ』

 

『楽しい思い出?……笑わせないで。あれもこれも、全部あいつの質の悪い冗談だったわ』

 

 宇佐美は少しだけ悲しそうな表情をした。

 

『確かに伊織くんに嘘は多かったけど、小南との思い出は本物だったんじゃないかな』

 

 遠い目をして。もう戻ってこないものを悔やむような顔で、宇佐美は続ける。

 

『だって。小南と話してるときの伊織くん、あんなにも楽しそうだったから』

 

 

 

 

 

 

 

(レイジさんは倒されて、京介は修のところへ向かった……)

 

 それが意味するのは、伊織は小南と二人で戦うということ。そしてそれは、あの日以来のことだ。

 

(ああ。やっと迅さんの意図がわかったよ)

 

 修が死ぬかもしれないとか、正義の味方にならないかとか。伊織の思考を揺さぶって視界を狭めた理由は、この場面をお膳立てするためだったのだろう。何かと二人の関係を取り持とうとする迅ならやりそうなことだ。

 

(おかげで頭もすっきりした。……そもそも、俺が正義の味方になんてなる必要なかったんだ)

 

 迅が居て、小南たちが居て。隣には、遊真たちも居る。修の周りには、数えきれないほどの正義の味方が既に居るのだ。

 

(そこは俺の出る幕じゃない。だから、俺には嫌われ者()にしかできないことをやるべきだ)

 

 憑き物が落ちたようなクリアな思考で伊織が見る先。そこには、迅の見た未来の入り口が待っている。

 

 

 



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ただ、楽しかったんだ その4

 ある日の玉狛支部。

 玉狛の隊員たちには日常の光景となって久しい伊織と小南の十本勝負に、ようやくと言うべきか、真新しい出来事が起きていた。

 

「な……!」

 

 小南の顔が驚愕に染まると共に、無機質な室内に『小南ダウン』のアナウンスが広がる。数百を超えたこの戦いに、ついに終止符が打たれた。

 

「…‥長かったなあ。それでも、三つだけなんやけど」

 

 伊織の三勝六敗。一つ戦いを残して、勝負の分かれ目である三勝目を収めた。

 

『伊織くん!やったね!!』

 

 室内に宇佐美の声が響く。思わず声をかけてしまった、というくらいの高いテンションだ。

 

「いや、栞ちゃんはボク応援したらあかんやろ」

 

 ため息を一つ。伊織の勝ちということは伊織のトリガーが戻ってくるということであり、客観的に見ればそれはすなわち本部へ再び悪さをしにいくことと同義だ。普通に考えれば、その伊織を応援するなんて間違ってもありえない。

 

『だって、伊織くんすごい頑張ってたんだもん。毎日隠れて特訓して────あ』

 

 思わず宇佐美は口をつく。小南に勝つために夜な夜な一人で訓練していたことは、小南以外全員気づいていたことではあるが──当の本人は頭の上にクエスチョンマークを浮かべていた。

 

「あー、かまへんよ。DANGERな脳みそには多分、わからへんから」

 

 にこり、と伊織は笑った。

 

 

 

 

 

 

「仕方ないわ。約束通り、返してあげる」

 

 戻ってリビング。まさにこれからトリガーの授与式が執り行われるといった時だったが。

 

「ちょっと待ったあ!!」

 

「はい?」

「え?」

 

 やけにコミカルな口調で、宇佐美から待ったがかかる。

 

「ふっふっふ。残念だが、伊織くんにこれは返せないぜ」

 

 きょとんとする二人の隙をついて、宇佐美は伊織のトリガーを取り上げた。

 

「あ、そ。そやったらしゃあないなあ。ええと、栞ちゃん秘蔵のメガネコレクションは……」

 

「わああ!ストップ!そうじゃなくて!!」

 

 冗談なのか本気なのかわからない伊織に割と本気の冷や汗をかいた宇佐美。何とか伊織を引き止めると、仕切り直しとばかりにこほん、と一つ咳払いをする。

 それから取り出したのは、ぱっと見何の変哲もないトリガーだった。

 

「じゃじゃーん!この前完成したんだ〜!」

 

「何これ?」

 

 伊織のトリガーを取り上げて、差し出したのはまた別のトリガー。悪ふざけにしてはよくわからない行為だ。

 

「小南もわかってないな〜。玉狛の隊員といったら()()でしょ!」

 

「ああ、なるほどね」

 

 小南も察しが悪いな〜、と宇佐美。小南が合点がいったのは、宇佐美が右手のトリガーを強調してようやくだ。

 だが、小南の三倍くらいは察しがいいはずの伊織にはその意味が未だわからずにいた。

 

「ええと、話が見えへんけど」

 

 その言葉を待ってました、とメガネを光らせて宇佐美は続ける。

 

「玉狛支部の隊員はね、みんなそれぞれ特殊なトリガーを使うの。ほら、ちょうどさっきまで小南も使ってたでしょ?」

 

 小南なら双月と接続器。レイジなら全武装(フルアームズ)。京介ならガイスト。それぞれが尖りに尖りまくったワンオフトリガーを玉狛の隊員たちは使う。そのせいでチームランク戦には参加できていないが、トリガーの性能と使い手の力量を合わせて、ボーダー最強部隊と呼ばれるのが玉狛だ。

 すうっと一息、宇佐美は息を吸い込んだ。溜めに溜めて、伊織が「早くしろよ」と心の内で呟くほど溜めて、ようやく口を開く。

 

「伊織くん専用のが…………完成しました!!」

 

「おー、それはすごいなあ」

 

 話の流れからしてそれ以外ありえない。

 棒読みで言葉だけ驚いてみせた伊織だったが、何かのスイッチが入ってしまったのか、宇佐美はそんな様子なんて全く気にせずに興奮気味に捲し立てる。

 

「伊織くんの特徴といえば、何といってもやっぱりトリオンを扱う技術の高さだよね。バイパーをリアルタイムで動かせるっていうのもあるし、シュータートリガーの扱いそのものの練度がずば抜けてるよ。個人的にはその技術を活かしてスコーピオンを使ってみても面白いと思うけど、今のバイパー軸の立ち回りも捨て難いね〜。それに加えて、出水くんにも匹敵するようなトリオン量!合成弾を使ってもトリオン切れを起こさないその様子はまさにガソリンタンク……!小南と戦って鍛えられたタイマン性能の高さもやっぱり特筆すべきだよね〜。あとあと────」

 

「校長先生の挨拶みたいやなあ」

 

 話が長い、とも言う。

 

「ごめんごめん。ともかく、伊織くんの特徴を最大限活かせるように、エンジニアチームで改良しました!」

 

 言いたいことを全て言い終えてすっきりしたのか、途端にすんとした表情で「はいこれ」と宇佐美はトリガーを小南に渡した。呆気に取られていた小南がワンテンポ遅れて、それを受け取る。

 

「情緒もへったくれもあらへんなあ」

 

 こほん、と小南。一旦仕切り直しだ。

 

「本当に、ここまで長かったわね」

 

「おお。小南が嫌味言うなんて、成長したなあ」

 

「違うわよ。あんたが入ってから、長いこと経ったって言いたかったの」

 

 伊織が玉狛へ転属してから一ヶ月はゆうに超え、もうすぐ二ヶ月になろうとしている。防衛任務や学校へ行くこと以外では玉狛にこもりきりだったからだろうか、今までで一番早く感じた二ヶ月だった。

 

「今日まで、色々あったわね」

 

 小南の言葉で、伊織の脳内に玉狛での思い出がフラッシュバックする。

 京介の「伊織先輩がよく姿を消すのはミカド仮面になってこの街を守ってるから」なんて嘘を小南と陽太郎が信じきって大変な目に遭ったり、林藤の屋上での一服に度々付き添ったり。ゆりがスカウトから帰ってきたときは、レイジのあまりの豹変ぶりに笑い転げたりもした。そうして思い出を辿っていくと、いつもあの時まで行き着く。

 

「ボクのトリガー盗んだりとかなあ」

 

 始まりは小南とのいざこざだった。転属して二日目の出来事だったが、伊織が『玉狛の一員』になったのは、あの時からだったと思う。

 

「あたしに手も足も出なかったりとかね」

 

 お互い目を合わせる。示し合わせたわけでもなく、二人同時に笑い声が漏れた。

 

「まあ、少しは認めてあげるわ。あたしの隣で戦うくらいは許してあげる」

 

 そう言って、小南からトリガーが投げられる。ぱしり、と右手でキャッチした。

 確かに小南の言う通り、短いようでいてたくさんのことがあった。そう思うと、感慨深いものが感じられる。

 

「あれもこれも全部ひっくるめて、今がある。これはその証ってこと」

 

「……証」

 

「そう。玉狛所属で、あたしたちのチームメイトだって証よ」

 

 小南から渡されたトリガーを見る。今までのそれと何ら変わりのない、ただのトリガーだ。けれど、手の中にある黒い長方形は、伊織の中でずしりと重たく、そして大きく感じた。

 

「あんたがそれでもまだ本部で悪さするっていうなら、好きにしなさい。事情は知らないけど、あんたが本当は嫌なやつじゃないってのはわかったから。……だけど、あたしが最初に言ったこと、忘れてないでしょうね?」

 

「ボクが悪さしてる間は、小南はボクの敵、やろ?」

 

「まだ諦めたつもりじゃないから。覚悟しときなさい」

 

 それを聞いて、伊織はにこりと笑った。

 重い荷物を下ろしたような、すっきりとした軽さが伊織の身体に感じられる。こんな時間がずっと続けばいいのに、と思った。

 

「……しばらくはボクもそのつもりはあらへんよ」

 

 一瞬、時が止まる。さっきまでにこにこと二人のやりとりを見守っていた宇佐美でさえも小南と目を見合わせ、信じられないものでも見たかのように口をぱくぱくさせた。

 

「あ、明日は雪でも降るのかな……?」

「まさか、ニセモノ……?」

 

「三つ勝っただけで、まだ小南に勝ち越したわけとちゃうやろ。このまま本部で嫌がらせしたって、小南にボコられてまた振り出しや」

 

 二人から目線を外して伊織は言った。それが照れ隠しだということがわかるくらいの二ヶ月は、宇佐美にも小南にも流れている。

 

「ったく、素直じゃないんだから」

 

「まあ、伊織くんらしいけどね〜。……っと、それより!」

 

 何か楽しいことでもあったかのように、宇佐美の声のトーンが一段上がった。その言葉に、小南の口元がにやりと上がる。

 

「何とか間に合ったわね」

 

「ど派手なデビュー戦……燃える……!」

 

「?」

 

 

 

 ☆

 

 

 

 数日後、ボーダー本部。ここへ来るのは玉狛へ転属してから初めてのことだが、懐かしさを覚えるよりも優先すべき感情が伊織を支配している。

 

『さあ、いよいよやって参りました!本部主催タッグトーナメント開催です!』

 

 いいから、と強引に小南に連れられて事情も知らずにやって来た先で、本部主催タッグトーナメントなんて聞いたこともない大会が行われていた。それもそのはず、伊織のトリガーが間に合おうがなかろうが参加することは事前に(なおかつ勝手に)決めていた小南が、知られたら絶対に拒否するであろう伊織の耳に入ることを徹底的に排除したのだ。もちろん小南だけで隠し通せるわけもなく、こっそり迅が協力していたのだが、それを彼女は知る由もない。

 

『では、開始の前にレギュレーションを確認しましょう!』

 

 武富の明るい声が響く。

 レギュレーションといっても普段のチーム戦と特に変わりはない。違うのは二チームでの対戦となることと、トーナメント形式で進むこと、マップ選択権はどちらのチームにもないことくらいだろうか。

 

『東さんはこの大会、どのような点に注目していますか?』

 

『複数人でありながら、普段のチーム戦よりは人数の少ない試合です。連携という面ではより狭い範囲での呼吸が問われると思います』

 

『ええ。今回はチームやランクの垣根を超えたペアが多数参加していて、私としても涎が止まらない大会です!!』

 

 タッグを組む上での制限は特にない。同じチームのメンバーで組む人も居れば、そうでない人も居るし、B級とA級の組み合わせもあるようだ。

『涎は拭いてほしいですね』と東のローテンションなツッコミに慌てた様子を見せつつも、武富のアナウンスは続く。

 

『東さんが注目するペアはありますか?』

 

『普段と違う光景、という点では玉狛の二人は注目ですね』

 

 東と目が合った。マイウェイを行く従姉妹さまと並んで、あのローテンションロン毛も伊織を玉狛へ送った犯人の一人だ。抗議と呪詛をこめてありったけの笑顔を向けると、余裕の笑みで返された。

 

『今回が玉狛へ転属した琴吹隊員のデビュー戦になります。さらに加えれば、なんと使用トリガーにも制限はありません!ということは……』

 

『間違いなく小南隊員は使うと思います』

 

 宇佐美と小南の意味ありげなあのやり取りはこのことだったのだろう。確かに、伊織がいきなり玉狛トリガーを使えばみんな度肝を抜かれるはずだ。……とはいえ、小南が全開なら大抵の隊員は倒せるだろうから、伊織はそれを使う気はあまりないが。

 

『一部隊員の強い要望から特別に許可された玉狛トリガー、実際に目にするのは初めてという方も多いのではないでしょうか!かく言う私も間近で見るのはこれが初めて……ぐふふ……』

 

 

 

 

「はあ。何でボクがわざわざ参加せなあかんの……」

 

 尚も続く武富のやたらテンションの高いアナウンスを聞き流して、伊織は大きくため息をついた。参加するつもりもない催しに強引に連れてこられて、まるで騙されて注射に連れてこられた子どものような憂鬱さだ。

 

「とりまるはバイトで、レイジさんは防衛任務。あんたしか居ないじゃない」

 

「迅さん連れてけばええやろ」

 

「迅と組むのはイヤ」

 

 再びため息。

 わがままなところだけは、伊織のイメージするお嬢様校の生徒相応だ。

 

 と、小南と話している間に、どうやら試合が始まるらしい。伊織たちの初戦の相手はB級二人。ここで躓くなんて間違っても有り得ない……が。ブースへと向かう足に、自然と力が入った。

 

「派手にぶちかます準備はいい?」

 

 誰の影響だろうか、意地の悪さが少しだけ混ざった笑みで、小南は伊織に向けて言った。

 

「隣を解雇されない程度には」

 

 努めて、澄ました顔で返す。小南に、玉狛のみんなに認めてもらえた象徴に傷をつけるようなことは、したくない。

 

「十分!それじゃ、行くわよ!」

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 それから、いくらか時間が経った。伊織たちは破竹の勢いで勝ち進み、とうとう決勝まで登りつめていた。ここまで、伊織の玉狛トリガーは使っていない。出来すぎた結果だ、と伊織は思っていた。

 

「〜♪」

 

 そんな中、やけに上機嫌でスキップをする小南の姿が目に映った。伊織たちの出番までまだ時間はある。しばらく自由時間となっていた間に、この変わりようだ。

 

「けったいなステップしはって、どないしたん?」

 

「べっつに〜?嬉しいことがあったとか、そんなんじゃないから!」

 

 げえ、と伊織は苦い顔をする。

 小南の機嫌がいいのは誰が見ても明らか。そして彼女の言葉には、どうしたのかと聞いてほしい気持ちが滲むどころかどばどば溢れている。端的に言って、面倒くささしかない。

 

「……ちょっと、何であたしから離れるのよ」

 

「楽しそうなとこ邪魔したら悪い思うてなあ」

 

 すすーっと、伊織は小南から逃げるように距離を取った。

 不満げな顔の小南。

 逃げた分だけ、また距離を詰められる。

 もう一度、後ずさりした。

 

「……聞きなさいよ」

 

「はい?」

 

「何でこんな嬉しそうなのか聞きなさいよ!!」

 

 とうとう自分で言ってしまった。

 これはこれで面白い光景だな、なんて思った伊織だったが、それはそれとして蛇が出てくる箱をわざわざ突くようなマネはするつもりはない。

 

「興味ないなあ」

 

 はっきりと突っぱねた。マイウェイを行く従姉妹さまと関わる中で身につけた、防衛術である。

 だが、その従姉妹さまと違い、突っぱねられた小南の顔は一転してしょんぼりと萎びていく。

 

 しばしの沈黙が流れる。

 

 ……耐えかねた伊織が、折れた。

 

「……はあ。えらい楽しそうな様子やけど、どないしたん?」

 

「内緒!」

 

「うざ……」

 

 エセ関西弁を忘れるくらいには割と本気でイラッとした。

 心の声が漏れて少し焦った伊織は、取り繕う時間を取るために一度席を外すことにした。

 

 

 

 

 

 

 試合の様子を映し出すモニターから少し外れた、自販機のある辺り。サイダーを片手に一息ついた伊織の耳に、ある隊員たちの会話が聞こえてくる。

 

「なあ見たか?さっきの試合!」

 

 当然ながら話題はトーナメントのことで持ちきりだ。特にC級たちは、正隊員たちの本気の戦いを目の当たりにして興奮している様子だ。

 

「小南先輩も強かったけど、琴吹の連携がすごかったな!」

 

 どうやら伊織たちの試合の話をしているらしい。

 なるほど、小南の機嫌がよかったのはこのせいなのだろう。自分と────そして、伊織のことを褒められて、嬉しかったはずだ。

 

「琴吹って玉狛入ってまだ二ヶ月とかだよな?それなのにあそこまでコンビネーション良くなるのかよ!?」

 

 まあ、小南との連携が上手くいっているのはサイドエフェクトのおかげなのだが。なんて心の内で斜に構えてみるが、褒められて嬉しい気持ちが無いと言えばそれは嘘だ────

 

 

 

 

 

 ────と。

 

 

 

 

 

 これまでの訓練の成果が報われたような充実感を感じた伊織だったが。

 

 

 

 

 

 少しずつ、少しずつ。

 

 

 

 

 

 奥底で積み違えた記憶が、足音を立てて近づいてくる。

 

 

 

 

 

「それな。本部に居た頃は()()()()()()()だったけど、実力は本物なんだな……」

 

 はらりと頭の中へ落ちていくその言葉が、積み違えた伊織の記憶に引っかかって、底へと向かっていく。

 

(……あれ。そういえばなんで、俺はボーダーに入ったんだっけ)

 

 従姉妹に誘われて、興味を持って。

 ……けれど、一体どんな点に興味を持ったのだったか。

 

「小南先輩とすごい仲良さそうに会話してて()()()()()わ」

 

(意外……?あれ、俺ってそんな印象だったっけ?)

 

 玉狛の一員となれた今の伊織と、本部に居た頃の伊織では印象が違うらしい。

 ……そもそも、本部ではどう思われていたのだったか。

 

「関わるのはごめんだけど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()……」

 

 視界がぐわんと歪む。

 ぐるぐると脳内にこれまでの記憶が光っては消え、光っては消えを繰り返した。

 

(玉狛に入って、みんなと楽しく過ごして。……その前は)

 

 回る、回る。

 ……思い出した。ボーダーに入ったのは、侵略者から市民を守るヒーローたちが壊れてしまわないように、自分が敵になるためだった。だから、本部に居たときは自分のやりたいことなんて二の次で、みんなが嫌がることを第一に考えていた。

 

 なぜなら、それは。

 

『父さんも母さんも、誰も間違ったことはしてなかったのに…。何で、こうなっちゃったんだろうな…』

 

「っ!!」

 

 記憶の底へ到達した。

 脂汗が全身に滲む。息が上がる。

 そうだ。あの時みたいなことが二度とないように、絶対的な嫌われ者になると決めたはずだったのに。本部から離れて玉狛で楽しく過ごす内に、嫌われ者の伊織の印象は薄れ、あろうことか好意的なイメージに変わりつつある。

 ……重荷を外して、楽をするべきではなかった。

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

「ちょっと、どこ行ってたのよ」

 

 戻るなり、今度は機嫌の悪そうな表情で小南が詰め寄ってきた。

 決勝戦までもうすぐだ。小南が怒るのも理解できる。

 

「別にどこだってええやろ」

 

 だが、それ以上に低い声で伊織は答えた。

 

「え、いやまあ…それはそうだけど……」

 

 面を食らったように、小南の返事が淀む。

 

「さっさと終わらせるで。こんなしょうもないお遊戯会、時間の無駄や」

 

「あっ、ちょっと待ちなさい!」

 

 

 

 

 

 

「お、おい……何だあれ……」

 

「あれが琴吹の専用トリガー……!?」

 

「あそこまでやる必要ないだろ……」

 

「一方的だ……」

 

「最後琴吹のやつ、あくびしてなかったか?」

 

「トリオン体で眠くなるはずないのに、性格悪……」

 

 

 

 

 

 

(玉狛の居心地が良すぎて、俺のやるべきことを忘れていた)

 

 ボーダーに入った理由も、それから自分の生きる理由ですらも。玉狛に転属してから、伊織の意識からすっかり抜け落ちていた。

 だが、『忘れる』という言葉は適切ではない。完全記憶能力のサイドエフェクトを持つ伊織にとって、それは間違っても有り得ないからだ。

 忘れたのではない。考えないようにしていた。

 

(ごめん、父さん。俺、逃げてたよ。だって、小南と──玉狛のみんなと居るの、楽しかったから)

 

 楽しかったから、ここまで強くなれた。

 楽しかったから、月日が早く感じた。

 そして。楽しかったから、やりたい方へと意識を向けて、やらなくてはならないことから逃げてしまった。

 

(けど、それも今日で終わりだ)

 

 伊織は玉狛を辞めることに決めた。

 理由は、ただ、楽しかったから。

 

 そして。

 

『な、なんと……!太刀川・風間ペアを破って優勝したのは……!!玉狛の小南・琴吹ペアだぁ!!』

 

 

 玉狛支部の小南と琴吹。個人の実力では太刀川や二宮には及ばないかもしれないが、二人が組んだときには右に出る者は居ない。そんな彼らの評判が流れたのは、実に短い間のことだった。

 なぜなら、伊織が玉狛を辞めたから。

 なぜなら、本部で再び悪名を轟かせ始めた伊織の、良い評判を流したくなかったから。

 なぜなら、その日以降、ボーダー最強ペアが結成されることはなかったから。

 

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 警戒区域外、南西。

 戦況は変わらない。伊織と小南が攻め続けて、ヴィザが受けに回る。だが、変わらないのはそれだけではなかった。

 

(これだけ攻めても、まだ決定打は与えられていない)

 

 ヴィザに与えたダメージですらも変わらない。ゼロだ。徐々にこちらの動きも読まれ始めている。伊織の重視する、『相手に知られないこと』が逆転してきている。ヴィザの攻撃方法はわかったが、その応用まではわからない。どこかで読み逃したり、ミスでもすればそれが負けに直結する。

 恐らく、どこかで自分たちはやられてしまう。

 本能とこれまでの経験から、伊織は悟ってしまった。

 

(……手遅れになる前に始めるべきか)

 

 だから、市民のために敵と戦うボーダー隊員の役目はこれまで。ここからは、ボーダーの嫌われ者である琴吹伊織の役目が始まる。

 

『迅さん。聞こえてはります?』

 

 



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ショーは続けなくてはならない その1

(新型が来ない……!琴吹先輩たちのおかげだ……!)

 

 警戒区域外。伊織から離れた修たちは、特にこれといった敵と遭遇することなく逃げることに成功していた。伊織や、遅れて合流したレイジたち玉狛第一のメンバーの賜物だろう。出現した新型や人型といった強敵を彼らが足止めしているおかげで、とうとう視界には基地への入り口が見えてきた。

 

『嫌な予感がする』

 

「レプリカ?」

 

 だが、そんな目的地を目の前にしたというのにレプリカは浮かない声だ。

 修が思わず聞き返したところ、彼は続ける。

 

『敵の狙いはC級のはずだ。基地が目の前のところを、敵が手をこまねいているのは少しおかしい』

 

「琴吹先輩たちが敵を足止めしてくれているからじゃないのか……?」

 

『向こうは門を自由に開けるというのに、なぜここへ直接新型を送り込んでこない?』

 

 レプリカの懸念はもっともだ。人型まで送り込むほど本気のアフトクラトルなら、この状況に焦りを見せて何かを仕掛けてくるはず。門を開くラッドは以前徹底的に駆除したとはいえ、攻撃を開始したタイミングで他のトリオン兵に隠して各地に散らばせることは出来ただろう。その気になれば、ランバネインを回収したときのように強引に転送することも可能だ。だというのにこの静けさは、奇妙にすら思えた。

 

『もしかすると、足止めされているのは相手ではなく……』

 

 言葉を言い切るより先に、修たちの周囲に黒い稲妻が現れる。

 基地を目前に、一息ついたタイミング。まるでそれを見計らっていたかのように彼は現れた。

 

「これより任務を開始します」

 

 頭には二本の白い角。アフトクラトルの人型近界民だ。

 そして、彼に引き連れられるかのように数体のラービットも姿を現す。

 

「ひ、人型……!?」

 

『なんだと……!?』

 

 修のそれは単に敵が現れたという戸惑いと焦り。レプリカは人型をC級に当てたという敵の策に対する驚愕。二人の思考が一瞬止まったのを尻目に、人型は攻撃を開始する。

 

蝶の盾(ランビリス)

 

 黒い鉄のような物体が人型を取り囲む。左手には動物の手を思わせるように硬く鋭い塊が。得体の知れないトリガーだが、危険だということは十分に伝わってくる。

 

「み、みんな逃げろ!」

 

 修の号令と共に、C級たちは一目散に基地の方へと走り出した。

 させまい、と人型のトリガーが襲う。それらはC級たちに当たりはしたが、破壊力はそれほどなさそうだ。このまま逃げ切れるのでは、と淡い期待を修たちは抱いたが、しかし。

 

「なっ!?」

 

 次の瞬間、C級隊員たちの動きが止まった。目の前の基地へは向かうことは出来ず、何かの引力に吸い寄せられるように身体が宙へ浮いて、ラービットたちの目の前まで引き戻されてしまった。

 

「夏目さん!千佳!早く基地の中へ!」

 

 恐らくは相手のトリガーの能力。破壊力は無さそうだが、一発でも喰らえばあの力で逃げることが出来なくなってしまう。敵の攻撃を受ける前に基地へ入らなくては。

 

「修くん……!」

 

「ほら、チカ子!早く!」

 

 他のC級たちも同じことを考えたのだろう。先ほどよりも多くの隊員たちが一目散に基地へと走り出した。

 これだけの人数、いくらかはそのまま逃げられるはず。抵抗策を持たない訓練生たちは、その一抹の望みを胸に足を動かす。

 

「所詮は玄界か」

 

 だが、対する人型はそれを読んでいたかのように余裕そうな顔だ。

 

『なに……?』

 

「巣は目の前。中に入れば安全だ。お前たちはそう思っていたのだろう」

 

「何を……」

 

 人型の腕を、鉄のようなトリガーがバレルを形成して取り囲む。レールガンのように勢いよく発射されるトリガーは、一心不乱に走るC級たちを尻目に、彼らの目的地である基地への入り口へ着弾していった。

 やっとの思いで入り口へ辿り着いた一人の訓練生が、扉を開けるパネルへと手をかざす、が。

 

「お、おい!扉が開かないぞ!」

 

『しまった……!』

 

 仕組みはわからない。どうやら敵のトリガーは何かしらの引力を操るようだから、それを利用して物理的に扉が開かないようにしたのかもしれない。だが、それに思考を割けるほどの余裕は、この場にいる隊員は誰一人として持ち合わせてはいなかった。

 

「心の拠り所を失えば、誰しも混乱する。まして雛鳥ならなおさらだ」

 

 あまりに予想の埒外の出来事だったのか、C級隊員はみな、立ち尽くす。そうして足が止まったところへ、ラービットが無慈悲に向かっていった。

 

「だ、誰か助けて……!」

 

 目前の退路は絶たれ、抵抗する手立てもない。そこに広がるのはただの蹂躙だ。誰かが零した助けを求める声に応える者はなく、ただ静かにキューブへ変わっていった。

 

(くそ、どうすればいい!?このままじゃ全滅だ……!)

 

 唯一、修だけは解決策を必死に模索するが。明確な一手が見出せない。もはや詰みなのでは、とすら片隅で思ってしまった。

 

「扉をぼくのトリガーで壊せば……」

 

『焦るな、オサム。それはするべきではない』

 

 呟いたその言葉はレプリカが否定する。確かに扉を壊せば基地には入れる。だが、それでは戦場が基地内部に変わるだけで、むしろ基地内の非戦闘員すら巻き込んでしまう危険性があった。

 

「ならどうしたら……!」

 

 むきになって、少しだけ強い調子でレプリカに言い返す。だが、それを真正面から受け止めたレプリカは冷静だった。

 

『増援の到着だ』

 

 その言葉と共に、一人の隊員が現れる。

 ともすれば、修の中で迅よりも信頼しているかもしれない人物。玉狛に入ってから、戦闘とは何たるかを手取り足取り教わった師匠の姿が、そこにはあった。

 

「何とか間に合……ってはなさそうだな」

 

「烏丸先輩!」

 

 京介は辺りを見渡すが、表情は険しい。強力な援軍の到着とはいえ、厳しい状況なのは変わらずだ。

 

「迅さんたちもこっちに向かってる。それまでの間、俺が敵を受け持つ」

 

「そ、そんな……。これだけの数を一人で……!?」

 

「迅さんたちが来るまで時間を稼げばいい。やれることはある」

 

 弧月を強く握り、京介は手始めに近くのラービットへ向かって地面を蹴った。

 

(欲を言えば、もう一人腕の立つやつが欲しい……が。()()()()()()に託されたんだ)

 

 ないものをねだっても仕方ない。レイジや小南、そして伊織に任されて京介はここに居る。弟子の前で無様な姿を見せるわけにもいかない。

 京介の役目は被害を抑えて、迅たちが到着するまで時間を稼ぐこと。彼の全力を出すには絶好の状況だ。

 

「ガイスト、起動」

 

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 

『迅さん。聞こえてはります?』

 

 警戒区域内、南西。エネドラを倒し、修の下へと急ぐ迅の耳に、伊織からの通信があった。聞こえてるよ、と返事をするが、表情は険しい。

 

(よりによってこのタイミングか……)

 

 出来うる限り迅速に人型近界民を倒し、狙われたC級の救援に急ぐ。結果だけ見れば理想の運びだ。

 問題なのはその後のことだった。一つ目。相手の人型近界民、エネドラはあろうことかアフトクラトルの同胞の手によって殺された。ワープのトリガーを持つ女が現れたところまではいい。望の戦場のように回収に来たものだと迅を除く全員が──恐らくエネドラも──思っていたところ、次の瞬間にあったのは、生身を刃で何度も突き刺されたエネドラの姿だ。流石に遊真は慣れた様子だったが、玲にとっては初めて見る『戦争』での出来事に酷く狼狽しているようで、こうして迅と共に走る今も顔が青白い。

 二つ目。修の戦場に人型近界民が出現した。これは迅にとっても予測外の出来事だ。遊真には事前に『修が死ぬかもしれない』という最悪の未来を伝えてある。現実味を帯び始めたその最悪の未来を前に、遊真の年齢よりも幼い顔立ちは鳴りをひそめ、意識が段々と狭まっているように感じる。

 エネドラの遺体処理は影浦隊に任せ、遊真と玲を引き連れて修の所へ向かう迅にとって、この二人のフォローが何よりも優先すべき事項であったというのに、このタイミングで伊織からの通信だ。表情が曇るのも無理はない。なぜなら、伊織が何を聞きたいのかは、この大規模侵攻が始まるよりも前に見えていた未来だったのだから。

 

『そろそろ大詰めってとこやろか?』

 

『どうだろうな。まだ敵の底は見えない』

 

『あ、そ。それで、ボクはどないしたらええの?』

 

 伊織が誰かに指示を仰ぐのは珍しい。周囲に気を配り、その場で最適解を見出す能力に彼は長けているから、基本的に判断に困ることはないからだ。

 迅にもそれはよくわかっている。だから、その言葉の真意にも気づいていた。

 

『目の前の相手に全力で戦ってくれれば十分かな』

 

 けれど、迅は努めて間の抜けた声でとぼける。

 

『はあ。迅さんも性格悪いなあ。ボクに全部言わせる気かいな?』

 

『何のことかさっぱりだけど?』

 

『あんなガラクタ寄越しといて釣れへんなあ。どうやったってあの爺さんには勝てへんのやから、あれで道化でも演じろいうことやろ?』

 

 伊織の声に変わりはない。いや。正確に言うのであれば、元に戻った。

 間の抜けたイントネーションに薄っぺらさを貼り付けたような軽薄な声は、迅の言葉で不安定に揺れていたさっきまでの伊織ではなく、ボーダーで嫌われ者と忌避される琴吹伊織のそれだ。

 

『ボクの中で大規模侵攻はもう終わってんね。()()()()()迅さんならわかってはると思うてたんやけどなあ』

 

 それは、伊織がヴィザに敗北して緊急脱出することが、すでに彼の中で確信としてあるということだ。ではなぜ、彼はこうして迅に通信を送って指示を乞うているのだろう。それは、彼自身と迅にしか知り得ない。

 

『そやから、言うてんのはもっと先の話や。……もう一度言うで。ボク、どないしたらええの?』

 

 息を吸い込む。迅はこれから、未来が確定した嫌われ者にとどめを刺そうとしている。そうするしかなかったとはいえ、彼から全てを奪うような未来を。

 

『……中学校で開いたイレギュラー門』

 

『はい?』

 

『あの事件、遊真が一人で解決したと思ってるだろ?メガネくんだってちゃんと戦ったんだぞ?』

 

『…………』

 

 遊真の黒トリガーを巡っての一件で、伊織を利用しようとした城戸や唐沢に迅は珍しく怒りを露わにした。だが、今にして思えばそれは自分本位な馬鹿馬鹿しい理由だった。あれはただの同族嫌悪。口では伊織のことを思っているような素振りでも、迅だって未来のために伊織を利用している。あの怒りは、やり場のない迅が自分へ向けた怒りでもあった。

 こうして決意を固める伊織をそう誘導し、場を整え、決断させたのは、紛れもなく迅だ。

 

 

 

 

 

 

 

(遊真だけじゃなくて、修も戦った……?)

 

 ヴィザと戦闘を繰り広げる傍ら、伊織は思考する。

 

(あのモールモッドはきれいに真っ二つにされて、他に傷はなかったはず)

 

 イレギュラー門事件のことはほとんど調べきった。中学校を襲ったトリオン兵は、修のトリガーを借りた遊真の鮮やかな一太刀で両断されて沈黙した。それは伊織の記憶からいって確実だ。

 

(いや。……修も戦ったけど、傷一つ付けられなかったってことか?)

 

 修とランク戦を行った場面を思い出す。近界帰りの遊真には釣り合わないほど彼は凡庸だった。B級に上がりたての、箸にも棒にもかからないような実力。あの時彼はC級だったのだから、手も足も出なかったとしても特に疑問はない。そしてそれは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()でもあった。

 

(そうだとして、この侵攻と何の関係がある?そもそもなんで修の名前が出てきた?)

 

 整理しよう。迅の言う通り、中学校でのイレギュラー門事件では遊真だけでなく修も抵抗した。思うに、恐らく最初は修が立ち向かったのだろう。けれども傷一つ付けられずに返り討ちにされ、今度は修のトリガーを使って遊真が戦った。迅の言葉から推測できるのはそれくらいだ。

 だが、伊織が聞きたかった『これから自分は何をするべきなのか』という問いに対する答えとは程遠い。迅の口ぶりからして、あれが伊織をはぐらかすための冗談だったとは考えにくく、間違いなく答えに至るまでの重要なピースのはずだ。

 もう一層、深く思考の海に沈もうとしたところで。強烈な殺気が表層まで伊織を引っ張り上げる。

 

(クソ、思考に集中できない……)

 

 ヴィザの刃が伊織の喉元をわずかに掠めていった。

 向こうも向こうでこちらの足止めが目的だからか、激しい攻めは見せてこない。だが、これ以上の熟考と戦闘の両立は難しかった。あと少しで道筋を見出せそうなもどかしさと、抽象的な言葉だけを残していった迅への恨めしさを感じていたところ、徐にヴィザが口を開く。

 

「どうやら、私の仲間が雛鳥たちを追いつめているようだ」

 

「……だから何なの?」

 

 小南がヴィザを睨みつける。

 京介が助けに向かったとはいえ、恐らくは間に合わないだろう。修や千佳は無事のようだが、C級の何人かは犠牲になってしまったはずだ。

 

「私どもの目的は当然理解しているのでしょう?であれば、貴方がたが置かれた状況も自然と見えてくるはずだ」

 

「だからもっと攻めてこいって?見え見えの挑発ね」

 

 こういう時、小南のような素直な人間は便利だ。敵とのどうでもいい会話は彼女に任せて、攻め手の止んだこの時間に再び伊織は意識を沈ませる。

 やはり、敵の狙いはC級。そしてヴィザの役割は、彼らと伊織たちを引き剥がすための足止め。伊織はそうさせない為にラービットに苦戦する素振りを見せていたが、ここへ真っ先に合流するのが玉狛だろうというもっともな予想は伊織の意識からすっかり抜け落ちていた。誰かから『メガネくんが危ない』だの『正義の味方にならないか』だのと言われて、思考の視野が著しく狭まっていた。結果、伊織は修たちから引き剥がされ、そこへ敵を送り込まれるという最悪の状況が出来上がっている。

 と、今一度状況を整理したところで。伊織は一つの見落としに気がつく。

 

(雛鳥……。C級のことか)

 

 それは前提条件であり、ヴィザの言う通り両者にとって周知の事実であったから、見過ごしていた。彼らの言う雛鳥とはこちらの言うC級隊員のこと。そう。繰り返すが、敵の狙いはC級だ。

 なぜなら、訓練生であるC級に緊急脱出は使えないから。

 

(待てよ。いくら向こうが調べたからって、どこでそれを知ったんだ?)

 

 C級隊員は基地以外でトリガーを使用することを禁じられている。理由は緊急脱出が使えないからだ。つまり、C級隊員がトリオン兵と戦うことはない。そこに、今の状況の矛盾があった。

 恐らくトリオン兵を送り込んで調査をしたであろうアフトクラトルが、それを知る術はないのだ。まさかトリオン兵が基地まで侵入するはずがなく、考えられるのは内通者が居るか、C()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()()のどちらか……。

 

(……まさか)

 

 迅の落とした一滴の水が、伊織の意識の水面を波打つ。波紋のようにざわざわと、伊織の中のピースが揺れて一つの結論を描いていった。

 

(修を守ってやってくれ、か……)

 

 一度、目を瞑る。

 

『もう一戦、お願いします』

 

『ちゃんとボーダーで、ちゃんと玉狛の隊員やった』

 

 暗くなった視界に浮かぶのは、修のこと。そして、もう一つ。

 

『仲間を大切に思わないわけないじゃない』

 

 共に戦う、かつての相棒のこと。

 

 決断を済ませて、伊織は目を開いた。

 これから自分は何をするべきか、その最適解は……。

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

「いお……り。いおり。……伊織。こ、これで平気なはず……」

 

 時間は遡り、本部主催のタッグトーナメントが明けた翌日のこと。玉狛支部の入り口の前で、小南はぶつぶつと呟きながら行ったり来たりを繰り返していた。

 

『ねえ、いつになったら伊織くんのこと名前で呼んであげるの?』

 

『伊織先輩、けっこう気にしてましたよ』

 

 頭の中に、いつだったかに宇佐美と京介から言われた言葉が蘇る。

 

「そうよね……。玉狛来てしばらく経つのに、かわいそうよね……」

 

 昨日の決勝戦の前、伊織の様子が急変した。今まで見たこともないくらい低い声で、感じたことのないような剣幕で小南を一蹴した伊織のことが心配であった。自分が何か悪いことでもしたのではないだろうかと考えを巡らせる中、行き当たったのが宇佐美と京介の言葉である。京介のそれは単純に面白がって適当に言われた嘘なのだが、別段疑いようもなく小南は信じていた。

 彼が来てから一ヶ月半。小南は、伊織をまだ一度も名前で呼んだことがない。『あんた』ならまだ良い方で、『ねえ』だとか『ちょっと』とかで呼びつけることもザラだ。普通に考えれば、それを快く思う人間は居ない。溜まりに溜まった鬱憤が、あの時に爆発した。そう考えれば、小南なりに納得はできた。

 

「いや、でも……」

 

 ぐるぐると玄関前を回っていた足が止まる。

 だが、小南も悪気があってそうしていた訳ではないのだ。伊織との一件で『桐絵ちゃん』と呼ぶなと言った手前、こっちが彼のことをファーストネームで呼ぶのは気が引ける。かと言って今更『琴吹』では余所余所しすぎる。そんなわけで、小南はいつも中途半端な呼びかけで伊織と話していた。

 

「あーもう!なんでこんなことでいちいち悩まなきゃいけないのよ!」

 

 あまり思い悩むのも柄じゃない。そう言い訳つけて、沸騰しそうな脳を冷ますかのように玄関の扉を開く。騒がしくどたどたと足音を立てて、足早にリビングへと向かった。

 

「ねえ!いお……あいついる!?」

 

「……小南」

 

 またもや言い淀んだが、リビングに伊織は居なかった。迅が一人でぽつりと立って、やけに真面目な顔をしている。

 

「あいつは?」

 

「……伊織は居ない」

 

「え、そうなの?珍しいわね……。買い出し?」

 

「いや。もう、こっちには戻ってこない」

 

 望に強引に家を追い出されて、伊織は玉狛に住み込みとなっている。いくら騙されやすい小南といえども、流石に嘘だとわかるし、迅にしては珍しく笑えない冗談だ。

 

「やめなさいよ、そんな変な冗談────」

 

 言いかけて、迅の顔を見る。彼の表情は、とてもではないが嘘なんてついているようなふざけたものではなかった。

 

「何があったの」

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ!居るんでしょ!?またとりまると変なこと企んでるだけだって……」

 

 ぎしり、と床を軋ませながら小南は伊織の部屋へと駆け足で向かう。先ほどとは違い、焦りが滲み出ていた。

 

「う、そ……」

 

 目的地へ着いて、ドアを見る。琴吹、と書かれていた名札は綺麗さっぱり取り外され、まるでそこには初めから誰も居なかったかのような静けさがドアの奥からすきま風のように漏れていた。

 

「嫌。嫌よ、そんなの……。冗談だって、むかつく笑顔で、またそう言ってよ……」

 

 恐る恐る、ドアを開ける。考えたくない最悪の出来事がどうしようもないくらい確実に存在しているような気がして、ノックをすることすら忘れていた。

 

「だって、まだ一度もあんたの名前を────」

 

 その続きは小南の頭の中で消えて、発されることはなかった。

 しんとした部屋。無機質なくらい何もない荷物。その静寂が、迅の言葉は嘘ではなかったという事実を何より物語っていた。

 あはは!と、後ろから馴染んだ笑い声が聞こえてこないかと現実逃避を頭の片隅でしながら、一歩、また一歩と奥へ。

 現実を受け入れられずにふわふわとした頭が、進むごとに固まっていく。次に支配したのは困惑。そして、だんだんと怒りが。

 なぜ。どうして。あの時の自分の言葉は。

 小南の視線はある一点で固定されていた。

 

「なに、これ……」

 

 部屋の角に、机があった。元からこれといった私物はなく、勉強をしている素振りすら見られなかった机だったが、周囲が空っぽだとそれに引きずられて寂しく写る。そして、その隣には小さなゴミ箱が一つ、置いてあった。

 なんて事ない、木製のゴミ箱だ。消しくずやティッシュといった、ちょっとしたゴミを入れるための小さなゴミ箱。どの部屋にも置いてあるようなそれに、小南の視線は固められている。

 

「…………」

 

 中にあるべき紙くずだとかはこれっぽちもない。伊織がここを出るときに処分したのだろう。代わりにあったのは、ゴミ箱にあるべきではないものだった。

 玉狛の一員であることの証。嫌なことも楽しいことも、全てを経て今があると小南が言って渡した、ずしりと重みがある黒い直方体。

 

 小南に勝負で勝った、その報酬であったはずの、伊織の玉狛トリガーが。部屋の角の、取るに足らないゴミを捨てるための箱の中に、捨ててあった。

 

「……そう。炒飯を作ってくれたのも、一緒に戦ったのも、タッグトーナメントで優勝したのも。()()()()()()が、冗談だったってわけ」

 

 何かが小南の中で崩れ落ちて、消えていく音がする。

 小南の中にも大切な思い出としてあった伊織との記憶が、バラバラに砕けて粉々に踏みにじられたような気がした。

 

「お前のこと、名前で呼ばなくてよかった」

 

 ついぞ小南は彼を名前で呼ぶことはなく、現在に至る。

 そんな、ただ事ではない小南の様子を見てか、迅や林藤を除く玉狛のメンバーは伊織を気づかうことこそすれ、呼び戻そうとはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『なあ、桐絵ちゃん』

 

 戻って、警戒区域外、南西。

『小南』と直させた呼び名は彼が玉狛を辞めたとともに『桐絵ちゃん』へと戻っている。やはり、伊織にとって玉狛にいた時のことはただの冗談だったのだろう。

 

『話しかけないで』

 

『そう邪険にせんといてや。実はな、メガネくんが危ないって、ボク事前に知っとったんね』

 

『あっそ。どうでもいい』

 

 返事をするのも嫌だという調子で、小南は答えた。

 こんなのを一時でも相棒だと思っていたなんて、今でも信じられない。

 

『そやから、今のところボクと桐絵ちゃんの目的は一致してるいうわけや』

 

『その言葉を信じると思う?』

 

 修を助けるために伊織は行動している。その言葉はそういう意味なのだろう。だが、それを鵜呑みにするほど小南も馬鹿ではない。玉狛を踏みにじった人間が、玉狛の人間を助けるだなんて質の悪い冗談だ。

 

 と、ここで。

 伊織の通信が止まった。これといって嫌味を吐き捨てるわけでもなく、まさか雑談に興じるつもりだったわけでもないだろう。家を出るころには忘れてしまうような、朝の挨拶程度の会話で、伊織は黙りこくってしまった。

 ヴィザと刃を交わす小南には、後ろから弾を放つ伊織の表情は見えない。けれど、冗談だったとしても共に時間を過ごしてきた小南には、彼が何か伝えることを躊躇っているかのような、そんな印象を受けた。

 

『ボクの両親は、小さい頃に離婚した。それもボクのせいで。母親とはそれきり会うてへんし、父親は病んで今も入院してはる』

 

 そして。決心をつけたであろう伊織から、通信が飛んでくる。

 

『急に何?』

 

 どうでもいい、と。少し前と同じように切り捨てるつもりだった。だが、玉狛時代ですら自分のことは全くと言っていいほど語らなかった伊織が、しかも大規模侵攻という戦争中にそんなことを言うとは、素直に驚いた。

 だから、まるで続きを促しているかのような返事をしてしまった。

 

『それからや。ボクが今みたいになってしもたんは』

 

 間の抜けたイントネーションに薄っぺらさを張り付けたような声が、少しだけ震えている。こんな様子の伊織を見るのは、初めてだ。

 

 ──案外許せちゃったりすると思うよ

 

 自分の中に生まれるはずのない感情とともに、宇佐美の言葉が思い起こされる。

 なぜ。どうして。何より大切な玉狛を、最悪の踏みにじり方をして去っていった彼のことを、憎いとすら思ったのに。

 どうして自分は、彼に同情してしまっているのだろう。

 

『失ってからじゃ遅い。遊真や千佳、()()たちには俺みたいになって欲しくない。それに何よりも、修が居なくなるなんてそんなの俺だって嫌だ』

 

『その口調……』

 

 どこで学んだのかわからない似非関西弁ではない。小南が初めて聞く、恐らく伊織の心の底からの言葉だ。

 

 人間というものは、つくづく矛盾した生き物である。

 

 大切なものを踏みにじられて憎しみを覚えたというのに、あの時粉々にされた思い出を、小南はゴミとして捨てることが出来ずにいた。

 宇佐美は伊織が玉狛で過ごした日々を『本物』だと言ったが、そんなこと小南にだってわかっている。B級上がりたてだった伊織が小南と渡り合えるほどまで成長したときは自分のことのように嬉しかったし、言葉や振る舞いとは裏腹に他者を思う気持ちを確かに持ち合わせていることも段々と気がついていた。他愛のない会話をして、心地の良い言い合いもして。些細な日常だったかもしれないが、それを簡単に捨てられるほど小南も割り切ることはできなかった。

 けれど、相棒だと思っていた人間に一番大切だと思っている場所を踏みにじられれば、いくら事情があったとしても許せないこともまた事実だ。

 

 伊織のことは嫌いだ。顔も見たくない。

 だけど、彼が玉狛に居たときは楽しかった。また、あんな日々を送れたら……とも思う。

 

 結論は見出せない。折り合いの付け方もわからない。だから、この矛盾した感情を怒りや嫌悪といった強いもので覆って、見えないようにしている。

 だが。初めて見る伊織の弱さに。初めて聞く伊織の本心に。小南の心は少しずつ、奥底へこじ開けられていた。

 

 端的に言って。小南は伊織と、向き合おうと思い始めていた。

 

『……あんたの気持ちはわかった。で、結局何が言いたいわけ?』

 

『ここはボクに任せて、桐絵ちゃんはメガネくん助けてやってくれへんか?』

 

 嫌われ者に正義の味方は似合わへんから。再び繕われたその口調が、小南には、ひどく寂しそうに写った。そして、そう感じたことに自分自身で驚く。

 

『……あの日のこと、まだあたしは許してない。あんた一人に任せられるほど信用できないわ』

 

()()()()()()()C()()()()()()()()()()()()()!時間はあらへん!!」

 

 通信を送ることも忘れて叫ぶ伊織に、小南は驚いた表情を見せる。

 他者への気遣いは薄っぺらい声と嫌味たらしい態度で隠す伊織が、これほどまでに感情を露わにするとは。

 迅からもっと重大な何かを伝えられたのだろうか。切羽詰まった声だけでは想像もつかない。ただ、修を助けたい気持ちは本当なのだと、小南は思った。

 

「……わかった。今回だけよ」

 

 ヴィザをあしらって、小南は一歩下がる。中距離から弾を撃ち込んでいた伊織と並んだ。

 

「おおきに」

 

 こちらへ顔を向けて、伊織はいつもの表情で笑った。

 この場を小南が離れたとして、伊織に勝算はあるのだろうか。京介と小南を取り逃がしたのをまずいと思って、向こうが全力で伊織を倒しにきたりしないのだろうか。そんな頭の中が顔にまで出てしまったらしい。

 伊織は「心配せんでええよ」と薄っぺらい声で言った。

 

「桐絵ちゃんはこっちのこと考える必要あらへん」

 

 気の抜けた笑い声が小南から漏れる。今も昔も、伊織はこちらの予想なんて腹が立つ笑い声で軽々と超えてくるのだったか。

 この考えは杞憂だと、振り払って小南は背を向けた。そして、「任せたわよ」と、一言残して。戦場から離れようとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時、だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だって、桐絵ちゃんはここで倒されるんやから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その声ははっきりとは聞こえなかった。

 何かを呟いたな、としか思わなかった。

 そして、次の瞬間。来るはずのない攻撃が。受けるはずのない衝撃が、小南の腹部に強くやってくる。

 

「────え?」

 

 視界の先には、一筋の弾丸。背後からやってきて、小南の腹を突き破って、目の前を通り過ぎていく。

 

「はは!あはははは!!!」

 

 それと同時に、大きな笑い声が聞こえてきた。ヴィザはこんな射撃、撃ってこない。この時まで隠していたとも考えられるかもしれないが、何よりこの軌道は。この弾丸は。玉狛で何度も何度も対峙して、隣で何回も何回も援護してもらった、伊織のバイパーだ。

 なぜ。なぜ。……なぜ。

 呑み込み始めた状況に、小南の感情が追いつかない。

 

「その顔!!最っ高やなあ!!」

 

 伊織の笑い声は止まらない。これまでの思い出も、つい先ほどまでの心境の変化も、全てを消し去ってしまうかのように。

 あまりの突然の出来事への困惑を表に、小南は伊織を見つめる。

 

「親がどうとか、ぜ〜んぶ信じてしもたの?」

 

 けらけらと薄っぺらい笑みを浮かべる伊織を目にして、ようやく小南は事態を理解した。……裏切られた。それも、二回も。過去と向き合って、もう一度信じてみようと一歩踏み出したところを、全くの躊躇なく。

 

 そして。小南の心の奥深くに、大切にしまっていた思い出の破片が。伊織の笑い声と共に、曇り空へと消えて、なくなっていく。

 

「感謝するわ。あたしの中の無駄な感情を、これできっぱり捨てられる。……修に何かあったら、絶対に許さないから」

 

 そう言い残して、小南は緊急脱出していった。

 これで、小南と仲を戻すことは間違ってもありえないだろう。この様子を見た玉狛の人間は伊織を擁護できないだろう。迅も、二人の仲を取り持つなんて馬鹿げたことは止めるだろう。

 玉狛との関わりは、これで終わりだ。

 

「……修は守るよ。俺にしかできないことだから」

 

 繕わずに呟いた二度目の伊織の言葉を聞く者は、一人もいない。

 

「いやはや。こうなるとは全く予想していませんでした」

 

 百戦錬磨の老兵も、目の前で起こった光景に少なからず困惑しているようだ。仲間割れなのか、投降の意思表示だったのか。こちらの意図を測りかねているようで、何も攻撃をしてこない。

 

「ボク的にはあんさんの驚いた顔見れて二度おいしいけどなあ」

 

「これでは曲芸とは言い難い。どうやら私の過大評価だったようだ」

 

 敵意を向けた伊織を見て、ヴィザは心底落胆したかのように肩を落とした。こちらへ降るつもりではない。阿吽の呼吸を見せていた仲間を自らの手で倒して、あろうことか一人でこちらへ立ち向かうつもりらしい。艇から見ていて気になった伊織が見据えるもの。ヴィザの個人的な目的はそれを確かめるためでもあったが、ただ訳のわからない行動に出た伊織を見て、それへの興味はゼロに等しくなっていた。

 

「それは悲しいなあ。今からおもろいもん見せれるってのに」

 

 張り付けたような、見る者を不快にさせるようなじっとりとした笑みを伊織は浮かべる。

 

「一人で勝てるとでも?」

 

「うーん、ズレてるなあ。ボクの役目はさっき終わってんね。だから、勝ちとか負けとかそんなんボクの知ったこっちゃない」

 

 ヴィザの眉がぴくりと動く。

 さっきから話が噛み合わない。仲間へ攻撃したと思えばヴィザの前に立ちはだかり、そのくせ勝ち負けなんてどうでもいいと言う。役目は終わったとすら言い放った。一体、この青年は何がしたいのだ。

 

「後は嫌われ者らしく、一人で道化でも演じるだけや」

 

 伊織の両手にトリオンキューブが浮かぶ。

 身に纏うは、あの時迅から預かった、かつて最強の名を勝ち取った引き金。小南を撃ち抜いた後にこれを使うなんて最高に皮肉で、嫌われ者には相応しい。

 

「フルアームズ、起動」



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ショーは続けなくてはならない その2

 何かを力任せに叩くような、激しい音がした。

 振り返ると、こちらのモニターを見た小南が拳を壁に強く打ち付けている姿が目に入る。伊織が起動したそれを見て、怒りが抑えきれない様子だった。

 

「小南……」

 

 まだ自分の仕事は残っていると、にじり寄る感情を認めないように集中していた宇佐美でも動揺は隠せない。普段なら彼女を気遣うなり彼をフォローするなりでも出来たのだろうが、返す言葉が見つからなかった。

 

「どこまで玉狛を汚せば気が済むのよ……!!」

 

 伊織の玉狛トリガー、フルアームズ。

 彼の能力を最大限発揮できるよう、宇佐美たちエンジニアチームが考えに考えて結論を出し、目の前で努力の成果を見てきた小南が隣を任せられると信頼を込めて渡した、彼への想いがこもった玉狛の象徴とも言えるトリガーだ。

 信じて託したレイジや京介を、歩み寄ろうとした小南を、最悪の形で伊織は裏切った。今の彼に、それを使う資格なんてあるはずがない。小南の言いたいことはわかる。

 

「……伊織くん」

 

 宇佐美は呟く。

 小南と伊織の間で、過去に何があったのかはわからない。そして、伊織が小南を撃ち抜くまでに、二人がどんなやりとりをしていたのかもわからない。

 伊織のことは、全てとは言わないが多少なりともわかったつもりではいた。彼が他人を思いやる気持ちを持っていることを。そして、彼の言葉や行動はそれを隠すためのものだということも。

 だが、今回だけは……。

 

「確か、前にあいつにも何か事情があるって言ってたけど。修が死ぬかもしれないってことより優先しなきゃいけない事情なんて、あたしにはわからないし、わかりたくもない」

 

 小南の言葉が全てだった。

 伊織の行動には何か理由があったのかもしれない。いや、そうであって欲しい。

 だが、もしそうだったとしても。いくら彼にとって、重大な事情があったとしても。許されないことはある。

 仲間が死ぬかもしれない状況を悪化させるなんて真似が許されるかどうかなんて、宇佐美には考えるまでもなかった。

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 このトリガーを使うのは、タッグトーナメントの決勝以来だ。迅はこれを小南の隣で使う姿を想像していたのだろうが、そんなことは間違ってもありえない未来だっただろう。

 

(あいつらと一緒なら、きっと楽しいよ……か)

 

 遊真を巡っての一件で、迅はそう言って伊織を玉狛へ引き戻そうとした。

 だが、それは伊織には何の意味も持たない説得だ。

 

(笑っちゃうよな。俺は玉狛を、楽しいから辞めたってのに)

 

 迅の言葉は正しいだろう。遊真たちと一緒なら、間違いなく楽しい。玉狛とはそういう場所だ。

 伊織にもまた、玉狛での日々は大切な思い出として残っている。恐らくはサイドエフェクトがなかったとしても、忘れることはないだろう。だが。だからこそ。玉狛での過ちも忘れることはない。

 楽しくて、心地よくて。みんなと仲良く、毎日を過ごしたい。あそこに居ると、伊織は自分のやりたいことを優先してしまう。

 だから、伊織は玉狛を辞めた。嫌われ者にはこの感情は不要だ。父親のような人間を増やしてはいけないし、今まで傷つけてきた人間たちのことも背負わなくてはならないのだから。

 

(宇佐美も、レイジさんも、京介も。ここまでやれば、もう俺を気にかけたりしなくなるはずだ)

 

 小南を撃ち抜く行為は、伊織にとって必要なことだった。

 死ぬかもしれない修を守ろうとした小南を邪魔する。これほどの強烈なことをすれば、伊織の事情がどうとか、理由がどうとかなんて言ってられないだろう。彼らが玉狛の仲間を何よりも大切に思っていることは玉狛だった伊織がよくわかっている。だから、いくら理由があっても許せないと思うはず。

 

 それでいいのだ。

 

 迅の言葉に取り乱していたせいで、伊織の仕込みは矛盾を孕んだものとなってしまった。あのままだったら、レイジたちはその矛盾を見抜いて伊織を理解しようとするだろう。そうさせないために、彼らが伊織を擁護できないだけの事実を突きつける必要があった。

 

(さて。勝ち負けなんてどうでもいいとは言ったけど────)

 

 大規模侵攻において、嫌われ者(琴吹伊織)の役目はもう終わっている。スポットライトは嫌われ者から、誰もが望む正義の味方へと移りゆくだろう。この戦いはその傍らでひっそりと行われる、取るに足らない一つに過ぎない。

 けれど。

 

(また一人、俺は良い人を傷つけた。それに、良い人の命もかかってる)

 

 始めたのは、他でもない伊織自身だ。役目は終わったが、まだ幕は閉じていない。例え何があったとしても。どんな結末を迎えるとしても。一度始めたこのショーを、最後まで続ける責任が伊織にはある。

 だから。

 

(勝ち目が薄いからって、逃げるわけにはいかないんだ)

 

 この大規模侵攻で初めて、伊織は()()()を見据える。

 

「メテオラ」

 

 かざした右手に、トリオンキューブが現れる。シュータートリガー、メテオラ。着弾と同時に爆発し、広範囲にダメージを与える弾丸だ。

 

「アステロイド」

 

 左手にはアステロイド。特殊な性能は持たない通常弾だが、威力そのものは一番高い、シュータートリガーの中でも最も基本的な弾だ。

 

 そして。

 

「バイパー」

 

 メテオラとアステロイドの間にもう一つ、新たにトリオンキューブが出現する。弾道を制御できるトリガー、バイパー。通常は事前に設定した弾道を使い分けて攻撃する隊員がほとんどだが、伊織はそれをリアルタイムで設定できる。

 

「メテオラ+アステロイド+バイパー」

 

 伊織の前に現れた三つのキューブが、号令と共に混ざり合って、一つの大きな塊となった。

 合成弾。

 シューターが二つの弾を混ぜ合わせて、双方の特性を持つ一つの弾丸に作り変えることを、ボーダーではそう呼んでいる。だが、ボーダーのトリガーの性質上、組み合わせることのできるトリガーは二つまで。三つを合成した伊織の行動は、間違ってもありえない光景だった。

 

 伊織の玉狛トリガー、フルアームズ。性能自体はレイジのものと何ら変わらない。一度に使用できるトリガーの制限を解除する。ただそれだけのシンプルなトリガーだ。

 だが、その恩恵で伊織は本来ならありえない三つ以上の弾を組み合わせることが可能となる。その根底には、伊織のバイパーの扱いがボーダートップだという玉狛エンジニアチームの分析があった。バイパーへ威力強化も、爆発性能も、追尾による二段誘導も付加できる。彼の能力を最大限活かせるトリガーの結論が、レイジのフルアームズ流用だった。

 

 メテオラをベースに、アステロイドを合わせて威力を強化。そして、バイパーを加えて弾道制御を自在に。三つの特徴が一つとなった射撃がヴィザを襲う。

 

「曲がる弾……というだけではなさそうだ」

 

 回避するヴィザを追うようにして向かっていく弾丸を見て、ヴィザは呟く。初回の攻撃、まだ種はバレていないだろうが、あれだけ大がかりな予備動作を見せれば嫌でも警戒するだろう。

 

 埒が開かないと、ヴィザはブレードを集結させたシールドを展開する。

 だが、シールドに着弾したその攻撃の威力は、ヴィザの想像を遥かに上回っていた。

 

「アステロイド+アステロイド+バイパー」

 

 衝撃で盾ごと後退りするヴィザへ、伊織が畳み掛ける。アステロイド二つを組み合わせた威力特化の合成弾へ、さらにバイパーをプラス。強力な射撃を、弾道を自在に操ってヴィザを攻撃した。

 爆風を切り裂くように晴らしながら、合成弾はヴィザの元へ。爆風の衝撃で体勢が崩れた盾を弾いて、初めて伊織の射撃がヴィザの右肩を掠めていった。

 

「ランバネイン殿のそれに匹敵するほどの威力……。これまでトリオンを温存していた理由に、ようやく合点がいきました」

 

 掠めた右肩を払い、ヴィザは言った。

 遠征艇から疑問だった伊織の温存はこのトリガーを使うためだろう。二度、彼の攻撃を見たヴィザからしても、フルアームズの能力はある程度推測できる。合成させる弾の数を増やす。あるいは、そもそも出現させる弾の数自体を増やせるのかもしれない。

 

「組み合わせる弾丸を増やす。単純ですが、長所がさらに強化されている」

 

 バイパーという伊織固有の強みは残しつつ、弾の性能自体を大幅に向上させる。複雑な性能ではないが、シンプルに強力だ。

 だが、ヴィザが感じとったものはそれだけではなかった。

 

(ですが、それと同じだけ弱点もより大きく。……このまま待っていれば、いずれ自滅する)

 

 単純計算で考えれば、増やした弾の数だけトリオン消費量は上がる。あれだけの種類を今まで通りに放っていては、その消費は莫大だろう。

 性能はシンプルでも、取り回しはピーキーな超短期決戦用のトリガーだ。ヴィザの星の杖との相性は悪い。

 なぜなら、星の杖の攻撃はほとんど一撃必殺に等しいからだ。反応できない速さで、視覚の外から防御不可能な斬撃を繰り出すそれは、伊織のフルアームズと違って当てる回数は一回でいい。

 つまり、伊織の攻撃を耐えていれば勝ち筋が二つも見えてくるということだ。伊織のガス欠を待つも良し、星の杖を見舞う機会を窺うも良し。確かに彼のトリガーは恐ろしく強力だが、ヴィザのトリガーとは相性が悪すぎる。

 

「……とか、思ってそうやなあ」

 

 伊織はにやりと笑って、呟いた。

 

「アステロイド、三倍」

 

 伊織の手元には三つのアステロイド。

 少しの濁りもなく混ざりゆくそれらの傍らに、もう一つのトリオンキューブが。

 

「三倍+バイパー」

 

 バイパーが、アステロイドの合成弾に吸収されていく。

 トリオンの消費が激しいことは使い手の伊織が一番わかっている。攻撃の苛烈さとそれはトレードオフであるのだから、解決のしようがない。

 だから、話は単純。トリオン切れの前に倒せばいい。

 合成弾がヴィザの前後左右を囲むように向かっていく。範囲を広げて、シールドの一点防御を妨げる狙いだ。多少の動きなら弾道制御で追える。唯一の逃げ道は……。

 

「上、ですね」

 

 膝を折り曲げ、勢いをつけてヴィザは高く跳ぶ。上空が唯一の逃げ道だ。

 タイミングを見計らって合成弾を避けられ、標的を見失った合成弾は互いに衝突した。

 

「……ふむ、これは」

 

 また一段、威力が強まった。衝突した合成弾の弾ける様を見て、ヴィザは舌を巻く。

 

「余裕そうやなあ。ボクやったら焦るってのに、ケイケンってやつやろか」

 

 伊織は皮肉めいた笑みを浮かべる。シールドを展開させないために包囲した合成弾だったが、狙いはそれだけではない。ヴィザを跳ばせたかったのだ、伊織は。

 ヴィザの下から、一歩遅れて合成弾が襲う。追われることを嫌って、ヴィザがギリギリで避けることも織り込み済み。弾同士の衝突で巻き上げられた煙が、この射撃を隠す丁度いい目隠しになるだろう。

 

「ええ、もちろん。貴方とは比べものにならないほどの戦いをしてきておりますから」

 

 皮肉には皮肉を。ヴィザの表情は変わらない。ブレードが一つ一つ集まっていき、それらが彼の足下を守るように展開される、が。

 

「あはは!反応が年相応やないの!」

 

 盾の展開よりも、伊織の弾の方が速い。直撃は免れるかもしれないが、こっちはアステロイド三倍の合成弾。掠った程度だとしても、当たれば大きなダメージだ。

 

「いやはや。耳が痛い言葉だ」

 

 だが。追い詰められたはずのヴィザは、少しだけ笑った。

 シールドが全て展開されるよりも先に、ヴィザは右足に展開されたそれを踏みしめる。そして、伊織目がけて跳躍した。

 

「……!?」

 

 これには伊織も焦りの表情を見せる。

 防御のためのシールドを、回避とカウンターに使うとは。ヴィザを守るように展開される様を見て、伊織は防御のためだと信じて疑わなかったが、それは全くのフェイクだ。最初から踏み台として一つあれば十分で、防御のためだと思っていた伊織の虚を突いた。

 

「くっ……!」

 

 仕込み刀が振るわれる。

 何とか盾が間に合った。だが。

 

(アレが来る……!)

 

 死角から、今度は星の杖のブレードが。

 これにはテレポーターを使って回避した。

 

「ふむ。若い方の反射神経は羨ましい限りです」

 

 ヴィザの言葉に、伊織は言い返せずに顔を顰めた。

 皮肉に気分を害したことももちろんあるが、それ以上に、ついにやってきたという気持ちの方が強い。

 今まで牽制に徹してきたヴィザが、ここへ来て仕掛けるようになったのだ。原理不明の高速ブレードに加えて、仕込み刀での接近戦。近距離戦でのトリガーを持たない伊織にとって、それは非常に厄介な攻撃だ。刀に気を取られればブレードが疎かに、ブレードを意識すれば刀への反応が遅れる。テレポーターをヴィザに使うのは初めてだったから今回は回避できたが、それもいつまで通用するかは疑問だ。

 射手の伊織が、一人で戦う相手では間違いなく無い。

 

『伊織くん。解析結果が出たよ。あのブレードは、人型を中心に展開されたいくつかのサークル上を回っているみたい』

 

 杏からの通信だ。

 サークル上を超高速で回るブレード攻撃。それがヴィザのトリガー。

 

『で、肝心のサークルの数は?』

 

『……ごめん。わからないとしか言えないかも』

 

 杏が確認したものは三つ。だが、全てを捉えたわけではないし、捉えたとしてもそこからまた増えるかもしれない、とのことだ。

 

『いや、それだけでも大きな情報や』

 

 判断するに、伊織のバイパーと違って相手のブレードは決まった軌道しか動けない。つまり、一度避けたブレードからはしばらく意識を外しても問題ないはず。それがわかっただけでも、大きなアドバンテージだ。

 

『……伊織くん!来る!』

 

 杏の言葉で、意識を戦闘へ向ける。

 仕込み刀の右薙ぎは防いだ。弾数とスピード重視のアステロイドを見舞う。ダメージはそれほどではないが、食らうには少々痛いはず。これで距離を離させる。

 

「ふむ。意図はわかりますが」

 

 だが、ヴィザは退がらない。マントでダメージを軽減しつつ、アステロイドを受けることを選んだ。

 

「相手をわかっていない。この程度、攻撃にも入りません」

 

 彼の羽織るマントが想像以上に固い。威力を抑えたアステロイドではかすり傷にすらならなかった。

 

(ちっ……)

 

 ヴィザの攻勢は続く。

 右への突き。左へ避ける。

 左からの逆袈裟、シールドを展開。先ほどで消耗したマントの方を狙って、再びアステロイドで反撃。ヴィザは左手でマントをはためかせ、同じように受けながら攻撃に移った。

 

(こっちが反撃する余地がない……!)

 

 これがヴィザの剣捌き。反撃に転じる隙すら与えられず、防御と回避で伊織は手一杯だ。そして恐らく、この状況もまたじわりじわりと詰められていき、目の前の攻撃に意識を取られた瞬間が寿命の尽き。あのブレードで刈り取られて終わり。

 ……どこかで、仕掛ける必要がある。

 

 左からの攻撃を伊織が盾で防御した次の瞬間。ヴィザが右足で足払いを見舞う。

 上には跳べない。退路を断たれたところへブレードがやってくる。

 なら、後ろしかない。

 

(ここが勝負所……!)

 

 後ろへのステップと同時に、トリオンキューブを召喚する。

 アステロイドを二つ。この距離でバイパーの弾道制御は必要ないし、組み合わせる数が増えるほど合成にも時間がかかる。

 

「アステロイド+アステロイド」

 

 二倍のアステロイドならマントで防げない。高をくくって前進してくるなら儲けもの、そうでなくとも距離を離せるはず。そう、思ったが。

 

(……いや、待てよ)

 

 ほんの僅かな綻びを見つけた、と伊織は思っていた。だが、何か違和感がある。

 脳裏に過ぎるのは、伊織がバイパーでヴィザを攻撃した場面。あえて退路を限定し、そこへ誘導させたところへ死角から伊織はバイパーを向かわせた。その状況に、酷似しているのでは────

 

「────!」

 

 結論に辿り着くと同時に、伊織の身体が動いた。

 ヴィザは射撃を警戒してか、距離を詰めてこない。だが、伊織はテレポーターで上へ。それと同時に、ヴィザのブレードがそれまで伊織の居た空間を切り裂いて、通り過ぎていった。

 

(くそ、相手の方が何枚も上手────)

 

『伊織先輩!』

 

 冷や汗をかく隙すら与えられる前に、双葉からの通信が及ぶ。

 

(まさか、これも読まれて……!?)

 

 視界には写らない。だが、双葉の通信と、何より伊織の直感が伝えている。

 二撃目のブレードが飛んでくる、と。

 テレポーターの使用にはインターバルがある。連続では使えない。空中では避けようにも足場が……。

 

(足場……!)

 

 すぐさま伊織は右足のすぐ側へシールドを展開する。最小限の動きで、最大限の力を込めて伊織は地上へ向けてシールドを蹴った。

 

「よく対処しました。星の杖の軌道の特徴をよく理解している」

 

 膝をついて着地した伊織を、ヴィザが見下ろす。

 あのブレードの軌道はヴィザを中心に展開されていると杏は言っていた。つまり、軌道はヴィザを中心としたサークルの平面上を動く。上下に避ければ、その平面から逃れることが可能だ。

 ……と、本来なら手応えを感じる出来事のはずなのだが。

 

「ですが、反応が少々遅かったようだ」

 

 ほんの一歩。遅かったのはそれだけだ。だが、その一歩で右足を持っていかれた。

 

「……案外根に持つタイプなんやなあ、自分」

 

 何とか軽口を叩くが、内心は圧倒的実力差に打ちひしがれている。

 ヴィザの攻めは伊織のそれを意趣返しするかのように模倣したものだった。だが、上と後ろという退路の選択肢をあえて二つ残したことで、まるで伊織は自分で退路を選んだかのように錯覚させ真の狙いを隠し、伊織の思考を反撃へ移らせて本命への反応を遅らせたヴィザの方が、数段も上。回避択まで読んだその鋭さも併せて、伊織では到底埋められない差が歴然だ。

 

(やっぱり、俺はここで負ける)

 

 じきにテレポーターも読まれるようになると思ってはいた。だが、二回目で対応してくるとは予想外だ。こちらが打てる手もだんだんと減ってきている。どこかで、あのブレードにやられるだろう。

 こうして跪く伊織を畳みかけない辺り、その気になればいつでも倒せるという現れも見てとれる。

 

(……だけど)

 

 負けることは確実。だが、勝負に負けても、戦いに勝つことはできる。

 まだ、諦めるには早い。

 

「実に、興味深いですな」

 

 と、思考を巡らせていたところへ。ヴィザが何か意味深な言葉を発した。

 

「うーん、とうとうボケはったかあ。介護士なら他を当たってほしいけどなあ」

 

「抜群の連携を見せていた相棒を裏切ったと思えば、一人で私に立ち向かっている」

 

 伊織の言葉は無視して、ヴィザは続ける。

 

「勝ち負けはどうでもいいと言いながら、その目に灯る勝ちへの執念は消えていない。こうして実力の差を見せればそれもなくなるものだと思いましたが、そうではないようだ。シンプルな能力かと思えばピーキーな取り回しのトリガーといい、全てが矛盾していて掴みどころがない」

 

 実際、伊織の行動には味方である小南や宇佐美ですら真意を測りかねている。事情を全く知らないヴィザからすれば、より奇妙に映ることだろう。

 だが、そうだとして。伊織もまた、ヴィザがそれを口にする理由が理解できなかった。

 

「撤回しましょう。過大評価ではなかった。いえ、それすらも超えてしまうのではないかと思わせるほど、私は貴殿を測りかねている」

 

 ともすれば、彼の在り方自体も。胸の内にふっと浮かんだ気泡を仕舞って、ヴィザは伊織を見る。

 

「もうじき、()()の戦いも終わりましょう。これ以上、ぬるい戦闘をする必要はない」

 

 そう言い切るや否や、伊織の遥か後方で大きな爆発音がした。

 

「金の雛鳥。やはり居ましたか」

 

「何だって……?」

 

 雛鳥とはC級のこと。だが、『金の』と形容されたまるで特定の誰かを指すような物言いは初めてだ。

 ヴィザはやはり、と言った。つまり最初から確信に近い何かを感じながら、アフトクラトルはこちらに攻め込んできている。

 ……ヴィザの目が、鋭くなった。

 

「貴殿の全力は伝わった。ならば、こちらも応えねば無礼というもの」

 

 その言葉と同時に、周囲に無数の門が開く。新型だけでない。モールモッドまでもが、伊織を包囲した。

 

「うーん。随分と意地汚い応え方やなあ」

 

 軽口の傍らで冷や汗を一つ。

 右足を失った伊織には、回避を行う上での機動力が足りない。細かい回避行動は難しく、かといって大きく回避することも先を読まれやすくなってしまう。今伊織がやられて一番嫌なことは、単純に多くの数に囲まれること。それをよくわかっている。

 

「おや、心外ですな。よもや貴殿の口からそんな言葉が出るとは」

 

「あはは、測りかねているとか言うてる割に、ボクのことようわかってるやないの」

 

 ヴィザがこちらに興味を抱いている理由はわからない。

 だが、それもこの場ではどうでもいいことだ。()()()()()()()()()()()()()

 

「道化を演じるのでしょう?どうか、最後まで足掻いていただきたいところです」

 

「どうやろなあ。慣れてるとはいえ、老人ホームへの出張は経験あらへんから。加減の仕方はわからへんなあ」

 

 もうすぐ戦いは終わる、とヴィザは言った。

 伊織も同感だ。これ以上長引かせる必要はない。むしろ、ヴィザが自分の方が上だと思っている今しかない。

 

(……)

 

 これからしばらく、通信を送る隙はないだろう。今よりも深く、敵だけに集中する必要がある。

 話すのなら、これが最後の機会だ。

 

『なあ、杏。さっきのってチカちゃんやろ?』

 

 大きな衝撃音。それを生み出せるトリオン能力に思い当たる節は一つしかない。

 杏からも肯定の通信が返ってくる。

 

『C級は何人やられた?』

 

 一応、千佳に戦わせないよう修には釘を刺しておいた。だが、人型が向こうにいる以上、止むに止まれぬ状況なのだろう。ということはつまり、伊織が守るべきであったC級隊員たちも拐われてしまったに違いない。

 

『正確な数は把握しきれてないけど……相当な数だと思う』

 

『あ、そ』

 

 今から彼らを救出することは不可能だろう。そして、一度拐われて向こうの世界に連れていかれては、再び取り戻すことも限りなく不可能に近い。

 

「……ここで死ぬわけにはいかない、か」

 

 呟いた。

 杏たちには聞かれないように。けれど、決意をするように、声に出して。

 

『双葉も聞いてんねやろ?』

 

『はい』

 

『通るかはわからへんけど、勝ち筋はできた』

 

『本当ですか?』

 

 少しの驚きと、当然だとでも言いたいかのような誇らしさを伴って双葉は答える。

 少しだけ、顔が綻んだ。

 

『ま、そんなんどうでもええんね。問題はその後や』

 

 杏と、そしてその隣に居るであろう双葉にまで声をかけたのには理由がある。

 このショーは伊織が責任を持って続けなくてはならない。幕引きまでは、恐らくまだまだだ。

 だから。

 

『……ボクのこと、頼んだで』

 

 ここで死ぬわけにはいかない。

 再び、伊織は決意を胸にする。

 

 



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ショーは続けなくてはならない その3



一応元々タグ付けはしていましたが、今回は特に残酷な描写があります。苦手な方はご注意ください。

……苦手な私は書いていて少し気持ち悪くなりました。





 乱れた息が、いつまで経っても正常に戻らない。

 黒くて、暗くて、恐ろしくて。

 人間が大量の血を流して苦しみながら死んでいく様が、脳にこびりついたまま消えなかった。

 名前も知らない、侵略者。口から出るのは悪意のこもった鋭い言葉ばかりで、とてもではないが分かり合えたとは思えない。けれど、それは痛めつけて殺していい理由にはならない。それも、仲間同士でだなんて。

 分かり合えずとも、玲は『彼』から一歩踏み出す理由を貰えた。彼のことは嫌いでも、殺すことなんてできない。これが戦争で起こりうることなのだとすれば、それは間違っている。

 初めて触れた、理屈や正しさの通らない世界での出来事。すぐに折り合いをつけろだなんて、玲には難しかった。

 ちらり、と横を見る。

 迅は難しい顔で目的地の方を真っ直ぐ見ていた。

 そして、その隣の彼も。特段取り乱した様子はなく、平然と街を駆けている。

 

「遊真くん……だったよね?」

 

「?」

 

 玲の呼びかけに、遊真は目線だけこちらへ向けた。

 何か別のことに意識を向けていて、こちらにはあまり気は向いていなさそうだ。

 

「遊真くんは……その。あんな場面を見てしまって、平気なの……?」

 

 口にして、あのべっとりとした赤黒い光景を思い出してしまった。

 また、顔が歪む。

 

「ご心配なく」

 

 口を丸めて、あっけらかんとした言葉が返ってきた。

 やはり、玲とは違って動揺はしていなさそうだ。

 

「向こうで何度も見てきたから」

 

『…………』

 

 まさに彼にとっては、普段通りの出来事なのだろう。戦争で、人が死ぬ。近界で傭兵のようなことをして暮らしてきた遊真からすれば──父親が目の前で死んだことでさえも──十分考えられることであった。

 

「遊真くんは強いのね。私にはとても……」

 

 本来なら「見てきた」という遊真の表現に疑問を抱くべきではある。

 だが、玲には普段通りの思考が出来ずにいた。未だ頭から離れないエネドラの死の光景。それに加えて、自分よりも年下の人間はけろっとしているという、ある種の情けなさを感じる状況。どんどん玲の思考は、負の方向へ向かっていた。

 

「…………」

 

 遊真の目線が、玲をゆっくりと確かめるようなものへ変わる。

 元より儚げだった佇まいは、今にも消えてしまいそうなくらい弱い。顔は青さを含んだ白色が全体に渡っていて、トリオン体だというのに息が上がっていた。

 遊真の表情が少しだけ穏やかなものへと変わる。玲の様子を感じとって、何か思うところがあるらしい。

 

「その一瞬のせいで、自分も死ぬかもしれない。だから今は立ち止まるなって、昔親父が言ってた」

 

「今は立ち止まるな……」

 

 耳に入るその言葉を咀嚼する。

 地に足がついた、力強い言葉だ。立ち止まること、それ自体を否定しない優しさも感じる。

 新しい決意を持って踏み出し始めたばかりの、まだ駆け出しの玲にとってはそれがとても心強く感じた。

 大切な人たちを守るために戦う。今はそれを一番に考えればいい。けれど、人が死んだという事実を無視するような、冷えた心になる必要はない。

 いつの間にか、玲の息は穏やかになっていた。

 

「……ありがとう、遊真くん」

 

「ふむ、何のことかわかりませんな」

 

 にこり、と遊真は笑って惚けた。遊真自身も、戦いが佳境へ移りゆく中で朧げながら現実味を帯びてきた修の死に意識を囚われていた。その中で玲とは反対に、立ち止まって深呼吸をする機会が必要だったらしい。

 

「二人とも落ち着いたみたいだな」

 

 子どもを見守る親のような優しい表情で、迅は声をかけた。

 落ち着いた雰囲気だが自分の道を踏み出したばかりの玲と、幼い見た目に反して様々な現実を見てきた遊真は一見して噛み合わなさそうな二人なのだが、案外いい組み合わせなのかもしれない。

 

「それじゃ遊真、アレ頼んだ」

 

「りょうかい」

 

 迅の指示に遊真が頷く。何のことか置いてけぼりにされている玲を尻目にして、遊真は『弾』印と唱えた。

 三人の前方へ、何やら印のような模様が浮かび上がる。見たことのないトリガーだ。

 

「玲ちゃん、間違って舌とか噛まないように!」

 

 いや、トリオン体だから噛んでも問題ないのでは?と、脳内で迅にツッコミを入れる最中。目的地へ向けていた足が、遊真の展開した印へと触れる。

 

「わ、わ!すごい!」

 

 そして。三人の身体は、前方へと大きく跳び上がった。

 グラスホッパーに似た感触だが、それよりも大きな跳躍だ。風を切る感触が心地いい。

 

「よし、このままメガネくんのところに直行だ」

 

 空を飛ぶような感覚が、心まで伝播する。

 今なら何でもできそうな気がする。漠然とした希望を胸に、玲は目的地へ意識を向けた。

 

 

 

 ☆

 

 

 

白兵戦特化(ブレードシフト)

 

『緊急脱出まで220秒。カウントダウン開始』

 

 トリガー起動と同時に、京介の姿が変化した。腕と足が、まるでその部分だけを強化したかのように黒く変色し、弧月の見た目までもが強力なブレードへと変化している。

 

「は、速い……!」

 

 修の一言目はそれだった。

 ラービットへ向けて踏み出した、その一歩目。ただの踏み込みだが、その速さは生身の身体能力を遥かに上回るトリオン体ですら出し得ないようなものだった。

 そこからの京介の動きは圧巻だった。C級へと迫るラービットに追いついたかと思えば、伊織の射撃でも壊せなかった分厚い装甲を弧月の一振りで斬り崩し。沈黙したことを確認すると、すぐさま別のC級を襲うラービットへと向かっていく。

 

『あれがトリマルの持つワンオフトリガーということだろう』

 

 レプリカ曰く。玉狛の隊員はそれぞれ、独自に改造した一点モノのトリガーを持ち合わせているらしい。そのせいでチームの格付けではランク外とされてしまったようだが、文字通り規格外の性能だ。これだけ見れば、時間を稼ぐどころか京介一人で新型を全て倒してしまいそうな勢いすら感じられる。

 

(あえてトリオン体の安定性を崩すことで、一時的に出力を強化している。発想自体はこちらの角と似たようなものだが)

 

 一方のアフトクラトルの遠征部隊の一員であるヒュースだが、特に攻撃するわけでもなく、快進撃とも言える京介の様子を、興味深そうに眺めるに止まっていた。

 彼のトリガーと、トリオン体を見るに。均等に配分されて人の形を成しているトリオンの流れをあえて崩して、足や剣へと流し込むことによってその部分の出力を強化していると予想できる。

 それ自体は、トリオンの出力を上げるために頭に取り付けたアフトクラトルのトリガー角のコンセプトと似通ってはいる。

 

「不安定な部分からトリオンが漏れている。制限時間付きとは難儀なことだ」

 

 だが、不安定な状態というものは当然長くは続かない。維持するために均質だったトリオンが偏れば、いずれは崩壊するのも当然だ。

 そして。京介が三体目のラービットを倒して、次なる標的を定めたタイミングで、ヒュースが動く。

 

蝶の盾(ランビリス)

 

 黒い鉱石のような小さい破片が、京介の肩へ着弾する。

 やはり、それ単体に大きなダメージはない。あのトリガーには引力のような能力があるが、ヒュースの動きに注意を払いさえすればラービットの討伐に支障はない。

 標的は変更せずに、ラービットへと向かった京介だったが。

 突如として、視界が下へと引き寄せられる。

 

(新型と連動した!?)

 

 ヒュースが何かをした様子はない。行動を起こしたのは、ラービットの方だ。

 ラービットの動作に、ヒュースのトリガーが反応して右肩が引き寄せられた。

 そして。体勢を崩された瞬間、ラービットの腕がやってきて、地面に押さえつけられる。

 

「多勢に無勢だ。そのまま寝ていてもらう」

 

 続けざまにヒュースのトリガーが飛来する。一つ一つの引力は微弱だとしても、これだけの数を受けては身動きが取れない。

 沈黙した京介を放置して、ラービットは再びC級へと狙いを定める。放っておけばいずれ京介のトリオン体は崩壊する。無視が一番の有効打だ。

 

「くそ……!A級でもダメだってのかよ!!」

 

 それから広がったのは、先ほどと同じ虐殺の状況。いや、頼りのA級がやられたという絶望感が支配するこの場は、それ以上だ。

 一人、また一人と。キューブにされて、ラービットの体内へと取り込まれていく。

 

(……このままだと、修くんや出穂ちゃん、それにみんなも)

 

 目の前に広がる惨劇は、千佳にとっては恐怖以外の何物でもなかった。

 それは自分の身を案じての恐怖ではない。修や夏目、それから訓練を共にしたC級たち。周りの人達が、千佳の前で消えてなくなる。それが、姿を消した兄や連れ去られた友達と重なるようで、千佳の心を凍えさせた。

 

「…………」

 

 この場で、この惨劇を止められる人物は存在しない。

 誰もがただ目の前の光景に立ち竦むだけ。何かの慈悲で、自分だけは助からないものか、と怯えて屈むだけだ。

 

「……わたしが」

 

 それならば。

 惨劇は止められないかもしれないが、自分が狙われて、誰かが助かるかもしれないのなら。

 千佳が戦う理由には、十分だ。

 

「な……!」

 

 両手には、かつて基地の壁をぶち抜いた大砲を。

 千佳のトリオンからすれば、装甲の固いラービット相手だとしてもアイビスは過剰だ。だが、彼女の頭には敵を倒すことよりも、こちらへ注意を向けさせることだけが残っていた。

 狙いを定めて、引き金を引く。

 大きな爆発が、周囲に巻き起こった。

 

 

 

 

 

 

「以前観測した出力と概ね一致しました」

 

 アフトクラトル、遠征艇。ヒュースの戦場をモニタリングしていた彼らの目にも、千佳のアイビスが引き起こした規格外の爆風は映っていた。

 

「やはり雛鳥の中に隠れていたか」

 

 やはり、とハイレインは言った。

 一度は全滅したラッドの偵察部隊。遠征に向かう前にもう一度、イレギュラー門ではなく玄界の視察目的で送り込んだ矢先で、一つの映像が残された。

 玄界の基地を撃ち抜く、一筋の射撃。

 それを確認したとき、どれだけハイレインの心は踊ったことだろう。細かく出力を測る必要すら感じないほど強大なあの射撃。アフトクラトルの新たな神として、十二分にトリオンを備えた存在が、玄界には存在する。遠征に出た甲斐があったというものだ。

 

「ミラ、門の準備を」

 

 外套を纏い、ハイレインは身なりを整えた。

 金の雛鳥の存在を確認し、作戦を練りに練った今回の遠征。何としても彼女を捕らえるために、隊長自らが戦場へと赴く気概だ。

 

「ハイレイン隊長も出られますか」

 

「念には念を入れなくてはな。後々のことを考えても、ここで私が出た方がやりやすい」

 

 

 

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 

 

 

 通常、どんな人間でも嫌なことは存在する。そして、よっぽどわかりやすい人間でなければそれを悟らせないように壁を作って、それを突かれることを防いでいる。

 だから、伊織は手練れと戦うときはまずその壁を見つけるところから始めるようにしている。例えば、太刀川なら二刀流が故の中距離の乏しさを旋空でカバーし、二宮であれば射撃の破壊力で接近戦に対応しているといった具合に。嫌な部分を攻めるためには、壁を壊す必要があるからだ。

 だが、ヴィザ相手にはその壁すらも見つけられない。

 近距離では仕込み刀での剣術が。中、遠距離では星の杖のブレードが。老獪な読みで回避もこなし、ブレードを応用させた防御も堅牢。全てにおいて付け入る隙がなく、戦争における立ち回りも抜かりがない。フルアームズを使ったとしても、このままでは勝負にならなかった。

 だから伊織は、発想を転換させる。

 こちらから仕掛けて綻びを生じさせることは不可能。少しずつ少しずつ認識のずれを生み出して、向こうが自ら踏み外すように仕向けると。

 

「あんたらぎょうさん押し寄せてきはるけど、ちゃんと戸締りしてきてん?」

 

 トリオン兵たちの攻撃を何とか回避しつつ、伊織はヴィザへ投げかけた。

 ラービットたちを巻き込んでしまうことを恐れてか、ヴィザのブレードは飛んでこない。

 

「もちろん、本国を留守にするリスクは承知しております。ですが、玄界が力をつけてきていることも事実。虎穴に入らずんば、とでも申しましょうか」

 

「へえ、それでほんまにか弱い虎児狙うなんて、律儀なお相手やなあ」

 

 言い切ると同時に、ヴィザの振りが強くなった。回避が少し遅れ、右膝を切り裂かれる。

 

「そちらの兵士は少し追いつめただけで巣へ逃げ出してしまうのですから、致し方ありますまい」

 

 いたって冷静な言葉の返しからして、こちらの挑発に我を忘れたわけではなさそうだ。

 

「貴殿も遅かれ早かれそうなるのでしょう。実に残念だ」

 

 その気になれば、いつでも倒せると。伊織を緊急脱出させるかどうかは、こちらのさじ加減次第なのだと、挑発で返してきたのだろう。

 実際のところ、ヴィザがどれだけ本気なのか伊織には全く掴めていない。だから伊織にはそれが、ひどく背筋を冷たくさせた。

 

 

 

 ☆

 

 

 

(彼は自らの役目は終わったと言った。まるで、仲間を撃ち抜くことが目的だったかのように)

 

 彼の矛盾した言動が、ヴィザにひどく不安定な印象を与えていた。あの薄っぺらい笑みは胸の内に秘めた何かを隠すためのもので、小南を裏切った行動も何か彼の目的の一端だったと思えてならない。

 例えば、ランバネインと戦った女射手や、高速移動の剣士。そして、先ほどまで刃を交えた三人の玄界の兵士たち。彼らの目指すものと、伊織が見るものは、同じようでいて、どこかズレているように思える。目的こそ同じだが、そこへ至るまでの過程が決定的に違うような、違和感が。

 玄界はおろか、近界でもこのような人間を見た記憶はあまりない。それが、ヴィザを伊織に興味を持たせていた。

 

(敵国に攻め込まれているという状況で、彼らが一枚岩でなかったとしてもそうする理由が思い当たらない)

 

 ヴィザの剣が、伊織のシールドに防がれる。

 全ての人間が同じ方向を向くことは難しい。だが、一つだけあるとすれば、それは共通の敵を前にしたときだ。彼らのような現場で戦う者にとって、今がまさにその時のはず。

 

(いや。思い当たっても、彼のような若者がそれを担う必要性が理解できない)

 

 トリオン兵が伊織を少しずつ追いつめる。

 向こうでも何か政治のような根回しが水面下で繰り広げられているのかもしれない。だが、そうだとして。それはこうして戦い、そして何よりもそういった裏の駆け引きとは切り離されるべき若者である伊織に行動させるべきではない、と思う。

 

(彼の言い分を鵜呑みにするとして。こうして私に立ち向かうその行動も嘘ではなさそうだ。……‥差し当たっては、玄界を守りたいという意志は確かにある)

 

 エネドラのように──彼はトリガー角に自我を侵食されてしまったせいなのだが──もはや道理などはどうでも良く、ただ己の快楽のために戦いに興じているようではない。玄界の兵士として、ヴィザを相手にしているという気概を感じる。

 では何故、彼は……。

 そこまで考えて、ヴィザははっとした。

 

(……未練というものは、いくつになっても断ち切るのに難儀する)

 

 共通点はないに等しい。ただ、どちらも若いというだけ。無意識のうちに、ヴィザは伊織をヒュースに重ねてしまっていた。

 珍しい人種を見かけた興味というそれらしい理由をつけていたが、実際のところは違う。これからヒュースに待ち受ける未来と、目の前で不安定なまま道化を演じる伊織。二人が重なって、ヒュースに対する胸の内の感情が、そのまま伊織へと流れていった。本当のところは、それが伊織を気にかけた理由だ。

 

(彼の背負う何かを知る必要は、ない)

 

 仕込み刀を握り直す。

 ここまでで十分与えられた任務は達成した。ここで伊織を倒そうが倒さまいが戦況に大きな差はないし、こうして別のことに思考を割いていたとしても、彼を倒すことに支障はない。だが、だからこそ、この思考は捨てるべきだ。彼を倒して脱出する様を見届ける、そのときまで。ただの兵士として戦わなくては。

 ……ヒュースには、そう教えたのだから。

 

 トリオン兵たちが、伊織の周囲を取り囲んだ。

 一体のラービットが右腕を振り回す。伊織はステップで回避。

 逃がさないように、もう一体のラービットが迫る。身体ごと潰してしまいそうな突進を、伊織はテレポーターで回避した。

 

「逃しませんよ」

 

 彼のあのトリガーは、視線の向いた先の数メートル先へと瞬間移動するもの。数回それを見た中でヴィザはある程度の特性を把握していた。使うことさえわかっていれば、移動先へと先回りすることは容易い。

 

「こっちのセリフや。やっぱり飛び込んできはったなあ」

 

 先回りして、伊織へ息をつく隙を与えないようにと迫ったが。

 伊織の手元にあるトリオンキューブが、混ざり合って一つになる。

 

「二倍+バイパー」

 

 対する伊織も、ヴィザがテレポーターの移動先を先回りしてくることを読んでいた。いや、先回りすることを誘ったと言った方が正しい。

 トリオン兵たちを置き去りにしたこの状況、ヴィザとの一騎打ちに半ば近い。至近距離でのやり合いならヴィザに分があるが、今はヴィザがこちらへ向かってきている。彼の刀よりも、伊織の弾丸の方が先だ。

 

「鋭い。なかなかの読みだ」

 

 ほう、と感心したような表情を浮かべるヴィザ。

 そのまま、伊織の展開したトリオンキューブには特に気にする様子もなく、刀の間合いまで接近する。

 

「ですが、近くの敵を疎かにするのはいただけない」

 

 だが、その途中で。

 ヴィザの足が、止まった。

 

「……!」

 

 こちらへ向かうヴィザの進路を想定して向かっていった弾丸が、急停止したヴィザを捉えきれずに明後日の方向へと飛んでいく。

 そして。そのやりとりの間に、再びラービットたちが伊織へと迫っていた。

 伊織にテレポーターを使わせ、そこへ先回りしたように思えるこの局面。ヴィザが思い描いたのは、それがゴールではなかった。先回りしたヴィザはあくまでこちらへ意識を向けさせる陽動。伊織が今、一番嫌がる複数の敵に包囲されるという状況を再び作るための、時間稼ぎだ。

 つまり、裏をかいてヴィザの迎撃行動をとった伊織の、更に上を行ったということを意味する。

 

「そら疎かにもするやろ。もう終わった敵なんやから」

 

 だが。

 伊織の顔に浮かぶのは絶望が入り混じった苦悶の表情ではなく、いつも通りの、見るものを苛立たせるような張り付いた笑みだった。

 伊織の背後──ヴィザの死角から、トリオン兵へ向かって無数の弾丸が向かっていく。

 

「あんたが結構根に持つタイプやいうの、もうこっちはわかってんね。桐絵ちゃんの真似事してくるいうのも想定内や」

 

 本命と見せかけた陽動策。それは少し前に伊織と小南が見せた連携と同じものだった。

 冷静なようでいて、相手へのやり返しは欠かさない。ここまで戦う中で伊織が理解したヴィザの性格。それら全てを鑑みて、伊織はヴィザの行動が陽動なのだと、半ば確信に近い形で予想していた。

 時間を稼いだのはヴィザではない。一番嫌な、物量差での詰みの状況を作られることを防ぐために、トリオン兵を倒すための合成弾を作る時間を、伊織は稼いだということだ。

 

「メテオラ+ハウンド」

 

 メテオラとハウンドを組み合わせた合成弾。正面でヴィザを狙う傍ら、背後から迫るトリオン兵は、こちらの弾で倒す。伊織の狙い通りだ。

 そして。敵を自動追尾するその弾丸が、ラービットやモールモッドたちを捉えて、爆発する。

 

「三倍+バイパー」

 

 爆風が晴れない中、伊織は次の合成弾を用意。アステロイド三つとバイパーを組み合わせ、装甲の固いラービットへトドメを。

 

「ふむ、なるほど。化かし合いというところでは、やはりそちらの得意分野でしたか」

 

 両者が裏をかき続けた応酬は、最終的に伊織に軍配が上がった。

 だが、ヴィザの表情は変わらない。

 それもそのはず。戦いの中の一部分を、伊織が上回ったというだけのことで、勝敗がついたわけではない。

 そして、何よりも。

 

「では、こちらの勝負ならいかがでしょう?」

 

 ヴィザの言葉とともに、伊織の左側からブレードがやってくる。

 そう。読み合いでは一度だけ上回ったのかもしれない。だが、それはあくまで同じ土俵に立った上で成り立つ心理戦だ。アフトクラトルの国宝という圧倒的なトリガー能力の前では、同じ土俵に立つことすら不可能。そこに読み合いなんてものは、存在しない。

 

「くっ……!」

 

 トリオン兵が全滅し、向こうからすれば巻き込んでしまう心配が消え去ったタイミング。来るなら今だろう、と思っていた。

 だが、そうやって身構えていたにも関わらず。反応が間に合わずに、伊織の左腕がブレードに切り裂かれる。追撃を嫌ってか、沈黙したトリオン兵たちの陰に隠れるように伊織は転がりこんだ。

 

(インターバルはとうに過ぎたはず。移動先を読まれることを嫌ったということだろうか)

 

 次は小細工や深い読み合いなどを抜きにして、ただ真っ直ぐに伊織へ向かおうとしたヴィザだったが。肝心の伊織はテレポーターを使わなかった。

 予想は外れたが、何も問題はない。確かに、ヴィザのブレードは軌道を円状に伸ばしてそこを高速で通過させる都合上、敵の位置を三次元で捉える必要がある。その点、トリオン兵の陰に隠れたのは有効な対策の一つではあるが。

 

(斬られた箇所からトリオンが漏れて立ち昇っている。これでは頭隠して尻隠さずだ)

 

 それをするのが遅すぎた。狼煙のように自らの居場所を知らせるトリオンがあれば、姿は見えずとも軌道を描くのは容易い。

 

「終わりです」

 

 狙いをつけて、ヴィザはブレードを走らせる。

 

 

 

 

 

(まだ、テレポーターの移動距離を変えられることは向こうに気づかれていない)

 

 ここまで、ヴィザの前では同じ距離でしか瞬間移動はしていない。百戦錬磨の相手だとしても、距離を変更できるとは予想していないはずだ。

 もちろん、長い距離を移動すればその分インターバルも増えるから控えていたという理由もある。現状、あのブレードを回避する手段はテレポーターしかないのだから、万が一でも使えないという状況は避けなくてはならなかった。

 だが。伊織は今、そのセオリーを破ろうとしている。それはつまり。

 

(必要なものは揃った。……ここしか、ない)

 

 ここで勝負をつけると、決めたということだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 

 

 

『隊長。伊織くんからの伝言です』

 

 時は少し遡り、警戒区域内、西。

 付近のB級たちと連携してラービットの討伐に当たっていた望のところへ、オペレーターの杏から何やら珍しい通信があった。

 

「直接寄越せばいいのに。やけに回りくどいわね」

 

 伝言なんてもの、戦闘中にほとんど受け取ったことはない。隊員同士なら誰とでも通信のやり取りはできるから、人づてに何かを伝えるという機会が起こり得ないからだ。

 そして、普段ではありえない伝言なんてものを、今回は関わりがないものだと思っていた人物からもらったという事実が、望の胸をざわつかせる。

 

『隊長へのものかと言うと、少し微妙なところですが……』

 

 実際、杏は伊織から望に伝えるように、と言われたわけではない。

 だが、伊織と望の関係性と、杏と望の関係性からいって、彼女の耳に入れておいた方がいいだろう。

 

『勝ち筋はできた。だから、その後のボクのことを頼んだ。だそうです』

 

 要点を踏まえ、不要な似非関西弁は排除して簡潔に杏は言った。

 

「…………!」

 

 ぴくり、と望の眉が動く。

 何か、今の言葉に引っ掛かる部分があったらしい。

 

『頼んだ、と言われても一体どうしたらいいのか……』

 

 杏が望に伊織の言葉を伝えた理由は、それが一番大きかった。

 頼んだと言われても、具体的に何をすればいいのかがわからない。負けたときを頼む、ならわかる。フリーになった人型のフォローなりに人を送ればいい。だが、勝った後を頼むと言われて、何か手を貸す余地はないように思えた。

 付き合いの長い望なら、伊織の言葉の真意がわかるかもしれない。だから、なぜか大規模侵攻中では伊織のことにそれほど熱心でなかった望にあえて通信を送った……のだが。

 望からは、これといった返事は来ない。

 

『隊長?』

 

 はっ、と。杏の言葉で、何か思考を巡らせていた望が我に帰る。

 そして、これまでの状況を整理した。

 伊織は今、一人で人型と戦っている。隣にいた小南は、伊織が自身の手で撃ち抜いてしまった。

 ……迅が言っていた伊織の未来と、全く同じ道を辿っている。だとすれば、この後は。

 

「伊織のところへ急ぐわ。オペレートをお願い」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 

 

 

 

「終わりです」

 

 ブレードが、来る。斬り落とされた左腕や右足からトリオンが立ち昇っているから、トリオン兵の陰に隠れたとはいえ、向こうが狙いを外すなんて甘い考えは通じないだろう。

 そして。

 トリオンキューブ二つを携えて、伊織はテレポーターを起動する。

 

「やはり、背後へ回ってカウンターを仕掛けにきましたか」

 

 予想通り、とヴィザは平坦に呟く。

 瞬間移動というトリガーはその性質上、回避と反撃両方の側面を持つことはランバネインと加古隊の戦いからも明らか。カウンターを一番狙いやすいのは背後。そして、今までの様子からいって、あのトリガーで移動できる場所は、視線の向く方、数メートル。

 だから、彼が移動するであろう場所には、事前に星の杖の軌道は敷いてある。その程度の対策なんて、怠るはずがない。

 そして。

 カウンターに対処するべく、背後を振り返った、その時。

 

「これは……!」

 

 伊織の現れた位置が、ヴィザの想定よりも遠い。これでは事前に仕込んでおいたブレードは届かない。表情に驚きが滲み出た。

 

(よし……!)

 

 星の杖のブレードが高速なのは確かだ。テレポーター以外で避けられるイメージは全く湧かない。

 だが、それはブレードの移動スピードだけに絞った時の話だ。

 ここまで伊織が把握する限り、ブレードを振るうまでに二つのステップがある。

 第一に、軌道を設定すること。恐らくは自在なのだろうが、バイパーと同じくそれ故に都度設定する必要がある。

 そして第二に、どの軌道のブレードを走らせるのかを判断しなくてはならないこと。例えば、軌道に近づいた敵に自動で反応して攻撃するような類いのトリガーではない。どのブレードを使うのか、これもヴィザが決めている。

 それらを経て、回避不能のブレードが発射される。恐らく向こうは、今までのテレポーターの移動距離に合わせて、事前に軌道を設定している。イレギュラーなこの状況では、この二つを新たに行わなくてはならないはず。

 そうであるのなら、伊織の弾丸の方が、速い。

 

 

 と、考えたが。

 

「ふむ。読み合いの勝負は終わったと、すでに言ったはずですが」

 

 ヴィザの驚きの表情が、そのまま焦りに変わることはなかった。

 

「なに……?」

 

「ブレードの軌道を途中で変更しました。それが何を意味するのか、貴殿に説明は不要でしょう」

 

 たったそれだけ。その一言で、伊織の予想は全て崩れ去る。

 伊織がトリオン兵の陰に隠れていた際に放たれた、一度目のブレード。それを周回させながら、伊織が瞬間移動した位置を通るように軌道を変更した。軌道の設定も、ブレードの選択も。全てをすっ飛ばした、最短の解決策だ。

 圧倒的なトリガー能力の差を前にしては、読み合いなんて心理戦は存在しない。意味するのは、ただ一つ。

 ヴィザのブレードの方が、速い。

 

 

 

 

「……やっぱり、こうなるんやなあ」

 

 何かを受け入れたかのような、虚しい乾笑いが響く。

 それは、負けを受け入れた諦めの表情なのか、あるいは。

 

 

 

 

 

 星の杖のブレードが、伊織の首を斬り裂いていく。少しだけ遅れて、展開した弾丸が手元を離れ────ブレードへと、向かっていった。

 直後。伊織の首と共にブレードに切り裂かれた弾丸が、今までで一番大きな爆発を引き起こす。

 

「捨て身の自爆ですか」

 

 残ったブレードで爆風を防ぎながら、ヴィザは呟いた。

 確か彼は、勝敗なんてどうでもいいと言っていた。その言葉の行き着く先がこの自爆だったとは、何ともあっけない。

 

(……いや、そうだ。あまりにあっけなさすぎる……!)

 

 半ば戦闘を終えた感覚だったヴィザの胸の内に、ほんの少しの違和感が引っ掛かった。

 そうだ。あっけなさすぎる。

 一度とはいえ、読み合いでヴィザを上回ってみせた彼が、この程度で終わってしまうとは到底思えない。

 そしてヴィザは、重大な見落としに気がついた。

 彼の首元へブレードが入っていくところは確認した。だが、玄界の兵士特有の脱出光は爆風で隠れてしまって、見えていない。

 

(まさか、この爆風は!)

 

 捨て身覚悟の自爆ではない。あの爆発は、倒したと錯覚させるための目隠し。ヴィザがカウンターに対処するところまで、彼は織り込み済みだったというのか。

 

(だとしてもありえない!一体どのようにして生きながらえたというのだ!?)

 

 確かに彼が離脱する様は確認していない。だが、見届けていなくとも首を切ったことは確実だ。首を切り飛ばされて無事なんて、一体どんなことをすれば可能なのかヴィザには全く見当がつかなかった。

 最後の最後で、ヴィザの額に冷や汗が一つ浮かぶ。

 だが。アフトクラトル最強の男は、窮地でさえもその所以は錆びつかない。ヴィザの身体は、焦りの感情とは干渉せずに迎撃体制を整えていた。

 

「これ……も……反応……するのかよ……!」

 

 ヴィザの近くから、伊織の声がする。息が絶え絶えで途切れそうな声なのが引っ掛かるが、そこに意識をやる余裕はない。至近距離から弾丸を撃ち込んで勝負を決めるつもりだ。この距離なら、ブレードよりも仕込み刀の方が速い。

 不意を突かれはしたが、まだ間に合う。今度は確実に仕留める。

 そう思い、刀を構えて伊織の声がする方へと振り返ったが。目に入った彼の姿に、驚愕が重なった。

 

(この姿は……!?)

 

 一瞬。否、一瞬にすら満たないほんの僅かな躊躇い。

 それがヴィザの剣を遅らせ、そして判断を変えさせた。

 

「……」

 

 ヴィザの胸に、鋭い感触が伝わってくる。トリオン供給機関を寸分の狂いもなく、伊織が右手に持つ何かが貫いていた。

 

「ぐああああっ!!!」

 

 そして、そのほんの僅か後に。ヴィザの刀の峰が、伊織の身体を強く打ちつける。

 ……痛い。痛い。痛い。

 叫んでも、悶えても紛れることはない、経験したことのない激しい痛みが伊織を襲った。

 

(く、そ……肩が…………)

 

 右肩が本来あるはずの位置よりも下へだらりと下がって、全く動かない。

 

「まさか、脱出する前に自らトリガーを解除するとは。一歩間違えていれば命を落としていたというのに」

 

 肩を砕かれ、痛みで地面に倒れた伊織をヴィザは見下ろす。

 黒い学ランを見にまとうその姿は、どこにでも居る三門市内の学生のそれと何ら変わりない。フルアームズを起動し、シュータートリガーを操る伊織とは明らかに見た目の異なる、紛れもない生身の姿だった。

 

「あ、はは……勝ち負けなんて、どうでもええから……両方……選ば……せて……もらった……」

 

 普通の勝負では勝てない。どこかでヴィザの裏をかく必要がある。だから伊織は、トリオン体で負けることを受け入れて、生身で勝つことを選んだ。首を完全に斬られる前、緊急脱出する寸前のところでトリガーを解除して、ヴィザの裏をかいた。両方選んだとは、そういう意味だ。

 だが、伊織が払った代償はそれだけではない。

 

(ダメ……だ……意識が…………)

 

 身体中が痛い。患部を見る余裕はないが、ヴィザの仕込み刀で打ち付けられた右肩は十中八九脱臼している。それだけではない。メテオラの爆風を受けた顔は火傷で皮膚が捲れ、吹き飛んだ瓦礫が直撃した手は切り傷に塗れている。首を斬り裂かれている最中でトリガーを解除した影響で、残ったブレードが生身の首元を斬り裂いて、出血が止まらない。

 痛みと出血のショックで意識が朦朧とする。

 ……ここで死ぬわけには、いかない、のに。

 

(彼の言葉で、脱出機能への意識を知らず知らずのうちに植え付けられていた)

 

 ヴィザは感嘆と驚愕の目線で伊織を見下ろしていた。

 雛鳥がこちらの目的だという共通認識。そして、雛鳥を守るかのような伊織の行動に、こちらの真意を探る言動。彼がいわば雛鳥の保護者であり、他の兵士たちと同様に負ければ脱出するのであろうと、無意識のうちに刷り込みを植え付けられていた。

 

(事前にモールモッドの爪を忍ばせていた辺り、咄嗟の判断ではない。この結末は彼の狙い通りだ)

 

 ヴィザのトリオン供給機関を貫いたのは、伊織のトリガーではない。生身なのだから当然だ。トリオン兵の陰に隠れたあの場面で、伊織はモールモッドの残骸から爪を回収し、最後の場面でヴィザの胸を貫いた。

 つまり、少なくとも伊織はトリオン兵に囲まれた時点でこうして決着をつけることを思い描いていたということになる。

 

(だが、何よりも。死すら予想されるほどのダメージを受け入れて立ち向かうとは……)

 

 伊織の刷り込みがあったとはいえ、ヴィザが想定の外を行かれたのも無理はない。確かに、追いつめた敵がせめてもの報いとして特攻することは考えられるし、ヴィザも何度もそういった場面を見てきた。だが、今の玄界の状況はどうだ?被害はあるとはいえ壊滅とは言い難い現状であり、またこちらの目的は雛鳥の確保であって玄界を滅ぼすことではない。命を投げ出すことを思い止まる理由はいくらでも思いつく。

 そして、仲間を撃ち抜くような人間がここまでの行動を取るということが一番の想定外だった。

 

(……あまりに儚い。ああして仲間を撃ち抜いてしまっては、本来賞賛されるべき決死の行動に見向きをする人間は、誰も居ないだろうに)

 

 自惚れではなく、客観的事実として。敵国の一番の強敵を、彼は打ち倒したことになる。傷だらけで戦ったという語り草になる背景もあり、ともすればそれは、彼が英雄にもなり得る結果だというのに。

 仲間を故意に撃ち抜いたという事実があってしまっては、処分とともにこの功績をなかったことにされるか、あるいは賞賛の裏でとんだピエロとして石を投げられる羽目になるか。いずれにせよ、彼に待ち受けているのは薄暗い陰鬱な未来に違いない。

 

「……その心配も杞憂でしたか。貴殿が玄界へ戻ることは、もうないのだから」

 

 と、独り言をこぼした頃合い。ヴィザの前に大きな門が開く。

 

「ヴィザ翁」

 

 中から現れたのは、ヴィザを回収しにきたミラだった。

 ヴィザが倒されたことへの驚きが少しだけ表情に出ているが、それでも淡々と、ミラはヴィザを遠征艇へと案内する。

 

「ミラ殿、申し訳ありません。彼の執念……いえ。視野の広さと行動力を見誤りました」

 

 そう言われて、ミラは改めて状況を確認する。

 側には、玄界の兵士が一人倒れているだけ。彼がたった一人で、アフトクラトルのトリガー、人材ともに国宝級を相手にして勝ちを収めたという現実が広がっていた。

 

「……玄界の曲芸師、でしたか。ヴィザ翁がそこまで入れ込む理由がわかりかねますが」

 

 たかが玄界ごときに、ヴィザがやられるなんて。彼への不満ではなく、下に見ていた玄界が起こした番狂せに、ミラは苛立ちの表情を見せた。

 

「ふむ、そうですね」

 

 しかし、普段はそういった仲間の感情を受け止めず、跳ね返さずにただ受け流すだけのヴィザが、少しだけ抗議の目線をミラにやる。

 

「歳を重ねると、未来ある若者は輝いてみえる……とでも申しましょうか」

 

 我が国のそういった人材にも目をかけなくてはなりませんね、とヴィザは言う。

 若者という広い言葉と我が国という身内を指す表現が、一体誰の話で、何故ヴィザは少しだけ不満そうな顔をしたのか、ミラには察しがついた。

 

「……それが、彼を殺さないように峰打ちをした理由だと?」

 

 隊長の決断を否定するような言い回しに、今度は明確に非難の意思を込めてヴィザへと問いかける。

 あの局面、仕込み刀で伊織を切っていればヴィザが戦闘不能になることはなかっただろう。すでに満身創痍だった伊織よりヴィザの刀の方が速いことは明白。つまり、あの場面で何らかの手心をヴィザは加えたということだ。

 

「滅相もありません。年寄りを買い被りすぎだ。私にとっても切羽詰まった状況でしたから、全くの偶然ですよ」

 

 と、不穏な空気が二人の間を漂い始めたが。

 ヴィザは少し前までの感情をすっと奥にしまい、またいつもの通りの笑顔に戻ってミラの問いかけに戯けてみせた。

 無意識に息をついてしまった自分に対して、驚きの感情を抱く。仲間同士での言葉のやり取りでさえ、敵意を向けられるとこれほどの圧迫感を感じるとは。……一番敵に回してはいけないのは、やはり彼だ。

 

「回収いたしますか?」

 

 努めて淡々とした表情を繕って、ミラは言う。

 感情を抜きにすれば、ヴィザを倒した手合いを放っておくなんてありえない。

 

「もちろん、そのように。……ですが、念には念を入れておきましょう。抜け目のない相手だ」

 

 ラービットをお願いします、と。ヴィザの言葉に、ミラが頷く。

 程なくして、伊織の真横に大きな黒い円が現れ出でた。

 その様子を、伊織はただうつ伏せで眺めることしかできない。

 

(力が……入らない……)

 

 ミラのトリガーでどこからか呼び戻されたラービットが、伊織へと近づいていく。

 

(こんな……ところ、で……)

 

 身体が、動かない。

 

 まだ、やり残したことがあるのに。

 

 

「……思いの外、出血が酷い。遠征艇に戻り次第、直ちに彼の治療をお願いいたします」

 

 

 ヴィザが何かをミラに伝えているのが聞こえる。意識がぼんやりとして、視界が暗くなってきた。

 

 

 そして。

 

 

 ゆっくりと腕が伸びていって。

 

 

 ラービットの右手が、伊織を掴んだ────

 

 

 その瞬間。

 

 

「ハウンド」

 

 

 聞き馴染んだ声がすると同時に、周囲を煙が包む。

 さくり、と何かを切り裂く音とともに、ラービットに掴まれていた感触が、誰かに抱えられる優しいものへと変わったところで、伊織は意識を手放した。

 

 

「全く。一体これのどこが『伊織の未来をどうこうできる立場にいない』のかしら」

 

 



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曇り空のフラクタル その4




あけおめです。そしてお久しぶりです。遅くなってごめんなさい。






 伊織は、ああ見えて手先は不器用だ。小学生の頃に家庭科の授業で作ったエプロンのあまりの出来には大笑いした。

 伊織は、ああ見えて人見知りだ。人の感情の機微に敏感だから、繕っていない素の状態では気を遣いすぎるきらいがある。

 伊織は、ああ見えて義理堅い。サイドエフェクトのおかげでしてもらったことは絶対に覚えているから、本人には気づかれないように必ずお礼をこっそりしている。

 伊織は、ああ見えて笑った顔は柔らかくて優しい。周りには張り付けたような薄っぺらい笑みを振り撒いているが、本当の笑顔は全然違う。

 伊織を深く気づかう迅くんも、伊織の背中を預かる相棒だった桐絵ちゃんも、伊織へ大きな憧れを抱く双葉も、こんなこと知り得ない。

 最近は滅多にそんな姿を見せることはなくなってしまったけれど、それでも稀に、私の前では素の伊織が垣間見える時がある。

 伊織が心を落ち着けられるのは、私にだけ。

 だから。

 伊織のために、私は絶対に、この場所を守らなくてはならないと。ずっと、そう心に決めて────ええ。そのはずよ。それ以外に、どっちつかずの宙ぶらりんな関係を今も続けている理由は、きっと、ないはずなのだから。

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

「とまあ、そんなこんなあって大規模侵攻で伊織は死にかける」

 

 大規模侵攻の少し前。作戦室を訪ねてきた迅はそう言った。C級を守る役割を与えられて、玉狛と久しぶりに共闘して。行き着く先は、死にかけるほどの大怪我だ。

 

「肩は脱臼するし、顔の火傷と手の切り傷は多分一生残る。首の傷は、すぐに手術しないと間に合わないくらい深い」

 

「…………」

 

 言葉だけでも思わず目を伏せてしまった。

 ボーダーの隊員が戦いで怪我を負うことは滅多にない。だが、迅の言葉をありえないと断じることは、望にはできなかった。

 伊織は他者と自分との天秤のバランスが異常だ。彼がそうするべきと判断したのなら、迷わず自分を蔑ろにするだろう。

 

「でも大丈夫。打ちどころが良かったのか肩はすごくきれいに外されるから治すのに苦労はしないし、顔や手の傷もそこまで目立つわけじゃない。首だって、頸動脈っていうの?そこは外れてるから、死にはしない。それは確定してるよ」

 

「……そう」

 

「だけど、ここからがわからないんだ。後遺症は傷跡だけのはず。なのに伊織は、それ以降右腕がまともに使えなくなる」

 

 何でなのか、加古さんに心当たりあったりする?と迅に問われ、望ははっとした。

 伊織には『完全記憶能力』というサイドエフェクトがある。

 肩が外れる感触も、火傷を負うときの熱さも、首を切り裂かれる痛みも。それら全て、彼の脳には完全な記憶となって残るのだろう。後遺症は傷跡くらいだ、と迅は言っていたが、それは目に見えるところでの話だ。伊織の中で、死にかけた経験は消えないトラウマになる。恐らくは脱臼した右肩がそのトラウマを思い出してしまうトリガーなのだろう。何かが右肩に触れた時。あるいは、単純に右手を動かした時。引き金となる場面は溢れている。父親のときと同じように、鮮明に、負った傷の痛み全てがフラッシュバックする。だから伊織は、右腕をまともに使えなくなる。

 

「私にもよくわからないわね。従姉妹といっても、全てを知っているわけではないわ」

 

 そう言って、伊織のサイドエフェクトのことは伏せておいた。どうしてそうしてしまったのかは、望にもよくわからない。

 

「………………」

 

 沈黙。迅は何か、頭の中で何を言うべきなのか、言葉を選んでいるかのように推し黙った。

 

「……そっか。どっちにしろ加古さんには伝えておかなきゃいけないことだったから。利き手が使えないんじゃ何かと不便するだろうし、いろいろサポートしてやってくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(伊織がこうなるのは確定した未来。私はそれを知っていながら、都合の良いときに助けたような素振りをしただけ)

 

 伊織は死にかけるが、死にはしない。それは確定している。あの口振りからして、拐われることもなかっただろう。

 つまり、杏の通信で血相を変えて急いだものの、それはさして重要なことではなかったということだ。望が間に合わなかったのなら、他の誰かが伊織を助けていたはずだ。伊織が助かることは確定していて、それを誰がするのかだけが決まっていない。だから迅は望に『伊織の未来をどうこうできる立場にいない』と伝えた。

 

(伊織は自分と折り合いをつけて誰かを守ることを選んだというのに、私にはできなかった。伊織が傷つくことを見過ごしても、私には)

 

 伊織の未来を知っていながら、それを防ぐことはできなかった。いや。迅の言葉が後押しして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。初めから防ぐことは諦めていたのだ。

 あれほどの大怪我、苦痛は望には想像することもできない。そして、そうまでして戦っても、伊織に優しい言葉をかける人間は居ないだろう。小南を撃ち抜いたのは、きっとそのためのはずだ。死にかけて、右腕も使えなくなって、それなのに周りからはいつも通り嫌われて。側で寄り添わなくてはいけないはずの自分は、また決断できずにただ傍観している。

 迅の言う通りだ。自分には伊織の未来をどうこうする資格なんて、ありはしない。

 

『これは直接病院へ連れていった方が早いわね。杏、連絡だけお願いできる?』

 

『り、了解しました!そっ、それで、伊織くんは……その……』

 

 ここまで取り乱している杏を見るのは初めてだ。

 

『安心して。伊織は死なないわ。これくらいでくたばるような人間に育てた覚えはないもの』

 

 手元を見る。伊織の首から流れる血が、望の腕まで滴って、地面へ落ちていく。

 大丈夫、伊織は死なない。呼吸が薄くなってきた従兄弟への焦りを必死に抑えて、望はアフトクラトルの人型二人へと視線を向けた。

 

「……それで。どちらが私の相手をしてくれるのかしら?」

 

 挑戦的な目で、ゆっくり二人を見つめる。

 老人の方──ヴィザはこれといった反応を示さなかったが、女の方が釣れた。

 

「ふざけたことを……!」

 

 こちらを睨みつけて、言い放つ。

 伊織がヴィザを倒したことは、様々な事象が重なって起きた奇跡に近い出来事だ。恐らく、もう二度と起きないだろう。

 それを理解せずに自分も番狂せを起こせると思い上がった望へ、ミラに怒りが込み上げていた。

 

「ふざけたこと……ね」

 

 再び、腕から血液が滴り落ちる。

 伊織は意識を失っている。大切な存在を傷つけられて腑が煮えくりかえるこの感情を、隠す必要はない。

 

「……こっちのセリフよ」

 

 ぞくり、と背筋に銃口を突きつけられたような冷たい感覚がミラを襲う。

 ミラが怯んだ一瞬。望は弾丸を周囲に呼び起こす。

 

「ハウンド」

 

 展開した追尾弾は、真っ直ぐ飛んでいって、ミラを無視して、隣へ曲がっていった。

 

「ヴィザ翁!」

 

 ヴィザへと向かう弾丸を見て、はっと、ミラは我にかえる。一見するところ、望のあれはただの挑発に思えたが実際は違う。あのやり取りで、ミラに攻撃をするものだと意識に植えつけて、不意を突いた。

 ヴィザは生身だ。向こうはこちらのトリガーの仕様──生身の人間には当たっても死なないようになっていること──はわからないだろう。不意を突かれて、ヴィザを守る方に意識を向けるはず。

 

「小癪……!」

 

 ミラのトリガー、窓の影がヴィザの前方に開く。通るものを任意の場所へとワープさせるトリガーを使って、望のハウンドを吸収し、そのまま跳ね返した。

 ヴィザの無事を確認してから、明確な敵意を持ってミラは望へと視線を戻す。ここまで虚仮にされれば、やり返さなくては気が済まない。

 と、視線を戻したミラだったが。

 視界に映った望は、遥か遠くへと離脱していく後ろ姿だった。

 

「行かせなさい」

 

 感情のまま前のめりになったミラをヴィザが諌める。

 熱くなった心のまま、鋭い目つきでミラは振り返った。

 

「ですが!」

 

「深追いする理由はない。我々の最優先は、金の雛鳥だ」

 

 じっと、ヴィザはミラの両目を見つめて外さない。

 静かながら、重みのある威圧感のこもった視線が、だんだんとミラの熱さを鎮めていった。

 

「……失礼いたしました」

 

 遠征艇へと帰還します。そうミラが言って、大きな門が開く。すでに門の中へと入っていったミラを追うようにゆっくりと歩を進めたヴィザは、その傍らで呟いた。

 

「想像以上に、貴殿を縛る鎖は重いようだ。どうか、潰されてしまわぬよう────」

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 アフトクラトル、遠征艇。

 

「あれが金の雛鳥ですか。いやはや、想像以上だ」

 

 ミラに回収され、広間へと戻ったヴィザが見たのは、モニターに映る千佳の姿だった。

 アフトクラトルの神にもなり得るトリオンを持つ雛鳥が居る。事前にその情報は知らされていたが、実際にその力を目の当たりにすると想像以上だ。何の小細工もないただの射撃が、ラービットの装甲を軽々と破壊していく。あれは射撃というよりも砲撃と表現した方が正しいかもしれない。

 

「ヴィザ翁!戻ったか!」

 

 ヴィザの声に反応したランバネインが、声色を弾ませて迎え入れた。

 彼はすでに役目を終え、仲間の働きを見守る立場。遠征当初よりも幾分か気楽で、純粋に金の雛鳥のトリオンに興奮している様子が見て取れる。

 

「ふむ。途中から見れていなかったが、そっちもかなりの死闘だったと見受ける」

 

 ヴィザが生身で居ることの意味を察したのだろう。楽しげな雰囲気を完璧にしまい込んで、ランバネインは言った。

 

「二度も負けないことは確実ですが、二度も起きないようなことを彼がやってのけたのは紛れもない事実。言い訳なぞありますまい」

 

 そうか、と一言。ヴィザを糾弾するでもなく、相手への捨て台詞も吐くことなく、ランバネインはヴィザの言葉をただそのままに受け取った。

 

「ヴィザ翁にそこまで言わせるとは。オレも一度手合わせ願いたかったものだ」

 

「彼らとはいずれまた戦うこともあるでしょう。……その時に彼の姿があればよいのですが」

 

 彼を抱いて離脱した、あの女射手の目。あれはすでに壊れている者の目だった。虚ろで暗く、しかしながら彼を捉えて離さない。一言で言えばそれは、歪んだ愛情を捧げるような目であった。そして何より一番救いようがないのは、それに彼女自身が気づいていないこと。恐らくはこれからが、玄界の曲芸師にとっては本当の戦いとなるだろう。

 だが、今となってはもはや、それもどうでもいいことだ。

 

「して、ハイレイン殿の姿が見られませんが。すでに出られたあとでしょうか?」

 

「ああ。想定通り、金の雛鳥を捕獲しに行ったよ。隊長手ずからとは、敵ながら同情する」

 

 

 

 

 

 

 

 

 千佳の放った射撃と、着弾した衝撃が大きな音を立てている。

 圧倒的なトリオンを最大級の出力で放つアイビスは、ラービットを粉々に砕いて無力化した。

 その様を見て、C級たちの意気が吹き返す。

 この調子ならいける、と。多くの隊員はそう考えた。

 

「まずい……!」

 

 だが、その中で修は一人冷や汗を流した。

 一見すれば戦況はこちらに傾いたように思える。だが、そうなっていること自体が修にとっては問題だった。

 

「え?でも、チカ子が全部倒しちゃいそうじゃ……」

 

 夏目の感想はもっともだ。うまくいけば千佳が新型を全て倒してしまうかもしれない。

 それこそが問題なのだ。

 修は伊織の言葉を思い出す。

 ────千佳にトリガーを使わせてはいけない。

 その時は切羽詰まった状況を前に、ぼんやりと忠告を受け取っていたが、その言葉の真意がようやく理解できた。

 敵はC級を狙っている。それはC級が緊急脱出できないから。アフトクラトルがどこでそれに気がついたのかはわからないが、ともかく今の敵の狙いは訓練生だ。そんな中、桁違いのトリオンを見せる訓練生が現れたとなれば、C級という無差別なものだった狙いが、千佳一人に絞られてもおかしくはない。

 そして。

 自分一人を犠牲にすればみんなが助かると気がつけば、千佳は迷わずそれを選ぶだろう。

 

「……!」

 

 一瞬、千佳の砲撃の手が止んだ。青ざめた表情で、どこか虚空を見つめている。

 修ははっとした。

 

「敵……!」

 

 恐らくは千佳のサイドエフェクト。敵をある程度感知できる。

 ラービットを倒しすぎたせいで。伊織の忠告を、修がもっと深く考えなかったせいで。更なる敵を呼び寄せてしまった。

 

「よくやった、ヒュース。ここからは私も参加する」

 

 門から出てきたのは、修が思っていたよりも若い男だった。

 ランバネインのように闘気の塊でもなく、エネドラのように鋭い悪意でもない。けれども黒い角を二つ生やした敵からは、何か恐怖のようなぞわりとした悪寒が心の内側から走るような、そんなプレッシャーが感じられた。

 

「了解しました。マーキングもすでに完了しています」

 

卵の冠(アレクトール)

 

 ヒュースの言葉に頷き、人型がその名を放った先。

 生物を模した無数のトリオンの弾丸が、C級たちへと襲いかかる。

 空からは鳥が。正面からは魚が。能力も、その威力ですらも測れないが、絶対に触れてはならないということだけはわかる。

 

「なっ……!?」

 

『なんだこのトリガーは……!?』

 

 だが、敵のトリガーはその恐怖心すらも上回った。

 トリオンからなる生物がC級に触れた途端。触れた場所がぐにゃりと曲がって、終いにはC級たちは次々とトリオンキューブへと変えられていく。

 千佳の奮闘で再び灯り始めた戦意が、一気に消し飛ばされるほどの光景だった。

 

「ちっ、千佳!!」

 

 触れた相手をキューブに変えるトリガー。緊急脱出のないC級──千佳には相性が最悪だ。

 彼女のもとへ飛んでいった鳥をただ呆然と、大声で案じることしか修にはできなかった。

 防ぎ様なんてありはしない。

 ここまで頑張ったのに、こんなあっけなく終わってしまうなんて。

 諦めかけた、瞬間。

 

「エスクード」

 

 聞き慣れた声と共に千佳の目の前にバリケードが現れる。

 千佳を守る壁となったエスクードに敵のトリガーは次々と衝突していって、小さなキューブとなってぽろぽろと溢れていった。

 

「よっと」

 

 聞き慣れた声がもう一つ。人型二人を狙って上空から蹴りが。

 難なく避けられたが、攻撃の手は止んだ。

 

「迅さん!空閑!」

 

 顔を明るくさせて、修は二人の名を呼んだ。

 京介や千佳が踏ん張って、何とかここまで繋ぐことができた。

 

 そして、少し遅れて、もう一人が空からやってくる。

 

「あ、あんなに高く飛んだのは初めて……」

 

「……えっと」

 

 何だか嬉しそうな、よくわからない表情を彼女はしている。

 修は初めて見る隊員だ。

 

「気にするな、オサム。なす先輩はやる時はやる人だ」

 

「玲ちゃんはメガネくんたちと一緒にC級を」

 

「了解!」

 

 玲ちゃん、と呼ばれた隊員はすぐに臨戦態勢を整えると、エスクードを飛び越えてC級の方へと走っていった。一歩遅れて、修もそこへと向かっていく。

 

「おれは?」

 

「もちろん、遊真はこっちだ」

 

 修と玲はC級を引き連れて、基地の入り口へと退却していった。京介もタイムリミットまでそこに加わるらしい。

 残ったのは迅と遊真の二人。そして、敵の人型も二人。

 

「……うーん、これは予測外」

 

 敵を見る。

 片方の人型に見えた未来は迅が予想だにしていなかったものだった。少し、やり方を考えなくてはならないかもしれない。

 

(向こうの人型はあと一人……。あのワープ使いはきっとメガネくんのところへ行くはず)

 

 アフトクラトルにはワープ使いの女が残っている。他にも向こうの遠征艇には人型が居るのかもしれないが、迅の予知では戦闘に出てくる相手はその一人だけだ。

 京介はもうじき活動限界を迎える。信頼しているとはいえ、玲と修でC級を守りながら人型と戦うのは……。

 

「いや。心配する必要なかったな」

 

 そこまで考えて、ふと見えた未来に迅は笑った。どうやら、迅のサイドエフェクトは心配ないと言っているらしい。

 

「ラストスパートだ。ここでおれたちが負けたら、今までみんなが頑張ってきた分が全部台無しになる」

 

「ふむ。そんなに強いの?」

 

 遊真が相槌を打つ。あのキューブに変えるトリガーは遊真にとっても規格外のもののはずだが、相変わらず冷静だ。

 

「相当ね。だけど、未来は無限に広がってる」

 

 黒い角の人型は、恐らくアフトクラトルの指揮官。そしてもう片方は今後のためにも注意しなくてはならない相手。かなり強い相手なのは言うまでもなく、考えることも多い戦いになる。

 だが。それは不覚を取っていい理由にはならないはずだ。

 

「だから、絶対に勝つ。メガネくんたちのためにも、あいつのためにも」

 

 

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 

 

 杏が連絡を入れた病院までもう少しだ。警戒区域はおろか、トリオン兵すら出ないような場所まで来たが、トリオン体は解除せずに全速力で街並みを走る。後で上に何か言われるのだろうが、そんなことはどうでもいい。

 ……と、走る傍らで。伊織の容態に変化はないか、ちらりと視線をやった時だ。

 

「メガネくん……たち……は……」

 

 伊織の意識が、戻った。

 開口一番が他人の心配だなんて、伊織らしいと言えばそうなのだが。こんなときですら自分のことは勘定に入っていないようで、胸が締めつけられる。

 

「大人しくしていなさい。傷口が広がるわ」

 

「あはは……珍しく……優しいなあ……」

 

「……っ」

 

 はっとして、口を噤んだ。

 これ以上、伊織の側へ行ってはいけない。彼の味方をしようとしていると判断されれば、玉狛のように手放されてしまう。伊織から加古隊という唯一の居場所を失わせないためにも、それだけは避けなくてはならない。だから望は、彼の行動には一切口を挟まず、敵にも味方にもならないようにしてきた。

 朦朧とした意識の伊織には、やり切れない表情の望はあまり目に入っていないらしい。どこか夢でも見ているかのような朧げな声で、伊織は言った。

 

「血……止まらへんなあ……。このまま……死ぬんやろか……」

 

「……そんな弱音を吐いて、伊織の方がらしくないわね」

 

 少しだけ、伊織の口元が笑ったように感じる。

 これでいい。マイウェイをモデルウォークする加古望と、己の信念を一人で構わず進む琴吹伊織の道は交わってはいけない。

 そう自分に言い聞かせて、突き放すような言い方をした罪悪感を押し殺す。こうするしかないのだ、と。

 

「なあ……姉貴……」

 

 こちらの方へ首を動かそうとして、伊織は痛みに顔を歪めた。

 もうこれ以上、話さなくていい。無理をしなくていい。心がどんどんと、苦しくなってくる。

 

「俺……頑張った……かな……」

 

「……っ……!」

 

 望の表情が、さらに辛くなる。

 素の伊織の弱々しい声が望の心に届いて、どうしようもなく胸が痛んだ。彼が怪我をしていなければ、今すぐ強く抱きしめていただろう。

 口が震える。優しい言葉をかけたくなる衝動を何度も堪えて、何度も唇を強く噛んだ。

 

「…………」

 

「伊織?」

 

 返事はない。再び意識を手放した伊織を見て安堵してしまった自分に、ひどく嫌悪感を覚えた。

 

 一番近くに居ながら、伊織が道から外れることを防げなかった。一番近くに居ながら、道から外れた伊織を救ってやれなかった。

 伊織に何かをしてあげられたことは一度もない。彼をボーダーに入れた目的も結局、決断できずに果たせなかった。

 自分には、伊織を真っ当な道へと戻す能力も、資格もない。幼かった頃から今日に至るまで、望の胸の奥底に秘められた感情は罪悪感と無力感だ。マイウェイをモデルウォークする、なんて言われ方をするような生き方になったのは、その反動────というのは、都合のいい話だろうか。

 もう、伊織が帰って来られる場所は加古隊だけだ。あれだけ楽しそうに過ごしていた玉狛も手放してしまった。

 だから。せめてもの償いとして、この場所は守り続けたい。そのために、伊織の敵にも味方にもならない、どっちつかずの関係を続けている。

 伊織と共に過ごす中で、望も彼との関係を積み違えてしまった。もはや正しいところへ戻すことは出来ないくらいに高く、歪んだ形に。

 

「……頑張ったわよ。他の誰よりも、ずっと」

 

 それをきちんと伊織に言えていたのなら。伊織に悲しい未来は訪れなかったのだろうか。伊織が苦しむことはなかったのだろうか。

 時間は誰にとっても平等に、無慈悲に過ぎていく。人は誰だって、変わらないままではいられない。遊真と出会って、修を助けようと動いて。小南に再び背中を預けて、今までにない大怪我を負って。望の手の届かないところで、伊織を取り巻く状況は大きく変わっていった。立ち止まって現状維持を望んでいるだけでは、いつかその変化に置き去りにされてしまう。そんなこと、わかっていたというのに。

 望は知る由もない。迅が彼女に伝えた未来は、まだほんの一端でしかないことを。だが結局のところ、あの時望が決断できなかった時点で。立ち止まってしまった時点で、遅かれ早かれその未来が訪れることは決まっていた。

 

 どれだけ別の部分を切り取っても、結局のところ行き着く先は同じ。それはまるでフラクタルのように単純かつ複雑で、まるで三門市を覆う雲のように澱んで、心に覆い被さって灰色に染めている。

 新型討伐数、6体。人型撃破数、1人。誰しもに避けられる嫌われ者が、誰かにとっては正義の味方だったかもしれない戦いは、それだけの数字を残して幕を閉じる。



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