ようこそ平穏至上主義の教室へ (暇です)
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迂闊な失敗
「えっ、ここってよう実の世界なの……?」
バレンタインデーなのにも関わらず、女子からは一つもチョコをもらえず、なぜか男子から三つもチョコをもらってしまったことを俺は落ち込みながら、頬杖を突いて、何となくテレビを眺めていた。
すると、あるテレビの番組で国内有数のエリート校として、高度育成高等学校という高校が紹介されていた。
その単語を聞いたと同時に、頭に衝撃が走った。それから、俺の前世の記憶が断片的に流れ込んできたのだ。
俺の前世は高校生の時に、自動車にひかれて命を落としてしまったらしい。そして、その記憶によう実についての情報も入っていた。
だから俺は、この世界がよう実であると気づくことができた。
その時は、椅子から転げ落ちて驚いた。実際に。お陰で全治2ヶ月の怪我を負ってしまうほどには。
最初は、ファンだった作品の世界に転生したとあって、感慨深いものがあり、興奮に包まれていた。けれど、時間が経つにつれてそんな興奮は薄れて行った。
よく考えたら、よう実の世界は基本的に普通の世界と差異が少ないのだ。だから、普通に生活しているだけでは、よう実の世界にいるという実感はない。
そんでもって、俺は平穏が大好きな人間だ。平穏はいい、心が落ち着く。人生を共に添い遂げようと思うぐらいには愛してる。もう平穏と結婚しようと思ってるぐらいだ。だから彼女はいない、作ってないんだ、出来ないんじゃなくて。
よう実はまだマシな方だが、それでも平穏からかけ離れていることには変わりない。あくまで空想の世界として楽しむから良いのであって、実際に体験したいとは思わなかった。
そんな考えを維持して、中学生の俺はさらさら高度育成高等学校に入る気はなかったのだ。
けれど、なぜか俺は高度育成高等学校に入ることになってしまった。運命がまるでそう告げているようにと、物事がとんとん拍子に俺にとって悪い方向に続いたのだ。
これ以上入るのを渋ると、かえって平穏が遠ざかってしまうような状況に陥り入らざるを得なくなってしまった。
ふざけんな。今すぐ一人で「高度育成高等学校行きたくない隊」でも作ってデモ活動でもしてやろうか。
まあ、そんなことをしてしまうと、逆にマッハで平穏から遠ざかってしまうので絶対にしようとは思わない。
結果として、俺はよう実の世界へと足を踏み入れることになったのだ。
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四月。多くの人々にとっては、新たなる始まりを告げる季節だ。
ゆらゆらと程よく体が揺られて、眠りへと誘われる。外の風景が、後ろへ慌ただしく走っている。
窓から差し込んだ日の光が、俺を照らし、日向ぼっこをしているような気持ちになった。そのまま、学校につくまで寝てしまおうと思ったのだが、突然バスの中に響いた怒声によって、現実へと引き戻されることとなる。
顔を怒声が聞こえたほうに向けると、席に座っている一人の少年とOLのお姉さんが言い争っているのが見えた。
その光景は、一度も目にしたことなどないはずなのに、どこか見覚えがあった。デジャブという奴だろう。
そこで、ある一つの事実を思い出した。
......はあ。思わず自分の迂闊さに呆れてしまう。
よく考えたら、よう実の世界での最初のイベントはバスの中で起きるんだった。よっぽどの理由がない限り、たいていの生徒は開始十分前ぐらいにつくようなバスに乗り込むだろう。となると、同じバスに乗り込む可能性はかなり高い。そんな簡単なことすら失念していた。
今言い争っている金髪の少年は、高円寺と言いよう実の登場人物だ。基本的に傍若無人な性格で、そしで、OLのお姉さんと揉めている理由も、高円寺が優先席をおばあさんに譲らなかったからである。
けど、イケメンで御曹司、身体能力や勉強も出来るハイスペックだ。爆発してしまえ。
話がずれたが、ここに高円寺がいるならば……
軽くバスの中を見渡すと、すぐに目的の人物を見つけることができた。一人は、よう実の主人公である綾小路。もう一人はおそらく綾小路のヒロインであろう堀北だ。
思わず顔を抑えて、長く、真っ黒な溜息をついた。
こんな物語のど真ん中の場所に来てしまうとは。
結局は学校についたら嫌でも最低限はコミュニケーションをとらなければならないが、出来れば物語の舞台に俺がいることは避けたいのだ。ほかの生徒よりも余裕をもって早く来ればよかった……。
いや、確かこの言い争いは黙っていれば勝手に櫛田が納めてくれるはずだ。あくまで一人のモブとして、大人しく様子を見守っていよう。
やがて、原作通りに話が進んでこの騒動は事なきを得た。原作に介入するようなことが起きず、胸をなでおろしているのもつかの間、新たなる面倒ごとが俺を襲ってきた。
ふと、視線を動かすと綾小路と目が合った。それだけではなく、綾小路は俺のことを訝しむような眼で見つめていたのだ。
……まさか、俺の表情や雰囲気から何かを勘づいたのか?
綾小路はホワイトルームという幼少期から英才教育を施すことによって天才を量産しようとしている機関で、常にトップに君臨してきた麒麟児である。
僕はモブですよみたいな顔をしておきながら、実際はチートスペック野郎なのだ。こいつは自動車にひかれるべきだと思う。
多分こいつはそうなっても死なないような気がしてしまうけれど。
そんなチート野郎ならば、俺の反応が一般的なものと異なることに何となく気づき怪しんだって不思議じゃない。
反則だろマジで。そんなに頭がいいとババ抜きとか楽しめないんじゃないんだろうか。よし、たぶん人生の充実具合では俺が勝ってるな。ババ抜きができないとか人生の8割は損している。
そんなくだらないことを考えていると、アナウンスが目的地への到着を告げた。俺以外の生徒が下りたのを確認してから、俺も続いてバスを降りた。
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「やっぱりDクラスかよ……」
貼られていたクラス分け表に目を滑らせると、自分の名前をDクラスの欄で見つけた。「平野 耕太」それが俺の名前だ。
一応この人生は二週目なのだが、別に俺は要領がいいわけでも運動ができたりするわけでもなかった。
よくて平凡といったところだろうか。
そんな俺では、精々Dクラスが限界だということは重々承知していたものの、心の中では騒動に巻き込まれにくいBクラスになれることを祈っていたが無駄だったようだ。
特に、筆記に関してはかなりやばかったからな……
そろそろ時間に遅れてしまいそうなので、早足で廊下を歩いていると、曲がり角から出てきた少女とぶつかりそうになってしまった。
間一髪で、急ブレーキをかけて事なきを得る。しかし、もう少しで少女にけがを負わせてしまったかもしれない。気をつけなければ。
「大丈夫ですか? すいません、少し急いでて」
心の中で反省して、謝罪の言葉を口にすると同時に、少女のことを見る。少女は杖を持っており、きゃしゃな体形をしていた。おそらく、体が弱いのだろう。
頭には茶色の帽子をかぶっていて、髪は肩に届くぐらいの長さで白髪。
そして、彼女の顔を視界に収めた瞬間、目を疑った、息をのんだ、驚愕した、肝をつぶした、胸がつぶれた、泡を食った。
そんなありとあらゆる言葉を表現しても足らないほどに、少年は目の前の出来事に対して驚きを隠せなかった。
「大丈夫ですよ。平野くん……久しぶりですね」
少女は首を傾げて、俺に向かって微笑む。まるで、その様は天使のように幻想的だった。
幼き頃の記憶が、よみがえった。
坂柳との出会いは、俺がまだ純粋だったころ。俺の心が煮込まれた泥のように黒く染まっていなかったとき、控えめに言って天使だったころのことだ。
俺は、たまたま一人でチェスをさしている少女を見つけた。ぶっちゃけ、その少女からしたら余計なお世話なのだろうが俺にとってはそのことがなんだがすごく寂しいことのように思えた。
だから、俺は少女に話しかけた。はじめは警戒されていたものの、俺に悪意がないと分かったのか途中からそれなりに打ち解けることが出来た。
成り行きでその少女とチェスを指すことになったのだが、俺は全くチェスのルールなどというものは知らなかった。何回か指している様子を目にした事はあったが、別に知ろうと思わなかった。今でもよくわかっておらず、駒の名前とかはよく知らない。
少女が駒を最初に動かすまでは、駒を相手に投げて何発当てられるのかを競うゲームだと言われても信じただろう。……流石にそれは嘘だ。
まあ、流石の俺でも駒を動かして、相手の駒を取っていき、将棋でいう王的なものを詰ませるんだろうなとは理解できた。
どれが王なのかは分からなかったが。
けれど、そのころの俺は怖いものなしだ。適当に駒を動かし、見様見真似でチェスを指し続けた。
すると、勝ってしまった。そう、勝ってしまったのだ。
いきなり少女が険しい顔をして、頭を下げて参りましたと言ってきたときは戸惑いを隠せず、口をあんぐりと開けっ放しにしていた。
その後は、あたりが暗くなってきたのでまた会おうと少女に別れを告げて俺はそこから去っていった。
多少特殊な所はあるが、一見微笑ましい少年時代の思い出以外の何物でもない。
その少女が、坂柳 有栖であるという点を除けばだが。
坂柳 有栖。将来Aクラスの主導権を握る少女で、学園長の娘で、天才で、ドSである。
どんだけ属性を盛り込むんだ。色々とメインキャラクター臭い要素がてんこ盛りである。
「あ、ああ。久しぶりだな」
「はい。平野君もお変わりないようで何よりです」
「そういう坂柳も、変わってねえな」
やっぱ俺のこと覚えてんのか。俺は忘れかけてたけど。まあ、同年代の年齢の子にチェスで負かされるというのは、坂柳にとっても衝撃的なことだったのかもしれない。
いくら幼いとはいえ、坂柳ならばかなりの実力を持っているはずなのに。ほんと何で勝てたんだよ俺。
そういや、胸の大きさは昔会った時とほぼ変わっていないな。
貧乳の美少女はある一定の層から高い支持を得ている。そういう人たちにとっては、坂柳はたまらないだろう。
「平野くん? 失礼なことを考えていませんか?」
「えっ。イヤ、ソンナコトナイデスヨ」
坂柳が鬼と死神が合体したよう顔となり、俺はプルプルと小刻みに震えながら返事をした。
クソっ。なんでこの世界はこういう洞察力がバケモンのやつばかりなんだ。村人Aの俺には荷が重すぎる。
「では、私はこれで。また会いましょう」
「えっ? あ、おう……」
阪柳は別れを告げ、俺に背を向けて去っていった。
思ったよりもあっさりと終わったな。もう少し世間話でもしたりするもんかと思っていたのだが。
まあ、俺としてはそちらのほうが都合がいいので大歓迎だ。正直言って、坂柳と深い交流を持っていると、面倒ごとに巻き込まれる確率が高くなる。出来れば名前を知られているこの状況も避けたかったぐらいだ。
けど、なんか嫌な予感がするんだよなあ……
「って、やべ。もう時間ねーじゃん」
そりゃ坂柳もさっさと話終わらせて帰るわけだ。早く行かなければ。
俺は小走りで教室に向かおうとしたが、やはり思い直し、ゆっくりと坂柳と同じ方向へ歩いて行った。
……そういや、坂柳はなんで教室とは真逆の方向に進んでいたんだろう。トイレにでも行きたかったのか?
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この世界は理不尽だ
坂柳と数年ぶりに望まぬ再会をした後、特に何事もなく教室についた俺は、自分の席を確認し、椅子に腰を下ろした。
……思いっきり綾小路と堀北の正面の席であることからは目を背けて。
あたりを見回すと、初対面ながらも生徒たちは近くの人とある程度打ち解けて話していた。
なんかもう出遅れた気がする。初日ながらも、すでになんとなくグループのようなものが出来始めていた。
俺も慌てて、近くの生徒に話しかけようとするが、一足先に別の生徒と話し始めてしまった。
……いや、もしかしたらそうでなくとも俺は躊躇して話しかけることができなかったような気がしなくもない。くそ、これじゃ綾小路と同じじゃないか。
そんなことをしている間に、いつの間にか俺は孤立していた。
窓の外から見える小鳥すらも、2匹が体を寄せ合っていた。なんだか小鳥すらにも負けたような気がする。
まあ、こんなことはすでに幼稚園の時に慣れた。鋼のようなメンタルで、何とか気持ちを立て直す。
なにも、孤立しているのは俺だけではない。主人公である綾小路もそうだし、堀北もそうだ。まあ、堀北は俺や綾小路のようなコミュ障というよりは一匹狼という感じだが。
でも、結局綾小路は何人もの女子と関係を持って、ちょっとしたハーレムを築くんだよなあ。
というか、今現在進行形で堀北と痴話げんかのようなものをしている。これを聞けば二人とも全力で否定するだろうが、俺からすると痴話げんかにしか見えない。
その事実にもう一度俺の心が打ちぬかれた。どうやら俺のメンタルはただのメッキだったようだ。
綾小路に呪いの念を送りながら、溜息をついた。別に俺は平穏に暮らしたいだけでボッチで学校生活を送りたいわけではないんだがなあ……
「なあ、ちょっといいか?」
「……うん?」
いきなり背後から声をかけられた。身をよじって後ろを振り向くと、当たり前だがそこには綾小路がいた。
その隣には冷たい目をした堀北が、綾小路に鋭い視線を向けている。
「……なんだ?」
「いや、親睦を深めたいと思ってな。俺は、綾小路清隆という。こいつはとも、バスで知り合った堀北だ」
「貴方と知り合った気はないのだけれど」
綾小路は堀北のことを友達と言いかけ、すんでのところで知り合いに言い直す。なのにも関わらず、堀北の口から出た言葉は辛らつだ。
いや、どう考えても知り合ってはいるだろ。ツンデレにもほどがあるぞ。
そんで要は、俺が綾小路と同じようにボッチだったから話しかけたということか。もしかした、綾小路のことだし俺を探るためという可能性もある。
いや、流石にそれは考えすぎだろう。綾小路は原作でも友達を欲しがっていたみたいだし、そこにおあつらえ向きの俺が来たら話しかけるのも納得だ。
とは言っても、面倒くさいな。綾小路と深い関わりを持つと、明らかに面倒ごとに巻き込まれる確率が高くなるだろう。
いっそ、綾小路を味方につけてしまったほうがいいか?
「……ああ、いいぞ。俺は、平野耕太だ。じゃあ、綾小路はどうしてここに来たんだ? 就職率目当てか?」
少なくとも、反感を買わないように適当に受け答えはしておくか。あまり深い関係にさえならなければ大丈夫だろう。
「そうだな。まあ、就職率は大きな魅力だよな。ここを出ただけで将来の成功を約束されるようなものだし。平野はどうなんだ?」
「俺は、入らざるを得なかったというか。無駄に親からこの学校を推されたもので」
「そうなのか……」
教室の扉が開いて、大柄な金髪の男が入ってきた。ついさっき、バスの中でもめ事を起こしていた高円寺だ。
その様子を見て、堀北は顔をゆがませる。なんか表情だけで人を殺せそうな顔になっていた。綾小路も苦笑交じりに溜息をつく。
まあ、そりゃそうだ。あんなひねくれた言動をしている奴が同じクラスとあれば気も滅入るだろう。
しばらくして、茶髪のスーツ姿をした女教師と思われる人が教室の中に入ってきた。茶柱先生だな。
つかつかと歩いて来て教団の前に立つと、原作と同じように話し始める。Sポイントとこの学校のルールの説明だ。
学校のルールに関しては、外部との連絡を禁ずるとか、寮で生活するとかの入学前にも説明されたことだ。
Sポイントとは、この学校で現金と同じように使えるポイントである。そして月の初めに毎月10万ポイントが振り込まれることとなっている。
「思ったよりもお堅い学校ではないみたいね」
「確かにな」
堀北達が茶柱先生の説明に対して思ったことを述べる。
まあ、ひと月10万てめちゃくちゃ大金だからな。俺の小遣いの1000倍だ。
まあ……これに関してはクラスポイントによって変動するので、毎月10万円振り込まれることが保証されているわけでない。
クラスポイントとはクラスの成績によって決まるポイントのことで、クラスポイント×100だけポイントが振り込まれるようになっている。
Dクラスは一か月間ですべてクラスポイントを吐き出してしまい、0円生活をすることとなるのだが。恐らく今回も同じようになるだろう。俺はそのことを生徒たちに伝えるつもりはない。
ちらりと教室の隅の天井に取り付けられた、俺たちを監視しているカメラに目を向ける。あのカメラによって授業態度を見定められ、その結果Dクラスは0ポイントとなってしまうのだ。そこまで授業態度が悪い生徒たちにも問題はあるのだろうが、やはりこの学校はなかなかに厳しいよな。
ふと、顔に視線を感じた。顔を正面に向けると、茶柱先生と目が合った。その瞳に宿る感情は……興味か? もしくは期待といったところだろう。
またもや何か感づかれたか? 今ので気づかれるのは理不尽すぎないか?
慌てて視線を宙に向ける。焦りからやや挙動不審な様子になってしまった。
その後茶柱先生は説明を終えて、教室から出ていった。……流石に大丈夫だろう、多分。
$$$$$
入学式を終えた俺は、日用品を買いそろえるためにコンビニへと向かっていた。そこらこちらから、生徒の初々しい声が耳に入ってくる。その声を聴くと、改めて一人でいる自分がむなしくなり肩を落とす。
やがて俺はコンビニへたどり着く。コンビニと言えども立派な外装をしていた、この学校は厳しいところもあるがこういう所は金かけてんだよな。
中へ入ると、綾小路と堀北が顔をのぞかせた。綾小路は俺の存在に気づいたようで、俺の所まで歩いてくる。
堀北に冷たくあしらわれていたのか、綾小路の表情はどことなく嬉しそうだった。帰れラスボス。
「よう、平野もここに来たのか」
「ああ。日用品は買いそろえておこうと思ってな」
陽気な声で話しかけてくる綾小路。なんだか原作よりもコミュ力が高いような気がする。
「ここ、コンビニなのに品ぞろえ豊富だよな。……カメラもあるかな? 流石にないか」
「ん? 平野は写真を撮るのが好きだったりするのか?」
「まあ。それなりには。ここの敷地は意外と自然があるし、普段はお目にかかれないようなものが多いからな」
俺は結構カメラが好きなのだ。そんなのスマホでいいじゃないかと思う人もいるだろうが、それは違う。あのカメラの重量感というか、写真を撮ってる実感があるカメラが俺は好きなのだ。
けど、ほぼ次の月に10万ポイントが振り込まれないことは確定しているので、ほかの部分で節約しなくてはな。
その時、店内に怒号が響き渡って反響した。須藤の声だ。原作知識のおかげでこのイベントが起こることは知っていたので、驚きはしない。どうせ勝手に解決するだろう。
「悪い。ちょっと行ってくる」
綾小路が俺に一言謝罪を入れて、須藤たちの争いを仲裁しに行った。原作通りだな。俺はこの隙におさらばしてしまおう。
俺はまっすぐにコンビ二の出口へと向かった。そして、そのまま寮へと向かおうとすると……
「あら、平野くん。奇遇ですね」
コンビニから出てすぐのところに、坂柳が佇んでいた。顔にうっすらと微笑を浮かべ、俺に話しかけてくる。背後の夕日から差し込む暖かな光が、坂柳の美貌を引きだたせていた。思わず俺はごくりと息をのむ。
「ああ、奇遇だな」
坂柳と話していると周りの注目が妙に集まっていた。そりゃ、俺みたいなモブと坂柳が話していたらそうなるか。さっさと会話を終わらせて帰りたい。そんな思いが態度に出たのか、少し億劫そうな声で返事をする。
早く会話を終わらせてくれと願いを込めるが……
「少しお茶しませんか?」
そんな願いを神様が叶えてくれるはずもなかった。
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坂柳に連れてこられたのは、どことなく落ち着く雰囲気をまとった喫茶店だった。木製の椅子と机、一本だけバラが生けられている花瓶、気にならない程度にかかっている音楽。個人的には気に入ったセンスを持つ店だ。
目の前で坂柳は、優雅な所作で口元にカップを運び、一口紅茶に口を付ける。美少女なんて何やっても絵になるのに、そんな上品な所作を行えばそれはさらに顕著になる。
店内の男の生徒の何人かは坂柳に見惚れていた。
「……で、どうしたんだ?」
「どうしたもこうもありませんよ。ただ平野君とおしゃべりしたかっただけです」
「おしゃべりねえ……。例えばどんなことだ?」
「そうですね。例えば、平野君はAクラスに上がろうとする気はありますか?」
「……どういうことだ?」
坂柳の言葉に対しての驚きを隠しながら、俺はとぼけたふりをする。もっとも、内心は心臓バックバクだ。破裂しそうである。
待て、こいつもうそのことに気づいているのか? クラスの成績がそのままクラスのランクに反映することを。いくらなんでも早すぎる。
気づいたとしてもせいぜい、振り込まれるポイントが10万ポイント固定ではないことぐらいだろ。どこまで読めてんだよ。
「ふふっ。その反応、平野君も気づいているようですね」
『平野君も』って、何で俺がそのことを知ってると思っているんだ? 原作知識を持っていることに関しては流石に気付かれていないだろうし。
「まあ、私も確証を得てるわけではありません。あくまで先生の質問の返答から基づいて導き出した憶測です。でも、平野君も同じ考えというならば、可能性は高そうですね」
憶測でも十分やばいわ。俺は原作知識なかったら間違いなく遊び惚けて全額使い切ってるぞ。俺と同じ考えだとしても何の保証にもならないと思う。
優秀すぎて腹が立つレベルだな。このドS低身長貧「平野君?」怖い。さとりかこいつは。
「よく分からないが……。俺は基本的に平穏をモットーに学校生活を送るつもりだ」
「そうなんですか。概ね予想通りですね」
私敵意がないですよアピールをしておくか。僕悪いスライムじゃないよ、プルプル。というより、実際にそうだ。Aクラスの就職率100%は魅力的っちゃそうだが、ぶっちゃけ俺はなりたい職業とか、入りたい会社とかがあまりない。
それよりは学校生活を平穏に保つことのほうが重要だ。
しばしの間、物思いにふけっているといつの間にか机の上にチェスが置かれていた。顔を上げると、坂柳がこちらをじっと見つめていた。
どうやら……指せということらしいな。
ふっ、俺の腕前をなめられては困る。あの後、俺はチェスについての本を読んで勉強しておいたのだ。前の俺と同じと思うなよ。
心の中でどや顔をして、盤面を見る。
そんで……これがポーンだっけ? これがクイーン、いやルークか? あれ、どれがキングだっけ?
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「なんか疲れたーー!」
勢いよくベッドの上に飛び込んでうつぶせになる。布団によって疲れが吸い込まれていくような感覚がする。
外はもう薄暗い。気づいたら日が沈んでおり、暗黒が外を包んでいた。
結局、チェスの勝負は俺が指した後に坂柳が笑みを浮かべたと思ったら、突然片づけてバックにしまってしまった。
あれはどうなったんだろうか?
そして寝返りを打って仰向けになり、長い溜息を一つ。額に手を当てながら思考を巡らせた。
無駄に疲れた理由は半分ぐらい坂柳のせいだと思う。おかげでカメラも買い忘れたしな。
……坂柳は、たぶん俺に対して友好的だ。俺の平穏に暮らしたいという言葉も疑ってはいなかった。だから、そこまでして避ける必要も、警戒する必要があるわけではない。あんまりよそよそしくするのも気が引けるし。
まあ、注目は集めちゃうけど。
俺がそうする理由は……なんとなくだ。第六感、虫の知らせ、インスピレーションと呼ばれるものの類だろう。
なんだか、坂柳と関わっていると死神がまとわりついてくるような不気味さを感じるのだ。
「なんでなんだろうな……?」
思わず疑問が口から出た。声は空気に溶け込んでいくばかりで、答えが返ってくることはなかった。
3人称視点って欲しい? 欲しいよね(断定)
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人には裏の顔がある
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
俺はどっと肩の力を抜いて脱力し、背伸びをした。長い時間、同じ姿勢を取って凝り固まった背中がぽきぽきと音を立てる。
周りの生徒たちもみな、授業が終わったことに歓喜の色を見せていた。
やはり授業のレベルは総じて高く、まじめに授業を受けているとなかなかの体力を使うこととなる。それ故、特に男子は授業中のさぼりや居眠りが横行していた。
……後々後悔するんだろうな。
自分の行動が未来にどんな影響を与えているか知らない生徒たちに対して、少し憐みの念を抱く。とは言っても、俺にどうにかする力は存在していない。諦めて見守るしかないだろう。
「えーっとこれから食堂に行くんだけど、だれか一緒に行かない?」
クラスのリーダーである平田が、生徒たちを昼食に誘う。すると女子が黄色い声を上げて、わらわらと平田のもとに集っていった。
羨ましいなイケメンは。しかもコミュ力もあるとかどうなってんだ。
綾小路はその誘いに対して目を輝かせて参加しようとするが、女子たちに遮られて肩を落とす。綾小路の表情は悲壮感が漂っていた。
「……一緒に行くか?」
その姿があまりにも可哀そうだったため、俺は自ら綾小路のことを誘う。
「行く」
即答だった。コンマ数秒にも満たないのではないかと錯覚する速度で、綾小路はばっと顔を上げて、俺の誘いを了承した。
「お、おう……」
思わず少し引き気味な声が出てしまう。
少し雑談を続けた後、立ち上がって食堂へと向かった。しかし、教室を出たところであるクラスメイトに呼び止められることとなった。
「綾小路君と……平野君だよね? 同じクラスの櫛田だよ、覚えてくれてるかな」
ルビーのような透き通った瞳に、鮮やかな黄色の髪。髪型はショートボブで、顔には満面の笑みを浮かべていた。
胸元にはしっかりとした膨らみがある。多分……Dカップぐらいか?
どこからどう見ても人当たりがよく、心優しい美少女といった感じの容貌をしていた。この女の正体を知らなければ、簡単に騙されていたことだろう。
「なんとなく、だけどな。俺達に何か用か?」
「まあ、俺もそんなもんだ」
綾小路に続いて俺も差し支えのない返答をしておく。ある意味この櫛田とかいう女は一番警戒しないといけない人物だ。
「実は……少し聞きたいことがあって。綾小路君って、堀北さんと仲いいよね?」
「別に仲良くはないぞ、普通だ普通!」
俺のそんな考えもつゆ知らず、綾小路と櫛田は話し始める。
どうやら、櫛田は他クラスの人も含め全員と友好を深めたいようで、堀北とも同じように連絡先を交換しに行ったが、相手にされず困っているようだ。それで、堀北と(周りから見れば)仲のよさそうな綾小路に声をかけたらしい。
これだけ聞くと、クラスメイト思いの優しい少女にしか見えない。こいつが承認欲求お化け女と知らなければ。
しかも、こいつはこんな顔して実は堀北を退学にさせようともくろんでいる曲者だ。誰か助けてほしい。
「改めてよろしくね、綾小路くんと平野くん!」
そう言って櫛田は手を差し出してくる。本当に外面だけは完璧だよなこいつ。
「よろしく」
綾小路は顔を赤らめて恥ずかしがりながら、櫛田と握手をする。
酷い、私のことは遊びだったのね!?
「平野君も、よろしくね!」
そう言って櫛田は俺にも手を差し出してくる。本性さえ知ってなければ可愛いのになあ。上目遣いの効果もあって坂柳と互角以上の可愛さだ。
「ああ、よろしく。承認欲求女」
黙れ、櫛田さん。
……ん? ちょっと待って。俺今なんて言った?
今の発言を頭の中で反芻する。そして、俺は自分の大きな失敗を理解した。
体の芯がスッと冷えていくのを感じた。それから、歯軋りするほどの焦りが俺を襲う。
やばいって。心の声が思いっきり混ざった。思いっきり櫛田の地雷を踏みぬく発言をしてしまった。
これ聞かれてたら堀北よりも優先して俺を退学にさせようと櫛田は行動するんじゃないか?
それはまずい。俺の平穏が害されてしまう。
俺としては多少のハプニングぐらいはそれも平穏の一部であり、許容範囲内ではある。けれど、退学や精神攻撃も含めた暴力は完全にアウトだ。それだけは絶対に避けたい。
「ごめん、よく聞こえなかったな。もう一度言ってくれる?」
櫛田はなんてことない顔で、もう一度聞き直してくる。
……バレてないのか? いや、櫛田は本心を隠すのが非常に上手い、普通にバレている可能性もある。
でも、それにしても反応が見られないな。いくら櫛田とは言え、いきなり自分の地雷を踏み抜かれたら多少は動揺するはずだ。それがないという事は、本当に聞こえなかったのか?
無意識に言ったから小声だったし、滑舌も悪かったからあり得ない話ではないけれども……
いくら俺の小さな頭を捻ろうとも、俺の頭の良さなどたかが知れており真相は全く分からなかった。
取り敢えず、取り繕うように改めて挨拶をする。
「あ、ああ。よろしく、櫛田さん」
「うん、よろしくね!」
綾小路の時と同じように、櫛田は見るものすべてを魅了するような笑顔で返事をした。
……気にしても仕方ない、忘れるか。
吐き出した言葉は戻す事はできない。そう割り切って俺は、気持ちを切り替えることにした。
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「むっず……」
くぐもった声で呻き声をあげる。握りしめていたぺンを離し、机に叩きつけるように置いた。
そして、俺を苦しめた元凶である目の前の小テストに視線を落とす。解答用紙は、最後の3問以外はしっかりと綺麗な字で答えが埋められているが、最後の3問は何度も書いては消しては書いた跡が残って汚れている。
原作の通りに小テストが実施され、もちろん俺もテストを解くことになった。
知ってはいたけれど、明らかに最後の3問が異次元すぎる。頭があまり良くない俺でも、そこまでは比較的スムーズに進めたものの、そこから立ちはだかる巨大な壁。
目の前に聳え立つ巨大な鉄の壁を爪楊枝で破ろうとしている気分だった。
あんなん解けるやつ……いっぱいいるな。俺の周りに少なくとも3人はいる。
「なあ、この小テストどう思う?」
そのうちの1人が話しかけてきた。消えろ、ぶっ飛ばされんうちにな。
「どう思うって、最後の方の問題が異常に難しいことを除けば普通だったな。俺は歯が立たなかったよ。綾小路は?」
「俺もだな。堀北なら解けたんじゃないか?」
綾小路は顔を堀北の方へと向け、話題を振る。白々しいなコイツ、心の中でこんな余裕だぜwwとか思ってたんじゃないだろうな。
「そうね……全問正解は難しいかもしれないけれど、ほとんどは解けたと思うわ」
まあ、予想通りの返答だな。原作と大して違いはなく、普通に優秀だ。堀北の兄も生徒会長で、一度目にしたがすごい威圧感というか、カリスマ性があって、身に纏うオーラが凄かった。やっぱり血筋なんだろう。
すると、綾小路が手を口元に当てていくらか思案した後に口を開く。
「平野、放課後どこかに行かないか?」
やっぱり、綾小路が原作と比べて積極的なんだよな。俺のボッチオーラでも感じ取ったのか?
で、返事はどうするか。断るのもなあ……勇気を出して誘ってくれた綾小路に対して申し訳ない。
「おう、良いぜ」
俺が了承すると、綾小路はパアッと顔を明るくさせる。そんなに行きたかったのか。
少し気にかかる点もあるが、あくまでただの友達として関わるなら大丈夫だろう。綾小路は一応俺以外にも池とかと一緒に遊んでいたし、これぐらいなら大丈夫な筈だ。
授業が終わり、放課後になって俺達は遊びに出かけた。この学校は施設がありえないレベルで充実しているため、よりどりみどりだった。
カフェ、カラオケ、ボーリングなどに一通り行った俺たちは、手頃な場所にあった椅子に腰を下ろして休んでいた。
自販機でお茶とココアのボタンを押し、学生証をタッチするとガコンという音とともに商品が出てくる。
それからお茶を綾小路に向けて投げると、綾小路は咄嗟にそれをキャッチした。
「ほらよ、俺の奢りだ」
「おお……ありがとう」
綾小路は感慨深い声を上げた。恐らく、奢りという学生ならではの言葉にでも感動しているのだろう。
たしかに、今日は心から青春を謳歌していたし、楽しめたな。思ったよりもこの学校はいい所なのかもしれない。
「ここにも無料のがあるのか」
綾小路が自販機に置かれている救済用の無料の商品に目を向けて呟いた。その顔からはかすかな疑念の色が垣間見える。
まあ、いくら何でも10万ポイントが毎月給付されるならば無料商品の出番はない。けれど、クラスポイントが大幅に減少したとなると必要になることは多々あるだろう。一か月後のDクラスみたいに。
「そうだな。この学校は思ったよりも緩い学校みたいだ」
綾小路は何も答えない。この時点で何となく給付されるポイントが一定でない可能性を見出しているのだろう。
やっぱり綾小路は敵に回したくない、改めて思った。
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朝。ひまわりのような太陽の暖かな光が空から降り注ぎ、俺の肌をじわじわと温める。
教室に入ると、案の定教室は喧騒に包まれていた。それもそのはず、今日は本来ポイントが支給されるはずの日だったのだから。
周りの生徒は皆、そのことについて話している。
何かあったのかと心配する者、ポイントが尽きて困っている者、そこまで動揺することなく普通に過ごしている者。
最後のは堀北とか高円寺あたりだ。優秀さゆえの余裕といったところだろう。
「聞いたか? ポイントが支給されていないらしいぞ」
席に着くと同時に、綾小路が声をかけてきた。席が真正面なことから、実は俺が一番綾小路と話しているんじゃないかと思う。味方につけて損はないんだが……
「そうらしいな。何かあったのか?」
「いや、俺にもわからない。多分茶柱先生から説明があると思うが」
噂をすればなんとやら、茶柱先生が教室に険しい顔をしてはいってきた。心なしか、いつもより足音が大きく聞こえる。
気のせいじゃないか。まさかの0ポイントだしな、確か史上初とかじゃなかったか?
「先生! クラスポイントが振り込まれてないんですけど」
池の質問を皮切りに、先生の怒涛の説教が始まった。
要約すると、お前らの生活態度が悪かったせいで自業自得。1000ポイントあるクラスポイントを全部吐き出してしまった。クラスは能力順に振り分けられているのでお前らは落ちこぼれ。これ以上クラスポイントが減ることはないから、もう遅刻もさぼりもし放題だな。
こんなとこだ。ぶっちゃけ正論ではある。高校生にもなって注意されないと遅刻やさぼりを治せないなんてかなり酷い。
かと言って、退学をチラつかせて教え子を脅迫する教師だからおまいうって感じではあるが。
慰めの言葉をかけることもなく、茶柱先生は教室を出ていった。少しぐらいフォローしてやった方が良いんじゃないのか? これで綾小路とかがいなかったら、完全に心が折れてAクラスに上がることが不可能になる可能性もあると思う。
ちなみに、小テストの結果は全部60点台後半だった。出来れば70点台に乗せたかったのだが。
でも、少なくとも赤点を取るような事はないだろう。
このままじゃこの学校に入ってからがヤバいと考えてある程度勉強しておいた甲斐があった。
入学テストなんて半分取れたかどうかぐらいだったしな。
このまま原作通り、何事もなく過ごせると良いんだが。
$ $ $ $ $
その日の放課後、帰り支度をしている最中に俺は億劫そうな表情をした綾小路に話しかけられた。
「平野、茶柱先生から呼び出しらしいぞ」
「は?」
主人公の言う平穏の許容範囲は結構広いです
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全力を出しきったやつと、全力で手を抜いたやつ
茶柱先生から呼び出されたという綾小路の言葉に従い、俺は綾小路と共に職員室へと向かっていた。
進みたくないと主張する足を一歩一歩前に進め、廊下を静かに歩いていく。
「なあ、何で俺たち呼び出されたんだと思う? お前何かやらかしたのか?」
「いや、そんな気はないんだが……」
俺の問いに対して綾小路は困り顔だ。まあ、お前は何もしてなかろうが呼び出される事は確定している。
問題は、俺が茶柱先生に呼び出された事だ。綾小路が呼ばれるのは分かる。けど、何で俺が?
綾小路は、ホワイトルームという量産型の天才を生み出す教育機関の中で一番の天才だった。それからまだ見ぬ自由を求めホワイトルームから脱走、ここに入学してきて、今に至るわけだ。
そういう理由もあり、綾小路は実力を極限まで隠している。
そんでもって茶柱先生は、過去に自分の失敗が原因でAクラスに上がることの出来なかった経験があり、DクラスをAクラスに上げることに執着している。
そのため、入学テストで全て50点を取るというアホみたいな作戦を実行した綾小路の実力を知っているため、綾小路は目をつけられているという訳だ。
そこで疑問が浮かんでくるのは、何故俺も? という点だ。茶柱先生が求めているのはAクラスに上がるために役立つ人材だが、俺を呼ぶならそこらの野良犬でも使ったほうがいい。
俺に綾小路の邪魔をするなという忠告でもするのか? もしくは、綾小路の駒となれとでも言われるのだろうか。
どちらにせよ、良い事はなさそうだ。
鬱屈とした感情を抱えて、そんなことを考えていると職員室の前に到着した。
「失礼します。あの、茶柱先生いますか?」
おもむろにドアを開けて中に入ると、Bクラスの担任であり、手鏡で身嗜みを確認している星之宮先生が顔を覗かせた。
「サエちゃん? さっきまで居たんだけど……」
どうやら茶柱先生は今不在のようだ。星の宮先生は頬に指を当てながら答えた。
「あ、私はBクラス担任の星之宮智恵って言うの。サエちゃんとは高校からの親友よ」
ついでに聞いていないことまで答えてくれた。別にその情報はいらない。
「はぁ……」
星之宮先生は椅子から腰を上げ、俺たちの近くへよちよちと歩いてきた。そして、んーと唸りながら幾らか考える素振りを見せて、ぐっと顔を近づけてくる。
「ねぇ、どうしてサエちゃんに呼び出されたの? ねえねえどうして?」
「さ、さぁ……。俺にもわからないです」
「俺も分かりません」
ジロジロと好奇心旺盛な視線を俺たちにぶつけて、先生らしからぬ態度で話しかけてくる。仕草や、言葉遣いも含めて随分とフレンドリーだ。
昔逃げ出して、必死に探した挙句めちゃくちゃ幸せそうに他人の家で暮らしていた犬を思い出す。
そんな先生の様子に対して綾小路は戸惑っており、「何だこいつは」
とでも言うような顔をして目を白黒させていた。
「わかってないんだ。君の名前は?」
星之宮先生はさらに俺達へと詰め寄り、距離を縮めてきた。女性特有のシャンプーの華やかな香りが鼻の中に充満して、ドキッと体を強張らせる。
綾小路も同じく、顔をほのかに赤色に染めていた。
「あ、綾小路ですけど……」
「俺は平野です」
「綾小路君と平野君って言うんだー。2人は仲良いの?」
「え、まあ。友達です」
綾小路が、「そ、そうだよな?」と不安そうに問いかける視線を向けてきた。
「はい、友達ですね」
綾小路は小さく安堵したようにホッと息を吐く。
「へえー。綾小路くん、格好いいしモテるでしょ〜?」
星之宮先生は指を顎に当てながら、にやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべて、綾小路に問いかける。
おい、俺はどうなんだ。素直にモテないって言われるより間接的に知らせてくる方が辛いぞ。
ん? 人は顔じゃなくて中身だって? そんな言葉はブサイクが自分を慰めるためにか、余裕のあるイケメンが言った言葉だ。現実は顔だよ顔!
「いえ……あの、別に……」
綾小路はしどろもどろになりながらも答える。流石の綾小路といえども女性の扱い方までは長けていないらしい。
「本当? 私なら絶対放っておかないのになぁ」
星之宮先生はさらに綾小路に密着して、綾小路の右腕を抱くように自分の腕を絡める。
豊満な星之宮先生の胸が、綾小路の腕に押しつけられて形を変える。
くそっ、羨ましい。こんな奴と友達なんて辞めてやる!
「何やってるんだ星之宮」
どこからか来た茶柱先生が、パンっという小気味いい音とともに、星之宮先生の後頭部を手に持っていた資料ではたく。
「いったあぁぁぁ」
蚊の鳴くような掠れた声を上げ、星之宮先生はしゃがみこんで悶える。
ナイス、茶柱先生。
$ $ $ $ $
あの後俺たちは、教員室にある生徒指導室まで連れてこられた。そして、誰もいない部屋へ入って待っておくように命令された。
破ったら退学らしい。教員とはいえ、綾小路はまだしも俺を退学にできるわけはないので、ただの脅しだろうが。
「なあ、何を企んでいるんだと思う?」
「さあ……? やっぱりお前が何かやらかしたんじゃないのか、綾小路。痴漢でもしたんじゃないだろうな」
「そんな事するわけないだろ」
「そうか? 星之宮先生とさっきイチャイチャして楽しそうだったぞ?」
「いや、あれは……」
「失礼します」
俺達がいる場所の隣の部屋から、聞き覚えのある声が聞こえた。凛として、なおかつ少し棘のある声。堀北の声だ。
なるほど。やはり俺がここにいるという点以外は概ね原作通りに進んでいるらしいな。
堀北は、優秀な自分がDクラスに配属された理由を問いただすが、答えらしきものは得られずはぐらかされてしまう。
堀北は茶柱先生の態度に憤り、帰ろうとするが……
「出てこい、綾小路、平野」
やっぱりか。これ、出て行かないとダメなんかな……。見ると綾小路も、嫌そうな顔をして頰を掻いている。
「出てこないと退学にするぞ」
出るのを渋っている俺たちに飛んでくる厳しい声。出て行かないと面倒なことになりそうだな……。
呆れながらため息を一つ。綾小路も同じようで、俺たちは観念して扉を開けた。
「……いつまで待たせるんすかね」
「帰って良いですか?」
「ダメだ。すぐに終わるから待っていろ」
ダメ元の要求は即座に却下される。
「私の……話を聞いていたの?」
「いや、壁が厚いせいで聞こえなかったな」
「ああ。綾小路が君が世を大声で熱唱していたからな」
「やめろ。俺はそんなに愛国心豊かな人間じゃない」
「……さて、お前らを呼んだわけを話そう」
俺たちのやりとりを茶柱先生がジト目で見つめながら、話を始める。
「私はこれで」
そんなことに興味はないと言わんばかりに、堀北はこの場から去ろうとする。
「待て。Aクラスに上がるための近道になるかもしれんぞ」
「手短にお願いします」
その言葉を聞いた瞬間、踵を返して堀北は椅子に座り直した。綾小路の昼食の誘いの了承とタメを張るレベルの速度だ。
「お前達は本当に面白い生徒だな」
茶柱先生は手に持っていた紙──入学テストを堀北に差し出して、机に置く。
そのテストの内容を見た瞬間、堀北はばっと勢いよく椅子から立ち上がった。
テストは、俺のものと綾小路のもの、二人分用意されていた。共通する事は、すべてのテストの点数が50点という所だろう。そう、全ての点数が50点なのだ、俺も含めて。
今、自分の身に起きている出来事を理解するまでに、数秒かかった。それから、どうしようもない焦燥が俺を襲う。
……待ってくれ、いや本当に。ああ、なるほど。だから俺は呼び出されたのか。
「おまけに綾小路は今回の小テストも50点……これが何を意味するか分かるな?」
わからないです。
「偶然て怖いすね」
うん、怖いな。偶然って。
「ほう? あくまで偶然を装う気か」
そうだぞ綾小路。白を切ってないでさっさと白状しろ。
「故意にこんなことしたって得しませんよ」
それはそうだな。わかる。
「お前は実に憎たらしい性格のようだな。いいか? この数学の問5、正答率3%の難問にも関わらず間の証明も含めて完璧だ。一方、こっちの問10は正答率76%だ。……それを間違えるか普通?」
「綾小路はそうですけど。俺は偶然ですからね?」
「お前サラッと友達を売るな」
「お前に至っては正答率1%を切る、捨て問まがいの問題に正解している。一方、この問題は正答率90%を超える一番易しい問題だ。……流石に苦しい言い訳だな」
それ当てずっぽうで書いたやつ! 何でそんなところで運使ってんだよ。
あまりに酷い俺の悪運と、今俺が陥っている状況を嘆く。多分、どれだけ弁明しても誤解は解けないんだろうな……
それに加えて、頭では理解していたが、この生気の抜けたワカメみたいな奴は俺なんかより遥かに頭がいいんだと見せつけられた。
知識として知っているのと、実感するのではこんなにも違うのか。
茶柱先生のありがたいお話が終わり、俺は逃げるように自分の部屋へと帰っていった。腹いせに堀北への協力を綾小路へと丸投げして。
$ $ $ $ $
夜の帳が下りて、世界が闇に落ちる。そんな地上を、満月の月明かりがほのかに照らす。
それは高度育成学校も例外ではない。照明が切られ、薄暗い職員室を液晶の光が照らしていた。
茶柱はそんな職員室に、ただ一人残ってパソコンの前に座っている。
パソコンの画面に映し出された資料を、隅々まで眺める。何度も、何度も繰り返して。
もう見落とした情報がないことを確認すると、目頭を押さえて天井を仰いだ。
茶柱が頭を悩ませているのは、新入生でよく綾小路と絡んでいる平野についてだ。
本来ならば、気にもしないような生徒ではある。しかし、入学テストの結果でその見方は180度変わった。
綾小路と同じ手法である、すべてのテストで50点を取るという行為。それは偶然で片付けるには、あまりにも異質すぎた。
そして、実際に学園生活を送る平野の様子を観察して、その考えは確信に変わる。
Sポイントの仕組みを説明した直後、平野が監視カメラに不快感に満ちた目を向けていた。坂柳と交流があり、気に入られていた。挙句、何やら坂柳にチェスで勝ったらしい。
そんな一つ一つの事実が積み重なっていき、私の予感を確信へ変えたのだ。
平野は並ならぬ実力を持っているのにも関わらず、それを隠しているに違いない……と。
しかし、理由が分からない。綾小路は理事長からDクラスに配属されるように頼まれた。そして、経歴を調べようとしても何も分からない。
つまり、外部の力が働いているということだ。恐らく、立場上目立つと大きなリスクがあるのだろう。
ならば平野は?
それを知るためにも、平野の経歴を軽く調べてみた。その調査の結果分かったのは、何も分からないということだ。
つまり、至って平凡。おかしな所など何もない。そこらにいる健全な学生という結果だった。
最初はダミーなのではないかと疑ったが、揺るぎようのない証拠がいくらでも出てきた。そこまで大量の証拠があるのなら、ダミーという可能性は少ないだろう。
仮にそれが本当だとすると、平野は遥か昔から自分の実力を隠し続けてきたことになる。
綾小路のように、目立つとリスクがあるという理由もなしに。
……分からない。
けれど、理由が何だろうがAクラスに上がるためには、平野の力を利用しなければならないのだ。
自分の野望のために生徒を利用している、自分の腐った性根に呆れてため息を吐く。
私はそれでも、と改めて覚悟を固めた。
茶柱先生は新しい駒(役立たず)を手に入れました
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証拠写真、ゲットだぜ!
「うーん、これか?」
手に持っていたカメラを棚に戻し、代わりに渋い茶色をしたカメラを手に取る。そして、そのカメラを嘗め回すように吟味し、値段、画質、重量を確認した。
かれこれ1時間はこうしてどのカメラにするか悩んでいた。それも、この店の品ぞろえが豊富で魅力的なものが多すぎるせいだ。まったく、けしからん。
一応、予算に余裕はある。最低条件としては、できれば持ち運びやすいものがいいことぐらいだろう。
特にこれといったこだわりはない。
しかしそれだけの条件では、店の中には条件に該当するものが数えきれないほどあった。
「ああ、選べねえ……」
歓喜の色がにじみ出ている唸り声をあげる。おそらく表情筋はこれ以上にないほどにゆるんでいるだろう。
確かにどれにするかは悩ましいが、それを覆いつくすほどの高揚感が俺を包んでいた。
しばらく腕組みをして首を傾け、顔の前に手を置きながら考えに考え抜いた末に俺は、今持っている茶色のカメラを買うことに決める。
すぐさま、カメラをレジへと持っていき、支払いを済ませカメラを自分のものにする。
俺は買ったカメラを、誕生日プレゼントをもらった子供のように大事に抱きかかえて店の外へ出た。
光も顔負けの速度で浮きだつ心を抑えながら、忍者のように自分の部屋へ戻り、カメラを開封した。初期設定や部品の確認などを速やかに済ませた後、俺はカメラだけをもって乱雑に扉を開け外へと向かった。
まずは寮から出ると、カメラを構え記念すべき一枚目をパシャリ。何の変哲もないただの風景。それでも今の俺には美しく見えた。
カメラを、まるで子供の頭のように優しく撫でる。
取り敢えず、校内を練り歩き手当たり次第に周りの風景を撮りまくる。やはり、この学校には普段目にしないものが大量にあり、撮るものは困らなかった。いや、何の変哲もないただの風景でも、俺は嬉々として写真に収めた。
まあ、完全に浮かれていたわけだ。受験の前に、俺の心の支えとなっていたカメラが壊れて、そのまま受験に突入して思う存分写真を撮るのは本当に久しぶりだったからだ。
いったん、ベンチに腰を下ろして大量にたまった写真をチェックした。ニマニマと、唇の端を釣り上げながら、悦に浸る。
浮きだつ心を押さえつけるが、まるでゴムまりのように跳ね返ってきてさらに顔がにやける。
すると、俺の近くに人の気配を感じ、顔を上げると誰かが俺の隣に腰を下ろし、舞い上がる艶やかな白髪が目に入った。
「……何か用か? 坂柳」
「いえ、特にこれといった用はありませんが」
楽しんでいるところに水を差され、やや不機嫌な俺の言葉に対し、坂柳は穏やかな笑みをこちらに向けて答えた。
面倒な奴に絡まれたな……。稀にエンカウントする無駄に強い野良モンスターみたいだ。
「やっぱり、好きなんですね」
「ん? 何がだ?」
「カメラです。長い間凝視して、吟味していたじゃないですか。いいお趣味をお持ちですね」
「そ、そうか。まあ、それなりにはな」
自分の趣味を誉められ、やや照れ臭いながらも、鼻を鳴らす。なんだって自分のことを褒められて悪い気はしないものだ。
……いや、俺がカメラを選んでる様子こいつに見られてたのか? それは恥ずかしいんだけど。
その上、またここで会ったということは、一日に二度もたまたま遭遇したということになる。
偶然にしてもできすぎ……。という思考に一瞬なりかけたが、どう考えても俺が言えることじゃなかった。
ここら辺は人通りも少ないし、噂されることもないだろう。
「この学校での生活はどうなんだ? 楽しいか?」
やや上機嫌になったことで、俺から話を始める。昔、学校がつまらない、くだらない的なことを言っていた記憶があるしな。
「ええ、なかなか面白いですよ。楽しめそうな人も何人かいますしね」
坂柳は、怪しく唇をニヤリと歪め、弧を描く。
楽しめそうな何人というのが、友達であってほしい。いや、どう考えても友達を楽しめそうな人とは呼ばないのだが。
なんか俺のは「楽しい」で坂柳のは「愉しい」で違うような気がする。そう意味での楽しいじゃないんだがな……
「まあ、俺はそこそこっていうところかな。普通に楽しめてるし」
今までの思い出、とは言ってもたかが一月ほどの記憶を思い返して、俺はつぶやく。
少なくとも辛いことはない。いろいろと面倒臭いことはあるが。
「そうですか。それは何よりです」
「お前もな」
その言葉を最後に、俺たちの間にはいくらか沈黙が続いた。俺の中での沈黙とは、俺が完膚なきまでの陰キャブームを決め、相手と気まずくて黙ってしまうようなものが大半だった。
けど、今の静けさはどこか心地よく、紅色の夕日が俺の体を程よく暖めた。無意識に、ゆっくりと瞼を閉じる。
あまり俺は、眠るという行為が好きではなく、あくまで必要だから取っているだけだった。
そんな俺にしては珍しく、リラックスした状態で、心が洗われるように眠りについた。
$$$$$
「……ん? ここは?」
俺が瞼を持ち上げると、既にあたりが薄暗くなっていた。
どうやら、長い時間眠ってしまったようだ。興奮のあまり、疲れも忘れてはしゃぎすぎてしまったことを、少し反省する。
「そういや、坂柳は……」
横を見ると、坂柳の姿はそこになかった。代わりに、一つの紫色の缶とその下に何か文字が書かれた紙が置かれていた。
「なんだ?」
缶へと手を伸ばす。缶に触れた瞬間、ひやりとした感触が指に伝わる。缶を持ち上げてどかすと、やや水滴で滲んだメモ用紙が現れた。その紙を見下ろして内容を確認する。
『コーヒーのお返しです』
コーヒー? 何のことだ?
手に持っていた缶には、おしるこという文字がでかでかと刷られていた。無駄に達筆なフォントだ。
……なんでおしるこ? そこはジュースとかお茶でいいのではないのだろうか。まあ、坂柳そういうことに鈍そうだからな。
ふと、頭にある光景が浮かんだ。
あの時、坂柳に一本コーヒーおごってやったことがあった。坂柳は平気な顔して飲んでいたが、当の俺は見栄を張ってブラックにしたせいで一口飲むたびに悶えていた記憶がある。
昔の記憶を思い出したことでまた、あの時の苦さが舌に浮かんできた。
ちなみに俺はまだコーヒーを飲めない。多分一生飲めないと思う。
だから、おしるこなのか? 俺が苦いのを苦手と思っていたから。
いや、それにしたっておしるこというチョイスはないだろう。もっとカフェラテとか、紅茶とか選択肢はあったはずだ。そりゃ確実に甘いけどさ。
……でも、坂柳らしいっちゃらしいな。忘れていたがあの時も、コーヒーで苦しんでいる俺に対しておしるこを勧めてきたのだ。
思わず笑みがこぼれる。あいつも、大人びては見えるが普通の高校生なのだ。
俺は、仕方ないなと溜息をついて、缶の蓋を指で引っ掛け、ぷしゅっという音とともに開ける。そして、おしるこを口の中へと流し込んだ。
甘い。甘さが体中を駆け巡っていく。
「ふう……」
缶を口から離し、一息つく。吐息すらも甘かった。
もう、舌の上に残っていた苦さは消えていた。
$$$$$
パシャリという今日何度聞いたのかわからない音が耳に入る。
既に外は暗くなっていたので、俺は写真を飽きることなく撮りながら寮へと帰っていた。
同じ風景だろうと、夜と朝ではまた違ったものに感じられる。行きと同じか、それ以上に手当たり次第にとっていた。
寮がすぐそこまでやってきた。満足感に包まれながら、余韻を楽しむようにまたシャッターを切った。
ぶっちゃけ、ここら辺に至っては普通の人ならば絶対に取らないような地味な風景だ。いや、もはや風景なのかすらわからない。
多分俺は、写真を撮ること自体が好きなのかもしれない。
曲がり角を曲がり寮の裏手へと回る。すぐさまカメラを構えてシャッターを切ろうとする。しかし、カメラ越しに奥のほうに人影がいることに気づく。
俺は、写真には人を映さないのがポリシーだ。なんとなく、盗撮みたいで嫌だという理由でしかないが、今まで破った事はない。
それ故、人が映らないように撮り、もし撮ってしまった場合はすぐさま消すようにしていた。
あいにくと、俺の反射神経ではシャッターを切る手を止めることはできず、そのままシャッターを切ってしまった。
仕方ない。すぐ消そうと、今撮った写真をチェックする。
そこには、綾小路へ蹴りを繰り出している堀北の兄と、それを怯えるような表情で見つめている堀北が映っていた。
それなりに離れていたが、画質がいいこのカメラではくっきりと見えた。
……ミスった。そう言えば、今日はこのイベントが起こる日だったのだ。普通なら話してる声が聞こえたはずが、写真を撮るのに夢中になって気がつかなかった、
しばしの間、俺は固まる。けれど、すぐ気を取り直し、ばれないうちに写真を消してこの場を去ろうとするが……
「貴様、何者だ?」
ばっちりばれていた。三人の視線が俺に突き刺さる。やめてくれ、俺の心は風船だからそんな針みたいな視線に耐えられるようにできていないんだ。
「平野……?」
「平野くん!?」
綾小路と堀北が驚いた顔をして俺のことを見て、呟いた。おい、個人情報をばらすな。プライバシー保護法で訴えるぞ。
「い、いや。偶然通りかかったんですよ! そしてたまたま撮っちゃって」
取り繕うように慌てて説明する。できれば、柔らかな笑みを浮かべて友好的な感じを出したかったのだが、あんだけゆるゆるだった表情筋はまたもや仕事を放棄していた。
表情は凝り固まり、動く気配はない。
「ほら、もう消しましたよ。広めたりするつもりはありません」
別に俺は堀北兄(生徒会長、文武両道、人望あり、家柄良し)vs俺(あほ)みたいな構図を取る気はさらさらない。
「……分かった。これが俺の連絡先だ」
堀北兄は俺に近づいてきて連絡先が書かれた紙を渡す。
……なんでそうなるんだ。何を分かったんだよ。どうして連絡先を渡してくるんだ。
「こいつも、お前の友達か?」
堀北の兄は自分の妹とは思えないような冷めた声で問いかける。
「彼らは……ただのクラスメイトです」
「相変わらず、お前は孤独と孤高をはき違えている。それから……綾小路と平野だったか」
堀北の兄は俺たちを交互に見て、ふっと笑った。
「お前たちがいれば、少しは面白くなるかもしないな」
そう言いながら俺の横を通り過ぎていき、最後に顔だけをこちらに向けた。
「上のクラスに上がりたかったら死に物狂いで足掻け。それしか方法はない」
堀北への忠告を告げ、今度こそ本当に去っていった。
その様子を見届けた後、堀北は地面にへたり込む。足を膝で抱えて、うつむいておし黙ってしまった。
その様子を見ていたたまれなくなったのか、綾小路もこの場から去ろうとする。当然だ、堀北の様子は俺から見ても意気消沈といった感じで心が痛い。
心なしか原作より落ち込んでいる気がする。
「待って」
しかし、堀北の声が綾小路の足を止めた。
「最初から、聞いていたの……? それとも……偶然?」
「いや、なんつーか。半分偶然だ。飲み物買ってたら外に行くお前が見えたんだ。立ち入るつもりはなかったんだが……。それより、平野はどうしてここに?」
「いや、100%偶然だ。カメラ買って写真を撮りまくってたら、偶然撮っちまった」
「いや、それにしては……」
「偶然だ」
綾小路の言葉をさえぎって告げる。綾小路はムッと眉をひそめた。
「じゃあ、俺はもう帰るわ」
半ば強引に、話を切り上げて帰ろうとする。
意外なことに、二人は俺を止めようとはしなかった。だから、俺は何の気負いもなく家に帰ろうとするが、足を止める。
どこか、堀北のことが気にかかった。
不可抗力とは言え、俺は原作の場面に乱入してしまった。もし、それが原因で掘北がより傷ついて、立ち直れなくなったりするのは目覚めが悪い。
「堀北、お前はもう少し人を頼ることを覚えたほうがいい」
お節介かもしれないが、俺は振り返らずにそれだけ告げた。あとは、主人公のイケメンブームで何とかしてくれるだろう。
また歩みを進め始め、この場から立ち去る。そのまま寮へと帰り、自分の部屋までたどり着いた。
イベントが盛りだくさんな1日だったなと、首を手で右に傾ける。ポキッという高い音が鳴った。
ふと、手に握られていた紙の存在を思い出す。
…….連絡先をどうしろと。なに、攻略? ギャルゲーでも始まったの? 俺はそっちの趣味はないんだよ。
いろいろ思うところはあったが、取り敢えず今は現実逃避をするようにベットにうつ伏せで倒れ込み、本日2度目の眠りについた。
$ $ $ $ $
柔らかい、生暖かい感触が、まだ手に残っている。
綾小路は、ただ自分の右手を見ながら考えた。
俺が、今まで見ていた誰もにやさしい櫛田と、堀北のことを嫌い、俺の手を自分の胸に押し付けてきた櫛田。どちらが本物なのだろうか。
思い返されるのは、平野の一言。
『承認欲求女』
あれは、櫛田の裏の顔のことを指していたのだろうか。その言葉が本当だとするならば、櫛田は他人からの承認欲求、人から認められることに飢えている。
確かに、誰にも優しくして、自分のことを認めない堀北のことを嫌っていることにも筋が通る。だが、本当にそのためだけに偽りの自分を演じ続けているならば、どこまでも、歪んでいる。
……いや、それは俺もか。
綾小路は自虐的な笑みを浮かべて、額を手で覆った。それから、諦めたようにゆっくりと視界を閉じていった。
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堀北の兄の蹴りを身体を反らして、間一髪でよけた瞬間。パシャリ、そんな音が極限まで研ぎ澄まされた綾小路の耳に届いた。
堀北の兄も同じように気付いたようで、音のした方向、つまり背後を振り向いた。そこには、綾小路の友人兼堀北のクラスメイトである平野がいた。
平野の両手にはカメラがしっかりと握られ、レンズがこちらを向いていた。
「貴様……何者だ?」
「平野……?」
「平野くん!?」
堀北の兄は警戒した、相手を威圧する声で現れた謎の人物に問いかける。続いて、綾小路たちは思わず困惑した声を上げた。
なぜ平野がこんなところにいるのか。そして、今写真を撮った意味は。綾小路の優れた脳の細胞が高速で回りだす。
「い、いや。偶然通りかかったんですよ! そしてたまたま撮っちゃって」
全くの無表情で、平野は白々しい弁明の言葉を紡ぐ。しかし、平野の声からは一切の焦り、恐怖などの感情は読み取れない。本心でないことは明らかだった。
個々の曲がり角で俺たちが話している声は聞こえるはずだし、こんな場所の写真を撮る意味も分からない。色々と無理がある理論だった。
「ほら、もう消しましたよ。広めたりするつもりはありません」
目の前で写真を消す様子を見せつけてくるが、そんなものは何の保証にもならない。業者に頼めば、SDカードから写真を復元することも容易だからだ。
正直言って弁明になっていない。カメラ好きというならば、そのぐらい知っているだろうに。
その点から考えると、今の行為は生徒会長の信頼を失墜、もしくは反感を生ませるための行動ではない、この写真を本当に広める気はないという意思表明だ。
というか、それが目的ならばわざわざ俺たちの前に姿を表す必要はない。
それでいて、この場で堀北の兄を今の写真をだしに脅したりはしていない。
よって、平野の行動の目的は生徒会長と繋がり、その上で借りを作ることである可能性が高い。
「……分かった。これが俺の連絡先だ」
堀北兄も同じ結論に至ったようで、平野の近くまで歩みを進め、連絡先が書かれた紙を渡す。
近づいた隙に無理矢理カメラを壊すこともできなくはないのだろうが、リスクが高い。俺のように武術に精通している可能性もある。念を入れて、平野が録音している可能性だってある。それに、失敗しても成功しても完全に平野を敵に回すことになる。
紙を渡されれてもなお、平野は眉一つ動かさなかった。
その表情に、綾小路はえも知れぬ無気味さを感じていた。
まったく、平野の正体がわからない。俺と同じような、事なかれ主義の生活を貫いているように見えて、今は生徒会長の弱みを握った。
それだけじゃない。入学テストで全ての科目で俺のように50点を取った。初対面の櫛田の正体を見破った。
明らかに、普通の生徒ではないのは確かだ。もしかしたら、俺に迫る実力を持っているかもしれない。
……まさか、ホワイトルームの刺客。
慌てて頭に浮かんだ発想を、大きく頭を振ってかき消す。友人を疑いたくはないし、いくらなんでも対応が早すぎる。
だとしても、平野が得体のしれない人物であるのは確かだ。ある程度警戒はしておくべきだろう。
けれど、
「堀北、お前はもう少し人を頼ることを覚えたほうがいい」
悪いやつでは、ない気がした。
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退学の危機
早朝。まだ日が昇りきっておらず、微かにあたりが紅色に染まり始めたころ。
「ふう、ふう……」
部屋に、俺の苦痛が混じった声が響く。熱気がこもり、部屋の中はムワッとした湿っぽい空気に包まれていた。
俺は今、筋トレの一貫として腕立て伏せをしている最中だ。生まれてこの方、筋トレをするのは初めてで、腕立て伏せもかなり久しぶりにやった気がする。
ん? 唐突に筋トレなんて初めてどうしたって? 勿論、いきなり俺が筋トレを始めたのには理由がある。
その理由は俺がこの世界の真理を理解したことにある。
この世界の心理、それは……『力こそ正義』ということだ。
待ってくれ、そんな噓告白をされたと知った時の俺を見る両親の憐れむような目を向けないでくれ。
まあ、多分これを両親、というか周りの人にに言ったらLet's精神科待ったなしだろう。
こんなどこかの世紀末みたいなことを、俺が言い出したのにも理由があるんだ。
俺は昨日、堀北の兄と綾小路がバチバチにやりあってるところを見てしまった。
それを見て、やっぱり喧嘩の強さも大事だよなとしみじみ思った。自分から喧嘩を吹っ掛けることはまずないが、自分の身に降りかかる火の粉ぐらいは払いたい。いや、火の粉から尻尾を巻いて逃げ帰れるぐらいにはなっておきたい。
少なくとも、体を鍛えておいて損はないと考えたのだ。
改めて地面に腕をついて、地面と向かい合うような姿勢をとる。そして、両の手のひらと、両足のつま先で体を支え、宙に浮かした。腕を曲げると、二の腕に自分の体重の大半が乗り、腕がきしむ。
肘や、二の腕、胸がか細い悲鳴を上げている。じわじわと体から染み出した汗が、ポツリと床に垂れて小さな水たまりを作る。
しかし、手汗によって真下に垂直にかかっていた力は真横に受け流された。体が傾いて、そのまま一回転するように倒れ込んだ。背中が地面に打ち付けられ、内臓に衝撃が走る。
「痛ってええ……」
あまりの痛みに悶えて、背中を手で押さえるようにしながらうめき声を上げた。
「これ、意味あんのかな?」
ふと、必死にこぼさないように我慢していた弱気の言葉を吐いてしまう。
けれど、実際今つぶやいた言葉は正しい。この学校はあほみたいに喧嘩の強いやつが多すぎる。
高円寺、須藤、綾小路、龍園、堀北、伊吹。ぶっちゃけ俺じゃどんなに頑張っても手も足も出ないやつがいっぱいいる。
女の堀北にも負けるとか泣けてくる。
彼らに目を付けられた場合、俺は抵抗することも難しいのではないか。そう考えると、どうしても努力が無駄なように見えてくる。
「……考えても仕方ない。とりあえず学校行くか」
頬を両手でパン! とたたき、気持ちを切り替える。汗で汚れた服を新しいものに着替えて、学生かばんをもって家を出た。
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授業も終わって、爽やかな風が吹き抜ける寮への帰り道を歩いていた。周りに多くの生徒たちが、ありとあらゆる施設を利用しているこの光景も見慣れたものだ。人の行き交いもほどほどで、不便することも全くない。
改めてこの学校の恩恵を実感する。
今頃、堀北たちは須藤に勉強を教えているのだろうか。まあ、あれは放置しておいても大丈夫だろう。勝手に綾小路が過去問を手に入れて、須藤以外は赤点を回避してくれる。
俺もなぜか誘われたが、自分の成績が赤点を取るほど悪くはないが、人に教えられるほどよくもなかったので回避できた。
それより、俺は自分の勉強に集中したほうがいいだろう。とは言っても、今教えられているテスト範囲はダミーなんだよな。結局、今勉強しても無駄になってしまう。茶柱先生に本当のテスト範囲を聞きに行くのも自殺行為だし……
坂柳にでも聞くか? それもありかもしれない。
「おい、お前が平野だな?」
大穴で龍園とかもありかもしれない。まあ、さすがにCクラスの王様にそんな真似は死んでもできないけれど。
「おい、聞いてんのか?」
あいつ喧嘩強いんだよな。そのうえ頭も切れるとかどういうことだ。それでも坂柳にとっては敵じゃないらしい。本当にあいつやばいよな。IQとかどのくらいなんだろう。
「っ、聞いてんのか!」
あーはいはい。わかりましたよ。振り向けばいいんでしょ。見たくもない地獄みたいな現実をこの目で直視すればいいんでしょ。
頭を押さえて、鬱屈とした気持ちになりながら振り返る。
「……何だ?」
「ちっ、やっと反応しやがったか」
ポケットに手を突っ込んで、首を軽く上げている傍若無人といった様子の龍園は、憤った荒々しい声を出した。
……なんで俺はこんなに主要キャラに絡まれてんの? しかも龍園とか一番ダメな奴じゃん。
「俺に何の用だ?」
「いや、どうってことはねえよ。ただ、坂柳が随分とお前のことを買っているらしいからな、力量を図りに来ただけだ。だが、期待外れだったな」
龍園は少しの落胆と、嘲笑がこもった表情を浮かべる。
やっぱり坂柳繋がりだったか。坂柳のことを龍園は既に認知しているらしい。龍園ならクラスの主要人物を押さえておくことぐらいはするだろうし、当然か。
そしてこれは、いい傾向なんじゃないか? 俺は内心で諸手を挙げて喜ぶ。
このまま龍園から俺への興味をなくせば、龍園に目を付けられ、何かしら手を出される可能性がなくなる。
「ああ、そうだな。お前の言う通りだよ」
「へえ……それだけか?」
「べつに、事実だろう?」
表情を変えることなく、俺は淡々とクレーム対応のように受け答えをする。刺激するような発言は控えて。あまり露骨にならないように。
「ふん……そうか。まあいい、お前らごときが何をしようと無駄だ」
それだけ言うと、龍園は俺に背を向けて去っていった。
難は逃れたか? 特に実力があるとか怪しまれたりはしなかったみたいだ。龍園はよう実の中で一番暴力的、力でねじ伏せようとするタイプだからな。目を付けられなかったのはありがたい。
取り敢えず一安心か……などと思っていると。
「ちょっと……良いかな?」
第2の刺客が現れた。Bクラスの学級委員長である一之瀬が、俺に話しかけてきたのだ。何でだ。
「……ん? 何ですか?」
「今、龍園君と話してたというか……絡まれてたでしょ? あんまり龍園くんに良い噂聞かないから、大丈夫かなって思って」
一之瀬は心配そうに上目遣いで俺を見つめてくる。優しい。最近は
こういう人としての優しさに触れるのは久しぶりである。涙が溢れ出てきそうだ。
「いや、大丈夫だよ。何もしてこなかったし」
「そう? でも何かあったら言って。同じ学校の仲間なんだからね」
え? 俺たち初対面だよな? え、何この人天使かよ。こんな聖人この学校じゃなくても中々お目にかかれないぞ。
「心配ありがとう。何かあったら頼らせてもらう」
「うん、分かった。じゃあ、私はこれで」
バイバイと別れを告げて手をひらひらと振りながら、一之瀬は去っていった。
……可愛かったな。マジLOVE一之瀬だわ。メインキャラクターとは自ら関わりにいくつもりはないが、一之瀬とはお近づきになりたいものだ。
でも思い返すと、やはり俺は想像以上に原作と密接に関わりすぎているのではないだろうか?
不安が胸の中にぽつんと現れる。
……いや、大丈夫なはずだ。不安をかき消すために、自分に言い聞かせてゆっくりと頷く。
そして、俺はまた歩き始めた、胸に一抹の不安を残して。
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「ちっ……」
口から漏れ出た声は、いつになく弱弱しい。
まさかの中間テストの前日、俺は熱を出していた。
現在は、頭を冷やしながら寝ることに徹している。かぶっていた布団をさらに引き寄せ、布団にくるまる。
熱を持った頭はおぼろげで、霞がかっており、上手く考えがまとまらない。
なれない筋トレに精を出したのが祟ったのか、脇に挟んでいた体温計の液晶を確認すると、38.2と表示されていた。
「やっちまったな……」
自分の至らなさ、無計画さを呪う。
学校にはもう連絡したが、風邪による欠席でもペナルティはあるのだろうか。普通の学校ならまだしも、この学校ならありそうだ。
しかも、よりによって中間試験の前日にか。絶対に中間試験当日に熱を出すわけにはいかない。そのためにも、しっかりと睡眠をとるべきだろう。
頭の中で判断を下し、俺は脳の活動を停止させた。
いくら睡眠をあまり好まないといっても、熱を出しているこの状態では好き嫌いなど関係なく、無理やり夢の中へと引きずり込まれた。
耳に入った音が、脳へと伝わり意識を覚醒させる。俺は、目をぱちりと開けた。
寝る前に頭にのしかかっていた重さは消え、かかっていた霞は晴れていた。
体を起こして、首を回し軽くあたりを見渡した後、額に手を当てる。
「熱は……下がったぽいな」
これで一安心だなと、ほっと短い息を吐く。
ピンポーン
もう一度、インターホンが鳴る。
俺を眠りから目覚めさせたのは、目覚まし時計でも、時間による物でもなく、インターホンの音だった。
ベットから降りて、玄関へと歩みを運んでいる間に、思考を巡らせる。
一体、誰なのだろうか。
十中八九、お見舞いと、今日のプリント類を届けに来たに違いない。となると、平田とか、櫛田あたりか? 軽井沢とか佐倉とか、須藤あたりの線は薄いだろうし。大穴で坂柳もあるか。
ガチャリと、取っ手に手をかけてドアを開ける。
ドアの向こうで、綾小路が顔を覗かせた。
いつも通り、ポケットに手を突っ込んで無気力な表情をしている。今日はいつにも増して髪がボサボサな気がした。
……期待した俺が悪かったよ。
「おお、綾小路か」
「熱は大丈夫なのか?」
「もう治った。明日は行けるはずだ」
「そうか、それは良かった。この学校の場合、中間テストを休むとどうなるか分からないからな。それで……これ、中間テストの過去問だ」
「ああ、過去問か」
なるほど、納得だ。そんな気持ちが、反射的に口から溢れてしまった。同時に、綾小路の目に鈍い光が宿る。
「……どういうことだ? その過去問は櫛田が先輩にポイントを払って入手した。過去問の話は、当の本人である櫛田以外知らなかったはずだ。俺も知ったのは今日の放課後。お前が知ってるはずはないんだが……」
ミスった。完璧にミスった。
まだ病み上がりだったせいもあって、つい口から出てしまった。いや、綾小路が過去問を持ってきたということ自体も平常時だったら予測できたはずだ。けれど、完全には回復していない脳の細胞では、その事実にたどり着けなかった。
「いや、茶柱先生から過去問でも配られたのかと思ってな。いくら茶柱先生と言えども、人の心ぐらいあるだろうし。テスト範囲を伝えなかったことの埋め合わせだっていう可能性もあるだろ?」
「なるほど」
口では納得した旨を伝えているが、眼は全くそう言っていない。若干の焦燥と恐怖を感じ、話を打ち切る。
「じゃあ、明日のためにも俺は過去問暗記してくるわ。じゃあな」
「おお」
ドアをバタンと閉めて、まだ壁越しにいるであろう綾小路から離れる。
へたり込むように椅子に腰を下ろして、脱力する。ため息を一つ漏らし、額を手で覆って天井を仰いだ。
いくら原作知識があろうと、そこ以外では俺はただの凡人だ。心理戦、頭脳戦、身体能力に至るまで勝てるわけがない。
……まあ、綾小路としても自分を害してこなければどうこうするつもりはないだろう。
仮に俺を攻撃するつもりなら、どうせ俺は何も出来ずにやられるだけだし。
そこで俺は現状の打開策を見つけることを諦め、過去問を片手に机に向かった。
「取り敢えず、赤点は絶対に回避しておくか……」
今俺に出来る事はそれぐらいだ。
$$$$
時間は飛んで、中間試験の成績発表日となった。
中間テストの手ごたえとしては、はっきり言ってヌルゲーだった。そりゃあ、櫛田が入手したことにされている、綾小路の画策によって手に入れた過去問があるんだからどうやって赤点を取るんだという感じだ。
……それでも、須藤は赤点を取ってしまうのだが。
それとなくアドバイスをして、赤点を回避させようかとも思ったが断念した。リスクがあまりにも高すぎる。
俺が余計に目立ってしまう危険性や、結局期末テストでよりひどい点数を取ってしまう可能性だってあるのだ。大人しく赤点を取らして反省を促したほうが賢明だろう。
「お前たちがこんなに高得点をとれるとは思わなかったぞ」
さて、原作通りに茶柱先生から点数が発表された。黒板に全生徒の成績が乗った紙が貼られる。
上から下へと視線を動かしていくと、真ん中から少し上のところで俺の名前を見つけた。
えっと……俺は全部80点台か。もうちょい取りたかったが、それは流石に贅沢だろう。
須藤は、普通に赤点だな。微妙に英語が一点だけ足りない。四捨五入という罠さえなければ、ギリギリセーフだったのだが。
「なっ、噓だろ!?」
「残念ながら現実だ」
予想外の退学通告に動揺し、慌てふためき悲痛な声を上げる須藤。
これが女の子だったら可愛いんだけどな……。tsしてからやってくれ。
くだらないことを考えている間にも、物語は進んでいく。
「これはもう決定したことだ。覆る事はない」
茶柱先生は須藤を慰めることもなく、事実だけを告げて教室から出て行ってしまう。ここでアドバイスなりするのが教育者のあるべき姿ではないのか。
急に、綾小路から先から立ち上がり、教室から出て行ってしまう。須藤の一点をポイントで買うためだろう。がんばれ主人公。
やがて、堀北もその後に続いた。がんばれヒロイン。最近は軽井沢にヒロインの座を奪われそうになってるけど。
俺はその様子を頬杖を突きながら傍観する。原作には関わらないほうがいいことに越したことはないのだ。
その瞬間、身震いするような寒気──尿意を俺が襲ってきた。……朝からプロテインを飲みすぎたせいだろうか。
筋トレは流石にやめとこうと、プロテインだけを飲むようにしたけれど……つい飲み過ぎてしまったようだ。
席を立ち、教室から出てトイレへと早足で向かう。その途中で、妙にひんやりと冷たい汗が、背筋をつたった。
俺は憂鬱な気持ちを抱えながらも、一直線にトイレへと向かう。
「いいだろう。プライベートポイント15万ポイントだ」
冥土から手招きする声が、耳道の中で反響した。曲がり角を曲がる直前で、ピタッと足を止める。
綾小路に対して、茶柱先生な一点の値段を告げている真っ最中の現場に遭遇してしまった。
15万ポイント? おかしい、原作では10万ポイントだったはず。10万ポイントですら綾小路一人では不可能で、堀北と二人で賄ったのにもかかわらず、15万ポイントでは二人でも足りない。
なんで……。頭を回転させて、原因を探る。しかし、答えなど薄々分かりきっていた。
……俺のせいか? 原作でも茶柱先生は須藤が退学しようがどうでもいいといった風だった。Aクラスに上がるうえで須藤の存在はマイナスになる可能性が半々といったところで、茶柱先生にとってはどちらでも良かったのだろう。
そこに、俺という(茶柱先生の中では)優秀な生徒が加わったことで思考に変化が生まれたのか?
そう考えると、須藤の退学は間接的に俺のせいという事では……。頭の中で、片方に須藤、片方にポイントが乗った天秤が揺れ動く。
けど、ここで須藤を助けなかった場合損するのはポイントだけではない。須藤が退学になった場合、次の須藤に冤罪をCクラスがふっかけるというイベントが無くなり、原作から大きくずれが生じてしまう。
初めから俺に選択権などないのだ。大人しくポイントを捧げないといけない。
俺が頭の中で考えをまとめている間に、堀北も参戦していた。さっさと俺も行くか。
生徒証を胸の前に掲げながら、茶柱先生と綾小路に姿を見せる。
「それ、俺も払いますよ」
「……平野くんも来たのね」
「平野?」
堀北は俺の登場を薄々予想していたらしく、驚きはないようだ。綾小路は顔に疑念の色が浮かんでいる。
「ほお……、お前もか。お前はこういうことに関わろうとしない人種だと思っていたが、どういう心境の変化だ?」
「ただ、友達が退学になるのを見殺しにできないだけですよ」
「……くくっ。やはり、お前たちは面白い」
茶柱先生は目を細め、それから口元に指を当て愉快そうに笑った。
「いいだろう。退学取り消しの件、お前たちから須藤に伝えておけ」
そう言うと、茶柱先生は背を向けて俺たちのカードを掲げながら去っていった。
残されたのは俺たち三人。沈黙を破り、綾小路が口を開いた。
「助かった、平野。お前のおかげで須藤を退学から回避させることができた」
そうだぞ、もっと俺を崇め讃えろ。
「いや、俺が好きだやったことだ。それに、俺がいなくてもクラスのみんなにポイントを募ればすぐに集まっただろう。平田あたりは出してくれるだろうし。それより、俺としては堀北のほうが意外だったぞ」
とは言え、心の声を吐けるはずもなく無難な返事をして、何気なく話題をそらす。まあ、茶柱先生いわくこの場で支払えば、だから受理されない可能性もあるだろうけど。
「……人を頼れといったのは貴方でしょう? Aクラスに上がるために、ここで退学者が出るのは得策ではないと判断しただけよ」
「おっ、堀北のツンデレが発揮されてるぞ。お前的には何点だ? 綾小路」
「俺に振らないでくれ。そうだな、五十……ぐはっ!?」
堀北の熾烈な蹴りが綾小路の脇腹に突き刺さり、悶絶する。
何で50点台にしようとしたんだ。大人しく90点とか言っとけばいいのに。でも、それはそれで怒られそうだな。
つまり、綾小路は俺に質問された時点で詰んでいたのか。戦う前に負けていたわけだ、さすがの綾小路にもどうしようもない。ふっ、今回は俺のか「ぐはっ!?」
俺にも蹴りが一発飛んできた。痛い。
その後、須藤に退学取り消しを伝えると心から安堵したようで、長い吐息を漏らした。流石の須藤も反省しているようで、この先赤点を取るような羽目にはならないだろう。
皆と軽い愚痴をたたき合い、堀北の須藤に対するツンデレも見れたところで、俺は帰ろうとする。
一時はどうなることかと思ったが、周りからの好感度も上がり、結果としてはいい一日だったな。
校舎から出て、寮に帰ろうとした時。校舎から出て幾ばくか離れた所で、櫛田に後ろから声を掛けられ、呼び止められた。
「ちょっといいかな? 平野くん?」
「ん? どうかしたのかな、櫛田さん?」
「えっとね……」
躊躇いがちに、後ろで手を組んでいる櫛田が要件を伝えようとする。
急に、俺のほうへと一歩近づいてぐっと身を乗り出した。同年代の女子との接近に、俺の頬が赤みを帯びる。
そして、
「私の過去……知ってる?」
触れそうなほど、耳のすぐ真横にある桃の唇が、囁いた。
唐突の出来事に、固まってしまう。そして無意識にごくりと、息をのんだ。
「ふふっ、じゃあね。また明日」
「ちょっ……」
俺の制止も振り切って、櫛田はくるりと体を回しこの場から立ち去ってしまう。
呆気にとられた表情で、口をパクパクと動かしている俺だけが残された。
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