トラックに轢かれて異世界転生するはずのやつが意外としぶとくて神様が激おこな件 (佐藤寛)
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旧版
第一話


 ユキはコーヒーが入ったカップに角砂糖を6つも入れてかきまぜ、少し冷めるのを待ってから、上品さの欠片もない所作でぐびぐびと飲み干し、カップを机に置いた。

 この部屋‥‥“警備隊長専用室”にはユキ以外に誰もいない。だからユキは遠慮なく大きな欠伸をし、更にはやる気が微塵も感じられない態度でだらだらと椅子に座ることができた。机には大量の書類が積まれている。ユキが隊長に就任して以来、彼女の仕事はこれらの書類にひたすら判を押すという、猿でも出来ることだけだった。 

 ユキはプリズン町警備局の中で厄介者扱いされている。だから簡単な仕事を与えられ、“何もさせない”ように仕向けられていたのだ。

 

 ──あれ?スタンプどこにやったっけ?

 

 ユキは部屋を見渡し、まもなくスタンプ一式が収納されたケースを、洗面台のそばで発見する。

 

 ──なんであんなとこに?『出したらしまう』でしょ!私!

 

 ユキは昨日の自分に憤りながら、椅子から立ち上がり洗面台へ歩き、スタンプのケースを拾い上げる。ふと、洗面台の鏡に写る自分と目が合う。

 

 ──相変わらず美人ね、あなたって。

 

 鏡に写る彼女は、確かに美人だった。だが、緑色の髪や真っ赤な瞳、鋭く発達した八重歯が、彼女に人間離れした雰囲気を付与している。

 

 ──髪は染めればごまかせるけど、牙と瞳はどうしようもない。だから、髪を染める無駄な足掻きはとっくにやめた。

 

 このユキの容貌こそ、彼女が局内で厄介者扱いされている理由の一つである。これは先天的なもので、古代に人間と交わったとされる「人ならざるもの」‥‥‥要するに魔物の形質が、隔世して表れる極めて珍しい病であった。この世界では毎日のように人が魔物に襲われ死んでいる。だから、いくら美人と言えど魔物の形質を持つユキが差別を受けるのは、避けようがないことであった。

 

 ──化け物女、魔物の娘‥‥‥クラスメイト達は言いたい放題だった。でも‥‥‥一番粘着質に私を虐めていたあのくそ女こそ、化け物みたいなブスだった。

 

 ユキは次に、鏡に貼られた写真に映る自分を見た。

 

 ──そう、私は実力で隊長になったの。だから、何も後ろめたいことなんか無い。そうでしょ?

 

 写真にはユキが警備隊長に就任した時の様子が映っている。成人になった彼女に、選択肢はあまり無かった。どこでも「魔物の娘」呼ばわりされ、門前払いされる。まともな職には就けそうもなかった。彼女を拒まなかったのは、実力主義の軍だけだった。厳しい訓練を乗り越え、優秀な成績を修め一人前となった彼女の就任先は‥‥‥成績とは不釣り合いな田舎の‥‥‥しかし犯罪率は王国内トップクラスの町、プリズンだった。

 だが、これはユキにとって出世のチャンスであった。ユキは就任してからハイスペースで次々と凶悪犯罪者達を駆逐していき、プリズン町の犯罪率を国内最下位にしてみせた。結果、局長もユキの手腕を認めざるをえなくなり、ユキは警備隊長へと一気にスピード昇進することとなった。

 

 ──で、今のざまってわけね‥‥。

 

 だが、いくら優秀とはいえ、町の治安を守る警備隊長が「魔物の娘」なのは警備局へのイメージダウンに繋がる。そこで局長は苦肉の策として、実質的な警備隊長としての役割は副隊長に任せ、隊長のユキは閑職に回したのである。

 

 ──時々惨めな気分になったりはするけど‥‥。

 

 ユキは自分の現状にそれ程悲観的ではかった。

 

 ──ま、これでみんなよりも高い給料貰えるんだからしめたもんよね。

 

 ユキは野心を抱いたりはしていない。むしろ野心旺盛な男達を見下していた。

 

 ──たくさんライバルを蹴落として偉くなって、それで、偉くなればなるほど、いつ、誰に陥れられるかビクビクする‥‥‥バッカみたい。

 

 ユキはスタンプのケースを手に机に戻る。

 

 「さてと、そろそろ始めるか‥‥‥退屈で死にそうだけど‥‥‥」

 

 

 

 

 佐藤敏夫は強烈な睡魔に耐えながら、大型保冷トラックの運転席でハンドルを握り、アクセルを踏んでいた。

 

 ──ああ、くそ。夜通しの仕事はいつもこうだ!

 

 人体とは不思議なもので、事前に十分な睡眠をとっていても、一晩中起きていたというだけで果てしない眠気に襲われる。

 敏夫は既に蓋が空いた栄養ドリンクを素早く飲み干し、カーナビの液晶画面に表示された今日の日付をチラ見する。

 

 ──でも、今日は金曜日だ。あと少しだ。昼まで耐え抜けば、あとは家に帰ってぐっすり寝れるし、土日には好きなこともできる。録り貯めておいたドラマやアニメを観るのもいいし、積んであるゲームをやってみるのもいいだろう。あと少しの辛抱だろ?頑張れ俺‥‥。

 

 そう自分に言い聞かせ、金曜日の朝を迎える。敏夫もそんな、どこにでもいる平凡な社会人の一人であった。

 しかし、実のところ、敏夫はそろそろ今の仕事を辞めようかとも考えていた。貯金は十分貯まった。少なくとも数年間は働かずに済むだろう。そうなれば、さっき思い浮かべた休日は当たり前の日々になるのだ。

 

 「はは、この俺が中年ニートか」

 

 ──でも、俺にそんな度胸はない。この歳で、今さら別の生き方なんて‥‥‥。

 敏夫は最近の悩みごとを考えることで、眠気を懸命に誤魔化していた。

 

「そろそろ円伐(まるばつ)町か」

 

 敏夫はクラッチを踏んでギアを切り替え、

 

 ──この辺りは人通りが少ないからな。

 

アクセルを深く踏み込み法定速度をやや越えた速度でトラックを走らせた。

 

 

 

 

 宇崎健は職場である工場へと、早歩きで急いでいた。車を所有・維持できるだけの資金力を持たない彼にとって、通勤手段は徒歩一択である。

 

 ──ちくしょう!!寝坊しちまった!!二日連続で遅刻はマズイ!!

 

 健にとって、自分の取り柄は生真面目なところだけである。だから、寝坊で遅刻なんてことは自分のアイデンティティーを揺るがす事態に他ならなかった。

 ここ数日間、健は“得たいの知れない不安”からなかなか寝付けず、寝不足な状態が続いていた。それが若さ故のありふれたものなのか、他の何かのせいなのかは、本人にも分からない。ただ、健はこれのせいで昨日、既に遅刻してしまっている。

 

 ──高遠班長は笑って許してくれた‥‥‥でも‥‥。

 

 心が痛かった。健はまだ10代後半‥‥普通の人生を送っていれば高校生くらいの年齢であった。そのため感受性が強く、ナイーブな側面と苛烈な側面を両方併せ持ち、些細なことでどちらかに極端に傾く傾向があった。

 健は左手に着けた安物の腕時計を見る。

 

 ──そろそろ走るか‥‥。

 

 早歩きから全力疾走へ、シームレスに切り替えた健は、目の前の信号が青に切り替わったのを確認し、横断歩道を渡る‥‥‥が、渡りきることは出来なかった。なぜなら信号無視し猛スピードで突っ込んできた大型トラックに撥ね飛ばされてしまったからだ。

 そしてそれが、彼にとって、“本当の悪夢”が始まる合図となった。

 

 

 

 

 敏夫はブレーキを目一杯踏み込んでトラックが動きを止めてから、数年ぶりに、しばらく頭の中が真っ白になっていた。

 

 ──人を‥‥‥轢いちまった‥‥‥。

 

 敏夫はヨロヨロと運転席から降りると、トラックの数メートル前方に不自然な姿勢で倒れている血塗れの男を発見する。

 

 ──俺が‥‥‥轢いたのか‥‥‥嘘だろ‥‥?確か、早く救急車と警察を呼ばなきゃいけないんだよな‥‥‥じゃないと罪が重くなるんだ‥‥いや、でも‥‥‥

 

敏夫の脳裏に殺人、逮捕、裁判、有罪、全科、無職、賠償‥‥といった単語が次々に浮かぶ。

 

 ──俺の貯金程度じゃ、賠償金なんか払えない‥‥‥。

 

 敏夫は血塗れの男に背を向け、辺りを見回す。

 

 ──辺りには誰もいない‥‥‥今なら‥‥。

 

 よからぬ考えが浮かび始めたその時、

 

 「おいあんた!!」

 

 男の声を聞いた。

 『背筋が凍る』という懐かしいほどに昔の感覚を思い出す。

 

 ──誰かに見られた?それとも‥‥。

 

 敏夫は、恐る恐る振り返る。

 そこにいたのは‥‥‥

 

 「嘘だろ!?」

 

作業着を着た血塗れの男だった。そして、その男は紛れもなく敏夫がトラックで撥ねた男に他ならない。

 

 ──トラックに撥ね飛ばされても生きてる人間なんてありかよ!?

 

 「そこを、動くな」

 

 血塗れ男は静かな、しかし怒りのこもった口調でそういうと、ずんずんと俊夫に歩み寄って来た。

 

 「ヒィィィィィ!!」

 

 血塗れの男が怒りの形相で自分に近付いてくる。

 男は敏夫よりほんの少し背が高く、細身で、作業着越しでもわかるような引き締まった肉体を有していた。所謂、“細マッチョ”というやつである。

 

 ──うわぁ、明らかに強そうなやつを怒らせちまった‥‥。メッチャ睨んでるし、最悪、殺されるかも知れねぇ!!

 

 敏夫は恐怖した。

 そして本能に従いトラックの運転席に逃げ込み発進させようとするが、

 

 ──く、くそ、動かねぇ!!

 

 クラッチ操作に失敗しエンストしてしまう。いつもは出来ることでも、パニックになると出来なくなるものである。 

 果たして、敏夫は血塗れ男に運転席から引きずり出され胸ぐらを掴まれる。

 

 「てめェ!!クソオヤジ!!轢いたのはともかく救急車は呼ばねぇわ逃げ出そうとするわどういうつもりだ!?」

 

 大声で怒鳴る血塗れ男。

 

 ──轢いたのは良いんだ‥‥‥って言ってる場合じゃねぇ!!どうにかこいつの怒りを鎮めねぇと‥‥。

 

 「す、すんません!!ちょっと、ビビっちまって‥‥‥」

 

 言い訳にもならない弁明を試みる敏夫。

 

 「轢き逃げは重罪だぞ!!わかってんのかよ!?」

 

 ──くそ、んなことわかってんだよ!!無事なんだから良いじゃねぇかよ!

 

 逆ギレしたくなる衝動を抑えつつ、敏夫は打開策を模索する。

 

 「頼む、赦してくれ!!女房と娘がいて俺の帰りを待ってるんだ!!」

 

 そう言いながら敏夫は懐から同僚の妻と娘が映った写真を血塗れ男に見せつける。

 

 「なんだと!?そんなもんで‥‥」

 

 ──やはり駄目か‥‥

 

 敏夫は諦めかけるが、

 

 「く‥‥ちくしょう‥‥」

 

 わかりやすく動揺する血塗れ男。

 

 ──あれ?

 

 「‥‥‥‥‥わ、わかったよ、赦してやるよ!!」

 

 血塗れ男は吐き捨てるように言った。

 

 「お前のせいで俺は二日連続で遅刻だし、新品の制服は台無しだ!!さっさと失せやがれ!!」

 

 「あ、ありがとうございますぅ!!」 

 

 敏夫は笑いを堪えた涙を利用して感謝のあまりに泣きそうな演技をする。

 

 ──へ、バカで甘っちょろいガキめ。お前こそさっさと失せやがれってんだ。

 

 そう敏夫が内心で嘲笑った直後。

 突然、大音量のサイレンが円伐町中に響き渡る。

 

 「あれは、災害時の緊急サイレンか?」

 

 血塗れ男はそう呟いた。

 そして、今度は地面がガタガタと揺れる。

 アスファルトの道に亀裂が走る。

 電柱が倒れる。

 

 「なんだ!?地震か!?なんなんだよちくしょう!!」

 

 ただただ混乱した様子の血塗れ男。さっきまでのホラー映画に出てきそうな気迫は何処へやら、今の彼はリアクション芸人と成り果てている。

 

 ──サイレン、地震‥‥‥今度は何だ!?

 

 血塗れ男が大袈裟に騒いでくれたお陰で、敏夫は割と冷静であった。

 と、急に辺りに濃霧が立ち込める。

 

 ──霧か‥‥‥まるで、スティーブン・キングの小説か、あのホラーゲームみてぇだな‥‥‥。 

 

 敏夫は、昔読んだ小説を思い出す。

 

 ──サイレン、地震、霧‥‥‥次に来るのは‥‥‥いや、まさかな‥‥‥。 

 

 「なあ、おっさん、今、何て言ったんだ?」

 

 突然、血塗れ男が話しかけてきた。

 

 「い、いや、何も‥‥」

 

 「本当かよ?たしか、『神よ、何故私を見捨てられたのですか?』とか言ってなかったか?」

 

 「言ってねぇよ!!」

 

 ──何言ってんだこのクソガキ。

 

 その時、

 

 「うわああああああ!!」

 

声が聴こえた。 

 

 「何だよ今の!?」

 

 血塗れ男は相変わらずオーバーなリアクションを見せる。

 

 「い、行ってみるぞ」

 

 血塗れ男は敏夫のシャツを引っ張って連れていこうとする。

 

 「俺もかよ!?」

 

 抵抗する敏夫。だが、血塗れ男は怪力だった。強引に連行されてしまう。

 二人は声がした方へ歩いていく。

 二人はやがて、霧の向こうに倒れた人影を見つけた。警官のようだ。

 

 「あのぉ、お巡りさん?大丈夫ですか?」

 

 血塗れ男が呼び掛ける。

 返事は、無い。

 更に近付く。

 更に。

 更に。

 そして‥‥‥‥

 

 「ひぃぃ!!し、死んでる!!」

 

 警官は左半身が無かった。

 

 「マジ‥‥かよ‥‥」

 

 敏夫は、昔読んだあの小説の通りの展開に戦慄した。

 

 

 

 

 ユキは午前中にしてもう今日のタスク‥‥‥山積みの書類への押印を完了してしまっていた。

 だから、彼女が下らない妄想に思いを馳せるのも仕方なかった。

 

 ──ある日、突然、超強い魔物が襲撃してきて、

 ──とりあえず、真っ先にスケベな局長が殺されて、

 ──次に就任して早々に可愛いからってちやほやされてるあの新人女が殺されて、

 ──みんな絶望!!そんな時、

 ──私が──

 

ドンドンドンッ!

 

 誰かがドア叩く。

 

 「どうぞ」

 

 ユキは露骨に面倒くさそうに言った。

 部屋に入ってきたのは、副隊長だ。

 

 「何の用だ?」

 

 ユキは変わらず不機嫌な態度を隠さない。

 

 「サイレンを聴きませんでしたか?」

 

 「訓練用のだろう?」

 

 「いいえ、実戦です」

 

 ──実戦?

 

 実戦‥‥‥つまり、犯罪ではなく、敵襲。

 

 ──敵国、魔物、魔女‥‥のどれかね‥‥。

 

 「殺傷武器の使用許可を願います」

 

 これが、副隊長がわざわざ部屋にやって来た理由だった。いくらユキがお飾り隊長だったとしても、軍隊である以上、手順は守らなくてはならないのだ。

 

 「許可する」 

 

 副隊長はそのユキの言葉を聞くと、すぐさま部屋を出ていった。

 ユキはワクワクしていた。

 

 ──何が起こってるか知らないけど、みんなせいぜい頑張ってね。

 

 ユキはワクワクしていた。

 窓の外を見てみると、濃霧が立ち込めている。不自然な霧だ。

 

 ──これは、“スモッグ”の霧ね。

 

 スモッグ‥‥それは、霧を発生させて獲物を探知する、人食いの魔物である。

 窓から外を見ると、兵士達が霧の中に潜む“何か”と戦い、次々に殺されていく様子が見えた。

 ユキはワクワクしていた。

 

 「やっと、私の元に非日常が来たんだわ‥‥神様ありがとう!!」

 

 ──きっと、今日が私の、24の誕生日だからね。

 

 ユキは早速、鎧を着込み、長剣と短剣、レーザー銃2丁を腰のホルスターに収納すると、部屋を出る。

 こころ、ときめかせて。



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第二話

 ユキは町に四つある見張り台の内の一つに立って、双眼鏡で町の様子を観察していた。

 

 当然、町はスモッグが発する霧に包まれているから、それ程遠くまでは見渡せない。でも、地上での視界の悪さよりはいくらかましであった。

 

 ユキは調査隊の報告を思い出す。

 曰く、異世界の町がこの町プリズンと融合し、迷路のようになっていると。

 曰く、警備隊は壊滅し、生存者の人数等は不明と。

 

 解ったのはこれだけだった。何故、魔物達がこの町に集結しているのか。何故、異世界の町が突然こちらの世界に顕現したのか、あの地震との関連性はあるのか、何もかも不明瞭だった。

 

 双眼鏡のレンズの先には、地獄が広がっていた。

 抵抗も虚しく一方的に魔物に屠られていく警備隊員達。

 逃げ惑うばかりの一般人達。

 そして、同じく逃げ惑う、オシャレをした自分と同年代の女達。

 

 ──ざまあみろってやつよ。

 ──助けてほしいの?まったく、こんな時だけ都合のいい‥‥。

 ──あのクソビッチどももざまあみろ。暇さえあれば付き合っただの振っただの振られただの‥‥そんな話ばかりして、クソ、クソ、化粧のブランドを知らないことが、そんなに恥ずかしいことだっての!?

 

 ユキの脳裏にトラウマがよみがえる。

 

 ──駄目よ、駄目。楽しむの。せっかくの非日常なんだから。忘れたの?今日は私の誕生日なんだから。

 ユキはブンブンと頭を振って、嫌な記憶を振り払う。

 

 ──ん~?あれは‥‥。

 

 そして、双眼鏡を覗き続けていたユキは、面白いものを発見した。

それは、副隊長だった。部下達と離れ離れになり孤立してもなお、懸命に魔物と戦っている。

 

 ──あなたは、あなただけは、私に優しかった。だから、本気で好きだった頃もあったのよ。でもね。あなたは誰にでも優しいただの八方美人だった。まさかあんなやつと結婚するなんて‥‥‥。

 

 ユキはレーザー銃に、スコープとロングバレルを慣れた手つきで取り付け、ビームの収束率を最大にする。

 

 ──フフ、あんたは私が終わらせてあげる。部下想いのあんたのことだから、生きてるのも辛いでしょ?沢山死んじゃったしねぇ?

 

 ユキはスコープを覗き、副隊長に照準を合わせ、

 

 ──腹の辺りでいいかな?

 

引き金を引いた。 

 

 副隊長は腹を撃たれた刹那、腹を押さえて前屈みになりながらその場から走り去った。

 

 ──あーあ、逃げちゃった‥‥‥。

 

 ユキはがっかりしたが、すぐに素敵な、そして邪悪なことを思い付くと、鼻唄を歌いながら見張り台から飛び降りた。常人ならば転落死してもおかしくない高さであったが、ユキは魔物由来の頑健な骨格と肉体を有していたために怪我一つ負わずに着地できた。 

 

 ──ええと、副隊長がいたのはこっちの方角だっけ?

 

「ヒィィィィィ!!」

「嫌ァァァァァ!!」

 

 あちこちで住民達や隊員達の阿鼻叫喚が起こっている。

 ユキは気にせず、鼻唄を歌いながら霧の中をずんずんと進んでいく。こころ、おどらせて。

 と、一体の怪物が霧の中から現れユキの前に立ち塞がった。

 そいつは狼の頭を持つ、全身が毛皮に覆われた獣人タイプの魔物、その名も狼頭(ウルフヘッド)。随分安直な名前だが‥‥

 

 ──でもしっくり来るのよ。

 

 ユキは長剣を抜くと、得意の火炎魔法で刀身に炎をまとわせる。

 狼頭はユキに猛然と襲いかかる‥‥が、ユキは狼頭の突進を最低限の動きでかわして背後をとり、その背中に斬撃を食らわせる。

 狼頭は身体の内側を焼かれる激痛を味わい、のたうち回り、10秒足らずで息絶えた。

 ユキは倒れた狼頭を一瞥もせずに進む。やがて、副隊長が自分に撃たれた場所に辿り着く。

 

 ──あとは血のあとをたどっていくだけの楽なしごとよ。

 

 ユキは副隊長の血痕をたどっていき、一軒の民家へ辿り着く。

 家のまえには、住人らしき惨殺死体が横たわっている。

 

 「おじゃましま~す。」

 

 ユキは死体に挨拶してから、民家の入り口のドアの前に行く。そして、深呼吸してから、血塗れのドアノブを回した。鍵はかかっていなかった。

 ユキは家に入ってすぐ、副隊長を発見することができた。

 副隊長は血塗れになった腹を押さえ、居間の角で壁にもたれかかり座っていた。

 鍛え上げられた大きく屈強な肉体と、渋い男前な顔は相変わらずに、その表情は苦痛と絶望で歪んでいる。

 

 「副隊長!!無事だったか!!」

 

 ユキは頭の中で行ったリハーサル通りの、嬉しさと絶望の入り交じった表情で副隊長に話し掛けた。

 

 「うう、隊長‥‥貴方も‥‥」

 

 副隊長はかなり辛そうだ。ユキも思わず同情してしまう。

 

 「奴らにやられたのか?」

 

 白々しく質問をする。

 

 「いいえ、撃たれました。裏切り者がいます‥‥」

 

 ──そりゃ私が撃ったからね。 

 

 「何!?誰にやられた!?」

 

 ユキは「裏切り者への怒り」を精一杯演じた‥‥‥笑いそうになるのを必死で堪えながら。

 

 「解りません‥‥」

 

 ──でしょうね。あんたからは見えない距離と角度から撃ったんだから。

 

 「待ってろ、今、止血してやる」

 

 傷付いた部下を介抱する上官。端から見ればそうとしか見えないだろう。

 

 「いえ、結構です。もう助かりません。この出血量では‥‥足手まといにもなりたくありません。止めをお願いします」

 

 副隊長は覚悟を決めた表情でユキを見つめる。その顔を見たユキは、

 

 「ブフッ‥‥‥お、オッケー!」

 

ついに吹き出してしまった。

  

 「え?」

 

 副隊長は一瞬で色々なことを察したらしく、ユキを見つめる目付きがはっきり変わったが、その一秒後にユキのレーザー銃から放たれたビームに眉間を貫かれていた。

 横たわる副隊長を見て、ユキはほんの少し、後悔した。

 

 ──さすがに、殺すのはやりすぎだったかな?でも、このままほっといても自殺してたろうし、結果オーライよ。

 

 ユキは上機嫌で家から出ると、再び霧の中へ、鼻唄を歌いながら消えていった。

 

 

 

 

 敏夫は警官の遺体をまさぐっていた。

 

 「おい、何やってんだ?」

 

 血塗れ男の言葉を無視し、死体を漁る。警官が持っているもの‥‥拳銃が望みの品である。しかし、見当たらない。

 

 ──左半身ごと持っていかれたか‥‥。

 

 敏夫は落胆し─

 

 「動くな!!二人とも手を上げてゆっくりこっちを向け!!」

 

 突然の意識外からの怒声に、心臓が喉から飛び出しそうになりながら、敏夫はそいつの命令通り手をあげ、ゆっくりと振り返る。

 

 ──ちくしょう、なんだってんだ!!

 

 「わ、わかった、撃たないでくれ!!俺は──」

 

 相変わらず大袈裟なリアクションをして、手を上げながら血塗れ男が言う。

 

 「いいからさっさとこっちを向け!!」

 

 敏夫と血塗れ男はそいつの方へゆっくりと向いた。

 そいつは警官だった。

 

 「お前達が、彼を殺したのか?」

 

 警官は惨殺死体をチラ見してから二人に問いかける。

 

 「違ぇよ!!俺たちが人間を真っ二つにする武器を持ってるように見えるか!?」

 

 血塗れ男は怒鳴りながら返す。

 

 ──おいおい、あんまり刺激すんなよ‥‥。

 

 敏夫はハラハラしながら黙って手を上げ続ける。

 警官は敏夫と血塗れ男を交互に見てから、しばしの沈黙の後、銃を下ろした。

 それを見た敏夫と血塗れ男もほっとして上げた手を下ろす。

 

 「銃を向けてすまないな。まだ状況が把握できて無いんだ」

 

 警官は申し訳なさそうな態度で言った。

 

 「彼はあんたの知り合いかい?」

 

 血塗れ男が質問する。“彼”とは惨殺死体のことだ。

 

 「ああ、世話になった先輩だ。」

 

 「ああ、そりゃ‥‥‥」

 

 血塗れ男はかける言葉が見つからないようだ。

 

 「とにかく、まずは安全な場所を見つけて、それから─」

 

 警官の言葉はそこで途切れた。

 警官の上半身が後ろに倒れる。

 下半身は前に倒れた。

 警官は真っ二つになっていた。

 倒れた警官の代わりに、そこに立っていたのは奇妙な生物だった。

 大型トラックのタイヤ位の大きさの肉団子に、人間の手足が生え、手首の先は巨大な鎌。警官を真っ二つにしたのは、その血にまみれた二つの鎌に他ならなかった。

 

 「ヒィィィィィ!!何だこいつ!!」

 

 血塗れ男は相変わらずだ。

 

 ──化け物‥‥‥ホントに出やがった!!

 

 敏夫は最悪な予想が的中したことに絶望する。

 

 化け物が、鎌を突きだし敏夫に襲いかかる。

 

 「うわああああああ!!」

 

 敏夫は、己の死を予感する。両手で顔を庇い、目を閉じ、全身の筋肉が強ばる。次に彼は、自分の身体が切り裂かれる音を聴くだろう‥‥‥だが、

 

 キィンッ!!

 

代わりに彼が聴いたのは金属音だった。

 敏夫は恐る恐る目を開ける。

 目の前には、血塗れ男がいた。

 男は、化け物の鎌を、大きなモンキースパナとパイプレンチの二刀流?で防いでいた。

 

 ──すげぇ、化け物と張り合ってやがる。

 

 敏夫がアホ面で感心していると、

 

 「おい、おっさん!!ボケッとしてないでこいつを銃で撃ってくれよ!!」

 

血塗れ男に怒鳴られる。

 

 「銃?そうか、警官の」

 

 敏夫は急いで警官の手から拳銃をもぎとると、化け物に向かって撃った。

 

 一発。

 二発。

 

 ──サバゲーで鍛えた銃さばきを見やがれ!!

 

 しかし、二発の銃弾は素早く防御姿勢をとった化け物の鎌に防がれてしまう。

 が、それが化け物にとって、致命的な隙となった。

 血塗れ男はスパナとパイプレンチを躊躇なくその場に放り捨て、化け物に突進してその両手首‥‥鎌の付け根を掴んだ。そして、肉団子のような胴体に、強烈なヤクザキックをお見舞いする。()()()()()()()()()()()()で。

 後ろに吹っ飛ばされ尻餅をついた化け物には、腕が無かった。さっきまで腕がついていたはずの場所から、真っ赤な血が滝のように吹き出している。

 血塗れ男は化け物の腕を無造作に放り投げ、腕がないせいで上手く立ち上がれない化け物に素早く馬乗りになると、その胴体を何度も殴った。

 

 「ぐおおおおお!!くたばれぇ!!」

 

 血塗れ男は獣のように叫びながら殴り続ける。

 殴られる度に、血を吹き出しキィキィと耳障りな悲鳴をあげる化け物は、やがて、動かなくなった。

 

 「はぁ、はぁ、なんとか倒せたな‥‥‥」

 

 血塗れ男は乱れた息を整え、少し落ち着いてから、靴で化け物を小突いて言った。

 

 「ああ、俺たちでもなんとかなったな。」

 

 敏夫は“俺たち”を強調した。

 

 ──実際、俺が撃ったお陰で隙ができたしな。

 

 「ああ‥‥‥俺は宇崎健だ、よろしくな」

 

 血塗れ男‥‥健は肯定してから、名乗り、握手のため右手を差し出す。

 

 ──こいつはクソ強い。警官でも勝てない化け物を、素手で殺した。それに、トラックに撥ねられてもピンピンしてるほどタフなやつだ。

 ──あの化け物が、一体だけとは思えねぇ。

 ──生き延びるには、こいつと手を組むしかねぇ。

 

 しばし考えてから、敏夫は健の右手を握り返した。

 

 「俺は佐藤敏夫。長い付き合いになりそうだな。」

 

 

 

 

 

 ユキは霧に包まれた町を歩き続けていた。

 

 ──知らないとこに来たけど‥‥‥これが異世界の町なのかな?

 

 プリズン町の南区にひろがっているはずの畑は何処にもなく、代わりに、未知の町並があった。

 ユキは資料でしか見たことがない異世界の建造物や道路に心を踊らせる。

 

 「助けてくれ!!誰か助けてくれ!!」

 「嫌だ!!死にたくない!!やめてくれ!!うわああああああ!!」

 

 相も変わらすあちこちで悲鳴が聞こえる。

 が、ユキは気にせず、歩き続ける。

 途中で何度か魔物に出くわすも、ユキはそれらを容易く殺した。

 ユキにとって、これはただの散歩だ。

 

 ──町の奴らが無様に殺されていくのは、それはそれでいい気分だけど‥‥‥。

 

 一つ、不満があった。

 

 ──せっかくの非日常なんだから、出会いが欲しいな‥‥例えば、屈強なイケメンがロケットランチャー抱えて助けに来るとか‥‥そんな刺激的な出会いはないの‥‥?

 

 「んんんんんんん!!!!死にやがれぇ!!!!」

 

 声がした。

 悲鳴ではない。

 明らかに、戦っている人間の声。

 

 ──また隊員かな?まだ生き残りがいるの?でも、聞いたこと無い声だった気が‥‥。

 

 ユキはワクワクしながら声の主に近付いて行き、そして、“彼”を発見した。

 

 “彼”は労働者の服を着た、血塗れの男だった。

 “彼”は、子分らしき小汚ない中年男性と共に、狼頭と対峙している。

 狼頭が、両腕を広げて“彼”に襲いかかる。

 “彼”は、それを受け止め手四つ状態に。

 狼頭は“彼”の頭に噛みつこうとするが、“彼”は首を反らしてかわすと、狼頭の股ぐらを蹴りあげる。

 悶絶する狼頭。

 “彼”は金属製の工具で狼頭の頭を勢いよく殴りつける。

 何度も。

 何度も。

 昏倒する狼頭。

 “彼”はうつぶせに倒れた狼頭のその後頭部を踏みつけ‥‥‥潰す。

 その光景は、常人が見たらただただドン引きするだけだったろう。

 しかし、ユキはまともでは無かった。

 

 ──ウソ‥‥‥凄い‥‥‥あんな工具一つで魔物を倒した‥‥ロケットランチャーは担いで無いけど、貴方が、もしかして貴方が、運命の人なの?

 

 ユキは自分の身体能力が人間離れしていることを知っている。だから、常人の限界は精々あの副隊長程度だと思い込んでいた。

 “彼”は明らかに自分と同じくらい強い。

 社会的地位はともかく、強さで自分に並ぶ男がいるなんて。

 その発見はユキの心をときめかせた。

 

 ──声を掛けよう。それから─

 

 ユキは踏みとどまる。

 

 ──待てよ‥‥‥こういうのは第一印象が大事よね。もうちょっと様子を見てみよう。

 

 ユキは“彼”に見つからないように様子を伺う。

 

 そして、チャンスが訪れた。

 もう一体の、“彼”が倒したのよりも更に大柄な狼頭が現れたのだ。

 

 「ちくしょう!!次から次へと!!」

 「マジかよ!!」

 

 新たな脅威の出現に驚く“彼”とその子分。

 

 ──今だ!!

 

 ユキはレーザー銃を抜き、狼頭をヘッドショットする。

 

 ──やった!一撃で倒せた!

 

 「大丈夫か!!」

 

 ユキは仁王立ちしながら言った。

 

 ──完璧!!まさに刺激的出会いね!!

 

 “彼”がユキに歩み寄ってきた。

 

 「助けてくれてありがとう」

 

 “彼”はユキの目をまっすぐ見て言った。綺麗な目をしている。

 “彼”は血塗れだったが、ハンサムで、逞しい身体をしていた。背丈は自分と同じくらいだろうか?誠実そうだ‥‥。

 

 「うわあ、すげェ美人だな」

 

 “彼”の子分はユキの身体をなめまわすように見てから言った。

 

 ──スケベオヤジめ‥‥‥殺すか‥‥‥?いや、でも‥‥。

 

 「私はユキ。私の仕事は君たち民間人を救助することだ。詳しいことは安全な場所で話す」

 

 ユキは毅然とした態度で言った。顔は“彼”にしか向いていない。

 

 「‥‥‥オーケイ‥‥‥俺は宇崎健、で、こいつは─」

 

 “彼”こと健は隣にいる子分の方を見る。

 

 「─轢き逃げ犯の佐藤敏夫。」

 「おい!」

 「なんだよ!!事実だろ!?」

 「こういうのは第一印象が大事だろうが!!」

 

 ユキは“第一印象が大事”という敏夫の台詞にダメージを受ける。こんなスケベオヤジと一瞬でも同じことを考えたかと思うと気持ちが悪かった。

 

 ──このオヤジ、どっか行ってくれないかなぁ‥‥



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第三話

 敏夫は突然現れた謎の女、ユキに見惚れていた。

 緑の髪、深紅の瞳、鋭い八重歯。

 

 ──鎧を着たバンパイアのねーちゃんか‥‥コスプレってわけじゃ無さそうだ‥‥‥それにしても美人だな‥‥。

 

 「安全な場所か‥‥コンビニとか?」

 

 うーん、と唸ってから健が言った。

 

 「どこでも構わない、落ち着いて話せる場所なら」

 「なら、行こう」

 

 そう言って健は歩き出した。ユキと敏夫もついていく。地割れに気を付けながら。

 歩き始めてすぐに、またあの狼の化け物が現れる。

 

 「うわ!!また出やがった!!」

 「何体いるんだよこいつ!!」

 

 騒ぐ敏夫と健。

 ユキは剣を抜きシャッと、凪払う。

 次の瞬間、化け物は真っ二つになっていた。

 

 ──すげぇ!この女、健よりも強ぇ!

 ──生き残れる‥‥。

 ──この二人と一緒にいれば、俺は生き残れる!!

 ──今日は最悪な1日だが、この二人に会えたのは不幸中の幸いだな!!

 

 敏夫は希望を抱いた。

 歩き続けた三人は、やがてコンビニにたどり着く。中には誰もいない。荒らされた形跡もなかった。

 

 「みんな、どこに行ったたんだろう?」

 

 健が誰に言うでもなく呟く。

 

 「逃げたか、殺されたんだろうな」

 

 ユキが抑揚なく答えた。

 

 「ここじゃ丸見えだ、事務所に行こう」

 

 敏夫はコンビニの正面がガラス張で中が丸見えなのが不安で仕方なかった。

 事務所に入る三人。

 コンビニは、店長の自宅と一つになっていた。事務所から行けるようだ。

 敏夫が店長の家に繋がるドアノブを回すと、ガチャリとドアが開く。鍵は掛かっていなかった。

 

 「よっしゃ、こっちの方が安全そうだぞ。入ろうぜ」

 

 三人は店長の家に入っていった。

 

 

 

 

 「ちょっと待っててくれ、顔を洗ってくる」

 

 健はそう言って洗面所へ入っていった。直後に、水が蛇口から勢いよく流れる音が聴こえてくる。

 

 ユキは異世界の住居に興味津々だった。

 

 ──へえ、レンガ造りじゃないんだ。それに、何か狭いなぁ。でも、あの地震で殆ど崩れてないってことは、耐震性はすごそうね。

 

 頑丈な造りになっている警備局周辺はともかく、異世界の町と融合したあたり‥‥即ち、地震により最も大きく揺れた場所は完全に瓦礫の山と化していた。

 

 タンスの上には少しホコリをかぶった中年夫婦のツーショット写真や若い女性の写真が写真立てに入れられ飾られている。“コンビニ”とやらの店主夫婦とその娘のようだ。

 

 敏夫はソファーに座ってぐったりしている。

 

 ユキが部屋の中を物色していると、健が、洗面所から、タオルで頭を拭きながら戻ってきた。

 

 ──水も滴るいい男ね。

 

 「ふう、少しだけさっぱりした。流石に顔まで血塗れは気持ち悪いし」

 「そうだな、さっきまでホラー映画に出てきそうな見た目だったぜ」

 

 敏夫が茶々を入れる。

 

 ──あんたは黙ってなよ!

 

 ユキは殺意を堪える。

 

 健は近くの机の近くにあった椅子を二つ持ってきて、向かい合うように並べてから、その内の一つに座った。

 

 「それじゃあ、ユキさん?だっけ。いくつか質問しても?」

 

 ユキがもう一方の椅子に座るのを待ってから、健は言った。

 椅子に座り健と向かい合ったユキは、眼球運動を殆どせずに彼の身体のあちこちを舐め回すように見た。

 深く切られた爪、短く切られた健康的な髪、幼さの残るハンサムな顔立ち、きめ細かい肌、よく引き締まった身体‥‥‥若さと力強さに満ち溢れていた。ただ‥‥‥

 

 「その前に、どうして血塗れなんだ?化け物の返り血ではないようだが」

 

 つい聞いてしまうユキ。

 

 「ああ、それは─」

 

 健はソファーに座りぼーっとしている敏夫に目線を向け、

 

 「あいつのせいで‥‥‥まあ、今は根に持ってる場合じゃないし、安全になってから説明するよ」

 

 ──あのクソオヤジになんかされたのね。クソッ!!

 

 「そうか、わかった。それじゃ、何でも質問してくれ。私に答えられることなら可能な限り答えるぞ」

 

 ユキは真剣な眼差しで言った。

 

 ──まあ、私が知ってる情報なんて大したこと無いけどね。

 

 「それじゃあ、そうだな‥‥ええと、まずあなたは何者?‥‥なんですか?」

 

 健は不安そうに最初の質問をした。

 彼の不安は、「この質問は失礼じゃないだろうか」という不安だろう‥‥‥恐らく、多分。

 

 「そんなに固くならなくてもいい。敬語はやめてくれ。これからしばらく、協力する仲になるんだから。それで『何者か』という質問だが、私は君たちとは別の世界─『異世界』から来たんだ」

 

 ──まずはそこから説明しなくちゃね。私たちと違ってこの世界の人達は「異世界」を観測したことがないらしいし‥‥。

 

 「異世界?別の世界?‥‥ええと、つまりこれは現実じゃない?」

 

 案の定、理解出来ていない。

 

 ──困惑顔も可愛いのね。

 

 「いいや、これは現実だ。二つの世界はいつもすぐ近くにあるが、普段は絶対に干渉し合うことはないんだ。だから、君たちが異世界の存在を知らなくても無理はない。でも、現実は受け止めないとな」

 

 「現実か‥‥オーケイ、頑張って受け止めてみるよ」

 

 健はユキの言うことを嘘と決めつけ茶化したりせず、真摯に受け止めた。

 

 ──へえ、真面目君か‥‥もう少し仲良くなったら、からかい甲斐がありそうね。

 

 「私は、この世界─つまり君たちから見れば異世界の、ブリズンという町の警備隊長を務めている」

 

 「警備隊?」

 「町の治安維持のための組織さ」

 「つまり、警察か‥‥‥」

 

 一瞬の間。

 

 「それで、今、一体この町で何が起きてるんだ‥‥ですか?‥‥あ、敬語は嫌なんだっけ‥‥ええと─」

 

 焦る健。

 

 ──フフ、なんだか意地悪したくなっちゃう。でも、それはもっと仲良くなってからね。

 

 「はっきり言って、詳しいことは何もわかっていない。これまで、『窓』と呼ばれる装置で君たちの世界を観測することは何度かあった‥‥でもそれは、こちらが一方的に覗き込んでいるだけで、干渉とは言えないだろう。今回の事件(ケース)は、君たちの町そのものが私達の町、プリズンと融合したかなり大規模な干渉だ。」

 

 「町そのものが‥‥‥それじゃ、もうここは異世界ってこと?」

 「残念ながら‥‥」

 

 ──私にとっては幸運だけどね。

 

 「そんな‥‥‥それじゃあ、あの化け物は?」

 「魔物だ」

 「魔物?」

 「そう、魔素とよばれる物質で肉体を構成された生物の総称だ。通常の野生生物よりも生命力や殺傷力に秀で、いずれも人間に敵対的だ。遭遇したら問答無用で襲ってくると思った方が良い」

 「‥‥‥‥オーケイ‥‥‥」

 

 健は恐怖で身震いしている。

 

 「そして最悪なことに、何故かその魔物の内、“人食いタイプ”の凶悪な魔物ばかりがこの町に集結している。この霧も、その人食い魔物の一種、“スモッグ”が獲物を探知するために発する物質だ」

 「それじゃあ、俺たちも見つかって殺される?」

 

 健の動きが固まる。こんなに一々リアクショが面白いやつも珍しいだろう。ユキは目を輝かせた。

 

 「いや、大丈夫だ。獲物となる人間が膨大すぎるからな」

 

 「それで、俺たちはこれからどうなる?」

 「私と一緒に町を脱出する。今から72時間─」

 

 ユキは首にかけた懐中時計を見た。

 

 「─いや、68時間後、王政軍が来て魔法たちを焼却魔法で町ごと滅却するから、それより先に」

 「そんな‥‥‥それはまずい!」

 

 健は露骨に狼狽する。

 

 「姉さんと拓‥‥‥甥っ子が家で待ってるんだ!置いていけないよ!!」

 

 ──へえ、お姉さんと甥っ子かぁ、挨拶しないとね。

 

 「わかった。なら助けに行こう」

 

 ユキは正義感に溢れた面持ちで言った。

 

 ──ま、どうせ死んでるだろうけどね。

 

 「ありがとう。ユキさん、貴方は恩人だよ」

 

 健は泣きそうな顔で感謝の意を伝えた。

 

 

 

 

 

 

 敏夫はソファーに座ったまま、ユキと健の会話を話半分に聞いていた。

 ──異世界だって?馬鹿馬鹿しい!!

 ──ゲームじゃねぇんだぞ!

 ──でも、あの化け物‥‥‥それに霧‥‥‥信じるしかねぇ!!

 ──クソッ!!俺の人生、こんなことばっかりだ。

 ──良いことなんか一つも無かった。

 ──クソッ!クソッ!

 ──しかし、それにしても‥‥‥

 ──あの“バンパイアナイトウーマン”は随分と“良いもの”をお持ちだな‥‥‥鎧の上からでもわかるぜ‥‥‥。

 ──どうせ死ぬならあわよくば‥‥‥

 ──なんてな。俺みたいな雑魚、近付いただけで殺されるだろうな。さっきだって睨み殺されそうになったし‥‥‥。

 ──それに、あの健とかいうイキったクソガキ‥‥なんだかんだであいつは俺を守ってくれた。

 ──あいつがいなければ、俺はとっくに死んでたんだ

 ──俺に選択肢は無ぇ。

 ──あの二人と一緒に─

 

 「おいおっさん!!行くぞ!!」

 

 健が呼び掛ける。

 

 「!?行くって何処へ?」

 

 ──やべぇ!!話聞いて無かったぜ。

 

 「俺の家だよ。聞いてなかったのか?」

 「お前の家!?何でだよ!?町から出るんじゃねぇのかよ!?」

 

 敏夫は自分の非を棚に上げて激怒する。

 

 ──寄り道してる場合じゃねぇだろ!?

 

 「姉さんと甥っ子が待ってるんだ。助けに行かないと」

 「はあ?俺には関係無いだろうが!!」

 

 ──ふざけんなよクソガキ‥‥

 

 敏夫の怒りが高まる。

 

 「なら、ここにいるか?別について来なくても良いんだぜ?」

 

 健も引かずに返す。

 

 ──ぐっ‥‥‥こいつ!!

 

 こんなところに一人で取り残されるのはまずい。健とユキにおんぶに抱っこでやっと死なずに済んでいる彼に、選択肢は無かった。

 

 「‥‥‥クソ、わかったよちくしょう!」

 「‥‥悪いな。付き合わせて」

 

 健は目を伏せながら言った。そして、

 

 「だから、責任持って、あんたは俺が守ってやるよ。約束だ」

 

と続けた。

 その健の返しは、予想外─

 

 ──いや、こいつはそういうやつだ。偽善者なんだ。その証拠に、こいつは謝っておきながら、自分の意思は曲げないじゃないか‥‥。

 

─ではないと、敏夫は自分に言い聞かせた。

 

 「早く行くぞ、ユキさんが待ってる」

 

 三人はコンビニを後にした。



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第四話

 「クソッ!これもだめだ!」

 

 敏夫はアクセルから足を離し、ドアを開けてその車から降りた。

 

 「これも動かねぇ!ガソリンは満タンだってのに!」

 

 敏夫たちは足になる車を探していた。最初の候補は敏夫が乗っていたトラックだったが、それは敏夫が運転席に乗り込んだ瞬間、バランスを崩し地割れに挟まってしまった。

 その後、辺りに乗り捨てられた車を盗んで行こうと試みたが、どういうわけか、どれも動かない。

 かれこれ30分が経過していた。ふと、健の方を見ると、抑えてはいるものの、苛立ちを隠せない様子だ。

 

 ──だいたい、俺が何のためにこんなことを‥‥‥。

 

 健が余計なことを言わなければ、こんなことする必要もないのだ。

 だが、敏夫はあることが引っ掛かっていた。

 それは、さっきの健の誓い。

 そして、化け物から守ってくれたこと。

 

 ──クソッ‥‥‥。

 

 「歩くしかないようだな」

 

 ユキが言った。がっかりしたように見えるのは気のせいだろうか。

 

 「待った、歩くよりも良いものがあるぞ」

 

 健が指差した場所には、三台の自転車が停められていた。カゴ付きの、ママチャリと呼ばれるタイプである。

 

 ──まあ、歩くよりはマシか。

 

 敏夫はまだこれを現実だと受け止めきれていなかった。

 これは夢なんじゃないのか。

 これは夢で、本当はまだ家の薄い布団にくるまって寝ているだけなんじゃないのか。

 敏夫は最近、疲れとストレスのせいか、化け物にひたすら追われる夢を度々見ていた。だから、これも夢なんじゃないかと、思わずにはいられなかった。明日は土曜日。だから好きなことができるし、好きなだけ夜更かしできる。そのはずじゃないのか。

 

 ──あのクソガキですら現実だと認めたことを、俺ってやつは!!

 

 敏夫は現実逃避しようとする自分を叱咤する。

 彼は勘違いしていた。当たり前の日常が、いつまでも当たり前だと。そんなものは容易く崩れる。災害のニュースやテロや紛争の被害者たちがテレビに映っても、敏夫はそれを対岸の火事のように感じていた。しょせん、自分には関係の無いこと。

 

 ──でも、それは違った。俺は今日、人を轢いた。化け物が現れなかったとしても、明日をのんびり過ごすことは出来なかっただろう‥‥。

 

 「おい、なにボサッとしてんだよ、おっさん!」

 

 健に呼ばれ、敏夫ははっとする。

 健とユキはとっくに自転車のそばにいた。

 

 「今行く!!」

 

 敏夫は二人のところへ走った。

 

 三人の前に黄色、黒、ピンク色の自転車が並んでいる。

 ユキはさりげなくピンク色の自転車の前に立っていた。好きな色なのだろうか。

 

 「それで、問題は‥‥‥」

 

 敏夫はユキを見て言った。

 

 「異世界から来たあんたがこれを扱えるか、だな」

 

 敏夫はニヤッとするが、その顔を見たユキは殺気のこもった睨みをかえした。本気の殺意だ。

 冗談が通じないやつ。

 彼女がそれであることに敏夫はその目だけで気付いた。

 

 「わ、悪かったよ、俺─」

 

 敏夫は咄嗟に弁明しようとする。数秒後に、自分が死ぬビジョンを見たからだ。

 

 「これくらい平気だ」

 

 ユキは敏夫が言いきる前に自分の前にあるピンク色の自転車に乗ると、数メートルだけ漕いでみせた。

 

 「自転車くらい私達の世界にもある。まだ珍しいだけで‥‥」

 

 敏夫は笑いを堪えるのに必死だった。ファンタジー作品から飛び出してきたような女騎士が、ママチャリに乗って誇らしげにしている絵面は強烈だった。

 だが、吹き出してしまうわけにはいかない。もし耐えきれず吹き出してしまったら、敏夫は惨殺死体になるだろう。

 

 ──さっきの死の予感はこれかよ!

 

 「よし、これで足はオーケーだな。それじゃあ、俺が先頭になるから─」

 

 敏夫とユキの緊迫したやり取りを中断させた健の言葉は、更なる第三者によって中断される。

 

 「ぐああっ」

 

 健の右足に、死角から飛んできた杭のようなものが刺さった。そして、

 

 「うわあああああ!!」

 

健は地面を引きずられ、徐々に足が宙に浮かび、やがて空中に逆さ吊りになったまま東へすっ飛んでいく。

 健の足に刺さった杭には鎖がついていた。鎖の先には空を飛ぶホウキ、そして、それに跨がる大男。

 

 「ヒャッハー!!」

 

 大男は叫びながら飛び去っていく。

 その大男はモヒカン頭で、ノースリーブの金属の刺やチェーンの装飾が大量についているジャケットを肌身の上に羽織り、ダメージの入ったジーンズを履いていた。

 

 「ケン!!」

 

 ユキが叫ぶ。

 

 「とにかく追おうぜ!!」

 

 敏夫は自転車に跨がり、ユキと共に空飛ぶ大男を追跡する。

 

 

 

 

 

 エドは高度300メートルの上空をホウキに乗って飛んでいた。彼は上機嫌だった。活きのいい人間を早速捕まえたからだ。ボスは若く逞しい男の生き血を啜るのが大好きだ。きっと良い報酬を貰えるだろうし、気に入られて幹部に迎え入れられるかもしれない。

 エドは少し痛む尻をずらしてから、下で逆さ吊りになっている何故か血塗れの男をチラッと見る。男はぎゃあぎゃあと情けない悲鳴をあげている。

 

 ──いくら叫んでも無駄さ。お前はこれから、ボスに全身の血を抜かれて、干からびて死ぬんだ。

 

 と、エドの右手側から、もう一人のホウキに跨がった男が現れる。

 

 ──ビルか‥‥‥。

 

 彼の名前はウィリアム。略してビルだ。モヒカン頭で上半身裸の、がたいの良いそいつはエドの子分であった。

 

 「流石アニキ!早速人間を捕まえたんで!?」

 

 ビルはエドを褒め称える。そこに他意はない。ビルは頭の悪い男だが、野心など持たぬ純粋な男だ。

 

 「へ、まあな!今度は女を捕まえてやる。童貞のお前にもおこぼれを恵んでやるよ!」

 「マジですか!ありがとうございやす!!」

 

 ビルは感謝の意を伝える。

 

 ──は、可愛いやつめ。

 

 「だからお前も、さっさと一人前に─」

 

 エドは最後まで言えなかった。エドの頭が急に180度捻転したのだ。エドが薄れ行く意識の中、最後に見た光景は自分の頭を掴んで鬼の形相をした血塗れの男だった。

 

 

 

 

 ビルは恐怖した。

 エドに逆さ吊りにされていたはずの血塗れの男は、一瞬の間に素早く鎖をよじ登り、エドにネックツイストを仕掛け即死させた。

 それを見てしまったのだ。

 

 ──嘘だろ!?アニキが素手で手負いの人間ごときに殺されるなんて!!

 

 エドはビルにとって、恩人だった。物乞いをして生きるしか無かった自分に唯一良くしてくれた。なんのメリットも無いのに、“力”も分けてくれた。

 

 ──ビビってる場合じゃねぇ!仇討ちだ!

 

 ビルは覚悟を決めると、杖を抜く。

 血塗れ男はフンッと言いながら足に刺さった杭を引き抜くと、動かなくなったエドの死体を蹴落とし、ビルを睨む。

 ビルは杖先から魔法のビームを放つ。

 しかし、当たらない。手元が動揺から狂ってしまい狙いが外れたのだ。それを分かっていたのか、血塗れの男は身じろぎもしなかった。

 そして。

 血塗れ男が、ホウキの上にゆっくりと立つ。

 操縦者を失い緩やかに高度を失うホウキの上で、血塗れ男は仁王立ちしながら、ビルを鬼のような形相で睨みつけている。

 

 ──ひぃぃ!

 

 ビルは恐怖を圧し殺し、杖で狙いをつける。

 血塗れ男が、跳ぶ。

 ビルは杖から再び魔法ビームを放つ。今度の狙いは正確だった。だから次の瞬間には血塗れ男は真っ逆さまに墜落するはずだった。

 だが、血塗れ男はビルに飛びかかりながらも身体を反らしてビームをかわし、

 

 「ヒィィィィィィ!!」

 

ビルに掴みかかった。がっしりと両の二の腕を掴まれたビルは、ホウキから転落し、血塗れのイカれた男と共に、真っ逆さまに落ちていく。

 

 ──アニキ‥‥すんません‥‥‥

 

  

 

 

 

 ユキは懸命に自転車を漕いでいた。小汚ないクソオヤジ─敏夫と共に。

 町の道路にはあちこちに亀裂が走っていたから、二人は度々迂回を強いられた。

 

 ──クソッタレ!!距離は離れるばかりだわ!!

 

 いくらユキが優れた能力を持っているとはいえ、流石に上空を飛行する人間をレーザー銃で撃ち抜ける程の技能はない。

 

 と、何かがホウキから落下し、地面に激突する。

 

 「まさか健か!?」

 

 敏夫が言った。

 

 ──そんなバカな!もし‥‥もしケンだったら、クソオヤジ、あんたを殺してやる!!

 

 ユキはそう決意して何かが落ちた場所へ向かう。

 

 そこにあったのは、ぐちゃぐちゃの肉の塊だった。肉塊の中央には、金属の刺がたくさんついたノースリーブの黒いジャケットとジーンズがあった。明らかに健のものではない。ホウキに乗っていた大男のものだ。

 

 ──まさか、

 

 「戦ってるのか!?空で!?」

 

 敏夫が言った。

 

 「とにかく追うぞ!!」

 

 ユキは追跡を再開する。

 

 それからまもなく、再び何かがホウキから落下するのをユキは見た。

 それは、二人の男だった。片方は‥‥‥

 

 ──ケン!!そんな!!

 

 目の前の道には大きな亀裂がある。ユキは自転車を乗り捨て、全力で走った。

 そして、二人の男はユキのわずか数メートル先で地面に激突した。

 血飛沫が放射状に飛ぶ。

 ユキの鎧が、血塗れになる。

 ユキの目の前には、肉の塊が広がっていた。

 

 ──そんな、そん‥‥。

 

 絶望するユキ。せっかく見つけた、非日常の塊。それが今や、肉の塊に─

 

 「うう、いってぇ‥‥‥」

 

─なってはいなかった。肉の塊の下敷きになっていた健は、這い出てきて腰をさすりながら、ゆっくりと立ち上がった。より一層、血塗れになりながら。

 

 「ケン!!」

 

 ユキは思わず、健に抱きついた。二人揃って血塗れだ。

 

 ──凄いタフなのね、ケンちゃん‥‥。

 

 「うう、鎧が当たって痛い‥‥」

 

 その健の言葉に嗜虐心を刺激されたユキは、更に強く抱き締める。誠実な健のことだ。この感動的な場面でユキを強引に引き剥がすなんてことはできないだろう。そして実際、健は目に涙を滲ませ痛みに耐えるしかなかった‥‥。

 

 「健!!お前、よく生きてたな!!」

 

 と、敏夫が健に呼び掛けた。

 

 ──チッ!あんたはお呼びじゃないんだから‥‥。

 

 ユキは健を解放する。流石にこのまま抱き合っているわけにもいかない。

 

 「凄ぇな、お前。あの高さから落ちて無事なのかよ!?」

 

 健の肩をぽんと叩きながら敏夫が言った。

 

 「まあ、あんたと違って若いし鍛えてるからな」

 「俺を引き合いに出すんじゃねぇよ」

 

 ──はあ?それだけ?あんたの感想はそれだけなの?

 ──ケンちゃんは凄いのよ?初めて“魔女”と戦って、返り討ちにしたんだから!

 ──こいつのせいで、私とケンちゃんのラブロマンスは台無しよ!!

 ──男同士でイチャイチャして‥‥

 ──絶対‥‥‥

 ──絶対にこいつは殺してやる‥‥。

 

 ユキは固く決意した。



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第五話

 「こいつら、人間じゃないよな?」

 

 健はさっきまで魔女だった肉の塊の前でへたりこみ、うつむきながら言った。魔女と戦った興奮が冷め、冷静になってから自分がした行いに、今更のように慄いているようだった。

 そんな健をユキは目を輝かせながら見ていた。

 

 ──貴方がかけて欲しい言葉は知ってるわ。でもね‥‥

 

 「いいや、人間だ。紛れもなくな。だが、気に病むことはない。正当防衛だ。」

 

 ユキはしゃがみ、健の肩を抱いて優しくそう言った。

 

 ──貴方のような誠実で真面目な人は、こういう時、責めて欲しいのよね。でも‥‥‥

 

 ユキの慰めの言葉を聞いた健は、自分の血に染まった両手を見つめ、それから頭を抱え苦悶の表情をする。

 

 ──貴方の今の顔、とってもセクシーよ‥‥‥。

 ──初めて人を殺した気分はどう?ケンちゃん。

 

 「まあ、純粋なヒトってわけじゃない。魔物の力を取り込んだ社会のあぶれ者たち‥‥“魔女”と呼ばれる反社会的な集団だ。火事場泥棒のために集まってきたんだろうな‥‥」

 

 あえて『ヒトじゃない』と最低限のフォローを入れるユキ。追い詰めすぎて壊れてしまってはそれはそれで面白くない。

 

 「人を‥‥殺したのは‥‥初めてじゃない‥‥」

 

 健は頭を抱えながら、思い出すように、さらに途切れ途切れに、ぼそっと言った。

 

 ──え?

 

 それはユキにとっても予想外の台詞だった。

 

 「マジかよ!やっぱりな!‥‥だと思ってたぜ!でもその話は後ででも良いんじゃねぇか?」

 

 また敏夫が半笑いで茶々をいれた。

 

 ──ぶち殺すぞクソヤロウが!!

 

 黙ってろ!!と、言いたくなるのをユキは堪え、肩を抱いたまま健に優しく問いかける。

 

 「どういうことだ?聞かせてもらえるか?」

 

 その必要は全くない。ただの興味だ。

 

 「義父を‥‥殺したんだ。」

 

 健は語り始める。

 

 「俺が10の時、あいつが、姉さんを犯そうとしたから‥‥‥」

 

 健は歯を噛み締め、眉間にシワを寄せる。

 

 「なるほど、それで、どうやって殺したんだ?」

 

 ユキは過去を思い出すのが明らかに辛そうな様子の健を、構わずに問い詰める。

 健の苦虫を噛んだような表情は、ユキの嗜虐心を刺激し愉悦を与える。

 

 「どうしても、今、話さなくちゃいけないのか?」

 「ああ、私は警備隊長だからな。協力者が殺人犯なら、問い詰めないわけにはいかないだろう?今、話してくれ」

 

 詭弁である。別の世界での話なのだ。少なくとも、今、話さなければいけないことではなかった。

 

 「‥‥わかった‥‥話すよ‥‥」

 

 ユキはワクワクしながら話を聞く。

 

 「‥‥‥‥あの日‥‥母さんは夜の仕事でいなかった‥‥そして‥‥あいつは酔っぱらって帰ってきたんだ。それで─」

 

 健は仕方なく、泣きそうになりながら語り始めるが、

 

 「おい、もう良いだろ!まずはそいつの姉と甥っ子を助けるんだろ!?」

 

敏夫が遮った。

 

 

 

 

 

 敏夫は我慢できず、健の語りを遮ってしまった。自分でも信じられなかった。

 

 ──まさか、あのクソガキに同情しちまったのか?俺が?助けられたから?ただそれだけで俺が?

 

 ユキは明らかに健を虐めていた。その証拠に、ユキが健を見つめるその目はいじめっこ‥‥‥いや、虫を遊びで殺す子供のそれだった。

 敏夫に健を助ける義理は‥‥‥まあまああるが、本人はそうは思っていないはずだった。

 自分は巻き込まれただけ。そういうスタンスのはずだった。

 でも‥‥

 

 ──でも、健はまだまだガキだ。俺と違って‥‥。

 

 ユキが、その真っ赤な瞳で敏夫を睨む。口の端をピクピクさせている。

 怒りっぽく、幼稚で、残酷。それがこの女の正体だ。今はまだ、致命的なボロを出していないだけだ。

 そうに違いないと、敏夫は確信する。敏夫は仕事柄、こういうやつを何度も見たことがあった。社会性を欠いた者の割合が多いブルーカラーの集団には、こういう奴が必ずいるものだ。不思議なことに、どんな場所にも。

 

 「まず、そいつの家族を助け出して、それから町を脱出するんだろ?過去話はそれからで良いだろ?ヒーローの過去話は、ラストまでとっておくもんだぜ?」

 

 ユキは相変わらず敏夫を睨み付けている。

 敏夫は恐怖を誤魔化すため、わざとハリウッド映画のような言い回しをしたのだった。

 

 ‥‥‥‥‥。

 

 緊張した静寂がその場を支配する。

 

 「‥‥‥そうだな。なら町から出たあと、聞かせて貰おう」

 

 ユキは敏夫をにらんだまま、抑揚無くそう言って立ち上がった。

 

 「‥‥‥だいぶ離れちまったけど‥‥家はこっちの方角だ」

 

 健は目が潤んでいるのを誤魔化しながら、ゆっくりと立ち上がり、自分の家の方角を指差した。

 

「ん?お前、そういえば足の怪我は大丈夫なのか?」

 

杭が刺さってたのに。敏夫は今更それを思い出す。

 

「あんたと違って若いからな。傷の治りも早いのさ」

 

健は力なくそう返した。

 

 

 それから三人は適当な民家から自転車を一台盗み出す。健が乗る分の自転車は置いてきてしまったからだ。

 そして、健を先頭に、三人は健の自宅へと自転車を漕ぎ出した。

 

 

 

 三人が自転車を漕ぎ始めて30分。地割れや魔物たちを避けながら進み続け、工業地帯に来ていた。

 ユキは敏夫の後について自転車を漕ぎながら、良からぬことを考えていた。

 

 ──この邪魔なクソオヤジ‥‥どうやって殺そう。

 

 殺そうと思えば容易く殺せる。だが、それを健に見られて拒絶されたくはなかった。

 

 ──まあ、焦る必要はないか。それにしても─

 

一度でも殺意を向けられた相手に背を向けるなんて迂闊なやつだ、と敏夫を内心で嘲りながら、ユキは自転車を漕ぎ続けた。

 

 不意に、敏夫がブレーキをかけ止まる。

 

 ──うわっ!

 

 ユキはすんでのところで、敏夫にぶつかる寸前で自転車をとめる。

 

 「おい、危ないぞ!」

 

 ユキはここぞとばかりに怒りをこめて怒鳴る。

 

 「ご、ごめん。でも─」

 

 謝ったのは敏夫ではなく健だった。

 

 「─ここ、俺の職場なんだ‥‥」

 

 健が立ち止まったのは、株式会社円伐工業の工場の前。

 

 「円伐工業か。ここ、俺も仕事で何度か来たな」

 

 敏夫が言う。

 

 「ちょっとだけ‥‥五分だけで良いんだ、ちょっとここで待っててくれないか?」

 

 そう言って健は自転車を降りてスタンドをおろすと、工場のシャッターの横にあるドアを開けて入って行った。

 

 ──今、絶好のチャンス? 

 

 今、ユキと敏夫は二人っきりだ。今なら、こいつが悲鳴をあげる前に殺せるだろう。健には、彼は魔物に殺されたと説明しよう。健は誠実な男だ。だからユキが目に涙を浮かべて『ごめんなさい、彼を助けようとしたけど、だめだったの』‥‥そう言えば信じるだろうし、ひとりで魔物と戦った彼女を見直すはずだ‥‥。

 

 ──そして、それから私とケンちゃんのラブロマンスが始まるのよ‥‥。

 ──そうなるに‥‥‥違いない‥‥‥!

 

 ユキは自分を客観視する能力を欠いていた。魔物を容易く殺せるユキが、『敏夫を守れず泣く』なんて明らかに不自然だというのに、彼女はそんなことにも気付かない。

 

 と、工場のドアが開く。

 

 ──もう戻ってきた!?五分って言ったじゃない!この嘘つき‥‥。

 

 ユキはこの時ばかりは健に立腹する。

 健は真っ青な顔で、フラフラとした足取りで戻ってきた。

 

 「‥‥‥でた‥‥‥」

 

 健がぼそっと呟く。

 

 「どうだったんだ?」

 

 敏夫が問う。

 健はがっくりと膝から崩れ落ち項垂れる。

 

 「みんな‥‥死んでた‥‥高遠班長‥‥遠野作業長‥‥渡辺さん‥‥‥みんな‥‥」

 

 健はこみあげてくるのを必死で堪えながら呟き続ける‥‥。

 

 「屋内も、安全じゃない‥‥‥っ!!」

 

 ──そりゃそうよ。

 

 ユキは冷めた目で彼を見ながら内心でツッコミをいれた。

 

 健は急に顔をあげる。その顔は絶望に染まっていた。

 

 「そうだ、屋内も安全じゃないんだ!姉さんと拓も安全じゃない!」

 

 健は声を震わせながら立ち上がる。

 

 「どうしよう‥‥‥姉さん‥‥拓‥‥‥」

 

 健は悲痛な表情のまま、動悸と呼吸を乱れさせ、額に汗を滲ませる。

 

 「おい、落ち着けよ」

 

 敏夫がなだめようとする。健は明らかに錯乱の兆候を見せていた。

 

 「ど、どうしよう‥‥‥お、俺─」

 

 パシンッ!!という音と共に健の言葉は途切れる。

 ユキが健の頬をひっぱたいたのだ。

 それはユキの嗜虐心というよりも、自分の思い通りにことが進まなかったことへの八つ当たりであった。

 弱ってる奴を虐めるほど簡単な憂さ晴らしも無いだろう。

 

 ──‥‥しまった!ついビンタしちゃった!ええと‥‥。

 

 ユキは頭をフル回転させる。何とかアドリブで繕わなければ‥‥。

 

 「ケン、落ち着いたか?私の顔を見てよく聞いてくれ」

 

 ユキは健の肩を抱きながら、真剣で使命感に満ちた表情で言った。

 

 「君のお姉さんと甥は必ず私が助け出す。私を信じてくれ」

 

 ユキは健の顔をじっと見つめる。

 

 ──どう?完璧じゃない?

 

 「‥‥あぁ‥‥ごめん、パニックになって‥‥‥ユキさん、信じるよ、ありがとう」

 

 健は深呼吸で息を整えてからそう答え、ユキに手を引かれながら立ち上がると、

 

 「時間をとってごめん。もう大丈夫だよ」

 

と、ユキと敏夫に謝ってから自転車に跨がった。

 

 「なら、行こうぜ」

 

 敏夫が言った。

 

 三人は再び自転車を漕ぎ出した。

 

 

 

 

 【12分後】

 

 

 

 ──ちくしょう!

 

 敏夫は薄暗い物置小屋のなかで、またしても絶望していた。

 敏夫たちは自転車を漕ぎ続け、ようやく健の自宅のアパートがある住宅街まで、あと数ブロックで辿り着けるというところまで来たのだが、

 

 「様子がおかしい」

 

ユキがそう言って双眼鏡で様子を伺ったとき、悪い予感がしたのだ。

 

 「不味いな‥‥魔物だらけだ」

 

 ──うそだろ!?

 

 ユキのその言葉を聞いた敏夫は仕事で使う小型デジカメをポケットから取り出し、ユキと同じ方向を見てズームする。

 そこは魔物たちが我が物顔でうろつく地獄絵図と化していた。

 そいつらは、ウサギのような頭を持つ化け物だった。首から下は紫色の肌をした人型で、口にはびっしりと鋭い牙が鮫のように生えている。

 ユキ曰く兎頭(ラビットヘッド)。それがその化け物の名前らしい。

 あちこちには彼らに殺されたらしい人々の無残な遺体が転がっている。

 

 ──悪夢だな‥‥こりゃ‥‥。

 

 「とりあえず、一旦身を隠そう」

 

 その健の言葉に賛同した結果、近くの民家の横に建つ物置小屋に籠ることになったのだった。

 

 ユキはレーザー銃の出力を最小絞って物置小屋の錠を撃ち抜き、破壊する。そして三人は小屋に入っていく。

 ユキと健のあとに続いて物置小屋に入った敏夫は、扉を閉める時に外をうろつく怪物達を目にした。

 

 ──一体だけでもヤバいってのに、あんなにうじゃうじゃ居やがる!くそっ、やっぱり今日は最悪な1日だ!

 

 「ここには、武器になりそうなものが沢山あるな」

 

 健は物置小屋の灯りをつけ、小屋のなかを見渡しながら言った。

 オレンジ色の電球の灯りに照らされたのは、中央の作業台と、壁に架けられたノコギリ、ピッケル、ネイルハンマー‥‥‥日曜大工の工具達だ。

 

 ──武器だと?これが?

 

 健は懐からダクトテープを取り出すと、スレッジハンマーと鉈を無理矢理くっつけた、“薙刀のような何か”を作った。

 

 ──まさか、武器ってそれじゃねぇよな?その小学生の工作レベルの物体を─

 

 「よし、武器が出来た。これで戦えるぞ!!」

 

 敏夫の願いも虚しく、健はその物体を武器と呼び自信満々だ。

 

 ──これは流石に、あのガキにお熱の女騎士様も‥‥‥。

 

 呆れるだろう、そう思いながらユキの方を見てみると‥‥

 

 「えぇ‥‥?」

 

 唖然としていた。

 

 健は気にせず、物置小屋の中を漁る。

 

 「ここに住んでた人、いったい何してた人なんだろう?」

 

 健は疑問を口にしながら、小屋の中で発見した鍵縄、ネイルガン、金属野球バットとバットケース、モップなど、使えそうなものを作業台に並べていく。そして、

 

 「よし、おっさん、あんたも武器を持つんだ」

 

と、敏夫に言った。

 

 「いや、俺は警官から貰った拳銃が─」

 

 そう言いかけて思い出す。銃が化け物に通用しなかったことを。

 

 ──いや、だとしても─

 

 「こんなもん、武器になるかよ!」

 

 敏夫は珍しく正論を吐く。しかし、

 

 「でも、手ぶらよりはましだろ?」

 

 更なる正論で返されてしまう。

 

 ──まあ、そうだけども!!

 

 敏夫はユキの方をチラッと見てみるが、彼女は退屈そうに小屋の中をぶらぶらしていた。彼女は自前の武器で十分なのだ。

 

 敏夫は仕方なく、先が鋭いスコップを手にした。

 

 一方の健は、鍵縄とネイルガンを懐に突っ込むと、バットケースにバットとモップ、長いバールを突っ込んで背負い、さっきの“薙刀のような何か”を手にする。

 

 「準備オーケイだ。行こう!」

 

  そう言って物置小屋の扉を開いた。

 

 ──もう、最悪‥‥

 

 心の中でオカマ口調になりながらも、敏夫は覚悟を決めてスコップを強く握った。



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第六話

 敏夫はスコップを握りしめ、化け物達に突っ込んでいく健のうしろについて走りながら、早速後悔していた。

 

──ああ、俺はこのバカなクソガキの勢いに流されて死ぬんだ。クソッ!!

 

 一方の兎頭の化け物達は、腕を広げ牙を剥き出しにして威嚇する。

 

 「うおおおおお!」

 

 健は野蛮人の如く叫びながら手製の“薙刀のようなもの”を槍のように突きだして兎頭の化け物に突進し、その身体を貫くと、怪物が突き刺さったままの得物を自前の怪力で持ち上げて旗のように頭上に掲げ、更に勢いよくうしろへブンッと振った。

遠心力によって“薙刀のようなもの”の刃先からすっぽぬけ、健のうしろへと吹っ飛ぶ化け物。

 

──うおっ!あぶねぇ!

 

化け物は敏夫の目の前にベシャッと頭から地面に叩きつけられた。

 

「そいつにとどめを刺すんだ!!」

 

健はうしろを振り返らずに敏夫に指示を出す。

 

──ぐ、ちくしょう!

 

出来れば化け物に近づきたくもなかったが、そうも言っていられない。手負いで弱っている今の内にとどめを刺さなければ、こいつは起き上がって自分を襲うだろう。

 

「わ、わかった!」

 

敏夫はフンッフンッと言いながらスコップで何度も兎の化け物を刺した‥‥動かなくなるまで。

 

──ヒェェ、なんてグロいんだ!!

 

敏夫は吐き気を堪えて、目に涙を滲ませる。

 

 一方、敏夫の右側にいるユキは健の活躍をうっとり見つめながら、自分に襲い掛かってきた化け物だけを無造作に、そして造作もなく炎を纏った剣で殺していた。

 

──くそっ、この女は全くあてにならねぇ!

 

 「ぬおおおおおお!」

 

健はさっきのように叫びながら二体目の化け物に突進し、再び“薙刀のようなもの”で突き刺すが、やはりダクトテープで無理矢理繋げた代物だけあって耐久力に限界がきたらしく、ポッキリと折れてしまった。が、健は狼狽えずに鉈がついた方を捨て、ハンマーの方で化け物の頭をぶん殴る。

化け物が頭を押さえて怯む。

健はその隙を逃さず、ハンマーを捨ててショルダータックルを仕掛けて化け物をころばせると、エルボードロップを仕掛けてそいつの兎頭をぺしゃんこにした。

 

──プロレス好きなのかこいつ?まあそれはともかく、やっぱこいつはクソ強ェ!

 

敏夫が感動している間にも、健は三体目の化け物と対峙していた。

健は化け物の両足を狙ってタックルして転ばせ、シームレスに化け物に馬乗りになると、

 

「んんんんんんん!!」

 

素手で何度も化け物の頭を殴り、ぐちゃぐちゃにする

 

「よし、三体目!!次はなんだ!?」

 

健はぜぇぜぇと息をしながら言った。

 

化け物はまだまだ沢山いる。

 

──もう兎は見たくねぇ!!

 

敏夫の心の叫びである。

 

「兎の次は狼かよ!」

 

嘆く健の目線の先にいた狼頭の化け物は、兎頭の化け物達を撥ね飛ばしながら猛然と突進してきた。

 

──ひぃぃ!怖ぇ!

 

戦いについていけない敏夫は、ただただ恐怖するしかない。

 健は背中のバットケースからモップを抜いて両手で構える。

そして突進してきた狼頭の脳天に思い切り振り下ろす。  

バキッという音と共に、モップが折れる。

 

──モップじゃ無理があるだろ‥‥

 

敏夫は内心でツッコむ。

 

「ちくしょうモップじゃだめか!!」

 

健が言った。

そりゃそうだろという敏夫の心の叫びをよそに、健はバットケースから金属バットを素早く抜くと、モップで殴られ僅かに怯んでいた狼頭に下段から殴りかかる。

ガンッという頭蓋が割れる音がした。

狼頭が体勢を崩す。

 

「くたばれぇ!」

 

健は叫びながら、割れかけた狼頭のその頭に、更にバットを振り下ろす。

一回。

二回。

三回。

狼頭は倒れて動かなくなった。

バットはぐにゃぐにゃに曲がっていた。

 

「ちくしょうこの安物!!」

 

健はその使い物にならなくなったバットを無造作に捨てると、懐から大きなモンキースパナを取り出し、

 

「やっぱこれが一番、しっくりくるな!」

 

と、なんだか誇らしげに言った。

その時。

 

「健!!危ねぇぞ!!」

 

健の真横からもう一体の狼頭が、タックルを仕掛けた。

押し倒されマウントを奪われる健。

スパナは手放してしまっているようだ。

 

「‥‥ちくしょう油断した!!」

 

辺りにはまだ兎の化け物が何体か残っている。

 

「おっさん!!逃げろ!!俺は自力で何とかする!!」

 

ナイフのような爪で自分を引っ掻こうとする狼頭の動きを必死に抑えながら、健は叫んだ。

ユキはそんな健を、助けるでもなくただ眺めている。

 

──クソッ。

 

このまま敏夫が逃げ出したら、健は殺されるかもしれない。

 

──そうなったら、俺はこのイカれた女騎士様と二人っきりだ。この女は俺を守ったりしないだろう。俺を守ってくれるのは、このクソガキだけだ。

──そうだ‥‥‥。

──自分のためだ‥‥‥。

──俺が生き延びるために、このクソガキを助けるんだ!!

 

敏夫はそう自分を鼓舞すると、

 

「健!!今助けるぞ!!」

 

拳銃を抜いて狼頭の背中に狙いをつけ、引き金を引いた。

バンッという音と共に発射された銃弾は狼頭の背中に吸い込まれていきそして‥‥‥肉に阻まれ止まった。

かすり傷程度のダメージだろう。

 

──くそ、やっぱり化け物に銃は効かねぇか!!

 

だが、狼頭の痛覚を刺激することはできたらしい。

狼頭が、背をそらし、呻く。

その瞬間に健は狼頭の顔面に強烈な右フックを食らわせた。

後ろに尻餅をつく狼頭。

健はスパナを拾って素早く立ち上がり、立ち上がろうとする狼頭にヤクザキックをお見舞いする。

仰向けに倒れる狼頭。

 

「がああああああ!」

 

健は倒れた狼頭の顔面にカーブストンプをお見舞いし、そのまま作業靴で踏み潰した。

それから乱れた息を整え、

 

「ありがとう。これで借り二つだな、おっさん」

 

ニヤッとしながら健は敏夫にそう言い、残りの兎頭に突撃していった。

 

──‥‥生き残るためだ‥‥。

 

敏夫はそう自分に言い聞かせながら、健の後ろについていった。

 

 果たして、三人は辺りの化け物を殲滅した。

 

 

 

 

 

 

 「良い動きだな。本当に訓練は受けていないのか?」

 

魔物を倒し尽くし、項垂れながら肩で息をし、くたくたな様子の健に向かって、呼吸ひとつ乱れていないユキはそう訊ねた。

 

「訓練なんか受けてないけど‥‥昔、荒れてた時期があって‥‥自慢じゃないけど、喧嘩の腕には覚えがあるんだ」

 

健は深呼吸して身体を起こし、目を伏せながら言った。

 

──ふうん。昔は荒れてた‥‥か。今はこんなに良い子なのに、人は見かけによらないのね。

 

健の意外な一面を垣間見て嬉しくなるユキ。

ユキが健に惹かれた理由。それは、健が“強いだけ”の男ではなかったからだ。

ユキ自身にも正確な理由はわからなかったが、初めて健の姿を見たとき、彼はとても輝いて見えた‥‥。

 

「いい加減、お前ん家まで近付いて来たんじゃねぇか?」

 

手にしたスコップを弄びながら敏夫が健に訊く。

 

「ああ、あのマンションを越えたら、俺達が住むアパートだ」

 

健は前方の建物を指差しながら言った。

 

「なら、とっとと済ませちまおうぜ!」

 

敏夫とやりとりする健をぼんやり眺めながら、ユキは物思いに耽る。

 

──それにしても‥‥

 

ユキは引っ掛かっていた。

彼はどうして、そんなに“家族”に執着するのだろう。

あの副隊長もそうだ。いつも“あの女”と娘の写真が入ったロケットを持ち歩いていた。

それを変だと思う私がおかしいのだろうか。

情念と粘膜と快楽だけが人を繋ぎとめる。

信頼なんてどこにも無い。

人間同士の繋がりなんて、そんなものじゃないのか。

お父様だってそうだった。

精神を病んだ妻と魔物のような娘を捨て、自分のための人生を歩んだじゃないか。

それが“普通の人”ではなかったのか。

 

──それにしても、羨ましいわね、ケンちゃんのお姉さんと甥っ子くん。こんなにもケンちゃんに想われて。まあ、どうせ死んでるだろうけど‥‥‥。でも‥‥。

──でも、もし、生きてたら‥‥。

 

私が殺してやる、とユキは決意した。

それは嫉妬のせいだけではなかった。

『“大切な人”を失ったら、この人はどんな反応をするんだろう?』

それが知りたい。

そこに悪意は無いし、もちろん、嫉妬もない。

ただ、興味が湧いたのだ。

 

 

 

 

 

 宇崎恵(うざきけい)は醜悪な化け物から逃れるために、必死で走っていた。

だが、化け物は恵よりも足が速い。

おまけに恵は運動音痴で、喘息持ちだった。

ぜぇぜぇという呼吸が、すぐにヒュー、ヒューというものに変わる。気管支が悲鳴をあげている合図だ。

化け物が恵の後ろ髪を乱暴に掴む。

無理矢理押し倒される恵。

化け物は恵の水色の地味なセーターを、重ね着している何枚ものシャツごと引き裂く。

黒いデニムを無理矢理脱がす。

そして、化け物は自分のズボンのベルトを緩め、更に‥‥‥。

 

「!!」

 

安物の敷き布団の上で、恵は水揚げされた海老の如く跳び跳ねながら目を覚ました。

 

「ママ、大丈夫?」

 

五歳になったばかりの恵の息子、拓が心配そうに恵の顔を覗き込みながら言った。そして母親の肩に触れようとした─

 

「触んないで!!気持ち悪い‥‥‥」

 

恵は拓の手を払い除けて拒絶する。ビクッと身体を震わせる拓を無視して立ち上がると、洗面所へと向かった。

 洗面台の鏡には、ぼさぼさ髪で目の下に隈がある、弟とそっくりな女が写っていた。

 

──相変わらずひどい顔してるわね、あんたって‥‥。何がちゃんとしてれば美人よ!!みんな馬鹿にして!

 

恵は顔を洗い落ち着くと、ソファーに座った。

拓は言い付け通り、ひたすらジグソーパズルで遊んでいる。

 

──“おしおき”の甲斐があったわ‥‥。頼むからずっとそれで遊んでて‥‥死ぬまでね。

 

恵は霧で真っ白な窓の外をぼんやり見つめ、昼寝する前に窓の外で見た光景を思い出す。

兎の頭の化け物が、人間を食い殺していた。

あれは夢じゃない。

恵はこれが夢なんかではないことを、すぐに理解することができた。

 

──一歩でも家から出れば、外にいるのは“敵”だけ。それだけよ。いつもそうでしょ?

 

恵は今日1日で何度も泣いた。

なぜ私がこんなに怖い思いをしてるのに、弟は助けにこないのだろうか。 

なぜ私ばかりこんな目に遭わなければいけないのか。

 

──健、あんたはいつだって私を守ってくれる。そう約束したじゃない!あんたは私の信頼を裏切ったんだ‥‥‥。

 

「よくも‥‥許さない‥‥」

 

「ママ?本当に大丈夫?」

 

拓は性懲りもなく母親の明らかに正気を失った様子を心配する。

 

「黙ってろって言ったでしょ!?」

 

恵は怒鳴り、拓の頬をひっぱたく。

拓は赤くなった頬を押さえて涙を堪え、ジグソーパズルで再び遊び始めた。

泣けば恵を怒らせ更に“おしおき”を受けると学習したのだ。

 

「味方はいない‥‥‥外にいるのは“敵”だけ‥‥‥」

 

 二年前に母親が死んでから、恵は弟と拓の三人でこの安アパートで暮らしていた。

働いているのは健だけが、母親と義父の残した遺産と保険金で生活資金は十二分に足りていた。

だから、恵は一歩も外に出ずに引きこもっていた。

拓を保育園にも通わせず。

 

──外に味方はいない。

──義父でさえ、信用できなかった。

 

 あの日、母は夜の仕事で家にいなかった。

そして、あいつは酔っぱらって帰ってきた。

いつもは弟を凌辱していたあいつは、あの日、どういうわけか私を狙った。

あの日、あの時、私は産まれて初めて“本当の恐怖”を味わった。

あいつが私に馬乗りになって、私のセーラー服を剥ぎ取って、私に覆い被さった時、私の、私だけの勇者様が現れてあいつをやっつけた。

健、それがあなたよ。あなたなのよ。

いったい、今どこで何やってんのよ。

はやく、助けに来なさいよ!

怖い思いをしてるのよ!?

私がこんな思いをしなきゃいけない理由がどこにあるっての!?

 

目をギラギラさせ、口をひくひくさせながら窓をじっと見つめる恵の姿は、拓を震え上がらせた。

 

 

 

 

 「危ない!!」

 

健が叫びながら敏夫を突き飛ばし、それと同時にさっきまで敏夫の頭があった空間を真っ赤な光線が通過し、光線が直撃したアスファルトの地面を赤熱・融解させた。

 

 ──今のは!?魔法のビーム?いや、これは‥‥

 

「狙撃手だ!隠れろ!」

 

ユキが怒鳴る。

 

「あのバスの陰だ!!」

 

言いながら敏夫が近くで横転しているバスの陰へ走る。

ユキと健もそれに続いた。

 

──クソッタレ!!もう、最悪よ!!地の利を取られるなんて!

 

敵は高所、目の前の建物から撃ってきたらしい。

高所から狙われるというだけで充分不利な状況だが、霧による視界不良がそれを助長していた。

 

「狙撃手ってどういうことだよ!?化け物がビームを撃つのか?」

 

敏夫が怒鳴りながらユキに尋ねる

 

──やかましいクソオヤジめ!!

──それにしても、レーザー銃を、それもライフルタイプを持ってるなんて、まさか‥‥

 

まさかユキが副隊長を殺したことがバレ、粛清しにきたのだろうか。

 

──いや、そんなことはあり得ない!!私があのカカシ共にバレるようなヘマをするはずが無い!!つまりあの狙撃手は‥‥‥

 

「おそらく奴は“魔女”の一人だ。兵隊からライフルタイプのレーザー銃を奪ったんだろう」

「ライフルタイプのレーザー銃?」

 

今度は健が訊いた。

 

「ああ、ビームが凄いんだ。かすっただけで人間は即死だろうな」

 

──威力も射程もダンチなのよ。

 

ユキは後悔していた。狙撃用のスコープとロングバレルを副隊長への想いと共に捨ててしまったからだ。

今、ユキが持っているレーザ銃は短銃タイプが二丁だ。これはコンパクトで扱いやすい反面、射程が短く急所を撃ち抜かないと致命傷を与えにくい弱点があった。

 

「ビームが凄い?オーケイ‥‥‥」

 

健は見えない敵に狙われる恐怖にガタガタ震える。

 

「どうする?迂回するか?」

 

敏夫が健に提案する。

 

健はフーッフーッと大きく息をしたあと、小さく呟いた。

 

「『あの時は大変だったよ』、そう笑って話せる日がきっとくる筈だ‥‥‥頑張って生きていれば‥‥‥」

 

──ケン?いったい、何を言ってるの?

 

「健?大丈夫か?」

 

ユキは我慢できずに声をかける。

 

「迂回しても無駄だ。あいつはきっと追ってくる。悪い奴は今、倒さないと。」

 

健は覚悟の決まった顔でそう言った。更に、

 

「作戦がある」

 

と続けた。

 

「作戦?作戦ってなんだよ?あのスナイプ野郎をやっつける作戦か?」

 

敏夫は無理に冗談めかして言う。

 

「ああ、あいつをやっつける。今、ここで」

 

──本当に?

 

ユキはこの土壇場でワクワクする気持ちを押さえられない。

 

「まず俺が、このレンチで念のため頭を守りながら、あの家の陰まで全力で走る」

 

健はそう言って、右斜め前にある家を指差す。

 

「敵は俺を狙って撃つだろうから、その間にユキさんがあのスナイパーをその銃でやっつけるんだ」

 

「なるほど、レーザーなら光るから居場所も特定しやすいな。でも─」

 

敏夫は感心するが‥‥‥

 

「─それって、お前が囮になるってことだろ?頭を守るって、そんなレンチで大丈夫かよ!?」

 

健の身を案じた。

 

「やるしかないだろ!?頼むよユキさん。俺は姉さんと拓を助け出すまで死ねないんだ!」

 

健は決意に満ちていた。

 

──ケンちゃん‥‥

──あなたは‥‥‥

──あなたって人は‥‥

──なんて良い子なの!!メッチャ勇敢じゃない!!

 

ユキは感激した。

 

「わかった。危険な役割だが任せたぞ。あいつは私が、必ず仕留める!」

 

ユキは必死に冷静な仮面を被り言った。

 

「‥‥失敗しても恨んだりしないって約束するよ」

 

 健は懐からスパナを取り出し、ユキは腰からレーザ銃を抜いた。準備万端だ。

 

「いち、に、さんで走るよ。いち、に」

 

健は走り出した。

ビームが、とぶ。

一発目は外れだ。

二発目は頭を狙ったが、健が頭を反らしたことで再び外れた。

三発目は足を狙ったが、健はジャンプでかわす。

 

ユキはバスの陰から飛び出し、ビームが発射された位置を特定する。

 

──見えた!10階の右端‥‥!

 

ユキは敵を捕捉し、そこへ三発、ビームを撃ち込む。

 

「やったか!?」

 

 反撃はこなかった。

 



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第七話

 恵は部屋のなかを、ずっとうろうろし続けていた。

健は私を裏切った。信じてたのに。

その感情が、彼女をじっとさせなかった。

 恵の足音にびくびくしながら、拓は狂ったようにジグソーパズルで遊び続けている。

 

──私は死ぬんだ。まだ23なのに。

 

そう思うとまた涙が溢れてくる。

もし、もし化け物が窓を突き破って入ってきて私を殺そうとしたら、その時は、このクソガキを必ず道連れにしてやる。

 お腹を痛めて産んだ我が子なら、愛せると思っていた。でも違った。こんなのを愛せるはずがない。

欲望に忠実で、ちょっとしたことですぐにぎゃあぎゃあ泣きわめく。

 

──ただの畜生よ、こんな奴。

 

と、突然ガチャッという玄関の鍵が解錠される音がし、直後にドアが開いた。

 

──健?

 

「姉さん!!無事だったんだね!」

 

健は姉の顔を見るなりそう言って、それからほっとした顔をして目を潤ませた。

 

──フン、そんな顔して。私を見捨てたくせに。今更戻ってきてどうする気?

 

拓がドタドタと足音をたてながら恵の横を過ぎて健に駆け寄った。

 

「ケン叔父さん!!」

「拓!」

 

健は拓を抱きしめ、頬と頬を擦り合わせる。

 

「おじさんじゃなくてお兄さんだって言ったろ?」

 

健は優しく言った。

抱擁を交わした二人を恵は冷たい目で見つめた。

 

──そいつがそんなに大事なの?私より?

 

「さあ、入ってくれ、俺の姉さんだ」

 

──え?

 

健は外に待たせているらしい誰かに声を掛けた。 

 

 弟が家に上がり込ませたのは、薄汚い中年の男と、場違いな鎧を来た緑髪の女だった。二人は靴も脱がずにずかずかと部屋に入ってきた。

男は部屋の中を見渡してキョロキョロし、女はなぜか、此方を興味深そうに見つめている。

明らかに信用できない怪しいやつら。

いや、そんなことじゃない。

大事なのはそんなことじゃない。

重要なことは、この“裏切り者”が、家に余所者を、“敵”を入れたことだ。

赦せない‥‥。

 

「姉さん、拓と一緒に町を出よう!この人達は─」

「嫌よ。い・や!!」

 

恵は弟の言葉を遮って拒絶した。

嫌だという意志は、はっきり言わなければいけない。

言わなければわからない。それが男という生き物だ。

 

「姉さん、この人達は味方なんだよ!外は化け物だらけで危険なんだ!信じられないって!?」

 

健は語気を荒げる。

こいつはわかっていない。

なぜ、私が怒っているのかわかっていない。

 

「いいえ、信じるわ。外で化け物を見たもの」

「じゃあなんで─」

「同じでしょ。外にいるのは、いつも“敵”。いつだってそうじゃない!!」

 

私の身を案じてすぐに帰らなかった。

おまけに知らない人を上がり込ませた。

裏切り者‥‥。

 

「でも、ここにずっといたら、町ごと焼かれてみんな死ぬんだよ?」

 

健は健明に姉を説得する。

でも、姉の怒りを理解できなかった。

 

「外に出て化け物に食い殺されたり、知らない男にレイプされて殺されるよりましでしょ!?」

 

──そうよ。どうせみんな、死ぬんだから。

 

「でも、拓─」

 

健が拓の名を口にした瞬間、恵の怒りは頂点に達した。

 

「拓!?拓、拓って!!私よりそいつがそんなに大事だっての!?」

「姉さん何を─」

 

恵は止まらない。

 

「怖かったのよ!?すごく怖かったんだから!!なのに、私を見捨てて‥‥」

「見捨てた?」

 

健は理解出来ていない。

本当に理解力の無いやつ。男って奴は本当に。

 

「見捨てたでしょ!?直ぐに戻ってこなかった!地震があったのに‥‥」

「随分とやかましい姉さんだな!」

 

男が突然、口を挟んだ。

 

「部外者が口を挟まないで!!」

 

──全く、どいつもこいつもイライラさせる─

 

「いいや、言わせてもらう!!こっちも長居はしたくないんでな!」

 

男が、怒鳴る。

男はいつもそうだ。

怒鳴って威圧して、それで相手を屈服できると思ってるんだ。

獣と同じ。

でも、健は違う。健はおとなしい子だった。

“あいつ”の欲望の矛先になってくれて、ずっと守ってくれた。

だから信頼してた。

なのに、こんな奴を家に上がらせた!

こんな奴を!

 

「こいつはずっと、あんたとその子供の身を案じてたし、そのために化け物と命懸けで戦ったんだ!あんたのためにな!そして、やっとの思いでたどり着いて、それでこれかよ!!」

 

男の言葉は恵の耳に入らなかった。

彼の言うことが本当かどうかなんて関係ない。

 

「ケンのお姉さん、ちょっと」

 

不意に、緑髪の女が声を掛けてきた。

女は、よく見ると瞳は真っ赤で、八重歯は牙のように鋭く、バンパイアのようだ。怪しすぎる‥‥。

 

「何?」

 

「私はこう見えて、ケイサツの者なんだ」

 

──ハア?

 

信用できるはずがない。そんな格好の警官がどこにいる。

 

「この服装は仮装パーティーのものでね。非番の時にこの事件に巻き込まれてしまったんだ」

 

こいつは私を馬鹿だと思ってるのだろうか。

恵は怒りで気が狂いそうになるのをぐっと堪える。

唇を噛んでしまい、血が顎を伝う。

 

──でも、もし、本当に警官だったら?

 

「証拠は?」

 

警察なら、警察手帳を持ち歩いているはず。

 

「ほら、これ。それに拳銃」

 

女は血塗れの警察手帳と、同じく血塗れの拳銃を見せた。

 

──本物?

 

「納得してくれたかい?」

 

健が訊ねた。

 

‥‥‥。

 

少しの沈黙が流れる。そして、

 

「わかったわ。一緒に行く。でも、そいつを近づけさせないで!」

 

“そいつ”というのは中年男のことだ。

 

「ああ、絶対に」

 

女が返した。

 

「私はユキだ。よろしく、ケイさん」

 

互いに握手の手は差し出さなかった

 

 

 

 

 

 

  ──これが健の姉貴か‥‥。

 

敏夫はユキと睨み合う健の姉、恵の顔を見つめながら、さっきのことを思い出していた。

 

 『姉さんは人間不信でその‥‥病気なんだ。‥‥心の』

『それで?』

『それで、多分、連れていくのには説得が必要になるし、骨が折れると思う』

『なるほど、面倒くさい性格なんだな?』

『‥‥警察でもいれば、信用してくれるかもしれないけど‥‥』

 

まさか、拳銃はともかく何の気なしに回収した警察手帳が役に立つとは思わなかった。ただ─

 

──イカれた女だな。

 

恵は完全に正気を失っていた。

彼女の顔は健にそっくり、つまり、かなり“整って”いたが、ボサボサ髪に充血した目と目の下の隈、それに地味なセーターとズボンが、彼女の見た目や雰囲気を台無しにしていた。

おまけに唇を噛み千切って血を滴らせているし、ワナワナと怒りに震えるさっきの姿はひどく不気味に見えた。

 

──まるで怪物だ。

 

 「よし、行こう。ユキさん、エスコート頼むよ」

 

健はそう言ってから甥っ子、拓と手を繋ぐ。

 

「どこにいくの?」

 

拓は健を見上げながら訊ねる。

 

「安全なところだよ。ここは危ないんだ。怖いオバケがたくさんいるから‥‥」

 

健は優しく、しかし真剣な眼差しで拓と目を合わせながら答えた。

 

 敏夫達はアパートを後にした。

先頭をユキが歩き、その後ろに健と、彼と手を繋いだ拓が続く。恵は拓の空いた方の腕をがっしりと掴んでいる。敏夫は最後尾だった。

 

──両手に花?だな、健。

 

敏夫は小さく笑った。

それは、その光景がおかしかったから、だけではない。

不安を誤魔化すためでもあった。

幼い拓が足手まといになるのは確実だし、恵は明らかにイカれてて、爆弾を抱えているし、ユキは間違いなく異常者だ。今は味方の振りをしているが、いつ本性を剥き出しにするかわからない。

 

──健、お前はなんで気付かないんだ?

 

あるいは、気付いていない振りをしているのかもしれない。健にとって、ユキは救世主だし、恵は姉だ。誰が姉や命の恩人をイカれたやつだと思いたいんだ。

そんなやつ、いないだろう。

 

先刻の健の大活躍により、化け物は辺りに一体もいなかった。

 

 「そろそろ、プリズン町と融合した区域だ。全員、気を引き締めてくれ」

 

ユキが言った。

 

「そんな、この先は町から出る道の筈なのに‥‥」

 

敏夫の目の前には、見たことの無い風景がひろがっていた。

 

 

 

 

 ユキは恵と出会うまで、彼女を直ぐに殺そうと思っていた。しかし、気が変わった。

 

──だって、あんまりにも哀れだから…

 

彼女は恐怖でびくびくして、完全にイカれていた。

さっき私がケイサツを名乗った時、飛び掛かって来るかと思ったもの。おお怖い怖い。

だから、助けてあげることにした。その方が面白いだろうし。信用していた相手に殺されるのは、どんな気分だろうか。家族を失ったケンちゃんはどんな反応をするだろうか。

 ユキはこれからの展開にワクワクしながら、地震で瓦礫の山と化したプリズン町の住宅街を歩き続け、後ろについてきている“仲間達”を、流し目でチラ見した。

 

 ──かれらは完全に私を信じきっている。だからこうして、私がかれらに背を向けても全く問題ない。特にケンちゃん、あなたは私を“正義の味方”だと思ってるはず‥‥。

 

 「化け物も人も居ねえな。瓦礫ばっかだ」

 

敏夫が辺りをキョロキョロしながら言った。

 

──そりゃ、ここへ来る前にあらかた片付けたもの。でも‥‥

 

ユキは引っ掛かっていた。まだ、霧はちっとも晴れていない。にも関わらず、私達は一度も“スモッグ”に遭遇していない‥‥。

 

 何かがユキ達の目の前にふらっと現れた。血塗れの女だ。

そのぎこちない足取りはまるで酔っぱらいのようだったが、そうでは無いことは一目でわかった。肌は血の気が全く無くて青白いし、瞳は白濁している。そしてなにより、腕がない‥‥。

 

「あの、大丈夫ですか?」

 

健が手を繋いでいた甥や姉と一旦離れ、ユキの横を通り越して歩み寄り、肩に触れて“彼女”に話しかけた。

 

──ケンちゃん‥‥明らかに不自然な相手でも心配してあげるのね‥‥。

 

“あばたもえくぼ”である。ユキはもはや、健のやることなすこと全てを良い方に捉えていた。

だがそれは、『恋』や『愛』などでは断じてなかった。『お気に入りの玩具を見つけた子供』なだけである。

しかし、ユキがそのことを自覚する機会は永久に来ないだろう。

 

 ううぅ‥‥

 

と、“彼女”は呻いた。そして、突然、健に噛み付こうとした‥‥

 

「ひぃっ!」

 

健は反射的に“彼女”を突き飛ばす。

“彼女”は地面に頭を打ち付けたが、全く堪えずに再び起き上がろうとする。

ユキは“彼女”の正体を知っていた。

こいつは“グール”。

この世界では、『脳が損傷していない人間の遺体』は全てグールと化すのだ。

誰かは地獄が満員になったからだと主張し、誰かは放射線やウイルスのせいだと言った。

結局、この現象の原因は不明だ。ただわかるのは、『魔法のせいではない』ことと、『死ねばみんなこうなる』ことだけだ。

 

「ケン、そいつは人間じゃない。私を信じて、そいつを殺せ!!」

 

ユキは健に命令する。

自分がレーザー銃で撃てば一瞬で済む。

でも、それじゃあ面白くない。

健に殺させたい。

 

「でも、どうみたって人間じゃ─」

「“ゾンビ”だろ!?化け物がいるんだ、ゾンビだっているだろ!咬まれるまえに殺れ!」

 

そう言ったのは敏夫だ。

 

──あんたは余計なこと言わないで!!私は、健が葛藤の末に出した結論と行動を見たいの!!

 

ユキは敏夫に、何度目かわからない殺意をむけた。

 

「助けを求めてすがり寄ってるだけだったら?」

 

健はグールに目線を向けたまま、敏夫に問うた。

 

「なら、殺してやるのがせめてもの情けってもんだろ?お前は、そんな姿で生きていたいと思うのか?」

 

敏夫はユキの殺意のこもった目線に恐怖を感じたのか、冷や汗をかき、身体をブルブル震わせるが、それでも構わず健を説得しようと試みる。

 

グールが完全に立ち上がった。

 

「殺してやるのが‥‥せめてもの‥‥ちくしょう‥‥」

 

健は悲痛な表情を浮かべる。

それから背中のバットケースから、バールを抜いて構えた。

 

グールが、一歩進む。

 

「ケンおじさん!オバケから逃げ─」

「殺しなさい健!!そいつを殺して!!」

 

拓の言葉を恵が遮る。

 

グールが、また一歩進む。

そして、健の作業着に指先が触れる─

 

バキッという音と共に、健が振り下ろしたバールがグールの頭に突き刺さった。

グールは倒れて、動かなくなった。

 

「彼女のために‥‥やった‥‥」

 

健は項垂れ呟く。

 

──ふうん、自分を正当化する、か‥‥まあ、割りとありがちかなぁ‥‥

 

ユキは見たいものを見れて満足したが、少しだけがっかりした。

 

「違う。そんなの言い訳だ。怖かったから殺したんだ‥‥」

 

──と、思ったら自罰かぁ、それもありがちだなぁ‥‥

 

「ケン、安心しろ。そいつは本当に人間じゃない。グールという人間の遺体が変異した化け物だ」

「グール?」

「そう。知能は昆虫並だし、生きてる人間を見かければ無差別に襲って食い殺そうとする。咬まれたら重度の感染症を罹患してしまうから気を付けろ」

 

深く傷付け、少しケアする。それが玩具を長持ちさせるコツだ。

 

「‥‥わかった‥‥」

 

健は力無く答えてから、拓と再び手を繋いだ。



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第八話

 「おい!クーパー!!このクソッタレのドアを開けやがれ!!」

 

霧に包まれ瓦礫と化け物と歩く死体だらけの町に黄昏が広がる中、ベンはとある民家のドアを叩きながら叫んでいた。

彼の背後には歩く死体─グールと、兎頭の化け物達が、仲良く一つの夕飯─つまりベンにありつくために波のように迫っていた。

 

──嗚呼!!W(ダブリュー・)T(ティー・)F(エフ)!!

 

 ベンは今日、いったい何が起きたのかまるで理解出来ていなかった。

でも、想像はいくらでもできる。

また、軍の研究─異世界を覗く『窓』の開発─に失敗して、大規模な事故が起こったに違いない。

軍のクソッタレどもはいつもそうだ。あいつらが夢中になってる“カクヘイキ”とやらだって、どうせろくでもないに決まってる。

 

「クーパー!!覚えてやがれ!!グールになったらお前を探して真っ先に殺してやるからな!!」

 

そう吐き捨てて、ベンは走り出した。

走りながら、振り返って兵士の死体から奪ったレーザー銃を撃つ。

だが、放たれたビームは先頭の兎頭の体表を少し焦がしただけに終わった。

レーザー銃は使用者の魔力を熱線に変換させる武器だ。本来の威力を発揮するには、訓練を要する。

 

「この役たたずめ!!」

 

ベンはレーザー銃を、憤怒とやけくその思いを込めて投げ捨てた。

だが、ベンはまだ絶望していなかった。

 

──俺には武器がある。

 

ベンには、肉体労働で鍛えられた屈強な肉体と、右手に握りしめた何の変哲もない火かき棒がある。

ベンは走りながら、緩やかにUターンした。魔物とグールの群れを引き連れながら。そして民家に戻ってくると、裏に回り込み、裏口のドアに思い切り体当たりした。

 

ぶち破られたドアの先に、白いシャツを着たハゲ頭の男、クーパーがいた。

その顔には恐怖と絶望が貼り付いている。

 

「このクソッタレホワイトカラーめ!死にやがれ!!」

 

ベンは扉をぶち破った勢いそのままでクーパーに突っ込んでいき、火かき棒を彼の脳天に突き刺した。もちろん、クーパーは即死した。

ベンはクーパーの死体をその火事場の馬鹿力で持ち上げると、後ろからノロノロと追ってきた家賃の催促をしに来る家主に匹敵するくらいに執念深いノロマ共へ投げつけた。

 

「ほらよ!ディナーだぜ!!」

 

言いたいことを言ったベンは、施錠されていた正面玄関のドアを開け、外に飛び出した。

 

──やった!やったぞ!化け物から逃げきった!!

 

ベンは民家からできるだけ離れようと走り続けた。

このまままっすぐ行けばリーミス通りだ。立て籠れる建物がたくさんあるはずだ。ついでに夕飯や武器にもありつけるかもしれない。

ベンは自分が生き延びられると信じていた。逃げた先のリーミス通りで鉢合わせた“魔物の娘”に眉間を撃ち抜かれるその瞬間まで。

 

 

 

 

 「こいつ、人間じゃないのか?」

 

 敏夫は脳天に風穴が空いた黒人男性の遺体を見下ろしながら言った。

その男は突然、通りに現れたかと思ったら、先頭を歩くユキに撃ち殺されたのだ。

 

「そうだったかもしれないな」

 

ユキは悪びれもせずにあっさり認めた。

 

「仕方ないだろう?突然、目の前に現れたんだ。もし、かれが魔物だったらこちらが殺されていた筈だ」

 

さらにそう続けた。

敏夫の身体を計り知れない恐怖と不安が駆け抜け、それは冷や汗と身震いとなって表出する。

 

──こいつは人を殺しても平気なんだ。

 

この女がイカれたやつであることは、とっくに理解出来ているつもりであった。

でも、俺も健と同じだった。

“強くて頼りになる”、ただそれだけで彼女についてきたのだ。そのツケを払う時は、そう遠くないかもしれない。

健はユキの顔を見ながら、信じられないという顔をしながら呆然と突っ立っている。

 

「暗くなる前に警備局に行こう。あそこなら安全だろう」

 

ユキは何事も無かったかのようにみんなに言って、それから再び歩きだした。

彼女の足取りは、妙に軽く見えた。

 

ううぅ‥‥

 

霧に包まれた、映画でしか見たことの無いような妙に古めかしい町並みのあちこちからうめき声が鳴り響く。

それは間違いなく、ユキがグールと呼んだ‥‥“ゾンビ”共の鳴き声に違いない。

 

「姉さん、これを」

 

健はそう言って姉にバールを差し出す。

 

「なによこれ!」

 

恵はヒステリックに返した。ひび割れた唇から唾が飛ぶ。

敏夫は彼女の怒りの陰に恐怖を発見した。

恐れや不安を寄せ付けないために偽りの憤怒をかき立てる、そんな人間を敏夫は何人も見てきた。

ブルーカラーの職場には、いつも理不尽に怒っているやつが一人はいるものだ。

 

「念のために持っていてよ。万が一、はぐれたりした時に丸腰はまずいから‥‥」

 

健がそう言うと恵は少し迷う素振りを見せてから、左手にバールを握り、もう一方の手で健の腕を掴んだ。

 

「オバケの声が聞こえるよ、怖いよおじさん」

 

拓が目を潤ませて辺りを不安そうにキョロキョロ見回しながら言った。

そんな拓を冷たく睨む恵。

 

「大丈夫だよ、拓。“おにいさん”がついてるだろ?」

 

そう強がりながらも、健の顔には汗が浮かび、手は恐怖に震えていた。

 

──健、お前はあんなに強いのに、どうしてそんなに怖がりなんだ?

 

濃さを増していく霧、暗さを増していく夕闇。

先行きの見えない“でたらめな勇者のパーティー”が歩を進めていくなか、敏夫は今までの自分の人生に思いを馳せた。

 

──俺は今日、死ぬかもしれない。クソみたいな人生だったし、俺はその人生にふさわしいクソみたいな人間だった。でも、そんな俺を健は一度も見捨てなかった。

俺が今日、死ぬのだとしたら、俺はなにをすべきなんだ?

 

敏夫は手にしたスコップを改めて強く握りしめた。

 

 

 

 

 

 

 「ゆうくんったら、どこ行っちゃったの?」

 

大田雪は薄暗く、霧に包まれた妙に古めかしい町並みを孤独に彷徨っていた。

ついさっきまで彼女は一人では無かった。恋人の岬優介と一緒にいたのだが、歩く死体と兎頭の化け物達に襲われはぐれてしまったのだ。

 

 あちこちから何かのうめき声が聞こえてくる。

人間の悲鳴はもうない。

 

──ここ、いったいどこなの?

 

何が起きてるのか、全くわからない。

知らない町並み、怪物、歩く死体、霧、地震‥‥。

 雪は、いつ何かに襲われるかわからない可能性に恐怖し、何も出てこないことを強く望みながら、慎重に歩き続ける。

 

──とにかく、どこかに身を隠さないと‥‥

 

もうすぐ、完全に真っ暗闇になるだろう。今の状況でそれは非常にまずい。

 

歩き続けているとやがて、雪は見知らぬ町の見知らぬ通りに出た。

化け物も歩く死体もいない。異様な静けさと、死んだ金魚を詰めた袋の様な臭いが辺りを支配する。

これは死体の臭いだ。

 

──ウッ

 

雪は吐きそうになるのを堪え、近くのバーらしき建物に歩み寄る。とにかく建物に籠らなければ。

ドアノブに手をかけ、ガチャリと回す。ドアに鍵は掛かっていなかった。

雪はドアを少しだけ開き中を覗いた。

 

──誰もいない‥‥

 

雪はほっとしてバーの中へ入り、ドアを閉めて鍵をかけた。

中はぼんやりと明るく、傷だらけのカウンターやテーブルがオレンジ色に照らされていた。奇妙なことに、光源がどこにも見当たらない。

ここはしっかりした造りだ。大人しく閉じ籠っていれば見つからないはず‥‥

雪はそう願い、カウンターに背を向け出入口を向いたままカウンター席に座った。何かが入ってきても逃げられるように。

 

携帯電話は地震以来、ずっと圏外になっていた。

ゆうくんは行方不明だ。

頼れるものは何も無い。

自衛隊が助けに来てくれる、なんて希望はとっくに諦めていた。

雪はずっと握りしめていた鉄パイプを、改めてしっかり握る。

頼れるのは“コレ”だけだ。

化け物はともかく、歩く死体‥‥ゾンビ(らしきもの)はこれで倒せる。

 

恐怖を感じる最中、雪の脳裏に浮かぶ走馬灯。

 

父親、母親、ピアノの先生、自分に裏切られた男達や、自分を裏切った男達。それに、ケンちゃんにゆうくん。

 

勉強、スポーツ、部活、習い事、買い食い、化粧、オシャレ、デート、セックス遊び。

 

自分の人生を振り返る度に、雪に湧き上がる思い。

 

──まだ私は、十分に生きてない。

 

それが彼女に恐怖を押し殺し“敵”に抗う強さを与えていた。

雪はティーンエイジャーである。若くパワフルで生命力に溢れた時期だ。

 

──死ぬもんか‥‥殺されるぐらいなら、殺してやる!

 

誰もいないバーの中で、猛禽類が威嚇するような表情をしながら雪は鉄パイプを握りしめ続けていた。

 

 

 

 

 「おい、大丈夫か?」

敏夫は部屋の隅で縮こまりガタガタと震えている健に近付いて呼び掛けた。

返事はない。聞こえていないようだ。

健の右手を拓が、左手を恵が握っている。

 

「大丈夫よ健、私がついてるから」

「おじさん‥‥オバケはここにいないよ」

 

この部屋は何かの映画で見たような巨大な館─ユキ曰く“警備局”─の一室だ。化け物やゾンビ共に見つからないよう、室内は最小限の灯りに留められているが、それが健に良くない影響を与えていた。

ユキは腕を組んで向かいの壁にもたれ掛かり、つまらなそうに宇崎家三人を眺めている。

 

──暗所恐怖症か?

 

それとも、ただの怖がりか。

 

「大丈夫か?」

 

敏夫は健の肩に触れて、再び優しく呼び掛けた。

 

「ヒィッ!」

 

その瞬間、健は敏夫の手を振り払い小さく悲鳴をあげた。

息は荒く、歯を軋ませ顔中に汗を浮かべている。

 

「ちょっと!弟をいじめないで!」

 

恵は変わらずヒステリックに、しかし小声でそう怒鳴ってから健の肩を抱いた。

 

「私がついてる‥‥」

 

──健、お前はいったい何─

 

「うわああああああ!!」

 

声がした。男の悲鳴だ。

 

──建物の中か?結構近くだな‥‥頼む‥‥俺たちに気付くなよ‥‥

 

敏夫は男を襲った化け物だかゾンビだかがこの部屋に来ないよう願いながら震えている健を見守る。

 

 突然、健が立ち上がった。

 

「‥‥た、助けに‥‥い、行かないと‥‥」

 

フー、フーと荒い息をして天井を仰ぎながら健は誰に言うでもなく呟いた。

 

「健?」

「おじさん、どうしたの?」

 

恵と拓は床に座り込んだまま、健を心配そうに見上げた。

 

「『あ、あの時はた、大変だった』、そ、そう笑って話せる日が‥‥き、きっと‥‥」

 

「おい、健?」

 

敏夫は嫌な予感に胸の辺りをゾワゾワさせながら健に呼び掛けた。

 

──このバカ、まさか‥‥!

 

 健は大きく深呼吸すると、

 

「よし!大丈夫!俺は大丈夫!」

 

健は自分に言い聞かせているようだ。

そして、それが終わると懐から懐中電灯を取り出し、胸ポケットから取り出した白い布で、器用に頭に固定した。

 

──『八ッ墓村』の殺人鬼みたいだな‥‥

 

敏夫はその既視感の可笑しさで己の不安を誤魔化そうと試みる。

 

「俺、行ってくる!」

 

健は言った。敏夫はその顔から、恐怖と覚悟を感じた。

ユキはそんな健を見て、さっきの退屈そうな様子が嘘だったかのように狂気的な微笑を浮かべている。

 

「健!あんた何考えてるの!?大事なのは家族だけでしょ!?」

 

恵は声が裏返るのも構わず怒鳴った。

 

「おじさん!行かないで!!」

 

拓は泣くのを必死に堪えて言った。

健は幼き甥の懇願に目を潤ませる。

 

「ごめん、拓。俺は‥‥俺は“勇者”なんだ。だから、誰かを見捨てるなんてできないんだ‥‥」

 

健は泣きそうになりながら言った。悲痛な表情だ。

 

「そうよ、あなたは“勇者”よ。だから私達を守る義務があるでしょ!?」

 

恵は突然に激昂する。

 

──何を言ってるんだ?

 

敏夫は二人が言っていることがまるで理解できない。

 

「ゆうしゃ?どういう意味だ?」

 

敏夫はつい聞いてしまう。

 

「昔、母さんがそう言ったんだ‥‥“お前は勇者なんだから、困っている人を見捨てちゃいけない”って─」

 

その健の言葉を恵が遮る。

 

「母さん!?あんなの母親じゃないわ!!“あの男”が何をしても、見て見ぬふりしてたじゃない!!違うわ!!貴方は私達の“勇者”でしょ!?」

 

恵は叫ぶ。隣の拓は声もあげずに涙を流している。

ユキは彼らのやり取りを、ニタニタと笑みを浮かべながらただ見ている。

 

「ごめん、もう行くよ。手遅れになるから‥‥」

 

健は姉たちに背を向け部屋のドアを開けて真っ暗な廊下へ出ていった。

バタン、とドアが閉まる。

 

「健!!」

「おじさん!!」

 

敏夫に三人の過去はわからない。でも、あれは‥‥

 

──強迫観念ってやつだ。あいつはあんなに怯えていた‥‥なのに赤の他人を助けに行くなんて異常だ‥‥。

 

敏夫は迷う。

自分が何をすべきか。

あいつだって俺にとっちゃ赤の他人だ。

触らぬ神に祟りなしだろ?

でも‥‥

 

──あいつは俺の、命の恩人で‥‥‥何よりまだガキだ。

 

敏夫は壁に立て掛けてあったスコップを手に取り、健が出ていったドアを開けた。

 

「おい健!!俺も行くぞ!!」



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9話①

 ガチャガチャとドアノブが音をたてている。

 雪は懐中電灯を腰に着け、ドアの前に立ち、侵入者の襲撃を鉄パイプを構えて待っていた。

 

──来るならさっさと来なさいよ!返り討ちにしてやるから!!

 

が、彼女の覚悟とは裏腹に、ドアノブを弄っていた何者かは諦めたらしく、そいつが去っていくのを雪はドア越しに感じた。

 

──なにさ余計に怖がらせて!!

 

雪はカウンターの固定された椅子に八つ当たりのキックをお見舞いし‥‥‥

 

──アイタタタタ‥‥。

 

痛みに涙目になりながら自分の足を抱えた。

 

「まったく、わたし、なにやって─」

 

バンッという大音量と共にドアが吹き飛んだ。

現れたのは、狼の頭を持つ大きな人型の化け物。

 

「!!」

 

化け物が、雪に突進してきた。

 

──このっ!

 

雪は渾身の力でパイプをそいつの脳天に振り下ろす。

ガンッという鈍い音がした。

そして雪は、それが化け物にどの程度の影響を与えたのか確かめもせずに逃げ出した。

 

──あれで少しは怯んだはず!

 

そうでなきゃ困る!

大丈夫。

このパイプは結構重いし、脳震盪くらいは起こしたはず。

そうであって。

お願い。

 

願いながら雪は走った。

真っ暗闇の町並みを。

 

雪は目を凝らす。

 

──どこかに灯りは無いの!?

 

灯りがあれば、それは人間ということ。

一人じゃあいつに敵わないけど、二人以上なら何とかなるかもしれない。

 

雪は走った。

 

そして、十字路にやってきた。

雪は懐中電灯で三つの道を照らす。

正面の道ではゾンビが群をなして行進している。

後ろからは狼の化け物が、姿は見えないがストーカーのようについてきている気配を感じる。

右の道には肉団子に鎌をくっつけたようなよくわからない生き物がいる。

左に行くしかない。

左にもゾンビがいくつか居たが、正面の道よりはましだろう。

クソみたいな選択肢の中から一番マシなのを選ぶ。

まるで誰かさんの人生みたいだ。

 

──儘よ!

 

雪は左の道へ走った。

邪魔なゾンビをタックルで転ばし、掴んできた手をパイプでへし折り、走り続けた。

 

──死ぬもんか!!

 

私はまだ十分に生きてない!!

私はまだ若い!!

ゆうくんはどこかに行っちゃったけど私を探してるはず。

 

うぅぅ

グオオオッ

 

そんな化け物の咆哮や唸りがあちこちから聞こえてくる。

 

雪は力の続く限り、走り続ける。生きるために。

 

 

 

 

 

 

 「おい、本当に大丈夫かよ」

 

敏夫は健の肩に手を乗せ、顔を覗き込んで訪ねた。

 

「ああ、勿論」

 

そう返した健の声は震えていたし、身体も震えている。

だが、これでもさっきよりは大分落ち着いていた。

敏夫が懸命に励ました甲斐があったらしい。

 

健が引き返すつもりが微塵も無いことは、その目から伺えた。

 

「俺にはこのLEDのライトと、このスパナがある。」

 

健は握りしめた大きなスパナを敏夫に見せつけながら強がっている。

健の頭から伸びる光が、真っ暗な廊下を照らす。

 

「それにしてもお前、本当に怖がりなんだな」

 

敏夫は健を励ますため、わざとからかうように言った。

 

「‥‥昔は平気だったんだけどな‥‥」

「歳をとると、いろんなモンが怖くなるもんさ」

「そういうもんかな?」

「そういうもんさ」

 

敏夫はニヤッと笑ってみせた。

つられて健の表情も和らぐ。

その目は相変わらず涙で潤んでいた。

 

──チョロいな、お前。

 

敏夫は気を入れ直すために真顔に戻ってから、辺りを見回す。化け物もゾンビもいない。

 

「悲鳴はこっちから聞こえたよな?」

「ああ」

 

二人は暗い廊下を、ライトで照らしながらゆっくり進んでいく。

敏夫と健のコツコツという靴音が響く。

 

別の音がする。

ライトの光に敏夫の心を刺激する赤が照らされる。

血だ。

ぐちゃぐちゃという音。

漂う腐臭。

何か、いる。

 

ゾンビと兎頭の化け物が、仲良く食事をしていた。

かれらは殺し合わないらしい。

かれらが喰らっているのは、人の肉だ。

ユキと同じ鎧を着た男の遺体を貪っている。

彼女の同僚だったようだ。

 

灯りに照らされた化け物とゾンビ達は、より新鮮な肉に気付き、ゆっくり振り向いた。

 

「兎は俺がやる。おっさんはゾ‥‥グールを頼む」

「はいはい、ゾンビな」

 

二人はわざと、コメディアンのように余裕綽々な態度で言った。

恐怖への抵抗である。

 

先に動いたのは、兎頭だった。両手を前に突き出して猛然と突っ込んでくる。

健は突進を受け止め、手四つになる。

 

──またバケモンとプロレスしてやがるな。

 

敏夫は少しだけ呆れながら、急いで組み合う健と化け物の横を過ぎ、ゾンビ達と対峙する。

一番手前のゾンビの足にスコップを振り下ろす。

片ひざをつき体勢を崩すゾンビ。

その頭に更にスコップを渾身の力で振り下ろす。

隣のやつもスコップで殴る。

その隣のやつも。

 

──ふう、意外と俺一人でもなんとかな─

 

敏夫がそう思った瞬間、バリンッという大きな音が響いた。

音がした方を振り向くと、そこには健がいた。なぜか化け物も、化け物の死骸もない。割れた窓の前で突っ立っている。

 

敏夫は健に歩みより、割れた窓の外を見た。

窓の外には、ガラス片が沢山突き刺さった化け物がのびていた。

どうやら健は化け物を、窓を突き破るほど勢いよく放り投げたらしく、化け物にはそれが致命傷になったようだ。

 

──ホラー映画の殺人鬼みてぇな怪力だな‥‥こいつが味方でつくづく良かったぜ‥‥。

 

敏夫は自分の幸運を噛み締めた。

 

「さっきの悲鳴は彼か‥‥助けられなかった‥‥」

 

食い殺された無残な遺体を見て、がっくり膝をつき項垂れる健。

 

「お前のせいじゃねぇよ」

 

敏夫は健の背中に掌を乗せて優しく言った。

 

──お前は“勇者”だよ‥‥

 

その時。

 

「キャアアア!!」

 

女の悲鳴だ。

 

──外?

 

それは間違いなく、建物の外から聞こえた。

 

「い、行こう!今度こそ、死なせるもんか!」

「ダメ元だな!」

 

──仕方ねぇ、どこまでも付き合ってやるよ。

 

二人は出口へと走って行った。



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9話②

 ──信じられない‥‥

 

恵は絶望的な気分だった。

健が私達を見捨てて赤の他人を助けに行くなんて‥‥。 

 

敏夫とかいう中年の男が健に次いで部屋を出たことなど、些細な問題だった。

 

「おじさん‥‥」

 

拓は健が出ていったドアを見ながら、涙声で呟いた。

その息子の一言が、恵の逆鱗に触れる。

 

──このクソガキ‥‥!

 

誰かに頼らないと生きていけないくせに。

私がいないと何もできないくせに。

健の足手まといでしかないくせに。

健から愛されて。

守られて。

 

「わたしのものよ‥‥」

 

口から自然と、その台詞がでた。

そうだ。言わなければわからない。それが“オス”なんだ。

 

「かれはあんたのじゃない。あれはわたしのもの。わたしだけの勇者様」

 

恵は拓の首に手をかける。

 

「!?」

 

明らかに正気ではない母親に、拓は怯えることしかできないでいる。

 

「わたしの青春、わたしの“若さ”、わたしの幸せ、‥‥」

 

細い首にかけた指に、力を込める。

 

「お前が奪ったんだ!!お前のせいだ!!」

 

もがく拓。足をバタつかせ、必死に母親の手を自分の首から引き剥がそうとする。それは拓の意志というより、生存本能による抵抗だ。

 

──わたしのもの、わたしのもの、全部わたしのものよ!!

 

その時、奇妙なことが起きた。

なぜか、右手の指に力が入らない。

いや、違う。

指が切れている。

 

「‥‥痛っ!?」

 

何が起きたのかわからない恵は、左手で切れた指を押さえる。

 

──右から何か飛んできた?

 

その飛んできた何かに指を切られたのだ。

右にいるやつと言えば‥‥。

 

恵は右へ振り返り、そいつを睨む。

 

そいつは自分を撃ったレーザー銃を手で弄びながら、こちらを見て嫌らしいサディスティックな笑みを浮かべていた。

ユキだ。

 

──コスプレクソ女!!

 

「10秒だけ待ってあげる」

 

そいつは愉しそうに言った。

 

「は?」

 

恵は、目の前の鎧を着たイカれ女が何を言ってるのか理解できなかった。

 

「だ・か・らぁ」

 

ユキはわざとぶりっ子のように言う。健の前での毅然とした態度とはまるっきり違った。

 

「10秒だけ待ってあげるから、さっさと逃げなよ。鬼ごっこしましょ。ねえ?」

 

ユキは狂気的な笑みを浮かべる。

 

──こいつ、バカにして!!

 

このイカれ女!!

やっぱり警察なんかじゃなかった。こんな女に騙されるなんて。

健、あんたのせいよ‥‥

 

「それじゃあ、数えるね。10、9、8‥‥」

 

──クソックソッ!!

 

恵に選択肢は無かった。逃げるしかない。

恵は血塗れの手を押さえながら、ドアを開けて真っ暗な廊下へ飛び出した。

建物の構造は勿論、暗闇で右も左もわからない。

 

──健と、健と合流しないと!

 

健だけが頼みの綱だ。

 

うぅぅ…

 

あちこちから歩くクソッタレ死体達のうめき声がするが、どこにいるのか全くわからない。

運動不足の身体にムチ打ち、恵は闇雲に走った。

何かにぶつかる。

同時にグオオオッという咆哮があがる。

よく見えないが歩く死体ではなく化け物のようだ。

そいつが、右足に噛みつく。

 

「グッ‥‥!」

 

気を失いそうな激痛。

恵は自分の足を噛みつくそいつを思いっきり蹴っ飛ばす。

化け物が怯む。

その時、恵の背後から真っ赤な光線が飛び、怯んだ化け物の首をはねた。

 

「チッ、ハ~ズレ~」

 

あの女の声だ。

急いでここから逃げないと。

恵は歯を食い縛り痛みに発狂しそうになりながら、噛まれて血塗れの足で立ち上がり、再び走る。

 

走る。

走る。

 

途中で何かに触られたり髪や服を掴まれても。

 

──健、助けてっ!!

 

そう叫ぼうとしたが、代わりに口から出たのはヒュー、ヒューという気管支の悲鳴だけだった。

そして‥‥

 

「きゃあっ!!」

 

無傷だった筈の左足に、激痛が走る。

その場に倒れ、動けなくなる恵。

 

──咬まれたっ!?

 

違う。撃たれたのだ。

何とか上体を起こした恵に、ユキは冷たい笑みを浮かべながら近付いてきた。

 

「こ、殺すならさっさと殺しなさいよ!!」

 

身体を貫く猛々しい憤怒の奔流に支配され、歯をギシギシいわせながら、恵はユキを見上げて睨む。

 

──健、あんたは助けに来てくれないのね‥‥

 

恵は落胆しつつも、それを決して表に出さなかった。

 

「それは“かれら”の役目」

 

そう言ってユキは恵の後ろを指差す。窓から入る月明かりに照らされた“かれら”は紛れもなく、歩く死体ことグール達だ。

 

「あんたの子供は、あんたの望み通り始末してあげる」

 

ユキは嘲笑いながら言った。

 

「じゃあね」

 

ユキは恵に背を向け、暗闇に消えていった。

 

グール達が、恵にゆっくり近づく。

恵は必死に這いつくばって逃げようとするが、身体が動かない。

息が、出来ない。

果たして、グール達に追い付かれてしまう。

 

──嫌、嫌よ!!

 

恵に覆い被さり、肩の辺りに、足に、欠けた指に、グールが噛みつく。

 

恵は笑い出しそうだった。

これが私の人生の終わり。

これが。

こんなのが。

 

──どうして、彼らはわかってくれないんだろう。

 

嫌だって言ってるのに。

咬まれる度に、何かが脳内に、身体に入ってくる。

お前もこっちにこい。

お前もなかまになれ。

おまえも─

 

「いやよ!!!」

 

そうだ。

こいつらは言ってもわからないんだ。

私の言った通りだった。

外には“敵”しかいない。

 

──この身体は、()()()()よ!!

 

私の脳。

私の心臓。

私の身体。

私の手足。

わたしの、わたしの、わたしのもの!!

 

いつの間にか、恵は“敵”を食っていた。

その脳を。目玉を。手足を。

痛みはもうない。

傷も、ない。

 

──はっきりわかった。わたし、はっきりわかった。

 

この世で信じられるのは、自分だけ。

“敵”はみんな、駆逐してやる。

あのクソ女も。

あの中年オヤジも。

健も。

クソガキも。

 

「みんな、ころしてやる!!」



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9話③

 宇崎拓は真っ暗闇な換気ダクトの中で、身体を縮めて声を押し殺していた。

 

 ──だいじょうぶ、みつかってないはず。

 

 そう自分に言い聞かせ、怖くて泣き叫びそうになるのを懸命に耐えていた。

 

 ──ママは、きっとあのこわいおねえさんにころされた。

 

 みたわけじゃないけど、きっとそうだ。

 ママはとつぜんおこったりなぐったりしてこわいときもあったけど、それでもぼくのママだ。

 

 ──ぼくがわるいこだから‥‥。

 

 拓は母親がいつも、『外に居るのは“敵”だけ』と言っていたことを思い出す。

 

 ──ママがいっていたことは、ほんとうだった。

 

 実のところ、拓は化け物よりも人間の方が怖かった。

それは母親の洗脳の賜物である。

 

 ──ママ、ごめんなさい。

 

 拓は声を出さずに泣いた。声を出せば見つかってしまうから。

 

 ──ケンおじさん‥‥たすけて‥‥。

 

 拓はポケットにいつも入れていた人形を取り出した。健が余ったボルトやナットを溶接して組み立てた人形だ。

 それを握っていれば、どんな辛いことでも耐えられる。そんな気がしたのだ。

 

 健はいつも拓に優しかった。

 仕事が休みの日は一緒に遊び、ご飯もつくってくれた。

 

 グォォォ…

 うぅぅ…

 

 あちこちから聞こえてくる何かの声。

 

 ──オバケだ‥‥。

 

 オバケ─化け物達─のうめき声だ。拓は不思議なことに、その声の中に母親の声が混じっていたような気がした。

 

 ──ママ?いきてるの?

 

 拓は恐る恐る、ダクトの外を覗いた。

 月明かりで僅かに照らされ輪郭が見える。

 女のようだ。

 何かをブツブツと呟いている。

 

 「‥‥ロス‥‥ミンナ‥‥コロス‥‥」

 

 呟きながらふらふらと歩く。

 向かい側から、その女に同じようにフラフラと、何かが歩み寄る。

 鎧を着た男だった。

 二人の男女は向かい合い、そして‥‥。

 女は男に素早く掴みかかると、裂けて大きく開いた口で、相手の頭を丸かじりした。

 

 それは化け物だった。人の姿をした化け物。

 母親などではない。

 

 拓は戦慄し、音を立てぬように気をつけながらダクトの奥へもどった。見つからないように。

 自分も捕まればあの男のようになる。そう思うと震えが止まらない。

 

 ペタッペタッという足音が聞こえた。それは母親に似た化け物の足音に違いない。段々と小さくなっていき、やがて聞こえなくなった。拓の隠れているダクトから離れていったらしい。

 

 ──だいじょうぶ、ここはせまいし、あいつははいってこれないはず。

 

 拓は耐える。

 

 ──ここでじっとしていれば、きっとケンおじさんがたすけにきてくれる。

 

 だいじょうぶ。

 だいじょうぶ。

 

 拓は孤独と恐怖に必死で耐えていた。

 



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本編
プロローグ


 その醜悪な化け物はわけのわからないことを叫びながら、猛々しく襲いかかってきた。

 宇崎健(うざきけん)はその化け物の太くて大きな腕で頬を殴られ、壁まで吹っ飛ばされた。

 

 ──うぐっ

 

 口の中が血の味で満たされている。

 頭がぼんやりする。

 全身を強打したはずなのに痛みはない。

 極度の恐怖と興奮で健の感覚は麻痺していた。

  

 「#&*§@!!」

 

 化け物は咆哮をあげながら大股でのっしのっしと健に歩み寄ってくる。動けない健に追撃するつもりのようだ。

 

 ──に、にげないと‥‥!

 

 逃げないと殺される。そう確信した健は壁に寄りかかりながらなんとか立ち上がった。

 だが、健が立ち上がった頃には既に、化け物はすぐ目の前にいた。

 化け物が叫びながら健の胸ぐらをひっ掴む。

 歯並びが悪いそいつの大きな口から、唾が飛ぶ。

 

 「やめて!お願い!!」

 

 “彼女”はそう叫び、健と化け物の間に割って入ってきた。

 化け物は健のシャツから手を離すと、今度は“彼女”に襲いかかった。

 化け物は“彼女”を押し倒すと、服をビリビリに切り裂いた。

 

 健は化け物が自分に背を向けている隙を逃さなかった。

 

 ──今しかない!

 

 今、やるしかない。

 やらなければ、死ぬ。

 或いは、この地獄が続く。

 終わらせなければ。

 殺さなければ。

 

 全身の痛みなど完全に忘れ、健は玄関へと走った。

 

 ──あった。

 

 金属バット。

 あいつを倒せる武器。

 健はすぐさま化け物のもとへ引き返した。

 

 化け物はまだ全力で抵抗する“彼女”と取っ組み合っていた。健のことなど頭から消えているようで、彼のドタドタとたてていた足音も化け物にとってはどうでもいいらしい。

 

 化け物はその怪力で“彼女”の抵抗する腕を膝でふんずけ全く身動きが取れない状態にしてから、そのおぞましい唇を、“彼女”の顔に近付けた─

 

 グシャッという鈍い音が部屋に響く。

 

 化け物が“彼女”を補食しようとするのを目の当たりにした瞬間、健の身体は殆ど勝手に動いた。

 健はその幼い体躯には大き過ぎる金属バットを、醜悪な化け物相手に振り下ろした。

 何度も。 

 何度も。

 床に伏したそいつの頭は既にぐちゃぐちゃになっていたが、それでも健はやめなかった。

 今やめたら、コイツは起き上がって襲ってくるんじゃないか。そんな怖れが、健にその機械のような反復運動を強いていた。

 

 「健、もういいのよ」

 

 女の声がする。

 その声を聞いた健は、ハッとして動きを止めた。

 化け物はもう、動かない。

 “彼女”はセーラー服がはだけ乳房が露になっているのも構わず、健の肩を抱いた。

 健は顔を上げ、“彼女”─姉の恵─と目を合わせた。

 恵は涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。

 

 「どうしよう‥‥とうさんを、殺しちゃった」

 

 健の目からも涙が零れる。何の涙だろう。

 

 「ぼくは‥‥人殺しだ‥‥」

 

 もう、後戻りはできない。

 冷静さを取り戻す一方、殴られた頬や身体の痛みが次第に増していく。

 

 「うっ」

 

 健は膝から崩れ落ちる。痛みと後悔と絶望が、その小さな身体には重すぎたのだ。

 

 恵はしゃがみ、健を優しく抱き締めた。

 

 「健は人殺しじゃない。だってあいつは人間じゃない。化け物‥‥魔物よ」

 

 恵はそう言った。健と、自分自身に言い聞かせるように。

 

 「健、あんたはね、あんたは‥‥魔物を倒した“勇者”なのよ」

 

 勇者。それはテレビゲームの主人公。弱きを助け、強きを挫く。

 ゲームをよく知らない健でも、その存在くらいは知っていた。

 

 「いい?あんたは私達だけの、“勇者様”なんだからね」

 

 恵は念押しし、全身が痛む健を思い切り抱き締めた‥‥

 

 

 

 健は雷に打たれたように敷き布団から跳ね起きた。

 汗で全身がぐっしょり濡れている。またうなされていたらしい。

 しばらくすると、ジリリリリリリ!!という目覚まし時計のやかましい音が鳴り響いた。

 健は時計を止め、大きなあくびをしながら起き上がった。

 健はこの時、これから本当の地獄を味わうことを知るよしもなかった。



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第一話

キャラクター

★ユキ
性別:女性
種族:異世界人
年齢:24
主人公その一。
異世界の町に住む女騎士(?)。火炎魔法と射撃、剣術が得意。
身体能力や身体の頑健さは常人を遥かに越える。
内向的激昂を秘める危うい性格でストーカー気質。

★佐藤敏夫
性別:男性
種族:人間
年齢:中年
主人公その二。
トラックドライバーの一般人。
内心は臆病だが虚勢を張りがち。
「主人公になるはずの男」をトラックで轢いたことを機に、怪異に巻き込まれてしまう。

★宇崎健
性別:男
種族:人間
年齢:推定16~19
小さな会社に勤めるブルーカラーの男。
理不尽なまでにタフだったばかりに、主人公になり損なった。
赤の他人であっても助けようとする慈愛の心と悪を許せない正義感を併せ持つが、怖がり。

★魔物
20年ほど前から異世界の各地に現れた謎の生物群。
その生態は殆ど解明されていないが、人間に敵対的なことだけは明らか。



 ──プリズン町──

 

 人口僅か三万人。

 

 特産物は皆無。

 

 観光地と呼べるのは町の南側にある、現在は使われていない巨大な刑務所だけ。

 

 そんな寂れたシティタウン。

 

 唯一の長所といえば、犯罪率が王国内で最低ということぐらい。だがそれも数ヶ月前までのこと。

 

 ここ数ヶ月。若者が次々と行方不明になっていた。

 

 “ここに嫌気がさして都会に出ていったのだろう”

 

 住人達は、不安を誤魔化すように口を揃えてそう言った。

 

【1】

 

 ──ああ、まったくもう!

 

 ユキは昨日の自分に憤慨した。仕事で扱うスタンプ一式が収納されたケースが、なぜか洗面台の下に置いてあったからだ。

 

 ──出したらしまう、でしょ。

 

 ユキは自分の額に軽くゲンコツをして、それから急に恥ずかしくなり、周囲を見渡した。

 誰もいない少し広めの部屋。

 机の上に山のように積まれた書類。

 壁にかかった自分の鎧と武器。

 カーテンの無い窓。

 そして、壁に貼られた─

 

 ~プリズン町警備局 この町の治安を守ります~

 

 ─と、記された大きなポスター。

 それは警備隊長に任命されて以来、ユキが毎日目にする光景だった。

 ユキは湿気ってベタつく床に置かれたケースを拾いあげようとして、目の前の鏡の向こうに映る自分と目があった。

 ショートカットの緑の髪。真っ赤な瞳。牙のように鋭い八重歯。

 ユキのこの見た目は生まれつきのものだ。医者によると、「先祖帰り」という先天的な病らしい。

 

 「ハロー?元気?バンパイアさん」

 

 ユキは目があった相手が余りにも気だるそうだったため、思わずエールを送ってしまった。

 

 ──元気なわけないわ。退屈過ぎて死にそうよ。

 

 こんなはずじゃなかった。いまの私を見たら、きっとお父さんもがっかりするはず。

 

 ユキの父、アキヒトは王国で指名手配されるほどの大泥棒だったが、ユキを町の治安を守る警備隊に入るよう勧めたのもまた、他でもないアキヒト自身であった。

 

 曰く、お前には全うな人生を歩んで欲しいと。

 

 今は刑務所暮らしの父の言葉を思いだして懐かしい感情が押し寄せるが、すぐにそれは憤りに変わる。

 

 ──身勝手よね。私に盗みのテクニックを散々叩き込んでおいて、あんなこと言うなんて‥‥どの口が言うんだか‥‥。

 

 だがそれは父の優しさでもあった。ユキにもそれがわかっていたから、憤りはすぐに過ぎ去り哀しさが押し寄せる。

 

 ──でも、私は頑張ったわ。だから訓練学校では首席だったし、こんな田舎の町の警備局とはいえ局長の次に偉い警備隊長になった。でも、その結果がこれよ‥‥。

 

 ユキのバンパイアのような特異な容貌は、魔物の被害が年々増加傾向にある昨今において、警備局へのマイナスイメージになりかねない。そう判断した局長の意向により、隊長に任命されてからというもの、ユキはひたすら書類に判を押すという猿でもできる仕事を押し付けられていた。

 

 「そろそろ始めるか‥‥」

 

 始めるのは、もちろん仕事だ。すでに始業時間から30分が経過していたが、彼女を咎めるものは誰もいない。

 ユキはスタンプケースを机に乱暴に置いてから、カップを手に取り角砂糖を七つも入れた。

 コーヒーの入ったポッドを掴み、魔法で加熱する。

 そしてカップにコーヒーを並々と注ぎ、少しだけ啜ってから席に着いた。

 書類の山の頂から、一枚手に取り机に置く。

 書類の不備を確認し問題無ければ「認可」、そうでなければ「不認可」の判を押す。

 たったそれだけの作業。

 

 ガチャン、ガチャンという判を押す音が、一人だけの空間に響く。

 

 ──みじめだ‥‥。

 

 せっかく、警備隊員になったのに。隊長になれたのに。

 

 単純な作業を延々と繰り返していると、嫌な考えや記憶達が、頭の中を支配し始める。

 

 クラスメイトから「魔物の娘」だのと呼ばれ嫌がらせを受けたこと。

 新人の女に化粧のブランドを知らなかったことで笑われたこと。

 それにケン‥‥

 

 ──ケン‥‥好きだったのに‥‥。

 

 ケンことケネスは隊長の補佐役、“副隊長”を務める男である。そして肝心のユキがこの有り様であるため、実質的な隊長と言える立ち位置となっていた。

 

 ──あなただけは、私に優しかった‥‥。

 

 皆が私に冷たく当たっても、あなただけは優しく接してくれた。

 いつかは花をくれたし、キーホルダーをプレゼントしてくれたこともあった。

 でも、あなたは誰にでも優しいだけだった‥‥。

 

 ケンは2年前、結婚した。

 相手はユキと出会う前から付き合っていた恋人だ。

 思わせ振りな態度は、本人も自覚がない八方美人であった。

 

 ──でも、それだけならまだ良かった。

 

 問題は結婚相手の“あの女”‥‥。

 職場で除け者にされるのは別に構わない。

 今の仕事だって、これで他人(ひと)より高い給料が貰えると思えば儲けものだ。

 でも‥‥“あいつ”だけは我慢ならない。

 “あいつ”はハイスクールの時からずっと、私に嫌がらせをしてきた。

 そして、それは今も続いている‥‥。

 許せない‥‥。

 

 『そうか、隊長か。そりゃ大出世だな!鼻が高いぜ!』

 

 次に浮かんだのは父と面会した時の記憶。

 本当に嬉しそうだった父の顔を思い出す度に、心がズキズキと痛む。

 

 ──なんで、なんであんなロクデナシに褒められただけで‥‥。

 

 嬉しかったし、期待に応えたかった。

 なのに‥‥。

 

 ガチャン

 

 ガチャン

 

 ユキは判を押し続けた。

 それで嫌な記憶をペチャンコにするかのように。

 

【2】

 

 佐藤敏夫は強烈な睡魔に耐えながら、大型保冷トラックの運転席でハンドルを握り、アクセルを踏んでいた。

 

 ──ああ、くそ。夜通しの仕事はいつもこうだ!

 

 人体とは不思議なもので、事前に十分な睡眠をとっていても、一晩中起きていたというだけで果てしない眠気に襲われる。

 敏夫は既に蓋が空いた栄養ドリンクを素早く飲み干し、カーナビの液晶画面に表示された今日の日付をチラ見する。

 

 ──でも、今日は金曜日だ。あと少しだ。昼まで耐え抜けば、あとは家に帰ってぐっすり寝れるし、土日には好きなこともできる。録り貯めておいたドラマやアニメを観るのもいいし、積んであるゲームをやってみるのもいいだろう。あと少しの辛抱だろ?頑張れ俺‥‥。

 

 そう自分に言い聞かせ、金曜日の朝を迎える。敏夫もそんな、どこにでもいる平凡な社会人の一人であった。

しかし実のところ、敏夫はそろそろ今の仕事を辞めようかとも考えていた。貯金は十分貯まった。少なくとも数年間は働かずに済むだろう。そうなれば、さっき思い浮かべた休日は当たり前の日々になるのだ。

 

 「はは、この俺が中年ニートか」

 

 ──でも、俺にそんな度胸はない。この歳で、今さら別の生き方なんて‥‥‥。

 

 敏夫は最近の悩みごとを考えることで、眠気を懸命に誤魔化していた。

 

 「そろそろ円伐(まるばつ)町か」

 

 敏夫はクラッチを踏んでギアを切り替え、

 

 ──この辺りは人通りが少ないからな。

 

アクセルを深く踏み込み法定速度をやや越えた速度でトラックを走らせた。

 

【3】

 

 宇崎健は職場である工場へと、早歩きで急いでいた。車を所有・維持できるだけの資金的余裕を持たない彼にとって、通勤手段は徒歩一択である。

 

 ──ちくしょう!!寝坊しちまった!!二日連続で遅刻はマズイ!!

 

 健にとって、自分の取り柄は生真面目なところだけである。だから、寝坊で遅刻なんてことは自分のアイデンティティーを揺るがす事態に他ならなかった。

 ここ数日間、健は“得たいの知れない不安”からなかなか寝付けず、寝不足な状態が続いていた。それが若さ故のありふれたものなのか、他の何かのせいなのかは、本人にも分からない。ただ、健はこれのせいで昨日、既に遅刻してしまっている。

 

 ──高遠班長は笑って許してくれた‥‥‥でも‥‥。

 

 心が痛かった。

 

 健は左手に着けた安物の腕時計を見る。

 

 ──そろそろ走るか‥‥。

 

 早歩きから全力疾走へ、シームレスに切り替えた健は、目の前の信号が青に切り替わったのを確認し、横断歩道を渡る‥‥‥が、渡りきることは出来なかった。

 

 なぜなら信号無視し猛スピードで突っ込んできた大型トラックに撥ね飛ばされてしまったからだ。

 

 そしてそれが、彼にとって、“本当の悪夢”が始まる合図となった。

 

【4】

 

 敏夫はブレーキを目一杯踏み込んでトラックが動きを止めてから、数年ぶりに、しばらく頭の中が真っ白になっていた。

 

 ──人を‥‥‥轢いちまった‥‥‥。

 

 敏夫はヨロヨロと運転席から降りると、トラックの数メートル前方に不自然な姿勢で倒れている血塗れの男を発見する。

 

 ──俺が‥‥‥轢いたのか‥‥‥嘘だろ‥‥?確か、早く救急車と警察を呼ばなきゃいけないんだよな‥‥‥じゃないと罪が重くなるんだ‥‥いや、でも‥‥‥。

 

 敏夫の脳裏に殺人、逮捕、裁判、有罪、全科、無職、賠償‥‥といった単語が次々に浮かぶ。

 

 ──俺の貯金程度じゃ、賠償金なんか払えない‥‥‥。

 

 敏夫は血塗れの男に背を向け、辺りを見回す。

 

 ──辺りには誰もいない‥‥‥今なら‥‥。

 

 よからぬ考えが浮かび始めたその時、

 

 「おいあんた!!」

 

男の声を聞いた。

 『背筋が凍る』という感覚を思い出す。

 

 ──誰かに見られた?それとも‥‥。

 

敏夫は、恐る恐る振り返る。

そこにいたのは‥‥‥

 

「嘘だろ!?」

 

作業着を着た血塗れの男だった。そして、その男は紛れもなく敏夫がトラックで撥ねた男に他ならない。

 

 ──トラックに撥ね飛ばされても生きてる人間なんてありかよ!?

 

 「そこを、動くな」

 

 血塗れ男は静かな、しかし怒りのこもった口調でそういうと、ずんずんと俊夫に歩み寄って来た。

 

 「ヒィィィィィ!!」

 

 血塗れの男が怒りの形相で自分に近付いてくる。

 男は敏夫よりほんの少し背が高く、細身で、作業着越しでもわかるような引き締まった肉体を有していた。所謂、“細マッチョ”というやつである。

 

 ──うわぁ、明らかに強そうなやつを怒らせちまった‥‥。メッチャ睨んでるし、最悪、殺されるかも知れねぇ!!

 

 敏夫は恐怖した。

 そして本能に従いトラックの運転席に逃げ込み発進させようとするが、

 

 ──く、くそ、動かねぇ!!

 

 クラッチ操作に失敗しエンストしてしまう。いつもは出来ることでも、パニックになると出来なくなるものである。 

 果たして、敏夫は血塗れ男に運転席から引きずり出され胸ぐらを掴まれる。

 

 「てめェ!!クソオヤジ!!轢いたのはともかく救急車は呼ばねぇわ逃げ出そうとするわどういうつもりだ!?」

 

 大声で怒鳴る血塗れ男。

 

 ──轢いたのは良いんだ‥‥‥って言ってる場合じゃねぇ!!どうにかこいつの怒りを鎮めねぇと‥‥。

 

 「す、すんません!!ちょっと、ビビっちまって‥‥‥」

 

 言い訳にもならない弁明を試みる敏夫。

 

「轢き逃げは重罪だぞ!!わかってんのかよ!?」

 

 ──くそ、んなことわかってんだよ!!無事なんだから良いじゃねぇかよ!

 

 逆ギレしたくなる衝動を抑えつつ、敏夫は打開策を模索する。

 

 「頼む、赦してくれ!!女房と娘がいて俺の帰りを待ってるんだ!!」

 

 そう言いながら敏夫は懐から同僚の妻と娘が映った写真を血塗れ男に見せつける。

 

 「なんだと!?そんなもんで‥‥」

 

 ──やはり駄目か‥‥

 

 敏夫は諦めかけるが、

 

 「く‥‥ちくしょう‥‥」

 

 わかりやすく動揺する血塗れ男。

 

 ──あれ?

 

 「‥‥‥‥‥わ、わかったよ、赦してやるよ!!」

 

 血塗れ男は吐き捨てるように言った。

 

 「お前のせいで俺は二日連続で遅刻だし、新品の制服は台無しだ!!さっさと失せやがれ!!」

 

 「あ、ありがとうございますぅ!!」 

 

 敏夫は笑いを堪えた涙を利用して感謝のあまりに泣きそうな演技をする。

 

 ──へ、バカで甘っちょろいガキめ。お前こそさっさと失せやがれってんだ。

 

 そう敏夫が内心で嘲笑った直後。

 突然、大音量のサイレンが円伐町中に響き渡る。

 

 「あれは、災害時の緊急サイレンか?」

 

 血塗れ男はそう呟いた。

 そして、今度は地面がガタガタと揺れる。

 アスファルトの道に亀裂が走る。

 電柱が倒れる。

 

 「なんだ!?地震か!?なんなんだよちくしょう!!」

 

 ただただ混乱した様子の血塗れ男。さっきまでのホラー映画に出てきそうな気迫は何処へやら、今の彼はリアクション芸人と成り果てている。

 

 ──サイレン、地震‥‥‥今度は何だ!?

 

 血塗れ男が大袈裟に騒いでくれたお陰で、敏夫は割と冷静であった。

 と、急に辺りに濃霧が立ち込める。

 

 ──霧か‥‥‥まるで、スティーブン・キングの小説か、あのホラーゲームみてぇだな‥‥‥。 

 

 敏夫は、昔読んだ小説を思い出す。

 

 ──サイレン、地震、霧‥‥‥次に来るのは‥‥‥いや、まさかな‥‥‥。 

 

 「なあ、おっさん、今、何て言ったんだ?」

 

 突然、血塗れ男が話しかけてきた。

 

 「い、いや、何も‥‥」

 「本当かよ?たしか、『神よ、何故私を見捨てられたのですか?』とか言ってなかったか?」

 「言ってねぇよ!!」

 

 ──何言ってんだこのクソガキ。

 

 その時、

 

 「うわああああああ!!」

 

声が聴こえた。 

 

 「何だよ今の!?」

 

 血塗れ男は相変わらずオーバーなリアクションを見せる。

 

 「い、行ってみるぞ」

 

 血塗れ男は敏夫のシャツを引っ張って連れていこうとする。

 

 「俺もかよ!?」

 

 抵抗する敏夫。だが、血塗れ男は怪力だった。強引に連行されてしまう。

 二人は声がした方へ歩いていく。

 二人はやがて、霧の向こうに倒れた人影を見つけた。警官のようだ。

 

 「あのぉ、お巡りさん?大丈夫ですか?」

 

 血塗れ男が呼び掛ける。

 返事は、無い。

 更に近付く。

 更に。

 更に。

 そして‥‥‥‥。

 

 「ひぃぃ!!し、死んでる!!」

 

 警官は左半身が無かった。

 

 「マジ‥‥かよ‥‥」

 

 敏夫は、昔読んだあの小説の通りの展開に戦慄した。

 

【5】

 

 地震が収まったのを確認したユキは、恐る恐る机の下から這い出てゆっくり立ち上がった。

 

 ──ただの地震なんかじゃない。

 

 そう感じた。もちろん根拠はない。

 窓に目をやると、何故か異様に白い。霧だ。

 ここから見えるはずの、僅か数十メートル先の正門が、辛うじて輪郭だけ見えるほどの濃霧。

 

 ──濃霧?

 

 おかしい。プリズン町には湖や沼地はない。こんな濃霧が、自然に発生することなんてあるだろうか。

 

 その時、

 

 「うわあああああ!!」

 

 下階から悲鳴が聞こえた。

 

 「撃て、撃て!!」

 「うわあああああ!!」

 「退避だ!退避!!」

 「銃が効かない!!」

 

 人間の断末魔が聞こえる。

 そして、ガシャンという何かが破壊される音。

 

 ──何が起きてるの?

 

 ユキは胸の鼓動が高まるのを感じた。

 ゾワゾワする。

 なにか、とんでもないことが起ころうとしている。

 いや、既に起こっている。

 

 何かしなくては。

 何か、行動しなくては。

 自分はこんな緊急事態に対処するために訓練を受けたんじゃないのか?

 そう頭では理解できても、身体は動かない。

 断末魔が脳裏にこびりついている。

 怖い。

 

 やがて、悲鳴も声も物音も聞こえなくなった。

 どれだけ時間が経ったかもわからない。

 

 『いいかユキ、まずは状況をよく見極めるんだ』 

 

 父の声だ。

 

 ──そうだ、まず、下階の状況を確かめないと。

 

 そう思い、部屋のドアを開けようとした─

 

 ドンドン!!

 

ドアがノックされ、すぐに開かれた。

 現れたのは、ケンだ。

 

 「隊長!!」

 「ケン?どうしたの!?その血は!?」

 

 ケンは血塗れだった。いつもは男前の顔が、恐怖で歪んでいる。

 

 「敵襲です‥‥魔物の‥‥」

 

 魔物。それは近年─20年前くらいから─急に出現し始めた人間に敵対的な生物の総称だ。

 だが、いくら魔物とはいえ“敵襲”という表現に引っ掛かった。警備局員は全員、レーザー銃を装備しているし、強力な魔法も使える。だから、魔物などいくら来ようが一捻りのはずだ。

 

 「下で何があったの?」

 

 とにかく情報を集めなくては。

 

 「触手が‥‥」

 

 ケンは声を詰まらせる。

 ユキは固唾を飲み込んだ。

 

 「触手だけが見えました。それで、オフィスの職員はみんな‥‥」

 

 ケンはユキの目と目を合わせた。

 

 「みんな、殺されました。一瞬で。何人生き残ってるかもわかりません」

 

 ケンは悲痛な表情を浮かべながら言った。家族の次に大事な部下達を失ったのだから無理もなかった。

 

 一瞬でオフィスの職員─約20人─を殺す魔物。そんなものユキは見たことも聞いたこともない。背筋が凍った。

 

 「局長は?」

 「所在不明です」

 

 ──あのスケベジジイ‥‥。

 

 あの小心者の局長のことだ。きっと、皆を見捨てて逃げたに違いない。

 

 「軍に連絡は?」

 

 軍の武器なら、さすがになんとでもなるはずだ。

 

 「駄目です。無線機も、魔法通信ネットワークも、何者かに妨害されていて‥‥」

 

 ──え?

 

 「待って、じゃあ、これは人為的に引き起こされたの?」

 

 そうとしか考えられない。通信を妨害する魔物などいるはずがない。

 

 「わかりません。今は情報が少なすぎます」

 

 ──まあ、そうよね‥‥。

 

 結論を出せるだけの情報は何もない。

 とにかく、警備局員でもまとめて瞬殺してしまう、とても強力な魔物がいる。そして、それ以外のことは何一つわかっていないのが現状だ。

 ユキはそこでハッとした。警備局員でもまとめて瞬殺できるということは、訓練を受けていない一般の人達は‥‥。

 

 「住民への避難勧告は?」

 

 ユキは慌てて訊ねる。

 

 「既に発布しました」

 

 が、ケンは落ち着いて答えた。

 

 ──しっかりしてる‥‥。

 

 ユキは隊長になって以来、一度も指揮をとったことがない。

 ケンの手際の良さが、ユキを余計にみじめな気分にさせた。

 

 「一般人達を救助するにしろ、魔物を殲滅するにしろ、私達二人だけでは出来ることに限度があります。なので、とにかく今は一刻も早く町から出ましょう。町の外へ出て軍を呼び、彼らに任せた方が結果的には多くの命を救えるはずです」

 

 ケンは冷静に言った。

 

 「そうね。それがいいわ」

 

 ユキは賛成し、

 

「準備するから、ちょっと待ってて」

 

と言ってから壁にかけられた鎧を装着し、長剣と短剣、レーザー銃二丁を腰のホルスターに納めた。

 

 「行きましょう」

 

 準備万端なユキはケンと共に部屋を出た。

 

【6】

 

 敏夫は警官の遺体をまさぐっていた。

 

「おい、何やってんだ?」

 

血塗れ男の言葉を無視し、死体を漁る。警官が持っているもの‥‥拳銃が望みの品である。しかし、見当たらない。

 

──左半身ごと持っていかれたか‥‥。

 

敏夫は落胆し─

 

「動くな!!二人とも手を上げてゆっくりこっちを向け!!」

 

突然の意識外からの怒声に、心臓が喉から飛び出しそうになりながら、敏夫はそいつの命令通り手をあげ、ゆっくりと振り返る。

 

──ちくしょう、なんだってんだ!!

 

「わ、わかった、撃たないでくれ!!俺は──」

 

相変わらず大袈裟なリアクションをして、手を上げながら血塗れ男が言う。

 

「いいからさっさとこっちを向け!!」

 

敏夫と血塗れ男はそいつの方へゆっくりと向いた。

そいつは警官だった。

 

「お前達が、彼を殺したのか?」

 

警官は惨殺死体をチラ見してから二人に問いかける。

 

「違ぇよ!!俺たちが人間を真っ二つにする武器を持ってるように見えるか!?」

 

血塗れ男は怒鳴りながら返す。

 

──おいおい、あんまり刺激すんなよ‥‥。

 

敏夫はハラハラしながら黙って手を上げ続ける。

警官は敏夫と血塗れ男を交互に見てから、しばしの沈黙の後、銃を下ろした。

それを見た敏夫と血塗れ男もほっとして上げた手を下ろす。

 

「銃を向けてすまないな。まだ状況が把握できて無いんだ」

 

警官は申し訳なさそうな態度で言った。

 

「彼はあんたの知り合いかい?」

 

血塗れ男が質問する。“彼”とは惨殺死体のことだ。

 

「ああ、世話になった先輩だ。」

 

「ああ、そりゃ‥‥‥」

 

血塗れ男はかける言葉が見つからないようだ。

 

「とにかく、まずは安全な場所を見つけて、それから─」

 

警官の言葉はそこで途切れた。

警官の上半身が後ろに倒れる。

下半身は前に倒れた。

警官は真っ二つになっていた。

倒れた警官の代わりに、そこに立っていたのは奇妙な生物だった。

大型トラックのタイヤ位の大きさの肉団子に、人間の手足が生え、手首の先は巨大な鎌。警官を真っ二つにしたのは、その血にまみれた二つの鎌に他ならなかった。

 

「ヒィィィィィ!!何だこいつ!!」

 

血塗れ男は相変わらずだ。

 

──化け物‥‥‥ホントに出やがった!!

 

敏夫は最悪な予想が的中したことに絶望する。

化け物が、鎌を突きだし敏夫に襲いかかる。

 

「うわああああああ!!」

 

敏夫は、己の死を予感する。両手で顔を庇い、目を閉じ、全身の筋肉が強ばる。次に彼は、自分の身体が切り裂かれる音を聴くだろう‥‥‥。

 

だが、彼が代わりに聴いたのはキィンッ!!という金属音だった。

 

敏夫は恐る恐る目を開ける。

目の前には、血塗れ男がいた。

男は、化け物の鎌を、大きなモンキースパナとパイプレンチの二刀流?で防いでいた。

 

──俺を、助けてくれたのか?化け物と張り合ってやがる‥‥。

 

敏夫がアホ面で感心していると、

 

「おい、おっさん!!ボケッとしてないでこいつを銃で撃ってくれよ!!」

 

血塗れ男に怒鳴られる。

 

「銃?そうか、警官の!」

 

敏夫は急いで警官の手から拳銃をもぎとると、化け物に向かって撃った。

 

一発。

二発。

 

──サバゲーで鍛えた銃さばきを見やがれ!!

 

しかし、二発の銃弾は素早く防御姿勢をとった化け物の鎌に防がれてしまう。

が、それが化け物にとって、致命的な隙となった。

血塗れ男はスパナとパイプレンチを躊躇なくその場に放り捨て、化け物に突進してその両手首‥‥鎌の付け根を掴んだ。そして、肉団子のような胴体に、強烈なヤクザキックをお見舞いする。()()()()()()()()()()()()で。

後ろに吹っ飛ばされ尻餅をついた化け物には、腕が無かった。さっきまで腕がついていたはずの場所から、真っ赤な血が滝のように吹き出している。

血塗れ男は化け物の腕を無造作に放り投げ、腕がないせいで上手く立ち上がれない化け物に素早く馬乗りになると、その胴体を何度も殴った。

 

「ぐおおおおお!!くたばれぇ!!」

 

血塗れ男は獣のように叫びながら殴り続ける。

殴られる度に、血を吹き出しキィキィと耳障りな悲鳴をあげる化け物は、やがて、動かなくなった。

 

「はぁ、はぁ、なんとか倒せたな‥‥‥」

 

 血塗れ男は乱れた息を整え、少し落ち着いてから、靴で化け物を小突いて言った。

 

「ああ、俺たちでもなんとかなったな。」

 

敏夫は“俺たち”を強調した。

 

──実際、俺が撃ったお陰で隙ができたしな。

 

「ああ‥‥‥俺は宇崎健だ、よろしくな」

 

血塗れ男‥‥健は肯定してから、名乗り、握手のため右手を差し出す。

 

──こいつはクソ強い。警官でも勝てない化け物を、素手で殺した。

 

それに、トラックに撥ねられてもピンピンしてるほどタフなやつだ。

あの化け物が、一体だけとは思えねぇ。

生き延びるには、こいつと手を組むしかねぇ。

 

しばし考えてから、敏夫は健の右手を握り返した。

 

「俺は佐藤敏夫。長い付き合いになりそうだな。」

 



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第二話 前編

【7】

 

 ユキは濃霧に包まれた町を走っていた。逃げるために。

 魔物に追われているわけではない。それどころか奇妙なことに、魔物達はユキの姿を見てもそのまま素通りしていった。仲間だと思っているのだろうか。

 

 ついさっきのことだ。

 ユキはケンと共に警備局を出た。

 同僚達の無残な遺体たちをそこに残したまま。

 二人で周囲を警戒しながら慎重にリーミス通りを歩いていた時。

 道の中央に遺体と、その遺体が引きずり回されたことを示す血の模様があった。

 それを見たケンが弱音を吐いた。

 

 「ああ、アン、無事でいてくれ」

 

 それは家族の身を案じる、ありふれた言葉。

 だが、“アン”─ケンの妻の名前─を耳にした時、ユキの中に真っ黒なものが腹の辺りから沸き上がり、それは憤怒と嫉妬と憎悪の奔流となりユキの身体を貫いた。

 単に想い人を()られた嫉妬ではない。

 まともな人生を歩んでいることへの嫉妬。

 自分より大切なものがあることへの嫉妬。

 そして、“あいつ”への際限のない憎悪と憤怒。

 

 ユキはこの時まで、自分にも“我慢の限界”があると知らなかった。

 ハイスクールで嫌がらせを受けた時。

 新人の同僚にバカにされた時。

 除け者にされた時。

 想い人が嫌いなやつと結ばれた時。

 今までの人生で受けた数々の屈辱と心の痛み。

 ユキのそれらへの対処法は、耐えること。

 黙って耐える。それだけだった。

 他人と争うくらいなら、自分が我慢して耐える。

 負の感情を小出しにできず、全てを溜め込む。

 破綻しているほどに内向的。

 それがユキだった。

 

 気がついた時、目の前にはケンがいた。

 彼は腹を押さえてうずくまっている。

 腹を押さえた両の手は真っ赤に染まっていた。

 そして、自分の手には銃。

 

 ──私が、撃った。

 

 それも、発作的に。

 ユキがそれを自覚したのは、自分の方を見ているケンの顔に、混乱と恐怖が浮かんでいたからだ。

 

 「な‥‥なんで‥‥」

 

 ケンはわけがわからないという顔をしながら、苦しそうに言った。

 

 「ち、違うの、私─」

 

 ユキは弁明を試みる。だが、どう弁明したらいいかわからずに言葉に詰まる。

 

 「裏切り者‥‥」

 

 ケンの顔が、“敵”に向けるそれへと変わる。そしてレーザー銃をユキに向けようとした─

 

 「!!」

 

が、銃を握る彼の指はユキの銃から放たれた熱線に切断された。

 だがそれはユキの意志ではなく、訓練の成果による条件反射だった。反撃に備えて彼女の身体が先制攻撃してしまったのだ。

 

 もう、後戻りはできない。

 

 「や、やめてくれ‥‥家族がいるんだ‥‥」

 

 命乞いをするケン。

 しかし、彼の言葉はユキには届かない。

 ユキは頭が真っ白になっていた。

 

 ──どうしよう。

 

 このまま彼を生かしておけば、仮にこの町から出られたとしても私は一生逃亡者だ。

 今さら謝ったって、彼が許してくれるはずない。

 

 ユキは周囲を見渡す。辺りには誰もいない。

 

 ──今、殺すしか、ない。

 

 「ご、ごめんなさい‥‥」

 

 ユキは顔をひきつらせ、涙を流しながら引き金を引いた。銃から放たれた光線はケンの胸を貫き風穴をあけた。

 胸を押さえて倒れ、ケンは動かなくなった。

 

 「ごめんなさい‥‥わ、わたしは‥‥」

 

 ユキは逃げ出した。何かに追われたわけじゃない。

 だが、逃げ出さずにはいられなかった。

 

【8】

 

 ユキは休まず走り続けた。彼女は疲れを知らない。彼女の特異な点は見た目だけではなかった。

 常人離れした膂力と際限の無いスタミナ。そして、異様に頑健な骨格と肉体。

 それは紛れもなく、魔物の特徴だった。

 

 すれ違って行く、異形と無残な遺体。

 生きている人間は一人もいない。

 

 ユキはここでも孤独だ。

 化け物にすら見向きもされない。

 彼女は数十メートル先すら見えない霧の中で、行くあてもなくがむしゃらに走り続け─

 

 「ぐおおおおおお!!死にやがれぇぇぇ!!」

 

 声がした。間違いなく、生きた人間の声。

 男の声だ。

 

 ──生存者?

 

 どうしようか。

 ユキは一瞬だけ思慮に耽る。

 私は市民を守る警備局員。

 でも、人殺し。

 些細なきっかけで罪の無い人を殺した。そんな私がヒーローみたいに誰かを助けていいの?そんなことが許される?本当に?

 

 「いいぞ!!そこだ!!やっちまえ!!」

 

 さっきのとは別の声だ。悲鳴でも戦っている風でもない。野次のようだ。

 

 ──野次?

 

 あんな強い魔物が相手なのに?

 

 ユキの鼓動を高鳴らせるもの。

 それは興味。

 いま行けば見れるだろうか。

 

 ユキは声のした方へ、磁力に引っ張られるかのように歩みだした。

 

 霧の向こうに、“彼”はいた。

 “彼”は魔物と戦っていた。

 

 狼の頭を持つ、全身毛むくじゃらのヒューマノイド。

 それが“彼”の相手。

 ユキはそいつを狼頭と名付けた。

 狼頭が、丸太のような両腕を広げて“彼”に襲い掛かる。

 “彼”は狼頭と手と手をガッチリと組み合い手四つになる。

 狼頭は目の前の“彼”の頭を食いちぎろうとするが、“彼”がことごとく頭を逸らしてかわすため、狼頭は虚空を何度も噛み、虚しいガチッという音を断続的に発するだけだった。

 “彼”は狼頭の股ぐらを思い切り蹴りあげると、股間を押さえて悶絶するそいつの脳天に、おのれの両手を組んで作ったハンマーを振り下ろした。

 ダウンした狼頭のその後頭部を、間髪入れずに踏みつける。

 グシャッという鈍い音。

 狼頭は血だまりに沈み、動かなくなった。 

 

 ぜぇぜぇと肩で息をする“彼”。

 

 「まじですげぇな、お前」

 

 戦いをただ見ていただけの小汚ない中年男性が、“彼”を称賛した。

 二人ともユキには気づいていない。

 

 ユキは自分が見たものを信じられなかった。

 ただの人間が、魔物と素手で渡り合う。

 

 人間は武器と魔法があって初めて魔物と互角に戦える。それが常識のはずだ。

 

 と、もう一体の狼頭が霧の中から現れる。

 “彼”と中年男性はその存在に気付いていない。

 狼頭が、二人に猛然と突進する。

 

 「う、うわぁ!!」

 

 “彼”が狼頭に押し倒される。

 

 「ひぃぃぃ!」

 

 中年男性はただただ怯えて叫んでいる。

 

 「こ、こいつ!」

 

 “彼”は必死に抵抗している。

 

 「おいおっさん!」

 

 助けを求めるのだろうか。

 

 「逃げろ!!」

 

 ユキは“彼”の自己犠牲の精神を見て、じっとしていられなかった。

 長剣を抜き、魔法で刀身に炎を纏わせる。

 そして、狼頭の筋肉で隆起した背中を斬りつける。

 狼頭は身体の内部を焼かれ、悶絶してのたうち回り、やがて動かなくなった。

 

 「大丈夫?」

 

 ユキは剣を鞘に戻してそう言い、右手を差し出しながら“彼”を見下ろした。

 目と目が合う。

 ほどよく逞しい体つき。

 健康的な黒い短髪。

 深く切られた爪。

 自分より年下らしい若くてハンサムで‥‥何故か全身が血塗れの男。

 

 “彼”はその血塗れの手でユキの手をとり立ち上がった。

 

 「助けてくれてありがとう。命の恩人だよ」

 

 “彼”はユキの目をまっすぐ見ながらそう言い、微笑した。

 

 ──綺麗な目‥‥。

 

 “彼”なら自分の罪を知っても責めないのではないか、ユキはそう感じた。根拠は無い。

 誠実そうだ‥‥。

 

 「あんた‥‥それ、コスプレか?」

 

 中年男性が、ユキの身体をなめ回すように見てから言った。

 

 「すげぇ美人だな」

 

 ──スケベオヤジめ‥‥。

 

 ユキは局長を思い出し、嫌悪感を抱いた。

 

 ──こいつとは絶対に仲良くなりたくないわ‥‥。

 

 「おい失礼だぞ!助けてくれてくれた人に!」

 

 “彼”は中年男性を小突き、それからユキと再び目線を合わせると、

 

「俺は宇崎健っていいます」

 

と名乗って右手を差し出した。

 (ケン)という名に、ドキッとする。

 

 「わ、私はユキ‥‥」

 

 ユキは健の右手を握り返し、握手をした。

 

 「あ、そうだ。こいつは─」

 

 健はユキと握手したまま隣の中年男性に顔を向ける。

 

 「─轢き逃げ犯の佐藤とし─」

 「おい!」

 

 今度は中年男性が健を小突く。

 健とユキの手が離れた。

 

 「人聞きの悪いこと言うんじゃねぇよ!こういうのは第一印象が大事だろ!?」

 

 ──既に最悪よ!!

 

 ユキは内心で毒づいた。

 

 「へへ、というわけで、俺は佐藤敏夫だ。よろしく」

 

 敏夫も握手しようと手を差し出したが、ユキは無視した。

 

 ──コイツ嫌い!!

 

【9】

 

 敏夫は突然現れて自分達を救い、自分との握手を拒んだその怪しすぎる女─ユキ─に見とれていた。

 エメラルド色の髪、真紅の瞳、牙、それにファンタジーゲームの世界から飛び出して来たかのような鎧。

 

 ──やっぱりコスプレか?

 

 そんなわけない。たった今、あの化け物を“燃える剣”で倒したじゃないか。何者なんだコイツ‥‥。

 

 「よろしく、サトウさん」

 

 ユキは“陽気な男”を演じた敏夫の目を見て冷たくそう言った。“よろしく”という言葉とは裏腹に拒絶の感情が籠っているのを敏夫は敏感に感じ取り、それから威圧感を感じた。ユキの背丈は敏夫よりも幾分か上で、健よりも少し高いほどだ。

 そして、その日本人とも西洋人ともとれる顔立ちは“整って”いて間違いなく美人といえるものだったが、涙の跡がある充血した眼とひび割れた唇、そして陰りのある雰囲気がそれを霞ませていた。 

 

 「わ、私は見ての通りプリズン町警備局の者よ。この町は危険な状態だから、一緒に脱出しましょう」

 

 ユキは敏夫から目線を外し、健の方を向いて言った。

 

 ──プリズン町?警備局?

 

 この女は一体、何を言ってるんだ?

 

 敏夫は初めて聞く単語達に混乱する。

 

 「ええと、ユキ?さんだっけ何が起こってるのか知ってるんですか?それにその格好は?あの化け物は?プリズン町?警備局?」

 

 健も同じように混乱した様子だ。

 

 「わ、私‥‥私嘘ついてないわ!」

 

 対するユキは突然、少しヒステリック気味になって答えた。

 

 「別に疑ってる訳じゃありません。ただ、本当にわからないことだらけで‥‥」

 

 健が慌てて紳士的な態度でなだめると、ユキはその言葉に唖然とした表情をしながら健の顔を見つめた。

 

 「プリズン町を知らないの?」

 

 信じられない、という顔をしている。

 

 ──そんなふざけた名前の町、聞いたことねぇけどな‥‥。

 

 敏夫は“プリズン町”を記憶の海を辿って探してみるが、そんなものは見つからない。

 

 と、突然ユキは辺りをキョロキョロと見回し、そして突然走り出した。

 

 ──?急にどうした?

 

 敏夫はずっと困惑することしかできない。

 

 ユキは個人経営の小さなカフェテリア“円伐喫茶”の前で立ち止まった。

 

 「ここ、どこなの?」

 

 ユキは明らかに焦っている。

 

 「ユキさん?」

 

 健が心配そうにユキに駆け寄って呼び掛けた。

 

 「こんなとこ‥‥私、知らない‥‥」

 

 頭を抱えるユキ。

 

 「あ、あの、大丈夫ですか?」

 

 健はそう呼び掛けながら、頭を抱えるユキの肩に触れた。

 ユキはそれにびっくりしたかのように顔を上げると、健に向き合った。

 

 「え、ええ。勿論。多分‥‥」

 

 自分に言い聞かせているようだ。目の焦点があっていない。

 

 「とりあえず早く中に入ろうぜ。化け物が彷徨いてるかもしれねぇだろ?」

 

 敏夫が言った。

 

 ──とにかく、こんなとこで立ち話はしたくねぇ!

 

 敏夫はいつまた霧の中から化け物が現れるか気が気で無かった。

 

 「ああ、それがいいな」

 「そ、そうね」

 

 健とユキも敏夫に同意した。

 

 敏夫が入り口のドアを開けると、ベルがカランカランと鳴り、“誰もいない”店内に寂しく響いた。

 

 

 ──誰もいない?

 

 奇妙だった。客はともかく店員さえいない。 

 だがしかし、いくつかのテーブルには、ついさっきまで客がいたことを示すコーヒーの入ったカップや食べかけのデザートが置かれている。

 

 ──さっきの地震で逃げたのか?

 

 そうに決まってる。

 

 敏夫はその明らかな店内の不自然さ─例えば、屋内に避難している人が一人もいないこととか─を強引に無視し、店内に入っていき、一番奥のテーブル席に着いた。

 とにかく、できるだけ入り口から離れたかった。

 後に健とユキも続き、健は敏夫の隣に、ユキはその向かいに座った。

 

 「それでユキさん。質問しても?」

 

 最初に口を開いたのは健だった。

 

 「わ、私に答えられることなら‥‥」

 

 そう答えたユキの表情は自信無さげだ。

 敏夫にはその顔が、何かに怯えているように見えた。

 

 「ええと、じゃあまず‥‥」

 

 健は少し考えてから、

 

「失礼かもしれないけど、あなたは何者なんですか?」

 

と訊ねた。

 

 ──そうそう、まずはそっからだな。

 

 敏夫はうんうんと頷いた。

 

 「さっきも言った通り、私はプリズン町警備局の者。一応、隊長よ‥‥」

 

 ユキが“一応”、と言った時、敏夫は彼女が自嘲するような表情を浮かべたのを発見した。

 

 「その、プリズン町とか警備局って?」

 

 健は更に訊いた。

 

 「本当に知らないのね‥‥プリズン町は私たちの住む町で、警備局は各地方に配置された治安維持機関よ」

 

 ──?

 

 彼女の言ってることがまるで理解できない。

 

 治安維持機関って、警察だろ?警備局なんて聞いたこともねぇぞ。それに、プリズン町なんて町も‥‥。

 

 「嘘じゃないわ!」

 

 ユキはキョトンとした健と敏夫の顔を交互に見てから、またヒステリック気味に言った。

 

 「オーケイ、全部信じるよユキさん。命の恩人を疑ったりしない」

 

 健はユキと目と目を合わせ、真剣な面持ちでそう返した。

 

 ──オイオイオイ、なんだそのイケメンムーブは!

 

 そんな簡単に信じて良いのか?こんな怪しい女を?

 まあ確かに美人だし、鎧の上からでもわかる“たいしたもの”をお持ちのようだが‥‥でも‥‥。

 

 敏夫は健のようにはなれない。ユキの言動は滅茶苦茶だ。

 むしろ健こそ“命の恩人”ユキに対し認知バイアスがかかっていると言えるだろう。

 

 「それで、今、一体何が起こってるんですか?」

 

 健は脳内で疑念渦巻く敏夫をよそに、ユキに質問を続けた。

 

 「ごめんなさい、私にもよくわからないの‥‥ただ、地震が起きて、突然濃霧が発生して、恐ろしい魔物が大量発生して‥‥わかってるのはそれだけ」

 

 ──つまり、持ってる情報は俺たちと大差ないってことか‥‥。

 

 敏夫は少しがっかりした。健も敏夫と同じ表情をしていたが、すぐにハッとして、

 

「“魔物”ってのは、あの化け物のことですか?」

 

と質問した。

 

 ──危ねぇ、スルーするとこだったぜ!

 

 ユキがあまりにもさらっと“魔物”という単語を言ったものだから、敏夫は流してしまっていた。

 

 「そうよ。でも、連中に関してはとにかく人間に敵対的ってことぐらいしか解明できてないの‥‥」

 

 ユキは役立つような情報を何一つ提供できていないことを恥じるように答えた。

 

 ──わからないことだらけだな‥‥。

 

 敏夫は頭を抱えた。

 

 「ねぇ、ちょっと、逆に質問しても良い?」

 

 ユキが言った。

 

 「勿論」

 

 健が答える。

 

 「ここは何処なの?」

 

 ──え?

 

 「え?」

 

 ──どういうことだ?

 

 ここに自分で来たんじゃ無いのか?

 それなのに、ここがどこかわからない?

 

 「‥‥日本国の■■県円伐町。人口二万。特産物も観光名所も一切無し‥‥勿論、こんな霧がかかるような湖も沼地も無いよ」

 

 健はやはり真剣に答えた。

 

 ──こいつ、けっこう真面目だな。

 

 「‥‥聞いたことも無いわ‥‥」

 

 ユキはさっきの健や敏夫と全く同じ反応をした。

 

 「あ、教えてくれてありがとう‥‥」

 

 ユキは微笑しながら感謝の意を伝えた。が、覇気の無い投げやりな声だった。

 

 ──一体‥‥この女はどこから来たんだ‥‥?

 

 結局、わからないことだらけだ。

 会話は行き詰まる。

 

 突然、健が席から立ち上がった。

 

 「俺、ちょっと顔洗ってくるよ」

 

 敏夫は今更、健がずっと血塗れなのを思い出した‥‥自分のせいで。

 

 席をたつ健。

 

 ──あ、ちょっと待て!!

 

 今、健に行かれたら敏夫はユキと二人きりだ。

 しかし敏夫の願いも虚しく健は顔を洗いにお手洗いの入り口へと消えていった。

 敏夫とユキは向かいあったまま、互いに俯いていた。

 

 ──気まずい‥‥。



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第二話 後編

【11】

 

 ユキはテーブルに置いた自分の手と手の間の辺りをぼーっと見つめながら、今後のことを思考が定まらない頭で考えていた。

 

 ──これからどうしよう。

 

 正義の味方を気取り、二人と共に町から脱出する。そんなことが許されるのだろうか。

 ‥‥人を一人殺しておいて。

 

 それに、ユキはここがどこなのかわかっていない。

 衝動的で発作的な殺人を犯してしまい、ひたすら逃げてきたら、いつの間にか見知らぬ町並みにいたのだ。

 

 ──ケンを殺した時、私は南を向いていた。

 

 それで、まっすぐ走り続けた。

 だから、本当なら‥‥ここがプリズン町なら、今私がいる場所は閑散とした住宅街のサウスヒルズ地区のはず‥‥。

 でも、違う。

 私は何故気付かなかったのだろう。

 狂気的なまでに舗装された道に、見知らぬ建物たちに。

 

 それは、ユキがそれほどまでに正気を失っていた証だった。

 

 「お待たせ」

 

 健が顔をタオルで拭きながら戻ってきた。

 

 「よう、遅かったな」

 「それで、俺が顔を洗ってる間に警察に電話ぐらいしてみたんだよな、おっさん」

 「ああ‥‥ええと‥‥」

 

 目を逸らす敏夫に呆れ、健はため息をつく。

 

 「オーケイ‥‥カウンターに電話があるはずだ」

 

 健はそう言ってカウンターの方へ向かい、ユキたちの席からは見えなくなった。

 

 それから数分後、健は雑誌らしきものを手に戻ってきた。

 

 「駄目だった」

 「回線が混雑してんだろ?」

 

 敏夫はこの結果を予想していたらしく、半笑いだ。

 

 「いや、呼び出しても誰も出ない」

 「は?」

 「コール音が鳴っても誰も出ないんだ」

 

 敏夫の表情が変わった。笑みが完全に消える。

 

 「それで─」

 

 健が席に着きながら雑誌をテーブルに広げる。

 それは雑誌ではなく地図帳だった。

 

 「ユキさん、これが円伐町。で、俺たちがいるのは─」

 

 ──これって‥‥!

 

 ユキはその地図を見て思わず立ち上がってしまった。

 それは見間違いようもない。親の顔より見た──

 

 「こ、これ、プリズン町よね?」

 

 ユキは上ずった声で訊ねた。

 

 「何度も言ってんだろ?円伐町だってさぁ」

 

 敏夫は呆れた声で答える。

 

 ──どういうこと?

 

 自分は間違ってないはず。

 そう確信しているはず。

 が、嫌な考えが脳裏をよぎる。

 おかしいのは自分なんじゃないか。

 本当はこの町はマルバツ町とやらで、プリズン町なんてのは自分の妄想なんじゃないか。。

 ありもしない町のありもしない職業に就いて働いている妄想を信じ込んでしまった憐れな精神異常者の自分‥‥。

 

 そんな映像が脳裏に浮かんでしまった。

 吐き気がする。

 

 でも、やっぱりそれは違う。

 ユキの両手には、ケンを殺した時の感触がまだ残っている。

 もし私が正気を失っているなら、一番に妄想で無かったことにしたい罪を、私がまだ憶えているはずがない。

 つまり私は‥‥正気だ。

 

 「そういう言い方、嫌いだな」

 

 ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる敏夫に健は強い口調で言った。

 

「‥‥ユキさん、冗談とか嘘ついてるわけじゃないのはわかるし、言ってることも信じるよ。見たこと無い化け物が徘徊してて、ユキさんはさっき魔法みたいに敵を倒した。だから、今は何が起きても不思議じゃないってわかるんだ」

 

 ユキは健のその言葉に泣きそうになった。だが、

 

「ただ、これだけは間違いなく言えるんだ。ここは円伐町だって」

 

希望が絶望に変わる。

 

 「俺は‥‥この町に来てもう数年になる。だから─」

 「私だってそうよ!この町に常勤してもう5年よ!?間違えるはず─」

 「わかったぞ!!」

 

 半泣きで叫ぶユキの声を遮ったのは敏夫だ。

 

 「なあ、女騎士さん。あんたの言ってる“プリズン町”ってのは、異世界の町なんじゃないか?」

 

 ──は?

 

 この男はいきなり何を言い出すのだろう。

 異世界?

 

 「なんだよ、異世界って」

 

 健が訊いた。

 

 「なんだ知らねえのか?SF小説とか読んだことねぇのかよ。教養がなってねぇなぁ」

 

 大袈裟に呆れてみせた敏夫に対し、健はムスッとする。

 

 「何なの?異世界って」

 「読んで字のごとく異なる世界さ」

 

 話が見えてこない。

 

 「俺が読んだ本の話だとな、この世には鏡面世界ってのがあるらしい。瓜二つの全く別の世界が隣り合わせになってるんだ」

 

 敏夫はなんだか楽しげだ。

 

 「あんたの世界がそれなんじゃねぇかってな、俺は考えるわけよ。んで、異世界同士が何かのきっかけ‥‥例えば、さっきの地震の衝撃とかでくっついちまったんだ。現に俺たちが知らない化け物が我が物顔で練り歩いてやがるしな」

 

 ──なるほど‥‥?

 

 「確かに‥‥それだと辻褄が合いそうだな。普段なら何言ってんだこのおっさんってなるけど、今は異常なことがたくさん起こってるしな‥‥」

 

 健はうーんと唸ってから、

 

「ユキさんはどう思う?」

 

突然ユキに話を振った。

 

 ──え?私?ええと‥‥。

 

 わからない。

 信じられない。

 確かに、本とかで“異世界”は出てきたりするけど、それはフィクションだ。

 現実とはとても‥‥。

 

 「俺は‥‥俺にも真偽はわからない。でも今持ってる情報だけで判断するなら、信じるしかないと思う」

 

 そう話す健に、ユキは既視感を抱いた。

 彼の生真面目さや誠実さはケンに似ている‥‥。

 

 「そ、そうね。私もそう思う‥‥」

 

 ユキはそう答えるしかなかった。



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