shineは動機じゃない定期 (たかお)
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shineは動機じゃない定期


「あらゆる人間が心から同情するような、苦悩に満ちた、打ちひしがれたものにたいする尊敬の念と、細かな心づかいをもっていてはじめて、ほかの人間のもっとも私的な事情を聞くのが許されるのである。」D・H・ロレンス



 

 1

 武田家の庭で産声をあげた一匹の子蜘蛛が、卵嚢から離れて巣作りの場所を探してさまよい始めたちょうどそのころ、建てられてからほとんど使われないまま放置されていた倉の二階の小窓は、完全に閉まりきっていなかった。それは、この倉が建っている場所が、取り壊された例の祠の跡地だと知っていて、近寄りたがらずにあまり清掃に来なかった使用人の誰かが、たまたまその日に限って掃除に来ていて、折悪くも閉め忘れたからに違いなかった。

 子蜘蛛は視力こそ低かったものの、昆虫の割には大きな脳と、他の蜘蛛にはない不思議な知覚能力を活かして、周囲の風の流れを読むことができた。その窓の開き具合が手にとるように分かり、彼は自分でもなぜ身についたのか分からない力にしばらく身震いを続けた。  

 そしてそれと同時に、歩くだけで自分たちを踏み潰し、生きるためにこしらえた巣を目ざとく見つけては破壊していく人間たちが、ここにはいないのだろうとも考えた。というのも、人間はたとえ夜でも昼間のように明るくする力を持っているのに、この倉の周囲だけ、濃密な闇がとぐろを巻くように佇んでいるからだった。彼は親蜘蛛から、人間とは光がなければ生きられない生き物で、だからこそ朝から活動するのだと教えられていた。それは、彼が親蜘蛛から与えられた最初にして最後の訓示だった。

 人間という災害がないならば、ここは彼にとって絶好の狩場になりそうだった。子蜘蛛は幼時の全能感に加えて、何か理解しがたい衝動につき動かされるように、外壁を這い上がっていった。だが、成虫ならあっさりと登れる外壁でも、彼にとっては産まれてはじめての経験である。その足取りは頼りない。

 暁光が窓に反射して、あたりが赤く染まったころ、子蜘蛛はようやくその窓にたどり着いた。部屋に侵入した彼は、そのまま隅の暗がりへと身を潜めた。やがて蜘蛛は闇のなかに溶けこんで消えた。

 それが、一人の男が愛を永久に失ったことを知る三年前のことであり、一人の女の魂から永久に生命の輝きが失われた当日のことだった。

 いずれにせよ蜘蛛にできることといえば、彼自身の生命を次代へと継承するために糸を吐いて、巣作りを続けることだけだった。

 

 

 

 

 

 2

 道は続いている。

 かつてロバート・テイラーがこの土地に刻みこんだ足跡は、長い歳月に均されてとっくに跡形もなく消えてしまってはいたが、彼はいま、同じ道にふたたび新しい靴跡を刻みつけながらも、どこか奇妙な感覚にとらわれていた。

 彼は二人に物語る。

 

ちょうどあそこで、僕は土砂崩れに巻き込まれたんだ。身体を打ち付けて酷い重傷を負って、じわりと伸びて近づいてくる死の影を、ぼんやり見つめながら横たわっていたとき、一人の少女がこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。額を走る大きな傷跡を豊かな黒髪でかくまった、死人みたいに青白く血色の悪い女性だった。美沙を少女と思ったのは、アジアの女性が僕のような西洋人にとっては年齢よりも幼く見えるからで、美沙の年齢が自分と変わらないことをこの時点の僕はまだ知らなかったからだ。

 僕は日本の大学に留学して日本文化についてもいろいろと知っていたから、最初に彼女が僕を抱え込もうと顔を近づけてきたとき、頬に触れたその長い髪の黒さを、まるで日本人形のようだと思った。次いで、この地に伝わるという「蜘蛛御前」が、人間の姿をまとって魂を喰らいに来たのだと思って、僕は恐怖に顔を震わせた。けれど、彼女が僕の痙攣を抑え込もうと触れたその手の感触と体熱が、僕を現実へと引き戻してくれたんだ。

 美沙は僕を助けおこそうとしていた。どうしてか僕には、最初それがわからなかったんだね。

 その時、美沙は言葉を使わなかった。この時点ではまだ美沙が口をきけないことに気付いていなかったから、外国人の僕に日本語が通用しないと考えたからだと納得した。彼女は僕を必死の形相で引きずって、乗ってきた車の後部座席にすべり込ませ、近くの、とはいっても車で1時間近くもかかる、あの小さな町立病院まで運んでくれた。けれどあいにくその日の病院には他にも怪我を負って手当てを受ける患者が多くて、満室で入院できなかったから、僕はひとまず治療だけ受けて追い出されてしまった。すると口のきけない美沙が、身振り手振りで家に泊めてくれると申し出てくれて、僕は軽く頭を下げて感謝の意を示し、その好意を受けることになったんだ。そう、それが最初だった。

 彼女の手厚い看護で僕はいくらか容体を回復させたけど、土砂崩れの際に口を切ってしまっていたせいでうまく言葉を発することができなかった。だから意思の伝達に困った僕たちは自然と筆談をすることになったんだ。

 このときローマ字で、ありがとう、あなたの名前は? って僕が書いたのを見て、初めて美沙は僕が日本語を解することを知った様子でとても驚いていた。彼女はもう一枚紙を用意して、そこに漢字で名前を刻んだあと、アルファベットで小さくルビを振って幾分恥ずかしそうに僕に手渡してくれた。僕はお返しにその横に自分の名前を、英語で、次いで唯一覚えていた自分の名前を意味するカナ文字を、慣れない手つきで書き記した。すると、言葉を発せない者同士の二人だったからか、声に出してしまうと置き換えられて萎んでしまう最初の純粋な感情がかえって蘇ってくるようで、僕たちはそれを文字に込めて交換しあった。だから二人は一つの紙の上で寄り添いあったと言えるんだ。そうして僕は彼女の名前を知った。

 美沙。彼女にふさわしい名前だった。

 不思議な気分だった。事故にあって身体のあちこちを打ち付けたはずなのに、僕はさほどの痛みを感じていなかった。それは看護の仕事をしていた彼女の手際がよかったからなのかもしれないけれど、僕は彼女の側にいるとき、全ての不安や焦燥がかき消えて、安らぎの光に身を浸しているような気がしたんだ。そして僕がその光に吸い込まれて眠りにつきそうになったそのとき、偶然美沙と目が合って、彼女はとっさに額の傷痕を前髪で隠そうとした。でも、僕の怪訝そうな視線を感じとったのか彼女は俯いてしまい、するとたちまちさっきまでの光がどこか遠くへと飛散して、その表情にはすっかり暗い影が落ちてしまった。やがて、ぽつりと、美沙は眼窩から一滴の雫を紙の上へとこぼしだすと、それから声を立てず、堰を切ったように涙を流し始めた。そのせいで書いたばかりの二つの名前が紙の上で滲んで、隣あっていた文字と文字が結合して判読できなくなってしまった。僕はなぜ美沙が泣き始めたのか分からず困惑していたけど、見ず知らずの外国人である自分を助けてくれたこの優しい日本人女性に、深い同情の念が湧き起こってくるのを感じて、しかしそれを伝える手段も当の美沙が台無しにしてしまっていたから、せめてその姿を目に焼き付けることによって、まだ見ぬ哀しみの一部を譲り受けることができるように、ただ茫然と、美沙が泣き止むまで待ち続けたんだ」

 

 実際には、ロバートは自分が記憶の情景のどの部分を二人に語ってしまったのかを把握していなかった。わけもわからないまま、衝動に突き動かされるままに話していた。だから、彼の話について二人が正確に咀嚼できた部分がごく少なかったとしても、それはまったく不思議ではなかったし、事実二人は困惑を隠そうともしていなかった。

 

 ところで、その二人は今や二十歳になっていた。ロバートは自分の目の前にいるこの二人と、美沙に死刑を宣告したあの双子が重ならず、それどころか危うく美沙の面影と重なってしまいかねないことに気付いて、二の句が継げなくなってしまった。

 二人は大学進学を機に、一人は首都圏の私立大学に、一人は中国地方の国立大学にそれぞれ進学して離れ離れに暮らしているという。そのせいかロバートは、この二人は姉妹なのだと言われれば納得するものの、幼い頃どっちが紗栄でどっちか絵未か家族にも、もちろんロバートにもまったく見分けがつかなかったあの双子と同一人物だとはますます思いがたかった。

 見ず知らずの赤の他人に自分の恥部を売りさばいてしまっているのではないかと不安に陥っているロバートだったが、やがて双子のうちロバートから見て左側に佇んでいる女が、その重たい心の鎧戸を開きながら、ゆっくりと話しはじめると、もう片方の女もそれを引き継いで、二人は交互に語り出した。

 

「弁解するわけじゃないけれど、あのころ、まだ幼かった私たち二人は、悪意なしの言葉が誰かを傷つけてしまうなんてことには思いもよらなかった」

『亡くなった叔父さんが東京の有名な探偵を呼び寄せたその日の夜に、薄気味悪い蜘蛛の糸が、あの小屋にぴんと伸びているのを見た幼い私たち二人は、ただ恐怖して震え上がるばかりだったけど、そのあと、私たちがあなたからの最後の単語の意味を取り違えて姉に伝えてしまったことを、探偵さんの連れの女の人たちに教えてもらったから、そのことで謝ろうと思ったのに、そのあなたがいなくなってしまったときには、恐怖よりももっと得体の知れない感情が、胸をざわつかせたのを今でも覚えている』

「だから、もう少し大きくなってから家族の誰かが口を滑らせたのを聞いて疑問に思って、酔ったところを問い詰めて真相を知ったとき、私たちは思ったほどショックを受けなかったのだと思う。言うつもりはなかった、この事実は墓場まで持っていこうと思っていたという母は、あなたたちのせいじゃないの、ただタイミングが悪かったのよ、と悲しそうな表情で、嗚咽まじりに慰めようとしてくれた、それで私たちは、タイミングって何? その言葉にも何か別の意味があるの? 死ねっていう言葉にさえぎられていた光のように? とか騒ぎ立てたけれど、そのころには祖母も病に臥せっていて家全体を暗い雰囲気が包みはじめていたし、私たちも二人だけの世界からとっくに抜け出て、家族の顔色を伺う程度の分別は身につけていた時期だったから、大人しく疑問を飲み込み、記憶の奥深くへ沈めて、私たちこそが人殺しなのだという過去については見て見ぬ振りをしていこうという不文律を二人して交わしあった。だから翌朝何食わぬ顔をして学校へ行く支度を始めた私たちを、母が怪訝な顔をして見つめてきたときも、私たちは母に精一杯の笑顔を届けて、安心させてあげたんだ」

『それから何年も、私たちはその記憶を失っていた。私たちが再び過去と対峙する羽目になったのは、出所してきたあなたが、会いたいと連絡を入れてきたことを母から聞いたからだった』

 

 二人は交互に、息をぴったり合わせて話した。話している間だけ、彼女たちは紗栄と絵未だった。また二人は他人に戻り、それからまたすぐ双子に戻った。

 

「けれども、どうしていまさら私たちに会おうと思ったの? せっかく忘れることができていた過去の、それも幼少のころの罪を掘り起こして、私たちはあなたに何を償えばいいの?」

『あなたの要領を得ない話、もはや思い出の薄れかけた姉と、今日ここで会うまで顔すら覚えていなかったあなたとの馴れ初めを私たちに聞かせて、姉が死んでしまってから十年以上経ったと言う事実が、何か変わるとでもいうの?』

 

 時間が憎悪を風化させるとは嘘だ。

 つまるところ、ロバートと双子はそれぞれの立場を堅持するために糾弾しあっていた。そのために彼らは相手の急所を突こうとする言葉を探りだしては牽制しあっていた。

 ロバートはどうしてこうなってしまったのかと考えているうち、ふいに、今の自分の立ち位置が正しいものなのかの自信が揺らいでいくのを感じた。その自信は、そもそも本当に自分は美沙を愛していたのかという恐ろしい疑問の芽生えと、彼女の復讐と称してあの二人の男の命を奪ってしまったことが、幼い二人に決して癒えることのない傷をつけたうえ、彼女たちにはそれを隠す以外に身を守る術がなかったのにもかかわらず、無理やり絆創膏をひっぺがして、とっくに壊死した傷口に消毒液を吹きかけるような、空しい治療を施しているのではないかという自問の、震源地の異なる二つの地震によって揺すぶられていた。

 だが、とロバートはその振動をこらえながら、ずっとずっと考え続けていた。

 だが、ならばどうして君たちは、僕に会うことを承諾したのだろうか、と。

 

 

 

 

 

 3

 死がまっすぐに彼女を見下ろした。ずっと眠れずに朝を迎えてきた彼女に対し、安息地を授けようとしていたのだ。彼女はただ眠りたくて、欠伸を噛み殺しながら見えない視線に身震いをおこした。

 そのとき、一匹の子蜘蛛が糸を吐く瞬間が、彼女の視界に入った。苦悩、わだかまり、悲嘆が絡れてからまりあった。そして、これから成すべき行為をはっきりと悟った。光が死に変わったのはその時だったに違いない。

 こうして彼女は首を括り、発見が遅れたために蜘蛛の糸まみれになったその冷たい身体を家族の目にさらした。美沙の瞳は見開き、口元はロープの重みで醜く歪んでいた。糞尿の臭いが鼻をついた。その恐しい姿は、盗み見ていた幼い二人にとってはこの世のものとは思えなかった……。

 

 

 

 嘘をついている、と彼女たちは思った。

 ロバートではない。自分と、双子の片割れが、共に嘘をついている。なぜ分かるのかというと、それは彼女たちが幼い頃持っていて一度は失われた能力、何も言わずともお互いの感情の色を視認できるという能力が、ロバートと出会い、彼の記憶に居座り続ける姉とも出会ったことによって、遠い過去から呼び起こされたからに違いなかった。

 いちばんはじめに二人がこの世界の淀んだ空気を吸いこんだとき、母親と双子が切り離されたときも、まだしばらくのあいだは紗栄と絵未の臍帯は絡まりあっていた。それはすぐに切り取られてしまったけれど、産まれて空気に触れた数秒間はたしかに繋がっていた。

 物心ついたときから紗栄と絵未は二人で一つの意識を半ば共有しあっていたので、家族はしばしば二人を取り違えた。唯一祖母だけは、当の本人たちすら気にもとめていない二人の微妙な差異を理解しているらしかったが、彼女の場合はそもそも孫娘の名前を混同していたので、二人にとって結局は同じことだった。

 美沙について言うならば、彼女もまた二人をしばしば取り違えた。それにもかかわらず、二人が本当に見分けて欲しいときだけは、なぜかはっきり区別がついているようだった。そういう時は双子も、年齢の離れた姉に親近感を覚えたが、この時点では実は美沙も二人と半分だけ同じ血が流れているという事実については知らなかったので、ただただ純粋に、美沙お姉ちゃんは私たちのことをちゃんと見てくれていると思い、彼女が仕事から帰ってくるたび、そのそばにまとわりついて、母から、美沙はお仕事で疲れているから、もう寝させてあげなさい、と言われるまでなかなか離れなかった。それで渋々美沙に触れていた手を解くと、微かな生命の繋がりを感じ取れなくなって、双子は幼い心に悲しみの影を見た。だがそれは一瞬だけだった。というのも、双子はお互いの寂しさが同じ色を共有していることがわかっていたので、触れ合う対象を美沙から紗栄に、あるいは美沙から絵未に変えさえすれば、容易にその喪失感の埋め合わせができたからだった。

 そんなわけで、美沙が倉で首をくくり、もう彼女に会えなくなってからというもの、二人は片時もそばを離れないようになった。やがて、美沙が死んだことをおぼろげながら理解した双子は、最初は蜘蛛御前を許せなくて、家族には内緒で倉に忍びこんでは蜘蛛退治に躍起になり、隅に張り巡らされていた蜘蛛の巣を片っ端から掬ってその住処を奪い、無邪気だが残酷な殺生に明け暮れたが、次いで、叔父の根岸の名刺に書かれていた忌まわしき文字を目にして以降は、ロバート・テイラーへの憎悪を育むことに心を傾けた。だから叔父の根岸が死んでから数日後にロバートが見知らぬ人間を伴ってやってきたとき、今度は自分たちが殺されるのではないかと恐怖にかられたが、怖がってはいけないと、姉を殺した男を牽制する目的で、この人殺し、と痛罵してみせた。周りは誰も信じてくれなかったけれど、ロバートが美沙と根岸の命を奪ったのは、二人にとっては間違えようのない事実だった。その確信は、あの夜、倉に糸が伸びているのを目撃するまでは揺らがなかった。そして、真実の光がぱっと輝いて悪意の霧をうちはらい、双子はロバートの件が誤解だったと悟り、朝起きて朝食の場にロバートがいなかったのは、私たちのせいだ、なぜかはわからないけれども、きっと私たちは言ってはならないことを言ってしまったし、言わなければならないことを言わなかったのだという罪悪感で胸がいっぱいに蓋がった。祖母がロバートは自国に帰ったと言ってくれるまでこの焦燥は続いた。祖母の語る因幡の白兎の昔話は飽きるほど聞いていたけれど、この日の二人はその物語に没頭して不安を紛らわしたので、祖母は珍しく聞き分けの良い孫娘たちに気をよくして普段より饒舌な語りをみせた。それでも、白兎は大黒様が助けてくれても、二人の心の奥につけられた見えない傷を誰が癒す術を与えてくれるのかについて、昔話の教訓から得られることは何もなかった。ロバートが鳥取県警に連行された日までの双子の心理は、おおむねこうした状況だった。

 

 一方、パトカーの中で滂沱の涙を流していたロバートは、壊れた機械人形のように、なぜ自分が日本人ではなかったのか、または、なぜ彼女はアメリカ人ではなかったのか、と繰り返し呟き続けていたが、警察署について取り調べを受けるころになるとさすがに涙もおさまって、いくらか思考も感情も明瞭になったので、自分がどうやってあの恥ずべき二人を殺害したのかを担当の刑事に語って聞かせる余裕もできていた。だが彼らは犯行の複雑きわまりない手口よりも、彼の日本語が流暢なことの方が一大事件であるかのように、ロバートが語る言葉を注意深く聞いて、動詞の活用や接続詞の誤りをいちいち訂正して、彼の感情の流れを妨げた。それから例の麻薬についての話に及ぶと、ロバートが本当に関与していないのかと余罪の追求に余念がなかった。彼らからすれば山奥の田舎者二人よりかは、日本語を巧みに操る怪しげな白人男の殺人鬼のほうが、はるかに麻薬という言葉と近似的で、ロバートの言う美沙との馴れ初めよりよほど真実味があった。それで彼らは美沙の死を脇に置いて、それはそうとロバートさん、と何度かロバートの想いをさえぎって麻薬の話に戻していった。そんなやりとりが何度かあって、ロバートは愛する彼女を墓から掘り返して埋めてを繰り返しているような冒涜にたえらなくて、思わず声を荒らげた。すると、待ってましたと言わんばかりに刑事たちは口元の角度を変えた。外人が本性をあらわした、こういう不届きな連中が、わざわざ日本にやってきて純真な女を食い散らかして自殺に追い込み、その罪を殺した男たちに被せている、その本性があらわれたぞ、と、刑事たちは目配せをして無言のやりとりをした。そんなわけで、調書は彼にとって不利な言葉が並んだに違いなかった。

 結局、裁判ではロバートと麻薬の関係は立証されなかったものの、裁判官の心証になんの影響も与えなかったとまでは言えなかった。二人を殺めた残虐非道な計画的殺人犯の外国人には、情状酌量の余地は薄かった。

 ロバートは無期刑こそ免れたものの、弁護側の妥協ラインよりやや重めの判決を受けた。その裁判で、検察側の論告文には美沙の名前も存在もなかったことにばかり気を取られていたロバートは、なぜ自分がここにいるのか、美沙はどこに行ってしまったのかについて考えをめぐらせるばかりでほとんど裁判長の言葉を聞いていなかったので、彼が自分の刑罰を正確に認識したのは弁護士との面会のときになった。彼の刑が思ったよりも重いものになったのは、最終陳述のときにもどこか上の空で、反省の色が微塵も見られなかったのが一因だったのかもしれない。とはいえ、もし彼女の自殺の件が語られていたとしても、聴衆たちは同情を寄せるより先に失笑を漏らしていただろうが。いずれにせよ、彼の脳内にはあの日以来片時も絶えずにリフレインが続いていたので、自分自身のことに考えを向ける暇はなかった。どうして僕は日本人じゃなかったんだ、どうして彼女はアメリカ人じゃなかったんだ、の絶え間ない反響……。

 

 牢屋は狭いうえに薄暗くて、ひとたび夜の闇が舞い降りれば、そこは一片の光からも遠ざかってしまう。彼はその鉄格子の内側にいるうちに、過去の記憶のなかのすべての光が、またたく間に死の言葉へとかわっていくのを感じた。混乱に拍車がかかった。死ね、死ね、死ね、僕は彼女にそう言った、だから彼女は死んだんだ。いや違う、僕は彼女が光のような女性だと言いたかっただけなんだ、僕のせいじゃない。輝いているのだから、死ね。

 そのとき、鉄格子のあいだに一本の蜘蛛の糸がかかっているのを見た。するとたちまち記憶の靄が晴れていき、誰が殺したのか? という疑問についていまやロバートははっきりと悟ってしまった。美沙を殺したのはロバートでも根岸たちでもなくて、あの二人なのだということを。あの奇妙な双子こそが蜘蛛御前に違いないのだ。

 それ以来彼はふたたび復讐の悪鬼にとりつかれた。夜眠っていても、刑務作業をしていても、いつもその蜘蛛の影がちらついた。しかし周囲にそれを気取らせるようなへまはせず、最短で復讐をなしとげるために誰よりも模範囚であろうと心がけた。相手に同情心をいだかせるような日本語の語彙や微妙なニュアンスをおぼえるために、刑務所内の図書館には可能な限りの時間を費やした。当然その際、相手の心を切り刻む言葉を拾い集めて密かに持ち帰ってはいたのだが。

 そんな彼の努力が奏功したのは十四年目のある冬の日、釈放の時期が決まったことが知らされたときだった。刑務所は負の感情を培養するのにうってつけの環境だったから、長い月日によって復讐心が洗い落とされることとも無縁でいられて、彼は来るべき瞬間のために、残りの出所までの時間をひたすら牙を研ぐことに費やした。やがてその日が訪れた。

 

 だがいまや彼の憎しみは急速にやわらいでいた。それは、彼女たちの容姿がどこか美沙の俤を感じさせるからというのもあったが、それ以上に彼女たちの瞳に自分と同じ復讐鬼の影を見出したからだった。ロバートはその非難のまなざしを避けようと、美沙との過去の美化された記憶に縋りついて、知らずして滔々とそれを語ることで、耐えがたい苦しみを紛らわした。双子がそれを聞いていないこと、彼女たちにもまた何か言いたいことがあることはわかっていたのに、それをさえぎるように、過去の時間の両端を引っぱり伸ばしながら、十四年の屈辱の歳月の埋め合わせをした。だが、それでも二人は聞いていない、決して聞いてはいないのだ……。

 復讐熱が急速に冷却されていき、それに伴って、ロバートに生気が戻っていった。彼もそれを実感した。そこで彼はもう一度双子の顔を見まわした。またもや目が合ったが、不思議に逸らそうとは思わなかった。すると突然、彼は喜びと恐れをほぼ同時に感じたかのように、身体を後方へとのけぞらせた。

 真っ黒の髪をまるで蜘蛛の糸のように振り乱し、悲しそうな表情を浮かべた美沙が、愛らしい四つの瞳の中に、小さく、しかしはっきりと映っていたのだ。そして双子は、まるで従順な仔犬のように小さく打ちのめされた男が、何かを決意しようとする寸前、とっさに彼を押し倒した。そして不幸にも彼の後ろには過去も未来も、何もなかった。あるのは景色だけ。もちろん重力で加速しながら落下を続ける男の抜け殻がその景色を見ることはなく、いつまでも、いつまでも、垂れ下がった蜘蛛の糸が風に揺れるのを視界に入れ続けるだけだった。永遠とも一瞬ともつかない時間を経て、やがて糸がちぎれると、彼の意識は寸断され、光の渦にのみ込まれて消えていった……。

 

 

 

 

 

 目を覚ましたロバートが最初に見たのは愛する美沙の姿だった。美沙の唇は蒼白で、表情には血色がない。

 口のきけない美沙が彼の頭を持ち上げて、膝枕をしてくれる。そっと、かき抱くように。赤子をあやすときのように揺すぶられ、彼は心の奥底にあった悲しみや怒りとは無縁の存在になり、深い安らぎに身を浸すことができた。何故だか涙がとめどなく溢れて、止まる気配をみせなかった。ロバートは美沙に、感謝か謝罪か、またはその両方の入り混じった想いを伝えようとしたが、金縛りにあったまま身体を動かせず、あの一番最初の出会いのときと同じように、言葉を発することができないでいる。だがロバートは、二人の間にはもはや言葉など必要がないことを知っていた。

 





 ホームズフリーク?ハンガー?知らない子ですね……


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