Re:沈黙の栄光 (ノービス)
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第1話「沈黙の日曜日と後悔と羨望と」

深淵から這い上がれたので初投稿です。


 ──そのウマ娘は最速だった。

 

『早くも、早くも8バ身ぐらいの差を付けて、サイレンススズカが行く!』

 

 ──そのウマ娘を捕まえられるウマ娘など、どこにも存在しなかった。

 

『1000m通過タイムは、57秒4! これほど快速で走るウマ娘は見た事がありません!』

 

 ──その速さは伝説になるはずだった。しかし。

 

『大欅を抜けて……あぁっと!? どうした事だ、サイレンススズカ失速! サイレンススズカに故障発生か!』

 

 ──その伝説は道半ばで潰えてしまった。

 

『沈黙の日曜日──! サイレンススズカ、第4コーナーを迎える事無く競争中止──!』

 

 ──あと、もう少しだったのに。

 

 

 ⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱

 

 

 目を開くとすっかり見慣れてきた白い天井が視界に飛び込んできた。

 

「……」

 

 また、あの夢だ。“あの日”以来、毎日見続けてきた夢。

 届きそうだったのに届かなかった、秋の天皇賞の夢。

 溜息を1つ吐くと、近くのコントローラーに手を伸ばし操作する。

 ベッドの上部が自分の身体ごとゆっくりと起き上がっていく。

 この一連の流れも、もう慣れたものだ。

 

「……ふ」

 

 そのルーティーンが身体に染み付くほどここの生活が長くなった事に、思わず乾いた笑いが漏れる。

 起き上がって目に入るのはベッドとシーツと──ギプスで固められた左脚。

 左足首粉砕骨折。それが医者に診断された今の自分の現状だ。

 もうレースで走る事は出来ない。それどころか日常生活すらままならないとまで言われてしまった。

 後1か月もすればギプスは取れるだろうということだが、それまではこうしてここで寝転がるしか出来ずにいる。

 尤も、ギプスが取れた所で結局は似たような生活のままだろうが。

 

「はぁ……」

 

 ぽすん、とベッドに身を任せて息を吐く。本当にする事が無い。

 首を横に向けて時計を確認する。東条トレーナーが見舞いに来るまではまだ少し時間があった。

 

「……走りたいな」

 

 その呟きは、どこへ伝えるでもなく空へ消えていくのだった。

 

 

 

「スズカ」

 

 空虚な時間を過ごしているうちに東条トレーナーが病室に顔を見せた。

 

「おハナさん。毎日ありがとうございます」

 

 自分は──サイレンススズカは無理に笑みを作って迎える。

 しかし、そんな少女の意地など東条トレーナーには通じなかったようで、彼女は顔を少し歪めた。

 

「……ごめんなさい、スズカ。貴女には無理をさせたわね」

「またそれですか? おハナさんが気に病むような事じゃないですよ」

「そうは言ってもね……」

 

 “あの日”以来、見舞いに来る度に東条トレーナーはこうして謝り、それをスズカが宥めるというのも毎日繰り返されていた。

 東条トレーナーが気に病む事は無いというのはスズカの本心だ。

 出来れば気持ちを切り替えて他の子達の育成に集中して欲しいのだが、気持ちの切り替えが出来ていないのはスズカも同じなので何も言えない。

 

「それで、脚の様子は?」

「後1か月もすればギプスが取れるそうですよ。取れてもまだ暫くは足首を固定して車椅子だそうですが」

「そう……。それを聞いて少し安心したわ」

 

 スズカの話を聞いて、東条トレーナーの少し固かった表情が漸く和らいだ。

 ずっとスズカの身を案じていて普段のトレーニングにも身が入っていなかったと聞いていたから、これで少しは安心してくれたのだろう。スズカも肩の荷が少し降りたように感じた。

 ──それでも、もう東条トレーナーの期待に応える事は出来なくなったのだ。

 その事がふと頭に過ぎってしまったスズカは思わず吐きそうになった。

 

「……ぅ」

「スズカ!?」

「……だ、大丈夫です。大丈夫ですから」

「そういう訳にはいかないでしょう!」

「大丈夫ですから!」

 

 込み上がる嫌悪感を無理やり飲み込み、何の躊躇いも無くナースコールを引っ掴んで押そうとする東条トレーナーの腕を掴んで止める。

 

「……大丈夫、ですから」

「スズカ……」

「……ごめんなさい。今日はもう、一人にしてもらえませんか」

 

 顔と耳を伏せてそう言うスズカに、東条トレーナーはそれ以上何も言えずにナースコールを掴んでいた手を離すと、また明日来るわ。とだけ言って病室を出て行った。

 

「……ごめん、なさい……っ」

 

 誰も居なくなった病室で一人、スズカは静かに涙を流す。

 そんな中で、時計の針だけが何事も無かったかのように時を刻み続けていた。

 

 

 ⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱

 

 

 ────。

 

 あれから暫くした後、泣き疲れて眠っていたスズカは誰かに呼ばれた気がして目を覚ました。

 ベッドを起こして周りを見回すが、既に消灯時間を過ぎている病室にはスズカ以外に誰かが居るような様子は無い。

 気のせいだったかしら。そう思い、もう一度寝直そうとコントローラーを掴んだ時だった。

 

 ──サイレンススズカ。

 

 今度ははっきりとスズカを呼ぶ声が聞こえた。慌ててコントローラーに向けていた視線を声が聞こえた方向へ向ける。

 

「……え?」

 

 先程見た時には居なかったはずの存在が、そこに居た。

 それは白い布で作られた簡素な服を身に纏った黒鹿毛のウマ娘の姿をしていた。

 しかも、明かりも無いのにまるで彼女自身が光っているかのようにやけにはっきりとその姿が見えている。

 そのウマ娘が持つまるで遠くを見ているような瞳に飲み込まれ、スズカはただ見つめ返すことしか出来なかった。

 スズカが固まっている間に、ウマ娘はゆっくりとこちらへ向かって歩を進めてくる。

 ベッドの横に立ち、ギプスで固められたスズカの左脚を何処か悲しげに見つめながら彼女は口を開いた。

 

「やっぱり、そうなってしまったのね」

「……?」

 

 その言葉を聞いて首を傾げるスズカ。

 自分が怪我をした事については既にトレセン学園どころか全国のニュースにすらなっているのだが、それを差し引いても“やっぱり”という言葉は何処か引っ掛かるものがあった。

 目の前のウマ娘は何を知っているのだろう? 好奇心に身を任せ、勇気を出して尋ねる事にした。

 

「あ、あの……。貴方は一体誰ですか?」

「私? そうね、貴方達が言うところの三女神の一柱、と言えば分かるかしら」

 

 その問いに対して返ってきた答えは、スズカの予想を遥かに超えたものだった。

 一瞬で頭がパンクし、思考が停止する。

 三女神なんて、よくある神話とか伝説の類だと思っていたのだ。

 それがどういう訳か、目の前にいる謎のウマ娘はその三女神の一柱だという。

 きっと疲れ過ぎていてまだ夢を見ているのかと思い、頬を思いっきり抓ってみた。とても痛かった。

 

「夢じゃなくて現実よ、現実。ちゃんと私の威光を見なさい。ほら」

「嘘でしょ……さっきより光ってる……」

 

 先程よりはっきり分かるぐらいに光り出して病室の中を照らすウマ娘に頭を抱えるスズカ。

 情報量が多すぎて処理しきれない。一体これは何だと言うのか。

 そもそも女神様とやらは一体全体ここへ何をしに来たのか。何も分からない。

 

「そんなの決まってるじゃない。貴方を救う為よ。サイレンススズカ」

「私、まだ何も言ってませんけど……!」

「女神の前で隠し事は出来ないわ。もちろん、貴方の願いもね」

 

 どくん。スズカは心臓が跳ねたのを確かに感じた。

 スズカの願い。それは──。

 

「もう一度、あのターフを走りたい。先頭を走り続けたい。……そうでしょ?」

「どうして……」

「さっきも言ったでしょう。女神に隠し事なんて出来ないのよ」

「で、でも。どうやって……?」

「簡単な事よ」

 

 くす。至極真っ当なスズカの疑問を聞くと、女神は本当に可笑しそうに笑って何でも無い事の様に答えた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()。簡単でしょ?」

「……え?」

 

 自称女神の提案に、スズカは言葉を失くした。

 今、彼女は何と言った? 過去に戻ってやり直せばいい? 

 出来る訳が無い。常識的に考えてそんな事は夢物語に過ぎないはずだ。

 

(だけど、もしかしたら──)

 

 頭ではそうだと分かっていても、スズカの心はその可能性を振り切れないでいた。

 もう一度走れるかも知れないというのは、それだけとても惹かれるものがあったのだ。

 葛藤しているスズカの内心を分かっているかのように、彼女は鼻を鳴らして話を続ける。

 

「不可能じゃないわ。私の力を以てすればウマ娘一人を過去に送るくらい造作も無い事よ」

「……本当に、本当にやり直せるんですか……?」

「もちろんよ。……貴方はどうしたいかしら?」

「それは……」

 

 彼女の問い掛けに、スズカは少し考える素振りを見せる。

 どうせこのままで居ても一生まともに歩けないままのだ。

 ──それならば、いっそこの自称女神に賭けてみるのも良いのではないだろうか? 

 その結論にスズカが至ると同時に、彼女は小さく柔らかに微笑んで見せた。

 

「答えは出たようね」

「はい。……私は、もう一度やり直したい。次こそはあの速さの向こう側に見える景色に辿り着きたい……!」

「その願い、聞き届けたわ。必ず貴方をその景色に連れて行ってあげる」

 

 スズカの出した答えに彼女は満足そうに頷いた。

 しかし、すぐに表情を引き締めるとスズカを真っ直ぐ見ながら更に話を続ける。

 

「その前にいくつか言っておく事があるわ」

「何ですか?」

 

 まず1つ。彼女は握った手の親指を立てる。

 

「未来から来た、と自分からは言わない事。ま、これに関しては私が細工しておくから、あまり心配しなくても良いわ」

「どうして駄目なんですか?」

「急にそんな事を言い出すようになったら、普通は頭がおかしくなったって思われるでしょ」

「確かに……」

 

 それから2つ。今度は人差し指を立てる。

 

「一度過去に戻ったら、この世界には二度と戻ってこられないわ」

「二度と戻ってこられないって、どういう事なんですか……?」

「話すと複雑だから簡潔に説明するなら、貴方が観測していない事象は不確定に変わるからよ。一度そうなってしまえば、この世界は曖昧になり、こちらからは観測できなくなる。その曖昧な状態だからこそ、未来を変えられる可能性が生まれるのだけど」

 

 そして3つ。これが一番大事よ、と告げて中指を立てる。

 

「当然だけど、失敗したからと言ってもう一度やり直す事は出来ないわ。だからこそ、一度過去に戻れば、貴方は常に最善を選び続ける必要がある。それは針の穴よりも小さい穴に繊維を通すような不可能に近い事よ」

 

 ──それでも貴方は行くかしら? 

 

 そう言って差し出された女神の手を、スズカは躊躇う事無く取った。

 それは契約の証であり、そしてこの世界への離別の決意でもあった。

 

「じゃあ、始めるわよ」

 

 女神は優しく微笑み、そっとスズカの手を握るとそう告げた。

 同時に女神を包んでいた光が強く眩しくなっていき、スズカさえもその中へ飲み込んでいく。

 

(ぁ……。おハナさんにお別れ、言えなかったな……)

 

 その途中で、ふと東条トレーナーの事が頭に過る。

 この世界から居なくなるという事は、二度と今のスズカが知る東条トレーナーに会えないという事だ。

 でも、それでも良いとスズカは思った。過去をやり直す事で東条トレーナーへ報いる事が出来るなら、それで十分だった。

 更に強まる光に包まれ、意識さえもその白に溶けていく。

 

「それじゃ、()()向こうで会いましょ」

 

 意識の最後の一辺が真っ白に塗り潰される直前、スズカの耳には女神の笑う声が聞こえた気がした。




沈黙の日曜日は沈黙の月曜日となり、沈黙の火曜日となり、そしてそれは延々と続いていた。
そこへ現れた誘いの手。
それは、彼女にとって正しく女神か、――それとも悪魔か。
しかし、それを決めるのは、きっと今では無いのだろう。


初めましての方は初めまして。
久しぶりの方は三か月ぶりです。
ノービスです。

……いや、本当に前作は申し訳ないことをしてしまいました……。
今作では上手くやってくれるでしょう。やってくれるよね?やれ。
はい。

一度休んだ途端に手が進まなくなり、読み返してみても話が若干どころじゃなく取っ散らかっていたように見えたこともあり、こうして書き直しをしている次第です。
もっとも、前の様に間で休めば間違いなく手が止まるであろうことが見えているので、もう少し執筆のハードルを下げて書こうかなと思います。
具体的には週1固定に1000字超えぐらいを目安にします。
調子が良ければ早めに、とも考えましたが、そうすると後が怖いのでこれで行きたいと思います。


と言う訳でリメイク版1話でした。

ここまで読んでいただきありがとうございました。
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第2話「違いそうで違わない、少し違う在りし日」

調子に乗って月水金更新し始めたので初投稿です。
……大丈夫か?


 ──チュンチュンチュン……。

 

「ん……」

 

 外から小鳥の囀りが耳に飛び込んできて、スズカは閉じていた瞼をゆっくりと開く。

 最初に目に入ったのは見知った物だったが、しかし、ここ最近では全く見ていなかった天井だ。

 即ち、病室の天井ではなく、トレセン学園の寮にある自室の天井だった。

 

「え、私……どうして……?」

 

 反射的に壁に掛けてあるカレンダーを見る。

 そこに示されていた日付は去年の6月。つまり、日本ダービーが終わった直後だった。

 

「嘘でしょ……? 本当に戻ってきたの……?」

 

 未だに情報の整理が追い付かないまま、そっと布団を捲ってみた。

 そこには怪我などどこにも無い、綺麗な脚があった。

 恐る恐る脚に触れる。あの焼ける様な激しい痛みは襲ってこない。

 実に健康的な脚だった。

 

「脚が治ってる……! また走れる……!」

「良かったわね、サイレンススズカ」

「ええ……! ……えっ?」

 

 治った脚に思わずきゃっきゃっとはしゃいでいる所へ声が掛けられ、その勢いのまま頷き、そしてぴたっと動きを止める。

 ゆっくりと軋む様に首を横へ向けると、隣のベッドに腰掛けて足を組み、こちらをニヤニヤと見つめている制服姿の女神が居た。

 スズカの思考はフリーズした。

 

「え、えっと、あの?」

「身体はこちらの貴方の物だから脚も万全だと思うけれど、その様子だと問題は無さそうね」

 

 くすくす、と彼女は笑って、ベッドから飛び降りる。それから机の上にある卓上時計を指して言った。

 

「それより、早く行かないと遅刻するわよ?」

「え? あ、嘘でしょ。もうこんな時間!?」

 

 バタバタと急いで身支度を始めるスズカを見て、女神はやれやれと肩を竦めて見せるのだった。

 

 

 ⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱

 

 

 朝食を女神が何処からか調達していたにんじんパンで済ませ、スズカと女神は学園へと向かっていた。

 

「寮の食堂で出していた物だけど、案外美味しい物ね」

 

 もぐもぐ、と両手でにんじんパンを持って頬を膨らませながら食べている女神の姿はさながらハムスターのようであった。

 スズカよりやや低い身長でその仕草をしているのは、何処か可愛げを感じさせる。

 じぃ、と見つめながら歩いていると、何よ、と言わんばかりに見上げられてしまったので、慌てて前を向く。

 それを見た女神はパンを食べる事に意識を戻し、最後の一片も口の中に放り込む。

 

「けふ。それでサイレンススズカ。貴方の身体の事なのだけれど」

「スズカで良いですよ。……今の所、何も違和感は無いです。動かせなかった左脚もこの通り元気です。でも、どうやって?」

 

 スズカが一番気になっていたのはそこだ。

 過去に戻る時に、スズカの怪我はどうやって治したのか。

 勿論、女神の力で治療されていたという事も考えられるが、それならそれで女神すごい、となるだけだ。

 水を向けられた女神は食べカスを指で拭い取りながら事も無げに答えた。

 

「簡単な事よ。過去に戻したのは()()()()()()()。この時代のスズカの身体に今の貴方の意識を上書きしたの。言うなれば、ある日突然に未来の記憶を思い出した、とでも言えばいいかしら」

「え……?」

 

 女神の口からタイムスリップの絡繰りを聞かされ、唖然とするスズカ。

 この身体は自分であって自分ではない。では、本来の自分は──?

 

「こればかりはどうしようも無いわ。肉体ごと戻せばスズカが2人、なんて珍事態になるし、1年後の成長した貴方の肉体で走れば周りは違和感を覚えるでしょう」

 

 だから、こうする以外にやりようは無いのよ、と女神は締め括り、スズカに背を向けた。

 それを見て少し不安になったスズカは声を掛ける。

 

「あの、何処へ……?」

「私はこっちに少し用事があるから、先に教室に行きなさいな。結構ギリギリよ?」

 

 言われて時計を見れば、確かに予鈴が近い。まだ聞きたい事は多いが、遅刻するのだけは避けたかった。

 後ろ髪を引かれる思いで女神と別れ、自分の教室へ向かう。

 教室に入れば、同期で特に仲の良いウマ娘達がドタバタと集まってきた。

 デビュー直後からマイラーとしての頭角を現しつつあるタイキシャトル、ダービーではスズカと同じく着外に沈んだものの素質を秘めているマチカネフクキタル、桜花賞は惜しくも2着だったがオークスで実力を証明したメジロドーベルの3人だ。

 

「ハウディ、スズカ!」

「おはようございます、スズカさん!」

「おはよう、スズカ。今日は珍しくギリギリじゃない?」

「3人共おはよう。……ええ、まあ、ちょっとね」

 

 首を傾げて聞いてくるドーベルに対して苦笑気味に言葉を濁すスズカ。

 確かに、普段なら早めに起きて自主トレをしてから教室に入っていたのでこの時間よりは早い。

 ドーベルが気にしているのも無理は無かった。

 

「……もしかして、この間のダービーの事?」

「あー、そうね。そんな所よ」

 

 丁度ダービー直後の時期だったお陰か、ドーベルがそちらの方向へ話を持っていったので適当に頷いておく。

 そうするとタイキもウンウン、と頷いて話を繋げた。

 

「ダービーはスズカもおハナさんもかなりガックリしてマシタネ」

「私が言うのも何ですけど、あんまり引き摺るのは良くないですよ!」

 

 という事で今日の運勢とかどうです? と、水晶玉を取り出し始めたフクキタルを制止し、丁寧に断りを入れてから3人と別れて席に着く。

 チャイムと同時に担任が教室に入ってきて、朝のホームルームが始まる。

 しかし、今日のホームルームは少し違った。

 

「おはようございます、皆さん。今日はこのクラスに編入生が入る事になりました。皆さん仲良くしてあげてくださいね」

 

 そうして担任に呼ばれて教室に入ってきたのは。

 

「……っ!?」

「シャムと言います。よろしくお願いしますね?」

 

 先程別れたばかりのはずの、黒鹿毛の女神だったのだ──。

 

 

 ⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱

 

 

 衝撃の展開から時は少し進んで、今は昼休み。

 突如、編入してきた謎のウマ娘にクラスメイト達が気にならないはずも無く、昼休みになるや否や女神もといシャムの周りに集まる。

 

「ハウディ! よろしくお願いしマス!」

「おう、お前どこモンなんだよ? あ?」

「リョ、リョテイさん! シャムさんは転入じゃなくて編入だから、ここが初めてのトレセン学園ですよぉ!」

「それに初対面でそんなに威圧しないの。怖がらせちゃうでしょ」

 

 タイキが話し掛ける裏で1人騒がしく威嚇するキンイロリョテイをフクキタルとドーベルが引き剥がして遠ざける。

 それでも暫くシャムを睨み付けていたリョテイだったが、ふん、と鼻を鳴らすと2人を軽々と振り払って、飯! と言うなり教室を出て行ってしまう。

 当の睨まれていたシャムはと言えば、くす、と可笑しそうに笑うだけだった。

 

「ふふっ。とても元気ね、あの子」

「ソーリー、シャムさん。リョテイは悪い子じゃないデスから多めに見てあげてクダサイ……」

「良いのよ。私も気にしていないわ。それより……」

 

 タイキの謝罪に手を横に振って気にしていないと示したシャムは、頬を少し染めてそわそわしだす。

 周りの皆が頭に疑問符を浮かべていると、きゅるぅ、と可愛らしい音が聞こえてきた。

 音の出所を見れば、シャムが更に顔を赤くして俯いてしまう。

 それを見た皆は暫し顔を見合わせ、やがて小さく笑いを吹き出した。

 

「ワオ! とってもキュートなお腹の虫デスネ!」

「確かにここに居ても時間が勿体無いよね。皆で食堂に行こっか」

「ハイ! 皆さんで行きましょう! ところで今日のラッキーランチは──」

「嘘でしょ……ご飯まで占うの……」

「あぅあぅあぅ……」

 

 未だに恥ずかしそうにしているシャムを引き連れ、皆で食堂に行く。

 そう言う事になった。

 

 

 ⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱

 

 

 揃って食堂にやって来た5人は、折角なのでこの面子のままテーブルを囲んで昼食を摂る事にしたのだが。

 

「んぐっ、はふっ、もぐっ」

「……」

 

 どうやら、我らが女神様は思った以上に食べるウマ娘だったようだ。

 そこまで多くは食べないスズカやドーベル、フクキタルは元より、アメリカン! な感じで大量の料理を積み上げているタイキでさえ目を丸くしてシャムの食べる様を見つめていた。

 

「アンビリーバボー……。シャムさん、そんなに食べてお昼からのトレーニング、大丈夫デスか?」

「んっ……。まあ、大丈夫よ。それより、ここの食事は美味しいわねぇ」

「そりゃあ、もちろん。ご飯は元気の源だもの。それが美味しいからトレーニングも頑張れるのよ」

 

 そう言いながら、ドーベルはにんじんソテーをサクサク切り分けて食べる。

 メジロ家の教育の賜物なのだろう。学園の食堂であっても、その所作は見事なものであった。

 スズカもサンドイッチを手に取って一口食べようとすると、シャムがこちらをじっと見つめている事に気が付いた。

 すっ、とサンドイッチを持った手を左右に振ってみるとそれに合わせて顔が揺れる。

 どうしようかと少し悩んだ末、スズカはサンドイッチを食べた。それを見たシャムの顔がショックを受けたように歪む。

 

「スズカ。あんまり意地悪してあげないの。ほら、シャムさん。これでも食べて」

 

 俯いてぽつぽつと食べるようになってしまったシャムを見かねたドーベルが自分のにんじんを分けてあげる。

 それが目の前に置かれた途端にぺろりと食べてしまった。そこまでお腹が空いていたのだろうか。

 もしかしたら、現世の食事に馴染みが無いのかも知れない。それなら、ここまで食べるのも納得出来る。

 

 それから暫くして各々の食事が落ち着いてきた頃、口を開いたのはフクキタルだった。

 

「そういえば、シャムさんってここに来る前はどこに?」

「んー、そうね。私は元々イギリスから移住してきたのよ」

「イギリス! それはまた遠い所から来ましたネ!」

「ええ。元々小さい頃から日本が好きだったのだけれど、丁度実家の都合でこちらに来る事になったのよ」

 

 良くもまあ、口が回るものだ。澱み無く質問に答えていくシャムを、スズカは口を開けて見つめていた。

 女神と言うのは口達者で無いとなれないものなのだろうか。だとすれば、自分には到底無理そうだ。

 そんな風に考えていると、不意に手が軽くなったように感じた。

 

「あむあむ……。このサンドイッチも美味しいわね」

「嘘でしょ……」

 見れば、考え事をして意識が逸れている間に手元のサンドイッチをシャムに食べられてしまったようだ。

 お腹がポッコリ出ている様はもはや女神の威厳なんてどこかへ消えてしまっている。

 

「もう。それ以上食べたら本当にしんどくなってしまうんじゃないかしら……」

「んん、それもそうね」

 

 呆れたようにスズカが嗜めると、漸くシャムは食べるのを止めて箸を置いた。

 当然だが、シャムが持ってきた食器の中身は空っぽである。

 あの小さな体のどこにあれだけの食事が入るのか。スズカはそこまで考えて、それ以上は止めた。

 

「あれだけの量を食べきるなんてすごいわね……」

「そうかしら? それ程でも無いと思うけれど」

「いや、十分すぎると言いますか……」

「シャムのお腹はブラックホールか何かデスか?」

「十分普通のウマ娘の胃袋よ。さ、もうすぐお昼休みも終わりだし、教室に戻りましょ」

 

 どうやら、周りの友人達も同じ事を考えていたらしい。

 それに対してケロリとした顔で答えたシャムはトレーを持って立ち上がった。皆も続いて席を立つ。

 昼休みが終われば、所属チームに分かれてのトレーニングがある。

 

 ──いよいよ、“やり直し”が始まるのだ。

 そう思うと、スズカは脚の疼きを抑えきれないのだった。

 

「おや? スズカさん、スキップなんかしてどうかしたんですか?」

「あ、いえ……。何でも無いわ」

「?」

 

 教室に戻るまでに疼きは何とかして抑え込んだスズカであった。




時を越え、日常へ戻った少女は一時の間、幸せに浸る。
もう間違う事は無いのだと信じて。


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第3話「不協和音」

書き上げたら妙に長くて分割したので初投稿です。

追記:
分割したから前後編にした方が良いかと思い、タイトルを変更しました。


 昼休みが終わり、それぞれ自分のチームでのトレーニングが始まった。

 タイキとスズカはリギルに。ドーベルとフクキタルはポラリスというチームに。

 シャムだけは選抜レースに出ていないので、来週の選抜レースに向けて教官から基本を一通り教えてもらう事になっている。

 ……1週間で何とかなるものなのだろうか? 選抜レースから1週間でデビューした子は見た事があるが、それよりも更に厳しいと思うのだが。

 当の本人は大丈夫、と言って意気込んでいたが、果たして。

 

「スズカ。そんなに考え込んでどうしたんだ?」

 

 他にも、シャムはちゃんと走れるのだろうか等と考え事をしていると、その様子を怪訝に思ったのか、1つ年上でチームメイトのエアグルーヴが声を掛けてきた。

 周りを見れば、皆ストレッチを終えて東条トレーナーに今日のメニューを確認している所だった。

 スズカはと言えば、へにょーん、と開脚前屈したままであった。

 

「ん。あ、エアグルーヴ。ううん、何でもない」

「そうか? それなら良いんだが。それより早く今日のメニューの確認に行ってこい」

「ええ。そうする」

 

 何でも無いと首を振るスズカに、エアグルーヴは少し首を傾げながらも、東条トレーナーの所へ行くように促す。

 スズカは前屈を止めて立ち上がると、その足で東条トレーナーの元へ向かった。

 

「おハナさん。ストレッチ終わりました」

「来たわね、スズカ」

 

 他のメンバーは丁度話を終えた所だったようで、声を掛けると直ぐに東条トレーナーは振り向く。

 そして、ボードの上に乗っていたストップウォッチを手に取るとスズカに見せながら今日のメニューの説明を始めた。

 

「今日は併走を兼ねたタイムの測定を行うわ。併走相手はエアグルーヴ。距離は2000mの右回り。秋の天皇賞を見据えた距離よ」

「はい」

「それで、測定する時の走り方の事だけど。今日は貴方の好きに走ってみなさい」

「えっ? 好きに、ですか?」

 

 東条トレーナーの言葉を聞いて思わず聞き返し、それから思い出す。

 今がダービー直後だった事。そして、夏合宿前に東条トレーナーから“大逃げ”の提案を受けた事。

 今の東条トレーナーの姿が未来と殆ど変わらない姿だったからうっかり忘れていたが、ここは過去の世界である。

 この時点までの東条トレーナーはスズカに先行策を指示していたのだ。

 それに従ってプリンシパルSとダービーを走っていた事をスズカは漸く思い出した。

 

「そうよ。プリンシパルで上手く行ったからダービーも先行策でやらせてみたけれど、あの結果を見る限りはデビュー当初の逃げ足を伸ばした方が上手く行きそうな気がするのよね」

 

 ──だから、今後の方針の為にも前みたいな走りをもう一度見せてもらえないかしら?

 

 東条トレーナーの頼みにスズカが頷かない理由は無かった。

 過去に戻ってきたスズカには1年分多い知識と経験がある。

 今ならもっと上手く“大逃げ”をして、東条トレーナーを喜ばせる事が出来る。

 あの時、東条トレーナーに見せられなかった夢を今度こそ見せる事が出来る。

 そう思うと、脚が疼いて仕方が無かった。心臓もどくどくと高鳴り始める。呼吸も少し早い気がする。

 

(だめだめ。抑えなきゃ。深呼吸、深呼吸……)

 

 2度ほど深呼吸した後、思考もどこか夢見心地なまま、スズカはエアグルーヴの隣に立つ。

 

「今日はよろしく頼むぞ、スズカ。……大丈夫か、スズカ? 顔色が悪いように見えるが……」

「え?」

 

 エアグルーヴに言われてから気付く。背中をぞくっと這い上がる気持ちの悪い寒気に。

 脚は小刻みに震え、心臓はもはや早鐘の様に鼓動し、額には脂汗が浮かんでいた。

 

(あ、れ──?)

 

 予想もしなかった事態にスズカは困惑した。

 一度意識してしまうと、後はあっという間だった。

 脚の疼きは震えに。胸の高鳴りは何かへの恐れに。そして、早まる呼吸は苦しみを伴う過呼吸に。

 身体が、本能が危機を訴えている。これ以上は何かが危険だと。

 その何かが何であるかを理解できないまま、スズカは襲い来る異変に翻弄されていった。

 襲い来る身体の異常に、スズカは訳が分からないままに深呼吸をしようとする。

 

「……かひゅ」

 

 しかし、漏れたのは浅く吐き出される吐息のみ。

 呼吸が上手く出来ない。水の中で溺れるように口から出ていくばかりだった。

 

「っ!? スズカ!?」

 

 明らかに尋常ではないスズカの様子にエアグルーヴが肩へ触れようとして、しかし、スズカはそれを振り払う。

 拒絶されたエアグルーヴは驚きに満ちた表情でスズカを見た。

 

「大、丈夫……! 大丈夫、よ……!」

「しかし、そんな様子では……!」

「大丈夫……だから……!」

 

 首を振り、何とか身体を脚で支える。呼吸も無理やり大きくゆっくりと繰り返す。

 ここで折れてしまえば、あの秋の天皇賞は、東条トレーナーへの恩返しはどうなるのか。

 全てやり直すために過去に戻ったのに、それを無意味にしたくない──! 

 

「私は、走れる。走れるわ……!」

「スズカ」

 

 鬼気迫る表情でスタートの構えを取ろうとしたスズカの肩を誰かが掴む。

 エアグルーヴが立っている方向とは逆の方向に置かれたその手の持ち主に察しがついたスズカは、ゆっくりとそちらの方へ振り向く。

 

「今日はもう帰って休みなさい。そんな状態でトレーニングなんて出来る筈が無いわ」

「おハナ、さん……?」

 

 手の持ち主──東条トレーナーは首を横に振り、スズカの手を取る。

 ──このままだと、本当に帰らされてしまう。

 そう思い、抵抗しようと脚を踏ん張るスズカだったが。

 

「ぁ……」

 

 東条トレーナーに、人間に手を引かれるままに身体が引っ張られるのを感じて、気が付いた。気が付いてしまった。

 今の自分は抵抗も出来ない程に力が無く、本当に走る事さえも出来ないのだと。

 ──東条トレーナーに恩返し等、出来る筈も無いのだと。

 

「ぅ、ぇ……」

「え、ちょっと、スズカ!?」

 

 身体の底から湧き上がってくる嫌悪感に思わずしゃがみ込み、口を押える。

 あの時は耐えられたが、今はもう、無理だ。

 それを抑えきれずに、スズカはそのまま溢れさせた。

 動揺したのは東条トレーナーや周りに居たチームメイト達だ。

 スズカの顔色が悪いと思っていれば、更に深刻な状況であった事に気が付いたのだから。

 

「スズカ!?」

「お、おハナさん! ワタシ、あれ、あれ呼んできマス!」

「大丈夫か!? おい、スズカ! しっかりしろ!」

 

 一番動揺したであろうタイキは咄嗟に救急車の名前を出せず、そのままベンチに置いてあった彼女のウマホに飛び付いた。

 その間に東条トレーナーとエアグルーヴは声を掛けながらスズカの背中を擦り続ける。

 スズカは酸欠とショックによって薄くなっていく意識の中でそれをどこか遠くに感じながら、糸が切れた様に意識を手放した。

 

「お、ハナさ……ごめん、なさ……」

 

 その直前に少女が小さく漏らした呟きは、そのまま儚く虚空に溶けて消えた。

 

 

 ⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱

 

 

「……まあ、遅かれ早かれ、そうなったでしょうね」

 

 スズカ達リギルが居た場所から少し離れた所に、女神は居た。

 実技の授業は同じ練習場で行われていた為、教官は授業を一時休止して騒ぎのあった方へ向かっている。

 やがて救急車が到着し、急患らしき人影がストレッチャーに乗せられてその中へ運び込まれていく。

 その一連の流れを表情の抜け落ちた顔で女神は見送った。

 女神には全て分かっていた。勿論、彼女がこうなるであろう事も。

 

「あれ程の重傷を負っていながら、治ってすぐに走れるウマ娘は居ない……いえ、ウマ娘だけで無く、()()()()()()、でしょう」

 

 それでも、女神はあの時点で接触するのが最善だと考えていた。

 恐れが完全に根付いてしまえば、もう取り返しは付かない。

 だからこそ、そうなってしまう前に女神はあの日、あの時に彼女に接触したのだ。

 全ては夢の先にある筈の果てを見届ける為に。

 

「……それでも、頑張りなさい、スズカ。貴方の旅はまだ始まったばかりなのだから」

 

 女神の呟きは誰の耳に届く事も無く、風に溶けて消えた。




疼き、高鳴り、昂ぶり。それらは全てまやかしだった。
知らず知らずのうちに抑え込んでいたモノが、現実を前にして溢れ出そうとしていた。
表面上では何も問題は無くとも、奥底にこびり付いたソレはこそげ落ちずに残っているものなのだ。
過去は、無かった事にはならないのだから。


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第4話「ココロとカラダ」

夜眠れないので初投稿です。


 ──また、夢を見た。

 

 あの秋の天皇賞の夢。

 “私”がスタートから気持ち良く走っていく。誰よりも先に、一番にターフを駆けていく。

 後続の子達は“私”のスピードに着いて来られない。何ならもう気にする必要すらない。

 “私”は、この先頭の景色をずっと見ていたいだけだから。

 離れすぎて1人きりの旅路。寂しいと思った事は無い。

 ゴール前にはおハナさんやリギルの皆が待ってくれている。それだけで十分だった。

 でも、恐らく彼女達が居なくとも、きっと変わらないだろう。

 だって、“私”には、私の心には、魂には──。

 無意識的に湧き上がった想いをそっと大事に仕舞い込み、“私”は駆けた。どこまでも、ずっと。

 ──そして、運命の時が訪れる。

 府中の大欅を越えた所で最後のスパートに備えようとした時、“私”は自分の速さによって、左脚を踏み砕いた。

 あ、と声にならない声が漏れる。

 駄目。おハナさんが、皆が私を待っているのに。こんな所で。

 前に行こうとしても激痛で脚に力が入らない。それでも勢いの付いた脚は止まらない。

 左脚を致命的に破壊していきながら、どうしてか“私”は外ラチの方へふらふらとヨレていく。

 そのまま左脚に全く力が入らなくなった所で、“私”は左側から勢い良く転倒した。

 

 ──私が覚えているのは、ここまでだ。

 

 

 ⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱

 

 

「ん、ぅ……」

 

 閉められたカーテンの隙間から差す光を顔に受け、スズカはゆっくりと目を開く。

 つい先日まで見ていた天井の景色が視界一杯に広がった。

 

「またここ……」

「スズカ?」

「!?」

 

 ぽつり、と呟いた言葉に返ってきた声を聞いて、思わず跳ね起きるスズカ。

 見れば、ベッドの横に東条トレーナーが座っていた。

 果物、食べる? と聞かれ、頷くとカットフルーツが入ったラップ付きの器を冷蔵庫から取り出してラップを剥がし、爪楊枝を果物に刺して差し出された。

 お腹が空いていたのか、一度食べると手が止まらずパクパクと食べ続ける。

 東条トレーナーはスズカが果物を食べ終えるまで、黙って待っていた。

 スズカが最後の一口を食べ終わった所で、東条トレーナーが口を開く。

 

「スズカ。身体は大丈夫かしら?」

「はい、大丈夫です。……すみません」

「謝るという事は、何か心当たりがあるのね?」

「それは……」

 

 言い澱むスズカに東条トレーナーはスズカが倒れた理由について医者から聞いた話をする。

 曰く、スズカの身体に異常は無く、恐らくは心的ストレスが原因だろうと言う事らしい。

 それならば、スズカに何かあったのだろうと言う事で東条トレーナーは確認したのだ。

 それに対してスズカはすぐに答える事が出来なかった。

 心当たりは、ある。あの秋の天皇賞での怪我だ。

 あの怪我によって、スズカの心にまた怪我をするかも知れないという気持ちがこびり付いてしまったのだろう。

 しかし、その事を東条トレーナーに話した所で信じてもらえる筈も無い。

 

「私には話せない事なの?」

 

 口籠ってしまったスズカを見て、東条トレーナーは悲しそうな顔でスズカの手を取る。

 ずきん、とスズカの心が痛んだ。

 

「お願い、スズカ。私は貴方を信じているわ。だから、スズカも私を信じて」

 

 ──ああ。そんな風に言われてしまったら。

 

 スズカは目を閉じて一度深呼吸する。そして、意を決して口を開く。

 伝えるなら出来るだけ自然に。そう、夢を見たという事にしておけば聞き入れてもらえるだろう。

 しかしこの時、スズカは失念していた。過去に戻る時に女神が言っていたある事を。

 だから、口にした。それがどうなるかも分からないままに。

 

「私、夢を見たんです」

「夢?」

「私が“来年の秋の天皇賞で左脚を骨折する”夢です。夢だけど、とても怖くて──おハナさん?」

 

 そこまで言った所で、スズカは東条トレーナーが首を傾げている事に気が付く。

 それから彼女が口にした言葉に目を見開いた。

 

「ごめんなさい、スズカ。貴方の見たと言う夢の内容、良く聞き取れなかったからもう一度お願いできないかしら?」

「え……? だから、私が“来年の秋の天皇賞で左脚を骨折する”夢です、おハナさん」

「……貴方が真剣だというのは分かるけど、やっぱり良く聞き取れないわ」

 

 何度かそのやり取りを繰り返した後、スズカは女神が言っていた事を漸く思い出した。

 

 ──未来から来た、と自分からは言わない事。これに関しては私が細工しておくから。

 

「ぁ……」

 

 そうだった。夢だと言う事にしても、未来の出来事はこの時代に生きる人には伝わらないのだ。

 自分の未来は自分で切り開かなければならない。しかし、これはあんまりではないか。

 信じてくれた人に、何も伝えられないなんて。

 

 結局話す事が出来なかったスズカに東条トレーナーは夢など気にする事は無い、と言ってくれた。

 寮に帰った時には女神にも慰めてもらった。少し八つ当たりもしたが、女神は黙って受け止めてくれた。

 それでも、スズカは未だに走れないままだった。

 

 

 ⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱

 

 

 スズカが倒れてから数日が経った。

 

 幸い、脚を使う事以外で倒れる事は無かった為、今のスズカは上半身メインの基礎トレーニングを主軸に置いて行っていた。

 1人ベンチでダンベルを交互に持ち上げていると、併走を終わらせてきたらしいエアグルーヴが近付いてくるのが見えた。

 

「調子はどうだ、スズカ」

「エアグルーヴ。ええ、今の所は何ともないわ。……走ろうとしなければ、だけど」

「そうか……」

 

 スズカの返事を聞いたエアグルーヴは隣に腰掛ける。それから手に持っていたボトルの中身を飲み始めた。

 “女帝”と呼ばれるだけの事はあって、その飲み方は様になっていた。

 それを眺めていたスズカは、ふと思い付く。

 エアグルーヴは1年先輩だ。その分の経験があるなら、もしかしたら現状を解決する為の糸口を何か聞けるかも知れない。

 なので、聞いてみる事にした。

 

「ねえ、エアグルーヴ。少し聞いてもいい?」

「何だ?」

「あのね。例えばだけど、取り返しの付かない程の怪我をしてしまう夢を見てしまって、それで走るのが怖くなった時、貴方ならどうすれば良いと思う?」

「ふむ……。夢は所詮夢。気にする事は無いが──」

 

 そこまで言って、スズカの顔を一度見るエアグルーヴ。

 

「──しかし、だ。スズカが聞きたいのはそう言う事では無いのだろう?」

 

 無言で頷くスズカにエアグルーヴは少し考えるそぶりを見せる。

 それからややあって、口を開いた。

 

「……月並みの事しか言えないが、やはり一度自分を省みるのが一番だな」

「自分を、省みる?」

「そうだ。自分というよりは、本能、あるいは欲望と言い換えた方が良いかも知れん」

「本能……」

「我々にとって、怪我の懸念は常に隣り合わせの問題だ。実際に怪我をしてターフを去った者も多い」

 

 ウマ娘は時速60km以上で走る事が出来る存在だ。

 そんな存在が走っている途中で何かにぶつかったり、転倒したりすればどうなるか、想像に容易い。

 実際にそれを実体験しているスズカは両手で身体を抱き、小さく震えた。

 

「しかし、それが隣に在ると分かっていても我々は走る事を止めない、止められない。何故だと思う?」

「……走りたいという気持ちが、怪我をするかもという気持ちより大きいから?」

「その通り。我々は無意識に恐怖を本能で抑え込んで走り続けているという訳だ」

 

 スズカの出した答えに満足そうに頷くエアグルーヴ。

 ここまで来れば、スズカも彼女が何を言いたいのか何となく察しが付いてきた。

 

「……今の私はそれが逆さになっている、という事ね」

「恐らく、な。だからこそ、今回の件は自分を省みるチャンスだと言える。自分は何故走りたかったのか。走って何を成したかったのか。もう一度じっくり考えてみると良い」

 

 そう締め括って、エアグルーヴは立ち上がる。コースを見れば東条トレーナーが手を上げてエアグルーヴを呼んでいるのが見えた。

 彼女が行く前に、スズカは一言だけ言葉を投げ掛ける。

 

「ありがとう、エアグルーヴ。貴方に聞いて良かった」

 

 少しだけ振り返ったエアグルーヴは小さく笑みを漏らし、片手を1度だけ上げるとコースの方へ走っていった。

 1人残されたスズカはずっと手に持っていたダンベルをベンチに置くと、背もたれに背を預けて青い空を見上げる。

 雲1つ無い空からは煌々と日が照り付けていた。

 

「私の走る理由、かぁ……」

 

 ぽつり、と口に出してみる。

 走る理由。それは勿論、先頭を走り続けて誰も居ない綺麗な景色を見る為だ。

 けれど、それはもう1度怪我をするかも知れないという恐怖に掻き消されてしまった。

 そこでふと思う。先頭の景色を見て、それからどうしたかったのだろう、と。

 バレンタインSで。金鯱賞で。宝塚記念で。毎日王冠で。──そして、秋の天皇賞で。

 そのどれも、スズカは先頭を走り続けた。誰も居ない先頭の景色を見る為に。

 ──でも、その先は? 

 あの時のスズカは先頭を走っているだけで満たされていた。しかし、今は違う。

 仮に今までと同じように走れていたとしても、あの時程満たされなかったかも知れない。

 あの未来を一度断たれた今では、きっと。

 

「うーん……」

 

 頭を捻って少しだけ考えてみるが、すぐに答えが浮かべば苦労は無い。

 しかし、時間が無いのも確かである。スズカの次の出走予定は9月の神戸新聞杯。

 それまでに答えを見つけないと、全てが水の泡になりかねない。

 ならば、タイムリミットは。

 

「……夏の間に、見つけなきゃ」

 

 夏合宿。そこで答えを見つけるしかない。スズカはそう結論付けるのだった。




残されたしこりは無くなる事は無く、それを誰かに吐き出す事も出来ない。
それはとても孤独で、寂しい事だ。
そうして道を見失った少女は泥濘の中で藻掻く。
藻掻き足搔いた果てに答えがあるのだと信じて。


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第5話「眩い輝きたち」

着物会長がかっこいいので初投稿です。


 さて、スズカが悩んでいる間にも、時は平等に過ぎていく。

 そう。今日はシャムの選抜レースの日である。

 ──トレセン学園練習場、芝1600m、右回り、晴れ、良バ場。

 

「絶好のレース日和だわ。そうは思わない? スズカ」

 

 体操服にゼッケンを付けたシャムが、空を仰ぎ見てからスズカの方を振り向く。

 対するスズカはまだ少し影の残る笑みを返した。

 

「……そうね。シャムさんのレースは?」

 

 スズカの問いにシャムは少し首を捻り、それからコースで走っているウマ娘達を見て言う。

 

「確か、あれ含めて3つ後よ。ま、碌に走った事無い私が1週間の付け焼刃程度で簡単に勝てる筈無いけれど」

「そう言う事言わないの。……折角走れるんだから」

「……やっぱり、まだ無理なのね?」

 

 スズカの言葉に含められた意味を察したシャムは眉を八の字にしてスズカを見上げ、それに対して無言で肯定したスズカに小さく息を吐いた。

 

「そりゃそうよね。本来なら二度と走れないどころか、日常生活でさえままならなくなる様な怪我だったんだもの」

「ええ。……だからこそ、こうして心にこびりついてしまったわ」

「……ままならないものね」

 

 分かってる癖に、というスズカの無言の抗議を無視し、シャムはフェンスから身を乗り出して模擬レースを見学し始めた。

 レースで走っているウマ娘達は初々しく、それでいて必死に勝利を掴もうとしている気持ちが伝わってくる。

 そうしてレースが終われば、1着に喜ぶウマ娘や入着すらできずに悔し涙を流すウマ娘が居る。

 トゥインクルやローカルのレースで無くとも、そうして感情を露にする子達を見て、スズカは少し懐かしい気分を感じた。

 かつての自分も、そうだったから。

 そして、だからこそ。

 

「……眩しい、わね」

「そうね。美しい光景だわ。皆輝いているもの」

 

 そう言ってシャムはフェンスから離れる。シャムが出る予定のレースの招集を告げるアナウンスが流れていた。

 それを横に聞きながら、スズカは自嘲気味に笑った。

 

「……だけど、私は──」

「待っているわ。いいえ、私が連れて行く」

 

 それを遮り、シャムはスズカを正面から険しい表情で見据えてくる。

 その言葉にスズカはどきり、とした。女神に隠し事は出来ない。全て見透かされているのだと改めて認識させられた。

 暫く困惑気味なスズカの顔を見つめていたシャムは、やがて表情を一転させ、満面の笑みを見せる。

 

「──だって、貴方はまだ輝けるのだから」

「……待って」

 

 それじゃ、行ってくるわね。と言って立ち去ろうとするシャムを思わず引き止める。

 怪訝な顔で振り向いたシャムに、スズカはどう言おうかとつい伸ばしてしまった手を所在無さげに揺らめかせていた。

 それから一度頷くと手を胸元に引き寄せ、一度深呼吸してシャムを真っ直ぐ見つめて、一言伝える。

 

「……頑張って、シャム“ちゃん”」

「──!」

 

 その言葉にシャムの目が大きく見開かれる。

 そんなに驚かれると、スズカの方も急に恥ずかしくなってきた。

 

「あ、えっと、その」

「ふふ。ありがと、スズカ。頑張ってくるわ」

 

 慌てて取り繕おうとした所で、先にそれを制したシャムが一度手を大きく振ってから駆け出して行ってしまった。

 振り返ったシャムの横顔が少し紅かった様に見えたのは、果たして気のせいだっただろうか。

 真相は分からないが、女神の狼狽えた表情を始めて見る事が出来て何となく満足だった。

 

 

 ⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱

 

 

 受付を済ませたシャムはコースのスタートライン前まで足を運んだ。

 周りを見れば、どこもかしこも険しい顔のウマ娘ばかりだった。

 確かにクラシック6月の選抜レースともなれば、行き遅れに焦るウマ娘も多いだろう。

 そんな中でシャムは、まあ自分は女神様だから無理に走らなくてもいいし、最悪行き遅れても観客席の一番前でスズカを見られればいいなー、ぐらいに思っていた。

 周りの空気がピリピリしている中で、傍から見ればお気楽そうに構えているその姿はとても浮いた存在に見えたのだろう。

 

「ねえ、アンタ」

 

 1人のウマ娘がシャムの前に立ち、ジロジロとシャムの小さな姿を見て、ふん、と鼻を鳴らす。

 初対面から中々に失礼な子だな、と思いながらも返事を返す。

 

「何かしら?」

「あ゛ー、すました顔して生意気。如何にも自分は余裕ですっていうその顔、アタシ大ッ嫌いなんだよね」

「あらそう……大変ね」

 

 はっきりとした悪意に対して、シャムは何も響かない、といった様子で言う。

 シャムの精神が女神のそれであったならもう少し慈しむ様な言葉を返したのだろうが、生憎、今の彼女は受肉している事もあってか精神が生前寄りになっていた。

 わざわざ安い挑発に乗る事も無いと思い、適当に受け流そうと素っ気無い返事をした訳だが、それがどうやら彼女はお気に召さなかったらしい。

 体操服の首元を掴まれ、顔を引き寄せられる。すぐ傍にまで近づけられた彼女の目には激しい憤りが浮かんでいるのが見て取れた。

 

「アンタ……ふざけてんの?」

「……何が?」

「……ねぇ。周りを見てみなよ」

 

 彼女から言われるままに周りを見回す。ここに来た時にも思った事だが、集まっているウマ娘達はどこか焦っているように見えた。

 秋までにメイクデビュー戦で勝てなければ、そこからは1つ格上のレースで勝たないといけなくなる。

 ただでさえメイクデビュー戦で勝てていないウマ娘が格上に挑んで勝てる確率は殆ど無いと言っていい。

 そして、勝てなかったウマ娘の行く先は、言うまでも無かった。

 

「分かる? アタシ含めてここで勝ってトレーナー捕まえないと後が無いのばっかりなの。だから、みんな焦るし、入れ込んでる。そんな中に1人のほほんとした面構えで入ってこないでよ」

「それで、余裕で構えてるように見える私が目障り?」

「──ッ!」

 

 どん、と突き飛ばされ、思わずよろめく。

 漸く解放されて、首元を整えながらシャムが顔を上げれば、鬼のような形相を浮かべている彼女の姿が目に入った。

 スタート地点からは教官が怪訝そうな表情でこちらを見ている。これ以上やり合うなら2人とも出走停止だろう。

 

「ま、目障りだと言うならそれでも良いわ。だけど、そんな調子で勝てるとは思わない事よ」

「ッ、アンタみたいな奴には、絶対負けないから! レース無礼てるんじゃないわよ!」

 

 それとなく教官の方を示しながら背を向けると、後ろから吠える声が聞こえた。

 やれやれ、血気盛んなのは悪くは無いが、それを向ける先が違うのでは無いか?

 シャムは肩を竦めて、スタートの方へ向かった。

 

 

「えー、このレースのバ場と距離は芝の1600mです。ここからあそこに見える教官が居る所までがそうですね。では、呼ばれた子からゲートに入ってください」

 

 スタート前に集まると、スターター役の教官からレースの大まかな話を聞き、呼ばれた順にゲートへ入っていく。シャムの枠番は6番中の3番だった。

 並んだウマ娘の中には先程の彼女もおり、ゲート越しに目線を向けると威嚇するように唸られた。

 随分嫌われたものだ。まあ、あれだけ言われたのなら仕方ないだろう。

 

「全員並びましたね。では、位置について」

 

 全員が並び終わったのを確認した教官は旗を振り上げた。

 瞬間、周りのウマ娘達の気配が変わる。

 焦りに呑まれた小さな存在から、勝利を渇望する大きな存在へ。

 皆一様に息を止め、ゲートが開く瞬間を待つ。

 そして。

 

「スタート!」

 

 ガコン! と音を立てて開くゲート。

 一斉にスタートする中、シャムが一番前へ躍り出た。

 前目に付けようとした右手のウマ娘より、さらに前へ。

 それはすなわち──。

 

「逃げっ!?」

 

 先程のウマ娘が思わず叫んだ声を後ろで聞きながら、シャムは前へ前へと脚を進める。

 1週間程度の付け焼刃で普通に走って勝てる訳が無い。ならば、少ない勝機をどうやって掴むか。

 その答えが、逃げ。スズカの走りを思い出しながら、前へ前へ。

 あっという間に4バ身程差を広げて、そこの位置をキープする。スズカみたいな大逃げをやれば間違いなくバテてしまうからだ。

 それでも後ろのウマ娘達には効果覿面だったようで、焦っている気配が伝わってくる。

 後続に気を配りながら間隔とペースを維持しつつ、最初の直線から第3コーナーへ入っていく。

 コーナーの最内を通りながら後ろの気配を確かめると、逸ったウマ娘が何人か位置を上げてきているようだった。

 ここで釣り上げておけば、デビュー前のウマ娘であればスタミナを切らすだろう。そう思い、シャムは彼女達からマークを外した。

 そして第4コーナーへ入り、ゴールに近づいてきたタイミングでもう一度後ろの気配を確認する。

 

「本命達がそろそろ上がってきたわね……!」

 

 釣られなかった子達が一斉に上がり始めたのを感じて、シャムは残り少なくなってきた脚を使う事にした。

 第4コーナーの終わり付近で手前を替え、スパートの体勢に入る。後続は既に2バ身の距離まで迫ってきていた。

 最後の直線。スパートを掛けたとはいえ、後ろの子達の方が脚が残っている。

 加えて、このコースの最終直線は長い。果たして、追いつかれずに済むかどうか。

 

「それでも……ッ!」

 

 歯を食い縛り、前に行く事だけを考える。後続の足音はすぐ後ろまで迫っていた。

 しかし、聞こえてきた音はそれだけでは無かった。

 芝を蹴飛ばす激しく強い足音と。

 

「負けない……ッ! アンタにだけは……ッ!」

「!!」

 

 最初のコーナーで逸って位置を上げていた筈の1人が、ここに来て差し返す勢いでもう一度上がってきた。

 その声を、シャムは知っていた。上がってきたのは、先程シャムに突っ掛かってきたウマ娘だったのだ。

 あっという間に真後ろに──。

 

「負けて堪るか──!」

 

 ──並ばない。並ばずにそのままシャムを抜き去る。

 ここに至って、シャムは己の失策を悟った。

 少なくとも、彼女は逸って位置を上げたのでは無かった。

 ただ、彼女の仕掛けがそこからだった。ただそれだけの話だったのだ。

 続いて、真後ろまで詰めてきていたウマ娘にまで追い抜かれ始める。

 いや、そのウマ娘に抜かれるのは、ある意味想定内ではあった。

 釣られない冷静なレース運びをしているなら、自分の下手な逃げぐらいは抜ける筈だからだ。

 自分が如何に甘い考えをしていたか否応無く実感させられる。

 釣れたからといって、最後までマークを外すべきでは無かった。

 もっと上手くペース管理をするべきだった。

 そもそも逃げて良かったのか。

 自分の駄目だった所が、どんどんシャムの頭の中に浮かんでくる。

 

 ──それでも。

 

 ──それだからこそ。

 

「だからって……このまま終わりたくないッ!」

 

 ──まだ諦める訳にはいかない……!

 

 只管脚を前へ動かす。前へ。前へ。

 喉は干上がり、呼吸も歪なものに変わっていた。

 それでもシャムは走る事を諦めない。

 気力を最後の一滴まで振り絞り、ひた走る。

 シャムを抜いたは良いものの、スタミナが切れてきたウマ娘の1人を無理やり差し返す。

 シャムの前には少し離れて残り2人。ゴールはもう目の前。

 脚はもう残っていない。今も気力だけで動かしている。

 きっとこの2人を抜き返す事は出来ないだろう。

 だからこそ、悔しかった。

 学園内の選抜レースと言えど、彼女達に手が届かなかった事が。

 

「勝った──!」

 

 1着でゴールしたあのウマ娘が立ち止まると、天に向かって拳を突き上げる。

 その後ろでは、惜しくも2着になったウマ娘が膝と手をついて震えていた。

 それをシャムは乾いた呼吸を繰り返しながら呆然と立ち尽くして見ていた。

 

「届かなかった……」

「ねえ、アンタ」

 

 一言を絞り出すように口にしたシャムに、あのウマ娘が声を掛けてくる。

 恨み言の1つや2つは言われるだろうと覚悟して目線を向けると、彼女は先程とは打って変わって落ち着いた表情でシャムを見ていた。

 

「……何よ」

「悔しかった?」

「……ッ」

 

 悔しいかなんて、決まっている。彼女の言葉に、思わずギリ、と歯軋りしてしまう。

 それを見た彼女は、どこか安堵した様子で息を吐いた。

 

「良かった。アンタもちゃんとウマ娘だったんだね」

「何、を」

 

 良く考えればそんなはずは無いのだが、一瞬自分の正体が露呈したのかと思い、動揺を隠しきれないままその言葉を返すのが精いっぱいだった。

 シャムの内心など知らない彼女は、そのまま人差し指を立てて振りながら言葉を続ける。

 

「レースで負けて悔しいって思える内は大丈夫よ。裏を返せば勝ちたいって思ってる証拠だから」

「……」

「それに、逃げて3着なら大したもんじゃない? 普通ならバテて最下位とかありえるし……って、どこ行くの!?」

 

 彼女の言葉が終わらない内から、脚も震えて満足に走れない状態でシャムはコースから飛び出していた。

 その横顔から、一筋の雫を奔らせながら。

 

 後ろから彼女の驚いたような声が聞こえた気がしたが、今のシャムには届いていなかった。

 

 ──────────

 

 6月〇日 トレセン学園選抜レース

 芝1600m 右 晴れ 良

 1着:4番■■■■■

 2着:1番■■■■■

 3着:3番シャム

 4着:6番■■■■■

 5着:2番■■■■■

 6着:5番■■■■■

 

 総評

 4番:

 本格化が遅く、この時期まで選抜レースで未勝利だった。

 第3コーナーからの早仕掛けでそのまま先団を差し切る脚は大変素晴らしい。

 最終直線での勝負根性は恐らく3番以上である。

 本格化がもう少し早ければ、と惜しむ。

 話を聞いた所、既にスカウトの予定があるとの事。

 

 1番:

 最内から3番の釣り上げにも動じず、冷静にレースを進めていた。

 最後の直線で気迫を見せた3番から逃げ切り、2着を維持したのは見るべき所か。

 組み合わせ次第では1着だったのは彼女だっただろう。

 即戦力として注目できるが、うちとしてはスカウトの候補外か。

 声を掛けているトレーナーを見たので、そのうちどこかで見る事になるだろう。

 

 3番:

 レース開始から逃げを打ち、最終直線までハナを維持したのは逃げの基本であり、特筆する事ではない。

 しかし、差されてからの彼女の気迫は、どのウマ娘にも負けていなかった。

 1人差し返しての3着は勝負根性ありと見ていいだろう。

 うちのサニーを併せれば、良い感じに育つかも知れない。

 トレーナー達が押し掛ける前に走り去ってしまったので、おそらくフリー。

 要注目。西崎辺りが好きそうな気がするので、取られる前に確保したい。

 

 6番:

 1番同様、上手くレースを進めて3番を差したはいいが、スタミナ不足で3番に差し返されていた。

 この時点でスタミナ不足だと、今後が不安に思う。

 悪くは無いが、それで終わりである。

 

 2番及び5番:

 3番の釣り上げに見事に引っ掛かり、最終直線を向く頃にはすっかりスタミナを使い果たしていた。

 この時期まで勝てていなかった焦りが出たのだろう。

 その焦りを飲み込む事が出来なければ、この世界で生き残ることは出来ない。




今の自分には無い輝きに思わず目が眩んだ。
それはかつての自分も持っていた筈の輝き。
だけど、その輝きは取り戻せるのだろうか。

※選抜レースに出てきたあの子は名の知れぬモブ子です。モチーフが無いので、今後出てくるかは分かりません。


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第6話「舞台裏の大人達」

書く時間が纏まって取れなくて進捗/Zeroだったので初投稿です。


 シャムが初めてのレースで3着になり、スズカにぐずっていた晩の事。

 東条は行きつけのバーでカクテルをちびりちびりと飲みながら、待ち人を待っていた。

 呼び出した理由は1つ。スズカの事である。

 スズカが倒れた後、彼女から走れなくなった理由を聞こうとして上手くいかなかった。

 しかし、そのままにしておく事も出来ない。

 悪い夢だけで走れなくなるなんて前代未聞だ。しかも、それだけの影響を与えた夢の内容も分からず、どうすれば良いか分からなくなった東条は、自分の良く知る人物に相談しようと考えたのだ。

 漸く待ち人がやってきたのは、グラスが半分程無くなった頃だった。

 

「よう、おハナさん。そっちから呼び出しなんて珍しいじゃないか」

「今日は奢りで飲んでええねんて? いやー、ハナは太っ腹やなぁ」

 

 バーに入ってきたのは2人の男女。

 男性は少し雑に纏めた髪型に棒付きキャンデーを口に咥えており、女性は長くて綺麗な黒髪を白のリボンでポニーテールに纏めて勝気な笑みに八重歯を見せている。

 

「来てくれてありがとう2人共。でも、茜は自腹で飲んでよ? 貴方の飲み方に付き合ったら幾らあっても足りないから」

「なんや、呼び出したんはそっちやのにケチやなぁ。どーせ、こいつの分は出すんやろに」

 

 茜と呼ばれた女性はやれやれと言った風に肩を竦めると、東条の左の席に腰掛け、男性──ぶっちゃけるとスピカのトレーナーだ──は右の席に腰掛けた。

 東条は彼の方をちら、と見るとわざとらしい大きなため息を吐いて見せる。

 

「そっちはいつも自分のお金が無いのに飲みに来てるんだから仕方ないわよ」

「わりぃなぁ……。色々やってるとどうしてもな……」

「ま、奢らせといて貯め込んだり私事にどっさり使たりしとらんから憎めんけど……いやいやいや、男なら甲斐性ぐらい見せぇや。何自分の女に奢らせとんねん」

「は!? 何でそういう話になるんだ!?」

「そうよそうよ。貴方、もしかして来る前にもう呑んできたの?」

「話あるって聞いてんのに、呑んでから来る阿呆がいる訳無いやろ」

 

 それに、そんな調子やからそう言う噂が出てくんねん、と言いそうになるのを飲み込んだ茜は、とりあえずウイスキーのダブルをロックで頼んだ。

 茜──桐生院 茜はあのトレーナーの名門、桐生院家の人間だ。

 尤も、彼女の籍は東京の本家ではなく、大阪にある分家の方だが。

 彼女はチーム『ポラリス』のトレーナーを務めており、その実績と手腕はまさしく桐生院家のトレーナーと言って良い。

 スピカのトレーナーは……まあ、そのままである。一応、西崎という名前があるのだが、周りがその名前で呼ぶ事は殆ど無い。

 この2人とは所謂同期で駆け出しの時から何かと絡んでいた関係だった。

 

 西崎も注文を入れて、出てきたグラスを1度傾けた後で先に口を開いた。

 

「それで? 話ってなんだ?」

「サイレンススズカの事よ」

「あー、こないだぶっ倒れてた子やな。何かあったんか?」

 

 まあね、と言ってから東条もカクテルを一口飲み、スズカに起こった事を話す。

 併走前から調子が悪そうにしていた事。それを見て休ませようとしたら悪化して倒れた事。見舞いに行った時、彼女が伝えようとした事を正しく聞き取れなかった事。今もなおスズカが走れない事。

 溜まっていた物を全て吐き出すかの様に洗いざらい話し終わった頃には、カクテルはすっかりぬるくなってしまっていた。

 

「はーん。なるほどなぁ」

「走れなくなる程の悪夢、か」

 

 話を聞いた2人は揃って首を捻る。

 実際の怪我等で心に傷を負い、走れなくなる事はあり得る話だが、夢だけで走れなくなったという話は今まで聞いた事が無かった。

 しかし、そこでありえない、と言わないのがこの2人である。

 そして、すぐさま夢を見た原因を探る、と言う事もしない2人だった。

 東条が相談したい事はそこでは無いと理解していたからだ。

 

「と言っても、どんな悪夢を見たのかまでは分からなかったのか?」

「スズカから話を聞いたエアグルーヴによると、恐らくは自分が大怪我をしてしまう夢だろうと言っていたわね」

「自分が大怪我する夢ねぇ。それがよっぽど現実味あったんやったら、そうなるんも分かる気がするわ。──それで?」

 

 言外にこれからどうしたいのか、と含ませる茜に、東条はグラスの中を空けてから切り出した。

 

「スズカをどちらかのチームに移籍させたいの」

「……本気かいな?」

「本当にそこまでの事なのか?」

「ええ。うちのチーム方針だと、あの子をしっかり見てあげられないから……」

 

 チーム『リギル』は徹底した管理と指導によって、トップを目指す事が指標となっている。

 それ故に通常の怪我などのフィジカル的な問題へのケアは出来ても、メンタル的な問題のケアは性質が違う為に満足に行えないのが現状であった。

 それではスズカの折角の才能を腐らせてしまう事になる。

 彼女を活かせる方針を思い付いただけに、それだけは絶対に避けたい問題だった。

 そうなるぐらいなら、いっそ。そのつもりで、東条は2人を呼んだのだ。

 しかし、2人の反応は芳しくないものだった。

 

「あー、俺の所は駄目だな。この間、殆ど辞められてゴルシしか残ってない。募集のポスターは作ったが、いつ増えるかも、増えた所でそいつらが残ってくれるかも分からねぇ。だから、悪ぃ」

「ウチは3人在籍しとるから預かれん事無いけど、同世代被りすぎやからなぁ。いや、割と欲しい人材ではあるんやで? せやけどなぁ」

「貴方の方は仕方ないにしても、茜はそれなら何とかなるでしょ。どうにかできないかしら?」

「そない言うなら考えるけど、南坂はどやねん?」

「この前、彼と話した時にはカノープスも若干足りてないって頭抱えてたわよ」

 

 はぁー、と頭を抱える茜。この女、分かってて呼んだんじゃないか? とすら思う。

 専属トレーナーという手段もあるだろうが、この時期まで手ぶらで残っている野良トレーナーなど居はしないし、居たとしても駆け出しの新人だ。

 ジュニアからの付き合いならともかく、実績もそれなりにある上でのクラシック半ばから、というのは新人には難しいだろう。

 それならば、仕方がない。茜は5杯目となるグラスを一気に呷ってから口を開いた。

 

「しゃあないなぁ。サイレンススズカはウチで引き取ったるわ。こないだの選抜レースで気になる子も見つけたし」

「それは嬉しいけれど、気になる子って?」

 

 引き受けてくれる事になったのは有り難いが、今度は別に気になる話が出てきた。

 茜は1つ頷くと、6杯目に手を伸ばしてぐいぐい呑みながら話を続ける。

 

「今日の選抜レース、3位に居た奴やな。2人とも見とったやろ」

「ああ。あの逃げで突っ走ってた子だな。デビュー前で逃げ脚使ってあそこまで粘れるのはそうは居ない。俺もどうしようか悩んでた所だった」

「まあ、貴方の好きそうなタイプよね、あの子。私はリギルには向いてないと思うからマーク外したけれど」

「ウチは逃げがおらんからな。調べたらスズカと同期って話だし、2人で併せる為にも是非欲しい所なんや」

「結局、同世代ばかりじゃないの」

 

 知らん、勝手に同世代が固まってくるんや、と茜は大げさに肩を竦めると、空になった6杯目のグラスを置いた。

 それでいて、茜の顔はほんのり赤くなっている程度である。

 知らない人間が見れば、こいつの肝臓は鋼鉄製かと驚くだろうが、2人には見慣れた光景だった。

 

「ま、それならその子も茜さんが面倒見た方が良いだろうな。すごいな、5人の大所帯じゃないか」

「まだ決まった訳やあらへんのに皮算用過ぎんか? もう酔っ払ってんか? 水飲むか?」

 

 カラカラ、とグラスを振ってみせる茜に、西崎は手を横に振って断りを入れた。

 というか、酔っ払っているのかってなんだ、吞兵衛に言われたくはないぞ、と思った西崎だった。

 

「いや、まだ大丈夫だ。それで、おハナさん。スズカには?」

「まだ言ってないわ。話す時は茜にも来て欲しいのだけれど」

「それはかまへんけど、本人抜きで話進め過ぎてもあかんやろ。先に2人で話し合ってからにしぃや」

「そうね。そうするわ」

 

 東条の返事を聞いて、話は終わったと言うように、グラスを置いて立ち上がる茜。

 その背中に、東条は小さく頭を下げた。

 

「……ありがとう」

「はっ。後で大きな魚逃がした言うても知らんからな。覚悟しときや」

 

 ほなな、と勘定を済ませた茜は一足先にバーを出ていった。

 残された2人は、残った酒をゆっくりと飲み。

 

「……なぁ、おハナさん」

「……何?」

「今日……奢ってくれない?」

「……はぁ~。しょうがないわね」

 

 5円玉しか入っていない財布を見せてきた西崎に、東条は深い溜息を吐きつつも彼の勘定もしてあげるのだった。




少女たちの頑張りの裏で、大人たちも動き出す。
それが少女にとってどれほどの衝撃を与えるのか、今は誰も知らなかった。
――運命の針が、回る。


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第7話「一条の光が描く道標」

ファインモーションが可愛くて尊死したので初投稿です。


 シャムの選抜レースから数日後、今日もスズカは基礎トレーニングに精を出していた。

 しかし、今日のスズカは以前とは違う点が1つだけあった。

 

「スズカ、あと1周だけど……大丈夫?」

「はっ、はっ、はっ、いえ、大丈夫、です」

「分かったわ。無理はしないように」

「はい」

 

 まだ全力で走る事は出来ないが、こうして軽いランニング程度ならこなすことが出来るようになっていたのだ。

 とはいえ、そのランニング程度でも動悸は激しくなるし、脂汗も酷い有様ではあったが。

 脚がぶるぶると震えだしてきたのを必死に隠しながら、残りの1周を何とか走り切る。

 走り終わると同時に寒気が背筋を這い上がってきて、それに耐えるように直立不動で少しばかり下を向いた。

 それを見た東条が慌てた様子でスズカに駆け寄ってくる。

 

「スズカ!?」

「だ、大丈夫です、おハナさん……。まだ慣れてないだけですから……」

「全然大丈夫じゃないでしょう、それ。やっぱり、無理させるんじゃなかったわね」

 

 そう言って頭を抱える東条。

 少し走れるようになったからと言って、本人の希望通りにランニングトレーニングをさせるなんて時期尚早だったのだ。

 こんな状態のスズカを、そのまま茜のチームに移籍させてしまっていいのだろうか、とさえ思う。

 桐生院の一門たる茜が何か失敗するとは考えられないが、苦労するのは間違いないだろう。

 そんな東条の苦悩など全く知らないスズカは、一度大きく深呼吸してから口を開く。

 

「……そういう訳にも、いきませんから」

「息が上がって言葉が途切れてる人の言う事なんて信用できないに決まってるでしょう?」

「それは、分かりますけど」

 

 彼女の口から出てきた言葉は案の定東条が予想していた言葉だったので、ぴしゃりと封殺する。

 それでもなお強情を張るスズカに、東条は深い溜息を吐いた。

 ここまでスズカが意地になっているのには理由がある。

 

 ──あの日、少しだけ光を取り戻したからだ。

 

 

 ⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱

 

 

 ──話は数日前、冒頭にもあった彼女の同室のウマ娘の選抜レースが終わった所まで遡る。

 

 序盤から綺麗に飛び出し、逃げを打ったシャムは最後の直線であえなくスタミナ切れ。

 そこから粘りを見せたものの、3着という結果に終わってしまった。

 当たり前と言えば当たり前である。逃げは自分で全体のペースを管理できるメリットがあるが、常に先頭を走り続ける事による掛かるプレッシャーとスタミナの消費が激しい。

 潰すか、潰されるか。その賭けの要素が特に強い戦法。それが逃げだ。

 しかし、だからこそシャムの懸命に走る姿が目に焼き付いて離れない。

 それは劇薬の様なものだ。眩しくて、温かくて、──そして、羨ましい。

 まるでターフがスズカを呼んでいるようだった。

 ──こっちにおいで。一緒に走ろうよ。競い合おう。

 だけど、それは出来ない。スズカは走れない。

 少なくとも、今のままでは。

 

「ひぐっ、ぐすっ。勝てなかったよぉ……」

 

 だがしかし、見るがいい。この女神の姿を。

 懸命に走って、必死に走って、それでもなお届かなかった事に悔し泣きをする彼女の姿のなんと美しい事か。

 まるで、神戸新聞杯でマチカネフクキタルに負けた時の自分のようで──。

 そう思った時、自然と言葉が口から出てきた。

 

「シャムちゃん、悔しい?」

「く゛や゛し゛い゛!」

 

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げて泣き喚く彼女の頭をそっと撫でてやる。

 今までレースをした事が無いという彼女にとって、選抜レースといえど並々ならぬ想いがあったはずだ。

 しかし、その初めてのレースで彼女は負けてしまった。

 戦績には残らない。けれど、負けた事実はこれからも先、彼女の中で燻り続けるのだろう。

 

「ぐす……でも、次こそは勝ちたい……」

「……!」

 

 それでも。それでも、彼女は立ち上がる。

 負けて悔しいからこそ、次を目指したいと。

 その姿勢は、スズカの燻っていた心に僅かに火を点けた。

 走りたい。走れない。でも、走りたい。

 スズカの本能と理性がそう叫ぶ。心がかき乱される。

 その感情のやり場に困ったスズカは、取り敢えず目の前の小さな女神にぶつけることにした。

 

「シャムちゃん」

「な゛に゛ぃ゛……ひゃあっ!」

 

 わしゃわしゃ。シャムの髪を激しく撫で回す。

 腕の中の女神は困惑しきりでされるままになっていた。

 きっと、大事な事だと思ったから。

 ひとしきり撫で回し切ったスズカの表情はすっきりとしていた。

 

「ありがとう。シャムちゃん」

「……私は何もしてないわ。スズカが自分で歩んだのよ」

「うん。ね、見てて?」

 

 シャムを下ろし、立ち上がるスズカ。

 それから深呼吸を1つして、構えを取る。

 

「スズカ……?」

 

 シャムが目を見開いて見ている中、スズカは足を踏み出した。

 最初はゆっくりと、段々速く、そして駆け足に。

 途端に噴き出す脂汗に激しい動悸。それを無視してスズカは走る。

 ランニング程度の速さではあったが、スズカは確かに走っていた。

 そのまま、小さく左回りで円を描くように走って、シャムの前に戻ってくる。

 立ち止まると同時にどっと疲れが出てきて、思わず膝に手をついてしまう。

 それを見たシャムが慌てたように駆け寄ってきた。

 

「スズカ!」

「はっ……はっ……。ふふ、見た? 私、ちょっとだけ走れるようになったわ……」

「だからって無理しちゃダメじゃない!」

 

 大丈夫? 苦しい所は無い? と、自分の身体をペタペタと触ってくるシャムに大丈夫、と告げてもう一度頭を撫でる。

 

 ──うん、大丈夫。これならきっと、走れるようになる。

 

 克服にはまだ遠い。それでも、最初の1歩を踏み出せた確信がスズカにはあった。

 あのままベッドの上で過ごしていれば、この経験はきっと得られなかっただろう。

 全てはこの目の前の少女のおかげなのだ。

 だから、必ず報いて見せる。スズカは固く決意したのだった。

 

 

 ⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱

 

 

 そんな事があってから、スズカはこうして吐くギリギリのラインを攻めながらトレーニングをしているという訳である。

 いつ倒れるか心配で、東条の胃は痛みっぱなしだ。

 走れるようになったと言ってもまだランニング程度で、レースに出るには程遠い。

 次の出走予定だった神戸新聞杯は9月。それまでに走れるようになれなければ、そこで終わりだ。

 つまり、夏合宿中に解決しなければならない問題だが、それは茜に任せよう。

 今の自分に出来る事は──。

 

「ふぅ……。終わりました、おハナさん」

「お疲れ様、スズカ。クールダウンの後、時間はあるかしら? 少し大事な話があるの」

「はい、分かりました。大丈夫です」

 

 ──この子に、これからの道標を示してあげる事だけだ。

 

 

 

 クールダウンが終わった後、スズカは東条に連れられてトレーナー室へ向かっていた。

 中に入ると応接用の机の前に座るように言われ、ちょこん、と座る。

 

「トレーニングが終わったばかりなのに来てもらって悪いわね」

「いえ、大丈夫です。それより、大事なお話とは……?」

 

 デスクの上の資料を纏めながら声を掛けてくる東条に、スズカは首を傾げて尋ねる。

 それに答えるように東条がデスクから東条が持ってきた物は、あるチームのパンフレットだった。

 

 ──「チーム『ポラリス』。私達は貴方の入部を求めています」

 

「これ、は……?」

 

 別のチームのパンフレットを渡され、スズカは良く分からない、と言った表情で東条を見上げる。

 こんな物を渡してどうしようというのだろうか。まるで──

 

 ──まるで、私が『リギル』に居られなくなるかのような。

 

 スズカの嫌な予感は、東条の何かを言いにくそうにしている表情を見た事で的中した。

 だから、東条が決定的な何かを言う前に、先んじて声を上げた。

 

「嫌です」

「まだ何も言っていないわよ」

「嫌です」

「そんな事言わないで頂戴」

「嫌です。……おハナさんに、何も返せていないのに」

「その気持ちだけでも十分嬉しいわよ?」

「嫌です。気持ちだけじゃ、嫌です」

 

 耳を後ろに伏せてむすっとしているスズカを見て、東条はこめかみを押さえる。

 普段はふわふわとした雰囲気を出しているのに、こういう時になると頑なになるのがスズカだ。

 逃げ策を先行策に変えさせた時は本人の納得もあってスムーズに話が進んだが、今回は長丁場を覚悟しなければならないだろう。

 腹を括った東条は、正面からスズカを真っ直ぐ見つめる。

 

「そんな顔しても嫌なものは嫌です。『リギル』以外は考えられません」

「そうは言うけどね、スズカ……。大規模なチームを預かっている責任がある以上、スズカだけを見続ける事は出来ないのよ……」

「少しは走れるようになりました。おハナさんの負担も軽く出来ると思いますが」

「数周でへばるようだと逆に心配なのだけど?」

「練習していればそのうち慣れます」

 

 その姿に気圧されたのか一瞬怯むスズカだったが、すぐに立て直すと抗議を続けてくる。

 それを躱す様に弁明を繰り返すが、スズカは頑として首を縦に振らない。

 東条は困惑した。

 本当にどうしてしまったのか。いくら何でも頑なすぎる。

 スズカがそこまで『リギル』を大事に思ってくれている事に嬉しく思いながらも、どうすれば良いか思案する。

 されども、この目の前の頑固ウマ娘を理論的に説得できる案は浮かばず。

 仕方が無いので、東条は奥の手を使う事にした。

 

「スズカ」

「嫌です」

 

 あらやだこの子まだ嫌々言ってる……、と思いながらも、東条は徐に立ち上がると机から身を乗り出し、スズカを抱き締めた。

 今度はスズカが困惑する番だった。

 この展開は一体何? でも、おハナさんが次に言う言葉は分かっている。それに耐えれば、きっと大丈夫。

 スズカが決意を固めている間に、東条はスズカを抱き締めたままスズカの頭をゆっくり撫でる。

 

「そんなに我儘を言わないで、スズカ。私も離れたくないんだから」

「ぁ──」

 

 スズカは腕の中で小さく息を呑んだ。

 少し強張っていた身体がゆっくりと解れていく。

 そうして、スズカは理解した。理解してしまった。これはもう覆らないのだと。

 東条は最後まで自分の事を考えて、その上でこの結論を出したのだという事を。

 

「大丈夫。貴方が何処へ行こうと、私が貴方を見出してここまで歩んできた事実は変わらないわ。だから、これからも貴方に夢を見させて?」

「夢──」

 

 その言葉を聞いた時、スズカの脳裏に過る過去の記憶。

 リギルに入ったばかりの頃、東条に掛けられた問い。

 

 ──スズカ、貴方はどんなウマ娘になりたいかしら?

 ──……夢。みんなに夢を見せられるような、そんなウマ娘になりたいです。

 

 どんなウマ娘になりたいかと聞かれ、頭に浮かんだ事をそのまま口にしたあの日。

 その答えを、東条は否定しなかった。それどころか、その夢を見せて欲しいと言われた。

 だから、スズカはその為に今まで努力を重ねてきた。

 そして、それを否定されるのが怖くて、ああやって駄々を捏ねていたのだった。

 

(ああ……)

 

 けれど、今度も否定される事はなかった。

 東条は『リギルのサイレンススズカ』に夢を見ている訳では無かった。

 ただ、『サイレンススズカ』に夢を見ていたのだ。

 スズカの身体から完全に力が抜けていく。

 抵抗するように上げていた腕を東条の背に回す。

 それだけで、十分だった。

 

「ごめん、なさい……」

「貴方が謝る必要は無いわ。悪いのはこうする事しか出来なかった私だから……」

 

 暫しの抱擁の後、東条の腕から解放されたスズカは、『ポラリス』のパンフレットを手に取る。

 不安はまだあるが、東条が自分を任せようとしているチームだ。きっと悪いようにはならないだろうと思った。

 小さく息を吐くと、覚悟を決めたように真剣な表情で東条を見上げる。

 東条も1つ頷くと、改めてスズカを真っ直ぐ見つめ返し、口を開いた。

 

「……スズカ、貴方には今後のメンタルケアやサポートの事を考えて、チーム『ポラリス』への移籍を提案するわ」

「分かりました、その提案を受けます。……今までありがとうございました」

「ええ。あのチームにはあの桐生院家のトレーナーや貴方の同期もいるから、きっと大丈夫よ。だから、また貴方が思いっきり走る所を見せてちょうだい」

「……はい!」

 

 席を立ち、深々と頭を下げるスズカ。

 その姿に東条は何処か寂寥感を覚えながらも頷き、スズカとこれからの事について改めて話を詰めていく。

 

 こうして、サイレンススズカは『リギル』から『ポラリス』へ移籍することが決定したのだった。




それは一欠片の輝き。
かつては自分の中にもあった、熱い炎。
今は消えて久しいそれに、少女によって種火が植え付けられる。
それは大火となるか、燃え上がる事無く消えるか。
確かめる為に、少女は飛び立つことを決意する。
まるで、親鳥の元から巣立つ雛鳥の様に。


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第8話「チーム『ポラリス』」

新年明けまして初投稿です。
今年もよろしく初投稿します。


「移籍?」

 

 翌日。

 食堂で昼食を囲んでいるのはいつものメンバーである。

 そんな中で、スズカがポツリと漏らした移籍の話に最初に食い付いたのは、やはりと言うべきかシャムであった。

 スズカは一度頷くと、『ポラリス』のパンフレットを鞄から取り出して皆に見せる。

 揃って覗き込んだメンバーの内、フクキタルが真っ先に声を上げた。

 

「ここって私が所属してるチームですよ! もしかして、来てくれるんですか!?」

「あ、そうだったの。なら、これからは同じチームメイトね」

 

 やったあ、と無邪気に喜ぶフクキタル。対して、シャムは少し不満げであった。

 早くスズカと同じチームになりたいな、とテーブルに突っ伏して呻くシャム。

 それを見て、スズカはふと思った事を口にしてみた。

 

「シャムちゃん。私と一緒に来てみる? 今日顔合わせするらしいのだけど」

「! 行く!」

「わ、ほんとですか! シャムさんも入るとなれば嬉しいです!」

「ワオ! これが熱い友情というヤツデスネ! ……スズカが移籍してしまうのは寂しいデスガ」

 

 フクキタルと並んで上機嫌になるシャムと、テンションが上下するタイキ。

 そこへ待ったをかけたのはサンドイッチを切り分けて食べていたドーベルだった。

 

「いや、そもそもシャムさんがそこにスカウトされないと意味が無いんじゃ……?」

「え゛っ」

 

 テンションが上がっていたシャムは一転して顔を青ざめさせる。

 いや、分かってはいたつもりなのだ。トレセン学園に所属するウマ娘達が走る為にはチームもしくは専属のトレーナーにスカウトされないといけない事を。

 どこかで逆スカウトしたという話があったような気もするが、それは特殊なケースである。

 兎も角、大抵はスカウトされなければトレーナー付きにはなれないという事だった。

 

「私、この間の選抜レース3位だったから……声なんて掛かるのかな?」

「え? この間の選抜レースの時、結構声を掛けられていたように見えたけれど」

 

 不安そうに耳を垂らすシャムに、首を傾げながらドーベルが返す。

 彼女も同期が出ると聞いて見に行ったのだが、レース後に何度か声を掛けられていたのを見ている。

 尤も、当の本人は泣いて走って行ったので、スカウトは受けていないだろうが。

 指摘されたシャムは頬杖をつくと、ぷく、と頬を膨らませた。

 

「だって、あんまりにも負けたのが悔しかったから……」

「あー、それは分かるわ……」

 

 うんうん、と頷くドーベル。競走本能を持つウマ娘の1人として、負けた悔しさというのは良く分かる。

 そう言う事なら、とドーベルが納得した所で、フクキタルがぽん、と手を打った。

 

「あ、そうです。もしかするとシャムさんなら『ポラリス』に入れるかもしれませんよ?」

「どういう事?」

「いえ、トレーナーさんがこの間の選抜レースで気になる子がいたって言ってたので」

「本当!?」

 

 がば、と起き上がってフクキタルに鼻息荒く詰め寄るシャム。

 いきなり詰め寄られ、少し後ろに引きながらもフクキタルは頷いた。

 

「ほ、本当ですよぉ。なので、一緒に行ってみたら良いと思いますよ? 何なら占いも……」

「あ、いえ、大丈夫よ。それなら一度行ってみるわ」

「それがいいと思いマス! チャレンジ精神は大事デス!」

 

 占いをしようと提案するフクキタルに断りを入れたシャムの横で、タイキが両手を組んで嬉しそうに声を上げる。

 一方、話を切り出したのにここまで放置されていたスズカは若干死んだ目で昼食を食べていたのだった。

 

 

 ⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱

 

 

 授業が終わった後、スズカは東条と共に『ポラリス』のトレーナー室にやってきていた。

 一緒についていくと言っていたシャムには、移籍の手続きが終わってから合流して引き合わせると言って待ってもらっている。

 トレーナー室で待っていた『ポラリス』のトレーナ──―桐生院 茜とサブトレーナ──―桐生院 葵と、書類の交換と挨拶を済ませる。

 

「よし、書類は問題あらへんな。これでキミは正式にウチのチーム『ポラリス』の一員になる」

「よろしくお願いします」

「茜、スズカをよろしく頼むわね」

 

 任しときぃ、と胸を叩いてみせる茜。

 桐生院、と聞いて、厳格な人と為りを想像していたスズカはその様子を見て、少し驚いた。

 茜はそんな口をぽかんと開けているスズカを見ると、あはは、と大笑いする。

 

「驚いたか? ウチは桐生院言うても大阪の分家やからな。東京の本家程お固くはあらへんねん」

「そうなんですか?」

「スズカ。茜のこういう話は耳半分にしておきなさい。茜が型破りなだけだから」

「あはは、照れるやんかハナ」

「褒めてないわよ!」

「そういう所ですよ、お姉ちゃん」

 

 後ろ髪を掻きながら照れる茜に東条と葵が揃って突っ込みを入れる。

 茜は、おお、と大げさに驚いて見せながらまた笑った。

 

「息ピッタリの名コンビやなぁ。3人で天辺取らんか?」

「馬鹿言わないの」

「馬鹿言わないでください」

「あ、あの……」

 

 華麗に天丼を決めている3人にスズカが恐る恐る声を掛けるが、その声は聞こえていないようだった。

 その後、やいのやいのと騒ぐ3人が落ち着くまで暫く時間が掛かった。

 

 

 一通り落ち着いた後、こほん、と咳払いをしたのは茜だった。

 

「まあ、そういう訳やから、スズカには明日からウチのチームの練習に加わってもらうで」

「はい。……今日からでは無いんですか?」

「今日は顔合わせてしまいや。そんじゃ、行こか?」

「分かりました。……あの、おハナさん」

 

 頷いたスズカは、おハナさんの方へ向く。それを見て、東条も居住まいを正した。

 

「おハナさん。改めてこれまでありがとうございました」

「ええ。『ポラリス』でも頑張ってちょうだい」

 

 2人は握手を交わし、それからスズカと茜は『ポラリス』のチームルームへ向かう。

 それを見送る東条の胸には、少しの寂寥感が残ったのであった。

 

 

 ⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱

 

 

 トレーナー室で東条と別れたスズカは、茜と葵と一緒に待たせていたシャムを迎えに行く事にした。

 待ち合わせの三女神像前に向かうと、暇そうに待っていた彼女を見つけたので声を掛ける。

 

「シャムちゃん」

「あ、スズカ! 話はもう終わったの?」

 

 こちらに気が付いたシャムはぴょこぴょこと跳ねるように近付いてきた。

 この女神、こっちに来てから随分と可愛げが出てきた気がする。最初に出会った時とは大違いだ。

 もしかしたら、このシャムが本来の彼女なのかも知れない。そう思うと、自然と笑みが零れた。

 

「ええ。シャムちゃん、こちらが『ポラリス』のトレーナー達さんよ」

「おー、話には聞いとったけど、まさかホンマに来てくれるとはなぁ。どれ……」

「ひゃあぁっ!?」

 

 シャムに隣の茜を紹介するや否や、当の茜がシャムの背後に素早く回るとトモを触り始める。

 いきなりの出来事にピン、と尻尾を逆立て、完全に硬直してしまうシャム。

 

「な、な、な……!」

「ふーん、ちぃーと細っこいけど、ええ脚やな。けど、逃げするには向いてない気ぃするなぁ?」

 

 茜は困惑した声を上げるシャムに構わず、トモを撫で回し続けている。

 余りの展開に、スズカもどう割り込んでいいのか混乱して分からなくなってしまっていた。

 一方、葵はまたか、と呆れたような顔をしていた。

 この異ような事態に一番早く復活したのはシャムだった。

 

「きゃ、あぁぁっ!」

「うおっ、危なッ!」

 

 悲鳴を上げ、固まっていた脚を片方後ろへ向かって蹴り上げる。

 常人ならばまともに受けてしまうと危険なウマ娘のその蹴りを、茜はあろうことか咄嗟に後ろに飛び退いて躱した。

 おっとと、と言いながらスーツをパンパンと払う茜に、スズカは恐る恐る声を掛ける。

 

「あの、何をしてるんですか……?」

「ん? ああ、これな。脚の触診や。トレーナーたるもの、やっぱ脚見んとなぁ」

「だからっていきなり脚を触る人がいる訳無いでしょ!」

「おるで。『スピカ』の西崎とか。まあ、あれはウチが教えたんやけどな。がはは」

 

 がはは、じゃないわよ、とシャムがぷっつん切れた。

 そのまま身体を腕で抱え、庇うようにしながら後ろに下がっていく。

 流石に少しバツが悪くなったのか、茜は申し訳無さそうに両手を合わせた。

 

「あー、その、堪忍な? 見所ある子のトモは触りたくなるねん」

「何なのよ、その悪癖!」

「そうですよ、お姉ちゃん。あれだけ言ったのに相変わらずなんですから」

 

 茜の言い訳に、ゾゾゾ! とシャムが総毛立たせた。このトレーナー、本当にトレーナーか?

 シャムと葵の抗議にも茜は気にした様子は無く、そのまま話を続ける。

 

「まま、ええねん、そんな話は。それより、ウチに入りたい言う事でええんやな?」

「そうだったけど、正直これでどうしようか本気で考えてるわ」

「すまんすまん。一応、今後のトレーニングの事も考えての事やから堪忍してな」

「むぅ……。そこまで言うなら……」

「あの、それで本当に良いんですか……」

 

 今後の為、と言われると少し弱いシャムは、小さく唸ってから渋々と頷いた。

 葵は終始呆れ顔だったが、本人が良いならもう良いか、と諦めた。

 こうしてシャムも『ポラリス』に入る事が決まったのだった。




少女は新しい道を見つけ、歩んでいく。
その道の行く先は、未だ見えず。
けれど、光は見えていた。


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第9話「新天地」

安心沢実装でお財布が安心できないので初投稿です。


 シャムがめでたく『ポラリス』入りを決めた所で、3人揃ってぞろぞろと『ポラリス』のチームルームに向かうと、フクキタルが前髪の一部が白い鹿毛のウマ娘と一緒に机の上で水晶玉と睨めっこしていた。

 

「今日の運勢は……」

「運勢はぁ……?」

「……凶です」

「えぇっ!? 救いはあるのですかぁ……?」

「今日のラッキーカラーは栗毛……つまり私ですね!」

「救いはあったんですねぇ……!」

 

「何やっとんねん」

 

 部屋に入るなり茶番のようなやりとりを見せられた茜が思わず裏手で突っ込みを入れる。

 その突っ込みにフクキタルは、おおっ! と声を上げた。

 

「トレーナーさん! いえ、日課の今日のトレーニング運勢をドトウさんと占っていた所ですよ! トレーナーさんもどうですか!」

「いや、ウチはトレーニングさせる側やろ! やらんわ! フクは後でメニュー増やすから覚悟しぃや」

「ふんぎゃろ! もしかして凶が出たのってこれの事だったんですか!?」

「救いは無かったんですねぇ……」

 

 無慈悲な宣告を受け、頭を抱えて叫ぶフクキタル。隣では鹿毛のウマ娘がとても悲しそうに呟いていた。

 それを横目に、茜は部屋をぐるりを見回して、それから首を傾げた。

 

「アイツはまだ来とらんか?」

「うぅ……あの人ならもう少しで来るって言ってましたよ」

「ほうか。なら先に二人に紹介しとくか。ほら、並べ並べ」

 

 茜が部屋にいた2人を促して並べると、左から順番に紹介していく。

 とは言っても、1人は知っているウマ娘なのだが。

 

「はい! マチカネフクキタルです! まあ、お2人は同じクラスなので、もう知っていると思いますが」

 

 まずは、マチカネフクキタル。

 今は重賞での勝利経験は無いが、スズカは知っている。

 彼女がこの先の神戸と京都の新聞杯、そして菊花賞で勝利する事を。

 そして、その神戸新聞杯で彼女に惜敗した事を。

 折角過去をやり直しに来ているのだから、今度こそは勝ちたい。スズカはそう思うのだった。

 

「私は、メイショウドトウですぅ……。よろしくお願いしますぅ……」

 

 もう1人の気が小さそうなウマ娘はメイショウドトウと言うらしい。

 スズカの記憶に覚えが無いのと、彼女は中等部だと話したので、恐らく怪我をした後にデビューした子なのだろう。

 隣のシャムに目配せをしてみると、スズカだけに聞こえる声で、その翌年にデビューして、『リギル』のテイエムオペラオーと競い合った子だと言ってきた。

 オペラオーが自らを覇王と名乗るだけあってデビュー前から実力十分だった事を考えると、彼女も相当の実力を持っている事になる。

 茜の目が確かだと分かった所で、スズカとシャムの番になった。

 

「『リギル』から移籍してきました。サイレンススズカです。よろしくお願いします」

「スズカと同じクラスのシャムよ。よろしく頼むわ」

 

 お互いに挨拶を済ませた所で、茜がパン、と手を打った。

 

「よし、これで2人は正式にウチのチームや。もう1人はちょいしたら来る思うし、改めて、ウチが桐生院(きりゅういん) (あかね)。『ポラリス』のトレーナーや。よろしゅうな」

「私はサブトレーナーでお姉ちゃんの従妹の桐生院(きりゅういん) (あおい)です。よろしくお願いしますね」

「あ、姉妹じゃなかったんだ……」

「ウチは分家で、葵は本家やからな」

 

「すみません。少し遅くなりました──」

 

 驚いたように声を上げるシャムに茜がそう付け加えた時、チームルームの扉が音を立てて開かれる。

 入ってきたのは松葉杖をついた鹿毛のウマ娘だった。

 その姿を見たスズカは、どくん、と心臓が跳ねたような気がした。

 何故なら、彼女はスズカの良く知る人物だったからだ。

 

「貴方は──」

「君は──」

 

 見つめ合ったまま固まる2人。

 鹿毛のウマ娘は、スズカがここに居るのが信じられないと言った様子で口をぽかんと開けている。

 スズカの方は、安堵の中に少しばかりの憧憬が混じった何とも言えない表情を浮かべていた。

 お互い黙り込んでしまったので、取り敢えず茜は間を取り持つことにした。

 

「お帰り、サニー。怪我の方はどないや」

「あ、ああ……はい。……やっぱり、菊花賞には間に合わないそうです」

 

 彼女──サニーから結果を聞いた茜は目の間を揉むようにしながら唸った。

 少しダービーで無理させたなぁ、とごちるも今となっては仕方ないと切り替える事にした。

 

「んー、しゃあないな……。ゆっくり養生して来年から頑張ろか」

「はい。……ところで、どうして彼女がここに?」

 

 サニーがスズカを示して茜に尋ねる。

 彼女からすれば、『リギル』にいるはずのスズカがここに居る事に疑問を覚えたようだ。

 それに対して、茜が書類を取り出して見せる。

 

「スズカはな、『リギル』からこっちに移籍したんや。……色々あったらしいしな、空いてる時にでも相談に乗ってやってくれんか」

「はあ……分かりました」

 

 未だに疑問符を浮かべながらも頷くサニー。

 どうしてここに来たのかは、追々話す事もあるだろう。

 だけど、今はまず、彼女達を迎えるのが先決だ。

 そう考えて、サニーはスズカとシャムの方へ向いて、改めて自己紹介をした。

 

「改めて、私はサニーブライアンです。……よろしくお願いします」

 

 サニーブライアン。

 逃げ脚で皐月賞とダービーを制した太陽の輝き。

 しかし、ダービー後に骨折が判明し、長期休養の後、復帰前に屈腱炎を発症してしまい、志半ばでターフを去った二冠ウマ娘。

 そして、先頭を走り続けたスズカの憧れの人でもあった。

 スズカはサニーの手を取り、嬉しそうに微笑む。

 

「サニー……。改めてよろしくね」

「貴方がサニーブライアンなのね。私はシャムよ。この間、編入でスズカと同じクラスに入ったの。よろしく頼むわ」

「はい。……ねえ、スズカ。今度、何があったのか聞かせてね」

「……ええ」

 

 2人の挨拶の後、サニーはそう言って、スズカの顔を覗き込んだ。

 その澄んだ橙色の瞳に惹かれるように、スズカは頷いた。

 

「ほな、全員揃った所で、今日のトレーニングと行こか」

 

 そこで茜が手を打ち、トレーニングメニューらしき紙束を用意する。

 桐生院は伊達では無いようで、紙にびっしりと書き込まれていた。

 

「まずウォーミングアップの後、メニューに沿ったトレーニングをやってもらうで。フクキタルだけ坂路2本追加な」

「いやあああっ! ご無体なぁぁぁ!」

 

 茜の仕打ちにひんひん、と泣き叫ぶフクキタル。

 当たり前や、と茜に追い打ちされ、ついに崩れ落ちてしまった。

 

「トレーナーさんの鬼ぃ……悪魔ぁ……」

「そら菊花賞出すんやから、気合入れて鍛えんとアカンやろ。気張りや」

「分かりましたぁ……とほほ」

 

 がっくり肩を落としながらトレーニングの準備をし始めたフクキタルの横で、茜はドトウとシャムにもトレーニング内容を告げる。

 

「ドトウは基礎トレな。しっかり鍛えてデビューに備えるんやで」

「分かりましたぁ……頑張りますぅ……」

「シャムは早々にデビューしてもらうからな。基礎トレに加えて併走とダンスレッスンやるで」

「えっ!? もうデビューするの!?」

 

 当たり前やろ、もうクラシックやで、と茜がぴしゃっと言う。

 確かにクラシックの半ばを過ぎているシャムは出来るだけ早急に仕上げてデビューする必要があった。

 本格化は始まってるみたいだし、早めが良いだろうという判断からだった。

 しかし、裏を返せば、詰め込む分かなりトレーニングが大変という事でもある。

 

「えっとぉ、あの、手心とかは……」

「あるかいな。安心せぇ、詰め込む分、1つ1つは軽めや」

「安心できる要素どこ……」

 

 ええから準備せぇ、と急かされたシャムも肩を落としながら準備し始める。

 残された2人はどうするのか、と思っていると、茜は大きなスポーツバッグを渡してきた。

 渡されたスズカは首を傾げて茜に尋ねる。

 

「トレーナーさん、これは?」

「2人は走れんからな。皆のサポートをお願いするで」

「えっ……」

 

 茜に言われたのはトレーニングでは無く、他3人のサポートをする事だった。

 それに対して、スズカは食い下がるように少し声を荒げる。

 

「私は基礎トレーニングぐらいなら出来ます。それに、少しなら走る事だって──」

「今日ぐらいゆっくりしてもええやろ。な?」

「──それなら、分かりました」

 

 茜の言わんとしている事を理解したスズカは、それ以上は何も言わずに頷いた。

 気を遣ってくれたんだろうな、と思うと同時に、サニーとどう話せばいいのか、何を話せばいいのか、それが分からなかった。

 サニーの方もスズカの方を心配そうに見ているだけで、同じように迷っているようだった。

 2人の間に微妙な空気が流れる中、シャムだけが少し不満そうにそれを見ていた。

 

 ──こうして、どこかぎくしゃくしたまま、『ポラリス』での最初のトレーニングが始まろうとしていた。




北極星に導かれ、少女はかつての太陽と出会う。
斜陽の中にあるその太陽に、彼女は何を見出すのか。


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第10話「太陽と沈黙と」

古戦場とチャンミとポケモンに忙殺されていたので初投稿です。

※誠に勝手ながら、今回から21時更新に変えます。悪しからず。

※話数統合のお知らせ
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=275760&uid=21044


 準備が終わった『ポラリス』の面々は、それぞれのトレーニングを始める。

 スズカとサニーはそのサポートを行いつつも、お互いに何を言えば良いのか分からないまま、時間だけが過ぎていった。

 

「あの、スズカ」

 

 トレーニングもある程度終わり、少し空き時間が出来た頃、最初に口を開いたのはサニーだった。

 すぐ近くにはベンチに座っている2人以外に人影は無く、成程、話を切り出すには丁度良かった。

 スズカは茜に頼まれて書いていたメモに走らせていたペンを止めると、顔を上げる。

 

「どうしたの?」

「ん、この間の事、聞いたから。大丈夫じゃないだろうけど、大丈夫かなって」

「……そうね。まだ大丈夫じゃないけど、少しずつ前には行ってると思うわ」

「……そっか」

 

 少し不安げにしながらスズカの顔を覗き込んでくるサニーに微笑みながら、スズカはそう答えた。

 それを聞いたサニーは、ふと表情を和らげる。

 今度はスズカが質問して見る事にした。

 

「サニー。サニーの方は……?」

「私? ……うん、大丈夫だよ。菊花賞は行けなくなったけど、まだ走れなくなった訳じゃないから」

 

 そう言って、サニーはギプスで固められた左脚をそっと撫でる。

 そのギプスを見た瞬間、かつての自分を思い出してしまって悪寒が背中を走るが、咄嗟に目を逸らして深呼吸する事で何とか耐えた。

 

「スズカ……?」

「ん……。何でも無いわ」

 

 目聡くそれを見つけたサニーに、スズカは首を振って何でも無いと誤魔化す。

 しかし、その言葉ではサニーは納得しなかったようだ。

 顔に手を添えられ、向きをサニーの方へ変えられた。そのまま、じぃ、と真っ直ぐ見つめられる。

 まるで心の奥まで見透かされそうな澄んだ橙色の瞳に、スズカは僅かにたじろいだ。

 

「サ、サニー?」

「私、さっき言ったよね。何があったか教えてもらうって。──ね、教えて。スズカ」

 

 なんとまあ、このサニー、圧が強い。

 記憶の中の彼女は、もっとこう、儚げというか、慎ましい少女だったような気がする。

 あの時もそれなりに付き合いがあった筈なのだが、あるいはこちらが本来の彼女なのだろうか。

 スズカは少し悩んだ後、さっき約束したのだからと彼女の質問に答える事にした。

 そのまま伝えようとしても先日の東条とのやり取りの焼き増しになるので、ある程度ぼかして自分の事を話していく。

 脚に大きな怪我を負い、走れなくなるような“夢”を見てから走る事が怖くなったのだ、と。

 エアグルーヴとの会話では問題無く話せていたから、こういう表現であれば大丈夫だろう。

 必要で大切な事とは言え、女神も面倒な制約を付けたものだ。

 そうして話し終わると、サニーは何と言えば良いのか分からないという表情をしていた。

 

「……それだけで走れなくなるなんて、ありえるのかな。スズカ、本当にそれだけ?」

「それは……」

 

 スズカはそれ以上言わなかった。──言えなかった。

 本当の事を話した所でサニーに届くのは雑音だけ。

 これ以上不安がらせるぐらいなら、いっそ──。

 

「スズカ」

 

 少し強い口調でサニーに名前を呼ばれ、びく、と肩を震わせる。

 ちらり、とサニーの様子を窺うと、耳を後ろに伏せ、目を細めて、じぃ、とスズカを見つめていた。

 これは、逃げられないな。スズカはそう思った。

 東条の時もそうだったが、我ながら案外ちょろいものである。

 届かないと分かりつつも、こうして答えようとしているのだから。

 

「……サニー」

「なぁに?」

「ごめんなさい」

「えっ?」

 

 いきなりの謝罪にサニーは面食らったような表情を見せる。

 それから、もしや教えたくないとでもいうのかと言いたげな目でスズカを見てくる。

 スズカは首を横に振ってそれを否定し、1つ深呼吸してから口を開いた。

 

「そんな事は無いわ。──けれど、きっと貴方には届かないだろうから」

「スズカ? 何を……」

「────」

 

「…………?」

 

 スズカの口から零れ出た真実は、やはりサニーの耳には届かなかった。

 疑問符を浮かべて首を傾げているサニーを横目に、スズカは立ち上がる。

 その目線の先には、クールダウンを終えてこちらへ戻ってくるチームメンバーの姿があった。

 

「……ごめんなさい。やっぱり、今のは忘れて」

「待って、スズカ──」

 

 ──サニーが伸ばした手は、既に背を向けていたスズカには届かなかった。

 

 ⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱

 

 去っていくスズカをそのまま見送るだけになったサニーは、トレーニングが終わった後に茜のトレーナー室にやってきていた。

 目の前には、スズカの資料と睨めっこしながら首を捻っている茜と葵の姿があった。

 

「トレーナーさん、サブトレーナーさん」

「あ、お疲れ様です。サニーさん」

「ん、サニーか。どやった?」

 

 声を掛けると、2人とも顔を上げてサニーに挨拶を返す。

 その中で茜が質問を投げ掛けてきた。

 それに対して、サニーは小さく横に首を振る。

 

「……駄目でした」

「あぁ……」

「おおもう……」

 

 返事を聞いた茜は目の間を揉み解す様にしながら呻いた。

 それから足元に置いてある備え付けの小さな冷蔵庫から茶色の箱を取り出し、横の蓋を開ける。

 一緒になって頭に手を当てて天を仰いでいた葵がそれを見てジト目で牽制するが、箱の銘柄と中身を見るとやれやれといった風に溜息を吐くだけに留めた。

 緑の箱であれば鉄腕奪取しなければならない所であった。

 茜はそんな葵を気にせずに、中に入っていた一口チョコレートを1つ摘まんで口に放り込む。

 柔らかくて甘い味が口いっぱいに広がっていく。疲れた時はこれに限る。

 そのまま一口分食べ終わると、ふぅ、と息を吐きながら困った様にサニーの方を見た。

 

「つまり、サニーもハナみたくスズカの言うた事が文字通り分からんかったっちゅうわけやな」

「はい。スズカの言おうとしていた事を唇からも読もうとしましたが、それも出来ませんでした」

「厄介やなぁ……」

「そうですねぇ……」

 

 そう言って、チョコレートをもう1つ摘まんでポリポリと齧る茜とちゃっかり1つ頂いている葵。

 サニーが昼にスズカに話を聞こうとしていたのは、もちろん自分が知りたかったという事もあるが、茜にも頼まれていたからだった。

 東条から聞いていた『スズカが何かを伝えようとした時にその内容を理解できなかった』という話の裏付けを取りたかった茜は、まさにその通りだった話の内容に少し頭が痛くなった。

 

「どないしたもんかなぁ。スズカは何を知っとるんや……?」

「分かりません。何も。まるで呪いか何かのようで──」

「このご時世に呪いも何もあるかいな。そんなん信じるんはフクぐらいで十分やわ」

「そうですよ。そこまで考えると、もう何でもありになりますよ?」

 

 左手を立てて横に振り、サニーが口にした言葉を否定する茜と葵。

 ただ、サニーの言葉がいやに耳にこびり付いて離れない。

 言葉にならない言葉。口元にさえ表れない言葉。

 それらが魚の小骨の様に喉に引っ掛かっているような。そんな嫌な予感が確かにあった。

 茜はそれを振り払う様に頭を振って、1つ大きく溜息を吐く。

 

「兎も角、理由が分からん事には対応も決められへん。暫くは様子見やな……」

「あの、トレーナーさん……」

「ん、なんやサニー?」

 

 綺麗な黒髪をわしわしと搔き乱してそう呟いた茜に、サニーが恐る恐るといった様子で尋ねてくる。

 髪から手を離し、最後の一粒を口に入れながら聞き返すと、サニーは耳を伏せて俯き気味に口を開いた。

 

「スズカは、スズカは走れるようになりますよね……?」

「……分からん。次のレースまでに何とかするしかあらへんのやけど……」

「次のレース、ですか?」

 

 茜は頷くと、空になった菓子箱をゴミ箱目掛けてシュートした。

 カコン、と小気味良い音を立ててゴミ箱の中に吸い込まれていったそれを見送った後、葵に目配せすると、葵は頷いて持っていた資料の中から1枚の紙を抜き出して机に置いた。

 

「ハナに(もろ)た今年一杯までのスズカのレーススケジュールや。これによると、次の予定は9月にある神戸新聞杯っちゅう事になっとる」

「もう残り3か月あるかどうかじゃないですか……」

「せや。やけど、間には夏合宿もあるし、幸い回復の兆しも僅かながらある。勝負所ならそこや」

「……分かりました、トレーナーさん。私も頑張ってスズカを支えますから」

 

 卓上カレンダーを捲って、7月に引かれた夏合宿のスケジュールを険しい顔で見つめる茜。

 それを見ていたサニーは、両手をぐっと握り締めて身を乗り出した。

 やる気満々と言った様子のサニーに、茜は嬉しそうに小さく笑い、それからいやいや、と裏手で空を叩いた。

 

「気持ちは嬉しいけど、まずは治療に専念しぃや。自分の事が疎かになるのは良ぅないで。来年もあるんやし」

「うっ……。はい……」

「兎に角、報告ご苦労さん。今日はゆっくり休みや」

「分かりました。お疲れ様です」

 

 1度頭を下げてからサニーがトレーナー室を退室していった後、残された2人はスズカの資料のとある1枚に視線を落とした。

 そこには、スズカが走れなくなった事に関する東条の知見が記載されていた。

 

 ──先日、エアグルーヴから、サイレンススズカは現実でさえ走る事が怖くなる程の大怪我をした夢を見たらしい、という報告があった。

 ──サイレンススズカ自身にそのような大怪我をした経験は無い筈だが、夢に見る程に強烈なショックを受けたと考えるなら、直近にそうなる可能性のある出来事はあった。

 ──サニーブライアン。日本ダービー直後に判明した彼女の骨折が、サイレンススズカにショックを与えた可能性だ。

 ──ただし、それはあくまでも可能性の1つであるという仮定でしかない。

 ──なぜなら、サイレンススズカが不調になった日には、まだサニーブライアンの骨折が判明していなかったからだ。

 ──これは推測の域を出ない話だが、サイレンススズカは夢ではなく、何か別の要因によって走れなくなったのではないか。それを夢に置き換えたというだけの話ではないか。

 ──ならば、その要因こそが、彼女が伝えようとして伝えられなかった話の内容ではないか。

 ──私の方で考えられるのはここまでだ。サイレンススズカを、どうかよろしく頼む。

 

「夢やなく、別の要因、か」

「何だろうね? お姉ちゃんは分かる?」

 

 読み終えた資料をパサッと机に放り投げ、椅子の背もたれに身体を預けながら新しく取り出した菓子箱を開ける。

 中に入っている小粒のチョコレートをパクパクしながら従妹の言葉に頭を捻っていたが、やがて手を止めるとポツリと呟いた。

 

「……実は見た夢が予知夢やらなんやらで、これから出るレースのどっかで骨折するて分かったから……やったりしてな」

「もう。お姉ちゃんまでフクキタルさんみたいな事言って……」

「せやな。まさかそんな事あらへんよなぁ。今のは忘れてや」

 

 ふと頭に思い浮かんだ荒唐無稽な妄想を振り払った茜は、葵の冷静なツッコミに肩を竦めた。

 そんなバカな話などある訳が無い。ファンタジーやメルヘンじゃあないんだから。

 そう思い直し、また1つチョコレートを齧るのだった。

 

 ──事実は小説よりも奇なり、である。




少女の言葉はいつも届かなかった。
しかし、少女の想いはいつか届くだろう。


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