ようこそイートス探偵事務所へ (ゾネサー)
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ようこそイートス探偵事務所へ

 心地よい風が窓を開けた少女の金髪を揺らし、暖かい朝日が頬を照らした。彼女にとって二階から覗く景色は見慣れたものだったが、ふと蝶々が群青色の花の蜜を吸っているのに気が付く。イートス国にしか咲かないと言われるシルフィが一面に咲き誇る庭はお気に入りの光景であり、そんな光景の些細な変化に気付けた彼女は上機嫌でドレスに着替えていった。

 

(今日も一日、頑張れそうだわ)

 

「し、失礼します。アイリス様」

 

 ノックから少しして彼女と同じ年頃の女性が入室してくる。彼女ほど煌びやかではないものの立派なドレスに身を包んでいるのだが、どこか自信なさげに手を合わせていた。

 

「ミーナ。二人きりの時は畏まらなくて良いのよ」

 

 そんな彼女を迎え入れたアイリスは膝を曲げて赤髪に手を伸ばしていった。

 

「でも……いくら幼馴染でも、あなたの立場を考えたら……」

 

「外では体裁上仕方ないと思うけれど、普段も他人行儀だとわたくしも寂しいのよ。だからお願い……ね?」

 

「……そっか。うん……そうだよね。分かったよ! アイリスちゃん」

 

 あまり見ないアイリスの顔を目にしたミーナはその願いを真摯に受け止めると、傾いていたリボンを直したアイリスの顔にあどけない笑みが浮かべられたのだった。

 一階に降りた二人が朝食を摂り終えてしばらく経った頃、訪問を告げる鐘の音が響き渡った。ミーナが客をもてなして応接間へと連れてくると、待っていたアイリスがドレスの裾を持って頭を下げる。

 

「ようこそ、イートス相談所へ。お待ちしておりましたわ」

 

「お目にかかれて光栄です。アイリス殿下」

 

「わたくしのことを知っておられるのですね」

 

「勿論です。なにぶん今の我が国の君主であられますから。……お父上は素晴らしい方でした」

 

「……ありがとうございます。若輩者ではありますが、一刻も早く父に近付けるよう尽力いたしますわ」

 

 アイリスの出産と引き換えに母を失った彼女にとって父は頼れる親であり、また民に愛される誇り高き王であった。小さな国家であるイートスが栄えたのは彼の功績が大きかった。そんな父も半年前に病気で亡くなってしまい、アイリスは十六歳という若さながら国を治めることに。王の位に就いたとはいえ実績のない彼女は名もあまり知られておらず、経験の浅い頼りない王というだけの認識が珍しくなかった。

 

(父さんはよく言っていたわ。民の声は国家の現状を語ると。そのため王でありながら、身分を問わず国民の相談をよく受けていた……。それを引き継いだ。……と言えば聞こえはいいけれど、真似事に過ぎないのかもしれない……)

 

「……アイリス殿下?」

 

「あっ……! し、失礼しましたわ。さあ、腰をお掛けになって」

 

(……いけない。こんな時に、自分のことを考えてしまうなんて)

 

 考え込んでいたアイリスは自らを戒め、木製のロッキングチェアに客が座った後、対面にある席に腰を落とした。シルフィから作られた紅茶をカップに注いでそれぞれの前に置いたミーナがアイリスの傍で佇むと話が始められる。

 

「旅商人をしているガリウスと申します」

 

(旅商人……決まった店を持たず、商品を売り歩く者ですね)

 

「初めまして、ガリウスさん。今日はどういった相談を……?」

 

「『バルク』について、話を聞いてもらえればと」

 

「分かりましたわ」

 

 バルクはイートスの発展に大きく寄与した貴重な黄色い鉱石。イートスは数少ないバルクの名産地で、一帯で産出量で敵う国はいなかった。

 

「商業に安全という言葉は無い、というのが商人の常識ではありますが。それでもバルクは異国に持っていく手間さえかければ、ある程度安定して十分な利益が得られました」

 

「今は、どうなのでしょう?」

 

「実はもう三ヶ月近く続いているのですが、相場が大幅に下がったままなのです」

 

「……! 以前と比べてどれほどの影響が?」

 

「構成員の共存共栄のために商人ギルド内では品質や価格は維持するのが決まりなのです。それが不明の原因によりこうも下がってしまうと……大打撃と言わざるを得ません」

 

「それほどの損害が……。……原因は不明と仰ったけれど、価格が下がるということは考えられる原因は大きく分けて二つ。需要が減ったか、供給が増えたかではないでしょうか」

 

「ええ……その意見には賛成です。しかしバルクの需要が減るというのは考えづらい。イートスの技術力ではあまり生かせませんが、異国なら鉱物資源としての有用性は高いからです」

 

(鉱物は単に存在しているだけでは価値は生まれず、技術を持って社会に利用される場合に初めて資源として価値が生まれる……。ガリウスさんの言っていることは理解できますわね)

 

「そうであるならば、供給が増えたことが原因ではないでしょうか?」

 

「そう考えられます。ただ価格下落が起こるほど採掘量が上がったなら必ず我々の耳にも入るので……」

 

「今回の場合、供給と採掘量が必ずしも直結するとは限りませんわ。鉱物はある程度貯蔵されるはず。それを買い占めた者がいれば、供給も増えるのでは……」

 

「それはその通りなのですが……。……申し上げにくいのですが、バルクを含めた鉱物を仕入れられるのは商人ギルドに加入している者と、国家だけなのです」

 

「……!」

 

(国の仕入れは商業を目的にしたものではなく、また商人ギルドも価格の維持という暗黙の了解がある。つまりこの仮定が正しいとすると、どちらにせよルールを破っていることになるわね……)

 

「親方にも報告をしたのですが、これも商人の定めと受け入れるしかないと言われまして……。僕も一商人として理屈は分かるのですが、なにぶんこういった事情から不自然さを拭いきれず……こうして相談に伺った次第です」

 

「……なるほど。事情はよく分かりましたわ。…………」

 

 事情を聞き終えたアイリスは悩んでいた。今の自分が把握している現状や知識では彼の抱く不自然さを拭うのは難しいと感じていたからだった。

 

「……あの。よ、よろしいでしょうかっ」

 

 そんなアイリスの顔を見つめていたミーナは視線を前に向け、意を決した面持ちで手を挙げた。

 

「ん……あ、はい。なんでしょう?」

 

「どうしてこのことをアイリス様に相談されようと思ったのでしょうか?」

 

「そのことですか。今回の件を迂闊に相談してしまうと……憶測に過ぎないにも関わらず、商人ギルドや国家のあらぬ噂が広がってしまうかもしれない。なので信頼できる方に相談したいと思ったのです」

 

「確かに……その通りかもしれませんね」

 

(父さんならば……良い案を提示出来たのかもしれない。話し相手になって次々と悩みを解決していく姿はわたくしの憧れだった。わたくしにはそれが出来ない。……けれど、この方はそんなわたくしを信頼できる相談相手だと思って来てくださった。ならば……わたくしに出来ることをやってみましょう)

 

 質問の答えを聞いたアイリスは腹を括り、翠色の瞳でガリウスの目を真っ直ぐ見据えた。

 

「調査の時間をいただけませんか?」

 

「調査……ですか?」

 

 ガリウスは最初その言葉にピンと来ておらず、次第にその意味するところを察すると、にわかには信じ難いといった表情で確認をした。

 

「それは……。……側近の方が、という意味でしょうか」

 

「ミーナ……事情を共に聞いた彼女にも協力してもらうつもりではあります。なのでわたくしたちで、という意味です」

 

(アイリスちゃん……)

 

(やはり……君主自身が調査をすると仰っているのか)

 

「……確かに調査をしていただけるのであれば、これ以上なく有難い。しかし君主にそのようなことをしていただくのはあまりにも申し訳ない……」

 

「調査を他の者に頼むという手もありますが……今回の話は不必要に広めるべきではないと存じます。あるいは国家に不届き者がいる、そういった可能性も考えるべきだからです」

 

「アイリス殿下……」

 

「……それに折角わたくしに相談してくださったのです。今のわたくしに出来るのは……これくらいですから」

 

「……十分です。是非こちらからお願いしたい」

 

 彼女の言葉を聞いたガリウスは立ち上がり、頭を下げて正式に調査を依頼した。そして依頼を承諾したアイリスはミーナと共に街へと調査に出かけたのだった。

 

「……もうっ。アイリスちゃんが街に出てるのに誰も王様だって気付かないなんて」

 

「ミーナ、それはあまり良い見方ではないわ。考えづらいことをしているのはこちらの方なのだから」

 

「そ、そっか」

 

 来客に会うために着ていたドレスから一転して軽装に着替えた二人は雑多な人混みに紛れていた。アイリスは小声で不満を漏らすミーナを嗜めながら、はぐれないように手を繋いだ。

 

「巻き込んで悪いとは思うのだけど……さっきもミーナの支えが無ければ、心の整理がつかなかったわ。あなたに、共にいて欲しかったの」

 

「……えへへ。今度はアイリスちゃんが畏まってるね」

 

「あ……」

 

「良いんだよ。私たち、友達なんだから」

 

「……ありがとう」

 

 人の集まる通りを抜けた二人はそっと手を離した。しかし感じた温もりは残ったままだった。

 

「……それで、どこから調べるの?」

 

「まずは炭鉱組合に話を聞きにいくわ。座学で得た知識だけでは対処が難しいし、確認したいこともあるの」

 

「分かった!」

 

 こうして二人は炭鉱組合のある事務所を訪ねた。木製の扉を開くと立て付けが古く、軋んだ音が事務所に響く。既にほとんどの者が現場に出向き、一見して誰もいないと思うほどの空間、その奥で四十代半ばの歳の男性が顔を上げた。

 

(珍しいお客さんだな)

 

 その音が彼にとっては来客の合図だった。扉を開けたアイリスを好奇の眼差しで見つめていると、それに気付いた彼女たちが彼のもとへとやってくる。

 

「初めまして。あなたがここの責任を担っている方でしょうか?」

 

「そうだよ。……うちで働いてみるかい?」

 

「私たちがですかぁ……!?」

 

「ふふっ、面白い方ね。生憎だけどカップより重い物を持ったことはないわ」

 

「ええっ!?」

 

「はっはっは! 冗談の分かる嬢ちゃんだ」

 

「……? ど、どういうこと?」

 

「からかわれたのよ」

 

「そうだったの……!?」

 

「ははは! そっちの嬢ちゃんは違った意味で面白い子だな。ここで働くっていったら当然力仕事だ。その華奢な腕を見て誘うやつはまあいないわな」

 

「うう……どうやって断るか真剣に考えたのに」

 

 来客の期待以上の反応に男は豪快に笑った。ミーナが入りすぎた力を抜くように肩を落としていると、ようやく落ち着いてきた彼が片手を上げて一応の詫びを入れる。

 

「悪い悪い。最近暇な時間が増えたもんでな」

 

「……それはバルクの相場が下がったことで仕入れが減ったから、でしょうか」

 

「よくご存知で。今までと打って変わって商人が買わなくなったんでな。とはいえこっちは国が仕入れてくれるんで食いっぱぐれの心配がねえから、そういう意味では損害の大きかったあっちの方が大変かもな」

 

「……! そうなのね……」

 

(父さんはこういった事態も考慮していたのかしら。……それを知るためにも、もっと色々なことを聞いて学ばなくては)

 

 イートスでは貴重なバルクが採れる代わりに、他の鉱石の採掘量は芳しくなかった。そのためバルクが売れなくなれば鉱業自体の存続が危ぶまれるとアイリスは考えた。

 

「他にも質問があるのだけど……良いかしら」

 

「……お好きなだけ聞いてもらって構わないよ」

 

 沸き上がる気持ちを抑えながら尋ねたアイリスに対し、彼は一瞬の間の後、自らの胸を軽く叩いた。

 

「では、まずは……近年バルクの採掘量は大きく変わっていないのでしょうか」

 

(あれっ。そのことはガリウスさんが答えていたような……)

 

「ああ、大して変わってないよ。異国も相変わらずほとんど見つかってないままだ。炭鉱組合として断言しても良い」

 

「そうですか……では、盗難の被害は出ていませんか?」

 

「ここ数年出てないよ。なにせ鉱石の貯蔵は炭鉱組合にとって命に等しいから。簡単に盗まれないようにしているし、現場責任者と俺が毎日チェックしてるんだ」

 

(……管理が杜撰ということは無さそうね)

 

「あ、でも……鉱山の方から気付かれないようこっそり盗まれてる、なんていうのはどうでしょう?」

 

「それも難しいな。昼は俺たちがいて気付くし、夜は日が差さなくて危険だ。命知らずな奴が一回だけ奇跡的に成功することはあっても、奇跡は二度続かないさ」

 

「……?」

 

「今回の件は三ヶ月近く続いている……一時的な方法が原因とは考えにくいということですわね」

 

「あっ! そっか……ごめんね、出しゃばっちゃって」

 

「良いのよ。わたくしも見逃していた可能性だったし、今ので気付けたこともあったわ。今後もなにかあれば言ってちょうだい」

 

「分かった! 私も頑張って考えてみるね!」

 

「……それで、作業のことについて聞きたいのだけど。作業は各々で行っているのでしょうか?」

 

「いや、安全のために必ず班を組む規則がある。無闇にバラけさせるより作業効率もいいしな」

 

「その班についてですが……毎日同じ者同士で組まれるのかしら」

 

「月に一度再編成されるよ。閉ざされた空間で単純作業の繰り返しだから、組んでる奴までずっと同じだと精神的にきついって意見が昔出てな」

 

「……! そうなのですか」

 

(ということは結託して作業員が盗難している可能性も考えづらい……。現場からの盗難、という着眼点は新しかったけれど)

 

「……色々と教えていただきありがとうございました」

 

「お役に立てたかな」

 

「ええ」

 

(現場を知る者でしか分からないことを知れたもの。発掘現場と貯蔵庫からバルクを気付かれないよう持ち出すのは難しい。つまり……今回の件に炭鉱組合は関わっていない)

 

 聞き出した情報から結論を導き出したアイリスは男に頭を下げると、背を向けて炭鉱組合から出ていった。木が軋む音を背にして彼は目を瞑る。

 

(懐かしいな。昔のお前もあんな目をしていた。……もう半年、か。話し上手だったお前と違って中々危なっかしいが……それが面白くもある)

 

 音が途切れた瞬間に目を開けて振り向いた彼は穏やかな微笑みを湛えていたのだった。

 

「ねえ、アイリスちゃん。どうして採掘量のことをあの人にも聞いたの?」

 

「情報の信憑性を高めるためよ。特に彼は炭鉱組合の責任者だったから、これ以上の裏付けはないと思ったの。……一人だとどうしても見落としが起こり得る。さっきのわたくしみたいにね」

 

「そっか、そういうことだったんだ。……じゃあ、その。言ってみてもいい?」

 

「是非教えて欲しいわ」

 

「供給が増えたから相場が下がった……とは限らないと思うんだ。たとえば……たとえばだよ? バルクにおけるイートスの技術力は異国に劣ってるって話してたよね。だから、そのことに気付かれて足元を見られた……ってこともあるんじゃないかな」

 

「あ……。確かに、あり得る話ね。ただ……」

 

「うん。商人ギルドの人が知らない事情とは思いにくいね。けど今のアイリスちゃんは……さっき話してた思い込んでる状態かもって」

 

「……そう、ね……。その通り、だわ」

 

(盗難という可能性を強く疑ったのも、ミーナの言った通り思い込みが原因……ね。過剰供給が原因、ということだけではなく……ルールを破っていることがいつの間にか前提になっていたのかもしれないわ)

 

 無意識のうちに考えが狭まっていたことに気付き、アイリスは自分の未熟さを痛感していた。

 

(……わたくしの視野はまだ狭い。広げていかなくては)

 

「ありがとうミーナ」

 

「えへへ、どういたしまして。大丈夫だよっ。私だってアイリスちゃんがいなかったら気付かなかったこと沢山あるし、二人で頑張ろ!」

 

「ええ! 頼りにしているわ。……今の話を聞いて思ったのだけど、わたくしたちはイートスの技術が実際どれほどのものか知らないわね」

 

「じゃあ次は手工業(クラフト)ギルドに行ってみよう!」

 

「そうね。お話を聞かせてもらいましょう」

 

 炭鉱組合を後にした二人は次なる目的地、クラフトギルドへと足を運んだ。作業場を兼ねているため、現場ではひっきりなしに音が響いていた。二人は慣れない音に驚きつつ、奥の方へと進んでいく。

 

「……あら……? このロッキングチェア、うちにあるのと同じ物だわ」

 

「本当だ。……って、もー。話を聞きに来たんでしょ」

 

「ご、ごめんなさい。わたくしが生まれる前から家にあったものだから、つい気になって……」

 

 作業場から少し離れた場所、完成品を仮置きしているスペースにアイリスは目を奪われ、思わず立ち止まる。しばらく見ていると見覚えのあるロッキングチェアに目を見張った。そんな彼女に気付いたミーナが珍しそうにしながらも腰に手を当てて本来の目的を指摘すると、意識がそちらに向かっていたアイリスは我に返り頬を少し赤らめた。

 

「……ほう。お主が生まれる前というと、そいつはお得意さんにしか作ってなかったがのお」

 

「……! い、いつの間に……」

 

「随分興味を持っていたようじゃな。そっちの女子(おなご)は気付いていたようじゃったが」

 

「失礼しましたわ。こちらから訪ねておきながら……」

 

「構わんよ。それだけ思い入れがあるなら、作った甲斐があるというものじゃよ」

 

「……! あなたが作られたのですか……」

 

「今は弟子もおるが、昔はわし一人だったからの」

 

「そう、なのですか……。……実はこの椅子は母が好んだ物なのです」

 

 アイリスは今でも残してある母の部屋を掃除した後、そこにある使い古されたロッキングチェアに座って日に当たる時間が、まるで母の温もりを感じているようで好きだった。

 そして今不意に母に手が触れたような、そんな気がして嬉しかった。

 

「それは良い目をしておるな。わしは今でこそ有名じゃが、昔はそこまで名が知られてなかったからの」

 

「……ええ。家具に対する拘りが強かったと、聞いていますわ。『豊かな生活は良い家具に囲まれるところから始まる』が口癖だったとか」

 

「……うん。私も聞いたことがあるよ。お母さんがよく聞かされたって」

 

「ふふっ。折角だし、何か一つ買っていこうかしら?」

 

「そうすると良い。ここに置いてある物を買ってもらって構わんよ」

 

「え……良いのですか?」

 

「ああ」

 

「……ではお言葉に甘えて」

 

 イートスのクラフトギルドでは本来売買はされておらず、アイリスもそれは承知の上での冗談だった。思わぬ許可を貰ったアイリスは胸を高鳴らせ、木製品を物色する。

 

「これにしようかしら。形がわたくし好みだわ」

 

「綺麗にカーブしてるね。職人の技って感じがするよ!」

 

「……なんといっても、木製品には削る技術の繊細さが欠かせんからの」

 

 アイリスが楕円形のマグカップを手に取ると、老人は目を皿のようにして驚いていた。

 

(まさかわしが作った物を選ぶとは……。あまり作れておらんのにのう)

 

 その理由は弟子の指導などで忙しく、最近自身の作成はほとんど行えていなかったからだった。アイリスが紐付きの小さな袋に手を入れ、指がツルツルした側面に触れると、正体であるコインが三枚取り出された。感慨に耽っていた老人はハッとした表情を浮かべ、それを受け取る。

 

(良い買い物をしたわ。…………さて、浮かれてばかりもいられないわね。技術のことを聞く良い機会ね)

 

「削る技術はそれほどまでに凄いのですね」

 

「こればかりは異国にも引けは取らんよ。この老いぼれが一生をかけて磨き上げてきたもんじゃ」

 

「分かりますわ。ただ一つ、気になることが……」

 

「ん?」

 

「折角そのような技術があるのに……ここで作られているのは木製品ばかり。他の……たとえば我が国の名産品である、バルクの加工品などはお作りにならないのかしら?」

 

「……作らないというより、作れないのじゃよ」

 

「それは……どういうことでしょうか」

 

「木と違って希少性の高いバルクは利益が出やすい……。だからじゃろうな。その利益をせしめようと奴らはバルクを独占しておるんじゃ」

 

「……!? まさか……」

 

(これまでの情報から考えるに、今回の件で損害を大きく受けた……)

 

「商人ギルドが……バルクを独占しているのですか」

 

「そういうことじゃな」

 

「ええっ!? そんな……!」

 

(……確かにバルクの購入が商人ギルドと国家に限られていることは耳にしていた。けれど……)

 

「……普通は商人が仕入れを行い、手工業者に加工を依頼、その加工品を受け取った商人が出荷して利益を得、そこから一定の割合を手工業者に依頼料として渡す……。そういう仕組みと認識しているのですが……」

 

「そういうケースもある。いや、本来ならそれで問題ないんじゃ。だが……奴らは、ロレンツ王が病にかかった頃から顕著に市政を掌握し始めた。商人ギルドそのものがルールと言えるくらいにな……。そして市政という形で、バルクの価値を守るという名目で、商人ギルドのみバルクの仕入れが可能としてしまったのじゃ」

 

「……なっ……!? そ、そんなことを……!?」

 

(もしそれが事実なら許せないわ……!)

 

(……アイリスちゃん)

 

「あの、それって本当なんですか……?」

 

「ここを見ればよく分かるじゃろう。市政には背けん……わしらは商人を通す以外の方法で仕入れることが出来なくなった。足元を見られて十分な対価は払われず、せめてもの抵抗でバルクの加工は拒否するようにした。奴らにとってはバルクの市場を独占したも同然じゃからな……それでも構わなかったらしい」

 

(……なんてこと……。それはつまり、商人敵を無くすために市政を利用しているということじゃない……)

 

 名産品のバルクの加工が一切行われていない現状にアイリスは思わず口を閉じた。それでも向き合おうと、半ばこじ開けるように言葉を絞り出す。

 

「……それでは、バルクの加工技術が異国より劣っているというのは」

 

「もし奴らが正当な機会をわしらに与えていたら、機械の補助こそ必要にはなるじゃろうが、削る以上の技術も発達して異国との差も少しずつ埋められただろうに……」

 

「でも……それは商人ギルドの人たちにとってもマイナスなんじゃないかなって思うんですけど……」

 

(……確かに。加工技術が発達すれば、原材料を売るよりもっと儲けに繋げることが出来るわ……)

 

「長い目で見れば、な。奴らは目先の利益しか見ておらんのじゃよ」

 

「そんな状態が続いていて……おじいさんたちは大丈夫なんですか?」

 

「わし一人ならどうにでもしてみせる。じゃが、今は弟子がおるからの…………」

 

 そう言うと彼は今も作業を続けている弟子に目をやり、自身の技術には及ばずとも丁寧に仕上げる様をなんとも言えない表情で見つめていた。

 

「………お話、ありがとうございました」

 

「あ、ありがとうございました!」

 

「ああ……」

 

 心ここにあらずといった様子の老人に二人は礼を伝えると、その場をそっと後にした。

 

「……行きましょう。次の目的地へ」

 

「うん。商人ギルド……だね」

 

 その後何人かの手工業者に同様の事情であることの確認を取った彼女たちは、ここまでの道中とは異なりほとんど会話を交わさず、足早に商人ギルドへと向かっていった。

 

「……! アイリス殿下」

 

「ガリウスさん……」

 

「調査の報告でしょうか? 申し訳ありませんが、ここでは君主への相談を知らない構成員もおりますので……」

 

「ええ……案内をお願いするわ」

 

 彼女たちを出迎えたガリウスは無用な混乱を避けるため、手早く目的の部屋へと歩いていった。彼と対面したアイリスは一瞬気まずそうにするも、辛うじて表情だけは取り繕って後ろを付いていく。

 

「ああ、ガリウス。そちらが例の……?」

 

「ええ。調査をお願いしているお二人です、親方」

 

 すると部屋に入ったアイリスたちは恰幅の良い男性と対面した。机に座っていた彼は来客に気付くとすぐに立ち上がり、優しげな笑顔で彼女たちをもてなす。

 

「商人ギルドを纏めているマルコと言います。お見知り置きを」

 

「初めましてマルコさん。アイリスと申しますわ。こちらは付き添いのミーナです」

 

「は、初めまして。ミーナです! えっと……コンパニオンをやってます」

 

「これはご丁寧にどうも。どうですかな、我がギルドは」

 

「……凄い活気ですわ。多くの構成員がいらっしゃるのね」

 

「ええ、ええ。そうなのですよ」

 

「親方はこう見えて弟子への管理が厳しいのですが、その統率力によりイートスで最も多く優秀な商人を排出されているのです」

 

「ガリウスはまだまだヒヨッコですがね」

 

「あはは……。精進いたします」

 

「……なるほど。それは商品にも言えることかもしれませんね」

 

「おお! お分かりになりますか! さよう。品質や価格を管理して維持することで、市場の安定……ひいては発展に繋がるわけですな」

 

「確かに正しく管理されれば、そういう利点もあるでしょう。しかし、現実はどうでしょうか」

 

「アイリス殿下……?」

 

「先ほど、今回の件を調べるためにクラフトギルドを訪ねました。そこではバルクの加工は行われていなかった」

 

「ああ。それは手工業者の頭が固く、木製品の製造に拘ったからだと……でしたよね、親方」

 

「…………」

 

「市政を利用し、バルクの市場を独占した。……それが現実なのよ、ガリウスさん」

 

「え……」

 

「少々お待ちを。利用、というのは心外ですな。確かに我々のギルドは大きい……市政に口を出せるほどには。しかしさきほども言った通り、私は管理した体制を確立することで、お客様にも常に高品質の物を安定した価格で買ってもらえればと思い、提案したに過ぎません」

 

(……けれど、その理念と手工業者に十分な対価を払わなかったことは明らかに噛み合っていないわ!)

 

「ですが——」

 

「——それに、市政で決まった通りに我々は動いているだけ。法令を犯してはいません。またその指摘が今回の件に関係していないのは明らかかと……?」

 

「…………!?」

 

(不正な独占をしているのは明らかなのに……! これ以上の追求が……出来ない)

 

 マルコが表情を考えずに淡々と話すと、アイリスは虚を衝かれて焦った顔を浮かべたまま固まってしまう。そんな彼女に対し、マルコは間を置かずに話を続けた。

 

「今回の件といえば……殿下はどこが怪しいとお考えでしょうか」

 

「……! それは……」

 

(炭鉱組合は調査であり得ないことが分かった。商人ギルドは……この独占を踏まえれば、わざわざそんなことをする理由が……無い。残るバルクの行き先は……)

 

「疑惑を払拭することを第一に考えるべきではないでしょうかな」

 

「……分かり、ましたわ。非礼をお詫びいたします」

 

「いやいや、構いませんよ。こちらこそ調査をよろしくお願いします」

 

 頭を深く下げたアイリスにもマルコは表情を変えず、彼女たちを送り出した。そして扉が閉じられると、ガリウスが慌てた様子で彼に駆け寄っていく。

 

「親方。本当なんですか……? 商人ギルドが市政を利用したというのは……」

 

「そんなことはないよ。恐らく、殿下の勘違いだろう」

 

「……です、よね」

 

「ああ、そうだ。ガリウス」

 

 返答にひとまず安心した様子のガリウスが部屋を後にしようとすると、マルコがそれを呼び止めた。するとガリウスは彼の顔を見て、血の気が引く感覚を覚えていた。

 

「原因不明の価格下落も商人の定めとして受け入れるしかないと言っておいただろう。——お前があの子に相談すると言った時に、な」

 

 一方、商人ギルドを後にしたアイリスたちは一度休憩を兼ねて王宮に戻り、昼食を摂っていた。

 

「本当にこれで良かったの?」

 

「……分からないわ」

 

(あの場ではきっと、あれ以上の追求は無意味だった。……そう、自分に言い聞かせるしかない……)

 

「……なら、今はとにかく前に進むしかないね」

 

「ミーナ……。……そうね」

 

(たとえその先に何が待っていようとも……目だけは逸らさないで、向き合わなくては)

 

「次はどこに向かうの?」

 

「国家が仕入れたバルクの使い道は一つしかないわ。すなわちコインの製造よ」

 

「製造場に確認しに行くんだね……」

 

「ええ」

 

 頭と心の整理を済ませた二人は再び外に出ると、製造場へと歩みを進めていく。

 

「……そういえばイートスのコインってバルク製なんだよね」

 

「他の鉱物の採掘量が芳しくないこともあって、父さんがそうするよう指示を出していた覚えがあるわ」

 

(貨幣の流通……それが父さんが最後に行った政策だったわね)

 

「今ではコインはみんな持ってるから……もしかしたら、誰かがこれを売りつけてるとか……?」

 

「けれどイートスでは勿論、異国でも通貨の売買は法令違反……重い罪が課せられるのよ。思い立ってしまった人がいても、果たして相手側が買ってくれるかどうか……」

 

「そっか……。買った人もそのままじゃ売り物に出来ないし、相場に影響するほどとなると……厳しいのかな」

 

「そう思うわ。でもバルクは流通経路が限られている……そのことも頭に入れておくべきかもしれないわね。参考になったわ、ありがとう」

 

「えへへ……あ! 着いたよ。アイリスちゃん! ……意外と小さいね」

 

「そうね……。あれだけのコインを流通させているのだから、製造場も大きいものだと思っていたわ」

 

 話をしているうちに製造場にたどり着いた。大掛かりな工場をイメージしていた二人は肩透かしを食らったが、気を取り直して中へと入っていった。

 

「アイリス殿下……! 何故このようなところに!?」

 

「事前に話を通せず申し訳ありません。なにぶん予定が決まったのが今日でして……」

 

「い、いえ。とんでもない!」

 

 国が保有する施設ということもあり、責任者がすぐに来客の正体に気付いた。混乱を招いてしまったことをアイリスが詫びると、彼はすぐに頭を上げさせ、ざわめく周囲の人々に作業に戻るよう指示を送った。

 

「改めまして、今日はどういったご用件で……?」

 

(この後聞くことを考えれば……彼には事情を伝えておくべきね)

 

「実は相談を受けて調査をしていますの」

 

「殿下ご自身が……ですか?」

 

「ええ。その内容が、現在不明の原因で下がっているバルクの相場についてなのだけれど……心当たりはないかしら」

 

「いえ……。相場が下がっている、ということも初めて聞きました」

 

(国で仕入れたバルクは売買を目的にしたものではない……知らなくても無理はないわね)

 

「わたくしは調査を任された身として……ここも調べることにしたの。協力をお願いできるかしら」

 

「それは勿論! なんなりとお申し付けください!」

 

「ありがとう。……国が仕入れたバルクは全てここへと運ばれている。間違いないかしら」

 

「はい! 炭鉱組合と協力して、仕入れのバルクと実際に運ばれてきたバルクの量に違いがないか、確認しております」

 

(……そっか。コインは売れなくても、コインにする前のバルクを横流しすれば売ることが出来るんだ。しかも定期的に仕入れてるから、言われてみれば一番怪しいかも……)

 

(炭鉱組合と協力しているかは確認すればすぐに分かる。これは本当でしょうし、そうなると運搬の段階で問題は起こり得ないわね)

 

「それではここでのバルクの管理はどうなっているのかしら?」

 

「運ばれてきたバルクはこちらの貯蔵庫に厳重に保管しています。鍵がかけられており、作業時以外に持ち出しは出来ません」

 

「鍵は誰が所有しているの?」

 

「鍵は一本で、私が預かっています」

 

「……! そう……」

 

(疑わないという訳にはいかないけれど。彼は責任者として任されたに過ぎない。思い込みは避けなくては)

 

「紛失したことは……?」

 

「ありません。この鍵は今は亡きロレンツ王が病を押して、責任者の任命と共に私に託してくれました」

 

 青年は鍵を取り出すと、少しの間を挟んでから言葉を続けた。

 

「私は責任と誇りを持って……この鍵を保管しているのです」

 

「……その言葉、信じます」

 

「……! ありがとうございます!」

 

(父さんが見ていたら、なんて言うかしら。……わたくしは父さんが託した人と、真実と思えたもの、その両方を信じてみます)

 

 どこまでが偽りの無い言葉か、アイリスに確証は無かった。しかし取り出した鍵を見つめた時の彼の目や表情に嘘は無いと感じられていた。

 

「作業中の状況はどうでしょうか?」

 

「その間は鍵はずっと開いています。目を光らせているわけではないですが……こっそり持ち出すというのは無理だと思いますね」

 

「見た感じ、その……あまり広くないですしね」

 

「はい。不審なことをすればすぐに分かるかと。作業の都合上、一人だけで行動することはほとんど無いですし」

 

「そうなのね。……良ければ作業を見せてもらえないかしら」

 

「私も見てみたいです! どんな風に作ってるのか興味あります!」

 

「分かりました。どうぞご覧になってください」

 

 許可を貰った二人は貯蔵庫から離れると目と鼻の先にある作業場へと赴いた。

 

「わぁ……おっきな機械」

 

「このような機械、わたくしも初めて見るわ……」

 

「現在イートスには一台しかなく、大変貴重な機械なんです」

 

 真っ先に視界に入ってきた大きな機械に二人は嘆声を漏らす。土台から外れない程度に固定されたその機械は今は静止していた。二人が来て思わず作業を止めてしまった彼らに青年が声を掛けると、再び作業が再開され、機械が始動した。

 

「凄い……! あんなおっきな機械が回ってるよ!」

 

「これほどの大きさの物が人力で動くのね……」

 

(……なるほど。あの回転は力を生み出す源。これでバルクに対し、均等に力を加えることが出来る……)

 

 機械の両端には綱がついていた。それぞれ二人、計四人の男性作業員が思い切り引っ張ると、綱のついた棒が反時計回りに回転し始める。すると棒の中央に差し込まれているネジが連動するように下に回転して沈み始めた。そして土台に置かれたバルクにネジが到達すると、挟まれたバルクは変形していき、やがてコインとなった。

 

「ネジの下と、バルクを置いている土台にはそれぞれ模様をつけるための刻印があります」

 

「値段を示す数字と、シルフィの模様ですね!」

 

「その通りです。この機械によって正確なコインが安定して生産出来るようになりました」

 

(出来るようになった……?)

 

「この機械はどのようにして作られたの?」

 

「申し訳ありませんが詳細は存じ上げません。イートスで作られた訳では無いので……」

 

「えっ……? では、この機械は異国で……?」

 

「はい。お隣のバナンカで作られたと聞いています」

 

「それなら、イートスにあるのってちょっと不思議ですね」

 

「どうやらバナンカでは火を用いて金属を液体状にし、型に流し込んでコインを作成する技術が出来たようなのです。時間は少し掛かりますが冷えれば固体状に戻り、纏めて大量に作れるため、必要の無くなっていた機械をロレンツ王が交渉して手に入れたとか」

 

「……!? そのようなこと、初めて聞いたわ。金属が水になり、そして戻るなどと……」

 

「夢みたいな技術ですね……。こういう技術が、魔術って言われてるのも分かる気がします」

 

「しかし、どうやら現実のようです。私も初めて聞いた時は信じられませんでしたが……」

 

「……聞きたいのだけど、粉々に砕けているバルクを用いた場合はどうなのかしら。水がそのまま固まるというイメージが正しければ……」

 

「ああ……その場合だと戻る、というよりは新たに作られるという方が正しいかもしれませんね」

 

「くっついちゃうんですか!?」

 

「にわかには信じ難いですが……。一度実際にバナンカに赴き、見せてもらいました」

 

(……つまり、一定の大きさに満たないバルクであっても……それは鉱物資源足り得る、ということになるわね)

 

「もう少し見ていたい気もするけれど。一度、戻りましょうか」

 

 中々見れない光景を名残惜しそうにしながらもアイリスはその場を離れると、再び貯蔵庫の前へとやってきた。振り向くと、機械を動かしている作業員の顔がどのタイミングでもこちらを向いているのに気が付く。

 

「バルクを持ち出す、というのはどうやら無理そうね」

 

(当然といえば、当然かもしれないわ。父さんはここの鍵を自分が任命した者に託した。それほどバルクの扱いには気を付けていたのでしょうから)

 

「それは本当に安心なんだけど……これからどうすれば良いのかな。バルクの行き先が悉く潰れちゃったよ」

 

「今の話を聞いて……一つ、方法を思い付いたわ。砕かれた状態でも鉱物資源としての価値があるのであれば、コインを……粉砕すれば、法令違反と気付かれずに売れるかもしれない」

 

「あっ……! た、確かに……しかもそれなら誰でも出来る!」

 

「……すいません。よろしいでしょうか。言いにくいのですが、それは難しいかと……」

 

「そう……なのですか?」

 

「はい。バルクは強度が高く、コインを砕くというのは……難しいですね。あの機械ですらコインの形に整える以上のことは出来ませんから」

 

「それほどまでに……頑丈なのですか」

 

「こう……ハンマーで思いっきり叩いたりすれば……」

 

「砕くのは無理だと思いますね……。小さな欠片くらいなら出るかもしれませんが」

 

「そうなんだ……あっ! でも欠片でも資源になるんだよね」

 

「……ただコインが使えなくなるのよ。法令違反の証拠に他ならないもの」

 

「そっか……あれだけ正確に作られてるんだもんね。じゃあとにかく叩いて欠片を沢山出して…………ちょっと無理があるね」

 

「そんなことを繰り返していたら怪しまれるでしょうしね……。利益を出すためには完全に砕ける技術でも無いと……わたくしの推測は成り立たない、わね」

 

「もう一つ気になったのですが……異国に金属を液体状にする技術があることを知っている者はあまり多くないと思われます。私のように技術に強い関心がある者や情報に長ける者でないと知り得ないからです」

 

(確かに……座学では得られなかった知識だわ)

 

「……その通りね。……話してくれてありがとう。色々と、勉強になりましたわ」

 

「い、いえっ。お役に立てたのであれば、光栄です!」

 

 青年に礼を伝えたアイリスは製造場を後にすると、歩きながらこれまでの情報を整理していく。すると街の大きな広場へと辿り着き、集中していた彼女はふとそのことに気が付いた。

 

「……あら……いつの間にこんなところに」

 

「あれっ。ここに向かうつもりで歩いてたんじゃなかったの?」

 

「ごめんなさい。考え事をしていたわ」

 

「そ、そっか。でも……ちょっと手詰まりだよね。バルクが入手出来る場所の事情は全部調査したのに……」

 

「……つまり、わたくしたちはどこかで思い違いをしている」

 

「……!」

 

「これまで手に入れた情報の中に嘘が混じっているのか、それとも何か見落としをしているのか。先ほどから考えているのだけど……」

 

「……アイリスちゃん。なんだか生き生きしてるね」

 

「え………。そ、そうかしら?」

 

「うん。これまで何度も机越しに相談を受けていたけど、断然今の方がスッキリした顔をしてるよ」

 

「そうなのね……自分では意識していなかったのだけれど」

 

 半年ほど続けていた相談、今回の調査を進めていく姿。その両方を傍で見ていたミーナには確かな違いが感じられていた。指摘されたアイリスは初めてそのことを自覚し、意外そうに目を丸くしていた。

 

「……おや、嬢ちゃんたち。また会ったな」

 

「あなたは……炭鉱組合の」

 

「覚えていてくれたかい? いやー、嬉しいねえ」

 

「また暇を持て余してるんですか?」

 

「おっと。少し見ないうちに冗談が上手くなったじゃないか」

 

「どう見ても暇そうでしたけど……」

 

「遅めのランチさ。夕方の確認作業のために、休んでおかないとな」

 

「確認作業というと……貯蔵庫の?」

 

「ああ。それと作業員の安全の確認もな。暇な時間が長い代わりに、一つの確認漏れも許されないのさ」

 

「責任者とは大変なものを背負っているのですね……」

 

 今日の調査で組織を纏める者の苦労を感じていたアイリスは身の引き締まる思いでそう口にしていた。

 

「……まあ。大変っちゃ大変だけどな。アイツらも頑張ってるから、最近愛着が湧いてきてね。大変なのが、むしろ嫌じゃないんだ。親心ってやつかな?」

 

「親心……わたくしにはピンと来ないのですが。……確かに頑張っている方の力になれると思えば、頑張れる気がしますわ」

 

「ま、大体はそういうことさ。けどちょっと硬いかな。……折角また会えたのも何かの縁だ。俺の気晴らしに付き合ってくれないか?」

 

「また冗談でも聞かせるつもりですね!」

 

(ミーナ……意外と根に持っているわね)

 

「……ちょっとしたゲームさ。ここに一枚のコインがある。これを今から地面に落とすから、どの面が上を向くのか当ててくれ」

 

 男はおもむろにポケットに手を突っ込むと、人差し指と中指で挟んでコインを取り出し、彼女たちに見せた。

 

「聞いたことあるわ。コイントスというものですわね。イートスではあまり馴染みはないけれど……」

 

「私は初めて聞いたなあ。先に選んでいいよ!」

 

「ならわたくしはシルフィが描かれている裏にしようかしら」

 

「じゃあ私は表で!」

 

「……了解。それじゃあ、とくとご覧あれ」

 

 答えを聞いた男は口角を上げると同時に、挟む力を弱めてコインを真下へと落とした。すると落下していくコインを目で追った二人の顔が驚きで彩られる。

 

「えっ!?」

 

「コインが……立った!?」

 

 表も裏も地面に触れさせることなく、コインは彼女たちの瞳に無地の側面を見せつけていた。

 

「どうやら二人ともハズレのようだな」

 

「そんなあ。表と裏のどっちになるか当てるってゲームだったんじゃ……」

 

「どの面が上を向くか当ててくれ……とちゃんと言っておいたぜ。……あえて言おうか。側面は立派に面であると、な」

 

「うー……確かに。でもまさかこんな奇跡が起きちゃうなんて」

 

「……一本取られましたわ。わたくしもこの可能性は失念していました。コイントスは一般的に弾いて落とすもの……あなたの言葉にもう少し違和感を感じるべきだったのね」

 

「ど、どういうこと?」

 

「もちろんこの高さから落ちれば幅の狭い側面では倒れてしまう。……支えでもなければ」

 

「支え……あっ! もしかして、そのコインになにか結んでる!?」

 

「はっはっは! 正解だ! お察しの通り……ほらよっと」

 

 それぞれの反応を見せてくれる二人に楽しげな笑い声を上げた男は勢いよく手を上げ、コインをキャッチしてみせる。

 

「ま、またからかったんですね!」

 

「これも言っておかなかったかな? 気晴らしに付き合ってくれないかなってね」

 

「むう……言われました」

 

(そこは納得しちゃうのね……)

 

「それに良い話のタネになるだろ? この糸を持ち歩いておけば、あとは手持ちにあるコインを使えばいいからな。コインが普及した時からやってるのさ」

 

 男は慣れた手つきでコインに結ばれた糸を取り外すと、また使うからと(ほど)くこともせずにポケットにしまった。

 

「道理で手慣れてらしたのね……。けれど面白かったですわ。柔軟な発想をお持ちなのね」

 

「お褒めに預かり光栄ですよ……お嬢さん。……それともう一つ、よろしいかな」

 

「ええ。構わないけれど……」

 

 男は右足を引き、右手を胸に添え、左手を水平方向に差し出した。そんな流麗なお辞儀を挟んでから口を開いた男に、二人は僅かな雰囲気の違いを感じ取る。

 

「コインには表と裏、そしてどちらにも接する側面がある。きっとそれは……コイン以外にも言えることなんですよ」

 

「……!?」

 

「どうしちゃったんですか……!?」

 

「今の立場に就いた時、前任者に似たようなアドバイスを受けたのを思い出したんで、折角だから言ってみたのさ」

 

「なぁんだ。急にまともなこと言うからびっくりしちゃいました」

 

「ははは! それじゃあここら辺でおいとまするよ。良ければまた会おう」

 

「次は騙されませんよ!」

 

 警戒心を露わにするミーナに苦笑いを見せた男は先ほどまでと同じように軽い雰囲気を纏ってその場を去っていった。

 

「もー……私、あの人苦手かも。絶対冗談言ってくると思ってたのに騙されちゃうなんて。………? アイリスちゃん?」

 

「………分かったわ。わたくしたちが見落としていたものが」

 

「え……ええっ!?」

 

(今のところ、これは仮説。けれど今日集めた全ての情報が……彼を指している)

 

「行きましょうミーナ!」

 

「ど、どこに行くの!?」

 

「目的地は……商人ギルドよ! そこでわたくしたちは確認すべきことがある……!」

 

 こうして二人は広場を後にすると、再び商人ギルドへとやってきた。

 

「……もう国家への疑惑の払拭は済んだのですかな?」

 

「そのためにわたくしたちはここへ来たのです」

 

「ほう……」

 

 彼女たちをマルコはにこやかな笑顔を浮かべて迎え入れた。そしてガリウスを含めた四人が今、対峙していた。

 

「それは商人ギルドに疑惑の目を向ける……ということですかな」

 

「アイリス殿下……」

 

「……いえ、違います」

 

「……!」

 

 アイリスの答えを聞き、ガリウスとミーナは驚きに打たれていた。マルコは依然表情を変えずに、話を続けていく。

 

「賢い判断です。我々は潔白なのですから」

 

「しかしそうであるならば、何故アイリス殿下はもう一度親方との面会を希望されたのでしょうか?」

 

「協力をお願いしたいのです」

 

「我々に出来ることであれば」

 

「あなた方ほど適任な立場もいないのです。実は現在流通しているコインに……不正なものが混じっている可能性があります」

 

「なんですって……!? しかし法令違反では……」

 

「…………なるほど。我々は依頼した立場であり、また商人ギルドとして多くのコインを保有している。適任という他ありませんな。ガリウス、金庫に案内して差し上げなさい」

 

「親方は来ないのですか?」

 

「事実の確認は依頼者であるお前がいれば良いだろう。それに、私が付いていくのは殿下を疑っているようで失礼だ。……私は国家のことを信頼していますから、存分に調査なさってください」

 

「……お心遣いありがとうございます」

 

 協力依頼に対し、マルコは商人ギルドの金銭を保管している倉庫の調査を快く許可した。そんな彼の言葉にアイリスは心がさざ波のようにざわつくのを感じていた。

 

「金庫はこちらになります」

 

「凄い量の袋ね……」

 

「これ全部コインなんですか?」

 

「はい。勿論個人ではなく、商人ギルド全体のものですが。……といっても今回の件で減ってるみたいですね。親方が管理しているので、具体的な数までは分かりませんが……」

 

(……これほどとは……)

 

 ガリウスが親方から預かった鍵を挿入してドアを塞いでいた木製のかんぬきを取り外すと、二人を中へと案内した。予想はしていたものの、その予想を超えるようなコインが入った大量の袋に二人とも思わず圧倒されてしまう。

 

「それで……よろしいでしょうか。不正なコインがあるというお話でしたが、具体的にはどのような……?」

 

「……側面が削られたコイン、です」

 

「……! 側面……ですか」

 

「で、でも削っても利益が出なくて意味が無いんじゃ……?」

 

「そう、ただ削るだけではね。けれど削られたコインが正常に使うことが出来たら……?」

 

「えっ!?」

 

「……確かに模様が描かれてない側面であれば、もしかしたら。コインが使えるなら、新たなコインの入手もしやすい……。しかし粉末状になってしまうと、果たして鉱物資源として使えるのでしょうか?」

 

「ええ……どうやら、バナンカでは既に粉末状になった金属を一旦液体状にしてから固める技術があるの」

 

「……存じ上げませんでした。これでも商人として情報を収集している自負はあるのですが……」

 

「異国の商人から何かお話はされませんでしたか?」

 

「商人とって情報は武器ですので、得るのにもお金が必要なんですよね……。強いて言えばバルクを売り始めた当初、相場は技術の差を指摘されて僅かに下げられたと聞きます。希少であったことに違いは無かったので、それでも十分高かったのですが」

 

「……なるほど」

 

「けどアイリス……様。コインはあの機械で精巧に作られているので、削ってしまうと(いびつ)になってしまいませんか?」

 

「そのようなコインがあれば私たちも気付けるかと」

 

「……だから、誰にでも出来ることではないのよね」

 

「……?」

 

「……確認作業を手伝ってもらいたいのだけど、良いかしら」

 

「そ、それは勿論!」

 

「私もお手伝いさせていただきます」

 

「ありがとう。確認して欲しいのは、一点よ。それは——」

 

 こうして作業が始められた。袋からコインを取り出して確認し、外に置いて次のコインへ。単純ながら集中力を要される作業だった。それでもアイリスは懸命に確認を行なっていた。それは条件に合うコインを見つけるためでは無かった。これだけの量を探しても、無いのだと。彼女は確認したかったのだ。

 

「あ…………」

 

 作業を始めて三十分経った頃だった。ミーナとガリウスがようやく一つ目の袋を確認し終えようという時。二つ目の袋を調べていたアイリスの吐息が静かな空間に響いた。

 

(……出来ることなら、外れていて……欲しかった)

 

 それは仮説が確信に変わった、落胆の吐息だった。

 

「……見つかったわ」

 

「本当に!?」

 

「これは……!? アイリス殿下が仰った通り、サイズが一回り……小さい」

 

 他の多くのコインと比べてそれは確かに小さかった。アイリスはさらに袋に手を伸ばす。

 

(何かを買った時に使われたなら、一枚だけじゃなく……)

 

 アイリスはコインを纏めて取り出した。全部では無かったが、手のひらに収まったコインの内の半分ほどが小さいサイズだった。

 

「……なんてことだ……。サイズが小さいと分かって見なければ、分かるはずもない。それほど正確に……削られている、のか」

 

 コインを扱う機会が多いガリウスでも、今彼女が取り出したコインに違和感は覚えなかった。しかしさきほど見せられた小さなコインが頭によぎり、よく見てコイン同士を比較した結果、ようやく分かったのだった。

 

「凄い……。どうして分かったの?」

 

「分かった、わけじゃないのよ。ただ側面が削られたという可能性に気付いた時、ある目的を持って行われたんじゃないかと」

 

「えっと、お金儲け……だよね?」

 

「そう。それが一つ。そして……もう一つ。……ガリウスさんには悪いけれど、やはり商人ギルドはバルクを独占していた。だからこそ損失も大きくなる……」

 

「……商人ギルドにはかなり多くの商人がいますので……実際のところ、全体の被害がどうだったのかは……」

 

(大打撃、とだけ親方は教えてくれた。管理の厳しい親方にしては珍しく……曖昧だった)

 

「……問題は、少なくともこの加工を行える人物はそう考えるということなのです」

 

「え…………アイリス殿下には見当がついているのですか!」

 

「……やっぱり、あの人なの?」

 

「これらのコインは法令違反に気付かれないよう、精巧に削られているわ。よほど技術のある者でなければ、為し得ない」

 

「た、確かに直線の加工に比べてカーブの加工は難しいと聞きますが……一体どなたでしょうか」

 

「……ガリウスさん。あなたも話を聞いていて、薄々分かっているはずよ。そして嫌な予感が現実になったのは、何よりこのコインが示しているわ」

 

「しかし、それを信じることはあまりにも……」

 

「…………。調査の報告は後日にします」

 

「え……?」

 

 信じ難い現実に、ガリウスの顔は泣き出しそうな子供のように歪んでいた。それを見たアイリスは出口に向かって歩き出す。

 

「お互い……心の整理がついた時、また話しましょう。……行きましょう、ミーナ」

 

「……うん」

 

 金庫を去っていく彼女たちの背中をガリウスは呆然と見送るのだった。

 

「……ねえ、ミーナ」

 

「なあに?」

 

「半年ほど相談所を続けてきたけど、民にとって……それは信頼に足るものでは無かったのかもしれないわね」

 

「そ、そんなことないと思うよ? アイリスちゃん、頑張ってたし……」

 

「……けれど商人ギルドの独占に関する相談は一切来なかった。市政も頼れない状況であったのにも関わらずよ」

 

「あ……」

 

「父さんが治めていた時なら、相談はあったと思う。でも頼りの父さんは病にかかって、そして……死んでしまった。わたくしが君主を務めるようになって、イートスへの信頼は……削がれてしまったのでしょう」

 

「アイリスちゃん。あんまり、思い詰めないで」

 

「……ありがとう。けど、きっとこれは受け止めなくてはならない現実だから。……父さんの病は治ると信じていた。あの時のわたくしは死という現実は受け止められなかった。しかし経緯はどうあれ、今のわたくしは責任のある立場に立っている。今回の件を通じて、痛感したのよ」

 

「……そっか」

 

「時折、あなたに支えてもらうことになるかもしれないけど。それでもわたくしは……立ち続けるわ」

 

「うんっ! 付いていくよ!」

 

 アイリスは見慣れた王宮を立ち止まって見上げると、いつも以上に大きく感じられていた。しかしいつまでも見ていることはせず再び歩き出すと、遅れて歩き出したミーナが彼女に追いつき、二人は並んで中へと入っていくのだった。

 日が沈み、夜が訪れた。広い王宮は昼間以上に静寂に包まれる。窓から月を見ていたアイリスは視線を下ろすと、シルフィが藍色に染まっているように見えた。それからそっと窓から離れると、マグカップを手に取り、喉を潤した。(ぬる)くなった紅茶が、不思議と熱く感じられた。そのまま彼女がロッキングチェアに背中を預けると、椅子の足がカーブしているため、衝撃でゆりかごのように揺れる。すると彼女は再び外を見た。空は既に暗く、遠くまで見渡すことは出来なかった。

 

「『豊かな生活は良い家具に囲まれるところから始まる』……。……そうね。そこから、始めましょう」

 

 揺れが収まると、アイリスは右腕を伸ばした。すると暗い背景の中でマグカップが浮き上がるように定まって見えたのだった。

 次の日。今日も王宮に鐘の音が響いた。そして応接間に招かれた来客に、アイリスはドレスの裾を持って頭を下げる。

 

「お主も……か」

 

 国からの招来を受けてやってきたクラフトギルドの老人は、玄関でミーナと出会った時と同様に、アイリスの姿を見て心臓の鼓動が速くなっていくのを感じていた。

 

「あの時は自己紹介出来ずに申し訳ありません。改めて、アイリスと申します。今のイートスの君主として国を治めておりますわ」

 

「……! 君主……。そう、だったのじゃな」

 

 そして彼女の正体を知らされたことで、辛うじて平静を保っていた顔つきに観念が混じっていった。

 

「昨日は母の思い出を探すプライベートな用事でしたので、名乗ることが出来ませんでしたの」

 

「え……? しかし、今日の呼び出しは……」

 

 するとアイリスは安心させるように話しかけ、彼に座るように促した。ロッキングチェアに座り少しだけ落ち着きを取り戻した彼に、アイリスは傍までやってきたミーナと目を合わせると、自身も腰を落とした。

 

「あなたの技術に感動したので……今日は是非、依頼をお願いしたくて来ていただいたのです」

 

「依頼……。国から指名していただけるのは嬉しいが、どのような内容じゃろうか?」

 

「少々遅れましたが、わたくしの君主就任の記念を兼ねてコインのデザインを変更することになったのです」

 

「……!? コイン……」

 

「そう……コインです。といっても父の拘りを尊重して表と裏のデザインはそのままに、新たに加えたいと考えています」

 

「…………側面、か」

 

「……ええ。幅が狭く、カーブがかかった側面では刻印が使えないので、技術のあるあなたに依頼したいのです」

 

「……。良い……のか?」

 

「あら、わたくしから頼んでいるのですよ。勿論問題ありませんわ。……ああ、でも。機械と違って手作業となると、あなた一人で全てこなすのは難しいかもしれませんわね」

 

「……それはまあ、追いつかないじゃろう」

 

「ですから……弟子の方々にも手伝いを願えないでしょうか。報酬は全員分お支払いしますので」

 

「………! な、なんじゃと。本当に、払ってくださるのか?」

 

「なにを不思議なことがありましょう? 労働に対して見合った対価が支払われる。……当然の話ですわ」

 

「…………ありがとう。アイリス……王」

 

 老人の瞼に涙が溢れていくと、彼は絞り出すような声で礼を伝えた。アイリスの気品のある表情に一瞬浮かんだあどけなさの残る笑みをミーナは見逃さなかった。

 

「……こちらこそ、承諾いただき嬉しく思います。コインに彫ってもらいたいデザインなのですが——」

 

(きっと、こうして少しずつ……変えていけるわよね)

 

 アイリスは話しながらミーナの方をさりげなく見る。するとそれに気付いたミーナはゆっくりと、されどしっかりと頷いた。視線を前に戻したアイリスは曇りのない表情を浮かべて、こう言った。

 

「——蝶々を、囲うように——」

 

 時は流れ、再び王宮に鐘の音が鳴り響いた。

 

「あっ、ガリウスさん! 調査報告の時以来ですね」

 

「ご無沙汰しております」

 

 客人を迎えたミーナは懐かしそうに顔を綻ばせる。そんな彼女とは対照的に、ガリウスはひどく神妙な顔つきだった。

 

「今日は確か、報告があるんですよね。商人ギルドから話は通っていますよ!」

 

「……ええ。以前の依頼人である私が行くのが筋、ということで今日は伺わせていただきました」

 

 商人ギルドの使者として参上したガリウスはミーナの案内を受けながら王宮の中へと入っていく。

 

「バルクの相場はもう以前と同程度まで戻りました。これも国家のお力添えがあってこそ……と親方から伝言を預かっております」

 

「……どんな側面があっても、ダメなものはダメですから。一度本来の形に戻しただけですよ。……えへへ。きっとアイリス様ならこう仰られます」

 

「……ふふ。ウイットに富んでいますね」

 

 硬さが張り付いていたような表情が和らいだガリウスは思い切って話を切り出した。

 

「……実は今日伺ったのは、それだけではないんです」

 

「えっ。報告以外にも何か……?」

 

「……商人ギルドが本当に市政を利用して、市場を独占しているのか……。その件について相談に伺ったのです」

 

(……色々、考えたんだろうな)

 

 覚悟の決まった顔つきで語るガリウスに相槌を打ちながら、ミーナは彼を応接間の前まで案内した。

 

「あ……そうだ。実はもう、相談は受け付けていないんです」

 

「えっ……! そ、そうだったのですか!?」

 

「はい。でも大丈夫ですよ。代わりのものを受け付けていますから。……さあ、どうぞ」

 

 予想外のことに困惑を露わにしたガリウスだったが、ミーナは穏やかな声のまま扉に手を向けた。そして彼は胸に手を当ててそっと息を吐き出すと、自ら扉を開けて足を踏み入れた。すると軽装で待っていたアイリスはお辞儀をしたのちに、ガリウスに向かって手を差し伸べた。

 

「ようこそ。イートス探偵事務所へ!」



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