土曜のアン (下之森茂)
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01 アンとの遭遇

それは土曜日の、朝早くのことです。

 

少女は校舎と校舎の間にある飼育小屋の前で、

全身赤色の毛むくじゃらを見ました。

 

へその高さほどある大きな毛玉が、

こちらを向いて、ツンと尖らせた

黒色の目を光らせます。

 

毛玉を見つけた少女は

驚き硬直して、生つばをごくり。

 

毛玉はぐんぐんと天にその身を伸ばすと、

目の前の少女を見下ろしました。

 

それはまるで洗車機にあるような

巨大なモップでした。

 

赤いモップはクマほどの大きさになったので、

背の低い少女は目を見開き見上げて、

ぽかんと口を開けたまま立ちすくみます。

 

「…わがはいは『赫き暗黒からの使者』。

 貴殿の所属と階級は?」

 

自らを使者と名乗る赤いモップが、

栗色の髪をした少女に名前をたずねました。

 

「きでん…?」

 

少女は目をしばたたいて、声の主を見ます。

モップは首をかしげました。

 

黒にやや茶色がかった大きな吊り目と、

ひと口で食べられそうなくらいに大きな口。

高く綺麗な声で少女にポツリとたずねます。

 

「…名前。」

 

「あ、あたし…ビビ。暗黒からの使者…。」

 

――暗黒からの使者ってなに?

――ウサギかモルモットの突然変異?

――それとも宇宙人にさらわれて改造された?

 

ビビは妄想をたくましくします。

 

「ビビ。わが名はアンジュ。

 地球の調査でこの地に降りた。

 貴殿はわがはいと契約を所望するか。」

 

「わが名? わが名って…。」

 

アンジュと名乗ったモップの口調に、

ビビは戸惑いをあらわにします。

 

本人が地球の調査でやってきたというのですから、

地球外からの生命体に違いません。

 

――つまり宇宙人だっ!

 

黙ったままのビビは妄想が止まりませんでした。

 

モップはビビの顔をまじまじと見て、

ひとりでうなずき大きな口で笑いました。

 

「ビビ。知ってる。生前より運命づけられた

 『血の盟約者』であったか。

 わがはいはアンと呼べ。ビビ・サクラ。」

 

モップに名乗っていない本名を当てられると、

ビビはヘビに睨まれたカエルのようになって、

見上げたまま身体は硬直します。

 

得体の知れない生命体を目の前にして、

背中にじわじわと汗がにじむので

彼女は叫んですぐにでも逃げ出したい気持ちを

ぐっとこらえます。

 

そのとき、近くのこずえで橙色のくちばしをした

ムクドリがビィービィーと長々鳴いて、

赤い毛に覆われたアンの顔がそっぽを向きました。

 

ビビはそのすきに、きびすを返して静かに、

そして足早に校舎の中の職員室に逃げました。

 

「先生、中庭に…。」

 

――宇宙人? 暗黒からの使者?

 

中庭に現れたモップ、『赫き暗黒からの使者』を

どう説明すればいいのか考えあぐねていたら、

ビビの後ろにアンが立っています。

 

びっくりして口から心臓が飛び出すところでした。

 

「ああ、アンジュさんね。

 サクラさん、これから面倒見てあげて下さい。」

 

女性の若い担任教師はモップを見ても驚かず、

落ち着いた様子でビビにほほえみます。

 

ビビは目を見開いて、

先生と、使者を名乗るアンを交互に見ました。

 

アンの存在を先生たちは誰も疑わないので、

ビビはさらに困惑しました。

 

――大人たちはこの宇宙人に洗脳されてる…?

 

6年生の教室にまでアンはついてきて

座席も隣になり、ビビは保護者のように

役目を押し付けられて散々な目にあいました。

 

土曜日の授業は午前の半日だけで終わり、

ビビはへとへとになって家に帰ります。

 

学校からビビの家までは一本道で、

徒歩で5分とかかりません。

 

そんな彼女の後ろを、あのアンがついてきます。

 

ビビは血相を変え、慌てて家に入ったのですが、

どうしたことか今日は珍しくビビの母が

玄関まで出迎えました。

 

「おかえりなさい。ちょうどよかった。」

 

すらりと細い体型の母、ティナの後ろには、

大きなダンボールが廊下に置かれています。

 

「はぁ…ただいま。

 …それ、なにか買ったの?」

 

ビビは平静を装ってたずねます。

学校であったことを胸に秘めて。

 

「注文してた新しいベッド。さっき届いたの。

 あとでふたりで組み立ててみて。」

 

「ふぅん…わかった…? エーちゃんと?」

 

ビビには6歳離れた姉のエリカがいます。

 

けれどふたりとも別々のベッドを使っていて、

ビビにはいまさら必要だとは思いません。

 

なので首をかしげて返事をしたところ、

背後の扉がガチャリと開きました。

 

入ってきたのは赤い毛むくじゃら。

 

それはまぎれもなくアンでした。

 

「おかえりなさい、アンちゃん。

 どうだった、学校。」

 

「愉快。特にビビが愉快。」

 

「そう、仲良くやれてそうでよかったわ。」

 

「お母さん?」

 

このやりとりにビビは戸惑いました。

母親がアンと普通に話していたことに。

 

アンは学校の大人たちのみならず、

家族まで洗脳しているんだと、

ビビは自分の想像を確信します。

 

それからティナが言ったことを察しました。

 

「このベッド…。」

 

「そうよ。

 これ、あとで屋根裏部屋に運ぶから、

 ビビとアンちゃん、ふたりで組み立てて。

 そしたらお母さん、お仕事で出かけるから。

 それからおつかいお願いね。」

 

「ふたりって?」

 

ビビが隣に立ったアンを指差します。

ティナはうなずきました。

 

「仲良くしてあげてね、アンちゃん。」

 

「了解。わが使命。最大限、努力する。」

 

「え? ひょっとしてウチで暮らすの?」

 

「また変なこと言って。」

 

「ママさん、ごはん。」

 

「そうね。ビビも、はやく手を洗ってきて。」

 

「ビビも、ごはん。」

 

ビビは宇宙からやってきた、

毛むくじゃらの生命体に困惑します。

 

彼女以外の全員がこの摩訶不思議な存在を

普通に受け入れたからです。

 

『赫き暗黒からの使者』

 

アンの存在によって、

昨日までのビビの日常が一変します。

 

「アン。洗面所、そっちじゃない。」

 

階段をのぼろうとするアンの大きな手を引き、

ビビは洗面所に向かいました。

 

土曜日の今日から、宇宙人のアンが

ビビの家で一緒に暮らすことになりました。

 



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02 教室のアン

それは初めてアンと出会った、

土曜日の朝のことです。

 

職員室で先生に頼まれ、ビビは自分の教室まで

巨大な赤色のモップを案内していました。

 

アンの存在を疑って止まないビビは、

同じような人が教室にいてくれることを

強く願いました。

 

「サクラ。なんだそいつ。すげーな。」

 

ビビが教室に入ると後ろにいたアンを、

アクタという男子が目をつけました。

 

巨大なモップに背の高いアクタも見上げていて、

ビビはホッと胸をなでおろします。

 

アンをおかしな存在だと認識したからです。

 

ビビの後ろの席に座る長身の女の子、

スーと目が合いましたが彼女は顔を机に伏せ、

アンどころかビビさえ見ようともしていません。

 

ビビも出来ればスーのように、

アンと関わり合いたくないと思いました。

 

アクタは運動神経がよく、明朗快活な性格で、

頭の回転が早いのでクラス委員にも選ばれました。

 

それから生まれつきの金色の髪と

青い目をしていて、教室でひときわ目立ちます。

 

「デカ過ぎるだろ…。」

 

「なんだい? 小さいの。」

 

売り言葉に買い言葉。

 

すぐににらみ合いが始まりました。

ですがアンよりも背の大きな男子は

教室にはいません。

 

「この色、校則違反だろー!」

 

「やめろ。ひっぱるな。けがれる。」

 

長い長いアンの赤い毛をつまんで引っ張ります。

 

すると隣に立ったビビが、

はしゃぐアクタの顔を

じっと見つめてこう言いました。

 

「あんた、ひょっとして…アンのこと好きなの?」

 

それは男子を黙らせる魔法の言葉です。

 

「ちっげーよ! チビ!」

 

アクタにそう言われると、

学年で一番背の低いビビは

事実であってもムキになります。

 

「好きで背が低いわけじゃない。

 アクタはさっさとハゲちゃえ!」

 

「ハゲねーし! 地毛だし!」

 

「はいはい、不毛な争いはそこまでー。」

 

言い争いの原因となったはずのアンが

ふたりの間に割って入り、

頭をワシづかみにしました。

 

「痛い! いだい!」

 

「はなせよ! デカいの。」

 

「静かにしないと、キスさせちゃうぞ。」

 

ふたりの顔を無理やり近づけさせます。

 

ビビは小さな身体で力を振り絞って、

アクタの顔から離れようとしますが、

非力過ぎて距離は狭まる一方です。

 

「やめて、セクハラ。いやだぁ…。」

 

「いや、オレだってッ!」

 

涙目になって目をつむるビビのつぶやきに、

アクタが口を開けてショックを受けたのを見て、

アンはビビの頭から手を離しました。

 

反動でビビは尻もち。

お尻の痛さに涙がこぼれます。

 

アンはアクタの頭を掴んだまま

耳元でささやきました。

 

「これは、わがはいからの助言である。

 好きな子に嫌われること、

 言わない方がいい。」

 

「バッカ! ちげーよ!」

 

両手でアンを突き飛ばそうとしたのですが、

アクタ自身が弾き飛ばされてしまいました。

 

「あやまりな。

 ビビにあやまれば、わがはいは許す。

 ビビはわかんないけど、

 あやまれない男は女に嫌われるぞ。

 学校卒業しても嫌われたまま。

 後悔するのは貴様だぞ。」

 

アンはなおもささやき続けると、

アクタはコイのように口をぱくぱく、

顔色を変えてあわてふためきました。

 

「サクラ! チビって言ってスマン。」

 

小さく頭を下げるアクタですが、

その頭がビビの視線より上なのが気に食わず

彼女は無言で頭をひっぱたきました。

 

「なにすんだよ! あやまってやったのに!」

 

「頭皮刺激してあげたの。育毛そくしん。」

 

痴話喧嘩の絶えないふたりに、

アンはもう一度頭を抑えて顔を近づけさせた。

 

ふたりはその場限りの謝罪を繰り返して、

ようやく解放されました。

 

アンがやってきた土曜日を境に、

ビビの教室での立場も、少しばかり

変わったのかもしれません。

 



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03 河原のアン

それは土曜日の午後のことです。

 

昼ごはんを食べ終えたビビはいつものように

母のティナからおつかいを頼まれ、

ドラッグストアに日用品を買いに出かけました。

 

普段から家の手伝いをして

ビビも慣れたものですが、

今日はいつもと違います。

 

サクラ家に同居することになった

『赫き暗黒からの使者』と名乗る

モップ状の居候、アンが一緒でした。

 

「あれ?」

 

ペーパータオルにボックスティッシュなどの

大きくて軽いものを買い終えたところ、

ビビは店内でアンを見失いました。

 

――もしかして迷子なんじゃ…。

 

ビビは不安を懐きましたが、

その心配は無駄でした。

 

なにせ自立するモップはよく目立ちます。

 

「こんなとこにいた。」

 

「ビビ、これは?」

 

レジから少し離れたアイス売り場で、

アンはジッと商品を覗き込んでいました。

 

「アイスだよ。今日は買わないよ。」

 

「アイス…。氷?」

 

「氷菓子。食べたことないの?」

 

「なるほど、氷のお菓子か。

 地球の調査対象だ。

 ビビはどれが好き?」

 

「え? なんの調査?」

 

「わがはいは地球を調べる必要がある。

 『相手を知るには、言語と文化と胃袋から』

 と言い伝えられるくらい、食べ物は大事だ。」

 

「テキトーなこと言ってない?

 買わないって…。」

 

おつかいの駄賃を使わず貯め込んでいるビビは、

アンがとても興味深く眺める美味しそうな

パッケージに目移りしてしまいました。

 

目を背けて、固く目をつむります。

しかし欲望には抗えませんでした。

 

アンもつんとした目を輝かせています。

 

「しょうがない。ひとつだけならいいよ。」

 

「ではわがはいは、これを所望する。」

 

「なんで6個入り選ぶの。」

 

ビビが選んだのは箱に入った

色とりどりのカップアイスでした。

 

「みんなで食べられる。」

 

「そんなにお金ないから。」

 

「お金か…。

 ではこちらだ。」

 

「んんー?

 まぁ、…これならいいか。

 これでいいの?」

 

意外に思ったビビの忠告に、

アンは気にせずうなずきます。

 

アンが選んだのは、先程のカラフルな

カップアイスのセットとはガラリと変わって、

コーヒー味と書かれた地味な茶色の袋に入った

2個のチューブ型のアイス。

 

「これなら、わがはいとビビ、

 ふたりで分けられるぞ。」

 

「お金払うのあたしだけどね。

 これ持ってて。買ってくるから。」

 

家までの帰り道に

河川敷を歩いていると、

アイスをくわえたアンが

川に気を取られて堤防から

川縁に転げ落ちました。

 

ビビも慌てて駆け寄ります。

アンに預けたペーパータオルが心配です。

 

「ねぇ、大丈夫?」

 

「見ろ、ビビ。

 石がある。いっぱい。」

 

草だらけになった赤いモップが

つぶらな瞳を輝かせて言いました。

 

「石?」

 

「見て、すごい、全部丸い。

 パラノーマルフェノメノン。」

 

アンはアイスを口にくわえたまま、

小さな石をたいそう珍しそうになでました。

 

「まぁ、川だからね。」

 

「そうか、川か。これが地球の川。」

 

上流にある岩や大きな石が大雨で流されると、

砕けてカドがなくなり、中流の河原には

こうした丸い石が集まります。

 

呆然と川を眺めるアンに、

ビビは不思議に思います。

 

――宇宙に川はないのか。

 

「ビビ、この石、全部持って帰ろう。」

 

「そんなのどこにもあるから、いらないよ。」

 

「ではビビの部屋にも石ある?」

 

「いや、ないよ。普通ないけどさ。」

 

「ないか。」

 

アンは石を全て持って帰りそうな勢いで、

両腕に抱えています。

 

「こういう石は、遊び方があるんだよ。」

 

ビビはそういって、

アンの抱えた石をひとつ手にします。

 

周囲に人がいないことを確認し、

平らな石を地面と水平にして横手投げ。

 

石は川に落ちず、川面を切って

3回ほど飛び跳ねました。

 

「あれ、ぜんぜん飛ばなかった。」

 

「おぉ。すごい。マジックか?

 ビビ、なにやったの?」

 

ビビには納得のいかない結果でしたが、

予想に反してアンは興奮していました。

 

「魔法じゃないよ。

 その前に石ぜんぶ置いて。」

 

「そんな…。」

 

アンは両腕に抱えた石と惜別し、

それからビビが平たく薄い石を手渡します。

 

「こういう薄い石でよこに指をかけて持って。

 まわりに人がいないのちゃんと見てから、

 横に投げるんだよ。こんな感じで。」

 

もう一度投げた石は今度は4回ほど跳ねました。

 

見様見真似でアンも投げます。

長い腕を目いっぱいに振って投げた石は、

8回以上も水面を切って沈むように落ちました。

 

「すご…。」

 

「すごい。できたぞ。」

 

投げたアンも一緒になって驚きました。

 

水面を切った回数が多く、教えた側のビビは

簡単に追い越されたのがなんだか悔しくて、

よさそうな石を見つけては繰り返し投げました。

 

アンはビビの様子を見ながらアイスを食べて、

気になる石を物色しています。

 

「ビビ、もう帰ろう。」

 

アンが呼びかけたころ、

日はすっかり傾いていました。

 

「これ最後だから。」

 

そう言ってビビが投げた最後の石は、

水流に飲み込まれて跳ねずに終わりました。

 

これにはビビもアンもがっかり。

 

「明日! また明日来よう。」

 

「えー? ビビも石集めるか?」

 

「え? 集めないよ。」

 

「集めないか…。」

 

互いの要望が一致しなかったので、

翌日は川に行くことはありませんでした。

 



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04 お風呂のアン

「おかえ…どうしたの。」

 

制服姿の年若い女性、姉のエリカが、

ビビとアンの帰りを出迎えました。

 

「エーちゃん。ただいま。」

 

エリカはビビとは6歳も離れた姉です。

 

驚いたエリカは宇宙人のアンの存在に

疑問を抱いたのかと思いましたが、

ビビの予想とはまったくことなりました。

 

「草だらけ。河川敷でケンカでもした?

 ごはんより先、おフロ入ったら?」

 

「はじめまして、エーちゃん。わが名はアン。

 『赫き暗黒からの使者』であり、

 血の盟約者。」

 

「知ってる。よろしくね。アンちゃん。」

 

ふたりは握手を交わします。

 

上がりかまちに立つエリカでも、

玄関のアンは同じくらいの頭の高さがありました。

 

「おフロか…。」

 

「おフロは初めて?」

 

「コンセプトは理解してる。」

 

堂々とうなずくアンですが、

エリカはその返事にいぶかしみます。

 

それから妹のビビと目が合いました。

 

「ビビ、一緒に入ったら?」

 

「えぇー。」

 

手も顔が川砂まみれのビビには、

異を唱えたところで姉を説得できませんでした。

 

浴室に異彩を放つ毛むくじゃら。

 

「どうして石持ち込んでるの。」

 

「これは浮かぶやつだ。」

 

「浮かべなくていいよ。」

 

川で拾ってきた軽石を、

ビビは大事そうに持っています。

 

先に入って身体を洗い終えたビビは

ボトルを持って、アンの頭に直接ポンプで

シャンプーをかけます。

 

「これシャンプー足りなくなりそう。」

 

「ビビ、目が、目がいたい。」

 

「お湯で洗い落として。

 その前に軽石置いて。」

 

湯桶に軽石を浮かべて

丹念に目を洗うアンをよそに、

ビビは全身をシャンプーの泡だらけにしました。

 

「できた。

 『白きうたかたからの使者』。」

 

「わがはいで遊ぶな。

 もうフロはイヤだ。」

 

「お湯に浸かるまでがおフロだよ。」

 

先に湯船に浸かったビビを見て、

アンはぞっとします。

 

「煮えた湯に浸かるなんて拷問ではないか。」

 

「煮えてないよ。

 これはただのジェットバス。」

 

シャワーで全身の泡を流して、

アンも恐る恐る湯船に足を入れます。

 

「熱いし、くすぐったいぞ。」

 

「そういうもんなの。」

 

アンの毛が吹き出す気泡で流され、

湯船が赤い川ができます。

 

「やっぱ熱い。出る。」

 

「だから早いって。」

 

ビビは水面に手を合わせて

水鉄砲をアンに浴びせようとしましたが、

勢いが足りずにお湯が少し飛んだだけです。

 

「なにをする。どうやった?

 マジックか?」

 

「手品じゃないよ。こう?

 握手するみたいに手をずらして。

 親指? の間から。」

 

「なるほど。こうかな。

 ウォーター・カッター!」

 

アンが1度試しただけで、

放たれたお湯は彼女の意図とは別に、

見事にビビの顔に命中しました。

 

「もー! なにすんの。」

 

「これはなにか意味があるのか?」

 

「え? ないよ。お湯がムダになる。」

 

「ないのか。なぜやった?」

 

「なんとなく?」

 

「地球人のやることは分からん。」

 

「上から目線。」

 

「宇宙人だからな。」

 

アンが天井を指差します。

 

「そりゃそうか。」

 

「そうだぞ。」

 

他愛のない談笑をしていると、

エリカが浴室に顔を覗かせました。

 

「ふたりともごはんにするから、

 そろそろおフロ上がんなよ。」

 

「はーい。」

 

「エーちゃんは美人だな。」

 

「どうせあたしは似てませんよ。」

 

アンがそうつぶやくと、

ビビがふくれっ面を見せます。

 

「わがはいはそんなこと言ってない。」

 

「ちがうの?」

 

「誤解だ。

 わがはいはビビをほめてる。

 ビビはおかしな地球人。」

 

「全然ほめてないからね、それ。」

 

「おしかったか。」

 

「おしくない。」

 

「おしくないか。」

 



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05 寝床のアン

食卓にはビビと母のティナ、

姉のエリカのいつもの3人に加え、

赤い毛むくじゃらが一緒にカレーを食べました。

 

スパイスの刺激的なにおいに慣れていないアンは、

目を見開いて見た目をまず疑い、

鼻に深いシワを寄せます。

 

しかしスプーンを口に運ぶと

気に入った様子でおかわりもし、

食卓の新たなメンバーに

久々に賑やかな夕食になりました。

 

「これがビビの部屋。」

 

食後、アンがビビの部屋を訪れました。

 

「なにー? ノックぐらいしてよ。」

 

ビビはベッドで横になって本を読んでいます。

 

「なにしてる?」

 

「なにって、読書だよ。」

 

ビビの部屋を見渡すアン。

なにかを探している様子です。

 

「石はないのか?」

 

「ないよ。」

 

「ないか。エーちゃんもないって。」

 

「そりゃ、ないでしょ。言ったじゃん。」

 

ビビにも姉のエリカにも

部屋に石を飾る風習はありません。

 

「おやすみ。」

 

「え? おやすみ…。」

 

なにを求めるわけでもなく、

アンは屋根裏の自分の部屋に戻っていきました。

 

「なんだったの…?」

 

ビビは扉を見て首をかしげます。

 

それは土曜日の夜のことです。

寝ていたビビは寝苦しさを覚えました。

 

唇に毛が触れ、寝ぼけ頭のまま

舌を出して追い出そうとすると

さらに大量の毛が口にからみつきます。

 

「うぇ…。」

 

ビビが目をさまして口元を見ると、

大量の赤い毛に包まれていました。

 

「なんだ…アンか…。」

 

ビビはベッドの中にもぐり込んだ

アンの長い腕と足に挟まれています。

 

「いや、なんであたしの布団にいるの?」

 

頬を軽く叩いても起きる気配はありません。

 

身を翻して目を閉じて、再び寝ようと試みますが、

身体はアンの手足に挟まれ、ベッドの狭苦しさに

どうしても寝付けません。

 

ビビはアンの拘束を逃れ、

ベッドからはい出たものの

薄い毛布を持って立ち尽くします。

 

「屋根裏部屋はやだなぁ…。」

 

アンのベッドと入れ替わる気にもならず、

1階に降りて、リビングのソファの背もたれを

倒してフラットベッドに変形させます。

 

4月であっても毛布1枚ではまだ寒く、

頭までおおってビビは小さな身体を

さらに小さく丸めます。

 

目を閉じてしばらくすると、

浅い眠りが何度か訪れましたが、

寒さに身震いを繰り返して眠れません。

 

いまさらソファで寝るのをやめ、

自分のベッドに戻る気も湧かず、

寝返りを繰り返しました。

 

やがて背中にじんわりと暖かさを感じ、

ビビは深い眠りにつきます。

 

朝日がリビングの薄いカーテンを抜け、

ビビの顔に差し込みます。

 

布団の中の暑さに手足を伸ばし、

まぶたを開くと姉エリカの顔がありました。

 

エリカは大きなカメラでビビの顔を撮影します。

 

「なにしてるのー。」

 

「ビビこそなにしてるの。こんなとこで寝て。」

 

「えー? あたしの部屋…。」

 

寝ぼけ頭のまま、自分が今どこで

なにをしているのか考え直しました。

 

オーブントースターのベルが鳴り、

パンの焼けた香ばしいにおいが

ビビの鼻孔をくすぐります。

 

「おはよう、ビビ。エーちゃん。」

 

リビングのソファで寝ていたビビの隣には、

アンが横になっていたのです。

 

「おはよう。アンちゃん。」

 

「なにしてるの…アン?」

 

「ビビこそ。どうしてこんなとこで寝てる?」

 

「どうして…って

 アンがあたしの布団に入ってきて、

 追い出されたからだよ。」

 

「それならわがはいのベッド行けば解決だ。」

 

「アンがそれ言うの?」

 

ソファを元の形に戻して、

毛布をたたみます。

 

「アンちゃん、それはね。

 ビビは屋根裏部屋が苦手なのよ。

 むかし、オバケ出るって。」

 

「オバケ? わがはい興味ある。

 ビビは見たことある?」

 

「そんなことより!

 なんであたしのベッドに入ってきたの。」

 

ビビは耳を朱に染めて話をそらしました。

 

「マクラ…。」

 

「枕?」

 

「そう、ビビの大きさは

 抱き枕にちょうどよかった。」

 

それが、アンが寝る前に本を読んでいた

ビビの部屋に来た本当の理由だったのです。

 

横で聞いたエリカが大笑いしました。

 



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06 海を見に

自立する赤いモップが、買った抱き枕を

大事そうに抱えて歩いています。

 

ビビはアンの買い物に付き合わされていました。

 

「疲れたぁ。」

 

ひとつの抱き枕を買うのに、

1時間もかかるこだわりようです。

 

これで夜の安寧を得られると思えば、

ビビは大事な任務だと自分を説得します。

 

家に着くなり玄関で力尽きて横になると、

ビビをマネてアンも横になります。

 

アンが買ってきた枕を押し付けます。

 

「これいる?」

 

「いらない。」

 

「今日は川行かないのか?」

 

昨日、水切りに夢中になっていたビビが

言っていたことをアンが催促します。

 

「いいよ、もう。どうせ飛ばないし。」

 

ビビは不貞腐れています。

 

「あの川下ったら

 もしかして海に行けるか?」

 

「海?」

 

「見たことあるか?」

 

「海水浴なら昔、何度か行ったけど…。」

 

それを聞いてアンは目を輝かせます。

 

「わがはい、ちょっと行ってくる。」

 

「まって、まって。なに考えてんの。」

 

「地球の調査だ。

 地球の70%は海だぞ?

 使者として使命を果たさねばなるまい。」

 

「ちょっとおつかい行くみたいに言うな。

 歩いていける距離にはないって。

 それに行き方わかるの?」

 

興奮して鼻息を荒くするアンをビビは諭します。

 

「…歩いてダメなら自転車か?」

 

「自転車でも無理。

 いま調べるから待ってて。」

 

アンをひとりで行かせる訳にもいかず、

ビビは一緒に電車で行くことにしました。

 

「電車乗ったことある?」

 

「地球に来たときあるぞ。」

 

「そう…。

 宇宙人なのに電車乗ったことあるんだ。」

 

ビビは深く考えずに、返事をしました。

 

近所の地下鉄駅から

路線を3つほど乗り換えて1時間。

 

小さな無人駅に降りて、西に数分歩けば

ようやく海水浴場にたどり着きました。

 

「これ、本当に海か?」

 

初めて見る海にアンは半信半疑です。

 

湾になった海で水平線は見えず、

遠くには薄く山が見えます。

 

誰もが想像する透き通るような水色の海ではなく、

この海は濁ったように深く暗い緑に近い青色です。

 

「変なにおいだ。」

 

「潮のにおいだよ。」

 

「ビビはわがはいをだましてる?」

 

「だましてない。」

 

4月の海水浴場に泳ぐ人はいません。

風は強く、沖には白波が見えます。

 

閑散期のために堤防で釣りをする人影と、

イヌを散歩する近隣住民の姿しかありません。

 

「ここら辺の海はだいたいこんなミドリだよ。」

 

昼過ぎにも関わらず天気はやや曇っているので、

海は余計に暗い色に見えます。

 

ガッカリとしたアンの見て、

ビビは胸中で同意してうなずきます。

 

――想像と現実は全然ちがうんだよね。

 

現実のゾウやクジラは想像のように空を飛ばず、

想像の中でお姫様になって華やかなドレスを

着飾っても、学校に通う現実は変わりません。

 

「ウチの近くの川から、

 こっちの方まで流れてくるんだよ。」

 

「石が集まるのか?」

 

「集まらないと思うよ。もう砂になってる。」

 

中流の川の丸い石は、転がり砕けて削られて、

海に流れ着くころには小さな砂粒へと

変わってしまいます。

 

ビビは靴の上から土混じりの柔らかな

砂浜を踏む感触を楽しみます。

 

子供だけでこんなところに来たのは

初めてのことなので、少し興奮していました。

 

アンは砂浜に見つけたなにかを拾い上げます。

 

「ビビ、これ見て。

 エメラルドだ。」

 

「それガラスだよ。

 シーグラスっていう。」

 

緑色のカドの取れたガラスの片鱗でした。

 

「ガラス…?」

 

それを聞いて心底がっかりしていたので、

ビビはひとつの石を見つけてアンに渡しました。

 

「いいのあったよ。」

 

「これもガラス? ひょっとしてルビー?」

 

「ルビーはこんなんじゃないよ。

 これはメノウってやつ。」

 

アメ色の石を手にして、

雲間からのぞく光に当てると

ほのかに透明感がありました。

 

「アンにぴったりでしょ。」

 

「…うん。いい。

 これ気に入った。

 こっちビビにあげる。」

 

「自分が要らないからって渡さないでよ。」

 

「ビビはいろいろ詳しいな。」

 

「むかしお父さんに教わったんだよ。」

 

「パパさん。どこいる?」

 

「知らない!」

 

ビビは渡されたシーグラスを海に投げ捨てました。

 

「おぅ…。

 わがはい、ビビにがっかりさせることがある。」

 

「がっかり?」

 

「ビビ、実は…わがはいのパパは、

 火星人じゃなくて、地球人だった。」

 

赤いモップが突然、深刻な顔を見せます。

宇宙人なのに地球人の父親がいるアン。

 

「お母さんは?」

 

「ママは月生まれで、

 わがはいは真の宇宙人ではないのだ。

 かなしい。」

 

「ハーフってこと?

 悲しむポイントがよくわかんないけど、

 それ…コンプレックスなの?」

 

――宇宙人には血統の優劣があるのかな。

 

ビビはそんな妄想を膨らませました。

 

「あたしから見たら立派な宇宙人だよ。

 いや、立派かどうかはわかんないや。

 毛がぼーぼーだし。」

 

「ビビはぼーぼーにしないのか?」

 

「しない。」

 

「しないのか。」

 

「でも、大人になったら少しは伸ばすかもね。」

 

ビビの肩透かしの反応に、アンは首をかしげます。

 

「もうちょっと後なら潮干狩りもできたのかな。」

 

「しおひがりとは? 狩り? 狩猟?」

 

「海の水が引いた時に砂を掘って

 アサリとかシジミとかの

 二枚貝を探すんだよ。こんなの。」

 

中身のない貝殻を2枚拾って、

上下に合わせましたが大きさは不揃いでした。

 

「うーむ。コレクト・シェルズ?」

 

「砂をはかせてから料理するんだよ。

 おじいちゃんが料理上手くて、

 なにか作ってくれるんだ。」

 

「美味しいのはだいたい地球にあるな。」

 

「そいえば地球を調査する使者か。」

 

「そうだ。ビビ、お腹空いてきた。」

 

「あたしも。やることないし帰ろっか。」

 

海水浴場には1時間も経たずに離れ、

乗り込んだ電車で疲れた足を伸ばします。

 

小さな旅の緊張から目を閉じたビビが

もたれかかったアンの毛に埋まると、

家族で海水浴に出かけたときのような

懐かしい潮風のにおいに包まれました。

 




次回更新は10月09日(土曜)
2話更新予定です。


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07 普段のアン

アンは朝早くに起きます。

 

ビビの母、ティナについて回り、

タブレットで彼女の行動を記録します。

 

ビビの姉、エリカの弁当を作るために

白米を炊き、冷蔵庫の食材から

料理を次々に作る姿は魔法のようです。

 

地球での家庭料理の風景は珍しく、

タブレットで録画しながら

アンは目を輝かせて見ています。

 

冷蔵庫内のカメラとタブレットをリンクさせ、

内容物を確認します。

特に冷凍庫のアイスは念入りに。

 

それからアンは別の仕事にとりかかります。

ビビとエリカを起こして、

脱いだパジャマを洗濯機に。

 

ビビとエリカは洗面台の前で、

寝癖のついた髪を梳かしています。

 

「おはよう、アンちゃん。」

 

「おはよう、エーちゃん。

 弁当はなにが好き? アイス?」

 

「アイスはお弁当に入らないかな。」

 

「そうか…。」

 

アンはがっかりと肩を落とします。

 

エリカのさらさらな髪と違い、

ビビはふわふわした髪のせいで

寝癖とひたすら格闘していました。

アンもそれを手伝います。

 

手持ち無沙汰になっているエリカは、

アンの毛を梳かして、みつあみにしました。

 

「ビビは?」

 

「あたしは給食だから弁当はないよ。」

 

「アイスでる?」

 

「出ない。あ、たまに出る日もあるかも。」

 

「アイス持ってくか?」

 

「持ってけないよ。溶けるでしょ。」

 

「持ってけないのか。」

 

アンは再び肩を落としました。

 

4人で朝食にします。

アンはトースターの見張りに夢中でした。

しかしタイマーのベルが鳴っても

パンを取り出しません。

 

「なにしてるの?」

 

「パンを焼いてる。」

 

「焼けたのに?」

 

しゃがんで毛玉になるアンの隣に、

ビビがトースターの扉に手を掛けました。

 

「ダメ。

 開けるとトースターの熱が外に逃げる。」

 

「どういうこと?」

 

「トースターの中の熱をパンに与える。

 熱力学の第2法則。」

 

「宇宙で得られる熱は大事だからよね。」

 

アンの説明に続いて

ティナがビビに言って聞かせます。

 

しかし意味を理解していないビビは、

釈然としない気持ちで席に戻りました。

 

そこでエリカが説明を補足します。

 

「水は高いところから低いところに流れるでしょ?

 熱も同じで差があると低い方に温度移るのよ。

 パンの温度も表面を焼いただけで、

 内側は低いから予熱で中まで温めてるの。

 冷凍させたパンで確かめてみるといいよ。」

 

「ふーん…。冷凍させると?」

 

「焼いてもすぐだと、中がほんのり冷たいの。

 ありがと。」

 

「お召し上がりなされ。」

 

アンが焼いたパンをテーブルに持ってきました。

 

ビビがひと口噛むとサクリといい音が鳴り、

パンの中はいつもより温かく柔らかです。

 

「なんかいつもと違う。

 パン変えた?」

 

「中がすごいしっとりしてる。」

 

「トースターの湿度と温度管理をこだわった。」

 

「アンちゃんはこれから

 トースター奉行名乗っていいわよ。」

 

「ぶぎょー?」

 

「鍋奉行みたいに言う。」

 

「えらい役職よ。」

 

「昇級したのか。

 ありがたく拝命する。」

 

冗談で与えられた役職名を仰々しく受け取って

それからアンもティナと自分の分のパンを焼いて、

朝食を食べました。

 

「行ってらっしゃい。」

 

「アンは? 学校行かないの?」

 

「なんで?」

 

「なんでって…?」

 

ビビは宇宙人が学校に通う理由を説明できません。

 

「われは地球を調査する大事な使命がある。」

 

「ビビ、早く行かないと遅刻になるよ。」

 

有耶無耶なまま、

ビビはひとり学校に向かいました。

 

宇宙人の毛むくじゃらが学校に通うのは

おかしなことだとは自分で納得しましたが、

ビビは寂しいという感情には気づきません。

 

アンはふたりを見送ってから、

洗濯物をベランダに干します。

下着は屋内の一角で除湿機の上に。

 

それから階段を掃き、掃除機をかけ、

浴槽の掃除をして昼ごはんになりました。

 

昼ごはんの後は食器を洗い、

サクラ家の中の動画を撮り、

タブレットの記録を編集してまとめ、

リビングで海岸で拾った石を眺めたりと、

アンは忙しそうにしています。

 

「そろそろ時間よ。」

 

母のティナが声をかけたので、

タブレットを持ったまま

アンは家を飛び出します。

 

向かった先はビビの通う学校でした。

 

「ビビー!」

 

授業が終わった教室に、

アンが現れてビビは驚きます。

金髪のアクタも驚きます。

 

「どうしたの?」

 

「迎えに来た。」

 

「ウチすぐそこなのに。」

 

「ごはん、アイス出た?」

 

「給食? 出てないよ。」

 

「われはママさんとアイス食べた。」

 

「アイスまだある?」

 

「ビビはあとでわがはいといっしょに買い物。」

 

「おつかい? そういうことか…。

 またアイス食べるんでしょ。」

 

アンが迎えに来た理由を察しました。

 

「あれ食べよう。チューブのやつ。」

 

「アンのせいでウチのアイスが

 全部なくなっちゃいそう。」

 

「大丈夫。わがはいが

 アイスをチェックしてる。」

 

アンが持ってきたタブレットで、

アイスのリストを出したので

ビビは微笑みながらあきれました。

 

「ちゃっかりしてる…。」

 



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08 学校のアン

土曜日の朝、アンが学校にやって来ました。

 

「重役出勤ねぇ」

のんびりな先生はあくびをこらえて言います。

 

この大きな赤いモップが

教室に現れたのは2限目のときです。

 

以前からアンは教室に何度も顔を見せていたので、

金髪のアクタもうろたえなくなりました。

 

「どうしたの? アン。」

 

「ママさんの手伝い終わったからビビ見に来た。」

 

「えー、見られても困る。これ書く?」

 

「書く。」

 

アンが学校に現れた日にも、

ビビは書道セットを貸して

習字をやって見せました。

 

土曜日の時間割は午前中しかなく、

授業内容も書写や図工となっていて、

普段の座学から少し趣旨がことなります。

 

そのため、塾や習い事を優先して

登校しない生徒もいれば、

逆に平日は登校を控えていた生徒が

この日に限っては授業に出席するなど、

教室にも普段とは違った空気があります。

 

「お、おはよ、ございます。」

 

かき消えそうな声であいさつしたのは、

ビビの後ろの席に座っているやや背の高い女の子。

彼女もまた不登校ぎみのクラスメイトでした。

 

「おはよう? 誰?」

 

「サクライさん。だよね?」

 

「サクラ? ビビと同じ名前?」

 

「違う。サクラ・イー。」

 

ビビのマネでアンも大きな口を横に広げて

末尾をハッキリと発音します。

 

「…スージィ・サクライです。」

 

「それならスーね。我が名はアンジュ。

 アンでいい。」

 

「アン…さん。」

 

「アンだ。」

 

「…アン。」

 

スーはアンの名前を恐る恐る呼びました。

 

「スーは字が上手いな。」

 

半紙に書かれた『明鏡止水』の4文字は、

字のバランスが取れて先生のお手本のようです。

 

「アン、一応授業中だから静かにしなよ。

 周りに迷惑かけないで。

 ねぇ、あたしのは?」

 

ビビは自分の書いた『平々凡々』を見せましたが、

アンはためらいながら2度うなずいただけでした。

 

「なにそれ。」

 

「ビビらしい。」

 

「ほめてるの?

 アンも書いてよ。」

 

「わかった。」

 

アンは筆で字を書くのが得意ではありませんが、

堂々と勢いよく半紙に筆を走らせます。

 

書き上がったのアンバランスなひらがな3文字。

 

「さ、わ、ら?」

 

「今日のごはん。」

 

「なんだろ?」

 

「魚偏に春の?」

 

巻き添えのようにアンの字を見せられたスーが、

さっとひと文字の漢字を書きました。『鰆』。

 

「サカナか。」

 

アンはよく分からずうなずきました。

 

「テキトーだなぁ。」

 

「これがかんじ?」

 

「そう。」

 

アンはタブレットを取り出して、

さっそく『鰆』の画像を検索しました。

 

青色にやや緑がかった背に

鋭い歯を持つ魚の画像が並びます。

 

「かっこいい。サカナだった。」

 

「知らないで書いたんだ…。」

 

「これ手本にしていい?」

 

「え…うん。」

 

「嫌なら断っていいよ。」

 

ビビからそう勧めを受けましたが、

スーは首を横に振りました。

 

「いいよ。使って。」

 

「やった。サワラー! おいしそう。」

 

「ありがとう、スーちゃん。」

 

「…ど、うも…。」

 

ビビにお礼を言われて、

スーの声は今にも消え入りそうでした。

 

似た苗字のふたりでしたが、

お互いに人見知りの引っ込み思案なので

干渉しないという暗黙のルールが、

アンの襲来によってすぐに破綻しました。

 

「アンが迷惑掛けるけど、これからよろしくね。」

 

「こちらこそ…。」

 

「迷惑掛けてるの、

 わがはいではなくてビビでは?」

 

「そんなことない。よね?」

 

「うん。」

 

「ほら! あっ、ねえ、聞いてた?」

 

スーから言質を取ったビビですが、

アンは習字に夢中で聞いていませんでした。

 

「ビビ、ちょっと静かにして。迷惑だぞ。」

 

習字道具を奪われ、手持ち無沙汰のビビは、

クラスの全員から白い目で見られてしまいました。

 

ビビは耳を赤く染めて、机に突伏し

恥ずかしさに耐えしのぐのでした。

 




今週は2話更新。
次回更新は10月16日(土曜)予定です。


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09 雨の日のアン

ひさしの下に、たたずむ赤い毛むくじゃら。

 

「なにしてんの?」

 

「雨見てる。あれが雲。」

 

ビビが足元の毛玉に言いました。

アンは雨雲を指差します。

 

「出かけたのかと思った。

 宇宙って雨降らないのか。」

 

「映画でなら見たことあるぞ。」

 

「宇宙でも映画ってあるんだ。」

 

「火星に氷の彗星を落とすと、

 氷が蒸発して雲をつくって

 地球型惑星になるんだぞ。

 今度ビビにも見せる。」

 

「なにそれ?

 まだ寒いし、ほどほどにね。

 ずっといると風邪ひくよ。」

 

「わかった。」

 

――アンは氷の彗星に乗ってそう。

 

ビビは彗星にまたぐアンを想像して

家の中に戻りました。

 

鉛色をした雲が空に敷き詰められていて、

降り注ぐ雨粒をアンは目で追い、

地面に落ちた雨の音を全身に感じます。

 

「おっ。アンちゃーん。」

 

「エーちゃん。おでかけ?」

 

「ちがうよー。」

 

ビビの姉のエリカが玄関から出てきました。

 

黒色のつなぎ服を着たエリカはガレージに入り、

自分のバイクを濡れタオルで拭きます。

 

ガレージにはエリカのバイクのほかに、

母のティナの軽乗用車と、ホコリをかぶった赤色の

小さなタイヤの自転車が1台ぽつんとあります。

 

「出かけないのか?」

 

「今日は出かける予定ないし、

 だからバイクのメンテだけ。」

 

「出かけないのか。」

 

「雨だと路面が滑るからね。」

 

「なるほど。

 タイヤの摩擦係数に関わるんだな。」

 

「そうそう。」

 

エリカのジャマになる前にアンはガレージを出て、

ビビに言われた通り家の中に戻ります。

 

リビングではビビの母、ティナが

片足立ちをして両手を伸ばし、

不思議なポーズで微動だにしません。

 

「ママさん、なにしてる?」

 

「ヨガだよ。

 運動しないとすぐ太っちゃうから。」

 

「ヨーガ。ママさん細いのに…。

 運動負荷の一種か?」

 

「そうね。アンちゃんも一緒にやる?」

 

「いま忙しい。」

 

ティナの珍妙な姿に興味が湧かず、

適当な理由で断ってアンは2階に上がります。

 

「なに?」

 

今日はノックをしてビビの部屋に入りました。

 

「なんか、容積増してるね。」

 

湿気のせいか、

アンの毛はいつもに増して

ふさふさになっています。

 

「ビビ、ヒマだし川行こう。」

 

「雨で増水してるしダメだよ。

 本貸したんだし、それ読んでてよ。」

 

ビビはベッドで本を読んだまま断ります。

 

「そんなにヒマなら

 てるてる坊主でも作ってたら?

 快晴祈願?」

 

「なんだそれ。」

 

アンは手元のタブレットで検索をかけました。

 

「なんだこれ…。」

 

雨合羽を模した布の人形が

首をくくられ吊るされている奇妙な画像を見て、

アンは恐れおののきます。

 

「ねえ…なんなのこれ。」

 

「えー…雨が止むようにするおまじない?

 願掛け? 由来求められてもわかんない。」

 

「人身御供か…。」

 

「どこでそんな言葉覚えるの。」

 

「おそるべき地球文化。」

 

「千羽鶴とかも分かんないよね。」

 

「1000?」

 

「そう、折り紙でツルを1000個折って、

 早い回復を祈るの。」

 

「オリガミか。

 それは苦行の一種か?」

 

「ちがうちがう。

 プレゼント? みたいにするの。

 むかし貰ったけど、結局処分したなぁ。」

 

ビビは本を置いて、机の引き出しから

折り紙を引っ張り出しました。

 

机でひとつのツルを完成させ、

折り方を覚えていたことに

ビビは少しの驚きを覚えます。

 

「これ、ツル。」

 

「ツル? 見えない。

 星座みたいな感じか。」

 

「だよね。」

 

アンがタブレットで検索した

ツルの写真と見比べても、

似ても似つかない形です。

 

今度は緑色の折り紙を取って、カエルを折ります。

 

「カエルだ。」

 

ビビが折り紙のお尻の部分を指で押すと、

紙の反動で後ろ足で跳ねているように見えます。

 

アンは愉快そうにそれをいじりました。

 

「あと分かりそうなのは…。」

 

ビビは2枚を手にとって、

それぞれを半分に折ります。

 

ふたつの同じ形を十字に交差させ、

折っては差し込みを繰り返して

ひとつの形を組み立てました。

 

「できた。」

 

「おー! スリケン?」

 

「これは知ってるんだ。」

 

「投げていい?」

 

「ひとに向かって投げちゃダメだよ。」

 

「承知したでゴザル。」

 

アンは水切り石のように、

床と水平にして折り紙の手裏剣を投げます。

 

「楽しい?」

 

「ヨーガより分かりやすい。」

 

「あー…。」

 

ヨガをする母のティナの姿を思い浮かべ、

ビビはなんとも言えません。

 

せっかくなので的を作り、さらに手裏剣を折って

ビビはアンと一緒になって投げて遊びました。

 




次回更新は10月23日(土曜)予定です。


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10 ビビの悩み

土曜日の午後のことです。

ビビの様子が少し変でした。

 

おつかいもそつなくこなす彼女ですが、

今日に限っては大事なメモを忘れてしまい、

仕事で出かけた母のティナに確認しました。

 

本も読まずに机に向かってため息ばかり。

そんなビビを赤い毛むくじゃらが

なにも言わずにベッドから眺めています。

 

「ごちそうさま。先におフロ入るね。」

 

ビビは晩ごはんをいつもどおり静かに食べ終え、

食器を洗い場に運んでリビングを出ました。

 

「なにかあった?」

 

いつもどおりに関わらず、姉のエリカが

いつもと違うビビの様子に気づき、

アンにたずねます。

 

「なにもない。」

 

アンは淡々と答えます。

 

学校では相変わらずのビビでしたが、

授業終わり間際の『帰りの会』から

沈鬱とした様子を見せ始めました。

 

その理由をビビはなにも言いません。

なのでアンは首を横に振りました。

 

ビビはフロから上がっても

本も読まずにベッドで横になって、

天井を見上げ、ひざを曲げては

足をバタバタと動かしています。

 

それもすぐに疲れてしまい、

ため息と共に視線を足元に向けると

部屋の扉に大きな赤いモップ。

 

アンの姿にビビはビックリします。

 

「アン、いたの?」

 

「ノックしたぞ。」

 

アンに自分のしていたことを気にして、

顔をそむけて壁の方を向きました。

 

「なに?」

 

「アイス食べるか?」

 

「いらない。」

 

「ビビの分、食べていいか?」

 

「ダメ。」

 

「ダメか。」

 

ビビは起きてベッドの上に座ります。

 

「ねぇ、宇宙ってどうやったら行ける?」

 

「パスポート持ってないとダメだぞ。」

 

「パスポートいるんだ…。」

 

アンはカップアイスをふたつ持ってきて、

ふたつとも蓋を開けています。

 

「宇宙は自転車ないからいいよね。」

 

「あるぞ。自転車。」

 

「あるの?」

 

「ある。月や火星は地球に比べて低重力だから。

 エクストリームスポーツもある。」

 

「そうなんだ…。

 ねぇ、あたしのアイス食べないでよ。」

 

「これはビビのじゃない。

 わがはいのアイスになった。」

 

アンからスプーンをひったくって、

ビビはアイスをひと口食べます。

 

「低重力はやっぱり制御が難しい。」

 

「アンでも自転車、乗れるんだ…。」

 

もうひとつのスプーンで

アイスを食べる毛むくじゃらを見て、

ビビはひとり言のようにつぶやきました。

 

「ビビは自転車で出かけない。」

 

ガレージの隅にあった赤い自転車は、

ホコリをかぶっていました。

 

「…乗れないもん。」

 

不貞腐れるように言って続けます。

 

「来週さぁ、学校で劇場まで演奏会を

 観に行くって言ってたじゃん。」

 

「言ってた? ビビがそれに出る?」

 

「出ないよ。楽器なんにもできないもん。」

 

「折り紙作れるのにな。」

 

「それは誰にでもできるし。

 じゃなくて、劇場まで

 みんな自転車で行くって言うのに

 あたしだけ自転車乗れずに歩きなのが。

 またアクタにバカにされるし。」

 

金髪のアクタはことあるごとに、

背の小さなビビに突っかかってきます。

 

「自転車に乗れない?」

 

「昔、お父さんと練習したんだけどね。」

 

「乗れなかった?」

 

「手のひらとか膝がボロボロになって、

 その日はおフロに入れなかった気がする。」

 

ビビは思い出話に乾いた笑いをこぼしました。

それからひとつ決心をして、アンを見ます。

 

「ねぇアン、明日自転車の練習付き合って。」

 

「わかった。わがはいが助太刀いたす。」

 

翌日、アンとビビのふたりは、

芝生のある広い公園へ行きました。

 

ホコリを払って拭き掃除をして空気を入れて、

赤色の自転車は新品同様です。

 

ビビは顔がこわばっています。

 

芝生の公園はコンクリートや

アスファルトよりもでこぼこしていますが、

手や膝を守るクッションになります。

 

「自転車はタイヤが回転すると

 ジャイロ効果が生まれるぞ。」

 

「ジャイロ効果?」

 

「だから自転車が倒れない。

 自転車が止まった状態で

 ずっと乗るのは難しい。」

 

そう言って試しにアンが乗ってみせます。

 

サドルが体格に合っていませんので、

高さを調節しました。

 

ハンドルさばきのぎこちない運転でしたが、

アンがペダルを強く踏んで漕ぐと、

自転車はスピードにのり

安定してまっすぐ進みます。

 

「できそうか?」

 

アンはサドルの位置を、

ビビの腰の高さまで下げます。

 

「やってみる。」

 

ビビはつばを飲み込んで、覚悟を決めます。

 

自転車をまたいで、ペダルを漕ぐと

先のアンのようにふらつくこともなく

スムーズな走り出しを見せました。

 

ビビは戸惑いながら自転車を漕ぎ進めます。

 

さらに自転車は綺麗にターンをして、

アンのもとに戻ってきました。

 

「乗れた…。」

 

「乗れたな。」

 

「なんで?」

 

肩透かしを食い、

乗った本人が首をかしげます。

 

アンは腕を組んで胸を張り、

ひとことこう言いました。

 

「わがはいのおかげだな。」

 

その演技じみた仕草のおかげで、

これまで募らせていた不安は吹き飛び、

ビビは芝生の上で涙ぐむほど笑い転げました。

 




次回更新は10月30日(土曜)
お昼ごろの予定です。


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11 銀河のアン

「アンちゃん、スシって知ってる?」

 

「知ってるぞ。

 スシ、天ぷら、ゲイシャガール。

 代表的な文化は下調べしてある。」

 

ビビの姉、エリカの質問に、

ソファに座ってアニメ映画を見ているビビの前で、

床に座る毛玉が答えました。

 

「最後の知らない。」

 

「ごはん前で、またアイス食べてる。」

 

ソファに座るビビは両足をアンの肩に乗せ、

赤い毛の頭の上でカップアイスを食べていました。

 

オススメされた火星の映画は、

アンが興奮気味でモノマネをしてきます。

 

しかし知らない言語のために、

ビビには詳しい内容までは分からず

アンの変なモノマネに笑ってしまい

集中力が持ちません。

 

「今日はみんなでスシを食べに行きます。」

 

「行こう。海か?」

 

「スシはスシ屋だよ。」

 

「あ、もちろん、回転する方ね。

 ワサビって大丈夫?」

 

「宇宙ってワサビあるの?」

 

「火星にもワサビあるぞ。

 マーズ・ホースラディッシュ。

 スシマスタード。ギャラクシースシ。」

 

「あるんだ、宇宙のワサビ。」

 

アンはなにやらずっと興奮気味です。

 

「それじゃ今日は

 地球産の本場ワサビを味わうわけだ。」

 

「いたい、からい。」

 

アンが舌を出してイヤそうな顔をしたので、

エリカは嬉しそうに笑いました。

 

そんなエリカの提案で晩ごはんは、

ビビの母、ティナと4人で外食となりました。

 

「地球のスシは初めてだ。」

 

「宇宙のスシってどんなの?」

 

「サーモン、アボカド、ギャラクシーロール。」

 

「ギャラクシーロール?」

 

「巻きスシのことかな。」

 

「巻きスシ、ある?」

 

「あると思うよ。

 たぶん想像してるのとは

 ちょっと違うと思うけど。」

 

テーブル席に案内されて、

レーン側の席にアンとビビが座りました。

 

「スシがいっぱい流れてくる…。」

 

透明なカバーがされた皿に乗った

スシの行列に初めて見たアンが目を輝かせます。

 

「こうやって取るんだよ。」

 

ビビがカバーを外して手本を見せます。

最初に手に取ったのは玉子でした。

 

「ここにサワラはある?」

 

「サワラはないと思うよ。」

 

アンの隣でティナが言います。

ティナは通路側の画面端末で、

手早く注文をはじめました。

 

「これ美味しいよ。」

 

ビビの横のエリカが割って取ったものは、

酢飯と白身の間に青葉が挟まっています。

 

「エンガワ。カレイ、ヒラメのヒレ。」

 

「そうなんだ。

 あーヒラメのエンガワとか言うもんね。」

 

アンは自分のタブレットで

事前に調べた知識を披露すると、

勧めた側のエリカが納得して

1つつまんで食べました。

 

「わがはいに勧めたのに。」

 

「んー。

 さっぱりとコリコリしてて美味しいよ。」

 

しょうゆにワサビを溶かして、

アンもその大きな口で食べます。

 

ワサビにヤラれて鼻にシワを寄せました。

 

「巻きスシ来たよ。」

 

ビビが鉄火巻を取って見せました。

 

「これが地球のギャラクシーロール?」

 

アンは首をかしげます。

 

「違うの?」

 

「違う。」

 

ちょうど4つあるので、

みんなで分けて食べます。

 

ティナは別に注文したかぼちゃの天ぷらを、

アンにおすそ分けしました。

 

「マグロがキレイ。」

 

「キレイ?」

 

アンのつぶやきに、ビビが反応します。

 

「ルビーみたい。」

 

「あぁ、宝石のか。好きだなぁ。

 マグロ食べる?」

 

「食べる。あ、これ!

 これがギャラクシーロール。」

 

アンが取った巻き寿司は、

カニ風かまぼことアボカドを海苔で巻き、

酢飯を外側にして白ごまをまぶした、

いわゆるカリフォルニアロールでした。

 

「これが好きなの?」

 

「んー。アイスのが好き。」

 

「アイスの話してないじゃん。」

 

「ふたりともパフェがあるよ。」

 

「あとで食べる。

 今日はなぜスシ?」

 

「エーちゃん、

 バイトの給料日なんだって。」

 

ティナはエビの天ぷらが乗った

うどんをすすっています。

 

それから提案者のエリカが言いました。

 

「今日はわたしのおごりだから。

 いつも家のこと手伝ってくれてるし、

 ふたりとも好きなの食べていいよ。」

 

アンの隣のティナはといえば、

注文したあさりのみそ汁を

マイペースに食べています。

 

「バイト…。仕事?

 エーちゃんは仕事なにしてる?」

 

「デザイン事務所の手伝い。

 お母さんの知り合いの。

 でもデータの整理とかほとんど雑用かな。」

 

「石ひろいとかないの?」

 

「事務仕事だしそんなのないよ。」

 

「ないのか。」

 

エリカの当然の答えに、

アンは残念がりました。

 

「外食もたまにはいいでしょ。」

 

みんなでデザートを食べ終えて

会計の際に、エリカはギョッとします。

 

「お母さん?」

 

「ごちそうさま。」

 

一番食べていた母のティナは

自分の財布からカードを取り出し、

笑顔で手早く支払いを済ませました。

 




次回更新は11月6日(土曜)
お昼ごろの予定です。


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12 アンの部屋に

毛玉がタブレットを覗きながら、

リビングで熱心におかしを撮影しています。

 

「ねえ、あの本読んだ?」

 

その最中、ビビが自室からアンのいる

リビングに降りてきました。

 

「読んだぞ。部屋にある。」

 

「これから図書館に返しにいくから、

 持ってきて。」

 

「わがはいはいま忙しい。

 部屋に置いてあるから持って行っていいぞ。」

 

「おかし撮ってるだけなのに?」

 

アンのおかしな行動は、

今日に限ったことではありません。

 

タブレットに写真をいくつか収め、

アンはその出来栄えを確認します。

 

「終わった?」

 

「まだある。」

 

プラスチックコンテナに入った

おかしの山を見せます。

 

「これも地球の調査だからな。」

 

「そんなに撮るの?」

 

「撮る。だから忙しい。」

 

「…それなら、あとでいいから

 本取ってきてよ。」

 

交渉のすえに妥協したビビを、

アンはじっと見つめます。

 

アンは気づきました。

 

「オバケ?」

 

アンのそのひと言にビビは肩を驚かせました。

ビビの姉、エリカが言っていたことを

アンはふと思い出したのです。

 

「わがはいの部屋に出るのか?」

 

小さく2度、うなずきます。

 

「一緒にベッド組み立てたのに?」

 

アンが来た日に届いたベッドは、

ビビと母のティナとで屋根裏部屋に運び、

3人で組み立てました。

 

「違うの。あたしひとりの時に、出たの!」

 

「ビビはオバケが苦手。」

 

ビビの顔がみるみるうちに青ざめていきます。

 

アンの部屋になっている屋根裏はむかし、

外で遊ぶことを嫌ったビビが秘密基地にして

ひっそりと本を読んでいた場所でした。

 

しかしある秋の日の、月の明るい夜のこと、

ビビがいつものように屋根裏に侵入すると、

目の前に白い影が現れました。

 

それ以来ずっとひとりの入室を避けていたのです。

 

「オバケ、撮影しよう。

 これも大事な地球調査だ。」

 

「しなくていいよっ!」

 

ビビの抵抗むなしく、

晩ごはんを食べ終えたアンによって力ずくで、

屋根裏部屋へと向かう階段へと引きずられました。

 

「楽しみね。」

 

「楽しくない。」

 

好奇心旺盛な姉のエリカも

オバケ調査に付き添います。

 

真っ暗な階段を3人は足音を立たずに上ります。

 

今日に限って電気も点けず、

部屋の扉を開けました。

 

元の倉庫同然の屋根裏部屋は

プラスチックコンテナがあふれていて、

不気味なほどの静けさが支配し、

ビビはエリカの後ろに隠れて中を覗き込みます。

 

天窓から差し込む月明かりが、

あの日の出来事を思い出させます。

 

すると、部屋の隅から

白い影が浮かび上がりました。

 

「デター!」

 

「ほらっ! ほら! ほらぁ!」

 

嬉しそうなエリカとは対称に、

ビビの悲鳴は泣き声に変わります。

 

タブレットを持って撮影に望んだアンでしたが、

暗すぎてなにも映りません。

 

アンが部屋の電気を付けると、

そこにはギザギザの口に大きく丸い目が、

黒紙で貼り付けられた布のオモチャがありました。

 

「ふへぇ…。」

 

涙目でオモチャを見て、

ビビは思わず変な声を漏らします。

 

「このてるてる坊主は、

 わがはいの部屋にずっとあるやつだぞ。」

 

「てるてる坊主じゃないよ。

 アンちゃんにサプライズで

 わたしが用意しておいたオバケ。」

 

「エーちゃん?」

 

「これ箱部分に光センサと赤外線センサがあって、

 暗い部屋に人が入ると回路が閉じて、

 モーターで白いのが上に動く仕組みだぞ。」

 

アンが解説します。

 

「なんで…そんなの…。」

 

「たしか中学のときのハロウィンで、

 授業で作ったんだったかな。

 まだ小さかったビビが

 屋根裏部屋に入らないようにって。

 可愛いでしょ?」

 

エリカに満面の笑みを向けられたビビですが、

しがみついたまま腰を抜かしてへたり込みます。

 

「もぉー! バカー!」

 

アンはといえばタブレットをオバケに向け、

熱心に写真を撮っていました。

 




次回更新は11月13日(土曜)
お昼ごろの予定です。


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13 スーのひろいもの

ビビは土曜日の午後にはよく、

図書館へ行きます。

好きなだけ本を読めるからです。

 

彼女の影響を受けてアンも本を読みますが、

ファンタジー小説を好むビビとは異なり、

児童向けの絵本や図鑑ばかり借りています。

 

ビビは最近になって自転車に乗りだしたので、

図書館へ借りた本の返却ついでに

自転車に乗る機会も増えました。

 

この日は雨で、アンも一緒だったので、

ふたりは歩いて行きました。

 

「スーだ。」

 

図書館の入り口近くに、

クラスメイトのスーの姿がありました。

 

教室ではビビの後ろの席で、

長身のスーは傘をさして立っていても

よく目立ちます。

 

「スー!」

 

アンは大きな声で呼びかけます。

 

目立つ赤色のモップに気づいたスーが、

意外なことに慌てて駆け寄ってきました。

 

「どうしたの?」

 

スーは大粒の涙をぼろぼろと流します。

 

胸元に視線を落とすと、

そこには濡れた真っ黒な毛玉。

 

ビビは思わずギョッとします。

 

「それはイヌか?」

 

「なにがあったの?」

 

「ここ、来るとき、ヤブで鳴いてたのを

 なついてきて、それで拾っちゃって。

 でもウチじゃ飼えなくて。」

 

ビビはアンと顔を見合わせます。

 

「ヤブから出てきた、ヤブイヌだ。」

 

「ちがうと思うよ。」

 

近くの動物園に展示されているヤブイヌは、

逆立ちしてオシッコするのが特長の動物で、

ビビが住んでいる地域では野生化していません。

 

抱かれた動物はプゥプゥと、

寝言のように弱く鳴いています。

 

「どうするんだろう…。

 保健所? シェルターとかかな。」

 

ビビは携帯で調べます。

 

「スーの家はヤブイヌ飼えない?」

 

「ウチはマンションだから。」

 

「ヤブイヌじゃないって。

 契約ってあるの。ここに住むなら、

 ペット飼っちゃダメだよって。」

 

「契約。知ってるぞ。

 ビビは? 闇の契約者?」

 

「闇でも光でもないけど。

 あたしの家は…。」

 

ビビはアンを見上げます。

大きな赤いモップと同居している時点で、

大きな疑問が浮かびました。

 

「あらかわいい。イヌ飼うの?

 いいんじゃない?」

 

母のティナが玄関で

毛玉をひと目見てそう言います。

 

「そんな他人事な。」

 

「だってイヌでもネコでも

 10年以上は生きるのよ?

 ビビは成人してるし、

 そこまで当然ちゃんと面倒見るんでしょ?」

 

「うっ…。」

 

母親の言葉はまったくもって正論で、

ビビは自分の責任で命を預かることに

不安を覚えます。

 

「わがはいも面倒見るぞ。もちろんビビも。

 スーも見に来い。」

 

「うん、そうする。」

 

ビビにふたりの視線が注がれます。

 

「…わかった。この子、あたしが飼う。」

 

ビビがその覚悟を決めると、

ティナはすぐに行動に出ました。

 

4人は車に乗ってホームセンターに行き、

イヌ用ケージとトイレ、子犬用のごはんや

ミルク、エサ皿を買い込みました。

 

濡れた毛玉は雨で弱っていたのではなく、

のんきに寝ていただけで、ごはんを食べると

元気にリビングを動き回ります。

 

晩ごはん後もアンは毛玉をケージから出して、

ビビの部屋に連れてくるので、

2匹の毛玉に読書を邪魔されます。

 

黒い毛玉はアンに付き従い、

どこへ行くにもついて回ります。

 

「ワンとは鳴かないのね。

 イヌなのホントに?」

 

高い声でプゥプゥ鳴くばかりで、

帰って来た姉のエリカが疑問を投げかけました。

 

夜は毛玉をケージに入れます。

 

夜中に起きたアンは洗面所から戻ると、

変な物音にリビングへ降りました。

 

毛玉がケージを噛んで鳴いています。

 

「ひとりぼっちで、さびしいのか?」

 

ケージの隙間から小さな頭をなでると、

アンもなんだかさびしくなって

扉を開けて毛玉を出しました。

 

「また、こんなとこで寝てるの。」

 

赤い毛のモップが、フラットにしたソファの

毛布からはみ出ています。

 

「おはよう、アンちゃん。」

 

「おはよー、ママさん。」

 

声に気づいてアンの赤い毛に隠れていた

黒い毛玉も、大きなあくびをして起きました。

 

アンは毎朝の日課を毛玉に教えます。

 

毛玉を抱え、2階で寝ている

ビビとエリカを起こしに行き、

それからみんなで朝ごはんです。

 

「ビビ、もう名前決めた?」

 

「うーん。オスメスどっちだろ。」

 

「動物病院連れていかないとね。

 予防接種とか、そのうち去勢も

 必要になってくるね。」

 

「あとで病院に連絡してみる。」

 

寝床を片付けて毛玉は、

今日もアンのあとをついて歩きます。

 

「黒曜号。トイレはこっちだぞ。」

 

「こくよう?」

 

「黒曜石のこと?」

 

「うむ。

 黒き闇の契約者。かの名は黒曜号。」

 

茶を帯びた黒色の体毛に黒い目を見て、

アンはそう名付けました。

 

「アンちゃんらしい。」

 

「いいんじゃない。」

 

「いいのかなぁ。」

 

ティナとエリカはうなずきますが、

アンの感性に麻痺しているふたりに

ビビは首をかしげます。

 

それから近所の動物病院に

黒曜号を連れて行くと、

老医はこう言いました。

 

「イヌ? あぁ、タヌキだね、こりゃ。」

 




次回更新は11月20日(土曜)
お昼ごろの予定です。


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14 嵐の日のビビ

「ビビ、大変だっ!」

 

「なぁに?」

 

ビビが部屋のベッドで横になって

本を読んでいると、アンが騒がしく

扉を開けました。もちろんノックをしてから。

 

「黒曜は食べ物だった。」

 

赤い毛のモップの脇に黒色と茶色の毛玉、黒曜が

名前を呼ばれたと勘違いしてクゥーと鳴きます。

 

この毛玉のタヌキはアンによって

黒き闇の契約者、黒曜号と名付けられましたが、

呼びやすさを優先して黒曜と改名されました。

 

アンの言葉の真意を、ビビはしばらく考えました。

 

「…タヌキは食べ物じゃないよ。」

 

「ちがうのか?」

 

「タヌキは食べない。たぶん。」

 

「ちがうのか。」

 

ビビにはタヌキを食べた経験はありません。

 

「タヌキの名前のついた料理はあるけど。」

 

「あるのか?」

 

「ちがうって。

 とにかくペットは食べないよ。

 イヌとかネコとかウサギとか。」

 

「ウサギは食べるぞ? 月でも火星でも。」

 

「え? 月で?」

 

「おいしいぞ。ウサギ。」

 

「そうなんだ…。」

 

月の暗い部分、海と呼ばれる部分から

ウサギを連想する地域もありますが、

ビビの想像を超えて月でウサギを獲って

食べている事実を知って驚きました。

 

「とにかく、ここじゃペットは食べないよ。」

 

「ギニーピッグも?」

 

「なにそれ? 知らない。」

 

「知ってるはずだぞ。学校で見た。

 このくらいのネズミ。」

 

黒曜を床に置いて空中でおにぎりを作ります。

 

「ハムスター?」

 

「違う。もっとこう、大きい。」

 

「あ…、モルモット?

 えっ? 食べないよ…。」

 

「食べないか。」

 

「食べるの?」

 

「すぐ増えて、場所取らない。

 揚げたり、焼いたり、スープにして食べる。」

 

「えぇー。黒曜、おいで。」

 

名前を呼ばれて手招きされた黒曜が

ビビの足元に近づきまんまと捕獲されました。

 

「学校のはオスだけだから増えないよ。」

 

「そうなのか。」

 

中庭にある飼育小屋には

ウサギやモルモットが飼われていますが、

食用にするわけではありません。

 

「黒曜、お手。あ、お手できた! えらい!」

 

「ビビ、甘やかしちゃダメだぞ。

 いまはしつけの最中だから。」

 

「タヌキなのに?」

 

「タヌキはイヌの仲間だぞ。」

 

「へぇ…。それあってるの?」

 

「わがはいが立派な忠犬に育てる。」

 

「まだ子供なんだから、ほどほどにね。」

 

拾われたばかりの黒曜はやせ細っていて、

病院の老医が言うには生後5ヶ月ほどでした。

 

「太らせて大きくなったら食べるのか。」

 

「だから食べないよ。」

 

「食べないのか。

 黒曜!」

 

その呼びかけに黒曜は甲高い鳴き声を発し、

アンの元へと駆け寄ります。

 

右手を目の前に差し出せば左前足を、

左手を目の前に差し出せば右前足を。

 

頭の上に手を差し出せば両の前足を上にし、

後ろ足だけで立ち上がりました。

 

ご褒美にドッグフードをひと粒をあげれば、

鼻息荒く手に鼻先を押し当てます。

 

「ホントにイヌみたい…。」

 

「黒曜もそろそろ地球調査に出かけられるぞ。」

 

「散歩? 室内飼いにしないの?」

 

タヌキの扱いというものが、

ビビにはいまだに分かっていません。

 

「黒曜はイヌだからな。」

 

「タヌキだよ。

 散歩に出るならリードとかも

 買わないといけないのか。」

 

「お金かかるな、黒曜…。」

 

アンは黒曜の顔をのぞいて元気をなくします。

 

「大丈夫。アンが気にすることじゃないよ。

 あっ、芸仕込んだら大もうけできるかもだよ?」

 

「イヌでもできるのにか?」

 

「それ言われるとそうかも…。

 自信なくなってきた。」

 

ふたりの間で黒曜は、

自分のしっぽを元気に追って走り回ります。

 

「ただいまー。

 おー黒曜ー、お利口さんしてた?」

 

部屋の扉を開けた姉のエリカに、

黒曜が反応して鳴きます。

 

「どうしたの、ふたりして暗い顔で。」

 

「エーちゃん、ペットってお金かかるんだね。」

 

「そんなの当然じゃないの。

 お金がないからって無責任に、

 捨てるひとだっているくらいだし。」

 

「黒曜…。

 これから自分のごはんは自分で稼ぐんだぞ。」

 

「黒曜の毛皮売ればいいんじゃない?」

 

エリカの無責任な皮算用に、

まんまと騙されたアンの顔が明るくなります。

 

「それじゃ黒曜、死んじゃってるじゃん。」

 

それから気を落としました。

 

「お金かかるなら、散歩やめるか…。」

 

「冗談よ。黒曜の飼育費用ぐらい、

 なんならわたしが出してあげるし。」

 

「ホント?」

 

「バイトのお金なくなっちゃうよ。」

 

「わたしが将来、仕事に失敗して

 路頭に迷うことがあったら、

 ふたりがわたしの分まで

 稼いでくれればいいから…。」

 

「黒曜のお金なら、

 お母さんが全部出してるじゃん。」

 

「バレたか。」

 

「いまの話、ママさんに伝えてくる。」

 

「あー待って! お願い! 取り消し!」

 

黒曜を担いだアンを追って、

エリカもビビの部屋を出ていきました。

 

「扉閉めてってよ。もう。」

 

ビビの部屋に、今日もこうして

ひとつの嵐が過ぎ去ったのでした。

 




次回更新は11月27日(土曜)
お昼ごろの予定です。


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15 アクタとのお別れ

マウンテンバイクの前カゴに

サッカーボール用バッグを積んだクラスメイト、

金髪のアクタが前方からやってきます。

 

気づいたアンが、かれを大声で呼びかけました。

 

「アクタァ!」

 

「よぉ。デカいのとちっさいの。」

 

そう呼ばれてはアンもビビも返事をしません。

 

買い物と黒曜の散歩に行こうと、

家を出て少ししたところです。

 

小さな黒い毛玉だけが威嚇して、

アクタに飛びかかろうとリードを引きました。

 

「こら黒曜。そんなやつ相手しちゃダメだぞ。」

 

「なんだよそれ。

 そういや本当にタヌキ飼ったんだってな。

 サクラんとこ。おもしれえの。」

 

「耳が早いな。」

 

「どうせ盗み聞きでしょ。」

 

ビビはアクタにいつもどおり冷たく接します。

 

「自転車乗って、どこ行くんだ。」

 

「サッカーの練習。

 来月から試合なんだよ。」

 

「暑いのに。ご苦労さま。」

 

アクタはすでに汗をかいていました。

なにやら嬉しそうにニヤけていますが、

妙に引きつっていて顔色はよくありません。

 

「へぇ。それ、撮っていいか?」

 

「なんでいま撮るんだよ。

 応援来いよな。」

 

「気が向いたらね。」

 

その気もないビビが

ぶっきらぼうに言うと、

アクタは顔を明るくして

足早に自転車を漕ぎ出しました。

 

「じゃあなー!」

 

「アクタっ!」

 

ビビが注意を促した瞬間、

交差点でアクタの右手から来た

自動車と衝突しました。

 

閑静な住宅街に衝突音が響きます。

 

「アクター!」

 

アンとビビがすぐに駆け寄りました。

前輪が紙のように折れ曲がったアクタの自転車。

 

車に弾き飛ばされ道路に倒れたアクタは、

苦しそうに左の脇腹を抑えています。

 

「アン、頭っ!

 頭、動かしちゃダメだよ。」

 

乗用車の運転手だった中年の男性は、

すぐに救急車に連絡をしています。

 

「黒曜。それはコーンじゃないぞ。

 アクタなんて食べちゃお腹壊すぞ。」

 

黒曜がアクタの金髪の頭を、

その小さな口でガシガシと噛み付いていました。

 

「アクタ、大丈夫? しっかりね。

 もうすぐ救急車来るから。」

 

ビビはアクタの肩をたたいて呼びかけます。

 

しかし絶えず続く腹部の痛みに、

アクタは青い目を細めてうめくだけです。

 

「ビビ。

 こういうときは、人工呼吸だぞ?」

 

「冗談言ってる場合じゃない。」

 

そんな冗談をちゃっかり聞いていたのか、

アクタが痛みでもうろうとする意識の中で

くちびるをすぼめるので、

ビビは頭をはたきました。

 

「このハゲ!」

 

しばらくして救急車と警察が来ました。

 

ビビは携帯で担任の先生に事故の状況を説明し、

救急隊員はアクタの両親に連絡がついたので、

アクタは救急車でひとり病院に運ばれます。

 

痛みによるものか心細さかは分かりませんが、

ストレッチャーに乗せられて泣いていました。

 

初めて見たアクタの泣き顔に、

ビビは胸を締め付けられます。

 

運転手の男性が車載カメラの録画を見せ、

アンもタブレットで偶然撮っていた動画を

警察に提供しました。

 

週明けにはアクタが事故にあったことを、

先生から教室の生徒全員に聞かされます。

 

自動車は見通しの悪い交差点で

一時停車後の発進であったために、

アクタはひじの擦り傷以外に

大きな外傷はありませんでした。

 

軽傷だったアクタでしたが、

かれは入院し、学校に来ません。

 

土曜日に学校が終わって、

ビビとアンは一緒に家に帰ると

アクタとかれの両親が玄関に立っていました。

 

両親からかしこまってお礼を言われ、

アクタと共に深々と頭を下げました。

ビビはアンをマネて頭を下げます。

 

「ひじ擦りむいただけでしょ?

 どうしてあんなに痛がってたの?」

 

「それがねぇ。」

 

アクタの母親は少し嬉しそうに言いよどみます。

 

「ちゅうすいだよ…。」

 

アクタがぼそっと言ったのを、

アンは聞き逃しません。

 

「アッペか。

 ガス出たか?」

 

「うるせえな!」

 

「ガス出たか。」

 

「よくわかんないけど、

 退院おめでとう。」

 

「もー! なんなんだよ!」

 

無表情なままのビビに言われると、

アクタは顔を真っ赤にして走って逃げ去りました。

 

「行っちゃった。バイバーイ。」

 

「ビビのそういうとこ、よくないと思うよ。」

 

アンはひとり言のようにたしなめましたが、

ビビがその意味を理解するには

まだまだ時間がかかりそうでした。

 




次回更新は12月04日(土曜)
お昼ごろの予定です。


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16 アンのいましめ

「いらっしゃい、スーちゃん。」

 

クラスメイトで長身のスーが、

ビビの家に遊びに来ました。

 

リビングで仕事をしている

母のティナに小さくあいさつをして、

2階のビビの部屋に行きました。

 

「んーなんだっけ?」

 

ティナはぼんやりとつぶやきます。

 

パソコンのモニタとそれを出力した印刷物、

図形を描いた方眼ノートを手にして

出来栄えを見比べてから首をかしげます。

 

午後の眠気にあくびがもれるとノートを落とし、

マグカップに入れたコーヒーを飲み干しました。

意識がもうろうしていて、首を左右に揺らします。

 

するとウッドデッキのある窓が開き、

河原で拾った石を洗っていたアンが、

ぬれた手足でリビングに入ってきました。

 

「ママさん。どうした。」

 

「んー? ビビがお友達連れてきた。

 アンちゃん、タオル使ってね。」

 

「スーならさっき見たぞ。」

 

「あぁ、スーちゃんね。」

 

ティナは大きなあくびをこらえて、

疲れた目をぐっと抑えます。

 

「黒曜。スーが来たぞ。」

 

ケージに入って寝ていた黒色と茶色の毛玉、

タヌキの黒曜がアンの呼びかけに起きました。

 

首から上をエリザベスカラーで囲われた黒曜が、

いつもどおりのしのしと歩いてやってきます。

 

「ママさん。ノート1枚貸してください。」

 

「いいわよー。」

 

アンはタブレットを手にして過去の写真を見ては、

ノートにその数字を並べていきます。

 

3桁から5桁の数字と日付。

 

ティナはマグカップに水を汲んで、

アンの後ろから作業を覗き込みました。

 

「なんか面白いことしてるね。」

 

タブレットの画面にティナは口元が緩みます。

しかしアンは出来栄えに悩み、手が止まりました。

 

「もっとこう、本物っぽくしたいんだが――。」

 

アンは作っている理由を話します。

 

「そのコンセプト、いいわね。

 それならそのままテンプレートを使って、

 本物っぽい書体にしましょう。」

 

「これで?」

 

「元はいいもの。あとは見せ方ね。」

 

ティナは自分のいた席に戻ると、

アンのやっていた作業をものの1分ほどで、

理想とする画面に落とし込みました。

 

「こんな感じ。」

 

「ママさん、すごいな。」

 

「えへん。

 私はこれでごはん食べてる

 ちょっとすごいデザイナーなのよね。

 はい、データ送ったよ。」

 

「これも仕事なのか…。」

 

「そうよ。」

 

「なるほど。勉強になった。」

 

アンはうなずいて深くお辞儀をします。

 

「どういたしまして。

 いい気分転換になったわ。目が覚めた。」

 

それからティナは自分の作業に戻りました。

 

アンはタブレットと黒曜を抱きかかえ、

階段を上ります。

 

お腹の毛は一部が刈り取られ、

縫合した跡が残っています。

 

アンがビビの部屋に入ると、

ふたりはそれぞれ自分の本を

黙って読んでいました。

 

「遊びに来たんじゃないのか。」

 

「アンちゃん! 黒曜ちゃんも。」

 

黒曜を見てスーが声を弾ませました。

 

黒曜は鼻をスンスンと鳴らして、

スーの足元のにおいを嗅ぎます。

 

「去勢しちゃったんだね。」

 

「臭腺も切ったぞ。」

 

「しゅうせんて?」

 

「アスホー。」

 

アンは黒曜の身体をくるりと半回転させて、

肛門周囲をスーに見せます。

 

「うわぁ。」

 

「うんちがくさいから。」

 

「すっごいくさいの。

 普通のドッグフードなのに。」

 

「動物飼うって大変なんだね。」

 

「大変なのは、黒曜だ。」

 

ビビはうなずきます。

 

『かわいい。』というだけで

飼う理由にはならないことは、

ずっと家族から言われてきました。

 

実際に飼ってみると、

まず一緒に暮らす場所が必要で、

ごはんと寝床を用意しなくてはいけません。

 

またトイレを用意したところで、

それは人間の都合に過ぎません。

 

心を鬼にして『しつけ』をしなければ、

動物は習性を身に付けず、利用しません。

 

それから予防接種や去勢はペットを守り、

生活を共にするためになくてはならないことを、

ビビはアンと改めて勉強しました。

 

「来週には散歩行けるぞ。」

 

散歩の単語に黒曜は反応して

鼻先を上に興奮します。

 

「そこで、スーには申し訳ないが…。」

 

そう言ってアンはタブレットの画面を見せます。

 

『請求書』

 

そこには子供のスーに

到底払えない金額が並びます。

そしてアンがその内容を読み上げました。

 

動物病院での初診、狂犬病予防接種、

去勢および臭腺除去手術、さらにはケージ、

エサ、トイレ、ハーネスなど諸々の代金が

日付と共に書かれています。

 

「これ、スーに払えるか?」

 

「いや、無理だよ、こんなの。」

 

スーは驚きのあまり声も出ず、首を横に振ります。

ビビでも日々のおこづかいでは足りません。

 

「ホントは請求もしないし、

 黒曜を譲るなんてしないぞ。」

 

それを聞いてスーは胸をなで下ろします。

けれど、そう安堵したことで

彼女は罪悪を自覚しました。

 

「いじわるなことするー。

 これ作ったの?」

 

「仕上げはママさんがやってくれた。

 もしスーがまた拾ってきて

 動物を飼うとしたら、このぐらい掛かる。

 シミュレーション。」

 

「本物は知らないけど、すごいよくできてる。」

 

「アンちゃん、わたし。これ欲しい。」

 

スーが言います。

 

「え? どうするの?」

 

「わたしの、いましめ?」

 

スーは言ってうなずきます。

 

「じゃ下でプリントしてこよう。

 あたしも持っとく。」

 

ビビの呼びかけに、3人と1匹は

慌ただしくリビングに降りました。

 




次回更新は12月11日(土曜)
お昼ごろの予定です。


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17 サクラ家のおもてなし

「おかえり。ビビ、それにアンちゃんも。」

 

と、アンの知らない初老の男性から

玄関で出迎えを受けました。

 

「はじめまして。わが名はアンジュ。

 『赫き暗黒からの使者』であり血の盟約者。」

 

「はじめまして、私はダンテ。

 聞いているとは思うが、ティナの父親だ。」

 

ビビの母、ティナは仕事の関係で、

出かけていることがたまにあります。

本当のところはビビにはわかりません。

 

「ママさんのパパさん。グランパパさんだな。」

 

「なんで来たの?」

 

「バイクだよ。

 エーちゃんにと思ってバイク、

 ガレージに入れさせてもらってるけど、

 見るかい? ついでに――。」

 

「そういう意味じゃなくて。」

 

「あぁ、ティナが夜まで出かけてるからね。

 ごはんできてるから、手を洗ってきなさい。」

 

ダンテにうながされたビビは、

コミュニケーションのもどかしさに

頬を膨らませます。

 

それは土曜日の午後のことです。

ビビの祖父、ダンテがサクラ家にやってきました。

 

昼ごはんはオムライスです。

 

温かなデミグラスソースが、

チキンライスのほのかな酸味と中和して

卵とともに柔らかな優しい味を出しています。

 

「美味しい。お店みたい。」

 

ひと口でアンは大絶賛。

 

「おじいちゃんは料亭の板前だったから。」

 

「なるほど。それはプロのシェフか?」

 

「うん、プロ。シェフじゃないけど。」

 

「基本的には和食さ。

 こういうハイカラなのもマネして作るがね。」

 

黒曜はチキンフレークの入ったエサに興奮し、

鼻を勢いよく皿に押し付けて食べています。

 

「ビビがタヌキ飼いはじめたと聞いて驚いたよ。

 最初はタヌキなんてとは思ったがね。

 しつけが行き届いてて可愛いもんだねぇ。」

 

「ビビと特訓した。」

 

「そりゃそりゃ、いい主人に巡り会えたなぁ。

 むかしは店の裏に小さな畑作ってな。

 いい食材を仕入れて畑のと比べて、ときには

 食材が足りなくなったら採ってたもんだ。」

 

祖父が来るたび、何度か聞いた話しに、

ビビは返事もせずに食べます。

 

その代わりにアンは熱心にうなずきました。

 

「けどタヌキやイノシシやシカなんかに

 荒らされて、天敵のようなもんだったね。

 罠置いては突破されて、猟師の免許まで取って、

 猟銃もって山に行ってイノシシ鍋作ってな。

 ホントにマタギみたいになっちまった。」

 

自分の話しにダンテは豪快に笑います。

アンもそれをマネました。

 

「晩ごはんはなにが食いたい?」

 

「え…なんでもいいよ。」

 

「それ言われて困るやつだ。

 ママさん言ってた。」

 

昼ごはんを食べ終えた食器を

笑顔で洗うダンテを見て、

アンは少し考えました。

 

「ビビ、グランパパさんはゲストじゃないのか?」

 

「ゲスト? え? あー…?

 わかんない。そうかも?」

 

「それなら『おもてなし』せねば、だ。」

 

とたん、ビビは使命感に燃えます。

 

「ええよ、ええよ。好きでやっとることだし。」

 

「ここでは黒曜と一緒で

 わがはいはよくお世話になってる。

 これは一世一代の任務だ。」

 

「大げさな…。」

 

「というわけで作戦タイム。

 ビビの部屋に集合だ。」

 

アンのおもてなし作戦に

ビビは強制参加させられました。

 

「ビビはなに作ればいいと思う?」

 

「冷蔵庫にあるもので?」

 

「リストはあるぞ。カメラも使える。」

 

好物のアイスの在庫を、

庫内のカメラで確認しています。

 

「アイスはいいから。キャベツがある。

 ひき肉あるし、カンタンな料理なら

 ロールキャベツが作れる。」

 

「面白いやつがいいな。」

 

「面白いぃ?」

 

「なら、ビビが好きなやつだ。」

 

「それが一番困るよ。」

 

ついさっき自分で言ったことが、

自分に返ってきたようで頭を悩ませます。

 

そこでビビは、以前に家族みんなで

作って食べた料理を思い出します。

 

「あー、こういうのは?

 食べたことあるっけ? 宇宙にある?」

 

タブレットを借りて検索画像を出します。

 

「おーオシャレだ。難しそう。」

 

「オシャレかな。カンタンだよ。

 あと、あれ出さないと。」

 

料理が決まると、ビビは忙しくなります。

 

アンは小麦粉をふるいにかけ

ビビの作ったコンブとカツオの出汁に、

玉子を割って入れ、箸でかき混ぜます。

 

「シェフからアドバイスないか?」

 

「おもてなしじゃないの?」

 

「プロのアドバイスは貴重だ。」

 

ソファでジッとしていた

手持ち無沙汰のダンテは、

驚いて声が裏返りました。

 

そんなダンテはとても嬉しそうにしています。

 

「そりゃ、お好み焼きか?」

 

「そう。そんな名前のやつだ。」

 

テーブルにホットプレートが置かれて、

ビビはずっとキャベツを切っています。

 

「長芋は?」

 

「いも? いもいも。ある。じゃがいも?」

 

「長芋だ。食感がよくなる。

 たしか戸棚にすり鉢があったはずだ。」

 

ダンテはテーブルに立って料理を手伝います。

 

それからバイトから帰って来た姉のエリカと、

ホットプレートを囲んでお好み焼き食べました。

 

ビビがソースを刷毛で塗り、

マヨネーズを器用に格子状にかけます。

 

「じいちゃんなんで泣いてるの。」

 

ダンテがシワだらけの顔で涙ぐむので、

エリカが笑いました。

 

「こんなに美味いのは初めて食った。

 ばあさんにも食わせてやりたい。」

 

「大げさ。

 ばあちゃんも連れてこればよかったね。」

 

ダンテのアイディアで加えられたスパイスが

食欲を刺激し、生地はふかふかとやわらかです。

 

「美味しいか、ビビ?」

 

口に入れたところでアンにたずねられ、

ビビはいつものように澄ました顔で答えます。

 

「じいちゃんの作る料理は

 なんでも最高に美味いよ。」

 




次回更新は12月18日(土曜)
夕方ごろの予定です。


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18 アンの石拾い

「ふたりとも、ガレージ集合。」

 

部屋で本を読んでいたビビと

図鑑片手に拾った石を並べているアンが、

姉のエリカに呼び出されます。

 

祖父のダンテが置き土産にした

サイドカー付きバイクに乗り込み、

高速道路で30分ほど移動して

目的地の土手道に到着しました。

 

「大きい川だ。」

 

「川がふたつある?」

 

ビビの言う通り、目の前に大きな橋が現れました。

それは土手道が川に挟まれていることを示します。

 

ビビたちが立っている土手は、

ふたつの一級河川が合流する場所でした。

 

「ここはキャンプ場よ。」

 

「え? ここ、泊まるの?」

 

「まさか。泊まらないわよ。

 それにここ、デイキャンプのみだし。

 もちろん日が暮れる前には帰るつもり。」

 

駐車場にバイクを置いて、

3人は河原に向かいます。

 

休日ということもあり、

キャンプ場は人が多くいます。

 

「サーモンいる?」

 

「いないかな。季節も違うし。」

 

「いないか。」

 

「それにサケの遡上なら、

 もっともっと北の方じゃないと。」

 

「そっか。」

 

アンは諦めて川に向かいます。

 

「石がいっぱいある。ちょっと見てくる!」

 

「エーちゃん、石拾いに来たの?

 いっぱい拾ってくるよ、アンは。」

 

「石拾いはしないかな。

 今日はビビと話しをしに来たの。」

 

「あたし?」

 

「そうだよ。」

 

アンは川で遊ぶ人々の片隅で、

さっそく石の物色をはじめています。

 

「わたし、高校卒業したら

 ひとり暮らしする予定。」

 

「…初めて聞いた。

 今のバイト先に就職するの?

 大学…とかは?」

 

「そう。専門学校とかで勉強するよりも、

 早く実務経験身につけたいの。

 お母さんには言ったから、

 お父さんももう知ってるはず。」

 

ふたりは河原に座り、ティナは

川で遊ぶ人たちとアンの様子を眺めます。

 

「そうなんだ…。

 なんで? なんでそんな話しするの?」

 

「ビビは今年で小学校卒業でしょ。

 来年には中学校。

 それから6年経てば、社会に放り出される。

 いまはまだモラトリアムだけど――。」

 

「ねえ、モラトリアムって?」

 

「猶予期間のこと。いまはまだ小学生だけど、

 将来のことを考えなくちゃいけなくなる。

 大学に行って、なにか勉強するか。

 仕事に就くなら、どんな仕事をするか。

 それから、黒曜にも寿命があるのと同じで、

 アンちゃんだっていつまでもウチにはいない。

 だからビビはいまから考えなくちゃいけない。」

 

エリカから浴びせられた言葉の洪水に、

ビビは頬を強く叩かれた感覚を覚えて黙ります。

 

「病気してからよく本を読むのは、

 知識を蓄えることだから責めたりしないよ。

 でも経験して…自分の目で見たり行動すれば、

 ビビの知識はきっとどっかで活きる。

 だから、いつか自分のタイミングでいいから、

 一歩踏み出してみて。」

 

黙って、うなずいてから、

ビビは自分の足元を見ることしかできません。

 

「まだ未成年のあたしが、

 こんな偉そうなの言えた立場じゃないけど。」

 

「…上手くいかなかったら?」

 

「言っとくけど、上手く行かないことだらけよ?

 就職失敗したら、すぐ帰ってくるかもだしね。

 いまだってバイト先で失敗だらけ。」

 

「エーちゃんでも? あたしなんか…。」

 

「見てこれ。」

 

ふたりの間に、アンが割って入りました。

たくさん抱えた石の中で、手のひらに

ひとつだけ細長い石を見せます。

 

それはピンクに白色のスジが交互に入った石です。

 

「野生のサーモンの切り身。」

 

「変なの見つけたね。」

 

「これ、もしかしてサンストーン?」

 

「うむ。そうだ。」

 

アンが見つけた石の種類を、

ビビは見事に言い当てました。

 

「よくこんなの見つけたね。」

 

「上流でだれか捨てたんじゃないか?」

 

「ねえ、ふたり、なんでそんなの分かったの?」

 

ふたりの会話についていけず、エリカは驚きます。

 

「だってエーちゃん。

 アンって毎日、石の話するんだよ。」

 

「そんなことない。

 最近は3日に1回ぐらい。」

 

「いや、1日置きとかあるよ。

 エーちゃん、アンの部屋見たことある?

 石だらけ。」

 

ビビは言って呆れています。

 

「どっか寄って帰ろっか。」

 

「あ、待たれよ。しょくん。

 これはすごいぞ。」

 

「なにがすごいのかわかんない。白いのが?」

 

「普通のせっこうに見えるけど…?」

 

アンが手にしたのは、

表面が白く濁った透明な石です。

 

見つけた嬉しさを隠しきれず、

アンの顔はずっとニヤニヤ。

 

「あ、ちょっと、かして。」

 

ビビは石を手に取り、空にかざしました。

石を指で覆い、光の通る穴を作ります。

 

ビビの予想通り、その穴から濃度の異なる

ふたつの空の像が浮かびました。

 

「これ、カルサイトだっ!

 ホントにすごい。初めて見た。」

 

「キレイにしたらもっと分かるかも。」

 

「なんか盛り上がってるし…。」

 

このカルサイトは『太陽の石』とも呼ばれ、

ヴァイキングの時代の船から多く見つかりました。

 

太陽光の偏光度を検出でき、

ふたつに浮かぶ像の濃淡で、

曇り空でも太陽の位置がわかります。

 

そのため方位磁針の役割を

果たしたという説があります。

 

「エーちゃん、ホームセンター行こう。

 サンドペーパーが欲しい。」

 

「やすりなら、ウチのガレージにあるよ。」

 

「あたしもなんか探してくる。」

 

「えー? 帰らないの?」

 

今度はふたりで石拾いがはじまり、

アンの座るサイドカーの足元には

敷き詰められた石と共に、

夜の高速道路を走りました。

 




年内最後の更新は12月25日(土曜)、
来年最初の更新は1月1日(土曜)
夕方ごろの予定です。


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19 いなくなった日

それは雨の日の、土曜日の昼のことです。

 

図書館に行っていたはずのビビが、

青色の傘をさし、歩いて家に帰ってきました。

 

「どうしたの?」

 

母のティナに呼びかけられたビビは

着物姿の彼女を見て驚きましたが、

ひと息ついて平静を装います。

 

「…スーちゃん、急用だって。」

 

クラスメイトで長身のスーと、

予定していた図書館で一緒に本を読む、

いつもの地味な集まりは解散になりました。

 

「そう…。

 これからお母さん出かけるけど、

 お留守番よろしくね。」

 

そういってティナは車で出かけました。

 

薄暗い家でひとり、水を飲み、

部屋に戻って、ベッドに横になります。

 

家の中には誰もいないので、

とても静かな時間が流れます。

 

以前、アンと大きな川に行ったとき、

姉のエリカが家を出ることを

ビビは聞かされました。

 

『将来を考えなさい。』

と、エリカに言われ、ビビは考えます。

 

ビビにはこれまで、ちゃんと

将来を考えたことがありません。

 

本を読んで、物語に没入し、自分に重ね、

感情移入しては夢想することはありますが、

物語の主人公のように生きるのは到底叶いません。

 

それにはビビの背の低さに大きな関係があります。

 

ビビは物覚えついて間もないころに、

大きな病気にかかり入退院を繰り返していました。

 

そのために発育は遅れに遅れ、

身長は平均よりもとても低いのです。

 

それから人見知りで引っ込み思案になり、

本を読んでは空想にふける癖がつきました。

 

だれかがビビの名前を呼んでも

返事をしないこともあり、

学校では先生を何度も悩ませていました。

 

癖というのは病気と同じで、すぐには治りません。

 

そんな将来の考えは脱線して、

母、ティナのことを思い出します。

 

――お母さんはどこへ行ったのかな。

――おめかしをしていたのはなんでだろう。

――エーちゃんが家を出る理由は本当に仕事だけ?

――それを知らされたお父さんは、

  いまごろどこで、なにをしているかな。

 

――あの格好、ひょっとしたら、

  お母さんは再婚するのかもしれない。

 

――エーちゃんがいなくなったら。

――学校を卒業したら。

――もし、黒曜が死んでしまったら。

 

ビビはひとりぼっちになったことを考えて、

自然と涙がこぼれました。

 

将来のこともわからないままでは、

家に居場所を失い、路頭に迷う

自分の将来を想像します。

 

それからアンのこと。

 

――アンは本当にいるの?

 

赤い毛につつまれた居候。

土曜日の朝に突然、目の前に現れた宇宙人。

 

ひょっとすると、ビビが自分で作り出した

想像上の存在なのかもしれないと思うのでした。

 

ビビはゆっくり起き上がって、

アンの部屋に向かう階段をあがります。

 

もうオバケは出てきません。

それでも扉を恐る恐る開けて、

屋根裏部屋を見ました。

 

部屋にアンはいませんでした。

 

アンが大事にしていた、

拾った石も見当たりません。

 

普段は部屋の片隅の床に

散らばっていたはずです。

 

想像していたことが現実味を帯びて、

ビビは血の気を失い階段を降り、

玄関を飛び出しました。

 

「川ならいるよね? 雨なのに?」

 

ビビは自問自答します。

 

自転車を取りにガレージに入ると、

姉のエリカが驚いた顔を見せました。

 

「どしたの? 血相変えて。」

 

「あれ、ビビ。

 図書館行ったんじゃないのか?」

 

アンが振り向いてビビを見ました。

 

「ビビ、そこ開けといて。

 ずっと磨いてたら、暑くなってきた。」

 

「アイス食べるか。」

 

「食べません。晩ごはん食べたらね。」

 

「食べないのか…。」

 

アンはエリカと一緒に

ガレージで石を磨いていたのです。

 

「え? …と、お母さん。

 お母さん、出ていったけど。」

 

「お母さんならデートだよ。お父さんと。」

 

「お父さんと? なんで?」

 

「なんでって、夫婦なんだし。

 結婚してもデートぐらいするでしょ。

 どう? これ、綺麗になったでしょ。」

 

エリカがやすりで丸く磨いた石をビビに見せます。

 

「え?」

 

「お父さん、ぜんぜん子離れできないからね。

 過保護なもんだから、わたしが家出るの

 凄く心配してるからって、お母さんが説得中。

 別居してても子離れできないの、大変だよ。」

 

「ふんふん。」

 

屋根裏部屋にあった大量の石は

プラスチックコンテナに入れられ、

うなずくアンは水とやすりで研磨して、

黙々と石の表面を滑らかにしています。

 

「そうそう。

 退院して小学校入ったばっかのビビと、

 自転車の練習してたときなんて

 そりゃもう呆れるぐらいだったからね。

 ビビは泣きじゃくって擦り傷だらけなのに、

 ひとりで自転車乗って帰ってきたの。

 覚えてない?」

 

記憶にない恥ずかしい話で、

懸命に首を横に振ります。

 

「それで公園に置いてかれたお父さんが、

 警察やら救急車呼んだせいで

 お母さんにめちゃくちゃ怒られて。」

 

エリカが思い出しながら笑いがこみ上げてきます。

 

「いつまでたっても子離れできないからって、

 お母さん、お父さんを家から追い出したの。」

 

「ママさん怖いな。」

 

「冗談。ホントは単身赴任。

 あれで家にいたころより仲いいのよ。

 今日だってビビが家にいないから、

 ふたりで春画を観に行ってんの。」

 

「春画…。」

 

着物を着て出かけて行った理由が、

大昔のポルノの鑑賞でした。

 

ビビは自分の思い過ごしに、

膝をついてガッカリしました。

 




次回更新は2022年1月1日(土曜)
夕方ごろの予定です。
それではよいお年をお迎えください。


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20 アンと図工

図工室の黒板に書かれた

『将来』という文字を見て、

ビビは手元の真っ白な画用紙と向き合います。

 

土曜日の3・4限は授業は図工の時間ですが、

ビビにはテーマに対してなにも描きたいものが

思い浮かびません。

 

隣のスーを見ると、習字道具を持ち込み、

半紙に淡墨で花などの植物を描いています。

 

そして描いたものを

乾いた順に切り取り画用紙に貼り合わせて、

コラージュした作品を組み上げています。

 

ビビはそれを感心して眺めるばかりです。

 

アクタはといえば、机の上に

サッカーボールを置いてデッサンしています。

 

画材は絵の具や画用紙だけではなく、

版画や彫刻に取り組む生徒もいて

比較的に自由な時間ですが、

その自由さがビビを困らせます。

 

アンは画用紙に黄色のマスキングテープを貼り、

四角の外側を薄い水色で塗っていきます。

 

「なにそれ。」

 

「地球。」

 

「地球?」

 

「地球は青いからな。

 ビビは? 白いから、ごはんか?」

 

「違う。白米じゃないって。

 将来って言われても、分からないんだよね。」

 

「ビビでも分からないことあるんだな。

 それじゃ、今日の昼ごはんは?」

 

「それこそ知らないよ。答えは?」

 

「わがはいも知らない。」

 

「答え知らないなら、出題しないでよ。」

 

ビビはなにか描こうと鉛筆を持ちますが、

ふわふわと宙を舞うばかり。

 

「グランパパさんのオムライス美味しかったな。」

 

「まぁね。」

 

「また来るといいな。」

 

祖父のダンテが作ったオムライスを思い出し、

ビビは嬉しそうに同意します。

 

アンは画用紙の外側を水色で塗り終えると

四角に貼ったマスキングテープを剥がして、

中央の空白の部分を濃い水色で塗っていきます。

 

水色は段々と外側ににじみ、はみ出しますが

やがてその水色に厚みが生まれました。

 

「分かった。分かったけど…。」

 

厚みによって明確なシルエットが浮かびます、

仕上げに薄茶色に太い線が加えられます。

 

「ソーダのアイスか…。」

 

アンが描いたのはアイスキャンディーでした。

 

「いやでも、それ将来じゃないでしょ。」

 

「将来?」

 

「まさか、テーマも分かってないの?」

 

「晩ごはんの後に食べる。これも将来。」

 

こじつけでも作品を完成させたアンに、

ビビはなにも言い返せません。

 

「先生、できたぞ。

 校庭行って石拾ってきていいか?」

 

「ダメです。」

 

「ダメか。」

 

「アンさん、どうしてアイスなの?」

 

「宇宙の日陰は冷たいから、

 その低温利用してアイスを作って、売る。

 これでどうだろうか。」

 

「それを先生に提案されてもねぇ。」

 

絵を説明したアンに、

先生は不承不承ではあるものの受領し、

それを撮影して学校は保護者に写真を送ります。

 

具体的な夢や将来像のないビビが、

アンの描いた溶けかけた歪なアイスを見て、

描く気のない鉛筆を置き、筆を取りました。

 

頭の中で完成図を思い浮かべ、

絵の具のついていない筆を紙の上に走らせます。

 

何度も何度もなぞってみると、

その輪郭がぼんやりと浮かび上がります。

 

「ふふっ。」

 

ビビは自分が描こうとしているものに、

思わず笑いがこぼれ出ました。

 

黄色の絵の具をパレットいっぱいに出し、

画用紙の上にベッタリとだ円状に伸ばします。

 

筆はパレットと画用紙を行ったり来たり。

さらに橙色を黄色に混ぜて、

だ円に立体感を作ります。

 

その作業が段々と楽しくなって、

ビビの筆が走りました。

 

黄色の下には薄く水色でだ円を描き、

乾いた黄色の上に焦げ茶色の絵の具をどっさり。

 

『将来』のテーマについて

分からないままのビビでしたが、

アンの絵を見て自分なりの解を見つけました。

 

ただしやっぱり将来を説明できず、

すべては直感の赴くままやったに過ぎませんが、

いまビビが考える絵だけは明確でした。

 

細い筆を取り、焦茶色の上に

白い絵の具をにじませ、蛇行させます。

 

完成した絵に、アンも満足気に見つめます。

 

ビビは画用紙に、祖父ダンテの作った

昼ごはんのオムライスを描きました。

 




新年あけましておめでとうございます。
次回更新は2022年1月8日(土曜)
夕方ごろの予定です。


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21 ビビのアイス

ビビは窓の外の澄みきった青空を見て、

読み終えた本の返却をためらいます。

おつかいにも行かなくてはいけません。

 

窓から入る強い日差しに、

目を細めてカーテンを閉じ

部屋の空調を切ります。

 

図書館で借りた本をカバンに入れて、

リビングに降りました。

 

暑さで冷たいフローリングに

伸び切った黒曜以外、

いまは家の中にだれもいません。

 

母のティナも、今日はデートに出かけています。

 

「暑いよなぁ…。」

 

出かける気も起きず扇風機の電源を入れ、

アイスをかじり、さらにフラットにした

ソファで黒曜と横になります。

 

「こんなに暑いと家出たくないよ…。」

 

ビビがひとり言のように話しかけながら、

黒曜のゴワゴワとした毛をなでます。

 

「黒曜はトリミングするか?

 サマーカットとか。」

 

首から下の毛を全て刈り取った姿を思い浮かべ、

ビビは声をひそめて笑います。

 

実のところビビは黒曜を飼うことに、

あまり乗り気ではありませんでした。

 

本当はずっとウサギやモルモットなど、

小動物を飼いたかったのです。

 

おこづかいで買えて、

手間がかからないと思ったからです。

 

拾われた黒曜を飼えば、

クラスメイトで長身のスーと友達になれる

と、浅はかな気持ちもありました。

 

ペットはビビが友達を作るための

道具ではありません。

 

ウサギやモルモットが小動物だからといって、

その命の責任が、大きさやかかるお金に

比例するわけがありません。

 

アンがスーのために請求書を作ったときに、

ビビはそのことにようやく気付かされ、

黒曜ときちんと向き合うようになりました。

 

黒曜のひたいを指先でなでると、

気持ちよさそうにクゥと鳴き声が漏れます。

 

ビビと黒曜だけの静かだったリビングに、

玄関の扉の音が響きました。

 

誰かが家の中に入ってきたのです。

 

か細い悲鳴にも似たうめき声が、

なにやら扉の向こうの廊下から聞こえます。

 

「え…。なに?」

 

タヌキの黒曜にたずねたところで

答えてくれるはずもありません。

 

ソファから起き上がり、

扉を開けて廊下をそっと覗きます。

 

ビビはひと目見てゾッとしました。

 

そこには赤い毛の塊、

アンが廊下の床に倒れていたのです。

 

「どうしたの?」

 

「あつい…。」

 

「そりゃ暑いよ。どこ行ってたの?」

 

「ガレージ…。」

 

空調の備わっていないガレージは、

この季節、蒸し風呂も同然です。

 

「熱中症だよ! それ。」

 

「熱ちゅー?」

 

「えっと暑いと熱が、

 身体の中にこもっちゃうんだよ。

 家でもなるから気をつけないと!」

 

毛におおわれたアンなら、なおさらです。

 

ビビはあわてふためき、

手にした食べかけのアイスを

アンの口に突っ込むと、

熱のこもったモップを廊下から

空調の効いたリビングまで引きずりました。

 

冷蔵庫から小ぶりのペットボトルを

いくつか持って来て、脇や太ももに挟み込み、

それから冷凍室にあるアイス枕をタオルでくるみ、

アンの頭の下に差し込みます。

 

「気持ち悪くなったらすぐ言ってよ。

 黒曜、乗っちゃダメだって。」

 

「冷たくて気持ちいい。」

 

アンのお腹の上から毛玉おろして、

ビビは動けないように黒曜を足の間に挟みます。

 

「そう。それで、

 なんでガレージなんかにいたの?」

 

「石…。」

 

「あっ! 石みがいてたの?」

 

アンがうなずきました。

以前、姉のエリカと一緒にガレージで

石をみがいていたのを思い出しました。

 

「こんな暑い日に。」

 

「知ってるか。石を綺麗にして売れば、

 好きなだけアイス食べられるぞ。

 黒曜も食べなくて済む。」

 

「だから黒曜は食べないって。」

 

ビビはすこし呆れましたが、

アンはよくお金のことを気にしていました。

 

タブレットを充電するにも電気代が、

アイスを食べるのにもビビのおこづかいが、

黒曜を飼うことでさえ、お金はかかります。

 

それでもそれは、居候のアンが

気にすることではありません。

 

「それに、アンはアイス買うために

 石を集めてたわけじゃないでしょ。」

 

「そうかも…。ビビの言う通りだ。

 大事なことだった…。」

 

アンは反省します。

 

「アイスか…。

 アンが食べてるの、それが最後だよ。」

 

「そんな…。」

 

アイスの棒を握りしめて、絶望を味わいました。

 

「おつかい行かなきゃだけど…。

 あ、アレがあれば作れるよ。」

 

思い出したようにビビはキッチンに向かい、

戸棚をあちこち開けてなにかを探します。

 

「こっちじゃないか…。

 アンの部屋ちょっと入るね。」

 

「うー。」

 

アンが返事にうめいたのは、

アイスの棒を名残惜しくしゃぶっていたからです。

 

しばらくしてビビが戻って来ると、

小さな箱を抱えていました。

 

「アンの部屋あつい。」

 

箱から取り出したのは、水色をした

プラスチック製のペンギンの模型。

 

「シロップあったかな。」

 

「なにこれ。」

 

「かき氷作るの。」

 

ペンギン模型のかき氷機を一度洗って、

ガラスの器とスプーンを並べます。

 

ビビは製氷皿から取った氷を、

ペンギンの頭部にあたる機械の上部に放り込み、

電源を入れると、けたたましい振動と音を立て、

ペンギンのくちばしから足元へと

白い氷の粉を吐き出しました。

 

「アイスだ!」

 

ガラスの器を回転させて、

降り落ちる氷の形を整えます。

 

機内の氷が尽きる頃には

大きな氷の山が完成しました。

 

「氷入れすぎた…。」

 

「食べよう。食べよう。」

 

ビビがイチゴ風味のシロップを手にして、

一度アンにたずねます。

 

「シロップ、なに色がいい?」

 

「なに味。」

 

「味は一緒。」

 

「一緒なのか。」

 

「風味? においとかが違うっぽい。」

 

「それ、食べ比べる。」

 

「だから一緒だって。

 そうだ。練乳もあるから後で入れよう。」

 

暑い夏の訪れ。

冷たいかき氷を一緒に食べました。

 




次回更新は2022年1月15日(土曜)
夜ごろの予定です。


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22 ビビのひとりごと

「アン、ちょっと手伝って。」

 

アンはリビングの一角を占拠して、

今日も石磨きに精を出しています。

 

母のティナも姉のエリカも外出していて、

ビビはひとり、夕食の支度を買って出ました。

 

「なにこれ?」

 

「ギョウザって知らない?」

 

「知ってるぞ。この皮に、ひき肉を包む料理。

 ジャオズゥ、シウマイ、チュェン・ジュァン、

 シャオロンパオ。」

 

「ギョウザだよ。」

 

「ジャオザ。ギョウザ。」

 

アンはビビをマネて復唱しました。

 

小さな器に入った水を皮に半周だけ付け、

スプーンで取ったタネを包んでヒダを作ります。

 

「こんな感じ。」

 

「難しそうだ。

 サターン・ジャオズはもっとカンタンだった。」

 

「サターン・ギョウザ? 土星?」

 

「そう。丸くて輪っかがある。カンタンだぞ。

 わがはいが作ってみせよう。」

 

アンはすぐに言って作りました。

 

団子状のタネを皮の真ん中に置き、

円形の2枚の皮で挟んだだけです。

 

「これ。あとはスチーム。」

 

「蒸すの? カンタンだ。」

 

大きなタネで丸く膨らんだギョウザは、

たしかに土星のような形をしています。

 

ボールに入ったタネの隣に、

小さな器と異なるタネがあります。

 

「ビビ、こっちのは?」

 

「それは黒曜のごはん。」

 

黒曜はエリカが買った

階段付きの専用イスに座って、

ジッとこちらの様子を見ています。

 

ときおり口の端からよだれがこぼれ出ます。

 

「失敗してもいっぱいあるから大丈夫。」

 

タネはボールにふたつ。

皮もいっぱいあります。

 

「身体はもういい? 熱中症。」

 

「平気だ。

 宇宙だとこんなことなかった。」

 

「外、毎日暑いもんね。

 日傘と帽子が必要だよ。」

 

以前、ガレージで熱中症になりかけたアンは、

いまではリビングで毎日、石磨きをしています。

 

アンはビビの手本をマネて

さっそくギョウザを包む作業に取り掛かります。

大きな手で細かなヒダを作ることに苦労します。

 

「見本の通りにできなくても、

 最初は2・3回くらいでやっていいんだよ。

 じゃないと手の熱でタネの鮮度が下がるからね。

 はい、こんなのとか。」

 

波打つヒダとは別に、

ヒダを一切折らずに作った皮の端を繋げて、

小さな花のような形をつくりだしました。

 

「形を統一するのは焼きやすくするだけだから。」

 

「分かったぞ。ビビは器用だな。」

 

「そうかな。」

 

「オムライスもよかった。」

 

「おじいちゃんの?

 そりゃおじいちゃんはプロだから。

 プロのシェフ。」

 

料亭の板前だった祖父、

ダンテのオムライスを思い浮かべます。

 

「違う。絵の。」

 

「絵? そう? アンだって上手かったよ。」

 

図工の授業でアンはソーダアイスを描いたので、

ビビはそれをマネてオムライスを描きました。

テーマは『将来』でしたが。

 

「それで、あたしちょっと考えたんだけど。」

 

「なにを? 晩ごはん?」

 

「晩ごはんはギョウザだよ。

 そうじゃなくて。

 あたしの将来。」

 

「シェフ?」

 

「板前にはならないよ。

 あたしは体力がないし。

 むかし、胸の病気して、

 長時間運動ができないの。

 板前は体力が必要なんだって。

 それにあたしは知らない人に

 料理作るのなんて、たぶんできない。」

 

「ビビはすごい器用だな。」

 

アンの作った歪なギョウザの乱れた列に比べ、

ビビのギョウザの列はヒダが細かく丁寧です。

 

「あたし褒めてもなにも出ないよ。」

 

「ご褒美はアイス?」

 

「まだ。みんなで晩ごはん食べたらね。」

 

「まだか。」

 

「あとさ。本を読むのは好きだけど、

 読んだ数を競ったりしてるわけじゃないし、

 自分で書きたいわけでないし…。」

 

窓の外が一瞬、パッと光りました。

 

アンが目を皿にします。

 

激しい轟音の後で、

空気の振動が窓ガラスを揺らしました。

 

黒曜はイスを飛び降り、

ケージの中に飛び込みます。

 

「なんだ? パーティか?」

 

「カミナリだよ。」

 

「カミナリ。なにそれ。」

 

「えーっと、雲の水の粒がぶつかって

 電気が出て、それが空気の中を走るんだよ。」

 

皮に触れた粉だらけの手をこすって説明すると、

また外が光り、激しい雷鳴が響きます。

 

「おぉ、ザップ! サンダー。これが?」

 

「そうそう。」

 

アンは窓の外の景色に夢中です。

 

「宇宙にカミナリってないの?」

 

「うむ。ライブは初めてだ。

 これは地球調査の重大任務!」

 

「そうなんだ。ねぇ、手伝ってよ。」

 

「いまちょっと忙しい。」

 

タブレットを取り出し、

次のカミナリが来るのを待ち構えます。

 

「アイスないよ…。」

 

ビビのつぶやきに、

アンはカミナリに逃げた黒曜よりも驚いて、

ギョウザを包む作業に戻ります。

 

タブレットは黒曜のケージの上で、

しばらくカミナリを待っていました。

 



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23 アンのおくりもの

「おかえり。ごくろうさま。」

 

母のティナが、おつかいから帰宅した

ビビとアンのふたりを出迎えました。

 

それは土曜日の夕方のことです。

 

「あつーい。」

 

「地球にアイスが必要だ。」

 

アンは玄関で大げさに倒れこみます。

 

ビビもマネて倒れると、

フローリングの床が冷たく楽になりました。

 

「アンちゃん、荷物が届いてたわよ。

 部屋に置いてあるから後で――。」

 

それを聞くなり、アンは玄関から部屋へ

一目散に飛び出して、つばの大きな

麦わら帽子が廊下に残されました。

 

「行っちゃった。」

 

ビビは玄関に置き去りにされた荷物と、

麦わら帽子を拾って、空調の効いた

リビングのソファで休憩します。

 

ケージから出てきた黒曜が、

遊び相手を求めて寄ってきました。

 

「ちょっと涼ませてよ。」

 

そう言いつつも、毛玉をソファに載せて

顔やひたいをくしゃくしゃになでます。

 

「アンに荷物なんて、どこからだろ。」

 

ビビには思い当たる節がなく、

意味もなく黒曜の頬の皮を伸ばしました。

 

晩ごはんの後、ビビはアンのいる

屋根裏部屋にひとりで行きます。

 

「入るよー。」

 

ノックの後に扉を開けると、

月明かりの差し込む薄暗い部屋で、

赤黒い塊を見てずっとニヤニヤしています。

 

部屋にはベッド横の電気しか点いていません。

 

「それは鉄?」

 

「そうだ。火星のだって。

 パパが送ってくれた。」

 

「パパ。」

 

ビビは復唱します。

 

アンにも親がいること。

親がアンに向けて火星の鉄を

送り届けたこと。

 

考えてみればおかしなことではありません。

 

ふたりだけで砂浜に行った日のこと。

月生まれの母親と、火星人ではなく

地球人だった父親の間に産まれ、

宇宙人を自称することに悩んでいたアンでした。

 

そのことが、言い表せない感情に支配され、

ビビの胸の中をモヤモヤとさせるのでした。

 

「ビビにこんなのを作ってみた。」

 

それは小さな白い石のついたペンダントです。

 

「カルサイト?」

 

姉のエリカと3人で川に行った日に、

アンが拾った石でした。

 

表面が薄白かった石はやすりがけされて、

光沢と透明感があり、まるで宝石のようです。

 

「キレイ。」

 

「それはビビにあげる。

 こっちはわがはいの。」

 

銀色の細い鎖のおそろいのペンダントです。

 

アンのペンダントはアメ色の石。

それは海岸で拾ったメノウでした。

 

「ビビはこれ装備すればきっと迷わないぞ。」

 

「装備って。

 迷子になる予定はないよ。」

 

「宇宙には上下がない、

 でも太陽の位置は変わらない。」

 

アンは天窓を指差しました。

米粒程度の大きな星が光って見えます。

アンはあの宇宙から来た宇宙人なのです。

 

「へぇ。あぁそうか、言われてみれば無重力だ。

 え? じゃあ北とかは? 方角?」

 

「極はある。

 でも月にも火星にも、

 地球くらいの磁場がない。」

 

「それって迷子にならないの?」

 

「地球なら迷わない。これもある。」

 

タブレットを空中で8の字にまわして、

電子コンパスを調整する仕草を見せます。

 

アンが家に来てから一度も、

迷子になった様子はビビは見ていません。

 

勝手に行動してはぐれたアンを

ビビが探すことはあっても。

 

「石を全部みがくの苦労したぞ。」

 

プラスチックコンテナの中には

アンの集めた全ての石がみがき終えられ、

どれもキレイな光沢を見せています。

 

「集めすぎだよ。」

 

「ビビは友達だから、

 手放すのは惜しいが

 欲しいのあったらひとつあげるぞ。」

 

「え、なに急に。いらないよ。」

 

「いらない…。」

 

ビビの答えに、アンは驚きと

残念な気持ちが入り交ざります。

 

「だって、アンが集めて

 ずっとみがいてたの知ってるし。

 だからこれだけは貰うよ。ありがとう。」

 

ビビは貰ったペンダントを首に掛けて、

カルサイトを指でなぞりました。

 

素敵なプレゼントに、ビビの頬が緩みます。

 

「作ってよかった。」

 

翌日、アンは家にいなくなりました。

 




次回更新は1月29日(土曜)
夜ごろの予定です。


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24 アンのいた日

カーテンからこぼれる朝日に目を覚まして、

扉の前の廊下で待ち構える黒曜にあいさつ。

 

黒曜を抱えて洗面所へ行き、

顔を洗い、寝癖のついた髪を梳きます。

 

パンをトーストして食べ、牛乳を飲み、

朝食を終えたら歯を磨きます。

 

気温が低い内に黒曜を朝の散歩につれて行き、

図書館で借りた本を読みます。

 

昼ごはんを済ませると自転車でおつかいに行き、

帰ってきたらまた自転車で今度は図書館に

本の返却と貸出に出かけます。

 

夕方には気温が下がり、

黒曜の散歩に出かけ、晩ごはんを食べ、

お風呂に入り、布団に入り、1日が終わります。

 

いつも隣にいた、赤いモップの

アンがいなくても変わらず

ビビの毎日は続きます。

 

夏休みは恒例の祖父母の家に行き、

ビビは久々に父に会いました。

 

相変わらず本の虫だと姉のエリカは言います。

最近は料理を覚えて、祖父ダンテの味に似ていると

母のティナが言いました。

 

傷だらけで自転車に乗ったときの話を父がします。

父はいまも心配性で、ビビの身体を気遣います。

 

来年には中学生なんだからと、

ティナが父の心配性をたしなめました。

 

祖母は笑ってダンテの料理を振る舞います。

 

黒曜は知らない人ばかりに囲まれ、

飼い主に似たのか人見知りして、

移動用ケージからあまり出たがりません。

 

それをビビみたいだと、

エリカが言ってからかいました。

 

ビビは少しだけムッとしました。

 

ティナはビビが授業で描いた絵を見せ褒めました。

ダンテの作ったオムライスを描いたものです。

 

褒められ慣れていないビビは戸惑いました。

それに『将来』というテーマと逸脱しているので、

正しい絵ではないと思っていたからです。

 

家に帰ってから、

ビビはペンを取り絵を描きました。

 

絵を描くのは得意ではありませんでした。

小説やマンガに触れても、

ビビはそれを楽しむだけでした。

 

手始めに描いてみた黒曜は、

変な顔にまるで棒の手足がついた毛玉でした。

 

動物の体毛は輪郭を曖昧にさせるので、

何度描いても上手くいきません。

 

見直せば見直すほど、

恥ずかしい出来に一度はペンを置きました。

 

絵を描くことを諦め掛けたビビですが、

もう一度ペンを取ってノートに線を走らせます。

 

紙の上を走るペン先が

シャッシャッと小気味よく鳴り、

次第に大きな輪郭が浮かび上がります。

 

つんとした目と、大きな口には

あの水色のアイスの棒を突っ込み、絵は完成です。

 

褒められた出来ではありませんが

納得いく絵にビビはついつい鼻で笑い、

その隣に小さな自分、毛玉の黒曜、

それから姉と母を並べます。

 

エプロンをしてギョウザを作る。

大きな麦わら帽子をかぶって、

好物のアイスキャンディの絵を描く姿。

川に入って石を集める。タヌキを飼う。

サクラ家にやってきた不思議な赤いモップ。

 

ビビは宇宙からきた居候、

アンとの日々を絵に描きました。

 

一緒にギョウザを包み、お好み焼きを焼き、

自転車に乗る練習をし、スシを食べ、

学校で習字をして、オリガミで遊び、

お菓子の撮影に夢中なアン。

 

宇宙からやって来て、川や石を珍しがり、

アイスが大好きな、変なしゃべり方をする子。

 

おかげで、いつもちょっかいを出してくる

金髪のアクタの事故現場に遭遇したり、

字が上手い長身のスーと友達になりました。

 

ふたりだけで遠くの海に行ったこと。

河原で石を投げ、一緒にお風呂に入ったこと。

 

夏休みの間、ビビはずっと絵を描きました。

忘れないように。記憶が薄れてしまわない内に。

アンと過ごした日々を絵に描き記しました。

 

それらは病気がちで本ばかり読んで過ごしていた

ビビにとって、刺激的で濃密な毎日でした。

 

夏休みの終わり間際、ビビの筆が止まります。

 

描く絵が尽きて寂しさに涙ぐむビビは、

机の上に飾ったペンダントを見ました。

それはアンから貰ったカルサイトです。

 

「これを装備すればきっと迷わないぞ。」

 

アンはそう言いました。

 

ビビは石を指でなで、ひたいに押し当てました。

 

初めてあった日を思い出します。

ふたりの出会いは学校の中庭、

飼育小屋の前でした。

 

見ず知らずの同居人との生活に対する

不安と期待といつもの妄想が、

あの日、小さなビビを行動させました。

 

9月に入り学校の夏休みが終わると、

アンと出会った朝と同じく、

ビビは早くに家を出ました。

 

校門を抜け、中庭に入ると、

少女の影がありました。

 

ビビは彼女に呼びかけます。

 

「おかえり。

 赫き暗黒からの使者。」

 

赤くて背中をおおうほど長かった髪の毛を、

肩ほどまで短く切った女の子。

 

「違うよ。血の盟約者だよ。」

 

「そうそう。」

 

顔を見合わせるとアンが吹き出して笑うので、

ビビも釣られて笑いました。

 

たった1ヶ月離れていただけなのに、

ふたりにはとても長かったように感じました。

 

それから少し間を開けて、

アンはこう言いました。

 

「アイスある?」

 

「あるよ。」

 

「あるんだ。」

 

「アンがいないと、減らないんだよ。」

 

それは土曜日の、

宇宙からやってきた少女アンと

地球人のビビが出会った、

朝早くのことです。

 



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25 土星のアン

母は月で産まれました。

 

母が月で生まれた当時は

残念なことに宇宙で戦争が起きました。

 

地球への定期便が運行を中止して、

低重力の月で育った母の身体は、

地球の重力に耐えられなかったのです。

 

父は地球生まれ、地球育ちの地質学者で、

月で母と出会い、私が産まれました。

 

私は月生まれではありましたが、

その頃には遠心重力を生み出す宇宙の居住区、

スターリングが建造されていました。

 

私はスターリングと呼ばれる巨大な施設の、

小さな宇宙空間で育ちました。

 

スターリングは巨大な円筒状のコアを中心に、

3つの円形のパイプが居住施設になっていて、

回転する速度に応じて月、火星、地球の

異なる3つの疑似重力を居住層に生み出します。

 

月生まれと地球人とのハーフですが、

私は母によく似て、若くから長身でした。

 

スターリングにおける宇宙というのは

地球と異なり国境もなければ人種もバラバラ。

そんな宇宙に『おかしな人』はいっぱいいます。

 

『おかしな人』とは主に、

文化背景の違いからくる他者への意識の差が

そう思わせると、当時の大人たちは言いました。

 

なので宇宙の人たちは

いくつかの種類の言語を主に学び、

文化の違いを互いに尊重し合うことで、

いさかいを回避するよう心がけます。

 

ただしそれも国というものを知らないので、

歴史の知識は誰もが浅く、漠然としています。

 

宇宙の人には月や火星の開拓記録の方が人気です。

 

そんな理由で宇宙で生まれた人は、必然的に

『星の子』と呼ばれますが、私としては

『宇宙人』と呼ばれた方がしっくり来ます。

 

つまり大多数の地球の人たちから見れば、

少数の私たちこそ『おかしな人』であり、

文化が理解され難い『宇宙人』なのです。

 

主食がギニーピッグというだけで、

驚かれることも多くあります。

 

宇宙空間、スターリングは地球とは違い、

大気圏と呼ばれる空気の壁がありません。

 

そのため、スターリングには

人体に有害な宇宙線が膨大に降り注ぎます。

 

当時の宇宙で暮らす人たちは、

その宇宙線から身を守るために

髪を長く伸ばすのが流行しました。

 

もちろんそれは迷信で、

髪を伸ばしたところで

たいして防げるはずもありません。

 

それでもオシャレを意識しては

髪を奇抜な色に染め変えたり、

付け毛をしたり、編み込むなど

宇宙の人の個性は様々でした。

 

私はといえばもっと『宇宙人』でした。

髪を染めたり編むどころか、梳くことさえせず、

前髪も伸ばしっぱなしのボサボサ頭が常です。

 

私が純粋な宇宙人ではなく、

月生まれと地球人との

ハーフだったことに起因します。

 

火星へ単身調査に出ている学者の父と、

月の重力層でしか生活できない母と私は

それぞれ別の場所で暮らすので、

教育の手が行き届かないせいもありました。

 

心配性な父と母を、より心配させたのは、

私の言動がめちゃくちゃだったためでした。

 

幼かった私はアニメの影響を多大に受け、

自分のことを変な風に呼んでいました。

 

『赫き暗黒からの使者』と名乗ったのがソレです。

 

教育に手をこまねいた両親は、

地球に住む父の兄に相談したところ、

私を地球に留学させました。

 

それからはご存知の通りですが、

当時はやっぱり無茶苦茶でした。

 

父の国はただでさえ難しい漢字文化圏で

独自の読み方があり、それにひらがなとカタカナ、

英語に加えて和製英語にオランダ語由来があり、

ドイツ語、フランス語なども混じってました。

11歳だった私はアニメを見て覚えたつもりでした。

 

留学先が女性ばかりの家庭で、

あんなひどい訛りの私を受け入れられたことが

いまでも信じられないくらいです。

 

自信家だった当時の私は、

タブレットさえあればどんな土地でも

大丈夫だと思っていたのです。

 

失敗しました。

 

ひとりで地球に降りたものの、

予定の便を間違えて乗ってしまい、

朝早くに学校にたどり着きました。

 

そこで出会ったのが彼女、ビビでした。

 

ビビは同い年でしたが、

彼女もまた私と同じ『宇宙人』でした。

 

よく本を読んでいる子でしたから、

空想が大好きだったんでしょうね。

 

ビビはしばらくの間、

私をこんな毛むくじゃらの

モップだと思ってたんですよ。

 

この本では、私は土星からやってきた宇宙人で、

黒曜なんてスペースタヌキなんです。

 

これがいまでは宇宙で一番有名な絵本で、

地球や宇宙で暮らす人とのギャップを埋め、

互いの理解を深め合うこと手助けとなりました。

 

そんな私でしたが、いまでは土星圏で

昔と変わらず楽しく石拾いをしているのは、

ビビがあの日、砂浜でくれた

メノウの石のおかげかもしれません。

 

土星圏で見つけた石を、

あなたに渡せる日を楽しみにしています。

 

『血の盟約者』より。

 

 

【挿絵表示】

 



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