それでも町を廻したい (ニコフ)
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紺色の傘①
今朝から空は生憎の曇天で、分厚い雲がすっかり太陽を覆い辺りは薄暗い灰色に沈んでいた。霞がかったような薄ぼんやりとした光が目に優しくて、湿気を帯びたどこか甘いような濃い匂いが鼻腔をくすぐった。
「雨、降るかな……」
ベッドに寝転んだまま半袖のパジャマから陶器のように白く滑らかな腕をするりと伸ばし、細く長い人差し指と中指の先でカーテンの裾をちょんと摘まんでそっとめくる。
しばしばと瞬きを繰り返しながら、まだ眠たそうに目を擦って外を眺める彼女が独り言を零した。
このアパートの一室に一人で暮らす彼女の呟きに返事をするように、足下に丸まっているキムリックの猫が「にゃー」とか細く鳴いて欠伸を零した。
*****
「合コンしよーぜ、合コン」
「またかよ、お前」
尾谷高等学校、学生食堂。外は相変わらず朝から続く雨曇りの暗雲が空を覆っており、薄暗い室内を照らす蛍光灯が一段と眩しい。
お昼休みのこの時間帯は多くの生徒でごった返す中で、窓際の席を陣取り昼食にありつく一団の一人がそう提案した。
サイドと後ろは短い黒髪、それを覆うように金髪を伸ばしているツーブロックヘア。耳の軟骨部にはピアスを付け、顎髭を生やした見るからにチャラチャラとした男、山口克也がへらりと笑いながら口を開いた。
となりの男が食べ終えた焼きそばパンの包装紙をぐしゃりと丸めながら呆れ顔を浮かべる。右の眉骨にピアスを付け眉は細く鋭く整えている。黒い長髪の見るからに不良然とした彼は城嶋悟。真面目な生徒が多く不良の少ないこの尾谷高校では若干浮いている存在で、そういった意味では有名な三年生の二人組である。
「オレああいうの苦手なんすよ」
「俺もパスっす」
困ったように笑いながらやんわりと断りを入れるのは二年の真田広章。少し脱色した茶髪は整髪料でイヤミなく軽くセットされ、顔立ちも整っており一見モテそうな見た目をしているが、あまりそういった男女でのイベント事が得意ではないらしく苦笑いを浮かべて頬を掻く。
対して興味がないと言わんばかりにきっぱりと断りを入れたのは同じく二年の
この混雑するお昼の食堂でも彼らの周りだけ妙に人が少ないのは、彼らのその風体が原因だろうか。
一樹が今にも降り出しそうでなかなか降らない空模様を見上げなら、先程購買部で買った紙パックのオレンジジュースのストローを吸い上げる。
「俺、部活のコンクール応募用の写真撮らないといけないんすよ」
「写真部のだろ? お前いいのが撮れないーって言ってたじゃん。息抜きも必要だって、な?」
写真部に所属する一樹はどうにも最近スランプ気味のようで、次の作品の進捗も芳しくないようだ。
「てかお前その見た目で写真部とか、何度聞いてもおもしれーな」
「いやもうそれ散々言われてるんで」
「いやそう言われればアーティスティックなルックスに見えなくもない気がしないでもない」
「フォローしてんのか、それ」
一樹の見た目と写真部というミスマッチな組み合わせに思わず笑ってしまう城嶋と真田。そんな彼を押しのけるように山口が両手を合わせて一樹の顔を覗き込む。
「だから気分転換に、さ。真田の写真見せりゃ食いついてくる女の子も多いんだって。芦名は用心棒で居てくれりゃ心強い」
「用心棒……」
女子人気があると褒められて満更でもないように顔が綻ぶ真田と、その横で納得いかない様子の一樹。
拝むように手を合わせて頼み込んでくる山口を前にお互い視線を合わせ「どうする?」とアイコンタクトで言外に確認し合う。
この流れは付き合わされるだろうなと、半ば諦め気味の二人は静かに目を伏せた。
「もちろんお前ら好みの子もセッティングするって」
「……じゃあ俺金髪クォーターのバンギャで」
「……オレは黒髪ショートのメイドさん」
「お前ら……どんな趣味してんだ」
*****
「なんか、どっと疲れた……」
「同じく……」
星や月も姿を隠す曇り空、夜も更けた繁華街はギラギラとしたネオンの灯りに包まれて目が回るようだ。
結局山口の主催する合コンへと駆り出された一樹と真田。こう言った催しを頻繁にセッティングするだけのこともあり山口の連れてきた女性陣は実に見目麗しく着飾った粒ぞろいであった。しかし彼らの表情はそれに対する喜びではなく、無駄に気を遣ってしまう事への疲労の色が浮かんでいた。
思わず溜め息交じりに呟いた一樹がガードレールに腰掛けると、その隣に真田も座り込む。
「俺こういうの苦手なんだよな」
「右に同じく……」
食事を終えた一同が店を後にすると、酒を飲んだ山口がほろ酔い気味に女性の肩に手を回して楽しげに会話を交わしている。
飲酒を咎める城嶋の肩を組み「堅いこと言うなってー」と、したたかに酔っ払った山口が、その説教を受け流しつつも場の雰囲気を壊すことなく、見事に女の子達と会話を転がしていた。
ついつい盛り上がって騒いでいる一同の横を別の集団が通りかかった。
「うぉっ」
「いってぇなあ! おぉ!? 邪魔じゃボケぇ!」
お世辞にも柄がいいとは言えない数人組が山口の肩にぶつかってしまったようだ。向こうも酔っ払っているようで足下はおぼつかない。それにしても、わざとぶつかってきたようにも見えたが。
「あん? お前がぶつかってきたんだろが!」
「やめろって、道に広がってたこっちが悪いだろ」
「んだガキャァ!」
タダでさえ喧嘩っ早い山口が酒の勢いも相まってつい相手に語気を荒げる。そんな彼を抑える城嶋であったが、相手の方もヒートアップしてきたようで一触即発状態となる。
すると見かねたように一樹が立ち上がると一同の間へと割って入っていった。「おう! やっちまえ芦名ぁ!」と声高らかに叫ぶ山口の事は城嶋へと任せ、相手方の声を荒げる男の目の前に仁王立つ一樹。
「お、おう……なんじゃいワレ」
まくられたワイシャツの袖口から覗かせる太い腕、顔面に容赦なく入った痛々しい古傷、自身より頭一つ以上高い等身に威圧的なほど大きな体躯。目の前の大男に睨み下ろされ思わず相手の男の威勢も削られ、語尾も弱々しく尻すぼみに消えていく。
その傷跡越しの眼力は重く鋭く、酒も入っているせいか男は思わず失禁してしまいそうなほどだった。
すると一樹はゆっくりと身を屈め男へと距離を詰める。相手も気圧されて思わず半歩下がってしまう。
「うちの先輩がすみません。ただ、そちらもわざとぶつかってきたように見えましたが……、気のせい、っすかね?」
一樹がドスの効いた声で静かに問いかけると、男はごくりと生唾を飲み込んで視線を泳がせる。わざとぶつかったと認めればこの大男に喧嘩を売ったことになってしまいかねない。
「べ、別に、んなこと……」
「……あ、そう。気のせいならいいんすよ。じゃあ、お互い気をつけましょうね」
相手がすっかり戦意喪失していることを察すると、一樹はその強面の顔に柔和な笑みを浮かべて「仲直り仲直り」と半ば強引に相手の手を取り握手を交わす。
これ以上もめ事はゴメンだと言わんばかりに、呆気にとられる相手の男の背中を押しやってから「さよならー」と手を振った。男達も何度かチラチラと振り向きつつも逃げるようにさっさと退散していく。
「相変わらずあしらうのが上手いなぁ」
「こういう時くらいしかこの体と傷は役に立たないから」
労うように肩を叩く真田に自傷気味の半笑いで答える一樹。
その後はいつもの通り、山口が気に入った女の子を送っていくと言い残して夜の喧噪に消えていく。一樹たちも残った女性陣から声をかけられるものの、困ったように苦笑いを浮かべるだけで、彼女たちを駅まで送ってさよならした。このメンバーでの合コン後の定番の光景である。
真田と一樹がその身から溢れる疲労を零すように溜め息を吐きながら連れ立って夜の街を練り歩く。城嶋は帰り道が異なるようで、先程別れ際に後輩を労って健全にも缶ジュースを残して去って行った。
手元のプルタブを起こすと、ブシュッと炭酸が抜けた。
「そういや真田。お前の言ってた黒髪ショートのメイドさんって……」
「ぶふぇっ!?」
突然の一樹の言葉に思わず口に含んでいた飲み物を吹き出してしまう真田。先日はつい口にしてしまったが、自身の周りの女性事情を知っている人物ならあの一言が誰を指しているのかは明白だった。
思わずあわあわと取り乱す真田を横目に、一樹は半ば呆れたように小さく笑った。
「いや、いいや。なんでもない」
「ううぇっ!? あ、ああ、そ、そう?」
口元を拭いながらホッとする真田が、聞いてもいいのかと少し逡巡するように視線を泳がせてから、窺うように一樹を横目に見る。
「えっと……お前の言ってた、金髪クォーターのバンギャって……?」
その人物像に一人しか心当たりのない真田が確認するように問いかける。一樹が缶ジュースを呷ると、豪快に数度喉を鳴らした。
「ぶへー」と体内へ侵入してきた炭酸を抜くように大きく息を吐く一樹。困ったように頭をポリポリと掻いてから肩をすくめた。
「お互い、苦労するなぁ」
それは真田の質問への答えではなかったが、彼の言葉の意味が何となく察せて、真田も「そうだな……」と頷いた。
見上げた空は相変わらずの曇りで。ギラギラと光る怪しいネオンの光は安易にこちらを誘ってくるようで、本当に欲しいと願う優しい月明かりは厚い曇天の雲に覆われてどこに浮かんでいるのかも分からなかった。
「写真、撮りたいなぁ……」
「写真部のやつ、期限もうすぐじゃなかったか?」
「あと一ヶ月」
「合コンしてる場合じゃないだろ」
「いや、まったく。けど、いいのが撮れないんだよ……」
「撮りたいものは、あるんだけどねぇ」と、やけ酒のようにジュースを呷りながら吐露するのだった。
*****
今日は今朝からやけに肌寒くて布団から出るのが億劫だった。
眉間に皺を寄せて重たい瞼を薄らと持ち上げる。寝起きの目を擦りながらチラリとカーテンの隙間から空の様子を窺う。
先日から続く灰色の空は今日も晴れることはなく、辺りは薄暗い影の底に沈んだかのよう。町の喧噪さえも遠のいてしまったように思えた。
彼女は少しホッとしたように小さく息を吐いた。
「今日は雨かな、コバン」
彼女の枕元で丸まっていた猫を抱き寄せそのお腹へ顔を押し付けて、くぐもった声で問いかけた。
コバンは「にゃー」と小さく鳴くと、欠伸を零して再び丸まった。
*****
「やだー、降ってきちゃったわ」
教室でお弁当をつついていた
「へへーん。私、置き傘あるもんね」
どうだと言わんばかりに胸を張るのは
はぐはぐと小動物のように弁当を食べる彼女に辰野の呆れた溜め息がかかる。
「あんたのは置き傘じゃなくて、前に傘持ってきたけど帰りに雨が止んでたから忘れて帰った傘、でしょ」
「一緒じゃん、結局こうして役に立ってるんだからいいんだよ!」
「それにしても、かなり降ってきちゃったわよ」
辰野と歩鳥と一緒に机をくっつけて、ビーバーのような立派な前歯を突き立ててバケットサンド食べていた
「ここ数日降りそうで降らなかったからね。雨雲のやつ、力をため込んでたんだよ」
箸で窓の外を指しながら恨めしそうに言う歩鳥。
彼女たちの見つめる先で雨は容赦なくその勢いを増していき、大粒の雨は窓にぶつかっては筋となって蛇行するように伝い落ちていく。瞬く間に外は横殴りの雨の向こうに霞んでいき、窓ガラスは薄暗い街並みではなく明るい教室を反射していた。
どこかもの寂しくなるような雨音が耳をくすぐる。夕刻に差し掛かる頃にはグラウンドは水浸しになり雨粒が弾けるようにしぶきを上げていた。
*****
「あれ、紺先輩どうしたんですか?」
厚い雨雲の向こうに夕日も姿を隠す夕暮れの下校時刻。
本日最後の授業が終わると教室も廊下も生徒で溢れかえり、途端に校内は活気づいてくる。さっさと帰路を急ぐ者、部活や委員会へと向かう者、だらだらと教室に
そんな中、歩鳥と辰野は共にアルバイトをしている喫茶店「シーサイド」へと向かうため帰路につこうと校舎入り口の下駄箱へと急ぐ。二人が階段の踊り場に差し掛かったとき、校舎のすぐ外で雨宿りをする見知った女生徒の後ろ姿が目に入った。
歩鳥が声をかけると、制服のシャツの上に着込んだ黒いパーカーのポケットに両手を突っ込み少し寒そうに背を丸めながら、校舎の壁に背を預け出入り口の
「ん……? なんだ、お前らか」
「なんだとはご挨拶ですねー」
日本人離れした乳白色の白い肌に映える、染髪したとは思えないほどサラサラとした痛みのない金の髪。口を開くと顔を覗かせる小さな牙のようなその八重歯は、大きくパッチリとした釣り目と相まって猫を連想させる。
むっとする辰野の声も聞こえていないのか、紺は青みがかった鉛色の瞳を気怠そうに半分閉じて二人を一瞥すると、その視線はまた雨の降り注ぐ曇天へと吸い寄せられていく。
「もしかして、傘忘れちゃったとか?」
「あー……、いや、そういうわけじゃ」
歩鳥が靴箱の靴と上履きを交換しながら冗談めかしつつも少し心配そうに外の紺に問いかける。
曖昧な返事をする紺の横で歩鳥は自身の置き傘を開いた。ビニール地に桜色の縁取りがされた彼女のお気に入りの一本だった。
「一緒の傘に入れてあげましょうか?」
「いいよ。部活して帰るから」
「いや、この天気ですよ。部活終わりも降ってると思いますけど」
歩鳥の提案に紺は壁にもたれたまま少し申し訳なさそうに眉尻を垂らして手を振った。彼女の言葉に辰野は思わず身を屈め
視界に白い線が走るほどの激しい雨は、部活をする数時間の間ではとても止みそうにはなかった。
「そん時はそん時に考える」
呆れるような辰野の言葉に紺も少しだけむすっとしてぶっきらぼうに返す。歩鳥も困った人だと言わんばかりに腰に手を当て鼻から息を
携帯で時間を確認する辰野が急かすように歩鳥の脇腹をつつく。
「先輩大丈夫ですか?」
「一人でちゃんと帰れますか?」
「大丈夫だって」
「ほんとにいいんですね?」
「バイト遅れちゃいますし、私達もう行きますよ?」
「ああ、いいってば」
まるで子供を心配する母親のように何度も確認する歩鳥と辰野。二人とも自身に弟や妹がいるためか、先輩である紺に対してまるで姉のように振る舞う。
一応本心で心配してくれている二人の心遣いを無碍にする気はないが、余りにしつこく、かつこちらを子供扱いするような態度に紺も思わずしかめっ面を浮かべ二人を追い払うように宙をはたいた。
「まあ、大丈夫って言うんならいいんですけど」
未だ心配そうにチラリと紺の方へ振り返る歩鳥だったが、これ以上遅くなるとバイト先の店主から何を言われたもんじゃないと意を決するように濡れた地面へと踏み出した。
「あ」
「うえっ? どうしました、先輩っ?」
歩鳥たちが傘を差して外に出たとき、何かを思い出したように紺がポツリと声を漏らした。傘を叩く激しい雨の音に自身の声が掻き消されそうになりながら歩鳥が振り返る。
「あ、ああ、いや、なんでもない」
雨の中呼び止めて悪かったと、紺が眉を垂らして困ったように笑いながら慌てて手を振った。
校門を抜けて少しずつ小さくなっていく二人の背中を見送る彼女の唇から小さな吐息が零れた。
「一緒に帰りゃよかったかな……」
すっかり冷えた両手を再びパーカーのポケットに隠して背中を丸めて肩をすくめる。思考がどこか遠くを泳ぐように、焦点の合わない視線が足下に落とされた。
「いやでもさ――」
「知るかよ、そんなこと――」
「それよりさ――」
目の前の水たまりに広がっては消えていく無数の波紋を見つめていた彼女の耳に複数の男子生徒の声が聞こえてくると、紺はビクリと小さく肩を跳ねさせて、そっと横目に振り返った。
誰かを待っているのか、少なくともその声の集団には興味がないらしく、彼女はつまらなさそうな半眼で鼻から深く息をついた。
それからも下校する生徒達が紺の脇を過ぎていく。楽しげに笑い声を上げながらはしゃぐ男子グループ。雨と湿気に辟易しながら文句を言い合う女子グループ。そしてわざわざ一本の傘で帰ろうとするカップル。
彼らの声が聞こえるたびに紺は振り返る。そしてその集団が脇を抜けていくときは少し脇に寄って隠れた。
なんだかそんな自分が情けないやらアホらしいやら、陰鬱な気持ちになってきて顔は俯き視線は再び足下を彷徨う。紺は溜め息を吐くと共に、もたれる校舎の壁から背を起こした。
雨は先程よりいくらかマシにはなったが、それでもとてもではないが傘を差さずには帰れそうにない。
「…………はぁ。アホらし……」
「あれ、紺先輩……?」
「っ……!」
なにかを諦めたように自身の鞄の中を漁りはじめた紺の背中に声がかけられた。
思わず体が弾むほどビクッと肩を震わせる彼女が振り返ると、そこには自身より頭一つ分以上大きな大男が不思議そうに目をぱちくりさせながら突っ立っていた。
「あ、お、……ぉう」
一瞬焦ったようにオロオロとせわしなく動いていた彼女だったが、ビックリした自身を落ち着かせるためにそっぽを向いて深呼吸を繰り返す。
そして仕切り直しだと言わんばかりに何食わぬ顔で右手を首の後ろに回し、視線を泳がせながらゆっくりと振り返った。
大男、一樹は小首を傾げた。
「どうしたんですか、こんなところで」
「いや、ちょっと……な」
「あ、傘忘れたとかすか?」
「あ、あー……。そう、かもな」
「かもってなんすか」
歯切れの悪い紺の言葉に一樹も思わず懐疑的に眉をしかめた。
「忘れたに
「あー忘れたんだよ! 忘れた忘れた!」
一樹の突っ込みに紺も思わず
拗ねたように腕を組んでそっぽを見る彼女と自身の手の中に収まる傘を見比べてから、一樹はその大きな傘を彼女へと突き出した。
「よかったら、これ使いますか?」
「……、……お前は、どうするんだよ」
「あー、俺はまあ……走って帰ります」
「それでお前が風邪でも引いたら寝覚め悪いって」
なんて事なく言う一樹に、紺は不服そうに目を細めて雨の降り止まない外へと視線を送る。
どこか不機嫌そうな彼女に一樹は困ったように頭を掻く。顎に手を当て「えー……じゃあ……」と呟いてから、しばしの沈黙が二人を包んだ。そして落ち着きなくキョロキョロと辺りを見回し視線が彷徨う。なにかを思いついたようだが、言葉に出すことを躊躇っているようだ。
紺はパーカーのポケットに手を入れて外を見ながらも、「んー……」と声を漏らす彼の目を盗んではその様子をチラチラと横目に窺っていた。
「……は、っくしゅ……!」
煮え切らない彼の思考をせき止めたのは可愛らしい小さなくしゃみだった。
ここ最近続いていた曇天に今日の豪雨。どっぷりと夕闇に浸かる辺りの気温はすっかり下がりきっており、湿り気を帯びた冷たい空気が肌を撫でていく。
「あ、えっと、……じゃあ、一緒に、入ります……か?」
チラリと紺の顔色を窺っておずおずと提案する一樹。彼女がこちらに振り返って目が合うと、思わず下を向いて視線を逸らしてしまった。
――ああ余計なこと言ったかな、無理にでも傘を押し付けて帰るべきだったかな――
その強面のポーカーフェイスからは読み取ることは難しいが、一樹は胃の辺りがキリキリと痛むのを感じていた。
「あぁ、まぁ。お前がいいなら……、別にいいけど」
そんな彼の心情を知ってか知らずか、紺は自身の手を口元へとあてがい、なんてこともないように言った。そして自身の前髪をちょいと触ってから深く息を吐いた。
一樹の視線から逃れるように
「紺先輩」
「んぁ?」
「靴、上履きのままっすよ」
「…………」
外を向いたままの彼女の表情は分からなかったが、まあ、恐らく、指摘されたことが恥ずかしかったのだろう。そそくさと校舎内へと戻ると黙ったまま靴箱の前で上履きを脱ぎ捨てた。
靴を履き替えた彼女が戻ってくるとき、その視界に傘を持って待っている一樹の姿が映り一瞬体が強ばってしまった。思わず足がもつれそうになって玄関端に設置されている来客用の傘立てを蹴っ飛ばしてしまった。
「いっ、たくねえ」
「なんの強がりっすか」
「おー、芦名じゃん」
ぶつけた足を庇うように歩く紺に思わず呆れたように笑ってしまう一樹。そんな彼に紺が突っかかろうとしたとき、廊下の方から男子生徒の声がかけられた。
通りかかったのは山口と城嶋の二人だった。思わぬ同級生の登場に、紺は思わず靴箱の陰に身を隠してしまう。
山口達は帰る予定ではないのか、こちらには来ない様子。そのまま廊下の奥へと向かいながら少し歩くペースを落として一樹へ話しかける。
「昨日はありがとな、また合コン行こうぜ! お前好みの相手セッティングしてやるよ!」
「…………」
「うぇっ、いやっ、それは別に……っ」
山口の言葉に慌てて話を逸らそうとする一樹。自分が合コンへ行ったことを誰かに知られたくないようだ。
「バインバインがいいか!?」
あっはっはっはと快活に笑い、自身の胸元で手を山なりに動かし巨乳のジェスチャーをする山口。その大きな声に他の下校する生徒からの視線も集まり、隣の城嶋は「すまん」と言うジェスチャーを残し山口を連れて去って行った。
「いやっ、誰もんなことはっ……!」
廊下の奥へと消えていく先輩方を不満そうに眉をしかめながら見送る一樹。
他の生徒に騒いで申し訳ないと思いつつ周囲を見回すも、誰もが関わるまいと彼から視線を逸らしてしまう。そういった反応はいつものことで、一樹は刈り上げた後頭部をぽりぽりと掻いて肩をすくめた。
「…………」
「……」
そんな中でなにやらこちらに向けられる冷たい視線を感じ取り、一樹は恐る恐るチラリと横目に確認する。
そこには靴箱に右肩と頭をもたれかけ、黙ったまま腕を組んでこちらを見つめる紺の姿が。心なしか猫のような釣り目がいつにも増して鋭くつり上がり、その瞳はガラス玉のようにただこちらを反射し、氷のように冷ややかだった。
「……ふーん。……合コン、行ってたんだな」
「ち、違うんですよ紺先輩、今のは山口先輩の冗談で」
「じゃあ行ってねーのか?」
「いや、それは……俺は断ったんすよ。でも山口先輩がしつこくて」
「……」
「いや、ぜ、全然可愛い子とかもいなかったですし……」
「……」
「そもそも興味ないですし、俺ああいう場が苦手ですし」
「……」
「いや、さっきのもほんと、山口先輩の冗談で、胸とかそういうの関係ないですし、だからその」
「別に、私なんも聞いてねーけど」
「あ、はい……すんません」
彼女の鋭い眼光から逃れるようにせわしなく視線を泳がせてあたふたと言葉を並べる一樹を、紺は冷気を孕んだ一言で一蹴した。
「あの……なんか、怒ってますか……?」
「……別に。私が怒る理由なんかねーだろ」
恐る恐る彼女の足下を彷徨っていた視線を上げてみるとご機嫌は斜めのようで、紺は不機嫌な猫のようにそっぽ向いたままだ。その不機嫌さの中に一抹の寂しさを溶かしたような瞳が降りしきる雨を見つめて動かない。
「えっと……、は、入りますか……?」
「……」
一樹は
彼女はチラリと一樹の様子を一瞥するだけでなにも言わなかったが、パーカーのポケットに手を入れたまま黙って彼の隣に歩み寄り傘の中へと身を寄せた。
「……ったく、人の気も知らねーで……」
隣に入ってきた紺がちらりと空を見上げて零したその呟きは、傘を打ちつける雨音に掻き消されて一樹の耳には届かなかった。
*****
「痛つつ……」
「どうした?」
一本の傘の中に二人が収まりながら尾谷高校最寄りのバス停へと向かっていると、一樹が自身の顔に触れながら眉をしかめた。
「いや、天気の悪い日は皮膚が突っ張って、傷が痛むんすよ」
自身の顔に入る古傷を空いている左手で撫でるようにマッサージする一樹。紺が心配そうにしながらも少しからかうように彼の顔を覗き込む。
「何したらそんな傷がつくんだよ」
「ああ、これは……」
昔を思い出すように遠い目をしながら記憶の中を泳ぐ一樹。
――昔海で遊んでいたときに盛大に転倒して砂浜に埋もれていたガラス片に突っ込んでいったんです――
「……なんてかっこ悪くて言えねえ……」
「ん? なんだって?」
「あ、いや、これはまあ、……色々ありまして……」
「ふーん……」
自身の過去の恥ずかしい失態を知られては困ると、つい顔を逸らす一樹。彼のその態度に『聞いてはいけない過去が……』と勘違いした紺も思わず口を噤んだ。
ふと沈黙が二人を包む。なんだこの空気は、と一樹は慌てて別の話題を探した。
「ここのバス停はなぜ屋根を設置しないのか」
バス停についた二人がその設備の悪さに文句を零しつつ時刻表を確認する。次のバスが来るまではまだしばし時間がかかりそうだった。
周りにはバスを待つ他の学生もちらほらと見え、良くも悪くも目立つ二人はチラチラと視線に晒される。
一樹は全く気にしていないようだったが、その視線に晒されて居心地が悪い紺はそっと彼の裾を引っ張った。
「……歩くぞ」
「え? ちょっと待ってたら来ますよ?」
「いいからっ、行くぞ」
「は、はい」
紺が彼の傘を持つ手ごと引っ掴んで逃げるようにバス停から離れていく。
停留所が見えなくなるまでしばらくずんずんと歩いていた紺だったが、ハッと何かに気がついて慌てて彼の手を掴む自身の手を離しパーカーのポケットへと突っ込んだ。
ポケットに両手を隠して黙ったまま視線を落とす紺と、どこか照れくさそうに上を向く一樹。先程とはまた違う沈黙が二人を包んだ。
その沈黙を破るように一樹が口を開いた。
「あ、あぁ、そういえば。この前先輩に教えてもらった曲、めっちゃよかったです」
一樹が大きな水たまりを跨ごうとするも、隣にいる紺を見て二人並んで水たまりを迂回する。
「特にあのベースなんかもうシビれましたよ」
「だろ! あの曲でベースの良さに気づくとは流石だな」
自身のおすすめした曲を気に入ってくれたのがよほど嬉しかったのか、子供のように目を輝かせる。
「あんまり楽器のこととか分からないですけど、ほら、あの一番の終わりの伴奏で――」
わかってるな、とでも言いたげに「うんうん」と腕を組んで満足そうに頷く紺。
「こう重低音が
「……」
「……え?」
しばしの沈黙の後、激しい雨音の中でぽつりと漏らす先輩。
「……ばいん、ばいん」
「……⋯⋯はッ! いやっ、今のは別に深い意味はっ」
一樹の何気ない一言に何かを思い出したのか、俯いて空虚な瞳で自身の胸元を見下ろす紺。
「……ははっ」
「ぐっ……」
自分の胸を見つめていた視線を一樹へと送り自傷気味な乾いた笑みを浮かべると、一樹も心が痛むと言わんばかりに胸を押さえ、「見てらんねえ」と顔を伏せた。
しかし彼女の言葉には既に棘も冷たさも無くなっていて、一樹もそれが冗談だと分かっている。ただこうしてじゃれ合うのが何とも言えずむず痒くて楽しいのだ。
そうやってふざけ合っていながらも紺が雨に濡れないように、一樹は自身のその大きな体が濡れるのも構わず紺へと寄せて傘を差す。
冗談交じりに妬むような拗ねたような視線を一樹に向ける紺だったが、彼の濡れた肩に気がつくと、その表情はどこか呆れながらも嬉しそうに綻び、しかしそれを悟られないように小さく鼻で息をついた。
「肩、濡れてんぞ」
「別に大丈夫っすよ」
「風邪引くだろ」
「大丈夫っす。俺、体は頑丈なんで。それに無駄にデカいんで、そっち寄ると先輩が濡れちゃいますよ」
「いいから、……もっと寄れって」
照れ隠しのように饒舌に言葉を並べる一樹の袖を引く。決して強くない力なのに、一樹は不思議なぐらい簡単に彼女の方へと引き寄せられてしまう。
時折肘が当たってしまう距離感に、お互いそっぽを向いたまま言葉を失う二人。
「そういえば……前に、先輩が傘貸してくれたこと、ありましたよね」
「っ……さあ、覚えてねえけど」
未だ降り止まない雨を見上げていた一樹がふと、何かを思い出したように呟く。ピクリと肩を震わせた紺はぶっきらぼうに吐き捨てる。
「あの時、なにか言ったような……」
遠い目をしたまま記憶の糸をたぐり寄せる一樹に対して、その思考をせき止めるかのように紺は慌てて声を上げた。
「あ、ああっ、えっと、私シーサイド寄って帰るからっ、ここでいいよっ」
「え、ちょっ、先輩っ!」
気がついたら随分と歩いていたようで、そこはいつもの見慣れた丸子商店街の入り口だった。
考え込む一樹から逃げるように傘から飛び出した紺は、彼が止める間もなく商店街の奥へと駆けていく。
「傘っ、ありがとなっ!」
途中で振り返って心底嬉しそうに笑いながら手を振る彼女が、雨の音に掻き消されないようにそう叫んだ。
手を伸ばしたまま見送る一樹の溜め息が湿り気を帯びた空気に溶けていった。
普段バスで通う通学路を歩くのはなんだか新鮮だったし、比較的平坦な道が続いているため歩くのは思ったほど苦ではなかった。それどころか、いつも一人でバスに揺られる時間よりも、ずっと早く感じた。
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紺色の傘②
「あれ、紺先輩? 部活は?」
乾いたベルの激しく揺れる音と共に喫茶シーサイドへと駆け込んできた紺に、この喫茶店の制服であるメイド服に身を包んだバイト中の歩鳥が驚いたように尋ねた。
「えっ? ……あ、ああ。ちょっとな……」
「ていうか、傘は?」
誤魔化すように言葉を濁す紺。歩鳥と同じくメイド服を着込んだ辰野が、未だ激しく雨の降りしきる窓の外を見ながら不思議そうに呟いた。
「いや、それは……」
思わずシーサイドに逃げ込んでしまったが、――傘の無いはずの私が大して濡れもせずにここに来るのはおかしい、勘ぐられる――、と思わず冷や汗を垂らす紺。
案の定、その様子を見ていた歩鳥が顎に手をあてがい、ゆっくりと近づいていく。ふむふむ、と呟きながら紺の周りをぐるりと回り込み彼女の様子を観察する。
「全体的に少し濡れていますが、この雨の中を傘も差さずに帰ってきたならもっと濡れているはず。バス停からここまでも微妙に距離がありますし」
「なっ、なんだよ……」
ミステリードラマに出てくる探偵役のように、疑いの眼差しを紺に向けながら推理する歩鳥。
この雨で他に客はいないようで、店主の老婆、磯端ウキも競馬新聞を広げたまま歩鳥たちを放っている。辰野はお客用の席に座りこみ大して興味もなさそうにことの成り行きを眺めている。
しばらく紺を見つめていた歩鳥が、紺の右腕を見るやいなや「むむっ」と怪訝な声を上げる。
「全体の中でも右腕が比較的多く濡れている。そして足下の濡れ方は普通に傘を差していたかのよう……」
「……っ」
「先輩、あなた……」
紺を見つめる歩鳥の眼光がキラリと光り、刑事ドラマで刑事が犯人を名指すかのようにビシッとその指先で紺を指し示した。
「誰かの傘に入って帰りましたね。つまり、……相合い傘をして!」
「なっ、なっ、にをっ」
「そして友達が少なく人見知りをする紺先輩が一緒の傘に入れる人間。かつあの時間残っていたのは……日直のやつぐらいなもの。……相合い傘の相手はずばり、芦名ですね!」
「なっ、はっ、はあっ!?」
普段ミステリー小説を読み漁っているだけあり、探偵になりきって推理する時の歩鳥は無駄に鋭いときがある。見事に言い当てられてしまった紺は羞恥に頬を赤く染め上げ、目を白黒させて思わず後ずさる。
「へー、先輩が、芦名君とねー」
紺の弱みを握ったと言わんばかりに目尻を垂らし口角を吊り上げニヤニヤとイヤラシい笑みを浮かべる辰野。右手の指先で口元を隠しながら「あらあら」とわざとらしく紺を見つめる。
辰野の態度に紺も思わず目つき鋭くその鋭い牙を覗かせた。
「べっ、別にあ、あいつと帰ったとは言ってねーだろっ!」
「え、違うんですか?」
「…………っ、ぁ、くっ……」
「あ、これは“そうです”って言ってますね」
「うっせ! 傘を忘れたからしゃーなしだっ!」
「でも先輩、部活は」
「行ってねーよっ! 悪いか!」
「いや、別に悪くはないですけど、それってつまり芦名を待って」
「待ってねえ! たまたまだ!」
三人集まり
「若い⋯⋯。この桃色の空気、あたしにゃすでに毒でしかないんだね⋯⋯」
*****
「えーん、傘がないよー」
翌日の放課後。昨日と同じく空は分厚い雨雲に覆われ辺りは暗い灰色に染まり、大粒の雨が地面を叩くように激しく降り注いでいた。
校舎の玄関先で歩鳥が頭を抱えて降りしきるその雨を呆然と見つめながら嘆いていた。
「お前、天気予報見ねえのかよ。しばらく雨だっつうの」
そこに偶然にも通りかかったのは呆れた様子の紺。
「朝は降ってなかったんですよ! 遅刻しそうで急いでたのもあって……」
がっくしと肩を落として傘を忘れた理由をつらつらと述べる彼女に、紺は困ったように頭を掻いて自身の鞄を漁りだした。
「仕方ねえな。私の傘貸してやるよ」
「え、先輩も傘持ってないじゃないですか」
「私は常に折りたたみ傘を鞄に入れてんだよ」
そう言って取り出したネイビーカラーの折りたたみ傘を歩鳥へと突き出した。
その傘を受け取りつつ歩鳥はついある疑問を口にする。
「ありがとうございます先輩! ……あれ、でも先輩、昨日傘がなかったから芦名の傘に入れてもらったんじゃ……」
「う、うっせー、昨日はたまたま、本当に、折りたたみも忘れたんだよっ。オラ、要らねえなら貸さねえぞ」
「あーっ、要ります要りますっ! ありがとうございます先輩! 遅れたらばーちゃんに何を言われるか」
紺から受け取った傘を広げながら「助かったー」と胸を撫で下ろす歩鳥だったが、雨の中へと踏み込む前に紺へと振り返る。
「でも先輩はどうするんですか」
「……部活終わってから考える」
「今日はほんとに部活なんですね」
「ほんとだよ」
「今日は芦名も帰っちゃってますよ」
「っ……、あいつは関係ねーだろっ! いいから早よ行け!」
心配そうに見る歩鳥の肩を掴んで向こうを向かせると、その背中をぐいっと押し出す紺。チラチラと何度か紺へと振り返りながら離れる歩鳥だったが、何かを閃いたのかにっこりと満面の笑みを浮かべるとこちらに大きく手を振った。そして雨音に掻き消されないように大きく声を張り上げる。
「先輩っ、ありがとうございます! お礼は必ずしますからー!」
それに小さく手を振って応える紺。
どうやら今日は本当に帰る当てがないようで、歩鳥の姿が見えなくなってから紺は少し不安げに空を見上げた。
「どうすっかな……」
雨は未だ止む気配を見せず、その曇天はますます濃くなっていくようだった。
*****
部活終わりの学生がちらほらと姿を見せる。校舎の玄関口には傘を片手に友達との会話に花を咲かせる生徒が次々に雨の霞む向こうへと姿を消していく。
「針原のやつ、今日休みだし……」
卓球部に所属する紺が運動用のジャージから制服へと着替え、恨めしそうに携帯と睨めっこしている。どうやら数少ない友人であり卓球部の後輩でもある針原の傘に入れてもらおうと思ったようだが、生憎彼女は家庭の用事で今日の部活を欠席していた。
溜め息を一つ零して携帯をパーカーのポケットへと突っ込み、靴箱から自身の靴を取り出して気怠そうに外を見やる。
しばらく雨宿りしていると、少し前まで向こうの校門に見えていた他の生徒の傘も見えなくなってしまい、辺りに人の気配は消えてしまった。
雨がアスファルトを叩き水たまりに弾む水音だけが聞こえる。未だ街灯の灯らない街並みは霞むような薄ぼんやりとした景色となって、まるでこの豪雨で水の底に沈んでしまったかのよう。
「どうすっかな……」
いつもならまだグラウンドから聞こえてくる他の運動部のかけ声も今日はなりを潜めている。
暗雲に蓋をされた黄昏時の空は妙に寂しくて、傘立てに座り込み玄関口の窓ガラスにもたれながら俯く紺は、まるでこの世から切り離されたような気さえして、校舎の少し埃っぽい湿った空気を肺一杯に吸い込んで深く大きなため息を零した。
思わず途方にくれる紺だったが、ゆっくりとした動作で面倒くさそうに立ち上がると止む気配のない空を一瞥してからパーカーのフードを深く被る。
不思議に思ったのは、意を決して一歩踏み出した時だった。外に出たのに大きな雨粒が体を濡らさない。足下に見える曇天に滲む自身の薄い影の上に、大きな別の影が重なった。
フードで狭くなった視界に誰かの大きな靴が映った。
「あ、先輩。えっと……、迎えに、来ました」
「っ……」
聞き覚えのある、しかし思いもよらないその声に驚いて顔を上げる紺。そこには少し照れくさそうにそっぽを向いて、その強面の古傷を人差し指でぽりぽりと掻く一樹の姿が。
彼を見つめる紺の、目を見開いた驚きの表情が少しずつ弛緩していく。つまらなさそうに虚ろだった瞳は光りを吸い込み、への字に結ばれていた口元がぽかんと開いて、次第に口角が持ち上がる。
周囲の街灯がぽっと灯り、オレンジ色の暖かな光りが辺りを包んだ。
「――ッ、な、なんで、おま、お前がわざわざ」
緩む自身の顔を見られまいと咄嗟に腕で口元を隠しながら思わず半歩退く紺。
「いや、なんか嵐山が迎えに行けって」
「ほ、歩鳥が?」
「はい。なんでも、先輩に“お礼です”って伝えたら分かるとかなんとか」
「――ッ!」
気を利かしたつもりであろう歩鳥の根回しに、こちらの心情が筒抜けにバレている気がして、その気恥ずかしさに思わず顔に熱が集まっていく。
「……って、なんで傘一本なんだよ」
「いや、先輩は傘持ってるから一本だけ持って行けって、嵐山が念押し……してきて」
今差している傘しか持ち合わせていない一樹がその
「先輩、傘無いんすか?」
「……、……ああ」
どこか拗ねたように恥ずかしがるようにそっぽを向いて答える紺に、一樹も次第に状況が飲み込めてきた。歩鳥に嵌められたと。
雨の降りしきる中、二人の人間に傘は一本。自ずと答えは浮き彫りになってきて、この雨の中でも聞こえそうなほどに高鳴る鼓動は、どちらのものだろうか。
「じゃあ、入り、ますか……?」
「……しゃーねえな」
昨日と同じはずなのになぜだか今日は無性に気恥ずかしい気がして、一樹も絞り出すように彼女を自身の隣へと誘う。紺もまた、そっぽを向いたまま、ぼそりと呟いた。
「……」
「……」
大きな傘に二人が収まって、紺に合わせた小さな歩幅で一樹は学校を後にする。
隣を歩く彼女のゆらゆらと揺れる金の髪が、まるで心をくすぐってくるかのようにむず痒くて、アスファルトの濡れる雨の匂いに混じって、ふわりとシャンプーの香りが漂ってくる。考えないようにとすればするほど、彼女の要素の全てが一樹の脳をかき乱していく。
まるで吸い込まれるように、ふらりと彼女の方へと身を寄せてしまう。手と手が触れあいそうなほどの距離。
一瞬肩を震わせた紺が、少しの間を置いてからハッとしたように半歩退いて彼との距離をとる。
「ち、
一樹の肩を軽く押して、自身の肩が傘からはみ出して濡れるほど離れる。
「す、すんません……。いやでも、昨日は濡れるからって」
「き、昨日は昨日! 今日は今日だばか!」
「ええー……」
どこか落ち込むように眉尻を垂らす一樹が訳が分からないと天を仰いで視線を泳がせた。
「今日はほんとに、部活終わりだっつうの……」
そっと自身の制服の胸元を持ち上げて自身の匂いを
*****
「次のバスまで結構ありますね。……歩きますか?」
「あ-、……そうだな」
先日と同じく、二人は雨の中バスを待つことはせず、二人で並んで歩いて帰ることにした。
「……」
「……」
何とも言えないむず痒い雰囲気が二人を包み、どうにも会話が続かない。
紺が相変わらず少し距離を取るので、一樹は自身が傘からはみ出ることで彼女を傘の中へと収める。この薄ぼんやりした暗さでは、多少肩が濡れても彼女には気づかれないし、気を遣わせることもないだろうと考えてのことだった。
しばらく沈黙が続いたあと、傘を打つ雨音にも掻き消されそうなほど小さな声を彼女が零した。
「……迎えに来てくれて、……ありがとよ」
「あ、いえ、……よかったっす、濡れなくて」
再び沈黙。その空気に耐えかねたように紺が「あー」とわざとらしく頭を掻きむしり、その猫のような瞳を一樹へと投げかけた。
「なんかっ、お礼!」
「へ?」
「迎えに来てくれた礼をするって言ってんだよ! なんかあんだろ!」
半ばやけくそのように一樹を指差してそう言い放つ。「急に言われても……」と困ったように視線を泳がせる一樹だったが、しばらく考えたあと、「あっ」と何かを思いついたように目を見開いた。
「じゃあ、先輩。その……」
「なんだよ……?」
「……写真、撮らせて下さい……、先輩の」
「しゃ、写真っ? 私の?」
「うっす。次のコンクール、ポートレートっていうか、人物写真が題材で……」
「い、いや、はずいって」
思いもしなかったお願いだったようで、話の流れから自身の写真をコンクールに出そうとしていると察した紺は慌てて手を振った。
「そういうのは辰野とかに頼めよ」
「俺は、先輩を撮りたいんです」
「……っ」
自分から話を逸らすために適当に名前を出しただけだったが、それに対して何とも真っ直ぐな目で間髪入れずに応える彼に、思わず心が揺れて目が泳いでしまう。 ほのかに顔が熱い気がして、見られないようにパーカーの裾で顔に触れた。
「な、ば、おま、……」
「ダメですか? 先輩」
「…………ぅ、ぃ、ぃい、けど」
「っ!!」
顔を隠したまま彼女が応えると、一樹は晴れ渡る太陽のように嬉しそうな笑顔を咲かせ無意識に拳を握りしめて掲げる。紺の手に傘を握らせると雨の中へと駆け出し、彼女から少し離れたところで背中に回していた鞄から早速カメラを取り出した。
「い、今撮るのかよ!」
「善は急げっすよ!」
素人目にも決して安くは見えないカメラを準備する一樹に、紺も半ば心配そうに声をかける。
「お、おいっ、カメラ濡れるぞ」
「濡れるとか汚れるとか壊れるとか! そんなの気にしてたら、今撮りたいこの瞬間を逃しちゃいますよ!」
紺の心配も余所に、体を丸めて自身の大きな体で雨風を凌ぎながら手元をいじっていた一樹が、バッと身を起こしてカメラを掲げる。
カメラのレンズ越しに紺を見ながら雨音に負けないように声を張り上げる。
「先輩! 笑顔笑顔!」
「笑顔って、んな急に言われて笑えるか」
カメラを向けられ少し照れくさそうに前髪をいじっていた紺だったが、一樹からのリクエストにいつもの鋭い眼光で応える。不器用な彼女に撮影用のスマイルを要求するのは少し酷なようだ。
「んー、だったら……、今日はどんな日でした?」
カメラを服の中へと避難させて顎に指を添えて少し逡巡する一樹が、ほのかに微笑みながら、何気ない会話のように彼女に問いかけた。
「今日? いつもと変わらねーよ、別に。朝起きて学校行って部活して」
「でもなにか一つくらい良いことあったでしょ。テストの点数がよかったとか、お昼ご飯が美味しかったとか、部活で調子よかったとか。それを思い出してください」
「んなこと言われても……」
突然の提案に眉をしかめて頭を掻く紺に、一樹はゆっくりカメラを掲げて、レンズを覗き込みながら優しく囁くように続けた。
「別に教えてくれとは言いませんから。ほら、目を閉じて、深呼吸して。今日あった一番嬉しかったことを、素直に、鮮明に、その瞬間を思い出してください」
彼の言葉に導かれるように静かに瞳を閉じる。ゆっくりと鼻から息を吸って、口から吐き出す。それを何度か繰り返してしばしの沈黙の後、なにを思い描いたのか、彼女は瞳を閉じたまま子供のように無邪気に「へへへっ」と笑った。
心底嬉しそうな笑みを零すと、その無垢な笑顔は徐々に、静かに、端正に、少女から大人の女性へと瞬く間に成長するように、美しい微笑みへと変わっていく。
「…………」
すっ、と音もなく彼女の宝石のような瞳が開かれると、その潤んだ灰色の色彩がレンズ越しに一樹を捕らえた。
一樹は瞬きも忘れたかのように、顔に滴る雨の滴を気にもとめず、ただ呆然と食い入るように、呆けたようにカメラ越しの彼女を見つめていた。
ほのかに朱をまとう頬、微かに灯りを吸い込んで反射する瞳、薄く開いた桜色の小さな唇、雪のように白く透き通った肌、雨粒の弾ける黄金の艶髪。その全てが儚げで、雨に霞む情景と相まって、まるでこの世のものとは思えないほどに――
「…………――……」
「んっ? なにか言、キャッ――」
「だっ、大丈夫ですかっ、先輩」
「あ、ああ、ちょっとビックリした、だけだから……」
紺が道路一つ挟んだ一樹の元へ駆け寄ろうとしたとき、ちょうどバスが水しぶきを上げながら目の前を横切っていった。
「バス行っちゃいましたね。バス停で待ってても同じくらいの時間に帰れてましたね」
そう言って笑う一樹に、さっきなんて言ってたのか、尋ねるタイミングを逃してしまった。
なにか言いたげに彼を横目に見つめる紺に、一樹はカメラの画面を向ける。
「最っ高にいいの、撮れましたよ。先輩」
「……わぁ……」
一樹の手元を覗き込んだ紺が思わず感嘆の溜め息を漏らした。食い入るようにその写真を見つめ、目を輝かせる。
「これ、次のコンクールに出してもいいですか?」
「…………だめ」
「ええっ」
「や、やっぱ、恥ずいっ」
「そんな殺生な」
「ダメったらダメだ!」
*****
「あら、素敵な写真だこと」
「ほんと、綺麗ねえ。撮る人が撮れば違うものね」
「いやいや、モデルも相当いいってこれ」
数日後の休日。先日までの雨も嘘のように晴れ、今日はここシーサイドで宿題をしようと一樹と真田と辰野、そして数学の宿題の転写を狙う歩鳥が集まっていた。
女性陣が私服なところを見るに、今日はお客さんとしての来店のようだ。
一同が一通りの宿題を終わらせると、話題は先日の相合い傘の件へと移っていった。女子二人がきゃいきゃいと騒ぐ中、真田だけが一樹の肩に手を置いていい笑顔を浮かべてサムズアップをしていた。
むずがゆさと気恥ずかしさで己の精神がやられてしまう前に一樹は話題の転換を求め、詳細や成り行きはうやむやにしつつも、先日紺の写真を撮ったことを口にしてしまった。
当然見せろという流れになるわけで、一樹が常にカメラを持ち歩いていることも最早筒抜けであり、彼に逃れる術はなかった。
彼が素直に写真を一同に見せると、皆食い入るようにその画面を覗き込み、各々からお褒めの言葉が飛び出した。
写真の中には、曇天の空とぽつぽつと灯る街灯、薄く灰色に沈んだ街並みを背に、傘を差した紺がこちらを向いて佇んでいた。
「しかしこれすげえな、手前の雨粒まで鮮明に撮れてる」
「曇ってて全体的に暗めなのに先輩ははっきり映ってるし」
「まあ、そこは、一応写真部だからそれなりの技術で」
写真の技術を褒める真田と辰野に手を頭に回して思わず照れ笑う一樹。そんな中、じーっと写真を見つめていた歩鳥がポツリと零した。
「いや、私は先輩からこんな表情を引っ張り出した技術の方を褒めたいよ」
「言われてみれば、なんか……何て言うんだろ、優しげ? 儚げ?」
「うーん、美人なのは当然なんだけど、こう、暖かい? 嬉しそう?」
歩鳥の一言に写真の中の紺へと視線が集まる。彼女の得も言えないその表情を見て各々がそれを表現しようと四苦八苦する。
頭を傾げる一同の中で、歩鳥が「あっ」と声を上げてピンと指を立てた。
「乙女だ」
「あー、乙女ねぇ。うん、乙女だわ」
「あー、なるほど。それだ」
歩鳥の一言に妙に納得したと頷く辰野と、思わず指差す真田。
「芦名、どうやって先輩のこんな表情撮れたの?」
「いや、俺は別になにも」
歩鳥の質問に同調するように辰野と真田も彼を見つめる。弱ったなと頬を掻く一樹が、すっかり温くなったテーブルのコーヒーを一口すすった。
「俺はただ……今日、つまりこの写真撮った日だけど、『今日あった一番よかったことを思い出してください』って頼んだだけで」
「それだけ?」
「それだけ」
きょとんとして聞き返す辰野に一樹も困ったように頷いた。
「で、その嬉しかったことって何だったんだよ」
「いや、それは聞いてないけど」
真田の疑問に肩をすくめる。その会話に耳を傾け目を閉じてなにやら考え込んでいた歩鳥が、ハッとしたように目を見開いて身を乗り出した。
「もしかして、この写真撮ったのって、あの『お礼』の日?」
「あー、まあ、うん」
「なによ、お礼って」
一樹の答えを聞いて歩鳥は得心したと言わんばかりに頷きながら背もたれに体重を預けた。詳細を聞きたそうな辰野と真田に小さく手を振った。
「いや、これ以上はやめておこう。先輩のプライドのために」
「なによー、自分だけ分かった風に。教えなさいよ」
辰野が歩鳥のちょんと結われた髪を摘まみながら問い詰める。そんな彼女らを尻目に真田が確認するように写真を指差す。
「で、今度のコンクールだっけ? これ出すんだろ?」
「いや、先輩が恥ずいからやめろって。先輩を説得できたら出そうかな」
相変わらず歩鳥の髪を掴んだまま辰野も意外と言うようにきょとんとする。
「こんないい写真なのに、もったいない」
「……いいんだよ。俺も出したいような、出したくないようなって感じだから」
「なんそれ」
「いや、俺には分かる……人に見られたくないんだよなぁ」
溜め息交じりの一樹のぼやきに頭を傾げる歩鳥。真田だけは一樹の心情が理解できたのか腕を組みうんうんと頷いていた。
そんな彼を訝しがるように横目に見てから、歩鳥がスプーンをマイクのように一樹の方へと向ける。
「それで、ずばりこの写真のタイトルは?」
考えてもいなかったその質問に、一樹も弱ったなと顎に手を添えて天井を見上げた。しばし思考を巡らした後、写真に視線を落とした彼が、少し恥ずかしそうに照れ笑いながら口を開いた。
「うーん、まだ出すかも分からないから考えてなかったけど……。……そうだな、じゃあタイトルは――――…………」
*****
『なんだ芦名じゃん。何してんだそんなとこで』
『あ、先輩。いや、傘忘れちゃって』
今朝まで薄曇りだった空は帰る頃にはすっかり分厚い雲に覆われてしまっていた。家を出たとき一瞬迷ったが、鍵までかけてしまったドアをもう一度開くの億劫だったので、ついそのまま傘を持たずに登校してきてしまった。
そして案の定、大粒の雨に足止めをされ校舎の玄関口で雨宿りするはめになってしまった。
『バカだな、お前。天気予報見てねえのかよ』
『いやー、今朝急いでたもんで』
一樹が辟易しながら空を眺めていると、後ろからよく知った声がかけられた。振り返ると紺が鞄を肩にかけながら半ば呆れたように、からかうような笑みを浮かべて立っていた。
格好悪いところを見られてしまったな、と一樹が自傷気味に笑うと、紺が自身の鞄を漁ってなにかを取り出した。
『……ほら、私の貸してやるよ』
『いや、でも先輩はどうするんですか』
『私は今から部活だし、置き傘もあるから』
それは彼女の折りたたみ傘のようで、さすがに借りるのは申し訳なかったが彼女は大丈夫だと手を振った。
一樹の腹を刺すように突き出されるその傘を、彼も思わず受け取ってしまった。
『ありがとうございます。じゃあ、今度先輩が傘忘れたときは俺の貸しますね』
『お前は雨の日に常に傘二本持ってくる気かよ』
快活に笑う一樹に、紺はバカだなと小さく微笑んだ。
『あ、そっすね。じゃあ、その時は……俺の傘入ります? なんて』
『……ま、大雨でどうにもならない時は、考えといてやるよ』
水の跳ねるアスファルトの地面に視線を泳がせながら、冗談めかしてそんな誘い文句を呟く一樹。
対する紺は恥ずかしげな彼の横顔を見て、少しニヒルな笑みを浮かべながらあっけらかんと答えた。幸い、そのほのかに紅潮した頬はそっぽを向いたままの彼には気づかれずに済んだようだ。
『あざっす。じゃあお疲れっした』
自分の言葉に気恥ずかしさが募ったのか、彼は紺を見ることなく軽く頭を下げてすかさず外へと駆けだしていく。
外に出て少し離れたところで、一樹は紺に借りた折りたたみ傘を開いた。その傘を見上げてくるりと回してから、校舎からこちらを見送る彼女へと振り向いた。
『いい傘っすね』
『普通の傘だよ』
『いえ、俺……
屈託無く微笑むその笑顔には深い意味など何も無いのだろうけど、思わず思考がぐるぐると巡ってしまって、鼓動が大きくなってしまった。
こちらに手を振ってから去って行く大きな背中を見送って、彼女は己の中の熱を冷ますように深呼吸をする。
『アホか……』
誰に言うでもなく、そう自身にツッコミを入れてくしゃりと髪を掴むように頭を掻いた。
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