赤い目が覗き返してくる (紅緋)
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赤い目が覗き返してくる
「おじさん! ここにも居たよ!!」
「おっ、どれどれ──おぉ、中々大きいじゃないか」
首都圏が炎暑で嘆く頃。
避暑地として秘かに知られている某県某市の郊外で、幼い少年と男性の声が蝉の鳴き声と共に山中に響く。
小学校低学年ぐらいの少年は半袖半ズボン、頭には麦わら帽子を被り、肩からプラスチックケースの虫かごをかけている。
虫かごの中にはカブトムシやクワガタムシが何匹か入っており、少年の成果を表していた。
手には今しがた新たに捕まえたカブトムシが摘ままれており、それを満面の笑みで男性に向ける。
『おじさん』と呼ばれたラフな格好の男性はそんな少年の成果への感心。
そして少年が見せる無邪気な笑みに頬を緩ませ、ポンポンと優しく頭を撫でる。
一見すれば親子のようにも見えるが、男性は少年の伯父。
少年の父、つまりは男性の弟が妻を伴って短期の海外出張へ赴くことになり、1週間だけ男性が少年を預かることになったのだ。
彼は弟とは歳が離れており、子供も既に社会人で1人立ちしている。
現在は長閑な田舎で農業を営みながらのんびりと過ごしており、甥っ子を預かることに何ら問題はない。
むしろ子供が1人立ちしてからは妻と共に一抹の寂しさを感じていたこともあり、幼い甥っ子の少年と遊ぶことは昔日の息子を想起させる。
少年の方も彼と会うことは初めてではなく、また都会では味わえない体験に心を弾ませていた。
「ここすごいねおじさん! 東京の方じゃこんなにカブトムシとかクワガタいないのに、この辺だといっぱい捕れるよ!」
「あっちだと緑──木とか森が少ないからね。こっちはそのままの自然が残っているから、虫がいっぱいいるんだよ」
「へぇー、そうなんだ!」
少年は自慢するようにカブトムシをおじさんに見せびらかした後、大事そうに虫かごへ。
おじさんの話を話半分に聞きながら、少年は次の獲物はどこかな、と喜色に満ちた笑みで周囲を見る。
視線の先には木々が深く生い茂り、夕暮れ時とはいえより暗くなっている場所を発見。
今度はあそこに行ってみよう、と少年は駆け出そうとし──
「はい、今日はもうおしまい」
「えぇー……」
──おじさんにやんわりと両肩を掴まれる。
少年は頬を膨らませてジっとおじさんを睨み付けるが、それに威圧感等は欠片もない。
精々が駄々をこねる年相応の反応というだけで、おじさんは苦笑しながらも少年の手を引く。
「もう夕方だし、この辺りは木が多いからすぐ暗くなるんだ。あんまり遅くなっちゃうと晩御飯にも遅れちゃうから今日はもう帰ろう」
「やぁだぁっ!! もっといっぱい捕るっ!!」
「今日捕っちゃったら、明日捕る分がいなくなるよ?」
「帰ろうおじさん!!」
「うん、素直でよろしい」
少年の答えに『単純だなぁ』と内心で笑いつつ、おじさんは改めて少年の手を取って踵を返す。
先ほどは少年を諭すように言ったが、おじさんとしては暗くなる前に
この山──そこの麓にある場所を通りたくなかったのだ。
より正しく言えば、
山の中に入るには、麓にある今は廃れている集合住宅の一角を通らなければならない。
だが現在はその集合住宅に居住者は皆無。
それも当然、誰も30年以上前に建てられ、付近に駅もバス停も店もない所に好き好んで住もうとは思わない。
いくら家賃が安かろうが、所詮はバブル期に建てられた驕りの1つ。
古ぼけた集合住宅は本来であれば取り壊されていてもおかしくはないのだが、悲しいかな管理する自治体には解体する資金すらないというのが
それ故、未だに解体されずにそのままの形で残ってしまっているのだ。
もっとも、それ以外の理由もあるのだが──
ちょうど少年とおじさんがその集合住宅を横切って歩いていた時。
少年は未だに見せびらかしたい欲が収まらないのか、おもむろに虫かごから1匹のカブトムシを取り出しておじさんに見せる。
「へへ、これ見てよおじさん! 今日捕ったヤツで一番大きいの!」
「こらこら、せっかく捕えたのをこんなところで出しちゃ逃げられちゃうぞ?」
「へーきへーき、ちゃんと持って──あぁっ!?」
「それみたことか」
言わんこっちゃない、と狭い虫かごの中から解放されたカブトムシは少年の手を離れて飛ぶ。
一目散に逃げたからか行先もままならぬままの飛翔であり、元いた山中──ではなく、とある集合住宅の一角。
外壁の塗装は剥げ、壁面には亀裂。
屋根は30余年にも及ぶ雨風で荒れ、窓ガラスにも汚れが目立つ。
カブトムシはその家に真っ直ぐ飛び、玄関脇の割れた窓から
「あぁっ!? 待ってぇ!」
それを見た少年はおじさんの手を振り払い、慌ててその家へと駆けようとし──
「やめなさいっ!!」
「ひっ……!?」
──おじさんの怒号で足が止まる。
恐る恐る、といった風に少年はゆっくりとおじさんへ顔を向けると、大声で強張った体がより固まってしまった。
おじさんの目は見開き、眉間には深い皺。
首から上は赤に染まり、体は武者震いのように震えている。
明らかに、怒りの様相であった。
「あっ、で、でも、カブト──」
「でもじゃないっ!! あんなところに入ったらもう取れないんだから諦めなさいっ!!」
「ひぅっ……!!」
先ほどまでの温厚な様子から一変、おじさんは怒声を響かせる。
未だ幼い少年にとってそれは恐怖でしかなく、じんわりと目尻に涙が浮かぶ。
最早逃げられたカブトムシのことなどすっかり頭から抜け落ち──
「ひ、ぐ……ごめ、ごめんなさい……!」
──ついには泣き出してしまう。
ズボンの裾を握り締め、ひっぐひっぐと泣く様は見るからに痛々しい。
一応、カブトムシが逃げられた原因は少年にあり、勝手に人の家に入ろうとした非も少年にある。
だが少年にとってはそんなことよりも、優しいおじさんがここまで怒っている姿を見るのは初めてで、何をどうしたら良いかわからない。
それ故、ただただ嗚咽を漏らしながら謝るしかできないのだ。
「……帰ろう、カブトムシは明日また捕れば良いんだから」
「ひっぐ、う、うん……」
少年のそんな姿を見ておじさんも頭に上っていた血が下がったのか、嘆息混じりに少年を諭す。
再び少年の手を取り、帰路へと向かうのだった──
帰宅後、泣き腫らした少年のことで彼は妻にドヤされるも、適当に突っ返して寝台へ。
度が過ぎた言い方をした自覚はあるが、それでも彼は自分に非はないと思っている。
(何だってあんなところに……)
それもそのハズ、カブトムシが逃げ込んだ家屋は
古ぼけた家屋、ひいては集合住宅の解体案自体は自治体でも何度か提案はあった。
実際に工事業者が下見を行ったり、重機などを入れたことはある。
が、作業が行われることはなかった。
ある時は作業員が熊に襲われた。
ある時は重機の下敷きなる事故が起きた。
ある時は現場監督が交通事故で帰らぬ人となった。
1度や2度であれば不幸が重なったと言えなくもないが、これが2度3度。
3度4度、と決して小さくない事故が積み重なり──その回数は
いくら何でも度が過ぎたものであり、何度業者を変えようが作業が始まる前に必定と呼べるほど事故が発生したのだ。
いつしか近隣の業者はもちろん、県外の業者にも集合住宅解体における事故の件は知れ渡り、どの業者も請け負わなくなってしまった。
そして1度でも現場に行った作業員、業者は皆口を揃えてこう言ったという。
『あそこは呪われている』
そのような経緯があったため、自治体としても無駄金を出してお祓いをする訳にもいかず、無駄に場所を持て余してしまっているのが現状。
幸いにも利便性が良い場所ではなく、あからさまに不人気な土地。
少子高齢化が加速する自治体にとっては二の次三の次の問題となっており、年に数回だけ職員が点検に来る程度の場所となってしまったのだ。
人の口に戸は立てられぬ、とでも言うようにこの話はゆっくりと、しかし確実に近隣住民に知れ渡った。
やれ土地神の祟りだ。
やれ妖や魔性の類だ。
やれ埋められた者の呪いだ。
など、いつの間にか噂話には尾ひれどころか背びれまで付いて1人歩きすることに。
今となっては集合住宅の一角には妖怪が潜んでいるなどと、根も葉もない話にまで発展したのだ。
当然、集合住宅からそう遠くない場所に住んでいる彼もその話は知っていたし、学生時代には仲間と馬鹿をやって肝試し的なことをしたこともある。
結局はその時は何もなかった──と、思っていた。
ある時、彼の友人の1人が宅内に包装菓子のゴミを投げ入れてゴミ箱代わりにし始めたのだ。
お前悪い奴だなぁと、仲間内でふざけ合っていた。
そこで『どうせ誰も居ねえよ』とゴミを投げ入れた当人が何の気もなしにドアスコープを覗き──その場で尻もちをつく。
何だ何だと当人に友人らが心配そうに問うと、彼は顔を青くし、カチカチと歯を鳴らし、震える指先でドアを指す。
『あっ、赤い目が……! 真っ赤な目が、こっちを
何を馬鹿な、と友人らは順々にドアスコープから中を覗く。
見えるのは古ぼけた内装と、
当人が言うような赤い目どころか、人の気配すら皆無だ。
何だよ驚かせやがって、と友人らは当人をからかって笑う。
当然、当時少年だった彼も友人らと同じように笑っていた。
次の日、当人が山中で死体となって発見されたと聞き、笑顔は消えた。
当然、彼は仲の良かった友人として両親や学校、警察に事情聴取を受ける。
話すことはゴミを投げ入れ、ドアスコープから中を覗いたら赤い目が覗き返したこと。
自分達もドアスコープから中を覗いたが、赤い目がなかったこと。
それらを話すと、大人達は皆一様に口を閉ざし、すぐに彼と友人らを帰した。
ただ一言──『2度とあの家には近づくな』と注意と共に。
それ以来、彼はその家に近づくことはなかった。
いや、近づきたくなかったと言う方が正しいだろう。
異常な事実は元より、友人の葬儀にも出ることは叶わなかった。
大人の都合とは聞いていたが、その時に身の毛がよだつことを聞いたからだ。
何でも、死体となった友人は
腕や足だけでなく頭蓋骨、肋骨、背骨、骨盤──ありとあらゆる全身の骨が木端の如く砕かれ、とても人の目に見せられる状況ではなかったらしい。
しかも、
そういったことの経験──否、体験したからこそ、彼はあの家に近づきたくはなかったのだ。
だが、当時と比べて自分は大人になっており、あの時と同じことさえしなければ大丈夫だという自負があったからこそ、甥っ子の少年を連れて近くを通るまではできるようになった。
もっとも、まさか少年が捕ったカブトムシが逃げ出し、さらにはその家に入ってしまうことは予想外ではあったが。
いくら昔日の出来事があったとは言え、甥っ子には少しキツい言い方をしたかもしれないと、彼はそこで少しばかり反省した。
ふと時計を見ると、時刻は既に23時を過ぎている。
この時間なら少年はもちろん、妻も寝静まっていることだろう。
『へへ、これ見てよおじさん! 今日捕ったヤツで一番大きいの!』
少年が見せた無垢な笑みを思い出し、彼は意を決したように息を吐くとベッドから降りる。
寝巻の上に適当な上着を羽織り、戸棚から懐中電灯を取り出す。
動きやすい運動靴を履き、やや足早に家を出る。
外灯すらほとんどない田舎町だ。
唯一の光源である懐中電灯だけが道を照らし、蟋蟀やら鈴虫の鳴き声が控え目に響く。
閑静、と言えば聞こえは良いかもしれないが、今の彼にとって無音であるよりかは幾分かマシだ。
ただ1人、この夜の帳の世界に取り残されているという訳ではないと実感できる。
そして目的地──集合住宅の一角に辿り着く。
カブトムシは元より、虫は光に集まる習性がある。
上手くいけば夕暮れ時に少年が誤って逃がしてしまったカブトムシを捕まえることができるかもしれないと、彼は淡い期待を抱いていた。
そんな期待とは違う意味で高鳴る鼓動を煩わしく思いつつ、彼は先ず家の周囲を懐中電灯片手にぐるっと回る。
昼間に見た時と同じ、古ぼけた家だ。何ら変わりはない。
ふぅ、と緊張している自分を落ち着かせようと、彼は小さく息を吐き、玄関脇へと行く。
玄関の割れたガラス戸には葉書半分ぐらいの隙間があり、少年の手を逃れたカブトムシはここから中に入っていった。
その付近を懐中電灯で照らすも、光の先には埃を被った玄関戸棚しか見えない。
もしや部屋の奥の方にまで行ってしまったのだろうか、と懐中電灯を傾けた時──
ガタン
──部屋の中で何かが聞こえた。
同時に彼は胃を何かに掴まれたような苦しさを覚え、目は大きく見開く。
先ほど以上に心の音が大きく鳴り、いつの間にか全力疾走した直後の息苦しささえ感じる。
恐る恐る、といったように懐中電灯の向きを何度も変えて中の様子を探るが、玄関戸棚以外に見えるものはない。
本来ならば一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
しかし、
嫌だ。
何でだ。
どうして。
頭では理解していても、体が言うことを聞かない。
手に持っていた懐中電灯は落ち葉のようにスルリと手から落ち、カツンとコンクリートの地面に当たって転がる。
持つ物を失くした手は自然とドアスコープのカバーへ伸び、まるでさも当然のようにそれを開く。
ドクドクと悪い意味で高鳴る心臓の音が煩わしいとさえ感じず、彼の顔はゆっくりとドアスコープに近づいてしまう。
まるで何かに誘わるように。
まるで仲間外れは許さいというように。
まるで昔日の忘れ物を取りに行くように。
ガチガチと歯は震え、年不相応に目尻には涙が浮かぶ。
顔を背けることができない。
瞼を下ろすことができない。
目を逸らすことができない。
全身は震え、背後から鋭利な刃物を突き立てられているかのような感覚。
嫌だ。何でだ。どうして。
言うことを聞かない体は彼の望まない体勢を取り、その双眸がドアスコープへと誘わる。
あの時見た光景が想起された。
古ぼけた集合住宅の内装。
埃を被った玄関戸棚。
蜘蛛の巣が貼ってある壁面。
灰被りのテーブルやイス等の家財。
あの時と同じ光景が彼の目に映る──そのハズだった。
映ったのは、''赤''。
視界一杯に広がる朱色。
緋色に映る横楕円の中に、紅色の正円。
赤い目が、彼を覗き返していた。
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