紅葉と魔笛 (明月卿)
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紅葉と魔笛

 暑さが去った後の穏やかな季節も終わりかけ、このように木々が赤や黄色に色づき始める頃、私は必ず思い出します。

 

 と、上品な身なりの老婦人は語りだした。

 

 あれは「終わらない夏」と呼ばれた15年間も、遂に終わろうとしていた時の事です。私は当時、芦ノ湖の北の今となっては「第3新東京市」の名前も空しいばかりの廃墟の地下に務めておりました。当時は雑務に追われ振り返る間もありませんでしたが、今となれば人類存続のために戦う子供たちに、僅かなりとも助力できたことを誇りと思っています。

 

 忘れもしないあの、永過ぎた夏の最後の抵抗か妙に蒸し暑かった夜のことです。私ども職員は自宅待機を命ぜられており、皆自宅の窓から息を呑みつつ月を眺めておりました。

 あの恐ろしさはなんと申し上げればよいのか。月が一瞬震えたかと思うと、左上の辺りから血を噴出したように赤く染まり始め、見る見るうちに一面が深紅に変じてしまいました。その数秒あと、まるで遠くで巨人が叫ぶような奇妙な轟音が一分ほども鳴り響いたでしょうか。やがて月の周辺に閃光が幾つも輝いたかと思うと再び静寂が戻り、後には真っ赤な月が残るばかりでした。

 あれは碇ゲンドウ司令官の命令一下、月まで遠征した子供たちがゼーレの量産機を一挙に撃滅する「静かの海直上会戦」の模様だったのです。

 

 子供たちが帰ってきたのはその三日後でしたが、その有様はとても凱旋とは言えないものでした。

 ユーロからはるばる援軍としてやってきてくれたラングレー大尉は、片目が利かなくなったとかで眼帯をつけておりました。本来の誇り高い態度からは朗らかさが失われて刺々しいばかりだったのが、いたわしく思われたものです。程なくしてドイツに戻ってしまわれました。

 司令官のご子息は、月でよほど辛いことがあったのでしょうか、もともと関係が良かったとはいいかねるお父上のもとには寄り付きもしなくなってしまっていました。母親代わりであった作戦部長ともろくに言葉を交わさずに、ここに来る前に預けられていたという司令官のお知り合いのもとに戻ってしまいました。

 そして最も痛ましかったのがレイです。永くはない、と前から聞かされてはおりました。司令官の毀れた夢を叶えてしまったツケ、と先輩は語っていましたが、暗示されるもののおぞましさに、私も細かくは聞いてはおりません。ただ、全身酷い病に蝕まれながら戦い続けていた、とだけ申しておきましょう。

 「マヤ、頼んだわよ」

 と一言冷たく言って、先輩は私にレイの世話を引き継ぎました。私は忘れません。そういっていた先輩の肩が、泣いているように震えていたのを。

 

 芦ノ湖畔で奇跡的に残った、古い別荘だったのでしょうか瀟洒な一軒家に移り、私はレイの看病を一月程続けました。

 セカンドインパクトで狂った世界の有様が調律された、とかで四季が戻っていました。その頃には私にも古い記憶で幽かに覚えていただけの紅葉が楽しめるようになっておりました。レイも、産まれて初めて見る赤や黄色の葉に、幼児のように目を丸くして驚いていました。

 「もっと寒くなると、空から氷のように冷たい雪が降ってくるのよ。町が白く染まって綺麗なの。レイにはきっと良く似合うわ」

 などと語りはしましたが、雪が降るまでにレイの身が持たないことは重々承知しておりました。

 往診にくる医師の苦い顔も見飽きた頃に、タンスを整理していると幾つもの手紙の束を見つけました。はい、子供たちの通信は検閲されていましたが、昔ながらのアナログな手紙に限っては、不思議と放任されていたのです。それらは全て司令官のご子息が、レイに当てて書いたものでした。

 もともと人形のように整っていた顔立ちがその頃はすっかり血の気も引いて、レイは早くも幽冥界に属してしまっているように思ったものです。それがそんな可愛いことをしていた、と自分でも嬉しくなってしまい、つい失礼にも手紙を呼んでしまいました。

 

 そして最後の一通に、雷に撃たれたように驚いてしまいました。

 

 二人の恋愛は心だけのものではなく、不潔に進んでいたのです。

 

 手紙は「僕はもう誰とも笑えない。お互い忘れてしまおう」と結ばれていました。私は手紙を全て焼き捨てました。これさえなければ、レイは純潔な少女としての生命を全うするのだと思い。私もおかしくなっていたのでしょう。

 

 その日、レイは枕もとの机に置かれていた封筒を指していいました。

 「伊吹2尉、この手紙を読んで聞かせてください。どういう手紙なのか、私にはよくわからないのです」

 私はレイを憎く思いました。見るまでもなく良く知った手紙です。こう書かれていました。

 

 『すまない、綾波。将来の夢なんか無かった筈の僕が、柄にもなく君と生きようという夢を持ってしまった。その夢を叶える力もない僕は、君から逃げるほか無かった。それでもこの思いだけは捨てられない。逃げずに、君のために生きていくと誓う。僕が幼い頃に父さんから習ったピアノを聞きたいと、言っていたね。これから毎日弾いて聞かせてあげるよ。まず明日の晩の六時、ゴルトベルクを弾くよ。下手だと笑ってしまうかな?君との結婚式では、上手く弾けるようになっていると思う』

 

 「ありがとう、伊吹2尉が書いてくれたんでしょう」

 

 私は恥ずかしさのあまり逃げ出したくなりました。レイの孤独を見かねて私はこんな手紙を書いて投函し、その日の夕方に壁際で下手なりに私物のキーボードを弾こうと思っていたのです。

 

 「いいの。心配しなくて」

 不思議なほどに落ち着いて、レイは崇高と言っていいほどに美しく微笑んでいました。

 「あの手紙は嘘。寂しくて、ずっと自分で書いて自分宛てに出していたの。ここに来てから、青春が大事だと分かった。本当は碇君に、しっかりと抱きしめてもらいたかった。あの時気持ち悪いと思わず、胸だけといわず私の体丸ごと碇君の好きにさせてあげれば良かった。あの暖かい手に、もっと触れたかった。伊吹2尉、私たち間違っていたのよ。死ぬなんて嫌。私の手が、胸が、髪が、腰が、可哀そう」

 

 私は、表情を変えないまま涙をこぼし続けるレイを、自分自身泣きながら抱きしめることしか出来ませんでした。

 その時、確かに聞こえたのです。幽かでしたが、優しいゴルトベルク変奏曲のアリアが。時計を見ると、確かに夕方の六時だったのです。私もレイも抱き合ったまま、紅葉の向こうから聞こえてくる不可思議なピアノに耳をすましていました。

 

 神様はきっといる、私は信じました。

 

 三日後、レイは息を引き取りました。

 

 私もその後人並みの結婚をして、潔癖でもいられず、あれこれと物欲も出てまいりました。今では、あれは碇司令の仕業ではなかったかと疑うこともあります。レイの見舞いに自らピアノを弾いて聞かせようとキーボードを持参して来ていたのが、ドアの外から私たちの話を立ち聞きしてレイを不憫に思い、厳格な司令としては一世一代の狂言をしたのではないか、と。

 私としてはあれは神様のお恵みと思っておきたいのですが、どうも年をとると考え方も不潔になり、困ったものでございます。

 



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