女帝の独占力 (明石しじま)
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#1

初めまして。
二次創作とか書くの初めてでドチャクソ緊張してますがお楽しみいただければ幸いです。

書いた目的?自給自足です



「トレーナー、なんだその顔は?わざわざこの私が自ら出向いてやったというのに。相変わらず汚い部屋だな。やはり私がいないと貴様は生きていけないのだ。…私も人のことは言えないがな」

 

 

 目にクマをつくり、土に汚れ、性格を表すかのようにまっすぐ切りそろえられていた髪はボサボサになっている。かつての栄光を知る人が見れば皆驚くようなその姿の中で、眼だけが爛々と瞬いている。

 

 

 堪えきれないといった様に靴を脱ぎ捨て抱きついてきたエアグルーヴを受け止めながら、どこで間違えてしまったのか、男は一人思案した。

 

 

 ───────────────────────────────────────────

 

 

「はぁ…午後はまずメジロドーベルのトレーニングに付き添って…一段落したら今度の会議の資料を完成させて…講義の資料も作っとかないとな。最近めっきり忙しくなってしまった」

 

 

 府中の夏が始まる。過ごしやすかった春も終わり、30℃を超す日も出始めた。外を見てみれば名物のけやきも夏の準備を迎えている。スポーツ関連職では最難関と呼ばれる華の中央トレセンに所属することになってから月日は流れ、今から3年前、ようやく新人を抜け出せたかというタイミングでエアグルーヴを担当することになった。

 

 

 にしてももうじき半年かぁ。

 

 

 半年前、俺たちのトレーニングの集大成、トゥインクルシリーズを見事勝ち抜き、中距離最強の名をほしいままにした。あれからエアグルーヴはサマードリームトロフィーに向けて練習を重ねつつ、ずっと続けていた後輩の指導や生徒会の仕事とこちらも多忙な日々を送っている。エアグルーヴの前も何人か担当はしていたがエアグルーヴの戦績は俺のトレーナー人生でも初の快挙だ。月刊ウマ娘の特集号では女帝を導いた「宰相」トレーナーなんて大仰な見出しがでかでかと書かれていた。

 

 

「女帝」だなんて、他人から言われたら気分を害しそうなものだが。それを受け入れて名乗るようになったあたり、あいつも自覚はあったのだろうな。それとも最初から織り込み済みか?自他共に厳しい顔を持ちながらウイニングライブでは心からの笑顔を振りまくその姿に内外問わずファンは多い。結果的にそのギャップがウケたというのもあるだろうな…。いや余計なことを考えるのは止めよう。アイドル的要素はあくまで副次的な、運営側の金策の事情によるものだ。それをショーとして成り立たせているのは彼女の走りだ。

「おい」

 

 

 あの気性難に最初はどうしたもんかと悩んだが、ある意味あの確立された自己は俺のやり方に合っていたかもしれないな。

 

 

 トレーナーとしてどうウマ娘に向き合うか、そのスタンスはかなり人によって差が出る。東条トレーナーの様に徹底管理を掲げるタイプもいるが、俺はどちらかというと沖野トレーナーに近いやり方だ。3年という月日は青春に費やすには長いが人生としては短い。他のトレーナー達の、指導に対する反発で揉めたり無理なトレーニングで潰れてしまった娘たちを見てるうちに、いつしか個々人のスタンスに合わせて管理をするようになっていった。

「おい、聞いているのか?」

 

 

 そもそもエアグルーヴを担当することになったのは、生徒会の仕事を無駄と言った先代トレーナーとの喧嘩別れだ。どう見ても過度な干渉を好むタイプでは無い。であれば、こちらからのアプローチは簡単だ。合理的なメニューさえ提示できればエアグルーヴは満足するのだから。先日はきちんとエビデンスがあることを示してやろうと参考文献としてトレーニングに関する最新の論文をつけてやった。全く、俺たちはなんて理想的なパートナーだろうか。ああでもいい加減シンボリルドルフの駄洒落に対してやる気を下げるクセは直して「おい!!」

 

 

「うぉお!!?」

 

 

 突然背後から大声がしたかと思うと、ツカツカとこちらに寄ってくるのはこの時間は坂路トレーニングをこなしている筈のエアグルーヴだった。

 

 

「この私を無視するとは偉くなったものだな?」

「す、すまない。だがなんでここに?今はまだトレーニングの時間だろう。何か用なのか?」

 

 

「用という程ではないがな、最近の貴様を見て言いたいことがある」

 

 

 なんだろうか。メニューはいつも通り完璧に近い仕上がりだし、休みも本人の希望で少なくはあるがしっかり与えている。蹄鉄は2週間前にメンテナンス済みだし連絡事項もきちんと今朝メールで伝えているし何も責められるいわれは

 

 

「貴様、最後に面と向かって話をしたのはいつだ?なぜ私の様子を見に来ない?」

 

 

 

 

 …2週間前きりですね、はい。

 




こんなのでいいのだろうか?

そこまで長くならないつもり


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#2

競馬未経験なので知識が無いのが痛いところです。



「まさか不義理を働こうというわけではあるまいな?トレーナーの仕事として、ウマ娘の監督責任が貴様にあることくらい分かっているだろうが」

 

 

 所変わってトレーナー室。トレーナーの義務だの契約違反だのをくどくどと説教されている。確かに俺が悪いところはあったかもしれんがそろそろ勘弁してくれません?年下の女子に正論で責められる様は客観的に見てもなかなか情けないんだが。

 

 

 その旨を極力丸く伝えてみても、貴様の感情など知るかとにべもなくあしらわれた。悲しい

 

 

「周りからの評判など関係ない。貴様が指導しているのは私だ、くだらないことに目をとられるな」

 

 いまさらそんなことを言わせるなとばかりに呆れた目線を向けてくる。

 

 

「とにかく、これからは毎日顔を出せ。こんな腑抜けた状態だと勝てるものも勝てん」

 

 

 そう結論付けて話が終わったかと思うととっとと部屋から追い出された。そこ俺の仕事部屋でもあるのになぁ。

 

 何はともあれ、予定していたメジロドーベルの付き添いにかなり遅れてしまっている。急いでグラウンドに向かわなければ。

 

 

 トレーナー室を出て、廊下を小走りで向かう。ちなみに学園内は静かに走るがルールであるが、これはトレーナーにも適応されてるのかは未だによく分かっていない。

 

 

 背中に汗をにじませながらようやくグラウンドにたどり着いた。目立つのが嫌いなメジロドーベルは恐らくサブグラウンドにいるはずだ。

 

 練習場を突っ切ると、コースの端でチームスピカの面々がツイスターゲームをしている。代々スピカに伝わる練習法らしいが流石にうちにはな……などと考えていると

 

 

「おやおや、今話題の宰相さんじゃないの」

 

 

 飴をくわえながら目の前の練習風景の元凶である沖野トレーナーがこちらに歩いてきた。

 

 

「こんにちは。最早あの光景名物になってますよね。最近よくやってません?」

 

 

「おう、今さりげなくゴルシに関節キメられてるあいつが明後日出走するんだよ」

 

 

 あれ最終調整でやるメニューなのかよ。てか止めろよ。

 

 

「雑誌読んだよ。メジロドーベルも今宝塚に向けて鍛えてんだろ?」

 

 

「去年は悔しい結果になりましたからね。ドーベルも先輩の仇を取るって燃えてますよ。一時期はチーム解散の危機だったのに、今じゃ信じられないくらい盛り返しましたよね」

 

 

「はっはっは。まぁそれほどでも……あるな。しかしお前さんまた難しい奴を拾い上げたよな。意思がハッキリしてるやつがいいのか?」

 

 

 曖昧に返事を返しつつ練習風景を見てる沖野トレーナーを見上げる。

 

 エアグルーヴは去年の宝塚でこの男率いるサイレンススズカに負けてしまっているのだ。沖野トレーナーは直感的な資質というか見抜く力に優れており、個性の強いスピカのメンバーたちに振り回されているようで最終的にはまとめ上げている。そもそも中央トレーナーは総じて優秀なのだが、彼は違うベクトルで才覚を持っている食えない人物である。

 

 

「お前さんも指導しに来たのか?」

 

 

「ええ、予定より遅れてしまってるんですが、メジロドーベルの練習の様子を見に来ました」

 

 

「そうか……トレーナーとしては珍しいよな、練習につきっきりにならないってのも」

 

 

「勿論しっかり見れればそれが理想なんですが。ウマ娘回りの管理やサポートも含めると結構色んなところ出向かないといけなかったりするんですよね」

 

 

 最も沖野トレーナーの様に更にウマ娘を増やしてチームを作ってしまえば話は変わる。

 サブトレーナー・臨床工学技士・ウマ娘専門医・管理栄養士などとサポートチームを作るためトレーナーはトレーニング一本に集中できるのだが、俺みたいに少人数を担当している場合は個人で話を通すしかないため雑用に時間を取られてしまうのだ。

 

 

「にしてもお前は色々抱えちまってるよ。そんなんで担当ウマ娘をちゃんと見れているのか?一見大丈夫そうに見えるやつがとんでもない爆弾抱えてたりするんだぞ」

 

 

 ううむ……言葉が重い。耳の痛い話だ。

 

 

「ええ、確かにすこし空回ってるのかもしれません。シーズンが一段落したら仕事配分も少し考えなおすことにします。ではここで失礼しますね」

 

 

「おう、じゃあな」

 

 

 

「……あいつ、一応思春期の娘相手にしてるの分かってんのか?俺の所のやつみたいにまっすぐな奴らとも限んねえんだぞ」

 

 

 

 

 沖野トレーナーと挨拶をして別れ、1本走り終えて息を切らしているドーベルのところに駆け寄る。

 

 

「おう、お疲れ様。ペース配分は問題ないか?」

 

 

「おつかれ、トレーナー。言われた通りそこに記録してあるよ。ほんの少しだけど縮まってる。順調」

 

 

「そうかそうか。今の時期に追い込みすぎても良くない。あと3本やったら流して終わりにしよう」

 

 

うん、練習の調子は良さそうだな。あとはさっきまで居なかったことを謝らなければ。

 

 

「あと、今日顔出せなくて申し訳ない。ちょっと野暮用があってな…次は気を付けるよ」

 

 

「別に……あんたが居ても居なくてもやることは変わらないし。でもそうね、予定が急に変わるのは困るかな」

 

 

「うむ、時間を守らないのは信頼を失う。気を付けてはいるんだが俺もまだまだ甘いな」

 

 

「ふふ、そういう変に意識高いところ、あんたらしいとは思うけどね。まあ失敗は誰にでもあるよ」

 

 

 メジロドーベルもエアグルーヴに負けず劣らずの尖り具合を見せたウマ娘だ。最もこちらは男性不信気味だったというのがでかいが。でも今では俺に対して比較的丸くなったというか、必要以上に歯向かったりぶつかってきたりすることが無くなってき

 

「でもさ」

「アタシ放っておいてグルーヴ先輩とお喋りしてるのはおかしいと思わない?」

 

 

 

 おっと、特大のものがぶつかってきたな?

 




UA,お気に入り登録,評価ありがとうございます…!
想定より多く反応を頂けたので早く更新が出来るようがんばります。

アプリでは今マンハッタンカフェとマチカネタンホイザを待ち望んでいるところです。課金も辞さない

10/19 誤字修正しました。


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#3 もう一人の気性難[前編]

お待たせいたしました。

今回は前半となりますので後半は早めに投稿できそうです。


 エアグルーヴを担当するようになって1年が経ち、クラシック期に入ったころのとある昼休み。半袖も長袖もいける一番ちょうどいい春があっという間に終わり出して、夏がやってくる気配を感じる頃だ。昼食を食べようと食堂に入り、いつもの食券販売機の行列に並んでいた。

 

 今日はA定食にしようか?それとも午後の会議で眠くならないようにうどんで済ませてしまおうか?などとあれこれ考えていると、ふと前に並んでいた人物が目に入った。

 その人物は肩を隠す程の長さのツヤがある黒髪で、夏が近づき半袖に衣替えしてある青色のセーラー服を着こなしスラっとした出で立ちをしている。頭を見てみれば比較的長めの耳がピンとたっている。

 

 

 ―え、何でウマ娘が並んでるの? 

 

 

 トレセン学園の食堂では、トレーナーら職員の場合は食券制となっていて普通に一品ごとにお金がかかる。一方でウマ娘は食べ放題となっており、直接希望のカウンターブースまで行って食べたいものを食堂のおばちゃんに注文すれば出てくる。そもそも注文のシステムが違うため、わざわざお金を払ってここに並ぶ必要は無い。

 

 

「あのー? そこの君?」

 服装からして明らかに生徒なので軽めの口調で話しかけた。見知らぬ人物(ウマ物?)に対するごく一般的な対応をしたつもりだ。だがそれに対して返ってきたのは

 

 

 

 

「……何? 急に話しかけてこないでよ」

 

 

 

 

 これがドーベルと初めて声を交わした時の台詞である。この時のことは何というかあまりにもあんまりすぎて未だに覚えている。いきなりの敵意。俺何かしたっけ? 

 

 

 不意打ちの拒絶の意志に思わずたじろいでしまったが教えてあげねばと再び声をかけた。

 

「えっあっごめん。あのね、この列は職員用で、生徒は直接あのカウンターに行けばいいんだよ」

 

 

 

 

「え? …………あっ」

 

 

 

 先ほどまでのクールな顔から一転、ぽかんとした表情をしている。さっきまでわずかに下がっていた眉がぐいと上がり周りをきょろきょろと見回す。

 

 そして確かに学生はこの列を素通りしていること、列の前後は人しか並んでいないことに気づくと、みるみる内に顔が真っ赤になり、涙目になっていった。

 

 

「~~~~~////っ!」

 

 

 声にならない音を発したかと思うとドタドタと列を抜けてカウンターに向かって立ち去って行った。

 

 一瞬の間に色々起きたことで少しの間事態が呑み込めなかったが、まぁ一件落着か、と思い直して前の列に意識を向けた。

 でも一言お礼くらい言えばいいのに、と独り言ちながら空いたスペースを埋める。少ししたら俺の順番になった。さすが食堂ともいうべきお手軽な金額を入れてA定食のボタンを押す。

 

 ―あの生徒が離れてからはすぐに順番が来たな。

 

 列自体はいつものように長かったがさっきはあと数人というところだった。結構な時間並んでいたんだろう。そこまで思い立った時ふと疑問に思った。

 

 

 ―彼女、制服からして高等部だよな? 高等部から入学した娘なのかな? 

 

 

 食事を終えて自室に戻った。さあ仕事の続きをしようとトレーナー室のパソコンを開くと、仕事用フォルダーに一件新しくメールが入っていた。

 中身を確認したところ、次の選抜レースの出走表であった。

 

 

 ーもうこの時期か。今年はどんな娘が出るのかな? 

 

 1番、クライジャスティス。2番、モードクラウン、3番、……と手元のデータベースと照らし合わせながら読み進めていくと途中で目が留まった。

 

 

 7番、メジロドーベル。

 

 

 

「……これあの時のウマ娘か。やっぱりデビューはまだだったんだな」

 

 一回パソコンをスリープさせて、エアグルーヴに会いに生徒会室に向かった。なにせ情報は少しでも多く取り入れたい。

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────────────

 

 

「なぁグルーヴ、メジロドーベルって娘は最近入ってきた娘か?」

 

「なんだ、急に。一言アポくらいとっておけたわけが。……私と同じ寮に入っている娘だな。いや、彼女は中等部から入学している」

 

 生徒会室には運よくエアグルーヴしかいなかった。エアグルーヴも突発的な訪問者に不満気な顔を浮かべながらも教えてくれた。

 トレセン学園では本格化の兆しが遅かったり、入学要件を中等部では満たせなかったりと、様々な事情で高等部から入ってくるものも多い。メジロドーベルもその類かと思ったがどうやら違うようだ。

 

「え? そうなのか? でもトレセン学園の施設に慣れてない感じだったぞ?」

 

「彼女の場合はちょっと事情がな……無闇に周りに話すなよ」

 

 そういってエアグルーヴは周りに人や生徒会メンバーもいないのを確認して再び話し始めた。

 

 

 

「彼女は1年間休んでたんだ」

「それまでは教官の指導を受けながらトレーナーを探していたんだが、どうもトレセン学園の環境が合わなかったようだ。詳しい事情は分からんがな」

「それで一回学園を離れたいとのことで家にいたんだが、高等部から復学してるのだ」

 

 

 義務教育の範疇であり、留年が存在しない中等部では、極論通わなくても自動的に進学できる。中央トレセン学園では中高一貫のように、特に本人の希望がない限りは入試もせずに自動的に高等部への進学となるのだ。教育施設の括りが高等専門学校になる高等部に上がると単位を満たさなければ留年もあるし、病気などのやむを得ない事情でないと休学へのハードルも高くなる。だからこのタイミングで復学したのだろう。しかし……

 

 

「しかし珍しいな。走るのが嫌になって自主退学ってのはいっぱいいるが、また戻ってきたのか」

 

 

 トレセン学園の目的は「走る」ことに尽きるため、基本的に学業で求められるハードルはそこまで高くない。成績不良の生徒へのサポートもしっかりしているため、学業が理由で留年というのは、実際はほぼない。素行不良などを除き、生徒が退学になって学園を離れるのはもう走れない、または走りたくないといった理由になる。前者ならまだしも、後者が理由の生徒はほとんど戻ってはこないのが実情だ。

 

 

「確かに珍しい。だが理由はどうあれ再び走りたいという生徒を見捨てたりはせん。私も時折話し相手になっている。やはり心配だからな」

 

「うむ、今後も寮の先輩として面倒見てやってくれ。普段の様子はどんな感じなんだ?」

 

「マックイーンやライアンなど、メジロ家の者といることが多いな。交流は狭めのようで、ほかの生徒と仲睦まじい様子はあまり見ないな」

 

「成程、ここのウマ娘達は物怖じしないタイプが多い印象だったが、まぁウマそれぞれだよな」

 

 

 ウマ娘含むアスリートというのは、運動によりテストステロンというホルモンの分泌量が増えることで、精神面の安定に働き前向きな思考になると言われている。それもあってかウマ娘は全体的に明るく気さくな性格の者が多い。最もサイレンススズカやライスシャワーなど、一人の世界に入りゾーンを作ることでコンディションを整えるタイプもいるがまぁそこは個性の範疇だ。

 

 

「グルーヴとはよくしゃべるのか?」

 

「ああ、私は比較的関わってるほうだろうな。普段は大人しいが口を開けば意外と話すぞ。あと、どうやら私はドーベルに超えるべき壁だとも思われているようだ」

 

 さらりとそう言葉を続けたグルーヴ。

 エアグルーヴは途中でトレーナーが変わるドタバタもあってジュニア期のレースの出走はあまり多くなかった。

 だがそれでも、後輩諸君にインパクトを残すことはできていたようだ。思わずニヤリとしてしまう。

 

 

「ほう、ついにそういう相手が現れ始めたか。トレーナーとしては鼻が高いよ」

 

「私はまだまだこれからが本番だ。下の世代に追い抜かれるつもりはない」

 

「分かっているさ。まだ注目され始めているに過ぎない。ここからもっとお前の強さを知らしめて行くぞ」

 

「当たり前だ」

 

 特に表情を変えることも無くエアグルーヴは見回りに向かった。

 

 

 ─次の選抜レースでどんな走りをするのだろうか、注目してみるか。

 

 それから日が経ち、選抜レース本番の日を迎えた。




UA、お気に入り、高評価本当にありがとうございます!



追記:誤字を修正、模擬レース→選抜レースと名称を修正しました。


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#4 もう一人の気性難[後編]

お陰様でUA1万達成&評価に色がつきました。重ね重ねありがとうございます!

特に評価バーは目標の一つだったので感無量です。


 暖かくも優しい春の太陽が芝を美しい新緑に染め上げていた。気を抜いた授業中の生徒達であればその頭の動きを鈍くさせてしまうだろうが、その効果は、今ここに立っている群衆にとってはまるで意味をなさない様だった。

 

 この日のスケジュールは選抜レース。特に年に4回ある中での初回に当たるレースである。トレセン学園に入ることが入学試験であればこの選抜レースは認定試験のようなものだ。これに受かることはシリーズのレースの出走権を得ることに繋がる、とても意味の大きいイベントである。

 特に春に開催されるこの時期にトレーナーがつくことは同世代と比べ大きなスタートダッシュにつながる。当然早い時期にトレーナーが着いた方が、指導に当たる時間も長くなり、肉体・戦略共により高い完成度に繋げることができるからである。

 

 

 こういった事情から、自然と参加するウマ娘達の熱気も一段と高くなる。そしてそれは数多く詰めかけているトレーナー側も同じことである。

 余程の大器晩成型かイレギュラーな存在でもない限り、この回が最も才能を持つウマ娘が多く眠っている。少しでも有望そうな娘が見つかり次第椅子取りゲーム式で刈り取られていく。トレーナー側は如何に周りよりも早く有望株を正確に見極め、ウマ娘側が納得できるほどの自分の有望さを示せるか、が勝負の肝になる。皆データベースが入った端末を片手に、各々が分析した内容を見てうんうんと唸り相性の良い娘を探している。

 

 

 他にも、次世代のライバルになりえる存在を見定めようということか、トレーニングを抜け出して観戦しているウマ娘も散見される。グラウンドからは離れて遠くの観客席を見てみれば次世代のスターを今のうちに見ようとする一般客の姿すらある。流石に選抜レースから追いかけようとする者はかなりのマニアであり、その数は少ないが。

 

 

 

 十人十色の思惑がひしめく中、ついに準備が整い、最初の出走者たちがスタートラインに並びだした。

 柵を超えればそこはまるで戦場かのような空気が漂い始める。今回の出走は12人。その内メジロドーベルは真ん中に位置している。どの娘も緊張した面持ちを浮かべ、数秒後を今か今かと待っている。

 

 

 

「スタート!!」

 

 

 

 ついに教官がフラッグを上げた。

 

 

 一斉に駆け出すウマ娘達。しかしいきなり驚かされることになる。

 メジロドーベルはなんとスタートから出遅れていたのだ。

 

 

「メジロドーベルは痛いミスをしましたな」

「どうしたんでしょうね。集中を切らすなんて」

 

 

 眉間にしわを寄せて必死に駆け出すもいまいち伸びきれていない。このハンデから勝ち切るのは難しいか。

 だが

 

 

 ―前半は最後尾だったのに、じわじわと順位を上げているな。

 

 

 他の人は見切りをつけて別の娘に目を向けているが、早計な気すらしてくる。

 

 

 言葉にしにくいが、レースには流れというものが確実にある。一回その流れから弾き出されたウマ娘は表情もどこか諦めの色を浮かべ、実際その後の挽回は難しくなるものだ。

 だがメジロドーベルは今も諦めていない。前をしっかりと見据えて、その原則を壊さんと必死に食らいついていた。

 

 

 ―もう少しちゃんと見てみるか

 

 

 レースはもうじき上がり三ハロンに入る段階に来た。

 複数のストップウォッチを使い周りが先頭の娘のタイムを計る中、メジロドーベルのタイムを計ってみる。

 

 

 結果的にはその後は、順位に特に大きい変動が無いまま先頭がゴールを切った。後続も次々となだれ込んでいく。

 

 

 メジロドーベルの結果は7着に終わった。マンガの様な大逆転劇、なんてことにはならなかったが、あの表情と追い上げを見ていた俺にはその着順からマイナスな印象を持つことはなかった。

 

 

 

────────────────────

 

 

「一着おめでとう! 君の脚に才能を感じたよ。是非俺に指導させてくれ!」「ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いいたします」

「順位は惜しかったですね。ですが逃げは私の得意分野です。課題も見えています。私に預けてみませんか?」「ホントですか!? そういってくれて嬉しいです! ご指導よろしくお願いします!」

 

 

 レースが終わると、わっとトレーナーが集まってあっという間に塊を作りだす。各トレーナーが有力そうな娘や自分の指導に適した娘に声をかけ、口説いていく。

 

 

 一方その中で、今回振るわなかった娘がひっそりとその集団から離れていく。メジロドーベルの動きは後者だった。

 

 

 選抜レースは敗者になる、つまりスカウトがかからなったとしても決して無意味ではない。新人である彼女たちにとって、緊張感あるレースを体験する初めての機会は大きな経験であり、それを走り切ることが本格化といわれる、未だ謎の多い現象の準備段階を満たすという説が有力である。

 

 

 ……とはいえ、そういった理屈がちゃんとあるから気にせず次をまた頑張ろう、と割り切れるものではないが。恐らく本人のストレスは相当なものだろう。

 

 

 スカウト合戦が落ち着くと、次のレースの娘たちがスタートラインに並び始める。他の有力株の娘を見たい気持ちもあったが、今のレースを分析したくなったため観戦を辞めて自室へ戻ることにした。

 

 

 学園内のレースの動画は選抜レース含めて全て記録として残り、編集が終わり次第トレーナー達に提供される。編集といっても選抜レースのような学内で完結するものの場合、出走表とタイムを載せる程度の簡易的なもので、更に慣れた専門の職員が手掛けているのでその反映は早い。

 

 

 しばらくトレーナー室で作業をしつつ待機していると早速反映された。いそいそとその記録を確認する。

 

 

「やはり、ロスの大きさの割にこのタイムは速いんじゃないか?」

 

 

 にしてもなんであんなに前半が遅かったのだろうか? 

 脚質が追い込み型であれば、他の脚質に比べればスタートの精度の優先度は下がるし、序盤は最後尾にいるものなので何ら不思議ではない。しかしこの場合、テンからなかにかけては中間~やや後ろの馬群をウロウロするというなんとも中途半端な動きだった。あれは先行もしくは差しをしたい動きだった。やはりあの位置は本来の適正ではないのだろう。

 

 

 では原因は何だ。何か違いは無いか。ケガは無さそう。バ場状態も良と出ている。突然のアクシデントの可能性は低い。やはり単に緊張してたのか? 周りと比べたらどうだ? 

 

 

 

 

 ……待てよ

 

「レース前、周りをうざがっているような気がする。……目線か」

 

 

 

 最初と最後の違いだ。走っている中で体力的にも追い込まれ、周りのことまであれこれ考えられなくなる最後と違い、最初はスタートの合図を目で追う必要がある。そのため必然的に目を開けて周りに意識を向けなければならない。

 

 

 以前エアグルーヴも言っていたではないか。『メジロの者達とばかりいることが多いな』と。更にあの後彼女の経歴を調べてみたら、トレセン学園に入る前はずっと女子校にいたことを知った。

 

 その時点で内向的であることや男性への苦手意識があることは予測できていたが、彼女は思った以上かもしれない。

 

 

 スタートの時の不安そうな顔や揺れ動く尾。これ自体は一々気にすることもない、レース直前ではよくある光景だ。特にデビュー前の自身のメンタルケアの勝手も分からない新人であれば。

 だが彼女の場合、その所作の理由が違った。大多数の娘の様に、いい結果を出せるかどうか、周りのトレーナーに注目されるかどうかの心配ではなかった。

 

 むしろ逆。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()がストレスだったのだ。

 

 

 トレーナーがつくのはほんの一握りであり、ついていないウマ娘というのは基本的に「飢えている」。トレーナー側もそれを分かっているからこそスカウトを躊躇わない。トレーナーと選手というものは本来対等であるべきであるし、実際対等である。もし有無を言わさず上からウマ娘に圧力をかけようとすれば、善性が強いと言われるウマ娘でさえ嫌悪感を示すだろう。最も、少なくとも中央に関してはそのような人材は理事長が絶対に入れないだろうが。

 

 

 しかし、このスカウトの瞬間だけはその原則は揺らいでしまう。

 人数比がトレーナーがとても小さくなっている現状として、この時間はこちら側が優位になってしまうしウマ娘側もまずついてもらいたいのでそれを良しとしている。そこの不文律というか、認識のすれ違いがメジロドーベルをいら立たせていたのだろう。

 もしかしたら1年間離れていたのもそれが関わっているのかも。

 

 そこまで整理したところで、一旦考えるのを止めて動くことにした。

 

 

 

 

「やあ、メジロドーベル。今日の選抜レースお疲れ様」

 

「っ……またあんた? 何? 慰めなんか要らないんだけど」

 

 

 選抜レースが振るわなかったウマ娘のその後の行動は大体決まっている。悔しさを趣味で発散させるか、自主練を入れて追い込むか。

 

 前者だったら日を改めるつもりでトレーニング施設を見回ってみたがどうやら彼女は後者だったようだ。

 

 こちらが声をかけると表情を締めてきた。

 

 

「練習終わったんだろ? 今、また走ってくれるか?」

「なんでよ」

 

 秒で反応してきた。まぁ意味が分からないだろうな。スカウトするつもりなら昼にやれば良かったのになぜ今更、とでも思ってるのだろう。

 

 

 言葉を変えて色々と説得してみるも今いち乗り気じゃないメジロドーベルをなだめすかし、なんとか重い腰を上げさせることに成功した。

 

 

 

 ゆっくりとグラウンドに向かいながら話題を投げた。

 

 

「実はエアグルーヴと話したんだ。寮で世話をしてくれてるんだろ? お前のこと、レースのことも色々気にかけてたよ」

「え、先輩が!? ……ふーんそうなんだ」

 

 

 こほんと咳をならしてすまし顔をする。顔に出さないようにしているが耳と尾は動きを見せている。成程、確かにエアグルーヴの言うように、交流自体を嫌うタイプというわけではなさそうだ。

 

「いい関係性築けてるんだな。エアグルーヴのことは好きか?」

「好きっていうとちょっとあれだけど……あんな凛々しいウマ娘がいるんだなって、驚いたんだ」

 

「でもクールなだけじゃなくてアタシみたいな後輩の面倒も見てくれるし。女帝だなんて言われるプレッシャーも物ともせずにレースでも勝ち切っている」

 

「テレビで先輩のレース見てたんだよ。また走ろうかなって思ったのも、今思えばそれが大きいかな」

 

 

「テレビというと……ジュべナイルか?」

 

 

 去年のエアグルーヴの一番の功績は12月のG1の一つである阪神ジュベナイルフィリーズだった。中距離が最適性である彼女にマイルを走らせたため正直少し不安もあったが見事勝利したのだ。

 悩みぬいて提示した目標であり、俺も思い入れ深い。思えばあそこでようやく俺を心からパートナーだと認めてくれた気がするな。

 

 

「そうそう、人気順も真ん中だったのにレースで大どんでん返ししてさ。見ててすごく熱が入ったよ。インタビューもかっこよかった。『この結果を、来年に向けての宣戦布告にしたいと思います』ってさ。でもウイニングライブでは一転して笑顔で踊ってて、あの日は眠れなかったな」

 

 会話に熱が入る。俺への嫌悪も忘れたのか、口角を上げながらいかにエアグルーヴが最高のアスリートであるか、長弁舌をふるった。

 

 

「いいね、俺もうれしくなるな。もっと教えてくれよ。他にはどんなところに憧れているんだ?」

 

 

「……自分への、自信」

 

 一転。あれだけ明るかった顔が暗くなり、足をとめてぽつりとつぶやいた。

 

 

「あんたに言ってもしょうがないんだけどさ。正直自分が嫌でさ。変えたくてあれこれ調べて。色々試してみても、結局元のどうしようもない自分のままでさ。だから余計に憧れちゃうんだ。いいなって」

 

 先程までの、流暢に先輩への憧れを語っていた姿から一変して、思いついたことをためらいがちに、吐き出すように、たどたどしく、弱音を吐いていった。

 

 

「ふむ、お前は最初からあいつがああだと思うのか? あいつだって最初は泣き虫で、脆いところがあったんだとしたらどうする?」

 

「え、ウソ。そうだったの?」

 驚いてこちらに顔を向けてきた。

 

 

 

「いや最初からだな。そもそも俺が担当してるの途中からだしその前は知らんけど」

 いって、足踏まれた。こいつ良いとこの出の癖に乱暴だな。

 折角こっちに向いたのにまたそっぽを向いてしまった。

 

 

「何なの」

 

 

「でも確かにお前とあいつは違うな」

 

 そう切り返すと、メジロドーベルはバツが悪そうに、悲しそうに、しゅんと顔を下げた。

 

 

「……言われなくても、嫌になるほど分かってる」

 

 ……あ、これ勘違いしてるな。まぁ俺の話の流れが悪いからなんだが。

 

 

「違うってのは自信があるかどうかじゃないぞ。あいつにはビジョンがあるんだ」

 

「……え?」

 

 

「俺が思うに自信なんて、さあつけようってつくもんじゃないよ。あいつには高い目標があって、それを叶えるために頑張ってたら自然と気骨がついてたんだと思うが……っと着いたな」

 

 思ったより会話が弾み、気が付けば目的の場所にたどり着いていた。

 

 

 

「カウンセリングはここまでにして、走ろうか、昼と同じコースで」

 

 

 

「選抜レースと同じ距離走るの? なんでそんなこと……」

 

「まぁまぁいいから」

 

 まだ目的が分からず、疑念を浮かべているメジロドーベルだったがここまできたら押せ押せで行くしかない。

 

「タイムは気にしなくていいから。もう一回見たいんだ、お前の走りを」

 

 それでも尚渋っていたが、ここでごねるよりさっさと終わらせたほうが得策と踏んだのか、諦めたように靴ひもを結び直し始めた。

 

「じゃあアンタがスタートの合図やってね……はぁ、まったく」

「おう、任せろ……ってああ!」

 

 

 ここがキモだ。メジロドーベルがスタート位置に着いたところで、一芝居打つことにした。

 

 

「え、なに?」

「すまん今急に爆裂に腹がいたくなってきた! やべえこのままじゃあ芝にたい肥与えてしまう! 一瞬トイレ行かせてくれ! スタートランプとタイマーはここに置いとくから!」

 

 

 そういって密かに用意しておいたカウントダウン付きの電子タイマーとスタートの合図を光で教えるランプをセットして慌ててその場から走り去る。

 

 

 

「ちょっ!? 汚いジョーク言い残して走り去るな! ってもういなくなったんだけど! 何なのもう!?」

 

 

 

 若干キレているが好都合。物陰に隠れて遠目からスタートの様子を観察した。起動した機械はそんなドタバタは意にも介さず合図を出し始める。慌てて彼女も姿勢を整えた。

 

 

 ピッ ピッ ピッ ピー! 

 カウントダウンが終わり、音と共にスタートランプが光る。

 

 

 周りに男はおろか人影すらほぼいない環境。そして振り回してくる俺という存在に気を取られている。

 今回の目的は一つ。真の実力を見定めること。その為に慣れないことをして、緊張の原因になりそうなものを極力取り除いてやった。

 

 

 

 

 さあどうだ。

 

 

 

 

 

 …走り出したそれは、内心の期待を大きく上回るものだった。

 

 

 文句なしのスタートダッシュ、打って変わって力強い蹴りで猛然と前へ駆け出すその姿。遠目から見ても思わず息を吞んでしまう。凛々しい。離れたことを後悔するくらいに。走り終えていたことに気が付かないくらいに。

 

 

 どうしようもなく見とれてしまっていた。こんなものを見せられたらやることは一つだ。

 

 

 

「はぁっ……はぁっ……って遅い! アタシもう走り終わっちゃったよ!」

 

 

「メジロドーベル!!」

 

 全速力でメジロドーベルの元へ駆け寄る。余計な言葉はいらない。どうせ彼女しかいないんだ。早速ぶつけてきた文句を聞き流して、俺は人目も気にせず思いっきり叫んだ。

 

 

 

 

 

 

「お前は変われる!!お前の“憧れ”、俺が叶えてやる!!!」

 

 

 

 

 

 そうして、俺にもう一人の担当ができた。

 

 

 

 

 

 

 

 ────────────────────―

 

「ってなことあったよなぁ。今でも思い出すよ」

「もう……恥ずかしいからあの時の話はしないでよ」

 

 

 困ったように笑いながらもドーベルは俺の腕をギシリと握りしめてこういった。

 

 

「でもそれと約束守らなかったことは関係ないよね? あの時はあんなに構ってきたのに、今度はまた見捨てるつもりなの??」

 

 あはは、思い出話で話を逸らす作戦は失敗かぁ。あと腕痛い。見捨てたことも無いんだが。

 

 

「見捨てたじゃん。あんだけのこと言っておいて、他のトレーナーへの移籍を進めたりなんかして」

 

「違う違う、あれから男性不信も解けた感じがしたし、一時期また暗くなってたじゃん。俺に嫌気さしたならいっそ変えたほうが良いかなって思っただけだ」

 

 

「はぁ? ……そういう風に捉えたのね。とにかく、もう二度とあんなこと言わないで」

 

 

 キッとこちらを睨んできて会話は終わった。あの出会いから大分時間も経ったが時々考えが分からなくなる。

 

 

 

 ―コミュニケーションって難しいな……

 

 

 結局いまいち機嫌を直せなかった。最早できることをやり尽くした俺は”理想”のパートナーへの道への遠さを嚙み締めつつ、ため息をついて去っていくメジロドーベルの背中を眺めるしかなかった。

 




最初の投稿時はまさかヤンデレへの布石のために過去編を書くとは思わなかった

タグの割にまだ病み描写が少ないのはいきなり病むより理由があるヤンデレのほうが味があるやん?と思うからです。じわじわとね、上げていきたい


追記:誤字報告を頂き修正しました。誤字多くて申し訳ない
あとマンハッタンカフェは天井で取りました。こんなに出ないものとは…


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#5 七転八倒入学式、上から見るか下から見るか[前編]

サブタイトル入れてみました&今回少しギャグ寄りにしてみました


「皆、おはよう。朝早くから集まってくれてありがとう。いよいよ一年の幕開けとなる入学式の準備に本格的に取り掛かる次第となった」

 

「今年も、生徒会だけでなく、職員の方々や一般生徒、学外の方まで大勢の人の協力を頂いている」

「我々生徒会は、全体の指示系統を司ることになっている。その責任は重いが気負うことはない。皆には期待している。共に立派な式を作り上げよう!」

 

「「「はい!!!」」」

 

 早朝、授業が始まる前に生徒会の面々が集まっていた。

 今回の集まりの目的は、一つ。来る入学式の最後の大詰めを前にして、生徒会長直々に檄を飛ばすことだった。会長の檄を聞いて気を引き締めた生徒会の者たちは、午後から一層働くことになる。

 

 

 

「業者から教科書届きました! とりあえず2Fの空き教室に運びます!」

「連絡入りました! 今年は○○商社さんからも花束を贈っていただけるとのことです!」

「おい! 教室の席割りが抜けているぞ!」

 

 

 あちらこちらから準備の声が止まらない。スケジュールは器材の搬入や仕入れなどの下準備をなんとか終えて、いよいよ本格的な設営が始まったところに入っているところだ。生徒たちは、この準備期間の間は座学を終えた後の時間を使って準備にあてることになる。

 エアグルーヴはこの春にクラシック期に入る。トレーニングもしたい所ではあるが、流石にそう時間は割けないと、この時期は皆筋肉が衰えない程度に抑えることになるのだ。

 

 

 

 ───────────────────

 

 ―思い返すと、自分が学生だった時も準備を手伝わされていたな。

 

 トレーナーは、自身が担当している、とある新入生用の資料を作成し終え、最終チェックをしているところだった。チェックをしながら自分の学生時代を少し振り返っていた。

 

 体育祭や式典、文化祭など一般の学校でも規模は違えど、こういったイベントは存在する。

 自分が学生の時は、式典なんて参加している身からしたら正直退屈この上なかった。新入生だった時はそりゃ緊張したしワクワクしたが、上級生になってみれば校長の話がいつも以上に長いとか、この後の勧誘で部活にどれくらい入れられるかとか、そんなことばかり考えていた。

 

 だが、こうして迎え入れる側の身になってみると、案外小さな非日常を感じ悪くないと思える。そりゃ教員側だって生徒の手前だらしないことは出来ないし背中が痛くなってしまうが、特にこのトレセン学園に来る新入生に妥協してここに来たものはいない。だからか皆嬉しそうに校門をくぐってくるので、こちらも嬉しくなる。

 

 

 最も、俺たちトレーナーにとっては式では無く、彼女たちの脚に目が行ってしまうが。

 

 

 現在新入生を判断する材料は入学試験でのタイムくらいなもので、余程の才能持ちでないとこの段階ではあまり差がない。

 通常の受験のように入学前から対策ができれば変わるだろうが、ことウマ娘のレースとなると事情は変わる。

 

 まず道交法の問題で、ウマ娘は公道を一定速度以上で走ることを禁じられている。ウマ娘専用レーンであれば一方通行でのみある程度力を入れて走れるがこのようなコースは全国にはまだ無い。よってまず自主練がやりにくい。

 

 では所謂私塾に当たるものはないのか? 結論から言うとそれも無い。トレセン学園のような規模の組織でないとまずコースの確保ができない。仮に確保できても管理コストが高い芝を用意するのが特に困難であり、地方トレセンですら、芝コースを揃えてない所がある状態だ。

 

 これらの理由で結局、個人での特訓などやりようがなく結局自分で基礎体力を鍛えるくらいしか入学前の差別化ができないのである。

 

 

 よってトレーナー達は職業病から入学式よりも選抜レースを早く見たい、と思ってしまうものだし以前の俺もそうだった。

 だから式典の準備も普段と違う仕事に四苦八苦しながらもさっさと自分の担当を終わらせること以上のことはしない。

 

 

 だが今年は少し目線が変わった。変わらざるを得なかった。

 

 

 ―エアグルーヴ、忙しそうだが大丈夫なのかな……

 

 

 そう、俺の今の担当が生徒会の、しかも副会長ときている。よって自然と式典の準備にも目を向けざるを得なくなった。

 エアグルーヴが学園の責務を果たしているのに準備も程々に呑気に新入生のデータを眺める、なんてわけにもいかない。

 

 少しでも負担を減らしてあげたい。だが力仕事でウマ娘に敵うわけもないし、会計に影響が出るような大きな仕事にこちらから今さら手を出すわけにもいかない。では何が出来るだろう。

 

 

 ―……雑用するしかねえ! 

 

 

 そう結論付けた俺は意気揚々と部屋を出て仕事を探しに行くことにした。

 

 

 

 ────────────────────

 

 てくてくと校内を歩いていると、ポスターを張り替えているマーベラスサンデーに出会った。マーベラスサンデーはこちらを見ると、ぱぁっと顔を明るくさせてあちらから話しかけてきた。

 

「マーベラース☆エアグルーヴさんのトレーナーさんだねっ! 元気よく歩いてるけど、どうしたの?」

 

「おう、マーベラス! 何か仕事を探してるんだが人手が足りなかったりしないか?」

 

 

「わぁお! その心意気、とってもマーベラスだねっ☆いいよいいよそういうの!」

「入学式は一生に一度の奇跡の出会い! スーパーでグレートでビューティフルなマーベラス☆! そのために会場を彩る皆の姿もまたキラキラなマーベラスなんだよね☆きっと当日も、いーっぱいのマーベラスが集まってくると思うんだ! これってもはや天の川だよね! 宇宙だよね!」

 

 相変わらず底抜けに意味が分からないマーベラスサンデーだが一緒にいるとこちらも明るくなってくる。そして自信たっぷりに話す不思議な話を聞いていると、本当に世界にはマーベラスが満ちているような気がしてきた。

 

 

「そんなトレーナーさんにははいっ! これで窓ふきをお願いしたいんだっ! トレーナーさん身長高いから、あたしとっても助かっちゃう!」

 

「窓ふき? 分かった、俺に任せてくれ!」

 

「ありがとう~~! あたしとってもマーベラスだよ★そしたら、あたし他の仕事やってくるね! あははっ! あははははっ☆!」

 

 マーベラスサンデーは嬉しそうに走り去っていった。何だか良く分からんがマーベラスだったなら何よりだ。よし、早速窓ふきを始めよう。

 

 

 

 脚立を使ってすいすいと窓を拭いていく。流石にそれでも高いところは拭けないと思ったら、貰った道具の中にハーネスや命綱まで入っていた。

 思っていた以上に本格的で少々面食らったが、同梱されていたマニュアルの取り付け方を見ながら取り付けたらうまく出来そうだ。これはこれでマーベラスなのだから問題はない。そのまま作業を続行する。

 

 しばらく作業をしていると、真下に生徒会の後輩を引き連れたエアグルーヴを見つけた。

 

 

「おーい、エアグルーヴ!」

 

「ん? トレーナーの声が……っておい!? 何故貴様そんなことをしてるんだ!」

 

「何故? 理由を聞くのは野暮だぞエアグルーヴ。これも全部より純度の高いマーベラス★を生むためだよ。式がマーベラスで満たされる為なら、こんな苦労などなんてことは

 

 

「目を覚ませ!!!!」

 

 

 

 言い終わる前に肩をがしっと掴まれてぐわんぐわんと激しく揺さぶられることになった。

 

 

 

「うう……はっ!? 俺は何を……?」

 

 

 シェイキングされた頭を押さえて苦しんでいると、やがて意識がはっきりし始めた。

 記憶はしっかりあるはずだが、どこか夢を見ていたような不思議な心地だ。

 

「はぁ……はぁ……どうせマーベラスサンデーの説法を聞いてしまったのだろう。目が座っていて正直恐ろしかったぞ。得体が知れない表情をしていた」

 

「そ、そうか……すまなかった」

 

「全く、貴様は影響されやすいのだからよくよく気をつけておけ」

 

 よほど焦らせてしまったらしい。申し訳ない気持ちがあるが、今のトレーナーにはそれよりも言いたいことがあった。

 

 

「エアグルーヴ。準備が忙しくなる前に一つ言わせてくれ」

 

「いいか、レースのためにも、無理はするなよ。困ったらすぐに俺に言え。いくらでも手伝ってやるし、何かあったらトレーナー権限でどうにかしてやる」

 

 

 トレーナーはとにかく念を押しておきたかった。エアグルーヴは他の娘と比べてもセルフコントロールが上手い印象がある。

 だが、本当に疲れているときというのは実は本人より周りの方が正確に見抜いたりすることがある。そもそも生徒会内で処理している細かい準備をずっと続けているのだ。普段よりも大分無理をしている様に見えて、心配で堪らない。

 

 

「トレーナーはそんなに万能な資格では無いだろうが……まぁその心配は受け取ってやる。だが会長の前で弱いところは見せられん。精一杯やってやるさ」

 

 だが、エアグルーヴはそう強がるだけだった。その後ろは何やらきゃあきゃあと盛り上がっていたが当の本人はあまり真剣には受け取っていないようだった。

 

 

「…………とにかく、疲れたらすぐに周りに言え、いいな?」

 

 

 そういって俺は作業を再開させた。気づけば沈みかけている夕日が目の前の窓に映っていた。

 

 

 

 ────────────────────────

 

「エアグルーヴ先輩! 今の先輩のトレーナーさんですよね!?」

 

「困ったらすぐに俺に言え、ですって! いいなぁ、あんな心配してくれるパートナーが居るなんて!」

 

「……ふん、あいつは最初からああだった。無駄にこちらに来てやたらと声をかけてくる。走りのことだけ見てればいいものを」

 

「またまたー、先輩そういって尻尾私たちに当たるほど揺れてるじゃないですか。まんざらでもないんでしょう?」

「……たわけ! いい加減無駄口叩いてないで、仕事を続けるぞ!!」

 

「はーい」「あーあ、怒らせちゃった」「あれ絶対てれかくし……ひゃあ! ごめんなさい!」

 

 

 

「やはり式典というのは年の節目を迎えるのには必要だな。最近では式次第も縮小する動きも多いと聞くが、勿体ないと思ってしまうよ」

 

 トレーナーとエアグルーヴが会話をした翌日。

 生徒会のメンバーは、昨日に引き続き書類の決算に追い込まれていた。

 

 その中でもシンボリルドルフは一際うず高く積まれた書類を。いつにも増して手際よく処理しながらも、この労働に既にどこか達成感を持ち始めてすらいる。

 

 

 トレセン学園の入学式は、一言でいうとその規模はデカい。

 まず学園そのものが歴史があることが一点、学園の特殊性により、式の様子が新聞の一面を飾るほど注目度が高いことが一点、中等部・高等部を一括でくくり一つの式にしていることが一点。

 以上の理由より式当日はマスコミも多く入る。数々の電報にはその歴史を物語るかのように各界隈の重鎮が名を連ねることになる。

 

「会長。私含めて周りはまだそんな感慨に浸る暇はとてもありませんよ……」

 

「こういうことは楽しんでしまうのが一番さ。座食逸飽というのも悪くはないがいずれ飽きる。今頑張って為したことが、後々大きなことに繋がっていくと考えたらレースとはまた違った喜びがあると思うがね」

 

「会長はやはり見えている世界が違いますね」

 

 エアグルーヴはそう苦笑しながら自分の仕事を進めていった。

 

 だが書類仕事に慣れているエアグルーヴでさえ、流石に眉間にしわが寄り始め疲労の色を隠せなくなってきた。昨日トレーナーに言われたことも少し引っかかっていたのか、少し作業の手を止めた。

 少し休もうにも自分より多く仕事をこなしている会長を見ると自分からは言い出しにくかったため、別の手段をとることにした。

 

 

「会長、一回グラスワンダーに会いに校庭に向かいます」

 

 

 グラスワンダーは美化委員であり、今回の入学式の入り口を飾る花々の管理を担当している。その花の中には自分が趣味で育てている花たちもある。作業が順調かどうかを確かめるついでにその様子を見て癒されようという作戦である。

 

「ん、どうした? 性急だな。出かける前にコーヒーでも飲んで一服したらどうだ? そんな立腹したような顔をしてはいけないよ」

 

 会長は流石の洞察力を生かし疲労を見抜いていたが、こう言ってしまっては引けない。

 

「お気遣いありがとうございます。ですがまだ仕事が残っていますので、いったん失礼します」

 

 エアグルーヴはそう言い残して退室した。

 

 

「…………今日は少し自信があったんだが」

 

 シンボリルドルフは、さり気なく混ぜた渾身のギャグに今日も笑ってくれなかったエアグルーヴの背を、少し折れた耳で見送っていた。部屋にいた生徒会員によると会長のその後の仕事は少しペースが落ちていたそうだ。

 

 

 普段は会長のギャグに気づいた後、すぐに反応できなかった自分を恥じてしまうところだが、今回は忙しさのあまり、後から駄洒落だと気づくことすらしなかった。

 だが逆に調子を崩さなかったお陰で、エアグルーヴはその足取りが変わることなく校庭にたどり着くことができた。

 

「あら、エアグルーヴさん。お疲れ様です」

 

「ああ。お疲れ様。進捗を聞きに来たんだが、うまく進んでいるか?」

 

「ええ、予定通り花壇から植え替えているところです」

 

「そうか、植物は場所を変えるだけでもストレスになる繊細な存在だ。せめて傷つけないようにしてやってくれ」

 

「ふふふ、エアグルーヴさんのその優しさ痛み入ります。このグラスワンダー、誠心誠意努めさせていただきますね」

 

 

 その頼もしい言葉の通り、皆一生懸命にかつ丁寧に花を植え替えている。そして花たちは今日も綺麗に咲き誇っている。これならば気持ちよく新入生を迎え入れられるだろう。

 だが少し、ほんの少しだけ気になるところがあった。

 

 

「心強いな。ありがとう。……今年はタンポポが随分少ないな」

「!?」

 

 

「特に育てているわけではないが例年はもう少しあったような気が

「エアグルーヴさん、生徒会の方々はご多忙と存じます。そんな方々にお時間をとらせるわけにはいきません。ここは私にお任せください」

 

 

「そ、そうか? もう少し見ていきたいと思って「ここは私にお任せください」……分かった」

 

 気になるといっても特に問題があるわけではない。ちょっとした雑談のつもりだったが、グラスワンダーの妙に強い圧に押しきられて、言われるがまま別の場所に移動した。

 

 

 ついでに他の場所も見回りしてしまおうと歩を進めていると

 

 

「おーエアグrrrrrrrrrrrr―ヴじゃん! もうじき侵入生がやってくんな! アタシワクワクすっぞ!」

 

「入学してくる者たちを侵入者扱いするな」

 

 無駄に巻き舌を取り入れながら、片手にマグロを抱えたゴールドシップが話しかけてきた。

 

「そのマグロはなんなんだ」

「アタシ大道具係だからさー。これならクギも打てるし腹減ったらそのまま食えるじゃん!」

 

 相変わらず会話が出来ている気がしない。まともに付き合ったら負けだと言わんばかりに目をそらし続けてもゴールドシップは気にせずに話しかけてくる。

 

 

「ん──? どしたん目を合わせないで。ゴルゴル星では目を合わせない奴は極刑で山に捨てられちゃうんだぞ?」

 

「そうか! お前はゴルゴル星の真向いのグルグル星の住人だったのか!」

 

 

「だれがグルグル星だ!!!」

 

 

 耐えきれなくなったエアグルーヴはゴールドシップを黙らせようと襲い掛かった。

 だがこういう時のゴールドシップは異様に速く、結局今回も結局捕えることができなかった。

 

 

 その後もエアグルーヴは、新入生向けに謎の薬を用意していたアグネスタキオンを捕まえたり、見栄えのいい作業風景を模索していたスマートファルコンとカレンチャンに真面目にやれと雷を落としたり宙に浮いた板を動かして作業していたマンハッタンカフェにかける言葉が見つからなかったりと、あちらこちらで体と口を動かしつつ奔走することになった。

 結局、生徒会室に戻るまでに想定よりも大幅に時間を使ってしまった。

 

 

 

「遅れてしまい申し訳ありません。会長。只今戻りました」

 

「お帰りエアグルーヴ。みんなの様子はどうだったかな?」

 

「……彼女たちの個性の強さを再認識できたような気がします。どっと疲れました……まだ書類を片づけていた方が疲れなかったかもしれません」

 

 エアグルーヴは心底参ったような顔でそう言い残し、作業に戻っていった。

 だがなんだかんだ言って多少はリフレッシュになったのか、その後のエアグルーヴの作業は周りより少し速かったという。

 

 

 

 その日の準備も無事に終え、エアグルーヴはクタクタになりながら帰り支度を整えた。今日のメニューのノルマは準備前に終わらせている。すぐに部屋に帰って寝てしまおうと学園内を歩いていると、大工作業をしているトレーナーに会った。

 

 

「エアグルーヴ、お疲れ様。今日も疲れた顔してるな……しっかり休めよ?」

 

 

 

 そう言ったトレーナーは右手に釘、左腕に一口かじられたマグロを抱えていた。

 

「うわああああぁぁぁぁぁああああ!!!」

 

 昼のゴールドシップを思い出し、今日最後の大声を出すとそのまま逃げるように寮に帰っていった。

 

 

「……ドップラー効果?」

 

 エアグルーヴの叫び声に対しそう冷静にコメントを残したトレーナーはそのまま自分の仕事を再開させた。

 

 どうやらトレーナーは、あの後ゴールドシップから「味に飽きたからやるわ」といってマグロを譲り受けたらしい。なおきちんと腐る前にトレーナーとオグリキャップが食べきったという。

 




UA,お気に入り、高評価ありがとうございます!

読んでみるとお分かりかもしれませんが、色々模索しております。
より皆さんが楽しんでいただけるものを書きたいので、良い点・改善点問わず感想欄にて指摘いただけたら嬉しいです!よろしくお願いします!


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#6 七転八倒入学式、上から見るか下から見るか[後編]

 あれから数日が経ち着々と新入生を迎え入れる準備が整ってきた。

 長いようで短かった準備期間を終えて、明日はいよいよ入学式本番。

 会場の設営もスケジュール通りにこなし新入生向けの資料も全て完成した。

 手伝いを任されていた者たちは続々と担当分を終わらせて一足先に解放感を味わっている。残る者たちもリハーサルや機器の調整など仕上げが中心で雰囲気は和やかだ。

 

 そしてやることが無くなればもう残るはトレーニングしかないとばかりに、早速練習を再開している者も出てきて式典に使わないエリアでは今までとは別の賑わいが生まれてきている。

 

 中にはこれまでの鬱憤を晴らすように無茶苦茶なペースで走り切り、トレーナーに怒られている者さえいる始末だ。

 

 そんな周りの様子を見て、焦りが全くないといえば嘘になるがここで焦ってはいけない。

 たった1日の差を過剰に恐れ、負荷をかけるのは新人がやりがちなミスだ。

 変にペースを崩さずに、ここはエアグルーヴの地力を信じるしかない。

 

 

「とはいえ……やっぱり休みが少なかったな。桜花賞が終わったら少し休ませよう」 

 

 改めてスケジュール帳を確認してみても、やはり過密すぎていた。

 手伝ったとはいえ所詮一人の人間ができる仕事量などたかが知れている。

 レース後をいつもより長めに休暇日に設定したので、これで友達と遊びにでも行ってくれればいいが。

 

 予定を調整したりトレーニング内容の見直しをしていると、数回ノックが響いた。ドアが開き、たづなさんが顔を出してくる。

 

「失礼します、トレーナーさん。少しお仕事をお願いしたいのですが」

 

「あ、はい。今行きます」

 

 

 一方の俺も今日もいくつか雑用を抱えている。たづなさんの用事を済ませたら向かってしまうとするか。

 

 ──────────

 

 

 

「エアグルーヴのトレーナー、今日も手伝っているのだね」

 

「そうですね」

 

 

 活き活きと動き回るその様子に思わず微笑を浮かべてしまう。最早名物となりつつある色んな所に出向いているトレーナーの様子を生徒会室から眺める。

 窓を見ると今はカワカミプリンセスと一緒に机を運んでいるようだ。

 最も、トレーナーが精々2個くらいしか運べていないのに対して、合計8個もの机を運んでいるカワカミの手伝いが果たして必要なのかという疑問はあれど、本人たちは楽しそうなのでまぁ良いのだろう。

 

 一方、近くに座っているエアグルーヴは、窓を一瞥したかと思えば再び顔をそっぽ向ける。

 その行動だけだと一見特に興味が無い相手にやるそれだが、彼女は眉間にしわが寄ったり元に戻ったりを繰り返しており、何かしら心が動いているようだった。

 しかも少しすると再び窓を見やっている。

 

 

「しかし君のトレーナーも体力があるな。午前もずっと働きづめだろうに、勤勉なのだな」

「そうなんですかね。むしろあれで気を紛らわしているように見えます」

 

 

 そんな様子に気にせずに少し彼を褒めてみると、エアグルーヴはそれは間違っているとばかりに自分の見解を伝えた。 

 

「あいつは大人しそうな見た目の割に、時々よく分からないことを突然やりだしますから。みっともないマネをやりださないか気が気でないです」 

 

 

 だがそう続ける様子はまるで、彼氏が自分の友達から褒められたときに『いや実は彼にもこういうところがあるんだよ』と周りが知らないちょっとした一面を話し出す彼女のように見えた。

 そんなシーンをこの前恋愛ドラマで見たのだ。

 そのことを思い出して適当なことを言ってみた。

 

 

 

「もしかして、妬いていたりするか? 他の娘にばっか構っているトレーナーに」

 

 

 

「……会長までそんなことを言わないでください。トレセン学園の生徒として、レースに出るための契約という、一つの過程を踏んだ結果に過ぎません」

 

 おお、思ったより硬い反応が返ってきた。やはり堅物だなエアグルーヴは。

 

「あはは、そう怒るな。最初は『貴様になど、練習メニューを作る以上の役割は求めておらん』などと言っていたのに、少しは受け入れているようで安心したよ」

 

「か、からかわないでください」

 

 

「だが、彼と組んで半年経ったがどうだ、パートナーとは良いものだろう?一人で黙々とこなすより、よっぽど成長できるはずだ」

 

 

 私もトレーナーが着くまでは長かったので、つい実感をこめて言ってしまう。

 正しく”理想”を求めて出来るだけのことをした。

 怒ったような顔をしないこと。

 困っている者を見捨てないこと。

 レースでは絶対強者であり続けること。

 名乗るのも躊躇う二つ名を掲げ、ウマ娘の幸福のためにあらゆる努力をしていたが、錫杖に成らんとするトレーナーは中々現れなかったのだ。

 

 トレーナーは選抜レースの戦績だけで決まるものではない。何か運命的な巡り合わせが必要なのだと、今になって思う。

 

 

 そして無事その運命に出会えた我々は、一体どれだけ幸福なのだろう。

 

 

 そんな思いもこめた私の言葉を、重苦しい顔を受け止めたエアグルーヴは、

 

「……ええ、そうですね。彼のお陰で勝てたのは事実です。誰かがいてくれるというのは案外悪くないかもしれません」

 

 少し素直な感情を浮かべて、そう応えた。

 

 

 

 だがああ言ってもまだちらっちらっと視線を外に向けている。

 もう直接提案するかと、ため息をこぼしながら再び話しかけた。

 

「そんなに気になるのならここに呼べばいいじゃないか。後輩たちが噂していたよ。彼もエアグルーヴを心配していたのだろう?」

「いやでも……我々の仕事は勝手が分かっていないと手伝うのも難しいですし……」

 

 ……何をそんなにもじもじしているんだらしくもない。

 

「だから学んでもらえばいいじゃないか。あれだけやる気があるみたいだし、我々が教えつつできることからやってもらえばいい。たった一日だけだが、君のことももう少し理解してくれるのではないか?」

 

「……そうですね、無駄に心配そうな顔を向けられるのもうんざりしてきたところです。確かに、いっそ手伝わせた方があいつも満足するかもしれませんね」

 

 やっと納得したのか、自分に言い聞かせるようにそう言うと手元の固定電話をいじり始めた。

 

 

 

 ──────────

 

 

 机を運び終えた俺は、「ありがとうございましたですわー!!」と、ヴォンヴォンと腕を振って空気を切り裂いているカワカミプリンセスと別れて再び雑用を行っていた。

 結局今日までエアグルーヴに頼られることは無かったが、今回の期間を通して色んなウマ娘やトレーナーとも交流ができたような気がする。

 

 

 これで事前に頼まれていた仕事は終えた。

 色んなところに出向くという雑用ならではの利点のおかげで、今ではどこで何の作業をやっているのか何となく分かるようになってきた。

 次はどこに向かおうか、と自動販売機の前で休んでいると、ポケットの中のスマホが震えだした。

 

 着信を見ると生徒会室からのようだ。通話をオンにして耳元にあてる。

 

「はい、もしもし」 

『おい、トレーナー』

 

 いきなり不躾な声が聞こえてきた。どうやらエアグルーヴのようだ。

 

「どうした?」

 

  

 

『……えっと……その……だな……』

 

 

 

 え、なにもじもじしてんの? 

 

 しばらく言葉を選んでいるような声を聞いていると、突然打って変わってハッキリした声が耳に入ってきた。

 

『やあ、エアグルーヴのトレーナー君。突然すまないね』

「あ、会長さん、どうもどうも、何かありましたか?」

 

 今度はシンボリルドルフの声だ。まぁ生徒会室だし二人ともいるよね。

 

 

『いやね、どうやらこの副会長は君を手元に置いておきたいらしくてね、ただ一緒に居るのも気恥ずかしいからついでに生徒会の仕事を君に教えてあげたいそう

 

 

 ここで先程よりひと際大きいノイズが走り、びっくりして耳を離してしまった。

 

 

『はぁはぁ……すまん、会長が変なことを言った。貴様がいろんなところをフラフラしているから他の生徒に迷惑をかけていないか気に障って仕方ない。そんなに働きたいのであればこちらの仕事を教えてやってもやぶさかではないというだけだ』

 

 

 エアグルーヴがやたら焦った声でまくしたててきた。早口すぎて細かいところはよく聞き取れなかったが、要するに仕事を教えてくれるそうだ。

 

「手伝わせてくれるのか! 是非お願いしたい」

「今から生徒会室へ向かえばいいんだな? すぐ行くよ」

 

 普通に他の生徒みたいに気軽に仕事を投げてくれれば良かったのだが、思ったより本格的に手伝うみたいだ。

 思っていた形とは少し違うが、まぁいい。

 意気揚々と電話を切って立ち上がった。

 

 あ、でもその前に何か差し入れでも買っときたい。先に購買部へ寄るとするか。

 

 

 

 ────────────

 

「会長、なんてことを言うのですか!」

 

 電話を切るなり、エアグルーヴが顔を真っ赤にして反論してきた。

 彼女は普段私の言葉にこうも強く言葉をぶつけることなどそうない。

 この反応がなんだか新鮮で、微笑ましくすら思う。

 

 

「違うのかい?」

「違います! あの言い方では私があいつの傍に居たいかのようじゃないですか!」

 

「ふふ、すまない。つい後輩の手助けをしてやりたくてな」

「君も言っていたじゃないか。彼は君の負担を減らしてやりたいんだろう? そんなことしなくても既に満足だというメッセージも伝えてあげればいいじゃないか」

 

 

「満足などしておりません。私もあいつも、学園にいる間は今に甘んじるつもりはありません。常に上を目指して貰わねば困ります」

 

「ほう、”共に”目指すつもりでいる程には認めているということだな」

 

「……揚げ足取りは止めてください。少なくとも契約している間は中途半端な足取りでは意味がないではありませんか。それは会長も同じの筈です」

 

「……あぁ、そうだな。その通りだ。つい興が乗ってしまってな」

 

 私が何か言う度にエアグルーヴが困った顔が珍しくてついつい面白がってしまったが、レースにあたる我々の姿勢にまで脱線してしまった。

 そろそろこの話はやめにするか。

 

 

「まぁ感謝が気恥ずかしいのなら、例えば次の桜花賞への決意とかでもいい。なにか自分の意志を改めて伝えてみることを勧めるよ。普段の日々の中では言いにくいだろう?」

「……善処します」

 

 

 それから暫くするとドアを叩く音が響き、彼女のトレーナーが入室してきた。

 さて、エアグルーヴはどんな言葉をかけるのか、仕事をしながら見守らせてもらうとするか。

 

 

 

 

 

「これを、左端の番号に沿って順番を直してもらいたい。それと一緒にこの記入例と間違っていないかも確かめてくれ」

「分かった。このファイルに入れて、最後に理事長室に持っていくんだよな」

「ああ、その通りだ。これが終わったら次はエクセルを使った仕事を教えたい。飲み込みが早くてありがたいよ。まさしく挙一反三といったところだな」

「……」

 

 

 

 あれから約1時間後。

 今彼の横に椅子を置き、作業の流れを説明しているのは彼の担当たる女帝では無く皇帝の方だった。

 

 

 

 ―ちょっと待ってほしい。なぜ私が教えることになっているんだ。

 

 

 

 いや違うんだ。

 最初は私も、エアグルーヴに任せようとしたのだ。

 というか話の流れ的に言うまでもなくそうするのが当たり前だ。

 自分で言っておいて彼女のお株を奪うわけないだろうサイコパスか私は。

 

 

 だが任せてからのエアグルーヴが問題だったのだ。

 異様に空回っていた。それはもう空回っていた。

 そこまで重要度の高いことは割り振っていないにも関わらず、このままでは支障をきたすだろう、交代する方がましだと判断せざるを得ないほどに酷かった。

 

 

 

『早速だが、書き仕事は手に負担がくる。このペンを使え』

『……これ筆ペンじゃない?』『あっ』

 

 

『…………そこにこれを押せ。他の書類が混ざっていたら弾け』

『そこって? ……ああここか。……ちなみに他の書類ってどう判断するんだ』

『見ればわかるだろうたわけ』『ええ……』

 

 

『たわけ! その書類とそれとでは担当が違うではないか! 混ぜるな!』

『え? 担当の話とか初耳なんだが……』

 

 

『エ、エアグルーヴ。この書類の数字は右詰めにしなきゃいけないんじゃないか?』

『……その通りだ。訂正印はどこだったか……』

 

 

 横目で見てても見ていられない程に波長が合っていなくて流石にトレーナーが可哀そうになる。

 挙句の果てには社会人経験があるトレーナーに逆にミスを指摘される始末だ。

 一応フォローしておくと彼女は普段こんな教え下手ではない。

 何をどこまで伝えれば相手が理解できるかをちゃんと把握した上で仕事を割り振れるハズなのだ。

 

 結局私に交代した後もエアグルーヴはそわそわとこちらの様子を気にしていた。何なのだ。

 長らく彼女といるが今が一番よく分からんぞ。

 

 

 

 だが何だかんだと作業を続けていたらようやく切りのいいところまで終わった。

 一旦休もうと私が告げるとエアグルーヴも立ち上がり、花を摘みに行くと言い残して退室した。

 

 結局仕事を教えながらこなすのに手一杯で日頃の感謝とかそういうのを伝える空気でも無くなってしまったな。

 戻ってきた後も今日の様子ではもう厳しいだろう。

 今日は意外な一面がよく見れる日だ。

 ナリタブライアンとかが見たらいつもの仏頂面で一週間は冷やかすに違いない。

 

 しかしなんでこんなに余裕がなくなっているのだろう。

 だがそういえば、所謂渉外にあたる仕事は私やその担当の生徒会員がやっていてエアグルーヴが大人と関わることはそう多くなかったな。

 これからはそういう仕事も経験として任せてみてもいいかもしれない。

 

 

「今日のエアグルーヴ、調子悪そうだ」

 

 そんなことを思っているとトレーナーが気の抜けた顔でそう呟いていた。

 いや調子が悪いの一言では済まないぞ。初めて見たぞこんないっぱいいっぱいになってるの。

 

 訂正しようか悩んでいると、こちらに向き直って何やら紙袋を差し出してきた。

 

「あ、そうだ。差し入れ買ってきたんです。生徒会のみんなで食べてください」

 

 どうやらトレーナーは律儀にもお土産を持ってきてくれたらしい。

 来客じゃないんだからそう気を使わなくていいのだがな。

 

「これは態々すまないね。ありがたく頂こう」

「そうだ、どうせだからお茶にしてしまおうか」

 

「あ、手伝いますよ」

 

「いや、久々にこういうのもやってみたくなってね。是非座っててくれ」

 

 私はそう言って人数分のお茶を用意しつつ雑談を挟めた。

 

 

「先程の電話は失礼した。冗談めいた言い方をしてしまったが、エアグルーヴが働いてばっかの君を心配していたのは本当だ。彼女がここまで不器用な一面があるとは思わなかったが……」

「そうだったんですね。でも働いてばかりなのはあなた達の方だと思いますよ」

 

 

「……さっきから気になっていたのだが、私に対して敬語は要らないよ。私も一生徒でしかない」

 

 立場上、敬語を使われることも多いが流石にこの状況で、しかもトレーナーから言われると落ち着かない。

 その旨を伝えるとトレーナーは気まずそうに笑う。

 

 

「……そうか、ああいやすまない。シンボリルドルフはなにせスターのような存在だし、エアグルーヴが世話になっているものだから、ついね」

 

「ありがとう。だけどアスリートとして、エアグルーヴが世話になっているのはこちらこそだ。……というのもなんだか変な言い方になってしまうな、お互い親でも無いのに」

「あはは、正しくその通りだ」

 

 

「俺は今日で仕事は終わりだが、君たちは明日も人前に出たりするんだろう? 頑張ってくれ。職員席から見てるよ」

「ああ、ありがとう。万全の状態で挑むよ。今日でリラックスして臨むことの大事さがよく分かったしな」

 

 そうしてトレーナーと談笑を交わしつお茶の用意ができた。

 こうして面と向かってしっかり話すのは初めてだが、少し彼の誠実な人となりが分かったような気がする。

 さあ、エアグルーヴが帰ってきたら休憩して、それから最後の大詰めをしよう。

 そして明日を迎えるとしよう。

 

 

 

「ちなみに中身は何だろうか」

 

「あ、東京ばな奈です」「……Ne〇Daysにでも行ってきたのか?」

 

 

 

 ……一つ訂正。彼のセンスはよく分からなかった。

 

 

 

 

 ──────────

 

 春の朝はまだ寒く、曇りがかった朝だ。年度の始まりを飾るには少し寂しい天気だが雨が降らなかっただけまだマシだろう。

 昔に比べれば友達の結婚式などで着る機会が増えたとはいえ、中々礼服というものは慣れない。

 特にトレーナーの服装なんて普段はそこまでカッチリとしておらず、学外の人間と関わる日でなければワイシャツの上にブルゾンを羽織る程度なのだ。

 

 この日の予定は午前に式典を行い、午後に後片付けをして終わり次第レースに向けてのトレーニングを本格的に再開させるという流れだった。

 自分たち職員は体育館の左端、来賓席の後ろに位置している場所だった。

 

 

「いくつになっても、お偉いさんの話は眠たくなっちゃいますね」

「あはは、分かります」

 

 小声で隣席の同僚と軽い雑談をしつつ式が始まるのを待つ。

 

 

 

 しかし開始時間になっても始まらず、5分経過してもそのままだった。

 時々行われる全校朝会等ならともかく、厳正に行うはずの入学式で遅れてしまうなどそうない。

 何やらトラブルが起きていたようだとこの時は漠然とそう思うだけだった。

 

 

 この時はまだ、()()なるなんてことになるとは思うはずもなかったのだ。

 

 

 周囲の生徒たちもかすかにざわつきはじめる。

 職員席の方では、流石に私語を挟んだりはしないもののステージの方を心配そうに見る姿が目立ち始めた。

 

 

 

『現在機器トラブルのため、開始が少々遅れております。大変申し訳ありませんが、少々お待ちください』

 

 

 

 司会係の生徒がアナウンスを入れたことで、私語は一旦落ち着きを見せるが大丈夫だろうか。

 なんだろう、さっきから何か嫌な予感がする。

 

 だめだ。居ても立っても居られない。

 俺が行ったところで何にもならないだろうが、こっそりと抜け出すことにした。

 

 

 

 外は相変わらず曇り空。

 朝新入生たちが通ってきた中庭には色とりどりの草花が咲いているが、どうにも今は見る気にならない。

 トイレの振りをして会場の外に出て、そのまま体育館をぐるりと回る。

 何事もなく、裏口にあるドアまでたどり着く。

 

 くそ、なんなんださっきから。無性にドアを開けたくない。

 この胸騒ぎは気圧のせいか。そうであってほしい。

 だがここまできたらもう進むしかない。

 勢いよくドアを開け、裏手に入り込んだ。

 

 

「関係者だ。一体どうしたんだ?」

「あ、エアグルーヴさんの……ちょうどよかった! エアグルーヴさんが!」

 

 

 慌てて駆け寄ってきたのは幼い顔立ちの生徒。

 腕に運営係と書かれた腕章がある。どうやら生徒会員の一人のようだ。

 

 その生徒の後ろに小さな人だかりができている。

 その集団にじっと目をこらす。誰かの周りを生徒たちが囲っているようだ。

 

 垂れた長めのウマ耳。

 普段は真っ直ぐ整えられた、汗に濡れた黒髪。

 その間から見える赤いアイシャドウ。

 

 その中心がだれかが分かった。分かってしまった。

 

 

 

「エッ…エアグルーヴ!?」

 

 

 

 

 その輪の中にいたのは椅子に倒れこみ顔を真っ白にさせたエアグルーヴだった。




アプリにメジロドーベルがやってきましたねうれしいうれしい

ところでこの小説にもドーベルは出てきているんですが、参考資料代としてガチャを経費で落とせませんか?ああ無理ですか

……170連かかりました!(血涙)


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#7 華氏104度の末に

タマモクロス実装記念!(本小説に出てくる予定はありません)


「朝から顔色が悪くて……最初は緊張からかと思ったんですが、さっき倒れこんじゃったんです」

「すみません、こんな状態で式典を始めていいのか分からなくなっちゃって……」

「おい! 大丈夫か!?」

 

 人だかりの中を割って入り、エアグルーヴの状態を確かめる。

 近くに駆け寄り、肩を叩いて意識を確認してみる。

 手足は冷たいが額に手を当てるとかなり熱い。相当な高熱のようだ。

 

 エアグルーヴも気づいたのか、こちらを見てくる。

 だが目を開けるのも辛そうなその姿から、普段の様子をよく知っている分痛々しさすら感じてきた。

 

「ハァッ……ハァッ……と、トレー、ナー?」

「喋らなくていい! 大丈夫だから、そのまま座ってるんだ!」

 

 

「立てない程だ。明らかに重症だな。何はともあれ急いで保健室だ」

 

 一先ず様子は分かったため、彼女から一旦離れて、生徒会員とどうするかを決めることにした。

 とはいってもあの状態だ。エアグルーヴの対処については他の選択肢は無いだろう。

 だが保健室に行こうにも、式の進行に必要な人員を無闇に割くべきではないし感染症であれば広げてしまう恐れもある。

 

 ということで、保健室に緊急連絡を入れて専用のスタッフに運んでもらうことにした。

 その話を聞いていた生徒会員が、こちらが頼む前に連絡を繋いでくれた。

 他の生徒たちもシンボリルドルフやナリタブライアンに一連の事態を報告してくれている。

 

「連絡とりました! すぐに来てくれるそうです」

 

「分かった。ありがとう。そしたら一旦ここは一区切りでいいだろう。差し支えないようなら、式典を始めてくれ」

 頷いた一人が司会係に合図を送り、直ぐにアナウンスが流れだした。

 

 

『大変お待たせ致しました。これより、第○○回日本ウマ娘トレーニングセンター学園の入学式を執り行います』

 

 

「……ふぅ、取りあえず始められそうで良かった」

 

 あれから、アナウンスが流れて少ししたところで保健室のスタッフ達がやってきた。

 俺が容体を報告しているのを聞きながら、テキパキとエアグルーヴを車椅子に乗せていた。

 そして、あっという間に保健室へ立ち去って行った。

 

 その背中を見届けると、俺含めて周囲も僅かにホッとした空気になった。

 だが、そんな中でも何人かが、未だにどうするべきか分からないといった顔をしていた。

 それを俺が見つけると、その内の一人がおずおずとこちらに声をかけてきた。

 

「あの、トレーナーさん。実は一つ問題があって……」

 

「当分は大丈夫なんですが、途中で副会長に祝辞を貰う場面があるんです。欠席するしかないんでしょうか……」

 

 確かにプログラムの後半に、生徒代表から祝辞の言葉を贈る段取りがあった。

 普通は生徒会長だけだったりするものだが、ここでは生徒会長と2人の副会長が祝辞を贈ると知り、初めは驚いた記憶がある。

 

「ナリタブライアンがエアグルーヴの分も読み上げるのはどうだ? 台本を借りてさ」

「いえ、エアグルーヴ副会長はスピーチをする時は全て頭に叩き込むんです」

「紙を見ながら喋るのはいただけないと当日には台本も捨ててしまうんです。なので内容は副会長にしか分かりません」

 

「……そしたらもう、仕方ないんじゃないか? 体調不良だと言って、ナリタブライアンの分だけ祝辞を送るしか」

 

 驚いた。エアグルーヴはそこまで厳粛にしていたのか。

 しかし、今回は理由が理由だ。こうなってしまってはもうパスするしかないのではないか。

 

 体調不良を今更責めてどうにかなるものではない。

 シンボリルドルフもトラブルが起きたことを残念がりこそすれ、怒るとは思えない。

 

 だがその彼女たちは皆顔が一様に暗くなってしまっている。

 気の弱そうなあの娘に至っては少し泣きそうになっている。

 

「そんなにやらなければいけないのか? それとも何か別の理由があるのか?」 

 俺は、彼女たちに問いかけた。

 

 

 

 

 あれから少しした後、俺は保健室に向かっていた。

 

 式典をやっている体育館を出て本館の中に入る。

 入口を抜けて突き進んでいくと、すぐの廊下の端にその目的地があった。

 

 一見学園とは思えない無機質なドアを開けた先、そこにはまた違う様相が広がっていた。

 

 

「……相変わらず薬品臭いですね。タキオンのラボとはまた違う臭いだ」

「ああトレーナーさん、どうも。その辺はさっさと順応してくださいな。あ、その辺心電図モニターがあるので気をつけて」

 

 この『保健室』

 その内部は、名前に似合わない設備を備えていることで業界内では有名な施設だ。

 近くの病院と連携して専属の医師と看護師が歩いている。

 壁際には頑丈なセキュリティを有した薬品棚が立ち並び、中には市販されていない医療用医薬品が取り揃えられている。

 また部屋の端には点滴台までその出番を待っている。

 

 今俺がいるのは入り口のすぐ近く。

 そこに並んでいるベッドは軽症の娘たちが一時的に休むエリアになっていて、いくつかのベッドは今も埋まっている。

 

 そもそも、ウマ娘という生き物は体調不良になりにくいというのが一般常識だ。

 何せ運動不足という概念とは全く縁が無い上に、毒物耐性も持っているほど体が頑丈なのだ。

 

 それに加え、ここ一番でレースに出れなかった原因を学園内が作るわけにもいかない。ということで、保健制度もかなりキッチリしている。

 生徒たちは、義務化された幾つもの予防接種を打たなければ出走は認められないし(ちなみにこの下りを講義で話した時、トウカイテイオーは本当に苦々しい顔をしていた)、温度や湿度のバランスも常に保たれていて俺たち職員もその過ごしやすさにかなり恩恵を受けている。

 

 だが、病気というのはそこまでしても防ぎきれないものだ。

 もし体調不良になればすぐさま寮長に報告して、部屋を移すなり保健室に行くなりの判断を仰ぐことになる。

 

 寮等の規則は比較的緩いといわれているトレセン学園だが、こと体調不良に関しては厳しい。

 まぁ相部屋の相手及びそのトレーナーにまで迷惑がかかるので致し方ないが。

 

 この万全の体制の中での治療が必要と判断されたウマ娘は、病気が治るまではレース及び練習への参加が一切禁じられる。

 部屋の行き来も保健室と近くの売店を除き原則不可という徹底っぷりだ。

 

「エアグルーヴの診断を聞きに来ました。彼女は何処にいますか?」

「そこの部屋です」

 

 奥のエリアへ移動するとそこは先程までの大部屋ではなく個室の作りになったベッドが置かれている。

 どうやらエアグルーヴはここに運ばれたようだ。

 

 

「あ、そうそう。釈迦に説法でしょうが蹴られないよう気をつけなさいな。ここで傷害なんて笑えないですよ。お互いにとってね」

 

 

 ウマ娘というのは、病気に対して頑丈な分軽視してしまう傾向にある。

 そのため大体の娘が放っておいたら練習をしたがる。

 そこをうまく抑えるのはトレーナーの大事な業務であり、危険な業務でもある、と研修で教わった。

 

 頑丈であるのに病気になるということは、逆に言えばそれほど重症であるということ。

 そうなったウマ娘は熱で冷静さを失う傾向にあるからだ。

 レースでは頭に血が上っている状態を『掛かり気味』と呼ぶが、それに近い状態になる。

 そんな状態のウマ娘に練習の機会を奪うことをこちらが説明しなければいけないので危険なのだ、と。

 理屈では知っていた。

 

 そう、理屈では知っていたのだ。

 だがその本当の意味、危険性は今目の前の姿を見て初めて理解したような気がした。

 

 

「ああああああ!! 離せ!! 私はレースに出られる! こんなことで疎かに出来るか!」

 

 

 ドタンバタンとベッドから抜け出そうと暴れていた。

 ウマ娘の看護師が懸命に押さえつける。

 その様子があまりにもショックが大きく、思わず言葉を失ってしまう。

 だがそれを見ていたこの医師は見慣れた様子で、特に気にも留めず俺に説明を始めた。

 

 結論から言うと、 診断はインフルエンザによる熱発。

 熱こそ高いが 保健室でしばらく休めば問題はないし後遺症の心配もない。

 

 エアグルーヴを運び、診断がついた際、同じことを説明していたそうだ。

 そこまではエアグルーヴも冷静に聞いていた。

 その後医師にこう尋ねたそうだ。

 

 実は、私が次に出る桜花賞が一週間を切っている。

 それについてはどうなるのか、と。

 それに対し医師はこう返した。

 

「インフルエンザは解熱後も2日は出席停止扱いです。レース前の調整もあるのでしょう。私の立場から言わせると出走するのは現実的じゃないですな」

 

 それから様子が一変し、今に至るのだという。

 

「エアグルーヴ。そんな状態じゃあ無理だ。第一今練習したら他の人達に感染してしまうだろ」

「うるさい! 他の者から離れて練習すればいいだけだろう! 私は出れるぞ! こんな終わりは認めん!!」

 

「そもそも出席停止だと言っているだろ。規律を破ろうとするなんてらしくないじゃないか」

 

 ……ダメだ。まったく聞く耳を持たない。

 というか本当に耳に入っていないような気がする。

 大体そんな状態で無理に練習をしたら治りが遅くなるのは素人でも分かるじゃないか。

 絶不調ともいえるこの状態で勝てるほど甘くない。ましてやG1なんて。

 気持ちは痛いほど分かる。でも。

 

 ー頼むから分かってくれ。俺だって悔しいんだよ。

 

 

 ここで、覚悟を決めた。

 

 次の言葉で彼女の夢の一つにトドメをさす。

 

「先生、例の鎮静薬お願いします」

「……致し方無いですな」

 

 医者にお願いし、今にも暴れださんとするエアグルーヴに鎮静薬を打ってもらった。

 するとみるみるうちに動きが鈍くなっていき、やがて眠りに入った。

 

 この鎮静薬はウマ娘による暴行を想定して作られた特性の医薬品であり、気分安定剤の他に麻酔にも使われる筋弛緩剤も含まれている。

 アグネスタキオンも協力の元作られたその薬は、打つことで一時的に人間でもコントロールできるようになるほど弱体化するのだ。

 

 この鎮静剤の()()は、URAの規定に定められた指定禁止薬物の成分があえて含まれている。

 

 これを打つと一定期間、レースに出走不可になる。

 つまり()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、ウマ娘にとって究極の劇物だ。

 最も悪用されたらシャレにならない薬のため、開発にかかわったタキオンを除けば理事会と年数を重ねたトレーナー達しかこの存在を知らないのだが。

 

「……そういえば貴方は驚かないんですな」

「ええまぁ。正直倒れたのを見た時、こうなる気はしていました」

 

「先生、すみません。私はまた体育館に戻りますので、何かあれば連絡ください」

 医師にそう言い残して再びとんぼ返りをする。

 

 ……さて、スピーチだ。こちらの覚悟も決めないとな

 

 

 

 ──────────────

 

 

()()()()は早かった。気づけば式は結びに入り、その幕を閉じていた。

 自分の役目が終わって席に戻ってからずっとその頭は働いていなかった。

 何せ同僚たちも席を立ち、周りががらんとしてから終わったことにようやく気付いたのだから。

 

 ゆっくりと立ち上がり体育館を出ると、新入生たちがあちらこちらで歓談にふけっている。

 またトレセン学園の空気が少し新しくなっていくこの光景は悪いものではない。

 

「ドーベル! やっと来てくれたね、本当に待ってたよ!」「うん、ごめんね心配かけて」

 

 中高入り乱れた新入生たちが俺の横を駆け抜けていった。

 寮生になる者たちは今日から入寮になる。

 お互いの挨拶を済ませた殆どの生徒たちが寮の入口へなだれ込む。

 恐らく各々の部屋へ荷物を下ろして、その後歓迎会でも開かれるのだろう。

 

 いつもであれば今後のスカウトに備え、新入生に顔を売っておこうかというちょっとした下心が顔を出していたかもしれないが、今は気にしていられなかった。

 時折、何やらマスコミもやってきて式典のコメントを求められたが答える気にもならない。

 

 改めてエアグルーヴに会いに保健室に戻ってきた。

 彼女の病室に入ろうとすると中からシンボリルドルフの声が聞こえてきた。

 

「エアグルーヴ。お見舞いに来たよ」

「会長……申し訳ありません。このようなことになってしまい」

 

「桜花賞は残念だったな。だが君の今までの頑張りは私含めてよく見ていた。この結果を笑う者などいないよ」

「生徒会のことも心配するな。普段君が目を配らしているお陰で幾分か余裕はある。私とナリタブライアンで充分回せるさ」

 

 

 

 何だか聞き耳を立てているようで居たたまれなくなった俺は再び保健室を出ることにした。

 一階のメインフロアに置かれたテラス席に順番待ちをするように座り込んで休憩をとった。

 

 

 どれほど時間が経っていたのか。

 気配を感じふと横を見るとシンボリルドルフが立っていた。

 いつの間にかお見舞いから戻ってきていたようだ。

 

「すまない、待っていたんだね。私は今話し終えたところだ」

「ああ、そのようだな。わざわざありがとう」

 

 少し沈黙が続くと、そっとシンボリルドルフが向かいの席に腰かけた。

 俺も何となく動く気になれず、近くの自販機に2本分のお金を投入した。

 

「何にする?」「……微糖を頂けるだろうか」

 

「どうぞ」「ありがとう」

 

 缶を受け取ったシンボリルドルフがニコリと笑い、缶コーヒーを開ける。

 普段はブラックを好む彼女も今は糖分が欲しかったようだ。

 顔に僅かに疲れを浮かべつつも、それを隠さんとばかりに何時ものように足を組み、堂々とした佇まいのまま缶を傾けた。

 

 お互いに何も言葉を交わさない。

 たった190mLの缶コーヒーすらなぜかなかなか減らない。

 

 季節の変わり目は風邪もひきやすくなるなんて小学生でも知っている。

 なのにも関わらず体調を崩させてしまった後悔。

 

 桜花賞を回避した選択は間違っていない、絶対に。

 だがこの体たらくが、俺の自信を大きく失墜させた。

 全く、物事がうまくいかなくて嫌になる。

 

「「はぁ」」

 

 まるでミラーリングを狙ったように同じタイミングでため息が漏れた。

 

 ああ、彼女も自分を責めているのか。

 顔を見合わせた二人が、擦れた笑みをこぼしていた。

 

 

 

 

 休憩を終えてシンボリルドルフとあのまま別れた俺は、今度こそ保健室に入った。

 病院と呼ぶには明るい、だがどこか灰色がかったような空間が朝とはまた違う空気感を作り出している。

 時間も時間なのでスタッフもほとんどいないようだ。

 リノリウムの床が奏でる擦れるような靴音がいやに響いている。

 

 朝の記憶を思い返して病室までたどり着いた。

 エアグルーヴはベッドで横になっていた。

 

 シンボリルドルフ以外にも生徒たちがお見舞いに来たのか、多くのお菓子やスポーツドリンクが横の机に並べられていた。

 いくつか手をつけたような跡があるものの陳列されているかのように整然と置かれている。

 熱を出してもその几帳面さは変わらないようだ。

 

 タオルを借りて顔の周りだけ拭いてやった。

 しばらく拭いていると、無言でこちらを見てたことに気が付いた。

「……余計なお世話だった?」

「……構わん。そのまま拭いてくれるか」

 

「体調はどうだ」

「ふん、たかだか半日でそう変わるわけあるか」

 

「会長はともかく……貴様が来たらうつるだろう……来なくていい」

「そんな寂しいこと言うなよ。お前のことが心配なんだ」

「それに俺のことは気にするな。俺は多くても一年に一回しか風邪を引かないからな」

 

「ふふ、なんだそれは。……記憶も虚ろだが、迷惑をかけたみたいだな。済まない」

「気にするな。理由が理由だ。荒れたくもなるさ」

 

「……やっぱりダメそうか?」

「……そうだな。今の体調で告げるのも残酷だが」

 

「ハッキリ言う。この状況では桜花賞は無理だ。オークスすら日に余裕は無いんだ。今は体調を整えることを優先しよう」

 

「……ああ」

「何も文句無いのか? 唐突な話だ、言いたいこともあるんじゃないのか?」

 

 

「……貴様に文句を言ったら、レースに出れるようになるのか?」

 

 

 それだけ言うとまた黙り込んでしまった。

 あたかも冷静に物事を見て正論を言っているように映るかもしれない。

 だが吐き捨てるようなその言い方は、悪い言い方をすれば拗ねてる子供のようにすら見える。

 しかし責めるつもりなんてない。

 

 今まで練習をしている中で散々聞いていた目標。

 母に次ぐオークスの二大制覇。そしてトリプルティアラ。

 その夢の片方がこんな形で終わってしまった失意は、きっと俺が思うより根が深いのだろう。

 

 

 男は長丁場になるかもしれないからと、荷物を端に置いて机に軽くもたれかけて別の話題を切り出した。

 

「俺さ、さっき、入学式に出てきたよ。もう終わっちゃったけど」

「分かっている。さっき会長もここに来たからな」

 

「運営側に立ってみるのも悪くないな、いつもより感動があったような気がするよ。貴重な体験だった」

「今までただ見てるだけだったからな。あんな大勢を上から見下ろすことなんてそうない」

 

 そうか、と相槌が返ってきた。

 それで終わりかと思ったら、少ししたらむくりとこちらに向き直ってきた。

 目に驚きを浮かべながら。

 

「……()()()だと? 貴様もステージに立ったのか?」

 

「ああ、俺もまさかこうなるとは思わなかったよ」

 内心ニヤリとしながら、経緯を説明するためにエアグルーヴが運ばれたときに言われたことを話した。

 

 

 ──────

 

 

「エアグルーヴ副会長、言っていたんです」

 

「『今年は私も本格的にレースに参加する立場になった』

『今までと違い、レースに出ることについても彼女たちにメッセージを残せるだろう、楽しみだ』って」

 

「トレーナーさんが無理だと判断されたなら諦めます。ですが、もしできるのであれば」

 

「副会長が伝えたかった事を、代わりに話してほしいんです」

 

「ペアを組んでからたった半年とは思えないくらい息が合っていたように見えました。トレーナーさんならもしかしたら、副会長の言いたかったことが分かってるんじゃないかって」

 

 ──────

 

 

 改めてみても荒唐無稽な提案だ。

 きっとあの生徒会員もダメもとで言ってみたのだとは思う。

 台本を覚えこむほどに準備を徹底していたエアグルーヴの無念を思うあまり言い出したのだろう。

 

「勿論本当はエアグルーヴが何を伝えたかったか、なんて分からない」

「でもまぁ、短いなりに苦難も喜びも分かち合ってきたつもりだからさ。俺なりに解釈して皆に伝えたつもりだよ」

 

「……そうだったのか、中々大それたことをしたものだな。そう簡単に出来ることではあるまいに」

 

「頼りないとばかり思っていた……がちょっとは訂正する必要があるみたいだな。感謝する」

 

 柔らかい笑顔をこちらに向けてきてくれた。

 横になりながらも目をつむりつつ、礼をするように前に軽くずらしてきた。

 

 

 それからは、少し重荷が取れたかのように彼女からもぽつりぽつりと会話が続いていた。

 保健室にちゃんと入ったのは初めてだとか、後で生徒会の皆にも改めて謝らなければなとかどこか固い話題ではあったが。

 

 だがそんなたわいもない話をしていても、やはりあの話題は彼女からしたら避けて通れなかったらしい。

 エアグルーヴが神妙な顔つきになったかと思うと、意を決したように切り出した。

 

 

「逃してしまったな……トリプルティアラ」

 

「……笑うか? JFの会見であんな大口を叩いた癖に、出走すら出来なかった私を」

 

「笑うわけない」

 

 先程のシンボリルドルフの受け売りみたいになってしまったが。不甲斐ないなんて言うわけがない。

 

『この結果を、来年に向けての宣戦布告にしたいと思います』

 

 俺もあの言葉に奮い立たされた一人なのだから。

 

「俺の方こそすまなかった。もう少し負担を減らすべきだった」

「……いや、仮にそう言われてたとしても、きっとはねつけていた。私をナメるな。これぐらい何の事は無いってな。情けないな……」

 

 ごろんと弱弱しく頭を壁側に向けてしまった。 

 

 珍しく自罰的なことを言う彼女の頭をそっと頭をなでて慰めの言葉をかけた。

 

「気にするな、他のウマ娘たちを見てみろ。こう言ってはなんだが、目標ってのは叶わないことの方が多いんだ」

 

 生徒の数だけ夢や目標を持っている。

 それがトゥインクルシリーズの狭い狭い舞台の中でひしめき合っているのだ。

 トレーナーが付き、メイクデビュー戦又は未勝利戦に勝ちオープン戦に勝ちG3に勝ち……上に行くにつれて少なくなっていく椅子取りゲームを僅か3年間の中で行う。

 そんな状況でみんなが夢が叶って幸せ、なんてことは起こるはずがない。

 

 考えたくはないが今回エアグルーヴが出走回避をしたことで、口にこそ出さないがほっとした者もいるだろう。

 何せ事前の人気投票は堂々の一位だったのだから。

 

 

「会長も、ブライアンも。今では連勝を重ねているな。見てて私すら誇らしい気持ちになる」

「だが一方で私はなんだ? こんないきなり、出鼻をくじかれたような結果になってしまった」

 

「……身近にいると意識してしまうよな。その気持ちはよく分かるよ」

 

 難関といわれるトレーナー試験を通るまでの俺と入ってからの俺はガラリと変わってしまった。

 先輩、同期、後輩。どの世代にも天才と呼ばれるトレーナーが輝かしい成果を残していく。

 

 特に最近では、シンボリルドルフのトレーナーが期待の新星扱いだ。

 俺よりも若いのに シンボリルドルフが望む高い理想にバッチリと応えているししかも人格者である。

 だから俺も彼女の置いて行かれたような気持ちが分かるような気がした。

 

 しかし改めてみると生徒会メンバーって実力者揃いなんだな。

 昔はあのマルゼンスキーも生徒会活動に関わっていたというし。

 実務能力とレースの成績に相関なんてないし入会にあたりそんな条件なんて無いはずだが、不思議なものだ。

 

 

「よし、じゃあ約束しよう」

「約束?」

 

「ああ、トレーナー契約とは違うから破ってもペナルティなんてない」

「だがお互いが信じあえるなら達成できるはずだ」

 

 エアグルーヴは言外に滲ませた圧を感じたのか僅かに顔をしかめた。

 突然何を言い出したのかと言いたげな彼女だが、何だかんだ吞み込みさえすれば忘れずに守ってくれるだろう。

 そんな見通しがつく程度には男は既に彼女に信頼を置いている。

 

「また勝手なことを……聞くだけ聞いてやる。内容はなんだ」

 

 

「必ずオークスを獲る。秋華賞もだ」

 

 

 刹那、静寂が走った。

 

「……そんな約束をしなくても私は狙いに行くぞ。特にオークスは私の悲願なんだ」

「ああ、だろうな。お前は一切の手を抜かずに狙いに行くだろう」

 

「だが俺は『狙う』なんて言ってないぞ。獲るんだ」

 

「残るトリプルティアラの二つを勝ち取れ。これが必然であったかのようにな。そうしたら周りはどう見る?」

「メディアは大きくとりあげてお前をヒーローかのように記事を書くだろう。そしてこう言わせるんだ」

 

「『出てさえいれば桜花賞もとれたに違いない』とな」

 

「……それは、まさに理想だな」

 

 東京芝2400m、京都芝2000m、

 オークスで一着を取り、トライアルレースを出来るだけ避けて調整を秋華賞に全振りで挑む。

 これが俺が思い描く、至極単純かつ理想のプランだった。

 

 だが言うのは簡単だがいくつも課題はある。

 体調不良から復帰して一か月弱で万全の状態に仕上げること。

 なおかつオークスを獲ること。

 なおかつ秋華賞まで獲ること。

 

 これを周囲は勿論、パドックや会見の場でも一切の弱みを出さずに『熱発を難なく乗り越えたヒーロー』を作り上げる。

 こんな役者のようなことなど、ウマ娘にあえて求めるものではない。

 だがエアグルーヴが求めていた『帝』の二つ名、その字に恥じない偉業を見せつけるにはこれが最善の道に思えた。

 

 

「まるで夢物語かのような話だ」

「だが……そうだな、そうでなくてはつまらないかもな。これは一刻も早く治さねばな」

 

 先程とうってかわっていつもの様にはっきりとした口調で、そう呟いた。

 良かった。どうやら調子が少し戻ってきたようだ。

 

「ああ、ともかく今は体を休めることに専念しろ。また改めてこの話はしよう」

 

 

 

 

「それにあの会見のことは気にするな。俺、皆にもっと強い衝撃を与えといたから、きっと皆頭から吹っ飛んでるよ」

 

「……は?」

 

 

 

 ────────────────

「皆さん、入学誠におめでとうございます。今回諸事情により、エアグルーヴの代理としてお話させていただきます」

 

「学園の心掛けについては他の人も既にお話しした通りです。私からは短めに、皆さんの目的でもあるレースの話をいたします」

 

「あえて言いますがエアグルーヴは体調不良により桜花賞の出走を辞退いたします。彼女の走りを楽しみにしていた方々に、お詫び申し上げます」

 

「ですが、その責任をきっちり果たさせていただきます」

 

「トリプルティアラの残る二冠を私のエアグルーヴが頂くという形で」

 

「新入生の皆さん。この勝負の世界、望んで入ったことを後悔するような辛いこともあるかと思います」

 

「ですがその先にある夢を私たちがお見せいたします。どうぞ楽しみにしていてください。以上です」

 

 会場が大きくどよめき、報道陣が慌ててカメラを用意するのも見える。

 全て言い終わると、一礼して壇上から下りて行った。

 

 ────────────────

 

 

「ッバ……バ鹿者!!! バ鹿!! 大たわけ!」

 

 

 枕をブンブンと振り回してくる。

 そのあまりの剣幕に看護師たちが慌てて様子を見に来る始末だ。

 

「式典で何てことを言ってくれたんだ!! しかも報道陣までいるような場で!!!」

「はっはっは、ここまで言えば後には引けないだろ」

 

「お前は……! なんでいつもこう突拍子もないことが出来るんだ! 信じられんわ!」

「いやー流石にめちゃくちゃ勇気振り絞ったよ。でもきっとエアグルーヴはこういうことが言いたかったんだろうなって思って」

 

「何地味に私のせいにしてるんだ!? そんな全校生徒にケンカ売るような真似するわけないだろ!」

 

「でも度肝を抜くことは成功したぞ? あの最初に教えてくれた生徒会員も感動したのか言葉を失ってたしな」

「理解の範疇を超えたから何も言えなかったにきまってるだろうたわけ!!」

 

「というか理事長は何も言わなかったのか!? そんな前例のないことをやらかしておいて!」

 

「どうだろう? 顔見てないから分からないや。達成感と疲労と後からじわじわとやってくる恐怖からその後はずっと俯いてたし」

「たださっきから理事長室とたづなさんから鬼電とメールが止まらないんだよねハハッどうしよ」

 

 

「知るか!! さっさと怒られて来いたわけ!!」

 

 そして俺は保健室からたたき出された。

 ついでにエアグルーヴも流石に騒ぎすぎだと看護師から怒られてしゅんとしていた。

 

 

 ────────

 

 そんなこんなで、とてもとても濃い一日が終わった夜。

 彼らは学園から少しだけ離れたショットバーに居た。

 

「先輩、今日は本当に激動でしたね」

 

 男を先輩と呼ぶのはあのシンボリルドルフのトレーナーである。

 彼らは担当がお互い生徒会繋がりということもあり、いつしか男が行う少ない交流の一つになっていた。

 

「まぁな……流石に疲れたがな、でもほらこれ見ろよ! あのエアグルーヴがついに俺を頼ってくれたんだ!」

 

 そういって後輩にスマホの画面を見せた。

 そこ映っているのは、エアグルーヴからのメッセージだった。

 

『貴様があのようなことをいうから顔が熱くてかなわん 何か冷たい飲み物を買ってきてほしい』

 

 

 あの後、男はそのまま理事長との話し合いをしていた。

 それを終わらせた後、ふと画面を見たときにこのメッセージが届いていたことに気づいたのだ。

 送信時間からして、男を病室から叩き出した直後に送った様だった。

 

 

「ほらな!」

 ふんすとドヤ顔で後輩を見る。

 

 ──……いや先輩、それただのお使いじゃないですか

 そう口に出しそうになるがグッとこらえた。

 この後輩はそういう気を遣える人間性をちゃんと備えている人物だったのだ。

 そしてこのことのコメントを求められても面倒だと、後輩はここでうまく話題をすり替えることにした。

 

「ていうか先輩、その、理事長室に行ってたっていうのは、やっぱ入学式の件ですか?」

「あーまぁ……色々後始末というかがあってな」

「あーあ、そりゃそうなりますよ。むしろ怒られただけで済んで良かったじゃないですか」

 

 後輩は、やれやれと肩をすくめてグラスを傾けた。

 

「にしても改めてとんでもないことになりましたよね。僕たちも宣戦布告されたようなものですし」

 

「……後悔はしてるよ」

「え?」

 

「こうなる前にもっと上手くやれればよかったっていう後悔だ。もっと強くいって休ませておけば。効率のいいメニューを提示出来ていれば」

「ただでさえ周りに好かれちゃいないのにな。式後にぼーっと座ってても声をかけられないくらい周りと距離が出来ちまったが、ああ言ったことは悔いはない」

 

 そう立て続けに言い、乾いた喉を潤すように一気にグラスの中を空にした。

 

「……俺は良いと思いますよ。あの時も、聞いてて喝入れられたみたいな気持ちになりました。ライバルでもありますが、お互い頑張りましょう」

 

「あ、次は何飲ますか?」 

 

 後輩は男に次の注文を訪ねた。

 男は少し間を空けてからそれを選んだ。

 

「……ジャックローズを」

「お、急に趣向変えてきましたね。何でですか? ……まぁいいや、俺もフルーツ系飲んでみよ」

 

 なんだかんだ言ってバーに慣れていない後輩が少し浮かれながらマスターに注文する。

 

 やがて林檎の香りが漂わせた、赤い香水を入れたような美しい色合いのカクテルが目の前に置かれた。

 それを見ながら男は深く息をついた。

 

 

 ──何でかって? 気恥ずかしくて言えやしない。

 

 

 

 エアグルーヴからあのメッセージを受け取った後。

 言われた通りに冷たい飲み物を色々買って病室に置きに戻ってきた時。

 

 話しているうちに疲れてしまっていたのか深い眠りに入っていたエアグルーヴ。

 ガサゴソと飲み物を置いてても目覚めやしなかった。

 いつの間にか大きく寝返りをうったのか、枕が体の横に、投げ出されたように置かれていた。

 

 その枕を見て。

 

 ──枕にこびりついた2つの赤い跡が、いやに脳裏に張り付いていたからなんて。

 




※追記
病室にて汗を拭く描写に一部矛盾があったため修正しました。申し訳ございません。


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#8 病室にて

展開に迷走したり、気晴らしに他の小説書いたりしてるうちにめっちゃ延びてた……


 倒れた私の目に入ったのは、見慣れない白い天井だった。

 

 体にかかった掛け布団や嗅ぎなれない香り、味覚を除いた五感全てが身に覚えのない空間であることを知らしめた。

 そのままゆっくりと目を覚ました私は、まずこの現状を飲み込むところから始めた。

 身に覚えのないとは言っても一般的な感覚に沿えばここは病室であり、それまでの記憶からしてここがトレセン学園が誇る保健室であるという推測は私にとってそう難しいものではなかった。

 壁の時計の短針は12を回っていない。どうやらまだ昼にもなっていないようだった。

 確か式典は10時開始だったはずだが、なぜ私はここにいるのだろう。

 

「……まぁいいか」

 頭が全く機能していない現状、それ以上考えるのも今の私にとっては億劫だった。

 何気なく病室についているテレビをつけると、中年のアナウンサーとタレントがにこやかに料理に舌鼓を打っていた。

 

 そんな画をぼんやりと眺めていると、次第に今までの経過を思い出してきた。

 夜までかかっていた準備。レースの練習とは別種の疲れ。

 桜花賞のための調整。夜には日々の授業で学んだことの予復習。

 当日までに頭に叩き込んだスピーチ。重くなっていく頭。

 

 そして……今日ステージの横でスケジュールを確認していると、意識が突然ブラックアウトした。

 

 頭がフラフラするあまり立つことも出来ずに座り込んだ。

 パイプ椅子の足の冷たさがいやに心地良かったことを覚えている。

 誰かが私を揺さぶっていた。やめてくれ、気持ち悪いんだ私は。そんな訴えをする気力すら起こらない。

 

 そのままじっとしていると、低い声が聞こえた。

 それまで聞こえてきた声は生徒の高めの声ばかりだったので、頭にそこまで響いてこなくてありがたかった。

 やがて誰かが担架を持って来たことに気づいた。

 

 言われるがままに横になりしばらく揺られていると白い部屋に連れていかれた。

 それから、薬を打たれて色々処置をされているうちに少し体が軽くなった。

 そのまま寝ていると医師がやってきて、説明を受けた。

 

 それからはあまり記憶がないが、事の顛末だけは分かっていた。

 頭は痛く体も重たかったが、そんな状況でも思考の片隅で医師の説明を理解した。

 

 要するに、トリプルティアラを逃すことになったのだ。しかも勝負の舞台にも上がらない形で。

 そのことを理解してからは、トレーナーがやってきて、何やら薬を打たれるまで暴れてしまっていた。

 駄々をこねてしまえば彼等が折れてくれるかもしれないという打算からか。はたまたやり場のない怒りからか。

 何か物を壊してしまったりしていなかっただろうか? 今更ながら不安になってきた。見た感じそんな跡は見当たらないが。

 そういえば、あの時打たれたのは睡眠薬だったのだろうか。あれから体に力が入らないしやけに眠い。

 桜花賞を逃したことも今ではどこか他人事のような、現実感に欠けた気持ちのまま、私は再び眠ることにした。

 

 

 

「今日は、本当にいろいろなことがあったな」

 その日の夜、窓から月を見上げて、差し入れで貰った飲み物を飲んでいた。

 一体、今日だけで合計何時間寝ていたのだろうか? 

 体調を崩すといくらでも寝れてしまう。最もそれしかすることが無いし、体調不良の身には良いことなんだが。

 

 休日ですらこんな無為に一日を使ったことなんて無かったのだ。ずっと寝ていて時間が分からなくなるその感覚すら、初めての体験だった。

 テレビをつけてみると何やら深夜バラエティをやっていた。

 普段はただうるさいだけのバラエティ番組を進んで見ようとは思わないので、この番組が何なのかもよく分からない。しかし今はそのうるささがありがたい。

 とはいえ時間も時間なので音量は小さめにするが。

 

 この病室という空間はいささか静かすぎるし時が止まったようだ。

 外の景色と時計、そしてテレビ番組の内容から失った時間間隔を取り戻していく。

 

 今日の夕方は会長を始め、多くの者がお見舞いに来てくれた。改めて、多くの者に心配をかけてしまっていたことを身に染みて感じる。

 

 机には積み重なったお見舞いに加えて一週間はまかなえるのではないかと思う程の大量の飲み物たちがいた。

 ラベルを見た限り、水と緑茶と麦茶と紅茶とスポドリとコーヒーとサイダーがあることは確認した。しかも冷蔵庫にも入っていた。

 

「まさかトレーナーがこんなに買ってくるとは思わなかったな」

「それにしてもあいつ、異様に頼られたがっていたな。そんなに私から仕事を貰いたかったのか……()()()()()とはえらい違いだ」

 

 

「しかしこれは……ふふっ、流石に買いすぎだろう……」

 緑茶を手に取り、パキッと飲み口を開けて喉を潤した。

 

 

 

 夕方にはトレーナーも見舞いに来てくれていた。

 あの時は、会長がお見舞いから帰った後、目を閉じて休んでいた所だったのですぐに気づいた。

 声をかけられたら目を開けようと思いそのまま目を閉じていると、突然額にタオルの感触があった。

 どうやらトレーナーは起こすのも悪いと思ったのか無言のままこちらの汗を拭いてきたようだった。

 

 ー……悪くないな。うん、悪くない。

 

 一瞬驚いたが、少なからず不快の源だった汗がぬぐわれていく心地良さからしばらくされるがままになっていた。

 

 だが今になって思うと、思わずタオルで拭くくらい寝汗が酷かったのだ。

 つまり私の化粧が崩れてしまった顔を、間近で見られていたことになるのではないか? 

 

「ああっ……くそっ……」

 

 醜態を晒してしまった。思わず顔を手で押さえつけるほど、不覚をとってしまったことが悔やまれる。

 普段走っている時も散々汗かいているだろと言われたらその通りなんだが。

 こちらの気持ちの問題というか、見せるつもりじゃないものを見せてしまうという恥まで頭が回らずに、異性に汗を拭かせてその快を享受してしまった事への気恥ずかしさがあった。

 

 

 だが。

 ……もしも、次会った時にそんなことを言いながら怒ったふりをしたら彼は焦るのだろうか。

 こちらとしてはお世話してもらっておいて怒るわけもない。ないが、あっちはそこまで考えが至らず謝りたおしてくるかもしれない。

 そんな思い付きをしたところでふと呟く。

 

「……前までは、こんな揶揄う様な真似をしようなんて発想すら無かったな」

 

 思えば、最近ずっと私らしくない。周りの反応もだ。

 普段は礼儀もしっかりしている後輩たちが妙に冷やかしてくる。

 あのユーモアが苦手だと自覚している会長すらからかってくる始末。

 

 1/3ほど飲んだところでお茶に飽き、隣のサイダーに手を伸ばす。

 お茶の後だと飲み合わせは悪いように見えるが、炭酸の刺激が今はありがたい。

 普段あまり飲まない味わいを楽しんだ。

 

 今までの過労も相まって、単純にスケジュールを気にせずゆっくりできるというこの環境自体はそう悪いものでは無い。

 しかしそれでも退屈は退屈。やることのない私の頭に次に浮かんだことは、式典であいつが言ったという、私の勝利宣言についてだった。

 

「……今でも信じられん。あいつが、あんな啖呵を切るようなことをするなんて」

 

 どうしてそんなことをしでかしたのかは分からない。

 だが、やり方が大胆すぎではあるが、その荒療治に対して思ったほど悪い気はしなかった。

 

「オークスも近い。これでは感傷に浸る暇も無いな」

 

 三冠を目標に掲げたウマ娘は、その思い入れが強いほど、最初の一冠目が重要であるという。

 最初に出鼻をくじかれたウマ娘は自分の実力に嫌気がさしたり、モチベーションが下がったりで伸び悩むことが多いからだ。

 

 だがトレーナーは、そのジンクスを知ってか知らずか、全校を巻き込んでまでして私の背中を押してくれた。

 

 

 思えば、入学式の準備の時、彼はいたるところにいて色んなウマ娘と共に作業していた。

 生徒会室は校舎の中でも上の階に入っているため、そこの窓からは外の景色がよく見えていたので私には分かっていた。

 だが私は、彼が汗をかき働くその姿に、ひどく苛立ちを覚えていた。

 なのに、そんな彼の姿が見たくないのに見てしまっていた。

 

 ―目障りだ。

 違う。

 ―そんな媚を売るようなマネをするな。

 違う。

 この思いを的確に形容する言葉がずっと出てこなかった。

 

 なぜかうまく仕事を教えられなかった私が悪いんだが、会長が彼に仕事を教えていた時は気が気でなかった。

 

 

 ここまで気になる様な相手になるとは当初は全く思わなかった。

「あいつとの出会いも大したものでは無かったな。運命というものは分からんものだ」

 


 

 前のトレーナーと、喧嘩別れ……というには一方的な破談を突き付けて契約解除をしたのが11月の中頃のこと。

 あの頃はテスト終わりにまたすぐ生徒会の仕事が舞い込んできて普段以上に余裕が無かった。

 今にして思えば、去年は色々あって常にストレスを抱えている状態だったのもあるが。

 

 積もり積もった彼女への不満と衝動的な感情も相まって、突発的に契約解除をしたはいいが問題は一ヶ月後のレースだった。

 

 何せもうデビューは始めてしまっている。トレーナーがいない状態ではレースの出走資格は無い。

 初のG1への挑戦、なおかつジュニア期の最終目標として据えていた阪神JFを、よりにもよって自分からトレーナーを切ったので出れませんでした、なんて洒落にならない。

 そんな訳で流石の私も内心かなり焦っていた。

 

 ー誰でもいい、極論書類に名前を書ける状態なら良いんだ。最悪籍だけでも置かせてくれるトレーナーは居ないだろうか

 

 だが名声のあるトレーナー達は既に自分の担当で手一杯だし、籍だけでもなんてそんな半端なことは認めないだろう。

 そしてしらみつぶしに探そうにも、ここで私の無駄なプライドが足を止めてしまっていた。

 

 そんな状況の中、その日も日課のトレーニングをした後、校舎内を哨戒と称してウロウロしていた。

 誰かいい人材は居ないだろうか、と見回っていた。

 すると見つけたのがグラウンドを観客席から眺めていた、胸にトレーナーバッジをつけた男。彼が今のトレーナーとなる男だった。

 

「突然すまない。トレーナー免許を持っているのだろう? 実は、のっぴきならない事情があってな。早急に私と契約をしていただけるとありがたいのだが」

 

「……今の俺に頼むのか?」

「君、エアグルーヴだろ。君がアスリートとして優れているのは十二分に分かっているし確かに俺は今手が空いている。だが、俺では導く自信はないんだ」

 

 この時、強い違和感を抱いたのを覚えている。

 なにせ狭き門であるトレーナー試験をくぐり抜けた彼等は、大なり小なり自分の能力に自信をもっているものだが、この男にはそういうものが一切感じられなかったのだから。

 だが当時の私が欲していたのは、指導力ではなく干渉してこない人材だった。つまり、皮肉にも彼は正にうってつけの人間であった。

 

「ふん、生憎だが、私にとってはその方が都合がいい。幸か不幸か、前のトレーナーから貰っていたトレーニングメニューが山ほどあるからな。貴様はレース登録の際に名前だけ貸せ。それで充分だ」

 

 

 

「……成程。思うところが無いことは無いが、それならこちらとしても助かる。お願いしよう」

 

 男はしばらく考え込んでいたが、互いに都合がいいことに気づいたのだろう。

 そう言ってこちらに手を差し出してきた。

 正直名義だけの関係に握手をする必要も感じなかったが、無視するのも悪いので応対する。

 

「改めて、私はエアグルーヴ。女帝として上に立つ者だ。期待はしてなどいないが、失望はさせてくれるなよ」

 

 

 ……契約のきっかけは度々聞かれることだが、適当な言葉でお茶を濁してきた。何せこんなひどい経緯は今まで聞いたことがない。

 私はあまりに失礼すぎるし当時の彼も適当すぎだった。一体どういった心変わりが起きたのだろうか。

 

 唯一経緯を知っていたのは会長だけだった。

 初めて知ったときは、言葉も出ずにただ苦笑いしか出来なかったと、後々会長が言っていたっけか。

 

 


 

「……ぷっ……あはは……」

 ここまで思い返してみて、つい笑いがこらえきれなくなった。

 当時の私の態度の酷さを再認識したからというのもあるが。

 

「まったく、なんなんだ私は。……暇になってみれば、思い返すことが全部、あやつの事ばかりじゃあないか」

 

 

 苛立ちの原因がやっと分かった。

 

 私は、怖くなっていたのだ。

 最初は頼りにはしないと言い切っておいて。

 他の者や会長と楽し気に喋る彼を見て、見切りをつけられるのではないかと怯えていたのだ。

 

 会長がお見舞いに来てくれた時も、こんなことを言っていたではないか。

「実は昨日、君の様子を見て、調子が悪そうだと言ったんだ。……今思えば、トレーナーは君の体調不良を見抜いていたんだな。流石の観察眼だよ」

 

 ちゃんと私のことを見ていてくれていた。

 そのことが、たまらなく嬉しい。

 そんなトレーナーの期待にしっかりと応えなければいけない。一刻も早く病気を治すとしよう。

 少しでも体力を回復するために、再びベッドにもぐりこんだ。 

 

「……風邪の時は悪夢を見る、か。思えば、あの悪夢も、そんな私の弱さからきていたのかもな」

寝る前にふと思い返す、今日見た悪夢。涙を流す程に恐ろしかった悪夢。

 わずかに覚えている一場面だけでも、今でも気分が落ち込む程に嫌な夢だった。

 

 

『な、何故だ……? どうして今更離れるんだ……? 頼む、やめてくれ!! 私を、私を捨てないでくれ!!』

 

 

 



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#9 相対を為す

お気に入り1000件行きました。ありがとうございます。


 出席停止は8日目。

 適切な対策を打てていたためエアグルーヴの症状もとっくに治まり、抗原検査でも陰性を確認できていた。

 一応出席停止期間なので出歩くことは出来ないが、看護師付き添いの元自室から一部荷物をこちらに持ってくることができたり見舞いの制限も緩くなったりと制限は大分緩和されていた。

 

 昼ご飯を終え、エアグルーヴが病室の机で先生から出された課題にペンを走らせている。

 病室なので生徒会の仕事も出来ず、持て余した集中力を目の前の課題に費やしている。やがてひと段落しようと廊下からこちらを呼ぶ声が聞こえる。

 

「すみませーん……エアグルーヴさんでしょうか……?」

 

 知らない声に怪訝な顔を浮かべつつ、手元のマスクをつけて返事を返す。

 

「はい、どうぞ。……む、看護師じゃないのか? 悪いが、名乗って貰えるか」

 ゆっくりと扉が開き、まだ糊のきいた制服に身を包んだ生徒がこちらにやってきた。

 相手もマスク越しなので表情が読み取りにくい。しかし挙動が堅く、目線もいまいち安定していない。

 

 

「初めまして。アタシ今年から高等部に上がった、メジロドーベルっていいます! お見舞いに来ました!」

 

 

 入口に立っているメジロドーベルがやや上ずった声と早口で自己紹介する。

 何故初対面の者が見舞いに来たのか。というか何故こんなに緊張してる様子なのか。突然のことにエアグルーヴは困惑していた。

 

 

 一方で、メジロドーベルからしてみれば緊張するのは当然だった。元々の緊張しいの気質の上にずっと憧れだった存在が目の前にいて、しかも今は一対一なのだ。

 エアグルーヴはその立ち振る舞いから生徒たちの間にもファンが多い。そんな彼女たちに叩かれないことを祈りながらここまで来ていた。

 

「あのっ……アタシ、エアグルーヴさんに憧れてて! 図々しいかなって思ったんですけど、お近づきになれたらなと思って! でも入学式にいらっしゃらなかったので聞いてみたら倒れちゃったって聞いて」

 

 本当は入学式が終わった後のどこかのタイミングで話しかけるつもりだった。だが式典に立っていたのはエアグルーヴではなくそのトレーナーらしき男だったし、終わってから生徒たちの間に出回った噂を聞くと何やら病気になっているらしいという。

 居ても立っても居られなくすぐにでもお見舞いに行けないかと思っていたのだが関係者でも無いメジロドーベルは今日まで対面の許可が下りなかったのだった。

 

「あのこれ。ちょっとしたものですけど、リンゴ持ってきました。剝きましょうか?」

 

 エアグルーヴの了承を得ると、手元の袋から紙皿と林檎と果物ナイフを取り出して慣れた様子で剝き始めた。

 

「アタシ、果物好きなんですよ。お肌にもいいし。メジロ家が契約している農家さんからの物なので、おいしいはずです」

「それは楽しみだな、ありがとう。皆が果物を見舞い品に持ってきてくれるからか、私も心なしか肌色が良くなった気がする」

 

 確かにエアグルーヴの肌が光に反射しツヤツヤしていて、血色も良くなっていた。

 普段から眉間に皺を寄せて仕事に忙殺されていたエアグルーヴ、ケアこそ怠っていなかったがそれでも隠し切れない疲労が表れていたのだろう。

 口にこそ出していなかったが、やはり女子としては如何に美肌を手に入れるかは永遠の命題。夜に鏡を見て一人ため息をついていた時を思い出すと今の潤いを取り戻した肌をうれしく思わないわけがなかった。

 

 

 それから二人は会話が盛り上がる。話題は他愛も無い話から家庭の事情まで様々だった。

 実はエアグルーヴは毎年、新入生や高等部に進級したものは全員どんなウマ娘なのかを確かめている。その中でも特に、優等生やレースで非凡な才能を見せる者など気になった生徒の事は情報を集めたり、直接対話を試みたりすることがある。

 これは次の世代の顔となるウマ娘を見つけたいという半ば趣味とも化している行動だが、次代の生徒会員となりえる者を探し出すという理由もある。何せ常に仕事で逼迫している生徒会、少しでも優秀な人材は確保しておきたいという事情があるためだ。

 

 だが一方で、学業が追い付かなかったり故障が目立つウマ娘もチェックをしている。

 こちらは趣味色は無く、エアグルーヴの義務感からくる行動だった。

 トレセン学園は他の一般の高校への転学が多い事は課題の一つとなっている。

 原因は経済的理由から怪我、本人の意思と多岐にわたる。奨学金等の経済的なサポートは生徒会の領分では無いので手は出せない。だがせめて学業不振やメンタルケアで自分の手の届く範囲でだけでもサポートをしてあげたいという思いがエアグルーヴの中に確かに存在している。『女帝』の称号を絶対的強者の象徴だけに納めるつもりは更々無いのだ。

 

 

(ああそうか。名簿に見覚えが無い名前だと思っていたが、休学していたのか……道理で)

 更に話を聞いてみると、エアグルーヴがメジロドーベルに抱いた印象はどちらかといえば後者寄りだった。

 家庭の事情か学校での環境かはたまた別の要因か。理由までは聞けないものの何かしらの強いコンプレックスがあるのかもしれない。と、メジロドーベルが気に入っている紅茶についての話を聞きながら内心で推察していた。

 

「それでは、アタシはそろそろ失礼します。無理せず休んでくださいね」

「心配するな。もう動きたくて仕方ないくらいだ。もし、何か困ったことがあったら何でも頼るといい」

 引っかかることはあれど新しく知り合った者と話すのは楽しいもの。あっという間に良い頃合いとなったためメジロドーベルが退室していった。

 エアグルーヴは顔が怖いとよく言われるため、出来るだけ柔らかい表情になるよう努めて笑顔で彼女を見送る。

 

(一回折れた翼は脆い。私も、普段から様子を気にしておこう)

 エアグルーヴの中での彼女の位置付けが、『休学中の一生徒』から『副会長として助けるべき存在』へと変わった瞬間だった。

 

 

 ……まさか、この数日後には自分のトレーナーがスカウトを行い、一週間後には『チームメイト』に更に格上げすることになることなんて、今のエアグルーヴには思いもしなかった。

 

 

 


 

「その……もう一度挨拶した方がいいですか?」

「名前もあの時話したことも全部覚えている。不要だ」

 

 メジロドーベルは混乱の一言につきていた。

 病室で初めて相対した時には、初めこそ怖い先輩という印象だったがこちらの話も無碍にする事無く楽しい会話が出来た事で面倒見の良い先輩なのだということは分かっていた。

 一方で、現在のエアグルーヴはメジロドーベルの言葉にも冷たく返し、頭痛でもあるのか額に指を当てながらひたすらにトレーナーのことを睨みつけていた。

 

(もしあの目線がアタシに向いていたら、何も言えなくなっちゃうだろうな。それにしてもトレーナーはなんであんな飄々としてるんだろう? 気づいていないこと無いよね?)

 理由はともかく、何故か不機嫌になっていることはメジロドーベル自身にも伝わっていた。

 自分が嫌われているわけではなさそうだと見立てを立てるが、どう立ち振る舞えばいいのかが分からなかった。彼女とて今までずっと家に居た身。残念ながら、この場をうまく納める立ち回りが出来る程社交性が高くは無いのだ。

 

「あ……あの、先輩。アタシ、何かやらかしちゃったりとか……?」

「……? 何も?」

 こちらに向き直ったその顔は打って変わって柔らかい。だが病室での表情を見ていたメジロドーベルから見ると今不機嫌さが入っていることは明らかだった。

 

「ほら、エアグルーヴ。後輩が怖がっているだろ。そんな顔してないで、新しい仲間を歓迎するんだ」

「……き、貴様のせいだろうが。何をぬけぬけと……」

 

(仲良さそうな様子を見るに元々何かしらの関わりがあったのだろうな。たまたまだが、こちらとしては話が早くて助かる。……それにしても、エアグルーヴは一体何に怒っているのやら。こいつは普段はハッキリ言うタイプだから、こんな悶々としている様子は見ないな)

 トレーナーはそんなエアグルーヴの様子をどこか好奇な目線で眺めていた。

 

「……何その顔」

「いや、別に? 」

 メジロドーベルがそれに気づき訝しげに指摘するが、トレーナーはそれをさらりと受け流す。

 その指摘でエアグルーヴもトレーナーの目線に気づいたようで、益々目つきの鋭さが増していく。最早目線だけで射殺せそうな程にまで達していた。

 

 

「よし、挨拶も終わったし連絡事項は全部伝えた。メジロドーベルは近々始まるメイクデビュー戦からスタートだな。明日から仕上げに入ろう。今日はもう自由にしててくれ。俺たちはまだ話し合いがあるから」

 トレーナーは、そんなエアグルーヴを受け流してメジロドーベルとの話し合いを終えたことを告げた。

 

「分かった。自主トレでもしとく。じゃあ先輩、改めて、よろしくね。……あと、トレーナーも」

 

 エアグルーヴは頷きながら、トレーナーは手を振りながら退室するメジロドーベルを見送った。

 

 

「ははは、俺はついでかよ。エアグルーヴは慕われてるみたいで良かったな「ふん!」……ッて! 痛っっってぇぇぇ!!」

 

 

 メジロドーベルが部屋を去ってすぐ、エアグルーヴが鬱憤を晴らすかの様にトレーナーの足を踏んづけた。そのあまりの痛みは思わずトレーナーが飛び跳ねる。

 

「……大袈裟な。全く力入れていないというのに。安心しろ、後には残らん。まったく貴様は相変わらず貧弱だな」

「お前ら基準で言ってんじゃねぇ! いきなり何するんだよ!」

 

 エアグルーヴの言う通り、ウマ娘の脚力で本気で踏まれれば人の骨は容易く砕け散ってしまう。だからこそ力こそ入れずに気を使いながら踏んだのだがトレーナーからしてみれば痛いことには変わりはない。

 

 

「情報共有を怠った罰だ。また勝手なことをしおって、たった一年でもう二人目を入れるとは聞いていないぞ私は」

 

「確かに、言わなかったのは申し訳ない。俺さ、前にメジロドーベルの事を聞いたよな? 実はあの時から構想を固めていたんだよ。トレーナーっていうのはな、優秀なウマ娘はツバつけときたくなる生き物なんだ」

「気色悪い。もう一発いくか? 次は跡が残るまでな」

 

 こちらをゴミを見るような目で見てかと思うと、ゆっくりと左足を持ち上げてトレーナーの足をロックオンし始めた。

 もしもあの足で踏み抜かれたらいよいよ足は御釈迦になるだろう。

 

「待て待て! それに二人目を引き込めたのもお前が落ち着いてくれたからだぞ? ジュニア期から変わっていなかったらそんな余裕も無かったけどな」

「……悪かったな。それは皮肉のつもりか?」

「褒めたつもりだったよ」

 

 ここまで聞いてようやくエアグルーヴも足を下す。トレーナーは内心一安心しつつ説明を続けた。

 

「あいつとお前を監督するのは合理的なんだよ。二人とも適正はマイルと中距離。しかも脚質適正まで同じだ。トレーニング方針を合わせられるから俺も指導がしやすくて色々な面で都合がよくて助かる。専属で徹底的に面倒見るのもいいが、チームメイトがいるのも悪くないんだぞ。併走だっていつでも頼めるしな」

 

 

 万能型のウマ娘を指導する場合、その響きこそかっこいいが指導の難易度はぐっと上がる。スピードを伸ばせばいいのかスタミナを伸ばせばいいのかなどの判断を常々更新していかなければならないためだ。

 もしもそういうタイプに能力を万遍無く伸ばそうとすれば、安定した入着こそ出来るだろうが一着は取れないだろうというのがある程度共通の見解である。逃げしかやりたがらないサイレンススズカやツインターボ、ステイヤーとしての才能を持つライスシャワーなどのように、何か尖った得意分野を持っている方がトレーニングもたてやすいし、方針がクリアになるものだ。実際に、過去の統計を見ても頂点を取れるのは尖った強みを持つ者と相場が決まっている。

 

 その為、研修生はまずは自分の専門を決めてそれに基づいた担当選びをするのが王道だと習う。このトレーナーもその王道に沿ってこの二人を選び出している。

 ちなみにこれがもっと増えて大規模なチームになると、専門外のウマ娘も加入したりするため指導がもっと難しくなる。それが出来るトレーナーというのはは中央の人材の中でも更に上澄み、経験豊富なベテランか体力がある天才くらいしかなのではないか、とトレーナーは考えていた。

 

 

「……はぁ。貴様は卑怯だな。そうやって理屈で言われると文句も言えないでは無いか。メジロドーベルの才覚は認めるところだが、そう易々と前を譲るつもりは無いぞ」

「ちゃんと説明したのに卑怯だと言われるとは……年頃の女子の考えることは分からんな」

「一言アドバイスを贈るなら、そういう言い方をしていると陰で『おっさん臭い』などと言われるから気をつけることだな」

「俺はまだ20代だ! ……ギリギリだが!」

 

 なんにせよエアグルーヴの説得が済んだトレーナーは彼女になぜそこまで気が進まないのかを聞いた。エアグルーヴが答える。

 

「誤解をするな。私はドーベルと共に練習をすることには最初から反対していない」

「あ、そうなの?」

 

 話を聞くに、どうやら先輩後輩として交友を深めていたらしく、この間の休日も二人で街を歩いていたそうだ。それを聞いたトレーナーはほっと一息つく。

 もしもチームメイトの仲が悪いと、如実にトレーニング効率も落ちてしまう。そのため仲の良さというのもトレーナー側からしたらかなり気を遣う所なのだ。

 だがそうなるといよいよ理由が分からない。一体何が不満だというのか。

 

「……なぁ、私との専属に嫌気を差したわけでは無いんだな?」

「……いやいや、だったらさっさと契約解除するさ。……いや、契約してからだとトレーナー側から自己都合で解除するのは相当難しいんだったか。そしたら適当に放置してフェードアウトするのが現実的だな」

「陰湿なやり口を思いつくものだな……。いやまぁ、そういうことなら、良いんだ」

 

 トレーナーの返答を聞いたエアグルーヴは、話すことが無くなったかそのままトレーナー室を出ていった。

「……いや結局何なんだよ。答え教えてもらって無いんだが」

 どこか、今までとはベクトルが少し変わったようなめんどくささを感じたのだった。

 

 

 


 

 始まりこそ若干荒れ模様だったがそれからはチームとしては順調に練習を重ねてあっという間に一月が経過した。

 この間にメジロドーベルはメイクデビューも果たした。結果は一着。今回は出遅れ等の大きなトラブルも無く、力を見せつけることが出来た。その結果には周りのトレーナー達も驚かされる。彼女はこんなにも強かったのか、と。

 そしてそれから数日後、今日はメジロドーベルがジュニア期のレース目標を決めるためにトレーナー室で話し合いを行う日だった。

 だがノックをしても反応はない。

 中に入ってみると、トレーナーは、暗い部屋でこちらに背中を向けて、レースの映像を見ていた。

 

『ファイトガリバー出る! イブキパーシブ! ファイトガリバー! ファイトガリバー先着だゴールイン! 桜花賞はファイトガリバーに! 栄冠輝きました!』

 

「……やはり最後の末脚のタイムの伸びが異常だな。……ダメだ。これは偶々なのか本格化が来たのか……判断しきれねぇな」

「……また見てる。そんな暗い部屋で見るの止めなよ」

 

 呆れたように声をかけたメジロドーベルの言葉でようやくトレーナーもこちらに気づいた。

「……レースの研究はいくらしてもし過ぎることは無い。しかもここに映ってるウマ娘達はそのままオークスにも出走する者も多いんだ。このレース程参考になる資料は無いだろ。それにこうすると集中出来るから仕方がない」

「全くもう。桜花賞が終わってからも結構経つのに、まだ研究することがあるの? またこんな引きこもりみたいなことまでしちゃってさ」

「いや、鍵は開いているし別に他人を拒絶しているわけでもないんだが」

 

 トレーナーの手元にはボールペンとノートが置いてある。しかしちらりと中身を覗き込んでみても前見た内容からペンは進んでいない様子だった。

 

「……まぁでも、気持ち分かるよ。もしもそこにエアグルーヴ先輩がいたらどうなってたか。アタシですらあれこれ考えちゃうもん」

 

「でも、先輩にばっか気を取られないでアタシのこともちゃんと見てよね。あんた、アタシのメイクデビュー戦不満だったんでしょ? 今のうちしか集中して練習出来ないんだから」

「別に不満とは言っていないが……分かってるさ。まぁ話し合いとはいえ、お前は最終目標はもう決めているからな。そう長くはならんだろう」

「そうだね。阪神JF。先輩に追いつくためにはそこは譲れない」

 

 

 メジロドーベルがメイクデビュー戦を終えた後、トレーナーが労いの言葉をかけた後に総評として述べた内容は厳しいものだった。

 

 まず言われたのは、このレースの結果は必ずしもメジロドーベルの実力を示しているわけではない、というのが俺の見解だ、ということ。

 どうやら、契約が済んでからすぐに行われるメイクデビュー戦の性質上、各自のトレーニングによる影響というのは殆ど差がなく、ほぼ身体的なスペックでの殴り合いになる傾向なのだそうだ。

 メジロドーベルは、今回周りよりもデビューが遅かった分単純な肉体の成長の利が大きく働いたことが要因らしい。

 加えて、選抜レースや重賞に比べると、通過儀礼の意味合いが大きいメイクデビュー戦の注目度は遥かに低い。そのお陰で目線への対策の必要もなく、ネックだった人目に対するデバフがかからなかったのも大きかった。

 

 この一連の内容をメジロドーベルは口を結んで黙って聞いていた。

『……そっか。アンタ結構ハッキリ言うんだね』

『言っておくが別に意地悪をしてるつもりじゃない。要するに、これからがメジロドーベルにとっては本当の勝負になるから気を引き締めて欲しいんだ』

『……うん分かってる。アンタが正しいんだろうね。いいの。正直ああこんなものかという驕りが少し出始めてたかもしれない。そもそも選抜レースだって、偶々トレーナーがアタシに注目していただけで結果が良かったわけじゃないしね』

 

 

「それで、あれから俺も考えたんだが、お前の場合はやはりレース慣れをしてもらわなければならん。ジュニア期からいくつかレースに出てもらうつもりだが、それでいいか?」

「うん、分かった」

 トレーナーから仮の予定表を見る。その内訳は8月の新潟ジュニアS、9月のサフランS、10月のアルテミスSが書かれている。トレーナーのいう通り、ジュニア期から4つ出走するのは少々ハードな日程なことには違いない。

 紙を読んで考え込むメジロドーベルに対し、時期的に新潟ジュニアSは確定でいいだろうという旨と、必ずしも全部出る必要は無く追々の仕上がりを見て判断することも補足した。

 

 

「……っとそうだ、忘れていた。メジロドーベル。こっち向いてくれるか」

「え、何?」

 

 話し合いをスムーズに終えて、今日のメニューをこなしにグラウンドに向かおうとしたメジロドーベルをトレーナーが呼び止めた。

 

 

「はい、チーズ」

 

 

 メジロドーベルが向き直った瞬間、トレーナーが横に立ちカメラ音を室内に響かせた。

 画面には微妙にキメ顔をしたトレーナーと気の抜けたメジロドーベルが収まっていた。

 

「うん、自然な顔で良いじゃん。お前メイクデビュー戦のライブの時も顔ガチガチだったもんなぁ」

「……は、はぁ!? ちょっと何勝手に撮ってんの! 」

 

「いやそれがさ、今日エアグルーヴ生徒会の仕事でトレーニング休みだろ? そしたら俺たちの写真送ってくれって頼まれたんだよ」

「せ、先輩が?」

「オークスも近いのに仕事だってんであいつも最近ピリピリしてたからな。何か気が紛れる物が欲しいんだろ。まさか写真頼まれるとは思わなかったけどな、ハハハ」

 

 メジロドーベルに経緯を説明しながら手元のスマホを操作する。

 その口調は仕方なくといった様な口振りだがその声色は普段よりも高い。

 

 このメッセージは今から1時間ほど前に唐突に送られてきたものだった。その文面は『顔が見たいから写真をすぐに送ってこい』という簡潔なもので最初はその意図が分からず困惑した。だがトレーナーは直ぐにその本意に気づく。『何だかんだメジロドーベルの様子が気になっているんだな』と。

 その日の調子は顔色を見るだけでもある程度推察できるものだ。恐らく直接見れない分、写真で補おうとして依頼をしてきたのだろう。

 自分まで写真に写ったのは完全に悪ノリだ。今頃エアグルーヴは写真を見て『貴様の顔なんて見ても何の得にもならんわ、たわけ!』などといつもの様に怒っているだろう。

 

「もう……そういうことなら仕方ないけどさ、次からはちゃんと撮るって言ってよね。こっちだって映りが悪い写真残したくないんだから」

「悪い悪い、次からはちゃんと言うさ」

 

 メジロドーベルが今度こそ部屋を出ていく。

 トレーナーは、後から合流するまでに今日のノルマを終わらせるためにパソコンに向かった。

 結局、エアグルーヴからの返信は返ってこなかった。

 

 

 

 

 

 

 おまけ『エアグルーヴが写真を頼むまでに至った、彼女が発した言葉の切り抜き』

 

 

「会長。メンバー全員揃っております。では参りましょう」

 

 

 

 

「…………おい、そこ! これは仕事だ、遠足じゃないんだぞ! 私語をするなとは言わんが目に余るぞ!」

 

 

 

 

「全く、一体何を盛りあがっていたんだ。ん、スマホ? ……これは、犬? ほう、実家の犬なのか。…………ふむ? 実家から写真を送って貰うことで、離れていても顔が見れるようにしてるのか」

 

 

 

 

 

 

「…………成程、写真か。確かにそれならいつでも……。ん? 何をそう怯えているのだ。思わぬヒントを得られてむしろ感謝したい位だ……フフフ」

 

 

 

 

 



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#10 その躾は仕返しか愛か

書いててようやくヤンデレタグが仕事をしてくれたような気がしました。
あと一応注意ですがモブにオリウマ娘が出ます。


 学園への帰路をバスが走る。

 エアグルーヴは後方の窓際から遅く流れるその景色をぼんやりと眺めていた。

 

 時折バスが出っ張った石を踏むせいで時折車体がゆれ動く。その度に低い天井がキイキイと悲鳴のように軋む。

 長いこと生徒たちをターフまで運んできたそのバスはお世辞にも新しいとはいえなかった。

 あらゆる点において充分過ぎるほど恵まれた学園の設備の中での数少ない不満点だともいえる。

 

 とはいえ、生徒たちが座る椅子だけは、体重をかければ深く沈み込む良質な素材で作られている。そのお陰で長時間座っても疲れが残らないようにはなっているので、実際の所はそこまで不満があるわけでは無いのだが。

 

 ──いっそのことこのバスから飛び降りて、ジョギングでもしながら帰ってしまいたい。そうすればこの気持ちが少しは晴れるのだろうか? 

 

 つまり、今エアグルーヴがそんな半ば自棄じみた考えが浮かんでいるのは決してバスにうんざりしているからとか、そのような問題では無いのだった。

 

 

 いつものように規則通りに着こなした制服、少し華やかさを出した化粧。その一方で隠しきれない疲れきった顔と垂れ下がり始めた耳。

 そのアンバランスさにどこか儚げすら漂わせた姿は、傍から見るとまるで都会に揉まれながら将来を憂慮する都会の女性の様だ。ある種の芸術のように完成されたその姿に周囲では見惚れている者すらいる。

 まさか、その頭の中では普段の堅物な姿らしからぬ突飛な提案が浮かんでいるとは思わないだろう。

 

 

 ──なんてな。そんなこと出来るわけもないが。

 ただでさえ入学式で助けられた身。その行動で周りの者にかける迷惑を考えれば、彼女の強固な理性がそれを許さないのは自明だった。

 そもそもウマ娘は例えジョギングで収めたとしても人間の自転車が出す時速約20kmを遥かに上回る。そんなスピードで公道を走れるわけもない。

 

 結局の所、これは実現可能性を全く考慮していないエアグルーヴなりの冗談めいた思いつきに過ぎなかった。

 

 

 同族であるエアグルーヴが言うのもあれだが、どんな行事もウマ娘が絡むと途端に規模がでかいお祭り騒ぎになる印象を持っている。 

 普段から世間から注目度が高く、トレセン学園を取り扱った専門の雑誌すらある状況なので余計に目立つ。

 だが周りに迷惑をかけてはいけない、とは社会の輪で生きるための原則だ。なぜ学園の長い歴史の中で、そんな目立った活動を続けられているのか。 

 

 それは日頃のご近所付き合いを積み重ねた賜物だ。

 

 根回しというと響きが悪いが、何事においても近い者と仲良くなるに越したことはない。お互いに情報交換も出来るし、違う環境の友人をつくれるのは貴重だ。多少のトラブルを起こしてしまっても大目に見てもらえるしその逆も然りだ。

 そのため学園は、当初から周囲との友好をとても重要視しており、年賀状は勿論、お中元やお歳暮も欠かさずに贈り合っている。今日の交流会もその一環なのだった。

 

 とはいえ、学園の垣根を超えた交流と聞くと華やかなイメージを抱く者もいれかもしれないがその実情は粛々としたものだ。これは世の一般家庭ですら昔ほど深い交流をしなくなっているという社会の流れに従った結果である。学園の通史を振り返るとかつては一般生徒も含めた学校単位での大規模な交流会をしていたらしいが、今ではお互いに代表として生徒会同士で歓談を楽しむまでに規模が縮小している。とはいえ、それでも欠かせない大事な活動であることには変わりはない。

 

 そこまで分かっていても、エアグルーヴからしてみればこれは気が張る仕事でしかなかった。確かに久々に会う人達と喋るのは楽しいがそれはそれ。生徒会副会長の肩書が印刷された名刺を持って、シンボリルドルフに次ぐ代表として参加している以上、自分が楽しむことは二の次になってしまうのは仕方のない。

 相手方の参加者の名前を叩き込み、高すぎず安すぎない手土産を準備し、話題作りとして相手の学校の大会成績までもチェックして臨んだ。更には前日に一人鏡の前で自然な笑顔の練習までして臨んだ。

 

 そんな準備の甲斐もあり、つつがなく会を終え今年度も友好な関係を築き上げることは出来た。

 だが涙ぐましい努力の代償か、帰りのバスに乗り込む頃には周囲が萎縮するレベルの仏頂面になってしまっているのだった。

 

 

 

「副会長さん、さっきから怖い顔すごいですねぇ。表情筋の限界来ました? それともやらかしちゃいました? 悩みがあるならこのペドロリーノ! ビシっと解決いたしますよ!」

 

 

 そんなエアグルーヴの横に座っていたあるウマ娘が、それを見かねてかまるで立候補をするように声をあげた。

 ウェーブのかかった金髪をたなびかせたウマ娘。名をペドロリーノといった。

 

「何も無い。私用で少々苛ついているだけだ」

 返答に対してペドロリーノはその言葉に手を叩いて笑う。良く言えば情緒が激しく、悪く言えばオーバーリアクションな動作は生徒会の間でも変わり者と噂される存在だった。

 

「ワオ、安心しました! でもあなたがそんな怖い顔してると周りまで萎縮しちゃいますよぉ。ほら、スマイルスマイル!」

 そう言ってエアグルーヴの頬に手を伸ばす。

 だがつれないエアグルーヴは、彼女の手がその頬に触れる前にその手をピシャリとはたき返されてしまった。

 しかし持ち前の底抜けの明るさが取り柄の彼女。そんな冷たい反応を返されても全く気にする様子を見せずにカラカラと笑っていた。

 

 

「……さっきの写真のことなんだが」

「はいはい! どうしました?」

 

 さっきの写真とは、行きの間にエアグルーヴが見た彼女のペットである犬の写真のこと。

 そう、エアグルーヴが、行きにうるさいと注意したことで何やらヒントを得るきっかけになった相手とはペドロリーノのことであった。

 

「久々に帰った時に、犬はお前のことを覚えているものなのか?」

「あ~……それはそれは痛い質問ですね」

 

 ペドリコールはエアグルーヴの質問にムムウと唸らせたかと思うと肩をすくめ、所謂「コメくいてー」ポーズをした。

「それがですね。犬ってのは可愛いんですけどあんちきしょうな生き物でもありまして。あたしが帰っても全然こっちに来やがらないんですよぉ! この前なんて妹の顔舐めてる写真が送られてきまして! あたしにはそんなことしてくれたことないのにぃ! ……まぁ元々私には甘えてこないんですけどね。犬は家族に順位をつけるなんて迷信もありますが、ホントかもしれませんねぇ」

 

「ああ。分かるぞ。自分がいない場で仲良くされると奪われたかのようなショックがあるだろうな。前まではそこに()がいた筈なのにな」

「あら、確信をつくような解答。何かのっぴきならない事情がありました? なーんて」

 

 

「ではお前はそういう時どうするのだ? そのままにしておくのか?」

「まっさかぁ。そういう時はこうです!」

 

 ペドリコールは目を見開くと手で喉をかき切って見せる。

 

 やるや否やエアグルーヴがその頭を小突いた。

「そういう下品なことをするな」

「い、いてて……。いやそれは冗談なんですけど」

 

「副会長さんもペットのしつけでお困りで? それだったらガツンと言わなきゃダメですよ!」

 

「そうですそうです! 厳しすぎるのもダメですが、あまり好き放題させても良くありません! 何故なら犬が人間を思い通りにしているんだと錯覚してますます好き勝手しちゃうんですよ。一回、ビシーっと怒ってみたらどうですか? 副会長さん怖いですからねぇ。きっと効果ありますよ。……あ、前に副会長に怒られた時の事思い出しちゃった。ブルブル」

 

 自分の肩を抱いて震えだしたペドリコール。

 打てば響く彼女の事は意外と気に入っているが、隙あらばふざけるその姿勢は如何なものだろうか。

 そんな隣ウマを放っておくことにしたエアグルーヴは、トレーナーから送られてきた写真をもう一度眺めていたのだった。

 

 

 


 

「あ~段々暑くなってきたなぁ……このまま夏迎えても、アタシ元気にトレーニングできているのかなぁ……っと」

 メジロドーベルが、今日の授業が終わりいつものようにトレーナー室へと歩をすすめる。

 復学してからは、メジロマックイーンやメジロライアンらが面倒を見てくれていたのもあるが驚くほどすんなりと学園に溶け込むことが出来ていた。

 

 初めは緊張で一杯だったメジロドーベルをクラスの皆は対して全く邪険に扱うこともなく受け入れてくれた。寧ろメジロドーベルが周りを伺いながらあたふたとノートをカバンから取り出す姿に母性をくすぐられたウマ娘が多発。

 受け入れるを超えてあれこれとお節介を焼いてすらいたのだった。

 

 

 そんなことを思い返していると、目的地にたどり着く。

 昨日はこの扉を開けると、暗い部屋の中でレース映像を前にブツブツ言っているトレーナーがいて驚いたものだ。

 

 ──またあんな事してるわけじゃないよね? 

 メジロドーベルは昨日トレーナーの背中を観た時、自分が幼少期にメジロ家のテレビで深夜アニメをこっそりと観ていたときを思い出していた。

 あの時は途中で使用人に見つかり、目を悪くするのでいけませんとたしなめられていた。

 当時は釈然としないまま部屋に戻るしかなかったが今では使用人の気持ちが理解できていた。

 今日こそはまともでありますように。そう思いながら開けるとまず目に飛び込んできたのは室内灯の灯りだった。

 

 ──良かった。今日はちゃんと電気つけてるんだ。……いや別に心配していたわけじゃないけど! 

 

 心の中で誰かに言い訳をしながらも、既に中に二人いることに気づく。

 

 一人は窓の外を見ながら何かを食べているエアグルーヴ。

 そしてそれを横目に見ながらパソコンの前で作業をしているトレーナーだった。

 

「エアグルーヴ先輩! 昨日はお仕事お疲れさまでした。……何を食べているんですか?」

「ああ、これか? あやつからの貰い物だ」

「へぇ、珍しいですね」

 

 多くのトレーナーは来客への茶菓子代わりや生徒への差し入れ、はたまた自分で食べる用など様々な目的として何かしらの菓子をストックしている。

 ウマ娘は喜んでその恩恵に授かる者が多く、メジロドーベルもその一人だったが一方でエアグルーヴはめったに食べようとはしなかった。以前その理由を以前聞いた時ことがあり、その時は『 アスリートの身としてはむやみやたらと間食をする気にはならんのでな。余程疲れた時を除けば極力我慢している』と事も無げに答えていてメジロドーベルはそのストイックさに驚愕したものだ。

 

 

「スーパーとかコンビニで売ってるやつだけどな。ストックしているんだ。お前も食べるか?」

 トレーナーが口を挟みながらガラガラと冷凍庫を引き出す。

 その中にはバニラ味やチョコ味などのいくつものソフトクリームが入っていた。

 

「ありがとう」

 メジロドーベルはこれを素直に受け取り包み紙を剥いで口に運ぶ。うん、おいしい。

 学校で食べるお菓子というのは三割増しで美味しく感じるから不思議だと思う。

 

 すると、先輩も今これを舐めているということは今余程疲れているのか、と疑問に思った。トレーナーに聞いてみると

 

「ここに帰ってくるやいなや不機嫌そうでな。何か言いたげだったんだが俺には心当たりが無いんだ。無駄に怒られる前にあれ与えて大人しくさせようと思ってな」

 とのことだった。

 

「そうなんだ。というか先輩、ソフトクリーム好きだったんだ」

「それがな、子供の時から好物らしいぞ。他の菓子と違って舐めて食うだろ? その感触が気に入ってたらしくてな」

 

「……流石だね。詳しいんだ」

 メジロドーベルは、ソフトクリームが溶けてしまう前に一生懸命舐める幼少期のエアグルーヴの姿を想像する。あの真面目な先輩にもそんな可愛らしい時代があったのかとクスリと笑う。と同時にそんなことを語る信頼関係があることを初めて知る。先輩は、あれこれと自分の過去を語るイメージが無かったのだ。

 

「はは、あいつは普段から色々抱え込むからな。いざって時癒してやれるよう趣味とか好きな食べ物を聞き込んでるんだよ。いわばアンガーマネジメントってやつだな」

 トレーナーがしたり顔で笑う。

 

「ふーん。トレーナーってそういうこともするんだね」

「ああ、トレーナーってやつは指導がうまけりゃいいわけじゃない。メンタルケアも大事な仕事さ。この学園の中には公認心理師の資格もってる奴までいるんだぞ。レースの管理や体のケアまで幅広くやって勝利まで導く、そんな様子から『調教師』なんて形容されたこともあるんだ。それも一概には否定できないかもな」

 するとここまで聞いたメジロドーベルの顔がみるみるうちに赤くなり耳が垂れ下がる。そして我慢できないといったように叫んだ。

 

 

 

「ちょ、調教って……何言ってんの! バカ! 変態!!」

 

 

「なんで!? 俺が自称してるわけじゃねえよ!」

 トレーナーが慌てて言い訳をするが時すでに遅し。そのままメジロドーベルは部屋の外へ出ていってしまった。

 後で弁解の機会はちゃんと与えてくれるのだろうか。

 

 

 勿論トレーナーが言った意図は、意外とムッツリだったメジロドーベルが思ったような、疚しい意味では無い。

 

 かつて雑誌のインタビューか、それともネットの記事だったか。

 昔、サーカスをイメージした勝負服を着てパドックでちょっとした曲芸をやるのを恒例としているウマ娘がいた。レースの実力は、厳しい言い方をすればどこか伸びが足りず惜しいとこまでしか到達できない娘だった。だがその華やかさもあり当時重賞未勝利とは思えない程ファンが多かった。

 この世界は勝者が正しい世界。そんな姿に勝ちにこだわる一部のファンからは批判もあった。

 

 だが最後の引退レースで、彼女は一つだけ勝ち星をあげることができた。

 あの時のメディアの盛り上がりはG2だとは思えない程大きく、ほんの一時ながら脚光を浴びることになった。その時の担当トレーナーのインタビューの見出しに書かれていたのが、「あの波乱の大舞台、その裏で寄り添った調教師の思いとは」だった。

 

 サーカスのライオンや水族館のイルカのように、飴と鞭を巧みに使い人に懐かせ、芸事を覚えさせるプロ。大勢にエンターテイメントを提供するという立場も近しいものがあり、トレーナーはその見出しに共感し、記憶の中に印象深く残っていたのだ。

 

 

 そんな経緯があったため何気なく雑談に絡めたのだが、結果として中々最悪な受け取り方をされてしまったようだ。

 トレーナーがつい項垂れていると、それまでずっと窓の景色を眺めていたエアグルーヴがゆっくりと振り返って衝撃的な発言をした。

 

 

 

 

 

 

「フッ、私も"調教"されてしまうのか?」

 

 

 

 まさかの追い打ちにトレーナーはその言葉を咀嚼するのに時間がかかり、重い口を開く。

 

「お前までそんな事言うのか……。からかわないでくれよ……というか聞いていたのか」

「声を絞っていたのか? 同じ部屋であれだけ騒いでいたら聞いていないわけがないだろうが」

 

 それはそうかもしれない。

 

 

「それにしても、からかうな、だと? それはこっちの台詞だ。こちらが学園のために動いている間に、ドーベルと肩を並べた写真を寄越されるとは思わなかったぞ」

 

 先程の冗談をいうような軽さから一転、トレーナーを責める口調に切り替わっていく。

 トレーナーはスマホを取り出し、エアグルーヴに送った写真をもう一度見返す。

 

 言われるまで気付かなかったが、確かにメジロドーベルとは肩が触れ合う距離にまで近かった。これでは、最悪セクハラと捉えられてもおかしくないだろう。

 男が苦手なメジロドーベルがそれに何も言わなかったのは、勢いで撮った写真だったのでそこに意識が向いていなかったのだろう。

 

 

「お、おいもしかして俺があいつとイチャついているとか思ったのか? この写真は確かに迂闊だったが」

 

 

「調教ねぇ……。確かに相手を自分の思うようにコントロールするのはさぞ気持ちが良いだろうな。私に言ってみればいいだろう? 貴様は、どうしてみたいんだ、んん? ドーベルの言う通りだな。もしそこに快を感じていたのなら変態などと言われても仕方がないなぁ? もうじき貴様と組んで半年が経つが、そのような癖があるならば隠さずに言えば良かったものを」

 

 

 次第にスイッチが入ってきたのか、エアグルーヴはトレーナーの言うことにも全く耳を貸さずに息をつく間もなく罵倒をする。

 それは、普段の論理だった説教とはかけ離れたただの言葉尻を拾っただけに過ぎない。だがそれを分かっていてもその圧の強さが反論を許さない。

 

 

 

 

 

 だが、トレーナーは分からなかった。自分がおかしくなったのだとすら思った。

 

 

 

 

 エアグルーヴは自分に怒っているのはずなのに。何故そんな彼女の言葉から、

 

 

 

 

 

 普段聞いたこともない程の艶を感じたのか。

 

 

 

 

 

 

 そのまま呆気にとられていると、エアグルーヴがつかつかと近づいていることに気がつく。

 先程距離が近かったことを責められたばかりだ。思わず一歩二歩と後ろに下がる。

 

 

「おい、逃げるな」

 

 

 だがエアグルーヴはそれも許さない。左手でトレーナーのネクタイをぐいと引っ張り逃げられなくする。

 当然更に二人の距離は縮まる。お互いの息がかかるまでに。

 

 

 トレーナーよりも背が低いエアグルーヴは必然的に見上げる形になる。

 しかしその視線の強さは上目遣いなんて生優しいものではない。

 そのままエアグルーヴは言葉を続ける。

 

 

「……ふん、呆けたように口を開いて、言葉も出ないか? 貴様は豪胆なのか小心なのかわからんな。ドーベルの前で散々私のことを分かったような口を聞きおって。これを食いさえすれば調子が上がる、なんて甘ったれた見通しなのだったとしたら、私も()()()()()ものだな」

 

 

 

 そして、右手に持っていた()()()()のソフトクリームをトレーナーの開いた口に突っ込んだ。

 

 

 

「!!?」

 

 途端、冷覚が痛みとして口の中に突き刺さった。トレーナーは慌ててソフトクリームを自分の手で支える。

 これで垂れてワイシャツについてしまったら後々の洗濯が面倒くさくなることは自明だからだ。

 

「それはくれてやる。……甘いだろう?」

 

 エアグルーヴはそんなトレーナーの情けない姿を一歩離れて見つめている。

 もしも第三者がその光景を見ていたら、その異様な光景に言葉を失うだろう。

 

 ようやく彼女の溜飲も下がり、今日初めての笑顔を浮かべながら立ち去っていった。その笑顔はとても少女が浮かべるような純粋なものではなく、『愉悦』を体現したような笑顔だった。



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#11 影遠く。然れど遠からずして

「……何でソフトクリーム持ってんの?」

 グラウンド端のベンチに座って、レース用のメモ帳を見直していたアタシの元にトレーナーがやってきた。てかこれから走るって時に何呑気に食べてんのよ。

 

「エアグルーヴに強制的に差し入れられてな」

「は?」

 

 どういう事なのか。意味が分からないのでトレーナーから事の顛末を聞いた。

 

 

「……ふーん。イライラしていたのかな? 災難だったね」

「俺も、何がしたかったのかよく分からんよ。急いで食うからちょっと待ってて。むりやり口に突っ込まれたから歯が痛えんだわ」

 必死に甘い物を急いで食べている姿。……これが子供なら可愛らしいものだけど、大人だと見方が変わるものだなぁ。悪い意味で。

 

「メジロドーベル、教えてくれよ。ウマ娘ってそうしたくなる習性があるのか?」

「……糖分とりすぎで頭おかしくなったの? そんな愉快な習性、ホントにあると思ってる? 仮にもしあったらトレーナーだったらとっくに学んでるでしょ」

 

 トレーナーが最後のコーンを口に放り込みながら変な質問をしてきた。呆れてそう答えると、トレーナーが反論してくる。

 

「そうでもないぞ。俺らが学ぶお前たちウマ娘の生態ってのは、所詮教科書の文でしかない。結局他者理解ってのはコミュニケーションをしなきゃ本当の所は分からないだろう? 種族も性別も違う俺らは、地道にそれを積み重ねて理解していくしか無いんだよ。ウマ娘の機微ってのを本当の理解することなんてできないんだけどな」

「分かった分かった。アンタがあれこれ考えてアタシ達と接しているのはよく分かったから」

 

 めんどくさい。アタシは走りたいから戻ってきたのであって、アリストテレスよろしく他者と議論するために来たのではない。

 この妙に理屈っぽい所はトレーナーの性なのか、将又ただのこの人の個性なのか。几帳面な先輩には合ってると言えるのかもしれないが。

 

「そんな気にしなくてもいいでしょ。日によって機嫌が移り変わるのはアンタにだってあるでしょ?」

「……不機嫌なアイツは腐る程見てきたがこういう発散の仕方は初だったんだぞ」

 

 いやそんな暗い顔で言わなくても。腐る程って言葉が重いよなんか。

 

「じゃあ発散の仕方に変化をつけたかったんじゃない?」

「そんな部屋の模様替えするみたいなノリですることか?」

 

 一々言い返してくるトレーナーにこれ以上付き合う気が失せたアタシは、半ば無視するように手元の紙に目を落とすことにした。そんな気になるなら、もう直接先輩に聞けばいいじゃないかと思う。

 

「……思春期なのかね」

「あ、それで片付けちゃうの?」

 

 アタシの態度を察したのか、トレーナーも諦めたように話を終わらせた。というか、あーだこーだと悩んでた割にそんな雑な結論でいいのか。いやアタシは関係ないから別にいいんだけど。

 

 

(あ、そうだ)

 アタシは、とあるお礼をトレーナーに言っていなかったのを思い出した。

 

「ねぇ。この前は勉強みてくれて、その……ありがと。流石に教職なだけあるね、分かりやすかった」

 

 

 実は最近、今までの授業の分かんなかった所や少し先の範囲をトレーナーから教えてもらっていたのだ。

 一応自宅で自学はしていたのだが、所詮は自学。効率面ではかなわない。進んだ範囲まで教えてもらったのは補習で走る時間が取れなくなったら嫌だから。

 ライアンにみてもらおうとも思ったが彼女の筋トレの時間を奪うのも悪い。

 そんな訳で半ばダメ元でトレーナーに頼んでみたのだが、意外にも快諾してくれたのだ。それからちょくちょく個別指導の様な形で色々教えてもらっている。

 

「どういたしまして。流石に大学受験対策とかだったらちとキツいが、教科書レベルだったら一応教えられるからな。……それに『ト、トレーナー……勉強、教えて……』って涙目で言われちゃあなぁ。流石に手を差し伸べないわけにはいかないだろう」

「うん、助かったよ……って、はぁ!? 何それ、大嘘じゃん! アタシそんな言い方してない!」

 

 

 すると周りから生暖かい視線を感じる。気づけばアタシ達周りだけやたら騒がしかったらしい。もうアタシは泣く泣くこれ以上の抗議ができないまま沈黙するしかなかった。

 

(もう折角目立たないよう端っこにいたのに! トレーナーのバカ!)

 

 心の中の恨み節に気づかぬまま、トレーナーは隣であくびをしながら先輩のアップが終わるのを待っていた。

 

 

 仕方なくアタシも大人しくもう一度ストレッチをする。

 

(いち、に。いち、に)

 アタシの膝も、振り返ってみると最初は情けなくバキボキと音を鳴らしていたものだが、今ではすっかりしなやかに動いてくれている。お陰で春よりも大分足が軽くなった。

 初日なんて、膝が鳴ったアタシを見たトレーナーが、それを見て笑っていたものだ。ああ最悪。

 

 上半身を回しながら、数ヶ月前の、復学してすぐの事をふと思い出す。

 久々の校舎に少し迷いながら辿り着いた新しい教室。逃げるように突然居なくなってしまったアタシを、皆は受け入れてくれるのだろうかという不安があった。

 だけどそんな思いを抱えながら入室したアタシを、クラスのみんなは思った以上にすんなりと暖かく迎えてくれた。……というかすんなりしすぎて最初の一言が「あ、おひさー」だったのは流石に軽すぎてビックリした。アタシの緊張かえして。まぁお陰でアタシもそれ以上緊張すること無く馴染めたのだが。

 

 目立たなくしていたアタシだったが、時が経ち模擬レースの時期が終わったあたりから状況が一変。トレーナーについて四方八方から質問攻めを受けるハメになった。

 

「ねぇねぇ、トレーナーさんってどんな人なの!?」

「あーあ。私もそろそろいいトレーナー捕まえないとなぁ。ねー何かコツとかないの?」

 

 トレーナーというのは、そんな彼氏の様なノリで探すものじゃない気もするが……とはいえ彼女たちの気持ちは分かる。一見軽い口調で隠しているが、皆次第に大きくなっていく焦る気持ちを抱えているのだ。

 

 アタシがいるクラスではまだ3分の1ほどがトレーナーがついていない。所属トレーナーの数が絶対的に足りていないとはいえ、つい最近まで一緒に燻っていた身としてはどうにか出来ないのか、と思う。

 結局トレーナーがつかなかったウマ娘達は、教官所属で練習に励むことになる。教官にしごかれながら友達と部活感覚で走る生活。それはそれで楽しいものだろう。だがそうしている皆は、口に出さないだけで思いは抱えているハズだ。

 

『これが、中央に来てまで私がやりたかったことなのだろうか』という、現状への不満が。

 

 ……だからといって、悩むクラスメイト達にアタシがアドバイスをする事なんか出来ない。

 だってアタシ自身何でトレーナーから選ばれたのかもいまいち良く分かってないのだから。

 

「それは、きっと順位関係なく貴方の走りに光るものを見つけてくれたんだと思うよ。それって何だか運命的で、素敵じゃない!」

 

 苦し紛れにそう言い訳したアタシに対してクラスの誰かがそう言ってきた事が記憶に残っている。特にある言葉が、その後も普段の日々の中で繰り返し反芻されている。

 

 

(運命。運命。……運命、か)

 

 

『運命』。アスリートとして地道な努力を積み重ねるべきアタシ達が使うべき言葉ではないかもしれない。だが三女神の噂といい、この学園にはオカルティックな噂やジンクスも多いのだ。

 というかよくよく思い返してみればトレーナーとの出会い方は模擬レースよりもっと前、学食の時なのだ。契約した時ですら気づかなかったが。

 そんな、我ながらよく分からないきっかけだったが、事実だけ客観的に見ると、確かにドラマティックとも言えるのかもしれない。登場人物を美男美女に変えてしまえば、まるでアタシがよく読む少女漫画みたいじゃないか。

 

 教室でそう思ったアタシは、いつものアイディアが閃いた時の癖で、制服のポケットの中に入れているメモ帳にささっと走り書きをした。

 趣味で書いている少女漫画。今までは人様に見せられるような出来ではないが、ゆくゆくは同人誌として出してみたい、と思う。

 マックイーンやライアンにも秘密にしている趣味だが。だってこんな趣味バレたら生きていけない。恥ずかしすぎる。

 

 だが一点問題がある。

 

 仮に漫画としてこの状況をあてはめてみるとトレーナーが王子様ポジションになってしまうのだ。

 

(あの人が? ……いやいや、ないない)

 

 無駄にアタシに馴れ馴れしいこんなヤツが王子様なんて。走りや勉強の面倒をみてくれているのは感謝しているがそれとこれとはまた別だ。

 自らの思いつきを否定したところで、グラウンドの向こうがザワつき始めた。

 その声たちを背に、一人こちらに向かって歩いてくる影。

 

 

「……? 今日はやけに騒がしいな」

 いつも以上に集中した、凛々しい顔つきをしているエアグルーヴ先輩。

 入院から明けたエアグルーヴ先輩は今日から本格的に練習に復帰するのだ。

 

 

 以前お見舞いに行った時に話はしていたが、改めてテレビの前にいた存在とこうして隣でストレッチをしている事が信じられなかった。

(ああ、やっぱ空気が変わるな)

 今までのトレーナーとの練習が気が抜けていたとかでは無く、先輩が生み出す空気が特別張りがある。すごい、G1ともなるとここまでの空気を生み出せるのか。

 周りの関係ないウマ娘たちもあてられているのかグラウンド一帯が異様な雰囲気に包まれている気がする。浮き足立つ体を抑える。

 

「メジロドーベル。ちょっといいか?」

 周りに気を取られていた私にトレーナーが話しかけてきた。

 

「何?」

「お前も知っている通り、今日からエアグルーヴも復帰する。悪いが、暫くの間は今までしていた様につきっきりにはしてやれないだろう」

「うん、だろうね。分かってる」

 

 まだOP戦にも出ていない私と、ティアラ路線のウマ娘たちが夢見るオークスの舞台に挑む先輩。どちらを優先するかなんて考えるまでもないだろう。

 

「特に初日だから、俺も今日はあいつに専念したい。今日は昨日と同じメニューをこなしてくれ。メニューはこの紙に書いてある」

 受け取った紙を見ると昨日までやっていた調整用のメニューが書いてある。

 

「ああ、何だ。くれるんだったら態々アタシが書き写す必要なかったね」

 トレーナーが来る前まで読んでいたメモ帳の中身を少し見せる。今までやっていたメニューを思い出しながら書いていたのだ。

 

「……驚いた。熱心なんだな」

「そんな事ないよ。……あ、あのさ。……熱心ついでに、一つ頼みたいことがあるんだけど」

 

 実は先輩が帰ってくる日を知ってから、トライしてみたい事がアタシの中に一つあった。こちらに顔を向けたトレーナーに、一つ提案をする。

 

「……あのさ。アタシも、先輩と同じメニューで、一緒に走ってみたい」

 

 しかし、トレーナーは渋い顔をする。

 

「それは……良くない」

 トレーナーが言葉を続ける。

 

「お前のメニューだって、開始時期にしちゃあ負担は重い方だ。別にぬるくしてるわけじゃない。そこから更に練習のレベルを引き上げても怪我に繋がるだけだ。そりゃあ、あいつもまだブランクがあるさ。その分強度は抑えている。それでもとても、お前にさせるような練習じゃあないよ」

 

 違う。アタシは、別に今のメニューに不満を持っているわけじゃないのだ。

「分かってる。アタシも別についていけるなんて思ってない。でも同じ距離を走る先輩として、どんな練習をするのかを見ておきたいんだ」

 

 トレーナーに体のいい言葉で説得する。

 純粋にレース前にはどんな練習をするのかという興味。ここで経験しておくことで何か新しいことを掴めるのではないかという期待。……ここで憧れの先輩に、少しでも良い所を見せたいというミーハーじみた願望。そんな思いは隠しておく。

 

「うーーん……でもなぁ……」

「良いではないか、何事も挑戦だ」

「先輩」

 それでも反応に乏しいトレーナーを黙って見ていた先輩が、ふとこちらにやってきて話に入ってきた。

 

「エアグルーヴ。だがそれでこいつに何かあったら」

「そうならない為に管理者たる貴様が居るんだろうが。それとも出る杭を打つ様な真似をするつもりなのか?」

 

 話し合いの末、最終的にはトレーナーが折れた。そしてそのまま、一人分増えた道具を取りに一旦倉庫に戻って行った。

 二人でいる間に、助け舟を出してくれた先輩にお礼を言わなければ。

 

「ありがとうございます。説得を手伝ってくれて」

「あやつに言った通りだ。せっかくやる気になっているならそれを無下にするのもどうかと思ってな」

 

「おーい、おまたせ。そろそろ始めるぞ」

 戻ってきたトレーナーの言葉に反応した先輩が立ち上がる。

 そのまま立ち上がるついでに、アタシに最後に忠告した。

 

「だが、言っておく。ドーベル。ついていけなくなったら『自分の判断』で抜けろ。いいな?」

 

 その言葉の意味はそこから1時間足らずでとくと思い知らされる事になる。この時のアタシはよく分かっていなかったが。

 

 


 

「はぁっ……はぁっ…………」

 鉛の様に重い体。泥の様に上がらない足。それでも必死に動かしているのに思ったように前へ出ない。呼吸をするのも一苦労なほどに筋肉が疲れている。息が熱い。喉の奥が乾いて、とても嫌な感じがする。このまま呼吸を繰り返せば血の味がしてしまいそうだ。

 先輩よりもいっぱい休憩を貰っている筈なのに、なぜあの人はまだ走っていられるんだ。

 

「ペースが乱れてるぞ! 姿勢を崩すな」

「……くぅっ! あああ!」

 トレーナーは先輩に強い口調で指示をしている。言われた先輩もその言葉に鞭打つように速度を上げた。

(練習中になると雰囲気変わるんだな。あの人も。……あんな顔初めてみた)

 

 やっているメニューは、体幹トレーニング。タイヤ引き。ラダー。坂路。

 内容自体はそう特殊なものではなかった。

 だが違ったのはそのかかってくる負荷。今もただのランでは無く、バカみたいに重い蹄鉄をつけながらランをしている。

 

 体力が尽きたアタシの状況はトレーナーはも気づいているだろう。仏頂面を作って、何でもないような顔をしているが先程から頻繁にこっちを見ているのが丸わかりだ。

 だがそんなトレーナーとは対象的に、先輩は残酷なまでに一切こちらを見ることなく前だけを見て練習を続けている。

 

 足を止めるな。食らいつけ。これは、自分で望んだ事なのだ。

 

 先程まで何十回とそうしていた様に、必死に折れそうな心を、己を鼓舞する。……が、もう限界が目の前まで来ていた。

 

 

 

(……ああ、もう、だめだぁ)

 

 諦めたアタシは、ゆっくりと体の重心を左側へ傾けて、コースの外へ体を持っていった。

 最後に一瞬だけ、周りを見回す。

 

(うん、ここは邪魔にはならなさそうだ)

 頭の端っこで冷静にそれだけを確認すると、全身から力が抜けていって最後には地面へと体を預けていった。

 

 

(もたなかった。とても、とてももたなかった)

 

 目が開かない。周りが静かだ。練習真っ只中なグラウンドが静かな訳はないのに。

 アタシの耳が仕事をしていないのだろう。今アタシの体で仕事をしているのは、まだ酸素が足りないとばかりに動き続ける肺と全身の汗腺くらいだ。

 

 ……先輩の姿は、余りにも遠かった。ラン中は一回も追いつけず周回遅れで追いつかれてばかり。

 

 正直、憧れの存在と練習が出来ることに、色めき立っていたと認めざるを得ない。顔に出ないように取り繕ってはいたが、ずっと今日の練習を待ち望んでいたのだ。

 

 先輩が最後に言った言葉の意味をここでようやく理解した。

 続けるも諦めるも自己責任。遅い側に合わせる事はしないから引き際は自分で決めろ、という忠告だったのだ。

 

 冷たい、とは思わない。先輩の練習に邪魔している側はこっちだ。でも少し自分の状況を再確認して、心が傷んだのもまた事実。 

 

 こうして休んでいる間も、天から降る強い日差しが痛い。目を閉じているのに視界が真っ赤になる。

 日陰に移動しなければ。そう思っているのに足が上がらない。

 

 そのまま倒れ込んでいると、足音がした。

 するとさっきまで真っ赤になっていた視界が突然ふっと暗くなった。ゆっくりと目を開くと、トレーナーの手があった。

 

「お前のタオルとスポドリ、置いとくぞ。あと動きたくないのは分かるがここでは休むな。日陰にいけ。このままだと熱中症になるぞ」

「…………うん」

 相槌をするのが精一杯だったが、アタシがちゃんと反応を返したからかトレーナーの顔がふっと緩む。

 

「……早く、戻った方が、いいんじゃない? 先輩、待ってんでしょ」

「お前の無事を確認したらな」

 

「……バカだと、思った? アタシの、事」

「まさか本当にぶっ倒れるまで続けるとは。そういう意味ではバカかもしれんな。でも嬉しかったぞ。お前も熱い一面があるんだって分かったからな」

「……うるさい」

 

 

「二人って、練習になるとああなるんだね」

「……普段はもうちょっと大人しいぞ? 今日はちょっとピリピリしてるかもな」

 

「しょうがない、よ。早く走りたくて、ウズウズしてるんだよ。あんな事言っといて、早々に倒れたアタシが言っても説得力無いか」

「いや、きっとそうなんだろうな。俺もそう思うよ」

 

 

「おい! 早く戻ってこい!」

 今もまだ走っている先輩が怒っている。あの様子だとアタシが抜けた事に気づいてもいないかもしれない。

 

 

「行きなよ。ちゃんと、向こうで休むからさ」

 トレーナーが持ってきてくれたドリンクのお陰で息も整ってきた。もう少ししたら、動けるだろう。

 

「分かった分かった。……お前には期待してるんだからな。自分で自分を壊すようなことはするなよー?」

 そう言ってトレーナーが去っていった。

 

 

(良い所どころか、カッコ悪い所見せちゃったな。……トレーナーにも)

 

「……ああ……くそっ」

 アタシは初めての本格的な練習。あの人は本番前の追い込み。今までの蓄積もある。しかもあの人は同世代の中でも突出した成績を持っている。大勢が納得するであろう、体のいい言い訳はいくらでも思いつく。……だが。

 

「くやしいなあ」

 

 不思議と湧いてくる敗北感。無念さ。

 こんなアタシにも自信の欠片でも芽生えたということか。我ながら烏滸がましくて可笑しなるような『飢え』の感覚。

 だが、悔しさはあれど後悔は無い。アタシはまだ始まったばかりだ。未来は負けてばかりになるかもしれない。でも最後には、あの先輩の影に追いつけるように。

 

 今日感じた事は忘れないようにしよう。

 アタシはゆっくりと立ち上がって、体を冷やしに行きながらそんな小さな決意をしたのだった。



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