鬼と世界とSCP (アルビノ鮫)
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壱話 上半身しかない猫が迷い込んだようです

 

 「あちゃあ……遅かった…」

 

 目の前の光景に私は溜め息を吐いた。

 「なゃあん」と猫が鳴く。まるで返事をするように。

 

 

 数分前に私は洗濯物を取り込み、それらを室内へと全て移動させた。

 中でもタオル、と呼ばれる西洋の手拭いは給水率がすごい上に手触りも良くて…干し終わったそれはとてもとても、罪深いほど心地の良いものだった。

 けれど、そんな良いものはかなり高価なのではと私は睨んでいる。けれど彼は値段を教えない上、私を気遣い……全くいけない人。

 汗ばみそうな頬を押さえ、ゆっくりまばたきをする。

 

 

 とにかくそんな、ふわふわの洗濯物らの暖かな熱と感触に惹かれたのだろう。

 家のどこからか私が部屋を出て目を離したほんのわずかな時間で猫達が集まりイタズラをしていたのだからため息の一つも出るというもの。

 

 とある猫は中へ潜り込み、とある猫は上に乗り…とある猫は我関せずとばかりに縁側で寝転んでいたが。

 

 

 「…もう。イタズラしちゃダメだからね」

 

 洗濯物の上で体を擦り付けていた小さな猫を抱えて退かす。抗議なのか「なぁん」と鳴かれる。

 中に潜っており、唯一見えている灰色のキジトラ模様の前足をトントンと指先で軽く叩けば、勢いよく引っ込む。

 

 その行動に対しどうしようもなく笑みがこぼれ落ちてしまう。

 ああ、なんて愛らしいんだろう。こんなイタズラをされても許してしまいそう。

 

 

 …でもそれはダメだ。自己嫌悪。

 洗濯したばかりなのに猫の毛まみれになった事はなあなあにしてはいけない、どっちにしろすぐに猫の毛まみれにはなるのだけれど。

 

 「ほら出ておい……あれ?」

 

 洗濯物を一枚、また一枚とめくっていけば灰色のの毛色と虎模様が現れる。

 暗闇にいた事で真ん丸だった瞳孔が細く変わり…それもまた愛らしいけれど、そうではなくて。

 

 

 ……この子は誰だろう?

 

 

 頭をよぎった考えと同時に首を傾げる。

 

 灰色のキジトラなら見慣れている。けれどその見慣れた顔と少し違う。

 目の大きさが、口の形が、ヒゲの長さが、模様だって全然違う。虎猫が一瞬の内に顔を変えたのでなければこの子は別猫だ。

 

 「猫ちゃん?どこから迷い込んできたのかな…?とにかく出ておいで」

 

 さらに一枚洗濯物を猫の上から退け、じっとこちらを見上げている大人しい猫の両脇の下に手をいれて抱き上げる。

 その体はなぜかとても軽くて。

 

 「よいしょっ、と……。……ぇっ」

 

 

 

 

 持ち上げたその猫には、お腹から下が何もなかった。

 

 

 

 

 

 

 ** SCP-529 **

 

 

 

 

 

 

 玄関を出て直ぐの開けた場所で私は薪割りをしていた。

 パキン、と綺麗に割れた音が心地良い。

 

 横に重ねてある丸太と割られた木々の数々。触った感覚からして……残りはあと僅かだ。

 早く終わらせようと斧を構えた、その時だった。

 

 「ひゃわぁぁああ!?!」

 「!?」

 

 突如家の中から悲鳴が聞こえた、それもちょっとした驚きなどではない心の底からの声が。

 ひやりと嫌な気配が背中を走る。

 

 斧を切り株に突き立て、素早く玄関に移動する。

 扉の向こうからもバタバタと大きな足音を立てながらこっちに向かってきているのがわかる。

 

 なんだ、何があった。

 虫や蛇が出たなどではない、それだけではあんな悲鳴を上げないだろう。

 獰猛な獣の気配などは感じなかった、いくら薪割りをしていたとしてもそれくらいはわかる距離だった。

 

 ならば?

 

 

 「ぎっ、ぎ、行冥様!ま、迷い猫がすっぱりと半分で…!なのに、けれど、とても愛らしくてですね…!」

 

 扉を開け玄関に入れば廊下の向こうからやってきたまい子が勢いそのまま私の胸元の布地に震えた手ですがり付く。

 上がり框のおかげでいつもより身長差が近いためか、困惑しきっている気配とほんの僅かな距離を走ったとは思えない苦しげな息づかいが聞こえる。

 

 「とりあえず落ち着きなさいまい子」

 「ぁ、は…はい…」

 

言葉が支離滅裂で意味がわからない、そう暗に示し細い肩を掴み、鎮(しず)める。

 

 

 大きく呼吸を繰り返すまい子。

 …そうして十数秒後、乱れた呼吸が大分ましになってきた彼女が言葉を紡ぐ。

 

 「えっとですね、ねこ…一匹の猫ちゃんが迷い込んできていまして…」

 「猫?」

 「はい。その子は…なんと言えば良いですかね……えっと、その猫ちゃんは、お腹から後ろの足や尻尾等が何もないのです」

 

 その言葉を聞いて脳内に浮かんだのは血を滴らせながら必死に助けを求める姿だった。想像だけで哀れに感じ流れる涙はともかく、疑問が残る。

 その姿がいかに哀れだったからといって、あんな悲鳴をあげるだろうか?

 

 「…怪我をしているという事か?」

 「いえっ、血も出ていなくて。むしろ生きている事すら信じられないほどなのですが…しかし確かに元気に動いていまして」

 「………」

 

 追加の言葉を聞き不安な考えが一つ思い浮かぶ。

 

 まさかその猫……いや、猫の姿をした鬼なのでは、と。

 

 陽が沈むにはまだまだ早い、しかし雲などで遮られている間に行動をして室内へと入り込んでいたとしたら?

 油断を誘うため小動物の姿をしていたとした?

 そもそもその姿すら幻惑でない可能性がどれだけある?

 

 危険な可能性が微かでもあるのならば、私は微塵も油断しない。

 

 

 その"猫"がいる場所を確認し、玄関内に置いてある"仕事道具"を手に取れば戸惑いと怯えの気配が。

 

 「えっ、いやそんなまさか…」

 「陽が射しているのならば外に出ていなさい、私が声をかけるまで入ってこないように」

 「は、はい了解しました…部屋の中にはまだあの子達がいます!…あの…気を付けてください」

 

 私とあの子達、両方へと気遣う言葉を貰い廊下を進む。

 猫。山にある我が家。小さなその姿、逃してしまえば追うのも厳しいだろうが少なくとも陽が出ている今ならば。

 

 

 襖の前に立つ。

 開いたままだ、逃げていなければいいが…中にいる幾つかの音を発する存在に耳を傾けていれば……む?

 

 

 「……まい子!庭の方へ来てくれないか、陽の射さない軒下は通らないように」

 

 遠く玄関の外から了承の声がする。

 そして土と小さな小石を踏みしめる音と共に現れる気配。

 

 「行冥様!もう終わっ……あれ?」

 「…その庭先を掘っているのが、例のヤツだろうか?」

 「…そうですね、思いっきり陽の下にいますねぇ…」

 「むぅ…?」

 

 私たちの困惑する声をよそに、ザリザリと未だに"猫"は砂を掘っていた。部屋の中からは…怯えた気配も音もなく、のんびりとしている猫達の気配がする。

 一体どういう事なのだろうか……嗚呼、南無阿弥陀仏…

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 行冥様はこの猫が"鬼"なのではないかと思ったらしい。

 

 確かにお腹から下が無くなっているにも関わらず、生きて動いているこの猫の存在を伝えればそうなっても仕方ないのかもしれない。

 裁断されたかのような上半身と下半身との継ぎ目はどれだけ目を凝らしても何も見えない穴でしかなく。

 

 この猫は鬼の不思議な力、血鬼術を使い動いている存在と考える事も出来る。

 けれど陽の光をもろともせず、日輪刀と同じ素材で出来ている鎖にもじゃれついていた。血鬼術ならば苦手などちらにも全く問題なく。

 

 鬼であるならば被害を出さずにいる奇異な存在で……。…しかし鬼でないならばこの子は何なのだろうか。

 

 

 「あ…喉を鳴らしていますね」

 「確かに…なんと、南無猫愛らしい…!」

 

 あれから、今現在の出来事を軽くまとめると。

 土を掘っていた猫を私と行冥様、二人で見守っていれば掘るのを終えた猫ちゃんがこちらを見て鳴いた。

 そして足元に近付いて匂いを嗅いできたその体を持ち上げ、縁側へと置いたあと私も行冥様も縁側へと腰かける。

 

 その後猫ちゃんは軽く周りの匂いを嗅いだあと、私の足元を登り、膝枕の体制になったあとことりと体を崩した。

 まるで眠りにつこうとせんばかりに。

 

 

 そして額や耳裏、喉を撫で続けていればぐるぐると音を鳴らしてくる……この可愛らしい猫が悪いものとは到底思えない。

 …と、考えてしまうのは浅はかでしょうか。

 

 「この子もしやただの下半身がない、ただの猫なのではないですかね」

 「うむ、しかしそのような体で通常生きていけるはずが……」

 「しかしこうして動いていますし…」

 「……南無…?」

 

 我が家にも猫は何匹もいる。

 それらの子達はどこも欠けてはいないが元気だ、その猫達と同じように動くこの子も元気だ。

 ならば?この上ない特有だろうが、もしかして?……そう考えるのは邪道で間違いなのだが、でも否定する根拠もない。

 

 

 「そもそもどこから迷い込ん…だ、と……」

 「ん?どうしまし……えっ!?」

 

 お腹から下がすっぱりと切られたように無い、それは見たらわかる事。

 しかし見えない彼はどうだろうか。

 

 どれだけ口で伝えたところで実際触ってみなければどうなっているかわからないだろう。

 

 

 猫ちゃんを撫でていた行冥様の手が…確かめる為か、はたまた迷い込んだのかはわからないが手首から先がすっぽりと切れ目に収まっていた。まるで暗闇に導かれるかのように。

 

 

 「えっ、手が入るのですかそこッ!?」

 「…私は今どこに手を入れているのだ…」

 「猫ちゃんの…その、体の、中になるのですかね?」

 「……なるほど」

 

 そのまま行冥様は手を入れたまま、ゴソゴソと動かした。中を探っているのだろう。

 一応猫の様子を確認するも、苦しむ様子も行動もなくむしろ喉を鳴らし続けていてご機嫌に見える。

 

 「いかがです…?」

 「うむ。中々奥深く、緩やかに曲がっている所もあり…触り心地は悪くない」

 「不思議ですねぇ、体の中を触られて痛くないとは」

 

 苦しまないならその不思議な場所を私も触ってみたいと頭によぎる。

 しかし見えているからこその謎の恐怖が沸き上がり中々伝える事が出来なかった。そんな事を考えている内に。

 

 

 『ンニャッ、シャアッ!』

 「むっ!?」

 「あ、猫ちゃん!」

 

 急に猫が身をよじり、威嚇をしたあと物凄い勢いで膝から飛び降り庭先を駆け抜け塀を飛び越え出て行ってしまった。

 

 「……逃げてしまいました」

 「触りすぎて嫌がられてしまったのだろうか…嗚呼、南無阿弥陀仏…」

 

 ポロポロと涙を流す行冥様をなだめながら逃げていった庭先とその先の塀を見上げる。

 先ほどの動きは前足しかないとは思えない…まるで四本足全てがあるかのような動きで、後ろ足のみが地面に付いてるだろう時は空中に浮いていたのだから。

 

 

 ゾワリと、なんとも言い知れない感覚が背筋を走った。

 

 

 

 「なぁーん」

 「!」

 

 そんな飛びかけた意識が小さな掠れた声で呼び戻された。

 見れば寂しがりで甘えん坊な、我が家のキジトラ猫が鳴きながら廊下を歩いてきていた。

 

 呆気にとられていた私と、鳴き声で存在に気付き腕を伸ばした行冥様に体を擦り付けてくる。

 その可愛い行動で再び涙を流している行冥様につい笑ってしまう。

 

 

 …うん、先程の半身の猫と色合いは似ているけれどやっばり顔は似ていないなぁ。

 

 我が家の猫の方が可愛らしい。

 …と感じるのは、贔屓目だろうか。

 

 

 

 

 




 SCP-529 半身猫のジョーシー

 オブジェクトクラス:safe(まぁ安全)

 腹部から下が何もない猫。本人(猫)はあるかのように振る舞っている。
 切れ目は真っ黒な穴になっており何も見えない。触ると緩やかな曲線になっていることを確認出来る。触ると喜ばれるが触りすぎると怒る。
 危険性は特にない。可愛い。


 SCP-529 http://scp-jp.wikidot.com/scp-529

 著者:不明

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弐話 ものすごく恥ずかしがりやなようです(前編)

・オブジェクトがオブジェクトですので残酷描写と死者が出ます


 

 

 でも見えたのは背中だけだったらしいよ。

 

 それは真っ白い体をしていてね。この季節だっていうのに(ふんどし)すら身に付けていない素っ裸で歩いていたらしい。

 背が高くて痩せ細っていて…目に見えない早さでいなくなったそうだ。

 

 きっとそれは妖怪だったんだよ。少なくとも人間とは思えないからね。

 

 君も気を付けた方がいいよ。山の中に向かったらしいから。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 あら雪が降ってるわ、と先生が小さく呟きつられるように窓の外に目をやれば…確かに。

 ヒラヒラといくつも白いものが空から降ってきていて、雪を見た途端ただでさえ凍えていた体の芯が更に冷え込んだ…気がした。

 

 ああこれは良くないな、と少しだけ思う。

 

 「もう春も近いですし、これで最後でしょう」

 

 いつもと同じように処方される薬を受け取り、代金を支払う。お財布と薬を巾着の中に入れて玄関で草履に足先を通す。

 外の虎落笛(もがりぶえ)が玄関扉からも漏れてきて、外の気温を冷酷に伝えてくる。

 

 

 「では失礼致しま……え?いえ、今は居ないので、外で待とうかと思っていますが…」

 

 引き戸に手をかけ、挨拶と共に出ていこうとすれば待ち合い室に腰掛けていた老年女性に声をかけられる。

 見れば隣には長年連れ添っただろう老漢(ろうかん)が。

 

 女性とは何度か顔を合わせ話した事がある。

 

 私が人里離れた屋敷に住んでおり、一人ではその屋敷に戻る体力が無く送迎をしてもらっている事を。

 そしてその相手が見当たらない事を不審に思い声をかけてきてくれたのだろう。

 

 

 ただでさえ忙しい彼の手を煩わせている、待つ、ではなく待たせて頂くのが当然。

 最高位の多忙な立場、職務の合間を縫って来てもらえるだけ感謝というもの。

 

 

 「…えっ、いやしかし、邪魔になってしまいますので。……確かに今日は冷え込みますが…」

 

 けれど彼女の考えは全く別のもの。

 

 忙しく決まった時間にこれないのなら。

 今から寒い外で待ち、風邪を引くような事になればそれこそ良くないだろうと。

 

 

 正論も正論をぶつけられ、何も返せない。

 お世話になっているからと迷惑をかけないようにすれば、最も迷惑をかけたくない人にかけてしまう。

 

 

 私達の話を聞いていた、私の体を誰よりも知っている先生も彼女と同じ事を紡ぐ。

 …ここまで言われて、心配されて。意固地に断るのは逆に失礼になるだろう。礼を良い頭を下げ、邪魔にならないよう待ち合い室に腰掛けた。

 

 

 すると仏顔をした旦那様から、別な理由で心配されていた事を明かされる。

 それは全く予想外な方面からで、街中に住んでいればご近所さんから井戸端会議か子供達の噂話程度で聞いていただろうもの。

 

 けれど文化果つるような所に住んでいる私には全く関わりがなく、初めて耳にするそれを興味深く聞いている内にいつの間にか刻々と時間は過ぎていた。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 「失礼する…」

 「!」

 

 七尺三寸程(約2.21cm)の大きな背を屈め、低音の聞きなれ落ち着いた声と共に彼が扉をくぐり入ってきた。

 

 「行冥様!申し訳ありません、表におらずお手数をお掛け致しまして…!」

 「構わない。院内で休ませて貰っていたのだろう?その方が…私としても安心だ」

 

 傍に駆け足で行けば大きな手のひらで制される。

 診察が終わった夫妻は帰宅しており、他の患者さんは誰もいない。がらんとしたそれは幸運な事だったたろうか。人々が健康な事は喜ばしく、閑古鳥が鳴く診療所は儲からない。

 

 しかしそんな考えは大きなお世話で、私がするべき事は滞在に対するお礼をいう事だ。

 行冥様の変わった風貌も職種も知っている先生は私の謝辞に対し謙遜し、彼に労いと怪我の有無をたずねた。

 

 

 「いえ、平気です…優しき心遣い感謝します。……さあ、家へ帰ろうあの子達が待っている」

 「はい、失礼致します」

 

 頭を下げ彼に続き引き戸を通り抜ければ、突き刺すような冷たい風が肌を強く撫であげ羽織を巻き上げる。

 強い風に倒れそうになるも行冥様が支えてくれ、そのまま玄関から続く石の階段で滑らないように腕をとったまま待ってくれていた。

 

 「ありがとうございます……行冥様は本当に暖かな手を持っていますねぇ。なぜ外にいたあなたの方が暖かいのでしょう?」

 「体躯と全集中呼吸をしている差だろう…しかし、ふむこの調子では家の周りは降り積もっているやもしれぬ」

 

 お礼を言う声が白い息になり空中にとけていく、鼻先や耳が冷たすぎてピリピリと痛む。

 待っていた時間も降り続いていた雪は地面の土を白に包み始めていた。山深い家の周りは彼の言う通り白銀に染まっているのではないだろうか。

 

 

 大きな手と丸太のように太い腕がひょいと軽々私を担ぎ上げ右腕一本で抱き上げる。

 

 幼子を抱くような体勢だけれども、私と行冥様の身長差ならば何も違和感なく…

 そもそも成人男性であれど彼とは二尺近くの差があるのだから差など微々たるもので、抱かれ方など何も口を出す事じゃない。

 

 「なるべく早く、負担をかけぬよう戻るが…平気か?」

 「はい、大丈夫です。あの子達も寒がってみんなで固まっているかもしれませんし」

 「それは……何ともいじらしく愛らしい…南無…」

 「ふふ、それではお願いします」

 

 畳まれた布団や毛布の上で集まって団子のようになっている猫達を想像したのか、ポロポロと溢す涙。

 いつもでは届かないそれを袖先で拭いとれば彼が跳ねるように一歩を踏み出した。

 

 時間がある時や調子が良い時は共に歩いて家へと戻る…けれどこうして同じ目線まで持ち上げられ踏み出す歩幅の大きさを見ていると彼の優しさが身に染みる。

 

 

 ──敵いませんね、色々と。

 

 

 そう思わずにはいられず、太い首に強く腕を回した。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

 早く家に戻り囲炉裏や火鉢の傍にこのひ弱な体を置かせてやりたかった。

 だが私が走ったその速度の風は更に体を冷やし、最善の方法とは言えない。だから最善の最速で家へと戻っていた。

 サクサクと徐々に増えてきた雪を草履で踏みしめて。

 

 

 「待ち合い室で雑談として聞いたのですが山向こうの村でかなり酷い事件があったと…それも獣とは思えないような…」

 「ああ。それだ、近頃私が調査していたのは」

 「やはりそうでしたか……それで、その、鬼ですか?」

 「………」

 「ぁ、いえ機密事項でしたらすみません!ただの雑談ですので」

 「…いや、そうではないが…」

 

 まい子の問いにすぐ返答できなかったのは他でもない、伝えるにしろ言うべきではない事が多すぎたからだった。

 血生臭いそれを好んで教える趣味はないが、聞かれたからには言うのもまた一つの選択肢。

 

 なによりこんな離れた場所にも届くほどの事件、気になるのだろう。…そんな規模になっているという事実に驚くと同時に当然だとも思う。

 あんな、凄惨(せいさん)な事件ならば。それも。

 

 

 「…総勢二十八人」

 「え?」

 「被害者の数だ、■■村の東区域の村民の過半数以上。たった一日での事だ」

 

 正確にはその事件が起きた時、仕事や用事で区域にいなかった村民以外、全員。

 その時村にいた全ての人間が事件に巻き込まれ…そして命を落とした。老若男女関係なく。

 

 返答はしばらく来ず、私のギウギウと雪を踏み締める音と風の音だけが聞こえていた。

 ぽつりとこぼれた声色は明らかに戸惑っていた。

 

 「…二、十…八ですか?」

 「そうだ。私も現場で状況を口頭で聞いて確認しながら歩き回ったが…かなりひどい有り様だった。到底詳細は伝えれないほどに」

 「犯人は…鬼、だったのです、か?」

 「……事件は日中起き、調査もしたが…鬼と断定出来る要素は一切見付からなかった」

 「………」

 

 不安げに揺れる声色。隊服の襟を掴んできた震える手。…会話を中断した方が良いかもしれないと思う。

 震える理由は寒さだけではないだろう。

 

 当然、憎き鬼の殺害だとしても許すまじ事なのに何ともまぁ、普通の人間の可能性が高いのだから。

 …あれほどの事が出来るものを、普通の人間と呼ぶべきではないのかもしれないが。

 

 

 「辛いなら話はここで止…」

 「雑談をした御老体の息子さんが■■村の東区域外れにある民家を訪ねて行ったそうです」

 「…む?」

 

 しかし紡がれた言葉は存外震えていなかった。

 …いや気丈に振る舞い抑えてはいるが震えてはいる。しかしそれより伝えたい事があると話を続けているだけだ。

 

 「何でも借りていた仕事用具を返しに伺ったそうですが留守だったそうです。なので置いておけばわかるだろうと勝手口の外に置き自宅に戻ろうとした時…見たそうです」

 「…何をだ」

 「白い姿をした"なにか"を。御老体は妖怪と言ってましたが」

 「…詳しく聞いて良いだろうか」

 

 そして又聞きの又聞きで耳にしたそれは初めて知る情報。

 隠や鎹鴉の情報収集不足で抜け落ちていた?…否、当人同士だけの口約束事で片方が永遠に語れる事がなくなってしまった為に起きた僅少(きんしょう)な情報だからだろう。

 

 

 しかしこれでその"見た"ものを捜索できる。顔は見ていないがその目撃した姿は特徴的なのだから。

 

 

 人間とは思えない風貌。

 遠目とはいえ日中確認した事。

 山の中へと消え去った事実。

 

 

 おぞましい事件の詳細を知る前に見た風景、特別な認識を被せて変化をさせてしまう前にその者に聞き込みをするべきだ。

 当人の口から詳しく聞き…そしてその情報はすぐに共有した方が良いだろう、正体が何であろうと……それこそ此の世ならずものだったとしても。

 鬼ではないとして、人々の暮らしを守る為鬼殺隊の我らに出来る事は…

 

 ………。

 

 ……。

 

 

 「行冥様?」

 「!…すまない、少々思案していた。情報感謝する、初めて知るものだった為にこれからの振る舞いを考えていてな」

 「いえ、お力になれたなら幸いです」

 

 ふっ、と襟を掴んでいた手のひらから力が抜ける。柔らかな気配は笑ったからだろう。

 震えていたのは怯えではなく緊張、だったのだろうか。まさか、私に役に立つ事が出来るのではと考えた事での?

 

 ……嗚呼…片手に彼女の荷物を持っているばかりに結われた髪を掬い上げる事すら出来ないとは、なんともまぁ…南無…

 

 

 「見付ケタゾ岩柱ァ、カァーッ」

 「む?」

 

 そんな中まるで頃合いを見計らったかのごとく現れたのは間違いなく鎹鴉。その声色は聞いた事ないものだったが。

 空高くから滑空してくる鳥の羽音と私を呼ぶ声。

 

 今しがた聞いた情報を伝えるにちょうど良い。

 何かしらの伝令があるだろうが、それを受け取る代わりに情報をお館様や他の隊員に渡してくれないだろうか。

 

 「…あれ?あの鎹鴉いつもの子と違いませんか?ちょっと見え辛いですが首筋に数珠がないような…」

 「ああ、あの子は今他の鎹鴉の…」

 

 

 

 

 『ギィ゙ァ゙ァ゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!!!!』

 

 

 「「!?」」

 

 

 突如辺り一面に響いたつんざくような甲高い悲鳴。

 私もまい子も反応しようとしたわけではないのに体が跳ねた。彼女の体を支えている腕の力を強めたのは彼女がすがり付いてきたからだろうか。

 

 耳の奥を攻撃するようなあまりに大きな声と共に何かが遠くからかなりの速さで近付いてきているのが聞こえる。

 

 

 全てを理解する前に首筋の後ろに戦慄が走った。

 

 

 

 

 

 ** SCP-096 **

 

 

 

 

 

 

 

 




 ─ 後編に続く


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弐話 ものすごく恥ずかしがりやなようです(後編)

 

 半町(約55m)ほど離れた場所の、更に空にいた鎹鴉に私達の斜め後ろからものすごい勢いで"それ"は飛びかかった。

 高さも距離も到底人間では、身体能力の高い行冥様ですら飛べるか怪しい高さに軽々と。

 

 

 そもそも、私の目では姿形すらろくに見えず理解出来なかった。

 なにか大きく素早いものが空に急に現れた……と思った瞬間。

 

 

 「いたっ!」

 

 何か硬いものが顔と後頭部を打ち付けられる。

 目の中が一瞬明暗に揺れ、おでこと鼻に結構な痛みが走る。

 

 

 咄嗟に閉じたであろう目を開けば……数珠?それと影になって暗く見える肌だろうか。

 

 …つまり、私は勢いよく抱き寄せられた。

 

 勢いそのまま首筋にしたたかに顔面を、後頭部には左手に持ってくれていた巾着袋が当たったからこうなった。

 

 

 その行動に対し怒る事も問う事もしなかった。出来なかった。

 なぜならば。

 

 

 『ァ゙ァ゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!!』

 

 ほんの少し、私の足でさえ十数秒でたどり着くような至近距離に"なにか"がいる。得体の知れないなにかが。

 

 それが大きな声をあげ騒ぎながら、鴉に何かをしている。にぶい音が、ぐちゃぐちゃと何かの音が響いている。

 何をしているかなんてわからないけれど…ひときわ大きな鴉の断末魔が聞こえてきても、出来る事は何もなくて。

 

 

 「まい子、今から地面におろす。その場から動かずそのまま目を閉じていなさい」

 「…ぇっ、え?行冥様!?」

 

 ふわりと体が浮いて、そのあとゆっくりと足元に雪道の感触が草履越しに当たる。

 咄嗟の事で狼狽えてしまい、見上げながらたずねるも返事はない。

 

 そんな動揺にまみれた心とは反対に、体は言われたとおりに目は開けないようにしてはいた。

 だから今現在の何が起きているのかの状況把握には耳に頼るしかなかった。

 

 

 カシャリ、恐らく巾着袋が地面に落とされた。

 ドサリとの重い音、背負い籠を背中から下ろした。

 チャラジャラリ。間違いない、金属の鎖の音。武器を取り出した。

 

 

 ……あれと、戦うのだろう。

 鬼ではない、何かもわからない、あれと。

 

 

 彼は、私が"それ"を見てはいけないと判断した。

 

 それ、はその生き物がしていた行動の事なのか、生き物そのものなのか、これから起こる戦いの事なのかはわからない。

 けれど見えない目で見る彼がそう判断したのなら、私の無事を思ってしてくれた事を無下にする訳にはいかない。

 

 目を瞑り続ける。見えないように。

 守られた私は何も見ていない。見てはいけない。

 

 

 

 「如是我聞一時仏在舍衞国祇樹給孤獨園与大比丘衆……南無阿弥陀仏…ふ、ぅ…!」

 

 集中力を高める為だろう念仏を唱え始め聞き慣れているそれがふいに途切れたあと、金属の擦れる音が急激に遠ざかった。

 

 

 ……私は行冥様のように反響音やわずかな音の違いで付近の把握は出来ない。ただでさえあの巨躯なのに走る足跡すらほぼ無いというのに。

 そもそも手足の震えはひどいし、心音が胸から頭に移動して鳴っているみたいにうるさくて周囲の音すらろくに何もわからない。

 

 

 この鎖の音は何をしている音?

 この金属音は何したら鳴る音?

 あれの声が聞こえなくなったのはなぜ?

 倒したの?いなくなったの?今この時何が起きているの?

 

 

 そもそも私が本当に立っているのかすら曖昧に感じてきて、草履の下から感じる冷気に指先で触れたくなる。

 けれど動かないように、と言われた言葉のまま微動だにせずそのまま立ち尽くしている。

 

 寒さなのか何なのか震えている体そのままに。

 

 

 「!」

 

 サクリ、と雪を踏み締める音が私の目の前で鳴った。

 行冥様、とかけようとした声が止まったのは恐ろしい考えが浮かんだから。

 

 

 彼が負けるとは微塵も思わない、けれど目の前いるのが彼でないとは限らない。

 

 

 遠目での影像ですらわかるくらいあれは大きかった。それこそ行冥様と同じかそれ以上と言わんばかりの大きさだった。

 閉じているまぶたの裏に浮かぶ。

 

 

 真っ白な体がだらりとした体勢でこちらを覗き込んでいる姿が。

 

 

 「ぎ、行め…」

 「まだ目を開けてはいけない、今から抱き上げるが瞳は閉じたままでいなさい」

 「…は、はい!」

 

 聞き慣れた落ち着いた低音。無意識に縮こまり込めていた肩の力を抜けば冷たい風が体を攻撃してきた。

 一連の流れで忘れていた寒さに小さく声を上げれば、どうしたと心配されてしまう。恥ずかしい!…何でもないと強引に誤魔化す。

 

 「あの、お怪我は…」

 「平気だ。どこにも傷はない」

 

 荷物を背負った音がしたあと頼れる腕に抱き上げられ、目線の高さが上がったのが何となくの感覚でわかる。

 そして回された腕がなんだか、いつもより強い気がする。決して痛くはないけれど。

 

 「すまないが急いで戻るため多少負担になるかもしれんが、堪えてくれ。 …鴉も後で葬ってやらねばな」

 「あ、先に鴉を埋葬してあげた方が良いのでは。私はまだ平気ですよ、その、寒さとか…」

 「駄目だ」

 

 どうやら少し速度を上げて走る為に力を込めて抱かれたらしい。彼が本気で走ればあっという間に家へと辿り着くだろう。

 けれどそんなに急がなくとも。確かに未知の恐怖を味わったし、風が吹く度に体は冷えてはいくけれど…無残な屍をそのまま置いていくなんて。

 

 そう告げるもはっきりと断られる。

 なんだか、行冥様はまだ気を張って……

 

 

 「殺せていない、逃げられた」

 

 「…えっ」

 「そもそもあれは…生き物相手の感触ではなかった。……飛ばすから掴まっていなさい」

 「……はい」

 

 彼の首に腕を回せばとてつもない速さで周りの景色が流れだす。

 吸い込む空気の冷たさと、押し潰されそうな胸の中がぐるぐるかき回されて…呼吸が苦しくなる前に更に力を込めて抱き付いた。

 

 

 風を切っていた彼が早さを緩め、シャクシャク、ザラザラと何かを踏み締めている音がする。

 これは、この木材とガラスと金属が動く音は…扉?玄関扉だろうか。

 

 

 そうして玄関扉の開いた音がする。中に入った、扉の閉まる音が鳴る。

 

 しかしそこで私の予想は外れる。

 玄関で降ろしてもらえると思っていた、なのに彼は片手ですんなりと私の草履を脱がせそのまま上がり框を越え廊下を越え廊下を歩いていく。

 

 戸惑う私の声を聞き入れず、時折梁を避けるため屈みどこかの襖を開いて部屋に入る。

そこでようやく降ろして貰える。足袋越しに感じる感触は畳。室内とはわかるけど…ここは?

 

 「もう目を開けても良いだろう、すまなかった勝手な真似を」

 「…い、いえ。むしろご迷惑をかけまして…」

 

 開眼の許可を貰い、恐る恐るまぶたを開けばそこは間違いなく我が家の中だった。

 周りを見渡せばそこは囲炉裏のある部屋。火の無いそれは外と変わらないほど冷たく静まり返っている。

 

 あの子達…猫達の姿はない。恐らく毛布がある部屋で団子状態に固まっているのかもしれない。

 

 「ここならば不意に"何か"を見るような事もないだろう。勿論故意に窓の外を見るような真似はしないでくれると信じているが。そして…火を付けて室内を暖めていてくれないだろうか。私は少し辺りを確認してくる」

 「え、あっ…はい、お気を付けて……」

 

 背負っていた荷物と私の巾着袋を床に下ろし、廊下へと続く襖に手をかけ音もなく出ていく。

 

 ……。

 確認する、とは家の周りの事だろうか?ならば、あれ、が家の周りに万一いる可能性があるという事だろうか?

 いやそもそも武器が入っている背負い籠はここに置いて…

 

 

 そこまでじんわりと思考を巡らせていればあっさり行冥様は戻ってきた。姿を見て納得する。

 その腕と手の中には家族全員を抱えていたから。彼らは何かを感じているのか、ただ眠たいだけなのかもがく事もせずじっと抱かれていた。

 

 「この子達を頼む。私も時間をかける気はないが、鎹鴉がきた場合は報告をするため多少遅くなる。聞き慣れない物音がした場合目を閉じ、私の声がするまでそのまま待機していなさい」

 「はい、行冥様。 …あの、先程いったい何が起き……ぇッ!?」

 

 行冥様は下ろした背負い籠の蓋を開け、中に直していた武器を取り出す。

 鎖の付いた手斧と鉄球。その鎖が途中で無理矢理引きちぎられたように変形し、千切れていた。

 

 繋がっていないそれを彼は手に取り、一瞬悩んだあと手斧を右手に、鉄球のついた鎖を左手に持った。

 あの…太く硬い鎖を千切るような相手と彼は戦ったのか。そしてまた、戦いに行くかもしれないのか。

 

 

 「…ッ!行冥様!」

 

 込み上げてきた激しい感情と共に彼の腕に飛び込む。

 邪魔になる、彼はやるべき事がある、わかっている。けれど、せずにはいられなかった、言わずにはいられなかった。

 

 

 「どうか、どうかご無事で…!」

 「…うむ。平気だ、すぐに戻ってくる…」

 

 行冥様は、一瞬迷ったあと床に手斧を置いたあと抱擁してくれた。まるで今なら出来るとばかりに強く強く。

 

 そういえば。

 彼は今の今まで泣いていないのではないだろうか。あの猫達がたわいも無いじゃれあいをしているだけで涙を流す彼が。

 

 

 それほどまでに。気を張っている。

 私を、片手で足りる家族を、人々を守るために。

 

 ああ。なんて優しい、尊い人なのだろう。

 

 

 「待っています。どうか、御武運を…!」

 

 にゃぁん、と。私の声に被せるように私達の家族が声をあげる。

 暖まってきた室温とは違う震えのまま私は彼を強く強く抱き締めた。

 

 

 

 

 




 SCP-096 "シャイガイ"

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 身長2.38mの真っ白く痩せ細った人形の生物。手が長く口は大きく開く。
 顔を見られたらその相手がどこにいようとも、例え地球の反対でも、山の頂上でも深海でも、その場に走ってたどり着き殺害したあと■■する。
 顔を見るの判断は直接、写真関係なく大きさもどれだけ小さくとも見たら駄目。似顔絵は大丈夫。
 ガトリング銃で600発撃たれても怪我すらしない。でも顔を見なければ何もしてはこない。



 目の見えない悲鳴嶼は基本無事、顔を見れないから。
 鎖で拘束するも鴉相手に■■しおえたSCP-096は日輪鎖を引きちぎり、誰もいないだろう山奥へと歩いて消えていった。
 しばらく悲鳴嶼も警戒してたが、SCP-096はのんびりと元の生息地■■に戻っていった。
 SCP-096が■■村に来たのはとある写真がとある富豪一家の手に流れて入ってきたから。




 SCP-096 http://scp-jp.wikidot.com/scp-096

 著者: Dr Dan 様

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参話 カラスのようです

・悲鳴嶼さんの出番はありません
・嘔吐表現あり
・今回は旧SCPです。元記事は改定されています。


 吾輩は家へと向かって飛んでいた。日が暮れる前には着くように。

 

 それは我ら鴉が作る一般的な木の枝等で作られたものではなく、人間が組み建てた屋敷と呼ばれるものだ。

 屋敷の主人、そして吾輩の相棒であり家族とも呼べる奴の名は悲鳴嶼行冥。

 

 

 吾輩達、鎹鴉は誇りを持ち鬼を狩る奴らの口となり手足となり、そして目となってきた。

 特に行冥は目が見えない、他の鴉達が手紙を運ぶように吾輩は言葉をそのまま運んでいる。

 

 そんな中親愛なるものへの言葉を運ぶのは光栄な事だ。それが相手を思っての言葉ならばなおさら。

 屋敷から遠く離れた場所にいる行冥の言葉をそのまま、あと少しで届けれる。

 

 ほら、家が見えてきた。

 

 

 屋敷上空で旋回を行い、あやつがどこにいるのかを確認する。

 庭や玄関先にはいない、時間帯的に厨房かと思ったがその気配はない。

 ならばどこぞの部屋の中だろう。羽ばたきながら滑空をして屋敷に近付く。

 

 

 「カァー、行冥ヨリ連絡ダ!」

 

 声を出せば吾輩の声を聞いたあやつがどこからか顔を出すだろう。

 良く座っている縁側からか、本を読んでいる自室か、掃除でもしていれば全く別の場所からになるだろうが。

 

 …しかしどこからも出てこない。足跡すら聞こえない。

 と、いうより動いている音もない。

 

 居眠りをしていたり厠に入っている程度ならまだ良い、都合が合わなかっただけで起こしたり待てばいいだけだ。

 

 

 考えうる最悪の場合、それは倒れている場合だ。

 具合を悪くし動けない場合。

 怪我や病気、更に気を失ってる場合も考えれる。

 

 あのひ弱なあやつは何がどうなるかわからないのだ、頑丈な行冥と違って!

 だから吾輩はこうして何度も往復をするのだ、やっと出来た大切な家族なのだから。

 

 

 開いていた窓から中へ入る。

 建物で飛ぶことは不可能ではないが面倒だ、跳ねながら進む方が結果的に早いだろう。

 

 室内にはおらず廊下へと出る。

 そのまま跳ね進んでいれば廊下の隅に猫の塊が。

 体の大きな白猫虎猫を先頭に、毛を逆立てまっすぐに吾輩を睨んでいる。

 

 鳥と猫ならば奴らの方に利がある、しかし奴らの中で一番大きな猫ですら子猫の時から知っている。

 じゃれついてくるのは許すが吾輩を食べようとする事はしないよう時に爪をたて教えたはず。

 遊びでも食べる真似すらしないだろうに、それどころかなぜそんなに警戒している?

 

 「オ主ラドウシタ?アヤツ…マイ子はドウシタ?」

 

 吾輩の問いかけむなしく奴らは威嚇しか答えを返さなかった。

 なぜだ?何が起きているのだ?

 

 廊下をそのまま進む。

 陽が大分傾いてきた…これ以上明かりが落ち室内が闇に包まれば鳥目である我ら鴉には厳しくなる。

 

 

 一歩跳ね、廊下の角を曲がれば厨房へと続く道がある。

 

 

 その廊下に花柄の着物が力なく横たわっていた。

 そしてその周りを囲むように三羽の鴉の姿が。

 床の上に、顔の前に、体の上に。

 

 

 獲物を取り囲み、まるで食さんとばかりに。

 

 

 「貴様ラ何ヲシテイル!!!」

 

 大声を上げ大きく翼を広げ飛び掛からんとする吾輩に奴らは気付き、羽ばたきながら跳ね退く。

 窓枠に。火の付いていない竈の上に。固められた土間の上に。

 

 離れはしても未だ距離にして二間(約3.20cm)も離れていない、諦めておらず狙い続けている。

 

 

 なぜだ?なぜ狙われている?

 

 「貴様ラナニモノダ!?ナゼコヤツを狙ウ!」

 

 吾輩の問い掛けに奴らはまともに返さなかった。しかしわめきたてなければ吾輩の隙を見てまた、狙おうとしているようで。

 声をかけるのを止めるわけにはいかなかった。

 

 

 『……孤独』

 「…今何ト言ッタ?」

 

 一羽だけがポツリと何かを呟いた。

 

 そしてそれからどれだけ何を言おうとも奴ら喋ることはなく、ただただこちらを。背後のまい子をじっと見つめていた。

 

 

 

 

 

 ** SCP-194 **

 

 

 

 

 

 …いや、攻撃をしてこないのならばいつまでもコイツらに構っている場合ではない。

 事実として倒れていたまい子をじっとどうにかしなければ。

 

 振り返り顔色を確認すれば真っ青を通り越し土色だ、閉じた目の下は黒く頬が痩けている。

 病気?どうなっている?…三日前に見た時はこんな風ではなかった!なぜこんな急に弱っている?

 

 「カァー、オイシッカリシロ!目ヲ覚マセ!」

 

 くちばしで何度も頬をつつく。病気だったとしてそれを治す方法も知識も何も吾輩は持っていない。

 本当ならば医者に見せるのが一番良いのだろう、だが連れていく力も手段もない。麓の町の顔見知りの医者ならば吾輩を信じ話が出来るかもしれぬ、だがここに呼ぶのにどれだけの時間がかかる?

 

 それだけの時間放っておく事は…奴ら鴉がいる間は出来るわけがない。

 

 「…ぅ……!」

 「!!起キタカ!シッカリシロ!話セルカ、薬ガイルナラドレガイル??」

 

 諦めずつつき続けていれば小さく呻いたあと、軽く身じろぎをして目をゆっくりと開けた。

 まず良かった、最悪の最悪である意識を完全に飛ばしていたわけではなかった。

 

 しかしまだだ、まだ目を覚ましただけ。

 これから様々な判断をしなければならない。起き上がれるのか、何が必要なのか。薬や水を組んだ器程度なら何とか運んでみせるがそれ以上の重さのものだったならば厳しいが。

 

 早打つ吾輩の心臓とは真逆の止まってしまいそうな遅さの瞬き。

 具合は悪いだろう、最悪だろう。だが、せめて何か望みを…

 

 

 「……も……う…」

 

 吾輩のようにくちばしを持たない唇が震えながらゆっくりと動き。

 

 

 「  んで  しまい、た い」

 

 「……ハ?」

 

 名状しがたい言葉をつむいだ。

 

 言葉してはいつの時代もありふれ、呟くものもいるだろうもの。

 その言葉に罪はない、弱音を吐く事を罰する規則もない。

 だがしかし、それは。

 

 

 「コ、ンノ…タワケガ!!!」

 

 

 お主はその言葉を吐いていい存在ではない!

 

 頬を思い切りつつき、つねあげる。

 ギリギリと血をにじませる寸前までつねりあげ、離す。

 

 「ソノ言葉ハ我ラヘノ侮辱!オ主ノ痛ミハ感レナクトモ、オ主ヲドレダケ思ッテイルカワカラヌカ!」

 「  」

 

 まい子は動かない。力ない目で、何も写さない目で空中を見つめていた。

 

 「行冥ガ手ヲ伸バシタノハオ主ニ生キテホシイカラダ!オ主ガイナクナレバドレダケ悲シム人ガイル事カ!行冥モ!猫達モ!町ニイル人々モダ!」

 「……かな、し……」

 「ソウダ、吾輩トテ……我ラハ、見知ラヌ誰カデハナイ…我ラハ、人間ト、トリト、猫ダガ、オ主ハ…」

 

 血は繋がらない。種族も違う。常に優しく穏やかな世界ではない。

 だが、それでも。

 

 

 「決シテ、一人デハナイ」

 

 パチン、と何かが弾けたような切れたような音が聞こえた気がした。辺りを見渡してももちろん何もない。

 

 

 だが。まるでそれが合図だったように。

 

 厨房のあちこちに止まっていた鴉が羽ばたきはじめ、開いていた窓から飛び立っていく。

 …は?えっ、なぜ、また急に?

 理解が追い付かないまま、奴らはいなくなった。羽の一枚も残さずに。

 

 

 「…ぅっ、えっ…!」

 「!?ドウシタ!?」

 

 その羽ばたき音が遠ざかっていくのと同じくまい子がえづきはじめる。

 力なく寝転がっていた体をうねらせ、上半身を跳ね上がるように起こし上げて。

 

 

 「ぅえっ、が、はっ…!」

 

 ボタボタと滴を落としながら幾度と痙攣し続け、堰を切ったようにそのまま廊下の真ん中へ胃液を落とした。

 何も体内に残っていないのか出てくるのは透明な液体のみ。そして。

 

 ビチャッ、ベチャッと出てきた黒い黒い塊。

 

 

 …これはなんだ?

 

 食べ物ではない。寧ろ見慣れている、それ。これは。これは…

 

 我らが鴉の、羽根ではないだろう、か?

 

 

 …それがなぜまい子の体内に入っていた?

 いや、そもそも、命の灯火が消え尽くそうとしていた訳でもないまい子の側になぜ食さんとばかりに奴らが…

 

 

 「…ぁ、れ?……私は…どうし…?」

 「!気ガツイタカ、マイ子!」

 「あれ、え?……ここは…?」

 

 力なくとも起き上がっていた、口から未だ体液をこぼしていたまい子が……まるで眠りから覚めたように顔を上げ辺りを見渡していた。

 

 その瞳は髪色と同じく赤茶に輝き、夕焼けの薄暗い灯りを取り込み光っていた。先ほどまでの死人のような色とは違って。

 声をかけた吾輩を見下ろし、幾度と瞬きを繰り返したあと首をかしげて。

 

 「貴方、は行冥様の鎹鴉の…?」

 「ソウダ、吾輩ダ。行冥カラノ伝言ヲ持ッテキタノダ」

 「ああ……それはそれは。ありがとうございます」

 

 にこりと柔らかく、笑いかけてきた。口元の体液を隠すようにぬぐったのは無意識の行動だろうか。本人すら気付いていない。

 …そうだ、これがいつもの反応だ。

 

 具合が悪くともそれを寧ろ隠し続ける猫のような姿、それがこやつだったではないか。

 

 

 …先ほどまでのは、何だったんだ?

 

 「行冥ハ今、刀鍛冶ノ里デ武器ノ調整中ダ。アト二日ハカカルダロウ、トノ事ダ」

 「それは仕方ないですね、武器の調整はしっかりしないと危険ですから」

 「……マイ子オ主…大丈夫ナノカ?」

 「へ?何がです?」

 

 吾輩の体を心配する言葉ですら意味がわからないと首をかしげるまい子。

 それは倒れた事が何でもなかったと強がると言うより……

 

 「オ主、モシヤ心細カッタノカ?」

 「へ?えっと……うーん、どうでしょう?一人の時ちょっとだけ病院や薬ばかりに頼って情けないなぁ、って……あれ、いつ思ったんだっけ?」

 

 …?……。

 まさか、そんな。

 

 

 「…モウ夕方ダ。アノ獣達ニ飯をヤッタノカ?」

 「え?ご飯?ご飯……は、あれ?お昼……朝?あれ?私はいつ……えっ?…あああ、あれ!?ご飯の用意をしないと!?」

 

 つい先程まで力なく倒れていたとは思えないような早さで立ち上がりすぐそばの厨房へとかけていく。

 あれやこれやと騒ぎながらバタバタと用意をしている。

 

 

 その後ろ姿からは、先ほどの死の臭いなど欠片も感じとれない。

 

 

 「あわわ、ご飯の用意をっ、あれ掃除や洗濯物はどうし……あれ?えっ?…いやそもそもなんで私はあんな所で座って…え?でもああ、掃除もしなくっちゃ放置は出来な…!」

 

 大慌てで様々な用意をしながら困惑している後ろ姿を声もかけず眺めていた。

 整理する時間が必要なのではと感じたからだ。

 

 しかし何か目に見えない気配を感じ取ったのか廊下の隅にいた腹ペコの猫達がこちらに歩いてきている姿が見えた。

 吾輩の姿を見ても、警戒も、先程までの敵対要素も何もなく……ただの空腹の子供のように。

 

 

 その猫達の姿を見て、忙しげな後ろ姿を見て、確信した。

 

 「マイ子、オ主…先程吾輩ニ向カッテ何ヲ言ッタカ覚エテイルカ?」

 「…えっ?先程…?…」

 

 窓を閉め、竈に火を炊き、土間を踏みしめていた動きを全て止め、吾輩の言葉をゆっくりと噛み締める。

 うんうん、と考え込んだあと困ったように笑いながら吾輩をまっすぐに見つめて。

 

 

 「私……何か言いましたっけ?」

 

 …間違いない。まい子は倒れた事が何でもなかったと強がると言うよりも…

 虚栄でも嘘でも強がりでも何でもなく。

 

 

 倒れていた事そのもの事態を覚えていないようだった。

 

 

 それは……ああ、わかっている。

 

 長らく鬼殺隊に遣え、鬼を相手にしてきた我らですら感じたことのないこの感覚。

 

 なんともまぁ、恐ろしいものだ。

 

 

 

 




 SCP-194 腐肉喰いの一団

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 見た目は普通の鴉。穀物より肉が好き。
 SCP-194は内気な性格な人や社会から離れた孤独な人につきまとう。そうでない人はSCP-194につきまとわれたらそんな人になってしまう。
 SCP-194の羽根をSCP-194からのプレゼントとして食べ始め、食べ始めてから一週間経つと体が変化しはじめ最終的に194になってしまう。ただ過半数の人間はその前に体の変化の痛みに耐えきれず、死んでしまう。


 鎹鴉はこの後心配してしばらく離れなく、猫達は腹減ったとつきまとった。



 SCP-194 http://scp-jp.wikidot.com/deleted:scp-194

 著者:不明

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肆話 とてもきれいなお花畑のようです(前編)

 冬の名物猫団子。寒い気温に体を寄せ合い集まっているその姿はなんとも愛らしい。

 しかし春を迎え夏が近付いてきた今の季節になればその姿を見る事は厳しくなる。

 

 だからこうして雨が降った事で気温が下がれば再び作られる。今回は床の間の床畳の上で。

 白猫と虎猫がまるで抱き合うように固まり、彼らの背中やお尻を枕にでもしているかのような茶白猫と黒猫。

 その視界の暴力に声を上げずにいるのが精一杯。

 

 (行冥様が見たら…見なくとも伝えただけでまた泣いてしまうでしょうねぇ)

 

 

 猫達の重なりあう音を聞いただけで、気配を感じただけで涙を溢す姿がありありと思い浮かぶ。

 鎹鴉の連絡通りなら明日の朝か昼頃には戻ってくるだろう、その時に忘れずに伝えようと決意する。

 

 

 「…あら?陽が射してる…」

 

 お昼寝を邪魔しないよう襖を音をたてないよう閉め、廊下を歩いていれば格子窓から柔らかな光が射し込んできていた。

 外の様子を伺えば雨も止み、時折青空すら覗いている。

 

 いつの間に止んだのだろう。一日雨かと考えていたのに。

 

 

 「…よし!」

 

 散歩日和だ。出掛けてみよう。

 そんなに遠くに行かなければ大丈夫だ、多分。

 

 

 

 *

 

 

 気分がとても弾んでいる。

 理由は単純、森の緑がいつもより美しく見えるから。虫や鳥の合唱を聞いている内に益々楽しくなってきた。

 

 雨上がり特有の澄んだ空気を嗅ぎ、雨粒で光を反射させ輝いている葉っぱや木の枝を眺めてのんびりと歩いていた。

 

 景色をゆっくり楽しみたいという理由もあるけど、土が少しぬかるんでいるから滑る可能性は高いし…川は少しだけ水嵩が増えているからそちらにも足を取られないようにしなければ。

 

 うーん、森で迷子にならないようにと、家近くの川に沿って上流に向かう選択をしたけれど…どうだったのかな。

 いきなり鉄砲水が来て流される、なんて事にはならないだろうけど。

 

 

 魚がいないかと川を離れた場所から覗き込んでも強い水流で白く波打ち少々濁ったそれでは姿の確認は出来なかった。

 それでも何か見えないかと川を見ながら歩いていて…ふと気付く。

 

 

 あれ?滝……通り過ぎましたっけ?

 

 

 今日だけでなく常にかなりの降水量がある川から作られる滝。私なら打たれるどころか近付く事も出来ずに潰されそうな滝。

 

 そんな滝を…さほど距離が離れていない道を歩いていて気付かなかったなんてあるだろうか?

音も中々の音量だし気付かずに通り抜ける事なんてあるだろうか?

 

 

 …いやまぁ、なくはないか。現に今こうして気付かずに通り抜けているのだから。

 

 

 他に夢中になっていたらこんな事もあるさ、と意識を切り替えて歩く。

 けれどそうだとしたらそろそろ戻った方が良いだろう。時間はまだまだ夕焼けには遠いけど私の体力のなさを甘く見てはいけないのだから。

 

 五間(約9m)先にあるまだら模様の岩まで行ったら戻ろう。

 そうして岩にたどり着きまだ少し濡れている表面を指一本でつつき、戻ろうと踵を返した時だった。

 

 

 …ん?何か今視界の隅に見えたような…?

何かが見えた方向によくよく目を凝らしてみれば森の中に一般的に似つかわしくない色があった。

 

 植物や獣や自然ではない、鮮やかな、人工的な赤色。

 あれは……

 

 

 「…柵?」

 

 森の中にあったのは木で作られた立て板。それを鮮やかな赤色に塗ってある柵がある。

 …え、こんな所に?知らなかった。こっちはあんまり歩いてきた事がなかったから気づかなかったんだ。

 

 ちょっとだけ、見てみよう。

 そんなに離れていないし、川の音が聞こえなくなるくらい遠くに行かなければ大丈夫だろう。

 

 近付き、少し眺めたあと均等に立てられている柵に沿って歩き始める。

 

 これは何のための柵だろう?

 柵の中は周りの森とさほどの違いはなく、あえて言うならば少し木が少なくなっている事くらい。

 

 

 土と小さな石の上を歩いていれば、間もなく簡易な門が見えてきた。

 柵と同じく木の板を継ぎ合わせて出来ている門が、まるで私を招くかのように開いていた。

 …招かれている、なんて自意識過剰だ。しかし招かれたからには入らなければ失礼。

 

 

 門をくぐれば先に続くように、土の地面から石畳の道に変わる。

 落ちた葉がまばらに落ちてあるものの石畳は苔むした部分すらなく綺麗に整えられていて、頻繁に人が出入りしているのがわかる。

 

 カツカツと草履の底と石畳のが当たる音を聞きながら歩いていれば再び柵と門が目の前に現れる。

 同じようなそれは入ってきた場所と同じく全開に開いていて、その中身は遠くからでも中が見えた。

 

 「わぁ…!」

 

 見えたそれは一面の花畑。

 

 

 赤、黄、白、様々な色で彩られ広大に広がる一面の彼岸花の花畑。それは視界のどこまでも続き、まるで私を歓迎するかのように咲き誇っていた。

 

 「なんて、なんて綺麗な…!」

 

 目の前に広がった輝かしい景色に近付くために小走りで近づけば急激に喉元、胸元が苦しくなり立ち止まる。

 その咳き込み、激しいそれに意識が朦朧としてくる。何度も何度も咳き込むそれを地面にしゃがみこんでこらえる。

 咳き込む度に目の前が白か黒か赤に染まる。咳き込んでいる間、綺麗な景色なんて何もわかりはしない。

 

 ゲホゲホゲホ。

 その行動と苦しみのせいか沸いていた心は落ち着き、収まる頃には幾分か冷静な目で辺りを見回す事が出来ていた。

 

 

 ここは、なんだろう。

 

 咳き込みが終わり落ち着いた体を動かし、そのまま石畳を歩き始める。

 視界の全て、景色の全てが美しく咲き誇っている花で埋まる。ゆるやかな坂はあるものの広い広い…平坦な土地はどこまで広がっているかわからないほど広い。山の中のはずなのに木も何もない。

 

 足元に咲いてある彼岸花を見ながら歩く。

 ふぅわりと、甘い蜜のような匂いがする。花の蜜かな。とてもいい匂い。

 

 

 

 こんな広くて綺麗な場所があるなら町で噂の一つや二つ聞いたことがありそうなものだけど…大きな花畑の噂なんて欠片も聞いた事ない。住んでる場所にこれほど近いのに。

 自然の景色にも見えるけどもそれだけは絶対違う、自然は石畳をこんなきっちり敷き詰めない。

 

 

 しかしなんて綺麗な場所なんだろう。

 こんな場所ならずっといたとしても飽きずに過ごせそうだ。

 

 行冥様にも見せてあげたい、見れないけれど。行冥様も知ればきっと癒されるはず。

 

 

 ……あ。ああ、そうだ。帰らないと。なんだかんだ入ってそのまま歩いてきてしまっていた。

 振り替えれば扉がかなり遠くに見えた。周りが花しかなく、指針となるものがなにもないからぼんやりとこんなに歩いてしまったのだろう。

 今日はそんな事ばかりしているな、しっかりしないといけないのに。

 

 そういえばこんなに近いのに行冥様が知らないのは奇妙な気がする。戻ったら聞いてみないと、こんな素敵なところを知らないならばもったいないから。

 

 

 踵を返して入り口に向かって歩きだして…止まる。足元に咲く赤色の花を見る。

 

 ……一輪持ち帰ってはダメかな?

 現物があった方が行冥様に説明をしやすいし、こんなに沢山あるなら。

 

 

 けれど美しく咲く花をたおるのはダメだろう。誰かが一生懸命に育てた花だろうし…何より摘み取る権利なんて私にはない。

 

 ゆっくりとしゃがみこんで手を伸ばす。触れるだけなら許されるだろうか?

 

 

 『お嬢さん待って、花に触れないで!』

 「!」

 

 しかし触れる直前に聞こえた大声に驚き、とっさに手を引っ込めた事で花には触れれなかった。

 顔をあげ声の方向を見れば花畑の中から見た事のない服装の年配の男性がこちらに向かって走ってくる姿が見えた。

 

 少し慌てた様子に不法侵入した事を咎められると覚悟を決める。しかし近付いてくる足をゆっくりと止め、走った事で少し荒くなった呼吸を整える間もなく。

 

 『ごめんなさいね大声をあげて。だが花には触れないでくれれば助かります、主人に叱られてしまうので』

 

 笑顔で優しい注意をされただけだった。もっと怒鳴られてもおかしくないというのに、彼は困り眉で笑うだけだった。

 人の良さそうな顔に見慣れない服装。少し土汚れがある所を見る限り庭仕事をする際に着る西洋の服…だろうか?

 

 

 「こっ、こちらこそ勝手に入っての行動、大変申し訳ありません!証明は出来ませんが花は傷付けも触れもしていません…えっと、あのすぐに出ていきますので!」

 『ああ、大丈夫わかっていますよ。むしろ鑑賞だけならいくらでもしてください、花を愛でる心を持つ者は、どなたであろうと嬉しいものですから』

 

 私が全面的に悪いというのに更ににこにこと微笑みながら花を手のひらで指し導いた。…勝手に侵入した私を咎めるより、花を大事にする人を歓迎しているような。

 

 こんな素晴らしい花畑だからお客さんが来てくれて嬉しい、楽しんでもらいたいとばかりに、ここにはどんな花があるのか、どこに咲いているのか話してくれる彼。

 その言葉端にかすめる主人、の存在。彼を庭師として雇い管理を任せている主人とは…

 

 「あの、貴方の雇用主は…」

 『はい?』

 「……いえ、何でもないです。すみません…」

 

 岩柱の住まいの付近、担当区域、その山の中の管理を任せる雇用主は……産屋敷様なのだろうか。そう尋ねようとして、止める。

 違った場合、私が口に出した事であの方達に何らかの迷惑が及んだ場合何をしたとこで責任をとれる事はない。例えそうであったとして私に何を口挟む権利もない。

 

 それらの確認は無意味で不必要で危険な問いだ、確認ならばまず行冥様に相談をした方がいい。

 

 

 「ぁ、えっと。この曼珠沙華綺麗ですね、この季節に咲く彼岸花なんて初めて見ました」

 

 だから誤魔化した。もちろん花の美しさは間違いなく思っていた事だし、嘘はついていない。

 夏間際に咲く彼岸花の存在なんて聞いた事もなかったけどれど、どこかの山には一年中藤の花が咲いていると以前行冥様に聞いていたしそのような感じだろうか。

 

 そして彼は私の誉める言葉に深く深く頷いて自慢げに話し出す。

 

 『そうでしょう、そうでしょう。この季節にこうして綺麗に維持するのは中々大変なのですよ。それに彼岸花は代表的な赤や白だけでなく様々な色もあって美しいですよね』

 「色…?どんな色があるんですか、桃の彼岸花?…まさか"青い彼岸花"があったりとか?」

 

 私自身は赤、よくて色の薄い白くらいしか道端で見た事はなかった。彼岸花の色はそれくらいしか思い付かない。けれどここにきて当たり前に咲く黄色を見て…彼の言葉に想像を巡らせる。

 桃色の彼岸花は愛らしいだろう。桜や果実のような柔らかな色なのだから。けれど青色の彼岸花なんて存在有り得ないんじゃないだろうか、見た事もないし、聞いた事もない。

 

 

 笑い声混じりにからかうように彼に尋ねれば彼は満面の笑みでにっこりと笑い。

 座り込んだ足元の花の茎に触れ、花弁を揺らしていた。咲き誇る花達がまるで彼の誇りとでも言わんばかりに堂々と触るその姿を。

 

 

 「青?青色ですか。青色なら……」

 

 

 ざあっ

 

 

 彼の言葉と同時に、強い風が私達の体を撫で去っていった。その強さは一面に咲き誇る花びらを引きちぎり舞い上がらせるほどのもの。

 

 その強い風に髪の毛が羽織が着物が煽られ、まばたきの間目をつぶった。

 私がしたのは、ただそれだけ。

 

 

 「まだ作られていないですね、青色のバラは。自然界にもありませんので」

 「……えっ…?」

 

 なのに、年配の彼が触れている花は、先程まで咲き乱れていた赤色の彼岸花ではなく見た事もない花弁の多い花に変化していた。

 辺り一面、彼岸花ではない、とても綺麗な別の花に音もなく変わっていた。

 

 

 

 

 

 ** SCP-662-JP **

 

 

 

 

 

 




 ──後編へ続く


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肆話 とてもきれいなお花畑のようです(後編)

 

 

 「…あっ、あれ?」

 

 何度まばたきをしても、強く目を擦ってもその景色に間違いはなかった。

 何度見ても辺り一面、右も左もどこを見ても見た事のない花。つい先ほどまで咲いていた彼岸花の欠片もない、見た事もない花が咲き乱れている。

 

 「何、え?彼岸花は?なんですかその花…えっえ!?」

 『え?どうしましたお嬢さん?』

 「あえ、なにそ…その、花は……」

 『ああ…この花ですか。この花畑はバラですよ、西洋から仕入れたバラです。確かに見慣れたバラ…ノイバラなどとは形が違いますよね』

 

 彼が手のひらで救い上げるように持ち上げた私に見せてくれた花、それはバラというらしい。

 私が知るバラは確かにそんな形ではなかったし花弁も重なるほど多くなかった、西洋の花ならば見た事もないのは納得。彼が着ている服も洋装なのだろうから

 

 納得……納得ではあるが。

 いや。しかし。おかしい。納得出来ない部分が多々ある。西洋だろうがなんだろうがここはバラではなかった、はずだ。

 

 「先ほどまでここには彼岸花…曼珠沙華が咲いていました、よね?それがなぜそのバラ…西洋のバラに…!?いっ、一面ですよ!?」

 

 私は思うがままに尋ね寄った。意味がからなかった。理解できる説明を求めた。

 

 

 『…どういう事でしょうか?この、バラ畑はいつもここにありますよ?』

 

 けれど納得出来る回答はもらえず、彼のいぶかしげな顔で返される。なおかつ。

 

 『あの…大丈夫ですか?』

 

 逆に私の精神の心配をされる。

 ああ、目の前がクラクラとする。理解できない現象もその後の対応も目の前の現実も。何もかも訳がわからない。

 

 「え…?いやここはさっき、彼岸花の花畑で…」

 『何を言っているのか…ここは前からバラの花畑で、彼岸花畑はあちらの方に』

 「………」

 

 自信満々の彼の言葉に、揺らぐ。私はまた間違えたのだろうか?

 …花の形も種類も、何もかもわからないほど、ぼんやりとしていたのだろうか?

 

 

 『…具合が悪いのですか、顔色もよくない。お家に戻った方が良いのでは…』

 「…ええ、はい。そうです…よね」

 

 ダメだ、なんだか色々と自信がない。混乱しきり色々考えすぎた為なのか、実は元々そんなに体調が良くなかったのか少し頭が痛くなってきた気がする。

 このまま下手をすると帰るまでに動けなくなるほどの体調になりかねない、そもそももっと早く戻ろうとしていたはずなのに。なんだかズルズルとここまで来てしまっていた。

 

 「ああ、すみませんお騒がせしました…あの、失礼いたします」

 『はい、よろしければまた時間と体調がの具合が合う時いらしてください。 …あっ、そうですお嬢さん』

 「?」

 

 彼はいつの間にか手に持っていた剪定用のハサミで一本の花、西洋のバラを摘んだ。そのままパチン、パチンと上手に枝や棘を落とした一輪の花を作り上げた。

 

 『こちらをどうぞ』

 「……えっ?」

 『いや深い意味はないですよ、摘み取ったのは必要だと思ったからで』

 「…どうも…ありがとうございます…」

 『あまり日持ちはしないでしょうが、どうぞ愛でてやってください』

 

 差し出されたその真っ赤な一輪の花を受け取る。

 彼は優しく笑い軽く手を上げた挨拶のあと視線を落とし、他の花の手入れを始めた。まるでもう私の事を忘れたかのように。いや本当に忘れたのかもしれないけれど。

 

 

 振り返って入り口の扉を確認し、歩き始める。石畳が草履と擦れてカツカツと鳴る。

 周りの花は手の中の花と同じく何度見ても、やっぱりバラだった。到底彼岸花と間違える形状はしていない。

 しかし…本当に美しく咲いている一面のバラ。それらは入り口から見えないほどの遠くまで満開に。

 

 

 さぁっ

 

 

 あと少しで入り口の扉にたどり着く、そんな時に風が背中から吹き抜けていった。そんなに強いものではなく羽織の端や髪の毛を少し巻き上げただけ。今回は目を閉じないといけないようなものじゃなかったのだから。

 

 だから何も気にしなくていい。

 

 

 目下に見えていた赤色の花弁が、白色に変化しているように見えるのも、気にしなくていい。

 

 走ってはダメ、すぐに息が切れてしまう。何も思わず歩き続ければいいだけ。

 ほら、扉を通り抜けた。ちゃんと無事に出れた。

 

 

 そのまままっすぐ前だけ向いて歩き続け、川の音を頼りに来た道を戻っていく。あのまだら模様の岩が……ほら、見えた。

 岩の目の前まで歩いて、深く深く息を吐き出した。息を吐きすぎて目の前がチカチカするほど。

 

 

 手の中の花…バラを見る。うん、バラだ。西洋のバラ。彼岸花でも…去り際に見えたような気がする水仙でもない。

 

 茎は棘がなくなりすべすべと新鮮で、元気にまだ生きている。早く帰って花瓶につけよう、ああなんていい香りなんだろう。鼻先を近づけなくてもわかるなんてスゴい。

 

 

 …あの中にいた時は花の美しさ、香りに惑わされ、奇妙な現象を見た事ですっかり忘れていた。違和感に気付かなかった。

 

 こんなに大きな川の音が全く聞こえなかった事に。

 

 

 背中に悪寒が走ったのを無視して歩き始める。大人しく帰ろう。

 

 

 …奇妙で不思議で、なんとも深く考えてはいけない体験を私はしたんだろう。

 これらに関して深く考えるのはよそう。怖くなってしまう。まだまだ明るいとはいえ人気もない影も出来ない曇天の空の下、暗い森の中、結論のでない怖い想像なんかするべきじゃない。

 

 うん、そうだ前向きに考えよう。私はかなり貴重な体験をしたのでは?と。

 人気もない森の奥にあったあれは……そう、マヨヒガだったって事にしよう!あの花畑の先には立派なお屋敷があって、そこまで行かなくて帰ってきたものだと。お椀ではないけれど花一輪も同じようなもの。

 …本当にそうだったのなら少しは行冥様にかけている迷惑を軽減させれないだろうか。そうであればいいな。

 

 

 幾分か楽になった気持ちのまま歩いていれば見慣れた、家付近の景色が見えてくる。意外と早くつい…あれ?滝の側通ったっけ?

 行きの道でも思った全く同じ事を思ってしまう。今の時間はわからないけどそんなに何時間も前ではないだろうに。

 

 いけないいけない、しっかりしようと思ったのにまたぼんやりしてる。頭の痛みも収まっているのにダメだなぁ…首をかしげ大きく失望の溜め息を吐く。

 

 

 あ、この道までくれば目的地はもう目と鼻の先だ。伐採をされて作られたゆったりとした曲がり道を進み我が家が見えてくる。

 そして徐々に見えてきた玄関の屋根瓦、そしてその下にある大きな大きな影が動いたのが見えた。

 

 「あれ、行冥様!?」

 

 熊のように大きなその背中を確認した途端、予想外に思っていたより大きな声が出てしまい自分でも驚いた。

 

 それでも距離があり、彼に届くほどのものでもなかったらしく私の声に気付かないままそのまま玄関扉を開けて中へと入ろうとしていた。

 今すぐに気付いてもらえなくとも家の中に入って話せばいい、それはわかっていたけれどなぜかその時私は先ほどよりも大きな声で名前を呼んで気付いてもらおうとしていた。

 

 「?……まい子?なぜ外に…?」

 

 すると今度はちゃんと聞こえたらしく振り返り、数秒後なんとか聞こえるほどの声で呼び掛けられる。大きな声はあまり出さない人だから。

 そのまま後ろ手で玄関扉を閉めてこちらに来ようと足を進め始める。あっ、それは想定外。こちらに呼びたかった訳ではなかったから。

 

 静止の言葉と共に慌てて駆け寄っていれば、突然ずるりと草履が滑った。そしてそのまま勢い良く前のめりに。

 

 

 あ、まずい倒れ……

 

 

 「元々走るのが苦手なのだから、こんな足元の時は走るのは止めなさい」

 

 

 …る事はなく、なぜかあっさりと行冥に片手で抱き止められていた。…七間(約12m)ほどは開いていたのに…

 原因はぬかるんだ土に足元をとられての事。これも行く道で注意しないと、と思ったのに……私が情けなく一瞬で転ぶと気配でわかったのだろう。

 目に見えないほど素早く、怪我をしないようと来てくれたそれが…優しい注意の言葉が、情けなく恥ずかしいのに、嬉しいなんて失礼なのに。

 

 「す、すみません、ありがとうございます…」

 「気を付けなさい……まあ、私が連絡より早めに戻った事で驚かせたのも少しは関係あるだろうが…」

 「そうです、お帰りなさいませ行冥様。ご無事で何よりです」

 「…うむ、今戻った」

 「カァー」

 

 こんな道端で、それもつい先ほど情けない醜態をさらした今言うべき言葉ではないかもしれない。それでも優しく微笑み返してくれる。今度こそ足元に気を付け、残りわずかな帰り道を二人で歩き始める。

 上空を滑空していた首筋に数珠をつけた鎹鴉が降下してきて行冥様の肩に着地した。この子から明日に戻ると連絡を受けていたけれど予定が変わったのだろうか?

 

 「早いお帰りですが、予定の変更でも?」

 「いや、そうではないのだが…」

 「ナンテ事ナイゾ、オ主トノ愛日ヲ思イ、急イダダケダ」

 「えっ」

 「………」

 

 歯切れの悪い行冥様の言葉を代弁すべくと語ってくれたそれは……行冥様の顔を見上げれば居心地の悪そうな顔と少し頬に主を差していた。つられてしまう、確実に彼よりも赤らんでいるだろうけれど。

 

 

 「…まぁ私の事はいい。まい子こそなぜあんな所にいたのだ?」

 「えっ、あ…はい、付近を少し散歩をしていました。どうです、花のいい香りを感じませんか?」

 「む?……ああ、確かによい香りだ」

 

 軽い咳払いと共にかけられた言葉に簡単に答える。詳しく説明するのは夕飯後の空いた時間にしよう、長くなりそうだから。

 けれど手に持っていたバラの説明くらいはした方がいいかなと、腕を上げて背の高い彼の鼻先に差し出す。倒れかけて彼に支えられた時の衝撃にも握りしめたであろう力にも無事だったバラを。

 

 「そうでしょう、頂いた花なのですが手のひらより小さく真っ赤で幾重にも重なりあう花びらがとても美し…」

 「待て。 ……頂いた?花を?」

 「はい。名前は伺っていませんが庭師の男性に……行冥様?」

 「………」

 

 どれだけ近くにあってもそのものの形は見えない彼にいつものように説明をしようとすれば、その前に強く止められる。花の形の説明よりも重要な事があるのだろう。

 ああ、そうだあの男性の言っていた主人の確認もしないと。行冥様は知っているのだろうか?そう思ったけれど……どうみても訝しげな表情からして知らなそうだ。

 というよりむしろ怪しんで、いるような…えっまさか私の虚偽だと疑われている?しかしそんな嘘をつく理由はないと行冥様ならすぐにわかるはず…

 

 

 「マイ子オ主…マサカ行冥ガイナイ間ニ愛瀬ヲ…」

 「そんな気は体力と共に微塵もないですねぇ」

 

 鎹鴉の問いには即座に否定で切り返す。

 

 なぜまたそんな不安そうに…行冥様と私の顔色を伺いながら聞いてきたのだろう。そもそもそんな気持ちが芽生える訳がないし。でもまあ…確かに男性から一輪の花を頂くそれは……怪しげではあるけれど。

 万が一億が一そうだとしてここで正直にいうのも、花を頂いた事実を言うのは愚かにもほどがある。そう鴉に言えばそれもそうだと笑いながら返される。

 

 

 「…まぁ逢い引きでないとは信じるが…何にせよその事については詳しくは聞かせてもらう」

 「え?あ、はい…勿論です…?」

 

 そんな私達のやり取りをじっと聞いていた行冥様が口を開く。その口調は妙に重々しく、表情もなんだか強ばっ……軽い冒険の雑談として話そうと考えていた想定を覆さなければと考える。

 

 あれ、まさか…何だかとんでもない事をしでかした?……まさか、ね。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 すぐにでも話を聞きたかった、しかし彼女にも予定はある。ゆっくり時間がとれたのは腹を満たしじゃれつく猫達が飽きて離れた、夜闇が深まっての時だった。

 

 予定通りならば明日の朝だったが私は今日戻り、彼女の一日を出来事を聞いた。いつものなにも変わらない猫達との穏やかなものではない、それを。

 

 私自身が家に戻るまで、それまでに何を思い、戻ってから何を考え、声を聞き何に心を焦がしたのか。

 それは……今さらどうでもいい事だ。別に伝えるような事でもない。

 

 

 何気なく、まるで和ませるかのようにあの子達の猫団子の姿を付け加えた彼女を思い、涙が流れる。嗚呼、なんと愛らしいのだろうか、私の片手で足りる絶対に守るべき存在達は。

 

 ……そう、守らねばならない。

 

 

 「それで家が見えた時に行冥様の背が見え…」

 「まい子」

 「まし……はい?」

 「こちらに、来なさい」

 

 身を清め隊服を脱ぎ、後は就寝と身に付けた和服。正座を崩し胡座をかいた膝の上を叩き彼女を呼ぶ。 

 戸惑う声が聞こえ、そのまま狼狽え、口の中でくぐもらせた後…小さな足音と共に近付いてきたか弱い体が謝罪の言葉と共に膝の上に乗ってくる。重さは感じれど重くはないその体。

 

 「あ、の……行冥様?」

 

 私の意図が読めないのだろう。見上げながら尋ねてくるその頬を指先で撫でる。

 

 「ひ、ぅ…!」

  

 驚きびくりと跳ねる体そのまま傷跡を撫で、そのまま傷跡に沿って首筋にうつる。細いそれを手のひらで覆っていれば縮こまり固くなっていた首筋が徐々に熱くなり、脈拍も早まってくる。

 …うーむ、これでは調べられないな。

 

 「とりあえず熱は無いようだが」

 「ぅ、ッ……は、い?え?何がですか?」

 「体調の確認だ。目眩や吐き気、酩酊をした時のような眩みは感じてはいないか?」

 「……えっと、はい、大丈夫です。辛くも苦しくも、見にくさもないです…?」

 

 とりあえず質疑応答をすれば、しっかりとした答えをもらえる。質問の意図に関しては疑問に思えど返答は返してくれる。なんと素直で可愛らしいのだろうか。

 …とにかく、無事である事は確認出来た。それならば、危惧した事は…杞憂だったと信じたい。

 

 

 「…とりあえず聞いた限りでの疑問が多々あるのだが、聞いてもいいか」

 「?…はい、勿論です」

 「…そうだな、雨の日は体調を崩す事が多いと以前聞いたからの確認なのだが」

 「はい。しかし今日はこの通り元気です」

 

 意識だけで見た時はどうなのか疑問を覚えるが…そもそもの出掛けようと思う感情は、私が咎めるものではない。どれだけ快適に過ごせる環境があろうと外への憧れは誰しもが持つもの。

 そうではない、細かな疑問への追求。

 

 「万全の体調であり滝より向こうに行けたとして……その花畑があった土地は起伏がなかった、と?」

 「そうです、緩やかな坂などはありましたが遥か遠くまで見渡せましたね。あの広さは…ニ里(約8km)ではすまないでしょうね」

 「そこには満開の彼岸花が咲いていたと。後々の花の変化だなんだは…さておいてだが」

 

 私の言葉に彼女が頷く。彼岸花のように特徴のある花弁の形と触れさせてもらったあのバラ、という花の形は全く違う。

 朦朧とするほどの体調の悪さで滝を見逃し、なおかつ花の形を見間違えたのならまだ許容は出来ないが納得は出来る。

 しかしそうではないという、体調はよく付近にはない起伏が無くなるほどの場所までの距離を歩き、その花畑を見たと。

 

 この季節に普通咲く事のない満開の彼岸花畑を。

 

 

 「まい子。君が行ったという花畑……それなのだが」

 「はい」

 

 彼女よりも長くこの土地に住み、付近を見た事なくも知っているだろう私の出した結論。

 

 

 「……この世のものだったのだろうか」

 「…えっ?」

 「聞いた事もない管理者と庭師。考えれないほどの広さ一面の花畑、それも、この季節に満開に咲き誇る彼岸花…生きているものなのか、と」

 

 

 そもそもいつも雨の日は体調を崩しがちだったろう。なぜ歩いていけた?あの整備されてもいない山道を一人で。

 考えたくもないが…それは引き寄せられた臨死体験に近いものだったのでは。

 

 

 あくまでも可能性、そうだと言い切れる自信はない。だが違うと言い切れる根拠もない。

 風が吹くだけで移り変わる花々など…推し量れるものではない。早々簡単に近寄っていいものなどではない。

 

 腿の上の体が小さく揺れる。先ほどまでとは理由は違えど狼狽えている。否定の言葉が来ないのは…薄々感じてはいたのかもしれない。

 

 「南無、すまない…怯えさせたかった訳ではないのだが」

 「い、いえ私こそ軽率で…妙だと思った時に引き返すべきでした…」

 「私が常に傍にいられればよいのだがそうもいかず…行動を制限したい訳でもないが、一人でいる時の第六感は大事にしてほしい…」

 「はい、行冥様……」

 

 ほろほろと流れるそれを指先で拭いとり、凭れかかってくる身体を抱き寄せる。

 

 直接伝えるべきではなかったかもしれない、が。放っておく訳にもいかない。もしその怪しげな景色に魅了されていて、再び行きたいなどと考えてしまったら。近くだからと出向いたものの今度は見付からず、一度見つけた為に探しはじめての遭難…その可能性もあり、それもまた恐ろしい。

 

 

 ……実際に明日辺り、有無を確認した方が良いだろう。しかし"それ"が、私が考えている通りのもので、無かったのならともかく、もし在ったのならば……

 

 私では、手に終えないものなもかもしれぬ。嗚呼…南無阿弥陀仏……

 

 

 

 

 

 




 SCP-622-JP 枯れ庭

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 滋賀県████に存在する面積約30000平方メートルの庭園。広い。バラが最も多く咲くが、チューリップ、コスモス、カンゾウ、彼岸花なども咲く。風が吹くとランダムに変わる。
 SCP-622-JP内の花に触れると、触れた生物の体内にB型の血が作られ血の量が4リットルを超えるか死亡するまで続く。SCP-622-JP内にはSCP-622-JP-Aと呼ばれる中年男性がいる。
  
 

 二人が再び訪れるのも考えましたがインタビューログ 622-JP-5との解釈違いになりそうなので[編集済み]になりました。




SCP-622-JP http://scp-jp.wikidot.com/scp-622-jp

著者:dr_toraya 様

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伍話 飾られた絵のようです

 

 

 空は厚い雲に覆われ、月明かりが微塵も差さない夜道。いつもなら合唱のごとく聞こえていた虫の声も蛙の声も、雨上がりでは静まり返り辺りに聞こえるのは生物が生き動くわずかな音だけだった。

 

 そんな中私は足音も立てず走り続けている。荷物を入れ背負う籠が体の動きに合わせ、跳ねる。

 例え目が不自由で見えなくとも様々な音の反響で付近の形はわかり、何の問題もなく動けていた。

 

 向かう先は████村の███区。そこで、四十■人の人々が不可思議な死を遂げ、そのほぼ全ての人が夜の内に食されたと。そして調査に向かった鬼殺隊員も戻ってこなかったという。

 だからこそ、柱である私が向かわねばならない。弱く儚く哀れな人々を守るためにも。

 

 

 私に情報伝達をする鎹鴉の報告では何人もの村人達は健康な体のまま胸元を押さえ、喉をかきむしり倒れていたという。それは昼夜問わず。

 半端な場所で倒れ込み、宙吊りになった村人の口からはおおよそ体内に収まっていたとは思えないほどの水が溢れだしていたとも聞いている。

 

 そこから弾き出されるのは…鬼による血鬼術をくらい時間経過により、苦しみ溺れた人々の姿。

 人を一撃で仕留める力のない弱き鬼なのか、はたまた人々が苦しむ様子を見て楽しみ食らう鬼なのかはわからない。わかりたくもない。

 

 私が出来る事は、悪鬼を屠る事のみ……嗚呼、南無阿弥陀仏…

 

 

 

 一時間ほど経っただろうその時、私は████村へとたどり着いた。生き残っている人々の声が眠りにつき、生き物の気配が大人しいそれに、私は足を踏み入れた。

 おぞましい気配は…今のところは感じれなかった。

 

 

 被害者は町のあちこちに散らばり、鴉や鬼殺隊員もその原因を調べた。無造作で繋がりの薄かったそれらのかすかな共通点…そうしてそれらの中心には、役場があった。

 西洋の建築技術を取り入れ出来たばかりの建物が。そこに、鬼がいるのだろうか。隊員何人もがやられるほどの、鬼が。

 

 

 たどり着いた役場に鍵はかかっていなかった。押した扉がギィ、とにぶい音をたてて開く。

 中は何の音もなく静まり返っている。かすかな呼吸音も、身じろぎも、何も聞こえない。木の床の上で私の草履が擦れるかすかな音だけが響く。

 

 鬼も、血鬼術の気配も感じない。

 私は目が見えない、確かに盲目だ。だが、その分を補う能力は用いていると自負する。そうして私が出した結論は…ここには鬼はいないという事。

 

 ならば調査間違いかというとそうとは言い切れない。今この時現在、いないだけかもしれない。鬼殺隊員の存在を確認したから隠れたり、柱である私が来たのを予感したからと隠れているのかもしれない。

 鬼は時折そうして狡猾で残酷だ。

 

 

 ならばどうするべきかといえば……待つしかない。おびき出すしかない。

 力をこの上なく脱力させ、手に何も持たず無防備な状態で座り込んだ。

 

 

 今現在の私は……ネズミよりも狩りやすい獲物といわんばかりに。

 

 

 そうしてどれだけの時間が経っただろうか。

 ぴりり、と首筋に震えるような悪寒が走った。下衆く汚ならしい気配を体が感じた。上…上だろう。天井近くからよどんだ醜い気配を感じ、視線を浴びせられていた。私を…見定めるようなそれを一身に身に付けて。

 

 だが私はそれでも動かなかった。力を抜き続け、まるで九相図の血塗相のごとく微動だにしなかった。

 その姿を見てか気配が動く。天井を蜘蛛のごとき這い、遠い建物の隅から私の頭上の近くまで移動してくる。

 

 

 そして。そして。

 

 

 

 「アァアガッ!?!!!」

 

 天井から飛び掛かってきた気配を感じる間もなく、背負いの荷物から日輪刀と同じ材質で作られた鎖斧と鉄球を取り出して即座にヤツを鎖で縛り上げる。

 こすれる金属音と共に鬼の体を焼き上げるジウジウとにぶい音が響く。それと同時の叫び声。

 

 陽の光をまんべんなく吸い込んだ鎖は、鬼ごときに砕く事など出来ないだろう。耳をつんざきそうな悲鳴を上げ鬼は縛られたまま床に叩き付けられた。

 

 

 びちびちと苦痛に跳ねる鬼の肉体。その体は何十もの人々を食い散らかしたであろう汚ならしい、にぶい気配がする。

 様々な悪態と、心にもない謝罪と救援の言葉を紡ぐ鬼を無視して踏ん張り見下ろす。何十もの命を奪ったこれは、もはや慈悲を与えるべきものではない。

 

 

 「何でッ!?何でだ畜生ォッ!?」

 「悪しき鬼は、滅びるべきだ」

 「違う!確かに食ったのはおれだが…殺したのはおれじゃない!あいつらは勝手に死にやがっただけだ!」

 「言い残す言葉はそれで良いのか…?」

 

 斧を手に持てば鎖が連動しヂャラリと鳴る。

 ギリリと鎖を締め上げれは鬼は更に咆哮をあげ、バタバタと地面を跳ねていた。もう少しで溶け落ちそうなほどの声で。

 

 「村人達は勝手に死んだんだ!おれは知らねぇ!それはただそこにある絵画を見ただけで、おれはなにもしていない!」

 「…絵画、だと?」

 

 それは死に際に叫ぶ、すがり付く言葉にしてはなんとも異色なもの。原因を他に擦り付けるもよりにもよって…絵画だと?

 

 鬼が叫び声混じりで差し示した絵画とやらは、顔の動き的に北の壁に飾られているだろうもの。それは西も東も太陽光の差し込まないそこに飾られており、日焼けもせずに誰しもの目線を集めただろうもの。

 私もつられるようにそちらに目を向ければ、月明かりのない暗闇だろうともこれだけ室内にいればその絵画を"見る"事は可能だったろう。

 

 それこそ細かな部分は見れなくとも全体図を見る事は。

 そして間違いなく私の目はその絵画を写し、視界にとらえただろう。

 ……通常ならば。

 

 

 「馬鹿見やがれ、死ねぇ鬼狩り!」

 

 鬼が巻き付かれた鎖そのまま、私へと飛びかかってくる。最後の抵抗、なにもしなければ日輪鎖でとけるしかないのだから。

 しかし、ふむ。

 

 

 「残念だ」

 「うぐッ!?」

 

 飛び掛かってきたその体は私が右手を引き、きつくきつく縛り鎖に巻き上げられ微動だに出来ぬよう空中に縛り上げたそれの。

 

 「来世以降は正しき心で生まれ変わるよう…南無」

 

 手斧で頸を跳ねる。綺麗に切れた頸は勢いよく吹き飛び、それのみとなった頸は壁へぶつかったあと床に落ち、何度か跳ねた間も悪態をつき続けていた。

 反省も後悔もせず、ただただ、自身を殺した私への罵倒を繰り返して…そして音からして崩れてかけていた。

 

 

 「クソッ、クソがッ!何で効かねぇんだ、あの絵画さえありゃいくらでも新鮮な死体が手に入ったのに!!!」

 「残念だが、私は絵画を"見て"はいないし"見る"事もない……しかし何だと言うのだ、絵画を見るだけで…人々を滅すれるとでも?」

 「畜生、畜生!!こんな、こんな事でおれが死ぬなんて!!あああああ!!!!」

 

 

 鬼は最期の最期まで悪付きながら、恐らく口が崩れるまで毒づき続けていたのだろう。しかしそれも、口がなくれなれば何も聞こえずあとはただの残骸処理に等しい。

 

 …あいにくだが、私の見えぬ目ではその絵画がどんなものなのか知る事は出来ない。どんな景色が、どんな人物が、どんな造形が描かれていようとも私には直接見ては生涯わかる事はないだろう。親切な誰かが解説してもらえない限り、ずっと。

 しかし鬼の言う理屈は理解できない。絵を見たから何だというのか、まるで絵を見た人間が次々に"命を落とす"と言わんばかりのそれを。

 

 

 「信じろとでもいうのか。血鬼術ですらない、それを」

 

 崩れ落ち、骨も残らないそれに吐き捨てる。なんと哀れなのだろうか…思いも残らず、呪いの言葉を浴びせるしかない存在は……ほろほろと涙がいくつものこぼれ落ちる。

 

 

 ……そして、絵画。鬼は倒せど残るそれは……北の壁へと歩みを進め、その絵画へと触れる。

 ざらりとした、極々普通の絵画だ。血鬼術の気配も感じず、触れた限りでは怪しいところは何一つない。

 

 目の見えない私ではこの絵画がどんな、何を描いていてるのかはわからない。

 それでも……

 

 

 「信じる訳ではないが、芸術を否定はしない」

 

 その絵画を裏返しにひっくり返し…"一般"のものでも何も見えないように返す。これではもはや絵画の背表紙、何もない木板しか

見えないだろう。こうする事でこれを描いた芸術家は傷付くのやもしれぬ。だが。

 

 私は芸術家ではない。鬼を狩り、鬼を滅するもの。例え一枚の絵を裏返しにしたところで、なにというわけでもない。

 

 

 鬼の叫び声で幾人かが目覚めたのだろう、人々が動く気配がする。

 労いの言葉をくれるのか、ただ脅えられるか、鬼とまではいかない悪態をつかれるか…南無、わかりもしない。とにかく鴉を呼び、隠に来てもらわなければ。

 

 

 鬼のいなくなり、静まり返った役場の中、私の吐き出した音はいやに響き渡った。

 まるで労うかのように、もしくはなんて事をしてくれたのかと凶弾するかのように。

 

 それでも例の絵画は、何一つ音もたてず、ただそこに鎮座していた。

 

 

 

 

 

 

 

 ** SCP-151 **

 

 

 

 

 

 

 




 SCP-151 絵画

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 
 151は水中を描いた絵画。絵を肉眼で直接見た人の肺に24時間かけて海水を作り出し、呼吸困難になって死ぬ。
 医療で水を抜けば生きながらえさせる事は可能だが、水の発生を止めることも回復させることもできない。

  
 この後GOCのように徹底破壊した可能性高し。でもお館様が何らかに気付いて止める可能性もあり。




 SCP-151 http://scp-jp.wikidot.com/scp-151

 著者:Agent Thornsmith 様

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陸話 動く像のようです(前編)

 

 

 一枚、また一枚と洗濯物を畳む時間は良い考え事の時間。季節の移り変わりを思ったり、暑い寒いと文句を思ったり…そして思考の大部分は献立。

 料理が得意な人は考えるのも楽しいのだろうけど、私はそうでもないからなぁ。毎日毎日あれこれと悩んでしまう。

 

 厨房にある材料は……えっと、芋にニンジン、ゴボウがあるから煮物にしようかな…あと吸い物をつけて……ああ、そうだ。明日辺り行冥様の好物の炊き込みご飯でもしよう!

 

 うん決まり!と思ったとほぼ同時に畳終わった洗濯物を抱えて立ち上がり部屋を出る。

 けれど廊下を歩いている内になんだかあまりいい発想ではなかった気がしてくる。

 そもそも今の季節だと椎茸がないし…ああ、椎茸の七輪焼きが食べたいなぁ。年中食べれないのが好物だと損な気がする。

 

 とにかく行冥様が戻ってきたら確認してみよう。近くで鍛練と言っていたし、そんなに遅くはならないだろうから。

 

 

 廊下の角を曲がれば、囲炉裏のある部屋の音が聞こえてきて…なんだか騒がしい。あの子達が喧嘩でもしているのだろうか、あまりにひどいようだったら止めないと。

 踵を返して道を変える。ただ遊んでるだけならそれはそれでいい、怪我さえしなければ。

 

 ひょこりと顔だけ覗かせ部屋の中を確認する。

 中にいたのは茶白と黒の二人だけ。あとの彼らは別の場所にいるのだろう。そして中にいた彼らは別に喧嘩はしていなかった。

 

 ただ囲炉裏近くに置かれている人型の大きな石像にまとわりついて遊んでいただけ。

 

 なんだ、ただ遊びが熱狂的になってしまっただけか。それなら別にいいや、あんまりはしゃぎすぎて怪我とかはしないでね。

 

 

 廊下に戻り頭の中を献立に戻す。

 そういえば茄子があったっけ。煮びたしでもいいかも。それに汁物に茄子を入れて…は、どうだろう?

 でもこれは結構好き嫌いが分かれそうな…私は好きだけどもダメな人はとことんダメそうな気がする。

 ああもうその人の好みの吸い物が勝手に作られる鍋かお皿とかあればいいのに。それなら彼の好きなものをいつでも飲んでもらえる。

 

 はぁ、まぁ茄子云々これも行冥様に聞いてから判断をし、て……

 

 

 

 ……ん?

 

 …あれ?……えっ?

 

 

 なんか今…変なのがなかった?

 

 …あったような、なかったかな、いやあった!

 

 

 洗濯物を放り出しそうな勢いで戻って確認する。

 見間違いかもしれないから!どんな見間違いかと疑心暗鬼になるけども。

 

 戻って部屋の中を見てみる。ないよね?

 

 …いや、ある。確かに私より背の高い大きな頭が異様に大きく腕を前に突き出している人型の石像がこちらに背を向けて立ち、鎮座してある。

 

 

 ……この石像いつの間に行冥様置いたのだろう?今朝掃除をした時はなかったと思うけど…

 

 なんだろう驚かせようとしたのだろうか?驚いたのは驚いたけれど、本人はいないし、なにより私が困った様子や反応を見て楽しむような人でもないし… 

 ならば喜ぶと思ってのお土産として買ったり、贈り物として貰ったとしたならば昨日帰ってきた時に何らかの事を言うだろうし…

 そもそもこれを贈り物として渡す人はいないだろうし…これを渡されて喜ぶと思うような人ではないだろう。

 

 

 …うーん、意図がよくわからない。いくら一人で悩んでも結論は出ないのだからこれもまた、行冥様に確認するべき事だ。

 

 結論のでない結論を出した私を猫達が見上げていた。立ったまま何をしているのだろうとばかりに。

 木登りならぬ行冥様登りが好きな茶白猫が、その石像も登ろうとしているのか手をかけ二本足立ちになるも登れていない。当然だろう引っ掛かりも何もない丸みをおびたつるんとした像だから。

 

 「ああ、もう止めなさい。怪我をするから」

 

 それでも諦めずにガリガリと引っ掻いていた猫を言葉で制する。止めなければ洗濯物を置いて引き剥がす事もしたけれど大人しく登るのを諦め、悔しげに囲炉裏の炉縁で爪を研いでいた。

 そんな様子を眺め終わった黒猫は部屋からなぜかいきなり走り始めて出ていく。その後ろ姿を追いかけるように茶白猫も物凄い勢いで出ていった。

 

 ……一瞬の内に起きた出来事に何度か瞬きをする。

 猫達は可愛いけど…今のは何?なぜいきなり追いかけるような……不思議だ。何がきっかけだったのだろう?

 

 猫達に続くように私も部屋から出ようとして敷居を跨いで……何気なく思った。

 

 

 あの石像の正面を見てみたいと。

 

 

 何か切っ掛けがあったわけでもないし、意味も特にない。そもそも顔があると決まってもない。

 ただただ見たくて戻って、石像の正面に回り込んで。

 

 

 顔を見た。

 

 

 

 「…え?」

 

 

 その顔は。

 

 

 

 

 「……猫?」

 

 

 石像の表面上に乱雑に塗られた塗料で描かれた猫の顔だった。

 それはとても愛らしいものだけれども…人の体に猫の顔とはなんともまぁ、不釣り合いというか。

 

 

 …この像はなんというか、猫なの?人の形をしているけど猫なの?もはや猫なの?

 え、もしかして行冥様は猫の像として購入した?それで手渡された時にその大きさに気付き、しかし無かった事に出来ずに持ち帰り……言えないまま、察して欲しいとここに置いた…とか?

 いやまさか、そんな……でも…

 

 うん、憶測はいいや。何度も思ったけど出ない結論だから。

 

 

 とにかくいつまでも洗濯物を抱えたままでいる訳にはいかない。さっさと仕舞って終わらせないと、夜ご飯の準備もあるし。

 廊下に出てペタリペタリと歩いていれば、後ろからゴリゴリと石臼を挽くような音が聞こえてくる。それも徐々に近付いて、触れそうなほどすぐ後ろから。

 

 ………。

 

 勢いよく振り返る!

 落書きの猫と目が合う!

 

 「………え?」

 

 触れそうな距離にいたそれ……の存在をのみ込んだ途端、体が無意識にバタバタと後ずさりした。具体的にいえば四歩。

 

 

 えっ、いや、えええ…?

 

 いや、なんで着いてきてる…の?ゴリゴリの音はまさかの歩いていた音?

 石像が。だって石像だよ?んん??

 

 まさかそんな、これ…動く石像……?

 

 

 呆気にとられ、ぱちり、と私は瞬きをした。

 

 

 

 

 

 ** SCP-173-J **

 

 

 

 

 

 

  *

 

 

 

 

 

 

 空気が湿ってきたのを感じ、雨が降るかもしれないと私は予定を繰り上げて早めに戻ってきた。濡れる事自体は私自身にとって何も問題なく気にならないが濡れた体のまま家に戻ればどれだけ迷惑になるか。

 

 家にたどり着き玄関に入り扉を閉めようとした所で雨音がしてきた事に気づく。どうやら間に合ったようだ。

 

 そして私が戻ってきた事に気付いていないのか…出迎えるまい子の声が聞こえない。何かをしているのだろう。

 今の時間帯ならば…洗濯物を畳んでいるか、間食をあの子達と共にとっているか。可能性が高いのは…厨房だろうか。

 

 

 そちらに歩みを進めれば案の定声が聞こえてくる。食の匂いを嗅ぎ付けた猫の「なぁん」という愛らしいねだり声と共に。

 

 「ああダメだって、これはあなたのじゃないの。年功序列でお兄ちゃん達に先に出してから!」

 

 まい子の困り声に被せるように食いしん坊なあの子が鳴く。血の繋がりはなくとも兄と呼ぶ、年長の二人に先に出している時間が待ちきれないのだろう。

 それでも二人に出し終わり、騒いでいた茶白のあの子と大人しく待っていた黒猫に差し出す声が聞こえる。

 

 一番上、二番目、三番、四番目と全員に配り終わったようだ。

 

 

 「はい、いなみちゃんもどうぞ」

 

 ……待て、知らぬ名前が出てきた。

 

 

 歩行を早め、厨房手前の部屋の襖を勢いよく開ける。中にいた気配が私の方を向いた。

 

 「あら、お帰りでしたか行冥様すみません気付かなくて…!」

 

 お帰りなさい、と伝えてくるまい子に返事を返し他の気配を探る。四つのぺちゃぺちゃとした咀嚼音は猫達のもの。五つではない。

 …野良猫が入り込み食べていない可能性も頭によぎったが…そうでない事はすぐ気付く。室内は広くなく反響音ですぐに把握できるのだから。

 

 

 何か、大きなものが部屋の中にある。彼女一人では動かす事すら出来ないであろうものが。

 

 

 これは、なんだ?

 

 

 「そうです、行冥様。戻られたなら一つ伺いたくてですね」

 「……ああ、なんだ」

 

 まい子の尋ねたい事、そんなものは決まっているだろう。目の前にある"それ"違いない。

 

 武器を取り出した方がいいだろうか。

 そこにいる、それ、が何なのかはわからない。感じた事のないものだ。生き物?生き物なのか、そうでないのかすらよくわからぬその存在。

 

 「あのですね…」

 

 危険であるならば周りにいるものを避難させ…出来ぬならばどれだけの至近距離にいようとも、何かあればすぐに叩き切り捨てる事も躊躇はない。

 

 

 「行冥様は味噌汁に茄子が入っていても飲めますか?」

 「今聞くべき事か?」

 

 それより何より他に確認するべき事があるだろう。

 

 

 

 

 

 




 ─ 後編に続く


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陸話 動く像のようです(後編)

 

 

 

 「ええっ、いなみちゃんは行冥様が持ち込んだものではないのですか!?」

 

 あれから話を擦り合わせる間すら、私はそれから目を逸らさなかった。私の視界に映る事はこれまでもこれからもないだろうが、警戒をとくつもりは一切なかった。

 …なかった、のだが。なぜそんなに受け入れている?突如現れた動く石像の事を。私が持ち込んだと勘違いするのはともかく、動いた段階で警戒してほしい。今のところ何か悪さをした訳ではないからと受け入れるのはどうなのか…

 

 「ああ……なんだその、いなみ、とは」

 「名前です。私が見ない間だけ動くのでもしかして付喪神ではないかと思いまして」

 「…例え付喪神として、なぜ名付ける?」

 「えっ、ダメなのですか?」

 「……いや、その判断は…どうなのかはわからぬが…」

 

 私の中の選択肢にないそれを、不可解ではあるが頭ごなしに否定する事は出来なかった。

 ……それでも石像相手に食べ物を出すのはどうかとは思う。

 

 「うーん、何となくですが悪い子ではないと思うのですよ。いなみちゃんは」

 「…確かに今のところ悪意は感じはしないが」

 

 石像相手に悪意だなんだとは、おかしいことこの上ない。だがそれ以外に指せる言葉はなく、警戒をとく理由にもならない。

 動くというその姿は未だに見れてはいないが、そうでなければこれだけの重さの石像をまい子が運べる訳もないのだから。

 動く石像…それが何の脈略もなく現れる我が家……お祓い等をした方がいいのだろうか。

 

 「しかし対処はせねば。動くとて制御が出来ている訳ではないのだろう?」

 「そうですねえ。この子達のように小さな猫ならともかく、大きいですし…あ、行冥様のが立派ですよ?」

 「高さ比べで勝負をする気はない」

 「うーん、でも移動をさせてもいなみちゃん自身勝手に動きますし…あ、もしかしたら突然現れたように突然いなくなるかもしれませんよ」

 「成り行きに任せるには少々不安だが…」

 

 間食を食べ終わった猫達が各々好き勝手な行動をとっている。私達の足元にじゃれつき、撫でろと催促をしてきたり陽が当たる場所に向かい昼寝を始めたり、私を登ろうとしたり。

 

 

 一番体が大きく撫でられるのが好きな猫を撫でていたまい子が何かを思い付いたように小さな声を漏らした。

 

 「そうです行冥様、この子がついに"とってこい"を習得したのです!」

 「む?以前出来たと言ってなかったか?」

 「成功率が良くなったのですよ、見てください」

 

 そう言いまい子はまとわりつく猫の尻尾の付け根を軽く叩いた後、(たもと)から棒付き毛玉を手に取り彼と軽く遊ぶ。

 バタバタとはしゃぐその姿に周りの猫達はとうしているのだろうか、何事かと様子をじっと眺めているのを思い浮かべ…想像上のその愛らしさに涙が流れる。

 

 「はいっ、とってきて!」

 

 カチャカチャリと鳴っていたそれを廊下へと放り投げるまい子。距離にして五尺といったところか。

 それを追い、廊下に転がるそれを……嗚呼、確かに咥えて持ってこようとしている。カリカリと棒部分を引きずりながら、まい子の足元近くまで持ってきて離し、そのまま足元にまとわりついている。

 

 「よし、よーし!いいこいいこ!よく頑張りました!…ね!どうですか行冥様!」

 「なんと素晴らしく……南無猫可愛い…!」

 

 きちんと持ってきた事を褒め称える為にめちゃくちゃに撫でまくるまい子。少々乱雑な音に聞こえるがそれが心地いいのだろう、猫は喉を鳴らし彼女にまとわりついている。

 鍛えあげられ、誉められる事に嗜好の喜びを覚える猫のなんと健気で愛らしい事か。ボタボタと膝の上に落ちる涙を止めようとしても止まらない。

 

 「それでは行冥様の涙に応えまして、もう一回!はいっ、とってきて!」

 

 彼が持ってきたそれをもう一度投げる。音からしてさっきより少し遠くだろうか…それでも猫はそれを追いかけ……む?

 

 「あれ?」

 「…何も咥えていないな…」

 

 投げた場所には間違いなく行った、しかしその場所でくるりと回るのみで投げた棒付き毛玉を持ってくる事はなく、なのに威風堂々と戻ってくる猫。

 褒めろとばかりに彼女にまとわりつき、困惑している彼女の姿と持ってこなくとも愛らしい猫の姿に益々涙が溢れる。

 

 「なんとっ、南無愛らしい…!」

 「ええっ、違います!いつもはちゃんと持ってきます、今はただ連続でやったから調子が悪かっ…」

 

 

 ごりごりっ

 

 

 「…た……だ、け……え?」

 

 物音と、まい子の困惑する声。そして感じるすぐ側にある威圧的な気配。足元に置かれた、先ほど彼女が投げた棒付き毛玉。

 

 …それ、は。

 

 

 「…いなみちゃん?持ってきてくれたの?」

 

 動く石像、それが我らが石像から目を逸らした隙に素早く動き今の今まで騒いでいたそれを叶えようとした動き。

 瞬きをするわずかな間で持ってこれる、その動き。

 

 猫達は気まぐれで持ってきも持ってこなくとも愛らしい。しかしそれを石像には持ち得ない耳で聞き取り褒められようとせんばかりに持ってきたその姿は……

 

 …なんと、驚きではあるが。

 

 

 「…可愛いですね」

 「確かに、南無…」

 

 詳細見えぬその怪しげな石像をそう思う事になるとは。確かに彼女の言う通り気まぐれな猫のようにも思える。

 あの大きな石のような体ですら猫であるならば可愛らしく思えるというのだから猫というのは罪深い。硬い石像の体を撫でるまい子の手を止めようとは思わないほどに。

 

 

 「あっ、そうですそろそろ夜ご飯の準備をしなければ」

 

 そんな我らの困惑を吹き飛ばすのは当事者であったまい子の声。確かにもうそんな時間だろうか?まだ早いような気もするが…時間がかかるような事をしようとしているのならば私は何も口出せない。

 

 「あ、そうです行冥様。一つ確認したいのですが…」

 「む?…何だ?」

 

 猫達の食べ終わった器を重ねながら回収し、厨房へと向かおうとしていたまい子が何かを思い出したのか、足早だったそれをゆっくりに変え、私へと問いかけてくる。

 立ち止まる事なく動き続け厨房へと向かう彼女の背を見えぬ目で何気なく追いかけ、廊下へと出る姿を見送る。

 

 「明日なんですが、炊き込みご飯をしても良かっ…」

 

 

 パリィンッ ドタンッ

 

 

 「い゙っ、う…!?」

 「まい子!?」

 

 目で見送ったのが間違いだった。その一瞬で何が起こったのか、理解する前に体が動いた。

 廊下に飛びだし、見下ろすそれに手を伸ばす。廊下に倒れているであろう、まい子その姿に。わかるのは倒れ込んだであろう大きな音と共に、甲高い陶器の割れる音は猫達の皿。

 それらの損失を嘆くように彼女はにぶい声を出し続けていた。倒れ込んだ事で強く打った胸元の痛みにこらえながら。

 

 「大丈夫か!?」

 「うぅ、痛ぁ……あぁ、お皿…!」

 「平気だそんな事より…!?……なんだこれは?」

 

 彼女に近付こうと足を進め、廊下に出てとある場所を踏んだ途端まい子が足を滑らせた原因に気づく。

 ぐにゃりとしたみずみずしくも乾いた柔らかな感触。木で作られた廊下ではない、その上にばらまかれたであろうそれ。なんだこの、柔らかなものは…!

 

 まい子は…これによって転んだのか!?こんな…突如現れた謎の物質によって。

 …石像と、同じく?

 

 痛みをこらえながら体を起こし廊下に座り込んだまい子に無理に動かぬよう言い、部屋の中へ素早く戻り気配の確認をする。

 中にあるのは戸惑う猫達の気配と少し広く感じる室内だけ。

 

 

 石像がない。いなくなっている。

 動く音も、気配も感じなかった。いつの間に…

 

 

 「い、たたた…どうしました、行冥様……あれ?いなみちゃんは?」

 「……出ていってしまったようだ」

 「えっ」

 

 まだ痛んでいるにも関わらず立ち上がり私の後を追い部屋を覗き込めるであろう位置まで移動してくるまい子。そして部屋の中を見渡し案の定いなくなっているその存在を確認する。

 まい子の証言、私も感じた先ほどの動き、突如現れた事実。それらを合わせれば石像は見えないほどの早さでかなりの距離を動けるのは理解に容易い…が。

 理屈と理由がわからない。なぜ勝手に現れ、勝手にいなくなったのか。廊下にあるそれ、は何の置き土産なのか。

 

 「ええ…私が大きな音を立てたからですかね…それとも、えっと、いたずらが成功したから…とか?」

 「いたずら、か……南無阿弥陀仏…」

 

 そうであるならば…まだ平穏ではあるのだが。

 廊下にある正体不明のそれを見下ろす。確かにあれば足を滑らせ、転ぶだろう。それも先ほどまではなく突如現れたのだから。

 

 「立って平気なのか…?」

 「はい、痛いのは痛いですがいつまでも座っている訳にはいかないので。掃除をしなければなりませんし」

 

 割れた皿と、正体不明のそれの事を指すまい子。

 正体不明のそれは確かにいつまでも置いておいて良いものではないが…片付けるのも大丈夫なのか疑問ではある。触れただけでただれる毒などは含まれていてもおかしくないのだから。

 …最もそうならば素足で踏んだ私の左足は危ういが今のところ何も起きていない、少々汚れているだけだ。

 

 「着物を汚したりしていないか?」

 「大丈夫です、踏んだ足袋が汚れただけのようですね。しかしこれは何なのでしょうか、何だか甘い匂いがします」

 「口にしないよう」

 「しませんよ、さすがに私は」

 

 軽口に笑いながら返してくるも、その後に続く言葉の温度は何よりも真剣だった。

 

 「ですがその子達は別ですので片付け終わるまで部屋の中に閉じ込めておきましょう」

 「ああ、そうだな…」

 

 間食をした後だというのに甘い匂いを嗅ぎ付けたのか廊下に出ようとする猫達を捕まえ、全員中にいるのを確認したあと襖を閉める。

 

 「しかしなんでしょうねこの黒い茶色の柔らかいものは」

 「なんにせよ掃除せねば、私がチリトリを持ってくるからその間皿の破片を集めていてくれ」

 「ええっ、いえ大丈夫ですよ!行冥様はゆっくり休まれていてください!」

 「いや早く片付けてあの子達を解放せねばな。焦れて襖を突き破って出てくる可能性もなくはない」

 「あぁ……それでは、すみませんお願いします」

 

 背後でカチャリカチャリと破片を集めている音を聞きながら倉庫へと向かう。雑巾は必要だろうが、私が取りに行く方が……む?

 

 進んだ廊下の中の一ヶ所、換気のためか開かれていた窓を見付け、雨が入ってこないよう閉めようと手をかけた時に気付く。枠に小さな傷がある。

 こんな傷あっただろうか?いつ付いたのか……まさかここから出ていった、とか。大きさとして横になれば出られなくも……いやしかし…

 

 

 「……南無阿弥陀仏…」

 

 一度、瞬きとした後小さな声で呟き窓を閉めた。外の雨音は聞こえなくなり、私は倉庫へと足を進めた。

 もはや気配すら感じないそれより、しなければならない事があるのだから。

 

 

 なぜかもう戻ってこないだろうと私は確信していた。それは良い事なのだろうか、わからない。

 

 しかし、漠然とした嫌な予感は消える事なく胸の中に渦巻いていた。

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 ごりごりごり。

 

 

 岩柱の屋敷から山一つ越えた森の中、とある一つの石像のようなものが動いていた。

 

 雨は小さくわずかな量が降っては止み、降っては止み…そんな事を繰り返している中それは動いていた。

 

 

 そしてある時、堰を切ったように多くの雨が降り始めた。

 その量は多く、辺り一面が白く染まり上がるほどのものだった。

 

 

 どろり。

 

 人型の石像のようなものの顔部分に描かれていた猫の塗装が激しい雨によって剥がれ溶け始めた。

 

 

 雨の勢いが少し弱くなり、白んでいた景色が少し戻る。

 石像のようなものの猫の塗装は完全になくなり、隠されていた新たな塗装が顔を覗かせた。

 

 

 ごりごりごり。

 

 

 石像のようなものは歩みを進めている。

 そこに一頭の鹿が通りがかる。

 

 鹿は動く見慣れないそれに目をやり、数秒見つめた後何気なく瞬きをした。

 

 

 その瞼が上がる間もなく首を折られ倒れこむ。

 側には石像のようなものが、ただじっと真正面を向いたまま立っていた。

 

 

 

 

 

 

 ** SCP-173 **

 

 

 

 

 




 SCP-173-J SCP-173の真実


 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 
 猫の顔が描かれたコンクリートと鉄筋で作られた人型の像。生きており、周り人がいれば見られていない隙にイタズラをしたりする。
 誰も見ていない時にごりごりと動く音がするのは財団職員に見せるためにダンスの練習をしているから。チョコレートプディングをどこからか生み出す。
 というジョークのお話。





 SCP-173 彫刻 オリジナル


 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 
 スプレーで描かれた顔のようなものを持つコンクリートで作られた人型の像。173を直接見ている間は動かないが、目を逸らしたり、瞬きをした瞬間にその人物の首を折る。ウインクもダメ。
 排泄物と血液の混合物をどこからか生み出すため、時折清掃しなければならない。



SCP-173 http://scp-jp.wikidot.com/scp-173

著者:Moto42 様

この彫刻及び写真はクリエイティブ・コモンズライセンスの元では公開されていません。
SCP-173は加藤泉氏の作品である"無題 2004"で、その写真の使用許可を頂き二次利用で生まれました。


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漆話 強引な販売員のようです(前編)

 

 「スマナイ迷惑ヲカケル…」

 「いえいえ、大丈夫ですよ。はいっ、折れた骨が動かないようかっちり止めましたので安静にしてくださいね」

 「代わりの鴉は時期に来る…治るまで短くとも数週間はあるだろう、ゆっくりしていなさい」

 

 首元の数珠を彼女が外し、折れている翼の部分に添え木をし包帯を巻き終わる頃には、小さな体をなおさら小さくしそうなほど鴉は落ち込んでいた。

 原因は他でもない、任務の途中での不慮の事故。誰が悪い訳でもなく、避ける事も出来なかったもの。

 

 そう慰めの言葉をかけても鴉の落ち込みは変わらない。

 私としては今まで良くやってくれたのだから少しの間の療養くらい良いと思うのだが。家ではなくどこか専用の病院などがあれば心持ちも違うだろうがないものは仕方ない。鬼殺隊にも薬学に強い人や施設があればいいのだが…

 

 「綺麗に折れているから何ヵ月もかかったりはしないだろう、それまで…この子達と遊んでいたらどうだ」

 「サスガニ今ノ吾輩デハ喰ワレテシマイソウダ」

 「…そうだな。そうかも知れぬ…」

 

 近くにいた伏せている白い猫の背中を撫で上げる。短い毛並みが心地いい。遊びが好きなこの子が燃え上がりその延長で襲い掛かったとしたら機動力の低い今の鴉では逃げれまい。

 弱肉強食…食物連鎖の並びで食しにかかったとしても罪はない。そうなってしまっては我ら誰にとっても良くない事ではあるが…南無。

 

 

 「そんな物騒な話は止めましょうよ、私がそうならないようちゃんと見守っていますから」

 「ソノ手間ガ申シ訳ナクテナ」

 「大した手間ではないですよ、とにかくお茶でも飲んで一息つきましょう」

 

 安らかな休息の為にお茶を一杯、元々用意をされていたおぼんの上に乗せられた湯呑みと急須が動かした事で軽くぶつかりコツリと小さな音をたてた。

 急須の中で蒸された茶が湯呑みへと注がれれば、室内に茶葉の良い香りが淡く広がり目元が弛む。

 

 「良い香りだな…」

 「そうですね、味も美味しいですし。けれど茶葉が残り少なくて…そろそろ買い足さないといけないかもしれません」

 「ふむ、ならば次町に行く時に…」

 

 

 「ジリリリリンッッッ」

 

 「!」

 「きゃあ!」

 

 突如鳴り響いた機械音のような甲高いもの。音量としてはそんなに大きくなくともいきなり鳴れば驚くだろう、体の跳ねに合わせて注いでいたお茶がこぼれても仕方ない。床とおぼんが濡れただけだ。

 

 そんな音を立てる機械など我が家にはない。なおかつ…聞こえた位置には鎹鴉がいて、その喉元から発せられる音?

 戸惑う私たちを意にも介さず、鎹鴉は甲高い音で鳴き続け……そして。

 

 

 『はじめまして!悲鳴嶼さんでいらっしゃいますね!前々からわたくし、悲鳴嶼さんのような方とお取り引きをしたかったのですが何分電話をお持ちないようであぐねいてましたが、こうした連絡手段を持っていらっしゃるとの事でこちらにご連絡をさせていただきました!』

 

 鎹鴉とは全く違う男の声で勢い良くまくし立て始めた。

 

 

 「…は?」

 

 

 

 ** SCP-1840-J **

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 聞いた事もない声。声色からして男性だろう。けれど…なぜそれが鎹鴉から聞こえてきたのだろう。

 

 電話…電話?電話というのは自働電話の事だよね多分。直接見た事はないけれど、確か電話というものは遠く離れた場所にいる人と話せるというものだったかな。

 その言い分ならば、鎹鴉も同じ事が出来る…出来ている…?よくわからない、わからなすぎて床を拭こうとした体勢のまま固まってしまっていた。

 

 「なに、どういう事だ…?」

 『わたくし悲鳴嶼さんの…そう!旦那さんや奥さんにおすすめでピッタリの品物を手にしているのですよ!こんな何もねえクソ辺鄙な…おっと失礼、自然に溢れた環境では手に入らない素晴らしい商品をご用意してますよ!』

 「鎹鴉の悪ふざけ…という訳ではなさそうだが」

 

 行冥様はさすが。落ち着いて状況の分析をしているけれど、そうしていて解決できるものなのかどうかはわからない。

 

 『今の時間は午後の落ち着いた時間のティータイムという所ですね!しかしそんな何の面白味もないマグカップではくつろげても楽しめはしませんね…そんな時にこそ!わたしくが紹介するマグカップがおすすめですよ!』

 「まぐかっぷ?…え、あ、湯呑みの事ですか」

 『そのマグカップはある時は縦縞模様、ある日はガラス、ある日は金物製…と材質や形が変化し見た目で楽しませます!そして何より手に持つだけであら不思議!勝手に飲み物が生成されるのです!ああ、これはなんて事だ!これ一つあれば面倒なお茶汲みなんてしなくてすみますよ、ねぇ奥さん!』

 「えっ、私?」

 

 行冥様の方を向き、微動だにせず話続けていたから私は特に気にもせずこぼした水拭きを終えて再度お茶汲みをやり直していた。

 なのに突然私の方へ向き、話しかけられれば鴉のおかしな様子に少しずつ慣れていたとしても驚く。奥さん、って私の事だよね?行冥様はどう見ても女性には見えないし。

 

 「えっと…私は行冥様に出すこの瞬間も好きですから大丈夫です…」

 「まい子、応答しなくて良い。 …鴉は鬼と関わらなかったと思っていたがいつの間にか血鬼術にやられてたのか」

 『とんでもない!妙な術などかかってませんよ、ただわたくしが電話をしているだけ!例え刃物を突き立てようと、頭と首を斬り離そうともそこに残るはこの体の死体のみだ!ああなんと残酷な!出来ることならこの体、うちの女房と変わってほしいぐらいだ!』

 「………」

 

 するりと腕で庇ってくれるような体勢になった行冥様。けれど気にせずものすごい勢いで喋り続ける鴉に対して行冥様は何も返さなかった。いや返せるような言葉はないというか……なんというか。

 私も行冥様も、あまりこの鴉越しの相手は得意ではないような気がする。例えどれだけ強い言葉を言おうとものらりくらりと交わしそうなこの相手は。

 

 思いきり顔をしかめた珍しい表情の行冥様を見て、鴉を見る。鴉は変わらず、機械のように喋り続けていた。

 

 

 『ああ、もしやまだ使える物は使おうという精神ですか。じゃぱにーず、モッタイナイ、ってやつですねぇ、いやぁこいつは失礼!ならば先ほど無くなると嘆いていた茶葉の方を進めるべきでした、うっかりうっかり!』

 「…茶葉?」

 『そう、飲んで美味しい、香って美味しい、ウチの犬も尻尾を振って庭先を駆け回って壁を無数の足で這いずり回るくらい大喜びする至高のお茶ですよ!しかもなんとそのお茶…これはビックリ!飲んでも飲んでも金属製の蓋を閉めればいくらでも補充可能!』

 

 この鴉の向こう側の彼はなんなのだろう。何をしたいのだろう。

 

 『そしてなんとなんと!ここからが重要ですよ…罪人は飲むと裁かれるという素晴らしいお茶なのです!ああ、なんてこったい!旦那さんが相手する鬼は頸を斬るしかないというのにこのお茶は飲むだけで裁かれてしまうなんて!」

 「………」

 『もちろん旦那さんや奥さん、貴方達は飲んでもなんでもないでしょう!いくら鬼となったとはいえ元人である頸を躊躇なく跳ばす旦那さんと、無意味な優しさで嫁入り前の顔に生涯消える事のない傷を残す奥さんのような人、デ、ッ!』

 

 鎹鴉の声が揺らぐ。

 瞬きをする一瞬の間に行冥様の大きな背中が私の目の前に広がっている。

 

 

 息を吐いて……行冥様が素早く動き、鎹鴉の首を大きな手で掴んでいるのだと気付く。鴉の細い首を縛り上げた事で声色が揺らいだのだと。びくびくと跳ねるその姿を見て、それは……やっていいような事ではない、のでは…!

 

 「…ぎっ、行冥様!?駄目です、鴉を…!」

 「……逃げられたか」

 「絞めては……え?」

 「……カァ……」

 

 慌てながらかける私の声を聞き流すように、行冥様は手を離しため息混じりの声で呟いた。その意味を理解し、鴉を見てみれば咳き込む事もなく小さく鳴く鴉の姿が。

 

 「え?えっ…」

 「スマナイ二人トモ…吾輩デハ止メラレナカッタ…」

 「構わぬ…お主のせいではない。仕方のない事だったのだろう…」

 「…電話が、終わったのですか」

 

 私では今の一瞬でどんな攻防があったのか把握できない。けれど唯一わかるのは理解の出来ない存在から彼は守ってくれたのだろうということ。

 私も鴉も、守られたのだと。

 

 「全くなんと奇想天外な事だ…すまなかった、苦しかったろう」

 「吾輩コソ止メラレレバ…サスレバアンナ残酷ナ事ヲオ主タチニハ…」

 

 こうべを垂らす鴉の小さな頭を指先で撫でる。猫達より小さなそれは漆黒の羽毛が艶やかでするりと撫で落ちる。何度か繰り返せば羽根と同じ色をした瞳が私を見上げてくる。

 

 「不可抗力でしょう。そんなに落ち込まないでください、私は平気ですから」

 「そうだ、お主のせいではない」

 

 行冥様の大きな手が私の頭に乗せられ、軽く滑らすように撫でられる。まるで今私が鴉にしていたように…励まされて、いる?

 見上げればはらはらと涙をこぼす彼と目が合う。………。

 

 

 「…もう、来なければ良いですね。電話が」

 「…そうだな。これで終わりであれば良い…」

 

 

 

 望んだそれは小さな願い。

 けれど、叶えられないのが世の常なのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 あれから何度も"電話"は来た。そして様々な商品の紹介を受けた。

 それは様々な時間に。

 

 

 

 食事の最中、甘味の話をしていた時に。

 

 『いやぁ仲の良い会話ですね!甘くて甘くて溶けちゃいそうだ!そんなお二人の甘い時間に負けない甘ぁい商品がありますよ!食べても食べても、無くならない…大きく甘ぁいケーキ!いかがですか!

 たっぷり溢れる生クリームに新鮮みずみずしく甘いイチゴ、ふわふわ噛まなくとも溶けるスポンジ!一個満足なのに、明日になればあら不思議!全く同じケーキが現れる!購入したのは一個なのに!?そうこれは食べても減らないケー……え?ああ、そうですか』

 

 『蕩けるような甘さといえばチョコレート!…え、そうです貯古齢糖!実はチョコレートは媚薬にもなると言われてまして…おっとそんなのを口にし乱れた奥さんの姿を想像……ああ旦那さんそんな怖い顔をしないで!大丈夫奥さんとの絆は本物ですよ!

 さてさて、そんな媚薬になるというチョコレートを使った装置。チョコレート・ファウンテンはどうですか!金属を積み重ね山となったそれの一つのスイッチをポチりと押すだけ!無数のチョコレートが滝のように吹き出して、どこからなんて気にしないで大丈夫!浴びるように飲んでも何かにつけて、おっと奥さんに付けちゃあ……きゃー!旦那さん落ち着……ギァッ!』

 

 

 

 自室に戻った際に。

 

 『この沢山の本の量!何々、趣味の視写の為?いやあ愛されてらっしゃる!ウチの女房には花の一輪より離婚届の方を渡してしまうってのに!

 そしてそんな趣味に使うためのおすすめ商品がこちら!西洋の筆、鉛筆!それもただの鉛筆ではなく持つだけで鉛筆と心が通じ合い、最上のアドバイスが貰えます!するするっ、と画伯の絵が描けるかも!?これ一本あれば下手な絵なんておさらば!って事でお値段……え?…勿論、字も書けますよ。それより絵を……ああ、そうですか』

 

 『本を読んでいて、ああこんな素敵な世界に行ってみたい…そう思った事あるでしょう!ならばおすすめはこのブックスタンド!ええ、本を挟むものですよ!

 これの間にお好きな本を一冊挟めば…なんてこった!つい今まで読むしか出来なかった世界に入り込めているなんて!お好きなあの人と食事をしたり手助けをしたり…そうして親交を深めている内に感情は高ぶり、そして!……ああ、それより旦那さんの側にいたいと、そうですか』

 

 

 

 

 寝室で布団を整え、いただいた大事な大事な櫛で髪をとかしている時。

 

 『綺麗な櫛ですねぇ!ええっ、婚姻の櫛ですって!なんて素敵なんだ、うちの女房なんて櫛より串だ、バーベキューだ!なーんて!食べ物の方が喜ぶ喜ぶ!そんな櫛も良いですが、互いに指輪を付け合う…ってのも悪くないですよ!

 さあ、そんな指輪の一つは紫色のガラスのはまったスタイリッシュな金属製!はめるだけでものを浮かせたり変化させたり出来ますよ!例えばその櫛を黄金で出来た櫛に変えたりね!黄金で髪をとかすなんて無意味な事も出来るって事です!

 そしてもう一つは金で出来た指輪!これこそまさに結婚指輪そのもの!こんな黄金の輝きを指に持つものの言うことなんて絶対だ、例えばその手鏡はみずみずしい苺だと言えばみるみる内に美味しそうな苺になります!食べても手鏡ですから美味しくはなく口の中血まみれになるだけですがね!ハハハ!ですが、これを使えば人間も……えっ、指輪は大きさが合わな……ああ、そうですか』

 

 

 眠りにつくその時まで、眠りから覚めた朝一番、電話は時間を置いて何度も何度もかかってきた。

 そしてそのたびに何度も何度も断った。

 

 

 

 

 




 ─ 中編に続く


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漆話 強引な販売員のようです(中編)

 

 「本当に大丈夫か…?やはり日付をずらした方が…」

 「大丈夫です。私なんかより、自身の安全を考えてください行冥様」

 

 次の日の夜、行冥様はどうしても外せない用事があって出掛けていった。それがどんなものなのか、柱である彼の任務全てを把握出来る立場ではない私は何もわからない。

 せめて彼の継子になれれば…なれるほどの体であれば。せめて鬼殺隊に入れれば。

 ……入りたくとも入れる技術も体力もない私では見送るしか出来ない。こんな、すぐに折れそうな体では安心させる事なんて出来やしない。

 

 彼を不安にさせなく出来るほどの強ささえあればいいのに。危害を加えてくる訳でもない、謎の声だけを発する鴉を追い払えるほどの、不安を感じさせないほどの強ささえ私は持てていない…

 

 

 夜闇も深まり、チリリと鳴く虫の声だけが辺りに響いていた。猫達も昼間遊びすぎたからか一匹、また一匹と眠りにつこうとしていた。

 

 昼間は行冥様と会話をし、猫達とたわむれ……そうしていると何気ないこんな夜が少しだけ心細く感じてしまう。そう感じる間もないように出来る事の全ての用事を行っている内はともかく、こうして、全て終わらせてしまった時は。

 

 

 縁側に腰掛け、夜空を見上げる。雲が多く月も星も何も見えず…心休まる景色が石油ランプの届く範囲外は何も見えない。辺りに明かりがないここでは一寸先も何も見えない。

 

 まるで世界に一人みたいだ。

 

 なんとも言えない…胸にぽっかりと隙間を覚えてしまう。これは私の弱さ他ならない。彼は人々の為に動いている。人々の安全と安心と平穏を考えている。

 

 「はぁ……寂しい、です…行冥様」

 

 それを止める権利も嘆く権利も私には何もない…というのに。わずかな、夜闇に溶けそうな弱音を吐く事くらいは許されるだろうか。

 

 

 『そうですねぇ奥さん、人肌恋しい夜もあるでしょう!特に今夜のような旦那さんがいなく慰めてくれるものを探し求め飢えた獣のように嘆く夜も時にはある事でしょう!ああ、大丈夫わかります!わたくしだけはそんな気持ち否定しませんよ!』

 「…え?」

 

 いつの間にか側に来ていた鎹鴉。その喉元からは昨日から何度も何度も聞いた謎の男の人の声が。

 彼は誰なのか何なのかわからない。そして彼は私の理解できないとばかりの…冷たく発した声に関係なく話を続ける。

 

 

 『そんな夜、ああ勿論昼間でも構いませんが自信を慰めるための商品がこちら!███製の████!!!』

 

 ………はい?

 

 

 『████のこれは欲求不満、肌寂しい奥さんのような若くて愛らしく████のようで███な方にはピッタリ!何せ███が████で強さは一番の弱ですら████の████で████ですが、しかし████の███が…!』

 

 

 ………。

 ………。

 

 

 鴉が話し続けるそれは私の耳から入り、そのまま通り抜けていったといっても過言ではない。

 聞けなかった。聞き入れれなかった。理解できなかった。

 

 その時私は何度「大丈夫です」と言ったか覚えていない。

 もはや「大丈夫です」を繰り返すだけの機械と成り果てていたといっても過言ではない。けれどそれ以外は何も言えなかった。

 

 理解し、噛み締めれるほどの寛容な心を持ち得ていなく、受け流せるほど大人でもなかった。怒ったり怒鳴ったりなどは…あまり得意ではなくて…

 

 

 行冥様のように粋で華麗になおざりに差し置く事が出来なくて……半泣きになりながら鎹鴉越しの彼にもう止めてくれと懇願した。

 その願いが通じたのかどうなのか、いつの間にか鎹鴉は元の彼に戻っていて…泣きべそをかく私を心配して声をかけてくれていた。

 

 ああ、こんな姿、到底行冥様には見せられない。そう思っていた。

 

 

 

 

 けれど、勿論。

 

 「私がいない間、連絡があったろう?大丈夫だったか」

 

 後日怪我なく戻ってこられた行冥様に、鴉の事を聞かれるのは当然の事だった。そりゃそうだろう、出かける少し前まで電話が来ていたのにいきなり無くなるなんて都合の良いこと考えれないだろう。

 …聞かれたくなくても、聞かれるのは当たり前の事。

 

 けれどあったと正直に答えれば…きっとその内容も確認される。それも当然の事。

 ならば無かったなんて嘘は極力吐きたくない…けれど上手く誤魔化せれるほど器用ではない。

 

 だから昨日…一昨日と同じようにあったとの事実は伝える。すると「どのような?」と想定通りの事を聞かれ……言葉に詰まる。

 

 

 「えっと……」

 

 電話の有無は言えても内容を伝えるのは……厳しいというか、困るというか…

 

 「……また、無責任な悪意を吐いてきたのか?」

 「えっ、え?…いえそうではなく……」

 

 それらを考え渋っていれば私の態度で行冥様は眉を潜め、瞳が鋭くなり、いぶかしげに口を曲げた。悲しげにも怒りにも憤りにも見える表情で私を見下ろす。

 その顔を見て、心の奥がとん、と跳ねる。

 

 そんな顔をさせたい訳ではない。悲しませたくも怒らせたくも困らせたくもない。

 ただ、私が言葉を紡ぐのに困るだけ愚かな話。

 

 「えっ、と、ですね……」

 

 けれどどう言えば上手く言えるのだろう。あんな……奇妙で不穏で……その、なんとも言えない発言を繰り返したそれの事を。

 上手くなんて言えやしないのだから、そのまま正直に言うしかない。正直に……正直って何を?私が、行冥様に?え?あのような事を?

 

 「………。私の口からは……その…はっきりとは…」

 「…そんな深淵に触れるような言葉を…!」

 「ああ、いえそうではなく…!…あ、のですね!」

 

 どんどん眉間に深い皺が刻まれていく。こ れ以上誤解をさせてはいけない、暴言は吐かれていないのだから。私は傷つけられたりしていない。だから。

 

 ……ああ、徐々に顔が熱くなっていくのがわかる。耳まで熱いのが更に恥ずかしさをかきたてる。

 

 

 「……いっ、いかがわし、い……のを、ちょっと紹介、されまして…!だからっ、その…」

 

 到底彼には口頭で伝えれなかった。伝える技術を持ち得てなかった。そんなのを伝えるのに私は得意な性格ではないのだから。

 だからもういっぱいいっぱいで、自棄になった声で詳しく言えない理由を伝えるだけにする。

 

 

 これだけできっと理解してくれるだろうと信じて。徐々に声は小さくなっていったけれど聞こえているはず。

 ああ恥ずかしくて顔を出していられない。穴があったら入りたい。うずくまって小さくなりたい。

 

 

 「………ほ、ぅ」

 

 だから、私がそう彼に顔を真っ赤に発火させながら伝えた事で彼の目がこの上なく据わり切る事になるとは、予想もつかず把握も出来ていなかった。

 両手で覆っていた顔を上げた際に、今まで見た事もないそれを見て変な声をあげてしまうほどには全く。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 昼食を用意している後ろ、厨房から廊下へと続く段差に行冥様は腰掛けていた。いつもの作務衣に着替えもせず隊服のまま、砥石で薪割り用の斧の手入れをしながら。

 お疲れだろうと用意しようとした布団は断られたから、何か他に用があるのだろうと思ってはいたけれど……急いでやらないとダメなほどだったのだろうか。

 

 「そんなに切れ味が悪かったのですか?」

 「いいや。しかし悪くなってからでは遅いからな…いつでも最上の段階にしておくに損はない」

 「確かにそうですねぇ」

 

 水に濡れ輝く刃物を持ち上げ指先を切らないように研ぎ具合を確認する行冥様。そもそも斧に関して私が口に出せる事はなにもない、触りもしないそれには特に。

 

 

 そんな行冥様の横に鎹鴉がちょこんと座っていた。

一昨日からの妙な電話のせいで、日に日に落ち込み具合が増している。彼はなにも悪くないけれど…受け取る存在としてどうしても責任を感じてしまうらしい。ただでさえ怪我をして沈んでいるというのに弱り目に祟り目だなあ。

 

 

 「ハァ、ナントモ情ケナイ…オ主達ニハ迷惑バカリカケテ…」

 「そんなに落ち込まないで。えっと何か……今切ってる油揚げくらいしか」

 「ダカラ今日、決着ヲツケルノダ」

 「油揚げ食べます?……え、決着?」

 

 深いため息を吐きながら嘆いていた鴉が不憫で仕方なく、どうにか励ませれないかと辺りを見渡す。言葉によるものはほとんど効果がなかったから。

 けれど昼食準備中の台所、何もない。あるのはまな板の上で刻まれている油揚げくらいのもの。けれどこれを食べたからと元気になるだろうか。

 

 一応可能性を込めて聞こうとしたけれど、その前に言われた言葉に引っ掛かる。

 ……決着?何に…って引っ掛かりはないか。電話をしてくる例の人と、って事だろうから。

 

 …決着をつける。それも、今日。

 

 

 「そうだ。先ほど私達で話したのだが…連絡手段の不明さ等で余計な目移りをし、止めさせようとばかりしていた為に後手に回っていたのが悪かったのだと」

 「吾輩越シニ話シテ止メレヌナラ…直接話スシカナイト」

 

 

 シャリッシャリッ

 

 

 「物を紹介し、そのあと金額を言う。向こうが取り引きをするつもりならば……会おうではないかと、な」

 

 研ぎ終えた斧を顔先に持ち上げ、厨房へと入り込む光を反射させた。その明かりが行冥様の頬を、目元を光らせ一瞬影を作り出した。

 口元は微笑んでいたけど、笑ってはいない。

 

 

 ……え、えっ?それって。

 

 「あ、会うのですか、その、電話の向こうの人と?…大丈夫ですか…?」

 「勿論だ。別に何と言う訳ではない。ただ少し、話、をするだけなのだから…」

 

 心配する私に行冥様は優しく安心させるように伝えてくれた……のだけれど、なんだかまるで含みが……いや、気のせいかなぁ。

 

 

 大丈夫かな?大丈夫かなぁ………大丈夫か!行冥様だもの!鬼でない人間に負けたり怪我をしたりしないだろう。

 

 「しかし気を付けてくださいね、行冥様は優しいですから」

 「勿論だ重々気を付けよう。まい子こそ無理をしないよう…」

 「平気ですよ、今はどこも悪くないですから」

 「と言い過去何度も突然悪くな…」

 

 

 

 「ジリリリリンッッッ」

 

 「「!」」

 

 話していたその拍子丁度に割って入るような声が鳴り響く。昨日の朝も同じような事があったと行冥様と顔を見合わせる。

 何度も思った、まるで見張られているようだと。

 

 

 『こんにちは悲鳴嶼さん!おやおやそんな二人に見つめられては照れてしまいますが、ご要望にお答えして、満足していただけるような商品を用意していますよ!』

 「…そうだな、話を聞こう」

 

 アハハと鎹鴉の笑い方ではない笑い声が聞こえ、それに行冥様も笑っているような表情で答えた。でもその顔は…先ほども少し感じたけれど。

 

 ……気のせいじゃあないなぁ…行冥様うっすら怒っている。

 怒鳴ったり暴れたりではなく懇々(こんこん)と沸々とした怒り方をする人だけど、それでも怒られると怖いし申し訳なくも思ってしまう。

 

 優しい彼は誰かを想って怒る。鬼に、不平等な世の中に対し、涙を流す。なら今怒っている理由は…いい加減わずらわしいこれに決着を付けるためにだろうか。怪我が治るまで鴉と共にいるだろう…私のために。

 

 ならば私は邪魔をする訳にはいかない。口を挟むべきではない。

 包丁をまな板の上に置き、微かな音もたてないように二人の戦いを見守る事にする。

 

 

 『わたくし気付いてしまったのです!旦那さん、奥さん二人に共通して必要なものを!それこそ雷に六回ほど連続で打たれたように!ああこれは比喩ですよ、旦那さんのような技を使う人にやられた訳ではありませんのでご心配無用です!』

 「それで、物は何だ」

 『おっとこれからお二人のあつーい共通点を語ろうとしていたのにどうやらお急ぎのようだ、なら仕方ない急いで紹介と参りましょう!今回の商品は薬です!一粒、五百円でいかがですか!』

 「ごひゃっ…!?…あ、すみません!」

 

 どこかピリピリと張りつめたような空気の中、つい声を張り上げてしまいとっさに謝罪する。でも、でも五百円とか…!一粒五百円(現代価格で約500万円)!?

 昨日の午前中紹介してきた生きているという銃ですら三十円だったのに!

 

 『確かに驚かれるのは仕方ない…しかしこの赤色をした錠剤はただの薬ではないですよ!一粒呑めばあら不思議!煮えたぎるような熱で(うな)されていた体がたちまち走り回れるほどの回復をする、何でも治せる薬なんです!』

 「…そうか」

 

 真っ直ぐ鴉を見下ろしていた行冥様がチラリと私を見る。

 

 一昨日から少しだけ思ってた。妙な方法で連絡をとる彼の持つ商品が、彼の言う通りの力がある本物だとしたら……と。

 勿論欲しいものなんて無いし、興味も全くない、私は。 ……けれど今の商品紹介で行冥様の心が動いたならば。

 

 …買うとするならそれは私のため……けれどその優しさは受け入れてはダメなやつ!確かに本当ならば世紀の大発明だけど、お試しに買うとしてはいくらなんでも高価過ぎる!

 声を出さず思いっきり首を横に振るも見えないから意味がないと気付く。身ぶり手振りもダメだ。

 

 

 ならばどうやれば私の気持ちを伝えれるだろうかと、あたふたしていれば…どうやら気配で解られたみたい。視線が鴉へと戻っていった。少し眉を下げて。

 …ああ、その表情は狡いですよ行冥様…

 

 ……それにしても沢山の商品を聞いたなぁ。今まで食料品や装飾品、娯楽品、陶器、金属、家具や武器、分類分けの難しいものと色々あったけれど…医薬品まで取り扱っているとは。 

 しかし薬は人によって必要な種類がある、それこそ私と行冥様ではまるっきり別物だ。先ほどの通り熱が出て倒れるより鬼から受ける傷の方が圧倒的に多いのだから。

 だから熱を下げるとかより痛み止めとか、消毒液とか包帯とかのが…

 

 

 『おおっと焦ってはいけません、薬なら熱を下げるより血なまぐさい怪我を治す方が…なーんて勘違いすると恥をかきますよ?わたくしは"何でも"とちゃあんと言いました、それこそ何でも治す薬なのですから!

 例えば包丁で指先をちょこんと切った傷も、斧でどすんと手首から先を切り落とした傷ですらバッチリ回復する!それがわたくしが紹介している薬なのです!

 そして勿論後遺症もなし!大人も子供も、ヤスデとくっついたウチの犬でも安心して飲めますよ!』

 「……」

 「なるほど、それが本当ならば私達二人にとって必要なものなのだろう」

 「ちょっ…!」

 

 まるで思考が読まれたかのようにまたしても丁度重なるような時間に言葉をつむがれ、目を見開く事くらいしか出来ず何も言えなくなってしまう。言葉には元々していないけれど。

 そんな私の動揺はいざ知らず、受け入れ態勢かのような言葉を発する行冥様。まさか本当に買う気ですか!?あの金額を!?

 

 「しかし買いはしない、真実かもわからないそれに対しての対価は払えない」

 『ああ、そんな!こんなにお買い得な商品はないというのに…ならば二百五十円でいかがです!?もう一声?ええい、百五十だ!うーん、これで最後、百!一粒百円だ!』

 

 けれどその心配は杞憂に終わり行冥様はきっぱりと断った。けれどそこからあれよあれよと言う間に値引き交渉され当初の予定の五分の一の金額まで下がっていた。

 

 元々買う予定がなかったものでも値下げをされおすすめされれば気になってしまうのが人間の心理だというなら……こうして心臓辺りが痛くなってくるのは何の心理だろう。言いようの無い緊張感にただ当てられただけだと思うけれど…

 ずくずくと痛み始めた胸元を押さえ込み、まな板の上を避け台に手をつき体重を預ける体勢になる。

 

 「…まい子?どうした…?……話は終わりだ、それどころでは無くなった」

 

 見えなくとも私の動きは彼に伝わっている。少々戸惑った声と共に一瞬で体に触れる位置まで移動してきて、大きな手で肩を支えてくれる。

 問題ない、すぐに治るからと伝えようとしたが運悪く喉がつまり、出たのは咳混じりの「大丈夫」の声。どう聞いても、言った本人ですら嘘だろうと思う声に彼は悲しげに眉を下げる。

 

 『ああ大変!こんな時にわたくしが紹介している薬さえあれば!そうか、一粒では頼りないですからね!わかりました薬の数を増やして百円!これで最後ですよ!』

 「わかったから黙ってくれ、その声が不調の体に響くだろう」

 『これは失礼!それでは悲鳴嶼さんの家から少し先にある三本の松の木の下にご用意しておきましょう!回収しましたら素早く飲ませる事をおすすめしますよ、何せわたくしを追う組織に目をつけられ…おっとこんな事を言ってる場合じゃないな、お買い上げありがとうございました!』

 

 ガチャッ

 

 まるで何かの機械が擦れあったような音を発し、鴉は静かになった。

 元々大した事ではなかったのだろう、痛んでいた胸元も徐々に良くなり数分で真っ直ぐ立てるほどまで痛みが引いてきた。

 

 そして迷惑をかけた事と邪魔をした事を謝る。なにか今電話の最後、ごちゃごちゃっとして…

 

 「…購入に、なりましたね」

 「…松の木の下、か。悪いが至急に確認しに行ってくる、無理せず休んでいなさい」

 「はい。行冥様こそ気を付けてください」

 

 私の言葉に頷いたあと鎹鴉に一言二言伝え大きな背中が勝手口をくぐり抜け出ていくのを見送った。向かった先の松の木が私の今思い浮かべてる場所と同じ所なら一里も離れていない。

 そんな近くに、いるのだろうか。いたのだろうか。そして行冥様は……話、に行ったのだろうか。

 

 

 斧がなくなっていたのは気付いていたけれど、財布がなくなっていた事に気付くのはまだ先の事。

 片付けられた斧の存在を見つけたほどに行冥様は戻ってきた。

 

 いぶかしげに浮かない表情で、手の中に一つの小さな箱を持ったまま。

 

 

 

 




 ─ 後編に続く


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漆話 強引な販売員のようです(後編)

 

 

 

 「不思議な箱ですね…ガラスのように透明なのに色がついていて尚且つ少し柔らかい。西洋の薬入れはみんなこうなのでしょうか」

 

 まい子がそれを振ると箱の中で幾つかの薬が側面に当たるカラカラとした乾いた音が鳴った。

 

 

 知る限り最短の距離と速さで松の木に着いた時、それはもう置かれており付近には人や獣の気配は何もなかった。そもそもいた、という気配を感じる事もないほどに静まり返っていた。

 

 大きなため息と涙をこぼし、支払いを済ませ持ちかえったその行動に対し、まい子は深く突っ込んでは来なかった。数点、ぽつぽつと確認しただけ。

 声色からして罰の悪そうな、肩身の狭そうに思っているのか手に取るようにわかる。自分のせいだと思っているのか、そんな事無いというのに。

 

 

 そして食事も取り終わり、それ、を今後どうするか話し合っていた。使用するには怪しすぎ、処分するにしても高価すぎて渋られる。せめて成分を調べれるような施設や人物が鬼殺隊の中にいればまだ良かったのだが…

 

 「どんな病気でも、傷でも治す…だが試すにしては危険過ぎる。まだ昨日の朝言っていた突然別の場所に移動する椅子の方が検証できる」

 「まあうっかり座ってしまうのは怖いですが。これも小さいので保管するにも気を付けなければ…」

 「吾輩ガ試ソウ」

 「えっ?……しかし…」

 「誰カヤラナケレバ出ナイ結論ガアルダロウ。ソシテソレガ事実ナラバ一番イイ」

 

 私達が薬の取り扱いに手をあぐねいていれば少し離れた場所で見ていた鎹鴉が残酷な真理を突き付けてくる。

 保管でも処分でもない、薬を使用する実験対象になるという事を。確かにそれが安全かつ、本当に何でも治る薬ならば……

 

 しかし、それは。うろたえるまい子の説得を鴉は淡々と否定していた。責任を感じていると言うが、これも…鴉の責任ではないというのに。

 

 「大丈夫ダ、毒ヲ盛ル理由ガナイ。ソレニ最初ハ動物カラダロウ」

 「……ひどいですね、何も言えません」

 「…どれだけ説得をしようとも曲げる気はないな」

 「頼ム」

 

 まい子から箱を受け取り、中から一粒取り出す。鎹鴉の元へ行き手のひらに乗せたそれを差し出す。くちばしが一瞬だけ触れ……小さなそれを、呑み込んだ。

 

 

 しん、と一瞬だけ妙な沈黙が流れる。そのあとすぐ声の揺れたまい子が鴉に問いかけた。

 

 「く、苦しかったり痛くなったり、眩暈や息切れ動悸などは起きてませんか?」

 「大丈夫ダ。何モ変化ハ……ン?」

 

 バサリ、と羽音が聞こえた。その両翼を大きく広げたここ数日、跳ね歩くしか動けなかった彼からは聞こえなかった音が。

 

 「……治ッタ」

 「え?え?…本当に?痛くないですか?」

 「アア。全ク痛クナイ」

 

 バサバサと羽ばたかせるその音に不調は全く感じれなかった。あるとするならば動かせないように巻かれた包帯と添え木のせいで少し重みがあり、動かし辛そうな事くらいか。

 鎹鴉に言われるがまま、まい子は包帯を外した。鴉は何度か羽ばたき、飛び上がった。何の問題もなく、健康な飛び方の音で室内を飛び回り…私の肩へと着地した。何とも得意気な息づかいが聞こえる。

 

 「ドウダ。完璧ニ治ッタヨウダ!」

 「…なんと、まぁ。ではこれは本当に"何でも治す薬"なのか」

 

 

 

 

 ** SCP-500 **

 

 

 

 

 「…なんて凄い薬…!これ一つあれば色々と変わりますね…」

 「ソウダロウ。後ハ時間ヲオイテ何ノ異常モナイト判断出来レバ、常ニ健康デイラレルヨウニナルナ」

 「鬼と戦って怪我をしてもすぐ治せるんですね…!」

 

 純粋に薬の効力の凄さに驚き感嘆の声をあげる二人。誰が持つべきだ、どこに保管すべきだ、まずはお館様に連絡を…と話し合うそれに口を挟まず手の中の箱を握りしめる。

 

 

 「……南無、何という事だ…」

 

 素晴らしい効力の薬に対し、私が感じたのは言いようの無いもの恐ろしさ。考えすぎかもしれないが…想像の通りになってしまえば。

 

 

 鴉の体を張った実験判明した事実、それは端的に見れば確かに素晴らしい事だ。これ一粒飲めば苦しめてくる様々な試練を簡単に乗り越えれる。

 だがそれから遥か先に導き出される、それは……とある残酷で恐ろしい可能性。

 

 手の中で箱を軽く揺らせばカラカラと音が鳴る。数自体は多くない。なりふり構わず飲めば一瞬で無くなるだけの量。しかしこれが…もし。

 

 

 成分を調べ解析出来たなら。そうして順調に複製を作り出せたなら。怪我や病気を撲滅出来たのなら。

 鬼殺隊にそうした事を調べたり作り出せるような技術も人材もいない。だからそれは外部発注になり、そこから情報が漏れる可能性はほぼ確実にある。鬼と、薬の事が。

 

 だがそうなれば鬼に欠損させられたり、命をとられたりする事がかなり少なくなるだろう。もしも鬼が病気と分類され薬を飲ませるだけで鬼を滅する事が出来たとしたら、更に物事は単純になる。

 

 この薬で全ての鬼を滅する事が出来るかもしれない。素晴らしい。

 そして鬼の恐怖を何も知らず、人々が無事に暮らしていける。

 

 ただ、それからの事は……鬼がいなくなろうとも病気も怪我もなくならず、そして治す薬が無くなるわけがない。いや、むしろ。

 怪我も病気も無くなった人類は……一体、どうなってしまうのか。全ての人々がただ老いれる事だけを望み平穏を喜ぶだろうか。否。必ず……

 

 

 「それは…なんと素晴らしく、同時に恐ろしい事か…嗚呼、南無阿弥陀仏…」

 

 手の中にあった箱を木の床に置き、数珠を擦り合わせこの世の無情を思い流れてきた涙と共に念仏を唱える。

 憂いたその事実が…全て杞憂で終わる事を私はまだ知らない。

 

 お館様と談合し、何も知らない医師に複製可能かどうかだけを依頼した。しかし特に異常な点も何もないそれと同じものを作り出す事は出来なかったのだから。

 それでも鬼殺隊に、お館様にと渡そうとしたそれを彼は返してきた。これは購入した私のものだと、心遣いだけ受け取ると。私が、持っていた方が良いと。それは彼の天性の勘だろうか。

 

 

 薬は家に保管している。何かあればすぐに使える場所に。最も…彼女は自分のために勝手に使いはしないだろうが。

 優しい者は時として残酷だ。だが頼れる物に頼りきりになればすぐに崩壊する。

 

 

 何ともまぁ、やりきれず、やるせないものだ。

 

 

 

 

 

 




 SCP-1840-J 強引なセールスマン

 オブジェクトクラス:safe(まぁ安全)

 電話で勧誘販売をするセールスマン。自らが持っている様々な品物を売りつけてくる陽気で強引な男。
 かなり貴重なもの(恐竜の化石など)をかなりの安価で売ってくる。
 
 
 今回SCP-1840-Jの紹介した品物は全てSCPですが、調べる場合は自己責任でお願いします。何を見ても責任はとれません。




SCP-1840-J http://scp-jp.wikidot.com/scp-1840-j

著者:AstronautJoe 様

この作品はCC BY-SA 3.0ライセンスの下に公開されています。








 SCP-500 万能薬

 オブジェクトクラス:safe(まぁ安全)

 プラスチックに入っている赤色の薬。どんな病気も怪我も治す。成分を調べても何も変わったところはなく、複製はとあるSCP以外では出来ていない。そのSCPでも完璧に複製は出来ない。残り47錠。
  
 

 SCP-500があればかなり無茶をさせられるので、これから悲惨な事もあるかもしれません。





SCP-500 http://scp-jp.wikidot.com/scp-500

著者:snorlison 様

この作品はCC BY-SA 3.0ライセンスの下に公開されています。





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捌話 仮面のようです(前編)

・強引な販売員のようですの続きです。

・少しグロテスクな描写、嘔吐未遂描写があります。


 

 

 

 両親姉弟を"何者"かに殺害され、唯一生き残ったのが彼女。その悲劇から時は経ち、今私達が住んでいる場所から離れた場所にある彼女の産まれいまや朽ちた生家と墓標には、体調との関係上中々出向く事は出来なかった。

 

 月命日。運良く多少時間がとれた私と彼女の体調が噛み合い、見舞いをする事が出来たその時。

 帰り道に予想外の夕立にあい、人気のない道を走りやっと見付けた朽ちかけた家の軒下に入り込み雨宿りを始めた……これは、そんな日の出来事の話。

 

 

 

 *

 

 

 

 「ひゃあ-、凄いですねまさかこんな急に降るなんて予想外でしたね…」

 

 ポタリポタリと髪の毛から滴り落ち顔を伝った水滴を手持ちの巾着から取り出した手拭いで拭う彼女、まい子。

 湿った匂いだけでなく肌に感じるほど降り始めた頃から羽織りを彼女に被せ、出来る限り濡れないようにしたもののそれでも間に合わないほどの凄まじい豪雨を彼女は浴びていた。勿論私も濡れはしたものの濡れ鼠にならなかったのは撥水性が強い隊服を着ていた他ない。

 表面上は未だ濡れているが内部にまでは染み込んでおらず、また表面もすぐに乾くだろう事がわかる。濡れたといえば防ぐ事の出来なかった髪の毛と顔くらいだが…

 

 「行冥様もう少し屈んでいただけませんか?」

 「ん…?ああ、私は大丈夫だから自身を拭きなさい」

 「私はもう拭ける限り拭きましたから」

 

 言われた通り膝を曲げ屈めば頬に触れる彼女の手拭いの感触。その真意に気付きやんわりと断る。多少濡れたくらいでは私は体調を崩したりしない、だが彼女はすぐに発熱してしまうかもしれない。

 

 「もっと拭いなさい…嗚呼、肌が冷えているではないか」

 「んっ、だ、大丈夫ですよ…そも行冥様が濡れないよう庇ってくれたではないですか…」

 

 細い髪の毛の一本一本、肌をつたう水滴のそれにさえ負けそうな弱い体。冷たい頬。体温を冷えきりさせる訳にはいかず、とにかく手拭いを受け取りそのまま拭う。多少抵抗されようとも特に問題もなく拭える限りまでやり尽くすまで私は何と言われようとも止めなかった。

 

 とれる限りの水分はとれた。出来る限りの事をし終えたと判断した後、手拭いを絞り私も拭う。下から軽い抗議の声が聞こえるが今ばかりは耳の遠いふりをする。

 

 「もう…いけない人……しかし夕立でしょうがまだ止みそうにないですね」

 「確かにこのままでは宜しくないな。家近くの町までたどり着いていれば銭湯にでも行けただろうが…ここらは私の担当区域外だ。詳しく知らないからな…」

 「家までまだまだありますからね」

 

 濡れた手拭いと私の羽織り、水分を絞れる限り絞り、背負い箱を下ろし入れる。濡れたものは私が持っておこう。

 …しかし濡れた部分を拭い、羽織りで防いだといえ彼女の着物は濡れているし、薄単衣だから中の襦袢すら濡れている可能性がある。そうであるとしたらいつまでもそれを着ている方が宜しくない。体温がいつまでたっても奪われるだけだ。

 

 平気か確認したところで意味がない、どうせ大丈夫だとしか言わないだろう。ならば……ああ、そうだ。それが良い。

 

 

 「まい子」

 「何でしょう行冥様」

 「全て服を脱ぎなさい」

 「……はい…?」

 

 ざり、と彼女が私から半歩後ろに下がったのが激しい雨音の中でも聞こえた。声色がなんというか…困惑を通り越し幻滅した不快に近いというか……あっ。

 

 「いやすまない言葉が足らなすぎた、何も裸になれと言う意味ではない!」

 「あ、はい……え、あ、の…どういう意味ですか?」

 

 途切れ途切れの声色が悲しい。この時見れぬ顔がもし見れたのならこの上なくいぶかしげな表情で私を見上げていただろう。

 言うにしてももう少し言い方があったろうが、私……嗚呼、南無阿弥陀仏…

 

 

 「濡れた衣服をいつまでも着ていれば風邪を引くだろうから脱いだ方が良い、という意味だ」

 「まぁそれはそうですが、着替えなど持っていないので……それこそ肌をさらす他ないですし…何も、は、その…」

 「私の隊服を羽織れば良い」

 「…えっ」

 

 ボタンを外し脱衣したそれを腕に持つ。私達の体格差であれば上着だけでまい子の体をすっぽりと覆えてしまうだろうから問題ないだろう。多少脚が出るかもしれないが…まぁ、そこら辺は人には見せないよう道を選んで帰れば良い。

 他人にそうそう肌など見せるものではない。それは私にとて同じ事。

 

 「そして着替えるのはこの空き家内なら大丈夫ではないだろうか。隊服ならば素肌の上からでもさほど違和感はないだろう…だが他人のを着るという不快感はあるだろうが我慢して欲しい」

 「えぇ…いや、そっ……」

 

 強い拒絶の言葉を言う前に隊服の上着をまい子へ渡す。慌てながらも落とさないように受け取り、深く困惑しながらも…胸元へと抱き込んだ。彼女が持つには大きいからな、そうやって持つのが楽だろう。そして…うん、その姿は愛らしい。

 私に対して何かを言おうとして口ごもり…小さな声で呻いている。抵抗の言葉だろうか、それを…伝えるかどうか悩んでいるのだろう。

 

 

 確かに恥ずかしい事は理解出来る、自宅ならまだしもこんな外れの空き家で着替え、まして大きさの合わない服一枚になるとは。誰に見られるという訳でもないが、そういう事ではないと理解できる。

 だが、それよりも。

 

 「…風邪を引く方が厄介ですし、行冥様のお膳立てを袖にする訳にはいきませんね」

 「む…?」

 「ありがたく着させていただきます、それに隊員でもない私が隊服を着れる絶好の機会ですしね」

 

 軽い笑い声と共に胸元に隊服を抱き寄せ、濡れてしまうと慌てて離す姿に私もつられて笑う。ここで断る事こそ逆に失礼と判断したのかもしれない…考えを押し付けて申し訳ない。

 入れる場所を探し、玄関へと軒下を移動する。一部穴の空いた場所から雨が漏れておりそれを避けた以外何もなく無事に到着する。

 

 「玄関に鍵は…かかっていないが、少しカビ臭い。あまり奥には行かないよう」

 「はい。埃も毒のある生物も気を付けないと駄目ですね」

 「それに建物内での倒壊がないとは言い切れない。私はここで待ってよう」

 「え、いえ中に入られた方が…風が吹くとここでも濡れますよ」

 「いや大丈夫だ」

 

 優しさで言ってくれているそれを断り、納得のいっていないだろうまい子を半ば強引に中に入れる。なあなあにしてはならない、そこはきっちりと線引きをしなければならない。

 

 「あ、行冥様扉は完全に閉めないでください!窓も閉めきられていて真っ暗で何も見えなくなってしまいます」

 「了解した、ならば…これだけ開けておこう」

 

 腐りかけた戸板をガタガタと動かし、光を取り込めるように半開きにする。空を見上げ聞けば未だ大粒の雨が降り続いていた。本当に夕立だろうか……あまり長く続くのは…

 室内に囲炉裏などがあればそこで暖まる事が出来るだろうが、あまり長居するのに向いていないほどこの家屋は朽ちている。かなり長い間人がいないのだろう。

 

 …雨に濡れ、体調を崩すだろうほど弱い。体が丈夫であれば鬼殺隊に入ろうとしていたが、その段階にも進めなかった彼女の真意を考えずの提案は不躾だったろうか。最適な行動であれど、正解であったかは…

 

 

 「ひゃぁああ!!」

 「!どうした!」

 

 話し相手がいなくなり思考がどつぼにはまりそうになってあた時、彼女の悲鳴を聞き扉を乱暴に開いて中に飛び込む。考えての行動ではなく衝動的な行動だった。もう少し冷静になれとの考えと悲鳴を聞き付ければ仕方ないとの考えが私の中で争う。

 そんな思考を更に乱すように彼女が私に抱き付いてくる。着物を脱ぎ、中の襦袢一枚になっているであろうそれはうっすら濡れており…着替えの提案を成功と失敗で揺らがせる。

 

 何かに怯え、体が震えている、何が起きた?ムカデでも落ちてきたのだろうか?

 

 「な、何か、大きな何かが奥で動いて…!」

 

 …獣か?猪か熊でも入り込み住みかにしていたのだろうか?獣臭は感じなかったが…しかしもしそうだとしたら下手な真似はしたくない、相手の領域に土足で踏み込んだのはこちらだ。

 私達の気配を感じたのか、奥の奥、彼女の目でも何も見えないだろう暗闇の中で確かに大きな何かが動く音がした。

 

 こちらから攻撃はしない、ただ襲い掛かられた際に無防備に受ける訳にもいかず彼女を背に隠しいつでも反撃出来るよう神経を研ぎ澄ませる。例え蜂一匹ばかりで飛び掛かってきたとしてすぐに叩き落とせるよう……

 

 

 『ああ、待ってください、別に危害を加えたい訳じゃない!』

 「!?!!」

 「え、え…人?……すみません!不法侵入をしてしまいまして!」

 『いやいやわたくしも貴方達と同じ雨宿りで入ってきた者ですので謝っていただくのは申し訳ない、大丈夫ですよ』

 

 ピリピリとした空気を壊すように奥から聞こえてきたのは何よりも想定外、若い男の声だった。軽い足音をたてながら男は奥からこちらへと歩いてきているようだった。

 男が暗がりからこちらへ、近くまで来た事でまい子の目にはその姿が確認できたらしい。普通に挨拶を交わそうとしていたが少しだけ驚きの声をあげて、私の裾を強くつかむ。

 

 「っ……ぁ、すみません…お面?…いえ、仮面ですか…?」

 『ええ、少し人様にお見せできない怪我を負ってまして。それはそれはひどいものが』

 「ああなるほど、なんて素晴らしい気遣いでしょうか」

 

 小さな手が私の裾から離れていく。前へ一歩踏み出した。まい子…?

 

 『お二人も雨宿りですよね?もう少ししたら止みそうですし、わたくしも近くの町へ行こうと思ってたんですが一緒にどうですか?』

 「それは良い考えです、きっと皆さん喜ばれると思いますよ」

 『それは良かった、ここらから一番大きな町はどちらですか?』

 「ここからだと███の町になります」

 「まい子!」

 

 男と話し続けていたまい子の肩をつかんで名を呼ぶ。つかんだ肩が微かに上がり、振り替えって私を見上げた事がわかる。彼女の一挙一動ならば事細かにわかる。勿論全てという訳ではないが…それでも今のは、何だ、何だ、どうなっている?

 なぜ理解出来ない話が進んでいる?なぜ話を続けれている?

 

 

 いや、そもそも。

 

 

 「先ほどから……"なに"と、話している…?」

 

 

 

 近くにいるのだから、姿形が通常なら"見え"る場所にいる何者かの、気配すら何も感じていない。

 人の、人間の、生き物の気配すら何も感じない。

 

 

 首筋の後ろに冷ややかな戦慄が走り続けている。

 

 

 まるで声だけが無から産み出されているようだ。

 

 これは、なんだ。

 

 

 

 

 

 ** SCP-035 **

 

 

 

 

 




 ─ 後編に続く


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捌話 仮面のようです(後編)

 

 

 

 行冥様から言われている意味がわからなかった。

 

 首をかしげ、どういう意味なのかと問えば明確な答えは返ってこない。二、三言われた言葉も理解できなかった。

 

 

 なに、とは何の事だろう?彼は████なのに。とても素敵な笑顔をしているのに。

 人でない、とは何?彼は████の███だから████だけど…どうしたのだろう?

 

 

 『おや彼は……もしやわたくしが見えてないのですか?』

 「はい、行冥様は目が不自由でして…それでも関係なくとても素敵な方なのですよ!」

 『盲目でしたか、なるほどどうりで……それも、その特殊な布地……ああ、なるほど。鬼殺隊、とは貴方たちの事ですね』

 「!!…まさか、お前は鬼…血鬼術で作られたものか…!」

 

 構える行冥様は本当に素敵な人、頼りになって、愛おしくて……ああ、盲目だけども████の言う通り鬼殺隊の柱として人々を救っているこの上ない優しい人だ。

 彼のためなら私はなんでも出来る、死んでも良い。死んでも、ああ、そうだ、死んでも良い。死んでしまおうか。

 

 『いえいえ、わたくしは違います。あんなか弱くたかだか陽に当たった程度で死ぬような生物と一緒に……おっと。とにかく違いますよ、証拠として雨が上がった際に陽の下に出ても構いません』

 「…鬼ではない、とでも?」

 『勿論です!むしろ鬼の始祖、鬼舞辻無惨には興味はあります。陽の光に弱いという弱点はあれど回復力は……。まぁ、とにかくわたくしは鬼でもなく、鬼を狩る者でもないですね』

 「名を……鬼ではないのか」

 

 ████の言葉を行冥様は静かに聞いていた。眉をしかめた顔も素敵…普段全く怒る事をしない彼がそんな表情を浮かべているだけで幸せで、とろけて、死んでしまいそう。ああ、そうだ、死んでしまおう。

 愛おしくて恋しくてたまらなくなり、彼にもたれかかれば邪魔になるだろうに片腕で抱き寄せてくれる。ああ、好き…好きです、愛おしい……このまま死んでしまいたい。

 彼に感情のまま抱きつけば、片腕できちんと抱き締めてくれる。ああ、優しい。

 

 「……何者だ、山の妖(あやかし)か?まい子を、私をどうする気だ」

 『とんでもない!わたくしはただただ、貴方達と同じく雨宿りをしていた、それだけですよ。ああ、ほら。服を置きっぱなしになっています、返しますよ』

 「あ……申し訳ないです…お手数を…」

 

 ████が土間から上がった、床に置いていた行冥様の隊服の上着を手に取る。私が着るためにまず着物の脱いでいた時そこに置いたものを████はつかみ、胸元へと持ち上げ知らせてきた。

 彼の仮面の目や口部分から当然のようにボタボタと水滴が、液体がこぼれおちる。当たり前だ、それはそのまま仮面を伝い隊服へと落ちる。それも仕方ない。

 

 

 それを受けとるために近寄り、腕を伸ばす。行冥様が止めようとしてきたけれど、何を止めなければならない事があるだろうか、服を受けとるだけ。それも彼の服だ。

 

 ████から隊服を受け取り、そのまま胸元に抱こうとする。あれ、記憶の中では濡れていなかったはず隊服が、ドロリと、なんだかぬめっていた。それが布地と私の手を覆う。

 

 

 

 『みすぼらしく哀れだからこそ可愛らしい、愚かな貴方に祝福を』

 

 

 

 ████がぽつりと呟く。

 

 

 

 瞬間、チリリと左手に激しい火を押し付けられたような気がした。

 

 何事かと見る間もなく、弾け飛ぶほどの衝撃が左手の指を執念に、瞬きをするような一瞬で焼き尽くした。

 

 

 「ぁ、あ、ああぁああああ!!!」

 

 「!?まい子!?」

 

 喉がちぎれそうなほどの音量で声を上げるのを止められない、どうしようもない痛みが神経を刺激し勝手に言葉が、悲鳴が飛び出す。

 ジウジウと何かが沸騰するような音が微かに鳴り猪肉を焼いたときのような生臭いニオイが鼻孔をつき、べしゃりと液体混じりの何かが足元に垂れ落ちた。

 

 

 『おや?どうし…』

 「触れるな!!」

 

 鈍い大きな衝突音と共に奥の壁を壊し勢いよく何かが当たった、のだろう。目の前が見えない、よく見えない…赤黒くて、ぼやけて…

 

 「!」

 

 瞬間強い腹部の圧迫と目の前が激しく後ろへと動いて、破壊音と共に景色が室内からポツポツとほぼ止みかけのわずかな雨が降る室外の地面へ……!

 

 

 「い、ぅ…!」

 「すまない乱暴したな」

 

 混乱間もなく激しい痛みが身を焦がす。押さえようと身もだえれば彼が、行冥様が抱き抱えた体勢のままねぎらってくれ……優し…あ、ああ。そ、う。

 

 彼が、行冥様こそが……優し、い……ああ、私は今まで何を…?

 

 

 視界の赤黒く点滅するそれは痛みのため、ぼやけるのは痛みの涙が溢れているため。けれどそれとは別に頭の中で渦巻いていたドロリとした重たい思考が抜けていく。

 目の前にいた仮面の彼を慕う気持ちも、世界を呪い死の世界へ激しくまとわりつく望みも…そもそも████の事は、どうやって知った?

 

 

 私は、何を考えていた?まるで何かに操られていたかのような…

 

 

 「まい子、痛いだろうが何とかこらえて教えてほしい、傷はどうなっている」

 「…ぁ……ッ!」

 

 行冥様は私を抱えていた手を離し、体勢を整え家屋を真っ直ぐ睨み付けたまま訊ねてくる。

 

 色々な状況が徐々にわかってきた。彼は恐らく私を抱え、背後に勢いよく飛びはね背中で扉を破壊し外へと飛び出たのだろうと。片方の草履が無いのは…仮面の彼を蹴り飛ばした、のだろう。その時に脱げたか、脱いだか。

 

 

 訊ねられた、未だに激しい痛みを持続させ続けている傷を、左手の傷を確認しようとして、息をのんだ。

 想像なんてした事もなかった。

 

 「…ッ、左、手首…!」

 

 産まれてからずっと共に育ってきた、利き腕の手が…無くなっている。

 有るはずの重みはなくなり、変わりにやってきたのはジグジグと肉を溶かし続ける謎の液体。それが、未だに腕をひどく侵しながら、こちらに向かって侵略してきていた。

 

 ああ、ああそんな、先ほど滴り落ちたのは、私の手…!?…痛い。こんな!自覚した途端ますます痛みが増幅する、骨が見え肉が永久的に腐り溶け落ち続ける痛みなんて味わった事…!冗談じゃない、痛い。痛い。

 

 「ぐ、ぅ…!」

 

 痛みをこらえるため歯を強く食い縛ればギリリとにぶい音が鳴った。まだ無事な二の腕あたりを強く強く握りしめ、痛みをごまかす。それでもこのままではいずれこの部分も…

 

 グジグジの液体の隙間から体内の赤色と黄色の断面図が、綺麗な白色が覗き、心臓が脈打つ度に激しく痛み続けている。

 これだけの傷なのに血はわずかに垂れるだけの少なさで、実際に見ないと、痛みがないと……利き腕が無くなっているなんて信じられなかった。

 

 徐々に溶けてきた腕の一部が再び、べしゃりと地面に落ちた。

 

 

 「…手首…いえ、もう少し上から、先が無くなってます……ぃ、づ!…それも未だ激しく爛れ続け、どんどん侵食するよう上へと…このまま、だと……」

 「………。…すまない、むごい事を言うが」

 「行冥様、腕を切り落としていただけませんか」

 「!」

 

 爛れ続けるそれは、すぐに肘を越え二の腕、肩、首と来るだろう。そうなってしまっては……その前で食い止めねば。

 痛みで流れる涙と脂汗は止められなくとも、腕を無くす決断は素早く決めれた。入る資格すら持てなかったけど、鬼殺隊員ならば…そうするだろう。出来るだろう。

 私の力では切り落とすなんて到底不可能だから、彼に役目を押し付けるしかないのは申し訳ないけれど。

 

 「……。…ああ、しかし……む?」

 「…?どうし、まっ!?」

 

 私の言葉に目を細め、一筋の涙をこぼして了承してくれた…と思った途端。行冥様の両腕が私の胸元の襦袢を掴み、力付くで引きちぎった。

 繊維が破れるビーッとの音が妙にゆっくり聞こえその一瞬、痛みも何もかも訳がわからなくなった。

 

 「…え?」

 「…駄目だ、それでは間に合わない」

 「……ぁ、そんなっ…」

 

 引きちぎられ投げ捨てられた襦袢に目をやればそこにも例の謎の液体が。さらし出された胸元を見下ろせば大きなホクロ程度だけども確かに液体が胸元に付着し、ジグジグと周りを、体内を溶かそうとしていた。

 腕のが強すぎてこちらの痛みに気付かなかった…そうか、あの時の私は抱き寄せたのだった。こちらに着いていてもおかしくはない。

 

 ならばここも皮膚ごと…いや、でも心臓が近すぎる。自発的に切り離した場合の血がどうなるかはわからないし、こんな道端でやっていい事じゃない。

 呼吸も使えない私では、血が止められない。

 

 それに万一行冥様に液体が移る可能性を考えるのなら……もはやこのまま受け入れるのが、最善なのでは?

 

 

 「行冥さ…」

 「!そうか、すまないもう少しこらえて欲しい」

 

 言うが早く、目の前から行冥様が消える。足音すらないそれを追う事は普段は出来ないけれど、雨降りで地面に水溜まりが出来ていた今なら終えた。

 行冥様は家屋の中へ戻っていった。

 

 …なぜ、またあの中へ。確認?仮面の彼がどうなったか…とか?

 

 

 ほどなく行冥様は再び音もなく戻ってきた。その手には彼の隊服と私の着物を持っていて……え?もしかしてそれを取りに?隊服にはあの肉を溶かし続ける液体が付いているのに!?

 

 「ぎっ、行冥様!手は無事ですか、怪我、痛みなどは…!」

 「大丈夫だ、接触部分も最低限にした。これが必要だったのでな」

 

 私に脱いだ着物をかけ、隊服の胸元のポケットから小さな何かを取り出し地面に投げ捨てる。私のように愚かにも触れるような真似はしていないようだ、流石です。

 しかし胸元に入れていた、それは一体……いや、その大きさで入れていたとすれば数は限られ…?

 

 

 大きな手で小さな箱のようなものを開き、中に入れていた何かを取り出……あ。

 激痛が絶えない左肘辺りと左乳房の奥が激しく痛み、頭と耳に爆音で鳴り響く心音の中、その正体を思い出した……と同時に。

 

 

 「飲み込め、早く!」

 「ンぐッ!?」

 

 力付くで口を開けられ、中に小さな固形物を持った指を奥まで勢いよく突っ込まれる。いささか乱暴な口調と共に喉の奥に当たるまで深く入った指が例のそれを投げ込み、引き抜きそのまま顎ごと押さえ込まれる。

 

 「ぅ、ぶ、ッ!」

 「重ね重ね横暴ですまない、だが吐かずそのまま飲み込むんだ…!」

 

 喉に大きな異物が当たった事での体の反射で体内が波打ち、吐き出そうと軽い嘔吐の反応をしていた。しかし無理矢理に閉じられた口と、彼の行動を理解して何度も口内の空気飲み込んだ事でそれはなんとか抑えられて……

 衝動が落ち着いた事を知らせるために、右手で軽く彼の手を叩いた。ゆっくりと離されたそれは少し私の涎で濡れていて…確かに水は無いけれどそんな事をしなくとも大人しく飲んだのに、とは言わず右袖の襦袢を使いその指をぬぐった。行冥様が必死に、助けてくれた事は心で理解していたから。

 

 

 「あ…ありがとう、ございます……例のあの、薬ですよね」

 「ああ、すまない。販売員の言う事を信じれるならば、その腕も治るらしいが……しかしもう少し早く気付いていれば苦しみも短くさせれたろうに…」

 「とんでもない!私はもう駄目かと思っていたので……本当にありがとうございました……」

 

 薬を飲んだからといって、腕がにょきにょきと生えてくるわけでも痛みが全くなくなる訳でもない。謎の液体は未だ皮膚に付着し続けておりジグジグと痛み続けるそれと…まだしばらく付き合うしかないのだろう。

 それでも、希望は見えている。意識が飛びそうだった痛みが歯を食いしばるような痛みに変化したから。…痛いのはまだまだ全然痛いけれど。

 

 でも、そんな事ばかり考えてる場合ではない。気になる事は沢山ある。雨はいつの間にか止んでいてたけれどこんな泥にまみれた地面に座り込んでいていいものじゃない、傷じゃない。

 

 

 家屋を見る。最初は空き家と思っていた。けれど…いや空き家ではあったが、中にいたのは毒を持つ生物や獣なんかよりよっぽど怖い人だった。あれほどくっきりと死の警告を目の前に突き付けられ、死神に肩を掴まれる距離まで来られてしまう事になるとは。

 

 「彼は…仮面の彼はどうなったのでしょう。行冥様蹴り飛ばしました…よね?」

 「うむ。奴が危害を加えてきた事は間違いと判断し、骨を折る気で脇腹を蹴り飛ばしたのだ」

 「…うわぁ、それはそれは…」

 

 一番気になるのは謎でしかない仮面の人。謎の洗脳能力を持ち謎の液体を仮面の目と口の部分から垂れ流し続け、恐らく悪意を持って私を傷付けた人。最後に見たのは痛みの中、吹っ飛ばされる姿だったと思うけれど…彼に訊ねれば結構むごい話をされてしまった。

 巨木でもへし折れるほど強い、行冥様の蹴りを食らって無事でいるとは思えない。事実飛ばされた先で壁を壊すほどの破壊力を持っていたし…今の私なんかよりよっぽど重傷なのではないだろうか。

 

 「だ、大丈夫でしょうか。医者か何かに見せた方が…」

 「いやもう関わるのはよした方が良い。まい子の怪我も治るとしてそのままにはしておけない、何より全速力で帰還に徹するべきだ」

 「確かに私のこの傷をお医者さんに見せると厄介な事になりそうですね…しかし彼は、お腹の骨が折れるならば動けないでしょうし内臓とかも…」

 

 いえそもそも行冥様片足素足ですし、帰るといっても……そんな心配は「私なら問題ない、平気だ」の一言で一蹴(いっしゅう)される。

 何だか妙に冷ややかな行冥様の反応に少し戸惑う。確かに悪意しかなかったろう、私は殺されかけたろう。けれど根本的に見捨てるというか、離れようとしているそれに違和感を覚える。

 

 ズキリと、今は無いはずの左手が痛んだのが答えかもしれない。嫌な予感がしてきた。

 

 

 「……これ以上怯えさせたくないと思ったから言わずにおこうと思ったが」

 「え、怖い話ですか…?」

 

 私を見下ろす目付きはかなり鋭く。

 

  

 「……骨を折る気で蹴り飛ばした、あの体の感触は……人体ではなく、木材のようだった」

 「………」

 

 

 仮面の彼を思い出そうとした。人らしい所を、一部を、人間である証明を。

 けれどいくら思い出そうにも脳内に浮かんでくるのは暗がりにぽつねんと浮かび上がる満面の笑みの仮面のみ。着ていた着物の柄も、そもそも痩せていたのか太っていたのか背は高かったのか低かったのか、どんな体格だったかすら思い出せなかった。

 

 

 仮面だけ。思い出せるのはそれと、死へと招かれた甘苦い欲求だけ。

 まるでその仮面が本人、本体だといわんばかりに。

 

 

 …雨に濡れた着物を娼婦より肌をさらしている上から羽織っているせいだろうか。鳥肌が止まらない、寒い。

 丈夫な隊服が液体に溶かされ、布の切れ端のように小さくなっている。あの、行冥様の服が。大きさが。こんなにも早くドロドロに。

 

 

 「人でも鬼でもないものと、人体を隊服をここまで無残に出来るようなものに、これ以上関わる気はない。関わるべきではない。取り留めれた命を大事にするべきだ」

 「そ、うですね……実は腕が未だ痛くて痛くてたまらないのです、早く帰りたいです…」

 「嗚呼…そうだな、早く我が家へ帰ろう。辿り着くまでに少しでも良くなっていればいいが」

 

 利き腕が無い私では彼に抱き付くのは難しい。それで軽々と抱き上げられ固定されれば微動だにせず、移動での振動を感じる事なく帰れるだろう。

 それでも荷物を背負い走り出した彼に右手だけで思い切りしがみつく。

 

 

 

 振り返り家屋を確認する事は一度もしなかった。人気を避けつつ、一般の方には到底目に見えない早さで彼は駆け抜けていた。

 

 家へとたどり着いた時には謎の液体は全て無くなり、痛みも多少薄れていた。

 

 

 そうして全ての指が元通り生え揃うまで数日間様々な不便を感じれど生きれているのを実感出来た、それだけで何よりも充分。

 

 

 

 

 

 




 SCP-035 取り憑くマスク

 オブジェクトクラス:Keter(本気でヤバい)

 035に近寄る、もしくは直接見た場合「顔につけたい」という衝動を感じる。
 人間、死体、マネキンのような人型生物に憑りつき、生きた人間の場合被った瞬間に脳死をさせ、精神を035が乗っ取る。憑りつかれた肉体はかなりの速度で衰弱し、ミイラのようになる。
 035はかなりの知性を持つドS、で言葉だけで自殺に追い込んだり、操り人形のようにしてしまう。
 目と口からなんでも腐食させる液体を無限に生み出している。そのため憑りついた人間やマネキンを溶かすため、腐食に負けない強い体を探している。

 年々腐食液の力が強くなり、もっとも腐敗しなかった素材で作られた封じ込めるスペースを溶かし続けており、あと一週間で壊れてしまう。
  
 

 500は死んでなければ治すけれど、一瞬で治す薬じゃない。まい子の手は五日で全て生え、一週間で痛みがなくなりました。






SCP-035 http://scp-jp.wikidot.com/scp-035

著者:Kain Pathos Crow 様

この作品はCC BY-SA 3.0ライセンスの下に公開されています。


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玖話 みちを知りたいようです

 

 

 それは何でもないいつもの日。

 

 朝食を食べ終わり食器も洗い片付け終わり、そのままの流れで始めた毎日の日課、掃除。今日は外の掃除をしようと草履を履き外へ出る。

 

 「すまないまい子…手伝いたいのだが…」

 「大丈夫です、行冥様はみんなと戯れていてください」

 

 いつも鬼殺隊の柱として忙しく出回っている行冥様が家にいる、ならば今日は構ってもらえるとばかりに足元や手元にまとわりつく猫達。

 その事に困りつつも嬉しそうな彼をそのまま残し、いつもの通り清掃を終わらせてしまおうと箒を持ち玄関扉を開けて外に出る。

 

 

 空は青く遠くまで晴れ渡り遠くには大きな入道雲がゆったりと動いていた。ああ、今日も暑くなりそうだ。

 

 

 玄関に巣を張ろうとしていた蜘蛛を箒で軽く追い払い、地面に落ちた葉っぱを集めていく。街から遠く離れ、尋ねてくる人なんて滅多にいない玄関を綺麗にして何の意味があるのか…なんてぼやきが聞こえてくるような気がするが関係ない。

 それに答えるとしたらこうだろうか「意味なんてない、ただやる事そのものが好きで、やっている」のだと。住まいが綺麗になれば誰だって嬉しいだろう。

 

 

 辺りの木々から落ちたばかりのみずみずしい葉とカラカラに乾いた葉の混ざりあったそれを掃いていた時。

 突如それはやってきた。

 

 

 『あの、すんません…』

 

 背後から聞こえてきた声に、驚き固まる。

 

 行冥様…ではない。そもそも家の中にいる彼が外にいる筈もない。周りに家がなくここで聞く日本語は自分の声か行冥様か鎹鴉の声くらいで…低い声に分類されるのは行冥様だけで…

 けれど行冥様の声とは全く違うそれ。ならば誰?反射的に少し混乱をしたのも仕方ない事だと思う。

 

 ゆっくりと、恐る恐る振り向く。これで誰もいなければ…こんな朝っぱらの陽の高い内からお化け騒ぎかと怯え泣くしかなかったけれど。

 

 

 そこに間違いなく人はいた。

 

 行冥様ほどではないが高い背は六尺ほど。格好は闇に溶け込む影のように真っ黒で、帽子を被り着物の上に羽織っているものは西洋の上着だろうか。鞄を手に持ち九尺ほど離れた場所に立っていた。

 

 『おはようございます、ちぃっと聞きたいんやけども…』

 「あ、はい。おはようございます…」

 

 再度聞こえてきたのは先ほど聞いた声と同じもの。砕けた訛りのある口調とにこりと明るく笑ったその姿に警戒心がやんわりと解け、少しだけ安心をした。悪い人でないかはまだわからないけれど陽の光を浴びて影を作っている足もあるし少なくとも幽霊ではないだろうから。

 

 麓の町では見た事がない顔。旅の人…だろうか。少しだけ無意味じゃないかと考えていた玄関先の掃除も、こうして実際に訪問客が来てくれた事で救われた気がする。

 掃除もしていない汚れまみれの玄関なんて例え一度しか訪れない旅の人でも見せて良いものじゃない、それは行冥様の顔と評判に泥を塗るのと同じ事なのだから。

 

 

 「私にわかる事でしたら良いのですが」

 『はい、場所なんやけど…東京府靑梅の███沿いにある███に行きたいんやけども、経路わかるんやったら教えてもらえません?』

 「靑梅の████?」

 

 あれ、それどこかで聞いた事がある地名のような…あっ、そうだ行冥様の出身地だ。以前少しだけ聞いた事がある。

 けれど勿論行った事はないし、聞いたとしても住所を聞いただけで地形も何も知らないからなぁ。行冥様に聞いた方が詳しく解るだろうし、案内経路を言えるかもしれないけれど言って良いものなのか、どう……

 

 

 あっ、いや……?

 

 

 「███でしたらまず麓の町に降りていただいて東の町外れにある██の道を進み、六つほど先にある█を曲がって██里先にある地元の人達が目印にしている大きな岩で出来た███の所まで行きますと███の███で██まで行けば、見えてきますよ。歩きだと大変なので人力車などを使うのが宜しいかと」

 『ああ、これはこれは。かーなりの詳細までありがとうございます』

 

 私の口頭だけでなく、身ぶり手振りでの説明に彼は何度も何度も頷き、喋り終わった時に満面の笑みを浮かべて感謝の意をのべてくれた。

 私のつたない説明で理解してくれたのなら良かった。もしわからなかったらまた途中で誰かに尋ねて欲しい、そう思ったのと同時に思う。

 

 

 なぜ私は行った事も見た事も聞いた事もない場所の説明を出来たのだろうと。

 

 脳内に滞りなく浮かんだそれを、説明出来……いや、そもそもなぜそれが脳内に浮かんで…?

 

 

 「まい子?」

 「!行冥様…」

 

 ジャリ、と小石を踏み締める音が敷地内から聞こえてきた。その音の大きさからして猫ではなく、体ごと回転して見れば今度こそ間違いなく行冥様だった。

 方向からして縁側からこちらへやって来たのだろう。手に何も、猫も持たず身一つでやってきたらしい。ああ、丁度良い時に来てくれた。

 

 「行冥様、靑梅に行きたいという方が来られていまして。もしよろしければ案内経路を話していただけませんか?」

 「……来ている?どこに?」

 「え?」

 

 不思議そうに眉を寄せ、私と玄関外、辺りを見渡す行冥様。どこに、とは?すぐそこ、九尺ほど先に…

 

 

 …振り替えった先に姿は影も形もなかった。ただただ、開けた敷地があるだけで。

 

 

 「…えっ」

 

 いくら影のように真っ黒な服装をしていようともこんな一瞬、数秒でいなくなるほどの距離に行けるはずがない。足音も荷物の動く音も、気配も何もしなかった。

 そんな事、鬼殺隊のような呼吸を使う人でないと、いや使えたとしても柱くらいの身体能力がないと…いやそうだとして、その行冥様に気付かれずいなくなるのは不可能だ。

 

 

 

 

 

 ** SCP-537-JP **

 

 

 

 

 

 「……もしかしたらこんな朝っぱらから私、白昼夢を見たのかもしれません…」

 

 ならば初めからそんな人なんていなかったと考えるのが正解では…?明るいし足もあったから幽霊じゃない、なら…私が夢でも見ていたんじゃないか。

 うん、そうだよこんな辺鄙な所に道を尋ねてくるような人なんているはずが…

 

 「…いや、私も微かに声を聞いたから実際にいたのでは…とは思うが……」

 「ええ…止めてくださいよ、それはそれで怖いですじゃないですか…」

 「す、すまない…?」

 

 暑くなってきたはずなのに背筋に変な悪寒が走って、たまらなくなり行冥様の傍に近付き裾をつかんだ。困惑している声が頭上から聞こえる。 

 私が話したあの人は何だったのか。幻影?幻影を見たのだろうか。まぁ幻影ならそれはそれで良い。害さえなければ良い。

 

 

 ただ……靑梅の事を、ほぼ何も知らないそこの事を喋れたそれが。今も頭の中にあるここから靑梅のとある目的地にいける案内経路があるそれが。

 

 以前どんな時でも良いから聞いた事があるのかを行冥様に確認した方が良いのか、しても良いのかそれだけが問題だった。

 完全否定されたら……その時は本当に、どうすればいいんだろう。

 

 

 

 

 

 




 SCP-537-JP みちを教えて

 オブジェクトクラス:Keter(収容出来ない)

 影が浮き出たよな1.8mの人型のオブジェクト。かなり強い関西なまりの日本語とたどたどしい英語を話す。
 SCP-537-JPは人間と遭遇した際に目的地として場所を訪ねる、その時聞かれた人間はその場所のことを知らなくとも脳内に場所と経路が浮かび上がる。
 その場所へ行く正しい道を教えるかどうかはその人次第。教えるとSCP-537-JPはお礼を言ったあと消失する。攻撃やイタズラをすると戸惑い、困った顔で消失する。

 正しい場所を教えなくとも、SCP-537-JPが危害を加えてくることはない。
 ただただ、その場所に行きたいだけ。
  
 




SCP-537-JP http://scp-jp.wikidot.com/scp-537-jp

著者:Red_Sun 様

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拾話 なんて美しい世界のようです

・今回のオブジェクトは人によって解釈が違うのでご注意ください


 

 

 

 

 

 

 ジイジイと鳴き続ける蝉の声がずいぶん近い、そう思っていたがどうやら近くの柱に止まっていたらしい。飛び立って行った事で声は遠ざかり、遠巻きで鳴く大群の一つに混ざっていった事がわかる。

 

 

 「あぁぁ~、今日は暑いですねぇ~…」

 

 下の方から気の抜けきった呻き声が聞こえてくる。いくら私と彼女に体格差があろうとそれは下過ぎて、いつもより距離が遠い。

 …寝そべっているのだろうか?体調不良で倒れている訳でなければいいが。

 

 「体調はどうだ?」

 「大丈夫です…暑いだけです、多分…」

 「ならばいいが。あまりだらしない格好はしないよう…」

 「着物は着てますよぉ…だからこそ暑いのです…」

 「む…」

 

 そう言われてしまえば私は何も言えない。通気性の良い隊服は涼しく、なおかつ上着を脱いでいる私には。

 それはこの後の行動を考えての事だったが……ふむ、そうだな。悪くないかもしれぬ。

 

 風がほとんど今日は吹いていない。暑すぎる為か虫の気配すらほとんど感じない。いつも陽が当たらず風の吹き抜け涼める縁側ですら、今日という日は暑いのならば。

 

 

 「あの子達は?」

 「家のあちこちの涼しい場所で各々涼んでますね…知っていますか行冥様、猫は暑いと溶けるのですよ」

 「…そうか」

 

 氷が溶けるように溶けている猫達の姿を想像し、潤んできた目元を力をいれてこらえて改めて彼女を見下ろす。腕を伸ばし触れた頭と髪の毛はしっとり濡れていた。

 汗ばんだそれに触れられるのを嫌がるかのように彼女は身動ぎをしたが、構わず私は撫で続けた。意地をはる気まぐれなその姿もまた、可愛らしい。

 

 

 「私はこれから滝行へと行こうと考えていたのだが、共に行くか?」

 「ん…私なんかが滝に行けば木っ端微塵に潰れてしまいますよ」

 「そうではなく……川淵で涼むのはどうだ、という意味だ」

 「!」

 

 手を置いていた頭が胴体ごと持ち上げられ、いつもの距離感になる。立ち上がり横に座る体勢となったのだろう。良い発想を聞いたとばかりに起き上がった彼女は機嫌の良い猫のように私の手を擦り上げ、触れそうなほど近付いてくる。

 

 「それは素晴らしい!行冥様さえ宜しければ着いて行かせていただきます!あっ、お昼用におむすびを作りますね!」

 「あ、ああ。…あ、糠漬けの野菜も共に持っていく用にしてくれないか」

 

 さもこの上なく素晴らしいと言わんばかりに、今まで猫のように溶けていたまい子は跳ねるように動きだし、慌てるように厨房へと向かって行った。

 その目先の欲につられるような姿もまた……季節柄早めに消費した方がいいだろうそれを要望として伝えた後、私も立ち上がる。声は遠かったものの確かに了承された事を確認する。

 

 

 さて、場所は家の付近。目新しいものも特には無い平凡な事ではあるものの…逢瀬として向かうとしようか。

 勿論個人の稽古や修行を手抜くつもりは毛頭無いが。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 「ひゃー、川沿いというだけでこれほど涼しいのですね!あの、川に入っても大丈夫ですか!」

 

 屋敷近くにある川。その中の一部である滝付近は彼女のだけの足で来る事は到底困難だろう。険しい岩肌、ぬかるんだ足元…常に呼吸を伴っているような肉体でなければ易々辿り着ず、なおかつ川の水に触れるほどの近くには来れないだろう険しい道。

 そこを呼吸も使えぬ彼女が来られたのは、ひとえに私が担いで来たから。

 

 「構わないがあまり深くまで行かないよう…私の腰辺りまである場所もあるのだから」

 「…行冥様の腰辺りとなると私の頭まである場所ですね、わかりました気を付けます!」

 

 言うが早く草履と足袋を脱ぎ捨て、荷物を決して濡れない場所に置き川へと足を踏み入れる彼女。川の水の冷たさへの感動なのか悲鳴なのか、甲高い悲鳴が辺りに響き渡る。

 

 

 「~~ッ!!これは凄い、なんとも…美しいのでしょうか、透き通る透明な水の冷たさは!」

 「…美しいのか?川の水が」

 

 感動しきる彼女の声をどれだけ聞けど私の目では何もわからない。流るる水の細かな形も光の反射も、不定期な揺らめきも透明度とやらも。何もわかりはしない。

 

 どれだけ美しいのだろうか。光の輝き、光の反射、触れ合うそれらの儚さを彩る色彩とは。

 

 

 彼女の目に映る、この世の美しさを少しでも共有したく声をかければ二、三歩その場で回転をしたのだろう音と共に楽しげな声をかけられる。

 

 「勿論です行冥様!たゆたう水の尊さは透き通り、浮かび上がる泡の白さは弾ける儚さなのですよ!」

 「…うーむ、よくわからぬ」

 「!!」

 

 だが彼女に説明されたそれは抽象的過ぎて、具体的な何かを感じれる事もなく抜けていく。ハッキリ言えばよくわからない。

 そのまま伝えれば返す言葉もなかったのか、しばらく無言を返され、その後川の水を掻き分けながら陸へと上がってきた。もしかしてかなり冷酷な事を伝えたのだろうか。

 

 「…え、っと、すまなかった…?」

 「いえ…私の説明がとてつもなく下手だったのです……彩りの美しさを伝える力がなくて、本当に申し訳ありません…!」

 

 トボトボと歩くその姿、川原の石から飛び出た木の枝に足元を引っ掛かれ飛び退く姿を感じ、どうしようもない愛おしさて溢れる。

 なんと愛らしく、哀れで儚い、不器用さなのだろうか。

 

 「ならば今から私は滝行を始める…終わった後にもう一度聞かせてくれないか」

 「!…了解です!私の感動を今度こそ伝えれる言葉を用意しておきますね!」

 「ああ、楽しみにしておく…」

 

 置いていた日傘を手に取り、気温が涼しくなったからとはいえ陽射しに倒れないように勤めるよう差し出す。直接の言葉はなくとも、受け取りバサリと開いた傘が代わりに返答してきたのだから問題なし。

 

 川の中へ入り水を掻き分け滝へと近付いていけば周りの音が何もかも水音にかき消され、聞こえなくなっていく。普段近くに来る事が無い為だろう、気配すら辿れなくなったその姿をどうしても気にしてしまう。

 目を開けようとも閉じようとも変わらない景色の中、彩りを探すように。

 

 

 バシッ

 

 両頬を挟み込むように叩き、思考をかき消す。

 

 さあ、鍛練だ。集中をせねば。

 肉体の、精神の、心を強く鍛え上げ守るべきものを多く守る為に。

 

 一歩、一歩、滝へと進み岩を砕き小石へと変える強さに身をゆだねる。打たれ終わった際一回りでも高みへ登り弱さを克服出来るように。

 

 

 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……如是我聞一時仏在舍衞国…」

 

 念仏を唱える度に辺りから少しずつ音が消えていく。あれほどの爆音だった水音ですら。

 途切れさせないよう唱え続けた。ただ、ひたすらに。

 

 

 先にあるまばゆい光を求めて。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 諸君、我々は失敗した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

 「右のが塩むすびで左がただのおむすびです、追い塩をするかと持ってきたのが正解でしたね」

 「いくらでも獲れるから満足するまで食べなさい」

 「ふふ、私は二匹も食べればお腹一杯ですよ」

 

 パチパチと焚き火の弾ける音がする。それは川で獲ったイワナのためで、火傷に気を付けながら食事のお供として焼き上げていた。その間に彼女の感じた感動を改めて聞いていた。

 近くの木々の影の中。滝行を終えるほど時間が経てば案の定その間に言葉を整理できていたらしく、今度は大変分かりやすく説明をしてくれた。

 

 

 太陽光を輝かせる水面の揺らめきと反射。

 木々や葉の光の当たる部分と影になる部分の色の濃淡。

 川原に転がる小石や石や岩の熱と、それに反比例する川の冷たさの相乗効果。

 透明感のある水沿いの空気。

 

 

 白の、藍色の、透ける黄緑が、青々しい、灰色と黒が混ざり……詳細な説明に混ざる色彩。

 

 

 どれだけ詳細に説明されたとしても、わかりようがないものがある。

 それは色、色彩、彩る美しさ。

 

 触れれば形はわかれど、そのものの色まではわからない。

 水の透明さも、葉の青々しさも、髪色も瞳も、生涯詳細に知れる事はない。例えばまい子の紅の赤さは炎と、林檎と、苺と同じと区分分けは出来ても色を見る事は出来ない。

 

 

 ならばと会話の流れの続きで訊ねる事にする。正解などない、感じる色を感覚で構わないから教えてほしいと。

 

 「色…んー、赤色は温かく青色は寒々しく見える等でしょうが……口頭で説明は難しいですね…」

 「いやしかしそういうもの、なのだろう。火は赤く、そして熱い…そして感じるような感じか」

 「あ、しかし夕焼けは赤いのですが何となく寒いです。夜空など真っ黒で寒いですが、美しい星々を見ていると何となく暖かみを感じますし」

 「……ふーむ」

 

 まい子の握ったおむすびを二口で食べ、もう一つ手に取る。手の中にある彼女の手の大きさがわかる小さなそれは冷えているが、別に青色ではないのだろう。温かい時は赤色ではないのだろう。

 

 「そういえば今の空の色は青なのだろう?」

 「そうですね、雲はありますがとても綺麗な青空です」

 「だが溶けそうなほど暑い…と」

 「ああ…。…ダメですね、上手い説明が出来ません…」

 「いやすまない、私こそ意地の悪い質問もした」

  

 落ち込みうつむいたのだろう、声が少しくぐもった。嗚呼、私が余計な事を言った為に彼女を悲しませてしまった、苦しませてしまった。何をしているのだろう…

 そもそも盲目である私に色という正解のないものを伝えて貰うのがどれだけ難しい事か……答えのないものをよくもまあ私は聞いたものだ。

 

 

 「…行冥様にも、見せれたら良かったのですが」

 「む?」

 

 しかし聞こえてきた声色は案外明るいもので、悲しみを押し殺し無理しているというより共有出来ない厳しさを嘆いているようだった。

 ザリ、と小さな石を蹴った音がした。蹴るための目的ではなく足の形を変えた為に起きた音だろう。

 

 「この美しい森を、川を、空を。広大で雄大過ぎて温かいとか冷たいとかでしか、単純な私では説明出来ません」

 「………」

 

 そしてまい子は口を閉じ、空を見上げたのだろう。同じように顔を動かし彼女と同じ場所の空を見上げたところで私の目には何も映らない。少しの明暗の違いがわかるだけ、それも色のないもの。

 

 ……嗚呼、そうだ。彼女の感じた感動を共有したくて訊ねた事自体が間違っていた。

   

 

 私は無いものを求め訊ねるのではなく。

 

 「そうか、それほどに素晴らしいのか。この、空は」

 「はい、本当に綺麗です…透き通り遥か遠くまで広がる……青い青い、空は!」

 

 彼女の感動をそのまま共有すべきだろう。変にひねくれず美しいと呼ばれた景色をそのまま受け止めるべきだ。

 頬を伝う涙そのままに腕を伸ばし、なめらかなまい子の髪を撫でる。普段さらりと流れるそれは暑さに負けたのか妙に跳ねていて。

 

 汗ばむそれに触れられるのを嫌がる彼女の姿につい、笑いがこぼれてしまう。

 

 

 ああ、なんとまぁ、幸せなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

 

 諸君、我々は失敗した。

 

 

 

 

 

 

 私は残念でならない、諸君。

 

 本当に残念だよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ** SCP-8900-EX **

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 SCP-8900-EX 青い、青い空

 オブジェクトクラス:Keter → Explained(手遅れ)


 世界は元々、白黒の世界だった。その濃淡の中で赤や青など色を感じ、色彩を見ていた。それは言葉にする事も出来ない美しい色。
 しかしSCP-8900が全ての色を汚した。白黒の青も、白黒の緑も、空も、山も、全て下品に汚されてしまった。
 そして食い止める事は出来ず、世界全てが感染し終わってしまったために財団は記憶を上書きするしかなくなった。
 「世界は元からこの色だった」と。元の色として残されたのは昔の白黒写真と呼ばれるもののみ。

 残ったのはただただ…青い、青い空。
 




SCP-8900-EX http://scp-jp.wikidot.com/scp-8900-ex

著者:tunedtoadeadchannel 様

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拾壱話 猫にされてしまったようです(前編)

・獣化、猫化注意

・今回複数の猫が入り乱れている為、わかりやすくするため猫の名前描写があります。今回だけです。
 
 白猫      → 餅汰(もちた)
 灰色キジトラ猫 → 虎之助(とらのすけ)
 小さな茶白猫  → 小豆(あずき)
 黒猫      → 月美(つきみ)


 太陽が登り始め、目覚めた人々が動き出し少しずつ騒がしくなる時間帯。町から離れ、騒がしさの気配もない我が家の玄関扉を開き戻った旨を伝える為声を上げれば奥からハタハタと足音が聞こえてくる。

 

 「お帰りなさいませ行冥様!お怪我などはされてませんか」

 「うむ、平気だから走らなくて良い。今戻ったまい子…そして虎之助」

 

 上がり框をまたぎ、廊下に足を進めて彼女の動きを静止させる。そして挨拶を交わしていればふくらはぎ辺りに擦りついてくる柔らかいものが。

 しゃがみ込み手を出せばこちらにも顔を擦り付けてくる。この毛並みといい撫でられる事に貪欲な姿勢といい大きさといい…何より必ず出迎えてくれるこの猫は間違いなく虎之助だ。

 少し乱暴に感じるほどの強さで撫で回していればゴロゴロと機嫌の良い音が聞こえてくる。

 

 「あ、もう一人来ましたよ。ゆっくりですが」

 「?………餅汰か、珍し……む、なんと可愛らしい…」

 

 彼女の言葉の通り座った体勢で待っていればもう一匹猫がゆっくりと近付いてきた。虎之助と違い鼻先を近付け匂いを嗅いできたその頭を撫でれば匂いをつけるかのように擦りあげてくる。

 一番の気まぐれで出迎え自体滅多にしてこない猫の甘え方についこぼれる涙。その感情のまま抱き上げようとすれば全力で暴れられて廊下の奥へと逃げられる。それもまた愛らしい…

 

 「ふふ、今起きてる二人が出迎えてくれたようです」

 「そうか嬉しい限りだ…何か変わった事はなかったか?」

 「んーそう、ですね……あ、夜中家の周りに猪が来ていたようです、声がしてましたね」

 「そうか後で問題がないか確認しておこう」

 

 餅汰を構っていた為に虎之助は私達の戯れに笑っていた彼女の元へ向かい、足元にじゃれついているようだった。そんな気分屋な所もまた愛らしい。

 そして立ち上がり廊下を歩いていけば隊服から着替えるか確認されるが、昼の食事を済ませた後鍛練を積む事を考えていた為に丁重に断る。

 

 

 それまで時間がある、普段任せっぱなしにしている家の事を何かしようか。

 

 「ええっ、大丈夫ですよ!休まれていてください」

 「南無気にしなくていい…私がやりたいのだから」

 「んん…そうですか…?」

 

 襖を開き背負っていた武器を部屋の隅に降ろし、手伝いを申し出る。普段任せているものをいきなり勝手にすれば手助けどころか邪魔にしかならない、だから彼女が望む事をしよう。申し訳ないが何もせず大人しくしておくという望みは断るが。

 手を貸して片付けなどの時間だけとられるものが素早く終われば、ゆったりと二人語れる時間が作れる…良き事だろう?

 

 いつの間にかいなくなってしまった虎之助の気配を軽く探している内に彼女の中で何らかの結論が出たらしい。小さな「あっ」との思い付きの声と共に乾いた手のひら同士を合わせ叩いた音がした。

 

 「そうです、箪笥の裏を掃除したいので動かして貰えますか?」

 「ああ勿論、ならば上部の掃除もしよう…」

 「あ、流石です私では台に乗っても届かないので…任せてもよろしいですか?でも本格的な家中の掃除はまた今度にしましょう」

 「そうだな、そう遠くない時に時間がとれるだろうからまたその時に…」

 

 

 

 『ねえ、もっとボクと遊ぼうよ』

 

 

 「「!!」」

 

 体が反射的に固まった。

  

 突如聞こえてきた声。それはあまりに近く…まるで耳元でささやくかのように、頭の中で響いたのだから。

 まい子ではない、勿論私でもない。声色が私達とは全く違うのだから。それは…その声は。

 

 

 「…子供…幼い男の子のような声がしませんでしたか…?」

 「…ああ私も聞こえた。……どうやら聞き間違いではないようだな」

 

 本来聞こえる筈がないもの。いるはずのない存在の声。子供など…いるはずがない。この家に。近くに。子供、が。

 

 それも、どのような状況になればこんな人里離れた我が家に子供が現れ、遊びに来るというのか。

 何らかの事情で隊員の誰かが私を直接訪ねてきたとして、その内容として喋ったのは支離滅裂でおかしすぎる。そもそも頭の中に直接話しかけてくるような存在が普通の人間である訳がない。

 

 「と、なれば……」

 「こんな朝早くからお化けですか…!」

 「おっと!……そうと決まった訳ではないが…まぁ確認すべきだ」

 「うう、ですよねぇ」

 

 腹部にそれなりの衝撃。それは勢いよくぶつかってきたまい子の頭だろう。隊服を掴み、あの子達のように擦りついてくるがあの子達と違い甘えているのではなくそれは怯えているから。

 その背を抱くように抱え込み励ましながら軽く叩く。それを続けていれば少しずつこわばっていた体から力が抜けていく。

 

 

 そしてその声の正体の確認の為に歩きだした私の左斜め後ろにまい子はピタリとくっつき、腰辺りの服を強く握りしめて着いて来ていた。

 

 「怖いのならば逆の方へ逃げていたらどうだ?」

 「お化けがいるかもしれないのに一人でいるのも怖いから嫌です、行冥様の傍にいた方が安心ですから!」

 「そ、うか……危険ではない事を祈ろう…南無…」

 

 ブンブンと裾を掴んだまま大きく振り回す彼女の声は震えている。怖がっているのだろう……どんなものでも守るつもりだが、いざとなれば真っ先に逃がそう。

 頭の中に直接聞こえるというのに相手がいる方向がなんとなくわかる、何度か聞こえたその声に向かって歩いていけば陽当たりの良い、猫達の遊び場となっている部屋にたどり着く。

 

 

 猫がいつでも通れるように少し開けている襖に手をかけ、開く。まい子も後ろから恐る恐る覗いているのだろう。

 室内には人の気配も、鬼と対峙した時の嫌な気配もない。気配や物音からして中にいるのは…

 

 「あれみんなここに集まっ……あれ?」

 「どうした?」

 「ひい、ふう……一人…猫が一匹多いですね」

 「……猫」

 

 そう、猫だけだ。中にいるのは。少なくとも私が気配としてわかる、生き物は。

 我が家に常にいる家族の猫は四匹、四人。先ほど出迎えてくれたのと、寝ていた二人。たまに迷い込んで来たり食事をねだる為か野良猫が平然といたりするが、その類いだろうか?

 

 謎の声の事はひとまず置いといて…増えた猫をまず確認しておこう。他の猫達と相性を調べ追い出すか、受け入れるか考えなければ。

 

 「どのような猫だ?」

 「毛の長い黒猫ですね、月美に似てます。しかしかなり大きく…虎より一回り大きいので二貫(7.5kg)以上ありそうです」

 「なるほど…」

 

 黒猫…月美と同じ黒猫か、月美もいつの間にか迷い込み、そのまま居座った猫なのだから黒猫はそういうのが多いのだろうか。しかし一番大きな虎之助より大きいとは…毛の長さで誤魔化されているだけで意外と小さいかもしれないが。

 

 そして彼女の説明で、その黒猫に対峙しているのは餅汰と一番体の小さな小豆だと知る。虎之助はまるで疲れきっているかのように隅で寝そべり、月美は伏せた姿で他の猫達を見ているという。

 威嚇の声は聞こえない。しかし警戒しているのか、寝そべっている虎之助以外誰も黒猫から目を離さないらしい。

 

 

 その様子を考え…どう贔屓目に見ても。

 

 「相性駄目ですねぇ、何だか険悪な雰囲気です」

 

 言葉に出さずとも頷く事で同意する。会う機会を重ねていけば慣れるかもしれないが、子猫の時から受け入れられていた小豆や初めから他猫の戸惑いに構わず堂々と居座り続けた月美とは場合が違う。

 

 

 まい子が私の後ろからするりと抜け出し、猫達の見合っている場に入っていく。まい子は猫に好かれる人のようで初めて合う野良猫ですら問題なく撫で回せる。

 だから、今回も。

 

 「よしよし…あ、毛並みが良いですね。飼い猫ではないと思いますが…ずいぶんと大人しいです」

 

 まい子が猫の首辺りを、背を撫でても抵抗はせずむしろ受け入れるとばかりに小さく鳴いた。座ったまい子の横に片膝を立てて座り、その背を撫でる。確かにかなり大きな猫だ、我が家の猫達なら何らかの攻撃されたならば体格で押しきられるだろう。

 

 「ふむ、悪気はないのだろうがこのままではいけないな。せめて他の部屋に移して縄張り外に…」

 

 

 『優しい。ねえ一緒に遊ぼうよ』

 

 

 はさっ

 

 

 「出し……は?」

 

 再び先ほどの頭に響く謎の声と共に、隣から布生地を落としたような音がした。音に疑問を覚える前にまい子がいるだろう場所に手を伸ばしても空を切る。

 理解できなく一瞬漂った手が床の上に積み重なっている着物に気付く。

 

 ……これは、この手触りは彼女が着ていた花柄の着物だ。そう身に付けていた着物だけ。……中身はどこにいった?

 

 「なっ、まい子!?」

 「   ぁ、にゃあ!」

 「……??」

 

 突如消失したとしか思えないその現象に困惑し、彼女を呼ぶ。呼んでどこからでも良い、返事を返してくれれば…そして持ち上げようとした着物の中で何かがモゾリと動き、めくればなんだか聞き慣れた、そして初めて聞く声が。

 その声の正体に触れれば案の定、猫。大きさは小柄、小豆と変わらないくらいだろう。毛の長さは月美と似たような長さで、さらりと柔らかい。

 

 また現れた新しい猫。その猫はバタバタと暴れ、大声で鳴きながら私の手を肉球のある手で力一杯叩いていた。爪を立てていないそれは全く痛くもなく、攻撃と言うよりまるで何かの抗議か警告をするかの……

 

 

 「まさか……まい子か!?」

 「にゃぁん!にゃっ」

 「一体何でこん…」

 

 『わあ、キミ大きい。ねえキミもボクと遊ぼうよ』

 

 

 はさりっ

 

 

 頭によぎったあり得るはずがない出来事、それを常識が否定する前に口から猫相手に質問を投げ掛けてしまった。

 普通ならば否定どころか会話が成り立つはずもない相手がおもいきり肯定するように鳴き、更に何かを訴えるように手を叩きながら鳴いていた。

 

 そして再び聞こえた声と共に謎の浮遊感。頭がかき混ぜられたような原因不明の眩暈で座る事すら辛くなる。

 歯を食い縛り一瞬だけ目を閉じ、すぐに見えはしなくとも目を開ける。そして…現状把握をしようとして、戸惑った。

 

 

 なんだ…?室内が異様なほどかなり広く感じる、天井が遥か高い場所移動にしたかのように。そんな馬鹿な、しかし…

 それに音もいつもより詳細に、大分遠い場所まで聞こえるようになって…?

 

 

 「行冥様!ああ、間に合わなかった…!」

 「…まい子?無事……。……」

 「貴方だけでも逃がせれれば…そう思ったんですが…!」

 

 すぐ隣、いつもとなんら変わらない位置から聞こえてきた慌てた様子のまい子の声。先ほど原因不明にどこかへ瞬時に行ってしまったその姿を確認しようと手を伸ばそうとして……どうしようもなく感じる違和感。

 指が動かない、いや動くがなにか違う。もう片方の手で確認すれば毛むくじゃらの手に触れる。ここまで毛深い腕だったか私の手は。

 胸元にまい子の頭、だろうものが触れる。だが胸元も毛で覆われその感触を直接感じない。そもそもなぜ服を着ていないというか……

 

 いや、もはやそうとしか考えれないのだが…

 

 

 「私達…もしや猫になった、のか…?」

 「そうです!私がなった時伝えようと頑張ったのですがどうも言葉が通じていなくて!」

 「…何という事だ、南無三……」

 

 大きなため息と共に目が潤む。常であれば頬を伝うほど流れる涙だがさほど流れなかった。ああ、猫だ。…猫だ。

 

 猫になる。猫になった。…猫は大変可愛いものではあるが、別に私がなりたい訳でも彼女にもなって欲しい訳でもない。

 この彼女が慌てている姿も私がなげくこの様子も端から見れば猫がにゃーにゃーと鳴いているだけの姿に見えるのだろうか…ならば、なんと無情なのだろう。

 

 

 『わあ、仲間がいっぱいだあ。ねえ遊ぼう?』

 

 …原因はほぼ間違いなく、この人の姿であった時から同じ言葉で、非現実的な方法だが話しかけてきていた猫に相違無さそうだ。

 

 と、なれば。もはやなってしまった後悔になげくより戻れる方法を探さねばならない。戻れないという最悪の自体とまだ決まった訳ではない、可能性がなくなるまで足掻くべきなのだから。

 私は諦めはしない。どのような事があろうとも最期まで足掻いてみせる。

 

 

 怪奇な黒猫は楽しげに『にゃあ』と鳴いた。

 

 

 

 

 ** SCP-795 **

 

 

 

 

 

 




 ─ 後編へ続く


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拾壱話 猫にされてしまったようです(後編)

 

 どんな状態になっても行冥様は素敵だなあ。姿が変わっても変わらず大きな行冥様を見上げながら私は思う。

 突如猫になるという訳のわからない出来事でも落ち着いて、冷静沈着に元に戻れる方法を探っているのだから。

 私なんて慌てるばかりで到底そんな…反省。もっとしっかりしなきゃ。

 

 

 『ねえ、遊ぼう』

 

 黒猫は楽しそうに私と彼に向かって話し掛けてきていた。頭の中に話しかけれて相手を猫に変えれる不思議な猫……猫又か何かなのかな。そうだとして、そうじゃなかったとして私に何が出来る訳じゃないけど。

 

 「そちらが望む通り遊んだならば元の姿に戻してくれるのか」

 『なんで?仲間と遊ぶの楽しいよ?キミは体が大きいから大丈夫。ボクより体が小さいコはすぐに疲れちゃうんだ、そのコみたいに』

 「えっ、あ…まさか虎…!」

 

 行冥様の探りも、猫ならではというか…ふにゃりと(かわ)される。強い言葉で言えないのは責めすぎて機嫌を損ねてしまえばどうなるかわからないからだろう。

 

 と、いうか。黒猫の言う通りならばこの部屋の隅で萎びたキノコのように寝ている虎は…他の子達を庇い、一番大きな体の猫として遊んでいた結果なのだろうか。

 わからない、ただ遊びたかっただけかもしれないけれど普段疲れはてるほど遊んだりなんて全くしない大人しい子なのに…!

 

 

 単なる思い込みかもしれないそれに私が勝手に感動している内に彼らは話を進めていた。

 

 「…ならば次の相手は体の大きな餅汰か好戦的な小豆、だったという訳か…なるほど。承知したその遊びとやら、付き合おう」

 「!行冥様」

 「大丈夫だ、この子達を頼む」

 

 他の選択肢はまだあっただろう、それでも行冥様は危険は承知でそれを引き受けた。黒猫との話を進めるために。猫は遊びたがってる時やお腹が空いてるときに何か他の事をやらせようとしても上手くいかないから。

 それでも不安は不安。行冥様の胸元に顔を擦り付ければ私を安心させるかのように登頂部をざらりとした舌で舐めあげられた。

 彼は強いから大丈夫だろうとは思う、けれど同じくらい心配で不安に思ってしまう。この気持ちは恐らくどれだけの時が経っても変わらなさそうだ。

 

 

 ……ん?

 

 

 「……あれ?」

 「…まずいな、思考回路が猫に支配されかけている。いつの間にか四足歩行に疑問も持たずに動いている」

 「ですよねぇ!よろしくないですよね、このままでは!」

 

 普通に手のひらで撫でられるのと同じような感覚で舐められているのを受け入れようとしていたし、行冥様も行動していたみたい。何が危険がないだろう、だ。とてつもなく危険な気しかしなくなってきた!

 このまま放っておいていたら身も心も完全に猫になってしまうのでは!最悪私はよくても彼は駄目、鬼殺隊の柱である彼はもっともっと沢山の人を救うのだから、これからも。

 

 

 『じゃあ今度はおいかけっこしよー。ボクが逃げるからキミが追いかけてねー!』

 「むっ……行ってくる、気を付けてくれ」

 「は、はい!お気を付けて!」

 

 勢いよく駆け抜けていった黒猫の後を行冥様も勢いよく追いかけていった。室内のどこに何があるかは全て把握しているだろうけれど、猫の姿でも通用するだろうか。

 あと四足歩行でも早いのは早いけれど、いつもの早さと比べたら遅いかもしれない。その動きが同じくらいになるのは…あまりよくない事だろうなあ。

 

 

 「…ごめんね皆、元に戻らないとご飯も満足に用意出来ないっていうのに…」

 

 部屋に残ったのは私と四匹の猫達。私達のやり取りを猫目線でもわからないほどの無表情で見届けていた餅汰や逆立てていた毛がいつの間にか戻っていた小豆。体力が戻ってきたのか顔をあげて伸びていた虎や香箱座りで不思議そうに見ていた月美。

 彼らに騒がせた事や自身の情けない姿、そして彼らにとって何よりも大事であろうご飯の話を謝罪する。時間はまだあるけれど猫の姿ではご飯の用意が出来ないのだから。

 

 猫の姿でも頭を下げる事は忘れない。家族だからと真意に心を込めるのならばするべき事だ。けれどまるでそんな事をしなくていいと言わんばかりに…

 

 「えっ…?」

 

 頬を、頬というかほぼ目玉近くを舐めあげられる。舐めてきたのは常々小さいと思っていた小豆だったけれど猫の姿になってみればそれはそんなに小さくもなく…何より普段誰にも毛繕いをする事のない彼がしてきた事に驚いて。

 

 「    」

 「………」

 

 耳に届いたその声に動揺する。いつも聞くにゃあ、との声が今の私には意味のわかる言葉として聞こえてしまうのだから。

 それに続くかのようにあちこちから、声が聞こえる。聞き慣れた…けれど初めて耳にする、意味のある言葉として。

 

 人の姿ならば口を押さえ、涙をボロボロと溢していただろう。けれど猫の姿では涙をろくにこぼす事も出来ず、出来る事はただただ前足を舐めあげ毛繕いをする事だけだった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 「ひっ!?何ですかこれ…」

 

 あれから"おいかけっこ"をしているだろう二人…一匹と一人?を部屋から出て探していた。猫達は無情にも追いかけてきてはくれなかった。それもまた、猫らしいが。

 

 やっと見付けた彼らは、陽当たりの良い縁側の端で行冥様に組伏せられ一目で遊びは終わったと判断できる体勢だった。その近くに四足で歩き、向かおうと近付けば縁側の外の庭に転がっている猪の死体が否応なしに目に入る。大きな生き物に噛み砕かれ絶命したかのような死体が。

 

 『ひゃあ疲れたぁ、でも楽しかったよー』

 「そうか何より。……まい子、悲鳴が聞こえたがどうした?」

 「ぎ、行冥様…すぐそこに猪が、その死…!」

 「大丈夫だ、落ち着きなさい」

 

 私の声を聞きつけ黒猫の上からすぐに飛び退き、私の元へと駆け寄ってくれる行冥様。邪魔をしただろうし、申し訳ないと思うも怯えきった感情のまま彼にすり寄る。怖くて怖くて仕方ない、大きな猪が庭の奥で死んでいるなんて耐えられない…!

 ……なんで、なんでだろう。心が猫に引っ張られてるのかな。そんなに大きくない猪でも大きいと感じている。

 

 『ああ、大丈夫あれはボクがネズミに変えてやっつけたヤツだよ。襲ってきて怖かったなぁ、でももう平気だから』

 

 なのに黒猫は平然と、行冥様に負けた体勢のひっくり返った仰向けのまま柔らかに言ってきた。

 ……ネズミに変えた?やっつけた?猪を?……姿を変えられるのは、猫だけじゃないの?勿論そんな事は断言してなかったし、人を猫に変えれるならば猪をネズミに変えるのは簡単なのだろうか。

 

 「……それで目的は…いや、そもそもお前自身何者なのだ」

 『ボク~?ボクはえっと…ジュニア、そうジュニアって呼ばれてるよ?』

 「じゅ、にあ…?変わった名前……もしかして西洋から来たのですか…?」

 『ん?んー、そうなのかな?』

 

 のんびりと答える黒猫こと、ジュニア。どういう漢字を当てはめるのだろう…いや、当てはめず本人…本猫?自体が海外の存在ならば、と訊ねるものの的を得た回答は得られない。

 縁側の廊下でコロコロと転がる姿を見ていれば上空から行冥様が舐めてくる。ざりざりとした舌先で登頂部を舐められ、耳の近くをガジガジとかじられる。毛繕いにしては少し乱暴。何だろう?

 彼を見上げればそのまま鼻先から額にかけてざりざりと大きく舐められる。毛繕い……なら、仕方ない、のかな?

 

 

 『んー、ん~そうだなあ。何だかよくわからないけど家に帰ろうかなぁ。遊び疲れたしお腹も空いてきたし、眠たいや』

 

 そんな私達の様子なんて気にもとめず、ジュニアは立ち上がって縁側を飛び降り、庭先を堂々と歩いていた。猪はそのまま、まあ軽く食べるには大きいから仕方ないか。そうか、疲れてお腹も空いたなら家に帰るのは仕方ないかあ…

 足をたたんでその場に座り込む。ああ、暖か…

 

 

 ……いや、違う!

 

 帰るのは良い!構わない!だけれども!

  

 

 「ち、ちょっと!ジュニア!?」

 「我らを元の姿に戻す方法を教えるのが先決なのではないのか!?」

 

 のんびり、猫のようにジュニアの言った言葉を受け流そうとしていた私と行冥様。彼の姿が遥か遠くの庭先に進んでいた所でようやく質問を投げ掛けれた。

 まずい、もうぽかぽかと暖かい陽射しに負けて寝転んでしまいたい。心の奥底でよどむ疑問や困惑なんか忘れてお昼寝でもしてしまいたい。

 

 

 『だいじょーぶ、その内戻るよ~』

 

 そんな私達の困惑を全く気にせずはね除けるかのようにのんびりとした声はただ一つの彼しか知らない言葉を口にして消えていった。

 その内。その内……その内かあ。なら良かったなあ。

 

 

 …いや、良くない!その内って、いつ!?その内?……その内にかぁ。戻るなら、いいかなぁ。私はともかく行冥様が戻るなら……

 

 「…よ、良かったですね行冥様…元に戻るらしいですよ…?」

 「……なんともまあ、恐ろしい事だ」

 

 彼に微笑み、首筋を舐めあげればお返しとばかりに耳元を舐められた。くすぐったいそれに身動ぎをすれど体の大きな彼には敵わない。

 強いなぁ、行冥様は強い。どんな姿ですら……あれ、猫?……あれ?人だったのに?あ、れ?

 

 

 ………。あ、ああ。

 

 

 

 猫。

 

 

 

 猫だ。

 

 

 

 猫は、可愛らしく、恐ろしい。

 

 

 

 

 

  

 

 *

 

 

 

 

 

 一時間後、元の人間の姿に同時に戻れど、衣服を何も身に付けていない姿だった事を知るのは私達、当事者以外にはいない。

 

 それこそ、いつも必ずくれていた朝御飯を逃し真上に登った太陽の存在なんて気にしない猫達にとっては、素っ裸で混乱しきっていた彼女にまとわりつくのも動作もないほどのどうでもいい事なのだから。

 

 

 

 

 




 SCP-795 現実改変猫

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)


 SCP-795は毛が長く大柄で8.2㎏ある黒猫。30メートルの範囲にいる生き物にテレパシーを送れ、物理的に形を変えれる。そしてその範囲にいる他の猫に力を渡すことが出来るが、SCP-795から離れた三時間後に力をなくす。変化させられた生き物たちは一時間後に戻る。
 仲のいい、もしくは仲良くしたい相手を猫に変え、そうでない相手は弱い生き物に変えて殺す。

 
 


SCP-795 [[jumpuri:SCP-795 > http://scp-jp.wikidot.com/scp-795]]

著者:eric_h 様

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拾弐話 アライグマのようです

・時代的にアライグマが日本にはいなかったのでタヌキと思い、始終タヌキと呼んでいますが、アライグマです。


 

 

 山の木々を揺らし、通り抜ける風は二つの着物の裾をはためかせる。一面の空に浮かぶ雲は少なく、風も心地良い。

 なんて素晴らしい洗濯日和なんだろう。

 

 「それで最後か?」

 「はい。ありがとうございました、行冥様」

 「構わない、水を吸った布団は重いのだから。それも私に合わせた大きさとならば…まい子では持ち上げるのも辛いだろう…」

 

 鴉からの連絡を待つ、ほぼ休息に近い日はゆっくり休むのが好ましいだろうに心優しい行冥様は大きな手を貸してくれた。天気の良さに合わせて洗濯した布団を背の高い物干しに干し、風の強さに飛ばされないように固定していく。

 

 

 そうして最後の洗濯物、包布(ほうふ)を手渡そうとした時。

 物凄い強風が私達の間を駆け抜けて。

 

 「あっ!」

 

 私の手から奪い取り、持ち去ってしまった。……つまり、風に飛ばされた。

 

 

 「す、すみません行冥様!急いで取ってきます!」

 「あっ、待ちなさい走っては体調に響くだろう!」

 

 慌てて取りに行こうとした私をとがめ、自分が行くと言う行冥様の提案を断る。そこまでしてもらうのは…!

 そして数秒後。二人で取りに行くという結論になる。なぜそうなったのか話を思い返しても……まあいいか。

 

 もし音もしない所に引っ掛かったら。私では到底届かない高い所に引っ掛かったら。そんな色んな想定の上に二人で探しに行ったものの、結論として普通に風が止みそのまま地面に落とされていた。

 近く雨は降っていなくとも濡れている布地が地面に落ちればやはりどうしても汚れてしまう。一部が土埃色に染まったそれを手に取り持ち上げる。

 

 「あちゃあ、これはもう洗い直さないと駄目で……あら?」

 「どうした?」

 「向こうで…タヌキ、ですかね?タヌキが倒れてます」

 

 ざりざりと汚くなってしまった面を内側に折り曲げ手や着物に付かないように小さくしていれば、遠く地面に転がっている獣が目に入る。

 

 

 ゆっくりと、脅かさないように近付くもそれは微動だにしなかった。

 まさかタヌキの死骸なのだろうか…と、足元に見下ろせるほど近付いてみても致命傷になりそうな怪我は見当たらず、右前足に小さな怪我があるだけだった。お腹の毛がゆるく動いている、生きている。

 それでも大分ボロボロで、近くにはタヌキの毛が散らばり…まるで何かと争い逃げてきたかのようだった。足音も立てず近付いてきた行冥様にそう伝えれば見えぬ目で辺りを見渡す。

 

 「近くに大きな獣がいる気配はないが…何かに襲われたのだろうか?」

 「大きな獣にやられたというより、どちらかといえば……例えば、仲間割れ、とか」

 

 怪我がわかるほど近付けば否応なしにわかってしまう。このタヌキ…模様や毛色が一般的なタヌキと少し違う。顔回りや尻尾なんて一目瞭然と言えるくらい違う。

 もしかして種類が違うタヌキなのかな、だから…仲間であるタヌキに攻撃をされたとか?私も父親から受け継いた髪色や瞳の色で他の人から色々言われたけれど…言われるくらいで命をとるまでは当然されてない。けれど獣は少し違うだけで攻撃され時には排除をされてしまう。

 

 

 野性動物に思ってはあまり良くないだろう事が頭に浮かぶ。それも……そんな感情が徐々に大きく膨らみそれを消す事が出来なく、たまらなくなり彼に告げる。

 

 「行冥様この子…せめて怪我が治るまでは保護できませんか?」

 「…あまり自然の摂理に口を挟むものではない、が……」

 

 見上げた行冥様の瞳からは一粒二粒涙がこぼれ落ち、ゆっくりと瞬きを繰り返して。

 

 「ここで見捨てる形となれば、寝覚めが悪いだろう。勿論隔離はしておかねばな」

 「……あ、ありがとうございます…」

 

 私の愚かな提案をきっぱりはね除ける事も出来たろうに彼はそうしなかった。弱者の立場を、彼は知っているのだから。頭を軽く撫でられるように叩かれ、ハの字になった眉と共に微笑まれる。

 完全に我が儘を押し付けるような形になってしまい、頭を下げお礼をいえば軽く手を降る事で返事を返される。

 

 そんな大きく優しい手をわずらわせる訳にはいかない、そもそも言い出したのは私なのだからタヌキは私が抱えねば。

 タヌキ自身二尺程度とそんなに大きくないのだから持てるだろう。包布をくるむように被せ、猫を抱き上げる要領で持ち上、げ……

 

 

 ………んん??

 

 「ん、くっ!?」

 

 持ち上げようとして、持ち上がらなくて、逆に想定外の事に驚き妙な声と共に崩れ落ちて膝をついてしまった。

 私の尋常じゃない反応に行冥様が素早く片膝を付き、肩を掴んで支えてくれた。すみません、突然の体調不良で吐きそうになった訳ではないのですが…

 

 「大丈夫かっ!?」

 「も、申し訳ないです……お、重くて、持ち上がらなくて…変な声を出してしまいました…」

 「??…この大きさならば、あの子達とさほど変わらないのでは?」

 「いや、それが比べ物にならないほどの重さで…!」

 

 確かに目下のそれはタヌキに間違いないのに。少なくともふさふさの毛並みも四足の手足も尻尾も生き物である証明なのに。

 いくら重いと言っても持てないなんて事はないだろうに…あ、れ?

 

 「そんなに太っている訳ではなさそうだが……むっ…?」

 

 戸惑う私の代わりにと行冥様がタヌキに手を置く。包布でくるみ、難なく持ち上げ小脇に抱え込む。ああ結局手をわずらわせてしまった…

 しかし重いと思ったそれは私の勘違いだったのではないだろうか。こんなに軽々と持ち上げたのだし、そもそもタヌキが重いといってもせいぜい漬け物石くらいでは…

 

 

 「しかしなんだこの重さは…体感二十貫くらいだが」

 「…二十貫?…二十貫、ですか……それは持ち上げきれませんねぇ」

 

 そんな私の見積もりの甘さが行冥様の言葉で砕かれる。やっぱり実際に重かったのか…タヌキが?なんで、鉄でも飲み込んだの?だからぐったりしているのかな?それでも重さとしては考えれないけど…

 だって二十貫……少し前に新たに決められた重さの単位が、えっと…きろぐらむ、で。二十貫なら……七十五キログラムか。

 

 ……タヌキじゃなくて岩なのかな?

 いやそもそも…

 

 「二十貫を片手で軽々と……流石ですねぇ」

 「南無…」

 

 感嘆の声をあげれば眉をハの字にさせ、困らせ……あ、いや。照れさせてしまった。

 

 しかし行冥様基準で考えると色々間違えてしまう、危ない危ない。

 いつも簡単に背負っているからと、鉄球と斧の入った籠の置いていた場所を少し横に動かそうとして微動だにしなかった事を思い出す。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 重さの事はさておき、タヌキを家へと連れ帰り、私が治療をしている間に行冥様が猫達と会わないようにと、とある一画を閉鎖してくれた。

 別に閉じ込めているわけでもなく自由に動けるくらいの広さで。そもそも毛繕いやそれぞれで遊んでいたりと気にもとめていなかったらしいが。

 彼が戻ってきてもタヌキは目覚めなかった。何か食べれそうなものを探しに厨房へと行き、手頃なものを持って戻ってきた時には目を覚ましており、何事かと探るように首だけを動かして辺りを見ていた。

 

 「起きたようですね」

 「うむ、しかし野生生物にしては暴れもしなくてな。よほど弱っているか…もしくは」

 「何でしよう?…あっ」

 

 私の存在に気付いたタヌキが動きを止める。何度か瞬きをしたあと四足歩行でゆっくりと近付いてくる。

 とりあえず脅かさないように私もゆっくりと、余計な音をたてずに行冥様の隣に座る。そしてある程度離れた場所でタヌキは止まり、じっとこちらを見ていた。敵かどうか観察されているのかな。

 

 「………」

 「もしくは、何です?」

 「…ああ、もしくは飼われていたのではないかと」

 「え?……ああ、でもそうですね、なるほど」

 

 これ以上待っても近付いてこないだろう、そう判断し話の続きを行冥様に問う。すると思いもしなかった一つの可能性を提案される。飼われていた…?飼いタヌキ?

 けれどすぐに納得もする。かなり珍しい毛色や模様なのにほとんど怪我なく無事育った大人の姿といい、人間とかなり近い距離にいても騒いだり逃げたりしない態度といい、有り得そうな気がする。

 

 近くの町ではそんな話は聞いた事がない、山向こうからでも逃げてきたとか逃がされたとか捨てられたとか…うーん、答えはわからないけれどそうだとしたら。

 

 「なら手渡しとかでご飯を食べたりしますかね?」

 「む…それはどうだろうか…?」

 「タヌキって林檎食べますよね?一応小さく切ってきたのですが」

 「雑食だろうから食べるだろうな」

 「なら挑戦してみましょう…おいでおいで」

 

 手のひらから餌を食べる姿は大変に愛らしい。猫達も気が向いた時にしかやってくれないが、それでもとても可愛い姿を見せてくれる。そんな姿がみれるかはわからないが、試しにタヌキにやってみよう。

 一口の大きさのつもりで切ったけれど少し大きかったかもしれない林檎を、取り敢えず一つ手のひらの上に乗せて差し出してみる。

 

 私の行動をじっと見ていたタヌキが私と行冥様そして再度部屋の中をぐるりと見渡してゆっくりゆっくり近付いてきて。手の上におかれた林檎を数回、匂いを確かめたあと。

 

 「!」

 

 口でそのまま食べるのではなく、小さな手で奪い取り、私達から少し距離をとったあと尻尾を支えに座って両手で挟んだように持ち食べ始める。

 

 そのあまりに可愛らしい情景につい声をあげそうになり口を押さえる。大きな声を出せば驚き、止めてしまうだろうから。

 それでもこの感動を伝えたくて小声で行冥様を呼び、姿勢を低くしてもらいその耳元に感動した光景をそのまま話す。

 

 私の言葉に無言で頷いていたが、座り込んだ赤子のような体勢で食べ進めているそれにいたく感動したのか大粒の涙をこぼしだす。

 絞り出されたような「南無…!」のあまりに声の低さに私もタヌキも肩を震わせ驚いてしまう。大型の獣の鳴き声かと思わせてしまっただろうか。

 

 「なんとまあ…南無可愛い事を…!」

 「で、ですよね。タヌキってこうやって食べないですよね…?」

 「猫達と同じではないか?どれ、試しに……うむ、確かに手で取っているようだ」

 

 行冥様はお皿の中から数粒手のひらの上に乗せて差し出す。大きな手だなあ。

 タヌキはお皿の上に林檎があるのを確認したのに、ちゃんと差し出された手のひらの上から一粒とる。今度は離れるような事はせず一粒食べ終わったあとすぐにもう一つ食べ始めれるようにだろうか。

 

 それを確認して、今度は手のひらには乗せずお皿ごと差し出してみる。行冥様の手の上の林檎を全て食べ終わったタヌキは次に差し出されたお皿の分を食べ始める。

 するとやはり、顔だけで食べず手を使って食べている。お腹がすいてたのか全ての林檎も食べ尽くそうというのに一つ一つ丁寧に掴んで。

 飼われていたとしたらかなりしつけをされていたのだろう。それとも…手で掴んで食べる種類だとか?そんなのがいるのかな。

 

 『…キュウ、キュウ』

 

 お皿の林檎を全て食べ終わったタヌキ。そのままお皿をこちらに返すように手で戻し、数回鳴きながら手や頭をゆらゆら動かす。

 まるでお礼を言っているかのように。

 

 「ふふ、まるでありがとうと言われてるみたいですね」

 「犬のようにしつけたのだろうか?この子はこの子で頭がいいのだろうが…すごいタヌキだ」

 

 

 カンカンッ

 

 

 「確かにそ……んん?」

 「……爪で叩いているのか?」

 「はい…なんでしょう?」

 

 一瞬だけ、彼と顔を見合わせ軽い談笑をしていた。内容はもちろんタヌキの事で、怒らせるような事も言っていない。けれどそれが気に入らないとばかりに空になったお皿を右前足の爪で叩いていた。

 そして。

 

 

 「ひぃっ!?」

 「ッ!止めなさい!」

 

 そのまま爪を立て、陶器の器をキィキィと引っ掻き始めた。一気に全身に鳥肌が立ち、反射的に耳を押さえてしまう。

 行冥様が素早くタヌキからお皿を取り上げて音は止んだものの鳥肌が収まらない…ひええ、なんて音だろう…頭の中を痺れさせるようななんとも言えない嫌悪感がすごい。

 

 『キュウ、キュッ』

 

 タヌキは持ち上げられたお皿を追うようになのか、行冥様の膝を掴み…そのあと私の膝辺りの着物を掴んで鳴き声をあげた。

 なんだろうご飯を取り上げた事への抗議?訴え?もう中身は何も入っていないのに。

 

 「…もう少し欲しいとの訴えだろうか」

 「よほど餓えていたのでしょうね…」

 

 いくらねだっても林檎がもらえないとわかったのか鳴くのを止めてうつむくタヌキ。落ち込む姿も可愛らしくそして哀れに見える。飼うのは…駄目だろうなぁ。

 飼われていたとしても外からきた生物、相性どうのこうのの問題じゃなく種族的にも病気的にも……私のような素人では判断が出来ない。

 

 

 「ではもう一つ切ってきますね」

 「いや、丸ごと一つでも食べるのでは?」

 「あ、それもそうですね。では試しにそうしますね」

 『…キュウ!』

 「えっ!?あ、ちょっ…!」

 「待て!」

 

 けれど林檎をもう一つあげるくらいならいいかと立ち上がり厨房へと向かおうと襖を開けたその時だった。

 まるでその時を狙っていたかのような早さで私の脇をすり抜けて廊下へと飛び出すタヌキ。猫達の元へは区切ってあるから行けないにしろ家の中を徘徊されるのは困る。

 それに何より行冥様の隙をぬって飛び出すなんて動物はすごい。いくら危険な行動ではなかったとはいえ…

 

 

 とにかく追いかけなければ、家の中をむちゃくちゃにされてしまうかもしれない。

 そう思い私達は廊下へと飛び出したのに。

 

 「…!えっ」

 「…何だ?……まるで」

 「導くように…」

 

 タヌキは廊下の少し先で待っていた。私達の姿を確認すれば進むもこちらが後を追うまでその場で待っている。

 全く意味がわからなく、ただその小さな体を追いかけていけば外へと続く扉を見付けたとばかりに走り出し扉をカリカリと引っ掻いている。

 

 ??なんだろう、このタヌキ。まるで何か目的があるように…?

 

 

 行冥様が扉を開けばタヌキは外へと飛び出し、土むき出しの地面に向かって怪我をしている右前足を使って何かを始める。穴堀り…ではない、表面上の少ししか削れていないのだから。

 

 「逃げたかった…という訳でもないようだが、何をしているんだ?」

 「地面に何か…文字か模様のように見えなくもない……何かを書いてるような行動をしてます。タヌキですし遊んでいるんですかね?」

 「芸を見せて餌をねだっているのかもしれないな」

 「ああ、なるほど!そうでしょうね!」

 

 タヌキはいまだ地面に何かを書いているように見える芸を披露してくれていた。なるほどそうやって見ると文字か絵に見えなくもない。タヌキが書いたものだし、そういうものなのだろう。

 

 「こんな芸を仕込まれているんだ、やはりどこかで飼われていたのだろう。そして簡単に手放すとも考えにくい…手違いで逃げたのかもしれん」

 「ならば町で聞いてみますか?探しているかもしれません」

 「私が行ってこよう、まい子があの包布を洗い直す間に」

 「あっ、お手間を…すみません何から何まで任せてしまいまして…」

 

 確かに汚れてしまった包布は水をいれた桶に浸けたままだ。洗い直して干さなければ。いつまでもそのままにしておくわけにはいかない。

 そして私がそれをしている間に町に行き訊ね回ってくれるとは…ああ、迷惑ばかりかけてしまっている。

 私がタヌキを連れ帰るなんて言わなければ、いやまず見付けたり…そもそも風に飛ばされたりしなければこんな彼の負担になるような事を…

 

 「いや私も気になっていた事だから気にする事ではない。もしあの時関わらないよう選んでいればどこかにいるかもしれない飼い主が困っていたろう?」

 「……はい、ありがとうございます。お願い致します行冥様」

 「うむ、その代わりという訳ではないが区切りを片付けてあの子達の自由を広げておいてくれないだろうか。まい子でも動かせるだろうから」

 「了解です。お気をつけて」

 

 いくら芸をしても林檎がもらえないと判断したのだろうか、タヌキは手を止めそのまま地面に座り込んで何をするわけでもなく模様のように見える地面を見下ろしていた。

 そのタヌキを片手で相変わらず軽々と持ち上げる行冥様。見えないけれど二十貫(75kg)あるのですよ?確かに片手で軽く持ち上げられたりして力持ちだという実感はしていますが。

 

 行ってくる、という行冥様を少し呼び止め厨房に向かう。林檎を渡す為だとすぐにわかったのだろう勝手口から来てくれた行冥様に手渡す。

 タヌキは何事なのか理解できないといった顔で微動だにせず固まっていた。最も暴れたところで行冥様の力には絶対に勝てないから無意味ではあるけれど。

 

 

 「では改めて、少し出掛けてくる」

 「はい、気を付けてください」

 

 いうが早く、七尺以上ある体躯が瞬きする間になくなっていた。今この一瞬でどれだけの距離を移動したのかなんてわからない。目にも見えない早さで動けるそれは見慣れたもの、見えてないけど。

 

 さて。ぼんやりしている間はない。洗い直して干して、猫達を開放してタヌキに使ったお皿も洗わないと。

 

 

 区切っていた物を動かし、使ったお皿を取り敢えず他の食器と混ぜないように分けて、桶に浸けたままだった包布を取り上げて絞り上げる。それを庭先の物干しに干そうと悪戦苦闘していた時だった。玄関先から行冥様が現れた。

 出かけた時と変わらない服装、変化と言えば手に抱えていた存在がなくなっている事と表情が少し不思議そうな顔をしている事だろうか。

 

 「お…お帰りなさいませ…?」

 「うむ……戻った」

 

 …あれ、もう終わったの?そんなにあっさりと解決出来るようなものだったのかな?でも手には何も持っていないのだから……あまりに早くて唖然としてしまったのは仕方ないと思う。

 

 「え、行冥様…タヌキは、どうなったのです?」

 「ふむ、それがだな…タヌキを抱えて山を駆け降りていたいた時███が████になり…████の████となったようで████と…」

 「そ…れは」

 

 行冥様から説明された出来事は何だか妙に現実味がなく、普通であれば納得が出来ないものだった。あり得ない、納得出来ない。そう吐き捨ててしまう事は簡単だけれども行冥様が嘘をつくわけもないし…それになにより。

 

 「うん。タヌキですから、仕方ないですね」

 

 だって、タヌキだから。どんな不思議な事があろうともまぁそんな事も有り得るかな、そう思ってしまうのは……タヌキだから、なのかな。

 

 

 

 ** SCP-1152 **

 

 

 

 

 

 




 SCP-1152 アライグマ

 オブジェクトクラス:safe(まぁ安全)


 ・SCP-1152はアライグマである。
 ・SCP-1152はアライグマにも関わらず、75㎏ある。
 ・SCP-1152はアライグマだが思春期を迎えた一般的な人間と同じ程度の知性がある。
 ・SCP-1152はアライグマだが鬱症状に悩まされている。
 ・SCP-1152はエージェント████のDNAと99.87%とほぼ一致している。
 ・エージェント████は13ヶ月行方不明になった後死亡したと推測している。




SCP-1152 http://scp-jp.wikidot.com/scp-1152

著者:Vorcha 様

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拾参話 美味しいお酒を呑むようです(前編)

・強引な販売員のようです、の時系列として続きものですが読んでいなくても大丈夫です。
・時代背景的に未成年者飲酒禁止法前のため、飲酒しています。未成年者の飲酒を推奨するものではありません。駄目、絶対。


 

 

 その鬼は血鬼術も持っておらず手間取る事なく頸を潰す事が出来た。だとしても、奪われた命が戻る事はなく脅かされた人々の心に深く傷を負わせたのが治るわけでもない。

 

 私がもう少し早く来れていれば。守れていたかもしれない、失わなかったかもしれない。

 だから、感謝の言葉を貰えるだけで充分だ。私に出来たのはほんの僅かな事。

 

 ……だから。

 

 「…いや、本当に結構…」

 「いいえ!感謝の印として、どうぞ受け取ってくださいませ。代々造ってきた日本酒なのです、そしてこちらも。これだけで熱燗が作れるという品になりますので、どうか!」

 「……」

 

 ……押しの強いそれに対し、断る力を私は持っていなかった。ここで頑なに断って折角の立ち直ろうという心すら折ってしまってはいけないだろう…

 

 

 

 *

 

 

 

 

 「成る程それで一升瓶を三本も……しかし行冥様お酒飲まれないですよね?」

 「飲めない訳ではないのだが…好んで飲むような事はしないな」

 

 鬼狩りとしての任務が終わり、数日ぶりに戻られた行冥様。お土産として渡されたのは甘味なお菓子と今夜のご飯になりそうな食材…そして謎の一升瓶とその付属であろうちろりや徳利等の品物。

 意図が理解できずかなり挙動不審に訊ねたのだろう、説明不足だったと謝罪をされてから事情を教えてもらえた。お土産ではなく贈り物をもらったとの報告を。

 

 

 いつの間にか集まりまとわりついてきた猫達を撫で回しながら、行冥様は色んな感情で流れる涙そのまま話してくれた。手に入れた経緯と断れなかった理由もわかり、その上で困ったそれを見下ろす。

 

 一升瓶三本……どうやって消費をすればいいのだろう?配る…いやそれはない。人を呼ぶ?いやそれも……神棚に上げたり料理に使用したとして、それでどれだけ使う事やら。開封さえしなければ平気だろうけれど一度開けてしまえばすぐに消費しないとすぐに悪くなってしまうだろう。

 聞けば神事や付き合いで飲み、決して苦手ではないという。確かに行冥様ならいくらでも飲めそうだけれど…しかし好んで飲まない以上減る見込みが……

 

 

 「ところでまい子は飲んだ事はあるのか?」

 「いえ、全然……あ、昔梅酒の味見で少し飲ませてもらった事があるくらいで、このような日本酒は全く…」

 

 うんうん、と唸りながら困っていれば予想外の質問をされる。飲酒経験は…遥か昔、母親が浸けていた梅酒をほんの少し飲ませてもらった事くらいしかない。味すら覚えておらず、好き好みの意見も持たないほどの記憶でしかないそれは飲酒経験と呼ぶかどうかすら微妙なもの。

 どうしてそれを訊ねてくるのだろう?そんな私が疑問に感じているのを肌で理解したのか、優しい顔で微笑んでくれる。猫がはしゃぎすぎて思いっきり噛み付いているが平気なのだろうか。 

 

 「そうか、なら今夜共にどうだ」

 「えっ……晩酌?……私も、宜しいのですか?」

 「頂いた好意は早く受け取ろうかと。それにまず一口試してみねば解るまい。勿論無理強いをする気はないが」

 「あー、はい…そうですね。……うん、一口だけ、なら」

 

 確かにそれはその通り、飲んだ事がないからと遠ざけていれば何もわからない、もしかしたらお酒とやらは物凄く美味しいものなのかもしれないのだから。

 もし私がめちゃくちゃにお酒に強く、このお酒を飲みたくて飲みたくて仕方ないとばかりになれば無駄にはしなくなるだろう。そうなれば素敵……なのかな?いや、それはまた違う話かな。無いものを求めだしたら目も当てられない。

 

 「うむ。ならば急遽となるが頼めるだろうか」

 「勿論です、畏まりました!……あの、手大丈夫ですか?」

 「む?……嗚呼、この痛みもまた愛らしいが……止めなさい」

 

 そうとなれば晩酌にしても違和感のないご飯を作ろう。幸い行冥様が沢山の食材を持って帰って、もしくは購入してきてくれたのだから。

 全く気にしていないそれをついでとばかりに伝えれば噛まれていた事自体気付いていなかったようでその出来事にやっと気付き…涙を流しながら猫の口を離していく。

 手に噛み傷がハッキリと残っているけれど、その痛みより噛みついたという行為に涙を流していて……私が行冥様を理解するにはまだまだのようだ。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 適度な夕食をお腹に入れた後、私と行冥様は縁側へと移動していた。お酒のお供に摘まむ為に作った長芋と胡瓜の梅和え、白菜とキノコの塩きんぴらと、一升瓶とそれと共に渡された数点の品物と共に。

 緩やかな風が頬を撫でてくる、ああ。今夜の半月はとても美しい。

 

 「えっと……日本酒を注いだちろりを上に乗せて、このつまみを……熱燗、にすればよろしいのですかね?」

 「恐らくそうなのだろう。何でも異国の技術で作った、電気を溜め込んでいる部品使っておりこの小さな物だけで温めれると…」

 「はぁ…凄いですねぇ。仕組みがよくわかりませんが……取り敢えず待ちますか」

 

 つまみの横には色々な種類が書かれている。人肌や熱燗などはわかるけれど…あるみ燗やすちーる燗とやらはなんだろう?聞いた事がない…

 もしやそういったお酒の種類なのかな?異国の技術が組み込まれているのなら異国のお酒の呼び方とか…その可能性はなくはないかな。

 

 しかし…この小さな品物だけで温めれるとか、本当にどういった仕組みなのだろう?囲炉裏や竈で温めなくてもいいなんて、不思議でしかない。消耗品らしいけれど、かなり高そうな…

 

 「虫避けの線香は焚いたが、平気か?」

 「はい。あまり近いとお酒やつまみの香りの邪魔になりますかね、少し遠ざけましょうか」

 「いやそちらに動かすと猫達に煙がいく、このままでいい」

 「すみません……もう貴方の為にしてくれてるのだからもっと…ああ、全く可愛い姿をすれば許されるって訳じゃないのに可愛いなもう」

 

 右側で茶白猫がひっくり返りコロコロと転がっていた。その様子を左側にいる行冥様に伝えれば感涙を流し…膝上に乗っていた黒猫に構い倒し逃げられていた。

 その何気ないやりとりについ笑い声をあげてしまう。寂しげな行冥様の表情が特に狡い。

 

 「…何も笑わなくとも良いのでは」

 「ふふっ、すみません…さてそろそろ温まりましたかね」

 「誤魔化すにもあまりに適当な、流石に二、三分ではまだ…」

 「……え?……あの、行冥様温まっています」

 「……なんと」

 

 確かに行冥様のいう通り、私は笑った気まずさを誤魔化すためにちろりに手をかざした。どれだけ薪をくべた竈や囲炉裏でさえこんなに早く出来る訳がないのだから。

 しかしちろりから少し離した場所ですらわかる熱気といい微かに立ちのぼる湯気といい…どう見ても温まっている。

 

 こぼさないように、火傷しないように徳利へと注げば……うん、これはちゃんと熱燗になっている。

 

 「ええ…本当に凄い技術ですね。これが一般的に広まれば画期的過ぎますよ、生活ががらっと変わります」

 「消耗品である事を考えても便利だ。もう少し電気自体が普及すればそう遠い未来でなく広まるかもしれぬ…」

 「流石に数年どころか十数年では不可能でしょうが…」

 

 温めるこの品物を他の…例えば味噌汁などに使おうにも形が特殊過ぎて。ちろり専用のこれで味噌汁は作れない、使ったとして具なしでないと。それに消耗品ならばこうしてたまの贅沢として使うのが正解なのだろう。

 これが一般的に普及する遠い未来を想像し、そしてそんな破格に便利な物を譲ってもらえるほどの偉大な事を常にしている行冥様の凄さを改めて肌に感じた。

 

 「…さっ、どうぞ行冥様」

 「うむ、いただこう」

 「それでは僭越ながら御酌をさせていただきます」

 

 本当に素敵な人。そんな素敵な人の大きな手に合わない、私の手では決して小さくないけど彼には小さなお猪口を渡す。

 差し出されたそれに徳利をつけゆっくりと注いでいく。ふちギリギリまで注ぐような事はしない。彼ならばそれでうっかりこぼすような事はしないだろうけど、あれは特に意味がない行為だし。

 

 「それでは、お先に一口」

 

 お猪口を唇につけ、ぐいっと一口で。お酒の良し悪しはよくわからない、けれど日本酒って強いもののはず。そんなものを彼からすれば微量とはいえ一口で、一気に呑み込んで大丈夫なんだろうか?

 

 

 「どうですか?あの…大丈夫ですか?」

 

 舌の上で転がしていたそれを喉に流し込んだにも関わらず一言も発しない行冥様の様子に少しずつ不安になってくる。

 味を確かめているだけならまだ良い、何か不具合があったとか温めたこの機械の使い方が悪くて何かしら不味い事が……そんなどんどんと良くない想像が頭を埋め尽くそうとした時随分爽やかで熱い息を彼は吐いた。

   

 「……うむ、これはこれは…なんと美味な…」

 「え?」

 「今まで口にした酒のどれよりも間違いなく美味いのだ。大変まろやかで舌の上で踊り、喉を通せば心地よく体に染み込んでゆくようだ…温度も呑みやすく良かった」

 「!そうですか、良かったです!」  

 

 優しい目で見下ろされ微笑まれた事でやっと安堵の息を吐けた。慣れない事をした為にどうやらかなり緊張していたらしい。

 調子に乗ってもう一杯と徳利を差し出せばお猪口を乗せた左手を差し出してくれる。右手は箸を使い梅和えの胡瓜を摘まんで食べていた。

 

 「ふむ、これもまた美味い。酒が進む…が、私だけ飲むのは話が違うだろう?」

 「あっ、すみません……私としては行冥様が満足していただければそれで宜しいのですが」

 「ならば感動の共有をするべきだろう?さ、私が注ごう」

 「ええっ、そんなそこまで……あ、はい、ありがとうございます…」

 

 二杯目は一気に呑み込むような事はせず、チビチビと少しずつ口にして味を楽しむ行冥様。そのまま彼が幸せを感じるならばそれで良かったのに幸せのお裾分けをしてもらえるのならば受け取らない訳にはいかない。そもそもそういった話だったし。

 それでも初めての経験だからドキドキ胸を高鳴らせながらもう一つのお猪口を差し出す。普段お酒なんて呑まないから二つなければ…間接的な接吻するところだった。

 もしそんな事になっていれば確実に味なんで味わえず、わからなかっただろう。

 

 「わぁっ、あ、そんなには…っとと…!」

 「大丈夫だ、ゆっくり一口ずつ飲めば良い」

 「……い、いただきます…」

 

 勢いよく注がれたそれ。それでも決してこぼれないところが凄い。私に注いだ後、自身のお猪口へと注いでいく。それを再び何気なくぐいっと…それに見習い一口でいこうにも…日本酒は強いと聞くし、怖い。

 行冥様はあらゆる意味で大きく強いからいけるのだと納得し、取り敢えず唇だけ触れるだけ、から……

 

 ふわり、と。

 鼻孔を柔らかく甘い香りがくすぐり、舌先がとろりと優しく包まれた。

 

 

 




 ─ 中編に続く


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拾参話 美味しいお酒を呑むようです(中編)

 

 「ん…!……」

 「どうだ?……厳しいなら、最初なのだから一口で止めときなさい」

 

 確かに味わったそれは、日本酒独特のそれは何とも言えないものだった。

 水のような色なのに強い香りと舌先を痺れさせるような圧倒的食感。そんなに熱い温度でもないのに喉元からお腹までを焦がす存在感は他に味わえそうにない力強さ。

 

 

 こんな、こんなのは初めて。本当に忖度なく思える。こんなものもし幼い子供が飲んでは確実に駄目になってしまうだろう。

 

 「な、なんて美味しさですか…!」

 「…そうか、それは良かった」

 

 しかしそれらを差し置いても、いやその衝撃すら善き刺激になる。時間が経てばなめらかな味わいがお米の甘さと共に口に広がっていく。

 

 ああ、これは本当に、本当に美味しい!それほどまでに、嘘偽りなく言える。

 もう一口、口にしたそれはやはり美味しかった。彼に気を遣ってのものでなく、体で感じるそれを心から言える。伝えた言葉にホッとしたように微笑まれ…その優しい顔に体が少し熱くなる。

 

 「しかし初めての飲酒だ、ほどほどにしなさい。程度も具合もわからないのだから」

 「はい、わかりました。しかし…お酒とはこんなに美味しいものなのですね…」

 「これは私が知っている中で一番と言って良い、滑り出しとして上々だろう」

 「はぇー、贅沢ですねぇ」

 

 一口飲む。ほのかな甘味と辛味が混ざり合い舌が震えて、他の味を求め長芋と胡瓜の梅和えを口にする。梅の強い酸味が体を震えさせよだれが出てきて、もう一口お酒が呑みたくなる。

 なるほどこれがお酒とつまみの相性とやらなんだろう。どちらも美味しくいただける。

 

 お猪口はそんなに大きくない、だから何度も飲めばすぐに空になるのは当たり前。今度は自分で徳利から注ぐ…けれど自分でやると何だか難しい。なるほど、だから誰かに注いでもらうようになっているのかな。

 

 「にゃぁん」

 「うん、駄目だからね。食べるのは良いけど、こっちは呑むのも駄目。お水じゃないよ?」

 「ほらこちらへおいで…よしよし」

 

 右側でころころと転がっていた猫が起き上がり構えとばかりに鳴きながら近付いてくる。興味なのか徳利に鼻先を近付けるその顔を優しく払い除けていれば行冥様が片手で抱き上げ膝へと乗せる。

 特に暴れる事もなくそのまま大人しく撫でられる絶景な姿を見ながら一口。行冥様のお猪口が空になる前に注ぐ。

 

 そうして徳利が空になればちろりから移し、おつまみが足りなくなりそうになる前に厨房へと立ち小皿でなく少し大きなお皿に入れて持ってくる。猫が跡を付いてきて、縁側にどんどん集まってくる。

 

 

 ああ、楽しい。彼と猫達と過ごす…お酒の席って、こんなに楽しいものだと知れただけで、私は幸せに違いない。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 酒など滅多に口にしない。呑む事自体に拒否反応や躊躇はしないが必要としていなかった。

 

 そもそも飲んだところで酔い潰れるような失態をするならばと…しかしその心配は杞憂に終わる。どうやら私はかなり強い方らしく周りが潰れる中酔いの自覚はあれど、何かを壊したり記憶を飛ばしたり等の失敗はした事がなかったのだから。

 

 だから。

 

 

 「うふふ、にゃーん。にゃーんですねー、可愛いなんでこんなに、にゃんにゃーん」

 

 もしかしてまい子をここまで酩酊させてしまった事が酒の上での初めての失態になるのだろうか。

 

 毛の長さや声色からして黒猫を抱き上げ、ワシャワシャと乱雑に撫で可愛がっているその声色は…どう聞いても素面ではない。救いとしてそこまでされても猫が嫌がらず逃げてないというところか。その信頼関係は本当に素晴らしい。

 

 「にゃんたー、ふふ、かわいいねぇ~」

 「その子はにゃんたではないし、そもそもにゃんたとやらは我が家にいないし、その子は雌だろう」

 「ふふ、そうですね、あはは」

 「………」

 

 いつからこうなったのだろう。私の目では顔色の変化はわからない、だから声色や態度で判断していたのだが突然というか…いつの間にかこうなっていた。

 いや、始めらへんから妙に楽しげではあったが……まさか当初からか?口調も行動もしっかりしていたがもうあの時から酔っていたのか。だとしたらかなり弱いのでは…にも関わらずかなりの量を呑ませてしまった。

 

 それで……はぁ、これは良くないな。私の抜けだ。何とはなしに大丈夫だろうと楽観視していた私の…

 

 「あ…行冥様かなしい、ですか?私のせい、私がダメですか?」

 「あ、いや…そうではない。決してまい子のせいではない…」

 

 しかも何というか…酔っているのに割りと鋭いのがまた困難にさせてくれた一因だろうか。この穏やかな時間が尊いと、幸運だと言っていたのは本心だろうし、こうして私の表情を見て哀しませてしまったと嘆くその姿は酔っぱらいではあるが、優しく愚かではない。

 猫が一鳴きして離れていく音がする。それを挨拶しながら見送っていた声と共に。

 

 「あっ…行冥様、行冥さま…ナイショ、ですがね」

 「……何だ?」

 「あのですね…」

 

 良い事を思い付いたと小声で話しかけてくるまい子。肩を落とし、体を屈ませ彼女の口でも届く高さまで耳を下げる。両手で口を隠すように耳元に寄せた唇から熱い吐息が漏れ、それが本意でないだろうにくすぐってくる。

 

 

 「私…すっごく、行めえ様のコト、お慕いしてます、よ?」

 「………」

 「ふふふ、ヒミツですよ?」

 

 頭を抱える。いや…もう抱えるしかないだろう?私への心を、私に対して打ち明け、私に秘密にしろと。

 何をすれば、何を言えば正解なのだ…??

 

 …取り敢えずからからと笑うその頭を柔らかな髪ごと撫でる。嫌がらず猫のように擦り付けてくるそれを撫で続けながら軽く息を吐き出す。

 いや、確かに愛らしい…通常時中々聞けないであろう本意を耳打ちされる行為もその後の照れ隠しの笑い声の好意も確かに愛らしい……しかし、この行為を記憶していればまだ良いが覚えていなければそれはかなり辱しめてしまう事に…

 

 「ふわぁ、しかしあついですねえ…いっそ脱いでしまいたい…」

 「は?」

 

 ハタハタと布生地がこすれ、はためいている音がする。襟元を掴み広げ胸元に空気を送り込んでいるのだろう、吐き出された吐息が熱い。

 まさかこのまま放っておいたら帯をほどき、本当に脱ぎ始めてしまうのでは?それは酒に呑まれた者の末路としてありがちではあるだろう。

 

 別に誰に見せる訳でもない。見る訳でもない。私とて見えない。本人が望んでの事。

 ……南無、南無阿弥陀仏……いや、それは許されざる事だ。止めれる私が止めねばならない事だろう。

 

 

 

 「…さて、ここらで止めておきなさい。その方が賢明だ」

 「ええ…?まだ、だいじょーぶですよぉ、ほらまだ残って、ますよ?もっらいないですよ?」

 「いやもうかなり呂律が……ああ、わかったその分は私が呑むからまい子は部屋に戻って…」

 「おそばにいてはダメですか…」

 「………」

 

 酔っぱらいとは、如何なる時も厄介なものだ…当人に悪意がないのがまた厄介この上ない。酔った事で感情の制御が出来なく本意かどうかも危ういが、声が、泣きそうな哀しそうな声を聞かされれば…ひるんでしまう。

 

 …確かに酔っている。一度眠りについてしまえばこの記憶があるかどうかも怪しい。

 だが確かに明確に何か悪事を働いた訳でも失態をした訳でもないのだ。着物も…多少乱れはしているだろうが着ている。ならば共にいる事は構わないのでは…?

 

 …自身に対して言い訳をし始めるのは、よくない傾向だろう。

 だが、反論の言葉が思い付かず、改めて髪を撫でる手も止める気が起きなかった。

 

 

 「…あまり、無茶はしないよう…」

 「はぁい。あ、空になってますねぇ、でもだいじょーぶですよ、あたためましたから!」

 「ああ、すまない…」

 

 私の呑み干したお猪口を見付け、差し出してきたそれを受け取ればこぼさないように注いでくれる。一応手元はしっかりしているように思えるのだが口調がかなり危ういからな…

 こぼせばそれを理由に咎めれるというのに淵より少なく注がれたそれを口に含めばほんのわずかな違和感。ん…?

 

 「何だ?何か違和感が…」

 「はぇ?おいしくない、れすか?」

 「いやそうでは……」

 「おいしいれすよ?」

 

 味が悪くなった訳ではない。むしろ辛味が増えなめらかさは増し、呑みやすさは損なわれるどころか増している。そうではなく……あっ。

   

 「…少し温度が上がったか…?」

 「ほ?……んん?…そうれすかね…?」

 「…あっ、もう呑むのは止めておきなさいと言ったろう?」

 「らいりょーぶ、れすから…」

 「いやもう全く大丈夫ではない!ほらもう呑むのは駄目だと……嗚呼…」

 

 もう聞き取るにもかなり厳しくなってきたというのにまい子の手にはいつの間に注いだのか酒が入ったお猪口が収まっていた。

 そして今の動いた音からして一気に流し込んだな。しかも今の会話の流れとして二杯目だろう…

 

 ああ、もう駄目だ。泥酔している者の言葉は信用してはいけない。止めれると思った最初期に止めておけば良か…

 

 

 唇に濡れたものを押し付けられる。

 

 それからぬめりのある熱いものが開けるよう触れに来たあと、水分が伝う。口の端を取り込めなかった水が流れ落ちる。

 

 

 ………は…?

 

 

 「そ、れした…ぎょめしゃまが、のむんれすよね…」

 「……」

 

 何事、かと一瞬理解出来なかった。いや、行為は出来てはいたが行動が理解出来なかった。しかし。

 

 …ああ、そうか。私が全て呑むと宣言したそれを守ろうとしてくれたのか。やはり酔ってはいるが頭は動いて約束を果たそうとしてくれたのだ。

 呑もうとしたそれを、口移しとして。

 

 

 ……南無三ッ!

 

 

 「嗚呼、なんと!まぁ…!……?……む?」

 

 言いようのない感情が激しく渦巻く。私とて今現在決して平常ではないのだぞ…こうして想定外の出来事を、平然と受け入れるにはまだまだ修行が足りない。そも、この平穏はどんな時でも私ならば壊せるのだから。

 だがそれはいけない、本意でない、あってはいけない。酒に呑まれてはいけない、強くあらねば。

 

 なんだか楽しそうな笑い声に艶やかさを聞き交じる気がして払い除けるよう頭を抱え、口端の伝った水滴を親指で拭い……唇の妙な熱さに気付く。

 

 …?唇だけがなぜ熱い?指が冷たい訳ではないだろう、体全体の体温は酒を呑んだ事で上がってはいる筈だが…右手で左手に触れてもよくわからない。少しひりつくような…何だ?

 いやそれより唇に触れてきた存在、まい子を確かめるのが先決だろう。まさかそんな体温に違いがあるとは思えないが。

 

 右手で常のように包み込もうと伸ばし触れ…

 

 「ッ!?」

 

 想像を越えた、あまりの熱さに驚き手を反射的に引っ込める。なんだこの熱さは!?高熱の熱さなどではない、これは熱湯に触れたかのような……

 

 「…なん、だ?私が酔っているから勘違いしているのか?」

 「ほぇぁ…?なぁに、れす…?」

 「いや…確かに熱い。まるで煮えた油…甘めに見たとして少なくとも沸騰しきった湯ほどは…」

 

 改めて両頬に触れる。こんな異常が起きているというのに当の本人は大人しく私の手に包まれ続けており何も不思議に感じていないようだ…その温度は、私でなければ火傷はまぬがれないほどのもの。

 いや…比較しているからだ、まい子の体温の異常さに引っ張られてはいけない。私も高くなっている。それも一般的な体温より遥かに高い。

 

 なんだ、なぜ?いや…すぐに結論の出ないだろう理由を考えるよりまず安全と体調を確認せねば。

 

 

 




 ─ 後編に続く


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拾参話 美味しいお酒を呑むようです(後編)

 

 

 「……?…りょうめ、ひゃま…?」

 「誰なんだそれは。…いやそうではない、大丈夫なのか。体は辛くないか」

 「ふぁい…へーきれ……、あの…くちづけ、しないの…?」

 「……し、然るべき際に、する」

 「??ふぁ、い…?」

 

 両頬を挟み、上を向かせたこの体勢ならではの質疑をされ…心を乱してくるそれらから今だけ目を逸らそう。それどころの話ではないのだから、何とかしなければならない。この熱はこのまま何でもないと放っておくわけにはいかない。

 取り敢えずこの高温…衣服が燃える事は無いだろうが、床などは危ない、良くて焦げ跡がつきそうだ。取り敢えず……そうだな、私が抱えておくのが今考えれる一番だろう。

 

 「あ、れ?なんれす…?」

 

 無防備なまい子をそのまま抱え、胡座をかいた膝の上に乗せる。まだ…待っていた可能性は目をつぶる事にする。そしてもっと体温が上がった場合は…その時は、改めてまた考える。

 

 「何でもない、眠いのではないか?構わない寝てしまいなさい」

 「ん~?…ぁっ、なぁん、なぁ…にゃんた…」

 「!おっと!」

 

 突如始まった猫の物真似に何事かと思えば、どうやらどの猫かが寄ってきていたようだった。慌てて避ける為に庭先に飛び出し、木を経緯して屋根に飛び上がる。

 一人ならば直接行けたろうが、手の中には今は何より動かしてはいけない存在がいる為に仕方ない。瓦屋根の上で、再び胡座をかいて彼女を乗せる。重みで崩れたりはしないだろう。

 

 

 「ふぇあ……あ、おつきしゃま、ら、きれーですねぇ…」

 「そうだな、距離も近くなった」

 「ふふ、あついれすねぇ」

 「…大丈夫だ、もし熱が益々高くなれば共に川へゆき飛び込もう。川の水が蒸発しようとも私がついている、大丈夫だ」

 

 恐らく縁側では猫が困っているだろう、突如主人達の姿が消えたのだから。しかし…この熱を持つ彼女に猫を触れさせ火傷などさせる訳にはいかない。

 

 …もしかして猫が逃げなかったのは暖かな体が心地よく、いなくなったのは熱さに耐えきれなくなったからだろうか。

 ……ならば、いや、可能性として考えてはいたが…

 

 「原因は酒か、温める為の装置かどちらかだな…後日確認せねば」

 「なにが、れす…?」

 「酒が抜けるまで、取り敢えず待つかという話だ」

 

 ほぇん、と。もはや言葉なのかすらわからぬ言葉を呟き、私の胸元にもたれ掛かるまい子。散々言ってきたがようやく眠くなってきたのかもしれない。就寝準備は…今の状態では諸々出来る訳がない、諦め朝を迎えるまで待とう。

 

 眠りにつくならば、移動する訳にはいかないな。それにここならば高温の被害は出ないだろう…私は眠れない。ならば朝まで少々思考を巡らせる事にしよう。

 

 彼女の方が熱が高い理由や、今度の身の振り方や最悪の想定。そもそもなぜこんな事になったのか等。結論の出ない思考回路は酔いの上で何度も何度も、堂々と巡っていった。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 目が覚めた時、いつもの見慣れた天井がひどくいびつに歪んでいる事に驚いた。

 何事かと飛び起きようとしたけれど体が妙に重く、頭が揺れて……歪みはひどい眩暈のせいだと数分後に気付く。なにこれ…

 

 胸元に粘りつくようなものすごい吐き気がするし、頭はずきずき割れそうに痛い…首に触れれば熱いようなそうでもないような…まさか風邪?けれど咳は出ない。

 

 あれ。いや、そもそも昨日の記憶が…

 

 「ぅ、あ……」

 「目覚めたか、存外に早かったな」

 

 倦怠感で重たい体を持ち上げようにも録に動かず、背中に根が生えたみたい。それでも呻き声をあげながら起き上がろうと奮励(ふんれい)していれば襖が開き、手に湯呑みの乗ったお盆を持った行冥様が現れる。

 なんて丁度の、情けない姿を見せる瞬間に現れたのだろう。いやもう陽は高くまで上がっているようだし、私が寝過ごしたせいでなっただけだ。ああ、情けない。

 

 「お、はようございま…す、行冥様…」

 「うむ、おはよう。調子はどうだ声を聞く限りあまり良くはなさそうだが」

 「あ゛、い……すみませ…」

 「ああ、辛いならば横になっていなさい」

 

 彼の手を借り何とか上半身を起こし、布団の上に座る。そのまま額や首筋に触れられ、何かを確認される。

 

 「ふむ…まだ体温としては少々高いが…お湯レベルまで下がったな。まだ少し酒の臭いが残っているからか」

 「体温…?……ああ、お酒……昨夜飲酒をしたんでしたっけ…」

 

 彼の低い声が心地良い。大きな声を出したり騒いだりしないから体に響かない。今の私に高音の騒音なんて毒以外の何者でもないのだから。なんでこんなに悪いのかは……そうだ、風邪ではなくお酒を呑んだからか。

 この不調は…副作用というか、いわゆるあれですか。…頭が痛くて、気持ち悪くて…体もギシギシとなんだか痛い、これは。

 

 「これ、二日酔い…ですか」

 「恐らくそうだろう、まだ酒の成分が抜けきっていない。取り敢えず水分をとった方がいい、水を持ってきたから飲みなさい」

 「何から何まで、すみません…」

 

 差し出された湯飲みを受け取り喉に流し込む。ああ、乾ききった体に水分が染み込んでいく。それでも気持ち悪いのは治らないけど…仕方ない。仕方無さすぎる。

 

 こんなに迷惑を…と思うが、それをハッキリ言える記憶がない。記憶がないからこそ迷惑をかけた事はわかるが。

 縁側で楽しく呑んでいた記憶はあるけど途中から全く…何も覚えていない。ここに来た記憶もない。着物から寝間着に着替えた記憶も布団に来た記憶もない。

 だとすれば、まさか全部…?記憶を飛ばした中でキチンと出来た訳が……ああ、かなりの迷惑を、恥ずかしすぎて身悶えるけれど具合が最悪で動けない。

 

 「うぅぅ…気持ち悪い」

 「嘔吐した方が楽になるが、するか?」

 「いえ、あの息が止まるのが怖いので…大丈夫です…」

 「そうか…熱も下がってきたようだし、単なる二日酔いだとは思うが…もし何らかの不調が続くようならば例の薬も検討せねばな」

 「うう、すみません…けれど使わなくて大丈夫ですよ…」

 

 こんな事になったのは、頭が痛いのも眩暈がするのも吐き気がするのも全部自業自得。あの薬を飲めば綺麗さっぱり、すぐにでも治りそうだけれどもそれは駄目だろう。

 あれは命に関わるような大怪我をした時などに使うべきだ。二日酔いなんか治すために使うものじゃない。間違いない。

 

 「まぁ、辛くなったら言いなさい。後片付けも私がしておいたから気にしなくて良い」

 「うぅぅ…何から何まで本当に頭が上がりません…!」

 

 ああ、やっぱり…!それが、その事が本当に申し訳なくて、両手で顔を覆いうつむくしか出来ない。彼に何もかも、全部任せて私はだらしなく寝ていたなんて、それも二日酔いなんてひどい結果で。

 

 これは初めてなのに調子に乗って呑みすぎた罰だ、私より多く呑んだろうに平然としている行冥様は自分の限界をわかっていて、それを越えなかったから他ない。

 なんて事。こんな迷惑をかけるなんて。彼の優しさに甘えすぎている。

 

 ああ。

 

 「本当に申し訳ございません……もう、二度と呑みません…」

 「いや失敗は誰にでもある。それに最初だからまぁ仕方ない、特に大きな失敗もしていないのだから」

 「うう……あんなに美味しかったですけど、お酒はこりごりです…」

 

 確かにお酒は美味しかった。虜になりそうなほど美味しかった。

 けれどこんな情けなく恥ずかしい思いを、彼にとんでもない迷惑をかけてまで呑むものじゃない…この反省の気持ちを保たせ増幅させるために二日酔いという現象があるのかもしれない。それほどまでに……気持ち悪い。

 

 「…まぁ、当分の間はそうしなさい…私だけで確かめるから」

 「…?なんの話で?」

 「なんでもない、二日酔いのものは大人しく寝ていなさい」 

 

 私の絞り出すような声があまりに切実だったのか、少し苦笑混じりの声で優しくとがめられそして頭を軽く髪の毛を梳かすかのように撫でられる。

 

 ……なんだろう、行冥様…ひどくお疲れになられてるような。

 いやでも考えれば当然の事。確かに数日任務で出掛けていて、帰ってその日にお酒の面倒をあれこれ押し付けてしまったのだから。

 だからといって今の私の状態で出来る事は……ああ、彼の言うとおり大人しくしておくことだけだ。

 

 にゃあん、と鳴きながらすり寄りに現れた灰色のキジトラ猫を撫でながら小さく息を吐いた。その息がまだお酒の臭いたっぷりな気がして……再度今度は深く深く息を吐い……んん?

 

 

 「あれ、行冥様……今、頭…髪に、口づ…え?」

 「ああ、昨夜約束をしたからな」

 

 やく、そく……えっ。それは……。

 

 ……顔が熱い。お酒を呑んだ最初もこんな風に熱くなったのを微かに覚えている。けれど…行冥様の言う、約束とやらは一切、微塵も記憶になく…

 

 ああ、なんて事だろう!せめて、それだけでも……!せめて何を言ってそんな、なんで、どうして、どんな流れで……

 

 

 …お酒は本当に、止めておこう。深く深く…そう心に刻んだ。

 

 

 

 

 

 




 SCP-1538-JP ど燗酒

 オブジェクトクラス:safe(まぁ安全)
  
 SCP-1538-JPは電気式酒燗器、ちろり、徳利、平盃で出来たSCP。これで温められたお酒はとても美味しくなり、呑むと異常なほど体温が上がる。摂取したものに触れた物や生物はその異常な温度で、場合によっては燃える。本人は何があっても燃えない。
 酒燗器に温度設定がついており、最高温度は1600℃よりも上。
 

 お酒の種類は体温の上昇と関係ありません。ただ悲鳴嶼はお酒に強くまい子は弱かっただけです。
 あと時代的に電気式酒燗器はありません。まず電池がこの時代日本ではほぼ作られてません。なので電池があったとされる、西洋の不思議な発明とされていますが、SCP-1538-JPは日本で発明されたもののはずです、たぶん。




SCP-1538-JP http://scp-jp.wikidot.com/scp-1538-jp

著者:inemurik 様

この作品はCC BY-SA 3.0ライセンスの下に公開されています。


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拾肆話 お寿司を食べるようです(前編)

 

 

 

 「…ッ、けほっけほっ…」

 

 病院の玄関横、腰掛けれるように置かれた腰掛け椅子に座り空を見上げる。遥か遠くまで晴れ渡る青空は一昨日の夜から暴れまわった台風の気配など一切感ず、ただただ美しかった。

 

 

 今日は彼と共に町へ。折れた木々や道を埋め尽くすほどの葉をかき分け私は常のように病院へ、彼は台風で被害を受け人手が足りないだろう場所を探しに。

 正午を前にして診察が終わり、病院を後にして彼を探す。彼の風貌ならば誰に聞いてもどこにいるかわかるから。

 

 けれど見つけた彼はあちこちで忙しく働いていた。災害の被害が思ったより大きいらしく、彼という成人男性五人以上の働きをする人を引き剥がす訳にはいかない。困る人を彼が放っておける訳がない。

 だから私は大人しく、病院の前で待っておく事を伝え…座っていた。女手が必要だと言われれば手助けに行ったものの、大部分は力仕事なのだから。その分野では何を手伝おうにも体力も力も無い私では邪魔にしかならない。

 

 

 「すまない、待たせた!」

 

 彼、行冥様が必要とされる分を全て終わらせ町の人達に感謝の言葉と共に送り出され私の座る木陰に現れたのは、正午を指していた長い針が一周半ほどした時間だった。

 

 

 「いえとんでもない…お疲れ様です、行冥様」

 

 立ち上がり彼の元へ小走りで近付き、何も出来ないがせめてもの労いの言葉をかける。多くの人々を助けた大好きな手を取り、握り締めたかったけれど…出掛ける時には持っていなかった大きな荷物に阻まれる。 

 聞けば助けたお礼にと次々に店の商品や自家製の野菜など、とにかく様々な物を貰い、それも彼の大きな腕でも溢れそうなほど貰い、それらを入れるための籠も貰ったという。

 

 ずいぶんと優しさの溢れた、規模の大きい話につい笑ってしまう。感謝しながらも困っている彼の様子がおかしくてたまらない。

 私の笑い声にハの字に眉を下げながらも軽く微笑み、左手で全ての荷物を担いだ後頬を一撫で。

 

 

 「さて…遅くなったが昼食にせねばな。薬も飲まないといけないだろう?」

 「はい、そうですね……沢山頂いたそれらで、昼食を作りますか?」

 「いや、今から家に帰ってでは遅くなる…近くで何か軽く摘まむ事にしよう」

 

 そう何気なく言った行冥様の横顔を見上げる。外食する事は…なんだか申し訳ない気もするけれど、あまり拒絶するのもまた申し訳ない。これらに関して誰かの責任とは言えないのだから。

 そうして軽く摘まめる食事、軽食を探す為に歩きだす。近くに食事処はあったかな?なんだろう、甘味処とかは駄目だよね。軽いもの…お饅頭とかはもっての他だろうし、他に何が……

 

 

 「えっ」

 「どうした?」

 「いえ、あの…お寿司屋の看板が……こんな所に有ったなんて知らなくて驚いてつい声が…」

 

 街中を探し歩いていた。彼の目は不自由で、文字として書かれているそれらはわからないのだから私が見るしかない。私に合わせてゆっくりと歩いてくれる彼の隣でキョロキョロと適当な場所を探していた。

 そうして見付けた、道の隅に置かれた小さな看板の存在。宣伝するにはいささか控えめなそれの存在を。

 

 「寿司…そうか、軽く摘まむには丁度良い。こちらにしよう」

 「えっ、宜しいですか?他にも何かあると思いますが…」

 「構わない。さあ早く食してしまわねば陽が暮れてしまうぞ」

 

 その寿司屋は大きな建物に挟まれた、いわゆる路地裏の中に存在していた。大きな宣伝も評判も聞き入れた事のない、今の今まで存在すら気付いてなかった店。

 その店で本当に良かったのか確認をしようにも、時間に追われるように彼は私の背中を支えながら言ってくる。恐らく薬を飲めていない私を心配しての事だろうと思うけれど……ああ、本当に申し訳ない。

 

 

 そうして彼に軽く背を押されるまま路地裏を進み表通りで確認した、寿司屋の看板を発見する。

 外見では到底お寿司屋とは思えない、極々普通の家屋のようで、飾られた暖簾にお寿司屋の名前さえなければ素通りしてもおかしくないほどの……うん、隠れた名店のようだった。

 

 「では失礼し……む?」

 

 行冥様が暖簾を手で押し退け、入り口の扉を開き屈んで入ろうとしたその時、上空から鎹鴉が建物の隙間を縫いながら降りてきて、大声で鳴きながら彼の肩先に留まる。

 どうやら急ぎなのか、彼に伝えなければならない事があるらしい。行冥様の肩の上で大きく羽ばたきながら大声で…伝令だと伝えている。もしかしたらそのまま任務へと行ってしまうだろうか。

 

 「嗚呼……そうか、すまない、先に入っていてくれないか。終わったらすぐに後に続くから」

 「ぁ、はい。畏まりました…」

 

 その場で待つ事は出来た。お昼の時間はとっくに過ぎてはいるものの激しい空腹などを感じる事はなく、ほんの数分の待機など苦でもなかったから。

 しかし柱に対する伝令とやらは第三者、鬼殺隊でもない人が聞いて良いものなのか判断できず…大人しく彼の指示する通りに従うのが正解なのだろうと一も二もなく頷いた。

 

 

 そしてそのまま、鴉と話を始めた彼に背を向け一軒家に見える店の玄関扉を開いて、中へと入る。

 

 暖簾をくぐり中へと入った私を迎えたのは極々普通の店内だった。

 清潔な店内、壁に飾られたお寿司の名前の品々、一人の定員…お寿司屋だから大将だろうか。大将の前に置かれたお寿司のネタとしての品々と様々な商品。

 お客は私以外誰もいなかったものの昼食時をとっくに過ぎた時間帯的に仕方ないだろう。もう少し早ければ賑わっていたかもしれないのだから。

 

 

 『いらっしゃい!こちらへどうぞお嬢さん!』

 

 とりあえず店内を軽く見渡していれば景気のいい声かけに呼ばれ、招かれた、大将の目の前に置かれた一つの椅子に腰掛ける。

 屋台ではなく、立ち食いでもない、座れるお寿司屋なんて珍しいと思いつつ…目の前にいるにこやかな大将を見る。

 

 年頃は、五十代だろうか。お寿司屋特有の紙で出来ているような帽子を被ってはいるものの毛根の薄さが垣間見える。それでも優しそうな笑顔で初めて入る店内への緊張感が少しずつほぐれていく。

 胸元に飾られた木の板からして名前は西行(さいぎょう)さん…なのかな。

 

 『いらっしゃい、お一人様ですかい?もう一人声が聞こえたようでしたが』

 「いえ彼は…外で少しお仕事のお話をしています」

 『ああなるほど、ならどうしやしょうお待ちになりますかい?』

 「そうですね、そんなに時間はかからないと思いますので…あ、お茶だけいただけますか」

 『へい、少々お待ちを!』

 

 鴉と話し終えた行冥様がどう動くのかわからない。何かしらの報告を聞くだけかもしれないし、すぐにどこかへ召集されるかもしれない。だから…考えるだけ無駄。そうなってしまったなら仕方ない、その可能性の為に隊服を着ているのだから。

 けれどいくらその可能性が高いとはいえ結果が出る前に食事をするのは流石にはばかられる。だから壁のお品書きの中にあるお茶を一つ注文する。

 

 そして出された熱々のお茶を両手で抱え込み、少し冷ますために息を吹きかける。火傷しないだろう温度まで冷ませたと判断し、飲んだお茶はとても美味しかった。

 自覚はなかったけれど随分喉が乾いていたらしい、体の隅々まで行き渡るみたい。

 

 

 「失礼する…」

 『へい、らっしゃ…うぉッ!?…なんて大きさ…!?』

 

 三口目を飲もうと口元に近付けた時、扉が開かれ彼が屈んで入ってきた。

 その姿を見ての大将さんが熊か何かを見たかのような驚きの声を上げた事が少し新鮮だった。町の人は行冥様の大きさに慣れているから…あ、となると最近ここらに越してきて店を構えたのかな。

 

 「お疲れ様です、どうでしたか?」

 「うむ、大丈夫だ。報告は受けたがひとまず待機との事らしいからな」

 「了解しました。あ、椅子がありますのでどうぞこちらへ」

 

 簡単な連絡を受け取り、良くある立ち食いではない事をひとまず先に伝えて椅子を軽く動かして存在を教える。けれど行冥様は…ああ、やはり。

 荷物を邪魔にならない位置に置いたあと、床と椅子の高さが身長と…特に足の長さが合わなくて苦労している。しっくりくる置き方が定まらず何度も何度もやり直して…寛大な行冥様にはあらゆるものが少し大きすぎるから仕方ないのだろうけれど。

 

 

 『いやぁ大きいですね旦那、あたしぁ驚きすぎて腰が抜けてしまうかと思いやした』

 「む?そうか、申し訳ない…」

 『いやあたしが勝手に…ああ、泣かないでくださいな!』

 「……そうですよねぇ」

 

 つい納得の言葉を小さく呟いてしまう。なんだか日常になりすぎてて忘れてた事実を改めて突き付けられた気がする。

 

 彼にもお茶を出しながら言った大将の軽口にほろほろと涙をこぼしていく行冥様。その反応に…熊のように大きな体躯のいい男性が自らの言葉で涙を流し始めたら当然に動揺するだろう。しない方が奇妙だ。

 行冥様が大きいのも涙もろいのも…改めて何も知らない第三者から見ると驚くべき事だよなぁ、うん。そんな事を忘れれるくらい共にいれるのはなんと幸せな事なのだろうか。

 

 『ああ、いや、すいやせんあたしが余計な事を言ったばかりに…』

 「いやこちらこそ、申し訳ない…」

 「私が言うのも奇妙な話ですが、この人少し涙もろいので…そんなにお気になさらず…」

 『いーや、あたしの失態に違いない。いつまでも注文させれないのもあたしが悪い。だから始めのネタはお詫びって事で二人分無料で振る舞わせてくだせぇ!』

 

 きっぱりと言い放った大将。私も彼も数秒返す反応が遅れてしまった。えっ、いやそれは…

 

 「そんな、流石にそこまでしてもらうのは…」

 『いや男が言った事を下げるわけにはいかねぇ、ここはお詫びと言ったあたしの謝罪の顔を立ててくれやせんかね』

 「…そう、か。南無…」

 「…??」

 

 そして私が戸惑っている間によくわからないけれど、ちゃんと双方納得の上着地をしたらしい。何があったのか聞きたかったけれど、それをするのはなんだか野暮に思えて何も言えなかった。

 その代わりに大将と見合っていた行冥様が私の方を向き、困ったように微笑んでいた。

 

 「では…何か一つ頂こう。まい子の好きなものを頼みなさい、私も同じものを頂くから」

 「ぇ…あ、はい。そうですね」

 

 行冥様の目ではお品書きが見えない。適当に何かしらのネタを言えば当たるかもしれないがお詫び…?とやらの上、一か八かは気が引けたのかもしれない。

 だから私が頼んだものと……うーん、何が良いだろう?あまり高いのは申し訳ないし……キョロキョロと見渡し、とりあえず目についたそれに決める。

 

 「では、玉子宜しいですか?」

 『へいっ、よろこんで!』

 

 色んなお魚、ネタがあれどどれが何なのかわからない。山育ちだし、違いがよく…ああ、なんて頼りにならない人なんだろうか私は。とりあえずその中でも確実にわかるものを頼んでみる。冒険心なんてものはない。

 大将がお寿司を握っていく、流石に職人手際が良い。あっという間に一貫握りあげて行冥様の前に置く。それを私にくれようとした行冥様を大将は止め、私の前にもお寿司を置く。けれど、それは。

 

 「あれ?…二つですか?」

 『普通の寿司だとお嬢さんは食べ辛いでしょう、半分の大きさにして二つにしてやすんでどうぞ』

 「ありがとうございます、確かに食べやすいですね」

 

 普通のお寿司の大きさはおにぎりのような大きさなのに、私の前に置かれたそれは確かに半分に分け二つにしたほどの小さなもの。これなら一口で食べれるし、とてもありがたい。

 行冥様は…うん、お寿司を一口で食べてる。すごいなぁ、大きな口だ。大きな口じゃないけど、私も一口で食べよう。

 

 「…ん!……美味しい、何だか玉子とは違う深い味がします!」

 『ありがとうございやす、あたし特製の出汁が入ってるんでね』

 「南無美味い…」

 『そいつぁ良かった。…ところで旦那、気になってたんですがね…数珠といい羽織の文字といい……僧だったりしやすか?』

 「…以前、そうだった。今は別の職についている」

 『ああ、なるほど!いやね、あたしの実家も寺なんですよ。あたしはこうして生臭職業に就いちまった事で勘当されたまったんですがね』

 「なんと、まぁ…」

 

 美味しいお寿司を食べて涙を流し、大将の過去を聞き近しい関係で涙を流し、相容れなかった親子関係で涙を流し…大丈夫かな。私は慣れているけど大将かなり困惑している。楽しい会話として話し始めただろうけど…

 もう一つのお寿司を食べている間に行われたその状態をなんとかしようにも口の中は塞がれて何も言えなかった。美味しく頂き飲み込んだ時には何となし、ふわりと会話は終わっていた。乗り遅れた。

 

 

 『えっと…次は何を握りやすか?あたしのオススメとしてはコハダやアジ、鯛などがありやすが』

 「ふむ、では私は鯛を。まい子はどうする?」

 「ではアジを一つ」

 『へいっ、鯛とアジですね!』

 

 良かった、オススメをしてくれるなら安心してそれを…ほとんど食べた事がない海の魚に挑戦してみよう。魚は玉子とは違ってワサビを入れる、辛いものは少し苦手だけどきっと美味しいお寿司だもの、きっと大丈夫。

 

 …ん?大将が握っているお寿司の中に、ワサビと共に何か細かいものを一緒にいれている?何だろう、隠し味?だとしたらあまり見てはいけないかな…

 

 「薬を飲むのは食後だけで良かったのか…?」

 「はい、食前の分は体調の具合を見て再び飲むかどうか決めると言っ…」

 

 

 『うおおおおおおおおおおおお!!!』

 

 「「!?!!」」

 

 大将から目をそらし隣で窮屈そうに座っている行冥様の横顔を何となく見上げていれば視線を感じたからか、思い付いたからか私を見下ろし聞いてくる。

 そして何気なく食前の薬は無くなった事の会話をしていれば、突如として獣のうなり声に似た大きな咆哮が店内に響き渡り、驚きで体が一寸ほど浮いた気がする。

 

 何事かと声の主を見れば…大将、西行さんが声の限りとばかりに張り上げて……寿司を握っていた。

 

 

 『美味くなれ!!美味しく食われるんだ!!!それがお前ら寿司としての幸せだ!!うおおおお!!!美味く!もっと!!もっとだ!!!!』

 

 

 「……」

 

 鬼気迫る形相で、寿司を握るその姿が少し……いや、かなり恐ろしくて行冥様の腕を抱え込むように握りしめた。邪魔でしかないだろうその行為を止める事が出来なかった。

 彼の方こそ見えない分私より何が起きているのか理解出来なかったろう。突如乱心し始めた店主に私以上に困惑しただろう。

 けれど変わりないかのように落ち着いたまま、励ますようにもう片方の手で肩を優しく抱いてくれた。

 

 

 その妙な…まるで儀式かのようなそれは数分にも渡って続き。

 

 

 『へい、お待ち!鯛の握りです』

 

 終わった後何事もなかったかのように行冥様の前に鯛のお寿司を一貫、自信満々で差し出してきた。

 呆気にとられている私達の様子に気付いていないのかそのままの流れて酢飯をとり、ワサビを塗り、アジを持ち……

 

 『うおおおお!!!美味しく、美味しくなれ!!!!!』

 

 再びお寿司へ闘魂注入をやり始めた。

 

 ……えっ、なにこれ。何事?…夢?

 

 

 

 

 ** SCP-571-JP **

 

 

 

 




 ─ 後編に続く


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拾肆話 お寿司を食べるようです(後編)

 

 「…ぁ、え、行冥様…」

 「…南無……どうしたものか…」

 「か、帰ります…?」

 「……その、恐ろしいか?」

 

 何度も何度も頷いた。相手が近くにいるのに口には出せないから…けれどそれでは見えない彼ではわからないだろうと腕を強く胸元へ強く握り込んだ。

 なんとも複雑そうな顔をする行冥様。いや、わかりますよ?特に何をされた訳ではない。言葉からして精一杯の美味しさへの願いに感じはする。けれどこんな……なんとも、なんとも表現出来ない恐怖が…!

 

 そうこうしている間に時間が経ち…

 

 『へい、アジお待たせしやした!…おや、鯛まだ食べてなかったんですかい?』

 

 私が注文した分のお寿司も終わったらしい。出されたそれは…特に見た目では何もおかしい所のない普通の美味しそうなお寿司だった。あんな事をされなければ見なければすぐにぱくりと食べていたろう。

 すごく、すごく美味しそうではある。実際先ほどの玉子寿司は美味しかったしこれも美味しいのだろうけれども…どうしよう怖すぎて食べたくない……

 

 それほどまでにあの意味不明な行為が何なのかわからない…何か、例えば呪いだとか、毒かなんか盛るのを誤魔化してい…!!

 そういえば何か妙なものをネタとシャリの間にワサビと共に入れていた…!?まさか!?いや、しかしっ!?

 

 

 「行め…えっ」

 

 心が激しく、勝手な思い込みによって動揺していた。理解出来ないそれに対し、何らかの理由を付けようとすればどうしても不穏なものが思い浮かんでしまう。

 だから浮かんだその発想をどうにかしたかった。彼と事実の共有をしあい、大将に訊ねるだけの勇気がほしかった。だから彼の顔を再度見ようと見上げれば。

 

 いつの間にかお寿司をつかみ、今にも食べようとしている行冥様の姿が目に入る。

 

 「えええっ、ちょっと、た、食べるのですか!?」

 「?注文したのだから、食べねば。残すなど勿体ないだろう?」

 「しかし、あの…」

 

 そうだ行冥様は知らないんだ。ワサビと共に入れられた謎の物体の有無を。大将の錯乱状態にしか見えないあれを聞いていただけでただの、何でもないお寿司だと思っているから食べようと…

 けれど駄目だ。もう大将が近くにいるから言えないなんて言ってられない。私が見たもの全て伝えなければ。

 

 「あの、え、得体の知れない練り物みたいものを、ワサビと共に挟んでいたのです…だから、その…」

 「……大丈夫だ」

 

 困ったように眉をハの字に変えながら微笑んでくる行冥様。安心なさいとばかりに言おうとしている表情。何に安心しろと言うのだろう。

 謎の物体は毒などではないから安心しろという事か。それとも…丈夫な体だからちょっとやそっとの毒では大丈夫だからという事?

 

 「あっ」

 

 そうこうしている内に彼はぱくりと食べてしまった。咀嚼する彼を私はアワアワしながら見る事しか出来ない。止めれなかった、力では止めれないのだから言葉で止めるしか出来なかったのに。

 喉仏が動き、飲み込んだ事を確認しても何も言えず、ただ羽織の裾を掴む事しか出来なかった。

 

 「…ふむ、美味い。脂がとろけるようだ」

 「………」

 『ありがとうございます、湯引きをすると身が引き締まって脂も深く感じれやすから』

 「大丈夫だ、美味かったから。何も異変はない」

 

 大慌てだった私を落ち着かせる為か優しく頭を、髪を撫でられる。苦痛の欠片もない穏やかな表情で見下ろしてきて……私の、単なる杞憂だった?

 

 …ッ!だとしたら!そうだったならかなりかなり、恥ずかしく、とてつもなく申し訳ない!うつむいて両手で顔を覆う。ああ、穴があったら入りたい!

 一人でバタバタし始めたそれに困惑しただろう行冥様の声が遥か上から聞こえる。ああ、情けない、謝罪しなければ。勝手に疑って悪人と見なした善人に。

 

 「不安なら、私が先に一つ食べるが…?」

 「…いえ、すみません頂きます」

 

 アジのお寿司を手に取り、醤油につけて食べる。…うん、爽やかな脂がたっぷりで美味しい。しつこさなんて感じさせないのは、ワサビのピリピリ感が引き締めているからだろう。

 こんなに美味しいお寿司を、ただ出しただけなのに。玉子と同じように隠し味を入れていただけだろうに私は…

 

 「…美味しいです、すごくすごく…」

 『そうですかい、それは良かった!』

 「……あの、すみません私かなり失礼な事を…」

 「!…まい子」

 

 黙ってやり過ごす訳にはいかなかった。私達がコソコソと怪しい会話をしていたのは聞こえていただろうし、自己満足にしかならないだろうけれど謝罪をしたかった。

 行冥様だけは私が何を考え、何を言おうとしているのかわかっているから止めようと…けれど、彼を何気なく傷付けたと謝罪する優しい人を疑った私はひどい人だから。

 

 

 「私、何か怪しいものを入れてると思って食べるのを躊躇しました…彼が食べて、毒じゃないと毒味をさせてからじゃないと食べれないと…」

 『ええ?……ああ、はいはい。これですかい。なるほど……そんな事わざわざ言って自らを下げなくて黙っとけば良かったのに』

 「すみません、貴方にとっても聞きたくなかったですね…」

 『良いのにそんな。それに当たらずとも遠からずってやつだしねぇ』

 

 私の下げた頭を何度も上げるように言ってくる大将。信じてないのか、大したことないとばかりに寧ろ笑い飛ばされる。

 

 『こちら。まぁ、詳しい材料は秘密ですが、一つにトラフグの肝が入ってやすからね』

 

 ニコニコと人の良さそうな顔で言ってき……え?……。

 

 

 ……え?

 

 「……えっ、肝?フグの肝?」

 「……猛毒では、ないだろうか。それは」

 『へぇ。そうでさあ。しかし何度も食べてるあたしは生きてる、お客さん達も生きてる。何より寿司の味はグンッと美味しくなる、良いことずくめじゃあありやせんか』

 「………」

 

 ……自分の想定外…いや、想定外なのかどうかは怪しいけど。

 勝手に毒だと思って、疑って、違ったと思って、でも違っていなくて、でもその毒は食べても死なず美味しくするために入れられてて…

 

 …駄目だぁ、理解の許容範囲を越えすぎてて頭痛い。薬飲まなきゃ、ああ、でもそれならもう少しお腹に入れないと。なら、またあれを見るのかな。

 

 

 

 * 

 

 

 

 その後、数回あの謎の行動を見た。何度見てもあれは怖かった。先に食べ終わり行冥様が食べ摘まむそれを、もらったお冷やと薬と共に飲みながら見ても…うん、怖かった。

 その行為が何なのか訊ねて見たけれども美味しくするためのもの、との事で結局よくわからなくて怖い。でも…味はどれを食べても美味しかった。

 

 食事も終え、店から出た後行冥様と顔を見合わせる。多分思ってる事はそう遠くはないはず。

 

 

 「…美味しかったですね、すごく…」

 「そうだな、値段も良心的だった…また食べに来よう」

 「はい。あの…あれにも慣れれば気にならなくなるかもしれませんし!…いえ、やはり厳しい、かも、しれませんが」

 「……そうだな、南無…」

 

 

 

 




 SCP-571-JP ニギリ・オブ・ザ・デッド

 オブジェクトクラス:Euclid(知性があるから)

 SCP-571-JPは53歳の日本人男性の西行 ██。寿司屋。ワサビと共にトワフグの肝、カシワの根の煮汁、三酸化二ヒ素を入れて握る。5分ほど叫びながら上下に振る。
 そうしてSCP-571-JPの握ったお寿司は命が吹き込まれ、美味しい状態を保つために努力をはじめ、食べられずに美味しくなくなってしまった場合自らゴミ箱に飛び込むか、無理やり口の中に飛び込むようになる。

 
 


SCP-571-JP http://scp-jp.wikidot.com/scp-571-jp

著者:tokage-otoko 様

この作品はCC BY-SA 3.0ライセンスの下に公開されています。


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拾伍話 同じ姿の人間のようです(前編)

オリ主の過去話、簡略版。

・山付近の小さな集落の外れに両親、姉、赤子の弟と住んでいた。
・体が生まれつき弱く10歳の時入院をして、家に戻った時両親は殺され姉弟はいなくなっていた。
・16歳になるまで女中としてなんとか働いていたが鬼による、とある事件に巻き込まれる。
・その事件で悲鳴嶼と会い、助けられる。その際顔に傷を負わせられる。
・鬼殺隊に入りたいと願っていたが、人より遥かに弱い体では隊士や隠に入る同じ土俵にすら立てなかった。


 

 

 小さく細い指が私の右腕の上を滑る。その後も何度も皮膚の表面に触れるような動きを繰り返し、最後に少しだけ引っ張った動きを最後に…うむ、どうやら包帯を巻き終えたようだ。

 

 「これで…どうでしょう、キツい所は無いですか?」

 「大丈夫だありがとう」

 

 鬼との交戦中に付いた腕の傷。それはさほど大きなものではなくすぐに塞がるだろうと軽い手当てだけをして、家へと戻る事を私は優先した。

 だが彼女の目に映ったそれはかなりのものだったらしい、息を飲むような悲鳴を小さくあげた後救急箱を持ってきて、悲惨な声と共に治療を施される。巻かれたそれには……痛みより、心苦しい優しさを感じる。

 

 嗚呼、申し訳ない。苦しめたかった訳でも哀しませたかった訳でもないというのに。私を気遣う声色の揺らぎも、湿気も、手の震えも……哀れで儚く、なんとも愛おしい。

 胸の奥からなんとも言えない感情が噴き出してくる。その恐ろしくも浅ましいそれを心のまま打ち明けたとて…彼女は受け止めてくれるだろうか。私の心を、全て、全て。

 

 

 だから腕に乗る小さな手を反対の手で掴み。

 

 「すまなかった。私としては傷の手当てより、早く、何よりまい子の元へ戻りた…く……」

 

 私の心のまま、今のまま、思う限り伝えようとしていた。そう、して、いた。

 ……だから、握っていた手の中のそれが、小さく細く儚げなそれが。

 

 

 「……は?」

 

 

 突如として霧のように無くなり、手の中の温度も存在も温度も吐息も、全て消え失せてしまったそれは、何なのだろう。

 数秒後どれだけ名前を呼ぼうとも手を伸ばして探そうとも彼女の存在は無く。

 

 

 まるで瞬間的に移動したかのように、部屋から、家から…いなくなってしまっていた。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 「……えっ?」

 

 瞬きをするほどのわずかな時間、私は意識を飛ばしていた。何が何だかわからなくなり、ぼんやりと揺らぎ、数秒後シャボン玉の膜が割れたかのごとく気が付いた。

 

 目が覚めたその瞬間から辺りを見渡す。自身の記憶を補う為に、ハッキリしないそれをキチンと埋める為に。

 

 

 …ここは、どこ?私は家にいたはずなのに…

 

 

 辺りを見渡しても理解が追い付かなかった。私は家にいたはず。そして、そして彼の治療をして……、あれ、ん?

 

 …違うか。私は…

 

 

 初めからこの場所に来ていたんだ。家になんておらず、この、場所の上に。

 

 

 

 そうだ、そう。何を勘違いしていたのだろう。私は初めからここにいた。

 

 この……"橋の上"に。

 

 

 

 

 ** SCP-473-JP **

 

 

 

 

 

 なぜかボンヤリしていた意識から目覚めれば辺りの景色がハッキリ見えてくる。

 そうだ、ここは木製の橋の上。何もおかしな事はない。その感情のまま橋の欄干、下を見下ろせる手すりへと手をかけ見下ろしてみる。下にあるのは揺らめく青だの透明だのの色のみ。

 

 「ひゃあ…高ぁ…!」

 

 とんでもない高さについ声が漏れる。遥か下にある水面までの距離は八間(14.5m)は楽にあるだろう。こんなに高いと下が水でも助からないかな。泳ぐ事は出来なくはないけど、着物のまま飛び込む事になれば重くて無理だろうなあ。沈んでしまう。

 と、いうか…これって海だよね。海かぁ……初めて見た…海って本当にこんなに大きいんだ、端が見えない。水平線なんて初めて見た…大きな生物とかいるんだろうなぁ。行冥様より大きな生き物はどれくらいいるだろう?

 

 それに香るこれが潮の匂いとやらかな。海は青いって聞いてたけど色んな色が反射して白かったり緑だったりと……うん、すごく綺麗。

 橋の端が片方は見えるけど、片方は見えない。見える方…大体七町(763m)くらいかな、そっちから来たんだっけ?反対側は一里(約4km)以上ありそうだし、あちらからではないだろう。

 

 うーん、魚とか見えないかな?でも八間も距離があればよほど大きくないと見えないか…それか魚以外の生き物とかが…

 

 

 『そんなに身を乗り出すと危ないよ?』

 「!」

 

 突如聞こえたその声に驚いた今が一番危なかったかもしれない。つい今しがた見渡した時には橋の上に私以外の人影なんて無かったのに、その声はすぐ後ろから聞こえてきたから。

 声色からして女、聞いた事ないはずなのにどこか知ってるようなその声の主を見る為に私は振り向いた。

 

 

 その人は五尺ほど離れた場所に立っていた。

 

 花柄の着物と羽織。

 深い赤茶の、焦げた煉瓦色の髪の毛と瞳の色。

 唇にさす紅の色は紅く、両頬にある傷は一つにまとめられた髪の毛で少し隠れている。

 

 どこかで見た事のある顔。それも、いつも見ている。いつ?

 

 

 ……あっ、そっか。鏡越しにいつもいる人だ。

 つまり私と同じ顔をしている、人。

 

 

 『はじめまして、まい子。会えて嬉しい』

 

 彼女はニコニコと笑いながら挨拶をして来た。うわぁ、動作も似ているかもしれない。口元や胸の前に手を持っていくのは自分でもわかっている癖だもの。

 声はそんなに似てないけど、もしかしたら自分の声だからわからないだけで実はそっくりなのかもしれない。

 

 「はじめまして、私に良く似た人。驚いたなぁこんなに似ている人がいるなんて」

 『そうだよね、何も知らない人が見たら双子と思っちゃうかも』

 「あっ、そうかもしれない。ふふ」

 

 私も笑えばまさに鏡写しかのようになっているだろう事が想像できた。初対面の人間なのに気安く話せるのはやっぱり姿形が似ているからだろう。何せ身長も体型もそっくりなのだから。

 

 『ねぇ、まい子…これだけ私達似ているんだもん、色んな話をしてみようよ』

 「色んな話?」

 『そう……例えば、そうだな。何か"悩み"とかある?あるなら聞くよ?』

 

 彼女は私の隣に歩いてきて、首を傾けながら訊ねてきた。悩み事?

 うーん、悩み事なんて…無い事は無い。生きていれば大小関わらずどんな悩みでも出来るのだから。けれど、私の悩みなんて……

 

 ……言う、言えるような……悩みなんて……

 

 

 『…うん、そうだよね。まずは何でもない話をしよう。悩みはその後で良い。まず今誰と住んでるの?どんな家族がいる?』

 「えっ?ぁ……。…私、は…」

 

 彼女のにこやかな笑顔とは反対に私は黙り込んでしまった。どんな言葉だろうと彼女は恐らく受け止めてくれただろうけれど…私は何も言えなかった。それは、ただ…

 それを理解したのかもしれない、違う話を聞いてくれた。家族……そう、だ。家族の話は、何も隠す事もなく、言えない事もない。

 

 「町外れの…山深い所に私は住んでます、行冥様……私をあらゆる意味で迎え入れてくれた行冥様と、四匹の可愛い猫達と共に…幸せに生きれて…」

 『山奥かぁ、こことは違って虫の声とか凄そうだね。周りには誰もいないの?』

 「うん…日中でも音が少なくて、夜になると世界に生きているのは私達家族だけかと思うくらい静かなんだ。時間になると猫達がご飯をちょうだいとねだってくる姿も、行冥様が任務や修行から戻ってくる姿を見れるのも、本当に…」

 『それが…幸せなの?』

 「……うん、幸せ。彼が、あの子達が…動いて、熱を感じれるその瞬間が何より幸せなんだ…」

 

 誰よりも高い背、頼りがいのある大きな体が…小さなあの子達に振り回される姿を見ると言葉に出来ない暖かみを感じれる。幸せだと心から言える。それを見れるのが…

 

 …それを、見る、のが……見る、だけ、なのが……

 

 

 「………」

 『まい子?大丈夫?』

 「……うん、大丈夫……」

 『…ねぇ、まい子。橋の向こうまで競争しようか!』

 「えっ…?」

 

 黙ってしまった私の肩を彼女は抱いてきた。続けようにも言葉が詰まってしまって、何も言えなくなってしまった私を彼女は横で見ていた…後に良い事を思い付いたとばかりに少し大きな声で提案してくる。

 その言葉が理解出来なくて彼女を見る。彼女は私を安心させるかのように満々の笑みでニッコリと笑って。

 

 『橋の向こうの、陸まで競争しようよ。言いたくない事も、まい子を悩ませてる悩みも、全部ぜーんぶ走るときっとスッキリするよ!』

 「走、る?」

 

 彼女のいう、競争というものは良くわからなかった。そもそも、競争なんて事やった事なかったから。

 だから興味が湧いた。やった事のないそれを、やってみたくなった。

 

 「……うん、そうだね。やってみようかな」

 『よし、決まり!じゃあこっちに走って行っての勝負だからね!準備は良い?よーい…ドンッ!』

 

 彼女の合図と共に私は走り出した。草履も履いていないは足は走り辛く、また着物では足を大きく動かす事は出来ず到底早い速度で動く事は出来なかった。

 同じ格好をしている彼女も似たようなもの、二人で全く素早くないちょこちょことした早さでの競争は始まった。

 

 

 身長も体格も何も変わらない私と彼女。色んな事を競ったとしてもさほど違いはなかっただろう。

 私と似た彼女なら毎日の料理も出来るだろう、掃除も苦にせず、猫達も可愛がれるはず。行冥様の傍にも…

 

 

 「…ひゅ、ぅっ……!」

 

 呼吸の為に吸い込んだ息は、予想外なほど大きく息を吸い込んだ。あれ、なんだろう。これ、は。

 彼女の背を追いかける。精一杯追いかけた、けども……あれ?なんだこれ、苦し…!

 

 

 その後も走り続けた。けれど時間が経つその度に呼吸はどんどん乱れて、満足に息が出来なくなってきていた。

 口の中がカラカラに乾いて、喉が大きく痙攣をしたかと思えば脇腹の痛みと心臓の痛みと肺の痛み、目の前が明暗に揺らめくそれが同時に襲ってきた。

 

 

 ……あ、ああ。そう、そう…だ。

 

 私、私は…ろくに走れるような、体力も身体も、何も持っていない。

 なのにどうして走っているのだろう。何の為に走っているのだろう。何を目指して走っているのだろう。

 

 

 ポツポツと、空から雨が降り注いでき始めているのを肌で、着物で、髪の毛で感じていた。

 

 「はぁっ、ぁ…!…はっ……!……ッ…!」

  

 ザアザアと激しく降り注いでくるのを肌で感じる頃には、私の足はほとんど動かず、走るどころか歩く事すらろくに出来ず立ち止まり地面に倒れるようにしゃがみこんだ。

 体が痙攣する。苦しくて苦しくて座る事も出来ず倒れ込み、激しく咳き込み揺れる景色をうすれる視界の中にぼんやり映す事しか出来なかった。

 

 彼女はどこまで行ったのだろう。前を向く事も出来ず、下の木の板を、何度も何度も激しく咳き込みながら見下ろす事しか出来なかった。髪の毛を伝って顔を濡らす雨が頬をたどる。まるで、涙のように。

 

 

 ああ。ああ…!!

 そうだ、私は…私はこん、な……こんな、体、だから…!

 

 

 『まい子!大丈夫?』

 

 聞こえたその声の主を見る事は、今の私の体では出来なかった。それでもその声の主は私の体を支えるように抱え、背中を大きく撫でてくれた。

 そうしている内に苦しかった呼吸は徐々に治まり、廻るような景色はまともになり……見えてきたそれは、心配するように眉を下げながら安心させるかのように微笑む彼女の姿だった。

 

 「…ぁ…どうし……ッ、ゲホッゲボッ…!」

 『大丈夫ゆっくり息をして。苦しいよね、ごめん、ごめんね…』

 

 競争なのに、先に行っていた彼女がなぜここにいるのか訊ねようにも言葉が紡げない。激しく絡み合うような咳をする私の体を彼女はゆっくり撫でて、額を私の額にくっ付けながら……謝ってくれていた。

 なぜ、彼女が謝るのだろう……何も、彼女は悪くない。私の気が晴れるだろうと提案してくれて、私はそれを受けただけで。悪いのは……ああ、そうだ。

 

 

 

 悪いのは、こんな体を持つ、私だ。

  

 

 

 




─ 中編に続く


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拾伍話 同じ姿の人間のようです(中編)

 どれくらい時間が経ったのか、まともに動けるようになった時…私も彼女も、激しい雨に打たれ続けた結果頭の先から爪先まで濡れ鼠になっていた。

 それでも走れるほどに回復する事はなく、動けるのはゆっくりと歩く事だけ。それでも彼女は構わないと私のすぐ隣で肩を貸してくれながら傍にいてくれていた。

 

 ああ、なんて情けないのだろう。恥ずかしいのだろう。嘆かわしく哀れなのだろう。

 

 

 ……そう、だ。この競争を、始める前に言えなかった感情は、これだ。

 

 

 「……私、私は…情け、ない…!」

 

 

 それは今まで誰にも、猫にも、彼…行冥様にも言えなかった言葉…悩みだった。

 

 「私の、この体…弱く、何も出来ないこの体が……本当に、駄目なんだ!…ろくに走るのも、動くのも……全集中どころか呼吸も出来ない、意味のない、体が!」

 

 雨が降り続く。髪を濡らし、顔を濡らす。頬を伝う熱い水滴は何?雨なのだろうか?目がこぼれ落ちる、雨?

 

 「家族の仇をとる事も出来ない!両親も!姉も!幼い弟も無惨に殺されたのに!一人おめおめと生き残った私も、顔や首に大きく残る傷を負わされたのに!!なのに!!」

 

 大声で叫んでいる気がしたのに、まともな呼吸器を持たない私では遠くまで届けれるような大きな声は出せない。それに声は揺らぎ、涙声はすぐ傍で落ちていた。

 

 「鬼を倒せない!斬れない!この体では隊員になる事さえ出来ない!……彼、は…行冥様はそれで、いいと…言うけれど……私、は……」

 

 頬を熱いものが伝う。声が…揺れる。

 

 

 「…行冥様が傷付けられたそれが、許せな、かった…!彼の強さを知っているのに…私が何も貢献出来ていないそれが……私が……私、自身が許せなかった…!」

 

 私の悩み、それは。

 何も出来ない、私、そのものだった。

 

 

 彼を守れない、守るにいけなくとも力になれない、家族の敵討ちすら出来ないこの弱く儚いこの体そのもの。

 家の管理を任され、猫達を相手にしている間は忘れていれた。忘れていた。

 

 けれど鬼と対峙した彼の傷を、私の"せい"で傷付いた彼の傷を見てしまえばどうしても思ってしまう。

 駄目だ、私は駄目だ。何も出来ない、何も貢献しない、何も役に立たない。

 

 隊員になって敵討ちをとる事すら出来ない。

 それどころか隊員になる出発地点に立つ事すら許されていない。

 愛しき彼の家を守ろうにもこのひ弱な体は彼を満たせず邪魔をし、足手まといになっている。

 

 

 せめて。そう、せめて。

 

 隊員になれなくとも、鬼殺隊に入れなくても…ひ弱な体さえなかったならば。

 

 

 「こんな、少し走ったくらいで倒れるような体じゃなければ…!」

 

 そんな体でなければ彼の役に立てたかもしれない。家族の敵をとれたかもしれない。誰か、失わなくとも良かった命を救えたかもしれない。こんな、私なんかの命と引き換えに。

 

 私はそう、そうだ。そうなりたかった。薬なんて必要としない、少しの距離走ったくらいで倒れる体でない、誰かを気遣えて、誰かを支えれるような人になりたかった!

 

 

 「…そ、う。そう!貴方みたいに…!」

 

 

 私を支える彼女を見る。雨に打たれ濡れ鼠になっているというのに、彼女は何も感じていかのようだった。私は雨によって体温を奪われ震え凍え、どんどん体力を無くしているというのに。

 すがり付くような私の叫びを彼女は受け止めてくれた。競争なんてもう何も出来ておらず、足は止まっている。それどころか彼女に抱きつくかのようにもたれていた。

 

 

 『…そんなに、嫌、なの?』

 「嫌…だ。彼の邪魔になる私は、本当に駄目…だから……私…」

 『……大丈夫だよ、まい子。大丈夫……。……ぁっ…』

 

 彼女は私を抱きしめて、背中をずっと撫でてくれていた。そのまま彼女の首筋に顔を埋めていれば彼女が何かを思い付いたのか、小さな声を漏らす。

 顔を上げ、彼女の顔に触れそうなほどの至近距離で見ればその近さに少し驚かれ…それでも困ったように眉を下げ、ゆっくりと微笑んでくれた。

 

 

 

 『ねぇ、まい子…そんなに辛い、なら。私が……まい子の"代わり"に…"入れ替わろう"…か?』

 

 

 そう言った彼女の顔は、とても穏やかで…優しかった。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 「…入れ、替わる…?」

 『うん、そう。私とまい子は見た目そっくりだよね?違いと言えばその体の健康具合くらいかな、これなら入れ替わっても…その、行冥さん…行冥様だっけ、わからないんじゃない?』

 「…そう、か。そっか…そんな事が出来るんだ…」

 

 双子かと見間違えそうなほどそっくりの私と彼女。こうして同じ場所にいなければ二人いるなんて誰も思いもしないだろう。

 目の不自由な行冥様だけど、勿論私の造形は知っている。髪色や肌の色が例え青でも黄色でも彼はわからないだろうけれど、特徴的な傷は誤魔化せない。その分彼女なら問題ない。

 いきなり治った等と言っても信じられないだろうけれど…それは、徐々に…?彼女がどう考えているのかわからないけれど…

 

 「うん…うん、そうだね。そう……しても、いいかなぁ…」

 『でしょう!?良いアイデアでしょう?』

 「…あいでぃあ?」

 『あっ、そうか。そこら辺から合わせないとね』

 「……そうだよね、別人だもの…」

 

 彼女が何者であれ、私とは違う別人。見た目は同じでも考える事や経験してきたものが違うのなら知らない言葉を喋っても不思議ではない。

 つまり問題としては…記憶、だろうか。彼や猫達や町の人々の事を彼女は何も……あ、健康ならばもう病院に行かなくて良くなるし、町の人についてはそんなに必要ないか。

 それより何より、行冥様だ。

 

 「私としての一番の望みは彼を、あの子達を大事にして…助けてほしい。私では出来なかった事を…それだけ」

 『そう?…なら彼らの事を教えて?何でも良いから。好き嫌いの食べ物や、趣味なんかを』

 「そうだね……えっと、行冥様は炊き込みご飯が好きで、特に何も言わないけどお焦げの部分を…」

 

 競争は豪雨と吹き荒れる風の中、ゆっくりとした散歩のまま続いていた。彼女は横で私の話す普通なら他愛もない内容を一つ一つ噛み締めるように聞いていた。

 虎猫は魚よりお肉の方が好きだとか、白猫は狭い場所が好きでよく探さないと閉じ込めてしまう事とか、茶白猫は食いしん坊で他の子のを力ずくで奪い取るとか、黒猫は一度抱き上げると下ろす際に爪を立てて抗議してくるとか、彼の趣味の尺八で猫達が散り散りに逃げていく事とか…本当に他愛もない事を。

 

 話しても話しても話が尽きない。彼らの事ならばどれくらいでも語れる、思い出す度に雨で冷えていく体の奥が暖かくなる。

 

 

 「そうだ、行冥様の鎹鴉は生真面目だから……。あれ。そういえば…」

 

 空を見上げても黒い雲しか見えず、正面を見ても豪雨のせいかほんの三間先でもろくに見えないほど視界が悪かった。それでも…あれ?

 

 「時間…もうかなり経ってるよね?短くても三十分以上…なのに、もうとっくに橋の端っこにたどり着いてもおかしくないほど歩いて…」

 『いや、そんなに経ってないんじゃない?雨で見えないし時間感覚もずれているんだよきっと』

 「そう…かなぁ……でもあまり遅くなると行冥様が心配すると思うし…」

 『……でも私が上手く誤魔化せば大丈夫でしょ?』

 「えっ?……ああ、うん、そっか…」

 

 以前家から見える木の上に茶白い塊が見えて猫が登って降りれなくなったと思い込み、必死に木登りをしたらただの葉っぱの塊で……何も言わず数十分消息不明になった事と危険な事をした事を懇々と説教されたなぁ。

 考えてみれば今の状況も近しいものがある。行冥様どうしてるだろうか…そう考えを巡らせ始めれば彼女から首をかしげられ、不思議そうに訊ねられる。

 

 ……そうだ。そっか。私はもう……そう、決め……いや、でも……

 

 

 『…ねぇ、じゃあその行冥様に何て言えば良いか一緒に考えて?ね?』

 「!…う、うん。勿論…」

 

 胸の奥の奥、先ほどまでポカポカ暖かかった部分がゆらゆら動いている。それを上手く捕まえる事が出来なくてつい黙り込んでしまったのだろう。

 彼女は私の顔を覗き込んできたあと、考えなければいけない事を言ってくる。そうだ、行冥様の為に、私はまだ出来る事がある。

 

 「そうだね、私なら素直に橋の上で競争してたって言うよ。何で、って聞かれるかもしれないけどそれが事実なんだしそのまま…」

 『えー、でもそれって混乱させちゃうんじゃ?』

 「確かに混乱はするだろうなぁ…まず走った事に対して色々言われそう…でも私は常にそうしてきたから…」

 『んー、私としては嘘でも何でも付いて適当に流した方が円滑じゃない?』

 「そっ、それだけは駄目!」

 

 私の急な大声に彼女は驚いたように目を見開いた。確かに突然、それも責め立てるような大声だったからそんな反応をされても何も不思議ではない。

 けれどもそれだけは、駄目なんだ。それだけは絶対にやってはいけない。

 

 

 行冥様から聞いた以前の話……それは仏が修羅になるには当然のもの。共に暮らした家族と呼べる人達が…どうしてそうしてしまったのか、その立場の詳しい事情も心情ももうわからないし、これから知る事も出来ないだろう。

 

 けれど。

 優しい彼を傷付けたそれは純粋なもの。それが恨みなのか怯えなのか裏切りなのかたまたまなのか不幸なのかわからない。彼に守られ出会った私ではその傷を和らげる事が出来ても塞ぐ事は出来ない。それを出来るのは…近しい者、当事者だけでしかない。

 

 

 だから。

 

 「勝手だけど…無茶な我が儘を言っているのはわかっているけれど……彼に対して嘘をつかないで」

 

 彼の見えない目は、その嘘を見破る。声色か、動作か、小さなほころびからか、いずれにせよきっとわかってしまう。そうして嘘に気付いた彼の痛みに気付かず、つく側は大したことない小さなものだからと続ければ…いずれこの上なく苦しめる事になる。

 私の見栄や意地なんかで、彼を…!

 

 「自分を偽る為の嘘なんかでこれ以上彼を傷付、け……」

 

 ………。

 

 ……あぁ。

 

 

 「なんって私は、愚かしい事を……!」

 

 感じた衝動のまま顔を両手で覆い膝をつき座り込む。どうして私は、ここまでやらないと気付けないのか…ああ、もう愚か!馬鹿!あんぽんたん…!

 

 『どうしたの?』

 

 私の前に立ち止まったであろう彼女から何事かと訊ねられる。当然、馬鹿な事を言ったという自覚は私にしかない。けれど、もう駄目だ。そう、このまま……いけない。駄目だ。

 

 

  「ごめんなさい…入れ替わると言った、それを……無かった事に出来ないかな…?」

 

 

 私の声は雨にかき消されそうなほど小さくしか出なかった。夢中になっている時は気付いていなかった体の冷たさがまざまざと突き付けられる、こんなに冷えきっているのに歩くのになぜ支障がなかったのだろう。

 雨が勢いを増した気がする。頭に、皮膚に打ち付ける粒が音を立てるほど大きく激しい。私の勝手を、責め立てるかのような天気だけど……ああ、本当に申し訳ない、こめん、ごめんなさい。

 

 

 『…どうして?私が嘘をつくと言ったから?それなら嘘はつかずに正直に言えば…』

 「違うの、もう前提からして間違ってた……入れ替わってしまったら私は、彼に対してひどい、ひどい裏切りをしてしまう事に…」

 

 彼女がどれだけ見た目が私にそっくりでも、どれだけ綿密に私を真似ようとも……彼女は私ではない。私と彼女が入れ替わったその瞬間、彼に守られ助けられた…生きて欲しいと言われた私…"まい子"が死ぬ。

 入れ替わった"まい子"は私ではない。彼から守られた事を理解はしても経験のない…彼に対し、私を偽るそのものが裏切りの嘘だ。そしてそれは、彼女の存在の揺らぎだ。

 

 「ごめんなさい…なんて、ひどい事を言わせて、思わせた…」

 『…まい子が悩んでた事、それは丈夫な体が欲しかった、じゃなかったの?』

 「そう、欲しかった。彼の役に立てる私を望んだ、夢を見た……でも、彼は弱い私を、責めなかった」

 

 一度たりとも厄介だなんて責めなかった、怒らなかった。個性だと、それが私だと。

 保護する存在な私がするべき事は、悩むべき事は…丈夫な体を欲するではなく、代わりを用意するのではなく……役に立てる、私が役立つ望みを、話し合うべきだった。

 彼が個性だと言った私の存在を嘘付いて殺すより、本音をぶつけるべきだった。傷付く体を見たくないなら守れるような強い無い体を求めるより、傷付いた後の手厚い治療をして欲しいと要求するべきだった。

 

 

 「一人で考え込んだから、何も相談しなかったから…愚かな考えを作った、過ちを犯した……ごめん、ごめんね、私の感情にあなたを振り回し…」

 『そっか、そういう結論になったんだね』 

 「えっ」

 

 うつむいていた顔を上げ、彼女の顔を見て謝罪をしようとした。その彼女の顔は想像していたものとは全く違うもの。私を責めるでも怒るでも軽蔑するでもない、満面の笑み。

 そして私の手を引き、腕一本で力強く立ち上がるように起こせるそれは…やはり私と同一人物とは到底思えない頼りがいがある姿。そのまま私の肩を掴み、横に立ったかと思えば…!?

 

 「いッ!?」

 『ほらまだ競争は終わってないよ、走らなきゃ!』

 

 思い切り、何もない橋の上にすら響き渡るような力強さで背中を叩いて、押してきた。

 その衝撃でバタバタと足が前に出て、走るような形で進みだした。そうだった、私達は競争をしていたんだった。でも私が走れなくなったから彼女が…なら私が走れば彼女も走って、きちんとした競争になるかな。

 

 私はどれくらい振りかに再び走り始めた。相変わらず遅く、走れば走るほど体が重く苦しくなる。けれどせめて、後ろから聞こえてきた早い足音と競い合うような形に、競争と呼べるだけのほんの少しだけでも……

 

 

 『おめでとう、あなたの勝ちだね』

 「  」

 

 後ろから聞こえた声に、体が固まり、全く早く動かない足は五、六歩動いた後…すぐに止まれた。その地面は今まで走っていた木の板ではなく、土を固められて出来た…陸。地面。

 振り替える。後ろには橋の端と、そこに立っている彼女。到着地点と決めた場所を…私が先に過ぎたから私の勝ち、だって…

 

 

 




 ─ 後編に続く


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拾伍話 同じ姿の人間のようです(後編)

 

 

 「ちょ、っ、ッけほっ、待っ、ゲホゲッ、ぅえっ」

 

 過去体力を使う勝負事で勝った事なんて合ったかどうかすら怪しい、私の体力の無さを舐めてはいけない。今回のこれだって…実力で勝った訳じゃない。有利だった彼女は私に合わせて戻ってきて共に歩いたし、さっきだって私が先に走りだしたから…

 それを全て弁明しようとするも今の今まで走っていた私の体は言うことを聞かない。塞がったような喉からは激しい咳しか出ず、肩を頭を揺らすような咳のせいか明暗する立ちくらみがする。

 

 そんな必死な私に彼女は笑いながら近付いてきて、今度は落ち着かせるように背中を手のひらで軽く叩いてくれる。

 

 『大丈夫、落ち着いて。体が弱いまい子が、頑張った結果なんだからそれはもう勝ちだよ。すごい、よく頑張ったね』

 「はぁ…っ、ぁ……。…あ、ありがとう…」

 

 頑張った事が勝ち…そこまで言われてしまえば、いくら私でも理解する。勝たせてもらった事をいつまで否定し続ければそれもまた失礼な事。だからありがたく受け取らせてもらい、お礼をいう。

 しかし、その言い方はまるで…私が頑張らなければ、諦めていれば彼女は引き返す事なく勝っていたと言わんばかりのもの。私の話を聞いて……なら、彼女はもしかして…

 

 私が仮説を立てた事がわかったのか彼女は笑みを更に深くして、何かに気が付いたように空を見上げる。

 

 『あっ、雨が止んだね。それにほら、向こうに虹が見える!』

 「……綺麗な虹…」

 

 背に置かれていた彼女の手が空を指差す。その指のまま見上げればあれほど覆い尽くしていた黒い雲は一欠片もなくなり、あるのは何よりも透き通る青空とそこに架かる虹が広がっていた。

 広い広いそれを見ていると、何とも言えない感情に満たされる。綺麗、すごい、それだけじゃなくて、もっと…

 

 

 『お疲れ様、元気で』

 「…さようなら」

 

 彼女がそう言った時、顔を見た時理屈ではない感覚が支配した。目から涙がこぼれ落ち口からは勝手に別れの言葉を紡いでいた。

 なぜだかはわからない。わからないけれど…恐らくもう二度と彼女には会えないのだろうと。会ってはいけないのだと感じてしまったから。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 一瞬。数秒。意識が混濁する。

 再び何事かと気が付いた時、私は室内に立っていた。地面でも木製の橋の上でもない…畳の上に。

 

 顔を動かし、見渡せばそこは室内で、それも……猫の引っ掻き傷がある箪笥も到底手が届かない場所に置かれた荷物も…全て全て見慣れもの。

 

 ……これは。帰って、きたのだろうか?

 

 彼の、行冥様の治療を終えたあの場所に。家に。足元には救急箱がひっくり返したように転がっていたが、治療していた相手が見当たらない。今は、いつ?時間は?

 

 白昼夢を見ていた可能性は最初から欠片も考えなかった。

 なぜなら私の体は激しく運動をした後のような疲れが残りなにより頭の先から足先までぐっしょりと濡れ、滴を畳の上に落としていたから。

 

 私は橋の上で競争をして、勝って、戻ってきた。悩みを抱え込んでいた胸の内を全てさらけだし、すっきりさせて。

 だからその結果としてわかった、彼と大事な話をしよう。だからその為に……えっと、行冥様はどこに?

 

 「!」

 

 そうだ、いつまでもこんな所で突っ立ってる訳にもいかない!ぼんやりしてる場合じゃない!

 私今びしょびしょなんだから、ここにいると水が染み込んで畳が駄目になってしまう!

 

 慌てて廊下に移動しようとして、その前に足の裏を確認して足袋を脱ぐ。木の橋と土の上を歩いたその足袋はかなり汚れていた。ああ、畳も汚れてるなんて事…!後で掃除しなきゃ。

 

 「行冥様~?」

 

 廊下に出て呼び掛けてみる。裸足で木の床の上に立てばペタペタとした足音に水滴が混ざって非常に宜しくない。せめて拭ける布を先に取りに行かないと。いや着物を脱いで着替えるのが先かな、両方するにしても…

 

 「…ん?」

 

 そのまま廊下を出来るだけ濡らさないようつま先立ちで進もうとゆっくり歩いていれば、家から少し離れた場所で何かが動く音がした。音からして大きな生き物かな……あ、行冥様かな?

 

 「行冥様そこにいらっしゃいま…」

 「!!まい子!」

 「ひゃあ!」

 

 庭先に繋がる場所まで進み、声をかけようとしたその瞬間目の前に大きな影が突然現れつい悲鳴を上げてしまう。ひょっとしなくともそれは行冥様で間違いないのだけれどもついその大きさと動きの素早さに驚いてしまう。

 現れた行冥様はなぜか薄汚れていて、頭に葉っぱなどをくっつけている。森にいたのかな…それも葉っぱが付くような行冥様にとって狭いような場所に。

 

 

 「どこへ行っ…なぜこんなに濡れている?……いや、それより怪我などはしてないか!?」

 「だ…大丈夫です、無傷です……えっと、少し雨の中走っての競争をしてきたので……」

 「………」

 

 焦っている様子の行冥様。この様子だともしかしたら私が橋の上にいた一時間ほど、私はこちらにいなかった。そもそも突然いなくなったのだろうか。それだとしたら……ああ、焦らせ探させてしまったのかな。大変に申し訳ない…

 そして訊ねられたそれにまとめて答える。彼女に宣言した通り誤魔化さず、嘘をつかず本当の事を。

 

 当然いなくなったと人が再び現れた時に全身濡らし、訳のわからない事を言う。理解はなんて難しいのだろう。行冥様も困惑したように眉を潜めている。

 

 「…そうか、何にせよ無事で良かった……競争して、戻ってこれたという事は勝てたのか」

 

 けれど彼は私の言う事を困惑しつつも信じてくれた。そして……やはり、解られてしまう。この少ないやり取りで、私が時間をかけないとわからなかった結論をすぐに見付けてしまった。

 この様子ではあのまま入れ替わっていたら、すぐにわかられていたのではないだろうか。

 

 「はい、勝ちました。驚きですよ私が走って勝つなん…」

 「無事で、良かった」

 

 その事実に。遅くとも選べ気付けたそれに対し得意げな顔を作り自慢するかのように言おうとした言葉は塞がれた、大きなその腕と体に抱きすくめられたから。

 硬い筋肉と深い息のような声に何も言えなくなる。

 

 …ごめんなさい。心配させていたなんて、こんなに。間違おうとした私をこんなに。

 

 「ッ!」

 

 熱い衝動のまま彼を抱き返そうとしても大きな彼の背に腕は届かない。それに気付いたの片腕で私を軽く抱き上げ、もう片腕で背を支えてくれた。

 近くなったその優しさに甘えるように首筋に抱き付く。濡れる。……あっ、しまった。

 

 「すみません、濡らしてしまいました…!」

 「構わない、そも私とて汚れているだろう。あちこち……いやそれは良い。これ以上体を冷やす前に早く湯浴みでもした方がいい」

 

 そう言うが早く室内へ、濡れたままの私を歩かせないように抱き上げたまま草履を脱いで歩き出す行冥様。うわぁ天井が近い。遥か下では私と同じく素足で歩いているのになぜ足音が聞こえないのだろう。不思議。

 

 

 私の悩み…話し合いをするのは……これらごちゃごちゃとした目の前の副産物、全て終わった後にしよう。難しく考えるのではなく、彼と、穏やかに。

 

 それが、賢明なのだから。

 

 

 

 

 




 SCP-473-JP 僕からのバトンタッチ

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 SCP-473-JPは高度15m、全長4.5km、全幅1.9mの木製の海上橋。日本国内にすむ人間がランダムに突然橋の上に飛ばされる。数分後その人物と瓜二つの人物が現れ、悩みなどの話をした後競争をする事になる。競争の間、雨が降るが競争に支障は出ない。
 元の人間が勝てば、勝利したことを褒められ元の場所に戻る。悩みはスッキリ解決している。
 瓜二つの人物が勝てば、敗北したことを慰める。慰められたことで飛ばされた人間はスッキリする。そして瓜二つの人物が元の人間の代わりに元の場所に戻る。加筆された補遺473-JP-02のオチが凄い。財団は時に残酷。
 
 
 


SCP-473-JP http://scp-jp.wikidot.com/scp-473-jp

著者:SOYA_one 様

この作品はCC BY-SA 3.0ライセンスの下に公開されています。


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拾陸話 これは無敵の刀!のようです

 

 

 

 

 私とまい子は、家から少し離れた森林の中へと来ていた。

 

 

 散歩がてら、昨日の大雨で落とされたであろう銀杏をついでに探しに来たのだがどうやら予想は当たっていたらしい。

 地面に転がるそれらの具合の良いものだけを少しずつ拾う彼女を少し離れた場所から見守っていた。人里から離れたからこの場所、危険がないとは言えない、それこそ木の実が落ちるような今の季節こそ獣類に注意しなければならないのだから。

 

 付かず離れず、辺りの気配を確認しながら彼女が楽しげに掛けてくる声に返事を返していた、その時だった。

 

 

 「…あれ?……なんでしょうあれは」

 

 楽しげに着物の袂に入れていたが重みが増し耐えれなくなる前に羽織を脱ぎ、そちらに包み直すために地面に屈んでいた彼女が不思議そうな声を出した。

 私の返事を求めていた訳ではないのだろう、満足のいくように包めた羽織を胸元に抱えそちらへ足を進めた。踏み出した足がぺきりと木の枝を踏み、折れた音が聞こえた時には一瞬で距離を詰め、離れないよう彼女の隣へ即座に移動していた。

 

 「…それほどまで、興味深いものでもあるのか?」

 「興味深い、といいますか…え?何でこんな所に?といいますか…」

 

 主旨がつかめないそれは具体的な品名が何もなかったから。再度訊ねようにも彼女自身納得のいかない、何もつかめていない状態らしく言葉にならない悶え声だけが返された。

 

 

 目的の場所は数十秒でたどり着いた。銀杏拾いをしていた場所から軽い起伏があっただけの何でもない平坦な場所に、それはあるらしい。

 

 

 「ああやはり…これ……刀?いや、刀のような物が、土に突き刺さっています」

 「…刀?」

 

 彼女が手で軽く叩いたそれは私達の前、ほんの一尺先に確かにあった。剣先が刺さっている事を確認し柄の部分だろう場所に触れて見るも……ふむ、確かに刀…のようなものだ。

 刀にしては柄の部分の無意味な生物で象られた模様や形が悪趣味だ。鍔である場所にある不規則で、意味があるとは思えない装飾と耐久力を考えてすらいない造形は声も出せず…刃自体は錆びていないというのに切れ味の欠片も感じれない。

 

 ………なんだこれは?

 

 

 

 

 ** SCP-572 **

 

 

 

 

 

 「なんでしょう、帯刀禁止となる前に作られこちらに置かれていたのでしょうか?それにしては…峰もなく、鞘も辺りに見当たりませんが。いえそもそも、このように湾曲した刀では鞘に納める事自体が出来ませんね」

 「…まず日本刀ではないなこれは。可能性として…西洋かどこかのものだろう」

 「なるほど!ですからこのような場所に隠してあるのですか」

 

 私の言葉に納得し、両手の平を合わせて叩こうにも抱えた銀杏入りの羽織が邪魔で叩けず手の半端な所を叩くに終わったまい子。

 しかし隠してあるというより、放置しているというか…何の整備も備えもなく突き刺しているだけでその要素は微塵も感じれない。はっきりいってしまえば不法投棄された廃棄物にしか思えない。

 

 ……なんとまぁ、元の造形がいくら奇抜で武器として使うには不便でしかない不良品であろうとも、このような形で朽ちていかねばならなくなったそれを思えば……南無、涙が止まらない。投棄するというその行為事態が、罪深いというのに……

 

 「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏…」

 「…しかしこんな所に捨て置いておくのも駄目ですねぇ、持ち帰って供養でもしますか?」

 「南無…供養するかどうかはわからないが、このままにしておく訳にもいかないな」

 「ですよね!…あの、私が持っても良いですか?」

 「む?」

 

 放っておいても周りの木々に悪影響を及ぼすわけではないにしろ、このままはいけない。まい子の言葉に肯定の意思を返せば、はしゃいだような声色とハタハタとその場で足踏みをするような動く音がした。

 この刀擬きを、持つ?なぜ?持つ事自体にさほど支障はなくとも万一怪我をする可能性を考えたら私が持った方が良いのでは。

 彼女の質問に首を傾けなぜかと訊ね返す。私のその反応に彼女は苦笑いをしつつ…

 

 「刀…これは少し違うかもしれませんが、持ってみたかったのです。ぁ、他意はないですよ?」

 「……嗚呼…」

 

 彼女の真意にすぐに気付けなかった己の情けなさに涙が出る。隊員になれなかった彼女は、日輪刀を持てない。色変わりの刀を持てなかった立場だ。だから、せめて。

 様々な事情を突き詰め完成した私の武器、鎖付きの斧や鉄球では叶えられない願いになぜ気付けなかったのだろう。

 

 「…そうだな。なら私が一時的に銀杏を持とう。それに…重みなど辛くなったらすぐに言いなさい」

 「はい、ありがとうございます行冥様」

 

 彼女から渡された羽織を片手で持ち、地面から刀擬きを引き抜こうとする彼女に合わせて少し距離を置く。

 通常の真剣ならば重さは半貫程度。しかしごてごてとした装飾をつけたこれはどのようなものなのか…まず、重みで地面から抜けないなんて事はないだろうか。

 

 「ん……!よい、しょっ!ぁ、抜けました」

 「そうか…大丈夫か?」

 「はい。どこも怪我は…しかし、想像より少し重いですね。猫…一番小さなあの子ほどの重さはあります」

 「む?…ならば、一貫(約3.8kg)ほどか…」

 

 …刀としては重すぎるのでは。使い勝手として如何なものか……しかしあのナマクラのような切れ味や湾曲した形、日本刀のように斬るというより重さで潰す使い方でもするのか……はたまた、使う事を考えていない造形にこだわった美術品か。

 まあ何にせよそのようなものを捨て置いておくのは許されざる事、早く戻って処遇を検討しよう。

 

 「しかし…ふふ、これが私の刀ですか」

 「家に戻るまでのわずかな時間だけだがな」

 「ですが行冥様、この刀さえあれば何でも斬れるような気がしますよ」

 「…いや、すまないがそれは不可能だろう」

 

 まず片手でろくに持てないそれでどうやって斬るというのだろう。それに刃が斬れるものではない、言うならばそれは形だけ刀のような装飾された鉄の塊でしかない。

 斬る、というより殴る、もしくは潰すだ。

 

 

 「いえいえ、この刀ならばいけます。一番強い剣士だって目指せますし、辺り一面平らにだって出来ます」

 「………」

 「この刀さえあれば…全て全て、斬る事が…」

 「…まい子?」

 

 なんだ、この違和感は。冗談を言っているというような様子ではなく……嫌な予感がする!

 

 「試しに見せますね、見えないけれど見ていてください!」

 「待ちなさ…」

 「えいッ!」

 

 

  ゴヅッ

 

 

 止めようとしたが間に合わず彼女は恐らく近くの木に刀擬きを……打ち付けた。ナマクラに近いあの刃では斬るというより殴る、なのだから。

 止めれなかった言い訳をしていいならば手に彼女の羽織に包まれた銀杏があったから。あまりに突拍子もない事を言い出した彼女に対して呆気にとられて思考が止まっていたから。刀擬きとはいえ刃に触れた所でどう足掻いても切れる鋭さがなく、油断していたから。

 

 しかしまさか、音からして樹齢四十年はあろうかという大木に、絶対に斬れる訳がないそれに対して、力一杯殴りかかるとは思いもしなかった。にぶい音が悲劇的な状況を際立たせている。

 

 

 「…だ、大丈夫かまい子!?怪我は!」

 「………」

 

 彼女は無言のまま、刀擬きを手から落とし、そのまま座り込んだ。せめて、木が折れるなどすれば良かっただろうが、微動だにしないそれへの攻撃は全て彼女の腕へ戻ってきたのだろう。

 彼女の傍に座り込み、腕を取れば微かなうめき声を返される。あまりの衝撃と痛みに声すら出せないらしい。小さな痙攣は涙が出てきた証拠だろう。……泣くぐらい、痛いのだろう。

 

 「手を貸しなさい…」

 「い゛う…!」

 「ふむ、折れてはいないな。強い捻挫…戻り手当てをせねばなるまい」

 「うぅぅ…すみません…」

 

 痛みと失態に落ち込む彼女を片手で、羽織とは反対の手に抱き上げて申し訳ないが羽織を渡しその手で刀擬きを掴みあげる。

 それは切れ味が全くなく、鋼の塊であることの証明のように木に切り傷一つなく、しかしそのもの自体にも傷もなくその場所に転がっていた。

 

 ……今のは何だったのか、それを考える必要は今はない。とにかく早く家へと戻ろう。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 包帯で動かせないように手首を少し強く巻き、固定をした。幸いだったのは痛めたのは右手の方で利き手が無事だった事だろうか。

 そして、戻り手当てをしている間でさえまだ「あの刀であれば木を斬れる筈だった」との世迷い言をつぶやいていたが、突然……まるで夢から覚めたかのような声色で。 

 

 「…そうですよねぇ。私の力で、更にあの切れ味もない刀であの大きな木を斬れる訳がないですね。何を考えてたんでしょう私は」

 「………」

 

 呟かれてしまった。そのような事を言われてしまえば、どう返せば正解だというのだろうか。

   

 「しかし本当に申し訳ないです行冥様……いたた…」

 「構わない、が……そも何を考えていたかだけ聞いても良いだろうか?」

 「はい?……何を、と言われましても…うーん、そうですねぇ……」

 

 無事だった利き手で頬に手を当て悩むまい子。私はそんなに難関な事を聞いてしまったのだろうか。これに関しては疑問点の解決…私の好奇心の果てのものに違いなく、出てこない結論を無理矢理聞こうとするものではないと宣言しようとした、時だった。

 

 「刀というものを初めて手にしたからでしょうか、こう……気分がとてつもなく高揚しまして、今なら何でも斬れる!誰にでも勝てる!といったような気持ちになりまして。その証明をしようとあのような莫迦な真似を」

 「……その言い分では、まるで……そう思うかのように"誘導された"かのようだ」

 「えっ、そうですか?けれど誰かに言われ操られたようなものではないと思いますが…」

 

 困惑するように彼女は首を体ごと傾けた。まい子が紡いだその言葉から導き出される可能性の一つは…刀擬きを手にした者を究極無双出来る者だと勘違いさせる…ような、不可思議な力だと思えてしまう。

 しかし万一そんな力が宿った物だとして、私もまい子より遥か長く触れていたが、微塵もそんな事は思うことはなかった。ならば?

 

 …そう、思っていた彼女の目を覚ましたのは……

 

 

 私としていた、会話の中に答えがあるのだろうか。

 

 

 「無意味、廃棄、所有物、不可能……むう」

 「え?…どうしました?行冥様?」

 「いや……何でもない、何にせよ今後関わらなければ良いのだから」

 「??…はい、行冥様」

 

 思いか返せる限りの言葉を紡げど、どれもしっくりとこない。当然。思い付くは可能性の一つ、それが正しいかどうかは検証せねばわからないが……そんな事、する必要性など何もない。

 だから私が出来る事は…しなければならない事は……そう。

 

 

 その品物を、遠ざける事のみ他ならないだろう。

 嗚呼、関わるべきではないそれらと、縁遠くあるように…南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏……

 

 

 

 

 

 




 SCP-473-JP パッと見無敵のカタナ

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 アンバランスな形の剣。切れ味もない。しかし所有した人物は何よりも素晴らしい形でなんでも切れる、と思い込む。
 その為その腕を確かめるため危険な真似をしてしまう(走行中の車を切ろうとする、発射された弾丸を切ろうとする等)。もちろん切れず、持っていた人が重傷を負う。

 


SCP-572 http://scp-jp.wikidot.com/scp-572

著者:SOYA_one 様

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拾漆話 ラーメンを食べるようです(前編)

・明治時代にはラーメン自体定着していないため、現代設定です


 

 

 

 猫とは。気まぐれで気分屋ではあるが、姿が可愛い生物。そう呼ばれるのが一般的…ではあるものの、飼い主は誰もがこう思っている。

 

 私の家の子は、違う。

 

 何せ私の家の子は少し室内を歩くだけで後を尻尾を立てながら着いてきてくれる。姿が見えなくなるだけで寂しそうな大きな鳴き声を上げる。キャットタワーや猫じゃらしより私と遊ぶ方が好き。

 

 ならば私の家の子は…猫というより、猫の姿をした天使なのでは…??可愛すぎるあの子達は、天使なのでは?

 

 

 「どう思いますか、行冥様??」

 「……南無…」

 

 私の意気揚々とした質問に対して彼、悲鳴嶼行冥様は何も答えなかった。変わりに私が購入したものの、重いだろうからと優しさで彼が手に持つ猫缶や猫フード等がビニール袋の中で微かに崩れた音をたてた。

 優しい彼は私の家の猫の荷物だというのに、重たいそれを変わりに持ってくれて、私の明確な答えのないそれを……聞き取り涙を流していた。…むぅ、泣かせたい訳じゃなかったのに。そもそも訊ねたそれは……うん、単なる親バカ的な、あれだ。

 

 「すみません、意地悪な質問をしましたね」

 「いや大丈夫だ、何でもない…」

 

 涙をこぼす彼の頬に取り出したハンカチを当てようにも身長差があり上手くいかない。それでも私の戸惑う姿を確認して、優しい彼は少しだけ屈んでくれる。ああ、なんて優しいのだろう。

 家の猫達の可愛らしさに魅いられ、何度も足を運べど彼の大きな背丈に慣れないのか猫達は彼に対して慣れず隠れてしまう。それでも彼はくじけず何度も何度もお布施のごとく猫缶やチューブ状になった猫のおやつを差し入れてくれていた。

 その為に近頃は猫達も彼に対する警戒はとかれ、もう少しで膝の上に乗りかけていたのだから。

 

 その為に…今日また、元々の購入予定より遥か多くの猫缶やおやつをごっそりと買い、彼と共に私の家を目指して進んでいた。

 

 

 そんな最中。

 

 

 くぅぅう……

 

 

 正午の針を過ぎた時計に煽られるかのごとく、空腹だとお腹が鳴った。彼…行冥様の二メートルを越える高さにまで届くように。

 

 「…食事をして、帰ろうか」

 「すみません行冥様!!」

 

 腹の虫の音を異性に聞かれるなんて言語道断、ましてや……とにかく彼は何も気にしてないとばかりに受け流し、その上優しく提案をしてくれたそれを…私は受け流す訳にはいかなかった。

 

 彼の許しを得た事で、私は食事処を探していた。何という訳じゃない。

 並べられる数列や聞き慣れない言葉、第六感が弾くそれらを受け入れる訳にはいかなかったから。

 

 歩みを進めながら彼とは話していた。もし丁度の良い場所がないのであれば、部屋に帰っての自炊も悪くないと検討をして。

 しかしながらその話し合いは結局無意味になってしまった。

 

 

 「…ラーメンはどうですか?美味しそうです」

 

 歩きながらたまたま目に入ったラーメン屋の看板、表札、メニュー表…それらに気付いたとたんに鼻先に届いた香りがまるで空腹を覚えた私のお腹をくすぐるように刺激してきたから。

 もはや私は食べる気になっていたものの、彼が嫌ならば諦める事も想定にはいれていた。

 

 「うむ、確かに。しかし…気付かなかったなこんな場所にあったのか」

 「少し前に出来てましたね。その時はこうして外まで香る事もなくスルーしてましたが」

 「五感に直接訴えるほど効果的な宣伝効果はないという事だな…南無…」

 

 けれど彼は了承してくれ、そのまま店へと足先を変えた。店の前に飾られ風にはためいていたのぼり旗にオススメであろうメニューが描かれている。海鮮ラーメン…あ、美味しそう。それを食べようかな……

 

 一つ目の自動ドアが開き、二つ目の横スライド式のドアを行冥様が手で開き彼の好意で先に踏み入れさせてもらう。

 店内はさほど広くなくカウンター席が8席、畳の座敷席が2席だった。そのどれも埋まっていて、更に店内には待機中のお客さんが二人。…うーん、お昼時の食事処を舐めていたと少し後悔する。

 

 「満席ですね…どうしましょう?」

 「私はまだ待てるが…よほど空腹なら別の店へ行くか…?」

 「うーん…いえ平気です。それに座敷席があるなら行冥様はその方が良いでしょう?」 

 「すまない助かる…まぁ、客席の空きと順番次第ではあるが」

 

 彼の足の長さではカウンター席は厳しい。下手するとカウンターの手前に足を出さないと座れもしない状態になってしまうから。だから座敷席に座れればそれが一番良いのだけれど…

 

 

 そうして待つ事数分。一度カウンター席に行くか訊ねられるも座敷席がほぼ同時に空いた為、数分待つだけでそちらに行けたのは運が良かったのだろう。

 案内をしてくれた定員さんが次に来るのはお冷やを持ってくる時だろうか、その時には注文をしたい。お腹ももう何度も鳴って主張してきているのだから。

 

 「もう決めたのか?」

 「外ののぼり旗に書いていた海鮮ラーメンが気になったのでそちらにしようかと思っています」

 「あぁ、確かに書いていたな……私は、あの壁掛けメニューが気になっている」

 「ん…?……ふふ、確かに面白いですね」

 

 行冥様の目線の先を追えばそこには『頑固オヤジのバリカタラーメン』の文字が。何味なのかもわからないのに、確かに気になる。シェフの気まぐれサラダみたいなもので、メニュー名で頼みたくなってしまう。

 けれど…のぼり旗を立てて宣伝している海鮮ラーメンの値段が800円に対し、そのメニューは1800円…?何が入ってそんなに値上がりするのだろう。

 

 「失礼します、お決まりですか?」

 「あっ、海鮮ラーメンを一つと…えっと」

 「あちらの一つだけ達筆な字で書かれたのを一つ……」

 「はい、畏まりました。海鮮一つと頑固オヤジのバリカタ一つで、失礼します」

 

 そんな疑問を彼と軽く共有しようとしていればお冷やを持ってきた定員さんがついでに注文を尋ねてくる。結局最初に決めていたメニューを注文すれば手元の紙に軽く書き込み、カウンター越しの定員さんに大きな声で伝えていた。

 頑固オヤジ…って店長さんかな?誰だろう…あの頬にホクロがある人だろうか。オヤジというにはまだ若そうだけど……

 

 「誰か探しているのか?」

 「メニュー名の頑固オヤジって誰かなと…皆さん若そうなので。あの人なのかなぁ、と」

 「ああ……もしやここは支店なのでは?ならば当人がいなくともメニューのみ受け継いでも可笑しくはない」

 「なるほどその可能性ありますね!」

 

 どうやら私は長く厨房を見ていたのだろう、彼に不思議そうに訊ねられ笑いながら勝手な想像を話す。私は別に味にうるさいわけではないから本店だろうと支店だろうと美味しいならば構わない。勿論美味しいに越した事はないけれど。

 そして注文をして品物が出てくるまでの時間、改めて先ほど思った疑問を彼と共有しよう。答えはどうせ来るまでは出ない、不毛なものだけれど。

 

 「行冥様の注文したラーメンには何が入っていると思います?」

 「む?そうだな、中身で予測できるのが麺が固いだろうという事のみ…値段が海鮮のほぼ倍となる高級品が入っているのでは?」

 「なんでしょう……金箔とか?」

 「それは雰囲気には合わなそうだが…」

 「そうですか?」

 

 金箔は高級品だ。ソフトクリームにだって金箔が散りばめられれば値段がぐんと上がるのだからラーメン鉢の真ん中にドバッと乗っているのは可能性の一つとして……いやでも確かにそんなお店ではない、のかな?

 それは街角の小さなラーメン屋ではなく、高級店の大きなお皿の真ん中にちょこんとだけある料理の上の方が合いそうだもの。私には敷居が高い、何となくのイメージでのお話。

 

 「ではなんでしょう、こだわりとして麺やスープが凝りに凝って一日何杯かしか出せないとか…」

 「それならばそう書いていてもおかしくはなさそうだが。見たところ……数量制限はなさそうだ」

 「そうですねぇ、他のメニューにも何も書いてませんし…」

 

 そもそもこのラーメン屋、テーブルの上に写真の乗ったメニュー表がない。壁に書かれたお品書きを見ての注文しかないタイプの、まさに頑固オヤジのお店!…なのかな?

 そんな結論の出ない話はいつの間にかいつものように猫可愛いという話に変わっていた。スマートフォンを取りだし可愛い可愛い我が家の猫達の写真自慢をしている内に時間はあっさりと過ぎていた。

 

 

 「お待たせしました、こちら海鮮です」

 

 そして運ばれてきたラーメンを受け取る。正直に言えばそんなに期待はしていなかった、ここは海鮮が有名な町ではないし、比べれる写真もない…精々エビ等が乗っているか海鮮物で出汁をとった程度だろうと。

 

 

 しかし現物は期待を大きく上回るのが来た。

 エビは確かに乗っていたけれど小エビではなく通常サイズのエビが一尾、その横には五百円玉サイズのホタテと殻付の牡蠣が一つ、黒々としたワカメ。湯気立つ熱気が煽る味噌の香りが鼻孔をくすぐり口内にヨダレを生み出す。

 町中の何気なく入ったラーメン屋で食べるにしては文句のつけようもない、とても食欲をそそるたまらないラーメン。

 

 「なんて美味しそうな…!」

 「確かに食欲がそそられる……私に構わず先に食べなさい、麺が伸びてしまう」

 「ありがとうございます…それでは、お先に失礼して…いただきます」

 

 割りばしを一膳取り、縦に構えて…割る。ぁっ……妙な形で割れちゃった…ちょっと不満。

 でもまぁいいや、食べるのに支障ないし……とりあえず最初はスープから飲もうかな。器に付いていたレンゲで掬い…数回息を吹き掛け覚ました後、飲む。

 …うんッ、美味しい!海産物の出汁を微かに感じるし、この味噌も味は濃い目だけどあっさり飲める。

 

 次は麺。細めのちぢれ麺がスープを絡めとって熱そうで、それも冷ますために数回息を吹き掛けてから口にする。麺を啜るその行為はあまり上手くないけど頑張って啜る。途中で切ったりしないように。

 

 取り込んだ熱と共に味が体に染み込んでくる、ああ美味しい。

 

 

 「美味しいです、行冥様!」

 「南無そうか…良き事だ」

 

 美味しいものを食べたから顔がとろけそうに笑ってしまう。そんな様子を見てどういった感情の涙なのかわからないけれど涙を机の上にポタポタと落とす行冥様。腕につけた数珠がじゃらりと鳴った。

 

 

 私が食べ初めて数分後。私達の前に待っていた二人のうちの一人、カウンターに座っていたお客さんが行冥様と同じメニューを頼んでいたようで先に一つ持ってこられ、そしてほぼ同時に。

 

 「はい、こちら頑固オヤジのバリカタラーメンです。伝票こちら置いておきますね」

 

 行冥様の前に、それを置いた。食べながら定員の声につられ目線が彼の元に置かれたラーメンに移動し…驚いた。

 

 

 スープの色合い的に豚骨醤油、数枚重なった分厚いチャーシューはその厚みにしては噛まなくとも良さそうなほどプルプルに溶け、旨味の漏れだした肉汁がたっぷりの背脂と共に持ち上げられ食べられるのを今か今かと待っている。

 中央に山の形に作られている白ネギとモヤシの上には真っ赤な二つのカニの爪と二尾の大きなエビ。何かを象っているのかな、赤富士とか。

 半分に切られた味付け卵は黄身も白身も色濃くとろとろ、店名がプリントされた海苔は大きく良く良く見ればメンマにも焼きごてでも使ったのか焦げあとで店名が刻まれている。

 

 

 …豪華!とても、とても美味しそう!これなら倍近くの値段も納得…というよりこの値段でいいの?そう思ってしまう。

 現物を見てしまえば私もそちらにすれば良かった、そう思ってしまうがすぐに脳内で訂正する。具材たっぷりのそれは、逆を返せば量が多く私では食べれず残してしまうかもしれないと。

 それでも、美味しそうだと思うだけなら何の間違いもない。

 

 「美味しそうですね…はい、どうぞ」

 「うむ……それではいただこう」

 

 割りばしを一膳、行冥様に渡す。それを華麗に真っ二つに割る。流石……それにしても手に対してかなり小さいけれど使い辛いだろうなぁ。

 

 「……どうですか、お味は?」

 

 レンゲでスープを飲み、その上でレンゲを離した右手で唇をマナーとして隠しながら彼に話しかける。一度スープを飲み、ちょうどたくさんの細麺を口に啜っていた為に今は話せないだろうと、少し待つ事にした。

 咀嚼中に話し始めるような事はしないだろうから。

 

 「……?」

 

 しかしそれを飲み込み、口の中を空にしても彼は私に返事を返してくれなかった。卵を箸で挟み、大きな口の中へ一口でパクリと。そのあとは再び麺を……あれ?聞こえなかったのかな。

 

 「行冥様?」

 「………」

 

 再度話しかけても、待っても、返事は帰ってこなかった。ただラーメンを食べ続けていて…いやまぁ、それ目的に店内に入ってきたんだから当然なんだけれども……食事中は話しては駄目とか?騒ぐほどは話さないし、そもそもいつもは普通に会話をしていたのに…?

 どうしたのかな、ひょっとして返事もしたくないほど何かしらで怒らせた?…いや、それはないなぁ。行冥様は元々穏やかで怒る事はほぼないし、怒ったとしても無視をするではなく懇々と対話をするお人。

 

 

 ならばなぜ?そういえばいつもは一口目は食材への感謝と味の感動で涙を落としていたのに、今は……

 

 ……??

 まぁ、いいや。後で聞いてみよう。火傷しないようにゆっくりと、更に私は食べるスピードも遅いから麺が伸びに伸びてしまう。

 そうならないように、口一杯にしないよう、舌先を火傷しないように食べていった。

 

 

 

 

 ** SCP-254-JP **

 

 

 

 

 




 ─ 後編に続く


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拾漆話 ラーメンを食べるようです(後編)

 

 

 「…旨かった、御馳走様」

 「!」

 

 食べ初めてから二十数分、器を抱えスープを飲んでいた行冥様が口を離したあと小さな息を吐き、誰に聞かせるわけでもなく食べ終わった挨拶を小さく呟いた。

 何だか久々に聞く気がするその低音に話しかけようとしたけれどタイミング悪くワカメを食べていて…急いで飲み込もうとすれば喉元が苦しくなり、慌てて氷の浮かぶお冷やで流し込んだ。

 

 「…大丈夫か?」

 「けほっ、すみませ…平気れす……」

 「話すのは落ち着いてからで大丈夫だ」

 

 そう言っても、先ほどみたいな少し不安になるような事が起きるなら…こんな咳き込みくらい。

 でも食事処で激しい咳き込みは確かに失礼になる、数回お冷やを飲み、ゆっくりと体を落ち着かせていく。大丈夫、咳き込みには慣れている。

 

 「はぁ、すみませんでした。落ち着きました」

 「いや、それなら良いのだが……どうした?何か言おうとしたのか?」

 「……美味しいですね、と声をかけた事に気付いていましたか?」

 「ああ、何か聞こえたような気もするが……食べる事に夢中になっていて返せなかった、すまない」

 「……いえ…?」

 

 困ったように眉をハの字に変え、口元は薄く微笑み申し訳ないとばかりに謝る行冥様。別に無視をされた事の謝罪が欲しかった訳ではないから軽く受け取る。

 それより何より不思議だ。行冥様がそんな…結果的とはいえ無視をするなんて。体の中が疑問のクエスチョンマークで埋め尽くされていく。そんなにお腹が空いてたのかな…そんな様子は無かったけれど。

 

 「よほど美味しかったのですね」

 「そうだな、確かに味が深く…あっ食べていて構わない」

 「すみません、いただきます…」

 

 返事も億劫になるほどのラーメンの虜になっていたのかと、なかば肯定気味に訊ねる。私の言葉に数回頷きながら…待ちの体勢だった私に食事を再開するように言ってくる。

 確かに行冥様は食べ終わったけれど私はまだだ、先に食べ始めたのにあまり待たせてしまうのは申し訳ない。まぁ、食べるのが早くないから結構常の事ではあるけれど。

 

 「海鮮に肉と野菜…様々なものが入っていたが喧嘩せず、それぞれの味を引き立て旨味を増幅させていた。私としては何かはわからなかったが魚の身が旨かったな…」

 「えっお魚も入っていたのですか」

 「うむ、かなり身が大きく柔らかかったが味は大味でなくしっかりしていた」

 「ほえー、まだ隠されていたとは…凄いですね頑固オヤジさん…」

 

 ここから見える厨房を見てもやはりそれらしき人は見えない。支店だとしてそのメニューを受け継いで出せているのは凄い事なのだから。

 彼の珍しく饒舌な評価を聞いている内にラーメンどんぶりの中身はどんどん減っていき、レンゲでくるりとスープの中を探してもほとんど何もなくなるまで食べきれた。かわりにお腹がかなり苦しくなってしまったけれど、これは嬉しい悲鳴。ああ、美味しかった。

 

 「御馳走様……はぁ、お腹一杯です…」

 「少し休憩していくか?」

 「いえ、まだお客さんがいるようですし動けば平気ですよ」

 

 入り口を見れば待機用の椅子に座らずに立ったまま待っているだろうお客さんがいる、一人だからカウンターの方に案内されるかもしれないけれど…お客さんがまだ来るのに食べ終わった人がいつまでもいていい訳がない。

 苦しいのは苦しいけれど歩けないほどじゃあない、動いている内に消化していくだろう。

 

 

 「あっ」

 「む?」

 

 行冥様がテーブルの上に置かれた伝票を左手で摘まむのを見て、慌ててその手に重ねるように手を置いた。私の顔ほどある大きな手は両手ですら覆いきれず、自らの手に乗せられる私の右手と左手を見て私を不思議そうに見た。彼の右手はテーブルの影で別のものを握っているから動かせないはず。

 手を重ねた意図がわからないのだろう。その事に関して何も言葉を返さずただ無言で微笑み右手で指先をほどき、絡ませるように手を握った。少し目が見開かれ、数回瞬きをした後微かに頬の色に色彩が足された。

 

 「まい…」

 「ここは私が」

 

 何か言おうと開かれた口は、繋がれたままの手の下にあった伝票をさっと奪い取った左手を見て納得したように息を吐いた。細められた目が抗議にも憂いにも見えて……どうしたのだろうと首をかしげる。

 私の猫達にご飯を買って貰った上におごって貰うのは申し訳ないから私が支払うという意味だと伝えても何だか微妙に納得のいっていない顔と返事をされた。…??

 

 「…行冥様?」

 「そうでは……いや、まあいい。次は私が払おう」

 「はい…?」

 

 なんだろう、私の知らない内にお金を一定期間使わないと罰せられる法律とか出来たのかな。とりあえず立ち上がった彼に続き私も立つ。

 しかし天井に届きそうだなあ。高さのない下手な場所…公共機関の乗り物とかは届く所があり常に屈んでいないといけない人だから改めて大変だと思う。

 

 「すまない私がここにいれば邪魔になるだろうから、先に外に出ておく」

 「はい。少しだけお待ちください。あっ、財布……わっ…!」

 

 行冥様の背を見送りレジに進む途中で、肩にかけていたバッグから財布を取り出していれば割り込まれるかのようにレジ前に滑り込まれる。確かに中途半端な位置に立っていた私が悪い、彼の後に支払おう。

 お金を払うスーツ姿の後ろ姿を見て気付く。私達の前にいてカウンターに座り行冥様と同じ頑固オヤジのラーメンを頼んだ人だと。行冥様と比べるのは不公平だけど…それにしても少しゆっくり食べていたのだなと思う。自慢ではないが私食べるの本当に遅いのに。

 

 支払い終わったその背が出入口に向かうのを途中まで見送り、レジに向き直る。告げられた金額丁度を出そうとするも小銭がなく仕方なく大きな札で出す。ポイントのつくカードや電子は使えないらしい。残念。

 お釣りをもらい、財布の中にしまいその財布も鞄の中にしまいこみ……出入口の扉に手をかけ開き、自動ドアをくぐる。

 

 

 

 「急いで救急車を!」

 「なになに、えっマジ!?」

 「ヤバいんじゃないか、これ…」

 

 

 「…え?」

 

 穏やかな音楽のかかっていた店内から出た外は、人々の戸惑ったざわめきで埋め尽くされていた。

 見れば私の前三メートル先…スーツ姿の男性がコンクリートの地面に倒れ込み到底健康とは思えない顔色をして、陸に打ち上げられた魚のように大きく跳ねるように痙攣していた。

 その周りを囲むように野次馬がちらほらと…下手に触れないからだろう。ある程度の距離を取り、意味のない言葉でざわめきを作り出していた。

 

 

 背の高い彼はすぐに見付けられる、私が出てきた事に気付き近付いてきた行冥様と合流して何があったのか訊ねる。

 

 

 「どうしたんですか!?」

 「わからない……私の後に彼が出てきたのだが、すぐに胸元を押さえ倒れ込んだと思えば…」

 「きゅ、救急車は呼んでますよね誰か…」

 「…とは、思うのだが」

 

 ざわめきは周りを巻き込み更に大きくなっていく。何事かと訊ね、集まる人の群れで埋まり倒れた人はもう見えなくなってしまった。行冥様ならまだ見えているだろうけれど…

 これだけ人が集まり、好き勝手にスマートフォンを取り出し画面を向けているその様子を見て…しているだろうという考えとしていないのではという不安がせめぎあう。

 悩んだ結果、していても構わない、してない場合が怖いとスマートフォンで電話をする。通報しなきゃ。場所と症状を説明し…訊ねられて言葉に詰まる。原因…?何なのだろう…わからない。

 

 「はい、はい…お願いします……」

 「……どうだ…?」

 「んー…取り敢えず説明は出来たと思いますが…知り合いでもないので原因と言われても上手く答え……ぁっ」

 「…?」

 

  電話を切り、スマートフォンの待ち受けになっている猫達を眺めていれば遥か上からかけられた声に引かれ、見上げる。首が折れそうな高さの彼が太陽の影を作っていて……その暗さに、一つの可能性が思い浮かぶ。

 周りのざわめきが急激に遠く感じる。視界が急激に暗くなり、感じた悪寒そのまま彼の腹部の服を掴む。

 

 「行冥様は…大丈夫ですか?」

 「……何が、だ?」

 「し…食中毒、とか……あと、以前カニやエビを食べてあたった経験など…」

 

 普通に考えて、冷静に考えてそうだ。ご飯を食べた後に倒れたとしたら……可能性が高いのは食中毒、もしくはアレルギー反応によるものではないだろうか。

 

 「……。…ああ、そう、か。……いや、私は平気だ。体に異常はないし、そのような経験もない」

 

 いきなり服を掴み、訊ねる私の声色があまりに不安げだったんだろう。下げていた眉が数秒後納得したように微かに動き、再び下がった。これだけの質問で意図を理解したものの、そうであったとしたら…の可能性を考え、倒れた彼への同情心で悲しんでいる。

 

 

 「だがもし……そうだとしたら。ただ運悪く、何も知らずに食べ……たまたま今回初めてのアレルゲン反応だとしたら…なんとまぁ、哀れで悲しき事だ…」

 

 はらはらと涙を頬に落とし、一歩間違えば自分がそうなっていたかもしれない恐怖や安堵より…倒れた彼への慈愛の涙を流せる彼はやはり凄いと思う。

 勿論これは私の勝手な推測で根拠と言えるものは何もない、妄想の域をでないもの。それでも……

 

 

 なんだか、当たらずとも遠からずな気がするのは……私の自惚れなのだろうか。

 

 

 その後、倒れた彼は救急車によって運ばれていったのを見送った。友達でも知り合いでもない私達は彼が後にどうなったのかなんて知る事もないだろうなぁ…

 

 食事時から随分と時間が過ぎた中、意味も手を繋いで可愛い可愛い猫達の元へと帰っていった。

 

 

 後日、通報をした事から辿られたのかスーツを着た不思議な人達に謎のインタビューをされるのは別の話。

 

 

 

 

 




 SCP-254-JP 頑固オヤジのバリカタラーメン

 オブジェクトクラス:Keter(本気でヤバい)

 ラーメン屋の壁にあるお品書きの中の一つ『頑固オヤジのバリカタラーメン』を頼んだときに起こる異常。
持ってこられたラーメンがどれだけおかしなもの(麺が針金、スープが水銀や血液、具が███)だったとしても頼んだ本人も周りの人も気にしない。もし食べようとするのを邪魔した場合どんな事をしても食べきろうとする。




scp-254-jp [[jumpuri:scp-254-jp > http://scp-jp.wikidot.com/scp-254-jp]]

著者:namikaze73 様

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拾捌話 ごめんください、のようです

 「大分涼しくなってきましたねぇ、猫達も固まって眠るようになってきましたし」

 「ふむ、確かにそうだな。朝晩などかなり冷え込むようになってきた……南無…」

 

 耳を壊しそうな程にうるさかったセミの声はすっかりと落ち着き、ヒグラシのどこかもの寂しさを感じさせる声に移り変わっていた。

 紅葉の季節には早く、しかし夏とはもはや呼べない寒暖の激しい季節に変化したそれを。私は膝の上に乗ってきた猫のおでこを撫でながら彼…行冥様へ軽い世間話として話していた。格子窓から見える外の山々はまだ緑が青々しいが、すぐに赤や黄に色付く事を想像しながら。

 

 「油断をしていたらすぐに冬になるだろう…この後修行に行く予定だったが先に冬支度をするべきか…」

 「えっ、行かれても大丈夫ですよ?」

 「しかし私がいないと仕舞っている火鉢等出せないだろう?」

 「ん…それは、そうですが…」

 

 しかしそんな何気ない会話から、まさか彼の行動を変えせてしまいそうになるなんて考えもしなかった。効率から考えれば彼の言葉に何も間違いはないかも…けれどそんな訳にはいかない、彼の邪魔なんてしたくもない。

 だから快く送り出そうにも、彼の言う通り部屋の奥に仕舞われた重たい陶器は私では持ち出せない。私一人では冬ごもりの支度すらろくに出来ない。でも。だけど。

 

 「今日は天気も曇天模様ですし…また晴れた日に行いましょう?厚手の着物や布団はその時に干したいですし、火鉢もまだ使いませんし…ね?」

 「……そうだな、そうしよう。明日…任務の呼びがかからなければ、晴れるだろう…明日行おうか…?」

 「はい。行冥様」

 

 私の必死の弁明の効果か、はたまたその声色の奥の申し訳なさの懺悔を感じたからか…行冥様は私の提案を素直にそのまま受け入れてくれた。

 優しく微笑んでくれたその優しい笑顔に、何度見ても見慣れず首筋から頬から耳まで熱がたぎり、色でいったならば赤く染まっていただろう事が見ずも予想できた。彼は絶対にそれには気付かない。ああ、もう、本当に……ずるい、愛しい、いけない人。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 「ならば、薪の分の木をついでで構いません、斬ってきて貰えませんか?これからの季節多くて困るものではないので」

 

 

 そう言い、彼を送り出した。最後まで修行に行くのを渋っていた彼の背を押す言葉として。

 あの手に持てるほど小さな斧で、どうやって私の胴体よりも太い木を…あれほど美しい切り口で切っているのかなんてわからない。それは全集中なる呼吸の技術で切っているのだろうから。出来ない私では何もわからない。

 

 

 だから私に出来る事をしよう。倉庫となっている部屋の奥に仕舞われた火鉢を持ち出すのは無理でも…その場所にある持ち出すのに邪魔になる軽い物を動かすくらいは出来るのだから。

 普段立ち入る事もないために少し埃っぽい部屋の中。入り口への道を整理して多少咳き込みながら、細かな品物を部屋の隅や邪魔にならない品物の上に動かしていた時だった。

 

 

 「……ん?」

 

 遠く、玄関の方から何か…室内の騒音の隙間を縫い微かに聞こえた気がして手を止めた。気のせいかもしれないけれど…本当に気のせいならば再び片付けを始めればいいのだから。

 けれど、聞こえたそれは本当に鳴っていた。遠く、遠くの玄関の方から扉の木の枠で作られたガラスを叩く音がかすかに。それと共に、かすかに声も聞こえている。

 

 

 『……い子……まい子…!』

 「!…行冥様?」

 

 聞こえたそれは、何より誰より、聞き慣れた愛しい人の声だった。私を呼ぶその声に導かれ倉庫から出て玄関へ向かう。いつもの修行時間より短いような気がするけれど何かあったのかな?

 

 『すまない、先ほど鎹鴉から連絡があり緊急に柱集結せよとの呼び出しがかかってな…羽織を取りに帰ってきた。その後すぐに出る』

 「あらっ、それは大変ですね!」

 

 玄関外から聞こえる珍しい少し大きな声。そして緊急の柱集結なんて珍しいのでは?…何かあったのだろうか?

 まさか…鬼舞辻の場所が判明したとか…!?だとしたら!…いや、早計。帰ってきて聞ける内容だとしたら聞いてみよう。

 

 寒くなるという話をしたばかりなのに滝に打たれる修行の邪魔になるからと、置いていた南無阿弥陀仏の羽織を途中の部屋から手に持ち、玄関へと向かう。

  

 廊下の途中白猫が真ん中で寝転がっていたその脇を通れば立ち上がり合流して共に歩いてきた。こちらも珍しく出迎えをするのかな?

 玄関前の角を曲がれば玄関扉越しに見える大きな黒い影。手に何かを抱えているようには影でも見えないから薪として使う丸太は斬ったとしても持って帰って来なかったらしい。

 

 

 それにしても……なぜ玄関扉を開けて入って来ないのだろう?手が塞がっている訳でもないのに。

 

 

 「お待たせしました行冥さ…」

 「かはっ」

 「……ん?」

 

 上り框に足を掛け降りようとした、その時。背後から聞こえた妙な音に足を止めて振り返る。

 ついて来ていた白猫は廊下の途中で立ち止まり、その場所で下を向き廊下に何かを吐き出していた。今の苦しそうな声といい…そしてその色は赤色、に見えて…

 

 …まさか!血を吐いた!?

 

 「ええっ!?大丈夫!?」

 

 慌てて玄関から彼の名前を呼びながら駆け寄る。血を吐くなんてどうして…病気!?そうだとしたら早く猫を見てもらえる病院に連れていかないと…!

 そう、大慌ての頭の中で様々な事を駆け巡らせながら猫の元へ走り、座り込んで手を伸ばそうとして……気付く。

 

 赤色に見えたそれは橙色。橙色のそれは……ニンジン。

 え、ニンジン?……ニンジンを、吐き戻した、だけ?そもそもニンジンなんて猫のご飯に出して……ぁ。

 

 

 「…あなた、つまみ食いをしたでしょう」

 

 吐いた事など何事もなかったかのように平然としている白猫の鼻先を軽くつつく。怒られているというのに白猫は何も反応せず可愛らしい顔をしたまま私を見上げていて…ああ、もう、全く可愛いなぁ。

 勿論ちゃんと怒りたいけど怒るのは苦手だし、怒っても猫達がちゃんと聞いてくれるかはわからないし…そもそも怒るより病気でなく単なる吐き戻しだった事に、ほっとしすぎて録に怒れそうにない気がする。

 

 そんなこんな、怒られているはずの白猫が撫でられようと手に頭を擦り付けてきている事実に深いため息を吐いて……気付く。

 猫が無事だったなら、こんな廊下にへたり込んでいる場合じゃないと。早く彼に羽織を渡して廊下に吐き戻されたニンジンを掃除しないと、と。

 

 気付いた勢いのまま、勢いよく玄関に目をやって………呆気にとられる。

 

 

 

 玄関扉の向こうに影が、七尺以上ある影が……微動だにせず、立っていた。

 

 ……なぜ、入って来ないの?私の悲鳴も、猫を心配する声も、全て聞こえていたはずなのに。

 

 

 「…行冥様…?」

 

 

 ガシャンッ

 

 

 「ひっ!?」

 

 玄関扉が叩かれ、揺れた。それは私の問いかけに対する返事だったのかもしれないが、酷く乱暴で…力ずくに抑え込もうとするものだった。

 弾かれるように立ち上がり、一歩、二歩下がる。猫が何事かと見上げている気がするけれど何も返せず…

 

 

 ガシャンッ

 

 『まい子…どうした?早く開けてくれないか…?』

 

 ガシャンッガシャンッ

 

 

 大きな音を立て、叩かれ続ける玄関から後退りをして更に遠ざかる。声も、音も、未だに鳴り続けているけれど…もう、わかっていた。わからないはずがなかった。

 見上げてくる白猫を抱き上げ、抱っこを嫌がる白猫を力ずくで抑え込めば違和感に気付いたのか大人しくなる。そう、そうして。じゃないと、これはおかしい。異常だ。だって。だって。だって…!

 

 

 玄関の向こうにいるのは、彼じゃない。

 

 

 

 

 ** SCP-872-JP **

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 扉を開けて入って来る訳でもなく、猫の体を気遣う訳でもなく、ただただ玄関を叩く"それ"が彼の訳がない。

 これは、なに?玄関扉の向こうにいる影は、何なの?彼と同じ姿をしているそれは…幽霊?妖怪?あやかし?中に入ってきて、どうするつもりなの?

 

 

 ガシャンッガシャンッ!

 

 「ひっ!」

 

 外にいるそれが、更に玄関扉を強く叩いた。木枠やガラスが揺れ激しい音を立てる。壊れるほどの強さではないがそれでも力はかなり強く…大きく揺れる扉に悲鳴をつい上げてしまう。強く抱き締めてしまった猫が暴れて逃げ出そうとしている。

 

 『まい子、まい子早く、早く開けてくれないか。急いでいるんだ私は早く行かねばならないんだ、早く』

 「…あ、貴方は行冥様ではない!…です、よね!」

 『………』

 

 

 ガジャァンッッ!

 

 

 「きゃあっ!」

 

 ガシャンッ!!ガシャンッ!!

 

 「……」

 

 扉の向こうからかけられる声は間違いなく、聞き慣れた行冥様の声。扉を叩くのも声かけも何の違和感もなく聞こえるのに、普通なら本人に間違いないと思えるのに……絶対に本人じゃない。そう思えるなんて、まさかそんな。

 

 

 …逃げなきゃ、逃げないと駄目だ。

 

 

 胸に抱えた白猫をそのまま、玄関から走って遠ざかる。守らなければならない家族の元へと。

 

 玄関から遠く離れた、猫の部屋へといつの間にかなっていた部屋の中に飛び込めば幸運として手の中にいる他三匹が部屋の中にそれぞれ散らばってくつろいでいた。

 腕の中から白猫が飛び降りる。それでいい、一匹だけじゃないから。

 

 「み、みんな…逃げるよ!早く、えっと……このカゴの中へ!」

 

 全員連れ出す。家族を守れるのは今や私だけだ。だから……カゴに全員入れて抱えて逃げ出すしか方法はなかった。勿論猫が言ったからと大人しく指示に従うなんて事はない。私の言葉を聞けどもキョトンとした顔で見てくるか、もしくは聞きもせず室内に転がっているかのどちらか。

 だから私が詰め込むしかなかった。手が震える、早くしなければと思えば思うほど上手くいかない。猫達は大人しく抱かれ、さほど暴れる事もなくカゴに入ってはくれるもののどうしても他の子を入れている間に他の子がカゴから出てしまう。

 

 

 「お願い、お願い大人しく入って…!でないと…ひっ!!」

 

 遠く玄関から壊さんばかりに激しい音が聞こえてくる。焦る気持ちを追いたてるかのように……い、いや。

 何、何これ?もしかして……一人じゃないの?音が、叩く音が到底一人では出せないほどの早さと大きさで…

 

 

 ガジャッ!バギャッ!

 

 「ひっ!…ぅう…お願い、みんな、早く…」

 

 玄関を叩く音に破壊音が混じってきた。あの激しい音…開こうとする力を全て込めたかのような、叩くそれ。このままでは…壊されてしまう。玄関扉のどこかが歪み、今すぐにでも入って来てしまいそうなそれに限界を越えた恐怖で涙がこぼれ落ちる。

 "あれ"…が入ってきたらわかる、終わりだ。そうなってしまえば終わりだ。だから、だから…

 

 

 「…に゛ぁ…」

 「ぁっ……。…あ、りがとう皆…」

 

 膝から崩れ落ちた私を心配してくれているのだろう。四匹がそれぞれの形で私に寄り添い、近くに来てくれた。鳴き声をあげ、体を擦り付け、まるで大丈夫だと励ましてくれるかのように。

 用意したカゴには白猫と虎猫が入り、黒猫が近くに寄ってきてくれていた。茶白猫は私の着物に爪を立てていて…膝にのろうとしているのだろうか。…私の家族は、守れる家族達は、全て手の届く範囲にいつの間にか来てくれていた。

 

 これなら、私でも……こんな私でも、守れる。守らなきゃ。

 

 黒猫をカゴの中に入れ、体の小さな茶白猫を着物の胸元を広げて中に入れたあとカゴを持ち上げて急いで家を飛び出そうとする。

 …なのに。

 

 

 「んんっ!?…おっも!……大きく、なりましたねぇ…貴方達……!!」

 

 三匹を入れたカゴを持ち上げようとしたのに、あまりの重さにほんの数寸しか持ち上がらなかった。何これいくら三匹入っているとはいえ…恐らく四貫【※15kg】近くもなるなんて…この家に来たときは皆合わせても一貫も無かったのに…ああ、本当に立派になって。

 

 「んっ、あァッ!…ん、ぐぅ、んんんっ!!」

 

 それでも持たないなんて選択肢はないから、全身の力を込めてカゴを持ち上げ、歩き始めた。一歩一歩、ゆらゆら力無く歩けども引き返す事も止める事もせず。

 ただただ…外へ向かって歩きだした。

 

 

 玄関には…向かえない。未だに大きな音が…今にも壊しそうなほどの音が聞こえるのだから。あの"何者"かがいる以上向かえない。けれど草履は玄関、もしくは玄関近くの厨房にしかない……ならば、その、まま行くしかない。

 猫部屋から近くの縁側へと向かい…カゴを淵へと一旦置いた後外へと足を踏み出す。足袋を履いているから大丈夫。そもそも怪我なんて気にする事じゃない。私の体の無事より、他の大事な大事な、私の唯一の家族を守るんだ…!

 

 

 縁側の外の庭先、足袋越しに食い込む小さな石の痛みにこらえカゴを持ち上げる。ああ、重みに更に痛みが増す。でも、そんな事関係ない。

 そのままジリジリと、時折地面にカゴを下ろしたりして、蝸牛のようにゆっくりと動いて玄関から更に離れていく。

 玄関から、家から離れようにも屋敷の周りは塀に囲まれている。私の背より高いそれを飛び越すなんて出来ない。せめて呼吸を使えれば……でも、無理なんだから、私が出来る事をするしかない。

 ただただ…玄関から遠くへと、向かうしかない。

 

 

 ガゴジャッ!ガジャ、ドジャァッン!

 

 

 玄関からは、扉を壊しそうなほどの爆音が未だに聞こえている。決して一人では叩けないほどの早さと大きさで叩かれ続けるそれは。…ああ、玄関の外には何がいるのだろう。何人、いて、なんの目的で…

 

 ……いや、関係ない。私に出来る事は、手の中に、守れる範囲にいるこの子達を守るだけ。

 

 

 

 ガゴジャッ!ガジャァッン!!ゴジャッ!ドガッ!

 

 

 …大きな家の中の奥、玄関から一番離れた場所に行き隠れうずくまれば守れただろうか。こんな庭先で少しずつ悶えながら進むくらいならその方が正しかったのでは、と。

 足袋の裏に小石のとんがったものが突き刺さる。土の隙間を縫って硬い何かが足を傷付けんとばかりに攻撃してくる。痛みなんて関係ないとは思えど素早く動けない。私がどうなろうともこの子達を守れればいいと思うのに、守れるほど離れられない。

 

 

 ドゴォッ!バキャッ!ボガァッッ!!

 

 

 でも…私はこうした。こうなったのだから。間違いだろうと、選んだ選択を今さらどうも出来ない。今この時、この子達を守らねばならない。

 例え、私が…どうなろうとも……

 

 

 「貴方達、だけ…は!」

 

 

 ボグォッ!ゴギャッ!メゴォッ!

 

 

 憧れ望み、鬼殺隊になる為の舞台に進めもしなかった私でも…家の中からはみ出すように飛び出てもこの子達を守ると決めたその心意気と気持ちの感情を重石にして。だから他の誰がどうしようとどう思おうと。

 

 私は、今度、今度こそ、家族を守り抜く!

 

 

 

 

 だから!

 

 ……私を犠牲にしたとし………。……ん?

 

 

 

 ……あれ?何、これ。

 

 玄関先の音が、静かになった。

 

 いくら庭の端に移動しようとも、玄関から離れようとも……つい今ほどまで聞こえていた音が聞こえなくなるなんて、有り得ない。なぜ。どうして?

 …いなくなった?でもまさか。だってそんな、いなくなる理由が何一つないのだから。いなくなる…もしかして、そもそも最初からいなくて私の思い違い?幻覚?起きているのに見た夢?

 

 

 そうじゃなければ姿形や記憶を自在に操る超存在がいるという事に……

 

 何も理解できず、私はその場から動けなかった。妙に静かな猫達そのままに。

 

 

 

 *

 

 

 

 足音のしない彼が戻ってきた事に気付けたのはお願いした薪用の巨木を玄関近くに下ろした音が聞こえたから。

 どれだけの時間そこに立ち尽くしていたのかわからない。少なくとも体は冷えきり、猫達が待ちくたびれ鳴き始める程の時間は立っていたらしい。

 

 「…様…行冥様…!」

 

 玄関の外にいた異様なものとは明らかに違う気配に無意識に張り詰めていた緊張の糸が切れる。意図せず上げた声色は震えていて泣き声に似ていた。

 大きな声なんて出せない。なのにそれを逃さず彼は聞き付けてくれた。

 

 「まい子…!どうしたのだ、何があった…!?」

 「……行冥さまぁ…!」

 

 足音もなく一瞬で目の前に現れた彼、行冥様。到底人には出来そうにない素早い動きも体躯も盲目ながらの行動も。

 全て全て、本物の彼である他なく…器から水が溢れたように涙がこぼれ落ち感情のまま彼に抱き付いた。腹辺りに来たいきなりの衝撃に何かを言う事もなく、逆に片膝をつき抱擁しやすくしゃがんでくれた。

 

 首筋にすがり付き言葉なくしがみつく私を落ち着かせるよう背をさすった後片手で抱き、もう片手でカゴを持ち上げ立ち上がった。

 なぜこうなったのか。事情を聴くにも今の私では返せないと判断したのだろう。猫達を全員連れ出し、履き物も履かず庭先に凍えるまでいた上泣いている私では。

 

 だから、私達を楽々抱えれる彼の次の動きとしてそれは何も間違っていなかった。

 縁側をぐるりと回り玄関に、向かうことは。

 

 

 「ひっ!?」

 「……?……何だ、これは?」

 

 それ、を見て伝える事が出来るのはこの場で私だけだった。けれど予想は出来ても実際に目にするのとは訳が違う。だからなにも言えず咄嗟に彼の頭にしがみついてしまった。過去覚悟を決めた鬼の悪意とは全く違うそれは…防げようのない恐怖だったのだから。 

 

 私の奇行に首をかしげ、行冥様は一呼吸置いた後カゴを持った手を扉へ伸ばし…止まった。

 

 

 見えない彼はそこでやっと気付く。

 玄関扉の異常な変形に。

 

 

 あちこち強い力で叩き続けた結果だろうそれは枠を歪め、硝子を割り、扉としての形を保っていなかった。無理矢理こじ開けたかのような穴もある。

 それでも人が入れる隙間ほどは空いておらず通常ならば誰も入れるはずがない。私が見た影は行冥様の形をしていたのだから七尺以上はある。

 

 けれど…"あれ"は、人でも鬼でもなかったあれは…

 

 「…人の力でここまでの破壊を…?いやそもそも目的が…」

 「違っ、あの……」

 「………」

 

 彼に伝えなくては。どんなものがどんな姿でどう騙して入って来ようとしたのかを。

 けれど恐怖が喉を詰まらせて何も言えない。言葉が出てこなかった。伝えなければ行冥様は何もわからない。わからない、というのに。

 

 

 口を魚のようにパクパクするしか出来なくて、伝える、言葉に出す事そのものが得体の知れない存在の恐怖に負けて出来なくて。

 なのに彼はそんな私の様子を感じ取ったのだろう。支えている腕が微かに動いた後顔を、触れ合うように寄せてきた。あまりの近さと熱に別の意味で何も言えなくなる。

 恐らく常のように撫でてくれようとして、両手が塞がっているから…かな。

 

 

 「…どうやらお祓いをせねばならないな。そうだろう…?」

 「はい、ありがとうございます行冥様…」

 

 言わずとも、切れ者の彼は気付いてくれた。得体の知れない存在に。更に優しく気遣って解決法まで提案してくれた、優しく忙しい彼と違いほぼ常に家にいる私のために。

 

 

 それで解決してくれればいい。してくれないと困る。

 人からなる哀れで悲しい存在の鬼とは違い、超常現象に近い…お化けや妖怪、物の怪のような類いは命を食らわず隙間に入り込んで壊してくるのだろうから。

 

 

 ああ……怖い。怖かった。

 

 可能ならば、許されるならばこの恐怖が和らぐその時まで片時も離れずお傍にいたい。

 優しい彼にそう言えば恐らく受け入れてくれるだろう。そんな甘えは……今だけ、今夜だけ許してくれないだろうか。

 

 

 

 

 




 SCP-473-JP ごめんください

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 SCP-473-JPは一人でいる時に訪ねてくる、何者か。本来はチャイムを鳴らしてインターフォン越しに知り合いの顔と声と内容を伝えてくる。でも外から見ると誰もいない。
 扉を開けたり、開けずに9分間家の中で待っていると中にいる人と共に消失する。どこに行くのかわからない、怖い。好き。


 悪霊はお祓いする派な悲鳴嶼さん。そして多分本当に四六時中傍にいても悲鳴嶼さんは怒らない。優しい。
 


SCP-872-JP  http://scp-jp.wikidot.com/scp-872-jp

著者:Red_Sun 様

この作品はCC BY-SA 3.0ライセンスの下に公開されています。


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拾玖話 斧のようです

・今回は旧SCPです。元記事は改訂、削除されました。
・強引な販売員のようです、の時系列的に続きです。
・仮面のようです、の続きでも面白いですがこちらは読んでなくても大丈夫です。


 

 朝晩の冷え込みはますます増し、秋の気配を否応なしに感じさせてくれた。猫達は当然のように布団の上や中に潜り込んでくるし、触れる自然の水も体の芯まで冷やそうとばかりに冷たくなってきた。

 今は彼…行冥様は柱としての担当区域の見回り中でいない。彼がいる内はこんな勝手をするのは少し憚れる…こんな、近くの森とはいえ一人で勝手に出歩くなんて。

 

 私は病気ではない。一人で歩けるし、落ちている葉や枝を踏んでずんずんと進む事に何の問題もない。……途中で力尽きて倒れる何て事、恐らく無いだろう。多分。…ないと思う。

 

 彼は少し心配性だけど……そう思わせてしまう私の体がひ弱なのも事実。ああ、そう思わせなくならないかな。…ならないだろうな。そうなる時がくればいいな。

 

 

 「ん…いい香り…」

 

 整備はされてはいないものの、平坦な道を歩き続けていれば鼻先をくすぐる甘ったるい香りが漂ってくる。

 この匂いは…近くに金木犀の花があるのかな。あの橙色の小さな花を顔を動かし探していればほんの僅か頭上の岩肌に生えている金木犀を発見。あんな岩肌に咲いているなんて…立派な木だなあ…

 

 そう、思っていれば気付く。

 その木が生えている岩肌の下、割れ目から出ている苔むした根っこに突き刺さっていた人工物の存在に。

 

 

 「……え、なんで…?」

 

 その人工物は夏の日差しを忘れ去った照り具合に順応し、私の元へと穏やかな明かりを反射させていた。

 あれは…斧?

 

 

 

 

 ** SCP-437 **

 

 

 

 

 どうしてまたこんな所に斧が?不法投棄?でも根っこに刺さっているし自然に出来た形ではない。というかまるで使用途中のような…それなら忘れ物?

 けれどここら一帯は鬼殺隊…というか岩柱の敷地だろうし忘れ物はおかしい。……んん?不法侵入の上忘れるなんてあり得るのかな。

 

 近付き柄に触れてみる。木製のそれに誰かが触れていた熱は残っておらず、金属製の刃の部分はサビに覆われていた。この状態では切れ味の一欠片も感じない。

 家で使っている斧に形は似ているけど別物。こんなに錆びるほど放置なんてしてないし…やはりこれは長い間放置されている。突き刺さっている事実、それさえなければ投棄物と考えれたのに。

 

 

 とりあえず持ち帰ろう。自然の物じゃないこれをそのままにしておくのは良くない。

 何かの機会に行冥様がこの斧の存在に気付いたら心を痛めて慈悲の涙を流されるだろうし…黙見て見ぬふりは罪だ。

 

 大丈夫、そんなに大きくないし私でも…うん。問題なく持てる。

 軽く持っただけで根っこから錆びきった刃は抜けて…こんなにあっさり抜けるのならどうして突き刺さったままだったのかという疑問が出てくる。うーん、やっぱり不思議。

 まぁいいや。とにかく散歩は切り上げて持って帰ろう。

 

 

 来た道を戻り、家の屋根が見えた時ふと思い付く。有り得ないとは思うけれど一応家の薪を切る斧を確認しようと。

 玄関から道を外れ、近くの薪割りをしている場所へ向かい確かめる。うん。間違いなく普段使いの斧は大事に保管されているし錆びるような事もなく手入れされている。

 

 なら当然ではあるけどこの斧は別の人があの場所に……忘れたものと信じたい。答えのない憶測で悪意のある考え方はしたくない。

 このサビを取り除けばまだまだ使えるだろうに、あんな場所で錆びて……ああ、彼ならこう考えただけで泣いてしまうのではないだろうか。

 

 

 しかし、斧。うん、斧だ。薪割り用ではない小さい、木を切るための斧。彼の鬼を斬るためのものでもない…斧。

 片手で持てるかな。出来そうなほど小さいし……うん。

 

 

 「……岩の呼吸三ノ型、岩軀の膚!!……ふふっ…」

 

 静かな辺り一面にツンと鳴った私の声。

 

 彼のように鎖も鉄球もない、そもそも危ないから斧だって振り回したりもしていない。呼吸も使えない貧弱な体で出来るだけの、斧を前に突きだし憧れの遊びをしただけ。

 子供のような、みっともないというか…何だか少し恥ずかしくなって照れ笑いをしてしまった。型も何もない、刃物をただ振り回すという少し危険な遊びをしただけなのだから。

 

 

 「……んんっ」

 「!!!」

 

 なのに近くから聞こえてきた咳払いに体が跳ね固まる。擬音でしかないそれだけど、その音には声が混じっていて…その声は何より聞き覚えのある……

 恐る恐る……ゆっくりとその場所に顔を向ければ…家の中、厨房の窓から見慣れた隊服と羽織が覗いていた。手には湯呑みを持ち喉を潤しにでも来てい、た……?

 

 

 顔が頭が噴き出し茹で上がりそうなほど熱くなっていく。背中には冷や汗が流れて、全ての事がなかった事にならないかと願った。

 …ならなかったけれど。

 

 

 「……お…お帰りなさいませぎょーめぇさま……もっ、どられていたとは……思いもよらず…」

 「うむ。戻った。……まい子、その…」

 「きゃああ!良いです、良いです!何も言わなくて!!」

 

 震える声のまま出迎えの挨拶を外にいる私が家の中にいる彼に掛ける。それを行冥様は受け取り、そのまま私に何かを言おうと…

 けれどそれを大声ではね除ける。今だけは優しい慰めも何も聞きたくない!わたわたと大慌てで弁解をしようにも…慌てた事で咳が出てきた為に、斧を持った反対の手で口元を押さえる。

 

 「……すまない、声掛けするのも迷いはしたのだが…」

 「…いえ、私の勝手な事情ですので……ですが何も聞かなかった事にして見逃して欲しかったです…」

 

 そんなどたばたした気配を感じた彼の困った顔と涙を見て、申し訳なく思う。けれど…こんな自業自得とはいえ辱しめを受けるならばほんの少しでいいから…後からの声掛けにして欲しかった……いや、それはそれで辛いか。だろうけど

 

 

 「南無……型といい…場所が場所だったのでな。まさか斧を振り回しているような事はしていないとは思ったが…」

 「あっ…なるほど、そうでしたか…」

 

 三ノ型は確かに行冥様のいう通り、斧を体の近くで振り回すみたいな型だから…彼の心配するそれもなんら間違いではない。場所の選択も彼の考えている事と違いはほとんどない。むしろ本当に私が行っていたならば声を掛ける事を選択するのも当然。

 けれど、そうではない。

 

 「大丈夫です、すみません。斧は振り回さず、それに斧は斧でも別の斧なので」

 「む?」

 「森の中で、斧を拾ったのです。それも錆びきった何も切れなさそうな斧を」

 「…待て、そちらへ行く」

 

 見えない行冥様では私がどうしていたか、そもそも何を持っていたかが詳しくわからないだろう。だからそう伝えれば…意図は理解されたのだろうけれど、それでも納得が出来なかったのだろう。

 窓から姿が消えた後、大きな体を少し屈ませ扉から彼が出てきた。手に持っていた湯呑みは無くなっている、置いてきたらしい。

 

 「どれだ?」

 「これです。あちらの…えっと、三本のくぬぎの木がある所ですね。金木犀がとても良い香りでした」

 「ほう、そちらまで一人で?私がいない間に散歩するとはよほど体調が良かったのだな?」

 「……あっ…はい……スミマセン」

 「別に責めている訳ではない」

 

 差し出された彼の手に斧を差し出す。大きな手に触れ、錆びてはいるけど刃に触れるなら慎重にしなければと導く。

 その最中……ああ、馬鹿な事を言った。嘘をつく訳ではないけれど、心配をさせる、勝手な事をしている自覚があったからいないだろう時間に行ったのに…

 自己嫌悪な反省の真っ最中、彼は唸った。見上げれば斧の刃に触れ、柄に触れ…首を捻っていた。

 

 「これが…その木の元にあったのか?…この、斧が?」

 「はい。こんな錆びきった斧が置かれる…といいますか、刺さってました」

 「ふむ……妙だな、誰彼構わず入られるような場所ではないのだが…」

 「そうですよね!?あまり昔に置かれたものではないとは思いまして…!」

 

 麓の町の人達は知っているだろう、鬼狩り云々ではなく誰かが所有する山だろう事は。それは今彼の事だけど…別に禁止を出している訳でも、入った所で咎めるような事もないから入る事はあるかもしれない。

 それでもこんな山深くまでくるだろうか。うーん、わからない。

 

 「…まぁ、何にせよだ。放って置くわけにもいかない…良く気付き持ち帰ってくれた」

 「!…ありがとうございます」

 

 差し出された大きな手に斧を手渡す為に差し出した。

 

 

 

 …はずなのに。

 

 

 ぶじゅり、と肉を断つ音と共に彼の手に乗ったのは切り落とされた私の左手首から先。

 

 斧が到底有り得ないような動きをして、持っていた私の手を切り落とし、真横に飛んだ。そのまま近くの木にぶつかり跳ね返り戻ってきた。

 

 そのままの勢いで今度は私の左脛から下を切り落とした。理解する前に支えを無くした私の体が倒れそうに崩れ、前にいた行冥様が抱き止め支えてくれる。

 

 

 ……えっ。

 

 なに、何が起き…え?手と足を、切られた?痛みも無く?……えっ?

 

 

 「…ぁっ、あ゛ぁぁ!!」

 

 自覚した途端、赤くなるほど熱せられた火鉢を押し当てられているような痛みに鈍い叫びが漏れる。心臓が胸を大きく叩く度に腕先や足先から勢いをつけて血が流れる。

 嘘、嘘だ、なにこれ、有り得ない!あんな錆びきった斧で、こんな!

 

 それでもじうじうと焦がされ続ける手首や足の痛みをなげくより、わめくよりしないといけない事がある。

 私の手足を切り落とした斧は未だに跳ね続け、勢いをつけている。まるで私よりもっと大きな物を狙っているかのように。

 

 

 跳ね返ったそれが行冥様へと向かって飛んでいくのが見えたのは偶然でしかなかった。身体能力も目も特別良い訳ではない私が見えたのは。

 避けて、とも。危ない、とも言えなかった。それを言えるだけの時間もなかった。もはや斧の速さはそれほどの速さになっていたのだから。

 

 斧は目で追えないほど速いのに、なのにその動きはゆっくりに見えたのはなぜだったのだろう。まるで走馬灯のように。

 

 

 「岩の呼吸弐ノ型」

 

 

 聞き慣れない音がした。大地が唸り怒るような音が。

 

 

 「天面砕き」

 

 

 目の前で爆発が起きた。

 違う起きてない。揺れた。爆音が鳴った。違う。

 

 ……なに?何があったの?

 

 私を支えてくれていた腕が私を抱き上げる。その反動、動いた事でどぷりと血がまとまって溢れ出た感触が手足から伝わってくる。

 目線が上がった事で反射的に目線が下を見る。そこには予想もしていなかった景色が広がっていた。

 

 

 私達…否、行冥様が立っている地面を中心に土の地面が大幅にへこみ、ひび割れていた。正確に言うならば行冥様の右足を中心に。足の下には地面に埋まり、踏みつけられた事で柄が折れている斧が。

 

 …先ほどの爆発のような、ものは。彼が…

 

 

 「すまない、少々動く」

 

 言われるが早く景色が瞬きの間に移動し、気付けば厨房にある木の床に寝かされていた。何事かと体を起こそうとしたのになぜか異常に体が重く、起き上がるのが億劫で。それでもなんとか顔だけ動かし現状を把握しようとした。

 目の前には…行冥様。着物の裾を膝上まで捲って……ああ、止血されているみたい。腕も、かな。行冥様の力で締め付けられてるから血管が完全に止められてるのだろう…けど……いた、い。

 

 「ぎょ…」

 「喋るな。呼吸による止血が出来ないまい子では出血が酷い、すぐに貧血を起こし意識を失ってしまう」

 

 先ほどまで着ていた羽織が無くなって……ああ、頭の下にあるこれかな。自力で起き上がろうとする私を彼が支え、手の中にある小さな何かを口の中にいれてくる。

 これは……錠剤?薬?……あっ、これは…"例の"?舌先に硬いそれが行冥様の指と共に入ってきたあと、口元に湯呑みを当てられ少し苦いお茶が流れ込んでくる。

 

 「咳き込み吐かないよう、ちゃんと飲みなさい。"これ"を飲んでも失ったものはすぐに戻らない。だから……ゆっくり、眠りなさい」

 

 喉が動き、飲み込んだのを確認したのだろう。頭を支えていた腕をゆっくりおろし、大きな手で顔を覆ってくる。暗くして…寝かせるつもりだろう。

 

 

 全く…子供じゃないのです。そんな事をしなくとも、眠れ…ます。

 

 

 ……ああ、でも。目を閉じればとんでもない後悔が胸の中を占める。私が斧を持ち帰ったのが全て悪い。

 

 持ち帰らなければ手足を失うような…事故、は起きなかった。彼が地面を叩き割るような技を出す事も手足を切る事がなかった斧を破壊する事も、貴重な薬を使う事も…

 

 

 「自己嫌悪に陥る必要はない、あれ、は放っておいてはいけないものだ」

 

 なのにこんな私の心境を見たかのように彼は言葉をくれた。気配で感じたのだろう、私の痛みが理由でない憂鬱を。

 

 

 「あれ、は。普通ではない……まい子があれ、に危害を加えられただろう?この、細く儚い手足を」

 

 そんな優しい彼の…低く落ち着き、一言一言が溶け込むような優しさの声が耳に入る度に意識が遠のいていく。

 ああ…重たい。眠い……薬は睡眠薬ではないけれど、血が少なくなった体は眠りを求めている。けれど彼がまだ喋って…

 

 「私の手のひらに乗せられた切断された手は……まるで霧か霞のごとく……一瞬で風化した。恐らく、足もだ。…まるで頸を斬られた……鬼の、ように」

 

 手足の痛みが……徐々に引いていく。これは薬の…おかげなのだろう、か。目覚めた時には、どうなっているだろう。

 

 

 別に手足が生えているとは思わない。けれど…

 あんな危ないもの、二度と触りたくないし、触ってほしくない。善良な、誰かには。

 

 

 

 

 

 




 SCP-437 きこりの斧

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 SCP-437はサビまみれの木製木こり用斧。サビまみれで木なんて全く切れないのに使用者の手から離れるとありえないような動きで跳ね返り、使用者の手足を攻撃し切断する。
 切り落とされた手足は一瞬で風化する。実は切られた手足にほとんど痛みはなく、血もあまり出ない。でも見栄え重視で変更しました、ごめんね。


 SCP-437が改訂された事に気付き、この旧SCPきこりの斧を気に入ってた為慌てて書きました。元報告書が削除されたって事で壊されました。





著者:不明

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弐拾話 視界の隅にいるようです

 

 

 複数の隊員と共に一人の鬼を倒した。

 

 その鬼はさほどの強さを持ってはいなかったが、ただただ厄介で手を煩わせてきた。

 その鬼の血鬼術は時間の感覚を狂わせ、幾分が幾日もの時間を体感させるものだった。感覚のみだが飢餓に苦しみ、睡眠不足に体は揺らぎ空腹に反吐を吐かせた。

 

 それでも、私は他の複数の隊員の命を守れた。その鬼の頸を跳ねれた。

 

 鬼が滅び血鬼術から抜け出せた彼らが、私に声をかける。それらは感謝のもの。かけられた隊員の言葉が…脳内を緩やかになめらかに通過する。

 聞き流したい訳ではないのだが…感謝なのか、感嘆なのか…申し訳ないがそれらがほとんど何も頭に残らない。勿論受け取りはする。だがまんべんなくは厳しいやもしれぬ……嬉しさはあるのだが。

 

 

 嗚呼…南無阿弥陀仏……私もだが、他の隊員は更にそうなのだろう。血鬼術にて疲弊しきっている。

 意識がぼんやりし、何度も何度も繰り返し感謝の同じ言葉を紡いでいる。

 

 無事生き残れた命は確かに感謝すべき事かもしれない…が。ただただ満身創痍に近い体は、休める事が大事だ。

 それがまた……鬼殺隊の糧になる。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

  ** SCP-372 **

 

 

 

 

 

 藤の花の家にて休み万全の体調に回復するのも可能性として有りだった。実質他の隊員にはそうするように伝え、場所を鴉経由で伝えたのだから。しかし私はその手段より、足を動かし自宅に戻る事を選んだ。

 例えそれが、家に着くなり倒れ込みそうになるほどの疲労を覚えるようなものだとしても。それが、体を休めるよりも擦りきれるような日々の心の癒しとなるのだから仕方あるまい…

 

 

 …ほら、玄関扉を開き声をかければ、屋敷の奥から声と共にハタハタと駆けてくる足音が聞こえてくる。

 

 

 「お帰りにゃさいませ、行冥さにゃん!……ぁっ」

 

 廊下の奥から出迎えてくれた彼女、まい子。その声に体が言い様のない安らぎを感じ、また不可思議を思う。

 その掛けられた言葉は……どうしても聞き流せないもの。…何だと?

 

 私の目では彼女の姿は見えないが、その形をとらえられなくとも解る。まい子は大変慌てて…室内のあちこちを見渡し、最後には手で顔を覆おうとうつむいたのだろう。手は…覆えはしなかったようだが。

 

 「…いやその今のは忘れて……ぁあ、そのような目で見ないでください…!」

 「…今、なんと?」

 「……うぅ、その……猫達とたくさん会話をしていたから、ですかね……つい言ってしまいまして…決してふざけた訳ではないのです…」

 

 とがめている訳ではないのだが私の声を聞いて、徐々に小さくなりながら紡ぐ声色に…つい笑ってしまう。家に一人でいる彼女の話し相手は猫達なのだから仕方ないのだが。

 脳内に見た事もない、これからも見る事も出来ない猫達と彼女の戯れの様子が思い浮かぶ。そのなんとも言えない慈愛と尊さに、感情の涙がこぼれ落ちる。

 

 おそらく…にゃごにゃご、にゃーにゃーと鳴いているのだろう。彼女が。

 

 

 胸元が熱くなる。涙が落ちる。なんともまぁ、幸せな事だ。

 

 

 「ええっと、改めまして……お帰りなさいませ、行冥様。この子も挨拶をしたいようです」

 「む?……この長毛…抱かれている状況では決して私に顔を向けてこない様子といい、この子は黒猫の…」

 

 上がり框を越えた私に、まい子が差し出すように胸元に抱いた猫を向けてくる。手を伸ばしその背に触れ、撫でども猫はほとんど何の反応もせず……嗚呼、それもまた可愛いものだ。

 黒猫で長毛である彼女は抱かれる事を好む。そして抱かれ続ける事を望み、止めようとすれば爪を立て抵抗してくる。だから…挨拶をしたいとは詭弁でただ彼女の腕から動かなかっただけ。それでも…出迎えてくれた事は愛しさを覚える。

 

 「なんとまぁ……南無、ただいま戻った…」

 「はい、お帰りなさい。ところで行冥様、目の下に濃いクマが……少しお休みになられますか?」

 「ふむ……一時間…いや、一時間半ほどで起こしてもらえるか?」

 「はい了解です。すぐにお布団用意しますね」

 

 クマが出来ている、か。出掛けていたのはほんの数日。しかしまるで長期一睡もしていないかのようなそれの理由を訊ねる事もなく、先にただ休ませる選択をくれるのはありがたい。こうなった説明は起きた後にしよう。

 私の就寝の用意をするために猫を廊下に下ろそうとするまい子。しかし抵抗され、爪を立てられているのだろう痛みで苦しむ声が聞こえてくる。だから彼女から猫を受け取り後をついていこうと足を動かした。

 

 その時。

 

 

 ……?何だ?

 

 「…行冥様?」 

 「……いや、気のせいか」

 

 廊下の先に行ったまい子が私のおかしな様子に気付き声をかけてくる。確かに突然立ち止まり、見えない目で辺りの様子を伺う姿はなんとも奇妙だったろう。

 それでも確かに……いや、そんな訳がないか。

 

 疲れているから、そう感じただけなのだろう。

 

 

 「もう少々お待ちくださいね。ぁっ、朝夕はもうすっかり冷え込みますが…今の時間帯ではあまり布団を重ねると暑すぎるかもしれません」

 「そうだな、一枚退けておいてくれないか」

 

 厠に行き喉の乾きを潤し、空腹より優先すべき睡眠の為に部屋の中に入れば布地の擦れる音が聞こえる。私用の標準より大きな布団を敷いている音が聞こえる。

 今の時間は日中。夜の闇を迎えるには遠い時間帯。

 

 私はその場で下ろされる事を嫌がる猫を片腕に抱いたまま羽織を脱ぎ、片手で半分に折り畳むだけにして畳の上に起きそのまま座る。

 本来なら寝間着に着替えるべきなのだろうが……上の隊服を脱ぐだけにとどめる。猫を抱いているから、なんて言い訳は通用しないだろうが。それでも動く事がなんとも言えないほど億劫で…

 

 全集中の呼吸を改めて大きく吐き目を閉じる。ああ、くたびれきった体が少々情けなし…

 張り詰めていた緊張と気合いの糸がたわみ切れたのかもしれない。地面に引きずり込まれそうなほど…眠い。一晩だけの徹夜とは思えないほど…

 

 

 「お待たせしました!…あ、駄目です床に座り込んだまま眠ってはいけません!」

 「む…ぅ、そうだな。すまないが二時間後に起こして欲しい…」

 「はい、かしこまりました。しかし二時間と言わずもう少し眠られても…」

 「いや大丈夫だ……それで、頼む」

 

 意識を飛ばさないよう布団へと移動し、中へと潜り込む。下手な場所で動かなくなれば迷惑この上ない、彼女一人では私を移動させる事は用意ではないのだから。

 黒猫の抵抗は布団の上に乗せれば落ち着いた。そのまま私の体沿いで気に入った場所を見つけ、寝転がるのを感じた。その背を一撫でする。

 

 

 瞼の開閉に関係なく変化のない暗がりの中、彼女が枕元に指と膝で動き近付いてくる音が聞こえた。

 

 「それではごゆっくりお休みください、また二時間後に来ますので」

 「うむ、すまな……」

 

 

 考えるより先に動いていた。

 

 

 「ひゃあっ」

 

 疲労困憊の体は言葉より早く動き、跳ね起きるままひるがえしまい子を左腕で抱え込み床に押し倒した。痛みの有無を考える間もない反射的な行動だった。怪我はさせていないとは思うが。

 そしてその体があった場所の後ろに右腕を突き出し、掴もうと。

 

 

 ……掴もうとした、のだが…。

 

 

 ……しかし。そこに()()はずの…掴めるはずだった()()()を掴む事もなく、手は空を切った。

 ………。確かに、何かいたと感じたのだが……まさか、先ほどと同じく気のせいだったのか?あのような、気配が?中々の速さで行動したと自負するが、それより素早く動いたとでも。

 

 ……いや、まさか。やはり気のせいだったのだろう……疲れているから、有りもしない気配を感じただけだ。鬼との戦いで高ぶった神経が、間違いの選択肢を作り出した。それだけなのだろう。

 

 …早く休むべきだ。睡眠不足は幻覚を作り出す。このような行動をしないように。

 

 

 「…ぎっ…ぎょめ、さま…?」

 「……むっ!」

 

 そんな自己嫌悪の最中、私の胸元より下方。かすかに震える声が私に届く。他でもない、まい子だ。

 涙声?いや、これは……私という存在そのものに対しての……嗚呼。そうだ。反射的な行動とはいえ。布団の上に引きずり込み、怪我をさせてはいないとはいえ、無理矢理押し倒すなどなんと乱暴な事をしてしまったのだろう。怖がらせても仕方ない。

 

 それも……このような体勢で見下ろすなど、御天道様が顔を出す日の高い内にするべき事ではない。明確な行動の理由が証明出来ないそれは、悪意も他意もないとは信じさせれない。

 彼女を脅かすも怯えさせるも、私の本意ではない。泣かせたくない。離れさせたくない。

 

 

 「……すまない、乱暴した。まい子の後方に……危険な虫の気配を感じて、咄嗟に離そうとしたのだが」

 「……ぁっ、な、なるほど…そうでしたか…」

 

 だから簡潔に行動の理由を説明した。例えどれだけ言い訳を重ねても関係ない、震える声が聞こえる事が事実。当然の事だ、無闇な乱暴を働いたそれを早々簡単には許してもらえるはずがない。

 どんな暴言を吐かれようとも、恨みの声を吐かれようとも私に弁解の余地はない。野蛮な行動を行ったのは事実なのだから。

 

 「…しかし、こんなに寒くなったのに虫がいたのですか?」

 「…ああ。しかしどうやら勘違いだったようだ」

 「いえいえ、そんな。丈夫な虫もいるやもしれません。どこかへ行ってしまったのでしょう」

 

 しかし彼女はその事を責めて来ず、薄く笑った。それが苦笑に聞こえるのは…自己認識のせいだ。どうであれ彼女は身を起こした私の腕の中から移動しようとして……なぜか腕の力のみで這って抜け出していた。

 

 「そ、それではお休みなさ……ぅ…」

 「うむ……どうした?」

 「いっ、いえ。お、驚いた事で…少々腰が抜けてしまいまして…」

 「嗚呼…!私のせいで……常々申し訳ない…!」

 「いえ…大丈夫です、すみません……」 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 まい子の声かけと肩を揺する微細な振動で起きたのは約束した通り二時間後の事だった。一度軽い仮眠を取った事で体は随分楽になっており、再度訊ねられた二度寝は丁重に断り体の上や横で眠っていた猫達を退かし起き上がる。

 

 睡眠欲が満たされ、次に体が求めたのは食欲だった。しかし夕飯にはまだ早い時間帯。私がそれを理由に断る事を想定していただろうまい子が差し出してきたのは艶やかな皮を剥かれ、食べやすい大きさに切り分けられた柿だった。

 しゃくしゃくと新鮮な甘味を含んだ水分が体に染み渡る。南無甘く美味い…!

 

 「もう一つ有りますが、どうですか?」

 「良いだろうか?それでは頼む…」

 「はい。おまかせください!…そういえば虫の話なのですが」

 「む?」

 

 私の体に合わせ切り分けられれば必然的に数も少なく、すぐに食べ終わってしまう。それでもまだ足りない事を感じ取ったのか二つ目の申し出を有り難く受け取らせてもらう。

 包丁が皮を剥く心地の良い音と共にまい子が掛けてきた言葉は、今より二時間前の最後にした会話の事。

 

 「行冥様に言われてから何とはなしに気にしてみました。勿論何も見付けれませんでしたが、けれど思い込みですかね。何かがいるような気がしました」

 「嗚呼…余計な事を言ってしまったようだな、申し訳ない」

 「あ。いえ、数分で体が飽きたのかなにも感じなくなりましたので。そもそも気のせいだったのでしょう?」

 「恐らく。…私も睡眠をとったからだろう、今は何も見付けられない」

 

 私の狼藉を働いた行為をとがめる訳でも、責め立てる訳でもなく純粋に虫を探す事を選んだ事に胸を打たれる。

 そして仮眠を取り、意識が多少まともになった今再度気配を探してみてもあの時感じた気配は見付けれなかった。

 

 

 「まぁこの時期に…吐く息も白くなっている今の時期に宙を飛ぶ虫は少々厳しいですかね」

 「うむ、そうだな。……そんな虫など、いなかったのだろう…南無阿弥陀仏……」

 

 

 やはり幻覚。そうとしか考えれない。そうだろう?

 

 

 それに何よりあの時私の感じた、虫のような気配の大きさは通常では考えれないほどの大きさだったのだから。

 

 

 気配や微かに感じた身動ぎや羽音からして……あの虫は私とさほど変わらない大きさだった。そのような虫が……まい子に気付かれず飛べる訳がない。

 やはり、ただの思い違いだ。そうである他ない……

 

 

 

 

 




 SCP-372 視界を飛ぶモノ

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 SCP-372は頭から尾まで約2mある未知の生物。細長い体に8対の短い手足がある。未知の感覚器官を持ち、近くにいる存在の脳内電気信号を感知する事でSCP-372を探す人間の頭の後ろに隠れる。姿は普通の方法では見れない。無理矢理SCP-372を見ようとすれば傷付けられ、場合によっては殺される。


 SCP-372はふらりとここに来て、しばらくまい子の周りにいたけれどどこかに行きました。
 


SCP-372 http://scp-jp.wikidot.com/scp-372

著者:Sylocat 様

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弐拾壱話 寒い山にいるようです(前編)

 

 

 寒い。寒い。寒い。

 ああ、本当になんて寒さなのだろう。体の芯まで冷えきってしまいそう。

 

 今現在は夜で、闇夜に紛れて辺り一面を白く染め上げている雪景色は見えない。それでも家の中ですら吐いた息は白く染まるほどの気温で。

 火をくべた囲炉裏や火鉢を焚いていた部屋から寝室へと移動する廊下や移動し終わった室内ですらどうしようもない寒さを感じる。灯りの乏しい室内はますます冷たく感じる。

 

 

 「うぅッ!冷たい、寒いぃ…」

 

 柔らかな綿の布団は熱を閉じ込めるには適していても一番始めは冷たくて仕方ない。氷とまでは言わないけれど体温をさらっていく布地に熱を奪われてしまう。震える体を抱きしめ、熱い熱い息を吐き出すしか私には出来ない。

 このひ弱な体はこれだけで熱を出してしまいそうだ。

 

 「南無……大丈夫か?」

 

 すぐ近く。二尺も離れていない距離からかけられた心地良い低音は常と違い同じ高さから。中に潜り込みかけていた頭を布団から出して声の主の元に寝転んだまま向き合う。

 かろうじて表情が見える暗がりの中、私を気遣うような優しい顔で行冥様がまっすぐこちらを見ていた。もちろん彼用の大きな布団に寝転んで。

 

 

 今のように吹雪く風の強い日でさえ鬼殺隊に休みはない。鬼がこの世からいなくなるまで、鬼の始祖を滅するまで終わらないだろう。だから束の間の平穏は大事に過ごしてほしい。

 こんな季節柄のささやかな辛さに心配させてはいけない。そもそも彼のいない時にも同じような弱音を吐いているのだから、今くらい我慢すればよかったのに…ああなんて愚かなのだろう!

 

 「大丈夫です行冥様!…ただ布団が冷たかっただけですので」

 「嗚呼…確かに凍える、な」

 「いつもは猫達が一人か二人は共に添い寝してくれるのですが…今日は振られてしまおました」

 

 私が寒いのと同じく猫達だって寒いのは寒い。いくら毛皮があろうとも寒いのは寒い。

 今日は火をいれていた部屋に全員留まっている、もちろん火は火事にならないよう消してきたし陶器にお湯を入れた湯たんぽを置いては来たけれど徐々に気温は冷えていくだろう。けれどまぁそうなっても困らないよう温かな布地をたくさん置いてあるし、潜り込めばかなり暖かいはず。何より全員で集まり猫団子を作れば大丈夫。

 だから今平気でないのは私だけだ。行冥様は元々寒さに強いのか、それら関係の弱音を聞いた事はない。理由は恵まれた体格の為なのか呼吸の為なのか…どちらかはわからないけれど。

 

 

 「なるほど……ならば今日は私と寝るか」

 

 だから、そう穏やかに告げられても理解出来なかった。一瞬どころか、しばらく。

 

 

 「……え。…あっ、いや…大丈夫です、よ?」

 「遠慮など必要ない。嗚呼、氷のように冷たい手…早く暖めねば」

 「ふぁっ…!?」

 

 暗がりの布団から出てきた大きな手が私の布団の中に入ってくる。ガサゴソと何かを探るようまさぐっていた大きな手のひらが私の二の腕をつかんだ……と思った瞬間。

 一瞬にして暖かな布団の中に潜り込んでいた。

 

 「…ッ!?」

 

 あまりのその早さに何がなんだかわからなくて。そして理解しても何も声はでなくて。行冥様の動きが追えないのは常の事ではあるけれど…こんな風にされるとは、こんな事が起こるとは想定もしていなかったから。

 いや別に同衾事態は今夜が初めてではないけれど、それにしては急すぎて……すると前もって決まっていた時と違い心臓の脈打ち加減が違う。うろたえドコドコと早鐘を急激に打ち初めて、少し苦しい。

 

 「ぎっ、行冥様…?」

 「もっと近くに来なさい。嗚呼…なんと凍えるような体だ、暖めよう……」

 「…えっあ……ひゃ…ッ」

 

 大きな手が足が、体に巻き付いてくる。長い長いそれらは私の体を拘束するにはいとも容易く、また暖めるには簡単過ぎた。ごうごうと熱を発しているかのように暖かなそれらは、言うが早く瞬きを数回するだけのわずかな時間で私の体を暖めてくれた。

 力が強いのは、敵わないのはわかっている。彼の手の中から抜け出す事なんて天地がひっくり返っても出来やしないし、もっと言えば彼を裏切るような事もしないだろう。けれど…

 

 「あっ、あぁあの、行冥様…!」

 「ふ、む。か弱き体だ…耳たぶまで儚く、冷たく柔らかい…」

 「ひゃっ!」

 

 寒さに負け霜焼け気味の耳たぶを、耳を彼が転がし、暖め、濡らし、溶けていく。

 常であれば顔と顔がこんなに至近距離で向き合うことはない。身長差がとてつもなくあるし、寝そべっていなければこんなに近い場所に顔はない。なのに。なのに、こんな…

 

 無意識に、息を飲んだ。

 

 寝間着をなぞる手のひらが。体の線をよりも大きな手が。耳をくすぐるその息が。身長差で固定された部分に触れる体が。

 

 

 「ぁっ……ぁ、ぎっ…ぎょめ…さ……ぅ、んっ…」

 「な、ぁ……まい子…。大丈夫、大丈夫だ、から……」

 

 

 触れそうな距離の、触れる距離の吐息が。熱い。

 

 

 「私が隅々まで、暖めようか…」

 

 

 彼の低い低い声に頷く間もなくとろけていく。

 心臓が異常に脈打って。吐息が濡れて。はだけた寝間着の隅々まで、熱を持っていた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 はいはい、ありがとう。間違いないよ。こんなに寒く足場も悪い中、遠くまで申し訳ないね。

 それに体調悪いんだろう?風邪を引いているんじゃあないかい?確かに今日の約束で、貴女じゃないと駄目とは言ったが歩けない中抱えられてまで来てもらえるとは…まあ、貴方は立派な体格をしていらっしゃるからね。抱えるならばさほどの苦ではないかもしれないが。

 …ああ、まあ、そういうもんさ。

 

 いや用事はこれで大丈夫だよ。もう少しゆっくりして……そうかい?急ぐなら仕方ないね。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 どうしても外せない用事がある、そう彼女に言われたのは今朝の事だった。

 

 その時点で「わかった、気を付けていきなさい」等とまい子一人を送り出すなど非道な事出来る筈がなかった。

 立ち上がる事も辛そうな彼女でなく、私で出来る事なら一人で済ませに行くと言えど…彼女自身が必ず行かなければならないという。色々強い話し合いの末、私が彼女を抱えて移動するという結論になった。

 

 道中、最中、色々あれどどうにかこうにか用事を済ませた私とまい子は帰り地を進んでいた。自宅まではまだまだ距離がある、そんな山中を。

 

 

 ハラハラと降りしきる雪は歩く道を不安定にさせ、時おり吹く冷たい風は羽織りを巻き上げる。まるで歩みを止めんとばかりに。

 

 寒さ。気温。吹きしきる風。舞い散り積もった雪。

 この程度の妨害で私が歩みを止める事はない。私が止まらなければ腕に抱き上げている彼女が止まる事もなく時間さえかければ無事に屋敷まで戻れるだろう。早く戻り、ゆっくり休ませてあげたい。

 

 

 「確かに今日だと言い忘れていた私が悪いですよ?悪いですが……あぁ、こんな……ぅぅうう~…!」

 

 腕の中で呟かれていた独り言はどうにもならない後悔混じりの呻き声で段々と小さくなりぶつぶつと念仏のようになったかと思えば勢いついたまま揉み上げから首筋に頭と顔を押し付けてきた。

 昨夜から数え続ければかなりの時間私の領域内にいて、抱き続けているまい子の体は相変わらずひ弱で小さく、血の気を感じれないほど冷たかった。どれだけ厚着をさせても絶対的に足りない筋肉量が彼女を冷やしていく。

 

 何の気休めにもならないかもしれないが、抱く腕の強さを更に強くする。肌に、着物や羽織りに張り付く雪を払いながら。

 …そして、これこそ何の気休めにもならないだろうが、声をかける。

 

 「そんなに気にしなくとも良いのではないか?御婦人に何を言われた訳でもないだろうに…」

 「…確かに言われてはないです…が。しかしあの生暖かい目が、目がですね…!」

 「しかしそれは責める訳でも咎める訳でもないだろう?」

 「それはそうですが…」

 

 踏みしめた雪の下に石があったのだろう。音と感触が違った。この程度の事で揺らぐ体幹ではなく何事もなかったように進める。今の私は一人ではない、無茶な行動も運動も出来やしないのだから一歩一歩着実に進まねば。

 痛まないほどの強さで抱き締めている腕に力を巡らせる。この行動自体…他に手段がなかったからだ。しかし。

 

 

 「…それとも、私を…私では、恥ずべきと?」

 「!」

 

 まい子が驚いたのが感覚でわかる。

 嗚呼…この問い方ではまるで私の方が責め咎めるようだ。そうではない、そうではないが。困らせたい訳ではない。

 ただ少し……そう、少しだけ。

 

 

 「……もうっ、いけない人です行冥様!…意地悪です、そのような事……解られているでしょう…!」

 「ははっ、すまない」

 

 戯れたかっただけなのだろう。彼女が身動ぎするたび細い髪が首筋をくすぐり笑いがこぼれる。その事が心境と重なり声をあげて笑ってしまった。まい子の抗議の指先が頬を摘まむも、その冷たさそれすら愛おしい。

 

 

 

 その時、一つの風が私達の肌を撫でて吹き抜けた。

 そしてそれに混じり小さな…

 

 

 「……む…?」

 「…?どうしました、行冥様?」

 「いや……今、微かに猫の声が聞こえたような…」

 「え、えっ!?猫ちゃんがですかッ」

 

 聞こえ、思った言葉そのまままい子へと伝えれば案の定驚かれる。当然だ、呟いた私自身でさえ信じられない。まさか雪が降り、二寸近く積もっているこんな雪山の中……猫がいるのだろうか。それも声色からして…かなり幼い…

 絶えず進めていた足を止め、辺りを見渡し耳を澄ます。…聞き間違いなら構わない、気のせいであるならそれで良い。寒さで苦しんでいる猫がいないならば。

 

 木々の隙間を吹き抜ける風の音だけが聞こえる。それらを聞き違えたのだとしたらそれでいい。それで……あってほしい。

 ……だが。

 

 

 「!行冥様、今私にも聞こえました!子猫の鳴き声のようなものが…!」

 「南無…やはりか。まい子すまない、少しだけ寄り道をしても良いだろうか…」

 「勿論です!こんな寒い中…凍えているのだとしたら、早く助けてあげましょう!」

 

 私だけでなく再度聞こえたそれをまい子も聞き付けたとしたならばそれは間違いのない事実なのだろう。脳内に思い浮かぶは雪を避け、風の当たらない場所に縮こまり震えに震えている汚れ痩せこける猫の姿。

 その勝手な想像だけで瞳から涙がこぼれ落ちる。頬を伝い下に落ちたそれは雪を溶かすのかはたまた凍りつくのか…見えない私の目では何もわからない。

 

 それでも猫を助けに向かう事は出来る。見えなくとも、気配や音、全ての四感…いや味覚を除いた三感を使い探す事は出来る。それに、なにより。

 

 

 「私も探します!大丈夫です、目は良いのでどんなに小さくとも見逃さないようにしますから!」

 

 今の私にはか弱く儚くも、尊い眼がついている。抱き寄せた弱々しい体は今にも凍えそうでもその言葉は何よりも頼もしい。腕の向きを少々変え柔らかい頬に自身のそれを擦り寄せる。

 とっかかりにもならない傷を撫で上げ、触れ続け私の熱を移す。触れたそこの温度が上がったように感じるのは自意識過剰だろうか。それでも感情そのまま行動で礼を伝え。

 

 「うむ……頼りにしている」

 「は……。…は、いぃ…頑張ります…!」

 

 まい子の声が少し震える。それは寒さで、なのだろうか?今彼女がどのような表情をしているのか見えない私ではわからない。両手で触れれればわかるが、抱え塞がっているこの状況では不可能だ。

 しかし今最も優先すべき事はまい子の表情を読み取る事ではない。聞こえた小さな命を探す事だ。

 

 

 

 私は足を道から外し、山へと踏み入れた。

 

 猫を、早く鳴き声の主を見つけ出さないといけない。見付け、保護をして……迎え入れる事が最適ならば、そうしよう。

 

 

 

 




 ─ 後編に続く


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弐拾壱話 寒い山にいるようです(後編)

 

 

 

 ろくに手入れのされていない木々の隙間を吹き抜ける風は遥かに強かった。寒さに弱い彼女を出来る限りの方法で暖め、それでいて目では探せるようにしていた。私も全ての感覚を使い、微かに聞こえた猫の存在を探していた。

 

 どこにいる。寒さで震えて苦しんでいるその姿を早く保護せねば。早く、早く。

 

 

 

 そうして、山に足を踏み入れ探す事数分。私の耳も、鼻も、感覚も何もとらえられず見付けられないまま更に足を踏み出そうとした……その時だった。

 

 

 

 「……ぇっ…」

 

 まい子の発しようと意識した訳でもない、こぼれ落ちた声が私の耳に入った。それはナニモノか、を目にとらえた為にこぼれ落ちた声色。

 だから一瞬探していた猫を見付けたのかと思った。が。

 

 首もとに回されていた腕が、力を込めて抱き締められる。それは嬉しさや達成感からのものではなく、むしろ……

 

 「…まい子…?」

 「……ぎ、行冥様…!」

 

 微かに震えるそれは寒さでない怖さから来たものだと声色含めすぐに理解する。突如怯え始めた彼女の背に手を回し何事かと、何を見たのかと、危険な生物…例えば冬眠し損ねた熊やうろつく野良犬でもいたのかと尋ねようとしたその時だった。

 

 

 『…に、ゃあ……』

 

 

 「………」

 

 私とまい子が探していたであろう、声の主を見付けたのは。

 それはほんの九尺先にいた。たたずんでいるのか座っているのかわからない……辺りに視界を遮るものは何もない、開けた雪深い場所に()()はいた。

 

 

 子猫が普通に何事もなくいるとは思えない、しかしそれでもそこに間違いなく声の主はいる。

 ならば状況はどうであれ、すぐに保護するべきだ。この寒さの中、屋外にいつまでもいるのはよろしくない。猫も、まい子も。すぐに抱き上げ、連れて帰るべきだ。

 

 

 

 普通、ならば。

 だが。だがしかし、そうはいかなかった。いけなかった。出来なかった。問題が…ある。

 

 

 その猫がいるはずの場所を見て、まい子が怯えている……私の首筋に力一杯抱き付き、触れ合う場所からわかるほど寒さとは違う歯を噛み鳴らし震えて…それでも目線を外さないようにじっと見つめ続けている。

 

 

 

 ……ここで一つの可能性を思う。いない、が。まさか、そんな?

 

 

 私達が聞いたのは、今彼女が見ているのは………なん、だ?

 

 鬼ではない。経験でだが肌で感じる、即座の対応での危険を感じてはいない。

 しかし………そう、だ。

 

 

 

 

 目の前にいるのは、猫でも、動物でも………そもそも()()()ですら、ないもの、だ。

 

 

 

 

 

 ** SCP-580-JP **

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 私の目に映る景色はほぼ全て、白かった。

 

 木々を染める、地面を染める、遠くの山を真っ白く染める雪景色。

 その中で私は景色に溶け込みそうなたった一つの白いものをただただ、見つめていた。いやむしろ睨んでいた。目を逸らす事が出来なかった。

 一瞬でも目をそらせば辺りの白に溶け込み、二度と見付けれないかもしれない。その可能性が視線を逸らす手段を奪ってきた。

 これは、目でとらえていないと駄目だ。

 

 ()()を見続ける事で体が気温ではない寒さを感じ、抱き抱えてくれている行冥様に強く強く抱きつこうとも、体が無条件で震えようとも……どう足掻いても、目を逸らす事が出来なかった。

 

 

 だってそれは、()()()のようなのに、()()()ではなかったのだから。

 

 

 なに、あれは……あれは、何…!?

 

 

 「まい子、大丈夫か!何がいるのだ!?」

 「ぁ……え、っと……」

 

 それ、との距離は九尺ほど。行冥様ならばその存在を感じるに問題ない距離なのに、彼の言い方では()()の存在をとらえられていない事を示していた。普通ならばありえない、彼は見えない代わりに耳や感じる感覚の鋭さは人並みより数倍鋭いのだから。

 なのに私にしか、目でしかとらえられない存在。真っ白なそれ。

 

 「雪で出来た…手足の短い人型の塊に見えます。大きさは大体…一尺四寸(約40cm)くらいでしょうか。その雪の塊が…その、う、動いて浮遊してます…」

 

 子猫よりは大きく、人としては小さく…雪だるまにしては人型でなおかつ動いている。顔に見える場所に目も口もないのに猫のような声は聞こえる。そんないるはずもない生き物が、目の前にいる。

 

 …実は私が寒さの限界を超えた為に見ている幻なのだろうか。それならば行冥様が見付けれないのも当然、問題解決。…そうであれば良かったけれどそうはならない。始めに声を聞いたのは私ではなく行冥様なのだから。

 

 

 なに、何なのあれは…。妖怪?幽霊?嫌だ…未知のものはとにかく怖い、悪意の有無も真意も計り知れないから。

 目がないそれはこちらを見ているのか余所を見ているのか何もわからない。無い口から発せられているのかもわからない言葉は意味を持たない。鋭い牙や爪がなくても鬼のように不思議な力を持っているかもしれない。

 ささやくほどの小さな声で彼に訊ねる。この距離ならば風に遮られる事もなく何の問題もなく通じた。そして小さく否定される。

 

 「…鬼ではない。報告を聞いていない上、感覚も違うと…ほぼ間違いなく思える。だが何かもわからぬそれにこれ以上…」

 「…です、ね。関わらず、離れた方が…?」

 「うむ。そうすべきだ…」

 

 わかる結論は寒さに凍える猫はいなかった、それだけ。それでいい。この存在の正体なんて知るべき事はではなく、本当に知るべきかなんてわからない。無意味に好奇心で首を突っ込むべきではない事態は世の中にはある。

 とにかくこれは、深く関わるべき存在では絶対に無い。寒さでない悪寒が先ほどから走りまくっている。行冥様の首筋に抱き付き、頼れる軸を傍に置かないとくらりと倒れてしまいそうだ。

 

 

 行冥様はゆっくり動き出した。雪の上で必ずする踏みしめる足音を消すなんてどうやっているのかわからないけれど、とにかく無音で歩き出した。

 ()()はこちらに対して何の反応もせず、ただ空中を漂っていた。距離が徐々に開き、数分前に通り抜けた木々に囲まれた岩の影に入るまで目を離さなかったけれど…"それ"は移動も何もしなかった。

 

 真っ白い景色から、真っ白の場所を抜け…真っ白の場所に移動する。

 

 「先ほどのは、追っては?」

 「来ていません。もしかしたらあの開けた場所を住み処にしていたのやも」

 「南無……雪で出来た正体不明の、生物かどうかもわからぬ存在。後に調べてみよう……だが今は至急に戻るべきだ。良いな?」

 「はい、了解しました行冥さ……」

 

 その提案はこの気温に徐々に弱る私を気遣っての提案。その優しさに心を打たれ、高らかに返事をしようとして……喉が詰まったように声が出なくなった。

 

 気付いた。

 

 ここは木々の隙間を吹き抜けるあれだけ強い風が岩で遮られている為に、とても静かで会話がしやすかった。なのに風が無いこの場所は、窪みになっているためか先ほどの開けた場所より体感的に寒かった。 

 …本当にこの寒さは地形と体感的なだけ?視覚のせいではない?

 

 

 本当に……目の前に広がる木々の影や岩の隙間にいる、軽く三十を越える雪で出来た人型に関係していないのだろうか。

 

 

 息が、つまる。

 目がないのに、多くの目に見られているみたいに感じる。

 

 

 「どうしたまい子…?」

 

 その視線を、存在を感じる事が出来ない行冥様に何事かと訊ねられる。その低音に雪の塊が反応した、気がする。こちらを殺意を込めた視線で睨み付けている…そんな訳ないだろうだろうに数の暴力でそう思えてしまう。

 

 「さ…さっきの、が……たくさんいて…こ、こちらを見て…」

 「!!……すぐにこの場を去ろう、それで…」

 「ぇあっ…!」

 

 動揺で震える私の声を聞き、行冥様はすぐに行動を起こそうとした。普通ならその素早い判断に何の問題もなかっただろう。なのに。

 

 

 まるでその内容を聞き付けたかのように。逃がすまいとばかりに()()らは五体あまりが方々から素早くこちらに向かってきていた。

 止める間も、逃げる間もなく…それらが、行冥様と私を囲い……小さな手足を伸ばし、触れてきた。

 

 不味い!攻撃をされ…!

 

 

 「ひッ」

 「ッ!………む?」

 「……ぁ、れ?……?」

 

 避けられなかったそれに悲鳴を上げ、来たる痛みに咄嗟に悲鳴を上げる。しかし…それらの手は、ただ冷たいだけで。それこそまさに雪が触れてきているだけのそれは痛みという痛みはなかった。

 私の声に何が起きているのか理解も出来ず、気配を辿る事も出来ない雪にただ襲われた行冥様も体を強ばらせたけれど…攻撃と呼ぶには痛みも何もないそれに首をかしげていた。

 

 

 ()()らが触れる手、それはまるで雪そのもの。浮いていたりすれど、冷たいだけのそれは……ただ子供が好奇心から触れてきただけのものに近かった。入り込んで少々音を立てた私達を…いやそもそも…そういう意図で触れてきていたのでは。

 見ず知らずの、住み処に入り込んできた行冥様と私を何事かと触って確かめに……。………。

 

 

 「…大丈夫かまい子、痛み等は無いか?」

 「へ、平気です。少々冷たいだけで……あ、の。もしや、この子達……害がない、のでしょうか…」

 「…うーむ……」

 

 私が感じ、嫌がっていたそれらは…単なる気のせいだったのでは。見た目が常識外そのもので、訳のわからないままただ無意味に怯えていた…それだけだったのではと。

 私達が話し合う中、雪の塊達は目線の高さに浮遊をし続け時折羽織りや着物、髪や皮膚にわずかに触れるだけの行動を繰り返していた。その行動は…ああ、もしや本当に失礼な事を考えて、怯えていたのでは。

 

 

 「……とにかく、これらの正体…詳しくは後で調べよう。今はただこの冷えきった体を暖めねばならないからな」

 「……ぇっ、あ……は、はい。申し訳…いえ、ありがとうございます行冥様…」

 

 つんつんと雪と同じ温度で触れていたそれらは確認し終わったのか元の木の影や岩の隙間に戻っていった。

 危険がないと判断しただろう行冥様は私を手を反対に抱き直し、歩みを進み始めた。その言葉には優しさしかなく…頬を熱く感じたのは寒さのせいなのだろうか。

 

 

 

 木々の隙間や岩の影を通り抜け、私は後ろを振り返った。

 

 先ほどまであれだけたくさんいた、雪の塊達の姿は………全く、見付けられなかった。

 

 

 

 

 あれは、何だったのだろう。わからない。何もわからない。

 

 けれど好奇心だけで私のようなものが調べるべきではない、正体不明のそれらに関して……首を突っ込むべきなのは、私ではない。

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 一人の男がいる。

 その男は大柄な男やその腕の中に抱えられていた女が十数時間前にその場にいた事を知らずに山にいた。

 男は南蛮由来の猟銃を構え、雪の降り積もる山に登っていた。

 

 

 目の前にいるは、雪で出来た浮遊する存在。

 

 男は恨みそのまま歯を噛み締めた。

 それは家族か、自身か、またはそれ以外か。

 

 

 

 銃を打ち、雪の塊を撃ち抜いた。

 弾に撃ち抜かれた雪の塊は耳を塞ぎたくなるなるような声を上げ、冷気と共に溶けるように消滅した。

 

 男の恨み声は止まない。溶け込んだ雪の塊は何もない。

 

 

 

 ふと、気がつけば男は辺り一面雪の塊に囲まれていた。

 喚きながら猟銃を撃ち抜く男。一発、二発、当たろうとも当たらない存在のがはるかに多く、そして。

 

 

 

 男は数多くの雪の塊に覆われ、そして。そして。

 

 

 

 

 

 残ったのは、真っ白な景色のみ。

 

 白の上に乗ったそれも、すぐに白に染まってしまった。

 

 

 

 誰も知らない、白い話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 SCP-580-JP コゴエ

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 長野県氷魚郡の白旅山付近にいる雪で出来た存在。雪だるまに似ている。顔はないが声は出せるし、猫の鳴き声に似ている。-2℃以上になると溶ける。
 何もしなければ何もしてこないが、殴る蹴る等の危害を加えたり大きな音を立てると高音で叫びながら冷気を噴出しながら消滅する。その際付近のものを凍結させ人体にかなりの損害を負わせる。
 地元の噂では雪女の子供と言われており、大量発生した際には雪女代わりの女性を生け贄にしていたとか。生娘では駄目だからひどい事をして。


 


SCP-580-JP http://scp-jp.wikidot.com/scp-580-jp

著者:ginger3738 様

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ねこですよろしくおねがいします

・ねこはいます


 

 

 

 

 とある村がある。

 

 その場所に一人の鬼が住み着いていると情報を得た鬼殺隊は村に向かった。

 鬼は確かにそこにいた。全ての村人は既に手にかけられており、幾人もの隊員が決意と怒りのまま鬼へと向かっていった。

 

 隊員達は多数の犠牲を出しながらその鬼の頸に、手が届いた。

 その鬼は、最後の力を振り絞りとある建物の中に逃げ込んだ。

 

 鬼殺隊の隊員達はその建物へと飛び込んだ。その建物の中には一つの井戸があった。鬼の姿が見えない隊員達は井戸を覗き込んだ。

 

 

 その中に、いたのは……。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 森での敵の動きを様々な想定した修行を終え、家へとたどり着いたその時バサバサと羽ばたきながら滑空してくる音が遥か上空から聞こえてきた。

 その本体である鴉は木を通り過ぎ私の肩の上に止まる。そして大きな大きな声で叫び始めた。

 

 

 それは柱として私に伝えられる良くある出来事で、望ましくない事だった。

 

 

 隊員達が幾人も行方不明になっている、と。

 生き残った隊員達は鬼の頸を跳ねたというのに、どうも様子がおかしい。鬼が生き残っており血鬼術をかけられている可能性があるのではないか、と。

 

 だから私に、岩柱として調査と解決をしてほしい…と。

 

 

 

 「お帰りなさいませ、行冥様。すぐにお出掛けになられますか?」

 「うむ、戻ったばかりで申し訳ないが…」

 

 家の扉をくぐればと戻ってきていた気配を感じていたまい子が出迎えてくれた。鎹鴉との会話は聞こえてはいないだろう、それでもこれからの行わなければならない事は理解してくれている。苦労をかける……。

 そして追いかけっこをしているのか床に爪をたてながら走り回っている複数の猫達の足音が遠くから聞こえる。彼らは出迎えてはくれないらしい。

 

 「ここから距離がかなりある███村だからすぐには戻れないだろう。すまない、留守を任せる」

 「はい、頼りないですが大船に乗ったつもりで任せてください。行冥様も気を付けてください、ご武運を」

 「うむ……行ってくる…」

 

 彼女の頭をなぞり、頬まで続け撫でる。くすぐったかったのか小さく声を上げて笑ったまい子につられ笑い、その儚い小ささと弱さに涙が流れる。

 嗚呼、触れて改めて決意する。確かに帰ってこなければならない。そして出来る限り無事に、守れるものを手からこぼれ落とさないように。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 たどり着いた村には鴉の報告通り村人はおらず、隊員がいた。痛ましいその惨劇に胸を痛めていれば私を目にした隊員達が声を震わせながら声をかけながら駆けつけてくる。

 

 

 『柱だ…岩柱が助けに来てくれた』

 『わざわざ申し訳ない、俺たちを助けに来てくれたんだ』

 『ああ、良かった。よろしくお願いします』

 

 

 様子がおかしいとの連絡を受けていたが、確かに動揺をしている様子はあれど会話は何の問題もなく出来た。流れのまま確かに鬼は倒しているとの報告を受ける。ならばなぜ私は呼ばれた?

 

 

 彼らに連れられ、とある家…それは小さな小さな小屋に案内された。

 中にあったのは一つのもの。……音の反響からしてそれだけを守る為に建てられたのだろうか、この……()()を。

 

 

 隊員達から囃し立てられる。中に、()()と。

 

 

 ……何がいる、のだろうか。それも、井戸の中に。逃げ込んだという鬼の頸は跳ねたのだろう?他に、何が。

 そもそも覗き込んだとして私には……。……いや、それでいいなら覗き込むくらい構わない。

 

 多数の隊員達が声をあげる。同じ言葉を口にする。

 

 

 覗き込んだ。

 

 

 

 いつもと変わらない、視界全てを占める暗闇の中に………

 

 

 

 

 白い、()()を見た。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

  

 一昨日降っていた雨が関係しているのか…日が登ってもおりた木陰に落ちた(しも)は溶ける事もなく草木の表面を白く染めていた。

 ああ、吐く息すら白く冷たい。なんて寒いのだろう。凍えて、震えて……何もしたくなくなってしまう。洗濯をした所で干した衣服が凍りついてしまいそうだ。

 

 

 「えっ、ああちょっと!喧嘩しちゃ駄目だって!」

 

 そんな寒さに憂いている時。立場が対等である白猫と虎猫の二匹が取っ組み合いの喧嘩をし始める。何でもないじゃれあいならともかく本気でやり始めたそれに血を見る前に止めに入る。

 その為に声を張り上げた為なのか、こんこんと寒さに負けた咳を数回すれば喧嘩していた猫達が私の方を何事かと向く。

 

 それでも見慣れている為だろう。咳を続ける私をほうって猫達は喧嘩を止める事もなく、互いに手を足を出し、噛み付く真似をしながら喧嘩をし続けしていた。

 手を出し、止めようにも一向に喧嘩は止まらない。白猫も虎猫も床を転がり、鳴き声や威嚇の声をあげ喧嘩し続けていた。

 

 なぜこうなったのか。それは誰にもわからない。

 寒いからなのだろうか。寒いから互いにくっつきあい、そしてふとした何気ない出来事で取っ組み合う。それなのだろうか。

 

 

 とにかく止めねば。血を見る前に。噛み付き始める前に。だから私は必死に止めに入った。手を出し、口を出し、引き剥がして。

 なのに力及ばず彼らは大声で叫びながら喧嘩を続けていた。興奮し激化し始めた猫達は取っ組み合い、爪をたて……

 

 そして。

 

 

 

 「こら、止めなさい……喧嘩両成敗だ、南無阿弥陀仏…」

 

 突如素早く室内に現れた行冥様に押さえ込まれていた。猫達は大粒の慈愛の涙をこぼされながら首根っこを捕まれ、畳に縫い付けられていた。

 

 

 「……お、お帰りなさいませ、行冥様…?」

 

 たった今、今の今までいなかったにも関わらず現れるなり瞬時に物事を解決したその存在に対して不安げに挨拶を繰り出した。

 彼の速さならば行動として何の疑問もない。けれど戻られた声も、存在も、何も気付かなかった……気付かなかっただけ、だろうか。

 

 …なぜ玄関で何も言わず部屋に上がってきたのだろう?

 

 

 彼は……間違いなく、行冥様、だけれども。

 

 

 「…うむ。今戻ったまい子。心配をかけただろう、申し訳なく思う」

 「いえ、そんな。…ご無事で何よりです行冥様」

 「ああ、ありがとう。よろしくお願いします、まい子』

 「……?…今なんと、行冥さ……」

 

 感じた一つの違和感は降りてきた大きな手のひらが、頭を髪を頬を撫でる度にゆるりとほどけ……そして熱い吐息に溶けていった。

 それらが離れる時には息が揺れ、彼の胸元に倒れ込み違和感など頭の片隅にも残っていなかった。背をさすられる度に熱い息が溶けていく。嗚呼、幸福な眩暈がする。

 

 

 耐えきれずこんこんと、咳が漏れ出る。

 

 「むっ、大丈夫か?寒いのか…暖かくせねばならないな…」

 「へ、平気れす……あのっ、それよりお怪我などは…?」

 「私は大丈夫だ。そもそも鬼とは戦っていない、私が到着した時には無事に討伐されていた」

 「えっ…ならばなぜ貴方が呼ばれたのですか?」

 「うむ…それがだな……」

 

 彼が神妙な顔で頷いた。そして瞬きをするわずかな間に、いつの間にか座り込んだ彼の膝の上に乗せられていた。どうやら私が認識出来ないほど素早く持ち上げられ、乗せられたのだろう。相変わらず凄いなぁと思う。

 この速さならば玄関からここまで音もたてず来るのも楽勝だろう、そもそもこの体躯で足音すらしないし。

 

 そんな彼だから危険な鬼退治として呼ばれたと思っていたのに…すでに退治されていた?ならばなぜ?…どういう事なのだろう。首をかしげ、彼の続きの言葉を待った。

 

 

 「隊員達の様子が妙だと私が呼ばれたのだが、特にそんな様子はなく…な。ひとけの無い村の中を彼らに案内され、私は一つの建物に入った」

 

 行冥様の落ち着いた低音を大人しく聞き入る。右手で私の頭や背を撫でながら、左手は止めに入った猫達に群がられながら。あんな風に少し乱暴に止めに入ろうとも、普段心の底から可愛がっている事を理解している猫達が彼を嫌わない事に安堵する。

 左手が猫達を撫でる。撫でられる事が大好きな虎猫が嬉しそうに喉を鳴らし始めた。

 

 「そこにあったのは、一つの井戸だった」

 「井戸、ですか…?」

 「うむ。彼らはその場所で鬼を退治したらしい。その井戸は石造りで…深さはかなり深かったと思う。音の反響から水は遠く…水が残っていたかどうかもわからぬほど深かった」

 

 彼の語り口に合わせて脳内にその映像が思い浮かぶ。井戸を納めるための恐らく小さな木で作られた小屋。窓は無いかあっても小さく灯りがない室内は暗く静まり返っている。

 人がいない村のなんだかおかしな井戸…きっと石造りの表面は所々苔むしていて上には木の蓋が乗せられているのだろう。それをガタガタを取り外し、覗き込んでも暗がりの室内では底が確認出来ないのだろう。

 

 毛繕いをしていた白猫が。撫でられるのが終わった虎猫が、鳴いている。

 

 

 「私は他の隊員達に囃し立てられるまま、蓋を開け中を覗き込んだ。勿論何を見ようとした訳でもない。鬼は退治したというし、何を見ようと言う訳でもなかったのだから…」

 

 

 撫でていた手が、止まった。

 

 

 

 「……だが」

 

 

 行冥様の眉がハの字に動き、つり上がった瞳が細く細くすぼめられる。笑って…いる?

 

 

 「中には……いた。そう、確かにいたのだ。あれは確かに……()()が」

 

 

 語り口に呼び寄せられ、暗がりに現れたのは……えっ?

 

 「……猫、ですか?猫……?え、えっ、井戸の中に猫ちゃんがいたのですかっ!?まさかそんなっ」

 『うむ、確かにねこがいた。あれは確かにねこだった」

 「そんな大変ですっ、落っこちてしまったのですね!なんて可哀想な…それでその子はどうなったのです!?」

 

 彼が。何より優しい彼が井戸に落ちてしまった猫を放っておくとは思えない。言わずとも助けたのだろうが、それでも聞かずにはいられなかった。

 だってもしこの子達が…!この可愛い可愛い白猫や虎猫…他の猫だって例外じゃなく彼らがそんな目にあったとしたら私は……精神がいてもたってもいられなくなり行冥様にすがり付く。私の突然の奇行に戸惑う事もせす、彼は優しく微笑んだ。

 

 

 「大丈夫だ、ねこは無事だ。ねこは自分の意思でそこにいます。好きな時に出てきて、私達の前に現れてくれるのだから。だからそれは、ねこでした』

 「そ…そうなのですね。無事なら良かったです…」

 

 他の隊員達が行冥様をそこに導いたのは井戸に落ちた猫を助けるためだったのかと思ったけれど…違ったみたい。そもそも普通の人より身体能力が高い隊員達なら猫を助ける事も簡単だろうし、違って当然か。

 しかし井戸に自分の意思で留まっているなんて、少々変わった猫ちゃんだなぁと思う。暑さをしのぐ為にひんやりした場所へいくのは猫の習性ではあるけれど、この寒い季節に井戸の中になんて。

 

 

 『そうだ。ねこはいる。ねこはいます。間違いなくいる、ほらこうして…喧嘩はすれど私を歓迎し迎えてくれているのだからねこはいる』

 「……?……行冥様?…あ、そういえば一つ疑問があるのですが」

 『どうした?ねこは自分の意思でそこに留まっているのだから連れて帰ってはいないが、ねこならばここにいるだろう』

 

 

 行冥様を、見上げる。

 目が、合う。彼の目は、何も映さないのに。

 

 

 「なぜ、その猫が自分の意思でそこにいるとわかったのです?」

 「………」

 

 

 言葉が、返ってこない。

 

 

 「まるで、その()()と話でもしたかのような……まさか、考えすぎ……です、よね?」

 

 

 鋭いつり目と、目が合う。

 

 

 「それに……あの、先程からこの子達を撫でている時に言っていた……その、猫……いえ、あの…()()…と、は?」

 

 

 瞳が、柔らかく弧を描いた。

 彼の大きな大きな手が。私の顔をすっぽり覆えそうな大きな両手が頬から頭をそっと支えてきた。首筋まで残る傷痕を撫で上げるように、優しく優しく。

 

 

 『…まい子』

 「…はい、行冥様」

 

 私の名を呼ぶ彼の低い声色が、痺れそうなほど優しい。腰を折り曲げて吐息が触れ合いそうなほど近付いてきて。

 

 

 そして。

 

 

 

 

 『ねこは、ここにいる。きみの、そばにも』

 

 

 

 ………。    。

 

 

 

 

 『ねこはいる。可愛らしく愛らしいねこはすぐそばにいる。ほら、この子達もねこだ。きみも、尊く愛い存在で、ねこなのだ。そう……ねこは、います』

 

 

 ………。ねこ……ね、こ。

 

 ね、こ。猫…?いや…()()……だ。

 

 

 

 

 この足元に、手に擦りついてくるのは……なに?

 

 

 

 可愛らしい、甘えてくる鳴き声。柔らかい毛並み。暖かい体温。所々骨ばったゴツゴツした体。

 

 なぁん。にゃぁん。にゃん。

 

 

 ……ね、こ?

 

 

 

 『ねこは、います』

 

 

 

 行冥様の瞳の奥に、()()()が見えた。

 

 

 

 ………。

 

 ……ああ。

 

 

 

 ねこ、だ。

 

 

 足元にいる、白の、虎の……ああ、猫、猫、ねこ、ねこ……私に擦りついてくるのは……そう、そう、だ。

 

 

 

 ()()…だ。

 

 

 

 白猫も、虎猫も……そうじゃ、ない。

 

 毛がない、大きなぎょろりとした目を持った……ねこ、だ。

 

 

 

 この子達は………そう、そう…だ。

 

 

 

 『…()()……です、ね。行冥様…』

 

 『う、む……そうだ、まい子。この子達もねこ、なのだ…』

 

 

 

 気付かなかった。知らなかった。そうだったんだ。

 

 

 

 この子達は、ずっとそばにいたこの子達は…猫じゃなくて……()()だったんだ。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 ねこは、いた。ねこはいます。

 

 

 行冥様は召集されて、産屋敷様の所へ出掛けていった。███村にいた隊員達と共に。その場には他の柱の方もいるのだろう。

 

 ねこと共にいきます。行きました。

 

 

 そこで彼は話したのだろう。大勢の人の証言と共に。ねこはいると。

 

 

 そしてどうなったのか私にはわからないけれど、ねこはいます。

 

 

 柱の皆さんは鬼を退治をしていくけど、ねこは相変わらずにいます。

 大勢の鬼と、ねこはいます。

 

 

 その内に誰しもが語りだした。

 

 "ねこ"はいると。みんな、みんな、ねこを感じている。見ている。見られている。ねこがいる。

 

 あの目でこちらを見ている。

 ぎょろりと、毛の無い肌を動かし、こちらを見ている。

 

 

 

 街の人が。遠くの村で。子供が。老人が。みんな、みんな、話している。

 

 

 ねこがいると。

 

 

 

 そうしている内に、出てきた。います。鬼の、始祖。

 

 

 鬼舞辻無惨。

 

 

 

 それが、その首が。語る。

 

 

 

 ()()の存在を。

 

 

 

 『ねこは、います』

 

 

 

 

 ああ、もうみんながみんなねこを見ている。

 

 

 ねこは、ねこは。

 

 

 

 ねこは、います。

 

 

 

 

 日の光に燃えても、体が溶けても、抑えられても……そう。

 

 

 大勢の人が呟いた、ねこはいます。

 

 周りの人全てが、遥か遠くの人全てが呟いた。ねこがいます。

 

 鬼の始祖が日に溶けても、ねこはいます。

 

 

 家の中にも、目の中にも、ねこはいます。

 

 

 

 ねこはいます。

 

 

 ねこは、います。

 

 

 ねこはいます。

 

 

 

 

 ねこは、いました。

 

 

 

 

 

 




 SCP-040-JP ねこですよろしくおねがいします

 オブジェクトクラス:safe(まぁ安全)

 SCP-040-JPは██県の旧██村にある井戸小屋。勘違いされがちだけれどもSCP-040-JPはねこではなく井戸の方。小屋の中を見ると見た人物は「ねこがいた」という概念に囚われ始める。カメラ等の映像では見ることはできない。けれどねこはいます。
 中を見た人物は全ての猫が「ねこ」に見え始める。「ねこ」は毛が無く、人間のような目がついておりどの方向から見ても目が合うという。 そして常に「ねこ」に傍にいるように感じる。目を閉じたとしても目の角膜内に存在が見えるため、常にねこはいます。
 そしてその「ねこ」の存在を他者に広めようとし始めます。これは会話、映像、文、絵など関係なくそれを理解した瞬間から「ねこ」が見え始めます。ねこがいますので。
 このミーム汚染は止められません。ねこです。よろしくおねがいします。


 ねこは有名であらゆる意味で可愛がられているけれど、不可思議で、ほんのり恐ろしいのが好みです。
 ここまで広まったら多分収束厳しい。でも無惨も曝露者になったし多分鬼もいなくなるし、ある意味ハッピーエンド?ビターエンド?メリーバッドエンド…?


 


SCP-040-JP http://scp-jp.wikidot.com/scp-580-jp

著者:ginger3738 様

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弐拾参話 しがみついているようです(前編)

 

 

 

 

 何時間経ったのだろう。

 

 

 自身の骨が砕けそうなほど強く握った拳を渾身の力を込め振り下ろす度に、ぶちぶちゅと潰れた音をだしあちこちに溢れだす肉と粉々に砕ける頭骨の感触が惨劇さを事細かに伝えてくる。

 瞼ごしに眼底を壊せば指先に醜い糸を引く。歯を折れば第二間接や手の甲に突き刺さり、抜け落ちた床の木目にカラコロと落ちる。

 

 

 何より、叩く肉が。溢れる血が。許しと謝罪に似た声色が。

 常に新鮮な吐き気を催す臭いを作っていた。

 

 

 悲鳴。悲鳴。潰れる声。

 

 

 止めたい。気持ち悪い。反吐を撒き散らしそうなほど不快な血肉を潰す感触を、辺り一面を埋め尽くす悲鳴とそれを破壊するこの行為を。

 

 止める訳にはいかない。私は。私は……守らねば。

 この、この小さな命を。唯一生き残った、守らねばならないこの……

 

 

 

 

 「あの人は化け物」

 

 

 ………。

 

 

 

 「あの人が、みんな殺した」

 

 

 

 ………。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 「行冥様?」

 「………」

 

 起きた時。私は今どこにいるのか何をしているのか、何もわからなかった。

 閉じたままの目から涙は流れ落ち、背中は冷や汗でぐっしょりと濡れている。わかっている。理解している。

 

 夢だ。今のはただの…夢。思い出すのも苦痛な記憶を呼び起こしていた夢。無意味に早打つ心臓がうるさい。

 

 

 ……数度瞬きと全集中の上深い呼吸を繰り返せば徐々に落ち着いてくる。理解してくる。

 私は今汽車に乗っていて、目的地到着まで眠っていた。そう、あれは夢だ。現に夢は今考えているものから全く別の話に転がっていったではないか。

 だがそれでも考えたくない、思い出したくないものを夢に見た事は事実だ。

 

 

 瞼を開けど何も映らない。なのに手には未だ…潰していたおぞましい感触が残っている。あれから、あの日から……もう、幾年も経っているというのに。

 

 ………。

 

 

 「…大丈夫ですか、行冥様…?」

 

 座っているすぐ隣から私を呼ぶ声がする。あの時の私は知らなかった者。今の……鬼殺隊の柱で、鬼とはいえ頭部を夜明けまで素手も潰し続けた事すら知る…私を。

 ……二の腕辺りに小さな手が置かれている。思い返せば声と共に小さな揺れを感じた気がする。つまり、そういう事なのだろう。

 

 「…起こしてくれたのか」

 「……。……はい。お疲れだろうとは思ったのですが……その方が良いかと思いまして」

 「嗚呼……いや、大丈夫だ。ありがとう」

 

 涙を流し続け、拭う事もせず天井を見上げたまま微動だにしなかった私の横で…まい子は小さく呟いた。

 労いの挨拶を途中で一瞬詰まらせるも、それでいて何も聞かずにただの挨拶を伝えてきた。何かに気付いただろうに……聞かない、優しさ。

 その優しさにまた新たに暖かな涙が溢れ落ちる。

 

 

 それでも。夢に現れ生々しい感触すら残る今だけは。

 

 

 「!……。…もう少しで到着しますよ、先ほど川を越えましたから」

 「ああ。降りる用意をせねばな……さほど荷物はないが」

 

 座席の狭さで触れそうになったまい子の手に触れる前に、胸元に持っていく。数珠が沈黙を誤魔化すように鳴る。

 顕著ではないだろうが、気付かれたやもしれぬ。決して手に触れないようにした事に。現に何かに気付いたように声色が少し違った。それでも何も言わないそれに…今だけ許しを貰いたい。

 

 

 すまない、どろどろの血肉が残るかのような幻触が消えるまで。今だけは君に触れたくない。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 「もう少し歩きます。しかし、風が冷たいですね…」

 

 汽車に乗り私達がやってきたのは森林に囲まれた小さな村だった。空気の澄み具合や環境の反響音からしてかなり大きな森なのだとわかる。まい子の父方の血筋に関係あるこの場所に来たのは……端的に説明すれば代行だろうか。

 本来出席すべき人が各々の事情で出来ず、藁谷家から離れた彼女にその鉢が回ってきたのはかなりの珍しい事なのだろう。しかし彼女には頼れる一親等も二親等もいないのだから仕方ない。

 

 かといって体の丈夫でない彼女を、一人送り出すには不安でしかなかった為にこうして任務終わりに同行を願い出た。疲れで妙な時間に取った睡眠のおかげで妙な夢を見て……寒さに震える彼女の手を取る事すら憚られている。

 吐く息は白く、山の標高高い場所で吹き荒れ気温を下げる風らのそれから守るためには。理解しているのに。嗚呼、情けない。

 

 

 「ここには良く来ていたのか?」

 

 駅から出てもう三十分近くは歩いている。行く先がわからない私ではどうしようもなく、彼女の自分が歩いて案内をするという言葉を大人しく受け入れていたがこれ以上この気温で歩き続けるならば抱え案内をして貰う方法に切り替えよう。

 一際大きな風が私達の間を抜け、羽織を舞い上がらせたのと同時にまい子へ話しかける。

 

 「いえ、数えるほどしかないですね。特に幼少時は今より体は弱かったので…話だけは父から色々と聞いていましたが」

 「話……お父上の思い出話か何かか」

 「それもありますが…ここら辺に伝わる伝承話とかですね」

 「む?それはどのような…?」

 「えっとここの山のとある場所が……」

 

 古今東西、どの場所でも伝わる話はある。私が住んでいた場所でも鬼の言い伝えや藤のお香の話は根強く残っていた。そのような類いのものだろうか。

 

 「…いえ、あまり面白い話ではないので止めましょうか」

 「えっ。いや訊ねた私が悪いのだが…気になるので続きを聞きたいのだが」

 「いや止めましょう。こんな寒い季節に怖い話はするものではないですよ」

 「…怖い話」

  

 私が訊ねた事でまい子は説明しようと少し言葉をつむいだのだが…途中で言葉は止まり。何事かと顔を下げた私を見上げ、隊服の一部を優しく引き小さな笑い声をあげた。

 

 「あっ一応言っておきますが、昼間でも出るので鬼ではないですからね」

 「……なるほど、何かが出るのか。まぁ今でなく…いつか話せる時にでも聞こう」

 「そうですね。家に帰った時に…火を焚いて猫を抱いての完全防備の時にでも話しますよ」

 「うむ、楽しみに待っておく」

 

 別に私は幽霊話だろうと怯えはしない。幽霊よりも恐ろしいものを知っている。幽霊話ならどちらかといえばまい子の方が苦手なのだから…話したくないのかもしれない。ならばこれから向かう先だからと気にはなるが無理強いして聞く事でもない。

 自分で話したにしろ怖くなりすがり付いてきたり…一つ寝を願い出る可能性もある。しかしそれは……まぁ、怯え慰めるのならば、当然だ。怖がらせたい訳ではない。

 

 

 「あ、あそこの民家を過ぎればもう少しですよ」

 「……このままの速度で歩けばそのもう少しの時間はどれくらいだ?」

 「えっ…と。……三十分以上は…」

 「よし、抱えるから案内だけしてほしい」

 

 そんな中何でもないかのように伝えてきた時間は決して見逃せないもの。あと、三十分以上…?大丈夫だと言うまい子の言葉を聞き流し、抱えあげれば案の定小さな体は冷えきっていた。

 小さな弱々しい体を支え抱え、案内されるがまま向かった先は村の中で一際大きな家屋だった。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 室内にはかなりの人数が集まっていた。少なくとも五十より多いそれは一村の代表だけでなく、まい子のように外に出ていった者達もこの日は戻ってきているのだろう。親に連れられ初めて足を踏み入れたであろう子供のあどけない声が聞こえ…涙が溢れる。私と言う完全な外部の存在に不思議がってはいたが無理に排除される訳でもなくむしろ温かく迎え入れられ予定していた行事は滞りなく行われた。

 

 

 地域特有の祭事や行事を理解する事は難しい。それでも予想は出来る。こうした山に囲まれた土地では山を、森林を敬い恐れ、崇めたのだろう。

 

 

 だからこうして初めは屋敷で人々に。次に山へ立ち入る事もなく人里との境で長時間のお祓いを行っているのだろう。

 

 人は天災に対してどうしても力及ばず、なす統べなく被害にあう。このような場所であれば信仰やお祓いを大事にするのも当然の事。行きに不穏な伝承を聞いていなければそう結論付けていたろう。

 勿論鬼のように伝えられる不穏な伝承全てが事実とは考えていない、山深くに立ち入らないようにするのは遭難を避けるためという理由もあるのだろう。

 

 

 そうして村の敷地を周り、幾つかの行程を終えた私含め多くの者が再び家屋の中に戻ってきた。初めの時より人が減っているのは子供がいなくなっているからだろう。

 確かに幼い子供にとっては目新しさも何もなく寒空の下立っているだけというのは退屈で仕方ないだろう。到着時には昼前だったそれも今や太陽も傾く時間帯。そんな長時間付き合うより遊びに出掛けてしまうのは致し方なく、そもそも初めから出席していなかった。

 

 

 *

 

 

 「いえ、大変ありがたい申し出なのですが……帰りの汽車の時間もありますので夜の宴は遠慮させていただきます。申し訳ございません」

 「…嗚呼、はい。御心遣いは感謝します、が。申し訳ない」

 

 大事な祭事を終え、一息つく人々の中まい子は人の良さそうなご婦人から提案された今後の予定を断っていた。先ほどからの会話からして彼女の父方の血筋に関係するご婦人なのだろう。

 彼女に断られた事で私に狙いを変えたのか、ご婦人は優しい声色で訊ねてくるも提案をやんわりと断る。私のようなよそ者でも受け入れてくれるそれは大変にありがたい。だが、受け入れる事は出来ない。

 

 長時間の移動の末に用事を済ませてのとんぼ返りは彼女の体に少々負担がかかる、しかしその予定は初めから決めていた事。

 これから行われる宴に出席すれば交通の関係で本日中の帰宅は厳しくなる。猫達が不安な上それに……家から離れた彼女自身、あまり長期間滞在するつもりはないようだったのだから。

 

 私達の選択が特別珍しいものではない証拠として、ちらほら帰宅の声が聞こえてくる。恐らく私達と同じ汽車で移動する者もいるのだろう。もしかすると同じ車内で出会う事があるやも……

 

 

 

 バタバタとした、騒音。

 軽い足音は…恐らく、子供。親らしき人と話す声。穏やかな会話……から?む?

 

 ………。

 

 ……。……。

 

 …いなくなった、だと?

 

 

 「どうしました行冥様」

 「…何か問題があったようだ」

 「何があったのですか?」

 「……それが…」

 

 広い家屋の中、ざわめく人々の声の中からその会話を聞き出していた。集中して聞く事でその内容を盗み聞きし……いや。これは盗み聞きというより、周りの人々も聞かねばならない事なのでは?なにせ、これは。

 

 

 「…遠方から来た子供が数人、行方不明になったらしい」

 「えっ!?迷子ですか?」

 「迷子…というより、遊びに行って見失い…帰って来ていないようだ」

 

 涙混じりに説明している子供と焦っている親の会話。辺りが次第に騒がしくなってくる。当然だ、子供が二人…行方不明なのだから。

 集まっていた人々がうろたえ、これからの行動を話し始めた。男手で探しに行く事を検討し始めている。いや、探しに行く事を決めたようだ。

 

 

 いなく、なった。…捜索の輪に私も加わろう。探さ、ねば。今度こそ……子供も守れるなら。

 

 「戻るのが遅くなるな…まい子はここで待たせてもらいなさい」

 「私も行きますよ、土地勘ならば行冥様よりありますので」

 「しかしその寒空の下では…」

 「そんな中いなくなってる子の方が心配ですよ」

 

 私達の軽い議論の最中周りの大人達は素早く捜索隊を作り上げていた。どの場所に行ったのか、誰が何人いないのか子供に聞いていた。  

 辺りの大人に詰め寄られ、親から何度も訊ねられながら子供が説明するその支離滅裂な言葉を上手く繋ぎ合わせればこうなるだろう。

 

 

 遠方から親に連れられ来た子供と、今説明している子供は仲良くなり共に遊んでいたらしい。村の中を走り回り、様々な遊びをして……それでも時間が余ったから…

 

 

 

 「…山へ、入った…?それも…████がある場所へ?」

 

 

 子供が紡いだ言葉を私が繰り返した時。

 

 

 

 

 辺り一面の空気が、止まった。

 

 

 

 




 ─ 後編へ続く


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弐拾参話 しがみついているようです(後編)

 ………。

 

 

 「……??」

 

 なんだ、これは。なんだこの反応は。

 

 子供がその言葉を……████という場所の言葉を呟いた途端に室内が静まり返ってしまった。誰も何も話さない、息すらしていないかのような静けさが室内を重く埋め尽くしている。息すら…息も、出来ないかのような。

 

 

 誰も、彼も……隣にいる、まい子ですら。

 

 

 「……████…?」

 

 彼女が場所を呟いた言葉は…異常に震えていた。 

 

 

 「どうしたまい子、大丈夫か」

 「…ぇっ、あ……大丈夫…です」

 

 彼女の細い肩を掴めば体全体が震え、それが私の手にも伝わってくる。原因は決まっている。……子供が呟いた、場所、か。

 

 

 室内にいるほぼ全ての大人が、呟いている。子供が発したその場所の事を。そして……

 

 

 探しに行く事を決めていた筈のそれを、迷い始めている。

 なぜ今日この日に、と嘆いている。場所が、████だと判明したばかりに。

 

 

 「…まい子?」

 「………」

 

 村人ですらない彼女ですら、戸惑っている。言葉を失い戸惑っている。普段なら一も二もなく動き出しているだろう彼女が言葉を失い、震えている。動けなくなっている。

 

 

 言葉がなにも、紡げなくなっている。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 そして私達は行方不明になっている子供達を山に入り、探していた。

 地元民を含めない少数の人……他方から来た私を含めたさほど多くもない人数で。着いていくと言ったまい子は置いてきた。この気温の中連れ出したくない。それに……

 

 

 「………」

 

 周りの人間が叫んでいる。子供の名前を呼び探している。しかし…返事は何も聞こえない。

 

 迷子になっている者を捜索救助する為に私達は山に来た。しかし探す人数が多くない現状で散り散りになりってしまえば、雪深い山で逆に遭難してしまう。だから距離を取る事が出来ずまとまって動くしか出来ない。

 まとまり団体でさくさくと雪を踏みしめ動いていた。行方不明の子供二人が見付かるまでこの形は崩さないだろう。

 

 

 雪は微かにちらついていれど、通常の視界を遮るほどではないはずだ。それでも体を冷やすに支障はなく、幼い子供達をいつまでも放っておける気温ではない。

 

 

 …そんな大変な中、どうして地元民は探しに来ないのか。あの身体が伴わなく入れはしなかったが人を想う鬼殺隊の精神を持つまい子ですら一瞬戸惑うほどの"何"がこの近くにあるというか。

 ……山のとある場所にある、怖い、話とは。

 

 

 「!!」

 

 そんな考えを巡らせていれはこちらの呼び掛けに答える幼い声が。その声が震えているように聞こえるのはこの寒さだ、仕方ない。

 幾人でそちらの方向へ向かい……

 

 

 

 

 そして私を除いた全員が息をのんだ。悲鳴に似た声も上がった。子供達が助けを呼ぶ声が聞こえ続けている。

 

 

 ……なにかが、いる、のだろう。他の人々が口々にそれを指し話している。足を踏み出すことを躊躇する、なにかが。

 

 

 だが………私には何も見えない。存在すら何もわからない。見えない、気配すら感じないそれに怯える事は……。

 

 

 だから。だからこそ、私は誰もが躊躇するその場に足を踏み入れ腰を抜かした子供達に手を伸ばすことが出来た。助ける事が出来た。

 

 

 

 ――― 「行冥様。もし、もしあの禁則地に足を踏み入れるのならば…絶対に、絶対に辺り一面にある"木の幹"には触れないでください…!」 ――

 

 

 

 

 出発前に唯一、まい子から言われた言葉を守って。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 行方不明になった子供達を探しに出掛けた行冥様達が戻ってきたのは、太陽が山の向こうに沈みかけていた時だった。

 

 二人の子供は寒さに震えてはいたものの、捜索に出掛けていた家族であろう男性に手を引かれ無事に歩いて帰ってきた。見たところ怪我はない。捜索隊にも怪我はない。

 

 行冥様、は……。……。

 

 

 ああ、優しい優しい彼なのに。誰よりも大きな巨躯を持っているのに。どうしてそんな、切ない目をしなければならないのか。

 

 

 ……暗い影を背負う彼の大きな手を握りこむ。私の動きなんて普段なら避けようとすれば避けれるだろう、行きの汽車の時のように。

 それでも避けれず、避けず、手をとらせてくれた。触れさせてくれた。そのまま、胸元に飛び込ませてくれた。

 

 場所に、土地に、禁則地に怯えている訳ではない彼が……切なさが、尊さが。何よりも儚く愛おしい。

 

 

 「…お帰りなさいませ、行冥様」

 「……ああ。嗚呼……ただいま、まい子」

 

 彼は膝をつき、私を胸元に招いてくれた。外の気温で凍えていてもおかしくない体温はとても、暖かかった。辺りの視線もざわめきも戸惑いも恐怖も、今は何も感じなかった。きっと今はそれどころではないから。

 入った人達も、入った彼らを見送ったこの村の人達も。

 

 

 早くお祓いをしなければと思っているのだろう。早くこの場から去りたいと思っているのだろう。 

 "禁則地"に入った彼らは怯えているのだろう。恐らく…"見て"しまったのだろう。

 

 

 

 "あれ"ら……"シガミツキ"を。

 

 

 

 

 

 ** SCP-951-JP **

 

 

 

 

 

 説明するのは後でいい。

 こんな……私の直接でないにしろ遠い血筋が何をして、こうなったかなんて……あれらに触れてしまった場合はどうなるかなんて。今の彼に聞かせるべきではない。

 

 家に戻って、話せると判断した時に話せばいい。

 今出来るのはただ……優しい彼を力一杯抱き締めるだけなのだから。

 

 

 

 

 

 





 SCP-951-JP 幻幻肢痛茸

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 SCP-951-JPは木に人間の腕に見える、キノコ。ドクササコに似ているらしい。いいよね、ドクササコ。好きだよドクササコ。毒キノコって本当にSCPみたいで怖くて好き。
 SCP-951-JPを食べた場合、一ヶ月後に本来ないはずの位置にある腕の痛みを訴え始める。そして痛みは消えることなく一年間持続し続ける。そのあまりの痛みに耐えきれず自分で自分を終了させてしまう。
 無事一年間耐えきった後死亡すればSCP-951-JPが生えてくる苗床になる。


 まい子の遠い血筋の先祖が何をしたかなんて関係なくとも、本人がそう思ってなければそうではないのです。
 


SCP-951-JP http://scp-jp.wikidot.com/scp-951-JP

著者:semiShigUre 様

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弐拾肆話 舞い散る桜の美しさのようです(前編)

 

 

 「お帰りなさいませ、行冥様。ご無事でなによりです」

 

 何気ない日々は過ぎ、穏やかに徐々に暖かくなってきていた。爽やかな明かりを放つ日中はポカポカと心地よい日差しに包まれ、温かな縁側で猫達は時にまとまり時に離れ…各々自由に眠りについていた。

 そんな中私は鬼の出現や情報に伴い、夜毎出掛ける彼の安否を願い心を傷め……そして太陽が真上に昇る前に無事戻ったその大きな身体を目に入れ安堵の息を吐き彼を玄関で迎え入れた。

 

 

 私の声色から彼が何を受け取ったのかはわからない。何も映さない彼の目がわずかに細められ、微笑まれたかと思えば。

 

 「うむ。ただいま戻ってきた、まい子」

 

 口元に笑みを浮かべながら、私の頭を包み込んでしまいそうなほど大きな手のひらをこちらへ伸ばし…そのまま形をなぞるように頭の登頂部から髪に沿い、頬や顎を撫でた。

 くすぐったいその手付きに笑いがこぼれれば彼もつられるように笑う。

 

 

 ああ、なんて幸福なのだろう。何よりも恋しい彼がすぐ目の前にいるこの瞬間は。

 

 

 そう思った瞬間から心の奥から何とも言えない気持ちが大きく沸き上がってきて……こらえきれなくなり、そのまま了承も取らず彼に抱き着く。

 力無い腕を目一杯身体に巻き付けど、大きな身体は覆えずどうしてもしがみついているような体勢になってしまう。上がり框の高さでいつもとは少し違う場所の、胸元に頬が触れた事で柔らかな隊服に沈んだ事でその香りに包まれ……少し経ってからその罪深さに跳ね退く。

 

 「! す、すみませ……ひゃっ」

 「…構わない。出迎えの、戯言だろう?悪くはない……」

 

 跳ね退こうと、した。けれど丸太のように大きな腕に抱え込まれてしまってはもはや微動だにも動けるはずがない。

 そのまま、もとより更に深くまで沈み込んでしまいそうなほど顔を埋めてしまった。そのまま衣類や彼の硬い筋肉質な身体に埋もれてしまいそうになっていた……その時。

 

 

 「…あら行冥様…?甘い、香りがします。果実たっぷりのさくらんぼのような」

 「……。……む?」

 

 ふうわりと。決して無理強いではない自然な香りが私の鼻腔をくすぐった。その穏やかな香りに無意識に顔にまとわせるかのように顔を何度も擦り付けたせいなのだろうか。

 彼の声色の音質が先ほどよりも……下がったような?まさか。私が感じるなんてそんな訳ない、気のせいなのだろう。

 

 

 「……甘い、香りがしたのか。私、から?」

 「はい。さくらんぼのような……行冥様どうかしましたか?」

 「……いや。しかし…そうか、さくらんぼ……うむ」

 

 行冥様の低い声が更に低くなって……んん??

 けれどそれに深く追及する前に話は移り変わってしまい、見上げた彼は何度か頷いた後何らかの結論が出て再び私を見下ろしてきた。

 その目は、とても優しくて。

 

 

 「それは恐らく道中にあった山桜の香りだろう。もし良かったら今から見に行かないか?」

 

 

 穏やかなのになぜか有無を言わせないようなその声色に、意識する間もなく頷いていた。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 お花見とは呼べないそれはただの近所への散歩。と…言っても私の弱々しい身体や足では景色が変わるほど遠くにすぐに行く事は簡単ではない。結局行冥様の腕に抱えられ、普段通る事も出来ない険しい道なき道を私達は二人で進んでいた。

 しかし目当ての山桜の木がある場所は私の足でもたどり着ける場所にある。少し時間はかかるだろうけど…こんな抱えられてまで向かうべき違う場所があるのかな?まあこの山は彼の、岩柱の山みたいなものだ。任せよう。

 

 抱えられ強い力で固定されてはいるものの、高さのある彼では多少揺れてしまう。一応の安全の為首筋に手を回し、落ちないようにすがり付く。

 

 

 そのままの流れで目に付く背負いの荷物と肩紐に言及する。

 

 「あの、日輪の武器等は下ろして来た方が宜しかったのでは…」

 「む?いや、大丈夫だ。決して邪魔等ではない。少々の重さ等気にしなくて良い」

 「……少々ですか?…あの、重さが…?」

 

 行冥様が背負う籠には日輪の武器が入っている。鬼殺隊隊員の武器である刀とは違うそれは、形状がかなり異なっていて腰に差すには不便で…それに伴い重量も遥かに重い。

 私よりもかなり重いだろうに。それなのに私を抱えた上で楽々と……むぅ、流石です行冥様。確かにそれを彼は片手で扱う時もあるし…背負い続けるのもまた、修行なのだろうか。

 

 

 「ほら、そう言ってる間に……南無。見えてきたのではないか…?」

 「えっ、あ…!」

 

 私の心配も彼にとっては他愛ないものだったらしい。その間にも歩みを進み続け、気付いた時には視界は薄桃色の花びらに囲まれていた。

 遠くの山が所々鮮やかに白や桃に染まっているのに全く気付いていなかった訳ではないが…やはりこうして一町ほどの至近距離で見るのとは違う。

 

 

 満開近くに咲いた淡い花は私の髪色に似た葉っぱに囲まれ、仄かに甘い香りを漂わせていた。見えない彼が気付いたのはこの匂いで……だけど。これは。

 

 「わぁああ、なんて。……なんてっ……綺麗な、桜…!」

 

 視界に飛び込んできたのは各々一定の距離は開いてはいるものの密集して咲き誇っている山桜の大群。これこそまさに百花繚乱。

 

 

 軽く風が吹く度にひらひらと白桃色が舞い落ちる。

 そのあまりの美しさに声が、息が詰まる。心震えるほどに感じたそれらの感動を…うまく言葉に出来ない。嗚呼、なんて無力。

 

 

 数本…もしくは並木道沿いに意図的に植林されたそれは見た事はある。それも大変に美しいものだった。

 けれど、まるで一面を埋め尽くすような桜の畑は。こんな絶景があるなんて…。自然って凄いなぁ。

 

 

 「五日ほど前、絶佳にこの場所の話を聞いてな。開花しただろう時にまい子と来ようと思ってな、調度良かった…」

 「成る程、彼なら上空から見付けれますね。ここなら蕾の時点ですらとても美しそうですし…」

 

 鳥目な彼の視力はとても良い。それを見付ける事は簡単に出来るだろうけど……教えてくれるのは彼の優しさだ。到底任務にも何も関係ないのに。目が不自由な彼にはほとんど関係ないのに。

 それなら、教えてくれたそれは……私の。私達の。……ああ、なんて恵まれているのだろう。

 

 

 「……なんて幸せものなのでしょう、私は」

 「そう言わず、もっと近くで見たらどうだ」

 

 言うが早く行冥様はそのまま足を進め淡色の花の中へ意図的に突き進んだ。無数の幹や枝に当たる事もなく私達は白桃色の波に飲み込まれた。いつもより高い目線は花びらに囲まれるにふさわしい高低で。

 

 空気を変えるかのような仄かな甘さにくらりとする。

 ああ、これは。これはなんて凄いのだろう。

 

 視界の暴力に、香りに潰されてしまいそうだ。あまりに雄大な自然に気圧されたのか目の前がくらりと揺れ、彼の首筋に腕を回し抱き着く。

 

 「…綺麗、本当に綺麗です…ありがとうございます行冥様」

 「……。そう、か。それならば良き事だ…」

 

 彼の小さな微笑みの音に合わせるように、目の前に花びらが横切った。普段の私の目線では到底見ることの出来ないその光景に無意識に手が伸びる。

 片腕の支えをなくし揺れる私の体を彼が片手で軽く支えてくれる。縁の下のどころか、身近なる力持ち。

 

 「あ、花びらが……あぁっ、えい!」

 「どうした?」

 「舞う花びらを掴まえようかと!…行冥様は空に近いですから」

 

 だから空から舞ってきたかのような花びらを掴まえるのが相応しい。自由で美しく果てない空に近い行冥様に。

 

 

 そう思い伝えたというのに、動きを予測できない花びらを掴まえるのはかなり難しかった。少しの風で軌道が変わるそれを、大きく動けない私の手のひらに納めるのに相当な時間を有した。行冥様の呆れたのか一言も発する事のない時間をかなり費やして。

 

 

 やっとこさ掴まえた一枚のそれ。小さく淡い桃色のそれ。

 それを彼に渡し、思いの丈を伝えればしばらくの無言の後…低い低い声で礼を言われる。下がった眉といい、困らせたかった訳ではないのだけれど。微かに赤らんだ頬や耳はこの陽気な気温に当てられた…訳でないなら嬉しい。

 

 「今度はお弁当でも作って来たいですね。この場所を教えてくれた功労者も含めて」

 「……。…うむ、そうだな。二、三日後…絶佳も誘って再び来てみるも悪くは……」

 

 行冥様の声を聞く最中、目の前によぎった、白桃色。考える間もなく反射的にそれを手のひらに握りこむように掴み…

 

 

 「あ゛ぃ、たっ!?」

 「悪くは……まい子?どうした!?」

 「…あ、大丈……ぇ、…?…っと、そ、の…」

 

 そして左手を手のひらから手の甲まで貫かれたような激しい鋭い痛みに悲鳴を上げてしまった。

 耳元近くでの大声だったろうに文句を言う訳もなく私の心配をする彼に反射的に平気だと返そうとして……手を見て言葉を失う。

 

 

 不健康な白い肌色に赤色の液体が流れつたっていたから。

 

 それは痛みを感じた事から予想は出来た事だった。痛みという事は……何らかの怪我をするような事態が起き、私がしたという事なのだろうから。

 

 しかし。

 

 「………」

 「見せてみなさい。どれ……。……?……これ、は」

 「ぃッ!」

 「……刃物で、切った……?…訳ではない、だろうに…こんな、場所で」

 

 行冥様によって開かされた左手、人差し指から腹の部分にかけて一筋の切れ目が走っていた。……大きさとしてはそんなに大きくはない、けれど。

 それは確かに刃物で切ったかのようなまっすぐな傷で…彼に触れられた痛みで声が漏れるそれは決して自然に出来るものではないもの。

 

 けれど……行冥様のいう通り。手のひらが切れる理由が思い付かない。だって私がした事は。たった今さっき触れたのは…ひらひらと舞う………

 

 

 ………。地面。土の上に転がる、無数の花びらを上空から見下ろす。

 まさか。いや。まさか、そんな。

 

 「…花びら、で?」

 

 そんな訳がないと笑い飛ばそうとした。切れ味鋭い草葉はあれど舞い散る桜の花びらで手を切るなんて。そんな事があり得る訳がないと…

 

 

 「まさかあり得……っ!?」

 

 人差し指に生暖かくぬめったものが這った感覚に咄嗟に見れば……考えていた思考が全て吹き飛んだ。

 

 …視界に納めるにはそれは暴力すぎて。だってさか、まさかそんな。行冥様の口が、舌が、私の指の、腹の……嗚呼!そんな!

 

 

 「ん、む……この血の量だと傷はさほど深くは……大丈夫か?」

 「はっ、はい!平気です!お心遣いありがとうございます!!」

 

 視界の暴力のそれを見ないように目をそらし、礼を言いながら手を彼の大きな口や手から取り出す。

 ああ、嗚呼なんてこと!頬が、耳が、熱をもって燃えてしまいそうなほど熱い…!な、生ぬるかった…!

 

 「だっ、大丈夫です!これくらいの傷…なんとかなりますから!」

 「……。……家に戻らなくて大丈夫か?」

 「平気です!血なんてすぐ止まります!だから気にしないでください!」

 

 何か言いたげな彼の言葉をさえぎり、袂から取り出した手拭いをいささか乱暴に巻き付けながら手当てをする。巻かれた手は大人しく吹き出す血を布地に染み込ませて。

 まるで営利な刃物に切られたかのようなそれはジクジクと痛むけれども…けれど傷口自体はさほど大きくない。血もすぐに止まるはず。だから。だから大丈夫。のはず。

 

 行冥様は私のその行動に何か言おうと口を開きかけて…何も言わずに閉じた。

 

 

 「……そうか。すまないな……わかって、いるのだな」

 「は、い。確認せねばならないでしょう?」

 

 私の手を切った存在、それを。

 

 




 ─ 後編へ続く


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弐拾肆話 舞い散る桜の美しさのようです(後編)

 「…まず確認したいのだが、花びらで、とは?」

 「あ、えっとですね。先ほどやっていたように舞う花びらを掴まえようとしましたら……」

 

 訊ねられ、行冥様に事のあらましを説明する。奇妙なそれを大真面目に聞き、多少首を少しだけかしげながら全て話終えたあと何度か頷いた。

 

 「ふむ……肉を裂く、花弁などがあるとは些か……しかし傷を負わされた以上どのような形であれ事実確認はせねば」

 「はい、行冥様」

 

 にわかに信じがたいそれを疑わず信じてくれるなんて、彼は本当に優しくお人好しだ。怪我をした事実があっても、突拍子もないそれを真実と認めるより私が嘘を付いてる可能性こそ高いのに。

 

 だって、花びらが、なんて。あの柔らかい花びらでどうやって手を切れるんだろう。肉を裂けるんだろう。いくら満開の桜が咲いているからって。

 

 

 …それに日が差す今、鬼に関係せず本当に地面に散らばる無数の花びらの一つが私の肉を裂いたならば、それは大変な事だ。違いを確認しなければならない。ちらりと見た限りでは何の変哲もなかったそれを。

 目で見える。逆に言えば目でしか見えない。怪我をするまで行冥様が気付かなかったという事は、気配自体に危険性はないのだから彼だけでは見付けるのは困難になる。

 

 

 「…では」

 「はい、行きますか」

 「うむ。風で飛ばされたとはいえ、元の樹からさほどの距離はないだろうから……よろしく頼む」

 「了解しました。行冥様」

 

 原因を探し当てる為に、彼が一歩踏み出した。その大きな足で踏み締めた花弁に似たそれを探すのにどれだけ時間がかかろうと…探し出すつもりで。もちろん私もそれに最後まで付き合うつもり。それは全く嫌ではなく…少しでも彼の力になれるのが、何より嬉しい。こんな、ひ弱な私が。

 

 行冥様の大きな頸に腕を回し、体の全てを彼に任せた。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 「…まさか、このような……」

 「本当にあるなんて…」

 

 

 あれから、どれだけの時間が経ったのだろう。数分か、数十分か。

 とにかく私を抱えた行冥様は、目的の場所へと辿り着いた。どうやって見つけたかなんてとうでもいい、とにかく目の前にあるのだから。

 

 

 私の肉を切り裂いた花弁……それらを無数に着けた…桜の木の、元へ。

 

 

 一見何の変哲もない花びらと木部。表面はツルリとなめらかで、見た目にどこもおかしな場所はなかった。

 しかし地面に落ちていた花びらを手に取り気付いた事がある。薄桃色の花びらはうっすらと向こうが透けて見える透明度をあわせ持っており、普通の厚さと変わりないのに折り曲げる事が不可能なくらい硬い。

 下手に力を入れればまた手を切りそうで怖くて…それに私はともかく行冥様でも折り曲げるのに苦労するほど、とてもとても硬い。本当に硬い。

 こんな硬い花びらをつける枝を折るのは骨を折りそうだ。もちろん桜の枝を折るなんて、罰当たりだしやってはいけない事だけど。

 

 

 とにかく行冥様と私は辿り着いた。

 薄紅色の花弁を満開に咲き誇らせた、何でも切り裂きそうな桜の木の下に。

 

 

 

 

 

 

 ** SCP-143 **

 

 

 

 

 

 

 「なんて不思議なのでしょうか。このような樹木が自然に生成されるとは…」

 「なんともまぁ…いかに信じられなくとも事実であるに間違いはなく……いやはや…南無阿弥陀仏…」

 

 目的地に辿り着いて私は地面に降ろされ、いくらでも自由に歩く事が許されていた。勿論遠くに行く体力も気力もなく目的もなく…気になる地面に落ちている花びらに手を伸ばし手にとっていた。

 なめらかなそれは綺麗で美しいのに…縁は包丁のように手を切り裂いてくる。触れないように気をつけないと。

 

 しかしこんな危ない花びらを付ける桜の木があるなんて…本当に不思議。

 あ、でも鬼殺隊隊員になる為の試験が行われている場所には一年中藤の花が咲いているというし、植物には時折そのような突然変異が現れるのだろう。多分。

 

 

 「…それで、どうしましょうか行冥様?どうやら近くを見た限りこのような花びらを付けるのはこの木だけみたいですが…」

 「うむ。一応お館様に報告をしておかねばな、私の担当区域の敷地内にこのような樹木があったと。それに…」

 「それに?」

 

 大きな体を屈ませ、地面に落ちている花びらを一枚大きな指で掴み手に取る。見えないそれを掴むのも、手を切らずに掴むのも、流石としか言えない。

 行冥様と花びら。目を細め、優しい瞳から一筋の涙がこぼれ落ちて……ああ、綺麗だなと思う。行冥様がというわけじゃない、その光景が。訊ねれば優しく微笑み返してくれるその心が。

 

 「この切れ味は……刀鍛冶の里の役に立つやもしれぬ。何か日輪刀の助けになるやも…」

 「…あっもしや花びらのように、可憐で柔らかな日輪刀が出来るかも、と?」

 「あくまでも可能性だがな。そう出来るかなどはわから……!!!」

 

 

 風が、吹いた。

 

 

 軽く、辺り一面を撫で上げるだけのさほど強くないそれだったけれど…展開場所が悪かった。

 私達は、無数の小さくとも切れ味鋭い刃物の下にいたのだから。

 

 

 反射的に振り返り、空を見上げた。まるで走馬灯のように景色は穏やかに動き、私にその状況を教えてきた。

 

 

 一面を覆い隠すかのような、多数に舞い散りこちらへと迫ってくる薄桃色の花びらの存在を。

 少し触れただけで肉を切り裂くそれが何十、何百とこちらへ降り注いでくる光景を。

 

 

 ああ、終わった。駄目だ。そう思うが当然の光景が目の前に広がり……そして。

 

 

 そして。

 

 

 

 「岩ノ呼吸、参の型 岩軀の膚」

 

 

 爆音のような、空気を切り裂く音がした。

 

 

 ………。

 

 ……。

 

 

 「大丈夫か、まい子」

 「………ひゃい。ぎ、行冥様…」

 

 目の前の光景を受け止める為に瞬きを何度もした。

 何度しても、変わらなかった。

 

 

 目の前に広がっていたのは…無数の斬り叩き落とされた花びらと、特殊な素材で作られた鎖と鉄球つきの斧を手に持っている行冥様の姿。

 

 …背負っていたはずのそれをいったいいつ取り出したのかなんてわからない。私には見えない。見えるはずがない。

 取り出したそれで空気や空間を切り裂くようら爆音を立てて何をしたかなんて……。……。

 

 

 見えない、何も出来ない私ごときが何をしたかなんて気付けるはずがない。

 恐らく…きっと、多分…柱である彼の美麗なる岩の呼吸で全てをさばききったのだろうけれど。

 

 自身を。私を…守る為に。

 

 

 「怪我は?」

 「……ッッ!」

 

 あれだけの。視界一面を覆い隠す何百もの刃物から身を守る事なんて……行冥様以外に出来るとは思えない。少なくとも、私は知らない。

 呆気と感嘆の気持ちが混ざりあい、とろとろに溶けそうなほど情けない声出た。それなのに体は云うことを利かなそうなほど、燃え上がりそうなほど熱くなっていた。

 

 

 とにかくその感情のまま彼にしがみつき抱き付きたかった。

 腕を回し、恍惚と浮わついた心のまま放心状態で陶酔した気持ちを伝えたかった。出会い何度覚えたかもわからない慕情を。

 

 

 「……。だ…大丈夫です、どこも痛くありません…行冥様のおかげです…」

 「…そうか…」

 

 でも、やらなかった。してはいけなかった。少なくとも…今すべき事ではないと、抑止した。

 命の危機は一時的に彼のおかげで凌げはしたが、根本的な解決をしないまま二度目を迎えたならば自身を滅したくなるほど馬鹿らしい。

 私が抱き付き、その間に再び風が吹いたらどうなるのか。そうなれば……本当に愚かこの上ない。

 

 

 「…ならば、一旦家へと戻ろう。場所が判明した以上ここにひとまず用はなく、その手の傷の正確な治療をせねばな」

 「あ、はいありがとうございます…。ぁ…でもこれら花びらを刀鍛冶の里へと持っていくのでは…」

 「後で大丈夫だ。これだけ無数に落ちているのだから、場所さえ把握していればどうとでもなる。これだけ人里離れた場所だ、私達が近寄らなければ危険はないだろう」

 

 言うなり行冥様は私を抱き上げ、歩みを進めた。

 方向からして我が家に向かっているのだろうけれど…本当にどうして家の方向がわかるのか不思議でたまらない。目が見えている私でも家屋の姿が見えないこの位置では何もわからないのに。ああ。行冥様は本当に凄い。

 

 

 「………」

 

 彼の肩に手をかけ、軸を動かさないよう顔だけ振り返り後ろを見た。

 桜の木は変わらずそこにある。

 

 

 薄桃色の花弁をたわわに実らせ、緩い風に揺られ桜の木はそこに威風堂々と佇んでいた。微かに幾枚もの花びらを散らしながら。

 

 肉を切り裂く鋭さなど微塵も感じさせないほどの美しさで。

 

 

 

 

 

 




 SCP-143 刃桜

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 SCP-143はソメイヨシノに似た桜の樹。花びらはカミソリのように鋭く、簡単に肉を切り裂く。
 花びらや木部はあらゆる天然・人工物質で最も硬い物質よりもはるかに硬い。ステンレスの二倍以上も硬い。そして摂氏1800度の高温に耐える。そして硬いのにしなやか。
 摂氏1500度以上に熱すれば素材と掛け合わせることが出来、武器などに加工が出来る。奈良県に元の樹があり、伝統的な刀鍛冶の一族が保有している。していた。



 こういう素材を掛け合わせて色んな日輪刀が出来ればそれもまた、楽しい。しなやかだし恋柱の刀とかそれっぽいし。
 


SCP-143 http://scp-jp.wikidot.com/scp-143

著者:Kain Pathos Crow 様

この作品はCC BY-SA 3.0ライセンスの下に公開されています。


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弐拾伍話 おさかなのようです

 

 

 

 「意外かもしれませんが。実は私、雨は嫌いではないのですよ?」

 「むっ…そうなのか?」

 

 パタパタパタ。

 

 街での用事を済ませ家へと帰る最中、勢いの増してきた雨粒が番傘に打ち付ける音に紛れて腕の中のまい子が呟いた。

 ぽつりと呟いた小さな声が、私の耳に溶けていく。

 

 まるで世界の全てがこの傘の中で完結しているかのようだ。

 

 

 当初は横で歩いていた彼女。しかしどうしても私と彼女では歩幅が違うために、雨降る中急ぐ事の出来ないまい子を置いていってしまう事になってしまう。

 それは普段の晴天時ならば構わない。ただ私がゆっくり歩けばいいだけなのだから。しかしこんな天候の中、無意味に時間を遅らせる訳にも体の弱い彼女を放っておき濡れ鼠にする訳にはいかない。

 ならば最善の手は……彼女を私が抱え、私の持っていた特注の大きな番傘をまい子に持ってもらう事だろうとそれを実践していたのだが。

 

 

 抱えた事で触れそうなほど顔に近くなった彼女が笑いを含んだ声で呟く。照れているのか…甘えているのか。故意に触れてきた頬骨に柔らかな頬肉解け合うようにくっ付き、笑う事で揺れた。

 

 「この傘に打ち付ける規則正しい音。心地いいと思いませんか?心がなんだか安らぐような気がするのです」

 「まぁ…その気持ちはわからなくもないが、しかし雨の日は体調が悪くなるのではなかったか?」

 「……。…それとこれとは、別ですよ行冥さまぁ…」

 「ちゃんと、こちらを向いて話しなさい…」

 

 以前雨降る最中漏らし聞いた情報を伝えれば、一瞬の沈黙と誤魔化しにもならない誤魔化しで話を反らそうとされる。私の更なる問い掛けにも口を紡んで答えない。

 まい子は私に対して嘘をつきはしないが、隠し事も話を反らす事(それが上手いか下手かは別として)もする。それはなんとも気まぐれで愛らしい化身の存在、猫のようだ。そしてそれを問い詰めた所で……正直に話してくれる訳ではない。

 

 

 「たっ、体調云々はともかく!この雨音は素敵ですよね!?一定の律動音。穏やかなる気持ちになりませんか」

 「むぅ……まぁそれは確かにわからなくも………む?」

 「どうしまし……えっ?」

 

 案の定話は何度も反らされ気になるそれらを追及させてはくれない。例え無理矢理に聞いた所でそれは……まぁ、仕方ない。

 そうしている内に……私の耳は別の音をとらえた。木々のせせらぎと雨粒が幹や葉に当たる音…以外の音を。それは自然が作り出す単位的なものではなく。

 

 

 『…ーい、おーい!誰かいるのか、助けてくれぇー!』

 

 私達が歩いていた道を外れた遥か下…竹やぶ地帯の下から聞こえてきたそれは、人の声。助けを呼ぶ、男性の声。 

 恐らく私達の声を聞き付けての。普段の会話の音量ならば届かなかったろうがまい子が誤魔化す為に出した大声が届いて…呼び掛けてきたのだろう。

 

 

 「えっ、え!?今の人の声では!?」

 「なんとっ……大丈夫なのか!?」

 

 私達二人ともその声を聞いた事を確認し、下に少々身をのりだし呼び掛ける。私の目では確認出来ないものの、まい子の言うことでは微かに足跡と滑り落ちたかのような跡が残っているらしい。ならばここから落ちたのか。

 ここから先は隣町に通じる獣道のようなほぼ誰も通らないような小さな道と、それよりかなり先にある我が家しかない。ならばこの人は隣町に用がある人か、迷い込んだ旅人…だろうか。

 

 『良かった人だよな!落ちたんだ、大した怪我はしてないが足をくじいて動けない!助けてくれ!それか助けれる人を呼んでくれ!』

 「大丈夫だ私がすぐに行く!…まい子、家の戻り湯を沸かして待っていてくれないか」

 

 竹やぶ下の彼へ声をかけ、私は抱えていたまい子を下ろす。番傘を持つ彼女を手放した事で降りしきる雨粒が私を濡らしてゆく。まだこの程度では凍えはしない、私は。だが…彼は?どれほど崖下にいたのかはわからないが、濡れ鼠になっているのではないか?そうでなくとも恐らく体は冷えている。

 ならば、助け出した後すべき事を前もって用意すべきだ。温かな場所の確保を、安全な場所の用意を。それに彼女をこの雨の中いつまでもとどまらせておくべきではない。

 

 

 「大した怪我ではないと言ってはいるが一応治療をした方が良いだろう。その用意も頼む…怪我次第ではそのまま街の病院へ行くかもしれないが」

 「はい。了解しました、あの……気を付けてくださいませ、行冥様」

 「…勿論だ。そちらは任せる、こちらは任せてくれ」

 「………」

 

 私の声を聞き、なにか言いたげな数秒の沈黙の後翻し、彼女は小さな足音と共に遠ざかっていった。ゆかるんだ足元で弱き体を持つ為に走る事は出来れども、されどものんびりとではない足取りで。

 その音を耳に入れた後、私は足を踏み出した。地面の無い、竹やぶ下へと。

 

 

 水滴が着物に染み込み、重みを増してきている。柔らかな土の足元もぬかるんでおぼつかない。不規則に生えている竹や木々の隙間も狭く危ない。そもそも人も獣も踏み込まない場所など不安定で録に動けるはずもない。

 

 …だが、そんな事は私に関係ない。

 

 

 滑り落ちる地面をいくつか蹴り、周囲の気配を探り目的の場所へと到着する。そのまま、数歩進み……

 

 

 「すまない、待たせた。南無……大丈夫か?怪我はどのような具合だ?」

 『あ…ああ。ありがとう助けに来てくれた…んだよ、な?……えっと、人間…だよな?』

 「…?…そうだが…??」

 

 たどり着いたそこに座り込んでいた彼にしゃがみ声をかける。痛みで伸ばされただろう足の怪我に触れ、声がする顔辺りに目線を向け話しかければなぜか呆気にとられているような声が。人間…かどうか訊ねられた。どういう意味なのだろうか?

 

 

 『……なにせでけぇし、獣か何かかと…人間とは思え………いや、助けに来てくれたんだしな。俺を見て何も言わないのもめんどくさくなくて良いし…うん。悪いが助けてくれるか?』

 「…?…うむ、勿論だ」

 『肩でも貸してもらおうかと思ってたが高すぎてちょっと厳しいな…背負ってもらって良いか?』

 「……元々そう考えていたから大丈夫だ」

 

 いた…が。何だ、ろうか。何だか…心中がもやもやと…不本意なる気持ちがする。いや……まぁ、うん。

 

 取り敢えず彼に治療の為に私の家へと向かう事を告げ、言われた通り背負い降りてきた竹のひしめく急勾配を登る。この程度の坂ならば成人男性を背負っていようと何の問題もなく登れる。

 

 『おー!コイツはすげぇ!なんつー身体能力だ!』

 

 はしゃぐような背中での多少の身動きなど関係なく、問題なしに上へと登りきった。そのままほとんど人の通る事のない我が家へと続く道へと歩みを進める。じゃりじゃりと土を踏み締める音に混じり背中で大きく息を吐いた後、簡単の声をかけられる。

 

 『すげえな、旦那。あんな傾斜の中俺一人背負って楽々登れるなんてよ……ところで、さっき女の声が聞こえたけど誰かと話してたのか?』

 「む?…嗚呼、確かに話していたがそれが…?」

 

 彼が落ちていた場所からまい子と話していた場所には結構な距離があった。その話し声が聞こえていたのか?それはまぁ……耳がいいな。普段の彼女の声はさほどに大きくないのに。

 最初に聞き付けるほどの大声を出した時だろうか?しかし話していたというならもう少し後の……いや、それはどうでもいい。それがどうした?

 

 『その子は旦那のガールフレンドか、嫁かい?そしてもしかして…今から向かう家にいるのか?』

 「…()()()()()()()……とやらの言葉には見当が付かないが、共に住んでいるのに違いはない。故に、いるが何か問題が?」

 『あー…そうか。いや、旦那は俺の顔を何も言わなかったがその彼女が何て言うかと』

 「……?」

 『旦那みたいにあっさり受け流すなんて普通は無理なんだぜ?』

 

 …私の目が機能していない事を彼は知らないし、言うつもりもない。彼の言い分からしてその見た目に何か問題がありそうだ。目をひく傷痕でもあるのだろうか?しかしそれならば私の額にも…彼は知らないが彼女、まい子の頬にもある。傷痕ごときで彼女が何か言うとは思えない。初対面ですら私のこの傷の事を気にもせず何も言わなかった彼女なのだから。

 

 ならば…よほどの醜怪だと蔑まれた経験でもあるのだろうか。もしや淑女にでも罵声を浴びせられた心的外傷でもあるのやもしれない。

 しかしそれこそ彼女がそんな…見た目がどうであろうと蔑むなど考えられない。あの、彼女がまさかそんな、どんな見た目だろうとも暴言を吐くなど有り得ない。

 

 ……甘い、だろうか。それこそ私の身内贔屓なのだろうか。

 …否、そんな事はないだろう。私は彼女を信じている。例え彼の面様がいかに醜悪であろうと、傷があろうと身体的に欠乏があろうと何を言うとは思わない。信じている。

 

 

 「心配ない。彼女は例えどうであろうと上辺で区別するような判断しない」

 『いやぁ、信頼してるのはわかるがそんな事は無いと思うぜ旦那』

 「…なぜ、そう言い切れる?」

 『なんで、って。それは今までの経験の……ん?あの家かい、旦那?』

 

 そうしている内に私の足は歩みを進めており、いつの間にか家屋が目につくほどの距離を詰めていた。その進みがどれだけ早かろうとも私も彼も、濡れている事に違いない。特に私が辿り着く前から濡れていた彼は頭の先から足先まで濡れているのだろう。

 彼女は恐らく、私が指示した事をしてくれているのだろう。お湯を沸かし、治療を出来る為の道具を用意してくれている筈。それでも、恐らく。

 

 「まい子。ただいま、戻った」

 

 玄関をあけて声をかければ…数秒後遠くから返事の声が聞こえる。そしてハタハタと小走りで近付いてくる音が聞こえ、玄関先の廊下を曲がり顔を出して現れただろうまい子。そして小さな爪音と共に現れた猫。恐らく虎猫。

 

 

 「お帰りなさいまっ…!ぎょ、め……え、えっ!?」

 

 暖かな…なんとも微笑ましい声色だった彼女が突然に戸惑い、震え怯える声と共に仰け反り後退った。

 ……なんだ、どうした?なにがあった?私が一歩近付けば彼女が一歩下がる。いつも出迎えてくれる様子とはまるで違うそれに、戸惑う。なにせ、なにせその反応は背中の彼が言っていた事を思わすような…

 

 

 「……?まい子…?」

 「な、なぜ……なぜ。行冥様…」

 

 彼女は、胸元の着物を抱えみ。何度も何度も顔を反らし私を……私の背に背負うもの見て、震える声のまま。

 

 

 「なぜ、鬼…?…を背負っているのです…?」

 

 

 そう、言い放った。

 

 

 「……は?」

 

 

 ……なん、だって?……お、に?…鬼?

 

 私や、彼女の、人生を狂わせたといっても言い……鬼?鬼だと?

 日の光の下では生きていけない鬼はこの雨模様の中では自由に動ける。しかし彼が鬼であるならその気配に私は対峙した時に気付けていただろう。だがその気配に鬼の欠片も感じれず……

 

 だが、彼女は目で、はっきりととらえている。私の背にいる、彼の存在を。

 

 

 しかし、そんな背負われて不振な目線を向けられている彼は。

 

 

 『おに?…おに、とやらは初めて言われたな。今まで散々"魚"だとは言われてたが』

 

 

 平然と、新鮮な反応を受けた事を感動しているようだった。

 

 

 

 

 

 

 ** SCP-527 **

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 部屋の中に座り、言われるがまま差し出したお茶を熱そうに口にいれている彼を目をそらさないように私は見ていた。

 足の治療はした。折れたりはしていないから、痛みさえ引けばすぐに歩けるようになるはず。そもそも任務終わりに稀に見る彼の怪我と比べたら…どうしても見劣ってしまう。

 

 行冥様の大きな背中の後ろに隠れ、着物の羽織りを力一杯握りしめたまま見続けていた。行冥様も見ている…けれど私の感じる違和感そのまま感じてはいないだろう。何せそのおかしな"その部分"を目に入れない限り…彼は普通の人間だった。服は…西洋の服で、着物でないにしろその事自体はおかしな事ではない。

 

 崖下に落ち、行冥様が背負ってここまできた彼は……人、ではなかった。少なくとも今目にしているその姿は、決して人ではなく見える。

 けれども私が言ったように鬼ではないらしい。行冥様曰く、鬼の気配は一切しなく…また本人も鬼ではないと言う。本人が言うのみのそれを信じるには信頼が薄いが、行冥様がいうなら……信じるしかない。

 

 

 けれど。けれど到底人間には思えない。なにせ彼の頭部は…

 

 「……な、なぜ魚なのです?」

 

 西洋の服に似合う帽子を被った頭には髪の毛も眉も無く、瞬きの一つしないそれはまぶたすら存在しないのだろう。皮膚も人とは言えない…ヌメリとした肌。なのに、それは頭部だけ。湯呑みを持つ手や西洋の草履を脱いだ足は極々普通の足でしかない。…なんで魚なのだろう?

 

 彼の大きな背から顔を出し、恐る恐る訊ねる。側面についた大きな目玉がギョロリと私を睨むように向いた事で咄嗟に行冥様にしがみつくように抱き付いてしまった。

 

 『さぁー?俺が知る訳ねぇじゃん。ってかお嬢ちゃんお茶おかわり。あと何か食べるもんある?』

 「………」

 

 けれどその声色は案外軽く、私の発言に対して怒っている訳ではないようだった。恐らく睨み付けてもいないのだろう。ただ目が大きく動きがほとんど無いそれは、見られただけで睨まれたと感じてしまう。魚が人間と同じ大きさになるだけで、こんなにも怖いのか。

 ……けれど、その怖さを彼の軽い声色やあけすけな態度が緩和させている気がする。多少、軽々しくずけずけと踏み込んでいる気はするけれど。

 

 

 「…鬼ではないという言葉は信じるが、何者なのだ?」

 『だからぁ、俺が知る訳ねぇって。産まれた時からこうなんだからよ。まぁ旦那でもいいや、お茶おかわり』

 

 隠れる私を安心させる為か、行冥様は大きな腕が包み込み軽く背を撫で叩いてくれた。それは丸太のように太くて…逆に動けない。彼の側にいれば確実に安全で動けなくても関係ないかもしれないけれど。

 彼が訊ねても、魚の彼から明確な答えは帰ってこない。もしかして本当に知らないのかも知れない、産まれた瞬間からそうであれば彼に聞いた所で答えはない。けれど、その軽い言い方からして本当に真実かどうか…いや、疑い続けるのも失礼かな。

 

 

 空の差し出された湯呑みを、私を抱く腕とは反対の手を伸ばし受け取る行冥様。そのままおかわりを、と言う彼。

 

 …ん?……なぜ、彼がそんな指図をされているのだろう?私ならまだ良い。彼を助け背負い、ここまで連れてきた行冥様に言うべき事ではないのではないだろうか。彼が受け取った湯呑みをいささか強引に奪い取る。

 

 「申し訳ございません。大丈夫です行冥様、私が淹れてきます」

 「…嗚呼、すまないまい子」

 『あ、お嬢ちゃん何か腹にたまるものある?それか甘いものとか』

 「………」

 

 優しい彼は現状に戸惑っているのだろう。困ったように下げられた眉やこぼれ落ちる涙がそれを物語っている。私を抱いていた腕を離しはしたものの……何か言いたげに口を開いて、閉じた。

 確かに…本当に、どういう事なのだろう。なぜこのような事になっているのだろう。怪我をした男性を助けて、それが頭が魚で、治療をしたかと思えばお茶とお茶菓子を出すかどうかのこの今の状況は。

 

 

 なんだろう、これ。実は雨の中見ている白昼夢だと言われた方が正しい気がする。

 

 

 「にゃあ」

 

 畳の縁を踏まないように立ち上がり、厨房へと向かうため廊下へ続く襖を開けた時だった。愛らしい声色が下から聞こえてきた。目線を下げれば茶白色の小さな物体……猫が私を見上げ、鳴いていた。

 一応お客様がいるからと、いつもほとんど開けっ放しにして通るのを自由にしている襖が閉まっていたから抗議しにきたのだろうか。

 

 けれど開いた事で許しを貰えたのか、二言目に何を言うわけでもなく傍を通り抜けられる。何気なくその後ろ姿を追っていれば……途中で"彼"に気付きぴたりと立ち止まった。

 

 「………」

 『おや?どうしたんだ、お嬢……えっ』

 

 内容は聞いていないが、行冥様と会話をしていた彼が私の不振な様子に気付き、こちらを向いた。そして同時に気付く、自身を見ている存在に。

 小さな彼は別に敵意がある訳じゃないだろう、ただ見覚えのないそれに対して興味で近付い……

 

 「フシャァッ」

 『ひぃっ!?』

 

 …た、と思う間もなく猫は小さな威嚇をした。彼は小さな悲鳴と共に仰け反り、行冥様が慌てて彼を抱き上げる。威嚇…?え、威嚇?えっ、何で?普段こんな事をしない子なのに。

 行冥様の大きな手の中でも彼はバタバタと暴れ続けていて…ええ、普段抱かれる時は大人しいのに…どうしたの?

 

 

 『く、食われるのはごめんだ…!邪魔した!!』

 「えっ、あ、ちょっと!?……えっ?」

 「……南無…?」

 

 そんな戸惑う私達を後目に、慌てたように立ち上がり開けた襖を掴んで更に大きく開いて飛び出すように廊下を走りはたはたと走って出ていってしまった。あまりのその早さに呆気にとられ、私も行冥様も呼び止めるも追いかけるも出来なかった。

 ただただ去って行ったその廊下を…もっと言えば乱暴に掴まれた事で破けた襖を見ていた。数回、瞬きを繰り返して…行冥様を見た。行冥様も何が何やらといった腑に落ちない表情をして、私を見上げた。

 

 

 「…え、な…何だったのでしょう今、のは…?」

 「…何が起きたのか、よく掴めていないのだが……もしや、この子彼を獲物として、狙った、のか?」

 「えっ……あ。魚だから、ご飯とでも思って……えっ、まさかそんな」

 

 行冥様の大きな手のひらに、少し前の大暴れは何だったのかとばかりに大人しく包まれている茶白の猫。確かにこの子は自分より体の大きな猫のご飯を奪いにいく食いしん坊だ。それになにより…滅多に出さないけれど、魚が好き。

 だからといって、ええ…いやまさか。そんな事が?でも、そんな。

 

 

 …そもそも、そんな猫が狙うような大きな魚の頭を持つ人間なんているのだろうか。いやいる訳が……えっ?

  

 

 「…彼は、その……妖怪?だったのですかね?」

 「さて……何だったのだろうか、南無阿弥陀仏…」

 「にゃあん」

 

 結論の出ない話。湯呑みや穴の空いた襖を見れば夢ではないとはわかるけれど、それでも現実とは思えない。

 漠然とした、釈然としない状況と空気感の中。関係ないとばかりに、大きく猫は鳴いた。すぐにご飯をくれと言わんばかりの大きな声で。

 

 

 

 

 




 SCP-527 ミスター・おさかな

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 SCP-527は頭部がゴールデンバーブ魚である以外は普通の人間。身長は167cm。まい子より12cm高く悲鳴嶼さんより53cm低い。水中で呼吸が出来たり魚と話せたりはしない。怪物に変化させられたとかでもなく、ただ頭が魚なだけで産まれた人。
 例のあの博士に作られただけの人。

 猫は大変にお腹が空いていました。それだけです。

 


SCP-527 http://scp-jp.wikidot.com/scp-527

著者:djkaktus 様

この作品はCC BY-SA 3.0ライセンスの下に公開されています。


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弐拾陸話 性的に襲いたいようです(前編)

 

 

 

 「行冥様、お疲れではありませんか。そろそろ休憩にしてはどうでしょう?」

 「うむ。そうだな、そうしようか…」

 

 庭先に屈み込む行冥様の大きな背中に声をかける。彼は私の声に振り返り優しく微笑み、手に持つ庭先のむしった草をあちこちから集めて立ち上がった後こちらに来て縁側沿いの私の横に腰掛けた。

 お盆に乗せ持ってきた湯呑みを差し出し渡した後、お茶を啜る音を聴きながら綺麗になった庭先を見る。屋敷を囲む塀内にある木々や残された低木の草花を。

 

 一般的に雑草と呼ばれる、名も知らない小さな草木のそれらを引き抜いていた行冥様。雑草なんて名前の草は無いのだけれど、引き抜かれたそれらは悲しき草木でしかない。

 もしかしたら成長しきったそれは、美しい花だったのかもしれない。花は好きだけれど…ううん、管理しきれない上してもらってる立場で何も言えないなぁ。

 

 

 本来ならば敷地内の清掃という事で、私がしなければならない事…すべき事なのだろうけれど。

 

 「いつもありがとうございます、本来ならば私が行うべき作業ですのに」

 「構わない。この程度の事、私がすればすむ事と……いや、違うな、私がせねばならない」

 

 なぜだか、行冥様が行わなければならないと言う。日の下の作業だから?広さの問題?それとも……

 

 「…それはまた、どうして?」

 「………」

 

 私の問い掛けに行冥様は口をつむぐのを止めた。そして誤魔化すかのように茶を啜った。

 …??んー、答え辛い質問をしたのかな。そんな無理に回答してもらわなくても大丈夫だけれど。無理に問い詰めるなんて事はしない。

 だけれど…そんな難しい事を聞いたのかなぁ。役割に関しては曖昧にすべき事ではないと少し思っただけなのに。

 

 「行冥様?」

 「大した事ではない、忘れてくれて構わない。嗚呼…まい子もすべき事が他にあるのならそちらをしても良いが、どうだ?」

 「え?…あっ。はい、それでは厨房の片付けをして来ます」

 

 問い詰めたかった訳ではなかった。ただ反射的に彼の名前を呼んだだけで…。彼は怒るでもなく穏やかに私を見下ろした後いつものように頭を撫でようと手を持ち上げたものの、草木を摘まんだそれは泥に汚れていると思ったのか途中で止めて…胸元に戻した。

 行冥様の穏やかな声色が追及してくれるなと言わんばかりな気がして、跳ね上がるように立ち上がった。お茶を入れた厨房の片付け、ついでに付近の掃除をしようかと。急激に動いたその行動を心配する彼に謝り、縁側沿いの廊下を進もうとして……

 

 「…あれ?」

 

 とある一部分が妙に目に止まり、立ち止まった。不自然に立ち止まった私の行動に違和感を覚え、立ち上がり作業を再開しようとしていた行冥様が訊ねてくる。

 

 「どうした?」

 「いえっあの……ここの壁にある染みって、何の染みでしたかね?」

 「………」

 

 目に入ったそれは、縁側にある壁の一部。襖の横にある小さな小さな染み。赤黒く、微かなそれは普段であれば気にも止めないようなもの。それが…不意に目に入って、心をとらえた。 

 

 

 「赤黒い染みですね。低い…私が座り込んだら丁度頭の位置でしょうか。こんな所に染みなんてありま…」

 

 

 「さて。いつまでも休息を取る訳にはいかない、続きをせねばな」

 「……。……ぁ、は、はい。私も片付けをしてきます!」

 

 その壁の染みを見ていると何かを思い出せそうな気がした。染み。私の頭の位置の……

 そんな巡らす思考を遮るかのように少し大きな声が割り込んできた。行冥様は立ち上がり背伸びをしていた、お茶を飲み干した湯呑みをお盆の上に置いた事で少々響く音を鳴らして。

 

 …ああ。行冥様が再び行動するのならば私も動かないと。こんな所で思い出せも、そもそも記憶にあるかもわからない思考を巡らせているばあいではない。

 

 

 慌てて縁側沿いの廊下をはたはたと進んでいった。

 後ろから走るような無茶な行動をしないようにと、声をかけられながら。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 彼女のか細い軽い足音が遠ざかっていく。縁側沿いの廊下を曲がり、屋敷内へと進んで行ったのだろう。

 私の見えぬ目でも映らぬ、見えない位置にまい子が動いた事を確認し…息を深く吐く。

 

 

 到底黙ってはおけない…しかし、絶対に伝える事など出来ない心覚えを少しでも軽くするために。

 

 

 気にしていたその、廊下の壁にある染みの正体を私は知っている。原因も、経緯も、結果も、なにもかも。鮮明に覚えている。

 

 それは、私がこうして暇を見ては庭先をまんべんなく草抜きする事に関わっているのだから。全てで無くて良い。どんな種類であろうと関係ない。大きくなり花を咲かすようになるまでに排除出来れば良い。

 

 

 そもそも山の中にある我が家では完全に、それも無差別に生える植物の排除など厳しいが……それでもやらずにはいられない。

 

 

 私の勘違いならばそれでも良い。思い込みならそれでも良い。

 

 

 植物に。花に。

 

 胸に秘めた本心を晒され、らしくもない行動をさせられるような事が万一でもあるとするならば。

 

 

 庭先へと足を踏み入れた。さあ、再開しよう。

 

 

 ……私は、この行動を止める訳にはいかない。それが私と彼女の、心からの安穏になる可能性があるのならば。

 

 

 

 

 …思い出すは今から少しばかり前の話。

 

 まだ私達が婚姻を結ぶどころか、不意による慕情が伝わる前の話。

 

 

 そうだ、その日。あの日…。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 血の臭いを感じない柱としての責務を果たし、家へと戻ったのはすでに日が沈み、遥か高い場所に月が登っているだろう時間だった。

 付近に位置するほぼ全てが眠り、動植物の身動ぎすらろくに聞こえない静かな世界。

 

 そんな中。

 

 「お疲れ様でした、無事でなによりです悲鳴嶼様」

 「うむ、無事に戻った藁谷」

 

 出迎えてくれたのは、同居人である藁谷まい子。この屋敷に迎え入れてから半季近くもの期間が流れ、当時より活力溢れる声色に変化したのは体も心も少しずつ癒され健康になった証だろうか。

 そうであるならば、何より。胸に暖かなものが染み渡り瞳から涙がこぼれ落ちる。彼女の戸惑う声が、以前と比べ少しずつ揺らいできたのは慣れてきた証拠なのだろう。

 

 すでに眠っていてもおかしくない時間帯だというのに。私の無事を願い、喜び、出迎えてくれるのは……この、共に過ごした年月で理解した彼女の優しさと慈しみの心だ。

 

 

 …いや。今現在はそれだけではないのかもしれない。

 

 

 私の目は何も映さない。

 だからこそ、理解できるものもある。

 

 

 いつからか。

 当初申し訳ない、恐れ多いとばかりの縮こまっていた彼女の瞳に、手のひらに、吐息に。

 

 「そういえば、悲鳴嶼様。ついに開花したのですよ!」

 

 熱い、ものを感じるようになったのは。

 

 

 私を出迎え、隊服からの着替えや様々な帰宅後の準備を差し出してくれていた彼女が何かを思い出し立ち上がった。そのまま、廊下方面へと向かい襖に手をかけた後、私を呼ぶ。どうやら私をどこぞへ連れていきたいらしい。

 その、健康な人の体より一回り小さな背の後ろを着いて歩く。これでも大分ましになったのだから、きっと恐らくもう半季あれば。

 

 「南無。…開花とは庭先にあった蕾の事か」

 「はい、悲鳴嶼様が出掛けられた時にはまだ蕾でしたが今朝咲いたので悲鳴嶼様にも見ていただきたくて。朝でも良かったのやも知れませんが…しおれてしまう前に、見ていただこうかと」

 

 薄く困ったように。照れたように笑う彼女、藁谷。その声色に微かに混じる…熱い、もの。私の勘違いならばそれでいい。

 彼女の朗らかな声色や態度を私がそう思ってしまうのは私が余計な勘違いをしているだけだと。

 

 だがしかしそれを私が更に勘違いし、良くない方向へ変化させてしまったら。万一だが自惚れ、悪手を打ち傷付けてしまったら。……そんな事は、望んでいない。

 ただでさえ私は結果として…だが。彼女の自由を奪い選択肢をせばめ、不明確なままこの山の中に閉じ込めてしまっているようなものなのだから。

 

 

 「そうか、それはさぞ美しいのだろう。花は……自由であるべきだ」

 「そうですね!……。…??ん?そう、ですかね?……そうなのかな…?」

  

 彼女は自由だ。

 

 例えどれだけの思いを抱えていようとも、どのような手段であろうとも、一方的に思いを勘づき感じた私が。すぐに、一瞬で自由を奪える立場の私が……何かをすべきではない。

 

 ………。ああ。嗚呼。決してそれが。

 無くなってしまう事を恐れるようになってしまった後では遅くとも、だ。

 

 

 

 そうして、私達は廊下を進み、目的の場所へとたどり着いた。

 

 「こちらです。さほど大きくはないのですが綺麗な藤色の花弁を持った花びらが咲いたのです」

 

 彼女に案内されたそこは、縁側の外。塀に囲まれる庭先だった。いくつかの木とその足元に生える低木の草木に混じる中に…それはあった。

 

 この植物がいつから生えていたのかは私にはわからなかった。何せ私が柱となりこの屋敷に来たのも半季と変わらぬ時期なのだから。だから立派なそれを、私達の尺度で雑草だと引き抜く事は出来ずあれよあれよという間にこの状態になっていた。

 それでも、それほど美しい花を咲かせたのならば、引き抜かずにいた事は正解だったのだろう。

 

 藁谷が庭先に降り、その後へと続く。任務に出掛ける前、小さな蕾がある事は聞いていたから場所は大まかに理解していた。それでも蕾の中の一部である咲いたそれらは、案内されなければわからなかった。

 

 「ふむ……。…む?」

 「ぁっ、えっと……もう少し上です」

 「……嗚呼。これらか」

 

 屈みこみ手を伸ばす。目当ての花弁は予想より案外高い位置にあり数回目的の場所を探し、少々さ迷った。

 彼女は戸惑う声が聞こえた。それらの捜索はすぐに済む事だったが、多少手間取ったからだろう。私の目が見えていればすぐに見つけられただろうし、そうでなくとも彼女が私の手をとり導けばすぐだった。

 

 だが私の目は見えないし、特別な関係ですらない私達が手を繋ぐなど許される事ではない。大した理由もないというのに。

 

 

 「なるほど…これは、好いものだな」

 「…はい。小さく儚いそれの美しさを悲鳴嶼様に見ていただきたくて」

 

 触れた花弁は儚く、なめらかなものだった。咲き誇ったそれらからふわりと柔らかな香りを感じる…気がした。隣で彼女が柔らかに微笑んだ。

 見えない私に…"見て"もらいたかったという彼女の尊大な気遣いに心が熱くなる。涙が頬に流れ落ち、それを見た彼女の戸惑いながらの笑い声につられ笑う。

 

 「そうか。それはそれは…さぞ、美しいのだろうな…」

 「…はい。とても、とても。…今日が満月ならばもう少し明るく見易いのでしょうが、下弦の月ですからね…」

 「……そうか、今日は下弦の月なのか」

 

 見上げたであろう藁谷の言葉につられるように、上を見上げた。暗がりの中に微かに明かりが見えた気がした。

 私にとっても、彼女にとっても切り離す事など金輪際出来もしない鬼の存在に関わる言葉と同じそれなのに。彼女が発したそれは……とてもとても、佳麗で尊いものに感じた。

 

 そんな事を思っていた、ほんの数秒間後。

 

 

 

 

 ぬるり

 

 

 「…むっ?」

 「どうしました?」

 「いや…何か手に、水のようなものが…」

 「えっ?水、ですか…?」

 

 不意に草花に触れていた指先に滴り落ちそうなほどの水がこぼれてきた。ぬるりとしたそれは間違いなく水だろうに…理解が出来なかった。

 …そもそも、水など…どこから来た。月が覗く月夜に雨など考えられず、他の原因など。……まさか花弁から?いや、まさか。

  

 「あっ本当に濡れてますね、どこから……あれ?…乾い、て……」

 

 私の手のひらを彼女が覗き込んだ、と思った途端……ふと、時間が止まる。

 見えなくとも指先に感じていた雫の感触がなくなり、乾いた手のひらだけが残ったのを感じる。残されたのは何もない、手のひら。彼女も見て、それを確かに確認したようだった。

 

 ……気のせいだったのだろうか、私の勘違いの可能性は無くはない。こんな天気の良い日に花から滴るような水滴などが出るとは考えれない。ならば私が手を濡らすような焦りや火照りを感じていたと?…まさか。………。

 いや、それよりも。

 

 

 「……藁谷?」

 「………」

 

 会話の途中から一言も発さず、固まったかのように動かなくなった彼女が気になり、声をかける。しかしそれでも微動だにせず……まるで立ったまま意識を飛ばしたかのように。

 一瞬迷いはしたものの、肌に直接触れないよう肩に手を置いて再度彼女の名を呼び訊ねる。小さな細い肩が微かに揺れた…そう思った途端。

 

 

 首筋に、体に、細柔いものが絡み付いてきた。

 

 

 …数秒もかからず理解する。それは、隣にいた彼女が抱き付いてきたからだと。

 

 

 

 

 

 ** SCP-034-KO **

 

 

 

 

 

 「わ、藁谷…!?」

 「悲鳴嶼、様……あ、ぁあ……申し訳、ぁ…う……んっ…」

 「どうしたのだ?藁が……」

 

 たった今の状態すら録に理解出来ず、彼女に声をかけた。なぜ私に抱き付いてきたのか、もしかして具合でも悪くなってしまったのかと。

 しかし、そう訊ねる間もなく何よりも素早く反射的に私は手のひらで顔の前を覆った。やりたかった訳でも、考えての行動でもなく。ただただ反射的に。その手のひらに。

 

 「…何事…!?」

 「ひめじ、ま、さま……」

 「ッ!?!!」

 

 彼女の唇が触れ、柔らかく沈んだ。手のひらに収まりそうな小さな顔とその熱。

 微かに動いたそれは熱い吐息を耐えきれないとばかりに深く深く吐き出し、小さな手で私の手を左右から握りこんだ後、舌をぬるりと這わせてきた。

 レロンと。チロチロと。小さくも生ぬるいそれが手のひらをなぞる度に背中に何とも言えない痺れが走る。

 

 

 




 ─ 後編に続く


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弐拾陸話 性的に襲いたいようです(後編)

 

 

嫌悪、などではない。悪寒に似たそれ。このか弱き優しい彼女に大して悪意を持った感情など用いれる気がしない。

 

 

 ならば、私のこの感情は。

 …違う。そうではない、考えるべきは"それ"ではない。

 

 

 なぜ。彼女は唐突にこんな行動をしてきた?万が一にも考えれる、秘められた感情を自他問わず怪我を負わすにも等しく爆発させるような行動を起こすなんて。

 

 

 まるで、何かにあてられたかのような……。……いや、まさか、そんな。

 

 

 「…と、とにかく、落ち着きなさい!」

 「ぅ、あ……ぃや、です…悲鳴嶼、さま……ん…」

 「南無三……」

 

 湿った水音が、すぐ目の前の手のひらにある。

 彼女の声が私を呼んでいる。何よりも熱い、熱い声色で。

 

 

 ああ、思考が鈍る。絡み合う。戸惑っている。何が起きている。

 

 熱い吐息を吐きだした柔らかな唇が手のひらをついばまれていた。何度も何度も、歯をたてないよう甘噛みされ、舌先で舐められ、吸われている。

 

 手で覆っていなければ、私の力が彼女より弱ければ間違いなく。壁を作る手を押し退けられ、私と比べ薄く小さなそれを私の口唇に押し当てられ溶け込むかのように、思い切り吸われていただろう。口吸い、として。

 ただでさえ、今手のひらを味わうかのようなぬめる舌先で滑り込むように、それを。

 

 ………。

 

 

 「…藁が、や……ッ!?待っ…!」

 

 首筋に巻き付いていた腕が襟元から下に下がり、滑り込んできた。数珠を鳴らし襦袢を撫で、その、中へと。

 擦り付くように撫でつくようなしなやかな体が着物の帯に阻まれるも、足元が絡み付いてくる。すそがはだけ、足首どころか、もっと上まで。

 

 ああ、これは。

 …目の前がチカチカと、揺らぐ。空を見上げた時より遥かに激しく。

 

 

 「藁谷!」

 「あっ、あ……っん、う!…ぁ、あぁ。ん、なんで…悲鳴嶼様…!」

 「落ち着……いや、違う。目を覚ましなさい…!」

 

 これは、駄目だ。猛毒でしかない、私も、彼女を滅ぼす、劇薬だ。

 そして…こんな事をしている、のではない。させられている。きっと、恐らく。確実でなくとも核心はある。

 

 

 吐き出された吐息を掴み、腕を掴み、体を担ぎ上げ地面を蹴り室内へと戻る。

 すがり付いていたとろけそうなほど柔らかく揺らぐ細い体を、鬼を縛り上げるかのごとくたまたま部屋の中に置いていた背負い籠から取り出した武器の鎖を巻き付ける。傷つけぬように、行動不能にする強さで。

 

 

 彼女はこのような事をしない。するとは思えない。理由などわからぬ、まるで催眠をかけられているかのような状態のこのまま…好きにさせていては駄目だ。

 彼女自身が動いていない、望んでいないような真似をさせてはいけない。例えこの行動の大元が本当に彼女の心から産まれたものだとしても、だ。

 操られている今この藁谷が起こした行動が、目覚めた藁谷を傷付けるならば。私は、彼女を止めなければならない。

 

 

 「ぁっ、ああっ!…ひめじ…さ、ま…お願、お願いします……わたし、私と床入、し、っ…」

 「ッ…!」

 

 強く巻き付けた鎖は、彼女の力ではどうあがこうとも外せないようにしている。何度もほどこうともがいていたが不可能だと気付いた彼女は動きを止め、私に声をかけてきた。

 その声色は徐々に揺らいでいき。言葉尻に届く時には、こらえるかのように溢れ落ちた涙で濡れていた。その声に、後頭部を殴られたかのような強い衝撃を受ける。 

 

 「…そんな、に。私とまぐわうのが、嫌で…」

 「嗚呼、南無…!頼む!これ以上…!」

 

 彼女を、壊さないでくれ。

 

 

 操られ深く深くしまった意識を無理矢理に引きずり出され望まぬ行動をさせられている、彼女を、傷つけないでくれ。

 想いを無理矢理に増長させ艶やかに淫らに私へと絡むその行動を止められるなら、このまま鎖で縛り上げ続けていよう。しかし語る口を止める事など、それこそ塞ぐぐらいしか…

 

 

 にぶい音。

 

 何かしらの硬いものを、硬いものにぶつける音。縛っている手足ではない、それよりも大きなもの。

 

 

 「ぁ、あぁ…!あ"ぁ!!」

 「…!!!」

 

 瞬時に理解した。

 

 それは、鎖で縛られ自由を奪われた彼女が壁に思い切り自身の頭打ち付けていた音だと。

 先ほどの抱擁と口付けをしようとした速さと同じ素早さで、強く壁に側頭部をぶつける音だった。

 

 三度ぶつける前に力付くで止めるも、異常とも呼べるその速さと強さは藁谷のこめかみにぬるりとした血を滲ませるに遅くなかった。手のひらに血が触れる。恐らく壁にも。

 

 

 「…藁谷…まい、子。……」

 

 苦しめている。秘められた私への情慕は暴走し、狂わされ、そうして今彼女を傷付ける手段へとさせられている。

 違う。そうではない、そうであってはいけない。動きを止めても、それでも無駄ならば。流れる涙を止めれないのならば。

 

 

 どうすれば、どうすれば良い。

 

 

 私が、出来る事は。しなければならない事は。縛る以外に彼女を、止める手段は。

 

 

 「んぐッッ!」

 「…す、まない。本当に、申し訳ないっ!」

 

 彼女の意識を、落とす事。無意識だろうが、深層心理だろうが…関係ない。全ての意識を何にも及ばない深くまで落とす事。その手段として何よりも手早く出来る事をせねば。

 彼女の細い首筋に腕を回し、そして何よりも素早く強く、力を込めて。

 

 

 「…!!…!……。……」

 

 くたりと、沈み…そうして彼女は意識を飛ばした。

 もがこうとした腕が、体が。だらりと垂れ下がり、力の抜けた体が前のめりに倒れかけるのを慌ててひっつかむ。

 

 あぁ…嗚呼。本当に、本当に申し訳ない。私は、私はなんて事を。

 

 

 畳の上に寝かせ、呼吸と脈拍の無事を確認をし…多少の安堵の息を吐いた。怪我も後遺症も残したい訳ではないのだから。

 次は壁に打ち付け負った怪我の治療をして、その後は壁の清掃だろうか。血糊がついているだろうから。彼女が目覚めるまで傍にいて…目覚めた後は……。

 

 

 さて、どう説明すべきなのだろう。説明……。出来るならば、口を閉ざしていたい。間違っても彼女自身に、真実を告げるなど…。

 

 嗚呼。南無阿弥陀仏……彼女を傷付けるそれらを、想像から連れ出したくない。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 ……そうして当時の私は黙り、真実を告げない事を決めた。嘘をつく訳ではない、一部を話さないだけ。

 

 結果論として彼女の想いを受け入れ、分かち合う事になった今でも……それは、変わらない。傷付ける恐れがあるあの夜の事は、禁断のものとして抱えていく事に変わりない。

 そもそも真実を語った所で信じてもらえるかどうか……いや、彼女ならば信じてくれるだろう。だからこそ、語れない。

 

 

 「行冥様!」

 「!」

 

 思考をあの時の夜に巡らせていた私の耳に届いた、今現在の私を呼ぶ彼女の声。まい子の、声。

 庭先にしゃがんでいた体を起こし、こちらに向かってきている彼女の元へと私からも向かう。庭先に降りようとしたそれを止め、縁側で出迎える。

 

 「どうしたまい子?」

 

 聞こえた彼女の声色は去っていた時より随分嬉しそうで、炊事場の片付けをしている最中に何があったのだろう。

 あの子達が何か愉快な事でもしたのだろうか。また白猫が桶に落ちて、大慌てなその足で廊下を走り回り水浸しにでもしていたのだろうか。

 

 「思い出したのです!」

 「む、何を?」

 「先ほど話した、壁の染みの正体です!」

 「………」

 

 ……嗚呼、なんと、まあ。

 私が思い出していた、それを。彼女もまた思い返そうとしていたのいうか。そしてそれは…私にとって決して望ましい事ではない。

 もし、あの一時の一瞬でも思い出してしまえば、どうなってしまうのか。あんな、嫁入り前の娘がすべきではない……彼女としては思い出せなかった記憶の靄(もや)が晴れ、爽やかな心持ちになっているのだろうが。

 

 「一年ほど前ですかね…ここで理由は思い出せませんが頭を打って気絶したとかではなかったでしょうか。そして私の治療と介抱を行冥様にしてもらいましたよね」

 「……まぁ、大体そのような感じだったな」

 

 違いはない。さほどの大きな違いは。

 …心配していたあの時間の記憶は戻っていないようだ、そもそも催眠状態のようなあれでは記憶するものではないのかもしれない。

  

 「いやぁ、本当にお手数をおかけしまして。今さらですが、改めて謝罪とお礼を」

 「大丈夫だ、当時も貰った。何より守れなかった私の失態でもあり……それに何より、あれは不意の事故だ。想定すら出来るはずもなかったのだから」

 「えっ、行冥様がそう言うとは……私どれほど奇抜なすっ転びかたを…」

 「………」

 

 うんうん、と唸り考え始めたその姿になんと声をかけていいものなのかわからず口を紡ぐ。結して愚かではない彼女に勘づかれるような余計な事を言いたくはない。

 

 「…あれ、そういえばその次の日でしたっけ?庭先にある花を咲いてる草木すら全てを引っこ抜き、それらを燃やしたのは」

 「…うむ。その通りだ」

 

 そして続けざまに彼女が語ったそれにも、間違いはない。多少…合間が抜けているだけで。…なぜ、そうしたのか経緯の謎は残るが当時の私はどう言って彼女を納得させたのか、思い出せない。

 彼女の言葉に大人しく目を閉じ頷く。そう、その行動に関してはなにも間違いはない。

 

 

 確かに当時の私は目覚めた彼女の無事と健康面の確認をした後、問答無用で庭先の草花を全て引っこ抜きその青々しく燃えないそれらの若葉達を時間をかけてでも燃やした。引っこ抜いただけでは脅威の排除を納得出来ずにいたから。見えぬそれらを姿形残さず消してしまわねば納得出来なかった。

 狂ったかの如くの私の行動に当時の彼女は何と言ったろうか。咲いたそれを喜び告げてきたそれを手折(たお)り燃やす私の事を…よくまぁ嫌わずにいてくれたものだ。

 

 そして野焼きと同じ効果があったのか、何も無くなった筈の草木は幾度も絶えず生え続けておりそれらわ引き抜く作業は今現在今日も続いている。これは、彼女に任せる訳にはいかない。

 …そうした事に関して、何も後悔はない。

 

 

 本当に原因があの花にあったかどうかは今では解明できず、あくまでも状況証拠だけで決定的なものは何もない。

 

 だが花の持つ不思議な効果の力は……私は良く知っている。鬼を寄せ付けぬ藤の花のように。人をまどわし狂わす藤色の花もあり得るやもしれぬ。

 

 

 「……」

 「行冥様?」

 「いや…しかし良く、傍にいてくれていると思ってな。開花した花の末路を覚えているだろうに」

 「ああ……その事ですか。確かに不可思議で、録な説明も無かったですが……行冥様は無意味にあんな事はしないでしょう。当時から行冥様はとてもとても優しい方だとわかってましたから」

 

 両手を動かし耳や口を塞いで仕草で感情を表し「それに」と言葉を続けた。

 

 「知らなくても良い事も、それこそ話したくない事もあるでしょう?そうした方が最良だと行冥様が判断したのならば、私は何も云いません」

 「……まい子」

 

 彼女の心は何と無く、理解はしていた。しかしそれでもこうして直接言われるのは別だ。当時の彼女は私に対して少し控え目に、申し訳なさを思い距離を起いていたのも否めなかったから。

 

 「南無……すまない、その信頼を裏切る真似はしないと誓おう」

 「あ、でも多少恐怖は覚えました」

 「……ああ、まぁ、そうか」

 「はい。親の仇かの如く草花を抜き燃やすそれは阿修羅を彷彿とさせるような姿でしたので」

 「………」

 

 人間理解の範疇を越えると恐怖になるのは仕方ないだろう。それは良くわかっている。しかし、当時の私……阿修羅だと思われていたのか。

 いやまぁ…こうして、思いの丈をぶつけられるだけ心開けたのは良い事なのだろう。……そうだろう。きっと。…そうだな、無意味に掘り起こすべきでないのだからこれ以上下手な事は言わずにおこう。

 

 「……思い出したそれで傷が痛んだりは?」

 「え、とんでもないです。傷痕すら残っていませんし、そもそも私のうっかりで……行冥様?」

 

 戸惑う縁側に佇む彼女の肩筋に顔を埋める。着物越しでさえわかる細かな震えは戸惑いと、恥ずかしさからの震え。幾度と触れているというのに変わらないそれ。

 嗚呼…埃で汚れてさえいなければ、腕を回す事も出来たのに。あの時とは違いその行動に罪悪も嫌悪も口惜しさもないのだから。

 

 

 「…忘れて、しまいなさい。あの夜は悪夢でしかないのだから」

 

 

 ……南無阿弥陀仏。なんと、まぁ。儚く尊い事か。

 

 

 

 




 SCP-034-KO オオカミの花

 オブジェクトクラス:safe(まぁ安全)

 SCP-034-KOはホタルブクロの花によく似たもの。上弦後5日から下弦前5日までの約6~7日の期間中に月明りに照らされると透明な液体を出す。その液体はすぐに気体に変化し、それに触れた人を狂わせる。
 具体的に言えば好きな相手(恋愛感情、尊敬感情、男女性別関係なく)に性的に襲い始める。まぁガス状の媚薬のようなもの。時間は一時間から一時間半。その間の事は当人は全く何も覚えていない。相手を抑え込もうと拘束した場合頭を壁に打ち付けたり舌をかんだりの自傷行為を始める。


 まい子だけ狂ったのは悲鳴嶼より低く近くでその気体をもろに浴びたから。悲鳴嶼が狂ってたら大変でした。まじで。



 


SCP-034-KO http://scp-jp.wikidot.com/scp-034-ko

著者:brewmaster 様

この作品はCC BY-SA 3.0ライセンスの下に公開されています。




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弐拾漆話 箪笥の中の迷路のようです(前編)

 

 

 

 「…壊れましたね」

 「南無…まさかこのような…」

 

 まい子から箪笥の引き出しが開かないとの話を受け、私は手を貸した。力が足りないのならばと。

 

 着物がいくつか入っている軽いそれを、何度と引っ張るも微動だにせず。というより奥で何かが詰まっているような。少し力を込め引き出せば鈍い音と共に壊れた金具と詰まる原因の剥き出しの木片が千切れ、床に転がる音が聞こえた。

 

 

 ……これは。いや、そもそも私が引き出さなくとも詰まっていたこれは…

 

 「壊れていた、のだろうな…元々」

 「そうですねぇ…いやぁまさかこんな。あ、すみませんありがとうございました。もう大丈夫です、開いたので気を付けて使いますので」

 「…ふむ……」

 

 引き出した…というより引っ張り出した引き出しに触れる。千切れた場所から大きくひび割れたそれを指先でなぞり…その大きさに眉を潜める。

 この大きさならば、中に入った着物や帯

を巻き込んでしまうだろうと。今は平気でも、その内すぐに。いやそもそも畳に音を立て落ちるほど欠けたそれが衣服を守れるなど有り得るはずが……

 

 うむ。やはりそうすべきだ。

 

 

 「新たな箪笥を買うべきだな」

 「……えっいやそれは勿体無いのでは…」

 「大丈夫だ、怪我をする前に買い換えた方が良いだろう」

 

 戸惑う彼女の肩に触れ、そのまま首筋と髪を撫でる。確かに物を大事にすべきだ、しかし。剥き出しになった鋭さに血を見せられる可能性があるのなら。これ以上彼女の柔肌に傷を残さない、それを防げる手段があるのなら。

 そうした所で、何も問題ないだろう?

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 壊れた箪笥は一時的にそのまま、私達は麓の街の家具店に来ていた。

 

 「わぁ…凄い、なんて様々な…!あぁ、見てくださいませ行冥様、こちらの箪笥などなんて立派な木材を使っているのでしょう!」

 

 その店は結構な品数の充実を持つ店で、これほどの数多くの家具を初めて見ただろう彼女の声を聞き笑みがこぼれる。私に見ろ、という彼女の声に。

 店内に響き渡る彼女の草履の音。どうやら私達の他にお客はおらず、どれだけ騒いだとしても誰にも文句は言われずにすむだろう。店主も奥からゆるりと出てきて声をかけてきた。想定しうる全ての平穏である「どういった品物をお探しで」との言葉を。

 

 

 「普段使いの箪笥を探しているのだが」

 

 私の言葉に店主は納得の声を上げ、私達を案内するように導かれる。紹介された多数のそれら一つ一つを丁寧に紹介する店主の言葉に頷き、時折気になった事を訊ねる。

 まい子の普段使いのもの、聞くのは主に彼女で私は外装や素材を触れて確かめていた。どれもこれも、私の胸元か首元までの高さしかなく上部の埃がたまっている部分を少し撫でて。

 

 「どれもこれも結構大きいですね…あまり高いと手が届かないので…」

 「大丈夫だ、私がいるのだから。だが一応上に物は置かないようにすればいいだろう」

 「うーん、確かに…しかし値も張りますし」

 「……心配など、しなくていい…」

  

 私からの許可がおりても戸惑う彼女の髪を撫で、落ち着かせる。贅沢に胡座をかけとは言わないが、少しくらい甘えてくれても良いというのに。

 私達のやり取りを見ていた店主の和やかな笑い声を聞き…そういえばここは我が家でなかったと手を離す。店主は余計な事を言わず、改めて他の商品の紹介をしてくる。さすが年の功…酸いも甘いも噛み分けているのだろう。

 

 

 「この箪笥は引手や外装が漆塗りですね、なんと高価そうな…。あ、こちらは背が低く私でも上部に届きそうですが、やはり入る量は少なくなりますね……こちらの若草色の箪笥は、西洋のものでしょうか」

 「む?あぁ…取っ手が二つ、それだけしかないのか」

 

 まい子の少し驚いた声色につられ、それに触れる。

 大きさは六尺七寸(約2m)ほど。家にある壊れた箪笥と比べて圧倒的に引手の数が少ない。というより、この取っ手の形では恐らく仏壇のような観音開きに開くのだろう。ならば入れれる場所は、この箪笥の形の通り一ヶ所だけなのだろう。

 

 「はい。西洋の着物は折り畳まず、衣紋掛けにそのまま掛けるのだと聞いた事があります」

 「ふむ、ならばこの箪笥では駄目だな…」

 「はい、今入ってある着物を移し替えるには少々不便ですかね」

 

 そうしてまた一つ、選ばなかった箪笥を過ぎようとしたその時。私達を案内していた店主が不思議そうに呟いた。

 

 「あれ、そんな箪笥ウチにあったかなぁ」と。

 

 ……あるのだから、あったのだろう?

 

 「ぁ、いえこの箪笥が駄目と言ってる訳ではないですよ?高さも大きく洋服であれば沢山入りそうですし、多少の傷などはありますがそれでも文明開化を考えれば素敵だと思いま……」

 

 彼女の懸命な取り繕いに聞こえるそれを手助けしようと振り返った、途端。

 

 

 

 足元が、意識が、大きく横に揺さぶられた。

 

 

 「きゃあっ!?」

 「むっ…!」

 

 これは、まさか地震か…!?それもまあ、なんと大きな…!

 地面が大きく、まるでざるに入れられ研がれている米のようにかき混ぜられているかのように揺れていた。店主の戸惑う声と店内の品物が落ちる音、箪笥の扉や引き出しが開かれ、閉じる大きな音。そして彼女の悲鳴。

 

 

 「まい子、動かずじっとしていなさ……」

 

 怖がり声をあげる彼女を安心させるため抱き止めようと手を伸ばし……想定していた場所で空を切った。

 そこには、誰も、何も、いなかった。

 

 

 「………ま、い子…?」

 

 徐々に収まってきた揺れは関係なく、彼女が立っていた場所に歩み進め、姿を探すも何も見付けれない。

 バタンバタンと。揺れが収まり閉じた箪笥があるだけ。

 

 

 ……え、そんなまさか。…いや、彼女なら有り得る、か?

 

 揺れる前彼女はこの西洋箪笥の引手に手を掛けていた。そして揺れに襲われ、揺れに合わせ開いた扉に飛び込み、揺れに合わせて扉が閉まり……中に閉じ込められたのではないだろうか。箪笥の中に入った事などないが、開かない可能性もある

 

 まさかと言わんばかりの説だが、あの綿毛のようにふわりとした彼女ならなんともまぁ、あり得そうで……嗚呼。なに、確かめて見ればいい事だ。

 扉を開く事など容易く、何より姿が無いのだから。

 

 

 「まい子?そこに居…、……、…えっ…?」 

 

 

 西洋箪笥の扉を開き、声をかける。

 

 

 そして判明したそれは……私の想定していた全てを覆すものだった。

 

 

 彼女がいるか、いないか。その二択だったはずのそれは…全く違う回答を出してきた。

 箪笥の中にまい子の姿形は一切無く、かといって空の箪笥の木材に当たり反射してくる声も無く。

 

 彼女はいない。声も響かない。なにせ、その箪笥の中は。

 

 

 

 遥か遠く、声の響く具合からして三十間(約50m)以上もの長さを持ち、幾度となく曲がりくねっているであろう通路が広がっていたのだから。

 

 

 「……何だ、これ…は…?」

 

 

 箪笥ではない。これは箪笥ではない。

 

 そして……彼女、は?どこに行ったというのだ…?

 

 

 ……まさか、この箪笥の迷宮に不本意に飲み込まれ、迷い込んだとでもいうのか…?

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 「ぃっ、たぁ…」

 

 まだ目の前がチカチカする。

 瞳を閉じていて、何も見えない暗闇のはずなのに星が飛んでいるように明暗しているのは地震の衝撃で箪笥の中に思い切り前から倒れ込んで顔面強打をしたせいだろう。

 

 押さえた鼻先や頬に触れれば少しのぬめりが。鼻の奥からの血という意味での鼻血ではなく、鼻先を擦りむいての鼻血が出ている。同じく頬の表面を削ったであろう血が多少。

 

 ああ、ただでさえ傷物の顔だというのに。行冥様に大変申し訳ない。

 こんな地震に揺られてふらついて、ざらざらとした箪笥の中に倒れ込んで怪我をするだなんて。

 

 

 「申し訳ございません、行冥さ……え…?」

 

 座り込んだ体勢のまま謝罪をしながら行冥様のいた方向に向き直り、目を開けた。恐らく困り心配しているだろう彼の顔が見えるはずの向きと角度で。

 

 しかし見えたのは変わらずの暗闇。

 目を閉じていた時と何一つ変わらない、真っ暗な景色。

 

 

 「……えっ…?」

 

 何度と瞬きをしても変わらず、永遠の暗闇。何これ、夜?まさか、私も行冥様のように目が見えなくなってしまったの?それは顔面を強打したから?いや、でも、そんな。

 

 

 そんな脳内混乱のまま、無意識に手を伸ばした。彼に救いを求めるように。

 けれど、その手は誰も取ってくれず…虚しく空をきった。ぽてり、と座っている足の上に手が落ち、床に転がった。

 

 

 …そしてそれが、逆に冷静になれる行動だと気付く。

 ……ここが、箪笥の中ではないと気付いたから。

 

 

 「…なに、ここ……?」

 

 閉じ込められた箪笥の中なら手を伸ばせば何かしらに当たる。扉などの木材のどこかに絶対に当たる、大きいといってもそこまでではない。閉じ込められていればなおさら。空を切るほどの広さなんてない。

 

 

 

 

 

 

 ** SCP-432 **

 

 

 

 

 




 ─ 中編に続く


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弐拾漆話 箪笥の中の迷路のようです(中編)

 

 

 それに、触った床の感触も妙だった。木じゃない。錆びた鉄ような……鉄……だから、かな。何だか空気が重く、臭い。錆びた鉄の臭いのような…

 

 床を這うように動けば、差し出した手は壁に触れた。それは床と同じく錆びた鉄のような感触。振り返り、手を伸ばす。するとあっさり反対側の壁に手が届いた。

 どうやらさっきは思ったより体が縮こまっていたみたい。壁から壁の広さは4尺【約120cm】ほどで…地震が起きる前に見た若草色の箪笥の大きさくらいかな。

 

 でも、奥行きが全く違う。こちらはいくら手を伸ばしても何にも触れない、反対側も同じく。箪笥の奥行きより遥かに…広い。

 そもそも倒れ込んだからといって転がるほどの広さが箪笥の中にあるはずがない。あ、意識をしたらあちこちぶつけたであろう肩や腰に痛みを感じてきて痛くて……うーん…これは何?

 

 

 「…行冥様ー…?」

 

 返ってくるとは思わなかったけど、一応呼び掛けて見る。一番何より頼りにしている彼の名を。勿論返事はない。

 それに声の反響もしなかった。どうやらかなり奥行きは広そうで……実は箪笥ではなく、洞窟か何かに繋がる隠し通路だったとか?…それはないか、お店の隣は違うお店だったし隠された地下に通じるよう下に転がった覚えもない。

 

 なんだろう、ここ。…まるで鬼の血鬼術で作られた迷路に迷い込んだみたい。そんな経験ないけど。

 そうか鬼の可能性はあるかな、そうだと判断できるような経験は私にはないけど。それなら。

 

 混乱の上の混乱をした事で逆に冷静になった頭で考える。とりあえず何よりも優先すべきはどうすればここから出られるのかだ。考えたからってわからないけれど。

 まあ、とりあえずここが何処なのかはわからなくとも入ってきた入り口があるだろうからそこから出れば……と、思ったのに。

 

 「……え…なん、で」

 

 とにかく立ち上がり歩き出さないと始まらないと手を大きく振り、壁に添って入ってきたであろう出口を探す。なのに見付からない、まるで閉じた出口が消えたとばかりに。

 そんな事が有り得るの?……いや箪笥の中にこんな場所がある時点で"有り得ない"なんて事はないか。

 

 

 ……え。

 背中に言いようのない悪寒が走る。……寒い訳もないのに。

 だって、まさか私……

 

 

 この中に、この出口のない迷宮に、閉じ込められた……?

 まさか食べられるまで、もしくは永遠に死ぬまでこのままさ迷う事にな……

 

 

 「……ッ!」

 

 そんな思考を吹き飛ばすように両手で頬を打つ。擦りむいたそれはもう渇きかさぶたになろうとしていたけど、打てば痛い。だからこそ、強く打った。

 弱音を吐いたり弱気になってる場合じゃない、弱いのは体だけで充分!心は何よりも強く在らねば、命を絶えず燃やし戦い続ける鬼殺隊のように!

 

 

 戦う手段も力もない私が出来る事…出口がないなら探せば良い。入ってきた入り口があるのならば、きっとどこかに出口がある!はず!多分!きっと!恐らく!……ないと、困る。

 突如消えたであろう私の姿を行冥様が探しているだろうから。この不思議な空間内に入った瞬間に行冥様の記憶から消えたりしない限りは。そうだったならば……まぁ、うん。仕方ないと割り切ってこの世からの意味がある諦めも視野に入れよう。

 

 

 「ん…?」

 

 視野うんぬんを考えていたからか、実際の視野…視界にとあるものが見えた気がして、とりあえず行く宛もない足をそちらへ進める。

 暗闇の中、曲がる角を見付けて…ゆっくりとそちらに歩みを進めて。

 

 

 明るい中であればすぐにたどり着くだろう長さ…けれど暗闇の中躓かないよう慎重に歩みを進め、探していたそれを発見した。

 

 「……明かり…?」

 

 上、天井と呼ぶべきなのかはわからないけれど、とにかく上から吊るされたほんの僅かな明るさのそれが通路を照らしていた。あまりに儚いそれは手の届く範囲しか照らしていないほど弱く…発見出来たのは幸運だった。

 でもこれってガス灯や石油ランプではなく、電球では……まさかこんな未知数な通路に電気が通じているの?誰が電気を通して……ええ……凄い。どんな仕組みなの?

 

 電球が吊るされた天井の高さは六尺七寸くらいで……あの箪笥の高さほど。やっぱりここは箪笥の中なの?

 ええ、いやでも……まぁいいや。考えても答えが出ない事は考えても無駄。とにかく出口を探さないといけないから。

 

 

 ん?……あ、れ。五間【約9m】先にも同じ明かりがある…チカチカと今にも消えそうだけど。その先にもあるように見えるような…?

 もしかして今までもあったのかな?あっても電気が届いていないとか、故障とかで灯っていなくて気付かなかった?……でも、同じ距離ではないように見えるし…うーん、わからない。とにかく、暗いところは何かを判断するにも困るし明るい所を進んでみよう。

 

 

 「……暗いなぁ…」

 

 何だか寂しくなってぽつりと、独り言を呟く。

 

 ……行冥様はこれが、常。暗闇。手で、耳で、気配で見るしかなく…それを、あれほど正確に捉えて。

 ……ああ、なんて。なんて凄い。体が恐怖とはまた別に震える。本当にどれだけ心を愛おしく狂わせるつもりなのだろうか。

 

 彼を想えばこの恐怖しか空間ですら、傍にいてくれるように心強い。

 

 

 

 *

 

 

 もう、どれくらい歩いただろう。どれだけの時間が経っただろう。途中途中で少しずつ休みながらでもこれだけ長い時間歩くのは久しぶり。それに何だか寒い……外とは気温が全く違うのだろう。両手で体を抱きしめ少しでも暖をとる。

 

 ここは何?狢(むじな)か何かに化かされている?それとも本当に鬼の血鬼術?

 

 もしここが鬼の血鬼術で出来た空間だったなら、日輪刀があれば出れたかな。どこか…壁か床にでも突き刺せば。

 この日光の差さない場所に鬼が住むのは合理的だし、迷い込んできた人間を食べるような厭らしい鬼もいるかも。しかし未だ襲われない時点で違うような気もしている、捕らえるのも難しい上に効率的ではないし。弱るまで待っているとか?だとしたら尚更厭らしい。

 

 でも…鬼が作り出したものだとしたら行冥様が気付かないなんて事あり得るだろうか?うーん……鬼ではないとしたら、ここは何。

 

 ああ、思考が堂々巡りをしている。

 

 

 ざり、ざり、ざり。

 

 錆びた鉄のような物の上を歩けばそれに草履が擦れて微かな音がする。それだけが、この……静まり返った空間に響く音。寂しい訳ではない、怖いのは…少しある。

 いや、壁にある鉄の管のようなものから微かに水の音がする。水が流れてるのかな?それを飲めば…しばらくは生きれる。その管を壊すほどの腕力も手段も私には無いから無理だけど。

 

 

 「……ぅ…!」

 

 転々と有ったり無かったりする明かりを辿り、時に暗闇を壁沿いに歩き、分かれ道を勘に頼り歩み進めた結果……景色は変わらず何だか、妙な臭いにがする所に迷い込み……そして何もない通路に響き渡る足音の他の音、私の声が口から漏れた。

 

 鼻奥に擦り付くような、不快な臭いが充満してきた。何これ、腐敗した食物が大量にあるかのような……でも、明かりが乏しくて何が何だかよくわからない。

 

 「…ぅえ……、…ん…?」

 

 そんな吐き気を催す空気の中必死に堪え歩いていた時一つの音を聞き付ける。それは…

 

 

 ……足音…かな?いや、違う?反響しているのかよくわからない。一人の足音にも聞こえるし、複数人の足音にも聞こえる。

 それに近付こうと進んでいれば通路の先の先に一つの物を見付け、少々の駆け足で近寄る。

 

 地面に転がっていたそれは、一足の草履だった。

 それを走った事で少々乱れた呼吸を納めるついでに、持ち上げ見えやすい明かりがある場所まで運び確認する。

 

 

 …否、草履というには形が妙だった。鼻緒は無く、足首辺りまで覆う布生地。足袋?けれど足袋とは違い紐で締め上げるような形で作られて…ああ、これは西洋の草履かな。

 えっと確か……そう!靴だ。その靴がなんでこんな所に落ちてるのだろう。それも…片足だけ。

 

 …見渡しても近くに誰かがいる気配はない。さっきの足音は関係あるのかな。行冥様のように気配を見る事は出来なくとも、いないだろう事は何となくわかる。

 その人、もしくはその人の内の誰かがここに来て……落としていった?どうして?…何か、慌てるような事でもあったとでも? 

 

 ……そういえばさっきから強くなってきている、この腐敗臭は、何の臭い?

 

 

 「………」

 

 ……向かいの通路の、照らされた明かりの隅に見えている色は、何?錆色、茶色、黒色、赤茶色。

 この鼻を塞がないと耐えられないほどの強烈な臭い……吐き気を催し胃液が動く。ああ、堪えないとこの臭いだけで戻してしまいそう。手で覆っても漏れてくる臭いは眩暈を起こすほどで。

 

 ああ。そう、山の中で赤黒い液体を流している猪の死骸を見付けた時と同じような……蛆が沸き蝿や烏が集っていた猪を見付けた時と同じような…

 

 

 ………。

 

 

 

 『ドバァンッッッッ』

 

 

 「ひぃっ!?」

 

 辺り一面を轟かすほどの爆音。

 

 堪える間も、耐える間もなくその音に対し私は反射的に引きつるような悲鳴を上げてしまった。慌てて口を両手で塞ぐ。靴は地面に落とした。

 

 

 しかし私の声など関係なく、いまだに音は鳴り続けている。これは……壁?壁を叩いている?それも、恐らくそう離れていないほんの目線の先の壁を私がいる通路の反対側から。

 まるで力付くで無茶苦茶に壁を壊さんばかりに叩き続けている。これは……人間……?

 

 

 …では、ない。恐らく、きっと、多分……いや、確実に。

 

 

 人間が腕を使って叩くより数が多い、複数人で叩く音ともまた違う。音の感覚がおかしい。それに手のひらなんかよりももっと大きなもので叩いているような……

 この音は何?"人間ではないナニカ"が壁を叩き始めた?何のために?私の存在でも感じたとでもいうのだろうか。…私の存在を感じたからって、なぜ、こんな音を発する必要がある?

 まるで、小動物を威嚇し追い詰める"狩り"だと言わんばかりにするそれは……

 

 

 

 『あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁぁ゛ぁ゛!!!!!』

 

 

 「!!!!」

 

 

 思考が混乱してぐるぐる回っている最中、狭い通路全てに響き渡りそうなほどの絶叫が聞こえた。それは反射的に悲鳴すらあげれず縮こまった体を跳ねるほど大きく震わせる声だった。

 それは狼狽どころかこの世の全ての恐れや畏怖を詰め込んだ膨れ上がった袋を無理矢理に引き裂き溢れ出たかのような声。その必死な声では男性か女性かすらもわからなかった。

 

 な、に。何なの。何の声なの。

 

 

 ……決まっている。考えたくないだけ。

 人間ではない…"ナニカ"に襲われた……断末魔の叫び。

 

 

 それは……さっきの、靴の、人?

 

 

 声が決して漏れないように押さえている口が震えている。ガチガチと歯が震え合わせ鳴っている。音を鳴らさないよう足を動かすも、体が震えて録に動かない。

 

 

 ゴリゴリゴリ、と何か固いものが砕かれている音が遠くから響いている。生臭い、血生臭い。ああ、何年も前の生家での悪夢が蘇る。嫌だ、嫌だ。

 

 

 人が死ぬ場面は見た事がある。血塗れで腐敗した無残な遺体を見た事もある。それは長年の知り合いや、掛け替えのない大切な家族だった、けれど今感じているこの感覚は……それとは全く違う。

 

 失う怯えでも呆気なる喪失でも未知なる恐れでもない。

 

 

 暗がりに渦巻き蠢く、"体も精神も全て"を破壊しそうなほど、圧倒的な憂惧。

 

 怖い。怖い、怖い、怖い!!!

 

 

 「…ッ……ぅ…!」

 

 先ほど聞こえた声がもう何も聞こえない。暗闇に溶け込む化け物に囚われてしまったのだろうか。囚われ……その暗がりに、呑み込まれて、しまったのだろうか。

 

 

 声も、音も、もう何も聞こえない。

 

 

 ……何か、出来る事があっただろうか?出来ただろうか。

 こんな…暗がりの訳もわからない中で喉を突き破るような悲鳴を上げた彼か彼女を助けるような事が私に。

 それが出来れば…血反吐を吐くほど努力し、死人のようになれば鬼殺隊に入れただろうか。こんな四貫【15kg】すら録に持てず、走れもしない私でも。

 

 

 どれだけ後悔をしても、時間は戻せないのに。

 

 

 『ガリッ ガリリッ』

 

 

 遠くから聞こえる音。…これは……大きな鋭い何かが、床か壁か天井かを引っ掻く音…?まさか爪?牙?棘?なに、ナニカの、音。

 

 なら。

 

 

 『ヅァカカヅァカカカッッッッ』

 

 

 

 ……これ、は?

 

 この絶え間なく、無数の重なった遠くから近付いてくる音は……

 

 ナニカ、が。こちらに物凄い速さで駆け寄っている音。

 

 

 恐らく巨大なナニカが四つん這いで手足を素早く動かし、一旦の食事を終え……次の、獲物を目掛けて。

 

 

 

 

 




 ─ 後編に続く


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弐拾漆話 箪笥の中の迷路のようです(後編)

 

 逃げないと。逃げる?走って逃げなければ。走れないのに?殺される。喰われる。襲われる。無残に食い散らかされる。

 

 

 死ぬ。

 

 

 「ぁ……ぃ、やぁぁああああッッッ!!!!」

 

 

 叫びながら、今まで来た方面へと走り出す。十字に道分かれる所などどこから来たかなんて考えずただただ、がむしゃらに走る。

 何もわからない。思考が追い付かないただ叫びながら逃げるだけ。

 

 鬼や人間の悪意に立ち向かうのなら。構わなかった。どれだけ私の体が傷付こうが、傷つけられようが構わなかった。

 人間も鬼も恐ろしく哀れな存在だ。憎らしく、憎悪にまみれ、儚く、労しい"人"だ。

 

 

 これは違う。追ってきているこれは違う。鬼じゃない、決して、絶対に鬼じゃない!!

 

 

 悪意も敵意もなにもない、ただ。そう、それはきっと。無意味に等しいほどの…

 

 

 「ぎっ、ょ…う……ぎょ、うめ……さ、まぁ…ー!…ぎょめ、さまぁあ…!」

 

 

 ほんの数十秒…十数秒かもしれない時間を、距離を私は走った。速度も無くどれだけ走ろうとも見える景色は変わらず、ぼんやりとした薄明かりとそれに照らされた錆びた鉄のような通路だけ。

 

 後ろには始めに聞いたより大きくなった音が随分と近付き、迫ってきていた。音が反響して何もわからない。遠くにいるのか、手が届くほどのすぐ後ろに迫っているのか。

 

 

 涙がこぼれる。なんて無意味な終わりなのだろうと。

 声の限り叫ぶ。走っている事で目の前に閃光や揺動が飛び散っているその無情に。

 

 

 

 ああ、嗚呼、ああ。せめて。せめて。

 

 次に巻き込まれる人にこの場の悲劇や危険を伝えねば。

 次に私のように巻き込まれる人がいないようにしなければ。

 私の生涯の細やかな意味を、呑み込まれ噛み砕かれ生き絶える僅かな瞬間まで残さねば…

 

 

 すぐ後ろ、手が届きそうな距離から大型獣に似たわめき声が聞こえる。

 もはや手を伸ばせば届きそうな距離で。

 

 

  「   ぁ  !」

 

 

 ()()()の鼻先か指先か爪先が私の羽織に届き、微かに破れる音が振動で伝わってきた。

 ああ、終わりだ。ここで私は終わり。

 

 

 何も見えない暗がりにただひたすら手を伸ばした。背に食い込む重さに反比例するかのように。巡り巡り、平穏で平和な世界の命を繋ぐ為、に…!

 

 後ろのそれは私の心も体も関係なく、飲み込むよう食い込み迫り……そして、そして。

 

 

 

 「南無ッ!!」

 

 

 前から突如現れた大きな存在に包み込まれた。後ろから迫ってきていた殺意など何のその。そしてそのまま、私が走っていた早さの何倍もの速さで移動し始め……て。

 

 丸太より大きな大きな、暖かな…腕に抱えられ……て。

 

 

 

 ……ぁあ。まさか、まさかそんな。

 

 

 「何よりも果敢ないこの命…奪取などさせぬ…!!」

 「ッ、ゲホッ、ぎ、ょうめ…さまッ…!」

 「…すまない…遅くなった」

 

 暖かな私を抱く莫大なる存在の首筋に、今にも力尽きそうなほど弱々しくも力の限り抱き付く。その滑らかな優しさに涙が大粒でいくつもこぼれ出す。

 

 諦めていた。不可能だと思っていた。

 また彼に、行冥様に会え触れれる事が出来るだなんて…!

 

 

 「後九つほど曲がり、半町ほどの直進を進む。力を込め、堪えてくれ」

 「はい…!」

 

 素早く端的な説明に返事をしたまさにその瞬間から、言葉も発せない速さになり慌てて言われた通り力の限り抱き付いた。辿った道取りを覚えている、流石です行冥様。

 

 後ろに迫っていたナニカの存在遠ざかっていく。それでも諦めずに追ってきている。

 姿形を見たかった、好奇心ではなく危険を認知するという意味で。けれど安堵と疲弊した体は速さに潰されいずれにしても確認は出来そうになかった。

 

 

 そうしている内に視界の端に僅かな光が見えた。天井にある明かりとは違う、それが何かを確認出来る前に……

 

 

 

 ズジャァアッッ

 

 

 何よりも速い勢いを殺す為に差し出された草履と地面の擦れる音が凄まじい。その急激な運動の変化に行冥様の体が大きく揺れ、それでも止まる為の距離が短かったのか先にあった箪笥にしたたかにぶつかった。それでも私を挟まないよう反転し背で受け止めてくれたが。

 

 

 何が起きたのか……瞬きをする間に気付く。色とりどりの溢れる物、明かりは吊るされた謎の電球ではなく自然の大きな日差しで照らされた…ここは行冥様と来た街の家具店だと。

 

 正面にある若葉色の箪笥の扉は大きく開かれており、決して閉じないよう重しで止められていた。

 その中身は遥か遠くまで続く通路と暗闇。私が入った場所に入り口は無かったのに。まさか入った時に入り口の場所が変わっている?…いや、まさか。そんな店内の明るさと反比例している為か何も見えず…それでも、何か、先程まで背の後ろで感じていた"ナニカ"の存在が大きな音と共に近付……

 

 

 「封鎖をお願いします!早く!!!」

 「ッ!?!!」

 「は、はい!」

 

 すぐ傍から聞こえた重音のあまりの大きさに体が驚き、跳ねた。それを聞きつけ箪笥の側に立っていた店主が慌てて重しを退け、扉を勢い良く閉める。

 扉がぴたりと閉じられた箪笥からは何の音もしない。動きもしない。……大きなナニカがいるような箪笥の迷宮が広がっているとは全く思えない極々普通の箪笥のように。

 

 

 ところで……今の、は。今の低い声は。行冥様の声…?……普段の生活どころか出会ってから大きな声などほとんど聞いた事がなくて、かなり驚いた。普段の彼は穏やかで優しいから。

 

 つまりそれだけ気を揉ませて……。未だ抱かれたままの体勢で顔をひねり、彼を見上げた。大きく息を吐き首を落とした彼を。

 

 

 「ぎ、行冥様…?」

 「…少し、目を離したら……これだ」

 「………」

 

 柔らかな巻かれた腕が更に強く、抱き止めてくる。力はほどけないほど強いのに決して潰す事のないそれは、彼の優しさ。…ああ。

 彼は強い。彼はたくましい。彼は頼りになる。彼は…砕散りそうなほど、優しい。

 

 どうやらかなりかなり心配させてしまったらしい。それは、そうだろう。原因が不本意に地震によって巻き込まれた上の騒動だとしても……かなりの危機一髪のものになってしまった事に変わりない。彼に、行冥様に助けられなければ私はどうなって……ッ!

 

 背筋に走った悪寒を抑える為に、彼の優しい好意に答えるよう抱き付いた。その温かな体温を全身で深く感じた途端……見えない緊張の糸がブチ切れたのか涙が止めどなく流れてくる。

 あ、ああ。そうだ、そうだ怖かった。死を覚悟した。誰かの役に立ちたいと願った。それで、助けられた。彼の胸元の布地を湿らせながら、何度もすり寄った。

 

 

 「あのー…」

 「!」

 「南無ッ」

 「あぁ!申し訳ありません!」

 

 掛けられた声に反射的に飛びのき、そのまま顔を伏せていた行冥様の顎に頭を強かに打ち付ける。そうだここは我が家ではない。お店で、店主がいた。このような事…命の危機を救ってくれたからといって人前でこのような行為をするのは…いや、一応は許されそうではある。

 しかしだからといって、命を助けてくれた行冥様に頭突きをして良い筈がない。慌てて謝罪をするも平気だと手のひらを差し出され窘められる。…結構強く、打ったと思うけれど。彼も顎を手で覆っているし、私も後頭部がかなり痛い。

 

 

 「だ、大丈夫だ……それ、より。どこか怪我は?長時間助け出せず、悪かっ…た」

 「とんでもないです!行冥様のお陰で私は助かったのです!それに……。…あ、れ?」

 

 行冥様がいなければ、助けに来てくれなければ、私は間違いなく命を落としていた。その事を強く彼に伝えようとして……妙な事に気付く。

 一つ。行冥様が妙にくたびれている。頼りになる強かな強さを持つこの人が?

 一つ。入ってきている日差しが何だか傾き、橙色に染まって……窓硝子を見れば、見える太陽の色が橙色に染まっていた。夕、方?え、でも来たのは正午過ぎだったと……

 

 

 「…あ、の。私…いえ、私達は。中に入ってどれほどの時間経ちました…?」

 

 箪笥の戸を閉め、私達の触れ合いに戸惑っていた店主に訊ねる。私が箪笥迷宮の中に転がり込んで…きっと、行冥様はすぐに助けに来てくれた。なら、ば。

 

 「えっと…彼が、戸を固定してから……一刻と少しは…」

 「い、一刻(明治時代では2時間)ッ!?」

 

 店主が壁沿いに置かれた置時計を見て、教えてくれる。その時間の経過はある意味納得で……ある意味残酷なものだった。

 時折休みながらも歩き続け疲れきった私の体は確かにそれほどの時間の経過を重ねたと理解している。それでも…行冥様、も?

 

 

 正面の箪笥を見上げる。その高さは私より高く…行冥様より小さい。

 

 行冥様の身長より一尺近く低い箪笥ではこうするしかないと気付く。入るには、膝や腰を常に屈め続け細やかに進むしかないという事に。

 

 …つまり、行冥様には。箪笥に呑み込まれ消えた私を一刻ほど屈ませ膝や腰に膨大な負担をかけさせた上で探させてしまった、と。

 

 あ、ああ。なんて、こと。

 

 

 「行冥…様……も、申し訳…」

 「……。大丈夫、だ。気にしなくて良い」

 

 謝罪の言葉は、再度差し出された手のひらに受け止められた。……今夜、家に戻った際に全身全霊かけて按摩(あんま)させていただきます。力が無いから満足なんてさせれる自信はないけれど、本当に誠心誠意させていただきます。

 

 

 予想外だった。

 箪笥が壊れる事も、代わりの箪笥が妙な迷宮に繋がっている事も。けれど、そうなったからには仕方ない。

 

 

 

 この箪笥がこれからどうなるか、私は知ることはないだろう。新しい箪笥は……えっ、と。今は、うん。

 

 

 

 

 

 

 「…あ、の。それでご購入は…?」

 

 「「その箪笥だけは結構です!」」

 

 とりあえず……今日は良いかな。新しい箪笥を買った所で持って帰るにも持つ行冥様に負担をかけてしまう。

 だから、全ては……また、今度。

 

 

 

 

 





 SCP-432 箪笥迷宮

 オブジェクトクラス:safe(まぁ安全)

 SCP-432は高さ2m×幅1.2m×奥行き1mの2ドア正面開き式の緑色のキャビネット。扉を開くと全面錆びた鉄で出来た未知の通路に繋がる。開閉する度に全く別の場所に繋がるため中の広さがどれだけかは判明していない。
 中には謎の遺体と謎の物品が転がり、未知の大型生物がいる事は判明している。


 家に戻り羽織を確認した所、鋭く破かれた羽織に絡み付く大きく腐敗臭のする硬い茶色の体毛がついていたとか。毛は普通に捨てられ、羽織は直された。
 SCP-432がどこからどうやってここ家具店に搬入されたかは不明。恐らく不気味だからと捨てる事も出来ず厳重に倉庫に仕舞い込まれる。


 


SCP-432 http://scp-jp.wikidot.com/scp-432

著者:evilscary 様

この作品はCC BY-SA 3.0ライセンスの下に公開されています。



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弐拾捌話 貴方の望みを叶えますのようです(前編)

・箪笥の中の迷路のようです、の続きです


 

 

 

 

 店内に入り、私と彼の姿を確認した店主は土間である土くれの床に土下座せんばかりに迫っり謝ってきた。彼と共に慌てて止める。

 別に謝って欲しい訳ではない。あれは、いわば事故なのだから。

 

 たまたま妙な箪笥があり、たまたまそこに迷い込んでしまった事で起きた事故。私は彼…行冥様によって助けられて無事に生きている。彼も怪我無く大丈夫だった、それで良いでしょうと店主を起き上がらせる。

 

 「だから大丈……えっ、お詫びに、ですか?」

 

 顔を上げた店主が謝罪の言葉と共に伝えてくる。お詫びとして、替わりの箪笥を用意していると。それも料金としては目玉が飛び出しそうなほど、かなりお安くして……えっ。

 

 「いやいや、そっそれは流石に申し訳ないです!」

 「そのような目的があって私達は再度訪れた訳では…!」

 

 あのような事を味わったこのお店に再度来店したのは付近の街に家具店がここしかないから。彼の足では隣街に行って箪笥を抱えて持ち帰る事も容易いだろうけれど、購入する家具は隣街に行くにも一苦労な私の箪笥で……品物の外見や使い所を確認せず無許可で購入するのは誠意を通してないとこうして私が健康に来れる範囲のこの家具店へ連れ立って来たのだから。 

 

 

 「…そ、れは。……えっと、どうします行冥様…?」

 「……そこまで言われてしまえば、断るわけにもいくまい…」

 

 柱である彼の給与は無限大で支払うならばいくらでも、となる。しかしだからといって私は豪遊したい訳でもなく、かといって出来る限り安く買い叩きたい訳でもない。

 だから……店主が謝罪と誠心誠意の限り言われたそれを突っぱねる事など、私には出来なかった。彼を見上げ訊ねれば、困り顔と溢した涙と共に受け入れていた。店主の優しさを受け止める為に。

 

 

 店主の案内の元、隊服の彼と共に跡を付いていく。何せ忙しい鬼殺隊最高位である柱の身である行冥様、この家具店へ来れたのもあの不可思議で不気味で恐ろしかったあの日から幾分かの日にちを開けてやっと来れたのだから。

 

 

 案内されたそこは、以前訊ねてきたその時より少し奥まった所にある複数の大型の家具が置かれた場所だった。

 そしてそれは。

 

 

 黒光りの漆塗りに包まれた輝く箪笥。私一人がすっぽりとくるまれてしまいそうなほど大きく堂々とした存在がある。

 逆に全て木材で作られたであろう戸棚もある。硝子張りの正面扉はきめ細かく、引き出しも多く入りそうだ。

 立派な机と椅子もある。きらびやかに彩られ、座った者は自身がさぞかし立派な者だと思いそうな物もある。

 

 

 ここは……店主の取って置きの場所なのだろうか?表…というか、入ってすぐの場所に置かれていたものとは明らかに雰囲気が違う。恐らく値段も。

 きっと目玉が飛び出しそうなほど高価な物なのだろう、そしてそれをお詫びとして。……なんだか本当に申し訳なく感じてしまう。だって、私は生きている。行冥様も無事だったのに。

 

 

 「ふむ、こちらにある無数の箪笥の中から……む?どれだ?……ああ、なるほど、こちらから……選べ、と。どうだ、まい子」

 「えっ、あ……そ、そうですね…」

 

 何だか少し臆してしまって彼の隣から半歩後ろ、南無阿弥陀仏の羽織を掴み歩いていれば店主と確認を終えた彼が顔を下げ訊ねてきた。

 

 慌てて目の前にある複数の箪笥と向き合い…そして、悩む。案の定豪華そうなそれらから選択しなければならないらしい。

 どうやって決め手を見つけ出せばいいのだろう、大きさはほぼ変わらず違いといえばきらびやかな装飾の違いしかわからない……どれもこれも豪華だなとしか見る目がない私の目で。

 

 「…どうしましょう行冥様?」

 「自分が使う物だ、自分で決めなさい……勿論助言はするが」

 「うぅ、ん……そうですねぇ…」

 

 彼に訪ねても極々当たり前の事を返され、言葉に詰まる。選択するのは確かに私だから、私が決めないと。

 

 

 そうして様々な質疑応答を店主と、行冥様と繰り返し……一つの箪笥に決めた。それは今まで使っていた箪笥と似通っているものの、豪華さは格段に上。

 なんというか本当に……申し訳ない。心から感謝をします。

 

 

 「それでは本当にありがとうござ……え?……いや、流石にそれは……」

 「確かにもう一つ、いくら御厚意とはいえ……う、それは確かに……南無…」

 

 店主にお辞儀をし感謝の言葉を告げていれば、私の言葉を遮り店主が更に告げてくる。箪笥だけではまだ足りない、と。だからもっと他のを貰って欲しい、と。

 勿論それは彼と共に断りにいった。そんな申し訳ない事は出来ないと。しかし……店舗経営をしている人の口の上手さだろうか、なぜか私達二人とも丸め込まれ、何かしらのもう一つ持ち帰る事になってしまっていた。

 

 

 この時点で、それなりの時間が経過していた。街に降りてくるまでとこのお店の中でと…結構な時間を使っている。自宅で立ち続けるのはまた違う疲れがどっと体に響いて、少し……

 

 

 「…行冥様、あの……少し、休んでも構いませんか?」

 「む?……ああ、そうだな。確かにそれなりの時間が経過しているな。…申し訳ない店主、構わないだろうか?」

 「……ありがとうございます、それでは、すみません……」

 

 店主にも行冥様にも了承を取った事で私はその場から離れ、休憩出来る場所を探す事にした。座れる場所を探そうにもここにあるのは売り物しかない。他には何もなく、元の場所に勝手に戻るのはいかがなものだろうか。

 しかし流石に売り物に腰掛けるのは申し訳ない……そう思い躊躇をしていれば離れた場所から店主がどの商品に座っても構わないとの許可をくれる。

 

 ああ本当に何から何まですみません。その言葉に礼を言い……けれど流石にどの商品にも容赦なく座ると言うわけにもいかない。しかし疲れからか、どうもくらくらと揺れる視界が更に気分を悪くしてくる。おさめる為にはどこかに座らなければ……

 そうして一番近くにあった、洋風の二対の椅子と机を見る。

 

 

 滑らかな木材で作られたそれらは黄金色の…恐らく真鍮の綺麗な装飾で二対の椅子と机を飾り付けられていた。布地は藤色より更に深い色で覆われ同色の布が机の上に敷かれている。

 

 手前の椅子は垂直に聳え立ち、座るならば姿勢よく座れるだろう。後ろの帯を潰さないようにしなければならないだろうけれど。

 奥の椅子はこちらの椅子より少々豪勢で背もたれや肘おきに彫刻が彫られており、また背もたれも柔らかに傾きそうだった。お偉い様が座りそう。

 

 普段使いのもの、というより何らかの商談に使うものかな。それも豪華絢爛な洋館に置かれていても何一つ引けをとらなさそうなそれ。行冥様のお屋敷も立派なものではあるけれど、和建築なあの家では合わないだろうと思う。

 

 

 こんな事でもなければ生涯触れる事もないだろう椅子に触れ、床を傷つけないよう引いた後背もたれにもたれ掛からないよう浅く腰掛けるも座面の余りの柔らかさに少しふらつく。

 わぁなんて柔らかさ、ふわふわで空に浮かぶ雲の上に座っているみたい。勿論そんな経験はないから想像上での話だけど。

 

 

 腰掛けれた事により少し楽になり、遠くの彼と店主の様子を確認出来た。時間をあけた事で話している内容が変化しており、すぐに理解出来なかった。とりあえず…呼ばれるまで大人しくしていよう。

 

 

 ああ。本当に……こんな、少しの運動で疲れたりしない…

 

 

 『頑丈で丈夫な体に変えてあげたら、私に何をくれるかなお嬢さん?』

 

 「そうですね。そんな強い体になれ……ぇっ?」

 

 

 優しく穏やかに掛けられた言葉に返事を返そうとして、気付く。今私声に出してたっけ?そして今…そんな私と"会話出来る相手"がいたっけ?店内には私と、離れた場所にいる行冥様と、店主しかいなかっ……だ、れ?

 

 

 声を掛けられた向かいの椅子の方へと顔を向ければ、つい数秒前まで誰もいなかった場所に一人の男性が座っていた。

 

 

 彼は豪華な背もたれを軋ませるほどに深く座り机の横からはみ出るほど長い足を組み肘掛けに肘を立て、その手の甲に顔を乗せこちらを見定めるように真っ直ぐ私を見ていた。

 

 黒い髪。高い背丈は筋肉質で体躯が大きく、つり上がった鋭い目は太い眉と共に柔らかく下げられ、口は優しく微笑んでいる。

 そして目を引く……額に走る一筋の傷。

 

 

 「……ぎ…ょうめい……さま?」

 

 

 そこにいるのは間違いなく…行冥様……に、似た、人だった。だって彼ではない。彼は、向こうにいるのだから。けれど彼と同じ顔で、同じ体格と同じ声を持った男性がそこにいた。

 

 

 彼は私の声に、目を柔らかく細め微笑んだ。

 

 

 いや違う。全く同じではない。違う箇所もある。

 

 服装が違う。南無阿弥陀仏の羽織を羽織り黒い隊服の行冥様とは違う…赤と金色で作られた西洋の服を彼は身に付けていた。

 見た目にも違いはある。髪の隙間に覗く天を突くような牛のような大きな黒いツノがあり、背にも黒い蝙蝠のような翼が。そして座っている椅子からはみ出てうねっている、先が三角に曲がった黒い尻尾…が。

 そして指先の爪は鋭く尖り、微笑んだ口からは鋭い牙が覗い、て。

 

 

 ……鬼?

 

 

 「ひゃあっ!?」

 「!?どうしたまい子?」

 

 目の前の存在に言い様のない恐怖を感じ、悲鳴を上げながら立ち上がり後ずさる。そんな奇妙な行動を聞き付けた本物の行冥様の心配する声がする。振り返り、その姿を確認する。

 

 彼は間違いなくそこにいて私を何事かと見ていた。……振り返り、座っていたはずの椅子を見れば…そこには、何者もいない、ただの椅子が堂々と鎮座していた。

 

 

 

 

 ** SCP-738 **

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 「どうした?毒蛇でもいたのか…?」

 「だ、大丈夫です!き、気のせいだと思います!きっと!」

 「南無…?そう、か?」

 

 私を心配してくれる彼に、出来る限り穏やかに返事を返す。納得のいっていない彼に何度も平気だと返し…椅子や机と向き直る。

 別に…そう、毒のある蛇に噛まれた訳ではない。まさか、そんな……だって、今現在は何も、誰も……

 

 

 「……ぁ、の」

 『どうも。そんな獲って喰ったりしないから、警戒しなくて大丈夫ですよお嬢さん』

 

 …なのに、椅子に座れば彼は間違いなくそこに座っていた。一応行冥様のいる場所にまで届かないほどの小さな声で語りかけた私に比べ彼は通常の、彼にまで聞こえてもおかしくないほどの声量で語りかけてきた。…彼の声は私にしか聞こえないのだろうか。

 それも今度は意味がわからず怯える私を落ち着かせるかのように長い腕を伸ばし私の左手をとり、優しく大きな手のひらで包み込んで握ってきた。撫でるように何度も傷のある私の手の甲をなぞり、指先を絡ませ……

 

 「ぁッ…!」

 

 そんな行動されて、冷静でいられる訳がない。男性…それも行冥様と似たような姿の彼にされては。は、恥ずかしい…!

 慌てて手を引っ込めれば、強く握られていなかった為か簡単に抜けた。それでも顔の熱さは収まらず握られていた手で押さえる。あぁ、顔が赤くなっているかもしれない……こんな場所で手を、指を繋ぐなんて…!

 

 この人は、行冥様ではないのに。そうだ、行冥様にこのような…姿をさせてはいけない。こんな、まるで鬼のような姿を。

 

 

 「……あ、貴方は…一体誰、何者で…」

 『私の事など気にしなくて良い。それより私は貴女の願いを叶えたいだけなのだから』

 

 彼は出来る限り冷たく言おうとした私の言葉を笑いながら受け流し、椅子を軋ませながら机に肘をつき、私を見下ろしてきた。

 その顔はどう見てもあの優しい行冥様に見える。しかしどこか冷めきったような瞳は見た事がなく、弱い脈が狂ってしまいそうに脈打ち始める。違う、彼は違うから私の体よ落ち着いて。ほら微かに覗く鋭い牙が彼は違うとわかるでしょう。

 

 「…叶え、るとは。先ほど私の、体を…」

 『そう。弱く儚いその体を向こうの彼は承認しているのだろう?しかし貴女はもっと高みを望んでいる筈だ、私なら望む通り変える事が出来る』

 「……変える…」

 

 話す声は、彼と何一つ変わりない。けれど彼とは別人である事を、彼は言い切った。離れた場所で店主と話している行冥様と別人である事を。

 ……少し、冷静になれただろうか。大丈夫、私は確かにこんな体だけれど心は何よりも強く有りたいと思っているのだから今こそそれを証明すべきだ。

 

 

 『そう。飛ぶように走り、重量物を持ち上げ貴女の望むような動きを楽にさせる人より丈夫で頑丈な体を私は差し上げれる』

 「鬼殺隊に入隊出来、鬼の頸を切れる体に、私がなれると言うのですね」

 『勿論!それ以外にも道行く異性も同性も惹き付けるほど溢れだす魅力や、道行く全ての生き物が平伏す権力財力ですら…貴女が望むのであれば差し上げれますとも』

 「そんな事はどうでもいいです」

 『ん…?』

 

 彼が鬼殺隊を、鬼を、どれだけ知っているのかはわからない。日が差す今姿を現している彼は鬼ではないだろう。奇妙な私の行動でこちらを見ていた行冥様はともかく目が見える店主にすら見えていない彼は幽霊や妖怪…あの箪笥にの世界と似たような存在なのだろう。

 彼が何者でも、悪魔と呼ばれる魔羅(マーラ)でも構わない。

 

 

 私達が持つ、永き遥か昔から人々を苦しめてきた鬼の始祖への恨みなんて彼にはわからないかもしれない。

 それでも、構わない。

 

 

 「私の個人の幸福より、遥か多くの幸せを……鬼を、鬼舞辻を倒せるならば……私の命なんて」

 

 いくらでも。

 

 

 『なるほど、素晴らしい』

 「!」

 

 目に見えないほど素早く動ける行冥様とは違い、彼は私の目に見える早さで動いた。椅子を軋ませ立ち上がり机を迂回し、私の横で膝をついたあと先ほど振り払った左手を再度取りそのまま唇を……えっ!

 

 「なっ!」

 

 再度振り払った。速度は先ほどよりも絶対素早かっただろう、だって、今彼は……!!

 

 「ぁ、あなた今…!」

 『さて、それでは契約しましょうか』

 

 あああ、申し訳ございません行冥様!顔が!耳が熱い!なんて事を…!呆気にとられている場合ではなかった、早く振り払わないといけなかった!……ん、契約?

 乱暴な振る舞いをしたにも関わらず彼は気にした様子もなく、寧ろ冷静に元の向かいの椅子へと戻りいつの間にか羽根で作られたペンと皮で作られた紙を手に持っていた。

 

 

 『望みは()()()()()()()()()()()で、良かったですね?』

 「ぁ、は、はい……」

 『代償は()()()()()って所ですかね』

 「……え?」

 

 




 ─ 後編に続く


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弐拾捌話 貴方の望みを叶えますのようです(後編)

 彼は何かをさらさらと書き綴っていた。内容は私からでは見えなかったが、口に出している事と恐らく同じような事を書いているのだろう。

 代償、の言葉を言われても特に不思議はなかった。タダで望みを叶えるなんて甘い考えは最初からなかったし、私が出来る事で人の幸せを作り出せるなら命なんて当然にどんな事でも。

 けれど、言われたそれがあまりに予想外で…

 

 「……家族の記憶?」

 『はい。契約が完了した瞬間から何一つ貴女の記憶には残りません、いかがですか?』

 「………」

 

 家族の、記憶……

 

 逞しかったお父さん。物知りだったお母さん。優しかったお姉ちゃん。ふにゃふにゃと柔らかかった弟。そして血溜まりに沈む、ぐちゃぐちゃの着物、羽織り、ころりと転がる…

 

 「ッ!」

 

 鬼さえいなければ、きっと家族は今でも生きていた。例え病気や事故があったとしても人としての尊厳は保てていた。

 今でも鮮明に思い出せる泡沫のように尊い愛しさと、そんな姿にした現況への煮えたぎるような怒り。鬼へと体を震わせるほどの怒り。

 

 

 そして、そして。家族は、今の私にとって家族はこぼれ落ちた人達だけではない。それこそ片手で足りる守るべき家族がいる。

 彼らが私をどう思っているかなんて言葉が通じなくてもわかる。何よりも平穏を願うべき家族が。

 

 

 そしてそんな私を含めた小さな家族を、この美しい世界を守っている……

 

 「行冥様の、記憶も無くしてしまうのですか…」

 『例外はありません。いかがですか?』

 

 ……彼の再度の問い掛けに何も返せなかった。

 

 家族を忘れるという事は穏やかさも惨劇も憤怒も忘れると言う事他ない。そしてそれらに不本意に深く刻まれるように絡み合う鬼への因縁すらも忘れてしまう可能性すら……

 家族だけでなく罪のない人々を苦しめる鬼が許せない、その心で戦えるかもしれない。けれどそれだけを残せるという自信も根拠もなくては何も言えやしない。

 

 

 弱い体を変えたいのは家族の為、苦しむ人々の為、鬼の為、尊い未来や世界の為。

 それら全ての事実を知った事を忘れ、ただ平穏に生きるだけの命になりたい訳じゃない。行冥様が日々命を懸けて闘っている壮絶な理由も荘厳さも忘れて、一人、何も知らず何も見ようともせず生きるなんて出来る筈がない。

 

 

 「…せめて、逆に。私の事を世界中の全てが忘れるように!なんとか、いえ鬼を、鬼舞辻を討てるすべの一欠片にでもなれるのならその瞬間から後の命も尊厳も魂もいくら、でっ、むぐっ!?」

 

 

 興奮する体はどうしようもなく熱く、息は荒くなり立ち上がってはいけない規則さえなければ椅子を倒すほどの気負いで声を荒らげていただろう。

 そして……そんな周りを省みない行動をしていれば当然に彼に届いてしまう。騒ぐ私を止めに来た行冥様の大きな手で口を塞がれ、声がくぐもってしまう。

 

 「……。行…め、さ…」

 「少し…黙りなさい」

 「!」

 

 私が黙った事を確認して大きな手が離れていく。その離れる手と同じ速度で彼の顔を見上げ……言おうとした謝罪の声が詰まる。

 吊り上がった眉も、細められた目も、妙に微笑んだ口元も、首筋やこめかみに立てた青筋も……本物の行冥様の、ほぼ一度も見た事の無い表情だったから。

 

 あ、ああ。こ、れは。

 

 「……ぁ、の」

 「謝罪と弁解は後に聞く、その前に端的に説明をしなさい」

 「……。……はい、行冥様…」

 

 ……後でとてつもなく、懇々と説教される。経緯とか決意とか心境とか…汲んではくれるだろうけれど、それでも怒られる。勿論私を思っての言葉だけど、うん……怖いから今はあまり考えないようにしよう。

 

 片手で軽く引かれるだけで簡単に立ち上がり、見えて聞こえていた彼の姿も声も霧が晴れるように何もなくなる。まるで始めから居なかったように。

 そして出来る限り端的に、要点だけを行冥様に伝える。椅子に座った人だけ分かる存在。そして望む願望を叶え、代償を支払う取引の事を。

 

 

 彼は渋い顔で私の話を聞いていた。そして深く息を吐き、数粒の涙を流したあと後ろでおろおろと狼狽えていた店主へと向き直り。

 

 「差し出がましい事だと思う、が言わせていただく。管理しているだろう品々の取り扱い方を知らないのなら、再度詳しく検品してから販売の場に置いていただけないものですか?」

 

 そんな彼にしては本当に珍しい辛辣な言葉を告げていた。店に来た時より更に深く謝る店主の行動を止めていいものなのか悩み、行冥様を見上げれば言葉を発するその前に自ら止めに入っていた。

 優しい彼は怒鳴ったりネチネチした厭味をほぼほぼ言わない。言いたい訳でもないだろうし、それでも……言わずにいられなかったのだろう。

 

 ……確かにあの箪笥も、この机と椅子も不思議な商品というだけでなく、生命すらも脅かす危ういものなのだから。全面的にではなくそれに毎度毎度巻き込まれ、首を突っ込む私が悪いところは勿論あるが……もし他の人が関わり、そして……。

 

 か弱き人々や美しい世界を()()()である彼に怒られるのなら、仕方ない。私もそれになりたかった……けれど、彼を怒らせ悲しませ、苦しませるのなら。たった一人大切な人さえ苦しませてしまう私が何を守れるのかと。

 そんな手段を取る人もいるだろうし、そんな優しい人を責める事はしない。これは、私がただ思う私の結論なのだから。

 

 

 「取り敢えずもう一つ、の件は私達の間で話は済んだ。詳しくはまた追々話すとしよう…」

 「はい、了解しました」

 「それでは……。……この、椅子だが……」

 

 店主とのやり取りは後半全く見ても聞いてもいなかった為、どのような結論になったかはわからない。後で教えてくれるというのだからその時を待とう。

 彼は店主の方へ向き直り、先ほどまで私が腰かけていた椅子に手を置いて何かを言おうと口を開き……数秒そのまま固まった後、眉を潜め、瞬きをした後。

 

 椅子へと腰かけた。

 

 

 「えっ、行冥様!?」

 「……!……。……一つ問う」

 

 予想外な行動につい大きな声で叫んでしまう。だって、そんな。いや……確かにこの椅子や机は箪笥のように危険と隣合わせのものではないし、座る事に罪はない。けれど考えようによっては何よりも危険なこれで何を……

 

 行冥様は私の大声に反応せず、目の前にいる存在を真っ直ぐ見つめていた。否、少しだけ目の前の存在に対して驚いたのか目を見開き、何かを言おうと口を開け、閉じて、一呼吸おいたあと問い掛けた。

 ……行冥様の目には、耳には、肌には、誰が見えているのだろう。

 

 

 「たった今。鬼舞辻無惨の討伐を願った場合、私から何を奪う?」

 「!」 

 「………」

 

 そして問い掛けられたそれは、先ほど私がしたのとほぼ同じもの。しかしそれは力を求めた私より端的で、何よりも合理的に判断されたものだった。討つのは確かに本人でなくても良い、鬼舞辻さえ討てるのならば。

 ……けれどその場合の代償は、どれほどの……

 

 「……そうか……いや、申し訳ないがそれらを支払う気はない。失礼する」

 

 問い掛けの返答を聞いたのだろう。彼は大人しく頷き、しかし会話はせず前にいるはずの存在に会釈すらもせず行冥様は立ち上がり、私の頭を軽く撫でたあと店主の方へ改めて向き直った。

 

 「それではまた、改めて。先ほど確認した手続きで頼みたいのでお願いします。…さあ家へ戻ろう…」

 「は、はい…?」

 

 私の理解が及ばない会話を交わし、なお謝り続けていた店主に見送られ店を後にする。箪笥ともう一つの…何らかは、また今度来るのかな?それとも持ってきてくれる?ううん、わからない。

 いや、それよりももっと解らない事がある。なぜ彼はあの椅子に座りあのような問い掛けをしたのか。一応私の説明でどのような椅子と机と相手がいるのかは理解はしてくれた筈だったけれど。

 

 

 意図がどうにも読めなくて、数歩先に行く彼の羽織を掴み隣に並んだ後顔を見上げる。訊ねようとする前に瞳から幾筋の涙がこぼれ落ちるのを確認する。

 そして店内では吊り上がっていた眉を八の字に曲げ、ふにゃりと柔らかな笑みを落とした後。

 

 

 「嗚呼……あのような問い掛けをした私は、まい子にとやかく言える立場ではない、な…?」

 「……ッ!」

 

 そう言葉を掛けられ……息が詰まる。あまりの大きな優しさにまるで押し潰されたかのように胸が爆発したかのように高鳴り、もはや痛む。顔も首も耳も、背中も熱い。

 危険な行動を取った私を怒るも優しさだけど、そうではなく同調の上緩和として…更に危険を自ら確かめる為に。ああ。もう本当に!

 

 「いけない人です、行冥様…!」

 「……南無…」

 

 胸元を強く握り締め、熱くなった頬を手のひらで覆う。脈打つ心臓がうるさい。そんな私の戸惑いに行冥様も戸惑っているらしく、落ち着きなさいの意味で頭を撫でられる。わかってはいるけれど……情けない。

 確かに私はすぐに危険なモノに巻き込まれ、時に自分で進んでしまうだろう。けれど行冥様も時にあまりにあまりな事をするから……頑丈になれなかった弱い体では本当に倒れてしまいそうだ。

 

 

 「まぁ、とにかく怪我無く無事で何よりだ。あの者に他に何もされてはいないな?」

 「あ、はい。それは大丈……」 

 

 行冥様に軽々しく返答しようとして……固まる。思い出すは、左手にされた事。

 

 手を握られ取られ、握られ、そして……。………。

 

 

 「……えっと、ですね」

 「………どうやら端的ではなく詳細に聞かねばならないようだな」

 「!」

 

 彼にされた到底口に出し告げれないような事が脳裏に浮かび、徐々に下を向きながら少し口淀んだ。その隙を見逃さないかの如く、彼の大きな手が肩に置かれる。見上げればにっこりと何よりも優しい満面の笑みで…何故だか背筋が凍りそうな事を言われてしまう。

 

 「あ、の……行冥さ…」

 「大丈夫だ。私達にはまだ時間が……あるのだから」

 「……。…は、ぃ…」

 

 そうだ、私達にはまだ時間がある。助けられた私には彼の為に捧げる時間がある。

 けれど助かった筈なのに、怒られる訳ではないだろうに。今、この時だけは……どうすれば良いのかわからなくなってしまった。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 二人の客がいなくなった店内に一人、その店の主人が立っていた。

 主人は頭を抱えていた。困惑していた。嘆いていた。

 

 理解が出来なかった、なぜこのような事になったのか。このような品物があるのか。なぜ責を負わされる立場になっているのか。

 

 

 ふと、解決法を思い付く。

 

 二人が言うことが真実ならば、危険でしかない箪笥とは違いこの椅子と机はいくらでも使いようがあると。

 

 

 主人は椅子に腰かける。

 

 目の前にあった椅子にいつの間にか、████が座っている。

 

 声をかける。思い付いた何よりも素敵な発想を、そしてそれを叶えてくれる事を。

 目の前の存在はその言葉を受け取り微笑み、いつの間にか取り出されていた羊皮紙に文字を書き込んでいた。

 

 

 そして、その代償として発せられた言葉も。

 

 

 主人は躊躇もなく頷いた。

 

 

 

 

 

 目撃者のいなかったその結末は、誰も知らない。

 

 

 

 

 




 SCP-738 悪魔の取引

 オブジェクトクラス:Keter(本気でヤバい)

 SCP-738は机、椅子二脚で構成された家具。一つは背もたれが垂直な椅子で、一つは彫刻が施された「王座」形式のオフィスチェア。全て真鍮製の装飾と、高貴な紫色のビロードで出来たパッドが付いている。
 垂直な方の椅子に座ると目の前の椅子に何者かが表れる。その者の外見は人によって変化し「魅力的」「尊敬する相手」「大蛇」など様々な形をとっている。その存在を見れるのは垂直な方の椅子に座っている者だけで、カメラなどにも映らない。椅子が動く様子は第三者でも見れる。
 その者は願い事を叶え、代わりの代償を奪う。それは強制ではなく、交渉も出来る。羊皮紙のようなものは人間の皮で出来ている。
 

 ちなみにまい子の願いを叶えた場合、無惨を倒せる力を持てはしても普通に見つけれないし、万一見つけれても多分逃げるので無意味でした。悲鳴嶼が座った時に目の前に現れたのは産屋敷で、わかってはいたものの少し動揺しました。ちなみに悲鳴嶼に告げられた代償は「今まで、そしてこれから助け、そこから繋がっていく全ての人間の命」です。
 


 


SCP-738 http://scp-jp.wikidot.com/scp-738

著者:Le Blue Dude 様

この作品はCC BY-SA 3.0ライセンスの下に公開されています。


 


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弐拾玖話 リンゴのようです

 「お帰りなさいませ、行冥様!」

 「うむ、今戻った。これは貰い物だが土産だ」

 「ありがとうございます、これは…林檎ですね!」

 

 正午過ぎ、私は自宅の屋敷の門をくぐり、玄関をくぐり屋敷内へ足を踏み入れた。帰宅した私の声を聞き付け、奥からハタハタと駆け寄ってきたまい子の声に返事を返す。そして残念ながら今日は猫達は出迎えてはくれないようだ、時間帯的に寝ている可能性もありそうだな。

 そして睡眠に心地よい時間にも関わらず変わらずに明るく出迎えてくれた彼女に、手に抱えていた竹で作られた小さな籠を差し出す。小さな体全体で抱えるように受け取ったまい子は、小さく歓喜の声をあげる。

 

 「うわぁ、なんて美味しそうな…どうしたのですかこんなに沢山ッ」

 

 上がり框を上がり、廊下を進む私の半歩後ろでまい子は両腕で抱え込んだ籠の中の林檎を見つめながら跳ねそうな声色で訊ねてきた。

 

 「任務帰りの道中に荷車の故障で困っている夫婦を見掛けてな、荷物の運搬を手伝ったらお礼にと」

 「それはそれは素晴らしい事を。流石ですお二人とも喜んだでしょう、こんな立派な林檎を頂けたのですから」

 「む…大した事ではなかったのだがな…」

 「ふふ…」

 

 私がした事といえば山盛りに入っていた籠を十ほど指定された場所へと運んだだけなのだから。私にとってそれは大した重さではなく、大した手間でも無かった。岩に比べれば遥かに軽く、鬼を探し一晩で進む距離に比べればなんて事のないものだったのだから。

 そんな私の答えに小さな笑い声が聞こえる。どういった意味での笑いなのか確認しようかと思ったが、適当に濁されそうで…止めておいた。また正直に言われたとしてもあまり納得いかなさそうだ。

 私が本心で思ったそれは、彼女にとって笑うほど現実味のない、肉体の可能な労働から離れたものなのだろうから。彼女もそれは理解しているだろうが。

 

 

 「それでは早速ですが、いかがでしょう?」

 「そうだな間食には悪くない時間かもしれぬ。まい子こそ、良いだろうか?」

 「勿論です行冥様!」

 

 猫達が眠りにつく今現在。それは出先で食した昼食を食べ終わってから少しの時間が経ち、小腹が空いてくる時間帯。

 別に何も入れなくとも良いが、頂いた好意を食べるには文句のない時間。そして土産として渡した彼女を満足させれるその提案に異存は全くなく、頷いた。

 

 

 

 *

 

 

 

 

 厨房に繋がる廊下に腰掛け、厨房で水分たっぷりの果実に包丁を突き立てる心地良い音を彼女の声と共に聞いていた。一人目覚めた猫が私の傍にうろつき、撫でろとばかりに纏い付いてくる。指先で額を撫でれば嬉しそうに擦り付けてくる。

 もしこの行動が甘えているだけでなく、先ほどからふわりと甘いを漂わせている林檎をねだる為のものだとしたら……そうだったとしても何かしら体に影響があるだろう、あげはしない。

 

 

 「いやぁ…本当に美味しそうな林檎ですね。真っ赤でつやつやで……うわぁ、蜜たっぷりで甘そう…」

 「感動するのは良いが、手をすべらせ指を切ったりしないようにな」

 「大丈夫ですよ行冥様~」

 

 籠から取り出した林檎を包丁で切っていくまい子。左利きである彼女の為の包丁では私が上手く切ったり剥いたりはするのは難しいだろう。出来なくはないかもしれないが…まぁすべきではない事だ。

 万一彼女が出来ず、私が林檎の相手をする時が来れば……切らずにそのまま齧りつき食べよう。

 

 「あ。皮は剥かなくても良い、そのまま食べるのが望ましいだろう」

 「はい、少し表面を洗うだけにしておきますね。んー……二つでは少ないですかね、三つにしましょう」

 

 一つ目。当分に切られた林檎が皿の上で、少しだけ滑りながら置かれる音がする。林檎は結構な大きさではあったが、私と彼女……それも私の体の大きさに合わせ多めに切ってくれているのだろう。拒絶はしない。彼女は私が食べる姿を見るのにどうやら、慈しみを持ってくれているようだから。

 食べる事に罪悪感を覚えはしない、多く食べ筋肉をつけ……守れる幅が増える事は何よりも望ましいのだから。可能ならば、許されるならばそうすれば良い。そうして拒絶されようが、受け入れてくれる者がきっと、いる。

 

 二つ目の切られた林檎を一つ目の上に乗せ、三つ目の林檎の取り分けをしようとしていた。

  

 

 「……ん?」

 「どうした?」

 

 しかしまい子は取り掛かろうとした手を止め包丁をまな板の上に置き、小さく疑問の声を呟いた後恐らく辺りを見渡した。私の指先に濡れた鼻先を当ててきていた猫を更に撫でながら彼女に問い掛ける。

 何が気になったのだろう。私が気付く事の出来ないほど小さな虫でも飛んでいたのだろうか。

 

 「……いえ、気のせいですかね。恐らく」

 

 だが気にはなってはいるものの、深く突き止めない事にしたらしい。何でもないと言うが早く包丁を手に取り手に持った林檎に突き立てた。

 

 

 妙だと感じた気配を、ただの気のせいだと適当に流すのは宜しくなかった。例え小さな違和感だろうと感じたのが確かなら、もっと深くに追及すべきだった。

 彼女も、それを聞いていた私も。そうであれば。

 

 

 

 「い゛っ、あ゛ぁッ!!!」

 「!?!!!」

 

 

 彼女の苦痛に歪んだ悲鳴など聞く事もなかったろうに。

 

 

 「大丈夫かまい子!指を切ったのか!」

 

 瞬時に彼女の元に駆け寄り、倒れる前に抱き止める。手にもっていた包丁や林檎が無造作に、甲高い金属音と鈍い重低音を立ててまな板の上に落ち……それから先は気に止めなかった。

 例え床に落ちようとも踏みつけ足を傷付けなければそれで良い。例え傷めようと駄目になろうと……悪いが手の中の存在より、気に止める物ではない。

 

 「ぃあ゛…ぃ…!」

 

 腕の中の彼女は苦痛に悶え、声にならない声を大粒の涙と共にこぼし私の胸元にすがり付いてきた。

 その手に触れる。これは左…違う、左ではない、切るとしたら……利き手の反対、右手。私の手のひらの半分ほどしかない小さな手を取り……一本一本手のひらまで含めて探すも、どこにも、何もない。

 

 「どこだ…?どこを切っ……いや、兎に角治療を…!」

 

 再度指先を辿ろうとして止める。原因の追及より痛みに震え、硬く小さく縮こまる彼女を早く助けねば。抱きかかえ厨房から廊下へ足を踏み入れ、治療の道具を置いてある部屋へと素早く進む。嗚呼なんて可哀想なのだろう…傷を見付けた瞬間、痛みを取り除けれる立場にならねかねば…!

 部屋の中に足を踏み入れ、彼女を畳の上の座布団に座らせた後小さな箪笥の上の薬箱に手を伸ば…

 

 

 「……あれ?痛みが、無くなりました……?」

 

 ……そうとして彼女のぽつりと呟かれた声に、反射的に体が止まる。彼女の方へ向き直りどういう意味なのか視線で訊ねる。彼女からの返答はない。恐らく……意図がわからず首を傾げているのだろう。その姿はとても愛らしいだろう。…今、思う事ではないが。

 

 「…え、と…だな……」

 

 どうして、なぜこうなった?

 確かに痛みに悶え涙を流していた彼女からは、どこが痛んでいたのかは確認出来なかった。どれほどの痛みかも判別出来なかった。しかし……経過したのはほんの数十秒。刃物で切り裂いた痛みならば無くなるはずがない。傷が、無くなる筈がない。

 

 「……どこが、痛んでいたのだ…?」

 

 薬箱に伸ばしていた手を戻し、彼女へと問い掛ける。再度手を取り右手の隅々まで調べ、一応左手を取り、指の一本一本、手のひらや手の甲、骨の浮き出た手首までくまなく調べるも…やはり何もない。

 そんな私の言葉に、行動に申し訳なさげにまい子は小さな声で返事をしてきた。

 

 

 「えっと……実は手ではなくて、額だったのです…」

 「………」

 「ひゃ!……行冥、様?」

 

 それは絶対に、どれほどの贔屓目で見たとしても納得の出来ない回答で。手ではなく、頭?それも……。

 彼女の戸惑う声もそのままに構わず、まい子の頭を、髪の毛ごと撫で上げる。示した額やその上の髪の毛を巻き込む少々乱暴な手付きで。

 

 それでも傷口も傷痕も血糊も何も見付からなかった。体が震えるほど痛むナニモノも見付けれなかった。いやそもそもがなぜ林檎を切っていて、投げたり滑ったり弾けるような音もせず何の関係もない頭を傷付けるような事が起きた…?いや傷痕もないのだから、傷つけてすらもない?ならば、なぜ?

 

 

 「………」

 「あ、す…すみませんご心配をかけまして…」

 「……いや、怪我がなかったのなら、何よりだ。南無…」

 「ひゃっ!?」

 

 黙り込んでしまった私に対し、戸惑うまい子の声がする。謝罪の声と共に胸元の隊服を軽く捕まれ、くいくいと引かれている。

 怯えさせも戸惑いさせもしたかった訳ではない、納得はひとまずいかなくとも何もなかったそれを喜ぶべきだ。手のひらを合わせ数珠を鳴らした後、彼女の頭に顎を乗せて息を吐く。

 

 小さな驚きの悲鳴が何とも可笑しく、堪えるように笑えばその揺れと震動が絶妙に気味悪いのか震えながらの静止の声にまた、笑ってしまった。

 

 

 

 *

 

 

 

 数分後、私達は厨房に戻ってきた。

 

 猫はどこかにいってしまったらしく静かな厨房には何者の気配もない。当然だ、この屋敷内にいる人間は私と彼女しか居ないのだから。

 

 

 「あぁ、林檎が下に落ちて…!勿体無い、傷とかついてないで………ん…?」

 

 そしてやはり床に落ちていた林檎。形として転がりやすいそれがあの状況で下に落ちるのは仕方なく、寧ろ転がりにくい包丁が上のまな板の上に堂々と寝ていた事に安堵した。下に落ち刃が傷付き欠けてしまえば彼女は哀しみ、自身を責めていたかもしれないのだから。それに単純に危険だ。

 

 まい子は土間に転がっていた林檎を拾い上げうと手を伸ばし、掴み……そして既視感のある反応をした。

 

 

 「……またか?」

 「…はい。…間違いないです。この林檎に触れた途端…えっと、まるで"私自身触れられて"いるかのような感覚が体に…」

 

 つい先程と同じような反応をした彼女に今度は更に追及をしてみる。すると決してある意味察しが悪く、ある意味察しが良い彼女は私の聞きたい事がわかったらしい。

 

 

 先程の違和感と痛みの原因が、たった今触れているその何でもない林檎の為だと。

 

 

 

 

 ** SCP-1032-RU **

 

 

 

 

 

 まい子は違和感を感じた理由を身振り手振りつきで、説明してくれていた。それは理屈では到底理解できないものではある、だがしかし……気のせいだと吐き捨てるには根拠はない。なぜなら私は彼女を信じているから。

 

 「しかし"触れられて"いる?誰に……いや、可能性として自身か…?」

 「恐らくそうだと思います。この感じる熱と圧力は、私が林檎であれば触れるだろう指の位置にあります。きっと、多分ですが」

 「ふむ……」

 

 土間に降り草履を吐き、彼女に近付き手を伸ばす。何も言わずともまい子は私の意図を理解し持っていた林檎を差し出してくれた。小さな重みが手のひらの上に乗る。

 大きく立派な林檎だ。ただ……それだけだ。他に何も妙な事はなく、可笑しいと判断力するものは何もない。

 

 「今現在、何か感じるか?」

 「うーん…先程より温かいような気がします。行冥様のが私より体温が高いからですかね」

 「うむ、恐らくそうなのだろうな…」

 

 全集中の呼吸を使い、筋肉量が彼女より数倍以上ある私とでは体温が違う。いやそもそも筋肉量が少ない彼女が低すぎるだけとも言えるが。それを感じれるとはどういう仕組み……いや、とにかく……彼女がそう言うからにはそうなのだろう。まい子が嘘を私に言うわけがない。

 

 ただの林檎にしか思えない。手の上に乗せている今でさえ、私には何も一つ妙な所を感じない。つるりとした、傷ひとつない滑らかな表面も形も極々普通の林檎にしか思えない。色は彼女の言う通り艶々と赤らんでいるのだろう。

 先程の痛みや苦しみは、林檎を切りつけようとした包丁の鋭さを彼女は感じたのだろう。まるで頭を真っ二つに割られようとするほどの痛みを。

 それは、さぞ痛かったろう。頭の傷はかなりの痛みを襲わせる…痕がくっきり残っている私が思うのだから。ただでさえ彼女は傷痕を持っている、これ以上増えなくて少しでも良かったと思うべきなのだろうか。

 

 嗚呼、なんて痛ましい。知らず行ったそれは自身を苦しめ、決して味わわせるに相応しくないその辛酸を舐めさせた。なんと罪深い果実なのだろうか。

 

 

 その赤らんでいるであろう林檎の表面を、乗せている手の反対の指で触れる。まな板の上から土間の上に落としたというのに傷ひとつないそれを撫で…

 

 「ひゃんっ!」

 「!?」

 

 …る為、上から下までゆっくり辿っていればすぐ隣でまい子が跳ねるほどの高い声をあげた。恐らく声と同時に体を跳ねていただろう。……なん、だ。

 

 

 ………。………。

 

 「……え…」

 「ぎ、行冥様……何を、み…妙な所に触れないでくださ…」

 「………」

 

 反論も弁論も言い訳も、何も出来なかった。いやまず理解が……え?

 何が起きた?なぜ彼女は泣きそうな声色で……いや、泣くというより……照……んん??

 

 

 「す…すまな、い?」

 「うう……いえ悪気があった訳ではないとわかって、ますが……もう、触れないで下さいませ…」

 「………」

 

 …どこに、なのだろう。林檎のどこに触れてはいけなく、どこならば触れて良いのだろう。私はどこに触れたのだろう。

 疑問の最中小さく震える彼女の背中に直接触れてゆっくりと撫で、その行動で落ち着いた心のまま手に持っていた林檎をまな板の上に置いた。判断が出来ないならば触れなければ良い。彼女が嫌がる事を私はしたい訳ではない。

 

 

 そしてこの林檎をどうするのが、正解なのだろう。

 

 

 まるで立っていられない、顔を見られたくないとばかりに私の胸元や腹の服に埋まるようにすがり付いてくるまい子。その背に触れ、落ち着くよう後頭部をゆっくりと撫でる。

 

 「…まだ触れている感覚はするのか?」

 「はい…足裏や足首辺りまで何かに触れている感覚がします。まな板の感覚だと思います…」

 「ふむ……今触れている私の手とどちらを強く感じるのだ?」

 「ん…どちらも判別つけがたく、同じ程ですね」

 「……」

 

 離れ、触れてすらいない林檎。未だ撫で続けている私の手のひら。それが同等ならば、それはさぞ難儀な事だ。私がどれほど彼女に触れようと、慰めようと、まな板に触れるそれも換わりはしないのだから。なんともまぁ悩ましい事だ。

 私が突き止めるべきは、林檎との共感覚を離す事だけ。そしてその仄めかしは既に先程暗示されていた。先程の痛み苦しみ、部屋内へと急いだその瞬間が間違いなくそれで。

 

 「先程の行動から考えて憶測の一つだが、離れればこの共感覚は解除されるのでは…?」

 「あ…そうかもしれません……解除され、そうなってしまえば再び触れるまで関わりないのやも…」

 「ふむ……では、そうだな。試してみるべきだ」

 

 持っていたそれをまな板の上に置く。ゆっくり揺れ、安定した位置で止まる林檎。

 

 「きゃっ!?」

 

 その行動を見守っていたまい子を抱き抱え、その場から勝手口を通り離れる。そのまま歩き続け一定の距離が離れた時、彼女から接触感覚がなくなった事を告げられる。

 やはり距離を開ければ共感覚がなくなり、そして再び触れる事で同じ事をやる羽目になる、と。

 

 抱えたまま、再び厨房に戻った後に彼女を下ろす。近付くだけでは、何もならない。

 

 その後幾度かの調査で判明したのは触れる箇所は関係ないという事。そして解除されるのは距離ではなく時間のようだ。

 指先は勿論、手の甲、鼻先、行儀悪く足で触れたとしても体全体が林檎自身と同じ感覚を持つようになる。

 しかし道具…例えば布切れ一つ間に挟んだとすれば感覚は共有しない。少々厳しくも箸で摘まめば持ち上げる事も出来た。

 

 何なのだこれは……人助けをした私へと報復か?ならばなぜ彼女を苦しめる?私が一つ一つ調べ触れなかったのが悪かったのだろうか。

 ……そんな訳がない。

 

 

 「どうしましょうか行冥様……危険だからと廃棄しても何時どこで誰某(だれそれ)が触れる機会があるかもわかりませんし…」

 「本来食品の処分としては食べるのが最も良いが…この場合悪手でしかない。手で触れぬように齧りついたとしても唇や歯に触れた途端……だ。自身を喰らうのと同じだ」

 「ではいっそ埋めてしまいますか。深く穴を掘って触れないよう…万一触れてしまったとしても一定の距離を取り感覚を離した所で埋めてしまう。いかがですか」

 「うむ、そうだな…」

 

 まい子の言う通り気を付けながら作業を行えばそれは、誰にも迷惑のかかる恐れのないただ廃棄するよりも良い工夫に思えた。

 感覚を共有したまま埋めてしまえば生き埋めの地獄を味わう事になるが、そうならないよう呼吸ではなく全集中して取り組めばなんとか……しかし、いや。

 

 「南無、それは宜しくないな。その後それから発芽し成長し実を付け、それらの林檎全てが同一の現象を持ち得ていた場合…」

 「あ、確かにそうですね…それは危険過ぎます」

 「兎に角これは一旦こちらへ置いておこう。触れぬよう気を付け……腐敗を始める前に解決策を見付ければ良い」

 「はい、了解しました行冥様」

 

 林檎を手に持ちまい子では届かず私も普段触れない、棚の上へと置く。ここにひとまず置いておけば誰も触れないだろう。登る事をしない猫達も私も彼女も。

 果物が悪くなるだろう期間内で、なんとか解決策を見付けねば。まずは……これを育てていた夫婦を訊ねるのが先決だ。

 

 

 そしてかなりの長期間が過ぎようとも腐敗も損傷の兆候すら見せないそれが、良き香りを漂わす室内装飾品に落ち着くのはまだ少し先の話。

 

 

 

 

 

 




 SCP-1032-RU 執念のリンゴ

 オブジェクトクラス:safe(まぁ安全)

 SCP-1032-RUは重さ112gのリンゴ。濃い赤色で、片側に黄色の部分がある。少なくとも30年以上腐ったり、傷ついたりはしていない。傷付けた場合数秒以内に自己修復を行う。鬼みたいだね。
 SCP-1032-RUに物理的に接触した場合、SCP-1032-RUの「感じた感覚」をそのまま自分の体で感じる。実験ログでは食べる実験もある。博士の冷静なコメントに笑う。
 悪い事をした人間がSCP-1032-RUに触れると……。実験ログ1032-1-9から見る限り、さぞかし傷ましい事になるのでしょう。


 夫婦は何も悪くない。偶然まぎれていただけ。他のリンゴは全部美味しく食べられました。




 


SCP-1032-RU http://scp-jp.wikidot.com/scp-1032-ru

著者:Mexanik 様

この作品はCC BY-SA 3.0ライセンスの下に公開されています。


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参拾話 忘れ去られる世界のようです(前編)

 

 

 明かりの付いていない部屋の中、一つのノートパソコンが開かれ置かれている。

 その画面には淡々と文章が書かれている。

 

 その一部に目を通す。

 

 

 

 《とある箇所や人物に関連するSCiP報告書一覧をここに記す。

 また発見者に対する記憶処置は追及なしであればクラスAの記憶処理である》

 

 

 《SCP-529 … 確保収容保護完了。記憶処理完了。

 SCP-096 … 確保収容保護完了。███村に関しカバーストーリーの流布と、広範囲の記憶処理を行う。

 SCP-194 … データ削除済。

 SCP-622-JP … 確保収容保護完了。記憶処理完了。

 SCP-151 … 確保収容保護完了。記憶処理完了。

 SCP-173 … 確保収容保護完了。記憶処理完了。

 SCP-500 ………   》

 

 

 

 つらつらと書かれている文章を下へ下へと眺めていく。

 完了、削除、不可能、あらゆる単語が並ぶ中一つの目を引く、終わりとも区切りとも読み取れる箇所を見付ける。

 

 

 《Y-909の出現、そして消費を確認》

 

 

 

 耳元で水中に潜った時と同じ音が、聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こぽり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 柱の緊急招集。何があったのかと少々肝を冷やしながらお館様のお屋敷へと向かった私を出迎えたそれは到底信じられないものだった。

 

 

 隊律違反を犯し、鬼となった妹を連れた隊士。

 人を喰わない鬼の存在。

 更にその子供は鬼舞辻無惨との遭遇経験があるという。

 

 

 全てが理解の範疇を軽々と越えんとばかりの事実。なぜ、どうして。そして目の前に迫らんとばかりの戦いが、私の見えぬ目でも見えそうな気がしていた。

 

 

 「それではその隊士は冨岡様と関係していたのですか」

 「うむ。深い経緯は冨岡が何も語ろうとしない為に把握が出来ていないのだがな……決して悪い男ではないのだが…」

 

 いくらなんでも口下手が過ぎる。そう言葉を繋げれば口元を押さえながら声をあげて彼女は笑った。ふわりとした香りが着物の衣擦れと共に舞う。

 

 「不思議な方ですね冨岡様は。それでその隊士さんと鬼の妹さんはどうなったのです?」

 「一応しのぶの所での預かりになったようだ。怪我もしていたようだし…当人が決めたのなら、そう悪くはないだろう」

 

 冨岡曰く、十二鬼月の下弦の鬼の伍がいたという。それと戦い生き残った竈門隊士は……運が良かったとの言葉だけで片付けて良いものなのだろうか。

 鬼舞辻と接触する事になる隊士に対して鬼殺隊への道を示し鬼となった娘を庇い、自身の命をかけるその命運はまるで導かれる天命のようだ。

 お館様がいくら()()()()としても納得の出来ない者も当然にいる。人を喰わない鬼……その存在事態は罪ではない、永年……鬼殺隊創立以来の願いだろう。それでも、これは決定事項だ。竈門隊士とその鬼の妹は生かし、鬼舞辻をおびき寄せる為の可能性に賭ける。

 

 「あっ蝶屋敷に今いるのですか。それはそれは……大丈夫なのですよね?」

 「…それは誰を指しての言葉だ?竈門隊士か鬼の妹か、それともしのぶか」

 「……内緒です、今日の私は意地悪ですから」

 

 彼女は少し笑った後立ち上がり、畳の上を移動し日の当たる場所へと移動する。その後に私もついていく。

 縁側に音もなく座ったその横に音もなく腰掛ける。触れる事もなく、ただ座っている。

 

 

 しばらくの沈黙の後に、彼女が口を開く。

 

 「そりゃあ私は蚊帳の外ですよ。しのぶちゃんのように血反吐を吐いて隊士になる決意を固める段階にも進めない体を持っていた人ですよ。しかしだからといって……鬼と隊士の決意に、運命に嘆く事が許されないのでしょうか」

 「………」

 「なぜ人を喰わない鬼が存在するのです。そんな鬼がいるのなら、世界に許されたのならもっと……もっと、救われた人がいたでしょうに…!」

 

 微妙に揺れていたその声が、徐々に濡れて涙混じりになっていく。誰か個人を…それこそ鬼の娘を糾弾したくて出した声ではないが、言わずにはいられなかったとばかりの声そのままに私の膝の上に上半身ごと倒れ、乗られる。震えるその背に手を伸ばそうとして……止める。

 …鬼殺隊に入り九年経つ私ですら見た事のない、害のない鬼の存在。そんな存在が許されるのならば、人を助ける鬼が民衆を、家族を苦しめず鬼殺隊の助けとしていたのならば……どれだけの人々が絶望を味わわずにすんだろうか。家族に裏切られ、襲われ、苦しめられる出来事が。

 ……それでも。

 

 「それでも、今こうして何十、何百年といなかった人を喰わない鬼が存在している事が何らかの影響を及ぼすだろう。我らの願いだった鬼舞辻討伐が目下に迫らんとばかりになったのは……彼らの存在が関係あるかもしれぬ」

 「…行冥様」

 

 私の膝の上に寝転んでいた彼女がころりと転がり、腹を枕に私を見上げる体勢となっているのだろう。視線を、感じる筈がないのに穴が空きそうなほど見られているのを感じる。

 

 

 「…私の事を嫌いになりましたか?嫌な事を言ったから…」

 「……そんな事言っただろうか?」

 

 なのに紡がれた言葉はずいぶん弱りきった…というより何だか落ち込みきって呟き、こぼれ落ちたような言葉だった。膝先に彼女の小さな指先がつついているような感覚を感じる。責めてはいないのに、どうやら自己嫌悪に陥っているらしい。

 

 「言いましたよぉ…妬み嫉みのような情けない言葉を……彼女が憎い訳でもないのに。憎める立場でも、ないというのに……鬼となったとしても…キョウダイが生きているのなら、幸せだろうに、なのに。なのに……酷い人です…」

 「……」

 「そもそもそんな鬼が無事に自由には…鬼舞辻から狙われない訳がない。大事なキョウダイならば強くなって守らないと駄目だろうに……そんな人達の事を、人でなしな事を言う私の事……嫌いになりました?」

 

 彼女のぐずぐずとした嘆きの言葉が止まってしまえば、私が彼女を感じる事が出来なくなる。確かにどれだけ後悔しようとも苦しもうとも、哀しき世界に叩き落とされようとも生きてさえいれば……幸せだっただろう。

 第三者が手にしたその世界を。妬む心を、鬼に壊された我らの誰が責めれようか。

 

 

 言葉を返さず……私が持つ心の全てを手に乗せ、膝の上の彼女に触れる。さらりとした細い髪の毛が、滑らかで冷たく心地よく指の間を抜けて行く。

 

 

 「まい子」

 

 彼女の名前を呼べば身動ぎしていた彼女の動きが止まる。呼ばれた意図はわかるだろうに、意味がわからないのか微動だにしない彼女…まい子に対し笑いかける。

 如何にも出来ない真実に苦しみもがき、それでも嫉妬の最中にも慈しみと慈愛の心配を呼び掛ける。嗚呼…なんて愛らしいのだろう。

 

 「嫌いになる筈がない。今後どれだけの時間が経とうとも、どれだけの人々が救われ…私に熱いお礼を言おうとも」

 「…さっきはああ言いましたが、嫌いになっても良いですからね」

 

 ガバリと彼女が膝の上から起き上がる。その決死な表情がある顔は私の胸元辺りだろう。どれだけ背伸びをしようとも、根本的な身長差は縮まらない。まい子が小さい訳ではない。そうして距離が離されるのは自然界の摂理、仕方のない事なのだから。

 

 

 「この四季折々の世界で、それに伴う人間一人一人ですら繊細でとても美しいです。私を嫌いになっても、私が貴方の傍にいなくてもこの世界を、人々を…愛してください」

 

 ずい、と。触れ合いそうな程顔近くまでまい子の顔が迫る。鼻先と鼻先が触れ合いそうな距離にも関わらず、それ以上近寄らず絶妙な近さで止まったまい子に何か言おうとして…口を噤んだ。

 一度何か間違ってしまえば触れ合いそうなそれに……私は言いようがなく、怖じ気付いた。……それでも、私の心はずっと昔から変わらない。

 

 

 「……大丈夫だ、私はこの脆く崩れやすい硝子細工のような世界を思っている…弱気者を守り、遥か遠くの平和な尊い未来を夢見て手繰り寄せる為に戦う事を決意している」

 

 どれだけ打ちのめされようとも、裏切られようとも、見捨てられようとも……守って見せる。この世界を、人々を、願いを。

 私と言う存在が、この世にいる限り。

 

 

 「……傲慢ですか?世界や人々ではなく、貴方…行冥様が幸せになって欲しいのです」

 「…私の幸せは、遥か前からそうだと決まっている。わかって欲しい……だがありがとう」

 

 どうも納得の言ってなさそうなまい子の声と身動ぎに、反射的に笑い声が漏れる。

 嗚呼……声をあげて大笑いをする事は、どれくらいしていないのだろう。元々するような性格ではないが…それでも遠い記憶に想いを馳せる程近くに思い付かなかった。

 

 

 「行冥様の幸せには…猫達も含まれていますよね?」

 「うむ…勿論だ」

 

 だからこそ彼女の発言する私では思い付かない予想外な事が。

 なんとも、愛おしかった。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

 こぽり。こぽり。

 

 

 

 深く、深く。

 

 

 

 

 闇をも吸い込む暗闇に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 沈んでゆく。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 炎柱、煉獄杏寿郎の殉職の訃報が届いたのは山中での修行時だった。同行していた弟子である不死川玄弥は乱暴ながらも故人を偲ぶ言葉を紡いでいた。

 

 

 彼の詳細を鴉から聞けたのは、任務へ向かう道中だった。

 共に居た同行者。鬼から受けた被害規模に犠牲者。そして今際の姿を。

 

 

 …上弦の鬼。上弦の参。その情報は最初の訃報時に聞いていた。だがその相手にして、誰一人犠牲を出さなかったというのか。

 ……己一人だけを除いて。

 

 その事実を受け止め、称える事も嘆く事も出来た。その手腕の見事さも、力や繋がりの消失を惜しむ事も。

 だが…その隙を、鬼は許しはしない。私は、私達はただ、煉獄の抜けた穴を埋め…鬼の頸を斬っていくしかない。

 

 

 任務を終え私は家へと辿り着いた。もはや朝と呼んでも差し障りないような時間帯に。

 空は徐々に白んできているのだろう。生き物の声もこれから聞こえてくるのだろう。澄んだ空気が抜けそうに遠くの音を拾って……

 

 「…~♪」

 

 玄関扉を開けようとしていた私の耳に、微かな鼻歌を届けてきた。その声色に体が固まり扉を開けようとしていた手を止め、声に導かれるように庭先へと向かう。

 こちらは縁側へと繋がっている道。その庭先を一望出来るその場所がまい子はお気に入りだった。しかし……いや、まさか。

 

 最後の一歩を、踏み出す。縁側も、庭先も一望出来るだろう場所に私は辿り着いた。どこから見ても、例え暗がりでも私の姿は確認出来ただろう。足音をわざと立て音でも姿の強調をしたのだから。

 

 

 「あ、お帰りなさいませ行冥様。ご無事で…お怪我などはしていませんか」

 「……まい子」

 

 そんな訳がない、だがけれどもしかしたら。そう悩み思っていた思考が……ある意味予想通りというかなんというか、当たっていた。庭先へ続く縁側から、まい子の無事帰宅した事へと歓喜の挨拶をかけられる。

 

 「なぜこのような時間帯に……いやそもそも昔に言ったろう、出迎える為に起きるような真似は…」

 「シッ。駄目ですよ騒いではいけません行冥様、玄弥くんが起きてしまいます。不死川様に怒られてしまいますよ?」

 「………」

 

 理解出来ないそれに問い詰めようとせんばかりな声色と声量で詰め寄ろうとする私を彼女は指一本を唇へと持っていき、静止してきた。

 その足元を掬うような言葉に、言おうとしていた言葉が出てこず……黙ってしまう。なぜこうなってしまうのか。彼女は私の……いや、良い。構わない。

 

 「…そうだなすまなかった。ならば大声を出さないよう、近くに座っても?」

 「勿論です。そもそもここは貴方のお屋敷ですから」

 「………」

 

 縁側に座る。触れそうなほど近くの、決して触れない場所に。まい子は座布団を持ってきてその上へと座っているのだろう、良くそうしていたのだから。

 

 

 「それで、なぜ起きていたのか訊ねても良いのだろうか?」

 「ぁ、ちょっと…くすぐったいです行冥様。低音と吐息が…」

 「…む?確かにまい子は耳が……いや、平気だろう?」

 「むう、意地悪です。いけない人……それで、起きていた理由、ですよね」

 

 体を少し屈ませ、彼女の耳元があるであろう場所で大声に決してならないよう小さく囁く。この声の大きさならば人も、猫も音を聞き付け起きてくる事はないだろう。

 決して掛け替えの効かない、この時間を壊さないように。

 

 

 「…煉獄様が亡くなられた事が、関係しているのですかね」

 「……そう、か。…いや、そうだな。そうなのだろう…」

 

 まい子の言った言葉に納得の出来ないような納得の心が歩いてくる。鬼と対峙する隊士が亡くなる事は…悲しくはあるが、珍しい事ではない。だが柱となったものが……それも、上弦の鬼を相手にする事など早々ある事ではない。

 特に煉獄……杏寿郎は良く知っていた。長年柱を勤められ私とも同僚であった父親である槇寿郎殿の御子息であり、信頼を寄せるに値する熱き心を持った人物だった。だからこそ……亡くなった事が、どうにも腑に落ちないというか…信じられず胸にわだかまりが残っているような、そんな気がしていた。

 

 「煉獄の事は信頼していた。上弦相手にただ一人の一般の犠牲者を出さなかった事は大変素晴らしい事なのだろう。…だが親より、大切にしていた相手より先に死んで、しまう…のは……」

 

 自分でも、整理しきれていなかった心中を口にした事で心が乱れる。わかっていた、心では理解していた。だが…心は一枚岩ではない。私自身ですら、許容出来てすらいない。

 残された相手、槇寿郎殿や弟は理解はしていただろう。代々由緒正しき炎柱の家計だ、こうなり残される立場になる事も想定していただろう。少なくとも…表向きは。

 しかし、それでも。だからといって……

 

 「残された者が、仕方がなかったと……割り切れるものではないだろうに…」

 

 つい半日前まで無事に生きていた存在が。ごく当たり前に戻ってくると信じるほかなかった存在が……そうでなくなるなんて。

 訃報を聞き、その遺体の氷よりも冷たく冷えきってしまったその肌に触れ…悲しみも怒りも怯えも何もかもわからない震えに揺れる歯を味わう事も。涙の一筋もこぼれない事も。

 当事者、その時におかれないと本当の意味で理解をして仕方がなかった、人を守っての名誉なものだったと割り切れるものではない。

 

 床の上に置いていた手を拳になるほど握り締める。ギリギリと何かを磨り潰しそうな音が鳴った事に少し経って気付き、ゆっくりと手のひらを開く。この音もまた…静かな空に響いてしまう。

 

 

 大きく息を吐く。全てを吐き出すかのように。なのに隣にいるはずの存在、まい子はそれを見逃さず更に深くの深くまで追求するかのように。

 

 「……怒って、いるのですか?」

 「………」

 「鬼に…人に……多くの命を奪う世界に……怒っていますか?」

 「……ああ、きっと…そうなのだろう」

 

 彼女の問い掛けに、うつむいたまま返事を返す。そのまま上を向き空を見上げても景色の色は何一つ変わらない。変わらずの暗い色のままだ。

 煉獄…彼を奪った鬼に、この世界の全ての人が大切に思う大事な誰かを理不尽に奪っていく世界に。私はきっと怒っている。そして言い様のない怒りと共に嘆いている。

 

 

 どうして。もっと。ああしていれば。

 

 ……後悔しても、変わりがない事を後悔し続けている。きっとそれは誰もがせざるにはいられない事。

 

 

 「……この理不尽な世界から解放される時はくるのだろうか。否、手繰り寄せよう。少なくとも…私達の未来を奪っていった鬼がいる世界は私達が屠ってみせる」

 

 私のその言葉に、まい子からは何の言葉もなかった。…いなく、なってしまったのではないかとつい手を伸ばしてしまう。私から触れるその行為はあまり良くはないだろうに…

 

 

 だが、予想していたそれから外れ。指先はまい子の髪と頭部に触れる。さらりとしたそれの滑らかさと冷たさに指先が震え……一寸も動けなくなってしまう。

 彼女は私の心境を理解したかのように頭部に置いた手を頬に導くかのように小さく体温の低い手で動かしていく。

 

 するり、と。頬を擦り付けてくる。傷のある、頬を。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 こぽ。こぽ。こぽこぽこぽ。

 

 

 

 

 沈んでいる。

 

 

 

 

 

 どうして沈んでいるのだろう。

 

 

 もがく事もなく。

 

 

 何かに触れる事もなく。

 

 

 

 

 ただずっと……深く深く、沈んでいる。

 

 

 

 光の届かない、深くまで。ずっと。

 

 

 

 

 

 

 




 ─ 中編に続く


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参拾話 忘れ去られる世界のようです(中編)

 

 

 

 

 上弦の陸を宇髄が討ち取った。正確には共に任務にいた竈門隊士と我妻隊士、嘴平隊士と共に。

 ただ何事もなく無事に、という訳ではない。片腕と片目を犠牲に、引退との幕引きと共に。討ち取ったのだから。

 

 

 去り行く宇髄の存在の欠ける喪失を嘆けども、上弦という遥かなる高き壁を壊せたそれは輝しき祝い事。

 長年の鬼殺隊の望みの第一歩。

 

 

 「どうしたのです、この沢山のお芋は」

 「麓の町で頂いた。とりあえず茹でようかと芽を取り除いているのだ」

 「わぁ、結構な量がありますね。行冥様も気を付けているでしょうが、芽取りの残りも変色したものもあるやもしれません。一応後で彼に確認してもらった方が良いのでは?」

 

 手に持っていた芽取りを終わった芋を横に置いてある籠の中へと入れる。そして新しい芋を手に取り、包丁を突き立てる。何でもない、普通の包丁を。

 

 「大丈夫だ、そこら辺は私でもわかる。ありがとう」

 「とんでもないです。私の想いは、貴方の想いですから」

 「………」

 

 私の見えぬ目でも判別できるそれを心配する彼女は、何よりも…()()()。丈夫で健康な私を何よりも心配していた彼女らしい言葉だ。

 遠くの廊下から現れ、籠の中の芋を覗き込んでいたまい子は恐らくそのまま座り込んだ。少し離れた場所に座る彼女には、手を伸ばしても届かないだろう。

 

 

 「上弦の陸を倒せるなんて……いやぁ素晴らしき事です。場所はどちらに潜んでいたのです?」

 「何でも花街に潜んでいたらしい…」

 「ぁー…それはそれは。行冥様には似合わない所ですね」

 「………南無…」

 

 音もなく座り込んだまい子が何気なく無邪気に訊ねてくる。鬼の居場所と、その居た街の事を。

 彼女は子供ではない。健康であればその場所に縁があったやもしれない彼女があっけらかんと口にする言葉は……私に対する悪口なのだろうか。いや悪口というか……うむ、これまぁ確かにそうだな。そう思われても仕方ないと思えるものだ。彼女は意外とそういう発言をしていた。

 

 

 「うーん、貴方ならばすぐに鬼の頸を潰せたでしょうか。えっと二人同時、でしたっけ?片方を倒した上で、すぐにもう一人を……なんて行冥様なら出来るでしょう」

 「………」

 「片方の頸を跳ね、片方を鉄球で潰す。うん、行冥様ならいけますよ!」

 「………」

 

 まい子の自信満々で元気いっぱいな声が…どうも体をすり抜ける。納得出来そうで、どうも……いやしかし、こうして聞いていると言う事は。……これは、なんというか。

 

 「私は……自惚れているのか…?」

 「ぇっ違いますよ!そうではなく、私が行冥様をとてもとてもお慕いしていると…それだけです!」

 「………。そう、だな。確かにそうだ。まい子は……そうなのだろうな」

 

 まい子は私を信じてくれている。そして……愛し、恋い焦がれてくれていただろう。だからこそ彼女がそう言うであろう事は、理解出来る。…それこそが自惚れなのかもしれないが、結論は…今後も出ない事だ。

 

 

 黙ってしまった私に対し、彼女は戸惑っていたのかもしれない。キョロキョロも顔を振り向き、手のひらを大きく開いて閉じてを繰り返し……戸惑っていただろう彼女を、私は生涯見る事はない。

 それでも、彼女がそこにいるならば決して変わりはしないだろう。妙な態度や振る舞いをする事などは。

 

 「ところで、宇髄様は大丈夫だったのですか?目や片腕を…その、失くすという大怪我をして」

 「うむ。隠も連絡を聞き付け柱の中で唯一現場に辿り着けた伊黒も姿見て無事を確認している。何より当人が引退…そう決めているらしいのでな。動けたとして、無理強いに止める訳にもいくまい」

 「なるほど……まぁ命に別状がなくて何よりです。確か奥様も沢山いらっしゃいましたよね」

 「三人だな。大切な人達を守る為に退く決意は……優良なのだろう」

 

 上弦の陸の頸を跳ね、結果を出し……これからは今までよる遥かに劣る力しか出せない、と足を引っ張らないようにと彼は引退を決めた。それは…その判断は責められるどころか、素晴らしい事だ。

 大切なものは、失ってから後悔をしても遅いのだから。腕を伸ばし傍に立ち、囲おうとも守れるのならばそうするのが…良いのだろう。

 

 「…行冥様、落ち込んでいます?」

 

 まい子のその問い掛けに、一瞬返事が出来なかった。まるで予想外の言葉を投げ掛けてきていたかつてのようだ。

 

 「……む、?……いや、そんな事はないだろう」

 「いやいや。宇髄様は行冥様に続く、永らく柱を勤められた方ですからね。少し寂しいものを感じたりしているのでは?」

 「………」

 

 だが、落ち着いて聞いてみればなんて事はない。ただの質問だった。

 確かに宇髄は今や最年長であり最長となってしまった私に次ぐ、柱であった。そんな彼がいなくなってしまったから……か。ああ、そうだな。それぐらいだろう、思い付くのは。

 

 

 「大丈夫だ。彼がした事は鬼殺隊が百年以上成し得なかった宿願(しゅくがん)だ。褒められ称えられるものに違いない」

 「…なるほど!つまり鬼舞辻に対して宣戦布告に等しいものでもあるという事ですね!」

 「…そう、だな。そのようなものなのだろう」

 

 私の発した言葉に、彼女が強く意気込んだ状態で返してくる。その言葉に頷く。頷くのもどうかと思えど……頷くしかない。

 

 「炎柱、音柱と二柱を失えど上弦を一人落とせた。今まで失ったものを数えるより……これを切っ掛けに先を見据えるのが、今望み振る舞うべき事なのだろう」

 「そうですねぇ……それが今までの、今いる全ての鬼殺隊の望みですから!」

 「……そうだな、それが我らの望みだ」

 

 憎き鬼をこの世から屠り、存在を無くすという事を。憎き鬼舞辻の頸を斬るという事だけを……我らは望んできた。それは鬼殺隊に入れなかった彼女、まい子も同じこと。

 ……だが。そうであれど……こうではない。

 

 

 「私が望む事と、鬼殺隊が望む事と、まい子が望む事……それら全ての到着地点は同じでも、意見まで同じではないだろうに…!」

 「………」

 

 私の呟きに対し、まい子は何の返事もしなかった。例え私の発言が何もかも違っていたとしても、彼女は間違っているとは言わないだろう。言えるはずがない。 

 

 握った芋がぎりりと鈍い音をたてた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 こぽり。こぽり。

 

 

 

 沈んでいる最中、目を開く。

 

 

 

 

 暗い。暗い。暗い。

 

 何もない。色も、光りも。

 

 

 

 

 

 ここはどこなのだろう?

 

 

 

 

 こぽり。

 

 

 こぽり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 奥に、奥に。

 

 

 

 

 沈んでいく。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 上弦の肆、伍を柱である時透無一郎と甘露寺蜜璃が倒した。

 偶然……ここまでくると偶然という言葉で片付けて良いのかもわからない、竈門隊士とその鬼の妹と、私の継子を願い弟子にした玄弥と共に。

 

 上弦の鬼の三体討伐をしたにも関わらず柱である彼、彼女らは柱を存続出来るという。更に……()を出せば更なる増強を望めるという事実が、手の少し伸ばせば掴めるほんの目の前に置かれた。言い伝えという曖昧なものでなく、結果として。

 代償として寿命が二十五までとなる。高々()()()()のもので今までを遥かに、鬼すらも凌げる力を手に入れれるというのならば……少なくとも、この暴れる鬼すらいなくなり決戦に備える今は誰も躊躇も後悔もしないだろう。

 

 

 私は提案した。鬼が邪魔をしない幸いな今現在すべきだろう"柱稽古"の存在を。

 

 

 

 柱稽古での私の順番は後半となっていた。一般の隊士が来るまでは同じく隊士が来る前の柱との稽古になるだろう。

 通常の日輪刀を使用しない私では、他の柱達とは連携の仕方が全く違うだろう。しかしだからといって手を抜いたり、やらない訳にはいかない。寧ろ今こそ、すべきなのだから。

 

 

 「……そうですか、産屋敷様が…」

 「…お館様は偉大な方だ。この千載一遇である好機、命の灯火を燃やすだけでなくきっと何か考えを練られている…」

 

 準備をしていた私の背中に、彼女が声をかけてきた。灯りをつける必要のない薄暗い室内。気分が上がるどころか沈んでいる私を心配し、優しい言葉をかけてきたまい子も…お館様の症状を語る際に声を落とした。

 お館様は私よりも年齢は四つ程下だというのに出会った時から荘厳で、偉大で…元々体が弱かった。年々崩されていく体の弱さを持っていたが、今はもう立ち上がる事すら…と。

 

 「少しでも永くその命の灯火を燃やして欲しいですね……あ、そういえば私と産屋敷様は同じ年齢でしたかね?」

 「…そうだな。そして私はあまね殿と同じだった筈だ」

 「ああそうでした。成る程、それでああだとは、あの方は本当に…偉大な方ですね」

 「………」

 

 今現在使っている、日輪刀と同じ素材で作られた鉄球と斧が付いている鎖と似たような鎖を倉庫から探していたいくら稽古だとはいえ、真剣と同じようなものを使う訳にはいかないのだから。

 まい子の言葉に、私は沈黙を返した。その言葉はつい先程、私が思った言葉だったから。通常ならばそれは喜ぶ事だ。何より尊敬する方の印象を、共にする愛しい人が同じように思ったのだから。

 

 ……だが、これは、そうではない。

 

 「例えお館様と歳が同じだろうと…まい子はまい子だ」

 「ふふ、そうですねありがとうございます」

 

 彼と彼女を同一する気は微塵もない。私の構成する気持ちと、その存在は…全く交わる事のない別のものだ。だから今こうしてきちんと口に出して告げれば良いだろう。良い筈だ、そうに違いない。

 

 

 「…ですが行冥様、私と産屋敷様は正確には同い年ではないですよ。でした、ですよ」

 「そんなのは、些細な事だ」

 「…心配なのです行冥様。わかっていると思いますが…」

 

 なのに彼女は私の心情とは真逆の言葉を告げてくる、何かを言おうにも背中越しの彼女の声色は何も変わらない。

 振り向き、声色が聞こえてくる場所を見ても私の瞳は何も映さない。彼女の存在を見付ける事は視界だけでは出来ない。

 

 「…何が…。…いや、大丈夫だ言わなくて良い」

 「気付いているでしょう?わざわざ言わなくても、理解しているでしょうが……行冥様」

 

 その存在を見付ける耳を、聞こえぬように塞いでしまいたいのに塞ぐ事は出来ない。本当に塞いでしまえば……本当に、何も見えなくなってしまう。

 だからこそ、彼女が紡ぐ言葉を……

 

 

 

 

 「私はもう、死んでいるのですよ」

 

 

 

 聞き入れ、受け止める事しか出来なかった。いや、わかっている。わかっている……

 ……もう遥か昔に失ってしまった、まい子の現実を……もはやこの世にいる筈もない、彼女の言葉で再度、受け取る。

 

 

 「……わかって、いる。君が……いなくなった日も、時間も温度も、気持ちも……眠っている場所も全て全て覚えている」

 

 忘れれる訳がない。どれほどこぼれ落ちた時間が過去になろうとも、喪失の凍えるような震える気持ちは過去にならず……

 そしてまた、二度と聞こえる筈がなかった声色が聞こえたその時も。聞こえ間違いではなく、会話の応答が出来る…今この現在の、君の存在を認識した時も。

 

 

 「ええ、ええ。そうですね。今の…こうして話している私は、貴方の記憶の中から生まれたものだとわかっていますよね」

 「…ああ。…嗚呼、勿論わかっている。以前の彼女との会話には、私が到底思いもよらなかった事が含まれていた。今現在……私が考えるまい子との会話では、それは不可能だ」

 「んー、それはもうどうしようもない事ですね。何せ記憶からの生成は生産も成形もどれだけ本物に近付けようとも本物にはならないものですから。いや別に行冥様が悪い訳ではないのですよ?」

 

 倉庫の探し物を終え、腰を上げて室内から出る。そのまま彼女の声が聞こえていた…彼女がいるであろう場所に近付き、手を伸ばす。本来ならば誰もおらず空をきる筈の手が…冷たく艶やかな髪の毛に触れて止まる。そのままゆっくりと撫でればくすぐったいのか彼女が小さく笑う。

 まるで目には見えない彼女に触れているようだ。ならば彼女は、まい子は居るのか?今までの会話は全て嘘なのか?……否。

 

 

 「……南無」

 

 ()()()()()()()()()それを。()()()()()()()()()と、思い腕を動かす。

 するとそれだけで手が軽く空を切り、何者にも触れず空中を漂った。まるで、最初からいない、その通りのように。

 

 彼女はいない。それはわかっている。わかっては……いる、のだが。

 

 

 「むぅ、そんなに私は貴方を捕らえているのでしょうか。苦しめているのですかね」 

 「苦しめるなど有り得ない。私の人生において遥かに短いあの時間は…短くとも掛け替えのない、大切な時間だ。そしてあの時も今もどこの誰にも干渉されない、まい子との会話は霞のように儚く…掴み様のなく意義のあるものだ」

 

 なのにこうして会話が出来てしまう以上……どうしても。どうすれば良いのだろう。本物でないとわかっていても突き放す事が出来ない。

 もう二度と会えず声も聞けないそれが、こうして聞けるのならば…幻聴だとしても。私がおかしいのだとしても。突き放せない。

 

 彼女は本物ではない。だからといって今こうして会話をしている彼女を偽物だと吐き捨てるのは身勝手すぎる。

 気狂いとして生み出したそれを自己都合で消すなど。自身の中で折り合いがつかずに作り出した存在を、どうして消せようか。

 

 

 「んー…例え夢幻だとしても行冥様の中で糧になれているのなら私は嬉しいですよ。世界に溢れる多数の幸福の一つ、大切で身近な幸せとなれているなら」

 「…そうだな。こうして話し合う事で自分の中で消化しているのだろう」

 「なんとも不思議な悩みですねぇ。行冥様の悩みは他人に迷惑をかけないように、自己完結する気がありますからそれだけは気をつけてくださいね」

 「うむ」

 

 こうして話しているこれも、自己完結の類いなのだからどうしようもない。それでも口に出すようになっただけまだ良いのだろうか。

 

 「だから、私という存在を支えにしようだなんては駄目ですからね!大事にしてくれるのは嬉しいですが、大切なものはもっと他にある筈ですから」

 「わかっている……こうして話している君ではなく、本物のまい子は想いの中にいる」

 「………」

 

 私の言葉に彼女は返答として、私の羽織りを掴み軽く引っ張った。それは仕方ないと笑うようであり、そうではないと拗ねているようでもあった。どうしたと訊ねても返事はなく、顔を押し付けられる感覚だけがする。

 記憶の存在である筈の彼女がなぜ私に触れれるのだろう。私が触れなくても、彼女から触れるのはどう違うのだろう。

 

 否、これら全て……記憶の反芻としてそう感じているだけなのやもしれぬ。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

 こぽり。こぽり。

 

 

 

 沈んでいる。

 

 

 

 

 

 深い、深い。

 

 

 

 海の底へと。

 

 

 

 

 ずっと深くに沈んでいく。

 

 

 

 

 

 

 こぽりと口から泡が漏れる。

 

 

 

 手にも背にも腹にも顔にも何も触れない。

 

 

 

 

 

 

 

 静まり返った水の中。

 

 

 

 

 

 

 「   」

 

 

 

 

 

 

 一つの声が水を震わせ聞こえてきた。

 

 

 

 

 

 




 ─ 後編に続く


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参拾話 忘れ去られる世界のようです(後編)

 

 

 

 

 

 

 「まい子ー…?」

 

 本来いる筈がない者に声をかける。柱稽古の特訓中で来ている隊員含め家の中に誰もいないのは確認済みだが、それでも一応必要な者以外誰にも聞こえないように小さな声で。

 家の中をぐるりと回った。いつもならば、彼女を思えばそろそろ出てきてもおかしくないのに、なぜか今は中々現れてくれなかった。

 

 

 「…行冥様」

 「ああ、ここに居たのか」

 

 そうしてやっと見付けた彼女はほぼ何も物が置かれていない部屋、仏間に声の高さ的に座っていた。壁沿いのそこはとある物がある場所…仏壇がある場所に重なるように居た。

 ふわり、と線香の香りが鼻を掠めた。今日は焚いていない筈なのだが……日々の積み重ねが部屋に染み着いているのだろうか。

 

 「解ってはいると思うのだが一応言っておかねば、そう思ってな」

 「……いよいよなのですね」

 「うむ、お館様から告げられた」

 

 彼女の前に座り、向かい合う。

 

 お館様より宣言された「近い内に鬼舞辻が現れるという予感」であるそれ。先見の明を持つ彼の言葉であるそれは決して外れはしないだろう、となればこれは我ら鬼殺隊の悲願である鬼舞辻との決戦他無かった。

 腹底に渦巻く厭悪はただの憎悪や憎きという言葉だけでは済ます事の出来ない、相手。私から全てを、隊員の人生を、人々の平穏を易々と奪っていったそれに…大義があるとは到底思えない。例えどのような理由があろうともそのような資格はどこのどのような誰にもない。

 

 「彼は自分を囮に、その隙を持って協力者の鬼と共に私に討てと仰った。その思いに答えるために…私は行かねばならない」

 

 日中は柱稽古。夜間は産屋敷邸にて鬼舞辻の襲来に備えての待機。それは今夜から始まり…数日でどのような形になろうとも終わりを迎えるだろう。無論、失敗など考えていない。そのような考え等……許されない。

 

 「痣を出せば、自分がどうなるか理解しているのでしょう?……勿論出さないで、なんて言うつもりはないですよ」

 「当然に。全力で挑まねば、悲願の達成など到底叶わないだろう。そもそも命を懸けぬ戦いなど元々有り得ないのだが」

 「そうですね……やっと、やっと終われるやもしれない、のですね…」

 

 彼女が小さく息を吐いた。それは生前良く聞いた、圧し殺した不安を吐き出すものに酷似していた。私の記憶の中ですら彼女は私の安否を心配し、どうにかならないか、そしてどうにもならない事を理解して何も言わずに呼吸だけを飲み込んでいる。

 痣の代償寿命をとうに過ぎている私が痣を発現させればどうなるかなど簡単に検討がつく。私一人の命を差し出せばどうにかなるなら、いくらでも。望みを叶える一欠片の為に散れたなら。

 

 

 「その時は、出迎えてくれるのだろう?」

 「……行、冥様ぁ」

 

 生命を終える事に恐怖などない。終えた所で私の思いは誰かに受け継がれ、繋がっていくのだから。それに果てた私を迎えてくれる家族は…彼女の他ない。

 その小さな声色は悲痛なる嘆きの声だった。本来のまい子ならば私達の決意を理解しても言葉にして止めただろう。だが私の記憶の彼女はどうしても私の精神に引っ張られ、止める発言がどうにも鈍く出来なくなる。その折り合いなのか…止める事のない、悲しい音だけを発していた。

 

 「そんな、そのような事を仰らないでください……貴方を思っているのは他にもいますよ、きっと。きっと」

 「…そうだな、そうなのやもしれぬ。あの子達と私との間に何かしらの…すれ違いがあったならばどれだけ、救われる事か。…事実として、何も変わりはしないというのに、な」

 「それでも、そうであるのを望みます。行冥様は決して一人ではない事を」

 「……?」

 

 何年もの前の、思い返すにも傷をえぐり鬼への憎悪が増す記憶へと彼女は踏み込んできた。生前の彼女はどうだったろうか?……あれ、思い出せない。なぜ?彼女の事で私思い出せないなど……いや、それはどうでも良いだろう。……この世に、あの世や極楽というものが確かに存在しているならば、彼女の言う通りの可能性はなくはない。

 だがしかしそれは何だか妙な言葉だった。私は孤独ではないと…一人ではないと言うそれを言う彼女、まい子の存在そのものが矛盾しているというのに。彼女が迎えてくれれば良いだけなのに。

 

 「どういう事だ?」

 

 私の問いに彼女はすぐに答えてくれず、数分の沈黙がその場を支配した。まい子が喋ってくれなければ存在の確認がどうにも鈍く出来やしない、再度訊ねようとした時に彼女は口を開いた。

 

 

 「…お墓に、喜ばしい報告をするとは言ってくれないのは何故ですか」

 「!」

 

 発せられたその言葉は、なんとも弄らしく愛らしいものだった。私の記憶から生まれているとは到底思えない……彼女のその言葉に驚き、心中を震わせ、涙が反射的に流れる。

 彼女の墓に訪れる……つまり、生きていて欲しいとの、言葉を。彼女ではなく…私が、それを考えているのか?私が?まるで本当に彼女が私を心配して……いや、そんな事、有り得ないというのに。

 

 「そう、だな。君の…まい子の元を訊ねれるならば、訊ねようか。何か甘いものを…そう、キャラメルなど食べさせる事の出来なかったものを持参して」

 

 彼女の生前に存在のしなかった、彼女の好きだった甘いものを持って……本当の彼女の元へと向かおう。そうするのが本当に望ましい事なのかもしれない。

 ……あれ、そういえばまい子の眠る場所に行ったのは、いつ、だったろうか…?思い出せない。

 

 「それはそれは。ありがとうございます」

 

 なぜ彼女が眠る元に私は行っていないのだろう。こうして話しているからだろうか?しかしこのまい子は本物ではないと自覚している、それならば会話が出来なくとも、眠っていたとしても彼女の元へと訊ねるのが正しいのではないだろうか。

 

 「…喜んで貰えるならばいくらでも。そうだ、その後にお義父様やお義母様お義姉様や弟君(おとうとぎみ)が眠るお墓も訊ねようか。最後に訊ねたのはまい子がまだ元気だった遥か昔だからな」

 「ん?あれ……んん…?」

 

 こんな考えは彼女の喜ぶ声に一時的に押し出されてしまう。そう、彼女が喜んでくれるならそれで良い。訊ねるのは…そうだ、終わった後に訊ねよう。それに生前会う事が叶わなかった、彼女と共に訊ねた事のある義理の家族の元へと向かうのも良いやもしれぬ。勿論それら全ては私が決戦全てを終えて無事だった場合だが。

 

 私のその提案をまい子は喜び受け入れてくれると思った。いつものようににこりと微笑み、頷いてくれると思った。しかし…予想外にまい子はなぜか歯切れの悪い返答をしてきた。

 唸るような否定の言葉。…何故、どうして?それはまるで会いにいくのは駄目な、そんな望ましくない理由でもあるのだろうか。

 

 

 「まい子?」

 「理解していますよね?あれ?理解していて話して…?………行冥様はわかっていますよね?私がこの場にいない事を」

 「…うむ?」

 

 疑問として彼女の名を呼べば、彼女は小さく言葉を呟いた後何度か頷きながらまっすぐ私の顔を見ながら言葉を告げてきた。声色に言い知れぬ強さがある。 

 

 「私は…こうして今話している私は記憶から作られた存在です。幽霊としてふわふわ漂い、存在している訳ではありません」

 「大丈夫だ、わかっている」

 

 彼女は遥か昔に亡くなっている、冷たい体も墓石も触れた私はわかっている。彼女の存在と行方を。今こうして話しているまい子は本物ではないという事を仕方なく理解している。どう足掻いて近くに寄る事が出来たとしても、触る事が出来たとしても、本当の意味で触れ合う事が出来ない存在だという事は。

 それは理解している。理解しているという事を…私が作り出した彼女ならわかっているのではないだろうか。

 

 

 「いいえ、そうでは……。私は、私は行冥様の記憶から作られた存在です。なので私が今から言う言葉は、本来の行冥様はわかっている筈の言葉であり認識なのです」

 

 それなのに目の前のまい子は私の脳内の言葉を。否定し、尚且つ深く深く追及してきた。今目の前にいるだろうまい子の存在そのものを、その存在そのものが。

 私がまい子を認識しているから彼女は存在し、会話を続け、こうして否定や抵抗に似た意見を言えるようになった。そうではないのか?

 

 

 そうでは、ないのか?

 

 

 

 「こうして私が言う言葉は行冥様が……貴方自身が気付いてはいれども、見えていなかった事実他ないのです。私が今こうして伝えるという事は、貴方自身気付いていたという事なのです。だから私が今から言う言葉は、貴方は気付いていた事なのです」

 

 彼女は紡いでいく。私の記憶と想像の織り成す展開…以上の言葉を。

 私自身を突き放すような、本来の彼女が言いそうで言わなそうな、言葉を。

 

 

 「……行冥様。……いえ、悲鳴嶼行冥、さん」

 

 

 その声色は、氷点下に落ち込んだ気温に冷まされ続けた氷よりも冷たく。私の名をいかなる愛やら何ならの情が湧く程見知った、されども()()()()()()()に紡ぐような声色で。

 

 

 

 

 

 「この、今の貴方の傍に。私はいましたか?」

 

 

 

 理解の範疇外の言葉を、言い放った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 「   」

 

 

 私を呼ぶ声がする。名前を呼ばれている。

 

 

 

 なぜ、どうしてこんな場所で?

 

 

 

 ……いや、それでも構わない。

 

 

 

 こぽこぽ。ごぽり。

 

 

 

 身動ぎをし、声の方へと手を伸ばす。

 

 

 

 

 

 届く。

 

 

 あと、少し。

 

 

 

 こぽ。こぽり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴポポポポポポッ

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 「………は…?」

 

 

 たっぷり数十秒。更に長くて数分。発せられた言葉を理解しようにもどうに出来ず、端的に返せた言葉はたったの一文字だった。

 何の意味にもならない言葉をただ返し、更なる言葉を待った。

 

 

 けれども、どれだけ待とうとも彼女から言葉は帰ってこなかった。

 

 「まい子…?」

 

 まい子の名前を呼び、腕を伸ばす。彼女のいる場所へ、頭へ、髪へと触れるだろう場所へ。

 

 

 

 けれど、手のひらは空を切った。

 

 

 

 「……え……」

 

 

 頭も髪にも触れず……更に本来、彼女が重なってはいたもののあるだろう仏壇の欠片も触れる事もなく、手のひらは何にも触れず空を舞った。

 …あれほど香った線香の香りが微塵もしない。

 声をかけても、変事はない。触れようにも、何にも触れない。

 

 

 まるで、最初から一人きりだったかのように。

 

 

 「ッ!?」

 

 一気に全身に鳥肌と共に震えと痺れが走る。それは意味がわからずどうにも理解不能で、とにかく納得出来るように行動を起こす他なかった。

 彼女を探した。声も手も耳も感覚も全てを使って。だがまい子は見付からない。目が見えない私では、姿形を探す事は出来ない。それに妙だ、記憶の彼女はいなくとも、物量がある筈の仏壇すらも見当たらないなんて。

 

 まるで、まるで。

 

 

 

 - 私が貴方の傍にいなくてもこの世界を、人々を…愛してください -

 

 

 いつしか彼女が発した言葉が、妙に頭に反響する。

 

 

 「カァー、行冥何ヲシテイル。ソロソロ出掛ケナイト不味イダロウ」

 

 その私の行動も露知らず、天高くから羽ばたきの音と共に私の相棒の鎹鴉である絶佳が現れる。そろそろ出発せねばならない時間帯なのだろう、その直前に呼びに来てくれる頼もしい頼りになる鴉だ。

 彼は私が鬼殺隊に入った当初からの付き合いの鴉だ。だから、私の事ならば全てとは言わないが良く知っている。

 

 「絶佳、訊ねたい事がある」

 「?何ダ?」

 

 今から訊ねるべき事は。良く、良く知っている。彼は彼女と何度となく話し、触れ、関わり合っている、のだから。

 だから。だから、頼む。どうか。

 

 

 「……私、は。妻帯を、誰かを受け入れ家族を持った事が、ある、か?」

 

 

 肯定を、してくれ。

 

 

 そんな藁にすがるにも似た私の言葉を彼は、訝しげな声色で。 

 

 

 

 「……意味ガ、ワカラナイ。行冥オ主ハ…」

 

 

 

 - ずっと、独り身、だろう?

 

 

 

 

 彼はそう言い放った。

 

 「………」

 

 絶佳のその言葉に、何も返せず黙ってしまう。いつの間にか寄ってきていた猫が、撫でろとばかりに頭を足元に擦り付けていた。

 

 …毛並みでわかる、この子はぶち猫だ。彼女がいた時にはいなかっ……

 

 

 いや。え?

 

 

 

 彼女はいない?最初から、初めから?

 ならば彼女の記憶と共にいる、虎猫は?白猫は?小さな茶白猫や黒猫は?

 

 私の見えぬ目では、いるかどうかもわからない。

 

 

 

 自身の記憶が怪しいのなら、何を信じれば良い?

 

 

 

 ……なら、ば。これは。

 

 

 彼女の楽しげな声色も。柔らかな冷たい髪の毛の滑らかさも。ふわりと漂う香りも。

 

 

 私が記憶する全ては。

 

 

 

 

 

 

 

 

 "誰"の記憶だ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 掴める。そう、思った。

 

 途端。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ………。

 

 

 

 橙色の衣服を身に付けた人物が海中から消え、代わりとばかりに辺りに溢れる…

 

 

 

 暗い灰色の粘性の膜が、ふわりと舞った。

 

 

 

 

 

 

 ** SCP-3000 **

 

 

 

 

 

 』

 

 

 

 



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参拾壱話 猫の寝床のようです

 

 

 

 

 行冥様は数日帰っては来ないだろう。その間に見違えるほど家を綺麗にしよう、盲目である彼には見えないけれど。

 

 そう誰に言う訳でもなく思い、まい子は気合いを入れるように傷痕が残る頬を両手で軽くた叩いた。

 

 

 鬼殺隊の最高位の柱の一人に位置する悲鳴嶼行冥。彼の担当区域の隅の隅、そこで人間業とは思えない奇妙で怪しげな事件が起きたらしい。

 何でもその村に置いてあった大きな像が動き、村人が数人消え、辺り一面に血液らしきものがばら蒔かれていたとかなんとか……それを調べに、そして解決をする為に彼は出掛けていた。

 

 

 悲鳴嶼のいない大きな家の中、一人屋敷内の掃除をすべくと人間の身内であるまい子は廊下を桶と雑巾を持ち歩いていた。そして気になった部分の廊下や柱を濡らし絞った雑巾で拭き掃除をする。

 床の一部分を力を入れて吹こうとして、肩から一括りにした焦げ茶色の髪の毛が胸元へ流れ落ちる。それを背中側へと邪魔にならないように回せばその行動で埃が舞い上がったのか、喉元がどうにもいがっぽくなったのか、まい子はこんこんと軽い咳を出した。

 埃が目に見える程積もらせ転がせるような事はしない。けれど、住む人数に対してここはかなり大きな屋敷ではある。多少対応出来ない場所があるのも否めない。

 

 今日はその部分を徹底的に掃除をしようとまい子は張り切っていた。花柄の羽織りや着物の袂をたすき掛けで固定し、体力尽きくたびれる寸前になるまで張り切り、満遍なく掃除を続けようと決意をして行動していた。

 

 

 「あっ、あぁあぁ、もう……どうしていきなり喧嘩をするの?」

 

 それなのになぜ決意した通りに上手くいかないのだろう。

 

 近くの街から離れた山の中の屋敷、正午からは西に位置する縁側には穏やかで暖かな日差しが差す。

 残りの悲鳴嶼の家族。猫である彼らに気にいられた為にズタボロにされた柔らかな布地は見にまとわれ、仲良く暖かな縁側で絡み付くように昼寝をしている猫がいた。

 虎模様と白の仔猫。そんな二人はいつの間にか目を覚まし、そして何があったのかわからない内に気がつけば取っ組み合いの喧嘩をしていた。爪を立てながら大声を上げ、短く滑らかな毛を逆立て尻尾を大きく膨らませていた。

 

 「ほら、落ち着いて。大丈夫大丈夫……たった二人の同族の家族なんだから仲良くね」

 

 血を見るような喧嘩ではなかったものの、そうなる前にまい子は彼らを引き剥がしそれぞれの猫が落ち着くようになだめていた。

 常に見ていた訳ではない為に喧嘩の理由などわからない。けれど片方の猫が布地を我が物顔で身にまといながら下敷きにし、もう片方が悲惨にも聞こえる声色をあげながら彼女の膝元にまとわりついて来たのを考えれば……そういう、事なのだろう。

 

 

 負けた事でか落ち込むような素振りを見せる彼の毛並みを撫で、代わりになりそうな布地を渡せど気に入らず納得いかないのか無視される。

 あちゃあ、駄目か。そうまい子は苦笑いを浮かべ再度彼の尾辺りを軽く撫で叩いた。

 

 それならばもっと良いものを、今度こそ喧嘩にならないような気に入るものを渡そうとまい子は頷き決意をした。彼女の優先順位は何よりも悲鳴嶼で、それから家族であり猫である彼らに続くのだから。それはまぁ時と場合によりけりではあるが。

 

 

 廊下の掃除を終え別の場所に移動する彼女の足元にまとわりつきながら敗者の猫は着いてきている彼をそのままお供に倉庫へと足を進めた。

 

 少々埃っぽく少しごちゃついている倉庫内の掃除ついでに足元から部屋の入り口近くの廊下へと移動した猫の彼に何かを渡そう。

 ほんの少し紐がはみ出ている型崩れした我楽多(がらくた)でもいい、優しい敗者の彼が喜ぶものは何か無いだろうかとまい子が掃除ついでに探していた時だった。

 

 

 「あら…?」

 

 埃を被っていた木箱を移動させようと持った時に奥に同じく埃を被っている見た事の無いものが見える。二、三個軽いものを別の場所に移動させ、それの招待に手に取り気付く……稲藁で作られた籠だと。

 全体の形はふうわりとまぁるく、壺や花瓶かのような形。されども真ん中に入り込めるような四角い穴が開き、中はくつろげそうな程ゆったりとしており、そしてそれは花瓶ではない。

 

 

 これは何なのだろう?まるで……いや、まさか、もしかして。

 

 彼女の想像した通りなら……これは、猫の為の寝床、だろうか。

 

 ……なぜ、こんな所に?

 

 きょとんと腑に落ちない顔でまい子は首を傾げた。

 

 

 猫達を大事に思う悲鳴嶼が買ってきたのならこんな所に隠すように置く事はないだろう。猫達に対して驚かす為の贈り物とは思えない。そもそも埃を被るものより奥の奥にあるそれは、猫の彼ら二人が来るより前にあっただろう物だから。

 それならば、なぜ?……いくら首を傾け悩めども、結論は出ない。入り口近くの床に香箱座りで寝転ぶ猫を見下ろせども彼は知らぬ存ぜずとばかりに何も言わなかった。

 

 

 とりあえずそれを手に取り、まい子は床でくつろぐ彼の少し離れた元へゆっくりと置こうとして気付く。瞳を閉じ身じろぎ一つしない幼い彼はいつの間にやら眠っていると。

 起こさないよう音を経てないように稲藁籠を廊下の外へと持ち出し、近くの部屋の窓際に置く。寝ている彼や縁側でくつろぐ彼に見せるのはまた後で、と。

 

 

 数十分後。高く上がっていた日の向きが少しだけ変化したその合間。彼女の常人より弱き体で精一杯、出来る限りの倉庫の掃除を終えても彼はまだ眠ったままだった。

 まだまだ幼い彼らがことりと眠りにつく  ── 後世ならば電池が切れたようにと表現するだろうそれ ── のは妙ではない。目一杯体力の続く限り遊びに更け力尽きれば眠る。それこそが仔猫である彼らのやるべき事なのだから。入り口近くの床や縁側で眠りこけていた彼らになんの罪もない。

 

 

 「……えっ…?」

 

 だから、まい子が先程置いた稲藁籠を取りに倉庫から近くの部屋へと移動しその部屋の中に入り込んでいた見知らぬ猫を見付けたとて…誰にも責める権利は無かった。

 稲藁籠の中に入り込んでくつろぐ茶色のキジトラ猫。その側に寝転ぶ毛の短い黒猫と、所々白色が混ざる黒のぶち猫。

 

 見た事もない、そして寄り付く事もなくも時折野良で見かけた事のある猫が突如まるで十年来そこに住み着いていたとばかりに家の中でくつろいでいたとしても。

 

 

 「……えっ、と。何が起き……んんッ、可愛らしい…!」

 

 どうしてそのような状況になっているのか理解出来ず動揺まみれの声色を出しながらも、そのくつろぎ敵意の持たない愛らしい六つの瞳で見詰められれば蕩けそうなほどの幸福感を受けた床に崩れ落ちたまい子には何もわからなかった。

 野生も何も関係の無い。猫の、稲藁籠に入る姿の何と愛らしい事か。

 

 

 どこまでも続く高く青い空の下、大きく旋回し遠くまで響く鳶の声だけが響いていた。

 

 

 

 

 ** SCP-637-JP **

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 悲鳴嶼行冥は疲れきっていた。

 

 体は土埃にまみれ、引き摺りそうな長い手足に目に見えぬ重責と叱咤と責任転嫁という重しがついている為に。

 連日連夜の鬼殺隊を知らぬものには説明の出来ない現象とその対処に終われた日々で心も体も疲れはてていた。

 

 それでも慣れた道のりを進み、見えぬ視界に映る自宅をとらえ悲鳴嶼は殆どのものには聞かせない安堵の息を吐いた。

 

 人よりも遥かに大きな体を持ち、遥かに強い力を持ち、如何に他者を思う気高い心を持とうとも守るべき弱き者達の言葉に打ち砕かれそうになる事もある。終わりの見えない暗がりの中ひたすら這いつくばり歩いているに等しいと思う事もある。

 だがそれでも闇の中に存在する微かで、掛け替えの無い光に触れ手にする為に。無実の罪から救い出してくれた例えようのない恩人を、何も知らずに十把一絡げでも生きる人々を、花咲くように笑う人を助ける為に……悲鳴嶼は歩みを止める事はない。

 

 

 「ただいま戻った」

 

 悲鳴嶼の大きな指先を玄関扉に手をかけ横に滑らせれば、木の擦れる鈍い音を鳴らしながら扉が開く。そのまま足を踏み入れ後ろ手で扉を閉めながら家の中へと声をかける。悲鳴嶼の大きくなく低い声色が室内へと響いていく。

 

 「……?」

 

 常ならばその声を聞き付け、奥からはたはたと走らなくても良いと常々言っているにも関わらず小走りで駆け寄ってくるまい子の姿が来ていた。しかし、そんな音も気配も全くしない。

 多少遅れて来てもおかしくない時間を待てども彼女は来ない。悲鳴嶼は出掛ける前のやり取りを思い返す、特に喧嘩をして揉めていたり気分を損ねるようなやり取りをした覚えはなかった。それどころかいつも通り無事と武運を祈られていただけ。

 

 

 となれば……出迎えられない理由があるのだろう。それならば思い付く可能性はいくつかある。

 

 一つ、偶然に聞こえずに無視されるような形になってしまっただけ。

 一つ、出迎えられないような状態…例えば着替えの途中に手惑っている等で不本意ながらなっている。

 一つ、返事の出来ない状態になっている。例えば……良い可能性として、眠っている。悪い可能性として、体調を崩して倒れている、とか。

 

 

 上り框を跨ぎ、悲鳴嶼は足を踏み出し廊下を急ぎ進めた。人よりも遥かに大きな巨体が歩みを進めても鬼殺隊の柱である彼の足音は軋みの一つもせず、寝室前まで辿り着きそのまま襖を開いた。中を音の反響や畳の上にあるものを探り……目当ての存在がいない事を確認して翻す。

 

 その際に声を少しだけ大きくして何度もかけ続けるも、未だに返事はない。戦闘中に決して乱れる事が許されない心の奥が小刻みに揺れ始めている。

 

 聞こえずもとも、返事の出来ない状態でも、睡眠中であったなら構わなかった。それならば見付けた際に一つ二つの何気ない会話のやり取りで終わるのだから。

 だから、それ以外は。返事が出来ないような 状態だけは。付近に民家はないぽつねんと佇む屋敷に訊ねて来るような人物は滅多にいない。何か問題があったとしても……誰も気付けない可能性がある。

 

 悲鳴嶼の脳裏に体の弱い彼女が力なく血反吐を吐き廊下や室内に倒れている光景が思い浮かぶ。そしてその姿すら、盲目である彼には良くも悪くも細かく描写は出来ない。

 

 

 「どこにいる、まい子!」

 

 屋敷内全てに響き渡るような声をあげた。

 

 それでも返答は、ない。背筋に言い様の無い悪寒が走る。熱を持つ手のひらを強く強く握りしめた。それでも足を止める事はしない。

 

 

 そもそも屋敷内の空気もどこか妙だと悲鳴嶼は思っていた。どこか歪んでいるような、澱(よど)んでいるようなそんな妙な雰囲気を感じていた。彼女が吐いたであろう血生臭いにおいを嗅ぐ訳ではないのが唯一の救いだが、それよりも何だか獣臭い可笑しな臭いが……

 そんな考えが悲鳴嶼の頭を掠めた時、意識した訳でもなく反射的に体が足の歩みを止めた。見えない目が異変を見て、鼻先が耳元が、制止を促していた。

 

 一歩、一歩。恐る恐るとばかり足を進めた先、正午からの暖かな日差しが降り注ぐ縁側とそれに繋がる襖を隔てた室内が見える廊下。

 

 

 「……は…?」

 

 

 その場所は、片手の数では足りないほどの猫がたむろし、溢れかえっていた。

 

 

 「……どういう、事だ?」

 

 出掛ける前に挨拶をした猫の数は家族として迎え入れたたったの二人。それもまだまだ幼い仔猫の姿。しかし廊下や部屋に通じる畳や縁に寝転んでいる中には見えぬ目で見る限り成猫が混じっている。

 家に住み着いていない野良が人間のにおいも気配も満ち溢れている屋敷内でくつろいでいるのは……どう考えても可笑しいとしか思えない。

 

 そもそも、その屋敷内の人間の筆頭であるまい子はどこにいる?どうしてこのような状態になっているのに何も行動を起こしていないのか。

 

 「にぁん」

 「む?」

 

 悲鳴嶼の疑問に被せるように、その内の一匹の猫が声をあげながら彼に近寄ってきた。高い声色はまだ幼い証で、そしてまるで不安げなその聞き覚えのあるその声に悲鳴嶼は膝をつき彼へと手を伸ばした。

 大きな手のひらと指先に額や喉元を擦り付ける猫を悲鳴嶼は出来る限り穏やかに優しく撫で上げる。

 

 その毛並みからして彼は虎柄の猫だと判別出来る。彼の性格は穏やかで寂しがり。悲鳴嶼ではなく、常に傍にいるまい子に良く懐いていた。

 だからこそ、彼がこうして一人で悲鳴嶼に寄ってきているのがなんだか妙で仕方なかった。返事をしない事は理解していた、それでも訊ねずにはいられない。

 

 「……もしや。まい子が、どこにいるのか教えてくれたり、するのか?」

 

 出来る限りの戸惑いを見せず穏やかに彼へと悲鳴嶼は訊ねた。猫である彼が言葉を理解し、人間の言葉として返事が返って来るなんて事は決して有り得ずとも訊ねずにはいられなかった。それほどまでに見た目や心情に現れない程に悲鳴嶼は戸惑っていた。

 

 そんな事が出来る訳がないのに。

 

 そして猫である彼は、彼の言葉を理解し返事をするような事はしなかった。それでもまるで悲鳴嶼の言葉に答えるかのように彼の手を擦りあげ、招くように縁側から続くほんの僅かに空いている襖の隙間を通り室内へと入っていった。

 その姿を追うように悲鳴嶼は僅かに空いている襖に手を掛け、音をたてずに開いた。音の反射で把握した室内には彼の記憶にある通りの物しか置かれていなかった。

 

 

 目の見えぬ彼の為に無駄なものが何も置かれていない室内に覚えの無いものがある。中央に堂々と鎮座するように置かれたそれに悲鳴嶼は手を伸ばし、触れた。妙な温かさと柔らかさを感じるそれは。

 

 「……これは、稲藁で作られた、籠か…?」

 

 しっかりと作られた稲穂を編まれて作られた籠に似た小さな、縁側に集まっている猫が入り込みくつろぐには申し分ない物。柔らかな湾曲を描くそれをなぞるように手を動かし……悲鳴嶼は首をかしげた。

 

 こんな形をした物など……購入した記憶も使わないとすぐに判断し倉庫へと直した記憶も無かったのだから。ならば、これはどこからきたのだろう。外に勝手に出掛け買い物をするような真似をする事も出来る事もないまい子の、他に誰が。

 

 

 「んぁ、なぁん」

 

 悲鳴嶼の思考に割り込むかのように、室内に一つの声が響いた。

 中央に鎮座していた稲藁の傍に置かれていた布地の隙間から顔を覗かせた猫が稲藁に触れていた悲鳴嶼の手の甲に鳴き声を上げながら摺りより、何度となく声を上げながら顔を擦り付けていた。

 

 「……お前達はどこからやって来た猫なのだろうな。なぜこの……」

 

 その短い毛並みには馴染みはなく、また声色も覚えがなかった為に家族として迎え入れた二人のどちらでもないとは悲鳴嶼にはすぐに判別出来た。

 しかしこの異様な懐き具合は何なのだろう。差し出した手の甲や手のひらに幾度となく顔や体を擦り付けていたり、かん高く頼りなさげに揺らぐ弱々しい声色はまるで何かを必死に教えんとばかりに発せられているのは。

 

 猫の足音が、畳を擦る爪の音が聞こえない。何か音を吸収するものの上に乗っているのだろう。猫のその滑らかな毛並みの猫から手を離し、下に敷かれていた布地に悲鳴嶼は手を伸ばした。

 それが稲藁で作られた籠と同じように記憶に無いものだったのなら奇妙な不可思議に首をかしげるしかなかっただろう。

 

 

 「……は?」

 

 しかしその布地の手触りは悲鳴嶼には何よりも覚えがあった。寒がりである者の熱を逃がさないよう厚みのあるその布地を手探りで辿り、そして確証の持てる場所に触れた。

 数日前に家を出発する前に間違いなく触れた、首筋に値する箇所の着物の布地に。左襟、そこに偶然絡まるように残っていた……一本の細い、髪の毛。

 

 指を滑る艶やかさの残る長い髪の毛の感触は覚えがあった。それもつい、今すぐに触れたそれは間違いなく……

 手を差し伸べれば、猫は再度頭を擦り付けてくる。その毛並みに触れ、額や背中を撫で上げる。

 

 まさか。いやでもこれは…間違いない。同じ、感触。

 そうだとすれば、これは。この、手の中にいるいつもよりも遥かに小さなこの命、は?

 

 

 「……まい、子…?」

 「んなぁん」

 

 悲鳴嶼の口からこぼれ落ちるように漏れた言葉に返事をするように、猫は鳴き声をあげた。感情の読み取れないようにも、嬉々とした声にも読み取れるような声色で。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 「なぜこのような事になっていたのか、は。わからないのだろうな……」

 「しんぱいを、かけにゃして……もうしにゃけにゃ……うう、うまくしゃべれにゃい…」

 「喋るなど些細な事。無事で良かった。だがもし戻るのか後一日遅ければどうなっていた事か、嗚呼南無阿弥陀仏……」

 

 悲鳴嶼の膝の上で、小さな猫の姿から徐々に人の姿へと時間をかけて戻っているまい子は謝罪の言葉を紡ぎながら彼の膝へと体を擦り付けていた。

 彼が飲ませた例の、あの薬の効果で獣でも人の姿でもない、奇妙な体で思う存分甘えるような形で。

 

 「ところでぎょうめいさにゃ、ねこたちに、ねどこをかいにゃした?」

 「む?寝床?……いや、覚えがない。この稲藁で作られたこれの事か」

 「にゃい。しかし……ではにょこからあらわれにゃのでしょう?」

 「南無……奇妙な発想ではあるが、これが何かしらの原因に……いやそんな事が……無くはないな」

 

 少なくとも、猫に変化した人間を戻せる薬があるのならば。そう膝の上の小さな人でも獣でもない彼女の背を撫で、彼は涙を落としながら息を吐いた。

 彼女が元の姿に戻った暁にやらればならない事を思って。

 

 

 まずは無数の猫によって色々荒らされ汚された部屋の掃除と、元凶であろう稲藁の籠の処理と処分方法を。

 

 

 

 

 




 SCP-637-JP 猫ちぐら

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 SCP-637-JPは稲わらを編んで作られた猫用の寝床。
 SCP-637-JPを猫が直接見た、触れた場合SCP-637-JPを寝床にするようになり、5・6日程で完全にSCP-637-JPから出なくなる。そして7日目に消失する。その対象がいない場合付近の猫をおびき寄せるようになる。
 担当していた職員が四つん這いになり、キャットフードを食べ、猫のようにふるまうようになった事例がある。6日かけて完全な猫になり、7日目に消失した。

 この時のまい子は5日目から6日目でした。
 


SCP-637-JP http://scp-jp.wikidot.com/scp-637-jp

著者: inemurik様  

この作品はCC BY-SA 3.0ライセンスの下に公開されています。



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参拾弐話 お菓子くれなきゃ悪戯するぞ!のようです

 

 

 

 「はぁー。……ひぇえ、行冥様もう吐いた息が白いですよ、先日までは暖かかったというのに何だか急激に寒くなりましたね」

 

 手が届く程の至近距離の隣で、彼女が宙に向かって吐息を吐き出したのを感じる。

 夜露が出来上がる夜更けの時間、畳の上に折り畳んでいた布団を敷き詰めながら私達は会話を進めていた。

 

 「うむ。確かにそうだな、明日薪用(たきぎよう)(まき)をもう少し切るべきやもしれぬな……」

 「あの子達の為にも火鉢も用意しなければなりませんね。手をお借りしてもよろしいですか?」

 「勿論。とりあえず埃を被っているだろう倉庫から動かし準備を整えるべきだな」

 

 無意味な皺一つ出来ないように布団を敷き詰め、いつでも就寝出来るよう準備を終えた部屋から襖を開き後ろに続く彼女を待つ。まい子が廊下へと出たのを空気の揺らぎと足音と気配の移動で確認した後少しだけしゃがみくぐってから後ろ手で襖を閉める。

 灯りの乏しい暗がりの廊下を前にいる彼女と歩を合わせ、会話を続けながら進む。時折ある梁をくぐりながら。

 

 

 「そう言えば絶佳君の悩みは解決したのでしょうか。行冥様聞いてますか?」

 「む?……何かあったのか、私には思い当たる節が無いのだが……」

 「え?そんな事は無いでしょう、彼のし……ん??」

 

 彼女との何気ない会話の最中、それは確かに聞こえてきた。私だけでなく、確かに彼女の耳にも届く音量で。

 

 

 

 『Trick or Treat!』

 

 

 確かに、間違いなく。聞き慣れなれないような言葉を使う子供の声が玄関から聞こえてきた。

 

 

 

 

 

 ** SCP-1994-JP **

 

 

 

 

 「……ああ、もうそのような季節なのか」

 

 冬支度の準備を考える今の季節、訊ねてくるのも当然の事だ。

 

 「確かに今日は"はろうぃん"でしたね……私は厨房に行ってきます、対応……お願いできますか?」

 「大丈夫だ。多少の時間潰し程度なんとかなる」

 

 厨房へとハタハタと掛けていく彼女の足音を背に聴きながら私は玄関へと向かう。普段人が訊ねてくる事を想定していない全く整えられていない厳しい道のりを乗り越え我が家に来たであろう苦労を考え、涙が流れる。

 軽く涙を拭い取った後、上がり框を降りて玄関扉の向こうにいるだろう人物を驚かさないようにゆっくりと開く。

 

 

 見えはしなくともわかる。そこには先程の声の主である一人の子供が立っていた。

 

 

 『こんばんは!良い感じに不気味な夜ですね、トリック・オア・トリート!』

 「うむ、こんばんは」

 

 元気逞しく掛けられた幼い声の挨拶に出来る限り穏やかに対応する。目の前の子供が身動ぎをする度にハサリハサリと体を覆っている布が上下する音がする。

 着物や西洋の洋服ではない、単なる一枚の布をまとっているだけなのだろう。この肌寒くなってきた季節それだけでは……ああ、先程拭いた涙が流れる。

 

 「すぐに甘味を持って来る、少し待ってくれるか?」

 『わかった!……じゃないや、わかりました!』

 「うむ……一人で、来たのか?」

 『はい!』

 

 私の反応に対し目の前の子供は何も言わず何の反応もなかった。ただ、私の言葉に対して微笑ましい回答だけをしている。

 そのままこんな場所にある、明かり一つもない夜の山道を幼い子供一人で訊ねてきたのかと訊ねた私の問い掛けに対して子供は大きく頷き、変わらずの元気いっぱいの声で返事を返してくる。

 

 『そうです!他のみんなは近くの街の違う所に行ってます!』

 「そうか……ここまで大変だったろうに、頑張ったな……南無阿弥陀仏……」

 

 苦労を微塵も感じさせないその明るさにどうしようもなく心を打たれ、とめどなく流れる涙そのままに手を伸ばし子供の頭上に手を伸ばした。

 そのまま通常であれば頭や髪の毛がある部分の硬い南瓜(かぼちゃ)部分を優しく、わしわしと撫であげる。撫でられた子供はくすぐったいかのように笑う。

 

 嗚呼……子供は。何時如何なる時さえも素直なる実直で、その素直さが、他人に牙向く凶器でもある。

 

 

 ………。

 

 「お待たせしました!」

 

 きっと頭である南瓜に手を置いたまま黙ってしまった私を、きっと子供は不思議そうに見上げていただろう。何があったのか、何故私はこうしているか、と……。……それらを説明などする気もない。語るには玄関では狭く、一晩では短すぎる。

 

 

 そんな私の迷いをふわりと覆うように柔らかな声色が音から素早く歩いてきていた。

 振り替えれば手に何かを抱え持っているまい子が。走る事で体調を崩す事が多い為か、限界の速さでこちらに向かってきている。

 そのまま、上がり框を降り、私の隣と子供の前に立った。私を不思議そうに見上げていた子供が彼女に向き合いにこやかな声色で話し掛けた。

 待ちわびた、とばかりに。

 

 『こんばんは!トリック・オア・トリート!』

 「こんばんは、良い夜だね。こんなもので大丈夫かな?」

 

 そんな子供の声に対し、彼女もにこやかに微笑み返す。手に持っていた包みを差し出し、結んでいた布地をほどいて中身を見せる。音からして一つの器があり、その中に……何か入っているのだろう。

 微かに甘い香りがする。中に入っているそれを見て、子供は声をだして笑った。

 

 『ありがとうございます!わぁ、こんなに沢山いいの!?頂きます!』

 「良かった、喜んでもらえたならなによりで。ん……あれ、もう帰っちゃうの?」

 『うん!二人とも、お菓子ありがとうございました!』

 

 そして子供は。

 

 まい子の差し出したお菓子を身に付けた布地の中から……音からしてぬるぬるとした触手のようなもので皿の上の甘味を取り、引き寄せて自身の布地の中に収納をした。

 

 

 子供はにこやかな声色と態度で、玄関を出た後腕の触手を大きく振りながら暗闇に消えていった。

 

 

 ……南無、阿弥陀仏。

 

 

 

 「行冥様ありがとうございました、遅くなりましたね」

 「いや大丈夫だ。それより、何を渡したのだ?」

 「ぅっ……」

 

 ……こんな夜更けの暗がりだが去っていったのならば、それはそれで仕方ない。引き止める理由など私達には無いのだから。

 玄関扉を閉め、振り向き様に彼女へと何気なく気になった事を問い掛けた。何の含みも企みもなく。なのに彼女は……話していた会話の続きをあからさまに反応おかしく、流暢に続けずに口ごもった。

 

 その反応に僅かに首を傾け、訊ねる。何か不具合でもあったのかと。

 彼女はそれを否定し……両手で顔を覆いながら答えを返してくれた。

 

 「……違うのです。その、別に夜中食べようとか、思ってた訳ではなく朝……もしよろしければと用意しようとしていた…その……」

 「?」

 「……カルメ焼、が丁度あって、その……」

 

 その言葉を最後に彼女はすっかり黙り込んでしまい、私の数点の問い掛けにも返答を返してくれなかった。

 なぜそのような反応をしているのだろう。まさか哀しませて泣いているのかと伸ばした手の甲も僅かな隙間の頬も、濡れてはいなくとも熱を帯びていた。このまま彼女の体の弱さでは昏倒してもおかしくなさそうな、熱を持って。

 

 「ケホゲホッ、すみません……こんな、まだ十一月には()()()()もあるというのに……寒さに負けてしまいそうで」

 「構わない。……気温の変化は仕方なく……それ以外でも、まぁ。構わぬ事だ」

 

 ……なんとも強がる愛らしいそれを、止める手段は持ち得ない。

 

 身動ぎ出来ない彼女を抱き抱え、上がり框を乗り越え玄関から、廊下へとそのまま足を進める。

 想定していた用事は全て取り止めだ、やろうとしてきた出来事を全て塗り潰すほどの予想外の出来事があったのだから。だから大人しく……寝室へと向かおう。

 

 

 少し前に彼女と共に用意をした寝室の様子を思い浮かべ、私は理由の述べない涙を一粒流した。

 

 

 

 

 

 




 SCP-1994-JP ハロウィンモドキ

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 SCP-1994-JPはイギリス、ウェールズの██████一帯に出現する10歳くらいの子供くらいの大きさの生物。頭はカボチャでジャック・オー・ランタン、それに黒い帽子と黒いローブを着ている魔法使いのような恰好をしている。
 SCP-1994-JPは18:00から0:00までの間に高い笑い声を発しながら行動する。その時SCP-1994-JPを見たり、声を聴いたりすると何の不思議もなく「今日はハロウィンで、仮装をしている子供」だと思い込む。その日が10月31日ではなく、2月でも8月でもハロウィンだと思い込む。雪の日のハロウィンはオシャレだね。
 

 SCP-1994-JPが不本意に人を傷付けた時に、お菓子をあげて謝るのがSCP-3092みたいで可愛い。


SCP-1994-JP http://scp-jp.wikidot.com/scp-1994-JP

著者: Chabuti様  

この作品はCC BY-SA 3.0ライセンスの下に公開されています。




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参拾参話 貴女の願いを叶えますのようです

 

 

 

 

 「行冥様……はっ…ぁ……少々、待っ…」

 「辛いか?……そうか、なら戻ろう」

 「まだ、行けます……少しだけ止まっ…もら、えれば……」

 「無理しなくて良い、また次にしよう」

 

 言うが早く地面にしゃがみこんで胸元を押さえていたまい子を抱き上げる。しばらく無言の抵抗をしていたが構わず元の道を歩きだした私の首筋にこつりと軽く頭をぶつける抵抗を最後に大人しくなった。

 密着する胸元が大きく早く動いている、呼吸が苦しいのだろう。数度軽い空咳をする背を負担のかけないよう撫でた。

 

 

 近頃天気が長く崩れていた。恐らくそう遠くない所を颱風が通ったのだろう。

 そのぐずついた気候が終わり、止んだ雨上がりと少しの暇が出来た私の時間が重なった為に少しだけ遠出をしようとの話になった。彼女の要望が体力をつけたいとの事で、あまり通った事の無い坂道のある場所へと。

 

 結果は……南無、意欲があるのは悪い事ではない。屋敷内にずっと閉じ籠っていれば息が詰まるよう感じる事もあるだろう……私がいるのだから、多少甘えてくれれば良い。

 

 

 彼女を抱えて数分、呼吸も落ち着いてきたまい子が顔をあげいつになく近い位置から声をかけてくる。

 

 「けほっ、すみません行冥様……迷惑を、かけまして……重い、とは貴方は思わないでしょうが手間でしょう」

 「大丈夫だ、まい子が例え五人いようとも片手で抱えられる。気にしなくとも良い」

 「……えっと、ありがとう、ございます?」

 「うむ」

 

 私専用の鬼と対峙する際の武器と比べれるものでもない存在と軽さで何を言うか。強風で折られ地面に転がっている太い木の枝を跨げば、多少軸が揺れたのか小さな悲鳴と共に襟元に柔かな手がすがり付いてきた。

 ……やはり、抱き抱えて正解だった。風に飛ばされた木々や落ち葉などで足元が悪く危険でもあるのだから。

 

 「まさか迂回せず跨ぐとは……流石ですが、少し驚きまし……ん?」

 「どうした?」

 「今自然物ではない色が見えた気がしまして……飛ばされてきたゴミでしょうか」

 「なんと……! 自然に煽られての事だとしてもやるせの無い…」

 

 まい子の見たそれが捨てられた物でも、風に不本意に飛ばされた誰かの必要な私物だとしても言葉に出来ない程切ない。

 

 下ろして欲しいとの願いを叶え、彼女をまだしっかりしている足場のある場所へと下ろす。滑らないよう一歩一歩踏みしめながらその場へと向かう彼女の背を考え、涙が止まらなくなる。

 ただでさえ塵と呼ばれるしかなくなったその物に思いを馳せていたというのに、拾い手を差し伸べる彼女の優しさに止めどなく涙が溢れだす。

 

 

 「お待たせし…!?……えっ、だ…大丈夫ですか行冥様…?」

 「南無……なんといじらしき事だ…」

 「………?」

 

 

 

 *

 

 

 

 あの後も再び行冥様に抱えられ、そのまま屋敷へと戻ってきた。

 猫達の熱烈な出迎えに感涙しながら遊ぶ行冥様を座ったまま眺め、そのまま手に持つ拾った物を見つめる。

 

 

 持ち帰り捨てようとしていたそれが少し奇妙である事に気付いたから。

 

 片手で持てる小さなそれは恐らく食べ物が入っていただろうブリキ缶。雨風に晒されていたにしてはどこも錆びていないし、捨てられたばかりなのだろう。

 蓋は開いており中身は綺麗さっぱり何もない。商品名や説明の文字は西洋の文字で書かれていて何が入っていたのかは正確にはわからないが、表に描かれている絵からしてお肉の缶詰……だったのかな。

 

 

 不思議なのは空っぽの筈の缶に少し重みを感じる事。缶そのものの重さでない……どう言えばいいのか、空なのに何かが入っているような重みを感じる。

 もう一度蓋を開け、中を見る。何もない。蓋を閉めて軽く振ってみる。……うーん、やっぱり何かあるような……

 

 「まい子、手を切らぬようにな」

 「大丈夫です、気を付けて触っ…」

 

 

 ぽとん

 

 

 「て……、ぇっ…?」

 

 開いているブリキの蓋の縁で指を傷付けないように忠告してくれる行冥様に軽く返答をしていれば。

 その言葉の合間に()()()が空の筈の缶から()()きた。心なしか持っている缶の重さも変わった気がする。

 

 目線を行冥様に向けていた上から下へとゆっくりと移す。重さから考えてもそんなに大きくないそれは正座している私の膝元より小さいだろう。

 

 

 案の定、そこに()()はいた。

 

 飛び出た衝撃で転んでいたものの、私の視線に気付き何もなかったとばかりに畳の上に堂々と仁王立ちする二寸五分(7.5cm)程の真っ赤な人型の実体が。

 

 

 ……なんだろう、これ?

 

 

 

 

 

 ** SCP-5655 **

 

 

 

 

 赤い霧を固めたようなその奇妙な存在に私は呆気にとられるしかなかった。

 だって……え?何だろうこれ、夢ではないと思うけど……夢の中みたいな事が起きてる。おもちゃのような、ゴムの人形のようなそれが生き物のように動いている。

 

 まるで何かを求めるかのように私に向かって手を動かしている。どうしよう動作だけで心がわかるほど、行冥様程私は聡くないし行冥様は見えないだろうし…どうしよう。

  

 

 「まい子?どうし……」 

 『貴方の望む願いを言ってください、私が叶えましょう』

 「!? 誰だ!?」

 「えっ、え……貴方喋れるの!?」

 『はい。なのでどんな願いでも── うわあ!』

 「えええ!?」

 

 その時の部屋の中の混乱具合といったら生半可なものではなかった。

 

 喋れないと勝手に思っていれば突然喋りだした小さく赤い人に困惑する私と。

 いきなり黙り込んた私を心配していれば存在すら知らない声が聞こえ警戒する行冥様と。

 声が聞こえた事でその存在に気付き、虫を発見した時のように鼻先を赤い人に近付け咥えんとせん猫と。

 死角から体の何倍もある獣に近寄られ、フンフンと荒い息をかけられて全力で逃げた赤い人とで。

 

 

 どたんばたん、と起きたそれからの数分間の抗争は上手く言語化出来る気がしない。

 

 結局飛び掛かった茶白の模様を持つ猫を私が抱上げて落ち着くように撫で続け、様子を見に来た他の猫達を行冥様が見守りながら赤い人を摘まみ上げていた。

 うわあ行冥様の指の第一関節ぐらいしかない。小さいのは小さいけれど……行冥様が大きすぎる。

 

 「南無…小人の存在有無をこうして触れている以上今更疑いはしないが……結局何者で何目的だ?」

 『そうですね私は魔人で、呼び出された以上願いを叶える。それが我らの法律なのです』

 「法……つまり持ち帰り、手段や結果はともかく彼女が呼び出した故に望みを叶えなければならないと」

 『はい。安心してください、願いの代償は一切何もいただきませんので』

 

 行冥様の淡々とした問いは人によっては尋問のように感じるだろう。なにせあの巨躯と抑揚の薄い低い声色で、時折念仏を唱えられながら泣かれるのだから。

 けれど赤い人は自分の何百倍もある行冥様に一切臆することなく聞かれた以上の問いを返してくれた。

 

 鬼の血鬼術のような超存在ではあるけれど、違うのだろう。行冥様が何も言わず摘まんではいてもそれ以上なにもしないのだから。とりあえず危険ではない、かな。

 行冥様も摘まんでいた彼を自身の手のひらの上に置き、私に見えやすいよう近くに差し出してきた。

 

 

 「えっと……私が呼び出した、のですよね。しかし……願い、と言われましても…」

 『余程の事でなければ叶えますよ』

 「んん……そうですねえ……」

 

 赤い人の自信満々な答えにもすぐに返せず、小さく呻きながら考え込んでしまった。

 こんな非現実な出来事軽く流せば良い、そう思う私と一世一代の好機なのかもしれないと思う私がいる。

 余程、とはどこまでなのだろう。

 

 少し歩いただけで崩れるような体でなく出来るのだろうか。

 何年も前に鬼によって終わらせられた我が家の再建が出来るのだろうか。

 そもそも全ての元凶である鬼舞辻を日の光の下に引きずり出し、滅せれるのだろうか。

 

 

 ……いや、昔話や物語ではよくある。金銀財宝を求め、化け物に襲われる……そのような欲を出して身を滅ぼす話が。

 でも私にはこの魔……なんだっけ、魔物だったっかな?魔物を騙せるほど頭は切れ者ではないしどうしよう。

 

 考えこんでしまった事で腕の中の猫を撫でる手を止めてしまった。その事に不満を抱いた猫は小さく一鳴きした後。

 

 『ぎゃあ!』

 

 後ろ足で立ち上がった後目線の先にいた、行冥様の手のひらの上にいた赤い人を前足一本で押さえ込んだ。

 

 「!?」

 「……! ちょっと、大丈夫ですか!」

 

 本当に申し訳ないけど、猫が虫など小さな命相手に格闘する姿なんてかなりの頻度で見るから反応が遅れてしまったのはある。私より理解早く動いた行冥様がもう一方の手で猫を抱き上げる。

 私は彼から赤い人を受け取る。怪我は……してないように見えるけど、流れる血も赤くて判別が出来ていないだけかもしれない。

 

 『ああ、少しびっくりしましたが大丈夫ですよ。それより願いはどうしますか』

 「………」

 

 手のひらの上の赤い人は元気そうに手を差し出してきた。確かに言う通り元気に見える、けれど。でも……やせ我慢かもしれない。

 怒らせる前に早く願いを言った方が良いのかも、なんて思う。古今東西、未知なるものを待たせて怒らせて良い事なんて何もない。だからなんでも良い願いを言ってしまおう。

 

 

 「えっと、では願いを言います。私を……あの、私の体を丈夫に……出来る"方法"を教えてください」

 

 切れ者でない私が、昔話の主人公のように頭脳明晰に赤い人を騙して富や幸せを得るなんて出来ない。そもそも私にとって今以上の幸せなんて無いだろう。

 しかし断っての拒絶はどうなるか恐ろしいし、赤い人の言葉の雰囲気からして逃れるような事も出来そうにもない。万一誰かを指してその人に危険が及ぶような事もしたくない。

 

 だから私に出来る、被害を最小限にするのは私の体自身で確かめる事。

 そして極限に追い詰められ思い付いたのは、直接ではなく手段と限定して直接被害が来ないようにする事だった。

 

 「!……そうか、南無阿弥陀仏…」

 『了解です!丈夫な体になるですね!』

 

 だから相手は私に。そして体を変える……ではなく、方法を教えてもらう。これならばどこの誰にも被害はいかない筈、万一私に何らかの被害が来たとしても……

 まぁ自己責任、行冥様には怒られる覚悟をしておこう。横から聞こえる彼の声は仕方なしと思えども、どうにも不満そうに聞こえる気がするから。

 

 手の中の赤い人は私の願いを受け入れ、自身の胸を自信満々とばかりに拳で叩き上に向かって両腕を伸ばした。

 その姿は……何かが天から落ちてくるのを待っているかのような……、その時だった。

 

 

 その様子を見ていた私の手のひらと赤い人の上に手のひらよりも大きな石が何の前触れもなく空中に現れたのは。

 

 

 その石は数秒の浮遊の後に……

 

 

 「ぃだッ!?」  

 『うぐッ!』

 

 赤い人と私の手のひらもろとも巻き込み、落下した。痺れるような激痛が手首から肘へと電撃のように走り反射的に苦痛の声をあげてしまう。

 意味がわからない、なぜ私は手を潰されているのか。体を丈夫にしたいと願っただけなのに。それに……魔物本人も私もろとも潰された。

 

 その様子は被害を及ぼしたかった等ではなく、なんというか……どうしようもない不本意とばかりに。

 

 

 「まい子!怪我は!?」

 「ぁ……大丈夫です、多分」

 

 様子を仕方なく見守っていた行冥様は慌てて重りの石を軽々と取り除き、私の手を取った。怪我の有無の確認の為に大きな手のひらが私の指の一本一本を探っている。

 急激な重さに潰され鋭い痛みは感じたものの……腕から先と頭が切り離されているかのように、どうにも現実として飲み込めていない。痛かったけれども、多分平気。

 

 

 私はそのまま床に放り出された石と赤い人に目をやった。

 

 赤い人はなぜだか未だに一貫はないだろう石に潰されたまま、そこから抜け出そうとジタバタ暴れていた。何でも叶えると意気込んだ魔物とは思えないほど……なんともちっぽけに。

 

 その様子を見ていられなくて、怪我が無いと離された左手と右手の両方で赤い人を潰している石を退けるよう持ち上げる。

 少しだけ重かったものの……そんなに大きくない石を横に置くだけなら私でも出来る。私のそんな行動に行冥様が小さく何かを言おうとして止めたのが聞こえ、顔を見ればおもいっきりしかめ面をされていた。

 ……ごめんなさい、それしか言えない。

 

 『いたたた……助かった、申し訳ない』

 「これくらいは平気です。その……なぜ石が落ちてきたのか聞いても?」

 

 赤い人は痛みを振り払うように勢いよく立ち上がり、自分を誇示するよう大きく腕を振った。

 

 『勿論!この石がありますよね!』

 「はい。私と貴方を潰した石ですね」 

 『これを何度も何度も持ち上げれば、丈夫な体になれますよ!』

 

 石へと両手のひらを向ける赤い人の相変わらず自信満々のその姿に。

 

 

 「……えっ?……。……ぁ、はい」

 

 私は何も気の利いた一言も返せなかった。

 赤い人の堂々とした態度はまさに私の願いを完全に叶えたと言わんばかりで……いや、それはそうなんだろうけれども。そう……ではないような?

 ううん。そう、なのかな?私はこの石で丈夫に体に……なれ、る?んん?

 

 

 「……では願いを叶えたのだろう。これ以上まい子に詰め寄る意味もないのではないか?」

 

 そんな困惑の最中の私の思考を遮るかのように、行冥様は私の赤い人を見つめる視界を遮るかのように前へと躍り出る。私の視界が彼の大きな背中に埋もれる。

 ……危険ではないと判断をしたものの、行冥様はこの赤い人を常に警戒して見ていた。見えない真実だけを見つめる目で見ていた。だから……

 

 

 『そうですね!私は彼女の願いを叶えた!ですから……また、用があれば呼び出してください。どんな願いでも叶えてみせますよ』

 

 赤い人が満足げに頷いた後、自身が飛び出してきたであろう空の何も入っていない缶の中に戻り、最後こちらに向かって手を振ったあと中に入り……気配も姿形もなにもなくなるまで警戒し続けていた彼を責める権利は私にはなかった。

 私は、全ての思考を放棄していたに等しいのだから。

 

 

 あの赤い人は何だったのか。本当にどんな願いでも叶えてくれたのか。代償はないと言っていたけれど本当にないのか。これからこの石をどうすれば良いのか。

 

 

 それら全ての結論を、問題なし、と結論出すには早計すぎたのかもしれない。それでもそうではないと止めれる程の者は、自身の体など気にしない私以外にはこの場には一人しかいなくて。

 

 

 「……本当に大丈夫なのか?どこにも怪我や何か不調は無いか……?」

 「は……はい。平気です、ありがとうございます…」

 

 心配してくれている何よりも誰よりも優しい彼を、不安の場に招待するつもりなんて考えられなかった。

 

 全ては私が招いた不可思議な幻。森の中で飛ばされ捨てられた缶を拾ったのも、その中から赤い小さな人が出てきてどんな願いでも叶えると言ってきたなんて……夢でしかない。

 

 そう思おう。私は一人、頷いた。

 今の今まで見ていたそれは、白昼夢だ。そう思おうと何度も何度も決意し、何度も何度も頷いた。

 

 

 「ではこの缶はどこか、手の届かない奥地に隠してしまわねばな」

 「……はい、行冥様」

 

 

 何かを言おうとして……言わずに黙っておくのが今の私にとって正解だと気付き、軽い返事で黙り込む。

 

 

 

 

 だから、彼が手に持っているそれは。

 

 なんでもない、ただの夢。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 おまけの有り得たかも知れない世界

 

 

 

 

 「では願いを言います。美味しい食べ物をください」

 『了解です!えい!』

 

 赤い人が空中に手をかざした途端、空中から畳の上に何かが落ちて……。えっと、きゅうり?その周りに付いている薄茶色い、これは……えっと。

 

 『どうです!これこそ美味しい食べ物ですよ!』

 

 自信満々な赤い人。そんな赤い人に行冥様が一言二言伝えて……そして、帰っていった。畳の上に転がるきゅうりそのままに。

 

 「……えっと」

 「それで、彼奴は何を出したのだ?」

 「多分、厨房で漬けていたぬか床のきゅうりだと……」

 「……そうか。それは大層美味なのだろうな」

 「あ……りがとう、ございます?」

 

 

 

 *

 

 

 

 





 SCP-5655 空のスパム缶から見つかる類の魔人

 オブジェクトクラス:safe(まぁ安全)

 SCP-5655は空のスパム缶、振ると中から7.5 cmの透き通った赤い人型実体(SCP-5655-1)が表れる。「私が望むのは」から願いを述べるとSCP-5655-1は現実を改変して叶える。しかしSCP-5655-1の現実改変能力には制限があり、大した願いにはならない。"多元宇宙の干渉と安定した管理"を破らないように。


 この後赤い人が入った缶は倉庫の奥へと直されましたが、いつの間にか消えてなくなってました。二人はその事に気付いていなく、また気付いても覚えていません。
 



SCP-5655 http://scp-jp.wikidot.com/scp-5655

著者:AnActualCrow 様

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参拾肆話 城を攻め落とすようです(前編)

 

 

 

 

 鬼の被害が無い日なんてものは、この世から全ての鬼を屠りさった時しかないだろう。それでもその日を私達鬼殺隊は一日、一秒でも近付ける為に日々命を燃やしている。

 

 それゆえに完全なる休暇など有り得ない、有るとするならば傷つきながらも再び戦う時に備えての療養中だけだろうか。傷一つすら持ってない今の私は、そうではない。ただ……少々個人的な用事があり、出掛けていただけ。

 服装は馴染みの隊服であり、日輪刀と同じ素材で作られた私専用の鎖で繋がれた鉄球と斧を肌身離さないよう荷物として籠に入れ背負っている。

 

 

 そんな出先から帰宅の最中、空気が湿ってきたかと思えば突如辺り一面を覆いつくさんとばかりに振ってきた大粒の雨に降られた事で、雨宿りを余儀なくされていた。

 私一人ではともかく、共に用があり出掛けていた彼女…まい子を連れてこの本降りの中進めるとは思えなかった。進む事は可能だとしても濡れそぼつそれでは素早い帰宅以外何一つ好転するものではなかったのだから。

 

 

 普段で有れば立ち寄る事のない近くの小さな集落の外れにある家屋の軒下を間借りさせていただき避難していた。勢いよく音を立てながら降り注ぐそれはまるで無慈悲な弾丸。

 一度打たれれば私はともかく彼女のようなか弱いものでは蜂の巣になるかの如く打ちのめされ……数時間後には煮えたぎるような熱を出すだろう。

 それゆえに屋根がある場所の下に、そんな理由で軒下に入り雨宿りを続けて早十数分……未だに止む気配を感じれずに立ち往生を私達は余儀なくされ続けていた。

 

 「止みませんねぇ、どうしますか行冥様。このままここにずっと居る訳にはいかないでしょう」

 「ふむ……しかしこの豪雨の中そのまま戻る訳にはいかないだろう?」

 「……えっと、私が邪魔なら……置いていきますか?」

 「なんとも笑えぬ冗談を……そのような事をする筈がない」

 「優しい貴方はそうでしょうが。それでもここで立ち往生するには勿体……」

 

 すぐ近くで大きな音を立てて扉が開かれた。

 

 「きゃあ!」

 「む……?」

 

 中から顔を覗かせこちらを見る人の気配がする。私と彼女の会話の声を聞きつけ、何事かと様子を見に来たこの家の住人なのだろう。擦れる足音が、随分年輩で有る事を表していた。

 五月蠅かったであろう事の謝罪をし、この通り雨が止むまでこの場を貸していただけないかと訊ねる。拒絶され追い出されたりせず、許可さえもらえれば私達はそれで良かった。

 

 

 だが、事態は思いも寄らない方向に転がった。

 

 「……え……これ、は……申し訳ないです、そんな!」

 

 この場に留まっていた説明をしようとした私達に、住民の方が差し出してきたのは……一本の番傘だった。それも通常のよりも少しだけ大きな番傘を……近くにいた、まい子に手渡した。

 そして情の籠もった声色と、関わりたくない

とばかりの突き放した声色で告げられる「風邪を引かない内に、亡霊に巻き込まれない内に……早くお帰りなさい」と。

 

 私達がどれだけ、何を言おうとも住民は首を縦に振らず受け入れようとしなかった。唯一受け入れてくれたのは、差し出された番傘の代金代わりの小銭だけ。

 その上で何度も何度も忠告をされた。この近くの山には亡霊がいる、それはこの時期だけに現れ人を食らう。それに食われない内に、早くこの地を去った方が良いと。

 

 

 彼女が訝しげに、何か思い当たる節があるとばかりの不安げ視線で私を見上げているのを感じていた。……まさか。そんな筈は。

 南無阿弥陀仏……改めて、確かめねば。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 ザアザアと雨は未だに強く降り続いていた。どれくらいの時間降り続いているのだろう、少なくとも夕暮れの血に染まったような真っ赤な空が曇天模様に早変わりしてから数時間は経っている。

 

 今は……時間で言えば夜の八時…九時近くになるだろうか。辺り一面の暗闇の中、まるで見えているかのように夜道を進めるのは流石行冥様と言わざるをえない。

 ただでさえ雨が降りしきる禄に手入れも舗装もされていない山の中の獣道に似た夜道、滑らずに進めるのは本当にすごい。

 

 「あの、行冥様」

 「何だ……?」

 

 かのご老人が言っていた事を思い浮かべ……いつもより遙かに近い位置にある行冥様の顔に話しかける。土砂降りの雨の中一本しかない傘を差して持つ、私を抱き抱えてひたすら見えぬながらも見えている夜道を進む行冥様に。

 こんな光もない暗闇の中進めるなんて本当にすごい、私なんてこんな近く、肌と肌が触れ合う程に近くなければ何も見えないのに。

 

 

 「あの人が言っていた、その……人を食らう亡霊とは、鬼の事なのでしょうか」

 

 ご老体から忠告されたその事を、一歩踏み込んだ推測の上で話す。夜間人を襲い、もしくは連れ去り姿形を消し去ってしまうそれは……私の知識の上では、鬼だとしか思えなかった。

 けれど私の言葉に、私を抱え振動も衝撃も加えないように優しく走り続けていた彼は一呼吸おいた後、僅かに否定の意味で首を横に振った。その行動に少し、驚く。

 

 「……断言は出来ないな。ここら付近で失踪が有ったとして、私達柱も鴉も……鬼であると判断出来ておらず、そして私は把握していない」

 「……えっ、鬼では無いのですか」

 「いや、断言出来ないのだ。幾人と村人が消えていたとしても……近くに鬼の存在を把握出来ておらず、なおかつ……期間も回数も多くないそれら全てに手間をさく事も出来ていない為に見逃している可能性も否めない」

 「そんな……」

 

 勿論人を襲う全てが鬼であるとは考えていない。元来人を苦しめるのは身近なる人間の悪意や災害なのだから。しかしそれらを除いたとしても、自然界に存在する全ての(ことわり)の外から……鬼は襲ってきている。

 だから、今回ご老体から忠告された詳しい事情もなにもない、人を襲っているという情報だけで私は判断した。けれど……うん、そうだよね。違うのかもしれない、ただただ偶然が重なって起きただけの悲惨な事故なのかもしれない。

 

 

 それでも巻き込まれただけの罪無き人が無事で、安らかであればいい……そう願わずにはいられない。

 そんな思考を巡らせていた時、視界の隅に()()が見えた。それはチラチラと揺れて……

 

 「……あれ?」

 「どうしたまい子?」

 「今……遠くに灯りが見えたような…」

 「灯り?この山中に民家などは無かった筈だが…」

 

 行冥様の言う通り、真っ暗闇でしかない山の中には何者も住んでいるような気配は無かった。それこそ人里離れた場所で修行を積む体も心も大きな方のような人がいるような気はしなかった。

 それでも逆に言えばこの暗がりだからこそ僅かな遠くの灯りが見えたのだと思ったのだけれど……

 

 「うぅん……やはり気のせいですかね」

 

 民家が無いならこんな土砂降りな雨の中灯りを持って歩いてるもしくは立ち尽くしている事になる。それはちょっと……考えにくい。

 私だって移動出来ているのは雨でも暗がりでも見えなくても関係がない行冥様に抱き抱えられているからなのだから。だからもし、本当に灯りがあったのなら。

 

 それは、普通では有り得なくて。

 

 

 ぐらり、と地面が揺れた気がした。それは支えてくれている行冥様が揺れたという事でつまり地震でもあっ、た……のか、と。

 

 

 思う間もなく、雄大なる()()は否応なく目に入ってきた。

 

 

 暗闇の中、木々しかない山中の中は私の目では何も見えない。だから見えたという事は灯りがともったという事。

 そして……それは、周りの木々を消滅させるようにしてなんの前触れもなく突然に現れた。

 

 

 

 突然の音もない出現に困惑、混乱する間もなく、また悲鳴を上げる間もなかった。何も見えない行冥様はその存在自体気付いてもいなかっただろう。

 何せ、何せ現れたそれは視界に収まる事もない程の大きな……

 

 

 ………。傘に、周りの木々や葉に打ち付ける雨の音が、聞こえ無くなっ……。

 

 ……ぁ……。

 

 

 

 「まい子?どうした、何かあっ……」

 

 

 「北畠■■!その頸討ち取ったり!!!」

 「!?」

 

 全ての感情を心の隅に押しやる程の強い強い猛りの感情のまま、私は叫んだ。普段大声なんて出さない喉がはち切れそうな程の大声を。

 

 抱き抱えてくれている彼の腕を力の限りで振りきり、地面に降り立った後手に持った番傘を折りたたみ日本刀のように構えながら全速力で走り出す。

 何も考えれなかった、ただただ城主である北畠■■の頸を落とし目の前の広大な城を落城させる事だけが頭の全てを占めていて……決意のままに強く強く傘を握り締めた。

 

 

 大きな門が見える、槍を持った城番の二人が派手な足音を立てて迫る私の存在に気付き構えた。

 

 

 

 

 

 ** SCP-830-JP **

 

 

 

 

 




 ─ 中編に続く


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参拾肆話 城を攻め落とすようです(中編)

 今行けばあの槍に貫かれてあっさりと確実に殺されるだろう、何せ私には戦う為の知識も手段も体力も無いのだから。

 それでも止まらない、進む足を止めれない、止める気もない。

 一撃で良い、命を落とそうとも目の前の城の一端を削れるなら……雑兵(ぞうひょう)一人をせめて相打ちで倒す為に身を引き番傘を構え……

 

 

 「止まれまい子!」

 

 …た所で、後ろからの大きな力に抱きすくめられ強制的に止められる。じたばたしても微動だにしない。

 誰なんて考える意味もない、この声、この力、この熱。ああ……行冥様だ。

 

 「離してください、私は……私はやらねばならな…」

 「笑止!正気に戻りなさい!」

 

 普段頼りがいしかないその太い腕から再びなんとか抜け出そうとするも、先程は予想外の行動だから出来ただけなのだろう。今度は全く出来る気配すらなく、そのあまりの力強さに逆に僅かな体力が削れていくだけ。

 

 そんな雀の涙のような抗争なんて第三者には関係ない、それも……たった今私が攻め込もうとしていた敵対している相手には。

 二人の城番が突き刺し串刺しにせんとばかりの突撃体勢でこちらに走ってきている。その行動がなぜだかゆっくり動いているように見え、対して危ないと思えども……止めるも流すも私なんかの力で出来る訳がなく。

 

 普通ならば刺されて殺されていただろう。

 普通ならば、一人だったならば。

 

 

 空気を切り潰すような鋭い音が身の回りを包み、瞬きをした一瞬の合間に目の前にいた筈の城番は槍を折られた状態で大手門の灯りの届く範囲……ここから十間(約18m)程度の場所に転がっていた。

 

 

 お腹を押さえ苦痛に悶えている様子と、片足を曲げて立っている行冥様の状況から考えるに……素早く槍をへし折り二人同時に蹴りでも叩き込んだのだろうか。

 

 

 ………。なん、だろう。胸の中の燃えるような感情が……知ってはいても目の当たりにした行冥様のあまりの強さに呆気にとられた事で、少しだけ冷えた気がする。

 

 「……ぎ、ょうめい、様。申し訳ないです、ご迷惑をおかけしまして。ありがとう、ございます」

 「うむ。どうやら……山の瘴気にでも当てれたのではないだろうか、アレも人でも当然に鬼でも無いのだから」

 「……え、人では無いのですか」

 「そうだ。蹴りあげた衝撃から伝わる感触……どうにも、な」

 「……なら、教えてもらった亡霊とは、彼らの事なのでしょうか」

 「恐らくそうなのだろう……南無」

 

 やっとまともに会話が出来るようになった私を彼は拘束から離した。何かを確かめるかのようにその手が髪から頬を撫でるように動いている。

 確かに今思えば妙な行動だったとは思う。私みたいな人が、傘を手に攻め入ろうとするなんて無謀が過ぎる。それでどうやって攻め入れるのだろうか、今現在はそう思う。

 

 安心して欲しい。操られていた訳ではない、とは……なんとも言い切れない。あの燃えたぎるような感情は……今現在おとなしくしてはいるもまた復活しそうで怖いのだから。

 早く、この場から逃げたい。なのに目線が門やその先にあるお城……きっと本丸があるだろう場所から逸らせないのは、未だに囚われている証拠なのかもしれない。

 

 

 行冥様は関わらないようにと、私の手を引いて行こうとする。けれどもその行動に、意識ではなく身体が反射的に抵抗してしまう。帰りたくない、引きたくない。おめおめと引き下がりたくない。

 これは……ああ、まずい本当に囚われ続けている。わかっているのに……逃げられない。

 

 

 「………なるほど、やはりそうなのだな」

 「申し訳ございません。無意識ですが、北畠■■の頸をとらずに戻れるか、と……体が、勝手に……」

 

 私程度の力で行冥様を止めれる訳がない、だから彼が自主的に止まってくれた。この不可思議な現象を解決せねば……元に戻らないのではと。私自身、そう思っている。

 彼が手を離した後に、数歩前に、城へと近付くように進んだ。どれだけ年月を重ねようとも、目的である頸をとらねば、終われる気がしない。

 

 

 「そうか」

 

 ザアザアと降り続く雨音にかき消されそうな程小さく低い彼の声がぽつりと呟かれた。

 

 

 どちゃり、と何か重たいものが地面に落ちた音がする。

 

 振り向く。

 

 

 「ならば、終わらせねばならぬな……」

 

 いつの間にか行冥様は背負っていた荷物から自前の武器を、正確な重さはわからないが七十貫(262kg)を軽く越えるだろうそれを持ち構えて佇んでいた。

 右手に鉄球に繋がる鎖を持ち、左手に闇夜にでも光る濡れた鋭い斧を持って。

 

 

 「……行冥様」

 「素早く終わらせよう……このままでは、君も私も、彼らですら……幸福には程遠い」

 

 行冥様の頬を伝っていたのは雨粒だったのか涙だったのか、私には検討もつかない。判断が出来ない。

 ただ、彼がそう告げた数秒と経たない内に……彼の姿は無くなり、十間離れていた二人の人影より遠くに立ちすくんでいた。

 足元には先程の蹴られ倒れ込んだ二人、の、首が飛ばされたか潰されたかの胴体が転がっており……そして、その体は霧が空中に溶けるかのように音もなく爆散した。

 

 ……自身の体に起きた異変がある、信じていなかった訳ではない。

 けれど……消えたその人影を見て、心の底から理解する。

 

 

 ああ、この状態……この現象はまずい。彼が城番二人に止めを刺したのも理解出来る。

 息の根を止めれば生命であれば必ず残る亡骸すら残らない存在がはびこって存在している、そして付近の生ける者を呼び込み命を奪っている。

 このままこの夜な夜な現れるお城を放っておいてはいけない、と。

 

 

 門扉を突破し中に潜んでいた兵を次々と手斧と、鉄球と、鎖で刎ねていく行冥様の後に続く。

 霧のように溶けていくその人影は恨めしげにこちらを睨んでいるも関係ない。行冥様が言うには幸福には遠いのだから討たれた以上大人しくしていて欲しい。

 

 そもそも優しい行冥様に、人でないとはいえ、人を討たせないで欲しい。

 

 彼は望んでいない、遠くから迫りくる兵を倒す事も。

 雨が幸いし火縄銃が使えず狼狽える者を壊滅させる事も。

 大きな城の立地を生かした奇襲すらも通用せず蹴散らしていく彼も。

 

 全て全て、この巨大なる亡霊に絡みとられてしまった私と……中にいる者達の解放のために動いているのだから。

 

 

 物凄い勢いで進む彼の背中を、番傘を手に乱れに乱れきった呼吸で追いかけていた。途中から迫り来る人影も何もかもわからない程疲れ、揺れ、朦朧としていた。

 雨が髪の毛の先端一本一本、着物の繊維隅々まて染み込み体温と思考を奪っていく。

 

 途中で眩暈と手足のしびれが来たが構わずに大きな背中の彼を追いかけて……いた筈なのに私は地面に倒れ、いつの間にか行冥様に抱えられる体勢で呼吸を整えていた。

 未だに彼は迫り、襲いかかっている亡霊と戦っている。ジャラリと鎖が鳴る度に付近の迫り来る何十体もの亡霊をなぎ倒している。私を片手に抱えたままですら。

 

 

 ……ああ、本当にこの人は。

 

 

 「お慕いしています、行冥様……」

 

 燃えたぎるような憎き北畠■■への恨みとはまた違う、心のままの衝動そのまま彼に伝えながら胸元へと気ぶれるかのようにすがりついた。それがこの大きく頼りがいのある手を振り払わない証拠と言わんばかりに。

 

 すがり付かれた彼は、一瞬凍り付いたかのように動きを止めたが……周りの者が取り返しのつかない場所に攻め込んでくる前に正気に戻り対応していた。

 

 

 

 *

 

 

 

 どれだけの時間が経ったのかはわからない。いつの間にか行冥様と私は、本丸だろうものが目前にある場所へと辿り着いていた。

 心に何度も滾るような衝撃が訪れ、それが向かう場所への道順を記していた為に彼に案内を出来ていた。彼が亡霊をなぎ倒し、私が行き先を記していたそれは最適の道順で進めていたのだろう。

 

 通った後には死骸の一つも残っていない。みな、倒れた後いなくなってしまっているのだから。

 

 「ここは平気だろう……少しだけ休もう」

 「はい」

 

 本丸を囲い守るようにそびえる普通より遥かに高い石垣を眺めていれば、端の雨の当たらない小さな軒下へと行冥様は一時的に避難した。

 流石にそれなりの時間ほぼ一方的とはいえ戦い走り続けていれば疲れるだろう。そう思い下ろしてもらった後に私に出来る唯一の彼を少しでも気遣う言葉を掛けようとする前に。

 

 

 「嗚呼、なんとここまで冷えきってしまっている……すまない。後々高熱に苦しませてしまう…」

 

 お城の敷地に入る前にされたように髪から頬を、そのまま首を握るように辿られる。

 今になってやっと気付く、あれは体温を体調を調べていたのだろうと。瘴気にやられ狂った私の精神と体調を心配して。

 

 ……そして同時に行冥様はさほど疲れてすらいない事を理解する。そういえば会った時より痩せていた時ですら一晩中鬼を……

 

 

 「……大丈夫です、ありがとうございます行冥様のせいでは。貴方はしないと思いますが急いてはいけません、焦らずに行きましょう。……そういえば今更ですがここは鬼とは関係ないのですよね」

 「うむ。関わって改めて解る、関係ない全くの別物だ」

 「全くの……はぁそれはなんとも、恐ろしい」

 

 抱えられて共に濡れていた筈なのに、頭のてっぺんから足先まで濡れ鼠な私に比べ行冥様にはまだ余裕があった。勿論顔や手足は濡れているけれど……隊服が本当に凄いのだろう。

 今更どうにもなりはしないけれど裾先を少しだけ絞りポタポタと落ちる水滴を見ていれば……少し、心が乱れる。苦しいいつものじゃない、無理矢理感情を作られるかのような……

 

 

 ……別の、事を考え思考をなんとか、逸らす。

 

 未だに雨は強く降り続いている。……こうして考えてみればこれも幸運だったのかもしれない。時折見えていた灯りに照らされる狭間(さま)から銃口は覗いていなかった、雨によって湿気た火薬が使い物にならなかったのだろう。

 そして夜というただでさえ見えにくい視界が雨によって更に狭められた。そしてそれら全てが……行冥様には関係がなかった。

 

 なんというか、本当に凄い人だと思う。手助けの一つも出来ない上足を引っ張るのが悔しい。

 

 

 「……行冥、様。行けるのなら、お願いしても良いですか?は、やく……終わらせ、ましょう」

 「! ……当然だ。真意はどうであれ、私もそうなのだから」

 

 私を抱き上げた彼に、胸の奥から込み上げる感情と共に城主がいるだろう場所を告げる。この、上だと。

 それと同時に探していただろう兵が雨宿りしている彼と私を発見して大声で叫ばれた。また大勢の兵が押し寄せてきて、彼が鎖を使い蹴散らすのだろうか。終わりとなる頸は後少しなのに……また遠ざかっていく。

 

 「まい子、今から短時間でいい……絶対に離れないよう私にしっかりしがみついていなさい」

 「……は、はい、行冥様」

 

 抱えた片腕がしっかりと抱き込むように動いたのを確認し、言われるが早く首筋にしがみついた。どうしてなんて考えなくてもいい、今からめちゃくちゃに暴れるのだろうから。押し寄せてきた大量の兵士達をぐるりと見渡して私はそう思っ、た……

 

 のに。

 

 

 行冥様が少しだけ動いた……次の瞬間には風を切り、高く高く遥か上空まで飛び上がっていた。急激にビシバシと強く多く当たるようになった雨粒に理解が及ぶ前に、再度加速がついてまた……

 なにこれ?何が起きてるの。飛んでるの?ただ彼に言われた通り物凄い重さと冷たさが行冥様から引き剥がそうと襲ってきている。だから必死にしがみついて……

 

 

 そして、気付いた。何も不思議な事はない。

 

 彼が地面に踏み込みただ高く飛び上がってから、その上で強靭な脚力で垂直な壁を蹴り更に高く飛び上がっていると気付いたから。

 そして激しい勢いが弱まていくのが何も見えない暗闇の中皮膚感覚でわかった。止まる。こんな空中でどうするのかと思う間もなく。

 

 城下を見下ろす為に作られただろう大きく開いた窓に飛び込んだ。

 

 

 




 ─ 後編に続く


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参拾肆話 城を攻め落とすようです(後編)

 ここまでほんの数秒。どうしてこんなに思考を巡らせれたのだろう、頭が冷えきってズキズキ痛むのに妙にスッキリしているのが関係しているのだろうか。

 行冥様が私を畳の上に下ろす。これできっと最後、なのだろう。体を伝い流れ落ちた水が畳に染み込むのを草履越しに感じる。

 

 

 中にいた人数はそう多くなく、また突如考えれもしない場所から現れた二人に呆気にとられていた。戦略でも立てていたのか大量に焚かれた行灯から魚の生臭い匂いが漂っていた。

 

 

 『何奴、曲者じ── 』

 

 「南無阿弥陀仏……安らかなる昇天を」

 

 

 天守閣のように高いそれに広さはさほどない。狭い室内に行冥様の鎖の音が響いて、幾つもの行灯の隙間を抜い動いた。

 立派な鎧を身に付けている男性が何かを叫ぼうとした瞬間。

 

 

 急に立っていた足場が無くなり、急激な身を包む風に覆われる。

 

 

 「  ひっ、ぁあ!」

 

 息を吸うだけの時間訳がわからずただ落下だけしていた。そして……今の今まで立っていたお城が無くなったと何とか理解した途端咳が漏れるほどの小さな悲鳴だけが喉から漏れた。

 落下してる事は理解出来てもなぜそうなったのかわからず、ただ灯り一つもない空中に放り出されて……!

 

 

 そんな中突如体が動かなくなった。腕が体に固められるようにギチギチに締め付けられて……縛ってきたそれがジャラリと鳴って。

 一体何なのかと恐慌して、更に強い力でどこかに引っ張られたかと思えば……力強い腕に抱え込まれて……ようやく落ち着く。

 

 「大丈夫だ、必ず助けるから心配しなくて良い」

 

 今が何なのか、どうなっているのか何もわからない。怖い、恐怖しか感じない。

 けれど……行冥様がそう言うのなら、その言葉だけで恐れは揺らぎ何も心配いらないのだと思える。

 

 

 至近距離で高速に動き合う鎖の音がする。

 

 

 「岩ノ呼吸 参ノ型 岩軀の膚」

 

 

 鎖だけでは有り得ない何かを打ち付けるような甲高い破裂音が、複数付近で鳴っている。反射的に彼に手を伸ばそうとして縛られていて動けない事を思い出す。

 

 私を縛っている鎖の部分以外で何をしているのだろう。

 何も見えないけれど心なしか落下の速さが、遅くなった、ような気がする。……気のせいかもしれない。

 

 そう頭によぎった瞬間彼の私を抱く腕の力が強くなった。私を上に抱き込むような体勢で……

 

 

 耳をつんざくような様々な騒音に包まれた。

 

 引き裂き無数の折れる音がぶつかり巻き込むような音と共に体に強く何かが当たってくる。痛い、苦しい、何が起きてるの。ひゅんひゅんと鎖が絶えずに動いている音もして続けている。

 

 

 メギリッ、と大きく何かがしなった音と共に、体を包み込んでいた落下の感覚が無くなる。

 

 

 今のは……枝?木の枝?それもかなりの太さを持っている立派な枝が撓(たわ)んだ音に聞こえた。

 ……木の枝?なら今までの騒音は、山々の木々の上に落っこちてその枝々にぶつかりへし折っていた音なのだろうか?

 

 ということは……落ち、終えた?

 いつの間にか瞑っていた目を恐る恐る開く。相変わらずの一寸先すら何も見えない程の暗闇。瞑っていても開いてもほとんど何も変わらないけれども……唯一違うのは。

 

 「……行冥、様」

 

 目を開けた世界には行冥様がいる。目を開ければ雨粒が入る為に薄く開いた目で見上げた私の声に反応するように目線を下げ、彼の目では光すらない為に明暗すらない暗闇で……私にとっても見えるかも判別出来ないだろうに、安心をさせるように穏やかに微笑んでくれた。

 

 「大丈夫だ……不安だったろうが、もう心配しなくとも良い。すぐに降りよう……南無」

 「はい、行冥様……えっ降りるとは?今……どういう……」

 「下は見ない方が懸命だろう」

 「………」

 

 まだ地面ではない。降りる、の言葉のままに下を向こうとして彼の言葉を受け入れ下を向くのを気合いで止める。

 なので上を……目を凝らしてよく見てみれば今現在行冥様は片手でかなり太い枝を掴んでいて、ぶら下がっているような状態だとわかる。下を見るな……という事はまだまだ高い位置にいるのだろうか。かなりの距離落下したような気がするし、どちらにせよ見えないけれど。

 

 

 それからの行冥様は凄かった。そのまま枝の上にするりと上がった後背負っていた籠に武器を仕舞い、そのまま他の枝や木々に飛び移りながら徐々に地面へと降りていった。

 それら全て私を片手に抱えたまま行った事も凄い。そして……行冥様と私、かなりの重さを持つ鉄球付きの武器を支えれた木の枝も、結構凄いと思う。

 

 

 地面は雨に濡れてぬかるんでいるのだろう。それでも一揺らぎもしない行冥様の体幹は計り知れない。

 未だに抱えられたまま……私は上を見上げた。遥か上空まで続いているだろう立派な木々を見たくて。それでもやはり暗闇で見えない上、上を見た事で雨粒が目に入り視界が歪んでしまう。ああ、侘しい。

 

 

 「これで……大丈夫か?まい子」

 「……はい、行冥様。ありがとうございます、そして……お疲れ様でした」

 「……うむ。それでは遅くなったが改めて我が家へ戻ろう」

 

 空から目線を逸らし、顔を伝う雨粒を手で払っていればその手を包み込むかのように大きな手が私の手を頬ごと覆った。

 優しく怪我をしていないかと心配の言葉をかけてくる彼へ、精一杯のお礼と労いの声をかける。

 

 

 彼は柔らかく微笑み、そして帰宅への足を数時間前と変わらず進め始めた。未だに夜は明けず、そして雨も降りやまない。

 いつの間にか手の中から番傘は無くなっていた。どこで無くしたのか思い出せない、あの燃えたぎるような憎悪や情熱と共に置き去りにしてしまったかのようだ。

 

 

 ……労い、誠意ある言葉を彼へとかけたい。けれど私はそのような言葉をかけるような立場ではないような気がする。

 彼を無意味な戦いの場に誘き寄せてしまった。疲れた云々は抜きにしても、きっと苦しめてしまった、情けない。恥ずかしい。

 

 

 ()()は恐らく()()ものに不可思議な力で敵対心を抱かせる事で誘き寄せて……無数にいた兵に倒され力尽きる事でその屍を食らう山の瘴気で作られた物の怪の城だったのだろう。

 だからあの集落のご老人はその被害を知っていた。きっと何人もの人間が城に招かれ、帰ってこなかったのだろう。 

 

 私はまんまと疑似絵に釣られ、誘き寄せられてしまった餌だった。向こうにとって不幸だったのは"見る"事が決して出来ず餌になり得ない狩人も共にいた事だ。

 

 

 あのお城が何だったのか、どういった存在で何が目的で何をどうすれば正解でどうすれば失敗だったのかなんてわからない。

 だって、今現在……私は全てが終わった安堵と何もしていないのに、疲労と寒さによって思考を巡らす力と手足を動かす気力も何も込められなくなり彼の腕に抱かれたままグッタリと凭れかかるしかなくなってしまったのだから。

 

 

 「……申し訳、ございません行冥様……」

 「全くだ」

 

 はっきり切り捨てられた声は低く。

 

 「君が体調を崩してしまえば……私も、あの子達も心配するしかない。だから……謝罪する暇があるのなら大人しく、体調回復に勤めるのだな……」

 

 髪と頬を撫で……眉を下げながら微笑むその顔は、何よりも優しかった。

 

 

 ああ。彼は……本当に何よりも、誰よりも……優しい。

 

 

 

 

 




 SCP-830-JP 凋落一夜城

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 SCP-830-JPは██県███山の頂上に8月30日の午後9時から翌日の午前3時の間だけ出現する戦国山城とみられる建造物。面積はおよそ150,000㎡、高さ55mの本丸、二の丸、三の丸に加え様々な郭や櫓、砦から構成されている。ちなみに東京ドームは46,755㎡。メチャクチャ広い。SCP-830-JPが出現するとそこに存在していた物品は消失する。家も人も木も山も。
 SCP-830-JPの内部には安土桃山時代の鎧を着て刀や弓矢、鉄砲などで武装している人型実体が████体存在する。致命傷を与えると消失する。本丸にあたる部分には統率する個体が存在しており、この個体を無力化、もしくはSCP-830-JPの██%を破壊した場合「落城」し、SCP-830-JPは即座に消える。しかし落城出来なかった場合、面積と規模は限りなく増えていく。
 SCP-830-JPを目で見た瞬間から持っている物の中で一番殺傷能力のあるもので攻撃を仕掛けに行く。しかし大抵殺され、翌年、SCP-830-JPの兵に混じっている。


 きっと、悲鳴嶼さんなら余裕で落城できる。人は殺したくないだろうけど、もう人じゃない。無慈悲に囚われた亡霊。



SCP-830-JP http://scp-jp.wikidot.com/SCP-830-JP

著者: semiShigUre様  

この作品はCC BY-SA 3.0ライセンスの下に公開されています。




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参拾伍話 たわわに実った腕があるようです(前編)

・しがみついているようです、に少し関連がありますが見ていなくても大丈夫です。
・少しグロテスクな描写があります。


 

 

 「……わかりました」

 「! しかし、まい子……」

 「申し訳ございません行冥様……少しだけ、行ってきます」

 

 隣に座っているまい子の弱々しい声色で、断固反対していた私の言葉か喉元で止まる。止めさせようにもそれは不可能だと理解したから。

 座布団の上から退き頭を畳に擦り付けていた男性が歓喜の声と共に頭を上げる。何度もの念押しの声を繰り返して。

 

 

 彼の立場も理解出来ない訳ではない。上の偉い立場の者達から何としても承諾させろと言われて来たのだろうから。

 だが藁谷家から離れた彼女を調べあげこうしてわざわざ出向き要請してくるという()()は確実に望ましい物ではない、だからこそ彼女は断るも彼は何度も何度も頼み込み……やりたくも無いだろう土下座まで行使してきた。

 

 だからこそ押し問答に終わりはないと判断し、彼の立場に同情した彼女は折れた。

 最悪私が共に同行すれば、大抵の事はどうとでもなるかもしれない。面倒事を回避出来る率は高くなるだろう。

 

 ……だが。

 

 

 「私の事は気にせず行ってくださいませ。行冥様がいればすぐに解決しますよ、きっと」

 

 どうしても出向かねばならない任務がある。それは柱としても、一人の鬼殺隊としても、一人の……人間としても。後回しにすればそのまま時間が被害の大きさに直結する可能性がある。見えぬ目ですら見て見ぬふりを出来ない。

 何より、それらを放り出し彼女の手を取る私を……彼女が一番望まないだろう。

 

 

 「……すぐに、終わらせ、向かおう」

 「ふふ、もしかしたら行冥様のが先に目的地に到着して私を出迎えてくれるやもしれませんね」

 

 彼女の手を取り、覆うように握る。笑う彼女と、彼が戸惑っているのがわかる。

 これは願いと牽制なのだと、理解するだけの思考を持っていて欲しい。出来る限りで構わない、彼女を守ってくれないだろうか。

 

 勿論これは自身の感情のままの行動でしかない。彼女を傷付ける可能性から遠ざけれず傍にいる事が許されない憤りであり、彼女の向かわねばならない物事が平坦であり余分な企みに捲き込まれず何もない無事を願う勝手な心情だ。

 まだ不安であれども、この疑心暗鬼は事実ではない。可能性でしかないのだからそうであってほしい。

 

 それになにより、私自身で守り抜こう。後悔の無いように。

 

 人の悪意は世に溢れていても、それに出来る限り関わらないで欲しいと願うのは欺瞞だろうか。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 淀んでいる。腐敗しているかのように臭い。空気が、人の笑顔が、言葉が全部。

 どれだけ年月を重ねても変わらない、それらに……いつまでも関わるつもりは欠片もない。

 

 

 「いいえ、これっきりにさせていただきます。最早藁谷を離れた身です、最後の義理を果たしたまでです」

 

 持っていた筆を置き、提案をハッキリと断ればにこやかに話していた御老体達が一斉に黙る。机におかれた文言が書かれた紙に書いた署名に目を通し、再度宣言する。もう二度と関わらないと。

 最初は宥めんとばかりに紡いでいた優しい言葉が私の決意の固さを理解する内徐々に口汚くなっていく。最後の凶弾に似た何かを聞いても私の答えと態度は変わらず、変える気もなかった。

 

 「それでは失礼致します」

 

 三つ指をつき、頭を下げ言葉を背に様々な淀みを浴びせられながら部屋を後にする。何をどう言われようとも、ここは私のいる場所ではないのだから。

 そもそも……折れて来たからって何でも言う通りになつもりはない。私は行冥様程優しくないし、決して何でも頷くお人好しでもない。それなら意地悪な性悪になってやる。

 

 遣いに寄越された青年が庭を挟んだ向かいの離れから私を無表情にも似た困った顔で見ている、予定より早くに出てきた私に戸惑っているのだろう。

 なぜあんな場所に隔離されているのか、そんな事を考える事はない。彼の微妙で複雑な立場はわかるけれどもだからといって同情し続けて雁字搦めになった私に災厄が降り注ぐなんて冗談じゃない。

 

 私に何かあれば、迷惑をかけるのは他でもない行冥様なのだから。

 

 

 玄関に無事に置かれていた草履を履き、玄関扉に手を掛け開く。隠され、最悪捨てられている可能性も考えていた。単なる嫌がらせではなく家から出られぬように閉じ込めて……そして、と。偏見だけど座敷牢とかありそうだもの。

 こんなひ弱な体ではあるけれど、汚れた悪意を持つならば関係ないだろう。弱いそれは逆に利点でもある。味方でない場所に足を踏み入れれば、安全なる場所などないのだから。一応……気を付けて、出来る限りの個人で出来る用心はしていたけれど。

 

 大きな屋敷を後にして、振り返らずに足を進める。さて、これから()()()へ戻るにはかなりの距離を歩き、汽車に乗って移動して、また歩かねばならないのだから気合いを入れねばならない。

 私の体で、体力でなんとか行かねば。

 

 

 「はい?」

 

 だから慌てたように後ろから駆け寄って声をかけてきた見覚えのある人達を見て怪訝な顔をしても仕方ないと思う。迎えに来た青年と、もう一人は話し合いを場の隅にいた高齢の婦人が私を呼び止めてきた。

 

 「……いいえ、結構です。私はこのまま……え?」

 

 彼らは必死だった。私の帰宅の足を止めんとばかりに、あらゆる甘い言葉を紡いできた。それでも頷かずそのまま足を進めようとした私の腕を婦人がとり、一つ、二つ言葉を紡いだ後……諦めたように息を吐いた。

 そして呟かれた。本当に帰るのならば、帰りの足を用意してある、折角用意したそれをせめて使ってほしいと。

 

 言われた意味は分かれども言葉の紡げない私を婦人は引っ張り、屋敷の陰に潜むように待機させられていた人力車の前に置かれた。

 これが本当に、私の為に準備されたのかは判断出来ない。けれど……待ちに待たされ、やっとかと喜ぶ俥夫さんに否定の言葉を告げる事は出来ずに、そのまま私は乗り込んだ。

 

 逆に考えよう。徒歩数十分ある駅までの道のり、歩かずに行けるのならば利用せずにはいられない。料金は……まぁ、後で行冥様に説明をしよう。

 これで帰り道の一部を早く戻る事が出来て、帰宅時間も早まり彼の心配事も無くせるならば良い。彼が早めにこちらに着き、落ち合う事は流石に厳しかったのか出来なかったのは残念だけど。

 

 

 「しかし、珍しいですね。周りを囲った人力車など」

 

 カタンコトンと揺れる人力車。普通ならば遥か遠くまでゆったりと見れる筈の乗り物だというのに、今現在私は乗車箇所と屋根を覆うように纏われた布地に囲まれ、何も見えないままに進んでいる。

 何年も、それどころか初めてと言っていい来た事も無い道を何も見えない状態で進まれれば今どの辺りなのかわからずに……取り敢えず、身をのりだし、布地をめくって訊ねた。

 

 俥夫さんは冷静に納得出来るようなそうでないような答えと共に、危ないから座っておくようにと注意を促してきた。

 同時にガタリと道に埋まった大型の石により跳ねた車体に翻弄された私は、言われた通りに大人しく座った。打ちつけたお尻が痛い。

 

 

 それから何を話し掛けようとも俥夫さんは返事を返してはくれなかった。幾度となく無視されてしまえば流石に心が折れる、黙るしか無くなった私は揺れる人力車を覆う布地をただ見つめる事しか出来なかった。

 

 

 「んっ?……。……あの、どうかしましたか?」

 

 そんな最中、人力車の動きが突如ゆっくりゆっくりと……止まった。止まるのは構わない、けれど動き出す気配もなく止まったままのそれに違和感を感じて訊ねた。

 しかし身をのりだし、布地を押し退けようとした私の行動を制するかのように俥夫さんは言ってきた。遠くに大きな熊のような影が見えたから止まっている、騒がないで欲しいと。

 

 

 そんな事を言われて喋れようか、動けようか。

 大人しく獣が去るのを待っていた。数分、十数分。喋らず、物音も立てないように。

 

 ……けれどいつまで経っても驚異が去ったとの声は掛からなかった。それどころか……物音一つ聞こえなくなかった。

 妙だ。おかしい。なんだか……嫌な予感がする。

 

 

 強く決意を固めて、世界を囲っていた布地に切れ目を入れるように押し退ける。

 

 

 

 そこには誰もおらず、近くに気配もない。ただ山中に放り出された無人の人力車に何も知らない私だけが座っていた。

 

 棄てられた、そう思った際に浮かんだのは混じり気の無い純粋な怒りだった。

 

 

 

 *

 

 

 

 「何!全く……もう!」

 

 何なの。目的も意図もわからない、何の嫌がらせなの。

 怒るという行為事態あまり無いからどう振る舞えば怒りを静められるか良くわからない。とにかく近くにある人力車を覆っている布地を力任せに引っ張り続けた。

 

 慣れない怒りの為か背中が膨れ上がりそうな程熱くなって、比例するように胸が押し潰されそうに苦しくなって……引く腕を止めて車内に寝転ぶよう転がる。

 ああ、もう怒る行為はなんて体力を削るのだろうか。八つ当たりなんて、本当に無意味。これから体力を使わないといけないのだからこんな事をしている場合ではない。

 

 

 起き上がり大きく深呼吸を何度かした後、ゆっくりと地面に降りる。踏んだ草が小さく鳴った。

 取り敢えず冷静に辺りを見渡す。一面木しかない森の中だけど、落ち着けば色んな事がわかる筈だから。

 

 

 「……参ったなぁ」

 

 そうして分かる、結構な絶望。山育ちだから山を一切舐めていない、だからこそ……怖さがわかる。

 理由不明で民話姥捨山のように棄てられた。としても、人力車を来た道で戻れると思っていた。けれど……振り返っても道そのものが無い。多少車輪に踏まれ倒れた草があるだけで、どうやら道の無い道を通ってきて人力車が通れる限界な所で棄てられたらしい。

 

 

 人の手が入っていない山は本当にまずい。下手な行動が何も出来ない。

 

 

 山で遭難した場合は下るのではなく登るのが良いと聞いた事がある。もしくはその場で助けを待つ、と。

 ただ……状況から考えて人手多く捜索されるのは絶望的。他の村人に助けを求めるのも危険かも、どこまでこの計画を知っているのかわからない。一族だけなのか、村ぐるみなのか。

 唯一助けてくれる可能性のある彼がこの状況を把握するのはいつになる事やら。

 

 川沿いを下っていけば何とかなるとも聞いた事はあるけれど……それは本当に良かったのかな。そもそも川のせせらぎの音はしないし我が家の近くにはあるけれど、そのような気配が全くしない。そもそも生えている木々が川沿いのものではない。

 

 

 今の私は山への生け贄、人柱のようなもの。人力車一台を取りに戻る事すら想定していないだろう……荒んだ呪い。田舎ってのはもう……本当に余所者に厳しい。信仰や伝承を否定するつもりはないけど巻き込まれるなら冗談じゃない。

 勿論狭い身内通しの監視と共有心の均等がなんらかで崩れれば被害はその比ではないだろうけど。

 

 

 「ん……仕方ない、か」

 

 困った。打つ手と私が打てる手とそこから導き出される手がどれもそんなに宜しくない。それでもただここでじっと立ち続けているのも宜しくない。

 もう夕方近い。日が沈んでしまえば気温が一気に下がり暖を取る手段がないのだから、冬が見えてきた今の季節では自殺行為になってしまう。

 

 意を決して進む決意をする。一応辿れるだけ辿ってそれからは無い道を進み、無事に下山出来ても先程出発した屋敷どころか村にあるどの家や人にも見付からないように駅に行かないといけない。

 そして何より、汽車の出発時間に間に合わないと……ああ。大変だなぁこれは。私の体力でどこまでやれるだろう、でもやらないと終わりだからやるしかない。

 

 

 ふうわりと微かに漂っていた金木犀の良い香りを深呼吸で吸い込む、この香りが事実ならば集落は思ったより近くかもしれない。

 少なくとも空が茜色に染まる前に場所が特定出来るものが見えれば良い。腕を回せない程太い大木の幹に苔むしていない箇所がある方角へと足を進める。

 

  

 

 歩きだして三十分程度経っただろうか。

 

 整備されていない山道を進むのはかなりの体力を使う。みるみる体力を奪ばわれて呼吸が苦しくなり、少し立ち止まり休んでから歩く。それを繰り返し進んでいた。

 その内に背の高い草や枝葉で細かな傷が剥き出しの手や顔についていた。後々変な草木に触れたって事で腫れ上がったりして荒れそう……そんな事を現実逃避とばかりに思っていた。

 

 

 少し前から見付けた獣道を進んでいた。何も指針が無い今、他に比べ歩きやすい道は助けでしかなく進む選択肢他無かったから。倒された草を踏み締めて作られた道は今までに無い早さで進めている。

 だからこそ、この道を作り通っている獣に鉢合わせてしまえば私に万一にも勝ち目はない。今となっては本当に俥夫かも怪しいけれど、彼が言っていた大きな獣は森にはいるだろうから。

 でもそんな危険を犯してでも通らずにはいられない。なにせそれほどに山の中では通りやすい道。

 

 

 前方に剥き出しの一本の腕が指を無数の足のように動かし、歩行しながら現れてもおかしくない程に。

 

 

 ………。………。

 

 

 「……え?」

 

 おかしくはなくとも、おかしい。声が漏れても仕方ない。だって、だって。

 人間の腕が、まるで()()()かのように堂々と自走していて……わたしの驚きの声が届いた時には耳があるかのように止まるのだから。

 

  

 目の前のそれが本当に理解出来なくて……ただ、固まってその目すらない"腕"と見合って数秒……腕、は。

 

 

 勢い良くこちらへ駆けてきた。

 

 

 




 ─ 中編に続く。


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参拾伍話 たわわに実った腕があるようです(中編)

 「  っ !」

 

 それ、を見たか見なかったか、との瞬間に私は反射的に声にならない悲鳴と共に後ろに駆け出していた。

 思いっきり、出せる限りの全速力の早さで。なにせ()()に捕まってはいけない。それを全身全霊、本能で感じていたのだから。

 

 けれどほんの十間(約18m)すら全速力で録に走れない私が駆け出して逃げ出した所で通常ならばどんな人でも追い付ける。例え、手そのものに見える新種の生き物だとしても動いているその早さなら何の問題もなく追い付かれる筈だった。

 

 

 ……十間どころか、九間間近で私は息切れと異常な脈動で倒れるように近くの大木に倒れ突っ込んだ。そのまま地面に転がるように倒れながらも追い掛けて来ているだろう謎の"腕"を見る為に振り返り……

 

 

 ……同じく八間手前で倒れ込んでいる腕を見付ける。その腕一本を体に見立てるならば胴体どころか末端のどこも微動だにすらしない腕が、そこに倒れていた。

 

 「…は、…ぁッ……?」

 

 何も言えない。目の前に起きている現実に理解が及んでいない事もあるけれど、そもそもいきなり走り出してしまったその運動で脈が異常な程脈打ち、呼吸すらままならない程苦しいから。

 ドクドク打つ鼓動がうるさい。羽織一枚着ていても寒い筈なのに体を震えさせる程の嫌な汗が滲み出てくる。

 

 

 結局その行動によるツケ、が収まったのは倒れ込んでからたっぷりと数分後の事だった。改めて大きく息を吐いて吸って吐いて……目の前に広がる理解しがたい光景を目にいれる事にした。

 

 ……まずどういう事?そもそも追いかけられた事もそうだけど、なぜその追いかけてきた側が途中で倒れているの?

 近付く事は迷った。倒れている事はこけおどしで本当は元気で様子を伺っているだけではないかと。しかし……放っておいて行動するのもまた危険だった。背を向けた途端……なんて、有り得ないとはいえないのだから。

 

 結局私は近くに落ちていた木の枝を手に持ち、恐る恐るそれに近付いた。

 微動だにしないそれを木の枝でつき、身の安全を確かめる。そうして思う……これは、何なのだろう。鬼ではない、まだ日の光は差している。

 

 目の前に倒れているそれはどこからどう見ても……人間の腕。太さや大きさから考えて男性の腕、に見える……動いている所を見ていなければ生物とは思わなかっただろう。

 私の知らない新種の生物なのかな、目も口もあるように見えないけれど……

 

 まさかこれが噂に聞いていたシガミツキ……なのかな?ならばこれに素手で触れるのは宜しくない。触れば祟られる。

 動いて追い掛けてくるとは知らなかった。シガミツキは木に絡み付いている呪いだと聞いていたから。私の血が繋がっているかすら怪しい遠い先祖が犯した罪の証。

 

 けれど……いや、何はともあれさっさと離れるのが吉だろう。

 

 そう思い、倒れ込んでいる腕から後退りをして離れる。しかし参った、向かおうとしていた方角がこの腕がいた方角なのだかこれからどうす……

 

 

 「ッ、いだ!?」

 

 そう考えていた隙間を縫うよう視界が乱暴に入れ替わるように揺れ動いた。それに伴う身体中の、主に背中や腰を強く打ち付けたような激痛が走り……私は空を見上げていた。

 

 

 何が起きたのかと理解する前に、ズリズリと移動する景色と音とそれに伴う痛みで背を打ち付けたのは事実で、そのまま引き摺られている事を理解した。

 抵抗なんて意味がない、掴んで引き摺るくらいの力を持つ相手から逃れれる筋力なんてないのだから。そして偶然に見えたそれは、案の定私の足を掴んでいる二本の腕だった。氷のように、冷たい。

 

 それらが逃げようとしていた方向に私を引き摺っている。逃げても無駄だった、いつの間にか囲まれていた。違う囲まれる場所に棄てられたんだ。

 

 ……ああ、そうか。これへの生け贄が目的…!

 

 

 「ッ、冗談、じゃない!」

 

 引っ張られる事で真っ直ぐに伸びていた膝を曲げ、腕になんとか手が届く距離まで近付く。そしてそのまま思いっきり、力一杯右手を振りかぶり手の甲部分に叩き込む。 

 抵抗せず大人しく引き摺られていた為に油断していたのかそれを想定する頭がないのか、腕は大人しく私の袖口に隠された抵抗を直にくらった痛みの為か離した。一本無くなった事で引き摺るのも止まり、その隙にもう一回残りの腕にも同等の抵抗を。

 

 自由になったのを肌で確認した瞬間に無我夢中に走り出す。またすぐに潰れるだろうけど仕方ない、背に腹は代えられない。

 希望を託してあの腕も私と同じように走ればすぐに潰れると願うしかない。それも私より早く潰れるという憶測込みで。

 

 

 倒れ込みそうになりながら、右腕を体に抱き込んで走り始める。一応袖口で直接触れないようにしたと思うけど、大丈夫だろうか。わからない。

 それにしても……万一に備えて袖口に一本の針を用意していて良かった。刺す事になる相手は……こんなのを想定はしていなかったけど悪意を辿れば同じだ。

 自分に刺さらないよう利き腕じゃない方にしていたし、日常にあるものだからどうとでも言い訳出来ると考えたけど……まさかそれ以上の言い訳が効かない立場に置かれるなんて。

 

 「は、……ぅぐッ!?」

 

 どうすれば逃げれるかなんてわからない。そもそもどこに逃げれば良いのかもわからない。

 けれどまさか二間もいかない間に新たな腕が複数現れ、抱き込むような形で押し倒され拘束されるなんて思う間もなかった。

 ……先程刺した奴なのか別なのかはわからない、けれど四本になっている以上、もうどうしようもなくて……

 

 

 走った事での息切れの苦しさで録な抵抗も出来ず、そのまま先程引き摺られていた方向へ再び引き摺られていく。身体中が傷だらけ、汚れまみれになる。

 鋭い石などで傷付けられ、真新しい傷に泥や土が入ってかなり痛い。早く手当てをしないと傷が残るだろうけど……そんな事を気にかけている暇なんてない。

 どう考えてもこのままでは。関わりの薄い私をわざわざ呼び寄せ、差し出す理由なんて。

 

 

 「!……ぅ…!」

 

 木々を掻き分ける如く、少し開けた場所に獲物を目の前にした生物が大口を開けているかのような威圧感のある大木が見えてきた。

 間違いなくあれが到着地点で、この腕達の本元。なにせその四間二尺(約8m)程度の太さがある黒と灰を混ぜたようなまだらの幹から伸びた黒い葉をつけた枝に混ざって。

 

 

 何本も、何十本もある。人間の、動物の腕が。

 それらが僅かな風に靡くように、意思を持っているように蠢いていたのだから。

 

 

 それらが目視で確認出来た瞬間、激臭が鼻を突いた。なぜここまで気付けなかったのかと思える胃液が逆流する程の腐敗たっぷりの悪臭が辺り一面に漂っている。

 木の根本が見えた瞬間悪臭の納得と私の結末がわかってしまった。

 

 

 

 

 ** SCP-2988 **

 

 

 

 

 引き摺っていた腕に新しく何本も加わった腕が力を合わせ大木へ向かって私を放り投げる。衝撃を和らげる術も受け身の取り方も知らない私では、思い切りぶつかった痛みをただ堪えるしかない。

 漏れた苦痛の声とほぼ同時に木の枝が大きくしなり、私を落ちないように受け取り、しっかり幹に固定するように何本もの腕で押さえ付けられる。

 

 まるで十字のように手足を、胴を、顔すらがっちりと掴まれ幹に押し付けられている。微動だにも出来ず、唯一動かせるのは指先と目線だけ。それすら何も解決にもならない微々なもの。

 そんな僅かな視線の移動ですら見える木の根本に散らばる幹や草土を赤黒く染める悲惨な現場。

 

 

 それは地面の上に無造作にばら蒔かれたように転がる着物の端切れと、恐らく人体であったようなもの。

 

 グズグズに溶けた肉片を白と茶色に蠢く自然物に分解され続けているものから、永い年月の末に白骨化しているものまで……ほんの数秒見ただけでも十を上回る数とわかる。

 人だけでそれだけの数が転がり、更に広い範囲と動物を加えれば数の把握は容易じゃない。

 

 それは今まで見たどんな景色にも劣らない惨劇……に見えるけど、私の目線で見るからそうなのかも知れない。

 それらの生命が終わった物達全て……"腕"が無かったのだから。

 

 

 「ぃ、ぐッ!?」

 

 腕を生やした木がある場所へ、腕そのもの が獲物を連れてきた。そして足元には腕のない遺体が無数。

 私だってここまでお膳立てされて理解出来ない愚か者ではない。

 

 顔を掴んでいた腕が握り潰さんとばかりに指で両頬を締め付けてくる。そのあまりの強さに……あ、ああ。違う。

 潰そうとしてるんじゃなく、口を、勝手に開ける形に無理矢理変えられている!手足も体も締め付けて痛いのに、顎の形を変えんとばかりの手が、何より力強くて。

 

 「…っか、は…!」

 

 幹が大きくしなり黒い葉の隙間から黒色の果実を掴んだ腕が現れ、それを握り潰し滴る橙色の果肉と果汁を砕かれんとばかりの力で強制的に開けられた口に流し込まれた。

 べちゃべちゃと降り注いできた果汁は顔を汚し、その内の何割かがどろりととした感触のまま口の中に入り、喉を伝って口内へと入って行く。

 

 

 飲み込む選択肢もないまま体内に入れられたそれの味なんてわからない、わかる筈もない。だって、こんな状況に置かれるなんて……初めてで、この上ない動揺をするしかないのだから。

 涙が勝手に流れてくる。何で?行冥様でもないのに何でこんなにはらはらと涙を流しているの?悔しいとか怖いとか、何もわかっていないのに。

 体が痙攣しているかのように震えているのは……この果実のせいなの?それとも怯えて、 震えて、凍えて、揺れているからなの?……視界が涙関係なく、滲んでいく。

 

 

 よろしくない、本当にまずい。このままではこの大木の思惑通りに押し潰されてしまう。それだけは、良い筈がない!

 

 

 「……!……ぁ、……ぅぁ……」

 

 声を出そうとした。声が届く距離に誰かがいるとは思えなかったけれど、叫ばずにはいられなかった。憤怒や絶望、内なる言葉にならない叫びを口にしようとして……

 漏れたのは数尺先にも届かない、弱々しい震えた掠れ声だけだった。

 

 その現状に驚き口にしようとした罵声の言葉すら何にもならずに「ぁ」や「ぅ、ぃ」等の小さな単語だけが喉から漏れた。

 喉が……いや、喉だけではなく舌すら録に扱えない程震えている状態で言葉になる筈が無かった。これは、なんだろう。

 

 先程無理矢理口に含まされ飲まされた、この木の果実のせいだろうか。

 腕は強く強く私を押さえ、込んで。手足は当然に、口や喉が痺れて、動かず、頭が……動かさないといけない筈の思考が、ぼんやりして……動かない。

 

 

 ……ぁ、あ。

 

 ああ、酩酊しているかのように、視界が揺らぐ。体に力を入れれない。抵抗が無駄とか、そんな話では、なく、力が入らない……

 遠くの、近くの、木々の赤や黄や緑や茶が、ゆらゆらと動いて……

 笑う?笑っている?誰?何?誰か私を呼んで、引っ張っている?何これ夢?まさか、幻覚?

 

 こ、れは、なに?

 

 

 木が、私の右腕を引っ張りあげて枝にある何本もの腕を押さえ込み、引っ張っている。袖口に触っているのは少し前に刺した針の確認だろうか。記憶の共有って腕同士でも出来てるのかな。それとも大木が判断を?

 

 ん?いや……あれ、少し前って……いつの事だっけ?

 

 

 ギチギチと、ギリガリギリと、聞いた事もないような音が右耳の近くからしている。これ、は。腕が……肩辺りから、ねじきろうとされている、のだろうか。

 でもねじきろうだなんて、これは何の音?物凄く近い……距離、で。

 

 

 ん……ああ、そうか。これは私の肩からしている音。

 

 私の右腕を無理矢理に、力任せに引きちぎろうとねじってねじって引っ張っている音だ。

 あれ腕って千切れるものだっけ?ねじれば取れるものだっけ?でもこれだけの数の腕が必死に取ろうと頑張っているのだからきっと取れるのだろう。

 だって、私の腕を必死に……。……ぁ、れ?

 

 

 何で私は、腕を取られるの?

 

 

 「  ぁ  」

 

 

 ぶちり、と何かが切れた音と共に肉を潰すようなブチュチュと醜い音が耳に響いた。何もわからずとも横を見れば少しはわかる。

 

 頑張ってはいたけど、腕は綺麗にねじきれなかった。筋肉か皮下の筋か知らないけど何本もの繋がった赤黒く時折黄色く浅黒い……それが私の肩から離されそうになっていた腕へ繋がっていたから。

 それらが引っ張られ、引きちぎられた音がした。そして掴んでいる腕は残って繋がっているそれをも再び力を入れて、思い切り引きちぎった。

 どぷんどぷんと腕からせき止めていた水量が決壊したかの如く血が流れ落ちている。そういえば木の幹や根本は赤黒かったような。この色だったのか、ああ納得。

 

 

 今の今さっきまで自分の意思で操っていた腕がねじりきられ、た。

 その腕が私から離れて……この、大木の、枝へと運ばれて、そして何本もの腕の中へと、入れられ、て。

 ……。くたりと羽織の袖口が落ちている。これは?……ああ、残念、なのか、な?

 

 痛みもない、哀れみも同情も何もない。思おうにも何故か思えない。ただただぼんやりと意識が空中を漂っている。

 逆側の左腕を同じように、何本もの腕がねじきらんとばかりに力を込め始めていても……もう、何も思えなかった。

 

 

 もう一本の腕もまた、引きちぎられる。引きちぎられようとされている。そしてまた、この大木の枝に紛れる腕の一本となる。

 そして腕を失った私の末路は、決まっている。

 木の根本にひしめくように重なっている、何体、十何体もの遺体への一つへと。

 

 

 ギチギチと腕が、無いにも等しい薄い筋肉が、皮膚が鳴って……そして、そして。

 

 

 

 

 「南無阿弥陀仏ッ!」

 

 

 聞き覚えのある低音の愛しい声がした。

 




 ─ 後編に続く。


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参拾伍話 たわわに実った腕があるようです(後編)

因果応報(いんがおうほう) 意味:人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。 もと仏教語。

自業自得(じごうじとく) 意味:自分の行いの報いを自分が受けること。一般には悪い報いを受ける場合に用いる。もと仏教語。

改邪帰正(かいじゃきせい) 意味:悪い行いをやめて、正しいことをするように改心すること。


 

 それと同時に近くの木から生えている腕や幹を破壊する程の激しい衝撃が私を包み込んだ。音と衝撃が世界を破壊し尽くしたのか、抱え込んでいた腕は力無く萎れ、私はそのまま宙に放り出される。

 

 重力そのまま地面に叩き付けられる筈の私は、何故だかその前に。地面に落ちる前に、彼……行冥様に受け止められ、そして、抱き寄せられていた。地面には、叩きつけられなかった。

 

 

 ……あれ。なんだろう、これ。何が起きてるんだろう。

 

 

 目の前に彼がいる。

 

 ……彼がいる?本当に?彼はこんなに、揺れる人だったろうか。彼はもっとどっしりと地面に立っていなかっただろうか。

 ……違う、私の視界が、意識が揺れているんだ。彼は揺れていない。なのにくらくらと、なにもわからない。

 

 

 「嗚呼!なんという事だ、何故このような事に…!」

 

 私は、きっと私は押し付けるよう抱え込んでいた腕が自身の部分を破壊された事により木の幹から私を捨てられた。腕が。そして今度は放り出された先で彼……行冥様に抱えられている。

 彼の体に染み込むかのように低い声色と共にこの太い二本の腕が……木と同じく、いや寧ろそれ以上もっと強く抵抗をしても全く受け付けないだろう程に強く抱いていた。それは力だけでは無くて……まあ、抵抗なんてする気も気力も、無いけれど。

 

 

 ……あ、れ?……え。本当に?本当に彼なの?

 前に。どれくらい前かもわからない前に助けに来てほしいと願った、彼?

 

 彼がなぜここにいるの?何で今、私を、抱いて、いる?

 ぐるぐると回る視界の中にいる彼は、手際よく腕が、ぐるぐると肩辺りから布地の羽織をギチギチに巻き付けて。意味がわからないのに目があった彼は私に、穏やかに焦った顔付きと口元で微笑んだ。くれた。笑って。

 

 景色が物凄く早くに過ぎている。動いて、遠くに。彼の指が、口に、喉に触れて。何?

 

 

 私は……。彼は。寒い、視界が揺れて、凍えそうになって、でも、来てくれた。

 

 

 ……あ、あ。そうだ、確かに願った。彼が、来てくれる、事を。

 

 

 「……りょ……、しゃ……」

 

 掛けようとした声は三日寝込んだ後の声色よりも酷く掠れ、舌先が何も動かずに言葉を発した。

 そんな言葉にも関わらず揺れて歪んでいる視界の中の彼は微笑み、私を抱く腕を強めてくれた。

 

 傷み?痛み?吐き気、酩酊してる、みたいで。

 あ、あ。

 

 

 

 そこで私の意識は、弾け飛んだ。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 行方知れずとなったまい子を探していた私があの場に辿り着け、なんとか間一髪間に合ったのはただ単に()()()()()()他ないだろう。

 

 

 

 私は彼女に対し宣言した通りに行わねばならない出来事全てを無事に、そして後片付けまで含めて全てを終わらせてから彼女がいるだろう村へと向かった。やはりどうしても、どれだけ急ごうとも時間は掛かってしまった。それでも彼女は私を責めないだろう。

 

 だから何事も無かったと答えて欲しかった。あれだけ悪意に満ちた出迎えだったとしてもそれに晒されず、何とか穏やかに柔らかく微笑む声色で返事を返して欲しい。そう、願わずにはいられなかった。

 

 そうして目的地に到着したが……日が暮れる時間帯や彼女の性格から考えて、一人のんびりと滞在も観光もせず汽車で戻るだろうまい子と入れ違いになってしまったやもしれぬ。そう考え彼女が招かれた目的地の屋敷に向かい、訊ねた。

 今彼女は何処にいるのかと。帰ったと言うならばいつ頃帰宅したのかと。

 

 

 ……そんな私の何気無い、ごく普通の質問に対して村人は。

 

 

 そんな者は知らない。そもそも訪れても招いてさえいないと言葉を紡がれたその瞬間、会話どころか対話すら不可能だと判別するしかなかった。

 

 手掛かり処か、悪意しか紡がない者達と会話を続けはしなかった。嗚呼、なんという事なのだろうか、これ以上言葉を紡ぐ必要性が見付けられなかったのだから。

 隠れるように物陰にいた、我が家を訪ねてきた男性を()()()()()て問う。腰を抜かしたという彼を引っ張りあげ立たせ、手の中で数珠を鳴らして。

 

 水に濡れた声で彼は教えてくれた、大まかの居場所を。理由や目的は何も一つ教えてはくれずに。

 崩れ落ちる彼そのまま、出せる限りの全速力で向かう。その場から移動して見つけ出せない可能性を考慮し、山全てを隈無く洗い出すつもりで。

 

 

 

 そして、発見した。

 

 辺り一面を腐敗尽くしたかのような閉じられた空間内に、むせ返る程の真新しい血生臭いを振り撒き、今にも命の灯火を消さんとばかりの愛しい……それを。

 

 どういった理由でかはわからないがまい子に巻き付いていた木の幹や枝を彼女に当たらないよう破壊し、放り出されたまい子を受け止めた。

 

 意識が朦朧としている。呂律も回っていない、それは流した血液の量のせいでないようだ。どうにも妙な反応で……いや、それより。

 

 傷口に触れないようにしようにも……絶え絶えな息が届きそうな距離にきて、触れてわかる。触れる肌部分で傷がない箇所がない。大きな、そして小さな傷が至るところについている。

 そして極めつけは……右腕の切断。それも、音や感覚からして鋭い刃物で一刀両断されたものではなく……

 

 何が……起きたのだ、私が目を離した間に。

 

 

 そして四肢の一本を失った事で流した血の量が本当に良からぬ事でしかない、まずい。呼吸を使えぬ一般より弱き体では、触れている今でさえ刻一刻と体温が冷えていくのを感じる。 

 まい子から止めどなく流れる生暖かい血を止める為に、はためく血塗られた右袖部分を引きちぎり、神経等を痛め付けずとも出血を少なくするよう締め付けるように強く巻き付け結ぶ。

 そしてそのまま、隊服の胸元にある衣嚢(いのう(ポケット))から例の薬を取り出し水気も何もないまま彼女の喉元へ突っ込む。いきなりの異物である私の指を押し返す抵抗すらもなく、薬は喉元へと無事に放り投げられ飲み込まれていった。

 

 これで、一応は……

 

 

 破壊した部分とはまた違う、別箇所の()()()であろう部分が植物とは思えない程の動きで飛びかかってくる。そんな事が出来る植物がいるのか、など今はどうでも良い。

 

 その枝を飛び退いて避け、彼女を抱えてその場を走り去る。後ろに先程の木々の気配を感じてはいたが、早い段階でその気配は消え去った。どうやら枝にとっての神木から離れれる距離が取れるのはそう遠くはないようだ。

 せいぜい……うむ、十七間(約30m)程だろうか。走り抜けるならばそう遠い距離ではないが……彼女にとっては、そうだろうな。

 

 

 そうして私達は山中の道なき道を進み、どうにか湧水の流れる水源へと辿り着いた。水量もさほどない微かな音を聞き分けて見付けれたのは本当に幸運他無いだろう。

 流るる僅かな水面付近に静かに座り、手の中で身動ぎ一つせず大人しい彼女に触れる。呼吸はほんの僅かではあるが穏やかになっており……半ば強引の無理矢理に飲ませた薬が効いているのだろう。

 

 「……まい子、今から水を口元へと運ぶ。大丈夫だ、ゆっくりで良いから少しずつ口に含みなさい」

 

 それでも気を逸らしてしまえば聞こえなくなりそうな程弱々しい呼吸音には代わり無い。一刻を争う事態だったとはいえ、指を無理に奥へと突っ込んでしまったのは本当に申し訳ない。

 喉元を傷付けてしまっても飲ませた薬の効果で治るだろう……だがそういうものでもないだろう。

 

 割りきれないそれを仕方なく黙殺する。私の心境などどうでも良い。懇々と湧き出る触れた皮膚が喜ぶ程の冷たく心地よい水を手のひらに掬い、彼女の口元へと運ぶ。

 

 肌に感じる感覚、そして身動ぎや呼吸音の変化から彼女は恐らく目を覚ましている。それも少し前から。

 だがどうやら意識がハッキリとしていないのだろう。言葉を発しない口元が少しだけ開いて閉じてを繰り返していた。

 

 弱った体を癒す為に。起きてはいるもののはっきりせず停滞する意識、それをしっかりさせる為に流るる冷たい水を口に少しだけ唇に触れさせた後ゆっくりと流し込む。

 

 

 それがゆったりと流れ込み、口の中へと含まれ彼女が飲み込まんと少し身動ぎをしたのを確認し、手のひらの水を辺りに流し捨てる。だが。

 

 「……ッ、か、はっ…!」

 

 まい子が苦しげに水に吐き出した。自身ではどうしようもないとばかりに何度も噎せ返っている。……今の弱りきった彼女一人では穏やかな流れの無い水すら飲み込めないのを確認した後。

 再び水を手のひらに掬い、今度は私自身でそれを口に含んだ。そしてそのまま手の中にいる、苦しげに大きく呼吸を繰り返している彼女が落ち着くのを少し待った後に唇を重ねた。

 そして、そのまま。喉元の渇きと傷付きを癒すように。喉元の動きを確認し……一度上手くいけば、もう一度とそれを数回小分けにして繰り返す。

 

 

 そうしている内に緩やかに時間は経っていた、包み込むような僅かなる明かりが薄らいで来たという事はもう間も無く日の入りなのだろう。

 腕の中のまい子は穏やかに呼吸を繰り返し、時折単語ではあるが話し掛けてこれるまで回復をしていた。数回まだ休んでいなさいと諌めたが彼女も不安だったのだろう、様々な原因で震える左手を伸ばしてきた。

 血の気の薄い、冷たい手に取り体の負担にならぬよう抱き寄せればゆっくりと口を閉じ、そのまま凭れ来る。

 

 危険な峠が越えたのを確信し、無意識に溜めていた息を深く深く吐き出す。呼吸に乱れは無くとも、根深いところで精神は揺さぶられずにはいられなかったのだから。

 手の届かぬ場所で……あのような事になれば。もう少し早くどうにか出来ていたのではないかと。そもそも、やはりあの時に……

 

 

 「ぎょ、めいさ、ま」

 

 思案の闇に飛び込みかけていた私を引っ張りあげたのは手の中の小さな弱々しい声だった。

 

 「む?……無理しなくて良い。まだ、休んでいたらどうだ」

 「へい、きで……それよ、りなにより、の、しんしゃ、を」

 「……嗚呼。ああ。有り難う、そしてすまない。君を腕にしているのに別の思索をしてしまった」

 

 途切れ途切れの、流るる水音にかき消えてしまいそうな弱々しい声を聞く為に屈んだ私の耳に寄せるように彼女は囁いた。 

 深謝、それはつまり。……今は私は細い、今は一本しかない腕に思考の闇から引き上げられた。

 

 ……嗚呼、なんという事だ。南無阿弥陀仏。そうだ。意味の無い深みの思考の渦に飲まれてはいけない。

 後悔しない日は無くとも、同じ失態を繰り返さないようにするしかないのだから。

 

 

 礼の言葉に彼女は咳き込むような声色で笑い、そして数回そのまま本当に咳き込んだ。日が落ちてきた事で気温も冷えてきた、もう動いても支障はないだろうと判断しゆっくりとした早さで立ち上がる。

 

 「まい子。今から家へと戻る為に動く、出来る限りの負担をかけないようにはするが……」

 「は、い。おねが……しま、す」

 

 そこまで言葉を紡いだ後、疲労たっぷりの息を彼女は吐いた。それは苦痛混じりではあれどもどちらかといえば体の重さに耐えかねているかのような……

 やはり妙だ、腕一本がかなりの根元から無くなっているというのにその怪我の痛みをほとんど感じていないように思える。一応痛みを与えないよう本に気を付けて触れてはいるが、それでも。

 今でさえ、体全体が脱力しているかのように力が抜けているようだ。彼女を数え切れない程抱き上げてはいるが、どれだけ具合が悪かったとしても……このように筋肉そのものの力が抜けた事はなかった。

 

 この様子ではしばらくの間、そう家へと辿り着いても立つのは愚か座る事すら儘ならないだろう。

 あの薬は人間では決して有り得ない消失した腕を元には戻すが、流した血液を瞬時に復活させるはしない。いずれもゆっくりと苦痛と時間を掛けて治療する。

 

 この……謎の脱力を治せるのはいつになるだうか。

 ……まい子の身に本当に何があったのか、訊ねれるのも相当後になりそうだ。

 

 

 彼女の頬から口に向かって掛かっている細い髪の毛を払いのけ、指先に何気なく触れた傷跡を少し撫で辿り……歩みを進めた。

 

 「む?どうした」

 

 そうして進む内に首元の数珠に何かが軽く触れた感覚がした。彼女が精一杯力の抜けた腕を持ち上げ、私を呼んでいるのだろう。

 進む足の速度を少し緩め、彼女の口元に耳を寄せて重りがくくりつけられたような小さな言葉を聴く。

 

 「……む、ら…」

 

 発せられた言葉から、言いたい事を即座に理解する。

 

 「……嗚呼、当然に立ち寄る気は無い。私自身の動向も散策されているやもしれぬ、駅にも寄らず直帰する」

 「……ぅ…」

 「うむ、そうだな。自宅を知られているのだから、再び何かしらの接触をしてくる事も想定しておかねば」

 

 村人の目的も、想定していた結末も想像で補う他無い。しかし……どう甘く見たとしても、彼女に対して行った行為が正当化される訳ではない。

 配偶者……家族である私が助けに来る事は想定していたとしても、無事にこうして命あるまま助けれる事は想定も想像もしていないだろう。まい子に危害を加え傷つけていた()()()から助けれたのは……偶然辿り着け助け出せる力を持っていた、私達の幸運なのだから。

 

 

 私だけ駅に向かい、去り行く姿を村の誰かに確認させればそれで終わるだろう。これだけ大掛かりならば、ほぼほぼ村ぐるみでの犯行と考えて良いのだからどこかしらから伝わるだろう。

 彼女を見付けれず、無様に帰ったと。死刑囚となった……私の名声など最早どうでもいいものなのだから。それで済むのならそれで良い。

 

 しかしこんなに弱りきっている彼女を何処かに置いていくなど、出来ない。村全体が信用のならない場所で一人……放っておけない。

 身一つで移動し戻る事は可能だ。寒さに震える彼女を暖めるよう抱え、無事に……その為には。

 

 

 考えねば。共に姿が見えなくなり、普通ならば命あるままは有り得ない私達が、無事に戻り元通り過ごせる方法を。誰かが確認しにでも来た場合どう対処をしようか。そもそも私がいない、まい子が一人の場面では……む?

 

 「どうした?」

 

 先程と同じように彼女が左手を上げた。しかし数珠まで届かず胸元にパタリと力なく当たる。それに構わずまい子は言葉を続けた。

 

 「……、……で、すよ」

 「……何だと?」

 

 か弱い小さな言葉はこう聞こえた。彼女自身は償っ……大丈夫、だと。そして続いた言葉は……こう、聞こえた。それは四字熟語、で。……。

 ……どうしてそんな、事を?改めて訊ねても返事はなく、弱々しく息を吐くだけだった。

 

 

 今の言葉が力を振り絞った最後の言葉だったのだろう。この後数回訊ねても言葉にならない言葉でしかなく、その内に……穏やかな吐息へと変わっていった。

 

 

 ……彼女の事を全てを理解しているとは思わない。事情も生い立ちも知識として知ってはいるが、それでも彼女自身が感じた感覚そのまま味わう事も……振る舞う事も出来はしない。

 

 何故このような事になったのか。何故あのような存在がいるのか。それらは……彼女が知る事なのだろうか、語られてわかる事なのだろうか。

 納得は……するのだろうか。このもやつく心情が。

 

 

 ……彼女の発した苦々しい四字熟語が、頭を駆け巡る。彼女が紡いだ言葉が真実なのか、今の私には判断出来ない。

 

 

 人間は儚く、弱く、尊い。

 

 しかし悪意を持ち他者を貶め傷付けるも……人間だ。

 

 

 ……南無、南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……

 

 

 

 

 

 

 










 SCP-2988 果実喰らいの過誤

 オブジェクトクラス:Euclid(ちょっとヤバい)

 SCP-2988は北アメリカ・[削除済み]に存在する1本の木。外見はアメリカポプラに似ているけれど、黒色の葉・黒色から灰色のまだら模様の幹を持ち、普通アメリカポプラにない皮は黒色、果肉はオレンジ色果実を実らす。SCP-2988は高さ26mで幅はそれぞれ8m。果汁は麻酔・催眠作用を持ち、幻覚・めまい・吐き気を感じた後、各部のしびれや運動障害に見舞われる。
 幹には人間および獣の腕が生えており、半径4m以内に立ち入った人間を腕で拘束し果汁を飲ませ動けなくしたあと両腕を引きちぎり、本体を地面に叩きつけ殺して自身の栄養にする。腕はSCP-2988の腕の中の一本になる。
 SCP-2988の腕は、自然に離れ離れた場所に自身を植えそこから新たなSCP-2988になる。


 これ滅茶苦茶長い物語の中の一つのSCPオブジェクトなので、興味がある人は調べてください。



SCP-2988 http://www.scp-wiki.net/scp-2988

著者: OZ Ouroboros様 

この作品はCC BY-SA 3.0ライセンスの下に公開されています。




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