岸辺露伴 悪鬼を滅する (北雪夜凪)
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プロローグ……閉架書庫の「善逸伝」

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 ま……知ってるヤツが多かろーが少なかろうがどうでもいいことだが。

 

 ぼくの名は「岸辺露伴」。マンガ家だ。

 

 以前ぼくは「ピンクダークの少年」という作品を少年ジャンプに連載していたことがあり───あの傑作を読んでないからって編集部に電話するのはやめてくれ───その連載にひと段落が着いたタイミングで、集英社の編集から「侍」をテーマにした短編執筆を依頼された。

 

 そして今、ぼくの目の前にある原稿こそがその依頼を受けて描いた作品……日本の大正時代を舞台とした、人を喰らう鬼とそれを滅さんとする鬼狩りの侍たちとの死闘を描く剣戟奇譚だ。

 

 この話の設定を聞いて、ちょっとした違和感を感じた読者も少なくないだろう。ま、無理もない……究極の「リアリティ」を追及するこのぼくが、作品に想像上の存在とされている「鬼」を登場させるだけでなく、明治時代に廃刀令によって刀を奪われてしまった彼ら侍の物語をよりによってその一つ先の「大正時代」で紡ごうとしている……とてもじゃあないが、一聞しただけではこの作品が最高の「リアリティ」に溢れているとは思えないはずだ。

 

 だが、信じて欲しい。この作品は全て「実話」(ノンフィクション)

 

 この岸辺露伴が「実際にこの身で体験した」出来事なのだ。

 

 おいおい、なんだよ。まるで近所のファミレスで怪しいビジネスマンにマルチ商法の勧誘を受けている時にするような、「そんな絵に描いたような夢物語に私は騙されないぞ」って感じの顔は───いいだろう。そこまで疑っているなら、今これを見ている君にその信じられないような体験を語って聞かせてやろうじゃあないか。

 

 題名は……そうだな……「悪鬼滅殺」? 「鬼殺の流」? いいや、どれも違うな。このエピソードにぴったりな言葉は、そう───

 

 「鬼滅の刃」。それが今から話す誇り高き人々の物語だ。

 

 △▼△▼△▼△

 

 

「<侍>についての文献を探してるんだ」

 

 上塗りされたニスが所々剝がれ落ちてすっかり古ぼけてしまった木製のカウンターにもたれかかりながら、岸辺露伴はそう言った。

 

 時刻は午前十一時半、場所はS市のとある図書館。県内随一の蔵書数を誇るこの場所に訪れた露伴の目的は、依頼された<侍>をテーマにした短編執筆のための取材だった。

 声をかけられた司書の女性は手元のコンピューターから視線を上げると、にこやかに微笑んだ。

 

「あら、露伴先生」

 

 その反応からも分かる通り、司書と露伴は顔見知りだ。露伴は仕事柄、取材のために普段からよくこの図書館を訪れているのだ。

 露伴より一回りほど上の年齢であろう彼女の顔はやや濃い目の化粧で上手く若作りされていたが、対照的に首元に深く刻まれたシワには隠し切れない年齢相応の衰えが浮かんでいた。

 

「それなら向こうの歴史コーナーにあると思いますよ。あそこにある十四番の列の棚です」

 

 この図書館では、医学書なら一番の列にある棚、ビジネス書なら五番の列にある棚……といった風にジャンル別に本が棚へ分けられ、それぞれ列ごとに番号が振られて整頓されている。天上から吊り下げられている「⑭ 歴史」と書かれたプラカードを指し示しながら、司書はそう答えた。

 しかしその言葉を聞いた露伴は不満気に首を横に二度振った。どうやら露伴が司書に求めていた答えは、そういうことではないらしかった。

 

「そんな初歩的なことは分かっているさ。ぼくがここを初めて利用するわけじゃあないってことは君も知っているだろう?」

「ええ、もちろん」

「あそこに並んでいる本ではダメだから、ぼくは相談しているんだよ。あそこに並んでいるのはどれも<侍>という過去の存在を<現代人>というクッションが解釈し解説した、ページの量だけ多くて中身は全くの薄っぺらなつまらない本ばかりだ。読めば表層的な知識なら得ることができるかもしれないが、それを元に描いた作品には深み(リアリティ)が生まれない。ぼくが自分の作品に求めるだけの深み(リアリティ)を実現するためには、<侍>という存在が発する息づかいをぼく自身が直接感じなくちゃあいけないんだ。必要なのは彼ら<侍>自身の言葉……つまりぼくが探しているのは、何百年と前に彼らが自分の手で書き記したような古い文献さ」

 

 どこまでもひねくれた真っ直ぐな目で自分を見つめる露伴の言葉は、自然と司書にその言外に隠された意図を探させていた。直角に曲げられた腕を土台にして頬杖を突きながら司書はしばらく黙って考えこんでいたが、ほどなくして閑散とした館内に彼女が鳴らしたポンと手を叩く甲高い音が響き渡った。

 

「閉架書庫、ですか」

「その通り」

 

 閉架書庫とは、図書館内にある高額な本や珍しい本を管理している特別な書庫のことだ。貴重な本たちを保護するために厳重な管理体制が敷かれており、原則として一般利用者がその書架の間を歩くことはできない。閉架書庫内にある文献を閲覧するためには、職員に請求して書庫からそれを取り出してもらわなくてはならない……そういうルールになっている。

 

 露伴はポケットから小さなメモを取り出し、カウンターへと差し出した。古紙をリサイクルして作られているのであろう若干黄みがかったその紙の上には、五、六冊ほどの文献の名前が走り書きでリストアップされていた。

 

「取り出す文献たちはこのメモの通りで頼むよ」

 

 ずり落ちた眼鏡をかけ直しながら、露伴に渡されたメモと手元のコンピューターとを交互に見つめる司書。

 

「困りましたねェ……」

「<困った>? どういうことだい? まさか僕より先にこの稀覯本たちを軒並み借り漁ったヤツがいて、もうこの図書館には影も形もないなんてことじゃあないだろうね?」

「いえ、そういうわけではないんですけどォ……」

 

 語尾が間延びした司書の言葉はどうも歯切れが悪い。

 

「実はこれからちょっとした外回りの仕事がありましてねェ……」

「おいおいおいおいおいおい、まるで営業マンみたいなことを言うじゃあないか。本と向き合うのが仕事の君に、どうして<外回り>なんてものが発生するんだ」

「ですよねェ……私もびっくりなんですよねェ……」

「……まあいいさ。なら他の職員に頼もう」

「それがですねェ……見ての通り、今この図書館にいる職員は私一人だけなんです」

 

 司書の言葉を受けて辺りを見回した露伴の視界には、たった一つの人影さえも映らなかった。今は平日の昼間であり、会社員や学生はそれぞれの仕事場の席に着いている真っ最中ではあるが、それを差し引いても館内に人が二人しかいないというのはまるで非現実(フィクション)のように奇妙な状況───だがこの状況は紛れもない現実(ノンフィクション)だった。

 

「……なら、その<外回り>が終わるまでここで待たせてもらうよ」

「でも、大丈夫なんですか? マンガ家は色々と忙しい仕事でしょうし……ほら、締め切りとか」

 

 司書はただ多忙への気遣いという善意でこの言葉を投げかけたのだろうが、プライドという概念を擬人化したような人間性を持つ岸辺露伴に対しては間違いなく不適切な表現だっただろう。

 普通なら到底ありえない状況の積み重ねに辟易としながら心の内に苛立ちを積もらせていた露伴の堪忍袋の緒は、この一言によってプッツンとブチ切れてしまった。

 

「<締め切り>だと? この岸辺露伴をそんな下らないものに背中を刺されるようなそこいらの三流絵描きと一緒にするなッ! ぼくのスピードなら原稿は四日! カラーなら五日で描ける……アシスタントなしで、だッ! 例え<時が加速している>状況だったとしてもぼくが原稿を落とすことなんてないッ!」

「ひッ……す、すいませェん」

 

 激昂し怒鳴る露伴の声量は、「館内ではお静かに」というマナーには明らかに違反する凄まじさだった。もしも他に利用者がいたのなら冷ややかな視線を向けられることはまず間違いなかっただろう。館内にいたのが露伴と司書の二人だけだったことは幸いなことだった。

 

「お詫びと言っては何ですが……」

 

 未だその表情に怒鳴りつけられた恐怖の余韻を残す司書は、手元の引き出しからじゃらじゃらとした鍵束を一つ取り出し、露伴の目の前に差し出した。鍵束には五つほどの大小様々な鍵たちが備え付けられており、そのどれもにこびりついた赤錆は開館百数十年にもなるこの図書館の歴史の重みを露伴に感じさせた。

 

「入られますか、<閉架書庫>。本当なら職員以外は立ち入り禁止なんですけど、今回は特別にってことで」

 

 おいおい、文献を守るのが仕事の図書館司書が「部外者の閉架書庫への立ち入り」なんて、そんなことを許してもいいのかい───そんな露伴の常識人としての部分から生まれた言葉は、彼自身が持つ漫画家としての知的好奇心によって無惨にも押しつぶされた。作品に純粋な面白さを追及する露伴という男にとって、まだ見ぬ貴重な文献が大量に所蔵されているであろう閉架書庫は正にアイデアの宝庫……文字通り「宝の山」であろうことはまず間違いなかった。

 

 脳が考えるよりも先に、脊髄が露伴の身体に電気信号を送っていた。露伴は目の前に吊り下げられた宝の地図をその手中に収めると、「まだぼくはほんの少しだけ不服なんだぜ」という顔を───それとは裏腹な「正直……ラッキーと思った」という本心を必死に抑えて───形作った。

 

「まあ、なんだ。急に怒鳴りつけたことは悪かった。少しぼくも大人げなかったかもしれない……それに何より、伝わったよ。君の<謝意>だとか<誠意>ってやつは」

「こちらこそ、すいませんでしたァ……」

 

 司書が垂れる謝罪の言葉など、もはや露伴は気にも留めていなかった。早く閉架書庫に入りたいという気持ちだけが、露伴の心の中でぐつぐつと煮えたぎっていた。

 

「閉架書庫は三階にあります。三階まではあちらの階段からどうぞ」

 

 上を見上げた露伴の視線には、「宝の山」に向けて伸びる螺旋階段が、まるで「インデペンデンス・デイ」のUFOに吸い上げられているかのように天上へと大渦を巻いていた。

 

 △▼△▼△▼△

 

「こいつは実に興味深い」

 

 螺旋階段を一段一段踏みしめて歩く露伴の興味の矛先は、手元の黒い鍵に向けられていた。閉架書庫の鍵というのもそうだが、それ以上に露伴の関心を惹きつけた原因はその「輝き」と「匂い」にあった。

 

「この<黒い鍵>……ぼくが今までに見たことがない類の輝きを放っているぞ。明らかにただの金属とは一線を画す上品な輝きをしているが、それでいて<大理石>や<黒曜石>のものとも違う。まるで鍵の中で小さな太陽が声を上げているような、奇妙な輝き方だ。そして<匂い>。光に匂いがないことはこの露伴、百も承知だが……<お日様の匂い>と俗に形容される、そんな匂いが微かに、しかし間違いなくこの鍵から香ってくる」

 

 作品にリアリティを吹き込むため、露伴はこれまで数多くの鉱物を調べつくしてきた。元素鉱物、硫化鉱物、酸化鉱物、水酸化鉱物、ハロゲン化鉱物……何十何百と手に取り、眺め、叩き割り、時にはその味を確かめもした。だがそんな露伴でさえも、この黒鍵がどの鉱物を加工して創られたものであるかはとんと見当もつかなかった。「今までに見たことがない」という事実のみが、ただ一つ確かな真実として存在していた。

 

 この材質は一体何なのか。そんなことを考えているうちに、露伴は閉架書庫の扉の前に到着していた。見るものに荘厳な印象を抱かせる両開きの鉄製の扉。その下からはひんやりとした冷気が流れ出しており、その光景だけ切り取ってみれば誰もここがただの県立図書館であるとは信じないだろう、そんな貫禄さえも醸し出していた。

 

 鍵穴に黒鍵を差し込み、回す。立て付けの悪さゆえにギィギィと壁や床に擦れて軋む扉を押し開け、とうとう露伴は閉架書庫へと足を踏み入れた。すぐ右手にあった電源スイッチをパチリと押すと、時代遅れの白熱電球がおびただしい量の書物を照らし、空間そのものが眠りから覚めたかのように生き生きとした呼吸を始めた。

 

 そびえ立った書架の間を、露伴は独り歩いていく。

 

「凄いな……<日本森林樹木図譜>、<酒の書物>、<夢幻現象・政海之破裂>、<帝国文学>、どれも歴史ある稀覯本たちだ……おいおい、石川啄木の処女歌集<一握の砂>初版まであるじゃあないか! 出版は明治四十三年だって!?」

 

 露伴を囲む文献たち、その全てが一つとして例外なく彼の興味を引いた。歴史をその身に体現していると言っても過言ではないそれらは、露伴にとって斬新なアイデアそのものであると同時に、露伴の作品に散りばめられたリアリティにはまだ極める余地があるということを示す一種の指標でもあった。

 

 ありとあらゆる書物を手に取り、夢中になってその内容を吸収していく。読んでは次の本を手に取り、それを読んではまた新たな本を手に取り……文献の荒波をサーフィンしていく露伴。書架の端から端までを読み漁り、そして───

 

「これは……?」

 

 ───見つけてしまったのだ。その本を。岸辺露伴を物語の根幹へと誘う、運命の本を。

 

 その本は、周りの本よりもこぢんまりしたサイズ感で棚の中に収まっていた。あまりにも周りと大きさが違いすぎることによって生じる違和感が、サイズ感とは対照的な存在感を本に発させていた。

 

「<善逸伝>……?」

 

 引き寄せられるように手を伸ばす露伴。

 

 瞬間、露伴の脳裏に予感が走った。

 

 この本には、何かがある。安易な気持ちで踏み込んではいけないヤバさがある。

 

「背中に取り付くスタンド」、「じゃんけん小僧」、そして「殺人鬼」。杜王町での幾多の奇妙な冒険と死闘を経た露伴の精神が、今目の前にある本のページをめくってはいけないと、全身全霊の気迫を持って危険信号を発している。

 

 しかしその予感を感じてなお、岸辺露伴は止まらなかった。棚からその本を取り出し、表紙についた埃の層を丁寧に払いのける。そして蝶や花を扱うような丁重さで、露伴は本のページを一枚めくった。

 

「著者の名前は……<我妻善逸>。本の内容は私小説……<我妻善逸>自身の実体験を基に執筆した物語で、書かれた時代は<大正時代>」

 

 パラパラとテンポよく内容を読み進めていく露伴。

 

「<我妻善逸>は物心つく前に両親に捨てられている……彼らの顔も名前も知らないようだ。女性に騙されて大量の借金を作り、挙句の果てにその女は別の男と駆け落ち……なるほど、生い立ちは不幸そのものだな」

 

 本の冒頭部分は、著者の不幸な生い立ちがつらつらと書き連ねられていた。なんだ、ただのつまらない「不幸自慢」の類か───そんな露伴の予想は、次のページからの内容によって完全に裏切られることとなる。

 

「な、何だッ……!? 人を喰らう<鬼>と、それを狩る<鬼殺隊>ッ! <呼吸>、<日輪刀>、<柱>ッ! 一体何なんだッ!? ここに書かれた素人の妄想にしか聞こえない突拍子もない記述に、しかし確かに息づいているこの<リアリティ>はッ!」

 

 岸辺露伴は漫画家だ。漫画という芸術作品によってフィクションとリアリティのせめぎ合い───つまり「表現の究極」に挑戦している露伴には、創作物がどの程度のリアリティに基づいて描かれた物なのかを正確に図り取る「審美眼」が備わっている。そしてその「眼」が言っているのだ。目の前にあるファンタジーやメルヘンのような物語が、全て大正時代に生きた著者<我妻善逸>が実際にその身を持って体験した出来事であると。

 

 ページをめくる手が止まらない。「最終選別」、「那田蜘蛛山」、「蝶屋敷」、「無限列車」、「遊郭」、「柱稽古」、そして……「無限城」。人喰い鬼の祖、「鬼舞辻無惨」との最終決戦。数多の鬼殺隊士と彼らの最高戦力である柱たちが、総力を挙げて鬼舞辻に挑んでいる。激しい戦いの様子が、著者自身の筆で記された活字から露伴の感受性に向けてダイレクトに流れ込んでくる。

 

 本のページも残り少なくなってきた、どうなったのだ、「鬼舞辻無惨」との戦いは。早く、早く続きを───もはやページをめくることに焦りさえ感じさせるようになった露伴の手が、ピタリと止まった。

 

 露伴の目の前には、虚無が広がっていた。

 

「……結末は<白紙>だ。<鬼舞辻無惨>との最終決戦の結末が書かれているはずの部分だけ、まるで白い絵の具で上から塗りつぶしたように真っ白になっている」

 

 本の背表紙までにはあと二十ほどのページが残されていたが、それらには何も書かれていない。何かを書いたりそれを消した痕跡すら残っていない、全くの白紙。閉架書庫の照明を乱反射するその紙たちは、埃まみれの本に挟まれたページにしては不自然なほどに綺麗な白さをしていた。

 

 肝心な場面を読むことができず、分かりやすく肩を落として落胆する露伴。

 

 異変が起きたのは、ちょうどその瞬間だった。

 

 開かれた白紙のページから黄色い稲妻がほとばしり始め、辺りが目も開けていられないほどの眩さに包まれたのだ。

 

「ウォオオオオオオオオオオオオ────────ーッ! この光、まさか<スタンド攻撃>かァ──────ッ!!!」

 

 露伴の身体がふわりと宙を浮き、同時に背中側へ「落ちていく」ように身体が引っ張られ始めた。目を開けることのできない露伴は状況を打開しようともがいたが、狭い書架の間を歩いていたはずの彼の四肢はなぜか何にも当たることなく、虚しく空を切った。

 

<天国への扉>(ヘブンズ・ドアー)ァアアアアアーッ」

 

 スタンドを発現させ、戦闘態勢を取ろうとする露伴。しかし無駄だ。「天国への扉」(ヘブンズ・ドアー)は「対象を本にする」能力。目を開けられない露伴は、「能力を発動するべき対象」を認知することができない。せっかくの力も、使えないのならば宝の持ち腐れだ。

 

 万事休す。今の露伴にできることは、落下する感覚に身を任せてただひたすらに落ちていくことだけだった。

 

「うわああああああああああああああああああああああああ」

 

 △▼△▼△▼△

 

 図書館から落下を始めてから、どのくらい時間が経ったのだろうか。いつの間にか気を失っていた露伴が目を覚ますと、辺り一帯の景色はすっかり様変わりしていた。視界を切り裂くような眩しさは既に影を潜めており、上空から降り注ぐ月明かりが露伴を優しく包みこんでいた。

 

「ここはどこだ……? どこかの……<山の中>って感じだが」

 

 服に付着した土汚れをパンパンと叩いて払いながら、露伴はゆっくりとその場で立ち上がった。

 

「怪我はしていない。奇妙な光に包まれ<落ちていく>不思議な感覚はあったが、何一つ攻撃は受けていない」

 

 うっそうと茂った草木を搔き分け、露伴は山中を進んで行く。「見知らぬ山で下手に動くことは、遭難の危険性を高める」。そんな常識は百も承知だが、露伴は動かずにはいられなかった。漫画家としての好奇心もあったが、理由はそれだけではない。先ほどから露伴の鼻腔の奥深くを、乾いた鉄の匂いがくすぐっていたのだ。

 

「血の匂いだ。それに<死臭>もするぞ。それもどちらか一方からではなく、この山全体からだ……誰かがこの山中で<戦闘>を行っているようだ」

 

 必要なのは情報だ。今自分はどこにいて、この山中では何が起こっているのか。自分の目と耳で確かめる必要があると、露伴は強く感じていた。

 

 周囲の状況に気を配りながら歩き続け、やがて露伴は少し開けた場所に出た。木々の密度が少しだけ減ったその場所に、一人の男が立っていた。男の肩はガチガチにこわばっており、まるで何かに怯えているように全身が小刻みに震えていた。

 

「なあ、君!」

「うわッ!」

 

 背後から露伴に声をかけられ、男は切羽詰まった形相で振り返った。そして露伴の瞳をしばし見つめた後に、ほっと安堵の一息をついた。

 

「鬼じゃない、人間だ……」

「すまない、驚かせるつもりはなかったんだ」

「あ、いや、大丈夫……? 君、随分と風変わりな格好をしてるな。この山に迷い込んでしまったのか?」

「ああ、少し迷ってしまってね」

 

 ここで露伴は、自分の格好を風変わりだと指摘した目の前の男の格好もまた同じように風変わりなものであることに気が付いた。そしてそれは、露伴がどこかで「読んでいた」ものと極めて類似していることにも。

 

「君がその手に握っているもの……もしかして、<本物の刀>じゃあないのかい? それにその服の背中に書かれた<滅>の一文字。まさか君は───」

「この山は危険だから、今すぐに下山するんだ。出来るだけ早く、麓まで全速力で走って───」

「───<天国への扉>(ヘブンズ・ドアー)ッ!」

 

 男の身体が力なく大地に崩れ落ちた。これが露伴の能力、「天国への扉」(ヘブンズ・ドアー)。「露伴の描いた絵を見せる」「相手に触れる」といった方法で対象を強制的に本へ変え、その記憶を読むことができる。ページを破り捨てたり余白に書き込んだりすることによって、記憶の改ざんや対象への命令をも可能にする。

 

「申し訳ないが、君の記憶を読ませてもらうよ。僕の推測が正しければ───」

 

 一枚一枚、顔の表皮を薄くスライスしたようなページを素早く露伴はめくっていく。そしてページをめくればめくるほど、露伴の表情が狂気に満ちた笑みへと変貌していく。

 

「やはりこの村田という男、<鬼殺隊士>だッ! 今は<大正時代>、そしてここは<那田蜘蛛山>ッ! ぼくは<善逸伝>の時代にタイムスリップしてきたのだッ!」

 

 刹那、背中に刺すような殺気を感じた露伴は、本にした村田を抱きかかえて咄嗟に回避行動を取った。樹木の影から露伴に向けて、大量の蜘蛛の糸がうねりながら襲い掛かってくる。

 それを右へ左へ動き回ってかわしきった露伴の目の前に、一人の女が現れた。女の肌は病的なまでに青白く、瞳の瞳孔は縦に細長い。そしてその顔面には、謎の紋様が刻み込まれていた。

 

「ここにいる村田は<鬼殺隊士>。そして彼とぼくを襲うお前は<鬼>というわけだな」

「その格好、アンタ鬼狩りじゃないわね。何者?」

「クククク……ハハハハハハハハハ! やったッ! やったぞッ! ぼくは今、マンガ家として最高のネタを掴んでいるッ!」

 

 鬼からの質問に気がつかないほどテンションが最高潮に高揚した露伴の右手に持たれたGペンが、人間離れした速度で宙を踊った。描かれたのは露伴の代表作、「ピンクダークの少年」の主人公───露伴のスタンド、「天国への扉」(ヘブンズ・ドアー)のビジョンだ。

 

 岸辺露伴、職業・マンガ家。自分自身の怪我さえ作品に生かそうとするクレイジーさを持った彼にとって、「鬼」との隠遁や命がけの戦いなど恐れるに足らず。

 

「<蜘蛛の鬼女>……君の<リアリティ>ッ! 僕のものとさせてもらうぞッ!」

 

 安っぽい強がりでもなんでもなく、今の彼は「幸福の絶頂」にある。欲してやまないリアリティが、眼前で蠢いているのだから。



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不可視で無敵の「天国への扉」

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「<りありてぃ>? 何を言ってんのよ。さっきから急に笑い出したりわけのわからない言葉を口走ったり、頭おかしいんじゃないの?」

「そうか、ここは大正時代だったな。西洋由来のいわゆる<カタカナ語>が通じないのは当然か……クククク、いいぞ! ぼくが欲しいのはそういう真に迫った反応ッ! 生まれて初めて触れる<横文字>に対して君が見せたその困惑した表情だよッ! それだよ、フフフフ……生物が未来を体感する瞬間なんて、滅多にお目にかかれるもんじゃあないよ……その新鮮な反応を作品に生かせば……グフフフ」

 

 ブツブツと独り言ち完全に目が据わった露伴の様子に、「蜘蛛の鬼女」は背筋が凍りつくような不気味さを感じた。鬼は彼らを喰らう存在であるという点で人間よりも上位の存在であるはずなのに、それを目の前にして毛ほども恐怖しない被捕食者のこの男は一体何なのだ───ぞわぞわと全身を走る悪寒とともに、鬼女の脳内には自分がさも「まな板の上に乗せられた食材であるかのような」、「籠の中に閉じ込められた小鳥であるかのような」、「幼子に弄ばれる昆虫であるかのような」、そんな悪夢のイメージがとめどなく流れ込んできていた。

 

「<リアリティ>とは何か、オマエに説明してやる。<マンガ>と言うものを読んだことがあるか? かの有名な<鳥獣人物戯画>は平安時代に書かれたものだったそうだし、大正時代ともなればその前身ぐらいは存在しているだろう。滑稽さや風刺性、物語性などを持った絵画作品、それが<マンガ>さ」

 

 そんな鬼女の心情など露知らず、露伴は語り始める。

 

「<マンガ>は想像や空想で描かれていると思われがちだが、実は違う! 自分の見た事や体験した事、感動した事を描いてこそおもしろくなるんだ!」

 

 それはかつて、彼の家を訪れた「広瀬康一」たち御一行に対してそうしたように。

 

「例えばだ、<蜘蛛の鬼女>……オマエたち鬼は人間よりも遥かに力強い生物らしいが、その肉体の構造はどうなっている? どういう仕組みで切断された部位が再生する? さっきオマエがその両手から出していた糸、それは身体のどの部分で生成しているんだ? 臓器か? 筋肉中か? それとも骨か? そもそも、異形の鬼に<()()()()>はあるのか? 鬼を描く場合、マンガ家はそういうことを見て知っていなくてはいけない」

「……そんなことを知って、何になるっていうのよ」

「他の誰よりも鬼という題材に対して深みが出せる。ぼくがこれから描く鬼が、この世の誰が描く鬼よりも真に迫った迫力を纏ったものになる。だってそうだろう、他の作家は鬼なんて絵本の中でしか見たことがないんだからな……その深みこそが、<リアリティ>」

「意味が分からない」

「分からなくて結構。オマエにぼくを理解してもらう必要はない……何度も繰り返すようだが、ぼくが必要としているのはオマエの中の<リアリティ>であって共感じゃあない。記憶を読んだ後、肉体を解剖して内部構造を徹底的に調べてやる。そして最後には陽光の下に固定してオマエを焼き尽くし、ぼくはその苦痛の叫びを聞きながら今際の際の絶望に歪む顔をスケッチさせてもらうよ。そうやって僕は……フフフフ、ハハハハハハハハハ! 世界でただ一人の、リアルな鬼を描けるマンガ家になるのさ!」

 

 世間一般の常識に照らし合わせて考えてみれば、人を喰らう鬼は「悪」であり、それに立ち向かう人間は「善」であることは疑いようがないことだ。しかし恐怖に足をすくませる鬼とそれを意に介さず猟奇的な発言を繰り返す露伴の構図は、そんな当たり前を見事に大逆転させてしまっていた。何の事情も知らない第三者がこの光景を見れば、露伴はか弱い少女を誘拐し淫らな行為に走ろうとする変質者の類に見えたに違いない。

 

 繰り広げられた極めてサイコなプレゼンテーションが、蛇に睨まれた蛙のように鬼女をその場に磔にする。しかし戦わなければその餌食になるだけだ───自らの内に滾る怒りの炎に必死に薪をくべることで、鬼女はその膝を震わせる恐怖を何とか振り払った。目の前で悠然と佇む露伴をきっと睨みつけて両手を向けると、文字通り鬼の形相で叫ぶ。

 

「冗談じゃないわよ!! 死ねクソ人間!!」

 

 両手から射出された大量の蜘蛛の糸が露伴に襲い掛かる。白色に波打つ糸たちはあっという間に露伴の周囲を取り囲み、人一人分をすっぽりと包み隠せる大きさの繭となって宙に凝固した。糸の速さに反応出来なかったのか露伴は先ほどのように回避行動を取ることをせずその場に突っ立っているのみで、ただされるがままに繭の中へと閉じ込められてしまった。

 

 ニヤリと勝ち誇った笑みを浮かべる鬼女。先ほどまでの恐れに満ちた顔はどこへやら、自分のフィールドに持ち込んだ途端に余裕綽々の振る舞いを見せ始めている。

 

「変な言葉を教えてくれたお礼に、あたしも良いことを教えてあげる。あたしの糸束はね、柔らかいけど硬いのよ……刀でさえ斬れやしないぐらいにね。まず溶解液が邪魔な服を溶かす。それからアンタの番よ。すぐどろどろになってあたしの食事になる」

「なるほど、蜘蛛の糸に溶解液か。これがオマエの能力……<血鬼術>と言うやつかい」

 

 繭の中からの予想外の返答に、鬼女は声にならない叫びを上げた。繭はひとりでにその形状を崩し始め、はらりはらりと細い糸へ分解されて山中の土壌の中へ馴染んで消えていった。そして中から現れる、なんらノーダメージの岸辺露伴。その五体には傷一つ見られず、「溶解液」が独創的な一張羅に付着した痕跡すら見当たらなかった。

 

 目の前の現実を受けられない鬼女は、再び糸を射出して繭に露伴を閉じ込め直そうとした。だが結果は変わらない。何度閉じ込めようとも、糸を二重三重に重ねて強度を向上させようとも、繭は鬼女の意思とは無関係にその結び目をほどき始めて露伴を解き放ってしまうのだ。

 

 そんなやりとりを続けて数分、ついに露伴が鬼女に向けて前進し始めた。恐怖と理不尽に半狂乱になりながら、鬼は糸をその手掌から吐き出し続ける。

 

「ひッ……! く、来るなあああああああああああ」

 

 とうとう自分の懐まで潜り込んできた露伴に対し、鬼女は肉食動物の犬歯の如く研ぎ澄まされた爪をがむしゃらに振り回して抵抗を試みた。そしてそれが露伴の肉体を切り裂こうとした正にその瞬間───鬼女は突如何もない場所で、何かにつまずいてよろけたように態勢を崩してその場に倒れ込んでしまった。

 

「さっきは自慢げに能力の説明をしてくれてどうもありがとう。お礼と言っちゃあなんだが、ぼくの能力についても説明してあげよう。もっとも……ぼくの能力はオマエたち鬼の<血鬼術>とは違う、<幽波紋>(スタンド)という能力なんだがね」

 

 地を這う鬼女の顔が光を発し、その表層がいくつものページに分解されパラパラと風になびいてめくれた。

 

「ぼくの能力は<天国への扉>(ヘブンズ・ドアー)。ぼく自身の生命力を具現化した像を造り出し、対象を本にする能力。射程距離はだいたい、<二軒先の家にぎりぎり届かない>程度ってところか。ぼくとオマエが最初に出会った時……鬼女、すでにオマエはその<間合い>の中にいた」

 

 露伴が持つ能力「スタンド」とはいわば「パワーを持ったヴィジョン」であり、スタンドは原則的に八つの特徴を持っている。

 

 “スタンドは一人につき一体”。

 

 “スタンドは固有の特殊の能力を持つ”。

 

 “スタンドは本体の意志によって動く“。

 

 “スタンドが傷つけば本体も傷つき、本体が傷つけばスタンドも傷つく”。

 

 “射程距離がある”。

 

 “スタンドは成長する“。

 

 そして今回の戦いで露伴と鬼女の優劣を分けた決定的な原因は、残り二つの特徴によるものだった。

 

<幽波紋>(スタンド)の像は<幽波紋(スタンド)使い>しか見ることができず、それと同時に触れることもできない。だからオマエは気がつかなかった。ぼくが長々と講釈を垂れている間に、<天国への扉>(ヘブンズ・ドアー)の像がオマエに触れていたことにはな」

 

 “スタンドを見ることができるのはスタンド使いだけ”、そして“スタンドに触ることができるのはスタンドだけ”。つまりスタンド使いではない普通の生物たちは、スタンドに対して何の対抗手段も持たない───いわば無敵の能力。

 

 露伴は何の意味もなくだらだらと<リアリティ>について語っていたわけではなかった。インパクトの強い言葉を多用することによって鬼女の注意を引きその動きを止め、その隙に<天国への扉>(ヘブンズ・ドアー)で鬼女を本にしていたのだ。何の訓練も受けていない生身の露伴では鬼に敵わない。ならば力勝負になる前に先手必勝だと、会敵したその瞬間から露伴は一計を案じていたのだった。

 

「ぼくの能力は本にした対象に<書き込む>ことで相手に命令出来る。ほらここだよ、オマエのページの余白のこの部分。書き込ませてもらったんだ……安全装置(セーフティーロック)を」

 

 びっしりと肉体の記憶が刻み込まれた鬼女の本のページ。その僅かな余白部分には黒色のインクではっきりと、「岸辺露伴に危害を加えることはできない」と記されていた。繭が本人の意思とは無関係な分解を始めたことも、溶解液がただの少しも露伴を溶かさなかったことも、爪による直接攻撃が虚しく空を切り地べたを舐めることになってしまったことも、全てはこの書き込みによるセーフティーロックが原因だったのだ。

 

「何よ……そんなの反則じゃない」

 

「<反則>? 尋常ならざる力と再生力を持ち合わせたオマエたち<鬼>に、そんなことを言われる筋合いはないね」

 

「ぐッ……」

 

「ぼくの勝ちだ。ここからは宣言通り、君の記憶をもらう」

 

 不可視で無敵の<天国への扉>(ヘブンズ・ドアー)。大正時代に突如として時間跳躍してきたこのイレギュラーを、果たして誰が止めることができようか。

 

 △▼△▼△▼△

 

「村田くん。おい、村田くん。いい加減起きてくれよな」

「うッ……うう、うん?」

 

 自分の頬に小気味よく打ち込まれる殴打の衝撃によって、鬼殺隊士・村田は目を覚ました。むくりと上体を起こした村田は朦朧した意識の中でしばしその思考を立ち止まらせていたが、周辺の情景と立ち込める異臭を再確認するやいなや慌ててその場から飛び上がった。

 

「はッ! 俺は一体何を……」

「鬼の攻撃を喰らって気絶していたんだよ、君」

「鬼? 俺、鬼となんて戦ってたっけ」

「おいおい、そんなことも覚えていないのかい? まさか攻撃されたショックで短期的な記憶障害に陥ってしまったんじゃあないだろうね」

「<しょっく>……?」

「ああ失礼、<衝撃>だ。ただの言い間違い……気にしないでくれ」

 

 そう口にする露伴の口角がなぜか若干上向きになったことを村田は不思議がったが、脳内に次々と湧いてくる自省の文句はそんな些細な気づきをどこか遠くへ追いやってしまった。

 

「そうか、<衝撃>か……戦ってたのか、俺。なんでそんな大事なこと、今まで忘れてしまっていたんだ」

「なかなか力のある鬼だったからね。攻撃を喰らった時に脳を強く揺らされてしまったんだろう。仕方がないさ」

「……鬼! その鬼は今どこに……」

「すでにぼくが<再起不能>にしてあるよ。ほら、あそこに転がってる」

「そうですか……一人で倒してしまうなんて、さすがは露伴さんですね」

 

 戦場で無謀にも意識を手放した己の未熟さに恥じ入る気持ちと、独力で状況を打開した露伴に対する尊敬の気持ち。双極性な心情がぐちゃぐちゃに混ざり合った複雑な心もちで、物言わず地に伏す鬼女の身体を村田は見つめていた。

 

 そんな村田の様子を見かねたのか、露伴は柄にもない優しさで彼の肩を叩いた。

 

「なあ、そう気を落とすなよ。君にもまだ仕事は残ってる。そうだろ?」

「<仕事>?」

「ぼくは非力でね……<鬼の頸を落とせない>。だから村田くん、君があの鬼女の頸を切ってとどめを刺してくれないか」

「<鬼の頸を落とせない>……そうなんですか、分かりました」

 

 腰に据えた日輪刀を抜刀し、村田は倒れた鬼女の身体へと向かっていく。

 

 あれ? 鬼にとどめを刺す術を持たないのに、どうして露伴さんは鬼殺隊士としてやっていけているんだろう? 

 

 それを青と形容することをためらってしまうほど薄い色に染まった刀身を頸に向けて打ち付ける瞬間、村田の脳裏に突如としてフラッシュバックした疑問。

 

 よく考えてみればこの状況も変だ───なぜ弱点の頸以外ならどんな傷もたちどころに再生してしまうはずの鬼が、目の前でピクリとも動かず再起不能になっている? 仮にそうすることが可能な力が露伴さんにあったとして、それと頸を落とせない非力さは両立するのか? 

 

 一度抱えてしまった疑問は、村田の中で無限大に枝分かれしていく。

 

 あれ? 「露伴さん」の階級って何だっけ? 

 

 「露伴さん」って鬼殺隊だよな? 

 

 瞬間、村田の思考回路はシャッターが落ちたようにガシャンと遮断されてしまった。そしてその代わりに脳内へと流れ出す大量の活字。「岸辺露伴は鬼殺隊の上司」というただその一文が、疑問に染まりかけていた村田の思考を圧倒的な物量で洗浄していく。

 

「ああ、そうか! <岸辺露伴は鬼殺隊の上司>だ!」

 

 すっきりとした表情でその滑らかな黒髪をなびかせながら、村田は()()()()()()()()()()鬼女の頸を落とした。

 

 

 



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岸辺露伴!胡蝶しのぶに会う その①

 数分前。時間軸は、露伴が鬼女に勝利を宣言したそのすぐ後まで遡ぼる。

 

 △▼△▼△▼△

 

 露伴は気を失った鬼女の傍らに本腰を入れてしゃがみ込むと、幾層ものページに分かれた顔の表皮を滑らかな手付きで捲り始めた。その一枚一枚から丹念にリアリティを吸収していく露伴の姿からは、プロのマンガ家としての誇りと矜持が夏のアスファルトの上に揺れる陽炎のように立ち昇っていた。

 

 人間だったころの生い立ち、鬼となった経緯、そして今まで───人間の寿命を遥かに超越した鬼の肉体に刻まれた重厚な記憶。もはや歴史と呼べそうなそれらの中に、特に露伴の興味を惹いた記述が一つ。

 

「『私の能力は全部<累>のもの。私は弱い鬼だったから<累>の能力を分けてもらった。<累>は無惨様のお気に入り、<下弦の伍>だったからそういうことも許されていた』……まさかこの記述、<十二鬼月>ッ! この那田蜘蛛山の中にいるのかッ!」

 

 実は露伴はその瞬間まで、山中に「下弦の伍」が潜んでいることをこれっぽっちも知らなかった。それもそのはず、露伴の読んだ「善逸伝」───その著者の我妻善逸は今この瞬間山中の別の場所にて、猛毒の激痛に身を焼きながら鬼と戦っている真っただ中。苛烈極めるその戦いの内容が「善逸伝」の那田蜘蛛山関連記述のほとんどの割合を占めており、同時刻に出現していた下弦の伍についての言及は一切なされていなかった。本の内容でしか鬼殺隊の動きを知らない露伴にとっては、「善逸伝」で描写されていないことは全て未知の領域なのだ。

 

「読みたいッ……! 鬼の祖<鬼舞辻無惨>に直接力を分け与えられた十二人の鬼、その記憶ッ!」

 

 衝動が露伴の心を突き動かす。露伴は鬼女の記憶のページのほとんどをビリビリと破り取り、小さく折ってポケットにしまった。記憶を奪われた生物はその分体重が顕著に低下するが、そんなことは露伴にとって大した問題ではない。彼の懸案事項は「早く記憶を読まなければ誰かが下弦の伍を殺してしまうかもしれない」と言うことであり、リアリティを吸い出され道端に転がる小石のように軽くなった「ただの鬼の抜け殻」ごときには何の興味もなかった。

 

 モタモタしている時間など無いと、足早にその場を立ち去ろうとした露伴。そんな彼の足取りをチクリと傷んだ良心が止めた。

 

 彼の良心を刺した針が、確かにその「道端に転がる小石」から伸びてきていた。

 

「この鬼女……ぼくの能力でほとんど記憶を失っているが、逆にそれがまずい状況に繋がるかもしれないな。記憶を失い、<理性>を失えば残るのは鬼としての<本能>だ。人間の生き血を啜ろうとする純粋な<本能>だけが残る……このまま放っておくと、目を覚ました後で大きな被害を出してしまうかもしれない」

 

 いくら独善的な露伴と言えど、彼なりの正義や倫理観はその黄金の精神の中に確かに存在している。残虐非道な殺人の可能性をみすみす見逃してしまうほどの薄情さは持ち合わせていないのだ。

 

 ところが露伴は、ここで一つの大きな問題点に気づいた。

 

「待てよ。ひょっとするとぼくは今、<陽光の下に固定する>以外に鬼を始末する術を持ち合わせていないんじゃあないか? <天国への扉>(ヘブンズ・ドアー)で鬼を再起不能にはできても、日輪刀を持たないぼくにはこいつらの息の根を止めることは不可能なんじゃあないのか?」

 

 人間が鬼を殺す方法は二つ。「太陽の光を鬼の身体に照らす」か「日輪刀で頸を落とす」の二つだけだ。そして日輪刀を持っていない露伴にとって、鬼の命を奪う方法は自ずと前者に絞られる。

 しかし今は草木も眠る丑三つ時。日の出までにはまだ相当時間があり、そしてそれを待つ余裕は露伴にはなかった。とにかく一刻も早く、露伴は下弦の伍の居場所を見つけ出さなくてはならない。

 

 鬼女に「その場から動けなくなる」と書き込んでおいて、いずれこの場所に差してくる太陽光に始末を委託する───そういうプランを考えた露伴だったが、上空を見上げて舌打ちした。

 うっそうと生い茂る樹木の群れたちが空を完全に遮ってしまっており、例え朝日が昇ったとしても鬼女の身体が陽光の影の中にすっぽりと隠れてしまうのは明らかだったからだ。

 

「クソッ……スタンドで頸をもぎ取れば、あるいはこいつら鬼を消滅させることが出来たりするのかもしれないが……生憎<天国への扉>(ヘブンズ・ドアー)にそんなパワーはない。承太郎さんの<スタープラチナ>や仗助の<クレイジー・ダイヤモンド>のような、圧倒的パワーは」

 

 悔しそうに地団駄を踏む露伴。

 しかし残念ながらその仮説は外れだ。確かにスタンドには「水中でのテレパシー会話」や「謎の空中飛行」などまだまだ未知の能力を持っている部分はあるが、少なくとも鬼を消滅させるような能力はない。例えダイヤモンド並みの硬さの歯を拳で掘り進めるほどのパワーを持った空条承太郎の「スタープラチナ」であったとしても、だ。

 

 ともあれ、ないものねだりをしていてもしょうがない。そうして露伴がはじき出したプランCこそ───

 

「<村田>。彼を起こして頸を切断してもらうか」

 

 ───露伴が本にして気絶させていた鬼殺隊士・村田を叩きおこすことだったのだ。

 

「彼を起こす前に、少しだけ書き込ませてもらうとしよう。ぼくの正体を訝しんで戦闘態勢突入なんて無駄なリスクは負いたくないしな」

 

 村田のページの余白に、露伴は「岸辺露伴は鬼殺隊の上司」の一文を滑り込ませた。そうして能力が解除され普通の顔に戻った村田の頬を、露伴は気付け薬代わりに少し強く叩き始めた。

 

 △▼△▼△▼△

 

「さてと。無事に鬼も討伐出来たことだし、ぼくはこの辺で失礼させてもらうよ。この山の中に<下弦の伍>が潜んでいるという情報も入ってきていることだしね」

 

 自分の責務は全うしたとして、今度こそその場を立ち去ろうと歩き始める露伴。

 

「ええっ! あの<十二鬼月>!? ヤツは今どこにいるんですか!?」

「残念なことに、その<居場所>ってやつが分からないんだ。<潜んでいる>ことは確かなんだがね」

「そうですね、<下弦の伍>はこの那田蜘蛛山にいます。でもどうしてそんなこと、あなたが知っているんでしょうか?」

 

 その言葉とともに唐突に露伴の背後へ、ふわりと何かが舞い降りた。

 

 耳の中の鼓膜、そのさらに奥まで響くような優しい声色の囁きとはまるで裏腹な、息の詰まるような圧迫感を露伴は感じていた。まるで「死」が形を成してそこまで迫っているかのような気配に身震いした露伴のこめかみを、一筋の冷や汗が伝う。

 

 経過する、数秒に満たない時間。苦い汗の雫はにきび一つない露伴のまっさらな肌の上をつーっと流れ落ちていく。

 

 こめかみから頬へ、頬から顎へ。

 

 やがて重力に負けて肌を離れていったそれは、地肌に散らかった落ち葉の中へと静かに溶け込んで───

 

「───<天国への扉>(ヘブンズ・ドアー)ァ──ーッ」

 

 西部劇に登場するガンマンの早撃ち対決のように、露伴は漂う静寂を破って後ろを振り返った。そして間髪入れずに彼の腕が、時速三百キロは優に越しているであろう神がかり的速度で空を踊り出す。描かれた「ピンクダークの少年」は、光り輝く筆跡から浮かび上がり実像を成した。

 

 が、無。誰もいない。露伴の目線の先に広がっているのは木々が所狭しと並ぶ山中の景色のみであり、そこには人物など影も形もない。だが残された強い藤の花の香りが、一連の出来事が幻覚であるという可能性を真っ向から否定してくる。

 

 その香りの流れを追うように、露伴はもう一度背後を振り返った。

 

 蝶の羽のような柄の羽織を着た女が一人、実に優雅な立ち振る舞いで佇んでいた。

 

「こんばんは。今日は月が綺麗ですね」

 

 溢れ出る教養と知性を感じる───露伴がその女に対して抱いた第一印象だった。

 敵か、味方か。すでに女は「天国への扉」(ヘブンズ・ドアー)の射程距離外へと離れており、その答えを女自身の記憶に求めることは不可能だった。

 

「……そうだな。今が何月何日なのかは分からないが、十五夜に昇る<中秋の名月>に勝るとも劣らない美しさだ」

 

 少なくとも「会話が通じない相手」ではないことだけは確かだと判断した露伴は、天に浮かぶ綺麗な満月を見上げ、女との対話を試みた。話しながら気づかれないようにじりじりと距離を詰めていき、<天国への扉>(ヘブンズ・ドアー)の射程圏内に入ったところで本にして素性についての記憶を読めば良い───それが露伴の思惑だった。

 しかし、物事とはままならないものだ。露伴と女の二人だけならば良かったのだが、この場にはもう一人、プラスアルファの異分子が混ざり込んでいる。

 

「むっ、蟲柱・胡蝶しのぶ様!! 私は階級<庚>の村田です!!」

「こんばんは」

 

 露伴の隣にいた村田が、想定外のイレギュラーな動きを始めてしまったのだ。

 

 露伴は驚愕した。身長百五十センチほどの小さな体躯をした非力そうな目の前の女が、鬼殺隊の最高戦力に数えられる者<柱>の一角であるなどとは思いもよらなかったからだ。

 そして同時に、露伴は自分が置かれている状況───鬼殺隊有数の実力者にその素性を怪しまれており、警戒されている───があまりにも芳しくないものであることを悟った。

 

「村田くん、そちらの方はお知り合いですか?」

「はい! こちらは岸辺露伴さんで、鬼殺隊の上司です」

「岸辺露伴……鬼殺隊の方なんですか? それにしては隊服も着ていませんし、日輪刀も持っていないようですけれども」

「は、はあ。言われてみれば……しかし<岸辺露伴は鬼殺隊の上司>であることは間違いありません」

「……先の鬼との戦いで両方とも破損してしまったんだよ」

「破損、ですか。隊服と日輪刀の両方、それも跡形もなく……そんな激しい戦いをした割にはあなた、傷が少ないですね。少ないどころか全くの<無傷>です」

 

 何とか絞り出した言い訳が粗だらけであまりにも苦し過ぎることは、露伴自身が一番よく分かっていた。

 弁論の矛盾を挙げればキリがない。だが今必要なのは場の空気を押し切りクロをシロだと突き通す熱量であると、露伴は「自分は間違っていない」と言わんばかりの堂々とした態度を精一杯の虚勢とともに貫く。

 

「君、まさか疑っているのか? ぼくが鬼なんじゃあないのかって」

「どこからどう見ても、あなたは鬼殺隊士には見えません。なのになぜだか<下弦の伍>については知っている。それはあなたが鬼だからでは?」

「ちょっと待てよ。ぼくが鬼殺隊の一員であるその事実は、ここにいる村田くんが証人だ。なあ、そうだろ?」

「はい! <岸辺露伴は鬼殺隊の上司>ですから!」

「……先ほどから同じ台詞ばかり、まるで何かに憑かれているようですね。催眠術とかそういう類の<血鬼術>でしょうか? 瞳孔が鬼のように縦長ではないのも、それを応用して我々に幻覚を見せて偽装しているとか?」

 

 村田には露伴の素性を裏付ける具体的な記憶など当然何もなく、無理やりにねじ込んだ<岸辺露伴は鬼殺隊の上司>という認識だけが彼の中で独り歩きしてしまっている。ゆえに、胡蝶や露伴の問いに対してオウムのように同じ言葉をただひたすら連呼し続けることだけしかできないのだ。面倒ごとを避けるためにと村田に能力を使って書き込んだ露伴の行動が、ここに来て裏目に出てしまっていた。

 

 睨み合いの膠着状態となってしまった露伴と胡蝶。

 

「ではこうしましょう」

 

 笑顔とともに叩かれた胡蝶の両手の音で、それは破られた。

 

「手の甲に刻まれた階級を見せてください。破損してしまう可能性のある隊服や日輪刀とは違い、階級の文字はあなたの身体に直接刻まれていますから、失いようがありませんよね」

 

 まずい。

 

 ゴクリと生唾を飲み込む音が露伴の頭に響き渡った。心拍数が急激に上昇を始め、熱を帯び始めた身体と氷点下まで冷えた肝のコントラストが、露伴にははっきりと分かった。

 

「どうしました? <階級を示せ>と言って拳を握り込むだけですよ」

 

 岸辺露伴はその実、鬼殺隊士ではない。となれば当然、階級が肉体に刻まれているはずもない。ただ動揺するのみで何一つアクションを起こせない露伴。

 

 もう、誤魔化しようがない。

 

 馬鹿正直に「未来から来た」と言ったところで、鬼が自己保身のために妄言を吐いていると思われるのが関の山だ。この女の中で大きくなってしまった不信感を拭い去ることはできないだろう。それならいっそ───

 

 ───露伴は覚悟を決めた。

 

「こっ、胡蝶様……! 私は催眠術になんてかかっておりません! 間違いなく<岸辺露伴は───」

 

 その言葉を皆まで言い終わる前に、村田は再び意識をどこかへ手放してしまった。糸が切れた操り人形の如く、その身体はストンと地面へ崩れ落ちた。村田はまたも本に変えられている。露伴の「天国への扉」(ヘブンズ・ドアー)だ。

 

「ぼくは鬼じゃあない。それだけは確かだ」

 

 虚空のキャンパスに指先が踊る。

 

「だが……蟲柱・胡蝶しのぶ、だったな。君があくまでもぼくのことを<鬼>だと疑い、殺しにかかるのなら……<再起不能>になってもらうよ。ぼくは今忙しいんだ」

 

 露伴の傍に現れ立つ、メカニカルな風貌をした「ピンクダークの少年」。

 

 その宣戦布告を受けてなお、胡蝶は口元に湛えた微笑を崩さない。腰に下げていたフェンシングのサーベルのように細身な刀を抜刀し、胡蝶はそれをグルグルと手の上で回して構えた。

 

「あらあら、やっぱり鬼殺隊士だと言うのは噓だったんですね。残念残念」

 

 臨戦態勢に入った二人。

 

 異変が起こったのはちょうどその時だった。

 

 宵闇に沈む山中が、月明かりとは別のほのかな光に包まれていく。

 

「なッ、何だ……ッ!?」

 

 岸辺露伴の肉体から、いくつもの小さな光球が漏れ出始めたのだ。

 

 




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