and 7【PERSONA M@STER】 (ストレンジ.)
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Introduction:「I hope you will visit us sometime soon」
発券機の取り出し口から出てきた2枚のチケットを手に取ってロビー隅の待機スペースに行くと、
「お、ほいひゃ、いきましゅか」
こっちに気づいても伊吹は特に取り繕う様子もなくポップコーンを頬張った口で言った。
「なんでもう食べてるんすか」
「いや~、朝ごはんのチョイスミスったわ。シリアルとバナナ2本じゃ足りない足りない」
「そりゃ踊ってたらすぐお腹も空くでしょ」
「映画行く日の朝っぱらからガチで踊らないって。ラジオ体操にちょっとおまけが付いた程度のエクササイズですっすよ」
伊吹は半笑いでアタシの口調をわざとらしく真似た。あまり身体を動かさない人なら朝から力尽きかねない運動量も、伊吹だとおまけ扱いになってしまう。
「じゃあなんで鑑賞前からポップコーンの
人差し指でポップコーンを指し示す。テーブルの上にふたつあるポップコーンとコーラの載ったトレーの内、片方は本来カップから盛り上がっているはずの部分が削り取られて、
「まあまあ、アタシの分だから関係ない関係ない。はやく行こっ! 座席までアンタの分も持っててあげるから」
言うが早いが伊吹はバッと立ち上がりふたつのトレーを左右それぞれの手で持って受付へ向かった。
「ほらほら早く! チケット持ってるのはそっちなんだから」
「はいはい」
急かさなくともまだ予告が流れてるあたりだろう。本編までには間に合う。
受付のお姉さんにチケットを見せてシアターエリア内へと進む。入ってすぐに今から観る映画のポスターが見えた。『私たち、タイが曲がっていてもヨシ!』というコピーが、笑いを誘うほどではない程度におかしい。
「6番シアター、いちばん奥っすね」
「席はどう? 混んでた?」
「最前以外はだいたい」
「あー、まぁそっか、連休中だもんね。公開終了近いしそんなでもないかなって思ったんだけど」
「『ゴールデンウィーク』って、映画会社の人か誰かが発案して定着した言葉らしいっすね」
「それなんとなく知ってる。映画会社の戦略的なやつっての?」
「つまりアタシたちは今、映画会社に踊らされてるわけっすね」
「ハロウィンもクリスマスもバレンタインもみんなそうよ。人間は踊るのが好きなの!」
変に力を込めて勢いだけで伊吹が言った。
「その『踊る』は伊吹の好きな『踊る』とは違うけど……」
「観たくて来たのは事実だし、今は踊らされてあげようじゃない。はいドア開けて~」
「はいはい……はい、お先どうぞ」
「ん、苦しゅうない」
伊吹に続いてアタシも6番シアターに入る。
「ようこそ……」
「へっ? わっ」
中に入るとすぐ目の前にお姉さんがいて挨拶してくれた。ということは映画館の人なんだろうけど、他の従業員の人とは格好がぜんぜん違っていて、ワイシャツの上に青いスパンコールがキラキラ光る、ノースリーブのブレザーにスカート姿のとてもきれいなお姉さんだった。
「お待ちしておりました」
落ち着いた低いウィスパーボイスでそう言って正面を向いたお姉さんの瞳は青く、『宝石のような瞳』という例えがしっくりくる、というか例えとかじゃなくまさにそれそのものだと思うほどにきれいだ。スパンコールの制服、頭の、これもまた青いリストバンドや薄紫色の薔薇、銀色の木の葉のブローチといった装飾たちも相まって、場違いなほどに美しい人だった。
2、3秒か5秒、お姉さんを見ている内に疑問が浮かぶ。なんでこんな仰々しい格好をしているんだろう。コンパニオンとかショウガールみたいな格好。全国規模で展開してるとはいってもごくごく普通のシネコンだ。試写会とかキャストの舞台挨拶があるならわかるけど、このシネコンでそんなものはない。従業員の平時の制服としては明らかに派手すぎるし、そもそも今までここでこんな服を着ている従業員を見たことがない。
「あの、なにか?」
「え……あっ」
制服をじっと見ていたらいつの間にかお姉さんが怪訝そうにアタシを見ていた。
「いや、こんな服着てる従業員さん見たことなかったなーって思って。あはは……」
「この姿は、
「いやいや、そんことないっすよ。お姉さんも美人っすよ。お世辞じゃなくて!」
「美人……私が……ですか? ……そ、それはありがとうございます……」
アタシの言葉にお姉さんはとても恐縮そうに両手を小さくパタパタさせながら消え入りそうな声で言った。格好とは裏腹に恥ずかしがり屋というか、奥ゆかしい人なのかもしれない。
いやそれより……さっき言った『主の意向』ってどういうことなんだろう? 主……ここの責任者のことだろうか。その人の……個人的な趣味でこの服をお姉さんに着させているってこと? だとすれば、それってパワハラ……、
「奥へどうぞ。主がお待ちです」
「えっ、主……えっ?」
頭から湧き出す疑念が当のお姉さんの言葉によっていったんせき止められた。が、なぜだ? なんでここの責任者が、ただ映画を観に来ただけのアタシを待っている? わけがわからない。
「いぶ──」
答えを知るわけはないだろうけどなんらかの反応が欲しくて伊吹に尋ねようとしたら、隣にいると思っていた伊吹はいなかった。え、なに? お姉さんスルーしてもう座席行っちゃった……?
「さあ、こちらへ……」
頭がクエスチョンマークでいっぱいのアタシをお姉さんがシアター内へと促す。とりあえず伊吹に会おうと思って、半ば混乱したまま自分の座席を目指して奥へと歩いていった。
ゆるやかな上りの短い通路を通ってシアター内に入り、見るでもなしに周囲を見やりながら座席に向かおうとしたアタシの足はそこで止まった。思わず声が漏れる。
「誰も、いない……」
座席はすべて空っぽで、どこにも人がいないのだ。通路を隔ててスクリーン手前側の座席にも、階段を上った後方の座席にも、どの列の席にも座っている人は誰もいない。
「お好きな席へどうぞ」
そんな光景を気にする様子もなさげにお姉さんが言った。
「なんで……なんで誰もいないの? 誰も……、伊吹っ……! 伊吹はどこ!?」
「……お尋ねになってることの意図が、私にはわかりかねます」
アタシの剣幕にたじろいでお姉さんは困惑した顔を見せたが、今この状況に困り果てているのはこっちだ。
「伊吹……アタシのすぐ前にいた女の子っすよ!」
「あなたの、前に……? それは、あり得ないことかと」
追い打ちをかけるような一言。アタシの前に伊吹がいたのがあり得ない? そんなことの方が、あり得ないっ!
「ここに来ることができるのは主に招かれた者だけ。招かれたのは貴方…………失礼、お名前は、なんとおっしゃるのでしょうか?」
「は?
「私は一介の従者……主も、お客様のお名前を口にすることはなかったもので……。とにかくお好きな場所にご着席頂けますか。あとは主が説明してくださるはずです」
当然そう言われて「そうですか、じゃあそうします」という気にはならない。ならない……が、このままお姉さんと問答していても埒が明かなさそうな感じだし、この人も悪気があるわけではなさそうだし……。
腑に落ちない気持をこらえ、ひとまず一応自分の取ったチケットの示す座席へ向かい、腰を下ろす。シートの座り心地に少しゆとりを取り戻して辺りを見回すと、青い……。シアター内をほのかに照らす照明、座席のシート、手すり、階段……辺り一面すべてが青かった。ここへ入ったときから違和感はあったが突然の出来事でその正体に今まで気づけなかった。こんなにも普段と違う光景なのに……。
真っ青なシアターを呆然と眺めていると現実感が希薄になって、幻想の中に入り込んでしまったような、地に足のつかない、漠然とした不安が胸にわだかまりだす。夢を見ているような……しかし意識がすぐにそれを拒む。座っているシートの感触、目に入ってくる青い光の
「では、始めましょうか」
お姉さんがそう言うと照明が徐々に光を失っていき、辺りは青い闇に包まれる。口ぶりからしてスクリーンになにかが映し出されるのは明白だ。今はそれがなにかを見届けるしかない。
いくつかの間を置いても未だわずかな光も差し出さないスクリーンの暗黒を、アタシはじっと見つめ続けた。
……………………………
………………
……。
「あのー……なにも始まらないんすけど」
「……そのよう、ですね……」
少し震えたお姉さんの声が聞こえた。どうやらいくら待ってもなにも起こらないのはお姉さんにとっても想定外の事態のようだ。
「えっ!」
そして突然短い叫び声を上げた。すると照明の青い光がじんわりと戻って、美しいままではあるものの、もはや今のアタシとそう変わらないような不安げな面持ちのお姉さんが見えた。
「……すみません」
「はい……?」
出口へ向かう通路手前で待機していたお姉さんはアタシの座る席の正面の通路まで、明らかに弱りきっている空気を出しながら早歩きでやって来た。
「
うつむきながら握った両手を祈るように胸に当て、小さな小さな声を絞り出してお姉さんが呟いた。
「はあ……?」
「誠に申し訳ありません……」
頭を下げて陳謝するお姉さん。顔を上げるとその頬は、薄暗い青い照明の下でも紅潮しきっているのがわかる。必死に謝っているところを申し訳ないけどすごい可愛いと思った。
「……で、どうすればいいんすかね? この場合……」
「はい……あの、今夜……改めて」
「はい? 夜?」
「はい、申し訳ありませんでした……。では……またのお越しをお待ちしております………………ぅぅ」
「ん? ……えっ?」
弱々しく愛らしい、憎めない呻きを最後に漏らすとお姉さんはいきなり目の前から消え、とたんにシアター内の照明の青い光も消えて辺りは真っ暗になった。
「ノゥ、キッキィ~ン!」
そして情感過多な芝居がかった英語音声が唐突に聞こえたかと思ったら、視界に映ったスクリーンの中で燕尾服姿にシルクハットを被った、顔一面が口になっているキャラクターが映画を鑑賞する上での注意を説いていた。
気配を感じて右を向くと、伊吹がいた。静かに首を動かしてゆっくりと回りを見る、当たり前のように他の観客たちもいた。スクリーンの光に照らされた座席のシートは、青くない。このシネコンでいつも無意識に見ている落ち着いたダークブラウンの色が薄闇の中で黒く覗いていた。
「どしたん?」
アタシの様子を怪訝に感じたのか伊吹が小声で尋ねてきた。ああ、間違いなく伊吹の声だ。なんでもないはずの友人の声を耳にしてひどく安心している自分がいる。
「…………」
『どしたん?』……アタシが尋ねたかった。
どう話せばいいんだろう? というか話すべきことなのかもわからない。ただ、話したところで伊吹は困惑するしかないだろう。仮になんらかの反応をしたとしてもアタシだってなにもわからないんだから、伊吹の困惑をアタシも困惑で返すしかないからどうしようもない。とか考えていると、
「あっ」
伊吹が姿勢を整えてスクリーンを見つめた。つられて頭を戻して前を見る。
文字が目に飛び込んできた。いつのまにか幕間が終わって映画本編が始まろうとしていた。今の気分で楽しめるとは思えないけど、別に今すぐここを出たいわけでもない。口惜しいけどこの上映時間が、さっきのわけのわからない出来事について、整理できる気がしない頭を整理してみようとする時間になってしまったのを確信した。
*
……はずだったんすよね。
「いや~、さすがにマシンガン万能過ぎたでしょ、後半もう他の武器使わないでずっとマシンガン無双だったし。あとスカートの中からロケットランチャー出したときは笑いこらえるの大変だったわ」
「カオスだったっすよね……。暗黒弓道部の使う武器が普通に拳銃だったのもなかなかツッコミどころだったし」
「ねー。『弓矢じゃないんかい』って後ろの方で誰かボソッと言ってたよね」
「挙げ句の果てにはヨーヨーでビーム竹刀と渡り合うし……なんだかんだ面白かったっすね」
「ダンスシーンもよかったしね。歌だけかなと思ってたら踊るのもイケるんだね、
「詳しくないけど、そうみたいっすね。ドレス系の衣装でちょっと振り付けやって、メインは歌、ってイメージだったけど」
あれほど忘れ難かったはずの不可思議な出来事への不安感はどこへやら。映画が始まって10分もするとスクリーンに集中、そして観賞後には伊吹と昼食をとりながら感想を語り合っている自分がここにいる。あのときの感じが残ってないわけではないけど、まさかの心はすっかり日常に戻っているという奇跡。我ながらいい加減なのか器が大きいのか。ここは後者ということにしておこう。
「あの子『
「すれ違ってたからって、なにって話でもないすけどね」
「それはそうだけどさ、ロマンよロマン。『星のかけら』がアタシらの近くにあるなんてロマンチックじゃない?」
「それはそうすけど、その呼び名を最初に発言した人が相当なロマンチストだと思う」
「ハハッ、かもね♪ まっ、アタシら『ガラスの破片』にはロマンもへったくれもありゃしねーぜっ!」
どことなく芝居がかった動きでポテトをつまみながら伊吹が言う。
実際そのとおりなところはあって、近くに芸能系のお嬢様学校『星祈女学園』があることは、アタシたち『シンデレラ女子高等学校』に通う生徒としてはちょっとしたときめきを感じないこともない。
星祈に通う芸能人の卵たちは、誰が言い出したか『星のかけら』と呼ばれ、その星祈の近くというあおりを受けてなのか私たちデレ高の生徒はシンデレラのガラスの靴にちなんで、これまた誰が言い出したのか『ガラスの破片』という呼び名が生み出され、それなりに広まっているものの、こちらはロマンを感じるには今ひとつの響きだ。そもそも華のある星祈に対して芸術系の分野にやや力を入れていること以外はごくごく普通のデレ高、という学校間の対比のためにつけられた呼び名だろうからアタシたちは
「でもポジション的には『星のかけら』ではないよね。普通に売れてるっぽいし」
アタシの脳内の『ガラスの破片』考案者についての軽い愚痴など当然聞こえていない伊吹が言った。
「うん。芸能人の卵って感じではないっすよね」
主に昭和から平成初期にかけてのアイドルや歌手のような楽曲に立ち振舞い、そして心情を掲げて登場した令和のアイドル長富蓮実は、往時を知る人からすれば少なからず馴染みのある、アタシたちからすればどことなく滑稽な感じがありつつも他にはない異質な雰囲気で目を惹かれる存在だ。特別ファンというわけではないけど、電子媒体主流のこの時代にCDはともかく、ファングッズとしてとはいえカセットテープやレコードといった物理媒体でも発表した楽曲を販売していることや、ネットではなくAM/FMラジオに自身の番組を持っていたりと、周囲の世代の近いユニットやアーティストとは少し違う流れを汲んだ活動スタンスが話題となって今やちょっとしたムーブメントの渦中にいる現役女子高生アイドルなことはアタシも知っている。少し前から女優業も始め、親日家で、とりわけ昭和文化びいきのアメリカ人監督によって製作された、さっきまで伊吹と観ていた映画『傷だらけのセーラー服』で初主演を務めたことがここ最近での彼女に関する大きなニュースだ。
「今のこの人気ぶりでも学校って通ってるんすかね?」
「うーん、どうだろ。だったらもうちょっとアタシらの回りでなんか騒がれたりしてそうなもんだけど」
「特別そういうのは聞かないっすね」
「まあメチャクチャ夢中ってわけでもないからアタシらが知らないだけかもだけど。この後どうしよっか?」
最後のフライドチキンを手にしながら伊吹が言った。映画は12時前から2時間半。いつもどおりに朝食を食べてから映画が終わるまでにお腹に入れたものはポップコーンとコーラのみ。それら抑止力にもならない間食を挟んでからシネコンを後にして、向かいに建つジュネスのフードコートへと訪れた空腹のアタシたちのテーブルに広がっていたはずの大量のフライドチキンと中量のポテト、それと極少量のサラダは実にあっさりとなくなってしまっていた。
「ふうぅ~、我ながら女子が外で食べるのにあるまじき量、食べた食べた♪」
満足げに紙ナプキンで指の油を拭き取りながら伊吹が言った。テーブルの上には確かに女子ふたりの食事痕にしてはおびただしい数の鶏の骨が真ん中の1枚の大皿に、こんもりとまとめられている。
「どっか行きたいとこある?」
「う~ん、そうっすねぇ……あ、アヤさん」
午後のプランを、見るともなしに辺りを見回しながら考えようと視線を周囲に巡らせたら、大きなお椀の載った食器トレーを両手で持っているアヤさんが見えた。どうやら屋外のイートスペースから来たようだ。
「ちょっと呼んでくる」
伊吹もアヤさんを見つけると、席を立ってそっちに向かっていった。少し会話を交わしたような動きの後、アヤさんがこっちを見た。いったんアヤさんがその場を離れて食器を戻す、それから伊吹を伴ってアタシの前にやって来た。
「オマエらもここで昼メシか……って、うわ、すっげえ骨の量」
テーブルの上の大皿を見てそう言い、それから席に着いた伊吹を見て、促されるともなしにアヤさんも座った。
「女子ひとりで堂々と屋外スペースで大盛りチャーシュー麺食べてたやつに言われたくないよっ」
「ハハッ、にしてもこれはスゲーよ」
からかうように伊吹が言ってもアヤさんは特に気にする様子はない。
「遅い昼食だったんじゃない? アタシらは映画観てたからあれだけど。なにしてたん?」
「ジョギングしてたらなんとなく
確かにアヤさんの言うように、下は黒地に白い縦ラインの入ったスウェットパンツ、上はところどころ『Beast』とか『Survive』といった英単語が血文字風のフォントで入っている黒のパーカーに若干灰がかった白のランニングシューズという、明らかにトレーニングウェアといったような出で立ちだ。
「見てわかるけど一応ね。もう、そんな華のないカッコで大盛りチャーシュー麺すするJKがどこにいますか!」
「オマエだって、こないだ放課後いっしょに牛丼屋行ったろ。それとどう違うんだよ」
「ぜんぜん、ちがーうっ! あのときは制服だったでしょ。女子高生の制服はどこでも華があるから許される、いわば免罪符! 免罪符コーデなのよ!」
「どんなコーデだよ……」
半目でアヤさんがぼやく。からかいたい一心から伊吹は色々言ってるけどアヤさんの格好は、華はないにしても脚が長いこともあってなかなかクールに決まっていると思う。
「アヤさんはこれからなんか予定あったんすか?」
「いや、特にはないけど、どっかで遊ぶならいったん帰らせてくれよ。シャワー浴びてぇ」
「そういうことならとりあえず戻りますか。道中の警護は女子力ナッシング用心棒のアヤくんに任せた!」
相も変わらず、からかいモードの伊吹の口がよく回る。
「……こん中じゃ、アタシがいちばん背低いんだけどな」
アヤさんがポツリと言った。それは意識したことがなかったからちょっと意外な事実だった。
*
門扉を開け寮の入口まで3人で少し歩いたところで、
「おかえりなさい。早かったですね」
「や、アヤさんと合流したんでとりあえずいったん戻ってきたんすよ」
「用心棒から休日の乙女にクラスチェンジさせにね」
「まだ言ってやがる。ちゃちゃっと着替えてくっから、それまでにどこ行くか考えとけ」
そう言ってアヤさんは玄関の自動ドアを通ってひとり寮の中へと戻った。
「また出かけるの? お昼は食べた?」
「食べた食べた! 映画観賞で空っぽになった胃袋に鶏肉をもう、詰めた詰めた!」
満ち足りた顔の伊吹のその発言に、海ちゃんと響子ちゃんの目がわずかに鋭くなった……!
「鶏肉ねぇ」
「鶏肉……フライドチキン、ですね?」
「え? いや、うん、そうだけどね? でもポテトとサラダも食べてるし?」
しまった、とでも言いたげな視線を一瞬こっちに送ってから伊吹は取り繕った。嘘ではない。サラダも食べた。極少量だけど……。
「もっとバランスを心がけましょうって、私も海さんも日頃から言ってますよね?」
「だからサラダも食べたって!」
「どうせチキンの1/10くらいの量だろ」
海ちゃんがズバリ言い当てた。このふたりには、どこかに不摂生を検出するセンサーでも付いているのだろうか。
「今晩は唐揚げにしようと思ってたのに……」
「いいよいいよ! 問題ナシ! 唐揚は別腹だし! カラアゲ・イズ・ゴッド!」
「問題あります! 幸い買い出しはまだしてませんから、お肉以外にメニューを変えましょう」
「えぇ~……キョウコチャンノカラアゲ……」
伊吹が名残惜しそうな鳴き声を上げた。
「なににしましょうか海さん」
「あー、そういやひじきがいっぱいあるんだよ。サラダにでもしようか」
「はあ~!? 唐揚げの代わりが、ひじきのサラダぁ!? おかしくない!? 等価交換の法則から逸脱してんじゃん!」
「一品だけじゃないっての。それに……文句あるなら自分で買い出しして作ったらどうだ? ん?」
「……サーセン」
さすがに作ってもらう側としてはそれ以上強く言えず、伊吹はしおらしくなった。アタシとしては唐揚げは惜しいものの問題はない。このふたりならなにを作っても美味しいし。
「……じゃあ、買い出し手伝うよ。別にいいよね、沙紀?」
「かまわないっすよ」
「なんだ伊吹、珍しいね」
その言葉のとおり、物珍しそうな顔で海ちゃんが伊吹を見ている。
「別に。予定があったわけでもないし、少しは手伝わなきゃね。あっ、アヤ待たなきゃ」
それから1分ほどでアヤさんが戻ってきた。いつも着ている赤いパーカーにジーンズ姿で、伊吹の言っていた『休日の乙女』にクラスチェンジしたとは言い難い。
「結局いつものカッコかいっ。ま、いいけどね。予定、買い出しの手伝いになったから。いいでしょ」
「ん、そうか、いいぜ。海にも響子にも世話になりっぱなしだからな」
大きく伸びをしてアヤさんが言った。それからふたりが掃除用具を片付けるのを待ってから5人で連れ立って最寄りのスーパーへ向かった。
*
夕食を終え、後片付けの手伝いも終えて食堂から出ていく頃、アタシに急な変化が訪れた。
「沙紀……なんかフラフラしてない?」
目ざとく……いや、はっきりと動きに出ているのだろう。伊吹がそれに気づいた。
「いや……なんか、すごい急に眠くなってきて……」
急な睡魔の到来。片付けのときに来ていたら食器を落としていたかもしれないほどの眠気に襲われている。寝るにはまだ早い時間だ。でも……眠い。
「そんな映画疲れた?」
「そうなんすかね……」
確かに映画で疲れた可能性は高い。正確に言えば、映画を観る前に起きた出来事で、だけど。そういえばあのときお姉さんは「今夜改めて」と言っていた。ということは今もシアターにいるのだろうか? 営業時間内だからいてもおかしくはない。おかしくはないけど……あの出来事自体は、おかしかった……。
「まあゴールデンウィークは明日までだし、今日はさっさと寝て最終日を満喫したまえよ」
「そうする……」
空返事で伊吹と別れ、部屋へとやや不安定な足取りで向かいながら今日何度も考えたことをまた考える。
あの出来事は、なんだったのか。夢ではなかった、と思う。でも現実でもなかったとも思う……。
伊吹と別れ自室に戻ってひとりになると、お姉さんとのやり取りが思い出されてきて気になってしょうがない。もしアタシのことを待っていたら……? 時計を見ると20時12分。門限の22時にはギリギリ間に合いそうではある。そんなことを考えてしまう。でもこの眠気で出かけるのは無理なように思える。それに、もし万が一にも待っていたとしてもお姉さんに義理はない。申し訳なさがないわけではないにしても行く理由にはならない。
……いや、本当のところ、この不思議な出来事の解明のために行きたいと思う気持ちはある。でもそれが理解できたとして……いったいなんなんだ? いやだからそもそもあれは現実だったのか夢だったのか。なにがアタシに起きたのか……知りたくは、ある……。けど……それも今は……眠いから……無理……じゃん……。
もし……あれが夢だったなら、夢でまた会える……かも………………。
好奇心が湧きつつも、アタシのなけなしの気力はシネコンに向かうのではなく、ベッドに倒れ込むために振り絞られた。
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The Dessert:Harmony in Blue
スクリーンに真っ白い背景に黒字で文字が映し出されている。“
ここは……シネコンだ。なぜまたここに? アタシは……そう、寝たはずだ、自室で。シネコンに行ったのは今日の朝から昼……いや昨日? 今何時だろう? いずれにせよ部屋で倒れるように寝て、目覚めたばかりの今ここにいるのはおかしい。
寝起きの脳をなんとか回転させながら頭を動かして回りを見る。そして目に入ってきた風景に思わず身体が強張った。
スクリーンに照らされた青い通路、階段、座席郡……。あのとき伊吹も他の誰もいない、謎のお姉さんとふたりだけになったときの青い空間……。
胸に嫌な気持ちが広がっていくのをはっきり認識した、その瞬間、スクリーンが画を変えた。一人掛けの真っ青なソファーに足を組んで座っている女性がこちらを見ている光景が映し出された。鮮やかな黒い長髪、目尻の下がった大らかさとミステリアスな印象の混じった瞳に、彫りの深いエキゾチックな顔立ちから浮かぶアルカイックスマイルがセクシーな美女だ。
「ようこそ……『ベルベットルーム』へ」
彼女がそう言った。低めで艶のある優しい声。だけど現実離れした空間も相まってか画面越しと思えないような存在感を、声からも姿からも発していた。
「…………なんなん、すか? ここは……これは?」
心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、スクリーンの中の美女にしどろもどろで思わず声をかけた。
「ここは“契約”を交わした者、あるいは交わすであろう者のみが訪れる、夢と現実、精神と物質の
「……はい?」
納得のいく言葉をくれるとはぜんぜん思ってなかったが、それにしてもこんなに理解に苦しむことを言われたのは初めてだ。
「安心なさい。あなたが今、自分の身に起きていることを即座に理解できるなどとは思ってないわ。それにあなたが欲しがる答えをこの私が持ち合わせているとは限らない。そもそも今夜、この邂逅に答えなどというものはあるのか……」
アタシにも自分自身にも言い聞かせるように、演劇の独白シーンめいた調子で美女が言葉を続ける。
「しかしこれだけは覚えておきなさい。あなたは近々“契約”を結ぶ。その先に待つ、望むも望まぬも関係なく訪れる、あるひとつの運命のために。今のこの時間は、さしずめ顔見せのようなものね」
「顔見せ……?」
「そう。近い将来、私たちと密な関係を結ぶことになるであろう、そのときのための」
「私たち……」
「そう、私たち……この慌てんぼうの従者にはもう会ったでしょう?」
美女がそう言って視線を横にずらすと、そこにはいつの間にか、昼間シネコンで会った例のお姉さんが音もなく佇んでいる姿が映っていた。
「…………先刻は、その……申し訳ありませんでした」
口を開いたお姉さんは、昼間に別れたときのような弱りきった感じではないものの、ばつが悪そうに言葉を詰まらせた。
「はあ、どうも……。あの、で、昼間のあれにしても今のこれにしても、なんなんすかねこれは。夢と現実の狭間とか……」
「きわめて簡潔に申し上げると、この『ベルベットルーム』は、いわゆる異空間のようなもの……ここへ訪れることができるのは限られた者のみ……それが吉岡沙紀さん、あなたというわけです」
「そしてその限られた訪問者を招くべき刻を誤ったのが
「……………………はい」
平静に努めようしたところに被せて美女がからかう。そんなことを言われたお姉さんは声だけでなく身体まで縮こまらせてまたしょげてしまった。
「気に病むことはないわ文香。むしろ私はこう考えている。先刻のあなたの間違いが、“契約者”沙紀の抱える運命によって引き起こされた、『
「『
「イエス! セレンディピティ!」
「……その出会いは、いったいなにを意味するのでしょう?」
「知らないわ!」
「…………」
「…………」
「いや、なんでそこでふたり揃ってこっち見るんすか!?」
こっちに期待されても現状をいちばんわかってないのはアタシなのに。しかし美女が言うには、昨日のあの出来事はアタシによって引き起こされたものらしい。
「わからないというものは面白いものね、沙紀」
「へ……?」
「時をも忘れるほどの永劫を佇むに任せるこの青の部屋の住人に
美女はそこでいったん話を区切ると組んでいた足を優雅に揃え直し、ソファーから静かに立ち上がってスクリーンを見つめているアタシの目を見つめ返した。熱い。その場にいるような、生きた人の視線を確かに感じる。
「すべて哲学者は、愚者からその身を起こす。
難解そうなことをひとしきり述べ、それを成し遂げる人物はこのアタシだと美女が言う。なんというか壮大すぎて、雲を掴むような話だ。というかこっちはなにを掴んでいるのかさえわかってない。彼女たちはアタシになにを求めているのか……。
「いや~なにがなんだか。お姉さんたちの言ってること、さっぱりっす……」
「……なにかが起こります」
「え」
「ひとつ確かなことは近い未来、沙紀さんの周辺でなにか特異な……非日常的なことが起こる、ということです」
意を決したように青い瞳でまっすぐこっちを見てお姉さん……文香さんが言った。
「……なんでそんなことがわかるんすか?」
「起こるからこそ、私たちとあなたはこうして出会ったのです……きっと」
実に説得力のない言葉……なんだけど、文香さんにそう言われると捨て置けないものがある。嘘を言わなそうというか、嘘をつくのが下手そうな印象があるからだろうか。
「信じるも信じないも時が来ればわかること。『なにかが起こる』、今はそれだけ頭に入れておきなさい……さて、今宵はこれにてお開きというところかしらね」
美女がそう言うと、まさに映画の終わりのようにスクリーンの映像がフェードアウトしていく。
「ちょ……これ、どうなるんすか!?」
「心配せずとも戻れるわ。日常……運命の時を控えた日常、にね」
含みはあるが元の世界に帰れるようだ。いったいどんな原理なのかはまったくわからないけど……そうだ。
「お姉さん、名前は……?」
暗転しきってないスクリーンからわずかに見える美女に尋ねた。
「フフッ、私としたことが名乗るのを忘れてしまっていたようね。では……それは次回に取っておきましょう」
美女はそう言って笑うと目を閉じた。直後、画面は暗転を終えた。黒くなったスクリーンから発せられる光だけがこの青い空間を照らして……
「ヘレンよ」
「へ?」
急に画面に再び美女がアップで映り、一言だけそう言うとまたスクリーンは急速に暗転していった。
「………………」
そしていつの間にかアタシは横になって自室の天井を見るともなしに見つめていた……。どうやら『戻った』ようだ。
「……言ってんじゃん」
かすれた声で力なくツッコむ。ご丁寧に字幕まで表示されていた。その映像の記憶も睡魔によってやがてぼやけていった──。
*
5/6 MON
かれこれ40分くらい、なんとなく訪れた談話室のソファーでボーッとしている。
昨夜の夢……とは言ってみたけどおそらく違うのだろう。夢と現実の狭間にあるという異空間『ベルベットルーム』、そこで再び出会った『文香』さん、そして『ヘレン』と名乗った美女、契約……なにかが起こる……。
「ひと夏の冒険の始まり……みたいな?」
自分で言っといてなんじゃそりゃ、と思う。でも現に自分の身に、サマーシーズンに公開されるジュブナイル映画の導入のような展開が起きたのだ、そんなひとり言も出てくるというものだ。春だけど。
「なーにしてんの? 最終日はダラダラ?」
不毛な考えごとを止めてくれたのは
「なに? 急にニヤニヤと」
「や、ちょうど夏のことを考えてたんすよ。そこにそんなシャツ着て出てきたからクスッときて」
「ありゃ、謎シンクロしちゃったか、ってもう夏休みの計画? はやいねー。過ぎゆくゴールデンウィークを惜しんでる内に次の連休が恋しくなっちゃった?」
「そうではないんすけどね……てかそれは朋ちゃんじゃ?」
「あたしのこれは本日のラッキーカラー! それに連休中だし、バケーション感の演出も兼ねてよっ!」
拳で胸を軽く叩いて朋ちゃんが得意気に言った。
「さらに体内にもラッキーカラーを仕込むべくオレンジジュースを買いに来たら、上の空~って感じな沙紀ちゃんが目についたってわけ」
体内にラッキーカラーを仕込むとは恐れ入った表現だ。アタシ、そんなにぽけーっとした感じになってたのかな?
「昨日、占い師……らしき人に『近々非日常的なことが起こる』なんてことを言われたもんで。なんか夏休みシーズンにやる映画みたいな話だな~って、ぼんやり考えてたんす」
「なにその曖昧かつやたらと気になる鑑定はっ!? それに占い師らしき人ってのもなに!? 二重にうさんくさい!」
嘘をつこうとしたわけじゃないけど、なにぶん不可解の塊のような体験をそのまま喋っても信じられない、というか信じる・信じないに関係なく込み入った話になってしまうと思った結果、占い師らしき人、なんてこれまた話を複雑にさせそうなワードが口をついて出てきてしまった。
「それってあれ? ちょっと強引な客寄せして無料で占っといて不安を煽るような結果言ってからの、詳細やアドバイスに関しては有料になりますとか、このネックレスを買うと災禍を回避できますお値段なんと今なら~って方向の話に持っていくタイプの、占いの皮を被った邪悪ななにか的なヤツ?」
少し早口で朋ちゃんが言った。占いを愛する人間としての
「いや、そういうヤツではなかったんすけど、『具体的なことはわからないけど、とにかく起こるんです』、みたいな感じでまっすぐこっち見て言われて」
このことは文香さんにもヘレンさんにも言われたことだけど、そういうことまで説明しだすと話の腰を折ったうえに朋ちゃんとの会話に混迷をもたらすことになると思われるので、今はとりあえずミックスしてひとりの人間から言われたことにしておくことにした。
「捨て置けない言い方ね~」
「またその人が嘘つかなそうな、嘘つくのが下手そうな見た目というか空気を醸し出してて……」
「ますます捨て置けないわね~。それってその占い師……らしき人に突然呼び止められてそう言われたような感じ?」
「そんなところ……っすね」
まあ実際は呼び止められたというか、招かれたわけだけど。異空間に。
「あとアタシが、なんでそんなことわかるのって言ったら『起こるからこうして私たちは出会ったんだ』みたいなことも言ってた」
「おお~、それはビビっとくるセリフね。うーん、なるほど……」
朋ちゃんはそこで考え込むように遠い目をした。少し間が空いて、それからまた口を開いた。
「キャッチとかでないとすると……その人、かなりのオーラの読み手なのかも。純粋に沙紀ちゃんからとんでもないものを察知したから思わず声かけて、でも解決法までわかるわけじゃないから、とにかくなんか起こるわよってことだけ伝えて警告してくれたのかも……他になんか言われたりした?」
「えーと……なんか、哲学者はみんな愚者から始まって……うんぬんかんぬん、的な……難しすぎて忘れちゃった。なんか複雑な例え話みたいなことを。でもってアタシもそのうちのひとり、みたいなことも言われたっす」
「アンタがぁ~? 哲学者? 言われたの? なにそれ。教科書載んの? これからはソクラテス、プラトン、アリストテレス、サキなの?」
「うおっ」
唐突にわけのわからない、いや、わけはわかる。ノリだけで喋ったということだ。伊吹がいつの間にか横にいた。
「ヤース!」
謎言語による挨拶をしてから隣に座ると伊吹は、「で、なんの話?」と臆面もなく言ってのけた。まあ途中参加で内容を把握できるような話じゃないからそのあたりはいたしかたない。
「かいつまんで言うなら、沙紀ちゃんが謎の人物から意味深な警告をされたってこと……気になるわね~。あたしも探ってみたい、沙紀ちゃんの運命! ちょっと待ってて!」
ざっくばらんな説明に要領を得ないままの伊吹をよそに、朋ちゃんが談話室を出ていく。口ぶりから占いの道具を取りに部屋に戻ったのは明白で、伊吹もそれはわかっているようだった。
「今日はどっか行かないの? もう行った?」
「んーん、予定も別に。伊吹は?」
「アタシも予定なしだけどヤバい。寝てた。さっき起きた。絶望。お腹減った」
絶望って。まだお昼前だし出かける時間自体はあるだろう。でも連休最終日をダラダラ寝て過ごしてしまったときの喪失感はわかる。
「お昼は食堂として、出かけるならそれからっすね」
「だね。で、意味深な警告ってなによ?」
「『これから非日常的ななにかが起こる』って言われたんす」
「意味深ってより雑なだけじゃね、それ」
「まあ詳細まではわからないってのが本人の弁なもんで」
「なんなのよその人。男? 女?」
「大人しそうな女の人っすよ。歳もアタシらとそんな変わらなそうだった感じの」
「へぇ~っ。それでわざわざ話しかけたってことはホントにスピリチュアルな人だったのかな。ま、他言可能な結果だったら教えてね。気になるし」
「あたしにもね! 内容がわかれば細かいアドバイスできるかもだから!」
朋ちゃんが戻ってきた。が、「もうちょい待って」と言ってまたどこへ行くのかと思ったら、談話室の隅に設置してある自販機でジュースを買った。
「さてさて、始めますか」
ガラステーブルにカルピスのペットボトルを置き、朋ちゃんはアタシたちの対面にふたつ並んだ一人掛け用ソファーのうちのひとつに腰かけた。
「オレンジジュースはやめたんすか」
もともと朋ちゃんはここに本日のラッキーカラーのオレンジジュースを求めて来たはず。
「沙紀ちゃんを視るからここは沙紀ちゃんのラッキーカラーの白にあやかっておくことにしたの! ちなみにあげるわけじゃないわよ?」
「あ、うん。ご心配なく」
アタシの今日のラッキーカラーは白らしい。他愛ないやり取りのあと、朋ちゃんはショートデニムのポケットから小さな箱を取り出し上部を開けて、その中からさらにカードの束を取り出した。
「じゃ~ん! 先月発売したばかりの小さくて持ち運びに便利なポケットタロット~!」
まるでひみつ道具を取り出したような仕草でカードデッキをアタシたちの前に差し出してみせた。
「さて、未使用だったこの子たちの記念すべき初仕事。まずは優しくシャッフルいたしまして~……」
喋りながら手際よく朋ちゃんはデッキをテーブルに置き、そこからぐるっと時計回りにカードの束をドーナツ状に展開してから細心の注意を払いつつ無造作にかき混ぜていく。そして適当なところでその作業を切り上げカードをまたひとつの束に戻し、それを手に取ってそこからさらに数回シャッフルしてテーブルに置き直す。
「それでは吉岡沙紀さん。あなたの直近の運命をスリーカードにて占うと致しましょうか……」
かしこまった口調で朋ちゃんが山札の上に右手を添えた。普段かしましい朋ちゃんが厳かな雰囲気を醸し出そうと自分なりにかしこまってみようとするこの瞬間の空気感が、わけもなくけっこう好きだったりする。
「今からめくる1枚目、これは現在のあなたを象徴するカードです。では……」
ゆっくりとした手つきで横にカードをめくり、山札の右斜め前にそっと置いた。
「『愚者』の正位置……沙紀ちゃんが占い師らしき人に言われたことの中にも出てきたわね」
現れたカードを手に取って眺める。左上に『THE FOOL』と表記された、古代ギリシャ、でいいんだろうか。片方の肩があらわになっている白いローブ姿に、頭にはなにかの花冠を被った、どこか呆けたような表情をした青年が、明らかに自分の身体のサイズに合ってない小さな三輪車に乗って虹を渡っているというコミカルな絵が描かれている。背景には雲と青空が広がっていて、雲のうちのひとつは青年の後ろをついていこうとする犬のように見える形になっている。ヘレンさんが言ってた『すべての哲学者は愚者から始まり~』の愚者とは、タロットカードの『愚者』のことなのだろうか?
「『愚者』の正位置の意味するところは『新しい始まり』、『旅立ち』、『自由』、『独創性』なんかね」
「『新しい始まり』って、自称占い師のお姉さんが言ってた、なんか起こるよっていうのに該当することになるんじゃない?」
別に文香さんもヘレンさんも占い師を自称してたわけではないけど、伊吹の言うとおりタロットの暗示と彼女たちに言われた言葉は噛み合うところがある。
「とりあえず現状は例の人の言うとおりだったとして、次はその『非日常な出来事』がどういう類のものか、これを探るわよ!」
朋ちゃんに視線で促されて、持っている『愚者』のカードを元の位置に向きも同じ正位置、つまりアタシから見てタロットの絵が逆さまになるよう戻した。
「そいやっ!」
さっきまでのかしこまった姿勢はどこかに行ってしまったようだ。朋ちゃんは
「これって……『塔』、だよね。あちゃあ~、やっちゃったね沙紀」
他人事のように、ってそうなんだけど、伊吹がどこか楽しそうにそう呟いた。
「『塔』の正位置……ね」
「『塔』って正位置でも逆位置でも悪い意味しかないだいぶアレなカードなんでしょ、たしか」
“だいぶアレ”という言い方もなんだけど、朋ちゃんからタロットの話を聞いたりしてきたのでアタシも伊吹もいくつかのアルカナについてはそれが持つ意味を何個か知っている。その中でも『塔』は、向きに関係なくネガティブな意味ばかりを示すこともあって印象深いカードだった。それがここで出てくるなんて……。
「つまり、アタシが言われた『非日常的なこと』っていうのは……」
「『塔』の意味……『破壊』、『破滅』、『崩壊』、『災い』、『惨劇』……」
「うわ……なにその、ろくでもないこと詰め合わせギフト」
なにがギフトか。そんなもの贈られた方は迷惑でしかない。というか改めて聞くとホントろくでもないことしか示してないな、『塔』。
「まあまあまあまあ! 出ちゃったものはしょうがないとして!」
その場を取り繕うように朋ちゃんがわざとらしく大きな声で喋りだす。
「ラストのカードはこの出来事についての『対策』っ! それを導き出すわよ! 今から現れるカードの
言った。今言ったね朋ちゃん。「たぶん」って。
なんだか思いがけず話が大きくなってきた気がして、結果がよくないのにも関わらず気分は変に高揚している。朋ちゃんに消え入りそうな声で「たぶん」と言われようともポジティブ・シンキング。よくない結果に飲み込まれまいとする心の持ちようこそが、いちばんのお守りになるのだ……たぶん。
「じゃあ……いくわよ?」
朋ちゃんが山札の上に手を乗せる。さっきまではなかった謎の緊張感が朋ちゃんから出ている。思わずアタシもなんだか全身に力が入る。伊吹は単純にワクワクしながら結果を心待ちにしていた。
「それぇっ! ぇええぇぇぇぇええええええええええっ!?」
カードをめくった瞬間、信じられないといったような、しかしトーンとしてはなんとも間抜けそうな朋ちゃんの叫び声が談話室を支配した。しかしそれもそのはず。
「………………は?」
アタシも口を開けて、朋ちゃんが『塔』の隣に置いた3枚目のカードを呆然と眺めていた。それは……
「ああぁーっ! また『塔』じゃん! すごっ!」
状況をわかっていなさそうに伊吹がアタシと朋ちゃんを交互に見ながら驚いている。
3枚目のカード──夕焼けの空の下、崖っぷちに建っている古びた監視塔に雷が落ちている。見張り台の手すりには、人間の手らしきものが力なくぶらんと下がっていて、指先のあたりにはなにかが焼け焦げて灰になったものが舞っている。そこからさらに下には、仮面舞踏会なんかで用いられそうな、目の回りだけを覆うタイプの金色の仮面、なにが書いてあるかまでは判別のつかない紙の束、蓄音機、小ぶりのシャンデリア、そしていくつかの歯車、それらが監視塔から崖下へと真っ逆さまに落ちていく様子が描かれており、カードの左上には『THE TOWER』という文字──。
それは紛れもなく右隣に置かれた2枚目のカードとまったく同じ絵柄だった。違うのはその向きだけ。こっちの『塔』は最初に出た方と違って、アタシから見てそこに描かれているものをそのまま素直に見ることができる向きで置かれていた。それはつまり『逆位置』を意味するということだ。
「というかなんでぇ~? なんでそもそも『塔』が2枚入ってるのおぉ~?」
「そうっすよね……」
もはや占いどころじゃなさそうに
「え、なに? なんかおかしいの?」
一方、伊吹はアタシたちとは別の形で困惑していた。
「タロットカードのデッキに、同じカードは普通入ってないはず……。それぞれ全部1枚きりで組まれたもの……の、はずっす」
「あ、そーなん」
実にあっさりと理解してくれたようだ。アタシもタロットに詳しいわけではないけど、朋ちゃんの慌てぶりを見る限りではそういうことのはずだ。
「他にダブってたり、逆に抜けてるカードはなかったわ。『塔』だけが2枚入ってたみたい……」
「要は不良品ってことすか? 余計に多く入ってる分には平気だけど……」
「うん。使うのには問題ないけど……使ってみた結果はとんだ大問題ね……」
朋ちゃんは立ち上がると手持ち無沙汰に余分な『塔』のカードを指先でくるくる
「盛り上がってるとこ空気読めない感じでなんだけどさ」
「なに?」
「そろそろ行かない? 食堂」
前置きしてから伊吹が少し申し訳なさそうな顔をして言った。壁に掛かった時計を見ると、いつの間にかもう正午を回って12時40分になっていた。
「あれぇ? もうそんな経ってたの? 腹が減ってはリーディングが出来ぬ。気になる続きは向こうで! しまってくるから先行ってて」
デッキを箱にしまい、少し汗をかいたカルピスを手に取ると、朋ちゃんは先に談話室を出ていった。
「面白くなってきましたな~♪」
「面白いは面白いけど……なんかなぁ」
占われた当事者としては腑に落ちない。事の発端に比べればささいなことだけど、そもそも事の発端があるからこそ朋ちゃんの占いが始まったのだ。
とにかく話さないことには、そしてお腹を満たさないことには始まらない。アタシたちも談話室を後にし、食堂へ向かった。
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Jive Talkin'
口に運んだ天ぷらうどんのイカ天を飲み込んでから素朴な疑問を朋ちゃんに尋ねた。
「さっきの占いの結果は、“行き”なんすか? いちおうカードに問題があったわけっすけど……」
「それ! それなのよね~、それを考えてたのよ。本来なら出るはずのないカードが出たわけだから、あたしのリーディングの腕前以前に、あれは適切な診断結果とは言えないんじゃないかって」
ナプキンで唇のミートソースを拭いて麦茶を一口飲んでから、待ってましたな感じで朋ちゃんが言った。
「でも、あたしはあれを“正しい”結果だと解釈することにしました」
「……そりゃまたなんで?」
「さっきのあれでいちばんおかしかったのは『塔』が2枚出たってことなわけだけど、他にもおかしいところはあったのよ」
そこまで言ってから、巻きすぎてそこそこ大きな塊になったパスタを頑張って頬張る朋ちゃんに合わせるようにこっちも食事を進めた。特に口を挟むこともなく淡々と話を聞いていた伊吹は、すでにメインの和風ハンバーグを食べ終えて、少し余ったおろしダレでサラダを和えていた。
「んグッ……。まずね、そもそも『塔』が2枚入ってたことのあり得なさについてなんだけど、これがもうホントにあり得ないわけよ」
「封入ミスだったわけっすからね」
「それもあるけど、あたしね、このタロットをリーディングに使ったのは今日が初めてだけど、中身はとっくの前に見てるわけよ。わかる?」
「……それも、そっすね……」
「今日買ってきたばかりのものじゃないし、占いには使ってなくてもカードを眺めたりはしてるわけ。1枚1枚手に取って、描かれているものの意味を解釈したり、単純に絵そのものを楽しんだりして。もちろんせっかく買ったんだから一度きりしか見ないなんてこともないし……。何度か眺めてるのよ、このデッキ。それなのに1枚余分に入った『塔』を見落とし続けるなんて、まったくあり得ない話ではないけど普通に考えたらないと思うでしょ? ましてやそれがリーディングに使ったとたん判明する。それにリーディングの対象者……沙紀ちゃんが、占い師に言われた言葉に含まれてた『愚者』も出てきてるし、おまけに言ったらその3枚は全部大アルカナなわけでしょ。タロットデッキの大アルカナ22枚と小アルカナ56枚って構成で、2倍以上枚数のある小アルカナがまったく出ないで大アルカナしか出てこないなんて……劇的過ぎるのよねぇ」
「そうは言ってもさ、起きないわけではないじゃん? 確かにさっきのあれはビックリしたけど、スロットでスリーセブンが揃うとか宝くじの1等に当選するとか、滅多に起こることではないけど、現に当たった人はどこかにいるわけじゃない? そういう“とんでもないバカヅキ”ってだけの話じゃない?」
ひと足早くすべての料理を平らげた伊吹が言った。
「そのバカみたいなツキが……これはあたしの直感なんだけど、なんていうか、意図的に起こされた感じがするのよ」
「は? ……いや、どうやってよ?」
「それがうまくは言えないわけよ……。例えばね? 不思議な力を使えるなにかがいたとして、その力でこのリーディング結果をもたらして……」
そこで朋ちゃんは急に黙ってしまった。
「なによ? 言ってる途中で妙なこと言ってるって気づいた?」
「妙は承知の上で言ってるわよ……なんなんだろう?」
話を聞きながらアタシも食事を終えたが、朋ちゃんの言ってることの謎さに満腹感よりも違和感を覚えていた。
「えっとね、なにがしたいんだろうって思っちゃって。意図的にそんなことを沙紀ちゃんにして、なにがやりたいんだろうって」
「そもそもこんなことを意図的に起こせる不思議な力をもった誰かがいるってのがナニよ、って話なんですけど」
箸で茶碗を軽くカンカン叩き鳴らして異議を申し立てるように伊吹が言った。
「“誰か”じゃなくて“なにか”よ」
「余計なに!? オカルトってこと?」
「オカルト……になっちゃうのかなぁ……。別に呪いとか祟りって言いたいわけじゃないのよ。とりあえず今の時代の科学力では解明して説明することができない“なにかよくわからないもの”としか言いようのない力があったとして、“なにか”はその力を使ってリーディングに介入して、あんな結果を出した。もっと言えば占い師と沙紀ちゃんが出会うきっかけ……『非日常的なこと』が沙紀ちゃんに起こるよう仕向けようとしてるのも、“それ”なんじゃないか……ってこと」
「………………」
まばらにいた他の生徒はいつの間にか食事を終えていたらしく、気づけば席についてるのはアタシたちだけになっていた。
「なにを言いたいかわからないけどなにを言いたいのかはなんとなくわかった」
少しの沈黙のあと禅問答みたいな返事を伊吹はしたが、なんというか、アタシも朋ちゃんの言ったことが指そうとしてるものはともかく、どういうことが言いたかったのかは感覚で理解できたから、そのよくわからない返答にも納得できる感じがあった。
「とりあえず、『介入者』……漫画かっ! みたいなのがいるってことを言いたいんでしょ。でもそれは朋的には人間の仕業とは言い切れない。むしろ積極的に『介入者』を人間以外の存在だと思ってる……でしょ?」
「……そうよ。信じられないだろうけど」
「別に。アタシの場合、朋の言ってることを信じるとか信じないとかじゃなく、話は面白い方に乗っかっておくってだけのことだし。ここにアヤなんかがいたら質問攻めにされてるかもね。それか話についていけなくて興味失くしてるか」
「アタシも特に……まあ信じるのとは違うけど、朋ちゃんの言ってること、とりあえずは受け入れられるかなぁ」
そもそもこっちは実際にオカルトな体験をした身だからそういうのも飲み込めるようになったわけだけど。とはいえ、なにかがなにかをアタシに仕組もうとしているとか言われると、とりあえず受け入れるとは言ったものの得体が知れなくて怖い。
「あんたたち……ノリが軽いわねぇ……」
感心と呆れが渦巻いた微妙そうな顔で言ってから朋ちゃんは残りのパスタをやっつけにかかった。もうミートソースは冷めてきてるだろう。食べ終わってから話した方がよかったかも。
「えーっ、朋だって受け入れてくれた方が話早くていいでしょ?」
確かにあっさり信用されるのも内容が内容だけに妙な気持ちになるかもしれない。でも話の相手はアタシと伊吹なのだ。理屈よりフィーリング。オカルトめいた話でも、通るときは通ってしまう、そういうものだ。
「話が早いのは助かるんだけど、結局『非日常的なこと』の中身がはっきりしてないからアドバイスもぼんやりした感じでしかできないのよね……」
「もっと具体的に知れんのかね。何月何日何時何分、地球が何回まわったときになにが起こるのか」
「そんな小学生の口喧嘩みたいなとこまで正確にできるならやってるわよ。それにそれってもう占いっていうより“予言”よ、よ・げ・ん」
言ってから朋ちゃんは麦茶を飲み干しコップを空にした。言われて気づいたけど、詳細まではわからないとはいえ文香さんとヘレンさんはアタシに“予言”をしたような形になってると言えなくもないのか。
「さて、食べ終わったんだし食器はさっさと下げようか。片付けの迷惑になっちゃいけないし」
話の続きはまた談話室でということになり、3人揃って食堂からふたたび談話室へ向かった。
*
談話室は昼前とはうってかわって盛況で座る場所がなかった。壁掛け時計がなにげなく目に入る。13時35分。予定があるわけではないけどなんとなく連休の最終日が刻一刻と終わりに向かっていることにやきもきするものがある。
「あ、なんか用事あった?」
よく見てるなぁ。朋ちゃんに言われてそう思った。朋ちゃんがどれくらいまわりの子を占っているかは知らないけど、人を見るわけだし観察眼が鍛えられているのかな。
「なにもないんすけどね、着々と連休が終わってくなぁって」
「悲しいことを言うのはよしてくれたまえ吉岡隊員。諦めたらそこでGW終了だよ」
「気持ちだけじゃ休みの日程は変えられないって」
「強い意志を持ち続けることで連休を持続させる能力に目覚めるのだ」
「その能力の会得は伊吹に任せるっす」
「アタシはすでに使えるが、この能力は能力者本人にしか適用されぬのだ」
「それじゃ単にひとりでサボってる人じゃない!」
「『飲むのど飴』飲んだことあるひと~」
朋ちゃんのツッコミを完全スルーして、すぐ席に着くわけでもなく先頭を歩く伊吹についていく形で自販機の前まで来ると、ラインナップの中のひとつを指差して言った。
「ない。これたぶんけっこう前からあるよね?」
紙パック専用の方の自販機で売られてる『飲むのど飴 ピーチ』。飲んだことないしピーチ味以外があるのかも知らない。150円もするし。商品名そのままの効能があるジュースなんだろうけど謎といえば謎な感じの飲み物だ。
「アタシもない。初見時に「なにこれ~!?」ってなるけどなんだかんだ飲んだことないジュースランキングNo.1。けど確かに初めて見たの一年くらい前な気するし、需要あるってことだよね。」
「あたし1回あるわよ。カラオケ行く前になんとなくで」
「どんなよ?」
「特に言うことないわね~。味は普通に人工甘味料系ピーチ味。のどの調子も……普通に良くなったかなぁって感じ。効果だけ求めるなら同じ150円でのど飴買ってきた方がいいと思う」
「それでよく生き残ってるわねぇ~」
「熱心なリピーターがいるのかもね。それかあたしみたいな『なんとなく買い』がけっこう頻繁にあって実は地味にいろんな人が買ってるとか」
「アタシはなんとなくでも特に買おうと思わないなー。高いからか。去年一時期……名前は覚えてないけど、炭酸入りの紅茶あったよね? あれは1回飲んだ」
「うえぇ? そんなのあったっけ?」
「えーっ沙紀知らない? って言ってもほんと2ヶ月もなかったくらいだったかもだから知らない人もいるか」
「あたしは知ってるけど飲みはしなかったわ。どうだった?」
「普通。もう普通に炭酸の入ったストレートティー、以上。って感じで普通においしくなかった。予想を越えるまずさでもなく普通にまずかったから虚無しか残らんかった」
「なぜ買ったし……」
「特価70円で地雷感バリバリで売られてたからね。出来心で1本いってみた。ああいうのが企画会議通って商品化されるいきさつ、めっちゃ気になるわ」
「なるよね~。気づいたらあとに引けないとこまで話進んじゃってたとかなのかな。もしくは最終的なGOサイン出した人的にはイケた、とか」
「いや普通にまずかったけどなぁー? カラダに良いとかでもなかったと思うし。まあ好奇心とか軽い罰ゲーム需要とか炎上マーケティング狙いとか、そういうんだったとか? ここの自販機だけでも20本くらいは売れたんじゃない。ぜんぜん知らないけど」
そう言うと特になにを買うわけでもなく
とりあえずの行き場を失ったアタシたちは談話室を出て10mもしない、廊下の適当な地点に落ち着いてまたあてどもなく喋るのだった。
「なんなんすかね、占いの結果。というかアタシの今後の身の上? 的なのは」
「ひとまずのアドバイスとしては、具体的ではないんだけど、リーディングの『対策・注意』で出てきたカード……ダブりの『塔』の逆位置だったやつね。そこからヒントを読むくらいしかないわね」
「ヒント読むって言うけど『塔』にメリット的なものってあんの? そもそも『塔』って正しい向きと逆とでどう違うの? 逆のが余計悪いとか?」
次々質問を投げかける伊吹に同意で、あれだけ悪い意味しかない『塔』にアドバイスの要素なんてあるものなんだろうか?
「『塔』はね、逆位置の場合は持続的な不安定さを表すの。『漠然とした不安』や『鬱屈した日々』、『先行きの見えない生活』……」
「やっぱダメじゃん。『漠然とした不安』とか、それが原因で自殺した小説家だっているのよ! アタシは詳しいんだから」
なんだかよくわからない切り口から伊吹が塔を批判する。聞いている限りでは逆位置になると直接的より間接的というか、搦め手で攻めてくるような感じか。正位置が暴力なら逆位置はいじめ、みたいな。どちらにせよたまったもんではない。
「一応解釈によっては前向きな意味合いもなくはないのよ? 『ことは起きても大事件ではない』とか『終わったからもう安心』……みたいな感じの」
「アタシからしてみればそんなのぜんぜん前向きじゃないってーの。なにかよくないことが起きること前提の態度なんて不健全よ」
「あたしに言われてもなぁ……。そうね……解釈は人それぞれだから、あたしたちが『塔』のカードからポジティブなものを見つけて意味づけられれば、それだってひとつの立派な解釈になると思う」
朋ちゃんはポケットから件の『塔』のカードをしっかり逆向きで見せてきた。
「ポジティブな面ねぇ……うーん……塔くんの~、ちょっといいとこ見てみたい~……あ、それ、あ、それ……」
ブツブツ口ずさみながら『塔くん』のいいところを探す伊吹につられてアタシもカードを見つめる。
この『塔』の絵には仮面や紙の束やなんかが崖に向かって落下している描写がある。落下しているものが逆位置なら……
「ブレイクダンス!」
伊吹がいきなり叫んだ。言葉的には『ブレイクダンス』と言ったのはわかっているが、発音としては「ブレイッダァンス!」と言っていた。
「塔が逆さまになってるのがヘッドスピンをしようとしている姿に見えなくも……ない!」
「つまり……?」
「つまり……えーと、この塔はこれから大技で観客を魅了しようとしてるところ! つまり、『スターの素質あり』……そんな意味!」
「えっ!? 伊吹ちゃん、それもしかしてタロットの順番……『塔』の次のカードが『星』なの知らずに言ってる?」
「へー! そうなんだ? 知らなかった……じゃあけっこういい解釈なんじゃない? スターの素質あり……『明るい未来が待ってるよ』的なね」
実に気楽に伊吹が言ってみせると、朋ちゃんは思いのほか嬉しそうに目を見開いていた。
「『先には希望が待っている』……うん、いいわね! 『塔』逆位置のポジティブな解釈! 現状の解決策を表してはいないけどっ!」
「うんうん。あと、“
こっちの出方を探るような疑いの混じった笑顔で伊吹がアタシを指差した。
「えぇ~、ダジャレぇ~……?」
引き半笑いで朋ちゃんがその言葉を迎え撃った。アタシもつられてジト目で伊吹の方を見てみた。
「思いついちゃったものはしょうがないっ!」
居心地の悪そうな笑みを力強く浮かべて伊吹が釈明した。
「ま、あたしも“『塔』に入っては『塔』に従え”って言おうとしたけどね。伊吹ちゃんのが一枚上手だったかな」
朋ちゃんもそんなことを言う。問題とアドバイス、どっちの結果にも『塔』が出てきたからか。伊吹のは本人的にも不意に出てきたものだったからそういう意味では上手……なのかもしれない。
「うまいかなぁ……?」
当の本人はピンときてないみたいだ。もっとも、ダジャレの面白さについてあれこれ考えるのは不毛というものだ。
当の本人……『塔』の(カードが出た)本人……は、アタシだ。
「……」
「やだ沙紀ちゃんそんな虚無な顔しないでよ。出来心みたいなものだから!」
朋ちゃんがばつが悪そうに取り繕う。だいぶまずい顔をしてたみたいだ。この虚無顔は他でもないアタシ自身による思いつきダジャレの産物なのに勘違いさせて申し訳ない、そう思った。
書いてみたらまだペルソナが出てこなくて愕然としました。
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Ungeziefer
遠くでかすかに耳障りな金属音が聞こえる。工事現場のような、建設機械の稼働音や鉄骨などの部品が軋むような、重たくてぎこちなく響く不快な音が頭に響く。辺りでは草木が揺れて枝葉のこすれ合う音が絶えず聞こえてくる。
身体が動かない。目を開けて頭を動かして回りを見ることさえも。自分が目を開けているのかどうか、それさえわからない。感覚がないわけではなさそうだ。ほんのりひんやりした風を肌で感じる。
そういうような音が聞こえた。音だった。それは声というよりは、木々のざわめきや風の音、正体不明の金属の遠鳴りに溶け込んだ、いや、それらの環境音の組み合わせの妙のような、そんな不思議なバランスによってあたかも声のように、意味のある音の響きとして耳に入ってきた。
音は深い、湿っぽい残響をしだいに増していって、いっそう言語として不明瞭な調子で響いているにも関わらず不思議にも言葉としてはっきりと伝わってくる。
意味として理解できる音は、しかしわからないことを言う。力とはなんなのか、それをアタシに与えてなんになるのか。
宣告めいた言葉と同時に光が弾けた。目は閉じていて、アタシの視界を覆っているのはこの状況を意識したときからずっと暗闇だ。なにも見えない中で、無数の大小さまざまな光の粒が次から次へと浮かんでは弾けて、一帯がどんどん明るくなっていく。見えないのに明るいというのはおかしいけど、明るさも、光の粒の位置や弾けるさいの動きまでもが確かに見える。そんな見えるはずのない光景に気を取られていると、風の感触やさっきまで聞こえていた金属の軋みや林のざわめきが止んでいることに気づいた。弾けた光は消え去らず、か細い線状の光となって空間内をどこまでも伸びていく。一本一本の線となった光はそれぞれ伸びていくなかで別の光の線と合流し混ざり合い、大きな塊になって空間内が膨れ上がっていく。まるで光によって空間が膨張して物理的に広がっていっているような光景が、閉じたままの目に映し出されていく。眩しくて目を開けていられない。それほどの光が閉じた目の中でどこまでもとめどなく広がっていく。どこまでもどこまでも、どこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでも…………──
*
鮭フレークのふりかけられたご飯を箸ですくおうとしたところで、しばらく手を止めてボーッとしてたような気がした。顔を上げてみると、やっぱりそうだったのか回りのみんなが怪訝そうな視線をアタシに送っていた。
「ぅおっ、起きた」
「いや寝てないっす」
伊吹の言葉に反射的に反応した。眠っていた覚えはない。
「目開いてたし寝てないのはわかってたけどさ、す~っごい無反応力だったね今のは。3分近かったんじゃない?」
隣でぎこちない顔が少しずつ和らぎはじめたような微笑で、こっちの様子を観察するように海ちゃんが見ていた。
「ボーッとしてる気がするなぁって思ったら、そうだったみたい……すね」
「気づくの遅ッ! なんだったの……なんか悩み?」
珍しそうなものを見る目つきのまま
「いやもう自分でもなにがなんだか……ホントにボーッとしてたとしか」
「晩ご飯中に無我の境地たどり着いたやつ初めて見たわ。アタシが「焼き鮭定食選んだのに鮭フレークかけるの?」って言ったらそこからもう微動だにしなくなって草だったんだけど、あんまり延々と動かないから怖くなってきてたよ」
「そりゃご心配をおかけしました」
「今日は鮭づくしだね」
それはまったくもって伊吹の言うとおりだ。それにしても鮭定食なのになんで鮭フレークをかけたのかは自分でもまったく説明がつかない。うっかりだとすれば数年に1回級のやらかしだ。
「これも謎の力の仕業っすかね?」
「え、うーん、どうだろ。あたしも夕飯カレーってわかってたのにお昼にカレー食べに行っちゃったことあったなぁ……」
判断の基準はわからないけど、朋ちゃん的にはこれが例の“介入者”の仕業かは微妙なところらしい。
「謎の力ってなに?」
知らない身からすれば当然な疑問を渚ちゃんが口にした。
「いやぁー沙紀ちゃんに事件があってね……」
朋ちゃんは昼間現場にいなかった海ちゃんと渚ちゃんに、ことのあらましを説明した。
「起きたことはともかくとして……それが何者かの力のせいってなにさ? ずいぶんなオカルト話だね」
「いや、なーんていうか、ちょっと違うの……。あたしの言ってるのは、あくまで現代科学では解明できないってだけで、ゆくゆくは証明できるもの……科学的な根拠がいつかは発見されるようなものなのよ。いや別にチュパカブラだってモスマンだってまるっきりの胡散臭い都市伝説とは限らないかもしれないけど」
朋ちゃんは昼間アタシたちにも言ったようなことを海ちゃんに必死に話してみせた。そこに出し抜けに、
「モスマンってなに?」
渚ちゃんが朋ちゃんに尋ねたけど、
「あれ、なんだっけ?」
自分で言っておきながらド忘れしたのかわからないようだった。モスマンっていうのは……
「たしか蛾人間みたいなやつっすよ」
「合ってるけどイメージ画像とかだと蛾っていうよりはコウモリ人間みたいな、獣人系の絵なんだよね~」
伊吹が箸を置いてスマホを見ながら言ってきた。
「あっ、ほんと。まあリアルに蛾をモチーフにした人型の生き物だと……ね。キツそう……」
促されるように朋ちゃんもスマホを取り出して、『モスマン』で画像検索して確認したようだ。
「アタシ小学生のとき林間学校でマンホールくらいの蛾見たことある。あれはヤバい、ビビったね」
「こわ~……嘘だよね?」
「ホントホント! マンホールの蓋が完全に見えなくなるレベルではなかったけど、蓋の8割くらいは覆ってたくらい大きかったよ。男子も軽く悲鳴上げた子がいたくらいだったし……」
「食事中に話すことではなくない?」
牽制するように海ちゃんが話を遮った。
「……ビミョーなラインじゃない?」
「好ましくはないけど……ビミョーかな?」
「却下! モスマンの話は終了っ!」
お伺いを立てた伊吹と、やんわりとそれに同調した朋ちゃんを海ちゃんはバッサリと切った。
「まあアレに感じたんなら謝るよ」
「いや、もともとモスマンのワードを出したのはあたしなので……」
伊吹と朋ちゃんが揃って謝った。アタシは特に気にはならなかったけど、それより朋ちゃんの言った『もともとモスマン』のリズム感が面白いと思った。
「じゃあ話変えてさ~……今日なんかけっこうメンツ揃ってないね?」
懲りた様子もなく、あるいは気を遣ったのか伊吹が率先して話題の転換を図った。必ずしも時間を合わせて食堂に来てるわけでもないからいつものメンバーが揃うとは限らない。そもそも今の状態だって三々五々に集まって出来上がった感じで、いちばん早く来てた伊吹なんかはもうすっかり夕飯を食べ終えている。
「響子はドラッグストア。買い忘れがあったみたいでここ来る前に言ってたよ」
箸で挟んだごぼうサラダを口に運ぶ前に海ちゃんが言った。
「アヤさんと
「あー、そうなん。ちょっと目通してなかった。みんな思い思いの連休最終日を過ごしてるんですなぁ」
「伊吹も夕方前に軽く踊ってたね」
「あ、見てたの?」
「見てたというか、見えた、だね。ウチの部屋から“踊り場”はよく見えるからね」
海ちゃんはそう言ってから箸を置いて両手を合わせた。ここで言われた“踊り場”は階段の踊り場のことではない。寮の外にある、三方を壁で囲まれたちょっとしたフリースペースのことだ。軽音楽部が練習やリハーサルがてらミニライブをたまにやったり、奥の壁の手前には簡易的なバスケゴールも設置されていて、渚ちゃんに限らずたまに誰かが遊んでいたり、アタシなんかも壁に絵を描いてよく利用しているはずなのに、みんな伊吹がダンスの練習に使っている印象が強いのか、誰が言い出したか寮生の間ではいつの間にか“踊り場”はあの場所を指すワードになっていた。
「そうなの? 音楽は聞こえなかったと思うんすけどねぇ」
「イヤホンで流してたから。夕飯前に軽くやってただけだし、音流すってなると許可取んなきゃじゃん?」
「そのあたりはきちんとやってかないと、いざこざの元になりかねないからね」
パンッ! と勢いよく手を合わせながら渚ちゃんが言った。敷地内とはいえ、もちろんなんでもありとはいかず、ある程度大きい規模での使用、特に音を出す系での利用なんかは寮の管理を務める先生からの事前の許可が必要だ。アタシも塗料を使う関係上で許可が要るからよく知っている。
「こないだの朋ちゃんのあれはなんだったんすか? みんなであんなところで
「ああ、あはは。あれはねぇ……最初は普通に軽音の子たちを占ってたのよ。なんとなくリハ見学して、終わったあとに。で、いっしょに見てた他の子とか、なにやってるのか気になって寄ってきた子たちも見てたら、最終的に花札大会になってね」
「いやなんでさ!?」
海ちゃんが半笑いで空中にゆるいツッコミ代わりのチョップを放った。
「みんなの希望を訊いていろんなやり方で占ってたの。手相とかタロットとか星座とか……で、その一環で花札占いもやったんだけど」
「へー、花札の占いなんてあるんだ」
と、ここで渚ちゃんの横槍というほどでもない割り込みに、なんてことのない、平静なときの呼吸のリズムのような『なんでもなさ』というか、朋ちゃんの喋りの流れの一部であるかのような自然さに妙に感心した。
「あるのよ。で、最初は占ってたんだけど、気づいたらみんなでスマホ片手にルール見ながら代わりばんこで普通に『こいこい』して遊んでた……ってわけ」
数日前の“踊り場”で漠然と目撃した熱狂の現場の詳細が朋ちゃんによって解明されると同時に、食堂に響子ちゃんが入ってきたのが見えたので手を大きくピンと伸ばして自分たちがここにいることを伝えた。アタシのその動きと目線でみんなもそれに気づいて、渚ちゃんも軽く手を上げたり、伊吹はおいでおいでするような手振りをして響子ちゃんを呼んでいた。
「おかえり」
「まだ残ってたんですね。てっきりもう皆さん食べ終わっちゃったかと、と思ったら食べ終えてはいましたね……」
「そそ。今は食後のダベり中~。気にせずお食事してくださいな」
「伊吹なんて最初に食べ終わったからもう20分くらいはダラダラここに居座ってるからねぇ」
スマホを見てみると、なんだかんだもう19時半を回っていた。伊吹よりあとに来たアタシですらもう50分近く食堂にいることになる。
「ゆうてみんなももう食べ終わってるし、時間にしたって5分10分の差でしょうよ。アタシがここ来てから特に混んだりしてもないし。てか満員でもキャパ足りるし。足りるよね?」
「んー……そうだっけ?」
「足りるんじゃないかな。
わからずに答えかねていると代わりに渚ちゃんが教えてくれた。
「いいとこなのにあんまり入寮してこないよね。3年ばっかり多いし、来年になったら1/3くらいになっちゃうんじゃない? うちらのグループだってアタシに朋に渚、櫂、アヤ、5人よ。誰も入ってこなかったら来年はアンタら4人だけになっちゃう」
「そしたら他の少なくなった班と合併するもんなんじゃない? ま、なんにせよ料理に関しての心配はないけどね」
ちょっぴり自慢げに海ちゃんがコロッケを食べながら話を聞いていた響子ちゃんに視線を送った。
「その点はホント大当たりだね、我がグループは。あと半年ちょっとお世話になりまーす」
「えへへ……任せてください。お料理、得意なんです!」
「知ってる~!」
はにかみながらも誇らしげに響子ちゃんが言ったそのとおりで、口には出さなくても居合わせたみんなが伊吹に同調しているのがよくわかる。無論アタシもそのひとりだ。
「腕を振るうのは大歓迎だけど甘やかしちゃダメだよ? 伊吹と朋はすぐ人に頼りがちだから……ねぇ?」
「ぐぬぬ……」
「飛び火した……」
半目がちに海ちゃんがふたりを見ると、その言葉と視線でふたりとも言葉に詰まったようだった。
「海といい沙紀といい、活きのいい後輩連中が多くてアタシらのポケットには入りきらんよ」
遠い目になって、昔を懐かしんでいるような顔をして伊吹が言い出した。
「なんすかいきなり」
「当然のように上級生呼び捨てだよねアンタたち。雪菜も呼び捨てではなくとも“ちゃん”付けだし。気づけばアタシを“さん”付けで呼んでくれる後輩はグループの中では響子ちゃんだけっていう」
「もう一年ちょっといっしょに生活してたらそんなの関係なくない? 見くびってるとかじゃないし。嫌すか?」
「別に嫌じゃないけどさ」
「なら問題はないわけだ。沙紀の言うとおり、アタシらは単にしっくりくる接し方で接してるだけだよ」
「それはわかってるんだけどね。てか沙紀に至ってはフリーダム過ぎ。櫂なんか“くん”付けで呼んじゃってさ」
苦言を呈するようでいて、そうでなく面白そうなものを見る目で伊吹が言ってきた。
「いや、だってしっくり来るから……来ない? なにより本人も嫌がってないし、いいじゃないっすか」
「確かに似合ってんだけどね。群抜いて背高いのもあるし。構わないけど、フツーそこまで先輩相手に距離詰められる? って思いはする。かと思えばアヤは“さん”付けだし」
「その辺はやっぱフィーリングだよ。直感でなにか自分でもわからない判断がなされてるんす……たぶん」
「はあ……才能だよ、アンタのそのコミュ力というか、自由さは」
「それ言ったら伊吹ちゃんだって。ダンス部作ろうとして人集まらなかったら、ひとりでゲリラ的に活動しちゃうんだからさッ!」
たたえるようなニュアンスのある明るい声で渚ちゃんが伊吹に目線を送った。
確かに、本当にゲリラではないものの、伊吹はひとり、場合によっては他の子を誘ったりして文化祭や体育祭の昼休憩中なんかの、各種イベントの余白というか余興に使えそうなタイミングに自分たちの時間をねじ込んでダンスを披露しているのは学園の人間なら周知のことで、部でも、なんなら同好会すら発足させたわけでもなく一個人として活動の場を学園側に直談判して取りつけてる行動力の魔人だ。もっともアタシにも同じようなところはあるけど。
「こっちだって似たような流れで活動してんじゃん。流浪のペインターがさ」
こっちの考えを察したように伊吹がアタシを指した。まあお互い様、である。
「アタシは最初から完全個人活動すよ? 部も同好会も無理そうだなーって思ったし」
「なおさらフリーダムでしょ」
「って言ったって、伊吹と同じで学園に話通してるし。勝手にやってるわけではないし」
「そうだったのッ!?」
渚ちゃんがずいぶん大げさに驚いた。今までほんとに勝手にやってると思われてたみたいだ。
「それはちょっと誤解っすよ。ほら、グラフィティっていうか、ストリートアートをいかがわしく思われるのも
「お金もらってんの?」
「ちょっとっすよ? 道具代だけ負担してもらってる感じで」
「部でもないのに?」
「それはアタシも予想外で、試しに言ったら通ったんすよ。活動のたびってわけにはいかないにしても」
「うぇ~、そんなのアリなんか~……」
残念そうに伊吹が呻いた。同じような形で活動していた身として見落としを指摘された気分なんだろう。
「ま、いいや。スタジオ代くらいもらえたかもなぁって思ったけど、スタジオ練習とかほとんどしたことないし。踊れる場所ってか機会がもらえればオールオッケーって感じでやってるわけだし」
かと思ったら直後あっという間に気を取り直した。
「お金稼ぎでやってるわけではないすからね」
「いつかはやるかもとは思わない?」
つぶらな瞳で、シリアスな空気を醸し出したりはしないにしても、伊吹は真剣に尋ねていた。
「それは……思うよ。好きなことで生活っていうのは、できるに越したことないし」
「よね~。ただ、なんか“プロ”って言われてもピンと来ないんだけどさ。好きでやってることが社会で認められる必要とかさ、考えてみてもよくわかんないや」
「考えてるじゃん」
「え? いや、考えてもわかんないんだって」
「考えてはいるでしょ、ってこと。わかる・わからないじゃない……うーん、『“わかってない”がわかってる』みたいな? 考えてるんなら問題ないと思う」
「アンタはほんと空気をかき乱すようなことをたまに……いや、よく言うか……」
妙な顔をしながらも最終的には腑に落ちたように伊吹がそう言ってから、続けた。
「てかね。そりゃアタシも考えますよ、高3だもん。他の子に比べたら子どもっぽい自覚がないわけじゃないけど、それでも並の高3くらいには悩むよ」
「『子どもっぽい』は……あたしも身につまされる言葉だわ。よく言われる。主に海ちゃんに」
落ち込むでもなく、ごくごく自然なことであるように朋ちゃんが呟いた。
「ハハハ! 身につまされてるなら結構! 沙紀の言った『“わからない”がわかってる』を朋もわかってるってことだ」
気っ風よく海ちゃんが笑って言った。海ちゃんの笑い声、いい。威勢がよくて、でも下品さはない。それどころか淑やかさがある。やかましさと繊細さが同居してるような、そんな響き。人は不意をつかれて、つまりは取り繕えるレベルを越えて感情を揺さぶられたりしなければ会話や所作だけでなく笑い声も“作って”発する場合もあるわけだけど、海ちゃんのこれはどうなんだろう。作ってないならこれはある種の才能なんじゃないかと思うし、作ってるならとんでもない技術だ。いずれにしてもこれだけ耳にして心地いい笑い声を出せるなんて素敵だ。
「『プロになる』って言葉で言ってみるだけじゃ、なんていうか空疎だよね」
一瞬机に肘をついてからすぐに姿勢を直しながら渚ちゃんが言った。
「渚ちゃんがそんなこと言うとは思わなかったわ。海ちゃんくらい堅実に将来のイメージがあって、目標とか立ててそうなのに」
物珍しそうに朋ちゃんが言うと、渚ちゃんはちょっとだけ困った顔をした。
「いやー、なんていうかね、私はバスケで生計を立てたいと思ってるのか正直よくわかってない。別にさ、プロになろうがなるまいがバスケは私の意識の根幹にあり続けると思うんだ。まったく関係ないことをやったり考えるときにもバスケがついて回ってるような感覚があるし。物事をバスケで例えるような意味じゃなくてね。『生活』と『バスケ』がイコールで結ばれてるような、一体化してるようなさ。あるんだよ、感じが」
ジェスチャーとしてはよくわからない身振り手振りを交えながら渚ちゃんが矢継ぎ早に喋る。
「それは幸せなことだけど、そうなってくとさ、プロの選手になってチームでプレーして勝ったり負けたりしながらそれでお金をもらうっていう生活を送る自分っていうのがさ……ぜんぜんわからないというか、想像できないんだよね。“近すぎる”のかな? 私にとってバスケットボールってものが」
「いいことではあるんじゃない? “近すぎる”なんて言えるってことは自分の力に対する自信はあるってことじゃん」
伊吹の一言に渚ちゃんは柔らかく笑い、それから強い眼差しで、
「それはあるよ。“上には上がいる”ことを踏まえたうえでね。キャプテンとして至らないところだってたくさんあるだろうけど、努力がある程度形になったのは事実だし。それに『自分の力』は『チームの力』なんだから、謙遜したり自信がないのは失礼だからね。信頼関係があるんだから、胸を張って自信を持つのはある意味義務だってちょっと思ってる……かなッ!」
途中から気恥ずかしくなったのか、後半は少し語気を強めて熱っぽく一気に言った。
実際ここ2年ほどでうちの学園のバスケ部はかなり強くなったらしく、対外試合で他校に遠征したり相手チームから個別に対策を組まれたりと、渚ちゃんが入部、そしてキャプテンになってから、又聞きの知識ではあるけど、いわゆる強豪校として認知されるようになったそうだ。それが自分ひとりの力によるものではないということを日々の活動を通して感じてるなら、その自信は『傲慢』ではなく『誇り』として湧いて当然のものなのかもしれない。
「な~んかいいね。チームで戦う人特有の思考って感じ。アタシはチーム組んで踊ることはあっても、そこまで回りのこととか考えたこと……ないかなぁ。なんだかんだ踊ったら一体感生まれるっしょ! としか思ってないかも」
「そういう『見る前に跳べ』もいいと思うけどな。事前にいろいろ考えてばかりじゃうんざりしちゃうよッ」
「へぇ~、みんないろいろ考えて……ん? 考えてるし、考えなかったりしてんのねぇ~」
「アンタはそれまったくなにも考えないで言ったでしょ……」
お気楽な朋ちゃんの反応に海ちゃんは呆れてくすっと笑う。
『──中には浮気・不倫にも懲役を科すことへの議論もすべきだという意見も上がっているそうです。
……次のニュースです。一昨日、家族に『うまいもの食べてくる』とメッセージを残して行方がわからなくなっていたT区に住む49歳の男性が今朝、Y県M市M町にある魚市場で、店頭で売られていたタラバガニを盗んだとして地元警察に逮捕されていたことがわかりました。
男は今日午前6時頃、Y県M市M町のQ魚市場にある鮮魚直売店の店頭の生け簀に入れられ販売されていた生きたタラバガニを生け簀内に侵入して手に取ると……えー、そのまま素手で脚をもぎ取り、殻を剥いて身を食べているところを店員に通報され窃盗の現行犯として地元警察に逮捕されたということだそうです。
男は取り調べで、『生き物は冷凍したり加熱したりせず、捕まえたらすぐにそのまま食べるのがいちばん美味しい食べ方なんだよ』などとわけのわからない供述をしており、警察は詳しい取り調べの前に男を精神鑑定にかける手続きを進めると共に、連日の不特定多数の市民による散発的な発狂事件との関連性についての調査にも取りかかるそうです……先月から都内では市民が唐突に奇行に及ぶ事件が散見されています。一昨日もJ区の公民館入り口前で突如として半裸になって踊りだした女性の事件を当番組で取り上げ、先週はP大学院の生徒2名が図書館内で水に溶かした小麦粉を撒くという愉快犯と思われる事件があり、双方の容疑者たちからはいずれも薬物反応もアルコール反応も検出されず、また取り調べでは意味不明の供述が多々見受けられ、拘留されてから数日すると突然平静を取り戻したかのように振る舞い、犯行について『まったく記憶にない』と弁明をする点が共通しており、謎の発狂事件、あるいは一種の集団ヒステリーなのではないかとして波紋、そして様々な議論を呼んでいます。……果たして今回の件も、一連の謎の奇行とも呼ぶべき事件となんらかの関係性があるのでしょうか? スタジオには犯罪心理学者、そして心霊現象研究家でもあるホラッチョ池田さんをゲストにお招きしております。池田さん、まず池田さんは今回の件は今までの珍事となんらかの関係があるとお考えで──』
「ま~たやってるよ、変な事件が増えたもんだね。タラバガニ生きたまま食べるとか……こわっ。キャスターの人も困惑してたし」
「意味がわからないとヘタな犯罪より怖く感じるよね……」
テレビのニュース番組の音声が耳に入ってきたのはみんなも同じらしく、めいめいに端的な感想を言い合っている。アタシはあまり気にしてはいないけど、確かに最近は奇妙な事件、というか変な行動をする人が多くてよくニュースになっている。
「なんなんだろうねぇ実際。本人の言い分を信じるなら覚えてないんでしょ? そんなことないでしょ普通」
「……普通じゃないことが起きたんじゃないすか?」
反射的に海ちゃんに言葉を返していた。言ってから自分でハッとなる。本当に普通ではないことが起きたんじゃないか? 自分の身に起きたことを思えばそういう考えを持つことができるようになっていた。アタシに起きたことと関係があるかどうかも気になる。
「普通じゃないことってなにさ?」
もっともなことを海ちゃんに言われた。
「それはわかんないすけど」
「“魔が差した”の究極版みたいなやつなんじゃない? だからなにも覚えてないんだよ」
「なにが『だから』なんだか……」
「まあ言ってみただけだよっ。警察だってわかってないことアタシが知ってるわけないし。響子ちゃんも食べ終わったし、不毛な議論は終わりにして出よう出よう」
伊吹に促されてみんな一斉に立ち上がり、少し後に響子ちゃんも立ち上がるとアタシたちは食堂を後にした。
次あたりからようやくいろいろ動きそうです(希望)
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0『SUPERFEEL』
青い光が静かに揺れている空間、座席群のひとつに腰かけてスクリーンをぼーっと眺めていた。
意識が浮上してきたことをわかっているかのように画面越しの女性が目を開き、こっちを見て口を開けた。
「やはりあなたは契約を交わす
女性……ヘレンさんは微笑を浮かべて淡々と言った。深い蒼に不規則な白い筋模様の入った、いかにも厳めしい大理石調の大きな机に両肘をのせ手を組んでいる彼女から数歩下がって脇には文香さんが秘書のようにうやうやしく控えているのも見える。
ヘレンさんの目は責めるでも哀れむでも励ますでも優しく受け入れるようでもなくアタシを見ている。それが具体的にどういうものかわからないにも関わらず、宇宙か、そうとも知れないどこか果てのない場所に想いを馳せるように、アタシの内部を注意深く監査するようにこちらを見つめている。
「
「はあ……“それ”とは……?」
脳が現実についていけていないのか、我ながらのんきな声が出た。声がひとたび止めば空調の無機質な音が辺りに響く。寒い。冷房が効きすぎているわけではない。この淡々と流れる音に寒気を感じている気がする。
「すべて生けるものに存在する光と影、それらの調和を図り、かつ善なるものへと導くための心の運動体……。『動的精神力』……という言葉が適当かはわかりませんが、それが固有の“美”としてたち現れるものです」
「……
淡々とした口調の中に優しさを感じる声で説明してくれた文香さんにそう返した。『動的精神力が美としてたち現れる』……言葉の意味自体はわかりかねるけど、聞いたときにアタシに浮かんだのは芸術作品、表現行為だった。世界の持つあらゆる力を、作り手の身体と精神を通して結ばれる美しいもの。それは絵画でもあれば音楽でもあり、ダンスや料理、装飾、喋り、競技、遊び、性……ありとあらゆる形によって表現され得る思考と肉体の行為。
「フフ……間違ってはいないでしょうね。いわば、当事者の美が表出された霊魂……理解する時はすぐに来るわ」
「“それ”を見極めるのは、まさにその存在と相対したとき……契約を果たすとは“刻限”を迎えることなのです。ただし、待ってさえいればいいということはありません。その力は沙紀さんの日常を支え、同時に逸脱を試みる……意志無くてはいつ不浄に飲みこまれるやも知れぬ、無垢な魂の輝きなのです」
ヘレンさんも文香さんも要領を得ないというか意味深長な言い回ししかしてくれず、言葉の指すものがなんなのか判然としてこない。芸術にまつわるものらしいということはわかった。
「今は不明を甘受すればいいわ。知るなど、運命の前には容易いことなのだから……」
「時として“知る”とは“感じる”ことなのです。待ちましょう。惑いを忘れた放牧地帯に、やがて飢えた狼が迷い込むそのときまで……」
「その言い方は少々くどいわね」
「えっ……!?」
ひどく場にそぐわない文香さんの声を最後に目も耳も
*
5/7 TUE
連休が明けていきなり学園生活が変わるということも特にない。そりゃそうだ、と思いつつもどことなく浮き足立つような気持ちもなくはないまま、あっという間に授業は終わって放課後になり、予定はないけど寄り道もせずあっさり寮に引き上げると、“踊り場”ことフリースペースの方でボールがコンクリートに打ち付けられる音が聞こえてきた。その場に立ち止まってそっちに目をやり10秒ほど待っていると、両手でバスケットボールを持ったジャージ姿の渚ちゃんが見えた。彼女に向かって歩き始めて数歩すると、同じくジャージを着た伊吹も顔を見せた。姿が現れるなり伊吹はアタシに気づいたようで、頭をこっちに向けてまっすぐ手を上げるその動きでアタシを呼びかけた。
「いないと思ったらもう帰ってたんすね」
とはいえ下校のときに伊吹たちを探したわけではない。寮に帰ってきてここでこうして伊吹たちを見て初めて、下校時に伊吹はもう学園に「いないと思った」と思った。そもそも「いないと思ったらもう帰ってたんすね」に意味はなかったと思う。ただ単に挨拶として言ったつもりだと思う。そう思えば実際そんな気がしてくるものだから本当はどうだったかが自分でももはやわからない。
「いわゆる、ヒミツの特訓ってやつを、ちょいとね」
「言ってるじゃん」
言ってるものが示していることに対して、それを言ってしまっている時点で内容が隠せてないのですが。
「バス部に対して秘密なんで。アンタはセーフだから」
「いやそもそも秘密ではないけどね」
渚ちゃんが明かすと伊吹は意外そうな顔をした。
「あれ、そうだっけ!?」
「秘密っていうか気を利かして
「ほんとに気をよく遣うね~。言わんとしてることはわからないではないけど」
「うん。ほんと私、つくづく人のことよく考えるようになったと思う。1年の頃はもう自由気ままに動き回ってたんだけどなぁ~」
腰に手を当ててバスケゴールを見上げて渚ちゃんは言った。
「それだけキャプテンが板についたってことじゃないすか」
「ん~っ、それはいいんだけどね。そうやって気を遣う自分自身にがんじがらめにされてる感があるんだよね。それはまずいよな~ってなるわけ。ふたりもわかると思うけど、そういうのって動きに影響してくるじゃない」
うっすら苦笑いの顔になりながら頭を掻いて渚ちゃんが言うと、伊吹も同調するような息を漏らした。
「そういうのって、とにもかくにも“ノリ”に出てくるよね。アタシだと、同じように踊ってても動きが全体的に重いというかぎこちないというか……。頭でわかってなくても身体がちゃんと気づいちゃってるんだろうね」
「“ちゃんと気づいちゃってる”って言い方は面白いね。けどほんとそう。頭での理解よりもはっきり出ちゃうんだもん。身体って鋭いよね。絶対に誤魔化せない相手だよ」
「グラフィティでもそこは同じっすね。考えなくても描けなくはないけど、身体がノってないと、なにを描いてるのか、なにを描けばいいかなんにも見えてこなくて、まあ手を動かしていれば描けるには描けるけど、まったくしっくり来ないし楽しくもないってときはあるかな」
「ノリ問題は難しいやね。まっ、違うことやってモヤモヤを散らすのって大事だと思うわけ。やってく?」
伊吹が渚ちゃんの持ったバスケットボールを指差してそう言うと、半ば自動的に口角が上がった。誘いを期待していたわけではないけど、どうやら身体がやりたがっていたらしい。
「うん。着替えてくるから再開して待っててよ」
言いながらすでに足は寮へと動き出していた。なんだか不思議だ。なにかに突き動かされるようにやる気が湧いている。そんなにバスケしたくなってたのかな。
小走りで寮の玄関の自動ドアをくぐり、部屋を目指す。
*
しかしジャージに着替えて踊り場に戻るとふたりはいなくなっていた。
かわりに、と言うと、ふたりがいなくなったことと関係があるかのような捉え方になってしまう、とはいったものの実際そう思っているのだ。踊り場の壁に見覚えのない絵が描かれていた。『扉』だ。落ち着きのある赤い色の片開きのドアに蔓がからまっていて、そのところどころからはブドウが生えてぶら下がっている。まわりの他のウォールアートとは明らかに趣の異なる、油彩のような質感で描かれた写実的な絵だ。
こんなものは絶対にさっきまで壁には描かれてなかった。そもそも、小さな落書き程度のものはさておき、ここのペイントはほぼすべてアタシが描いたものなのだ。描いた覚えがない、いや、はっきりと言える。この絵を描いたのはアタシじゃない。連日の不思議体験の影響で身のまわりの変化にも敏感になってるし、今まで見落としていたということもまずない。
壁に近づいて『扉』をじっと観察する。温もりを感じさせるレンガのような暗褐色の赤い一枚板に取り付けられたドアノブは趣味が悪いほど黄金色だ。白みを帯びた爽やな印象を与える薄緑の蔓から垂れているブドウの実は、ふたりがいなくなった不安からそう感じるだけかもしれないものの、血だまりのように黒々と赤く、毒でもありそうに不気味に色づいている。
意を決したように手が自然と絵のドアノブへ伸びた。こういうとき、“こういうとき”がどういうときなのかはわかってないけど、それでもこういうとき、予感が現実になる感触を目や耳で確認したように実感させられることがある。
とはいえその手が絵であるはずのドアノブを掴んだということはなかった。そのかわり、アタシの手が壁へ、絵のドアノブへとめり込んでいた。絵はアタシの手のまわりから、ものを投げ入れられた水面のように波紋が広がっている。ふたりはこの中に入っていったんだ。少なくともアタシの頭では科学的な根拠を導き出せないこの異常な現象を前になぜかそう確信した。今は目の前のこのファンタジー世界のような、フィクションという理解を瞬時に与えるような光景にこそリアルがあるように思えてならなかった。
ためらいはない。魅入られてしまったのか驚きや恐怖の声もあげることなく、手から腕、すぐに頭も足も、全身を絵の中へ浸していく。抵抗感はなかった。前に道があるように歩みを進めていける。そう思ったとき、一瞬意識が薄らいだような気がした。
*
うたた寝をしたような感覚を覚えると、学園の廊下に立っていた。細かい場所まではわからないけど学校の廊下であることは間違いなさそうだ。
誰もいない。空間が歪んでいる。目に映るものに歪みがあるわけではなく、なんだか雰囲気が歪んでいるように感じられる。思い出したように不気味なものへの怯えが湧いてきた一方で、身体には妙な充実を感じる。小学生の頃のような、起きている間は常にベストコンディションが当たり前、ケガや風邪をひいたとき以外で体調に波があるだなんてまったく思わなかったあの頃のような……。急に歳をとったような気がしてきて手近にあった教室群の向かいの水飲み場で鏡を見てみると、ここへ来る前と特に変わった感じはない、毎日見ている10代半ばの、もうちょっと化粧に気を使えば大学生ぐらいに見えるかもしれないいつもの自分が映っていた。自分の顔、人に面と向かっては言えないけどいいと思う。嫌いにはなれない。創作には10代の、とりわけ“17歳”という年齢に仮託して思春期の自身や世界への愛しさや悲しさ、万能感や恨み辛みを描いたものがたくさんあるけれど、その愛憎の“憎”がアタシにはまだ理解できないでいた。とはいえこの先ずっと自分のことを嫌いにならずにいられるかといえば自信はない。
水飲み場から離れ廊下の真ん中に戻り、これからどうするか考えようとしたところで、奥からかすかに足音が聞こえた。大きな音を立てないよう静かに階段を降りる音。反射的に身構えながら音のする方を見つめていると、姿を現したのは伊吹だった。おずおずとした足取りから状況がわからず怯えているのが見てとれた。
「伊吹……!」
「えっ……」
そっと呼びかけながら大きく手を振って居場所を伝えると胸に手を当てたまま足音を殺して早歩きでやって来た。
「沙紀~! ここって学校……だよね?」
「見た目からしてそうだとは思うけど……なんでいるんすかね?」
「やっぱアンタもわからないか……」
予期してたように伊吹がため息をついた。
「お互いここにいるってことは、伊吹も絵の中に入ったんだよね?」
「そうそうそう! なんか気がついたら知らない絵が壁に描かれてて、見てたら渚がいきなり入ってったのよ。驚きもなんもせずに、スーッて。知ってたみたいにさ。で、ほっとけないしアタシも絵に触ったら入れるカンジだったから怖かったけど入っちゃったら学校にいたわけ」
「渚ちゃんは?」
「見つかんないのよ。ここに来たときからアタシひとりで、ワケわかんないから最初はその辺の教室でじっとしてたんだけど、誰も通らないし変な雰囲気だし探そうと思ってウロウロしてたら沙紀に会ったって流れ」
「そう……。みんな絵の中に入ってアタシも伊吹もここへ来たんだから学校のどこかにはいるとは思うけど、とにかく探さなきゃだね」
「うん……でも、ここって安全なんかな?」
不安な顔で伊吹が訊いてくる。正直なところ安全とは思えない。そもそも理解しがたい経緯で来た場所なんだから。思えば『ベルベットルーム』だって異様さで言えば同じようなもののはずなのに、すでにアタシはそうは思わなくなっている。それはヘレンさんと文香さんによるところが大きいのだろう。少なくとも彼女たちはアタシになにかを教えてくれようとしている。それがなにかは“刻”を待たなければいけないようだけど……。ひょっとしてこの場所に来たことが“刻”なんだろうか? だとすればなおさらここが安全な場所ということはなさそうなことになってしまう。
「安全とは思えない……でも、そうなら渚ちゃんを早く見つけなきゃいけないし、動かざるを得ない……んじゃない?」
「そう……なるよねぇ。まあアタシも安全だとは思ってないけど。絵の中だし」
そう。なによりまず伊吹が言ったとおり、ここは『絵の中』なのだ。意味がわからない。これがゲームや映画ならわかる。それは作品に与えられたフィクション性を駆動するための舞台という仮の世界だ。でもこれはなんだ? 壁に描かれた絵にめり込んでいってたどり着いた場所。ここはフィクションの世界なのか? 確かヘレンさんが『ベルベットルーム』は夢と現実の狭間と言っていた。それにしてもわからないことだけれど、ここもそういったものなのだろうか?
「まずここってさ、アタシらの通ってる学園ではない……よね?」
「うん……おそらく」
それはアタシもなんとなく気づいていた。絵の中からいつもの学園にワープしたということもあり得なくはない、いやあり得ないんだけど……つまり“あり得ない”という前提のもとで“あり得る”可能性ではあるけど、だとすれば放課後の今、誰もいないということはない。部活なりなんなりで残ってる生徒もいれば、先生たちだっているはずだ。
それになんとなくといった感覚ではあるものの、構造的に学園とは違う気がする。このあたりは動き回ってみればわかることだろう。
行くあてはないものの、とにかく気をつけながら伊吹と校内をうろついてみることにした。
*
「なんなんだマジにここは……というか、あの絵も」
ふたりで歩いて落ち着きを取り戻してきたのか伊吹がいつもの調子で呟いた。
「それについてはなにも答えられないけど……ひとつ思うんだよね。これって朋ちゃんが言ってた“なにかよくわからない力がアタシに起こそうとしている非日常な出来事”……なんじゃない? って」
というかベルベットルームで言われたことも含めればまず間違いないとアタシの中では思っている。
「それかぁーっ! ……っていっても、そうだとしてそれがわかったらここがなんなのかわかるってわけでもないんだよね?」
「わかってたらさっさと渚ちゃん見つけて帰ってるからね……」
そう言って嫌な考えが頭をよぎってしまった。渚ちゃんを見つけるのはともかく、ここから帰ることはできるんだろうか? とりあえずフィクション的に考えるなら渚ちゃんと合流してこっちの世界で『扉』の絵を見つけてまた入り込めば戻れるような予測は立つ。この場所がなんなのかという謎は解けないかもしれないけど。それか、まさにその謎を解明しないと帰れない可能性もある。
いずれにしても、すぐに帰れる気はしてこない……。いや、まずは渚ちゃんを早く見つけよう。途方に暮れるのはそれからでいい。
「なんにせよまず渚だよ。帰りは……なんとかなるでしょ」
珍しく沈んだトーンで伊吹が言った。そうなるのもわかるけど、いつもの楽観的な態度を求めてしまう自分がいる。
「うーん、ここがアタシらの通ってるとこならとりあえず渚のクラスに行ってみればいいと思うんだけど……」
筋というか正攻法というか、まずそれは間違いないと思った。ここが学園ではないにしても、当の渚ちゃんが同じように考える可能性もある。
「あてはないんだし、行こう」
3年生の教室は3階、窓から見える景色で判断した限りここは2階。さっき伊吹が降りてきた階段を上り直すことにした。
「さっきはなにも見なかった?」
「とりあえず1階まで降りようと思ってたからしっかりチェックしてたわけじゃないけど見なかったし聞かなかった」
3階へやって来ると実際特に目を惹くものはなかった。アタシたち以外の話し声や物音も聞こえてこない。ひとまず目的の渚ちゃんのクラスの3-Aを目指す。
そうして教室へとやって来たはいいものの、相変わらず物音は聞こえない。半ばそうと決めつけているような気持ちで扉を開けると、案の定渚ちゃんはもとより他の誰も教室にはいなかった。
なんの変哲もない座席のなかに、ひとつだけ上に物が乗っている机があった。ふたりして近づいてみるとノートだった。
「あっ、えっ待って、ここ渚の席……なんだけど。あっ、ここが学園ならね?」
ノートの表には『修練』と黒のサインペンで太く書かれていた。どことなく罪悪感を感じながらも流れ的に中を開いてみる。そこにはウォームアップ、練習、終わったあとのクーリングダウンや対戦相手のスタイルごとのゲームの展開法、メンタルトレーニングのメソッドをまとめたものが記されていた。流し読み程度でも特定の単語や図を見れば、これがバスケットボールについて書かれたものであることはアタシにも理解できる。
「渚ちゃんの……かな?」
「……でしょ。机の場所も、筆跡も見覚えあるし。ここは……学園なの?」
わからない。そうなら誰もいないのはおかしいし、それにこの教室はともかくとして、ここまでの道すがら、異様な雰囲気がそう感じさせるのもあるだろうけど、なんとなく自分たちの通ってる場所とは思えない違和感があった。
「体育館」
「え?」
「体育館はどうかな。自分の教室にいないなら、次に渚がいそうな場所だと思う……単純かもだけど」
誰もいない以上次の心当たりを調べるべきだろう。ノートを持ってから体育館に向かおうと教室を出ようとすると、先に廊下に出た伊吹が左を向いて、そのまま固まってしまった。
「どうしたの………………」
声をかけながら教室を出て伊吹と同じ方を向くと、そこからアタシも動けなくなってしまった。
「ミツケタ、ミツケタ……」
視線の先にいたのは……なんだろう?
「おぉうっ!?」
突然振り返って走り出した伊吹に腕を引っ張られた感覚で変な声が出てしまった。が、その動きで緊急事態を察した右足が即座に床を蹴った。
一瞬振り返る。緑色の丸っこい謎の塊がアタシたちを追ってくる。無我夢中に全力疾走で前を行く伊吹にがむしゃらについていく。さすがナチュラル体育会系のバネはすさまじく、文化系に端を発する体育会系のアタシでは少しずつ離されていってしまう。
それでもなんとか、どこに向かっているかわからないであろうままに階段を降りに降りて走り続ける伊吹に食らいついていくと、下駄箱をぽーんと通り過ぎて校舎前で止まった。
「ぁぁ……はぁ……っ、校庭なんて、広いとこ出たら見つかりやすくならない……っ?」
整いそうにない息をそれでも整えようとしながら率直な気持ちを言ってみた。
「いや……屋上行ったら詰むと思ったから……とりあえず降りてった……」
「じゃあっ……仕方ないね……」
疲れの差こそあれ、お互いに荒れた呼吸で言葉を交わしていると、嫌な予感しか感じさせないザザ、ザザッ……とした物音、というか足音が聞こえてきた。
「あぁ……」
「……はは、なんかもうよくわかんないね……」
感覚が麻痺したのか軽く笑いながら伊吹が呟いた。アタシも似たようなもので、息切れと目前の光景からくる得体の知れない不快さ、そして同時にこの場の雰囲気に対して馬鹿馬鹿しさのようなものもあって、そういったのが全部ないまぜになっていた。
アタシたちの前に……鬼がいた。赤黒い肉体、顔には瞳のない青い目、むき出しの太い牙、こめかみのあたりに二本、頭頂部に一本生えた角……清々しいほど鬼としか言いようがない見た目をした3匹の鬼がそこにいた。
鬼たちは低い唸り声を上げて明らかにアタシたちを狙っていた。手には薙刀のような形をした金棒を持っていた。それをどう使おうとしていたかは明白だった。
「ゥゥゥウ……」
ひとりの唸り声が止んだ。金棒を強く握りしめたときの筋肉が隆起する音が聞こえたような気がした。瞬間、さっきまで感じていた馬鹿馬鹿しさが青白い恐怖に変わり血の気が引いた。
「グオオオォォォ……ッ!!」
金棒が横薙ぎに大きく風を切った。幸いそれ以上に嫌な音は聞かずに済んだ。血の気が引くのと同じくらいの速さで身体も後ろに退いた。よく動けたと自分でも思った。そう思うとまた場違いに嬉しい気分が湧いてきて、見る余裕はなかったけどきっと伊吹はもっときれいに避けたんだろうな、なんて思ったりもした。
「いやいやいやいやいやいやいやいや……」
数歩後ろで伊吹が呪文のように呻きながら内腿とお尻をしっかり地面に着けてへたり込んでいた。顔はきっとアタシと同じだ。顔面蒼白。
察するに、力強いバックステップでアタシよりも後ろに下がって攻撃をやり過ごせたはいいものの、腰を抜かしてそのまま動けなくなってしまったようだ。無理もない。アタシも地面を踏みしめ直してみても、立てている気がしてこない。
鬼たちに慈悲はない。金棒を両手でしっかりと握り直して、今度は3匹が一斉ににじり寄ってくる。今のアタシたちには次の攻撃を避けるのも、逃げるのも難しい。立ち向かうのは……一瞬考えてみたけどやっぱり万にひとつもあり得ない。
「本当にそうなのかい?」
誰かが言った。誰か、そう“誰か”だ。アタシや伊吹ではない声……いや、声に関しては自分のに似てたような気もする。
「その可能性はあるかもしれない。なにせ、ぼくはきみなんだから」
また声がした。しかも明らかにアタシの心の声に答えるように。次から次へととんでもないことばかり起きているけど今は目の前のこの状況こそがいちばんとんでもなく、そして切り抜けなければいけないのに余計に頭が混乱してしまう……。
「この場を切り抜けるのは簡単さ、一歩踏み出せばいい。そしてそれが難しい。人間、自分自身に従うのがいちばん難しい。いまのきみみたいにね」
やっぱり考えを読んでいる……! 声は自分は自分自自身……アタシだと言う。そんなバカなことがあってたまるかと言えないのが今のアタシの状況……でも信じることもできないという正常な判断ができる程度には意志を保ててもいる……。
「そうかもね。でも信じる、信じないじゃないだろう? 前に出なきゃ、きみはここで終わるだけ。それにきみの友だちもね」
……! それはそうだ。それに声の主がさらに別の敵だったとしてもこれ以上の状況の悪化はない。目の前の鬼にアタシも伊吹も……終わるから。
「そうさ、自分の言うことは聞いておくもんだよ。さあ、一歩前へ!」
その声を合図のようにして、深いエコーで頭の中をひとつの言葉がこだまする。座り込んでしまいそうなほどのめまいをこらえて、右足を前に出し、やつあたりのように地面を踏みつけた。
「……ペ、ル……ソ、ナ?」
パリィ……ン! そう音が聞こえたわけではないが、割れて粉々になったガラス片のような光の粒が、踏み出した右足のまわりに散らばって、消えた。
「我は汝……汝は我。今ここに果たされた契約のもと、その力を見せよう」
そう聞こえたとたん、頭上に明らかに異変というか熱を感じた。見上げると……
「
目隠しをされた、拘束衣姿の、逆立った銀髪の……人間、なのか? が浮いていて、そう叫んだ。
「ゴワアアァァァッ!」
突然鬼たちのそばで青白い爆発が起きた。とっさに伊吹をかばいながらも爆発に見とれている自分がいた。
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Genuine Flabby Preludes (for a dog)
爆炎が晴れると鬼たちは消えていた。一片の欠片もなく。あったら怖いけど……。倒した、ということでいいんだろうか。この場所にしても鬼にしても、さっきまで追われてた緑色の変ななにかにしても、存在が謎だけに消えたからといって問題が解決した感じはしてこない。
「沙紀……上、うえぇ~……」
横でうずくまったままの伊吹が力なくアタシの上へ視線を向けている。そこに浮かんでいる存在……。
「ペルソナ……『ウォーホル』」
特別さを感じるでもなく、馴染みのない言葉が口をついて出てきた。その言葉の指す存在は、襟を立たせた白い拘束衣に身を包み黒のレースの目隠しをし、ふわっと銀髪をゆるく逆立てた、平常ならざるファンタジーな姿でアタシの頭上を浮いている。背丈は3mはありそうで、人間を模してはいても尋常でない存在であることは見れば伝わってくるのは伊吹も同じようだ。
「怖いかもしれないけど、味方……というか、アタシ……なんすよ?」
我ながら言い淀みが激しい。仕方がない。自分自身急な心持ちの変化で『ウォーホル』がアタシであるかはともかく、自分に近しい存在、親しみのあるものであることは感じ始めてはいるものの、どこか白昼夢というか幻想的な淡いものという意識もあってグラグラしていて、その感覚を抱えたまま、しかも説明というほどの理解は全然できていない状態で伊吹に説明しなければならない無謀さ。なにひとつ自信を持って話せる要素がない。
「意味わかんない。アンタではないでしょ……」
依然落ち着きを取り戻せてはいないものの、もっともなことを伊吹が言う。
「つまり、あれっす……“もうひとりの自分”的なやつ! 能力! ペルソナっていう」
「なに言って……いや、……そう……そう、かぁ……」
「え?」
それだけ言って、口を半開きにしたまま伊吹はしばらくペルソナを眺めた。
「まあ変な話、ここがなんなのかとか、今までいた鬼とか、さっき追いかけられてた薄汚れた抹茶色のスライムみたいなやつとか見たわけだし、不思議な力ってやつがあってもおかしくはない……いや、おかしいんだけど……納得は、できた……かも」
アタシと同じぐらい伊吹も理解に苦しんではいても、一応の納得を得た、というより自分にそう言い聞かせることができたようだ。お互いの言葉の説得力のなさに力が抜けてくる。ひと安心してアタシもその場にしゃがみ込んだ。
「あははは……どうしよう? これから」
場違いはわかっていても安堵感からか笑ってしまう。
「とりあえず……解除? したら、“それ”」
「えっ……わっ」
伊吹に言われて解除なんてできるんだろうか、と思ったらあっという間にペルソナは消えた。まさに超能力といった趣だ。
「で……なんだっけ」
「んー、と……ああ、体育館。行くんだったんすよ」
いろいろありすぎてそもそもの目的を忘れかけていたけど、なにはともあれ渚ちゃんを探すのが第一だ。危険な存在がいることも確定してしまったし大至急見つけなきゃいけない。
「ミツケタ、ミツケタ……」
「うわ、出た!」
まさに得体の知れないものを見たこのときにふさわしい言葉だ。振り返ると下駄箱にさっきまでアタシたちを追いかけていた、伊吹言うところの“薄汚れた抹茶色のスライムみたいなやつ”が浮かんでいた。なぜか笑顔でウィンクしていて、しかもその表情を崩さない。不気味だ……。
「沙紀! さっきのあれ! あれ出してっ!」
相手の顔に気をとられていたところを伊吹の声で我に返る。さっきの鬼に比べてこいつは強そうには見えないものの油断はできない。
「出てっ、『ウォーホル』!」
早くもペルソナをふたたび発現させる……させるっ……させようとしている……。
「出ないっ!?」
「ぅえっ!? なんで!?」
「知らない!」
そうとしか言えない。出ない! 回数制限とかクールタイム的なものがあるのか?
あたふたしてる間に抹茶スライムがこっちに向かってきた!
「…………」
「……あれ?」
向かってきたスライムはアタシたちのまわりをグルグル回る。それ以外はなにもしてこない。
「……ミツケル」
「え?」
「仲間ヲ、ミツケル。我ラノ、仲間」
スライムがそんなことを言った。追ってきたのはアタシたちを襲うのではなく、仲間か誰かを探すよう頼みに来た……ようだ。
「……敵、じゃないのかな?」
「うーん……怪しいけど、違うんじゃない?」
鬼はいきなりこっちを攻撃してきた。そうしないということはこいつはアタシたちに敵意がないのかもしれない。隙を窺っているという可能性もあるけど……。
「ならいいけど……なに見つけるって?」
「仲間……? あと3人って……あっ」
「なに?」
「アタシたちと同じなんじゃない? どこかからここに飛ばされて、みんなとはぐれた」
「ああ、なるほど……人間では、なさそうだけどね……」
伊吹の言うとおりではあるけど、この際そこを考えるのは置いておこう。人間ではなくとも境遇が同じなら……得体の知れないものへの不気味さは払拭しきれないものの、協力した方がいいかもしれない。
「アンタ……名前は? ある?」
伊吹がスライムに尋ねた。伊吹もまたアタシと似たような気持ちなのかどことなく警戒してるような素振りを隠せずにいた。それは普通なことだ。そう考えると、むしろいきなり追ってきて協力を頼んできたこのスライムは度胸がある。それか、アタシたち以前に人間と会ったことがあるのか……。
「ナマエ、『クシミタマ』……コンゴトモヨロシク……」
スライム改め『クシミタマ』が言った。なんだか日本語がちょっとわかる海外の人のような言葉遣いだ。そう思えば少しはこの不思議な存在に親しみが湧いてこないこともないかもしれない。
「よろしく……っても、この子の仲間なんてどこにいるか、渚以上に手がかりなんてないんだよね」
「とりあえず元々の目的の体育館っすよ。探し回ってみなきゃ見つからないし……いいよね?」
『クシミタマ』は相変わらず貼りついたようにウィンクした笑顔のまま静かにうなずいた、というか全身を前に傾けた。
*
体育館は下駄箱の横の出入り口から渡り廊下を通った先にあった。闇雲に走る伊吹についていってここまで来たけど結果としては目的の場所に向かっていたわけだ。あたりを警戒しながら入口まで来ると、窓という窓が暗幕用の遮光カーテンで遮られていて中の様子がわからない。
しかし音は聞こえる。周囲への注意を払い続けながらしばらく耳をすませる。ほとんど一定のリズムで地面に何度も物が叩きつけられている。弾力性のある、くぐもった低い音。それはときどき硬い響きにもなった。いずれにしてもゴムをイメージさせる質感……。あるいは『キュッ、キュッ』と、これまた床の上でなにかが擦りつけられているような甲高い音……。なにが行われているかはそれらを聞けば中を見ずともわかった。
「バスケ……してるよね、これ……」
アタシの確信を再確認するような伊吹の呟き。なぜ中を見えないようにしてるかはわからないけど伊吹の言葉への答えは明白で、その答えは半ば自動的に渚ちゃんの存在をこの体育館に示していることになる。
未だ謎のこの場所、鬼や『クシミタマ』のような危険な、あるいは不思議な存在、そしてアタシに芽生えたらしい力、『ペルソナ』……。わからないことだらけな事柄への不安や警戒心を忘れたわけではないけど、
体育館の中は、予想通りの光景と思いもしなかった光景とで錯綜としていた。
まず中には渚ちゃんがいたし、元気そうだった。それはいい。探していたんだから。問題はそこからだ。渚ちゃんはなぜか甲冑姿だ。甲冑。よろい。武士の。戦国時代な感じのやつの。鎧で、バスケ。普通に器用にドリブルをこなして相手のディフェンスを華麗に抜いていく。そしてその相手というのは、さっきアタシたちが戦った鬼なのだ。
鬼たちはアタシたちが遭遇したときと同じように薙刀型の金棒を持っている。鬼が金棒を持っているのは普通というか、まあイメージ通りなわけだけど、バスケ中なのである。金棒を持ってバスケしてる鬼……おかしい。なにもかもが、おかしい……。そんな異様な場を、アタシと伊吹は目撃している。
「誰カ止メロォッ!」
「コノママデハ予選敗退ダ! 鬼ノ名折レゾッ!」
「サセルカ! 全国レベルノ鬼一族ノディフェンス力ヲ見セルノダッ!」
鬼たちは言葉を交わし合うと、渚ちゃんを待ち受けていた2体がなんのためらいもなく金棒を振るった。
「甘い甘いッ!」
渚ちゃんもまたそれを当たり前であるかのようにかわし、ドリブルを続行しゴールに向かっていく……。
そして、きれいなフォームから放たれたボールは渚ちゃんからゴールへとアーチを描いてネットをくぐった。
「ヲヲヲヲヲヲアァ……ッ!」
金棒を落としその場にへたりこむ鬼たち。泣いているかどうかはわからないけど、そこかしこから嗚咽のような声が聞こえてくる。
「……本選出場は、貰ってくよ」
渚ちゃんがいちばん近くにいた、力なく四つん這いになっている鬼に向けて静かに声をかけた。勝利に酔いしれず、敗者を慮り静かにコートから去っていく……。
「待テ……」
声をかけられた鬼が立ち上がり、渚ちゃんの背中に語りかけた。
「……勝テヨ」
絞り出すように一言そう言った。
「……うん」
渚ちゃんも一言で応えた。そして振り返ると鬼の元へ戻っていく。
「勝つよ、絶対……ッ!」
鬼に向けて右手を差し出し、決然とした調子で言った。鬼は少しの間を置いて、差し出された手を握った……。
「……なんなの、これ」
ためらいがちに伊吹が言った。お互い決して今までのこの様子を冷ややかに見ていたわけではない。スポーツマン同士の譲れない闘い、勝者と敗者の熱い心の対話……というやつだったんだとは思う。でも、
① 何度も考えていることだけど、まずここはどこなのか?
② 鬼は危険な存在のはずではないのか?
③ ていうか渚ちゃんにもモロに金棒で攻撃してた。
④ それに適応してる渚ちゃんもなんなのか?
⑤ なぜ甲冑姿なのか?
⑥ これは本当にバスケットボールなのか?
際限がない。頭にいろいろな『なぜ?』が浮かんでは脳を圧迫してくる。
「……わかんねっす」
謎すぎる状況に気力を削がれて、ほとんどささやくように伊吹にそう返した。
「それで、そこにいるのは……次のチームかな?」
振り返った渚ちゃんがこっちを見て言った。アタシたちに気づいていたらしい。
「キャプテン……!」
いち早く渚ちゃんの声に反応したのは『クシミタマ』だった。
「トイウコトハ、我ラノ相手ダナ!」
どこからともなく、今まで渚ちゃんと試合? していた鬼とは別の鬼たちが現れた。
「観戦させてもらうよッ!」
いっしょに対戦していた鬼たちとコート外に出てベンチに座り、熱い視線をこっちに向ける。渚ちゃんを探しに来た手前、回れ右で出ていくわけにもいかないので嫌な予感しかしないままにとりあえずコート内へ伊吹と『クシミタマ』と共に足を踏み入れる。
「デハ……試合開始ダアァッ!」
コートの真ん中で互いに並び合ってからわずか8秒で鬼の一体が金棒を振り下ろしてきた。
「やっぱりこうなるじゃあぁぁぁん!」
叫ぶ伊吹と後ろに跳んで攻撃をかわした。開き直ってるのかこうなる雰囲気を伊吹もバチバチに感じていたのか心なしか余裕があるように見える。
「だああああいっ!」
奇声を上げて伊吹がこっちに背中を見せた状態で手を振って招く。そりゃあ逃げるしかないよね……。でも渚ちゃん、どうしよう?
「ガル!」
さらに違う叫び声。振り返ると『クシミタマ』が鬼の前に立ち塞がるように浮かんでいた。一瞬空間が歪んだように見えたあと、3体いる鬼のうちの1体が後方へ吹き飛ばされた。どうやら『クシミタマ』は戦えるらしい……いけるかもしれない。
「今度は……出てっ、『ウォーホル』!」
足に力を入れて床を思い切り踏み鳴らしながら強く念じたら……出てきた!
「いけっ!」
要領を得ないまま目の前の2体の鬼に集中すると『ウォーホル』は手をかざし、次の瞬間には前と同じ青白い爆炎が鬼たちを覆った。
「補充!」
『クシミタマ』に吹っ飛ばされた鬼が叫んだ。その瞬間、どういう原理なのか、コート内に黒い
「ガル!」
また『クシミタマ』がそう発すると緑色の衝撃波のようなものが“補充”された鬼の目の前に発生して、1体を吹っ飛ばした。
残った1体が『クシミタマ』を狙おうと動き出したのを見て、今度はそいつをアタシが『ウォーホル』で爆破する。
「補充!」
1体がさっきと同じように叫ぶとまたコートに
間髪入れず、新しく現れた3体が動き出す前にそこに向けて意識を集中させる。狙い通りに爆発が起きる。散らばった2体のうちの1体を『クシミタマ』が再度攻撃して再び鬼は孤立する。力量的にはアタシたちの方に分があるようだ。
「補充!」
そして残りの1体がまた例の叫びを上げる。また新しい鬼が現れる……流れはわかった。減ると増える。一掃しないといけないわけだ。
「補充!」
「補充!」
「補充!」
「………え?」
理解したと思ったとたん、予想だにしてないことをやられた。増えたばかりの鬼までが、いきなり“補充”を行ってきた。あっという間にコート内には11体の鬼がひしめく光景が出来上がった。
「そんなんアリぃ!?」
たまらず伊吹が言った。そもそもルールがあるのか怪しいところとはいえ言いたくもなる。
「ええ。メンバーの補充はシーサイド条約で50人まで可能です」
事も無げに審判役の鬼が言った。どうやらルールはあるし、適用内らしい。シーサイド条約……『愛野“渚”』だから……?
「反撃イクゾォー!」
「オーフェンス! オーフェンス!」
「イッポンカエシテコー!」
仲間内で声をかけ合い押し寄せる鬼たち。今までどこかアトラクションに興じるような気持ちがあったのが急に焦りで頭がザワザワする。11体……11体も、いる……!
「うあぁっ!」
うろたえてるのは承知で鬼を意識する。それでも『ウォーホル』は目の前に手をかざして集団に爆発を起こしてくれた。
でもそれだけでは群れは一掃できない。『クシミタマ』も衝撃波で攻撃してくれるけど『ウォーホル』の爆発ほどの規模はなく、1体を吹き飛ばし、そのそばにいたもう1体を少し押し戻すので精一杯のようだった。
再度爆発を起こしても数を削り切れず、4体の鬼がアタシたちの目前にまで到達した。走ってきた勢いそのままに金棒を振るう。伊吹の前に立って、心得はないけど『ウォーホル』で防御の構えをとる。
「卵のように、軽やかに……『グノシエンヌ』」
少し離れたところから知らない声が聞こえた。声のした方向へ向こうとするよりも速く、風のような波のような……黄緑色のオーラが鬼たちの足下からフワッと舞い上がると、つられたように鬼たちも舞い上がり、体育館の天井に叩きつけられ消滅したのに釘付けになった。
「速やかに外へっ」
もう一度声が聞こえた。今度こそそっちに顔を向けると、ステージ上に金髪の女の人がいるのが見えた。
直後彼女の頭上に“存在”が発生し、それがオーラを飛ばした。薄黄緑色に透けたオーラは一反木綿のようにひらひらと、しかし素早く体育館入口扉の前まで舞ってからパッと消えると、勢いよく扉が開いた。
「説明は後で。今はついてきて!」
優しい声ではあるものの有無を言わさない鋭い調子で彼女は言った。形勢の不利を悟っていたのかアタシも伊吹も、ひとつ間を置いて『クシミタマ』も流れるように追従して入口へ向かった。
入口を出る直前、後ろを振り返った。“補充”されたんだろう、鬼たちが再び数を増やしてアタシたちを追ってくるのが見えた。しかし渚ちゃんは動く様子がない。やきもきしながらも今は金髪の優しい声の人についていくこと、それしかできない気がしてアタシと伊吹はまた息を切らして走った。
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私について彼女が知っている二、三の事柄
風にわずかになびく金髪を見ながら伊吹も『クシミタマ』も、その背中にただ付いていく。鬼たちを振り切ったあとも彼女の足は止まることなく階段を昇り、また昇り、アタシたちはあっという間に体育館から校内最上階の4階にまで逃げてきていた。
「ちょい待ち! あれはっ!?」
伊吹の声に廊下を注視すると、100mくらい先に赤黒い後ろ姿が見えた。
「構わずに。入って!」
その声と鬼が振り返ったのが同時だった。こっちへ向けて踏み出した足が廊下につくのを見る前に、言われるまま金髪の女性を先頭にみんなで手近な教室へと入った。
そこは音楽室だった。でもなにかが奇妙というか、さっきまでいた場所と空間の雰囲気が違っている気がした。木造であることに変わりはないけど、床や壁がワックスがけされたようにツヤがある。椅子や机や、教壇横にあるグランドピアノも新品のようで、清潔感があるというよりも使用感がないと言った方がしっくりくる感じだった。
「落ち着きましたか?」
さらりと、ことさら問いかけるような語気のない、何気ないひとことのような調子で金髪の女性が言った。
「そういえば……」
伊吹たちを見ながら呟く。さっきまでの慌ただしさが消えたようにいつの間にかリラックスしている自分に気がついた。走りっぱなしで息だって上がっていたはずなのに、いつの間にか時間が経ったかのように呼吸は平時のリズムに戻っていた。伊吹も同じなようで、本当に不思議そうに目を丸くしながらこっちを見て困惑していた。
「隠れてはいないけど、ここは隠れ家のようなもの……外の者たちに見つかることはないわ」
「えぇ~っ……まったく本当になんなの、ここ? あのさ、今までのあれやこれやは……なに? あんたは……何者?」
警戒しつつも、答えられるでしょうといった確信を持ったように困惑顔のまま伊吹が女性を見て尋ねてから、
「あっ、それと名前は」
そう付け加えた。女性は微笑んで静かに言った。
「
微笑んだまま彼女……音葉さんも次に言うべき言葉に困った。落ち着けたこともあってなんとも拍子抜けした気持ちになってしまう。
「そっすね……ここは、なんなんすかね?」
拍子抜けがてら実に軽い調子で訊いてしまった。音葉さんは背は高いけど威圧するような雰囲気や切迫した様子もなく、場違いのように清らかに佇んでいるその姿がそうさせたのかもしれない。
「あの体育館にいた、甲冑を身に付けていたポニーテールの彼女……」
「やっぱり渚ちゃんが関係あるんすか?」
「渚さんというのね。ここは、彼女の世界……と言えば伝わりやすいかもしれないけど、正確に言えば“彼女そのもの”なの」
「…………んん?」
首こそかしげなかったけど伊吹の漏らした声はそうしているようなものだった。
「渚ちゃん、そのもの……? この学校とか、体育館とか、っていうかここ全体が……ってこと?」
「ええ。にわかには信じられないでしょうけど、ここは渚さんその人ということ。……そうね……」
そこまで言ってから音葉さんは一度小さく咳払いをした。
「ここが渚さんの心の中、いわゆる精神世界と私が言えば、信じられるかどうかは別として、意味は伝わりますよね?」
「えっ……まあ、そう……ね。ね?」
「うん……」
「でもそれでは正確ではなくて、ここは渚さん……渚さんというひとりの人間が、ひとつの小さな世界に変容したもの……そこに私たちはいる……わかりますか?」
優しく問いかけてくる音葉さんにはどことない必死さを感じて、アタシたちに自分が喋っていることをちゃんと伝えようとする熱意があった……が、ちょっと怖い。
「えと……渚ちゃんが……『人間』が『世界』に、変化? したのが、ここ……ってこと……っすよね?」
アタシは音葉さんの言葉をひとつひとつ噛み締めるように考えながら言葉をひねり出した。
「ええ、ええ! 大丈夫です」
すると彼女は探し物が見つかったときのような笑顔を浮かべた。自分にせよ他人にせよ探し物が見つかったときに笑顔になったとして、それが本当に今のこの音葉さんの笑顔のようであるかは実際のところ知らないけどなんとなくそんなときの笑顔のように見えた。
「この場所は人間という存在が、その人独自の世界ともいうべき空間と化したもの……。私は『カタリ』と呼んでいます。つまりここは“渚さんの『カタリ』”、ということです」
「ということです」、と言われましても……というのが率直な感想だ。「ぽか~ん」というやつだ。どんな顔をして話を聞いてたらいいかわからない。
「や、あのさ。それがそうだったとしてさ」
途方に暮れかかったところで伊吹が口を開いた。
「いたよね、さっき。渚。甲冑着てさ、いたじゃん? なんであんな格好してたか知らないけど……見たでしょ? アンタも」
そう言われた音葉さんは困惑する様子もなく、むしろ陽気というわけではないけど明るい顔を見せて伊吹を見た。
「ええ、そうですね。この空間こそが渚さんであるなら、さっきの渚さんはなんであるのか。あれはこの世界における『仮の主体』のような存在です。私は『コロス』と呼んでいます」
「殺す……?」
「その『ころす』ではなく、カタカナで『コロス』です。『コロス』は……」
ここで音葉さんは間を置いた。それはちゃんと伝えようという意気込みのためのように思えた。
「『カタリ』が、『カタリ』の内にあるものに能動的に干渉するために『カタリ』自身が生み出した自分の分身……アバターとでも言えば伝わるでしょうか……」
相づちを求めたわけではないだろう、音葉さんはここでまたほんの少し間を開けた。
「『カタリ』は、その内部に干渉する際、『カタリ』それ自身、つまり『世界・自然』として関わるのではなく、“人間的に”関わろうとするのです。そのため、もとの現実世界での自身のように人間の姿を拵えて、それから自らの世界になんらかの働きかけを始めるのです……。『コロス 』=『カタリのアバター』というわけです」
………………な、なるほど。
「沙紀わかった?」
「あぁーっ話しかけないで。絶賛理解中っす」
若干矢継ぎ早に話されて脳がひとつひとつを咀嚼して飲み込んでいくのに負荷がかかる。メモがあればよかった。書き込むヒマはなかったけど。
「そしてその『コロス』の内情というものは、現実世界を生きる人間同様不安定で、少なからず脆さを抱えています。一定程度の安定が保たれて初めて『コロス』は健全な『コロス』、ひいては『カタリ』でいられます……。では、その安定が乱れたら?」
問いに答える者はいない。音葉さんの声以外、鬼が歩き回ってるであろう教室の外も静かで、ましてやここに入ってくることも不思議とない。それも気になっている。『クシミタマ』も彼女の話を聞いているのかわからないものの、言葉を発することなくアタシの横で浮遊したたずんでいる。
「……『コロス』は『シャドウ』になり、『シャドウ』は別の『シャドウ』を生み『カタリ』を脅かす存在となる……それが、さっきの甲冑姿の渚さんと、あの鬼たちなの……」
どこか遠くから小川のせせらぎのような音が聞こえてくる気がする。その音は緊張を拭いも和らげもしなかった代わりにいつの間にか自分がまた焦りを感じ始めていることに気づかせてくれた。
「『シャドウ』は『カタリ』内の秩序を乱し、支配しようとする……そして、『シャドウ』に支配された『カタリ』の主は……いわゆる“廃人”となってしまいます」
こっちを配慮してか、音葉さんは最後の部分をややゆっくりと控えめに、慎重に言った。
「なんて……こった……」
混乱も交えながら伊吹が静かな驚きを絞り出した。
「渚ちゃんが……なんで? なんでそんな……突然そんなことになるんすか……?」
そんな言葉が口をついて出ていた。悲痛というより子どもが知らないことを尋ねるような調子で喋った気がする。実際今はショックとか悲しいとか理不尽だと思うよりも、疑問の方が大きいと意識的には感じているつもりだった。
「……それが厄介なのです。いつ、誰に、なぜ、そのようなことが起こるのか……それに関しては私もまだ掴めていない……」
誰のせいでもないゆえの申し訳なさに圧し負けたように音葉さんがわずかに口ごもりながら言った。
泣きはすまい。不意にそう思ったけど悲しみは押し寄せてこなかった。疑問を抱く、という態度というか実感がネガティブな感情に勝っていた。なにかをしなくてはならないということも、わかっていた。
「この頃、不特定多数の人々が突然理解不能な奇行に及んで、事件として報道されていますよね?」
「え、うん。そうね」
突然音葉さんがそんなことを言った。
「あれは『カタリ』が『シャドウ』に支配されて廃人化してしまった人間によって引き起こされているの」
「え! あれってそうなの?」
困惑の中にも腑に落ちたような明るい声をあげてびっくりしながら伊吹が音葉さんを見た。
「廃人化した人間は社会に暴走をもたらす……それがあの奇妙な行動の数々というわけです。ただの“奇妙”と呼べる内ならまだしも、人によってはひどい錯乱状態に陥り、暴力的な行為に及ぶ場合もあり、すでに何件かそういったケースもありますね。……それを防ぐためにも、あなたの……『ペルソナ』の力が必要なの」
伊吹からアタシに目線を移して静かに力強く音葉さんが言った。
「その『ペルソナ』にしても、いったいなんなんすか?」
「……理解や納得は別にしても、あなたはそれがなんであるかを知っているはず……でしょう?」
確信を持った面持ちで音葉さんがこっちをじっと見る。知っている……知っているというか、思ったことはある。
「じゃあ『ペルソナ』っていうのは……“もうひとりの自分”ってやつなんすか? 本当に……」
「ええ。細かく言えば『ペルソナ』も『コロス』に端を発する存在のひとつです。『コロス』が昇華されたもの……『シャドウ』とは表裏一体の関係にあるもの……と私は解釈しています」
「解釈……?」
今さら前髪を気にしながら伊吹が怪訝な顔になった。
「なにぶん私も自分の経験則から得た知識でしか話すことができませんから……。でも、すべてを知っているわけではないにせよ、少なくとも的外れではないと思っているわ」
少し目線を落として音葉さんはそう言った。
こんな異様な場所で出会ったこともあってか、アタシはどこか音葉さんに妖精というか、ざっくり言ってしまえばゲームで操作方法や、次に行くところややるべきことを教えてくれる案内役のキャラクターみたいな役割を自分の中で無意識に当てはめながら話を聞いていてしまっていた。もちろん彼女はそうではない。一般人とは言えないかもしれないとはいえ彼女もまた人間としてこの『カタリ』や『シャドウ』を体験したんだな……そんなことを今になって思った。
「話を戻します。『ペルソナ』は、『シャドウ』が『コロス』の調和の乱れによって生まれるものとは逆に、『コロス』がより強くというか、ある種の“集中力”を得ることによって変容したもの……。『シャドウ』が“負を増大させる存在”なら『ペルソナ』は“負を抑制する存在”……そう考えています。『ペルソナ』の力で『シャドウ』を抑制……すなわち、倒す……。そうすれば『コロス』の調和を取り戻し『カタリ』に安定をもたらし、『カタリ』の主は真人間として元の世界に帰還できます。それを達成するため……『シャドウ』を倒すために『ペルソナ使い』はひとりよりふたりの方が当然心強い……ぜひ助けが欲しいの……あなた…………」
ここまで言ったところで、急に音葉さんがものすごく不思議そうに口を開いてアタシたちを凝視した。そして少しはにかんでから、言った。
「名前をまだ聞いてませんでしたね……」
「あぁ、はい……吉岡沙紀です」
「アタシは小松伊吹ね」
ここでアタシたちは、お互いにお互いの名前を知っている関係になったのだった。
書いていて、書き手の説明力不足を如実に感じました……。そんなでも読んでくれた人にはマジ感謝。
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Ⅴ『Little L』
自己紹介のあと、やにわに生じた少し長い間を合図のようにし、『クシミタマ』を除くその場のみんなが手近にあった椅子を今いる場所に引き寄せて座りはじめる。腰を下ろし足の力を抜くと解放感で体力が回復しだしたような、そんな気にさせられた。
「で、それはもちろん、手伝うに決まってるっすよ。渚ちゃんが廃人だなんだになっちゃうのは絶対ダメだし、そもそも解決しなきゃ気持ち的にも、物理的? にもアタシら帰れなさそうだし……っすよね?」
ずっと気になっていたことをここで音葉さんに訊いてみた。帰る方法。偶然とはいえ来たのなら帰る手段もあると考えるのが普通だけど、その普通が通用しないというか、あるにしてもこの世界の普通と元の世界の普通は違うだろうから想像も期待も容易にはできない。
「ええ……“解決”がなければここを出ることはできない……少なくとも私は他の方法を知りません。この『カタリ』の維持が不可能なほどの不均衡……“世界の歪み”を抑えることで私たちは初めて元の場所に戻ることができる。ただし“抑える方向”は帰るだけならどちらでも構わない……。シャドウが抑制され『カタリ』が安定を取り戻し、『コロス』が元の姿と言える状態になった場合と、シャドウが『コロス』と『カタリ』を掌握し、『廃人』となった場合……。どちらでも、“歪み”の矯正が一定以上果たされれば『カタリ』の主も外部の者である私たちも、強制的に現実へと帰還することになります」
「それは、音葉さんの実体験に基づいてるんすよね……?」
「はい。ペルソナ使いであることを自覚してから、いくつかの『カタリ』に訪れ、しかるべき形での帰還を果たすために行動してきました……正直に言えば、芳しい結果を得られなかったことの方が多く……単純に自分の力が及ばなかったこともあれば、伊吹さんのように偶然ここに来てしまった、対処する力を持たない人たちを護るだけで限界だったこともあります……。そうした場合でも、生きてさえいれば帰ることはできていました……」
言い終わると音葉さんはアタシたちから視線を外した。
やっぱり、きちんと帰れる道はひとつしかないと言っていいようだ。帰れさえできればいいなら、おそらくこのままここにいるだけでもいいのだろう。
「あと、この……この子? はなんなんすかね……知ってます?」
ずっと大人しく漂うばかりの『クシミタマ』を見て音葉さんに尋ねた。音葉さんの言うシャドウならたぶん襲われているだろうから、それどころか助けてくれたことを考えればおそらくは違うのだろうけど、そうでないならそれはそれで何者なのか謎だ。
「念のため確認しておきますが、伊吹さんはペルソナ使いではないのですよね?」
「うん。そうだったらよかったかもしれないんだけどね。一応さっきからたまに「出ろーっ」って念じてみたりはしてるけど、ダメだわ」
伊吹は伊吹で助けになりたいと思っているのは山々だけど、念じてなれるものではきっとないだろう。
「我ハ“四魂”……“一霊”ノ欠片ナリ」
「うわ喋った。なに、なんて言った?」
「なんとかが、なんとかの欠片とか、どうのこうの……」
「“四魂”ダ。我ラ4人ガ、“一霊”……『キャプテン』ト交ワル時、安寧ガ訪レル……仲間ヲ探スノダ……」
うっすらエコーのかかったバリトンボイスで『クシミタマ』の閉じっぱなしの右目がうっすら光ったように見えた。
「『キャプテン』っていうのは……まあ渚ちゃんのことっすよね……」
「この子の仲間を探したら渚が大丈夫になって万事OKってこと? なんで?」
「仮説ですが……」
こっちに目を合わせないまま音葉さんが話し出す。
「この者は渚さんの『コロス』の一部なのかもしれません。シャドウに支配される前に『コロス』の力の一部を分離させることによって完全に乗っ取られることを防いだ……防衛本能のような存在……」
「そういうのは、あり得るものなの?」
「『カタリ』は人間の生命の在り方の数だけその様相があり、極端に言えばなにが起こっても不思議ではありません」
「あり得るってことね……はぁーっ、なにが起こっても不思議じゃないってんなら、いきなりなにもかも大丈夫な方向に行ってくれないかね」
右手で頭をかいて伊吹は目を細めた。視線を外すと、教室のすりガラスの窓越しにシャドウが廊下を歩く影が見える。
「あいつらがここに入ってこれないのはなんでなんすか」
「それはここが私の『カタリ』……のミニチュア版のようなものだからです。他者、この場合“渚さんの『カタリ』”という大きな街の中で、安全に過ごせるよう私が建てた秘密基地……例えるならそんなところでしょうか。それがこの音楽室になります」
「そんなことできるんだ? ……って、なにが起こっても不思議じゃないんだったね」
窓を睨みながら話した音葉さんの言葉に伊吹は一瞬面食らったあとすぐ勝手に納得したようだ。
「集中力と想像力が必要ですが、“私的な空間”をイメージし、それを実体化しようと念じます……。そうすることでこのような場所を作ることができます。イメージは今いる『カタリ』との外見上の齟齬が少ないほどいいのですが、作り手の志向性に沿ったものでなければ安全な空間を生成するのは難しくなります。今回はこのように『音楽室』という、『学校』という像の『カタリ』に対して極めて自然なイメージを表すことができましたが、これは私の『音楽』にまつわるものへの志向と、渚さんの『カタリ』のビジュアルとが、偶然にも自然に成立する関係にあったことが幸いしたためです。逆に、例えば『病院』の像を模した『カタリ』に対して『カラオケボックス』という場違い極まりない像をイメージしてしまっては、空間の生成に長時間の集中を要し、また失敗することすらあり得るわけです。ここにいる間は体力や精神力の回復、シャドウたちに気づかれず身を隠せるという大きなメリットがありますから、ある程度『カタリ』の様相を把握できたら空間の生成は可能な限り早めに着手すべき事項と言えるでしょう」
アタシたちにとって都合がいい方にも悪い方にも『カタリ』という世界には、自分が今までいた世界とはかなり異質な力学が存在していることを改めて認識した。しかしイメージによって安全な空間を作り出すという魔法のような技に対して『カタリ』とイメージ像との社会・文化的ともいえるような認識上の擦り合わせの自然さ、というひどく現実的な条件を要求される点なんかは、まさに社会生活を営む人間の感覚のそれだ。それまでの常識が通用しなさそうな世界でありながら常識が参照される……正直なところインスピレーションが刺激された感触がある。それはイメージの貧困さを指摘されたようでもあった。果たさなければいけない目的が目の前にあるというシビアさの一方で、楽しみを見出だしている自分がいた。
「でもここにいてもなんにも進まないよね……。態勢が整ったら出るしかなくない?」
伊吹のその言葉で高揚感を少し冷ますことができた。そうするしかないように思える。そしてそれは、どう考えても戦闘は避けられないということだった。
「まず扉の前のシャドウたちが去るのを待ちましょう。できる限り見つからないよう……私たちが力尽きれば、伊吹さんを守れませんから……」
「そうなんだよね。あんまり自覚ないんだけど、荷物なんだよなーアタシ……ペルソナねぇ……ハッ! ……出ないわ」
「あ、出そうとしたんだ……」
「出すのになんかイメージとかあるの?」
「う~ん、あるにはあるけど、説明は難しいっすね……。一歩踏み出すような……ガラスを割るような……」
「どっち?」
「いや両方の感じなんすよ両方。踏み割るような……ッ」
「おわっ!」
と伊吹が小さく叫んだのは説明してたらアタシのペルソナが暴発して出てきたからだ。突然出てきた『ウォーホル』は当然なのかもしれないけどなにをするわけでもなく頭上をプカプカ浮いている。
「うん、やっぱ思うんだけどさ……けっこう怖くない? 見た目」
パッと見はまさに『目隠しと拘束衣で身体の自由を奪われた人』だ。逆立った銀髪姿が、どことなくアウトサイダーアート感というか、ポップなビジュアルな気がしなくもなくて悪くないと思う。
「一瞬しか見なかったけどそっちもなんかけっこう不気味というか……ねえ?」
若干の配慮で言葉を濁らせて伊吹が音葉さんを見た。
「そうですね……」
特に表情を変えるでもなく音葉さんも自らのペルソナを出して改めてアタシたちに見せた。
「ペルソナの姿はどんな形でも、それ自体がひとつの美であり、使い手を通して語られる生命の表現だと思います。私はこの『グノシエンヌ』を通して、私の身体によって語り得る世界を、指揮し、奏で、響かせるのです」
音葉さんが『グノシエンヌ』と呼んだそのペルソナは、見た目は女性のように見えた。目を閉じ穏やかに微笑み続ける薄茶色の顔には木目が見える。側面にはわずかに溝のような模様があって、木の仮面を被ったように見えるけれど人間とは違ってこれが生の顔の可能性もある。音葉さんと同じような短い金髪の上に草冠が載っている。服は、マタニティドレスのような、ゆったりした身体のラインが見えない、薄く青みのある灰がかった華美過ぎないドレスを着ている。
いちばん目を引くのは右腕で、肘から先が4本に分かれていて、それぞれにきちんと手があった。そっちとは違って普通にひとつある左腕には、
「まあ文句があったわけじゃないけどさ、アタシはもうちょい可愛い感じのがいいかな」
持つ、という言い方が合うかわからないけど伊吹はペルソナを持つような前提で言った。小物でも選ぶような気安さだ。
「なぜだか……伊吹さんもペルソナ使いになるような気がしてなりません」
「そうっすね……」
目配せしながら音葉さんと言葉を交わすと伊吹は『クシミタマ』を見て
「ってことはこの子は渚の表現ってことになるわけか。ほ~ん……わからん。ぜんぜんバスケっぽくないし」
そりゃ恐らくそういうストレートに表されるようなものでもないんだろう。その人の漠然としたイメージをなんとなくパッと感じさせるようなものがペルソナの姿形に出てくるとは限らないのはアタシの『ウォーホル』を見てもそうだ。
「アンタも戦えるみたいだし、ちょっとアタシのお守り頼んでいい?」
「ココロエタ」
「うむ、よろしく」
「コンゴトモヨロシク……」
命令するのでも頼むでもない調子で伊吹は『クシミタマ』と言葉を交わした。いつもの伊吹の面目躍如だ。ナメられない絶妙なフレンドリーさ。それが発揮されたかどうかはわからないけど『クシミタマ』は素直に伊吹の言葉を聞き入れた。サポートはこっちとしても助かる。
「……外が静かになりましたね」
音葉さんが言った。確かに影は消えていた。
*
外の気配に耳をそばだてながら扉を開けて廊下を左右に見やると、鬼の姿はない。探索再開だ。廊下を出てみんなで左に向かった。移動してなければ渚ちゃんの場所はわかるが、とりあえずは『クシミタマ』の仲間を探さないことには事態は好転しなさそうだ。実際またさっきみたいに鬼を次から次へと出されていったんじゃ数で押されてやられるのが見えている。
「探すってもさ~、ヒントとかはないんかね。その辺どうなのさ?」
気さくに軽い調子で言いながら伊吹は辺りをキョロキョロ見回している。
「我々ハ『キャプテン』ノ一部ナノダ……。善キ隣人タルオ前タチナラ、幾ラカ予想ハツカヌノカ?」
おそらく煽るわけでもなく、純粋に『クシミタマ』が逆に尋ね返してきた。
「それを言われちゃなにも言い返せないなー……」
「思ったんだけど、『クシミタマ』に会う前、教室で渚ちゃんのノート見つけたじゃないっすか。一応渚ちゃんのクラスの、渚ちゃんの席で」
言いながらお腹に挟んでいたノートを取り出して見せた。こうして今考えるとすべてが合ってるわけではないけど、ここはやっぱりアタシたちの通う学園をモデルにしているんだ。だから渚ちゃんの席……渚ちゃんに繋がりのある場所に、渚ちゃんの物があったんじゃないか。
「感ジル……『反応』ヲ感ジル……」
『クシミタマ』がノートを見ながら言った。
「ソレダ……ソレヲ探スノダ」
「ノートが他にもあるってことすか?」
「ソレハワカラヌ……ダガ、『反応』ガアル。ソレヲ集メルノダ……」
『クシミタマ』が意味ありげに言う。
「なんか渚の物を見つければいいってこと?」
「っすね……。で、ノートは教室にあったし、体育館には本人……がいたわけだから、渚ちゃんに関係ある場所を探せばいいんじゃないかな?」
「渚に関係あるとこ……ね。教室、体育館……う~ん?」
渚ちゃんの教室に、バスケ部の活動場所の体育館……ときて、他に関係が深そうな場所が思いつかない。
「案外出てこないもんすね……」
「寮は?」
「ここにあるのかな……。そもそもそこまで広いとかなり大変なことになるんだけど……」
外へは一瞬校庭に出た程度だから、学園の外がこの空間にも存在するのかはわからない。ただ、学園外も含めるならそれこそ実家とかも入ってしまうんじゃないか? 渚ちゃんの実家……愛知出身だって聞いた覚えあるんですけど……。
「とりあえず学園内に限定して探そ。それで駄目ならそれから、ってことで」
そこは伊吹に賛成だ。正直それで見つけられないのは勘弁して欲しいと思った。ただでさえ要領を得ない場所なんだ。長距離を探すだなんて、時間も労力もとんでもないことになってしまう。想像しただけで途方もない。
「そうっすね」
「で、どこよ?」
「それは、うーん……」
それがわからないんだったから足踏みしてるわけだ。意外にも思いつかない。アタシは渚ちゃんのなにを知っていたんだろう? まさかバスケのことだけではない。でも自問自答してみても“なにか”は出てこない……いや……。
「あっ! あー……」
「なに?」
ごちゃごちゃ考えてる中で急速に初歩的なことを思い出したように
「部室があったじゃん」
「部室……あーっ部室! そうじゃん!」
なんのことはない。アタシたちが渚ちゃんへの象徴的なイメージを持つ場所といえばバスケ部の部室があるじゃないか。
「お互い体育館と部室をセットで捉えてたっぽいっすね」
体育館には校舎と結ばれる渡り廊下の他にも部室棟へと続く道があった。利用する立場ではなかったからかそれが頭から抜け落ちていたらしい。部室は部によってミーティングのために整然と会議室様になってるところもあれば、大半はそうであるイメージがある気がする更衣室・休憩室として機能しているところもあれば、実質用具入れとしてしか使ってないような部のものもある。バスケ部がどれに当てはまるかは知らないけどバスケ部の部室ももちろん部室棟の一画にある。
「部室は間違いないっしょ、根拠はないけど。あとは……まあバケモノ? モンスター?」
「『シャドウ』……です。しかし大掴みに言えばモンスターという認識で差し支えありません。鬼たち……鬼でないものもいるかもしれませんが、それらは母体であるシャドウ化した『コロス』から産まれた存在ですから、母体のシャドウを抑えないことには根本の解決にはなりません。しかし倒せば倒しただけ『カタリ』内から本体への廃人化の一時的な抑制にはなります。もちろん、だからといって無理に戦うべきではありません」
諭しながらも先頭を行く音葉さんは警戒を怠らない。怠らないとは言ったけどそう見えるから思っただけで実際はわからないけど、この状況でそう見えるならそうだろう。
「ボスまで無理して戦う必要ないのはいいけど部室棟だからまた1階行くわけじゃん? アイツらとまったく遭遇しないってのは無理だろうね……」
「さすがに全スルーできるとは思ってないけど……できる限りは隠れたり逃げたりしていけばどうにかなる……っすよ」
根拠はない。これが完全にゲームの世界なら戦闘を避けてたら経験値が稼げないままボス戦に入ってゲームオーバーだけど、そんな単純な世界ではないようで、それだから苦労しなければどうにもならないわけだ。どっちみち大変なことだ、どうせなら都合のいい大変さだといい。でもそんなことってある?
「言うまでもないけど言っておくけどアタシは避けるのに専念するから。なるべく邪魔にならないように」
申し訳なさそうな顔をするでなく当たり前のように伊吹が言う。伊吹が悪いわけではないのだから問題はない。申し訳なさそうな顔をされたほうが、困るというほどではないけどなにかばつが悪い気分になるかもしれないし。アタシが逆の立場なら少しは悪そうな顔をしてしまう。
「伊吹はなるべく避ける・隠れる、プラス『クシミタマ』にボディーガードしてもらう。アタシと音葉さんが、まあなんとか頑張る……そんな感じでお願いするっす、音葉さん」
「ええ、なるべく無理をさせないよう……心がけます」
我ながら作戦とは呼べない作戦に音葉さんが真剣な顔で頷いてくれた。
*
予想していた通り1階に降りると廊下を鬼たちが周囲を見回しながらうろうろしていた。数はそれほどでもないものの、見つかればすぐにぞろぞろやって来るに違いない。
中にいないことを祈りながら手近にあった教室の扉をなるべく静かに、そして素早く開けて入り込み、そっと顔を少しだけだして様子を窺う。根気強く見ているとそれぞれ決められた場所を延々と監視しているわけではなく、侵入者とでも言うべきアタシたちを積極的に探しているようで、しばらくすると少なくとも視界からは鬼たちの姿がまったくいなくなった。
「今っすよ」
前後を確認してから小声でみんなを促して再び廊下を歩く。ちょっとでも物音や気配を感じたら即またいちばん近い教室に逃げ込む。
行き当たりばったりなものの幸い見つかることなくもう一度前の廊下にまで来ることができた。角から下駄箱の方を見ると、どうもいる気がする。姿はまだ見えないけど金属を擦ったような音が少し聞こえてくる。となれば鬼の持っていた金棒であることは予想がつく。
「……いくっす?」
薄ら笑いを浮かべてるような気がしながら音葉さんを見た。
「あなたが可能なら……。合図は任せて」
ちょっと困った顔をしながらも、身を屈めた姿勢のまま彼女はペルソナ、『グノシエンヌ』を出した。
内心ビクつきながらそれに
「準備はいい?」
「OKっす。……あ、伊吹と『クシミタマ』は待機で」
小声で素早くやり取りし、神経を前方に集中する。鳴り続けている物音以外、すべてが沈黙したように目の前の音だけが耳に入ってくる。
「…………今よ」
ひそめた声でもはっきりと聞こえた。音葉さんを隣に感じながらも前だけを見据えたまま下駄箱に向かってダッシュした。
果たしてそこにいたのはやっぱり鬼たちだった。3体。数を確認してから間髪入れずに今度は『ウォーホル』に意識を集中させた。
「ガァ──」
叫び声は頭で打ち止めだ。アタシが1体を爆破させたとき、というか薄緑色の波が一瞬だけ見えたのを認識したときにはいたはずの残り2体が見えなくなっていた。速い。アタシが1体倒すのよりも少し早く、音葉さんは2体を倒した。場馴れしてるだけあってさすがとしか言いようがない。でも場馴れしてる音葉さんから一瞬遅れた程度なあたりアタシの『ウォーホル』だってなかなかだと思う、だなんてなぜか自尊心が出てきた。
「見事に先制できましたね」
そう言った音葉さんの声はやっぱり気負いや
「ねぇーっ。大丈夫ー?」
脇から伊吹がひそひそ声で叫んできた。手招きしてこっちに来るように促すと、頭の横に『クシミタマ』を伴って近づいてきた。すっかり辺りは静寂なものだった。
「部室棟は体育館からのが近いけど……」
「いや、そりゃー……ないでしょ」
下駄箱を眺めながら言ったアタシの言葉を伊吹は当然とばかりに否定した。
もちろんアタシにしてもそれは当然のことだった。40分ほど前までわちゃわちゃしていた場所を横目に敵と出会わずに部室棟を目指すというのは、心情的に無理だろう。反対側から遠回りしたほうが安全に行ける……という保証はないけど、そうすることがほとんど確定事項みたいなものだった。
「ま、そりゃ遠回りのがマシっすよね」
ひとりごとのように呟いたけど伊吹だけでなく音葉さんもそれに目で賛成していた。
*
校舎を出てすぐ正面のグラウンドに注視しながら右に曲がって歩けばさらに広い校庭側のグラウンドにまで注意を払わなくてはならない。開けた場所なぶん敵がいれば目に留まりやすいが、それはアタシたちも向こうの目につきやすいということになる。体育館側も大概だけど、こうしてみるとこんな見晴らしのいい場所側を移動するのもリスキーだけど今さらだ。
戻って校内を移動して部活棟に近いところから外に出るのも少しは考えたけど、意外にも校庭には不審な存在はアタシたちからは見てとれなかった。ちょうどタイミングがよかったのか敵と出会うことなく、校舎伝いに一列で歩きながら途中でもう一度右に曲がって、主校舎と副校舎とを繋ぐ渡り廊下へとたどり着き、廊下を挟むフェンスを乗り越えて反対側を窺う。部室棟が見える。余計なものも見えた。
案の定、部室棟のまわりには鬼たちがうろついていた。数も多く、目に見えるものだけでも7体もいる。さっきみたいな電光石火の先制で誰にも気づかれずに全滅という流れはさすがに無理がある。部室棟の裏や各部室の中に鬼がいる可能性もある。
「どうしたらいいと思います?」
「……ごめんなさい、いい作戦が思いつきません。だから私が引きつけるわ」
しゃがみから中腰に体勢をかえて音葉さんが言った。
「私が先に出て、シャドウを引きつけながら奥に逃げます。3人は部室棟で、なにかはわかりませんが『然るべきもの』を探し出して、見つけたら合流してください。できる限り倒しておきたいところですが……あの数では難しいでしょう……」
「大丈夫なんすか? 危なすぎるっすよ」
「そうだよ、てかアタシがやる。戦力になれないし、動き回るのは慣れてるし。ボディーガードが断らなければだけど……」
「構ワヌ」
「いいえ。沙紀さんの言った通り危険な手だわ。でも、状況を前に進めるためには時に綱渡りも必要……そしてそれは場数の多い私の役目……でしょう?」
伊吹が『クシミタマ』を伴って囮役を代わろうと提案すると、物腰柔らかくも毅然とした態度で部室棟を見つめながら音葉さんが言った。
「それに渚さんを知らない私では部室に入っても探すべきものはなにか、見当もつかないでしょう。それを考えても、部室に向かうのは彼女の友人であるあなたたちでなくては……」
音葉さんはそう加えた。囮役を譲る気はないようだ。
「校内の鬼が
中腰のまま油断なくまわりを窺いながらフェンスに手をかける。優柔不断そうと思っていたわけではないけど、音葉さんは案外スパッと即断即決の人なのかもしれない。
「行きますっ……!」
彼女は少し荒い息づかいでそう言った直後にぴょんとフェンスを乗り越えた。ここから部室棟まではかなり開けていて、隠れたりできるような場所はもうなかった。
「『グノシエンヌ』!」
駆けながらペルソナを出すと、すぐそれに気づいた鬼たちの群れが音葉さんへ殺到していく。
向かってきた鬼に向けてペルソナが衝撃波を放った。先頭にいた群れのうち2体が消し飛び、他の何体かも大きく体勢を崩し、群れの動きにもつれが生じる。
「はっ!」
音葉さんが大ジャンプで跳び上がった。鬼たちの頭よりずっと高い、5mくらいありそうな高さだった。一瞬だけ音葉さんの足元が緑に光ったのが見えたあたり、衝撃波を使って自らを空中へ飛ばしたようだった。そんな使い方もできるんだ、と思ってる間に鬼たちの頭上を跳び越えた音葉さんの姿は見えなくなり、少しの間を置いてから鬼たちが一斉に振り返って奥の方へ走り出したのを見て、音葉さんが無事に着地してこの場から離れていってるのがわかった。
「……急いで済ませるっすよ」
辺りが静かになってからも用心して周囲を見渡し、やつらがいないのを確認してからアタシたちもフェンスを越えると足音を気にしながらも部室棟へと急いだ。
*
「バスケ部は……あった!」
バスケ部の部室は1階のいちばん右にあった。階段の昇降音や余分に時間をとられることを考えれば2階でなかったのは幸いだ。現実の学園でもバスケ部はこの位置なんだろうか。そんなことを思いながらも敵が部室内にいる可能性も忘れて、さっとドアノブを掴み扉を開けた。
部室内はおおよそイメージ通りというか、見慣れた感じのある光景に思えた。ロッカーが並び、その間に長椅子が置かれ、賞状やポスターが壁に吊られて飾られている。用具室や会議室のような部屋はなく、そのあたりは体育館でするのだろう、部室というより単なる更衣室だった。
「で、渚の特別そうなものは……見た目からしてあるとすれば中だよね」
いくつものロッカーが並ぶ場所であてのない探し物とくればそう考えるものだけど飾ってある賞状も気になる。そもそも目当てのものを見つけたときに“それ”とわかるものなんだろうか? 気でも感じるとか……。
「あっ、『クシミタマ』……なんか感じないすか?」
『クシミタマ』はノートになにかの反応を感じると言ってたことを思い出す。だったら口を挟んで助言してくれてもいいような気もするけど。
「場所ハ、ソウダ……ココダ。シカシ、ソレノ他ハ……ワカラヌ」
重々しく口を開いたものの細かい位置まではわからないようだ。この部室……他の部室の可能性もあれば部室棟全体ということになるけど……、ここまで絞れているならいい。学園全体、ひいてはどの程度の規模があるのかわからないこの世界中からアタシと伊吹の予想だけで探すよりは格段に話が早い。
「しゃーない、バンバン開けてこっ」
言うが早いが目の前のロッカーを伊吹が開け始めた。考えてるよりローラーした方が速いのはもっともだ。ワンテンポ遅れてこっちも手近な扉に指をかけて開けていく。鍵はどれもかかっていなかった。
「なにもなし。ここもなし……ない……あ、発見」
「こっちも見つけたっす」
出てきたものに関して議論するのは後回しにし、とにかくすべてのロッカーを確認して、見つかったものを長椅子に並べていった。ガム、縄跳び、制汗剤、バッシュ、バスケの月刊誌、日焼け止め、ハンガー、モップ、水鉄砲、接着剤、絵筆、イルカのヘアピン、食パンの袋を留めるやつ、色紙、
「……ツッコミどころが多すぎる」
無造作に並べられた物品群を見下ろして大いに同意したくなるひとことを伊吹が呟く。
「なにはさておき、この中でいちばん渚ちゃん関係のものといえばバッシュで決まりだと思うんすけど……」
黒いバッシュを指差して言った。関係が深ければ合っているということでもないかもしれないけど、自然に選ぶならそうなる。
「それはそうだけど、そもそもこのカオス加減がアタシは気になる。なに、マスタードって? どう間違っても部室に持ち込むものじゃないでしょ」
「それ言ったら鼓っすよ。音楽室か音楽系の部室でしょ、これは」
「応援用の鳴り物として借りた……とか?」
「ポンポン雅な音鳴らされてテンション上がるっすか?」
「他の楽器との兼ね合いもあるし、あり得なくはないでしょ。縄跳びはトレーニング、モップは掃除用具、接着剤は……なんか用具の補修用? ガムとか月刊誌とか制汗剤やハンガー、ヘアピン、歯みがき粉もなんとなくわかる。色紙は……寄せ書きかな? ブラジャーは……そっとしておこう。マスタードは……なに?」
「食パンのアレと水鉄砲と絵筆は?」
「わからん……。あとそれはバッグクロージャーっていうのよ。捨て忘れたんじゃない? あっ、マスタードと組み合わせればサンドイッチかなんか作ったと解釈できる……」
「隅っこに空のダンボール箱もあったっす。最悪全部持ってけばいいや」
「そうだけど、ねぇ、『クシミタマ』はどう?」
「ウヌ……コノ中ノ、ドレカトシカ……ワカラヌ……」
「アンタでも特定まではできないかー」
「全部入れて持ってった方が早そうっすね。音葉さんひとりにいつまでも頑張らせておけないし」
「やっぱそうなるよね。バッシュな気はするけど……念は入れておいた方がいいし」
やっぱりアタシも伊吹もバッシュだと思ってはいるけど外れたときに大変なことになるかもしれないことを考慮して、すべてをダンボール箱に入れて運ぶことに決めた。
「モップは一応武器にできそうだし、箱持たない方が持っとこうか」
「箱はアタシでいいっす。持っててもペルソナは出せるっすから」
「じゃあ緊急の武器としてアタシが持ちますか……あとはみんな箱行きか。縄跳びもムチっぽく使えないこともないけど。水鉄砲は……空だ。まあ水じゃ鬼は怯まないか。制汗剤……『FURERO』のアップルミントか。アタシはレモンミント派……」
「見ツケタゾオォォォォォ!」
「ぎゃああああああああああぁぁぁっ……!」
途中で理性が勝ったのか、伊吹の絶叫のボリュームは後半は小さくなっていった。
「あーもう! ビビッた……仲間だよねアンタ……」
伊吹の絶叫のもとの主は、水色の、とても……ニヤニヤした『クシミタマ』とそっくりの見た目のやつだった。
「『ニギミタマ』……コンゴトモヨロシク……」
『クシミタマ』と同じように名乗った。探していたものは制汗剤だったということだろうか。出てきたタイミングは伊吹が制汗剤を持ったときのように見えた。
「しっかしちょっとその笑顔はムッツリすぎない? 不思議と可愛げがないこともないけど……」
伊吹の言葉の通り『ニギミタマ』はとてもニヤニヤしている。目が常に“へ”の字になっていて、しかも『クシミタマ』同様白目だ。助けてくれる相手には失礼だけど、ずっとその目で見られるのは気になる……。
「とにかく目的のものはそれっす! 音葉さんのところへ行こう!」
「よろしく『ニギミタマ』!」
手早く出会いの挨拶をし、伊吹が制汗剤をポケットに入れた。ノートといい持ち運びのしやすいものでよかった。
*
外へ出ると激しい物音が遠くから聞こえてきて、それはどんどん大きくなっていった。
「申し訳ありませんっ……増えてしまいました!」
音のする方から音葉さんの声が響き渡った。そっちを確認すると、逃げる音葉さんを追いかけて背後から大勢のシャドウが迫ってきている。
「なんか違うのもいるよ!?」
伊吹が言ったように追いかけてくる鬼たちとは別に、空中を浮いて進んでくる馬のようなやつがいた。
「とにかくまずは散らすっ!」
音葉さんが近くまで来たところで追っ手の集団前方に『ウォーホル』で爆発を起こして群れを散らす。シャドウたちはある程度バラバラに散ったものの、空中にいる馬のシャドウには爆発がきちんと届いてなかったのか、即座にこっちに向かってきた。
「コゥ……ハッ!」
背中から奇声が聞こえてきた、と思ったら光の球がどこかから現れて、あまり速くはないものの馬目がけて飛んでいった。球は馬に当たると弾けて馬ごと消えた。振り返ると『ニギミタマ』のニタニタ顔が見えた。
「ありがとうっす」
助けに感謝しつつも、近くにいる鬼を片っぱしから爆破していく。倒しそびれた相手は『ニギミタマ』が光の球で追撃してくれた。『クシミタマ』は伊吹のそばをキープしながら近づいてくるシャドウに攻撃を加えている。集団が崩れたのを見て音葉さんも攻撃に転じて、鬼より機動に優れる馬を中心にシャドウを各個撃破していく。
馬のシャドウは目が赤くて体は生気のない暗い緑色で、ゾンビのような姿だ。胴から下はクラゲみたいな触手状になっていて、体当たりだけでなく体と同じような色の衝撃波も出してこっちを攻撃してくる。空中移動と離れた場所からの攻撃は金棒を使うだけの鬼よりも厄介ではあるものの、体は脆いようで音葉さんは離れた敵は衝撃波で倒しつつ、近づいてくるやつには『グノシエンヌ』が直接殴って倒していた。右腕が4本あるから肉弾戦にも強そうだ。体が拘束されているビジュアルであるアタシの『ウォーホル』では直接攻撃はできる気がしない。
馬の素早さにも負けず、アタシたちはシャドウをどんどん倒していった。形勢はこっちが有利なように思えるものの、シャドウは倒しても倒しても数が減っていかない。
「どんだけいんのよコイツらぁっ!?」
『クシミタマ』と『ニギミタマ』に守られてはいるが伊吹もちょこまか動き回ってシャドウの攻撃を避け続けていて余裕がない。アタシも延々と攻撃を続けているせいかダルいというか身体の中にある力がどんどん萎んでいってるような感じがしている。
「囮として動き回ってシャドウを引きつけたのは良いのですが、一帯のシャドウをほぼすべて呼び寄せてしまったのかもしれません……」
さすがに疲れの見える顔で音葉さんがアタシの隣に駆け寄ってきた。みんなで十数体というシャドウを倒したはずなのに、いつの間にかアタシたちは鬼たちに包囲されていて、その輪を少しずつ縮めながら馬が逃げられないよう攻撃をかけてくる。
「音葉さん……正直そろそろエネルギー切れな気がするっす……ペルソナに力を込められないというか……」
「あれだけ能力を使えば無理もないでしょう……私ももうそう頻繁には能力を使えません……機を窺ってみんなを上空へ飛ばします。沙紀さんは馬のシャドウに注意を。着地にも気をつけて。跳び越えたらまっすぐ音楽室へ……そこまではなんとか力を振り絞って……!」
音葉さんに従ってアタシたちは身体が触れ合うくらいまで密集し、ひとかたまりになる。その間にも馬は攻撃をかけてくる。今さら気づいたことだけど、やつらは返り討ちに遭うことをまったく恐れていない。ためらいがないから攻撃の手がぜんぜん緩まない。衝撃波の方は見た目よりも案外平気なものの、それでも痛いものは痛いし、今はそれより力切れの方が深刻で、それに伴う倦怠感がかなりすごい。逃げたあとも教室まで走れるかが不安なくらいだった。
「もっと私に寄って……いいですか……いきますよ……」
「ちょっと待ったぁ!!」
「……え、だれ……?」
「やっと通じたのっ……今、やっと!」
唐突に謎の声。『クシミタマ』たちの仲間かもと思ったけど、エフェクトがかかったような生の人間っぽくはない声色には共通するところがあるものの、高い。女声だ。溌剌とした女子の声だ。
「イブキちゃん! お待たせっ!」
「えっ、アタシ……!?」
謎の声は伊吹に呼び掛けていた。
「あの、どちら様ですかー……?」
声の主が誰かを知ってか知らずなのか、伊吹は冗談混じりのあるトーンで肩をすくめながら訊ねた。
「あら……ほんとにご存知ない? さっきあんなに呼びたがってたくせにぃ?」
勝手知ったる相手に応えるような調子で声は伊吹にそう訊ね返した。
「…………え、マジ?」
夢が夢じゃなく現実であることに気づいたような伊吹は、確信をもって
「マジなのっ! さあ、名前を呼んで……今なら聴こえるでしょう! あなたも“顔役”に……なるときよ!」
声が起こすべきものを伊吹に促す。その言葉はアタシの『ウォーホル』とはまるで違うものだ。使い手によって千差万別な存在であることを改めてその身で体験している。
「おおぉぉぉ…………『ペルソナ』ぁっ!! これがそうなのかあぁぁぁ~っ!!」
右足を力強く前に出しながら伊吹が叫んだ。そのまま勢いに任せて次は左足を出した、と思ったらボックスステップを踏み出した。ふざけているようだがきっと真剣だ。
「来てっ……『ファニーフェイス』!!」
そして“名前”を呼んだ。その名前はもちろん伊吹のペルソナの名だった。
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