アタッカーウィッチーズ:Pokryshkin's Report of 301JGAS (下竹くみん)
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Report.1  ゴリグリー・ジューコフ

一九四五年二月二十二日 ペテルブルク、ペトログラツキー区 ペテルブルグ要塞 一二〇〇

 

 極寒のオラーシャ帝都ペテルブルグに、今日もストリボーグ寺院から鐘の音が響く。その音色は聴く者の耳を楽しませ、初めて訪れた者の興味を惹き、かねてよりこの町に暮らしてきた臣民にとっては明日を生き抜こう、戦時下で戦い抜こうという心を掻き立てる。

 一九三九年にネウロイとの戦争が始まって以来、こうして鐘の音を聞き続けられているのは、まさに奇跡としか言いようがない! ペテルブルグは幾度となくその大攻勢に耐え、この地を守らんとする気概に燃えたカールスラント軍、オラーシャ軍、スオムス軍による攻防の末、まだこうして人類の手に残り続けている。これはひとえに人類の抵抗の象徴である、といえよう。

 しかし、未だ母なる大地(ラージナ)と呼ばれるオラーシャは、そのほとんどが広く瘴気の下にある。ペテルブルグの兄弟都市であるモスクワは未だ解放されず、皇帝陛下(ツァーリ)がここに戻ってくるにも、まだ危険が多すぎる。この国がブレスト=リトフスクからナホトカまで、全てネウロイから解放されるにはこのペテルブルグ防衛よりも更に多くの犠牲を払わねばならないだろう。どんなに緻密で巧妙な作戦を組んだ所で、犠牲の無い戦いなどないのである。

 上空に魔導エンジンが響く。今日もまた、「その日まで」モスクワ上空を守り続けてくれるのだろうか。

 

 さて、このペテルブルグ要塞の中心に所在する統合軍東方総軍総司令部の中で、とある名司令官、そしてエースウィッチがランチのテーブルを囲んでいた。一人は最高司令官補佐である、ゴリグリー・ジューコフ元帥。もうひとりは同じくこの要塞に駐屯する第五〇二統合戦闘航空団の、アレクサンドラ『サーシャ』・ポクルイーシキン大尉。彼女は今日ネウロイの巣『グリゴーリ』撃破の栄誉で、三級ゲオルギー勲章を授与されたばかりだ。最新鋭のセントラル・ヒーティングシステムで温められた総司令部の一室は、食器の触れあう音と時たまの声以外、実に静かだ。鐘の音もここではほとんど聞こえない。窓の外の白で塗りたくった街並みが見える二重の窓ガラスが、寒さとついでに良い音まで遮ってしまっているのだ。ジューコフ元帥は若干四十九歳と実際、各国司令官の中では一段と若いのであるが、農村共同体(ミール)から徴集されてきたばかりの新兵のように丸刈りにしていても、黒々と目立つ頭髪のせいでなおさらその若々しさが際立つ。

「まあ、固くならないでさぁ。どんどん食べて飲もうよ、サーシャくん」

 そんな口調と健啖に杯を煽る姿も、彼のそんな印象に拍車をかける。彼は四一年の全軍が危機的な状況にあった時にはさすがに緊張のあまり禁酒していたそうだが、今は血色もよく、自信に満ち溢れている。翻ってサーシャ大尉は小さく縮こまり、遠慮がちに前菜(ザクースキ)をつまみ、カンポットを啜る。よく考えれば、食文化というのはどこでも、アルコール飲料に対してソフトドリンクには不公平ではないだろうか? ここオラーシャでもスタリーチナヤやオラーツキー・スタンダールトといった高級ウォトカ、スタールカのような変わり種ウォトカ、それにキエフ自治公国*1やサカルトヴェロ王領*2産の高級ワインはあっても、高級クワスや高級カンポット、高級キセーリに高級リモナータ*3というものはついぞ耳にしたことがない。唯一、高級さで対抗できそうな紅茶は食事の終わりか、食事の間の何も食べるものがないひとときに追いやられている。コーヒーはオラーシャでは人気がない、だからサーシャにとって、実は苦労しているのはラル隊長がコーヒーに四つも五つも入れる角砂糖の入手ではなく、肝心のコーヒー豆なのだ……。と、サーシャの頭の中で不平不満がぐるぐると出口を探している。

 

「本日のスープをお持ちしました。川魚ブイヨン入り大蝶鮫(ベルーガ)のウハーでございます。熱いので気をつけてお召し上がりくださいませ」

 と、サーシャの中でうごめいていた不満も、司令部付き下士官が給仕したこの料理に目が釘付けになり、一気に吹き飛んだ。ベルーガのフィレが、皮も残った姿煮のままできれいに盛り付けられている。普段五〇二で食するシチーやボルシチ、それに時々下原が作ってくれる扶桑の大豆スープとはおよそ雰囲気の異なるものだ。ベルーガなどいつ食べたことがあるだろうか? オビ川沿いのノヴォニコラエフスク*4に育ったサーシャの口にも、せいぜい入る魚といえばサケかカワカマスくらいのものだったのだから。しかも、その下にはオラーシャのスープの伝統を守って、ニンジン、キャベツ、ジャガイモがていねいに層をなしている。ある作家が語った通り、「西欧ではスープの中に野菜が泳いでいるが、オラーシャでは野菜の中にスープがある」のだ。ガリア人などが見たら、「まあ、卑しくて田舎臭い(ですわ)!」などと言うのが容易に想像が付くが。

 このウハーというスープを作るには、まことデリケートで複雑な工程を要する。①川で取れた②新鮮な③小魚――を用意し、しかも水だけで煮るわけではない、タマネギやセロリなどの香味野菜、それにベイリーフやディル、パセリ、ペッパーグレーンなどのスパイス・ハーブ類とじっくりと煮込まなければならない。これを怠ると「魚の味がするスープ」ではなく「魚屋の匂い()()()する白湯」になってしまう。これだけでも「給料日前の」ウハーは完成するのだが、もし客に出そうと思うのならば、これだけで終わらせるわけにはいかない。勿体ないようだが、これを裏ごししてようやくブイヨンまでが出来上がる。これにニンジン、ジャガイモ、キャベツなどを入れて煮込む。ただし、澄んだ色を損ないたくなければタマネギは入れないように。最後に骨のないサケや、チョウザメの切り身を入れるのだが、火が通る程度で終わらせておくように……煮すぎるとポロポロと身が崩れてしまうので。

 

 ウハーの皿にフォークを伸ばし、サーシャはベルーガの身を一切れ一切れ口に運ぶ。一方で、ジューコフはその身をスプーンで崩してスープの中に浸してしまう。

「俺も卑しんぼうなのかなあ。こういう料理が出ると、つい崩して汁といっしょに食いたくなるんだよな」

 高級魚を崩す姿に驚いたサーシャに向かって、照れくさげに苦笑いしながら語る。

「いや、私も初めて食べるもので。どうやって食べるのか正式なのか、よくわからなくて……でも新鮮なお魚ですね」

「本当は全然新鮮じゃないんだよな、これ。一週間前に捕ったベルーガなんだが、リベリオンの開発した『冷凍保存』とかいうやつのおかげでここに持ってこれたんだ。まるで収穫するのを忘れて畑に残したビーツみたいにカチカチにしてな!」

「『冷凍保存』ですか。確か化学物質が入った器械で冷気を作り出して物を凍らせる技術でしたよね。五〇二でも基地に欲しいのですが」

 それは手配しておこう、とばかりにジューコフは大きくうなずいた。

「しかし、リベリオンは兵器以上に後方関係が充実していますよね。輸送、保存、管理とか」

「そのとおりだな」

 とジューコフは、スプーンをテーブルに一回置き、そして指を組んで答えた。そして続けた。

「そしてそのことこそ、オラーシャが戦っていく上での最大の問題だな。後方の設備、技術とも未整備で、さらに戦争で大きくインフラが傷付けられているという」

 

 ジューコフはふと、目線をウハーから窓の外の白い町並みへと移す。

「この国は一七年以来、何度も変わるチャンスがあった……だがそれをせずに、痛みを伴う変化を引き延ばしに延ばして現在に至っている。こうなったのはどうしてだろうな?」

「私は年若いもので、まだそうした意見は持ち合わせていません。ですから、ぜひとも閣下のお考えをお聞きしたいものです」

「いいだろう」

 サーシャがスプーンを置き、体を乗り出すのに合わせて、彼も話を続ける。

「変化や改革を唱える者がいても、柔軟性を持った適切な統制がないために実行に移せない。柔軟性のない通り一遍の統制が続き失敗を繰り返す――そうしているうちに誰も手を付けなくなり変化も、進歩もなくなる。もし一七年以来のどこかのタイミングで適切な改革と進歩がなされていたならばオラーシャが、この大戦でこれだけ多くの領土を失うこともなかっただろう」

「わかります。ところで、閣下のいう『柔軟性』とはどういったものですか?何か法則があるんですか?」

「そうだな、たとえば畑ならその土に合った作物や品種を植える、工場なら最も効率の良い製品を生産する、統治ならその土地が一番安定するようなシステムを選択する……といったところだろうな。それを臨機応変に合わせていく。戦術と同じだ。同じ戦闘も、同じ時代も、必ずない」

 サーシャは無言で、深くうなずいた。

「だから俺はーー」

 ジューコフはそう言うと、ウハーを一口すすり、話を続けた。

「この戦争、お偉方は勿体ぶって『大祖国戦争』と呼んだりしているそうだが、俺からしてみればこれまで何もして来なかったこの国に対する荒療治だろう。『大瀉血戦争』といってもおかしくないだろうな」

「『瀉血』、ですか」

「昔の治療法だ。良い血を作り出すために、悪い血を体から抜いてしまう、そうすると何故か病気が治り体もスッキリするーーというやつだな。今じゃ迷信って事になってるが。多分病気が治ったというのも、単なる気の持ちようだろう」

 そして、満足そうなため息をついて、彼は続けた。

「だがね、長い人生、気の持ちようの方が大事ってこともあるんだよね」

 

 次の一皿は衣をつけて揚げ焼きした肉、オラーシャでいうコトレートィだ。この料理は仔牛の肉を柔らかく叩いて小麦粉をまぶし、溶かしたバターで揚げるのがもっとも高級な調理法と言われている。これは高名なオラーシャの将軍の名前がつけられていて、軍の公式な饗応では定番のメニューだ。だが、仔牛肉を戦時中に手に入れよう、というのは針の穴に122ミリ榴弾を通すよりも難しい。ということで、今日は代わりに豚肉をできるだけ柔らかくなるよう、下ごしらえと火を通す時間を工夫して調理してある。

「そういえば、ある作家が『料理をすることは世界の無秩序と戦う兵士の一人になることだ』……みたいな言葉を言っていたな」

 ジューコフは一口味わうと、感慨深げにフォークの先のコトレートィを凝視しながらそう語り始めた。サーシャもこれに答える。

「いい言葉だと思います。食事も日々の戦いの一部ですから」

「だと思うか?俺はその作家が本当は料理をしたことがなかったか、従軍経験がまったくないか、そのどちらかだと思うな」

 どうしてですか、と訝しがるサーシャを見つめながら、彼はニヤリと笑った。

「まずひとつ、俺の一兵卒としての経験からすれば、前線はそんなに秩序立ってない。だからいくら取り組んでも上手くいかないこともあれば、ほとんど何もしてないのに突然うまくいく物事もある。それに、敵は敵であり、無秩序ではない――10万人の軍勢に勝つために10万人を皆殺しにする必要はないだろ? それより塹壕では丸木組みが崩れないようにしたり、できるだけ多くのシラミを取ることに集中すべきだ。そうすればいざという時に少ない銃弾と少ない犠牲で完勝を得られる。料理もそうだな。要所要所を抑えておけば、ちょっと分量が適当でも、材料がひとつ手に入らなくても、旨い料理を作ることができる」

「最低限の材料は必要になりますけれどね。それと、最低限レシピを守ること」

「そうだな、俺たちはヴォーロス*5のように井戸からキセーリを汲み上げる奇跡は起こせないから……まあ要は妥協だな。あるいは要領だ。兵隊も料理も」

「このスコベレフ風コトレートィが牛肉じゃなくて豚肉なのも、そういう妥協ってことですね」

「そういうことだな。その上、この豚はオラーシャの農村で放し飼いになっていたものとは違い、新大陸の狭い豚舎で、半ば工業的に生産されたやつだ。そして、俺たちばかりでなく前線の兵士も、同じ豚を缶詰にして食べている」

 サーシャはそれを聞いて、顔を曇らせた。それは決して豚の運命に同情してのものではないだろう。

「トラックや弾薬、大砲、輸送機、爆撃機、機関車――私もリベリオン製のストライカーを使ったことがあります。やはり、私たちの国は遅れているのでしょうか」

 

「数字だけ見ればそうだろうな」

 そして一杯開けた後に、彼は続けた。

「だがひとつ、我々オラーシャも負けていない部分がある。それは国土と国民の多様性だ。都市や農村、ツンドラ、タイガ、それに砂漠。そして今もいろいろな民族の人々がオラーシャの旗の下で戦っている。この多様性が柔軟性と結び付けば、とても大きな力になるだろう。それはもう、大尉も実感しているんじゃないかな」

「私たち、統合戦闘航空団のことですか?」

 察しがいいね、とばかりに無言の笑顔でジューコフはサーシャを指差した。

「その通りだ。さらに統合軍ではこうした国際統合の動きを、広く応用していくことを考えている。五〇二は新たな前例になった、五〇三もまた然りだ――だが、この恩恵を戦闘ウィッチだけが独占していていいとは、思っていないというわけだよ。そこでだ」

 熱っぽく語るジューコフを見つめるサーシャの胸中は複雑だ。五〇二が『多様性』を持っていることの利点と引き換えの欠点、例えば煩雑な事務仕事や規格も設計も違うストライカーの修理、よく言えば個性豊かな隊員たちの日々起こすトラブルの処理を、全て彼女が負っているから、としか言いようがない。その上、これからさらに面倒事が増えるとでも? 一言で、気が気でない。

「地上攻撃ウィッチで今、オラーシャとカールスラント中心に統合部隊を試験運用中なんだ。人材交流ってことでひと月くらいそれを見学しに行かないか? 春からはその部隊と、共同作戦をする予定もあるからな」

 ジューコフ元帥の目前、頭を抱えたりは出来なかったが、心のなかではこう呟いていたに違いない――ああ、やっぱり、面倒事だ。

「私たちも柔軟性を学ばなければならないしな。そのためには、手始めに君たちのような国の未来を担う世代が身につけるべきだろうし、な」

 ここまで言われては、断るのは無理だろう。もうサーシャは顔を覆いたい気持ちだった。ラル隊長が溜め込んだ書類も終わってないし、ニパさんがまた壊したストライカーも治りきってないのに! と、嘆きたいことが山ほどある。

 

 食後の紅茶が出され、(悲)劇的なランチが終わりを迎えようとしている。その前に、サーシャはひとつのささいな質問を尋ねた。

「ところで閣下。かなりウォトカを飲まれたようですが、まったく酔ったようには見えませんね」

「ウォトカだって?」

 すると彼は腹を抱えて笑い出した。

「違う違う、これはリベリオンの『コーラ』って飲み物だ。本当は紅茶のような色をしているんだが、それじゃ体裁が悪いからなぁ。だから透明にしたやつを向こうのアイゼンハワー元帥のつてで作ってもらってるんだよ」

 サーシャはあいた口がふさがらなかった。つまりジューコフ元帥はずっとしらふで彼女と話していたということだ。さっきの提案を酔った勢いのせいにするのも、どうやら無理らしい。

 だが悪い話ばかりではない。久々に、オラーシャの同胞の中で過ごすことができるのだ。聞いた話だと、オラーシャ軍ウィッチでもオラーシャ人のほかキエフ人、ザポロージェ・カザーク*6、それにエフタル人*7のウィッチもいるらしい。今は戦争のため出来ないオラーシャ国内旅行のようだ! もしかしたら、自分と同じ南シベリア出身のウィッチもいるかもしれない。そう考えると、胸の高まりも抑えられなくなるようにも感じたのだった。

*1
史実のウクライナ。

*2
史実のジョージア。

*3
クワスは黒パンの発酵飲料。カンポットとキセーリは果物などから作った甘い飲料。リモナータはレモネードのこと。

*4
史実のノヴォシビルスク。

*5
スラヴ神話の豊穣神。

*6
ドニエプル川沿いを根拠地とするコサック。

*7
現実世界でのカザフ人。



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Report.2 アンジェリーカ『ジェーリャ』・イェゴロフ(前)

一九四五年三月一日 オラーシャ帝国ペテルブルグ県上空 〇六〇〇

 

 太陽の光が東の空に灯る前、雪はありとあらゆる音を閉じ込めている。小川の水音も、風にそよぐ木々のざわめきも、放し飼いの馬たちのいななきも、全てが深い眠りについている。その静寂を破り、夜明けの予感を感じさせるのがルリビタキのかすかな地鳴きだ。どんな鳥、カラスやニワトリよりも早く耳に入る、断続的なこの声が、太陽を目覚めさせ、やがて空全体が、世界が染まっていく。始めは濃いラズベリージュースのような色に、次にはるか南の国で育つ柑橘類を思わせる色へと。

 

 サーシャは誰にも見られないように、ペテルブルグ要塞を朝四時に飛び立った。なんとなく後ろ髪を引かれるものがあったからだ。もちろん、ラル隊長は彼女の『人材交流』を許可した――意外なことに。ウィッチ確保に奔走する彼女が、一時的にとはいえこんなにもあっさり自分を手放してくれるとは思いもしないことだった。ジューコフ元帥から隊長のあいだで、『なにか』が動いたか、あるいは『なんらかの圧力』がかかったのか、と訝しみたくもなる。とはいえ、喜び勇んで送り出されたい気分でもなかった。自分がずっと五〇二に尽くしてきたから、とも言えるし、自分がいないとどうなるかわからないようなウィッチたち、例えばニパ、管野、それにクルピンスキーがいるから、ということもある。

 サーシャは上空一千メートルを南へ飛行しつつ、そんな気持ちを抱えて煩悶していた。心配はいつの間にか、ペテルブルグへの、そして五〇二の仲間たちへの恋しさへも変わっていく。この思いは、一月の間に自分の中でどう変わっていくだろうか? より恋しさが強くなるかもしれない。彼女は潤んだ目で、ふと振り向く。だがそこには、沈黙した古い巨大都市が、灰色の帳に覆われて横たわるだけだ。問うても、何も答えてはくれない。ペテルブルグは泣き言を聞いてくれない*1のだから。

 そして彼女は改めて思い出す――自分は五〇二の戦闘隊長でもあるが、それ以上にオラーシャのウィッチなのだということを。だから元帥も私を抜擢したのかもしれない。とにかく、ここ一ヶ月間はブレイブウィッチーズのことは忘れよう。そして、どんなウィッチに新しく会えるのか、それだけに期待しておこう。朝日を浴びながら、サーシャはそう誓うのだった。

 向かっているのは、ペテルブルグの南東一五〇キロメートルにあるクレチェヴィツィ空軍基地。ここに駐留する三〇一統合地上攻撃航空隊(301st Joint Ground Attack Squadron)が、しばらく彼女の家となる。

 

同日 ノヴゴロド県 クレチェヴィツィ 〇八〇〇

 

 クレチェヴィツィの飛行場の滑走路は一五〇〇メートルほどだろうか。サーシャには、単発機やストライカーが飛び立つには十分すぎるように思える。これだけ長ければ、四発エンジンの重爆撃機も十分に離着陸できるだろうか。彼女は田舎のちょっとした臨時飛行場のようなものを想像していたのだが、期待以上の光景に彼女の胸は高鳴っていく。そういえば、三〇一航空隊にはオラーシャウィッチが五人いる、とは聞いたがカールスラントとオストマルクのウィッチの人数までは聞かなかった。五〇二並み、いやそれ以上の大所帯を想像して、彼女は唾を飲みながら、溶けかけの雪を突き固めた滑走路にタッチダウンする。MiG i225の先に伸びたスピナーが水滴を、雪氷を跳ね上げ、水溜りにギリシャ文字の書かれた水色の魔法陣がはっきりと反射する。

 減速とともに、ミクーリン・エンジンはその無遠慮な爆音を自重して、低空に浮遊しながらサーシャを格納庫へ運んでいく。と、そこで誘導路わきに建っている丸太小屋(イズバー)の扉が開いた。サーシャはタキシングしながら、自分を眺める人影をよく観察する。まず服装は彼女と同じような黒いオーバーズボンに、灰色の毛皮がついた黒いダブルのムートンジャケット*2、と黒尽くめだ。体格はすらりとして、身長はクルピンスキーより少し低いくらいだろうか? だがそれらよりも特徴的なのはさらりと風にそよぐ、赤銅色のロングヘアだ。彼女のスタイルの良い体によく似合い、サーシャは少し羨ましいなと思ってしまった。

「君が五〇二統合戦闘航空団の、アレクサンドラ・イヴァノーヴナ・ポクルイーシキン大尉だね?」

 格納庫でストライカーを外すと、そのウィッチがサーシャに声をかけた。若干低い声で、見た目に反して雄々しく感じる。きっと性格も、口調もいつもこんな感じなのだろう。

「はい、サーシャで大丈夫です!あなたがアンジェリーカ・ミハイロヴナ・イェゴロフ少佐ですか?」

 と、心なしか上ずった声で敬礼しながらサーシャは答えた。

「そうだ、ジェーリャでいい。一ヶ月間よろしく頼むぞ」

 ジェーリャは敬礼を返し、そしてサーシャの手を嬉しそうに強く握った。

「ようこそ、アタッカーウィッチーズへ」

 

 丸太小屋の中は思ったよりも広く、遠くウラルから吹いてくる乾いた風の代わりに真ん中で湧いているサモワールからの程よい湿気が満ちている。ここはウィッチの待機所としても使用されているのだろうか、そこら中に普段遣いの雑貨や外套が散らばり、椅子はあっちを向いたり、こっちを向いたり、倒れたりしている。

「すまないが、皆今日は他の任務に出払っていてな……とりあえず、パンと塩、もしくは紅茶でも」

「なら、紅茶を頂きましょうか」

 お客を迎えるには少し残念な一日かもしれないが、サーシャとしては嬉しくはなくても、少なくとも想定の範囲内だった。喜び勇んで送り出されたい気分でもなかったのだから、熱烈に歓迎されたい気分にもならなかった。他のウィッチになら、今日の夜か明日紹介してもらえるのかもしれないし。そう思いながら、ゆったりと腰掛けて紅茶を啜る。

 一方のジェーリャは、ムートンジャケットを脱いで椅子にかけ、そこにどっかと座る。露わになったのは打撃師団*3の、これまた真っ黒で白い縁取りが縫い付けられたルバーシカ*4だ。左腕に縫い付けられた部隊パッチまで、全くそのままの。サーシャにとっては馴染みの服装だ。幼い頃、どこにでも貼ってあった「陸軍に入隊して祖国の先鋭に!」というポスターには、必ず描かれていた黒服の兵士、そのままの格好だからだ。彼女も、ジェーリャも陸軍航空隊の所属なのに、なぜ彼女は打撃師団の軍服を着ているのだろう?そう考えているうちに、ジェーリャが口火を切った。

「とりあえず、私が戦闘隊長だが……隊長はカールスラント空軍のデルフェル中佐、今日は事務手続きのためにペテルブルグに出向いている。それから上空前線航空統制官のドーリン少佐――彼女は地上部隊との打ち合わせ中だ。それからオラーシャ軍のエメリャネンコ中尉、ビゲルディノフ少尉、ベレゴボイ少尉、カールスラント空軍のボイス曹長、それからオストマルク軍のランゲ大尉がいるんだが、この五人は攻撃訓練中だ。私含めて八人。これがアタッカーウィッチーズの全員だな」

「思ったより……いますね」

 とっさに『少ないですね』と言おうとしたのを飲み込み、せめてものお世辞で取り繕った。同時に、もうちょっとなにか言いようがあったわね、と思いながら、頭のシロクマ耳が出る辺りを掻いた。

君のところ(五〇二)よりは少ないよ。ついでに言うと、『アタッカーウィッチーズ』というのもまだ非公式の通称だ。何かの形で、公式になればいいと思っているけれども」

 多分ジェーリャ少佐は自分の派遣が部隊の地位を高めるきっかけになるように、と願っているんだ――サーシャはそう悟った。いろいろな方面から期待をかけられるのは、程々なら嬉しいが、多すぎると負担に感じられて仕方がない。強いて言えば、ラル隊長から何も頼まれごとをされていないのが、救いであるが。しかしこの一ヶ月間、サーシャのやることは地上攻撃中の上空援護と、ジューコフ元帥に提出するレポートの作成だからきっと気楽だろう。しばらく骨休めのつもりで……と、考えていたその時だった。

「しかし今日は出撃の予定は特にないし……そこでだ」

 サーシャは自分の耳が、ぴんとなるのを感じた。なぜか? 最後の四文字が、なぜかものすごく嫌な予感を掻き立てるからだ。しかも『うわっ』と言いたくなるほどに。そして、彼女は、それを聞いたことがある。だいたい、一週間前に。

「上空援護ばかりだと感覚もつかめないだろう。イリューヒンIl-2を履いたことは?」

「……まだありません、スペックは知っていますが」

「どうだ、これからひとっ飛びしてみるっていうのは」

 どうやら、骨休めというのは幻想に過ぎなかったようである。ひょっとしたら、五〇二に配属されてからこのかた、そんなものは一度たりともなかったかもしれない。それは今、一時的に離れても変わりはしないようだ。

 

同日 クレチェヴィツィ空軍基地 格納庫内 〇八三〇

 

 この部隊でオラーシャウィッチが使用しているイリューヒンIl-2は、地上ネウロイを空から攻撃するための『地上攻撃機(シュトゥルモヴィーク)』に分類されるストライカーだ。これまでに生産された数は飛行機型、ストライカー型を累計して三万六千機。二位のメッサーシャルフBf109を二千機引き離して、堂々の世界生産数第一位を誇っている。因みに、大量生産発祥の地であるリベリオンのP-51はわずかに一万五千機と、意外に少ない。

 さまざまなストライカーのカタログスペックを把握しているサーシャに、今更この量産記録について説明するというのは卵に鶏を教えるようなもの*5だが、ジェーリャに連れられてきた格納庫で、サーシャは改めてその数に驚くことになった。ここにあるストライカーはIl-2と、MiG i225の二機のはずなのだが……。

「よ、予備機がある!?」

 サーシャは驚きのあまり――いや感動と言っていいかもしれない、ついそう口に出してしまった。しかも一機だけではない、二機も格納庫の隅に、一切マーキングされていないIl-2が立て掛けてある。五〇二では、機種が多すぎ、しかも予算が限られていて導入できなかった予備のストライカーが、ここには二機もある。これも量産の成果なのだろうか。皇帝陛下がセルゲイ・イリューヒン直々に『帝国軍には黒パンや空気以上にIl-2が必要なのだ』と言って量産させた、という噂まで広がっているほどだが、これは真偽定かでない。

 驚くべきなのは数だけではない。敵、特に装甲を持ったネウロイに対する有効性から、この機体は『空中装甲歩兵』とまで言われているのだ。その特徴はまず『重装甲』なところにある。

 サーシャにとってはその特徴に、かねてから興味を持っていた。重装甲と言ってもどれくらいなのだろう、と。そう考えながら、彼女は立て掛けられた予備機の表面をまじまじと眺める。素材は何?留める手段は溶接、それともリベット? いろいろと考えていると、ジェーリャがやってきて表面をコツコツ、と叩いた。高張力鋼板独特の、鈍い音だ。

「この足の付根の部分、ここは6ミリメートルだ」

 そしてさらに、先の部分を叩く。

「ここがエンジンの入っている部分。装甲厚は4ミリメートル、素材には魔力強化高張力鋼を使っている。薄いと思うかもしれないが、胴体自体が流線型だからそれでも攻撃を弾くことができる。銃弾、爆発の破片は言うまでもない、場合によっては細いビームを弾くこともあるくらいだ」

 立て板に水で、あちこちを叩いたり、指差したりしながらジェーリャはIl-2の装甲について説明した。一方サーシャは、真剣な面持ちでそれに聞き入った。いつも触れているのとは違うメカニクスの話を聞くのはなんとも新鮮な気持ちだ。実は、彼女の関心は航空機だけにとどまらない。詳しく話してくれるならば、銃や大砲にも、あるいは自動車や機関車にだって、興味を抱くだろう。そして、このメカニクスについて尋ねる中で、さらに尋ねたいことが増えていく。

「ビームまで、弾くんですか。しかし、私達ウィッチはシールドを張れるのにどうして物理装甲が必要なんですか?」

「シールドは一方向に、平面的にしか張れない。側面を突かれると弱くなるからな。それに備えるのが、物理装甲だ」

 ジェーリャはそう言うと、信頼を示すかのように、機体をひと撫でしたのだった。

 

 次に、Il-2の特徴は『重武装』であるところだ。23ミリメートル VYa-23機関砲ポッドを基本として、37ミリメートル NS-37機関砲ポッド、手のひらサイズのものから両手で抱えるものまで各種の爆弾とその投下器具、対装甲ロケットを発射できる多連装ロケットランチャー、などさまざまな重い武装を持つ事ができる、少なくとも、それだけ力が強化されるということだ。

「ジェーリャ少佐、これって実戦じゃないですよね?」

 さて、サーシャは一連の説明を受け、いよいよ体験飛行ということで魔力を解放、そしてIl-2を履く。しかし、予想だにしないことに彼女の分の機関砲、それからしっかり小型爆弾十発が取り付けられた箱型の投下器具まで用意されており、すっかり面食らった。持ってみると、使い魔であるシロクマの助けがあっても非常に重い。通常飛行時は機関砲を背中に背負い、ショルダーバッグのように左肩から爆弾の投下器具を提げるのだが、そんなにあれこれ持っていては操縦性能に響いてしまうのではないだろうか? それに、空力も大きく損ないそうだ……。

「もちろん、ただ飛ぶだけだが」

 サーシャが、だったらこんな重たい爆弾とか機関砲は必要ないですよね、と抗議しようとしたとき、隙なく答えが帰ってきた。簡明かつ、少し理不尽な。

「シュトゥルモヴィークで飛ぶ感覚を掴みたいんだろ? だったら、装備を持って飛んだほうが得られるものも多いはずだ。大丈夫だ、すぐ慣れる!」

 そう答え、そして「行くぞ」と一言、ジェーリャはミクーリン・エンジンの軽やかな音を響かせ、タキシングを開始する。ツンドラオオカミの尾が朝の風になびき、速度が上がっていく。

「待ってくださいよ、少佐~~!!」

 一方サーシャは、その後ろでオラーシャのトップエースとは言い難い悲鳴を挙げるのだった。

 

 時はまさに3月。太陽はより高く登り始め、小川の水音も少しずつ聞こえ始める頃だ。ウラルからの寒い風は、まもなく和らいでいくことだろう。このうららかな日の、サーシャと少し変わった地上攻撃ウィッチとの出会いは、まだ始まったばかりなのである。

*1
オラーシャのことわざで『泣いたところで誰も助けてはくれないものだ』という意味。地域によっては『モスクワは涙を信じない』と続く。

*2
べケーシャ(Bekesha)とも。史実では帝政時代に騎兵の間で冬用防寒着に使用されていた。

*3
創設者の名を取って『コルニーロフ師団』とも。原語ではUdarnaya Diviziya と呼ばれ、未だに定まった和訳はないが、同じ単語を使う『打撃軍(Udarnaya Armiya)』の和訳に準じてここでは『打撃師団』と訳した。

*4
Rubashka。ブラウスないしスモック風のプルオーバータイプのシャツ・上着で、オラーシャの民族衣装だったが近代からは軍服としても採用されている。サーシャも黒いジャケットの下に青いルバーシカを着用している。

*5
オラーシャのことわざで『自分より優れた人間に教えるな』という意味。釈迦に説法。



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Report.2 アンジェリーカ『ジェーリャ』・イェゴロフ(中)

一九四五年三月一日 オラーシャ帝国ノヴゴロド県 ルーガ上空五〇〇メートル 一〇〇〇

 

 ウラル山脈から地をなめ、雪を跳ね飛ばして吹きすさぶ風がやみ、真冬に垂れ込めていた鼠色の雲が晴れて遥か天界まで続くかと思える蒼空をようやく望めるようになったこの日、ノヴゴロドにはこの春初めてのヨーロッパチュウヒの群れが飛来した。このタカに似た鳥は、オラーシャや北欧で夏を過ごすとともに子孫を残し、中東で越冬する。そして、三月から四月にかけて再び、大きく育った子どもたちとともに、群れをなして戻ってくるのだ。

 いつもの年は雪がさらに溶け、春の息吹もより強く感じられるようになった三月の後半ごろに初めて見られるのだが、これだけ早くにこの鳥が見られるというのは、いつもに増して珍しい。風に乗って舞う鳥の群れを、人々が避難するとともに野生化した馬たちが地上から追いかける。そしてまた、イリューヒンIl-2地上攻撃脚を足に履いて飛ぶ、アレクサンドラ『サーシャ』・ポクルイーシキンとアンジェリーカ『ジェーリャ』・イェゴロフの二人も、微笑みを浮かべて、動物たちを眺めながら風を切って進む。

 サーシャはすっかり、Il-2というストライカーのとりこになった。彼女は右に、左にバンクし、いつも使っている戦闘脚並みに優れている扱いやすさと、操縦性の良さを堪能している。最初、飛び立つ前はその空力性能に疑問を感じていたにもかかわらず。文句を言いたくなっていた爆弾や機関砲も、飛んでしまえばかばんを肩にかけて、晴れた日の河畔を散歩しているのと大して変わらない気分だ。彼女の足元でピッチの高い唸り声を上げるAM-38Fミクーリン・エンジンは急に回転数を上げてもまったく咳き込むことなく、エンジンはエンジンなりのやり方でこの日の空を称える。よっぽど腕のいい整備兵がいるのかしら、だとしたらその人に会ってみたい――彼女はそう考えた。

 

「あんまり、はしゃぎすぎるなよ」

 Il-2の性能に酔いしれる彼女を満足そうに見つめながら、ジェーリャがそうインカムに向かってささやいた。

「大丈夫です! だけどこれ予想以上に飛びやすいですね! 重武装でも、操縦性がこれだけいいとは思いませんでした」

 サーシャは叫ぶように、その感動を語った。そして、難なくバレル・ロールをやってのけた。

「だろ? 慣れればもっと複雑な機動も取れるようになる。いいストライカーじゃないか?」

「はい! 反応が機敏ないいストライカーですね! ちょっとどんな機動ができるのか、見せてもらえますか?」

「いいだろう」

 そう言ってジェーリャは一転口角を引き締めると、仰向けになりながら雪原に向かってゆっくりと降下していく。このまま落ちていくのではないだろうか、とサーシャは心臓の高鳴りを隠しきれずに、それをじっと見守る。ジェーリャの表情は到底伺えようもない。そして高度五〇メートルまで、ずっとその姿勢で降りていったあと、彼女は体を反転させ、今度はIl-2を急上昇させる。とてつもない負荷が体にも、エンジンにもかかっているはずなのだが、それを全くものともしない機動だ。そして、一気に五〇〇メートルまで駆け上がり、そして軽やかに一回転したあと、ジェーリャはサーシャの右隣へと戻ってきた。

「びっくりしました……つい、途中でエンジンが止まるかと、ハラハラしてしまいました」

「褒められるほどのものでもない……それに、サーシャ大尉がいつもやっている戦闘機動ほど複雑じゃないとは思うが」

 そう言って、彼女は苦笑いを浮かべた。

 

「ところで、いつもの戦闘高度はどれくらいなんですか? 確か最大高度は六千メートルだったはず――」

「六千か、そんなに高く登ったことはないな、その必要もないし」

 Il-2に積み込まれているAM-38Fエンジンは、一層の軽量化を図り、少しでも多くの装甲と武装を備えるために高高度で必要とする過給器(スーパーチャージャー)*1を小型化しているので、高度一千メートル以上になると性能がとみに低下する。だが、もともと地上攻撃作戦はそれ以下の高度で行われるので、この特性は特に問題にならない。前線から遠い地域ではこのため、高度五〇〇~一〇〇メートル程度での飛行が普通になっている。が、戦闘地域の場合、高度はそれどころではない。

「普通の飛行だからこれだけ高く飛んでいるわけだが、これでも全然高いほうだ。最低で高度十……いや、五メートルまで下げる」

「そんな高度でいつも飛んでるんですか!? 墜落しますよ!?」

 サーシャは驚きのあまり、目を丸くしてジェーリャに向かって叫んだ。そんな高度で空中戦をやったことがないかといえば、確かにあるのだが*2、それにしたって一回や二回ほどだ。いつもそんな高度で飛んでいたら、気を抜いた拍子に木立か丘に衝突してしまうに違いない、と訝しみたくなるほどである。今、彼女とジェーリャの速度は時速約三〇〇キロメートル――そんな速度で、地形に合わせてかつ障害物を避けながら飛ぶとなったら、かなりの、もしかして空中戦以上の反射神経がないと勤まらないのではないだろうか?

「大丈夫だ、実際にやってみるとわりあい簡単だぞ!」

 ジェーリャはそのようにサーシャに呼びかけると、『ついてこい』とばかりに右手を挙げる。サーシャは本当に気が気でなく、手のひらに汗がにじみ始めていた。

 

 数分後、二人はチェレメネツ湖の上空、氷面わずか五メートルを時速三〇〇キロメートルで飛んでいた――というより、『滑っていた』と形容したほうがより近いかもしれない。少なくとも、上空から眺めたら、きっとそのように見えたのではなかろうか。

「どうだ、思ったより簡単だろ!」

「はい! 空中戦よりは難しくないですね!」

 彼女たちは紅潮した顔を見合わせ、そして静かに笑った。この湖は、水をたたえた時期にはその澄んだ色から『鏡の湖』として知られている。冬の間、氷に閉ざされて眠っていたが、今長い眠りから醒めようとしているばかりだ。その兆しはすでに、湖岸で太陽を浴び燦然と輝く湖水の姿からも見て取れる。さらに気温が上がれば、氷の白骨のような色が青く染まり、湖の生きた色が戻り始めるだろう。そうすると、氷が一瀉千里の勢いで岸から岸へと、中心から縁へと次々に、最初は大きく、やがて小さく細かく割れ始め、細かい氷は溶けるのも早い。

 春は加速していく。そして、最後には湖岸に転がる寄せ氷として、冬はその姿を残すのみとなり、やがてその姿も消えていく。生き物たちも活動を始める――マガン*3やコブハクチョウが南の土地から戻ってきて、最も広く見られる淡水魚のヨーロッパブナ*4が産卵するために冬の眠りから目を覚ます。ノヴゴロド県とペテルブルグ県の間に広がる湖水地帯の春先には、こうした生命のドラマが輝いているのだ。

 

 しかし、この美しい自然もまた、前線の一部なのである。緊急通信の音が、景色に見とれながら飛行を楽しむサーシャとジェーリャの耳に飛び込んできた。

「こちらリトーチュカ*5……ジェーリャ、聞こえる? プスコフ東側の友軍から支援要請よ。無線を直結するわ」

 上空前線航空統制官のマルガリータ・イヴァノーヴナ・ドーリン少佐からの無線連絡だ。続いて、地上部隊に同行している、前線航空統制官(FAC)*6からの無線が二人につながる。

「チョールヌイィ31、こちらフリードリヒ21。スラフコヴィチ上空に向かい高度一〇〇から三〇〇メートルの間で飛行せよ。そちらの編隊はこちらの管制下の唯一の航空機である。確認次第応答せよ――」

 カールスラント空軍から派遣された*7前線航空統制官の声は至って落ち着いているように聞こえながらも、無線には着弾音や発砲音も飛び込み、生々しい陸戦の緊迫感がこちらにも伝わってくる。

 

同日 オラーシャ帝国 ルーガ~スラフコヴィチ間上空三〇〇メートル 一一〇〇

 

「チョールヌイィ31了解、こちらはイリューヒンIl-2二機編隊。現在スラフコヴィチの北東七〇キロメートルを飛行中、高度一〇〇から三〇〇メートルには方位一七〇から進入する。武装はチョールヌイィ31(ジェーリャ)がNS-37機関砲と、着発信管*8のFAB-50爆弾二発を装備。チョールヌイィ32(サーシャ)はVYa-23機関砲と、PTAB小型爆弾を装備。支援可能時間は20分」

 湖の静寂を遮る無線の声に対しても、ジェーリャは至って冷静に反応し、伝達する内容も一切途切れたり、口ごもったりすることがない。

「えっ……本当にこれから実戦なんですか?」

 一方のサーシャは、突然始まった状況に対して未だ戸惑いを隠せず、目を白黒させてまごついている。そもそも体験飛行のつもりだったのに、とジェーリャの方を向いて目をパチパチさせるが、彼女は一切表情を変えずに、こう言った。

「そうだが? 実弾を持って、戦闘装備で飛んでいるんだから、支援要請を受けないわけにもいかないだろう」

「これ、全部実弾だったんですか!?」

 サーシャが肩から下げたケースの中に入っている小型爆弾を見てみると、確かに全て濃いプラム色の実弾で、青色の演習用ではなかった。彼女はますます、その顕になった額に冷や汗が流れるのを感じる。たしかに、ウィッチとしての訓練の中で、爆撃も何回かやったことはある。それに五〇二での戦闘の中でも、地上のネウロイを攻撃した経験はいくつかある。だが、大口径機関砲も爆弾も、実戦で使うのは本当に初めてだ。しかも一切の試射や訓練もなしに!

 そうしている間にも、近接航空支援の手続きは着々と進んでいく。前線航空統制官の声が、二人の無線に再度響く。

「敵はオストロフ北方、一〇キロメートルの前線を南方向へ移動中。友軍は大隊規模の歩兵でフリードリヒ21と同行している。目標エリアの天候は良好。攻撃発止点進入までスラフコヴィチの東で待機せよ。ヤークトプラン*9の受信準備でき次第応答のこと」

「チョールヌイィ31、ヤークトプランの受信準備よし」

「チョールヌイィ31、目標攻撃にはFAB-50及びPTABを使用」

「フリードリヒ21、地上掃射の必要性は?」

「チョールヌイィ31、爆弾投下後のフライパス時に機関砲使用を許可。ノイン・リーネン*10受信用意でき次第応答のこと」

「フリードリヒ21、こちらチョールヌイィ31、受信用意よし」

「スラフコヴィチより進入、

目標方位一一〇、

距離三十三キロメートル、

目標高度海抜六メートル、

目標は中型装甲ネウロイ四体、

目標座標CM 575 283、

赤色発煙弾によりマーキング、

友軍展開位置東九〇〇メートル、

退避は左旋回のちスラフコヴィチへ、高度一〇〇メートルから三〇〇メートルへ復帰」

 サーシャには何を言っているのかよくわからず、ただ呆然として聞いているだけだった。

 

「あの……」

「なんだ?」

 近接航空支援の要とも言えるノイン・リーネンを終えて、涼しい顔で長い髪を振るジェーリャに、サーシャは上目遣いで遠慮がちに話しかける。

「こんなにいろいろ頭の中で把握しているなんて、ごちゃごちゃになりませんか? 何か固有魔法をお持ちなんですか?」

「固有魔法?」

 そう聞きかえすと、ジェーリャはケラケラと笑った。

「私はノーセンスだよ、むしろシュトゥルモヴィーク使いならそっちのほうが普通かもな」

 サーシャは、自分がやったらどうなるだろう、とふと考えた。慣れてもきっと、ぎこちないに違いない。まして戦闘をこなしながら、こんな複雑な手続きをするのは考えるだけで頭が痛くなりそうだ。

「それに、方位とか高度とか、どうやって見てるんですか……? 普段から、感覚でなんとなくは分かってますけれど」

「機関砲の手元を見てみろ!」

 ジェーリャに促され、サーシャは背中から手元へ、機関砲を持ってくる。なるほど、そこにはふるふると震えている計器の針がしっかりと確認できる。さっきからジェーリャ少佐が機関砲の手元をしきりと眺めていたのは、そういうことだったのか、とサーシャは合点がいった。しかし、それにしても目標座標は? 頭の中に地図が入っているとなれば、彼女の固有魔法『映像記憶』並かもしれない。あらためて、彼女の能力には驚かざるを得ない。

 

 スラフコヴィチが近付くにつれて、雪の上にいくつもの黒い爆発痕が目立ち、硝煙と生臭い匂いが鼻を突くようになってきた。地面には前線に急ぐ小隊、砲弾を積み込み再武装を急ぐ戦車、一方で前線から戦友の肩を借りて脱出した負傷兵が見られる。頭や腕に包帯を巻いた兵士が、カーキ色の雨具(パラトカ)*11の上に並んで横たわっているのもそこここに目につく。さらに西方からは何かが燃えている黒煙が立ち上るのも見え、鈍い砲声が大気を揺らすのも、はっきりと分かる。

「ひどい……大変な損害が出ているみたいですね」

 確かに、サーシャには激しい地上戦の上空を飛んだ経験もある。だが、これだけ近くで目にするのは初めてだ。これだけ低空を飛んでいると、まさに目前でカオスの世界が繰り広げられているといってもいい。いわば、現代風に言えば「解像度の高い」戦闘が繰り広げられているのだ。ジューコフ元帥が一週間前、『前線は決して秩序立ってなどいない』と語っていたが、改めて目にしてみると、感情や同情を抜きにしても身震いがしてくる。

「この地域の前線では、よくあることだ」

 一方のジェーリャは、この光景を見ても全く怖じ気付くこともなく、自信に満ちた微笑を浮かべながらただ前を向き続ける。ストライカーの後ろで回る魔導符が流れてくる黒煙を切り裂き、後ろにいくつもの渦を残して飛び去っていく。彼女に言わせれば、これはこれまでに一〇〇、いや二〇〇と行ってきたミッションのうちのひとつであり、特に感慨や畏怖を生じさせるものではないというわけだ。

 空から眺めたスラフコヴィチは、モミなどの針葉樹が生えている中にいくつかの丸太小屋(イズバー)が立ち並ぶ、オラーシャ西部に典型的な小農村だ。鉄道は通っておらず、幹線道路からも十キロメートルほど離れたこの村は、戦争さえなければ誰にも注目されなかったかもしれない――だが今は北西に位置する、プスコフ奪還のための重要な拠点となっている。農民の子どもたちのさんざめく声や犬の吠える声は聞こえず、将校の怒鳴り声や負傷兵の呻きがそれに取って代わったのだ。大きな建物はみな、野戦病院や司令部などに転用されている。また、砲撃が着弾して燃え尽きた丸太小屋がこの戦いの悲惨さを示している。

 

同日 オラーシャ帝国 スラフコヴィチ~チェルスカヤ間上空一〇〇メートル 一二〇〇

 

 この村の上空でいよいよ、サーシャとジェーリャの二人が加わる地上支援の最終段階が始まろうとしている。無線から、前線航空統制官の先程よりも少し緊迫した声が再び響く。

「最終攻撃方位は一一〇から一二五。高度一〇〇メートル以下を保持せよ。攻撃発止点進入コールを要求する。目標到達時間は分時十分」

「チョールヌイィ31、目標高度六メートル、目標座標CM 575 283、最終攻撃方位一一〇から一二五、高度一〇〇メートル以下を保持、目標到達時間は分時十分」

「復唱よし。チョールヌイィ32、復唱せよ」

 ここで問題が生じた。サーシャは一体、何を言えばいいのかわからずに目を白黒させている。そもそも、『チョールヌイィ32』などというコールサインが自分についているということも、この状況になって初めて知ったのだから。

「チョールヌイィ32、どうした?」

 まごつくサーシャに対して、ジェーリャは同じことを言えばいい、と落ち着いてアドバイスした。サーシャは少しうなずくと、大きく一度深呼吸してから、無線に応答する。

「……チョールヌイィ32、目標高度六メートル、目標座標CM 575 283、最終攻撃方位一一〇から一二五、高度一〇〇メートル以下を保持、目標到達時間は分時十分」

「復唱よし」

 サーシャは緊張から解放され、ようやく大きなため息をついた。突然コールサインをつけられて、まったく迷惑というか、それとも困惑千万というか……だがこの地上の悲惨な状況を見るにつけ、やるべきことはひとつ、課された任務を果たすことだ。不慣れな機材と、不慣れな武器を持っているにせよ、文句は言っていられない。そのようにサーシャは考えたに違いない。彼女の顔からは、徐々に戸惑いが消えていった。

 

 スラフコヴィチを離れてまもなく、西の街道沿いに赤い発煙弾が打ち上がった。前線航空統制官が、攻撃目標を示すために迫撃砲を使って発射したものだ。更に飛んでいくと、近接航空支援が来るまでの間戦線を保って戦っている部隊の姿が見える。高度も下げていることから、どんな兵士たちがいるのかまで手にとるようにわかる。彼らは連隊旗を掲げ、自分の位置を示し誤爆を防ごうとしている。

「まったく、分かりにくい旗を掲げてるな、こういう時には国旗を使えと通達が出ていたのに……ん?」

 その連隊旗を目にした瞬間、ジェーリャは軽口を止めた。その顔からは微笑が消え、頬骨が引き締まるとともにほっそりとした一文字の唇がキュっと締まる。濃灰色の瞳がキラリと光り、幾多の戦いを経験しているとは思えないほどつややかな眉間に、シワが寄る。

「打撃師団!? 急ぐぞ、サーシャ大尉!」

「は……はいっ!」

 二人は緩い角度で地面に向かって降下していく。その目は発煙弾の周りで、さらなる餌食を探して野犬のようにうろついているネウロイを探す――。

 

「チョールヌイィ31、攻撃を許可」

 最初に中型装甲ネウロイに対して、攻撃を仕掛けたのはジェーリャだ。彼女はその上を二十五メートルの高度で舐めるように飛び去り、その間に二発のFAB-50爆弾を、2秒の間隔で投下する。

「チョールヌイィ31、投下(ズブロース)、投下」

 それは、まさに一瞬の出来事であった。これだけの低高度であるから、爆弾の軌道や着弾の瞬間を目視で確認することは、ほとんど不可能といえる。ただ、火薬の煙が晴れたあとに、二体のネウロイは巨大なクレーターを地面に残し、何の物質からできているかもよくわからない白い破片を飛び散らせて砕け散っていた。地上攻撃ウィッチには、飛行機と違って爆弾の照準器はない。この正確な爆撃は、すべて感覚と訓練の成果から成り立っているのだ。

 チョールヌイィ32……つまり、サーシャはこの、帝室バレエの如く華麗な爆撃に見とれて、つい自分の任務を忘れそうになる。

「サーシャ大尉、攻撃進入はまだか?」

 無線からジェーリャの呼びかける声が聞こえてきて、彼女はやっと我に返った。大慌てで、ジェーリャに続いて爆撃侵入経路に入る。爆撃はウィッチの訓練生時代に何回も経験がある。オラーシャの戦闘ウィッチは、皆訓練時に戦闘と爆撃の両方をこなせるように訓練されるのだ。それをなんとか思い出して、彼女も装甲ネウロイへの爆撃を仕掛けようとする。だが、ひとつ不安がある――。

「これ、ハンドルを引いて落とすのはわかるんですけれど……うまく当たるか心配で」

「大丈夫だ、そいつは成形炸薬弾*12だ。ネウロイの少し前で一気にばら撒けば十分倒せる」

「了解しました……やってみます!!」

 そして、サーシャもジェーリャをまねて、低い高度でまだ地上に展開している味方の地上部隊にしきりとビームを浴びせかけている中型装甲ネウロイに向けて軌道を合わせる。いつ、ビームがこちらに向かないか?それが心配だが、やるしかない。手が震えているのが、自分自身でもわかる。それでも歯を食いしばり、体全体の力が抜けそうになる感覚に抵抗する。彼女の藍色の目は潤み、なぜか涙が流れ出す。顔も歪む。まるで、初めて戦闘を経験したときのよう。

「え……えいっ!!」

 そんな声とともに、彼女は力を振り絞ってPTAB小型爆弾を全弾、中型装甲ネウロイに向けてバラバラと放った。風に吹かれてそれは散らばるものの、何発かがネウロイの、不気味な紅色に染まった平らな上面へと当たり、続いて金属噴流が相手のビームを放つ音と大して変わらないような、装甲に突き刺さる音を響かせる。それは爆発というより、炎の中で空気を入れすぎた風船が中から破裂するようだった。初めての感覚に、彼女は目を閉じてしまうが、開けた瞬間、その中型装甲ネウロイもまた、その姿を消していた。彼女にとって実戦最初の、そしてIl-2による最初の近接航空支援は、まさしく成功裏に終わったのである。

「初めてにしては上出来だな!」

 無線の向こうで、ジェーリャもサーシャのことを称賛する。だが、戦いはこれだけでは終わらない。地上では装甲ネウロイの周りに展開していた小型ネウロイがまだ、しきりと砲火を打ち上げている。今度は機関砲で、これらを掃討しなければならない。二人は一旦離脱経路に入り、機関砲に砲弾を装填して再進入をはかる。

*1
魔導エンジンが吸入するエーテルの魔導圧を吸気口の圧力以上に高める補機の総称。場合によっては排気の流れを利用して駆動する過給器のことを「ターボチャージャー」と呼ぶこともある。AM-38Fに搭載された過給器は、遠心式という機械式の一種。

*2
『ブレイブウィッチーズ』6話「幸運を」参照。

*3
この場合はオラーシャ北部で繁殖するヒメマガン。扶桑の宮城県や新潟県、石川県で越冬するマガンとは別種。

*4
コイ科。オラーシャでは「金色ブナ」を意味する「ザラトーイ・カラースィ」として淡水漁業の対象になる。

*5
マルガリータの愛称。

*6
武:Forward Air Controller。誤爆などを防ぎ、近接航空支援の効果を高めるための『前線航空管制業務』を遂行するための特別な認定資格を有する軍人。現代では統合末端攻撃統制官(JTAC=Joint terminal attack controller)と呼ばれる。

*7
前線航空統制官がカールスラントから派遣されているのは、前線航空統制のルールを定めたのがカールスラント軍とリベリオン軍であったため。

*8
地面に当たった瞬間に爆発するように設定しているという意味。

*9
狩:Jagdplan。攻撃の方針。実際の(米軍の)近接航空支援では「ゲームプラン」と呼ぶ。

*10
狩:Neunlinien。9行から成る攻撃の詳細情報。実際の(米軍の)近接航空支援では「ナイン・ライン・ブリーフ」と呼ぶ。

*11
ゴム引き、それに類する防水加工が施された布で作られたポンチョ型の雨具。

*12
砲弾や爆弾内部に詰められた火薬を一定の形に整形し、超高速の金属噴流を特定方向に集中させて噴射させ、戦車などの装甲を貫くメカニズムの兵器。一定の形に整形すると噴流が発生する現象を『モンロー・ノイマン効果』と呼ぶ。



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Report.2 アンジェリーカ『ジェーリャ』・イェゴロフ(後)

一九四五年三月一日 オラーシャ帝国 チェルスカヤ~クレチェヴィツィ間上空三〇〇メートル 一二三〇

 

 砲撃で連日、何度となく掘り返され、黒い泥があらわとなっている春先の戦場。ここ、チェルスカヤはプスコフを包囲するオラーシャ軍・カールスラント軍にとっての最重要拠点であり、もしここで突破されていたなら戦況は大幅な後退を余儀なくされていただろう。無事街道を制圧した歩兵たちは、道路や路肩の泥濘のそこここに散らばり、まさに『救いの女神』ともいえる地上攻撃ウィッチ二人を祝福する。あるものは手を振り、旗を振り、銃を掲げる。その軍服もあるものは土色で、あるものは灰緑色で、またあるものは――黒い。近付いてみればそれが、オラーシャ陸軍の精鋭部隊である打撃師団の軍服であるとわかるだろう。

 サーシャは地上の歩兵たちに向かって、手を振り返す。ストライカーも、装備も初めてにもかかわらず、無事に任務を成功させた安堵感と満足感が心の中を満たす。こんな無茶な任務がこれまでにあっただろうか、とは思うのだが、終わってしまえば軍人としての彼女にとって、とても有意義な経験になった。また、ジェーリャたち地上攻撃ウィッチというものを理解するための、一番いい方法であったのかもしれない。

 ただ一つ、気がかりなことがあった。隣のジェーリャが、その濃灰色の目もうつろに、地上のあちらを眺めたり、こちらを見つめたりしていたことだ。

 

「何か、探していたんですか?」

 チェルスカヤを離れる頃、サーシャはジェーリャに、そっと尋ねた。

「いや、ちょっとしたことなんだが」

「本当にちょっとしたことなんですか? それにしてはずいぶん、ぼんやりとした顔をしていましたよ……もしかして、大事な誰かとか」

「大事な誰か……」

 ジェーリャは問いかけをおうむ返しにし、そしてひと呼吸の間をおいた。

「父を探していたんだ。もしかして、将校としてあの部隊に居たんじゃないかと」

「お父さんも将校なんですね! 戦争前から軍人だったとか?」

「違う!」

 ジェーリャはつい、大声を上げてサーシャを睨みつけてしまっていた。彼女が少し驚いたのが、表情の変化から彼女にも分かり、急に申し訳無さが襲う。目線をそらし、小声で謝罪するのが、せいぜいだった。

「私の父、ミハイル・イェゴロフは……もともと代議士だったんだ。しかも左派政党の」

 伏し目がちに、彼女はつぶやいた。

 

「左派政党……政治のことはよくわからなくて、すみません。どういった政党なんですか」

「エスエル党*1っていう……わかりやすく言えば政府に反対する側の政党だ。しかも二〇年くらい前にようやく合法になったばかりとか、そんな集団だな。私の父もそこに所属していて、国会で政府や皇帝(ツァーリ)を非難したり、あとそれからデモ行進なんかもやったらしい。私も小さい頃、デモに連れられた事がある。言っていることもやっていることも、何が何だか分からなかったが、ただ帰りに食べたアイスクリームが美味しかったことだけは覚えてるな」

 ジェーリャははにかむような笑いを見せた。申し訳無さは、すっかり消えていったらしい。

「でも、ジェーリャさんはウィッチになったんですね」

 気が付けば、サーシャの呼び方も少し変わっていた。

「ああ。魔力は女を選ばないらしいからな。だから私もウィッチ養成学校に入らされた。その頃には父の政治的立場も、思想も分かっていたし――父のマネをして評判の悪い教官を解任する運動をやったりしたな。もちろん、結果は重営倉だったが。だが戦争が始まると変わった。皆、祖国のために協力しようとなって、父の盟友だったサヴィンコフ氏も政府入りした」

「サヴィンコフ氏って……まさか、ボリス・サヴィンコフ*2戦争大臣ですか?」

「そうだ、サヴィンコフ氏と父とは党の非合法時代からの盟友だ。よく家を尋ねてきて、お茶を出したりしたな……よく『将来はお前が女性党首になればいい』なんて言われたものだ。しかし、それもなくなったし、父も打撃師団に志願して、将校として前線に出た。あんなに、政府のことを嫌っていたのに」

 サーシャは彼女の話に耳を傾けながら、その出過ぎたところもなくすらりとした、だが『実用的な』筋肉はしっかりと付いており、Il-2ストライカー同様に流れるような女性的曲線が特徴的な体を覆う黒いルバーシカに目をやった。

「私はなんで父が急に、志願してまで戦おうとしたのかがわからなかった。だからせめて父と同じ軍服を着ていれば、その気持ちが分かるんじゃないかって……答えはまとまってきているような気がするけれど、正しいのかどうかがわからなくて。いつか、この前線で父と会ったら、答え合わせをしようと思う」

「だからですね、ジェーリャさんが打撃師団の軍服を着ているのは。ちなみに、その答えって――」

「ジェーリャ、聞こえるかしら? こちらリトーチュカよ。あなたも、それから、お客さん――ポクルイーシキン大尉も、無事?」

 

 サーシャの問いは、アタッカーウィッチーズの上空前線航空統制官である、マルガリータ・イヴァノーヴナ・ドーリン少佐の無線で遮られた。ジェーリャはそれを受け、少し目を見開いて黙り込んだあと、凛とした声で答える。

「こちらジェーリャ、無事だ、二人とも。損害もない。リトーチュカはもう帰投しているのか」

「ええ、ついさっき戻ったばかりよ。無事で何より! だけど、お客さんに爆装させて任務に参加させるのは、よろしくないわ。貴方の足中には、本当に真がないのね*3

「……すまない」 

 彼女は、苦笑しながら頭の上方から生えたツンドラオオカミの耳を少し掻いた。そして、サーシャの方へと細面を向け『君も喋っていいぞ』とばかりに、ウィンクした。

「はじめまして! 五〇二統合戦闘航空団のアレクサンドラ・イヴァノーヴナ・ポクルイーシキンです! 一ヶ月間よろしくおねがいします」

「こちらこそよろしく、ポクルイーシキン大尉。クレチェヴィツィで会えるのが楽しみだわ」

 柔和な人柄を感じさせる、穏やかでおっとりとした声がインカムから響いた。

 

 サーシャはジェーリャのあとを追ってクレチェヴィツィに向かいながら、一体ジェーリャのいう『答え』とはなにか、とずっと考えていた。しかし、実際のところ、それは彼女が胸の中に、父親と再会するまでずっと胸に秘めていてもいいのかもしれない。

 そして過去について話していて気が付いたのは、サーシャ自身、自分の生まれた国の、つい最近の歴史や地理にすら疎いということだった。これから先、このアタッカーウィッチーズにいる、多彩な隊員たちと会っていく中で、さらにいろいろな個々の過去であったり、戦う理由を知ることになるだろう。その一つ一つを理解するためにはもっと色々なことを知らなければ。そのことが、きっと五〇二に帰ったときに、役に立つかもしれない。

 

 Il-2が起こす風が、モミやシラカバの木立を優しく揺らす。西オラーシャにどこまでも広がる大気が、これから先も勇壮な地上攻撃ストライカーの飛行を、記憶や回想とときに熱く、ときに切ない想いにつながるものへと変えていくのだろう。

*1
社会革命党とも。一九世紀後半のナロードニキ(人民主義)運動に端を発する社会主義政党。史実では帝政末期にテロリズムで専制打倒を目指す非合法政党として現れ、一九一七年の二月革命では臨時政府に加わるものの、十月革命でボルシェヴィキによって権力の座から追われ、その後のロシア内戦の中で消滅していった。

*2
エスエル党の革命家、政治家であり作家、詩人。史実では帝政時代にエスエル党のテロ組織『社会革命党戦闘団』を率い、臨時政府では陸軍次官を務めた。一九二五年、ボリシェヴィキにより処刑。この世界ではエスエル党党首を一九三七年から務め、ネウロイ大戦勃発に伴い戦争大臣として挙国一致内閣入りしている。

*3
オラーシャの『立っていないで座ったらどうですか』との意味の言い回しを踏まえた言い方。



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