舞踏会に彼岸花は咲く (春4号機)
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序章
【来訪】


19世紀・霧の都。

 

そこは権謀術数と欲望渦巻く魔都。様々な思惑が交錯し、事実を歪めながらも密やかに暗躍し続ける街。

ある者は言う、霧が深い夜は家から出るな。

ある者は言う、安息の内に終わりたければあの街に深入りするな。

そしてまたある者は言う。あの街には何かが居る、と。

 

 @ @ @

 

某日・深夜1時頃。

 

既に夜も更けていた。住人たちは営みを終え、石造りの建物の中に灯る明かりも既にまばらになっている。そんな深い深い霧に覆われた石畳の道を、馬車が騒音染みた音と嘶きを響かせながら疾走していた。

手綱を操る男は、何かに追われているかのように半狂乱状態となっている。

事実、その馬車は何者かに追われていた。追う者は馬車ではない、獣でもない……しかし決して人間でもなかった。正体不明の追跡者という恐怖に御者は支配されかかっていた。

それは乗っている老人も変わらないらしい。老人は既に何度目かになるかもわからない怒号を御者に向かって飛ばしている。

 

「オイ!いつになったら辿り着くんだ!早くしないか!できないならさっさとアレを振り切れッ!」

「出来るならどっちもとっくの昔にやってんだよ!ただ乗ってるだけの奴が偉そうに言うな!」

「貴様ッ!誰に向かってそんな口をきいている!ここを生き延びたらお前もアレも牢屋にぶち込んでやるから覚悟しておけ!」

「ッ!」

 

背後から浴びせかけられる大音量の怒号の数々、そしてずっと彼らの乗る馬車を走って追跡してくる存在。それらの要因が重なっていたためか、それとも延々と続く一種の極限状態のためか……御者の精神は限界に達した。

 

「……そうかよ」

「あ?」

 

御者は小さく吐き捨てるように呟いて、先ほどまで荒ぶっていた馬を巧みに操って制止させた。それから御者はひどく落ち着いた様子で大きくゆっくりと息を吸い、吐き出して呼吸を整えている。

……それまでの時間は、ものの数分にも満たなかった。中にいる老人からすれば、急な動から静への移り変わりに何が起こったか一瞬理解できなかっただろう。

 

「おい、何故急に馬車を止めた」

「もうウンザリなんだよ」

「は?」

 

御者は手綱を放棄し馬車を降りた。中の老人は呆然とソレを見守ることしかできない。その様子をちらりと一瞥し、御者は降りて来ようともしない老人に対してため息を吐いてから言葉を吐き捨てる。

 

「このまま逃げ続けたって、どうせ俺もアンタも助からない。……だったら!」

「なっ!待て!!」

「アンタを犠牲にしてでも俺は生き延びてやる!」

 

馬車を降りた男は、単身走って細い路地の中に入っていった。

……残されたのは馬車と、その中で未だに呆然とする老人だけ。

 

そして、ほどなくしてそれは追いついてきた。

獣のような唸り声と、相反する石畳を踏みしめるような硬質な靴音。そして、小さく聞こえる笑い声のような息遣い。

馬車ではない、獣ではない、しかしその眼は人間と呼ぶにはあまりにも狂気に満ちていた。

何も知らぬものが見れば、瞬時に冷静な判断を奪われるような禍々しい瞳。

中の老人は不運にもそれを見た。己の眼でしっかりとそれを認識した。そして、その瞬間に悟ってしまう。

__自分はもう助からないのだと。

 

「や、やめろ!来るな!こっちに来るんじゃない!私を誰だと思っている!この化け物めッ!」

 

人の形をした人ではない何かに、人語が通じる故もなく……老人の叫びは夜霧の中に消えていった。

 

……翌日、”連盟”の一角を担うベリエード家の当主が帰宅途中に何者かに惨殺されたという事件が発覚した。

 

 @ @ @

 

「はぁ……やっと着いた。」

 

少女は街の入り口にたどり着いた。

彼女の名前は川崎沙耶。遥か極東の島国から、とある縁を通じて街へと招待されてきた少女だ。

船旅にして数日、そこから更に陸路を使用して彼女はこの霧の都に辿り着いた。旅の目的はこの街に住んでいるという友人に会うためだ。

 

あらかじめ取り決めていた場所、そこに川崎沙耶を街に招いた人物が立っている。

 

「沙耶、こちらです。ようこそ我が霧の都へ」

 

艶のあるウェーブ掛かったきらめく金の髪に、豪華絢爛を全身で表すかの如き青を基調としたドレス。一目で只者ではないと分かる雰囲気を醸し出し、周囲に数人の付き人を従えて仁王立ちで待ち構えている女性がいた。

この街が自分のモノだとでも主張するような堂々とした立ち姿。貴族特有の気品を漂わせながらも、凛とした気高さを持ち合わせる彼女の名前はヴィアナ。ヴィアナ=フェリエット。

この町を事実上統治し、守護する役割を担う”貴族連盟”。若くして一族の当主を襲名し、その”連盟”の中枢を担う一人となった霧の都における指折りの権力者の一人である。

 

「まったく、待ちくたびれましてよ?予定ではもう2時間ほど早く到着するはずだったのでは?」

「ごめんねヴィアナちゃん。乗ってた列車の中でちょっとした事件が起きちゃって……」

「あぁ……そういうこと。貴女のことですから負傷者の治療でもしていたのでしょう?お人好しも程々にしておかないと厄介ごとに巻き込まれましてよ?」

「うん、ありがとう」

 

ヴィアナは相変わらずな異国の友人の様子に肩をすくめて苦笑した。それは呆れから来る苦笑ではなく、慈愛の感じられる友好的な意味合いのものだった。

ヴィアナと沙耶が知り合ったのは今から約1年前。

この霧の都から遠く離れた極東の地において、ヴィアナとその宿敵ともいえるライバルの諍いに巻き込まれたことがきっかけだった。今となっては互いに笑い話にしているが、当時の沙耶は相当な心労を味わったのである。

 

「それでヴィアナちゃん?私は何をすればいいのかな」

「特に何も。招待するときに言ったでしょう?貴女とは彼女抜きで一度ゆっくり過ごしてみたいと。今回貴女を呼んだのはそういう理由ですわ」

「……。なんていうか、相変わらず強引だよね。」

「あら、嫌い?」

「ううん。そういうヴィアナちゃんも私は好きだよ。」

 

しばらく談笑に花を咲かせ、少女たちは笑みをこぼす。暖かな日の光が降り注ぐ昼下がり。

友人と笑いあいながら沙耶はゆっくりと街の中に進んでいく。今日から約1ヶ月程度ではあるが、ここが彼女が滞在することになる新しい土地である。

 

「これからしばらくよろしくね、ヴィアナちゃん。」

「えぇ、こちらこそ」

 

 @ @ @

 

「ごめんねヴィアナちゃん、わざわざ街の中を案内させちゃって。」

「これくらい問題ありませんわ。貴女を私自ら出迎えると決めた時点で、今日の仕事はオーキスとミハイルに一任していますもの。」

 

あれから彼女らはヴィアナの付き人数名に沙耶の旅荷物を屋敷に運搬させて、買い物をしに街へ繰り出していた。もっとも、付き人に荷物を運搬させたのも買い物をしに街へ出るなら案内をすると言い出したのもヴィアナなので、沙耶は半ば付き合わされているようなものである。

しかし二人は久しぶりの再会を喜んでいるようで、互いにこの時間を楽しんでいるのが傍目からもよくわかる。気心の知れた友人同士の会話に花を咲かせながらヴィアナの案内でゆっくりと街を巡っていた。

時刻は夕刻。そろそろ日が沈み夜がやってくる頃だった。

 

「それにしても沙耶、貴女がこちらに来るにあたって方々との折り合いはつきましたの?」

「うん。それに関しては結構簡単に都合がついたんだけどね。それよりも学校休学する手続きの方が大変だったよ。」

「へぇ?まぁ、あのご両親なら貴女の言葉は無碍にはしないでしょうね。……それにしても、学校ですか。ということはまた彼女がちょっかいを?」

「え、いや違うよ!?私が休学したいって無理を言っちゃったから困らせちゃっただけなんだから。」

「……。そうやって自分を二の次にするのは貴女の美点であると同時に欠点ですわね。やれやれ、相変わらずですわ」

 

苦笑をこぼしながらも沙耶の人の好さを改めて実感していたヴィアナは、何かを思い出したように付き人の一人に声をかけた。

 

「そういえば、例の予定まであとどのくらいですの?」

「予定時刻まで1時間ほどです。そろそろ向かわれた方がよろしいかと」

「そう、ありがとう。」

 

付き人の一人と確認のために少し会話をした後、ヴィアナは心底残念そうにため息を吐いた。その姿を横目に見ながら、沙耶は思ったことをそのまま口に出す。

 

「今日のお仕事ってオーキスさん達に任せてたんじゃないの?」

「そうなのですが、最後の1つの仕事先が『同じ連盟の当主が相手でなければ話にならん』などといっておりますの。肩書でしか話の出来ない御老人方はこれだから困りますわ」

 

心底辟易している様子でヴィアナは愚痴を言っている。付き人はそんな彼女の様子を怖々と見守っている。

沙耶はその様子から、街にくる前にヴィアナから聞いていた街の情勢を思い出した。

 

フェリエット家を含めた4つの名家が中心となり、公的権力からも独立した組織形態をもつ『貴族連盟』と警察を始めとする『公的権力機関』。

その二つが主軸となって表立った街の治安を維持しているが、同時に二つの勢力は水面下での抗争が続いている。

そして、その2つの機関の水面下抗争に乗じて街に根を張る詳細不明の組織が息づいているという話だった。

 

沙耶はヴィアナの話から、あまり自分が深入りしない方が良い話だと判断して深く追求することはしなかった。

 

「そっか。じゃあヴィアナちゃんはもうお仕事行った方が良いのかな?。」

「そういうことになりますわね。……はぁ、折角の滞在初日だというのに、気を使わせて申し訳ないですわ。あなた達、沙耶をきちんと屋敷まで」

「あ!待って!私もうちょっとだけ見てから帰るから、皆さんは先に帰らせてあげて?」

 

言い終わる前に口をはさんできた沙耶に、ヴィアナは心配そうな声色で声をかける。いや、実際心配しているのだろう。

 

「大丈夫ですの?まだ土地勘も掴めていないんじゃありません?」

「大丈夫、お屋敷までなら地図で見て道も暗記してるから。」

「そうは言いますが……」

 

ヴィアナは暫く悩んだ後、指を鳴らして付き人の一人に指示を送る。指示された人物は預かっていた荷物を別の付き人に渡し、沙耶の側に歩み寄った。

 

「いいでしょう、好きに見て回りなさいな。ただし護衛として一人付かせますわよ?客人に万が一があってはいけませんので」

「うん。ありがとう、ヴィアナちゃん」

「礼には及びませんわ、ゲストの安全を保障するのもホストの役割というだけです。……ゴルド、たのみましたわよ」

「はい、かしこまりましたヴィアナ様」

 

ゴルドと呼ばれた付き人は、ヴィアナの言葉によどみなく返答して沙耶の後ろに控えた。ヴィアナはその様子をしばらく見守り、やがて納得したように小さくうなずいて沙耶に視線を向けた。

 

「では沙耶、また後程。あぁ、なんでしたら私が屋敷に戻るのを待たず先に眠ってもかまいませんわよ?」

「あはは。うん、もし眠気に耐えられなかったらそうさせてもらうね。……いってらっしゃい、ヴィアナちゃん」

「ふふ、えぇ行ってきますわね。」

 

ヴィアナは楽しげに沙耶に微笑みかけ、踵を返して付き人の一人が待機させていた馬車に乗り込んだ。

 

ヴィアナの乗った馬車が遠ざかって行く。その後ろ姿が見えなくなってから、沙耶は自身の後ろに控えるゴルドに視線を向けた。少しの間、どう声をかけたものか悩んでから沙耶は結局無難な言葉を選んだ。

 

「……その、よろしくおねがいします。ゴルドさん」

「そうかしこまらなくても大丈夫ですよ沙耶様。ヴィアナ様から貴女の為人は聞き及んでいますので」

「あ、そうなんですか?それはちょっと気恥ずかしいんですが……。えっと、じゃあ行きましょうか。」

「イエス、マイロード。」

「え!?いや、さすがにソレはやめてくださいよ!?」

「あ、申し訳ありません。習慣でして」

 

沙耶はヴィアナが普段彼らをどんな風に従えているのか少しだけ気になったが、好奇心は猫を殺すという諺を思い出したので深くは聞かないことにした。

地図で予習をした上で一日ヴィアナの案内で見て回ったとはいえ、沙耶にとってここは依然として未知の土地である。多少の土地勘は得られたが物珍しさはまだまだ抜けていない。

とりあえずヴィアナの屋敷への道すがら、気ままに観光するくらいは良いだろう。そんなことを思いながら彼女は夜道をのんびりとした足取りで歩いていく。

ゴルドはそんな沙耶の邪魔をせず、あくまでも護衛の任に徹するように景色に紛れて彼女についていく。

 

暫くそんな風に街を見て回りながら歩き続け、そろそろヴィアナの屋敷が見えてくる頃。

不意に沙耶の足がピタリと止まった。

 

「……。」

「いかがしました?」

 

その沙耶の様子にゴルドは何かただならぬものを感じ、沙耶の横に駆け寄った。

 

「その……気のせいかもしれないんですが、何か聞こえませんか?」

「……。」

 

言われてゴルドは耳を澄ます。……そして彼も確かにソレを聞いた。

聞こえてきたのは曲がり角の奥の暗がりからだ。それは低い呻き声のように聞こえる。男性よりは女性の声質に近い。

自身を制止し自らが先に確認しようとするゴルドを押し除け、沙耶は少し駆け足気味で暗がりにうつぶせで倒れている人物に近付いていった。

 

「大丈夫ですか!!」

「……ッ」

 

沙耶の声に反応して、倒れている人物は小さく身動ぎする。沙耶は近づいてその姿をハッキリ視認した。倒れていたのは少し赤みを帯びたスーツのような服を着込んだ、ワインレッドの髪色の女性だった。

 

「血がでてる。……意識は、ある。ゴルドさん!お屋敷に連絡をお願いします。私がここで応急処置をしますので!」

「わ、わかりました!」

 

沙耶の先ほどまでとは違う雰囲気に気圧されるように、ゴルドは即座に指示に従った。

ゴルドの気配が少しだけ離れたことを確認してから、沙耶は女性の応急処置を開始する。

傷ついた臓器、血管の修復を可能な限りで行う。完治させるのではなく、まずは一命を取り留めることに全神経を集中させる。

沙耶はそっと傷口に手をかざして、祈るように瞳を閉じた。

 

「!ッ、貴女は……ッ!なにを」

「動かないでください。私は助けたいだけなんです。」

「……。」

 

自身の身体への異常を感じ取ったのか、倒れていた人物は焦ったように体を起こそうとした。しかし沙耶の言葉を聞き、その目を見て害意はないと判断したように大人しくなった。

 

「こんな怪我、いったいどこで……後で詳しくお話を聞かせてもらいますからね?」

「……。それはコチラとしても願ってもないことです。……貴女、名前は」

 

もう傷の痛みも和らいでいるのか、治療を受けながら女性は沙耶に問いかけた。

 

「あ、私は川崎沙耶です。実は、今日この街に来たばかりなんですよね」

「カワサキ、サヤ……。東洋人ですか。」

「……私も名前を聞いても良いでしょうか?」

「……。バレットです。バレット=ガットレイ、それが私の名前です。」

 

この二人の奇妙な出会いが、この霧の都に渦巻く因縁を加速させることになるのは……まだ誰もしらない未来の話だった。

 

__序章・来訪



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前章
【会談】①


「……はぁ、随分なトラブルに巻き込まれたものですわね」

 

ヴィアナが仕事を終えて自分の屋敷に帰り着いたのは、日付が変わろうとしている深夜のことだった。

帰宅した彼女は、自身を出迎えたゴルドから沙耶と彼が遭遇した出来事の説明を受けて深々とため息を吐いた。

 

「私が気付くよりも早く沙耶様が彼女を見つけ、すぐさま治療に取り掛かったのです。お恥ずかしい話ですが、私は彼女の指示に従って屋敷に連絡を入れることしかできませんでした。」

「それは仕方ありませんわ。不足の事態というのは誰しも対応が遅れてしまうものです。」

 

ゴルドの話を最後まで聞いて、ヴィアナは仕方がないことだと労いの言葉を掛ける。

 

「それよりも……」

 

そして今までの話はさして重要ではなく、むしろこれからが本題だというように、ヴィアナは語気を強めてゴルドに問いかける。

 

「彼女の行った治療について、誰にも見られることはありませんでしたね?」

「はい、それは問題ありません。……ただ、沙耶様の治療を受けた彼女は知っていますので……ヴィアナ様が戻られるまで部屋の中で待機していただいています。」

「……そう。下がってよくってよ。あとは私たちで話し合います。」

「イエス、マイロード」

 

ゴルドが下がったのを確認し、ヴィアナは扉を開けて部屋の中に入った。

 

「……。」

 

部屋の中央に置かれた椅子に座ったまま、微動だにしない見慣れない女性がそこにいた。

ヴィアナが彼女から最初に感じた印象は、ただの民間人ではないという酷くチープなものだった。そしてそれは正確な情報だった。

ヴィアナは彼女の胸元を見る。

赤みを帯びたスーツのような彼女の服。その胸元に何かの紋様を象ったバッジが鈍く輝いている。

その事実をヴィアナが飲み込んでいるとき、不意に微動だにしていなかった彼女が瞳を上げてヴィアナを見た。

そして立ち上がり、一礼の後に口を開く。

 

「お初にお目にかかります、ヴィアナ=フェリエット。お噂は聞き及んでいました。私の名前はバレットと言います。先刻は貴女のご友人に命を救われました。その点に関しては心からの感謝を。」

 

自己紹介と同時に自身の言いたいことを言い尽くす勢いで言葉を投げかけるバレットに対し、ヴィアナは小さく苦笑した。

ふと、バレットの座っている椅子の正面を見ると沙耶が眠っていた。ヴィアナは治療で疲れたのだろうとある程度の当たりをつけて、もう一度バレットを視界に収めた。

 

「……」

「座って話しませんこと?あまりそう大きな声を出すと、沙耶も起きてしまいますし」

「……。それもそうですね。」

 

身体の芯を一切ぶれさせることなく立っていたバレットはヴィアナの言葉に素直に同意すると、スッと椅子に腰を下ろした。

ヴィアナもバレットの正面、つまり沙耶の隣に移動すると腰を下ろして小さく息を吐いた。

 

「先ほどは自己紹介を返さずに申し訳ありませんわね。お客人を立たせたままで込み入った会話をしては、家の沽券に関わろうというものですので」

「……。」

 

少しばかり探りを入れようと発したヴィアナの言葉に、バレットは何も返さずただ真っ直ぐ視線を返してくるだけ。

 

「改めて、自己紹介から始めさせていただきますわね。私はヴィアナ、ヴィアナ=フェリエット。若輩の身ではありますが、このフェリエット家の長を務めさせて頂いております。」

「……バレット=ガットレイです。こちらの自己紹介はもう済んでいますので、これ以上のことは言う必要も無いでしょう」

 

二人はほとんど同時に小さく微笑む。……それからしばらくの沈黙。

……もしもこの場に第三者が居たのなら、窒息していたに違いない。それほどにこの二人の間に漂う空気は重かった。

そんな物理的な重量感すら感じさせるような重苦しい沈黙を、先に破ったのはヴィアナだった。

 

「それで貴女はこの街に……いいえ、言い直しましょう。貴女は私の街に一体何をしに来たのです?”狩人”さん?」

「……狩人?」

「あら、惚けるつもりですの?わざわざ狩人の身分証であるバッジまで身に着けているというのに?」

「……なるほど。失礼を詫びましょう、ミス・ヴィアナ。どうやらこの街の上層部には我々のことも知られているようだ。」

 

そう言いながらバレットは、自身の胸元についていたバッジを取り外してポケットの中にしまい込んだ。

その一連の動作を終えてから、今度は逆にバレットから話を切り出した。

 

「しかし、我々のことを知っているということは……やはりこの街は『そういうこと』なのですね?」

「仮に貴女の言う『そういうこと』だったとしても、他所の介入は御免被りますわね。あれは私を始めとしたこの町に住む者たちの問題です。」

「そういうわけにはいきません。」

 

ヴィアナの指摘した”狩人”という言葉は、ある組織の一員であることを指す。

その組織は、吸血鬼や狼男などを代表とする所謂怪異を駆逐または捕獲するために存在すると言われている。ある種の怪談染みた噂話の延長戦に位置する組織である。

しかし、一般大衆には知られていないことではあるが……その組織は実在している。

極一部の者達のみが実在を認識するその組織は、噂に語られるように怪異の打倒と捕獲が最大の活動目的だった。

その組織の構成員は人間外の異能の力をもった者から、何の力もない真っ当な人間まで多岐にわたるという。

そして逆説的に言ってしまうと……その組織が実在する以上は彼らが標的とする怪異存在や人間外の力を行使する人間もまた、極少数ではあるが確かに存在するのである。

 

「ミス・ヴィアナ。貴女もわかっているでしょう。先日この街で起きた事件、あの殺しは真っ当な人間には不可能だ。そして殺害されたのは街の重鎮の一人、貴女と同じく連盟に連なる家の当主だった老人です。」

 

そこでバレットは一度、慎重にヴィアナの顔色を窺うように言葉を溜めた。

 

「私がこの街に派遣されたのは、先の事件の首謀者である異能者を駆除または捕獲するためです。それ以外でこの街に干渉するつもりは私にも、我々にもありません。」

「……。」

 

ヴィアナは何も返さない。ただジッと正面に座るバレットを見据える。

数分間の沈黙の後、彼女はバレットがこれ以上自分から発言する意思がないことを悟って言葉を返すことにした。

 

「あなた方の方針について、一つ確認を」

「……なにか?」

「先ほど、駆除または捕獲と仰いましたが……その対象になるのは街の治安に影響を与え得る全ての異能者か、それとも先の事件の犯人か。いったいどちらになるのかしら?」

 

ヴィアナの問いかけに、バレットは瞼を降ろして沈黙する。ヴィアナの質問の意図を探るべく思考を巡らせ、数秒の後にバレットはなるほどと小さく呟いた。

 

「つまり貴女は、この町に住む異能者達全てを対象にした所謂異能狩りが行われるのではないかと言っている訳ですね」

「……物騒ですわね。そこまでの話はしておりませんわ。そもそも……そうなった場合、他の土地ならいざ知らず、この街から無事に出られるとお思いかしら?」

 

バレットはヴィアナの何気ない問いかけに対しては何も答えを返さなかった。

 

「我々の上層部からも事は穏便に済ませるようにとの指令です。貴女が危惧しているような事態にはなりません。……仮に事態が悪い方に転んだとしても、事件の関係者数名の身柄を拘束させていただく程度で終わるでしょう」

 

その代わりにバレットは異能者に対する対応をどうする気かという根本的な質問に、明確な答えを口にしたのだった。

ヴィアナはその返答をもって納得したようで、小さくうなずいてから立ち上がった。

そして、扉の前に待機していたのだろう老執事に声をかけて彼を部屋に招き入れた。

 

「お呼びでしょうかヴィアナ様」

「オーキス、この方には今日からしばらく私の客人として当家に滞在していただきます。急な客人ですが、くれぐれも失礼のないように。使用人全員に伝達しておいてくださいな」

 

老執事オーキスを招き入れたヴィアナは、彼の問いかけに対して前もって決まっていたようなセリフを朗々と響く声で伝えたのだった。

 

「は?」

 

何とも急な話だった。急遽フェリエット家に滞在することになった本人ですら間の抜けた声を出すだけで、事態の成り行きを見守るしかなくなっている。

 

「承知しました。客間は沙耶様の隣が使用可能ですが」

「……ん、それは少々気にかかりますが……背に腹は代えられませんわね。それで構いませんわ。」

「では諸々の作業に取り掛かりますので、1時間ほどお時間を頂きます。」

「えぇ、オーキスはいつも通り仕事が早くて助かりますわ。」

「それでは後程」

 

余人が口をはさむことすらできないスムーズさで様々なことを取り決めて、オーキスは退室していった。そこでようやく呆気にとられていたバレットが、ハッとしたように声を上げる。

 

「な、なぜ私がここに滞在することになっているのですか!?」

「あら、今更ですの?……街の不祥事のために遠方からわざわざお越しいただいているのですから、街の代表である連盟の当主がもてなすのは当然でしょうに。」

「そういうことではなく……。」

「それにこれは貴女にとっても有益なことでしてよ?」

 

尚も抗議を続けるバレットに対して、ヴィアナは僅かに口角を上げて挑発するように言葉をかける。

バレットもその些細な変化を感じ取り、どういうことかヴィアナに先を促すように閉口した。

 

「よろしくて?我がフェリエット家は仮にも街の心臓の一端である連盟の筆頭家。ここに滞在し些末程度の監視とあと一つの条件を飲んでいただけるのであれば……私たちが持ち得ている情報をあなたに開示しましょう。」

「……」

 

提示された条件に応じるのであれば、自分たちの持つ情報を開示する。

そんな話はバレットからしてみれば渡りに船だった。旨い話にも程がある。

だからこそヴィアナがあえて伏せたであろう、もう一つの条件が何なのかがバレットは気にかかった。

 

「もう一つの条件、それを教えてもらわなければ判断できない。」

「……もう一つの条件は、彼女についてです」

 

バレットはヴィアナの視線の先にいる人物を見る。

先刻、不意打ちに会い倒れ伏していたバレットを助けた東洋人と思しき風貌の少女。

あれだけの深い傷を負っていたバレットを治して見せたところから、彼女がかなり力の強い異能を保有しているだろうことはバレットも予想していた。それも自身ではなく、他人の傷を治して見せるほどの癒す力であれば……。

そこまで考えて、バレットは納得がいった。

 

「つまり、彼女について一切を口外しない。また、危害を与えないことを約束しろと……そういうわけですね?」

「話が早くて助かりますわ。」

 

ヴィアナが肩を少しだけすくめながらそう呟くのを見て、バレットはなんとなく彼女の本来の性質を感じ取れたような気がした。

 

「いいでしょう、条件を飲みましょう。私も、彼女には恩を返さなければ座りが悪いので。」

「感謝しますわ。」

 

どうにもこの若い当主は、前もって聞かされていた情報程悪い人間ではないらしい。バレットは、ヴィアナに対しての評価をそんな風に改めたのだった。

 

話も一段落着いたところで、ヴィアナは背もたれに身体を預けて尚も眠ったままの友人を起こしにかかる。

 

「……さて、と」

 

人の傷を治した時は凄く眠くなるのだと、彼女と初めて会った極東の地で教えてくれた。

ヴィアナはそんな懐かしい思い出に浸りながら、なかなか起きない沙耶の体を揺らし続けた。

 

「ほら沙耶、早く起きなさいな」

「んー、つかれてるのにぃ……」

「懲りもせず軽率に人を治したりするからですわ。だいたい、貴女が起きないと私も彼女も移動できませんのよ?」

「……かのじょ?」

 

起こそうと体を揺すってくるヴィアナに抵抗しながらも、沙耶はヴィアナの言う”彼女”という心当たりのない存在が気にかかってまだ重たい瞼を強引にこじ開けるのだった。

 

沙耶がぼやけた視界でとらえたのはワインレッドの髪、その鮮やかさには見覚えがあった。暗がりの中だった気がするけれど、あの髪色はなかなか忘れられるものではなかった。

 

「……あ、さっきの。良かったぁ、ちゃんと治ったんですね」

「はい。おかげさまで、支障はありません。貴女にはいくら感謝しても足りないほどです。」

「……はい。」

 

まだ眠たいためか、沙耶はバレットからの感謝の言葉に小さく微笑んで返すにとどまった。

どうやら他人を治すという行為は、彼女に相当の負担をかけるようだとバレットは解釈した。

 

「さ、二人とも。募る話もあるでしょうが、今日はもう眠りましょう。お互いに今日は疲れているでしょう?」

「……えぇ、そうさせていただきます」

「うん、私も流石に眠たいや……」

 

ヴィアナに誘導されるように、二人は彼女の後に続いて部屋を後にする。

そして、沙耶とバレットは互いに割り当てられた寝室に入り体を休めるために眠りにつくのだった。

 

……こうして川崎沙耶とバレットという、異物と言って差し支えのない二人がこの街に訪れて最初の夜が過ぎていった。

 



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【会談】②

一夜明け、この街に暮らす大半の人間にとって代わり映えのしない朝がやってきた。

少女は差し込んでくる陽光によって、もう朝になっていることを認識した。それから昨日の治療行為の影響で、鉛のように重く感じる自分の身体をやっとのことで起こしたのだった。

瞼を何度か軽く擦りながら、眠気を押しのけるように伸びをする。

そうやって徐々に意識を覚醒状態に近付け、完全に目が覚めたところで彼女……川崎沙耶はベッドから出た。

 

入念に身嗜みを確認して部屋を出た彼女を一番初めに出迎えたのは、昨日単独での散策を希望した際に護衛をしてくれていたゴルドという名前の青年だった。

 

「おはようございます沙耶様。良い夢は見られましたか?」

「おはようございますゴルドさん。昨日はぐっすり眠っていたので、夢を見る暇もなかったくらいですよ」

「それは何よりです。良い一日は良い睡眠からとも言いますので」

 

取り留めのない平和な会話を交わしながら、沙耶はゴルドに案内されるままに朝食の準備が整っている部屋へと向かう。極自然な流れで案内が始まっていたため、ゴルドと会話をしていた沙耶も自分がどこかに向かって歩き始めていることに一瞬気が付かなかった。

どうやらゴルドさんも、ただ単に人の好さそうな人物というだけではないらしい。沙耶は改めてフェリエット家の使用人の底知れなさを感じた。

 

「あ、そういえばヴィアナちゃんはもう起きてるんですか?」

「ヴィアナ様は既に身支度を整えております。あ、ですがどうぞ慌てずにゆっくりと向かいましょう。沙耶様も旅の疲れがあるでしょうし」

 

そんな風に評価を下しかけた沙耶だったが、この僅かな時間でその評価が揺らいでしまっている。

こうも判りやすく慌てた様子を見せられてしまっては、こちらも気が緩んでしまう。人をリラックスさせる才能でもあるのだろうか?……ひょっとして、こういう所をヴィアナちゃんも買っていたりして?

沙耶はワタワタとするゴルドを見ながら、当たっているか微妙な考えを巡らせていた。

 

談笑をしつつゴルドの案内でのんびりと朝の廊下を歩いていると、沙耶は不意に昨夜のことを思い出した。それと同時にあの印象的な赤い髪色の女性が脳裏をよぎった。

全力で治療したとはいえかなりの出血量だったな、そう沙耶は昨日の現場を思い返して少し心配になった。

 

「あの……ところで」

「到着しました、朝食はこちらの部屋ですね。……あ、申し訳ありません。今なんと……?」

「あ、あー……いや、なんでもないです」

 

ゴルドに脳裏に浮かんだままバレットの様子はどうかと聞こうとした時、タイミングの悪いことに丁度食事が準備されている部屋の前にたどり着いてしまったようだ。

ゴルドに聞き返されるも、沙耶は同じ屋敷に滞在している以上そのうち解ることだろうと考えて、再度の質問を投げかけることなく部屋の中に入った。

 

「ヴィアナ様、お話し中失礼します。沙耶様をお連れしました。」

 

沙耶を部屋に案内したゴルドは、ヴィアナの姿を認めると一礼の後にそう声をかけた。

ヴィアナは対面に座っているバレットと何かを真剣に話し合っていたようだったが、その会話を一度中断してゴルドたちの方に向き直った。

 

「あら、噂をすればですわね。ありがとうゴルド、下がって結構です。朝早くから走り回ってもらってましたし、暫くの間ゆっくりしていてくださいな」

「イエス、マイロード」

 

ヴィアナからの労いの言葉を受け取ったゴルドはもう一度深く一礼し、静かに退室していった。

その様子を確認したヴィアナは、今度は未だに入り口付近で立ち尽くしている沙耶に声をかけた。

 

「沙耶もいつまでもそんなところで呆けずに、私たちと一緒に朝食を頂きましょう。」

「あ、うん、すぐ座るね」

「こちらにどうぞ」

「ありがとうございます。……え?」

 

ヴィアナに促されて一歩を踏み出した沙耶は、何の違和感も感じさせない老執事オーキスの見事としか言いようのないエスコートに導かれるままに席に着いた。

沙耶は入室してから特に余所見をしていたわけではなかったのだが、それでも今の今まで同じ室内の……それもヴィアナのすぐ側にオーキスが控えている事実に気付けていなかったのだった。

 

「オーキスさん!?いつからいらっしゃったので!?」

「私がこの室内に入室したのはヴィアナ様に続いてですので、沙耶様が入室した際には既に室内にて待機しておりました。」

「そ、そうなんですね~……あはは」

 

沙耶は既に何度目かになるかもわからない、フェリエット家の使用人への畏怖と畏敬の念を改めて感じたのだった。

そんな風に見るからに狼狽している沙耶を見ていたバレットは、昨夜から思っていた言葉を口にした。

 

「サヤ、昨夜はありがとうございました。」

「え?……あー、はい。私なんかの稚拙な治療でむしろ悪化したりしてないか心配だったんですけど……あれからお加減いかがですか?ガットレイさん」

 

沙耶は一瞬、何に対してお礼を言われたのかが理解できていなかった。しかしすぐに昨夜あった出来事を思い出して納得したようだった。

沙耶の言葉は本心だった。いくら傷を癒せる異能を保持しているとはいえ、きっちり傷を治しきれるという確証は彼女自身もっていないからだ。それ故に彼女は、非常事態の時以外は自身の力を進んで用いることはなかったのである。

 

「いえ、貴女の技量は素晴らしかった。私たちの組織にも治療班はいますが、それでも貴女ほどの治療の力を保有している者がいるかは怪しい。それに、今こうして私が五体満足でここにいるのは貴女の治療があったからこそです。改めて感謝します、サヤ。」

「いや……そんな、えっと……ど、どういたしまして?」

 

素直な言葉を並べ立ててくるバレットに、沙耶はしきりに恐縮しながら返事をした。

バレットとしても、沙耶に投げかけた言葉はすべて本心だった。

彼女の所属する組織の中にも、治療の力を扱う者はいる。しかし、バレットが負っていたような深手を即座に治療できる者には心当たりがなかった。

それゆえの素直で裏の無い賞賛の言葉だった。

 

「あぁ、それから」

「はい?」

 

沙耶が落ち着くのを少し待ってから、バレットは付け加えるように口を開いた。

 

「私のことは名前で呼んでもらって構いませんので。こちらも名前で呼んでいますから。」

「……。えっとじゃあ、バレット……さんで」

「はい。」

 

そんなバレットの申し出に、沙耶は恐る恐るといった様子で答えた。

自分の不躾ともとれる申し出に応じ、敬称をつけることを忘れなかった沙耶。その様子を見てバレットは、昨夜感じた彼女に対しての印象に誤りがなかったことを確信した。

 

そんな風に少しぎこちない雰囲気が沙耶とバレットの間に流れたとき、不意に誰かがほぼ真横で柏手を打った。

オーキスではない。彼は変わらず部屋の隅に控えていた。ならばと二人はその音の方へ顔を向ける。そこには呆れた様子で二人のやり取りを眺めていたヴィアナが居た。

 

「……いつまでやってますの?」

「ヴィアナちゃん」

「ミス・ヴィアナ」

「あなた方のやり取りが終わるのを待っていたら日が暮れてしまいそうなので、無作法ですが少々強引に割り込ませていただきましたわ。……さ、いい加減朝食をとりましょう。オーキス」

 

自身の名前を呼んでくる二人を流し、ヴィアナは言いたいことだけを伝えてオーキスに指示を飛ばした。ヴィアナからしてみればこんな対応は不本意だったが、いつまでも会話が終わる気配がなかったので致し方ないことだった。

 

「かしこまりましたヴィアナ様」

 

そんな主の心境とは無関係に、オーキスは深く一礼してから一度部屋を出ていったのだった。



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【会談】③

朝食を取り終えた3名はヴィアナを筆頭に、留守をオーキスに任せてフェリエット邸を出た。目的地は貴族連盟の一角を担う『ハイレンジア家』という一族の屋敷だ。

しかし、そのハイレンジア家は先代当主が事故で無くなってから落ち目で、今では亡くなった先代当主の娘が、必要最低限の人員を用いてなんとか役割を全うしているらしい。

 

「それで、何故そのハイレンジアという屋敷に向かう必要があるのですか?」

「現当主の彼女とは個人的に交流がありますの。沙耶を紹介するついでに、伝手を使って貴女に事件の情報を提供して差し上げようと思いまして」

「……え、私の紹介って何?そんな話初耳なんだけど……」

 

その言葉に不意をつかれたように沙耶は質問する。ヴィアナは既に決定している事項を告げるように、沙耶を指さしながら言った。

 

「いいですか?一応貴女は私の友人としてこの街に来ています。ならば、最低でも他の当主一人に顔合わせさせねばなりませんの。」

「それは、街の規則で?」

「いいえ?単に私が彼女に友人を自慢したいだけですが?」

 

沙耶は当然のように言ってのけるヴィアナに、相変わらず強引だなぁと苦笑を返すのだった。

一応、ヴィアナも紹介する相手は選んでいたりするので彼女なりに配慮はしているのだが……さすがにそこまでは沙耶に伝わることはなかった。

 

「ヴィアナ、彼女が同行する理由はわかりました。しかしそれは何故ハイレンジア家なのか、という疑問に対する回答にはなっていません。貴女の言葉が正しいのなら、他の2家のどちらかでも問題はないはずだ。」

「その説明を今からしようとしていたのです。そう焦らず、肩の力を抜いてくださいな」

 

ヴィアナはバレットの問いかけに対して、柔和な笑みを浮かべて答えた。

そして1拍程の間を置いて、ヴィアナは先ほどの言葉に対する返答を口にする。

 

「良いですか?まず、私たち『貴族連盟』の中枢たる4家にはそれぞれの役割があるのです。」

「役割、ですか」

 

バレットはヴィアナの言葉を反復するように聞き返し、彼女の反応を待った。

 

「まず私のフェリエット家は違法行為の取締りと治安維持。先日の事件で当主がお亡くなりになったベリエード家は経済流通経路の監視と運営、ウォルロード家は外部警察組織との折衝役。そして最後のハイレンジア家は情報の統制を、それぞれの裁量で担当しているのです。」

「……。なるほど、ハイレンジア家が情報の統制をおこなっているということは当然表に出ない情報も握っているということになる。向かうのはそういう理由からですか」

 

バレットはヴィアナの言葉を自分なりの解釈に落とし込んだ。

ヴィアナはそれを聞き、話が早くて助かります。と言葉を返して微笑んだのだった。

 

「あ、あの~……」

「沙耶、どうかしまして?」

 

そんな二人の会話が途切れた頃合いを見計らって、沙耶は控えめに小さく挙手をした

 

「いや……なんかそんな街の裏側みたいな話を、私まで聞いちゃって大丈夫だったのかなって思っちゃって。……あ!忘れた方が良いなら忘れるから!絶対!」

 

沙耶が言った言葉はもっともな意見だった。沙耶は異能を持っているとはいえ、本来は単なる一市民だ。こんな話を聞く立場にはいない。

……しかしまぁ、ここにいるのは貴族連盟の筆頭当主だ。

 

「まぁ確かに物騒な話ですけれど、何も知らないよりは多少は知っていた方が万一の時に対処のしようがあるでしょう?なので、忘れる必要は全くありませんわ。」

 

その彼女が是というのであれば、この街に限って言えばだが、7割程度の出来事は是となるのである。

 

「第一、わざわざオーキスのいないタイミングを見計らって話をしたのですから、その意味くらいきっちりと汲み取ってもらいたいですわ。私、できる限りオーキスを怒らせたりはしたくありませんのよ?信頼に関わりますし」

「う、うん。ていうか、オーキスさんって怒ったりするんだね……。」

 

沙耶は普段の様子からは想像もできない彼の老執事の怒った様子を想像してみたが、上手くいかなかった。想像力の敗北というものである。

 

「……どうやら、そろそろ到着のようです」

 

バレットは乗っている馬車が徐々に減速していることに気付いた。見れば、少し寂れた雰囲気の館が目に入る。

あれが先ほどの話に出てきたハイレンジア家。貴族連盟を構成する4家に数えられてはいるものの、最近は落ち目になりつつあるという話だ。

その話の真偽は判らないが、油断はしない。門に近付く度に速度を落としていく馬車の中で、バレットは一人でそう決めたのだった。

 

「ようこそいらっしゃいましたヴィアナ様、そしてその御友人の皆様。」

 

ハイレンジア家についた3人を出迎えたのは、初老の女性だった。

使用人の出で立ちをしてはいるが、その立ち姿には1本芯のようなものが入った雰囲気がある。

居るだけで場の空気が引き締まるような感覚を覚える人物だった。

 

「お久しぶりですわね、アルエさん。用向きは先だってお伝えしたとおりですわ。」

「ヴィアナ様におかれましてもご壮健そうで何よりです。要件も聞き及んでおりますので、私がお嬢様の待機しておられる部屋まで皆様をご案内いたします。」

「……待機?彼女が起き上がっているのを見るのは久しぶりですわね。今日は体調に問題はないのかしら?」

「お嬢様をお気遣いくださりありがとうございます。体調の方は昨日から随分とよろしいようですね。」

「そう、それは何よりですわね」

 

二人が挨拶もそこそこに軽い世間話を始めている一方で沙耶はヴィアナの言った、体調に問題はないのか、という言葉が気にかかっていた。

もしかして身体の弱い人物だったりするのかな?もしそうなら……。

そこまで考えて、沙耶は小さく頭を横に振って思考を散らす。非常時以外では極力癒しの力を使わない。しかし逆に本当に助けを求めている相手のためなら、すぐに力を行使しようとするのは幼少期からの沙耶の悪癖だった。

極東の地でもはや家族のような関係になっている友人にも、それは再三注意されていることだった。

 

「それではミハイル、馬車の番は頼みますわね。」

「はい、いってらっしゃいませ皆様」

 

ヴィアナの声で沙耶は自分が随分と考え込んでいたことに気付いた。

彼女の声につられるように、沙耶は反射的に馬車の方に視線をやる。今日馬車を操って彼女らをハイレンジア邸まで案内したのは、ミハイルという青年執事だった。年の頃はゴルドと変わらないように見えるが、印象としては内向的な人物のように感じた。

 

屋敷の中に一行を引き入れてからアルエは改めて一礼する。

そしてそのまま案内を開始し、緩やかな歩調で屋敷の中を歩き始める。ヴィアナ達は揃って彼女の後に着いて行く。

 

「今日の従者はオーキス様ではないのですね。」

「オーキスは屋敷で私の代わりに雑事の処理に当たってもらっていますわ。……何かオーキスに用がありましたの?」

 

アルエの何気ない問いかけに答えつつ、ヴィアナは思ったことをそのまま口にした。

 

「いえ、彼以外の使用人を連れて当家にいらっしゃるのは珍しかったもので。……ミハイル様、でしたか?随分と寡黙な方だったように感じましたが」

 

アルエは歩く速度はゆっくりと一定のまま、ヴィアナに再度質問を返す。事実として、ヴィアナは使用人の中でも特にオーキスを重宝していた。普段の雑務程度ならば他に振る。だが連盟の当主が関わっていると思しき案件に出向く際には、一度屋敷に戻ってでもオーキスを同行させるほどだった。事実として昨夜行われたウォルロード家当主との会談の際にも、一度屋敷に戻ってオーキスに同行を命じたほどだった。

 

「確かに、私がオーキスを重宝しているのは事実です。ですが、我がフェリエットの使用人は皆精鋭。今日供をさせているミハイル、彼に関しても問題はありません。多少寡黙で目立つことを嫌っている点もありますが、それは愛嬌の一つというもの。彼はあれでも様々な才に秀でた、当家自慢の使用人の一人ですもの。例え連盟当主の前に引き出したとしても、立派にその役割を全うしてくれることでしょう。」

 

しかし彼もまた自身の優秀な部下であることを高らかとヴィアナは宣言する。その言葉の節々には、自らの優秀な部下を誇りに思うヴィアナの性格が色濃くにじみ出ていた。

沙耶はそんな彼女の様子を見て、相変わらずだなぁ。と微笑んでいた。

元々ヴィアナは人の性質を見抜く才能と人を使う才能があった。これ以上ない、人の上に立つ者の資質である。その彼女が言う以上、ミハイルの使用人としての実力は本物なのだろう。

高らかな身内自慢を言い終わった直後、ほんの少しの間を置いてヴィアナは付け足したようにもう一度口を開いた。

 

「……まぁ?まだ多少オーキスのような威厳というか、荘厳な雰囲気が足りないために迫力が不足している点は否めませんが、そこは時間が解決してくれるでしょう。」

 

どうやら先ほどの自分を客観視したようで、少し気恥し気にしながらヴィアナはそう言った。

その言葉を最後まで聞いたアルエは苦笑しながら、そうですか。と淡白な返事だけを返す。そして先ほどまでより、ほんの少しだけ歩調を速めて扉の前に歩いて行った。

 

「お嬢様、ヴィアナ=フェリエット様とそのご友人2名をお連れしました。」

「……。入っていいわ。」

 

アルエが掛けた言葉に、室内から小さく澄んだ声が返ってきた。

どうやらこの中で待っているのがこの家の当主らしい、失礼のないようにしなければ。そう思いバレットと沙耶は先ほどのヴィアナの演説で多少緩んでいた気持ちを引き締めた。

そしてアルエは静かに扉を開き、一行を中へと案内するのだった。

 

部屋の中、恐らくは来客対応用に設えられた部屋なのだろうが、そこには長い白髪の女性がいた。

外見年齢は沙耶やヴィアナ達と同じ程度に見えるが、その肌の色は病的と言って差し支えがないくらいに白い。ヴィアナが言っていた病弱さが祟ってあまり外に出られていないことが原因なのだろうと推測できた。

 

「貴女が従者を連れずに私に会いに来るなんて、珍しいこともあるものね?」

「今日の私は友人として貴女に会いに来ているのですから、わざわざオーキスを連れてくる必要もありませんわ。」

 

売り言葉に買い言葉、とでも言うべきだろうか……。少女とヴィアナは互いに言葉による軽い牽制を交わしあった。とてもではないが、友好的な関係には見えなかった。

もっともそう思ったのはバレットと沙耶だけらしく、少女とヴィアナの二人は互いに軽く受け流していた。

 

「……。それで、例の事件の情報が欲しいと言っているのはどっちの余所者なのかしら?そっちの東洋人?それともそちらの物騒な方なのかしら?」

 

少女はその目に初めてバレットと沙耶を捉え、値踏みするような声音で言う。その視線に悪意の類はないのだが、かといって善意が見えるかというとそれも否だった。

それは物珍しい玩具を見つけた子供のような瞳だった。

 

「彼女らは確かに外部の人間ではありますが、歴とした私の客人です。余所者呼ばわりはやめてくださいな。」

「あら、それはごめんなさい。何しろこういう身体だもの、外部の人間は珍しいのよ。」

 

自身の態度を窘めてくるヴィアナに、少女は一応の謝罪をする。

ヴィアナもそれは承知しているらしく、それ以上強く非難することはしなかったが小さくため息をついていた。

 

バレットは二人の言葉の応酬が止んだことを数秒置いて確認してから、一歩前に歩み出た。

 

「ヴィアナ嬢に貴女を紹介してほしいと頼んだのは私です。」

「……そう、貴女の方なのね。遠路遥々ご苦労様、狩人さん?」

 

前に出たバレットを改めて視界に収めて、少女は小さく笑みを浮かべて返事をした。同じ笑みでもヴィアナや沙耶が浮かべるソレとは印象が全く違うのだが……。

そこで少女は、何かに気付いたように少し表情を変えて会話を仕切り直した。

 

「……あぁ、そういえば自己紹介もまだだったかしら?私はイリス。イリス=ハイレンジアよ、いつ死んでもおかしくない小生意気な小娘だから別によろしくしなくても構わないわ。」

「……バレット=ガットレイと言います」

 

バレットはこの僅かなやり取りで目の前のソファに座った人物が、肩書に違わず油断ならない相手であることを確信した。

理由は先程の発言だ。バレットが自分の名前を名乗るよりも早く、イリスはバレットが狩人だと看破していた。それだけではなく、物騒な方とも言っていた。

これらの理由から、バレットはイリスが既に自分の素性を把握しているのだと理解した。思ったよりも彼女の持つ……というよりもハイレンジア家の情報統制の力は強力らしい。

 

「……。ふーん、なるほど。」

 

自己紹介をしたままの姿勢で佇むバレットをジッと見つめたまま、イリスは小さく呟く。その視線に、バレットは何故かわからないが自身の奥深いところまで見透かされているような感覚を覚えた。

 

「良いわ、貴女の望み通りに情報を上げましょう。」

「随分とあっさりですね。」

 

バレットは警戒態勢を解かないまま、イリスの視線に真っ向から向かい合う。イリスはそんな彼女の様子を退屈そうに見つめ返していた。

 

「えぇ、貴女ではないみたいだしね。……この件が手早く片付くのなら、ハイレンジア家当主としてもそれに越したことはありません。どうぞ存分に調査なさってくださいな。」

 

イリスはそう簡潔に自身の所感を伝えると、仕事の話は終わったと言うようにテーブルの上に用意されていた紅茶に口をつけた。

一頻り紅茶を味わったイリスは、ティーカップを置くと入室者3名の斜め後ろに佇んでいる自身の使用人に視線を送る。

 

「アルエ、事件の情報を伝達する役割は貴女に一任します。別室にてサー・ガットレイに情報の伝達を。何一つ隠す必要はありません。該当事件に関する全ての情報の開示を許可します」

「承知しましたお嬢様。……バレット様、こちらへ。」

 

アルエはイリスに一礼をするとバレットに向き直り、別室への案内を開始する。移動する前に、バレットは同行者二人に確認する。

 

「それでは私は別室に移動しますが、再度の合流はこの部屋で構いませんか?」

「えぇ、ここで3人で談笑でもして待っています。」

「いってらっしゃい、バレットさん」

「……えぇ、いってきます。」

 

確認も終わり、バレットはアルエの案内で退室していった。

元々ヴィアナの目的は沙耶とイリスの顔合わせで、バレットの目的とは別だったのでこういう形になるのは必然の流れだった。

 

「……貴女達、いつまでもそんなところで立っていないで座ったらどう?」

 

退室していったバレットを見送る二人に、イリスは脱力気味に声をかけた。

……今更の話ではあるが、ヴィアナと沙耶はまだ入室してすぐの位置に立っている。

故にこそイリスは二人に対して、いい加減座れと言っているのだ。

 

「それもそうですわね。」

「立ったまま話をしたいなら、私は止めないけれど?」

「座りますわ。沙耶、貴女もコチラへ」

「あ、うん。わかった。」

 

恐らくイリスなりの冗談なのだろうが、声色があまり変化していないため分かりづらい。一足早く腰を下ろしたヴィアナは、少しだけ急かすように沙耶にも座るように促した。

 

「……それで貴女が?」

「川崎沙耶です。ヴィアナちゃんに招待されて、昨日からフェリエットのお屋敷でお世話になってます。よろしくお願いします。」

「そう。……私の自己紹介は必要かしら。」

「あ、いえ。さっきお名前は聞いてたので大丈夫です。イリス=ハイレンジアさん、ですよね?」

「えぇ、合ってるわ。人の話に耳を傾けられるのは美徳です、大事にすることね」

 

軽い自己紹介のはずだったが、イリスはある程度沙耶のことを把握しているかのように話を進めていた。先程のバレットとの会話でもそうだったが、どうやら彼女は3人が訪問することが決まってからある程度の調査は済ませているようだった。

 

「私のことはイリスで構わないわ。私も沙耶と呼ばせてもらいますから」

「わかりまし」

「あぁ、それから敬語も必要ないわ。どうせそこまで歳も離れていないのだし」

「あ……うん、わかったよ。」

 

なんというかヴィアナとはまた違った個性の強さを、沙耶はイリスに対して感じた。

何より事前に聞いていた情報からでは思いもよらないほどにイリスの我は強固だった。あのヴィアナと対等に会話をしているのがその良い証拠だ。

 

「これからしばらくよろしくね?イリスちゃん」

 

沙耶はそう言いながらイリスへ、スッと右手を差し出した。

 

「……これは何かしら?」

 

イリスは本気でよくわかっていないようで、差し出された手をマジマジと見つめている。そんなイリスと沙耶の様子を傍から見ていたヴィアナは、口元を抑えて笑いをこらえていた。

あまり外との関わりを持たないイリスにとって、こういった交流は未知のモノだった。

 

「何って、握手だよ?」

「……。」

 

なんの邪気もなく言う沙耶に流されるように、イリスは彼女の手に自身のそれを重ねた。

重ねられたイリスの冷たい手と軽い握手を交わして、沙耶は満足気に笑ったのだった。

 

「とりあえず、バレットとアルエさんが戻ってくるまでここで談笑することにしましょうか。」

「そうだね。」

 

イリスは沙耶と握手を交わした手を見て、それからヴィアナの横で暢気に笑っている沙耶本人に視線を向けた。

……そして、どう形容するべきか数秒考えてから深い溜息という形でそれを吐き出した。

 

「……よくもまぁ、そんな風に笑っていられるものね」

 

その些細な物音にさえ掻き消されるようなイリスの小さな呟きは、誰の耳に届くこともなく霧散していった。



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【会談】④

 

「情報の提供をする前に一つ確認したいことがあります。よろしいでしょうか?」

 

当主であるイリスとの会談を終えて別室に案内されたバレットは、腰を降ろすのとほぼ同時にアルエに問いを投げられていた。

 

「なんですか?」

「バレット様は今回の件、どの程度の情報まで把握しているのですか?」

「……。私が聞いているのはこの街の連盟盟主の一人が、帰宅途中の馬車内で何者かに殺害されたという点だけです。それ以外の情報は全て聞かせていただきたい、また前提情報の齟齬があるのならそちらの訂正もお願いします。」

 

バレットはアルエの問いかけに淀みなく返答した。しかし正直に答えたわけではない。

バレットとて所属している組織の上層部から、事件発生時の大まかな情報などは前もって聞かされていた。しかしその情報に誤りがあってはいけない。

また同時にハイレンジア家が黒であった場合、虚偽の情報をバレットに聞かせる可能性もあった。その二つの可能性を排除するべく、バレットはあえて一部虚偽の混ざった返答をアルエに返していたのである。

 

「なるほど、承知しました。……それでは、お嬢様のご指示通りに私共の持つ全ての情報をお伝えします」

 

バレットの返答に数秒瞳を閉じていたアルエは、ゆっくりと瞼を上げてそう答えたのだった。

 

「まず、前提としての情報ですが事件の被害者は2名。送迎馬車の御者の男と、亡くなったベリエード家の当主の御老人です。そして発生状況ですが……被害者の体感時間で約30分ほどの間、夜道を走る馬車を何者かが追跡していました。」

 

アルエは手元の資料に目を通しながら、バレットに事件の状況を説明していく。

 

「その後、一種の極限状態の末に御者と当主の御老人が口論に発展。最終的に御者は馬車を放棄して逃走、取り残された御老人は殺害された。これが公開されている事件の概要です」

 

一般に公開されている情報を伝え終わったアルエは、そこで一息ついてバレットの返事を待った。

バレットはアルエの視線の意図に気付き、確認するべき内容と問いかけるべき内容を吟味する。

そして、まずはやはり事実確認と情報精度の保証をする必要があると判断した。

 

「体感時間で30分程度追われていた、と言っていましたが……それはやはり馬車で?」

 

馬車で移動している者を追跡するのならば、やはり馬車を使用するしかない。

普通の価値観ならば……当たり障りのない返答を返そうと思っているのならば……そう答えるのが妥当だった。

 

「いいえ、徒歩です。文字通り馬車に追い縋れるほどの速度で、人間のような何かが走って追跡してきたそうです。」

 

だがアルエはそんな普通ではありえない返答をした。馬車に走って追い縋れる人間など普通は存在しないのは誰が考えてもわかる。そして、その返答はバレットが上層部からあらかじめ聞かされていた情報と全く同じだった。

その返答をもって、バレットは彼女らが本当にありのままの情報を提供していることを確認した。

 

バレットは次に問いかけるべき内容を投げかける。

 

「御老人の殺害に使われた凶器は解っているのですか?」

「爪です。」

「爪?」

 

自身の質問にあまりにも淀みなく返答が返ってきたので、バレットは思わずそのまま聞き返してしまった。

 

「はい。……正確には爪のような何かですが、御遺体の身体にあった傷跡が引っ掻いたような形状だったためにそう判断したそうです。……ただ傷跡は非情に深くまで至っていたそうで、ほぼ即死だったそうですが」

 

……あまりにも常軌を逸していた。

人間のような何かが、走って馬車に追いつき、剰え乗客の老人をその爪で惨殺したという。

ここまで聞き、バレットは自分がこの街に送り込まれたのは間違いではなかったと確信した。

今までも充分に本気で任務に当たっていたが、改めて気を引き締めた。

 

「すみません、今までの話を聞いていくつか質問があるのですが。」

「お答えしましょう。」

 

バレットは今度は自分から質問を投げかけることにした。もう情報精度の保証確認は済んだ。

答えてくれるというのなら全て聞き出してしまおう、そう風に彼女は考えた。

 

「体感時間で30分と言っていましたが、目撃者がいたのですか?」

「目撃者ではなく生存者というのが正確です。先程お伝えした通り、殺害されていたのは御老人だけでした。御者の方は翌日の正午を少し過ぎた頃に、酷く怯え切った状態で発見されました。」

 

バレットはよく生き延びたものだと顔も知らない御者の男を称賛した。

恐らくは馬車を囮にして逃げたのだろうが、それでも逃げ切れる確率の方が低かっただろう。……いや、追跡者の狙いが最初から老人の殺害だけに絞られていたのであれば、逃げ切るのはかなり容易になるだろうが、現状ではまだそこまでの判断は下せない。

 

「ちなみにこれまでにこの街で似たような事例はありましたか?」

「申し訳ありません……。流石にそこまでは私も把握しておりませんので、今すぐには返答できません。調べれば明日の朝には返答することも可能ですが、どうしましょう」

「……いえ、それなら結構。どうぞお気になさらずに。」

 

アルエは申し訳なさそうにバレットに頭を下げていた。バレットは本心から言葉を返しつつ、次の質問を投げることにした。

 

「追跡者は徒歩だと言っていましたが、その根拠になるような情報は?」

「そうですね……これは私が聞いたわけではなく、あくまでも御者の方の証言なのですが……後ろからピッタリと一定の距離間で負ってくる靴音を聞いたと言っていました。」

 

……靴音?と話を聞いていたバレットは奇妙な既視感を覚えた。

噂で聞いたというたぐいの良くある既視感ではなく、つい最近どこかで自分も同じ経験をしていたような気がするのだ。

 

「馬車を放棄して一人で逃げるときも、その響く靴音だけが異様に恐ろしく感じたそうです。保護された後も、その音だけが頭から離れないと言っていました。」

 

……そうして思い出した。

 

それは昨夜のことだった。この街に着いたばかりのバレットは、街の土地勘を得るために一人で散策をしていたのだ。

そして日も落ち……ある程度の構造を把握した彼女は、自身が宿泊する宿に向かうために夜道を歩いていた時だ。

 

……背後からしたのだ、確かに。コツリコツリという、硬質な靴音が

そして直後に腹部に熱した鉄を突き込まれたような奇妙な感覚を覚え、バレットの意識は途切れた。

 

……気付いたときには彼女は沙耶による治療を受けていたのである。

一歩間違えれば間違いなく死んでいたな、そう今更ながらにバレットは考えた。

 

「……その御者の男性とコンタクトを取ることは可能ですか?」

「それはできません。」

 

思いもよらず自分自身と繋がった手掛かりに少しだけ驚きながら、バレットは次の手を考案し即実行した。

しかしそれはアルエの一言であえなく断ち切られてしまう。

 

「何故です?」

 

バレットとしては自然な問いだった。せっかく繋がりそうな手がかりだ、みすみす逃したくはない。

 

「彼はもうこの街にはいませんので、私共は手出しできません」

「……。そういうことですか」

 

言われてみれば、当然の流れかもしれないと思った。

仮にも自分自身の雇い主を、それも街の屈指の権力者を馬車ごと見捨ててしまったのだ。

状況的に見て同情の余地が有るとはいえ、街に居続けるのは難しかったのかもしれない。

 

「……私共としては、今回の件で御者の方に責を問うつもりはありませんでしたが……本来は責任感の強い方だったようで、自身の厳罰を望まれたのです。」

「……ふむ」

「しかしこちらとしても、制裁を与えるに足る理由もありませんでした。その為、情状酌量と本人の希望ということで追放という形で落ち着いたのです。……ですので、あまり私が強く言えることではないのですが……彼のことはそっとしていただけませんか」

 

どうにも狩人という肩書の影響かもしれないが、バレットは自身が強引にでも問い詰めるような人間に見られているような気がした。

その誤解を解く意味も込めて、バレットは彼女の申し出を了承する。

……しかし、そうなると今度は彼女の方が手詰まりなのだった。

唯一の手掛かりを持っていそうな御者は既に街の外に居り、接触は控えるように釘を刺されてしまったのだから。

 

「……。どうしたものか」

「バレット様。」

 

そう考えこむバレットを見兼ねてか、それとも当初の予定通りだったのか……それは判らないが、アルエはバレットに小さなメモ用紙を手渡した。

 

「これは?」

「どういう話になるにせよ、聞かれたことには全て答える。そして最後にこのメモ用紙を貴女に渡す。……これが本日、私がイリスお嬢様から承っていたオーダーでした。」

 

バレットはアルエの言う言葉を聞き届け、手渡された紙に視線を落とす。

そこにはどこかの路地裏にある家屋を差し示した住所が書き込まれていた。

 

「そこにはお嬢様が懇意にしている情報屋がいらっしゃいます。……彼からなら、もっと踏み込んだ話も聞けるかもしれません。」

 

……バレットは渡された紙を懐にしまって、どうするべきかを考えた。

そして今までの応答と態度から、彼女らが自分に嘘を伝える可能性が極端に低いことを再認識した。

 

「……その情報屋の特徴を教えていただけますか?」

「フードを目深にかぶった黒髪の男性です。年はだいたい貴方と同じか少し下くらいだと思います。素性の知れない人物ではありますが、情報屋としての腕は確かです。」

 

アルエの言葉を聞いてバレットは、ハイレンジア家の持つ高い情報収集能力の理由の一端を見た気がした。

 

「……最後に、その人物の名前を聞かせていただけますか?」

「私は直接お聞きしたことはありませんが……イリスお嬢様は彼のことをシークと呼んでらっしゃいました。」

 

シーク……聞いたことのない名前だ。

バレットはその名前を数度反芻し、改めてアルエに情報提供の礼を告げた。

今回の任務は思いのほか長くなりそうだ……と、窓から差し込んでくる夕日を眺めてバレットは小さく息をついたのだった。

 

 

 



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【会談】⑤

あの後ヴィアナと沙耶の2人と合流したバレットは、イリスとアルエに改めて感謝の意を伝えてハイレンジア家を後にした。

フェリエットの屋敷に戻るまでの道中、馬車の中は行きの時と雰囲気が違っておりほとんど会話がなかった。

バレットもヴィアナと2・3言葉を交わした程度で、沙耶とは一言も言葉を交わすことなくフェリエット邸に到着した。……実際のところ、言葉を掛けても沙耶が上の空で会話が成立しなかったというほうが正確だった。

 

ヴィアナに事情を聴いてはみたものの……。

 

「貴女が気にするほどのことではありませんわ。これは沙耶自身の問題ですので……まったく、イリスのあの性格だけはどうにかならないものでしょうか」

 

という返答が返ってきただけだった。

 

どうやら、ハイレンジア家の当主との談笑で何かあったらしいが……流石に出会って1日と少ししか経っていない人間が、踏み込むべきではないだろうとバレットは判断した。

そんなことがあったのが昨日の夕方の出来事。

 

そして明けて翌日。

 

「……」

 

バレットは昨夜の沙耶の様子が気にかかりながらも、まだ日が昇って間もない早朝にフェリエット邸を出発した。

昨日1日を比較的安静に過ごしたおかげか、はたまた沙耶の異能による治療の賜物かはわからないが、バレットはほとんど本調子に戻っていた。

バレットは屋敷を出る際、不意に背後からオーキスに声を掛けられた。

早朝から私用で外出をする旨は昨夜の内に既に伝えていたので、単に見送りに来たのだろうと当たりをつけたバレットは振り返ってオーキスに軽く礼をした。

 

「それでは行きます。ヴィアナ嬢とサヤによろしくお伝えください。……帰りはいつになるか分かりませんが、夜には帰り着くかと思いますので」

「承知しました。……コチラをお持ちください。」

 

オーキスはバレットの言葉を聞くと、どこからか包みを取り出した。

バレットは訝し気にその包みを眺めて、オーキスに問いかける

 

「……これは?」

「軽食です。朝食のご用意は間に合いませんでしたので、急ぎコチラをご用意しました。移動の合間にでも召し上がってください。」

「……。」

 

バレットは包みを受け取ってから改めてこの老執事の技能の高さを内心で賞賛した。

滞在初日から思っていたことではあるが、彼は所作にほとんど隙が無い。それこそ8割方回復したバレットをして、今の状態では戦っても勝てないと思わせるほどだった。

そしてバレットは改めてオーキスに一礼し、フェリエット邸を出発した。

目的地は、昨日ハイレンジア家の使用人アルエから渡された紙に記載されている住所が指し示している場所だ。

 

薄っすらと夜霧の残っている街の中をしばらく歩いていた。時間にして1時間程度だろうか……。

目的地を目指して歩みを進める。途中でオーキスから受け取った軽食を取った。

そして食事を終えて一息吐いたバレットは、再び目的地を目指して歩き始めた。

この頃には完全に夜霧は消え、朝がやってきていた。

しかしあいにく天候は曇天で、いつ雨が振り出してもおかしくないような雰囲気だ。

 

「傘の一つでも持ってきておくべきでしたか……っと、ここですね」

 

そんな風に帰りの天気の心配と傘の不携帯に思考を巡らせていた時、バレットはようやく示されている住所にたどり着いた。

路地裏に入ってしばらく歩き、少し入り組んだ道を書き記されている通りに進んでようやくたどり着いたその場所は、廃屋と呼んで差し支えないような退廃的な雰囲気が漂う小部屋の前だった。

 

「……」

 

バレットは場所を間違えているかもしれないと思い、与えられたメモを見ながら自分が今まで通ってきた道を反芻。そしてやはり道を間違えてはいないらしい。

その事実を確認したバレットはそのドアを少し強めに4回ノックし、5秒ほど間隔を空けてから再度3回ノックした。

 

ノックの回数は指定されていて、このやり方でノックしなければ居留守を使われると聞いた。

情報屋という危険に踏み込む仕事をしているからなのか、この中にいる人物は合図を数パターン取り決めているらしかった。

 

「……」

 

ノックをしてから1分ほどが経過した。扉の向こうからは物音一つしない。

……もしやノックの方法を間違えただろうか?

そうバレットが少しの不安に駆られていると、不意にメモの端の方に書き込まれている文字に気が付いた。

 

『その時間にシークがその場所にいることは絶対に確定です。なので、もしもノックの後に数分待っても中から何の反応もない場合は、扉を蹴り破って中に入りなさい。私が許可します。』

 

その文字の斜め下には、イリス=ハイレンジアという昨日出会ったハイレンジア家の当主の名前が記載されていた。

 

「……。」

 

バレットはその記載を見て、とりあえずもう少しだけ待ってみようと考えた。

……それから何も変化がなく、5分ほどが経過した。

そしてバレットは文面の通りに入り口の扉を蹴り破った。

 

「……後で修理代だけでも払いましょうか。」

 

バレットは変形してしまった扉を少々強引に元の場所に嵌め込んで、室内に踏み入った。

室内は外観から受ける印象とは違い、それなりに整頓されていた。部屋の中央には簡素なソファとテーブルがあり、恐らく来客対応用なのだろうとわかる。

そして更に部屋の奥に視線を向けると、そこには大量の書物に埋もれるようにして一人の青年が床で眠っていた。

 

黒髪で東洋人風の顔立ちをしているその人物は、年の頃はだいたい自分と同じか少し下くらいだと思った。

一向に目覚める気配のない青年を上から眺めながら、聞いていた特徴と一致する彼がアルエから聞いたシークなのだろうと思った。

 

「……む?」

「……。」

 

不意に、本当に唐突に眠っていた彼がパッと目を開けた。そしていまいち状況を飲め込めていないように辺りを見回しつつ彼は起き上がる。

それからパキパキと体の節々を鳴らし、ようやく完全に目が覚めたらしい彼はバレットに向かって口を開いた。

 

「……誰だアンタ。」

 

……どうにも緊張感に欠けた状況だと、バレットは心の底から思った。

 

「……なるほどな、イリスの紹介か。」

 

あれからだいたい10分程度経過し、完全に目が覚めたらしいシークは来客用の珈琲を用意しながら苦々しい表情で呟いた。

起き抜けの状態で完全に顕わになっていた彼の素顔は、今では目深にかぶったフードのせいですっかり隠れてしまっていた。

 

「えぇ、先日のベリエード家当主襲撃殺害の件で。貴方からならば、踏み込んだ話が聞けるのではないかと。」

「……アンタが知ってるのは事件の発生状況と凶器、後は生存者について……で、合ってるか?」

「後は追跡者が馬車ではなく、自らの脚で追ってきていたらしいという話は聞いています。」

 

シークは用意した珈琲の片方をバレットに差し出し、自分の物には砂糖を多量に投入しながら問いかける。

バレットは大量の砂糖が投入されていく彼の珈琲を視界から外しつつ、問いかけには正直に返答した。

 

「……。」

 

シークはバレットの返答を聞き、すっかり甘くなってしまっているであろう珈琲を少し口にする。

何事か思案するように暫く黙り込んだ彼は、更に2回ほど砂糖を足してから口を開いた。

 

「単刀直入に聞きたいんだが」

「なんでしょう。」

「お前は狩人か?」

「……。はい」

 

バレットはシークが先ほどまでの弛緩した雰囲気とは一変し、真面目に聞いて来ていることを理解した。そして、彼女もまた居住まいを正してそれに答えた。

動揺はなかった。ハイレンジア家の当主に初対面時点で看破された以上、彼がそれを知らないという方がおかしい。

 

「……よくもまぁ生きてたもんだ。」

「偶然に助けられました。」

「……そうかい。」

 

シークはバレットの目を真っ直ぐに見つめた。彼女もそれに応えて見つめ返す。

ここに第三者が居たのなら、見えない火花が散っているような錯覚を覚えるに違いない。

 

シークはバレットから目をそらし、軽くため息をついてから口を開く。

 

「『異能薬』って知ってるか?」

「……いえ」

 

バレットは唐突な問いに反射的に答えた。聞いたこともない名称だった。

 

「ここから喋る話は極力人に言わない方が良い。そう前置きしたうえで改めて訪ねるが……」

「聞かせてもらえますか」

「……話くらい最後まで聞けよ」

 

シークはバレットの返答に辟易とした様子で言葉を返し、自身の前にある珈琲を飲み干した。

 

「まず前提として、異能は生まれつきでしか発現しないってのは知ってるな?」

「えぇ。」

 

沙耶の持つ癒す力のように、時として普通では考えられないような……それこそ奇跡としか思えない事象を引き起こす者が現れることがあった。

異能の力を持つ者は極少数ではあるものの、その力の発露は多岐に渡っているため未だにその詳細は把握されていない。

ただ一つだけ確かな共通項は、彼らは全員『生まれつき異能を保有していた』という点だけである。

 

「一説には脳やら身体やらの作りが違うんだとか何とか、まぁ諸説ある上に一般大衆からしてみればお前らの『組織』と同じオカルトや噂話の域を出ない。」

「……。」

 

シークの掻い摘んだ説明にはバレットは何も言葉を返さず先を促した。

 

「ここからが本題だが、つい2日前の夜。一人の異能者が捕獲された。まぁ、もちろん表立った逮捕じゃないが。」

 

……2日前の夜というと、丁度自分が沙耶に助けられたのと同じくらいの時間だろうか?

そう考えた瞬間、バレットは電流でも流されたようにバッと顔を上げた。

 

「そうだ。アンタを襲った何者か、あいつはその夜のうちに捕まってる。更に言うなら既に死んでる」

「なっ!?」

 

それはバレットとしては驚愕の事実だった。彼女としては、自分を襲った人物こそが当主の御老人を殺害した犯人だと思っていたからだ。

その相手が既に捕まっていて、剰え死んでいると目の前の情報屋は言った。

 

「その男なんだが、妙な話でな。そいつは確かに異能を保有していなかったはずなんだが……どういうわけか、捕まった時は半身が獣みたいに変容していたらしい。」

「異能を隠していた、という線は考えられませんか?本人が本気で隠せばそうそうバレるものではないはずだ」

 

渡された情報があまりに度を越していたため、バレットは思わず反論してしまった。しかし、それすらもシークは平然として言葉を返してくる。

 

「それはない。死んだ奴は捕まる前は『ある一団』の構成員だったらしいんだが……そこの長が他人が異能を持ってるかどうか判断できるようなヤツでな。……で、その長が言うには」

「それこそ、その長という方のハッタリの可能性があるのでは?」

「この情報に関して嘘はない。万一誤りだったなら詫びに死んでやってもいい。」

「……」

 

言葉を遮ってまで反論したバレットに、シークは頑として譲らずそう返した。

その目があまりにも真剣な色合いを帯びていたので、バレットはそれ以上言い返すことなく続きを聞く。

 

「それで、その事件が起きる1ヶ月くらい前から『異能を与える薬』とかいう物の噂が出回ってたんだよ。もちろん俺も調べられる筋は調査して回ったが、事実性はなし。……だから根も葉もないような噂話だと思ってたんだがな」

「その薬が実在し、その使用者が現れたと?……そこまでは判りましたが、ソレと御老人が殺害された事件に何の関わりがあるのですか?」

 

バレットはこれまでの話を一度頭の中で整理し、改めて本題を持ち出した。

今日ここにバレットがやってきた目的は、あくまでもベリエード家当主殺害の件についてであって彼女自身のことは本題ではないのだから。

 

「アンタも知ってるだろうが、表には出ないまでも裏じゃ異能の研究ってのは進んでるんだよ。恐らくは『異能薬』もその成果物の一つ。……で、そういうのを研究してるヤツにとって一番研究対象として扱いやすいのは誰だと思う?」

「……。」

 

バレットは答えない。シークはそれをどう受け取ったのか、特に気にした様子もなくしゃべり続ける。

 

「答えは、異能者である自分自身だ。」

「……ッ、まさか!」

 

バレットはそこまで聞いてシークが何を言おうとしているのかを察して、思わず声を上げた。

 

「凶器の爪等の状況証拠が一致してたってだけの推論だが……まぁ、可能性はあるだろうな。」

 

……つまりシークの言う通りならば、『異能持ちの何者かが、他人に自身の異能を発現させて利用した』と、こういう説が成り立つのである。

 

「バカなことを……仮にそれが正しかったとして、そんなことをしては急激な変化に被験者の身体が耐えられる訳がない」

「だから死んだんだろうな。事実、捕まえて拘束してからは何も手を出していなかったらしい。」

 

そこでふと、バレットにはある疑問が生じた。

先程から彼が話に出している『ある一団』という存在だ。聞いた感じ、貴族連盟ではないらしい。かといって警察のような公的権力機関とも思えない。

 

その疑問をバレットが口にしようとしたとき、先手を取るようにシークが口を開いた。

 

「……さて。聞かせられる情報はこれでおしまいだが……何かしらの役には立ったかな?」

「それはこれから私自身の手で調査して決めますので、まだ何とも言えませんね。」

「仕事熱心なのも考え物だな……。」

 

バレットの返答に、シークは呆れたような表情でため息を吐いた。

そしてバレットは自身の疑問を口にするタイミングを逃してしまい、なんとなく失敗した気分になった。

 

「それじゃ、もう聞くことがないなら扉の修理代金だけを置いて帰ってくれ。情報料はサービスにしといてやる」

「……む。」

 

シークは先ほどまでの張り詰めた雰囲気はどこへやら、一気に気が抜けたようにそう言った。

さすがに態度の波が大きすぎではないだろうか、この男。

バレットはそう考えたとき、ある種の意趣返しのような返答を思いついた。

 

「あのドアを蹴り破る方法はイリス=ハイレンジア嬢の提案です。請求は彼女にお願いします。」

「……」

 

既に仕事を終えたという風な態度だったシークは、その言葉を聞いてピタリと固まる。そして少しの間小刻みに震えた後、堪えきれないという風に笑いだした。

 

「……。」

 

バレットはそんな彼の様子を眺めつつ、そんなに笑われるようなことを言っただろうか?と疑問符を並べた。

 

「アンタ、そういうことも言えるんだな。いや、笑わせてもらった。すまんな、侮って」

「いえ、特に気にすることは無いかと」

 

一頻り笑ったシークは、バレットにそんなことを言う。まだ笑いが抜けきってないのか、時折肩が揺れている。

 

「よし、わかった。弁償代はイリスに請求することにする。」

「分かってもらえたなら良かった」

「また何かあったら来ると良い。多少は手を貸してやる。」

 

何故かすっかり気を良くしたシークに、わかりましたと返答しながらバレットは壊れた扉が嵌め込んである出入り口に向かう。

 

そして、そこから一歩足を踏み出す直前に

 

「……最後に忠告を。霧の濃い夜はなるべく出歩かない方が良い。見なくても良いものを見る羽目になるかもしれないからな」

 

そんなシークの言葉が、確かにバレットの耳に届いたのだった。

 

バレットは振り返るが既にシークの姿はなく……そこにはただ無人となった小部屋があり、その中でバレットが手をつけなかった珈琲がテーブルの上に放置されているだけだった。

 

 



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【会談】⑥

「ふふふ、それはまた愉快な出会いをしたものね」

「笑い事ではありませんわ……。この話を聞いたときに、どれだけ私が肝を冷やしたと思っていますの」

「あら、ますますもって愉快な話じゃないの」

 

バレットがアルエから別室で情報の提供を受けていた時、残された3名は談笑をしていた。

街に来たばかりの沙耶にとっては、イリスとヴィアナが口にする取るに足らない思い出話ですらも興味深いものだった。

そんなふうに話題が数度転換された時、唐突に沙耶がバレットと出会った時の状況が話に上がった。

ヴィアナの心境を聞き、イリスは小気味良さそうに小さく笑っている。ちょっとした悪意が見え隠れする笑みだが、ヴィアナは慣れているよう軽く流している。どうやらこれがいつも通りの彼女らの距離感なのだろうと沙耶は思った。

 

「けど、あぁしないとたぶんバレットさんは死んじゃってたと思うから……あれでよかったと私は思うよ?」

「まったくもう、そういう所だと理解してまして?」

 

二人の話を聞きながらも、沙耶は自身が思ったことを素直に口に出す。ヴィアナからはいつも通りの言葉が返ってきた。

イリスからは

 

「見ず知らずの人間の命なんて放っておけばよかったでしょうに、貴女は随分と酔狂なのね。」

 

と、何とも言い難い声色で言葉が返ってきたのだった。

 

「見ず知らずの人だからって放ってなんておけませんよ。私にはこういう力があるから尚更です。」

 

沙耶はイリスの言葉にも淀みなくそう返答した。

助けられる相手ならば、可能な限り助けてあげたい。幼い頃からそうやって育ってきたのだから、沙耶にとってはそれが当たり前だったのだ。

 

「……そのせいで、貴女が治したせいで、あの狩人がより無残に死ぬ可能性があるとしても?」

「……え?」

 

しかしイリスから返ってきた言葉は、沙耶にとって思いもよらないものだった。

 

「貴女の価値観は一般的に見れば美しいのでしょうね、川崎沙耶。」

 

けれど、とイリスはその目に少しばかりの憐みの色をにじませて沙耶を見据える。

 

「その言葉と行動が、貴女自身の奥底から湧き出たものでない以上は私は貴女を認めません。それはただ人の命を悪戯に弄ぶことと何ら変わりがない。」

 

イリスの言葉に沙耶は揺れた。

確かに彼女の言う通り、沙耶の言葉のすべてが自身の内から生じた訳ではなかったからだ。そのルーツを辿るには、もう十年以上も前……まだ沙耶が誰とも出会っていなかった頃まで遡ることになるのだから。

 

イリスは沙耶の動揺を見ても尚、言葉を続ける。

 

「確かに一般人であれば九死に一生を得た、次が無いよう気をつけよう、これで終わるでしょう。けれど彼女は狩人よ?一般人とは違って死地に赴くことが常、そんな命を救ってどうなるというのです?」

「どうなるって……私はただ見捨てられないから、私が治したいと思ったから治しただけです。」

 

沙耶はイリスの問いに真っ直ぐに言葉を返した。イリス=ハイレンジア、彼女に対しては言葉を濁しても意味がないと、そう思ったからだ。

そんな沙耶の言葉を聞いてもなお、イリスの対応は変わらなかった。

 

「助けた命に責任も持てないような人間が、軽率に人の命を救うべきではないわ。」

 

「そこまでですイリス。……久しぶりの交流で舞い上がっているのか知らないけど、これ以上私の友人を侮辱することは許しませんわよ」

 

イリスがそう言った次の瞬間、ヴィアナが強引に割って入ってきた。

イリスはそれを見て小さく笑みを浮かべてから、沙耶に向き直る。そこには先程までの憐みの色はなく、気の合う友人に向けるような友愛の色が見て取れたのだった。

 

「どうやら出過ぎたことをいったようね。私は生まれつき距離感を測るのが苦手だから、許してほしいとは言わないわ。」

 

そういって小さく頭を下げるような仕草をした。……どうやら謝っているようだった。

沙耶がその言葉を受け入れたことで、場は少し前の談笑中の雰囲気に回帰していった。

 

……そんなことがあったのが昨日のこと。

 

「夢にまで見るとか気にし過ぎだよね……。」

 

昨日よりも少し遅い時間に起床した沙耶は、ベッドの上で頭を抱えて深々とため息を吐いた。

確かに昨日の出来事というか、イリスちゃんに言われたことはショックだったけど、いつまでも気にしていても仕方ない。ちょっとずつ進歩すればいいんだからね。

そう考えて、沙耶は自身の頬を軽く叩いて気持ちを切り替える。見れば、既に昨日の起床時間より1時間ほど遅くなってしまっている。

沙耶は急いで身支度を済ませて、ヴィアナ達がいるであろう昨日と同じ部屋に早足で向かったのだった。

 

「それは本当ですの?」

「えぇ、昨夜の内に屋敷を出てから戻っていないそうです。同時刻に共に行動していた者からの報告です」

 

沙耶が部屋の前に着くと、部屋の内側からかなりくぐもった声でそんな言葉が聞こえた。

沙耶は盗み聞きのような形になるのは良くないと考えて、速やかにノックをしてから部屋に入ることにした。

 

「ごめんヴィアナちゃん、寝坊しちゃった。」

「あら、おはよう沙耶。多少の寝坊は仕方ありませんわ、旅の疲れが出たのでしょうし。」

 

慌ただしく入室した沙耶に、ヴィアナは柔らかく笑いかける。

 

「……先ほどの話はまた後で」

 

そしてすぐに視線を先ほどまで話していた人物に向け直し、短く言葉を紡いでその人物との会話を打ち切った。

 

「イエス、マイロード」

 

ヴィアナの前に立っていたのは、意外なことに老執事オーキスではなくゴルドだった。

ゴルドはヴィアナの言葉を受け、退室するべく扉の方へ向かう。

 

「あ、ゴルドさん。おはようございます。」

「おはようございます沙耶様。今日もよい一日を。」

 

すれ違う前に咄嗟に挨拶の言葉を紡いだ沙耶に、ゴルドは変わらぬ柔和な印象の笑みを浮かべて優しく言葉を返す。そしてそのまま改めて二人に一礼し、部屋から静かに出ていったのだった。

ゴルドが退室してすぐ、別の使用人によって食事が運ばれてきた。

ヴィアナはバレットが早朝に屋敷を出立していたことを沙耶に伝え、今朝は二人での朝食になった。

 

暫く談笑しつつ朝食を取り終えた二人は、今日の予定について話し合うことになった。

しかし今日はヴィアナの方にどうしても外せない用事があるらしい。沙耶はヴィアナに自分の用事を優先してくれて構わない旨を伝えると、ヴィアナは困ったように笑った。

 

「申し訳ありませんわね、沙耶。貴女をこの街に招いたのは私だというのに、碌にもてなしも出来ておりませんわ……」

 

本当に申し訳なさそうにヴィアナが誤ってくるので、沙耶は慌てて言葉を返した。

 

「え、ううん!謝らなくて大丈夫だよヴィアナちゃん。私、珍しいものたくさん見たり聞いたりできてて楽しいから!」

「そう言っていただけるなら幸いなのですが……。はぁ、まったく……何もこのタイミングであんなトラブルが起きなくても良いでしょうに……ままならないものですわね。」

 

頭を軽く押さえて辟易した様子を見せるヴィアナに、沙耶は質問を投げてみることにした。

 

「あの、ところでバレットさん達が調べてる事件ってどんな内容なの?」

「そういえば、沙耶には話してませんでしたわね。……いえ、というか何故知りたいのです?貴女が聞いても楽しい話ではなくってよ?」

「ヴィアナちゃん達が困ってるなら私も何か力になれないかなって思ったんだけど……ダメかな?」

「……話すこと自体は構いません、調べれば簡単にわかることですので。……けれど沙耶、貴女は本来この件とは無関係です。深入りしないと約束してもらえないかしら。」

 

ヴィアナの視線と沙耶の視線が交わり合う。沙耶はそこでは何も答えず、ただ無言でジッとヴィアナの目を見つめ返すだけだった。

 

「さて、どこから話したものでしょう……」

 

それから沙耶はヴィアナから、改めて事件の概要を聞いた。1週間程前のベリエード家の当主が亡くなった事件から始まり、先日のバレットが襲われた事件。

亡くなったのが同盟の盟主であったために大事になってしまっていたこと、前者の事件の犯人がまだ捕まってはいないこと。

後者の事件がバレットではなく、外部から遣わされた狩人を標的としたものであった場合、今回の件はより複雑になっていくであろうことを知った。

 

「……正直、昨日のイリスの言葉には頭を抱えましたのよ。普段から言動に含みのある子ですけど、あそこまでハッキリ指摘するのは珍しかったので。」

「あ、じゃあもしかして……私が治したせいで、あの人がもっと酷い目に会うっていうのも」

 

昨日から胸の内で燻っていた嫌な予感は、沙耶の内で確信に変わった。

沙耶の瞳に悲壮な色が宿るのを見てとったヴィアナは、やさしく沙耶の手を握る。

 

「それは違います。結末がどうなるにしろ、バレットの命を沙耶が助けたのは純然たる事実です。……彼女も貴女にお礼を言っていたでしょう?どうかそれを忘れないで」

 

仄暗い気持ちに飲み込まれそうになった沙耶は、自身の手を握っているヴィアナの手から伝わる熱を感じた。そして同時に、自分を友人として心から大事に思ってくれていることも改めて実感する。

 

確かにイリス=ハイレンジアの言う通りだと、沙耶は思った。。

助けた命に責任を持てない人間が軽率に人の命を救うべきではない、という彼女の言葉は確かに正論だと心の底から思った。。……あまり人に言いたくない記憶だったけれど、過去に似たような経緯で大変なことになったからだ。

 

「……うん、よし。」

「沙耶?」

 

沙耶はヴィアナの手を握り返す。

彼女はイリスの指摘について考えて、先ほどヴィアナから教えてもらった事柄を自分の中で整理して……ある一つの結論にたどり着いたのだった。

 

「ヴィアナちゃん、私ね……バレットさんの手伝いがしたい」

「……何を言ってますの」

 

ヴィアナの困惑も当然の反応だと沙耶自身思っていた。

自分は危険に対する対処方法など持ち合わせていない。精々逃げながら自身の傷を治すくらいだと思う。それでも沙耶は行動したかったのだ。

 

「イリスが言った言葉を気にしているのでしたら、先ほども言った通り」

「違うの、それもあるけどそれだけじゃないんだ。」

 

沙耶はヴィアナの言葉を遮って言う。自身の考えていたことを一言一句余さずにヴィアナに伝える。

 

「確かにね、イリスちゃんの言葉にショックを受けたのは本当のことだよ。だけど、私はそれ以上にヴィアナちゃん達を助けたいって思ったんだ。……そりゃ、危ないのは私だってわかってるよ。だけど、友達が困ってるのを放っておけるほど私は冷たくなれないから。」

「……。はぁ……貴女という方は、どこかの誰かに似て本当に頑固ですわよね。」

 

ヴィアナの脳裏に蘇ったのは、沙耶と出会った同日に同じ極東の地で出会った少女のことだった。

自分と同じ年頃の彼女を一目見た瞬間に、この娘とだけはぶつかり合うしかないと互いに直感しあった気に入らない相手。名前は『神守さくら』。

彼女と沙耶は一緒に暮らしていたのだから、その頑固さを共有していてもおかしくはないのだろうとヴィアナは苦笑した。

 

「頑固なのはヴィアナちゃんも同じだよ?」

 

そんなヴィアナの内心を知ってか知らずか、沙耶は苦笑しながらそう言った。

ヴィアナは沙耶のその言葉に、そうかもしれませんわね、と微笑みを返したのだった。

 

「沙耶、貴女の好きになさいな。私たちを助けてくださるというのなら、もうあなたの行動に口をはさむことはしませんわ」

 

それから暫くの沈黙が続いた後、ヴィアナは観念したように沙耶に対してそう言ったのだった。

沙耶はその言葉に表情を明るくさせてから、ふと何かに気付いたように小首を傾げるのだった。

 

「私たちって?」

 

短い問いかけが口をついて飛び出した。

 

「先程の話の流れでわかりますわよ。沙耶が私を手助けしたいと思ってくださってるのは本当なのでしょう。けど口には出さないだけでもう一人、助けたいと思っている方が居るんじゃありませんの?」

「え?」

「……って沙耶、貴女もしかして無意識で言ってましたの?」

 

疑問符を飛ばしている沙耶に、ヴィアナは呆れたような声色で指摘する。

 

「貴女言ってたじゃありませんの。バレットの手伝いがしたいと、私の手伝いではなく。」

「……あ、ほんとだ」

 

ヴィアナに指摘されてはじめて気づいたようで、沙耶は少し間を空けてから小さな声でそう呟いた。

 

ヴィアナはそんな沙耶の様子を眺めてから、窓の外に視線をやって不意に柏手を打った。

 

「お呼びでしょうかヴィアナ様」

 

その音に反応して入室したのはオーキスだった。どうやら部屋の外に待機していたらしい。

 

「オーキス、傘を2つ用意なさい。どうも一雨来そうな雰囲気ですので。」

「かしこまりました。」

 

オーキスはそれだけで主人の言わんとしていることを察したのか、再びヴィアナ達に一礼してから退室した。

 

「……なにごと?」

 

沙耶はその一連の出来事に呆気にとられたかのように一言呟いてからヴィアナを見た。

 

「さて、沙耶?私の仕事を手伝っていただけると言っていましたし、貴女に一つ頼みたいことがあるのですが」

「え、なに?」

 

含み笑いを浮かべつつ沙耶を見つめるヴィアナに、沙耶はまたも口をついて出た疑問でもって返答する。

 

「お待たせしましたヴィアナ様。」

「バレットに傘を届けてきてくださいな。どうも、持たずに出かけたようですので」

 

ヴィアナのその言葉に毒気を抜かれた気分になった沙耶は、オーキスから傘を受け取った。

それから誰もバレットの詳しい行き先を知らなかった為、ヴィアナとオーキスから彼女の向かう可能性の高いだろう場所を幾つか聞いてフェリエット邸を出発した。

 

 

「それで、ゴルドから聞きましたが……本当ですの?ミハイルが失踪したというのは。」

「まだ数時間程度しか経過しておりませんので、確定ではありません。……しかし昨夜から行方が分からず、本日も姿を見た者はいないため、恐らくは間違いないかと思われます。」

「……そう。」

 

オーキスからの報告を聞いたヴィアナは、重々しい溜息をついてから彼に下がるように命じたのだった。

そしてヴィアナは窓際まで歩み寄って空を見上げた。見上げた空は曇天で、いつ雨が振り出してもおかしくないような雰囲気だった。

 



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【会談】⑦

「……。」

 

バレットは帰路の途中でとうとう降り始めた雨のため立ち往生していた。

雨が止むのを待ち始めて、そろそろ一時間程度が経過する。

先刻の情報屋との会談で得た情報を自身の脳内で整理しつつ、もう10分程待って止まなければ移動しようかと思っていた。

そんな時、道の端に見覚えのある姿が立っているのに気が付いた。

 

「サヤ?」

「……あ!」

 

バレットは小さな声で呟いたつもりだったのだが、どうやら沙耶の耳には届いたようでパッとバレットの方に振り向いて表情を変えた。

 

「ようやく見つけましたよ」

 

そして沙耶は水溜まりを避けながらバレットの元に歩み寄っていく。

 

「どうしたのです、サヤ。こんな雨の中を一人で出歩いて」

「いや、その……ちょっと傘を届けに」

 

バレットの問いかけに沙耶は笑いながら使っていない方の傘を差し出した。

 

「……ありがとうございます」

 

彼女の意図は判らないけれど、これで雨が上がるのを待たずとも帰れる。

バレットは合理的にそう考え、素直に差し出されている傘を受け取った。

 

「ところで、何故ここがわかったのです?目的地は話していなかったはずですが」

「ヴィアナちゃん達からいる場所の予想は聞いてたんですけど、ソレのどこにもいなかったから手当たり次第に探してました。雨も降ってきたし困ってると思ったので」

「……。」

「けど名前を呼んでくれたので助かっちゃいました。私、耳だけは良いので」

 

バレットはにこやかに話しかけてくる沙耶を見て、彼女の身体が雨でしっとりと濡れているのがわかった。……随分な時間雨の中を探し回ったのだろうと想像がついた。

 

「申し訳ありません。他に行き先を告げる訳には行かない用事でしたので。」

「あ……お仕事大変そうですもんね。」

 

申し訳ないと謝罪するバレットの言葉で、沙耶は言うべきことを思い出す。

……きっと反対されるんだろうな、そう思いながらも沙耶は言葉を掛ける。

 

「それで、そのお仕事のことで少しお話があるんですけど。」

「……貴女が、ですか?ヴィアナ嬢からの言伝というわけではなく?」

「はい、これは私自身の意思です。」

 

バレットは自身を見つめたまま視線を逸らさずにそう言った沙耶の目で、何か真剣な話をしようとしていることを察した。

 

「聞きましょう。」

「私に、バレットさんのお手伝いをさせてください。」

「……正気ですか」

「至ってまともです。」

 

バレットは沙耶の言葉に驚愕を感じながらも、昨夜からの思いつめた様子を思い出してある程度の事情を推測した。

 

「貴女が手助けをするべきは私ではなく、友人であるヴィアナ嬢の方だ。私のことは必要以上にお気になさらず」

 

頑として折れる気配のないバレットの物言いに、沙耶は返答に窮した。そしてどう返答するか数秒悩んでから、ある方法を思いついた。

 

「それでもダメです。私は貴女を助けました。……なら、1つくらい私のお願いを聞いてくれてもいいんじゃないですか?」

「……。」

 

バレットは予想外の沙耶の言葉に驚愕した。出会って数日ではあるけれど、こういうことを言うタイプではないと思っていたからだ。

事実、沙耶とてこの言い方は本意ではなかった。けれど、自身の根幹に関わることである以上は沙耶も引き下がる訳にはいかなかったのである

 

「……。」

「……。」

 

二人はしばらく無言で見つめあう。

雨の街に立ち尽くす者は二人の他に誰も居らず、地面を断続的に打ち付ける雨音だけが二人の周囲を満たしていた。

……そうして見つめあうこと数分間、先に折れたのはバレットの方だった。

 

「……はぁ、わかりました。冷静に考えれば、貴女の力は頼りになる。断る理由はありません。」

「!、ありがとうございます!」

 

バレットの言葉を聞いて、沙耶は勢いよく礼を言った。その沙耶の姿を見ながら、バレットは断り切れなかった自身の甘さにため息を吐く。

 

「ただし、あくまでもサヤには後方支援に徹してもらいます。それで構いませんね。」

「はい」

 

沙耶は力を貸せるだけでも嬉しいというように、気の良い返事をバレットに返すのだった。

 

「それでは……とりあえずフェリエット邸に戻りましょうか。」

「そうですね。」

 

バレットは沙耶から受け取った傘を広げながら、未だ降りしきる雨の中に歩み出す。

沙耶はその少し後ろを追いかけるように歩く。先日イリスに言われた言葉を払拭できるよう、改めて自分にできることを頑張ってみようと沙耶は心に決めていた。

……存外に、川崎沙耶は負けず嫌いな性格だったのだ。

 

 @ @ @

 

同日、深夜ハイレンジア邸にて

 

「……。」

 

イリスはベッドの上から外を眺めてため息をついていた。……彼女の体調は物心つく前から常に最悪、医師からは常人ならばいつ命を落としてもおかしくないとすら言われていた。

そんな彼女が、今もこうして生命活動を維持しているのは彼女の保有している異能の成せる業だった。

 

「……ようやく来たわね。」

「……寝とけよ、病人」

 

ノックもなしに彼女の部屋に踏み入れたのはフードを目深に被った青年だった。

現在、ハイレンジア邸には彼女以外の人はいない。イリスの命で人払いをしていたのだった。

フードの人物は通ってきた館内の様子からそれを察して、フードを脱いで素顔をイリスの前に晒したのだった。

 

「随分と面白い状況になってきたと思わない?」

「……面倒なことになったとは思ってるよ。お前からの話じゃ、狩人だけじゃなく妙な異能持ちの東洋人まで来てるらしいじゃねぇか」

 

青年は苦々しい表情を隠そうともせずに悪態をつく。イリスはその様子を小馬鹿にするように笑う。

しかしその笑いはすぐに苦し気な声にかき消された。

 

「……ッ」

 

苦しげな声を出しているのはイリスだった。何度も小さく咳き込んでいて、普通な状態ではないことは誰が見てもわかるだろう。

そんなイリスの白く細い手を青年は優しく掴む。

 

その状態で数分経過した頃には、イリスの咳は止まっており息を整えてから青年に礼を言った。

 

「……ありがとう。」

「別にいい。」

 

青年は彼女の手を掴んだまま無感情な声色で短い返事を返した。

 

「もうすぐ、終わるわね。」

「……。」

「どういう形であれ、ようやく決着がつくわ。それまでは……」

「それこそ今更だ。どうあれ、お前は俺が死なせない。」

 

ベッドの傍に跪いた青年は、月明かりに照らされたままで恭しくイリスに頭を垂れる。

 

「命令を頼むマスター。」

 

その言葉にイリスは青年を見つめて、酷薄な笑みを浮かべる。

 

「改めて言うほどのことでもないけれど……私の望みを叶えなさい」

「オーダー、改めて承った。」

 

芝居染みたやり取りに堪えきれないというように、青年はくぐもった笑いをこぼしてから短い返答を返した。

 

「……さて、茶番は終わりにしましょうか。」

「はいよ」

 

月明かりが照らし出す部屋の中で、笑みを交わしあう二人の会話を聞くものは誰もいない。

 

「……あー、その前に食事にしたいんだが」

「ケダモノ……」

 

イリスはため息を突きながら、自身の服の袖をめくって隠されていた肌を露出させた。

 

……月明かりだけが二人を見ていた。

 

 

 

__前章・会談

 



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間章
【極東】1/3


それは川崎沙耶が『霧の都』を訪れた日より、十数年ほど前の彼女自身の話。

 

沙耶は極東の片田舎にその生を受けた。

彼女の産まれた家はそれほど裕福ではなかったけれど、沙耶は幸せに過ごしていた。

自然に囲まれた村の中で、日々をゆっくり過ごす。同年代の友達はいなかったけれど、老人たちは彼女に良くしてくれていた。

 

沙耶には生まれついて特異な力があった。

それは癒す力。彼女自身の傷はもちろんのこと、他人の傷ですらも彼女の意思次第で立ち処に直してしまうほどに強力な異能だった。

それは沙耶自身が傷だと認識したものであれば、全ての症例に適応された。擦り傷等の分かりやすい傷は言わずもがな、骨折や打撲、さらには流行病でさえも例外ではなかった。

 

沙耶の両親は、彼女の力に気付いた上で周囲にソレをひた隠した。それは私利私欲のためではなく、娘を守るためだった。

人ならざる力を持っていると周囲に知られれば、愛娘がどんな事に巻き込まれるか分かったものではない。それらから沙耶を守るために、彼女の両親は彼女にその力を使うことを禁じたのだった。

 

そうやって彼女が4歳ほどになる頃まで、平穏無事な生活は続いた、……裏を返せば、たった数年しか続かなかったのだ。

沙耶が4歳の誕生日を迎えて5ヶ月頃が立った頃、沙耶の目の前で彼女に良くしてくれていた老人が大怪我を負った。……事故自体は単なる不幸な偶然だったけれど、それが始まりだった。

 

沙耶はその老人の怪我を治した。……治してしまった。

老人は死を覚悟したほどの負傷が、治っていくところを目撃した。そして老人は沙耶に尋ねた。

 

「沙耶ちゃんの両親はこの力のことを知っているのかい?」

「うん!けど、皆にはナイショにしてね?」

 

沙耶は何の疑いも持たずに、素直に老人にそう返事をした。

 

……それから沙耶の力のことが村中に知れ渡るのは一晩とかからなかった。もとより住人のそれほど多くない村だ。横の繋がりが強固だったし、その分噂話が広がるのも恐ろしく早かったのが災いした。

 

 

「……これではもうダメだ。村を出よう」

「そう、ですね……。」

 

沙耶が朧げに覚えている最後に聞いた両親の声は、とても辛い決断をするかのようなものだった。

……そこから覚えているのは家に押し入ってきた村人の怒声と両親の悲鳴、そして自分が治した二人が流していた涙。

 

 

そうして沙耶は両親を失った。

 

 

それから3年間、沙耶は『巫女様』として村人に祀り上げられ、来る日も来る日も人の怪我を治すだけの日々を過ごしていた。

最初の内は、まだよかった。怪我や病気を治した人は、皆一様に「ありがとう」と「助かったよ」と礼を言ってくれたからだ。

けれど、それも長くは続かなかった。いつの頃からか、『遣い』を自称する者が現れた。

 

「巫女様の力に救いを求めるのであれば、その見返りを巫女様は所望している。」

 

その遣いがそう言った。……無論沙耶は一言だってそんなことを言っていない。けれど、村の住人はソレを信じてしまった。

……その遣いの人物は、あの日沙耶が助けた老人だった。

 

 

そうやって沙耶にとって2度目の転機が訪れるまでの数年間で、彼女にとって自身の生きる理由は「人を助けること」へと定められていったのだった。

 

 @ @ @

 

……3年が経過した。

 

その寂れた村に住む遠縁の親戚を訪ねて、ある一家が村を訪れた。

その数は三名。柔和な印象を受ける紳士然とした父と、夫の横を歩きながら娘に慈愛の眼差しを注ぐ母。そして快活な印象を受けるその二人の子。

彼女の名前は神守さくら、知る人ぞ知る名家である神守家の次期当主だった。

 

さくらは両親が挨拶回りに行っている間、周囲の散策に出ることにした。

両親の、あまり遠くへ行かないようにとの声に返事をしつつさくらは駆け出す。

普段舗装された道ばかり歩いている彼女にとって、田舎の砂利道はなかなか体験できないものだった。土を踏みしめる感覚を楽しみながら、彼女は近所を走ってみた。

 

自身の知らない風景を誰にも邪魔されず気ままに動き回るのは、これ以上なく楽しい経験だった。

さくらがそんな風に楽しみながら移動していると、不意に社の周りに人集りができているのを見つけた。

 

「巫女様が居なくなってしまわれた」

「急いで探さねば」

「大変なことになってしまった」

 

暫く観察していると、集まっている人達は全員どこか不安そうな顔で口々にそんな言葉を呟きながら右往左往しているだけだった。

 

さくらはそんな彼らを見て、心配なら早く探しに行けばいいのにと思いながらその場を去った。

そしてその風景を無視して、そのままもう暫く道なりに進むと不意に視界が開けた。

小高い丘のようになっているそこは、どうやら村と外の境目のようだった。

さくらは両親の言葉を思い出して散策を中断し、急いで踵を返そうとする。その時、視界の端に木の下で蹲る女の子の姿が見えた。

 

「……。」

「あなた、大丈夫?」

「ッ!」

 

思わず声をかけたさくらに、警戒した小動物のように体を跳ねさせて反応する少女。

少女のことを自分と同い年ぐらいだなと判断したさくらは、少女に笑顔で手を差し出しながら声をかけた。

 

「私、神守さくら。貴女の名前は?」

「……。か、川崎沙耶」

「沙耶ね、よろしく!」

 

さくらはオズオズと差し出された沙耶の手を掴み、握手を交わした。そしてそのまま彼女を立ち上がらせるのではなく、逆に彼女の横に腰を下ろしたのだった。

 

「貴女この近くに住んでるの?私はね、今日お父様やお母様と一緒にシンセキ?の人のお家に来たのよ。」

「……。」

「けどここって全然子供がいないのね、ビックリしちゃったわよ。沙耶はいつも何して遊んでるの?」

「……。」

 

さくらの言葉に沙耶は応えなかった。

不思議そうにさくらは沙耶を見る。……改めてみてみると、沙耶の風貌は少しばかりおかしかった。

服装は誂えられたような和装だったが所々に綻びが見られ、随分と着古されていることが幼いさくらにも理解できた。それだけではなく、あちらこちらに土埃のような汚れが散見されている。

しかしそんな服を着ている沙耶は、不釣り合いなくらいに小綺麗だった。髪こそ伸ばしっぱなしのように荒れに荒れているけれど、その体のどこにも傷は見受けられない。“病的なまでに何の傷も汚れもなかった。”

 

「あ……沙耶、貴女ってもしかして」

「……。」

 

幼くも聡明なさくらは、そこで気が付いた。彼女が自分と同じであることに。

 

「能力持ちだったりするの?」

「ッ!!」

 

返答は沙耶の反応から火を見るよりも明らかだった。

沙耶はさくらの言葉を聞いて弾かれたように立ち上がり、先程まで背を預けていた木の陰に逃げ込むように移動した。木の幹に添えられた手は微かに震えている。さくらは驚いたような表情で沙耶に声をかける。

 

「どうしたの?」

「もうやだ……」

 

何かに怯えていた沙耶は、木の陰からさくらを隠れ見ながら答える。その瞳から大粒の涙がこぼれていた。

 

「嫌って……なにが?」

 

さくらはそんな沙耶に自然に言葉を返した。言葉を返しながら、彼女はなんとなく沙耶の様子からその境遇を察していた。

 

幼いとはいえ神守さくらは頭がよかった。

彼女も異能を保有しているとはいえ、両親からはその使用には最大限の注意を払うべきだと物心つく前から教えられていた。

使い方と使い時を誤ればどういうことになるのか、それを彼女の両親の想像力の範疇ではあるけれど、教えられて知っていた。

そしてその教えられたことの一つと、目の前の少女の状態が彼女の脳内で見事に合致した。

 

 

川崎沙耶は誘拐された末にこの村に連れて来られて、望まない形で力の行使を強制されているのだ!

 

 

神守さくらは極めて正解に近い、ただし一部不正解な解答を脳内で弾き出したのだった。

 

「もうわたし……あんな人たちのために力を使いたくなんてない……。けど、どこにも逃げられないし……お父さんも、お母さんも傷だらけにされて村から追い出されちゃった……。」

「……。」

 

さくらは自身の想像していた以上に重たい事情に絶句した。

そして、どうするべきかを一生懸命に考える。そしてすぐに『コレは自分一人でどうにかできることではない』と結論付けて、躊躇なく自身の異能をこの泣きじゃくる女の子のために使うことを決断したのだった。

 

「ねぇ、沙耶」

「……なに?」

「貴女を私が助けてあげるって言ったら、貴女は私を信じてくれる?」

 

さくらは立ち上がり、泣きながら返事をする沙耶へゆっくり近付きながら問いかける。

 

「たすけて……くれるの?……なんで?」

 

意味が解らないという風に、沙耶はさくらに問いかける。それは至って普通の感情だ。出会って1時間も立っていないさくらが、見ず知らずの少女である沙耶を助ける理由は本来であればない。

 

「なんでって?決まってるじゃない。」

 

そんな真っ当な沙耶の疑問に、さくらは快活に笑いながらこう答えた。

 

「泣いてる女の子がいたなら、助けてあげるのが当たり前でしょう?」

 

そこには、一人の少女のために立ち上がる小さなヒーローの姿があった。

 

 

ここで神守さくらについて語る。

彼女は、生まれながらに人の上に立つ者だった。その為の才能を十善に備え、その才覚を発揮する素養を生まれ持っていた。

運動も勉学も、彼女にとってはできて当たり前のこと。そんな彼女は『人の上に立つ者は人を助ける責任を常に負うもの』だ。そういう両親の教育をしっかりと実践して、これまでの人生を送っていた。

 

だから、これはさくら自身にとっては自慢にもならない当り前の話だ。

そうして川崎沙耶は僅か数時間で、村の手を離れ神守家の養子となることが決まったのだった。

自身の異能である『影響力』を全力で活用すると決めたさくらと、泣き跡の残る沙耶の姿を見たさくらの両親が許可を出した。

ただそれだけ。

たったそれだけのことで、村人の9割がさくらとその家族を支持した。『遣い』を自称する老人とその一派は、最後まで反論していたけれど最終的には他の村人達から手酷い糾弾を受けて意見を取り下げざるを得なくなった。

 

 

そうやって沙耶にとって2度目の転機が訪れ、彼女の中で「自身の持てる全力で人を助けること」は当り前のことになったのだった。

 




異能『癒し』
保有者:川崎沙耶
概要:
生き物の負ったあらゆる傷を癒すことができる。
切り傷、病気、骨折など適応範囲は多岐に渡る。
汎用性は高いが、血液などは治療しても戻らない。
他人を治すと疲労が溜まるが、自身を治すのは無制限。
    

異能『影響力』
保有者:神守さくら
概要:
周囲から寄せられる信頼や友愛を、自身から他人への精神制圧力に変換する。
寄せられる信頼や友愛が大きければ大きいほど、周囲に信頼されやすくなる。
身近な相手・親近感を感じる相手に信頼されるほど影響力はより強くなる。
ある種のカリスマ性に近い。



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【極東】2/3

「沙耶早く!時間遅れるわよ!」

「ちょ、ちょっと待って!」

 

ある日、さくらと沙耶は慌ただしく家を出る準備をしていた。

時計の針はそろそろ9時を指し示そうとしていた。今日の二人は両親の紹介で、ある人物に会うことになっていた。

その人物は両親共通の知り合いで、ある特殊な症例を研究している人物らしい。

……あの底抜けな善人である父の知人なら、そうそう危ない人物ではないだろうと思ってさくらは承諾した。それに続く形で沙耶も承諾の言葉を返したのだった。

 

「予定がある日の前日くらいちょっとは休みなさいよね。どうせ昨日も遅くまで勉強してたんでしょ?」

「え、バレてたの?さくらちゃんが寝たのはちゃんと確認してから物音も極力出さないようにしてたんだけど」

「バレてたっていうか予想よ、予想。沙耶ってば昔っから真面目なのは変わらないんだから。ちょっと根を詰め過ぎなのよ、貴女は」

 

一端コレという目標を定めたら脇目も降らずにその目標に挑んでいく沙耶の姿を、さくらは一緒に暮らすようになってから何度も目にしていた。その姿は好ましく思うけれど、同時に心配にもなる。

もはや妹とすら思っている最愛の家族の一員なのだから、体には気を使ってほしいものだ。さくらはハッキリと言葉にはしなかったが、そう思っているのは事実だった。

 

「そうは言ってもね、私あんま頭良くないからさ。さくらちゃんの何倍も頑張らないと追いつけないんだもん」

 

しかし沙耶はかなり本気でそんな言葉を返すのだった。

確かに助けられた当初の沙耶であったならば、何も知らないと言っても過言ではなかった。

しかし今の沙耶は違う。生来の負けず嫌いさと弛まぬ努力をもって、彼女らが通っている学校で常にトップを張るさくらと唯一競い合えるほどには成長しているのだから。

……沙耶の子の成長には『沙耶があんまりにもすぐに身につけるものだから、つい面白くなってしまった』という理由で、暇を見ては勉強を教えていたさくらの存在も大きくかかわっているのだが。

 

「……はぁ、ほんとに貴女ってそういうとこダメよね」

「何でため息!?」

 

さくらは自身の責任は棚上げして、未だに自身が成長していないと思い込んでいる沙耶に対して深々と溜息を吐いたのだった。

 

 

あの日……さくらの決断によって沙耶の人生に2度目の転機が訪れた日から、もうすぐ7年が経過しようとしていた。

救われた当初の沙耶は、彼女自身自分の身に何が起こったのか理解できておらず、終始きょとんとした様子で呆けているだけだった。

そして1週間経ったあたりで、どうやら自分が本当に救われたらしいことを認識して大声で泣いた。半日ほどずっと泣いていた。

さくらの両親は沙耶の頭をなでて、よく頑張ったね。と優しい言葉を掛け続けていた。

さくらは自分の判断が間違っていなかったことを実感し、内心でウンウンと頷いていた。

 

 

「それで……お父様の知り合いの人ってどのあたりに住んでるんだっけ?」

「んー、教えてもらった住所だとこの辺の筈よ?」

「なんというか、古い病院みたいな建物しかないね?看板も隠れちゃってるし」

 

さくらと沙耶は二人で父からもらった目的地までのメモ書きを覗き込んでから、ほとんど同じタイミングですぐ前方に見える寂れた病院風の建物を見た。

 

「……というかその看板がもう既に胡散臭いのよ。なに、あのふざけた名前。」

 

さくらは疑いを隠そうともせずに、その建物の看板を見る。彼女の視線の先、植え込みの陰に隠れた看板にはこう書かれていた。

 

『超常能力研究所』

 

二人は建物の入り口前で10分程度相談しあった後、結局他にそれらしき場所もないので建物内に入ってみることにした。

中に入って最初にあったのは、病院の待合室のような内装の小さめの部屋だった。

 

「すみませーん!誰かいませんかー!」

 

さくらは中に入ってすぐに奥に向かって声をかける。呼び鈴のようなものも見当たらなかったので、致し方ない処置である。

沙耶はといえば、部屋の中を物珍しそうに見渡している。しかし敢えてそうしているのか、内装だけ取り繕っているようで、特にコレといって気になるモノは置かれていない。

 

そうこうしていると、奥の方からのんびりとした足音が聞こえてきた。

 

「はいはーい、どちらさまでー?」

「……」

「……」

「おや。……これはまた妙なお二人だことで。」

 

ガラガラと引き戸を引いて姿を現したのは、全体的にくたびれた印象を受ける男性だった。髪は寝癖のためか所々が跳ねていて、顔色もどこか生気に欠けていた。

 

「さくらちゃん、さくらちゃん」

「あ、うん、そうね。」

 

先に我に返ったのは沙耶の方だった。沙耶は未だ呆けている様子のさくらを軽く小突いて正気に戻した。

 

「はじめまして、私たちは」

「はい初めまして、神守さくらちゃん。それからそっちが神守沙耶ちゃん……いや、川崎沙耶ちゃんかな?」

 

さくらが言い終わるよりも先に男性は言葉を返した。言葉を返してから、そういえば今日だったかぁ……と頬を掻きながら男性は呟く。

 

「そのご様子だと」

「うん、今日来るのはキミらのお父さんから聞いたよ。……着いておいで、すぐに終わると思うけどそれまで立ち話もなんだ。奥にソファがあるからそこで話をしよう。」

「わかりました。」

「あ、あの~……」

「ん?」

「どうしたの沙耶?」

 

奥に戻ろうとしていた男性と、何の疑問もなく彼についていこうとしていたさくらに沙耶は聞き難そうに声をかけた。

 

「まだお名前を聞かせてもらってないので、呼び方が……」

「……。」

 

沙耶の言葉を聞いてさくらは苦笑する。言われた男性は、そんなことを聞かれると思っていなかったように呆けていた。それからくぐもった笑いを漏らした。

 

「呼び方かぁ。そうだな……じゃあ、とりあえずクロブチでお願い。」

 

男性はレンズの端に罅割れが入った黒縁の眼鏡を取り出しながら、相変わらずくたびれた印象を受ける笑顔を浮かべてそう言ったのだった。

……その行動に、さくらはより一層胡散臭い物を見るような視線を自称クロブチに向けていたのだった。

 

 

「健康診断?」

「そう。君達のご両親に頼まれてね。……あ、一応言っておくけど服とかは脱がなくていいんで。ホントに辞めてね?ご両親に怒られるからね?」

「脱ぎませんよ、頼まれても」

 

さくらの問いかけに淀みなく答えながら、唐突に慌てたように不必要な言葉を吐き出すクロブチ。さくらはだんだんとこの男性に対して警戒をしているのがバカバカしく思えてきた。

 

「というか、お医者様だったんですね」

「まぁね。資格持ってるだけだからそこまで腕は良くないけど」

「……自分で言っちゃうんですね」

 

クロブチのあんまりな返答に沙耶はなんと返したものか困った様子で苦笑いを浮かべた。医療器具等が見当たらないところを見るに、クロブチの言葉に嘘はないようだった。

 

「というか、この状態でどうやって診断をするんですか?」

「もう終わったけど」

「はい?」

 

訝し気にクロブチへ問いかけたさくらに、極自然に彼は返答する。そうして今まで掛けていた黒縁眼鏡を外した彼は、今まで脇に置いて居たカルテにペンを走らせていく。

 

「そもそも僕が見るのは身体の健康とかじゃなくて、能力の状態なんだよね。」

「能力……って、なるほど道理で。話が早すぎると思いました。」

 

さくらはクロブチの言葉で合点がいったというようにため息を吐く。今日ここに向かうように言われていただけで、その理由は父から教えてもらっていなかった。

……早い話、このクロブチという男に能力の安定を診てもらって来い。父が言いたかったのはつまりはそういうことだったのだろうとさくらは理解した。

 

「え、あの表の看板って冗談とかじゃなかったんですか?」

「あはは。面白い話だけど、あまりにもバカバカしい内容だと人って真実でも簡単には信じないものだからね。」

 

沙耶が驚いたように発した言葉は、紛れもない彼女の本心だった。クロブチはそれに対して茶化すように答えてからペンを置いた。

 

「僕の異能はこういう診断には便利だからね。」

「私、さくらちゃん意外で初めて会いました。」

 

クロブチは沙耶の言葉を聞きながら、書き込んだカルテの写しを二人に差し出す。それから彼は大きく伸びをした。動くたびに体のあちこちから小気味良い音が鳴っている。……どれだけ身体が凝り固まっているのかが傍目からもよく分かった。

 

「さくらちゃんの方は特に問題なく安定してると思うよ。折り合いもついてるみたいだし、このままでも問題はないだろうね」

「……」

 

さくらは特に何も答えなかった。彼女は異能をあくまで道具として扱っているため、滅多なことでは使わない。異能を完全に制御しているし、そのデメリットもきちんと理解していた。

クロブチは次に沙耶を見た。その視線には先ほどまではなかった色が滲んでいた。

 

「沙耶ちゃんの方は……すこし精神に負荷が掛かっているね。トラウマか、罪悪感か……プライバシーもあるから深く観なかったから断言はできない」

「……」

 

クロブチの言葉に沙耶は息を詰まらせた。沙耶が助けられてから7年が経過しているとはいえ、あの時の経験は沙耶の根幹に深く食い込んでいたからだ。

その沙耶の様子に、クロブチは取り繕うように再び話始める。少女の精神的幹部に思ったより深く踏み入ってしまった罪悪感からか、目がこれでもかというほどに泳いでいた。

 

「あー……けれど、それは一人で抱え込むものじゃないよ?……言いたいことはわかるね?」

「……はい。」

「……。」

 

沙耶は重々しく返答し、さくらはそれを心配そうに一瞥するだけで特に言葉は掛けなかった。

あれはあくまで沙耶の問題だ。助けを求められたならばまだしも、何でもすぐに助けるのは違うとさくらも理解していた。

 

「じゃ、じゃあ今日はこれにてお開きということで……」

 

クロブチはすっかり頼りない雰囲気になってしまっていた。どうにも根は小心者の善人のようだ。

さくらはクロブチの対応からそう判断して、可愛い妹分のトラウマに踏み込んでくれた仕返しは今はしないでおくことにした。

 

「……よし、じゃあ帰りましょうか。沙耶」

「う、うん。」

 

立ち上がったさくらは沙耶を待たずにさっさと退室してしまった。それに続くように沙耶もソファから立ち上がって、クロブチに一礼する。

だが退室する前に、沙耶の脚は一度止まってクロブチの方を振り返った。

 

「あの……1つ良いですか?」

「なにかな?」

 

まさかこのタイミングで言葉を掛けられると思っていなかったのか、クロブチは意外そうな顔で扉の前に立っている沙耶を見た。

 

「……私、この力は周りに悪影響が出るかもしれないから使わない方が良いのかもって……」

「ごめんね。たぶんだけど、そのことへの答えは僕からは教えてあげられない。」

 

過去の出来事からの価値観を沙耶は相談しようとするも、クロブチは先手を打って明確な答えを差し出せないといった。

……その後、少しだけ間をおいてから

 

「……だけど、その力は紛れもないキミの一部だ。力を嫌う必要はない。……そうだね、僕から言えることがあるとすれば……折り合いをつけて有効に使えるようになれば、その力はキミの助けになる……って、ことくらいかな。」

 

クロブチは相変わらずくたびれた雰囲気はそのままで、少しだけ頼りになる大人のような言葉を沙耶に送ったのだった。

 

 

その日の会話は彼女に新たな気付きを与えることになった。彼女の中で「力を有効に用いれるようになる」ことが、目先の目標になったのだった。

過去を恐れるあまり力を恐れる必要はないのだと、さくらやクロブチを見て沙耶は感じたのだった。

 

ちなみに……さくらはあまりにも胡散臭いクロブチに対抗するべく、弱みを少しでも握ろうと父を問い詰めた。そうしてさくらは父からクロブチを自称する男の本名と、学生時代の失敗談を入手することに成功したのだった。

 

 




異能『解析』
保有者:クロブチ(賽瓦 永良)
概要:
肉眼で見て言葉を交わした相手のことが100%の精度で理解できる。
理解する範囲は自身の匙加減で調整可能。使い過ぎると気絶してしまう。
体調や身体情報など得られる情報は多岐にわたる。
一度に大量の情報を吸収するので使用後最低3日間は頭痛に悩まされる。


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【極東】3/3

「クロブチ先生、この場合ってどうすればいいんですか?」

「……この場合は前に教えた処置を行ってからだね。あとの流れは沙耶ちゃんならすぐにわかると思うよ……あと、いい加減クロブチ先生ってのはやめてね?もう知ってるでしょ僕の名前」

「えぇ?だって初対面の時にそう自称してたのは先生じゃないですか。」

「無意味に偽名を名乗った過去の自分を消したい……」

 

あれから約3年間、沙耶は月にだいたい3回ほどのペースで自称クロブチ(本名を賽瓦永良)がいる

『超常能力研究所』に通っていた。

当初はカウンセリングも兼ねた接触だったが、いつの頃からか沙耶が医療関係の知識をクロブチに教えてもらう時間になっていた。

クロブチとしては単純な診察だから楽な仕事だという認識だったので、こういう展開は完全に予想外だった。……しかし沙耶は仮にもクロブチにとって唯一と言ってもいい友人の娘の一人だ。

そしてその過去を少なからず観て知っているクロブチは、彼女の頼みを無碍にすることも出来なかった。故に早々に拒絶することを諦め、共存路線に切り替えたのだった。

 

「……それにしても、どうして医療の知識なんか聞きたいんだい?沙耶ちゃんなら、それこそ知識なんてなくてもなんだって治せるでしょ。」

 

クロブチは言ってから、それがどれだけ無神経な発言だったか気付いた。そして軽く死にたくなり、沙耶に向けていた視線を床に落とした。

 

「んー、そうなんですよね……。」

 

意外なことに沙耶はクロブチの言葉を肯定した。

事実として沙耶にとって治せない病気や怪我などほとんど存在しない。治す相手のどこに傷があるのか、それさえわかれば多少治す時間に差異はあるとはいえほぼ全快させることができるのだ。

それは知識としてではなく、事実として幼いあの日に嫌というほど確認したことだ。今更否定する気は、沙耶にはなかった。

 

「けど、やっぱり治すにしても知識と資格があるに越したことはないと思うので。」

「……まさかとは思うけど、医者にでもなりたいのかい?」

 

クロブチの問いかけに、沙耶は小さく笑って返答する。自分でも理解しきっていない考えをまとめるため、慎重に言葉を選んでいる様子だった。

 

「まだそこまでは。……けど、どうせならこの力をさくらちゃんやクロブチ先生みたいに、人のために使いたいなって……そう思ってます。」

「……そうかい。」

 

クロブチは沙耶の言葉に否定も肯定も返さなかった。

さくらちゃんはともかく、自分は彼女が思うほど出来た人間じゃない。だから彼女の考えに口を挟む資格はない。

言葉に出したことで少し考えがまとまった様子の沙耶を、クロブチは目を細めて見つめた。

 

そもそも、この『超常能力研究所』は彼自身が自分の疾患である『解析』の異能を治療するために研究を繰り返すための場所だった。この異能がある限り、自分は他人と本当の意味で分かり“合う”ことができないと思っていたからだ。

それがいつの間にか、こんなことになっている。普通に気遣い合いながら、極自然な会話をしている。そのこと自体がクロブチにとって予定外の事態だった。あるいはこれもあのお人好し……さくらと沙耶の父親にとっては予想通りの展開なのかもしれない。

……そこまで考えてクロブチは、すっかり冷めきった珈琲を飲み干して立ち上がった。

 

「ごめんね、沙耶ちゃん。これから少し用事があってね。今日はもうお開きにしてもらえないかな」

「あ、はい。わかりました。長々とお邪魔してしまってすみません」

 

クロブチは自分のあからさまな嘘を疑いもせずに信じ、さっさと帰り支度を始めた沙耶に苦笑をもって返事をした。

 

 

……時刻は15時を少し回ったころだった。

沙耶はクロブチの迷惑になってはいけないと思い、そそくさと『超常能力研究所』を後にして家への道をゆっくりと歩いていた。

予定ではもう少し遅くなるはずだったけれど、予定があるというのだから仕方がない。

 

「……?」

 

家まであと半分くらいというところで、沙耶は不意に耳慣れない言葉を聞いた。恐らくは異国の言葉だ、少なくともこの国の言葉ではなかった。そう思って沙耶は足を止めて視線を声の方へと向ける。

そこには目の覚めるような明るい髪色をした女の子がいた。少女は案内の看板を睨みながら何事か呟いている。

見たところ少女が何やら困っている様子だったので、沙耶は声をかけることにした。

 

「あの、何かお困りですか?」

「……」

 

沙耶が声をかけると少女は不審なモノを見るような目つきになり、無言で沙耶を見返してきた。

沙耶はそこで初めて、彼女の言葉が解らないという重大な問題に気が付いた。

 

「えっとその……お手伝い、しますか?」

 

沙耶は身振り手振りを交えながら、なんとか自分が言いたいことを相手に伝えようと奮闘する。

我ながら何ともマヌケだ……。少なくともさくらちゃんならこんなことになってないよね……。

沙耶はそんな風に出来の良すぎる姉のような友人に改めて尊敬の念を覚えた。

 

「……あぁ、なるほど。お気遣いありがとうございます。」

「……」

 

意外なことに帰ってきたのは沙耶と同じ国の言語だった。少女は長い金髪を靡かせて、沙耶に向き直って一礼する。

沙耶はその少女の所作と雰囲気に、どこかさくらと近いものを感じていた。

 

「手伝いをしてくださるとのことですが、質問に答えてくださるだけで結構ですわ。」

「質問、ですか?」

「えぇ、そうです。……先に言っておきますが、これは見ず知らずの異国人である私に恐れることなく話しかけてきた貴女の親切心を立てる為ということをお忘れなきように。決して、好奇心のままに護衛を撒いたせいで道に迷ったなどという事実はないのですからね?そこのところ、きちんと理解してください」

 

聞いてもないことを矢継ぎ早に捲し立てる少女に、沙耶はなるほどと納得した。

……確かに見ず知らずの街で迷ってしまっては心細くもなるのだろう。

沙耶は少女の言葉を自分なりにそう解釈して、改めて少女に向き直った。

 

「わかったよ。……それで、質問っていうのは?」

「え、本当にわかったんですの?」

 

沙耶の返答に少女は驚いて目を白黒させてから、平静を取り繕うために一度咳払いをした。

そして充分に間をおいてから、少女は沙耶に対して毅然とした振る舞いでもって問いを投げかけた。

 

「……。まぁいいでしょう。貴女にお聞きしたいことは一つです。……『神守』という屋敷がどこにあるか知っていて?」

「え?ウチに用事だったんですか?」

「そうあなたの家に……って、はい?」

 

少女の問いかけに対して沙耶がノータイムで返した答えは、少女に再び驚きの声を上げさせるには充分なものだった。

 

「なるほど、貴女が話に聞いていた神守家の一人娘だったのですね。」

 

5分ほどかけて軽い混乱状態から落ち着いた少女は、そんな一部誤解の混じった言葉を沙耶に言い放った。

 

「え、いや……」

「それにしても、これからお伺いする予定の屋敷の方と早々に出会えるだなんて思っても見ない幸運でしたわね。改めて感謝いたします。」

 

少女は訂正しようとする沙耶の言葉が聞こえないほど有頂天気味になっていた。分かりやすいといえばそうだが、少し人の話を聞かないところが少女にはあった。

 

「だ、だから違わないけどそうじゃなくて……」

「あぁ、そういえば自己紹介がまだでしたわね。私はヴィアナ。ヴィアナ=フェリエットです。以後、お見知りおきくださいな」

 

ヴィアナと名乗った少女は、沙耶に手を差し出した。自分の話をなかなか聞いてもらえていない沙耶ではあるが、目の前の少女が言わんとしていることをなんとなく理解する。そして差し出されているヴィアナの手に、自身の手をそっと重ねた。

とりあえず友好的な関係を結んでくれる気はあるらしい、と沙耶はヴィアナの行動を解釈すると彼女が再び話し始めるよりも早く口を開いた。

 

「うん、こちらこそよろしくね。あと私の名前は神守……ううん、川崎沙耶です。」

「えぇ、よろし……カワサキ?」

 

そこでヴィアナは沙耶が名乗った名前に疑問を覚えたようだった。その様子を確認して、沙耶はようやくヴィアナがしている誤解を解くことができると思った。

 

「沙耶?貴女こんなところで何してんのよ」

「あ、さくらちゃん」

「……どちらさまで?」

 

しかしなんともタイミングの悪いことに、沙耶の死角である真後ろから唐突に誰かが声をかけてきたのだった。そこには、最近父の仕事を手伝い始めて休日も多忙気味なさくらが立って居た。

 

 

「……なるほど、だいたいわかったわ。」

 

さくらに事情を話し終えるまで、5分程度しか時間はかかっていなかった。沙耶がある程度話をしたあたりで、さくらは訳知り顔で頷いて見せたからだ。……どうやら今日来客があることは、沙耶が起きる前に事前に聞かされていたらしかった。

両親は沙耶にも伝えるつもりだったようだが、沙耶が起きて間もなく外出したためタイミングを逃したとさくらが言っていた。

 

「つまり沙耶は単なる同居人で、そちらの貴女が本物の神守家の一人娘だと……そういうことですのね。」

 

そしてそんな二人の会話を聞きながら、ヴィアナの方も自身の誤解に気付いて自力で正解に辿り着いたらしかった。

沙耶はそんなヴィアナの言葉に申し訳なさそうな表情で返事をした。

 

「ごめんねヴィアナちゃん。訂正しようとは思ってたんだけど、タイミングが無くって」

「……いえ、よくよく考えれば貴女の話をきちんと聞いていなかった節が私にもありました。ですので、ここはお相子ということにしておきましょう。どうあれ、貴女が私を助けようとしてくれたことは事実なのですからね」

 

沙耶の言葉に、ヴィアナは優しく笑いかけながらもう一度改めて彼女に手を差し出す。今度は誤解のない状態で、本当の意味での挨拶だった。

 

「沙耶、改めてよろしくお願いしますわね」

「うん、よろしくね。……ていうか言葉凄く上手いよね?」

「これくらいは当然の嗜みですわよ」

「……なんか貴女たち妙に仲良くなってない?あと念のため言っとくけど、沙耶は単なる同居人じゃなくて歴とした私の家族よ。そこは認識を改めてもらえないかしら。」

 

さくらは改めて握手を交わしあう二人を眺めながら、先ほどヴィアナが口にした言葉に訂正を入れる。傍から見れば些細な違いではあるけれど、さくらからしてみればそこは譲れない一線のようだった。

 

「仲が良いかと言われれば、道に迷っていた私を助けようと話しかけてもらった程度の仲ではあります。……けれど、感謝はしておりますのよ?受けた恩は返すのが私の流儀です。」

 

ヴィアナは沙耶との握手を交わし終え、改めてさくらと向き合った。それからしばらく二人は無言で睨みあうようにして相対していた。

 

「……というか貴女の方こそなんです神守さくら。突然出てきたと思ったらゲストに対してその物言いは?貴女よりも沙耶の方が神守の次期当主に相応しいのではなくって?」

「え、ちょっとヴィアナちゃん?」

 

睨み合い同様の沈黙の後に口を開いたヴィアナは、どうやら先ほどのさくらの物言いが癪に触っていたようで完全に喧嘩腰になっていた。

 

「はぁ?私が沙耶にそんな重荷背負わせるわけないでしょ。だいたいゲストがどうこう言ってるけど、自分の護衛撒いてまで見ず知らずの土地を散策するとか貴女の方が自覚足りてないんじゃないの?」

「さくらちゃんまでなんで喧嘩腰になってるの!?」

 

まさに売り言葉に買い言葉である。沙耶の驚きの声は二人には届いていないようで、二人は互いに1歩ずつ距離を詰めて尚も睨み合いを続けていた。

 

「やっぱこうなるわよねぇ……。沙耶が仲良さそうにしてたからとりあえず話は聞いてあげたけど、私って昔から自分と相性が悪い相手は一目見たらわかるのよね。」

「ふ、ふふふ……えぇ、まったく気に入らない奇遇ですけれど。そこに関しては私も恐らく貴女と同じ気持ちだと思いますわよ」

 

さくらとヴィアナは互いに笑顔を浮かべて対峙する。

その笑顔は朗らかなものではなく、明らかに敵対者に向けて送られる感情がこれでもかというほどに詰め込まれた攻撃的な笑みだった。

笑顔とは本来威嚇のための表情だったという話があるが、さくらとヴィアナの二人が浮かべているソレは間違いなく本来の意味での笑顔だった。

 

「一目見た時から本能的に気に入らないのよアンタ!」

「一目見た時から本能的に気に入りませんのよアナタは!」

 

互いに互いが気に食わない二人だったが、次に放った言葉は不思議なことにタイミングも意味もほぼ同じだった。

さくらもヴィアナも、互いに生まれながらにして人の上に立つ者としての才覚をこれ以上ないほど持ち合わせていた。それ故の同族嫌悪も多少はあったのだろうが、ここまで初対面でいがみ合う理由にはならないはずだった。

『対の特性を持つ異能同士は、その保有者の間に軋轢が生む可能性がある。』……というのは、後に二人のいがみ合いを見たクロブチが沙耶に吹き込んだ仮説なのだが、今の沙耶はそんなことは知る由もない。

沙耶はただ呆然と、目の前で行われる友人たちのいがみ合いを見ながら少なからぬ苛立ちを感じていた。

 

「もう二人ともいい加減にして!」

「……ッ」

「……。」

 

見るに堪えないと言われても仕方のない二人の急な喧嘩に、とうとう沙耶は怒鳴り声にも似た仲裁の言葉を投げかけた。沙耶からしてみれば、初対面のはずの二人の突発的な口喧嘩に巻き込まれて堪ったものではなかったのだろう。

延々といがみ合いを続けていたさくらとヴィアナは沙耶の言葉で渋々と口喧嘩を中断し、その気まずい雰囲気のまま一旦神守邸に向かうことにした。

 

無事に神守邸に着いた三人を待っていたのは、さくらと沙耶の父だった。

 

「紹介しよう、こちらはフェリエット氏。彼らには今日から2週間ほどウチに滞在していただくことになった。」

 

そうして帰ってきた3人に対して彼は、フェリエット家の当主でヴィアナの父だという男性を紹介した後……そんなとんでもない言葉を吐いたのだった。

 

「嘘でしょ……」

「どういうことですのお父様!?」

 

さくらは天を仰いで現実逃避の呟きを溢す。対してヴィアナは自身の父親にこれはどういうことかと詰め寄っていた。

 

「大丈夫かな、これ……」

 

そんな二人の反応を見ていた沙耶は明日からの2週間に微かな、しかし確かな不安を覚えたのだった……。

 

その日の出会いは彼女に新たな気付きを与えることになった。沙耶の中で「我を通すのも程々にしなきゃいけないなぁ」という、少しの疲労と実感を伴った忘れがたい教訓が刻まれたのだった。

 

後から沙耶が父から聞いた話だけれど、フェリエット家の当主が極東の神守家を訪れたのは『代替わり前に自身とは関係のない外部との繋がりを、ヴィアナに作ってあげたかった。』というヴィアナの父の親心が理由だったそうだ。

 

それは沙耶が、ヴィアナの招待で『霧の都』を訪れる1年と少し前の出来事だった。

 

 

__間章・極東



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中章
【霧中】①


 

 

川崎沙耶は自身の根底を掘り返すかのような懐かしい夢から覚めた。

今朝の目覚めは沙耶としても上々だった。おそらくバレットを治療した疲労が完全に抜け切った故だろうが、身体も気分も程よく軽くなっているので昨日と比べれば天と地ほどの差があった。

 

「ん~……よしっ」

 

ベッドの上で横になったままで全身を延ばすように身動ぎをした後、沙耶は勢いよく上体を起こして起床した。

時間としても昨日より随分と早いらしく、まだ窓の外が薄暗い。どうやら日が昇り始めて間もない時間のようだった。昨夜に発生していた霧の残りがまだ薄っすらと街を覆っているのが見えた。

 

「見なくても良いものを見る羽目になる、か……あからさまに何か隠してるよね、これ。」

 

沙耶は窓の傍に歩み寄りながら、そう言葉を溢した。

 

それは昨日、雨の降りしきる街の中でバレットに協力を申し出た後に聞かされた話だった。

ハイレンジア家当主であるイリスの紹介で会いに行ったシークという情報屋が、最後にバレットに言ったという忠告の言葉。

 

『霧の濃い夜はなるべく出歩かない方が良い。見なくても良いものを見る羽目になるかもしれないからな』

 

どう考えても怪しい。白か黒かでいうならば限りなく黒に近いだろうと、こういった事態に疎い沙耶にすら判るほどに怪しい。

もちろんバレットと情報を共有した時点で沙耶もその点を指摘はした。バレットも概ね沙耶の意見に同意ではあったのだが、それとは別の点を指摘していた。

 

『確かにあの男は怪しい。……ですが、彼がもし黒であったなら刺客を差し向けて尚生きていた私を前にして何もして来ない訳がない。大なり小なり何らかの反応が無ければおかしいのです。』

 

バレットは既に一度襲われた身だ。一命を取り留めたとはいえ、それも沙耶の異能による緊急治療が功を奏したが故である。本来ならば彼女はあの時に死んでいたはずなのだ。

シークが黒だった場合、バレットが訪ねてきた時点で何らかの反応があって然るべきだろうと彼女は考えていた。

 

「……」

 

沙耶はそこで記憶の整理を終了して、多少乱雑にカーテンを引く。急に思考回路をフル回転させたためか、すっかり眠気は飛んでいた。

時間的には随分とゆとりがあったため、沙耶は前日よりも時間をかけて身嗜みを整える。そして気持ちを切り替える意味も込めて、軽く自らの頬を叩いてから意気揚々と部屋を出たのだった。

 

「おはようございます、沙耶様」

「え!?あ、おはようございます。ゴルドさん」

 

部屋を出た沙耶を一番初めに出迎えたのは例によってゴルドだった。沙耶はまさか既に使用人の誰かが待機しているとは思わず、一瞬反応が遅れてしまった

 

「ヴィアナ様とバレット様は既に別室にて待機しておられます。ご案内いたしますので、どうぞこちらへ」

「はい」

 

ゴルドは先日と同じように自然に案内へと移行した。少し違うのは、彼の右の手首に昨日まではなかった包帯が巻かれていたことくらいだった。

 

「あの、ゴルドさん。」

「何でしょう?」

「その右手の包帯って何か怪我でもしたんですか?」

「あー……お恥ずかしながら、実は昨日の夕方頃に出先でトラブルに会いまして。」

 

苦笑しながら答えるゴルドに、沙耶はついさらに踏み込んだことを聞いてしまう。

 

「それって、ヴィアナちゃんから頼まれたお仕事の関係ですか?」

 

ゴルドは人好きのする人物でありながら使用人としての仕事も卒なくこなすようで、ヴィアナからも時折オーキスやミハイルと同様に外部での仕事を任されることもあるらしい。

沙耶は出先でのトラブルと聞いて、真っ先に仕事の途中での出来事なのだろうと当たりを付けていた。

 

「いえ。出先と言っても、今回の件は職務とは一切関係のない出来事です。早い話が私事ですね。」

 

しかし、返ってきたのは否定の言葉だった。どうやら完全に仕事とは無関係のプライベートな問題のようだ。

 

「すみません、人のプライバシーな部分にずけずけと……」

「あ、いえいえ。お気になさらずに。いずれにせよ私の不注意が原因であることに変わりはありませんので」

 

ゴルドは沙耶の謝罪を受け入れて、人懐っこい笑みを浮かべながら小さく頬を掻いた。

 

「……。」

 

そうして再び案内を再開するゴルドを見て、沙耶は自分が彼に掛けようとしていた言葉を寸でのところで飲み込んだ。

 

一昨日イリスに言われてからあれだけ堪えていたというのに、沙耶は『良かったら治しましょうか?』とつい口に出しそうになっていた自分に苦笑した。

習慣というのは一朝一夕では治せないようにできているらしい。沙耶はそう実感しながら、ゴルドの後に続いて屋敷の中を進んでいった。

 

「ヴィアナ様、沙耶様をお連れしました。」

 

例によって先行して入室したゴルドに続く形で、沙耶も二人の待つ部屋に入室した。

室内にはヴィアナとバレットの他に、オーキスが脇に控えるようにして壁際に待機していた。

 

「ありがとうゴルド。」

 

ヴィアナはゴルドに視線を向けながら礼を言う。沙耶を送り届けたゴルドは、ヴィアナの感謝の言葉を受け取るとすぐさま退室した。沙耶にはわからなかったが、彼らの間でアイコンタクトによる何かしらのやり取りがあったようだった。

 

「沙耶は彼女の隣へ。話があります。」

「あ……はい。」

 

沙耶は彼女の様子から普段友達として接しているヴィアナとしてではなく、フェリエット家当主のヴィアナとして話があるのだと感じ取った。

そして沙耶は自らもまた、ゴルドとの会話で緩みつつあった意識を改めて引き締めてヴィアナと対峙することにした。

 

「バレット=ガットレイ、改めて先程の話を確認させていただきます。一般人である沙耶を調査に巻き込むというのは、本気の話ですのね?」

 

ヴィアナはまずバレットに対して、小手調べというようにそんな問いを投げかけた。

 

「先程も申しあげたとおり、本気の話です。それは昨日の段階で、貴女もサヤから聞かされて了承したと聞いています。」

 

対してバレットは事実のみを端的に答える。沙耶も今のやり取りで一応の趣旨は理解したようだった。

謂わばこの話し合いは沙耶に対する意思確認の意味合いが強く込められたものだった。

沙耶はただでさえ街の重鎮が犠牲になっているうえに、奇妙な点が耐えない今回の事件に首を突っ込もうとしているのだ。

関われば最悪命を落としかねない。その覚悟はあるのかと、そうヴィアナは聞いてくるのだろうと沙耶は予測した。

 

「次に、沙耶」

 

しかし、ヴィアナから沙耶への問いかけは……。

 

「誰かを見殺しにする覚悟は、貴女にありますか?」

 

沙耶の予測を大きく外れたものだった。

 

「……え?」

 

沙耶は質問の意図が解らず困惑した。その沙耶の明らかな動揺をヴィアナはただ見つめるだけで何も声をかけてこない。

 

「見捨てる……って、どういうこと?」

 

沙耶は未だに混乱している頭で、何とかその問いを投げ返すことに成功した。

 

「わかりきったことですわ。バレットの、狩人の活動は確かに長い目で見れば何も知らない一般人を助ける結果になるでしょう。無論、活動を許可する以上は全身全霊でその結果を齎してもらわねばなりません。」

 

沙耶にもそれは理解できていた。理解できていないのは、何故その為に人を見殺しにする必要があるのかということだった。

 

「良いですか?活動の過程では必ず、手遅れな状態の被害者や加害者を相手取る必要が出てくるのです。」

 

手遅れ……それはつまり手の施しようがないということだ。しかし沙耶からすれば外傷による命の危機は余程のことがない限り問題ではない。

……その人物が壊れてさえいなければの話だが。

 

「こういった騒ぎの最中では、ほぼ確実に『傷を治すことが総体のマイナスに繋がる者』も現れるのです。例えば、最初にバレットを襲った襲撃者のようなね。仮に件の襲撃者が傷を負っているのを沙耶が見つけて治療した場合、次にその被害に遭うのは誰だか理解してまして?」

「……。」

「被害者の場合も同様ですわ。その被害者があえて生かした状態で放置されていた場合、それは第三者へのトラップに成り得るのです。」

 

沙耶もヴィアナの言わんとしていることは理解できた。

軽率な異能による治療行為は逆に事態を悪化させかねないばかりか、沙耶自身の身を危険にさらす結果になりかねないことをヴィアナは警告しているのだった。

 

「……私が聞きたいのは沙耶、優しい貴女にそんな真似ができるのかという一点に他なりません。」

 

ヴィアナも昨日の時点で沙耶が真に望むのであればそれを尊重して、阻むことはしないと決めていた。しかし、それとは別のところでやはり異国から遠路遥々やって来たお人好しの友人が心配でもあったのだ。

 

「ありがとう、ヴィアナちゃん。やっぱりヴィアナちゃんは優しいね。」

「……沙耶、今は」

「でも、大丈夫。昨日、ちゃんと決めたから。私は……私にできる精一杯の手伝いをしたいって」

 

ヴィアナはこの状況でも自身をちゃん付けで呼ぶ沙耶を窘めようと口を開きかけた。だが、その決意に満ちた表情で続く言葉を飲み込んだ。

 

「……分かりました。そこまで言うのであれば、私から沙耶に言うことはもうありません。……でも、無茶だけはしないでくださいな。貴女は他人の傷を癒すことに執着するあまり、自分自身には無頓着になることがありますから」

「……うん。」

 

ヴィアナは慈しみと親愛を感じさせる笑みを浮かべながら、沙耶にそう言葉を掛けたのだった。

 

「……では、話もついたようですので。私とサヤはこれで失礼します。」

 

沙耶とヴィアナの会話が終わるまで一切口を挟まなかったバレットは、二人の会話が終了すると即座に席を立った。

そしてそのまま退室準備を始めるバレットに、ヴィアナは沙耶に向けていたのとは全く違った声色で声をかける。

 

「何を言ってますのバレット。むしろ貴女との要件はこれからですのよ?」

「……どういう意味です?」

「……ヴィアナちゃん?」

 

ヴィアナと先ほどまで一対一で話をしていた沙耶も、ヴィアナの急激な態度の変化に驚きを隠せなかった。

沙耶自身、1年前に何度も見てきた沙耶の姉とも呼ぶべき人物とヴィアナの大喧嘩。

今、沙耶達の目の前で不敵に微笑んでいるのは……間違いなくその時の少女だった。、

 

「私、まだ貴女が沙耶を預けるに足る人物だと思ってはおりませんの。」

「……つまり、なんです?ヴィアナ嬢」

 

尚も席に着かず立ったままで会話に応じるバレットを見上げながら、ヴィアナはより一層不敵な笑みを彼女に向ける。

 

「貴女、私のオーキスと戦って勝ってみせなさいな。最低でもそれくらいができなければ、我が家の大切な客人であり、私の親友を預けることはできませんわ」

 

威圧感すら感じさせる当主としての笑顔を湛えたまま、ヴィアナはバレットにそう言ってのけたのだった

 

 

 



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【霧中】②

先程バレットに対して啖呵を切りはしたが、ヴィアナ自身は決して戦う人間ではない。

彼女はどこまでも人の上に立つ人間だ。人格、思想、知識や技能のどれをとっても他を寄せ付けないほどのスペックを保有している。

自身の持てる力の全てを十善に使い、人を使うことこそヴィアナの本領だった。

 

「オーキス、6割与えます。彼女を制圧しなさい。」

「承知いたしましたヴィアナ様。」

 

ヴィアナは椅子に深く腰掛けたままで、自らの従者に端的な指示を告げる。オーキスはその声に応えつつ、待機していた場所からゆったりとした緩慢な動きで一歩を踏み出した。

 

「ッ!沙耶!」

「!」

 

その動作を見たバレットは瞬時に沙耶を抱きかかえて、オーキスが先ほどまで待機していた場所から可能な限り距離を取るようにして壁際まで退避した。

 

「まぁ、そのくらいのことはやってもらわなくては困るというものですが……少々反応が大げさではなくて?」

 

弾かれるように距離を取ったバレットを見やり、ヴィアナはいつもと同じ様子で言葉を掛ける。その彼女の前方、先ほどまでバレット達が座っていた椅子の付近にはいつの間にかオーキスが佇んでいた。

 

「……私にはあなた方と戦う理由はありません。」

 

バレットは努めて平和的に現状を打破するべく、慎重に言葉を選んでヴィアナに語り掛ける。

バレットからすれば無用な争いは避けたかった。それになにより何故急にこういう展開になっているのかが理解できなかったからだ。

 

「貴女に戦う理由がないというのは、私が貴女の力量を試さない理由になるのですか?」

 

それに対するヴィアナの返答は酷く淡白だった。

ヴィアナからしてみれば、ただでさえ自身の来客であり大切な親友の沙耶が今回の事件に関わることに、本心では賛同しかねているのだ。

沙耶本人の意思を尊重してそれ自体を止めはしないが、それはそれとしてバレットの力量が信用に足るものでないのなら、彼女以外にもう一人護衛をつける算段をヴィアナは立てていた。

 

つまるところ、この諍いはヴィアナがバレットの力量を測るためだけに行われているのである。

少なくとも6割、半分より少し上程度の出力の異能による『ブースト』を掛けたオーキスに対応できないようなら、沙耶を完全に任せることはできない。

少々過保護気味ではあるがヴィアナなりに友人の安全を考慮した結果、彼女はそう結論を下していたのだった。

 

「……バレットさん、私のことは気にせずに思いっきりやっちゃってください。」

「いえ、ですが……」

 

二人の言い合いを見ていた沙耶は、重々しい雰囲気でバレットを見上げながら口を開いた。沙耶の口から出た言葉に少し驚きつつ、バレットは躊躇する。

 

「大丈夫です。万が一怪我させちゃっても今回は私が治しますから。……それに、これは流石にヴィアナちゃんがやりすぎですから。」

 

次いで沙耶は今回のことはヴィアナに非があると断言した。

沙耶もヴィアナが自身の身を案じてくれていることは判っている。しかし、時にヴィアナは今回のように傲慢な判断を下すことがあることも、沙耶は既に体験して知っているのだ。

……そういう時は決まって沙耶の姉が正面からヴィアナを止めていたのだが、いま彼女はここにいない。だから、ヴィアナを質せるのは自分たちだけだと沙耶は理解していた。

 

「バレットさん、これから私が知っている限りのヴィアナちゃんの異能を説明します。」

「……異能。やはり彼女も異能持ちなのですね。」

 

沙耶もヴィアナと同様に戦う人間ではない。だからこそ自分にできる手助けに全力を尽くす。今回でいうならば、自身の持ちえるヴィアナの情報の開示がそれに該当した。

 

「ヴィアナちゃんは『自分を信頼してくれる人の力を底上げ』することができます。このお屋敷の中くらいなら全域カバーできるみたいです。オーキスさん自身の素の力に加えて、ヴィアナちゃんからの支援がありますから絶対に油断だけはしないでください。」

「なるほど、ブーストというわけですか。……底上げとは具体的にどのような?」

 

バレットは沙耶のもたらした情報を吟味、自分なりに解釈して更に問いを返す。

 

「少なくとも反射神経とかの身体能力は飛躍的に上昇します。私も一度だけ経験がありますけど、その時は普段よりかなりいろんなモノが見えたし理解できました。」

「……上昇するのは単に身体能力だけではない、と。ありがとうサヤ、充分な情報でした。」

 

沙耶は自身の知っている限りのヴィアナの異能の情報を端的にバレットに伝えた。

知っているからと言って対策出来る類のモノではないが、知識があるのとないのとでは圧倒的に差が出るのもまた事実だった。

 

「お喋りはもう充分ですの?もう良い加減、待ちくたびれましてよ?」

 

沙耶とバレットの会話が一区切りついたタイミングで、ヴィアナは挑発するような声色で語り掛ける。

 

「えぇ、随分と優しい敵対者でありがたい。」

 

バレットはヴィアナの挑発に、不敵に笑みを浮かべながら同じように挑発でもって返礼する。

両者の視線がぶつかり合う。その瞬間、オーキスがそれを遮るように二人の間に割って入った。

 

「さて、それでは改めて見せていただきましょうか。狩人の力がどの程度のものか。……オーキス」

「承知しました、ヴィアナ様。」

 

ヴィアナは椅子に深く腰掛けたまま、老執事オーキスに主命を下した。

オーキスもまた主からの信頼に応えるべく、与えられた力を全身に行き渡らせる。

 

「バレットさん」

「えぇ。街を出るまで、貴女は私が守りましょう。」

 

ヴィアナとは対照的に、立ち上がり壁に背を預けた状態で沙耶はバレットの背中に向かって声をかける。

バレットはその声に、当り前のことを言うように極自然な返答をした。

 

そしてオーキスとバレットの両者がほぼ同時に一歩を踏み出した瞬間、甲高い金属音が室内に響く。

その音から一瞬遅れて、バレットはいつの間にか蹴り上げていた右足を降ろす。彼女は自分とオーキスの中間付近に転がっている刃物を視界に収めた。。

 

「……テーブルナイフ、ですか。それを執事が武器として扱うのはどうなのです?」

「御心配なく。これは私が個人的に所有している品ですので、皆様がお食事の際に使用する物とは保管場所も素材もすべて異なっております。混入することはありません。」

「そういうことを言っているのではないのですが……。」

 

オーキスの本気か冗談かもわからない発言をバレットは渋い顔で受け流しつつ、地につけた右足に力を籠める。

そしてそれを敵対している老執事に気取られる前に開放し、爆発的な瞬発力でもって床を蹴り一息にオーキスとの距離を詰める。

 

「流石に狩人をしているだけのことはありますわね。」

 

オーキスですら一瞬反応が遅れたバレットの急加速による接近を、客観的な視点でヴィアナは高く評価した。

最高出力の6割程度の力しか付与していないとはいえ、オーキスが一瞬反応が遅れるなど幼い頃から彼を知っているヴィアナからすれば驚くべきことだった。

 

バレットはそんなヴィアナの驚愕など全く気に掛けず、オーキスに拳を振るう。

バレットの戦闘法は、彼女自身の類稀な運動能力と磨き上げた戦闘技能の掛け合わせによるものだ。

その大部分は純粋な徒手空拳による力押しではあるが、それだけでは足りないと考えた彼女は靴に鉄部分を仕込んだり、特別素材の薄手のグローブを着用する等の一撃の威力を上げる為の創意工夫を凝らしていた。

 

「ですが、その程度でオーキスを倒せると思ってもらっては困りますわね」

 

バレットの振り抜いた拳は、一瞬反応が遅れていたオーキスの腹部を確実に捉えたはずだった。

 

「なっ!?」

 

しかし、彼女の拳は空を切った。確かに今までそこにあったはずのオーキスの上体がバレットの視界から掻き消えた。

先程まで眼前にあった標的が消えたことによりバレットは動揺する。そして、オーキスはその一瞬を逃すほど甘くはない。

 

「バレットさん下ですッ!」

「ッ!」

 

バレットの拳が直撃するよりコンマ数秒の差で地に付すように体勢を低くしていたオーキスは、カウンターとして体制を戻す勢いを利用した蹴り上げをバレットに繰り出した。

オーキスの放った蹴りはバレットに当たりはしたものの、沙耶の声に咄嗟に反応したバレットに防がれていた。

 

「今のを防ぎますか。……ですが」

 

バレットは蹴りを確かに防いだ。しかし、オーキスの放った攻撃はバレットの身体を浮かすほどの威力があった。

オーキスはバレットが着地した瞬間に生じるであろう無防備な状態を狙い、再びナイフを投擲する。

 

「ッ!」

 

容赦の無いオーキスの追撃を、バレットは投擲された得物が自身に突き刺さる前に強引に掴み取ることで対処した。

 

「……今可能な全力の投擲だったのですが、そうも容易く掴み取られてはコチラも立つ瀬がありませんね」

 

オーキスは不安定な体制から飛来するナイフを掴み取ることを選択したバレットに、ほんの少しの驚愕を覚えた。

 

「そう思うなら、貴方もヴィアナ嬢も少しは加減を覚えるべきだ。」

 

バレットは自身が先ほど掴み取ったナイフを乱雑に床に放り投げながら、高みの見物を決め込んでいるヴィアナとその従者に苦言を呈した。

バレットとしては無暗に街の人間に危害を及ぼすわけにはいかないのだが、ヴィアナはそんな狩人の世知辛い事情は知ったことではないようだ。

 

「加減ならきちんとしているではありませんの。」

「ヴィアナちゃん……」

「……。」

 

なんの罪悪感もなくそう断言するヴィアナの言葉に、沙耶ですら少し呆れているのが見て取れる程だ。そして、流石のオーキスも彼女に見えない角度で苦笑した。

 

「なるほど……。心労をお察しします。」

 

その彼の対応で、戦闘中だというのにバレットはなんとなくオーキスに同情してしまった。

 

「お心遣い痛み入りますが、私のことはお気になさらず。慣れておりますので」

「……オーキス?」

 

ヴィアナはオーキスの言葉に引っかかりを覚えたのか、怪訝な顔をした。

そしてその瞬間、再びオーキスが動いた。彼は次に投擲ではなく、先程のバレットと同様に間合いを詰めての近接戦闘を選択した。

投擲したナイフを掴み取られたことで、現状で可能な遠距離攻撃が有効打にならないと判断したようだった。

その動きを認識したバレットも、同様にオーキスと距離を詰める。

そしてバレットはオーキスの繰り出した初撃を往なし、そのまま彼の背後に回り込む。

 

「ッ、まだです!」

「いいえ」

 

オーキスは自身の背後に回り込んだバレットに追撃を加えるべく振り向き、渾身の力を込めて拳を振るう。

 

「終わりです」

 

バレットはその腕を掴み、振るわれた拳の勢いを利用するようにして彼を投げた。

 

「ガ、ぁッ!?」

 

鈍い音を響かせてオーキスはほぼ背中から床に叩きつけらた。

 

「せ、背負い投げ……」

 

沙耶が驚きと共に言葉を溢す。つい口をついて出たようで、沙耶はハッとした様子で口元を抑えた。それほどまでに綺麗に決まったのだ。

オーキスはそれでも立ち上がるべく床に手を着き、這い蹲るような体制で何とか身体を起こそうとする。

そんな彼の頭上では、バレットが漸く抜き放った自身の武器を構えていた。

 

「……まだ、私はッ」

「オーキス。」

 

彼ではなく、彼の主であるヴィアナに向けて。バレットは武器を構えていた。

抜き放たれたソレは、オートマチック式の拳銃だ。

バレットはそれを投降しない怪異存在に対する止めの手段として用いていた為、その銃はもはや対人仕様ではない。外見は一般的な拳銃だが、全てが文字通りの対化物特化の仕様に改造されていた。

そして、バレットが立っている場所は、倒れ伏したオーキスとヴィアナが綺麗に一直線上に並んで見える位置。

これ以上の無いチェックメイトだった。

 

「もう充分です、無理をさせてしまったわね」

「ヴィアナ様……。もったいないお言葉です……。」

 

オーキスはヴィアナの言葉を聞き届けた後、ゆっくりと身体を床に沈ませた。

 

「……やれやれ。随分と物騒なものを隠し持っていたものですわね、バレット?」

「どれだけ鍛えようとも、生身だけでは心許ないのは変わりませんので」

 

バレットは尚も構えた銃を下げないままで、ヴィアナと言葉を交わしている。

ヴィアナもその理由が解っているようで、軽くため息を吐いてから両手を上げて諦めたように頭を横に振った。

 

「良いでしょう、貴女と沙耶が共に調査することを認めましょう。」

 

その言葉を聞いたバレットは、すんなりと銃を下げて沙耶の元に歩み寄った。

 

「とりあえずは、オーダー完遂です。」

「お、お疲れさまでした?」

「……ふふ。えぇ、ありがとうございます。」

 

バレットと沙耶は戦闘において初めての勝利を収めた。

 

 




異能『従者』
保有者:ヴィアナ=フェリエット
概要:
自分を信頼してくれる相手の能力を底上げする。
向けられる信頼が大きいほど出力が上昇する。微調整可能。
一度に大勢に行使出来るが結果として総合値が下がる。
自分自身へは一切還元できない。


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【霧中】③

 

突如として始まった戦闘は呆気なく終了した。

主命に従った戦闘の結果として倒れたオーキスが、他の使用人たちによって別室に運ばれていくのを見送った三名は、先ほどより少々荒れてしまった室内で会話を再開した。

 

「見事な手並みでしたわ。6割とはいえ、私のオーキスを打倒したのですから貴女の技量は沙耶を預けるに値すると判断しました。」

「……。ヴィアナ嬢、貴女は少々友情が行き過ぎてはいませんか?」

 

自らの懐刀を打倒してみせたバレットに、ヴィアナは惜しみない賞賛と拍手を送っていた。

バレットはヴィアナのそのあまりの変わり身の早さに半ば呆れつつも肩を竦める程度で終わった。

 

「ところでさ、ヴィアナちゃん?」

「なんでしょう沙耶?」

 

上機嫌にバレットを称賛していたヴィアナに、沙耶は努めてにこやかに言葉を投げかけた。

 

「そろそろ隠してる事情も話してくれないかな?」

 

素晴らしい笑顔で沙耶はヴィアナにそう言った。言われたヴィアナはぴたりと拍手を止めて、ぎこちなく沙耶に向き直った。

 

「……なんの話です?」

「私はヴィアナちゃんのことは友達だと思ってるし、正直敵わないって思ってるけどさ?流石にここまであからさまだと私でも気付くよ?」

 

沙耶とヴィアナの付き合いは実のところまだそれほど長くはない。しかし、それでも彼女らの間には確かな信頼関係と友情があった。

そしてこれまでに沙耶が自身の中で築いてきたヴィアナのイメージと、今朝の彼女の行動のギャップによって、沙耶はヴィアナが何かを隠したままで会話を終えようとしていると勘付いたのだった。

それから沙耶は何も言わず、ただ黙ってヴィアナを見つめていた。

 

「……貴女には、本当に敵いませんわね」

 

結果として、先に折れたのはヴィアナの方だった。

 

彼女は項垂れるように首を垂れて、深々と重い溜息を吐き出した。

そしてゆっくりと面を上げてバレットと沙耶の両名を見据え、重々しく口を開いた。

 

「実は私たちがハイレンジア邸に赴いた日、つまり一昨日の話なのですけれど……ミハイルが失踪しました。」

「……確か、ハイレンジア邸まで馬車で送ってくださった方でしたね。」

「えぇ、その認識で間違いありません。」

 

確認するように呟いたバレットの言葉をあっさりとヴィアナは肯定した。

 

「ミハイルと連絡がつかなくなったのは昨日の朝方。バレット、丁度あなたが屋敷を出た後の事でした。……その後、予定時間を3時間過ぎても現れなかったため一部の使用人が捜索を開始し、数時間後には行方知れずとなっていることが確定したのです。」

「ミハイルさんが行く場所に心当たりとかはないのかな?」

 

沙耶は思ったことをそのまま口に出して問いかけた。ヴィアナもその質問は予想出来ていたのか、直ぐに返答が帰ってきた。

 

「1つだけ、ミハイルが一昨日の夜に人と会う約束をしていたと彼と仲が良かった使用人の一人が証言しています。……ですが」

 

ヴィアナは途中で言葉を詰まらせる。言うべきか否か悩んでいるようで数秒逡巡した後、続きを話し始めた。

 

「ミハイルが合う約束をしていた人物というのが、その……妙な話ですけれど、例のベリエード家当主殺害事件の際に馬車を捨てて逃げた御者だというのです。」

「え、けどその人って……昨日バレットさんから聞いた話だと街の外に追放になって今は近くにいないんじゃなかったの?」

 

沙耶の疑問も当然だった。錯乱してしまうほどの精神的ショックと自分から処罰を求めるほどに追い詰められていた人物が、再び事件に遭遇した街を訪れるとは考えにくいからだ。

 

「私も一度だけ件の御者とは会ったことがありますが、責任感の強い誠実そうな人物だったのは覚えています。なので、この件は何かの間違いか……」

「どうしても再び街に来なければならない事情があったか、その2択ということになりますね。」

「私としてはあまり身内だった方を疑いたくはないのですけどね……。」

 

ヴィアナは表情を曇らせて自身の心境をこぼすように小さく呟いた。バレットの言う2択の内の後者は、ヴィアナにとってあまり考えたくはない可能性だったようだ。

 

暫く沈んだ表情のままだったヴィアナはゆっくりと自身の前に置かれたティーカップを手に取り、少々冷めてしまっている紅茶に口をつけた。

そして再びティーカップを置いたときには、彼女の表情から影は消えていた。

 

「さて、私が話していない情報はこの程度ですけれど……次は貴女達がこれまでに入手した情報を教えていただきましょうか?」

「……もしかしてヴィアナちゃん、最初からそれが目的だった?」

「まぁ、こちらとしても情報の共有が出来るのは有難い話ですが」

 

バレットはヴィアナにこれまでの調査で得た情報を開示することにした。

ヴィアナ自身が言ったとおり、事件の当事者である御者が自分から追放処分になったこと。

バレットの来訪初日に彼女を襲った襲撃者が、既に捕らえられ且つ死亡していること。

異能を持たない人間に異能を発現させる『異能薬』なる物が存在している可能性があること

その情報をもたらしたのが、ハイレンジア邸で紹介されたシークという情報屋であること。

バレットはその辺りの事情と情報を、要約しつつヴィアナに話した。

横で聞いていた沙耶も昨夜既に聞かされていた情報ではあったが、自身の中で食い違いが無いか改めて確認するように集中して聞いているようだった。

 

「はぁ……。」

 

話を聞き終えたヴィアナは深々と溜め息を吐いてこめかみを抑えた。その表情はいつもの自信に満ちたものではなく、苦々しい事実を思い知らされたような険しいものになっていた。

 

「……あの男、まだ情報屋だなんて胡乱なことをやってましたのね。……しかも『異能薬』ですって?どうして今になってそんなものが……。」

「ヴィアナちゃん、『異能薬』のこと何か知ってるの?あとシークって情報屋さんのことも」

「え?あ……えぇ、一度彼をウチの使用人にスカウトしたことがありましたので……まぁ、にべもなく断られてしまいましたが。」

「あの情報屋とのことは分かりました。……薬の方は?なにか以前にも似たことがあったような口ぶりでしたが」

 

沙耶がヴィアナに問いかけた中で、彼女が何の返答も返さなかった部分をバレットは改めて問いかけた。

返答を避けた話題を再び振られたヴィアナは、観念したようにバレットと沙耶を再び見据えてから口を開く。

 

「……貴女達から聞いた『異能薬』という薬ですが、10年以上前にこの街の一部界隈で出回っていたことがあります。」

「え?」

「……ほぅ」

「当時、私もまだ幼かったので記憶が一部曖昧なのですが……お父様が頭を悩めていた時期があったのは覚えています。」

 

昔を思い出すように語るヴィアナの表情からは、事の深刻さがにじみ出ていた。……どうやら思った以上に厄介な事件みたいだと、沙耶はヴィアナの顔色から感じていた。

 

「ヴィアナ嬢、可能であれば貴女の父にも話を聞きたいのですが。」

「お父様に?考えは分かりますが、それは難しいですわね……。今現在お父様は国外を転々としていますから。緊急の連絡手段も……。」

「……そうですか。」

 

バレットの問いかけに、ヴィアナは言い辛そうに否と答えた。

記憶が曖昧だというヴィアナからでは、当時の話を聞くのは難しい。しかし、当時を知っているだろう彼女の父は国外にいる。

バレットはタイミングの悪さに歯噛みしつつ、それは単なる八つ当たりの感情に過ぎないと自制した。

 

「はい」

 

沈黙が支配する室内で、沙耶は小さく挙手をした。

 

「なんです、沙耶?」

「その10年くらい前の事件のことで、何か覚えている事とかない?曖昧でも全然大丈夫なんだけど」

 

沙耶は本人の記憶にしか手掛かりがないなら、いっそ出来る限りを聞いてみるしかないと判断しての発言だった。

 

「……。あぁ、そういえば……」

 

結果として、それは功を奏した。ヴィアナはポツリと、本当に今思い出したような珍しく間の抜けた表情で一言呟いた。

 

「『ダリア』」

 

そう呟いた自身の声に反応して、ヴィアナは目を大きく見開いていく。

彼女自身が今の今まで忘れていた数年前の記憶が鮮明に、昨日のことのように思い出されて行く様子が傍目からでも分かるかのようだった。

 

「当時の犯人ですが、確かお父様は『ダリア』と言ってましたわ。……そう、そうですわ。ダリア、えぇ、間違いありません。自分で言っておいてなんですが、私もこの名前には覚えがあります。」

 

それからヴィアナは、思い出せる限りで『ダリア』という人物についての記憶を沙耶とバレットに語って聞かせた。

 

ダリアはいつの頃からか霧の都の片隅に居付き、密やかな診療所を開設していた医師だったそうだ。

物腰は柔らかく穏やかな性格だったようだが、彼は診療所を経営する裏で研究者のような活動をしていたらしい。

その研究は悍ましいもので、自身を被検体とした異能の複製移植と制御法の確立を主題としていた。

彼が何を思ってその研究を始め、継続していたのかは誰にもわからないことだったけれど、その研究は部分的に実を結んだ。

その研究の成果物こそが10年以上も前に既に一度、霧の都に出回った『異能薬』だった。

彼が狡猾だったのは薬を流すのを貴族連盟が管理する表の流通ルートではなく、『裏の流通ルート』に絞ったという点だった。そのせいで連盟が事に気付き迅速な対処を行うのに、数日の遅れが出たからである。

その数日という時間が、彼に何をもたらしたかは誰にもわからない。

けれど一つだけ言える確かなことは……異能薬の製作者であるダリア本人もまた、事件収束の直前に、何者かに殺害されてしまっていたという事実だけだった。

 

「以上が、私が思い出せる範囲の以前の状況です。」

「……。研究者……か」

 

沙耶が思いを馳せたのは、自身の師とも呼べる存在となっている冴えない黒縁メガネの男性だった。彼と話に聞いたダリアという人物とでは、あまりにもタイプが違うということは沙耶自身分かってはいるけれど、それでも沙耶は少しだけ複雑な気分になった。

 

「ありがとう、ヴィアナ嬢。先程の話を聞けたのは収穫でした。」

「今の話が何かのお役に立つならばそれで構いませんが……。バレット、沙耶……貴女達はこれからどうするつもりですの?」

「私は、サヤと一緒にもう一度情報屋を訪ねてみるつもりです。……先ほどの貴方の話にもあった『裏の流通ルート』というのも気にかかる。」

 

情報を自身の中で整理し終えた様子のバレットは、スッと立ち上がって退室の意思を示しながらヴィアナの応えた。

沙耶もまた彼女に倣って立ち上がり、軽く体を解している。思ったよりも長く話し込んで少々凝っていたようだ。

 

「そうですか。なら、少しだけ助言しておきましょう。……彼に裏ルートのことを聞きたいのでしたら、『紫陽の花』という組織名を出しなさい。」

「『紫陽の花』?」

「ふふ、聞けばわかりますわよ。……ではお二人とも、お気をつけて」

 

キョトンとした様子で聞き返してきた沙耶に微笑みつつも、ヴィアナは明確な答えは何も返さなかった。

 

 

そして、しばらく後に屋敷を出た二人を窓から眺めつつ物思いに耽っていたヴィアナは、意を決したように面を上げて柏手を打った。

 

「お呼びでしょうか、ヴィアナ様」

「オーキス……あの二人が追っている事件のこと、当家も本気で事に当たることにしましたわ。」

「……。」

 

ヴィアナの宣言に、オーキスは何も答えずにただそこに佇んでいた。

命令が下されるのを待つ従者のように、ただそこにあった。

 

「止めませんの……?」

「私は、ヴィアナ様が幼少の頃から付き添わせていただいております。……それ故に、ヴィアナ様の思いは重々承知しているつもりです。」

「……そう、ありがとうオーキス。やっぱり貴方は最高ね。」

 

他の部下には見せない年相応の子供らしい僅かな不安の混ざった笑みを浮かべて、それでも自身の片腕とも言うべき頼れる従者にヴィアナは朗々と響く声で指令を下す。

 

「”今”のことは彼女たちに任せましょう。オーキス、貴方は手の空いている者と共に10数年前の『異能薬』の事件について可能な限り調べ上げなさい。期日は2日以内。その間に私はウォルロードとベリエードの現当主に当たります。2時間後に出立します、馬車の手配も並行して進めておきなさい。」

「承知いたしましたヴィアナ様。御武運を」

「えぇ、貴方も無理はしないように」

 

ヴィアナの労いの言葉を受け取ったオーキスは、普段よりも一層力強い足取りで部屋を出ていった。

その精悍な後姿を見送った後、ヴィアナは立ち上がり出立の準備を始める。

 

「さぁ、忙しくなりますわよ」

 



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【霧中】④

 

バレットと沙耶の二人はフェリエット邸を出立した後、バレットが先導する形で昨日彼女が話をした情報屋のいる小部屋に向かっていた。

……向かったところで今日もそこに目的の情報屋がいるとは限らないのだが、その場合はヴィアナに教えてもらった彼の隠れ家候補を虱潰しに巡る予定になっている。

人との会話による情報収集も確かに重要だが、バレットは自身の脚を使った調査もそれなりに経験があった。

 

「サヤ、まだ体力には問題ありませんか?」

「はい、全然平気です。これでもそこそこ体力はありますから。……あ、けど人の治療とかしちゃうとすぐバテちゃうんですけどね」

「そうですか。なら良いのですが」

 

バレットは沙耶の体力を気遣いつつ、彼女の様子から嘘は言っていないと判断して同じペースで歩を進めていく。

二人は既に人目の届かない路地裏の細道に踏み入っていた。

 

「……情報屋さんって、やっぱりこういう如何にもな場所に拠点作るんですね」

「まぁ、大手を振ってできる商売ではないでしょうからね。……ハイレンジア家が規制する前の情報も持っているとなれば、何かしらの裏事情に通じていても不思議はありませんから。」

「裏の事情……。それこそさっきヴィアナちゃんが言ってた『裏の流通ルート』とかですね?」

 

路地裏の暗がりを自身の後に続いて歩く沙耶の言葉に、バレットは短い相槌を返す。

そう上手い話もないだろうが、今回こそは進展するための情報を得たいとバレットは考えていた。

初日に自身を襲った者の死、異能薬と呼ばれる過去の亡霊の置き土産とも呼ぶべき薬品が関わっている可能性、そしてその過去を知る人物とは連絡がつかないときた。

バレットは既に昨日の時点で、この件は長引くだろうなと確信に似たものを感じていた。

 

「そういえば、もう一つヴィアナちゃんが言ってた『紫陽の花』っていったい何なんでしょう?」

「それは彼に直接聞くのが早いでしょうね。私達ではどうあれ知り得ない情報ですから……っと、ここですね」

 

バレットはとある廃屋の前でピタリと足を止めた。

沙耶もバレットに続いてその小部屋の前で立ち止まり、彼女の後ろから覗き込むようにして様子を伺った。

見た限りだと薄暗く、人が住んでいる雰囲気は感じられない小部屋だ。退廃的な雰囲気を醸し出しているし、好んで住む人がいるとはとてもではないが思えない。……それになによりドアが歪んでしまっている。

本当にここに情報屋が?沙耶はそう思いながらバレットの表情を伺うも、彼女の顔は真剣そのものだった。

そんな沙耶に気付かず、バレットは大真面目に昨日と同様の独特なノックをした。

 

『……誰か知らんが入って良いぞ』

 

中から籠った返事が聞こえた。……どうやら運よくここに居たらしい。

そのことに少し安堵して、バレットは沙耶を引き連れて情報屋の滞在する小部屋に入っていった。

 

「……何だ、またアンタか。」

 

バレットの顔を見るなり、情報屋のシークは面倒くさそうにそう言い放った。

 

「いきなり随分な物言いですね。何か貴方の気に障ることでもしましたか?」

「……そりゃあ家の扉蹴り壊されたら、こういう態度にもなるだろ普通。……で?そっちのそいつは何者だ?」

 

当り前のことを言うようにシークはバレットの問いに応えつつ、彼女と共に部屋に入ってきた沙耶に視線を向ける。

 

「いろいろあってバレットさんの助手をしてる者です。」

「助手?狩人の……?……どんな物好きだよ。」

 

シークは沙耶の返答に対して値踏みするような視線を向ける。対する沙耶はその視線を真っ向から受け止めた。

そのあまりに真っ当な対応に、シークは肩を竦めて自分から視線を逸らした。

 

「話があるならさっさと座れ。あと悪いが、今日のところは茶も珈琲も無しだ。まだ寝起きで体調が悪くてな」

「……もう昼間ですが」

「見ての通り不摂生な夜型生活してるからな。元々ここには眠りに帰ってるだけなんだよ」

 

言いながら彼はフードをさらに目深にかぶり直し、少々傷みが目立ちつつあるソファに座った。

それに倣ってバレットと沙耶が更に室内へ踏み込もうとしたとき、シークは不意に声を上げる。

 

「あー……悪いが、ドアはきちんと嵌め込んどいてくれ。……こう明るいと寝起きにはキツい」

「あ、わかりました。……え、重」

「私も手伝いましょう」

「その扉を昨日蹴り壊したのはアンタだけどな」

 

昨日扉を蹴り壊した時は、バレット自身気が付いていなかったことだが……この部屋の扉は鉄製だったようだ。

二人はゆっくりと慎重に、且つなるべく綺麗に扉を嵌め込んでからシークと対面する形で腰を下ろしたのだった。

 

「……それで、昨日の今日でお前はなにが聞きたい。」

 

薄暗い室内で向かい合い、シークは無駄な前振りは不要だと言わんばかりにバレットを見て言い捨てる。

 

「こちらも単刀直入に聞きましょう。……今日ここを訪れたのは、この街の流通に関する『裏ルート』の情報と、『紫陽の花』と呼ばれる組織の件についてです。」

「……へぇ?」

「……」

 

バレットの言葉を受けて情報屋は興味深そうに笑みを浮かべる。目元はフードによって隠れているのでわからないが、口角が小さく吊り上がったので恐らく笑みだ。

……そんなシークの反応を横で注視していた沙耶には、彼がこの展開を楽しんでいるように感じられた。

 

「……そこの東洋人が滞在してるのは確かフェリエットのとこだったか。ってことは、あの成り金女の入れ知恵だな?」

「私のこと御存知だったんですね」

 

シークが独り言のように呟いた言葉に、沙耶は直感的に疑問をぶつけた。

 

「あぁ、情報としてはな。当然顔は知らなかったし、正直言うと興味もなかった。」

 

シークは沙耶の疑問に答えながら彼女を一瞥し、その後すぐにバレットへと視線を戻した。

今現在バレットが身を置いて居るのはフェリエット邸だが、彼女を直接助けたのはヴィアナではなく沙耶だ。

その時点で、沙耶に関する何らかの情報は出回っていたのだろうとバレットは推測した。

 

「それで、本題についてあなたは何を知っているのですか?」

「……その前に一つこちらから聞きたい。他所から来た"狩人"が、そんなことを聞いてどうする気だ?」

「私は私の職務に則り、一連の事件を終わらせるだけだ。それ以上の思惑はありません」

「事務的だな、呆れるほど……」

 

シークはバレットの返答に辟易した様子で肩を竦めた。……それから数秒の間をおいて、改めて彼は口を開く。

 

「まず第一にアンタらが聞きたいその二つ、『流通の裏ルート』と『紫陽の花』は密接に関係してる。……勘だが、あの成り金女が俺に情報の出し渋りをさせないために持たせた情報だろ?」

「……」

「……」

 

話の流れからして彼の言う成り金女がヴィアナの事だと察しはついたが、シークの問いに二人は応えなかった。ヴィアナの思惑など二人は知る由もないので、当然といえば当然の反応だ。

もちろんシークも相手が余程の傍若無人でなければ情報を出し渋りはしない。適切な報酬と適切な対応をする相手を、無碍にすることを彼は好まない。

そう……例えば、ドアを蹴り破ったりしない限りは。

 

「実を言うと、昨日はアンタを門前払いするつもり満々だったんだが……アイツの紹介じゃ無碍にできなかったからな」

 

バレットはそこで自身の失態に気付いた。昨日の会談で自分はこの情報屋に、中途半端な情報しか与えられていなかったのだと。

 

「……では」

「勘違いされても困るが、与えた情報に関しては正確だぞ?核心に迫れるだけの情報を与えなかっただけで。これでも信用商売だから情報の正否には厳しくてな」

「うわぁ……」

 

悪びれもせずに言い放つシークに沙耶は思わず呆れた声を出してしまった。……すぐ気付いて口元を抑えはしたが、シークは特に気に留めた様子はない。

 

繰り返しになるがシークは適切な報酬と対応には正しく応じる。善悪抜きにして、それが彼のスタンスだった。

 

「……報酬は言い値で支払いましょう」

「いや、この件に関して金は要らん。代わりにそっちの、あー……川崎沙耶、アンタに聞きたいことがある」

「え、私ですか?」

 

不意にシークから話を振られて沙耶は驚いた。先程自分には興味がないと言っていた人物から、一転して聞きたいことがあると言われたのだから無理もない反応だった。

 

「別に良いけど、なんだその反応」

「いや、私に話振られるとは思ってなかったので」

「……あぁ、興味ないって話か?あれは過去形だからな、気にするな」

 

沙耶は独特な会話テンポのシークに対して、これはこれで我が強いタイプの人なのかもしれないと感じた。なるべく努力して良い感じに言うと、自分に正直だとかそんな感じだった。

 

「でだ、聞きたいことだが……お前、なんで狩人なんぞに協力してんだ?元々は一般人、ならこの件に関しても見て見ぬ振りを通せばいい。なのに何でそうしなかった?」

「……」

 

その口ぶりから、彼が狩人に良い印象を持っていないことを二人は感じ取った。

そして同時に沙耶は思い出す。

 

『助けた命に責任も持てないような人間が、軽率に人の命を救うべきではないわ。』

 

そう言ったイリスの目に宿っていた憐みの色を。

 

態度も口調も雰囲気も何もかも違うけれど、この目の前の情報屋にはイリス=ハイレンジアと同質の何かがあると沙耶は感じた。

 

「……私は」

 

沙耶はシークに正面から向かい合った。イリスに問われた時と違って揺れることはなかった。

 

「バレットさんやヴィアナちゃん……私の手の届く範囲だけでも手助けしたいと思った。だから協力を申し出たんです。責任をもって、見届けたいっていうのもあります。……だけどやっぱり、私の根幹は助けたいって気持ちなんです。」

「……。」

 

シークは何も言わない。ただじっと沙耶の言葉を聞いて、沙耶の様子を確認するように見つめているだけだった。

そうして数秒が経過した後、シークは溜息を吐いてから口角を歪めた。

 

「うん、なんとなく分かったが……。まぁなんというか、アレだ。バカだなお前」

「うぇ!?バカ!?」

「そりゃバカだろ。そんな理由で人助けする奴とか普通いねぇよ」

 

愉快そうに肩を揺らして、笑いながらシークは言う。それは先程までの不機嫌そうな様子ではなく、見た目よりも幾分か幼い印象を沙耶とバレットに与えた。

 

「……ただ面白い理由ではあった。だから、お前らが聞きたいことにも応えてやるよ」

「性格悪いってよく言われませんか、シークさん」

「いけませんサヤ。本当のことでも言ってはいけないことがあります」

「……追い出しても良いんだぞお前ら」

 

二人の会話に一転して苛立ちを顕わにしつつも、シークは言葉だけで追い出そうとはしない。

 

沙耶とバレットは、とりあえず情報提供のスタートラインには到達できたようだった。

 

 



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【霧中】⑤

 

「それで……あぁ、そうだ。『流通の裏ルート』と『紫陽の花』についてだったな」

「えぇ、聞きたいのはその二つについてです。そちらから話を振っていただけて良かった」

 

一通り話がまとまった後、シークが気まぐれで始めた珈琲の準備を終えて着席したところで改めて彼から話を切り出した。

自分から話を振ったあたり、どうやら今度こそ本当に出し惜しみする気はないのだろうとバレットは判断した。

 

「……とはいえ、どこから話したもんかな。」

 

シークは話を切り出したものの、その後の続け方を決めかねているようだ。

そのまま30秒ほど黙ったままで熟考している様子だったシークは、やがて思考がまとまったのか相変わらず砂糖を大量投入した珈琲を一口だけ飲んでから話を始めた。

 

「まず裏ルートについて簡潔な説明だが、あれは密輸入したほぼ違法の物品を市場に出さず消費者に流すためのものだ。……一般人はまず立ち入れない。立ち入ったところで碌なことにならない」

「……違法な物品というと、やはり」

「それ説明いるか?……銃火器ならまだマシ、薬物に手を出してる奴もいるくらいだからな。それらを一切表に流させなかったんだからベリエードの爺さんはよくやってた方だ」

 

わかりきっていたことを言うようにシークは言い、既に亡くなっている老人に思いを馳せていた。……まぁ、悲しみの色は一切含まれていないので別れを惜しんでいるわけではないらしいことは、沙耶とバレットにも容易に察せられた。

 

「で、それらを売り捌く相手はだいたいが街の外部にいる奴らか……街の中に巣食ってる裏側の連中ってことになる。」

「裏側の連中……あ、例の詳細不明の組織ってやつですか?」

「……あの成り金、仮にも友人だろうに何を教えてんだ」

 

シークは沙耶の発言にこめかみを抑えて吐き捨てるように呟いてから、あぁそうだよとため息交じりに彼女の発言を肯定した。

 

「で、お前が聞いてた詳細不明の組織ってのが『紫陽の花』だ。……悪く言えば無法者共の寄り合い。言い方変えれば、マフィアってことになるな。」

「……ふむ。ありえない話ではないでしょうね。この街の特殊な統治体制、聞き及んでいた警察組織と貴族連盟の軋轢。それを鑑みればその隙間に巣食う者達が居ても不思議はない」

「私には正直空想上の話って感じで実感持ててないんですけど、現実の話なんですね」

 

納得したように呟いたバレットの様子を伺いながら、沙耶は所感を述べる。

本来一般人である沙耶からすれば無理のない話だった。

……その時ふと、バレットは昨日聞いた話の中で彼が言っていた言葉を思い出した。

 

「もしや昨日貴方が言ってた『ある一団』というのは……」

「察しが良いな。そう、ある一団はそのまま『紫陽の花』のことだ。ちなみに裏ルートを運営してるのも紫陽の花なんだよ。」

 

そこで彼は一度間を置いて、珈琲を一口飲んでから言葉を続けていく。

 

「……つまりは連盟でいう所のベリエードの役割を、マフィア組織が担ってるってことになる。……だいぶ繋がって来たんじゃないか?」

 

底意地悪そうな笑みを浮かべる。バレットにそう問いかけるシークからは、目元が隠れてはいるが楽しげな雰囲気が伝わってくる。

 

そんなシークの様子を気に留めることなく、昨日得た情報と今彼が提供してきた情報を整理していく。

 

数日前にバレットを襲撃したある一団の構成員だった人物は、『異能薬』を用いて自身に異能を発現させた。バレットを狙った行動だったのか、それとも突発的な無差別行動だったのかは不明。

しかし、その男の死因自体はまず間違いなく薬による身体の変化に耐えきれなかったことだろう。半身が獣のように変容したままだったことがその証拠にもなる。

そしてその男が所属していた組織は『紫陽の花』、『裏ルート』を運営できるということから如何に強大かを伺い知ることができる。

 

「……。」

 

そこでバレットは違和感に気付いた。

 

「シーク、少し聞きたい」

「……。」

 

シークは何も応えない。ただ黙ってバレットの言葉続きを待っている様子だった。

 

「私を襲撃してきた紫陽の花の一員だったらしい人物は、どこから『異能薬』を手に入れたのですか?」

 

バレットがその問いを口に出した瞬間、シークの纏う空気が変わった。……戦闘については全くの素人である沙耶ですら、その変化に気付けるほどだった。

 

「……先日の貴方の言葉を全て信じるのであれば、貴方の調査でも異能薬の事実性は確認できなかったと聞きました。『紫陽の花』の長が誰かは知りません、しかし昨日の貴方の物言いから察するに貴方と組織の長は交流があるのでしょう?」

 

バレットの紡ぎ続ける言葉を聞きながら、シークはゆっくりと目深に被ったフードを脱いで、その素顔を二人に晒す。顕わになったその瞳には、剣呑な色が隠されることなく灯っていた。

 

「……いえ、そもそも貴方に異能薬の出どころの調査を依頼した人物は」

「バレット=ガットレイ」

 

そしてバレットがその問いかけを口に出そうとした瞬間、シークは彼女の名を呼んで強引に彼女の言葉を遮った。

その声には有無を言わせない強制力の様な力強さがあり、先ほどまでのダウナーな印象からは考えられない迫力が伝わってくる。

 

「……顧客の情報を与えることはできない。無理にでも聞き出したいなら俺を殺した後で聞き出すことだ」

 

だというのに、シークが発した言葉は何とも締まらない内容だった。

戦う前から気圧されかねない迫力を伴いながら、端から自分がバレットに負けることを前提とした台詞を大真面目に言い放つシークに、沙耶とバレットは一瞬で毒気を抜かれた。

しかし一方でその言葉からは、殺されたところで教える気はない、という明確な意思が読み取れた。

 

「顧客情報はともかく、薬を手に入れた経路についてだが……外部から『紫陽の花』以外の小組織の売人グループに流れて、それを使ったってとこだろ。……断っておくが、これに関してはただの憶測で成否の保証はできないんだがな」

 

……要するにどこから薬を入手したかに関しては、シークも現状では把握しきれていないらしい。

顔を晒したうえで、そこまでハッキリ言い放つ以上そこに嘘は無いようだった。

 

「ちょっと、聞きたいことができました」

「ん?」

「その、さっき『紫陽の花』以外の小組織って言ってましたよね?……それってえっと……組織間の上下関係?みたいなのってあるんでしょうか?」

 

沙耶が何かに気付いたように問いかけた質問にシークは驚いたようで、数秒反応するのが遅れていた。

 

「……。いや『紫陽の花』は裏ルートを管理運営してる組織ってだけで、その他の小組織と上下関係はないはずだ。」

 

沙耶の言葉の意味を正確に汲み取り、シークは淀みなく返答した。

 

「そっか……じゃあやっぱり『紫陽の花』のリーダーさんは、『異能薬』を流した人とは敵対してるってことなんですね?」

「……そうか。」

 

沙耶の言葉で、バレットも気が付いた。

もしも異能薬が裏のルートで流れているのなら、シークがその事実性を確認する必要はない。そんなことをしなくても長にはすぐに出所が分かるからだ。

なのにわざわざシークに依頼した。それはつまり、名前も知らない『紫陽の花』の長はなんらかの理由で薬の製造者または売人組織に思う所があるということになる。

そして状況証拠のみだが、組織の長とシークは何らかの関係があるのは明確だ。

……長の思惑が善意にしろ悪意にしろ、協力関係を敷くことは充分に可能なのではないかとバレットは判断した。

なにしろ『紫陽の花』からは既に構成員から犠牲が出ているのだから、是が非でも下手人を探し出そうとするのは当然の流れだからだ。

 

「シークさん。ここからは情報提供の依頼じゃなくて、個人的なお願いになります。」

 

沙耶はバレットの反応から自身の考えが間違えていなかったことを確信し、シークの眼を真っ直ぐ見つめて言葉を続ける。

 

「『紫陽の花』のリーダーさんに私たちを会わせてください。……きっと、私たちは協力できると思うんです。」

 

真剣に、真っ直ぐに。沙耶はシークに訴えかける。交渉の場だというのに裏の無い真っ直ぐな言葉だった。

シークは、沙耶の言葉を真っ向から受け止めて……。

 

「……断る」

 

その申し出をはっきりと拒絶した。

 

「理由は2つだ。……1つ、この件に関しては他者の介入は不要だとアイツ自身が言っている。2つ目は……単純に相性だ。」

「……相性?誰と誰のです?」

 

バレットは問いかける。シークはそれに対して、分かりきっていることを言うように返答する。

 

「決まってんだろ。川崎沙耶……アンタはアイツと協力するには優しすぎる。」

「……彼女と組織の長は会ったことがないというのに?」

 

バレットは言葉を選ばないシークに、懐疑的な目を向けている。

 

「アイツは他人の協力なんて求めてない。だから仮に今日ここに来たのが狩人だけだったとしても、その申し出は断っていた。」

 

バレットの視線をものともせず、シークは言葉を続ける。そこにあるのは否定、断絶。歩み寄る相手に、これ以上を許さない明確な拒絶だけだった。

 

「……わかりました。急に変なこと言ってすみませんでした」

 

沙耶は力なく苦笑して、シークの言葉を受け入れた。

……しかし、裏ルートと紫陽の花の情報を入手するという本来の目的は既に達成していた。

悲観するような結果では断じてなかった。

 

「良いよ別に。ただ、誰も彼もが救いの手を素直に掴んでくれると思わない方が良い。頑固で偏屈な奴ってのは……いつの時代、どこの世界にもいるもんだからな。」

 

沙耶の謝罪を受けて、シークは視線を逸らして呟くようにそう返した。……本人に指摘すれば否定するのだろうが、恐らくは彼なりの優しさの発露なのだろう。

 

「……」

「……」

 

沙耶とバレットは、その言葉を受けて意外そうな目でシークを見る。……シークは不機嫌さを隠すことなく再びフードを被り直してから、まるで追い払うように手を振った。

 

「聞きたいことがもう無いならさっさと出て行け。こっちもこっちで忙しいんだよ。」

「……あぁ、はい。それでは私たちはこれで」

 

バレットは立ち上がってシークに一礼し、そのまま無理矢理嵌め込んだ扉に近付いていく。

 

「ありがとうございました」

「……」

 

シークは沙耶の唐突な感謝の言葉には何も返さない。沙耶も返事は期待していなかったのか、ドアを外しているバレットの元に歩いていった。

 

「手伝いましょうか?」

「いえ、すぐ終わります」

 

鈍い金属音を響かせてドアを外し退室した二人は、外側から可能な限り丁寧に鉄製の扉を嵌め直してから去っていった。

 

……陽光の中に消えた二人を室内の暗がりから見送り、シークは苦々しい溜息を吐き出した。

 

「……調子が狂う。」

 

その目にはバレットの言葉を遮った時と同様の、剣呑な色が顕わになっている。

 

「仕事熱心なのは結構だが……俺たちの邪魔はしてくれるなよ?出来れば人は殺したくない」

 

砂糖を大量に入れた珈琲を飲み干し、天井を見上げながらシークはそう言った。

そしてしばらく、そのままの状態で思考を巡らせた後、彼は部屋の闇に溶け込むかのように閉じた室内から姿を消したのだった。

 

 



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【霧中】⑥

「ごめんなさい、バレットさん」

「何の話です……?」

 

シークの拠点を去った二人は、一旦落ち着くために大通りで見つけた手頃なカフェのテラス席に腰を下ろした。

注文を済ませて運ばれてくるのを待っていると、唐突に沙耶がバレットに対して謝罪の言葉を口にした。

バレットは何故急に謝られたのかわからず、訝し気な表情で沙耶に聞き返す。

 

「協力出来たかもしれないのに、私のせいで断られてしまいました……」

 

どうやら沙耶は、『紫陽の花』の長と協力関係を築けなかったのは自分があの場に居たからだと思っていたようで、本当に申し訳なさそうに項垂れている。

 

「……顔を上げてください、沙耶」

 

そんな沙耶の顔を正面から真っ直ぐに見据えて、バレットは言う。その声色に沙耶を責めるような雰囲気は一切なかった。

沙耶はゆっくりと顔を上げると、すぐにバレットの瞳と目が合った。

 

「その件に関して、貴女が責任を感じることはありません。私だけであったとしても、『紫陽の花』の長には協力を申し出ましたから」

 

言い終わってバレットは思い返すように瞳を閉じた。それからたっぷり5秒ほど間を開け、再び沙耶と視線を合わせて口を開いた。

 

「それにあの情報屋も言っていましたが、私だけでもまず間違いなく断られていたでしょう。……協力関係というのは、今朝のヴィアナ嬢のように双方に協力の意思がなければ成り立たない。……ですので、どうあれ彼らと今日手を組むことは難しかったと思います」

「……なるほど」

 

バレットが言っていることも最もだと沙耶は理解した。

協力しようと片方が手を伸ばしても、差し出された側がそれを払い除ければ意味はなくなる。

 

『誰も彼もが救いの手を素直に掴んでくれるとは思わない方が良い』

 

……一方的に掛けられた言葉だったけれど、もしかするとアレは僅かばかりの気遣いからくる言葉だったのかもしれない。沙耶は不思議とそう思った。

 

「お待たせしました、ご注文は以上でよろしかったでしょうか」

「えぇ、ありがとうございます」

 

沙耶が思考を巡らせていると、注文していた品を店員が運んできた。

とりあえず今はお昼を食べて、気を休めることにしよう。

そう思い、沙耶は運ばれてきたサンドイッチを食べ始めた。

どうにも結構歩いて疲労もたまっていたようで、沙耶にはソレが普段の食事以上に美味しく感じる気がして、無意識に少しだけ頬が緩んだ。

 

「……ふふ」

「ん?どうかしましたか、バレットさん?」

 

バレットは自身の前に置かれたものには手をつけず、沙耶を見て小さく笑みを溢していた。

それを沙耶に指摘され、バレットは気の抜けたような雰囲気のままで素直な言葉を返すのだった。

 

「やはり、貴女にはそういう笑顔が似合いますね」

「そうですか?自分ではよくわからないんですけど」

「えぇ、そうです。日常の中に喜びを見出して、そんな風に笑えるのは美徳です。大事にしてくださいね」

「……わかりました?」

 

いまいちバレットの言葉の意味が解らなかった沙耶は、サンドイッチをまた一口食べながら疑問符混じりの返事を返したのだった。

 

暫くして……昼食代わりの軽い食事を済ませた二人は、今後の方針を話し合うべく真剣な面持ちで話し合いを始めていた。

 

「それで、これからどうしましょうか。」

「……一応の方針として、ここからは地道に足を使った聞き込みと調査になりますね。いっそ犯人側から何か仕掛けてくれれば手っ取り早いのですが」

「手っ取り早いって……」

 

大真面目に呟くバレットに、沙耶は苦笑する。

足を使って調べるのは常套手段だろうが、後者は要するにわざと襲われて迎撃捕縛するという極めて乱暴な囮捜査ということになる。

……確かに手っ取り早いのだろうが、リスクが高すぎるように沙耶には感じられた。

 

「……あの、一度警察関係から情報を提供してもらうっていうのはダメなんでしょうか?」

 

少し考えて沙耶は提案をする。大きな騒ぎにこそなっていないが、ここまで長引いている事件なのだから警察にも何か動きがあるだろう。そう考えての発言だった。

 

「それは……あまり意味は無いでしょうね。」

 

しかしバレットは沙耶の提案に首を横に振った。

 

「他の街なら、それはむしろ最初に取るべき行動でしょう。ですが、ココは他とは事情が違う。……恐らく、事件に異能が絡んでいると判った時点で捜査権は警察から貴族連盟に移っている」

「そういえば、ウォルロードっていう家が警察との折衝役でしたよね」

「えぇ。……現状そのウォルロード家に目立った動きがないということは、既に2組織間での調整は終わっていると考えるべきです。その状況で警察に協力を仰いでも、メリットは薄い。」

 

バレットは自身の考えを沙耶に伝える。……事実として、その判断は正しかった。

異能が絡んだ事件である上に、その被害者は連盟盟主の一人。表面上は友好関係を保っているが水面下抗争が絶えない関係である以上、敵対している組織の盟主の一人が倒れた事件に介入しても警察に旨味が無い。

しかも下手に手を出せば、自分たちの身内からも犠牲者を出しかねないのだ。ますますもって動く意味がない。

 

「綺麗ごとだけでは成り立たない世の中とはいえ、柵に囚われて動かないのは愚の骨頂ですけどね」

 

バレットは呆れている内心を晒すように肩を竦めて、少々冷めてしまった珈琲を飲む。

沙耶は自分が聞いていた以上に、街の内情はややこしいことになっているらしいと改めて理解した。

……そして、ウォルロード家がダメならあそこならどうだろう?と思いついた。

 

「ウォルロード家がダメなら、シークさんを紹介してくれたハイレンジア家ならどうでしょう?……情報統制が役目でしたよね?」

「最初に赴いてからあまり時間は経っていませんが、何か別のルートから情報を得ている可能性もありますか……」

 

沙耶に言われてバレットは考える。……確かにその案は有りだ。何かしらの情報は得られるだろう。

ただ少々タイミングが早い。もう少し……少なくとも2日か3日は間を開けるべきだと判断した。

バレットはその判断を沙耶に伝えるべく、口を開いた。

 

その時、バレットの前に置かれていたティーカップが乱暴な音を立てて弾けた。

……より正確に言うと、飛来してきた何かによって撃ち砕かれたのだ。

 

「ッ!サヤ!」

「え?」

 

バレットは咄嗟に沙耶を抱きかかえて最高速度で走り出す。

先程まで自分たちが座っていた席が一瞬で後方に逃げていくのを認識して、沙耶はようやく自分を抱き上げたバレットが地を駆けていることを理解した。

 

「な、なにごとですか!?」

「舌を噛みます、あまり口を開かないように」

 

数秒と掛からずに路地裏に駆け込んだバレットは、極力射線を切るように物影に身を潜めてから沙耶を降ろした。

 

「……どうやらアチラから仕掛けてきたようですね」

「……。」

 

沙耶もその言葉で、どうやら自分たちは襲撃されたらしいと状況をある程度察した。

 

「沙耶はココで待機を。……狙撃音は聞こえませんでしたが、恐らく敵は1人。囲まれていないならやりようは幾らでもあります。」

「……いえ、ちょっとだけ耳を貸してください。」

 

バレットはすぐに立ち上がり敵の迎撃に出ようとするが、沙耶がそれを制止した。

そしてバレットの耳元に顔を寄せて、小さく何事かを囁くように呟いた。

 

「……本気ですか?それでは貴女が」

「私なら、大丈夫です」

「……。わかりました。お願いします。」

 

 

 @ @ @

 

 

「……。」

 

標的の女性が少女を抱えて駆け込んでいった路地を、私はスコープ越しに見据え続けていた。

あの路地から表通りに出るの道は他にない。

仮に他の場所から出たところで、そこは川に面しているため、ある種の行き止まりになっている。

……だから私はココで待ち続けるだけで良い。

 

「……。」

 

見張り役の同行メンバーから合図はない。

万が一、他の場所から脱出を図った場合は合図で知らされることになっていた。

私は変わらずにココからスコープを覗き続けて、標的が出てくるのを待った。

 

そして、緩慢にも思える時間が数秒過ぎたとき……路地から人が出てきた。

それを認識した瞬間、私は無感情に引き金を引いた。

 

「……な、に?」

 

……襲ってきたのは酷い動揺。何故という疑問と底冷えするような寒気にも似た感情が脳裏を支配する。

路地から一人で出てきたのは、バレット=ガットレイではなく……何故か彼女に同行している東洋人の少女、川崎沙耶。

その彼女が、私が撃ち抜いた肩口を抑えながら地面に倒れ込んでいく。その様子が酷くのんびりとした動きに見えるほど、私の体感時間は引き延ばされていた。

やがて彼女は、その身を冷たい地面に横たえて……そのままの態勢で苦し気に身動ぎをしている。

我ながら無様なことだが、たったそれだけのことで私は動揺した。

 

「どうして彼女が……いや、それ以前に」

 

何故、先に彼女が路地から出てくる。

 

「そこまでです。」

 

……ソレはいつからそこに居て、いったいどうやってココまでやって来たのか。

 

「……」

「銃器から手を放し、ゆっくりと頭の上で手を組みなさい。」

 

後方で、極めてすぐ近くで、恐らく銃を構えているのだろう狩人の声が耳に届いた。

 

……これはマズいことになった。

私は顔に被ったフードと仮面の下で、秘かに冷や汗をかきながらゆっくりと手を頭の上で手を組んだ。

 

 

 @ @ @

 

 

「……単刀直入に聞きますが、貴方は誰の指示でここに来たのです」

 

バレットは油断なく銃を突きつけながら、頭の上で手を組んだ状態の人物に問いを投げた。

体格からして、性別は恐らく男性。しかしフードを被られていてはそれ以外は何も判らない。

 

この後の状況を数パターン想定しつつ、内心でバレットは安堵していた。

沙耶がバレットに耳打ちをしたのは、自分が囮になって撃たれた隙に撃った人を捕獲してください、という内容だった。

沙耶の癒す力は、他者に使う場合は相応の疲労を伴うが自身に使う場合はその限りではない。最初から撃たれると覚悟していれば、撃たれた部位を即座に治すのは容易い。故に、傷みは撃たれた瞬間だけになる。

……それでも激痛は激痛だ、当たり所が悪ければ死ぬ。

バレットは再び目の前の人物に集中するべく短く息を吐いて、横道に逸れかけていた思考の照準を合わし直した。

 

「……」

「聞こえていませんか?答えないなら撃ちますが。」

「……」

 

目の前の人物は動かない、何も答えない。……バレットは答える気はないのだろうと考えて、引き金にかけた指に力を掛ける。

 

「……ッ!」

「ッ!」

 

乾いた音と共に、血が飛び散る。バレットは何も応えない人物の右腕を狙い通り正確に撃ち抜いた。

そしてその瞬間に、男は弾かれたように駆け出した。バレットにとってそれは想定外の行動だ。

普通、人間は痛みを受ければ思考も動きも鈍る。しかし男の動きには、痛みによる劣化が一切感じられなかった。

バレットは歯噛みしつつ、逃げ出した男を追う。仮に男に仲間がいたとしても、先ほどの自身の銃声で撤退を開始しているだろう。

そう判断し、他の違和感を遮断して目の前の男にのみ注意を向ける。

 

逃げる相手を追うバレットの姿は、狩人の称号に相応しく鋭利だ。

数舜早く駆けだしたリードがあるはずの男との距離は、もう目と鼻の先までに詰まっていた。

 

「ッ」

 

男の舌打ちが聞こえた。

バレットは自身の感覚が研ぎ澄まされていくのを実感する。いつも通りに自身を一個の武器へと錬磨していく。

路地裏での追走劇、それは男の次の行動で舞台を変えることになる。

 

男は走りながら何かを足元に転がした。

バレットは転がされたそれを一瞬視界に収め、考えるよりも先に目を覆った。その瞬間、眩い閃光が路地裏を支配する。

1秒にも満たない光の奔流……その間に目前まで迫っていた男の姿は路地裏から消えていた。

 

「……」

 

バレットは集中して周囲を探る。そのどこにも追っていた相手の姿はない。

そしてふと、両側の建物によって視界が狭くなっている空を見上げる。

 

「……なるほど」

 

呟いてから間を開けず、バレットは三角飛びの要領で壁面を駆けあがっていく。

そして駆け上がった先の建物の上で、息を整えていた様子の仮面の人物を再び視界に捉えた。

 

「しつこいな……」

「そう易々と逃がしはしません。……しかし、貴方の動きは目を見張るものがある。明らかに一般人ではない。……何者です?」

「……」

 

男は一言だけ吐き捨てるように呟いてから、再び固く口を閉ざした。バレットが撃ち抜いた腕からは血が滴っている。

……ただの人間が、この負傷でここまで動けるだろうか。

バレットは注意深く、目の前の人物との距離を測る。……路地裏の暗がりから抜けた以上、もう閃光を気にする必要はないが、警戒は解かないことにしたようだった。

 

「……あまり、好き勝手動かないで欲しいものですね。仕事が増えて仕方がない」

「……」

 

バレットは男が呟いた言葉を注意深く聞き取り、そしてどう返したものかと判断に迷っていた。

仕事とは誰からの?何の目的で?何故私達を狙ったのか?

聞きたいことは多々あった。……しかしそれは叶わなかった。別に考えすぎたわけではない、思考に掛けた時間は極僅かだった。

ただその極僅かな時間が、男が懐から煙球を取り出して叩きつけるには充分過ぎたというだけだ。

 

「ッ!」

 

突然の煙幕に、バレットは思わず舌を巻いた。あまりにも用意周到過ぎるからだ。

閃光、煙球に狙撃銃。個人の力だけで準備するには、少々大掛かりすぎる。

 

『……銃火器ならまだマシ、薬に手を出してる奴もいるくらいだからな。』

 

先程の人物が『紫陽の花』の関係者であるのなら、それらの装備を整えるのは容易だろう。

もしかすると私は協力関係を敷くどころか、『紫陽の花』の長と敵対してしまったのかもしれない。

脳裏を過ぎったその可能性に一抹の不安を覚えながらも……バレットは漸く煙が消えて見晴らしの良くなった周囲を見渡した。

 

「……逃した」

 

先程まで男が立っていた場所に立ち、苦々しい表情でバレットは呟いた。下を見降ろすと、そこには河川。

……荒々しく波紋が立っているのを見るに、どうやら男はこの河川に飛び込んだようだ。

 

「……」

 

これ以上は考えても仕方がない。そう判断して、バレットはその場から踵を返して沙耶の元に駆け出したのだった。

 

「サヤ、無事ですか」

「……あ、バレットさん。はい、こっちは大丈夫です。この通り無傷ですから!」

 

別行動を開始した場所に自力で戻っていたのか、沙耶は血にまみれた恰好のままでバレットに無傷であることをアピールした。

……確かに血は止まっているし、バレットを治した時とは違って疲労も全く残っていないらしい。

しかし……。

 

彼女は歪だ。

 

バレットはそう感じざるを得なかった。

この少女の過去に何があったか、自分は何も知らない。お互いの深い部分に踏み込むような会話は、何一つしてこなかったからだ。

だが先程の作戦を自然に提案するところや、こんな様子を見せられてしまっては……その違和感に見て見ぬ振りはできないとバレットは思った。

 

「そういえばバレットさんの方はどうでしたか?」

「……サヤ」

「はい?」

「話は後でしましょう」

「……?」

 

バレットはそれだけ伝えると、上着を脱いで沙耶にそれを羽織らせる。そのまま再び沙耶を抱え上げて、今度はゆっくりと路地裏を歩き始めた。

 

「ちょ!もう普通に歩けますよ私!」

「ダメです。怪我人は大人しく運ばれてください。」

「怪我なんてもうしてないですってば!」

 

遠回りにはなるが、今の沙耶の服装は表を歩けば人目を引く。

バレットは道なき道を自身の人並み外れた身体能力をもって、強引に進んでいく。

逃げた男の残した武器を回収するため、男が潜んでいた場所に赴く。

 

「今日はもうこれ以上探っても成果は望めませんので、一度フェリエットの屋敷に戻ります」

「……あ、はい。……わかりました」

 

そこから先程と同じ要領で上に駆け上がり、平然と屋根を渡り歩きながらフェリエット邸に向かって歩き続けた。

 

息一つ乱すことなく、沙耶と銃火器を抱えたままで超人染みた動きを見せるバレット。

その腕の中で彼女を見上げ、沙耶はそのあまりにも揺るぎない圧倒的な性能を肌で感じた。

 

そして自分には彼女に対してそんなことを思う権利はないし、あまり良くないことだと解っていたけれど、沙耶は不安に思ってしまった。

 

この人、人間として大丈夫なのかな……と。

 

圧倒的な力というのは、時として孤独を生むものだから。

 

 




川崎沙耶
異能:補足情報
自身に対してはフルオートで発動する。
治療速度の加減速のみ可能。
治療しない選択肢は取れない。
ほぼ即死以外では死なない。


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【霧中】⑦

あれから3日が経過した。

 

バレットと沙耶は3日間でもう一度銃火器を用いる人物から襲撃を受けはしたが、それ以外は特に何もなく、事件に関しても進展はしなかった。

襲撃に対してもバレットが矢面に立って捕縛を試みるも、後一歩という所で逃げ果せられてしまったため有益な情報は得られていなかった。

……それでも複数人からの砲火を全て掻い潜り、ほぼ無傷で襲撃者を追い詰めるバレットの戦闘センスは人間離れしていると言わざるを得ない。

 

バレットは2度の襲撃に関して、霧の都を訪れた初日の襲撃とは別の思惑によるものだろうと推測していた。

理由を挙げるのなら初日は単独犯で、2度の襲撃は複数犯であるという点。並びに、用いられる凶器も背後から自身を穿った近距離武装……恐らくは異能薬によって発現させた異能を用いた犯行……と、銃火器や煙幕という小細工を用いてくるという差異。

これらの違いから裏で糸を引いているであろう人物が別人である可能性を、バレットは感じていた。

 

そして、そんな二人は……。

 

「では、いきましょうか」

「はい、今日も頑張っていきましょう」

 

今日も今日とて散策を兼ねて霧の都の調査をするべく、フェリエット邸から出立するところだった。

沙耶が初めてバレットに同行した日から数えて、今日で4日連続の行動である。

 

「今日はまだあまり調査できていない部分……ちょうどハイレンジア家の付近になりますね。その辺りの調査をしましょうか。」

 

ちなみに二人は3日の内に流通を管理しているベリエード家の、当主代行から話を聞くことに成功していた。……だが、これといって新しい収穫はなかった。

前当主の御老人が急に亡くなったことによる引継ぎの不備と、それでも滞らせることの出来ない日常業務に追われて、未だにベリエード家は落ち着きを取り戻していないらしい。

……しいて言うのであれば、収穫らしい収穫はその事実が分かったことくらいだろう。

 

「ハイレンジア家の近く……あ、話聞いてみるんですか?」

「えぇ、そのつもりです。沙耶が提案してくれてから既に3日、彼らが何か新しい情報を得ている可能性も高いでしょうからね。」

 

沙耶はイリスのヴィアナとは全く違った不敵な笑みを、バレットはアルエの油断ならない佇まいを思い返して、内心で秘かに気を引き締めた。

そして二人は一見穏やかに話し合いながらも、真剣な面持ちで屋敷の外に通じる扉を開けようとした。

 

「お待ちなさい沙耶、それにバレットも。」

 

その時、二人の背後から突然有無を言わさぬような圧力を感じさせる声が響いてきた。

何事かと二人が振り返ると、そこにはオーキスやゴルドを含めた5人の使用人を引き連れて二人に歩み寄ってくるヴィアナの姿があった。

 

「ど、どうしたのヴィアナちゃん」

 

沙耶は思わず不安そうな声色でヴィアナに問いかける。ヴィアナは一瞬毒気を抜かれたような顔をしたが、すぐに真剣な表情に戻って二人を見つめる。

 

「どうしたの、ではありませんわ。貴女達……今日で何日連続かわかってますの?休みなく今日で4日目。いい加減に一度休みなさい。」

 

ヴィアナは毅然とした態度でそう言い放つ。

連日調査を続けて方々を駆けまわっているバレットと沙耶を心配しての事だと思いそうになるが、それにしては言葉の節々に怒りの色が滲んでいた。

……沙耶はヴィアナの怒りに気付いき、更にその原因にも心当たりがあった。

 

「……もしかして、怪我したの説明しなかったから怒ってる?」

 

沙耶は内心ではもう治ってるけどと付け足したが、明らかに藪蛇だと思ったから言葉には出さなかった。

 

「?、サヤの傷はもう完治していますし、活動に支障はないと思いますが?」

「ちょ、バレットさん!?」

「はい?」

 

バレットは沙耶が回避した地雷を力の限り踏み抜いたのだった。

バレットの名誉のため、彼女に悪気は一切ないということを一応ではあるが明言しておく。

事実は事実として受け入れるバレットの価値観が、致命的なまでに悪く働いた結果だったというだけだ。

 

「……愉快なこと言いますわねぇ、二人とも?」

「!」

「!」

 

その声にバレットは言い知れぬ危機を感じ、沙耶は早々に大人しく降参することを決定した。

 

ちなみに委縮しているのはバレットと沙耶の二人だけではない。オーキス以外のゴルドを含めた4人の使用人も、一様にヴィアナの言葉に射竦められている様子で彼女の様子を窺っているようだった。

普段から彼女に仕えている使用人ですらオーキス以外は不用意に動けない。

……早い話、それくらいヴィアナは怒り心頭の状態だった。

 

「私が怒っているか否かで言うなら、いっそ清々しいくらいに怒り心頭ですわね。」

 

ヴィアナは朗らかな笑顔でもってそう言うと、まず手始めに沙耶を真っ直ぐに見据えた。

 

「まず沙耶、怪我をしたなら直ぐに報告なさい。あんな血塗れの格好で帰ってきたというのに何の連絡もないとはどういうつもりですか。」

「う……それは確かにそうだけど、いろいろあったからつい忘れてて」

「そのついの中には、怪我は治っているから問題ないという油断はありませんでしたか?」

「え、えっと……それはその……」

 

沙耶はものの見事に図星を撃ち抜かれ、続く言葉を選べなくなった。

 

今の沙耶はヴィアナの屋敷の客人という扱いだ。

連盟の現当主が、怪我をして帰ってきた客人を放置して気にも留めないということになれば、それこそヴィアナの沽券に関わってくる。

そしてそれ以前の問題として、沙耶とヴィアナは友人同士だ。付き合いはまだそれほど長くはないとはいえ、ヴィアナの怒りは友人としては酷く真っ当なものだ。

誰だって自分の友人が怪我をして帰ってくれば心配する。剰え、それを自分に隠しているともなれば尚更だ。

 

自身の身を案じてくれる打算の無い怒りであるからこそ、この場の沙耶はヴィアナに何も返せなかった。

 

「まぁ……反省さえしてくれるなら、過ぎたことを責める気はありませんわ。顔を上げてくださいな沙耶」

「うん……心配かけてごめんね?」

「ただし、次に隠すようなことがあれば……わかってますわよね?」

「……はい、もうしません。」

「……まったく、仕方ない方ですわね。」

 

気落ちした様子で沙耶はヴィアナに謝罪をした。ヴィアナもそれに苦笑気味に返して、肩を竦める様にしながら沙耶から視線を外した。

 

「……さて」

「……」

 

そして次に彼女がその視界に収めたのはバレットだった。バレットはヴィアナの発する圧に怯むことなく彼女の眼を見返した。

 

「バレット、私確か……貴方の実力を見込んで安心して沙耶を預けた筈ですが。見込み違いだったのかしら?」

「その件に関しては謝罪しましょう。確かに彼女に傷をつけたのは私の落ち度、気が緩んでいた事実も認めましょう。申し訳なかった。」

 

ヴィアナの糾弾するような言葉に対し、バレットは素直に自身の非を認めて謝罪の言葉を返した。

ヴィアナはその言葉を聞き、様子見する意味も込めて返答する。

 

「結構。……それから私、根を詰め過ぎているから今日くらいは休めとも先刻伝えましたけど、そのことへの返答はまだ頂いてませんわよね?」

 

言い方は悪くなるが、沙耶の協力はバレットの本来の任務からすればイレギュラーともいえる事態だ。沙耶の負傷の隠蔽に関しては、責任をバレットに追及するのは筋が違う。

ヴィアナは負傷の事実を隠した沙耶を注意こそすれ、バレットへの協力を禁止する旨の発言は一切しなかったことからも、それは明白だった。

 

「えぇ、ヴィアナ嬢。確かに貴女の言うとおりだ。確かに訓練を受けていない人間には、これ以上の連続調査は」

「……私は、貴女にも、休めと言ったのですが?」

 

バレットの言葉の意味を正確に汲み取って、ヴィアナは敢えて強い口調でバレットの言葉を遮った。

例え沙耶を休ませたところで、バレットは単身で調査に出かけるだろう。

それは狩人としての本来の職務からすれば真っ当な判断だが、ヴィアナとしては推奨できない事態だ。

 

ヴィアナは保有する異能の影響もあり、幼少期から周囲をよく観ていた。

観続けるうちに相手がどのような思惑で動いているのか、どういう状態なのかが感覚でわかるようになった。

わかると言っても察する程度ではあるし、数日間を共に過ごしたような気心の知れた相手でなければ使えない手段だが、将来的に人の上に立つことが約束されているヴィアナにとって、それはちょっとした自慢であり特技だった。

 

そのヴィアナから見て、バレットは今現在精神的に疲労していた。

無理もない話だ。慣れない街に、初日の不意を突かれた襲撃、進まない調査に、明らかに一筋縄ではいかない状況。

気疲れしない方がおかしいというものだろう。

 

「……私にはまだ、休息は必要ありません。」

「強情ですわね。狩人の常ではありますけれど……」

 

バレットの対応を見たヴィアナは短く言葉を発した後、右手を高く掲げて指を鳴らした。

 

それを合図にして、ヴィアナの背後に控えていた5人の使用人たちが一斉に動いた。その動きは一様に素早く、流石のバレットもその全てを追いきれなかった。

 

「なんのつもりです」

 

バレットは咄嗟に自身の傍らに立つ沙耶を庇う体勢を取ろうとして、既にそれが意味がないことを理解した。

5人の使用人の内、3人がバレットを一定の間隔で取り囲み、傍らにいたはずの沙耶はいつの間にかゴルドによって万が一戦闘になったとしても危険の及ばない場所に移動させられていたからだ。

……そして、肝心要の外に続く扉の前にはオーキスが普段と何ら変わらぬ様子で佇んでいた。

 

「貴女にまだ休むつもりがないということはよく理解できました。なので……情報共有その2といきましょう、バレット」

「……その割には随分と強引な手段を使いますね」

「けれど、悪い話ではないでしょう?……それに、今の彼らには3割程度しか与えていない。にもかかわらず……貴女、追いきれなかったのではなくて?」

 

バレットは10秒ほど返答に窮した後、深々とため息を吐いてからヴィアナの提案を承諾した。

 

「……では改めて、今日の調査活動は休止ということでよろしいですわね?」

「えぇ。今回に関しては私に非がありますので、それで問題ありません。」

 

ヴィアナの言葉をバレットは渋々と言いた様子で返答する。今日の調査は中止になったようだ。

沙耶はゴルドに連れられたまま若干他人事のようにそれを眺めて、予定の無くなってしまった今日をどう過ごすか考えた。

 

「沙耶、申し訳ないのですが今日のところは自室で休んでいてくださいな。私は少々バレットと話がありますので」

「……あ、うん。わかった」

 

沙耶はヴィアナの言葉を受け入れた。

恐らくはバレットと話した後、情報の共有もするつもりなのだろう。……そして、その場に疲労した状態の自分が居ても仕方がないことを、沙耶は重々理解していた。

……疲労を隠していたつもりはない、けれど無自覚な誤魔化しはあったのかもしれない。

そう思って沙耶は、反省の意味も兼ねて大人しく割り当てられた自室に引っ込むことにした。

 

「……久しぶりに、一人だなぁ」

 

ほんの少しだけ寂しさを感じながら、沙耶は自室に向けて屋敷の廊下を歩いて行く。

 

……ここ数日毎日歩いていた通路だけれど、何故だか沙耶には少しだけ長く感じた。

 



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【霧中】⑧

「貴女達が得た情報に関しては分かりましたわ。……確証はありませんでしたので助かりました。」

 

バレットを自室に招き入れたヴィアナは彼女から詳しく話を聞き出した。その後、納得したように言葉を返して珍しく自分で入れた紅茶に口を付けた。

 

「その反応から察するに、やはりある程度の予想は付いていたようですね」

「いえ、私はただ『紫陽の花』が関わっている可能性が高いだろう、くらいに考えていましたので。……彼らが異能薬の売人と完全に敵対しているというのは想定外でしたわ。」

 

困ったような笑みを浮かべて、ヴィアナはそう言った。

ヴィアナからしてみれば『紫陽の花』の存在をバレット達に教えたのは、あの偏屈な情報屋の逃げ道を塞ぐための保険でしかなかったのだが、結果的に思わぬ情報を引っ張り出してしまったのだった。

 

「その反応を見るに……貴女も『紫陽の花』の長が誰かは知らないのですね。」

「遺憾ながら、その通りですわね。……正直あまり深く関わろうと思えませんが。」

「……。それは何故です?」

「あまりにもリスクが高すぎるのです。関わるだけでも交友関係があると思われてしまう。……そうなっては当家のイメージに影響が出ますので」

「案外世知辛いものなのですね、当主というのも」

 

バレットはヴィアナに得た情報を伝達する過程で、自身もまた整理を行っていた。

 

バレットは3日前に件の情報屋から話を聞くまで、異能薬を流した何者かは今現在も表側の流通を管理するベリエードか裏のルートを管理する組織に潜入しているだろうと考えていた。

しかし、彼の話を聞いて現時点ではソレは無さそうだと判断した。

 

ベリエードの当主が殺害された件に関しては判断がつかないが、少なくとも急な当主死亡や引継ぎといった騒動の最中で目立った動きは取れないことは想像に難くない。

渦中たるベリエード家だけならばまだしも、当時はまだウォルロード家の根回しが終わっていないだろう。そのことを考えれば、警察組織の監視もあっただろう中で迂闊な行動はできないことは明白だった。

 

裏側に関しては情報屋の言葉を全面的に信頼するという前提ではあるが、彼の話を聞いた限り『紫陽の花』の長が自身の組織の中にいる異分子を見逃すとは思えなかった。

何しろ彼らは、初日にバレットを襲った襲撃者を即座に捕獲するほどの力を持っているのだから。

 

以上の事からバレットは今現在において、異能薬の売人または件の事件の関係者が両組織に潜伏している可能性は極めて低いと結論付けたのだった。

 

「そういえばヴィアナ嬢、あなたの方は何か目新しい情報はあったのですか?」

 

バレットはこれ以上は推測の立てようがないと見切りをつけ、今度は逆にヴィアナの得た情報を聞こうと試みた。

それに対してヴィアナは、少々困ったように笑いながらバレットに返答する。

 

「お恥ずかしい話ですが、事件に関連性のある情報は何も。私もオーキス達に調べさせて入るのですが、事が事ですので。」

 

バレットはヴィアナの返答を聞き、少し思考を巡らせてから口を開く。

 

「では質問の内容を変えましょう。……先日話を聞いた『前回の異能薬』の事件については何か思い出したことは」

「あぁ、あの件ですか。……まぁ、一応当時の資料を一通り読み返しては見ましたが特にこれといった進展はありませんでしたわよ?」

「……ダリアという前回の首謀者については?」

「この間お話した以上のことは特に何も。……あとは一般人の被害者リストと、当時亡くなった連盟の盟主について少々記述があった程度ですわね」

「__。」

 

何かが、バレットの思考に引っ掛かった。……バレットは自身の気付きかけたソレを、冷静に手繰り寄せていく。

そうして自身でもはっきりとわかる形にソレが像を結んだ時、彼女はヴィアナに問いを投げていた。

 

「……付かぬことを聞きますが、ヴィアナ嬢。」

「なんです?」

「……前回も、異能薬が関連する事件で連盟の盟主がなくなったのですか?」

「えぇ、そのようですわね。……私も読んでいて驚きました。表向きは事故死として扱われていた彼女の両親が、この件の関連で亡くなっていた可能性があっただなんて。」

 

続くヴィアナの言葉にも引っ掛かりを覚えはしたが、それよりも今は確認するべきことがある。

 

「もう一度聞きます。犯人が死んだ前回の事件で、今回と同じように盟主が亡くなったのですね?」

 

その問いかけで、ヴィアナもバレットが言わんとしていることを理解したようだった。

そして気を落ち着けるために間を置いてから、ヴィアナはバレットに返答する。

 

「えぇ。今回亡くなったベリエード当主と同様に、前回の異能薬の事件では彼女の……ハイレンジア家前当主だったイリスの両親が亡くなっています。」

 

バレットはヴィアナから帰ってきた言葉を受け止め、そして漸くこの厄介な事件を紐解くための確かな足掛かりを見出した。

 

「ありがとう、ヴィアナ嬢。……貴女の力を得られて良かった。」

 

バレットは静かに、そして確かな確信をもってイリス=ハイレンジアへの再びの接触が解決へ必要な選択だと結論付けたのだった。

 

「……。」

 

一方ヴィアナは、そんなバレットの様子を観察していた。

ヴィアナから見てもバレットは優秀だった。彼女が狩人などしていなければ、即座に使用人にスカウトする。そんな程度には、ヴィアナはバレットを認めていた。

しかしそれは、あくまでも実力面の話だった。

 

「そういえばバレット」

「なんでしょう」

「貴女、沙耶が撃たれてから彼女とちゃんと話はしましたか?」

「……。」

 

バレットはヴィアナの問いかけに閉口するしかなかった。

 

『話は後でしましょう』

 

あの時、バレットは沙耶にそう声を掛けて屋敷に急いだ。しかしその後、屋敷についた頃には沙耶はすっかり無傷でいつも通りに戻っていたため、どう話を切り出すべきか解らなくなってしまったのだ。

 

「ヴィアナ嬢、貴女は彼女がどうしてあそこまで歪になっているのか知っているのですか?」

 

バレットは思わずヴィアナにそう問いかけていた。

……しかし、ヴィアナから帰ってきたのは思いもがけない返答だった。

 

「あら、沙耶の過去に何があったかなんて、私は知りませんわよ?」

 

至極当然のことをいうように返事をしたヴィアナを、バレットは信じられないものを見る目で見返した。

 

あれほどの歪さを、危うさを知りながら見て見ぬ振りができるというのだろうか?……そんなことを考えそうになった。

 

「そもそもあの子に昔何かあったからと言って、今私が沙耶の親友である事実に何の関係がありますの?そんな些末なこと、知ったことではありませんわ。」

 

しかし、それは誤りだった。ヴィアナは強い。それだけだった。多少の歪さなどお構いなしに飲み込むほど、彼女は強く懐が深い。

バレットは目の前の少女が自分等よりずっと強く、紛れもない『貴族連盟の筆頭当主』なのだと今更ながらに実感した。

 

「だいたい貴女、そんなに沙耶の過去が気になるのなら本人に直接聞けばいいだけでしょう?何を尻込みしてますの。」

 

言葉をなくしているバレットに、ヴィアナは呆れたようにそんなことを問いかけてきた。

 

「そうは言いますが、これまで仕事一本で生活してきましたし……第一、命を救われてからある程度行動を共にしてきたとはいえ、迂闊に踏み込んでいいものかと思案していました。」

 

本気で困ったように言葉を返してきたバレットを見て、ヴィアナは今日一番の溜息をついた。

そのヴィアナの様子が気に入らなかったのか、バレットは反撃するように今度は自分からヴィアナに言葉を投げつけた。

 

「貴女の方こそ、随分とサヤに気を許しているようですが……何かきっかけでもあったのですか?」

 

その問いかけに、ヴィアナは少しだけ呆けたような表情をした。

 

「……そうですわねぇ。沙耶が私にとって『街の下らない柵に囚われない初めての友人』になってくれたから……かしら」

 

年相応の少女の顔で笑みを溢したヴィアナを見て、バレットは返す言葉がなくなったのだった。

 

 



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【霧中】⑨

バレットとヴィアナが情報交換を開始した頃に、少しだけ時間は遡る。

川崎沙耶はやることもなく、一人自室で外を眺めていた。

 

閉じられた窓から見える外は一面の濃霧に包まれていて、フェリエット邸の外が全く見えないほど視界が悪い。……白に染まった景色を見て、沙耶は自分の置かれた状況と同じようだと感じた。

 

情報収集は日々進展しているし、バレットやヴィアナが何の手も打っていないとは思っていない。しかしそれでも……いや、だからこそというべきだろう。沙耶はどこか自分が蚊帳の外に居るように感じていた。

裏ルートや『紫陽の花』の情報を最初に自分たちに齎したのはヴィアナだ。それ以前の情報はバレットが単身で集めていたものだ。

 

「……二人の手伝いがしたい、力になりたいって伝えられたまでは良かったんだけどなぁ。……これじゃ私、居ても居なくてもあんまり変わんないや」

 

3日前の襲撃にしてもそうだった。

あの時は沙耶が囮になることで敵の行動を誘導し、居場所を割り出したバレットが敵を捕らえるという作戦だった。

敵を捕らえるあと一歩で逃がしてしまったが、あれは敵が上手かっただけの話だ。問題はそこではない。

 

『そもそもあの時も私が居なくても、バレットさんは平然と切り抜けたんじゃないだろうか』

 

……そんな思考が、あの日バレットに屋敷へ運搬されているときから何度も何度も沙耶の脳裏を過っていた。

 

要するに沙耶は自分がどう行動するべきかが、何をするのが正しいのかが分からなくなってしまった。

その結果、今もこうして一人自室に籠っている。

……その原因の一端に、傷を負った友人を慮ったヴィアナの優しさが関係しているのは皮肉な話だった。

 

「……?」

 

沙耶が霧に覆われた外を眺めつつ思考を回している最中、不意に自室の扉が控えめに2度ノックされた。

 

「いらっしゃいますか、沙耶様」

「あ、はい、居ます。」

 

沙耶はほとんど反射的に扉越しに掛けられた声へ返答した。その声を聞いて部屋の扉をノックした人物は、沙耶の部屋へと入室した。

 

「失礼いたします。沙耶様の警護を命じられました。」

「ゴルドさん、警護だなんて大袈裟じゃないですか?一人で外に出かける訳でもないんですから」

「……。」

 

沙耶の軽口のような返答に、ゴルドはなぜか押し黙ってしまった。今までの人懐っこい雰囲気も、まるでどこかに忘れてきたかのように今日は感じられない。

そんなゴルドの様子を見て、沙耶はヴィアナが彼にどのような命令を下したのかある程度察したのだった。

 

「……誠に申し訳ございません。どうやら察していらっしゃるようですので正直に申し上げますが、沙耶様が勝手に抜け出さないよう話し相手になってあげなさい、との命を受けております。どうかご容赦ください。」

「謝らないでください。ゴルドさんが気にすることじゃありませんし、元はといえば私がヴィアナちゃんにきちんと説明してなかったのがいけないので。」

 

ハッキリ言ってしまえば、あの程度の傷を沙耶は最早傷とすら思っていなかった。

他の誰かが負えば致命的なダメージだったとしても、沙耶からすれば押並べて『直ぐに治る掠り傷』程度のダメージでしかない。肉体的な傷よりも心理的な傷の方が沙耶にとっては圧倒的に厄介なものだった。

そんな簡単な事実は沙耶も幼い日からずっと知っていたし、そんなものだと理解していた。

……一度そのことでさくらと大喧嘩をしたこともあるのだけれど、今は関係のない話だ。

 

そんな簡単な事実の話よりも、沙耶にとってはヴィアナが自分を特別扱いせずにちゃんと心配してくれる事実の方が何倍も大切だった。

 

「流石に我々も血塗れの沙耶様を、バレット様が抱えて帰還したと聞いたときは肝を冷やしました。……一介の使用人である私共でもそうなのです。どうかヴィアナ様のお気持ちも理解してください。」

「……あはは、ズルい言い方ですね。」

 

沙耶は先日までのゴルドのイメージとは微妙に噛み合わない言い方に苦笑を返す。

 

「けど、わかりました。私も友達が悲しむのなんて見たくないですから」

 

それから少々照れ臭いのを誤魔化す為に、再び窓の外に身体を向けてからそんな言葉をゴルドに返したのだった。

 

 

 

「そういえば、右手首の怪我はもう大丈夫なんですか?」

「え?」

 

あれから少しして、ゴルドの用意した紅茶を飲みながら延々と取り留めのない会話を楽しんでいた二人だったが、不意に沙耶が思い出したようにそんなことを問いかけた。

問われたゴルドも、まさかそんな質問が飛んでくるとは思っていなかったようで間の抜けた返事を返していた。

 

「たしか3日くらい前に右手首に包帯巻いてましたよね?もう大丈夫なのかなって、思い出したらちょっと気になっちゃいまして」

「あー、あはは」

 

困ったように笑うゴルドは、人差し指で頬を掻くような仕草をする。

 

「私の不注意での怪我でしたので、そこまで気にしていただく必要はないんですよ?……ただ、そうですね。比較的軽い怪我でしたから、直ぐに完治しました。お気遣いいただきありがとうございます。」

「なら良かったです。」

 

沙耶はゴルドの返答を聞いて安心したように微笑んだ。

ゴルドはそんな沙耶の様子を見て、慎重に言葉を選んでから逆に質問を返したのだった。

 

「……沙耶様の方こそ、撃たれた右肩はもう大丈夫なのですか?」

「……。」

「……。」

 

奇妙な沈黙だった。……いや、単純な会話の流れでいうのならば何もおかしいことはない。ただし、その発言がおかしかった。

沙耶は驚いたような表情でジッとゴルドを見つめていた。ゴルドもまた、沙耶からの視線を真っ向から受け止めていた。

 

「沙耶様、貴女は何のために狩人に協力しているのですか?ヴィアナ様とは以前からの友人関係だと聞き及んでおります。あの方のために協力をするというのなら、私もまだ理解できました。……ただ、会って間もない狩人のために貴方が身を削る必要があるとはとても思えません。」

「……。」

 

沙耶は乱れた思考をまとめるのに必死で、ゴルドの問いかけに応えられなかった。

ヴィアナだけに留まらず、バレットへの協力を申し出たきっかけは分かり切っていた。イリスに言われた言葉がどうしようもなく引っ掛かってしまったからだ。

助けたのは偶然だった。傷を負った彼女を見たからだ。

では、何のために現在進行形で何の利も無い相手に協力するのか?

 

「正直、あの時も……先に路地から出てくるのは沙耶様ではなく狩人だと思っていました。だからこそ、私は引き金を引いたのですから。」

 

……その言葉を聞いて、沙耶はようやく腑に落ちた。そして目の前にいる人物が、どういう背景を持っているのかを理解した。

 

今自分の目の前にいる彼は、ゴルドは『紫陽の花』のメンバーだ。

 

沙耶は自分の脳裏で像を結んだその解答が、正解だという確信をもってソレを掴み取った。

……さて、では自分はどうやって何を答えるべきだろうか。

沙耶は数秒目を閉じて、しっかりと自分の考えをまとめた後に再びゴルドの目を見つめた。

 

「私は……数年前までずっと誰かのためにこの力を活かさなくちゃって、助けられる人がいるなら必ず助けなくちゃって考えてました。」

 

沙耶の癒しの力は強力だ。致命傷だろうともまだ対象が生きているならば、問答無用で完治させられるほどの異常なまでの力だった。狩人として多くの異能を見てきただろうバレットですらも、恐らくは沙耶と同等の癒しの力を持つ者は見たことが無かったはずだ。

 

「けど……この数年でヴィアナちゃんに出会ったり、さくらちゃんと喧嘩したり、先生に教えてもらったり……初対面の人に的確に忠告されたり。そんなことがいろいろあって、この数日で思ったんです。」

 

沙耶は懐かしむように自分の掌を見つめる。数々の傷を治してきた自身の力に思いを馳せる。

嫌なことなんて山ほどあった、良いこともそれなりにはあった。だいたい全部この力のせいだったけれど、これだって自分の立派な一部なのだと沙耶は思っていた。

 

「自分の力を誰のためにどう使うのか、何のために行動するのか……きちんと自分で決める。結局それが一番大事なことだと思います。」

「……それで沙耶様は、何をしたいのですか?」

「イリスちゃんに言われたんです。『助けた命に責任も持てないような人間が、軽率に人の命を救うべきじゃない』って、きっとそれは正しいんだと思います。……だけど、やっぱり私は、自分の手の届く範囲の人は助けたいんです。ヴィアナちゃんやバレットさんがずっと危険と隣り合わせになるって言うなら、せめて今回の件が終わるまでは私が二人を助けたい。」

 

ゴルドは驚いたように沙耶を見つめた。

どうしたって自分では彼女の気持ちは理解できないのだろうと感じ、それと同時にあまりにも優しすぎる彼女の在り方に何も言葉を返せなくなった。

 

「それと……これは受け売りなんですけど、泣いてる人がいるなら助けてあげるのが当たり前ですからね」

「……」

 

だというのに……そんな軽口のようなことを急に言い出すものだから、ゴルドは一気に毒気を抜かれてしまった。

全く、これではこの数日間散々悩んでいた自分がバカみたいだ。……あぁ、それでもやはり、打ち明けるならば彼女以外にはいないのだろう。

心の底からゴルドはそう思った。だから彼女にここで伝えることに決めたのだった。

 

「沙耶様、一つ……お伝えしておきたいことがあります。」

「……?」

 

沙耶はゴルドの雰囲気がいつもの人懐っこいものに戻ったことを感じた。

 

「お伝えしたいことは他でもありません。……貴女方が知りたがっていた『紫陽の花』の長についての情報です」

「!?……け、けどそれを私に伝えたらゴルドさんは大丈夫なんですか?」

 

ゴルドはこの期に及んで、自身の利よりも他人の心配をする沙耶に苦笑した。……思えば、彼女がこの街に来た最初の日に、こうなることは決まっていたのかもしれない。

そんな柄にもないロマンチストな思考をゴルドは一蹴し、ただ事実のみを伝えることにした。

 

「問題ありません。私は既に『紫陽の花』よりもフェリエットの……いえ、ヴィアナ様の力になることを選びましたから。」

「……。あはは、みんなやっぱり凄いなぁ……」

 

沙耶は改めて友人と、その周囲の人間の凄さを肌で感じた。

……そして沙耶はゴルドから聞かされる。自分たちが協力を求めた『紫陽の花』の長が誰なのか。その意外な名前を。

 

 

 

「……。」

 

ゴルドが部屋から去った後、沙耶はしばらく室内で一人放心していた。ゴルドの様子からして嘘は言われていないのは分かる。けれど……どこか今までの情報と噛み合わない、そんな違和感があった。

 

「サヤ、居ますか」

「……バレットさん?」

 

そんな時、扉の向こうから声を掛けられた。ここ数日ですっかり耳に馴染んだ親しみすら覚える声だった。

沙耶はその呼びかけを不思議に思いつつも、何のためらいもなく扉を開けてバレットを室内に迎え入れた。

 

「話をしに来ました。お互いのことを、わかり合うために。」

「私も、ちょうどバレットさんに聞いて欲しい話がありました。」

「そうですか。……?何かありましたか、サヤ」

 

沙耶はバレットの問いかけに曖昧に笑って返すに留まった。

 

そうして二人は話し始める、月明かりと僅かばかりの灯りに照らされた二人きりの室内で。

バレットは語る。己自身の出自を。

沙耶もまたバレットへ伝える。

自身の過去にあった出来事と__『紫陽の花』の長がハイレンジヤ家の使用人である、アルエなのだという情報を得たことを。

 

 

 @ @ @

 

 

同日、深夜ハイレンジア邸にて

 

「……そう、えぇ……ふふふ。あぁ、愉快だから笑っているだけよ?他意はないわ」

 

イリスは指で1匹の小さな蝙蝠を弄びながら、そんな独り言をつぶやいていた。

……独り言というには彼女の声色は、まるで本当に自分以外の何者かがその場にいるかのようだ。

 

「それにしても、ようやく『紫陽の花』に辿り着いてくれたわね。……上手くすれば、私が出るまでもなく引きずり出せるかもしれないわね。……わかってるわ。貴方と私の目的は同じ、精々期待しているわねシーク」

 

彼女は誰もいない虚空に向かってそう呟いた。それと同時に、今まで彼女の掌の上で大人しくしていた蝙蝠が、僅かに隙間の空いた窓から外界へと羽ばたいていった、

 

「失礼いたします、お嬢様」

「……あぁ、アルエね。どうかしたのかしら?」

 

イリスが蝙蝠が飛び去って行った外を眺めていると、アルエが入室した。

その表情はイリスの愉しそうなそれとは違い、深刻な色が濃く滲み出ていた。

 

「良くない報せです。フェリエットに潜り込ませていた者からの連絡が途絶えました。……恐らくは」

「……ふーん。ヴィアナにしては手荒い真似をするわね……いえ」

 

イリスはアルエの報告に、詰まらない話を聞くような生返事で返した。

イリスからすればヴィアナがいずれこちらの仕込みに気付くのは予定通りだったけれど、これはどうにもヴィアナとは毛色が違うような気がした。

……そういえば、とイリスは考え直す。

 

「川崎沙耶とバレット=ガットレイ。彼女たちが今現在拠点を置いて居るのは、ヴィアナのところだったわね」

「え?えぇ、そうですが……まさか?」

「ヴィアナがそこまで思い切ったことをするとは思えない。だったら可能性としては、底抜けな善人に絆されてしまった故の不慮の事故といったところかしらね」

 

イリスは口角を釣り上げて笑う。面白くなってきた。ここまでも面白かったけれど、どうやら彼女を利用するのは予定外の効果があるらしい。

気に入らない偽善者ではあるけれど、悪道だけでは導けない解答が存在するのもまた事実だ。

 

「引き続き、狩人と外来者に手を回しておきますか?」

「いえ、捨ておきなさい。……その方が都合が良さそうだものね。」

 

アルエはイリスの下した決定に、腑に落ちないような表情で再び問いを投げかける。

 

「よろしいのですか?それではお嬢様……いえ、ボスの思惑と差異が生じかねないと愚考しますが。」

「過程は問題じゃない、最終的に成すべきことを成せれば私達はそれで良い。……それから、私をボスと呼ぶのは間違っているわよアルエ」

「……」

「だって『紫陽の花』は、何年も前に私が貴女にあげたじゃない」

 

イリスは悪戯っぽく肩を揺らして笑いながら、アルエの問いかけに応える。……それは、紫陽の花に属する者であっても誰も知らない。アルエしか知り得ぬ事情だった。

 

イリスはこれで話は終わりだというように、アルエから視線を外して再び窓の外を眺めながら呟く。

 

「あぁそれから……数日以内に舞踏会の準備をしておきなさい。いつ来客が来ても問題ないようにね」

「承知いたしました、お嬢様」

 

一向に晴れぬ霧の中で、表と裏で思惑は交錯し延々と回り続ける。

いつか誰かが、自らの目的を果たすために。

 

 

 

__中章・霧中





これにて物語は折り返しを突破しました(たぶん)

今後ともよろしくお願いします。


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装章
【狩人】1/3


 

語弊を恐れずに断言するのならバレット=ガットレイという名の個人には、回想するべき過去がない。

より正確に言うのであれば、バレットというのは彼女が『狩人』として活動するにあたって名乗っている所謂コードネームである。

……では、自らをバレットと名乗る彼女は一体何者なのか?これからソレを明らかにしていこう。

 

 

端的に言ってしまえば、彼女は生き残りだった。

 

とある島国のとある町で起きたある種の不幸な事故、あるいは悲惨な大量虐殺。その唯一の生き残りが彼女だった。

世界中を見渡し、かつての文献を読み漁っても類を見ない未曾有の出来事。『組織』に所属する狩人の半数が出向し、その3割程度に満たない人員のみが帰還したという大事件。

 

『異能』を持つだけの只の人間とは比べ物にならない、吸血鬼や狼男を代表例とする完全な異端である怪異存在。そんな存在の1つが戯れに人類に牙をむいた。

 

その結果として、一夜にして街は閉鎖され住人たちは怪異に為す術なく蹂躙されつくした。

幸いにしてその怪異存在に増殖するような特性はなかったため数自体はそこまで多くなく、単純に強大なだけの相手だった。

その相手に数と技術力で立ち向かった。そうやって『狩人』達は多くの犠牲と引き換えにして、街を人類の手に取り戻した。

 

……そして彼女は、その地獄のような状況から唯一救出されただけの、その時点では何の力もない一般人の少女だった。

 

彼女は一夜にして全てを失い、任を受けて事態の対処をした一人の『狩人』の養子となった。

その狩人は自らをクロウと名乗る男だった。

 

「……すぐに割り切れることではあるまいが、生き延びた以上は現実に屈するな。……私はお前が奮起することを期待する。」

 

まだ幼い少女に掛ける言葉としては余りにも酷だったが、彼はこれまでの人生を安寧とは程遠い場所で過ごしてきた。だからこその致し方無い失敗だった。

 

「……わかった」

 

対する彼女は、死地において自分を守り続けた寡黙な男の言葉をこれ以上なく忠実に実行した。

彼女には何の力もない。それは異能を持たないし、それらに対抗する手段も持たないという意味だ。

しかし誰にとって不幸なことだったのか、彼女には才能があった。……『狩人』として活動する為の、これ以上ない適性が。

 

「私を鍛えてください、知識をください、立ち向かうための力をください。」

「……。了承する。だが、最終的に身の振り方を決めるのはお前自身だということを忘れるな。」

 

そうやって幼い少女は、『狩人』クロウによって力と知識を身に着けていく。

 

目下の目標は、まず目の前の男に追いつき肩を並べること。

それが全てを失った■■■=ガットレイの、一先ずの生きる指針だった。

 

 

 @ @ @

 

 

「……。」

 

あれから彼女は18歳になるまでの実に10年間をクロウの元で修練に勤しんでいた。

最初の数年は身体を活動目的に耐えうるものへ錬磨していくことに費やし、そこからようやく『狩人』としての戦闘技術や基礎知識の訓練へと移っていった。

 

その訓練は最早殺人的と言って差し支えないほどの容赦の無さをもって行われ、そこにもし第三者が居たならば即刻中止を進言する程の苛烈さだった。

そんな訓練を彼女は誰に強制されることなく、弱音を一切漏らすことすらもなく……10年という長期間に渡って黙々とこなしてきた。

 

……実のところ、その事実は訓練を行ったクロウにとっても予定外で予想外の現実だった。

 

クロウは10年前のあの街で、一人隠れて耐え続けていた少女を救った。

もとより、生存者が居たならば救助しろというのが『組織』からの命令だった。彼はそれを遂行しただけだった。

そもそもクロウにとっての想定外は、10年前から続いている。

 

『私を鍛えてください、知識をください、立ち向かうための力をください。』

 

屈するなと言ったクロウの言葉に、彼女はそう言葉を返してきたのだ。

……その彼女の対応こそがこの奇妙な共同生活が始まった瞬間であり、クロウにとって最大の予定外であり、何よりも後悔している点だった。

 

……自分は、幼気な少女が歩むべきだった、未来の可能性を大幅に狭めてしまったのではないだろうか?

クロウはそんな風に何度目かもわからない思考を即座に廃棄し、自室の窓から空を仰いだ。

 

「度し難いな。」

「何がです?」

「……。過去の自分の愚かしさが、だな。」

 

クロウはいつの間にか背後に立っていた彼女の言葉に、別段驚いた様子もなく返答した。

彼女はクロウの返答に少し首を傾げる程度の反応で返し、自身の要件を話し始めた。

 

「それで、伝えていた件ですが」

「……。私にお前の判断を止める権利はないが、曲がりなりにも共に暮らした者としては推奨できない。」

 

クロウはそこで一度言葉を切った。その眼には冷徹な狩人としてではなく、10年をともに過ごした家族としての情があった。

 

「今更何を言うのです。私に狩人としての知識と力を与えてくれたのは他でもない貴方ではないですか、クロウ」

「良いだろう……お前が『狩人』として活動できるよう取り合おう。」

「!」

 

クロウの言葉を聞いた彼女は、表情に僅かな喜色を滲ませる。

……クロウは彼女のこういうところが正直苦手ではあった。しかし彼女からしてみれば、数年間追い続けた相手の背にようやく指先が掠めたようなものなので、無理もない話だった。

 

「ただし、ソレはお前を私の任に数回同行させてからだ。……実際の現場を知らぬままで、後々文句を言われては敵わん」

「えぇ、問題ありません。私としても願ってもない。……やはり貴方は素晴らしい教育者だ、クロウ」

「……」

 

彼女は本気でそう言っている。恐らくあの街で既に致命的何かが壊れてしまっているのだろう、そしてソレは見て見ぬ振りをしていた私達の責任でもある。

クロウは自身の武装を確認しつつ、そんな風に思考を巡らせた。……そして、ふと思い至った。

 

「そういえばお前、呼び名はどうするつもりだ?」

「呼び名、とは?」

「『狩人』は基本的に、任務に出る際は所謂コードネームを名乗るのが通例だ。……一部の奴らは本名のまま活動しているが、私としては推奨はできない。」

 

彼女はそんなことは初めて聞いたというような反応を見せる。

……そういえば言っていなかったかもしれない。とクロウは今までの訓練を思い返して、一人で勝手に納得していた。

 

「それは、その……貴方のクロウという名前も?」

「コードネームだ。……お前なら私の装備で察せられると思っていたが」

 

クロウは自身の主武装である鉤爪を横目で見ながら、自身の失態を一度棚上げしてそんな言葉を吐いた。なんとも安直だが、鉤爪を使うからクロウと名乗っているのは、どうやら本当のようだった。

 

彼女はそんな対応に苦笑気味に言葉を返す。

 

「……前言を撤回したい気分になりましたが、深くは問わないことにしましょう。私にとって、貴方は既にクロウという個人だ。」

「それで、どうする」

「……バレットという名はどうでしょう?」

 

控えめに提案する彼女を見ながらクロウは少し思案し、彼女がどういう意図でそれを言ったのかを考察する。

 

そして一つの結論が出た。

 

「……なるほど『銀の弾丸』、つまりはシルバーバレット。怪異を祓い困難を打ち砕くための希望の礎、そう成るためにまずは名前から近づこうということだな。」

「そ、それほど大仰な意味はありません!」

 

気恥ずかしそうに語尾を強めて言い返す彼女を見て、クロウはどうやら自分の推測がそこまで外れていないことを確信した。

 

「良いんじゃないか。私のクロウよりは余程良い名前だ」

「そ、そうでしょうか……?思い上がりも良いところでは」

「何を言ってる。お前は文字通り地獄から生還した生存者だ。……そしてなにより、私の言い渡す無理難題を涼しい顔をして踏破した到達者でもある。そこらの雑魚なら十二分に対応できるだろうさ」

 

今更になって弱音をこぼした彼女に、クロウはつい激励するような言葉を返してしまった。本当に無意識に、口をついて出たその言葉に彼女は驚いたように目を見開いた。

 

「……貴方がそんな風に言ってくれるとは思いませんでした。てっきり見込みがないと思われているとばかり」

「私には見込みのない者を育てるほど物好きではないし、なによりそこまで暇じゃない」

「それは……まぁ、確かに。」

 

彼女が納得したようなので、クロウは部屋から出るべく扉に向かって歩きだす。

 

「それから、さっきも言った通りお前にはこれから何度か私の任務に協力者として同行してもらう。出立は2日後だ、遺書と道具の準備を怠るな」

「はい!」

 

師であり家族のような存在のクロウとの距離を詰め、『狩人』として順調に場慣していく。

……こうして彼女は全てを失った何も持たない少女から、『狩人』バレット=ガットレイとして変化を遂げていくのだった。

 

 




クロウ
主武装:鉤爪
異能:無し
備考:
半分人間辞めてるレベルの強さ
強すぎて周りに距離を置かれている。

バレット
主武装:徒手空拳(後に銃を使うようになる)
異能:無し
備考:
クロウの教育によって狩人として開花する。
もともと運動神経等の最低限の素質はあった。


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【狩人】2/3

 

「……」

 

狩人見習いとして、バレットが初めてクロウの任務に同行してから約2年が経過した。

あれからバレットはクロウと共に様々な現場に赴き、彼の技術を吸収していった。

そうして彼女は戦闘技術だけではなく、柔軟な対応能力という狩人として活動するうえで重要な力を培っていた。

 

「……。場所は合っているはずですが」

 

そんな彼女はクロウから受け取った地図を眺めて小首を傾げながら、単身で木々が生い茂る森の中に佇んでいた。

クロウから受け取った地図には森の中に存在する目印が列挙されており、彼女はその全てを網羅しながら先に進んでいた。

しかし、その目印を全て辿って行き着いた先には何もなかったのである。

 

「行けば分かる、と言っていましたが……何もないのはどういう」

 

もしや自分はクロウに……あの不愛想なようで妙なところで情に厚いあの男に……謀られたのではないだろうか?と、そんな思考がバレットの脳裏をよぎった。

 

そんな時だった。

 

「ッ!」

 

森の中を不意に突風が吹き抜けた。

明らかに不自然で、且つ何者かの意図を感じずにはいられない。そんな現象に対して、バレットは強い警戒心を露わにしつつ周囲を用心深く見渡した。

 

「……これは」

 

そして再び正面に意識を向けた瞬間、彼女は自身の目を疑った。

 

そこには見る人物によって古びた城にも忘れ去られた廃墟にも見える、石造りの建造物が聳え立っていた。

そしてその建造物の前には女が一人。その胸元には歪な形をしたバッジが木漏れ日によって輝いているのが確認できた。

 

「ようこそお待ちしておりました。我が主がお待ちです。」

 

女はバレットの返答を待つこともなく、自身の背後にある扉を開いて彼女を中に招き入れるような仕草をする。

 

女が身に着けているバッジに、バレットは見覚えがあった。

形の異なる歯車を強引に3つ程組み合わせたような歪なそのバッジは、いつだったかクロウが付けているのを見たことがあった。

普段から必要最低限の物のみを扱い、装飾品など全く所有していない彼が身に着けていたから気になったのだ。

 

『これは狩人の身分証みたいな物だ。別段、普段から身に付けねばならないという規律は無いが、有ればそれなりに便利な代物だ。お前もそのうち受け取る事もあるだろう』

 

彼女がバッジについて問いかけた時、普段と変わらない様子でクロウがそう返答したのをバレットは思い出していた。

 

「到着しました。我が主はこの中にいらっしゃいます。」

「!、ありがとうございます。」

 

案内をするだけして、女は足早にその場を後にする。

ぎりぎりのタイミングで礼は伝えられたものの、なんとも事務的だとバレットは思った。

……しかも、結局ここに至るまで自分は何も状況を把握できていないのだが……この中にいるという彼女の主人に会えばソレも解るのだろうか?

バレットはそう思案しつつも他に選べる選択肢もなかったので、目の前の扉にノックをしたのだった。

 

「入り給え。」

 

バレットのノックに呼応するように、室内からは荘厳な印象を受ける重く低い声色の言葉が返ってきた。

 

「失礼します。」

 

バレットは室内にいる人物が只者ではないという自身の直観に従って、気を引き締めつつ部屋の中へとつながる扉を開いた。

 

「……。」

 

室内には老齢と言って差し支えない風貌の男が一人。

しかし歳老いていると言っても、油断はできない。少なくともバレットは、部屋の奥でただ椅子に腰かけているだけの人物を前にして、迂闊に動くことすらできなくなっていた。

 

「君の話はクロウから聞いているよ。」

「……貴方は、何者です。」

 

男のかけてきた言葉が思いのほか優しい雰囲気だったこと、そしてクロウの名が出たこと。それらの要因によって、僅かに気を取り直したバレットは苦し紛れに問いを投げた。

そんな彼女の様子に、男は呆気にとられたような顔で暫く沈黙する。そして苦笑と共に再び口を開いた。

 

「ハハハ、成程そういうことか。どうにも雰囲気が固いと思えば、要するに君は彼から何も聞いていないわけか」

「貴方の言う彼がクロウのことなら、私は『行けば分かる』とだけ伝えられていたのですが。」

 

バレットが男の問いにそう返答すると、彼はまた子気味よく笑ってからバレットに着席を促した。バレットは男の様子から危険はないと判断し、その提案に乗って男の正面の席に腰を下ろした。

 

「さて、落ち着いたところで……まずは自己紹介から始めるべきだろうね。」

 

男はそう言うと、声の重みとは対照的な柔和笑みを浮かべてから唐突に自己紹介を始めた。

 

「初めましてだ、お嬢さん。私の名はリンドウ。狩人の『組織』、その最高責任者。……まぁ、早い話が君達のボスだ。」

「な!?」

 

リンドウと名乗った男の発言内容は、バレットの予想の範疇を大きく超えていたのだった。

 

リンドウはバレットの混乱が落ち着くまでゆったり待ってから続けて言葉を発した。

 

「初めにも言ったけど、クロウから大体の話は聞いているよ。君がどういう境遇で、彼とどういう風に暮らして、今までどうやって生きてきたかをね」

「……恐縮です。ですが、わざわざ此処まで呼び付けたからには、何か理由があるのでしょう?それを最初に伝えて貰ったほうが話が早い。」

 

バレットとしては、自身の過去を掘り返されるのは余り良い気はしなかった。経歴が経歴だ、無理もない話ではある。

リンドウはバレットのその反応に別段何を思うでもなく、当初の予定通りに用件を伝えるのだった。

 

「率直に言ってしまうと、君を正式に『狩人』として迎え入れたい。」

「……。私はまだ狩人ではなかったのですね。」

 

バレットはリンドウのその言葉にしばし呆然とし、そして数秒の間を置いてから取り繕うように言葉を返した。リンドウはその返答に対して、慣れたことのように柔和な笑みを浮かべている。

 

「それはそうだろう。考えてもみ給え、ただでさえ命を投げ出すような過酷な役割だ。半端な力や覚悟しかない者を迎え入れても、数回と持たずに壊れてしまう。」

 

悲しい話だけれどね、と彼は言葉を締める。

リンドウの言葉は紛れもない事実だった。役割上命に関わる危険は回避できず、人の死を見るのも常。その上相手取るのは人の道を外れたような異常な存在で、仮に敵対者が只の人だったとしても何処かが破綻した者ばかりだ。

そんな狂った相手や現場を何度も経験していては、それこそ自らが狂ってしまうだけだ。

 

「そういう事情もあって……未来ある有望な若者を簡単に迎え入れて使い潰す訳にはいかないのだが、君なら問題もないだろうと判断した。」

「……それはどういう意味でしょう。」

 

バレットはリンドウの言葉に僅かな含みを感じた。

単純にバレットがクロウの下で数をこなし、任に堪えうると単純に判断した訳ではない。リンドウの言葉には、そう感じさせる何かがあった。

 

「さてね、何でも直ぐに答えを求めるのは若者の悪癖だよ。……まぁ人生は長い、地道に進んでそのうち答えを見つければ良いさ」

 

リンドウは彼女の問いかけをそんな風に受け流し、優しくバレットに微笑んだ。

 

「ところで、私はまだ返事を聞いていないのだけれど。……君を、正式に『狩人』として迎えたいと言った私の言葉、了承してくれるかな?」

 

しばらく無言の時間が続いた後、柔和な雰囲気を絶やさずにリンドウは口を開く。……最終確認ということだろう。

しかし、それこそ今更なことだった。あの時、クロウに助けられた瞬間から、彼女がこの場で口にする答えは決まっていたのだから。

 

「異論はありません。謹んでその狩人の任、務めさせていただきます。」

「……。よろしい、期待しているよ。バレット=ガットレイ」

 

その言葉と共に、リンドウは懐から歪な形のバッジを取り出す。そしてそれをバレットに差し出した。

バレットは、一歩ずつ踏みしめるようにゆっくり彼に向って歩を進め……そのバッジを手に取った。

 

「おめでとう、新たなる『狩人』の誕生をここに祝福しよう。」

「随分と大仰な物言いですね」

「こう見えて以前は神職でね。……祈るべき神なぞ存在しないと、過去の出来事で痛感してからは身を引いたが、身に付けた知識は薄れないものだよ」

 

バレットはリンドウの言葉に彼の過去を垣間見た。……彼もまた、尋常ではない過去を背負っているのだろうか?そう思いかけて、彼女は思考を打ち切った。

 

「さて、承認とバッジの贈与も終えた。……それではこれから先、数々の苦難に立ち向かうだろう若人へ、最後の餞別を送ろうか」

「餞別?」

 

バレットの問いかけに対して、リンドウは不意に真剣な面持ちになってから逆にバレットへ問いを投げかけたのだった。

 

「……バレットくん、得物は何を使ってるんだい?」

 

リンドウからの最後の餞別として、自らの武器である銃に彼の異能による祝福を施されることによって『狩人・バレット』は生誕した。

……彼女は漸く自身の力をもって人を救い、外敵を葬るためのスタートラインに到達したのだった。

 





異能:『祝福』
保有者:リンドウ(偽名)
概要:
人ならざるモノを排斥する異能。対異能に特化した異能封じの力。
真っ当な人間が相手なら何も効果を発揮しない。
触れた相手の異能のみを封じ込めたり、物品に祝福を与え同じ効果を付与できる。
物へ付与した祝福は半永久的に継続される。
相手が人外の場合、彼自身が触れれば一切の抵抗が不可能になる。
付与された物品によるダメージは異能による治癒が効き辛くなる。
1度使用する度に数か月のインターバルが必要。
物に祝福を与えた場合は上記に加えて数週間の半身の麻痺が併発する。

異能:『偽装』
保有者:ネームレス(偽名)
概要:
自分以外の任意の生き物に状況を誤認させる異能。
効果範囲は集中力次第。
異能使用中は効果範囲に応じて五感が封じられる


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【狩人】3/3

 

「……よし」

 

時刻は正午。バレットは愛用している銃のメンテナンスを終えて、一息ついたところだった。

少し前に長期の任務を完遂した彼女は、ここ暫くは身体の疲れを取りつつ英気を養っていた。

 

「それにしても、あれからもう2年ですか。」

 

バレットは整備を終えた己の切り札ともいうべき武器を眺めながら、物思いに耽る。

 

バレットがリンドウと対面し、正式に狩人として認められた日から2年が経過した。

あの日以来、彼女の銃から放たれる弾丸は文字通りの対異能に特化した『銀の弾丸』となった。

彼女はリンドウの異能による『祝福』を受けた銃と、クロウの元で磨き上げ続けた近接戦闘技術を十善に発揮し、狩人として様々な標的と相対した。

いずれも油断ならない難敵ではあったけれど、彼女はそれら全てを踏破した。

リンドウの異能による恩恵も確かに大きく作用したし、常に単独で任務を遂行していた訳ではない。それでもバレットにとって、それらを乗り越えられた一番の要因はクロウの存在だった。

 

『生き延びた以上は現実に屈するな。……私はお前が奮起することを期待する。』

 

彼にそう言われたのは、いつの話だったろうか。……そうバレットはいつかの記憶を思い返して少しだけ表情を緩めた。

思えば……彼にこの言葉をかけて貰ったからこそ今の自分があるのだと、彼女は本気でそう思っていた。見るものが見れば呪いとすら解釈されかねないその出来事も、彼女にとってはこれ以上ない福音であり道標だ。

そして、それはこれからも変わることはないのだろう。

 

……そう、本気でバレットは思っていた。

 

「……おい、少し時間は大丈夫か」

 

そんな風にバレットが物思いに耽っていたとき、唐突にクロウがやってきた。

そのいつも通り不愛想な態度と声色に、バレットは慣れたことだというように平然と返答する。

 

「ちょうど整備も終わったところなので問題ありませんが、どうしたのです?クロウ」

「話がある。」

 

それだけを端的に伝えると、クロウはそれ以上何も言わずにバレットに背を向けて歩いていく。……どうやらついて来いということらしい、とバレットはクロウの行動を解釈して彼の後を追った。

 

「……座れ。」

「……。」

 

クロウに付いて行ったバレットは、普段あまり入ることのない彼の自室へと案内された。

……今までもこういうことは何度かあった。

彼が自身の部屋に人を招くのは余程の重要任務の前か、他人に聞かれるのが拙い話をするときくらいのものだ。

つまり、今回もそういった重要度の高い話なのだろうとバレットはあたりを付けながら彼の言葉を黙して待った。

 

「私にはお前に、突き付けなければならない選択肢がある。」

「……クロウ?」

 

だというのに、彼の口から漏れ出た言葉には言い表しようのないほどの苦渋の色が滲んでいた。

 

「いまさら何を言うのか、とかそういった反応は一旦隅に置いてまずは私の話を聞いてもらう」

「……」

 

彼らしからぬその前置きに、バレットは一層困惑の強くした。

普段のクロウならばそんな前置きはせず、端的に要件を伝えてこちらの判断を促す。……だというのに、今の彼はまるで長年の後悔を懺悔しようとしているかのようだった。

 

「最初に伝えておくが、私はお前をここまでに育てるつもりはなかった。……いずれ逃げ出すだろうと高を括っていた。」

「……」

 

バレットはクロウの言いつけを守り、何も返さず彼の話を聞いている。

 

「リンドウの元にお前を送り出したのは、そうすればお前は止まれるだろうと判断したからだ。だというのにアイツめ……素質だけで可否の判断を下した訳ではないのが余計に腹立たしい」

 

そういえばリンドウ……狩人の長が言っていた。

 

『未来ある有望な若者を簡単に迎え入れて使い潰す訳にはいかないのだが、君なら問題もないだろうと判断した。』

 

……今更ながら、アレはどういう意味なのだろうか?

バレットはそんな思考を打ち切りつつ、尚もクロウの言葉に耳を傾け続ける。

 

「だが、何よりも度し難いのは……自身の失態を10年以上に渡って放置し続けた私自身だ。」

 

クロウは黙って自分の話を聞いているバレットをしっかりと視界に捕らえ、深く息を吸ってから……その言葉を彼女に告げた。

 

「……■■■=ガットレイ、お前は故障している。」

 

……その名前は、誰のモノだったろうか。

バレットは一瞬本気でそんなことを思った。……無論、彼女にもソレが自身の名前だったことはわかっている。だが、クロウにその名前を呼ばれるまで……自信を【弾丸】と定義したその瞬間から今に至るまでの数年間……彼女は自身の本名を忘却していた。

 

「名前というのは存外に強い力を持っている。私のクロウも、ボスのリンドウもそれぞれ名前に意味を持たせている。……そうあれと願い、そう呼ばれることによって、自然とそうなっていく。名は体を表すという言葉もあるほどだ」

 

クロウは静かに重く、けれどどこか優しさを感じさせる声で言葉を続ける。

 

「……だから、私はお前をバレットとは一度として呼ばなかった。お前には、そうなって欲しくはなかったからだ。」

 

……確かに一度として狩人としての名前で呼ばれたことがなかったと、バレットは言われて初めて気が付いた。しかし、そこに気づいてしまうと今度は疑問が浮上する。

 

「最初にお前を焚き付けてしまったのは私だ。あの地獄で唯一生き延びた人間の可能性を、たったの一言で大幅に狭めてしまったのも私だ。……だからせめてお前が独り立ちできるまで、お前が私の元から離れるまでは鍛えてやろうと考えた。」

 

クロウはバレットのうちに浮上した、なぜ私を育てたのか?という疑問に彼女からの問いを待つまでもなく回答した。

 

……これ以上はダメだ。せっかくもう手の届きそうなほど近くまで迫った彼の背中が、このままでは二度と手が届かないほど遠くに消えてしまう。

 

バレットはそんな漠然とした不安を抱き、それに耐えられないというように口を開く。

 

「待ってくださいクロウ、それでは私がまるで……今まで貴方を追いかけて来た私の今までが間違えていたとでもいうのですか?」

 

「……。……。……そうだ、私はお前に最初の一歩を間違えさせて、こんなところまで連れてきてしまった。なにより……自身を犠牲にしてまで、他人を助ける責任がお前にあるはずがない。……そういうことは、私達の領分だ。」

 

普段よりも一際長く間をおいて、クロウは苦々しげに返答した。

 

「リンドウが言っていたんだろう?『君なら問題ない』と……アレは、既に先が無いのが目に見えているのだから使い潰そうが全体の損益には関係がない、という意味だ。……正義の意を冠してはいるが、アイツはどこまでも効率主義のロクデナシなんだよ。」

 

その言葉は、彼女の耳には届かない。否、聞こえてはいる……しかし自身のこれまでをクロウから直に、間違えていたと断じられたことは、彼女にとってあまりにも衝撃が強すぎた。

 

「■■■=ガットレイ、私のことを恨むのならば恨めばいい。殺したければ殺せばいい。……だが私はお前を育てた者として、事実をお前に告げる義務がある。決定的な選択肢を、これから先のお前の人生を自分の意志で決めさせる責任がある」

 

男の顔からはもはや何の感情も読み取れない。その事実で、彼女はようやく彼の真意に気が付いた。

 

彼は自分に、狩人以外の道へ踏み出す機会をくれている。……あの全てを無くした事件、彼に拾われたあの事件で、ただただ生き抜くために選んだ選択をやり直す機会を与えている。

……自分自身が全て悪いのだと、私に思い込ませて未練さえ感じさせないようにしたうえで。

 

クロウの目的に気が付いた彼女は、先ほどまでの錯乱気味な精神状態を一息で抑え込んだ。

そして、似合いもしないのに悪人ぶって責任を被ろうとする身勝手な男に視線を合わせる。

 

「……クロウ。あなたの言うように、確かに私はおかしいのかもしれない。」

「……。」

 

彼女の言葉を今度は逆にクロウが黙って聞いている。

 

「確かに最初の一歩、貴方に救われた時に選択を誤っていたのかもしれません。……ですが、私はそれを誤りだと思いたくはない。あの時、貴方に救われたのは私にとって素晴らしい出来事だと心から信じています。今更ではありますが、心から感謝を送ります。」

 

彼女はクロウに対して深々と頭を下げて感謝の意を伝える。それを彼がどう感じたのかは、張り付けたような感情の読み取れない表情からはわからない。

 

そんなクロウにかまわず、彼女は続ける。

 

「ですが、他ならぬ貴方の言葉です。無碍にはできない。ですから、ここは妥協点として『狩人として活動すか否か』についての選択をやり直すということにはできませんか?」

「……お前は、それで良いのか?」

「はい。……貴方のことですから、最初からやり直せば自分たちとの関りを断てる。そこまでして漸くやり直しが効くとでも考えていたのでしょう。」

 

暫く能面のように変化のなかったクロウの表情が、目に見えて変わった。彼女はそれをほんの少し面白く感じながら、言葉の先を続ける。

 

「狩人の実態がどういったものであれ、貴方は私にとって大恩人です。その事実に変わりはありません。……どうしてもやり直せというのなら、そこは妥協してもらわなければ釣り合いが取れないと思います」

 

そこまで口にして、彼女はこれ以上言うことはないという風に口を噤んだ。

 

彼女の本音ともいうべき言葉を受けたクロウは次第に肩を揺らして笑い始め、最終的には声を上げて大笑した。

10年以上共に活動していた彼女にとってもそれは初めて見る彼の姿であり、狩人としての仮面を取り払った素のクロウを彼女は初めて見た気がした。

 

「……全くバカバカしい、何年も思い詰めていた私が道化のようじゃないか。」

 

彼の大笑は数分間続き、やがて笑いつかれて肩で息をしながらクロウはそう呟いた。

 

「そこまで言うのであれば仕方がない。……やり直しの決断期限は次の任務が終わって帰還した時までとしよう。せいぜい熟考しておくがいい」

「えぇ、そうさせて貰います。」

 

そうやって自身の歪さを指摘され、彼女はクロウから再び選択の機会を得たのだった。

彼女が次の任務として『霧の都』へ赴くことになるのは、それから3日後のことだった。

 

 

__装章・狩人




わかりづらそうだったので解説

「……正義の意を冠してはいるが、アイツはどこまでも効率主義のロクデナシなんだよ。」

リンドウの花言葉
「悲しんでいるあなたを愛する」
「正義」
「誠実」


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振り返り
【後半に向けた振り返り】


後半開始前に振り返り。

読み飛ばしてもよい。

※立ち絵は画力がないのでカスタムキャストを使用。
 あくまでイメージなので服装や年齢など、
 細部に関しては、脳内補完をお願いします。


 

『貴族連盟』

ハイレンジア、フェリエット、ベリエード、ウォルロードの4家の貴族からなる連盟。

4家にはそれぞれに役割がある。

フェリエット家は違法行為の取締りと治安維持。

ベリエード家は経済流通経路の監視と運営.

ウォルロード家は外部警察組織との折衝役。

ハイレンジア家は情報統制。

 

『紫陽の花』

霧の都に存在する最大規模の犯罪組織。

火器弾薬や違法薬品などの物品流通を取り仕切っていると言われる。

紫陽の花のボスの正体は上位の幹部しか知らない。

 

『裏ルート』

ベリエード家の取り締まっている表の流通ルートとは異なり、『紫陽の花』が管理している流通ルートのこと。街の外部から貴族連盟の目を逃れて違法物品を流入させることが可能ではあるが、関わればまず碌なことにならないと言われる。

 

『異能薬』

いつの頃からか時折霧の都に流れる違法薬品。異能を持たない人間に、異能を発現させることができるが使用者の命の保証はされていない。その性質の悪辣さから、以前に流通させようとした者は粛清の対象となっていた。

 

 

◎フェリエット家

・ヴィアナ

【挿絵表示】

フェリエット家の現当主。若くして当主の座を継承し、フェリエットの家徳を継いだ。

沙耶を友人として『霧の都』に招待したものの、タイミング悪く起こった事件に頭を悩ませている。

 異能:従者(自分を信頼する相手の能力を底上げする。向けられる信頼が大きければ大きいほどに、相手に授ける力も大きくなる。ただし、一度に大勢に行使すると結果として総合値が下がる。自分自身へは還元できない。)

 

・オーキス

【挿絵表示】

(歳を取らせてください)

ヴィアナの右腕兼、フェリエット家の使用人の取締役。

ヴィアナから直に仕事を任されることも多く、連盟の内情にも少なからず通じている。

 

・ミハイル

【挿絵表示】

フェリエット家に使える使用人。

多くの才覚に恵まれた人物ではあるがあまり目立つことを好まない。

ベリエード家の使用人に友人がいた。本人は現在行方不明になっている。

 

・ゴルド

【挿絵表示】

使用人の一人。そつのない仕事をするので、ヴィアナとオーキスからも信頼を置かれている。

沙耶がやってきてからは、ヴィアナに命じられて沙耶の補佐を担当することになる。

基本的に善良で心配性な人物である。

裏では『紫陽の花』の幹部だったが、フェリエット家に使用人として潜入する。

現在は紫陽の花から離反し、ヴィアナに味方すると決めている。

 

・ヴィアナの父

街のことをヴィアナに任せ、外を転々としている。前回の異能薬の事件を知る人物。

 

 

◎ハイレンジア家

・イリス

【挿絵表示】

ハイレンジア家の現当主。病弱で滅多に表舞台には表れない。

幼い頃に両親を事故で亡くしてから当主を継いだ。

街のあらゆる情報を握っている。使用人は必要最小限しか雇っていない。

 

・アルエ

【挿絵表示】

(歳をとらせてください)

初老の女性。ハイレンジア家の使用人のまとめ役。

ゴルドが言うには彼女こそが『紫陽の花』の長らしい。

 

・ハイレンジア家前当主

前回の異能薬の事件と同じ時期に事故死している。

 

 

◎ベリエード家

・当主

今回の事件の最初の被害者。生前はかなりのやり手だったらしい。

 

・ベリエード家の使用人

今回の最初の事件の折、当主の乗る馬車を駆っていた人物。

今は本人の希望で処罰を受け、街の外に追放処分となっている。

 

 

◎ウォルロード家

・当主

最初の事件から数日後にヴィアナと話し合いの場を設けた人物。

警察に結構な影響力がある。有事の際には、警察への根回しなどを行っている。

 

・警察組織

ウォルロード家の根回しによって今回の事件には一切介入していない。

 

 

◎その他

・シーク

【挿絵表示】

ハイレンジア家当主が重宝している情報屋。

仕事以外ではまず姿を目撃されない。極度の甘党。

紫陽の花となんらかの関係を持っているらしい。

 

・ダリア

以前の事件で異能薬を流通させようとした人物。

町の外れで診療所を営んでいたが、事件収束前に何者かに殺害されている。

 

 

 

『組織』

怪異を駆逐または捕獲するために存在すると言われている。

噂話の延長線に位置する組織だが、事実その組織は存在する。

噂に語られるように怪異を打倒する目的で活動している。

構成員は人間外の異能の力をもった者から、真っ当な人間まで多岐にわたる。

 

 

・クロウ

【挿絵表示】

単純に強いだけの普通の人間。不愛想ではあるが情に厚い男。

初対面のバレットに強く生きることを強要するような言葉を投げかけたことを悔いている。

強度としては基本的に生きているなら何であれ殺せるレベルの力がある。

戦闘スタイル:徒手空拳、鉤爪 異能:無し

 

・バレット=ガットレイ

【挿絵表示】

組織の構成員。霧の都の一件を解決するために、上層部の勅令を受けてやってきた。

身体能力は人並み外れていて、戦闘力は外壁を容易く砕け、壁を駆けあがれる程度。

異能は持ち合わせていないが、鉄を仕込んだ靴や特殊加工を施した銃などを運用している。

戦闘スタイル:徒手空拳、銃 異能;無し

 

 

・リンドウ

狩人組織ボスである老齢の男性。

常に中性的な口調で語りかけ、誰よりも多くのことを把握している。

組織を抜ける意思がある人物を引き留めることは基本的にしない。

使えるものは何であれ運用するロクデナシ。

異能:『祝福』

人ならざるモノを排斥する異能。

真っ当な人間が相手なら何も効果を発揮しない対異能に特化した力。

触れた相手の異能のみを封じ込め、物品に祝福を与え同じ効果を付与できる。

物へ付与した祝福は半永久的に継続される。

相手が人外の場合、彼自身が触れれば一切の抵抗が不可能になり、付与された物品によるダメージは異能による治癒が効き辛くなる。

1度使用する度に数か月のインターバルが必要、物に祝福を与えた場合は更に数週間の半身の麻痺が併発する。

 

・ネームレス

リンドウに仕える女。ほとんどリンドウ以外の生き物と関わりを持たないため詳細不明。

異能:『偽装』

自分以外の任意の生き物に状況を誤認させる。

効果範囲は集中力次第。

異能使用中は効果範囲に応じて五感が封じられていく。

 

 

 

『極東』

極東の片田舎。これまで取り立てて異能による大きな事件が起きたという報告はない。

ある意味では内に閉じた環境の島国であるともいえる。

 

 

・川崎沙耶

【挿絵表示】

フェリエット家の現当主が極東の地に旅をした際に出会った二人の異能者の一人。

根っからのお人好しだが、頑固な一面もある少女。怪我人をすぐに助けようとする。

異能:癒し(生き物の負ったあらゆる傷を癒すことができる。切り傷、病気、骨折など適応範囲は多岐に渡る。汎用性は高いが、血液などは治療しても戻らない。他人を治すと疲労が溜まるが、自身を治すのは無制限。自身に対してはフルオートで発動する。治療速度の加減速のみ可能。治療しない選択肢は取れない。ほぼ即死以外では死なない。)

 

・神守さくら

【挿絵表示】

ヴィアナが出会った二人の異能者の一人だが、ヴィアナとは犬猿の仲。

歪んだことが嫌いな性格で、ある種独善的な少女。頑張ってる人は報われるべきだという信条を持つ。

幼年期に偶然親戚の村に遊びに行ったところで、沙耶の置かれている異常な待遇を目撃する。

その後、両親に頼み込んで沙耶を救い出して家族のような関係になった。

異能:影響力(周囲から寄せられる信頼や友愛を、自身から他人への精神制圧力に変換する。寄せられる信頼や友愛が大きければ大きいほど、周囲に信頼されやすくなる。ある種のカリスマ性に近い。)

 

・賽瓦永良

【挿絵表示】

さくら達の父親の古い友人。幼少期から自身の異能のせいで人のあらゆる側面を即座に理解してしまったため、人との関わりを必要最小限に留めるようになった人物。

基本的に裏表のないさくらの両親を慕っており、関係を断たなかった。

異能をある種の疾患であると認識しており、それを治すためにひっそりと『超常能力研究所』を立ち上げた。医師としての資格と知識を有しており、その関連で生計を立てている。

異能:解析(肉眼で見て言葉を交わした相手のことが100%の精度で理解できる。理解する範囲は自身の匙加減で調整可能。使い過ぎると情報過多で気絶してしまう。体調や身体情報など得られる情報は多岐にわたる。一度に大量の情報を吸収するので使用後最低3日間は頭痛に悩まされる。)

 

・さくら達の両親

底抜けのお人好しではあるが、先を読む力に長けている。

永良が関係を断てなかった程度の人格者。

 

 

これまでの簡略相関図

【挿絵表示】

 

 

 

 





後半開始まで、しばらくお待ちください。


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後章
【輪舞】①


 

微睡みの中に揺蕩う男は夢を見る。

それは自身の記憶、未だに彼がこの地に留まり続ける理由の話。

 

『まぁ!■■■■■■!実在したのね!良いじゃないファンタジックだわ!』

『……』

『■■■様、素が出てます。お控えください』

 

男の記憶の中で女は無邪気に笑っていて、その傍らに佇んでいる付き人も今現在とさして変わらぬ冷静さで己が主の言動を窘めている。

あぁ、懐かしい夢だ。男は心からそう思った。

……これまでに長い長い時間を生きてきて、初めて見惚れる程に美しいと思ったその生き物とのやり取りを、男は久しぶりに夢に見た。

その姿を、声を、何より瞳を忘れたことなど一度もない。自分が今もまだこの街に存在しているのは、あの生き物との約束があったからこそだ。

 

「……あぁ。俺もアイツも、アンタ達を忘れてなんてやるものか」

 

一人吐き捨てるように呟いて、男は書物の山の中から這い出るように起き上がった。

それから男は今後の自身の行動予定を再確認して、中天に掛かる月が見えなくなるほどに濃い霧に包まれた街の中へと消えて行ったのだった。

 

『ねぇ貴方は知ってる?……私ね、あと1週間もしないうちに殺されちゃうみたいなの』

 

そんな夢に見た彼女の言葉を思い出し、男は普段よりも一層険しい表情を隠すこともなく霧の都を見て回るのだった。

……その夜も、数度獣のような声が街に響いていた。

 

 

 @ @ @

 

 

「……なるほど、話は分かりました。」

 

バレットは『紫陽の花』の長がアルエだという話を、改めて沙耶から聞き出した。

そして自身の中で整理していた情報と照らし合わせたことによって、奇妙な違和感を感じていた。

 

……果たして単なる使用人に過ぎないであろうアルエに、そこまでのことが出来るだろうか?

そもそも地位を得たところで、私達を狙った理由はなんだ?

 

……その疑問を一端頭の片隅に追いやったバレットは、改めて沙耶に向き直った。

そもそもの話、こんな夜更けにバレットが沙耶の部屋を訪れた理由は何もいつでもできる情報共有をするためではない。

彼女は沙耶と、他ならぬ自分たちのことを話し合いに来たのだ。

 

「……サヤ、私から貴女に伝えなければならないことがあります。」

「え?はい、なんですか?」

 

沙耶はバレットの意図に気付いていないようで、疑問符を浮かべながら小首を傾げてバレットを見返している。

そんな沙耶に対してバレットは、半ば一方的に自身のこれまでの人生を語った。

 

家族も故郷も全て失ったこと、助けてくれた恩人のように自身もまた誰かを助けられるように『狩人』を目指したこと、自分自身が故障しているであろうこと。

バレットは思い出せる限りの全てを、沙耶に語って聞かせる。

沙耶はそのバレットの姿を、ただ黙って見据えていた。

 

「……これが私の生きてきた人生です。狩人を続けるにしろ辞めるにしろ、私にはどうあれ立ち止まる選択肢はない。あの日の炎と悲鳴の地獄から生還した唯一の者として、私は役目を果たさなければいけないのですから。」

 

バレットは何一つ迷うことはなく、淡々と沙耶にそう宣言する。

そして僅かに数瞬の間を開け、沙耶の言葉を待つこともなく更に言葉を続ける。

 

「ですが貴女は違う。過去に何があったのかは知りません、しかし貴女は私のように狩人ではない。身を挺してまで危険に飛び込み人を護る必要はないのです。」

 

言い聞かせるようにバレットは更に言葉を続ける。目の前の少女の身を案じているからこそ、その言葉は重かった。

 

「……サヤの歪さは、いずれ貴女自身を滅ぼす類のモノです。そうなる前に、貴女には立ち止まって欲しい。……だからサヤ、貴女はもう身を引くべきです。」

 

……沙耶の真っ直ぐな視線にも躊躇することなく、バレットは自身の考えを彼女に伝えた。

そもそもの間違い、川崎沙耶という一般人が捜査に極力している。まずはそれを止めさせる。

加えて彼女の歪さを指摘し、糺すことさえ出来れば彼女は立ち止まることができる。

彼女の過去を知らないバレットは、そう考えていた。

 

「バレットさんが何を言いたいのかは、なんとなくですけど私にも理解できたと思います。」

「……では」

 

了承してもらえますね?

そう続けようとしたバレットの言葉を遮るように、沙耶はこれまで見せたことの無いほど強い意志を滲ませる瞳でバレットを射抜いた。

 

「次は、私の番ですよね?」

 

そして沙耶はバレットに、短くそう告げたのだった。

 

沙耶がバレットに語ったのは、先程のバレットと同様に自身の過去の話だった。

ヒーローのような女の子に絶望の中から救われたこと、助けて欲しいと願って叶えられた時に感じた幸福感、自身もまた彼女達のようになりたいという想い。

バレットが語ったことを彼女自身の人生と表現するなら、沙耶が伝えたのは彼女のこれからの展望だった。

 

「バレットさんが私のことを歪だって思うのはきっと正しいです。私も自己犠牲の上で人を助けたって意味ないことくらいわかってますから」

「それなら……」

「だけど、バレットさん?私が今までに一度だって『犠牲』になったことってありますか?」

「……それは」

 

そう笑顔で問いかけられて、バレットは反論を返すことが出来なかった。

何故ならば、沙耶は事実として誰かを助けるという行為の上で何かを捧げてなどいないのだ。

彼女は彼女に可能な手段を用いて、人を助けているにすぎない。

 

最初に街に訪れた時のバレットの負傷に関していうのであれば、代償は軽い疲労程度だった。

狙撃への囮として自らを差し出した時は、確かに危険を伴っていた。

 

『私なら、大丈夫です』

 

しかし、今にして思えば沙耶には自分が死なないという確信があったように感じる。

 

「……ね?だから、私は大丈夫なんです。あのくらいじゃ絶対に死なないって、もう私は理解してるんです」

「……ッ!」

 

バレットは目の前で微笑む少女の歪さを図り間違えていたことを今更ながらに痛感した。

彼女は自身の命を勘定に入れていないのではない。むしろ逆だ。

彼女は自身の命が他の誰よりも喪われ難いことをこれ以上なく理解していて、だからこそ献身的なまでに他の命を助けることに執着しているのだ。

 

「自分の力を誰のためにどう使うのか、何のために行動するのか……それを私はきちんと決めています。自分の周囲に私の力で助けられる人が居るなら助けたい。そうやって、みんなを助けて笑顔にできれば……」

 

本当の お父さんとお母さんを 助けてあげられなかった

こんな私だって 生きてても良かったんだって 

そう思って良いかもしれないじゃないですか

 

沙耶はさくら以外の誰にも言ったことのない自身のトラウマを、口に出しそうになっていたことに気付いて咄嗟に踏みとどまった。

 

「……サヤ?」

「あ、いえ、なんでもありません。」

 

沙耶はバレットの境遇がほんの少し自信と似ていたから、変に感情的になってしまっていたかもしれないと反省した。

 

「とにかく、私は平気です。ちゃんと自分で決めたうえで私はこの道を歩いてるんです。」

 

だから心配しないでください。

そう言って普段通りに、沙耶はバレットに笑いかけた。

しかし傍から見た沙耶の表情は、普段とは全く違う悲壮の滲んだ笑顔だった。

 

「……。今の貴女を見て確信しました。」

「え?」

「私はどうやら、貴女のことを放って置けないようです。」

 

バレットは言葉と同時に沙耶へ歩み寄り、彼女の前に膝をついてその手を取った。

その姿はまるで、主人の前に跪く従者のようだった。

 

「あの、バレットさん……?」

「貴女の歪さを捨て置いてしまっては、私は過去の私を見殺しにすることになる。」

 

沙耶がバレットの境遇を自身と僅かに重ねたように、バレットもまた沙耶の苦難を自らと重ねていた。

その類似点は決して多くはない、しかし二人には決定的に同じ点が1つだけ存在していた。

 

それは自身よりも他者を優先しようとする危うさだ。

 

「貴女が先程何を口籠ったのかは解りませんが、私には貴女の願いを否定することはできない。」

 

バレットも沙耶も、方法は違えど人を救いたいという方向性は同じだった。

 

「……けれど沙耶。他者を救いたいというのであれば、どうかわたしを頼っては貰えませんか?」

 

ならば自分が彼女を護ってしまえば彼女の問題は解消されるはずだと、バレットは考えた。

 

「……えっと?」

「解り難かったでしょうか……。」

 

あまり慣れないことをするものではありませんね、と小さく呟きながらバレットは苦笑する。

そして跪いた体制のまま、沙耶に教え諭すように語り掛ける。

 

「要するに……私が傷を負えば貴女が治し、貴女が危機に瀕すれば私が守る。……ということです」

「……えっと、それって今までと同じってことですか?」

 

沙耶の言葉にバレットは少し考えてから、小さく首を横に振る。

一人一人が単に同じ方を向いているだけならば、それは孤独な旅路だ。

しかし共に手を取り歩く者がいれば、それは二人になって孤独ではなくなる。

バレットの言葉にはそういう意味合いも含まれていた。

 

そして後もう1つ。伝わっていないだろう言葉の意味を、バレットは捕捉するように沙耶に伝えた。

 

「できるなら、この街を出てからも私は貴女を護りたい……っと、思っているのですが」

「……。」

 

そのバレットの言葉に、沙耶はしばらく間の抜けた表情のまま硬直していた。

そして数分後、我に返ったように沙耶はバレットと視線を合わせ

 

「……えっと、しばらく考えさせてください。」

 

……と、微妙にずれた言葉を返したのだった。

 

 

一向に晴れぬ霧の中で、表と裏で思惑はこうして廻り始めた。

自らの願いを果たせるように、一歩ずつ未来に歩みを進めながら。

 

 

 



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【輪舞】②

 

夜が明けた。

川崎沙耶は底無し沼のような抗い難い微睡みから抜け出し、無理矢理身体をベッドから起こした。

窓の外を見ると、昨夜の濃霧は嘘のように消え去っていて辺り一面視界は良好。問題なく周囲を見渡すことができた。

 

「……はぁ」

 

しかし、そんな外の状況とは対照的に沙耶の胸中は重く澱んでいた。

原因は昨夜行われた『狩人』バレット=ガットレイとの話し合いだった。

 

ゴルドから入手した、ハイレンジア家の使用人であるアルエが『紫陽の花』のボスらしいという情報をバレットと共有したまでは良かった。

しかしその後、沙耶にとって予想外の話の流れになり、バレットと自身の過去を互いに打ち明け合った。

その過程で少々彼女と言い合いになってしまったことが、沙耶をこの上なく憂鬱な気分にさせていたのだった。

 

自身の姉であるさくらと口論になって以来、言うつもりのなかった本心を口に出しそうになったこともそうだが、沙耶としてはあそこまで本気で言い返されるとは思っていなかった。

そのため反論に少々熱が入ってしまったことが、何よりも沙耶を憂鬱にさせていた。

 

「ちょっと強気に出すぎちゃったかなぁ……。いやでも、バレットさんが急にあんな話を始めたのが原因だし……いやいや、人のせいにして自分を正当化するなぁ……」

 

沙耶は珍しく頭の整理が追い付いていないのか、独り言を零したり、無意味に室内を歩き回ったり、頭を左右に振ったりして雑念を飛ばそうと躍起になっていた。

 

『できるなら、この街を出てからも私は貴女を護りたい……っと、思っているのですが』

 

「……。」

 

不意に、昨夜バレットが最後に残した提案を思い出してピタリと沙耶の動きが止まった。

そして何事かを数秒程思案した沙耶は、俯いていた頭を勢いよく上げる。

その眼には決意のような強い光が宿っていた。

 

「とりあえず……守られなくても大丈夫なところをバレットさんに見せて、私は心配不要ですってことをハッキリ伝えなきゃだよね!」

 

そんなふうに、川崎沙耶は一人で勝手に納得してしまった。

沙耶の負けず嫌いな一面が、悪い方向に働いてしまった結果だった。

 

「……あの、沙耶様?そろそろ朝食のお時間ですが……準備の方は大丈夫でしょうか?」

「わっ!?いつからゴルドさん!?」

 

控えめに扉を少しだけ開けた状態で、ゴルドが部屋の中を伺って心配そうに沙耶に声をかけていた。

どうにも沙耶が悩んでいた一部始終を目撃してしまったようで、心配と同時に困惑の色がその瞳に浮かんでいた。

 

「ほんの少し前からです。ノックは数回したのですが反応がありませんでしたので……準備がまだのようでしたら、髪を整える程度であれば私でもお手伝いできますが。」

「す、すぐに準備します!」

 

慌てて返事をする沙耶の様子を見て、ゴルドはそっと扉を閉めた。

部屋の外で待機しているゴルドは、落ち着いている普段とは違い沙耶にも歳相応の部分があるのだと感じ、奇妙な親近感を覚えた。

 

暫くして沙耶はヴィアナとバレットが待機している部屋に到着し、二人と一緒に朝食を終えた。

 

「それで沙耶?今日は随分とのんびりとした起床だったようですが、昨日夜更かしでもしたんですの?」

 

朝食を終えて談笑している途中、ヴィアナは思い出したように沙耶にそう問いかけた。

一応事情を聞いておきたかったが、到着早々問い掛けては責めているように感じるかもしれないので、一端時間を置いて後から聞こう。

そんなヴィアナの密かな気遣いもあってこのタイミングを選択したようだった。沙耶もそのことは何となく察しているようで、困ったように小さく笑みを返している。

 

「夜更かしというか、思ったより熟睡しちゃって。気付いたらもうギリギリの時間だったんだよね」

 

そして沙耶はなんとなく昨日ゴルドやバレットとした会話をヴィアナに伝えるのは止めておくことにした。

ゴルドはヴィアナの味方だと解っているので自分から事を荒立てることもないし、バレットとの会話内容は人に聞かせる類の話ではない。

……ゴルドだけは、少し驚いたような表情で沙耶を見ていたが、彼女なりに考慮しての返答だった。

 

「やれやれ……やはり一日を休暇に充てるように進言したのは正解だったようですわね」

 

ヴィアナは沙耶の言葉にため息交じりに返答した。

 

「……進言、というような平和的な雰囲気ではなかったと思いますが……」

「あらバレット、何か、言いたいことがありまして?」

「いえ、何も」

 

沙耶はヴィアナとバレットの間に一瞬火花が散ったように感じた。……しかし、それは一瞬だけで二人は楽しそうに肩を揺らしているので、自分が心配することはなさそうだと沙耶は胸を安堵した。

 

「そういえば二人とも今日はどこを見て回るつもりですの?捜査、再開するのでしょう?」

「えぇ、許可を頂けるのであればそうするつもりです。」

 

ヴィアナは紅茶のカップを一度置き、改めてバレットと沙耶に向き直る。それを見て沙耶も居住まいを正してヴィアナとバレットの会話に耳を澄ました。

 

「許可なら差し上げますわ。もとより強制的に疲労回復に充てさせるのは昨日だけのつもりでしたので」

「……。」

 

沙耶は、強制的だったって自覚はあったんだね。と口に出しそうになっているのを何とか踏みとどまった。

一方バレットは、ヴィアナの返答に小さく頷いてから今後の予定を口にする。

 

「今日は改めてハイレンジア邸に向かう予定です。……情報統制の役割を担っているという点もそうですが、もう何点か確認するべき事象が生じましたので」

「……ハイレンジアということは、イリスが何か今回の件に関りがあると?」

「それはまだ何とも。」

 

ヴィアナはバレットと言葉を交わしながら、視界の隅で沙耶を捉えていた。

……どうにも今朝の彼女の様子は妙だと、友人としての勘がヴィアナにそう告げていた。

そして、様子がおかしいと言えばもう一人……昨夜から落ち着きのない使用人がいる。

ヴィアナはそこで一度数秒間目を閉じ、深く息を吸い込んで自身の思考をリセットした。

 

「オーキス、急ぎ本日のハイレンジア家への訪問が可能か、確認を取りなさい。」

 

そして落ち着いて判断した結果、ヴィアナは自身が今取れる最善の選択をすることにした。

ヴィアナとイリスは友人関係だ。もし仮に拒まれたとしても、友人の頼みということで強引に押し切ってしまえば良い。

無論その場合はイリスに貸しを作ることにはなるが、彼女に無理を言う以上はヴィアナは多少の無茶振りであれば受け入れるつもりだった。

……しかし

 

「……それがヴィアナ様」

「?、どうしたのオーキス」

「こちらを」

 

オーキスはヴィアナの命に対し、珍しく対応を決めかねているような態度をとっていた。

不審に感じたヴィアナが眉根を寄せながらオーキスに問い掛ける。彼はヴィアナの傍らに歩み寄り、懐から1通の封筒を取り出してヴィアナに差し出した。

そんな二人のやり取りをバレットと沙耶は、何事かと押し黙って見つめていた。

 

「これは……ハイレンジア家の封蝋?」

「今朝早くにやってきたハイレンジア家の使者がヴィアナ様にと……。念のため要件も確認しようとしたのですが、渡してもらえれば解るとだけ……」

 

どうにも煮え切らない態度のオーキスにヴィアナは身構えてから、封筒を受け取って中の手紙を読み始めた。

 

「……」

「……」

「……」

 

沈黙が室内を支配する。

沙耶もバレットもオーキスでさえ、ヴィアナがハイレンジア家からの手紙を読み終えるまで固唾を飲んで見守るしかなかった。

 

「ふ、ふふ、ふふふふふ……」

「ヴィアナちゃん?」

「ヴィアナ嬢?」

 

手紙の枚数は全部で4枚だったようで、ヴィアナはその全てに目を通した後で肩を揺らして笑い始めた。

オーキスとゴルドは、主人の只ならぬ様子に息を飲んで彼女の言葉を待っていた。

 

「……はぁ、全く。……あの子は昔から何を考えているか解らないところがありましたが、今回は度を越しているにも程がありますわ、本気で」

 

しばらくして、ヴィアナの様子が落ち着いてから彼女が呟いたのはそんな言葉だった。

 

「ヴィアナ嬢、一体どのようなことが書かれていたのですか?」

「……バレット、貴女達がハイレンジア家に向かうのを許可することはできません。……いえ、正確には許可を出す前に徹底的に拒絶されたとでもいうべきなのかしら。」

「え?それってどういう……」

「こちらをご覧くださいな。」

 

ヴィアナはそう言って、4枚の手紙のうち最初の2枚だけを2人に差し出した。

どうやら読んで良いということらしい。

沙耶とバレットは数秒互いに顔を見合わせて、差し出された手紙を確認することにした。

 

【拝啓、親愛なる友人の皆様

 堅苦しい挨拶は省く。

 

 手紙を送った理由は他でもない。

 『狩人』が追っている件の事件に関係する情報を発見した。

 緊急の要件のため、早急に別紙にて詳細を確認するように。

 

 それからもう1つ。

 数日の間、街の外部の人間が当家に立ち入ることを許可しない旨を理解してほしい。

 実力行使に出た場合、当家は相応の報復を行う。

 

 最後に忠告を。

 身内であってもあまり盲目的に信頼しないことを勧めるわ。

 貴女は優しすぎる。

 

 イリス=ハイレンジア】

 

1枚目の手紙を読み終えたバレット達は、続く2枚目に目を通す。

……そこには簡略化された地図と、その地図に記された目的地への道順が詳細に記載されていた。

以前の『異能薬』事件の首謀者であったダリアという人物、彼が根城にしていた廃棄された診療所。

そこが2枚目の手紙に記載されている目的地だった。

 

「これは……」

「無理を通すために代償を支払う。……こちらに拒否させる隙さえ与えず、どちらも済まされては私もどうしようもありません。」

 

ヴィアナは珍しく苦笑しながらそう言って、オーキスが新しく淹れた紅茶に口を付けた。

 

「ねぇ、ヴィアナちゃん。……その、言い辛いんだけど」

「イリスが何か重要なことを知っていて、私たちに黙っている。そう言いたいのでしょう?……私も同感ですが、ここまで先手を打たれてしまっては、ね。」

 

ヴィアナは困ったように沙耶に返答する。

ヴィアナからしても、まさかここまで徹底的な先手を打たれるなど夢にも思っていなかった。

彼女がハイレンジア家の当主の座についてから今まで、こんなことは異例中の異例だったのだ。

 

「……まさかこちらが動き出すよりも早く阻止されるとは思いませんでした。……しかし、その割には」

 

奇妙な点が多すぎる、とバレットは直感的に感じていた。

ゴルドという内通者がフェリエット家に存在しているとはいえ、いくらなんでもコチラの動きを察知するのが早すぎる。

その上、ハイレンジア家を尋ねさせない代わりに新たな手掛かりを送って寄越すなど筋が通らない。

恐らく何らかの誘いなのだろうが……他に明確な手掛かりがないのも事実。誘いに乗らない選択肢は存在しない。

 

「ねぇ、ヴィアナちゃん。後の2枚って何が書いてあったの?」

「特に目新しいことは何も。要約してしまうと、私個人への仕事の手紙でしたわね」

「……そっか」

 

沙耶はそれだけヴィアナから聞き出して黙り込んだ。

ヴィアナはそんな彼女の様子を見つめ、何を言うでもなくただ微笑んでいた。

 

そして不意にヴィアナが柏手を打つと、思考に沈んでいたバレットは顔を上げてヴィアナを見る。

 

「で、どうします?」

「……不本意ですが、今日の所はひとまずサヤと一緒にこの手紙に記された場所へ行ってみることにします。」

 

ヴィアナの問いかけにバレットは地図の書かれた手紙を懐にしまい込みながら、ヴィアナに返答する。ヴィアナはそれを止めることもなく、黙認した。

 

「……」

「サヤ……?」

「……え?あ、はい!」

 

沙耶はバレットよりも深く思考に耽っていたようで、立ち上がったバレットに肩を軽く叩かれてようやく自身が呼ばれていることに気が付いた。

 

「……大丈夫ですか?不調なようなら」

「大丈夫だってば」

 

沙耶の様子に心配そうな声をかけるヴィアナの言葉を遮り、沙耶は立ち上がってバレットの横に移動した。

 

「……あぁ、そうだ二人とも」

「はい。」

「どうかしたの?」

 

今まさに扉から外に出ようとしていた二人を呼び止め、ヴィアナはついさっき思い出したことを伝えた。

 

「今日はあまり遅くならないようになさい。……どうも今夜の霧は一段と濃くなりそうですので」

「……忠告感謝します。」

「行ってきます、ヴィアナちゃん」

「ゴルド、屋敷の外まで二人を案内なさい」

「承知しましたヴィアナ様」

 

沙耶達はゴルドを先頭にして、ヴィアナとオーキスの残る部屋から退室していった。

ヴィアナは扉から出て行った3人の足音が聞こえなくなるまで、ジッと扉を見つめ続けていた。

そして足音が完全に聞こえなくなったところで、肩の力を抜いて脱力した。

 

「貴方ねぇオーキス……こんな手紙をあんなタイミングでよくも渡せたものね……」

「……プライベートなことでしたので、中身の確認が不十分でした。……残る2枚にはなんと?」

「……これよ」

 

オーキスは疲れ切った様子のヴィアナから手紙を受け取り、その文面に目を通す。

そして3枚目を読み終え、4枚目に目を通し始めたところで彼の目は見開かれた。

 

「ヴィアナ様、これは……」

「……本当に、何を考えているのかしらねイリスは」

 

ヴィアナは街の中で同格の地位に立っている唯一の友人を思い浮かべながら深々と溜息をつき、緩慢な動作で回収した手紙を仕舞い込むのだった。

 

 



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【輪舞】③

 

「……ここですか」

「ここ、ですね」

 

バレットと沙耶の二人は、とある廃屋の前で立ち尽くしていた。

フェリエット邸を出発して目的地に到着した二人だったが、そこは既に老朽化が進み打ち捨てられてかなりの時間が経過していると一目で見て取れるような場所だった。

 

「10年少々でここまで荒廃しますか」

「聞いた感じだと結構酷い事件だったみたいですし、誰も近付こうとしなかったんじゃないですかね。……けど、これだけ荒れてると床抜けたりしないのかな」

「さらりと不穏なことを呟かないでください。」

 

バレットは沙耶が小さく呟いた不安に苦笑交じりで言葉を返した。

しかし、これだけの状態になっているというのに未だに放置されているのはどういうことか。

……いっそ取り壊してしまえば、この場も有効活用できるだろうに。

そこまで考えてバレットは無視できない程の違和感を覚えた。……この建物に対してではなく、今のこの状況についてだ。

 

……この場に来たのはハイレンジア家当主のイリス嬢からの情報提供が発端だ。

いや、そこではない……そもそも彼女の家の担う役割は、情報統制だったのではなかったか?

それはつまり、都合の良い状況を作り出すのも思いのままだということでは……。

 

「……バレットさん?」

「あ、あぁ……問題ありません。少々猜疑心に苛まれていただけですので。」

「なるほど?……私にできることなら協力は惜しみませんから、何でも言ってくださいね?」

「ありがとう、サヤ」

 

沙耶はバレットが何について疑いをもったのか深く追及することはせず、改めて診療所跡地である廃屋に向き直った。

 

「……バレットさん、一つだけ気付いたかもしれないことがあるんですけど」

「なんでしょう?」

 

沙耶は屋敷を出る前にヴィアナと交わした会話を思い返しながら、バレットに自身の推測を話し始めた。

 

「最初に断ってしまうと、これは単なる私の推測です。……あのイリスちゃんからの手紙、たぶんアレは私達二人だけに宛てて送られたものだったんだと思います。」

「……ふむ。根拠を聞いても?」

 

バレットの問いに、沙耶は努めて冷静にそう考えた根拠を上げる。

 

「最初は宛名が他人行儀過ぎだったのがちょっと違和感に感じたくらいだったんです。内容が完全に業務連絡だったのも違和感を感じた理由でした。」

「……それは根拠というには少し弱いのでは?連盟盟主の立場での話であれば、そういう書き方にもなるでしょう。」

 

沙耶はバレットの指摘を聞いて、もっともな返答だと頷いた。しかし、頷きながらも返したのは反論だった。

 

「私もそう思います。けど、最初にそれを知りたがったのは私達です。ヴィアナちゃんは知るきっかけを私達にくれただけ。……そう考えると、あの手紙の宛先にヴィアナちゃんが含まれていないのは自然だと思うんです。」

 

知るきっかけというのは、言うまでもなくハイレンジア家を紹介したことだ。

あの時ハイレンジア家に向かわなければ、今こうしてこの場に立っていたかも怪しい。

……まぁ、あの時のヴィアナはこんな展開になるなど予想していなかっただろうが。

 

「それから、違和感が確信に変わったのはヴィアナちゃんとの会話です。」

「会話?」

 

沙耶は自身の感じたことがなるべく伝わるように言葉を探しながら、真っ直ぐにバレットの目を見て話す。

 

「ヴィアナちゃんに聞いたんです、残り2枚に何が書いてあったのか。……ヴィアナちゃんからの返答は、個人的な仕事の手紙だったって言葉でした。あの時のヴィアナちゃん、何かを伝えたそうな感じだったんです……けど。」

 

沙耶は自身の言葉に結局のところ感覚的な根拠しかないことに気付き、困ったように笑った。

 

「あはは、すみません。確証もなくこんなこと言っちゃって……。」

「いえ、気にすることではありません。ヴィアナ嬢とは私よりも貴女の方が付き合いが長い。……であれば、私が見落としてしまったものを沙耶なら取り落とさないこともあるでしょう。」

 

バレットは先程の沙耶の言葉を整理し、情報として刻み込んだ。

……どうあれ、ヴィアナの親友であるサヤがそう感じたのであれば一考する価値はある。

なにより『私達には見せられない個人的な仕事の手紙』というのは重要な情報だ。

バレットは情報の整理を行いながら、そう直感した。

 

「さて、ではそろそろ中に入りましょうか。」

「……。はい。」

 

そして二人は診療所跡に侵入した。

 

 

「うわ、埃すご……」

「……」

 

中に入るのとほぼ同時に沙耶はそんな言葉を漏らした。

荒廃の進んだ外観とは違い、中は思いの外まともな状態を維持されていた。しかしそれでも長期間誰も訪れていなかったのだろう、眼に見えて埃が積もっていた。

埃が溜まっている以外はそれほど問題はなく、二人は注意深く探索しながら奥へ奥へと進んでいく。

 

そして最終的に行き着いたのは、執務室という表札が掲げられた部屋だった。

二人はその中も捜査することにした。

空の薬品瓶が置かれたままの棚。以前誰かが使用していたと思わしきデスクと、書類が抜き取られて捨てられたのだろうファイル群。

室内にあるのはその程度のもので、あとは仮眠用と思わしき簡易ベッドのみだった。

 

思いつく範囲を全て調べ終えた二人は、困ったように互いの表情を伺った。

 

「……何もない、ですね。」

「恐らく当時の捜査で疑わしい物品は粗方押収されたのでしょう。しかしこれは……」

 

……こんな場所をいくら探したところで、手掛かりなど存在しないのではないだろうか。

バレットと沙耶は、互いに口には出さないがそんなことを考えていた。

無理もない話だ。ここには目ぼしい物が何もないのだ。捜査をしようにも調べようがなかった。

 

「……けど、なんかここって診療所っていうよりは研究所って感じですよね。」

「サヤ、それはどういう?」

 

バレットは沙耶が半ば無意識に呟いた言葉を聞いて、彼女に問い掛けた。

 

沙耶は埃の積もったデスクの表面を指でなぞりながら、思い返すように返答する。

 

「私の知り合いっていうか、医療知識の先生がこんな感じのところで研究してるんですよね。……先生も研究以外に簡単な問診とか怪我の手当てくらいはしてるみたいで、設備も必要最低限しか揃えてなくて……それがなんか、此処と似てるなぁって思って。」

「それは昨夜話に聞いたクロブチ氏のことですね?……しかし、研究所ですか。」

 

バレットはそれで認識を改めることにした。

過去の事件と関わりがあるとはいえ、これまで彼女はここを診療所跡くらいに考えていた。しかし……もしここの役割が、診療所としてよりも研究所としての側面が大きいのであれば、それなりの調査の仕方がある。

 

「サヤ、申し訳ありませんがもう一度初めから見て回っても構いませんか?」

「え?……はい、私は大丈夫ですけど何か分かったんですか?」

「それを確かめるための再調査です。」

 

言いながらバレットは執務室を後にして、入口の方に向かって歩いて行った。

 

「……。」

「……。」

 

二人は無言で室内を見て回る。バレットはじっくりと時間をかけて注意深く何かを探しているようだが、沙耶にはそれが何をしているのかが分からなかった。

 

「……あった。」

 

そうやってバレットが建物内を練り歩き初めてからしばらく経過した頃、治療室と銘打たれた部屋の中で彼女は唐突にそう言った。

 

「?」

 

その間も沙耶はバレットの後ろに付いて回っていたのだが、目新しい手掛かりは発見できずにいた。

 

「えっと……何か見つけたんですか?」

「えぇ、此処を見てください。」

 

バレットは沙耶の問いかけに対して、スッと部屋に置かれた棚を指差した。……正確に言うと棚の周辺の床を指差しているようだが。

 

「……棚?」

「正確にはこの棚の周囲の床です。……ここだけ埃の積もり具合が周囲と僅かに違う。加えて何かを引きずったような跡が薄っすらとですが視認できる。」

「え……?んー……?私には差があるようには見えないんですけど……引き摺った跡もこれだけ埃が酷いと隠れててよく分かりませんし……」

 

バレットの説明を聞いた沙耶はジッと指差された一角を凝視しながら、やはり見分けがつかないようで小首を傾げた。

その様子にバレットは小さく笑みを浮かべてから、ゆっくりと踏み出す。

 

「まぁ、実際に見た方が手っ取り早いでしょう」

 

バレットは件の棚に軽く揺らすようにして何度か手で触れる。

 

……そして棚の周囲の空きスペースを確かめるように見回してから、唐突に棚を持ち上げた。

 

「よ、っと……。」

「え!?バレットさん何を!?」

 

突然のバレットの行動に沙耶は驚きの声を上げる。しかし彼女は特に気にした様子もなく、棚を持ったまま数歩移動して、慎重に床に降ろしてから沙耶に返答した。

 

「ん?邪魔だったので棚を除けただけですが」

「あ、はい……そうなんですね。……じゃなくて!手伝いますから言ってくださいよ!」

「?……いえ、埃で汚れるので大丈夫です。それにまぁ、この程度の重量であれば一人でも問題なく運べますので」

「いや、そういうことではなく……」

 

沙耶はバレットの返答に困惑を露わにしながら苦笑した。

バレットは自分にできることをしただけなので、沙耶が取り乱している理由がいまいち理解できていなかった。

 

「そんなことよりも、やはり当たりでしたね。」

「当たり?……あ」

 

沙耶は元々棚の置かれていた場所を見て、バレットの言葉の意味を理解した。

 

……穴が開いていた。

明らかに人工的に作られているそれは、階段のような構造になっており下へ下へと続いている。

 

「……地下室?」

「そういうことです。……ただの診療所跡であれば私も疑いませんでしたが、沙耶の言葉で研究所という認識に切り替えて思いつく限りの可能性を潰していたのです。」

「お、お役に立てたようで何よりです。」

 

沙耶は自身の発言が思わぬ事態に発展したことに驚きつつ、改めて中を覗く。

穴の中も埃が酷いとはいえ、一人ずつであれば問題なく通れるだけのスペースは確保されているようだ。

……衣服に埃が付着するだろうことを考慮しなければ、何の問題もなく通れるように感じた。

 

「2人で中に入る必要はありませんし、沙耶は外で……」

「お気遣いありがとうございます。けど大丈夫です。行けます。」

 

バレットの気遣いの言葉を押し退け、沙耶はグッと覚悟を決める。

そもそも沙耶もここまで建物内を散策した時点で、汚れなんて既に気にしていない。地下に入ろうがこの場に待機しようが誤差の範囲だ。

ほんのちょっと衛生面が気になるくらいなので、何の問題もない。

 

 

そんな風に微妙にずれた懸念を抱きながら、沙耶はバレットを追いかけるように地下へ続く穴の中に入っていった。

 



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【輪舞】④

 

地下室に続く穴の中へと入っていったバレットと沙耶は、しばらくして行き止まりに辿り着いた。

地下に降りる前にバレットが診療所内から回収してきた古いランプによって照らし出されたのは、正確には行き止まりではなく錆び付いた扉だ。

この場の雰囲気に似つかわしくない程の堅牢さで、その扉は内と外を完全に隔絶していた。

 

バレットは一度その扉を軽く調べ、鍵がなければ簡単には開けられないことを確認した。

扉の状態を確認し終えたバレットは、沙耶に数歩下がるように伝えた。

 

「……ハァッ!」

 

沙耶が指示通りに数歩下がったことを確認したバレットは掛け声と共に扉を蹴り壊した。

無論、室内にどのような物品が保管されているかは不明なため、扉が吹き飛ばない程度には加減をしての回し蹴りだった。

 

「……もしかして」

 

ある種衝撃的なその光景を目にした沙耶は、先日訪問した情報屋の拠点を思い出した。

そして何故扉があんな風に歪んでいたのか、その原因に思い至ったのだった。

 

「バレットさんって実は結構不器用ですよね?」

「失礼な、力加減はいつでも完璧です。」

 

バレットは何故急にそういう話になったのか理解できていないようで、怪訝な顔で沙耶に返答しながら自身が蹴り壊した扉を端に避けていた。

 

そうして二人は長らく扉に閉ざされていたであろう地下室の中へと侵入した。

 

「……上もそうでしたけど、基本的に何もありませんね」

「予想はしていました。」

 

室内にあるのは何故か部屋の中央に設置されたベッドと壁際のデスク、それから複数の棚だけだ。

強いて上階との違いを挙げるなら、ここに残された棚の中には空の薬品瓶すらも存在しないということだった。

 

「サヤ、手分けをしましょう。私はデスクを集中して調べます。」

「あ、じゃあ私は薬品棚……は空みたいなので、ベッドの周りとか見てみますね」

「えぇ、よろしくお願いします、」

 

手早く周囲の状況を見たバレットは、沙耶に提案してから最も手掛かりの残っていそうなデスクに歩み寄った。

彼女は視界の端で沙耶がしゃがんでベッドを念入りに調べようとしている様子を捉えていたが、デスクの引き出しに手を掛ける頃には意識を完全に切り替えて調査に集中するのだった。

 

 

  @ @ @

 

 

……正直私は対応に窮していた。

この地下室に始まったことではないが、この建物には何もなさすぎる。

手掛かりになるような物品もなければ、最近何者かが侵入したような痕跡もない。

イリス=ハイレンジアが何を考えてわざわざこんな場所を調べさせるように仕向けたのか……私にはその意図が理解できなかった。

 

元より客観的な視点で見れば、イリス嬢は明らかに何かを隠している。

しかし彼女が一連の事件の犯人、もしくは黒幕である……という線は薄い。

もし仮に彼女を黒幕だとした場合、彼女の行動には腑に落ちない点があまりにも多すぎるからだ。

 

「だというのに……」

 

私は先程デスクの引き出しの中から取り出した古ぼけたノートを手に取りつつ、深いため息を零していた。

あからさまな誘導。……とはいえ現状乗るしか選択肢はない。

思えばハイレンジアの屋敷を訪ねてから今日まで、私たちは彼女の手のひらの上で弄ばれているとすら感じている。

 

例えば……あの情報屋、シークのことを私に教えるようにアルエに指示したのはイリス嬢だ。

そして彼は『紫陽の花』の長と繋がりがあり、その人物はサヤを敬遠している。

……この情報とゴルドがサヤに告げたという『紫陽の花』の長の正体が、私の中でどうしても噛み合わない。

 

彼が言うには『紫陽の花』の長はハイレンジア家の使用人であるアルエだという。

……しかし、ハイレンジア邸を訪ねたあの日にアルエと長く話をしたのはサヤではなく私だ。

アルエとサヤには接点らしい接点がない。……にも拘らず、『紫陽の花』の長はサヤを遠ざけている。

むしろ私には、アルエではなくあの日にヴィアナ嬢と共に彼女と話をしていたイリス嬢こそが『紫陽の花』の長だと言われた方が自然なように感じられる。

 

そんなことを考えながらノートを読み進めていた私は、不意に気になる記述を見つけた。

ノートの内容は何らかの研究記録のようで……異国の文字で煩雑に走り書きのように記載されていて非常に難解だった。

このノートは恐らく診療所の主だったダリアの書き残した物なのだろう、それだけは容易に推測できた。

 

明らかに書いた本人以外が読み返すことを想定していない文字の羅列。その中に不意に冷静さを取り戻したように落ち着いた筆跡で、ページの端に注釈が添えられていた。

 

『以前にアレから聞いた通り、人間の異能は人体構造の中に発生した突然変異的なモノらしい。

 度重なる実験の末、私はそれを因子として捉え、一部を摘出・複製することに成功した。

 この手法を応用して首尾良くアレの因子を移植できれば、面白いことが出来そうだ。』

 

……文脈から察するにどうやらこのノートにはダリアが行っていた研究、つまり異能薬の製造に関する研究過程が記載されているらしい。

初日の襲撃者が異能薬の服用者だったことは既に情報を得ていたので、その実在性を今更疑いはしない。しかし、その製造過程には目を疑うような内容が記載されている。

異能を因子として摘出し複製するなど、前代未聞どころの話ではない。そんなことに成功した例など、これまで噂ですら聞いたことがなかった。

 

私はありえないと否定しそうになる自身を抑制し、再び注釈を探した。

そして数ページ捲ったところで、再びそれを発見する。

 

『どうにも上手くいかない。

 これまでの実験でわかったことは、適性のある素体でなければ人体構造が保てないということだ。

 一時的には安定しても、本来の持ち主以外では異能を扱い切れずに最長2日で死亡してしまう。

 正確に言うと、異能の因子を取り込んだことによる強烈な拒絶反応に人体が耐え切れず、末端の細胞から次々と壊死してしまう。

 ……これをどうにかしなければ、異能の移植なんて夢のまた夢だろう。』

 

……。少なくともここだけで情報屋シークから得た情報と、使用者は最長2日で死亡する・拒絶反応によって細胞が壊死するという記述が合致していた。

ここまでの記述をみるに、どうやらダリアはこの2つの問題に関して最後まで解決策を見いだせなかったようだ。

それは若干の焦りを感じさせる最後の一文からも感じ取れるし、なによりも仮に解決策を確立しているのなら、襲撃者が半身を獣に変容させたままで死ぬこともなかったはずだ。

 

『あれから何度も何度も実験と検証、そして修正を繰り返した。

 長期間に渡り考えられる手は全て試してみたものの、結果は芳しくない。

 ……少々プランを変更する必要があるかもしれない。』

 

再度発見した記述の内容に、私は少しばかり余裕を取り戻した。

記述の時点とこれまでの情報を照らし合わせた限りでは、まだ異能薬はダリアの思い描いていた完成品には程遠い段階であると感じ取れた。

そして私はそのまま努めて事務的に、次へ次へとページを捲っていく。

 

 

 

『上手くいった。』

 

 

 

それを見た瞬間、ゾワリと背筋に冷たいものが走った。

たった一言、たったの一文。

だというのに、その一文が先程まで読んでいたノートの文面の中で最も悍ましい存在感を放っているように私には感じられた。

まるで少し事態を楽観視し始めていた私を嘲笑うかのように、その文はハッキリと書き記されていた。

 

……詳細は分からない。

分からないが、少なくとも以前の事件の際にダリアは何かを成したのだ。

それだけは事実だと、たった一文で告げられていた。

 

私は彼の人物が何を成したのか……せめてその手掛かりを僅かにでも得られることを願いつつ、ひたすら無心でノートを捲っていった。

 

「バレットさん、こちらは大体調べ終わりました。そっちは何か分かりましたか?」

「……えぇ、こちらも丁度調査が終わった所です。」

 

そんなサヤの声を聞いて、私は少し冷静さを取り戻す。そしてノートをしまいながら、私はサヤに返事をした。

 

……このノートは大きな手掛かりになる。

私はノートを更に詳しく調べる手段を模索しながら、サヤと向き直るのだった。

 

 

  @ @ @

 

 

私は早速、バレットさんに提案した通りベッドの周辺を調べてみることにした。

 

「……」

 

……とはいえパッと見た感じ本当に簡素な造りの、人が一人寝転がれば埋まってしまう広さのベッドだという程度しか私にはわからない。

 

『先入観っていうのは意外と厄介なんだよ。最初にどういう印象を受けたかで、その後の物の見え方や感じ方なんかにも影響が出ちゃうからね。

……どう対策すれば良いか?……そうだねぇ、単純に見る角度を変えてみたら良いんじゃないかな?』

 

ふと、以前クロブチ先生がそんなことを言っていたのを思い出した。

私はせっかくの機会なので実践してみようと思い、とりあえずしゃがんでじっくりとベッドを観察してみることにした。

 

……ベッドはそれなりに年季が入っていて、少し負荷をかけるだけで軋みを上げる‌ようになっている。

随分と長い時間放置されているようで、シーツの上にまで埃が積もってしまっているのが見て取れる程だ。

 

「この部屋、ほんとに誰も使ってなかったんだ」

 

入口の扉は錆び付いていたし、そもそもこの部屋の状況から頻繁に人が出入りしているようには感じられなかったので、その点に関してはほぼ確定と言って良いだろう。

それくらいのことは、バレットさんは言うまでもなく察しているはずだ。

 

なので、私が調べるべきはもっと他の事。少しでも役に立たないといけない。

 

「ん?……なにこれ」

 

ふと、ベッドの脚の部分に目を向けた。

そこには金属製の輪っかが、その穴にベッドの脚を通すようにしてあった。

その輪っかからは、更に小さい輪っかを複数繋ぎ合せたような短い鎖が垂れていた。

 

「……」

 

……どこかで見たことがあるような、その物体の正体を私はすぐには思い出せなかった。

当然と言えば当然の話だ。

そんなものは私のこれまでの日常には縁遠い物品で、しかも本来はこんな風に使うものではない。

知識で知っていてそういう物があると解ってはいても、実物を見たことがなければ上手く繋がらないものだ。

 

……とはいえ、その物品の名前自体はほとんどの人が知っているわけで

 

「あ、これ……手錠?」

 

私はほどなくして、その正体を思い出したのだった。

 

「……」

 

正体を思い出したのであれば、次はその用途に目を向けるべきだろう。

……用途とは何だろう。手錠は本来、警察が悪い人を捕まえるための道具……早い話、拘束具と呼ばれる類のモノだ。

それがどうして、破損した状態でこんなところに放置されているのだろう。

……よく見ればベッドの脚には、何か硬い物を激しく擦り合わせたような跡が散見される。

 

「……」

 

そこで私の中で推測が状況証拠と綺麗に繋がったように感じた。

つまるところ、このベッドはこの部屋の持ち主が休息するために使われていたわけではなく……抵抗できないように拘束された誰かで実験するためのもの。

いわば拘束台、とでも言うべき代物なのだろう。

では何を拘束するの?何故わざわざ地下室にこんなものを設置する必要があるのか?

……そんな疑問は、もはや疑問とすら呼べなかった。

 

「……はぁ」

 

ベッドの用途に気付いた私は眩暈とも吐き気とも付かない、言い知れない気持ち悪さを感じた。

…てその気持ち悪さが嫌悪感から来るものだと理解するまでに数秒を費やした。

 

バレットさんから聞いた話を思い出す。

異能薬の効能と、自身を実験体にしてまで他人に異能を与えようなんていう馬鹿みたいな行為……理解できないし理解したいとも思わない。

先生や私とは違う。正反対とすら言っても良いそんな思想に共感できるなんて、とてもじゃないけれど思えなかった。

そもそも、こんなもの……。

 

そこまで考えて、私は1度大きく頭を振って立ち上がった。

ともかく推測交じりとはいえある程度の情報は得られたので、一度バレットさんと意見を交換してみよう。

 

「バレットさん、こちらは大体調べ終わりました。そっちは何か分かりましたか?」

「……えぇ、こちらも丁度調査が終わった所です。」

 

そう思って話しかけたが、バレットさんは先程までとは違い重々しい表情だった。

……どうやら、何か新しい情報を得られたようだ。良い情報か悪い情報かは、ひとまず置いておくことにしよう。

 

「サヤ、顔色が優れないようですが」

 

そんな深刻な雰囲気を纏っているというのに、視線をコチラに向けた瞬間そんなことを言ってくるのだから、私は毒気を抜かれてしまった。

 

「ちょっと埃が酷かっただけですよ、バレットさんは大丈夫でしたか?」

「こちらは特に問題ありませんでした。……無理をさせてしまったようで申し訳ない。」

「いや、そんなことないですよ?」

 

結構本気で心配してくれているようなので、私も素直な返事を返した。

ともあれ、確かにいつまでもこんなところにいるのは良くない。埃が凄いのも本当のことだ。

 

「他に調べるところがなければ、外に出てから話しませんか?」

「ふむ……そうですね。他にあるのは空の棚だけ。見たところ他に怪しい個所もないようですし、確かに潮時かもしれませんね」

 

だから私はそう提案したし、バレットさんもそれに同意してくれた。

 

私達は二人揃って来た道を通り地下室から出る。それからすぐに研究所の外に続く扉を目指した。

いつの間にか随分と時間が経ってしまっていたようで、辺りは既に薄暗く窓の外からは仄かに街灯の光が滲んでいた。

 

 

……もしかしたらあのタイミングで地下室を出ようと提案したのは、虫の知らせだったのかもしれない。

 

 

屋外へと繋がる扉を開けた私達は、視界を遮るような濃霧に言葉を無くしていた。

 

『今日はあまり遅くならないようになさい。……どうも今夜の霧は一段と濃くなりそうですので』

 

そういえば……と、ヴィアナちゃんが言っていた言葉を思い出す。

それと同時に私は、バレットさんから聞いたシークさんの言葉を思い出した。

 

『……最後に忠告を。霧の濃い夜はなるべく出歩かない方が良い。見なくても良いものを見る羽目になるかもしれないからな』

 

……脳裏に浮かんだ今の状況に合致し過ぎているその言葉を、私はどうしても掻き消すことが出来なかった。

 

……どこかで、獣のような呻き声が聞こえた気がした。

 

 

 

 



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【輪舞】⑤

 

 

バレットと沙耶は屋外に広がる光景に呆気に取られていた。

辺りは既に薄暗く、街灯の灯りがぼんやりと滲んでいる。

しかしそれは、二人の視界を支配する白い壁によってはっきりと視認できなくなっていた。

 

周囲数メートル程度の距離までしか視認できなくなるほどの濃霧。

他所者からすれば異常とも感じる頻度と濃度でこの街の夜を包み込むこの濃霧こそ、ここが『霧の都』などと呼ばれている原因だ。

 

「話には聞いていましたが、ここまでとは……」

「……」

 

ここ数日の滞在で多少の土地勘を得られたとはいえ、こんな濃霧の中に足を踏み入れても良いものか?

今までに経験した数度の襲撃を考えれば、霧が晴れるまで屋内で待機するのが得策ではないか?

そんな風に思案していたバレットは、不意に軽く引っ張られるような感覚を覚えた。

 

「サヤ?」

「……ッ」

 

横に佇んでいる沙耶に視線を向けたバレットは、彼女が服の裾を掴んでジッと外を見据えていることに気が付いた。普段の様子とは違う沙耶の態度に、バレットは思わず彼女の名前を呼ぶ。

 

「何か、居ます……。」

「……。」

 

沙耶の言葉の意図を正確にくみ取り、バレットは即座に意識を戦闘へと切り替えた。

バレットは深く集中し、注意深く周囲の異変を感じ取る。

それで気が付いた、確かに屋外で複数の足音が聞こえることに。……数は3つ程だろうか。

 

バレットはこれまで以上に危険な状況だと判断した。

こんな状況で、打ち捨てられ人の立ち寄らない建物を訪れる者など普通はいない。

そもそも二人が建物内の探索を終えたこのタイミングで、その普通ではありえないような存在がやってくるなど、どう考えても偶然ではない。

ではその存在にどう対処するべきか……バレットは数秒の思考の後に自身が取るべき行動を選択する。

 

「サヤ、私が周囲の安全を確保するまで貴女は中に隠れていてください。」

「待ってくださいバレットさん!コレは前の襲撃と明らかに違います!」

「……」

 

思い掛けない沙耶の言葉に、バレットは少し動揺した。

沙耶が恐怖心や不安から引き留めているわけではないと、彼女の表情でバレットは察する。

なにか沙耶がそう感じる理由があるのだろうと考え、バレットはそれを聞き出すことにした。

 

「サヤ、貴女がそう感じる理由を教えてもらえますか?わかる範囲で構いませんので」

 

沙耶はバレットの問いに、少し躊躇しつつも慎重に言葉を選んで答える。

 

「えっと……足音が全然違うんです。」

「足音?……それなら私にも聞こえましたが」

「その、変なこと言ってすみません。けど、靴音の中に混じって別の音も聞こえたっていうか……なんていうか、音の感覚が変で、いくつも足があるみたいな……。人間の歩き方で出せる音じゃない気がするんです」

「ふむ……。」

 

沙耶の言葉を聞き、バレットはある程度の推測を立てる。

そして沙耶と目線を合わせてから、もう一度先程と同じ意味の言葉を投げかけた。

 

「ありがとうサヤ。貴方の言葉は参考になった。……やはり、貴女はココで待機を。私の推測が正しければ、貴女を護りながらの逃走は至難だ」

「……ごめんなさい。」

 

沙耶は自身がバレットの足枷になってしまっていると感じて、気を落としながらも掴んでいた彼女の服を手放した。

その様子を見て沙耶の心境を察したのか、バレットは沙耶の頭に軽く手を置いてから笑顔を向けた。

 

「大丈夫です、サヤのことは頼りにしています。だからこそ、ここは私に任せてください。これが適材適所……失礼、チームワークというものです」

「……あはは、なんですか?それ」

 

苦笑気味に笑った沙耶を見てから、バレットは背を向けて白い世界の中へと飛び込んでいった。

 

 

  @ @ 

 

 

「……」

 

視界が尋常でなく悪い。

これだけの濃霧だ、視認できるのは精々5メートル程度。視界に頼りすぎない方が良い。

そう判断して意識を切り替える。

足音一つ、衣擦れの音一つを聞き逃さないように意識を集中して濃霧の中を疾走する。

 

「そこですか」

 

濃霧の中で耳に届く獣のような呻き声。その発声位置を把握し、急速に距離を詰める。

瞬きの後に私はその存在と正面から対峙した。

一言で言い表すのであれば、それは獣の成り損ないだった。

骨格事態は人間の物と大差はない。しかし四肢はその一部が野犬を思わせるような体毛に覆われ、手先と口元には異常に伸びた爪と牙があった。

 

「見つけました」

 

その存在を認めた時、私の口から漏れ出たのはそんな言葉。

初日に不意を突かれた雪辱を晴らすとか、そんな些細なことはどうでも良くなるくらいに文字通り漸く尻尾を掴んだという想いだけがあった。

 

「ハァッ!」

【■■■■■ーッ!】

 

疾走する勢いを全て乗せ、私は相手の全身を蹴り砕くつもりで渾身の一撃を叩き込んだ。

グシャリッと何かが潰れたような感触が靴越しに伝わったかと思うと、一撃を受けた相手は弾き飛ばされるように地面を転がっていく。

……霧の向こうに消えて行った相手を用心深く見据え、私は慎重に距離を詰めていく。

油断はしない、不意を打たれたとはいえ一度は窮地に追い込まれた相手だ。

私は深く息を吸い、集中を途切れさせないまま一歩ずつ歩を進める。

 

「!」

 

倒れた標的まであと数歩というところで、背後で何かの息遣いのようなものを感じた。

悪寒を感じ、私はその場を飛び退いた。距離をとる瞬間に、自身の身体があった場所を霧中から伸びてきた鋭い爪が通過したのを視認する。

 

「……確かに、複数でしたね」

【■■】

【■……ッ】

 

2体の歪な獣が互いの状態を確認し合うように視線と呻き声を交わしている。

……どうやら、彼らの間ではコミュニケーションが成立しているようだ。

 

ともあれ、あの状態では情報源としては期待できないだろう。

研究所の中にあったノートの記載に誤りや変更がないのであれば、あそこまで変容してしまってはもう長くはないはずだ。

……彼らが何故あんな姿になってまでここに現れたかはわからない。しかし……。

 

「なるべく早く終わらせるとしましょう。」

 

私は自身の武装を確認しつつ、眼前の敵を見据えて拳を握り締める。

 

「……む」

 

ふと、そこで違和感に気が付いた。

……建物の中で聞いた足音と、数が合わない?

 

「しまったッ!」

 

目の前の2体の思惑か、それとも裏で糸を引いている何者かの思惑かはわからない。しかし今確実にわかることは、どうやら私は綺麗に彼らの策に乗ってしまったという事実だ。

その事実を認識した私は、自身の全力でもって敵対者の排除を実行する。

 

もしも彼らの標的が私ではなく、研究所の中に隠れているサヤだったなら……私はそんな思考が脳裏を過る度に焦る内心を押し殺しながら、確実に敵対者を排除することに集中する。

協力者である少女の無事を一心に願いながら。

 

 

  @ @ 

 

 

「大丈夫かな、バレットさん」

 

私はバレットさんに言われた通り、研究所の中で彼女の帰りを待っていた。

……実際、バレットさんの判断は正しいと思う。

この濃霧の中に一緒に突撃したところで、私は彼女の足枷になるのが関の山だ。

逆にこの建物の中で霧が晴れるのを待ったとしても、それまで屋外の気配が大人しく待ってくれるとは考えられない。

その場合、この逃げ場のない室内で複数人を相手に私を気にしながら立ち回るのは流石のバレットさんでも難しいと思う。

……だから、きっとこれで正しい。

 

「……どうか無事で」

 

私は入口から一番遠い壁際の物陰に隠れるように座り込み、何度目かになるかもわからない独り言を零した。

 

「!」

 

……そんなことを数回繰り返したとき、唐突にそれはやってきた。

ギィッっと軋むような物音を立てて、建物の正面入り口が開かれる。しかし、その向こうから室内に侵入してきたのは私の待っている相手ではなかった。

 

【■■■……】

「……っ」

 

霧の向こうから現れたのは、人間と獣を組み合わせたようなアンバランスな構造の何かだった。その姿を視認した私は、見つからないように物陰のさらに奥へと慎重に移動した。

アレをどう呼び表せばいいのかなんて、私には皆目見当がつかない。

けれど、それでも確実に言えることがある。

アレは私でも治しようがない。なぜかは解らないけれど、直感としてそれだけは理解できた。

元々の形が人間なのか獣だったのかは判然としないけれど、どちらにしても原型から離れすぎたあの姿は異常としか言いようがない。

大きな爪と牙や、皮膚の一部から生えていると思わしき体毛、焦点の合わない虚ろな瞳とそれでいて敵意だけは感じさせる獣のような呻き声。……それらの情報全てが、私の生き物としての本能に警鐘を鳴らさせている。

 

生きたければすぐに逃げろ、と。

 

【■■】

「っ」

 

私は脳裏に鳴り響く警鐘を聞き流すことしかできない。

逃げるにしてもまずは物陰から出なければならないし、そんなことをしている間に発見されるのは想像に難くない。

それならば、変に動くよりもここで息を殺して耐えていた方がマシなはずだ。

 

私は必死に息を潜めながら、アレが出ていくことを祈るように手を合わせる。

足音は建物の入り口から移動して、部屋の中を練り歩くように徘徊している。稀にピタリと音がやみ、数秒後にはまた足音が聞こえ始める。

そんな単調な繰り返し。

しかしその繰り返しは少しずつ少しずつ、私の隠れている場所に近づいてきていた。

けれど私は緊迫した状況に呼応するように大きくなる心臓の鼓動を抑えるのに必死で、そのことに気が付いていなかった。

 

【■!】

 

不意打ちのような声が室内に響く。

それは今までの敵意だけを伝えていた呻き声とは違い、何か明確な意図をもって発せられていた。

そう思った瞬間、一気に足音が激しくなる。そして足音はすぐに私の隠れている近くまでやってきた。

その足音が至近距離で発せられたものだと理解できてしまった私は、焦りによって自身を抑えられずに思わず物陰から這い出てしまった。

 

【■■■ーッ!】

「あ……」

 

無様に這い出た私に雄叫びと共に凶刃が迫る。

何倍にも引き延ばされた体感時間の中で、私はぼんやりとそれを認識した。

失敗しちゃった……と、そんなことを思った。

次いで思ったのは、心配させるのは嫌だなぁ……なんて他人事みたいな感想だった。

 

普通なら死ぬような怪我を負っても死なない身体が嫌だった、恩恵だけを求めて擦り寄ってくる大人も嫌だった。

まぁ、それでも……単に痛いだけなら、私はいくらでもへっちゃらなんだけど……それでもやっぱり嫌なものは嫌だ。

私はいつものように/幼い日のように、迫り来る痛みに目を閉ざした。

 

「……?」

 

……おかしい、いつまで経っても眼前まで迫っていた痛みが襲ってこない。

 

「……いくら何でも危なっかしくて見るに堪えん。」

「え?」

 

不愛想な声が頭上から聞こえる。その声に、私は閉ざしていた瞼を上げた。

……目の前には振り下ろされる直前だったはずの鋭利な爪を、相手の手首を掴んで押し止めている男の姿があった。

その人物には見覚えがあった。

黒を基調にした服装に身を包み、生気の感じられない……というかやる気すらも感じられない気怠そうな声と眼付き。

 

「死にたいなら他所で死ね、迷惑だ」

 

以前にバレットさんに同行した先で会った時と全く同じ印象のままで、その男は平然と敵対者の手首を圧し折りながら私にそんな言葉を投げかけていた。

 

「し、シークさん!?なんでこんなところに」

「……。」

 

シークさんは何も答えないまま、呆れたような表情で私を一瞥した。

 

「この状況で開口一番に出てくる言葉がそれか?」

「え?あ、あー……助けてくれてありがとうございます?」

「オーケー、もうわかったから喋るな?気が抜ける」

 

何故だろう、素直に礼を言っただけなのに彼から向けられる呆れがより一層大きくなったような気がする。

困惑気味にそんなことを考えていると、掴まれている方とは逆の腕を大きく振り上げている敵の姿が見えた。

 

「あ」

「……」

 

苦し紛れの抵抗だということは感じ取れるけれど、それでも私は彼に、危ないと呼びかけようとした。

しかし私の声掛けなんかよりもずっと早く、シークさんは敵の顔面を思いっきり殴り飛ばしていた。

それはもう、素人の私ですらも清々しく感じるくらい綺麗にキマっていて……その一撃をまともに受けた相手は壁に激突してから、跳ね返るように床に墜落した。

 

【……■ッ】

「へぇ?この獣人擬き共、前より頑丈になってるな」

「獣人擬き?」

「こいつ等のことだ。獣と人間の混ぜ合わせみたいな見た目だから獣人、解りやすいだろ」

 

シークさんは床に落ちて苦しげにもがく獣人を、興味深気に眺めながら端的に教えてくれた。

……私はなるほどとその名付けに納得しつつ、繰り返しなる質問を再度シークさんにぶつけることにした。

 

「あの、ところで……なんでこんなところに?」

「さてな。答えて欲しいなら相応の報酬を寄越して貰おうか」

「……。じゃあ良いです。」

 

何となくではあるけれど、彼がここにいる理由は想像が着く。

『紫陽の花』の長がアルエさんでも他の誰かでも、大差はないのだ。

重要なのは2つ。今日の私たちはハイレンジア家からの手紙に従って此処に来ているということ、そしてシークさんとハイレンジア家には明確に繋がりがあるということ。

……だとすれば。

 

「シークさんがここにいたのは、私達を囮にして獣人擬きの様子を見るのが目的だったんじゃないですか?」

「……半分ってところだな。」

 

シークさんは言いながら、倒れ伏した獣人擬きに背を向けて私の方に向き直る。

 

「そもそも、俺はコイツらのことは前から知ってる。今更様子を見るまでもない。」

「え?知ってるんですか?アレを?」

「……お前も話だけなら聞いてるはずだぞ。あの狩人がやられかけた奴、アレは獣人擬き共の関係者だ。」

 

確かに彼らの持つ爪と、連盟盟主の件やバレットさんが受けた傷はイメージが合致する。

 

「あ、だったらあの人を捕まえれば」

「捕まえても2日以内に死ぬし、そもそもあの様子じゃ会話なんてできないだろ。」

「……むむぅ。」

 

こんな時にクロブチ先生が居てくれればなぁ……なんて考えが脳裏を過った。

そして直ぐに、先生の力は相手と言葉を交わさなければ十善に発揮されないことを思い出してその考えを放棄した。

……いや、そもそも先生は力をあまり使いたがらないから、居てくれたとしても無暗に協力は仰げないんだけどね。

 

【■■■ッ!】

「あ?」

「え?」

 

……気を抜いてしまっていたんだと思う。

気付いた時には床に倒れ伏していた獣人は起き上がり、叫び声と共にシークさんに襲い掛かっていた。

そして、そのまま……その鋭利な爪をシークさんの身体に深々と突き刺していた。

 

 

  @ @ 

 

 

「シークさんッ!!」

【■■■ーッ!】

 

沙耶の悲痛な叫びと獣人の雄叫びが重なる。

二人の間には胸元を獣人の爪で貫かれた情報屋の姿があった。

男の口元からは逆流した血液が大量に溢れ出し、床を赤く染めている。獣人の爪によって穴が開いた胴体からも血が滴っている。

その眼には生気が感じられず、誰がどう見ても即死だった。

 

【■、■……?】

 

仕留めた獲物から爪を引き抜こうとした獣人は、困惑した。

突き刺した爪に添えられた手……それが自身の爪を掴み、動かすことすら許さないほど強固に留められていることに気付いたからだ。

 

「え?」

 

次に困惑を露わにしたのは沙耶だった。

彼女は自分の目の前で胸に風穴を開けられている人物を、信じられない物を見るかのように見開いた眼で見つめていた。

その視線では……

 

「いきなり人様の胴体抉るとか何考えてんだテメェ……」

 

本来死んでいなければならないはずの人物が、平然と口を開いて自身を刺した相手に対して悪態を吐いていた。

 

「い、痛くないんですか?」

 

沙耶は思わず間の抜けた質問を投げかけてしまう。おそらく気が動転していたのだろう。

 

「痛いに決まってんだろ。だが、この程度で俺が死ぬかよ。」

 

シークは沙耶の問いかけに当たり前のように返答し、口から流れ出している血を乱雑に拭う。

その様子を見せつけられて、困惑が最高潮に達したのは沙耶か獣人か……あるいは両者か。ともあれ、今この場を支配している存在がシークであることは、誰の目からも明らかだった。

 

「……。」

 

シークは自身の身体に突き刺さっている爪を引き抜き、ゆらりと緩慢な動きで獣人に向かい合った。

シークがその一連の動作を行っている最中、沙耶はただただ驚愕していた。

服には胸元に穴が開いている。しかし、そこから見えるのは爪によって開けられたはずの傷口ではなく、普通の人間と何ら変わらない肌の色だった。

 

「傷が、塞がって……」

「そこに驚くか?お前にしたら普通だろ、傷が直ぐに塞がるくらい」

 

その言葉に、沙耶は何も返さない。シークもその反応は予想していたようで、それ以上軽口は叩かなかった。

 

シークは、ゆっくりと眼前の敵へと歩み寄っていく。その眼には剣呑な色が宿っていた。

 

【■■■ッ!】

 

威圧感に耐え切れなかった為か、獣人は文字通り獣染みた瞬発力でシークとの距離を詰めて爪を振るう。

その一撃は、彼の身体を再び貫いたように沙耶には見えた。

しかし実際、振るわれた爪は彼の身体があった場所を空振りしただけだった。

沙耶にわかったのは、シークが爪が振るわれる直前に霧散するように散り散りになっていたということくらいだった。

 

【!?】

「いちいち驚くな、化け物が自分達だけだとでも思っていたか?」

 

声だけが聞こえるその場所に、小さな生き物が人の形に集まっていく。集まってくるのは蝙蝠のように見えた。やがてただ人の形を作っていたものが、ハッキリとした個人を形作った。

……いうまでもなくその姿はシークだった。

今度こそ異常だった。そこにいるのは異能を生まれ持った異能者のようでありながら、しかし人間という枠組みに収めるにはあまりにも異常な、文字通りの化け物だった。

 

【■■ッ!】

「暴れるなよ、これで貸し借りは無しだ」

 

怪物は抵抗する獣人の頭を鷲掴みにして持ち上げると、空いたもう一方の拳で獣人の身体を貫いた。

鮮血が飛散し、貫かれた獣人は身体を痙攣させる。

相手が意識を失ったことを確認したシークは相手の胴体から拳を引き抜く。その拳には血がベットリと付着していた。

 

「……流石にコレは、趣味じゃないな」

 

シークは自身の手を赤く染め上げている血をを数秒眺めてから小さく呟いて、動かなくなった敵対者の身体を壁に向けて投げ捨てた。

 

「……」

 

遠くで乾いた破裂音のようなものが聞こえた……。

沙耶がそんなことを思いながら半ば放心状態で状況の理解に努めていると、コツコツと靴音が近づいてきた。

 

「平気か?」

「え、あー……一応は」

 

ホントに大丈夫か?とシークは血で濡れていないほうの手を沙耶の前でひらひらと揺らす。

その様子にようやく沙耶は現状を正確に理解し、慌てて我に返った。

 

「あ、あの!」

「ん?」

「あ、えっと……」

 

勢いで口を開いた沙耶だったが、続く言葉が出ずに口籠ってしまった。

聞いても良いことなのだろうか?という迷いもあったのだが、そもそも何を聞くべきかという思いもあった。

……今、目の前で起きたことはすべて事実なのだ。それ以上に確かな情報はない、はずだ。

 

「……貴方は」

 

沙耶は最後まで逡巡しつつ、最終的にはやはりその質問を投げかけることにした。

 

「貴方は、何なんですか?」

「……。あははは!」

 

シークは沙耶の質問を受けて一瞬呆気にとられたような表情になり、堪え切れないといった様子で声をあげて笑い始めた。

……その様子から先程までの異常さは見受けられず、見た目相応の青年のように見えた。

 

「ったく、あの狩人と言い……面白いなお前ら」

「えっと、ありがとうございます?」

「褒めてはないな」

 

沙耶の礼をピシャリと遮ってから、シークは数秒思案して言葉を続けた。

 

「さて……俺が何なのか、か。それに対する答えは明確だ。」

「……」

 

沙耶は底意地の悪そうな笑みを浮かべて言葉を遮るシークに何も返さず、続く言葉を待った。

 

「俺は、ただの人でなしの化け物だよ。……答えはこれで充分か、人間?」

「人でなし……」

 

……沙耶は今までの出来事と、それを何でもないことのように認める彼の様子を見て、それが比喩でも何でもない正真正銘の真実なのだろうと実感した。

 

「サヤ!無事ですか!」

「バレットさん」

 

沙耶がシークの返答を効いたタイミングで、息を切らせたバレットが霧の向こうから戻ってきた。

 

「すみません、貴女を危険に晒してしまいました。何か……」

「……。」

 

そこでようやくバレットはシークの存在に気が付いたようだった。焦って視野が狭くなっていたようだ。

 

「何故、貴方がここに?」

「野暮用でな」

「……その手についた血は」

「……見ればわかるだろ、そこに転がってる奴を止めるのに必要だった。」

 

バレットはシークの言葉に誘導されるように、床に転がっている獣人を一瞥する。

それで状況が呑み込めたようで、バレットはこの場でシークを警戒する必要がないと理解した。

 

「どうやら貴方がサヤを守ってくれたようですね。……深く感謝します。」

「要らねぇよ。……それよりお前、外の2匹はどうした?」

「どう、とは?」

 

シークの問いかけにバレットは疑問で返した。単純に彼の質問の意図が分からなかったからだ。

 

「こいつらは経戦能力だけなら一級品だ。骨を圧し折った程度なら直ぐに復帰する。」

「確かにそうでしたね。」

 

シークの言葉にバレットは同意する。

彼の言葉は正しい、事実としてバレットが戻ってくるのが遅くなった原因は獣人たちの異様なタフさが原因だった。

 

「……なら、どうやって抑えた?殺すにしても生半可な方法じゃ死なないはずだが」

「えぇ、ですので……奥の手を使いました」

 

……バレットは静かにそう返答した。

その言葉でシークは苦虫を噛み潰したような表情を一瞬浮かべ、やがて確認するように呟いた。

 

「一部の『狩人』が持ってる異能殺しの武装か……。その気になれば相手の異能だけを殺せるって代物だろ?それ」

「必要であれば私は使いますよ。」

「そうかい」

 

シークとバレットのやり取りは簡潔に要点だけを確かめるような会話だった。

しかし沙耶はそんな二人のやり取りを聞いていて、少しだけ胸に引っかかりを覚えた。

沙耶自身、一体何が引っ掛かったのか明確に説明はできないのだが……それでも何かは感じていた。

 

「……さて、俺はもう帰らせてもらうぞ。仕事は終わったからな」

「待ちなさい、貴方には今までの情報諸々含めて確認しておきたいことが」

「やめとけ。お前が何をしてもしなくても、どうせもうすぐこの件は終わるんだ。多少の差異があるにせよ、概ね筋書き通りに進んでる。」

 

制止するバレットの言葉を遮り、シークは自身が仕留めた獣人の身体を担ぎ上げながら拒絶の言葉を口にする。

自身の身体が汚れることにも、その姿に気圧される沙耶とバレットの様子にもお構いなしといった様子だった。

 

「……もうちょっと息を抜くことを覚えろよ、人間」

 

血に塗れることを厭うことなく、怪物は獣人の遺体を抱えたまま霧の中へと消えて行った。

 

「……」

「……」

 

残された沙耶とバレットは立ち尽くしたままで、互いに何を言葉にするべきかを決めかねていた。

 

「私達も戻りましょう、今は先程よりも霧が薄くなっていますから」

「はい」

 

沙耶はバレットの提案に素直に従うことにした。

……先程バレットとシークの会話を聞いてから、胸中で燻っている言葉を口に出すのは憚られた。

なによりも、そんなことを彼女に頼むは酷だと沙耶は誰に言われるまでもなく理解していた。

 

曰く、異能だけを殺せる武装。

……それを使ってもらえばもしかしたら、自分はようやく普通の人間になれるかもしれない。

 

そんな脳裏にチラつく悪魔のような思考を振り払いながら、沙耶はバレットと共に霧の中を歩いて行った。

……霧が晴れて、朝が来るのはまだしばらく先のようだった。

 

 



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【輪舞】⑥

同日、深夜。フェリエット家当主の自室にて。

 

そこには3人の人間が集まっていた。

 

「……。」

 

一人はヴィアナ。このフェリエット家の現当主にして霧の都の『貴族連盟』の盟主の一角。

彼女はただ悠然と構え、いつも通りの雰囲気のままで席についていた。

 

「……。」

 

もう一人はオーキス。長年フェリエット家に仕え、今や使用人の代表でありヴィアナの補佐役だ。

彼は対面している二人に対して紅茶を淹れた後、黙してヴィアナの傍らに控えている。

 

「……。」

 

そしてヴィアナの部屋にいる最後の一人はゴルドだった。

ゴルドは慌てることもなく、ただ責を認めて裁定を待つ咎人のような、ある種落ち着いた表情でじっと正面に座す若き当主に視線を向けていた。

 

「さてゴルド。貴方、私に何か言いたいことがあるのではなくて?」

「……。」

 

ここで彼女が口にするのは、自分を糾弾する言葉であるはずだとゴルドは考えていた。

ヴィアナ=フェリエット。彼女は決して何も知らない愚かな小娘ではない。

一を聞いて十を知る……どころか、一を聞くまでもなく状況を分析して十を察することのできる聡明な人物だとゴルドは彼女を評していた。

だからこそゴルドはこの席に招かれた時点で、彼女には自身が『紫陽の花』の間者であることなど当たり前のように見抜かれているのだろうと思っていたのだ。

……だというのに、彼女からの言葉は糾弾のそれではなく問い掛けだった。それ自体がゴルドには意外なことだった。

ゴルドは尚も黙考し、誤魔化すだけ無駄だろうと判断して、返す言葉を選択した。

 

「ヴィアナ様は……何故、私を罰しないのですか?」

「……はい?」

 

ゴルドの問いかけに対して、ヴィアナは間の抜けた返事を返した。

そして直後に切り替えるように咳払いを1つしてから、ヴィアナはゴルドを改めて見つめ直す。

……10秒にも満たない僅かな時間そうしていたヴィアナは、やがて表情を緩めて苦笑する。

 

「ねぇゴルド。……私は、一人では当主の役目を全うできない様な半人前なのよ?」

「それは……」

 

それは違う、とゴルドは反射的に否定の言葉を口にしようとした。しかしヴィアナはそれを遮るように、更に言葉を続けた。

 

「そもそも去年ゴルドを我が家の使用人として迎え入れた時点で、貴方の素性はオーキスが調べてくれていますのよ?貴方が『紫陽の花』の間者だったからといって、それが今更何だというのです」

 

当たり前のことであるかのように言ってのける彼女の雰囲気は当主として完璧なものだった。

ゴルドはそんなヴィアナに対して、ただ黙して続く言葉を待っていた。

 

「……それに、この家の使用人のことは誰よりも私が理解しているつもりですわ。もちろんそれは貴方も例外ではありません。」

「……。」

「そしてこの席に応じてくれたということは、過程はどうであれゴルドは私の元に残る決断をしてくれたということなのでしょう?……だから、私は貴方を許すと決めたのです。」

 

続くヴィアナの言葉は年相応の少女のもので……ゴルドは今度こそ次の言葉を選べなくなってしまった。

対してヴィアナは何も答えない相手の姿をどう解釈したのか、僅かに苦笑してからゴルドに再び言葉を投げかける。

 

「……あぁ、安心してよろしくてよ?貴方が『紫陽の花』と関係があったことは私とオーキス……あとは、あの二人しか知らないことですから。」

 

あの二人、というのは先程深刻な面持ちで帰ってきた沙耶とバレットのことだろう。

 

「それは願ってもない話ではありますが……よろしいのでしょうか?」

 

ゴルドは自身にとってあまりに都合の良い話に、思わず間抜けな問いを投げてしまった。

ヴィアナは紅茶に口を付けつつそれを聞き、楽しそうに微笑むのだった。

 

「他ならぬ私がそれでいいと言っているのです、他に誰の許しが必要だといいますの?……ね、貴方もそう思うわよね?オーキス」

「……強いて言うのであれば先代の当主。ヴィアナ様の御父上の許しが必要かと思います。」

「ちょっとオーキス!?」

 

唐突に話を振られたオーキスは、そんな言葉を口にする。流石にヴィアナもこれには動揺したようで、思わず声を荒げてしまった。

オーキスはそんなヴィアナの様子に、今まで微塵も変化の無かった表情をわずかに綻ばせて一言呟くように言った。

 

「冗談です。」

「オーキス、貴方ねぇ……。」

 

ヴィアナは額に手を当ててオーキスのを突然の行動に呆れたような声を漏らした。

ゴルドはそんな二人のやり取りを見て……あの人冗談とか言うのか、と何とも言えない感想を抱いた。

オーキスは使用人たちを取りまとめているとはいえ、その人柄を正確に把握している者は少なかった。

彼は普段から規律を体現することを自身に課してはいたが、実は意外と茶目っ気のある良い性格をしていたのだった。

 

……少しして、唐突なオーキスの言動によって若干弛緩した雰囲気を掻き消すようにヴィアナは一つ柏手を打った。

 

「さて、とは言ったものの明らかな背信行為に何の咎めも無しでは貴方も座りが悪いでしょう。それは私も重々承知していますわ。」

「まぁ……はい」

 

ヴィアナからの信頼を裏切るような真似をしていたのは純然たる事実だったのだから、ゴルドとしても何か罰を与えられた方が気が楽だった。

 

「なので貴方には、情報の提供をしてもらいたいのです。」

「……私は何を話せば?」

「簡単ですわ。ゴルド、貴方は私の質問に正直に答えてくだされば良いのです。」

 

何を聞かれるのだろうか、とゴルドは身構える。

しかしすぐに冷静になり、何を聞かれたとしても素直に知っていることを伝えれば良いだけだとゴルドは考えた。

……どうあれ、自分は彼女に仕えることを選んだのだから。

そうして冷静さを取り戻したゴルドは、ヴィアナからの質問を待った。

 

「質問はひとつですわ。……沙耶が撃たれて帰ってきたあの日、どうしてバレットではなく沙耶を狙ったのです?」

 

ヴィアナの言葉から、これまでで一番の圧を感じた。

ゴルドが沙耶を狙撃したのは事実であり、彼女とヴィアナは親友同士。その関係性を考えればヴィアナの憤りも無理のない話だとゴルドは納得する。

……しかし、彼女は誤解している。まずはそこを正さなければならないとゴルドは思考した。

 

「ヴィアナ様、たしかに私が沙耶様を撃ったことは事実です。……しかし、あれは私にとっても想定外の事態でした。」

「……想定外?」

 

ヴィアナは集中するように口元に手を当てて、事情を説明していくゴルドの様子を観察する。

……微細な違和感すら見逃すまいとするかのようなその様子にも、ゴルドは変わらず冷静に己が知る確実な事実のみを口する。

 

「はい。あの日、私が受けていた指令は『外出している狩人を襲撃しろ』という内容でした。その理由聞くと、彼女は私にこう言いました……『貴方たちは、ただ狩人の眼を私たちへ誘導すればいい』と。」

「……。」

 

ヴィアナはゴルドから聞いた話を分析していく。

話をしている彼の所作や、当時伝え聞いた状況から考えるにゴルドは嘘を吐いていないのだろう。

そういえば、ゴルドは先程気になることを洩らしていなかっただろうか?

ヴィアナはそう思うのとほぼ同時に、その疑問を口に出した。

 

「さっき『彼女』と言っていたけれど……もしかして『紫陽の花』のボスが誰か、ゴルドは知ってますの?」

「?……あの、失礼ですが……沙耶様から聞いていないのですか?」

「はい?なぜそこで沙耶が出てきますの?」

 

その時ゴルドは、自身の犯してしまった最大の失態に気が付いた。

 

……そういえばこの席に招かれてから今まで、ヴィアナから沙耶の話題は出ていなかった。

それはつまり、沙耶は律義にもゴルドのことを何一つヴィアナに教えていなかったということで……。

 

「そう、つまり……沙耶はまた一人で抱え込んでいたわけですのね」

 

顔を青くして何も答えないゴルドの様子に、ヴィアナはどうやらある程度の事情を察してしまったようで表情に僅かな怒りが滲み始めていた。

 

「……」

 

ゴルドは自身の迂闊な言動の結果として、本気で怒りだしているヴィアナと真正面から対峙することになってしまったのだった。

 

「ヴィアナ様、今はどうか冷静に。沙耶様も悪気があったわけではないかと。……おそらくは、伝えることによってヴィアナ様とゴルドさんの関係に亀裂が生じるのではと危惧したものと思われます。」

「そんなことは解ってますわ!ですけど……こういう時にこそ正直に頼って欲しいのが友達というモノでしょう?」

 

癇癪を起こしたように声をあげるヴィアナに、オーキスは落ち着いた声で語り掛ける。

 

「えぇ、ですから……どうかヴィアナ様も沙耶様を信じて差し上げてください。……落ち着いて話をすれば、些細な行き違いは解消されるものですので」

「……。貴方がそういうのなら……仕方ないですわね……。」

 

まだ完全に納得はできていない様子のヴィアナは、渋々と言った様子で僅かに紅茶の残ったティーカップを口元に運んだ。

 

「……」

 

ゴルドは内心、オーキスに感謝していた。

対処したのがオーキスだからこの程度で済んだが、ヴィアナが本気で怒ってしまった場合それを宥めるのは簡単ではない。

もっとも当のオーキス自身は、ヴィアナに紅茶のお代わりを淹れてから、直ぐまた素知らぬ顔で彼女の傍に控えているのだが。

 

「それで?いつ話をしたかは知りませんが、貴方沙耶に何を教えたの」

「……」

 

ヴィアナはすっかりいつもの上品な雰囲気をかなぐり捨てて、少し拗ね気味に言葉を投げかけてくる。

そんな彼女の様子に思わず苦笑しそうになったゴルドは、舌を軽くかんで密かに耐えていた。

 

そうして数秒耐えたゴルドは昨夜沙耶に伝えた内容、つまり彼の知る『紫陽の花』のボスの正体をそのままヴィアナに伝えた。

 

「『紫陽の花』のボスがアルエさん……?」

「はい、少なくとも私達は彼女から指令を受けていましたし、誰もボスの正体を疑ってはいませんでした。」

「……。」

 

ヴィアナはゴルドの様子を更に深く観察する。

……不自然な挙動はなく、発せられる言葉にも淀みはない。なにより彼の性格からしてこんなウソを平然と付けるような人柄ではない。

そう結論付けたヴィアナは、ならばと次の過程を脳裏で構築する。……そして、その方が”らしい”と感じて自身の推測を肯定した。

 

「……それにしても、どうして彼女は誘導なんて何の利益も無いことを貴方たちに命じたのかしら。」

 

ヴィアナからの問いにゴルドは即答することはなく、数秒思考を巡らせてからゆっくりと返答した。

 

「伝えられた以上の詳細な理由はわかりません。……ですが私には彼女が、今回の騒動に外部の人間や組織が介入することを嫌っているように感じられました。」

「……他所の介入を嫌って、それでどうして自分たちが糸を引いているように見せかける必要がありますの?」

 

実のところ、ヴィアナはずっとソコが引っかかっていた。

異能薬の売人を『紫陽の花』が庇っているのであれば話は簡単だった。だが実際は逆で、売人と彼らは敵対しているらしい。……わざわざ敵対者を庇うような指令を、『紫陽の花』の長が出す理由がない。

 

……なぜ?どういう理由で彼女はそんな指令を下したのか?

 

その疑問だけが、目障りなほどハッキリ存在しているくせに、ヴィアナには答えを見つけ出せないでいた。

 

「ヴィアナ様」

「え、あぁ……なんです?」

「その、お伝えするのが遅くなって申し訳ありませんが……こちらを」

 

ゴルドは懐から取り出した封筒を恐る恐るとヴィアナに差し出した。

このやり取りに既視感を感じて怪訝な顔をしつつも、ヴィアナはそれを受け取った。

 

「これはいつ、誰から受け取ったものですの?」

「今朝この屋敷に戻る途中に……アルエ様から」

「は?」

 

ゴルドの話を聞いたヴィアナは開封しつつ、さらに表情を険しいものにする。そしてそのままゴルドではなく、オーキスに視線を向けた。

 

「私が今朝手紙を受け取ったのは、彼女ではありませんでした。」

「……。つまりオーキスが確実に動けない時間を作った上で、二重の仕込みをしたということね」

「ヴィアナ様、それは」

 

ヴィアナの言葉の意図を正確に汲み取ったオーキスは、すこし躊躇するように言葉を発した。。

ヴィアナはオーキスの言葉を聞き流しつつ、ゴルドから渡された手紙をじっくりと読み込んで今日何度目かになる深いため息を吐いた。

 

「私にどうしろと……」

「……ヴィアナ様?」

 

ゴルドはいまだに状況がわかっていない様子で、ヴィアナを気遣うように声をかける。

そんなゴルドに多少は気が紛れたヴィアナは、居住まいを正しながら努めて冷静に、すっかり冷めてしまった紅茶を飲んだ。

 

「他人を矢面に立たせて自分は安全な位置から指示を出し、その結果を収集する。……これは明らかにあの子のやり口ですわよね……。」

「……?」

 

ヴィアナの独り言の真意が読み取れず、ゴルドは疑問符を浮かべるだけで言葉を発することはない。

その様子を知ってか知らずか、ヴィアナは更に推測をすすめていく。

 

「どこまでが仕込みで、どこからが偶然かは解らないけれど……こういう状況になっている以上、私も『彼女』の策に乗るしかないようですわね。」

 

ヴィアナは何かを決心したように、そう呟いて席を立つ。

そして悠然とした足取りで、窓辺へ近づき濃霧に支配された外界を見つめる。その顔は、普段より少しだけ影が差しているように見えた。

 

「オーキス。今朝の手紙への返答……イリスからの舞踏会の誘いについてですが、招待を受けることにしましょうか。」

「……承知しました、ヴィアナ様」

 

ヴィアナは恭しく首を垂れて従う己が従者へ微笑みかけ、最後にゴルドへ視線を向けた。

 

「ゴルド、貴方も沙耶の付き人として同行なさい。」

「……。お言葉ですがヴィアナ様、その役割は私よりも」

「貴方が何を言いたいかは理解できます。……しかしバレットにはその日、既に他の予定がありますの」

「……。イエス、マイロード」

 

先程自分が渡した封筒を掲げながらそういうヴィアナに、ゴルドは詳細を理解できないまでも大まかな事情を察して主命に従うことにした。

 

……刻々と事態は進行し、夜は更に更けていく。

濃霧の中に霞む真実は……もうすぐ手の届くところまで近づいていた。

 



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【輪舞】⑦

「沙耶、こっちです。次はあの店に行きますわよ」

「ちょ、ちょっと待ってヴィアナちゃん!足早い!っていうかなんでそんなにハイテンション!?」

「何を当たり前のことを言ってますの。よ・う・や・く!こうして沙耶と出掛けられたのですから、否が応にも気持ちが逸るというモノでしょう」

 

翌日の正午前、ヴィアナと沙耶は街の中を歩き回ってショッピングに興じていた。

ヴィアナはただ見て回るだけではなく、気に入った品物があれば躊躇いなく購入している。そして購入した荷物は当然のように同行している使用人に預けており、彼女自身は依然として身軽なままだ。

ちなみにヴィアナは普段から愛用しているドレスではなく、沙耶に合わせてラフな服装に身を包んでいる。普段よりも数段動きやすそうな印象だった。

一方の沙耶はヴィアナに引っ張られるように店巡りに付き合っていた。

沙耶からは仕方ないなぁという雰囲気が滲み出てはいるが、決して嫌々付き合わされているという感じはない。

沙耶は基本的にヴィアナの後ろをついて回っているが、時折脚を止めて食い入るように店内を数秒凝視することがある。ヴィアナは沙耶のその様子を敏感に察知し、沙耶を引き連れて入店する。

そして一通り店内を見て回り、気に入った商品を購入……またはヴィアナが沙耶の遠慮を振り切って購入……してから退店し、再び街を散策して別の店に入店するサイクルを延々と繰り返しているのだった。

 

そもそもどうして二人が唐突に『霧の都』を練り歩くことになったのかというと、早朝にヴィアナが沙耶の部屋にノックもせずに強襲したのが事の発端だった。

 

『沙耶、朝ですわよ!そして今日は出かけますので準備なさいな!』

『はぇ!?なにごと!?』

『って……あら、まだ起きてませんでしたの?やれやれですわね』

 

ヴィアナが呆れ気味に柏手を二回撃つと、いつも通りにゴルド……ではなく、今日は女性の使用人が一人入室してきた。

 

『では、沙耶の身支度をお願いしますわね。あぁ、今日はいろいろ見て回る予定ですから動きやすさ重視でね』

『かしこまりましたお嬢様。』

『……え、いや、どゆこと?』

 

このように沙耶は半分寝ぼけたような状態で、いまいち状況を理解していないまま事態は進行していき……気付けばヴィアナと一緒に街の中を歩いていたのだった。

 

ヴィアナを相手にした場合に限っていえば、沙耶はこういう展開に慣れていた。

極東にヴィアナが滞在していた時期は、物珍しさからあちこち見て回ろうとするヴィアナに引き摺られる……もとい付き添うような形でよく行動を共にしていたのだ。

彼女の強引さも我儘も慣れたものだし、何よりヴィアナがそういう一面を向ける相手は一定以上の信頼を置いている相手に限られていると沙耶は事実として知っている。

誤解を恐れずに正直に言ってしまうと、沙耶はヴィアナのそういう強引さが好きだった。自分にはない魅力を持つ親友とも呼べる存在に誇らしさすら感じている。

 

「沙耶はもう少しくらい自身を飾り立てるべきですわ。せっかく容姿も悪くないのですから」

「そうは言ってもさ、私はヴィアナちゃんみたいにキラキラしてたり、さくらちゃんみたいに凛々しくもないからこれくらいで丁度良いと思うんだけどなぁ。」

 

ヴィアナの進言に、沙耶は比較的手頃な価格の懐中時計を手に取って眺めながら返答する。

ふと目に付いた懐中時計ではあったが、デザインが気に入ったので購入するか沙耶は真剣に思案しているようだった。

 

「自身の魅力というのは自覚しづらいものですが、あなたの場合は無欲が過ぎますわ。……ま、神守さくらに似なかったことだけは賢明な判断でしたわね。」

 

ヴィアナはそう言いながら、どうせ買うならコチラになさいと言うように、沙耶が見つけた物より少しだけ装飾の豪華な時計を沙耶に手渡した。

 

「本当に仲悪いよね、ヴィアナちゃんとさくらちゃん。……逆に運命的なんじゃない?」

「気持ち悪いことを言わないでくださいな。」

 

沙耶の思いがけない一言に、ヴィアナは珍しく苦虫を噛み潰したような表情で心底嫌そうにそう返したのだった。

そんなヴィアナを視界に収めつつ、沙耶は先程ヴィアナから手渡された方の時計を棚に戻して会計を済ませるべく少し速足で移動を始めた。

 

「全く、変なところで頑固者ですわね」

 

ヴィアナは沙耶が棚に戻した時計をぼんやりと眺めながら、どこか楽しそうに呟いたのだった。

 

 

  @ @ 

 

 

「……」

「……」

 

沙耶とヴィアナが街が遊び歩いている頃、バレットとゴルドは無言で二人の後に続いていた。

二人は楽しそうに散策するヴィアナと沙耶の邪魔にならない距離を保ちながら、あくまでも護衛の任に徹するように景色に紛れて彼女達に着いて行く。

それは偶然にも沙耶が街に訪れた最初の日の出来事と類似していた。

 

「楽しそうですね、お二人とも」

「えぇ。……やはりサヤにはあぁいう表情が似合う」

 

ゴルドは楽しそうに街を行く二人を見て、ふと口をついてしまった発言にバレットからの返答があったことに驚いた。

そしてバレットから沙耶に向けられている慈しみすら感じるような表情を見て、更に驚くことになった。

 

「……意外ですね。」

「何がです?」

「貴女は仕事以外に興味のない方だと思っていましたので。」

 

バレットはゴルドから自身に向けられている評価に苦笑しながら、内心では少しの納得もあった。

彼女は仕事とプライベートのオンオフをきっちりと付けるタイプだ。

初日に失態を演じている以上、『霧の都』に滞在している間は気を抜けないと考えていた。

だからフェリエット家でのヴィアナや使用人とのやり取りも事務的なものになってしまっていた。

 

「……私はそれほど器用ではありません。仕事に集中してしまうと、どうにも硬くなってしまうようでして」

「あぁ、なるほど」

 

ゴルドは何か思い当たる節があるのか、納得したように声を溢した。

彼女の事情を知らないゴルドからすればバレットはひたすらに脅威でしかない。ゴルドはそんな風にバレットのことを考えていた。

この歳で『狩人』として単独で任務を遂行している時点で、組織の一構成員でしかない自分とは天と地ほど力の差がある相手だ。

そんな相手がこんな風に自嘲気味に言うものだから、ゴルドとしては気が抜けてしまうのも無理からぬ話だった。

 

ゴルドは緩みつつある自身の気持ちを引き締めなおし、ヴィアナと沙耶の様子を確認した。どうやら沙耶がヴィアナに引っ張られる形で次の店へ入っていくところのようだった。

店内へ消える二人を見つめつつ、僅かな沈黙が生まれる。

ゴルドは仕掛けるならこのタイミングしかないと判断し、再びバレットに声をかけた。

 

「……それにしても、『狩人』というのは追跡術にも秀でているのですね。あの時は逃げ切れるかギリギリのところでした。」

「……。あぁ、なるほど。ヴィアナ嬢が貴方を今日の護衛に選んだ理由がようやく理解できました。」

 

ゴルドの言葉を聞いたバレットは、すぐにその言葉の意味を理解した。

この街に着いてから今日まで、誰かに追跡術を披露した覚えはバレットにはない。今行っている護衛のことを言っていると考えても良いが、そもそもこれはヴィアナが言い出した息抜きのようなものだ。

追跡術だなどと、口が裂けても言えるものではない。

……そうなると自然と思い起こされるのは、数日前に情報屋に赴いた際に襲撃された件だろう。

そして先程のゴルドの実際にバレットに追われた経験があるかのような物言いで、彼女の中で結論が固まったのだった。

 

「あの時の狙撃手は貴方でしたか。……なるほど、ということは先日サヤに『紫陽の花』の長の名前を教えたのも貴方ということになる」

「……その口振りですと、やはり沙耶様は私の素性を口外していないのですね。」

 

ゴルドは困ったように苦笑した後、取り繕うように咳払いをして再びバレットに向き合った。

ゴルドとしてはあの日の夜に自身の素性を沙耶に明かした時点で、バレットかヴィアナには伝わるだろうと考えていた。それ程に誰にも話していなかった沙耶の律義さは予想外……否、予想以上だったのだ。

 

「……あの夜は私達も込み入った話をしていましたから、サヤも素で伝え忘れていた可能性もありますね」

 

バレットが小さく呟いた言葉はゴルドの耳には届いていなかったようで、ゴルドはただ疑問符を飛ばしているだけだった。

あの夜の会話はそれこそ余人に聞かせる類の話ではないので、バレットはゴルドに深く聞かれる前に今度は自分から切り込むことにした。

 

「ところで……急にこんな話を切り出したということは、何か要件があるのではありませんか?」

「お察しの通りです。……貴女にこれを」

 

バレットとの問いに、ゴルドは懐から封筒を取り出して彼女に差し出した。

バレットは既に一度封が切られた形跡のある封筒を受け取り、中身を取り出して読み始めた。

誰からか、などという問いは不要だろう。

『紫陽の花』の構成員だと明かした直後に渡してきた以上、この手紙の内容は紫陽の花に関する何かだと容易に想像がついた。

そして、手紙を読み終えたバレットは訝し気にゴルドを見た。

 

「まず確認したいのですが……この手紙の内容を知っているのは誰です?」

「私は中身を見ていませんが……確実に内容を把握しているのは長であるアルエ様と、昨夜に内容を確認したヴィアナ様だけです。」

「ヴィアナ嬢が……。」

 

ゴルドの返答を受けてバレットは数秒思案するように黙り込み、その後ある推測を立てた。

 

手紙は要約すると『2日後の夕刻に霧の都のとある廃屋で、紫陽の花の長と狩人が密会できる場を設ける』という内容だった。

 

「……なるほど、そういうことですか。」

 

ヴィアナがわざわざ自分と沙耶を分断したうえで手紙を渡すように仕向けた以上、この呼び出しにはバレット一人で出向く必要があるのだろう。

 

どういう事情があるのかはわからないし、そもそも罠かもしれない。けれど、行けば確実に何かを得られるという実感はある。

それに私が単身で赴けば、サヤが再び危険に身を晒す心配はない。

 

「……」

 

バレットは沙耶たちがいる店の方をちらりと見てから、改めて手紙を渡してきたゴルドに向かい合った。

 

「いいでしょう、この誘いに応じます。」

「わかりました。……では、舞踏会での沙耶様の護衛はお任せください。」

「……。いえ、待ちなさい。舞踏会とは何のことです?」

 

意を決して出した結論に対してゴルドが返してきた言葉で、バレットは思わず間の抜けた返答を返してしまった。

 

 

  @ @

 

 

「はぁ~、疲れた~」

「確かに、少々羽目を外しすぎた感じはありますわね」

 

あれから沙耶はさくらやクロブチへのお土産を物色したり、ヴィアナに誘われてお揃いのアクセサリーを見たりして様々な店を練り歩いた。

時刻は既に昼時を過ぎており、遊び疲れた二人は街角の小さな喫茶店に入って休憩を取ることにした。

ちなみに荷物持ち役の使用人達は、一足先に帰路についている。その為2人は長時間の買い物を終えた後だと思えない、それくらい身軽なままだった。

 

数時間遊び歩いて流石に二人とも疲れを感じているのか、軽口を互いに飛ばし合っている。

そんな二人のやり取りからは疲労感だけではなく、確かな充足感も感じ取ることが出来た。

 

「それにしても、本来なら沙耶とはこういう思い出をもっとたくさん作るつもりだったのですけど……何やら妙な状況に巻き込んでしまったようで申し訳ない限りですわ」

 

注文した紅茶で喉を潤しながら、ヴィアナは申し訳なさそうに呟いた。

実際のところ、沙耶が街に来る数日前からヴィアナはそわそわし続けていた。しかし蓋を開けてみると想定外の事態の連続で、当初のヴィアナの予定と違って二人はあまり一緒に遊べていなかった。

 

「ん?私は気にしてないよ?そもそも、バレットさんやヴィアナちゃんの手伝いがしたいって言いだしのは私なんだからさ。むしろもっと頼ってくれて良いくらいなんだよ?」

 

沙耶はヴィアナの言わんとすることを察し、敢えて普段と変わらない対応で返した。

ヴィアナのことを思っての発言ではあるが、その言葉には何割か本音も混じっていた。

沙耶の言葉の通り、この事件に首を突っ込んだのは沙耶自身の意思だった。沙耶は今更自分は誰かの性で巻き込まれた、などと責任転嫁するような性格ではなかった。

 

「……事実として助かっている面も大きのが、私としては困りものなのですけどね」

「もうあんな無茶なことはしないからさ。多少は大目に見てくれると嬉しいなぁ」

 

沙耶の言葉にヴィアナは少し眉根を寄せて考え込むように呟いた。

沙耶が撃たれて帰ってきたあの日以来、沙耶をこれ以上この件に関わらせるべきではないという思考と、沙耶の意思を尊重するべきだという思考がヴィアナの中でせめぎ合っていた。

ヴィアナは沙耶を親友だと思っている。出会ってからまだ数年程度の関係だけれど、彼女の人柄はとても好ましい。沙耶もまた自分のことを親友だと思ってくれているのであれば、それはとても誇らしいことだとヴィアナは思っていた。

……だから、彼女がどちらの思考を選択するかは考えるまでもなかった。

親友であるなら相手の気持ちを尊重することも、時には重要なのだとヴィアナは結論付けた。

 

「沙耶、唐突な話だということは百も承知なのですが、私は貴女に言うべきことがあるのです。」

「言うべきこと?」

 

親友の雰囲気の変化を感じ取った沙耶は居住まいを正して、改めて眼前の貴族連盟の盟主と向かい合った。

ヴィアナもそんな異邦の親友の変化を感じ取り、内心楽しくなってきていた。

 

「えぇ。実は私と貴女宛てに、とある方から舞踏会の招待状が来ていますの。」

「舞踏会?」

「えぇ、舞踏会です。……まぁ、実際はそこまで大仰なものではないので安心してくださいな。」

 

疑問符を浮かべつつも格式高そうな響きに不安を滲ませる沙耶を見て、ヴィアナは軽いフォローを入れる。それを聞いた沙耶は安心したように肩を撫でおろした。

沙耶も極東では神守家の一員として様々な行事を経験してはいる。だが流石に舞踏会の参加経験などあるはずもないので、警戒心が働くのも無理のない話だった。

 

「けど、随分急だよね。その招待って誰からなの?私も知ってる人?」

 

警戒心を解いた沙耶は、今度は自分の番とでもいうようにヴィアナに質問を投げかけた。

沙耶の側からすれば、急に舞踏会だなんて突拍子もないことを言われたのだから妥当な反応だろう。ヴィアナはそう思いながら、懐から封筒を1通取り出す。

そしてヴィアナはその封筒から、1枚だけ手紙を取り出して沙耶に手渡した。

沙耶は既に封の切られている封筒を見た時点で、先程の招待が誰からのものかを察していた。

 

「どうぞ、遠慮なくご覧になってくださいな」

「うん」

 

ヴィアナから手紙を受けとった沙耶は、その内容に目を通した。

 

【我が親愛なる友 ヴィアナ=フェリエット様。

 

 次の満月の夜に、当家にて舞踏会を執り行います。

 ご多忙とは存じますが、是非にお越しくださいますようお願い致します。

 

 また、ヴィアナの異邦の友人も揃って出席していただけると幸いです。

 先日の非礼のお詫びもかねておりますので、是非いらしてくださいね。

 もし了承して貰えたなら、こちらには貴女達の力になる準備があります。

 

 それでは当日、またお会いできることを祈っています。

 

 ハイレンジア家当主 イリス=ハイレンジア】

 

「……」

 

手紙を読み終えた沙耶は、この内容をどう捉えれば良いのか判断できずにいた。

イリスとはまだ一度しか直接の面識がない。しかしその一度の接触とヴィアナの言い分から、彼女の性分はある程度理解している……できているはずだと沙耶は思っていた。

少なくとも、イリスから沙耶に対して好意的な感情は乏しいはずだった。どんなによく見積もっても精々が友人の友人程度の距離感だろう。

そんな彼女がヴィアナの同行者としてとはいえ、沙耶を呼ぶことなのあり得るだろうか?

思案に耽っている沙耶の様子をどう受け取ったのか、ヴィアナは気遣うように声をかけた。

 

「沙耶、貴女とイリスの相性があまり良くないことは私も理解してます。……なので、無理に同行しろとは私言いませんわよ?」

 

ヴィアナなりに沙耶の内面を慮っての進言だった。

イリスと沙耶が性質的に相性が悪いというのは、ヴィアナでなくてもあの場に居れば誰にでもわかることだった。

しかしヴィアナの言葉を受けた沙耶は、すぐには明確な返事を返せずにいた。

 

「んー……別にイリスちゃんのことがどうってわけなじゃないんだけどさ……ちょっと気になるというか、いくらなんでも露骨すぎるというか……。」

 

沙耶はイリスの手紙の【もし了承して貰えたなら、こちらには貴女達の力になる準備があります。】という部分から目が離せなくなっていた。

ヴィアナも沙耶の言わんとしていることを察したのか、一度軽く溜息を吐いてから返答した。

 

「イリスは昔から人の考えを見透かしたような言動をとる節がありますから……今回のそれも悪癖の発露といったところですわね。」

「悪癖で済ませて良いレベル超えちゃってると思うんだけど……」

 

沙耶は困惑気味に言い終わるとそこで一度言葉を止めて、頭の中をリセットするように深呼吸をする。

そのまま一気に冷静さを取り戻した思考回路で、もう一度初めから状況を整理していく。

そうやって10秒少々の時間を思考に費やし、沙耶は一つの結論を出した。

 

「……。ヴィアナちゃん」

「なんです?」

「決めた。私も行くよ、舞踏会」

 

沙耶は自らが発したその言葉によって、自身の決定が確かに正しい選択だと確信した。

冷静に考えれば簡単な話なのだ。

もともとハイレンジア家には用がある。ここ最近は何やら立て込んでいたらしく外部の人間の出入りを禁じていたようだが、舞踏会を開くということはそれも撤回されるのが道理だ。

であれば、後は自然な流れだ。舞踏会に参加し、タイミングを計ってイリスに今までの出来事について問い質せば良いだけだ。

沙耶は自身の案をもう一度再考して、あとでバレットにも共有すことにした。

 

「……。本当に、どこまでが仕込みか分かったものじゃありませんわね。」

 

そう呟いたヴィアナの言葉は、思考に熱中する沙耶の耳には届かなかった。

 

「あ、ところでヴィアナちゃん。この手紙にある次の満月の夜っていつ頃なの?」

「次の満月は今日からちょうど2日後。つまり明後日の夜ですわね。」

「2日後かぁ……思ったより近くてちょっと緊張するかも」

 

沙耶は意外と時間が残っていなかったことに驚いた。普通は準備の関係でもっと時間に余裕を持たせて知らせるのではなかろうか、などとつい思ってしまった。

 

……まぁ、こうなったものは仕方がない。できることを確実にやろう。

沙耶は苦言染みた自身の思考を誤魔化すようにそう考え直し、窓の外へと視線と意識を傾けた。

 

「……え?」

「沙耶?どうしました?」

 

ヴィアナは沙耶の様子の変化に気付き、同調するように視線を窓の外へと向ける。

窓の外には特に異常は見当たらない。

 

「……」

 

窓の外に異常はない、だというのに沙耶の様子はおかしい。何かを真剣に考えているのが直ぐにわかった。

 

「……」

 

ヴィアナは再び窓の外を見た。……やはり異常は見当たらない。

 

少なくとも自身の見て取れる範囲では、異常らしい以上は発見できない。

……そこでヴィアナはある可能性に思い至った。

 

「沙耶、何か聞こえまして?」

「……たぶん。微か過ぎて、ちょっと自信が持てない。けど……たぶん銃声だったと思う、バレットさんの」

 

ヴィアナは沙耶の耳の良さを知っていた。だからこその質問だったが、それは的を射ていたようだ。

沙耶自身は自覚していなかったとはいえ、昨日窮地の中でバレットの銃の音を聞いていた。

意識を外に向けた際に、昨日と同じ音を微かに聞き取った。だからこそ、どう判断するべきか答えを出せずにいたのだった。

 

「なるほど。沙耶、店を出ます。手を貸しなさい。」

「うん。」

 

ヴィアナの言葉を合図にして、二人は会計を済ませて店を飛び出した。

 

沙耶の聴力をヴィアナの異能で補強しつつ、音の出所……つまりバレットとゴルドの居場所を探す。

そのために二人は互いの手を強く握りながら、日が暮れ始めて薄く霧が掛かった街の中を走りだしたのだった。



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【輪舞】⑧

少しだけ時間は遡る。

 

ヴィアナと沙耶が喫茶店に入った後、バレットとゴルドは警護を続けていた。

 

「なるほど……私が知らないうちにイリス嬢からそんな誘いが……。」

 

ゴルドから舞踏会の誘いの話を聞いたバレットは、額を軽く押さえながらも努めて平静に呟いた

 

「えぇ。そもそも今日の外出で沙耶様とバレット様に別行動をしていただいた理由は、スムーズに誘いに応じていただく為でしたので。」

「……まぁ、どのみち今回の『紫陽の花』の長からの誘いにサヤは同行させないつもりでしたが。……どう考えてもリスクが高すぎますので。」

「……」

 

ゴルドはバレットが何でもないことのように言った言葉に反応しそうになったが、自分が口を出すことではないと考え直して口を噤んだ。

 

沙耶がバレットに自発的に協力しているのも、バレットが沙耶を気に掛けているのも、自身が踏み入るべきではない2人の問題だ。

なにより、元々自分はこの件を仕組んだであろう組織の人間だった。そんな自分が苦言を呈するのは筋違いだとゴルドは自嘲気味に考えた。

 

「それはそうと良い機会です。私は貴方に直接聞いておかなければならないことがあるのです。」

 

ゴルドを見据えて言うバレットの視線は、誤魔化しを許さない真剣そのものだ。一つでも選択肢を誤れば殺されかねない、そんな威圧感をゴルドは感じ取った。

 

「……怖いですね。なんです?」

「貴女がサヤに語った『紫陽の花の長は、ハイレンジア家使用人のアルエである。』という情報に、嘘はないのですね?」

「今更それを聞きますか?」

 

ゴルドはバレットの視線に気圧されながらも、その眼を正面から見つめ返した。

 

質はともかくとして、潜ってきた修羅場の数だけで言うのであればゴルドもバレットに負けはしない。

それに彼はフェリエット家使用人の中でも、ヴィアナが自らスカウトした選りすぐりの一人だ。圧力に屈するような、惰弱な胆力ではない。

 

「大事なことです。この質問への返答によっては、私もここからの対応を変更する必要がある。ですので、あまりこういう言い方をしたくはありませんが……ヴィアナ嬢の名誉に誓って誠意ある返答をしていただきたい。」

 

バレットとしても苦渋ではあったが、後に響く情報を得るためには致し方ない。

彼女もゴルドの人柄はこの数日で理解している。だからこそ、ゴルドを信じた上での選択だった。

 

ゴルドにとってもバレットの投げた問いが、重いものになることは想像に難くない。

万が一ここで虚偽の言葉を吐けば、自らの意思で選択した主君の名誉に傷をつけることになってしまうのだから。

 

「わかりました、お答えします。」

 

……しかしそれも、返答に嘘があればの話である。

 

「あの日、沙耶様にお伝えした情報に嘘偽りはありません。我が主、ヴィアナ=フェリエット様の名に懸けて誓います。」

 

仮の話ではあるが……ゴルドが沙耶に与えた情報の真偽が偽りの物だったとしても、それを伝えたゴルド自身が本心から真実だと認識している場合に限り、それは嘘を吐いたことにはならない。

一つの事実として、ゴルドはアルエから直に指令を受けた経験が幾度もある。

故に……彼にとってその情報は、疑いようのない真実だった。

ゴルドはあの日、自身が見聞きして知り得た"彼の中の真実"を沙耶に伝えた。

……要は、それだけの話だった。

 

「ふむ……よくわかりました。これで私も……ッ!」

 

数瞬思考を回した後、バレットは納得した様子で言葉を紡いだ。しかし、それを言い終わるよりも早く、バレットは自分たちの背後から複数の足音を聞いた。

 

「……バレット様。」

「えぇ……わかっています。」

 

ゴルドもそれに気付いたようで、小さくバレットへ声をかける。

バレットとゴルドがいるのは路地裏へと続く道だ。沙耶たちが入っている店の様子がぎりぎり窺える位置で、彼女たちは待機していた。

足音は彼女らの背後の路地裏から聞こえた。……普通なら進んで入ろうとは思わないような場所から、どうして足音が聞こえてくるというのか。

バレットは注意深く背後の気配を探る。……こちらの様子を窺っている様子だが、流石に数や目的までは判然としない。

 

「……。」

 

バレットは沙耶たちが入っている店を一瞥し、少しだけ思案してから行動を選択した。

 

「私は足音を追います。貴方はサヤたちを」

 

護ってください、そうバレットは伝えようとした。

 

「いえ、ここは私にお任せを」

 

しかしゴルドはバレットが言い終わるよりも早く、彼女を制した。

そして極めて落ち着いた様子で付近の店舗に入っていき、数秒で4人ほど人を集めて戻ってきた。

 

「彼らは?」

 

バレットは訝し気に質問する。当然の反応だろう。荒事の可能性もあるというのにこれ以上一般人を巻き込むわけにはいかない。

 

「彼らには個人的に貸しがありまして、時折手を借りているのです。多少であれば腕も立ちます。……あ、素性の方は、察してもらえると助かります。」

「……いいでしょう。申し訳ありませんが、力をお借りします」

 

ゴルドは元を辿れば『紫陽の花』のメンバーだ。

件の組織の性質上、彼がフェリエット家に関りの無い独自の伝手を持っていても不思議はない。

それが明るみに出せる類のものかどうかは、一先ず目を瞑るとしよう。

 

「では、お伝えした通りにお願いします。」

 

ゴルドに連れて来られた四人は、それぞれ別の路地の出口で待機するように指示を受けて散り散りに駆け出した。

 

「彼らに危険が及ぶ可能性がありますが、問題はないのですか?」

「え?あー、そうですね……。その時は報酬に多少色を持たせれば大丈夫でしょう。それに自身で対処しきれない様な危険が迫った場合は、即座に逃げるように伝えてあります。」

 

バレットは少し疑問に思ったことを気まぐれに問いかけたのだが、それに対するゴルドの返答に少々驚いた。

もう少し平和的な返答を返してくると思っていたのだが、どうも見かけに囚われ過ぎてはいけないらしい。

 

「ですがそもそもの話として、バレット様が居ればその心配もないと思いますので。」

「そういうことを臆面もなく言われてしまうと……。なんというか、貴方は存外喰えない方ですね。」

 

ゴルドと会話をしていると、沙耶とは違うベクトルで気が抜けてしまって良くない。

もしやヴィアナ嬢は彼のこういう面を買って、フェリエット家に迎え入れたのではないだろうか?

偶然にも数日前の沙耶と似た感想を抱きつつ、バレットは追跡者の潜んでいるであろう路地の中へと踏み入った。

 

 

念のため沙耶達をすぐに護れる位置にいてほしいというバレット強い要望で、ゴルドは路地へ入らず、バレットが進んでいった路地の入口で待機している。

そして路地へ侵入したバレットは、敢えて靴音を大きく響かせながら進む。

相手の数は解っていないが、多くとも3人程度とバレットは見積もっていた。この路地の広さを見るに、それ以上の人数が居ても邪魔になるからだ。

もしその程度の判断も出来ない手合いならば、それは荒事に慣れていない素人か、徒党を組まねば何もできない小心者の集まりだろう。

 

「聞こえていますね?」

 

バレットの呼びかけに対して返答はない。当然だろう。

バレットは沈黙など意に介さないように、平然と言葉を続ける。

 

「3秒だけ待ちます。その間に全員姿を見せなさい。」

 

バレットはそう呼びかけながら、ここに入る前にゴルドから受け取った手榴弾の精巧な模型を見せびらかすように掲げる。

 

「3秒経過しても反応が無いようであれば、コレをそちらに投げ込みます。」

 

バレットが言い終わってからも数瞬沈黙が続く。バレットはため息をつきながらも大きく良く通る声でカウントダウンを開始した。

 

「3」

 

相手からの反応はない。しかしバレットは、僅かに焦ったような息遣いを感じた。

 

「2」

 

バレットは再び相手に見せつけるようにしつつ、ピンに指を掛けながらカウントを進める。

その様子を見てハッタリではないと感じたのか、焦ったように相談する声が極小さく聞こえた気がした。

 

「1」

「ま、待ってくれ!頼む!話を聞いてくれ!」

 

そうして最後の一秒を数え終わり、バレットが今まさに模型からピンを引き抜こうとした時、慌てた様子で物陰から男が二人現れた。

 

「……二人ですか。どこの誰か知りませんが、何故私達を探る様な真似を?」

「話す!話すからまずはソレをしまってくれ!じゃないと落ち着いて話も出来ねぇって」

 

酷く狼狽えた様子で叫ぶように懇願する茶髪の男を用心深く観察しつつ、バレットはピンから指を離して懐にしまった。

そもそも本物ではないのだ。いつまでも持っている意味はない。

バレットとしてはこんな物で大きな効果を出せた事こそ嬉しい誤算だった。

バレットが懐に爆弾をしまったことを確認し、男達は緊張が緩んだように口を開いて事情を話し始めた。

 

「俺らはただ仕事で、アンタらの情報を何でもいいから調べて来いって言われただけなんだ……。上手く情報を集めてくれば、言い値で金をくれるって言うから」

「俺は違うぞ!?俺はただこいつが割の良い仕事があるって言うからついてきただけで!こんなヤバいことに巻き込まれるなんて思ってなかったんだ!」

 

片や悲嘆に暮れるように自白する茶髪の男、片やそれに対して食って掛かるように自身の潔白を証言しようとする黒髪の男。

二人の言い分を聞きながら、バレットは小さく溜息を吐いて再び懐から手榴弾の模型を取り出す。

 

「静粛に願います。」

 

バレットは簡潔にそれだけを伝え、模型からピンを引き抜いて2人の眼前に転がした。

 

「はぁ?!」

「うわあ!!」

 

男たちは酷く慌てた様子で尻餅をついたり、慌てて駆け出そうとして転倒する。

それからたっぷり数秒ほど爆発に身構えた後、恐る恐るという様子で体勢を立て直しながら状況の把握に努めていた。

そして、彼らはようやく自分たちが謀られたことに気付いてバレットを見た。

 

「少しは落ち着きましたか?」

「……」

「……」

 

男たちは平然とそんなことを聞いてくるバレットの立ち姿に自分達との差を本能的に感じ取り、諦めたように脱力したのだった。

 

 

「ではもう一度聞きます。貴方達は報奨金に釣られて雇われただけで、詳しい事情は把握していない。……そう言うわけですね?」

「あぁ、向こう数年遊んで暮らしても釣りがくる位の金額だったんだ……。そうじゃなきゃ俺達もわざわざフェリエット家にちょっかい出したりしねぇよ……。」

「……ふむ」

 

バレットはすっかり意気消沈した様子で座り込んでいる男たちを眺めながら、その振る舞いから彼らがさほど荒事に慣れていないことを見て取った。

早い話、彼らはただのゴロツキだ。それを彼らの雇い主が金銭で上手く操って、情報収集をさせていたといったところだろう

 

「貴方達が集めていた情報は、フェリエット家に関連することですか」

「……違う。調べるように言われたのは、アンタを含めた『フェリエット家に滞在してる二人』についての情報だ。」

「私達を、ですか」

 

黒髪の男が返してきた返答の内容が少々意外だったため、バレットは思わず聞き返してしまった。

そんなバレットの様子を意に介さず、男たちは言い争いを始めている。

 

「お、おい馬鹿!そこまで教える必要ないだろ!適当に誤魔化してれば」

「お前こそ馬鹿か。さっきのハッタリで甘く見てるのかもしれないが、こいつが本物の爆弾なり銃なりを持ってない保証なんてどこにもないんだぞ」

 

先程まで黙っていた茶髪の男は、仲間の指摘で初めてその可能性に思い至ったようで顔色を青くしてバレットを見上げている。

黒髪の男の方は、開き直ったようにいっそ清々しい程の態度で言葉を続けている。

 

「その可能性を拭い切れない以上、手持ちの情報を吐き出して逆にコイツラに保護してもらった方がまだマシだ。」

 

黒髪の男は淡々と自分の意見を伝えて、仲間の主張を封殺した。

そして仲間が沈黙したことを確認した彼は、更に畳みかけるように口を開く。

 

「俺は今から俺たちが知ってる情報を全部アンタに伝える、だからその見返りとして……え?」

 

黒髪の男が言葉を言い終わるより早く、項垂れていた茶髪の男が言葉を遮るようにして、黒髪の男にぶつかった。

黒髪の男は一瞬、何が起きたかわからないという表情を浮かべ、それからすぐ苦悶の声を洩らして蹲った。

 

「は、ははは……アイツの言ったとおりだった……。こういう状況になったら真っ先に裏切る奴がいるって……ッ、クソッ!せっかく旨い儲け話を教えてやったのに恩を仇で返しやがって!畜生!」

 

茶髪の男は独り言を洩らしながら、蹲る黒髪の男から距離を取って悪態を吐く。

酷く狼狽している様子で、茶髪の男の手から何かが滑り落ちた。

それは地面に接触するとほぼ同時に割れてしまったが、バレットはその形状を確かに自身の目で確認した。

それは確かに注射器に酷似した形状をしていた。

その上でバレットは、茶髪の男へ油断なく銃口を向けていた。

 

「何をした。」

「ッ!うるせぇ!元はといえばお前が気付かなきゃこんなことにはならなかったんだ!だから俺は悪くない!お前が悪いんだ!止めろ!近付くなっ!!」

 

バレットは銃を構えたままで茶髪の男との距離を詰めていく。蹲る黒髪の男は無視し、自身を激しく糾弾している標的との距離を測る。

そして尚も狼狽え続ける男との距離が、残り1メートルほどになった時、唐突にソレは起こった。

 

「ガァアアァァァアアァアアァアッ!!」

「!!」

 

その驚愕はどちらの物だったのか、それは恐らく当の本人ですら判然としないだろう。

それほどに、二人が見たモノは異常だった。

バレットは茶髪の男が落とした物が注射器だった時点で、こうなることは予想していた。しかし、それでも戦慄を禁じえなかった。

茶髪の男はこんなことは聞いていないとでも言うように、身体を振るわせて現実を拒否した。次いで彼は、自分は言われた通りにやっただけだと自己を正当化した。

 

そして刺された男は、痙攣を繰り返しながらまるで何かに操られるように起き上がっていた。

その目に既に生気はなく、正気も失われていることが傍目からも見て取れる。

さらに四肢は不自然に歪曲しており、右と左で長さも不揃いになっている。加えて、爪や牙も不自然に伸びていき、嫌悪感すら感じるような不気味な風貌へと変貌を遂げていた。

何よりも異常なのは彼の皮膚だった。先程までは確かに人間のそれだった。だというのに刺されてからの極僅かな時間で、既にそれは分厚い毛皮に覆われた獣染みたものへと成り果てていた。

 

バレットはその姿に見覚えがあった。

嫌でも目に焼き付いていたソレを認識し、彼女は即座に行動を開始する。

 

【■!?】

 

正々堂々と戦っていては、時間がいくらあっても足りない。それほどに頑丈な相手だ。

しかしだからこそ、対応も自ずと絞られる。何もさせずに封殺する。それだけ、簡単な話だ。

バレットは雄叫びを終えた人を辞めた何かへ肉迫し、容赦なく拳や蹴りを叩きこんだ。

拳を撃ち込む度に、骨や内臓が砕け破裂するような手応えを感じる。

バレットの猛攻に耐えかねて、ソレの身体は壁や床を跳ね回る。

それでもバレットは手を止めない、脚も止まらない。ただひたすらに殴り蹴る。

彼らの頑丈さは昨夜の内で、これでもかというほどに経験しているからだ。

バレットには油断も躊躇も一切なかった。僅か数秒で都合30回ほど、元人間のソレに対して渾身の力で攻撃を加え続けた。

 

「……。」

【ッ……■……■……】

 

バレットの猛攻が終わった。

ソレにはまだ息があった。

普通の生き物であれば、ここまで彼女の猛攻の直撃を受けては意識を保つことすら難しい。

……やはり、尋常な生命力ではない。強靭な肉体と身体能力を得る代償として、致命的なまでに知性を失う。……恐らくはソレこそが『異能薬』の本質なのだろう。

バレットは冷静に思考を回しながら息を整え、最後の一撃として異能殺しの力を持った銃を構えなおし、その引き金を引いた。

 

酷く淡白で乾いた音が、周囲に響いた。

 

事を終えたバレットには、哀れみはあれど悲しみはなかった。

こうなってしまっては自分では救いようがない、ならばせめて迅速にその生に幕を引く。

それがせめてもの救いになるはずだ。バレットはそう考えていた。

彼女にとっても想定外だったのは、人体の変貌速度が予想を遥かに上回っていたことだ。

 

「……悪趣味な薬だ」

 

恐らく彼の仲間が落とした注射器、その中身は『異能薬』だったはずだ。そうでなければ可笑しい。

バレットとしても、人をあそこまで悲惨に変貌させるような薬が他にあるとは思いたくはなかった。

 

ゴルドたちが出口を封じているとはいえ、状況は油断を許さない。逃走した彼が、まだ異能薬を隠し持っていないとは限らないのだから。

そうしてバレットは、姿を消したもう一人の当事者を追いかけるためにその場を離れた。

 

 

 @ @

 

 

逃走者は息も絶え絶えの状態で路地を駆けていた。

転倒し、無造作に置かれている荷物にぶつかり、ボロボロになりながらも彼は懸命に足を動かした。

 

『だからその見返りとして……え?』

 

走っている最中、何度も何度も気心の知れた友人を刺したときの感触と彼の表情が脳裏を過った。

その度に彼は必死で自分を正当化した。

 

自分はなんてことをしてしまったのか、高が大金欲しさに友人をあんなにも悍ましい姿にしてしまった。

いいや違う、そもそもあんな風になるだなんて、そんな話は聞いていない。あの注射器の中身は麻酔だとアイツも言ってたじゃないか!

 

『君に頼む仕事に、1人までなら協力者を同行させても構わないよ。無論、その場合は協力者にも同額の報酬を支払おう。』

『……マジ?』

『もちろんさ。……ただ、覚えておいて欲しいんだ。もしも君達が気付かれて、仲間が我が身可愛さで口を割りそうになったなら、そいつは裏切り者だ。君を見捨てて、自分だけは甘い蜜を吸おうとしているはずだ。……だから、その時はコレを使いなさい。』

『これは……注射器?なにが入ってるんです?これ』

『なに、麻酔みたいなものだよ。これを使って、裏切り者を差し出してしまえば良い。そうすれば、仮に彼女らの情報を得られなくても、少なくとも君には約束通りの額を支払おう』

『……』

『大丈夫、安心しなさい。もし万が一そうなったとしても、君は、何も、悪くないんだ』

 

そうだ、あの人だって言っていたじゃないか!俺は悪くない!悪いのは先に裏切ったアイツなんだ!だから、だからだからだからッ!!!

 

逃走者は何度も何度も必死になって責任転嫁と自己肯定を繰り返す。そしてようやく間近に迫った出口に歓喜し、脇目もふらずに飛び込んだ。

 

「ぐぁっ」

「おっと」

 

路地から飛び出す直前に、逃走者は路地へ侵入してきた何者かと衝突して尻餅をついてしまった。

彼は自身の醜態を自覚しながらも、思考は幾分か落ち着きを取り戻しつつあった。

あと少し、ここから出れば後は人混みに紛れて逃げ切るだけだ。大丈夫だ、逃げ切れる、所詮相手は余所者なのだから。

 

「おや、君か。」

「!?」

 

耳に馴染んだ声に、逃走者の思考は一瞬フリーズした。

どうしてここに?とかそんな細かいことは思い付かないくらい、呆然と目の前の人物を見ていた。

それは間違いなく、あの日自分に仕事の依頼をして、あの薬を預けてきた張本人だった。

 

「随分と慌てた様子だけど、大丈夫だったかい?……無理をさせてしまったようだね」

「あ、あんた!そうだ!アンタの言いつけ通り!俺は、俺はッ!」

「……俺は?」

 

男は未だに座り込んでいる逃走者に手を差し伸べながら、落ち着かせるように聞き返した。

 

「俺は……いや、そんなことより!あの薬は一体何なんだよ!アンタただの麻酔だって言ってたじゃないかッ!」

「……。説明すにも時間が必要だね。詳しい話は後でしようじゃないか。とりあえず、今はここを離れよう。さぁ、私の手を取りなさい。」

「……ッ」

 

男の返答に、逃走者はグッと言葉に詰まった。

確かにその通りだ。ここで足を止めていてはさっきの女がすぐに追いついてくる。

そうなっては逃げきれない、アイツを犠牲にしてしまった以上はせめて金だけでも手に入れなければ!

 

「後できっちり説明してもらうからな!」

 

逃走者はそう吐き捨てるように言いながら、男の手を掴んで立ち上がった。

 

「うん、そうだね。」

 

男は変わらない優しげな声色で言う。

 

「君に後があれば話してあげても良かったんだけど、残念だよ」

「……。は?」

 

逃走者は首筋に刺すような痛みが走ったのを感じた。

なんだ?何をされた?何か刺されたみたいな……刺す?誰に?

逃走者は困惑の最中、自分の目の前に立つ男を見つめた。相も変わらない柔和な表情だった。

しかし、その瞳の奥に何か得体の知らない悍ましいものを感じ、逃走者は無意識に男から距離を取った。

 

「おや、どうかしたかい?そんなに身体を震わせて」

「ぁ、ぁあ……」

 

逃走者は蹲る。先ほど見た自身の仲間と同じように。

 

「うぁッ、ガッ、ァア」

「ふむ……叫ばれるのは面倒だね。やはり、喉は潰しておくとしよう」

 

男は逃走者の毛髪を掴んで無理矢理に顔を上げさせた。

……逃走者の苦悶に歪む表情など意に介さないというように、男は淡々と作業染みた動作で事を終える。

男に"処理"を施された逃走者は、声をあげることさえも出来なくなってしまった。

 

そうして無言で蹲る逃走者を、男はまるで実験でもするかのように無感情に眺めていた。

 

「……完全に変貌するまでざっくり30秒、ってところかな。じっくり観察したいところだけど、『狩人』に見られては厄介だ。……騙して申し訳ないけれど、騙された方も悪いという言葉もある。」

 

男は心底から残念だとでも言うように、蹲る逃走者に背を向けてのんびりと歩き出す。

 

「ここは是非とも、その『異能薬』を報酬代わりに収めておいてくれるとありがたい。」

「……」

「沈黙は肯定として受け取るよ。じゃ、縁があればまた会おう。」

 

男は自身で喉を潰した逃走者の沈黙を肯定として受け取り、軽い足取りで路地を出る。

そしてそのまま、自身に与えられた任を全うするべく、何食わぬ顔で路地の出口での待機を再開するのだった。

 




((((;゚Д゚)))))))こわい


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【輪舞】⑨

「……。」

 

バレットは隙を突いて逃走した男を追っていた。

あの錯乱状態ではどこかに隠れるといった発想すら浮かばないだろうと理解している。しかし、だからこそ何をしてくるかわからないという緊張があった。

今の彼は手負いの獣と変わらない。追い詰めれば追い詰めるほど自棄を起こす危険性は高まっていく。

危険性。……そう、可能性ではなく危険性だ。

異能薬を所持していると分かっている以上、もしその所持数が1つや2つ出なかった場合、民間人を人質に取って、薬を使われたくなければ……などと交渉を仕掛けてくるパターンも考えられる。

それはつまり『無差別な犠牲者が増えてしまう』という、可能性などという生易しい言葉では片づけられない明確な危険性を逃走した男が抱えているということに他ならない。

 

【……】

「……。」

 

しかし路地の出口が近づいた時、バレットは自身のそんな思考が杞憂に過ぎなかったと安堵の息を吐いた。

眼前には蹲り、身体を歪に変貌させていく男の姿があったからだ。

服装などの特徴が自分の前から逃走した男と合致していることを確認し、バレットは油断なく銃を構える。

……貴重な情報源ではあったけれど、こうなってしまっては仕方がない。少なくとも、私達を探っている者が存在すると確定したことだけでも収穫としなければ、犠牲になった彼らが浮かばれない。

バレットは思考を回しながら、恐らくは自分自身に『異能薬』を投与して変貌したソレが動き出すのを待った。

 

【……】

 

程なくしてソレは立ち上がる。

そして自身の背後にある気配に気が付いたのか、緩慢な動きでバレットの方へ体を向けていく。

……バレットはその動きを注意深く見つめながらも、照準は決してソレの頭部から外さなかった。

相手の動きがスローモーションのように感じる程の集中状態で、ソレが完全に自身の方を向いた瞬間を狙って引き金に掛けた指へ力を籠める。

 

「……なに?」

 

しかし二人が完全に向き合った状態になっても、彼女の弾丸は射出されなかった。

代わりに放たれたのはバレットの意表を突かれたような声だった。

バレットは想定外の光景に僅か数瞬動揺する。その様子を窺うように、完全に変貌したソレはバレットを見ていた。

 

「……ッ」

 

バレットは苦々し気に歯噛みしつつ、眼前のソレを注視する。

身体の変貌など些細な問題だ。真の問題は彼の喉元から胸を汚している血にあった。

……切り取られている。方法など知らない。しかし、何か鋭利な刃物で正確に彼の喉の一部分だけが切除されている。

そしてその切り口の鋭利さは、彼らのような変貌した者の爪では再現不可能なものだと、バレットは素直にそう思った。

 

しかし、そうなると……次の思考がバレットの脳裏を過ることになる。

 

「……誰が」

 

そう、誰がコレを施したのか。それがこの場における最も重要な問題だ。

身体を自身の血液でべったりと汚しながら、ソレは一歩また一歩とバレットとの距離を詰めてくる。

バレットはすっかり変わり果ててしまったソレの目元に、涙の流れた痕跡を見つけた。

 

「……。」

 

その痕跡を見つけた瞬間、バレットの意識は再び狩る側へとシフトする。

もう直ぐ近くまで接近を許したソレに対して、バレットは再び油断なく銃口を向ける。

 

彼は自身の仲間を手に掛けた加害者だが、同時に利用された被害者でもある。

今更、彼らの行動に善悪を問うつもりはバレットにはない。そもそも彼女自身、自分にそんな資格がないことなど重々承知している。

バレットは自分のやりたいことをやっている。

それが『師に追いつきたい』という気持ちであれ、『人を助けたい』という思いであれ、その心に偽りはない。

 

「……おやすみなさい。」

 

だから、バレットは今回も変わらずに自分のやりたいことを貫いた。

バレットは自身が引き金を引くのと同時に響いた乾いた破裂音を、彼女はどこか他人事のように聞いていた。

 

その瞬間、路地の外のどこかから甲高い悲鳴が響いた。

 

 

 @ @

 

 

「あ、居た!」

 

慌ただしく店を飛び出した二人は、一刻も早くバレットとゴルドに合流するべく沙耶が聞いた発砲音の出所を探しはじめた。

幸運なことに捜索開始数分で二人はゴルドの姿を発見することができた。

彼は路地裏の様子を窺うようにして佇んでおり、まだ沙耶とヴィアナには気が付いていないようだった。

 

「ゴルド!状況を説明なさい!」

「ヴィアナ様!?どうしてこちらへ!?」

 

ゴルドの様子などお構いなしに、ヴィアナはゴルドへ歩み寄り状況の説明を求める。

そんなヴィアナの様子に気圧されるように、ゴルドは掻い摘んで事情を説明し始めた。

尾行されていたこと、知人に声をかけて出口を塞ぐように人員を配置したこと、そしてバレットが単身で中に入って行ったこと。

ゴルドからそれらの説明を受けたヴィアナは、口元に手を当てて状況を整理する。

 

……結論として、状況は悪くない。

尾行者は袋の鼠も同然で、追って行ったのは『狩人』であるバレット。

彼女に追われて逃げ切ろうとするならば、バレットの思考の外からの不意打ちか、相当な実力と幸運が必要になるはずだ。

 

ヴィアナは思考を一度まとめる。

 

「あ、ゴルドさん。ゴルドさんって今日は拳銃とか持ってたりしますか?」

 

不意に、沙耶がゴルドに何事か問い掛けている声がヴィアナの耳に届く。

どうやら沙耶も自分のやり方で情報を集めようとしているらしい。

 

「え?……いえ、今日は最低限の物品しか持ち合わせていませんね。そもそも仮に持っていたとしても街中での発砲は……あぁ、いえ……すみません。」

「あ!いや違うんです!その、そういう意味じゃなくてですね?」

「……解っています。どうやら、先程の銃声はお二人にも聞こえていたようですね。」

 

訂正しようとする沙耶に、ゴルドは普段とは明らかに雰囲気を変えて対応する。

そして真剣な面持ちで沙耶とヴィアナに確認する。

 

「ゴルド、確認しますがバレットはこの中に進んだのですね?」

「はい。……ですが、彼女が銃を使ったと言ことは」

「わかっていますわ。徒手空拳だけでは対応しきれない状況になっているということですわよね?」

 

沙耶はヴィアナの言葉に思わず息をのんだ。

バレットの実力を近くで見た沙耶からすれば、それは緊張感を持つには充分な情報だった。

何人相手でも完封勝利しそうなバレットに武器を使わせたとなれば、相手は昨夜のような手合いの可能性が否定しきれない。

 

「……全く、こうなることが分かっていれば他の使用人を先に帰すような下手は打ちませんでしたのに」

 

ヴィアナは自分が無意識に弱音を吐いたことに気付き、内心で自分を叱咤する。

 

「ゴルド、沙耶。」

 

これから私達も中に入ります。付いて来なさい。

ヴィアナは、二人にそう伝えようとした。

しかしそれは二人に言葉として伝わることはなく、突如として響いた甲高い悲鳴に掻き消されてしまったのだった。

 

「何事ですの!」

 

突然響いた悲鳴に対して、いち早く反応して声をあげたのはヴィアナだった。

ヴィアナの声で我に返ったゴルドは、状況を確認するべく急いで周囲の様子を窺う。

そして周囲の人間が一様に同じ方向を見ていることに気付き、そのことを共有する。

 

「悲鳴のようでしたが……どうやら声はあちらの方向からのようです。」

「そう。だったら、まずは……」

 

ヴィアナはゴルドからの伝達を受けて、即座に自身の取るべき行動を思案する。

路地裏を調べるべきだと直感的に感じるが、先程の悲鳴も捨ておけない。

その2択が数秒ではあるが、ヴィアナに決断を躊躇わせた。

沙耶はそんな二人の会話を聞き流しながら、ヴィアナからのブーストが自身に掛かったままであることを確認する。

それから耳に意識を集中して周囲の状況把握に勤めていた。

 

『何だ?今の声、うるせぇなぁ……』

 

沙耶の耳には次々と周囲の騒音染みた声が殺到する。その内容の大半は、ヴィアナたちと同じく状況の把握が出来ていない声ばかりだった。

 

『何かトラブル?』

 

その声を1つずつ冷静に聞き分け、次第に状況を掴んでいく。普段の沙耶ではとてもではないが処理しきれない情報の波。それを捌けたのはヴィアナの異能の効力を受けた結果、沙耶の聴力だけでなく判断能力も底上げされていたからこそだった。

 

『いや!誰か助けて!』

 

その結果、一つの状況が確定した。

 

「襲われてる人がいる!」

 

最後の声が聞こえた瞬間、沙耶の脚は彼女の意思とはほとんど関係なく動き出していた。

ヴィアナやゴルドが反応するよりも早く、彼女は駆け出す。人を避けながら一直線に声の元へ。

そして沙耶が駆け出してから数瞬遅く、ヴィアナは沙耶が駆け出したことに気付く。

 

「は!?ちょっと待ちなさい沙耶!!」

 

そして慌てて彼女への異能によるブーストを解除し、即座にゴルドへ指示を飛ばす。

 

「あーもう!ゴルド!沙耶を追いかけなさい!貴方なら追いつけるはずですわ!」

「わ、わかりました!」

 

ゴルドはヴィアナの指示を受け、沙耶を追いかけるために駆け出した。

今の沙耶はヴィアナからのブーストを切られているとはいえ、ゴルドと沙耶で走り出すまでに2秒程度の差が生じてしまっていた。

この差は大きい。沙耶が悲鳴の元に到着するまでに、自分が彼女に追い付くのは難しいかもしれない。そう感じながらも、彼は動かす脚を止めなかった。

 

「恐らくは考えるより先に動いてしまったといったところなのでしょうが……沙耶の性分にも困ったものですわね。」

 

駆けて行った2人を眺めながら、ヴィアナはひとり呟いた。

迂闊といえば迂闊な話だ。このパターンを想定していなかったとはいえ、沙耶に対するブーストはゴルドと合流した時点で解除しておくべきだった。

ヴィアナは誰に悔いるでもなく、自分の判断を客観的に評した。

 

「……さて、おそらくバレットの方も先程の悲鳴に反応してそちらに向かったことでしょう。」

 

彼女はこの場に居ないバレットの取るであろう行動も考慮して、冷静に状況を分析する。

悲鳴の元へは沙耶とゴルドを向かわせて、バレットもそこへ合流するだろうことは想像に難くない。

 

「そうなると、やはり私が取るべき行動は……」

 

ヴィアナは思考を数秒で打ち切って、徐々に霧が出始めた街の中を一度ぐるりと見渡す。

多少のトラブルを享受しながらも、街に暮らす大多数の人々は今日という平和な日を過ごしている。

その様子を見渡して……やはりコレは自分にとって誇らしい事なのだと、ヴィアナは誰にともなく頷いた。

 

「……行くとしましょうか」

 

ヴィアナは先程までゴルドが佇んでいた通路から侵入し、中を単身で進んでいく。

……心細いといえばそうだ。

いつもヴィアナの周囲にはオーキスを始めとしたフェリエット家の使用人の誰かが控えていた。

だが、今のヴィアナは完全な単独行動。つまりは丸腰の状態だ。

無論ヴィアナもそれは自覚していたが、彼女は「自分一人では何もできない」などという醜態を晒すような人物ではない。

彼女がその程度の人物であれば、この『霧の都』で若輩ながらも他の連盟の盟主達と対等な立場を築くことなど不可能だ。

 

「これは……」

 

ヴィアナはとある地点で足を止めた。

薄暗い通路の中、そこだけが異常に荒れていた。まるで生き物を何度も叩きつけたかのように、壁や地面のいたるところに血痕が飛び散っている。

さらに地面に無造作に置かれている誰の物とも知れない荷物の一部は、無惨にも破壊されており元々の形も判然としないような状況だ。

……間違いなく、ここで何かがあった。

恐らくは、生き物が殺された。……ヴィアナの眼から読み取れる情報は、その程度だった。

では何故、恐らくなどという枕詞が付くのかといわれれば……。

 

「……ない、ですわね。」

 

ヴィアナ自身、自分の発した言葉でその違和感をハッキリと認識した。

そう、ココには有るはずのモノがないのだ。

壁や床に叩きつけられ、荷物を破壊したでろうモノ……つまりこの場で殺害されたであろう生き物の成れの果てが、この場のどこにも存在しなかったのである。

 

「……。」

 

ヴィアナはより注意深く周囲を観察する。

痕跡一つ見落とすことの無いように、一つ一つの破損個所や物品に違和感がないかを精査していく。

 

彼女は全神経を調査に回していた。

だからだろう……普段は気付くような靴音にも気が付かず、より暗がりへ逃げるように歩いてきたその男の接近を許したのは。

 

「……お前、わざわざこんなとこで何やってんだ」

 

情報屋はヴィアナが確認しようとしていた生き物の成れの果てを担いだ状態で、誰に憚ることもなく堂々と真正面からヴィアナに声をかけたのだった。

 

 

  @ @

 

 

「は……ッ、はッ」

 

沙耶は走り出してすぐに身体が急激に重くなったのを実感した。

恐らくヴィアナの異能の効力圏から外れたか、彼女が意図的に異能による底上げを解除したのだろう。

 

助けを求める声を聞いた。

それは沙耶個人に向けられた声ではなかった。それでも身体は思考するよりも早く動き出していた。

動かない選択肢など、そもそも沙耶には在りえない。

聞いてしまっては、見てしまっては、認識してしまっては彼女は動くしかなくなる。

それは意識や思考の介在するような余地はなく、もはや反射といっても差し支えない反応だった。

沙耶が幼少期に負ったこの上ないトラウマと、それを払拭するに値する奇跡のような出会い。

それらの経験全てが川崎沙耶という一人の少女を突き動かしていく。

助けを求める人を救いたい。

結局のところ、それこそが変えようのない彼女の根幹だった。

 

「ッ!」

 

鉛のように重くなっていく脚で、力の限り地面を蹴り進む。

人のざわつきが大きくなっているのを感じる。人々が徐々に自分とは逆方向に流れ始めている。

目的地は近い、もう目と鼻の先だ。

沙耶は他人事のようにその事実を認識し、尚も自身の持てる全力でもって進み続ける。

 

『助けた命に責任も持てないような人間が、軽率に人の命を救うべきではないわ。』

『誰かを見殺しにする覚悟は、貴女にありますか?』

「……ッ」

 

不意に、いつか聞いた言葉が沙耶の脳裏を過り、息が止まりそうになった。

それが引き金となって沙耶の冷静な部分が今の行動の危険性を提言し、全力で警鐘を鳴らし始める。

 

イリスの言うことは正しい。間違えているのはきっと自分なのだろうと沙耶は思った。

行動には責任が伴ってこそ、責任の伴わない善行などただの自己満足に他ならない。

ヴィアナの問いもまた、沙耶が無意識に目を逸らしていた現実を認識させるには充分だった

人を助けるには、大前提として自身の安全を確保していることが絶対だ。

しかし、客観的に見れば沙耶は自身の安全など完全に度外視している。だからこそ、その言葉は沙耶の深いところに食い込んでいる。

 

沙耶は尚も人の波に逆らって足を動かし、街を掛けながら自問する。

本当にこの行動は正しいのか、このまま衝動任せに行動しても良いのか?

そんな問いは、人の波を抜けた瞬間に霧散した。

 

【■■■■!!】

「お願い誰かっ、助けて!」

 

沙耶が目にしたのは獣と人間の特徴を併せ持つ獣人擬きが、転倒しながらも逃げようとしている女性へ雄叫びをあげながら襲いかかっている瞬間だった。

転倒した女性に向けて、獣人擬きは容赦なくその歪に伸びた爪を振り上げる。

もう数秒もしないうちに、獣人擬きの前で倒れて動けない女性は爪で引き裂かれるだろう。

 

「うぁああああああッ!!」

【■■!!」

 

沙耶は自身の脳裏に浮かんだそのイメージを振り払うように絶叫する。

幸運にもそれは功を奏した。

女性へ向けて爪を振り下ろそうとしていた獣人擬きは、沙耶の声に不意を突かれたように動きを止めた。

沙耶はその隙を突いて勢いを維持したままで、獣人擬きに向けて全力の体当たりを繰り出した。

 

【■!?、■■!!】

 

沙耶の全力のタックルを正面から受けた獣人は、弾かれたように地面を転がった。

 

「く、こんのッ!力強いなッ!」

 

沙耶は地面に倒れ伏す獣人擬きに対してマウントを取るようにして覆いかぶさり、すこしでも獣人擬きを押さえつけようと全力を尽くした。

 

「え、え?何が起きて?」

 

沙耶の行動によって窮地を脱した女性は、突然のことに何が起きたのか理解できていないように周囲を見回している。

そして必死の形相で獣人擬きを押さえつけている沙耶を見つけると、ようやく事態を正確に把握したように怯え切った声をあげた。

 

「だ、大丈夫ですか……?」

「私は大丈夫だから貴女は早く逃げてッ!」

 

女性からの不安そうな声に、沙耶は早くここから離れるようにと返答する。

獣人擬きは上体を起こしつつあり、抑えておくのも限界が近いことが見てとれた。

女性もそのことを察したようで、すこし躊躇しながらも最終的にはその場からの離脱を選択した。

 

背後から聞こえた靴の音が遠ざかっているのを聞き、沙耶はほんの僅かに安堵の息を溢す。

そして自身が組み伏せている相手の存在に、全神経を注いで集中する。

ここまではなんとかなった。けれど、むしろ問題はここからだ。

 

【■■!!■■■■!!】

「痛ッ!」

 

獣人擬きが拘束から逃れようと乱雑に腕を振り回す。たったそれだけのことで沙耶の拘束は容易く振り解かれてしまった。

さっきまでこの獣人擬きを押さえつけて、女性が逃げるための時間を稼げたのは奇跡に等しい。火事場の馬鹿力というやつだ。

勢いよく振り解かれた沙耶は、尻餅を付くようにして倒れ込んでしまっていた。全力以上の全力を出していたのだから、直ぐには立ち上がれそうもない。

 

【■、■■■!!】

 

獣人擬きはへたり込む沙耶の姿を見つけると、怒りを滲ませた咆哮のような声をあげる。

そして目前の獲物を品定めするかのように観察しつつ、距離を詰めていく。

やがて沙耶が獣人擬きを見上げるように睨みつけていることに気が付くと、獣人擬きはその口角をニタリと歪ませて腕を振り上げる。

 

大丈夫だと、沙耶は自分に言い聞かせる。

痛いのは一瞬だ。だから怖いことなんて何もない。大丈夫、私は大丈夫。

周りの動きが嫌にゆっくりに感じる。振り上げられた腕が、緩慢な動きで迫ってくる。瞬きを一度でもすれば、この腕はきっと直ぐにでも自分を打ちのめすのだろう。

 

沙耶はその光景をぼんやりと眺めながら、ゆっくり眼を閉じていった。

 

「サヤから離れなさいッ!」

【■■!?】

 

突然聞こえたすっかり耳に馴染んだ声に、沙耶は思わず眼を開けていた。

まず目についたのは、何かに吹き飛ばされたように地面を転がる獣人擬き。腕が不自然な方向に折れていて痛々しい。

次に目に入ったのは、自分の前に立って獣人擬きと対峙する彼女の姿。スーツと赤い髪の女性は、考えるまでもなくこの街に来てから行動を共にしていた相手。

 

「バレットさん!」

「遅くなりました。サヤ、怪我はありませんか?」

 

沙耶はバレットの姿を認識した瞬間、自分が明らかに安心したのを感じて困ったように苦笑した。

 

「む、やはりどこか怪我を?」

「あ、振り解かれた時の擦り傷程度なので大丈夫です。もう治ってますから」

 

強がりを言う沙耶。そんな彼女にバレットは労わる様にぎこちない手付きで頭を撫でながら、努めて優しく言葉を掛ける。

 

「無理はいけない、傷は治るといっても痛いものは痛いでしょう?」

「……ん。」

 

沙耶は自身の胸の内を見透かされたように感じながらも、何故か感じるくすぐったい様な嬉しさ。沙耶はそれを、頭を撫でられたからだと自分を誤魔化した。

 

【■、■■】

「……。さて、後は私に任せて沙耶は休んでいてください。」

 

起き上がってきた獣人擬きに油断なく対峙するバレットの姿を見つめながら、沙耶は守られるだけではいけないと自分を奮い立たせて立ち上がったのだった。

 

 

  @ @

 

 

(あの距離を一息で詰めるのか。驚異的な身体能力だ。……あれで異能を保有していないというのだから、恐ろしいものがある。)

 

男はざわつく人々など意に介さないかのように、一点をひたすらに注視していた。

男は狩人の発揮した身体能力に驚愕し値踏みするような視線を向けたが、すぐに興味を無くしたように溜息をついた。

 

(だが、あれは個人の研鑽の到達点に過ぎない。目を見張るものがあるのは事実だが、私の求める物には程遠い。……そうなるとやはり、興味深いのは狩人よりも……)

 

男は絡みつくような視線を、狩人の傍らに佇む少女に向けた。

 

「こんなところに居たんですか」

「!」

 

男は自分が声をかけられたことに一瞬驚き、声の方へ視線を向ける。

声の主を認識した男は既に自分自身のものとなった記憶を読み込んで、努めて普段通りに彼に返答した。

 

「ああ、ゴルドか。いや、流石に命懸けで働くほどの金額じゃなかったからな。悲鳴が聞こえた時点で退避させてもらっただけだ」

「全く……。まあ、協力してもらってる手前、強制は出来ませんが」

 

記憶にある通りの人柄の男を、内心で嘲笑しつつ彼は再び2人の方へ視線を向けた。

 

「だが、俺に構ってて良いのか?」

「バレット様が沙耶様の方へ向かうのが見えましたから、問題はないでしょう。彼女がいるなら私程度の出る幕はない」

「……。」

 

狩人やあの少女ともそれなりに友好的な関係性のようだし…… コイツの方が都合が良いかもしれない。

狩人の実力を把握しているように語るゴルドを一瞥し、男は吊り上がりそうになる口角を意識的に抑えつつ口を開こうとした。

 

「ゴルド、沙耶はどうしたのです?」

 

しかし男が口を開くより早く、ゴルドの主人である女性が合流してきた。

 

「沙耶様の元には既にバレット様が付いていました。」

 

ゴルドは主人へ端的な状況説明を済ませて、彼女の最大の懸念を払拭する。

それから一呼吸置いてから、ゴルドは更に詳しい事情を説明する。

 

「私は沙耶様の無事を確認しましたので、ひとまず協力してくれた方々に解散するように伝えて回っているところです。」

「そう。……でしたら私もそちらに同行するとしましょうか。」

 

ゴルドの説明を聞いた女性は少し思案した後、そんなことを言い出した。

 

「不測の事態の連続だったとはいえ、危険に巻き込んだのは事実なのです。であれば、私が頭を下げるのが筋というものでしょう?」

「わ、わかりました。」

 

女主人とゴルドの会話を聞きながら、男は内心で舌打ちする。それから視界の端にゴルドを捕らえながら、運の良い奴だと彼を評した。

 

「そこの貴方も、こんなことに巻き込んでしまって申し訳ありませんでした。フェリエット家の当主として、後日改めて」

「いえ、友人の頼みでしたから。そういうのは結構です。」

「あら、そうですの?」

 

自身の返答に愉快そうな声色で返す女に胸の内では悪態を吐きながら、男は普段通りの彼を装って踵を返した。

 

そうやって今日の騒動の元凶は、貴族連盟盟主の1人から逃げ果せたのだった。

 

 

  @ @

 

 

【■!!】

「……。サヤ、もう2歩程下がってください。」

「はい」

 

地面を爪で搔き抉りながら、獣人擬きは怒りの滲む声をあげる。

バレットは相手の様子に、戦意が未だに折れていないことを確認すると沙耶に下がるよう言葉を投げた。

油断はなく、慢心もなく。バレットはただ狩人として十善にその性能発揮する。

 

【■■!!】

 

敵は咆哮をあげながらバレットに突き進む。愚直なまでに真っ直ぐに獲物へと猛進する獣人擬きには、駆け引きをするような知性など感じられない。

ソレはもう文字通りの獣だった。本能のままに暴力をまき散らすという単一機能以外、全てを削ぎ落とされた存在だ。

 

「遅い」

 

並みの相手であればそれでも通用するだろう。しかしバレットを……狩人を相手にして、ただの勢い任せの猛攻など意味を為さない。

 

バレットは自身に向けて突き出された爪をこともなげに叩き折り、相手の胴体に蹴りを入れて吹き飛ばした。

 

【■!!】

「やはり、素手だけで止めるのは時間がかかりすぎるようですね」

 

吹き飛ばされた獣人擬きは尚も立ち上がる。これで5度目の再起だった。

打たれ強いにも限度がある、とバレットはため息混じりに相手を見た。

ここまで殴打して未だに立ち上がれるということは、獣人擬きを仕留めるには殺す以外の選択肢はないということになる。

 

「全く、度し難い」

 

バレットは切り札を意識しつつ、再び自身へ向けて動き始めた獣を見据える。

まずは場を整える必要がある。いくらなんでもこんな場所で銃を撃つわけにもいかない。

そのための工程は、すでに組み立てが終わっている。

 

「私がここを離れたら、サヤはヴィアナ嬢たちと合流してください。」

「……。……わかりました。」

 

サヤはバレットが何をするつもりかは理解していない。しかし、戦闘面では力になれないことは自覚している。だからこそ、言葉を飲み込んでバレットの指示に従うことに決めた。

 

【■■■!】

 

相も変わらず直線軌道で繰り出される刺突に合わせて、バレットは獣人の腕を掴み取る。

 

「せーっ、のッ!!」

 

そして相手の勢いを利用しながらも自身の力を上乗せして、バレットは力の限り獣人擬きを投げ飛ばした。

 

【■■!?】

 

投げ飛ばされた獣人擬きは姿勢制御もままならないまま、建物と建物の隙間へ吸い込まれるように吹っ飛んでいく。

そして、バレットもまた全速力で自分が投げ飛ばした相手を追っていく。目指すは路地裏、周囲の目が届かない空間だ。

 

「……、いくらなんでも凄すぎない……?」

 

その光景を誰よりも近くで見ていた沙耶は、流石に動揺を隠しきれない様子で一言溢すのが精一杯の反応だった。沙耶はそれからすぐに気を取り直し、バレットの指示に従ってヴィアナたちと合流するべく駆け足で移動を開始した。

 

【……、■】

 

騒音を立てながら、獣人擬きは投げられた勢いのままで路地裏に墜落した。

呻き声をあげながら立ち上がろうとするが、墜落時の衝撃で四肢の機能が失われているようだった。

驚くべきはこれほどの損傷を負ってもなお、意識を失っていないという点だろう。

 

「……。終わりにしましょう。」

【!!】

 

自身の上から掛けられた声に、獣人は僅かに反応を示す。しかし、その意図は攻撃から退避へ移り変わりつつあった。

獣人はまともに動かない四肢をそれでも動かし、必死に狩人の銃口から逃れようと足掻いた。

 

「……。」

 

狩人が引き金を引くと同時に乾いた音が周囲に響き、生きようともがいていた獣人の命の灯はあっさりと消え去った。

 

「……。」

 

バレットは獣人擬きがもう動かないことを確認し、ヴィアナたちと合流するために遺体に背を向けた。

 

「なんだ、持ち帰らないのか。」

「!」

 

バレットは突然背後に現れた気配と掛けられた声に、反射的に反応して銃口を突き付けた。

……そこには顔見知り程度に接点のある男が、つまらなさそうに佇んでいた。

 

「……シーク、何の用です。」

「これだけの騒がしさだ。気になって見に来ただでも問題はないだろ。」

 

バレットは目の前の情報屋は最大限に警戒するべき相手だという自信の直観を信じ、銃の照準を逸らすことはしなかった。

 

「見世物ではありません。そもそも、貴方が見て面白いモノなど。」

「さてな、どう言おうがお前の勝手だ。だが忠告ぐらいは聞いとくべきだろ」

「……忠告?」

 

尚も油断なく銃を構えたままで、バレットはシークに問いを返す。

シークはそのバレットの対応を楽しみながら、至極まじめな表情で彼女に視線を合わせた。

 

「さっきここに来たフェリエットにも同じことを伝えたが……例え見知った相手であろうと信用するな。一度でも消息を絶った相手は疑ってかかれ。……言いたいことはそれだけだ。」

「どういう意味です。」

「そこまで教えてやるほどお人好しじゃない。……まぁ、俺はそもそも人間じゃないんだが」

 

シークの言葉にバレットは反応する。

……沙耶から聞いてはいたけれど、この男は本当に人間ではないというのだろうか?

外見はどう見ても人間と変わらない。そこで息絶えている獣人擬きの方が、見た目だけならば余程化け物だとバレットは感じていた。

 

「答えなさい、先程の言葉の意味は」

「そう焦るな人間。親切に忠告してやってるのに銃突きつけるのが狩人のやり方か?」

 

シークは愉快そうにバレットの様子を観察し、やがて唐突に彼女に背を向けて暗がりの方へと歩き出した。

 

「……止まりなさい。」

「断る。」

 

バレットの声に淀みなく返答しながら、シークは徐々に霧散していく。

小さな小さな羽音が聞こえる。シークの身体が消えて行く度に、聞こえる羽音は増えていく。

やがて彼の身体の8割が消えた頃、バレットは声を荒げてシークに最後の問いを投げかけた。

 

「イリス嬢と貴方の目的は何です!」

「それこそ本当に、お前らには関係ないことだ」

 

その言葉を最後にシークは彼女の前から霧散した。

バレットは眼前の男が消えた段階で、銃を下ろして息を吐く。

最後の返答に込められていた彼の言い表しようない感情に、バレットは思わず銃を握る手に力を込めていた。

 

「……。」

 

恐怖と震え……確かに身近にあって抑えていたそれを、たった一言で抑えが効かない程に認識させられた事実。

バレットはそれをただ事実として認め、情報屋の消えた方向を見た。

そこには既に情報屋の姿はなく、ただ数匹の蝙蝠が戯れているだけだった。

 

「……。戻りましょう、彼女の元へ」

 

彼女は誰にでもなく一言そう呟いた後、沙耶たちに合流するために来た道を引き返して外を目指す。

……バレットが路地から外に出た時、すっかり日は暮れて町は霧に包まれつつあった。

 

「あ、バレットさん!」

 

沙耶からの声が耳に届き、バレットはそちらを確認する。

そこにはヴィアナたちと共に沙耶が居り、手を高く掲げてバレットに向かって呼びかけている。

……不思議なことに、それを見ただけで先程までの殺伐とした気分はすっかり晴れていた。

 

「ただいま戻りました、サヤ。」

「はい」

 

あぁ、やはり彼女の笑顔は素晴らしい。

 

バレットは戦闘を終えた直後とは思えない穏やかな気持ちで、彼女たちと合流したのだった。

 



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【輪舞】⑩

異能薬の影響を受けた追跡者たちとの戦闘から一夜が明けた。

朝を迎えた沙耶たちは知り得た情報を精査し、各々の見解を共有し合った。

その結果として、彼女たちは一つの仮説に行き着いた。

その仮説の内容が正しくとも誤っていようとも、それは翌日には明らかになる。

彼女らはそう結論付け、その日は英気を養う為に穏やかな時間を過ごすことになった。

 

バレットは割り当てられた自室に籠り、自身の名の由来にもしている武装を入念に手入れをしていた。

ヴィアナは普段と変わら無い様子で日常業務に取り組みながら、時間を見つけては沙耶やバレットとの会話を楽しんでいた。

沙耶は自分だけ特にやることもなく手持無沙汰なのが落ち着かない様子だったが、ヴィアナやバレットと談笑している時はいつもと変わらない普段通りの彼女だった。

 

その日も当たり前のように日が沈み、当たり前のように夜がやってきた。

薄霧の掛かる街は、変わらぬ営みを続けている。

沙耶は灯りの消えたフェリエット家の廊下を歩きながら、外の景色を眺めて小さくため息を吐いた。

 

「明日、か……」

「おや、サヤですか?」

 

自身が発した小さな呟きに反応があったことに驚きながら、沙耶は声の主へと振り向いた。

 

「バレットさん」

「はい、私です。……どうかしましたか?こんな時間に」

「明日のことを考えると、ちょっと緊張しちゃって」

 

苦笑気味に笑う沙耶を見て、バレットは彼女の横に並び立って同じように外の景色を眺めた。

 

「バレットさん?」

「……少し話をしましょうか。私も寝付けそうにありませんから、助け合いましょう」

「……。あはは、なんですかそれ?」

 

珍しく冗談めかして言うバレットの発言に、沙耶は先程までの不安感を忘れた。

心なしか気分の良くなった沙耶は、肩を揺らして笑いながらバレットを見上げる。

 

「どんなのお話をしましょうか?」

「そうですねぇ……」

 

そうして誰にとっても平等に時間は過ぎ、いつもと何も変わらずに平凡な一日がやってきたのだった。

 

 

時刻は夕刻を過ぎ、日は既に彼方へと沈みつつあった。

徐々に夜の闇に染まりつつある霧の都には、今日もまたうっすらと霧が掛かり始めている。

そんな街の中を、1台の馬車が進んでいた。

フェリエット家使用人の長であるオーキスが操る馬車の中には、2人の女性と1人の使用人の姿があった。馬車に乗っているのはフェリエット家の当主であるヴィアナ=フェリエットと、同家の使用人の一人であるゴルド、そしてヴィアナの友人として街に滞在している東洋人の川崎沙耶だった。

 

馬車の行き先はハイレンジア別邸。

彼女たちはイリス=ハイレンジアから招待を受けた舞踏会の会場へと、今まさに向かっている最中だった。

 

ヴィアナとゴルドの様子は普段と何も変わりはないが、沙耶は傍目からも判る程度には緊張してしまっていた。

 

「沙耶、大丈夫ですの?顔色があまり優れないようですが」

「いや、ちょっと緊張してなかなか眠れなくって……。舞踏会とか初めてだし……それにこんな高そうな服まで借してもらっちゃってさ?」

 

沙耶は普段着なれない高級そうな材質と装飾の施されている服の裾を見つめながら、恐々とヴィアナに事情を説明する。

ヴィアナは沙耶の説明を受けて、苦笑気味に納得してから沙耶の緊張を解すべく言葉を返した。

 

「あぁ、そういう……安心なさいな。イリスからの手紙には確かに舞踏会と書かれてはいましたが、実際はただの食事会に近い物ですから。」

「え、そうなの?私てっきりダンスとか踊るのかと思ってたんだけど。」

「確かに稀にそういった催しもありますが、今回の主催はイリスですからね。恐らく……いいえ、十中八九呼ばれているのは多くても4組程度。いえ、今回に限って言えば私たち以外誰も招待していないという可能性もありますわ。」

「えぇ……。そういうものなの?」

「なんとなく察しているかもしれませんけれど、イリスはあの性格なのであまり交友関係は広くありませんの。」

 

困った風に、けれどどこか楽し気に友人のことをヴィアナは語る。そんな彼女の様子に、沙耶は何故か姉である神守さくらの姿を重ねてしまったのだった。

 

「……。前から思ってたけど、二人ってやっぱりちょっと似てるよね。」

「誰と誰がです?」

「……内緒、かなぁ。」

「?」

 

無意識に口を突いて出た言葉の意味をヴィアナに問われた沙耶は、冷静に判断して彼女には詳細を隠すことにした。

変なことを口走ってしまった自分も悪いけれど、こんなタイミングでヴィアナの機嫌を損ねてしまうのは良くない。なにより馬鹿正直に説明した場合、ヴィアナに怒られるのは目に見えているのだ。そんな選択肢を選ぶ必要はない。

沙耶はそんな極めて個人的な都合により、自己保身を選択したのだった。

 

一向を乗せた馬車は、徐々に夜霧が濃くなりつつある街をひた走る。

会話が一区切りついた頃、沙耶は馬車の中から外を見た。街を染めていた夕焼けの赤はすっかり消え去り、街はいつのまにか夜の黒へと様変わりしていた。

 

「……。」

 

沙耶はそんな街の様子に、ひとりだけで別行動をとっているバレットのことが気に掛かった。

そしてそんな沙耶の変化は傍目からも判るものだったらしく、ゴルドは沙耶に声をかけた。

 

「……沙耶様は、やはりバレット様が心配ですか?」

「……正直心配はしてます。バレットさんは私なんかが心配するのも烏滸がましいくらい強いです。けど、あの獣人擬きがまた出てこないとも限りませんし」

 

沙耶の懸念は心配し過ぎと安易に切り捨てられる類のものではなく、彼女なりにここ数日の街の状況を分析して導き出した『あり得る可能性』の一つだった。

ゴルドも獣人擬きの姿を確認しているがために、その可能性を否定しきれない。そのせいで沙耶の返答を聞いて黙り込んでしまった。

ヴィアナは会話が止まった二人を数瞬眺めた後、少しだけ呆れた様子で口を開く。

 

「街の状況はともかくとして、バレットに関しては沙耶が心配するまでもありませんわ。彼女が招待されている『紫陽の花』の長との会合場所は、私達が今向かっているハイレンジア別邸とそう離れていませんもの。」

「……あ、そっか。じゃあ何かあってもすぐ合流できるんだね」

 

事実として舞踏会に向かう沙耶たちと、長との会合に向かうバレットの目的地は意外と近かった。

バレットの脚があれば長く見積もっても10分少々有れば走り抜けられる程度の距離だ。

 

「そもそも襲撃されないのが一番ですけれど、完全な不意打ちでもされない限り彼女は心配いりませんわ。」

「んー……確かにそうかも?」

「そうですわよ。……まったく、沙耶は心配性が過ぎますわね」

 

沙耶はヴィアナに半ば言い聞かされるような形で納得し、親友の言葉を信じることにした。

まだバレットの身を案じる気持ちを割り切れてはいないけれど、自分には他に気を回しながら目的を達成するなんて器用なことはできない。もとよりそんな余力はないのだから、できることを精一杯しなければ。

沙耶は努めて前向きにそう考えを改めて、気を持ち直したのだった。

 

「……。」

 

……ゴルドはそんな二人のやり取りをただ黙して傍観していた。

バレットほどの実力であれば、昨日のような意思が在るかどうかも怪しい存在など何体居ても敵にすらならないだろう。

事実としてゴルドにはバレットに追われた経験がある。その彼がヴィアナの言葉に異を唱えなかったのは、彼も先程のヴィアナの言葉は正しいと判断したからに他ならなかった。

 

しかし先程のヴィアナには、意図的に沙耶には語らなかったことがある。……少なくともゴルドはそう感じていた。

そしてその所感は的を射ていた。

『狩人』は往々にして人並み外れた戦闘技能を有している。

身体能力、武装、戦闘時の状況判断、そして極稀に存在する異能を保有する者。それら全て、もしくはいずれかが人間の規格から逸脱している者がほとんどだ。

昨日の獣人擬きがいかに頑強な肉体を持ち、鋭利な爪や牙を有しているとしても、『狩人』を相手にするというのであれば思考能力に欠陥がある時点で話にすらならないのが現実だ。

 

ただ、今日バレット=ガットレイが向かっているのは獣人擬きとは直接の関係が薄い『紫陽の花』の長との会合である。

あの組織の中に異能者や獣人擬きのような特異な存在は居ないとゴルドは認識しているが、それでも統率された集団が運用する銃火器は狩人にとっても脅威になりうるだろうと感じていた。

……とはいえ、それも敵対した場合の話だ。杞憂に終わるのであればそれに越したことはない。

 

「そろそろ着きそうですわね。沙耶、覚悟はよろしくて?」

「……うん、大丈夫。イリスちゃんに会って、話をするだけだから」

「そう。……なら、私がとやかく言うことではありませんわね。」

 

ヴィアナは意を決したように言う親友の表情に笑みを返した。

沙耶もすっかり気を持ち直したようで、バレットを案じていた時の陰りは全く感じられない。

 

実際、事ここに至ってゴルドにできることは見守ることだけなのだ。

ハイレンジアの当主が舞踏会を開いた目的が何であれ、『紫陽の花』の長がバレットを呼び出した思惑がどうであれ、既に賽は高く投げられた後なのだから。

 

……ゴルドは徐々に減速する馬車の揺れを感じながら、自身も二人に負けじと改めて気を引き締めたのだった。

 

 

  @  @

 

 

バレットは廃屋に到着すると、前で待機していた『紫陽の花』の構成員と思われる人物に中へ案内された。

傷みの目立つ簡素なソファとテーブルが置かれているだけの質素な部屋に通されると、バレットはここでしばらく待機するように指示を受けた。

彼女は自分より先に部屋で待機していた2人の構成員を一瞥しつつ、言われた通りにソファへ腰かけた。

 

「……。」

 

構成員の二人の様子から、彼らが極度の緊張状態を維持していることが感じ取れる。

ゴルドの様に場慣れしている様子は見られないことから、彼らを警戒する必要性は薄いとバレットは判断した。

自身まで彼らの緊張に引き摺られる必要はないと結論を出し、バレットは来るべきタイミングまで気を休めるべく目を閉じた。

 

それがだいたい10分前のことだ。

バレットは依然として瞳を閉じて微動だにしないまま、『紫陽の花』の長がやってくるのを待っていた。

 

「……ッ」

 

バレットは平静を保ちベストコンディションを維持している。

対照的に息を詰まらせているのは構成員の方だった。

数日前に『狩人』と数度交戦したという話は彼らの組織でも広まっているはずだ。

彼らのような『紫陽の花』の一介の構成員からすれば、狭い部屋の中で彼女を監視するというこの時間は恐怖でしかなかった。

伝え聞いた情報でしか彼らは『狩人』のことを知らない。そんな彼らからすれば、今の状況は猛獣の檻の中に入ってその動向を監視するのと何ら変わらないのだ。

そう考えれば、彼らの緊張と萎縮も無理のない話だろう。

 

「お待たせしました。」

「!」

 

安堵の息を吐いたのは二人のどちらだったのか。彼らはほぼ同時に、遅れて入室してきた人物へ縋る様な視線を向けた。

 

「……。」

 

入室者に反応してバレットは閉じていた目を開ける。そして扉の方へ視線を向けると、仮面を着けた一人の女性が佇んでいた。

 

「貴方達もご苦労様でした。あとは私に任せて撤収してください。……周囲の警戒をしている者達にも、同様の伝達をお願いします。」

 

女性は柔らかな物言いとは裏腹に、有無を言わせぬ雰囲気で2人に指令を下す。

それを受けた二人は我先にと部屋から脱出し、長の指令を完遂するべく走り出した。

 

「……。」

「……。」

 

遠退いて行く足音を聞きながら、仮面の女性は開け放たれたままの扉を閉じて鍵をかける。それからゆっくりと、落ち着いた歩調でバレットの正面のソファーに腰を下ろした。

 

「随分と警戒しているのですね。なんですか、その仮面は」

「敵が多い身の上ですので、素性を明かすのは最上位の幹部だけに決めているのです。」

 

……何やらとんでもない情報が、とある人物に繋がったような気がする。けれど、今は気にするだけ無駄な話だ。

そんなことよりも今の私には……否、私達には優先するべき確認事項がある。

 

「ともあれ、詳しく説明してもらいましょうか。『紫陽の花』の長。」

「ふふ、ずいぶんと急いでいらっしゃるようで」

 

仮面の下で笑みを浮かべながら、彼女は自身の素顔をバレットに晒した。

 

「改めて、数日振りの対面となりますね。バレット=ガットレイ様」

「……全くその通りです。酷い回り道もあったものだ。そう思いませんか?アルエ」

「それを言われると耳が痛いのですが、こちらとしても貴方達の動向に注意を払う必要がありました。……なので、ここは仕方がなかったと諦めていただけると助かります。」

 

数日前の初対面時と同様の雰囲気で、アルエはバレットへ穏やかに対応する。

思えばその時も、彼女からは何一つ本音というものを感じなかった。

バレットは昨日のうちに沙耶やヴィアナ達と出した結論を、いきなりアルエに突き付けることにした

 

「回りくどい問答をする気はないので、単刀直入に聞きましょう。」

「拝聴しましょう。」

 

バレットはそう短く告げると、少しだけ間をおいて真正面からアルエを見据えた。

 

「私は、貴女はあくまで『紫陽の花』の長役だと思っています。……いるのでしょう?貴女に指示を出している人物が」

「さて、誰のことを言っているのか、私には判りかねます。」

「……イリス=ハイレンジア。私たちは彼女こそが『紫陽の花』の長を操っている人物だと考えています。」

「……。」

 

誤魔化しを許さないバレットの追及は、アルエに認めるか否定するかの二択を強制的に突き付けた。

……しかし、この場で単純に否定するだけでは意味がない。

アルエの公の立場はハイレンジア家の使用人、その代表だ。

その彼女が『紫陽の花』の長をしていると明言している以上、イリスを無関係だと主張するなら誰の眼からも決定的な根拠を提示する必要がある。

今のアルエは逃げの選択肢を封じられ、事実上の詰みの状態だった。

 

「……どこから話したものでしょうか。」

 

しかし、アルエはそんなことは微塵も感じさせない平常通りの対応をバレットへ返す。その声色には少しの焦りも動揺も感じられない。

 

「バレット様は『紫陽の花』とハイレンジア家の関係性についてはご存知でしょうか?」

「……。詳しいことは何も。」

「そうですか、ではまずそこからお話しすることにしましょう。」

 

不意の質問に虚を突かれたバレットは、正直にそのまま返答を返した。アルエはその返答を予想していたようで、一度だけ小さく頷いてから再び口を開いた。

 

「今から何十年あるいは百年以上も昔の話になり、私も人伝に聞いただけで確たる証拠の無い話になってしまいます。……その点について先に断った上でお伝えしますが、『紫陽の花』は元を辿ればハイレンジア家が管理する自警団でした。」

「……。」

 

町の治安維持という名目での組織ならば、それはヴィアナ達フェリエット家の領分ではなかったか?バレットは言葉を返さないながらも、思考だけは回し続けていた。

アルエはそんなバレットの疑問に気付いているのか、さらに詳しい説明を始める。

 

「当時から『霧の都』に住んでいた幾つかの大家の当主達は、自分たちの家の特権性を護るために幾度も協議を重ねていました。度重なる話し合いの末に、それぞれの家の役割を決めたそうです。……そしてそれは同時に、外部の介入を許さない強固な同盟関係の構築に繋がりました。」

「……それが、現代で言うフェリエット、ウォルロード、ベリエード、ハイレンジアの4家からなる『貴族連盟』の成り立ちですね?」

 

バレットの推測交じりの問いに、アルエは首肯で返答する。

そして彼女は数度深呼吸をして、自身の持つ情報をバレットに伝えるべく言葉を続ける。

 

「4家はそれぞれの特色を活かして街のために協力したそうです。……その中で街の治安維持といった荒事をフェリエット家に一任したウォルロードとベリエード両家の当主は、所有していた自警団を放棄しました。」

「……自警団は4家全てが保有していたのですか?」

「今でこそ治安維持のための自警団を保有しているのはフェリエット家のみですが、『貴族連盟』が機能し始めるまではそれぞれが自衛をしていたという情報が残っています。」

 

よく考えれば当然の帰結だとバレットは感じた。

大きな力を持つ4家それぞれが武力を保有してしまえば、いずれ争いの火種になるだろうことは目に見えている。

恐らくは当時の貴族連盟の盟主達も、それを危惧したのだろう。

 

「ですが……武力を放棄した2家と違い、任された役職の関係で放棄することが難しい家があったのです。」

「それが今のハイレンジア家というわけですか……。確かに……情報の統制を行う以上、その立場は公平でなければならない。加えて、力に屈するわけにもいかないとなれば自営手段も必要になる。」

 

アルエは再び頷き、バレットの推測を肯定する。

権力には抗争が付き物だ。表立った戦火はないにしろ、水面下での争いはいつ起こっても不思議はない。

情報統制という役割を担っている以上、万一の場合に備えて抗うためのカードは必要だったのだろう。

 

「……自警団という形は残せない、だからこそ『紫陽の花』という形に再編し運用した。……だが、やはり疑問は残る。」

「なぜ『裏ルート』などというものを作る必要があったのか、ですね?」

 

次はバレットが首肯で答える番だった。

武力による圧力に対して抗うために、自警団を『紫陽の花』に再編した。

では『裏ルート』は何のために必要だったのか、その問いへの答えは本質的には同じだった。

 

「自警団は形を変えて残っている。けれど、彼らに支給するための武装がないのでは話にならない。……つまりはそういうことです。」

 

確定した過去の情報を開示するアルエに対し、バレットは努めて冷静にその情報を吟味する。そして、受けた説明に矛盾がないことを理解して深く息を吐く。

アルエはそんな彼女の様子を観察するように眺めながら、補足するように言葉を加える。

 

「もっとも、武器弾薬までをも扱いだしたのは先代当主……イリスお嬢様の母だったクレイ様がお亡くなりになる1週間程前からになります。それまでは本当に、少し珍しい物が流れてくる程度のものでしたから。」

「……。」

 

バレットはアルエの言葉を飲み込む。そして居住まいを正してから、改めて最初の質問を投げ渡した。

 

「大筋は理解しました。……それで、どうなのです?結局のところ、イリス嬢は今の『紫陽の花』と関りがあるのですか?」

「おや、意外と無粋な質問をするのですね?あれだけ丁寧にお伝えしたのですから、ある程度察してくれても良いのではないですか?」

 

そう……アルエはバレットから投げられた最初の質問に対し、未だ明確な返答を返してはいなかったのだった。

バレットは身動きの一つすら見逃さないようにアルエを見据える。

一方のアルエは、ただ黙して正面から『狩人』の視線を見つめ返していた。

 

「……!」

 

2人が数分そうして睨み合ったまま硬直していると、脆くなった壁の隙間から1匹の蝙蝠が室内に侵入してきた。

蝙蝠は小さな羽音を立てながら2人の間を飛び回り、やがて何事もなかったかのように入ってきた時と同じ隙間を通って部屋の外に出て行った。

 

「バレット様。」

「……!」

 

バレットが怪訝な表情で蝙蝠が通った穴に視線を向けていると、先程まで黙っていたアルエが口を開いた。

その声からは一切の遊びも感じられず、ただ事実のみを淡々と告げるような冷淡さを感じた。

 

「先程の問いにお答えしましょう」

「……!」

「イリス様お嬢様は、確かに私を通して『紫陽の花』を操っていました。……しかし、それは全て悲願を達成するための行為に過ぎません。私も彼も、その一助となる為にイリス様お嬢様に従っているのです。」

 

唐突に発せられた悲願という単語と、先程と明らかに雰囲気が変わったアルエ。

その突然の変化に少しだけ驚きながらも、バレットは推測を立てる。そして何やら奇妙な胸騒ぎを感じて、ソファーから立ち上がった。

そしてそのまま外へつながる扉へ向かっていく。

 

「どちらへ?」

「……」

「……。お急ぎになるのでしたらどうぞご自由に。……導かれる結果がどうであれ、私は既に主命を果たしましたので。」

 

無言で背を向けて部屋の扉に手を掛けていたバレットは、足を止めて改めてアルエを視界に捉える。そして威圧感を強めながら彼女に向き直る。

 

「貴女の役割とは何です?……答えに大方の見当は付きますが、確定しているのといないのではこれからの行動に大きく影響が出る。」

 

バレットは今まで押し殺していた威圧感を全開にして、アルエに向かって最後の問いを投げ渡した。

アルエは変わらず落ち着いた雰囲気で、ソファーに座ったままバレットの問いに応じた。

彼女の手には、最初に外した仮面が握られていた。

 

「……簡単な話です。我が主の命で貴女をここに呼び出した理由は、単なる時間稼ぎ。……肝心要の瞬間に、『狩人』に横槍を入れられると困りますので」

 

アルエの言葉を聞くが早いか、バレットは扉も窓も全て蹴り破りながら最短経路で廃屋から飛び出した。

 

彼女は満月が輝く夜の下で、自身の出せる最高速度で舞踏会の会場であるハイレンジア別邸に急ぐのだった。

 

 

@  @

 

 

馬車がハイレンジア別邸に到着すると、ヴィアナを先頭に沙耶たちも馬車から降りた。

扉の前に出迎えの人間は居ないが、ヴィアナは慣れたことだとでも言うようにオーキスに指示を飛ばす。

ヴィアナに命じられたオーキスは馬車を止めると、一向の先導を始めるべく彼女の前に立った。

 

「勝手に入っても良いの?」

「あら、私たちを呼び付けたのは向こうですのよ?ゲストに対して出迎えの一つも寄越さないということは、勝手に入って来いと言っているようなものですわ」

「そういうものなんだ……」

 

無論、ヴィアナとて他の連盟盟主の招待であれば迎えが来るまで待機する。

この対応は謂わば、ヴィアナとイリスの間でのみ適用される特殊ケースといえた。

 

「……ゴルド、貴方は私達の後ろから着いてらっしゃい」

「イエス、マイロード」

 

ヴィアナは沙耶の横に並ぶと、オーキスの時と同様にゴルドに向けて指示を飛ばす。

ゴルドもオーキスと同様に、彼女の言葉に従って迅速に移動した。

 

「……さぁ、行くとしましょうか。」

「うん。」

 

先頭を歩くオーキスに続き、ヴィアナと沙耶は屋敷の中へと足を踏み入れる。

最後尾を歩くゴルドもまた、対照的な雰囲気の二人に続いて舞踏会の会場に入っていった。

 

「分かってたけど、別邸って言ってもやっぱり凄く広いんだね。」

「そうかしら?精々沙耶の……神守の屋敷より少し広いくらいでしょう?」

「……ヴィアナちゃんには家がどう見えてたの?少なくとも舞踏会なんて開けるようなスペースは無かったよ?」

「そうだったかしら」

 

屋敷の中を歩きながら、ヴィアナと沙耶は控えめな声量で談笑する。

沙耶はヴィアナの脳内フィルターが掛かったイメージを聞かされて少し驚いていたが、ふと疑問が浮かんだ。

 

「そういえばどんどん進んでるけど、何回か来たことあるの?」

「えぇ、数年に1度程度の頻度ですけれど、会合を開くときに稀にこの別邸を借りていましたからね。……その時の交渉役は私ではなくお父様でしたが。」

 

ヴィアナの返答に沙耶は少し意外な印象を受けた。

フェリエット家ほどの広さがあれば、舞踏会や会合といったものを開催するだけの余裕はあると思っていたからだ。

そんな沙耶の考えを表情から読み取ったのか、ヴィアナは苦笑気味に沙耶に訂正を入れた。

 

「一応言っておきますけれど、私の屋敷でこう言った催しを開かないのは理由があるからですのよ?」

「……理由って?」

「簡単な話ですわ。貴族連盟に連なる4家はそれぞれ街の運営に欠かせない仕事を取り仕切っています。……そんな場所で他所の人間が簡単に出入りできるような催しを開催すると、どういう危険性があると思います?」

「え?どうって……。……あー、もしかして」

 

沙耶はヴィアナの言わんとすることが何となく予想できた。

つまるところ無関係の人間が簡単に出入りできる機会を作ってしまえば、どれだけ警備を厳重にしたところで情報漏洩の危険性は無くならない。

そういったセキュリティの観点から、連盟4家を舞台にした舞踏会や会合は控えることになっていたのだろう。

そんな沙耶の気付きを肯定するようにヴィアナは頷く。

 

「そう、つまりこのハイレンジア別邸はそういった催しのためにある場所なのです。……表向きの所有者はハイレンジア家当主になってますけれど、維持費の捻出や管理自体は連盟盟主が毎年持ち回りで行っています。なので実際は4家の共有スペースのような扱いになっていますわね」

「へぇ~」

 

沙耶は感心したようにヴィアナの話を聞いている。

彼女もさくらの妹として名家である神守家に住んでいるが、価値観自体は一般的だ。

そんな彼女からすれば、貴族連盟のそういった事情は困惑より物珍しさが先行していた。

 

「ヴィアナ様、沙耶様。到着しました。」

「!」

 

そんな会話をしていると、不意にオーキスが立ち止まってヴィアナたちの方へと振り返った。

どうやらこの扉の先が会場なのだろう。

沙耶は目を閉じ、耳を澄ませて中の音を聞き取るべく全神経を集中する。

……部屋の中から物音は何も聞こえない。……もしかすると馬車の中でヴィアナが言っていたように、本当に自分たち以外の誰も呼ばれていないのかもしれない。

そんなことを考えていた沙耶に、ヴィアナは言葉を掛ける。

 

「行きますわよ沙耶、覚悟はよろしいかしら?」

「……。うん、いけるよヴィアナちゃん。」

 

確認するようなニュアンスのヴィアナの言葉は、沙耶がどう返答するか理解した上でのものだった。

沙耶もそれを理解しつつ、いつも通りに返答する。

 

そして一行は舞踏会の会場へと足を踏み入れたのだった。

 

 

「……誰も居ないね?」

 

入室した沙耶は、広い室内を見回しながらヴィアナに同意を求めるように言葉を投げた。

 

「やっぱりこう来ましたか……オーキス。」

「承知いたしました、ヴィアナ様」

 

対するヴィアナは、片手で自身の顔を覆うようにして今にも出そうになる溜息を噛み潰した。

……そしてヴィアナに名を呼ばれたオーキスは、懐から封の切られた封筒を取り出した。

 

「沙耶様、こちらをご覧ください。」

「?……あれ、これって……」

 

オーキスから封筒を渡された沙耶は、その中身を確認する。

中には4枚の封書が入っており、そのうちの2枚には以前沙耶とバレットが調査に向かった『廃棄された診療所』への情報が記載されていた。

 

「……」

 

……そうなってくると気になるのは4枚目の紙に記載されている内容だ。

3枚目には『舞踏会への招待状』のような内容が記載されていた。では4枚目にはいったい何が記されていたのか?

沙耶は何かに急かされるようにその紙を抜き取り、内容に目を通した。

 

「……え?なにこれ」

 

沙耶は最後の紙に記載されていたその内容に愕然とし、硬直するようにそこに記載されている文面を凝視した。

そこには、驚くべき内容が記載されていた。

 

【舞踏会参加に際して

 下記要求にお応えいただければ、当家には後述する対価をヴィアナ=フェリエットに譲渡する用意があります。

 要求事項。

 ・舞踏会開始前のバレット=ガットレイの不在。途中参加に関してはその限りではない。

 ・舞踏会開始前のフェリエット家の使用人の同席は2名まで許可。

 ・ヴィアナ=フェリエット、川崎沙耶に関しては必ず出席するように。

 ・上記の条件を舞踏会の会場に到着するまで、オーキス以外に伝えてはならない。

 以上4点を厳守していただけるのであれば

 当家が保有する貴族連盟としての地位と権利

 その全てをフェリエット家の当主に譲渡し、

 以後一切の異議申し立てを行いません。

 

 どうぞ存分に熟考の後、色良い返事を頂ければと思います。】

 

「……ヴィアナちゃんは、これ……知ってたんだよね?」

「えぇ。」

 

思わず当たり前のことを聞いてしまう沙耶に、ヴィアナは短く端的に返答する。沙耶は混乱する頭で必死に思考を回すが、疑問を口にすることすら儘ならない。

沙耶は知っている。

こういう対応をする時のヴィアナやさくらが……なにより沙耶自身も……何かを決めていて、その決定が揺らぐことなどないということを事実として知っている。

沙耶は思わず握りしめてしまっていた手紙を、慌てたように封筒の中に戻してから再びオーキスに返却した。

 

「沙耶、混乱と動揺は理解できます。そして今まで黙っていたことは謝罪します。……ですが、全てはこの瞬間を作り出すためです。私も今回の件に関しては、イリスに聞きたいこがありますから」

「……わかった。たぶん私もヴィアナちゃんと同じ対応すると思うから」

 

ヴィアナの言葉を聞き、沙耶は数秒思案するように視線を下げる。やがて吹っ切れたように顔をあげ、困ったように笑いかけた。

 

「ふふふ、美しい友情といったところかしらね」

 

2人がやり取りを終えたタイミングで扉が開き、面白い見世物を見た後のような笑みを浮かべながら彼女は現れた。

白い髪に金の瞳、そして病的なまでに白い肌。それらを純白のドレスの端から露わにし、彼女は堂々とした立ち振る舞いでゆっくりと歩を進める。

 

「……イリス」

 

彼女こそがハイレンジア家の現当主であるイリス=ハイレンジアであり、この状況を作り上げた張本人だ。

 

「……さて、本日は当家の招待に応じてくださり心より感謝いたします。今宵は心行くまで語り合うとしましょう」

「やはり舞踏会というのは建前でしたのね。」

「あら、貴方達にとってもこの展開は都合が良いのではないかしら?……なにせ、私は貴女達がまだ知りえない情報を持っているのだし。」

 

広い部屋の中央付近でヴィアナとイリスは言葉を交わす。イリスの言葉には何かを包み隠そうとするような意図は全く感じられない。

沙耶は二人のやり取りを見つめながら、そんなことを考えていた。

 

「貴女達が聞きたいことは大体見当がつくわ。『紫陽の花』との関係について、私が何をしようとしているかについて、そして何より『異能薬』との関りについて。……こんなところでしょう?」

 

ヒラリと白いドレスを翻しながらヴィアナと沙耶に背を向けて、イリスはゆったりとした足取りで2人との距離を開ける。

沙耶にはそのイリスの様子が、どこか上機嫌なように感じられた。

 

「それから川崎沙耶、貴女や『狩人』に襲撃を仕掛けるように、アルエを通じて『紫陽の花』に指示を出したのは私よ。……その点に関しては謝罪しておくわ。」

「うん、まあ……大した怪我もしなかったし大丈夫だよ?」

「あら、そうなの?寛大な対応に感謝の言葉も無いわね。」

「……。」

 

イリスは背を向けたままで沙耶に謝罪し、それに対する彼女の対応に愉快そうに肩を揺らしていた。

ヴィアナはそんな二人のやり取りに思わず苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

ヴィアナと沙耶はイリスの言葉を聞きながら、彼女が平然と自分と『紫陽の花』の関係を認めたことに内心驚いていた。

 

「イリス、貴女何を舞い上がっていますの?」

「そう見える?」

 

そんなイリスの対応に若干の不信感を感じながら、ヴィアナは努めて冷静に問いを投げかける。

イリスはヴィアナからの問いを受け流しながら、二人に振り返った。

 

そんなイリスの姿に、ヴィアナは彼女から感じる違和感を無視しきれなくなっていた。

ここ数年の彼女は立ち上がることも難しいほどに衰弱していたはずだ。

生まれつき病弱なイリスの様子にヴィアナは常々心を痛めていた。だが、それでも彼女はイリスを自身と対等な友人だと思っていた。

そんなヴィアナから見ても、今日のイリスは異例中の異例なのだ。

 

「えぇ見えます。それに先程の軽率に『紫陽の花』と自身の関係を明かした発言に関してもそうです。今までの貴女なら」

「今までの私なら煙に巻くような言い回しで誤魔化していたと、そう言いたいわけよね?」

「……。」

 

自身の言葉を先に言われてしまい、ヴィアナは二の句が継げなくなってしまった。

ヴィアナが口を閉ざしたのを確認すると、イリスは真剣な表情で二人に向かい合った。

その顔には心底から愉快そうな、酷薄な笑みが浮かんでいた。

 

「だって、もう隠す必要がないんだもの」

 

イリスが小さく呟いた言葉の意味を二人が理解するよりも早く、猛烈な勢いでヴィアナたちの背後の扉が開いた。

 

「沙耶様!!」

「ヴィアナ様!!」

 

沙耶とヴィアナがそのことに反応を示すより早く、駆けだしたゴルドとオーキスはそれぞれ一人ずつ抱え上げてその直線上から退避した。

 

「なに?!」

「何事ですの!?」

 

遅れて驚愕の声をあげる二人を無視して、乱入してきた人物は真正面からイリスと向かい合う。

黒み掛かった金髪に、内向的な印象を受ける目元。年の頃はゴルドとそうは変わらないその人物は、手に握られている凶器の矛先を、一人で部屋の中央付近に佇む純白の少女に向けていた。

 

「ヴィアナちゃん、あの人」

「貴方、今までどこに!」

 

沙耶とヴィアナは驚愕の声をあげる。その人物は沙耶にとっては顔を見知っている程度の相手だが、ヴィアナにとっては数日前に失踪した使用人だった。

 

「そうなのね。……ようやく見つけたわ、貴方が」

 

イリスが口角をあげて口を開き、言葉を発する。

その言葉にはこれまでに感じられなかった言い知れない感情がありありと浮かんでいた。

しかし、彼女がその言葉を全て吐き出すよりも早く……酷く乾いた音が6度、屋敷の中に響いたのだった。

 

「そん、な……なんで……」

 

絞り出したように発せられた言葉は沙耶のものだった。彼女の顔は驚愕の色に染まっている。

白いドレスも髪も身体も……全てを自身から噴き出した鮮血の赤で染め上げていく。

そのイリスの姿を、目に焼き付くほどに見つめていた。

幾重にも折り重なるように咲き乱れるその血溜まりは、沙耶の脳裏に彼岸花を想起させる。

その花束の上に身体を横たえる少女の姿から、沙耶は視線を逸らせなかった。

彼女すらもその光景は信じられない物だった。

 

「何故です……どうしてこんなことをしたのです!答えなさいミハイル!」

 

ヴィアナは自身から滲みだす怒りを隠そうともせず、手にしていた凶器を投げ捨てたその男に怒声を浴びせた。

そんなことを聞いても意味はないと心では理解しているけれど、感情と行動を切り離せない。こんな激流のような感情はヴィアナにとって初めての体験だった。

極東において沙耶の姉といがみ合っていた時すら感じなかった、身体が言うことを聞かないような感情の奔流。そんな感覚をヴィアナは感じていた。

 

「何故、ですか……。彼女こそが全ての元凶だからですよ、ヴィアナ様」

 

その男……数日前に失踪したはずのフェリエット家使用人のミハイルは、赤の中に溺れるように倒れ伏した白い少女を指差しながらそんな言葉を言い放った。

ヴィアナはそのミハイルの指先に誘導されるように緩慢な動きで、既に絶命してしまった友人の方に視線を向けた。

 

「約10年……ようやく会えたわね、『ダリア』」

 

ヴィアナは信じられない物を見たように、顔から血の気が引いてしまっていた。

沙耶は最初と変わらずに驚愕の表情でそちらを凝視していた。

死ぬ前に完治したのであれば、沙耶だって似たようなことはできる。なにも驚くようなことはなかった。

けれど、いま目にしているコレは違う。あんなことは不可能だ、死人を生き返らせる方がまだ容易い。

沙耶は保有する異能故か、直感的にそう感じた。

 

「バカな!何故知って……いや、それ以前に銃で6発も撃たれて、病弱な貴女がどうして生きている!」

「随分と……おめでたい目をしているようね、まるで節穴よ貴方。……これが生きているように見えるのかしら」

 

彼女の着用していた白いドレスは、滴り落ちる血を吸ってすっかりと赤に染まっていた。

 

イリスの身体にはあちこち穴が開き、今も血が溢れている。

……それはどう見ても生きてはいなかった。沙耶の眼からしても、誰の目から見ても彼女は死んでいなければおかしかった。

 

「……さぁ、待ちに待った開演よ。舞踏会を始めましょうか、ダリア=グリムランド。主催は私、主演は貴方、そして相手をするのは私の吸血鬼よ。」

 

感極まったように歌い上げる彼女の周囲に、何匹もの蝙蝠がどこからともなく集まってくる。

その蝙蝠の群れはやがて人の形になり、黒衣に身を包んだ怪物の姿を作り上げた。

そうして現れたのは、沙耶もヴィアナも見知った相手……情報屋のシークだった。

 

 

……こうして10年以上の時をかけ、死人の少女は過去の亡霊とも言うべき因縁の相手と対面した。

 

舞台に役者が揃って数日……盤面は少女の思惑通りに進行し、ついに死人は亡霊の首に手を掛けたのだった。

 

 

__後章・輪舞




異能『同調』
保有者:イリス=ハイレンジア
概要:
自身で定めた相手と同調する。一度に3人まで適応可能。
同調対象は感情、体調、記憶、生死まで多岐にわたる。
距離が近い程より深く同調することが可能。
同調するための条件は直接対峙すること。


シーク
肩書:情報屋
主な戦闘方法:徒手空拳
備考:吸血鬼


異能『???』
保有者:ダリア=グリムランド
概要:
条件を満たした相手から●●を●●●る。
能力を適用するかどうかは自身で決められる。
●●を完全に●●た相手に●●●●ることができる。
適用するための条件は●●●●●こと




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亡章
【私は優れているが故、我を忘却することはない】


『霧の都』と『異能薬』。

それら二つの関りを解き明かそうとする時、避けて通れない人物が存在する。

 

その男はかつて、『霧の都』の外れで寂れた診療所を開いていた人物である。

……しかし彼がどこから街へやって来たのかを知っている人間は一人としていなかった。

 

彼の経歴を把握している者は、本人以外には既に存在していなかった。

彼の姿形を記憶することは、その本質的に無意味なことだった。

彼の足取りを追跡することは、常人にとって困難極まることだった。

 

これより明かされるのは、かつて『霧の都』で起きた『異能薬』事件の黒幕にして開発者だった人物。

ダリア=グリムランドという名を持っていた過去の亡霊ともいうべき存在の、今となっては誰も知り得ない事実の話である。

 

 @ @

 

「はぁ……」

 

……物心ついた頃から、世界は俺にとって酷く不自由で閉塞的。

……極端に言ってしまえば可能性や選択肢といったものが閉ざされてしまっているように感じていた。

それは幼少の頃に発芽した小さな芽が、身体の成長と比例するように次第に大きくなっていくようだった。

きっと俺が生まれ育った村そのものが、外部との交流が極端に少なく閉鎖的だったのも要因の一つだったのだろう。

 

ともかく、俺は日々苛立ちを持て余していた。

何の変化もない日常、代わり映えもしない景色、ただ漠然と同じことを繰り返す日々。

そんな日々は、どうしようもなく俺の精神を苛んでいた。

 

「どいつもこいつも脳ミソが腐り果ててやがるのか?どうしてこんな環境に耐えられる!どうして何も変えようとしてない?この世界にはバカしかいないのかよ!」

「おうおう、今日はまた随分と荒れてんなお前。酒飲むのは良いけど、飲み過ぎには気を付けとけよ?」

 

そんな俺の内に積もった鬱憤と不満と苛立ちが溢れだしたのは、気の良い馬鹿な友人と久しぶりに酒を酌み交わしていた時だった。

許容量を超えた負の情念は、咳を切ったように俺の口から止めどなく溢れ出していく。

よっぽど溜まってたのかねぇ……などと呟きながら、俺の様子を眺める友人の様子が目に入らない程に俺は視野が狭くなっていた。

 

本当はもっといろんなことが出来るのではないか?

本当は深くモノを知る機会があったのではないか?

本当は今以上に様々な出会いがあるのではないか?

 

俺の胸中に渦巻いているモノは、そんな些細なくだらない想い。

取るに足らない焦燥感のような歪な感情だった。

強迫観念とも違う。自分でも理解しきれていないソレを必死に誤魔化しながら、俺は今日までの日々を務めて平静に生きていた。

 

「はぁ、しっかしお前は……。頭良いのにどうしてそんな風にしか考えられないんだかなぁ」

「……あ?」

 

不意に友人の言葉が耳に入り、俺の頭の中から雑音が消え失せた。

 

「そもそもだ。そんな風に愚痴をこぼしているお前だって、現状を変えようだなんてしてないじゃないか。」

 

きっと、友人も多少は酔いが回っていたのだろう。売り言葉に買い言葉、彼にしてみれば軽い言葉の応酬。

久しぶりに俺と交わすコミュニケーションのつもりだったのかもしれない。

 

「何が言いたい……?」

「だってそうだろう?お前もなんだかんだ言いつつ此処が好きだから、今もこうして俺と酒を飲んでるんじゃないのか?」

 

訳知り顔で友人はそう言った。

お前のことなら俺が理解している、言外にそう言っているような表情だった。

 

それが……それが酷く不快だった。

うん、そうだな。

最初の動機といえばそれだけだった。

自身の主張に対して、不愉快な言葉を返された。

だから、ついカッとなった。

どこにだってあるような、よく聞く話だろう?

 

「だからな?愚痴ぐらいならこうやって酒飲みながらいつでも聞いてやっからよ。……だいたいお前、あんま抱え込んでると」

「そうか、だったら変えりゃ文句ねぇんだな?」

「は?」

 

まぁ、もっとも……その友人が本当に不快だったのかなんて、そんなどうでも良いことはとっくの昔に忘れてしまったのだが。

 

ともかく、結果だけを端的に供述するなら……俺はその友人を殺害したのだった。

凶器は……さて、なんだったか。記憶にない。

気が付いた時には全てが手遅れだったから、詳しいことはこれっぽっちも覚えていない。

 

そうして俺が次に意識を浮上させたとき、既に夜が明けて辺りには日の光が射しこんでいた。

どうにも最低数時間は意識が混濁してしまっていたようだった。

 

「……は?」

 

その時に俺の全ては終わって……否、ようやく始まったのだろう。

 

気が付いた俺は、呆然とソレを眺めていた。

眼前でボロボロと塵になって崩れ落ちていくソレは、他でもない俺自身と全く同じ顔だった。

唯一の違いは、その顔からは完全に血の気が引いていて……誰がどう見ても死体だと分かる状態だという点だった。

 

その事実を認めた俺は、割れるように痛む頭を抱えながら走り出す。

走り出した俺は悪い夢から醒めようとする一心で、心の底から水を求めていた。

 

顔面に冷水でも浴びれば、こんな夢からはすぐに醒めるに違いない。

今にして思えばバカバカしいことこの上ない。

しかし当時の俺は、頭に流れ込んでくる身に覚えない誰かの記憶と経験を必死に振り払うようにして、そんなことを考えていた。

 

「……はぁっ、はぁ……ぇ」

 

俺は水汲み場に走り寄ったままの勢いで、いっぱいに張られている水に顔を突っ込もうとして凍りついた。

水面を覗き込み、そこに映り込んだ顔を見た。

そこに映ったのは、いつもの見慣れた自分の顔ではなかった。

 

……俺はソレを認識する。

そして今頃になって自分の身に何が起きているのかを、漠然とではあるが理解したのだった。

 

「はは、ハハハハハ……あっはははハハハハハはははは!!」

 

水面に映り込んだのは、昨夜くだらない理由で俺が殺害した友人の顔だった。

その日、まだ何も知らなかった俺は齢25歳にして自身に宿る異能の力を初めて知覚したのだった。

 

世界が……否、自身の可能性や選択肢が急激に開けたような気がして、とにかく俺は最高に気分が良かった。

 

これがダリア=グリムランドが本当の意味で生を受けた瞬間の話だ。

 

【私は優れているが故、我を忘却することはない】




異能『剥奪』
保有者:ダリア=グリムランド
概要:
条件を満たした相手から情報を奪い取る。
能力を適用するかどうかは自身で決められる。
情報を完全に奪った相手に成り代わることができる。
適用するための条件は相手を殺すこと。

成り代わり後は最低数時間、精神の噛み合わせが上手くいかずに錯乱状態に陥る。


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【神は公平に機会を与え、私はそれを享受する】

 

 

 

あれから俺は慣れ親しんだ村を出た。必要な物だけを搔き集めて、ひっそりと。

……理由は明確だ。単に気持ちが悪かったのだ。

 

他の村人達の中では、俺はあの夜から行方不明ということになっていた。

友人だった男の姿形だけでなく知識までをも奪い去った俺を、もはや誰もダリアだと認識できなかった。

当然と言えば当然だろう。

どれだけ綺麗事を並べ立てようとも、人間は姿形でそれが誰かを判別する。それが一夜にして全くの別人に変化したのだから、気付けという方が無茶な話だ。

その上、元の俺と同じ顔になった友人の遺体は、何故か原型も残らない程に崩れてしまったのだから探しようもない。

あの村の住人にとって、ダリアという個人は永久に行方不明のままになることだろう。

 

村を出るまでの数日で、俺はこれからするべきことを思案した。

可能な限り遠くへ行き、安住の地を見つける。

今までの閉じた環境では得られなかった知識と経験を得て、見識を広げる。

どちらも重要なことではあるが、最も優先するべきなのはそこではない。

俺はこれからも俺として生きていく。

その為にも、自身に宿るこの異常な力のことを知る必要がある。

俺はそう結論付けて、未知への探求に身を投じた。

 

 

2人目は、偶然目についた幸せそうな顔の若い女だった。

身体機能としては、やはり男女差があるため今後身体情報を奪う場合は、男を優先的に採用することに決めた。

殺害手段は撲殺。この女を殺した時点で、俺は殺すことが力を行使するための必要条件だと確信した。

 

6人目は、行き倒れのように蹲っていた俺を手厚く介抱して食事を提供した青年だった。

面も体格も良く何より若い。しばらくはこの男の身体を拝借しよう、差し出された飯を食いながらそう決めた。

殺害手段は刺殺。事前に友好関係を築いている場合、奪った後の精神錯乱も緩和されるようだ。

 

10人目は、この力についてのある仮説を思いついた時に近くを歩いていたガキだった。

目の色が珍しくとても気に入った。身体も小さく非力なため、絞めるのは容易かった。

殺害手段は絞殺。やはりというべきか、仮説通り一部の身体情報のみを奪い去ることも可能なようだ。

 

13人目は、街で一番の物知りと言われていた盲目の爺だった。

年寄りの知識も馬鹿にはできない。長く生きている分、その積み重ねは青臭い若者とは比べるべくもない。豊富な知識は役に立つので是非とも回収しておきたい。だから酒に毒を混ぜた。

殺害手段は毒殺。知識だけ目の色だけなど、極一部だけを奪い去る場合は精神の錯乱は微弱な眩暈程度に留まるらしい。

 

 

そうやって俺は何十年もの時間を掛け、自身の力を理解して完全に自分の支配下に置いた。

最早全能感すら感じていた俺は、気まぐれに訪れた場所で興味深い話を耳にした。

 

「全知の魔女様?なんだそれ」

「ここの外れの丘にでっけぇ木があるだろ?その近くに家があってな?そこに婆さんが一人で住んでんだよ」

「へぇ?……なんでそれが全知だかなんだか呼ばれてるんだ?」

 

興味が湧く。気の向くままに訪れた街だったが、思わぬ収穫が期待できそうだ。

俺はそんな内心を隠しつつ、酔いが回ってすっかり気分が良くなっている初対面の男に疑問を投げかけた。

 

「困りごとがあって相談に行ったら、こっちが内容を話す前にどうすれば解決するか教えてくれるんだよ。」

「……。それ、ただの当てずっぽじゃないのか?」

 

俺がそう聞き返すと、青年は苦笑しながら首を横に振って酒で喉を潤した。

それからすぐに大袈裟な身振り手振りを交えながら、上機嫌に話を続けた。

 

「いやぁアレは当てずっぽじゃ無理だね!こっちの考えもこれからの行動も全部教えてくれんだもん。しかも内容はめっちゃ的確に!そんで、なんか怪しい術でも使ってるんじゃないかって話が広まって、ついた呼び名が」

「全知の魔女様、ね。……ありがとう、参考になった。」

 

俺は男の話を聞きながら僅かに残った酒を飲み干して席を立った。

……存外、良い話が聞けたかもしれない。

 

「おいおいおいおい、待ちなって話はまだまだ」

「すまないが、ツレを待たせていてな。酒代は置いて行くからそれで勘弁してくれ」

 

俺は懐から2人分の酒代を取り出して、男の前に差し出した。元は他人の金だ、別段惜しくはない。

男は金と俺を数回交互に見た後で「いやぁなんか悪いねぇ、そんなつもりじゃないんだけどねぇ」と言いながら、笑顔で金を懐にしまい込む。そして再び酒を頼んでいた。

そんな様子を視界の端で確認しつつ、俺は店を出た。

……もちろん、ツレを待たせているというのは嘘だ。しかし雑に誤魔化すにはこれくらいで良い。

 

「……。行動は明日の夜で良いか、今日はひとまず宿に戻って酒気を抜いておこう。」

 

俺は夜道を歩きながら、脳内で明日のための準備を始めたのだった。

 

 

それから夜が明け再び沈み始めるまでの間に、俺は全ての身支度を整えた。

今日はとても気分の良い夜だった。

なにせ、知識と言うものはいくらあっても困らないのである。

肉体は一つしか持てないが、知識の貯蔵はそれこそ無尽蔵なのだ。

これで気分が上がらない方がどうかしている。

 

そんなことを考えながら、俺はのんびりとした足取りで昨夜話に聞いた全知の魔女様とやらの家に向かった。

 

「……開いてる。」

 

……丘にある巨木の下に辿り着いた俺は、確かに家屋が存在することを認めると、そちらに近づいて行く。

そして玄関扉が半分ほど開いているのを見て、出鼻を挫かれたような気分になった。

元より鍵をこじ開けてでも対象と対面するつもりだったが、こういう不用心なことをしないでもらいたい。

何故か?決まっている、緊張感が薄まっては成功するものもしなくなるからだ。

 

「……。」

 

俺は気を取り直して建物に侵入した。そこまで広くはない、対象とは直ぐにでも対面できるだろう。

 

 

「来たみたいだね、継ぎ接ぎだらけの死神さん?」

「……。」

 

俺が寝室と思われる部屋に踏み入った時、寝具に横たわった老女は目を閉じたままそう言い放った。

 

「私を殺すのは別に構わないのだけれど、その前に一つだけ頼みを聞いてはくれないかな」

 

……なるほど、確かにこれは全知と言われても否定できない。

 

「……。」

 

いや落ち着け。

突然見ず知らずの男が、老女の部屋に侵入する。そんな状況だけでも俺の目的を推測することは可能だ。

相手のペースに飲まれるな。こちらはただ殺せば良いだけなのだ。

俺は忍ばせておいたナイフを手に取り、老女に覆いかぶさるような体勢になった。

 

「例えば、私や貴方が持っているような力をどうにかしたいとは思わないかな?」

「……なに?」

「やっと口を開いてくれたね、ダリア」

 

ぞわりと悪寒が走った。まるで全身を舐め回されるかのような不快感。

思わず飛び退きそうになるのを全身全霊で堪え、眼下の老女に改めて視線を向ける。

ただそれだけのことで身体中から冷や汗が噴き出す。嫌な感じだ、不快さというよりも不吉さのほうが近い。

 

「なるほど13人か。君自身を含めれば、私は15人目ということになるんだね。」

「お前はなんだ。」

「死を待つだけの老いぼれだよ。以前は研究の真似事をしていたんだ。……この力を手放したくてね」

「……。」

 

理解ができない。気色が悪い、悍ましい。とてもじゃないが正気ではない。

この力を手放す?それこそ馬鹿な話だ。

これがあったからこそ俺は

 

「これがあったから、私の人生には一度たりとも楽しみがなかった。全てを知っているというのは、人間には重すぎるんだ。」

「……。」

 

この老女が何を言っているのか、全くもって理解できない。だが、俺とはあまりにも違う生き物だということだけは理解した。

 

「理解してくれて嬉しいよ。……話を戻すが、頼みというのは私の研究成果を引き継いでくれないかということだよ」

「全知の魔女様なんて呼ばれてる奴が、研究なんてする必要があるのか?」

「ないさ、本来ならね。だけど理屈ではわかっていても技術が付いてこないことがあるように、頭ではわかっていても方法を確立出来ないことも世界にはあるんだよ」

 

嫌味の様に吐き捨てた俺の言葉に、老女はハッキリと返答した。

気色が悪いにもほどがある。一刻も早く会話を切り上げたいところだが、それは危険だと本能が警鐘を鳴らしている。

 

「先程も言ったが、私は自分の力を捨て去りたかった。初対面でする話ではないけれど、私は人になりたかったんだ。……そういう気持ち、キミならわかると思うがね」

「……。」

 

老女の問いかけを、俺は内心で否定した。

俺にあったのはせいぜい『自由になりたい』なんていう誰にでもあるような欲求だ。

わざわざ好き好んで人になろうとする魔女様の気持ちなんぞ、わかるわけもない。

 

「……。話が逸れてしまったね。私が長い時間をかけた研究の結果として辿り着いたのは『異能の因子を見つけ出すこと』までだった。」

 

これだけじゃ力を取り除くなんてことはできないし、それを果たすためにはあと数歩足りない。

老女は諦めの滲んだ声色でそう呟くと、ようやく閉じていた目を開けて俺を見据えた。

 

「キミは私の研究成果をどう扱ってもいい。捨てても良いし、先に進めてもいい。……私はね、目的を果たせなかった腹いせに、ただ何かを残したかったんだ。」

「そうか。……俺にはお前が何を言っているのか理解できないし、この力を手放すつもりもないぞ。」

「ソレでも良いさ。繰り返すけれど、私は先に続く何かを残せればそれで良いんだ。」

「……そうか。精々利用させてもらおう」

 

老女は俺の返事を聞くと、満足したように僅かに頷いて瞳を閉じた。

……会話は終わった。老女が再び口を開く気配もない。言いたいことも言い尽くしたのだろう。

俺はそう理解すると凶器を持つ手に再び力を込めて、老女の身体にナイフを走らせる。

間を置かずに鮮血が溢れだす。名前も知らない魔女の命が終わっていく。

 

「あぁ……ようやくだ……。」

 

血に濡れながら掠れ気味にそれだけ呟いて、魔女はあっさりと自らの命を手放した。

 

 

「さて……どうするべきか。」

 

この女の肉体情報が使い物にならないのは見てわかる通りだが、確実に何らかの異能を保有していたはずだ。

知識は確実に回収するとして、その精神性までをも奪い去るのは考えただけで怖気が走る。

こんな異常者の精神が混入するなど、常人には耐えられない苦痛に違いない。

……となれば、やはり奪うのは彼女の知識だけに限定するべきだろう。

忌避感を感じるものをわざわざ手に取る必要などどこにもないのだ。

老女の保有していたであろう何らかの力は惜しいが、ここは知識だけをありがたく有効活用させてもらうとしよう。

 

俺はそう結論付けて、自身持つ異能の力を行使した。

彼女の蓄えた全ての知識を奪い取る。

本来この時点で失われるはずだった物だ、それを拾い上げて有効活用してやるのだから文句を言われる筋合いはない。

……全くこれで15人目だというのに、我ながら随分と思慮の浅い杜撰な選択をするものだ。

 

「……!?」

 

脳裏で火花が散るような感覚があった。

いつもの精神錯乱の予兆かとも思ったが、奇妙な違和感が拭いきれない。何か異質な、気を抜けば発狂させられるほどの圧迫感。

 

「あ、ぁあぁッ、あぁああああ!!!!!」

 

気付けば俺は頭を抱えるようにして蹲り、絶叫を上げていた。

流れ込んでくるあまりにも膨大な情報量、これまで幾人もの知識や経験を掠めとって来たが、こんな馬鹿げたことは初めてだった。

老女、否、既に私となったモノが保有していた『全知』という異能によって押し止められていた全ての情報が、一息にただの人間の脳に叩き込まれる。

気が狂うほどの情報の奔流に、ダリアは呆気なく脆弱な意識を手放したのだった。

 

 

【遘√?豁サ縺ャ縲√@縺九@遏・隴倥?豁サ縺ェ縺壹°】

(私は死ぬが、知識は死なずか)

 

【縺帙>縺懊>縲∝鴨縺ォ蝟ー繧上l縺ェ縺?h縺?↓縺ュ】

(せいぜい、力に喰われることがないようにね)

 

 

「……はっ、ぁ……ッ!ここは、俺……いや、違う私は……そうだ、そうだったな……。」

 

未だかつて経験したことがない倦怠感を感じながら、私はまるで這い出るように身体を起こした。

本当に何かから這い出た訳ではなく、実際のところただ起き上がっただけではあるが、ともかく尋常でないほどに気怠かった。

私は呼吸を整えて一息付き、自身があの馬鹿げた情報の奔流をなんとか耐えきったことに安堵した。

よくもまぁ脳味噌が破裂しなかったものだと苦笑しつつ、眼前の何かの遺体を無視して窓の外に広がる清々しい青空を見上げた。

 

代り映えのしない青空のはずだが……何故だか随分と久しぶりに見たような、そんな妙な感覚を私は覚えたのだった。

 

 

 

【神は公平に機会を与え、私はそれを享受する】

 

 

 




異能『全知』
保有者:全知の魔女(本名不詳)
概要:
あらゆる情報を知識として予め保有し、引き出すことが出来る。
事実と知識を掛け合わせることにより、未来予知に近い予測が可能。
知識として知っているだけのため技術は伴わない。
力を使わない選択は取れないため、既視感に囚われる。


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【私の欲望は満たされず、他者はソレを満たすために存在する】

 

 

 

あの日以降、私はあの老女から奪い取った知識を理解することに全力を費やした。

いかに知識が膨大であろうと、それを理解して活用することが出来なければ宝の持ち腐れだ。

言語、算術、医療を含めた多岐に渡る知識を噛み砕いて嚥下するのには、多大なる時間を費やした。

加えて、私にはあの老女が持っていたような理解力はない。

あるのはただ無制限の時間と取捨選択の自由度だけだ。ならば、それを十善に利用しない選択肢はない。

 

そうやって私は、自身の物になった知識の掌握に時間を割いた。

あらゆる人間に成り代わり、少しずつ少しずつ知見を広げ、理解していく悦楽は何とも言い難いものがあった。

 

「神父様」

「……あぁ君か。どうかしたかい?」

 

そして今の私は、とある町で教会の神父という役割に収まっていた。

周囲からの信頼に厚い人物だった彼の人望に価値を見出し、夜中にひっそりと殺害してその地位と人格と人望の全てを拝借した。

実際に彼として行動を開始してからは、実に居心地の良い日々が続いている。なんとも気分が良い。

 

「先程、街の方からまた例の件についての相談がありました。」

「例の件……というと、外れの森に怪物が住み着いたという話のことかな?」

「はい。現状では住人や農作物に被害は出ていないようですが、真偽を確かめないことには不安の解消は難しいようです。」

 

私はこの教会で一番の働き者である少年の言葉に頷きを返すと、自身がどう行動するべきか思考を巡らせた。

正直な話、怪物が住み着いたなどという話は眉唾物だ。噂に尾ヒレがついた程度で、大方住人が動物か何かをそう見間違えただけというのがオチだろう。

そういった間違った認識が広まった場合、開所するのは非常に面倒だということを私は既に理解している。

 

「どうしますか?やはりボクが一度様子を見て来た方が」

「……。」

 

言葉を返さない私の態度をどう解釈したのか、少年はそんな言葉を投げかけてくる。

……私はその言葉で、今の身体情報と共に奪った神父の記憶を呼び起こした。

 

その記憶によれば、この少年には神から与えられた『異端を抑制する』力があるのだという。

……私となったこの人物は、そんな力を持つ少年を庇護するべく教会に住まわせていたようだった。

 

「いいや、何度も言うようにキミにはいずれこの教会を引き継いで貰うことになっている。危ないことは極力させたくはない。」

 

私は記憶にある様に……少年にとっていつもと変わらぬ私であるように、『優しい神父様』を演じて少年に言葉を返した。

 

「神父様……けどボクは」

「安心しなさい。キミが力を使うべきは今ではない。その力は、きっといつか誰かを助けるための力になるはずだ。」

 

……我ながらなんとも怖気の走る薄ら寒い発言だが、少年はそんな戯言に満足したのか嬉しそうに頷いて「わかりました」と返事をした。

私は努めて優しく微笑みながら、そんな少年の頭を軽く撫でた。

 

「あぁ、それから……眠る前にいつも通り祈りは捧げておくように」

「はい!」

 

私は思い出したようにそう付け足して、少年に祭儀用の短剣を渡す。私からそれを受け取った少年は、はにかむ様に笑顔を浮かべたのだった。

 

 

それから数日が経過したある日の夜明け、朝日が昇るよりも早く私は教会を出発した。少年が起きてこないうちに用事を済ませて戻る必要があるため、あまり時間は掛けていられない。

目的は明白で、森に住み着いたという怪物の様子を窺うためだ。

最初は放置しようかとも思ったが、住人たちが連日連夜相談に来るので行動せざるを得なくなった。

まだしばらくはこの街に留まるつもりなので、妙な不信感を持たれるのは都合が悪いのだ。

 

「ここか。……知性のある生き物が住み着くような場所とは思えんが」

 

私は億劫な内面を隠そうともせず、気休め程度に洗礼とやらが施されているらしい外套を身に纏って森の中へ踏み入った。

 

「……。」

 

森に踏み入ってしばらく直進するとだけで、周囲はすっかり樹木に覆われてしまう。

時折どこからか野鳥の鳴き声やガサガサと草木が揺れる音が響いて来るが、それ以外は特筆することの無い極普通の‌森林だった。

 

「やはりというべきか、ただの戯言だったな。」

 

私は足を止めて思案すると、これ以上進む意味はどこにもないと判断を下した。

所詮は住民どもの間で蔓延している噂話だ。そんなものにこれ以上向き合ってやる必要はないだろう。

 

「……ぁ」

「!」

 

私が踵を返して来た道を引き返そうとした時、背後の木陰から何者かの声が聞こえたような気がした。

ともすれば草木の揺れる音だけで掻き消えてしまいそうな小さな声を確かに認識した私は、弾かれるようにそちらを振り返った。

 

「コンにチわ……」

 

振り返った先に居たのは、全身に獣のような体毛を纏った二足歩行の何者かだった。既知の生物で最も類似点が多いのは猿だが、この生き物が猿ではないことだけは私でも断言できる。

だらりと伸びた長い腕に、爪は発達して鉤爪のような形状になっている。しかしその爪をどこかに引っ掛けてしまうようなことはなく、極自然に操っている。

顔はどちらかというと人よりも犬に近い形状になっており、姿のその異様さを際立たせている。口元からは犬歯が覗いていて実におっかない。

 

「ぉお……こんにちは」

「はじめテ、へんじモラえタ!」

 

その異様な姿に面食らってしまったため、不安定な発音の言葉に馬鹿正直に挨拶を返してしまった。

というより、コイツ今人間の言葉を話したな?……少なくとも意思の疎通は可能かもしれない。

なにより、ただ返事を返したというだけで嬉し気なリアクションを返すあたり、どうにもコイツはコミュニケーションに飢えているらしい。

 

「少し君のことを教えてもらえないかな?お話をしよう」

「……こッチ」

 

彼……ひとまずは獣人とでも呼称しよう……は、私の言葉に嬉しそうに返事をした後、森林のさらに奥へと進んでいった。……どうやら、付いて来いということらしい。

話だけならば別に移動する必要もないだろうに……私はそう呆れ気味に溜息を吐きながらして、先行した獣人の後を追って森林の更に奥へと進んでいくのだった。

 

「これは……」

「ここダレもコない」

「驚いた、これは流石に予想外だよ」

 

獣人に連れられてやってきた場所には、倒木を組み合わせて作られた粗雑な木の台が数個並んでいた。

その形状と配置と数、さらに獣人がそれの一つに腰かけたことから見て、恐らくこれは家具なのだろう。より厳密に言うのであれば、椅子と机だと分かった。

他者との関りなど無かっただろうに彼は独自にそれらを知り、さらには作って使用している。これは驚くべきことだと思った。

 

「それで……率直に聞くが、キミはいったい何者なんだい?。」

 

私の問いに、獣人はどう答えるべきか悩むような雰囲気を滲ませながらゆっくりと口を開いた。

 

「ごめン、わからナい」

「……わからない?」

 

獣人は申し訳なさそうに頷き、粗雑なテーブルの横に放置されたままの倒木を指先で削りながら独り言のように言葉を続けた。

 

曰く、彼自身自分がどこからここに来たかはわからない。気が付いた時にはあの歪な姿でこの森の中にいたらしい。

彼は自身の感覚を頼りに森を抜け、我々の生活する町の近くまで出向き、そこで初めて人々の営みを目にして感動したのだという。

そして獣染みた姿の割に存外に聡い彼は、この姿の自分が出て行っても人間達の仲間には入れて貰えないだろうことを悟り、まずは最低限必要な知識を収集する選択を取ったようだった。

……なんとも哀れな怪物だと、個人的にはそう思う。いかに人間らしい所作を身に付けようとも、あのような化け物染みた造形をしている時点で、彼が人の輪に加わることなど未来永劫叶わない。

その無駄な努力があまりにも純粋で、同時に滑稽で酷く哀れだと素直に思った。

 

「そうか。人外の存在と実際に会うのは初めてだけれど、キミが人に対して害意を持っていないことは理解したよ。」

「アりがトウ。やっぱリ、アナタもおんなじだッタネ」

「ん?……同じとは?」

「ほかトちがウってこト」

 

……この瞬間、私は眼前の生き物に対する油断を完全に捨て去った。

そして同時に、やはり無知とは時に破滅的なまでの罪だと、私は改めてそう確信する。

 

「違うとは、どういう意味だい?」

「ほかのヒトは、においヒトツだケど、アナタはいろんナのまじってル。ヒトも、ヒトいがいモ、たくさン」

「混じっている、か。詳しく教えてもらっても良いかな」

「んっと」

 

彼は言葉を懸命に繋ぎ合せて、私にも分かりやすく自分の感じたことを伝えてきた。

 

彼が言うには、人間にはそれぞれに特有の匂いがあり、それは個人個人で全くの別物であるらしい。

彼はその匂いや彼が持つ鋭い感覚で、モノの良し悪しを判別することが出来ているのだという。

そして、彼が私に対して言った『混じっている』というのは……まぁ言葉通りの意味に捉えて差支えない。……私はこれまで多くの人間の情報を奪い、自分のモノにしてきた。その行為は確かに自身と他人を混ぜ合わせることと同義なのだろう。

恐らくあまりにも多くのモノが混ざった結果、彼の感覚でも私の良し悪しを判別することが出来ないのだろう。

 

彼の要領を得ない拙い説明を半ば聞き流しつつ、私は内心でそう結論付けた。

……これならば、まぁ……やりようはある。それになにより、その鋭敏な感覚は是非とも手中に収めておきたい。

 

しかし、その思惑とは別に1つだけ気になることがあった。

 

「私の中に人以外の何かがあると……キミは先程言ったね?」

「?、うン」

「キミから見て、ソレはどういうものだと思う?」

 

私の問いかけに彼は頭を悩ませるようにしばらく呻いてから、徐に立ち上がってその辺に転がっている倒木を掴み上げた。

彼は掴み上げた倒木を不揃いな木片に砕いて、台の上に並べていく。そして最後に、彼は自らの爪の先を1枚欠けさせて、先程並べた木片と共に並べた。

それらを並べ終えた獣人は、とても得意げな顔で私を見ていた。

 

「こうイウこと」

「……すまない。正直言って意味が解らない。」

 

私にはただ適当に並べられた木片の中に、1枚だけ爪の欠片が混じっているようにしか見えない。

これで何をどう理解しろというのか、心底から意味が分からなかった。

 

「これ、もとはゼンブいっしょ。」

「……ん?爪もかい?」

「ソレ!それ!」

 

いや、どれだよ。……と、口を突いて出そうになったのを私は寸でのところで飲み込んだ。

元は全部一緒などと言われたところで木片は木片、爪は爪だ。

決してイコールにはならないし、ハイそうですかと鵜呑みにすることは難しい。

木片や爪の欠片に加工する工程のどこかで何らかの異常な変化でも起きない限り、二つは材質からして全くの別物なのだ。コレを元は同じものだと主張することこそ、そもそも頭がどうかして……いや待て。

 

「まさか……どこかで偶然急激な変化が起こったから……?突然変異のようなものだとでも?」

「そう、いろいロまじってル」

 

獣人はそう言いながら台に並べた木片と爪の欠片をぐしゃりと一纏めにして押し潰した。

そして、何を思ったのか圧縮されたように物理的に小さく纏まったソレを口元に運んで、当たり前のように飲み込んだ。

その瞬間、さきほど彼が自分で欠けさせた爪の欠損部分が綺麗に治っていた。

……なるほど、混じっている。率直にそう思った。

 

「ありがとう、よく分かったよ。今日のところは、私は帰らせてもらうね。」

「ん」

 

私は努めて温厚に、誰にでも受け入れられる優しい神父様の仮面を被り続けたまま、獣人のテリトリーを脱出した。

 

 

……さて、あれだけの強力な再生力を持っているのだ。加減して殺せる相手ではない。

そうと決まれば準備をしよう。

私はさまざまな方法での殺害をを頭の中で試しながら、どれが一番効果的かをじっくりと考察する。

そうして考えが粗方まとまった時、私はちょうど教会に帰り着いた。

 

「あ!おかえりなさい神父様!」

「おや、起きてたんだね。すぐに朝食の準備をしよう」

「大丈夫です!代わりにボクがやっておきましたから!」

 

私は得意気に胸を張る少年の頭を優しく撫でながら、今日から数日にわたる自分の行動予定を確定させた。

 

 

 

「神父様!」

 

数日後の新月の夜、慌ただしく教会の扉を叩く来客の訪問からソレは始まった。

 

「おや、どうしました?そんな血相を変えて」

「た、大変なんです!!」

「……ふむ、まずは落ち着いて。何があったか」

「放火です!放火!誰かが例の森林に火を!このままでは燃え移って被害が」

「!、事情はわかりました。貴方は自警団に連絡を。それから万が一もあり得ます。住人の方々に避難を呼び掛けてください!私も別方向から呼びかけて回ります」

「わ、わかりました!」

 

私は思惑通りの展開に、内心気分が良かった。

この町の住人からの教会関係者への信頼は厚い。故に火事のような大ごとが起きれば真っ先に連絡が来ると踏んでいたが、予想通りだった。

 

言うまでもないことではあるが、今日このタイミングで森林火災が起きるように仕組んだのは私だ。

爪の先とはいえ身体の欠損を数秒で治すような怪物を相手に、正攻法で挑んで殺しきれるわけがない。

この手の手段は未だに試したことはないので賭けになってしまうが、自身の命と天秤にかけるくらいならば私は安全に殺せる方法を選ぶ。

そうして選択した殺害方法が森林火災であり、そのために住人たちの行動を誘導したのだ。

今のところは予定通り。後はこの火事で獣人が死に、その死に条件が適応されれば首尾よくあの獣人の力は私のモノになる。

 

「神父様……?なにかあったのですか?」

 

ふと、後ろから声を掛けられた。振り返ると、恐る恐るこちらを覗き見る少年の姿があった。

 

「……。火事だそうです。恐らくここまで火の手は回らないとは思いますが、キミもほかの方と一緒に避難しなさい。避難所の場所は解りますね?」

「はい……あの、神父様は?」

「私は務めを果たさねばなりません。……キミは安心して避難していなさい。」

 

それだけを端的に伝えてから、私は弾む心に突き動かされるようにして教会の外に出た。

漆黒の空に赤々とした火の色が滲んでいる。それが酷く美しく感じた。

 

「状況はどうなっています?」

「神父様!ダメです!火の勢いが強すぎます!」

 

声を張り上げながら火を消そうと奔走する人々を眺めながら、私はそれなりに状況を把握した。

火が消えそうにない?大変結構。是非にそのまま燃え続けてくれ。

私はそんな内心を隠しながら、自警団の団長と次の対策を協議しようと向かい合った。

 

その声が響いたのはそんな時だった。

 

「ギィイアアアアアア!」

「なんだ!?」

「わからん!何か出てくるぞ!」

 

まさに奇声と形容するに相応しい絶叫を辺りに響かせながら、彼は歪な身体を懸命に動かして森林から飛び出してきた。

それは体毛の影響で身体を炎に巻かれ、森林を抜け出した今もなお身体を焼かれ続けている。そうして身体に着いた火を消そうと必死にのたうち回る哀れな生き物こそ、私が今日殺そうと決めていた獣人だった。

 

「な、なんだコイツ!」

「に、人間じゃない、化け物だ!」

 

しかし驚いた。これだけ周囲を火に巻かれても生きているとは。

 

「ぅ……ぅぅぅ……ぁ」

 

私は未だ死にきれずに足掻き続ける哀れな生き物に近づき、全身焼け爛れたソレを見下ろした。

 

「久しぶりだね、苦しいかい?」

「う……あ」

 

獣人は一瞬何かに気が付いたようにこちらを見上げ、そして何かを言おうとした。

……火の中で叫んだだけでなく、煙も吸い込んでいるのだろう。当然喉は潰れて使い物にならないのだから、言葉なんて発せるわけもないのだけれど。

 

「大丈夫、怖くないよ?痛いのは一瞬さ。キミも仲間に入れてあげよう。だから、私達と一緒に行こうか」

「ヴゥゥ……」

「し、神父様?何を……」

 

私は周囲の困惑を無視して、獣のような低い唸り声をあげる獣人に短剣を突き立てる。

それは教会に住んでいる少年が、毎朝忘れることなく祈りを捧げている祭儀用の短剣だった。

そうして獣人は、思いの外呆気なく苦悶の声すら上げずに絶命した。

……なるほど、あの少年の『異端を抑制する』という力は本物らしい。と、私はなんともズレた感想を今更のように抱いたのだった。

 

「貴方はいったい何をしているのですか!?」

 

あぁ、それにしても煩わしい。

どの道今夜には町を出る予定だったが、こうまで騒ぎ立てられるとうっかり手を滑らせてしまいそうだ。

私は周囲に群がる自警団の連中を無視し、今確実に自らの手で命を奪った獣人に意識を集中した。

 

 

奪うものは彼の人並み外れた感覚だけで良い。あの身体と並外れた頑丈さにも興味あるが、だからと言ってあそこまで歪な体になるのは御免被る。

私は奪い去るモノを明確に定め、いつも通りに力を行使した。既に数えるのすら馬鹿らしくなるほどに繰り返した行為、慣れたものだ。

私は首尾良く獣人から欲しい物を貰い受け、未だに喚き散らす有象無象に向き直った。

 

「先程から聞いていれば……私は我々の教義に正しく従い、人に仇為す異端を排したまでの事です。」

「で、ですが」

 

……知っている。町の住民達の習性からして、彼らが教会に強く出られないことを私は既に知っている。

 

「そもそも、この怪物については町の方々からも度重なる相談がありました。……これ以上、何か説明の必要が?」

「もしや、これが噂の……?」

 

そう、これが噂の怪物だ。

人畜無害を通り越して、人の輪に加わろうと密かに努力をしていた哀れで愚かな怪物だ。

なんとも悲劇的な展開もあったものだと心底から他人事のように思う。

 

相手が件の怪物だったと知るや否や、周囲の態度は一気に軟化した。

剰えこちらに対して非礼を謝罪をし、火災への対応を進めようと提案してきた。

私としてもそれは望むところだ。たかが数ヶ月とは言え、滞在した場所が地図から消えたとあっては後味が悪い。

……無論必要であれば消えてもらうが、生憎と私は必要もないのにそこまでの非道を働くような人でなしではないのだ。

 

「グッ!?」

「神父様?……え?」

 

そんなことを考えていた私は、突如として自身の身体を襲った激痛に思わず蹲った。

私は痛みの元である自身の一部を見て愕然とした。

そうして火の光に照らされて目に映ったのは……獣のような体毛に覆われつつある両腕と、鋭く鋭利に変貌した獣のような爪。そして、まるで火傷のように焼け爛れた私自身の掌だった。

 

 

そんな馬鹿な!私はアレの感覚しか奪ってはいない!それになんだ!この尋常ではない痛みは!

 

 

そんなことを考えるも、思考ばかりで声にはならず……私は祭儀用の短剣を含む身に纏った神父としての全てをかなぐり捨てて、その場からの逃走を開始した。

 

後にして思うと、私の誤算は二つだった。

一つ、ただ感覚が混じったというだけで私の存在が塗りつぶされそうになるほど、あの獣人の存在としての格が違っていたこと。

一つ、教会に住まわせていた少年の力だけで、私の全てを弾圧し罰することが出来るなどと思ってもいなかったこと。

 

その二つの要因によって、私は自身が知覚する限り初めての敗走を喫することになった。

それから私は十数年に渡って取り込んだ獣人の力を掌握し、十善に扱うための術を探し求めることになった。

 

 

 

……そうして長い時を掛けた放浪と研鑽の末、私はあの街に……『霧の都』へと流れ着いたのだった。

 

 

【私の欲望は満たされず、他者はソレを満たすために存在する】

 

 

 





獣人について
名前:なし
備考:完全に人間とは別の存在
概要:
異能をもつ人間とは違い、完全に人間外の怪物。
何度か観察して人間の暮らしに憧れるようになった。
異常に鋭敏な感覚と、頑丈な身体を持っていた。
※獣人のセリフが読みづらいのは仕様です。


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