林田の歴史 (林田力)
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播磨国揖保郡林田里

林田は律令時代の播磨国揖保郡林田里に遡る。播州平野に位置し、瀬戸内性の豊かな自然と、安定した気候に恵まれた関西屈指の穀倉地帯である。林田川(はやしだがわ)が流れる。林田里には、ある種の優しさと平穏がある。温かい湯に浸されるような心の安らぎがある。別の場所とは光も色も音も匂いも重力も違う世界に入ったようであった。

 

播磨国は山陽道の一国であり、摂津国、丹波国、但馬国、因幡国、美作国、備前国に接する。播磨国は出雲と大和を結ぶ陸上交通路の中間点である。韓国から筑紫(九州)、大和を結ぶ瀬戸内海の海の道の中間点でもある。揖保郡は西播磨にある。揖保郡の西は赤穂郡で、その西は備前国である。

 

林田里は元々、淡奈志(たなしめ)と称した。これは伊和大神(いわのおおかみ)が土地占有の標を立てたところ、楡(にれ)の木が生えてきたことに由来する。そこで神の手(たな)の印(しめ)という意味で、淡奈志(たなしめ)と呼ぶようにした。実際、林田川の自然堤防には楡の並木が広がっている。

 

伊和大神が土地占有の標を立てた背景は、新羅から来た天日槍(あめのひぼこ)との国占め争いである。交通の結節点であった播磨国は古代から外来者の争いが激しかった。

 

天日槍は新羅国の皇子である。水辺で太陽の光を受けた女が赤玉を生んだ。天日槍が赤玉を床に置くと赤玉は女性になった。天日槍は、この女性を妻とするが、女性は逃げ出してしまった。それを追って播磨国にやってきた。

 

播磨国にいた伊和大神は天日槍に退去を求めた。

「ここは私の国です。他所へ行ってください」

しかし、天日槍は立ち去ろうとしなかった。

 

伊和大神は先住者のように振舞っているが、彼も出雲から来た外来者である。「ぐずぐずしていたら、国を取られてしまう。早く土地をおさえてしまおう」と大急ぎで移動した。その途中、ある丘の上で食事をしたが、慌てていたため、ご飯粒をこぼしてしまった。ここから、その丘を粒丘(いいぼのおか)と呼ぶようになった。これが揖保(いぼ)郡の由来である。

 

伊和大神と天日槍は軍勢を出して戦ったが、決着がつかなかった。そこで伊和大神は提案した。

「高い山の上から三本ずつ黒葛(つづら)を投げて、落ちた場所をそれぞれが治める国にしよう」

天日槍は同意した。二人は山に登って黒葛を投げたところ、伊和大神の黒葛は播磨国、天日槍の黒葛は但馬国に落ちた。そこで伊和大神が播磨国、天日槍が但馬国を治めることになった。

 

伊和大神の子に伊勢都比古命(いせつひこのみこと)、伊勢都比売命(いせつひめのみこと)の兄妹がいた。この兄妹は林田里の伊勢野の山の峰にいた。衣縫猪手と漢人万良の祖が、社を建てて祀った。これによって平穏が訪れ、里を形成することができた。これが伊勢野の由来とされる。後の兵庫県姫路市林田町上伊勢と下伊勢である。この祭祀は林田町上伊勢の多賀八幡社に受け継がれている。

 

霊亀元年(七一五年)に国郡里制は郷里制に改められ、里は郷と改称された。これにより、林田里は林田郷になる。唐の州県郷里制に倣った制度である。五〇戸から成る里を郷とし、郷を新たに二つか三つの里に分割する。行政単位を分割化し、農民支配を強化しようとした。無駄な組織やポストを作る官僚制の弊害が律令国家にも生じている。うまくいかないことは当然であり、天平一二年(七四〇年)頃に里が廃止され、国郡郷制になった。

 

平安時代初期になると林田農業(林田農法)が普及した。これは焼畑農業の進化した形態である。焼畑農業は山林を伐採して火入れし、四年間から五年間畑として耕作して放棄する。これに対して林田農業は伐採後に火入れせずに畑として十年ほど耕作して畑に戻す。林に戻す際はハンノキを植えて地力を回復させる。ハンノキは空気中の窒素を固定するために地力回復になる。ハンノキの樹皮は染料になり、樹木は家具の用材になる。焼畑農業に比べて持続可能性が高い。

 

この林田農業は国司や大領主ではなく、独立した小農民によって運営された。日本には大規模農業が効率的という感覚があるが、小規模の経営の方が資源を効率的に利用できる。

 

荘園制が発達すると、林田郷の一部は林田荘として成立する。林田荘は寛治七年(1093年)に賀茂別雷神社(上賀茂神社)の荘園になった。林田荘では元暦二年(1184年)4月29日の文書で守護人や地頭が横領や狼藉をしていると記録している。守護・地頭は公式には文治元年(1185年)10月、源義経・源行家の追討を目的に設置されたが、それ以前から自称も含めて存在していた。

 



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林田氏

播磨国揖保郡林田郷を根拠とした武士の一族が林田氏である。林田氏は清和源氏満季流である。清和源氏は清和天皇の経基王が源姓を賜ったことに始まる。父は清和天皇の子の貞純親王である。当時は平安時代中期で、律令制度が崩壊し、武士が台頭しつつあった。

 

経基は承平天慶の乱に鎮圧側として関わった。経基は承平九年(九三九年)に武蔵国に武蔵介として赴任した。朝廷の官位は藤原北家が独占していたことと、経基王の代までしか皇族でいられないため、現地で勢力を伸ばそうと考えた。

 

現地の郡司と対立し、現地の有力者の平将門の介入を招いた。将門は父親が早世したために所領を伯父の平国香に押さえられていたが、承平五年(九三五年)に平将門は国香を討ち取った。将門の介入に対して経基は朝廷に平将門が謀反を起こしたと告発した。しかし、この時は将門の主張が認められ、逆に経基は讒言の罪によって左衛門府に拘禁された。

 

その後、将門は天慶二年(九三九年)に常陸国府を襲撃し、印綬を強奪した。腐敗した都の貴族社会に失望し、民衆のため坂東に独立国を築こうとした。当時の民衆は国司からの重税や労役に苦しめられていた。平将門は公を否定する。自分達が当たり前のものと思っていた支配体制として朝廷を否定した。

 

それまでも将門は一族や他の豪族と私闘を繰り返していたが、朝廷への明確な反乱は国府襲撃からである。瀬戸内海の藤原純友も、それに呼応した。朝廷への反乱は天慶年間からであるが、それ以前の争いも含めて承平天慶の乱と呼ぶ。

 

経基は将門が反乱を起こすと釈放され、過去の報告が功績と評価されて従五位下に叙せられた。経基は平将門の乱と藤原純友の乱の鎮圧のために出兵したが、どちらも現地に着くまでに激戦は終わり、それほど大きな活躍をしていない。

 

清和源氏と言えば源頼朝が有名であるが、こちらは頼信流(河内源氏)である。頼信は経基の孫である。父は経基の嫡男の満仲である。頼信の子が前九年の役を戦った頼義であり、その息子が八幡太郎義家になる。頼朝にとって武家の棟梁の地位は義家の子孫という点が重要であった。逆に頼義の上の系図への関心は乏しかった。逆に源実朝は「将門合戦絵」を描かせており、平将門を武家政権の祖として肯定的に位置付けている。

 

経基が清和源氏初代として政治的に重視されるようになったのは室町時代からである。源氏の嫡流は義家の子の義親の子孫である。これに対して足利氏は義親の弟の義国の子孫である。足利氏も義家の子孫であるが、鎌倉幕府のように義家を強調すると源氏の傍流であることも強調されてしまう。源氏の嫡流の鎌倉幕府と差別化するために経基、満仲・頼信を崇敬の対象とした。

 

これに対して林田氏は経基の三男の源満季の子孫である。その子孫が各地に土着して武士団となった。源満季は検非違使となり、安和二年(九六九年)の安和の変で藤原千晴・久頼の親子を捕らえた。藤原千晴は藤原秀郷の子であり、清和源氏と武家の勢力を競っていた。この安和の変で左大臣源高明が失脚した。藤原氏による他氏排斥事件の最後になる。安和の変以降、摂政・関白が常置され、摂関政治の時代になる。藤原氏の他氏排斥は終了したが、今度は藤原氏内部での権力争いが始まる。

 

源満季の家督は猶子の致公(むねきみ)が継いだ。致公は源高明の長男・忠賢の子である。安和の変で失脚させられた人物の子孫が失脚させた側の家督を継ぐことは皮肉である。源高明は醍醐天皇の第十皇子で、醍醐源氏の祖である。林田氏は清和源氏であるが、血統的には醍醐源氏になる。

 

源致公の子孫は致任、定俊、高屋為経と続く。高屋為経は近江国高屋荘を拠点とした。高屋荘は現在の近江八幡市にある。高屋氏は為貞、為房、実遠、定遠と続く。定遠の四男が岸本(平井)遠綱(重綱)である。岸本遠綱は林田氏の初代・林田肥後守泰範の祖父である。遠綱は建久二年の強訴に巻き込まれた人物である。これによって歴史上に名前を残すことになった。

 

遠綱は近江国愛知郡岸本(滋賀県東近江市岸本)を本拠とした武士であるが、近江国守護・佐々木定綱の被官であった。鎌倉時代後期から顕著になった守護の国人被官化、守護大名化の先駆となるものである。

 

佐々木の被官であったことが建久二年の強訴に連座した原因である。これは近江国守護・佐々木定綱と比叡山延暦寺の紛争である。佐々木氏の本拠の近江国蒲生郡佐々木荘の千僧供料の貢納を巡って起きた。

 

佐々木荘の千僧供村は千僧供養の料田であり、延暦寺に千僧供料を貢納していた。貞観17年(875年)頃に疫病が流行した際、千人の僧による病魔退散の祈祷供養が行われた。ここから「千僧供養村」の地名になった。その後、平氏が亡き平清盛の菩提のために佐々木庄内の千僧供村の徳分を千僧供料として延暦寺に寄進していた。今も滋賀県近江八幡市千僧供町という地名がある。

 

建久二年(一一九一年)は前年の水害による不作で千僧供料が未進になっていた。怒った延暦寺は配下を定綱邸に乱入させた。塀を壊し、家中の男女に乱暴を働き、侮辱した。これに対して次男の定重が応戦したが、その際に日吉社の神鏡を破損させた。この際に遠綱も応戦し、延暦寺から下手人の一人として告発された。

 

この紛争では佐々木氏側が処罰された。長男の広綱は隠岐国、三男の定高は土佐国、定綱は薩摩国へと配流となる。定重は対馬国への配流となったが、途中で斬首された。遠綱は禁獄を言い渡された。定綱は建久四年(一一九三年)三月に召還され、近江守護に復帰した。

 

この事件は一一八五年の守護・地頭の設置が武家勢力の伸張にとって重要なことであったことを物語る。源頼朝が征夷大将軍に任命される前年に「地頭の荘園侵略」と後に呼ばれる紛争が起きている。鎌倉幕府の成立を一一九二年の征夷大将軍任命ではなく、一一八五年とする所以である。また、鎌倉時代が武家支配の時代ではなく、旧勢力と幕府の多元的支配構造にあったことも示している。

 

岸本遠綱の子が御園範広である。この御園範広の次男が林田泰範である。これが林田氏の初代である。播磨国揖保郡林田郷を本拠としたため、林田氏を名乗る。泰範の長男が林田宗泰、次男が林田長泰。宗泰の長男が林田泰國である。

 

泰範は肥後守を任官し、肥後国に赴いた。一族の多くは九州に土着し、林田郷以上に栄えた。今でも林田は九州に多い名字である。家紋は三つ蛇の目、入り山形、右三つ巴などが多い。筑前国下座郡林田村という地名がある。

 

林田氏は特に肥前に進出した。肥前と肥後は地続きではないが、有明海を挟み、関係が深い。元々は火国(肥国)という一つの国で、それが分割された。特に肥前の島原半島は有明海を挟み、一衣帯水の関係にある。

 

江戸時代に島原・天草の乱が起きるが、肥前の島原と肥後の天草が一体性を持った地域だから起きたことである。また、島原大変肥後迷惑との言葉がある。島原の雲仙・普賢岳が噴火すると、有明海で火山性津波が起き、肥後にも被害が発生する。

 



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林田隠岐守

林田隠岐守は九州に土着した林田氏の一族の一人であり、肥前国高来郡(たかきぐん)千々石(ちぢわ)の領主である。千々石は島原半島の北西の付け根に位置し、橘湾に面している。

 

鎌倉時代末期、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒に立ち上がった。後醍醐天皇は元弘三年/正慶二年(一三三三年)閏二月、配流先の隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入った。そこから各地に倒幕の綸旨を発した。

 

九州の武士団にも倒幕への参加を求める綸旨が送られてきた。九州の武士の間で水面下のやり取りがなされた。肥後国の菊池武時は即時挙兵を主張した。九州にも鎌倉幕府に不満を持つ武士は少なくなかった。鎌倉幕府は博多に出先機関として鎮西探題を置いた。独立心ある領主層にとって目障りであった。

 

しかし、この時点での挙兵は消極意見が強かった。鎌倉幕府には不満があるが、それは在地領主として、上から規制する存在に対する不満である。それは後醍醐天皇の綸旨で動くことも同じである。結局、挙兵賛成は菊池武時のみで、三月一三日に単独挙兵した。

 

武時には挙兵という既成事実を作れば他の武将もついてくるという計算があったが、誰も動かなかった。林田隠岐守も当初幼少ということを名目に動かなかった。林田氏は伝統的に中央の政争から距離を置いている。積極的に参戦する理由はなかった。

 

菊池武時は博多の鎮西探題を攻撃したが、鎮西探題・北条英時の軍勢に敗北し、全滅してしまう。討ち取られた二百あまりの首は犬射馬場にさらされた。筑前国守護の少弐貞経も鎮西探題の軍勢として戦った。これは筑前国守護の立場上当たり前のことであるが、菊池武時は貞経にも挙兵を呼びかけであった。菊池氏の主観では貞経は裏切りであり、遺恨を遺すことになった。

 

単独挙兵も失策ではないが、それならば楠木正成の千早城のように長期防衛戦をすべきであった。無謀な戦いに自ら進んで全滅する傾向は、南朝の衰退要因になる。戦前の皇国史観は、そこをきちんと分析せずに美化したために玉砕を素晴らしいことのように喧伝することになる。

 

突撃型は一見すると勇ましいが、あっさり全滅しがちである。楠木正成も赤坂城や千早城の籠城戦は強かったが、湊川の戦いでは敗れた。正成は湊川の戦いの前に京を捨てて敵を誘い込む戦術を提案したが、却下された。第二次世界大戦の日本軍も万歳突撃は笑われたが、硫黄島の戦いはしぶとかった。

 

畿内では足利高氏(後の尊氏)が鎌倉幕府を裏切り、赤松円心や千種忠顕らと共に六波羅探題を攻めた。高氏は源氏の名門である。鎌倉幕府の御家人中の御家人といっていい存在である。高氏の離反はインパクトが大きい。六波羅探題は五月七日に攻略された。これが九州に伝わると情勢が変わった。

「大きな騒ぎになる」

林田隠岐守は思った。現実に少弐貞経や大友貞宗、島津貞久らの武将が幕府から離反して鎮西探題を攻撃した。林田隠岐守も攻撃に加わった。これが林田隠岐守の初陣になった。家臣からは初陣を心配する声が出た。林田隠岐守は答えた。

「誰にだって初めてはある。そうだろう」

 

五月二五日に鎮西探題は総攻撃を受け、探題の北条英時は一族二四〇名と共に自害した。鎌倉幕府が五月二二日に滅亡した三日後であった。鎌倉は新田義貞らに攻められ、得宗の北条高時ら北条一門は自害した。これが林田隠岐守の初めての戦いになった。朝からずっと緊張の連続であった。

 



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多々良浜の戦い

鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、建武の新政を始める。これは在地領主には評判の悪いものであった。建武の新政は公家中心の政治の復活と見られ、多くの武士には面白くなかった。これは林田隠岐守には許せた。林田隠岐守は林田肥後守泰範という受領の子孫が在地領主になったものであり、律令政治を否定するものではない。

 

しかし、建武の新政の本性は公家政治の復活ではなく、中国のような皇帝専制を目指すものであった。故に建武の中興ではなく、建武の新政である。後醍醐天皇は「今の例は昔の新儀なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」と述べた。復活ではなく、文字通り新政を志向していた。中央集権的な皇帝専制は分権意識の強い在地領主の肌に合うものではなかった。

 

無駄な公共事業も建武の新政の失敗原因である。後醍醐天皇は天皇の権威を誇示するために、大内裏の造営を発表した。莫大な経費を必要とする大内裏造営は民衆の負担になり、民衆の反発は増大した。建武の新政への不満は武士だけではなかった。

 

建武の新政への不満を背景として、建武二年(一三三五年)に北条氏の残党の北条時行が信濃から蜂起し、鎌倉を占領し、足利直義を追い出した。これに対して足利尊氏は時行を討つために自分を派遣することを後醍醐に再三要請したが、尊氏の自立を怖れた後醍醐は許可しなかった。業を煮やした尊氏は無断で関東に出兵し、中先代の乱を鎮圧した。後醍醐は追認で尊氏を征東将軍に任じたものの、後に尊氏を討伐する宣旨を新田義貞に出した。尊氏は義貞率いる建武新政軍を箱根の箱根・竹ノ下の戦いで迎撃して勝利した。

 

その勢いで西上し、建武三年(一三三六)正月十一日に上洛した。後醍醐天皇は直前に新田義貞らとともに比叡山へ逃れた。奥州から北畠顕家が大軍を率いて上洛すると敗北し、正月三十日、丹波から摂津へ逃れた。再び京へ攻め上ろうとしたが、豊嶋河原の合戦(てしまがわらのかっせん)で建武新政軍と対峙し、楠木正成に背後から襲われ、敗北した。

 

尊氏の反乱は中先代の乱を契機とした成り行きに乗っかったものであり、確固たるビジョンを持ったものではなかった。兵庫まで退いた尊氏は九州へ落ちることとなり大友軍の船に移った。五百人程度の軍勢で九州に向かって落ち延びた。途中の二月十五日、備後国の鞆の浦で光厳上皇の院宣を受け、朝敵の汚名を逃れた。

 

建武の新政に不満を持っていた肥前国の少弐貞経は尊氏に味方し、息子の少弐頼尚に兵を率いて合流させた。頼尚は二月二十日に長門国の赤間関で尊氏一行を出迎え、九州に行く。筑前国の宗像氏範も尊氏を合流した。これによって尊氏の軍勢は合わせて二千人程度になった。

 

これに対して肥後国の菊池武敏や阿蘇大宮司惟直らが尊氏追討に立ち上がった。菊池武敏には戦う積極的な理由がある。少弐貞経は武敏にとって博多合戦で父の武時を殺した仇であった。

 

九州の多数の武士も味方したが、菊池武敏のような戦意はなかった。むしろ建武の新政には不満があった。周囲が宮方一色の中で、仮に尊氏に味方したらフルボッコとなってしまうという消極的選択であった。関ヶ原の合戦で西軍になった多くの大名のような感覚であった。

 

これは林田隠岐守も同じであった。義理のようなものである。宮方は菊池武敏ら肥後国の武将が中心である。林田氏初代は林田肥後守泰範であり、林田隠岐守の家も肥後を故地という意識がある。

 

それでも宮方の軍勢は総勢二万に膨れ上がると壮観である。気持ちも大きくなる。瞬く間に少弐氏の本拠の大宰府を襲撃し、有智山城を攻略した。有智山城は宝満山の中腹に位置する山城である。少弐氏の主力は息子の頼尚に率いられて尊氏と合流し、手薄になっている隙を突いた。それでも有智山城は要害で中々陥落しなかった。林田隠岐守が調略を行い、内応者を出すことで二月二九日に陥落し、少弐貞経は自害した。菊池武敏は親の敵を討つことができた。

 

この勝利に驕る宮方の武将は多かったが、林田隠岐守は空しさを感じていた。少弐貞経は尊氏を支援するために大宰府に大量の武具や馬具を蓄えていた。それが宮方の襲撃で灰燼に帰してしまった。林田隠岐守は資源の消失に、もったいなさを覚えた。林田隠岐守は酒を飲まない。それは勝利の宴でも変わらなかった。酒飲みは泥酔した後、最悪の気分になるという。実際はどうか、林田隠岐守は知らなかった。知りたくもなかった。

 

宮方は大宰府陥落の勢いで北上し、三月二日に多々良浜で尊氏の軍勢と激突する。宮方二万に対し、足利勢二千と兵力差は歴然だった。開戦前に彼我の兵力さを見た尊氏は絶望した。

「切腹しよう」

ステレオタイプな感覚では指導者失格の発言であるが、マイナス情報を正面から認識する稀有な才能である。精神論根性論で何とかしようとする方が愚かである。

 

「敵は大勢ですが、本来は味方として参る者共です。菊池自身は三百騎にも達しません。頼尚が御前で命を捨てて戦えば、敵は風の前の塵も同然です」

尊氏の弱気発言に対して、少弐頼尚は反論した。

 

戦が始まると、宮方で真剣に闘う武士は少なく、裏切りが続出して敗北した。馬が怯えて立ち上がり、振り落とされる騎馬武者もいた。林田隠岐守にも生き残りのために率先して裏切る選択肢もあった。しかし、最初から尊氏の味方になることと同じく、これも肥後に近い千々石という地政学上悪手になる。宮方は多々良浜の戦いで敗北したものの、その後も肥後の菊池党らは宮方として抵抗を続けた。九州から南朝が一掃された訳ではない。

 

林田隠岐守は最初から悪い予感がしていたため、味方からも離れて布陣した。陣を固めてカウンター攻撃に徹した。戦の帰趨が明らかになると速やかに撤退した。負け戦は死なないことが目標となる。戦場は、どこをどう見ても楽しいものではなかった。この時の経験は嫌になるほど心をかき乱される。苦しくなる。のどかな風景にパクリと開いた、とてつもなく大きな傷であった。

 



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征西将軍府

多々良浜の戦い以降、南北朝の覇権はコロコロと入れ替わった。多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏は、その勢いで上洛を果たした。一度敗北して、遠く九州まで落ち延びながら多々良浜の戦いで勝利し、京都を奪う大逆転劇を実現する。尊氏には戦に強いという印象が乏しいが、結局は勝利してしまう。それが恐ろしいところである。源頼朝や徳川家康より地味であるが、歴史に残る怪物である。

 

尊氏は戦に強いが、敵を根絶やしにしてしまう強さではない。これが室町時代に騒乱が続いた要因になる。源頼朝や徳川家康のように無実でも災いの根になりそうな人物を殺してしまうことはしない。これは頼朝や家康と比べると天下人としての不徹底さと評されるかもしれない。逆に一度負けてもいつでも取り戻せるという自信と実力があるからこそ根絶やしにしないという見方も成り立つ。

 

尊氏は九州には一色範氏を残し、九州探題とした。九州の武士達は尊氏には心服したが、九州探題には自分達の統制者として反感を抱いた。多々良浜の戦いで尊氏を迎えた少弐頼尚も反発した。ここが在地の武士の心理の不思議なところ、面白いところである。ここに親王を擁し、九州の武士が運営する征西府が支持される素地があった。

 

範氏は足利一門の力で自己の勢力圏を拡大することしかできなかった。足利氏傍流の小俣氏義を探題の侍所に任命し、氏義の嫡男の小俣氏蓮を島原半島に攻め込ませた。林田隠岐守は九州探題軍を迎撃し、撃退した。

 

足利尊氏に敗れた後醍醐天皇は吉野に逃れて新たな朝廷(南朝)を創設し、南北朝の内乱が始まる。後醍醐天皇は懐良親王を征西大将軍に任命し、五条頼元らを付けて九州に派遣した。懐良親王は菊池武光らに擁され、征西将軍府(征西府)を開いて九州を統治しようとした。林田隠岐守はいち早く征西府を支持して活動した。この征西府は吉野の朝廷の下部組織ではなく、事実上の独立政権であった。

 

この事実上の独立政権を持つことは林田隠岐守の念願であった。鎌倉幕府が関東武士の念願であったことと同じである。戦前は南朝方の武将は楠木正成のように勤皇と美化されたが、林田隠岐守に勤皇思想はない。国人領主として中央の搾取を嫌い、領土を守りたいだけであった。一生懸命の語源になった一所懸命の精神である。皇国史観の勤皇思想では南北朝の武士の心理を説明できない。九州で南朝方と言えば、懐良親王の征西将軍府(征西府)を意味していた。九州の在地領主である林田隠岐守が南朝方になることは自然なことであった。

 

征西府は着実に発展していく。そこには室町幕府の内紛(観応の擾乱)に助けられた面もある。観応の擾乱は足利尊氏・高師直と直義の対立である。九州では直義方が優勢であった。直義の養子の直冬が九州で活躍したためである。佐殿(右兵衛佐殿)と呼ばれた直冬は尊氏の実子で、直冬の養子という複雑な家庭環境である。尊氏と直冬の親子は憎み合っていたが、そのような複雑な事情を九州の武士達は知らない。尊氏の実子という肩書きは九州の武士達が直冬に味方する理由として働いた。

 

九州は九州探題(室町幕府)、佐殿(直冬)、宮方(南朝)の三すくみ状態になった。その中で征西府は正平六年/観応二年(一三五一年)に、肥後から筑後に進出し、高良山・毘沙門岳に城を築いて本拠とした。

 

佐殿の勢力は直冬あってのものであり、直冬が上洛を目指し、九州を離れると衰退した。この後に幕府側は再び一本化され、征西府と激突する。正平一四年/延文四年(一三五九年)七月から八月にかけての筑後川の戦いである。激戦地の地名から、大保原の戦い(大原合戦)とも呼ばれる。

 

九州の合戦史上最大の戦いであり、九州の天下分け目の決戦である。関が原や川中島と共に日本三大合戦となっている。懐良親王・菊池武光らの南朝方四万と少弐頼尚らの北朝方六万人が激突した。この戦いには九州各地の武士が参加しており、林田隠岐守も参陣した。

 

南朝方は北に軍を進め、北朝方は南下し、筑後川を挟んで睨みあった。南朝方が渡河し、北朝方は後退した。激戦の場は筑後川以北になった。多数の戦死傷者を出す激戦であった。林田隠岐守は矢継ぎ早に敵を倒しながら突進した。そこここで金属の触れ合う音が響き、血煙が上がり、人の叫ぶ声が聞こえる。太刀や薙刀がきらめき、生暖かい血潮が風に乗って飛び散った。兵士達は入り乱れて切り結び、つかみ合って転げ回った。

 

菊池武光が戦いの後に血まみれの刀を川で洗うと、川の水が赤く染まった。その川は「大刀洗川」と呼ばれることになる。

 

筑後川の戦いに勝利した南朝は九州で優勢になる。やがて太宰府も制圧し、康安元年/正平一六年(一三六一年)には征西府を太宰府に移した。林田隠岐守は戦争の先を見ていた。懐良親王の家政機関として出発した征西府を政府として整備することである。鎌倉幕府の政所も源頼朝の家政機関から出発している。

 

征西府は急速に整備され、九州の政治の中心になった。林田隠岐守は自分の力を誇示しなければ気が済まない人物ではなかった。単なる補佐役に回っているように見えても、自分に価値があることをきちんと分かっている。林田隠岐守にとっては誰が仕事をしたかよりも、仕事がきちんと遂行される方が大事であった。この征西府が太宰府にあった時期が最も充実していた時期であった。

 



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朝貢

林田隠岐守は征西府の外交方針を明への朝貢に転換した。この時期、明は積極的に使者を派遣していた。明の日本への要求は二つある。第一に朝貢である。これは日本に限らず、各国に求めていた。朝貢とは本来、周辺諸国の王が中華皇帝の徳を慕って行うものである。それ故に本来ならば使者を送って朝貢を求めことは、おかしな話である。明が異例なことをした理由はモンゴル帝国(元)の支配で傷ついた漢民族の威信の回復があった。

 

過去にも中国が北方騎馬民族に征服されたことはあった。しかし、漢民族は軍事的には支配されても行政機構・経済・文化面では優位性を保ち、騎馬民族が逆に漢化する傾向にあった。これに対し、元ではモンゴル人第一主義を採り、行政機構・経済・文化面でも色目人(西域出身者)を重用し、漢民族は社会の最下層に置かれた。この元を打ち破った漢民族の王朝が明である。元代に抑え付けられていた漢民族の威信回復が対外プレゼンス増大となった。

 

第二に倭寇の禁圧である。倭寇は明の沿岸部などを荒らした日本人中心と見られる海賊である。明は現実に被害に遭っており、切実な問題であった。

 

征西府は当初、使者を斬首するなど厳しい方針を採った。朝貢が屈辱的と感じたためである。隋への国書「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」からの伝統である。この時代は元寇の後であり、特に抵抗が強かった。

 

趙秩という名前の使者が来たときは以下のやり取りがなされたほどである。

「貴殿は元の使者の趙良弼と同じ苗字だが、もしかして蒙古の子孫ではないのか。良弼と同じようにたぶらかし、日本を攻めるつもりでないか」

「明国を蒙古と同じくするな。私は蒙古の子孫などでない。斬りたければ斬れ」

趙秩の堂々とした態度に懐良親王は気がくじけ、礼をもって待遇した。

 

林田隠岐守は倭寇禁圧の観点から朝貢外交への転換を進めた。倭寇禁圧は林田領にも意味があった。林田領は農業が中心である。二十一世紀にも棚田がある。肥前北部は倭寇の根拠地であるが、林田領は倭寇の被害に遭う側であった。

 

外交史は国と国との関係で見がちであるが、同じ国だからと言って利害を同じくするとは限らない。後に朝鮮が対馬の倭寇の根拠地を攻撃したことがあった。これは倭寇の根拠地が攻撃されただけで日朝間の紛争になることはなかった。日本国内にも倭寇の根拠地が叩かれることを歓迎する人々はいた。

 

倭寇禁圧は良いとしても、朝貢が屈辱的との問題は残る。しかし、朝貢外交は倭寇の禁圧にとっても必要なことである。朝貢貿易が行われれば倭寇の必要性が減るためである。これまでは中国の品物が欲しければ倭寇から求めなければならなかった。しかし、中国の品物が朝貢貿易で得られれば、倭寇から調達する必要はなくなる。倭寇の社会的必要性を減少することになる。

 

朝貢そのものにもメリットはある。朝貢することは冊封体制に入ることである。これは国際連合に加入するようなものであった。国際社会で生きていくためには必要なことであった。勿論、冊封体制に入る上では、それなりのルールに従わなければならないという制約がある。それを嫌がる意見もあるだろう。つまり冊封体制に入るか否かは、国際協調主義と一国主義・孤立主義の対立であった。

 

冊封体制と現代の主権国家間外交の相違は、前者には中華皇帝を主とする主従関係があることである。これは対等な主権国家という建前を持つ現代の外交とは異なる。しかし、現代の価値観で冊封体制を否定しても不毛である。当時の社会には個人関係にしても集団同士の関係にしても平等者同士の関係はほとんどなかった。常に上下関係が存在していた。人と人、集団と集団が関係を結ぶ際に上下関係があることは当たり前であった。

 

その当時の日本人にも中華への朝貢を屈辱と感じる人がいたことは確かである。しかし、平等思想を持たないにもかかわらず、屈辱と感じることは逆に不思議である。中華と日本の国力の差を認識せず、無根拠に日本に優越意識を持つ「井の中の蛙」の発想だろう。それ故に冊封体制の拒否は一国主義に収斂する問題に過ぎない。

 

征西府が明から冊封されることは強力な権威をもつことになる。南朝と言っても吉野の朝廷から何の援助も受けていない征西府にとって、これは切実な問題である。

 

さらに朝貢貿易は朝貢国に多大な実利をもたらす。朝貢国は献上品を献上すると、明は威信にかけて献上品の数倍の価値のある下賜品を与えてくれる。実際、足利義満の勘合貿易は多くの利益をもたらした。

 

これらの理由から征西府は明への朝貢を進め、懐良親王は「日本国王良懐」の冊封を受けた。使節の供応は林田隠岐守の責任であった。手配は全て行き届いていた。席次は考え抜かれており、皆楽しんでいるようであった。林田隠岐守の念入りな事前準備は完全に報われた。

 



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今川了俊

林田隠岐守は防衛を続けて幕府軍を島原半島に進ませなかった。仲秋の戦略目標も大宰府攻略であり、島原半島は優先ではなかった。そのために仲秋は軍を東に進め、筑前で兄の軍と合流する。了俊は薩摩の島津に菊池氏の本拠の肥後を圧迫させることも忘れなかった。幕府の大攻勢によって征西府は四月に博多を失い、八月には大宰府が陥落。征西府は筑後高良山に撤退する。

 

こうなると林田隠岐守が了俊の攻略目標になる。林田隠岐守を叩いておくことは将来の菊池氏の本拠である肥後攻めを考える上でも有益である。島原半島と肥後は有明海を挟んで一衣帯水の関係である。島原半島を押さえれば包囲網が広がるし、放置しておけば後背を突かれる危険がある。

 

林田隠岐守は降伏か抵抗か決断を迫られることになった。征西府の援軍は期待できない。林田隠岐守は、すっかり考え事に没頭した。一体どれくらいの時間、こうして座っていたのだろうか。林田隠岐守は戦いを決断する。今更、降伏したところで、見返りの一切ない不断の奉仕が要求されるだけである。

 

幕府軍には倭寇・海賊として悪名高い松浦党がついている。降伏しても荒らされるだけである。奴らは我らを殺しにやってくる。もともと千々石領主として海賊と戦ってきた関係であった。領内には海賊が憎いという声は多い。海賊が来なければ自分達が荒んだ暮らしをすることはなかったと考える人々も多い。

 

一方で死に場所を探し始める林田隠岐守でもなかった。林田隠岐守の眼には固い決意が浮かんだ。林田領の未来を賭けた一戦が開始されようとしていた。霧が濃かった。空気は冷たく、樹木の爽やかな匂いが肺いっぱいにしみ込んだ。

 

今川了俊率いる幕府軍は千々石浜から進入した。水軍の松浦党を味方にしており、海から攻めることは理に適っていた。次から次へと幕府軍は軍船から上陸し、その度に旗指物や長刀の刃が日にきらめいた。刃は銀色の穂のように輝いた。二つ引両の旗印もある。兵力差は圧倒的であり、鎧袖一触と思われた。

 

林田隠岐守は飯岳城を防衛線とした。城と言っても安土桃山時代や江戸時代の城郭と異なり、野戦陣地のようなものである。何重にも空堀を作り、要塞化した。幕府軍から何百何千本もの矢が放たれる。一本一本の矢が集束して束になったように見えるほどであった。これに対して林田軍は敵を十分に引き付けてから矢を射込む。城の上から大木や大石を落とすなど幕府方を苦しめた。敵陣が乱れ始めると突撃する。敵が逃走しても深追いを避け、味方を引き上げさせて潜ませた。もっと追撃できると思った時も計画に従った。計画は守るためにある。

 

激戦に次ぐ激戦が繰り返された。今川了俊も並みの武将ではない。幕府軍に慎重さを徹底するようになった。そこで林田隠岐守は一計を案じた。一門の林田力泰の部隊を突出させた。その突出は幕府軍からも確認できた。過去の経験から罠と見るべきだが、その部隊の動きは明らかに味方との連携を欠いた行動であるように見えた。

 

今川了俊が尋ねる。

「林田力泰隊をどう見るか」

仲秋が答えた。

「いつまでも消耗戦をしていると向こうの攻撃に対応できなくなります。下手に近づくのは危険ですが、威嚇も兼ねて一度接近して攻撃を加えます」

 

了俊の許しを得た仲秋は、林田力泰隊に向けて部隊を進撃した。この進撃は信じられない速さであったにも関わらず完璧に統制がとれていたため、林田力泰は敵将を称賛しつつ、「これも隠岐守の作戦のうちだ」と言って左後方に後退した。幕府軍は、それを撃つために右に向かう。

 

そこに林田隠岐守の号令で一門衆の林田力則率いる別働隊が幕府軍の左側面に躍り出た。その速さも称賛されるべきものである。気が付けば、幕府軍は完全に前と左からの半包囲にあっていた。了俊は舌打ちして退却の指令を出した。

 

林田隠岐守は的確に指示を出していく。常に先手を取って読み勝つ。合理的で決して無理がない。ことさら勇猛さを見せることはない。旧日本軍のような精神論からは無縁である。従う兵は自然に信頼を深めた。

 

勿論、幕府軍が簡単に負けることはない。兵力は圧倒的に上である。了俊は兵力のアドバンテージを上手に活かして戦列を立て直し、局地的に不利になっても綺麗に対処する。それでも、全面攻勢に出ようとしてもうまく抑えられてしまう。逆に先に綻びを見せ始めてしまう。

 

林田隠岐守の戦いは水際防御ではなく、縦深防御である。これは九州での南北朝の戦いを逆手に取ったものでもあった。九州の南朝方の主力は肥後国の菊池氏である。この菊池氏は野戦に強かった。それを研究した了俊は猪突を抑え、山中に陣を張り、迎え撃つ方針を徹底した。南朝方は山中に籠る幕府軍に痺れを切らし、焦って攻撃し、無理な山岳戦で消耗した。これを林田隠岐守は幕府軍相手に展開した。

 

これは倭寇対策の成果でもある。倭寇は日本の海賊が朝鮮や明の沿岸部を荒らすイメージがあるが、倭寇が日本人とは限らず、日本の沿岸を荒らすこともあった。林田領では倭寇への備えが必要であった。そこでは山岳部に誘い込み、消耗させる戦術が採られた。

 

これは鎌倉時代から南北朝時代の戦闘の転換を反映したものでもあった。鎌倉武士は自らが騎馬に乗り、弓矢で武装して河原や野原で合戦した。これに対して南北町期には山城の攻防を中心とした歩兵の戦闘が徐々に多くなっていく。林田隠岐守の戦いは、その流れに乗ったものであった。

 



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飯岳城の戦い

林田隠岐守は防衛を続けて幕府軍を島原半島に進ませなかった。仲秋の戦略目標も大宰府攻略であり、島原半島は優先ではなかった。そのために仲秋は軍を東に進め、筑前で兄の軍と合流する。了俊は薩摩の島津に菊池氏の本拠の肥後を圧迫させることも忘れなかった。幕府の大攻勢によって征西府は四月に博多を失い、八月には大宰府が陥落。征西府は筑後高良山に撤退する。

 

こうなると林田隠岐守が了俊の攻略目標になる。林田隠岐守を叩いておくことは将来の菊池氏の本拠である肥後攻めを考える上でも有益である。島原半島と肥後は有明海を挟んで一衣帯水の関係である。島原半島を押さえれば包囲網が広がるし、放置しておけば後背を突かれる危険がある。

 

林田隠岐守は降伏か抵抗か決断を迫られることになった。征西府の援軍は期待できない。林田隠岐守は、すっかり考え事に没頭した。一体どれくらいの時間、こうして座っていたのだろうか。林田隠岐守は戦いを決断する。今更、降伏したところで、見返りの一切ない不断の奉仕が要求されるだけである。

 

幕府軍には倭寇・海賊として悪名高い松浦党がついている。降伏しても荒らされるだけである。もともと千々石領主として海賊と戦ってきた関係であった。領内には海賊が憎いという声は多い。海賊が来なければ自分達が荒んだ暮らしをすることはなかったと考える人々も多い。

 

一方で死に場所を探し始める林田隠岐守でもなかった。林田隠岐守の眼には固い決意が浮かんだ。林田領の未来を賭けた一戦が開始されようとしていた。霧が濃かった。空気は冷たく、樹木の爽やかな匂いが肺いっぱいにしみ込んだ。

 

今川了俊率いる幕府軍は千々石浜から進入した。水軍の松浦党を味方にしており、海から攻めることは理に適っていた。次から次へと幕府軍は軍船から上陸し、その度に旗指物や長刀の刃が日にきらめいた。刃は銀色の穂のように輝いた。二つ引両の旗印もある。兵力差は圧倒的であり、鎧袖一触と思われた。

 

林田隠岐守は飯岳城を防衛線とした。城と言っても安土桃山時代や江戸時代の城郭と異なり、野戦陣地のようなものである。何重にも空堀を作り、要塞化した。幕府軍から何百何千本もの矢が放たれる。一本一本の矢が集束して束になったように見えるほどであった。これに対して林田軍は敵を十分に引き付けてから矢を射込む。城の上から大木や大石を落とすなど幕府方を苦しめた。敵陣が乱れ始めると突撃する。敵が逃走しても深追いを避け、味方を引き上げさせて潜ませた。もっと追撃できると思った時も計画に従った。計画は守るためにある。

 

激戦に次ぐ激戦が繰り返された。今川了俊も並みの武将ではない。幕府軍に慎重さを徹底するようになった。そこで林田隠岐守は一計を案じた。一門の林田力泰の部隊を突出させた。その突出は幕府軍からも確認できた。過去の経験から罠と見るべきだが、その舞台の動きは明らかに味方との連携を欠いた行動であるように見えた。

 

今川了俊が尋ねる。

「林田力泰隊をどう見るか」

仲秋が答えた。

「いつまでも消耗戦をしていると向こうの攻撃に対応できなくなります。下手に近づくのは危険ですが、威嚇も兼ねて一度接近して攻撃を加えます」

 

了俊の許しを得た仲秋は、林田力泰隊に向けて部隊を進撃した。この進撃は信じられない速さであったにも関わらず完璧に統制がとれていたため、林田力泰は敵将を称賛しつつ、「これも隠岐守の作戦のうちだ」と言って左後方に後退した。幕府軍は、それを撃つために右に向かう。

 

そこに林田隠岐守の号令で一門衆の林田力則率いる別働隊が幕府軍の左側面に躍り出た。その速さも称賛されるべきものである。気が付けば、幕府軍は完全に前と左からの半包囲にあっていた。了俊は舌打ちして退却の指令を出した。

 

林田隠岐守は的確に指示を出していく。常に先手を取って読み勝つ。合理的で決して無理がない。ことさら勇猛さを見せることはない。旧日本軍のような精神論からは無縁である。従う兵は自然に信頼を深めた。

 

勿論、幕府軍が簡単に負けることはない。兵力は圧倒的に上である。了俊は兵力のアドバンテージを上手に活かして戦列を立て直し、局地的に不利になっても綺麗に対処する。それでも、全面攻勢に出ようとしてもうまく抑えられてしまう。逆に先に綻びを見せ始めてしまう。

 

林田隠岐守の戦いは水際防御ではなく、縦深防御である。これは九州での南北朝の戦いを逆手に取ったものでもあった。九州の南朝方の主力は肥後国の菊池氏である。この菊池氏は野戦に強かった。それを研究した了俊は猪突を抑え、山中に陣を張り、迎え撃つ方針を徹底した。南朝方は山中に籠る幕府軍に痺れを切らし、焦って攻撃し、無理な山岳戦で消耗した。これを林田隠岐守は幕府軍相手に展開した。

 

これは倭寇対策の成果でもある。倭寇は日本の海賊が朝鮮や明の沿岸部を荒らすイメージがあるが、倭寇が日本人とは限らず、日本の沿岸を荒らすこともあった。林田領では倭寇への備えが必要であった。そこでは山岳部に誘い込み、消耗させる戦術が採られた。

 

これは鎌倉時代から南北朝時代の戦闘の転換を反映したものでもあった。鎌倉武士は自らが騎馬に乗り、弓矢で武装して河原や野原で合戦した。これに対して南北町期には山城の攻防を中心とした歩兵の戦闘が徐々に多くなっていく。林田隠岐守の戦いは、その流れに乗ったものであった。

 



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レオ林田助右衛門

室町幕府軍を退けた林田隠岐守は、その後も領主としての独立性を保ち続けた。しかし、後の世代になると戦国大名有馬氏の被官になる。有馬氏は島原半島南部の国人から島原半島一帯を支配する戦国大名に成長した。

 

大村氏は肥前国杵島郡を拠点とした国人で、やはり戦国大名に成長した。この大村氏の配下にも林田衆が登場する。衆は在地の小領主によって構成される地縁・血縁集団である。兵農未分離の段階であり、農民兵が多かった。

 

有馬氏と大村氏は文明六年(一四七四年)、中岳合戦で激突する。この戦いで有馬氏が勝利し、大村領の長崎や浦上が有馬領になる。文明一二年(一四八〇年)に和睦し、長崎は大村領に戻されたが、大村氏は有馬氏に従属する傾向が強まった。

 

有馬晴純は大村氏を完全に従属化に置くため、次男の純忠を大村純前の養子にした。純忠は天文一九年(一五五〇年)に大村氏の家督を継承した。純忠は永禄六年(一五六三年)に日本最初の切支丹大名になった。洗礼名はドン・バルトロメオである。

 

大村氏は、伊佐早を拠点とした西郷純堯(すみたか)から度々侵攻を受けた。熱心な仏教徒でキリスト教を激しく嫌ったことが影響している。純堯は有馬氏の配下であったが、永禄六年(一五六三年)に離反した。佐賀の龍造寺氏が勢力を増しており、龍造寺氏に乗り換えた。純堯は天正二年(一五七四年)に大村領に侵攻した。大村純忠は触れを出して配下の林田衆を動員した。林田衆の活躍で大村方が勝利した。

 

純忠は天正八年(一五八〇年)に長崎の地をイエズス会に寄進した。ここには純堯らの侵略に対する避難場所を設けるという積極的意味があった。主権国家の感覚で植民地になるというような見方は一面的である。逆にイエズス会側に寄進を受けることに反対意見があった。清貧に反すると。イエズス会による長崎の統治も実質的にはイエズス会と商人代表との共同統治であり、植民地というよりも自治都市に近い。

 

有馬晴純の息子が有馬義貞である。義貞の代になると有馬氏は大友宗麟や龍造寺隆信、西郷純堯の圧迫で衰退していった。義貞の息子が有馬晴信である。義貞も晴信も切支丹大名である。晴信は当初、父の反発もあってキリスト教を弾圧する側であった。しかし、ヴァリニャーノから洗礼を受けて熱心な切支丹になった。そこには龍造寺隆信の勢力拡大への危機感があった。

 

晴信は龍造寺と対抗するために島津とも連携した。有馬と島津連合軍は沖田畷の戦いで、龍造寺軍を迎撃した。イエズス会が晴信に提供した大砲も威力を発揮し、大軍の龍造寺軍を撃退し、隆信を討ち取った。この恩賞として晴信は天正一二年(一五八四年)に浦上村をイエズス会に寄進した。

 

有馬氏の家臣や領民にもキリスト教信者が多かった。家臣のレオ林田助右衛門の一家も切支丹であった。豊臣秀吉は天正十五年(一五八七年)に伴天連追放令を出し、長崎や浦上の教会領を没収した。その後も、有馬氏の領内の信者はキリスト教信仰を続けた。

 

ところが、岡本大八事件によって状況が一変した。岡本大八事件は本多正純の寄力の岡本大八(洗礼名パウロ)が、恩賞斡旋を名目に有馬晴信から多額の金品を詐取した収賄事件である。晴信は甲州に配流された後に自害させられた。大八は駿府阿倍河原で火刑に処せられた。晴信も大八も切支丹であり、江戸幕府のキリスト教禁教の動きが加速化した。

 

有馬藩は晴信の息子の直純が藩主になった。直純は江戸幕府の禁教令に従って改宗し、領内の切支丹弾圧に転じた。セミナリヨや教会、修道院は没収・破壊された。レオ林田助右衛門はアドリアノ高橋主水、レオ武富勘右衛門と共に棄教を拒否した。

 

レオ林田助右衛門と妻のマルタ林田や娘のマグダレナ林田一九歳、息子のディエゴ林田一二歳らは慶長一八年(一六一三年)一〇月七日に有馬川の中州で火刑にされた。

「子よ、天を仰ぎなさい」

マルタ林田は燃え上がる炎と煙の中で子ども達を励ました。

ディエゴ林田は「イエス、マリア」と唱えつつ息絶えた。

マグダレナ林田は火刑に際して自ら燃える薪を手にして頭にやり、右手で頭を支え神にその身を捧げた。林田一家らの殉教は集まった人々に感銘を与え、逆に人々の信仰心を強くした。江戸幕府は慶長一八年一二月一九日(一六一四年一月二八日)に直轄地に適用されていた禁教令を全国に拡大する。ここには林田一家らの殉教への反応も一因になった。

 

この殉教はイエズス会士による報告書(年報)でも伝えられ、ヨーロッパにも知られた。ローマ教皇庁は二一世紀に入り、レオ林田助右衛門らの殉教者を「ペトロ岐部と一八七殉教者」として福者に列した。列福式を二〇〇八年一一月二四日に長崎で開催した。日本国内初の列福式であった。近世日本の切支丹弾圧はグローバルな関心事である。レオ林田助右衛門は世界的に見れば最も著名な林田氏になるだろう。

 

有馬直純は慶長一九年(一六一四年)に日向国延岡に転封になるが、旧領では新しい領主・松倉重政や勝家が切支丹弾圧を続け、年貢の厳しい取立てなどの苛政も加わった。これが日本最大規模の内戦・一揆である島原の乱の原因である。有馬家は幕府軍として出陣した。家臣の林田弥野左衛門が討ち死にした。

 



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林田左門

林田左門(林田内膳)は戦国時代から江戸時代にかけての兵法者である。林田隠岐守の子孫は何家にも分かれ、左門の家は戦国大名有馬氏の家臣になっていた。左門の父は有馬晴信に仕えていた。

 

隣の佐賀では龍造寺隆信が勢力を拡大していた。隆信は肥前統一の戦いに邁進していた。天正六年(一五七八年)には有馬領に攻めてきた。その戦争で父は戦死し、晴信は降伏する。

 

晴信は龍造寺に臣従することで命脈を保ったが、左門の家は切り捨てられた。母は実家に戻り、左門は流浪の旅に出た。目指すは剣客である。左門には剣術の才能があり、既に有馬家の中ではちょっとした神童扱いになっていた。左門は武者修行の旅を続け、越前国に至る。

 

越前国で冨田勢源(とだせいげん)に出会い、師事する。勢源は冨田流の創始者である。この冨田流は後に戸田流と称されることになる。勢源自身は中条流の継承者と位置付けていた。イエス・キリストが自身をキリスト教徒、仏陀が自身を仏教徒と位置付けていないことと重なる。中条流も戸田流も小太刀が有名である。左門も小太刀を得意とした。

 

左門は勢源に学んだ後、再び武者修行を続けた。左門は剣客同士で慣れあうことはしなかった。武者修行を続けた左門は兵法者として名前が知られるようになった。格別に珍奇な手法を弄する訳ではなく、ごく簡単にあっけなく勝負をつけた。

 

兵法者として有名になった左門は、あちこちの大名から招かれたが、仕官は長続きしなかった。左門には主君を選ぶ戦国時代の気風を持っていた。有馬家から切り捨てられた不信感が根底にあった。最後に仕えた主君が黒田長政である。

 

林田左門を黒田家で有名にした逸話が足軽六人斬りである。左門は黒田家で物頭を命じられた。これは足軽の頭である。足軽と言うと江戸時代は最下級の武士で、上士から見たら武士とも言えない連中と蔑まれる悲哀のイメージがある。しかし、戦国時代は実働戦力の中心であり、江戸時代初期までは荒くれ者の気風があった。

 

「大変です。長兵衛ら六人が人を殺ししました」

林田左門に配下の足軽六人が人を殺して出奔したとの報告があった。

「今はどこにいる」

「佐賀に向かって逃げているようです」

それを聞くと林田左門は足軽達を馬で追いかけ、途中で追いついた。とはいえ左門は一人、足軽達は六人である。剣術の達人でも六対一は容易ではない。

 

左門は静かに馬から下りて言った。

「その方達六人同じく人を殺すといえども必ず罪に軽重があるだろう。六人が皆、同罪ということはない。拙者がここへ来たのはその是非を明らかにしようと思うためである」

 

左門が足軽達に歩み寄ったところ、最も近くにいた足軽の一人の心は得体の知れない恐怖に包まれた。彼は訳も分からぬまま、刀を抜いて斬りかかった。林田左門は刀に手をかけず、表情を変えず、足も動かさずに「軽率な振舞いをするな」と言った。近くに来ると「無分別者め」と言って抜くや否や斬り伏せた。

 

「落ち着いて我が言葉を聞け。敵対する故に斬ったのだ。敵対しなければ斬りはせぬ」

ところが、また一人斬りかかってきたため、「馬鹿者め」と言って斬り伏せた。

 

左門は、わざと後退し、足軽が踏込むところを避け、その後に斬り伏せた。これは足軽達に気を緩めさせ、一度に斬ってかからせないようにした策略であった。このようにして一人ずつ斬っていった。足軽四人を斬り殺し、二人を負傷させた。負傷者は帯で縛って連れ帰った。

 

林田左門の戦い方は、集団に一人で戦うための実践的な戦術であった。斬りあいせず、一太刀で切り殺す点も迅速に複数人を相手し、刀を消耗させないための実践的な方法であった。ところが、武士道が精神論になりつつあった江戸時代には批判も生じることになる。

 



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根性論の否定

兵法者は脳みそ筋肉のような存在ではない。兵法者は家中でも頭脳派の位置づけで、精神論根性論を戒める立場であった。左門を含む家臣が六人ほど集まって雑談したことがある。その中の一人の若侍が兵法を無用する根性論を言い出した。

「兵法は武士の勤めるべき道には相違ないが、これを習わなければ武道が成就しないという限りもあるまい。心が臆していなければ、兵法を知らなくても功名は出来るだろう」

 

兵法家の左門として聞き捨てならない発言である。これまでも精神論根性論を軽蔑し、批判してきた。反論しない訳にはいかない。

「心が剛なる上に兵法が優れていれば鬼に金棒になる」

「心が動かなければ、木刀仕合であっても、負けることはござるまい。仕合を致して見たい」

「それはよい心掛けじゃ、いざまいろう」

「心得た」

 

根性論者は座を立って庭に飛び下り、庭木に添え木として結びつけた長さ一間ばかりの丸太を引き抜いた。

「これにてお相手をつかまつろう」

左門も座敷を立って縁を見ると、小木刀があったので持ち、庭に下りた。

「力いっぱい来い。油断するなよ」

「言うまでもござらぬ」

 

根性論者は丸太を振り上げた。左門は小木刀をさげた。根性論者は前進し、力一杯打ち込んで来た。左門は素早く避け、飛びちがいざまに小木刀で根性論者の額を打った。根性論者は呻いた。その額は見る見るうちに腫れ上って来て血もにじみ出してきた。

 

「だから油断するなと言っただろう。まだ納得できなければ、もう一仕合まいろうか」

左門は話しかけた。

「いや、もう沢山」

根性論者は苦しそうに呻き、丸太を投げ捨ててしまった。

「心だけでは勝てないだろう」

「如何にも」

根性論者は最初の勢いはどこかに消え、しょげ返っていた。小木刀で丸太に勝つという得物の長さと勝敗が逆転している。小太刀の名手の面目躍如である。左門は兵法を無視して心だけで勝とうとする精神論根性論を批判する。兵法は効率的に勝つという精神論根性論のアンチテーゼである。

 

この話を藩主の黒田長政は後日聞いて、根性論者を呼び出した。

「その方は、左門と木刀仕合をして負けたということだが、果してその通りか」

「御意の通りでございます」

「若い者にはその位の勇気がなくてはならぬ。左門であろうとも、打ち込んでやろうという勇気は感心なものだ」

長政は称賛した。

「林田左門は世間に知られた兵法の名人であり、負けたことは恥ではない。これから左門の弟子となって兵法剣道を学ぶが良い」

根性論者は長政の有難い言葉に涙をこぼした。すぐに左門のところに行き、子弟の契約をなし、昼夜勉励したところ、剣術の上手になった。

 

左門は筆頭家老の栗山大膳(栗山利章)の前でも個人主義を貫いた。元和五年(一六一九年)のある日、左門と大善が語り合った。二人の前にはミカンが鉢に積まれて置いてあった。この年は福島正則が改易になり、戦国の気風は急速に失われていった。

 

話が盛り上がった後で林田左門は左手に刀を持ち、右手を畳に付けて言った。

「俺は先に帰る」

「俺も行くから、少し待て。一緒に行こう」

 

大善は皆から重んじられた有力家臣であったが、林田左門は大善の言葉を無視して、そのまま去った。大膳はミカンを一つ取って言った。

「先に帰るならば、これを投げるよ」

「それは迷惑なことだ」

 

大膳は左門にミカンを投げつけた。林田左門は身を少しひねり、刀の柄でミカンを払ったところ、ミカンはコロコロと転がった。大膳と林田左門は一緒に笑った。

 

後に大膳は黒田騒動の中心人物になる。大膳は寛永九年(一六三二年)に藩主黒田忠之の失政を批判して幕府に訴え出た。幕府の裁定で黒田家は存続、大膳は陸奥盛岡藩南部家に預けられることになる。黒田騒動と伊達騒動、加賀騒動、仙石騒動の中の三つが三大お家騒動である。三大なのに候補が四つある。

 



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脱藩計画

左門の下には多くの黒田藩士が刀術を学びにきた。その結果、藩内の他の師範が閑古鳥になった。このために師範達は左門が悪意の企みを謀っているとの悪評を流した。個人主義者の左門は村社会的な馴れ合いを好まない。関係が悪化した左門は福岡を出て豊前国小倉藩の細川家を頼ろうとした。細川家が肥後熊本藩に移るのは寛永九年(一六三二年)であり、この時点では小倉藩であった。

 

主家を見限って他家に移ることは戦国時代ならば珍しくない。戦国時代を生きてきた武士には「君、君たらざれば、臣、臣たらず」の意識がある。しかし、江戸時代は許されなくなっていた。先祖代々「お家」に仕える時代になってきた。

 

左門の脱藩計画は露見し、身柄は菅和泉(菅正利)に預けられた。菅は黒田二十四騎の一人である。関ヶ原の合戦では鉄砲隊を率いて島左近を討ち取った。菅は林田左門の刀脇差を預かり、一間を堅固に囲んで押し込めた。左門と菅は師弟関係で特に親しかったので、預けたという。

 

左門は一切語らなかった。完全黙秘である。細川に内通して小倉に行くつもりと決めつけられ、左門を牢屋に入れることになった。

 

既に左門を一間に押し込めているが、牢屋に入れるとなると一苦労である。捕らえ損ね、逃がしてしまったならば外聞が悪い。藩士の中で腕に覚えのある後藤金右衛門と林仁左衛門の二人で捕らえることになった。二人は左門がいる部屋に入り、外から錠を下ろさせた。二人がかりで捕まえようとしたが、左門はするすると逃げる。狭い所を三人で立ち騒いだが、まるで捕まらず、二人は疲労が見えてきた。

 

「仮にこの二人を殺しても他の奴が来るだけだから、逃げられない。罪作りに科のない者を殺すのも、無益なことだ」

このように思った左門は座り、捕らえられた。

 

「いつも用心のために、木爪の大楊枝を一本懐中しているが、今再三探っても見当たらん。この楊枝があったら、お前らの命は危うかったろう」

左門は二人に語った。ところが、着替える時に、その楊枝が出てきた。

 

左門は宝満山の麓の牢に入れられた。宝満山は福岡の南東にある。全山花崗岩で、修験道の霊峰である。元和七年(一六二一年)に外から槍で突きさされ、殺害された。林田左門は天下に知られた名高い兵術の名人なので、世の聞こえを憚って密かに殺された。同じ元和七年には徳川家康の側室の茶阿局や織田長益(織田有楽斎)が亡くなっている。

 

林田左門の剣術は戸田流林田派として残った。備後三次藩の御普請奉行の宮田忠左衛門は戸田流林田派の継承者の一人である。忠左衛門は万治三年(一六六〇年)、三次藩初代藩主の浅野長治に極意を伝授した。長治の娘の阿久里は播磨赤穂藩主浅野長矩の正室である。

 

文政年間には奥州胆沢郡の医者の藤木道満が戸田流林田派の継承者になった。道満は子分を抱えた義賊であった。子分の一人の「鬼の目」太蔵が飛騨で荒らしており、飛騨郡代の息子の高柳又四郎が追っていた。しかし、又四郎は道満と会い、盗賊の追及を止めて道満に師事する。やがて道満から戸田流林田派の免許を受けた。

 



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室町時代の林田郷

播磨国揖保郡林田郷は室町時代には播磨国守護赤松氏の勢力下になった。赤松氏は室町幕府草創期に赤松円心(則村)が足利尊氏を支えた。円心は鎌倉幕府打倒に尽力したが、建武の新政では不遇であった。このため、尊氏が建武政権から離反すると、足利方として戦った。

 

この功績により、赤松氏は室町幕府で三管四職の四職の一つとして重きをなした。三管は管領に就任できる守護大名であり、斯波・細川・畠山の三家である。四職は侍所所司に就任できる守護大名であり、赤松・一色・山名・京極の四家である。

 

赤松氏の家臣の喜多野新左衛門忠助が応永年間(一三九四年から一四二八年)に林田郷に入った。忠助は林田町上伊勢に空木城(うとろぎじょう)を築いた。

 

赤松満祐は嘉吉元年(一四四一年)に嘉吉の乱を起こし、将軍足利義教を殺害する。満祐は播磨国の本拠地に戻って抗戦した。山名宗全の軍勢が攻めてきた。林田郷の空木城には小野七郎右衛門が入って山名勢に抵抗した。最終的に山名勢に鎮圧され、赤松氏は断絶し、山名氏が播磨・備前・美作守護になった。

 

赤松氏の遺臣は長禄元年(一四五七年)の長禄の変で後南朝から神爾を奪った。その功績で長禄二年(一四五八年)に満祐の弟の孫の赤松政則を当主とする赤松氏再興が許された。政則は応仁の乱で細川勝元方に与し、山名氏から播磨国を取り戻した。

 

林田町松山には松山城が築城された。永正年間(一五〇四年から一五二一年)は赤松氏の被官の衣笠長門守村氏が城主であった。同じく永正年間には赤松氏の被官の谷沢甲斐守国氏が林田町林田に窪山城を築城した。同じ赤松氏の被官と言っても、国氏は村氏の影響下にあった。

 

永正一五年(一五一八年)に備前守護代の浦上村宗が主君の赤松義村と対立し、居城である備前三石城に退去する。村氏は村宗の姪婿であり、村宗に同調して赤松氏から離反する。国氏も村氏に従った。しかし、松山城も窪山城も赤松義村に攻められて落城した。

 

その後も浦上村宗と赤松義村の抗争は続き、最後に村宗は義村を室山城に幽閉し、謀殺した。村宗は赤松の跡目に義村の嫡子才松丸(政村)を擁立し、その後見人となり、赤松家の実権を握った。しかし、政村との抗争が表面化し、享禄四年(一五三一年)の大物(だいもつ)崩れで、政村の攻撃を受けて戦死した。

 

その後は宇野氏の勢力が伸び、長水城主・宇野政頼は四男の宗祐を本郷祐義の養子とし、松山城主とした。織田信長は羽柴秀吉に中国攻めを命じ、天正五年(一五七七年)から播磨攻略が始まった。宇野政頼も本郷宗祐も秀吉に抵抗したが、天正八年(一五八〇年)四月に小寺官兵衛孝高や神子田半左衛門の軍勢に攻略された。秀吉は降伏した宗祐の所領を取り上げ闕所(欠所)とした。家来など下々のものは奉公させ、難所整備の労役を課した。

 

秀吉は信長の命によって播磨国の検地を実施し、支配拠点として姫路城を築城し、浄土真宗の寺内町だった英賀から町人を呼び寄せ、城下町を整備した。空木城も松山城は城割令によって廃城になった。秀吉は播磨から西の毛利領に進軍した。

 



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林田藩

播磨国揖保郡林田郷は江戸時代には一万石の林田藩が成立する。林田藩は建部氏が代々藩主となった。建部氏は近江佐々木氏の庶流と称した。家紋は「三ツ蝶」である。林田氏の初代・林田肥後守泰範の祖父は近江国守護・佐々木定綱の被官であった。林田と佐々木氏には縁がある。

 

林田藩主の話は、初代藩主建部政長の二代前の建部寿徳から始まる。建部寿徳は近江国の戦国大名・六角氏の家臣の家に生まれた。兄が六角氏の家臣に殺害され、その敵を討って出奔した。この敵討ちの功績により、織田信長に召し抱えられた。兄の敵討ちで名を馳せたとなると豪の者のイメージになるが、そのような単純な話ではない。むしろ、建部寿徳は物資の荷扱いや兵糧・弾薬などロジスティックス(兵站)で活躍した。織田家では最初に中川重政の配下になり、続いて丹羽長秀の配下になった。

 

織田家の天下統一が近いと思われていたが、仰天の出来事が起きる。天正一〇年(一五八二年)の本能寺の変である。信長の重臣の明智光秀が謀反を起こし、本能寺に宿泊中の信長を襲った。信長は本能寺の変に際して「是非もない」と言っただけで感情をほとんど表に出さなかった。僅かに眉毛を上げ下げするだけで表情を変えていた。最後まで真意を秘め続けたままの不気味さを醸し出していた。

 

明智勢に攻撃された本能寺は炎上し、爆発した。本能寺は寺というものの土塁を築き、それなりの要塞であった。火薬も保管しており、それが引火した。信長の遺体も爆発で四散し、本能寺の焼け跡から見つからなかった。

 

本能寺の変は日本史最大のミステリーである。明智光秀の動機や黒幕の有無などについて諸説が議論されている。光秀が謀反を起こした理由はいくつかある。中世の武士は御恩と奉公の関係にあり、家臣は自分達の領地が保障されるから主君のために戦う。その自分達の基盤さえ破壊しかねない信長の異常性(肯定的に評価すれば革新性)への恐怖感が根本原因である。信長は中世の日本において異質な存在であった。

 

光秀には土岐氏の美濃など一族故地での再興という理想があった。光秀は愛宕百韻で「時は今 雨が下しる 五月哉」と発句しており、土岐氏を意識していた。ところが、信長は重臣を遠国に転封する姿勢を示した。光秀は丹波国と近江国志賀郡を領地としていた。ところが、中国地方の毛利攻めに際しては、丹波国と近江国志賀郡の領地を召し上げ、まだ敵国である出雲国と石見国を切り取り次第とされた。これにより、一族故地での再興は絶望的になった。

 

光秀の動機には光秀が朝廷や室町幕府、寺社など旧来の権威を大切にしたが、それを信長が破壊しようとする説がある。ここから朝廷や足利義昭黒幕説も出てくる。しかし、光秀は信長の政策の忠実な実行者であった。故に信長から評価され、出世した。光秀を朝廷や室町幕府、寺社の利益代表と見ることは苦しい。

 

これに対して、室町幕府の守護大名・土岐氏の利益代表ならば自然である。室町幕府は守護大名の連立政権の色彩が強く、守護大名は室町将軍の臣下ながら自立的傾向が強かった。将軍と対立した守護大名は数多い。守護大名は領国支配を強化する中で朝廷や寺社の荘園とも対立した。信長が朝廷や室町幕府、寺社の権威を否定しても、光秀の危機ではない。

 

これに対して、信長が家臣の領地を勝手に召し上げ、遠国に転封することは、光秀の危機である。一生懸命の語源は一つの土地を守る「一所懸命」であり、中世的な武士は土地に密着した存在であった。一族故地での土岐氏再興にこだわることは、当時の武士にとって自然である。近世の大名鉢植え政策以前の本来の武士の姿がある。

 

一族故地での再興という動機は、本能寺の変後の光秀が生彩を欠いたことの説明にもある。光秀にとって重要なことは、一族故地での再興という地域課題であって、天下ではなかった。これが能力的には決して劣っていなかったものの、天下人となる秀吉との勝敗の差になったのだろう。

 

さらに信長の家臣達が光秀に味方しなかったことも、土岐一族のための謀反ならば納得できる。本能寺の変は守護大名による室町将軍への謀反と性質が類似するものかもしれない。本能寺の変後は、光秀に味方すると思われた与力大名の細川氏も味方しなかった。一族故地にこだわる光秀と、江戸時代には九州の大名になる細川氏の価値観の相違がある。

 

伝統的には領地替えは、羽柴秀吉が総司令官の毛利攻め担当と共に光秀が左遷や降格と感じて謀反を起こしたと説明される。確かに本能寺の変後の光秀の朝廷工作以外の動きの鈍さを考えると都と鄙の感覚が強そうである。

 

一方で光秀は惟任日向守の名乗りを与えられており、中国地方どころか九州攻めも担当することは認識していたのではないだろうか。また、現代では中国地方と一まとめになるが、当時は山陽道と山陰道は別の地方であった。出雲国と石見国の攻略を担当することが山陽道から毛利を攻略していた羽柴秀吉の管轄下になることを意味しない。

 

山陰道を過疎地と見ることも現代の視点である。山陰道は出雲大社があり、石見銀山もあり、貿易の拠点にもなる。文化的にも経済的にも重要な地方である。それ故に現代人的な感覚で左遷とすることは疑問である。

 

伝統的な謀反理由として大きなものに怨恨説がある。信長は光秀を「金柑頭」と罵倒し、殴りつける。侮辱し、領地召し上げなど嫌がらせを繰り返す。これは主君への謀反は余程のことであるという江戸時代の封建的価値観にマッチしていたために普及した。

 

現代では社会問題になっているブラック企業と重ね合わせて共感を集めている。信長の行為は現代的にはパワハラ(パワーハラスメント)である。光秀は屈辱のあまり、手の震えが止まらなくなる。これは現代的にはメンヘル(メンタルヘルス)に重なる。恨みが深まる要素として誰に対しても暴君ではないことがある。信長は千宗易には好きなことを言わせている。自らの美学を貫く宗易には寛容である。

 

これを光秀に期待しているために冷たい態度をとったと擁護するならば、パワハラ上司の事後的な言い訳と同じである。信長の真意が光秀に伝わることはないし、光秀が理解することもない。光秀は謀反を決意した瞬間に、手の震えが止まった。これは会社を休む、または辞めることを決意した途端、心身の不調から解放されるメンヘル患者に似ている。

 

光秀と信長は四国政策でも対立していた。四国は長宗我部元親が勢力を伸ばしていた。光秀は元親と友好関係を築くことで四国攻略を進めようとした。しかし、信長は元親を「鳥なき島の蝙蝠」と低評価し、対決姿勢をとった。阿波では三好康長が信長に降伏して長宗我部に対抗しようとしており、それを支持して四国攻略を丹羽長秀と織田信孝に任せ、光秀には山陰攻略を命じた。

 

信長からすると光秀に嫌がらせする意図はなく、単純に四国よりも山陰攻略が難しいと考えたから光秀に命じたのかもしれない。しかし、光秀からすれば既に準備に着手している四国攻略を進めた方がはるかに楽である。そこの理解がないことが問題になる。

 



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小牧・長久手の戦い

本能寺の変後は羽柴秀吉がいち早く中国大返しを行い、山崎の合戦を主導した。ここから関白就任、天下統一に至る過程は豊臣秀吉の絶頂期である。秀吉が最も輝いていた時期である。

 

寿徳は羽柴秀吉から引き抜かれて配下になった。秀吉は天下統一事業のために他家の配下で事務処理能力のある人物を引き抜いていった。秀吉の下で寿徳のロジスティックスの才能が十全に発揮されることになる。寿徳は摂津尼崎郡代として三万石の蔵入地の代官になり、尼崎港を管理した。自己は七百石を知行した。

 

秀吉は織田家の跡目相続と領地の配分を決める清須会議も主導し、信長の実質的後継者の立場を固めた。柴田勝家と羽柴秀吉、丹波長秀、池田恒興が天正十年六月二七日(一五八二年七月一六日)に清州城で会議した。

 

池田恒興は織田信長の乳兄弟であり、信長の最も信頼する家臣であった。林田藩の初代藩主は建部政長の母は恒興の息子の池田輝政の養女である。恒興は後に長久手の戦いで討ち死にするために二線級の武将とされがちであるが、徳川家康が強過ぎると見るべきだろう。次代の池田輝政は江戸時代に一族合わせて百万石を誇った。

 

会議は勝家対秀吉、長秀、恒興の連合と描かれることが多い。秀吉、長秀、恒興は山崎の合戦を一緒に戦っており、話がついていたとされる。後の歴史を知る立場としては長秀や恒興が秀吉に味方をすることは織田家を危険にする愚策になる。

 

しかし、この時点では勝家は筆頭家老として強大であり、勝家の好きにさせた方が織田家を傀儡にすると考えただろう。勝家は忠義の人と見られがちであるが、信長の才覚に服していた。元々、信長がうつけと思っていたら謀反を起こした下剋上の武将である。信長の息子達にも同じ忠義が続くとは限らない。

 

清須会議の後に秀吉と勝家の対立が起こり、秀吉は勝家を賤ケ岳の戦いで破り、滅ぼした。信長の息子の織田信雄は主家をしのぐ秀吉の勢力拡大を脅威と感じ、秀吉と戦うために三河の徳川家康に援助を求めた。天正一二年(一五八四年)、家康は一万五千の兵を率い、清須城へ入り、信雄と合流した。これに対して秀吉は軍を率い、小牧・長久手の戦いが始まる。

 

小牧・長久手の戦いの重大局面が天正一二年四月九日(一五八四年五月一八日)の長久手の戦いであった。羽柴軍と徳川軍は小牧で睨み合っていたが、池田恒興が別動隊を率いて家康の本拠地の三河を攻撃することを献策した。秀吉は許可し、恒興、森長可、堀秀政、羽柴秀次を別動隊とした。

 

ところが、家康は別動隊の動きを見破っており、逆に別動隊を背後から襲った。羽柴秀次を白山林の戦いで撃破した。続いて堀秀政を桧ヶ根の戦いで攻撃したが、ここでは反撃されてしまう。反撃には成功したものの、堀秀政は撤退する。

 

家康は最後に長久手の戦いで恒興と長可を攻撃する。長可は井伊直政隊に狙撃されて討ち死にした。これで徳川が優勢になった。森長可は本能寺の変で討ち死にした森蘭丸、坊丸、力丸の兄である。恒興は永井直勝の槍を受けて討死にした。息子の池田輝政は逃げ延び、池田家の家督を継承した。この池田氏は林田藩主・建部氏と関係が深い。

 

恒興と長可の戦死は秀吉にとって打撃である。もっとも秀吉方の武将と言っても織田信長の有力家臣であり、秀吉に対して同僚意識を持っていた。特に恒興は織田信長の乳兄弟である。彼らの戦死は秀吉の政権基盤の確立の上ではプラスになった面があるだろう。

 

長久手の戦いは家康の戦上手を印象付けた。家康が秀吉に戦で負けなかったことは、後の豊臣政権下での家康の地位向上になり、秀吉没後は天下人に押し上げた。

 



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ロジスティックス

豊臣政権の空前絶後なところは奉行衆による統一的なロジスティックスである。天下人は諸大名に号令して戦を行う。しかし、その実態は秀吉と他の天下人で相違があった。秀吉の場合、兵三百を出せと言われたら、大名は基本的に兵三百を出した。

 

ロジスティックスは石田三成ら奉行衆が手配した。その代わり米を某所に送れ、材木を某所に送れと命じられた大名もいた。この統一的なロジスティックスは九州征伐や小田原征伐では成功した。天下統一までの秀吉は神がかっていたと言われるほどである。

 

秀吉は「唐入り」(朝鮮出兵)を始める。前線基地として肥前に名護屋城を築城し、寿徳は普請奉行になった。朝鮮出兵は大義なき戦であった。徳川家康は渡海せず、秀吉を諌める側に回った。家康が朝鮮出兵に消極的であった背景には、無益な戦で自己の勢力を消耗したくないという動機があった。

 

出兵しなかったことによる勢力温存は家康の天下取りに寄与することになる。さらに徳川家が朝鮮に出兵しなかったという事実は李氏朝鮮との修交にも役立った。不幸な歴史が強調されがちの日朝関係であるが、その中で江戸時代は友好関係が築かれた時代として評価されている。朝鮮出兵に対する家康の消極的姿勢は大きな意味があった。

 

この朝鮮出兵では統一的なロジスティックスは破綻した。破綻した理由はある。唐入りは秀吉本人が陣頭指揮する計画であったが、諸事情で渡海はなされなかった。現地最高指揮官不在で物事を進めなければならないため、統一的なロジスティックスが上手くいかないことは当然である。また、海上輸送に不安がある状況では計画通りの輸送にならない。

 

一方で、そもそも大軍勢を統一的なロジスティックスで回すことに無理があるという考えもある。中央集権的な全体最適よりも部分最適の方が効率的な資源の配分になる。同時代のヨーロッパでは連隊レベルでロジスティックスを回した。ナポレオンによって師団が生まれ、ロジスティックスは師団レベルで回すようになり、現代に至っている。

 

机上の計画を押し付けようとする官僚的な発想には反発が出るだろう。上から目線で余っていそうなところから足りなそうなところに回すようなことを命じても、現実は上手く回らない。諸大名から反発を受けるだろう。この公務員的な計画押しつけへの反発は、後に加藤清正や福島正則らと石田三成の対立の一因になる。性格的に合わないだけでなく、ロジスティックスが回らなかったことへの現場の武将の怒りがあった。

 

加藤清正や福島正則らと石田三成の対立は武断派と文治派の対立と呼ばれている。この表現には違和感がある。武断派と文治派の命名では脳味噌筋肉・体育会系の武断派よりも文治派の方が正しいように感じてしまう。

 

むしろ、実態は現場派と官僚派の対立ではないか。官僚派の要求には現場から見ると無意味無駄で嫌がらせとしか思えないことがある。机上で考えた全体最適が現場の部分最適を破壊することはある。それに対する反発は理解できる。

 

豊臣秀吉は竿入検地を行うなど強力な中央集権を志向しながら、官僚組織は整備しなかった。石田三成ら五奉行のような能吏は存在したが、あくまで個人の有能さに依拠していた。秀吉は独裁体制を志向していた。自分や秀頼が官僚組織に担がれるだけの存在になることを恐れたと考えられる。

 

後の歴史を知る人からすれば徳川家康を五大老筆頭にし、政務を委ねたことは危険極まりない悪手に見えるが、秀頼が官僚組織に担がれるだけの存在になることを先ず避けようとしたと考えると納得できる。

 



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秀吉の死

豊臣秀吉は慶長の役の最中の慶長三年(一五九八年)に亡くなる。朝鮮には加藤清正ら日本の大軍が出兵中であった。既に泥沼の戦いになっていたが、秀吉の死が知られれば朝鮮側が大攻勢をかけることが予想された。このため、朝鮮に出兵中の将兵を速やかに撤退させることが政権の課題であった。戦争でもビジネスでも投資でも撤退戦が最も難しい。

 

徳川家康が筆頭大老として天下を預かった。家康は朝鮮からの撤兵という難題を石田三成に押し付けた。諸大名は順次、釜山から博多へ帰着した。

 

三成は朝鮮から撤退した福島正則ら武断派諸将を出迎えたが、ここでひと悶着があった。三成は諸将に疲れをとるために湯につかることを勧める。これに対して、諸将は「それほど自分達は臭いのか」と怒りを大きくする。三成に悪気はないとしても、相手の心を読まない自分勝手な配慮の押しつけが反発を招いた。

 

撤退が一段落すると三成は清正に貸米の返済を催促した。補給もままならない朝鮮で戦っていた清正には酷な要求であった。清正は状況を無視した三成の要求に激怒する。徳川家康は金がない大名に金を貸していた。三成よりも家康に人心が集まることは自然な成り行きであった。

 

しかし、三成には三成の考えがあった。秀吉子飼いの大名である清正を優遇するような対応をしたら外様大名に示しがつかないとの考えである。この公正さは現代に求められている。日本では人情味ある解決がもてはやされがちであるが、それは往々にして外部に負担と我慢を押し付けた身内優遇、既得権擁護になりやすい。それよりは機械的な合理主義の方がまだ公平である。

 

三成と清正では三成の方が官僚的とするイメージがある。しかし、ここでは清正の方が世間の非常識を押し通す公務員感覚の存在になる。二十世紀と異なり、二一世紀に三成の人気が高まった背景には、この点があるかもしれない。

 

徳川家康は、三成が朝鮮出兵の後始末で伏見を離れた間に禁止されていた大名との婚姻など自派の勢力拡大を推進する。福島正則も徳川家と縁組みした。それが後ろめたくて正則は三成から逃げ回っていた。家康の振る舞いは石田三成らには、天下への野心をあらわにし、豊臣家の権力を簒奪する動きに見えた。ここに徳川家康と石田三成の対立が生じ、諸大名は徳川派に属すか石田派に属すか態度を迫られることになる。

 

本来の対立軸は徳川派と、それに抵抗する反徳川派であった。家康の専横に義憤を抱く人々と長い物には巻かれる人々の対立になる。前田利家は豊臣秀頼を擁して大阪城に入った。伏見の家康派と大阪の利家派に分かれて緊張が高まった。

 

ところが、官僚的支配を志向する石田三成への反感が大きく、石田派と反石田派という対立軸に陥りがちであった。これは前田利家の没後に顕著になる。利家が生きていたならば家康の好きなようにはならなかっただろう。この点の三成の無念は十分に理解できる。

 

朝鮮出兵の対応などで三成に不満を持っていた尾張清洲城主・福島正則、肥後熊本城主・加藤清正、三河吉田城主・池田輝政、丹後宮津城主・細川忠興、甲斐甲府城主・浅野幸長、伊予松山城主・加藤嘉明、豊前中津城主・黒田長政の七将は大阪城下の三成の屋敷を襲撃する。これに対して三成は襲撃を察知し、島清興らと佐竹義宣の屋敷に逃れた。

 

そこから伏見に逃れ、伏見城に籠城した。伏見城の守りは固く、戦意は十分であり、戦えば七将の軍勢の撃退も可能であった。襲撃に対して醜態をさらした訳ではなかった。多くの歴史作品では窮地に陥った三成が徳川家康の屋敷に逃げ込んだと描かれる。しかし、これは俗説である。

 

「三成は、かねて昵懇の佐竹義宣の助けをえて大坂をのがれて伏見に至り、伏見城内にある自己の屋敷に立て籠もった。そして三成を追って伏見に来った加藤らの武将たちの軍勢と、伏見城内にある三成と城濠を間にして睨みあいの状態となった」(笠谷和比古「豊臣七将の石田三成襲撃事件 歴史認識生成のメカニズムとその陥穽」国際日本文化研究センター紀要22巻、2000年、35頁以下)

 

その後、家康が仲裁に入り、三成は五奉行を罷免され、居城の佐和山城に隠居することになった。三成は政治的に敗北した。

 



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上杉征伐

三成の失脚によって家康は益々専横を強めた。家康は国許にいた五大老・上杉景勝に「謀反の疑いあり」と言いがかりをつけた。上杉家執政の直江兼続は返書で毅然と反論した。これが有名な直江状である。

「景勝心中毛頭別心これなく候へども、讒人の申成し御糾明なく、逆心と思召す処是非に及ばず候、兼て又御等閑なき様に候はば、讒者御引合せ是非御尋ね然るべく候、左様これなく候内府様御表裏と存ずべく候事」

豊臣恩顧の大名でも天下の形勢を考えて家康になびく人が少なくない状況で、ここまで言い切る兼続には清々しさが感じられる。

 

一方で直江状にも「上方の武士は今焼・炭取・瓢べ以下人たらし道具御所持候、田舎武士は鉄砲弓箭の道具支度申し候」と茶道のような文化を軽視する文言がある。文化を重視する諸将には直江状も千利休を切腹に追い込んだ官僚的支配と同一のものに見えてしまう。官僚的支配を嫌う人々は家康の側に立った。しかも、家康に味方した人々にとって皮肉なことに、江戸幕府も個々の自由を尊重する体制ではなく、豊臣政権よりも締め付けが厳しい面もあった。

 

家康は上杉景勝を謀反と断定し、上杉征伐を諸大名に号令した。上杉征伐は豊臣家の事業として進めたが、家康は秀吉が行ったような統一的なロジスティックスは無理だと考えた。そこで上杉征伐ではロジスティックスは各大名に任せた。

 

ロジスティックスを各大名に任せるならば、大名家毎に自己完結させる必要がある。諸大名は兵を出すだけでなく、ロジスティックスも考慮しなければならなくなった。その結果、その準備で出陣が遅れた大名家が出た。小早川家や長宗我部家、脇坂家らである。大名ではないが、建部家もその一つである。

 

家康は見切り発車で出陣した。その間に上方で三成が挙兵し、出陣が遅れた大名は西軍に取り込まれてしまった。家康にとって三成の挙兵は織り込み済みであった。このため出陣が遅れた大名は葬り去るつもりであったが、想定よりも西軍が大軍になって狼狽することになる。

 

三成だけでは、あそこまで西軍は大軍にならなかっただろう。そこには大谷刑部吉継プロデュースの功績がある。三成と吉継は刎頸の交わりである。吉継は、らい病(ハンセン病)を患っていた。茶会で三成と吉継が同席した際に吉継の茶碗を三成が飲み干したことがある。

 

三成と茶では秀吉と最初に出会った時の有名なエピソードがある。喉の乾いた秀吉に、まずは飲みやすい温めの茶を出し、渇きが癒えた後は熱い茶を味わってもらった。この才覚に感心した秀吉は三成を家臣にした。三成は千利休との対立から茶の湯に厳しいと見られがちであるが、相手に快適さをもたらすという茶の湯の本質をつかんでいると言えるかもしれない。

 

大阪城に入った三成は徳川方に味方した大名の妻子を人質として大坂城に集めようとし、細川屋敷にも兵を送る。ここで細川ガラシャの悲劇が起きた。ガラシャの夫の細川忠興はガラシャに執心で嫉妬深かった。ガラシャの美しさに見とれた植木職人を手打ちにしたとの逸話もある。忠興はガラシャに「人質にされるくらいならば自害しろ」と命じていた。しかし、単に夫の物として夫の言葉に従った訳ではない。忠興の真心に接したガラシャは忠興の妻として生きることを決意し、それが壮絶な最期につながった。細川家に殉じるという封建的な行動でありながら、愛を原理として主体的に意思決定する女性であった。

 

三成の挙兵は上杉征伐に従軍している諸大名のロジスティックスにも問題を生じさせた。西軍は大阪を掌握しており、九州の黒田長政や四国の藤堂高虎、加藤嘉明のように領地が大阪の先にある大名にとって敵地を通る輸送は絶望的である。それどころか、細川家は領地が西軍に攻め込まれた。このような状態ではロジスティックスを大名任せにできない。徳川家が差配せざるを得なくなった。

 

それでも豊臣家のように奉行衆が諸大名のリソースを一元管理して差配することは採り得ない。奉行衆に匹敵する事務処理能力を持った家臣団はいないし、そのような方法自体が朝鮮出兵への破綻から反感を抱かれている。そこで家康は斜め上の解決策を採る。

 

東海道の諸大名の領地を徳川家が預かることでロジスティックス問題を解決した。自分の領土のことであり、徳川家が一元的に管理できる。これは山内一豊が小山評定で、真っ先に自分の居城の掛川城を家康に提供すると発言したことで実現した。単なる心意気を示す精神論ではなく、ロジスティックス上の意味があることであった。

 

ロジスティックスを大名任せとする方針は江戸幕府の方針になった。例えば参勤交代がある。その代わり幕府は街道という各大名のロジスティックスのためのインフラを整備した。徳川家光と大名の関係は家康の頃以上に専制君主的なイメージがあるが、間接支配という点は本質的に共通する。豊臣政権と徳川幕府を比べると、前者の方が中央集権的で、後者の方が間接支配的である。それはロジスティクスの点から説明できる。

 



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安濃津城の戦い

建部寿徳は秀吉の死後、豊臣秀頼に仕えた。完全に隠居しなかったものの政務は息子の光重にシフトしていった。慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いでは光重が兵を率いて出陣した。元々、徳川家康の上杉征伐に従軍する予定であったが、準備が間に合わず、そうこうしているうちに石田三成が挙兵して西軍に取り込まれてしまった。

 

建部光重は最初に伏見城の戦いに駆り出された。徳川家が預かっていた伏見城を西軍に奪還する戦いである。攻め手は宇喜多秀家、小早川秀秋、大谷吉継、毛利秀元、吉川広家、小西行長、島津義弘、長宗我部盛親、鍋島勝茂、長束正家ら総勢4万である。伏見城には徳川家康の家臣の鳥居元忠ら二三〇〇人が籠城していた。

 

西軍の降伏勧告を受けて、北政所の兄の子である木下勝俊は伏見城から退去した。これに対して鳥居元忠らは、降伏を頑なに拒否したため、西軍は慶長五年(一六〇〇年)七月一八日に総攻撃を開始した。兵力差は圧倒的であったが、伏見城は難攻不落の大阪城に匹敵する名城であり、西軍は攻めあぐねた。建部光重も兵を率いて城攻めに加わったが、無謀な攻撃は避けた。豊臣五奉行の一人・長束正家が城内の甲賀衆を調略し、裏切らせることで八月に伏見城は落城した。

 

伏見城落城後、建部家は毛利秀元を総大将とする伊勢平定軍に属した。長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親ら総勢三万の兵力である。秀元の軍勢は伊賀国から伊勢国に進出した。これに安濃津城主の富田信高が籠城して抵抗した。

 

会津征伐に向かっていた徳川家康の軍勢は石田三成の挙兵を知ると、三成への反撃のために反転した。上杉征伐に参陣していた信高は領地が西軍に近いため、真っ先に居城に戻って籠城戦に備えた。信高らは約一七〇〇人と寡兵であった。しかも、その城兵の八割近くが津町の義勇兵で、町民も籠城して戦った津町の総力戦であった。

 

安濃津は三重県津市である。伊勢湾に面し、古くから港町として栄えた。津は港という意味である。『廻船式目』の三津七湊の三津は安濃津、博多津、堺津である。これは室町時代に制定された日本最古の海洋法規集である。茅元儀『武備志』日本考の日本三津は伊勢国安濃津、筑前国博多津、薩摩国坊津である。これは明代の兵法書である。

 

津城は北に安濃川、南に岩田川が流れ、天然の外堀の役目を果たしていた。伊賀から進出した西軍は安濃川を渡ったと思われる。安濃川は三重県津市を流れ、伊勢湾に注ぐ河川である。塔世川とも呼ばれた。

 

江戸時代になると安濃川と伊勢街道の交わる場所に塔世橋が架けられる。伊勢街道は国道23号になる。塔世橋は第二次世界大戦の津空襲で爆撃被害を受けた。国道23号線を北に進むと津駅の近くに着く。

 

安濃津城の戦いは八月二三日に小競り合い、翌二四日朝に本格的な合戦が始まった。毛利勢や長宗我部勢は関ヶ原の合戦では遊兵となったが、安濃津城の戦いでは激しく戦った。吉川広家は関ヶ原の合戦ではサボタージュしたが、安濃津城の戦いでは武人の血が騒いで奮戦した。関ヶ原の合戦だけを見ると吉川家の努力に対して徳川家康は手のひら返しに見えるが、戦争全体を見ると毛利家は十分敵対的であった。

 

光重は激しく攻めた。安濃津城から富田信高が撃って出た。光重は後退しつつ、信高を包囲した。光重の槍が信高に迫ったが、一人の若武者が前に出て自分の槍で光重の槍を払った。そのまま光重と若武者は槍をかわした。その間に光重は退却し、若武者も退却する。

 

信高は家臣に若武者のような人物がいたかと不思議に思いながら城に戻った。遅れて戻った若武者を見ると、それは信高の妻であった。妻に命を助けられた信高であったが、後に妻の罪で改易されることになる。妻の甥の宇喜多左門は坂崎直盛の家臣を殺害したが、その左門を匿っていた。

 

城兵は奮戦したが、津の町も城の建造物も大半が焼失した。安濃津城は木食応其の調停により開城となった。それでも西軍を津で足止めした功績は大きい。もし西軍が伊勢を平定したら、尾張に攻め込むことができる。そうなれば関ヶ原で雌雄を決するという家康の構想自体が成り立たなくなった。

 

関ヶ原の合戦が東軍の勝利に終わると、安濃津城の戦いで抵抗した信高は加増された。開城しながらも西軍足止めが評価された点は京極高次と重なる。戦略目的があっての戦いであり、「生きて虜囚の辱を受けず」の軍国主義ではない。ひたすら根性で頑張る昭和の精神論でもない。

 

後の慶長一三年(一六〇八年)に富田信高は伊予宇和島藩に移封され、津には藤堂高虎が伊予国今治から入る。津藩は伊勢国と伊賀国の22万石である。大阪城の豊臣秀頼の抑えとして高虎が選ばれた。その後、津藩は32万3千石になり、幕末まで続いた。

 

津藩主となった高虎は津城を大改修し、輪郭式平城とした。本丸の東西の堀の中に東之丸と西之丸の郭を設けた。本丸・東之丸・西之丸を取り囲んで二の丸が配された。本丸には丑寅三重櫓、戌亥三重櫓、伊賀櫓、月見櫓、太鼓櫓があった。

 

津藩は津城と伊賀上野城を持つ。高虎は豊臣方への備えとして伊賀上野城を堅固な城にした。これに対して津城は居城であり、城下町の整備にも力を注いだ。伊予今治より高虎を慕って移った町人は伊予町に暮らした。

 



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関ヶ原の合戦

安濃津城を落とした秀元軍は決戦の地である関ヶ原に向かう。関ヶ原の合戦は大垣城に籠る石田三成らを野戦の名手の徳川家康が引きずり出した戦いである。西軍の本来の戦略は石田三成ら上方勢と上杉景勝で徳川家康の軍勢を挟撃することであった。

 

ところが、家康が上杉征伐を止めて西に反転しても、景勝は追撃しなかった。直江兼続は追撃を進言したが、景勝は「敵を背後から討つことは義に背く」と応じなかった。二人三脚で歩んできた主従の意見が対立した瞬間である。

 

ここには景勝の建前と本音がある。建前は、上杉家は家康に売られた喧嘩を買っただけというものである。会津を攻める気のない家康を追撃して奥州を混乱に陥れることは義の精神に反する。

 

本音は領土の平面的な拡大を狙い、家康の追撃よりも最上攻めを希望した。上杉家の領地は会津と庄内であったが、両者は最上家の領地で分断されていた。最上家を併呑すれば上杉領の飛び地を解消できる。本音には義という倫理性は後退するが、戦国武将らしさがある。現実に上杉家は家康を追撃せず、最上を攻めた。この結果、家康は上杉の追撃を恐れずに関ヶ原に専念できた。

 

秀元軍は九月七日に南宮山に着陣した。建部光重隊は南宮山の東端、名束正家隊の近くに布陣した。建部光重の陣に東軍の池田輝政から密使が来た。光重と輝政は縁戚関係にあった。光重の母親は本願寺僧侶・下間頼龍の娘で、池田輝政の養女であった。下間頼龍の妻は輝政の父の池田恒興の養女であった。

 

密使の話は「この戦は東軍が勝つから積極的に動くな。家康には輝政からとりなす」であった。建部家は元々、好んで西軍についたのではなく、上方にいたため、西軍につかざるを得なかった。また、西軍は指揮系統が一元化しておらず、東軍が勝つ可能性が高いためである。

 

九月一五日に天下分け目の関ヶ原の合戦になる。一五日の早朝は深い霧に包まれていた。東軍の松平忠吉と井伊直政の部隊が卯の刻(午前六時)過ぎに西軍の宇喜多軍に鉄砲を放った。これが開戦のきっかけになった。

 

建部光重隊の前には東軍の池田輝政隊が布陣した。これはやりにくい。建部光重隊は関ヶ原の合戦を傍観することになる。池田輝政隊も抑えとして布陣しており、積極的に攻める意思はなかった。

 

関ヶ原の合戦は、まるで新型コロナウイルス感染症(COVID-19; coronavirus disease 2019)パンデミックのNew Normalを反映したような戦いになった。西軍は軍議の参加率が低かった。外出自粛のためか、連絡が不安定なのか、それとも離反を決意したのか。

 

石田三成の家臣の八十島助左衛門はソーシャルディスタンスに配慮して島津義弘に馬上から伝令したが、逆に怒らせてしまい、心の距離をディスタンスさせてしまった。これに対して徳川家康のソーシャルディスタンスは成功した。小早川秀秋への寝返り催促は、感染対策に万全を期したためか声を出さず、距離のとれる鉄砲を発砲した。この結果、小早川ら西軍の武将がGo To東軍キャンペーンに参加した。

 

総大将の毛利輝元は外出自粛で大阪城から出てこない。毛利家先鋒の吉川広家は宅配業者に弁当を注文した。これによって南宮山の毛利秀元隊は吉川広家が動かなかったために参戦できなかった。結局、南宮山布陣組は戦争に参加することなく、勝敗が決すると無傷のまま戦場を離脱した。

 

小早川秀秋は松尾山に陣取ったまま動かなかった。家臣からどちらで参戦するか迫られたが、「どちらとも戦いたくない」と答えた。家康による鉄砲の一斉射撃後にようやく東軍で参戦した。ここから秀秋には卑怯な裏切り者や優柔不断の日和見というイメージがある。しかし、それは正しくない。朝鮮出兵では猛将と言える活躍をした。秀秋には元々、西軍に属する理由がなかった。石田三成には讒言によって領地を没収された恨みがあり、徳川家康には取りなしてもらった恩義がある。高台院も家康を支持していた。

 

それ以上に西軍とも東軍とも戦いたくないが本音になる。東西両軍とも昨日までは同じ豊臣政権の家臣だった。それが互いに戦わなければならないことが異常である。秀秋は戦国武将とは次の世代である。僅か七歳で丹波亀山城十万石の大名になっている。最初から豊臣政権の中の大名であった。豊臣政権の権威を当然として育った立場には敵味方に分かれて戦うことが信じられないことだった。秀秋は裏切りや日和見が東軍の武将からも軽蔑された。そこには世代ギャップもあっただろう。

 

三成は秀秋を味方にするために関白就任という餌を提示した。秀秋は関白に魅力を感じて、裏切を躊躇したとする説がある。しかし、秀秋にとって関白は必ずしも嬉しいものではなかった。秀秋と同じく秀吉の養子になった関白秀次は無残な最期になった。

 

秀秋は元々、秀吉の養子になったが、秀吉と淀の間に拾(後の秀頼)が生まれたことで事実上厄介払いされた過去がある。秀吉は当初、秀秋を毛利家の養子にしようとしたが、老獪な毛利輝元は上杉景勝に押し付けた。

 

秀秋は景勝の前で養子に出される悲しみを吐露した。一度養子に入った家から厄介払いのような形で養子に出される悲哀がにじみ出ている。その秀俊に景勝は自分も養子だったと語り、運命を受け入れるように諭した。普段は無口な景勝の説得は迫力があった。

 

景勝は実父・長尾政景を暗殺したかもしれない相手である上杉謙信の養子になった。謙信の養子になることには大きな葛藤があった筈である。この過去の重みがあるために「自分だって苦労した」という年寄り的な繰言とは一線を画す発言になった。

 

関ヶ原の合戦後の論功行賞は西軍に厳しいものになった。建部氏は所領を没収された。しかし、義父池田輝政の取り成しで許された。池田氏との関係が建部氏の力になった。ここから建部氏は池田氏の藩屏的な存在になる。

 



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建部政長

関ヶ原の合戦後も建部光重は豊臣秀頼に仕え続けた。息子の政長が慶長八年(一六〇三年)に生まれる。幼名は三十郎。後の林田藩初代藩主である。関ヶ原の合戦を知らない世代である。戦国時代は遠くなりつつあった。

 

光重は山城国の由岐神社の拝殿や摂津国の多田院、大和国の吉野水分神社など秀頼の寺社再興の作事奉行になっている。光重が奉行となった寺社は地盤を石垣で組むことなど共通の傾向があった。秀頼の寺社造営は秀吉の追善供養を名目とするが、黒幕は家康である。寺社仏閣建造による豊臣家の財源枯渇策の一環である。

 

徳川家康は慶長一〇年(一六〇五年)四月一六日に秀忠に征夷大将軍職を譲り、天下は徳川家で世襲することを明らかにした。これによって豊臣家と徳川家の緊張が高まり、不穏な空気が流れた。豊臣家と徳川家の緊張が高まる中、光重は慶長一五年(一六一〇年)に三三歳の若さで急死してしまう。豊臣家と徳川家の暗闘がストレスになったのだろうか。

 

政長は光重が亡くなった時に僅か八歳であった。このため、豊臣秀頼は建部氏の知行を没収しようとした。豊臣家は親の領地ということで子どもが継承することを必ずしも認めない。秀吉は丹羽長秀から丹羽長重、蒲生氏郷から蒲生秀行の代替わりでは領地を召し上げている。秀吉から見れば能力主義となるが、家臣から見れば安定性がない。この不安定さは、豊臣政権離れの一因である。豊臣恩顧の大名と言われるほど恩を感じられないのが豊臣政権であった。

 

安土桃山時代は中世と比べると中央集権的である。後の江戸時代と比べても中央集権的なイメージがある。実際は江戸幕府の方が織豊政権よりも強大な権力を有していたが、織豊政権は独裁者の恣意に振り回されたイメージがある。それが嫌われて織豊政権を短命にした。

 

政長は池田輝政を通じて徳川家康にとりなしてもらい、無事相続した。徳川家康は池田重利を政長の後見人とした。池田重利は下間頼龍の息子である。政長の母親は、本願寺僧侶・下間頼龍の娘である。

 

家康には恩を売って豊臣秀頼の家臣団を操り人形としたい思惑があっただろうが、政長は家康に感謝しない訳にはいかなくなった。このために、もし豊臣家と徳川家の間に戦が起きた場合は徳川家に味方すると決意した。決意しただけでなく、家康に誓紙を出した。

 

しかし、摂津尼崎郡代という立場で徳川に味方することは口で言うほど容易ではない。豊臣秀頼の家臣団を抜けて家康に味方しなければならない。郡代は在地にいて、大阪城に詰めている訳ではないため、大阪城に馳せ参じなければ良いものの、在地の人々が自分に従うとは限らない。豊臣贔屓の人々から裏切り者として大阪城に突き出される危険があった。

 

さらに大阪城は目と鼻の先である。今から振り返れば大阪の陣は篭城戦で終わったが、豊臣家が撃って出る可能性もあった。実際、大阪城に入った浪人衆の真田信繁(幸村)は畿内の制圧を主張した。そうなれば建部家は真っ先に攻略されるかもしれない。

 

関が原の合戦では積極的に石田三成に味方するつもりはなく、むしろ徳川家康に味方したかったが、周囲が西軍であったために西軍に味方せざるを得なかった武将は多かった。小早川秀秋が有名である。父の光重も流されるままに西軍に味方したために取り潰されそうになった。

 

このため、政長は一計を案じた。尼崎近郊の庄屋を呼び集め、「秀頼公からのご命令である」として人質を出すことを求めた。また、母には弟を連れて、親類である池田家に逃げる用意をさせた。人質を集めたお陰で、大阪の陣が始まっても、尼崎で大阪に通じる者はなかった。

 

政長は拠点を要塞化し、籠城戦に耐えられるようにした。事実上の尼崎城である。多数の櫓や門で固め、城の周囲には寺社を配して事実上の出城とした。城内から濠と川を使って船の出入りができるようにした。その後、尼崎城は、尼崎藩主になった戸田氏鉄によって元和四年(一六一八年)に大修築された。

 

慶長一六年(一六一一年)三月二八日に京都二条城で徳川家康と豊臣秀頼が会見する。淀殿は家康が大阪に来るべきと主張したが、加藤清正らが護衛することで上洛することになった。秀頼には浅野幸長や加藤清正、池田輝政、藤堂高虎が随伴した。秀頼は堂々としており、家康が気後れするほどであった。会見が平和裏に終わったため、人々は徳川と豊臣の平和が続くと胸をなでおろした。

 

しかし、家康は秀頼の堂々として姿を見て逆に豊臣家を滅ぼすことを決意した。

「秀頼は愚か者と聞いていたが、それは誤りであった。賢い人であった。人の下に立つ人物ではない」

 

また、家康は秀頼本人だけでなく、豊臣家のために清正らが熱心に動いたという事実を危険視した。二条城会見後に落首「御所柿は独り熟して落ちにけり木の下に居て拾う秀頼」が出回った。これも秀頼に対する京都の人々の期待を示している。

 

京都所司代の板倉勝重は落首を家康に見せ、書いた人を探して罰すべきか尋ねた。家康は「落書きは禁止するな。私が見て参考になることもあるだろうからそのままにしろ」と答えた。この点は家康が秀吉と異なるところである。この点に関しては秀吉よりも家康の方が天下人の資格がある。

 

この二条城会見の後に豊臣恩顧の大名が相次いで亡くなった。豊臣政権五奉行筆頭の浅野長政が四月七日に亡くなった。三中老の堀尾吉晴は六月一七日に亡くなった。秀吉子飼いの代表格の加藤清正は六月二四日に亡くなった。徳川家による暗殺との俗説も出るくらいタイミングの良い急死であった。陰謀があったかは別として豊臣恩顧の武将が相次いで鬼籍に入ったことで豊臣家が孤立していったことは確かである。前年の建部光重の急死と政長の家督相続も同じ文脈になる。

 



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方広寺正銘事件

豊臣方と徳川方の戦は可能性として想定できた。しかし、開戦理由は予想外の醜いものであった。慶長一九年(一六一四年)の方広寺鐘銘事件である。方広寺鐘銘事件は卑怯な言いがかりであり、徳川家康の汚点になった。方広寺は天台宗の寺院である。豊臣秀吉が発願して造った大仏を安置するために、高野山の僧の木食応其が創建した。

 

方広寺は文禄五年(一五九六年)の慶長伏見地震の被害に遭い、大仏が倒壊した。豊臣秀頼は亡父秀吉追善供養のため、大仏を再建した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に選定させた。その鐘銘には「国家安康」「君臣豊楽」の文字があった。国家安康は「国が平らかに安定し康らかに治まっている」、君臣豊楽は「君主から家臣まで豊かに過ごし暮らし楽しむ」の意味である。結構な文言である。何の問題もないものである。

 

ところが、それに家康は難癖をつけた。

「安の一字で家康を分断した上、豊臣を君として楽しむものではないか」

一般的な読み方とは異なる言いがかりである。何が何でも豊臣にケチを付けなければ気が済まない家康の狭量を示すものである。

 

幕府御用学者の林羅山も同調した。

「右僕射源朝臣は、源朝臣(徳川家康)を射るという意味ではないか」

僕射は大臣の唐名である。黄門(中納言)などと同じである。本気で主張しているならば林羅山が無知で恥ずかしいことである。

 

関ヶ原の合戦後に家康が完全な天下人になったとする見方は後の時代から遡った視点である。関ヶ原の合戦後は徳川と豊臣が併存する二重公儀体制であった。家康自身も当初は二重公儀体制で良いと思っていた。しかし、後から心変わりして、豊臣家を屈服させるか滅ぼすかしないといけないと考えるようになった。それが難癖の背景であり、豊臣よりも徳川の問題である。

 

方広寺鐘銘事件が家康の完全な言いがかりではなかったとする見解もある。当時は名前を使うことを憚る意識があり、それにも関わらず大阪側が意識的に使用していたとする。しかし、これは該当しない。

 

名前は他者から認識されるために存在するものである。名前を使うことを憚る意識があるとすると、それは名前の本来的機能とは異なるものである。実際のところ、名前は落首で使われている。手取川の戦いの落首に「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」がある。これは上杉謙信を持ち上げて、織田信長を貶めているが、どちらも平等に名前を呼ばれている。

 

「御所柿は独り熟して落ちにけり木の下に居て拾う秀頼」は、家康と秀頼の二条城会見後に出回った落首である。これは家康を貶めて秀頼を持ち上げる趣旨であるが、秀頼は名前を呼ばれている。

 

落首の多くは当時の教養人の書いていたものであり、単なる落書きではない。当時も名前は他者から認識されるために使われており、絶対のタブーというものではない。時代劇では石田三成が「内府め」、加藤清正が「治部め」と言うシーンがあるが、実際は「家康め」「三成め」と言っていた。

 

大阪側が意識的に使用したとして、だから家康の言いがかりを理由あるものとするか。そこは見識が問われる。後の江戸時代は蚊がぶんぶん五月蝿いと詠んだら(世の中に蚊ほどうるさきものは無し ぶんぶといふて夜も寝られず)、政権を批判したと目をつけられた。表現の自由にとって暗黒時代であった。権力が「このように解釈できる」と言いがかりをつけることは危険極まりないものである。現代でも権力者が不快感を持つからと言葉を選ぶヒラメ公務員的な忖度社会を是とするか。

 

後の戊辰戦争は関ヶ原の西軍による徳川への復讐戦のようになった。ここには方広寺鐘銘事件の卑怯な言いがかりへの反感も影響しているだろう。家康は業績の割に人気の低い人物である。そこには方広寺鐘銘事件のマイナスイメージがあるだろう。人々の記憶に卑怯者と刻まれては歴史上の業績も色あせる。

 

方広寺鐘銘事件の解決策として秀頼の傅役だった片桐且元は秀頼に「秀頼様の駿府と江戸への参勤」「淀殿の江戸詰め」「大坂城からの転封」しかないと言上する。しかし、淀殿らから家康への内通を疑われてしまう。且元暗殺計画があるとも知らされ、一〇月一日に大阪城から茨木城に退去した。これを家康は大阪方の敵対行為と判断して出陣を命じた。

 

豊臣秀頼はどうにでもなれという投げやりな気持ちで戦を覚悟した。そこには怒りと悲しみからくる反抗心が潜んでいた。声を限りに訴えたいだろう。徳川家康に呪いあれと。

 



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大坂の陣

豊臣秀頼は兵糧や浪人を集めだした。兵糧米にするために大坂にあった徳川家や諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。福島正則は、これを黙認した。

秀頼は政長にも命令の使者を出した。

「尼崎代官所の兵粮米を大坂城に運ぶように」

「お断りいたす。政長の家督相続は徳川様のお陰である。恩に報いないならば、我が身は煮えたぎる鍋の中に沈んでしまうだろう」

政長はきっぱりと断った。福島正則とは対照的であった。

 

豊臣方は大阪城で敵が来るのを待っているつもりはなかった。豊臣方の真木島昭光は一〇月二日に出兵し、幕府の堺奉行を攻めた。これに対して片桐且元が救援の兵を出す。茨木城から堺へは尼崎港から船で移動した。片桐勢は堺に上陸したものの、豊臣方に反撃された。家臣の多羅尾半左衛門が戦死し、残った軍は炎の中の大路を逃げ走った。堺の町は炎の絨毯を敷き詰めたようであった。家財の破片が炎の塊になって吹き上がる。

 

「何故、片桐且元を支援しなかったのか」

「尼崎の守りを優先しました」

この戦いで政長は片桐且元を支援しなかったことを家康から叱責されたが、尼崎の守りを優先したと弁明して許された。

 

尼崎を徳川方の政長が抑えていたことは重要である。大阪方では真田信繁が京都に攻める畿内制圧案を提言していた。大野治長の消極主義から信繁の案が却下され、籠城案になったという単純な話ではない。尼崎城のような大阪城周辺の要地を徳川方に抑えられている状況では畿内制圧案は現実的ではなかった。

 

大坂冬の陣が大阪城の包囲戦に移ると、政長は池田利隆の幕下で戦った。輝政の死後に姫路藩の家督を継いだ利隆は一門を大事にする人物であった。姫路藩は五二万石であったが、利隆の継承時に弟の忠継に播磨国西部の約一〇万石を譲った。

 

政長は池田勢の下で木津川口の戦いに参戦した。豊臣方は、大坂城から海に至る要衝である木津川口に砦を築いていた。その砦を陥落させた。

 

大坂冬の陣は和睦になる。しかし、和睦成立後すぐに徳川方は大砲の製造など戦争準備を進めていた。徳川と豊臣の間に火種がくすぶり続ける中、京で大火事が起こる。京都所司代の板倉勝重は慶長二〇年(一六一五年)三月、大阪方の浪人が乱暴・狼藉していると家康に報告した。

 

家康は豊臣家に、豊臣方に付いた大坂城の牢人達を放逐するか、秀頼の国替えを受け入れるか、どちらかを決断するよう迫る。淀の妹の常高院は両家の激突を食い止めようと駿府で必死の嘆願をするが、家康の心は変わらない。淀のもう一人の妹の江は淀に「江戸で一緒に暮らそう」との手紙を送るが、淀は「もはや引き返すことはできぬ」と拒絶した。

 

秀頼は再び兵糧米を集めだした。これに対して幕府は大阪への米の輸送を禁止した。米を換金したければ、尼崎を経由して運んだ先の京都や伏見で行うよう指示した。大阪の経済封鎖により、尼崎の経済的地位が高まった。

 

大坂夏の陣の火蓋が切られる。真田幸村の奮闘で一時は豊臣方が優勢となるが、それでも淀は秀頼の出馬を許さない。真田隊の決死の突撃に徳川本陣は総崩れになる。父を救うために駆け付けた秀忠は、幸村の壮絶な戦死を目の当たりにする。豊臣方壊滅の報を受け、淀は全ての終わりを悟る。大阪城は炎上し、豊臣家は滅亡した。金色の火柱が高く噴き上げ、炸裂の火花を散らした。

 

大坂の陣で明暗を分けた茶人に古田織部と織田有楽斎がいる。二人は逆の陣営に臨んだが、結末も逆であった。織部は徳川方であったが、豊臣方に通じているとされて切腹した。有楽斎は大阪城にいたが、冬の陣の後に大阪城を出て許された。織田有楽斎の方が古田織部以上に豊臣家に近い立場にあるのに有楽斎の方が生き残った。有楽斎は本能寺の変でも生き延びており、良くも悪くも世渡り上手という見方がある。しかし、単に織田の血筋だから許された面がある。

 



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初代藩主

大坂の陣の論功行賞で、家康は政長の対応を評価し、元和元年(一六一五年)に摂津尼崎藩一万石を与えられ大名となった。石高が一挙に一四倍になった。この経緯から建部家は外様大名であるが、準譜代大名的な存在になり、寺社奉行や大番頭という幕府の要職に就任する藩主を輩出することになる。

 

元和三年(一六一七年)に姫路藩主・池田利隆が亡くなった。幕府は跡継ぎの池田光政が幼く、要衝姫路を任せられないという理由で、鳥取藩三二万石に転封された。これに伴い、摂津尼崎藩は播磨国揖保郡林田への転封が命じられた。

 

尼崎藩には譜代大名の近江膳所藩主・戸田氏鉄が入った。尼崎藩は周辺地域を合わせて五万石になった。幕府には要地である尼崎も譜代大名で抑えようという思惑があった。氏鉄は寛永一二年(一六三五年)に美濃国大垣藩一〇万石へ転封となった。氏鉄は地方知行制を廃止し、俸禄制度を採用した。

 

大垣は政長と薄い接点がある。大垣城は池田恒興が天正一一年(一五八三年)に城主になった。恒興は天正一二年(一五八四年)の長久手の戦いで戦死するため、僅か一年の城主であった。家督は輝政が継いだが、天正一三年(一五八五年)に岐阜城主に移った。輝政の養女が政長の母である。

 

播磨国揖保郡林田への転封によって林田藩一万石が成立した。播磨国にあるため、播州林田藩と称する。林田藩主となった政長は窪山城の跡地を藩庁とし、林田陣屋と称した。林田陣屋は二重堀で囲まれ、石垣も築いた。尼崎城築城時の経験を活かした。政長は灌漑用に西池を築造した。西池を禁漁区にし、鴨に餌を与え、保護したため、鴨池とも呼ばれている。

 

林田は因幡街道の宿場町としても栄えた。宿場町の中核施設に問屋場(といやば)がある。問屋場は人馬の継立の業務を行った。問屋役をはじめ、その助役の年寄、事務担当の帳付、その他、馬指や人馬指が詰めていた。帳付(ちょうづけ)は人足や馬の手配など宿場の運営上必要な事柄を帳簿に書き記す役職である。問屋場では幕府御用の書状や品物を次の宿場に届ける飛脚業務も行われた。これは継飛脚(つぎびきゃく)と言われる。大名行列の出迎えも行った。

 

林田藩の領地は三〇数村に分かれていた。政長は領地を四つの大庄屋組に分割し、豪農を各組に一名ずつ大庄屋として任命した。その一つが三木家である。三木家は英賀城主・三木氏の末裔と称している。羽柴秀吉の播磨侵攻で、天正八年(一五八〇年)に英賀城が落城した。各地に逃れた三木氏の一族が林田で帰農した。

 

大庄屋は農民ではあるが、名字帯刀を許し、特権を与えた。たとえ家老が来ても大庄屋の屋敷で勝手な真似はできなかった。新田開発によって林田藩は表高一万石以上の石高になった。林田藩では一万石の大名が五人存在する、藩主と大庄屋四人であるまでと言われた。豪農を世襲的に大庄屋として、委任行政事務を執行させる方式は他の小藩でも取り入れられた。

 

林田藩の江戸藩邸の上屋敷は外神田に置かれた。ここには上総久留里藩黒田上屋敷、下野黒羽藩大関家上屋敷、安房勝山藩酒井家上屋敷、播磨林田藩建部家上屋敷、信濃上田藩松平家上屋敷が並んでいた。そのために神田五軒町と呼ばれることになる。

 

林田藩の下屋敷は染井村にあった。ここには染井という名の泉があった。水はけが良かったことから植木屋が多く、桜の染井吉野(ソメイヨシノ)はここで品種改良されて生まれた。明治七年に都営霊園「染井霊園」になった。染井霊園は、岡倉天心、二葉亭四迷、高村光太郎・智恵子など多くの著名人が眠っている。

 



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福島正則の改易

政長は元和四年(一六一八年)には明石城普請手伝を務めた。その前年の元和三年(一六一七年)に小笠原忠真が信濃松本藩主から明石藩主に移った。徳川秀忠は譜代大名・明石藩十万石の居城として明石城の築城を命令した。政長は普請奉行となり、築城費として銀一千貫が支給された。宮本武藏が城下町の町割図を作成した。

 

明石城は瀬戸内海を望む六甲山系の西端に位置する人丸山(人麿山)に築いた。本丸を中心に二の丸、東の丸(三の丸)、稲荷曲輪を設けた。本丸の四隅に三重櫓を築いた。天守台を造ったが、天守閣は築かなかった。政長は天守閣が無用の長物になることを見越していたためである。城を守るならば外郭の櫓を強化すべきである。天守閣まで攻め込まれる事態になったら、末期的状態である。これは大坂夏の陣で丸裸になった大阪城の落城から明らかである。

 

政長は元和五年(一六一九年)、福島正則改易による広島城受け取りを命じられた。正則は台風による水害で破壊された広島城を修繕したが、それが無断修繕であり、武家諸法度違反とされた。武家諸法度は城郭の改修には事前の許可を必要としていた。正則は二ヶ月前から届けを出していたが、幕府からは正式な許可が出ていなかった。正則は、雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけと抗弁した。

 

広島城は毛利家の居城であったが、関ヶ原の合戦の論功行賞で正則が安芸国と備後国の太守として入封した。広島城は太田川の河口に広がるデルタ(三角州)の上に築かれている。堀や川で瀬戸内海とつながっていた。正則は内堀・中堀・外堀という三重の堀に囲まれた広大な城郭に改修した。家康は慶長一四年(一六〇九年)に広島城が過剰と指摘する。正則は西の毛利の抑えと正当化した。

 

福島正則の改易は有力外様大名を潰したい江戸幕府の難癖という面があった。正則がキリシタンに融和的であることも一因になった。慶長一〇年(一六〇五年)には広島で約百名がキリスト教の洗礼を受けた。浅野氏になってからの広島藩になるが、寛永一一年(一六三四年)二月一日に林田太兵衛がキリスト教徒として処刑された。林田というキリスト教徒では慶長一八年(一六一三年)に有馬家家臣のレオ林田助右衛門が棄教を拒否して火刑にされた。

 

江戸幕府内の権力闘争も影響している。正則が届け出た相手は、本多正純であった。正則は正純の反応から正式な許可が出なくても問題ないと判断したが、正純は権力を失いつつあった。正純を信頼し過ぎた失敗であった。後に正純も宇都宮城の無断修築などを理由に改易されたことは皮肉である。

 

徳川秀忠は広島城の本丸以外(二の丸、三の丸、惣構え)を全て破却することで、正則を赦免する方針とした。これを受けて正則は、本丸の壁を取り、土や石を取り除いた。これに対して秀忠は破却が不十分として、正則を改易した。改易時に正則は江戸に留め置かれた。これは正則が領地で家臣と反乱を起こすことを防ぐためであった。

 

政長は幕府から広島城受け取りを命じられた。この時は正則の叔父の福島丹波守治重が城代に任じられていた。治重は家中をまとめて籠城の準備を行っていた。政長は治重に城明け渡しを申し入れたが、治重に突っぱねられた。

「この城は主君より預けられた城であり、主君の墨付が無ければ明け渡すことはできない」

 

これを伝え聞いた正則は感激して号泣し、間違いが起こらぬようにと急いで墨付を書いて使者に渡した。これによって広島城は平和裏に明け渡された。この時の作法は大名改易時の城受け渡しの前例となった。福島家の家臣達は城内をくまなく清掃し、ちり一つ、ほこり一つ残さなかった。城の調度をそのままにし、目録も書き残した。

 

福島正則改易後の安芸と備後には紀伊和歌山城主の浅野長晟が転封した。長晟と徳川家康の娘振姫との婚姻関係が重視された。

 

政長は池田騒動にも関わった。池田騒動は播磨山崎藩の御家騒動である。藩主の池田輝澄池田輝政の四男。兄弟の死により所領が急激に拡大したが、それによって新たに召抱えた家臣団が古参の家臣団と対立するようになった。輝澄は江戸住まいで、国元は古参の上席家老・伊木伊織が預かっていた。

 

池田騒動の発端は寛永一五年(一六三八年)の小頭と足軽が金銭問題の対立である。これが古参の伊木と新参の家老・小河四郎右衛門の対立にエスカレーションした。輝澄が新参の家老を重用し、古参の家老が反発する図式である。輝澄の側近の菅友伯が主君輝澄に事実を伝えず、偽書まで作成し小河家老に加担したことが騒ぎを拡大させた。

 

政長は調停を試みたが、失敗する。元のように伊木を上席家老とするように申し入れたが、輝澄は聞き入れなかった。そのために伊木派の物頭衆らの藩士が多数脱藩した。幕府の裁定により伊木伊織以下二十名が切腹、輝澄は寛永一七年(一六四〇年)に家中不取締りを理由に改易された。政長が城受け取りを務めた。

 

政長は寛文元年(一六六一年)一二月二八日に丹波守に叙任する。寛文七年(一六六七年)八月二八日、家督を三男の建部政明に譲って隠居した。寛文一二年(一六七二年)四月一八日に没した。

 



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林田焼

林田藩成立後の建部氏は国替えがなく、幕末まで林田藩を治めた。

歴代藩主は以下の通り。

政長(まさなが)従五位下、丹波守

政明(まさあき)従五位下、丹波守

政宇(まさのき)従五位下、内匠頭、寺社奉行

政周(まさちか)従五位下、丹波守

政民(まさたみ)従五位下、丹波守

長教(ながのり)従五位下、近江守

政賢(まさかた)従五位下、内匠頭 大番頭

政醇(まさあつ)従五位下、内匠頭 大番頭

政和(まさより)従五位下、内匠頭 大番頭

政世(まさよ)従五位下、内匠頭

 

三代藩主・建部政宇は建部政長の五男である。兄・政明の養嗣子となり、寛文十年(一六七〇年)二月二七日に藩主になる。政宇は伏見奉行、御所の造営奉行、寺社奉行を歴任した。伏見奉行は遠国奉行の一つで、伏見の町方と周辺の村の地方支配を管轄した。伏見は大阪と京都の間の交通の要所である。そのため、伏見奉行は遠国奉行の中では異例の大名も就任する役職である。初代は小堀遠州である。

 

政宇は藩内の二ヶ所に窯を築き、林田焼を始めた。林田焼は西播磨地方で最も古くから焼かれた焼き物になった。林田焼と林田瓜は林田藩の特産品として将軍家に献上した。林田焼は半陶半磁の鮮やかさを特徴とする。当時の京都は「わびさび」から「きれいさび」への流行の転換期であった。鮮やかな林田焼は「きれいさび」のトレンドにマッチした。

 

「きれいさび」は小堀遠州が形づくった美的概念である。華やかなうちにも寂びのある風情になる。一般の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるものの、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさがある。小堀遠州は近江小室藩初代藩主で、茶人や作庭家として名高い。遠州の息子の小堀正之が小室藩第二代藩主である。建部政長の娘は小堀正之に嫁いだ。

 

一方で林田焼は「わびさび」を全否定しておらず、貫入を意識したつくりになっている。貫入は素地と釉(うわぐすり)の膨張率の差などにより、釉に入った細かいひびである。ひびが入ることが逆に美的価値を向上させると捉えられた。

 

林田焼は野々村仁清の影響を受けている。仁清は丹波国桑田郡野々村生まれの陶工。瀬戸で轆轤(ろくろ)の修業を積み、仁和寺門前に御室窯(おむろがま)を開いた。京焼の大成者である。仁清の号は仁和寺の仁と清右衛門の清を合わせたもの。「きれいさび」の鮮やかさは仁清と重なる。また、仁清は自分の作品に「仁清」の印を捺し、自分の作品であることを明確にしたことが特徴である。林田焼も赤字で陶印がある。

 

政宇は絵画も嗜み、狩野常信の門人になった。狩野常信は江戸幕府に仕えた御用絵師。狩野探幽に画を学ぶ。そのため、狩野探幽の様式を踏襲した画風であるが、装飾性は増している。構図の位置関係の整理や合理化を取り入れ、さらなる装飾と綿密さで描いており、より明快で華やかな印象を与える。狩野元信・狩野永徳・狩野探幽とともに狩野派の四大家と称せられる。

 



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天明の打ちこわし

七代藩主・建部政賢は建部政民の四男。天明の大飢饉に見舞われる。天明三年(一七八三年)七月六日に浅間山が噴火した。浅間山は天空に向かって火炎や噴煙をぐんぐん吐き出し、各地に火山灰を降らせた。大気中に噴き上げられた大量の微粒子は冷害の原因の一つとなった。この影響は日本だけでなく、北半球に広がり、一七八九年のフランス革命にも影響を及ぼした。

 

天明の大飢饉は異常気象で米が不作になったことを直接の原因とするが、人災でもある。幕府や各藩による過剰な新田開発は洪水や土砂崩れを頻発させ、農業生産性を逆に落とした。

 

より目に見える問題は大商人の買い占めや売り惜しみである。米価が異常に高騰し、続いて味噌や乾物も争って買い占められた。庶民の生活は苦しくなり、満足に食事をすることもできなくなった。

 

「米の値段が途方もなく上がって、おいら達は満足におまんまも食えない」

「仕入れ値が高いから仕方ないのです。お気に召さなければどうぞ他所でお買い求めください」

大商人の手代は威張って説明する。他所と言われても、消費者には選択肢がない。営業の自由がない社会であり、新規参入業者が登場する訳ではない。大商人への怒りが打ちこわしに発展する。

 

天明七年(一七八七年)五月に大坂と江戸で打ちこわしが発生した。それが枯野を焼く炎のように全国に波及した。林田藩でも大規模な打ちこわしが起きた。髪結や左官、棒手振(ぼてふり)など店借の下層民が主体になった。

 

棒手振は担ぎ売りの商人である。店を構えるのではなく、家の近くまで販売に来る。良いものを安く素早く販売する消費者の味方である。江戸時代は産業革命こそ起きていないものの、商品経済は浸透していた。これが近代に資本主義が発達できた要因である。

 

最初は米屋が襲われ、酒屋や質屋などにも広がった。店舗を破壊し商売道具を壊し、金銭や商品、帳面などを川に投棄した。取り残される不安や動きに遅れまいとする焦りを吞み込み、途方もない暴動になった。林田藩は独力では対処できず、姫路藩と龍野藩の力を借りてようやく鎮圧した。

 

林田藩を最も悩ませた民衆の抵抗は百姓一揆よりも、無宿の動きであった。百姓一揆は村や家に所属し、領主の御仁政にあずかるべき正統性のある運動であった。言わば既得権擁護の運動である。藩主が悪政をしなければ百姓一揆は起きない。

 

これに対して無宿は封建体制そのものを動揺させ、変革させる力を持つ。

「困っているおいら達に何もしてくれないお上なんざ、いらない」

農村が立ちいかなくなり、流人化して無宿になる農民が多かった。封建的束縛を逃れるために、あえて無宿を選択する人々も出てきた。身分秩序が厳格と思われがちな江戸時代であるが、実はもっと流動的であった。無宿の世界はカオスであった。少数の支配階級と圧倒的多数の被支配階級という戦後日本で流布した通俗的マルクス主義的な世界観は現実社会の多様性を説明できない。

 

幕末には世直し一揆が頻発する。これは既得権擁護型の従来の一揆と比べて、世直しを志向する点に新しさがあった。そこには無宿など異端の人々の活躍があった。勤王の志士の活躍がなくても幕藩体制は行き詰まっていたことが理解できる。むしろ世直しの動きが薩摩藩や長州藩の権力闘争に取って代わられたことが近代日本の不幸だろう。

 

幕末の「ええじゃないか」では空から札が降る現象が起きたと言われている。札をばら撒いて煽った倒幕勢力がいただろう。神社の札をばらまいたことは神社信仰を強め、幕府が保護していた仏教勢力を殺ぐ目的もあった。廃仏毀釈に通じる動きである。

 

政賢は寛政六年(一七九四年)に藩校の敬業館を創建した。「敬業」は『礼記』の「敬業楽群」に由来する。講堂、聖廟、練武場、文庫などがあった。士族の子弟は八歳になると入学し、一六歳で卒業した。庶民でも志願者は入学を許され、授業は身分の区別なく行われていた。「士庶共学」は敬業館の特徴であった。

 

敬業館の講堂は一八七一年(明治四年)に敬業小学校となる。一九〇二年(明治三五年)に敬業尋常小学校が林田尋常小学校に改称される。この年が林田小学校の創立年となる。一九四一年(昭和一六年)に国民学校令施行により、林田村立林田国民学校と改称された。一九四七年(昭和二二年)に学校教育法施行により、林田村立林田小学校と改称された。

 

八代藩主・建部政醇は、政賢の四男である。文化九年(一八一二年)一一月二二日に藩主になる。文政二年(一八一九年)一一月に藩札として銀札と銭匁札の発行を始めた。銭匁札の額面は銭十匁、五匁、一匁、五分、三分、二分、五厘であった。兌換紙幣の発行は問題なかったが、不換紙幣の発行は失敗であった。一度発行を許すと、倍にも二倍にも増えていった。貨幣価値が低下し、物資が不足した。物の値段が毎日のように上がり、店を閉める小商人が続出した。

 

江戸時代が進むと幕府も藩も運営が厳しくなった。武士の収入は年貢米が基本であるが、商品経済の進展により、支出が増える。このため、幕政改革でも藩政改革でも質素倹約が改革の一丁目一番地になることは当然である。武士が陣屋から退勤する途中で、酒亭や茶屋に立ち寄るのは品が悪いと禁止することもなされた。飲みニケーションの昭和の日本型組織よりも先進的である。

 

質素倹約を時代に逆行する消極的政策と低く評価する向きもある。しかし、質素倹約には身分や格式で贅沢をする既得権を否定する積極面があった。藩主自ら木綿の服を着るということに意味がある。現代に置き換えれば重役の社用車廃止など健全なコストカットに繋がる。

 

勿論、自分は贅沢して人々に規制を押し付けるだけの公務員的な質素倹約は有害である。現代でも緊急事態宣言やまん延防止重点措置で飲食店を規制しながら、公務員は宴会している。兵庫県警神戸西警察署では居酒屋で歓迎会を開催し、新型コロナウイルス感染症の集団感染が起きた。警視庁尾久警察署では署長は十数人の懇親会参加後に新型コロナウイルスに感染した。

 

埼玉県警では上尾警察署地域課の二〇代の男性巡査が同僚六人と会食後に新型コロナウイルスに感染した。埼玉県警大宮署のパワハラ警察官は「まん延防止等重点措置」下で会合自粛が求められた2021年5月12日、さいたま市大宮区の居酒屋に部下の男性警察官を呼び出し、暴行した容疑で書類送検された。

 

質素倹約を掲げる藩政改革が抵抗に遭うことがある。抵抗の理由は名門意識である。当家は伝統ある名門名家であり、名門には格式が必要という論理である。例えば米沢藩上杉家は一五万石であるが、上杉景勝時代の一二〇万石の大藩意識が抜けきれなかった。

 

これも二一世紀の日本に引き寄せることができる。今や日本は世界第二の経済大国でも、アジア唯一の先進国でも、世界唯一の有色人種のサミット参加国でもない。それなのに未だに昭和の感覚を持ち続ける人々も多い。その昭和の感覚がダウンサイジングの障害になっている。

 



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戊辰戦争

九代藩主・建部政和は建部政醇の子。嘉永四年(一八五一年)に河野鉄兜(こうのてっとう)を招聘した。鉄兜は文政八年(一八二五年)に医者の子として生まれた。五歳から漢籍を学ぶ。一五歳で一夜にして詩百篇を作り、神童と呼ばれた。本屋では立ち読みで内容を覚えてしまい、本を買わなかった。そのため、本屋の店主は鉄兜が来ると新刊書を隠した。

 

その後、上洛して梁川星巌について詩を学ぶ。松本奎堂や頼三樹三郎らの勤王の志士と交わった。本草学、仏教、絵画、和歌にも通じ、博学多能で知られた。鉄兜の名前は豊臣秀吉の播磨攻めで各地に散らばった河野氏の正統であることを示すため、鉄製の兜をその証として継承していたことから取られたものである。

 

林田藩の招聘に際して鉄兜は「西国の高名な文人達と交流したいので、旅行のための休暇をいただきたい」との条件を付けた。政和は承諾して旅行費用も出した。

 

林田に居を移した鉄兜は嘉永五年(一八五二年)、二八歳で林田藩に仕官した。藩校致道館の教授になり、尊王攘夷を説いた。全国から多くの志士・文人・学者が河野に会うために林田を訪れた。

 

政和は安政三年(一八五七年)、大番頭となり二条城を警備した。文久三年(一八六三年)に詰めていた二条城で亡くなった。

 

十代藩主・建部政世は建部政和の長男として誕生した。祖父の建部政醇の三男とされ、兄・政和(実は父)の養嗣子となった。文久三年(一八六三年)四月一八日に藩主になる。

 

徳川慶喜は慶応三年(一八六七年)一〇月一四日に大政奉還を奏上した。これは薩摩藩や長州藩の倒幕の動きを止める策であった。慶喜は天皇の下で新しい政府の首班となることで実を取るつもりであった。もともと慶喜の権力の根拠は天皇から命じられた禁裏御守衛総督であった。征夷大将軍の地位への執着は少ない。

 

しかし、薩摩藩や長州藩は逆襲の機会を狙っていた。一二月九日に王政復古派公卿が集まり、王政復古の大号令が出される。その日の夜に小御所会議が行われ、徳川慶喜の官位(内大臣)辞退と徳川領の削封(辞官納地)が決定された。王政復古のクーデターである。政世は一二月二〇日に上洛し、新政府に恭順した。ここには林田藩の宗家と言うべき備前岡山藩池田氏との連携がある。

 

慶喜は京都を離れ、大阪城に入った。大坂を抑えていれば京都の新政府は立ちいかなくなるとの思惑があった。それは困る薩摩藩は江戸に浪人を放って放火や押し込み、殺人など暴挙の限りを尽くして幕府を挑発した。この結果、慶応四年(一八六八年)一月三日に鳥羽伏見の戦いが勃発する。戊辰戦争の初戦である。兵数は旧幕府軍が優勢であった。しかし、官軍に錦の御旗がひるがえると浮足立って敗走した。

 

戊辰戦争は不思議な戦争である。旧幕府軍の敗因は色々と分析できる。指揮命令が統一されておらず、旧式の装備が多かったなどである。とはいえ榎本艦隊や伝習隊、庄内藩のように装備では勝っている面もあった。大きな敗因として旧幕府軍は殺すか殺されるかの戦争をする感覚よりも、朝廷に嘆願するという意識が強かったことである。この敗因は戊辰戦争全体につながる。後に五稜郭を占領した榎本武揚でさえ右大臣岩倉具視に宛てて、旧幕臣による蝦夷地開拓を歎願していた。承久の乱のように朝廷と真っ向から対決して屈服させるという武士の意識はなくなったのだろうか。

 

鳥羽伏見の戦いでは津藩の土壇場の裏切りが悪名高い。津藩の初代藩主の藤堂高虎は何度も主君を変えた人物として知られている。土壇場の裏切りは、さもありなんという印象を与えた。しかし、高虎には先物買いの一途さがあった。土壇場の裏切りは高虎らしくないと言えるだろう。

 

会津藩の存在が大きいため、藩祖の精神が幕末まで脈々と継承されるものというイメージがある。しかし、会津藩の方が例外的ではないか。幕末の藩の行動が藩祖と体質と異なることは驚くことではない。幕末の徳川幕府の行動も徳川家康の粘りとは懸け離れている。高虎は所属組織への滅私奉公が流行らなくなった二一世紀に評価されて良い人物だろう。

 

林田藩は新政府から一月一五日、華頂宮博経親王の警備を命じられた。博経親王は伏見宮邦家親王第十二王子であるが、万延元年(一八六〇年)八月に孝明天皇の猶子となり、同年一一月に親王宣下を受けた。

 

新政府は鳥羽伏見の戦いを幕府軍として戦った姫路藩を朝敵とし、林田藩にも姫路城攻略を命じた。姫路城は元々、林田藩の宗家ともいうべき池田家の城であった。その城を攻撃する立場になるとは林田藩にとって不思議な感がある。姫路城接収の主力は備前藩池田家である。池田家の幕下で戦うという建部家の伝統は幕末まで貫徹された。

 

姫路藩主の酒井忠惇は老中を務め、将軍徳川慶喜に従って大阪城に入った。姫路藩は井伊直弼の暗殺で凋落した彦根藩に代わって幕府を支えていた。慶喜は鳥羽伏見の敗戦後の一月六日に大阪城を退去し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した。そこに酒井忠惇も同行した。藩主不在の姫路藩では家臣によって一月一七日に無血開城された。

 

明治政府は明治元年(一八六八年)に銀遣いを禁止する。林田藩では両・分・朱を額面とした金札を発行した。

 

林田藩は一八七一年(明治四年)四月の廃藩置県で林田県となる。廃藩置県に際しては想定された武力抵抗は生じなかった。既に江戸時代から藩の中には経営がたちいかなくなり、幕府に領地返上を願い出ることを検討するところも存在していた。破産を回避しようと借金を続ける経営者や一度立てた計画に固執する公務員より健全である。廃藩置県が比較的すんなり行われたが、藩運営の行き詰まりが背景にあった。

 

林田県は藩を県に置き換えただけであった。この時点で三府三〇二県もあった。林田県は一一月二日に姫路県に統合された。姫路県は播磨国一円を領域とした。一一月九日に播磨県に改称される。一八七六年(明治九年)に兵庫県に合併し、兵庫県揖保郡林田村となる。

 

林田村と伊勢村は一九五五年(昭和三〇年)三月二五日に合併して林田町になる。林田町は一九六七年(昭和四二年)三月五日に姫路市に編入されて自治体としては消滅した。その後も姫路市林田町として地名は残っている。

 



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林田藩の勤皇の志士

幕末には林田藩から勤皇の志士として大高又次郎と大高忠兵衛の兄弟が登場した。大高家は「大高製の皮具足」と呼ばれる皮具足の製法で有名であった。赤穂四十七士の一人・大高忠雄の子孫を称した。

 

大高又次郎は文政四年(一八二一年)に甲冑職人・大高六八郎義郷の子として生まれる。忠兵衛は文政六年(一八二三年)に林田藩郷士・常城広介の次男として生まれる。一四歳の時に大高義郷の養子となる。兄弟は甲州流軍学や西洋砲術、勤皇思想を学び、各地の志士達と交流を深めた。

 

忠兵衛は嘉永元年(一八四八年)に上洛。衣棚押小路入下妙覚寺町で甲冑商「大鷹屋」を営みつつ、政治活動に奔走する。又次郎は安政五年(一八五八年)に脱藩。梅田雲浜宅に住み、梅田雲浜や頼三樹三郎らの志士と交流した。この年に井伊直弼が大老に就任した。

 

安政六年に萩へ行き、吉田松陰と会談した。安政の大獄で梅田が捕らえられ、それを追って江戸に潜伏した。梅田が処刑され、自らにも幕府の追捕が迫ったため、浅草寺で坊主に変装して江戸を脱出し、京都の長州藩邸に逃げ込む。

 

その後、大高兄弟は薪炭商・桝屋の店の別棟に移り、勤皇の志士の武具・兵器の調達を担当した。桝屋は桝屋喜右衛門が経営する諸藩御用達の店で、京都河原町四条上ル東にあった。喜右衛門の本名は古高俊太郎で、勤皇の志士であった。桝屋は志士の拠点となっていた。

 

ところが、桝屋に元治元年(一八六四年)六月五日早朝、新撰組が踏み込み、俊太郎を逮捕監禁してしまう。新選組は武器弾薬や諸藩浪士の書簡を押収した。俊太郎は壬生屯所に連行され、蔵で土方歳三らによって厳しい取調べを受けた。逆さ吊りにされ、足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられ火をつけられた。

 

その結果、俊太郎は京都大火の陰謀を自白したとされる。強風の日を選び、御所に火を放ち、京都守護職・松平容保を殺害し、中川宮を幽閉し、天皇を長州へ連れ去る計画である。しかし、これは拷問により強要された自白であり、自白の任意性はない。新選組による捏造であり、その後の実力行使を正当化するための冤罪であった。

 

大高兄弟は新選組が踏み込んだ際に不在であり、難を逃れた。新撰組が俊太郎を逮捕したことは志士達のネットワークを伝播し、その日の夜に奪還の相談を池田屋で行うことになった。そこを新撰組の近藤勇らが襲撃した。新撰組は志士達が京都大火計画を抱いているとするが、これは古高俊太郎が自白したとするが、拷問による自白強要である。

 

池田屋で又次郎は奮戦むなしく新選組によって討たれた。忠兵衛は一旦脱出したが、捕縛された。事件後の六月七日、大高家は新選組の家宅捜索を受けた。妻とみ、子ども六人、門弟二人らは捕らえられたが、長男の幸一郎は鳥取へ逃げ延びた。忠兵衛は七月四日に六角牢で獄死した。環境の悪い牢獄では汗が額からどっと吹き出し、吐き気が全身を揺さぶった。胃を落ち着けるものが欲しかった。熱いお茶。それすら飲めずに亡くなった。



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小栗忠順は幕府の堤防

林田藩ゆかりの幕臣に江戸幕府勘定奉行・小栗上野介忠順(ただまさ)がいる。林田藩八代藩主・建部政醇の娘・道子と結婚した。大変な愛妻家だった。政醇の別の娘・はつ子は旗本の蜷川親賢に嫁いだ。

 

忠順は文政一〇年(一八二七年)六月二三日、小栗忠高の息子として生まれた。幼名は剛太郎。小栗家は二千五百石の旗本で、屋敷は神田駿河台にあった。忠順は小栗家の屋敷で生まれ、育つ。早熟、雄弁で幼少時は、天狗と呼ばれていた。

 

八歳の時に小栗家の屋敷内にあった朱子学者の安積艮斎(あさかごんさい)の私塾・見山楼に入門した。艮斎は朱子学者であったが、陽明学など他の学問も摂取した。外国事情にも詳しく、海防論の論客でもあった。艮斎の門人には吉田松陰や清河八郎らがいる。

 

道子との結婚は嘉永二年(一八四九年)であるが、それ以前から林田藩とは交流があった。一四歳の時、建部政醇を訪れ、悠然とたばこをふかし、たばこ盆をたたきながら、「船を作り海外に進出すべきだ」と論じ、周囲を驚かせた。林田藩士らは忠順の自信に驚きつつ、将来どのような人物になるかと噂しあった。忠順は嘉永六年(一八五三年)のペリー来航以前より近代化を考えていた。

 

忠順の危機感の原点は阿片戦争である。英国は阿片を清国に売りつけ、国民を阿片中毒にした。清国政府が外国からの依存性薬物の輸入を阻止しようとすることは当然である。ところが、それをしたところ、侵略戦争の口実にされた。とんでもない話である。

 

現代に置き換えれば危険ドラッグの原料が海外から輸入されることを阻止できないという話になる。外国が阿片を持ち込み、日本人を阿片中毒にするのではないかという脅威は幕末の政治課題になる。

 

忠順は進歩的な知識を持ちながらも、幕府を崩壊から守る堤防になろうとした。

「病の癒ゆべからざるを知りて薬せざるは孝子の所為にあらず。父母の大病に回復の望みなしとは知りながらも実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるが如し」

幕府を回復の望みのない病気の両親にたとえた上で、それでも最後まで治療を諦めるべきではないと主張した。幕府の立て直しをすることは幕臣の義務である。ところが、二一世紀の日本では医療でも、治療の差し控え、死なせる医療が横行している。忠順が知ったら嘆くだろう。

忠順は安政二年(一八五五年)に医師の誤診で父を亡くした。現代風に言えば医療過誤被害者であった。忠順の言葉には父親が十分な医療を受けられなかった悔恨もある。

 

アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが嘉永六年(一八五三年)に浦賀に来航する。サスケハナ号、ミシシッピ号、サラトガ号、プリマス号の四隻からなる艦隊である。黒煙を吐く蒸気船が江戸の人々を驚かせたが、蒸気船はサスケハナ号とミシシッピ号である。サラトガ号とプリマス号は帆船であった。忠順は異国船に対処する詰警備役となるが、攘夷が不可能であると再認識する。

 

ペリーは浦賀来航に先立ち、琉球王国を訪問する。圧倒的な軍事力を背景にしていたにも関わらず、ペリーは琉球王国の高度に洗練された文化に劣等感を覚える。まるでイギリス人から成り上がりのアメリカ人と見下されたような感覚であった。軍事力に頼らない高度な文化国家であった琉球王国の面目躍如である。琉球王国というユニークな国家が消滅してしまったことは人類レベルでは大きな損失である。

 

ペリー来航は「泰平の眠りをさます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」と詠まれた。この狂歌にあるように幕府の対米交渉は砲艦外交に一方的に屈服したイメージが強い。しかし、主張すべきところは主張する外交交渉を行っていた。その成果が安政五カ国条約である。

 

江戸幕府とアメリカ合衆国は安政五年六月一九日(一八五八年七月二九日)に江戸湾に浮かぶ合衆国軍艦ポーハタン号上で日米修好通商条約を締結した。年内にオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を締結した。これが安政五カ国条約である。

 

安政五カ国条約では阿片輸入を厳禁とし、外国商船が一定数の阿片を持ち込んだ際は日本側が没収できると定めた。これによって列強は阿片没収を口実に侵略戦争を始めることは不可能になった。これで日本は救われた。安政五カ国条約は不平等条約として不評であるが、依存性薬物対策の点では評価できるものである。阿片戦争という問題意識に応えた条約になっている。

 

一方で治外法権(領事裁判権)という不平等条約は依存性薬物対策の点でも不都合が露呈した。依存性薬物の売人を日本の法律で裁けないという問題である。一八七七年(明治一〇年)のハートレー事件で問題になった。英国商人ジョン・ハートレー(John Hartley)が日本に阿片を密輸した事件である。

 

ハートレーは英国人であるため、英国の領事裁判法廷が裁いたが、「阿片は薬用」とするハートレーの主張を容れて無罪判決を言い渡した。危険ドラッグを「ハーブ」や「お香」と強弁して販売するようなものである。依存性薬物売人の論理は古今東西変わらない。

 

この判決は当然のことながら日本の世論を激昂させ、不平等条約を問題と認識させた。不平等条約改正と言えば一八八六年(明治一九年)のノルマントン号事件が有名である。ノルマントン号事件の風刺画は歴史の教科書にも掲載されている。しかし、鹿鳴館は一八八三年(明治一六年)完成であり、ノルマントン号事件以前から条約改正に動いていた。一八八一年の国会開設の詔も教科書では自由民権運動の文脈で説明されがちであるが、条件改正のために立憲君主制になる必要があるとの考えがあった。条約改正の端緒がハートレー事件である。

 



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横須賀造船所

忠順は安政七年(一八六〇年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米した。太平洋の船旅で日本人の多くは船酔いに苦しんだ。海に囲まれながら、日本人の知る海は近海だけであった。忠順は船内を歩き、船の構造や仕掛けに好奇心を示した。

 

サンフランシスコ上陸後に陸路でアメリカ大陸を横断する。合衆国政府と通貨の不当な交換比率の見直し交渉を行った。忠順の役職は遣米使節目付であった。米国側が目付をスパイと翻訳したため、「徳川幕府はスパイを使節として同行させている」と騒ぎになった。忠順は目付をケンソル(Censor)と説明して乗り切った。ケンソルは古代ローマの監察官である。

 

遣米使節の太平洋横断には勝海舟や福沢諭吉らが咸臨丸に乗って同行した。咸臨丸はサンフランシスコ到着後に損傷個所を修繕して日本に戻った。遣米使節の帰りは西海岸からアフリカ喜望峰を周ってインド洋経由という世界一周の旅になった。

 

ここで忠順は近代文明に触れ、グラスやネジ、バネといった工業製品を持ち帰った。工業製品を導入して近代化を図るだけでなく、工業製品を国内で製作することから志向した。その具体化が横須賀造船所である。造船所建造に対して、勝海舟は海軍五百年説の立場から反対した。

「軍艦は数年で建造できるとしても、海軍を運用する人材育成には時間がかかる。英国でも三百年要しており、日本では五百年かかる。それ故に人材育成を優先すべき」

 

その後、尊皇攘夷派と気脈を通じていると見なされた勝は失脚し、忠順の提言が採用されて横須賀造船所は建設された。フランス海軍技師のヴェルニーがロッシュの推薦で来日し、建設を進めた。横須賀造船所は単なる箱モノではない。出勤や残業など近代的な雇用関係の概念も導入した。日本の近代化を推進する施設であった。

 

横須賀造船所は、幕府崩壊後は明治新政府に引き継がれ、帝国海軍の重要施設となった。日露戦争でバルチック艦隊を破った東郷平八郎は戦後、小栗の遺族に「日本海海戦の勝利は小栗が作った横須賀造船所のお蔭」と礼を述べた。小栗の先見性が認められた瞬間である。司馬遼太郎も小栗を「明治の父」と評した。小栗は明治政府に先んじて廃藩置県相当の構想も抱いていた。

 

その後、日本は日露戦争の勝利に驕って無謀な侵略戦争に突き進み、国土を焼け野原にしてしまった。ここまで見ると、人材育成を先とした勝の言葉も一理ある。明治になって日清戦争など日本の帝国主義的政策に反対した勝の主張も合わせると一層含蓄がある。

 

このように長期的視点に立てば両者の主張は共に尤もであるが、当時の視点に立てば忠順に軍配上がる。国内に造船所がなければ、船舶は海外から購入しなければならない。実際、幕末は幕府も諸藩も海外から船舶を購入していた。しかし、船舶は購入したら終わりではない。故障すれば修理しなければならない。

 

造船所は新たに船舶を建造するだけでなく、既存の船舶を修理する場所でもあった。消耗品である砲弾や弾丸も作る総合工場とする構想もあった。実際、小栗が訪米時に見学したワシントン海軍造船所が同じであった。造船所で既存の船舶をメンテナンスできれば、外国に依頼する費用と時間を節約できる。旧日本軍の大きな欠点として兵站の軽視が挙げられる。造船所を提言した忠順は日本人に欠けがちな視点を有していた稀有な人物であった。

 

忠順と勝海舟は対照的な存在である。現実に二五〇年以上も続き、当時の人々にとって未来永劫存続すると思われた幕府の限界を見抜いていた点は共通する。しかし、その幕府への姿勢は異なっていた。

 

勝は幕臣でありながら、攘夷から倒幕という時代の流れをもたらした。歯に衣着せずに幕府の無能を批判していた。西郷隆盛に最初に倒幕を意識させた。戊辰戦争では主戦論者を抑えて江戸城の無血開城を実現した。それは各々の出身を踏まえると当然という面もある。

 

忠順は三河以来の旗本の家柄である。三河譜代の中でも家康の祖先の松平氏が安祥城にいた頃からの家臣・安祥譜代であった。これに対して勝は先祖代々の武士ではなかった。勝の先祖は高利貸しで財をなし、御家人株を買って御家人となった。

 

これは勝に師事し、倒幕の推進勢力になった薩長同盟成立の立役者となった坂本龍馬も同じである。坂本家も商人・才谷屋の分家筋で、土佐藩から郷士に取り立てられた。二人の共通点は先祖が財力で武士に成り上がったことである。幕府を絶対視しなかった柔軟な発想には、二人のルーツが影響しているだろう。

 

忠順の言葉「病の癒ゆべからざるを知りて薬せざるは孝子の所為にあらず」は明治になって福沢諭吉が「痩我慢の説」で紹介した。そこには幕臣でありながら、明治政府に出仕して高官となった勝海舟らへの批判が込められている。福沢の反骨精神は了とする。小栗と比べ、勝の幕府への忠誠心が薄いことは、ある意味当然であった。勝や坂本のような存在が活躍する時点で、既に身分制度を前提とする幕藩体制は崩壊しつつあった。

 



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上野介

忠順は文久二年(一八六二年)に勘定奉行に就任する。この時に上野介の官位を賜る。上野介は忠臣蔵の吉良上野介が悪名高い。縁起が悪いという声があったが、例え惨殺されようとも国のために命を失うは本懐と受け入れた。義父の建部政宇は内匠頭である。林田藩の三代藩主・建部政宇も内匠頭であった。政宇は浅野内匠頭と同時代人であった。

 

慶応四年(一八六八年)に戊辰戦争が始まり、徳川慶喜が江戸に逃げ戻ってきた。忠順は慶喜の行動に驚き呆れた。鳥羽伏見の戦いで敗北しても大坂を抑えていれば薩摩藩や長州藩と京都の連絡を絶ち、京都の新政府を孤立させることができる。それをむざむざ放棄して敵に引き渡したことになる。

 

それでも忠順は幕府の最善手を考えた。箱根で薩長軍を迎撃することを主張した。ところが、一月十五日に忠順が登城したところ、御役御免を申し渡された。慶喜は恭順一直線であったために主戦派の忠順が邪魔であった。

 

忠順と慶喜の関係は元々、微妙であった。慶喜は孝明天皇の信任を基礎として京都で幕府からも半独立の権力を持っていた。一橋と会津と桑名の一会桑政権と呼ぶ。忠順は慶喜を江戸に戻し、幕府兵力が直接京都を抑えるようにすることを画策していた。

 

忠順が徹底抗戦を主張し、慶喜が恭順であったことには、忠順が知行地を持つ旗本であり、慶喜が領地をもたない御三卿・一橋家出身であったことも影響している。一橋家は十万石の石高でありながら、領地を支配した訳ではなかった。

 

自分の領地を持ち、それを守ろうとすることが武士の原点である。領地のために懸命になるから一所懸命である。領地の御恩があるから主君に奉公する。これが承久の乱で朝廷を打ち破った鎌倉武士の原動力であった。

 

ところが、江戸時代の武士は蔵米取りが普及する。蔵米取りの武士は報酬として米を受け取るだけである。石高は領地を持つ武士の基準でもあるが、領地は各々個性があって同じものではない。ここでは石高は重要な指標になるが、あくまで指標である。これに対して蔵米取りで何百石取りの家ということは、年収何百万円という肩書をぶら下げて生活するようなものである。これは異常な世界である。

 

蔵米取りは武士の変質になる。ところが、戊辰戦争で幕府が腰砕けになったことには尊王思想が普及したというだけでなく、領地を持たなくなったことも影響しているだろう。

 

慶喜から罷免された忠順は、小栗家の知行地の上野国群馬郡権田村に引っ込むことにする。主戦派幕臣が会津藩など東北の藩と合流し、抵抗する動きがあったが、忠順は同調しなかった。あくまで忠順は徳川幕府中心主義であった。朝廷や薩摩藩や長州藩が幕政を左右することを好まなかったが、会津藩などの佐幕藩が幕政を左右することも好まなかった。

 

忠順は権田村で水路を整備したり、塾を開いたりしたりするなど静かな生活を送っていた。ところが、明治政府軍に捕縛され、取り調べもなされぬまま、慶応四年閏四月六日に家臣三名とともに斬首された。冤罪である。

 

翌七日に養子又一も高崎城内で家臣三名とともに斬首された。明治政府軍は小栗家の家財を全て没収し、高崎・嶋屋で競売に付して売上げを軍資金として持ち去った。明治政府の強盗殺人である。明治政府にとって忠順が都合の悪い人物であったかが分かる。

 



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播州素麺

播州素麺は林田を含む播州平野の古くからの特産品である。兵庫県揖保郡太子町の斑鳩寺の寺院日記「鵤庄引付」の応永二五年(一四一八年)九月一五日の条にサウメンが登場する。神社の社殿造営の祝言にサウメンを使ったと記録する。応永二五年は室町時代である。征夷大将軍の足利義持が異母弟の足利義嗣を殺害した年である。

 

素麺の起源は中国の菓子の索餅(さくへい)である。日本には奈良時代に遣唐使が伝えた。もち米をこねて細く延ばし、縄のようにねじり合わせた。索は太い縄、餅は小麦粉と米粉を混ぜ合わせたものを意味する。鎌倉時代になると麺を延ばす索麺が登場する。室町時代になると細長い麺になり、素麺と呼ばれるようになった。素麺は公家言葉では「ぞろぞろ」と呼ばれた。「ずずっ」と食べる音が反映している。

 

素麺は夏の涼味である。暑い時期には食欲があまりなくてもスルスルと食べられる麺類が合っている。人間が生きていくためには食べなければならない。しかし、あまりに辛く苦しい目に遭うと、食べる気持ちも起きなくなる。そのような状態でも素麺は食べられる。食欲がない人でも食べられる。

 

播州素麺は播州平野で採れる小麦や赤穂の塩を原材料とする手延べ素麺である。コシを出すために、熟成を重ねながら麺を徐々に引き延ばして細くしていく。麺がツルツルしていて、喉越しが良い。定番はネギとシイタケで食べることである。婚礼などの祝い事には鯛の塩焼きを盛り付けた鯛素麺が食される。

 

播州素麺は江戸時代を通じて播州平野全体で盛んになった。林田藩は需要と供給の両面から播州素麺を奨励した。これまで素麺は寺院や宮中の宴会などで食された高級品であった。羽柴秀吉が姫路城を築いた時に祝賀として家臣達に素麺を振舞ったこともある。素麺の高級品イメージは二一世紀にも贈答品として残っている。その素麺を庶民が食べられるものにした。

 

供給面では素麺の生産を農家の副業として奨励した。素麺は麺を延ばし、ねかし(熟成)を繰り返すことで作られる。天候や温度、湿度の違いによって変化する生地の具合に注意を払いながら生産した。赤穂の塩の搬入や製造した素麺の搬出には揖保川水系の舟運を利用した。

 

播州素麺の人気が高まると、粗製乱造により産地の信用を落とす生産者も現れた。そのために林田藩と龍野藩、新宮藩の素麺屋仲間は慶応元年(一八六五年)に「素麺屋仲間取締方申合文書」を交わし、品質等について取り決めた。違反者には二両の罰金を科すとした。

 

新宮藩とあるが、この時代は三千石の旗本寄合である。新宮藩は1万石の藩であったが、寛文一〇年(1670年)に藩主が早世し、末期養子が認められずに断絶した。主家の備前岡山藩主・池田光政らの運動で藩主の弟が新宮に三千石の旗本となった。

 

林田藩の初代藩主の建部政長の母親は、本願寺僧侶・下間頼龍の娘である。新宮藩の初代藩主の池田重利は下間頼龍の息子である。林田藩と新宮藩は備前岡山藩・池田家を主家とする点でも共通する。建部政長の母親は池田輝政の養女である。下間頼龍の妻は池田恒興の養女である。これに対して龍野藩は老中を出す譜代大名であった。このような藩の事情を超えて、「素麺屋仲間取締方申合文書」が出たことには大きな意義がある。

 

「素麺屋仲間取締方申合文書」の後も、播州素麺は生産者組合の力が強く、それによって品質が守られている。明治時代になると「揖保乃糸」を商標登録し、「揖保乃糸」のブランドで販売するようになった。製造工程で上下に伸ばして乾燥される麺は純白の絹糸のようである。

 

素麺の日本三大産地は三輪、島原、小豆島である。四大産地となると三輪、島原、小豆島、播州になる。不思議な偶然であるが、林田隠岐守が活躍した九州の島原半島も素麺の産地である。

 

素麺と冷や麦とうどんの違いは太さである。素麺は長径1.3mm未満、冷や麦は長径1.3mm以上1.7mm未満、うどんは長径1.7mm以上のものになる。素麺は細いために麺つゆがよく絡み、独特な食感になる。プチプチッと弾けるような強い歯切れがある。

 

素麺の他の麺類と比べた弱点は、スープやソースを変えて様々なバリエーションを楽しめず、単調になることである。トマトソースで食べるトマトそうめんやイタリアン素麺、フルーツを載せた素麺、コンソメスープ素麺など様々なバリエーションを生み出している。

 



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讃岐国阿野郡林田郷

四国にも林田がある。讃岐国阿野郡林田郷である。南西を綾川、北西を瀬戸内海に面している。古くから塩田が発達していた。讃岐国は縦に十一の郡に分けられている。西から刈田、三野、多度、那珂、宇陀、阿野、香川、山田、三木、寒川、大内郡である。

 

阿野(あや)郡は綾絹の産地であり、渡来人の漢部(あやべ)が織物に携わっていたことが名前の由来である。山本郷、松山郷、林田郷、鴨部郷、氏部郷、甲知郷、新居郷、羽床郷、山田郷から構成される。阿野郡には讃岐国府があった。

 

林田郷は保元の乱で敗れて讃岐国に流罪になった崇徳院が三年間過ごした場所である。保元の乱は平安時代末の皇室や摂関家の争いである。保元元年(一一五六年)の鳥羽法皇の死を契機として起きた。後白河天皇と関白藤原忠通、崇徳院と藤氏長者・藤原頼長の争いであるが、戦争の中心は武士が担った。武士の時代の始まりを示す事件であった。

 

結果は崇徳院側が敗れ、崇徳院は剃髪して讃岐国に配流となった。崇徳院は七月二三日に鳥羽から船で下り、讃岐国の松山の津に到着した。しかし、讃岐国では御所の準備ができておらず、国府役人の綾高遠(あやのたかとお)の館を仮の御所とした。崇徳院は都を懐かしんで歌を詠む。

「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」

この歌から仮の御所は雲井御所と名付けられた。雲井御所近くに流れる綾川を鴨川と呼んだ。現在でも綾川は鴨川と呼ばれる。その後、崇徳院は鼓岡木ノ丸御所に移った。

 

鎌倉時代に守護が置かれると、讃岐国守護の下に林田守護代が置かれることがあった。三浦光村が讃岐国守護の時に長雄二郎左衛門胤景(ながおじろうざえもんたねかげ)が林田守護代を称した。三浦光村は鎌倉幕府評定衆の有力御家人であったが、宝治元年(一二四七年)の宝治合戦で滅亡した。真言宗の僧侶の道範が大伝法院焼き討ちの責任を問われて林田守護代のところに配流された。

 

讃岐国御家人の沙弥円意は弘安元年(一二七八年)に阿野郡林田郷内と梶取名内の潮入新開を祇園社へ寄進する。分国主の亀山上皇は弘安二年(一二七九年)に阿野郡林田郷内と梶取名内の潮入新開を祇園社領と認めた。御家人が荘園を神社に寄進している。中世は武士の時代とされるが、宗教権力の強さを示すものである。

 

南北朝時代には細川清氏と細川頼之の白峯合戦の舞台になった。林田郷は守護大名・細川氏のヘゲモニー下にあった。阿野郡は国人の香西氏の勢力が強まった。香西氏は細川氏との結び付きを強め、細川四天王の一人にまでなる。応仁の乱後は細川氏の勢力が弱まり、讃岐国は小勢力の群雄割拠状態になる。阿波国では細川氏の重臣の三好氏の勢力が強まり、讃岐にも勢力を伸ばした。

 

戦国時代末期には長宗我部元親が四国の覇者になった。元親は土佐の領主の若君であったが、「戦知らずの姫若子」と呼ばれ、侮られる日々を過ごしていた。しかし、それは才能を隠す擬態であった。これは「うつけ」の織田信長に重なる。

 

元親の躍進は信長の躍進と重なるところがある。しかし、当の信長からは「鳥なき島」の蝙蝠と低い評価であったことは皮肉である。信長の本質は中世的な体制を壊す近世大名であり、中世的な要素の強い長宗我部家を高く評価できなかったのだろう。しかし、この長宗我部軽視は本能寺の変の動機になり、信長の痛恨事になった。

 

元親の強さは一領具足の兵士を編成したことにある。一領具足は半農半武の兵士である。突然の召集に素早く応じられるように、農作業をしている時も、常に一領(ひとそろい)の具足(武器と鎧)を田畑の傍らに置いていたことから一領具足と呼ぶ。

 

一領具足は信長の職業軍人政策とは一見すると真逆に見える。その後の歴史から遡って見ると一領具足は後進的な制度に見えるかもしれない。しかし、一領具足は単なる半農半武ではない。農作業中でも即座に出陣できるように武器と鎧を準備しており、戦争に集中できるように最適化されている。信長の職業軍人が平時は消費者か事務作業をしているところ、一領具足は農作業しているという違いがある。土佐は貨幣経済が普及しておらず、消費者として職業軍人を維持できないという違いによる。

 

四国統一を目指した元親は讃岐国にも侵攻した。ところが、羽柴秀吉が天正一三年(一五八五年)に四国攻めを行う。讃岐国には備前・美作の宇喜多秀家、播磨の蜂須賀正勝・黒田孝高が屋島に上陸した。秀吉の四国平定では、その差が明らかになる。元親は降伏し、土佐一国のみが安堵された。阿波国と讃岐国、伊予国は割譲された。

 

戦後の四国国分で仙石秀久が讃岐国の大半約十万石を治めることになった。秀久が讃岐に入った時に激しい農民弾圧を行った。秀久は一揆の首魁を捕らえて煮殺した。農民は恐怖して安住せず、離散する者が多かった。秀久は秀吉の最古参の家臣で、前線で戦い続けた。そのため、武備優先で領国を豊かにする余裕はなかった

 

秀久は天正一四年(一五八七年)、九州征伐の先陣の軍監になる。秀吉は持久戦を命じたたが、秀久は攻撃に出た。同じ先陣の長宗我部元親・信親父子は反対したが、秀久が強行した。訴その結果、戸次川の戦いで島津家久に大敗する。しかも、軍監として撤退の取りまとめをせず、自己の家臣団だけで領国に引き上げてしまった。「仙石は四国を指して逃げにけり 三国一の臆病の者」と詠まれた。これが秀吉の怒りを買い、秀久は改易となった。

 



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林田村

文禄四年(一五九五年)に生駒親正が讃岐国約一七万石を治めることになった。親正は関ヶ原の合戦に病気を装って不参加。息子の生駒一正を東軍に参加させ、本領が安堵され、讃岐高松藩が成立した。

 

四代藩主の生駒高俊は幼少で家督を相続した。このため、外祖父の藤堂高虎が後見した。高虎は藩士を高松藩に派遣して、藩政を補佐させた。その一人が西嶋八兵衛で、土木や治水で活躍した。八兵衛は慶長元年(一五九六年)生まれ。満濃池の改修が代表的な業績である。

 

満濃池(まんのういけ)は弘法大師空海が弘仁十二年(八二一年)に改修した溜池である。空海は唐で学んだ水利技術を用いて改修した。空海が学んだ唐の技術も外来のもので、仏教僧・法顕がスリランカの技術を中国に伝えたものである。その後、満濃池は決壊や堤防老朽化で四五〇年間以上壊れたままになった。

 

積極的な新田開発によって高松藩は慶長六年の約一七万石の石高が寛永一七年には約二三万石に増加した。この新田開発は綾川河口東岸に開発可能な広い場所を持つ林田村も対象になった。林田村の寛永一六年の石高は一四八六石余。このうち、生駒家家臣が自分用の新田とした石高が九二点五石であった。

 

生駒家は、お家騒動の生駒騒動が起きる。藤堂高虎が生駒家を後見した際、一門譜代の力を弱めるために、外様家臣の前野助左衛門と石崎若狭を家老に加えた。ところが、この二人が藩政を牛耳り、専横を極め、一門譜代の家臣が反発する時代になる。幕府が取り上げた結果、寛永一七年(一六四〇年)に改易されてしまう。

 

八兵衛は対立が深刻化する前に高松藩から手を引き、津藩が生駒騒動に巻き込まれることはなかった。八兵衛は津藩でも雲出井用水開削などの水利事業で活躍した。津市丸之内商店街には西嶋八兵衛の銅像がある。

 

寛永一九年(一六四二年)に松平頼重が一二万石で入封し、高松松平家が幕末まで続く。高松藩の舟番所は林田浦に設置されていたが、享保七年(一七二二年)に坂出浦八軒屋に移転された。寛保三年(一七四三年)には林田沖での漁業に従事する丸亀御供所の漁民が船一艘につき一〇匁の運上銀を出している。弘化四年(一八四七年)に綾川が決壊し、林田村は洪水被害を受けた。

 

林田村は砂糖生産が盛んであった。林田村は、元治元年(一八六四年)には六七%もの甘藷作付け率を誇り、一七〇挺の砂糖車(さとうぐるま)を持っていた。砂糖車はサトウキビの圧搾装置で、明から琉球に伝わった。

 

サトウキビは元々、南西諸島に栽培地が限られていたが、高松藩では砂糖作りを研究していた。お遍路の途中で病気にかかり、藩内で行き倒れになっている人を治療して助けた。その人物は薩摩藩奄美大島出身で砂糖作りをしたことがあった。命の恩人の頼みとして、藩外へ持ち出し禁止のサトウキビを讃岐地方で育てた。これが讃岐和三盆の始まりである。

 

明治時代に入り、一八九〇年の町村制施行で阿野郡林田村となる。一九四二年に坂出町に編入され、その後に坂出市となった。林田の名前は坂出市林田町として残っている。沿岸部には塩田が広がっていたが、塩業整理で廃止された。代わりに林田工業地帯が造成された。埋め立てが進んでおり、歴史時代の海岸線はもっと内陸寄りであった。

 

林田港は釣り場である。カレイやカワハギ、コブダイ、サヨリ、タチウオ、チャリコ、ハゼ、メバルが釣れる。四国随一の心霊スポットとも指摘される。海面から無数の手が出てくるという噂がある。岸壁は釣りができる。

 



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美作国苫田郡林田郷

美作国にも林田がある。美作国苫田郡林田郷である。これは「はいだ」と読む。苫田郡は貞観五年(八六三年)に苫西郡と苫東郡に分割された。その後、苫西郡は西西条郡と西北条郡、苫東郡は東南条郡と東北条郡に分割された。林田郷は東南条郡にあった。

 

鎌倉時代に林田郷は六波羅蜜寺の寺領が成立していた。六波羅蜜寺は智山派の真言宗寺院である。空也上人が天暦五年(九五一年)に開創した。林田郷の清正名は一二三二年に和気盛房法師から六波羅蜜寺灯油所として寄進された。「名」は徴税のために設けられた単位である。林田郷の安寧院は美作国司から一二三八年に不輸(租税を納めなくて良い権利)が認められた。

 

美作国は桃山時代には五大老の宇喜多秀家の領地になった。関ヶ原の合戦で西軍に属した秀家は改易され、小早川秀秋の領地になった。しかし、秀秋は慶長七年(一六〇二年)に早死にした。

「秀秋こそ人面獣心なり。三年の間に必ず祟りをなさん」

これは関ヶ原の合戦で大谷吉継が西軍を裏切った秀秋を呪詛した言葉である。その言葉通りに亡くなってしまった。跡取りのいない当主の死亡で小早川家は取り潰された。

 

代わりに森忠政が慶長八年(一六〇三年)、信州川中島から転封し、美作津山藩一八万六五〇〇石が成立する。忠政は織田信長の家臣の森可成の六男として生まれた。兄に織田信長の小姓になった森蘭丸、森力丸、森坊丸がいる。三人とも本能寺の変で戦死した。忠政も信長の小姓であったが、同僚と喧嘩になり、信長らから「まだ幼過ぎる」と言われて母親のもとに帰された。忠政は意図せず本能寺の変を回避した。

 

森家の家督は兄の森長可が継いでいた。長可は鬼武蔵と呼ばれる勇猛な武将であったが、長久手の戦いで討ち死にした。長可の死後に末弟の忠政が森家を継いだ。長久手の戦いでは播州林田藩と接点のある池田恒興も討ち死にしている。

 

忠政の美作支配は簡単に受け入れられたものではなかった。小早川家の家臣ら三千名は改易に納得せず、森忠政の入国を拒み国境を固めた。これに対して忠政は一部を調略して案内人にすると、裏道を通過して美作に入った。

 

忠政は鶴山を本拠地と定め、慶長九年(一六〇四年)に津山と改称した。鶴は森家の家紋であっため、鶴の字を使うことを避けた。津山藩は城下町を整備し、元和三年(一六一七年)に林田町ができた。ここでは江戸時代から明治時代にかけてつくられた町屋が多く残されている。東南条郡には林田村も存在した。

 

森家は第五代藩主の森衆利の時に改易される。衆利は生類憐れみの令により武蔵国多摩郡中野村の犬小屋の普請総奉行になった。ところが、浪人らが犬を殺害する事件が起き、家臣の若林平内が切腹を余儀なくされた。犬のための法令で家臣が死ななければなない理不尽から衆利は発狂し、幕政を批判した。これによって森家は改易され、津山藩は越前松平家一〇万石となった。

 

明治時代になると林田町は東南条郡津山東町になる。津山東町は一九〇〇年(明治三三年)に西北条郡津山町に編入される。同時に西西条郡・西北条郡・東南条郡・東北条郡が苫田郡になったため、苫田郡津山町になる。東南条郡林田村も苫田郡林田村になる。林田村は一九二三年(大正一二年)に津山東町になる。津山町や津山東町らは一九二九年(昭和四年)に合併して津山市になる。林田町は津山市林田町、林田村は津山市林田になる。

 



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台湾の林田

台湾にも林田がある。日清戦争の結果、台湾は日本の植民地になった。日本人の移民者が花蓮港庁鳳林郡鳳林庄に林田村を作った。周囲に林が広がり、水田に適した土地もあるため、林田と名付けられた。

 

林田村は中華民国の行政区間では花蓮(ホワリエン)県鳳林(フォンリン)鎮になる。花蓮県は台湾東部にある。西を台湾中央山脈、東を太平洋に挟まれて南北に延びる細長い地域である。ワンタンが名物料理である。鳳林鎮は花蓮県の中央部に位置する。

 

林田村は一九一四年二月(大正三年)に移民第一陣が入った。南岡と中野(林田)、北林の三つの集落から構成された。一九一四年二月に移民第六陣の七三戸が入った。一九一五年一〇月には六六戸が移住した。一九二五年には人口二〇一五人、一九三五年には三三三三人なった。移民者は日本で一切の家財道具を売り払って移民してきた。

 

台湾は中央を山脈が隔て東西の交通が困難である。花蓮県は漢族も、あまり入っていない土地であった。外部と花蓮県との交通は花蓮港を通した海路が主になった。台東と花蓮を結ぶ鉄道の台東線が走るようになると発展した。台東線の鳳林駅は一九一二年一月二五日に開業した。

 

移民者は九州や四国の出身者が多かった。九州は林田の名字が多い地域である。四国も讃岐国阿野郡林田郷という地域がある。林田村の主な農作物はサトウキビであった。煙草や野菜などの栽培を中心とした農産業も盛んであった。林田村には林田尋常小学校や林田神社、林田派出所、タバコ工場があった。

 

移民者は暴風雨、伝染病の流行、原住民との衝突などの問題に直面した。移民勧誘者は台湾を蓬莱の島や高砂の国と理想的なイメージを振りまいたが、伝染病は深刻であった。林田村ではツツガムシ病が流行した。これは細菌の一種であるリケッチアによる感染症である。小型のダニの一種であるツツガムシの幼虫によって媒介される。

 

水利問題もあり、水田耕作は十分にできなかった。水田耕作ができないとサトウキビや煙草といった商品作物に傾斜する。一九一七年(大正六年)の林田村の農作物生産高は金額ベースでサトウキビが米の一三〇倍になった。米を自給できないとなると食べるために高い金額で米穀を購入しなければならず、家計を圧迫する。経営を軌道に乗せられなかった移民の一部は退去を余儀なくされた。

 

台湾林業の一大拠点に林田山がある。台湾では八仙山、阿里山、太平山に次ぐ、四番目に大きな林場であった。八仙山、阿里山、太平山と共に四大林場と呼ばれた。三大林場となると八仙山、阿里山、太平山で、林田山は入らない。

 

林田山は元々、森坂と呼ばれていた。日本人が一九一八年(大正七年)に東台湾木材合資会社を設立し、翌年には花蓮港木材株式会社になった。多くの労働者や家族が住み、住民向けの店舗もでき、小上海とまで呼ばれた。切り出した檜や杉、柏などの材木は、トロッコを使って花蓮港へ運搬した。第二次世界大戦中の物資が欠乏した時代は、牛が軽便車を引っ張る方式で材木を運搬した。

 

日本は一九四五年八月一五日にポツダム宣言を受諾して無条件降伏した。台湾は中華民国に返還された。台湾の日本人は一九四六年三月、現金千円と僅かな衣類の所持だけを持って帰国しなければならなかった。帰国後は日本政府の支援がないどころか、差別された。満蒙開拓団の引き揚げのような悲劇は少ないものの、認知度も低い。

 

林田村は、中華民国時代は大栄村になった。林田尋常小学校は中華民国になると大栄国民小学校になった。一方で台湾人による林田もある。台湾人が日本人の桶職人が桶作りを学び、日本風に林田桶店という名前で店を開いた。

 

林田山も中華民国になっても林業が続いた。一九六〇年代に最盛期を迎えた後に林業は衰退し、縮小した。一九九〇年には伐採は終了した。その後は林務局花蓮林区管理処が運営するテーマパーク「林田山林業文化園区」となった。

 

檜の香りがいっぱいのカフェで紅茶を楽しめる。日本風の町並みが残っている。株式会社加藤製作所のディーゼル機関車が保存されている。二〇一九年には園内の日本式建築「場長館」で台湾原住民の太魯閣(タロコ)族の伝統的な織物を紹介した。太魯閣族の頭目に哈魯閣・那威(ハルク・ナウェイ)がいる。哈魯閣・那威は一八九六年から一九一四年に日本統治に抵抗した抗日英雄である。

 

映画『トロッコ』は林田山林業文化園区で撮影された。芥川龍之介「トロッコ」をモチーフにした映画である。台湾人の父親と日本人の母親の子ども達が主人公である。

 



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