後輩眼鏡女子は今日もうそぶく (手嶋茶未)
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やれやれ系にはなれない
或る日の部室①


 某高校にある天文部の部室は荷物置き場も同然である。もっともらしく文化部系の名を冠しておきながら、とくに活動はない。倉庫、あるいはペーパーカンパニーのごとく実体のない部活であった。なんの偶然か、脈々と受け継がれるエリート幽霊部員たちによってこれまで存続しており、佐原灯馬もそのうちの一人だった。

 

 部室を維持している以上、その恩恵に与るのは当然の権利とばかりに、灯馬はときおり授業をフケて、この部屋をサボり場所として使っている。

 

 以前は別の文科系の部活が使っていたため、壁は背の高い本棚とそれを埋め尽くす夥しい本に囲まれており、歴代の部員によって持ち込まれたガラクタ類のせいで部屋は狭く感じられる。

 

 八畳ほどの部室の中心に細長いテーブルを六つほど固め、その周りにパイプ椅子を配置してしまえば、ほぼ足の踏み場など無いに等しい。

 

 その日の午後、灯馬はパイプ椅子に腰かけてリラックスした様子で漫画を読んでいた。

 

 気まぐれに本棚から手に取ったのは料理漫画だった。ライバル寿司の暴虐に抗う寿司漫画の全国大会編だ。どちらかといえば彼は無印のほうが好みだったが、ここまでくると惰性だった。本棚に全巻揃っていることだし、どうせなら最後まで読みたい。

 

 料理漫画は人々に寛容さを教えてくれる。あたりまえのように失神する審査員、美味すぎて口にしただけで死ぬパン、狂気じみた中華料理。あと最終話でダルシムと化した河内とか。

 あれを読んだ後だと新宿エンドもそう理不尽ではなかったのではないか、という気さえしてくるから不思議なものだ。

 

 ページを捲りながらそんなことを考えていると、ドアノブが捻られる音がして、灯馬は一瞬身を固くする。

 

「おや、佐原先輩じゃないですか」

 

 部室に入ってきたのは、黒縁眼鏡をかけた女子生徒だった。首筋あたりで切り揃えたショートヘア。左目の下に泣きぼくろのある地味めな少女だが、授業中にこの部室に来る時点で見た目ほど真面目ではないのだろう。今年入部してきた一年生だった。

 

「……なんだ、仁科か」

 

 灯馬はほっとしたように息を吐くと、再び椅子の背もたれに体重を預ける。彼のなかではたまに話す変な後輩程度の認識だった。

 

 仁科なんとか。下の名前は知らない。

 

 前に訊いたような気もするし、忘れたような気もする。仁科は後ろ手でそっとドアを閉めると、つま先歩きで床のガラクタを避けながらテーブルを挟んで灯馬の向かいの椅子に座った。

 

「うわ、また懐かしい漫画読んでますね、先輩。わたし中学生の時、小手返し一手で握る練習とかしてましたよ」

 

 覗き込んで表紙を見るなり、仁科はくすくす笑った。どうやら既読だったらしい。

 

 登場人物がえげつない屑ばかりなことに定評のあるバトル料理漫画だが、ストーリーはかなり熱い。クソを通り越して犯罪レベルの妨害を繰り返すライバル達に果敢に挑む、新米寿司職人の戦いの記録である。

 

 ちょうど漫画の中では、電車に轢かれ大怪我を負ったライバルが病院を抜け出し、満身創痍で寿司を握る熱い展開が繰り広げられていたところだったが、灯馬はいったん本を閉じた。

 

「一手は無理だろ、一手は。絶対シャリが崩れる」

「ええ、普通に無理でしたね。むしろ出来たらチートですよ、あれは」

 

 仁科は肩をすくめた。

 

 この残念な後輩とはたまに遭遇するのだが、意外に話が合う。B級映画好きを自称するだけあって、馬鹿話で盛り上がることもある。

 

(よく見ればそこそこ顔が整ってるのがムカつくな……)

 

 と、灯馬は内心考えていた。どこか掴みどころのない印象を受ける。

 

 せっかく顔を合わせたのに別々に漫画を読むのもアレだと考えたのか、どちらともなくテーブルに置いてあったボードゲームに手を伸ばす。土地を開拓していくゲームだった。

 

「いや二人でこのボドゲは地獄では?」

「たしかに」

 

 今度はふたり揃って手を引っ込める。

 

「チートといえば」

 

 仁科がやけに神妙な顔をして口を開いた。この少女がこういう顔をしているときは、だいたいがくだらない話題だ。なにやら駄弁ることにしたらしい。

 

「こう、科学が栄えた文明世界に転生して魔法で無双するみたいな話あるじゃないですか」

「ありがちだね」

 

 また始まったよ、と思いながら灯馬はうなずいた。

 

「一つの完結した世界観に外から別の法則を持ち込もうとするのって、なんか卑怯じゃありません? 道歩いてて犬のウンコ踏んだ小学生が『でもバリア張ってたから無効!』って謎ルールで言い訳するぐらい卑怯じゃありません?」

 

「おまえ犬のウンコ踏んだ小学生になんの恨みがあるの?」

 

 この世の理不尽を許さぬとばかりに訴える仁科に、灯馬はあきれて言った。

 

「……というか言うほど無効か?」

「まあ、家に帰ったらお母さんに問答無用で怒られるんですけどね。普通に臭いでバレて」

「若かりし日の実体験だったか。いや、おれもやったことあるけどさ」

 

 灯馬の場合は『地面から三ミリ浮いてるからセーフ』派だったが。実際、誰もが通る道だろう。小学生にとって五時を過ぎると薄暗い公園や川沿いの道は地雷原なのだ。

 

「ウンコバリアは集合的無意識が作り出したものだった……?」

「やたら壮大な話になってるけど、ただの現実逃避バリアだから」

「そう言われると無双話も途端に現実逃避めいて聞こえてくるから不思議ですね」

「無差別に喧嘩売るのやめろ」

 

 若干危ない方向に傾きかけたのを素早く察して、止める。刺さる人には刺さるかもしれない。そういえば仁科は無双は国士無双しか許さない派だった。原理主義者であった。

 

「ほんっと余計なこと言わないように竹でも噛んでたほうがほうがいいぞ、おまえ」

「鬼か。おのれ笹寿司……」

 

 悔しそうに歯噛みする仁科だが、笹寿司はまったく関係ない。

 

「じゃあちょっと話変わりますけど、『下痢ツボ!』って言って人の頭頂部を押すやつ昔流行りましたよね、ほらつむじあたりの」

「あんま変わってねえし、さらに汚くすればいいってもんじゃない」

 

 ウンコネタを引っ張ろうとする仁科。どうもこの少女は脊髄反射で思いついたことを喋っている節がある。発想からして女子力あるいは人間力が最底辺にあることは間違いない。

 

「あれって人間が幼少の頃に初めて使う呪術みたいな感じしません?」

「意味不明すぎる」

「ほら、一瞬押された程度で効果なんて出るわけないのに、ちょっとお腹の調子が悪くなったり、冷や汗かいたり飛蚊症に苦しんだり」

 

 たしかに、意識すると本当に体調が悪くなるあたりが呪いめいている。瑕疵物件で無意識のうちに精神を病んで身体を壊すとか。抜け毛を意識すると禿げるとか。そういうことを言いたいのだろう。至極どうでもいいが。灯馬は面倒臭くなって雑に相槌を打つ。

 

「あー、あれだ。『お前はもう死んでいる』のセリフの後に体が爆発するとか、日本刀で斬られて峰打ちなのに気絶するやつ」

「なるほど。思い込みって怖いって話ですね」

 

 感心したようにうなずく仁科。

 

「ごめん適当言ったわ。百裂拳とか全身の秘孔突かれた末の爆発四散だわ。べつに思い込み関係ない」

 

 ついでに言えば峰打ちも怪しい。刃がなかろうが、鉄の塊で殴られたら痛いし、当たり所によっては誰だって気絶するだろう。

 

「ふむ、逆刃刀は立派な鈍器って話ですね」

「……いや間違ってはいないけども」

 

 灯馬はどこか釈然としない感じがして首をひねる。

 

「つか、仁科さぁ、一年のうちからこんなとこで授業サボってていいのかよ。まだ五月だぞ」

「二年生なら良いということもないでしょうに」

 

 灯馬の指摘に、仁科はしれっと答える。だが、彼にはこの後輩女子と結構な頻度で顔を合わせているような気がしたのだ。いくら学校に単位制の側面があるとはいえ、グレるにはまだ早い時期だ。

 

「まあそうなんだけど。なんつーの、勉強とか人間関係とか大丈夫なの?」

「おや、頭にブーメランとか刺さってませんか?」

「全然」

 

 灯馬はかぶりを振った。べつに頭は悪くないし、どちらかと言えば友達は多いほうだった。基本的に要領が良いのだろう。ただ少々サボり癖があるだけで。

 

「おれ体育会系だから」

「あ、ずるい……じゃなくて、わたしもええと……ほら、カニばさみとか超得意ですから」

「明らかに禁止技じゃねぇか」

 

 悩んだ末に妙なことを口走って対抗しようとする仁科。やはり残念感が否めない。

 

「あれ? でも佐原先輩だって天文部じゃないですか。そっか、うちって実は体育会系だったんですねヤッター!」

「騒ぐなや……人来たらどうすんだ」

 

 灯馬はホラゲーで〈叫ぶ〉コマンドを誤タッチした時のような表情を浮かべた。銃のリロードをしようとして叫ぶし、アイテムを拾おうとしても叫ぶ。常に選択肢に表示されているあたり、どうあがいても絶望的な心情を慮ったものだったのだろうか。

 

 ではなくて。

 

 忘れがちだが授業中なのである。この時間に部室棟に人が来るとは思えないが、見回りがいないとも限らない。誰かに見つかってからでは目も当てられないのだ。

 

「その体育会系への憧れなんなの。もしかして中学は文化部?」

「いえ、去年の夏まで陸上やってましたが」

「バリバリ運動部だそれ」

 

 灯馬があきれて呟くと、仁科はふふんと笑って、

 

「これでもわたし結構走るの速いんですよ。なんと裸足になると速さ二倍!」

「アベベかな?」

「RPGだと高倍率の速度比例攻撃撃てるキャラとかですね、たぶん」

「仮にもアタッカーが靴すら装備してないの致命的なのでは?」

「そこはほら、ファンタジーですし、足の裏の皮膚が五ミリくらい厚いとか」

「そんなしょっぱいファンタジー要素なら最初から無いほうがマシだろ」

 

 ファンタジー舐めんなレベルである。気怠そうに灯馬が突っ込むと、仁科は不満げに口を尖らせた。それから思いついたように言った。

 

「こういう話してるとなんかゲームやりたくなってきますよね。やっぱボドゲやりましょ、ボドゲ」

 

 仁科は先ほど断念したボードゲームに手を伸ばした。天文部ではなくて実質ボドゲ部なのである。そもそもあまり活動もしていないが。灯馬は肩をこきこきと鳴らして確認する。

 

「いいよ、罰ゲームは?」

「もちろんアリで」

 

 仁科はそう言って不敵な笑みを浮かべた。

 

「今日こそラーメン奢って貰いましょうか」

 

 

 



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或る日の部室②

 罰ゲームといっても大したことはない。特にエロ系でもないし、勝った方がは敗者に常識の範囲内で何かしらの要求ができるというだけの取り決めだ。

 

 以前に暇つぶしにボードゲームをした際に仁科が言い出したことであった。言い出しっぺの法則に類するお約束で負けが越しているため、仁科は毎回、学校の最寄り駅近くの家系ラーメン屋で灯馬に奢る羽目になっている。

 

 後輩女子を食い物にする(直球)非道な先輩の図だが、本人はまったく気にしていない。たいてい容赦なくトッピング全載せしている。

 

 仁科は板海苔、焼き海苔、さらに岩海苔まで乗せるささやかな抵抗をしているようだが、いまいち効果がないようだった。類まれな海苔好きなのかもしれない。さすがに煮卵と味玉のコンボで喉を詰まらせているが。

 

「今日こそ勝ちますから」

 

 などと言いながら仁科がサイコロを振る。出た目を見てテーブルから対応した資材を引く二人。

 

 島を開拓するよくあるゲームだった。

 

 辺境送りにされたそれぞれのプレイヤーが開拓地から街道を伸ばし、都市へと成長させていくボードゲームだ。得られる資材は拠点の初期配置(任意)とサイコロで決まる。大人数でやる場合は妨害や協力などの駆け引きがあるのだが――

 

「佐原先輩、藁持ってますよね、藁。木材と交換しましょ」

「『わらの女』じゃん」

「遠回しに馬鹿って言うのやめてくれません?」

 

 正式な資材の名前は藁ではなくて小麦なのだが、お互い適当なので気づいてすらいない。

 

「藁は無理。ハッテン縛りで行くから。むしろ木材ならいくらでもあげるけど」

「うわ出た。お得意の『新宿二丁目プレイ』じゃないですか」

「言い方に悪意しか感じられない」

 

 新宿二丁目プレイとは、街道や開拓地を作ることを放棄して、小麦・羊毛・鉄を交換し続けて発展カードを総取りする戦略である。初期開拓地のトイレから出てこないことから名づけられた。王道プレイには安定性で劣るが、ハマった時の爆発力がある。開拓度合いでポイントカードを引き当てて勝つのが理想だろう。

 

 対する仁科の戦略はゴリラプレイである。貿易の2:1交換比率を抑えて、得られる資材を木材に全賭けしたうえで、効率よく別の資材に変換する。初期配置とファンブルに左右されるが、運次第では暴力的なまでの木材貿易で押し切ることが可能。

 

 つまるところ、二人とも実力というよりただの運任せなのだが。自己完結型のため、最悪お互いに交渉しなくても、サイコロを振り続ければワンチャンが見込める。それならじゃんけんでもしてろという話だが。

 

「やっぱタイマンでやるゲームじゃないよな、これ」

 

 発展カードで盗賊を動かしまくり、資材を差し押さえる外道ムーブで、盤上は灯馬の優勢だった。モノカルチャーとは相性が悪かったようだ。

 

「木材抑えられて全っ然身動き取れないんですが。ふつうに卑怯では?」

「クク――木がなければ森の王者も片手落ちだな……!」

「なんか悪役っぽくカッコイイこと言おうとしてるけど、先輩ただ二丁目カード引き続けてるだけじゃないですか」

「二丁目って言うな」

 

 灯馬はハッテン(意味深)を続け、便利カードを引きまくっているが、基本的にこのゲームでは新たに開拓地を作り、都市化させていかなければポイントが稼げないので、実質膠着状態である。

 

「このゲームに領民いたら相当迷惑だろうな」

「モノカルチャーゴリラと男色狂いの領主ですもんね」

「もう反乱起きてもおかしくないだろ、それ」

 

 妨害されて低コストの街道ばかり建設しているゴリラとハッテンばかりしている開拓者。劣悪な環境にブチギレた領民による一揆とか下克上が起きそうだ。

 

「そこはあれですよ、人心掌握術的なサムシングで」

「人心掌握ぅ? カリスマの欠片もないじゃん、おまえ」

 

 鼻で笑う灯馬。その反応に仁科はむっとして、

 

「ありますよカリスマ! わたし結構モテるんで」

「ははは、本当だ。よく見たら腕に虫刺されあるね」

「蚊にモテる前提⁉」

 

 七分ほどに捲った袖口からのぞく白い細腕にぽつりと赤い点が見えた。指摘されてかゆくなったのか、仁科は気だるげに左腕をぽりぽりと掻いた。

 

「じゃなくて、ちゃんと人間相手にもモテてますって!」

「へぇ……?」

 

 サイコロを振る手を止めて、胡乱げな眼差しを向ける灯馬。半信半疑どころか完全に疑いの眼だ。疑り屋のトマスとは彼のことだ。嘘だが。

 

「自分で言うことじゃないですけど、わたしはそこそこ顔が良い」

「マジで自分で言うことじゃないな……」

「目立つタイプじゃないけど、それゆえに『ちょっと地味だけどあの娘の魅力に気づいてるのは俺くらいじゃね』層の勘違い男子が驚くほど釣れる。入れ食いですよ入れ食い」

「発想が小賢し過ぎる。やっぱ『わらの女』じゃん」

「失礼な。策士と言って欲しいですね」

 

 胸を張って作戦勝ちを主張する仁科はゲームそっちのけで続ける。

 

「『美少女』という表現が創作のなか以外で用いられないのと同様に、無理な高望みをする男子は現実にそういないんです。ワンチャン狙うより、いけそうだからいくかの精神ですからね、彼らは」

 

「なんだおまえ男子高生ハンターか?」

 

 灯馬は確立した方法論を自慢げに語る仁科に軽くドン引きしながらも、

 

(でも一歩間違えたら扱いがオタサーの姫になりかねないよなぁ、それ)

 

 と、冷静に分析していた。形の良い眉。くっきりとした二重瞼に長いまつげ。薄ピンクの唇。オタク顔でもないし、たしかに普通に顔立ちが整っているだけにたちが悪い。

 

「何です?」

「や、おまえの彼氏苦労してそうだなぁって」

「はぁ? わたし彼氏なんていませんけど」

 

 茶化す灯馬に、何言ってんだコイツ、みたいな怪訝そうな目を向ける仁科。

 

「え?」

「えっ?」

 

 お互いに顔を見合わせるふたり。話が噛み合っていなかった。

 

「なして? 散々釣り上げてるんじゃないの?」

「ええまあ。でもわたし、釣った魚はちゃんとごめんなさいして海に返すタイプですし」

「うわ、マジの思わせぶりな地雷女じゃん」

「いやいや、脈もないのにちょっかいかけられるこっちのほうが迷惑ですって」

「そのわりにはこう、意図的に野暮ったく見えるようにしてる気が……ん?」

 

 灯馬がまじまじと仁科の顔を見つめていると、あることに気づいた。おもむろにテーブルに身を乗り出して、彼女の顔に腕を伸ばす。

 

「なにか?」

 

 灯馬の伸ばした手をうっとうしげにぺしりと叩くが、

 

「髪にゴミが付いてる」

「あ、ほんとですか」

 

 自分で前髪をくしゃりと触って確かめる仁科。艶のある黒髪が揺れる。

 

「取れました?」

「いや、まだついてる」

 

 灯馬は自然な風を装って手招きをして、

 

「ほら」

 

 取ってもらえると素直に信じたのだろう。まさに油断! 俯きがちにそっと頭を寄せてくる仁科。それを好機と見た灯馬はゆっくりと両手を彼女の顔に近づけ、

 

「――ばかめ!」

「は?」

 

 油断しきっていた仁科の顔からするりと眼鏡を抜き取った。随分と容易に抜き取れたようで拍子抜けである。たぶんサイズが合っていなかったのだろう。

 

「ちょ、返してくださいって!」

 

 慌てた仁科は椅子から腰を浮かせて、眼鏡を取り返そうと躍起になるが、身長差ゆえか掴みかかろうとした腕は空を切るばかりだった。手を伸ばしても無駄だと悟ったのか、今度はテーブルの下から足で灯馬のすねをげしげしと蹴る。その振動で机が揺れて、駒の位置が微妙にずれた。

 

「かーえーせー!」

 

 スラックスの蹴られた部分に上履きの白い跡が付くが、灯馬はそれを意にも介さず、慎重な手つきで仁科から取り上げた眼鏡を検分する。

 

「ふうん……」

 

 百均にでも売ってそうな安っぽい黒縁眼鏡だった。強いていえば老眼鏡コーナーあたりに。いかにもフリーサイズといった大きさで、仁科の顔に合っていないように思えたのだ。そして灯馬はレンズを覗き込み、裸眼と比較するとぼそりと一言。

 

「素通しじゃん、ウケる」

 

 

 



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或る日の部室③

「普通に伊達眼鏡じゃん」

「…………」

 

 指摘すると灯馬を蹴る足がぴたりと止まった。無言になる仁科。

 ヤッベばれたわ、とばかりにひたすら目を泳がせて何か弁明はできないかと考えているようだった。ところがいくら視線をさまよわせても、どこぞの司令官のように良い考えは浮かんでこない、のだろう。

 

「これには訳が……えーと、ええと……金星から差し込んだ光が反射したとか、アセンションはもう始まっているだとか、要はアレですアレ。あっ駄目だこれごまかしようがない」

 

 わけのわからないことをもごもごと口ごもっていた仁科だったが、終いには諦めてテーブルに突っ伏した。

 

 灯馬は露骨ににやにや笑いを浮かべて、

 

「伊達――」

「ああもう、そうですよ。わたしが伊達眼鏡女子です」

 

 開き直ることにしたらしい。

 

「というか先輩、眼鏡女子の眼鏡取り上げるとかありえなくないですか。属性全否定の過激派ですか? ツインテールとか絶対許さなそうな顔してますもんね!」

 

「しれっと含めてるけど伊達眼鏡は純粋な眼鏡属性に入らないのでは?」

「ぐっ……」

 

 図星を突かれて呻く仁科。

 

 自分でも無理があると思ったのだろう。まあ、灯馬がツインテールに理解がないのは当たっていたが。ついでに言えば彼は萌え袖絶許マンでもある。まるで親の仇のように憎悪している。それに比べれば眼鏡なぞ趣味の範疇だともいえるが。

 

「ま、ファッション用の伊達眼鏡ってのも最近は珍しくもないけども」

「ですよね!」

 

 調子の良い事に仁科はすぐに復活した。

 

「ただしあの丸くて薄っぺらいあれは駄目だ」

 

 灯馬は憮然とした表情で言う。

 

「丸くて薄い……? あー、ええとあの読モとかユーチューバーがかけがちな?」

「そうそれだ。おれはあれを『韓流メガネ』とこっそり呼んで憎悪している」

「うっわ、相当失礼だこの人……」

 

 大学生の半数を敵に回すような発言に、仁科はため息をついた。

 

「だいたいですね、眼鏡に罪はないんです。あと眼鏡女子にも。いいですか? 世の中には二種類の人間がいるんですよ、佐原先輩」

「知ってるよ。眼鏡とそれ以外だろ? もちろん仁科は後者だがね」

「いちいちうるさいすぎる……」

 

 仁科はジト目で灯馬を睨んだ。が、彼はどこ吹く風である。

 

「が、いいでしょう。眼鏡っ娘が眼鏡を取るのを許容する人としない人です」

「また面倒な話を」

「たいていの場合、前者は『眼鏡を取ると実はめっちゃ可愛い』展開を期待してるので、水戸黄門とか異世界テンプレが好きな典型的な日本人です」

「その二つを同じ括りに入れるのは危険だろ……」

 

 身も蓋もない物言いにあきれる灯馬。仁科はそんな灯馬のぼやきを無視して続ける。

 

「後者は少数ですが基本的に眼鏡属性原理主義者なので絡まれるとかなり厄介です。解釈が違うと火炎瓶とか投げつけてきますね」

「なにそれ怖っ……」

「どちらにせよ眼鏡っ娘に一家言持ちな時点で両方とも相当ヤバイです」

 

 前者のほうが健全ですが、と締めくくる仁科だが完全に頭にブーメランが刺さっている。特にフェチというわけでもない灯馬はちょっと怖くなってきたので眼鏡を返した。

 

 手渡されたそれを受け取った仁科は「ちゃきん」と口で言いながらかけなおした。

 

「で、なんで眼鏡?」

「それ訊きます? もしかしたらプエルトリコ海溝並みに深い事情があるかもしれないとか思いません?」

「え、あるの? 深い事情」

 

 意外に思った灯馬が訊ねる。

 

「ないですけど。強いて言えば、眼鏡かけてる人って頭良さそうに見えるじゃないですか。ほら見て、知能指数三千倍」

「は? ゴミじゃん。プエルトリコ海溝に謝れ」

「ごめんねプエルトリコ海溝」

 

 素直に謝る仁科だが、ランキングで見るとプエルトリコ海溝はさほど深くない。遅れてそのことに気づいたのか、仁科は頬を膨らませた。

 

「じゃなくて、先輩こそわたしの素顔を見た感想ないんですか?」

 

 違ったらしい。素顔は大げさだろ、と灯馬は思いながら、

 

「はぁ? 感想?」

「ええ。あるでしょ感想! 『眼鏡ないほうもイケてるじゃん』とか『鉄棒でメッチャ懸垂しながら告りたい』とかなんか気の利いた感じの!」

 

 仁科はあからさまに期待した目で灯馬をじっと見つめていた。いや、後者は気が利いているというよりほぼ少年誌的思考なのだが。

 

 灯馬はふむ、と考えてから、

 

「――正直どうでもよすぎる」

 

「このホモ野郎……!」

 

 飛び出たのは罵倒。仁科は拳を握りしめ、奥歯を噛み砕かん勢いで悔しがっていた。譲れない何かがあったのだろう。それを眺めながらコイツこんな愉快なやつだったのか、と面白がっている灯馬はホモではない。

 

「おまえもわりと失礼だよな」

「あ、でもそういえば先輩ってひょろ長いくせに、お友達にがっしりした人多いですもんね。ほらラグビー部とかの……うん? やはりホモでは?」

 

 妙だな、と顎に手を当てて考えだす仁科。高校生とは千円札で煙草を買う男をコンビニで見かけただけでも、怪しんで尾行しがちな年頃なのである。多感ともいう。

 

「普通に違うしあからさまな偏見やめろや」

 

 まさかのホモ疑惑をげんなりしながら否定する灯馬。

 焦るわけでもなく平然と否定してくるあたりが逆に怪しいと思ったのか、仁科は酷く錯乱した様子で、

 

「やはり筋肉か? なんてこった……わたしが馬鹿でした。ちょっと一年待っててください。全身に筋肉付けて戻ってくるんで。そのあいだ先輩はえーと……一人でカクテルの名前でしりとりでもしてればいいんですよ!」

 

「そんな一昔前のCMみたいなこと言われても……」

「アバーッ! バッテラミルク!」

「なんもしてないのに壊れた……」

 

 パソコン初心者のような科白を吐きつつ、なんとか疑惑は晴らした。

 いろいろと面倒になってきたので、有耶無耶にならないうちにボードゲームを再開することになった。しかし、予想外にも決着はすぐに着くことになる。

 

「あれ、おれ盗賊こんなところに移動させたっけ?」

 

 盤上の森林で仁科の木材を差し押さえていたはずが、気づけば隣の牧草地にあった。

 

「さあ? 誰かさんが余計なことするからずれたんじゃないですか?」

 

 すっとぼけた顔でうそぶく仁科だが、偶然とはいえ動かしたのは彼女だった。まあいいや、とサイコロを振る灯馬。だがその判断が致命的なミスだったのだろう。

 

「お、ナイスです先輩。木材美味しい」

「うぜぇ……」

 

 本来ならば差し押さえられていた位置からせっせと木材を得る仁科。ゴリラパワーで資材を2:1交換で変換し、新たに開拓地を作る。

 

「それならまた盗賊を動かして……」

 

 灯馬は自分のターンが回るとハッテンで引いた便利カードで盗賊の位置を戻す。

 しかし、運の流れが仁科のほうに傾いていたのだろう、

 

「――二項分布って知ってます?」

 

 キメ顔でサイコロを振る仁科。ちょうどファンブルを引き当てて、盗賊を灯馬に移し返し、資材を奪い取る。そしてその資材で街道を伸ばす。

 

「じゃ、最長ボーナスもらいますね」

 

 街道を一定の長さまで伸ばすと二ポイントが貰えるというものだ。妨害にもめげず序盤から細々と伸ばしてきたおかげで条件を満たしたのだった。灯馬は元々伸ばす気がなかったので、対抗はできない。

 

「くそ、ポイント引き当てればワンチャン逆転できるか……⁉」

「残念ながら次のターンで都市化させればわたし勝ちますけど」

「うそだろ?」

「ほんとですってば、ほら」

 

 仁科は盤面を指さす。新規に作った開拓地と都市化でポイントを稼ぎ、街道のボーナスを足して九点。どこか一つの開拓地を都市化してしまえば十点に届く。

 

「というか先輩。ハッテン続けて山から全部の得点カード引き当てても、たぶんぎりぎり一ポイント足りないですよ」

「え?」

「だって佐原先輩、全然島の開拓してないじゃん」

「あー……」

 

 得点ドロー勝ちはある程度開拓が進んでいる前提なのだ。山から全部引けば補えるだろうと軽く考えていた灯馬はにわかプレイの報いを受けたというわけだった。

 

「というわけでわたしの勝ちです。いえーい」

 

 煽る仁科。ようやく今までのお返しができるということで、浮かれているのだろう。ちょっと悔しそうな灯馬を眺めながら、彼女は上機嫌に口を開いた。

 

「じゃあ、先輩への罰ゲームは――」

 

 

 *

 

 

 灯馬は残っていた午後の授業を眼鏡をかけて受けさせられた。さっきまで仁科がかけていた安っぽい素通しの黒縁眼鏡である。

 

 ふらっと一コマいなくなったと思ったら、なぜかダサい眼鏡をかけて戻ってきた灯馬を仲の良いクラスメイトたちは訝しんだが、階段で転倒して頭を打った後遺症で、眼鏡を外すと目からビームが止まらなくなったとかいうサイクロップスじみた意味のわからない主張で通した。

 

 いや微塵も誤魔化せていなかったが、灯馬の奇行は今に始まったことではないので友人らは気にも留めなかったようだった。

 

 そして放課後。

 

「あっ湯気で眼鏡がくもる」

「ふふん、素人眼鏡マスターですね。佐原先輩」

「眼鏡に素人も玄人もないだろ。つーかマスターってなに……」

「ちなみにマスターピースはグル目ダブピーしてるマスターヨーダのことじゃありませんからね。フォースとともになんとやら」

「クソほどどうでもいいわそれ」

 

 とかなんとか言い合いながら、最寄り駅近くのラーメン屋で仲良く麺を啜る二人の姿があったとか。後輩女子のどんぶりにはこれでもかとトッピングが盛られていたという。

 

 

 



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昼下がり①

 仁科果歩が図らずも天文部の部室の扉を叩いたのは、四月の初週のことだった。

 その日は午前授業だったので、昼前には解散となった。あとは友達を作るなり、部活を見学するなりご自由に、そういうわけである。

 

 せっかくなので果歩は校内を散策することにした。

 すでにクラスではいくつかのグループができあがりつついたが、まだ序盤。あとで合流するぐらい、どうとでもなる。その程度の社交性はあった。

 

「んー」

 

 昼時ということもあり、とりあえず果歩は食堂に行くことにした。

 入口の券売機で食券を買う。

 親子丼。四百円なり。

 

「うん、まあアレだ。うん」

 

 トレーを持ってテーブルについた果歩は微妙な表情を浮かべる。

 味は美味くも不味くもなかった。学食の味、というやつなのだろう。果歩はそう思うことにした。食べ終えた果歩は箸を置き、これからのことを考える。

 

「どうしよっかなあ……」

 

 食堂に来る前に目に入った昇降口の辺りは、部活勧誘の上級生で溢れかえっていた。出待ち勢である。ホイホイ付いていくのもまた一興だが、見るからにジャージやウィンドブレーカー姿の生徒が多かった。運動部は中学でこりごりだった。そこまでの情熱は果歩にはない。

 

 帰るにしても勧誘の群れを突っ切るのは億劫だった。

 

 特にやりたいこともないが、だからといって安直に帰宅部になるのは違う気がする。お金に困っているわけでもないからアルバイトも今はするつもりはない。困った。すこぶる暇だ。

 

 むむ、としばらくのあいだ腕組みをしていた果歩だったが、

 

 

「……文化部だ。文化部を見に行こう」

 

 名案を思いついた、とばかりに立ち上がる。

 

(まあ、テキトーにどこかしらに入れば暇は潰せるはずだよね)

 

 雑な思考を打ち切って、果歩は文化部棟を目指してまだ慣れない校舎のなかを歩き出した。

 

 自然科学部、文芸部、推理小説研究会、服飾部。扉に掛けられたプレートを眺めながら部屋の前を通り過ぎていく。なかにはジャグリング部なんて洒落た名前の部活もあったが、入部したいかと訊かれると首を傾けざるを得ない。たぶんオサレ枠なのだろう、と果歩は結論付けた。

 

 これだ、と感じる部活もなく、廊下の突き当りまで来てしまった。

 

(ふむ……)

 

 せっかくだしせめて一つくらいは軽く冷やかしてから帰ろうと、果歩は適当に手近にあったドアをノックした。

 

「うい」

 

 ほどなく中から気だるげな声が聞こえて、扉が開く。

 

 出てきたのはやたら背の高い男子生徒だった。身長は百八十センチはゆうに超えているだろう。そのわりに高身長な男特有の威圧感だったり、存在感がないのはシルエットが細いためだろうか。制服の黒ブレザーとスラックスを身につけていることもあり、葬儀屋のようにも見える。その男子はクセ毛気味のぼさぼさした髪を掻きながら、

 

「うん?」

 

 と、じつに眠そうな目を果歩に向けた。

 

「うちになにか用が?」

 

 酷く痩せた印象を受ける男子生徒だった。例えるなら針金人形にブレザーを着せたような全体的な細長さ。あるいはマッチ棒。

 

「どうも、見学です」

 

 と、果歩が声をかけると、「おー」と、その男子は覇気のない笑みを浮かべた。

 

「いやあ、まさか初日から人が来るとはね……」

 

 先輩らしきクセ毛の男子生徒は、頬をかきながら途方に暮れたような顔つきになった。それから部室のドアプレートを振り返って、

 

「……あーっと、あれか。星とかに興味ある人?」

「え、星ですか? なくはないですね」

 

 まあ人並みですかね、と答えてから、なぜそんなことを訊くんだろうと釣られてプレートに目を移せば、そこには〈天文部〉と表記されていた。道理で。

 

「なんだそりゃ、一応ここ天文部なんだけど」

「一応、なんですか」

 

 果歩は見上げるようにして先輩の顔をまじまじと見つめる。

 

(両耳にピアス……校則とか大丈夫なんだっけ、もしかしてヤンキー?)

 

 前髪で少し目許が隠れているが、顔のパーツは悪くない。

 

(けどなんか今にも死にそうな顔色してるなこの人)

 

 病的な痩身と相まってヤクの常習犯とかデスゲームの支配人と言われてもうなずける。

 

「……あ、もしかして『星』ってなにかの隠語だったり? えっと、すいませんわたし、中毒性ある粉ならハッピーなターンの粉で十分満足してるんで」

 

 さっさと回れ右して帰ろうとする果歩。ハイになる薬で星を見るとかいうオチなら嫌すぎる。令和の時代は多様性の社会だが、そんなギリギリ(アウト)な天文部は遠慮願いたい。

 

「おい、妙な誤解したまま帰ろうとするな」

 

 細長い腕がにゅっと伸びてきて、背後から肩を掴まれた。逃げられなかった。

 

「……まあ入れよ。さっき見学とか言ってたしどうせ暇してんだろ」

「はあ」

 

 よく考えれば校内でヤクやってる部活があるわけがない。この長身痩躯の先輩にしてもワンパンで沈みそうな華奢さだ。とくに身の危険も感じない。握りしめた拳を信じろ。

 

 先輩に続いて部室に踏み入れると、まず壁を覆いつくす背の高い本棚が目に入った。隙間なく敷き詰められており、一目見ただけでもかなりの蔵書量なのが分かる。

 

 いや、特筆すべきはその蔵書量だけではない。書架の並びもなかなかのものだ。

 ぱっと目についただけでも、当然のように異色作家短編集やシムノン選集が揃いで鎮座していたりする。棚にはSFやミステリ、怪奇幻想などの有名どころやマイナーなものまで漫画に混じって雑多に並んでいた。

 

「うわあすっごい。ずいぶんな古本マニアがいるみたいですね」

 

 と、彼女は目を輝かせながら言った。

 

 先ほどプレートにあった文芸部だとか推理小説研究会の部室だと紹介されてもなんら違和感はない。それほどまでに部屋は本に囲まれており、どうにも天文部要素が見当たらなかった。ちょっとした図書室の域である。

 

「うちに入ってくる奴は古本狂ばっかだよ。たぶんここの部室から古本屋の匂いとか出てるんじゃないかな」

 

 ピアスの先輩はのんびりと大きな欠伸を一つすると、どうでも良さそうに言う。

 

「そういや、部長もこの棚を見てその場で入部決めてたか」

「その気持ちはわからなくもないです」

 

 果歩はまだ見ぬ部長に共感したようにうんうんとうなずいた。

 

「ま、ひとまず座れば?」

 

 先輩の男子は、まだドアの前で本棚に目が釘付けになっている果歩にパイプ椅子を勧めると、自身はテーブルを挟んでその正面に座った。

 

「それで、お名前は? なんていうの?」

 

 それは興味というより、仕方なく訊ねているような義務感をそれとなく漂わせていた。端的にいえばめんどうくさそうな。運悪く新入生に遭遇した幽霊部員が対応を強いられているような。そんな印象を受けた。

 

「一年の仁科です。下の名前は……ええとあれだ、絆レベルとか上がるとそのうち解放されるんじゃないですかね」

「ソシャゲかよめんどくさいな」

「こう、不親切にも設定からのマテリアルに勝手に追加される感じで」

「あっ一昔前のノベルゲーだった」

 

 ついでに言えば果歩は用語集などはストーリーが終わるまでは放置する派だった。なぜって大抵ネタバレが含まれているから。前に途中でチラ見して痛い目を見た。

 

「ええと、そちらは?」

「二年の佐原だ。佐原灯馬。よろしく」

「よろしくです」

 

 言いながらも果歩の視線は灯馬の背後にある本棚に向けられている。

 彼は少々居心地の悪そうに頬をかいたあと、目の前に座る果歩が一応見学に来た客だということを思い出したのか、

 

「そうそう、なんか飲む? 紅茶とコーヒーあるけど」

 

 と、テーブルに置かれたティーバッグの大袋を示した。そのとなりには小袋のインスタントコーヒーもいくつか置いてあった。

 

「あ、じゃあ紅茶いただきます」

「はいよ。紙コップは包装開けてないのがそこにある」

 

 そう言いながら床のダンボールからペットボトルを取り出し、テーブルの上にあった電気ケトルに水をどぼどぼ注ぐ。

 

「はぇー、コンセントあるんですね、ここ」

「あるよ。スマホの充電ならご自由に――そういや前に冷蔵庫置こうとして怒られたらしいな」

「さすがに冷蔵庫は……というか先輩、水めっちゃ入れません?」

 

 ケトルに注がれた水の量は二人分にしても多かった。果歩が疑問を口にすると、灯馬はすっとぼけた顔で、

 

「ん? ああ、ちょうどお湯沸かすし、カップ麺でも食べようかと思って。実はおれ昼飯まだだったんだよ。あー、仁科さんもどう?」

 

「や、わたしさっき食堂で食べてきたんで」

 

 と、果歩は首を振った。

 

 この灯馬という男、かなりマイペースな人物のようだった。もしかしたらお湯を沸かすために飲み物を勧めたのかもしれない。果歩がそれとなく疑いの目を向けると、灯馬は薄く笑った。

 

「悪いね。今日、部室におれしかいないから外出られなかったんだわ。出てる間に見学来てても困るし」

 

 まあ、ホントに来るとは思わなかったけど。

 

 そうぼやきながら灯馬はケトルのスイッチを入れて立ち上がると、左腕を伸ばして本棚の上に積み上げられたカップ麺類から一つを取った。『美味に思わず昇天! これぞヨモツヘグイ!』と大きく書かれたカップ焼きそばだった。

 

(え、謎肉ってそういう……?)

 

 果歩の脳裏にソイレント・グリーンな感じの嫌な想像がよぎったが、頭を振って追い出した。ケトルのお湯はすぐに沸いた。

 



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昼下がり②

「ほら」

 

 灯馬はティーバッグの入った紙コップにお湯を注ぎ、果歩に手渡してくる。

 

「どうもです」

 

 ぺこりと頭を下げて受け取った。灯馬は自分のカップ焼きそばのほうにもお湯をなみなみと注いで、蓋をする。待ちの時間だ。果歩はなんとなく手持ち無沙汰な気分になって、

 

「見たところ天文関係のものが見当たらないんですが、本当に天文部なんですか?」

 

 と、訊ねた。

 

「天文関係って、例えば?」

「ええと、望遠鏡とか」

「あー、望遠鏡ね。あるよ。そこら辺にある。どこだったかな」

 

 灯馬は床に転がったガラクタの山をゴソゴソと探り始めた。

 

「いやホント、どこに仕舞ったっけ」

「仕舞うとは……?」

 

 思わず胡乱げな眼差しを向ける果歩。無造作に打ち捨てられた、あるいは積み上げられたようにしか見えなかった。

 

「ゴメン見つかんねえわ。ま、たぶんどっかにあるよ」

「はあ」

「つかさあ、天文要素ならアレがあるじゃん。ほら後ろ」

 

 灯馬が果歩の背後を指さしたので、つられて振り返ると、本棚の側面にカレンダーが掛かっていた。上部には惑星の写真。今月は木星のようだ。

 

「申し訳程度だった……ん? よく見れば暦が三年前じゃないですか」

「おれが入部した時から掛かってるから、地味に古参だよ」

「はえー」

 

 そう言ったきり会話は途切れ、お互い無言になった。

 初対面の距離感だなあ、と果歩は思った。このぎこちない感じは嫌いではない。

 灯馬のほうを見れば、彼は眠たげに欠伸を噛み殺しながら、パイプ椅子に深くもたれていた。

 

(いや、ただ眠いだけじゃん。自由か……)

 

 ぼうっと眺めていると、灯馬がなにか思いついたように口を開く。

 

「なんも脈絡ないけど、凄いどうでもいい話していい?」

「なんですか?」

 

 果歩が訊ねると、至極まじめな顔つきで灯馬は言った。

 

「ラブコメとかのズボラな異性の部屋を掃除する展開って、床に落ちてるちぢれた毛とか見つけちゃって気まずい雰囲気にならないんだろうか……?」

 

「うわほんと死ぬほどどうでもいいですね、それ」

 

 初対面の、それも部活見学に来た新入生女子に振る話題だろうか。若干セクハラ気味だし。たぶんこの男はデリカシーがないのだ。果歩はある種の納得をした。

 

「だって気になるだろ。まさか落ちてないはずはない」

「さては先輩、ゲームの民家でトイレ探すタイプですね」

「当たってる……なんだおまえマジシャンか?」

「ええまあ。親指離れるやつとか得意ですね」

 

 適当な吹かしをこいていると、どこからかタイマーの音が鳴った。

 

 話している間に三分経ったのか、灯馬はカップを持って歩き出すと窓の外で湯切った。下のほうから「うわ、お湯ゥーッ」と叫び声が聞こえた気がしたが、けろりとした顔のままだ。

 

「民度中世ヨーロッパですか?」

「あれ、おれまた何かやっちゃいました?」

 

 真顔で呟く灯馬。

 

「もう死語ですって」

「流行は循環するからいいんだよ」

 

 などとうそぶきながらそのまま猫背でモソモソと麺をすすりだしたので、

 

「なんか不味そうに食べますね、先輩」

 

 紙コップに口を付けて紅茶で唇を湿らせると、果歩は言った。暗にもっと美味しそうに食べられないんですか、と言っている。

 

 灯馬は気だるそうに口の中のものを飲み込むと、

 

「カップ麺食うだけでジャンの料理食った大谷日堂みたいなリアクションされても怖くないか?」

「それは……たしかにちょっとキショいです」

 

 そもそもカップ麺自体が滅茶苦茶に美味な食べ物というわけでもない。無茶がある話だ。

 

「そういえばあの漫画のヒロインって初期からどんどん巨乳になってますよね。どーでもいいですけど」

「ばかめ。いくらキリコが巨乳になろうと真のヒロインは大谷だぞ」

「それは同感ですね。自分の舌を裏切れない男ほんと好き」

 

 大谷――毎度主人公に難癖を付けつつ二コマで即落ちするエッチなおじさんである。果歩はあのおじさんが食事シーンで恍惚の表情を浮かべる系グルメ漫画の先駆けだったんじゃないかとひそかに疑っている。そう告げると、

 

「なんだわりと話が合うじゃん、おまえ」

 

 と、灯馬は麺をすすりながら意外そうな表情を浮かべた。その様子に果歩はキメ顔になって言う。

 

「料理バトル漫画はミステリ読みの嗜みなので」

「SNSでよく見かけるミステリオタクかよ……」

 

 オタクイコールキモイの時代は終わったとはいえ、未だミステリジャンルのオタクは敬遠されがちだ。プライドが高いのですぐ逆張りするし理屈っぽい。加えて早口で喋ってそうなイメージがある。概ね事実だ……。

 

「何? じゃあ推理小説研究会のほうにも顔出したの?」

「いえ、さすがにちょっとあそこは陰気すぎるかな、と」

「お、正解じゃん。基本的にあそこの人たちは新本格以降の話しかしないぞ」

「うわめんどくさ……」

 

 果歩はげんなりした。

 けっして読まないわけではないのだが、健全なミステリ読者ならばむしろ食傷気味になっているはずだ。後期クイーン問題に百合ミス……どうも胃もたれしてしまいそうだった。

 

 共通の趣味を見つけたこともあり、それからはどうでもいいような話題でしばらく時間を潰した。

『六枚のとんかつ』はゴミか否かというくだらない議論に始まり(意外にも灯馬は「ガッツ石松」のくだりを褒めていた)、許せないバカミスはなにか、とか、偏愛する本格作家は誰か(果歩は熱烈にマイクル・イネスを推した)とか。映画の話も少しだけした。

 

 その頃には灯馬は電気ケトルの残りで食後のインスタントのコーヒーを淹れていたし、果歩も図々しくも紅茶をおかわりした。

「逆に考えてもみろよ、エピソード8にも評価すべき部分はあるはずなんだよ」

 

 灯馬は言った。

 

「というと?」

「そうだなぁ……」

 

 と、考えだした灯馬だったが、そのまま押し黙ったまましばらく固まった。そして、ようやく何か思いついたのか、口を開く。

 

「8の褒めるべきところは……ええと、あれだ。最悪観なくてもエピソード9が観れる」

「身も蓋もない……それもう観ないほうがマシでは?」

 

 果歩は肩をすくめた。一周まわって貶し文句だろう。

 

「ハイパードライブにあんな使い方アリなら、クローンで自爆特攻繰り返せばすぐ戦争終わるだろ」

「おっと、人の心もなかった」

「その挙句に9でいきなり〈死者の口が開いた!〉だからな……おれも映画館で開いた口がしばらく塞がらなかったね……パルパティーン……」

 

 灯馬から思いのほかディープな感想が飛び出してきて、果歩はあきれたような表情を浮かべた。

 

「ひょっとして先輩、旧三部作原理主義者ですか? 六とん褒めてたからなんでもいける派だと思ってました」

「馬鹿か? あれは映画で喩えるとC級とかだから。そもそも評価軸が違うだろ」

 

 灯馬の指摘に、それもそうかもしれない、と果歩は思った。あの作品にまともなミステリを期待して読む人間はいないはずだ。本格への愛はあれど題材の下品さからして決して端正にはなるまい。

 

 では、それがまともなナンバリング作品で『なんか期待してたのと違う』酷い出来だったとしたら? その答えは歴史から見れば明らかだ。

 

 果歩は人差し指を立てて得意げに言った。

 

「じゃあこう考えるんです。良いですか先輩……新三部作なんてなかったんですよ。つまりパラレル。ほら、『ターミネーター』だって2以降はほぼパラレル時空みたいなものだし」

「おい3から目を背けるな」

「……別にあれも嫌いじゃないですよ、最後以外は。うん、最後以外は」

「なんで二回言った?」

「…………」

 

 人は他者と哀しみを分かち合うことでその距離を縮める。共感こそが人々を繋ぐ架け橋なのである。共感力。素晴らしい限り。就活で使われがちな単語だがそれはさておき。

 

 つまるところ二人はすっかり打ち解けている様子であった。

 

 

 



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昼下がり③

「で、結局どういう部活なんですか、ここって」

 

 どうも先ほどから話が脱線し続けており、すっかり肝心なことを訊き忘れていたのを思い出して、果歩が訊ねた。

 

「なんだろ、フリースペースみたいなモン? 授業サボるときに漫喫みたいに使う人もいるし、本を借りてってもいい。去年は人数がいたから雀荘と化してたな」

「麻雀ですか……役揃えると雷とか落とせると噂の」

「それはあれだ、国家元首クラスじゃなきゃ無理だろ」

「**大統領とかガチでできそうですね」

 

 果歩は現職のアメリカ大統領の名前を挙げた。国籍を問わず政治家に雀鬼が多いのは自明のことだ。アメリカもその例に漏れない。

 

「ちがいない。そういや去年までうちにも轟盲牌するために握力とか指筋鍛えまくってた先輩いたわ」

「えぇ……」

「太陽の手甲習得した河内並みに修行してたね。卒業してったけど」

「いかつすぎる。結局できたんです?」

 

 興味深そうに果歩が訊ねた。

 

「いや全然無理。けどなぜかぶっこ抜きだけクソ上手くなってた」

「完全にサマ師じゃないですか……というかまったく星見ないんですね」

 

 あまりのしょうもなさにあきれて果歩がつぶやくと、まあな、と灯馬はうなずいた。

 

「たまに『あれがデネブ、アルタイル、ベガ』的な何かを期待した人が入ってくるけど、しばらく経つと来なくなるね。うちはそういう部活じゃないから」

「エンジョイ勢ですら寄りつかないとは」

「去る者追わず、だからなあ。こんなんでも居心地が良いと思えば残る奴は残るし、この部は長年それで回ってるらしい」

「そうなんですか」

 

 なるほど、と果歩は灯馬を見やった。

 勧誘に熱心なそぶりはない。それどころか見学者が来ても何も考えずに適当に説明している印象すら受ける。実際そうだろう。やる気のなさが露骨だった。

 

「ふむ」

 果歩は少しだけ考えた後、

「じゃあ、とりあえず入ります」

 と、あっさりと入部を決めた。

「へ? マジで?」

 

 それに対して意外そうな表情を浮かべる灯馬。まさかこんな雑な説明で入部するとは想定していなかったのだろう。

 

「大マジです。本気と書いてなんとやら」

「……念のため訊いておくけど、この部のどこに魅力が? ガチで活動しないよ?」

「それはもちろん蔵書量と場所です」

「だと思った」

 

 納得がいったのか灯馬は苦笑した。それから果歩に目をやった。

 

「ま、向いてるかもね。この部は比較的自由な奴が多い」

「ふふん、期待しててくださいよ。わたしが入ったからには、部誌創刊号に秘められた悲しい過去だとか、三角形の秘密だとかどんどん暴いてくんで。あとゲッター線の神秘とか」

「そういうのいいから。つーか最後」

「えー……」

 

 灯馬は至極めんどうくさそうにくせ毛をかいた。

 

「ちなみに部誌な、創刊号はそこら辺にあるよ。たしかエドガー・アラン・ポーとチャールズ・ディケンズの創作BLだけどほんとに読む……?」

「うわ、読みたいような読みたくないような……」

 

 果歩は慄いた。『ホモが嫌いな女子はいない』という言葉が表しているように、BLは女子の嗜み。当然、果歩にも理解がないわけではない。しかし組み合わせが異色だった。

 怖いもの見たさの興味だが、手を出すにはまだ勇気が足りない。

 

 ところで果歩の名前は、当然ともいうべきか入部届を書くタイミングになって速攻でバレた。

 

「仁科果歩? なんだおまえ果歩って顔じゃねぇな」

 

 灯馬がぼそりと漏らすと、果歩は口で「ぴろりん!」と言いながら、

 

「おっと、特定条件を満たしたので隠しルート解放ですね。先輩、ハーレムとかに興味あります?」

「ねぇよ。なんでおまえの下の名前知ったくらいで隠しルートに分岐されんだよ……」

「さあ?」

 世の中には結構理不尽なことがけっこうある。《私はロボットではありません》をクリックできないネコ型ロボットとか、ダブルラリアット中は飛び道具無効とか。ついでに言えば果歩は波動拳を〈飛び道具〉と表現することに並々ならぬ違和感を覚えたものだ。

 

「ああ、あとラスボス戦でダークチップが使えないのは当時子どもながらに酷い理不尽を感じましたね……ダークチップヲツカイナサイ……」

 

「誰もデューオ戦の話はしてないんだよなぁ」

 

 

 *

 

 

 思った以上に趣味が合うらしく、会話が弾んだので天文部の部室に長居をしてしまったが、その日は果歩の他に見学者は現れなかった。じゃあおれ帰るから、と言って部室を閉めた灯馬と別れ、昇降口へ向かう。

 

 途中、ふと渡り廊下の窓から外を覗くと、遠くに夕焼けが見えた。

 オレンジの陽の光が校舎の窓に反射して、果歩にはそれがやたらと眩しく感じた。

 

 昇降口に着くと、昼頃に一年生の靴箱の前で出待ちをしていた上級生たちはさすがにいなくなっていた。勧誘もようやく落ち着いたようだ。

 時間には終わりがある。それがたとえ楽しかろうと退屈だろうと。ただ、限りある時間を惜しいと思ってしまったのは久しぶりだった。

 

 これから家に帰ることを思えば、まだ着慣れない新品の制服が重くのしかかってくるようだ。まあこればかりは仕方ない、と果歩は駐輪所へと歩き出す。

 自宅までは自転車で二十分程度の距離だった。電車でも通えるが、こちらのほうが経済的だ。それに少しは身体を動かしたほうが健康にもいい。

 

 ぼんやりとペダルを漕ぎながら、高校生活に想いをはせる。

 高校生。

 人生の、いやティーンのなかでもひときわ特殊な時期だ。

 

 なぜか生徒会がやたら権力を持っていたり、自称平凡な少年少女が唐突に異能力に目覚めたり、異世界に召喚されたりするという。顔が良ければ天使だとか**姫だとかこっぱずかしい異名で囁かれたりもするらしい。

 

 そんな未知の領域に自分が突入してしまったことに果歩は軽い驚きと感慨深さを感じた。高校生とは空想上の生き物ではなかったのか。

 

(というかあだ名が天使って……よく考えれば両性具有とか聞くし逆に失礼なんじゃないだろうか。それともティンがついて二倍お得ってこと? うーん、よくわからない)

 

 大は小を兼ねるとか、無いよりあるほうが良いよね、といったガバ理屈を適用するならふたなりが大正義ってことになるけど、と謎の結論を出しかけたところで果歩は馬鹿馬鹿しくなって考えるのをやめた。

 

 

 果歩が自宅に着いたのは夕方だった。

 家には誰もいなかった。

 きょうだいはいない。そして仕事熱心な両親は家にいること自体が珍しい。小学生の頃、彼女はそれが寂しく感じたものだが、ひとりでいることに慣れてしまえば今更のことだった。放任主義教育の賜物である。

 

(まあ、いつものことだし)

 

 今の暮らしに不満がないと言えば噓になるが、少なくとも不自由はない。

 玄関でローファーを脱ぐと、明かりもつけず二階にある自分の部屋へ。そこでようやく果歩は電気を付け、制服のままベッドに倒れこんだ。

 

「はあ……」

 

 ため息が無意識のうちに出た。疲れていたわけではない。なんとなく気分が重かった。

 スカートのポケットに仕舞っていたスマホが震える。布団に顔を埋めたままごそごそと探り、取り出してみればトークアプリの通知が来ていた。

 

『高校はどう? 友達はできた?』

 

 新しい環境に身を置く果歩を案じるメッセージ。

 母親からではない。近所に住む歳の離れた従姉からだった。昔から果歩の暮らしぶりを気にしてか、現在に至るまで何かと世話を焼かれている。従姉夫妻には頭が上がらない。

 

『部活に入りましたよ。天文部です』

 

 とだけ入力して果歩はスマホを布団の上に放った。

 果歩はしばらくのあいだそのまま寝転んでいたが、制服が皴になることに気づいたのか、やがて緩慢な動作で起き出して部屋着に着替え始めた。だぼだぼのスウェットにパーカー。これをずぼらと咎める人間は家にはいない。

 

 ハンガーに掛けた紺のブレザーをなんとなく眺めながら、

 

「天文部、か」

 

 まともに活動している様子はない。にもかかわらず一度の見学で入部を決断するほど、あの書架の並びは果歩にとって魅力的だった。退屈しのぎのためならばためらいも節操もなく幅広いコンテンツに手を染める彼女だが、古書や希書の類はそう易々とお目にかかれるものではなかったのだ。どうせ部活には入る予定だったし、その点ちょうどよかった。

 

 暇つぶしの手段は多いほど良い。結局、人はひとりで生きるしかないのだから。

 ひとりだろうとスマホや書籍にゲーム、あるいはサブスクがあれば不足なく生きていける。これまでと同じだ。娯楽の飽和した現代社会万歳。それなのに。

 

「……んー」

 

 なのにこうモヤモヤするのはなぜだろう。裡に広がった空虚さをごまかすように、今度は背中からベッドに倒れこむ。

 

「……居場所が欲しいなぁ」

 

 ふと漏れた呟きは、他の誰の耳にも届かず天井へと消えていった。

 

 



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異世界モノの話

 部室の灯りが点いている。扉の上部の磨りガラスからは曇った光が漏れていた。

 

(こんな授業中に珍しいな……)

 

 佐原灯馬がドアを開けて中に入ると、中央に固めて置かれた長机と壁を埋め尽くす本棚が自然と目に入った。

 昔はディケンズ研究会とかいう主にイギリス文学を研究する団体の部室だったらしく、壁は背の高い本棚に覆いつくされている。天文部の部室になってからは、歴代の部員たちがそれぞれ好き放題使っていたようで、小説や漫画、ブルーレイなどが大量に並んでいる。

 

「あ、どもです、佐原先輩」

 

 と、窓際のほうから声をかけられる。

 そちらに目を向ければベージュのカーディガンを羽織った女子がパイプ椅子に腰かけていた。顔に合わない野暮ったい黒縁眼鏡が今日とてうさんくさい。二週間ほど前に入部した新入生だった。

 

「よう、仁科。サボり?」

 

 一応訊ねた灯馬だったが、答えを聞くまでもない。少女は漫画を片手にだらけた様子でひらひらと手を振った。早くも部室に馴染んでいる。

 

「ええ、せっかくなのでバックレです。体育なんて一人くらい居なくてもわかりやしませんよ」

 

 なにがせっかくなのか灯馬には分からなかったが、この能天気に笑みを浮かべる後輩女子にはひとつだけ忠告しておくべきことがあった。

 

「電気」

「?」

 

 後輩は首をかしげた。

 

「素人め。次から電気は消しとけよ。これじゃ人がいるって外から丸わかりだ」

 

 これまでの経験上、授業中にこの文化部棟まで教師の見回りが来たことはなかったが、念のためにドア横のスイッチに触れて明かりを消す。まだ昼間なので電気を消しても明るさはさほど変わらなかった。

 

「おっと失敗……にしても手慣れてますね?」

 

 仁科――仁科果歩は愛想の良い笑みを浮かべた。

 どうも妙な後輩だ、と灯馬は思った。

 ひょっこり見学に来てそのまま居ついた新入生だ。天文部は大した活動はしていないのだが、それが逆に気に入ったらしい。どうやらマイペースな気質があっているようだ。

 話は合うらしく、今のところ特に話題に困ることはなかったので灯馬としては気まずさを感じることはなかった。

 

「ところで先輩」

 

 と、テーブルを挟んだ向かいで本を読んでいた果歩がおもむろに口を開いた。

 

「漫画とか読んでて唐突に安易な『のじゃロリ』キャラ出てきたら殺意沸きません?」

「その沸点の低さなんなの?」

 

 灯馬はあきれたように後輩女子を見やった。後輩は読みかけの本をパタンと閉じると、やや不満げに口を尖らせて言う。

 

「だって先輩。幼女が語尾に『なのじゃ』付けただけって、かなり鬱陶しいですよ。仮にも長年生きてる設定ならそのガバガバな老人ロールプレイをもっと見つめ直すべきです」

「ロールプレイて」

 

 まためんどくさい事を言い出したな、と灯馬は内心ため息をついた。この少女がこういう顔をしているときは大抵しょうもない難癖だ。

 

「馬鹿だな。そういうのって絵で売ってる感あるから、最悪キャラ絵が可愛ければ喋り方なんて何でもいいんだよ」

 

 心底どうでも良かったので身も蓋もないことをのたまう灯馬だったが、

 

「え、じゃあ美少女キャラの語尾に『インダス文明』とかくっついてても許せます? 『わたくし、初めてお会いした時から貴方のことをお慕い申し上げインダス文明』」

「もはやロールですらない。呪いかなにか?」

「たぶん古代人ですね。さりげなく出身をアピールしてますよこれは……」

 

 神妙な顔つきでのたまう果歩。胸焼けしそうなくらい露骨なキャラ付けだった。

 

「微塵もさりげなくないが。てか語尾をキャラ付けの骨格に使うのは……いや待て、本質的に『安直な語尾のロリババア問題』とそう変わらないのか……?」

 

 灯馬はべつに『のじゃロリ』に理解があるというわけもない。それは言い出しっぺの後輩も同じだったらしく「さあ?」と、首をかしげた。

 

「あんま関係ないですけど、理系とか理系もどきの人って句読点のかわりにコンマピリオド使いがちですよね。超読みにくい」

「理系出身アピールしてるとかじゃないんだよ、それ。マジで全方位に噛みつくのやめろ」

「そんな人を狂犬みたいに……。あ、そうだ。理系の人たちって異世界飛ばされても絶対『ステータスオープン!』とか言わなそう」

「え、なんで?」

「だって、ああいう人たちってゲームでも最初に設定画面開きそうじゃないですか。あとこだわりが強い。なのでたぶん叫ぶならこうですよ。『UIがクソ!』」

「偏見過ぎる……」

 

 灯馬は神経質そうな銀縁眼鏡をかけた理系風の男が『コンフィグ!』だとか『オプション!』などと必死に叫ぶのを想像してなんとも言えない気持ちになった。あるいはプログラマーならば『インフォ32!』とでも叫ぶのだろうか。馬鹿げている。

 

「そもそもステータス制ってなんだ? ファンタジーなのにゲーム感覚なのか。それともゲームの中に入ってる設定なのか?」

「さあ? 世間でそういうものだと受け止められている以上、気にしたら負けな気がしますが……」

「負けってなんだ……というかほんと異世界系増えたよな」

「あんま興味なくてもCMとかでもよく見かけますしね」

「王道になったよな。妄想のシチュエーションにしても市民権を獲得した感ある。ついこのあいだまでは『突然テロリストに学校を占拠されたら――』みたいなのが堂々の一位だったのに……これが新世代ってやつなのか……?」

 

 喋っていて灯馬は愕然とした。いまいち流行に乗れない自分に気づいたのだ。まるで時代に取り残されたかのような気分だった。一度自覚すると辛く悲しい気持ちになった。

 

「えっと、それもうだいぶ古くないですか?」

 

 遠慮がちに果歩が追い打ちをかけた。

 

「え?」

「わたしの独自調査によると寝る前の妄想上位は異世界転生して俺つえー、人生二周目、ある日突然TSして美少女になっちゃう系あたりですね。あ、男友だちを女体化させるのも最近熱いみたいですよ」

「なんだそれ地獄過ぎるだろ……」

 

 灯馬はげんなりした。果歩が挙げた中には共通して違う自分になりたいという欲望が見え隠れして心がしんどかった。そこまで自己否定に走らなくても。

 

「最近の小学生とはもう話が合わないかもしれませんね。まさしく佐原先輩は旧時代の人間側というわけです。まあ、わたしも先輩と一コしか違いませんけど」

「うっそだろ? やっぱ撤回。こういうのに時代関係ないから。ほら、電車とか車乗ってて外の景色に忍者走らせるとかたぶん今の小学生もやってるから。退屈がもたらした人間のサガだから」

「主語がでかいです。一応それって某配管工兄弟のおかげですよね。間違っても青ヘルメットのほうの影響じゃありませんよ」

「そんなところにも新世代との断絶が……もっと頑張れ集合無意識」

 

 なんなら灯馬はいますぐ転生して小学生になりたかった。

 

「そういえば、先輩も寝る前の妄想は〈学校テロリスト派〉だったんですか?」

「いや、おれはシンデレラ派だった。なんかの間違いで石油王の落胤だったりしないかなあ、とか夢見てたね。遺産分割のときに発覚すんのな」

「そんな意地汚いシンデレラいませんよ、先輩。あとどっちかというとジョジョ四部」

「街に殺人鬼とか潜んでそうで嫌だなそれ」

「まあ、仮に転生してたとしてもバトルな異世界には住みたくないですよね」

「前世の記憶引き継いでなければどこでも良いよ」

「頑なですね」

 

 果歩はなかば感心したようにうなずく。

 

「やっぱステータス制の異世界モノってほんと謎だわ。なんでゲームでもないのに当然の権利のようにステ振ってるの? おかしくない?」

「そりゃあ、ゲーム風のほうが読者に馴染みがあるし、わかりやすいからじゃないですか?」

「作者の都合過ぎる」

「あ、でもわたし、前にメタ的じゃない合理的な説明を考えたことがありますよ」

 

 気になって夜も眠れなかったので、と果歩はすっとぼけた顔で続けた。

 

「聞きたいですか?」

「なに?」

 

 ええとですね、と果歩は前置きしてから、

 

「言っちゃ悪いですけど、よく異世界行く人たちって大抵は社会不適合者じゃないですか」

「まあ……たしかに」

 

 言い方が悪いと思ったが、灯馬はうなずいた。心身に瑕疵があり、それに起因する歪んだコンプレックスを抱えている場合が多い。作者の自己投影と言われればそれまでだが。

 

「なかでも重篤な症状を持ち、なおかつ社会に悪影響を与えかねない人たちを現実から体よく隔離する場所が異世界ってわけです」

「隔離ってどこに? ほんとうにステ制の異世界があるわけでもないだろ?」

「ええ。場所は隔離施設とか特殊病棟でもどこでもいいですよ。親族や本人の合意のもとに、脳に電極かなにかをぶっ刺して、トンデモ機械で意識を電脳の仮想空間に閉じ込めるんです」

「急にSFっぽくなったな」

 

 灯馬はイーガンの『順列都市』や『ディアスポラ』を思い浮かべた。

 

「終末医療の一環という設定はどうでしょう。ダメ人間隔離病棟」

 

 果歩は続けた。

 記憶や思考ルーティンのサンプリングを独立した精神データとしてスキャンし、インターネット上の隔離仮想空間にアップロードする。その領域はそれぞれRPG風のゲームを基礎として構築されたもので、独自の世界観に沿って進行する。

 

「データ上で適当にパラメータ弄ればいいのでチートも無双も楽々叶えられますよ。転生者が複数いる系のは混線とかそういうので説明つきますしね」

「なんかディストピアな解釈で嫌だなあ。あと夢がない」

「そうですか? 永久に覚めない夢の中ですよ。それにほら、異世界バース的なわくわく感が」

「ねえよ」

「ええ、思ったよりなかったですね……」

 

 異世界――誰もが憧れる場所だがそこに至るには未だ遠く、だからこそ人々は転生を夢見るのだろう。それをナンセンスと断じるのは野暮というものだ。届かないものに憧れるのはそれこそ人間のサガなのかもしれない。

 

 

 

 



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